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第七十八話 竹内多聞 羽生蛇村小学校折部分校/一、二年教室 第四十四日/十五時三十五分十五秒

「――それでは、『第一回・徹底討論! 我々はどうやったら現世に帰れるのか?』を始めます」

 

 羽生蛇村小学校折部分校の教室で、教壇に立った安野依子は、討論会の開催を高らかに宣言した。教壇の前には児童用の机と椅子が三組並んでいる。その真ん中の席に座る竹内多聞は、大きくため息をついた。竹内の両隣の席には、男女の屍人が座っている。

 

「……安野」

 

「……はい」

 

「徹底討論するのは構わんが、コイツらは何だ?」竹内は、両隣の席を指さした。

 

「先日お友達になった屍人さんです。今回の討論会に参加してもらうために、特別に来てもらいました」

 

 安野は、視線を竹内から屍人へと移した。そして、「おおるぃぉいくのおですぁあすぅりいぃいいまうぅ」と、間延びした低い声を出す。

 

 すると。

 

「ふうおうういぃるうああぁこすぃおん」

 

 屍人たちは、そろって頭を下げた。

 

 須田恭也が神を倒してから四十一日。安野は屍人の言葉を話せるようになっていた。屍人は、円や三角形、直線や曲線など組み合わせた図形のような文字を使うのだが、これは、それぞれの図形を日本語五十音置き換える、いわゆる『換字暗号』というものに似ており、例えば、正方形と正三角形を組み合わせた図形が『あ』、十字の上下に小さな丸を付けた図形が『い』、という風に置き換えていくことで、読み書きすることができるのだ。また、発音も同じように、『あ』なら『うおああ』、『い』なら『すぅりいぃ』、という風に言い替えるだけでいい。判ってみれば単純な仕組みではあるが、わずかな時間でこの法則を解き明かし、屍人とコミュニケーションを取れるまでになった安野の才能には、驚くやら呆れるやらである。

 

「……しかし、よく屍人と友達になれたものだな。ホントに大丈夫か?」隣の席を警戒する竹内。

 

「そこは、あたしが真摯に説得したためです」安野は胸を張った。

 

「よく説得できたものだな」

 

「はい。初めは苦労しましたよ。説得しようにも、全然話を聞いてくれなくて」

 

 屍人は、生きている人間を見ると襲ってくるのが普通だ。どうやら屍人たちには生きている人間の方が化物に見えるらしい。屍人にしてみれば、生きている人間を殺すことは、化物を自分たちの仲間に引き入れることになるのだ。なんともありがた迷惑な話である。

 

「どうやって屍人たちを説得したんだ?」と、竹内。

 

「はい。これを使いました」

 

 安野は、ポケットから小さな人形を取り出した。胴体に剣の紋様が浮き彫りにされてある土人形である。不死なる者を無に返す神具・宇理炎(うりえん)だ。以前、合石岳のダムを訪れた際、安野がダムの底で見つけた物である。

 

 安野は悪意のない笑顔を浮かべた。「これを見せて、『言うことを聞かないと煉獄の炎を浴びせるぞ!』と説得したら、進んで協力してくれるようになりました」

 

 それは説得ではなく脅迫と言うのだ。竹内は、心の中でため息をついた。

 

「……まあいい。それより、現世に戻るメドがついたのか?」

 

 安野は大きく首を振った。「いえ、今のところは、なんとも言えません。ですが、いろいろ調べているうちに、実は、異界から現世に戻った人が多いことが判ってきました」

 

「ほう」

 

「それらをひとつひとつ検証していけば、何か判るかもしれません」

 

 安野の言葉に、ううむ、と、大きく唸る竹内。二人がこの異界に閉じ込められてから四十四日。異界は決して広くはなく、すでに村中の調査を終えてしまったと言っても過言ではないが、元の世界に戻る方法は判らないままだ。このまま、アテも無くやみくもに駆けまわるよりも、一度調査内容をまとめてみるのもいいだろう。

 

 竹内は頷いた。「判った、やってみよう。だが、現世に戻った人が多いというのは、にわかには信じがたいな」

 

 この異界で赤い水を摂取すると、二度と現世に戻ることはできないとされている。異界ではずっと赤い雨が降り続き(神が死んでからは降らなくなったが)、そこらじゅうから屍人が襲って来るため、赤い水を摂取しないようにするのは不可能に近い。

 

「それが、意外といるんですよね。例えば――」

 

 安野はチョークを取り、黒板にさらさらと『吉川菜美子』と書いた。

 

「異界から現世に帰った人。まず一人目は、吉川菜美子ちゃんです」

 

 吉川美奈子。二十七年前の七月、合石岳に出かけ神隠しに遭った子供だ。

 

 吉川菜美子については、以前、安野から話を聞いたことがある。神隠しに遭ってから数年後、この小学校の図書室に犬屍人となって現れ、借りていた本を返した後、宮田医院に囚われたそうだ。

 

 安野は、黒板に詳細を書きながら話す。「あたしの考えでは、菜美子ちゃんは合石岳で異界に巻き込まれ、そこで、赤い水を体内に取り入れて屍人さん化。しかし、なんらかの原因で現世に戻ることができ、そして、村の人に目撃されたのだと思います」

 

「ふうむ」

 

「この村では、屍人さんの伝説が広く伝わっていました。つまりそれは、昔から屍人さんの目撃情報が多いということです。人が屍人さんになるには、赤い水を体内に取り入れた人が死に、サイレンの音を聞く必要があります。でも、現世には赤い水もサイレンも無いので、屍人さん化することはありません。よって、現世で目撃されている屍人さんは、異界から現れた――異界に取り込まれた村人が戻ってきた――と、考えられるワケです」

 

 話を聞き、竹内は腕を組んだ。安野の話は筋が通っている。赤い水を体内に取り入れた屍人が現世に戻る。その原因が判れば、我々も戻れるかもしれない。

 

「しかし、ですね」安野が、困ったような顔をした。「調査を進めているうちに、これ、問題が浮上してきました」

 

「問題?」

 

「はい。現世には赤い水もサイレンも無いから人が屍人さん化することはない、と考えていましたが、どうやら、そうとも言い切れないようなんです」

 

「と、言うと?」

 

「八月二日の夜――あたしと先生が、村を訪れた日ですね――、村では、神迎えの儀式が行われていました。それに失敗し、三日の深夜〇時、サイレンが鳴り、村は異界に取り込まれたんですが……」

 

「ふむ」

 

「どうやら、そのサイレンが鳴る前、つまり、村が異界に取り込まれる前に、屍人さんになっちゃった人がいるみたいなんです」

 

「そうなのか? それは、誰だ」

 

「石田徹雄さん。村の駐在員さんです」

 

 石田徹雄――聞き覚えのない名だった。竹内は二十七年前までこの村に住んでいたから、当時の村人のことは知っている。聞き覚えがないということは、竹内が村を出た後にやって来たのだろう。

 

 安野が話を続ける。「屍人さんたちに聞き込みをしたところ、神迎えの儀式を行っている時、儀式の様子を、余所者の少年に見られたそうです。その少年というのはたぶん須田恭也君のことだと思います。で、恭也君は森へ逃げたそうなんですが、その時、恭也君を追いかける石田さん姿が、何人かの村人に目撃されているんです。その目撃者の一人が、そちらの屍人さんです」

 

 安野は、竹内の右の席に座る男の屍人に手のひらを向けた。男の屍人は立ち上がり、あわあわと屍人語で話し始めた。以下は、安野の同時通訳である。

 

「あれは、日付が変わる少し前かな。儀式に参加した者で花嫁を送り出そうとしていたら、余所者らしき少年が儀式を盗み見していたんじゃ。神代の若旦那が激怒してな。捕まえろってことで、男たち何人かで追いかけたんじゃ。最初に少年を見つけたのはワシじゃった。捕まえようとしたら、どこからともなく石田さんが現れた。石田さんは儀式に参加してなかったので、なぜここにいるのか不思議には思ったが、まあ、駐在員さんが捕まえてくれるならその方がいいと思い、そのまま見てたんじゃ。そうしたら、石田さん、いきなり拳銃を抜いて、少年に向けて発砲したんじゃよ」

 

「その時の石田さんの様子は、どうでしたか?」安野が質問する。

 

「ろれつの回らない口調でぶつぶつ独り言を言っていたよ。足取りもおぼつかなかったな。ちょうど、酒を呑んで泥酔したような感じだ」

 

「目は、どうでした? 血の涙を流していませんでしたか?」

 

「暗くてよく見えなかったが、そんな感じではなかったな」

 

「ありがとうございます」安野はお礼を言うと、竹内に視線を戻した。「……と、いうことです。石田さん、血の涙こそ流していませんが、いくらなんでもお酒に酔ったくらいで拳銃をぶっ放すとも思えないので、すでに屍人になっていたと考えていいでしょう」

 

「ふむ」

 

「つまり、この証言から考えると、現世で目撃された屍人は、必ずしも異界から戻ってきたわけではない、ということになります。なので、吉川菜美子ちゃんも、もしかしたら異界には行ってないのかもしれません」

 

「しかし、なぜ、赤い水もサイレンも無い現世で、屍人化するんだ?」

 

「それに関してはまだ調査中です。もしかしたら、異界入りが近いと異界から現世に赤い水が流れて来るのかもしれませんね」

 

「まあ、何にしても、もっと調査しなければなるまい」

 

「そうですね。では、この件は引き続き調査するということにして、次の検証にいきましょう」安野は、続いて二人目の名前を黒板に書いた。「異界から現世に戻った人その2、『四方田春海』ちゃん、です」

 

 四方田春海は、羽生蛇村小学校に通う四年生の児童だ。調査によると、八月二日の夜、学校で行われた『星を見る会』という行事に参加し、異界に巻き込まれたようである。当初は担任教師の高遠玲子と共に行動していたが、高遠は春海を屍人の手から護るために命を落とし、以後、春海は一人で行動していたようだ。

 

 安野は赤いチョークに持ち替えると、黒板に書いた春海の名前を大きく丸で囲んだ。「屍人さんたちに聞き込みしたところ、春海ちゃん、どうやら今回の事件で、ただ一人、無事に現世に戻っているようなんです」

 

「そうなのか?」

 

「はい。その時の様子を目撃していた屍人さんが、そちらの方です」安野は、竹内の左に座る女の屍人に手のひらを向けた。

 

 女の屍人は立ち上がった。「あれは、八月五日の深夜でした。化物になった春海ちゃんを(屍人の言う化物なので、ここでは人間の春海のことである)、高遠先生と校長先生が追いかけてました。そして、春海ちゃんを行き止まりの通路に追い詰めたんです。ああ、これで春海ちゃんを助けることができる、と思って見てたんですが、どういう訳か、高遠先生と校長先生が仲間割れを始めたんです。もみ合いになった二人は、崩れてきた瓦礫の中に埋もれてしまい、それを見た春海ちゃんは、気を失いました。そこに、あの殺人鬼が現れたんです」

 

 殺人鬼というのは、須田恭也のことである。彼は常世で神を倒して以降、神代の宝刀・焔薙と宇理炎を手に村中の屍人を虐殺しており、わずかに生き残った屍人たちから『殺人鬼』と呼ばれ、恐れられていた。

 

 女屍人は話を続ける。「殺人鬼が春海ちゃんを抱き上げると、全身が白い光に包まれたんです。とてもまぶしい光で、見ていられませんでした。殺人鬼はそのままどこかへ行ってしまい、しばらくして戻ってきたのですが、その時には、春海ちゃんの姿はありませんでした。以上が、私が見た全てです」

 

「ありがとうございます」安野は女屍人にぺこりと頭を下げると、再び竹内を見た。「この話を聞いてから、あたし、村中探したんですが、生きている春海ちゃんも、屍人の春海ちゃんも、見つけることができませんでした。目撃情報もありません。春海ちゃんがものすごーくかくれんぼが上手だという可能性も捨てきれませんが、恐らく、恭也君の力を借りて、現世に戻ったものと思われます」

 

「仮にそうだとして、なぜ、恭也君にそのような力がある?」

 

「その辺は想像するしかないんですが、恐らく、神代美耶子ちゃんの力ではないかと」

 

 神代美耶子。神代家の次女で、神の花嫁だ。八月三日の深夜、神迎えの儀式で神に捧げられるはずだったが、儀式は失敗し、美耶子は逃亡。偶然知り合った須田恭也と行動を共にしたが、結局捕えられ、八月五日の深夜、神に捧げられ、命を落とした。しかし、神代の娘は基本的に不死身であり、身体が死んでも精神は死なない。美耶子は魂となって須田恭也と共に行動し、神を殺し、全ての屍人をこの世から消すために、恭也を導いたらしい。

 

 安野はさらに話を続ける。「神様が死に、この世界の屍人をほぼ全滅させた後、恭也君は、奈落に落ちた八尾比沙子さんを追いかけて行きました。つまり、恭也君には、次元を超える力があるということです」

 

「ならば、恭也君の力を借りれば、我々も春海ちゃんと同じように、現世に戻ることができるという訳か?」

 

「いえ、そうとも言い切れません」首を振る安野。「いろいろ調べてみたんですが、春海ちゃん、どうやら、この異界で赤い水を摂取していないようなんです」

 

「そうなのか?」

 

「はい。春海ちゃんは、異界に取り込まれてからの三日間、ほとんど屋内で過ごしていたようなんです。よって、赤い水の影響をほとんど受けず、恭也君も、現世に戻すことができたのではないかと」

 

「と、いうことは、赤い水をたっぷり摂取してしまった我々は、恭也君の力を借りても、現世に戻ることはできないと」

 

「そうですね。まあ、仮にあたしたちが赤い水を摂取していなかったとしても、この方法で現世に戻るのはほぼ不可能でしょう。恭也君は、別世界の屍人を倒すのに忙しいでしょうからね。この世界に戻って来る可能性は、ちょっと低いです」

 

 須田恭也は全ての屍人を倒すため、無限に広がる並行世界を渡り歩いているらしい。我々がいるこの世界にもまだ屍人は残っているから、戻って来る可能性はゼロではない。しかし、並行世界が無限に存在するということは、須田恭也がこの世界に戻って来る可能性は1/∞ということである。安野の言う通り、可能性はちょっと低いだろう。

 

「――つまり、春海ちゃんと同じ方法であたしたちが現世に戻るのはちょっとムリかもしれない、ということで、次の検証に行きましょう」安野は、黒板に別の名前を書いた。「異界から現世に戻った人その3、これは、吉川菜美子ちゃんと同じ二十七年前の例になりますが、『吉村兄弟と、その両親』です」

 

「吉村兄弟? だれだ、それは?」

 

「はい。なじみが無い名前だと思いますが、『牧野慶と宮田司郎』といえば、ピンとくるでしょう」

 

 牧野慶と宮田司郎――眞魚教の求導師と、宮田医院の医院長だ。二人とも、今年の怪異で異界に巻き込まれ、命を落としたと聞いている。だが、二十七年前の怪異でも異界に巻き込まれていたとは初耳だ。

 

「あたし、八月五日の昼過ぎに、大字波羅宿の井戸のそばで、牧野慶さんと名乗る宮田司郎先生に会って、いろいろと話を聞いたんですけど、その時、宮田先生が宮田医院の跡継ぎになったいきさつも、話してくれました」

 

 安野の話によると。

 

 二十七年前の一九七六年八月二日の深夜、吉村夫妻は、生まれて間もない双子の赤ん坊を連れ、車でどこかに向かおうとしていた。当日、村は大雨に見舞われ、大雨洪水警報が出ていたことから、恐らく避難所へ向かおうとしていたのだろう。日付が変わり、八月三日の深夜〇時、神迎えの儀式が失敗したことにより、怪異が村を襲った。これにより、吉村家の四人は、異界に飲み込まれたそうである。

 

 だが、翌朝。

 

 異界に取り込まれることのなかった当時の眞魚教求導師・牧野怜治と、宮田病院の嫁・宮田涼子は、事の経緯を伝えるため、車で神代家へと向かっていた。その途中、異界に巻き込まれたはずの吉村家の車が、空から降ってきたそうなのだ。

 

 吉村夫妻はすぐに死んだが、幼い兄弟は大きな怪我も無く無事だった。

 

 その後、吉村兄弟は、兄が牧野家へ、弟が宮田家へ引き取られ、それぞれ、求導師・牧野慶と、医院長・宮田司郎として、育てられることになったそうである。

 

「それで、ですね――」安野は、黒板に書いた吉村兄弟の名前に、赤いチョークで丸を付ける。「二人が、なぜ、現世に戻れたか、なんですが」

 

「ふむ」

 

「宮田先生が言うには、『村の因果律に従った結果ではないか』と」

 

「因果律?」

 

「はい。因果律、です」

 

 因果律とは、『原因があるから結果がある』という考え方である。哲学や物理学でよく使われるが、元々は仏教の言葉で、『生前良い行いをすれば生まれ変わっても良いことがあり、悪い行いをすれば生まれ変わっても悪いことが起きる』という教えだ。

 

 安野は、黒板に『因果律』と書いた。「宮田先生の話によると、村には一定の法則のようなものがあり、それに従って物事が進むようになっているそうで、それを、『因果律』と呼んでいるそうです」

 

「それも、神が村にかけた呪いのひとつか?」

 

「はい。そうだと思います。で、その因果律のひとつに、『村には求導師と院長が存在しなければならない』というのが、あるのではないか、と」

 

 村には求導師と院長が存在しなければならない――あり得ることだった。村では、定期的に神迎えの儀式が行われる。そのためには、求導師と院長は絶対的に必要なはずだ。

 

 二十七年前、神迎えの儀式が失敗したことにより、眞魚教求導師・牧野怜治は、代替わりを迫られたが、彼にはまだ子供がいなかった。

 

 また、宮田家では、災害によって一人息子を亡くしている。

 

 牧野家、宮田家ともに、後継となる者がいなかったのである。

 

 吉村兄弟は、『村には求導師と院長が存在しなければならない』という因果律に従い、牧野家と宮田家の後継者となるため、異界から戻ってきた、と考えられるのである。

 

 つまり、この『因果律』に従えば、異界に飲み込まれても、現世に戻ることができるかもしれない。

 

 しかし。

 

「残念ながら、この法則は、あたしたちには当てはまりません」安野が言った。「この法則で現世に戻れるのは、求導師と院長の後継者にふさわしい人物です。あたしたちが当選する可能性は、まず無いでしょうね」

 

「だろうな。残念ながら、私も、お前も、教会や宮田医院と何の関係もない」

 

 と、竹内が言うと。

 

「――あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 突然、安野が悲鳴を上げた。

 

「なんだ、急に?」耳を塞ぐ竹内

 

「あたし、宮田先生に『宮田医院に就職してみないか?』って、誘われてたんでした!!」

 

「……それで?」

 

「大学に残って研究したいことがあるから断ったんですけど、あの時OKしていれば、あたし、現世に戻れてたかもしれないのに!! しくじったああぁぁ!!」

 

 頭を抱えて悶える安野。安野が宮田医院に誘われた? 宮田司郎という男は、宮田医院をお笑い芸人の養成所にでもしたかったのだろうか?

 

「……先生、なにか言いました?」

 

「いや、何も」竹内は咳ばらいをした。「しかし、『村の因果律』というのは、なかなか面白い説だな」

 

「そうですね。この法則に従えば、今年の儀式の失敗により、求導師と院長は異界に飲み込まれ死んだわけですから、現世の羽生蛇村では、後継者が求められているはずです」

 

「ふむ」

 

「よって、あたしたちの知らない所で、後継者にふさわしい誰かしらが、異界から現世に戻ってるかもしれないですね」

 

「確かに、な」竹内は腕を組んだ。「同じことが、神代の娘にも当てはまるかもしれん」

 

「と、言いますと?」

 

「神迎えの儀式を行うためには、求導師と院長以上に、『神の花嫁』が必要だ。これも、村の因果律によって定められているはずだ」

 

「そうですね」

 

「だが、次の代の神の花嫁を産むはずだった神代家の長女・神代亜矢子は、八尾比沙子の手によって殺されてしまった」

 

「はい」

 

「だが、神の花嫁が必要ということが因果律によって決められているならば、次代の花嫁を産むにふさわしい誰かが、現世に戻っていることもあり得る」

 

「次代の花嫁を産むにふさわしい誰か――それは、誰でしょうか?」

 

「…………」

 

「…………」

 

「さあな。なんにしても、この法則で我々が現世に戻れる可能性は無いことは確かだ」

 

 安野は腕を組み、うーん、と唸った。「そうとも言い切れないんじゃないですか?」

 

「と、言うと?」

 

「話はちょっと前後するんですけど、先生って、二十七年前、この村に住んでたんですよね?」

 

「そうだ」

 

「一九七六年八月二日の深夜、御両親と一緒に実家の居間でテレビを見ていたら、地震が起こった」

 

「そうだ」

 

「で、気が付いたら、瓦礫の中を一人で歩いていた、と」

 

「そうだ。それが?」

 

「先生って、この時、一度異界に飲み込まれだけど、なんらかの原因で戻って来た、ってことはないですか?」

 

「――――」

 

 言葉を失う竹内。

 

 安野の言う通り、竹内は一九七六年八月二日の深夜、両親と一緒に、実家の居間でテレビを見ていた。

 

 そして、日付が変わった三日、神迎えの儀式が失敗したことにより、村は、災害に見舞われた。

 

 竹内は意識を失い、気が付くと、瓦礫の中を、両親の姿を探し、一人で歩いていた。

 

 自分は異界に飲み込まれなかった――ずっと、そう思っていたが。

 

 あの時、竹内と一緒に居た両親とは、二十七年後の今年、この異界で再会した。

 

 つまり、両親は、二十七年前の災害で、異界に飲み込まれたのだ。

 

 同じ部屋にいた竹内だけが異界に飲み込まれなかったとは、考えにくい。

 

 ならば、安野の言う通り、自分は一度、異界に飲み込まれたのか?

 

 当時の竹内の記憶ははっきりしない。深夜、地震が起こる直前と、朝、瓦礫の村を一人で歩いていたことはよく覚えているが、その間のことは、何も思い出せない。

 

 仮に、あの時異界に飲み込まれていたとして。

 

 なぜ、現世に戻ることができたのだろう? そこに、なんらかの因果律が存在したのだろうか?

 

 ――判らない。情報が少なすぎる。そもそも、自分が本当に異界に飲み込まれたかどうかも確かではないのだ。前提が間違っているかもしれない。間違った前提から答えを導き出しても、それは間違った答えである可能性が高い。

 

「……安野」

 

「……はい」

 

「なかなか面白い説だ。今後は、この説を中心に調査を進めることにしよう。それが、現世に戻る最も近道かもしれん」

 

「そうですね。では、この件は引き続き調査する、ということで」

 

 安野は、黒板に赤チョークで花丸を書いた。

 

「……さて、異界から現世に戻った人は、だいたいこんなものか」

 

 竹内は黒板を眺めた。吉川菜美子、四方田春海、吉村一家……意外と現世に戻った者は多い。あきらめずに調査を進めれば、我々も戻れるかもしれない。

 

「あ、先生。待ってください」と、安野。「もう一人、異界から現世に戻った人がいます」

 

「もう一人? 誰だ」

 

 安野は、白チョークを取り、黒板に名前を書いた。「――八尾比沙子さん、です」

 

 八尾比沙子――眞魚教の求導女にして、羽生蛇村が呪われる原因を作った張本人だ。

 

 一三〇〇年前、八尾比沙子は、天から降ってきた異形の者の肉を食べ、不死の身体となった。同時に、村は呪われた。以降、比沙子は神を食べた罪を償うため、一三〇〇年もの長い間、神迎えの儀式を繰り返してきたのだ。

 

「――二十七年前の事件の時、比沙子さんは、先代の神の花嫁を宮田医院の地下室に監禁した後、現世に戻り、何事も無かったように求導女を続けています。おそらく、羽生蛇村の呪われた一三〇〇年の歴史の中で、何度も異界と現世を行き来しているではないかと」

 

 安野の説明に、竹内も大きく頷いた。「それは間違いないだろう」

 

「なぜ、比沙子さんにそんな力があるのか? 神様の肉を食べた比沙子さんは、神様と一心同体であると考えられます。つまり、神様とほとんど同じ力を持っているわけです。ですから、現世と異界はもちろん、常世や、他の次元でさえ、簡単に行き来することができるのです」

 

「恐ろしいことだ」

 

「はい。恐ろしいことです」

 

「だが、八尾比沙子の力を借りれば、我々も現世に戻れる可能性があるわけか」

 

「そうかもしれませんが、これも、可能性は低いでしょうね。比沙子さんは今、並行世界に首を届けるのに忙しそうですから」

 

 神が死んだ後、八尾比沙子は奈落に落ち、その後、うつぼ船に乗って、必要とする全ての世界に首を届ける存在となった。つまり、無限に存在する並行世界を渡り歩いているのである。この世界に戻って来る可能性は須田恭也同様1/∞であり、仮に戻って来たとしても、竹内達を助けてくれるとは思えない。

 

「この方法には、期待できないな」竹内はそう結論付けた。

 

「そうですね。では、この件はダメということで」

 

 安野は、黒板の八尾比沙子という名前に大きく×を付けようとした。

 

 だが、二本目の線を交差させようとしたところで、その手が止まる。

 

「――どうした? 安野」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「あたし、現世に帰る方法、判っちゃったんですけど」

 

 

 

 

 

 



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第七十九話 竹内多聞 屍人ノ巣跡地/水鏡 第四十四日/十九時〇四分五十四秒

 竹内多聞と安野依子の二人は、大字粗戸の大通りを南西へと向かって歩いていた。以前、この辺一帯は屍人たちが増築を繰り返し、ひとつの大きな『巣』と化していたが、宮田司郎がダムを爆破して洪水を発生させたことにより、今は瓦礫が散在する廃墟となっている。

 

「――しかし安野、現世に帰りたいとは、一体どういう風の吹き回しだ?」瓦礫の山の間をすり抜けながら、竹内は安野に訊く。「以前は、『羽生蛇村一三〇〇年の謎を解くまで帰らない』と張り切っていたのに

 

「まあそうなんですが、さすがに一ヶ月以上も帰らないのはマズイと思いまして。親や友達が心配しますし、それに――」

 

「それに?」

 

「いえ、何でも……あ、見えてきましたよ」

 

 瓦礫をかき分けるようにして進み、やって来たのは、かつて屍人の巣の中枢があった場所だ。八尾比沙子が神代美耶子を神に捧げ、神が舞い降りた場所である。中央には巨大な岩がある。すり鉢状の岩に水が張られているように見えるが、実際は水など存在しない。岩の表面が美しく磨かれ、まるで水面のように見えるのである。眞魚教で『水鏡(みずかがみ)』と呼ばれている岩だ。伝承によると、この水鏡は常世へと通じているらしい。

 

 竹内は、安野と一緒に水鏡のそばに立った。水鏡の表面は美しく輝いており、二人の姿を鏡のように写し返した。

 

「――で、安野」

 

「はい」

 

「こんな所に来てどうするつもりだ?」

 

「はい。まずは、この水鏡を通って、ちょっと常世まで行こうと思います」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「はい」

 

「常世とは、神が支配する永遠の理想郷とされる場所だ。近所のコンビニに買い物に行くノリで行けるような場所ではないぞ」

 

「そうなんですが、この水鏡の先にある常世は、神様以外にも、八尾比沙子さんや、須田恭也君が行っています」

 

「確かにそうだ。だが、八尾比沙子が水鏡を通ることができるのは、神と同体だからだ。一三〇〇年前に神の身体を食べた比沙子は、神と同じ力を持っている」

 

「そうです」

 

「恭也君にも同じことが言える。恭也君の体内には、神代美耶子の血が流れている。神代美耶子は八尾比沙子の直系の子孫であり、ゆえに、比沙子と同じく、神と同体であると考えられ……」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「……はい」

 

「我々も、常世に行くことができるな」

 

「やっと気づきましたか。そうなんです。恭也君の血には美耶子ちゃんの血が混じっていて、その恭也君の血はあたしに混じり、さらに、あたしの血は先生の血にも混じっています。だから、あたしたちも水鏡を通って、常世に行くことができるはずなんです。やってみましょう」

 

 そう言って、安野は水鏡の淵に立った。

 

「――えい」

 

 そのまま、ぴょん、とはね、一歩前に踏み出すと、ざぶん、と、まるでプールにでも飛び込んだかのように、安野の身体は水鏡へと沈んで行った。

 

 ……本当に水鏡を通ることができるようだ。感心する竹内。安野も、よくこんなことを思いついたものだ。だが、アイツは一体、何をするつもりなのだろう?

 

 竹内も水鏡の淵に立ち、安野を追って水面に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 



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第八十話 竹内多聞 いんふぇるの 第四十四日/十九時二十六分二十一秒

 竹内多聞と安野依子は水鏡を通り抜け、常世へと足を踏み入れた。神が創造し、神が支配する世界、永遠の理想郷、苦しみも悲しみも無い楽園。それが、常世だ。

 

 安野は、周囲を見回した。

 

「……先生」

 

「……何だ」

 

「なんか、思ってたのと違いますね」

 

「そうだな」

 

 二人の周囲に広がるのは、理想郷や楽園という言葉から受けるイメージとはまるで違った景色だった。大地はひび割れ、そこに生えていたと思われる植物はすべて枯れ、空は濃い雲に覆われているかのように真っ暗だ。楽園というより、地獄の一丁目という雰囲気である。

 

「まあ、常世は神の支配する世界だからな。神が死ねば常世も崩壊する、ということだろう」竹内は、そう推理した。

 

「ナルホド。まあ、多少崩壊しても、世界そのものが残ってくれていれば十分です」

 

「……で、安野。こんなところで、何をしようというんだ?」

 

「はい。調査したいことは山ほどありますが、まずは、眞魚岩モドキを探しましょう」

 

「眞魚岩モドキ?」

 

「恭也君に聞いた話によると、この常世のどこかに、眞魚岩にそっくりの岩があるそうです」

 

 眞魚岩とは、羽生蛇村の中央に存在する巨大な三角錐の岩である。一三〇〇年前の神降臨と同時に空から降って来たとされ、村人の信仰の対象にもなっている。それとそっくりな岩がこの常世にもあるとは、どういうことだろう?

 

「さあ、探しますよ」

 

 安野に促される。話が見えてこないが、竹内は周囲を探した。そして一〇分後、水鏡から少し離れた場所に、眞魚岩モドキを見つけた。

 

「確かに、これは眞魚岩だな」

 

 眞魚岩の表面に触れる竹内。岩肌は鏡のように竹内の姿を写し返している。大きさも、形も、村にある物と同じように思えた。

 

「ふむ、実に興味深いな。もし、この岩が、現世の眞魚岩と同じものだとしたら、この常世は、現世ともつながっていることになる。この岩の正体を探れば、現世に戻る手段が判るかもしれん」

 

「あ、いえ、その岩は、今回は関係ありません」安野が、手をひらひらと振った。「ただの目印です」

 

「目印?」

 

「ええっと、恭也君の話によると、この近くにあるんですよね」安野は周囲を見回し、何かを見つけた。「ああ、ありました。アレです」

 

 安野の指さした先には、タツノオトシゴとウマを掛け合わせたような化物が倒れていた。

 

「……あれはまさか、神か?」

 

「そうです。恭也君の話によると、神様は姿を消すことができるようなんですが、この眞魚岩モドキには、なぜか姿が映ったそうです。それを利用して倒したんだとか」

 

 神の遺体に近づく竹内。太い胴体と長い尻尾、触手のような細長い腕。首は斬り落とされている。間違いなく死んでいるはずだが、今にも動き出しそうだ。

 

「さて、始めましょうか」安野は、どこに持っていたのか包丁を取り出した。「あたしがさばきますので、先生は、適当に枯草を集めてください」

 

「枯草? 安野、何を言ってるんだ?」

 

「何って、今から神様を食べるんですよ」

 

 安野は、当然のように言った。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「はい」

 

「お前は、何を言ってるんだ」

 

「ですから、今から神様をさばき、肉を焼いて食べるんです。ダンジョン飯的なヤツです」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「はい」

 

「今は二〇〇三年という設定だ。ダンジョン飯は、まだ連載が始まっていない」

 

「そこをツッコみますか」

 

「大体貴様は、小説本編でも『クレア・ベネット的なヤツ』とか、『杏も最後は大悟と結ばれた』とか言ってだろう。あれも、二〇〇三年の八月という設定では矛盾している」

 

「ヒーローズが始まったのも砂時計が完結したのも二〇〇六年ですからね。でも、それを言うなら、なぽりんが昔所属してたというアイドルグループが活動を始めたのは、二〇〇五年です」

 

「それは実在のアイドルグループの話だろう。なぽりんが所属していたのは、そのグループに偶然よく似た架空のアイドルグループだ。矛盾はしない」

 

「でも、握手会商法とか、キャプテンの名言の話とかもしてましたよね?」

 

「そんなことはどうでもいい! それより、神の肉をさばいて食うとはどういうことだ!」

 

「自分で話を振っといてあたしにキレないでください。『神の肉をさばいて食う』というのは、そのまんまですよ。今から、神様を食べるんです。枯草を集めるのは、炙って食べるためです。もちろん、先生がどうしても刺身で食べたいなら、それでもいいですけど」

 

「そういう問題ではない! 貴様、神の肉を食べるということが、どういうことか判っているのか!? それでは、八尾比沙子と同じになってしまうぞ!」

 

「その通りです。だって、それが目的なんですから」

 

「なん……だと……?」

 

「いいですか、先生。学校で検証した通り、八尾比沙子さんは、異界と現世を自由に行き来することができるんです。なぜ、そんな力があるのか? 一三〇〇年前、神様の肉を食べたからです。神様を食べた比沙子さんは神様と同体、神様と同じ力を持っているんです。ならば! あたしたちも、この神様の肉を食べれば、比沙子さんと同じく神様と同体。いつでも好きな時に、それこそ近所のコンビニにちょっと買い物に行くような感覚で、現世と常世を自由に行き来できます。それだけでなく、別次元の世界、過去や未来にだって、その気になれば行けるんですよ!? ナイスアイデアだと思いませんか!?」

 

 両手をぶんぶん振りながら興奮気味に話す安野。確かに、それならば現世に戻ることはできるかもしれない。

 

 竹内は、神の遺体をじっと見つめた。

 

「……安野」

 

「はい」

 

「本当に、アレを食うのか?」

 

「もちのろんです」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「はい」

 

「今は夏だ」

 

「正確には、残暑厳しい初秋というくらいの時期です」

 

「まあ、そうだな」

 

「はい」

 

「しかし、恭也君が神を殺したのは八月五日だ。八月は、間違いなく夏だ」

 

「そうです」

 

「それから、もう一ヶ月以上経っている」

 

「そうなります」

 

「普通に考えて、夏場の屋外に一ヶ月以上も放置した肉は、腐るはずだ」

 

「もちろんです。仮に屋内の冷暗所や冷蔵庫の中だったとしても、さすがに一ヶ月は腐ると思います」

 

「なら、とても食えたものではないと思うが」

 

「大丈夫です。死にはしません」

 

「まあ、我々も一応不死身だからな。だが、そういう問題ではないと思うが」

 

「安心してください。あたしの考えが正しければ、腐ってないと思います」

 

「なぜだ?」

 

「ここは屋外でも冷暗所でも冷蔵庫でもついでに冷凍庫でもなく、常世ですから」

 

「常世だと、なぜ腐らない?」

 

「はい。常世に来ることができるのは、神様と、神様の血が混じっている者だけです。物が腐る原因となる細菌等は、ここにはいません。言わば、無菌室や、加熱殺菌された缶詰やレトルトパックの中にいるのと同じ状態なんです。ですから、賞味期限はまだ過ぎていないはずです」

 

 竹内は腕を組み、少し考えた。「……いや、そうとも限るまい」

 

「なぜです?」

 

「お前の言う通り、この常世には、最初は、細菌等はいなかっただろう」

 

「はい」

 

「しかし、長い年月の間に、八尾比沙子をはじめとする、何人かの人間の出入りがあったはずだ」

 

「そうですね。あたしたちが確認しているだけで、比沙子さんと、恭也君と、先生とあたしの、四人です」

 

「人の身体には、腸内細菌や口内細菌等、多くの細菌が生息している。その数は、三十兆とも四十兆とも言われている」

 

「はい」

 

「人が水鏡を通り抜けて常世に来た場合、人体だけが通り抜け、体内の細菌が通り抜けられないということは、ちょっと考えにくい。そんなことになったら、確実に体に不調をきたす」

 

「まあ、そうですね」

 

「つまり、体内に生息している微生物も、この常世に来ることができるはずだ。ならば、体内だけでなく、身体の表面に付着している雑菌等も、常世までついて来る可能性は高い」

 

「つまり、この常世は、すでに雑菌で溢れているということですか?」

 

「そうだ。雑菌がいれば、当然肉も腐る」

 

「なるほど。確かに、先生の言う通りです」安野も腕を組んで少し考えた。「でも、先生。今、目の前にある神様の遺体は、腐っているようには見えません。肌は、凄く、凄く、すべすべしてて光ってます。腐臭も放ってませんし、とても腐っているようには見えません。これは、どういうことでしょうか?」

 

「ふうむ。確かに、一見すると腐敗はしていないように見えるな」

 

「でしょう?」

 

「なぜだろうな」

 

「なぜでしょうね」

 

 竹内が腕を組んで考えると、安野も腕を組んで考え始めた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「はい」

 

「ちっとも話が進まんじゃないか」

 

「あたしのせいみたいに言わないでください。半分は、先生の責任です」

 

「まあいい。要するに、アレを食べれば我々も八尾比沙子と同じになり、現世に戻ることができるんだな?」

 

「そういうことになります」

 

「じゃあ、善は急げだ。さっそく試してみよう」

 

「『善は急げ』や『さっそく』って言葉の意味、知ってますか?」

 

「うるさい。だいぶ時間をロスしたから、ここからはぱっぱとやるぞ。私は枯草を集めて火をおこすから、貴様はさっさと肉をさばけ」

 

「あ、先生。待ってください。よく考えたら、火をおこす必要はないです」

 

「なぜだ? さすがに、生はやめておいた方がいいぞ?」

 

「いえ。せっかくですから、これを使いましょう」

 

 そう言って、安野はポケットから宇理炎を取り出した。「これなら、普通の火より短時間でこんがり焼きあがるはずです」

 

 宇理炎の炎は命の炎とも呼ばれている。自らの命を燃やし、煉獄の炎を降らせるのだ。それを調理に使うとは罰当りなヤツだ。まあ、すでに我々は不死身だから構わんが。

 

 と、いう訳で、竹内と安野は神様をぱっぱと調理しはじめた。

 

 

 

     ☆

 

 

 

■常世風神様の丸焼き(四十人前)

 

 ●材料

 

  ・神様……………………一羽(頭を取り除く)

 

  ・塩コショウ……………適量

 

  ・香草……………………適量

 

  ・宇理炎…………………一個

 

  ・命………………………二十一グラム以上(焼き具合を見て増やす)

 

 

 

 頭を取り除いた神様の表面に塩コショウとみじん切りにした香草を塗り込み、弱火で中までじっくりローストする。この時、通常の火ではなかなか火が通らないので、宇理炎の煉獄の炎を使用する。宇理炎が無かったり、燃料となる命が足りない場合、天日干しで焼くことも可能。ただし、こちらは火力が強すぎるため焼きすぎに注意。

 

 

 

 

 

 



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第八十一話 竹内多聞 下粗戸/県道333号線 第四十五日/十五時三十二分四十一秒

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「はい」

 

「ここは、さっきも通った道だな」

 

「そうですね」

 

「もう何度目だ」

 

「昨日の夜から数えて、二五五回目です」

 

「道に迷ったにしては、ちょっと多すぎるな」

 

「二十年前ならカンストしてる数値ですもんね。そもそもこの辺は一本道ですから、迷いようがありません」

 

「どういうことだ?」

 

「どういうことでしょう?」

 

 

 

 

 

 

 常世で神の肉をほどよくローストして食べた竹内多聞と安野依子は、八尾比沙子と同じ力を持ち、見事、現世に戻ることに成功した。さっそく村を出てふもとの街に降りようと、下粗戸の県道333号線を南へ向かおうとしたのだが、どういう訳か同じ場所に戻ってきてしまうのである。下粗戸は、二十七年前の土砂災害以前は大字波羅宿と呼ばれていた地域で、竹内と安野が異界で初めて調査し、牧野慶と名乗る宮田司郎が井戸の底で爆弾を見つけた場所だ。異界ではいくつかの集落があったが、近年の区画整理により、現在は県道が一本通るだけの地域である。安野の言う通り、道に沿って歩けば迷うわけはない。しかし、どんなに南へ向かって歩いても、同じ場所に戻ってきてしまう。逆に、北へ向かって歩けば、すぐに上粗戸の商店街に着くのだ。まるで、異界を歩いているようである。しかし、下粗戸と上粗戸がある以上、ここは異界ではない。屍人もおらず、村人が普通に暮らしている(といっても、八月三日の土砂災害により大きな被害が出たので、復興作業に大忙しではあるが)。現世に戻ってきたのは間違いないだろう。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「これは、科学では説明のつかない神秘の力が働いているとしか考えられません」

 

「だろうな」

 

「何が起こっているのか、あたしなりに仮説を立ててみました」

 

「聞こう」

 

「常世で神様の丸焼きを食べたあたしたちは、八尾比沙子さんの同じ状態になりました」

 

「そうだ。だから、現世と異界の出入りが自由自在になったんだからな」

 

「はい。なんなら、あたしたちも比沙子さんの同じように、手から火を噴いたりできるんです」

 

「ふむ」

 

「でも、それは同時に、あたしたちも比沙子さん同様に、神様に呪われてしまったんです」

 

「当然だろうな。なにせ、神の身体に手を付けたんだから」

 

「比沙子さんって、一三〇〇年もの間、ずううううぅぅぅっと、この村で暮らしてたんでしょうか?」

 

「それは本人に訊いてみないと判らんが、恐らくそうなんじゃないのか?」

 

「普通、そんな長い間、同じ場所で暮らそうなんて思いませんよね? たまには、海辺の家で潮風の香りと共に目覚めたい、とか、都会の朝の通勤ラッシュにもまれる生活をしてみたい、とか、思うはずなんです。そこの暮らしが気に入れば、二度と村に戻らないという選択もできるわけです。でも、比沙子さんはそれをせず、ずっと、この山奥のへんぴなクソ田舎の村で暮らしていたんです」

 

「ふむ」

 

「恐らく、神様の呪いには、『羽生蛇村からは絶対に逃れられない』というのが、含まれているのではないかと」

 

「あり得るだろうな。村の呪いには、八尾比沙子という人物が必要不可欠だ。あるいはそれも、村の因果律のひとつなんだろう」

 

「はい。と、いうことは、ですね」

 

「ふむ」

 

「あたしたちも、この羽生蛇村からは、絶対に出られないのではないかと」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……それでは、異界にいるのと大して変わらんじゃないか」

 

「はい。そういうことになります」

 

 はあ、と、竹内は大きくため息をついた。まあ、神を食べるという時点で、こうなることは判っていたのだが。

 

「では、安野」

 

「はい」

 

「その仮説が正しいとして、どう対応する?」

 

「そうですね。あたしたちにかけられた呪いを解くのが最善かと」

 

「具体的な方法は?」

 

「とりあえず、定期的に神代家の娘を神様の花嫁に捧げてみてはいかがでしょうか?」

 

「その方法は、八尾比沙子が一三〇〇年間試してダメだったから却下だ」

 

「そうですね。では、今から呪いを解く方法を調べましょう。大丈夫です。異界から現世に戻っただけで、大きな一歩ですから」

 

「確かにそうだが」

 

「それに、さっき先生、異界にいるのと大して変わらないと言いましたけど、そんなことありませんよ? 村からは出られませんけど、家や学校に電話をしたり、手紙を送ったりはできます。場所によってはインターネットもできるでしょうし、何より、テレビを見ることができますから」

 

「テレビ?」

 

「はい。来月から、鋼の錬金術師のアニメが始まりますからね。これを見逃すわけにはいきません」

 

「……突然現世に戻りたがったのは、そういうことだったのか」

 

「ま、いいじゃないですか。さて、村から出られないと判ったら、覚悟を決め、住むところを探すことから始めましょう。村に不動産屋、ありますかね?」

 

 スキップしそうな勢いで村へと戻る安野。まったく。本当にアイツは、楽天的だな。竹内は、仕方なく安野の後を追った。

 

 

 

 二人の調査は続く……。

 

 

 

 

 

 




竹内と安野が現世に戻るにはどうすればいいか、を、考えていて思いついた話です。その他、そこから派生した小ネタをいくつか盛り込んでみました。いんふぇるのが残っていればこの方法で(一応)現世に戻れると思うんですが、実際はどうなんでしょう? やっぱ堕辰子の死と同時にいんふぇるのも完全に崩壊しているのかもしれないですね^^;

ちなみに、小説内で少し触れた『神の花嫁が必要ということが因果律によって決められているならば、次代の花嫁を産むにふさわしい誰かが、現世に戻っていることもあり得る』問題について、少し考えてみました。

ゲーム本編に登場する人物で、最終的にとりあえず生き残っており、かつ、次代の神の花嫁を産むのにふさわしい存在として、3人ほど当てはまるような気がします。



1・先代神代美耶子

二十七年前に神迎えの儀式から逃げ出すものの、八尾比沙子に囚われ、宮田医院の地下室に監禁されていた人。

亜矢子・美耶子が(不完全な形で)死んでしまった以上、神代家の女性で生きているのはこの方しかいないと思われます。

とはいえ、あの木乃伊(ミイラ)みたいな状態で子供を産めるかは疑問です。




2・八尾比沙子

村の呪いを作った張本人。神代家を含む村人はほぼ全員比沙子の子孫であるため、比沙子ほど次代の神の花嫁を産むにふさわしい人はいないかもしれません。

しかし、比沙子は現在、うつぼ船に乗って、必要とされるすべての世界に首を届ける存在になっています。仕事の優先度としてはそっちのが高いような気がするので、現世に戻される可能性は低いかもしれません。



3・四方田春海

『SIREN』における唯一の生還者。神代家とは何の関係もないですが、村人全員が八尾比沙子の子孫であるとするならば、春海にもその血はわずかながらも受け継がれていることになります。

また、春海は生まれながらわずかに幻視を行えた、という設定があるので、なんらかの要因が重なり、他の村人より神代の血筋に近い存在にあるのかもしれません。

通説では春海が現世に戻れたのは恭也(美耶子)の力によるものですが、もしかしたら、それも含めて村の因果律に従った結果なのかもしれませんね。



あくまでも私なりの見解ですが、3番とか結構話が膨らみそうで面白いですね^^



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第八十二話 宮田涼子 宮田家/仏間 前日/二十三時五十五分四十一秒

 その日、宮田涼子は宮田家の仏間で祈りを捧げていた。

 

 部屋の明かりは点けられていない。この部屋だけでなく、家中全ての電灯は消されていた。唯一の明かりは、仏壇に立てられた二本のロウソクの弱々しい炎だけだ。窓から差し込む月明りさえ無い。日没過ぎから降り始めた弱い雨が少しずつ勢いを増し、今では窓を激しく叩いていた。

 

 涼子は、祈る。

 

 今、上粗戸の眞魚岩で、神代家の秘祭・神迎えの儀式が行われている。その成功を祈っていた。

 

 儀式が成功するとどうなるのか、涼子は知らなかった。それを知ることができる立場ではないし、知る必要もなかった。そもそも、秘祭を行っている神代家や眞魚教教会の者でさえ、何も知らないのではないかと思われる。

 

 しかし、儀式が失敗した時どうなるかは、多くの者が知っていた。

 

 涼子は祈りを捧げる。二十七年前と同じことが起こらないように。

 

 二十七年前の今日、神迎えの儀式に失敗し、村は、大きな土砂災害に襲われた。

 

 多くの村人が死亡、あるいは行方不明となった。その中には、当時、まだ産まれたばかりの涼子の息子も、いた。

 

 あの日のことを思い出すたびに、涼子は不安に押し潰されそうになる。あの日も涼子は一人だった。一人で仏間に座り、儀式の成功を祈っていた。息子は、大字粗戸の乳母の所へ預けていた。儀式が近づくと宮田家はあわただしくなり、とても面倒を見ている暇がなかったのだ。

 

 だが、それが災いした。

 

 その夜発生した土砂災害で、粗戸一帯は最も大きな被害を受けた。息子の遺体は、二十七年経った今でも見つかっていない。

 

 雨は、さらに激しく窓に打ち付ける。

 

 同じだ。

 

 二十七年前のあの日と、同じだ。

 

 あの日も、涼子は一人、仏間にこもり、儀式の成功を祈っていた。あの日も、日付が変わる頃、激しい雨が降り始めた。

 

 ――ああ、どうか、儀式が滞りなく終わりますように。村を――司郎を、お護りください。どうか、御先祖様。

 

 涼子は、祈りを捧げ続ける。

 

 ……と。

 

 背後から、鋭い視線を感じた。

 

 誰かに見られている。

 

 今、この家に涼子以外の人はいない。人が訪れる時間ではないし、儀式が行われている今、村人の外出は禁じられている。

 

 だが、その存在しないはずの誰かは、涼子の背後に静かに座り、じっと、刺すような視線を向けている。

 

 ありえない。この家には誰もいないのだ。いるはずがない。もう、いるはずがないのだ。

 

 心の中で、涼子がどう否定しても。

 

 背後の気配は消えない。何をするわけでもなく、ただじっと、涼子を見つめている。

 

 涼子は、ゆっくりと、後ろを向いた。

 

 部屋の隅に、誰か、いる。

 

 黒の礼装服に身を包み、正座をし、身動きひとつしない。膝の上で重ねられた手は脂肪が落ちきったかのように骨が浮き出ており、皺だらけだった。老女のようである。顔は見えない。ロウソクの心許無い明かりは、その者の胸のあたりまでしか照らさない。それでも、じっとこちらをを見つめているのが、涼子には判る。

 

 背中を、冷たい汗が流れ落ちる。

 

 あり得ない。この家には涼子以外いない。もう、涼子を無言で見つめる者など、いないのだ。

 

 地の底まで響くかのような雷鳴と共に、まぶしい光が窓から差し込んだ。

 

 その光が、部屋の闇に隠れていた者の姿を浮かび上がらせる。

 

 手同様、脂肪の落ちた皺だらけの顔。結い上げられた長い白髪。そして、何の感情も宿らず、ただ冷たく涼子を見つめる目。

 

 ――お義母(かあ)さま。

 

 稲光は一瞬で、部屋は、すぐ闇に包まれる。ロウソクの頼りない明かりだけが部屋を照らす。

 

 部屋にはもう、誰もいなかった。涼子以外、誰も。

 

 そう。

 

 この家には、今、涼子一人なのだ。

 

 いるはずがない。

 

 義母は、もう何年も前に死んだのだ。

 

 だから、いるはずがない。

 

 そう、自分に言い聞かす。

 

 それでも。

 

 涼子を見つめる視線は、気配は、消えない。

 

 ……いる。

 

 見えないが、確かに、いる。

 

 どこからか、じっと、涼子を見つめている。

 

 涼子は仏壇に向かい、手を合わせた。

 

 ――ああ、お義母さま……お許しください……どうか……お許しください……。

 

 涼子の祈りは、いつの間にか、義母に許しを請うものになっていた。

 

 

 

 

 

 

 宮田涼子は、宮田医院の先代医院長の妻であり、現医院長・宮田司郎の母だ。母、と言っても、司郎と血の繋がりは無い。司郎は元々、吉村という家に産まれた双子の子供の弟だった。吉村家は、二十七年前の災害で父・俊夫と母・郁子を亡くしており、孤児となった息子の一人を、宮田家の跡取りとして引き取り、育てたのである。

 

 涼子は、村で代々眞魚教求導師を務めている牧野家の長女として産まれ、二十三歳の時、宮田家へ嫁いできた。恋愛による結婚ではない。牧野家、宮田家は、羽生蛇村では神代家に次ぐ力を持つ家系であり、涼子自身が伴侶を選べるような環境ではなかった。両親が嫁ぎ先を選び、娘はそれに従う。それが当然であり、涼子自身も、そのことに疑問を抱いていなかった。

 

 そして、宮田家に嫁ぐということがどういう意味を持つのかも、涼子は深く理解していた。

 

「――あなたは、一刻も早く宮田家の跡取りを産むのです」

 

 宮田家に嫁いだ日、御両親にあいさつを済ませた後、義母が涼子にかけた最初の言葉だった。

 

 この時代、宮田家のような大きな家では、家系を途切れさせないことが何よりも大事なことであり、嫁の仕事は子供を産むこと、というのが当たり前の考え方だった。涼子もそのことを心得ており、一刻も早く子を授かろうと努力した。

 

 しかし、一年経っても、二年経っても、子はできなかった。

 

 義母は、毎日のように子を催促した。早く子を産め、子を産むことが嫁の務め、牧野の娘は跡継ぎも産めないのか――もはや中傷と言ってよかったが、涼子は耐えるしかなかった。

 

 三年、四年経っても、まだ子は授からない。

 

 この頃になると、涼子は、夫と二人、不妊治療を受ける相談をしていた。夫は医者だが、不妊治療は専門ではない。街の大きな病院で、専門医の治療を受けるべきではないか、と、涼子は訴えた。

 

 だが、義母が猛烈に反対した。宮田医院の院長がよその病院に罹るなど恥以外の何ものでもない。子を授からないのは、宮田家の嫁である覚悟が足りないからだ、というのだ。子が授からない原因が涼子一人にあるとでも言いたげな、極めて不条理な言い分だった。しかし、逆らうことはできない。

 

 五年、六年、七年経っても、子はできない。

 

 この頃になると、義母はもう、何も言わなくなっていた。もちろん、跡継ぎを諦めたわけではない。ただ、涼子のことを宮田家の嫁と認めなくなっただけだ。義母にとっては、子を産めない嫁に価値が無かったのである。義母が涼子を見つめる目は、感情が宿らない、まるでゴミでも見るような冷めた目だった。

 

 跡継ぎを産めない嫁など、宮田の家には必要ない。

 

 義母の目は、口よりも雄弁に、そう語っていた。

 

 八年目。涼子は、宮田家から離縁させられるとの噂を耳にした。

 

 離縁。涼子が、宮田家から籍を外される――という、単純なものではない。

 

 宮田家は、表向きは村で唯一の医者であるが、裏では、神代家に逆らう者を密かに捕え、監禁、あるいは処分するといった、非合法な行為を遂行する役割を担っていた。村の暗部と言っていい。村人に知れてはいけないことが、数多くある。

 

 だから、一度宮田の家に嫁いだ涼子は、離縁するからと言って、ただ実家に帰らされるわけではないのだ。

 

 宮田家から離縁されたものがどうなるのか? それは、涼子にも判らない。判らないが、想像はできた。神代に逆らった者と同じように、狂人として監禁されるか、秘かに処分されるかである。それが牧野家の娘であったとしても関係ない。

 

 涼子は怯えた。いつ、離縁を申し渡されるのだろう? 義母が涼子を見つめる目が、鋭い殺意のように感じるようになった。

 

 だが、幸運にも。

 

 九年目、涼子は、ようやく子を授かった。

 

 義母の目から殺意が消えた。だからと言って、宮田家での涼子の立場が良くなったということはない。義母からは、跡継ぎができるのに十年近くかかったことをさんざん罵られた。それでも、涼子は宮田家の嫁としての役割を果たすことができ、安堵していた。

 

 だが、涼子が宮田家に嫁いで十年。すでに三十を超えた涼子は、妊娠・出産に高いリスクが伴う身体となっていた。

 

 翌年、子供こそ無事産まれたが。

 

 涼子は出産後の出血が止まらず、緊急手術を行うこととなった。様々な処置が施されたが出血は治まらず、最終的に、子宮を全摘出することとなった。

 

 子宮全摘出――涼子は、もう二度と、子をもうけることはできない。

 

 もっとも、そのことについて涼子は、さほど気を落とすことはなかった。二度と子を産めない悲しみよりも、ようやく子供が産まれた喜びの方がはるかに上回ったのだ。いや、子供が生まれた喜びと言うよりも、義母から受ける重圧から解放された喜びと言った方が正確かもしれない。

 

 そう、涼子は。

 

 十年に渡る義母からの「子を産め」という重圧により、我が子に対する想いが、大きく歪んでいた。

 

 涼子にとって、子供は、自分の命に代えても護る大切なものではなく、義母から自分の身を護るためのものだったのである。

 

 だから。

 

 一ヶ月後、一九七六年八月三日の土砂災害で子供を失った時も、子を失った悲しみよりも、義母への恐怖が上回っていた。

 

 ようやく生まれた宮田家の跡取りを失い、そして、涼子は二度と子を宿すことができない――義母の怒りがどのようなものになるか、想像しただけで、涼子の震えは止まらなかった。

 

 あの、鋭い殺意の宿る義母の視線が、涼子の胸に浮かび、そして、突き刺さる。

 

 涼子は、義母の怒りを鎮める方法を考えた。

 

 そんな時。

 

 天から、吉村家の自動車が降ってきた。

 

 何が起こったのは今でも判らない。天から降ってきた自動車の中には、双子の赤ん坊がいた。涼子はそれを、天からの恵みだと思った。

 

 涼子は双子の弟を引き取り、宮田家の跡取りとして育てることで、義母の許しを乞うた。

 

 司郎と名付けられたその子供は、涼子の手により、立派に育てられた。

 

 それから時が過ぎ、宮田医院の院長は、涼子の夫から司郎へと代わった。

 

 司郎は二十七歳になった。結婚はしていない。そろそろ嫁をもらい、跡継ぎのことを考えなければならない頃である。

 

 義母は、もう十年以上に亡くなったが。

 

 ――跡継ぎを産めない嫁など、宮田の家には必要ない。

 

 義母の重圧は、今も涼子を苦しめる。

 

 あの、義母の視線は、今も涼子の胸に刺さったままだ。

 

 

 

 

 

 

 ――ああ、お義母さま、お許しください……お許しください……。

 

 宮田家の仏間で、涼子は手を摺合せ、畳に頭を擦り付け、義母に許しを請い続ける。

 

 間もなく日付が変わる時刻だ。雨はさらに強さを増している。この家には涼子一人だ。司郎はいない。宮田家の者は神迎えの儀式に参加する必要は無いから、どこへ行ったのかは判らない。

 

 イヤな予感がする。

 

 二十七年前と同じだ。二十七年前の八月二日の夜も、神代家は神迎えの儀式を行った。その時も、深夜になって強い雨が降り始めた。義父と義母、夫は家におらず、産まれたばかりの息子は粗戸の乳母の所へ預けていた。涼子は一人、仏間で儀式の成功を祈っていた。

 

 同じだ。

 

 二十七年間のあの夜と、同じだ。

 

 あの夜、日付が変わる頃、村は大きな地震に襲われ、各地で土砂災害が発生した。そして、粗戸に預けていた息子は、行方不明になった。

 

 もし、今夜も儀式に失敗し、村が災害に襲われ、そして、司郎が行方不明になったら――。

 

 義母は十年以上前に亡くなったが、今もこの家に居て、涼子を見ている。

 

 ――跡継ぎを産めない嫁など、宮田の家には必要ない。

 

 義母の視線が、涼子に突き刺さる。

 

 ――ああ、お義母さま……お許しください……

 

 涼子は義母に許しを請い、そして、儀式の成功を祈る。

 

 だが、涼子の祈りは届かない。

 

 かたかた、と、仏壇の燭台が音をたてる。

 

 顔を上げる涼子。燭台が、揺れている。

 

 揺れは徐々に大きくなり、ロウソク全体が、仏壇に掲げたマナ字架が、そして、仏壇全体が揺れ。

 

 やがて、部屋が、家が、大地が、大きく揺れ始める。

 

 地震だ。

 

 燭台が倒れ、ロウソクが床に落ちる。揺れはさらに激しくなる。揺れに耐えられなくなった仏壇も、大きな音とともに倒れた。隣の部屋でもタンスや棚が倒れる音が聞こえる。台所の方では、皿やグラスが割れる音が聞こえて来る。

 

 二十七年前と、同じ。

 

 やはり、儀式は失敗したのか。

 

 涼子は。頭をおさえて床に伏せる。

 

 ――司郎……どうか無事で……ああ、お義母さま……お許しください……。

 

 涼子は、許しを請い続け、ただ、地震が治まるのを待つしかなかった。

 

 

 

 

 

 



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第八十三話 宮田涼子 宮田家/仏間 第三日/十八時三十九分五十八秒

 神迎えの儀式が失敗してから三日後。

 

 

 

 

 

 

 宮田涼子は宮田家の仏間にいた。儀式が行われた夜と同じく、家には涼子一人だ。仏壇の前に正座で座り、目を閉じ、心を落ち着かせようと、胸の内で眞魚教の経典を暗唱する。

 

 家には涼子一人だが、涼子には、もう一人の気配が感じられた。涼子の背後に座り、じっと、涼子を見つめている。二日前の深夜から、いや、三十七年前この家に嫁いできた時からずっと、その視線にさらされている。

 

 ――跡継ぎを産めない嫁など、宮田の家には必要ない。

 

 涼子の前には、拳銃が置かれていた。

 

 八月三日の深夜、羽生蛇村を襲った局地的な豪雨により、蛇ノ首谷、上粗戸、下粗戸、刈割等の地域で大規模な土砂災害が発生した。その結果、求導師の牧野慶、求導女の八尾比沙子、小学校校長の名越栄治など、多くの村人が行方不明だ。その中に、涼子の息子で宮田医院の院長・宮田司郎も含まれている。

 

 一般的に、災害発生から七十二時間以上経過すると、生存者の救出率は著しく低下すると言われている。土砂災害発生から、間もなく、その七十二時間を迎える。司郎の生存は、もはや絶望的と言えた。

 

 そもそも涼子は、この土砂災害が通常の災害だとは思っていない。新聞やテレビ等では、今回の災害を『局地的な豪雨により発生した土砂災害』と報じている。災害発生時、涼子を含む多くの村人が被害に遭った大きな地震については、一切報道されていない。村では多くの家屋が倒壊するほどの揺れだったにもかかわらず、村近くの地震観測所では、全く揺れを感知していないのだ。

 

 また、この災害による現時点での被害者は、行方不明者三十三名、負傷者十五名、そして、死者三名である。このうち負傷者と死者は、全て、土砂災害が発生した付近に住む住人で、家屋の倒壊が原因だった。一方、行方不明者の三十三人は、全て、土砂災害が発生した地域にいたとされている。災害発生より三日。警察、消防、自衛隊等が出動し、夜通し捜索活動を行っているが、土砂災害現場では、今だ一人として生存者の救助も遺体の収容もされていない。現場には、生存者も、遺体も、倒壊した家屋の瓦礫さえもなく、ただ、大量の土砂が存在しているだけだった。救助を行っている者の中には、「集落そのものが消えてしまったとしか思えない」と発言する者もいる。

 

 二十七年前の災害でも同じだった。あの日も、涼子をはじめとする多くの村人が地震に遭ったが、『土砂災害』と報じられた。そして、あの日土砂災害に巻き込まれ行方不明になった村人は、今も見つかっていない。

 

 今回の災害も、二十七年前と同じく、神迎えの儀式に失敗したことが原因なのは間違いないだろう。恐らく、単純な土砂災害ではない。集落そのものが異界に飲み込まれたのだ。そして、異界に飲み込まれたものは、決して元の世界に戻ることはできない。

 

 つまり――司郎は、もう戻ってこない。

 

 宮田家は、これからどうなるのだろう? 養子をとるか、親類の者に後を継がせるか。

 

 どちらにしても。

 

 涼子がすべきことはひとつだ。

 

 背後では、じっと、義母が見つめている。

 

 涼子は目を開けた。正座した膝の前に置いてある拳銃に、手を伸ばす。

 

 一度ならず、二度も、宮田家の跡継ぎを失ってしまった涼子。その責任を取る方法は、ひとつしかない。

 

 涼子は、銃口をこめかみに当てた。

 

 大きく息を吐き、引き金に指を掛ける。

 

 宮田家に嫁いで三十七年。すでに、覚悟はできていた。嫁いできた当初こそ、その覚悟は無かったが、養子を取り、宮田家の跡取りとして育てているうちに、覚悟せざるを得なかった。宮田家の嫁として後継者を育てるということは、命をかけて成すべきことなのである。それに失敗した今、自ら命を絶つのは当然だと思っている。

 

 だが。

 

 指が動かない。引き金が、引けない。

 

 覚悟はしていたはずだった。それでも指は動かない。今この瞬間、司郎が戻って来るのではないか。あるいは、二十七年前のように、後継者となるべき者が見つかるのではないか。そんな思いが、涼子の決意を鈍らせる。甘えた考えだと判っていても、引き金は引けない。

 

 義母は、じっと見つめている。涼子の最期を見届けようとしている。

 

 ごとり、と。

 

 遠くで、何かが倒れるような物音がした。

 

 その瞬間。

 

 涼子の背後にあった義母の気配が、視線が、ふっと、消えた。

 

 銃を下ろし、振り返る涼子。ずっとそこにいたはずの義母の姿は無かった。どこへ行ってしまったのか。

 

 ごとり、と、また物音が聞こえる。誰か、家に居る。

 

 ――まさか、司郎?

 

 立ち上がる涼子。司郎が戻って来たのではないだろうか? 司郎が戻れば、跡継ぎの問題は無くなる。だから、義母は消えた――そんなことを考えた。都合のいい考えであるが、あり得ないことではない。涼子は仏間を出た。物音は、玄関の方から聞こえる。そちらへ走る。

 

 ――ああ、司郎! どうか無事で!

 

 だが。

 

 そこにいたのは、司郎ではなかった。

 

 白衣のようなものを着た女が、うつ伏せに倒れていた。異常な姿だった。白衣、の、ようなもの。白衣ではない。いたるところに赤黒い染みが付き、酷く汚れている。泥による汚れもあるが、そのほとんどが、血が乾いて固まったものだと、涼子には判った。薄汚れた袖の先から見える手の色も異常だった。泥と血で汚れた手の色は、黒に近い青色をしている。到底、生きている人間の手には見えなかった。右手には、同じく泥と血にまみれたシャベルを握っている。土砂災害の被害者だろうか? 一見する限りそう思えるが、なぜ、この家にいるのかが判らない。誰かが死体を持ち込んだのか? 誰が? 家の中に他の気配は無い。そもそも、家中鍵を掛けてある。玄関や窓を破ったりしない限り侵入は不可能だが、そういったことがされた様子もない。まるで、なにも無かった場所に突然死体が現れたかのようだ。異常な事態だ。

 

 さらに異常なことが起こった。どう見ても死んでいるようにしか見えない女が、起き上がろうとしているのだ。顔を上げ、こちらを見た。息を飲む涼子。女の顔は、その大半が頭から生えた無数のこぶのようなものに埋もれていた。

 

 そして、手と同じく、血の気を失った青黒い顔色。

 

 その姿を見た瞬間、涼子は悟った。

 

 ――屍人。

 

 屍人とは、羽生蛇村の伝承に登場する化物だ。空想上の存在と思われているが、一部の村人、特に、宮田家の者は、それが実在する化物だと知っている。

 

 涼子の存在に気付いた屍人は、シャベルを振り上げ、向かって来た。

 

 涼子は拳銃を構え、ためらうことなく引き金を引いた。一発、二発、と、銃弾が屍人の胸に命中する。よろめき、後ずさりする屍人。だが、倒れない。涼子はさらに二度、引き金を引いた。そのすべてが屍人の胸に命中する。屍人は甲高い悲鳴を上げながら、ようやく倒れた。

 

 銃を下ろす涼子。屍人を処分するのは久しぶりだが、まだ、勘は鈍っていない。

 

 宮田家は、神代家の命に従い、裏で非合法な仕事を行っている。屍人の処分もそのひとつだ。だから、宮田家の者は誰よりも屍人に詳しく、そして、銃器の扱いや格闘術・暗殺術などに長けていた。それは、嫁である涼子とて例外ではない。息子の司郎を宮田家の跡取りとして教育したのは涼子だ。歳を取り、体力の衰えは否めないが、銃があれば屍人一体の処分など造作もない。

 

 倒れた屍人に近づく涼子。村に現れた屍人は処分することになっている。だが、屍人は不死身だ。心臓を潰そうが首を斬り落とそうが、時間が経てばよみがえる。屍人を処分するには、拘束して地中深く埋めるなど、物理的に行動不能にするしかない。面倒だが、今、この家には涼子しかいない。これも、宮田家の嫁としての務めだろう。涼子は処分に取りかかろうとした。

 

 そう言えば。

 

 屍人は白衣――ナース服を着ている。村には他に病院は無いから、この屍人は、宮田医院に努めている看護師だろうか? ならば、当然、涼子の知っている人物ということになる。

 

 涼子は、屍人の胸についてあるネームプレートを見た。泥とも血ともつかない汚れでかすれているが、かろうじて、『恩』と『奈』という文字が読み取れた。

 

 ――美奈……さん。

 

 ぎゅっと、銃を握りしめる涼子。

 

 恩田美奈。宮田医院に勤める看護師だ。土砂災害後、行方不明となっている。二十一歳という若さからか少々奔放な性格で、患者に対してあけっぴろげに接することがやや問題ではあるが、勤務態度は真面目で、年寄りや子供の患者を中心に親しまれている。

 

 ただ、涼子は美奈に対して、少々黒い感情を抱いていた。

 

 と、いうのも。

 

 美奈は、宮田司郎と恋仲である、という噂があるのだ。

 

 司郎もすでに二十七歳だ。恋人くらいいてもおかしくはないい。涼子としても、早く嫁をもらい、子をもうけてもらいたいという思いは強い。

 

 しかし、恩田美奈の家はごく普通の家柄だった。両親の収入・貯金・学歴等を調べたが、全て並以下で、宮田家とは不釣り合いと言わざるを得ない。司郎の嫁にはもっと家柄の良い女性をと思っている涼子にとって、美奈は、目障りな存在でしかなかった。

 

 さらには。

 

 これも噂話の域を出ないが、二日前の土砂災害の直前、司郎と美奈が二人で車に乗り、合石岳へ向かったという目撃情報があるのだ。

 

 合石岳は、今回の土砂災害で被害の大きかった地域のひとつだ。

 

 もしかしたら司郎は、この女のせいで、土砂災害に巻き込まれたのでは……。

 

 黒い感情が大きく膨れ上がっていく。司郎が消息不明なのはこの女のせい――そう思えて仕方がない。しかも、司郎を土砂災害に巻き込んでおいて、自分だけのこのこ戻って来るとは。許せない。私から司郎を奪った女。宮田の家を断絶に追い込んだ女。許すわけにはいかない。ただ拘束して埋めるだけでは気が済まない。幸い、屍人は不死ではあるが、痛みを感じないわけではない。不死になったことを後悔するほど痛めつけてやろう。宮田家は、そういう術にも長けている。

 

 美奈が、ゆっくりと起き上ろうとしていた。普通の屍人と比べて復活が早いようだ。また襲われると面倒だ。涼子は銃口を向け、引き金に指を掛けた。

 

 美奈は、銃で狙われていることに気付き、お腹をかばうようにうつ伏せで屈んだ。

 

 ――――。

 

 涼子の指から力が抜ける。

 

 銃を向けられた女が、頭や胸ではなく、お腹をかばった。

 

 それがどういうことなのか、涼子には判った。宮田家に嫁ぎ、十年もの間、姑から「跡継ぎを産めない嫁」と蔑まれた涼子だからこそ、すぐに判った。

 

 涼子の手から、銃が滑り落ちた。

 

 ――美奈さん。あなたはまさか……。

 

 信じられないことだった。信じたくないことでもあった。だが、現実は現実として受け止めなければならない。これまで前例がないというだけで、それは、当然起こりうることなのだ。

 

 恩田美奈は、妊娠している。

 

 それも、恐らく司郎の子供を――。

 

 美奈が顔を上げた。何かを訴えかけるように涼子を見る。その目はこぶに埋もれているが。

 

 ――この子は助けてください。

 

 子を案ずる、母の目だった。

 

 涼子は、しばらく呆然と立ち尽くし。

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 そして、小さく笑った。

 

 

 

 

 

 



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第八十四話 宮田涼子 宮田医院/院長室 第二二二日/二十三時三十九分五十八秒

 土砂災害から七ヶ月後――。

 

 

 

 宮田涼子は宮田医院の院長室にいた。主を失った医院長室は、子を失った母親のような悲しい静けさに包まれていた。宮田司郎はいまだ行方不明のままだ。死亡は認定されていないが、生きている可能性がないということを、涼子は理解していた。涼子だけでなく、村人みんながそう思っているだろう。

 

 宮田医院は閉鎖された。村に医者は司郎一人であり、それが行方不明である以上、閉鎖は仕方のないことだった。宮田医院は特別な病院だ。村外から別の医者を連れて来るという訳にはいかない。村人は、車で一時間以上かけ、ふもとの街の病院まで通わなければいけなくなった。

 

 ――宮田の家は、もう終わりだ。

 

 村人の間で、そう噂されている。宮田司郎は死亡がほぼ確実で、跡取りもいない。噂が立つのも当然と言えた。

 

 だが、涼子は悲観していなかった。

 

 涼子は、事務机の隣にある棚の前に立った。棚の中には、薬品や患者のカルテ等が収められてある。劇薬等もあるので、棚のガラス戸にはしっかりと鍵がかけられていた。涼子は鍵を取り出し、ガラス戸を開けた。棚の中央にはカルテを挟んだ分厚いファイルが並んでいる。その、左から五冊目のファイルを取り出した。しかし、ファイルは開かず、そのまま机の上に置く。ファイルのあった棚には一冊分の隙間ができている。涼子は、開いた隙間に手を入れた。奥まで入れると、指先に、小さな突起物の感触がある。それを押すと。

 

 がこん、という音と共に、棚がゆっくりと右へスライドし始めた。

 

 移動が止まると、棚のあった場所には、地下へと続く階段が現れた。宮田医院の隠し部屋のひとつだった。涼子は、ゆっくりと階段を下りた。

 

 階段を下りると、自動で明かりが点く。細長い廊下が奥まで続いており、両脇には、頑丈な鉄製の扉が並んでいた。

 

 ここは、神代家に逆らった者や村に現れた屍人を捕え、監禁しておくための場所だ。特別入院部屋と呼ばれているが、要するに牢獄である。

 

 涼子は廊下を進む。かつん、かつん、と、涼子の足音が廊下に響いた。その音に反応したのか、部屋の中からうめき声が聞こえてくる。苦痛に耐えているような声、あるいは、助けを求めるような声。どん、と、部屋の中から扉に体当たりをするような音も聞こえる。涼子は構わず奥まで進んだ。最も奥まった場所には、両開きの大きな扉があった。鍵はかけていない。中に入る。

 

 そこは、床や壁、天井に至るまで全てタイル張りにされた広い部屋だった。中央に小さな手術台があり、ナース服を着た屍人が寝かされている。両手両足、そして、首の部分を頑丈なベルトで縛り付けられ、自由を奪われていた。

 

「――美奈さん? 御気分はいかが?」

 

 涼子の声に反応し、屍人は、かろうじて動く頭を上げた。表情は読めないが、涼子に対して怯えているように見える。なんとか逃れようともがく。しかし、その手術台は人を拘束するために作られたものだ。屍人ごときの力で逃れられるようなものではない。硬く締め付けられた拘束用のベルトが、手足に喰い込むだけだ。

 

「そんなに暴れちゃダメよ? 安静にしていないと。あなたは、いま大事な時期なんですから」

 

 優しい声で諭すように言うが、美奈は怯え、少しでも遠ざかろうと、もがき続ける。

 

「……仕方ない人ね」

 

 涼子は小さくため息をつくと、視線を、美奈の顔からお腹へと移した。

 

 美奈のお腹は大きく膨らんでいた。屍人である美奈は当然死んでいるが、そのお腹の膨らみからは、生命の息吹を感じる。

 

 七ヶ月前、自ら命を絶とうとした涼子。その前に現れた美奈は、お腹に司郎の子を宿していた。涼子はこれを、「死んではならない」という神のお告げだと思った。二十七年前もそうだった。災害で息子を失い、絶望していた涼子の前に、赤子が降ってきた。その子を育てることで、生きながらえた。

 

 美奈は、すでに臨月を迎えている。もうすぐ産まれる。司郎の子供。そして、宮田家の跡取り。それを一人前に育てることが、神から与えられた私の役目だ、と、涼子は信じていた。

 

 死ぬわけにはいかない。

 

 育てなければならない。

 

 宮田家の跡取りを。

 

 一人前になるまで。

 

 美奈は屍人だ。普通に考えれば、屍人から産まれるのは、当然屍人だろう。

 

 だが、それは絶対ではない。村の誰よりも屍人に詳しい宮田家だが、身籠った屍人を扱ったという前例は無い。だから、何が起こっても不思議ではない。

 

 恩田美奈は、屍人になる前から妊娠していた。母体が死ねば、お腹の子供も死ぬ可能性が高い。ならば、産まれて来るのは屍人の子だろう。

 

 しかし、母体が死亡した後でも出産に成功した例は、世界中にいくつもある。母体が死んだからと言って、お腹の子供も死ぬとは限らないのだ。ならば、屍人ではない赤子が産まれてくる可能性もある。

 

 涼子は、大きく膨らんだ美奈のお腹に顔を寄せると。

 

 ――ああ……私の孫……宮田家の……跡継ぎ。

 

 恍惚の表情で、頬ずりをした。

 

 生まれて来るのは、人か、屍人か。

 

 判らない。

 

 ――いや。

 

 どちらであろうと涼子には関係なかった。ただ、産まれた子を育てるだけだ。宮田家の跡取りとして。

 

 それが、宮田家の嫁の使命だから。

 

 涼子の背後には、義母が立っている。じっと、涼子を見つめている。

 

 だが、もう。

 

 涼子は、義母の視線に怯えることはなかった。

 

 

 

 ――さあ、早く生まれてらっしゃい。私の可愛いぼうや……。

 

 

 

 涼子は、屍人の腹に顔をうずめ、ずっと、撫で続けた。

 

 

 

 

 

 




竹内・安野編執筆中、異界から現世に戻った人たちをまとめている間に、『因果律に従えば宮田の子供を妊娠している美奈は現世に戻ってるかも?』という思い付きから派生したお話です。実際に美奈が戻ってるとは思えませんが、「戻って宮田の子を産んだら面白いな~(笑)」と思って執筆しました。

まあ、普通に屍人の子供が産まれると思いますけどね(^^;



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第八十五話 前田隆信 羽生蛇村役場/観光課 一九七五年/十四時〇七分五十五秒

 羽生蛇村役場の一階にある観光課の事務所で、前田隆信は、書きかけの企画書を前に頭を抱えていた。タイトルは書いたものの、その先に進むことができない。書きかけというよりは、ほぼ白紙の状態だった。

 

 企画書のタイトルは、『羽生蛇村の目玉グルメ案』だった。読んで字のごとく、羽生蛇村の目玉となる料理を企画しているのである。隆信が役所に勤めて二年。雑用ばかりしていた彼が、初めて任された大きな仕事だ。だが、ペンは一向に進まない。それも当然と言えば当然で、隆信は、普段は料理などほとんどしない。食べることにも人並み以上の興味は無い。グルメなどとは無縁の男で、なにをどう企画したものかさっぱりわからないのだ。なぜ、彼がこんな企画を担当することになったのだろう?

 

 羽生蛇村役場の観光課は、できたばかりの新しい課だ。村は昔から非常に閉鎖的で、外部との接触を極端に嫌う傾向にあり、観光などとは無縁だった。しかし、近年著しく過疎化が進み、このままでは寂れる一方だと思われた。そこで、村の外から観光客を呼び、少しでも村おこしをしようという案が出た。こうして、羽生蛇村役場に観光課が発足した。村の将来を担う重要な部署である……はずなのだが、急遽作られた為か、職員は隆信を含めて三人しかいなかった。

 

 観光課の発足後、すぐに会議が行われた。目玉とする観光地や催事を話し合い、観光客を呼ぶための交通の整備や宿泊施設を増やすことなどが決まった。その施策のひとつが、隆信が担当している村の名物料理を作ることである。観光客を呼ぶには非常に重要なものであり、勤務二年目の隆信には少々荷が重い仕事だ。だが、人手が圧倒的に少なく、上司や先輩は他に重要な仕事があるので、隆信がやるしかなかったのだ。

 

 隆信はお気楽な性格だった。本来ならば、自分の手に余る仕事を任されても「なるようになれ」とばかりに、できる範囲で適当にやるだけだ。それで失敗し、上司に怒られるのならば仕方がない。そういう考えの男だった。だが、今回ばかりはお気楽にしてはいられない。観光課の仕事には村の将来がかかっているため、仕事の進行具合を村の有力者たちに定期的に報告しなければいけなかった。隆信の場合、半年後、名物料理の試作品を作り、皆で試食を行うことが決まっていた。その試食会には、眞魚教の求導師様や宮田医院の院長先生、さらには、神代家の当主様まで参加するという。失敗は許されない。ヘタなものを出して当主様の機嫌を損なえば、隆信のクビなど簡単に飛んでしまうだろう。それは解雇されるという意味ではなく、文字通り本当に首をはねられる可能性さえあるのだ。神代家には、それだけの力がある。村では昔から神隠しや失踪事件が多いのだが、その一部は、神代家を怒らせたため抹殺されたというウワサもある。試食会に失敗した時のことを思うと、背筋が凍る思いだ。

 

 そんな訳で、隆信が自分の首をかけた一世一代の仕事に思い悩んでいると。

 

「――よう、前田。グルメ企画の方は進んでいるか?」

 

 声をかけて来たのは、同じ観光課に属する隆信の先輩だった。頭を上げた隆信は「はい、ボチボチと言ったところです」と答えたが、机の上のほぼ白紙の企画書を見れば、全く進んでいないことは明らかだ。

 

 先輩は苦笑いをした。「……まあ、そんなことだろうと思ったけどな。役場に来てまだ二年のお前には、ちょっと荷が重い仕事だろうな」

 

「はい、そうなんですよ」隆信は素直に認め、助けを求めるように先輩を見つめた。

 

 だが先輩は、すまなさそうな顔をして言う。「手伝ってやりたいが、俺も自分の仕事で手一杯だからな……」

 

 それはそうだと、隆信は思った。先輩も人手不足の中で働いている。先輩は、交通の整備と宿泊施設の確保の仕事を任されていた。ふもとの街まで行ってバス会社にバスの増便をお願いしたり、村に民宿を増やすために開業セミナーを企画したり、興味を持った村人の家々を訪問したりしている。しかし、どこへ行っても「こんな村に観光客が来るのか?」と、ほとんど相手にされていないらしい。

 

 苦労しているのは自分だけではないのだ。一人で頑張るしかない……と、隆信が思っていたら。

 

 先輩が、ぱん、と、手を叩いた。「そうだ。ひとつ、役に立ちそうな話があるぞ」

 

「役に立つ話? なんですか?」

 

「俺の同期に農業課に勤めているヤツがいて、そいつと飲んだ時に聞いたんだが、最近の調査で、羽生蛇村の気候や、土・水などの性質が、ソバの栽培に適していることが判ったらしい」

 

「ソバというと、日本蕎麦や蕎麦掻とかの原料にするアレですか?」

 

「そうだ。だから、これから村の農家にソバの栽培を推奨していくらしい。そうなると、新しい村の名産品になるかもしれん。だから、ソバを使った料理を考えてみたらどうだ?」

 

「ナルホド、ソバですか……判りました。やってみます」

 

「頑張れよ」

 

 先輩はパンパンと隆信の背中を叩いて、部屋を出て行った。

 

 村でソバの栽培が始まる――いいことを聞いた。これなら、なんとか企画を立てられそうだ。料理の名前は、シンプルで判りやすい方がいい。ズバリ、『羽生蛇蕎麦』で行こう。

 

 隆信はペンを取り、企画書の作成を進めた。

 

 

 

 

 

 



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第八十六話 前田隆信 羽生蛇村役場/観光課 一九七五年/十時三十一分四十秒

 羽生蛇村でソバの栽培が始まる――先輩から聞いた情報を元に、村の新しい名産品として『羽生蛇蕎麦』を作ることにした前田隆信。企画書を作り、三日後、観光課の課長に提出したのだが。

 

「――ふうむ」

 

 企画書に目を通した課長は、一声唸っただけだった。隆信的にはかなりの自信作だったが、課長の表情は良くない。

 

「あの、課長。なにか、まずい所がありましたでしょうか?」隆信は恐る恐る訊いた。

 

「ふむ。そうだなぁ――」課長は企画書を机の上に置き、しばらく天井を見上げて思案した後、続けた。「羽生蛇蕎麦というのはいいアイデアだ。これから村でソバの栽培を始めるという話は、私も聞いているからね。そこに目を付けたのは良いと思う」

 

「はい。ありがとうございます」

 

「でもねぇ。だからと言って、ただの蕎麦だと、目玉料理としては弱いんだよ」

 

 隆信が企画した蕎麦は、具などは特に入っていない、いわゆる掛け蕎麦だ。隆信的にはシンプルな味で勝負するのが良いと思ったのだが、課長の言うことももっともである。

 

「はあ。申し訳ありません」隆信は頭を下げた。

 

「いろいろ問題はあるが、まず、温かい蕎麦というのが問題だね」

 

「なぜでしょう?」

 

「羽生蛇村は山に囲まれた高地にある村だ。観光客を呼ぶなら、必然的に夏がメインになるだろう。ならば、温かい蕎麦ではなく、冷やし蕎麦にした方が良いのではないかね?」

 

 なるほど、と、隆信は納得した。今まではあまり深く考えず、ただ料理を企画すればいいと思っていたが、課長の言う通り、観光客に出す料理ならば、観光客が来る時期まで考えて企画しなければいけない。

 

「確かに、課長の仰る通りです。では、冷やし蕎麦で、企画し直してみます」

 

 隆信は企画書を返してもらうと、作り直しに戻ろうとしたが。

 

「待ちたまえ」と、課長に呼び止められた。「判っているとは思うが、ただの冷やし蕎麦でも、観光の目玉としては弱いんだ。もっと、インパクトのあるものでないと」

 

「はあ、確かに」

 

「君は、咸興(ハムフン)冷麺というものを食べたことがあるかね?」

 

 隆信は首をかしげた。「ハムフン冷麺……ですか? いえ、食べたことはありません。名前を聞くのも初めてです」

 

「そうか。朝鮮半島の咸興(ハムフン)という都市の郷土料理だ。私は戦時中、咸興に住んでいたんだよ。子供のころからよく食べたものだが、あれは美味い物だ。最近では日本でも食べられるお店ができてきたようだから、一度、食べてみるといい。もちろん、費用は役所で負担する」

 

「判りました。そうしてみます。ありがとうございます」

 

 隆信はペコリと頭を下げると、自分の机に戻った。ハムフン冷麺か……一体、どんな麺なのだろう? さっそく調べてみよう。

 

 

 

 

 

 



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第八十七話 前田隆信 羽生蛇村役場/総務部 一九七五年/十五時〇二分二十五秒

 羽生蛇村の新しい名産品として、『羽生蛇蕎麦』を作ることにした前田隆信は、課長の助言により、咸興(ハムフン)冷麺なるものを食べることになった。わざわざ東京にある朝鮮料理の店まで出向いたのだが、その甲斐はあった。冷たい麺と言えばざる蕎麦やざるうどんくらいしか知らない隆信にとって、それは初めて食べる味だった。まず、麺が噛み切れないほど硬い。まるで輪ゴムを噛んでいるかのような弾力だった。こう表現すると聞こえは悪いが、食べているうちにそのコシの強さがクセになる。スープは無く、酢とごま油と砂糖、そして、コチュジャンという朝鮮特有の唐辛子味噌を混ぜたタレを絡めて食べる。日本人の舌には非常に刺激的な辛さだが、その中にも甘さがあり、コシの強い麺と絡んだその味に、隆信はすぐに虜になった。

 

 村に戻った隆信は、咸興冷麺を参考に羽生蛇蕎麦の企画書を書き直した。もちろん、咸興冷麺をそのまま真似しても、課長は納得しないだろう。味や見た目などを参考にしながらも、羽生蛇村の蕎麦ならではの特徴を出さなければならない。

 

 咸興冷麺の麺にはジャガイモやトウモロコシなどのデンプンが用いられているが、羽生蛇蕎麦はあくまでもそば粉を使用する。そば粉であのゴムのような噛み応えを出せるかはまだ判らないが、なんとか再現してみるつもりだ。また、咸興冷麺はスープではなくタレを絡めて食べるが、羽生蛇蕎麦はあくまでも日本蕎麦のスタイルにこだわり、スープに入れて出す。スープの味も、コチュジャンの辛味は残しつつも、日本人の舌に合うよう、よりマイルドにするつもりだ。

 

 以上のことをまとめ、新しい企画書を作り直した隆信は、課長に再提出した。新しい羽生蛇蕎麦には、課長も大満足の様子だった。

 

 通常ならば、課長がOKを出したこの段階で試作品づくりに取り掛かるのだが、今回の企画には村の将来がかかっており、試食会には神代家の当主も参加する。そのため、すぐに試作品というワケにはいかない。この後、観光課が属している総務部の部長からも許可をもらい、さらに、村長を交えた役場全体の会議で認められる必要があった。

 

 と、いうことで隆信は、課長にOKをもらった企画書を、部長に提出した。

 

「――なるほど。咸興冷麺を参考にして作ったのかね」

 

 企画書を読んだ部長は満足げに頷いた。

 

「はい。その通りです」

 

 ホッと、胸をなでおろす隆信。蕎麦といいながら朝鮮風の味にしたことに部長がどう反応をするのか不安だったが、どうやら大丈夫そうだ。

 

「咸興冷麺のこと、ご存知でしたか」

 

「ああ。最近、ちょっと話題なっているからね。咸興冷麺に目の付けたのは悪くないが、ひとつ、問題があるね」

 

「問題……それは、何でしょうか?」

 

「岩手県の盛岡市に、盛岡冷麺というものがあるのだが、知らないかね?」

 

 隆信は首をかしげた。「盛岡冷麺……いえ、初めて聞きました」

 

「そうか。まあ、まだ全国的には知られていないからな。私は以前、盛岡に旅行に行ったとき食べたんだが、その盛岡冷麺は、咸興冷麺が元になっているんだよ。このままじゃ、同じような冷麺になってしまう。なんとか、差別化を図らないといけないな」

 

「そうですね……では、どうしましょうか?」

 

「盛岡冷麺には、よくスイカが添えられているんだ。羽生蛇蕎麦にも、果物を添えてみてはどうかね?」

 

「はあ、果物、ですか……」

 

 腕を組み考える隆信。蕎麦に果物を添えるなどいまいちピンとこないが、実際、盛岡冷麺というものでスイカが添えられているのならば、意外と合うのかもしれない。

 

「村で果物と言えば、ビワかイチゴですね」隆信はそう提案してみた。

 

「そうだな。まあ、羽生蛇ビワは高級品だから、それを入れるとなると、どうしても値段が高くなる。食堂で出す蕎麦ならば手ごろな値段の方がいいだろう。イチゴで考えてみたまえ」

 

「判りました。では、その方向で企画し直して来ます」

 

「うむ。頑張りたまえ」

 

 企画書を返してもらった隆信は、部長に頭を下げ、観光課の事務所へ戻った。なかなかうまくいかないが、村の観光の目玉となるものだし、仕方ないだろう。簡単ではないが、少しずつ完成に近づいているという実感はある。よし、頑張ろう。隆信は気合を入れ直し、また最初から企画を練り始めた。

 

 

 

 

 

 



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第八十八話 前田隆信 羽生蛇村役場/会議室 一九七五年/十時五十三分五十三秒

 朝鮮の郷土料理・咸興冷麺を参考に羽生蛇蕎麦を企画した前田隆信だったが、岩手県の盛岡市に似たような冷麺があるとのことで、なんとか差別化を図らなければならなかった。盛岡冷麺にはよくスイカが入っているので、羽生蛇蕎麦には村の名産品であるイチゴを入れてみてはどうか――部長のアイデアだったが、はたして朝鮮風の冷麺にイチゴが合うのか? 隆信には疑問だった。そこで隆信は、実際に岩手県まで出張し、盛岡冷麺を食べてみた。確かに、多くのお店でスイカが添えられていた。食べてみると、スイカの甘味はスープの辛味を和らげ、スッキリとした味わいになった。どうやら、スイカは辛味を調整する役目を果たしているようである。これならば、羽生蛇蕎麦にイチゴを入れても問題なさそうだ。

 

 村に戻った隆信は、さっそく、イチゴ入りの羽生蛇蕎麦を企画書にまとめ、部長に提出した。部長は満足そうに笑い、OKを出した。次は、村長を交えた役場全体の会議だ。ここでOKがもらえれば、ようやく試作品を作ることができる。

 

 役場に勤めてまだ二年の隆信。役場全体での会議で自分の企画を発表するなど初めてのことだったが、課長と部長が認めた企画だけあって、概ね高評価だった。特に村長が大変気に入ったようで、すぐに試作品を作るように言われた。

 

 ただ、一点だけ問題があった。それは、会議に参加した農業課の職員からの一言だった。

 

「――原因はまだ調査中ですが、村で栽培したソバは、非常に高カロリーであることが判っています。この企画書通りの蕎麦を村のそば粉で作った場合、一般的なかけ蕎麦の五倍のカロリーになるでしょう」

 

 つまり、羽生蛇蕎麦一杯でかけ蕎麦五杯食べる計算になる。最近、世間ではヘルシー志向の食生活が広がっており、特に女性には、こんな高カロリーの食べ物は受け入れられないだろう。観光やグルメは女性を中心に話題になる。故に、女性に受け入れられなければヒットは望めないのだ。なんとかカロリーを減らす必要があるが、そば麺自体が高カロリーなのだから、カロリーを減らすには麺の量を減らすしかない。麺の量を五分の一まで減らせば一般的なかけ蕎麦と同程度のカロリーになるはずだが、いかにカロリーが適切でも量が少なければ腹は満たされず、満足感は得られない。カロリーを取るか、量を取るか。難しい問題だった。

 

 だが。

 

「なあに、簡単なことだよ」

 

 そう言ったのは、隆信が企画した羽生蛇蕎麦を大変気に入った村長だった。「逆転の発想だ。カロリーが高いのならば、それをウリにすればいい」

 

「と、仰いますと?」隆信が訊き返す。

 

「非常食だよ。羽生蛇蕎麦を、非常食として売り出すんだ」

 

「非常食、ですか?」隆信を始め、会議に参加した全員が首をかしげる。

 

 村長は、自身に満ちた顔で言う。「観光の目玉となるグルメならば、食堂で出すだけでなく、お土産としても売り出すだろう? その、お土産用の羽生蛇蕎麦を、缶詰にするなどして、非常食にもなるとアピールするんだ」

 

「はい? 蕎麦の缶詰……ですか?」

 

「そうだ。村では災害が多いから、十分なアピールポイントになると思わんかね?」

 

 それはそうかもしれないが、蕎麦を缶詰にするというのが、全くピンとこない。

 

 だが、恐れ多くも村長の意見に、ヒラの職員に過ぎない隆信ごときが反論できるはずもない。それは課長や部長クラスでも同じで、その場にいる誰も異論を唱えない。

 

 隆信は仕方なく、「そうですね。村長の仰る通りだと思います」と、言った。

 

「では、その方向で企画し直して来たまえ」

 

「はい。判りました」

 

 会議はそれで終了となった。蕎麦を缶詰にする……なんだか、話がおかしな方向に流れているような気がするが、やってみるしかない。

 

 

 

 

 

 



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第八十九話 前田隆信 蛇ノ首谷/選鉱所 一九七五年/十六時〇八分〇五秒

 羽生蛇蕎麦を非常食として売り出すため、缶詰にする――村長の突拍子もないアイデアを実現するため、隆信は村の北にある蛇ノ首谷の選鉱所にやってきた。羽生蛇村には錫が採れる鉱山があり、そこで採掘された錫を選鉱し、出荷するための場所だ。もっとも、鉱山自体は鉱量枯渇により昨年閉鎖されている。そのため、この選鉱所も、残った錫の出荷が終了次第閉鎖される予定になっていた。

 

「――ただ、最近うちの錫は、さっぱり売れなくてね」

 

 選鉱所の所長は、浮かない顔でそう言った。

 

 錫が売れないという話は、役場で働く隆信の耳にも入っていた。村で採れた錫は、羽生蛇村がある三隅地域の名を取り、『三隅錫』と呼ばれている。一般的な錫と比べ、かなり変わった性質を持っていることで有名だった。例えば、三隅錫で楽器のトライアングルを作った場合、鳴らすたびに音が違うという現象が起こる。また、三隅錫を使って作ったブリキは、極めて腐食に強かったり、逆に極端に弱かったりと、安定感が無い。さらには――これはウワサ話にすぎないが――戦時中に日本軍が三隅錫を使用して銃弾を作る計画があったが、同じ工程で作った物なのに弾によって弾道が著しく異なるという現象が起こり、計画は中止された、という話もある。なぜ、そのような現象が起こるのか、長年研究されているにもかかわらず、いまだに判っていない。市場では、とにかく扱いづらいことで有名だった。それでも昭和初期まではそれなりに需要があったのだが、近年では海外から安く良質な錫が輸入できるため、三隅錫の需要は著しく減っていた。そのため、鉱山が閉鎖された今でも、錫はこの選鉱所に大量に余っていた。

 

「でもあんた、運がいいよ」と、所長の顔が明るくなった。「最近の研究で、三隅錫を鉄や銅などと一定の割合で混ぜると、非常に質のいいブリキが作れることが判ったんだ。今までの物と違って安定して腐食しないから、缶詰にするには最適だよ」

 

 所長は缶詰を作る関係で食品衛生管理者の資格も持っていた。彼の意見によれば、蕎麦は乾麺、スープは粉末にして三隅錫製の缶詰に入れれば、三十年は安全に食べられるという。非常食としては十分すぎるほど長い期間だ。これなら、村長も喜ぶだろう。

 

「でも、問題はイチゴだね」所長が言った。

 

「と、言うと?」

 

「イチゴは生ものだから、缶詰にしても三十年はもたない。せいぜい十年くらいかな」

 

 つまり、賞味期限は十年ということになる。通常の果物の缶詰と比べればはるかに長いが、せっかく蕎麦が三十年もつのだから、イチゴも三十年もたせたい。何かいいアイデアはないだろうか? 隆信は、所長に意見を求めた。

 

「いい方法があるよ。イチゴを、ジャムにすればいいんだ」

 

「はい? ジャムですか?」首をかしげる隆信。この人は、なにを言い出すのだろう?

 

 隆信の困惑をよそに、所長は自信満々の表情で続ける。「ジャムにすれば、生の状態よりもはるかに長持ちする。三隅錫の缶詰に入れれば、三十年は十分もつよ」

 

「それはそうかもしれませんが、でも、そのジャムは蕎麦の中に入れるんですよ? そんなことをしたら、味がメチャクチャになりませんか?」

 

「それは僕の知ったことではないよ。君が、イチゴを三十年もたせる方法がないかと訊いたから、あくまでもひとつの方法として提案しただけだ。どうするかは、君が決めることだよ」

 

「はあ。確かに」

 

「でも、村長は一度言い出したことは曲げないタイプだからね。イチゴをジャムにすれば賞味期限が三十年になる、なんて知ったら、絶対にその方向で作れって言うと思うよ」

 

「でしょうね」

 

「まあ、上司がむちゃな要求をするのはどこの職場でもあることさ。それにどう応えるかは、部下の腕の見せ所だよ。頑張ってみるんだね」

 

 所長は隆信の肩をポンポンと叩き、仕事に戻った。

 

 隆信は役場に戻り、選鉱所で聞いたことを村長に報告した。所長の予想した通り、村長は賞味期限三十年で作るよう、隆信に命じた。

 

 観光課発足から三ヶ月。羽生蛇村名物グルメ企画は、ようやく試作品を作る段階となった。しかしそれは、日本蕎麦の麺を朝鮮風のスープに入れイチゴジャムを添えるという、聞くだけで背筋が凍るような代物になってしまった。神代家当主など村の有力者を交えた試食会まであと三ヶ月。なんとか、村の名物グルメと呼ぶにふさわしい味にしなければならない。

 

 隆信は、かつてない絶望に襲われていた。

 

 

 

 

 

 



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第九十話 前田隆信 神代家/大広間 一九七五年/十二時〇〇分〇〇秒

 努力はした。

 

 

 

 

 

 

 村役場に勤めて二年。まだまだ経験不足の前田隆信に与えられた仕事は、羽生蛇村の名物グルメを作るという、自分のキャリアにそぐわないほどの大きなものだった。彼はそれを、先輩や上司に助言をもらったとは言え、基本的には一人で行ったのだ。彼はこの半年で大きく成長した。それは間違いない。

 

 だが、今日、彼の全ては終わるだろう。

 

 隆信の目の前には、この半年間、試行錯誤を繰り返した羽生蛇蕎麦の試作品がある。

 

 麺は、これから羽生蛇村の特産品となるであろうそば粉を使用したもの。輪ゴムを噛んでいるような歯ごたえを出すために、小麦粉や大麦粉、デンプン、水など、配合に苦労した。

 

 スープは、朝鮮冷麺風のコチュジャンをきかせたもの。日本人の味覚に合うよう、辛味を抑えてある。これも、麺に合う味にするのに苦労した。

 

 ジャムは、羽生蛇村特産のイチゴを使用したもの。砂糖は一切使わず、イチゴの持つ本来の甘みを味わえる一品だ。

 

 他に、キュウリ、ネギ、ゆで卵を添えている。どれも、羽生蛇産のものを使用した。これらは村の特産品というワケではないが、羽生蛇蕎麦が売り出されば、生産量が増え、名産品となるかもしれない。

 

 麺、スープ、ジャム、その他の具材、それぞれは、完璧なデキなのだ。だが、それがひとつになることで、大いなる絶望が生まれる。

 

 咸興冷麺にならい、羽生蛇蕎麦はよくかき混ぜてから食べるようにした。絶望は、この時点から始まる。羽生蛇村産のイチゴは赤色が強いのが特徴だが、そのイチゴで作ったジャムをコチュジャン入りのスープとかき混ぜると、血のようなドロッとした朱色になる。それはまるで、血の海をかき混ぜているかのようだ。そんなスープが麺に絡む姿はまさに地獄絵図。食すと、口の中に極めて複雑な味が広がる。麺とスープとジャム、食べる前にどんなにかき混ぜようとも、これらの味が混ざり合うことは決してない。ソバの風味と、スープの辛さと、イチゴジャムの甘さと酸っぱさ、それぞれが強く主張し合い、舌が大混乱を起こすのだ。早く飲み込めばいいのだが、麺のコシが強くてなかなか飲み込めない。初めは違和感を覚えても、食べ進めるうちにクセになって来る……ということもない。

 

 つまり。

 

 羽生蛇蕎麦は、はっきり言えば不味いのである。

 

 最初に言った通り、努力はしたのだ。どうにか食べられるものにするために、スープの辛味を調整し、イチゴジャムの配合を見直し、麺の味まで研究した。だが、なにをどうしても、味は変化しない。行きつく先は、絶望。

 

 いったい何がいけなかったのか、今でも彼には判らない。彼は、先輩や上司たちの助言を忠実に守っただけだ。あるいはそれがいけなかったのだろうか? 先輩や上司たちの助言など無視し、自分一人で全てやればよかったのか? いや、どんな仕事も、一人で行うことなど不可能だ。皆、誰かに支えられて生きている。それに、羽生蛇村では権力が絶対だ。力のある者に、力が無い者が逆らうことは許されない。一介の平職員に過ぎない隆信が、先輩、課長、部長、そして村長の意見に逆らうことなどできるはずもなかった。

 

 そう。これはすべて、隆信の力不足が生みだした結果なのだ。自分が生みだしたものだから、受け入れるしかない。

 

 今日、羽生蛇蕎麦の試食会が開かれる。

 

 場所は、神代家の大広間。

 

 神代家は、羽生蛇村で最も力を持つ一族だ。その当主様自ら試食するという。他にも、眞魚教の求導師様に、宮田医院の院長先生など、村の有力者のほとんどが一堂に会すことになっている。

 

 そんな場所に、この羽生蛇蕎麦を出す。

 

 隆信は、己の死を確信していた。あくまでもウワサだが、当主様の機嫌を損ね、消された村人は数多いと聞く。こんな得体の知れない食べ物を神代家の当主様に食べさせて、無事に帰れるとは思えなかった。彼はそこまで楽観主義者ではない。

 

 葛藤はあった。このような失敗作を出すよりも、素直に「羽生蛇蕎麦は完成しませんでした!」と、謝罪した方が良いのではないか? いや、そうしたところで、当主様の機嫌を損なうのは避けられないだろう。結果は同じだ。隆信は、戦わず死ぬよりも、戦って死ぬことを選んだのだ。

 

 大広間には、すでに全員が揃っていた。役場の課長・部長・村長。眞魚教の求導師様。宮田医院の院長先生。神代家の一人娘と、その婿。そして、大広間の一番奥に座る初老の人物が、神代家の現当主である。

 

 一人一人に資料を配り、まずは、オーバー・ヘッド・プロジェクターを使って説明していく。羽生蛇蕎麦のコンセプト、村でソバの栽培が始まること、いかにして麺の強いコシを出したか、スープのこだわり、イチゴジャムの特徴、三隅錫を使った缶詰で三十年保存可能、などを、順に語っていく。プレゼンテーションとしては当たり前のスタイルだが、隆信には、「私はこれだけの努力をしました」という言い訳をしているようにしか思えなかった。

 

 説明している間、当主様は身動き一つせず、鋭い視線を隆信へ向けていた。それだけで、隆信の寿命は数年縮まった。

 

 説明が終わり、いよいよ試食となった。

 

 出席者の前に、できあがった羽生蛇蕎麦を置いて行く。

 

「美味しそうだ」という声は聞こえない。皆、眉をひそめ、露骨に嫌悪感を表す。ただ一人、当主様だけが表情を変えなかった。その目は相変わらず、鋭く隆信を射抜いている。

 

「――では、お召し上がりください」

 

 隆信は、自ら己の死刑執行のボタンを押した。

 

 事前の隆信の説明通り、皆、麺をよくかき混ぜる。イチゴジャムの深い紅色が器に広がる。スープと混ざり、器の中は血の池地獄と化す。険しかった参加者の表情がさらに歪む。だが、本当の地獄はこれからだ。スープとイチゴジャムがよく絡まった麺を、皆が一斉に口へ運んだ。

 

 そして、絶望。

 

 誰もが表情を強張らせている。当然だ。その味は、誰よりも隆信が知っている。さあ、不味いと言え。そして、この俺を殺すがいい。前田隆信は、逃げも隠れもしない。

 

 隆信は覚悟を決め、頭を垂れた。

 

 だが――。

 

「――美味い」

 

 それは、静かに、しかしはっきりと、隆信の耳に――そして、その場にいる全員の耳に届いた。

 

 顔を上げる隆信。

 

 その声は大広間の一番奥――神代家の当主様の座る席から聞こえた。

 

 隆信は、信じられない光景を目にした。

 

 当主様は、スープとイチゴジャムの絡んだ麺を口へ運び、食感を楽しむように何度も噛んでいる。その顔には笑みさえ浮かんでいる。いつも仏頂面の当主様から想像もできない姿だ。

 

 二度、三度と麺をすする当主様。食べているのは彼だけで、他の者の箸は止まっている。そのことに気付いた当主様は、「どうした? わしに遠慮せずに食べよ。美味いぞ」と、促した。

 

 これが美味い? 耳を疑う隆信。いや、隆信だけではない。その場にいる全員が、我が耳と、そして、当主様の舌を疑った。一体、これのどこが美味いというのか?

 

 だが――。

 

 この羽生蛇村において、神代家の意向は絶対である。逆らうことなど、できるはずもない。だから。

 

「当主様の仰る通りです」神代家の婿が言った。「これほど美味しいもの、私は初めて食べました」

 

 それはそうだろう。朝鮮風の冷麺にイチゴジャムを添えて食べるなど、人類史上初めての経験だ。

 

「え……ええ、そうですわね」神代家の一人娘も同意する。「変わった味ですが、都会では、この味が流行っていると、聞いたことがあります」

 

 そんな話だれも聞いたことがないが、神代家に逆らうことはできない。

 

「羽生蛇村産の蕎麦とイチゴジャムの融合……これは、奇跡の出会いです」求導師様が言った。「これもきっと、神のおぼしめしでしょう」

 

「ええ、その通りです」宮田医院の院長先生も同意する「この複雑な味の種明かしを、ぜひお願いしたいものですね」

 

 そして、誰もが笑顔をひきつらせ、羽生蛇蕎麦を口へ運ぶ。当主様が食べろと言うのだから、従うしかない。

 

 当主様は全ての麺を食べ、スープを最後の一滴まで飲み干し、満足げに笑った。「いや、美味かった。君、前田君と言ったか」

 

「は……はい!!」

 

「実に見事な腕前だった。うちの料理人として雇いたいくらいだよ」

 

「あ……ありがとうございます!! 勿体ないお言葉でございます!!」

 

「このまま羽生蛇蕎麦の商品化を進めたまえ。期待しておるぞ」

 

 マジか……恐らくその場にいる全員がそう思ったはずだが、反論することは許されない。

 

「いやはや、実に愉快だ。はーっはっはっは!!」

 

 当主様は、豪快に笑って大広間から出て行った。

 

 

 

 

 

 



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第九十一話 前田隆信 羽生蛇村役場/倉庫 後日/十五時十五分十五秒

 いま思えば、あの時の神代家の当主様は、少しおかしくなっていたのかもしれない。村では数十年に一度、神代家が執り行う秘祭というのがあるのだが、この秘祭が近づくと、当主様は、幻覚を見たり、妄想に取りつかれたり、支離滅裂な発言を繰り返すなどの症状が現れる――そういうウワサ話があることを、隆信は後になって知った。実際、試食会の翌年の夏、秘祭が執り行われたようである。その際、病弱な当主様に代わって娘婿が秘祭を取り仕切り、それを期に現当主は引退。娘婿が新たな当主の座に就くこととなった。

 

 理由はどうあれ、神代家前当主にお墨付きをもらったことにより、隆信が考案した羽生蛇蕎麦はすぐに商品化されることとなった。神代家の力により、村の食堂には強制的にメニューに加えられ、粗戸の商店街の店先にはお土産用の缶詰がずらりと並んだ。

 

 だが、どんなに当主様が美味いと言おうと、不味いものは不味い。観光の目玉になどなるはずもなく、売り上げは上がらず、話題にもならない。それでも、どこに神代家の監視の目があるか判らないため、メニューから外したり、店頭から下げることはできなかった。そんなことをしたら、『異端者』の烙印を押され、村八分にされてしまうだろう。

 

 誰もが不味いと思いながらも、不味いと言いだせない――そんな重苦しい空気のまま、数年の時が流れた。

 

 羽生蛇村役場の倉庫には、羽生蛇蕎麦の缶詰の在庫が一万個ほど保管されている。本来は千個製造する予定だったが、仕事に慣れない隆信が発注書のゼロの数を書き間違い、予定の十倍の数を製造してしまったのだ。当然。売れる見込みは立っていない。幸いと言うべきなのか、賞味期限は三十年もある。一九七五年製造だから、二〇〇五年までは大丈夫だ。気長に売って行くしかない。

 

 それでも、全く売れる見込みは無いのだが。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 さらに時は流れ――。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 後に、歴史の研究者は語る。

 

 

 

 この『羽生蛇蕎麦』という食べ物は、歴史の必然による産物である。

 

 村は、この食べ物を必要としていたのだ。

 

 誰にも望まれなかったこの食べ物は、実は、望まれて生まれたのだ。

 

 全ては、必然なのだ。

 

 異常なまでに高いカロリーも。

 

 異常なまでに長い賞味期限も。

 

 異常なまでに不味い味も。

 

 異常なまでに村人から忌避されたのも。

 

 異常なまでに間違えた発注数も。

 

 全ては、この村に必要なことだったのだ。

 

 それらは全て。

 

 村を支配する『因果律』によって導かれたものである――。

 

 

 

 

 

 

 ()()が何を言っているのかは、誰にも理解できない。

 

 

 

 

 



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