千紗希さんの悩み事 (阿修羅丸)
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千紗希さんの悩み事
前編


 県立湯煙高校。

 入学式を終えた後の一年四組の教室で、三人の女子が一つの机を囲んで雑談に興じていた。同じ中学校出身で、同じクラスになれたのである。二人が机を挟むように立ち、一人は椅子に座っていた。

 しかしその椅子に座っている宮崎千紗希は、今一つ楽しそうではなさそうだ。

 

「千紗希、どうしたの?」

 

 彼女の右手側に立つポニーテールの女子、三浦博子が心配そうに顔を覗き込んだ。

 

「最近、家で変な事が起きてて……」

「ストーカーか?」

 

 反対側の、ストレートロングの女子が粗野な口調で言った。こちらは柳沢(やなざわ)(せり)

 

「そういうのじゃなくて、その……最近ね、お風呂入ってシャワー浴びてて、気が付いたら湯船の中にヌイグルミが入ってたりするの」

「いくら好きだからってお風呂に持ち込んじゃダメでしょ」

 

 千紗希のヌイグルミ好きを知る博子は、呆れたように言った。

 

「わかってるよ。だからあたしだってそんな事絶対にしないのに、いつの間にか入ってきてるの。今朝だってカバンの中に入ってたし、それに、その……一昨日なんて、夜中に部屋の中を飛び回ってたし……」

「……マジで?」

 

 博子と芹は同時にうめいた。付き合いが長いだけに、相手が嘘を言ってるかどうかくらいはわかる。

 

「ネットで調べてみたけど、霊能者さんのお祓いって凄くお金がかかるし、だからってママに出してもらう訳にはいかないし……」

「下手したら窓に鉄格子がはまってるタイプの病院に入れられちゃうよね……」

「親父さんは?」

「お父さんは海外に出張してるから……もうどうしたらいいかわからなくて……」

「うーん……何なら一人、とびっきりの奴を紹介してあげるけど?」

「とびっきり?」

 

 千紗希は首を傾げた。博子にそんな知り合いがいたとは聞いてないのだ。

 

「そ。確か隣のクラスにいるはずだから、後で連れてってあげるよ」

 

 ちょうどチャイムが鳴り、教師も入ってきたので、博子はそう言って自分の席に戻っていった。

 

 

 ホームルームが終わると、博子に連れられて千紗希と芹は隣の五組の教室に向かう。

 開け放された廊下側の窓から、博子は中を見渡す。

 

「あれー? 確か五組だったはずなんだけど……」

 

 どうやらお目当ての人物が見当たらないようだ。そこへ、窓際の席にいた眼鏡をかけた女子が声をかけてきた。

 

「誰か探してるの?」

「このクラスにクガユースケってのがいるはずなんだけど、知らない?」

「ユースケって、憂鬱の憂に助けるって字?」

「そうそう、その久我憂助」

「あなたの後ろにいるわよ?」

 

 言われた博子が振り向くと、そこに男子生徒が一人立っていた。

 身長は170cmほどだろうか。肩幅のあるガッシリとした体格だ。両手の親指をズボンのポケットに引っ掛けている。

 

「やっほー久我っち」

 

 バチンッ。

 

 博子の挨拶に、少年はデコピンで応じた。

 

「その呼び方はやめれっち言っちょろうが」

「いった~……手加減してよ、もう」

「したやろうが。何か用か?」

「ああ、そうそう。実はちょっとセンセーのお力をお借りしたくて~……立ち話も何だから場所変えよ?」

 

 博子は眼鏡の女子に「ありがとうねー」と言って、少年の背中を押して去っていく。訳のわからぬまま、千紗希と芹も後に続いた。

 校舎裏に移動した博子は、ちょうど体育倉庫があったのでそこに入ろうとする。しかし引き戸には鍵がかけられていた。

 

「こん中やねえと出来ん話か?」

「あんたにする頼み事なんだから、当たり前でしょ」

 

 背中越しに答えながら、博子は何とか開けようと悪戦苦闘する。

 久我憂助は彼女をどかせると、引き戸の鍵の部分に手をかざした。

 二、三秒の間を置いて、カチャリとロックの外れる音がして、引き戸は難なく開かれた。

 

「――!?」

 

 千紗希と芹はそれを見て驚く。博子だけが「おー、さすが!」と感心していた。

 中に入って戸を閉めると、博子は友人二人を紹介した。

 そして、千紗希の身に起こる怪奇現象について述べる。

 

「という訳だから、あんたの必殺の久我流ニンポーで何とかしてやってよ」

「忍法じゃねえよ」

「何でもいいから、お願い! 今度味噌ラーメン奢るから!」

「……」

 

 少年は、拝み倒す博子ではなく千紗希に視線を向けていた。鋭い目付きで、高校生らしからぬ迫力がある。千紗希は思わずたじろぎ、芹はそんな彼女を庇うように前に立った。

 

「お前ん家、どこか」

「……え? あの、ひょっとしてあたしの家に行くの?」

「お前ん家で起きようんやき当たり前やろ」

 

 久我憂助は平然と返す。しかし千紗希にしてみれば、知らない男性を家に招くなどとんでもない事だ。

 

「う、家に来るのはちょっと……あの、その、この場で出来る事って何かないかな? 魔除けのお札とか……」

「ねえよ。生業にしてる訳でもねえのに、そんなん持ち歩く訳ねかろうが」

「け、結界とか……」

「張ろうと思ったらどの道お前ん家行くしかねーぞ?」

「うう……」

「大丈夫よ千紗希。こいつクール気取ってて()()()()とこあるけど、硬派キャラだから」

 

 ためらう千紗希に、博子がそう言う。

 

「私たちも一緒だから怖くないって。ねえ?」

「ああ、そうだな。いざって時はアタシ等が守るから大丈夫だよ」

 

 芹もそう言うので、千紗希も腹を括った。

 

 

 山沿いの住宅街に千紗希の家はある。長い坂道の中ほどにある二階建ての一軒屋がそうだ。

 実を言うと、千紗希は道中でも不安でたまらなかった。何せ男子を招くのは初めての事だからだ。体育倉庫で向けられた、あの突き刺すような眼差しを思い返すと、飢えた猛獣を招き入れるような気持ちにすらなってくる。

 

(やっぱり冬空くんに頼んだ方が良かったのかな……)

 

 同じクラスの男子生徒冬空コガラシの顔を思い出す。

 ホームルームでの自己紹介で自ら霊能力者であると公言し、何かあったら相談に乗るとまで言った少年だ。

 しかし同時に、休み時間に千紗希のスカートをめくった男でもある。それについては、本人はわざとやった訳じゃないと弁解し、謝ってもくれたが、わざとでなかったというのなら本人の意思とは無関係にああいう事が起こるという事なのだから(実際スカートめくりの直後、教室中の机と椅子が浮き上がる珍事が発生した)、正直に言えば一緒にいたくない。

 紹介してくれた博子の顔を立てるためにも我慢しようと、千紗希は自分に言い聞かせる。

 

 ――が、それでも不安なのは不安だった。

 

 千紗希の家が見えてきた辺りで、不意に久我憂助は足を止めた。そして辺りをじろりと見渡す。

 どうしたのだろうかと小首を傾げる三人をよそに、制服の胸ポケットに差していたボールペンを右掌に乗せて、目を閉じる。

 数秒の間を置いて、ボールペンが方位磁石の針のようにクルクルと回転し始めた。そして電柱の方を指してピタリと止まる。

 憂助はその電柱に近付き、調べ始めた。最初は上の方を見ていたが、すぐにその場にしゃがむ。

 千紗希たちがそばに寄ると、壁に面した電柱の根本に赤い鳥居のマークが描かれていた。憂助はそれを、手近な小石でガリガリと削り取る。

 

「それ、消しちゃってもいいの?」

「消さなまずい」

 

 博子の問いに彼はそう答えた。

 

「呪いのマークとかそっち系?」

「少し違うが……こいつが霊の通り道をねじ曲げてやがる。そういう意味では厄介だ」

 

 鳥居のマークを消し終えると、憂助は小石を捨てて立ち上がった。

 

「行くぞ」

 

 そして千紗希の家へと向かう。

 千紗希が玄関の鍵を開けて、一同を中に入れた。

 

「……お前ん家って、こんな暗かったか?」

 

 芹が入るなりつぶやく。

 

「……ちゃんと換気してる?」

 

 これは博子。

 二人がそんな失礼な事を言うのも無理はない。時間的には昼を少し回った頃だというのに、家の中全体が妙に薄暗く、空気も淀んでいた。

 

「変な事が起き始めてから、家の中の雰囲気もこんな感じになっちゃって……」

「邪魔するぜ」

 

 説明する千紗希をどかして、憂助は靴を脱いで廊下に上がり奥に進む。

 廊下を真っ直ぐに行けばリビングに入る。その手前に二階への階段があり、その階段の所で止まった。

 

 スゥー、ハァー……。

 

 深呼吸をして、

 

 パァンッ!

 

 柏手(かしわで)を一つ打つ。瞬間、彼を中心に風のようなものが八方に走った――ように、少女たちは感じた。

 

「……あれ?」

 

 声を上げたのは千紗希だ。

 家の中から、さっきまでの暗さがなくなっている。空気も澄みきったものに変わっていた。

 

「この家に溜まってた邪気を祓った。お前の部屋はどこだ?」

「そ、そこの階段を上がって左手だけど……」

「ん」

 

 短く答えて、憂助は『ここは俺の家だけど何か?』と言わんばかりの足取りで階段を上がる。千紗希たちも慌てて後を追った。

 憂助は部屋のドアの前で立っていた。さすがに勝手に開けて入るつもりはなかったらしい。

 ホッと一安心して、千紗希は自室のドアを開けた。

 整理整頓の行き届いた室内には、いたるところにヌイグルミが並べられていた。

 ベッドの枕元。

 出窓。

 本棚。

 そして勉強机の上にも――。

 

「――!」

 

 千紗希はその机の上の亀のヌイグルミを見て、一歩後ずさった。

 芹が尋ねる。

 

「どした?」

「あ、あたし、あそこには誰も置いてなかったのに……!」

 

 怯える千紗希をよそにズカズカと入室した憂助は、部屋に居並ぶヌイグルミ群を見渡した。

 ヌイグルミはどれも埃一つついていない。日光にさらされて色褪せた風でもない。先ほどこのヌイグルミたちを『何』ではなく『誰』と呼んだように、本当にこれ等を大切にしているのだろうとわかる。

 そのヌイグルミたちに、憂助はスッと手をかざした。

 

「おい、宮崎」

「な、何?」

「ヌイグルミの中に、何か詰めたりしてるか?」

「え? してないよ……何か入ってるとしたら綿くらいだけど」

「そうか」

 

 答えた憂助は、ベッドの上のヌイグルミを一つ掴み上げた。

 眼鏡をかけて首にネクタイが巻かれた、ウサギのヌイグルミだ。その腹部に添えた右手が、ズブッとヌイグルミの中に入っていく。まるで水の中に手を入れたかのように。

 直後、ヌイグルミから抜かれた右手の指に、一枚の木の葉が挟まっていた。

 

「……葉っぱ?」

 

 千紗希は間の抜けた声を上げる。

 

「こいつだけやねえぞ。他のヌイグルミにも入ってる――入れられてる、と言うべきか」

「その葉っぱのせいで、この子たちは動き回ってたの?」

「たぶんな。抜き取るき、ヌイグルミ全部一ヶ所にまとめろ」

「あ、うん」

 

 芹と博子も手伝って、部屋中のヌイグルミがベッドの上に集められた。

 

「これでいいの?」

 

 作業を終えた千紗希が振り返ると、憂助の手には木刀が握られていた。長さ一メートルほどの物だ。彼の荷物は鞄のみだったはず。いったいどこに隠し持っていたのか……。

 

「どけ」

 

 木刀の切っ先を振って、犬でも追い払うみたいに三人をベッドからどかした憂助は、木刀を脇構えに構えた。

 

(え、まさか――!)

 

 あの木刀でヌイグルミたちを薙ぎ払うつもりかと思った千紗希が制止の声を上げようとするが、

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い掛け声と共に、彼女の予想した通りに木刀が横一文字に振り抜かれた。

 しかしベッドの上のヌイグルミたちは、どれ一つとて位置を変えてはいない。

 そして振り抜かれた木刀の刀身には、ヌイグルミと同じ数の木の葉がまとわりついていた。

 

「戻していいぞ」

 

 憂助は木刀の刀身を左手で拭い、木の葉を取る。

 

「こ、これで解決した、の……?」

「半分はな」

「半分?」

「これを仕掛けた奴等をどうにかせんと、また同じ事の繰り返しだ」

「奴等って、犯人は複数いるって事か?」

 

 芹が憂助に問う。

 

「ああ。俺の見立てでは、犯人は二人いる。この葉っぱを仕込んだ奴と、さっきの鳥居を描いて霊道をこの家に誘導した奴だ。葉っぱの方は、今夜辺りにでもまた仕掛けてくるやろ。そこを押さえる」

 

 芹にそう答えると、憂助は千紗希をじろりと見やった。

 

「この家に、空いとう部屋はあるか?」

「お父さんの書斎が今空いてるけど……どうするの?」

「今言ったやろうが。葉っぱ使いが動くのを押さえる。それまでその部屋で待たせてもらうぞ」

「……え゙?」

 

 変な声が出た。

 男子を部屋に呼ぶだけでも不安だったのに、この少年は夜まで居座るつもりらしい。

 助けを求めて博子へ視線を送るが、彼女は憂助を説得するつもりはないらしい。首を横に振るだけだった。

 

「我慢して千紗希。ここまで来たら毒を食らわば皿までってやつよ」

「それを言うなら乗りかかった船、な? あー、まぁ、アタシ等も一緒にいてやっからさ」

 

 芹も博子と同意見のようだ。

 

「実際、こいつのおかげで家の中の空気がガラッと変わったし、さっきの変な手品見ても、どうも本物っぽいしさ……あんただって、どうにかしてほしいんだろ?」

「うう……」

 

 それはそうだ。

 憂助はちょっと怖いが、彼が家の中の暗い雰囲気を消し去ってくれたのは事実。

 手の上でクルクルと回転するボールペンや、ヌイグルミを傷付けずにその中の葉っぱを取り出した技――彼が普通の人間にはない力を持っているのは間違いない。

 それに、母の日和(ひより)は今日は仕事で帰れない。逆に言えば、親に知られずに(つまり心配させずに)解決しようと思ったら、今日をおいて他にはない。

 可愛がっているヌイグルミたちを操っていた葉っぱの使い手に対する憤りもあった。

 

「うん、わかった……久我くん。よろしくお願いします。犯人を捕まえてください」

 

 千紗希はハッキリと口にして頼み、深々と頭を下げた。

 

「任せろ」

 

 葉っぱを握りつぶしながら、憂助は答えた。

 気のせいだろうか。

 その声に、不思議な頼もしさと暖かみを、千紗希は感じた。



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後編

 日が暮れて夜の(とばり)が下り始めた、無人の公園。

 噴水のそばのベンチに、奇妙な風体の人影が二つ。

 ベンチに座っているのは、黒いインバネスコートを着込んだ中年の男。コートと同じ黒の鳥打ち帽も被っている。

 もう一人もコートを着込んでいる。ファー付きのフードを被って口元もマフラーで隠しているので、顔はわからない。体つきもほっそりしていて、男女の判別が付かなかった。

 

「そうか、葉札が全て取り除かれたのか……」

 

 ベンチの男がそう言うと、相手はコクンとうなずいた。

 

「もう一度仕込み直す必要があるんだけど、今夜はみんなずっと家にいるみたい。それにあの男の人、何て言うか……妙に勘が働くみたい。おじさんの仕込みも消しちゃったんだ」

「なぁに、あんな物はただのオマケ。雰囲気を盛り上げるための演出装置にしか過ぎんよ。私に任せなさい。アイツ等を全員家から追い出してあげよう。その間に、葉札を仕込むといい」

「だ、大丈夫かな……他の家に狙いを変えた方が……」

「そんな風にすぐに音を上げて諦めてばかりでは、いつまで経っても上達しないよ? いいから私に任せておきなさい」

「……うん、そうだね。ありがとうおじさん。僕も頑張るよ!」

「その意気だ」

 

 背丈の割りに幼い口調の相手に微笑むと、鳥打ち帽の男は懐からソフトボールほどの大きさの水晶玉を取り出した。

 

「なぁに、どんな霊能力者でも私の敵ではないよ」

 

 水晶玉に手をかざすと、玉の内部で不可思議な紫色の光が灯った……。

 

 

 宮崎千紗希は書斎のドアの前に立った。既に制服から部屋着に着替えており、その上からエプロンも付けている。

 ドアをノックしようとした時、中から久我憂助の声がした。

 

「開いちょうぞ」

 

 その言葉に一瞬驚いたものの、気を取り直してドアを開ける。

 憂助はカーペットの上で座禅を組んでいた。その組まれた足の上に木刀を置いている。よく見ると柄の部分に――恐らくは手彫りで――『獅子王』の文字が彫られていた。

 

「どうした」

「あの、これからお夕飯作るんだけど、久我くん何かアレルギーとかで食べられない物とか、嫌いな物とかある?」

「俺の飯はいらん」

「でも、お昼だって食べてないでしょ?」

「平気だ。一週間断食した事だってある」

「で、でも……」

 

 なおも食い下がり、何かを言おうとする千紗希。自分のために見えない敵と戦ってくれる少年をのけ者にして、自分たちだけで食事をするのがはばかられるのだ。

 しかし久我憂助は、苛立たしげに目を細めた。次いでこめかみを人差し指でポリポリと掻く。

 

「……握り飯を二つ作って持ってこい。具は入れんでいい」

「うん、わかった」

 

 それが彼なりの譲歩なのだと察した千紗希は、コクンとうなずいた。

 久我憂助は見向きもせずに、書斎の真ん中で目を閉じて――また開いた。

 

「来た」

「え?」

 

 何が? と聞こうとした千紗希だが、そう問い掛ける前に答えがわかった。

 

 ズズンッ!

 

 地響きが突如聞こえたかと思うと、家が激しく揺れ出したのだ。

 まるで巨人が家全体を掴んで、上下に揺さぶってるかのような激しさだ。

 バランスを崩した千紗希は、後ろに倒れてしまう。その先には本棚があり、後頭部を強打しそうになるが、その前に久我憂助が彼女の腰に左腕を回して、抱き止めてくれた。

 憂助は木刀を右手で上下逆にして握っている。

 

「イィーー……エヤァッ!」

 

 鋭い掛け声と共に、木刀の切っ先をカーペットに突き立てた瞬間、地震は発生した時と同じように、突如としてピタリと収まった。

 千紗希が室内を見渡すと、立っていられないほどの揺れだったのにも関わらず、棚の中に陳列された本も、机の上のペン立ても、全く動いていない。

 階下から、玄関のドアの開く音と二つの足音が聞こえた。恐らく芹と博子が逃げ出したのだろう。つまり、今の揺れは実際に起きた事のはず……。

 困惑する千紗希を残して、憂助は書斎を飛び出した。

 行く先はすぐそばの千紗希の部屋。

 乱暴にドアを開けると、閉めていた窓が開かれて、フードとマフラーで顔を隠したコート姿の人物がそこにいた。

 右手には木の葉を、左手には千紗希が『ナゴさん』と呼んでいるニシキアナゴのヌイグルミを持っている。

 そしてそいつは、突然の闖入者に驚き、立ち竦んでいた。

 

「イヤァッ!」

 

 気合い一閃、憂助の木刀が唸り、相手の肩口を鋭く打った!

 直後、侵入者は声も立てずにその場に昏倒した。

 

「く、久我くん……?」

 

 後からやって来た千紗希が、ドアから部屋の中を覗き込む。

 

「まずは、一匹」

 

 憂助は木刀の切っ先で相手のフードをめくり、マフラーを下ろす。

 現れた顔は――狸だった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 公園のベンチには、インバネスコートと鳥打ち帽の男が未だに座っていた。

 足下に、水晶玉が転がっている。

 

「“天狗揺すり”が破られるとは……何者だ、あの小僧……」

 

 呻きながら水晶玉を拾い上げた。

 突然の揺れに対して憂助が木刀で書斎の床を打った瞬間、男の手に衝撃が走り、玉を落としてしまったのである。

 

「あのチビ狸も捕まった……口を封じねばビジネスに影響が出る」

 

 男は再び水晶玉に手をかざした。

 透明な内部に、怪しい光が灯る。光が強まっていくと、男の足下に陽炎のような()()が発生した。その中から黒い煙が立ち上ぼり、四つ足の獣を形作っていく。

 

「ターゲットはこの家だ」

 

 煙に向かって男が水晶玉を差し出すと、内部に宮崎家が映し出された。

 

「今家の中にいる者を――この娘以外は皆殺しにしろ」

 

 次いで、千紗希の顔が水晶玉に映る。

 獣の形をした黒煙は、爛々と輝く真っ赤な両目でそれをじっと見ていた。

 

 

 宮崎家のリビングに、一同は集まっていた。

 四人の目線は、ソファに座る一人の幼い女の子に集中している。

 丈の短い半袖の着物を着た、見た目は十歳かそこらの女の子だ。しかし頭には狸の耳が、尻からは狸の尻尾が生えている。

 彼女の名前は信楽(しがらき)こゆず。見た目の通り、人間ではなく化け狸という妖怪だった。

 化け狸は五歳を過ぎると自然と人間に近い姿になる。

 その後、木の葉を使った妖術『葉札術』を学び、十歳になると人間に化けて一人で生きていかなくてはならないのだ。

 

「十歳って、まだ子供なのに……」

 

 こゆずからの説明を聞いて、千紗希は驚いた。

 

「畜生なら充分大人だ」

 

 しかし久我憂助はそう否定した。

 

「で? 何故(なし)こいつを狙ったんか」

 

 木刀を突きつけると、こゆずは震え上がった。

 

「そ、それは……僕、変化の術が苦手で、どうしても大人の姿に上手く化けられないんです! でも本来の姿だと子供扱いされちゃって……!」

「どう見ても小学生くらいやしの。で?」

「何とか変化の術を上達させないとって思ってた時、千紗希ちゃんを見掛けて、ヌイグルミに葉札を仕込んで千紗希ちゃんの事を研究してたんです……僕、どうせなら千紗希ちゃんみたいな可愛い子に化けたいし、それに 」

「誰かに言われたんやろ、あの家の(もん)を狙えっち」

「…………」

 

 不意にこゆずは口をつぐんだ。しかしその沈黙こそ、何よりも雄弁な答えだった。

 

「霊道を操作してこの家に誘導させて、さっきもおかしな地震を起こしてたな。そいつは誰だ。どこにいる」

 

 こゆずは答えない。下を向いて、ぐっと唇を引き結ぶ。

 

「いいか」

 

 憂助は木刀でこゆずの額を小突いて、顔を無理矢理上げさせた。

 

「俺はこいつの事は何も知らん。こいつも俺の事は何も知らん。お互いの音楽の好みすらわからん、赤の他人やった。今日会ったばかりやきの――逆に言えば、その赤の他人にすがるほど怖い思いして、追い詰められとったっち事ぞ。お前らが、そこまでこいつを追い詰めた、何の罪もない人間をの」

「……!」

 

 こゆずは千紗希の方を見た。

 そして、すぐに目線をそらす。

 

「お前は宮崎に恨みがある訳やねかろうが。悪いと思ってるなら、全部吐け」

「――い、いやだ! だっておじさんは、僕が妖怪だってわかっても優しくしてくれたんだ! 変化の術もきっと上手くなれるって言ってくれたんだ! この家の人たちなら、失敗してもひどい目に遭わせたりはしないだろうから大丈夫だよって言って教えてくれたし……あ」

 

 こゆずは途中で、自分が半ば自白している事に気付き、口を手で塞いだ。

 

「つまりそのおじさんってのは、人間の男って訳だな」

「し、知らないもん!」

「言いたくねえなら言わんでいい……向こうから来たみたいやしの」

 

 憂助はサッシから、夜闇に包まれた庭を見る。

 他の者も釣られて振り向くと、闇の中に二つの赤い光が灯っていた。

 

「そのチビ連れて上に行っとけ」

 

 千紗希たちに命じて、憂助が立ち上がった。

 赤い光はサッシのすぐ前にいた。部屋からの明かりで姿もわかりそうなものだが、四本足の獣らしいという事以外、まるでわからなかった。

 そしてソイツが前足をサッシに掛けると、隙間から黒い煙が室内に入ってきた――否、ソイツの前足が煙に変じて侵入してきたのだ!

 

「さっさと行け!」

 

 立ち竦む三人に、憂助は煩わしげに怒鳴り付けた。

 千紗希がこゆずを抱き上げ、芹がリビングのドアを開ける。

 ――開かれたドアのノブに、黒い煙が巻き付いた。それは人間の手を形作って、しっかりとノブを握り、驚く芹の目の前で彼女を嘲笑うようにドアを閉めた。

 煙はサッシから、触手のように伸びていた。

 

「エヤァッ!」

 

 憂助が木刀を打ち付けると、煙の腕はスパッと切断される。

 そしてまた元の煙に戻り、サッシの隙間から侵入を果たしつつある本体に取り込まれた。

 

「化け物が!」

 

 憂助はその本体の頭目掛けて木刀を振り下ろす。しかし敵は体を煙に変え、四方八方に散ってかわした。

 散り散りになった煙は、芹と博子に襲い掛かる。

 二人は煙が変じた縄に首を絞められ、そのまま宙に釣り上げられた。じたばたと足をばたつかせるが、それは文字通りの無駄な足掻きでしかない。縄を外そうにも、それは確かに自分たちの首に巻き付いているのに、手は煙の中に突っ込んでいるかのように、何の手応えもないのだ。

 そして千紗希にも……否、彼女が抱き抱えているこゆずにも、怪物の魔の手が伸びようとしていた。

 煙の塊が狼の頭部を形作り、牙を剥く。

 千紗希はこゆずを庇うように、その場にうずくまった。

 憂助は木刀を脇構えにして、目を閉じた。

 精神を集中させて、体内の力の流れを意識する。

 

「久我流念法、太刀風!」

 

 木刀を真横に振り抜いた瞬間、凄まじい風がリビングの中を縦横無尽に吹き荒れた!

 不可思議な烈風が少女たちを襲う煙を吹き飛ばす。

 煙は天井の隅に集まっていく。そこにいち早くあの赤い光が移動しているのを、憂助は見ていた。

 

「久我流念法、流れ星!」

 

 直感による行動だった。

 槍投げの要領で投擲した木刀は真っ直ぐに飛翔して、その二つの光点の真ん中を貫く!

 

「ぎぃやぁぁあああああっ!」

 

 おぞましい絶叫が響き渡った。

 そして同時に、あの黒い煙も赤い光も消えた。

 カラン、と木刀がフローリングの床の上に落ちた。憂助はそれを拾い上げ、見えない汚れを落とすかのように、左手で刀身を拭った。

 

「や、やっつけたの? 久我っち」

 

 博子の問いに憂助は答えない。その代わり、彼女の頭を木刀でコツンと軽く叩いた。

 

「その呼び方はやめれっち言いよろうが」

 

 

「襲煙鬼が、やられた……!?」

 

 公園のベンチで、男は信じられないと言いたげに呻いた。

 水晶玉には、彼が今しがた『襲煙鬼』と呼んだ怪物の見ている風景が映し出されていた。天井から見下ろす形で。

 その映像が途切れたのだ。

 

「何なんだ、あのガキは……うん?」

 

 パタパタと近付く足音に、男は水晶玉から顔を上げた。

 駆け寄ってきたのは、こゆずだった。

 

「おじさん!」

「……こゆずちゃん。上手く逃げ出せたようだね、良かった良かった」

 

 男は優しく声を掛けるが、こゆずは彼を険しい目付きで睨むだけだった。

 

「おじさん、どうして僕を殺そうとしたの? 僕たち、友達なんじゃなかったの?」

「何を言ってるんだい。()()は君を助けるために送り込んだ使い魔だよ」

「嘘だ! あの煙の怪物、僕を殺そうとしてた! 僕が捕まったから、邪魔になったんだろ!」

 

 ――チッ

 

 舌打ちの音が響いた。

 

「そこまでわかったのなら、何故ノコノコと私の所に戻って来たんだ? まさか、一言文句でも言わなきゃ気がすまないとでも言うのか? 出来損ないの化け物が」

「…………!」

「どうせ殺処分する予定だったからな。遅いか早いかの違いでしかなかったんだよ」

「どういう、事?」

「あの家の娘を怪奇現象で怖がらせて、追い詰めて、私がその怪奇現象を解決する。そうすればあの親子は感激して、私の望むままに金を貢いでくれるだろう。その怪奇現象の原因を、君に全ておっ被せて始末するつもりだったんだよ。一から十まで自分で仕込むと、思わぬところでボロが出るからね」

「そ、そんな……嘘だ! だって、だっておじさんは……お、おじ、おじさん……!」

 

 そこから先は、言葉にならなかった。

 こゆずのクリッとした大きな目から、涙がポロポロとこぼれ落ちていた。

 

「これでハッキリしたな」

 

 夜闇の向こうから、別の声がした。

 外灯の明かりの下に姿を現したのは、久我憂助。右手に木刀を手にしている。

 その背後に、千紗希たち三人の姿もあった。

 千紗希が飛び出し、こゆずを抱き上げる。

 

「これはこれは……逃げ出したのではなく、奴を道案内していたという事か。ふん、貴様だって結局、俺を裏切ってるじゃあないか」

「言っておくが」

 

 こゆずの代わりに憂助が答えた。

 

「裏切ってなんかいない。そいつは()()()()()()()()()()()()()()()、お前を信じて庇ってたんだ。俺が勝手に後を着けただけだ」

「こんな小さな子を騙して利用して、殺そうとまでするなんて……最低よ!」

 

 千紗希はキッと男を睨み付ける。

 しかし男は、ただクックッと笑うだけだった。

 

「やれやれ、これでは金を搾り取る事は出来そうにないな……だがまぁ、鴨はそこら中にいる。私の力なら、信者などいくらでも増やせる。だがその前に、お前等には消えてもらわんとな」

 

 水晶玉が光り始めた。

 その輝きが強まるに連れて、噴水の水面がざわつき始めた。

 水が溢れ出し、公園の広場を水浸しにした。

 その、水深数ミリあるかないかの水面に、映画で見た事のある物体がニョキッと生えてきた。

 鮫の背鰭だ。

 

「喰い殺せ、襲鮫鬼(しゅうこうき)!」

 

 鮫の背鰭が、男の命令に従って水面を滑るように動き始めた。

 そしてこゆずを抱いた千紗希に狙いを定める。

 突如水面から、水柱を上げて鮫が姿を現した。体長四メートルはある。普通の鮫と違うのは、水深がほんの数ミリしかない水の中を泳ぐ事と、左右に四つずつ目がある事だった。

 大きく開かれた口には、鋭い牙が三列も並んでいる。

 千紗希はこゆずを強く抱き締めた。

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い気迫と共に、その鮫が真横に吹っ飛んだ。

 憂助の木刀の一撃が、千紗希とこゆずを救ったのだ。

 憂助はこゆずを抱いたままの千紗希を小脇に抱えて跳躍した。

 そして、離れた所にあるベンチの上に着地した。

 

「ここにいて、じっとしてろ」

 

 言い残して、自分は水の膜が張られた地面の上に降り立つ。

 鮫は水中に巨体を潜らせ、姿を隠していた。

 だが、薄い水面は未だ波立ち、魔物が隙をうかがっているのだとわかる。

 

「ちょっと久我っちー! 早くやっつけてよー!」

 

 外灯をよじ登って避難した博子が叫ぶ。その下に芹もいた。

 憂助は答えず、見向きもせず、木刀の切っ先を足下の水に浸ける。

 

「久我流念法、昇り龍!」

 

 振り上げられた木刀にいざなわれるように、広場を覆う水が吸い上げられて、憂助を中心とした竜巻となった!

 

「イィーーエヤァッ!」

 

 水竜巻の中で、憂助の声が響く。そして、真っ二つに斬り割られた鮫の巨体が、水竜巻の中から弾き出された。地面に落ちた死体はその場でドロドロに溶けて、骨も残さず消滅する。

 水竜巻はそのまま、まるで龍のように身をくねらせて噴水の中に戻っていった。

 地面は、まったく濡れていない。乾いたままだ。

 

「ば、馬鹿な……!」

「おい」

 

 狼狽する男に、いつの間にか背後に接近していた憂助が声を掛ける。

 男が反射的に振り向いた瞬間、木刀が翻り水晶玉を打ち砕いた。

 

「ひいいいっ!」

 

 情けない声を上げ、男は逃げ出そうとする。だが遅かった。

 

「天誅!」

 

 憂助の両手打ちが稲妻の如く額に炸裂する。

 顔に赤い筋を垂らしながら、男は昏倒した。

 

「お見事」

 

 太い声があった。

 振り向いた憂助の前に、頭巾を被り錫杖を手にした僧侶が四人立っていた。今の賛辞は、先頭の男が発したようだ。その男が頭巾を下ろし、顔を見せた。鷲鼻で眉の太い、厳つい顔つきだった。

 

「拙僧は救沌衆(ぐどんしゅう)降魔僧の一人、赤蓮(しゃくれん)と申しまする」

「私は蒼印(そういん)

黄徹(こうてつ)と申します」

「私は黒栴(こくせん)でございます」

 

 続いて他の三人の僧侶も自己紹介をした。

 その後赤蓮が錫杖で倒れている男を指し示す。

 

「そして、たった今あなた様が打ち倒したそれなる不埒者が白朗(はくろう)……恥を忍んで打ち明けますれば、我等救沌衆の一員だった男にございます」

()()()っちゃあ、どういう事か」

「我等は厳しい修行によって授かりし法力で、悪霊に悩まされる人々を救い、その悪霊もまた成仏させる事で罪の穢れから救う事を目的としております。その者は優れた降魔僧でしたが、己の力を鼻に掛け傲慢な振舞いをするようになり、無償で救うべき民草より金品を受け取るようにまでなったため破門された身。しかしそれを恨みに思った白朗はあろう事か、救沌衆の宝物の一つであった霊光玉を盗み、逐電(ちくでん)したのです」

 

 憂助の背中に、嫌な汗がじっとりと浮かんだ。

 

「そのレーコーギョクっちゃあ……」

「あなた様がたった今打ち砕いた水晶玉にござる。されどご安心を。我等一同、その事を責めるつもりはありませぬし、そのような資格もございませぬ。本来、白朗の悪行は我等が正すべき事でござった。それを押し付ける結果になってしまい、申し訳なく思っております」

 

 赤蓮はクルリと千紗希の方を向いた。

 彼がその場に正座すると、他の三人の僧侶もそれにならう。

 

「救沌衆の一員として、あなた方にも深くお詫びを申し上げます」

 

 そして、一斉に土下座をした。

 話についていけず困惑する千紗希たちをよそに、僧侶たちは立ち上がり、倒れたままの男を縄で縛り上げた。

 

「そいつ、どうすんだ」

「我等はあくまでも、この者を捕らえるのが役目。処分については総本山が決める事です……しかし、二度と下界に戻る事はありますまい」

「言うたの? 今度そいつの面ぁ見掛けたら、たとえ改心してボランティアのゴミ拾いやってる最中でも、こいつをくらわすきのぉ」

 

 憂助は木刀を軽く掲げて言った。

 

「ご随意に。では、これにて……それと、よろしければご尊名をお聞かせ願いたい」

「名乗るほどのもんやねぇが、まぁ、隠すほどのもんでもねえか……久我憂助。憂鬱の憂に助けるって字だ」

「良き御名前ですな」

「おう、おだてても木には登らんぞ」

 

 赤蓮は、ただ微笑むだけだった。厳つい顔に似合わぬ、優しい笑みだった。

 

 

 翌日。

 湯煙高校の正門を憂助がくぐると、前方に千紗希が立っていた。

 

「おはよう、久我くん」

「おう」

「こゆずちゃんはどうしてる?」

「家で留守番。しばらくは番犬代わりに置いとくが、親父の知り合いにそっち方面で理解のある連中がおるき、その内そいつ等に預ける事になるかもな」

「そっかぁ……今度、遊びに行ってもいいかな?」

「やめとけ、俺ん家は山ん中やき、帰れんごとなっても知らんぞ。都合のいい日にこっちから行かせる」

「そう? ありがとう……あぁ、それと、これ」

 

 千紗希が鞄から取り出したのは、袋に入ったクッキーだった。

 

「昨日のお礼に焼いてきたの。良かったら食べて?」

「……ん」

 

 憂助はちょっと困ったような顔で受け取った。

 二人は並んで、校舎に向かう。

 

「でも昨日は驚いたよね。あのお坊さんたち、何か凄い迫力だったもの」

「ああ、面に似合わず見え透いたお世辞言いやがって……何がいい名前だ」

「そうかな、あたしもいい名前だと思うよ?」

「どこがだ。憂助の憂は憂鬱の憂やぞ? 生まれた時、よっぽど辛気臭い顔しとったんやろ」

「でも憂鬱の憂は『憂い』とも読むでしょ? 『憂い』は哀しみって意味で、『憂える』と書けば『心配する』って意味になるの。つまり、『哀しんでいる人を助ける』とか、『人を心配して助ける』とか、そんな意味の名前になるから、やっぱり素敵な名前だと思うよ?」

「……ほぉー、そらいい事聞いた。試験に出るかも知れんき覚えとくわ……ありがとよ」

「どういたしまして」

 

 千紗希はそう言って微笑んだ。憂助の頬に、かすかな赤みが差してるのを見たからだ。

 名前を誉められて照れているのだろう。

 

(案外、可愛いところがあるんだ……)

 

 そう思うと、昨日の怖いイメージが和らいだ。

 校舎の正面玄関で、博子と芹が彼女に呼び掛ける。

 

「じゃあね、久我くん。昨日は本当にありがとう」

 

 手を振って、千紗希は友人たちの方へ小走りに駆け出した。

 久我憂助は、その背中を無言で見送った。

 



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幽奈さん救出作戦
ゆらぎ荘へようこそ


 昼休みももうすぐ終わろうという頃になって、三浦博子はようやくトイレから戻ってきた。

 

「ただいまー」

「おかえりー」

「遅かったな」

 

 芹が粗野な口調で尋ねる。

 

「さっきそこで久我っちに捕まっちゃってさー。ハイ、これ」

 

 博子は一枚の紙切れを千紗希に渡した。

 見れば紙には、簡単な地図が描かれている。その下に、住所と電話番号も書かれていた。

 

「何これ?」

「この前のこゆずちゃんの新しい下宿先。学校からのルートだって」

「おー、あのチビ狸か。にしても自分で持ってくりゃいいのに」

「アタシもそう言ったんだけどー、『いきなり知らない男がやって来て手紙渡して、変な噂になったら迷惑するだろ、考えろバカ』だってさ」

「いや、『考えろバカ』までは言わなくていいよ……でも意外と気が利くんだな。乱暴者なイメージだったけど」

「てゆーか乱暴者だし?」

 

 博子と芹の会話をよそに、千紗希は紙に描かれた地図をじっと見ていた。

 

「……?」

 

 そして不意に首を傾げる。

 

「どした、千紗希」

「下宿先の名前なんだけど……」

 

 芹に訊かれて、千紗希は紙の下の方に書かれた住所の部分を指差した。恐らく下宿先の名前だろう。『ゆらぎ荘』と書かれてある。

 

「ゆらぎ荘って、とっくの昔につぶれたんじゃなかったっけ……」

「――てゆーか、あそこは温泉旅館じゃん」

「ああ、でもずっと前に下宿に商売変えしたんだよ」

 

 そう答えたのは、男子生徒だった。

 長い黒髪を無造作に後ろで束ね、やけにくたびれた制服の袖や裾をまくっている。

 首には勾玉の首飾りを下げていた。

 彼が話し掛けてきた途端に、女子たちは身構える。

 この男子こそは、入学したその日に千紗希のスカートをめくった自称霊能力者『冬空コガラシ』だった。

 

「お、おい、そんな身構えなくても……」

「うるせぇ、この淫獣(セクシャルビースト)! あっち行けバカ!」

「誰もあんたなんかに聞いてないんだから、口出さないでよ!」

 

 友達が被害に遭ったせいか、芹と博子は敵対心を隠そうともしない。

 

「わ、悪かったよ……俺、そのゆらぎ荘に下宿してるもんだからさ」

「だから聞いてないって言ってるでしょ。シッシッ」

 

 野良犬か何かのように追い払われて、コガラシはすごすごと自分の席に戻る。近くの席の男子たちが気さくに声を掛けて、彼を慰めてやった。

 

「で、どーするよ千紗希」

「うん、学校が終わったら、ちょっと顔だけでも見に行きたいな……」

「行こう行こう! アタシもあの子の耳とか尻尾とかモフりたいし!」

「でもなぁ……冬空と鉢合わせる可能性も……」

「うっ……」

 

 芹の言葉に、二人は心底嫌そうな顔をした。

 が、不意に博子がポンと手を叩く。

 

「そうだ。久我っち、呼ぼう!」

 

 

「断る」

 

 放課後、教室にやって来た博子からの要請を、久我憂助はきっぱりと拒否した。

 

「地図がわかりにくいっつーならともかく、そげな理由でいちいちついて行く訳ねかろうが」

「そんな事言わずにお願い! だってそいつ、入学したその日に千紗希のスカートめくるセクハラモンスターなんだよ? 鉢合わせたらって思うと怖いっしょ?」

「……」

「それにそいつの自称霊能力者ってとこ、どうも自称じゃないっぽいのよねー……男子に聞いたんだけどさ、この前冬空の化けの皮剥いでやろうと思って心霊スポットに連れてったんだって。そしたらホントにお化けが出てきたんだけど、冬空の奴、そのお化けをワンパンでやっつけちゃったらしいの。そんなのに襲われたら、対抗出来るのはセンセーの久我流ニンポーしかないでしょ?」

「忍法やねえっち言いよろうが……」

「何でもいーからお願い! 千紗希だって怖がってるしさぁー、ボディーガード引き受けてくれたら、千紗希に頼んで何か美味しい物作らせてあげるから」

「報酬まで他力本願か……まぁ、そういう事ならしゃあねえの」

「ありがと~! さすが久我っち! 男の中の男! 日本一!」

 

 ――という訳で、憂助は三人をゆらぎ荘まで案内する事になった。

 

 

 山中にある、ともすれば寺社か小さな城と見紛うほど立派な造りの建物。それが元温泉旅館、現下宿施設の『ゆらぎ荘』だ。

 信楽こゆずはそのゆらぎ荘の玄関前を、身長に比してやや大きな(ほうき)で掃除していた。

 だが、宿に近付く四つの人影に気付いて手が止まる。

 先頭を歩く少年の顔を見て、こゆずはパッと笑顔を咲かせて、パタパタと駆け寄った。

 

「憂助くん、いらっしゃい! 今日はどうしたの?」

「俺はただの道案内だ」

 

 憂助はこゆずの頭をポンポン叩いて答え、後ろの三人を顎で指し示した。

 

「こんにちは、こゆずちゃん」

「やっほー」

「元気してたか?」

「千紗希ちゃん! 博子ちゃんに芹ちゃんも? 遊びに来てくれたの?」

「うん。久我くんが、今はここに住んでるって教えてくれたの」

 

 千紗希は前屈みになって、こゆずと目線の高さを合わせて答えた。

 

「そうなんだ、嬉しい……ボク、まだここの掃除があるから、先にお部屋で待っててくれる?」

「うん、わかった」

「じゃあ憂助くん、案内してくれる?」

「……ああ」

 

 憂助はあらぬ方向を見つめて、答えた。

 視線の先にあるのは、旅館を囲む森の左翼に当たる部分だ。そこに鋭い目線を注いでいた。

 

「どしたの久我っち。お化けでもいた?」

「……と、思ったが、気のせいだった。行くぞ」

 

 博子にそう言って、憂助は玄関の引き戸をガラガラと音を立てて開け、中に入っていく。

 

「スゲー音……立て付け悪いんじゃねえのか?」

「いいんだよ、これで。この音で戸が開け閉めされて、誰かが通ったのがわかるからな」

 

 憂助は背後に続く芹の疑問に、振り向きもせず説明する。

 

「昔の人の知恵ってやつだよね~」

「そんな昔やねえ。俺等のひい祖父さんくらいの話だ」

「やっぱ昔じゃねーか」

「久我くん、こゆずちゃんのお部屋知ってるの?」

「昨日部屋まで連れてったきの」

 

 ああ、それで……と千紗希たちが納得するほど、憂助の足取りには迷いがなかった。

 

 

 憂助が鋭い眼差しで睨んでいた森の中。

 その木の枝に、一人の少女が隠れていた。湯煙高校の制服に身を包み、手裏剣を模した髪留めで黒髪をワンサイドポニーにまとめた彼女は雨野(あめの)狭霧(さぎり)。ゆらぎ荘の住人である。

 同じ学校の制服を着た見知らぬ男が、憩いの住まいたるゆらぎ荘に近付いて来たので、クナイを投げて威嚇と警告をしようとしたのだが、そうする前に、十メートルは離れている彼と()()()()()()

 

 妖怪退治を生業とする誅魔忍軍(ちゅうまにんぐん)に所属し、幼い頃から忍者としての修行を積んできた狭霧の隠行術(おんぎょうじゅつ)が、見破られたのだ。

 その瞬間、狭霧は身がすくみ、動けなくなった。

 金縛りは、こゆずの知り合いらしいその男が三人の女子を連れて宿に入るまで解けなかった。

 

(何者だ、あの男……!)

 

 狭霧の胸中には、久我憂助に対する警戒心と、自分の位置を知られた屈辱とがないまぜになり、炎のように燃え上がった……。

 

 

 和風の部屋に、小さな机が設えられている。

 その机の上には色鉛筆、そして花の絵が描かれた薄くて小さな冊子が何冊か置かれている。冊子は塗り絵の本だ。一つのページに、手本と自分で塗る分とが並んで載ってある。表紙には『大人の塗り絵』と書いてあった。

 

「へぇー、これこゆずが塗ったのか?」

「うん、憂助くんが本と色鉛筆を分けてくれたんだ」

「――久我っち、大人の塗り絵やるんだ」

「悪いか」

 

 部屋の隅で壁にもたれて座る憂助が、こゆずを膝に抱いている博子をジロリと睨んだ。

 

「他にも、こんなのもくれたんだよ」

 

 膝から下りたこゆずが、窓際に置いてある収納ケースから取り出したのは、一本の竹笛だった。

 それを横に咥えて、恐らくは即興の、小刻みな音を中心とした明るい曲を吹いた。

 

「こゆずちゃん、すごーい! とっても上手!」

 

 千紗希が拍手して褒め称えると、こゆずは得意満面となった。

 反面、憂助は居心地が悪そうだ。まるで何かを恐れているような、この場から逃げ出したそうな、そんな顔になっていた。

 

「これは憂助くんが作ってくれたの。吹き方も教えてくれたんだよ」

「――えっ?」

 

 博子、芹、千紗希の三人は、異口同音に驚いた。

 部屋の隅に座る少年と、横笛という楽器が、甚だしいイメージの不一致を引き起こしているのだ。この少年が笛をたしなむ場面が、まったく想像出来なかった。

 

「おい」

「あれ? 言っちゃダメなの?」

 

 こゆずは小首を傾げた。

 

「でもそれならちゃんと言ってよ。内緒にしてくれとか全然言わなかったじゃないか」

「……にしたって、普通そげペラペラ喋らんやろうが」

「でももう言っちゃったし」

「そうそう。観念しなさいよ久我っち」

「いいじゃねえか、あたし等はマジで言いふらしたりしねえから」

 

 博子と芹がこゆずの味方をする。

 更に千紗希が、特大級の爆弾を投げ込んだ。

 

「せっかくだから、久我くんの笛も聞いてみたいなぁ」

「…………ッッ!!」

 

 途端に憂助は歯を剥いて動揺をあらわにする。

 博子と芹が、やや遅れてこゆずも、「アンコール、アンコール!」と手を叩いて急かす。

 観念した憂助は、鞄から細い布袋を取り出した。その中から横笛を取り出した彼は、大きく深呼吸すると、目を閉じて演奏を始めた。

 曲目は『朧月夜(おぼろづきよ)』。なめらかに音が奏でられ、しんみりとした空気が部屋の中を満たしていくかのようだった。

 からかい半分にリクエストした博子と芹も、思わず黙って聞き入ってしまう。

 

「ね? 憂助くんとっても上手でしょ?」

「うん、さすがこゆずちゃんの先生だね」

 

 いつの間にか膝の上に座っているこゆずの頭を撫でながら、千紗希は感心した。

 更にせがまれて、三曲ほど披露した憂助は、突然立ち上がった。

 

「そろそろ帰るぞ。山ん中は暗くなるのが早いきの」

 

 それで三人も、こゆずに別れの挨拶をして帰る事にした。

 みんなで部屋を出て、玄関に移動する。

 そこへ、冬空コガラシが帰ってきて、鉢合わせた。

 

「あれ? お前等、来てたのか?」

「お前に用があったんじゃねえよ、セクハラ魔王」

「エロ始皇帝のくせに話しかけないでよね」

「……すまん」

 

 芹と博子からの散々な言われように、コガラシはガックリとへこんだ。

 憂助は、そんな彼の背後の何もない空間をじっと見つめる。そして尋ねた。

 

()()()、憑いてるのか? それとも憑けてるのか?」

 

 その問いに、コガラシは伏せていた顔を上げる。

 

「見えるのか? あー、まぁ、両方ともかな……でも、悪い奴じゃねえから、安心してくれ」

「……らしいの」

「――――?」

 

 要領を得ない会話に、女子三人は揃って首を傾げた。

 

 玄関を出た四人に、こゆずは改めて、遊びに来てくれた礼を言った。

 

「またいつでも遊びに来てね」

「うん、また今度、絶対来るからね」

「元気でなー」

「またモフらせてねー」

 

 三人がそれぞれ、こゆずと挨拶を交わす。

 

「憂助くんも、遊びに来てね?」

「……気が向いたらな」

 

 憂助はこゆずの頭に手を乗せる。

 

「悪さしよったら、ハラワタくりぬいて飯詰めて炊き上げっぞ」

「ハァーイ」

 

 物凄い脅し文句にも関わらず、こゆずはのんびりした返事をする。

 憂助を怖がってる様子は、まったくない。

 

(……いいお兄ちゃんだったみたいね)

 

 憂助の家に預けられていた間の様子がうかがえて、千紗希はなんだか暖かな気持ちになれた。

 

 

 ゆらぎ荘を出て、街へと続く山道を歩く途中、博子が思いきって尋ねた。

 

「ねえ久我っち。さっきの冬空との会話、どーいう意味?」

「あいつの後ろに女の子がおった。旅館の浴衣着た、髪の長い子だ。歳は、俺等とよう変わらんごとある」

「マジか」

「……ひょっとして、あたしのスカートをめくったのって」

 

 千紗希が入学式の日の事をふと思い出した。

 コガラシが言った「わざとじゃない」というのは、その女の子の幽霊とやらに取り憑かれたからで、彼の意思ではなかったという事ではないか……と、思い至る。

 

「その場におった訳やねえきわからんが、あの幽霊が関係しちょうかもな――うっとうしい……」

 

 不意に呟いた憂助は、足下の小石を拾い上げると、道沿いの森の木の枝に投げ込んだ。

 途端に枝がガサガサと音を立て、そしてその音はどんどん遠ざかっていく。

 

「な、なに?」

「気にすんな。猿だ」

 

 博子に言い捨てて、憂助はまた歩き出す。

 

 

 ――翌日、雨野狭霧は額に絆創膏を貼って登校した。

 理由を尋ねるクラスメートたちに、彼女はただ「冷蔵庫の角でぶつけた」と答えるのみだった……。



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義を見て為さざるは勇なきなり

 街から外れて、山中を道なりに進んでいくと、中腹の辺りで脇道が見えてくる。舗装されてはいないが、車二台が並んで通れるくらいの広い道だ。

 その脇道を抜けた先にある古ぼけた一軒家が、久我憂助の自宅である。

 

 時刻は夜の七時になろうかという頃。

 紺色の作務衣姿の憂助が、台所で餃子を作っていた。フライパンの上で湯気を立てる九つの餃子を、五つと四つに分けて皿に移し、居間のちゃぶ台に運ぶ。

 そこには、二人分の箸や湯飲み、そして大根の煮物が既に並んでいた。

 餃子が五つ入ってる方の皿をちゃっかり自分の席に置きながら、憂助は居間の中を見渡した。

 さっきまで、ここで父の京一郎がテレビを見ていたはずなのだ。しかし、彼の姿は見当たらない。

 台所と居間の間を通る廊下に出て気配を探ると、左手にある玄関の方から、父の気配を感じた。

 ガラガラと引き戸を開けて外に出ると、案の定そこに、深草色の作務衣を着た父が立っていた。

 

「親父、メシ出来たぞ」

「んー」

 

 京一郎はのんびりした声で、わかってるのかわかってないのか曖昧な返事をした。

 しかしその眼差しは、夜の暗がりにじっと注がれている。

 ――すぐに、足音が響いてきた。こゆずが息を切らして駆けてくる。

 

「こゆず……?」

 

 突然の小さな来客に驚きながらも、憂助は父よりも前に出て彼女を出迎えた。

 

「おいチビ、どうした」

「ゆ、憂助くん……おじさん……う、うわああああんっ!」

 

 こゆずは父子の顔を見るなり、堰を切ったように泣き出した……。

 

 

 こゆずは居間に通されてからもしばらくの間泣きじゃくり、落ち着いてから、事情を説明した。

 それによると、彼女はゆらぎ荘の住人の幽奈という女性に付き添ってもらい、おつかいをしていたらしい。

 その帰り道、着物姿の二人組が突然現れた。一人は左目に眼帯を付けた短髪の女。もう一人は浅黒い肌をした長髪の男。

 そして、その男の方が、幽奈を見るなり「嫁になれ」と迫り、ついには彼女の抵抗も無視して強引に連れ去ったとの事だった。

 

「僕、何とか助けようとしたんたけど、女の人に葉札を切り裂かれちゃって……それで幽奈ちゃんが、おとなしくついていくから僕に手を出さないでって言って、それで、そのまま……うわああああんっ!」

 

 その時の事を思い出して、こゆずはまた泣き出した。

 京一郎は優しくその頭を撫でてやる。

 

「よしよし、もう泣かんでいい。大変やったね。もう大丈夫やきね。憂助お兄ちゃんが助けに行ってくれるきね」

「ゆ、憂助くん、ホント?」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、こゆずは尋ねる――が、ちゃぶ台の向こうに座ってたはずの憂助が、いない。

 

「さっさと案内せえ」

 

 憂助は廊下にいた。

 作務衣から、トレーナーとジーパン姿に着替えていた。

 

 

 ゆらぎ荘の前に、冬空コガラシと雨野狭霧がいた。こゆずから事情を聴いた二人は、幽奈救出のために、彼女が連れ去られた龍雅湖へ向かう準備をしていたのだ。

 なにぶん、龍雅湖は長野にある。そこまでの交通費を用意するだけでなく、バス、電車等の時刻表も必要だ。

 何より、当のこゆずが説明した後「助けを呼んでくる」と言って飛び出して行ったので、とりあえずゆらぎ荘で彼女を待っているのである。

 そんな二人の耳に、自転車の走行音が聞こえてきた――かと思えば、バイクと見紛うスピードで一台のマウンテンバイクがやって来る。それには憂助とこゆずが乗っていた。

 

「コガラシくん、狭霧ちゃん! 助っ人連れてきたよ!」

「あれ? お前、確かこの前……」

 

 コガラシが憂助に気付く。

 狭霧は何も言わなかったが、ただジロリと睨み付けた。

 憂助はマウンテンバイクから下りると、スタンドを立てながら、こゆずに尋ねる。

 

「一緒に連れてくのはこいつ等だけか?」

「うん。二人とも凄く強いから、きっと憂助くんの助けになるよ!」

「……まぁ、人手は多い方がいいし、こんくれえなら充分運べるか」

 

 一人ブツブツとつぶやく憂助に、狭霧が険しい声色で話し掛けた。

 

「貴様が誰だか知らんが、相手が何者か聞いてないのか? 幽奈をさらったのは龍雅湖の黒龍神。誅魔忍軍が総出でもかなわ」

「嫌なら来るな。邪魔だ」

「誰も嫌とは言ってない! 私は貴様の事を思って言っているのだ!」

 

 ――ベチンッ。

 

 憂助のデコピンが、狭霧の額に炸裂した。狭霧は思わず両手で額を押さえる。

 

「赤の他人の心配してる暇があったら、幽奈さんっち人の心配せえ。そもそも、その龍雅湖っちゃあ長野にあるんやろが。そこまでのんびりバスにでも乗っていく気か?」

「他にどうしろと言うんだ。それとも、貴様が空でも飛んで運んでくれるのか?」

「半分正解、半分外れだ」

「はぁ?」

 

 相手の言わんとする事がわからず、狭霧は間の抜けた声を漏らした。

 

「俺は幽奈さんの顔を知らんが、お前等三人は知っちょうやろうが。お前等の念を使って、幽奈さんの所に()()

「……もう少し具体的に頼む」

 

 コガラシがそう言った。

 

「俗に言うテレポートとか瞬間移動とかいうやつだ。俺はそれが出来る。知ってる場所や人の所にしか行けんけどの。今回はお前等と幽奈さんの間にある繋がりをたどって移動する」

 

 説明しながら、憂助はジーパンの後ろポケットに手を突っ込み、引き抜いた。

 まるで手品のように、スルスルと長さ一メートルほどの木刀が出てくる。柄には手彫りで『獅子王』の文字が彫られてあった。

 憂助はその木刀を逆手に持ち、地面に突き立てる。

 

「お前等、この木刀を触って『幽奈さんの所に行きたい』と強く念じろ。そして幽奈さんの顔をしっかりイメージせえ。後は俺がやる」

「うん、わかった!」

 

 こゆずがいの一番に、木刀の刀身を両手で握った。

 その姿には、憂助に対する信頼が見て取れる。

 コガラシと狭霧も手を伸ばし、柄頭に置いた。

 木刀が白い光を放ち始める。

 その光輝は大きくなっていき、四人を包み込んでいく。

 次の瞬間、四人の姿がフッと消えた。

 

 

 視界を埋め尽くす白い光が消えた後、狭霧が目にしたのは洞窟だった。

 直接行った事こそないが、誅魔忍軍の資料で見た事がある――龍雅湖の入口だ。頭ほどの高さはある木の柵が張られてあり、『立入禁止』の立て札もある。龍雅湖はこの洞窟の奥にある地底湖なのだ。

 

「すっげえ……ガチで瞬間移動しやがった……」

「憂助くん、すごぉーい!」

 

 コガラシとこゆずも驚いている。

 しかし憂助は眉間にシワを寄せて、舌打ちした。

 

「ど、どうした?」

「ミスった。幽奈さんとこ直接飛んで、彼女を連れてソッコーでゆらぎ荘に戻る予定やったんやけどの……龍神様の巣やったら、結界くらいは張ってて当然か……」

 

 どうやら、この場所に移動したのは想定外だったらしい。

 

「しゃあねえ、プランBでいくか。行くぞ」

 

 憂助はそう言うと、木の柵をヒョイッと飛び越えて、洞窟の奥へと進んでいく。三人も柵をよじ登って越えて、後に続いた。

 夜な事もあって、少しも進まぬ内に視界が真っ黒に塗り潰される。コガラシがバッグの中から懐中電灯を取り出して、スイッチを入れた。

 灯された明かりの中に、憂助の背中が見えた。その背中は前方の真っ暗闇の中を、何の恐れや迷いもなしにズンズン進んでいく。

 

「お前、ずいぶん夜目が利くんだな……」

「それもあるが、見えるんじゃなくて()()()。だき俺の事は心配せんで、転ばんよう注意して歩け」

 

 振り向きもせずに答えて、憂助は進んでいく。

 狭霧はその背中を、険しい表情で見つめていた。

 

 

 しばらく下り坂を進むと、前方が明るくなってきた。

 地底の中のはずだが、頭上に満天の星がきらめいている。

 その明かりに照らされて湖が、そしてその中央に、立派な城郭が見えた。あれこそは黒龍神の住まう龍雅城である。

 地底の空を照らす星々は、釣瓶火という妖怪の群れだ。

 狭霧は城から漂う濃密な妖気に汗を垂らしながら、憂助に話し掛けた。

 

「あれが目的の龍雅城だが――プランBとは、具体的にどうするのだ?」

「俺が、幽奈さんを助けに来た事をアピールしながら適当に暴れる。敵は幽奈さんを別の場所に移すなり、警備を増やすなりするやろうき、お前等はそういった動きのある場所に乗り込んで、幽奈さんを確保してこい。そんでさっきの入り口んとこで待っとけ。俺の瞬間移動で帰る」

「暴れるんなら、俺も手伝うぜ」

 

 コガラシが握り拳を作って提案するが、憂助はそれを却下した。

 

「幽奈さんの安全が最優先やろが。暴れるだけなら一人でも出来るが、誰かを守りながらは一人じゃきつい」

「それもそうか……すまねえな、幽奈のために……えぇっと……お前、名前は?」

「久我憂助。憂鬱の『憂』に『助ける』で憂助だ」

「俺は冬空コガラシ。こっちが雨野狭霧だ。よろしくな……陽動役、頼んだぜ」

「おう」

 

 憂助は素っ気なく答えると、右手に木刀をダラリと下げて、城へと向かっていく。まるで自宅周辺を散歩でもしているかのような足取りだった。

 

 

 地底湖の岸から城の門へと続く架け橋を渡ると、門の左右に刺又(さすまた)を持った見張りが一人ずつ立っているのが見えた。見張りの格好は時代劇に出てくるような物だが、顔つきはどちらかと言えばホラー映画でお目にかかりそうな感じだ。鱗やエラのあるその顔は、まさに半魚人そのものである。

 

「止まれ! 何者だ!」

「ここをいずこと心得る!」

「知るか阿呆」

 

 門番の誰何(すいか)にそう答えて、憂助は木刀を横一文字に振り抜く。瞬間、熱風のようなものが彼等の体を門に叩きつけた。

 門番たちはうめき声も上げずに昏倒する。

 

 門の前に立った憂助は、木刀を顔の横で、切っ先が前に向くように構える。『霞』と呼ばれる構えだ。

 木刀が白い光を帯びていく。

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い刺突が門に繰り出される。

 すると、向こう側で大きな物が落ちる音がした。(かんぬき)が外れたのだ。そして門は自動的に、勢い良く開かれた。

 その向こうに、門番と似たり寄ったりの半魚人たちが群れをなしていた。全員が大同小異目を見開き、口をあんぐりと開けているのは、突然の開門に驚いているからだろう。

 

「おうおう、色ボケ黒龍神! 幽奈さんを返しやがれえっ!」

 

 憂助は大声で怒鳴りつける。

 その声で我に返った半魚人たちは、手に手に捕物道具(とりものどうぐ)を持って、狼藉者を捕らえんと襲い掛かった。

 

「久我流念法、地面返し!」

 

 憂助は木刀で地面を叩いた。

 すると、前方の地面が水のように激しく波打ち、捕り手たちはその土の津波に足を取られて転倒した。

 地面はまた元通り平らに戻る。

 

「な、何だ今のは!」

「こやつ、妖術使いか!?」

「近付くな! 遠くから投げ縄で動きを封じろ!」

 

 誰かの指示に従い、先端を輪にした投げ縄を手にした捕り手が、憂助を囲む。

 四方八方から一斉に縄が投げつけられた。

 しかし憂助が木刀で虚空を下から上へと斬り上げると、突如として烈風が吹き荒れ、縄を捕り手たちへと押し返した!

 憂助、すかさず木刀を真横に振り抜く。再び風が唸り、捕り手たちを枯れススキのように薙ぎ払い、吹き飛ばしていった。

 

 

 天守閣の一室。

 そこに湯ノ花幽奈は囚われていた。

 髪が白い事を除けば、一見可憐な少女である。しかしよく見れば、彼女の体がフヨフヨと宙に浮いているのがおわかりいただけるだろう。

 彼女は元々は、ゆらぎ荘に住み着く地縛霊であった。憂助がコガラシの背後に見た少女こそが、幽奈なのだ。

 

 その幽奈の周りには書物が散乱していた。『祝言までに龍雅家の正妻として必要な教養を身に付けねばならない』と言われて押し付けられた物だ。

 そして押し付けた本人も、そこにいた。

 左目に眼帯を付けた短髪の女性。

 黒龍神である龍雅玄士郎に仕える従者で、名を『朧』という。

 颯爽とした物腰で、城下の騒ぎの詳細を部下から聞いているところだった。

 

「ふむ、何者か知らぬが、相当な使い手のようだな……私が相手をするしかあるまい」

 

 朧の言葉に、部下の半魚人は安堵の笑みを浮かべた。

 

「ここの警備は倍に増やせ。狼藉者の目的はおそらく、幽奈様ではなく陽動だ。別動隊が混乱に乗じて幽奈様をさらう算段だろう。それに備えろ」

 

 朧は部下に命じると、幽奈に一礼して退室する。

 

 中庭に下りたところで、ポーカーフェイスにうっすらと驚きの色が浮かんだ。

 五十を越える数の兵が、無様にも倒れているのだ。手近の一人に駆け寄り調べたが、特に外傷はなく、気絶しているだけのようだ。

 朧は倒れ伏す兵たちの中心に立つ少年を見た。

 木刀を右手に下げたその少年は、汗もかいてなければ息も乱れていない。

 そして、朧の方をじっと見ていた。まるで虎のような鋭い眼差しだ。

 朧は問い掛けた。

 

「名を聞こうか」

「人さらいに教えるような安い名前は、持っちゃあおらん」

「そうか。私は朧。先代黒龍神の尾より生まれし護り刀――神刀・朧」

 

 名乗る彼女の両手が、細長く伸びる。そして黒鉄色に変色し、刃へと変わった。

 

「神聖なる黒龍神の居城を荒らす狼藉者、名無しのまま朽ち果てるがいい」

 

 言い捨てるなり、朧の姿が消えた。

 同時に憂助は、何を思ったか真後ろ目掛けて木刀を振る!

 木製の刀身と黒鉄の刃が、ぶつかり合った。

 朧が背後に回り込んでいたのだ。

 

 朧の隻眼がかすかに見開かれていた。

 腕を変化させた刃が、たかが木刀一本を切断出来なかった。

 自分のスピードを見切られた。

 その二つの驚きによるものだ。

 同時に、やはり自分が出て正解だったと確信する。

 

 一旦離れた朧は、憂助の周囲をランダムに動き回る。

 そしてタイミングも狙いもランダムに、斬りかかっていった。

 刃はその度に木刀で打ち払われる。しかも、刀身に傷一つ付けられない。感触からして、不可視のエネルギーでコーティングしているのだろう。

 

(だが、それもいつまで続く?)

 

 敵のスタミナと集中力の消耗こそ、朧の狙いだ。

 そしてその作戦が上手くいったらしい。

 正眼に構えられていた木刀がかすかに下がり、上段に隙が生まれたのだ。

 

「もらった!」

 

 朧は勝利を確信しつつ、憂助の脳天目掛けて右手の刃を振り下ろす!

 

「やらねえよ」

 

 しかしその隙は誘いだった。木刀が跳ね上がり、朧の打ち込みを受け止める。

 直後、憂助は左に踏み出し、朧の脇腹目掛けて木刀を叩き込む!

 朧はそれをまともにくらった。

 右手が空中に縫い付けられたかのように動かず、回避はおろか防御も出来なかったのだ。

 打たれた脇腹から、熱い衝撃が全身を駆け巡る。

 

「玄……士郎……様……!」

 

 主の名を呟きながら、朧は気を失った。

 

 

 

 天守閣。

 朧の指示により増員された警備兵たち。

 しかし彼等は、前後不覚に倒れていた。

 城内の動きを観察していたコガラシたちは、憂助の予想した通りの動きを見せた彼等を発見。尾行してここまでたどり着いた後、不意打ちをくらわせたのだ。

 

「幽奈、無事か!」

「幽奈ちゃん、助けに来たよ!」

 

 狭霧に廊下の見張りを任せ、コガラシとこゆずが部屋に飛び込む。

 

「コガラシさん、こゆずさん! ど、どうしてここに……!」

 

 幽奈は入ってきた二人を見て驚く。

 龍神とその一党を敵に回せばどうなるかなど、火を見るより明らかだ。彼等の安全を思えば、出来る事なら助けに来てほしくはなかった。

 

「ダメです、すぐに逃げてください! 私は大丈夫ですから!」

「そうはいかん」

 

 狭霧が部屋に入ってきた。

 幽奈は彼女を見て、二重の意味で驚いた。

 一つは、黒龍神の恐ろしさを知っているであろう彼女までこの場に現れたから。

 そしてもう一つの理由は――、

 

「…………あのぉ~、その格好はいったい……?」

「聞くな」

 

 凄む狭霧の首から下が、いわゆる全身タイツ的な物で覆われ、発育の良い肉体のラインがくっきりと浮かび上がっているからである。

 これは霊装結界と呼ばれる術で、身に付けている限りあらゆるダメージを肩代わりしてくれるという優れ物なのだ。

 

「こゆずから話は聞いた。あいにくと、隣人が(かどわ)かされたというのに、それを看過出来るほど物わかりの良い方ではないんだ、私たちはな」

「ま、そーいう事だ。さ、早くここを出ようぜ。こうしてる間も、久我は一人で戦ってくれてるんだからな」

 

 コガラシはそう言って、廊下の様子を確認しようと襖を開け――たかと思いきや、ミサイルのような勢いで吹っ飛ばされ、格子窓をぶち破って城外へと放り出されてしまう!

 

「余の愛しい幽奈を、どこへ連れていく気だ?」

 

 開け放たれた襖の前に立っていたのは、浅黒い肌をした長髪の男だった。

 

 黒龍神、龍雅玄士郎。

 

 憤怒の形相を浮かべ、怒気に黒髪をなびかせる様は、まさに怒れる龍神そのものだった――。

 



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弱きを助け、強きを挫く

 久我憂助が朧を打ち据えた後、さらに十人ほどの半魚人を倒した時、城の天守閣の窓を突き破って、何か黒い物が飛び出してきた。

 それは放物線を描いて落ちていき、城壁に激突する。

 

「冬空……!?」

 

 憂助の眼は、その黒い影が冬空コガラシである事をハッキリと捉えていた。

 

 不意に背後から、何かが落ちてくる音がした。振り向くと、髪の長い、浅黒い肌の男が立っている。

 龍雅玄士郎。

 コガラシが突き破った窓から、この中庭に飛び下りてきたようだ。

 ジロリと憂助を、鋭い眼差しで睨みつける。

 

「貴様も狼藉者の一味か……仲間はたった今、余が成敗した。貴様も観念するが良い」

「てめぇ……っ!」

 

 木刀を握る憂助の右手に力がこもった。

 ついさっき自己紹介し合ったばかりでしかないが、それでも多少なりとも仲間意識はあった。

 そして、自分がいながら仲間をやられてしまった事に、自分自身に対する怒りも感じていた。

 しかし龍雅玄士郎は、そんな憂助の怒りの形相を見ても、つまらなそうにフンと鼻を鳴らすだけだった。

 

「何を怒っておる。余はこの城の主。余の許しもなく城に入り、余の妻をさらおうとする者を排除するのは当然の事ではないか……ましてや」

 

 そこまで言って、玄士郎の視線は足下に移った。そこには朧が、未だに倒れたままでいる。

 

「余の大切な朧まで倒されたとあっては、なおさら許してはおけぬ……覚悟してもらおう」

「こっちの台詞だ!」

 

 憂助が吠え、猛虎のごとく躍りかかった。

 八双からの鋭い面打ちには、一切の加減が感じられない。必倒の一撃だ。

 爆発にも似た轟音が響き渡った。

 憂助の木刀は、玄士郎の拳によって止められていた。

 

「ほう、人間にしては良い打ち込みだ……だが、力が足りんな」

 

 玄士郎は木刀を拳で受け止めたまま、憂助の空いた脇腹へ回し蹴りを放つ。

 しかし憂助の身体が白い光を放ったかと思うと、その姿が消え、龍神の蹴りは虚空を薙ぐのみに終わる。

 憂助は玄士郎の背後に瞬間移動していた。

 

「エヤァッ!」

 

 相手の首筋目掛けて、横殴りの一刀!

 しかし何という事か――玄士郎は振り向き様に、迫る木刀を歯で噛み止めた!

 そのまま顔を振って、憂助を放り投げる。

 憂助は空中で体を回転させ、猫のように器用に着地した。

 

「神をも恐れぬ不届き者……砕け散れいっ!」

 

 その憂助目掛けて、玄士郎は拳打を繰り出す。

 両者の距離、二十メートルはある。

 しかしその遠間をものともせず、拳圧が拳を象った巨大な光波となって迫る。

 憂助は一瞬、回避の体勢を取った――が、何を思ったかその場にとどまり、攻撃を木刀で受け止めた。凄まじい圧力が木刀を通して全身にのし掛かり、筋肉と骨が嫌な音を立てて軋んだ。

 

「ぐっ……があああっ!」

 

 ケダモノめいた声を上げつつ、木刀を横に振る。

 拳圧の光波が矛先を逸らされ、城の外壁にぶち当たり、大穴を開けた。

 

「ほう、余の攻撃をいなすとは、やるではないか……先程の瞬間移動といい、いかなる妖術だ?」

 

 玄士郎が歩み寄りながら問い掛ける。どこか楽しげな声音だった。

 

「一緒にするな。これは念法だ。人の思念を極限まで鍛えて、高めて、物理法則を超えた霊的な力に変える……それを武術に応用して、妖魔や悪霊を退治する。人間がお前等げな連中に立ち向かうために編み出した、人間の技だ」

「ほうほう、つまり修練で得た力という訳か。人間もなかなか侮れぬではないか……しかし今のそなたは、身を守るのが精一杯のようだな」

 

 憂助は反論しなかった。実際に、玄士郎の言う通りだ。それどころか、今の攻撃にいたっては受け流せたかどうかも怪しい。もう一度やれと言われたら、十中八九失敗するだろう。

 

 玄士郎が歩みを止めた。

 木刀の届く範囲の、一歩外だ。

 

「朧には悪いが、気が変わった。小僧、仲間を連れて引き上げるなら、そなた等の命は助けてやろう。近々幽奈と祝言を上げる予定なのでな、慶事の前の殺生沙汰は、余も好まぬ」

「お断りだ」

 

 憂助は一ミリ秒の間も置かず、返答した。

 

「意地を張るな。この龍雅玄士郎を――黒龍神を相手にしたのだ。逃げてもそなたの恥にはならぬ。敗北を認め、技を磨け。その方がよっぽど、そなたのためになるというものだ」

「一昨日来やがれ」

 

 憂助は一ミリ秒の間も置かず、返答した。

 

「何を意固地になっておる……そなた、幽奈と深い仲であったのか?」

「馬鹿言うな。俺は幽奈さんの顔も知らねえ。赤の他人だ」

「ますますわからぬ。ならば何故、ここに来たのだ?」

「……大した理由じゃねえよ。そやけど、昔から言うやねえか、『強いやつはぶっ飛ばせ、弱いやつは助けろ』っちの。ガキが泣いて助けを求めようんなら、手ぇ貸してやるのが男っちもんやろが」

 

 その言葉に、玄士郎は幽奈と会った時の事を思い出した。確かあの場には、人間の娘に化けた一匹の小狸がいた。

 つまり、この木刀を持った少年は、あの小狸に懇願されてここに来たという事か……。

 

「そのような考え方、嫌いではないが……退く気がないというのであれば、仕方あるまい」

 

 玄士郎は拳を握り、振りかぶった。恐らくは全力での攻撃となるだろう。

 憂助は木刀を脇構えに構え、身を沈めた。拳をかわして、カウンターで抜き胴を叩き込むつもりだった。

 木刀が白い光輝を放ち始める。

 

 憂助は感じ取っていた。

 玄士郎の全身からほとばしる凄まじい気の圧力を。

 これから繰り出される拳をくらえば、自分など死体も残るまい。

 だが、恐れはしなかった。

 木刀に彫り込んだ『獅子王』の文字。これは仏教の言葉で、『小兎を狩るのにも全力を尽くし、巨象にも怯まず挑む獅子王のごとき心』を意味する。小事を侮らず、大事に怯まぬ心構えをあらわした言葉だ。

 ――もっとも、日頃から何かといい加減な父の言った事なので、どこまで本当かはわからない。しかし憂助は、気に入っていた。

 そして今、その獅子王の心で、黒龍神に挑むのだ。

 

「さらばだ小僧!」

 

 玄士郎が拳を放った。フェイントなどの小細工一切なしの、これ以上ないくらい単純なストレートパンチ。

 しかし不意に憂助の身体が真横に飛び、その拳は的を外した。

 そして、憂助の後ろにいた者の左手で、受け止められた。

 

 冬空コガラシ。

 彼が憂助を、右手一本で投げ飛ばしたのだ。

 憂助が先の玄士郎の拳圧に対して、回避から防御に切り替えたのは、自分の後ろに彼がいたからだ。

 しかし、城の天守閣から地上の城壁に叩きつけられ、立ち上がれるだけでも有り得ない事だというのに、黒龍神の全力パンチを片手で受け止めるとは……!

 憂助も玄士郎も、目の前で起きた出来事が全く信じられなかった。

 

「ありがとな、久我……こんなありきたりな言葉じゃ追い付かねえくらい、感謝してる。後は任せてくれ」

 

 コガラシはポカーンと口を開けたままの憂助に、そう言った。

 そして玄士郎に鋭い眼差しを向ける。

 

「余の拳を受け止めただと……貴様、いったい何者だ……?」

「俺は冬空コガラシ。お前にさらわれた幽奈を助けに来た」

 

 コガラシの左手に、力がこもる。

 玄士郎の拳が、ミシリと音を立てた。

 

 外せない。

 黒龍神である玄士郎が、人間の小僧一人の握力から拳を外せない。

 

「ぬうううっ!」

 

 玄士郎は左の拳を振り上げた。

 が、コガラシの方が速い。

 一歩踏み出して繰り出した右のボディブローが深々と玄士郎の腹筋にめり込んだ!

 砲弾のごとく吹っ飛んだ玄士郎は、城を貫通してその向こう側の城壁にぶち当たった。

 

 何が起きた?

 

 間近で見ていた憂助も、先程からすでに意識を取り戻していた朧も、天守閣から戦いを見守っていた幽奈たち三人も、誰も彼もが、我が目を疑う。

 

「俺は霊媒体質ってやつでな、小さい頃からいろんな霊に取り憑かれて、苦労してたんだ」

 

 コガラシがふと語り始めた。

 

「そんなある日、デタラメに強い霊能力者の霊に取り憑かれちまってな。無理矢理弟子入りさせられて、散々しごかれたけど、その地獄の修行と試練の果てに、師匠をも超える力を手に入れた」

 

 城の向こう側まで飛んでいった玄士郎に向けてであろう。グッと握った拳を突き出す。

 

「龍神様だろうが仏様だろうが関係ねえ。俺が殴れねえのは、女だけだ」

「――そういう事か」

 

 城の向こう側から、答える声があった。

 玄士郎がムクリと立ち上がり、プッと血を唾と一緒に吐き捨てた。そして一跳びでコガラシの前に立つ。

 

「その師匠とやら、もしや……」

「ああ。八咫鋼(やたはがね)の末裔だったそうだ」

「やはりか……!」

 

 途端に、周囲がざわめき始めた。

 無理もあるまい。

 コガラシが口にした『八咫鋼』とは、日本の霊的存在の中でも特に強力な三つの家系『御三家』の一つなのだ。

 

「血筋はとうに途絶えたと聞いたが、その末裔に鍛えられたとなれば、今の一撃の重さもうなずけるというものよ。血の繋がりこそなくとも、貴様は紛う事なき八咫鋼の後継者……で、あるならば、もはや是非もなし」

「やるか?」

「いや。断腸の思いで、幽奈は諦めるとしよう」

 

 玄士郎の言葉に、コガラシは握った拳を緩めて、下ろした。

 

「八咫鋼と事を構えたと知れれば、龍雅家に従っている妖怪たちの中から、反旗をひるがえす者が現れるやも知れぬ。信濃の平和のために、ここは余が退くとしよう」

「――そうしてくれるとありがたいな」

「ただし、これだけは言っておく。コガラシとやらよ、余は貴様から退くのではない。龍雅家当主として、八咫鋼の名から退くのだ。それだけは履き違えるなよ?」

「……ああ、わかってる」

 

 

 その後、一行は幽奈共々、半魚人たちに洞窟の外まで送られた。

 彼等が地下の闇に再び姿を消した後、憂助の瞬間移動でゆらぎ荘に帰る。

 到着した一行を、車のヘッドライトが照らし出した。

 

「あ、あらぁ~? あなたたち、幽奈ちゃんを助けに行ったんじゃなかったのぉ~?」

「……忘れ物?」

 

 車から下りた二つの人影が問い掛けた。

 運転席から下りてきたのは、眼鏡を掛けた長髪の女性で、Vネックのセーターの上からでも、その豊満な胸のラインが見て取れた。

 助手席からあくびしながら下りてきたのは、フード付きのパーカーを着込んだ少女。フードに付いてる猫耳のせいか、全体的に猫っぽい雰囲気が漂う。

 ゆらぎ荘の住人、荒覇吐(あらはばき)呑子(のんこ)伏黒(ふしぐろ)夜々(やや)だった。

 狭霧からの連絡を受けて、これから加勢に向かうところだったのだ。

 

「ど、どうも、ご心配をお掛けしました」

「あらぁ~、幽奈ちゃぁ~ん? もう助け出しちゃったのぉ~?」

 

 幽奈の姿を見て、呑子は間延びした口調ではあるものの、驚く。

 

「ああ、こゆずがすげえ助っ人連れてきてくれたお陰でさ……あれ? 久我?」

 

 コガラシが、その助っ人を紹介しようとしたが、姿が見えない。

 そこへガシャンと音がした。一同が振り向くと、憂助がマウンテンバイクにまたがっている。

 

「おい、何だよ。もう帰るのか?」

「もう用は済んだきの。だいたい、明日も学校やろが」

「あー、そっか。ありがとな久我」

「憂助くん、ありがとー」

 

 コガラシとこゆずに軽く手を振って、憂助はマウンテンバイクを走らせ、去っていった。

 

「愛想のないお友達ねぇ~」

「憂助くんはいつもあんな感じだよ? でも、ホントはすごく優しい人なんだ」

 

 呆れる呑子に、こゆずがフォローを入れる。

 

 狭霧は無言で、憂助の背中を見送り、彼が夜の(とばり)に消えた後も、険しい眼差しで見送り続けた。

 

 

 翌朝。

 コガラシは手の中に突然湧いた、柔らかな感触で目が覚めた。

 幽奈はしょっちゅう、寝ぼけて彼の布団に潜り込む。今朝もまたそれかと思ったのだが……、

 

(幽奈にしては、何か小さいな……)

 

 疑問に思って目を開けると、そこにはあの龍雅玄士郎の従者、朧がいた。全裸で。

 コガラシの手は、彼女の胸の膨らみを鷲掴みして、指を食い込ませていたのである。

 

「――うっ、うわぁああああああッッ!!」

 

 コガラシの物凄い()()が響き渡る。その声で、朧を挟んで隣で寝ていた幽奈も目を覚まし、そして闖入者に悲鳴を上げ、コガラシの陰に隠れた。

 

「お、お、お、朧さん! どーしてここに!?」

「ままままま、まさかテメェ! 性懲りもなく幽奈をさらいに来やがったのか!」

「この私が、余人ならいざ知らず玄士郎様の意思に背くはずがなかろう」

 

 朧は冷静に答える。全裸で。

 

「ごく個人的な用事で来たのだ。冬空コガラシ、あの木刀を使う男の居場所を教えてほしい」

「久我の? ――そうか、リベンジだな?」

「察しがいいな。どうだ、教えてくれれば、一夜だけこの肉体(からだ)をお前の好きにしてくれても構わないぞ? 住所でも電話番号でもいいし、どこに行けば奴に出会えるか、或いは、この町に住んでいるのかだけでもいい」

「ふざけんな、誰が教えるか! いいか、アイツはな、赤の他人の幽奈を助けるために命がけで戦ってくれた、正真正銘本物の男だ! そんなアイツの男気を裏切るくらいなら腹かっさばいて死んでやらぁ! わかったらとっとと帰れ!」

 

 コガラシは一気にまくし立てた。

 

「……なるほど。そういう事なら仕方あるまい。ところで冬空コガラシよ」

「何だよ」

「私と子供を作らないか?」

「お前、俺の話聞いてたのか? 俺は久我を売るような真似は絶対に」

「それはそれ、これはこれだ。八咫鋼の後継者たる貴様の血を取り入れれば、龍雅家はより強固となる。だから貴様の子を授かりたいのだ」

「……」

 

 コガラシは「はぁ~っ」と大きなため息をついた。

 そして立ち上がり、窓を開ける。

 

「わかった。俺のクイズに正解出来たら考えてやるよ」

「ほう。で、そのクイズとは?」

 

 朧はコガラシの隣に寄り添うように立つ。全裸で。

 

「この下にあるのは何だ?」

 

 問われて窓の外を覗き込んだ朧。コガラシが指差す先にあるのは……、

 

「庭のようだが?」

「ハズレ。正解は『川』だ」

 

 言うなりコガラシは、朧を()()()()()()()へと投げ落とした。

 派手な音を立てて、水柱が高々と上がる。

 その川がなかなか深く、二階の部屋から飛び込んだ程度では怪我はしない事を彼は知っている。

 この高さから落ちれば着水の衝撃は相当あるだろうが、多少は痛い目に遭わせておいた方がいいだろう。

 

「顔を洗って出直してこい! ――じゃなかった、二度と来るな! 帰れ!」

 

 コガラシは怒鳴りつけて、窓をピシャリと閉めたのだった。



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一学期
千紗希さんの日曜日


 板張りの道場で、剣道着姿の久我憂助は木刀を正眼に構えていた。

 奇妙なのは、彼が手拭いで目隠しをしている事だ。

 そして更に奇妙なのが、同じように目隠しをし、同じように木刀を正眼に構える剣道着姿の男がいる事である。

 憂助と向かい合う、口髭をたくわえたその男の名は久我京一郎。憂助の父だ。

 父子は木刀の切っ先を相手に向け合ったまま、じっとしている。まるでビデオの静止画像のように、微動だにしない。

 ──かと思うや否や、憂助の木刀が動いた。電光石火の突きが父親の喉元目掛けて繰り出される。

 京一郎の木刀がかすかに揺れて、憂助の木刀に触れた。

 その瞬間、憂助の身体はポーンと宙に跳ね上がり、大きな弧を描いて京一郎の背後の床板に叩きつけられた。

 彼の木刀は、京一郎の木刀に磁石のように吸い付いていた……。

 

「ちちっ……!」

 

 派手に落下した割りには、憂助にダメージはなさそうだ。すぐにムクリと起き上がって腰をさすると、目隠しを取った。

 

「ふむ……『(たい)の起こり』は完璧に消せとうが、『気の起こり』はまだまだやのう」

 

 立ち上がった息子に、京一郎は同じく目隠しを取りながら、木刀を返してやった。

 起こりとは、簡単に言うと、技を出す際に生じる予備動作の事である。『体の起こり』がまさにその事で、『気の起こり』とはこの場合、攻撃しようとする意思を指す。いわゆる殺気と呼ばれるものだ。

 

「お前はどうにも気性が荒いきのぉ……お母さんは菩薩様んごと優しい人やったき、やっぱりじいちゃんに似たんやろうな」

「嘘つけ、じいちゃんメチャクチャ優しいやねぇーか。遊び行ったらいっつも小遣いくれるし、でけぇヤマメ食わしてくれるぞ」

 

 福岡の山奥に一人隠居している、祖父の久我玄馬を思い出し、憂助は優しい祖父の名誉のために抗議するが……、

 

「そらお前、じいちゃんからしたらたった一人の孫やき、優しくもなるわ。そやけどじいちゃんああ見えて、若い頃はものすご怖かったぞ? 名前にかけて『鬼より怖い久我閻魔』っち呼ばれとったらしい。父ちゃんも小さい頃は、悪戯するたびに泣くまでぶっ叩かれてなぁ……怒ったじいちゃんを止められるのは死んだ婆ちゃんくらいやったわ。

 ──じいちゃんがお前に甘いのは、昔の自分を思い出して親近感湧くからかも知れんのぉ」

「……あのじいちゃんが……?」

 

 憂助には信じがたい話のようだ。

 しかし、自分の両頬をバチンと叩いて、気持ちを切り替える。

 

「それはそれとして、親父、もう一丁!」

「そろそろ朝飯作らなならんきの、続きは帰ってからな」

 

 京一郎は自分の木刀を壁に架けて、道場を出ていった。

 

 

 朝食を済ませた後、憂助は家の掃除を始める。

 父は軽トラに乗って早々に出掛けてしまった。道の駅内で経営している店があるのだ。彼が自作した小物を売っている。

 掃除を終えた憂助が洗濯物を庭に干す頃には、時計の針は10時を回っていた。家の戸締まりをすると、愛用のマウンテンバイクにまたがり、父のいる小物屋へ向かう。日曜日は店の手伝いをする事になっていた。

 念法の力の為せる技か、マウンテンバイクはオートバイを思わせる猛速で町に出た。

 道の駅につくとブレーキを掛けるが、それまでの慣性をまったく無視して、ビデオの静止画像のごとくピタリと止まる。

 駐輪場に自転車を停めてから、敷地内の端っこにチョコンと建つ二件のプレハブ小屋へ向かった。

 一件が小物屋『まよひが』で「まよいが」と読み、山の怪異の一つである『迷い家』とかけてあるらしい。2メートルほどの(憂助には今一必要性が感じられない)渡り廊下でつながった隣は、商品となる小物を作る工房だ。

 憂助が店の方に入ると、女性歌手のキャピキャピした歌声が響いていた。京一郎が今(年甲斐もなく)はまっているアイドル歌手の新しいアルバムだと、憂助は思い出した。

 

「おう、お疲れさん」

 

 奥のカウンターに座って新聞を読んでいた京一郎は、息子に声を掛ける。

 

「んじゃ父ちゃん、工房の方におるきの」

 

 そしてさっさと裏口から、隣のプレハブ小屋へ引っ込んだ。

 憂助はカウンターに入り、エプロンを付けると、まずは店内に流れる歌を止めた。

 他人の趣味にケチをつけるのはカッコ悪いので黙ってるが、父のアイドル趣味にだけはついていけない。加えて、憂助にとって興味のないジャンルの音楽など、雑音と変わらない。

 せっかくの日曜日を費やして、ろくに客の来ない店の手伝いをやってる自分の、せめてもの権利として、憂助は代わりにポール・モーリアのCDをプレイヤーに入れて、音量を控え目にして再生させた。

 

 

 何事もなく退屈な1日が過ぎ、時計の針は午後6時を回った。

 憂助がそろそろ片付けに入ろうかと考えていた矢先に、店の出入口が開いた。珍しい事に、客が来たのだ。

 

「……!」

 

 その客の顔を見て、憂助は思わず軽く竦み上がった。

 来店したのは一人の少女。

 宮崎千紗希だった。

 

「あれ、久我くん? ここでアルバイトしてるの?」

「……バイトやねえ。親父がやっとる店を手伝っとる」

「そうなんだ……そのお父さんは?」

 

 千紗希は店内を見渡すが、それらしき人物はいない。

 

「店の隣にもう一個小屋があったやろう。そこで売り物作っとる」

「え? じゃあこのお店の物って、全部お父さんの手作りなの? すごぉい!」

「いやいや、それほどでも」

 

 不意に声がした。京一郎がいつの間にか工房から出て来ていたのだ。

 

「それに全部が全部やないんよ。そこの壁の絵は憂助が描いたもんやし、そっちの竹笛も憂助が作った」

「おい」

 

 憂助が声に凄みを加えて呼び掛ける。

 

「照れるな照れるな。だいたいお客さんに嘘つく訳にもいくめえも。

 ああ、そうそう。そこの四神のキーホルダーもね、作ったのはおいちゃんやけど、デザインは憂助がしたんよ」

 

 京一郎はそう言って、レジの横に陳列されたキーホルダー群を指し示す。

 

「シシン?」

「東西南北を守る動物の神様の事よ。北が玄武、西が白虎、東が青龍で、南が朱雀」

「ああ、漫画とかで名前なら聞いた事があります……へえ……これを久我くんが……」

 

 小さなアクリル板に絵が描かれているだけの簡素な作りだが、丸っこくデフォルメされた四神の姿は、千紗希の目から見ても愛らしい。

 

「じゃあこの亀さん……玄武さん、一つください」

「おありがとうございます! ほれ、憂助」

「…………」

 

 憂助は余計な事ばかりペラペラ喋る父をジロリと睨んでから、商品を受け取り、精算し、小さな紙袋に包んでお釣りと一緒に千紗希に渡した。

 

「ところでお嬢ちゃんは、憂助とは友達なんかね?」

「はい。以前助けてもらった事があって……」

「ひょっとして、宮崎千紗希さん? こゆずちゃんがよう話しよったけど……」

「はい、そうです」

「おお、やっぱり。いやいや、しかしこうして実際に会うと、想像してた以上の別嬪さんやねぇ」

「あ、ありがとうございます……」

「こげな店に一人で来る辺り、彼氏募集中とお見受けするが……どうやろかね、うちの憂助とか、ちょっと考えてみてくれんかね。気性も激しいで、とっぽいとこもあるが、根は真面目で優しい子なんよ」

「──おい」

 

 憂助は声に更なる凄みを加えて呼び掛けた。

 

「何か憂助。こげな器量良しの別嬪さん、ほっとく手はねぇーぞ? 久我家の存続のためにも早いうちから行動しとかんといかん。父ちゃんに任せとけ」

「知るか。一人で空回ってんじゃあねえ。大概にしとかんとじいちゃんに言い付けるぞ」

 

 カウンターに置いていた自分のスマホを指でトントンと叩いて、憂助は脅しつける。

 京一郎にとって、父の玄馬は依然として恐怖の対象らしく、顔がひきつった。

 

「さぁ、冗談はこの辺にしとこうかね。千紗希ちゃん、良かったらまた来てね。こゆずちゃんに会ったらよろしゅう言うとって」

「は、はぁ……」

「憂助。店はもういいき、お送りしてやれ。最近は物騒やきのぉ」

 

 ……憂助はため息をついてから、立ち上がった。

 立ち上がりながら、考えた。

 

 自転車に乗せて送るのは、愛車は二人乗りを想定してないので没。そもそも道交法違反である。

 瞬間移動なら早いが、まさか直接部屋に飛ぶ訳にもいかない。家の前に飛ぶ事になるが、誰かに見られたらごまかしも効かない。

 

 やむを得ず、普通に歩いて送る事にした。

 店を出た二人は、並んで歩き始める。

 

「お父さん、面白い人ね」

「おい、別に気ぃ遣わんでもいいぞ。親父は女と見たら誰にでも愛想良くしくさるきの。アホ親父がアホな事言うて、ホントにすまんかった……あー、でも、その、なんだ、あれだ」

「なぁに?」

「親父は誰にでも別嬪さんっち言うが、器量良しまでつける事は滅多になくてな……まぁ、つまり、そんだけお前が器量良しの別嬪さんっち事やき、まぁ、そう気ぃ悪くせんでくれ」

 

 憂助なりに、京一郎と千紗希の両方をフォローしてやってるようだ。

 

「そうなんだ、ありがとう──久我くん、お父さんの言った通りだね」

「あん?」

「根は真面目で優しい子だって言ってたじゃない。正直に言うと、初めて会った時はちょっと怖かったけど、こゆずちゃんもなついてたし、久我くんってホントに優しい人なんだなって思うよ?」

「……俺にまで気ぃ遣わんでもいいぞ」

 

 憂助はそう言って、そっぽを向いた。

 その様を見て、千紗希は思わず微笑ましい気持ちになるのだった。

 

 

 冬に比べて日は長くなったが、それでもまだまだ春先の事である。6時を過ぎると暗くなるのも早い。

 近道になるからと千紗希が言うので、憂助は彼女の指し示す公園を突っ切る事にした。

 外灯がたくさん設置されているため、林の中の遊歩道も歩くには支障のない明るさだった。

 

「へぇー、お父さんそんなに強いんだ?」

 

 二人の会話は、千紗希の

 

「久我くんの霊能力って、なんかあたしの知ってるのとイメージが違うね」

 

 という一言から、憂助の念法の説明に入り、そのまま京一郎の腕前に話題が移っていた。

 

「中学に上がる頃から手合わせしてもらうようになったが、一回も勝てた事がねえ。じいちゃんはその親父の、更に三倍は強いらしい」

「でも、久我くんも強いじゃない。あの悪い霊能者の時も、お化けをあっという間にやっつけたし」

「……その俺が手も足も出らんのが、うちの親父だ」

「うーん……でも、お父さんは久我くんが生まれるよりもずっと前からお稽古してたんでしょ? だったら、そんな簡単には勝てないのも仕方ないんじゃないかな?」

「……なら、いいんやけどの」

 

 不意に憂助の声が暗くなった。

 

「単に、俺が向いてねえだけかも知れん……」

 

 そうつぶやき苦笑する顔は、自信のない弱気な表情だった。

 千紗希は励ましの言葉を掛けようとしたが、何を言えばいいのかわからない。

 

 ──その時、外灯で煌々と照らされていた周囲が、突然暗くなった。

 道の脇の林から黒い霧が発生し、広がって、二人を包み込んだのだ。

 

「きゃあああっ!」

 

 千紗希の悲鳴が響き渡る。彼女の服が、霧に触れた部分から灰や砂のようにボロボロと崩れ始めたのである。その崩壊速度も非常に速く、霧が発生してから数秒と経っていないにも関わらず、下着が露出し始めていた。

 憂助の服も同様で、崩壊した服の下から鍛えられた筋肉が見えている。

 少年の右手には──いつの間に、そしてどこから取り出したのか──木刀が握られていた。

 

「久我流念法、太刀風!」

 

 横一文字に振り抜かれた木刀から強風が吹き荒れ、周囲の妖霧を吹き飛ばし、蹴散らした。

 風は意思を持っているかのように一方向に──霧が発生した林へと向きを変える。

 木々の間に、蜘蛛がいた。ただし、牛ほどの大きさがある。そして黒い霧を吐き出していたその口は、人間と同じ歯と舌を備えたものだった。

 

「テメーかぁ!」

 

 憂助は自ら起こした風に乗って跳躍。瞬く間に距離を詰めた。

 八双に構えた木刀が破邪の念を帯びて白い光輝を放つ。

 白光が煌めき、蜘蛛の怪物は身動き一つ出来ぬまま、巨体を真っ二つに斬割され、黒い塵となって消滅した。

 

「く、久我くぅ~ん!」

 

 千紗希の情けない声が聞こえた。

 行ってみると、彼女は両腕で自分の下着姿を隠している。憂助の目の前で、カーディガンの袖がボロリと崩れ落ちた。

 霧に直接触れられるより速度は遅いものの、侵食された部分から崩壊が続いているのだろう。

 

「目ぇつぶってじっとしとけ」

 

 言われて千紗希は、ギュッと目を閉じる。

 ブワッと熱風が我が身を叩くのが感じられた。

 そして少女の白い肌にまとわりついていた服の残骸が、綺麗に消し飛んだ。

 

「すまん。こうでもせんとスッポンポンになっしまうきのぉ」

 

 ほとんど残ってなかったとはいえ、服を吹き飛ばしてしまった事を、憂助は詫びた。

 詫びながら、木刀の切っ先を左手のひらに当てて押し込む。これも念法の技なのだろう。長さ1メートル近くある木刀はまるで手品のように、憂助の左手のひらの中に消えていった。

 

「ううん、いいの。わかってる……でもどうしよう。どの道こんな格好じゃ、動けないよ……」

 

 千紗希は、非常に居心地が悪そうにしている。

 腕に圧迫されて、93cmのFカップが更に谷間を深くしていた。

 

「……しゃあねえ。飛ぶか」

 

 憂助はつぶやき、千紗希の丸出しになった肩を掴んだ。

 

「えっ?」

 

 突然の行動に驚く千紗希。

 次の瞬間、辺りが白い光に包まれた。

 ──かと思うと光はすぐにおさまり、彼女はヌイグルミがたくさん並ぶ部屋の中にいた。他でもない、彼女の部屋である。

 

「えっ?」

「瞬間移動だ。知ってる人や場所にだけ行ける」

「……すごぉい」

 

 本当に心から、千紗希はそう思った。

 

「すまん。最初からこうしとけば良かったんやが……直接お前の部屋に飛ぶ訳にもいかんし、俺はこの辺詳しくねえき、他にはお前の家の前くらいにしか飛べん。もし誰かに見られたら何も言い訳出来んきの……」

「そっか、そうだよね……うん、それなら仕方ないよ。謝らないで、久我くん」

 

 千紗希は憂助の言い分に理解を示し、笑ってみせた。

 

「じゃあな」

 

 憂助は靴を脱いでから、部屋を出た。外からは何の物音もせず、まだ家族は帰ってきていないのはわかっている。

 

「久我くん、ちょっと待って!」

 

 千紗希はベッドの上に広げてあった部屋着に急いで着替えて、憂助を追う。

 

「……どうした?」

 

 憂助は廊下で立ち止まり、振り向く。

 

「うん、あのね……さっきの話なんだけど……あたしは、念法とか武術とかよくわかんなくて、何のアドバイスもしてあげられないけど……でも、久我くんが向いてないっていうのだけは、絶対にないと思うの。

 さっきも蜘蛛のお化けをやっつけてくれたし、瞬間移動なんて凄い事だって出来るし、それにお父さんだって、久我くんの事、とても自慢にしてるように見えたよ?

 だから、その……」

 

 そこで千紗希は、わずかに言い淀んだ。果たしてこんな月並みな言葉でいいのだろうかとためらう。

 しかし、思いきって憂助の手を両手でギュッと握り、彼の目を見て、口にした。

 

「だから、自信を持って、頑張って! あたしは、久我くんの事応援してるから!」

 

 少女の言葉に、憂助は一瞬だけだが、何も言えなくなった。

 月並みな励ましのはずだが、それがやけに自分の胸の内に暖かく響いたのである。

 

「……そうやの。おう、そうするわ。ありがとな」

 

 そう答えて、千紗希の手をグッと握り返した。

 

 

 その夜。

 千紗希はベッドの中で、抱き枕代わりにしている大きな熊のヌイグルミを抱いていた。

 そして、久我憂助について思いを巡らせていた。

 

(何だか、意外だったな……)

 

 初めて会った時は、自信と行動力に満ち溢れた少年だと思っていた。

 しかし、彼も彼なりに悩みや不安を抱えているらしい。

 

(良く考えたら、当たり前だよね……同い年なんだもん……)

 

 種類こそ違えど、自分にだって悩みや不安はある。

 憂助が同じように思い悩む事があっても、何ら不思議ではあるまい。

 しかしそれはそれとして、あの久我憂助という少年が少しだけ、身近に感じられるようになった。

 

(今日も助けてもらったし、また今度、何か美味しい物でも作ってあげようかな……)

 

 そんな事を考えながら、千紗希は眠りに就くのだった。



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狭霧さんのお誘い

 夕方の6時を過ぎた公園。

 林の中に設置された遊歩道を、宮崎千紗希と久我憂助が歩いていた。

 しかし、外灯で煌々と照らされていた周囲が、突然暗くなった。

 

 道の脇の林から黒い霧が発生し、広がって、二人を包み込んだのだ。

 

「きゃあああっ!」

 

 千紗希の悲鳴が響き渡る。彼女の服が、霧に触れた部分から灰や砂のようにボロボロと崩れ始めたのである。その崩壊速度も非常に速く、霧が発生してから数秒と経っていないにも関わらず、下着が露出し始めていた。

 

 憂助の服も同様で、崩壊した服の下から鍛えられた筋肉が見えている。

 

 少年の右手には──いつの間に、そしてどこから取り出したのか──木刀が握られていた。

 

「久我流念法、太刀風!」

 

 横一文字に振り抜かれた木刀から強風が吹き荒れ、周囲の妖霧を吹き飛ばし、蹴散らした。

 

 風は意思を持っているかのように一方向に──霧が発生した林へと向きを変える。

 

 木々の間に、蜘蛛がいた。ただし、牛ほどの大きさがある。そして黒い霧を吐き出していたその口は、人間と同じ歯と舌を備えたものだった。

 

「テメーかぁ!」

 

 憂助は自ら起こした風に乗って跳躍。瞬く間に距離を詰めた。

 

 八双に構えた木刀が破邪の念を帯びて白い光輝を放つ。

 

 白光が煌めき、蜘蛛の怪物は身動き一つ出来ぬまま、巨体を真っ二つに斬割され、黒い塵となって消滅した。

 

 ──その様子を遠くの木陰から見つめる、一組の男女があった。

 冬空コガラシと雨野狭霧である。

 人の衣服を溶かす黒い霧を出す妖怪が出没しているため、それを退治するためにやって来たのだ。

 元々その妖怪は別の公園に棲み着いていたのだが、相次ぐ被害のために公園が立入禁止になったため、獲物を求めてこの公園に移動してきた。

 コガラシと狭霧の二人は、それを追っていたのである。

 憂助が、下着姿に剥かれた千紗希を連れて瞬間移動で立ち去ると、コガラシは木陰から出てきて、さっきまで蜘蛛の妖怪がいた場所に立つ。

 蜘蛛の妖怪は、死体はおろか、かすかな妖気すら残ってなかった。

 

「やっぱすげぇなアイツ……一発で仕留めやがった……!」

 

 憂助の手並みに、コガラシはどこか嬉しそうだ。

 

「俺たちの出番、全然なかったな。なぁ、狭霧……狭霧?」

 

 背後の少女に呼び掛けるコガラシ。

 しかし、返事がない。

 振り返ると、狭霧は険しい顔つきをしていた。

 

「お前、どうしたんだ? 最近変だぞ?」

「別に。何でもない」

「嘘つけ、明らかに何かあるだろ。最近、久我の事になるとすぐに機嫌悪くなるじゃねえか。まぁ、人それぞれ好き嫌いはあるから、無理に仲良くしろなんて言わねえけどよ……」

「うるさいっ! 貴様には関係ないッッ!!」

 

 狭霧は怒鳴りつけ、ついでにクナイまで投げつけると、その場から姿を消す。

 彼女が木の枝を蹴って移動する音が、夜の林に響いた。

 

 

 憂助が蜘蛛の妖怪を成り行きで退治してから、三日後。

 憂助がトイレから教室に戻ると、眼鏡をかけたマッシュルームカットの男子生徒が出迎えた。

 

「く、く、久我くん……大変だ……っ!」

「何か瀬戸。また安城にいじられたか? オメェーもちったぁ受け流す度量を身に付けんと……」

「いや、そうじゃなくて。こ、こ、こ、これを!」

 

 瀬戸と呼ばれた同級生の男子が、両手で手紙を差し出した。

 縦にした洋封筒の()()に、差出人の名前が書いてある。

 

『雨野狭霧』

 

 ──あの忍者女か、と憂助は思い出す。

 

「く、く、く、久我くんが戻ってきたら渡してくれって頼まれて……あ、あ、あの雨野さんから手紙だなんて……久我くん、いつの間にあの雨野さんとそんな関係に……ッ!」

 

 瀬戸がうろたえるのも無理はない。

 狭霧は入学当初こそ、眉目秀麗・文武両道・成績優秀と持て囃されたが、腕っぷしの強さと男嫌いな性格のせいで、早々に男子たちから恐れられるようになってしまったのだ。

 女子からはお姉様的な人気があるらしいが……。

 

「阿呆、これはラブレターやねえ」

 

 憂助はひったくるように、手紙を受け取った。

 

「違うの?」

「当たり前だ。左封じのラブレターとかある訳ねかろーが」

「ヒダリフージって?」

「封筒の口が左に来ちょろうが。だき左封じだ」

 

 憂助は封筒の裏表を確認して、『折り曲げ厳禁』の一文がないのを確認してから、手紙を封筒ごと二つ折りにして内ポケットに入れた。

 

 左封じは、主に弔事や凶事の手紙に用いられる。

 そして、決闘の申し込み……俗に言う果たし状にも。

 

 

 日曜日。

 湯煙市郊外の、とある河原。

 時間は午前7時。空がすっかり明るくなっているが、元々民家のまばらな場所なのもあり、人気は全くなかった。

 狭霧はその河原に一人、腕を組んでたたずんでいる。発育の良い肉体は、霊装結界に包まれていた。

 

 シャーッと自転車の走行音が、土手の上から聞こえてくる。一台のマウンテンバイクがオートバイと見紛うスピードでやって来て、ピタリと止まった。

 それに乗っていたのは、憂助である。

 グレーのTシャツとジーパン。シャツの上にはカーキ色のベストを着ている。腰には黒のウエストポーチを巻いていた。

 自転車から下り、スタンドを立てると、土手を下りて狭霧と向かい合った。

 

「おはようさん」

「ああ」

 

 狭霧は憂助の挨拶に素っ気ない返事を返し、クナイを取り出した。

 

「待て待て待て。ここまで来たんやき、逃げも隠れもせんわ。でもその前に、事情くらいは話せ。俺はお前の事なんぞ、最近知り合ったばっかりで音楽の好みもわからんとぞ? なし果たし状げな前時代的なもんもらわなならんとか。まさか石ころぶつけられたんが、そんなに屈辱やったか?」

「……それもある。私は幼い頃から、誅魔忍として修行してきた。その私の隠行術をああも簡単に見破られたとあっては、こだわらない訳にも行くまい」

「アホか。別にお前一人だけが修行しとった訳やねえ。俺だって物心ついた時にはもう念法の修行始めとったわ」

「──もう一つの理由が、それだ」

「……それっちゃ、どれか」

「貴様の使う技、念法だ」

 

 狭霧はそう言って、クナイの切っ先を憂助に向けた。

 

「冬空コガラシから聞いた。貴様が念法の使い手だと」

「……?」

 

 言われて憂助は、記憶の糸を手繰ったが、コガラシにそんな話をした覚えは全くない。

 しかし、黒龍神の城で龍雅玄士郎と戦った時、彼に念法の事を話した。

 その際コガラシは自分の後ろにいた。あの時点で意識を取り戻しており、憂助の話を聞いていたのだろう。

 

「貴様等念法使いと、我々誅魔忍軍との間には、深い因縁がある……過去、我々誅魔忍軍は、天皇陛下の霊的ボディガードの座を貴様等念法使いの一族と争った事がある。明治時代に宮内省が設置された頃の対抗戦……誅魔忍軍にとっては、歴史的な大敗だった」

「知るか」

 

 憂助は、吐き出すように言った。

 

「そらたぶん御本家やろ。文句はそっちに言え。うちは分家だ」

「……どうやら貴様、何も知らないようだな」

「何が」

「その対抗戦は、両陣営から代表選手五名を選出して行う団体戦でな。貴様の言う御本家、結城家には当時の当主とその弟しか戦える者がいなかったため、特別に分家からも代表選手を出して良いという事になった……それで選ばれた代表の一人が、久我鉄心だ」

「…………」

 

 憂助は黙り込んだ。

 久我鉄心とは、彼の高祖父の名前である。

 小さい頃、父や祖父から、その久我鉄心が忍者と戦ったという話を聞かされた事がある。

 

(あれ、ホントの事やったんか……)

 

 何せ、日頃からいい加減でお調子者の父が言い出した話である。祖父は単に話を合わせてやってるだけで、実際は父のホラ話だと思っていた。

 

「……だいたいわかった。うちのご先祖様にお前んとこのご先祖様が世話になったき、その子孫がお礼参りっちとこか」

「勘違いするな。勝敗は兵家の常、怨んではいない。しかし誅魔忍としても、一個人としても、貴様にはこだわらずにはいられない。それだけの事だ」

「そっちこそ勘違いすんなよ? さっきも言うたが、逃げも隠れもせん。単に理由を聞きたかっただけだ」

 

 憂助はベストの懐に右手を差し込む。

 引き抜かれた右手には、木刀が握られていた。

 憂助がその木刀を八双に構えた瞬間、狭霧はクナイを投げる。

 どこにしまっていて、いつの間に取り出したのか、投擲されたクナイの数は、三本だった。

 その三本を投げると同時に、狭霧は地を蹴って高々と跳躍する。

 そして、今度は五本のクナイを、地上の憂助目掛けて投げつけた。

 正面からのクナイをかわそうとすれば、頭上からのクナイが。

 頭上からのクナイをかわそうとすれば、正面からのクナイが。

 どちらか一方は、その身に受ける事となる。

 狭霧は勝利を確信した。

 

 ──しかし。

 

 憂助は木刀を八双から下段脇構えに変え、下から上へと虚空を斬り上げる。

 振り抜かれた木刀から発生した烈風が、正面から迫る三本のクナイを宙高く舞い上げた。

 それが頭上から降り注ぐ五本のクナイにぶつかり、互いに弾き合って、勢いなく憂助の周りに落っこちた。

 

「くっ……!」

 

 必勝を期した攻撃を木刀の一振りで潰されてしまい、狭霧は歯噛みする。

 河原に着地した彼女は、すかさず次の攻撃に移ろうとした──が、体が動かない。

 足下にふと目をやれば、一本のクナイが自分の影に刺さっていた。それは、今しがた自分が投げた物である。

 

(まさか、これが……?)

 

 上下から迫る八本のクナイを、七本弾き落とし、一本は撃ち返しただけでなく、誅魔忍術で言うところの『影縫い』に使ったのだ。

 その技量に、狭霧は戦慄した。

 

 憂助が彼女の目の前に、悠然と歩み寄った。

 

「介錯」

 

 そうつぶやき、木刀を真横に振り抜いた瞬間、狭霧は意識を失った。

 

 

 魚が焼ける時の匂いに鼻孔をくすぐられて、狭霧は目を覚ました。

 河原の上で依然倒れたままだったようだ。視界には空が広がっている。

 起き上がると、何かが体からずり落ちた。憂助が着ていたベストだ。気絶している間に掛けてくれたのだろう。

 憂助は、すぐそばで火を焚いていた。

 焚き火のそばに、三匹の川魚が、先端を削って尖らせた木の枝に刺されて、串焼きにされていた。

 憂助のウエストポーチの中にオイルライターやアーミーナイフが入っており、それを使ったのだ。

 そして何故か、冬空コガラシも一緒だった。

 

「ふ、冬空コガラシ……何故ここに……!」

「お前がやけに怖い顔して朝早くから出掛けるもんだから、心配になって後をつけてたんだよ……幽奈の恩人に喧嘩売るとか、何考えてんだお前」

「うっ……!」

 

 ジロリと睨まれて、狭霧は言葉につまる。

 彼女とて、黒龍神との一件で、憂助に感謝の気持ちがなかった訳ではないのだ。

 

「夫婦漫才は帰ってからやれや──ほれ」

 

 憂助が、魚の串焼きを一つ狭霧に差し出す。

 

「どうせ飯食ってねかろ。別に金なんぞ取らんき食ってけ」

「……あ、ああ」

 

 狭霧はそれを受け取り、フーッフーッと息を吹き掛けて冷ましてから、腹の部分にかぶりついた。

 黙々と食べていると、不意にバリバリという音がした。

 

「…………!」

 

 音の方を見て、狭霧はかすかに口許をひきつらせる。

 憂助が自分の分の魚を食べているのだが、彼はフランクフルトでも食べるように、魚を頭から丸かじりしていたのだ。

 

「く、久我憂助……貴様もか……!」

「何が?」

「久我ぁぁあああっ! お前もなんだなぁぁあああっ!」

 

 聞き返す憂助に、今度は自分の分の串焼きを手にしていたコガラシが(とても嬉しそうに)同じ事を言った。

 

「お前も頭からいくんだな! そーだよな、だって骨とかもったいねえもんな! 俺も山でサバイバルしてた時は頭からバリバリやったもんだよ! なのにゆらぎ荘のみんな、俺の食い方がおかしいみたいな反応してさぁ!」

「……うちはみんな頭から食うが、よそは違うごとあるの。今日はうっかりやっしもたが、俺も人前ではあんまりやらん」

「そっかー、俺も気を付けた方がいいかなぁ」

「好きにせぇ」

 

 コガラシに素っ気なく言いながら、憂助は残りを平らげる。

 コガラシも憂助と同じように、魚を頭から食べ始めた。

 狭霧はその様子をしばし眺めた後、チラリと自分の魚を見た。

 口をあんぐりと開けた魚の、白くなった目玉と、視線が合ったような気がした。もちろん錯覚だ。

 錯覚なのだが……、

 

(──うん、無理)

 

 少女の胸の内でかすかに芽生えたチャレンジ精神を打ち砕くには、充分だった。

 

 三人ともが食事を終えると、憂助とコガラシがその辺の土砂を被せて、焚き火を消す。

 

「何か悪かったな、久我。喧嘩売ってきたのは狭霧なのに、飯までご馳走になっちまって」

「喧嘩ではない、決闘だ」

「同じだ同じ!」

 

 訂正を求める狭霧に、コガラシはピシャリと返す。

 

「気にすんな。いい運動になったわ」

 

 憂助はそう答えると、「じゃあな」と言い残して、マウンテンバイクに乗って帰っていった。

 

「いい運動になった、か。奴からすれば私など、その程度だったという事だな……だが、次はこうはいかんぞ、久我憂助」

 

 見送りながら、不穏な事をつぶやく狭霧。

 しかしコガラシが見たその横顔は、険が取れて、どこか晴れ晴れとしていた。



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幽奈さんと憂助くん

 昼休み。

 久我憂助は校舎の裏庭にいた。一人だ。

 そこに植えられている木の根本にレジャーシートを敷き、その上に座り込んでいる。

 膝の上でA4サイズのスケッチブックを広げて、せっせと鉛筆を走らせていた。

 描いているのは、お化けの絵だ。1ページに二つ、頭身の低いコミカルな感じのイラストが描かれてある。

 父が経営する小物屋に出す新商品のデザインを頼まれたのである。

 この絵をアクリル板に転写して、アクセサリーやストラップにする予定らしく、

 

「時代は今、お化けだ!」

 

 と、かなり真剣な口調で言う父に、頭を下げられたのだ……。

 

 よく晴れた昼休みにも関わらず、憂助以外誰もいないのは、ここが物理の実験や家庭科の調理実習などを行うための別棟だからである。

 

「わぁ、可愛い」

 

 不意に少女の声がして、憂助はスケッチブックに落としていた視線を、正面に向けた。

 白い髪を長く伸ばした、浴衣姿の少女が、そこにいた。その身体はフヨフヨと宙に浮いている。

 

「……幽奈さん。こげなとこで何しようとですか」

 

 憂助は鉛筆を動かす手は止めずに、湯ノ花幽奈に問い掛けた。

 

「あ、すいません。その辺をお散歩してたら久我さんが見えたので、ご挨拶とお礼をと思いまして」

「礼? 俺、何かしましたっけ?」

「ほら、この前、コガラシさんたちと一緒に、私を助けてくださったじゃないですか」

「ああ……それなら、礼はこゆずに言うてください。俺は、あいつに頼まれただけですき」

「はぁ……」

 

 幽奈は曖昧な返事をする。

 それきり会話はぶつ切りとなった。

 憂助は気にせず、黙々と絵を描いていく。

 スケッチブックのページの上半分に、()()()からタヌキの頭と手足が生えたようなキャラを描き──尻尾まで描こうとしたところで、何を思ったかその絵の上から大きなバツを描いた。

 

「はうぅ、可愛かったのにぃ……」

 

 未だに横から覗き込んでいた幽奈が、残念そうにつぶやく。

 

「描いた俺が言うのも何やけど、ぶんぶく茶釜の丸パクり過ぎやろが」

 

 憂助はボツにした理由をそう語った。

 そして、そこで不意にある疑問が思い浮かび、それを尋ねてみた。

 

「前にこゆずから、幽奈さんは地縛霊っち聞いたんですが……なしこげな所におるんですか」

 

 地縛霊は読んで字のごとく、その土地、もしくは地点に縛られた霊である。

 幽奈はゆらぎ荘の四号室に出る地縛霊だと、憂助は数日ほど前にこゆずから聞かされていたのだ。

 幽奈がさらわれたのは、黒龍神が地縛霊をその地からひっぺがす力なり術なりを行使したからだろうと勝手に思っていた。

 コガラシ共々初めてゆらぎ荘で顔合わせをした時も、ゆらぎ荘内なら自由に動けるんだろうくらいに思っていた。

 しかし今、幽奈は校内を平然とうろついている。憂助の知る地縛霊の定義からは外れた現象であった。

 

「フッフッフ、よくぞ聞いてくれました! 実は私、幽霊歴がかなり長くて、ゆらぎ荘から離れた所にだって移動出来るんです!」

 

 幽奈は何故か誇らしげに答えた。

 

「他にも、こんな事も出来ますよぉ~!」

 

 言うなり、幽奈の体からボムッ! と煙が爆発するように発生し、彼女を包んだ。

 その煙が消えると、幽奈の服装がゆらぎ荘の浴衣から湯煙高校の女子制服に変わっていた。

 

「私の着ている服も、実は私の幽体の一部なんです。だから強く、はっきりしっかりとイメージ出来れば、どんな服にだってお着替え出来るんです!」

「エコロジーやのぉ」

 

 適当なコメントをする憂助。

 

(……幽体の一部っちゅう事は、いつもスッポンポンで外をうろついとるようなもんか)

 

 とも思ったが、それは言わないでおいてやった。

 代わりに、新たに生まれた別の疑問を口にした。

 

「今、幽霊歴長いとか言うとったが……」

「はい、正確には覚えてませんが、もう何年もの間、幽霊をやってます」

「何が未練で、そげ長い間とどまっとうとですか?」

 

 憂助のその問いに、幽奈の表情がかすかに陰りが差した。

 

「覚えてないんです」

「はぁ?」

「気が付いたら、ゆらぎ荘にいました。でも自分の名前すら思い出せなくて……湯ノ花幽奈って名前も、仲居さんにつけてもらったくらいでして……だから、自分がこの世にとどまってる理由が、自分でもわからないんです……ホント私って、ダメな幽霊ですよね~!」

 

 幽奈はおどけた口調で言って、アハハと笑った。

 

「──確かに、史上まれに見るポンコツ幽霊やのぉ」

「はうっ!」

 

 憂助の言葉が、割りと真面目に幽奈に突き刺さったようだった。

 

「──冬空は、その事知っちょうとですか?」

「はい……私が成仏出来るようにと色々考えて、色々やってくださるんですけど……でも上手くいかなくて……」

 

 そう言って膝を抱え、ショボくれる幽奈を、憂助はスケッチブックの上に鉛筆を走らせながら、横目で見ていた。

 

 

 日曜日の昼下がり。

 ゆらぎ荘に一台の自転車がやって来た。

 久我憂助である。

 愛用のマウンテンバイクではなく、前面にはカゴ、後ろに荷台の付いた、いわゆるママチャリだ。

 その荷台に、大きな箱が乗せられていた。

 来客に気付いたのは、玄関を掃き掃除していた小柄な女の子だ。和服の上からエプロンを着けている。

 

「あら憂助くん、こんにちは。」

 

 ゆらぎ荘の仲居を務める仲居ちとせ。

 見た目は幼く、中学生くらいにしか見えないが、その正体は座敷童子で、ゆらぎ荘の最古参である。

 憂助の父京一郎は高校卒業後、日頃のいい加減さが祟って就職浪人となり、職を求めて湯煙市に上京したのだが、その際当座の住まいとしたのが、ここゆらぎ荘である。当時温泉旅館だったゆらぎ荘で、住み込みのアルバイトをしていたという。

 ちとせとはその時に知り合った仲で、こゆずがゆらぎ荘に住めるようになったのもその縁だ。

 

「仲居さん、こんちは。冬空くんと湯ノ花さん、いますか?」

「ええ、コガラシくんは今、お風呂場の掃除をやってもらってます。幽奈さんも一緒です。もうすぐ終わるはずですから、お部屋で待っててくださいね」

 

 ちとせは持っていた竹箒を壁に立て掛けると、憂助を二人が住む四号室に案内した。

 憂助は自転車の荷台の大荷物を肩に担ぎ、彼女に続いた。

 

「京一郎くんはお元気ですか?」

「相変わらずです」

「憂助くんはお稽古頑張ってます?」

「……他にやる事もないんで」

「ふふっ、真面目に頑張れるのは良い事ですよ。だから、照れる事ありません」

 

 ちとせの言葉に、憂助は口をへの字に曲げた。

 ちとせからすれば、憂助はクール気取りのとっぽい弟みたいなものだ。いまいち愛想に欠ける態度も、歳の離れた弟が精一杯突っ張ってかっこつけてるようにしか見えないのである。

 

 四号室に憂助を案内すると、ちとせは一度引っ込み、麦茶の入ったコップと小さな饅頭を乗せたお盆を持って戻って来た。

 

「それじゃあゆっくりしていってくださいね」

 

 そう言い残し、パタパタと玄関へ下りていった。

 一人残された憂助は、麦茶と饅頭をさっさと平らげると、持参した箱を開ける。

 白木で出来たたくさんのパーツを取り出し、それを同梱されている説明書とにらめっこしながら組み立て始めた。

 そうして、大きな神棚が出来上がった。

 パーツを梱包していた袋と説明書を箱の中にしまっていると、部屋の戸が開いて、冬空コガラシが入ってきた。その後ろに、幽奈がフヨフヨと浮かんでいる。

 

「よぉー、久我。遊びに来てくれたのか? ……って、何だそれ」

「見りゃわかるやろが。神棚だ」

「わぁ~、立派ですねぇ~」

「今日からこれが、幽奈さんの住まいだ」

「……へっ?」

 

 コガラシと幽奈が、間の抜けた声をハモらせた。

 

「聞けば幽奈さんは、自分がこの世にとどまっちょう理由が自分でもわかっとらんらしいの」

「ああ、そうなんだ……でも、無理矢理成仏させるのも何か可哀想だし」

 

 ──アホかお前は。

 

 コガラシの言葉に、憂助は胸の内で毒づいた。

 

「そこで、こいつだ」

 

 胸の内の言葉をグッと飲み込み、今しがた組み立てた神棚の屋根をコンコンと叩く。

 

「冬空。お前はこれから毎日、朝晩こいつに水を供えてお参りしろ」

「ん? それ、幽奈が住むんじゃ──あ、そうか」

「おうよ。菅原道真とか平将門とかと同じだ。幽奈さんには、ゆらぎ荘の守り神になってもらう」

「わ、私がですか?」

「本人にも何が未練なのかわからんとやったら、成仏させるのも時間掛かる。その間に悪霊化されちゃたまらんやろ。だからまぁ、最悪の場合に備えての保険っち思っとけ」

「そういう事か……ありがとな、久我。でもこれ、高かったんじゃねえか?」

「おう、消費税抜きでも五万くらいしたわ」

「五万っ!?」

 

 コガラシと幽奈が、すっとんきょうな声をハモらせた。

 

「ご、ごごごご、五万!? ご、ご、ごま、ごま、ごま塩おにぎり、の、間違いでは!?」

「ごまま、ごま、ごま、五万円って、それこの世の全てが思い通りになる金額じゃねーかぁぁあああ……!」

「いや、幽奈さんは幽霊やきまだわからんでもないが、なしオメェーまで金銭感覚が明治辺りで止まっとうんか……」

 

 ガタガタ震える二人に、憂助は呆れた。

 彼は知らないが、コガラシは幼少の折り、霊媒体質が災いしてデイトレーダーの悪霊に取り憑かれた事がある。その際に株に手を出して大負けし、借金地獄のホームレス生活に陥ったのだ。

 このゆらぎ荘に来た時も、川や滝ではない温かい風呂に入れるというだけで涙ぐんだ程である……。

 

「まぁ心配するな、別にお前に代金請求するつもりはねえ。それより今言うたごと、お供えとお参りはちゃんとやれ。その間にお前が幽奈さんを円満成仏出来たら、それに越した事はねえけどの」

「わ、わかった。ありがとよ、久我。お前の心遣い、絶対無駄にはしねえぜ!」

 

 コガラシは憂助の手を両手で握り、強く誓った。

 

 

 翌週の日曜日。

 今度は愛用のマウンテンバイクで、憂助はゆらぎ荘を訪れた。コガラシが自分の言い付けを守っているかどうか、様子を見に来たのだ。

 ゆらぎ荘に到着し、適当な場所で自転車のスタンドを立てていると、ガラガラと玄関の引き戸の開閉音が鳴り響いた。

 そちらを見やると、一人の見慣れぬ男が入っていく、その後ろ姿が見えた。

 頭巾を被り、錫杖を手にした、旅の僧侶といった感じの男だ。

 時代劇から抜け出してきたような身なりのその男は、憂助に気付かず、ガラガラと音を立てて戸を閉めた。

 

「よう、久我」

 

 ジャージ姿のコガラシが、裏手から出てきた。裏庭の草むしりをやっていたのだ。

 

「おう、冬空……俺の知らんうちに、新しい人でも来たんか?」

「いや? 新顔は俺とこゆずしかいねえけど……どうかしたのか?」

「今、いかにも旅の僧侶ですって感じの奴が入ってったぞ」

「坊さんかぁ……来客の予定とかは何も聞いてねえけど……ひょっとして入居希望者かな? とにかく、ちょっとでも()()()方面に詳しい人がいれば、俺としても助かるけど……でも坊さんって普通、寺に住むよなぁ……」

 

 二人がそんな事を話していると、

 

「きゃあああああっ!」

 

 絹を裂くような悲鳴が響き渡った。

 それが幽奈の悲鳴だとわかった瞬間、コガラシは駆け出していた。

 憂助は四号室へと瞬間移動していた。

 

 瞬間移動した憂助が見たのは、先程の僧侶が錫杖の切っ先から稲妻をほとばしらせているところだった。

 その稲妻が、獲物を捕らえる大蛇めいて幽奈に巻き付いて、その身を拘束していた。

 幽奈が触りたいと思えば、触る事は出来る。触らせたいと思えば、他者が幽奈に触れる事も可能だ。

 しかし、今目の前で繰り広げられている光景は、明らかに違った。

 

「うああああっ!」

 

 幽奈は苦悶の悲鳴を上げて、もがき苦しんでいる。

 錫杖から伸びる雷光の荒縄は、幽奈の幽体の一部たる浴衣を、少しずつではあるが削り、引き裂き、消滅させている。

 憂助の右手に、白い光が生まれた。

 その光の中から、木刀が現れる。

 柄に『獅子王』の文字を彫り込んだ愛刀を憂助が手にした時、一陣の風が彼の横を駆け抜けた。

 冬空コガラシだ。

 何とも凄まじい脚力であった。

 憂助が瞬間移動で四号室に現れた直後──遅くともせいぜい二、三秒ほどで、玄関先から駆け付けた事になる。

 コガラシは更に、幽奈を束縛し苦しめる光を、素手で引きちぎった。

 

 素手で引きちぎった。

 

「昇天陣を、素手で……!?」

 

 僧侶もかなり驚いている。無理もない。

 

「おう、坊さんのくせに、よそ様の部屋に土足で上がり込んで女の子に暴行加えるっちゃあ、どういう了見か」

 

 憂助が木刀を僧侶の喉元に突きつけて、問い詰める。

 

「我が名は洩寛(せっかん)

 

 しかし僧侶は、すぐに冷静さを取り戻し、まずはそう名乗った。

 

「世にはびこる悪霊妖魔の類いを調伏する、救沌衆降魔僧の一人」

「うどんだかグドンだか知らねーが、なんで幽奈を襲ったんだ」

 

 幽奈を背中にかばいつつ、コガラシが尋ねた。

 洩寛と名乗った僧侶は、錫杖で幽奈を指し示す。

 

「そこな娘、恐らくかなりの長期に渡り、霊となってこの世をさまよっておるのだろう。このまま放置すれば悪霊となり、人に害を与える。故に、そうなる前に成仏させんとしておったのだ。

 ──お主等二人、その娘が見えるという事は、相応の力を持っておるのであろう? ならば何故邪魔をする? 悪霊となり、人に害を加えれば、生前がいかに清廉潔白であっても地獄行きとなる。ここで成仏させてやる事こそが、その娘のためになる」

 

 コガラシは言い返してやろうと口を開けたが、言葉が出なかった。洩寛の言葉には、信念が感じられたからだ。筋が通っているからだ。

 何年も霊としてさ迷っている以上、簡単に晴れる未練ではあるまい。しかも本人が、その未練が何なのか思い出せないでいる始末だ。

 その未練を晴らす前に、そして憂助が考えているようにゆらぎ荘の守り神となる前に悪霊化する可能性は、大いにあると言っていいだろう。

 

「──イヤ、です」

 

 言い返したのは、幽奈だった。

 

「私はまだ、この世にいたい……やりたい事、知りたい事、たくさんあります……コガラシさんともお友達になれたし、久我さんの事だって知りたいです……!」

「気持ちはわかる。別れはつらかろう。しかしそれは、誰もが受け入れねばならぬ事だ。そなたが悪霊となれば、そなたが大事に思う友人を傷付けるやも知れぬ。そうなる前に成仏し、この世を去れば、極楽浄土なり輪廻転生なり、好きな道を選ぶ事も出来る」

 

 洩寛は優しい声色で、語り掛ける。

 彼はこの世をさまよう霊を救いたいという気持ちから行動しているのだと、コガラシにはわかった。

 しかし──、

 

「坊さんよ、あんたの言い分はわかる。でもやっぱ、幽奈の意思を無視して無理矢理ってのは、納得出来ねえ……怨んでくれても構わねえ。それでも、悪いがあんたには、力ずくでお帰り願うぜ!」

 

 意を決して握り締めた拳を振り上げた瞬間、彼の胸を憂助が木刀で軽く突いた。

 否、押したと言った方がいいだろう。

 本当にそれくらいのかすかな力しか感じなかったのに、コガラシの身体は軽々と吹っ飛び、勢い良く窓に叩きつけられ、そのまま不可視の力で張り付けにされた。

 窓ガラスは割れるどころか、ヒビすら入っていなかった。

 

「く、久我……!?」

「久我、さん……?」

 

 憂助の行動に、コガラシも幽奈も驚いている。

 

「その方は、わかってくれたようだな」

「……ああ。お坊様、あんたの言い分は、正しい。無理矢理は良くないとか言いよったら、警察は仕事出来んしの」

 

 憂助は、木刀を左手の中に収めた。

 

「俺も修行の一環で、何回か悪霊を退治した事がある。そいつ等がみんな、成仏したくて俺の前に現れた訳やねえ。中には、生者への妬みでおかしくなった奴もおる。そんな手合いを無理矢理高い所に送った俺に、文句を言う権利はない……そやけど」

 

 そして、その場に両膝をつき、座り込んだ。

 

「俺も、幽奈さんの意思を無視出来ない程度には、情が湧いた──俺等が間違ってるのは百も承知です。それでも、どうか、幽奈さんに時間をください」

 

 両手をついて、洩寛に深々と頭を下げた。

 

「甘っちょろい事を抜かすな! その時間とやらのためにその娘が悪霊になったらどうする! 貴様の情が彼女をかえって苦しめる事になるのだぞ!」

 

 洩寛の怒号が、雷鳴のように響く。 

 

「拙僧とて目が見えぬ訳ではない。そこな神棚はその娘のために用意したものであろう。だが、果たして間に合うのか? その娘が悪霊となる前に神格を得られると、保証出来るのか? 万が一の事が起きた時、貴様はどうするつもりだ!」

「その時は……」

 

 憂助は、顔を上げた。

 洩寛と、視線が合った。

 憂助は、静かな声で言った。

 

「俺が幽奈さんを倒します」

「ほざくな、小僧!」

 

 洩寛が吼え、錫杖を構えると、憂助の顔面目掛けて突き出した!

 幽奈は思わず目を閉じる。

 洩寛の錫杖は──憂助の顔のわずか数ミリ手前で、止まっていた。

 憂助は、身じろぎ一つせず、目も閉じてなかった。

 

「手元が狂えば、右か左か……どちらかの目は抉れていたぞ?」

「生きていくだけなら、目ん玉一つで充分です」

「……名は」

「久我憂助です」

「やはりか」

 

 洩寛は一人納得し、錫杖を引いた。

 

赤蓮(しゃくれん)殿がおっしゃっていた。『久我憂助なる者、まだ幼く未熟なれど、骨のある傑物だ』とな……その赤蓮殿のお言葉を、信ずるとしよう。

 それに、我等救沌衆、白朗の一件で全員がそなたに借りがある。拙僧からの借りは、この場を黙って立ち去る事で返すとしよう」

 

 洩寛はそう言うと、憂助、幽奈、コガラシにそれぞれ一礼し、去っていった。

 

 コガラシを窓に貼り付けていた力が消え、彼は畳の上に落っこちて尻餅をついた。

 

「く、久我! 大丈夫か!」

「おう。すまんな、横槍入れっしもて」

「いや、謝るのは俺の方だ。幽奈のために高い金払って神棚用意してくれて、あの坊さんに土下座までしてくれて……本当にありがとうな……!」

 

 コガラシは憂助の手を両手で握り締めた。

 

「礼なんぞいらん。言うとくが、今の言葉は本気ぞ? ここは生きとる(もん)の世界で、死んだ(もん)には死んだ(もん)の世界があり、在り方がある。無理を通して道理を引っ込めるのは今回だけだ。場合によっては、俺はお前等の敵になるきの。それが嫌なら、早よ幽奈さんを何とかせえ」

「おう、もちろんだ! 幽奈は必ず、俺が幸せにしてみせる!」

 

 コガラシの答えに、

 

(そういう話やったか?)

 

 と思う憂助だったが、黙っておいた。

 

 洩寛がゆらぎ荘から離れていく姿を窓から確認してから、憂助もゆらぎ荘を出ていく。

 その背中を、コガラシと幽奈は見送った。

 

「……久我さん、本当にいい人ですね」

「ああ、そうだな……正直、惚れたぜ。ガチでな」

 

 答えながらコガラシは、マウンテンバイクに乗って遠ざかる憂助の背中に、いつまでも熱い眼差しを送り続けた。

 幽奈がその横顔に言い知れぬ不安と危機感を覚えたのは、また別の話である……。

 



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心涼しきは無敵なり

 久我京一郎は兼業農家だ。道の駅で小物屋を営む傍ら、畑仕事にも勤しんでいる。

 畑は自宅の近くにあり、親子二人の生活を支えるには充分な広さである。

 その畑と隣り合わせで、小ぢんまりとした道場があった。

 久我憂助は、今朝もそこで父と手合わせをしていた。

 剣道着姿の父子は、木刀を構えて向かい合っている。

 憂助は八双、京一郎は正眼。

 両者構えたまま、石像めいて動かない。

 憂助は険しい表情で、京一郎を睨む。眼差しには、草むらに隠れたネズミを探す隼にも似た鋭さがあった。

 対して京一郎、目を細めており、表情は穏やかだ。正面の憂助を見ているのか、見てないのか。近くを見てるのか、遠くを見てるのか。いまいち判別出来ない。見ようによっては、立ったまま居眠りしてるようにすら見える。

 父子、向かい合って数秒──。

 憂助が動いた。

 

「イェエエーッ!」

 

 雄叫びが空気を震わせ、鋭い面打ちが繰り出された。

 木刀が脳天に触れるか触れないか、そんなギリギリのタイミングで、京一郎は動いた。

 わずかに木刀の切っ先を下げて、そのまま突き出す。

 木刀が憂助の胸を突いた──否、押した。

 

 バァンッ!

 

 途端に憂助は後方に吹っ飛び、大きな音を立てて壁に叩きつけられた。

 

「お前はまだ勘違いしとうごとあるのぉ」

 

 ズルズルと床に落ちた息子に対し、京一郎は木刀を帯に差しながら、嘆息混じりにつぶやいた。

 

「勘違いっちゃ何か」

「いいか憂助。より強い念、より多くの念を出そうとするのは間違っちょうぞ。いやまぁ、ある程度は大事やけど、その一点にこだわると逆に良くない」

「……?」

 

 憂助にはよくわからない。歩み寄って来た父に、無言で続きをうながす。

 

「あのな。そもそも出す念の多さで言ったら、父ちゃんとお前との間にはほとんど差はないどころか、お前の方が上だ。父ちゃんの念を10としたら、お前は12くらいは行っとる。

 じゃあ何故お前が勝てんかと言うと、出す念の質というか純度で、お前は大きく劣ってるからだ」

「純度……?」

「さっきも言うたが、お前はより強い念、より多くの念を出そうとしようやろ。それはいかん。それはお前の心にいらん力みを生む。体は何ぼ暖まっててもいいが、心の中には常に涼やかな風が吹いてないといかん。『心涼しきは無敵なり』と、じいちゃんもよう言っとった」

「じいちゃんが?」

「おうよ。そのじいちゃんがすぐ、瞬間湯沸し器んごとカッカしよるけどのぉ」

 

 京一郎はそう言ってゲラゲラと笑った。

 笑った後、不意に真面目な顔になり、

 

「──今の、じいちゃんには内緒な?」

「だったら言うなや」

 

 憂助は吐き捨てるように答えた。

 そしてしばし考えてから、尋ねる。

 

「心涼しきとか言うが、具体的にどうしたらいいんか」

「うーん、こればっかりは自分に合ったやり方やねえと効果ないきのぉ……じいちゃんは摩利支天尊(まりしてんそん)の真言を唱えよったな」

「あの『おんまりしぇーそわかー』とかいうやつか」

「そうそう、それそれ。しかしこれは摩利支天尊を拝んどるじいちゃんだから効果がある訳で、信心のない奴が唱えても効果なかろ」

 

 確かにその通りだと、憂助は思った。

 

「……親父は?」

「俺か?」

 

 問われた京一郎の脳裏に、亡き妻小百合の顔が浮かんだ。

 途端に京一郎は頬をポッと赤らめ、体をクネクネさせる。

 

「イヤぁ~ねぇ! それは私たち女の子同士の秘密よぉ~っ!」

「張っ倒すぞクソ親父!」

 

 裏声でおどける父に、憂助は怒鳴りつけた。

 

 

 昼休み。

 憂助は教室でさっさと弁当を食べた後、裏庭に移動し、そこでスケッチブックに新商品の絵を描いていた。

 以前憂助が描いた物はあまり売れなかったらしく、『起死回生の第2弾(京一郎談)』をリクエストされたのだ。

 

「売れる・売れないの前に、そもそも客自体が来んやねーか」

 

 という憂助のもっともな意見は、鮮やかに無視された。

 それで、今も思い付くままに鉛筆を走らせているのである。

 

 ──不意に人の気配を感じて、手が止まった。

 気配のした方を振り向くと、宮崎千紗希が気まずそうな笑顔を浮かべていた。

 

「ご、ごめん。邪魔しちゃったかな?」

「……別に」

 

 憂助は素っ気なく答えて、

 

「何か用か?」

 

 と聞いた。

 

「あ、うん。この前、服を溶かす妖怪から助けてくれたお礼……またクッキー焼いて来たの」

 

 そう言って千紗希は、手に持っていた小さな紙包みを差し出した。

 

「……そういう事なら、いらん」

「えっ?」

「結局お前は服を台無しにされたきの。俺が助けたとは言えん。だき、いらん」

「うーん……でも、あの時久我くんがいなかったら、あたし、下着まで溶かされて裸にされてたし……久我くんが瞬間移動で送ってくれたから、恥ずかしい思いをしなくて済んだし、やっぱり久我くんのおかげで助かったと思うの。だから、受け取ってくれないかな?」

「…………」

 

 憂助は口をへの字に曲げて千紗希を睨み、そして、差し出された紙包みを受け取った。

 包みを開けて、さっそく一つ頬張る。

 ほのかな甘味が、好ましかった。

 

「美味いな」

「そう? ありがとう」

 

 受け取ってもらえた上に、味も誉められて、千紗希はホッと胸を撫で下ろす。

 

「しかしお前、俺がここにおるっちようわかったの」

「うん、冬空くんが教えてくれたの」

「……ああ」

 

 冬空コガラシには、湯ノ花幽奈がいつもついている。その幽奈が教えてくれたのだろうと、憂助は推測した。

 

「ところで、何を描いてるの?」

 

 千紗希は憂助の隣にしゃがみこみ、スケッチブックを覗く。

 すぐにパッと笑顔になった。

 

「わぁ、可愛い」

「そう思うんなら買いに来い。今度店に出す新商品だ」

「そうなんだ。じゃあまた日曜日に行くね? この前買った玄武さんの仲間も揃えたいし」

「おう……いや、そげ遠くでもねえし、別に日曜日やねえでも良かろ」

「そう、なんだけど……久我くん、日曜日にしかお店にいないんだよね?」

「ああ」

「じゃあ、やっぱり日曜日に行くよ……その……」

 

 千紗希は突然言い淀んだ。

 

「何か、はっきり言え」

「えっと、その、久我くんのお父さんって、面白い人だと思うけど、その……ああいうグイグイ来る人って、苦手なの」

 

 ぷっ

 

 憂助は小さく吹き出した。

 千紗希にではなく、千紗希に苦手意識を持たれた父に対してだ。

 京一郎は調子のいい性格と、笑うと適度に間抜けになる顔つきのおかげで、大抵の人間と仲良くなれる。

 そんな父を『苦手』と言う人間がいる事が、妙に面白かった。

 

「親父に言っとこう。さぞ落ち込むやろうきの」

「ええっ!? そんな、ダメダメ!」

「そやけど言うとかんと、お前が店に来た時また顔出すぞ、絶対に」

「うぅ~……」

 

 千紗希は思い悩む。

 

「気にすんな。あのアホ親父は、お前一人に避けられたくらいなら、屁とも思わん。落ち込んでも、飯食って寝て、一晩立ったらケロッとしとうわ」

「そ、そうなの?」

「おう」

 

 憂助は答えながら、再び絵を描き始める。

 千紗希は憂助の横顔とスケッチブックを、交互に見やった。

 

「……ちょっと、意外かな」

「何がか」

「久我くんって、意外と文化系なんだなって。音楽もやるし、絵も描けるし」

「そんなん、練習すれば誰でも出来るわ」

「そんな事ないよ。特に笛とか、凄く上手だったし」

「物珍しさでそう思うだけだ。篠笛とか、お前の周りでやってる奴とかまずおらんやろうしの」

「あれ、篠笛って言うんだ」

「おう、母ちゃんがやっとったらしい」

 

 そこ憂助は口をつぐんだ。余計な事を言ったと、後悔もした。

 

「じゃあ、笛はお母さんに習ったの?」

「…………」

 

 千紗希の問いに、憂助は沈黙した。スケッチブックに目線を落とす。

 わずかな間を置いて、答えた。

 

「うんにゃ。自分で覚えた。音の出し方から指使いまで、全部我流だ」

「あれ? お母さんがやってたって……」

「母ちゃんは、俺を生んですぐ、病気で死んだらしい。だき俺は、写真でしか母ちゃんの事を知らん。その母ちゃんが昔やっとったっち親父から聞いて……で、まぁ、何となく興味を覚えて、それで始めた」

 

 黙っていればかえって気を遣わせると思い、憂助は一息に説明した。

 母と同じ趣味を持つ事で、少しでも母の事を知りたいという想いがあったが、それは言わなかった。

 

「そうなんだ……ご、ごめんね、余計な事聞いちゃって」

「言ったのは俺だ、気にすんな。お前が殺した訳やねかろ」

「でも、それで一人であそこまで吹けるようになるのって、やっぱり凄いと思うよ?」

「おい、おだてても木には登らんぞ」

「おだててなんかないよ。本当にそう思ってる」

「……そうか」

 

 それきり、憂助は黙り込んだ。

 黙々とスケッチブックに鉛筆を走らせる。

 千紗希はしばらくの間、その横顔を、じっと見つめていた。

 

「さっきの話なんだけど」

「おう」

「別に、久我くんのお父さんが特別苦手って訳じゃないの……ただ、昔から男の人ってちょっと苦手で」

 

 千紗希自身、何故こんな事を話す気になったか、わからない。

 しかし、何となく自然と、口に出た。

 

「ママから、男の人はみんな狼だって教えられてたのもあるんだけど……それに、実際に学校でも街でも、周りの男の人にジロジロ見られて……他の女の子に相談しても自意識過剰だって笑われて、真面目に話を聞いてくれたのは芹と博子くらいだったな……胸が大きくなり出してからは余計に視線を感じるようになって、胸を押さえて歩いたり、思いっきり地味な格好してみたけど、それでも視線を感じて……だから、なのかなぁ……」

「何がか」

「久我くんの素っ気ないとこが、何だか、かえって落ち着くの」

「今もか?」

「うん」

「そういうもんか」

「うん」

「そうか」

「うん」

 

 そして二人は、何も言わなくなった。

 憂助は依然、黙々と絵を描き続ける。

 千紗希の視線は、スケッチブックではなく憂助の横顔に向いていた。

 

 不思議なものだと、千紗希は思う。

 初めて会った時は、ぶっきらぼうな物言いや突き刺すような視線に、軽い恐怖を覚えた。

 木刀一本で妖怪や魔物を退治する姿は、まるでテレビや漫画のヒーローのように頼もしかった。

 しかし今、隣で絵を描いている少年の横顔は、むしろ自分よりも幼く見えた。

 笛をやっているのは、亡き母を偲び、同じ笛をたしなむ事で寂しさを紛らわせようとしているからかも知れない。

 

「ねぇ、久我くん」

「おう」

「この前も言ったけど、あたしは久我くんの事、応援してるから」

「おう」

「だから、あたしに出来る事があったら、何でも言ってね」

 

 憂助は、そこで千紗希の方を向いた。

 千紗希の柔らかな笑顔が、そこにあった。

 目と目が合う。

 

「……あったら、の」

 

 憂助は突き放すように言って、目線を逸らした。

 その様が可愛らしくて、千紗希は思わず微笑むのだった。

 

 

 道場で、久我親子は剣道着姿で向かい合っていた。

 木刀を正眼に構えつつ、京一郎は息子の様子に首を捻る。

 

(……思ったより早かったのぉ)

 

 これまで感じていた過剰な激しさや力みが、いくぶん影を潜めている。心気を穏やかに保つ方法を、彼なりに掴んだのだろう。息子の性格からして、もう少し時間がかかると思ったのだが……。

 憂助は相変わらず、木刀を八双に掲げている。

 そして自ら間境を越えて来た。

 上段からの鋭い打ち下ろしを、京一郎はいつぞやのように十二分に引き付けてから、カウンターの突きを打つ。

 しかし木刀は、ただ虚空を貫くのみだった。

 憂助の体は低く沈んでいた。

 身を沈めつつ、独楽のように回転して、勢いの付いた下段斬り!

 しかしこの攻撃もまた、空を切った。

 京一郎はフワリと宙に跳躍し、かわしていたのだ。

 

「久我流念法、流れ星!」

 

 京一郎は眼下の息子へ、手中の木刀を投げつける。

 その名のごとき流星めいて、木刀は一直線に憂助の肩に当たった。

 瞬間、憂助は全身に熱を伴う衝撃を受けて、床に倒れ伏した。

 

「見事だ憂助。心涼しきは無敵なり、少しはわかってきたごとあるのぉ」

「見事とか言うんやったら、一本くらい取らせろや」

「ハッハッハッ! よう言うわ、譲られたら譲られたで『馬鹿にするな』っち文句言うくせに」

 

 割りとその通りなので、憂助は口をへの字に曲げて黙り込んだ。

 

「まぁ、今日の感じを忘れんようにな。心の中に常に涼やかな風を吹かせとけ。そしたらそのうち父ちゃんから一本取れるようになるやろ。楽しみにしちょうきの」

 

 京一郎は木刀を壁に架けて、朝食を作るために道場を出た。

 憂助は床の上であぐらをかき、それを見送った。

 

「涼やかな風、か……」

 

 そんなものは、吹いてなかった。

 ただ、京一郎と向かい合った時、不意に千紗希の顔が脳裏に浮かんだのだ。

 その柔らかな笑顔が浮かんだ瞬間、心の中に暖かなものが広がり、程好く力が抜けたのだ。体からも、心からも。

 何故千紗希の顔を思い浮かべたのか。

 憂助自身、それがわからず、ただガシガシと頭を掻くだけだった……。



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逆襲の朧さん

 湯煙市郊外の山林を、冬空コガラシは一人でうろついていた。

 時刻は、午後4時前。

 制服姿なのは、下校途中だからだ。道に迷った訳でも何でもない。夕食の足しになればと思い、山菜採りに勤しんでいるのである。湯煙市に住み始めて日も浅いが、この周辺にはよく育ったワラビやゼンマイが採れる事は、既に確認済みだった。

 

 木々の間をすり抜けて進む内に、アスファルトで舗装された山道に出た。

 手にしたビニール袋は、大量の山菜で膨らんでいる。

 道に出た事だし、今日はこのくらいにして帰ろうと判断したコガラシは、山菜の詰まったビニール袋をバッグに押し込み、ゆらぎ荘のある方角目指して、道路の路肩を歩き始めた。

 平日の夕方だが、通る車はほとんどない。時折どこからか、鳥たちのさえずりが聞こえてきた。

 

 しばらく歩くと、道路の左手に建物が見えた。

 

 山菜レストラン《やすらぎ》

 

 横書きで書かれた看板が出入口の上に掲げられている。

 しかしコガラシの目を引いたのは、その出入口の左右の(のぼり)に書かれた文句だった。

 

『開店記念タイムセール中。夕方4時から6時までは全品半額!』

 

 そのように書かれてある幟の前で、コガラシは一度目をまばたきさせた後、もう一度まじまじと幟の文句に目を通す。

 

『開店記念タイムセール中。夕方4時から6時までは全品半額!』

 

(行くしかないッッ!!)

 

 コガラシは勇んで店内へと入っていった。

 

「いらっしゃいませ、空いてるお席へどうぞ」

 

 ドアを開けて入るなり、店員が出迎えてくれた。

 ミニスカメイド服とでも形容すべき服装の、ショートヘアの女性だ。

 左目には、刀の鍔を利用した眼帯がされてあった。

 

「なんでここにいるんだ朧ぉぉおおおおおーーーーッッ!!」

 

 コガラシは叫んだ。

 しかし朧は、冷静沈着だった。

 

「お客様、店内で大奇声を上げるのは他のお客様のご迷惑ですので、ご遠慮なさるようお願い申し上げます」

「……あ、ああ、悪い」

 

 あまりの落ち着きように、コガラシは思わず素直に謝ってしまった。

 とりあえず窓際の席に座ると、朧が水の入ったグラスを持ってくる。

 

「……で、なんでここにいるんだ? 何を企んでやがる」

 

 コガラシはじろりと朧を睨み、詰問した。

 

「目的は以前にも言っただろう? あの木刀使いへの雪辱と、貴様の子種だ。そのためには当分湯煙市に滞在せねばならん。それで、当座の生活費を稼ぐためにこの店でアルバイトをする事にしたのだ。なに、そう構えるな。私を雇ってくれたオーナーに報いるためにも、この店の中では手は出さん──ではお客様。ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンでお呼びください」

 

 朧はそう言って、奥の厨房があるカウンターの中へと入っていった。

 コガラシは店内をぐるりと見渡す。

 席が五つほどの、こじんまりとした店構えだ。

 他の席には、サラリーマンやOLらしきスーツ姿の客が見受けられる。

 朧と同じ格好のウェイトレスが一人、彼等の間をキビキビと動き回っていた。

 控えめな音量でジャズが流れて、落ち着いた雰囲気だ。

 特に怪しい感じはしなかった。

 

(考えすぎか……)

 

 コガラシはテーブルの上に置かれたお品書きを広げた。

 品数は少ない物の、写真と一緒に記載されたメニューは、どれも街中のレストランと比べても良心的といえる値段だ。それらが今は、タイムセールで更に半額と来ている。

 

「ガチでいいとこ見付けたな……帰ったらみんなにも教えてやらねえと」

 

 そんな事をつぶやいていると、カランカランと音がした。また来客のようだ。

 

「いらっしゃいませ、空いてるお席へどうぞ」

「……貴様(きさん)、こげなとこで何しようとか」

 

 応対に出た朧に、訛りのある詰問をする声。

 思わずバッと振り向いたコガラシの目に、久我憂助の姿が映った。

 

「おーい久我! こっち空いてるぜ!」

 

 立ち上がり、手を振って呼び掛けると、憂助はそちらに向かい、テーブルを挟んでコガラシの正面に座った。

 

「オメェーもこげなとこで何しようとか。ゆらぎ荘はこっちやねかろうも」

「晩のおかずに山菜採ってたんだよ。で、帰り道にこの店見付けたんで、今半額中らしいからちょっとな」

「それでか」

「久我は? もしかして家、この辺なのか?」

「もうちっと奥の方やけどの」

「そっかぁー。ちょっと羨ましいぜ。この辺、ガチででっかいワラビやゼンマイがうじゃうじゃ生えてるからな」

「この辺りは気の流れの交差するポイントがいくつかあるきの。そういう所では植物もよう育つ」

「それでか。前からちょくちょく来てたけど、この辺に来ると何となく元気が出てくるんだよなぁー。そういう事なら納得だ」

 

 そこへ、朧が水の入ったグラスを憂助の前に置いた。

 それで会話が一瞬途切れたが、すぐにコガラシの方から再開した。

 

「でもホントにいいとこ見付けたよな。今も言ったけど、前からこの辺にはちょくちょく来てたんだぜ? なのに、レストラン建ててるなんて全然気付かなかったよ」

「俺も毎日通りようんやけどのう……今朝まで影も形もなかったどころか、店建てるための空き地すらなかったんやが……灯台下暗しっちゃあこのことやのぉ」

「ああ、まったくだな」

 

 そう言い合って、二人は朗らかに笑い合った。

 笑い合った後、黙り込む。

 二人は全く同じ事を思ったのだ。

 

 ──いや、おかしいだろ、それ。

 

「今朝なかったもんが、半日かそこらで建つ訳ねかろうに……」

「あ、あれ? なんで俺、何の疑問も持たずに入ったんだ?」

 

 憂助とコガラシは文字通り頭を抱えた。

 

 気が付くと、妙に店内が静まり返っていた。

 音楽が止まったようだが、それにしても静かすぎる。他の客の雑談の声すら聞こえない。

 

「……おい、ちょっとおかしねぇか? こげな時間にこげな山ん中に、なしサラリーマンとかおるんか……まだ仕事中のはずやろ」

「あ、あの、すいません! ちょっとこの店の事で聞きたい事が」

 

 コガラシが近くの席に座っているサラリーマンに呼び掛けながら、その肩に手をやった。

 途端に、サラリーマンは倒れる。

 

「うおっ!? す、すんません、だいじょ──」

 

 大丈夫ですかと聞こうとした声が、途中で止まった。

 床に倒れていたのは、サラリーマンではなく案山子だったのだ。

 

「な、何だよこれ……さっきまでは確かに……」

「おい」

 

 憂助が呼び掛けた。

 振り向くと、彼は立ち上がり、窓を睨んでいる。

 

「窓が、ただの壁に描いた絵になっとう……」

 

 言いながら、拳で窓を叩く。

 ガラスを叩く音では、なかった。

 ウインドウの枠も、その向こう側にある外の景色も、憂助の言う通り、粗雑に描かれたただの絵になっていた。

 コガラシが弾かれたように、出入口のドアの方を見ると──何もなかった。確かにあったはずの、ついさっき自分たちが入ってきたドアが、ない。ただの壁に変わっていた。

 

「まさか、罠……?」

「その通り」

 

 コガラシのつぶやきに答えたのは、朧だった。

 

「この店は貴様たちを捕らえるために私が妖術で造り上げた、まやかしの異空間だ。まさか目当ての二人が揃ってやって来るとは、思わぬ幸運だったがな」

 

 朧の白い両腕が、鉄色の刃に変形する。

 客やもう一人のウェイトレスの姿は、既に跡形もなく掻き消えていた。

 コガラシはとっさに拳を握り、身構えた。

 しかし身構えただけで、動こうとしない。

 彼の性格や信条が、敵とはいえ女性に手を上げる事を許さないのだ。

 

「下がっとけ」

 

 憂助が後ろから声を掛けた。その右手には、柄に『獅子王』の文字を彫った木刀が握られている。

 

「お前、女は殴れんとやろが。なら、俺がやらなしゃあねかろ」

 

 そう言ってコガラシの前に出ると、木刀を右八双に構えた。

 

「話が早いな──いざ、参る」

 

 朧の体がかすかに沈んだかと思うと、既に一足一刀の間境を越えていた。

 刀に変化した両腕が閃く。

 右は憂助の首を、左は脇腹を狙っていた。

 左右が別々の方向から同時攻撃出来る、二刀流の強みを活かしたアタックである。

 対して憂助、木刀で首筋に迫る刃を打ち、受け流す。

 受け流された刃は加速して、憂助の脇腹を狙っていた刃と激しくぶつかり合った。朧は自分の右腕で、自分の左腕での攻撃を阻害した形となった。

 

「エヤアッ!」

 

 鋭い掛け声と共に、憂助の突きが朧の胴に入る。

 朧はまるでカンフー映画のワイヤーアクションめいて吹き飛んだ。

 そしてそのまま壁に叩き付けられ──たりは、しない。宙で身をひるがえして()()()()()、天井へと跳び上がった。

 同時に、朧の両足首まで刃に変化して、天井に突き刺さる。彼女の体はコウモリめいて天井にぶら下がった。

 丈の短いスカートが重力に従ってめくれ上がり、レースの下着があらわになる。

 構わず朧、憂助の真上に移動して急降下。

 頭上から迫る刃を、憂助は横に跳んでかわす。床に降りた朧に反撃しようとするが、敵の姿は既にそこになく、天井へと戻っていた。

 朧は天井と床を超高速で行き来しながら、熾烈な攻撃を繰り返す。

 憂助は時に避け、時に木刀で打ち払いするものの、テーブルや椅子が邪魔をして、思うようには動けない。

 朧の口角が、上がっていた。勝利を確信した笑みだ。罠に掛かった獲物を目の前にした、狩人の笑みだ。

 

 不意に憂助が、木刀を上下逆に持ち換えた。

 

「久我流念法、天地返し!」

 

 そして床に勢い良く木刀を突き立てると、次の瞬間、弾かれたように店中のテーブルや椅子が宙に舞い上がった!

 そして磁石で吸い付いたかのように、天井にくっついてしまう。それも、朧を囲むように!

 

「くっ、まさか、こんな……!」

 

 行動の自由を思わぬ形で制限された朧。

 だが、まだ手はあった。

 左腕を刃から元の生身の腕に戻すと、その左手で自らの着衣を掴む。いったいどういう構造になっているのか、メイド服がまるごと綺麗に脱げた。

 朧はそれを天井から憂助へと投げつける。メイド服が、少年の視界を塞いだ。

 その隙に朧は天井から跳躍して、真正面から右腕の刃を振り下ろした。

 だが、それより早くメイド服の向こうから、木刀の切っ先が稲妻のごとく伸びてきた!

 メイド服を突き破ったのではなく、透過しての攻撃──久我流念法、陣幕突き!

 それをまともに受けた朧は、エジプトの壁画を思わせる、乙女にあるまじきポーズで壁に叩き付けられ、気を失った。

 

 

 壁や天井もスゥーッと消えていき、一同は道から外れた森の中にいた。

 憂助は木刀を左手の平にしまうと、地面に落ちている自分の鞄の中からアーミーナイフを取り出した。それを使って、近くの木の幹に巻き付いている蔓草を数本、手頃な長さに切り取り、下着姿で昏倒したままの朧を木に縛り付けた。

 

「久我、大丈夫か?」

「まぁ、風邪くらいは引くかも知れんが、そんくらいのペナルティがねぇとこっちも業腹やきのぉ」

 

 コガラシは「怪我はないか」と聞いたのだが、憂助は「朧をこんな場所に放置していいのか」という意味に捉えたらしく、ちょっと噛み合わない返答をした。

 

「しかし回りくどい事しよんのぉ……おい、お前ちゃんと俺の携帯の番号渡しといたんやろうのぉ」

 

 朧がゆらぎ荘に侵入したその日、コガラシは憂助に彼女の事を伝えて警戒を呼び掛けた。しかし憂助は、紙に自分のスマホの番号を書くと、

 

「いつでも稽古付けちゃるっち言うとけ」

 

 と言って、その紙切れをコガラシに渡しておいたのだ。

 

「すまねえ、あれから全然姿を見せなかったもんだから……」

 

 コガラシはそう謝った。

 

「なら、しょうがねえか。あの紙、今持っとうか?」

「あ、ああ。ほら」

 

 コガラシが自分のバッグから出した紙を受け取った憂助は、それを持って朧の前に立つ。

 数秒の思案の後、ブラジャーで寄せて上げて作られた胸の谷間に、恐る恐る差し込んだ。

 

「うっし!」

 

 清々したとばかりに声を上げた憂助は、自分の鞄を拾い上げ、肩に掛ける。

 

「つまらん道草食っしもたわ。帰るか」

「そうだな……なんか、妙に疲れちまったぜ」

 

 俺、何もしてないけど。

 コガラシは胸の内で付け加えた。

 チラリと朧の方を見やる。

 特に外傷は見受けられなかった。

 

(怪我一つさせずに、こいつをやっつけたって事か……)

 

 改めて、憂助に対する尊敬の気持ちが深まるコガラシであった……。



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臨海学校
一日目・昼 海水浴


 その日の久我憂助の昼食は、コンビニで買い込んだ物であった。

 チーズレタスサンドにチキンカツサンド、一本のバナナに紙パックのカフェオレ。チョコレート。

 週に一度はこういった物を買う。

 弁当の中身がたいてい、おにぎりと少々のおかずといった程度なので、彼なりの贅沢だ。

 今日は天気も良く、ほどよい涼風が吹くのどかな日和である。いつもの裏庭で、その“贅沢”な昼食を終えると、懐から細長い布袋を取り出した。

 中に入っているのは、黒塗りの篠笛だ。金箔で桜の絵が描かれている。憂助が手ずから作った物で、塗装や描画は父の工房で行った。

 その笛を口にあてがい、息を吹き込み、

 

 ひゅうっ

 

 と一音を発した。歌口の角度の確認である。

 それから、一曲吹き始めた。『荒城の月』をスローペースで、音の一つ一つを自身の耳で確かめながら奏でていく。

 吹き終わった後、笛を袋にしまいながら左手の方を向いた。

 宮崎千紗希が、そこに立っていた。

 

「どうした」

「うん、ちょっと相談したい事があって……冬空くんの事で」

 

 言いながらパタパタと歩み寄り、憂助の隣にチョコンと座った。

 

「あいつがどうした」

「冬空くんね、入学式の日に自分は霊能力者だって言って、男子の何人かは信じてるみたいだけど、クラスの他の子たちはみんな信じてないどころか、馬鹿にしてる子とかもいるの」

「そら、そげな事言うたら当然やろ」

「それはそうなんだけど、ちょっとかわいそうで……何とかして、みんなに信じさせてあげる事って出来ないかな?」

「冬空は何ち言いよるんか」

「特に何も……あんまり気にしてないみたい」

「なら、ほっとけ」

「えっ?」

 

 意外な言葉だったらしく、千紗希は間の抜けた声を漏らした。

 

「本人が気にしとらんとやったら、別に良かろ。それに本物っち知れたら、それはそれで面倒事の種やしの」

「面倒事って……除霊を頼まれるとか? でも、それなら冬空くんも、困った事があったら相談に乗るって自分で言ってたし……」

「限度があろうも。まぁ、幽霊に悩まされる奴とかそげおらんけどの──問題は、アイツが本物っち知って、つまらん事考える奴が寄ってくる事だ」

「つまらん事って……お金儲けとか?」

「それならまだマシだ。金にならんとわかれば自分から離れるきの。しかし、正義感で寄ってくる奴は(たち)が悪い」

「んっと……どういう事?」

 

 千紗希は小首を傾げて、尋ねた。

 

「冬空を、幽霊に悩まされてる奴に紹介する、あるいは、本当に“出る”心霊スポットとかに連れていく。で、除霊をさせる。それで自分が良い事したげな気分になるアホの事だ。そいつにしてみりゃ冬空はただで使い潰せる便利な除霊アイテムで、自分が危ない目に遭う訳やねえ上に、表向きは世のため人のためっち大義名分もあるき、歯止めが効かん」

「……そっか、そういう事もあるんだ」

「おうよ。今の話とはちっと違うが、歯止めで言うたら如月(きさらぎ)姫沙羅(きさら)とかそうやろうが。最初はちょっと勘の良いプチ超能力者げな扱いやったんに、今じゃ心霊スポット単独突撃とかやらされよろうも。ありゃもうお笑い芸人一歩手前やぞ」

 

 如月姫沙羅は近年テレビ番組で有名になった女性霊能力者である。

 エキセントリックなお嬢様系キャラクターと、それを支える今すぐにでもグラビアデビュー出来そうなルックスとプロポーションで、心霊ブームを再燃させた立役者だ。

 しかし出演する番組は、霊視から除霊、心霊スポット突撃など内容が過激になり、それに合わせて天女めいたコスチュームに身を包み、黒子が担ぐ駕籠に乗って現れる派手な演出などをするようになった。そんな彼女やテレビ番組のスタッフに、眉をひそめる視聴者もいる。『お笑い芸人一歩手前』とは、決して憂助個人の評価ではないのだ。

 

「……確かに」

 

 以前見た心霊特番で同じ感想を抱いたため、千紗希は納得した。

 

「まぁー、あれとはまたベクトルも違うが、歯止めが効かんでどんどんヤバい奴の相手させられて、アイツがヤバい事になったら、お前も気分悪かろ。ほっとけ。だいたい、なしお前が冬空の事気にするんか。アイツにスカートめくられたとか言うとらんかったか?」

「あ、うん、そうなんだけど、でもそれは幽奈さんがやった事で、その幽奈さんも制服が珍しくてついやっちゃっただけらしくて……」

「──お前、幽奈さんが見えるんか」

「ううん。でも、筆談でお話出来るから……」

「そうか」

 

 ポンコツ幽霊のくせに、変なとこで器用やの……と思いはするが、敢えて口にはしない憂助であった。

 

 二人の会話はそこで途切れた。

 少しして、「あ、そういえば」と、千紗希が再び話し出す。

 

「来週、臨海学校だよね」

 

 話題が変わりすぎだが、強引に会話を続けようと思ったのではなく、本当にふとその話題が頭に浮かんだのだ。

 

「……ああ、そうやったのぉ」

「水着は各自持参って事だけど、久我くんはどうするの?」

「学校の水着でいいわ。女の子ならともかく、男の水着なんぞそれで充分だ……どーせ俺は泳がんしの」

「えっ、どうして?」

「俺は海は好かん。小せぇ頃に親父に連れてってもろうたが、波はあるし水は塩っ辛いしクラゲに刺されるし、散々やったわ。だき臨海学校も行きたねぇが、サボる訳にもいかんきの。行くだけ行くが、海は死んでも泳がん」

「でもそれって、小さい頃の話でしょ? 今なら平気かも知れないよ?」

 

 千紗希は、幼子に優しく諭すように言う。

 

「嫌いなものをいつまでも嫌いなままでいるなんて、もったいないよ。せっかくの臨海学校なんだし、楽しい思い出は多い方がいいでしょ?」

「…………」

 

 憂助は答えない。

 口をへの字に曲げて、千紗希を横目でジロリと睨む。

 千紗希は、怯える風でもなく、柔和な微笑みを浮かべていた。

 

「…………」

 

 その微笑みを見ていると、妙に力が抜けていく。

 憂助はフゥッと息をついた。

 

「そやの。マエムキにケントーしとくわ」

「はい、よろしい」

 

 まるで小さな子供が拗ねてるような憂助の様子に、千紗希はコロコロと笑った。

 

 嫌いなものをいつまでも嫌いなままでいるのはもったいない。

 冬空コガラシと湯ノ花幽奈然り。

 そして、今自分の隣にいる久我憂助然り。

 実際に『知らなければ良かった』と後悔する事もあるが、『知って良かった』と思う事だってたくさんある。

 一般論ではなく経験則として、千紗希はそう思っている。

 今日も憂助の知らない一面を垣間見れて、得をした気分だった。

 

 

 週が明けて、湯煙高校一年生の臨海学校が始まった。

 初日の自由時間、砂浜に出た生徒たちの目を引いたのは、宮崎千紗希だった。

 上下ともにフリルの付いた、花柄のビキニを着ているのだ。モデルのスカウト話もあったと噂されるほどのプロポーションもあって、一緒に歩いている柳沢芹や三浦博子が霞んで見えるほどの存在感があった。

 

 ──一方、違う意味で異彩を放つ者がいた。

 全員が水着姿でいる中、彼は制服姿のままなのだ。

 久我憂助であった。

 結局、海嫌いを克服する気はないようだ。

 死んでも泳がないという硬い意思を、この上なく雄弁に表明する少年を見た千紗希は、思わず苦笑した。

 

「そんなカッコで、どしたの久我っち」

「お前、水着忘れたのか?」

 

 事情を知らない博子と芹が尋ねると、憂助は二人をジロリと睨み付け、

 

「海は好かん。死んでも泳がん」

 

 とだけ言った。

 

「前向きに検討してくれるんじゃなかったの?」

「マエムキにケントーした結果だ」

 

 千紗希にもつれない返事だった。

 

(変なとこで子供なんだから……)

 

 半ば呆れる千紗希だったが、怒っても仕方がない。せっかくの臨海学校だ、楽しまなくては損である。

 

「じゃあ泳がなくてもいいから、浅いとこで一緒に遊ぼう?」

 

 そう言って、憂助の手を引いて浅瀬に向かう。

 無言でついていく憂助と合わせて、姉弟めいた様相だった。

 それを見て、芹と博子は目を丸くした。

 次いでそれぞれ、自分の頬をつねる。

 痛い。

 

「……夢じゃねえって事だな」

「……うん。現実に今、あの千紗希が、自分から男の子と手を繋いでるよ」

「プチ男性恐怖症だったアイツが、ねぇ……」

「スマホかカメラ持ってくれば良かったよ……」

 

 長い付き合いの彼女たちからすれば、それほどまでに衝撃的な出来事なのである。

 そうでなくとも、学年一の美少女とも噂されている千紗希と手を繋ぐ男子というのは、他の生徒からしてもなかなかに衝撃的な光景である。

 特に男子からの嫉妬の視線が、激しかった。

 女子からも視線を向ける者がいた。

 誅魔忍である一年三組の雨野狭霧と、同級生で同じ誅魔忍でもある浦方うららだった。

 

「ふぅーん……あれが狭霧をKOした念法使いかいな」

「そうだ」

「みんな水着で来とる中、一人制服とは……泳げへんのか単に泳ぎたないんか知らんが、大した度胸やなぁ……」

 

 感心しているのではなく、呆れていた。

 狭霧も憂助の制服姿に、同じ感想を抱いていた。自分だって周りに合わせて、恥ずかしいのを我慢して水着を着ているというのに……そんな思いもあって、眉間にシワが寄っている。

 憂助とは面識のないうららも、表情にどこか険があった。

 念法使いとの間の因縁は、彼女たちの世代にとっては歴史の教科書に載ってるのと変わらない、遠い出来事である。

 しかし、日本の平和を霊的な面から守っているのは自分たち誅魔忍だという自負がある。そう思えるだけの実績も積み重ねてきたつもりだ。

 それ故か、『念法使い』に対しては態度にもトゲがあった。

 

「それはそれとして、さっきの話だが……」

「ああ、最近この浜辺に出るっちゅう妖怪の事? まぁあくまでも噂で、おるかどうかもハッキリしとらんのやけどな。しかし火のない所に煙は立たんて夏目漱石先生も言うてはるし、ウチらで調査だけでもしといた方がええと思うんや」

「確かに夏目漱石も言った事はあるかも知れんが、別に夏目漱石が言い始めではないだろう……だが同感だ。もしも危険性のある妖怪が本当にいるようなら、退治もしておこう。幸い、戦力は充分過ぎるほどあるしな」

 

 そう言って、狭霧が振り向いた先には、同級生の兵藤(さとし)と一緒にゴムボートを担いでこっちに向かってくる冬空コガラシがいた。

 いつも一緒の幽奈は、留守番である。

 

「ゆらぎ荘の守り神が、そのゆらぎ荘を離れる訳にはいきませんから!」

 

 と、妙な使命感に燃えていた……。

 それはさておき、四人で海に出て、泳ぎ回ったりゴムボートの上で日向ぼっこしたりと、のんびりした時間を過ごす。

 浮き輪でプカプカと波に揺られるうららに、コガラシが話し掛けて来た。

 

「なぁ浦方。さっき宿舎の人から、この辺に妖怪が出るって噂聞いたんだけど、それ本当なのか?」

「あくまでも噂や。本当におるかどうかもわからん。ただ、その噂によるとけったいな妖怪みたいやな。触手みたいな妖怪で、泳いどる人の体にヌルッと巻き付いて──」

「巻き付いて?」

「……水着を剥ぎ取るらしい

 

 

 岩場に隔てられた小さな砂浜で、憂助は波打ち際にしゃがみ、腰まで水に浸かってビーチボールで遊ぶ千紗希たち三人をつまらなそうに眺めていた。

 足下まで寄せてくる波に視線を落とし、指先を海水に浸して、ペロリと舐める。

 当たり前だが、しょっぱい。

 唾と一緒にペッと吐き出して、口をへの字に曲げた。

 千紗希は千紗希で、そんな憂助を時々横目でチラチラと確認していた。

 

(悪い事しちゃったかなぁ……)

 

 嫌がる相手に無理強いしたような罪悪感があった。

 

「わひゃっ!?」

 

 不意にすっとんきょうな声が上がった。博子だ。

 

「どうした?」

「な、何か今、ヌルッとしたのが……うひぃっ!」

 

 博子は芹に答える途中で、またもや声を上げて、体をゾワゾワと震わせる。

 ヌメヌメした細長い物が、下半身に巻き付いて来たのだ。

 その細長い何かは更に、あろう事か水着の中に潜り込んで来て、力任せに剥ぎ取ってしまった。

 そして、それを合図にしたかのように、突如水面が爆ぜて、無数の触手が湧いて出た。

 悲鳴を上げる三人の少女たちに一斉に襲い掛かり、その身を絡め捕ると、宙に高々と持ち上げ、水着を剥ぎ取る。

 三人はあっという間に、全裸に剥かれてしまった。

 ──が、それも束の間、一条の閃光がほとばしり、触手を切断、少女たちを解放した。

 久我憂助であった。

 右手には、柄に『獅子王』の文字を彫った木刀が握られている。

 

「く、久我……くん……?」

 

 胸を両腕で隠しつつ、千紗希は目を丸くして、呆けた顔をしている。

 無理もない。彼は海面の上に立っているのだから。

 憂助は何も言わず、千紗希の腕を掴んで軽々と持ち上げ、肩に担いだ。

 水面を蹴ってアメンボのように移動して、芹と博子に近付く。

 

「掴まれ」

 

 そう言って、木刀を差し出した。

 二人が木製の刀身を掴むと、憂助は岩場に瞬間移動した。

 

「そこにおっとけ」

 

 千紗希を下ろして言い捨てると、依然獲物を求めてうごめく触手の群れに斬りかかっていく。

 憂助の念を宿した木刀が降魔の利剣となって、群がる触手を次々と薙ぎ払っていった。

 触手の先端には頭がある。蛇ではなく、ウナギやアナゴに近い。

 憂助は片っ端から切断していくが、数は一向に減らなかった。

 群れの統率も取れている。連携も巧みで、憂助は四方八方からの攻撃をどうにかこうにか防いでいた。

 

(何か変やの……)

 

 触手の数は一向に減らないが、増えもしない。

 そして、連携も完璧すぎる。

 答えはすぐにわかった。

 切断した触手の断面から、新たな頭が生えて来たのだ。ギリシャ神話の毒蛇ヒュドラのごとき再生能力を有しているのである。

 

「けっ、種さえわかれば、どうっちゅう事はねえ」

 

 憂助は手中の木刀に意識を集中させた。

 込められた念が炎のような輝きを放つ。

 

「イィーーエヤァッ!」

 

 烈帛の気合いと共に振り抜いた木刀が、迫る触手を切断する。

 再生は──されなかった。

 念の光が炎となって傷口に宿り、焼き尽くし、再生を妨げているのだ。

 憂助はそうやって、次々と再生を阻害する攻撃でもって、触手を薙ぎ払っていく。

 

「おおっ! やるじゃねーか久我!」

「やっちゃえ久我っちー!」

 

 岩場の陰から観戦していた芹と博子が、形勢逆転と見て呑気に声援まで送る。

 

「ちょ、ちょっと! あんまり大きな声出すと誰か来ちゃうよ!」

 

 しかし千紗希に言われてその事に気付き、すぐに彼女同様に両腕で大事な部分を隠し、その場で縮こまった。

 

 半数以上が切断された触手の群れが、不意に海中へと退いていく。

 逃げるのかと憂助が思ったのも束の間、海面が大きく盛り上がり、別の怪物が姿を現した。

 その姿は、背中から無数の触手を生やしたシーラカンスとでも言うべきか……しかし、巨大であった。

 海中に隠れてる部分を考慮すると、地面から背中までの高さは4メートル近い。

 頭から尻尾までの長さは、10メートルを越すだろう。

 触手が再生されないのを不審に思い、確かめにでも来たのだろうか。

 何の感情も見せない丸い目で憂助を睨んだソイツは、口から五本の舌を伸ばしてきた。

 一本一本の先端が、鋭い銛状になっている。

 憂助は木刀でそれ等を打ち払うと、海面を蹴って高々と宙に舞い上がった。

 狙うは両の眼の真ん中──!

 

「久我流念法、電光(いかづち)!」

 

 大上段から振り下ろされた一撃が、怪物の顔面を一刀両断した。

 傷口は奥へ奥へと広がり、巨体が頭から尻尾まで真っ二つに切り裂かれる──稲妻に打たれて引き裂かれた巨木のごとく。

 憂助が地面に立つように海面に着地するのと、怪物の巨体が触手もろとも黒い塵となって消滅したのは、ほぼ同時であった。

 

 足下の海面に、剥ぎ取られたビキニの水着が二人分、流れてきた。

 憂助はそれを拾って、岩場の女子たちに渡す。

 それは芹と博子の物だったらしく、二人はすぐに身に付けると、千紗希の水着を探そうと岩場から出てきた。

 

「おぉーい、大丈夫かぁーっ!」

 

 そこへ、そんな声がした。冬空コガラシたちである。千紗希たちの悲鳴が聞こえ、駆けつけたのだろう。

 

「こっち来んな淫獣(セクシャルビースト)!」

「千紗希の半径10メートル圏内に入ったら呪いの藁人形に五寸釘打ち付け殺すわよエロ始皇帝!」

 

 コガラシの姿を見るなり、芹と博子は容赦のない罵声を飛ばす。

 千紗希は──思わず憂助を引き寄せ、思いっきり抱きついた。

 

「おい」

「ご、ごめん! で、でもこうでもしないと、冬空くんたちに裸見られちゃうから! だから離れないで! 絶対離れないで!」

 

 岩と憂助の体で、裸身を隠したいのだろう。

 制服もその下のシャツも、千紗希の濡れた裸体を押し付けられて、海水を吸って濡れてしまったが、憂助は何も言わなかった。

 ただ、顔を真っ赤にして羞恥に震える千紗希が可哀想に思えて、その背中に軽く腕を回して、あやすように叩いてやった。

 

 上着を脱いで着せるなり、コガラシと一緒にいた雨野狭霧とその友達に任せるなりすれば良かったと夜になって気付いた憂助が、自分をぶん殴りたくなったのは、また別の話である。



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一日目・夜 肝試し

 夕陽が水平線に掛かり始める時刻。

 生徒たちは夕食前の自由時間を思い思いに過ごしている。部屋でトランプをする者、ホテル内のゲームセンターではしゃぐ者、外の景観を眺める者等々……。

 

 久我憂助は一人、ホテル前の広場の端から海を眺めていた。上は体操服、下はジャージのズボンだ。

 夕陽が水平線に掛かり、空は薄い青とオレンジの二色のコントラストに彩られている。そしてそれが海面に映っていた。

 泳ぐのは嫌いだが、こうして眺める分には、海も悪くはないだろう。

 そうしてしばしの間夕焼けの海を眺めた後、憂助はズボンの尻ポケットに手を突っ込んだ。

 引き抜かれた手には、細い布袋が握られている。その中から黒塗りの篠笛を取り出すと、吹き口に唇をあてがった。

 奏でるのは、『我は海の子』。

 目の前に広がる美しい海に対して、憂助なりの敬意を込めて一曲贈りたかった。

 一節を緩やかに二回繰り返し、最後の一音を長く吹いて、それで締め括りとした。

 笛を袋にしまい、ズボンの尻ポケットに押し込むと、笛袋は跡形もなく消えて、ポケットも全く膨らんではいなかった。

 そしてクルリと振り向くと、そこには宮崎千紗希がいた。彼女も体操服姿だった。

 

「どうした」

「うん、笛の音が聞こえてきたから、ひょっとしたら久我くんかなって思って……」

 

 千紗希は答えながら、憂助の隣に歩み寄る。

 

「昼間はありがとう。なんか、久我くんには助けてもらってばっかりだね」

「そらしゃーねかろうも。どうにか出来る奴がどうにかする。で、あの場でどうにか出来るのは俺だけやった。ただそれだけだ」

「うん、そうなんだけど……でも、あたしは本当に助けてもらってばかりで何もしてあげられないし」

「……美味いもん食わせてくれるやねえか」

 

 そう言って憂助は小首を傾げた。

 

「そういうのじゃなくて、その、あたしの方で、久我くんにしてあげられる事ってないのかなーって思って」

「別にそげ気にせんでもいい。お前、お袋さんに飯作ったりしてもろうて、感謝はしても何か悪いなーとか思うたりはせんやろが。それと同じてえ。こっちも、何かしてほしいでやりよう訳やねえ」

 

 憂助は言いながら、ズボンの尻ポケットからもう一度笛を取り出すと、何を思ったか千紗希に投げて渡す。

 千紗希はそれを両手でキャッチした。

 

「それと同じだ」

「へっ?」

「投げ渡されて咄嗟に受け取ったやろが。俺がお前を助けるのも、それと同じだ。何か見返りを求めてる訳やねえが、かと言って何か崇高な目的意識がある訳でもねえ。だきお前が気にするような事やねえ」

 

 話しながら千紗希の手から笛をひったくり、また尻ポケットに押し込んだ。

 

「わかったら部屋戻れ。俺はもう少しここで目の保養をしとくきの」

「……あたしもいてもいいかな?」

 

 千紗希の問いに、憂助はジロリと睨み付けるような目線を送った。

 

「さっきからクラスの男の子が、肝試しとかチークダンスを一緒にやろうって誘いに来てて……正直に言うと、いちいちお断りするの、結構面倒だから……」

「肝試しはくじ引きでペア決めるしチークダンスは明日の夜やろが。そそっかしい連中もおるもんやの……ま、勝手にせえ」

「うん、ありがとう」

 

 千紗希は砂浜に続く階段に腰を下ろした。

 二人は無言で、海を眺めた。

 時々、潮風が千紗希の髪を優しく撫でた。

 千紗希がチラリと横目で見ると、憂助はただじっと海を見ている。

 ふっと安堵の笑みを浮かべて、千紗希も目線を海に戻した。

 男の視線がどうにも苦手な千紗希にとって、憂助のこの素っ気なさは本当にありがたい。あれこれと話しかけて来る訳でもないので、静かで落ち着いた時間を過ごせた。

 

 そんな二人を、遠巻きに見る者がいた。

 千紗希のクラスの男子で、葦田(あしだ)という。この臨海学校で何とか千紗希と仲良くなろうという野望に燃える一人であった。

 その千紗希を見付けて声を掛けようと後を追うと、彼女は別のクラスの男子と一緒にいるではないか。しかもそいつは、昼間の海水浴で千紗希と手を繋いでいた男である。嫉妬の炎を胸のうちで燃え上がらせながら、葦田はただ木陰から様子をうかがう事しか出来なかった。

 何食わぬ顔で近付く事も出来なくはないだろうが、それをしないのは単純に憂助が怖いからである。

 葦田の友達の斎藤という男子が憂助と同じクラスで、その斎藤から憂助の事を聞かされたのだ。

 斎藤と憂助のいる5組には、石野という体の大きい男子生徒がいる。いわゆる不良に分類されるタイプで、『先輩の誕生日祝いのカンパ』と称してクラスメートから金を脅し取っていた。

 それに異を唱えたのが憂助で、彼が石野の胸を軽く押しただけで、180cmを越す石野の巨体が軽々と吹っ飛び、黒板に叩きつけられたという。

 翌日石野は不良仲間や先輩たちを引き連れて、憂助を呼び出した。

 彼等に囲まれて教室を出た憂助は、五分もしないうちに一人で戻ってきた。しかし彼を連れ出したはずの石野が戻ってこない。

 放課後になって、見回りをしていた教師が、校舎の裏庭で地面に倒れている石野たちを発見した。彼等は全員が傷一つなく、穏やかな寝息を立てていたという。

 そして翌日から、石野たちは人が変わったようにすっかりおとなしくなったそうだ。

 

「格闘技習ってんのか何か知らねえけど、アイツはやべーよ。やめとけやめとけ」

 

 斎藤はそう忠告した。

 葦田が二人の間に割って入れないのは、そういう理由からである。

 とは言え、二人が離れ離れになるタイミングを狙えば、千紗希に話し掛けるチャンスがあるかも知れない。

 木陰からストーカーめいて様子をうかがっているのは、その機を待っているからだった。

 が、不意に憂助がこちらを向いた。

 ほんの一瞬だが、憂助と目が合った。まるで最初から葦田の位置がわかっていたかのように。

 背筋にゾクッと嫌な震えが走り、葦田は逃げるようにその場から走り去った。

 恐怖に駆られての事ゆえかホテルからも離れて、山沿いの森にまで来てしまった。

 

(あれ、ここって……)

 

 葦田は、そこが今夜行われる肝試し大会のコースの入り口である事に気付く。森の中へと続く舗装されてない遊歩道には、所々簡素な階段が設けてあった。

 ちょうどいいから下見しておこうかと考えた葦田は、森の中へと入っていく。

 道沿いにしばらく歩くと、歩道の脇に自然石をそのまま利用した石碑が祀られてあるのが見えた。

 そこで葦田は、立ち止まった。

 自分でもよくわからないが、この石碑を見ていると無性に腹が立ってきた。

 思わず蹴りを入れる──が、びくともしない。それでますます腹が立ち、激しい怒りに駆られて、何度も何度も石碑を蹴った。

 やがて石碑は、音を立てて倒れた。

 その音で我に返った葦田は、石碑の下に穴が空いてあるのに気付いた。

 その穴の中から、黒ずんだ紫色の煙が噴き出してくる。

 怪煙は葦田の見ている前で、形を取り始めた。

 全身を獣毛で覆った猿のような巨体。

 顔は八つの目が付いた仮面のようだった。

 頭の左右には四本の節くれ立った角。

 そして人間で言うと胸元に当たる位置に、牙の生え揃った大きな口があった。

 葦田は腰を抜かして、その場にペタンと尻餅をついた。

 

『お前が俺を解放してくれたのか。礼を言うぞ、小僧……』

 

 煙から変じた怪物は、涙と鼻水でドロドロに汚れた葦田の頬を、両手で包んだ。その優しい手つきがかえって怖い。

 

(ああ、俺死んだわ……きっとこの後、『お礼にお前を食ってやる』とか言い出すんだ……)

 

 恐怖に震えながらも、心のどこかでは妙に冷静に、そうやって今後の展開を予想してしまう。

 仮面に似た怪物の顔が、葦田の眼前に迫った。

 

『お礼に、()()()()()()()()()()

 

 

 夕食が終わると、ホテルの浴衣に着替えた生徒たちは森の遊歩道前に集合した。

 これから毎年恒例の肝試し大会である。

 クラスごとにくじ引きでペアを決めて、5クラスが同時にスタートする。一度に十人の生徒が夜の山道を歩く事になるが、怖さより生徒の安全を優先しての事だった。

 

 久我憂助は、あくびをしていた。眠いのではなく、単に退屈なのである。今まで念法の技で悪霊や妖怪を退治してきた経験があり、修行の一環で一人山籠りした事もある彼にしてみれば、肝試しなど散歩と変わらなかった。

 ペアになった犬山という女子生徒と一緒に、我が家の廊下を歩くような足取りで夜の山道に入っていった。

 途中で、道の脇に祀られてある石碑を見付けた。

 そこで憂助は足を止めた。

 

「久我くん、どうしたの?」

「んー……」

 

 犬山に曖昧な返答をしながら、憂助は石碑を睨む。

 彼の経験上、こういう石碑には祀られてあるものの気配が大なり小なり感じ取れるのだが、この石碑にはそれが全く感じられなかった。

 

(何かを祀っとうとか封じとうとかやねえで、本当にただの自然石が石碑に見えるだけか? ……いや、違うな)

 

 考え込む憂助に、犬山が気弱な声で呼び掛ける。

 

「ねぇ、早く行こうよ」

 

 暗い夜道がよほど怖いのか、憂助の浴衣の袖をクイクイと引っ張る。

 

「わかったわかった」

 

 憂助はやむを得ず、彼女を先導するように歩き出した。

 特に周辺に怪しい気配もない。自分の考えすぎだろうと強引に結論付けて。

 

 

 同じように、その石碑に違和感を覚える者がいた。

 冬空コガラシである。

 彼は憂助よりもずっと後に、千紗希とペアで山道を歩いていた。

 

 4組の男子からは、千紗希を取られた嫉妬と怨嗟の声が上がった。コガラシの霊能力を目の当たりにした事がある一部の同級生からは、最強の用心棒をゲットし損ねた失望の声が上がっていたが、それは別の話である。

 

 とにもかくにも千紗希と二人で山道を歩いていると、憂助同様に石碑の前で立ち止まった。

 

(……何か封じてんのか? それにしちゃあ気配が全くない……長い事封印されて『中身』が消えちまったのか? でもそれにしてはこの石碑、そこまで古くもなさそうだけど……)

 

 憂助同様に考え込む。

 そこへ千紗希が声を掛けた。

 

「ねぇ冬空くん。あれ、葦田くんじゃないかな?」

 

 そう言って彼女の指差す方を見ると、確かに葦田がいた。木陰からこちらを見つめている。

 葦田は夕方に体調を崩してしまい、部屋で休んでいるはずである。コガラシも集合場所に向かう前に、床に伏せた彼に一声掛けたので、間違いない。

 

「どうした葦田。もう具合良くなったのか?」

 

 コガラシが問い掛けるが、葦田は答えない。ただフラフラと、道から外れた森の奥へと入っていく。

 

「おい、待てよ葦田! そっちは危ねえぞ!」

 

 大声で呼び止めるが、聞こえてないのか葦田は止まらない。

 

「何か変だな……連れ戻して来るから、宮崎は先に行くか、ここで後から来る連中を待って、そいつらと行ってくれ」

 

 コガラシはそう言って、葦田を追って森の中へ入る。

 

「待って、あたしも行く!」

 

 葦田のどう見ても普通ではない様子に心配になって、千紗希は結局コガラシについていった。

 二人は葦田を追って森を進む。

 やがて、拓けた場所にたどり着いた。そこで葦田が立ち止まった。

 

「……おい」

 

 コガラシが、葦田の背中に声を掛ける。隣にいる千紗希が思わずすくむほどの、険しい声色だった。

 

「お前、誰だ。葦田じゃねえな」

 

 葦田はその問い掛けには答えず、肩越しに振り向いた。

 その振り向き方が、普通ではない。首があり得ないくらいねじれて、180度真後ろを向いたのだ。その目は黄色く濁っていた。

 

「ケェーッ!」

 

 怪鳥めいた叫び声を上げながら、そのままの体勢で地を蹴って跳躍し、コガラシの腹に後ろ蹴りを叩き込んだ。

 コガラシは大きく後ろに吹っ飛び──クルリと宙返りして着地した。蹴りが当たる寸前に自分から後ろに跳んだのだ。

 葦田はすかさず飛び掛かった。

 首目掛けて伸びる両手を、コガラシは掴んで止める。

 しかし、その手が押されていた。普段の葦田からは想像も出来ない腕力である。

 コガラシには覚えのある力だった。

 霊に取り憑かれた影響で肉体のリミッターが外れるのか、憑依された人間は時に信じられない怪力を発揮するのだ。

 つまり、葦田は何かしらの悪霊に憑依されているという事……!

 

「そうとわかりゃあ、話は(はえ)え!」

 

 コガラシは呼吸を整え、丹田に力を込めた。

 幼少の頃、格闘家や武術家の霊に取り憑かれ、その技法を無理矢理覚えさせられた事がある。その際に会得した呼吸法で体内の気を高め、爆発させる。

 そうする事で、葦田の超常の剛力を一瞬だけ上回った。

 葦田の手を大きく上に跳ね上げ──、

 

「ハァッ!」

 

 がら空きになった胴体に左右の掌打を同時に叩き込んだ!

 いつもなら、打撃の衝撃で霊は体内から押し出される。力の弱い霊ならそのまま強制成仏させる事も出来た。

 だが、葦田には何の変化もなかった。

 双掌打で後ろに吹っ飛びはしたが、すぐに起き上がり、キザったらしい仕草で人差し指を左右に振る。

 

 ──そんなものは効かない。

 

 そう言いたげに。

 

「テメエ、何者だ」

『数十年前に、この地の霊石に封印された鬼よ』

 

 葦田はそう答えた。

 しかしその声は葦田ではない。土の底から響く亡者のうめき声を思わせる、おどろおどろしい声であった。

 

『だが、霊石の封印が時を経て弱まった。だから近くにいたこの小僧を操り、霊石を倒させたのだ。貴様こそ何者だ……魔境院の子孫か?』

「弟子だ」

『ほう……親の因果が子に報いならぬ、師匠の因果が弟子に報いといったところか……あの女への怨み、晴らさせてもらうぞ』

 

 葦田はそう言って、ニタリと笑った。

 

「宮崎。危ねえから隠れてろ」

 

 コガラシは身構えながら、呆然と立ち尽くす千紗希に警告する。

 千紗希が近くの木陰に隠れたのを見届けて、改めて葦田の方に向き直ると、彼の姿はなかった。

 葦田は、コガラシが千紗希へと目線を逸らした一瞬で、彼の頭上に跳躍していたのだ。

 鉤爪の生えた葦田の右手が、コガラシの顔面を襲う。

 コガラシはそれを左手で難なくキャッチした。

 

「さっきは加減しちまったが、次はガチのフルパワーだ!」

 

 グッと骨が浮き出るほど握り締めた右拳を、葦田の顔面目掛けて放つ!

 その渾身の一撃は、しかし薄皮一枚で止まった。

 葦田が──否、彼に取り憑いた鬼が、ニタリと嫌らしい笑いを浮かべた。

 

『見え透いた芝居はよせ──貴様にこの小僧は殺せまい?』

 

 鬼の言う通りであった。

 全力の打撃ならこの鬼を葦田から引き剥がす事も出来るだろうが、葦田の肉体にも大きなダメージを与えかねない。最悪、死んでしまう事も考えられる。

 葦田は掴まれたままの右手を振って、コガラシを投げ飛ばした。太い木の幹に背中から叩き付けられて、コガラシは一瞬むせた。

 葦田はコガラシの追擊には移らず、木陰から心配そうに見守る千紗希に、目線を向けた。

 血に飢えた獰猛な眼差しに、千紗希は恐怖で動けなくなる。

 鬼はコガラシの見ている前で千紗希を手に掛けて、精神的な苦痛を与えようという魂胆らしい。

 鉤爪の生えた両手を広げて、千紗希目掛けて飛び掛かった。

 

「逃げろ宮崎!」

 

 コガラシが駆け寄りながら叫ぶが、千紗希は動けなかった。足が震えて、力が入らない。

 悲鳴さえも上げる事が出来なかった。

 

(助けて、久我くん!)

 

 ただ、心の中でそう叫ぶので精一杯だった。

 次の瞬間、葦田が吹っ飛んだ。

 千紗希の胸元からは、木刀の刀身が生えていた。否、後ろから突き込まれ、彼女の肉体を透過していた。

 

「大丈夫か?」

 

 そう気遣う声を耳にした瞬間、千紗希は立ってられなくなり、後ろによろめく。

 それを抱き止めたのは、久我憂助であった。

 

「久我、くん……?」

 

 肩越しに振り返り、確かにそこに久我憂助がいるのを確かめると、千紗希の目には安堵の涙が浮かんだ。

 

「久我!」

「おう。手こずっとうごとあるの」

「あ、ああ……同級生に化け物が取り憑いてんだけどよ、だいぶ深いとこにまで入り込んでるみてえで、俺が除霊しようとすると、アイツまで殺しちまい兼ねねえんだ……」

「なるほど──うし、後は任せろ。お前はこいつを守っとけ」

「おう!」

 

 コガラシが駆け寄り、千紗希に肩を貸す。

 入れ替わるように前に出た憂助は、葦田と対峙しつつ木刀を八双に構えた。

 

『ケェーッ!』

 

 鬼が吠えた。

 地を蹴って、ミサイルのような勢いで憂助の真っ正面から飛び掛かる。

 右手の鉤爪が振り下ろされた瞬間、憂助の上段打ちがその右手と交差し、表面を滑るように振り抜かれた。

 鬼の攻撃は軌道を逸らされて、空振りに終わる。

 両者は間合いを取って、再度向かい合った。

 

『貴様……!』

 

 鬼が苦悶の声を上げた。

 葦田の右腕は、力なく垂れ下がっている。

 骨や筋肉、神経に異常はない。

 その右腕を操る鬼の霊体の右腕部分が、今の木刀での一打ちで消滅させられたのだ。

 

「そいつの体を盾にしとうつもりやろうけどの、あいにくと俺にそんなもんは通じんわ……覚悟せえ」

 

 憂助は木刀を再び八双に構える。

 だが、ここで鬼はニヤリと笑った。

 そして左手で、葦田の喉を掴んだ。

 

『確かに通じないようだな、ならもうこの身体はいらん。代わりに、貴様の身体をもらおう──嫌だと抜かせばどうなるか、わかるよなぁ?』

 

 鬼は笑いながら、左手に力を込める。

 指先の鉤爪が、喉の皮膚を貫いて、血が流れ落ちた。

 

「……しゃあねえの。好きにせえ」

『物わかりがいいな。よし、木刀を捨ててこっちに来い』

 

 憂助は言われるがままに木刀を遠くに投げ捨てて、ゆっくりと葦田の真ん前まで歩み寄った。

 

『よし、大きく口を開けろ』

 

 憂助は言われた通りにした。

 途端に、葦田の口も大きく開かれ、そこから黒ずんだ紫色の煙がほとばしり、憂助の口の中に入っていく!

 葦田はその場に倒れ、憂助もたたらを踏む。

 コガラシと千紗希が見守る中、憂助は()()()木刀を拾い上げ、ニタリと笑った。

 口角が大きく釣り上がった、鬼の笑みだった。

 

『ククク……これでもう怖いものなしだ! さぁ魔境院の弟子よ、続きといこうか!』

「させるか阿呆」

 

 ──同じ口から、別の声が聞こえた。

 鬼ではない、憂助の声だ。

 憂助の眉間に光点が灯った。

 光は回転しながら、その輝きを強めていく。

 

「イィーーエヤァッ!」

 

 憂助は獅子吼にも似た気合いをほとばしらせる!

 人体に備わる、大宇宙のエネルギー『理力』の吸収口たる七つのチャクラ──その内の一つ、霊的な力を司る眉間のチャクラを開放したのだ。そうして取り込んだ白き力を、己れの体内へと放出した。

 

『ギャアアアアアッ!』

 

 おぞましい悲鳴を上げて、鬼が憂助の身体から飛び出した。その霊体のあちこちが破損し、ズタボロになっている。

 信じられなかった。まさか自分の体内に侵入した存在に直接攻撃する技があるなどとは……!

 鬼は恐怖に駆られて逃げ出そうとするが、

 

「逃がすかよ!」

 

 飛び出した八咫鋼(コガラシ)の鉄拳をまともに受けて、強制成仏させられてしまうのだった──。

 

「久我くん!」

 

 千紗希が憂助に駆け寄る。

 

「久我くん、大丈夫? 怪我してない?」

「何ともねえ」

 

 憂助は素っ気なく答えながら、木刀を背中の襟口に押し込んだ。

 

「久我、助かったぜ。ありがとうな──やっぱお前は、ガチでスゲエ奴だぜ!」

「おい、おだてても木には登らんぞ」

「おだててなんかねぇよ。ガチで言ってんだ」

「……そういえば久我くん、どうして来てくれたの?」

「…………」

 

 憂助は千紗希の問いに、黙り込んだ。

 不意に頭の中に、響いてきたのだ。千紗希が助けを呼ぶ声が。

 そんな事は一度も経験した事がなかった。

 何故千紗希の声が頭に響いたのか。

 彼女の身に何かあったのか。

 ──普通ならそんな疑問が頭をよぎるものだが、憂助は違った。即座に瞬間移動で、彼女の元へと飛んだ。

 しかし、それを説明するのは何となく恥ずかしかったので、

 

「……月が、呼んだ」

 

 夜空に浮かぶ満月を見上げながら、そんな事を言ってごまかした。

 

「そうなんだ……ありがとう、久我くん……来てくれて、嬉しかった……!」

 

 千紗希は涙を浮かべながらも、微笑む。

 まさかあの時の心の声が聞こえたのだろうかとも思うが、今となってはどうでも良かった。

 憂助が自分の危機に駆けつけてくれた。

 ただそれだけが嬉しくて、コガラシの目もあるのを忘れて、憂助に抱きつく。

 憂助はその行動に驚き、そして、困ったような顔をした。

 どうすればいいかわからず、実際困っている。

 とりあえず、昼間もしてあげたように、優しく背中を叩いてあやしてやるのが関の山であった。



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二日目・夜 キャンプファイヤー

 肝試し大会が終了し、生徒たちはホテルに戻って入浴の時間となる。

 ホテル屋上の露天風呂が浴場だ。

 男湯も女湯も非常に広いので、二組ずつ入る。

 宮崎千紗希は満月が浮かぶ夜の海を、湯に浸かりながら眺めていた。

 青白い月光が雲や海面を照らし出す様はどこか神秘的で、つい見とれてしまう。

 

「千紗希、千紗希」

 

 そんな彼女の肩を、三浦博子がチョンチョンとつついた。そばには柳沢芹もいる。二人とも険しい顔をしていた。

 

「どうしたの?」

「あんたこそさっきはどうしたのよ。何か帰りが遅かったじゃん」

「やっぱり冬空に何かされたのか?」

「……ああ、その事」

 

 千紗希は冬空コガラシの信用のなさに苦笑いしつつ、事情を話した。

 

「──それで、久我くんが助けに来てくれたの。冬空くんとも何ともなかったから、大丈夫だよ」

「そっか、ならいいけどよ」

「それにしても久我っちホントに有能だねぇ~、手懐けた甲斐があったわ。さすがアタシ!」

 

 博子は何故か誇らしげである。

 

「……久我と言えば、博子。お前アイツとはいつどこで知り合ったんだよ。お前にあんな知り合いがいたなんて、アタシ等全然知らなかったぞ?」

「去年の夏休み」

 

 博子は芹の問いにサラッと答えた。

 

「みんなで心霊スポットに行ったのよね。あんたと千紗希はちょうど帰省してたから来れなかったけど」

「ああ、そういえば去年そんなメールしてたね」

 

 千紗希が思い出してそう言った。

 

「それでねー、行ったのはいいんだけどマジで幽霊が出ちゃったのよ。自分の生首抱えた落武者系が! みんなビックリして逃げたんだけど、アタシ転んで足首捻っちゃってさ、逃げ遅れちゃって……そしたらそこにヒョッコリ久我っちが湧いて出て、その落武者系幽霊をやっつけてくれて──あの時アタシ思ったの。こいつと仲良くなっておけば、いつかどこかで絶対役に立つって。それで、口八丁でアイツの連絡先聞き出して、次の日にはお礼とかして上手く手懐けたって訳」

「清々しいくらい打算的だな」

 

 芹はあきれたように呟いた。

 

「て事は、別に彼氏でも何でもないのか」

「んー、見た目は悪くないとは思うけどアタシの好みからするとちょっと厳ついし、あのトッポいとこが妙に子供臭いってゆーか」

「海水浴に制服で来るやつだしな」

「そういう訳だから安心してね、千紗希」

「何が?」

 

 いきなり話を振られて、千紗希は首を傾げた。

 

「何がって……いやいやいやいやいや、久我っちに気があるとかそっち系じゃないの?」

「あたしが? 久我くんに? どうして?」

「どうしてって、お前昼間の海水浴でもアイツと手ぇ繋いでただろ! プチ男性恐怖症のお前が!」

 

 千紗希の言葉がよほど予想外だったのか、芹の声が若干大きくなった。

 

「……ああ、そういえば。でもあれはそんな、変な意味じゃないよ。んー……何て言うかな、さっきの博子じゃないけど、久我くんってちょっと子供っぽいところがあるって言うか……何だろう、弟みたいな感じがするの」

「オトートぉ?」

 

 芹と博子は思わず声をハモらせた。

 一瞬の間を置いて、同時に笑い出す。

 

「アッハッハッハッ! 何それ、アンタ久我っちの事そんな風に思ってんの?」

「ブハハハハハ! こりゃ傑作だ! マジ受ける!」

「もうっ! そんなに笑ったら久我くんに悪いでしょ!」

 

 千紗希はプウッと頬を膨らませる。

 少し離れた所で、何食わぬ顔で聞き耳を立てていた雨野狭霧が、必死に笑いをこらえていた。

 

 

 風呂から上がった3組と4組の生徒たちは、それぞれの部屋へと戻っていく。

 博子が芹の浴衣の袖をクイクイと引っ張りヒソヒソ声で話し掛けた。

 

「さっきの話だけどさ。少なくとも千紗希は久我っちの事全然怖がってないのは確かだよね?」

「まぁそういう事になるな」

「じゃあちょうどいいから、千紗希と久我っちくっつけちゃおーよ」

「……そうだな。ボディーガードとしちゃ有能みてーだし、少なくともあの冬空コガラシ(セクハラモンスター)より百億万倍は信用出来るし」

「明日はなるべく千紗希と久我っちが二人きりになるようにしてみる?」

「おう」

 

 ──友人二人のそんな悪巧みも露知らず、千紗希はたまたま鉢合わせた雨野狭霧や浦方うららと、雑談に興じていた。

 

 

 二日目の昼は、近くの水族館での自由行動だ。

 一通り見て回った久我憂助は、一人休憩スペースのベンチに座った。そこへ狙いすましたように、缶コーヒーが差し出される。

 冬空コガラシであった。

 

「昨日の礼だ」

「いらん」

 

 即答。

 コガラシは思わず苦笑する。

 

「お前が来てくれなかったら、葦田も宮崎もどうなってたかわからねえ。クラスメートの恩人に礼もしないんじゃ俺の男が(すた)るってもんだ。飲まなくてもいいから、とりあえず受け取ってくれよ」

「…………」

 

 憂助は口をへの字に曲げつつも、缶コーヒーを受け取り、一気飲みした。

 そして空き缶を無造作に投げ捨てる。

 空き缶は真っ直ぐに、ジュースの自動販売機の脇に設置されたクズカゴの中に入っていった。ノールックでの行動に、コガラシはヒュウッと感嘆の口笛を吹いた。

 

「ところで久我。話は変わるけど、ちょっと聞いてくれねえか」

「なんか」

 

 隣に座るコガラシを、憂助はジロリと睨む。

 

「幽奈の事なんだけどよ。アイツと、仲良くしてやっちゃくれねえかな」

 

 コガラシは単刀直入にそう言った。

 憂助は何度かゆらぎ荘を訪れた事がある。当然湯ノ花幽奈とも出会うが、挨拶するくらいで、会話しようともしない。それで自分の知らないうちに憂助を怒らせるような事でも仕出かしたのだろうかと、幽奈は心配になっているのだ。

 

「そういう訳だからさ、帰ったらゆらぎ荘に遊びに来て、幽奈ともお喋りして──うおっ」

 

 憂助がコガラシの肩に腕を回し、乱暴に引き寄せた。

 

「いいか……勘違いしとうごとあるが、俺は敵か味方かで言うたら幽奈さんの敵だ。ホント言うたら幽奈さんが地縛霊っちわかった時点で浄霊すべきやった……そやけど、いらんごと情が移ってそれが出来んごとなっしもた」

 

 憂助の脳裏に、学校で交わした幽奈との数分にも満たない会話と、その時の幽奈の天真爛漫な表情が浮かび上がった。

 

「そげな中途半端な気持ちでやっても上手くいかん、ただ幽奈さんを苦しませるだけだ。だき苦し紛れであげな神棚用意したんてぇ。幽奈さんが悪霊化したら、それはつまらん情で祓う機会を逃した俺の責任やきの。あれは悪霊化せんための保険であって、俺個人は幽奈さんはさっさと浄霊して高いところに送るべきと思うとる──幽奈さんがどう思おうと関係ねえどころか、彼女の意思を無視してでも、無理矢理にでも、やるべきだ」

「……まぁ、そうなんだろうけどな……でも、やっぱり無理矢理ってのは」

「可哀想、か? 死んだ人間をいつまでもこの世に留めさせておく方がよっぽど可哀想やろが。あの人は本当は、現世(ここ)におったらいかん人だ」

「…………」

 

 コガラシは横目で憂助を睨んだ。

 憂助も睨み返す。

 視線がぶつかり合って──コガラシの方から逸らした。

 

「まぁ、そうなんだろうけどな……」

 

 ため息混じりにつぶやく。

 

「でもな、久我。幽奈を成仏させたいんなら、やっぱりお前はアイツと仲良くするべきだと思うぜ? 幽奈のやつ、お前とも仲良くなりたいって思ってるんだ。それが叶わなかったら、それが未練になってますます成仏出来なくなっちまうからな」

 

 そう言ってニンマリと笑うコガラシ。

 憂助は口をへの字に曲げるのみ。

 しばし黙り込んだ後、

 

「前向きに検討しとく」

 

 吐き出すように答えた。

 

「そっか、サンキュー久我。お前ならそう言ってくれると思ってたぜ」

「やかましい、失せろ」

 

 憂助は不機嫌そうに言って、コガラシを突き放す。

 

「へいへい。じゃあな、久我」

 

 コガラシは立ち上がり、軽い足取りで去っていった。

 憂助は腕組みして、しかめっ面をするばかりであった……。

 

 

 夜。

 臨海学校最後のイベント、キャンプファイヤーが始まった。

 生徒たちが輪になってフォークダンスを踊り、一旦休憩となる。その後で、自由参加のチークタイムだ。参加する気など微塵もない憂助は部屋に戻ろうかと考えていると、

 

「おーい、久我っちー」

 

 博子が声を掛けてきた。芹と千紗希も一緒だ。

 

「なんか」

「アンタどうせこの後のチークタイム、出ないんでしょ?」

「おう」

「んじゃさ、ついでだから千紗希のボディーガードやってくれない? もうさっきからうちのバカ男子どもが千紗希狙って目をギラギラさせててぶっちゃけキモいからさ」

「断る。お前等がやれ、友達やろが。っつーか、さっさ部屋戻りゃ良かろうが」

「そんな冷たい事言わずにさぁ~、男と一緒の方が男子も寄ってこれないだろーし、アタシ等はアタシ等で、ちょっと狙ってる相手いるから千紗希が一緒だと分が悪いの。そういう訳だからお願い!」

「つかな? 参加はしなくていいけど抜け出すのはアウトだからな?」

「だったらなおさら断る。俺と一緒におったせいでそいつに変な噂が立ったらどげするんか」

「──あたしも、久我くんと一緒にいたいな」

 

 ポツリと言う千紗希を、憂助はジロリと睨んだ。

 

「あたしの都合で芹や博子の邪魔にはなりたくないし、他の男の子よりも、久我くんと一緒の方が安心だし」

「……わかったわかった。ついて来い。お前等は行け」

「ありがと~、んじゃよろしくね久我っち」

「頼むなー」

 

 博子と芹は手を振って去っていった。

 憂助は千紗希を連れて、林の中に入っていった。

 

「ここなら誰にも見付からんやろ。何かあってもすぐに戻れるしの」

「うん、そうだね。ありがとう久我くん……ごめんね、あたしの都合で」

「ふん、まったくだ」

 

 憂助は木にもたれかかり、腕組みした。

 

「もうちょいこっち来い。見付かるぞ」

「あ、うん」

 

 千紗希も憂助と同じ木に寄り添い、木と彼の体の陰に隠れるようにした。

 それから少しの間、二人は何も喋らなかった。

 様々な虫の鳴き声が聞こえてきて、千紗希はそれに耳を傾ける。相変わらず憂助の方から話し掛けては来ないが、その素っ気ない態度はかえって心が落ち着く。

 何かあっても憂助なら自分を守ってくれるだろうという信頼から来る安心感もあった。

 

「──?」

 

 チラリと横目で憂助を見やると、彼は目を閉じて、何やら黙考している。険しい顔つきであった。

 

「久我くん、どうかしたの?」

「何がか」

「何か難しい顔してるし……悩み事?」

「お前には関係ねえ。気にするな」

 

 憂助はぶっきらぼうに答えた。

 昼間のコガラシとの会話を思い出し、幽奈に対してどう接するべきかを考えていたところである。

 

「そう……でも、もしあたしにしてほしい事があったら言ってね? 何でもするから」

「ああ」

「何のアドバイスもしてあげられないかも知れないけど、でも、この前みたいに話を聞くくらいなら出来るし。誰かに話すだけでも、結構気持ちがスッキリするよ? あたしも、久我くんに色々思ってる事話して、スッキリしたし」

「わかったわかった。いいき黙っとけ。あんま声出すと誰かに気付かれるきの」

「あ、うん、ごめんね」

 

 そう言って黙りはしたが、千紗希の視線は憂助を向いたままだった。

 どうにも彼が心配だった。

 おそらく、別に他人を信用してないとかそういった気持ちはなく、「自分の問題は自分の力だけで解決するのが当たり前」という考え方なのだろう。だから誰かに相談するという選択肢そのものが頭に浮かんで来ないのだろう。

 千紗希は憂助の事を、そのように思っている。

 彼が自分を何度も助けてくれたように、自分も彼の助けになってあげたいと思った。

 

 ──チッ!

 

 憂助が不意に舌打ちした。

 

「バカップルが……」

 

 キャンプファイヤーの方を見て唸る。一組の男女がこちらに向かって来ているのだ。二人きりになれる場所を求めての事だろう。

 

「場所変えるぞ」

 

 憂助は言うなり千紗希の腰に腕を回して抱え上げた。

 千紗希も咄嗟に憂助の首に両腕を回してしがみつく。

 憂助が軽く跳躍すると、二人はフワリと宙に浮き、かなり上の木の枝にまで上昇した。

 憂助は千紗希を抱えたまま、枝から枝へと猿のように軽やかに伝い、林の向こうにある砂浜に移動した。

 

「さすがにここまで来る阿呆はおらんやろ」

 

 憂助はそう言って千紗希を下ろしてやった。

 

「そうだね……でも、結局抜け出しちゃったね」

「む、そやの。こら迂闊やったわ──戻るか?」

「ううん、いいよ。もう少しここにいよう? 何かあったら芹や博子が連絡くれるだろうし」

 

 千紗希は地面に座る。

 ちょうど草地と砂浜との境目で、程好い高さの段差になっている。草の上に座り、砂の上に足を下ろした。

 

「ん」

 

 憂助も何となく、千紗希の隣に座る。

 二人して、さざ波の音に耳を傾けた。

 静かな時間だった。

 

「ねぇ、久我くん」

 

 少しして、千紗希が声を掛ける。

 

「久我くんの笛、聞きたいな」

「ん」

 

 憂助は背中の襟口に手を入れた。

 引き抜かれた手には、笛袋が握られている。

 袋から取り出した黒塗りの篠笛で、『我は海の子』を奏で始めた。

 千紗希は目を閉じて聞き入る。

 音の一つ一つが、自分の中に染み込んでいくような、不思議な気持ちであった。

 聞いてるだけで心が休まるような、そんな音色であった。



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夏休み
さらわれた千紗希さん


 遠くから聞こえる川のせせらぎ。

 近くの森から聞こえる小鳥のさえずり。

 断続的に吹くそよ風。

 木陰に熱気が遮られた、適度な涼しさの空気。

 それら全てが、宮崎千紗希には心地好かった。

 同時に、肉を焼く時の匂いが嗅覚をくすぐり、食欲も刺激される。

 今は夏休み。

 千紗希は今、キャンプ場にいた。

 宮崎家には珍しく、両親が二人揃って休みを取れたため(というよりは、この日のためにスケジュールを調整していた)、家族みんなで一泊二日のキャンプに来ているのだ。

 両親は二人仲良く、食材を焼く順番や金網に置く位置などで議論を交わしている。その光景を見ると家族が揃ったという実感が湧いて、千紗希はますます楽しくなる。

 そうやって気持ちが浮き立っていたせいか、いつもより食べ過ぎた。

 腹ごなしにと、千紗希は両親に断りを入れてから、周囲を散策する事にした。夫婦水入らずの時間をさりげなくプレゼントしたつもりでもある。

 ──そして、そのまま夜になっても帰って来なかった。

 

 

 キャンプ場には森の中を通る遊歩道があった。

 千紗希は虫除けスプレーを自分に吹き掛けながら、一人その道を歩いていた。

 辺りは静かだった。他に人の姿はない。キャンプ場には家族連れの客ばかりだったし、時間はちょうど昼食時である。みんな家族団らんの時間を楽しんでいるのだろう。

 ナンパ目当ての男たちになれなれしく声を掛けられる心配もない。だから、一人で過ごす時間というものが、千紗希はそんなに嫌いではなかった。

 

 しばらく歩き続けるうちに、千紗希は違和感を覚えた。

 敷地内に設置されてある地図によると、この遊歩道はそれほど長くはない。森の中を『U』の字を描くように走って、宿泊施設のある広場に戻る。

 しかし、もうかれこれ十分近く歩いているのに、未だに折り返し地点すら見えてこない。延々と真っ直ぐな道と、その両端に据え付けられた木製の手すりが続いていた。

 もう一つ、別の違和感にも気付いた。

 静かすぎる。

 さっきまで聞こえていた鳥や虫の声が、全く聞こえない。

 あまりの静けさに、耳がおかしくなってしまったかのようにすら思えた。

 不意に、辺りが暗くなった──否、何か巨大な物が千紗希のすぐ後ろに現れ、その影が彼女を覆ったのだ。

 強烈な獣臭が、鼻を突いた。

 千紗希が反射的に振り向くのと、毛むくじゃらの丸太のような腕が彼女の腰に回るのが、ほぼ同時だった。

 千紗希は、体が宙に舞い上がるのを感じた。

 自分を抱えあげた何者かが、枝から枝へと物凄い勢いと速さで飛び移っていくのがわかった。

 

(あたし、さらわれてるんだ……)

 

 恐怖の余りに感情が麻痺したのか、千紗希は冷静に、そんな事を考えた。

 自分をさらって逃走中の()()は、オランウータンともゴリラともつかない、しかし身長が三メートル近くありそうな巨大な猿だった。

 しかし、単に体の大きい猿ではない事は、一目でわかった。

 その顔は猿ではなく、人の顔だった。

 時折、胸元に抱き抱えた千紗希の顔や、服の襟元から覗く深い谷間に目線を落としては、ニターッと下卑た笑みを浮かべる。唇の端から、ヨダレも垂れていた。

 それを見て、千紗希の背すじがゾワゾワと震えた。

 考えるのもおぞましいが、この人面の大猿は、千紗希の肉体に明らかに欲情しているのだ。

 それを確信した時、千紗希の中で恐怖が込み上げて来て、爆発した。

 

「いや、いやいやいや! いやぁぁああああっ!」

 

 悲鳴を上げ、猿の腕の中でもがき、暴れる。小さな握り拳で猿の肩なり胸なり腕なりをポカポカと叩く。

 しかし大猿の腕力は強く、腕はガッチリと千紗希を抱き抱えたまま、ほんのわずかも弛む事がなかった。

 不意に千紗希は、虫除けスプレーを肩に掛けたポシェットの中にしまってあるのを思い出した。

 それを取り出して、猿の顔目掛けて吹き付ける。

 

『ホギャアッ!』

 

 猿が悲鳴を上げた。スプレーが目に入ったようだ。

 両手で顔を覆い、目をこする。

 拘束から解放された千紗希は、そのまま重力に従って落下し、別の木の幹にしたたかに背中をぶつけ、バウンドして地面に落ちた。

 巨大な影が、地面に横たわる千紗希を覆った。

 さっきの大猿が、木から下りてきたのだ。

 人面は、肉欲ではなく怒りに歪んでいた。

 

(殺される……!)

 

 そう思った千紗希だが、体が痛みと恐怖で動けなかった。

 だがそこで、ある事に気付く。

 猿の視線は、自分ではなく、その後方を見据えているようなのだ。

 振り向いた千紗希の顔に、安堵の色が浮かんだ。

 湯煙高校のジャージを着た、眉の太い男臭い顔つきの少年が、そこに立っていた。

 右手には木刀を握っていた。

 千紗希からは見えないが、木刀の柄には手彫りで『獅子王』の三文字が彫られている事だろう。

 

 久我憂助であった。

 

 何故ここにいるのかという疑問は、千紗希の胸中には浮かばない。この危機的状況で、最も頼りになる人間が現れた事に、安心感の余り目尻に涙すら浮かべた。

 

 憂助もまた、口をへの字に曲げて、険しい眼差しで大猿を睨み付ける。

 猿は歯を剥いて唸った。

 そして、おぞましい事に、人語を発した。

 

『その女をよこせ』

「やる訳ねかろうが。殺すぞ」

 

 憂助は口調こそ静かだが、今にも爆発しそうな激しい怒気を含んだ声で言い返した。

 千紗希の目にすら、木刀が彼の念による気焔で白く燃え上がっているのが見て取れた。

 

『ならば死ね!』

 

 大猿が獣毛で覆われた、丸太のような腕を振り下ろした。巨大な握り拳が肉の鉄槌となって唸った。

 

「テメーが死ね!」

 

 憂助は頭上に打ち下ろされたその鉄槌を木刀で打ち払うと、千紗希をまたぐようにして間合いを詰め、猿の懐に飛び込んだ。

 

「エヤアッ!」

 

 霞の構えから、電光石火の突きを叩き込む!

 破城槌が城門を打ち破る時のような轟音が響き渡り、大猿の三メートル近い巨体が弾丸めいた勢いで吹っ飛んだ。

 猿は木々を薙ぎ倒しながら、そのまま森の奥へと消えていった。

 

 ──チッ!

 

 憂助は舌打ちした。

 あんなに派手に吹っ飛んだという事は、攻撃の威力が相手の肉体に浸透せず、ただ押すだけの力となったという事だ。突きが『突き』ではなく『木刀で押しただけ』に終わったという事だ。

 地面に横たわる千紗希と、彼女に迫る魔性の獣。

 そんな光景を目の当たりにして、自分でもよくわからない怒りが込み上げて来た。

 その怒りが、かえって憂助の念を鈍らせ、技を鈍らせてしまったのだろう。

 

「……親父に見られたら笑わるうぞ、阿呆が」

 

 憂助は己れを罵倒しながら、木刀の刀身を左手で拭い、そのまま左手の中にしまった。

 

「おい、大丈夫か」

 

 そして後ろを振り向き、千紗希に声を掛ける。

 

「う、うん、ありがとう久我くん……」

 

 千紗希はそう言って立ち上がったが、途端に右足首に激痛が走り、よろめく。地面に落ちた際に、捻ったのだろう。

 憂助が駆け寄って、抱き止めてくれた。

 

「あ、ご、ごめんね」

「気にすんな。ちょう手当てするぞ」

 

 憂助は言うなり、千紗希の返事も待たずに、瞬間移動で飛んだ。

 

 飛んだ先は、河原だった。

 大きな石がそこかしこに散見される事から、かなり上流のようだ。

 そこに、草木で造られたドーム状のテントがあった。

 テントのすぐそばに、石で組んだかまどがあり、焚き火が白煙を上げていた。

 憂助は千紗希を、そのかまどのそばの大きな石に座らせると、草木のテントの中に潜り込み、そしてすぐに出てきた。

 手には包帯と二枚貝を持っている。開けると、中には緑色のドロドロしたクリームが詰まっていた。

 

「見してみ」

 

 憂助に言われて、千紗希は靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくって、靴下を脱いで、右足首を見せた。

 やはり捻挫しているようで、関節部分が腫れている。

 憂助は貝殻の中のクリームを指で掬い取り、腫れた部分にたっぷりと塗りたくった。そして包帯を巻く。

 

「薬草を練り合わせた軟膏だ。こんくれえの捻挫になら充分効く。明日の朝、また塗り直して包帯も取っ替える」

「明日?」

「もうすぐ暗くなる。夜の山ん中歩き回る訳にもいくめえ。泊まっていけ」

 

 嫌だと言ったところで、こんな足では動けないのだから、結果は同じだ。千紗希に異論はなかった。

 

「晩飯用意するき、中で寝とけ」

 

 憂助は言うなり、千紗希の背中と膝裏に腕を通し、ヒョイッと抱え上げ、テントの中に押し込んだ。

 中には草や葉っぱが敷き詰められ、自宅のベッドにこそ劣るものの、寝心地は悪くない。

 

「寒かったら俺の鞄の中に毛布入っとうき、それ被れ」

「うん、ありがとう」

「俺が戻るまで、おとなししとけよ」

 

 そう言って、憂助はその場を離れた。

 

 

 憂助の言った通り、すぐに辺りには夜の(とばり)が下りてきた。周囲を森に囲まれているため、暗くなるのが早いのだ。

 千紗希は、憂助が貸してくれた毛布を肩に掛け、彼が作ってくれた山菜入りのお粥と魚の串焼きを、夕食にした。

 憂助は食事もせずに、焚き火を挟んだ正面で、食材と一緒にかき集めた細木を組み合わせ、蔓草で縛って固定する作業に没頭していた。

 

「久我くん、食べないの?」

「いらん。断食中だ」

「……じゃあ、このお粥さんのお米は?」

「非常食だ」

「そうなんだ……ここにはどうして来たの? 山籠り? 漫画とかでたまに見るけど」

「そげな大層なもんやねえ。山ん中で二、三日寝泊まりするだけだ」

 

 憂助は答えながら、組んだ細木を縛った蔓草の端を、十徳ナイフの小刃で切断した。

 

 憂助の言った事は本当である。

 普段から月に一度は、一泊二日の野宿をしている。

 今日は夏休みを利用して一週間の長期滞在中であった。

 そして、一人稽古の最中に不穏な気配を感じて辺りを探索していたところ、千紗希の危機に出くわしたのであった。

 

「何作ってるの?」

背負子(しょいこ)だ。背中に背負う椅子げなもんだ。お前を引っ越し荷物んごと担ぐ訳にもいかんし、おぶったらおぶったで俺の両手が塞がるきの」

「あ、そっか、そうだよね……ごめんね、あたしのために」

「気にすんな──それと、忘れんうちに謝っとく。すまんの」

「何が?」

「それだ」

 

 と憂助が指差したのは、細枝を差し込んで焚き火に当てられている、千紗希の靴下だった。手当ての時に脱いだ物だ。

 

「ああ、いいよ。気にしないで? 血が出て汚れてたから、洗ってくれたんでしょう?」

 

 千紗希はそう思ったから、敢えて聞かないでいた事だった。

 しかし憂助は、

 

「うんにゃ」

 

 と否定した。

 

「その辺の木やら石やらにこすりつけてお前の臭いを付けたときに汚しっしもたき洗った」

「……どうしてそんな事したの?」

 

 何だか嫌な予感がした。

 

「あの猿誘き寄せなならんきの」

「……どうして、そんな事するの?」

 

 怒鳴り付けたいのをグッとこらえて、千紗希は問うた。声を荒げなかったのは、きっと何か理由があるからに決まっていると、憂助を信じているからだった。

 

「この近くにキャンプ場がある。あの猿きっちり仕留めとかんと、またそこの客が被害に遭うかも知れんきの。そうでなくとも、あの猿がお前を諦めたとは限らん。俺のおらん所でおらん時に襲われたらたまらん。どっちにしても、あの場で倒せんかった俺の責任だ。だき確実に誘き寄せて、確実に仕留める」

 

 憂助の声音には、梃子でも動くまいと思わせる強い決意の色がにじみ出ていた。

 千紗希にしてみれば体よく囮にされてるようなものだが、元々狙われたのだから大して違いはない。それに憂助の言う通り、もう襲ってこないとは限らないのだ。

 以前ネットで読んだ話だが、人喰い熊が人間の臭いをたどって山の中を執念深く追跡した事もあるという。

 あの猿がそうやって、自分を追って山を下りて町にまで来るかも知れない。

 諦めたとしても、今度は別の登山なりキャンプなりに訪れた女性が被害に遭うかも知れない。

 そして宮崎千紗希は、自分の安全さえ確保出来れば、そういった危険を看過出来るような少女ではなかった。

 

「……うん、わかった。久我くんに任せるね」

 

 だから、彼女も決意を感じさせる声音で、そう言った。

 

「でも、それはそれとして、()()って何なの?」

猩々(しょうじょう)やろの」

 

 憂助は即答した。

 

狒々(ひひ)と同じ猿の化け物で、狒々と違って顔が人間と同じ顔つきしとる。どっちもよう女をさらうらしい。狒々なら親父が退治したの見た事あるし、俺も一回だけやっつけた事がある」

「……ちょっと待って。お猿さんのお化けって、そんなにたくさんいるの?」

「そらお前、猿なんぞ日本中どこにでもおるんやき、猿の化け物もどこでん湧いて出るやろ」

 

 憂助は事も無げに言った。

 

「昼間のあれは、結果的には逃がしっしもたが、そげべらぼうに強い訳でもねえ。心配いらん」

「う、うん……」

 

 千紗希はうなずいた。

 振り返れば、憂助は臨海学校ではもっと大きな怪物も倒したのだ。

 それに、眼前で黙々と背負子の作成に取り組む姿を見ていると、不思議な信頼感も湧いてくる。

 猩々なる人面の大猿にさらわれた時の恐怖が、潮が引くように自分の中で薄れていった。

 

 

 食事を済ませると、千紗希は憂助の指示で、早々にテントに潜った。

 しかし、外からガリガリと音がするので出入り口から顔だけ出して様子を見ると、憂助が木刀でテントを囲むように線を引いていた。

 

「結界だ。これであの猿は近付けん」

 

 千紗希にジロリと視線を向け、彼はそう説明した。

 そして、不意に下流の方に視線を移す。

 

「──来るぞ。隠れとけ」

 

 言われて千紗希は、慌ててテントの中に引っ込み、毛布を頭から被った。

 憂助が見据える宵闇の中から、猩々が姿を見せた。

 

「遅かったの」

『女はどこだ』

「ここにはおらん」

『嘘をつくな。臭いでわかる。女を出せ』

「ここにはおらん」

『女を、出せっ!』

 

 猩々が吠えた。

 怒声が森の梢をざわつかせた。

 憂助はしかし、臆する風もない。

 

「お前にはやらん」

 

 腰を落とし、木刀を正眼に構えた。

 木刀が、憂助の念を受けて白く燃え上がった。

 憂助は、背中に千紗希の気配を感じた。

 不意に脳裏に、彼女の柔和な笑顔が浮かんだ。

 

『ホキャアッ!』

 

 猩々が雄叫びを上げて、豪腕を振り下ろす。

 憂助は木刀のわずかな動きで、その一撃を受け流した。

 狙いを外した腕が、勢いそのままに、猩々の胴体に巻き付き、離れなくなる。

 

『──?? ケアーッ!』

 

 猩々は構わずもう一方の腕で殴りかかるが、これも同じ結果に終わった。

 自分で自分を抱き締めるような窮屈な格好になった猩々の懐に飛び込んだ憂助は、正眼から突きを繰り出す。

 

「エヤアッ!」

 

 木刀が柄まで深々と猩々に突き刺さった瞬間、猩々の人面の鼻や口、耳や目から白光がほとばしり、三メートル近い巨体が内側から爆ぜて、消滅した。

 

「……隠れとけっち言うたやろが」

 

 木刀を左手にしまいながら、憂助は背後のテントに声を掛ける。

 千紗希が出入り口から顔だけ覗かせていた。

 

「ご、ごめんね……久我くんが心配で……お、終わったんだよ、ね?」

「見ての通りだ」

 

 憂助は答えて、焚き火のそばに腰を下ろし、背負子の作成を再開した。

 

「もう寝ろ。腹減ったんなら鞄の中にチョコレート入っとうき、それ食っていいぞ。俺もどうせ明日の朝、下山する予定やったきの、遠慮はいらん」

「う、うん、おやすみなさい……ありがとうね、久我くん」

「おう」

 

 素っ気ない返事を返す憂助に、千紗希はむしろ安心感すら覚えた。

 同時に、憂助への信頼感が増したようにも思えた。

 

 

 千紗希は尿意を覚えて、目が覚めた。

 スマホの明かりを頼りにテントから這い出ると、出入り口に立て掛けてあった杖を突き、少し離れた所にある『トイレ』に、ヒョコヒョコとびっこを引きながら向かう。

 杖も憂助が作った物で、手頃な枝の端っこの表皮を削り落とし、持ちやすくした物だ。

 トイレは土手の斜面に穴を掘っただけの簡素極まる物で、草木で編んだ仕切りで目隠しされていた。

 最初からあった物で、さすがの憂助も、人気のない山中とはいえ用を足すところを見られるのは憚られるのかと思うと、微笑ましくなった。

 チラリと横目で見ると、憂助はこちらに背を向けて、作った背負子に腰を下ろしていた。出来上がりの具合を確かめているのだろう。

 小用を済ませると、千紗希はその憂助の隣にやって来て、椅子代わりの石の上に腰を下ろした。

 

「なんか、寝れんとか」

「うん、いろいろあって、目が冴えちゃったみたいで……それに、パパやママも心配してるだろうなって思うと、余計眠れないの。うちは家族三人揃う事ってなかなかなくて……せっかくみんなでキャンプに来たのに、あたしのせいでこんな事になっちゃって……」

「お前のせいでも何でもねえ」

 

 ぶっきらぼうだが、強い口調で憂助はそう言った。

 

「うん、わかってる……」

 

 千紗希は答え、自分の膝を抱えた。

 

「でも、やっぱりパパとママに悪い気がしちゃって……あたしはパパやママのどっちかと一緒にいられる事は多いけど、二人が一緒にいられる事ってあまりなくて……だから、せっかくだから二人きりの時間を過ごさせてあげたいって思って、それでそばを離れたらこんな事になっちゃうんだもん……」

「それでも、お前には何の責任もねえ」

 

 憂助はきっぱりとそう言い切った。

 

「親御さんも、別にお前のせいだとかお前がいらん事せんかったらとか、クソほども思うとらんわ」

「……うん、わかってる。でも、つい考えちゃうの」

「めんどくせえやっちゃの。まぁ、そういうところは、嫌いやねえけどの」

「えっ?」

 

 憂助の口から思わぬ言葉が出て、千紗希は一瞬自分の聞き違いかと思った。

 

「自分がきつい目に遭っとう時でも、そうやって人の心配が出来る心根は立派と思うとる。割りと真面目に、尊敬するわ」

「そ、そうかな……ありがとう」

「まぁ、もうちっと自己中心的になってもバチは当たらんと思うがの」

「うーん……前向きに検討します」

 

 千紗希は苦笑混じりにそう答えた。

 

「でも、それを言うならあたしだって、久我くんの事尊敬してるよ? 名前通りの立派な生き方してると思う」

「おい、おだてても木には登らんぞ」

「おだててなんかないよ。こゆずちゃんも冬空くんも幽奈さんも、みんな久我くんの事優しくていい人だって言ってるもん──ちょっと照れ屋でぶっきらぼうなのが珠に傷だけどね」

「……いらん事言わんと、寝ろ」

 

 憂助は声に凄みを効かせて言った。

 しかし千紗希はコロコロと笑うだけだ。

 

「はぁーい、おやすみ久我くん」

 

 そう言って、ヒョコヒョコとテントの中に戻っていった。

 

 

 翌朝。

 魚の串焼きで朝食を済ませた千紗希は、憂助に足首の薬と包帯を替えてもらった。

 

「帰ったら病院で診てもらっとけ」

 

 憂助は丁寧な手つきで包帯を巻きながら、言った。

 それから、背負子を背負うと、そこに千紗希を座らせた。

 背負子には腕を通す紐もあり、千紗希はそれに自分の腕を通す。

 憂助は軽々と立ち上がり、焚き火の後始末をすると、千紗希用の杖を持って出発した。

 その足取りは力強い。キャンプ場へはどう行けばいいのかわかっているらしく、森の中をずんずん進んでいく。

 その揺れが、両親にあやしてもらった時の記憶を呼び覚ましたのか、それとも単に、結局昨夜はあまり眠れなかったせいなのか、千紗希は段々眠くなってきた。

 というか、実際に眠ってしまったようだ。

 

「おい」

 

 と憂助に呼び掛けられ、背負子を揺さぶられて、千紗希は飛び上がるような気持ちで目を覚ました。

 

「ちょっと飛ばすぞ。揺れるきしっかり掴まって、舌噛むき口も閉じとけ」

「あ、うん」

 

 千紗希は背負子の手すりをしっかり掴んで、口も閉じた。

 フワッと体が宙に持ち上がる感覚があった。憂助が跳んだのだ。

 そのまま枝から枝へと跳び移り、森を突っ切っていく。

 景色が凄い勢いで流れていく。

 しかし千紗希に、昨日猩々にさらわれた時のような恐怖感はなかった。

 すぐに、千紗希を呼ぶ知らない大人の声が聞こえてきた。誰もが「千紗希さーん!」と呼び掛ける中、「千紗希ー!」と呼び捨てにする男女の声が混じっている。

 それが両親の声だと千紗希が気付いた時、憂助は森を抜けて開けた場所に出ていた。

 そこには捜索隊と思われる数人の大人たちがいて、千紗希の両親も一緒だった。

 

「パパ! ママ!」

 

 千紗希は憂助が背負子を下ろすのも待たずに飛び下りる。

 一瞬、足首の痛みでふらついたが、憂助が差し出した杖を受け取ると、それを突いてヒョコヒョコと両親に駆け寄り、抱擁を交わした。

 

「千紗希! ああ良かった! 無事だったのね!」

「足を怪我してるのか? 痛みは?」

「大丈夫。ちょっと足を捻っちゃったけど、お友達が助けてくれたの」

「お友達って、誰?」

 

 母の問い掛けに、千紗希は後ろを振り向いた。

 

「ほら、あのジャージの男の子……あれ?」

 

 振り向いた先には、誰もいなかった。

 瞬間移動で戻ったのだろうか。

 捜索隊の大人たちも、

 

「今、いたよな?」

「ああ……ジャージ着た男の子が……」

 

 と、目を丸くしている。

 千紗希は苦笑した。

 一声かけてくれてもいいだろうに……しかし、そういうところがむしろ可愛く思える。

 

「久我くん、ありがとーっ! 今度お礼するねーっ!」

 

 もう聞こえはしないだろうが、それでも千紗希は森の向こうに戻ったであろう憂助に向かって叫んだ。

 何となく、届くような気がした。

 そして、届いたような気がした。



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ゆらぎ荘と憂助くん

 宮崎千紗希はその日、一人でゆらぎ荘を訪れた。

 玄関前で、仲居ちとせが箒で掃除をしていた。幽奈から話を聞き、また少し前に訪れた際にも会っているので、この一見小中学生にしか見えない小柄な少女がゆらぎ荘の最古参である事は、既に知っている。互いに挨拶を交わしたところで、千紗希は軒先に吊るされたある物に気付いた。

 それは、先端部分を切り欠いた竹筒を輪っかにまとめて吊るした物で、風が吹くと筒同士がぶつかり合い、カラコロと音を立てた。竹製の風鈴である。

 

「知り合いの息子さんが作って、プレゼントしてくれたんですよ」

 

 と、ちとせが教えてくれた。どこか嬉しそうだ。

 その後、彼女は千紗希をこゆずの部屋に案内する。

 

「こゆずちゃん、千紗希さんがお見えですよ」

 

 引き戸越しにちとせが呼び掛けると、ガラガラと音を立てて戸が開き、こゆずが顔を出した。

 

「千紗希ちゃん、いらっしゃい!」

 

 耳をピコピコ動かし、尻尾をブンブン振って、こゆずは全身で喜びを現しながら千紗希を招き入れた。

 部屋の奥の机の上に、横笛が置かれてある。白地にたくさんの花の絵が描かれた、カラフルな物だ。

 

「あれ? 新しい笛買ったの?」

「ううん、憂助くんが作ってくれたの」

 

 と答えるこゆずの顔は、バツが悪そうだった。

 

「ボク、最初にもらった笛を割っちゃって……そしたらね、次の日に憂助くんがこれを作って持ってきてくれたんだ。最初は真っ白だったけど、ボクの好きなように絵を描いていいって言って、それでいっぱいお花を描いたんだ」

 

 そう説明して、その新しい笛で短い曲を吹いてみせた。

 千紗希は拍手しながら、机の上にもう一つ見慣れぬ物体があるのに気付いた。

 輪っか状にしたタコ糸を通した、小さな四角形の厚紙のように見えた。片面は赤と青で、反対の面は黄色と青で半分ずつ色が塗られていた。

 

「こゆずちゃん、これなぁに?」

「憂助くんが作ったオモチャだよ」

 

 こゆずは答えて、どう遊ぶのか実演してみせた。

 タコ糸の輪の両端を左右の手に持ち、真ん中に位置する厚紙をクルクルと回転させる。すると糸がねじれてくる。そこで両手を広げてねじれをほどくと、厚紙が高速で回転してブーンブーンと音を立て、表面の色が混ざり合い、紫と緑に変色した。

 ぶんぶんゴマ、びゅんびゅんゴマ、あるいは、回転する音が松の木に吹く風を思わせる事から、松風ゴマとも呼ばれている、伝統的な玩具である。

 

「これを久我くんが?」

「うん。今度お店に出すんだって。他にもいろいろ作ってるみたいだよ? 玄関の風鈴も憂助くんが作ったし」

「へぇ、そうなんだ……」

 

 ちとせの言っていた知り合いの息子さんというのが憂助の事なのだと、そこでようやくわかった。

 ふと、憂助と山で共に過ごした夜を思い出した。あの時も憂助は、かき集めた細木や蔓草で千紗希を運ぶ背負子を組み上げた。

 今自分のハンドバッグに取り付けてる、丸っこくデフォルメされた玄武の絵が描かれたアクリルキーホルダーも、憂助がデザインしたらしい。

 

(結構器用なんだ……)

 

 ちょっぴり感心した。

 

 

 時間は朝の10時になろうかという頃だった。

 憂助は自室で夏休みの宿題をやっていた。

 不意に廊下から、電話の鳴る音がした。しかし、すぐに父が出た──かと思うと、

 

「おぉーい、憂助ぇー。友達から電話ぞー」

 

 と大声で呼ばわる。

 廊下に出た憂助は、父から受話器を受け取った。

 

「もしもし」

『おう、久我。俺だ、冬空』

「何か用か」

『お前さ、ちょっとモデルになってくれねえかな?』

「はぁ?」

 

 憂助は間の抜けた声を上げた。

 コガラシいわく、ゆらぎ荘の住民の一人『荒覇吐(あらはばき)吞子(のんこ)』という女性はプロの漫画家で、今描いている読み切り作品のキャラクターのポージングのモデルをやってほしいとの事であった。

 

「お前がやれ」

 

 憂助はバッサリと切り捨てる。

 

『それが、そうはいかねえんだよ……そのキャラクターってのが剣の達人って設定で、吞子さん的にはちゃんとやってる奴のピシッとしたポージングを見たいっていうんだ。俺だとどうしてもオーバーアクションになるらしくてさ』

「お前ずっと前に、いろんな幽霊に取り憑かれていろんな技術覚えさせられたとか言うとったやねえか」

『全部って訳でもねえよ。中には素質がなくて覚えきれなかったやつとかもあるし、剣道家の幽霊には取り憑かれた事もなかったしな。教本とかDVDとかだと角度も限られるから、生で見ておきたいって吞子さんがうるさくってさ……引き受けてくれたら、お礼に今日の昼飯は俺がカツカレー作ってやるよ』

「今からそっち行くわ」

 

 憂助は電話を切ると身支度を整え、父に一言言ってからゆらぎ荘へ瞬間移動した。

 コガラシは憂助を201号室へ案内する。そこが荒覇吐吞子の居室兼仕事場である。

 

「吞子さーん、モデル連れて来ましたー」

 

 コガラシが呼び掛けると、戸が開かれて荒覇吐吞子が飛び出して来た。

 

「あ~ん、ありがとうコガラシちゃぁ~ん! 助かるぅ~!」

 

 間延びした口調で感謝の言葉を述べた吞子は、憂助の方をチラリと見た。

 

「あら、この前の子じゃな~い。確かクガユースケちゃんだっけぇ~? 今日はごめんなさいね~」

「いえ、お気になさらず」

 

 憂助はペコリと頭を下げてそう言った。

 吞子はデジカムを手に、二人を裏庭へと連れていく。

 

「今描いてる読み切りが時代劇でぇ~、身分違いの恋に落ちたお侍と町娘が駆け落ちするって話でぇ~、ラストの追っ手を蹴散らすシーンが上手く描けないのよぉ~。漫画に大事なのはリアリティだって岸辺露伴先生も言ってるしぃ、そーゆー訳だから、お願いねぇ、ユースケちゃ~ん」

「うっす」

 

 憂助は素っ気なく答え、右手をサッと横に振る。掌から、木刀が滑り出た。吞子が「すごぉ~い!」と呑気な声を上げた。

 

「それじゃあコガラシちゃんは敵役お願いねぇ~」

「え、俺もっスか?」

「主人公と敵役の位置関係とかも確認したいのぉ~」

「徹底してますね」

「漫画に大事なのはリアリティだって岸辺露伴先生も言ってるしぃ~」

「ま、まぁ、岸辺露伴がそう言うんなら……」

 

 岸辺露伴はあの週刊少年ジャンプで『ピンクダークの少年』というタイトルの漫画を描いている大物作家だ。霊媒体質が災いして悪霊に悩まされ、霊能力修行と借金返済に追われる壮絶な幼少期を過ごしたコガラシですら名前を知っている。

 その岸辺露伴の名前を出されて納得したコガラシは、玄関から箒を持ってきて、それを得物とした。

 

「それじゃあ、ヨ~イ、アクショ~ン!」

 

 吞子の今一緊張感に欠ける合図と共に、撮影が始まった。

 コガラシが箒で斬りかかり、それを憂助が木刀で、ある時は受け止め、ある時は受け流し、ある時は打ち払う。

 そして反撃に出る。

 小手。

 胴。

 面。

 突き。

 いずれも寸止めである。

 見事な動きだった。対峙するコガラシですら、気が付いたら木刀が迫っていて、いつ動いたのかわからなかった。

 様々な角度から撮影する吞子も、デジカム越しに見とれていた。

 撮影が終わると、コガラシは憂助への報酬であるカツカレーを作るために、厨房へと向かった。

 

「ありがとうねぇ、ユースケちゃん。凄くカッコ良かったわぁ~!」

「あざます」

 

 憂助は素っ気なく答えた。

 

「剣道か何かやってるのぉ?」

「その何かの方っス」

「何かってなぁ~に?」

「……念法っス」

 

 隠すのも面倒くさいし、ゆらぎ荘の住民なら話しても問題あるまいと判断した憂助はそう答え、それがどういう武術なのかも簡単に説明した。

 

「ふぅ~ん、思念を力に変える技ねぇ~……」

 

 説明を受けた吞子は、

 

(……なぁ~んか、どこかで聞いた覚えがあるわねぇ~)

 

 そう思った。

 記憶の糸を手繰っていくうちに、眉間にシワが寄った。

 

(──思い出したわ。アホ親父がよう愚痴っとったやつやないの……せやけど、念法がこの子の説明通りなら、まぁわからんでもないわぁ……)

 

 思い出すのも腹立たしい髭面が脳裏に浮かび、吞子はそれをすぐに掻き消した。

 

「ところでぇ~、幽奈ちゃんのあの神棚、ユースケちゃんが買ってあげたんだってぇ?」

 

 そして二度と思い出したくないので、強引に話題を変えた。

 

「ええ、まぁ」

「幽奈ちゃんのために、ありがとうねぇ~。原稿料入ったら、お姉さんがお金払うからねぇ~」

「お構い無く」

「そうはいかないわよぉ~、五万円なんて大金だし、高校生なら尚更でしょぉ?」

「いえ、別に。小学生の時からやってる五百円貯金がだいぶ貯まってましたんで」

「そうなのぉ? だいぶってどれくらい?」

「神棚買うても、まだ四十万くらい残ってます」

「あらぁ~、お金持ちねぇ~! そんなに貯まってるなんて無駄遣いしてない証拠よぉ? 偉い偉い♪」

「あざます」

 

 吞子は憂助を抱き寄せて頭をよしよしと撫でるが、憂助の態度は変わらず素っ気なかった。

 

「もぉ~、ユースケちゃんもっと愛想良くした方がいいわよぉ? 絶対女の子にモテるからぁ」

「前向きに検討しときます」

「はぁ~い、素直な子はお姉さん大好きよぉ~?」

 

 吞子はそう言うと更に憂助にくっつき、頬擦りまでやり始めた。華麗な剣技を見せた少年のツンツンした態度が、妙に可愛らしく見えるのだ。(うぶ)な反応を見せるコガラシとも、すぐに鼻の下を伸ばし、下心を剥き出しにした、過去に出会った男たちとも違うこの反応が新鮮で面白かったのもあるが。

 

 その後、コガラシの作ったカツカレーで腹を満たした憂助は、軽い足取りでゆらぎ荘を出た。

 それをコガラシと吞子が見送った。

 しかし、憂助の背中に注がれる吞子の眼差しには、いつもとは違う険しさがあった。

 

(……肌で感じ取れる限りでは、いいとこ千を越えるかどうかかぁ……あの子、ほんまに御三家相手に張り合えるんやろか?)

「──うちやっぱり、騙されたんかなぁ」

 

 思わず声に出た。

 コガラシが振り向く。

 

「何スか?」

「ん~ん、独り言よ。気にしないでぇ?」

 

 吞子はケラケラと笑って誤魔化し、原稿を仕上げるためにさっさと自室へと戻っていった。

 コガラシは取り残されて、ポカンと口を開けている。

 

「……今の、京都弁か?」

 

 何と言ったのかはよく聞こえなかったが、発音からなんとなくそう思った。

 

 

 日曜日。

 千紗希は道の駅の片隅の『迷ひ家』を訪れた。

 

「いらっしゃい」

 

 しかし、出迎えたのは店の手伝いをしてるはずの憂助ではなく、その父の京一郎だった。深草色の作務衣を着て、新聞を読んでいる。店内にはアイドルの歌が流れていた。

 

「あ、こんにちは……あの、久我くんは……」

「憂助やったら隣の工房におるよ」

「ありがとうございます」

 

 千紗希はペコリとお辞儀をすると、出入り口の右手にあるサッシを開けて、渡り廊下を通って工房に移動した。

 中では紺色の作務衣を着た憂助が、たくさんの木の実を加工してやじろべえや起き上がりこぼしなどを作っていた。

 しかし、千紗希に気付くと手を止め、ジロリと睨み付けた。

 

「店はあっちだ」

「うん、わかってる。でもそうじゃなくて、久我くんにこれを渡したくて……」

 

 千紗希は鞄の中から、ビニール袋を取り出した。

 中にはカレーパンがキッチンペーパーにくるまれて、三つほど入っていた。

 

「この前助けてくれたお礼に、カレーパン作ったの」

「……カレーパンっちゃ、家で作れるもんなんか?」

「うん、作れるよ? 初めてだからちょっと手間取ったけど、味は保証するよ?」

 

 そう言って、千紗希は手作りカレーパンの入った袋を、憂助に手渡した。

 恐らく休憩場所なのだろう。プレハブの奥に折り畳み式の長机とパイプ椅子が置かれてあり、そのそばには水道と流し台もある。憂助はそこで手を洗ってから、カレーパンを食べ始めた。

 千紗希も向かいの椅子に座る。

 黙々とカレーパンを頬張る憂助の顔は、どちらかと言えば男臭い、いかつい造形に反して、妙に幼く見えて、千紗希は知らず知らず口角が上がった。

 

「どう? 美味しい?」

「おう」

 

 憂助の返答は素っ気ないが、ひたむきに食べる様を見れば、満足しているのが一目瞭然だ。初めてのカレーパンが好評なようで、千紗希はホッとした。

 しかし、ふと憂助の右肩に目がいった。

 

「久我くん。右の肩、ほつれてるよ?」

「あん?」

 

 憂助は首を捻って、右肩を見る。確かに作務衣の縫合部分の糸がほつれて、小さな穴さえ空いていた。

 

「長いこと着とうきのぉ、ま、しゃーねえ」

「貸して? 縫ってあげる」

「おう」

 

 憂助は作務衣の上を脱ぎ、千紗希に渡した。下にはグレーのシャツを着ているので、女の子の前で上半身裸になるような事もなかった。あっさり脱いだのもそのためである。

 千紗希は鞄から携帯式裁縫セットを取り出した。ピンク色の小さなケースの中に、糸と針、ハサミや糸通しまで入っている。

 上着を受け取ると、針に糸を通して縫い始めた。

 憂助はその様をじっと見ている。

 

(……母ちゃんっち、こんな感じなんやろか)

 

 ふと、そんな事を思った。

 

(──くだらねえ)

 

 思った直後に、胸の内でそうぼやいた。

 同い年の少女に、写真でしか知らない母を重ねるなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。高校生にもなって、女々しいにも程がある。

 憂助は口をへの字に曲げた。

 そうやって感情の高ぶりや揺らぎを抑え込むのが、少年の癖であった。

 しかし、自分の服のほつれに気付き、当たり前のようにそれを縫ってくれる千紗希の姿に、安らぎのようなものを感じたのも、事実である。

 

「はい、出来たよ」

「おう、すまんの」

 

 憂助は上着を受け取り、着直した。

 

「ううん、久我くんにはいつも危ないところを助けてもらってるもん。これくらいお安い御用だよ」

 

 裁縫セットのケースを鞄にしまいながら、千紗希は朗らかに言った。どうやらさっきの憂助の視線には気付いてないらしい。

 

「そういえば、こゆずちゃんから聞いたけど、久我くんが作ったオモチャもお店に出すんだって?」

「YouTubeで見て面白そうやったき作ってみただけだ。そげ大した代物やねえ。この店自体が親父の道楽で、大したもんやねぇがのぉ」

「でも、いろんな物を作れるのは立派だと思うよ? こゆずちゃんに新しい笛を作ってあげて、確かゆらぎ荘の玄関の竹の風鈴も、久我くんが作ったんでしょ?」

「まぁの」

「あの絵は?」

 

 千紗希は作業場の端に置かれた山並みや川辺を描いた風景画を指差して、聞いた。

 

「あれも俺だ。後でカラーコピーして、額縁に入れて店に並べる──端金(はしたがね)にもならんやろうけどの」

「そんな事ないよ。凄く綺麗だし、きっと人気出ると思うよ?」

「おい、おだてても木には登らんぞ」

「おたててなんかないってば」

 

 千紗希はコロコロと笑った。憂助が照れているように見えたのだ。

 じっと真正面から、憂助の顔を見る。

 太く、濃い眉毛と、がっしりした顎。男臭い、いかつい顔つきだ。

 言動もぶっきらぼうで素っ気ない。

 なのに、この少年が妙に可愛らしかった。

 

「何か。俺の顔が親の仇にでも見えるんか」

「ううん。何かね、久我くんって可愛いなぁって思って」

「張っ倒すぞ」

「ごめんごめん。でも何て言うかな……久我くんって笛も絵も上手で、いろんな物を作れて、そういうの、凄く素敵だと思うの。だから恥ずかしがらずに、もうちょっと胸を張ってもいいと思うよ?」

「……うるせえ。いらん世話だ」

 

 憂助は顔を背けて立ち上がった。

 そして作業場に戻り、途中だったやじろべえの製作を再開する。

 しかし千紗希は、目ざとく見ていた。

 立ち上がった時の憂助の頬に、赤みが差していたのを。

 

「じゃあ久我くん、アタシ帰るから──頑張ってね」

 

 作業する憂助に後ろから近付きそう言うと、軽く抱き締めて、頭をよしよしと撫でてやった。

 臨海学校で友人二人に、憂助の事は弟みたいに思っていると言ったが、今、その感覚は更に強まり、庇護欲に近い感情になっていた……。



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超(?)霊能力者の姫沙羅(きさら)さん

 時刻は夜の十一時を回っていた。

 上弦の月は、まるで地上を見下ろす巨大な怪物の眼のように不気味に輝いている。

 その月明かりに照らされて物々しいシルエットを夜の闇に浮かべているのは、廃墟となった十階建てのホテルであった。

 山の中腹に建てられたこのホテルは、高所からの夜景や自然と触れ合える散策コースなどを売りとしたリゾートホテルとして経営されていたが、二十年ほど前に倒産して以来放置され、廃墟となった。

 それが最近になって、心霊スポットとして、オカルトマニアたちの間で話題になっている。

 

 久我憂助は、そのホテルに続くなだらかな坂道に立っていた。

 夏の盛りではあるが、夜の山中は意外と冷える。加えて虫除け対策も兼ねて、ジーパンとグレーのシャツの上から、紺色の長袖カッターシャツを着て、袖ボタンも留めていた。

 憂助は、一人ではなかった。

 周囲にはたくさんの大人たちがいて、ある者は照明でホテルを照らし、その傍らでカメラマンがカメラを肩に担いでホテルを撮影している。スマホでどこかに連絡を取り合う者もいた。テレビ番組の撮影クルーである。

 だが憂助はそんな彼等に「何か手伝いましょうか?」と声を掛けるどころか、気にする素振りもなく、ただ険しい眼差しをホテルに注いでいた。

 そんな憂助に、一人の男性が近付いてきた。眼鏡をかけ、口の周りに濃い髭を生やした恰幅の良い男である。歳は四十手前といったところだろうか。

 

「どうだい憂くん。何かわかるかい?」

 

 その男は優しく、親しげに、憂助に問い掛けた。

 

(たち)の悪いのが、ここを(ねくら)にしとうごとある」

「みんなは?」

「親父や爺ちゃんやったらわかるやろうけど、俺はまだそこまではわからん。実際に中に入って探すしかねえ。ただ、今言った(たち)の悪いやつの気配が動いた様子はないき、少なくとも食われて死んだっち事は、たぶんねかろ」

「憂くん、この前も言ったけど、君に何かあったらおじさんは責任が持てない。無理はしなくても……」

「親父が俺に丸投げしたんやき、俺一人でどうにかなるっち事やろ。大丈夫大丈夫。ちっと行ってくるわ」

「わかった。気を付けてね」

 

 男はそう言うと憂助に懐中電灯を渡し、カメラマンに一旦カメラを止めるよう命令した。

 その脇を通り抜けて、憂助はジーパンの尻ポケットに懐中電灯を突っ込み、スタスタとホテルへ向かって行った。

 

 

 三日前の事である。

 夜の七時を過ぎる頃、久我家に来客があった。

 京一郎の友人で、テレビ局で働いている大沢孝臣という男だ。今制作中の心霊番組のプロデューサーをやっているのだが、心霊スポットでの撮影を行うので、用心棒として京一郎に声を掛けたのだ。ゲストとして、美少女霊能力者で売り出し中の如月(きさらぎ)姫沙羅(きさら)が出演する事になっているが、万が一の場合に備えて他にも霊能力者を呼ぶ予定だった。しかし声を掛けた霊能力者たちがことごとく拒否して来たため、最後の頼みの綱として、同窓生だった京一郎に、高級日本酒を手土産に依頼したのである。

 快く引き受けた京一郎は、部屋で筋トレをしていた憂助を呼び出して、その役目を当たり前のように押し付けてきた。

 異を唱えたのは大沢である。

 

「憂くんはまだ高校生だろう? 万が一の事が起きた時、俺は責任が持てないよ」

「大丈夫大丈夫、コイツの修行にはちょうど良かろ。憂助、そういう事やきちょう出稽古のつもりで行ってこい」

 

 京一郎はケラケラ笑って、憂助にそう言った。

 

「そんな、京ちゃん……」

「いいよ、おいちゃん。去年新しいパソコン買うてもろうたお礼もしたかったし」

「そんな、憂くん……」

「さすが憂助! 男の中の男! よっ、日本一!」

 

 京一郎が息子に拍手をして囃し立てる。

 そんな訳で憂助は大沢に連れられて、心霊スポットである廃ホテルを訪れたのだが、撮影準備のために先に現地入りしたスタッフと連絡が取れなくなった。

 現地入りした如月姫沙羅が、近くを漂っていた男性の幽霊とその霊能力で交信したところによると、幽霊はホテル内に機材の設置をしていたスタッフの一人だった。作業中、一人二人と仲間がはぐれてしまい、それを探していた時、妙な女の姿を見たため、それを追い掛けていくと、化け物に襲われたという。

 

「ここは霊能力者であるわたくしが救い出してみせますわ!」

 

 天女のコスプレをしたまま力強く宣言する姫沙羅に、一部のスタッフたちは本当に天女様を崇めるかのような眼差しを向けた。

 そうして懐中電灯を手に姫沙羅が一人ホテルに入ったのが、五分ほど前の事である……。

 

 

 ホテルに入った憂助は、暗闇にも関わらず懐中電灯を点けずに、我が家を行くような足取りで進む。

 念法修行や山籠りのおかげで夜目が効く上に、念を周囲に放出して地形を感知出来るのだ。反響定位(エコーロケーション)の念法バージョンといったところか。大沢から受け取った懐中電灯は、救出したスタッフや姫沙羅を先に脱出させねばならなくなった場合に、彼等に持たせるための物でしかなかった。

 一階の玄関ロビーを少し進んだところで、憂助は足を止めた。二階へ続く階段の上に、人の気配を感じたのだ。

 階段を上ると、如月姫沙羅が廊下の端に座り込んでいた。

 

「おう、生きとったか」

「うひぃぃいいいいっ!?」

 

 憂助の声に、姫沙羅は乙女にあるまじき情けない声を上げた。

 憂助は「うるせえ!」と怒鳴りたいのを我慢して、懐中電灯で自分の姿を照らし出す。

 

「……あら、あなたプロデューサーと一緒にいた……」

「助けに来た。他の人は?」

「そ、それが、その……」

「まだ見付かっとらんとか」

「え、ええ、そうですの! 一階を探しましたけれど誰もいなくて」

「そらそうやろの……敵は下におるごとあるきの」

「下って……地下? 敵って、先程のスタッフさんがおっしゃってた化け物?」

「まぁの。ちょう行ってくるき、アンタ先に外出とけ」

「ひぃいいい! ままままま待って! こんな暗い所に置いていかないでくださいまし!」

「アンタ懐中電灯持っちょっちょろうも」

「電池切れですのよ!」

「それで動けんごとなって座り込んぢょったんか……ほれ」

 

 憂助は自分の懐中電灯を姫沙羅に手渡した。

 

「じゃあの。気ぃ付けてな」

 

 そう言って階段を下りる。

 

「まままま待って! 一人にしないでぇぇえええ!」

 

 その背中を、姫沙羅は情けない声を上げつつ追い掛けた。

 

「一人にも何も、すぐそこが出口なんやきそっから出りゃ良かろうも」

「そっそそそ、そうはいきませんわ! あれだけ大見得を切っておいて手ぶらで帰るなんてそんな事になったら、わたくしの評判ガタ落ちですもの! とっとととと、とにかくわたくしもお手伝いいたしますわぁぁああああ!」

 

 姫沙羅はそう言って憂助の腕にしがみついた。豊満な乳房が腕に密着してムニュッと形を変える。着ている天女の衣装は胸元が大きく開いているので、深さを増した谷間があらわになる。

 

「やかましい! お前の事情なんぞ知るか!」

 

 憂助は怒鳴り付けて、腕を振り払った。

 

 

 憂助は闇の中、地下へ続く階段を下りていく。

 先程姫沙羅が交信した幽霊に付いていた、肉体と魂をつなぐ『霊子線』は地面に伸びていた。

 そして玄関ロビーで憂助が行った念による反響定位の結果からして、スタッフを襲った化け物は地下にいる。スタッフたちも恐らくそこへ誘導されているに違いない。そうでなくとも、まずはこの敵を叩いて無力化しておけば、後の捜索が楽になるはずだ。

 憂助はそう考えて地下へ向かっていた。

 山の斜面を利用して建てられたこのホテルには、地下階が三階ある。いるとすれば最下層にあるという大浴場であろうと、憂助は推測していた。

 その後ろを、姫沙羅は懐中電灯で足下を照らしながら、おっかなびっくり着いてくる。

 しかし恐怖によるものか、その足取りは覚束ない。

 階段を踏み外して、先を行く憂助の背中にダイブしてしまった。

 憂助はそれより一瞬早く振り向き、落ちてきた姫沙羅を抱き止めてやる。

 

「ここおっとけ」

 

 そう言って姫沙羅を階段に座らせたが、彼女は憂助のカッターシャツの袖を掴んで、しがみついた。

 

「そ、そそ、そうはいきませんわ! わた、わた、わたくしだって霊能力者のかなり端くれですもの! ななな、何かお、お、お手伝い出来る事があらりら、あるはずでわ!」

「呂律も回らんごとなりようくせによう言うたの……」

 

 憂助は半分呆れて、半分は感心した。

 姫沙羅はどちらかと言えばその美貌とプロポーション、そしてエキセントリックなキャラクターで人気を博しており、憂助の目から見ても霊能力者としては普通以下のレベルだ。出来る事など幽霊の姿を見て、その声を聞く事くらいで、それだけをやるためにも、かなり集中力を高める必要がある。

 それでも、自分の力を他人様の役に立てようとしている姿勢には、多少なりとも敬意を抱く。

 しかし、はっきり言って邪魔である。

 戦闘力には寸毫(すんごう)も期待してないが、索敵能力においても、姫沙羅は憂助にも及ばない。せめて精度か範囲のどちらかでも上回っていれば助けになるだろうが、今姫沙羅に出来る事など、B級ホラー映画のヒロインよろしく悲鳴を上げる事くらいだろう。

 

(どうすっかのぅ……)

 

 当て身の一つもくらわせて気絶させておこうかと思ったが、さすがにこんな暗いところに、短時間とはいえ女性を放置する気にはなれない。手足をふん縛ってホテルの外に放り出そうかと考えたが、嫌がる女性を縛り上げる自分の最高にカッコいい姿を想像すると、あまりのカッコ良さに死にたくなってきた。そもそも拘束するロープがない。

 仕方がないので、これも修行の一環と思い、姫沙羅の同行を黙認した。

 

 気になる事が一つあった。

 姫沙羅と交信したスタッフの霊の、最後の証言である。

 彼は妙な女の姿を見掛け、それを追い掛けた。どんな女だったのかと姫沙羅が尋ねると、顔はわからなかったが確かに

 

「バニーガール……でした」

 

 と、答えたのだ。

 ふざけた答えではあるが、少なくとも何かしら幻術の類いを使う相手なのだろう。果たして自分の念法がどこまで通用するか……。

 

 

 地下二階に下りた時、物陰から何者かが姫沙羅の腕を掴んだ。

 

「うひゃっ!?」

 

 姫沙羅が小さな悲鳴を上げるのと、憂助が右手の中から取り出した木刀をその何者かの脳天に叩きつけたのは、ほぼ同時だった。

 念を込めた一撃だ。頭を割るどころか、コブやアザすらつけずに、相手を昏倒させた。

 倒れた相手を姫沙羅が懐中電灯で照らすと、それはバニーガールだった。

 頭に飾られた、ウサ耳付きのカチューシャ。

 豊満な胸元を大きくさらけ出したレオタード風のコスチューム。

 肉感的な曲線を描く下半身を包む網タイツ。

 どこからどう見ても、立派なバニーガールである。

 ──いや、バニーガール()()()と言うべきか。二人が見ている前で、女性の服装はボンッと煙を上げ、バニーガール衣装から半袖のトレーナーとショートパンツという、いたって普通の私服に変化したのだ。

 

「この方、番組のスタッフですわ」

「先に現場入りしとった人か……」

 

 憂助は今の衣装の変化に見覚えがあった。こゆずの葉札術や幽奈の服装チェンジと同じだ。

 敵が使うのは、それと似たような術のようだ。

 

(しかし、捕まえた女にエロい格好させて侍らせるならともかく、その辺うろつかせるのはどういう了見やろか……)

 

 倒れたままの女性スタッフを見下ろして黙考する憂助の手を、姫沙羅が掴んだ。そしてどこかへ引っ張ろうとする。

 

「何か、どうし──」

 

 どうした、と言おうとして、憂助は不覚にも固まった。

 姫沙羅の服装が、天女の衣装からセーラー服とスクール水着に変わっていたのである。

 

「わわわわ、わたくしにもわかりませんわ! いきなり服が変わったかと思ったら、体が勝手に……!」

 

 姫沙羅は耳まで真っ赤になりながら弁解する。その間も、彼女の体は彼女の意思を無視して、憂助を引っ張る。その細腕からは想像出来ない力の強さだ。憂助がわずかずつではあるが、引っ張られていく。

 憂助が踏ん張って抵抗すると、姫沙羅の服装が、ボンッと煙を上げ、変化した。セーラー服が襟の部分だけ残して消え、スクール水着はビキニ水着に変化した。

 憂助が両足に力を込めて更に踏ん張ると、再び煙と共に衣装が変わる。ほとんど紐に近い、際どいスリングショット水着へと。

 

「ひぃぃいいいいいっ!? 何とかしてくださいまし! このままではわたくし、素っ裸にされてしまいますわぁぁああああ!」

 

 姫沙羅が羞恥の悲鳴を上げる。

 

(そういう事か……)

 

 正体はわからぬまでも、敵の目的はわかった。

 捕まえた女を妖術でセクシーな格好にさせて、男を誘惑して自分の元へ連れて来させるのが目的だ。獲物となる男が抵抗すれば、更に過激な服装に変えて、誘惑を強めるようだ。

 つまり、このまま姫沙羅に引っ張られれば敵の元へと行ける訳だが、たとえ自分の意思でとは言え、相手の策略に嵌まる気はない。女性に恥ずかしい格好をさせておく気もない。

 

「エヤアッ!」

 

 憂助は右手の木刀で、姫沙羅を袈裟斬りにした。

 木製の刃が白い肌を透過する。

 姫沙羅の体から白光がほとばしり、服装が元の天女の衣装に戻った。

 

「わひゃっ!」

 

 妖術が解けた事で、姫沙羅の腕力も元に戻ったようだ。手がすっぽ抜けて、姫沙羅は尻餅をついた。

 

「その人を頼む」

 

 憂助は姫沙羅にそう言い残して、地下三階への階段を駆け下りた。

 操られた姫沙羅が憂助を引っ張ろうとしたのは、その地下三階への階段だった。敵はやはり、そこにいるのだ。

 

 駆け下りた先は、大浴場だ。

 脱衣場のドアを開けて浴場に入った先には、その浴場いっぱいに巨体を広げた鮟鱇(あんこう)の化け物がいた。

 鮟鱇の体表面には、番組スタッフと思わしき男性たちが数人、透明なゲル状の物体に包まれて張り付けられていた。

 鮟鱇の額からは一本の触腕が生えており、先端はナイフとなっている。

 丸呑みにした男を体液でコーティングして自身の体に寄生させ、ゆっくりと時間をかけて精気を吸い取る、妖怪『夜叉鮟鱇(やしゃあんこう)』である。

 夜叉鮟鱇は額の触腕を、憂助目掛けて伸ばしてきた。

 速く、鋭い動きだ。ナイフ状の先端が、槍のように迫る。

 

 ギィンッ!

 

 硬い音と共に、刃が弾かれた。

 憂助が木刀で打ち払ったのである。

 触腕は一度大きく縮むと、再び襲い掛かって来た。先程よりも更に速い。狙うは憂助の足下──しかし、そこに憂助はもういなかった。跳躍したのだ。

 空を切った夜叉鮟鱇の触腕は、しかしもう一度、憂助の着地の瞬間を狙って、地を薙ぎ払った。

 しかし、やはりそこに憂助はいなかった。

 夜叉鮟鱇の眼がギョロリと上を向く。

 ……何と憂助は、浴場の天井に()()()()()()

 念法の為せる技か、髪も、カッターシャツの裾も垂れ下がってはいない。まるで憂助のいる地点だけ、重力が反転したかのようだ。

 憂助は天井を駆け、眼下の夜叉鮟鱇目掛けて木刀を振り下ろす!

 しかし必勝を期した一撃は、触腕によって打ち払われた。

 憂助は地面に着地、木刀を正眼に構えたまま、距離を取った。

 ──と、背後から憂助に抱き着く影。

 さっきの女性スタッフだ。服装はマイクロビキニになっている。そして、目は閉じられたままだった。気絶したまま、夜叉鮟鱇の妖術で操作されているのだ。

 夜叉鮟鱇に集中していた上、女性スタッフ自身は意識がなく何の敵意もなかったため、憂助は完全に不意を突かれた。

 すぐに女性スタッフを振りほどくが、その時既に、夜叉鮟鱇の触腕が迫っていた。

 その時、別の影が憂助を突き飛ばした。

 そして身代わりとなって、夜叉鮟鱇の触腕に絡め捕られてしまう。

 それは姫沙羅であった。妖怪に操られた女性スタッフを追いかけて来たのだろう。

 夜叉鮟鱇は触腕を振り上げた。姫沙羅を地面に叩きつけるつもりか。

 しかし姫沙羅は、とっさに天井の配水管にしがみついた。

 一瞬、夜叉鮟鱇の動きが止まった。

 

「い、今ですわ!」

 

 夜叉鮟鱇を指差して、憂助に呼び掛ける。

 憂助は既に、夜叉鮟鱇の眼前に瞬間移動していた。

 木刀を下から上へと、切っ先で床をこするようにして振り上げる。

 その際に発生した、あるかないかのかすかな摩擦熱が念で増幅され、白炎を生み出した。

 

 久我流念法『闇祓い』!

 

 白炎は火柱となって夜叉鮟鱇を包み込み、その巨体を瞬時に焼き尽くして、しかし捕らわれた男性スタッフには一切の傷を付ける事なく、消滅させた。

 憂助は木刀の刀身を左手で拭い、そのまま左手の中に収めると、両手を前に伸ばす。

 配水管にしがみついていた姫沙羅がその腕の中に落ちてきた。

 

 

 スタッフたちは無事に戻ってきたものの、姫沙羅の表情は暗い。

 廃墟の中には、撮影用の定点カメラが設置されていたはずだ。あの広いホテルにどれだけ設置されたかはわからないが、恐怖のあまり悲鳴を上げ、高校生の男の子に抱き着くという一階での醜態が撮影された可能性は高い。自分の情けない姿が全国のお茶の間にさらされる事となるだろう。

 

(──でも、いい機会かも知れませんわ)

 

 強がりではなく、そう思った。

 霊との意志疎通が出来る程度の力しかないのに、みんなからチヤホヤされてお金も儲かるからと、下心全開で仕事を続けたバチが当たったのだ。いっそこれを機に初心に戻って霊能力の修行をするなり、思いきって業界を去り静かに暮らすなり、新たな生き方を模索するのも良いかも知れない。

 年下の少年の圧倒的な戦闘力を見せられて、姫沙羅はかえって清々しい気持ちになっていた。

 

「姫沙羅さん、設置してあったカメラの映像を見たんですが……」

 

 スタッフの一人がおずおずと話し掛けてきた。

 思わず、かすかにすくみ上がる姫沙羅に、そのスタッフはキラキラと目を輝かせていた。

 

「さすが姫沙羅さんです! 男の子を身を挺して守った上、指差しただけで怪物が火を吹いて消滅するなんて!」

 

 ──はい?

 

 訳がわからなかった。

 しかしモニターを見てみると、確かに自分が憂助を突き飛ばして助けるシーンが俯瞰視点で映っている。

 天井の配水管にしがみつき、地面に叩きつけられるのを防いだ後、夜叉鮟鱇を指差すと、妖怪は白い炎に包まれて消滅した。

 天井に設置されていたカメラが収めたシーンは、角度のせいで憂助の姿が夜叉鮟鱇の巨体に隠れて見えないため、確かに姫沙羅が妖怪を退治したようにも見える映像となっていた。

 映像はこの後、すぐに乱れて途切れた。憂助の念によるものか、はたまた夜叉鮟鱇の妖気のせいか、カメラが壊れてしまったようだ。

 

「これは数字獲れますよ!」

「さすが姫沙羅様です!」

「私一生ついていきます!」

 

 周りのスタッフたちの言葉に、姫沙羅は白い頬を上気させた。

 全身を甘美な衝撃が走り、ゾクゾクと震えてくる。

 

「たいした事はありませんわ! あれしきの妖怪、しょせんはこの如月姫沙羅の敵ではなかったというだけの事ですもの、おーほっほっほっ!」

 

 先程の反省はどこへやら、姫沙羅は高々と笑い出す。

 支給された夜食の幕の内弁当を食べながら、憂助はその様子を呆れ顔で眺めていた……。

 

 

 それから十日ほど経ったある日、『迷ひ家』を千紗希が訪れた。

 カウンターでは憂助が、家から持ってきた小説を読みながら店番をしている。

 

「こんにちは、久我くん」

「おう」

「ねえ、昨日あった心霊番組、見た?」

「うんにゃ」

 

 憂助は素っ気なく答えた。

 実は心霊番組は好きではない。出演者の大袈裟でわざとらしいリアクションがうっとうしいからだ。

 

「そうなんだ……実はね、その番組で如月姫沙羅が心霊スポットに行って、そこにいた妖怪を退治するっていうシーンがあったんだけど、妖怪に襲われてた男の子が、久我くんそっくりだったの」

「世の中自分に似た人間が三人はおるらしいきの。他人の空似やろ」

「そうかぁ……そうだよね。久我くんなら一人でやっつけちゃうだろうし……でも、だとしたらやっぱりあれってCGだったのかな。凄くリアルで迫力があったよ?」

「ほぉー」

 

 憂助はいかにも興味ありませんと言いたげな生返事をしながら、小説のページをめくった。

 

 心の中でとは言え邪魔者とまで断じた女に助けられた、己の慢心と未熟さを、憂助は今もちょっぴり気にしていた。

 そして、そんな胸中を見透かされたくなかった。

 そもそも、千紗希は苦手な相手だった。

 彼女の前ではつい気が緩んで、余計な事まで口にしてしまう。自分の弱味をさらけ出してしまう。

 だから憂助は、いつも以上にクールを装っている。

 

 しかしそんな憂助を、千紗希は事情はわからないながらも、いつにも増して可愛く思うのだった。



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千紗希さんと憂助くん

 午後の3時を過ぎる頃。

 憂助は珍しく、街中の公園で篠笛の練習をしていた。

 作務衣(さむえ)雪駄(せった)という服装で、公園の片隅にある東屋(あずまや)のベンチに座ると、肩から提げていた頭陀袋(ずだぶくろ)から笛と教本を取り出して、演奏を始める。

 公園内には親子連れやカップルがいるが、少年の奏でる『さくら』に一度目線をやる程度で、特に注目はしない。

 それでも、人目のつく場所で練習するのは、この少年には珍しい事であった。

 いつもは自宅の部屋で、あるいは人の来ない山奥でやるのだが、今日に限れば、人のいる場所でやりたくなった。静かな環境が、かえって煩わしいと感じた。人のいる場所でなら、気も紛れるのではないかと思った。

 

 福岡の田舎に一人暮らす祖父が、入院した。

 近所の家の屋根の修理をしてやっていたら足を滑らせて落ちてしまい、足を怪我したのだという。

 それで祖父の世話と、実家の管理のため、昨日から父は田舎に帰っている。憂助も同行しようとしたが、

 

「お前まで来たら『憂くんにいらん心配させんなー』っち父ちゃんが怒らるっきの、お前は留守番しとけ」

 

 と言われた。

 今朝の京一郎からの連絡によると、骨に異常はないものの、一週間ほど入院することになるという。

 それでも心配だった。

 そもそも、自分より強い父の更に上を行く念法家たる祖父が、足を滑らせて屋根から落ちたというのが信じられない。もしや本人も気付かぬ病気にでもかかっているのではないか……考えれば考えるほど、不吉な事ばかり思い浮かぶ。

 外に出ての笛の練習は、それらを振り払うためのものだった。

 しかし、外に出てもやはり祖父の事が気になって、集中出来なかった。

 

「あれ? 久我くん?」

 

 不意に呼び掛けられて、憂助は驚きのあまり飛び上がるような気持ちになった。ピュイッ! と音まで外してしまう。

 

 宮崎千紗希が、そこにいた。

 

「あ、ごめんね。驚かせちゃったね」

 

 千紗希は苦笑しながら、憂助の隣に座った。

 

「久我くん、いつもここで練習してるの?」

「うんにゃ……まぁ、天気もいいき、たまにはと思うての」

 

 憂助は答えつつ、少しだけ距離を取る。千紗希は気付かないのか気にしないのか、それについては特に何も言わない。

 

「たまにはって事は、じゃあ、いつもは違う所で練習してるんだ」

「まぁの。家とか、山ん中とか……」

「そうなんだ。うーん、それでなのかなぁ」

「何がか」

「うん、上手く言えないけど、いつもより調子悪そうな感じに聞こえたの」

「…………気のせいやろ」

 

 答えつつ、己の心中を見透かされたようで、憂助は口をへの字に曲げた。

 

「それならいいんだけど……もし悩み事とかあったら、相談してね? 聞き役くらいしか出来ないけど、誰かに話すだけでもスッキリするよ」

「お前はすぐそれやの。俺がそげ悩み多き人間に見えるんか」

「だって心配なんだもん。久我くんってちょっと意地っ張りなところがあるし……辛い時でも絶対他人の手を借りたりしなさそうで……だから、もし何か悩み事があるなら、話してほしいの」

 

 ──お前には関係ねえ、失せろ。

 

 と言おうとした憂助は、そこで千紗希と目が合ってしまった。

 途端に、自分の中で張り詰めていたものがほぐれていくのを感じた。

 

(こいつ、何か妖術でも使いようんやねかろうの……)

 

 そんな突拍子もない事が、思わず頭に浮かぶ。

 憂助は、大きな溜め息をついた後、祖父が怪我をして入院した事、それが心配で落ち着かない気持ちでいる事を、ボソボソと打ち明けた。

 

「そっか……うん、それは心配だよね。でも、おじさんが大丈夫だって言うのなら、本当に大丈夫なんじゃないかな? 何となくだけど、おじさんはそういう時には嘘はつかないと思うの」

「……まぁ、そうなんやろうけどの」

 

 憂助は同意した。

 しかし、それはそれとして、やはり心配なのも確かだった。

 

「お祖父さんはスマホとかケータイとか持ってるの? それなら電話でもしてみればいいんじゃないかな」

「そやの。後でそうするわ」

「うん。お祖父さんも久我くんの声を聞いたら元気になるかもね」

「んー」

 

 曖昧な返事をする憂助を、千紗希はじっと見つめる。

 剛胆な性格ではあるが、やはり繊細な一面もあるようだ。そして、そういうのはカッコ悪いと感じているからか、相手に心配させたくないからかはわからないが、とにかく自分の弱味を決して他人に見せようとしない。誰かがついていてあげなくては、いつか抱え込みすぎてつぶれてしまうのではないだろうか……大袈裟かも知れないが、そんな危うさを憂助から感じ取った。

 

「──ねえ、今久我くんのお家、誰もいないんだよね?」

「俺以外はの」

「そっか、それじゃあ一人で大変だろうし……今から、久我くん家に行ってもいいかな? お夕飯作ってあげる」

「…………は?」

 

 憂助は間の抜けた声を上げた。何故そうなるのかさっぱり理解出来ない。

 

「美味しいもの食べれば元気も出るよ。まずは久我くんが元気出さなくちゃ、ね?」

 

 千紗希は立ち上がると、「ほら、行こう?」と憂助の手を取る。

 その手の柔らかさと温もりに、憂助は振り払う事も出来ず、唯々諾々と従うしか出来なかった。

 

 

 千紗希に好きな物は何かと聞かれて、憂助は『カレー』とだけ言った。

 すると千紗希は近くのスーパーに寄って材料を買った。

 その後、憂助の瞬間移動で、久我家の玄関前に移動した。

 

「わぁ、立派なお家だね」

 

 初めて目にした久我邸に、千紗希は素直な気持ちを口にする。

 和風の平屋造りで、何となく憂助にピッタリな家だと感じた。

 

「おだてても木には登らんぞ。半分は道場やきの、家だけならお前んとこの方が立派だ」

 

 憂助は答えながら、玄関の鍵を開けた。

 久我邸は、没落して住む者のいなくなったとある豪農の屋敷を、京一郎が人脈の広さと口八丁を駆使して安く購入したものだった。

 安く買えたのは、かつての所有者が自殺したからである。いわゆる事故物件であり、そして『出る家』となったのだが、京一郎がそれを念法の技で以て浄化したらしい。

 そんな曰く付きの屋敷の一角を改装したのが、憂助の言う『道場』である。

 

 中に案内された千紗希は、早速料理に取り掛かるのかと思いきや、まずは家の中の掃除を始めた。

 散らかしてるつもりはない憂助だったが、千紗希の目から見ればまだまだのようだ。ここはこうしろ、ああしろと、幾つか掃除におけるアドバイスを貰ってしまった。

 

「……お前にそこまでしてもらう謂れはねえんやけどの」

「久我くんにはなくても、あたしにはあるの。何度も助けてもらって……久我くんがいなかったら、あたしは今こうして無事ではいられなかったんだもん」

 

 千紗希の、心からの言葉であった。

 先日の猩々(しょうじょう)の件*1もそうだが、こゆずを騙して利用していたあの霊能力者*2にしてもそうだ。憂助がいなかったら、こゆずは悪者にされた挙げ句の果てに殺され、自分と両親は何も知らずに彼に騙されて信者となり、言われるままに金を貢ぐ奴隷となっていただろう。

 大袈裟でも何でもなく、憂助は千紗希の恩人なのだ。得意分野で恩返しが出来るのなら、これほど嬉しい事はないとすら、千紗希は思っている。

 

「ゴミとか片付けるだけだから、心配しないでゆっくりしてて?」

「客に家事やらせといてゆっくり出来るか、阿呆」

「いいからいいから」

 

 聞く耳持たない千紗希に、憂助は小さく溜め息をつくと、

 

「何かあったら呼べ」

 

 と言い捨てて、自分の部屋に閉じ籠った。

 それを見届けてから、千紗希は掃除を再開する。

 居間に入ると、ある物が目に止まった。

 小さな台の上に、簡素な仏具一式と共に飾られたモノクロ写真である。一目で遺影だとわかった。

 写真の中で、女性が柔和な笑みを浮かべている。若い。母の日和と同じか、やや年下に見える。

 

(この人が久我くんのお母さん……?)

 

 千紗希はそう思った。

 ふと、以前こゆずから聞いた話を思い出した。

 ゆらぎ荘に遊びに行き、そこでこゆずの篠笛を聞いた後、何故笛を始めたのかと尋ねた時の事である。

 こゆずは「笛を吹いてる憂助くんがカッコ良かったから!」と明るく答えた後、更に何か言おうとして、慌てて口をつぐんだ。

 それを不思議に思って、やんわりと聞くと、「誰にも言わないでね」と念を押した上で、こゆずは話し始めた。

 

「憂助くんね、時々寂しそうな顔するんだ」

「寂しそう? 久我くんが?」

「うん。お家の居間にお母さんの写真が飾ってあるんだけど、その写真にお参りしてる時とかは特に……やっぱりお母さんいなくて寂しいのかなって思ったら可哀想になってきちゃって、それで、一緒に同じ趣味をやってあげたら寂しくなくなるかなって思って──これ、絶対憂助くんには言わないでね? 憂助くんカッコつけたがりだから、バレたら絶対怒られちゃうよ」

 

 こゆずはそう語った。

 臨海学校が始まる前の事である。

 千紗希は線香に火を灯し、(りん)*3を鳴らして、遺影に合掌した。

 

 

 もうすぐ夕方の6時になろうという辺りで、夕食の支度が出来た。

 千紗希の作ったカレーライスを大皿いっぱいに盛った憂助は、ダイニングでそれを黙々と食べる。

 ──美味い。

 自分や父が作った物よりも、ずっと美味かった。

 

「どう? 美味しい?」

「ああ」

 

 憂助はただそれだけを答えて、黙々と食べ続ける。

 素っ気なく、愛想もないが、ひたむきに食べる様を見れば、満足しているのがわかる。千紗希は軽い達成感と満足感を覚えた。

 

(それにしても……)

 

 黙々と食べる憂助を、テーブルの向かいの席から眺めながら、千紗希はスーパーで買い物をしていた時の事を思い出した。

 カレーのルーを選んでいる時、憂助がこう言ったのだ。

 

「別にどれでもいいけど、甘口にしてくれ」

 

 と、そう言ったのだ。

 

(本当に、変なとこで子供なんだから……)

 

 こゆずは『カッコつけたがり」、博子は「とっぽい*4」と憂助を評していたが、それがよくわかる。

 臨海学校の時は呆れたが、今は微笑ましかった。

 

 

 食事の後の洗い物も、千紗希が率先して引き受けた。

 憂助は部屋に閉じ籠る事すら何だか申し訳なく思えて、何となく居間でテレビを見る。

 しかし落ち着かない。

 居間を出て台所の入り口に立ち、エプロンを着けて溜まった洗い物をテキパキと片付ける千紗希の後ろ姿を眺めた。

 

(……母ちゃんっち、こんな感じなんやろか)

 

 以前と同じ事を思った。

 居間に戻った憂助は、ゴロリと寝転がり、

 

「くだらねえ」

 

 小さく、しかしはっきりと、声に出して言った。

 前にも思ったが、写真でしか知らない母親を、同年代の少女に重ねるなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。高校生にもなって、女々しいにも程がある。

 そんな己の惰弱さを、憂助は「くだらねえ」と声に出す事で、切って捨てようとした。

 しかし。

 今、千紗希が同じ屋根の下にいる。

 ただそれだけの事で、今自分の心が安らいでいるのも事実であった。

 美味い甘口カレーライスで腹が膨れたからか、テレビ番組が退屈だからか、憂助は眠気を覚えて、折り畳んだ座布団を枕に目を閉じた。

 

 

 目を覚ますと、タオルケットが掛けられていた。自分の部屋にあった物だが、持ってきた覚えはない。

 頭の下に敷いていた座布団の感触が、ない。代わりに、もっと厚みのある、肉感的な柔らかさを感じた。

 次に目に入ったのは、二つの山であった。

 布に包まれた二つの大きな膨らみが、視界の半分近くを占拠している。

 その双丘の向こうに、千紗希の顔が見えた。

 憂助はそこで、ようやく状況を理解した。

 何故かは知らないが、自分は今、千紗希に膝枕をされているのだ。

 

「うおあああっ!?」

 

 思わず奇声を上げて跳ね起きた。

 

「わひゃあっ!?」

 

 スマホのLINEで芹や博子とやり取りをしていた千紗希も、ビックリして奇声を上げる。

 

「え? え? なになに? どうしたの久我くん!」

「お、お、お、おま、おま、お前!」

 

 お前は何をやってるんだと言おうとしたが、動揺のあまり言葉が出ない。

 千紗希はそんな憂助を見て、寝ぼけて状況が理解出来てないのだと思った。

 

「大丈夫だよ。今日は久我くんのお家、誰もいなくて一人じゃ大変だろうと思って、あたしがお夕飯を作ってあげたの。それから洗い物して、久我くんがここで居眠りしちゃってたから、お部屋からタオルケット持ってきて掛けてあげたの」

「そ、それはわかっとうけど、なしお前が俺に膝枕とかしとったんか!」

「だってあんな薄い座布団じゃ、畳んでも枕代わりなんてならないよ。首寝違えちゃいけないから、膝枕してあげたの」

「タオルケットと一緒に枕も持ってくりゃ良かろうも!」

「──あ」

 

 言われて気付いたようだ。

 

「あはは、それもそうだね。うっかりしてた……」

 

 千紗希は笑ってごまかす。

 うっかり失念していたのは確かだが、実際は眠っている憂助の寝顔が妙にあどけなく、愛らしく見えて、つい膝枕をしてやりたくなったというのが本当のところである。

 

「ごめんね、驚かせて」

「寿命が縮んだわ……」

 

 嫌味でも皮肉でもなく、寿命が縮む思いだった。

 少しして気持ちも落ち着いてきた憂助が壁の時計を見ると、もう8時を過ぎている。

 

「もうこげな時間か……もう帰れ、親御さんも心配しとうやろ。送っちゃる」

「うん、ありがとう。でも、パパやママなら大丈夫。どっちもお仕事で今日は家にいないから、怒られたりとかはないよ」

「……そうか。ならいいが、それでも帰れ。台風直撃とかでもねえんにから男の家に泊まる訳にもいくめえも」

「うん、そうだね……じゃあ久我くん、お邪魔しました」

「けっ、まったくだ」

 

 憂助は吐き出すように言ったが、千紗希はそれを見て微笑むだけだった。

 玄関を出ると、二人は憂助の瞬間移動で宮崎家の前に飛んだ。

 

「ありがとう久我くん」

「おう」

「お祖父さんもきっと大丈夫だから、元気出してね」

「おう」

「それじゃあ、おやすみなさい、久我くん」

 

 千紗希はそう言って小さく手を振り、家の中に入ろうとしたが……、

 

「──あ」

 

 と憂助が声を漏らすのを聞いて、振り返った。

 

「ん? どうかした?」

「いや、あー、その……」

 

 憂助は言い淀んだ。

 千紗希が背中を向けた途端に、不安にも似たおかしな気持ちになったのだ。

 もう少しでいいから、一緒にいたい。

 言葉にするなら、そのような気持ちであった。

 だが憂助は、それを惰弱な感情として心の奥底に押し込み、別の言葉を口にした。

 

「カレー、美味かった。ごっそさん……どげな味付けしたか、教えてくれんか」

「そんなに気に入ったの? それじゃあレシピ持ってくるから、ちょっと待ってて?」

 

 千紗希はそう言って一度家の中に入り、少しして、小さなノートを持って戻ってきた。

 

「ほら、ここ。ママから教わったの」

「ん」

 

 憂助は千紗希が開いて見せたページを、スマホで写真に撮る。

 

「それと、これ」

 

 千紗希は次に、自分のスマホを見せた。画面には電話番号が表示されてある。

 

「これ、あたしの番号。もしもわからない事があったら、いつでも連絡してね」

「おう、すまん……じゃあの」

「うん。おやすみなさい、久我くん」

 

 千紗希がそう言って小さく手を振る前で、憂助は瞬間移動で帰っていった。

 

 

 その夜、憂助は布団の中で、スマホの画面を見つめていた。

 画面には千紗希の番号が表示されてある。

 それを、ただ見つめていた。

 孤独には慣れている。

 母親がいない事にはもう慣れた。

 山籠りで孤独への耐性もついている。

 なのに、憂助は今、奇妙な寂しさを覚えていた。

 生まれ育った我が家が、妙にだだっ広く、空虚にさえ思えた。

 千紗希の声を聞きたいと思った。

 千紗希の顔が見たいと思った。

 千紗希に、会いたかった。

 

「くだらねえ」

 

 そんな惰弱な感情をボソッと吐き捨てながらも、画面に映る千紗希の電話番号を見つめ続けていた。

*1

*2

*3
仏具の一種。小さな棒で打ってチーンと鳴らす、お椀状の鈴

*4
不良ぶって気取っている様



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花火大会と千紗希さん

「ほい、お待ち」

 

 愛想の良い声と共に屋台の親父から渡されたタコ焼きのパックを受け取ったのは、甚平姿の久我憂助だ。

 今夜は湯煙川で花火大会があり、屋台もたくさん出ている。父の知り合いも多く出店しているので、憂助はそれらを巡り回って食べ歩くのが、毎年の恒例となっていた。

 

「しかし憂くん、毎年毎年一人でってのは、そろそろ寂しくなってこないか?」

「俺は一人で回りてぇき、別にいい。クラスのもんに()うても逆に何か恥ずかしいわ」

「そうかぁ……でも、そんな事言ってると、その会いたくない奴にバッタリ出会したりするもんだぜ? おじさんも若い頃は、本屋でグラビア雑誌立ち読みしてる時に限ってクラスの女子に見付かってからかわれたもんさ」

「わかった、気ぃ付ける。じゃ、あんがと」

「おう、お父さんによろしくなー」

 

 屋台を離れた憂助は、人混みを掻き分けて空いたスペースを見付け、そこでタコ焼きをパクパクと食べ始める。

 毎年の事だが、会場となっている湯煙川は凄い賑わいだ。さすがにこれだけの人混みの中でクラスメートとバッタリ出会すなどという事はなかろうと、憂助は(たか)を括っていた。実際、今まで一度も出会した事はない。

 パックの中はあっという間に減り、最後の一つを頬張った時だ。

 

「あっ、久我くーん!」

 

 不意に宮崎千紗希の呼ぶ声が聞こえて、憂助は不覚にも喉に詰まらせてしまった。

 何度か激しく咳き込み、むせ返り、最後には根性で飲み込む。

 

「久我っち大丈夫?」

「お茶か何か買ってきてやろうか?」

 

 三浦博子と柳沢芹も一緒だ。三人揃って浴衣を着ていた。

 

「大丈夫だ、問題ねえ。つかお前ら、こげなとこで何しよんか」

「花火大会見に来たに決まってんでしょ」

 

 と博子が呆れ半分に答える。

 

「逆に、そんな事聞くお前こそ、何しに来たんだよ」

「親父の知り合いが屋台出しとうきの、挨拶回り兼ねて食い歩うとるんて」

「ふぅーん、パパさんの知り合いが、ね……」

 

 博子が何やら思い付いたらしく、ニヤリと笑った。

 

「んじゃ久我っち、せっかくだし私等も一緒に回ってあげる! 一人じゃ寂しいっしょ?」

「いらぬ世話だ、阿呆」

 

 憂助は一ミリ秒の間も置かずに、即答した。

 

「どうせ俺と一緒ならなんぼかでも負けてもらえるかもとか思うちょんやろうけどの、親父の知り合いやきっち安くしてくれるほど世の中甘くねえぞ」

「え~~?」

 

博子があからさまに残念そうな声を上げた──かと思えば「よし」と手を叩いて、

 

「んじゃ久我っち、一緒に見て回ろっか」

貴様(きさん)、人の話聞きようんか。俺と一緒におっても値引きはしてもらえんっち言いよろうが」

「そーじゃなくてさ、千紗希目当てに声掛けてくるナンパ男がゾンビみたいにワラワラ湧いて出てうっとうしいの。久我っちボディーガードになってよ」

「ちょっと、博子」

 

 千紗希が博子の浴衣の袖を引っ張り、たしなめた。

 

「久我くんにだって都合があるんだから」

「そんな事言ったって、さっきもしつこいのが絡んで来てたじゃん。ねえ久我っち、そういう事だからお願い! 私が三品まで奢ってあげるから」

「任せろ」

 

 憂助は一ミリ秒の間も置かずに、即答した。

 

(……久我くん、結構食べ物に釣られるタイプなんだ)

 

 千紗希は半ばあきれつつも、憂助が同行してくれる事に安心感も覚えていた。

 実際、一緒に歩いていると、周囲の男性からの視線や声かけが明らかに減った。厳つい顔つきで、甚平をまとい、雪駄を引っ掻けた憂助は、ちょっと高校生らしからぬ迫力がある。うっかり目を合わせて因縁を付けられたら……と思うと、近付く事さえ憚られるのだろう。

 おかげで、落ち着いた気持ちになれた。

 それが千紗希自身にも思わぬ形で掻き乱されたのは、連れ立って歩き出してから間もなくの事であった。

 

「お~い、久我ちゃぁ~ん!」

 

 妙に軽い声で憂助に呼び掛ける者があった。

 金髪をポニーテールにした、派手なメイクの少女だ。丈の短いミニスカ風の浴衣の胸元を大きく開けて、深い谷間をアピールするかのように着崩している。

 

「何か、八女(やめ)か」

 

 憂助は面倒くさそうに言った。

 彼女は同級生の八女由香奈であった。

 

「こげなとこで何しよんか」

「花火大会見に来たに決まってるっしょ。それより久我ちゃんこそどったのよ。女の子三人も侍らせてモテモテじゃん?」

「そげな景気の良い話やねえ。ただの付き添いてぇ。それより服くれえちゃんと着ろ。下着見えとうぞ」

「あー、ダイジョブダイジョブ。これ見せブラだし?」

「見せる相手もおらんくせに」

「それはこれから逆ナンして取っ捕まえるからダイジョーブ。んじゃ、友達待たせてっから、またねー」

「おう。精々気張れや」

「久我ちゃんも頑張りなねー。バイバーイ」

 

 八女由香奈はそう言って、立ち去る。

 

「……おい久我。何だよ今の」

「同級生だ」

「久我っち、あんなイケイケのギャルと仲良いんだ」

「俺だけ特に仲が良いっち訳やねえ。あの手の生物はよほどキツい見た目しとらん限りは、誰が相手でも普通にコミュニケーション取ってくるきの」

 

 芹や博子にそう説明する憂助。

 千紗希は、知らず眉根を寄せていた。

 憂助がクラスメートと仲が良いのは、喜ばしい事である。

 そんな気持ちも確かにあるのだが、自分だけの秘密のお花見スポットに先客が居た時のような奇妙な残念さや、今日初めて会ったギャルに対するよくわからない対抗心のようなものが、胸の内に確かに湧き起こっていた。

 

「ほら久我くん、あっちの方から見て回ろうよ」

 

 憂助の手を掴むと、由香奈が去っていったのとは逆方向へと歩き出す。

 千紗希の心情など知る由もない憂助は、されるがままについていく。

 そんな千紗希の様子に、芹と博子はニンマリと笑みを浮かべた。

 

 

「おっ、憂くん別嬪さん連れてるねぇ」

「ほう、女の子三人も侍らすとは、憂くんも隅に置けねえなぁ」

「あらま、憂ちゃんたらモテモテねぇ~」

 

 行く先々の屋台で、憂助は気さくに声をかけられる。会場の屋台の三分の二近くが、知り合いのようだ。千紗希たちは憂助の父の交遊範囲の広さに、思わず感心した。

 憂助は、博子から約束通り三品(焼きそば、お好み焼き、回転焼き)奢ってもらって、珍しく傍目にもわかるほど上機嫌である。

 そんな二人をニヤニヤと眺めつつ、芹と博子は少しずつ距離を取っていく。

 会場全体に、花火の打ち上げを報せるアナウンスが響き、少しでも眺めの良い場所に移ろうと来場者たちが動き出すと、彼女たちはそれに乗じて二人から完全に離れた。

 そして千紗希のスマホに、はぐれてしまったので花火の打ち上げが終わってから会場の外で落ち合おうという旨のメッセージを送った。

 

「……芹と博子、はぐれちゃったみたい」

 

 それを確認した千紗希が、憂助に告げる。

 

「花火が終わったら会場の外で落ち合おう、だって」

「まぁ、それが一番無難やろの」

 

 瞬間移動を使えば簡単に合流出来るが、この人混みの中で他人に見られずにというのは、まず無理だ。危険にさらされてる訳でもなし、そこまでする必要はあるまいと、憂助は考えた。

 打ち上げ花火を二人で眺めた後、会場の外へと向かう。

 その途中で、千紗希はかき氷の屋台を見付けた。

 

「久我くん、かき氷食べる?」

「ん? ……そやの」

 

 冷たい物が欲しくなったのと、そこの屋台のおばさんも知り合いなのとで、憂助がそう答えると、

 

「じゃああたしが買ってきてあげるよ。付き合わせちゃったお詫び。何がいい?」

「いちごミルク」

「うん、わかった。じゃあすぐ戻るから、いい子にして待っててね」

 

 そう言うと、パタパタと屋台へ向かう。

 憂助は口をへの字に曲げた。

 憂助と、ついでに自分の分も買って戻ってきた千紗希は、憂助を連れて屋台から離れた所にある東屋(あずまや)へ移動した。ちょうどそこが空いていたのだ。

 二人はそこでかき氷を食べ始めた。

 憂助がふと見れば、千紗希のかき氷には青いシロップが掛けられてある。

 

(ブルーハワイとかいうやつか……そう言やいっぺんも食うた事ねえの)

 

 などと考えていると、千紗希がその視線に気付いた。

 ストローを加工したスプーンで自分の分を掬うと、

 

「はい」

 

 と憂助に差し出す。

 

「……何か」

「食べたいんでしょ?」

 

 千紗希はそう言って、憂助の口元に更にスプーンを近付ける。

 

「ほら久我くん、あーん」

「…………」

 

 何か怒鳴り付けてやろうかと思った憂助だったが、千紗希と目が合うと、何故かそんな気も失せて、おとなしく口を開けて、差し出された一口を食べる。

 

「どう?」

「ふん、悪かねえの」

 

 感想を聞かれて、素直に答える。

 その後、今度は自分の分をスプーンで掬い、千紗希に差し出した。

 

「いいの?」

「食わせてもろうてばっかは悪いきの。ほれ」

「うん、ありがと」

 

 千紗希はあっさりとその一口を頂戴する。

 

「うん、美味しい……ありがとう久我くん」

「お互い様だ」

 

 憂助は素っ気なく答え、その後は二人とも黙々と自分のかき氷を食べた。

 食べ終わって、空になったカップとストローをゴミ箱に捨てると、改めて会場の外へ向かう。

 芹と博子の姿は見当たらない。

 そこへ二人から千紗希のスマホに、LINEでメッセージが届く。どうやら博子は金魚すくいに、芹は射的に熱中しており、もう少し遅れるらしい。

 その旨を憂助に伝えると、彼は小さく溜め息をつくのみであった。

 

 ──あたしは一人でも大丈夫だから、久我くんは先に帰ってもいいよ?

 

 と言おうとした千紗希だったが、先程出会した八女由香奈の事を不意に思い出し、その言葉をグッと飲み込んだ。

 憂助を先に帰らせると、その途中で彼女とまた鉢合わせるかも……そう思うと、妙に不愉快なのである。ギャルに対して偏見など持ってはいないが、何となく面白くないのである。

 知らず知らず、憂助の手をギュッと握る。

 

「あたしたちも、どこかで時間つぶしていよっか?」

「言うて、それでまたすれ違いになってものぉ……どうせすぐすっからかんになってやって来るやろうし、もうちょい待っとけ。それまではそばにおっちゃる」

 

 憂助はそう答えた。

 千紗希が手を握って来たのを、ナンパ男の襲来を恐れての事と思ったのだ。文句を言わないのもそのためである。

 

「……うん、ありがとね、久我くん」

 

 その気遣いが嬉しくて、千紗希はつい憂助の肩に身を寄せてしまう。

 それに対しても、憂助は特に何も言わなかった。

 

 それから三十分ほどして、芹と博子がやって来た。時間も時間なので、憂助は三人をそれぞれの家まで送ってやる。芹と博子の家は知らないので、徒歩で送り、最後に千紗希を瞬間移動で家まで送った。

 

「今日はありがとう、久我くん。ごめんね、付き合わせちゃって……」

「こっちも奢ってもろうたきの、特に文句はねえ。じゃあの」

「うん、おやすみ久我くん」

 

 手を振る千紗希に、小さく手を振ってから、憂助は瞬間移動で帰っていった。

 

 ──それから、千紗希はベッドの中で今夜の花火大会を振り返り、かき氷をお互いに一口ずつ分け合った時を思い出し、ある事に気付いた。

 

(……あれってひょっとして、間接キス?)

 

 そう思った瞬間、千紗希は恥ずかしさで顔中が真っ赤になった。

 一方憂助も、自宅の寝床で同じ事に気付き、恥ずかしさと罪悪感で死にたくなった。



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二学期
逆襲の朧さん・ROUND2


 夏休みが明けて、2学期が始まった。

 登校する生徒の多くが気だるげだが、久我憂助は平然としている。毎朝4時には起きて稽古をしており、その習慣は夏休み中も変わらなかったのだ。

 

「おはよう、久我くん」

 

 正門をくぐった辺りで、声を掛けられた。

 振り向くと、宮崎千紗希だ。その左右に柳沢芹と三浦博子もいた。

 

「おう」

 

 憂助は素っ気ない返事を返す。

 相変わらずぶっきらぼうだが、つまり普段と何ら変わらないということだ。そう考えればむしろ安心する千紗希である。

 

「今日からまた学校だね」

「そやの」

「でも今日が金曜日だから、またすぐお休みになっちゃうね」

「そやの」

「ちょっとせわしないよね。いっそ学校は来週からにしてくれたら良かったのに」

「そやの」

「お前さっきから同じ返事ばっかりじゃねえか!」

「あんたは『いい●も』の客かー!」

 

 憂助の気のない返事に、芹と博子が声を上げた。千紗希がまぁまぁとなだめる。

 花火大会の夜、かき氷を分け合った結果の間接キスは忘却の彼方──という訳でもないが、あれから二週間以上も経った今は、気にしなければ気にならない程度の記憶である。

 逆に憂助の方が気にしており、愛想のない態度もそのせいだった。

 

「……『い●とも』で思い出したが」

 

 しかしさすがに、ちょっと罪悪感を覚えたのか、珍しく自分から雑談を始める。

 

「昨日のお笑い番組にタ●リが出とったの」

「うん、出てたね」

「タ●リ、死んだんやねかったんか」

「死んでないよ」

「ずっと前に『いい●も』終わったやねえか」

「『いい●も』は終わったけどタ●リが死んだからとかじゃないから」

「そうか──」

「番組終わったからって司会者まで殺すなよ」

「てゆーか久我っち、お笑い番組とか見るんだねー」

「普段は見らんが、昨日のはジャッカル富岡が出とったきの」

「久我くん、ジャッカル富岡好きなの?」

「俺が唯一認めるお笑い芸人だ」

「そうなんだ……」

 

 そんな風に駄弁りながら、一同は上履きに履き替え、一年生の教室が並ぶフロアに向かう。

 

「じゃあね、久我くん」

「おう」

 

 手を振って4組の教室へ向かう千紗希たちに、変わらず素っ気ない返事をしてから、憂助は自分の属する5組の教室に入っていった。

 

 

「ところでさ」

 

 朝のホームルームが終わり、始業式のために体育館へと向かう途中で、博子が口を開けた。

 

「ジャッカル富岡って誰?」

「お笑い芸人だよ。くそつまんねーけど」

「私全然知らないんだけど」

「テレビのCMにも出てるだろ。除菌も出来る消臭スプレーとかの」

「どんなCM?」

「CGのバイ菌に向かってこれでもくらえーってスプレー吹き掛けてやっつけた後、自分にも吹き掛けたらダメージ入って、無駄にキレのある無駄のない無駄な動きで『なんで俺もやね~ん』ってぶっ倒れるやつだよ」

「……そういえばそんなのあったねー。くだらなすぎていまいち記憶に残んなかったわ」

 

 ぶっ!

 

 博子の台詞に被るように、後ろで盛大に吹き出す者がいた。

 振り向くと、冬空コガラシである。口許を手で押さえて、プルプル震えている。

 芹と博子は千紗希の手を引いて、そそくさと距離を取った。

 

「──なんだ今の。冬空の野郎、ジャッカル好きなのか?」

「タイミング的にはそうとしか思えないけど……引くわ~」

「……そういえば、夏休みにこゆずちゃんがうちに泊まり掛けで遊びに来たんだけど、最初にママに会った時、ジャッカル富岡の物真似したの。こゆずちゃんなりのご挨拶で」

 

 千紗希がポツリと、そう言った。

 

「ママには凄くウケてたけど、それはあくまでもこゆずちゃんが可愛いからってだけで、別にジャッカル富岡が面白いからって訳じゃなかったんだけどね」

「だよな。ジャッカル富岡くそつまんねーよな」

「うーん、妖怪にはめっちゃ面白かったりするのかなー?」

「そうでもないみたいよ? こゆずちゃん自身は別に好きでも嫌いでもないらしいし──ただ、こゆずちゃんいわく、久我くんと久我くんのお父さんには大ウケだったし、冬空くんにも凄い好評らしいけど……」

「なに? 霊能者って笑いのツボが南斗鳳凰拳伝承者みたいに常人と逆転してるの?」

「まぁ、好みは人それぞれだし……」

 

 千紗希のその当たり障りのない言葉で、とりあえずその話題は締め括られたものの、『ジャッカル富岡』というお笑い芸人の名は、三人の少女たちの心に奇妙に引っ掛かった──が、始業式が終わる頃には忘却の彼方と消えた。

 

 

 2学期が始まって数日が経ったある日の事である。

 ホームルームも終わり、帰り支度をして教室を出た憂助の元に、博子と芹が血相を変えてやって来た。

 

「久我っちぃぃいいい! 非常事態だよぉぉおおおお!」

「デケー声出すな。どげしたんか」

「千紗希がさらわれちゃったの!」

「誰にか」

「刀の鍔で眼帯した、銀髪の女だ! うちの制服着ていかにもここの生徒ですって顔して近付いてきたし、千紗希も知ってた風だから完璧に油断した!」

「そんでその女が久我っちにこれ渡せって言ってこれ置いてったの!」

 

 博子が差し出したのは封筒である。『果たし状』と書かれてあった。

 

「追い掛けようとしたんだけどその女いきなり空間に変な穴空けてその中に千紗希を連れて飛び込んでその変な穴もすぐに消えちゃって」

「わかったき、ちっと黙れ」

 

 早口で説明する博子に言い捨てて、憂助は封筒を開けて中の手紙を改める。

 犯人には目星がついている。朧であろう。

 書いてある事にも目星がつくし、実際その通りであった。いたって簡潔に、

 

『師匠は預かった。

 返してほしくば裏山の神社に来い』

 

 この二行である。

 

(…………『師匠』?)

 

 千紗希の事であろうとはわかるが、何故朧が千紗希を師匠と呼ぶのか……芹いわく千紗希も知ってた風との事なので、以前ゆらぎ荘に遊びに行った時に出会したとかそんな感じだろうか。こゆずやちとせからも、朧がゆらぎ荘に下宿するようになったと聞いた。着ていた制服もおおかた、こゆずの葉札術で造ってもらった物だろう。

 

「ちょう行ってくるき、お前等教室で待っとけ。あとこれも持っとけ」

 

 手紙と封筒をグシャグシャに丸めて近くのクズカゴに投げ捨てた憂助は、博子に自分の鞄を投げ渡す。

 その鞄につい目線が動いた博子と芹が、視線を憂助に戻すと、そこにはもう誰もいなかった。

 

 

 憂助の予測した通り、千紗希は以前ゆらぎ荘に遊びに行った際に朧とも知り合っている。

 冬空コガラシと子供を作り龍雅家に取り込む事も目的としている朧は、コガラシを魅了するために千紗希を『女子力の師』と仰ぎ、人前でも師匠と呼ぶ有り様である。憂助への果たし状に『師匠』と書いたのもそのためであった。他人宛の文章上でも、呼び捨てにするのは憚られたのだ。

 千紗希は今、湯煙高校の裏山の山頂にある廃神社の堂内に閉じ込められていた。

 とは言っても拘束されてる訳ではない。

 前述のように朧とは知らぬ仲でもなし、このような暴挙にいたった理由を問い質し、彼女の胸の奥で燃える雪辱の想いを打ち明けられたところであった。

 

「──それはわかったけど、こんな事しても久我くんを怒らせるだけだよ?」

「それで良いのだ。本気のあの男を倒さねば、意味がない。八咫鋼(冬空コガラシ)にならまだしも、ただの人間ごときに敗れたままとあっては、龍雅家の護り刀たる私の名折れ……ひいては龍雅家の名折れともなりかねん。師匠には申し訳ないが、後日お詫びをするので許してもらいたい」

「許す訳ねかろうが、阿呆」

 

 不意に声がした。

 憂助が瞬間移動で現れたのだ。

 

「こういう面倒事を起こしたくねえき電話番号教えたんやろうが。勝負してえんやったら電話せぇ、電話を」

「つまり、いつ何時(なんどき)でも相手をしてやる、という事だろう? 逆を言えば、私などいつでも軽く捻る事の出来る相手だと認識しているという事だ。私の事を、軽く見ているという事だ。貴様を倒した後で『油断していた』などと言い訳されるのも、それはそれで業腹だからな──表に出ろ」

 

 朧はそう言って、お堂の扉を開く。

 憂助はお堂の床を軽く蹴った。

 途端に、彼の身体は体重など消えてしまったかのようにフワリと宙に浮き、放物線を描いて外に出る。

 朧は制服の半袖から伸びるたおやかな白い腕を刀に変えながら、後に続いた。

 憂助もいつの間にか、木刀を手にしている。

 その木刀を八双に構えた瞬間、朧は腕の刀で襲い掛かってきた。

 コガラシですら完全には見切れない朧のスピード攻撃を、憂助は冷静に防ぎ、受け流し、打ち払う。

 その動きを、朧は四方八方からの連続攻撃の最中も観察する。

 やはり、動くスピードそのものは大した事はない。速い事は速いが、自分よりは劣る。

 にも関わらず攻撃を防がれるのは、憂助の動きが()()からではなく、()()からだ。こちらの身のこなしや体勢、構えなどから次の動きを予測しているのだろう。フェイントすらも見抜かれてしまう辺り、良い眼をしていると言わざるを得ない。

 

(やはり、()()でいくしかないか)

 

 朧は足下の地面を、腕の刀で斬り裂いた──否、斬ったのは地面ではなく空間である。

 発生した空間の裂け目が丸く広がって穴となり、朧はその中に飛び込む。

 瞬間、憂助の背中にヒヤリ、冷たいものが走る!

 咄嗟に飛び退くと、さっきまでいた場所の空間に穴が空き、そこから朧が上半身を出していた。

 

「勘の良い奴──だが、いつまでかわせる?」

 

 再び穴に潜った朧。

 穴が消えて三秒ほどしてから、憂助の足下から刃が伸びてきた。

 跳躍してかわすと、跳び上がった先にすでに穴が空き、朧が腕の刀を突き出してきた。

 憂助、これを木刀で打ち払い、その反動で軌道を変えて着地した。

 木刀を正眼に構え、素早く周囲を見渡すが、朧は影も形も見えない。

 

(俺が使うのとは違う瞬間移動か)

 

 憂助はそう判断した。

 あの腕の刀で空間そのものを切り裂いて、異空間を通過する出入口を作っているのだろう。

 朧が元々持つ能力であり、以前にはこの能力で、湯ノ花幽奈を湯煙市から長野県信濃の地底湖にまで連れ去った事もある。

 すぐに姿を見せないところから察するに、異空間にある程度留まれるようだ。出てくる場所もタイミングも、朧の自由という訳だ。

 

(どうしたもんか……)

 

 別空間に潜む敵に、如何にして攻撃を当てればいいのか?

 のんびり黙考している訳にもいかない。敵の姿はおろか、気配すら探れないのだ。いつどこから現れるのか、全くわからない……。

 憂助は木刀を下段に下ろして、二度三度と繰り返し振り上げる。

 風が吹き、砂埃を周囲に巻き上げて、幕とする。

 あとはこの砂埃の幕の変化で、朧が出てくる場所やタイミングを計るだけ……。

 だが、突如憂助の正面の空間に巨大な裂け目が出来ると、空気ごと砂埃が吸い込まれてしまった!

 直後、憂助は肩口に冷たいものを感じて、大きく横っ飛びにかわす。

 刀と化した朧の腕だけが宙に浮かんでおり、その腕も水中に潜るように、空間の裂け目の中に消えた。

 同時に複数の裂け目を作れるようだ。

 次の手を思案する憂助の耳に、

 

 キィ……

 

 かすかに、何かが軋む音が届いた。

 千紗希がお堂の扉を開けた音だ。憂助が心配なのだろう。不安そうな眼差しを向けている。

 

「──そこおっとけ」

 

 千紗希に言い捨てた憂助は、眼を閉じた。

 木刀の切っ先を左の掌にあてがい、そのまま押し込む。

 刃渡り七十センチの木製の刀身が、手品のように手の中に消えた。

 憂助は柄だけとなった木刀で、左側の空間を突く。

 

 ──ズドンッ!

 

 重い音が轟く。

 突かれた空間が膨らむように歪んで弾け、朧が飛び出して来たかと思うと、憂助の正面にまで転がり落ちた。

 立ち上がろうとするが、足に力が入らない。というか、足の感覚がない。戦闘中、しかも得物を構えた敵の真ん前であるにも関わらず、朧は思わず左手を元に戻して、実際に触って、足の存在を確かめずにはいられなかった。

 

(異空間に潜む私に、直接こんな攻撃を……っ!)

 

 念法の技に、戦慄にも似た気持ちを抱いてしまう。

 

(やはりこの男に勝つには、小手先の技術や理論など粉砕する圧倒的パワーしかないのか……玄士郎様のような……冬空コガラシのような……)

「おい」

 

 呼ばわる声と共に、コンコンと硬い物で頭を叩かれた。

 憂助だ。

 

「さっきゴチャゴチャ言いよったけどの、結局のところ、俺とお前の二人だけの都合でしかねかろうが。俺と勝負してえんやったら電話せぇ。他人を巻き込むな」

「…………」

 

 朧は何も言わず、ただうつむくのみであった。

 最早戦意なし、勝負ありと見た憂助は、木刀を背中にしまうと、千紗希を連れて瞬間移動でその場を去った。

 

 

 学校に戻った憂助は、千紗希を芹と博子の二人に引き渡すと、さっさと帰ろうとした──が、それを千紗希が引き止める。

 

「久我くん。肩のとこ切れてるよ?」

 

 朧の刃が、肩を掠めていたらしく、制服の右肩が切り裂かれて下のTシャツのグレーの生地が覗いていた。

 

「貸して。縫ってあげる」

「いらん」

 

 憂助は突き放すような言い方で拒んだ。

 

「今回ばかりは俺のせいで迷惑掛けっしもたんに、服まで縫ってもらう訳にはいかん」

「そんなの気にしてないよ。確かにビックリしたけど、別に何か酷いことされた訳じゃないし」

「拉致監禁は充分『酷いこと』やろが」

「でも朧さんとは知り合いだし……何より、久我くんがすぐに助けに来てくれるってわかってたから、怖くも何ともなかったよ」

「おい久我。事情はわからねーけど、悪いと思ってんなら千紗希の言う通りにしてやれよ」

「そうそう。千紗希に服縫ってもらうとか、他の男子なら泣いて喜ぶような事なんだから、ありがたく思いなよね」

 

 芹と博子がここぞとばかりに加勢する。

 憂助は口をへの字に曲げると、制服のシャツを脱いで千紗希に投げ渡した。

 受け取った千紗希は自分の席に座り、鞄の中から、携帯裁縫セットを取り出して、縫い始めた。

 

「はー、何か安心したら喉乾いちゃった。飲み物買ってくるねー」

「おう、アタシも行くわ。購買まだ開いてるなら、ついでにお菓子も買おうぜ」

 

 博子と芹がそう言って教室を出たので、室内には憂助と千紗希の二人きりとなった。

 立ち尽くしているのが何となく落ち着かない憂助は、千紗希の隣の席に座る。

 千紗希は横目でそれを見て、小さく微笑み、針仕事を続けた。

 その姿に、憂助は知らず見入っていた。



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コガラシくんvs憂助くん

 昼休み、宮崎千紗希は柳沢芹と三浦博子の二人と一緒に、校舎の裏庭で昼食を取っていた。植え込みの木が作る木陰の下でレジャーシートを敷き、弁当をつつきながらのガールズトークに花を咲かせている。

 話題が、来週開かれる体育祭の話になった。

 

「久我くんは何に出るの?」

 

 千紗希が横を向いて話を振る。

 三人に背中を向けて、久我憂助が一人弁当を食べていた。

 天気の良い日はここで昼食を取っているのだが、千紗希たち三人も『ここなら静かに食事が出来るから』と押し掛けてきたのである。ペチャクチャお喋りして全く静かではないのだが、自分に彼女たちを追い払う権利はないし、かと言って自分が場所を変えるのも何だか逃げるみたいで腹が立つので、やむを得ず同じ場所で昼休みを過ごしているのだ。

 千紗希の問い掛けに対して肩越しに振り向き、ジロリと鋭い眼差しをくれる──が、千紗希は全く動じる風もなく、ニコニコしている。

 

「敵のお前らにそれ教えてどげするんか」

 

 突き放すような返答をして、また食事を再開する。

 

「もー、久我っちは大袈裟なんだから」

「そうそう。んな堅っ苦しく考えるこたねぇーんだよ」

「……締めにやるクラス対抗リレーのアンカーだ」

 

 ボソッと返ってきた答えに、芹と博子は「おおっ!」と声を上げた。

 

「なんだよお前、そういう事は早く言えよな~! 頑張れよ久我!」

「もう何ならチアガール姿で応援してやってもいいよ!」

「……は?」

 

 二人の真意が掴めず、憂助は間の抜けた声を上げた。

 

「うちの組からは冬空くんが出ることになってるの」

「それでか」

「おうともよ! あのセクハラ星のセクハラ大魔王にキャン言わせてやってくれ!」

「あのエロ始皇帝、この前はうちの転校生のスカートの中に顔面ダイブしたんだから! ちょっと久我っち正義の鉄槌下してやってよ! その前なんかずっこけたふりして千紗希を押し倒しておっぱもがっ!?」

 

 博子の台詞を遮るように、千紗希が弁当のチキンナゲットを一切れ、口中に押し込んだ。その頬が、恥ずかしい記憶で赤らんでいる。

 

「あたしの時も雲雀ちゃんの時もわざとって訳じゃないんだから、そういう言い方は良くないよ?」

「んなこたぁわかってんだよ。てかあんなの狙って出来る芸当じゃねえし」

「でも自分の意思とか関係なくあんなアクシデントが起こるんなら、相応の距離を保つべきでしょ。簡単に出来る対策すらしないんだったらわざとと同じよ、同じ!」

 

 博子は押し込まれたチキンナゲットをよく噛んで呑み込んでから、そう続けた。そして自分の弁当から鶏の竜田揚げを一切れ、千紗希の弁当箱に移す。

 

「久我くん。気にしなくていいから、怪我だけはしないようにね?」

 

 千紗希は憂助の背中にそう言うが、憂助は振り向きもせず、ただ右手をヒョイッと小さく挙げるのみだった。

 

 

 体育祭当日。

 晴れた陽射しに、時折そよ風が吹き、絶好と言っても良い天気だ。

 午前の部が終わり、昼休みになった。

 憂助はいつもの場所で弁当を食べる。千紗希も一緒だったが、芹と博子はいない。

 

「他の二人はどげんしたんか」

「芹は応援団の打ち合わせで、博子は次の二人三脚に出るから最後のリハーサルだって」

「そうか」

 

 そこで会話は唐突に終わったが、二人の間に気まずさはなく、黙々と自分の弁当をつついている。

 先に食べ終わった憂助が弁当箱を風呂敷に包み、無言でごちそうさまの合唱をした。

 千紗希もそれから二~三分ほどで食べ終わり、こちらも小さく無言でごちそうさま。

 そして二人は、会話を再開するでもなく、のんびりとそよ風に涼んでいた。

 が、千紗希は時折自分の肩をトントンと握り拳で叩いている。

 

「どげんしたんか」

「ん、さっきのパン食い競争で、肩が痛くなっちゃって」

「……ん?」

 

 パン食い競争と肩の痛みが繋がらず、間の抜けた声が出た。

 

「えーっと、ほら……ピョンピョン跳び跳ねるせいで胸が揺れちゃって、それで、そのー……ブラジャーの肩紐が、その度に肩にくいこむから……」

「ああ」

 

 頬を赤らめた千紗希の説明に、憂助は納得した。

 体操服の上からでもはっきりとその存在をアピールする膨らみには、充分過ぎる説得力がある。

 

「女は難儀やの」

 

 呟いた憂助は立ち上がり、千紗希の後ろに回って、その両肩に手を置いた。

 目を閉じて、精神を体内のエネルギーの流れに集中させる。

 練り上げた念を、掌から千紗希の肩へと浸透させていく。

 

 はぁあ……。

 

 千紗希の唇から、暖かな溜め息がこぼれ出た。

 憂助の手から、暖かいものが流れ込んできて、肩の痛みが消えたのだ。

 

「うっし」

 

 終わり、と言いたげに千紗希の肩をポンと叩いて、憂助は元の場所に座った。

 

「ありがとう久我くん。凄く楽になったよ」

「そうか」

「こんな事も出来るなんて、念法って本当に凄いんだね……何でも出来るんだ」

「何でもは出来ん──死んだ人間生き返らせたりも出来んしの」

 

 そう言う憂助の声色がかすかに暗くなったように、千紗希には感じられた。

 遺影でしか知らない母の事を思い出したのだろうか。

 何か慰めの言葉を掛けてやりたくなったが、何も思い付かない。

 抱き締めて頭を撫でてあげようかと思ったが、たぶん彼を怒らせるだけだろう。

 結局、気付かない振りをするのが良いように思えた。

 

「ねぇ、久我くん」

「おう」

「最後のクラス対抗リレーに出るんだったよね」

「おう」

「怪我だけは、しないでね?」

「おう」

 

 千紗希の心中などわかるはずもなし、憂助は面倒くさそうに単調な返事をするのみだ。

 こんな愛想のない少年が、しかし千紗希は放っておけなかった。

 

 

 午後の部の最後、クラス対抗リレーが始まった。

 冬空コガラシはアンカーの待機位置で同級生の走りを見守りながら、時折隣のレーンに目線をやる。

 そこに憂助がいた。

 幼少時から悪霊に悩まされ、八咫鋼としての修行や借金返済に追われていた彼にとって、普通の学校行事は楽しくてたまらない。今日はそれに加えて、「ガチで惚れた」と言い切れるほど尊敬し、信頼する男と競走出来る。まるで青春ドラマの主人公になったような気さえしてきて、俄然やる気が湧いてくるのだ。

 

「お互い頑張ろうぜ、久我」

 

 声を掛けたが、憂助は面倒くさそうに「おう」と答えるだけ。しかし自分のチームのレース運びを見つめる鋭い目付きに、

 

(もうガチモードに入ってやがる……すげえ集中力だ……!)

 

 と、逆にますます尊敬の念が強まるコガラシであった。

 やがて各クラスのバトンが、アンカーに回って来た。

 コガラシはクラスメートからバトンを受け取り、走り出す。

 憂助もかなり遅れて──最後のスタートとなった。何を思ったかスニーカーと靴下をその場に脱ぎ捨て、バトンを受け取り裸足で走り出す。

 コガラシは早くも二人抜き去り、先頭を行くランナーも追い越そうとがむしゃらに走るが、相手は陸上部員のようで、走るフォームも様になっており、なかなか距離が詰められない。

 

「冬空ー、頑張れー!」

 

 そこへクラスの応援席から、兵藤聡の声援が飛んでくる。

 

「この前ひったくりのバイクを走って捕まえた時のパワーを見せてやれー! お前なら勝てるー!」

 

 そう叫ぶ兵藤に、コガラシの力を知る何人かの同級生も同調して声援を送る。

 だがそれ以外の生徒は、そんな彼等を冷ややかな目で見て、中にはクスクスと笑う者もいた。

 

(ダチの顔に、泥は塗れねえよな……!)

 

 自分をアンカーに推薦したのが兵藤で、それも彼自身が言ったように、以前ひったくりのバイクをコガラシが走って捕まえたのを目撃したからだ。彼の信頼を裏切る事は、出来ない。

 コガラシの体から、見える者──誅魔忍の雨野狭霧や浦方うらら、二学期からコガラシや千紗希のいる4組に転校してきた、狭霧の従姉妹の雨野雲雀など──には見える、炎のような光が立ち上った。

 それは八咫鋼の霊力だ。人間の身で、妖狐や鬼などの強力な妖怪とも対等に戦える神秘のパワー。コガラシはそれを、ほんの少しだけ開放した。

 瞬間、コガラシは爆発的な勢いで加速して、先頭に追い付く。

 応援席がどよめいた。

 

「すげえ、何だアイツ!」

「何かミサイルみたいにめっちゃ速い!」

()()()()()()()()()()()()()!?」

()()()()()()()()()()()()!?」

 

 聞こえてくるそんな声に違和感を覚えたコガラシの脇を、何かが通りすぎていった。

 憂助だった。

 前傾姿勢などというものではない。我が身を地面に投げ出さんばかりに、身体全体が限りなく地面と平行になっている。走った後には、裸足の指で地面を掻いて抉れた跡が残されている。前のめりになった身体が重力に従って倒れるそのベクトルを、地面を蹴る事で軌道修正して前進する力に変えているのだ。念法ではないが、念法修行で鍛えられた身体能力による技術ではあった。

 

(うおおっ、マジかぁっ!)

 

 コガラシは思わず歯を剥くように笑った。

 つくづく凄い男だ。惚れただけの事はある。

 だが、だからこそ負けたくない。

 惚れたからこそ、肩を並べたい。

 コガラシは霊力を全開した。

 更なる加速を得て、火の玉となって憂助に追いすがる。

 しかし、力の開放がやはり遅すぎた。

 もう少しで追いつけるというところで、憂助が張られたテープの下をくぐり抜けるようにして、ゴールインした。

 最下位からの大逆転劇に、全校生徒が沸き立った。

 一方、ゴールインした憂助は勢い余ってそのまま数メートルほどオーバーランして、地面に顔面からダイブした。

 ムックリと起き上がり、フゥッと溜め息を一つ。しかしその表情には、勝利の喜びや達成感など微塵もなかった。

 

(ガラにもなくむきになってしもたわ……)

 

 自分はその攻撃を捌くだけで精一杯だった黒龍神をあっさりと倒したコガラシへの、対抗心がそうさせた。

 先週の博子の言葉も、頭の隅に引っ掛かっていた。

 

『ずっこけたふりして千紗希を押し倒しておっぱ──』

 

 その後は千紗希に遮られたが、あれは『おっぱい触った』とでも言おうとしたのだろうか……そう考えると、何故かはわからないが、無性に腹が立ってくるのだ。

 それもまた、憂助がむきになった理由だった。

 

「久我くん、大丈夫!?」

 

 そこへ千紗希が駆け寄って来た。

 

「ああもう! あちこち擦りむいてるじゃない! ほら、早く手当てしないと!」

 

 憂助の腕を取って立たせようとするが、憂助はその手を煩わしげに振り払った。

 

「触んな。俺が一人で立てんごとなるのは、そのまま死んじまう時だけてえ」

 

 そう言い捨てて立ち上がり、手足や顔の砂埃を払い落とした(その様子を、コガラシが熱い視線で見つめていたが、それはまた別の話である)。

 

「そんな事言ってる場合じゃないでしょ! ほら、こっち!」

 

 しかし千紗希は引き下がらない。実際憂助は手足や顔に擦り傷をいくつも作っており、顔にいたっては、わずかながら出血までしているのだ。いつにない強引さで憂助の手を取って、保健委員が待機しているテントに引っ張る。

 憂助は口をへの字に曲げつつも、それに従った。

 

「もう、怪我しないでねって言ったばかりなのに……」

「怪我すんなとは言われたが、怪我をせんとは言ってねえし、人間生きてりゃ怪我の一つ二つするもんやろが」

「屁理屈言わない! それに一つ二つってレベルじゃないよ!」

 

 半ば怒鳴るように言いながら、千紗希は憂助を椅子に座らせ、濡れたタオルで傷口を拭いてやる。

 途中から校医が交代して、傷の手当てを始める。千紗希はしかし応援席には戻らず、憂助のそばで見守っていた。

 その気遣わしげな顔を見た憂助は、口をへの字に曲げて、プイッとそっぽを向く。

 まるで、母親に叱られてへそを曲げる子供のようだ。

 千紗希はそんな憂助を見て、心配のあまり、抱き締めたい衝動に駈られた。

 そして、その代償行為であるかのように、憂助の肩に手を置いたのだった。



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ハロウィンパーティーと憂助くん

 夜になってゆらぎ荘を訪れた憂助は、思わず建物を見上げた。純和風のゆらぎ荘がきらびやかに飾り付けられていたのだ。屋根には『HAPPY HALLOWEEN』の文字盤が並び、顔が描かれたカボチャ『ジャック・オー・ランタン』の飾りもあちこちにある。

 こゆずたっての希望でハロウィンパーティーが催されることとなり、憂助はそれに呼ばれたのである。

 飾り付けられたゆらぎ荘を見上げて小さく溜め息をつくと、憂助は正面玄関の戸をガラガラと開けて中に入っていった。

 

「ハッピーハロウィン!」

 

 そう言って出迎えたのは千紗希、狭霧、雲雀の三人。それぞれ黒猫、キョンシー、メイドの仮装をしていた。

 

「おう」

 

 憂助はそれだけ言って、上がり口でスニーカーを脱ぐと、三人に案内されて奥へ進む。

 

「久我くん、どうしてコスプレして来なかったの?」

 

 千紗希が尋ねる。

 憂助の服装は、黒のTシャツの上からベージュ色のシャツ。下はジーパンにウェストポーチを巻いている。いたって普通の格好だ。

 

「して来いっちゃ言われとらんきの」

 

 ハロウィンパーティーに呼ばれていながら、憂助は悪びれる風もなく、素っ気なく返した。

 狭霧が眉をひそめる。

 

「私だって恥ずかしいのを我慢して仮装していると言うのに……」

「知らんわ。だいたいハロウィンの仮装はガキがやるもんやろが」

「えっ、そうなの?」

 

 雲雀が目を丸くして聞き返した。

 

「ハロウィンは元々日本で言うところのお盆げなもんだ。子供がお化けの仮装するのは帰ってきたご先祖様を表現しとる」

「じゃあトリック・オア・トリートっていうのは?」

「お菓子はご先祖様へのお供え物だ。それも用意出来んトンチキにはバチ当てるぞーっとかそげな感じだ」

「へー、そうなんだ……」

「久我くん、物知りだね」

「そげな大したもんやねえ。最近世間様が騒ぎ始めたき、ちょっとGoogle先生に聞いてみただけだ」

 

 そもそも憂助はハロウィンにあまり良いイメージがない。パーティー参加者が酒に酔ったりなどして騒ぎを起こし、ニュースにまでなったからというのもあるが、近年取り上げられるようになったこと自体『元々興味もなかった外国の風習を馬鹿騒ぎする口実に利用している』ように見えて、好きになれないのだ。

 今夜のパーティーも断りたかったが、こゆずが直接家にやって来て手作りの招待状まで渡すものだから、とてもじゃないが断れなかった。

 パーティー会場となる大部屋に入ると、それぞれ思い思いの仮装をしたゆらぎ荘の住民たち、芹や博子、うららがいた。幽奈とコガラシが皿を配っている。

 

「ほら久我っち、ここ取っといてやったよー」

 

 魔女のコスプレをした博子が自分の隣にある二つの座布団をポンポン叩いた。

 憂助はそれを見て、一瞬考える。

 博子のすぐ隣に座れば、更にその隣に千紗希が座ることになり、女子に挟まれることになる。という訳で、一つ空けて座った。そして千紗希は憂助と博子の間にチョコンと座る。

 

 ──よしっ!

 

 博子と、その逆隣の芹は、それを見て小さくガッツポーズをした。二人をくっつけようという臨海学校での計画は、未だ続行中なのだ。

 

「あっ、憂助くーん!」

 

 そこへこゆずがトコトコとやって来た。

 

「手品見せなきゃイタズラするぞー!」

「それを言うなら『お菓子くれんと』やろが」

 

 苦笑しつつも憂助はお膳の上の割り箸を手に取った。

 

「種も仕掛けもねえぞ」

 

 こゆずの頭をその割り箸でペシペシ叩くと、両端を両手のひらで挟み込み、パンッ! と勢い良く手を閉じた。そしてすぐさまパッと手を開くと、割り箸は消えている。

 

「すごーい! どうやったのー!?」

 

 目をキラキラ輝かせるこゆずの前で、憂助は左袖の中に手を入れて、そこから割り箸を取り出した。

 

「手ぇ閉じる時に割り箸に角度を付けて、袖ん中に放り込んだだけてぇ」

 

 事も無げに説明しながら、割り箸をお膳の上に戻す。

 

「お前、なかなかやるなぁ」

「久我っち手品出来るとか意外だね~」

「昔暇潰しに覚えただけだ。ホントに種も仕掛けもなしに出来る簡単なやつやったきの」

「でも充分凄いよ。あたしもビックリしちゃった」

「ふん、おだてても木には登らんぞ」

 

 憂助は言い捨てて、ペットボトルのオレンジジュースをグラスに注ぎ一気にあおった。

 そんな彼に、更に他の手品もせがむ博子や芹の様子を見たこゆずは、

 

「ホントに盛り上がった……」

 

 と、小さく呟いた。

 そして今度は、千紗希たちに向かって、

 

「おっぱい見せなきゃイタズラするぞー!」

 

 と言った。無論三人とも見せる訳がない。

 

「よーし、じゃあイタズラしちゃうからね」

 

 こゆずは葉札を三枚取り出して、千紗希たちに投げつける。煙と共に彼女たちのコスチュームは一気に布面積が減った。

 特攻服姿にゾンビイメージのフェイスペイントをしていた芹は、ペイントはそのまま裸体の上から包帯を緩く巻いた姿に。

 魔女のコスプレをしていた博子は、帽子とマントは変わらず、その下が紐に近いスリングショット水着に。

 黒猫少女のコスプレをしていた千紗希は、猫耳カチューシャだけ残して、下はファー素材のチューブトップと尻尾のついたハイレグパンツ姿に。

 当然、羞恥の悲鳴が三人分上がった。

 

「何じゃこりゃあああっ!」

「何これ、ほとんど裸じゃん!」

「何するの、こゆずちゃん!」

 

 瞬間、千紗希たちの身体を熱風が叩いた──かと思うと、薄紙を剥がすように恥ずかしいコスチュームが消し飛び、また元の仮装に戻った。

 千紗希たちが風の吹いた方を見ると、憂助がいつの間にか取り出していた木刀を、背中の襟口に仕舞うところであった。

 

「はしゃぎ過ぎだ、ド阿呆」

 

 ゴツンとこゆずの頭に、憂助の拳骨が落ちた。

 

「うう……ご、ごめんなさ~い……」

 

 こゆずは頭を押さえて涙ぐむ。

 

「ちょっと久我っち、殴ることないでしょ」

「まだ十歳なんだから許してやれよ」

「畜生なら充分大人だ」

 

 博子と芹に言い返す憂助のその言葉に、こゆずのタヌキ耳がピコンと動いた。

 

「ところで、どうしてあんなイタズラしたの?」

 

 千紗希がこゆずの頭を撫でながら尋ねる。

 

「こうしたらパーティーが盛り上がるって言われたから……」

「誰か、そげなデタラメ言うたトンチキは」

「ヒョードーくん」

 

 こゆずが指差したのは、部屋の出入口で膝をついてうなだれる、ゾンビのコスプレをした兵藤聡だった。

 千紗希たちの視線を感じて兵藤がハッと顔を上げた瞬間、憂助の木刀が胸を突く。

 その軽い一突きで吹っ飛ばされた兵藤は、まるでゴムボールのように壁や床、天井にバウンドしてゆらぎ荘の外まで飛んでいった──。

 

 

「あ~、ひでぇ目に遭ったぜ……」

 

 料理を頬張りながら、兵藤はぼやく。

 

「自業自得じゃねえか」

 

 隣のピエロ姿のコガラシが、あきれたように言った。

 

 ゆらぎ荘の住民たちをコガラシから紹介された兵藤は、ゆらぎ荘内外の飾りつけをこゆずが葉札術で一瞬でやったと聞かされ、更に朧に請われるままに彼女の衣装をより過激な物に変えるところも目撃した。そこでこゆずにこっそりと、

 

「無茶なお願いをして、それが出来なかったら恥ずかしいコスチュームに変化させればパーティーも盛り上がる」

 

 と吹き込んだのだった。

 こゆずの変化の術を利用して女の子たちの恥ずかしい姿を観賞しようという企みであったが、葉札術の煙が晴れないうちに憂助の念法で術が解かれ、結局その目論見は失敗に終わった。

 

「まぁあの三人だったからまだ良かったんじゃねえか? 狭霧や雲雀だったら手裏剣とかクナイとか投げつけられてたぞ。アイツ等の武器は霊気を具現化させた物だから切れ味も自由に調整出来るけど、痛いことは痛いからな」

「木刀で外まで吹っ飛ばされるのも充分ひでぇよ」

「でも全然痛くなかったし、怪我もしてねえだろ」

「言われてみれば……」

 

 コガラシに言われて、兵藤は自身の身体にかすり傷どころか何の痛みもないことに気付いた。

 玄関の外まで吹っ飛ばされて数分は、全身が麻痺して動けなかったものの、その麻痺もすぐになくなり、自分の足でまた大部屋まで戻って来れた。

 そもそも、あんな軽く小突かれたくらいで人間の体が何度もバウンドするはずがないのだ。

 

「……アイツ、何者なんだ?」

 

 千紗希の隣で、特に楽しそうな風でもなく黙々と料理を食べる憂助を見ながら、兵藤は尋ねた。

 

「この前の体育祭でも物凄い走り方で逆転勝ちしやがったし……アイツも肉体派の霊能力者とかか?」

「いや、霊能力とは違うらしいぜ」

「違うって?」

「俺も詳しくは知らねえけど、なんでも人間の思念は極限まで高めると、悪霊や妖怪を退治するエネルギーに変わるらしい。それを武道に応用したのが、アイツの使う念法って技なんだとよ」

「ふーん……」

 

 コガラシの説明を聞きつつ、兵藤は憂助を観察し続ける。

 すると千紗希が何やら憂助に話し掛けた後、彼の小皿を手に取り、お膳中央の大皿からローストビーフと唐揚げを一つずつ取って手渡した。

 

「…………もしかしてアイツ、宮崎と付き合ってんの?」

「さぁ? そんな話は聞かねえな」

「じゃあなんでアイツは宮崎の隣に座ってんだよ」

「そこしか空いてなかったんだろ」

「じゃあなんで宮崎はアイツの代わりにオカズ取ってやったりしてんだよ」

「宮崎の方が欲しいオカズに近かったんだろ」

「納得いかねえ……ッッ!!」

 

 呻くように呟く兵藤の声音は地獄の亡者めいておどろおどろしく、心なしかコガラシの目には、彼の身体から嫉妬の炎がメラメラと燃え上がってるようにも見えた。

 

「……まぁ、それはそれとして、友達(ダチ)として忠告するけど、こゆずに変なイタズラ教えるのはガチでやめろよな」

「あ、いや、あれは本当にパーティーを盛り上げるためにだな……」

「久我がいなかったらお前一人が盛り上がってた流れじゃねえか……こゆずもああ見えて立派な妖怪なんだから、気を付けろ。俺なんてずっと前にボディソープに変えられた事があるんだぜ?」

「ボディソープ?」

 

 兵藤の目が怪しく光った。

 それに目敏く気付いたコガラシは、彼の両肩に手を置いた。

 

「言っとくが、そんな良いものじゃねーぞ。中身の泡にだって意識や感覚があるんだが……泡は使い終わったら洗い流されるだろ?」

「そりゃあ、まぁ」

「その時のあの意識が遠くなっていく感覚は、ガチで恐怖だぞ? 身動きも出来ねえ、声も出せねえ状態でもしも使い切られてたら、俺はたぶん、今この場所にはいなかったぜ」

「……お、おう」

 

 話の内容よりも、コガラシの無表情な顔に押されて、兵藤はボディソープに化けさせてもらってゆらぎ荘女子のバスタイムを覗くという計画を捨てざるを得なかった……。

 

 

 別方向からも、憂助に視線を向ける者がいた。

 雨野雲雀である。

 狭霧の従姉妹に当たり、彼女にライバル意識を抱く身として、その狭霧と決闘をして勝ったという少年は気になる存在である。

 体育祭のクラス対抗リレーでの逆転劇も記憶に新しい。

 しかしそれ以上に、嫉妬に近い感情があった。

 夏休みに出会って以来コガラシに恋慕の情を抱く雲雀であったが、そのコガラシから何度も憂助の事を聞かされるのだ。その時の語り口や眼差しには熱がこもっていた。そしてコガラシ自身が『ガチで惚れた』と何度も口にするのだ。()()()()()()ではないとわかっていても、どうにも気になる。

 

 ──狭霧やうららのような念法使いへのこだわりの気持ちは、ない。

 妖魔・悪霊を調伏出来るとはいえ、念法の根幹は武道である。

 対して誅魔忍は、対妖魔・対悪霊の技のみを磨き続けてきた。対抗戦が行われた明治時代でも、対人戦闘のノウハウに限れば念法使いに一日の長があっただろう。敗北もやむを得ないと思っているし、現代では体術の訓練にも力を入れている。今戦えば、また違った結果になるだろう。

 雲雀個人はそのように考えているのである。

 

(雲雀たちと同い年のはずだけど……)

 

 周囲の雑談に加わることなく、黙々と料理を摘まむ様には、奇妙な貫禄があった。

 太い眉とがっしりした顎、鋭い目付き……見ようによっては、年上にも見えてくる。

 

(今のうちに仲良くなっておけば、コガラシくんとのことで協力してもらえるかな……)

 

 そう思わないこともないのだが、どうにも話し掛けづらい雰囲気がある。結局、離れた席から時折目線をやるくらいしか出来ない雲雀であった。

 

 

 夜も更けて、料理も粗方食べ尽くされた。

 こゆずははしゃぎ疲れて、胡座をかいた憂助の膝を枕に眠ってしまっている。

 憂助は全く気にせず、グラスに注いだオレンジジュースをチビチビと飲んでいた。

 パーティーもお開きということで、女性陣が後片付けを始めた。

 こゆずに変なことを教えた罰だと芹に凄まれて、兵藤も加わる。

 憂助も手伝おうと思いはするが、自分の膝を枕にしているこゆずを起こすのも忍びないという気持ちがあった。

 

「久我くんはゆっくりしてていいよ。こゆずちゃん起こすのも悪いし」

 

 千紗希がそう言った。歳の離れた兄妹然とした二人に、微笑ましい気持ちになっていた。

 

「……俺だけ地蔵様んごと座っとくのも落ち着かんわ」

「んじゃ、一緒にこゆずを部屋に運ぼうぜ」

 

 と言ってきたのはコガラシである。その傍らに、吸血鬼のコスプレをした幽奈がフヨフヨと浮いている。

 二人がこゆずの寝顔を覗き込んだ時、こゆずは寝返りを打った。

 

「おっぱい見へなきゃ、イタズラすゆぞぅ……」

 

 そんな寝言まで言う始末だ。

 

「ハイハイ、もう寝る時間ですよ」

 

 と幽奈がクスクス笑いながら語り掛けると、こゆずは葉札を何枚も取り出した。

 

「見へてくえないにゃら、イタズラすゆからねぇ……」

 

 そう言って葉札をばらまく。完全に寝ぼけているようだったが、それでも術そのものはちゃんと作動した。

 作動してしまった。

 あちこちで煙が巻き起こり、女性陣のコスチュームが軒並み水着や下着同然か、下手をすればそれ未満の布面積になってしまう。

 更に煙で視界を塞がれたコガラシが、その煙を払おうと振り回した手が幽奈のコスチュームに引っ掛かった。ビキニ水着のパンツに指が引っ掛かり、布が幽奈の股間にくい込む。

 

「いやあああっ!」

 

 赤面した幽奈の悲鳴と共に、恥ずかしさからポルターガイストが暴発した。

 室内の全員が、果てはお膳やその上の食器類に至るまでが一斉に宙に持ち上げられ──、

 

「エヤアッ!」

 

 鋭い声と共に、元の位置に戻った。それは端から見ると、ビデオの逆回し再生めいた不可思議な光景であった。

 

(今の、久我くん……?)

 

 千紗希が憂助のいた方を見ると、憂助は左手に未だ眠っているこゆずを抱え、真横に振り抜かれた右手には、木刀を握っていた。

 

「あ、服も戻ってる」

 

 後ろにいた博子の呟きで、千紗希は確かに自分たちのコスチュームが葉札術で変化させられる前の物に戻っていることに気付いた。

 憂助はチラリと千紗希の方を見やると、すぐに視線をのんきに眠りこけているこゆずに落とし、小さく溜め息をつきながら、木刀を背中の襟口に仕舞うのだった。

 

 

 後片付けが終わり、部屋に運ばれたこゆずを除くゆらぎ荘の住民たちは玄関で来客たちを見送る。

 悪魔コスの呑子は、普段からは想像出来ない鋭い眼差しを、去り行く憂助の背中に注いでいた。

 その視線を、隣にいるちとせの更に隣の狭霧に一度向けてから、再び憂助に戻した。

 

(うーん……さぎっちゃんは二千近くいっとるんに、あの子からはやっぱり千くらいしか感じ取れへん……けどなぁ……)

 

 今夜のパーティーでの出来事が、呑子の脳裏をよぎった。

 あの少年の木刀の一振りが──思念の一刀が、こゆずの葉札術を破り、幽奈のポルターガイストすら()()()()()

 

(あの子が『最後の希望』か……ちょっと、信じてみとうなったわぁ)

 

 憂助の背中を見つめながら、呑子は手にした一升瓶を一口呷った。



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積もる雪と千紗希さん

 洋風一戸建て住宅の、昼前から降り始めた雪が積もって白く彩られた庭。

 そこから響く釘を打つ音に、もし通行人が興味を持って生け垣から覗き込めば、恐らくぎょっとするだろう。

 雪が降る中で、高校生くらいの少年が簡素なテラスの修理をしている。下は制服と思わしき黒いズボンだが、上はグレーの半袖シャツなのだ。

 久我憂助である。

 ここは父・京一郎の知り合いである佐伯夫妻の家で、夫の正夫がDIYで作ったテラスが老朽化して来た。その修理を頼まれた京一郎が、憂助に学校帰りに行ってくるよう命じたのである。

「頼まれた本人が行けや」と言いたかった憂助だが、佐伯夫妻には世話になっている。高校入学の祝いに腕時計を買ってくれた恩もあるので、黙って父の言葉に従ったという次第である。天気の良い日にと考えなくもなかったが、天気予報では今夜から明日に掛けて大雪になると言う。雪の重みでテラスが潰れてはお手上げなので今日のうちに行く事にした。

 幸い、修理用の板は既に用意されてあったので、憂助はその板を傷んだ箇所と取り替えるだけで良かった。床板の修理が終わると、庭の隅の小さな物置から脚立を引っ張り出し、それを使って屋根板の修理も行う。

 作業は小一時間ほどで終わった。

 大工道具と脚立を物置にしまった憂助は、テラスを通ってリビングに戻る。

 

「わざわざありがとうね、憂くん」

 

 妻の敏子が温かいココアを用意してくれた。

 憂助はソファに座って、それをフーフーしながら飲む。

 飲み終わるとソファの背もたれに掛けていた制服の上着と、フード付きのモッズコートを着て、鞄を肩に提げ、敏子にココアの礼を言って帰ろうとした。

 しかし玄関まで見送ってくれた敏子が、財布から一万円札を取り出して憂助に差し出した。

 

「少ないけど、おはさんからのお小遣いとバイト代ね」

「おばちゃん。ありがてえけど、こら貰い過ぎばい」

「良いの良いの。うちの宿六(やどろく)*1がもっと早くからやってれば良かったのに……二ヶ月も前に材料買うだけ買っておいて、また今度また今度って先伸ばしにするんだもの。おかげでこんな日に憂くんに手間取らせちゃったから、そのお詫びよ」

「そげ言うんなら……ごっつぁんです」

 

 憂助は差し出された一万円札に左・右・真ん中と三度手刀を切ってから、両手で受け取った。

 佐伯家を出た憂助は、家路につく。

 住宅の屋根や並木、道路の路肩は雪が厚く降り積もり、歩く度にザクザクと音がする。風も吹き始めて来た。

 持参していた傘を差してしばらく歩くと──、

 

「よう、久我」

 

 不意に呼び止められた。振り向くと、こんな天気にふさわしい名前の男がいた。

 冬空コガラシだ。

 傘を差した彼の姿を見るなり、憂助は呆れたように言った。

 

「──お前、その格好はどげしたんか」

「えっ? 何か変か? いつも通りのはずだけどな……」

「このくそ(さび)い日に何故(なし)いつも通りの格好しとんかっち聞きようんてぇ」

 

 そう、コガラシの格好はいつも通りだった。制服の前を開け、袖と裾をまくっている。コートやジャンパーはおろか、マフラーや手袋すらしていない。

 

「いやぁ、コートとかそんなモン持ってねえからさぁ」

「買え。学校指定のウインドブレーカーならその辺の店のよりなんぼか安かろ」

「んな金もねえよ……」

「借りれ。仲居さんとか荒覇吐(あらはばき)の先生ならそんくれえ無利息無担保で貸してくれるやろ」

「うーん、確かにそうだけど……これ以上借金増やすのもなぁ……」

 

 借金返済のためのアルバイトで日々東奔西走するコガラシにしてみれば、必要不可欠で誰からも責められる謂れがなくとも、金を借りるという行為には躊躇いが生じるのである。

 憂助は唇をへの字に曲げると、鞄と傘を下ろし、着ていたモッズコートを脱いだ。それを叩きつけるようにコガラシに投げ渡す。

 

「それ着れ。くれてやる」

「い、いいのか?」

「お前が風邪引いたらゆらぎ荘の連中も困るやろが」

「そ、そうだな……サンキュー久我」

 

 コガラシはそう言って、憂助のコートを着て、フードも被ると、「じゃあまた明日な」と言って去っていった。

 鞄を肩に提げ、傘を拾って差し直すと、憂助も歩き出した。

 雪は依然降り止まず、早くも道路全体が雪に埋もれ始めている。しかし憂助は特に気にしない。それどころか『足腰の鍛練にちょうどいい』くらいにしか思ってない。何より、いざとなれば瞬間移動で飛べば良いのだから、気楽であった。

 

「あっ、久我くん」

 

 そこへ再び呼び止められて振り向くと、今度は宮崎千紗希だった。コートとマフラーを装備し、スカートの下にはタイツを穿いていた。傘を差す手にも手袋をしている。

 

「おう」

 

 憂助は素っ気ない返事を返した。

 何とはなしに、二人並んで歩き出す。

 

「……お前、今帰りか」

 

 少しして、憂助から問い掛けた。時刻はもう午後六時を回っている。帰宅部の下校時間にしては遅い。

 

「う、うん。ちょっと用事があったから……」

 

 千紗希はそう答えた。実は上級生に呼び出されて告白され、それを断るのに手間取ったのだ。芹と博子が助け船を出してくれたので何とか穏便に済んだ。それから三人で喫茶店に寄って気分転換のティータイムを過ごした後、二人と分かれて今に到る。

 

「久我くんこそどうしたの?」

「知り合いの家で大工仕事しとったらこげな時間になっしもた」

「そうなんだ……でもあたしが聞きたいのはそっちじゃなくて、なんでコートとか着てないのかって事なんだけど……」

「そっちか。さっきそこで冬空の阿呆に出会しての、あの阿呆こげな(さみ)い日でもコートとか何も着とらんかったき、俺のをくれてやったわ」

「そうだったんだ。もう、冬空くんも変なとこで無茶するんだから……」

 

 千紗希は呆れたように嘆息した。

 そこへ、風が強さを増して、雪の粒を叩きつけるかのような強風となった。

 傘を差したままではかえって危ないと感じた憂助は傘を畳む。

 しかし千紗希は、風でめくれそうなスカートを思わず押さえてしまい、その隙に傘を飛ばされそうになってしまう。

 憂助はそれを素早く掴んで畳むと、千紗希を抱き寄せた。

 

「飛ぶぞ」

 

 言うなり、二人は光に包まれてその場から消えた。

 そして宮崎家の玄関前に現れる。

 自宅の玄関を見て瞬間移動で送ってくれたのだとわかった千紗希は、礼を言おうと憂助の方を向き直って、固まった。

 ほんのわずかな時間とはいえ吹雪にさらされた憂助は雪まみれで、制服も半ば以上白くなっていた。

 

「久我くん、とりあえず上がって? 体拭いて制服も乾かさないと風邪引いちゃうよ?」

 

 鞄から取り出した鍵で玄関のドアを開け、憂助の手を引いて招き入れた。

 靴の中まで雪が入り込んでいたようで、憂助は靴下もびしょ濡れだ。

 

「久我くん、早く体温めないと……うちのシャワー使っていいから」

「いらん。お前が入れ」

 

 千紗希が持ってきたバスタオルで頭を拭き、靴下を脱いで足も拭きながら、憂助は突き放すように答えたが、

 

「いいから先に入って! 風邪引いてお父さんに心配させたくないでしょ!」

 

 と、千紗希はいつになく声を荒げた。

 憂助は口をへの字に曲げたが、それでも彼女の言葉に従った。

 

 

 リビングで髪を拭きながら、千紗希は溜め息をついた。

 

(冬空くんも割りと無茶しがちだけど、やっぱり久我くんの方がそれ以上だよ……)

 

 体育祭の時を思い出して、改めてそう思った。

 そこへバスルームからシャワーの音が聞こえてきて、どうやら憂助はちゃんとシャワーを浴びているようだと安心する。

 風は依然強く、庭に面したサッシがカーテンの向こうでガタガタと音を立てている。

 ふと母の事が心配になった矢先、見計らったように、スマホにその母から電話が掛かってきた。何でも数十年ぶりの大雪で明日までやまないらしく、電車も運休して身動きが取れないため会社に泊まるとの事である。

 通話が終わると、今の『数十年ぶりの大雪』というフレーズが妙に重くのしかかり、心細くなってきた。

 

「風呂上がったぞ。あんがとさん」

 

 千紗希が用意してくれた父用のパジャマを着て、憂助がリビングに入ってきた。

 彼の姿を見た途端、さっきまでの心細さが消えて、ホッとするのを千紗希は感じた。

 厚かましいのは百も承知だが、思いきって交渉してみる。

 

「あのね、久我くん……お願いがあるの」

「なんか」

「さっきママから電話があって、今夜は会社に泊まる事にしたんだって。パパも海外出張でいなくて、今夜はあたし一人なんだけど……こんな天気だからちょっと一人だと心細くて……」

「おう。で?」

「今夜、うちに泊まっていってくれないかな?」

 

 言われた憂助は、横目で壁時計を見た。あと十分ほどで、午後7時になる。

 7時からのお笑い番組に、ジャッカル富岡が出る。しかし、番組のいつ出るかまではわからない。千紗希の頼みを断り、瞬間移動で家に帰っても、今夜の夕飯は自分が当番だ。食事を作っているうちに出番を見逃してしまったら……録画予約はしてあるが、出来る事ならリアルタイムで見たいという欲があった。

 

「……しゃあねぇのぉ」

 

 そして憂助は、その欲に負けた。

 

 

 シャワーを浴びながら、千紗希は今の自分の状況を思い返し、クスッと小さく笑ってしまった。

 友人たちから『プチ男性恐怖症』などと言われている自分が、親がおらず一人きりの家に男性を招き入れ、泊まらせてまでいるのだ。

 

(芹や博子が聞いたら、きっとビックリするかも……)

 

 そう思うと、またちょっと可笑しくなってしまった。

 

 プチ男性恐怖症──千紗希は自分でもそれを自覚している。

 男子の目線が、怖い。街でも学校でも、常に目線を感じてしまう。中学生になってからは胸もどんどん成長していき、余計に目線を感じてしまうようになった。

 大きな黒縁の伊達眼鏡を掛け、髪型もお下げにするなど、なるべく地味な格好をした。

 何か手荷物があれば、それで胸を隠した。

 それでも男の視線は付いて回った。

 こんな調子ではお洒落も出来ないから、結局開き直って気にしないようにしているが、それでもやはり、怖いものは怖い。

 今日の放課後に呼び出して告白してきた上級生にしても、態度こそ紳士的だったが爛々とぎらつく目線に、逃げ出したい心境だった。

 

 だが、憂助にはそれがない。

 素っ気ない態度で、時には突き放すような言動さえある。初めて会った時こそ突き刺すような視線を浴びたが、今にして思えばあれは単に、初めて会う人間を警戒していただけだったのではなかろうか。

 しかしそんな日頃の態度とは裏腹、自分が危機に陥った時はすぐに駆け付けて助けてくれる。守ってくれる。臨海学校では一日に二度も助けられた。*2夏休みの時も助けられ、足を怪我した自分のために、食事もせずにせっせと背負子や杖を作ってくれた。*3

 父親以外で、一緒にいて安心出来る男性は憂助だけなのだ。

 その憂助が、今、同じ屋根の下にいるというだけで、千紗希は不思議な安心感を覚えるのである。

 

(あたしの我が儘でお泊まりしてもらってるんだし、お夕飯は久我くんの好きな物作ってあげよっと)

 

 入浴を終えて、そんな事を考えながら体をバスタオルで拭いていた時である。

 

 ──ブハハハハハハッ!

 

 リビングの方から声が響いてきた。

 普段は寡黙とまでいかずとも口数の少ない憂助があんな大声を出すなど、只事ではない。心配の余り、服を着る間も惜しんで全裸のままでバスルームを飛び出した。

 

「どうしたの久我くん! 大丈夫!?」

 

 持っていたバスタオルを乱雑に巻き付け、裸身を隠しながらリビングに飛び込むと、ソファに座った憂助がテレビを見ながらゲラゲラと大笑いしているところだった。画面には彼の大好きなお笑い芸人のジャッカル富岡が映っている。

 憂助はリビングに駆け込んだ千紗希の姿を見て、ぎょっと目を見開いた。

 濡れた髪をまとわりつかせ、超高校生級のプロポーションを誇る肉体には雑にバスタオルを巻き付けただけ。豊満な胸は盛り上がって今にもバスタオルからこぼれ出そうだし、ムッチリした太股は全く隠せておらず、肉感的なラインが見て取れた。

 

「服着れ、このトンチキ!」

 

 憂助は思わず怒鳴り付ける。

 千紗希はその怒声にすくみ上がり、その拍子にタオルを押さえていた手を弛めてしまった。バスタオルがハラリと床に落ちて──、

 

「きゃああああっ!」

 

 後には千紗希の悲鳴が響くのであった……。

 

 

 幸い甘口カレーのルゥが残っていたので、千紗希はそれを使ってカレーライスを作る事にした。

 気まずさや気恥ずかしさで何とも言えない珍妙な静けさに包まれたダイニングで、二人は黙々と食事をする。

 静けさと気恥ずかしさに耐えかねて、千紗希が声を掛けた。

 

「く、久我くん……さっきはごめんね、驚かせちゃって……」

「忘れろ。俺も忘れる」

 

 重みのある声色で、憂助はそう言う。

 そう言いつつも、脳裏に焼き付いた千紗希のフルヌードが消えない。別の事に意識を逸らそうとするものの、テーブルを挟んで真正面に千紗希がいる。髪を洗うのに使ったシャンプーの香りを、定期的な山籠りで感覚が鋭くなっている憂助の嗅覚が捉えてしまうため、否が応でも思い出してしまう。

 

(~~~~っ!)

 

 そんな自分への苛立ちを紛らわそうと、憂助はつい、皿の左右に分けられていたカレーと白ご飯をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。

 

「あっ、久我くんかき混ぜる派だったんだね」

 

 それを見て千紗希がクスクスと笑う。

 

「家じゃアホ親父がいっつもご飯の上にカレーぶっかけよるきの。いつの間にかこうなった」

「そうなんだ……あれ? でもこの前一緒に食べた時はかき混ぜてなかったよね?」

「人前でそげな真似出来るか阿呆」

 

 小学校一年生の頃にそのかき混ぜるくせをクラスメートに笑われて、カッとなってドロップキックをくらわせた事がある。担任の先生に自分だけ怒られて、それが不服で担任に怒鳴り付けたら今度はその事でまた怒られて散々だった。以来、人前ではやらないようにしていたのだが、今目の前にいる『馬鹿女』のせいで、そんな簡単な気遣いさえ忘れてしまったのである。

 

(やっぱコイツとおると調子狂うのぉ……)

 

 さっきの一件にしても、泣き声や怒鳴り声で駆け付けるならまだわかるが、笑い声を聞いて心配そうに駆け付けるとはどういう了見なのだろうか──聞いてもろくな答えは返って来るまいが。

 ふっと千紗希に視線をやると、彼女は皿の真ん中にご飯とカレーを丁寧に掻き寄せてからスプーンで掬って食べている。ありふれた仕草なのに、さっきの裸身がフラッシュバックして、妙に目が離せない。憂助は鉄石の不動心を以て目線を自分の皿に落とし、目を閉じてガツガツと残りを掻き込んだ。

 

 

 千紗希が目を覚ますと、辺りが暗い。豆電球のオレンジ色の明かりに照らされた室内を見渡すと、どうやら自分の部屋らしく、自分はベッドに寝かされていた。部屋のエアコンも作動している。

 

(あれ? あたし、何で……)

 

 記憶の糸を手繰り寄せる。

 確か憂助と一緒に夕飯を食べた後、リビングで一緒にテレビを見ていた。

 9時から始まったモンスターパニック映画を見ている内に眠くなってきて……、

 

(そっか、眠っちゃったあたしを、久我くんがお部屋に運んでくれたんだ……)

 

 きっとそうに違いない。

 憂助はどうしてるだろう?

 軽い喉の乾きを覚えたのもあり、部屋を出て一階に下りると、どこも灯りが消えている。

 リビングに入るとそこは豆電球のみが灯されていて、ソファには毛布にくるまった憂助が横たわっていた。

 両親の部屋で休んでいいと事前に伝えておいたが、そのつもりはないようだ。千紗希は思わず苦笑した。

 リビングとはカウンターのみで仕切られたキッチンへ行き、そこで水を飲んでから、千紗希は眠っている憂助のそばまで来た。足音を立てたつもりはなかったが、

 

「なんか、どうした」

 

 と、憂助が毛布にくるまったまま尋ねた。

 

「あ、ごめんね。起こしちゃった?」

「お前が入ってきた時点で、気配で目ぇ覚めたわ──気にすんな、俺がそういう風に訓練しとうだけやきの」

「そう? でも久我くん、寝るならパパとママのお部屋使って良かったんだよ?」

「よその夫婦の寝室とか、こっ恥ずかしいでよう寝れんわ。いいきさっさと寝ろ。明日も学校やろが」

「そうだね……ごめんね久我くん、お部屋まで運んでくれてありがとう」

「気にすんな。あげな退屈なクソ映画見とったら誰でも眠くなるわ」

 

 ひどい言われようだが、実際何故テレビ局はこれを放送したのか疑問に思うくらいひどい映画だった。出てくる人喰いモンスターのCGは稚拙で、襲われて喰い殺される人間の血しぶきすらその稚拙なCGで表現しているのだ。てっきり昔の、CG黎明期の映画かと思ったが、主人公とヒロインがスマホのLINEでやり取りするシーンがあったので、信じられない事だがごく近年に製作された映画らしい。

 

「おやすみ、久我くん」

「おう」

 

 憂助はそれっきり黙りこくった。

 千紗希も静かにリビングを出た。彼の寝顔を見たかったのに、それが失敗に終わったのは少し残念だった。

 

 

 朝になると、雪はすっかり止んでいた。

 目覚まし時計で目を覚ました千紗希が朝食の支度をしようと一階に下りると、リビングで寝ていたはずの憂助の姿がない。

 憂助は庭に出ていた。念法の稽古なのだろう。一人黙々と木刀を振っている。

 しかしその姿を見て、千紗希は声を上げそうになった。

 憂助は、上半身裸だった。

 サッシの前に立って眺めると、足にも何も履いてない。裸足だ。

 ボディビルダーのように極端ではないが、それでも鍛えられた筋肉が、木刀を振るう度に皮膚の下でうねっていた。

 よくよく見ると、憂助の肌は汗ばみ、白いものが立ち上っている。庭に降り積もった雪も、無数の裸足の足跡で踏み荒らされ、半ば以上溶けていた。いったいどれくらい前から稽古しているのだろうか……。

 稽古に打ち込む憂助の真剣な表情に、千紗希は知らず知らず見入っていた──否、魅入っていた。

 稽古を終えた憂助が戻ってきた。

 サッシを開けて、事前に用意していたタオルで足を拭いてからリビングに上がる。

 

「おはよう久我くん。お稽古お疲れ様」

「おう」

 

 憂助はそれだけを返し、見向きもせず脱いだシャツと制服の上着を着る。

 相も変わらぬ素っ気ない態度だが、そのいつも通りの態度に千紗希はかえって安心する。

 昨夜のカレーがまだ残っていたので、それを暖め直して朝食とした。

 そして登校の準備をすると、戸締まりをして家を出る。

 

「世話んなったの」

「ううん、お願いしたのはあたしだし。久我くんが一緒だったから本当に助かったよ」

「俺ぁ何もしとらん」

「そんな事ないよ。久我くんが一緒にいてくれるだけで凄く落ち着くし、安心出来るもん」

「…………そうか」

 

 憂助はそう言って、そっぽを向く。

 

「あ、ところで久我くん。ウチに泊まった事、学校のみんなには内緒にしてね? 絶対誤解されちゃうから」

「そげなんいちいち言いふらすか阿呆」

「あはは、それもそうだね」

 

 千紗希は苦笑する。

 こういうところも、一緒にいて安心出来る理由だろう。

 憂助は防寒着を取りに、瞬間移動で一旦自宅へ飛んだ。

 憂助がいなくなった途端、千紗希はかすかに寂しさを覚える。

 ──そんな自分が、本当に不思議だった。

 実は、昨夜テレビを見ている時、憂助の視線が自分の胸元に何度かチラチラと向けられたのを感じた。

 なのに、それが全く不快ではなかった。

 男の視線は怖いはずなのに、憂助の視線はむしろ全く怖くない。

 昨夜は『あんなハプニングの後では気になってしまうだろう』と思えたし、だから微笑ましい気持ちで受け流せた。

 だが実際は、『相手が憂助だから』気にならなかったのではないか……今はそんな風に思えてしまう。

 

(……あれ? これってもしかして……えっ? でも、いや、そんな……)

 

 ふと自分の気持ちに気付いた千紗希は、困惑して立ち尽くしてしまうのだった……。

*1
妻が夫を罵って、または他人にふざけて使う呼び方

*2

*3
第14話参照



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復讐の鬼と憂助くん

「ひぃえええっ!」

 

 真夜中の寂れた廊下に、少女の情けない悲鳴が響き渡る。

 誅魔忍の雨野雲雀が、照明もなく真っ暗な廊下を全力疾走していた。

 そしてそれを追い掛けるのは、床一面を埋め尽くす大量の虫だった。見た目はカブトムシやクワガタムシの幼虫に似ているが、一匹一匹の大きさが犬ほどもある。移動スピードも速く、雲雀との距離がぐんぐん縮まっていた。

 そして次々と身をたわめてジャンプし、雲雀の体に、肩と言わず足と言わず尻と言わず取り付いて来る。

 バランスを崩した雲雀がその場に転倒すると、幼虫の群れが津波となって押し寄せてきた。

 

「ひぃいいいっ!」

 

 目尻に涙を浮かべる雲雀。大きな顎で着衣に噛みついて来る虫たちを、霊力を具現化させた手裏剣で切り裂いていくが、数が多すぎる。

 瞬間、雲雀の頭の方から白い輝きを放つ炎がほとばしり、幼虫の群れを焼き払った。

 しかし雲雀の体はおろか、着衣にさえ焦げ跡一つ付いていない。

 炎が噴いてきた方向から、足音と金属音が近付いてくる。

 一人は黒髪の少年。太い眉とガッシリした顎、鋭い眼差しで、モッズコートとジーパン姿だ。右手には一振りの木刀を携え、だらりと下げていた。

 久我憂助であった。

 先の白炎は彼が放った久我流念法《闇祓い》である。

 その後ろから一人の僧侶が続く。金属音は彼の持つ錫杖だった。

 憂助は、ジロリと雲雀に視線を落とす。

 

「……お前、確かゆらぎ荘の……あの忍者の親戚の……雨野雀やったか」

「雲雀だよ、ひーばーり! 漢字一文字抜けてるよぅ!」

 

 憂助の言葉を、雲雀は訂正した。

 

「こげな所で何しよんか」

 

 憂助はそれを無視して、しかし雲雀を助け起こしながら問い掛ける。

 

「あ、ありがと……誅魔忍のお仕事だよ。ここに危険な妖怪がいて、雲雀たちに討伐命令が出たの」

()()っち事は他にもおるんか。親戚の夜霧とかいうのも」

「……狭霧だよ、さーぎーり。狭霧(さぎ)っちゃんも来てるし、うららちゃんも後方支援してくれてるよ」

「そうか。じゃあそいつ等連れて今すぐ帰れ。邪魔だ」

 

 歯に衣着せぬ物言いに、雲雀はカチンと来た。

 

「……あなたにそんな事言われる筋合い無いんだけど!? だいたいそういうあなたこそ、なんでここにいるの!?」

「お前には関係ねえ」

 

 憂助はジロリと、険しい一瞥をくれた。雲雀は思わずすくみ、一歩後退りした。

 

「お待ちを」

 

 彼の後ろに控えていた鷲鼻の僧侶が、憂助に呼び掛けた。

 

「この先もまだまだ敵は多い。それにご友人の救出もせねばなりませぬ。人手は多いに越した事はありますまい」

 

 言われた憂助は、口をへの字に曲げた。

 次いで、雲雀を上から下までジロジロと、値踏みするように眺める。まるで藪の中から獲物の隙をうかがう虎のような視線に、雲雀はついもう一歩後退りした。

 

「……おらんよりはマシか。ついてこい」

「あなたに命令される筋合いも無いんだけど……」

 

 恐る恐ると言った風に反論する雲雀。

 

「拙僧がご説明いたしましょう」

 

 と苦笑いしながら言い出したのは、先の鷲鼻の僧侶である。

 

「拙僧は救沌衆(ぐどんしゅう)降魔僧(ごうまそう)赤蓮(しゃくれん)と申しまする」

 

 と、まずは自己紹介してから、事情を説明し始めた。

 

 

 かつて憂助が倒した、元救沌衆の白朗。

 彼は総本山にて幽閉されていたのだが、内部に彼のシンパがいたらしく、彼等の助力により、白朗は総本山からの脱獄に成功。憂助に復讐するため、湯煙市に舞い戻ってきた。

 その復讐のために行ったのが、今夜の雲雀たちの討伐対象だった妖怪『鬼蜂』を蠱毒の呪法で強化し、使役するというものだった。

 蠱毒とは、壺の中にたくさんの毒虫を閉じ込めて放置し、共食いをさせるものだ。そうして生き残った最後の一匹は、他の虫の毒も取り込みより強力な毒虫となる。これを呪いの触媒に用いるのであるが、白朗はこれを鬼蜂を始めとする妖怪や悪霊を用いて行ったのだ。

 そして憂助を誘き出す餌として、千紗希をさらったのである。赤蓮は三人の弟子を伴っていたが、その弟子たちは千紗希を守ろうとして返り討ちに遭ってしまった。

 

「千紗希ちゃんが!?」

 

 そこまで聞いて、雲雀が声を上げた。

 

「もうっ、それなら最初にそう言ってよ! そういう事なら喜んで力を貸すよ。千紗希ちゃんは友達だもん! 狭霧っちゃんやうららちゃんの他にコガラシくんも来てるから、みんなで力を合わせれば絶対助けられるよ!」

何故(なし)冬空が来とうんか」

「時々誅魔忍のお仕事手伝ってくれてるの」

「……そうか」

 

 暇人め。

 憂助は心中そうぼやくと、それで一方的に会話を打ち切り、奥へと歩き出す。赤蓮と雲雀も後に続いた。

 

「冬空たちはどこにおるんか」

 

 歩きながら、憂助が問う。

 

「上の階だよ。今連絡するね」

 

 そう答えて雲雀は上着の内ポケットに入れていた通信機を取り出した──が、それは無惨にひしゃげていた。さっき転んだ拍子に、廊下に転がっていた石か何かに当たったのだろう。

 憂助はそれを見て唇をへの字に曲げた。

 

「ま、上に上がって行きゃあどっかで出会すやろ」

 

 とだけ言って、上へと続く階段を上っていく。

 

「うう、ごめんなさぁい……」

 

 ショボくれる雲雀と、その背中を慰めるようにポンと叩いた赤蓮が、それに続いた。

 階段の踊場を通り過ぎた時、雲雀がふと浮かんだ疑問を口にする。

 

「そう言えばコガラシくんから聞いたんだけど、久我くんって瞬間移動出来るんだよね? どうして千紗希ちゃんの所に直接飛ばないの?」

「変な結界が張られとった」

 

 憂助は振り向きもせず、素っ気なく答える。

 実際その通りで、赤蓮から話を聞かされた憂助は赤蓮と共に瞬間移動で千紗希の元へと飛んだが、テレポートアウトしたのは白朗が潜伏するこの廃ビルの前であった。霊的知覚力のある者ならば見る事が出来る光の壁が、ビル全体を包んでいたのだ。

 

「ごめん、それうららちゃんが張ったやつ……あれ? じゃあどうやって入ったの?」

「穴空けた」

 

 これもまた、素っ気ない返答であった。

 それを聞いて赤蓮は先程の光景を思い出す。

 憂助はどこからともなく木刀を取り出すと、その切っ先を結界の壁面に当てて、上から下へと振り下ろした。するとジッパーを開けるように、結界に穴が空いたのである。赤蓮を伴って中に入った憂助が空けた穴の縁に木刀を当てて、同じように振り下ろすと、今度はジッパーが閉じるように穴が塞がった。

 

「入ったら入ったで、向こうが別の結界張って隠しとうんか妖気が強すぎるせいか知らんが、宮崎の気配が探れん。自分の足で探すしかねえ」

 

 と話してる内に、上の階に到達した。

 雲雀の顔がひきつる。先程の巨大な幼虫の群れがここにもいて、冬空コガラシと雨野狭霧が応戦していた。しかし数の多さに手を焼いているようだ。

 コガラシがフルパワーを開放すれば全滅させるのは造作もないが、ビルまで破壊しかねないため、霊力を抑えざるを得ないのだ。

 憂助が木刀を、切っ先で床をこするようにして振り上げた。発生した微かな摩擦熱が念で増幅され、破邪の白炎となってほとばしる。先の雲雀同様、幼虫に取り囲まれたコガラシと狭霧には一切被害を与えず、幼虫の群れだけを焼き払い、消滅させた。

 

「久我じゃねえか。お前も来てくれたのか!」

 

 コガラシは嬉しそうだったが、狭霧は険しい顔つきだ。念法使いに助けられた事、コガラシが嬉しそうにしている事、両方ともが気に食わなかった。

 

「……久我憂助。何故ここにいる?」

「かくかくしかじか」

「まるまるうまうまという事か」

「おう、そういう事なら俺たちも手を貸すぜ! どうせその鬼蜂ってのがターゲットだったしな」

『ちょい待ち!』

 

 突如関西弁で割って入る声が、狭霧の方から響いてきた。

 後方支援の浦方うららが、通信機越しに話し掛けてきた。

 

『助けてくれたんは感謝するけど、アンタは民間人や。ここは専門家であるうちら誅魔忍に任せてアンタは帰った方がええんちゃう? こっちには八咫鋼(やたはがね)のコガラシくんもおるんや、戦力は充分ある』

「やかましい」

 

 どこか突き放すような物言いのうららに、憂助は取り付く島もない。

 

(はてな──?)

 

 後方で赤蓮が小首を傾げた。『八咫鋼のコガラシくん』が学生服姿の少年の事なのだとはわかるが、彼が後継者だとすると年数が合わないのが不思議なのだ。むべなるかな、よもや先代が幽霊となってこの世に留まりコガラシを指導したなどとは、わかるはずもなし……。

 

「そうだよ、うららちゃん。戦力は多い方が良いし目的も同じなんだし……千紗希ちゃんを助けるためにも我慢してよ」

 

 雲雀が憂助の側についた事がちょっと意外だったのか、うららは黙り込む。

 

「……私もうららと同意見だが、宮崎さんの危機とあらば是非もない。今回ばかりは奴の力を借りるとしよう……ところで、そちらの方は?」

 

 憂助の後ろに控える僧形(そうぎょう)の男に、狭霧は問い掛ける。赤蓮が自己紹介をすると、

 

『念法使いに救沌衆かいや……』

 

 と、うららのうんざりした声が通信機から漏れた。誅魔忍は別に救沌衆と競合してる訳ではない。ただ任務に次々と割り込みが入ったのが不愉快なだけである。

 

「無駄口叩くな。来るぞ」

 

 憂助が凄味のある声で言った数秒後、虫の羽音が複数、廊下の奥の闇から聞こえてきた。しかし虫の羽音にしてはやけに大きな音だ。

 それもそのはず、姿を現したのは人間ほどもある巨大な雀蜂であった。額から一本の角が生えている。

 

「お、鬼蜂!?」

「しかも複数!?」

 

 雲雀と狭霧が手裏剣やクナイを創造して構えた。

 

『いや、羽化した鬼蜂はもっとデカイで?』

 

 通信機にはカメラも付いているのか、見えているかのようにうららが指摘する。

 

「恐らくは白朗めが、幼虫の成長を早めて強制的に羽化させたのでしょうな」

 

 赤蓮が錫杖を構えつつ推論を語る。

 鬼蜂は前方のみならず、背後の階段からも現れ、一行は挟み撃ちに遭った形となる。

 鬼蜂が一斉に襲い掛かってきた。

 虚空を数条の銀光が駆け抜ける。雲雀の手裏剣が弧を描いて鬼蜂の羽を切り裂き、動きが止まったところを狭霧のクナイが仕留めた。

 

「喝!」

 

 赤蓮の錫杖が霊力を注がれて光を帯び、迫る巨蟲の頭を砕き、胴を貫いた。

 

「うらぁっ!」

 

 コガラシも霊力を解き放ち、拳打で以て鬼蜂を文字通りに粉砕していく。

 憂助も木刀を縦横無尽に振るい、応戦した。

 しかし小型鬼蜂は次々と湧いて出てくる。そして一行の攻撃を潜り抜けて、近付いてくる。

 憂助は目を閉じて、精神を集中させた。肉体の下部に宿る物理的な力を司るチャクラを開く。練り上げた念を注がれて白い光輝を放つ木刀を、体を独楽のように回転させて振り抜いた。発生した微かな気流が念で増幅され、烈風となる──久我流念法《太刀風》の変化技《突風(あからしまかぜ)》!

 廊下内を吹き荒れる烈風は、狭霧や雲雀のスカートすら全くなびかせる事なく、しかして鬼蜂の群れを吹き飛ばし廊下の両端にまで押しやった。

 

「うぉらあっ!」

「エェイッ!」

 

 コガラシが霊力を込めた拳を振り被り、打ち抜いた。

 憂助もまた、霞の構えからの突きを逆方向へ繰り出す。

 霊力と念がそれぞれ強烈無比な波動となって、鬼蜂の群れを一網打尽に消滅させた。

 

「狭霧っちゃん、大丈夫!?」

 

 戦いを終えたのも束の間、雲雀が狭霧に声を掛ける。

 鬼蜂に接近された狭霧は、巨蟲の大顎で上腕を切り裂かれ、出血していた。

 その痛ましい傷口に、何を思ったか憂助が木刀を打ち付ける。

 激痛が走った──かと思えば痛みは一瞬で消え、傷もほとんど塞がっていた。

 

「す、すまない、久我憂助……」

「無駄口叩くな。行くぞ」

 

 憂助はそう言って、上の階へと階段を上り始める。

 コガラシが後に続き、遅れて雲雀と狭霧が、そして背後を警戒しつつ赤蓮が続いた。

 

「何か機嫌悪いな久我。宮崎がさらわれたの、自分のせいだって思ってんのか?」

 

 コガラシの問い掛けに、憂助は鋭い一瞥をくれるのみだった。構わずコガラシは続ける。

 

「だとしたらそいつぁ違うぜ。そもそもその白朗って奴が悪事を働かなけりゃ良かった話じゃねぇか。力に溺れてお前にとっちめられた挙げ句、反省もしないでお前を逆恨みするソイツが悪いんだ。お前が責任感じるような事じゃねえよ──大丈夫だ久我。俺たちがついてる。狭霧も雲雀も俺には出来ねえ事がたくさん出来る(すげ)え奴等だ。みんなで力を合わせて、絶対に宮崎を助け出そうぜ」

 

 そして憂助を励ますように、その背中をポンと叩く。

 憂助は何も言わなかったが、微かに表情から険が取れていた。

 

 

 夜風の冷たさに、千紗希は目を覚ました。

 

(ここは……?)

 

 記憶の糸を手繰り寄せて、すぐに意識が覚醒した。

 友達と別れて家路につく途中、以前こゆずを騙して利用していたあの霊能力者が目の前に現れたのだ。あの時と同じ黒い鳥打ち帽とインバネスコートをまとい、幽鬼の如く。

 そして千紗希をどこかへ連れ去るつもりらしく、手首を掴んだ。途端にその掴まれた箇所から力が抜けていき、全身が冷たくなっていく。

 その時、三人の僧侶が現れて彼女を助けようとしてくれたが、既に千紗希は半ば意識を失いかけており、やけに大きな虫の羽音が響き、その僧侶たちの苦痛に呻く声が聞こえてきた事しか覚えていない。

 

(あたし、さらわれちゃったんだ……!)

 

 起き上がろうとしたが、ロープで縛られているらしく、上手く体を動かせない。それでもどうにかこうにか起き上がって辺りを見渡すと、ここはどこかのビルの屋上らしかった。フェンス越しに見下ろせば、ビルの下に森が広がり、その向こうに湯煙市を一望出来る。郊外の山中に心霊スポットとして噂されている廃ビルがあったのを思い出した。恐らくそこに連れ込まれたのだ。

 

「目を覚ましたようだな」

 

 呼び掛ける声に振り向けば、黒い鳥打ち帽にインバネスコート。あの白朗が、月下に浮かぶ影の如く佇んでいた。

 千紗希は気丈にも、誘拐犯に険しい眼差しを向ける。

 

「あ、あたしをさらって、どうするつもりなの!?」

「あの小僧への復讐……お前はそのための餌だ……それが済めば……」

 

 白朗は最後まで言わず、意味ありげな含み笑いをするだけ。

 

「それが済んだら、何!? はっきり言いなさいよ!」

「餌だ。愛しい我が子たちが力を得るためのな」

「子供……?」

「そうだ。つまらん邪魔者もいるようだが、そいつ等もまとめて我が子等に喰わせてやる。寂しくないぞ?」

「く、久我くんは、あなたなんかには絶対負けないんだから!」

「いいや、無理だね。どんなに強かろうと所詮は人間……だが私は、人間を超えた……一足先に、お前に見せてやろう。()()()()()()()()()()()()()()()とは違う、真なる超越者の姿をな」

 

 白朗が千紗希の前に歩み寄る。

 着衣が突如、ゴワゴワと波打ち、蠢き始めた。

 背中から透明の板が四枚生えてきた──羽だ。虫の羽だ。

 左手が膨らみ、形を変える。サッカーボールほどの大きさもある、雀蜂の頭部……大顎がギチギチと音を立てる。

 右腕も変化していく。蜂の腹部を模したそこから、毒液を滴らせて短剣並みの大きさの針が伸びている。

 白朗の胸から、昆虫の足が四本飛び出した。

 両足もまた、昆虫のそれへと変化していく。

 白朗の目が膨れ上がり、眼窩から飛び出したかと思うと、長く伸びた複眼へと変わっていく。

 額から二本の触覚と一本の角が生えた。

 千紗希は逃げるどころか、声を上げる事すら出来なかった。目の前で行われるおぞましい変身現象に、恐怖の余りヒューヒューと荒い呼吸しか出来ない。

 雀蜂と人間を冒涜的に混ぜ合わせたような、それはまさに異形の怪人であった。

 

「どうだ、この姿……素晴らしいだろう?」

 

 どこか酔ったような声色で、白朗は問い掛ける。

 千紗希はかろうじて、言葉を絞り出せた。

 

「……ば、ば、化け物……!」

 

 その一言を、白朗はフンと鼻で笑う。

 

「体つきこそ大人顔負けだが、やはり所詮は子供か……この力の素晴らしさがわからんとはな」

「わ、わかりたくもないよ! そん、そんな、そんな醜い化け物になってまで、久我くんに復讐したいの!? そんな事して、あなたに何が残るっていうの!?」

「説明したところで、子供にはわからんさ……おとなしく私の信者となって奉仕していた方がよほど幸せだったと、あの世で嘆くがいい──おっとぉ!」

 

 不意に白朗は背中の羽を唸らせて、宙に舞い上がった。

 千紗希の背後から白い炎が巻き起こり、彼の立っていた場所を通り過ぎていく。炎に呑み込まれたはずの千紗希には、火傷も焦げ跡もない。

 何者かが千紗希の背後に立ち、棒のようなもので背中を突くと、ロープが意思ある者のように独りでにほどけた。

 思わず振り向いた千紗希の眼に飛び込んだのは、太い眉とガッシリした顎、鋭い眼差しの、歳の割りに男臭い顔つきの少年。

 その手に握られた木刀には、彼女からは見えないが、柄に『獅子王』の三文字が彫られているだろう。

 久我憂助であった。

 

「もう大丈夫だ」

 

 憂助が柔らかな声音で、言った。

 彼の姿に、そして彼の声に、千紗希の胸中を安堵が満たす。

 張りつめていた緊張の糸がプツンと切れて、涙がポロポロとこぼれ出た。

 

「うっ……うぁあああっ!」

 

 言葉も出せず、ただ小さい子供のように憂助にしがみつき、泣きじゃくった。

 千紗希の背中をポンポンと叩いてやりながら、憂助は虚空に浮かぶ化け物に、険しい眼差しを向ける。

 コガラシたちに千紗希を預け、木刀の切っ先を突きつけた。

 

『な、何やアレは……』

 

 狭霧の通信機から、うららの動揺した声がする。

 

「アレ、鬼蜂……?」

「いや、データではあんな姿ではなかった……さっき片付けた奴等を、もっと大きくしたような姿だったはずだ」

 

 雲雀と狭霧も、正体が掴めず戸惑っている。

 正体に気付いたのは、赤蓮だった。

 

「あれは……あれこそが白朗にござる……あ奴め、そこまで外道に堕ちたか……」

「どういう事だよ?」

 

 コガラシの問いに、赤蓮は吐き出すように答えた。

 

「白朗は蠱毒の呪法で強化した鬼蜂を、自身の中に取り込んだのです……否、融合したと言っても──ぐうっ!」

 

 赤蓮が呻き、肩を押さえた。

 白朗が空中から足の爪で、肩の肉を抉り取ったのだ。

 コガラシが拳を振るって殴りかかるが、白朗はこれを上昇してかわし、左手の大顎で斬り付ける。しかし霊力を開放したコガラシの肉体を傷付けるには至らなかった。

 そこへ閃く白光。しかし憂助の木刀もまた、むなしく空を切る。

 散開した雲雀と狭霧がそれぞれ手裏剣とクナイを投げつけるが、これも当たらない。

 

「あくびが出るな」

 

 白朗は空中でニタリと歯を向いて笑うと、狭霧の頭上に移動、彼女の頭を足の爪で掴み、雲雀へと投げ飛ばした。雲雀が狭霧を受け止めた瞬間、二人まとめて踏み潰した。

 

「テメェ!」

 

 コガラシが怒りの鉄拳を振るうが、怒濤の連打も当たらない。白朗は本物の雀蜂の如く宙を飛翔して避けていく。

 

「素晴らしい近接戦闘能力だが、当たらなければ意味はない!」

 

 コガラシのストレートパンチをかわして背後に回ると、上下逆さまの状態で彼を空中に抱え上げる。そして体の上下を元に戻すと、猛スピードでコンクリートの地面にコガラシを頭から叩きつけた。コガラシは上半身を地面に埋め込まれてしまう。

 そこへ伸びる、稲妻状の光。それが荒縄となって白朗の左足を捕らえた。赤蓮だ。救沌衆が霊を強制成仏させる時に使う《昇天陣》だ。生ある者に対しても、拘束術としては効果がある。

 白朗の動きが止まった瞬間、憂助が動いた。

 木刀が唸りを上げる。

 しかし白朗、昇天陣を素早く大顎で断ち切り、この一撃もかわしてみせた。

 かと思うと、その姿がフッと消える。

 憂助、突如背後へ木刀を振るうと、その刀身が白朗の大顎に噛み止められていた。

 

「よく防いだな」

 

 しかし白朗、余裕の笑み……、

 

「いつまで防げるかなぁ?」

 

 そして再び姿を消す──否、文字通りの目にも止まらぬスピードで、憂助の周囲を飛び交い始める。

 

「ほら、こっちだ」

「いやいやこっちだ」

「ここだよ、ここ」

 

 飛び交いながら時々に動きを止めて、からかうように声を掛ける。

 憂助は意に介さず、木刀で自分の周囲に円を描いた。木刀の軌跡に添って光が生まれ、地面に消える。

 そして憂助は、木刀を下段に下ろして目を閉じた。

 

「何のまじないか知らんが、無駄な事だ」

 

 上空の白朗が急降下して、憂助の正面から大顎で攻撃してくる──かと思えば瞬時に背後に回り、右手の毒針で突いて来た。

 

「ぐああああっ!」

 

 夜空に響く苦悶の叫び──それは、白朗の物だった。毒針が生えた右手が肘から切断されて宙に舞い、そして黒い塵と消える。

 憂助が描いた円は、いわば結界。そこに侵入した者に体が反応し、自動的に神速の迎撃を行うのだ。

 

「おのれ……行け、我が子等よ!」

 

 白朗の背中が膨らみ、雀蜂の縞模様の腹が出てきた。そこから大量の幼虫が生み出され、群れをなして憂助に迫った。

 銀光が煌めく。雲雀の手裏剣が、狭霧のクナイが、次々と幼虫を切り裂き、貫いていく。

 めり込んだ地面から脱出したコガラシも、霊力を全開にして拳から放出して、幼虫を蹴散らしていく。

 赤蓮も怪我を押して、昇天陣を放って応戦した。

 

「おのれぇええっ! どいつもこいつも超越者たる私に楯突きおってぇええっ!」

 

 歯噛みして激情のままに喚き散らす白朗。

 憂助の眼は、彼の左足を見ていた。赤蓮の昇天陣に一度捕らえられたそこは、ボロボロに削られていた。

 かつて憂助は別の僧侶が昇天陣で湯ノ花幽奈を捕らえたのを見た。幽奈は幽体を、少しずつではあるが削られていったが……。

 

「行き着くとこまで行っしもたの」

 

 ポツリと呟いた。

 千紗希をさらった男への憤怒に燃えていた眼差しに、別の色が浮かんだ。

 憐憫であった。

 憂助は、木刀を体の正面に垂直に立てた。腕を曲げて、窮屈な構えである。

 そして、目を閉じた。

 父の京一郎が一度だけ見せてくれた手だが、何故か今なら、或いは今だけは、出来る気がした。

 

「何の真似だ……ふざけおって!」

 

 白朗は憂助の奇妙な構えを侮辱と受け取り、羽を唸らせて飛びかかる。

 木刀もろともその首を断ち切らんと、左手の大顎を繰り出した。

 憂助は、左足を大きく引き、身を沈めながら木刀を真っ直ぐに振り下ろした。

 幹竹割りにされた白朗の異形の体が、憂助の左右を通り過ぎていき、黒い塵となって消滅した。

 

 久我流念法《吹毛》。

 吹毛とは、毛を吹き付けると吸い込まれるように切り裂いてしまう、凄まじい切れ味の名刀の事を指す。己れの身も心もその利剣となって、相手を迎え撃つ。

 そして動くタイミングは、

 

「体がヒヤリとしたら斬れ」

 

 である。すなわち、斬られて斬る。

 成し遂げるには、死も敗北も恐れず、しかして生や勝利への執着も捨てた、無念無想の境地に至らねばならない。

 

 フゥーッと、憂助は大きく息を吐いた。

 

 

 白朗の生み出した幼虫を掃討し終えた時、

 

「ひいっ!」

 

 不意に声が上がった。千紗希だ。一同が駆け寄ると、千紗希は屋上の片隅を指差す。

 そこには、死体が横たわっていた。

 胴体のほとんどの肉が喰い尽くされているが、狂気の笑みに固まったその顔は、先程まで戦っていた白朗のものであった。

 

「じゃあさっきのアイツは……?」

「魂だ」

 

 コガラシの疑問に、憂助が答えた。

 

「あのおっさん、鬼蜂とかいう妖怪と自分の魂を融合させたんやろの。坊さんの術で足がボロボロに削れとったんもそのせいだ」

 

 憂助は、白朗の死体の前に歩み寄り、膝をついてその顔を覗き込んだ。

 肉が喰い尽くされているのは、肉体を幼虫の餌にでもしたからだろうか、或いは育てた鬼蜂への最後の供物か。

 この男は赤蓮いわく、優れた術者だったという。しかし己れの力量に驕り、それを金儲けに使い始めた。こゆずを利用したマッチポンプで千紗希さえ毒牙に掛けようとした。そして己れの悪行を阻止した憂助への復讐のために、自身の魂さえ人間でないものへと作り替えた……。

 

「こいつの人生は、何やったんかの」

 

 ポツリと呟くと、白朗の顔に手を当てて、まぶたを閉じさせてやった。それだけで不思議と安らいだ笑顔に変わったように見えるのは、ただの錯覚であろうか……。

 

 

 下の階に残っている幼虫の掃討をコガラシたちに任せて、憂助は千紗希と赤蓮を連れて湯煙市へ瞬間移動で戻った。

 赤蓮と別れた後、千紗希を家まで瞬間移動で送り届ける。

 宮崎家の玄関前に着くと、家は暗い。まだ母は帰っていないようだ。

 

「ありがとう久我くん……助けてくれて、本当にありがとう」

「礼には及ばん……つまらん事に巻き込んでしもて、すまんかったの」

「ううん、久我くんのせいじゃないよ……冷たい言い方だけど……全部あの人が自分で選んだ事でしょ? 久我くんが責任を感じる事なんて何一つないんだよ?」

 

 千紗希は憂助の手を握って、優しく語り掛けるが、その手は震えていた。

 その手に、憂助が空いた手を重ねる。

 肉体の中位にある精神を司るチャクラを開放して、念を流し込むと、千紗希は自身の中に暖かなものが流れ込み、恐怖が鎮まっていくのを感じた。

 

「これも、念法?」

「まぁの」

「ありがとう久我くん……なんか、凄く落ち着く……今度お礼するね。何か食べたい物ってある?」

「カレー」

 

 即答されて、千紗希は微笑んだ。やはりこの少年には、奇妙な可愛げを感じる。きっと自分だけだろうが、それで良いとさえ思えた。

 

「うん。それじゃあ今度の日曜にうちにおいでよ。いっぱい作っておくから」

「おう。期待しとうぞ」

 

 答える憂助の口角も、微かに上がっていた。



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