影は銀色 (武太珸瓏)
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前編:閏年のあの日

 

 

 マーちゃんと初めて逢った日のことは、よく覚えている。

 

 マーちゃん、という呼び名は、もちろん本名ではない。

 本名をもとにした愛称でもない。

 

 

 出逢ったとき、あの子は沢山の“ゆでたまご”を持っていた。

 ホントに沢山、ゆでたまご()()を、だ。

 

 それを「さあ、食べて食べて」とばかりに私へ振る舞ってくれて、あの子自身も凄く美味しそうにパクパク食べていた。

 ゆでたまご()()を。

 とっても幸せそうに、うっとりと陶酔しながら食べていた。

 

 その様を見た私が、面白がってあの子を「タマゴちゃん」と呼び始め、それがいつの間にか「マゴちゃん」、「マーちゃん」という風に変わっていったというわけだ。

 

 自分で名付けておいてなんだが、(いささ)か面妖な変遷だったと思う。

 たまごが由来の愛称なら「タマちゃん」とでも呼んだ方がまだ自然だろう。「マーちゃん」では、なんだかキュウリのお漬け物みたいだ。

 だから、けっこう後になってから、試しに「タマちゃん」と呼んでみたこともあった。けれど、

「やめてよ、ネコじゃないんだから」

 と、あえなく本人にボツにされてしまった。

 

 

 実は、私があの子を一目見た瞬間、「ゆきんこ」と呼んだのを覚えている。意識せず、思わず出た呼び名だった。

 その呼称も本人に即座に却下されたのだけれど、私があの日、あの公園に来るまでに、見たり聴いたり嗅いだりしてきたことや、あの子と出逢ったときの状況、本人の第一印象などから、雪の精霊「ゆきんこ」の名は自然に発せられたものだった。

 

 

 私の記憶の中で、いちばん最初の閏年(うるうどし)の二月二十九日。

 幼稚園の卒業と小学校への入学を控えて、小さな胸に大きな不安を抱えていた頃。

 あの日のことは今でも鮮明に思い浮かべられる。

 もうすぐお別れの幼稚園の先生が、

「今日は四年に一度のうるう年だから、二月が二十九日まであるのよ」

 と教えてくれたことと、その時期にしては珍しく雪が積もったこと、そして、帰ってから親と大喧嘩して家を飛び出したことなどと、印象的な出来事が多かったためだろう。

 親との喧嘩の理由は覚えていないが、どうせ些細なことから始まったのだと思う。

 所謂、反抗期だったのだろう。

 

 家から脱走した私は、足下の雪を乱暴に蹴り飛ばしたり、道端に作られていた雪だるまに丸めた雪を投げつけたりしながら、ただひたすら、町をさすらっていた。

 後ろから怒った家族が今にも追いかけて来そうで、とにかく、できるだけ遠くまで逃げたかった。

 

 どのくらい歩き回っていたのかは判らない。

 ふと気がつくと、見知らぬ静かな住宅街の中にある、見知らぬ小さな公園の前にいた。

 今になって考えれば不思議なことなのだけれど、大抵こういう雪の積もった日には、公園は子供たちの恰好の遊び場となり、あの時間帯には、もう既に無邪気な小鬼たちに蹂躙されていそうなものだけれども、その公園の雪は、朝から誰にも足を踏み入れられていなかったのか、まっさらな状態を保っていた。

 そういえば、私がここへ来てから一人の人間にも会っていない。これもやはり、今思えば不可解な話である。

 

 しかし、あのときの私は、そんなことは気にすることもなく、目の前一面に広がる、白いふわふわの絨毯(じゅうたん)が敷き詰められたような幻想的な光景に、ただただ魅入っていた。

 雪の匂い。

 (しん)とした静けさ。

 純白の絨毯。

 ジッと眺めているうちに、目がチカチカしてきた。

 

 雪は、あの頃の私の足首くらいまで積もっていた。地面はもちろん、ベンチやブランコ、ジャングルジムや鉄棒などの遊具の上にも。

 よくこんな細い形の物の上にまでのっかっているものだと、公園の入り口の手すりに積もっている雪に触れると、ひと塊の雪がパサッと落ちて、下の雪に呑みこまれた。

 真っ白な上に真っ白なものが落っこちたものだから、(さなが)ら雪原の白兎のように一目では判りにくかったけれども、よく見ると控えめな凹凸と陰影ができていた。

 まっさらな白だったところへ小さな変化が生まれたことが、子どもの私を何故か少しドキッとさせた。

 

 公園の中に視線を戻すと、目が慣れてきたのか、園内にも、そんな凹凸や陰影があることに気がついた。向こうに見えるのは、おそらく砂場だろう。なんだかモコモコしてて、雲みたい。

 

──あの砂場の方まで行ってみよう。

 唐突に私はそう考えた。

 

 とはいえ、これだけきれいに敷かれた白い絨毯に第一歩を踏みだすのには、少し(はばか)りを感じた。美しく整えられた庭園を(けが)すみたいで。

 

 じゃあ、出来るだけ足跡をつけずに砂場まで辿り着くには、どうすれば良いか──

 

 幼い頭なりに思考した結果、なるべく敷地の隅っこや、地面から離れた高いところを伝って、目的地まで進んでいくことにした。

 今となると、何故そんな考えに至ったのか、自分でもワケが判らない。

 

 

 ともかく私は、ひとまず公園の入り口を離れて、道路上を公園の端にあたる位置まで横に移動した。

 そこには、この公園を囲んでいる、太い針金を組まれた柵があり、それ越しに公園内を見れば、蓋のない側溝が、園内を縁どるようにのびていた。側溝の中には水はないようで、底に雪を少し溜めていた。

 

 私は柵に手を掛けてよじ登り始めた。

 幸い荊棘線(ばらせん)ではなかったので、針金が手に刺さる心配はほとんどなかった。

 むしろ、子どもの小さな手なので、指や

足を掛けやすく、猿みたいにスイスイ登れた。

 割と、こういうことをするのが好きな子どもだったのだ、私って。

 なんだか怪盗かスパイにでもなったような気分で、ちょっとワクワクしていた。

 この瞬間を大人に見られたら、きっと叱られるのだろうな、なんて考えながら。

 

 調子にのって柵のてっぺんまで辿り着いて(ようや)く、若干の恐怖感を覚えた。

 大人にとっては大した高さではなくても、小さい子どもにとっては、まるで鉄塔の頂上のようだった。

 

 それでも、こういうことをするのに慣れていた私は、柵のてっぺんをまたいで公園の内側へ体を入れ、柵を降りていった。

 そして、ある程度の高さまできてから、

 

「えいっ」

 

 側溝に向かって飛び降りた。

 着地の瞬間、ズルッと足が滑りそうになったが、なんとか持ちこたえた。

 危ない危ない。

 

 そのまま側溝を通路代わりにして、しばらく進み、ベンチのあるところまで到着。

 自分の位置から、ベンチと目的地の砂場が一直線に見えた。

 

 私の計画はこうだった。

 まずは目の前のベンチに飛び移り、そこから跳んで砂場へ着陸する、というもの。

 我ながら本当に向こう見ずなガキだった。

 もし今の私がその場にいたら、

「そんな危ないことはやめなさい!」

 と、絶対に止めただろう。

 しかし、そこは無人の公園。

 誰もこの無謀な作戦を止める者はなく──

 

「ほっ」

 

 私は、短い手を精一杯のばして、ベンチの背もたれに両手を掛けると、そこを支点にして跳び箱のようにジャンプし、ベンチの座席の上に着地した。

 危険なアクロバット。

 ただでさえ、失敗したら大怪我の恐れがあったうえに、そのときベンチは雪で滑りやすくなっていたのだから、下手したら大惨事だった。

 

 しかし当時の私は、自分の運動能力に割かし自信を持っていた。幼さゆえの過信、自惚れだった。

 

 その頃、通っていた幼稚園で、仲間内で通称「ヒコーキ」と呼ばれた危険な遊びが流行(はや)っていた。

 鉄棒の上に足を広げて乗り、両足の真ん中で鉄棒をつかんで、ぐるんと回転し、その遠心力で飛ぶという恐ろしい曲芸。

 それが私の得意技だったのだ。

 まだ体が柔らかく身軽だったからできた芸当だろう。

 子どもというものは、時々こうして怖いもの知らずなことをするから怖い。

 

──因みに、(のち)にその幼稚園で「ヒコーキ禁止令」が発布されたのは、また別な話である──

 

 

 閑話休題(それはさておき)

 

 

 私は、ベンチの上に立って深呼吸をした。まるで何かの競技の選手の気分。

 はたして、自分の跳躍力で、このベンチから砂場まで上手く飛び移れるか。

 

 両足に力を込める。

 そして、溜めた力を解放するように、思いっきり跳ぶ──

 

 

 バフン。

 

 ……。

 

 跳びすぎた。

 

 私は、砂場に着地というよりもダイブして、雪にうつ伏せで埋まってしまった。

 

 公園の外から見たときにはフワフワして見えた雪は、砂場なのだから当然、その下に大量の砂を埋蔵していたわけで、私は、期待していたフワリとした肌触りではなく、不快なジャリジャリした感触を全身に受けていた。

 口の中で、雪と氷と、砂と泥の混じった変な味がする。

 

 急に、自分のしたことが恥ずかしく思えてきた。

 空しかった。

 

 せめて、誰にも見られていなくて良かった──

 

 そう思ったときだった。

 

「何してるの?」

 

 どこか呆れたような声とともに、銀色の影が目の前に差してきた。

 

 

 

 

 

《つづく》

 

 

 



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中編:ゆきんこ

 

 

 おバカな遊びで雪と砂に埋もれるという大失態を犯した間抜けな私の横に、誰かが立っている。

 顔を上げると、一人の子どもが、心配そうに私を見下ろしていた。

 歳は、当時の私と同じくらいだろうか。

 随分と色白な子だ。

 頭に毛糸の帽子をかぶり、背中にリュックサックを背負っている。

 

「だいじょうぶ?」

 

 気遣わしげに声をかけてくる。

 こういう場面では、まずは挨拶を返さなければならないことは、幼かった私だって知っていた。

 そうなんだけど、あのときの私は、初めて会う人に、こんな恥ずかしい格好を見られたからか、あるいはその子の、雪から生まれてきたみたいな白い肌の色に魅入ってしまったからなのか、とにかく少々動揺していたみたいで、

 

「ゆきんこ?」

 

 と、思いっきり場違いな返答をしてしまった。

 予想外の言葉を受けて戸惑ったのか、その子は一瞬だけ目をまるくしたが、すぐに顔をほころばせて「ハハハ」と笑った。

 

「なーに、そのユキンコって?」

「あ、ゴメン。だいじょうぶ」

 

 私はなんだか照れくさくなって、目をそらして体を起こそうとすると、その子は手をのばして手伝ってくれた。

 

 起きあがってから自分の埋まっていた跡を見てみると、まるでマンガみたいに、人の形の窪みができていて、それがまるで私の間抜けさを形にして見せつけているようで、あらためて恥ずかしくなる。

 

 地面に、私たち二人の影がさしている。

 日中の真っ白な雪の上にある影だから、少し銀色っぽい、不思議な色の影だった。

 

 その子は、私の服に付いた雪を払ってくれながら、

 

「で、ホントにだいじょうぶ? ケガとかしてない?」

 

 と再び訊いてきた。

 初対面の子に体を触られることに慣れていなかった私は、「いいよ、じぶんでやるから」と、その手 ──色白な見た目と違って暖かい手── をやんわりと制した。

 

「ホントにだいじょうぶ。ありがとう、もういいいから」

「それならいいけど、なにやってたの?」

「ちょっと、ぼうけんしてたんだ」

「ふうん」

 

 その答えに納得したのかしなかったのか、その子は公園内に残された、私の通過した跡を見ていたが、

 

「ゆでたまご、たべる?」

 

 と、唐突に訊いてきた。

 

「え?」

「ゆでたまご。ウチからもってきたんだ。いっしょにたべよ、ね」

 

 その子は私の手をひいて、先ほど私が足場に使ったベンチまで来ると、背中のリュックサックをおろし、中から小型のワイパーみたいな道具を出して、その柄を伸ばして、ベンチの上に積もった雪を払い落とし、用の済んだワイパーを縮めてリュックにしまい、今度はビニールシートを取り出して広げて、ベンチの上に敷き、私の方を向いて、「どうぞ」とでも言うように手のひらで示した。

 それに従って私がベンチに座ると、その子も私の隣に腰かけて、膝の上にリュックを乗せて何かガサガサやっていたが、やがて中から、おにぎりがいっぱい入ってそうな感じに膨らんだ紙袋を発掘して、その紙袋から、アルミホイルに包まれた塊を何個か取り出した。

 私はそれを、「いろんなものが出てくるなあ」「妙に用意がいいな」などと変なことに感心しながら眺めていた。

 

「はい」

 

 私にアルミホイルの包みが二つ手渡された。

 

「たべなよ。もうさめちゃってるかもしれないけどね」

「なんで、ゆでたまごなの?」

「たまご、ダメ?」

「ううん、そんなことないよ。じゃあ、いただきます」

 

 アルミの包みを一つ開くと白いゆでたまごが入っていた。

 すこしかじってみる。

 うん、おいしい。

 冷めてるかも知れないと言われたが、まだほんのり暖かい。

 

「なんで“ユキンコ”なの?」

 

 自分の分のゆでたまごの包みを開きながら、その子はまた唐突に訊いてきた。

 いつも唐突な子だな。

 

「え?」

 

 私の返事も、先ほどの繰り返しみたいな間の抜けたものになる。

 

「さっきあったときに、そういってたでしょ?」

「ああ…」

 

 忘れていた。

 そういえば私は、会って早々この子を「ゆきんこ」と呼んだのだった。

 私は「ゆきんこ」について説明することにした。

 とはいっても、詳しいことはよく知らない。

 今日みたいに雪が降った日に道端で遊んでいたら、近所のお婆ちゃんに「おやまあ、まるで“ゆきんこ”だわい」と言われて、親や幼稚園の先生から「雪ん子」という雪の精霊みたいなものだということを教えてもらったくらいである。

 

「ふうん、ユキンコねえ…」

「イヤ?」

「ちょっと」

「そう…」

 

 どうやら“ゆきんこ”という愛称は、この子のお気に召さなかったようだ。

 なんか気まずい雰囲気で、しばらく二人で黙ってゆでたまごを食べる。

 

「たまご、もっとたべる?」

 

 沈黙を破って、隣の子が訊いてきた。

気づけば、その子はもう三つ目の包みを開いている。私はまだ一つ目を食べているというのに。

 塩もつけず、飲み物もなしで、よくそのペースを保てるものだ。

 

「おいしいんだけどもね…」

「ん?」

「たまごだけ?」

「うん」

 

 当然のように応え、至福の表情でゆでたまごを頬張る、たまごちゃん。

 そうだ、この子のことを「タマゴちゃん」と呼ぼう。

 

 

 結局、私はゆでたまごを何とか二つ、タマゴちゃんは少なくとも五つは食べて満足してから、二人で夕方まで遊んだ。

 

 タマゴちゃんは、その変な愛称にも「えー」って反応をしていたけど、私が何度か呼ぶうちに慣れてきたみたいで、そのうち「マーちゃん」で定着した。

 

 因みに私は、いつの間にか「ショーナン」と呼ばれていた。ゆでたまごを食べていたときに、口がパサパサして塩が欲しくなって、やたらと「しおないの?」と訊いていたかららしい。

 

 

 私たちは遊んだ。

 雪に絵を描いたり、雪だるまをつくったり、二人だけの雪合戦をしたり。

 夢中で遊んだ。

 

 

 市内に午後五時を知らせる音楽がスピーカーから流れ始めた。ドヴォルザークの交響曲第九番第二楽章 ──私にとっては当時も今も「遠き山に日は落ちて」── を聴いた途端、ようやく我に返った。

 

 まずい。

 

「あ、もうこんなじかん。かえんなきゃ」

 

 そう言って雪だるまへの飾りつけの手を止めたマーちゃんは、私の顔を見て少し驚いたようだった。

 

「どうしたの、そんなカオして?」

「みちがわからない」

「ん?」

「ウチへのかえりみち、わからない」

「へ?」

 

 マーちゃんの目がまん丸になる。

 私は、ここまで辿り着いた経緯をマーちゃんに話した。

 

「わ、そりゃ、こまったね」

「マーちゃんちは、このへんなの?」

「うん。ショーナンは?」

「ウチ、けっこうとおくからきたんだ」

「そうなんだ…」

 

 マーちゃんは、しばらく何か考えていたみたいだったが、顔を上げ、

 

「そうだ、デンワして、むかえにきてもらいなよ」

「でんわ?」

「ちょっとまってて」

 

 マーちゃんは、自分のリュックから小銭入れを取り出し、中から十円玉を二枚つまんで渡してくれた。

 

「ほら、これあげるから、そこのデンワからかけなよ」

 

 マーちゃんは、公園内に設置されていた公衆電話ボックスを指し示した。

 その頃、私は携帯電話を持っていなかったのだ。

 

 マーちゃんと一緒に電話ボックスに入る。

 小さかったから、二人でも余裕な空間。

 私は恐る恐る、家へ電話した。

 案の定、凄く叱られた。

 場所を訊かれて困っていたら、横からマーちゃんが公園の名前を教えてくれた。

 親は、すぐに迎えに来ると言ってくれた。

 

 電話ボックスを出てから、マーちゃんはちょっと悪戯っぽい顔で訊いてきた。

 

「おこられた?」

「うん、すっごく」

「かえりたくない?」

 

 私は、ちょっと迷ってから首を振った。

それを見て、マーちゃんはニカッと笑った。

 

 

 マーちゃんは、親が来るまで一緒に待っていてくれると言ったけど、私がそれを断った。

 

「いいよ、マーちゃんも、はやくかえらないとマズいでしょ?」

 

 マーちゃんは、それなら一度家に帰って、親と一緒に戻ってくるとまで言ってくれたが、それも断った。

 

 当然、こんな時間に幼い子供ひとりが公園にいるなんて、この物騒な世の中では危ないことだと、今の私は思う。

 当時だって、ひとりぼっちで待つことは、とても心細かった。

 闇への恐怖心は、子どもの頃の方が圧倒的に強い。

 

 だけれども、マーちゃんの家族にも悪いし、それに、自分の家族を見られるのが恥ずかしい気持ちが、私にそうさせた。

 もしかしたら、ほかに別な思いもあったかも知れない。

 

 

「じゃあ、かえるね」

「うん、ゆでたまご、ありがとうね。あと、でんわのことも」

「いいよいいよ、たのしかったから」

「ほんと、たのしかったね」

「また、いっしょにあそぼうよ」

「うん、またあそぼ」

 

 手を振ったマーちゃんが、こちらに背中を向けて歩いていく。

 私は、それをずっと見送っていた。

角を曲がるところで、マーちゃんは振り返って、また手を振って、やがてその姿は見えなくなった。

 

 それとほぼ同時に、背後で車の停まる音がしたので私はビクッとなった。

 

 子どもが車で誘拐されるのは、あの頃の私でも、テレビのニュースやドラマで見たことがある。

 

 逃げようと思って、半ば駆け出すような体勢になったところで、聴き慣れたクラクションの音がした。

 振り返ると、我が家のボロ自動車が目の前で停まっていた。

 

 小さかったあの頃の私にとっては、随分と歩いてこの公園まで来たつもりだったのだけれども、実際には、家から車で五分程度しか懸からない距離だったのだ。

 

 そして、幼い私が小冒険して見つけたこの公園も、小学生になってからは、お馴染みの場所となる。

 成長するにつれて、この町も小さくなり、家とこの公園との距離は、どんどん近くなっていった。

 

 マーちゃんとは、すぐに会えるかと思って、この公園へもたまに来ていたのだけど、その後の数年間、会うことはなかった。

 

 距離的には家が近くても、学区外だったのだ。

 それでも、近所なのに会えないのは不思議だった。

 

 私がマーちゃんと再会するのは、更に数年後の春。

 二月二十九日のことである──。

 

 

 

 

 

《つづく》

 

 

 



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後編:影は銀色

 

 

 ああ、ツイてない…。

 

 道中、何度もため息をつきながら、その日の私は、学校からの帰り道にある川の堤防の上を、タイヤのパンクした自転車を曳きながら、トボトボ歩いていた。

 

 あと幾日も残さず今の高校を卒業し、来年度から地元を離れて、新しく通う大学で寮に入ることが決まっていた私は、これからの新生活への不安を抱えていた。

 

 通えないこともない距離にある大学だったけれど、一度あの家を出てみたかった私は、入寮を希望した。

 

 合格が決まったときは嬉しかった。長く苦しい受験勉強から脱出できたことを、素直に喜んだものだった。

 

 しかし、生まれて初めて実家を出て、地元を離れる日が近づいてくるにつれて、次第に心細くなってきた。

 

 新しい環境に馴染めるだろうか?

 友達は出来るだろうか?

 寮の仲間とはうまくやっていけるだろうか?

 

…などといった心配ごとが生じ、それが胸の中で日毎(ひごと)に膨らんで増殖していき、心の落ち着かない日々を送っていた。

 眠れない夜も多かった。

 

 

 その日は閏年の二月二十九日だった。

 例年より一日だけ多いことで、少しは猶予が与えられたような気がした日だった。

 

 そんなところへ、この自転車のタイヤのパンクだ。

 もうすぐ家に着くというところでだ。

 

 自転車ではもうすぐの距離でも、徒歩ではけっこうな道のりになる。

 

 心做(こころな)しか、曳いている自転車が少し重くなったような気がしてきた。

 

 ハア……。

 

 俯きながら何度目だか判らないため息をついて、顔を上げたときだ。

 

 向こうから自転車が走ってくる。

 私は、徐々に近づいてくる自転車に乗った人物を見ているうちに、何か不思議な感覚になってきた。

 あまり人をジロジロ見ては失礼だし、変な人だと思われるかも知れない。

 しかし、その色白な顔を見ていると、胸の奥底から、何かがこみ上げてきた。

 何か、とても懐かしいものが。

 

 自転車の乗り手は、怪訝そうに私を見ながらすれ違う。

 その姿を追って私が振り返るのと、自転車のブレーキ音がするのとは、ほぼ同時だった。

 

 見ると、その自転車の乗り手も、こちらの顔をまじまじと注視している。

 

「あの……」

「えっと……」

 

 二人の声が重なる。

 

「あ、先にどうぞ」

「いや、そちらこそ」

 

 なんだか道の譲り合いみたいになっている。

 お互いに、記憶の深い所を探っているのか。

 

「じゃあ…」

 

 相手は姿勢を正して訊いてきた。

 

「ウチらって、どこかで会ったことない?」

「やっぱり、そう思う?」

 

 私の反応を見て、相手の目がまん丸に見開かれた。

その目を見て、私の中でぼんやりと揺らいでいた面影が、一気に鮮明になって蘇った。

 

「マーちゃん!?」

「ショーナン!」

 

 私たちは駆け寄って、お互いの肩を叩き合った。

 

 

 

 

 

「そうか、ショーナン、この町を出て行くんだ……」

 

 あの懐かしい公園のベンチに腰かけて、私たちはお互いの近況を語り合った。

 マーちゃん持参のゆでたまごを食べながら。

 この人、まだたまごを持ち歩いてたんだ。

 

 公園の遊具は、ペンキが塗り替えられていたり、補修されていたり、撤去されているものもあって、若干、様子が変わって見えた。

 あのときお世話になった電話ボックスも消えていた。

 

 一番思ったのは、みんな小さくなってしまったこと。

 もちろん、私たちが大きくなったのであって、公園が小さくなったわけではない。

そうだとしても、あのとき、おっかなびっくりで登った柵が、自分の背丈程もない、可愛らしいものに見えるようになったことは感慨深かった。

 

「出て行くっていっても、そんなに遠い所じゃないんだけどね」

「なら、会おうとすればいつでも会えるわけだね」

「うん。今度こそ、お互いの連絡先を知っておこうよ。前に会ったときには、そんな暇なかったものね」

 

 マーちゃんと連絡先を交換しあってから、私はしみじみとした心持ちで呟いた。

 

「こうしてみると、マーちゃんも生身の人間なんだな、って思うよ」

「ハア? 何それ、どういうこと?」

「いや、だってね、マーちゃんと会ったのは、閏年に雪が降った日だけで、それっきりだったから、子どもの頃は、マーちゃんは閏年の雪の日にしか現れない精霊だったのかな、なんて思ったこともあったんだ」

「そういえば、最初に会ったとき“雪ん子”がどうの、とか言ってたね」

「覚えてるの?」

「忘れっこないよ」

「う~…」

「ふふふ…」

 

 私の反応をからかって楽しそうに笑っているマーちゃん。思っていたよりも元気そうだ。

 そんなマーちゃんを見て、私は思い切って訊ねてみた。

 

「ねえ、身体の方は大丈夫なの?」

 

 前に会ったとき ──私の覚えている二度目の閏年で、最初と同じく雪の積もった二月二十九日── に、マーちゃんは私に、自分の体について話してくれた。

 

 マーちゃんは生まれつき体が弱く、あまり家の外に出ることもなかった。

 学校にも、ほとんど行けなかったらしい。

 家族が滋養強壮の為に“ゆでたまご”を作ってくれ、それがマーちゃんの好物になった。

 天気の穏やかな日にしか外へ出させてもらえなかったが、それでも、季節はずれの雪が降ったりした日なんかは、子供らしく外で遊びたくてしょうがなくなる。

 そこで、家族に特別に許可を貰って、たまに近所の公園への外出を許してもらっていた。

 好物のゆでたまごを持たされながら。

 そんな日に、私はたまたま、マーちゃんと出会えたのだ。

 

「大丈夫じゃなさそうに見える?」

 

 マーちゃんの言葉に、私は首を振った。

 相変わらず色白だけど、病弱そうには見えない。

 マーちゃんは、私にはお馴染みのニカッとした笑顔を見せた。

 

「良い先生がついてくれてね、長い間ゆっくりとリハビリしてきて、もうすっかり元気だよ。今では、普通に生活したり、ちょっとしたスポーツくらいなら全然やってもOKだってさ」

「そうなんだ!」

 

 私は本心から祝福した。

 マーちゃんは誇らしそうに、そして少し照れくさそうに笑った。

 

「それにしても…」

 

 私はしみじみとした気持ちで言った。

 

「…なんだかこの二人っての関係って奇妙だよね。小さい頃に少しだけ、それもかなり時間をおいて会ったっきりなのに、こうして普通にしゃべっているんだもの」

「そういえばそうだね」

「マーちゃんと初めて逢った日は特別な日だったから、春になる度に浮かぶ思い出になっていたけど、マーちゃんは、よくこんな、特徴のない地味なヤツを覚えていてくれたね」

「それって、人のことを遠まわしに変わったヤツだって言ってる?」

「え? あ、いやその…」

「ハハ、まあいいよ。そうだね、こっちにとっても、ショーナンは特別な友達だから忘れられなかった、ってとこかな」

「そ、そうなの?」

「うん、たまたま外に出たらできた、知らない学区の友達だったからね」

「そっか」

 

 

 初めてマーちゃんと会った日から、私はあの公園の一帯へは何度か探索に行っていた。もう一度マーちゃんに会えることを期待して。

 しかし、そのまま会えずに数年が経過し、マーちゃんと再会できたのは次の閏年の二月二十九日、雪の日だった。

 

 あの日と同じような状況に期待して、私は例の公園へ向かった。

 公園の近くまで来ると、一人分の足跡だけが園内へ向かっているのを見つけた。

 

 小さい頃に聴いた童謡のように、足跡を辿れば求める人に会えたりして?──と、その足跡に自分の足を重ねながら歩んでいってみれば、なんと本当に、その先であのマーちゃんと再会できたのだ。

 凄く嬉しかった!

 

 その頃には私たちも、前と比べて少しは複雑な話をできるようになっていて、マーちゃんから、体が弱くて、あまり外に出られないことも教えてもらった。

 

 あのとき、マーちゃんの家を教えてもらっておけば良かったのだが、訊きそびれてしまった。

 後になってから、随分と後悔したものだ。

 

 その次の閏年、つまり前回の二月二十九日には、雪が降らなかった。

 そして、マーちゃんとも会えなかった。

 私の中で、マーちゃんが“閏年の雪の積もった二月二十九日にしか現れない精霊”になった所以(ゆえん)である。

 時がたち、私の心も変化していくにしたがって、あのときのことは、次第に現実感が薄れてきて、子どもしか見えない存在、あるいは幼い頃の夢のような気がしてきていた。

 

 でも、今はこうしてマーちゃんと会って話している。

 雪のない二月二十九日に。

 

 

「──それに、ショーナンと逢ったときのインパクトだって強烈だったしね」

「ちょっと! それはお互い様!」

 

 あ、やっぱりこの人は現実の人間だ。

 ちょっとノスタルジックな想いの中に浸っていたら、マーちゃんが私の恥ずかしい思い出を呼び起こしてきた。

 あの、砂場に刻印された人型の窪みは、幼い私に“自業自得”というものを最初期に教えてくれたものだった。

 しかし、マーちゃんのゆでたまごを食べる姿のインパクトだって負けてはいないと思う、というか思いたい。

 

 

 そんな調子で、私たち二人は長い間おしゃべりに耽っていた。

 たわいない話から、真面目な話まで。

 夢中になって話し続けた。

 これまた不思議なもので、会った回数は少ないのに、それはとても居心地の良い時間だった。

 

 マーちゃんに好きな人がいることを知ったときは、何ともいえない妙な気持ちになったものだ。

 やっぱりマーちゃんは精霊とかではなくて、普通の人間なのだと示されたような気がして。

 いい歳して、何考えてたんだろ、私は。

 

 

 市内に、ドヴォルザークが鳴り始めた。

 

「おっと、もうこんな時間か」

「早かったね」

「お互い、だんだんと、時間はたっぷりとは言えなくなってきているからね」

「うん、そうだね……」

「ねえ、ショーナン。どうして、家を出たいと思うの? どうして、この町を出たいと思うの?」

「え? うーん……」

 

 私はしばらく考えてみたが、

 

「わからない」

 

 そんな返事しかできなかった。

 

「ふうん……」

 

 マーちゃんは、そんな私の答えに納得したのか、しなかったのか、私には判らなかったが、それ以上は追求してこなかった。

 

「じゃ、今日はこの辺で」

 

 マーちゃんはおどけて敬礼のポーズをとりながらそう言い、ニカッと破顔した。

 私も笑いながら、答礼する。

 

「あっ、そうだ」

 

私はふと思いつき、鞄に入れていた財布から十円玉を二枚取り出して、マーちゃんに差し出した。

 

「なに、これ?」

 

マーちゃんが目をパチクリさせる。

 

「最初に会ったときに貸してくれた電話代だよ。前に会ったときに返しそびれちゃってね、ずっと気にしてたんだ。あれ、かなり助かったんだから」

「ええ? いいよ、そんなの。あれはあげたんだもの」

「いいから受け取って。こっちはこれで、長年モヤモヤしていたことがスッキリするんだから」

「そう? なら、有り難く頂くよ」

「うん、こちらこそ、ありがとう。ねえ、マーちゃん、今度こそ、また近いうちに会おうよ」

「そうだね、せめて次の閏年の前にはね」

 

 マーちゃんは、そう言うと「ハハハ」と笑った。

 

 手を振って家路を辿るマーちゃんの後ろ姿を、私はずっと見送っていた。

その足下には、黒い影が伸びている。

 

 マーちゃんは、角を曲がるとき、いつぞやのように振り返って、再び手を振り、視界から消えた。

 

 私はしばらく、マーちゃんの消えた角を眺めていたが、やがて、自分の足元の影に目を落とした。

 

 何かの錯覚だろうか。

 街灯に照らされてできた私の影は、一瞬だけ銀色に見えた。

 

 

 

 

 

《影は銀色:おわり》

 

 

 



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