Symbiotic girl 共生少女 (月見里歩)
しおりを挟む

序章
前兆


 頬に一滴の雨粒がぶつかった。

 黒いフードをかぶった男が厚い雲を、いまいまし気に見上げた。

 その足のすぐ下では、自らの影に触れられるのでは無いかと錯覚する距離で、生い茂る木々が後ろへと流れ過ぎていく。

 

 手足に蝙蝠の様な皮膜を持った四枚羽の大蜥蜴が、背負った鞍に跨った主人の方を見た。

 目が合うと、フードの男は共に飛ぶ仲間達に目を配った。

 文句ひとつ言わないが、旅の足となっている三頭の大蜥蜴達も含めて、明らかに休息を必要としている。

 なにしろ、休みなく18時間も飛んでいるのだから当然である。

 このような強行スケジュールで旅をしているのには、それなりの理由があるのだが、誰か一人に倒れられても困る。

 

「一時の方角、洞穴が見えるな。そこで休息をとる! 全員周囲の警戒は怠るな!」

 

「了解!」

 

 フードの男の指示に仲間達が答える。

 すると、大蜥蜴の一頭が首の後ろにある飾り鱗を震わせて、カッカッカッと音を出した。

 全員がすぐに森の中に降りると、木の影から空の様子をうかがった。

 その音は、この大蜥蜴が敵を察知した時に出す警戒音である。

 その上、この大蜥蜴は個体の中でも特に臆病で、馴らすのに苦労した一頭であった。

 その甲斐もあり、その索敵能力の敏感さは、他の個体と比べても群を抜いていた。

 今回の様な隠密任務には、特に向いた一頭である。

 

 だから、森は沈黙に包まれ、一向に何も起きなくても、誰も警戒を緩める事は無かった。

 

 何かがおかしい。

 そこは、国境からは離れているし、道も無ければ、航路も通っていない。

 ブランクゾーンと呼ばれる危険地帯であり、だからこそ人目を避けて遠回りをしてまで選んだのだ。

 だとすれば、危険な野生動物が近くにいる事も考えられるが、空を高速で飛ぶ大蜥蜴を脅かす野生動物など、この地方では確認されていない。

 それでも、だからこそ、足止めされていると分かっていても、誰も声を出さず、ジッと周囲の警戒を続けるしかなかった。

 

 やがて、雨が降り始めた。

 

 

 ゴウン……ゴウン……

 

 

 雨音に紛れて、何かの駆動音が曇天から響いてきた。

 よく知る音だ。

 

「この音は、戦艦?」

 

 仲間の女が呟いた。

 女の言う通り、直上の雲をかき分けて、巨大な船底が、徐々にその姿を現した。

 

「あの紋章は……アナトリアの!?」

 

 直径三百メートルの大きさを誇る空中戦艦が一隻、雲の下に潜って来た。

 通常航行高度は上空八百メートル以上の筈なので、かなりの低空飛行だが、その下には旅の一団が隠れる森があるだけで、着陸する場所などは存在していない。

 

「どうしてこんな所に、あんなものが」

 

「まさか、俺達を探して!?」

 

 仲間達が動揺を口にすると、フードの男が冷静に遮った。

 

「落ち着け、まだ見つかったと決まった訳じゃない。急いでここを離れるぞ」

 

 フードの男の言う通り、空中戦艦からの、この一団に対する動きは、まだ見られない。

 仮に、目的が雲の下での人探しの類なら、哨戒艇が既に出ていてもおかしくは無かった。

 仲間達が頷くと、さっき危険を知らせた臆病な大蜥蜴が、再び鱗を鳴らし始めた。

 

「おい、静かにしろ、今はまずい、落ち着け!」

 

 興奮した大蜥蜴のパートナーである青年が、どうにか臆病者を落ち着けようと必死に首の下を撫でるが、まるで言う事を聞く素振りを見せない。

 それを見て、目の前の危機以上の危機が迫っている事に他ならない事を、三人は瞬時に理解した。

 

「急げ、すぐにここを離れるぞ!」

 

 三頭の大蜥蜴とその主人達は、頭上の空中戦艦から隠れながら、どうにかその場を離れようと森の中を疾走し始めた。

 翼の被膜を畳んだ状態で、大蜥蜴達は森の木々を避け走る。

 走り出すと他の大蜥蜴達も、遅れて危険に気付いたらしく警戒音を鳴らし始め、気が付けば森全体の生き物と言う生き物が、それぞれの警戒音を鳴らしていた。

 こんな事は初めてだったし、もちろん予定にもない。

 仲間達は不安そうに周囲の森の異常事態に息を飲むが、フードの男は大蜥蜴の背中から雲の中を見上げた。

 

 突然、森中から音が消えた。

 

 

「何か来る」

 

 

 フードの男が呟くと、雲に大穴を開けて現れた何かが、空中戦艦の上部装甲に衝突した。

 例え戦艦同士で衝突しても、こんな事にはならないであろう衝突の衝撃によって、空中戦艦は下方に大きく沈み込み、周囲には巨大な船体の破片が散乱していった。

 地上は、残骸の雨が隕石の様に降り注ぎ、世界の終末にでも遭遇したかのようであった。

 

「早く逃げろ! 進め! とにかく進むんだ!」

 

 瓦礫の雨をかいくぐり、なんとか空中戦艦の真下から脱出を試みるが、様々な大きさの瓦礫が周囲に降り注いでいるので絶対に安全と言える場所は、この森の中には、もはや存在し無い。

 瓦礫が地面に衝突すると、その衝撃で木々が吹き飛ばされ、その木によって別の木がなぎ倒されと、破壊のドミノ倒しがそこら中で起こり、気にするべきは頭上だけでは足りなくなっていた。

 

 何かに衝突された空中戦艦は、高度を下げたものの、まだ浮力を維持していた。

 衝突部位は、大きく変形して、内部の構造が剥き出しに見える。

 空中戦艦の上方の雲には大穴が開き、強烈な日の光がスポットライトの様に直下を照らし出している。

 まるで、どこにも逃げ場は無いと知らしめるように。

 

「あいつは!」

 

 大蜥蜴の背中に乗って、森を疾走しながら青年が振り向き空を見上げた。

そこには、全身から黒い靄を放つ巨体が見えた。

 空中戦艦の上部装甲に体当たりしたそいつは、30メートルクラスの巨大な竜だった。

 

 空中戦艦は、まだ動く全砲門を竜に向けると、一斉射撃で迎え撃った。

 上空は完全な戦闘状態となり、地上は、悪戯にとばっちりを受けて地獄と化していく。

 空中戦艦が放つ高速の砲弾も、竜燐に弾かれて地上へと跳弾するだけで、効果があるようには見えない。

 

「うおおお!」

「自分に弾が当たらない事を各自祈れえええ!」

「死ぬ、死ぬううう!」

「なんで、あいつが!」

「ちがう! あの戦艦が、あいつから逃げて来たんだ! とんでもないのと遭遇しちまった!」

 

 それぞれが仲間に声を掛け合いながら、瓦礫と弾丸の雨を避けて燃える森を走り抜けていく。

 

「見えてきた! 飛び込め!」

 

 休憩しようと目指していた洞穴が、あと少しの所まで迫った。

 その時、まるでそうはさせるかと言わんばかりのタイミングで、空中戦艦の砲塔を竜が食いちぎり、放り投げた。

 砲塔は、こうを描いて逃げ惑う大蜥蜴達の上に降り注いだ。

 

 その時、全員が、死を覚悟した。

 しかし、砲塔は直撃しなかった。

 竜が空中戦艦が放った小型艇に対して行った、全方位に向けた炎撃。

 その一撃を喰らい、砲塔は落下前に完全に熔解してしまった。

 溶けた砲塔の雨が触れるすべてを焼きながら地上に降り注いでいく中、なんとか全員が洞穴に雪崩れ込んだ。

 

「まさか、助けられた、のか?」

 

 もう大丈夫と、フードの男が洞穴の中から竜を見ると、竜が深く息を吸い込んでいるのが見えた。

 

「違ったらしい! 伏せろ!」

 

 竜が発する一筋の熱線によって射線上の森と山ごと、空中戦艦が真っ二つに切断されてしまった。

 断面は抵抗なく熔解し、熱線に切断された川や湖からは水蒸気爆発が立ち上った。

 そんな攻撃を喰らっては空中戦艦と言えども、ひとたまりも無い。

 船体のバランスを失った空中戦艦は墜落を始め、その乗組員が外に投げ出されて、瓦礫となり果てた船体と一緒に地面に落下していく。

 

「無事か」

 

 フードの男が仲間の安否確認に身体を起こし、洞穴の外を警戒して見ると、戦艦の瓦礫が轟音をあげて森の木々を破砕しながら地面にぶつかった。

 数百メートルは距離が離れているが、逃げ込んだ洞穴にまで揺れが響いた。

 すると、墜落に遅れて戦艦の動力炉が臨界に達したのか、眩い閃光が周囲を照らし……

 

「悪い、まだだった」

 

 フードの男が仲間達の上に覆いかぶさった。

 男を庇おうと、相棒の大蜥蜴が男と閃光の間に自ら割って入り、腕の被膜を広げて覆いかぶさると、遅れて墜落現場から爆音が響き、その後に激しい衝撃波が森を通り過ぎた。

 

 竜は、目的を果たしたのか、空中戦艦が爆散したのを見届けると、雲の上へと穴を通って帰っていった。

 その時、フードの男は、竜と目があった気がした。

 

 森の炎は、雨で鎮火が始まっているが、雲に大穴が開いている空中戦艦の残骸だけは、消火の範囲外で激しく燃え続けていた。

 乗組員も、生存は絶望的だろう。

 

 そこにいた全員が、大きな流れの中に、知らぬ間に身を置いていた事に気付き始めていたが、それを口に出す者はいなかった。

 本来飛ばない航路を飛ぶ空中戦艦、それを襲った「災厄」と呼ばれる悪名高い竜の出現。

 それが、この広い世界でとある場所を目指している自分達の目の前で起きた。

 まるで、同じ場所を探している様に。

 

 何かが起こっている事に間違いはなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1章
ハローワールド


  2040年。

 人工知能の急成長、火星移民計画、軌道エレベータ建設、ダイソンスフィア計画の始動と、人類は自らの予想を上回る速さでの進歩を遂げていた。

 

 バイオナノマシンの一般化は、電話とパソコンの境界を曖昧にしたように、人とデバイスの境界を曖昧にした。

 しかし、それは文明の話である。

 

 どんなに科学が発展しても、人間の悩みはいつの時代も大きく変わる物ではない。

 ホモサピエンスが地球上に誕生してから今まで、ただの一度も愛に悩まぬ人類は地上からいなくならなかったし、この先も消える事は無いだろう。

 

 

 

「あんた……まさか、また下に水着、着てきたの? 雑って言うか、ズボラって言うか……ははぁ、昔みたいに下着忘れたりして無いでしょうね?」

 

 親友の葵は、軽い冗談で言ったつもりだった。

 

「そんな小学生じゃあるまいし」

 

 美咲は、そう言いつつも不安にかられて「はっはっは、まっさかぁ」と言いながらロッカーに入れた自分のスポーツバッグの中を探った。

 すると、小さい声で「あれ……」と言った。

 先ほどまで明るかった顔色は、途端に曇っていく。

 その顔には“うそでしょ”と書いてあった。

 

「どうかした?」

 

 制服のリボンを外しながら“まさか”を聞いた当の葵が、浮かない顔をしている美咲を見た。

 

「……パンツ忘れた……」

 

 

 

 水着を家から着て来て自宅に下着を忘れるなんて失敗も、簡単には無くならなかったようだ。

 これから中学生水泳全国大会の大事な予選を控えているのに、美咲は思わぬ事態に困惑したのだった。

 

 

 

 本当に下着を忘れてきた美咲に、着替えの途中で下着になったまま葵が大爆笑した。

 笑い声に、女子更衣室内の視線が葵に注がれるが、そんな事は気にしない。

 

「あはははははは、おかしい。本当に小学生かあんた。その歳で家から水着着て来て、パンツ忘れるって!」

 

 周囲の同情の視線が美咲に「あの子パンツ忘れたんだ……」と突き刺さった。

 

「返す言葉もないです……」

 

 美咲は、頬を染めて恥ずかしそうに、少しシュンとした。

 家で忘れ物チェックをしようとしたら、兄からメッセージがあって返信に気を取られているうちに忘れ物チェック自体を忘れた事を思い出し「お兄ちゃんめ、ぐぬぬ」と恨めしく思う。

 

 それから、本日の予定を思い出して気が滅入った。

 仮に、直帰なら濡れた水着を下に着ていようが、ノーパンだろうが、ギリギリ、本当にギリギリだが、イケそうだと考えていた。

 

 だが、今日は都合が悪かった。

 本日の中学生水泳大会の予選を含め、試合ぐらいでしか実際に会わない他校の友達と、終わったらお疲れ様会をする事になっていたのだ。

 集合は予選会場のロビーで、会場になるお洒落なカフェまで直行である。

 既に参加費を幹事に払っている上に、仲の良い友達の何人かは、昨日渡せなかったと美咲に誕生日プレゼントを用意していそうなので、美咲は是が非でも参加したかった。

 

 濡れた水着やノーパンで過ごす充実した午後と言うのは、想像するだけでスース―してくる。

 目の前で爆笑している日に焼けた茶髪の少女は、みんなには言わないが、スカートめくりをチョイチョイ仕掛けてくる。

 そういうキャラなのは、長年の友達付き合いから分かっていた。

 美咲は、かなりの精度で到来する未来をシミュレーションし、どうにか回避せねばと思った。

 

 それから、短い黒髪を指で弄り、モジモジしながら葵に対して安易なお願いを持ちかけようとした。

 

「……ねえ、葵ちゃん。パンツ」

「貸さないわよ。気持ち悪い」

 

 まだ言いきってもいないのに、即却下された。

 葵は帰り用の綺麗な下着を用意しているので、そっちを借りればと思ったのに、早速当てが外れた。

流石に安易すぎた。

 だが美咲も、ここで引き下がる訳にはいかなかった。

 

「昨日、私ね、誕生日だったんだ。葵ちゃん……」

 

 美咲は、ウルウルと上目遣いをしてみた。

 相手が男なら、騙されずとも、しょうがない奴だと甘やかす所だが、葵には通じない。

 

「……普通に覚えてるけど。聞くがあんたは、それで良いのか? せっかく親友がプレゼント用意してきたっていうのに」

 

 葵は、ジトッとした視線を美咲に送ると、ロッカーに入れていたカバンを出して、中を開いて見せた。

 そこには、可愛いリボン付の包み紙が見えた。

 

「ううっ」

 

 まっ、眩しい!? 美咲は親友の回復魔法で大ダメージを喰らった。

 そんな気分になった。

 アンデッドか私は、と思った。

 

「……そうだ。じゃあ、サキッチが全国に行けたら、買ってあげる」

 

 自身の卑しさで心に傷を負った美咲に対して、葵は何かを思いついたのか、譲歩の姿勢を見せた。

 

「パンツのハードル、高くない!?」

 

 美咲は抗議した。

 もちろん、そんな立場じゃない事は分かっている。

 

「じゃあ、午後はノーパンで頑張るのね。せっかく昨日iDも導入した事だし、パンツの画像でも貼れば風が吹いても大丈夫だしね」

 

 iDとは、iDEVICEの略で、一般的なナノマシンタイプのデバイスの事だ。

 体内に常駐させて使う、高性能なスマートフォンを想像してもらいたい。

 葵の言葉に、美咲は思わず想像してしまった。

 iDの皮膚モニター機能を使えば、自分の皮膚に画像を映し出せるのだ。

 たしかにボディペイントに見えない事も無いが、絶対にやりたくない。

 

「それじゃ変態だよ!」

「あんたなら平気よ」

「何を根拠に!? ううっ、わかった。わかりました。全国に行きますよ!」

 

 言ってから美咲は、ダメだったら母親に買って来てもらおうと思った。

 いや、今、メッセージをたったの一本送れば解決するのでは?

 美咲がそんな事を考えていると、葵は美咲の表情を見て、まるで心を読んだのでは無いかと言うタイミングで美咲の脇をくすぐり始めた。

 

「約束したからね」

「はははははははっ、や、やめて、お願いだから!」

 

 おっと、墓穴を掘ったぞと、美咲は気付いた。

 全国に行けなかったらノーパンで半日過ごすみたいな、おかしな流れに誘導され始めている。

 葵は、くすぐる手を止めずに、ニンマリと人の悪い顔をしていた。

 昨日iDを導入したばかりの美咲は、誤作動防止機能の自動ロックをオフにしていないので、視界に浮かぶ画面が固定されてしまう。

 葵が確信犯なのは、間違いなかった。

 

「やめて、やめて、ください……」

 思わず「ください、だろ?」と言われる気がして自分で付けてしまった。

 

「しょうがない……」

 

 葵がくすぐるのを止めると、美咲は早速、iDでメッセージを送ろうと視界に出ているウィンドウに意識を集中し始めた。

 慣れれば簡単に操作できるのだが、意識を集中させてiDに命令するのにはコツがいる。

 今の美咲は、自転車で例えれば、地面を蹴りながら進んでいる様な状態なので、一々操作がぎこちない。

 すると、そんな美咲を見ながら、葵が言った。

 

「サキッチ、あんたまさか、自信無いの?」

「なっ!?」

 

 美咲は、あと一歩で母親に「パンツ忘れた、届けて」と言う情けないメッセージを送信出来たのに、送信ボタンを押す寸前で意識の集中を止めてしまった。

 葵は、美咲の負けず嫌いな性格を的確に突いて来た。

 美咲のiDに搭載されているサポートコンシェルジュAIであるメイド少女のロッテは、情けない文面の手紙をどうすればいいのか、美咲の命令を視界の端で待っている。

 

「全国、行くつもりでしょ? 今年は優勝するんでしょ?」

 

 更衣室は、気が付けば二人きりになっていた。

 

「ま、まあ、そうですけど……」

 

「じゃあ、大丈夫じゃない。自分を信じて!」

 

 葵は、ガンバレみたいな感じで言うが、明らかに楽しんでいた。

 

「ぐっ、じゃあ、私が全国決まったら、葵ちゃん本当にパンツ買ってくるんだからね? 約束だよ。終わったらすぐだよ!」

 

「よし。ダメだったら、一日ノーパンね。約束だからね」

 葵は面白そうに、早口で言った。

 

 術中にハマっている事は分かっているのに、我慢できずに無用な約束をしてしまった。

美咲は心の中で「私のバカバカ」と思った。

 すると、葵は美咲に手の平を見せた。

 別に、皮膚モニターによる画像も何も表示されていない。

 

「握手?」

 

 美咲は、間の抜けた顔をして葵の手を握った。

 

「パンツ代」

 

 美咲は素直に「なるほど」と思った。

 葵は買ってあげるとは言っても、自腹でとは一言も言っていない。

 

 それから美咲は、バッグから小学生の男子が使いそうなボロい三つ折り財布を出すと、マジックテープをビリビリと剥がして開け、自分で見た後に無表情でそっと葵に中身を見せた。

 ボロ財布は美咲の兄が小学生の時に使っていた物で、当時かっこいいと思っていた美咲がおさがりで貰った物だった。

 物は基本的に壊れるまで使う派なので使い続けているが、糸がほつれていたり、かなりガタが来ている。

 

「あの、あのですね、実は、言いにくいんですけど、見ての通り今、余分なお金が無いといいますか、その、財布に余裕が……」

 

 葵は、美咲の財布と財布の中身を見ると、何か入れたくなるぐらい切ない気持ちになった。

中学三年生の財布とは思えないのは、見た目だけでなく中身もである。

 試合終わりにジュースの一本も買えない。

 電子マネーで支払いをする為の家族カードの支払い能力の残高表示は、たったの80円で、クレジットカード機能も無い。

 iDに登録されている支払いカードと共通なので、ネット通販も出来ない。

 財布の中身で一番価値があるのは、一駅区間一ヶ月の通学に使っているチャージ式の定期カードなのは、間違いなかった。

 ちなみに、その定期カードの期限は、しっかりと切れている。

 

「……はぁ、パンツと、あとブラも揃いのプレゼントしてあげるから。本当に勝ちなさいよ」

 

 そう言うと葵はiDで通販のウェブページを開いて、美咲にも見える様に腕に表示した。

 

「ありがとっ! 私頑張るね!」

 

 美咲がわざとらしく、着替えている葵に抱き着くと「ちょっと、わかったから、美咲、邪魔!」と邪険に引きはがされた。

 美咲は抵抗して、葵のパンツを引っ張り始めた。

 これは完全に、ただの調子に乗った悪ふざけだった。

 

「ゴムが伸びる! こらっ、やめっ、やめろっ!」

 

 美咲は、葵に頭を殴られた。

 急に声にドスをきかせるのは、まだ怒ってはいないが、それ以上は本当にやめろの合図である。

 

「葵ちゃん痛いよぉ。脳細胞が死んだらどうするの」

 

 もう、と言いながら葵は着替えを続ける。

 

「コブの分有利になったと思いなさい、まったく」

「頭からゴールしたら、またコブになっちゃう」

「ほら、脳細胞はまだ大丈夫そうよ?」

「ううう」

 

 口では勝てない美咲は、頭をさすりながら気を取り直した。

 

「しかたない。今日は、葵ちゃんのご要望に応えるとしますか!」

 と、ワザとらしく気合を入れてみせた。

 

「……パンツの為だろ、さ、お待たせ、行こう」

 と、水着に着替え終わった葵は、仁王立ちする美咲のお尻をパチンと叩いた。

 美咲は、葵の不意打ちに「ひゃん」と変な声を出し、恥ずかしそうに叩かれた所をさする。

 

「気合入れなさいよ。とびっきりセクシーなの買ってあげるから」

 

 葵が美咲に腕を見せた。

 表示されている画面には、かなり際どいデザインの黒いレースの下着がネットショッピングのカートに入れられていた。

 間違いなく勝負下着である。

 値段もお高い。

 美咲の順位が決まった瞬間に注文し、会場に宅配してもらえば、店に買いに行くよりも遥かに早いので実に合理的である。

 

「そこは、可愛いデザインのにしてよぉ」

 

 美咲は、内心その値段に心が揺れ動いたが、悟られぬように文句をつけた。

 黒レースの下着など、見せたい相手などいないし、美咲には早すぎるのだが、自分が買えない物となると途端に魅力的に見えるのも事実である。

 しかし、必要ない物は、やっぱり要らないと言うのが美咲の考えだった。

 

「じゃあ、今日一位だったらね」

「そんなぁ……」

 こうして美咲は、今日の予選で負ける訳にいかなくなったのだった。

 

 これが美咲にとっての日常であった。

 

 

 

「サキッチ、呼ばれてるよ~」

 

 プールサイドで他の競技を面白そうに見ていた美咲は、葵に指で背中をなぞられてビクッと気付いた。

 

「ああ、うん」

 

 ようやく順番が来たかと、すっくと立ち上がる。

 すると、その引き締まったお尻を、また葵がペチンと叩いた。

 

「ちょっと!?」

 

 素直に驚く美咲に、葵は「かっこいい所見せてよ!」とエールを送った。

 美咲は、親指を立てて満面の笑みで答えた。

 

 プールのスタート地点まで歩いていると、声が聞こえてきた。

 

「ミサキ! ガンバ!」

「ナキリ! 期待してるぞ!」

 

 応援席に同じ学校の友達数人が応援に来てくれていた。

 美咲は、大きく手を振って返した。

 

 

 友達には、まあまあ色々な呼び方をされるが、初対面の半分には「ヒャッキさん?」と疑問符で呼ばれる。

 百鬼と書いて“なきり”と読む。

 これが美咲の苗字である。

 年齢は、昨日で15歳。

 背の高さと成績は、クラスで真ん中ぐらい。

 肩に届かないぐらいまで伸びた髪は、今は水泳キャップの中に納まっているが、キャップを外せば黒のストレート。

 目鼻立ちも悪く無く、黙っていれば清楚な美少女に見られない事も無い。

 だが、自他共に認める「ずぼら」な性格が災いして、清楚なんて誤認は日々の生活の中で既に正されている。

 

 中学に入ってから親友の葵に誘われて始めたので、水泳の経験はまだまだ浅い。

 だが、今では葵よりも早く泳げるし、こうして大会の予選に出る事も出来る。

 兄がいるせいか、人に頼ったり、教えてもらう事が上手く、そこに負けず嫌いな性格が合わさって、部内では一応の有望株だし、友達も多い方だ。

 

 

 

 友達の声援に応えながら美咲がプールに向かって歩いていると、変な音が聞こえた気がした。

 

「?」

 

 美咲が音の原因を探して、首をキョロキョロとする。

 

「百鬼どうした、大丈夫か?」

 

 美咲の異変に気付いた顧問兼コーチの木村先生が、心配そうに声をかけてきた。

 

「何か聞こえなかったですか?」

 

「あれ以外でか?」

 

 木村先生は、スタートの電子銃声を指した。

 美咲は、首を小さく縦に振った。

 

「いんや、耳鳴りか? 気圧がおかしいとかは無いか? 耳抜きは?」

 

「えっと、たぶん気のせい、だった……のかな? うん、もう大丈夫です」

 

 美咲は、そう言うと気にしない事にした。

 

「いいか、練習通りにやれば十分狙えるんだ。集中していけよ、同時にリラックスだ」

 

「はい!」

 

 木村先生の漠然としたアドバイスを素直に聞き、気を取り直す。

 ゴーグルの明度を調整し、最適にして着用しプールに入った。

 

 視界に見えるiDのウィンドウには、利用制限の文字が出ていた。

 こういった競技会場では、不正に使おうとする者がいるので、インプラントナノデバイスの類は強制的に利用制限される。

 具体的には、競技における最適解のモーションを表示してガイドする事で、本来の実力以上の動きをナビゲーション出来てしまうのだ。

 練習時には大変有用だが、本番では一切の使用が認められていない。

 

 なので、美咲のiDも一時的に緊急連絡でしか電話をかけられない様に自動的に制限されていた。

 美咲は、もしかしたらノイズは、この利用制限のせいで聞こえたのかもと思った。

 

「はぁ……ふぅ……」

 

 深呼吸をした。

 葵は、一位になれなかったら本当にセクシーな下着を買うし、予選に落ちたら買ってもくれない事は、長い付き合いから分かっていた。

 それはどの道、家に帰ってから面倒な事になる。

 特に、親からのセクシーな下着に対する興味本位の見当外れな質問を受けるのは、想像するだけで億劫でならない。

 だが、それよりも単純に、美咲は負けるのも諦めるのも、人一倍嫌いだった。

 

 そんな事を考えていると、そう言えばと思い出したように美咲は客席を見た。

 そこには美咲に手を振っている両親と、兄の姿があった。

 兄は美咲にビデオカメラのレンズを向けている。

 美咲が小さく手を振ると、兄も撮影の手を維持したまま手を振り返した。

 

 美咲は思った。

 みんなの「期待に応えたい」と。

 期待を裏切らない為に、努力をしてきた。

 そしてこれから、その力を出し切るのだ。

 

 美咲は目を閉じた。

 大会の為に日々練習も重ねて来たし、今朝も自宅の水風呂でわざわざイメトレをして来た。

 準備に抜かりもなければ、今日は快晴で絶好の試合日和である。

 負けたら他人のせいに出来ない状況で泳げると言うのは、勝ち負け関係無く気持ちが良い。

 

 目を開け、会場にある時計を見ると、時間は11時。

 丁度分針がカタンと動くのが見えた。

 すぐにスタート用意のアナウンスが流れ始める。

 

 スタート位置にあるハンドルを握ると、膝を抱え込み、足の裏を壁につけ、背泳ぎのスタートの姿勢をとる。

 全身のバネが、スタートダッシュの瞬間を、今か今かと待っている。

 美咲自身も、壁を蹴るタイミングを集中して待つ。

 集中、集中、集中……同時に、リラックス、リラックス、リラックス……

 

 自分の心音に意識を向ける。

 トクン、トクン、トクン……鼓動はリラックスしている。

 

 その時、また音が聞こえた。

 何の音かは分からないが、確かに聞こえた。

 

 聞いた事の無い音だった。

 イヤホンからの音楽の音漏れ、とも少し違う。

 何かの音楽、いや、もっと複雑な……

 ノイズの様な……

 

 こんな事なら、iDは予選が終わってから入れればよかったと、少し後悔した。

 まったくついていない。

 

 その時、世界がスローモーションになる様な、歪むような、違和感を感じた。

 一番近いのは、何の感覚だろうと思った。

 そうだ、これは知っている。

 デジャヴュである。

 

 ゾーンとか、そう言うのかな? 泳ぐ前から、興奮でハイなのかな?

 そんな事を内心思うが、すぐに気持ちを切り替える。

 

 パンッ!

 

 スタートを知らせる銃声が”ゆっくり”と、会場に鳴り響いた。

 美咲の懐いた不安とは裏腹に、その身体は完璧なタイミングでスタートを切った。

 

 スローの中、水飛沫の一つ一つが確認出来る。

 その中で視界が広がっていく。

 天井のライト、梁の鉄骨、電光掲示板、巨大モニター、観客席。

 そして水中に顔が沈む直前に、観客席で応援する家族の姿が見えた。

 

 潜水でイルカの様に身体を動かして全身で水を掻き分け、壁を蹴った勢いで距離を稼ぐスタートは、自己ベストも狙えそうな、良い滑り出しだった。

 水の流れを全身に感じるが、水にぶつかるのでは無く、水を掻き分け、水塊の隙間を縫う様に泳ぐ感覚。

 調子が本当に良いと全身で感じている。

 だが、まだ勝負は始まったばかりだった。

 気を抜いては足元をすくわれる。

 

 水面に顔が出ると、肺いっぱいに息を吸い、手を動かす。

 ここからが本当に練習の成果が試される見せ場……その筈だった。

 

 

 

 

「?」

 

 最初の違和感は、視界の異常だった。

 だが、意識がその前に気付いたのは、においの変化だった。

 

 プールの、消毒された水独特の臭いは無く、それよりも遥かに複雑な臭いがする。

 水に濡れた岩、土、砂埃、草、樹。

 そして微かに、美咲の通う女子中学校の裏にあった人工の池から臭ってくる、水棲生物独特の臭いに近い”生臭さ”を感じた。

 

 整備された都会で生きている美咲が感じた事の無いレベルの、濃厚な自然の香り。

 鼻の奥で感じた変化は、美咲に原因を見つける様に促し、こうしてようやく視界の変化に気付いた。

 

 ゴーグルの色のついたレンズ越しに見ていた視界は、規則正しく配置されたプールを照らす天井のライトでは気が付けば無く、美咲の遥か上空には鍾乳石で出来た無数のつららが天井一面から直下に狙いを定めていた。

 その天井には、不規則に幾つも岩盤が崩落した様な大穴が開いていて、大穴の外には雲が流れる空が見えた。

 穴だらけの天井からは、厚い雲越しに日光が真上から差し込んでいるので、地下だと言うのにかなり明るい。

 

 美咲は、突然の事態に背泳ぎの手と足を止め、立ち泳ぎをして周囲を見た。

 訳が分からなかった。

 こんな事がありえるだろうか?

 いつ連れて来られたのか、美咲は気付かなかった。

 

 美咲が泳いでいる場所は、見たまま表現すれば、どこかの地底湖らしい。

 水温がプールよりもかなり冷たく、水の色は旅行で一度行った沖縄の海よりも青く、透き通っていた。

 しかし、湖底は海と違って 珊瑚など無く、凹凸の激しい岩場が広がっているだけだ。

 水質は真水で、口に入ってもせいぜいミネラルの味しかしない。

 漠然と、夢の様な光景だなと思った。

 

「あの、え?」

 

 勝手に動揺の言葉が口を出た。

 

「あ、あの! おーい!」

 

 喋ってみるが、声が洞窟内の空気をかすかに反響するだけで返事は聞こえない。

 狐に化かされた様な気分とは、こういう事か?

 そんな気持ちのまま、ゆっくりと平泳ぎで岸に向かう。

 それしか、するべき事が思い浮かばない。

 

 その時、自分の下に、何か大きなモノがいるのが見えた。

 恐怖を感じつつも、見ずにはいられない不安が勝り、ゴーグル越しに水中を見てみた。

 太陽光で湖底には水が影を作っていた。

 そこには、地底湖を悠々と泳ぐ巨大な魚が見えた。

 

 それが本当に魚なのか、実は蛇なのか、そんな事は、初見の人間に分かる筈がない。

 胴回りを見るに、美咲を丸呑みに十分に出来そうな太さと、20メートルを超える長さがある。

 見た目には、確かに鎧の様な鱗に覆われたウナギかウツボの様な魚だった。

 ただ、その口から行儀悪くはみ出した無数の長い牙から、何を食べるのかは初見でも予想はできた。

 

 現実離れした事態に魚を見ていると、iDが自動で魚を検索した。

 だが、未登録生物と表示された。

 その魚の頭に、美咲の影が被ると、ゆっくりと口を美咲の方に向けた。

 

「え、う、うそでしょ!?」

 

 そんな美咲の独り言は届かず、そのまま水面に向かって泳いでくるのが見えた。

 そして、魚の口がゆっくりと、大きく開いた。

 魚の口の中に広がる吸い込まれそうな暗闇が美咲に迫る。

 本能的な、捕食者と対峙した時に感じる恐怖に、美咲はパニックになりながらも、一番近い岸まで大慌てで向かった。

 

 どうにか、無事泳ぎきった。

 

 今の泳ぎなら、種目こそ違うが間違いなく大会の本選でも表彰台に立てる……なんて事は、頭によぎる余裕も無く、岸に這い上がる。

 水面を見ると、大きな影は、美咲を見失った様で再び湖底へと戻って行った。

 美咲は、キャップとゴーグルを外して、辿り着いた岸の大岩の上で大の字に倒れ込んだ。

 

 一度、目を閉じてみた。

 もしかしたら、予選で溺れて、悪い夢を見ているのかもしれない。

 目を開けたら医務室で、みんなが心配している。

 そんな夢オチと言う事を、全力で期待した。

 だが、目を開けても、やはりそこは見知らぬ、巨大な鍾乳洞だった。

 

 iDの表示では、2040年8月17日午前11時03分。

 気が付けばiDの利用制限は解除されているが、状態はオフラインで、GPSの使用も不可になっている。

 

 ダメ元で頬をつねるが、普通に痛い。

 美咲は、自分の身に何が起きたのか、自分はどうすればいいのか、まるで見当がつかなかった。

 

 これが、精神的には無人島に運よく流れつく以上にきつかった。

 自分がもとの生活に戻る為のパターンが、美咲の脳内には無いのである。

 無人島なら、砂浜にSOSや、狼煙、食べ物の確保と、体験が無くともフィクションでの知識がある。

 そんな知識を生かさずとも、iDが体内にある今なら無数の衛星基地局を利用すれば、地上どこからでもGPSと電話で助けも呼べるのだ。

 

 美咲は、キャップとゴーグルを拾うと、目に入った地底湖に隣接する小高い岩場に登り始めた。

 小高いと言っても、登りやすい階段がある訳ではないので、登るのは大変だった。

 高さは四階建ての建物ぐらいある。

 岩肌に掴まり、足を踏ん張り、普段使わない筋肉の疲労を全身に感じ、ぜぇぜぇと息を乱しながらなんとか登り切る。

 

 周囲を一望出来るそこから見えた景色は、生まれて初めて見る物だった。

 顔をあげ、視界が開けた時の第一声は、「きれい……」だった。

 景色だけで、こんなに心が震える事があるとは思わなかった。

 

 湖の中からも見えていた鍾乳石のつららが地面にまでのびて出来た巨大な柱に、支えられた広大な洞窟。

 柱は、アイスピックの様に先端が細い物もあれば、エアーズロックの様な超巨大な塊まで、様々な大きさがあった。

 所々天井が崩れて日光が真上から差し込んでいる光景は、高所から見れば大地を照らす模様に見えた。

 地下洞窟にもかかわらず、地面や壁面には苔や草花が生え、日が当たる所には、広大な草原や森まであった。

 日が一切当たらない部分は、植物の生育が極めて悪く、場所によっては何も生えていないので、日照環境は一目了然だった。

 博物館で見る恐竜の化石の様な、巨大な生物の骨らしきものが遠くの地面から生えているのが見える。

 更に遠くの森の中で、巨大な木々を揺らして何かが動いているのも見えた。

 

 後ろを振り向くと、美咲がつい先ほどまで泳いでいた地底湖が広がっていた。

 地底湖を照らす天井の大穴からの光が反射して、地底湖の天井は幻想的な雰囲気に包まれている。

 改めて見上げてみるが天井までの高さは、iDで測ると、低くても200メートル、高い所だと500メートルを超えていた。

 その地底湖の水中では、巨大な複数の影が変わらず悠々と泳いでいた。

 地底湖は、対岸まで推定数キロの大きさがあり、地底湖の向こうには、反対側と同じように鍾乳石の柱や、森や草原が延々と広がっていた。

 

 地下にも関わらず、高い天井の下を飛ぶ鳥の群も見えた。

 この広大な地底空間では、美咲の位置からでは、どの方向にも果てが見えなかった。

 

 美咲は、iDの撮影機能を使って、全天球パノラマ写真を撮影した。

かなりテンションが上がっているのを感じる。

 

 くしゅんっ!

 くしゃみが出て、途端に現実に引き戻された。

 この程度の高さだが、遮るものがない分、吹けば風は強くて寒かった。

 現実に戻ると、ここは一人でいるには広すぎる。

 そんな事に気付くと、途端に心細くなってきた。

 

「おーーーーーーーい、誰かいませんかーーー!?」

 

 森の中から、美咲に答える様に獣の呻き声や鳴き声が聞こえてきた。

 美咲は、自分の口をつぐんだ。

 背を低くして周囲を見回すが、何も変化したようには見えない。

 ホッとしつつ大きな溜息をつくと、美咲はその場にへたり込んでしまった。

 

 黄昏る。

 そんな表現がピッタリだった。

 事態を受け入れる勇気が湧くまでに、その場で景色を眺め、体感で1時間の時を必要とした。

 実際は、時計を見ると10分程度だが、とにかくえらく長くに感じたという事だ。

 どうやら、一向に夢から目も覚めないし、誰かが目の前を通りがかる事も、お迎えに来る事も無いらしい。

 

 メッセージは、相変わらずのオフラインで誰にも送れない。

 視界の端で、ロッテがメールを持ち帰ってくる演出も見飽きてしまった。

 マップに至っては表示をしても日本を指したまま、現在位置が分からないと衛星を探し続けている。

 利用制限時でも使える緊急連絡も、まったく繋がらずに、試すたびに視界の端でロッテが困っていた。

 

 これは、異世界だろうか?

 どうやって、いつ移動したのか?

 どうして私が、なんでこんな所に?

 

 考えれば、似たような疑問がループするが、答えは一つも出ない。

 身体は、すっかり乾いていたが、美咲の身体はとても冷えていた。

 寒さに耐えられなくなった美咲は、重い腰をあげて移動を決意した。

 とにかく人を探そうと思ったのだ。

 

 ここにいても、きっと何も起きない。

 起きるとしても、獣の呻き声を聞く限り、良い想像が出来なかった。

 間違っても、ここで夜を迎えたくはない。

 

 本音を言えば、とにかく、誰でもいいから、誰かに助けて欲しかった。

 そもそも部活の大会と高校受験を控えた日本の女子中学生に、サバイバルなど無茶ブリも良い所である。

 なのに、現実はチラチラと無茶ブリを強要して美咲の様子を見ている。

 

 こうなると、助けを求めて移動するにしても行く当てがないと動きようがない。

 森の中で遭難したら、人を探す以前の問題である。

 

 周囲を注意深く見ると、さっきは気付かなかったが森の向こう側に人工物が見えた。

 iDのカメラ機能を起動すると、視界を十倍にズームできた。

 それは、建物の屋根に見えた。

 人の痕跡を見つけただけで、こんなに救われるとは、美咲は想像したことも無かった。

 他にも何か無いか周囲を観察し、何も見つけられない事を確認した。

 

 腹を決めると、岩場をトントンとジャンプして降りていき、獣と遭遇しない事を祈りながら屋根が見えた方向へと歩き出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ハローモンスター

 しばらく歩くと、幾らか寒さはマシになった。

 森に入ると、目印の屋根は見えなくなったが、iDの方位磁石が機能したので、一方向にひたすら歩いていた。

 

 だが、それらとは別に、美咲が抱える問題があった。

 競泳用の水着姿で森を進むのは、他に誰もいないと分かっていても気恥ずかしさがあるのだ。

 非常時に何を贅沢なと思うかもしれないが、せめて胸から腰に巻く大きなタオルが欲しかった。

 ほんの少し前までは、パンツさえあれば心が満たされたのに、パンツだけでなく着替え一式が欲しい事態になるとは思いもしなかった。

 

 そうして、何十回目かの「夢なら早く覚めて」と思った時だった。

 森が開け、ついに目的の場所に到着した。

 そこは、森と洞窟の巨大な柱の間に作られた町だった。

 

「すごい!」

 

 目の前に広がる広大な町に、美咲の鬱屈とした気持ちは少し小さくなる。

 見えていた建物の屋根は、町の中でもひと際大きく、例えれば教会の様に見えた。

 ヨーロッパの田舎にありそうな、西洋建築っぽい建物以外に、石柱をくりぬいて作った建物もあった。

 巨大な壁の様な天井を支える石柱の表面には、よく見れば所々に人工的な四角い窓が開いていた。

 美咲には、自然を利用した超巨大な高層ビルに見えた。

 実際、窓は柱の上の方、高さで言うと150メートル程度までポツポツと開いている。

 

 どこに投稿する訳でもないのに、美咲はその光景をiDの写真機能で保存した。

 

 ただ一つ、この町には決定的な問題があった。

 目の前に間違いなく人のいた大きな痕跡があるというのに、人の姿がどこにも見当たらないのだ。

 更に、町の至る所で物が壊されていたり、血の乾いた形跡が見られた。

 

 立ち直りかけていた美咲の気持ちは、急速に焦りを帯び始めた。

 

「あの! すみません! 誰か! いませんか!」

 

 美咲は、呼びかけながら建物を覗き込み、人を探し始めた。

 広場にも市場にも誰もいない。

 何か事件があったにせよ、生活臭は残っているので、つい最近までは普通に暮らしていた筈であった。

 

 美咲は、この町で何が起きたのか、当然不安に思っていた。

 だが、そんな事よりも、とにかく人に会う事を優先させてしまった。

 藁にもすがりたい美咲には、この町の現実は受け入れられていなかった。

 

 助けを求めて人を探し、彷徨っていると、建物の窓の中に人影が見えた気がした。

 美咲は、ようやく人に会えたと思い建物に駆け寄った。

 すると、確かに建物の中に何かがいた。

 

 町の住人を期待したが、それは真っ先に裏切られる事となった。

 気配が人とは、そもそも違うのだ。

 

「あのっ……!?」

 

 美咲は話しかけようとした言葉を飲み込んで、足を止める。

 グルルルと、唸り声も聞こえてきた。

 ここまで、森の中で野生動物との遭遇は、運良く、一度も無かった。

 なので、何が出てくるのか想像も出来なかった。

 あの巨大な魚を見た後だと、そこに何がいても不思議ではなかった。

 

 美咲は、静かにその場を離れ始めた。

 しかし、もう手遅れだった。

 

 その場を離れる前に、開いている扉からゆっくりと現れたのは、一匹の猿だった。

 いや、美咲が第一印象で猿と思っただけである。

 どう表現するのが正しいのかは、今の美咲には分からない。

 

 iDの自動検索では未登録生物と表示され、勝手に自動登録された。

 そのまま、クラウドへの自動共有が始まるとエラーが表示される。

 サムネイルを見ると、さっきの魚も勝手に登録されていた。

 普段なら便利なのだろうが、今は、その利便性を享受する暇も環境も無かった。

 

 その猿らしき生物の身長は、美咲の胸程の高さで、一見大きくない。

 猫背に撫肩で、手が異様に長く、全身がかなり筋肉質に見える。

 その体表は、黒い毛で深く覆われ、顔に覗かせる素肌は血色の悪い白に近かった。

 大きな黒目がちな目をしていて、大きな猫耳がついている。

 鼻も猫の様だった。

 この瞬間もクンカクンカと、鼻を動かして臭いを嗅いでいるのがわかる。

 

 見ようによっては、大きくてまん丸な瞳が、可愛く見えない事も、ない。

 美咲も人並みには猫が好きである。

 

 だが目の前の猿は、ゲーム好きの葵や兄なら、間違いなくモンスターと表現するであろう風貌である。

 しかし美咲の価値観からは、単純な見た目から危険性や狂暴さをすぐに判断出来なかった。

 

 その見た目から、美咲は仮に“猫猿”と呼ぶことにした。

 

 

 

 結果的には良かったのだが、猫猿の持ち物が、どうにも良く無かった。

 猫猿が戸口から出てくると、引きずる様にだらんと垂らした長い手には、地面を引きずって、赤いラインを引く何かが握り絞められていた。

 その手には、人の上半身ほどの大きさの、肋骨が剥き出しになった動物の死体が握られていた。

 美咲が、それが何なのか、何の動物か分からなかったのは、その死体に頭も手足も既に無く、猫猿が食べたのか、あまりにも激しく欠損していたせいだった。

 

「……ぁ」

 

 美咲は、猫猿と目があってしまった。

 猫猿は嬉しそうに笑うと、その口から赤く染まった牙が見えた。

 ヤバっと思ったが、身体が恐怖に強張って動こうとしなかった。

 

 ギャッギャッギャッ!

 猫猿は大きな目を更に見開くと瞳孔をカメラのレンズの様に調整し、耳障りな甲高い声で叫んだ。

 それは、本来なら獲物を見つけた喜びを表す叫びの筈だったが、美咲には結果的に助けとなった。

 美咲には、ある種のスタートの合図に聞こえていたのだ。

 無意識に脳の回路がスイッチされ、身体の自由が戻ると、足の痛みも忘れて全力で走り出した。

 

 一瞬振り向くと、さっきの猫猿が死体を投げ捨てて、叫びながら追ってきているのが見えた。

 身長が美咲よりも小さいのに、長い腕も使ってかなり走るのが早い。

 あの形相で威嚇する生物に追いつかれたら、酷い目に遭う事だけは、想像できた。

 

 美咲の逃走を追いかける猫猿の叫びに呼応し、周囲の建物から猫猿と似たような声が聞こえてきた。

 この町は、あの猫猿達に襲われて、放棄されたのか壊滅したのかもしれないと美咲は思うと、気付くのが遅すぎると悔やむ。

 逃げながら、美咲は思わず二度見をした。

 さっきまで追って来ていたのは一匹だけだったのに、気が付けば十数匹の猫猿が全力疾走で追って来ていたのだ。

 

 それからは振り向かずに、声も出さずに、涙目になりながら、息を切らせて必死に走った。

 町中の建物からは、ゾロゾロと猫猿達が湧いて来た。

 全部で何頭いるのか数えたくも無い。

 

 美咲が、身を守れる建物が無いか探すと、町の外れに堅牢な砦が見えた。

 猫猿達は町中に集中しているので、砦に町の人が籠城している事を美咲は期待した。

 

 茂みをかき分け、林を突っ切り、すぐに砦が目の前に見えてきた。

 周囲には広く深い堀があり、脆そうな吊り橋が正門に向かってかかっているのが見えた。

 思わず渡る事を躊躇するが、後ろの猫猿の群を見ると、一気にボロボロの吊り橋に向かって駆け出した。

 こんな時に、いちいち橋を叩いて渡る暇など無い。

 

 美咲がもう一息で橋を渡り切りそうなところで、猫猿達がワラワラと吊り橋を渡り始める。

 美咲しか見えていないのか、橋の強度を考えているとは思えなかった。

 大きく揺れる橋を渡っていると、橋を形作っていた縄がキリキリと悲鳴を上げ始めた。

 まずい、と橋を渡っていた全員が思った時には、もう遅く、美咲が渡り切る前に橋の縄が切れてしまった。

 

 美咲は、足元の浮遊感に嫌な汗をかきながらも、急速に沈みゆく橋を泣きながら走り切り、ギリギリ向こう岸の崖にしがみつくと、どうにか必死によじ登った。

 そんな不幸中の幸いの中、不幸にも、よりにもよって、吊り橋を支える町側の柱付近で縄が切れた。

 砦側の縄支えの柱を軸にして、橋が空中ブランコの様に砦側に落ちて、ドガシャッと堀の壁面と橋の踏板がぶつかる音が響く。

 

 美咲が、ぶらりと落ちた吊り橋の下の方を除き見た。

 そこには、数が七匹にまで減っていたが、猫猿達はしぶとく吊り橋の残骸にしがみつき、我先にと、お互い押しのけ合いながら、かなりの速さで上に登って来ていた。

 橋を渡る前だった猫猿達は、堀を挟んだ先にいる美咲の事を、なおもうろうろと追いたそうにしていたが、広く深い堀を渡る術がない様子だった。

 

 事実上、一対七になった。

 一対百よりは、まだマシである。

 

 美咲は、垂れ下がった吊り橋のロープを切れれば、ぶら下がり組を一網打尽に出来るのではと考えた。

 それは、可能ならば良い考えではあったが、美咲の持ち物は、水着の肩紐に引っ掛けたキャップと首にかけたゴーグルだけで、縄を切れそうな物は周囲には無かった。

 水着も崖に飛びついた拍子に、腹の部分が少し敗れて丸い穴が開いていた。

 

 そこで、とにかく建物の中に逃げようと、砦の正門に走る事にした。

 砦の正門には、大きな扉があった。

 だが、扉は押しても引いても開く気配すらない。

 

「開けて! 助けて! 誰か!」

 

 叫び、何度も扉を叩くが、中に人の気配は無かった。

 鍵がかかっているのか、重いだけなのか、とにかく扉はビクともしなかった。

 

 後ろを振り向くと、一匹目の猫猿が吊り橋をのぼり切ろうとしているのが見えた。

 美咲は、猫猿の視界から逃れようと、当てもなく砦の壁伝いに走り始めた。

 しばらく砦と堀に挟まれた細い通路を走っていくと、背の低い裏口の扉があった。

 

 今度こそと扉を開けようとするが、今度も開かない。

 

「冗談! きついよっ!」

 

 必死に扉の引き手を引くと、その扉は少し動いた。

 どうやら鍵がかかっている訳では無く、ただ古くなって固いだけらしい。

 

 無理やり引っ張ると地面をガリリと削りながら少し扉が開いたところで、扉の引き手が風化していたのか、ポロリと取れてしまった。

 勢いづいて美咲は地面に尻もちをつくが、すぐ後ろには深い堀の闇。

 堀の底に、美咲の手から零れた扉の引き手が落ちていき、少しすると底で着地の音が聞こえてきた。

 どうやら底無しではないらしいが、結構な深さがあり、落ちれば大怪我は避けられないし、美咲には登る術も無さそうだった。

 堀の底の暗闇にゾッとしつつも、すぐに立ち上がって扉の隙間に手を入れて、全力で扉を開けにかかる。

 

 やっとの思いで出来た隙間から身体を無理やり滑り込ませると、今度は逆に全力で扉を閉じ始めた。

 扉には、内側からかける大きな閂がついていた。

 これさえ閉じてしまえば、猫猿は入って来れない筈である。

 全体重をかけて、全力で扉を引いて閉じようとする。

 

 バキッ!

 引き手を扉に固定している金具が劣化していて、一本折れた感触が手に伝わって来た。

 屋内側の引き手が取れたら、扉を閉じきる事も出来ない。

 それでも美咲は、引き手の強度がもつ事を祈りながら、全力で閉じ続けた。

 

 あと少しで扉が閉じそうな所で、一匹の猫猿が扉の隙間に指を入れて引き始めた。

 

「うわぁ! ダメダメダメ!」

 

 美咲は思わず叫びながら、扉にかけられた猫猿の指ごと閉じる勢いで、壁に足をかけて必死に引いた。

 力は、指先だけで引く猫猿と、壁に足をかけて全体重と全力を持って閉じようとする美咲で、良い勝負だったが、扉の引き手をちゃんと使っている分、まだ美咲がギリギリ勝っていた。

 

 あと少し。

 扉に猫猿の指が挟まれて、猫猿が扉から指を離した隙に扉を閉じようと言う、ギリギリの時。

 

 扉にかかる猫猿の指の数が倍に増えた。

 

「ちょっ!? ずるい! うわっ!?」

 

 一対二になり、このままだと一対七になる事は目に見えていた。

 美咲は、精神的に追いつめられ過ぎて頭の芯が痺れるのを感じた。

 このままでは、猫猿が入ってきて美咲は食べられてしまう。

 

 窮地に立たされた状況で美咲は、扉を必死に引きながら薄暗い砦の中に目をやった。

 そこは砦の厨房の様だった。

 美咲は、すぐそこにあった作業台の上に何かを見つける。

 

 あれだけ開けるのに苦労したのだ。

 手を放しても、この扉はすぐに開ききらない“筈”である。

 思い切って扉から手を放し、台の上に捨てる様に置かれた錆びたナイフを手に取った。

 

 猫猿達も抵抗が弱まったのを見逃さず扉を一気に開けようと、三匹に増えてグイグイと力を入れている。

 しかし、猫猿達の思い通りにもならず、扉は重い上に蝶番も錆びていて、すぐには開かない。

 猫猿達は美咲よりも屈強な上に、美咲とは違って直前まで腹一杯食べていた為、身体を滑り込ませるには、もっと扉を開ける必要があった。

 最初は敵だと思ったが、今は開かない扉が美咲の味方をしていた。

 

「はなして!」

 

 すぐ扉に戻った美咲は、猫猿の指をナイフで片っ端から切り付けた。

 錆びてこそいるが、ナイフの刃は所々生きていた。

 猫猿達は、突然死角から切り付けられて驚き、大した傷ではないが、傷口が空気に触れて遅れてくる痛みに怒りだした。

 一際身体が大きな猫猿の一匹が、ナイフによる切り付けが大した事は無いと判断したのか、扉の隙間に腕を入れて反撃してきた。

 

 ミサキは腕を掴まれかけるが、ギリギリの所で身を引き、なんとか避ける。

 

「いつっ!?」

 

 しかし、猫猿の爪で腕に怪我を負った上に、バランスを崩して転倒してしまった。

 そのまま一匹の猫猿が扉を開けるよりも、美咲を掴んで引きずり出そうと手で部屋の中を探って来た。

 

 美咲は、地面に落ちたナイフを拾うと、慎重に猫猿の死角へ移動してから、両手で握り締めたナイフを一気に猫猿の左腕に突き立てた。

 

 ギャアアアアアア!?

 

 猫猿はナイフを腕に指したまま、扉口から腕を引っ込めた。

 思わぬ反撃に怯んだ猫猿達が、全ての手を放したその瞬間を、美咲は見逃さなかった。

 

 激しい行き来で蝶番が少し動くようになった扉を、力いっぱい引っ張って一気に閉じる。

 どうにか閉じ切る事に成功すると、そのまま間髪入れずに、震える手で閂をかけた。

 

 猫猿達が叫びながら扉を叩き、引っ掻き、体当たりし続ける音が部屋の中に響き続ける。

 美咲は、その場で、急に力が抜けて、ペタンと尻もちをつくと、そのまま地べたに倒れこんでしまった。

 

 全身の震えが止まらなかった。

 人生で初めて、殺意を伴った敵意を向けられた経験だった。

 それも、いきなりあんな沢山の相手からである。

 

 生き物を刃物で切り付けたのも初めてだった。

 簡単な料理なら出来るが、カレーを作る時に切る肉とは、全然違った。

 心に、罪悪感の一言では言い表せない棘が刺さったような、複雑な気持ちが抑えられない。

 

 それから、全身の緊張が一気に解けたせいか、急激な吐き気に襲われ、床に朝食と胃液を吐いてしまった。

 しかし、すぐに吐く物が無くなり、ぜぇぜぇと息を切らす事しか出来なくなった。

 喉が胃酸に焼け、口の中が酸っぱい。

 唾の粘度も見た事が無い程に濃く、涎が糸を引いた。

 綺麗な水でうがいをしたいが、そんな物はここには無い。

 

 こうして、先ほどまで自分を支配していた恐怖が薄れると、心の隙間を埋める様に別の感情が顔を見せ始めた。

 寂しい、痛い、辛い、帰りたい。

 他にも言語化が美咲には難しい、様々な感情の濁流が一気に押し寄せた。

 なんでこんな状況になってしまったのかと思った。

 

 逃げながら流したものとは、別の種類の涙がとめどなく溢れてきた。

 

「ぐすっ、わたし、なにか、したぁ?」

 

 納得が出来なかった。

 理不尽だと思った。

 誰でもいいから、答えて欲しかった。

 

 しかし、どこからも誰からも、答えは返ってこなかった。

 

「どっかいってよっ! いなくなってっ! 死んじゃえっ! バカっ! あほっ!」

 

 美咲は扉の外で騒ぎ続ける猫猿達に、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせた。

 それでも胸を締め付ける感情は、消える事も、薄まることも無かった。

 

 扉の隙間を削り引っ掻く音の横で、ひとしきり声を出して泣いて、叫んで、地面を叩いた。

 その場で、その姿勢のまま、思いつく事を一通りやった。

 

「もう、許して……死にたくない、よぉ……」

 

 そう、まどろみの中で呟くと、そのまま疲れ力尽きる様に眠りに落ちた。

 

 

 

「お、目ぇ覚ました」

 

 兄の声が聞こえた。

 そこは、予選会場の医務室、そこにある固いベッドの上だった。

 

 家族が心配そうに、美咲の顔を覗き込んでいた。

 最後の記憶が酷く曖昧だった。

 

「覚えてるか? 足がつったってお前溺れだして、大変だったんだぞ」

 

 父親は、安心した表情をしていた。

 

「足は床につくし、レーンの仕切りにだって掴まれるのに、プカッって浮かんで来た時はみんな驚いたわよ」

 

 母親も、笑っているが、呆れながらも心配してくれていた。

 

「ほら、撮影してたの。もう完全に事故だよ。勘弁してくれよな」

 

 そう言って兄がビデオカメラの画面を見せてきた。

 最高画質で3D動画が始まると、そこには盛大に溺れる美咲がうつっていた。

 画面の中では、すぐに撮影していたビデオカメラを、隣で狼狽える父親に渡して、兄まで客席から飛び降りてプールに駆けつけていた。

 そのまま画面の中で兄がプールに飛び込んだ。

 どうりで、兄の服が売店で売っているアロハに変わっている訳だと思った。

 

「投稿していい?」

「やめてよぉ」

「冗談よ」

 

 母親の下らない冗談が嬉しい日が来るとは、と思った。

 

「皆さんが助けてくれたんだから、後でお礼言っておきなさいよ」

 

 急に真面目ぶった母親に言われ、とりあえず近場の人に礼を言おうと思った。

 

「うん、お兄ちゃんも、ありがと」

「一番じゃ無いのが、かっこ付かないけど、ミサキチが無事でよかったよ」

「うん。でも、十分かっこよかったよ」

 

 美咲の目から、自然に涙があふれ出した。

 

「おい、急にどうした。どこか痛むのか?」

「先生呼ぶ?」

 

 家族がオロオロと心配した。

 考えてみれば馬鹿らしいが、怖い夢から目覚めた事が、心底嬉しかった。

 どんな夢を見ていたのかも覚えていないが、酷い悪夢だった。

 

「やっぱ、大会に出れないのが悔しいのか?」

 

 父親に聞かれた。

 予選で負けた事なんて、気にもならなかった。

 途中棄権になったのは悔しいが、不思議と負けた実感がわかない。

 

「違うの、大丈夫」

「そうだ。ほら、葵ちゃんがプレゼントって、これ置いていったわよ」

 

 そう言って母親が渡して来たプレゼントは、更衣室で見せて貰った物だった。

 早速開けると、中には可愛い財布が入っていた。

 

「あ、あと、これも葵ちゃんがプレゼントだって」

 

 兄が通販会社のロゴが入った宅配用の紙袋を渡して来た。

 袋を開けると、中には下着が入っていた。

 父親と兄は、美咲が中身を広げるのを見て、なんとも居心地悪そうにソワソワし始めた。

だが、美咲は別の事を考えていた。

 

「……水色……それも……セクシーじゃ、ない……」

「「「え?」」」

 

 美咲を除いた家族三人の声が綺麗にハモった。

 美咲は、嫌に冷静になっていた。

 冷めたと言って良かった。

 

「美咲」

「なに、お兄ちゃん」

 

「美咲が××××××××××××」

 

「うん」

 

 

 

「う……ん……」

 

 目を覚ますと、変わらず、どこかの洞窟の中にある町はずれの砦の厨房、その床だった。

 あの後、誰かが助けに来たり、結局夢だったという事も無かった。

 

 見ていた夢も、ぼんやりとしか覚えていない。

 思わぬ事で夢と気付いて、目が覚めた事だけが感覚として残っていた。

 それと、兄が最後に、起きかけている美咲に対して、滑り込みで何か一言を、最後に場違いに言った様な気がした事だけは残っていた。

 兄も、あれが夢だと気付いたように。

 

 しかし、肝心の台詞は忘れてしまった。

 

 唯一の救いは、扉は猫猿達の攻撃に耐え、引っ掻く音も叫び声も、とりあえずは聞こえない事だった。

 

 扉の隙間から外の光が見え、一応今は昼間の様だった。

 視界の端の時計を見ると、2040年8月18日午前7時3分と表示されていた。

 半日以上眠っていた事になる。

 

 美咲は、そこが異世界のままである事に対して「冗談でしょ」と床を手で強く叩いた。

 だが、手が痛いだけだった。

 身体を起こそうとするが、今度は節々が痛んだ。

 硬い床で寝すぎたせいもあるだろう。

 

 堀の淵に打ち付けた腹は、大きな青あざになっていて、薄暗い中でも、水着の穴から見えた。

 しかし、触らなければ、大した痛みは無い。

 それよりも辛いのは、全身を襲う酷い筋肉痛の方だ。

 それに加え、猫猿の爪で引っ掻かれた腕は、流れ出た血がそのまま固まっているが、傷口はジュクジュクと膿んで、腫れていた。

 普段なら、動物に引っ掻かれたら、どんなバイ菌を持っているかも分からないと真っ先に洗って消毒する所だが、ここに救急箱がある訳が無い。

 薬が欲しくても、この世界に薬があるのかさえ分からなかった。

 歩こうと立ち上がろうとすると、足の裏は、土を踏む部分だけ薄皮一枚無くなって、血と体液が寝てる間に固まっていた。

 立ち上がって、一歩を痛々しく踏み出すとカサブタが割れて血が滲みだした。

 とてもじゃないが、痛くて普通には歩けない。

 

 グギュルルル。

 猫猿の唸り声では無く、美咲の腹の虫が鳴った。

 自分が吐いた物が床で固まって、異臭を放っているのが目に入った。

 食欲は大幅に減退したが、何か食べないと身体がもちそうになかった。

 

 グギュルルル。

 また腹が鳴った。

 

「はは・・・・・・」

 

 傷だらけで、泣き疲れて、身も心もボロボロである。

 こうなると、本当にもう空虚に笑うしか無かった。

 だが、笑っていても何も起こらない。

 美咲は、砦の中を壁伝いに、身体を支え歩きながら、使える物が何か無いか探索する事にした。

 

 

 

 真っ先に調べたのは厨房と、隣接する倉庫だったが、そこに食べ物は無かった。

 あるものと言えば、割れた皿の欠片以外は、焼き釜と言った備え付けの調理器具以外見当たらない。

 

 厨房を出ると、すぐに大きな食堂があった。戸を閉じられた窓からの光しかないので、外ほど明るくない為、よくは見えない。

 だが、昔火事があったらしく、所々が煤けていた。

 

 壁には、大きな地図が張られていた。

 いわゆる古地図の類で、所々に怪物の絵が描かれ、どこまで正しいのかも怪しかった上に、一部が焼けおちている。

 地図には印も何もないので、どこが現在位置なのかも分からない。

 美咲にとって現在位置と言えば、自動でピンが刺されている世代である。

 

 それよりも美咲の目を引いたのは、書いてある文字が、日本語や英語では無い事だった。

 美咲は薄暗い中で地図を眺めて、首をひねった。

 知っている文字と同じ形だったり、似た形の文字もあるが、既存の略字や筆記体とも違った。

 これは地図と合わせて、いよいよここが異世界である事に疑いの余地が無くなって来た。

 この調子だと、人と会っても話せない可能性の方が高い。

 そんな事を考えながらiDの翻訳機能のデータ解析を選択すると、目の前の未知の文字のパターンを調べ始めた。

 しかし、すぐに情報不足とエラー表示されてしまった。

 

 食堂を出ると、窓が全て閉じられた廊下を進み、とりあえず鍵が開いている部屋を片っ端から見ていった。

 そこら中が火事の爪痕で煤けていて、砦の広い範囲が火事にあった事が分かった。

 

 探索を続けていると、火事の被害が見られない寝室らしい簡素な部屋を見つけた。

 同じ形のベッドが沢山ある大部屋で、美咲の苦手な鼠やゴキブリが普通にいるが、その部屋を避けている余裕さえなかった。

 美咲はビビりながらも、足もとの生物を踏まない様にだけ気を付けて部屋に入った。

 何か無いか探すが、ベッドは上に藁を敷き詰めているだけのもので、布が一切使われていない為、どうやら階級が低い人達の大部屋である事が分かった。

 ベッドの他には、それぞれのベッドの足元に木箱が置かれていた。

 美咲は、宝箱を開ける様な気持ちで木箱を開けると、中にはボロ切れの様な服が仕舞われていた。

 かなりのアンモニア臭がし、吐き気がしたが、胃の中に吐く物が無い。

 

 美咲は、指で鼻と服をつまむと、服を床に投げ捨て、他に何か無いか箱の中を探した。

 何も使えそうなものが無いと、別のベッドの足元の木箱も物色し始め、三箱目にして綺麗かは別にして、飛びぬけた異臭がしないボロボロの男物の服を見つけた。

 持ち主の一張羅だろうと思った。

 

 コスプレみたいだなと思いながらも、水着の上から早速着ると、それだけでほんの少し心が満たされた気がした。

 複数の箱の中の物から推測するに、どうやらこの砦で、住み込みで働く男性の使用人が使う部屋らしく、女物の服も下着の様な物も見つからなかった。

 仮に女性用の下着を見つけても、誰の物かも分からない上に洗っていない下着を着けるのには、さすがの美咲も抵抗があるので、下には水着を着たままでいる事にした。

 

 他にも木箱を物色し、状態がマシな布を見つけると、無理やり裂いてから足や腕に包帯代わりに強く巻いた。

 痛みは消えないが、これで壁を使って身体を支えずに歩ける程度にはマシになった。

 服を拝借して一息ついた美咲は、次は武器が欲しいなと思った。

 

 心の余裕が、少しだけ生まれたのを感じた。

 昔、兄がやっているのを隣で見ていたRPGなら、真っ先に武器や薬草が手に入りそうなものなのにと思った。

 もっとも、そのRPGなら、もう少し安全で人のいる町から旅が始まっていたが、美咲は自分ではやっていないので記憶に無い。

 

 木箱の確認を終えた美咲は、一旦ベッドに腰をかけ、余裕ついでに状況を整理しようと思った。

 美咲が分かっている範囲で、状況を整理すると、こうなる。

 

・プールで泳いでいたら、突然、鍾乳洞の地底湖に移動していた。

・地底湖には、見た事の無い巨大な魚。

・無人の町には、見た事の無い凶暴な猫みたいな猿の群れ。

・逃げ込んだ町はずれの砦は無人で、中では見た事の無い地図と文字を見つけた。

 

 と、こんな所だった。

 テンションが上がって昨日撮影した写真を見ても、今はまるでテンションが上がらない。

 

「はぁ……」

 

 自然と溜息が出た。

 グギュルルル。

 探索で忘れようとしていたのに、腹の虫が空腹を思い出させた。

 立ち上がるのも億劫だった。

 

 iD内の写真を切り替えると、次に新しい写真は一昨日の誕生日を家族で祝う写真だった。

 兄がメッセージアプリで送ってくれたもので、ケーキにお寿司、ローストビーフがテーブルの上に並んでいる。

 余計に腹が減った。

 

「会いたいよ……」

 

 ポト。

 家族の写真を見て、思わず泣きそうな美咲の頭に、何かが落ちてきた。

 驚いて手で頭を掃うと、床に大きな蜘蛛が着地した。

 

 iDは美咲のパニックをキャッチして、自動ロックされる。

 美咲は声も出なかった。

 それは、美咲にとって蜘蛛が一番苦手な存在だったからである。

 

 蜘蛛の形状や動きが生理的に苦手で、ゴキブリとは戦えても、蜘蛛には近づく事さえ抵抗があった。

 美咲の気持ちも知らずに、蜘蛛はカサカサとベッドの下へ逃げて行ってしまった。

 美咲はベッドの上に足をあげて避難した。

 

 安心は出来ないが一息つくと、ロッテに命令して設定で自動ロックをオフにさせた。

 また蜘蛛が出たり、驚くたびにiDが操作不能になっていては、この世界では生き伸びられるとは思えない。

 

 グギュルルル。

 また腹が鳴った。

 そういえば、大きなタランチュラは、エビっぽい味がすると兄が言っていたのを思い出した。

 

「エビに、見えない事も……ないか」

 

 形状的には、まだカニである。

 自分で言っておいて、絶対無理だと美咲は思った。

 蜘蛛だけは、本当に勘弁して欲しかった。

 

 ミサキの視線が、部屋の隅をウロウロしている鼠に向かった。

 いきなり哺乳類は、ちょっとと思った。

 どんなウィルスを持ってるかも分からないしと、自分に必要の無い言い訳をする。

 

「はぁ……」

 

 どうせなら本物のエビを食べたい。

 その時、エビの尻尾とゴキブリの羽の成分が近い事を葵が言っていたのを思い出した。

 葵の人の悪い顔が思い浮かんだ。

 床をゆっくりと這う大きなゴキブリを見た。

 問題の羽は無いが、大きさが20センチはあって、食べ応えだけはありそうだった。

 羽が無く動きが遅いだけで、家で遭遇する奴らよりも気持ち悪さは少ない。

 

「エビ、と言うより六本足のダンゴムシか……」

 

 それ以前に、ここは異世界なので、ゴキブリかも怪しい。

 

 グギュルルル。

 腹は鳴るが、実際に行動に移す勇気は沸かなかった。

 餓死には、まだ相当の余裕がある筈だし、何よりも生理的に受け付けない。

 

 ほんと、家に帰りたいと思った。

 しかし、いくら願って妄想しても、状況は好転しない。

 今は、とりあえず砦の中で使えそうな物を集めないと、どうしようもない。

 

 食べ物が見つからないと、最悪本当にゴキブリや鼠、そして蜘蛛の味を確かめる羽目になってしまう。

 そんな現実的かつネガティブな状況整理をしていると「そう言えば……」と、砦を囲む堀にかかった橋が崩れていた事を思い出した。

 そして、他に出口はあるのだろうかと思い、同時に嫌な予感に襲われた。

 

 美咲は、部屋を出ると砦の上の階へ続く階段を探し始めた。

 どこにも案内図など張られていなかったが、階段はすぐに見つかった。

 一段一段が高い上に、傾斜が急で登りにくい階段を、なんとか登っていく。

 

 辿り着いたのは、砦の中で一番高い所にある物見の塔だった。

 そこからは、監視所らしく砦の周囲を全て見渡せた。

 しかし、そこから見えたのは、絶景と言うよりは、絶望だった。

 

 砦は、広く深い堀に囲まれた陸の孤島にあり、周囲には森と草原が広がっていた。

 少し離れた場所にあるさっきまで美咲が彷徨っていた町には、猫猿達と思しき影が遠くからでも確認出来た。

 見た所、堀を超える橋が架かっている所は見当たらなかった。

 つまり、状況的に「詰んでいる」のが見えた。

 出口無し、暫定だが食べ物無しの砦に、狂暴なモンスターと閉じ込められていた。

 

「はは・・・・・・ははははは」

 

 美咲は、塔の屋根を支える柱にもたれかかった。

 何もおかしくないが、本当に笑うしかない。

 

「こんなの、もう……」

 

 死ぬしか無いじゃないかと思った。

 そんな考えが一度頭をよぎると、それは頭の中で反芻され、それしか無い様にさえ思えてきた。

 そのアイディアを掻き消したのは、今や、よく知っている不快な唸り声だった。

 

 

 

 グルルルル。

 

 美咲が唸り声のする方を塔の上から見下ろすと、猫猿達が七匹、仲良くワラワラと砦の壁や屋根をのぼってきているのが見えた。

 しかも、都合の悪い事に美咲に気付いていて、一直線に塔を目指していた。

 

 美咲を見た猫猿の一匹は、腕に怪我をしていて、口に錆びたナイフをくわえていた。

 そいつは美咲を見て、歯茎を剥き出しにしてキシキシと笑っている様に見えた。

 復讐に燃えているのが、種族の壁を越えて伝わってきた。

 

 美咲は、急な傾斜の階段を全速力で駆け下りた。

 身体の痛みなど、気にしている場合では無い。

 閉じられる扉は閉じ、鍵があればかけ、物があれば倒し、少しでも時間を稼ごうとした。

 

 猫猿達は外壁を登れるが、美咲は登れないので、外に逃げても堀の底以外に行く場所が無く、完全に追い詰められていた。

 全ての部屋を見た訳では無いので、籠城に適した場所など、今の美咲には思い浮かばなかった。

 なにしろ、一階の探索も途中だったのだ。

 

 それでも美咲は、必死に、身を隠す場所を求めて階下へ下りて行った。

 当てもなく砦の中を走り逃げていると、まだ行った事の無い地下へ続く階段を見つけた。

 美咲は、一抹の不安を覚えたが、未踏の地下へと思い切って駆け下りていった。

 辿り着いたそこは、地下牢だった。

 

 堀として掘られた事で、地下にもかかわらず壁の窓から外の光が見えた。

 牢の中には誰もいないし、牢の鍵も開いていない。

 そこは、袋小路だった。

 問題は、閉じこもる扉が無ければ、籠城もままならない事である。

 

 少しでも猫猿達から距離を取りたい気持ちに従ったのが、裏目に出てしまった。

 町で漠然と助けを求めて彷徨った結果、猫猿達と遭遇した時と同じ失敗であった。

 

 美咲が慌てて上の階へ戻ろうとすると、猫猿達が上の階から階段を下りてくる影が見えた。

 美咲の臭いを追って一直線に向かって来たようだった。

 美咲の事を猫猿達は気付かれていないが、今出ていけば鉢合わせしてしまう恐れがあった。

 

 静かに地下牢に戻ると、まさか牢屋に入りたい日が来るなんてと思いながら、何か打開策が無いか、起死回生の一手を探し始めた。

 

 そこには看守が使っていたテーブルがあった。

 だが肝心の牢屋を開ける鍵は、どこにも見当たらない。

 ただ、テーブルの上には、囚人を殴るのに使っていたであろう、他に使用用途が思い浮かばない、使い込まれて赤黒くなった棍棒が無造作に置かれていた。

 美咲は、試しに棍棒を手に持ってみた。

 見た目に反して軽く、これで猫猿達を片っ端から撲殺していくには、力も技術も足りなそうである。

 

 他に何か無いか探すが、壁にある松明を設置する台座には、肝心の松明が無かった。

 床の一部には、藁が大量に詰まれていた。

 囚人の寝床用だろう。

 藁の中に身を隠せるのでは、とも思ったが上手くいくイメージが沸かなかった。

 想像の中で、藁の隙間から猫猿と目が合ってしまった。

 

 いっその事、藁に火でもつければ煙で撃退をとも考えた。

 だが、松明も無ければ火おこしの道具を持っていない。

 美咲は、火なんてライターか電気コンロでしか点けた事が無い現代っ子である。

 せめてマッチが欲しい。

 

 そんな事を考えていると、藁の隙間から見える地面に何かあるのが見えた。

 

 

 なんと、それは地下室への扉だった。

 

 

 この扉だけ、他よりも新しく設置されたのが見てわかった。

 火事の後で設置された物の様である。

 美咲は、藁は扉を隠す為に置かれていたのだろうと思い、藁をかき分けて退かした。

 

 すると、扉には大きく丈夫そうな南京錠型の鍵がかかっていた。

 美咲は地下牢の中を再び見て回った。

 しかし、どこを探しても、南京錠の鍵は見当たらない。

 

 この扉が開かないと、美咲が猫猿達の最後の晩餐になるのは間違いなかった。

 美咲は、全力で扉を開けようと引くが、南京錠のせいで少しも開く気配が無い。

 

 手の平のマメが潰れ、足の裏と腕の傷からは包帯代わりの布越しに血が滲み、腕の傷からは血が垂れて腕を伝った。

 試しに南京錠を棍棒で叩くが、鈍い音がするだけで、表面に傷しかつかない。

 

 血と汗を現在進行形で流す力技の努力も空しく、扉はビクともしない。

 また扉を引くが、手の平の汗と血と体液で手が滑って、尻もちをついてしまった。

 石の床が尾てい骨に当たり相当痛いが、声を我慢して一度手の血を服で拭った。

 もう一度扉を引くが、やはりダメだった。

 

 いつ猫猿達が来てもおかしくない。

 すぐにでも南京錠を開けないと、見つかったら食べられてしまう。

 大きな南京錠の鍵を……

 

「南京錠……」

 

 美咲は、もしかしたらと思った。

 南京錠の輪に棍棒の柄をツッコむと、南京錠の輪に対してテコの原理が働くように棍棒に力を加えた。

 単純な構造の南京錠は、輪に固い棒を入れてテコの原理で引っ張れば開く事があると聞いた事があったからだった。

 遊びの部分が多少動くが、簡単には開かない。

 

 それでも、力任せに引っ張るよりは意味がありそうだった。

 この地下牢にはピッキングの道具も用意されていないようだし、手元の道具で出来る事は他に思い浮かばない。

 美咲は、南京錠の輪に入れた棍棒を、渾身の力を込めて一気に引っ張った。

 使い古された上に風化している木の棍棒なので、そんなに何度も持ちそうも無い。

 それでも鍵は開かなかった。

 

 美咲は、手のひらを、もう一度服で拭った。

 それから、筋を痛めるのでは無いかと言う力を込めて南京錠の輪に通した棍棒を引っ張った。

 だが、それでも駄目だった。

 輪は遊びの部分が動くのだが、もっと力を込めないと開きそうにない。

 

 焦ってくるが、焦る程に思考は狭まる。

 美咲は、まるで大会で泳ぐ前の様に、リラックスしろと自分に言い聞かせた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 脳に酸素を送る。

 

 美咲は息を整えると、今度は棍棒の上に、ペダルを踏む様に足をのせた。

 手だけでダメなら、全身を使う以外に無い。

 

 棍棒がミシミシと音を立てるが、他の手段がもう思い浮かばなかった。

 お願いだから開いてと願った。

 

 一気に足に全体重をかけると、ガチャっと南京錠が音を立てた。

 棍棒は筋に沿って割れて折れてしまい、美咲はバランスを崩して転びそうになるが、今度は堪えた。

 

 美咲が南京錠を確認すると、鍵が開いていた。

 すぐに南京錠を外して床の扉を開く。

 すると、扉の下には地下へと続く暗い階段があった。

 

 その時、地下牢へ続く上階からの階段を下りてくる猫猿達の気配が近づいて来た。

 美咲は、床に現れた階段を急いで降りて行った。

 

 美咲を探しに来た猫猿達は、地下牢へ到着したが、美咲を見つけられないと、地下への扉には気付かずに上の階へと戻っていった。

 クンカクンカと臭いを嗅ぎ、地下牢が獲物のニオイが一番濃いのに、おかしいと思いながら。

 

 地下室へ続く扉の裏では、息を潜めて扉が開かない様に引っ張っていた美咲が、音を殺して深く息をついた。

 そう言えば、この開錠の知識をくれた恩人は誰だっけと思い出した。

 沖縄で旅行鞄の小さな南京錠の鍵を無くした時に、兄がドヤ顔で教えてくれたのを思い出した。

 あの時は、こんなの二度と使う事の無い無駄知識と思っていたのにと思った。

 

 美咲は、扉の内側に備え付けられていた金属製の閂を手探りでかける。

 それから、持って来てしまった折れた棍棒と、大きな南京錠を手に持ったまま、ゆっくりと真っ暗な階段を下りていった。

 

 

 

 階段を降りていくと、そこは、上の階と比べて異質な空間だった。

 

 学校の体育館よりは狭いが、実習教室よりも広い、柱の無いかなり広い部屋で、何かの研究室に見えた。

 建物の下にあるのに砦の重さに耐えている所を見ると、部屋自体相当丈夫なのだろう。

 作りが上の階とは、明らかに時代が違う。

 例えるなら、レトロフューチャーと言う雰囲気があった。

 

 窓は無く、上の階の様に外の光も見え無い。

 だが、見た事も無い生き物のホルマリン漬けが沢山飾られており、その中の何体かが、漬けられた生き物それ自体が発光していて、部屋を妖しく照らしていた。

 他にも、壁には様々な生き物や、その部位に関する手描きの解剖図や、骨格標本がいくつも飾られていた。

 

 階段を降りきると、部屋の奥に何かがあるのが見えた。

 美咲には、大きなガラスの水槽に見えた。

 それは水槽には違い無いが、本来は培養槽と呼ばれる物で、部屋には天井までの高さがある巨大な物がいくつも設置されていた。

 水槽の一つは、既に割れている。

 

 天井を見ると、照明器具らしき物があるのだが、スイッチの場所が分からない。

 照明器具や水槽に付随する機械類を見て、ここには電気なのかは分からないが、なんらかのエネルギーが利用されているのがわかった。

 

 壁に、上で見たのと同じ地形を描いた地図があるのが見えた。

 食堂で見た物よりも地図が小さいが、遥かに精巧に描かれ、所々にマークが記入されている。

 美咲は、地図や解剖図を撮影し、横目に通り過ぎる。

 

 地図は、ここを出られた時に役立つと思った。

 現状出られるのかも怪しいが、諦めていられない。

 解剖図は純粋に興味をそそられたのと、今はどんな物でも情報が欲しいと思ったからだ。

 この世界で、何が役立つか分からないのなら、情報のストックは多いに越した事は無い。

 

 そのまま怪しく光るホルマリン漬けや、何かの臓器、生き物の身体の一部の瓶詰を避けて通り過ぎ、恐る恐る巨大な水槽に近づいた。

 中に何がいるのか目を凝らしてみた。

 しかし、水槽はひどく埃をかぶっていて、中身の全体像を正確には捉えきれなかった。

 だが、確かに中に何かが入っている影が見えた。

 

 美咲が服の袖で埃を丸く拭って中を見ると、培養液につけられた、長い毛の様な物が見えた。

 水槽の台座には、管理用のプレートがはめられ、そこに文字が書かれていた。

 それも見覚えのある文字で、である。

 

「英語?」

 

 視界の端で、自動翻訳と文字が表示された。

 

「……プロト……ギフト?」

 

 文字は所々かすれているが、プロト、それとギフト、二つの英単語だけが辛うじて読み取れた。

 プロトもギフトも翻訳が無くても何となくわかる。

 翻訳には、それぞれ「試作」と「贈り物」と書いてあった。

 

 他には、数字の羅列「906ー144ー7755」を読み取る事が出来たが、意味が分からなかった。

 何かの管理番号なのかなぐらいしか思い浮かばないが、法則が分からない。

 

 他の水槽の管理表には、アジャスティング○と、○の中に数字が入るプレートを持つ水槽が三つあるが、一つは割れ、後はどれも中に培養液が満たされているだけで空だった。

 アジャスティングの翻訳には「調整」とあった。

 

「試作と調整? 贈り物の?」

 

 他に何か無いかと見ていくと、沢山並ぶテーブルの上に虫食いだらけの日誌が置かれていた。

 どうやら他の地図や解剖図と同じく、羊皮紙で出来ている。

 手書きの文字だが、やはり文字は英語だった。

 

 置いてあった日誌には、繰り返し「エレノア」と言う名前が出てきた。

 それぐらいは翻訳が無くても美咲にも分かったし、逆に言うと虫食いが酷すぎて、自動翻訳では、それぐらいしか分からなかった。

 

 一度、自動翻訳をオフにすると、虫食いだらけの英語の日誌が目の前に現れた。

 未翻訳の古い洋ゲーを葵がプレイしているのを横で見ている時の気持ちが蘇り、説明係が欲しいと葵を思い出した。

 

「ほんと、会いたいよ……」

 

 学校での英語の成績が良くない美咲だが、分からないなりに調べると、名前の主は日誌を書いた人間とは別人の様だった。

 他には、実験の記録らしい記述が延々と続き、日誌は途中で終わり、後半のページは白紙である。

 

 日誌の表紙を見ると、プロジェクトナンバーと言う文字と、数字の羅列があった。

 まさかと思い、日誌を持って水槽の前に移動した。

 

 すると、プレートのナンバーと日誌のプロジェクトナンバーは、「906ー144ー7755」で合致していた。

 脱出ゲームの謎解きにも似た小さな達成感を感じていると、地下室に続く扉の外で物音がした。

 外の気配に息を潜めると、扉を壊そうと何かで叩く音が聞こえてきた。

 

 美咲は、今は謎解きをしている場合では無いと、何か武器になりそうなものが無いか、部屋を改めて探索し始めた。

 どうせなら大きな剣や、出来れば銃みたいな物は無いかと、とにかく武器になりそうな物を探すが、こんなに色々な物が置いてあるのに美咲の期待に応える様な物は見当たらなかった。

 

 バキバキッ!

 扉を壊す音が、部屋の中にまで聞こえてきた。

 

 美咲は慌てて物陰に隠れた。

 その手には南京錠と日誌を握りしめており、折れた棍棒はテーブルの上に置いてきてしまった。

 息を殺して、見つかりませんようにと念じた。

 

 物陰からそっと見ると、猫猿達がゾロゾロと地下室に降りて来ていた。

 猫猿達は、砦のどこで見つけたのか、斧や槍を持って武装していた。

 扉も斧で破壊した様子だった。

 

 美咲は「なんであいつ等だけ」と内心抗議した。

 こっちはアウェイなのに、ハンデまでやらないといけないなんて……

 その手の中の南京錠と日誌を見て、絶望が強まるのを感じた。

 こんなので勝てる筈が無かった。

 出口は一ヵ所で、戦っても勝てないなら、美咲に残された道は逃げるしかない。

 

 ところが猫猿達は、美咲には気付かずに、臭いを嗅ぎながら部屋を物色し始めた。

 美咲が通った順に、律儀に移動しているのだ。

 その時、猫猿の一匹が、ホルマリン漬けの瓶を割ると、臭いを嗅ぎ、中身の得体のしれない生き物を食べ始めた。

 それによって部屋の中が薬品の異臭に包まれた。

 これはアルコール臭だった。

 つまり、ホルマリン漬けではなく、アルコール漬けだった。

 

 美咲のニオイは、アルコールにかき消され、猫猿達は美咲を完全に見失った。

 これは予想もしていないチャンスだった。

 

 臭いに味に酔った猫猿達は興奮し、美咲の事など忘れて、瓶詰を次々と力任せに殴りつけ始める。

 一匹の猫猿が、部屋の奥にある大きな水槽を斧で殴りつけた。

 おそらく、それもアルコール漬けだと思ったのだろう。

 金属部分で殴られた水槽には、大きなヒビが入った。

 だが、かなり丈夫に作られているらしく、水槽は形を維持していた。

 

 美咲は、アルコール漬けにされた生き物や何かの一部が犠牲になっている間に、どうにか部屋の外に出て、地下に猫猿達を閉じ込められないか考えた。

 地下室に続く扉は壊されたが、要は通れなくさえ出来れば良いのである。

 保存溶液に使われている濃度のアルコールなら、もしかしたら火もつくのではと思った。

 

 その間も、水槽のヒビから溶液がチョロチョロと抜けて、水位と同時に水槽の中身がゆっくりと降りて来ていたが、それを気にする者は誰もいなかった。

 

 猫猿達は、瓶を次々と床に叩きつけて割っては、浴びる様に瓶の中をムシャムシャ食べていく。

 火さえ用意出来れば、アルコール塗れの猫猿達を部屋ごと焼き殺せるかもしれない。

 

 正当防衛とか過剰防衛の話では無く、生きるか死ぬかの戦いだと、美咲は自分に言い聞かせた。

 この期に及んでも常識や良心が邪魔をするが、もう生き残る為なら形振り構っていられなかった。

 猫猿達に捕まれば、美咲もムシャムシャと食べられてしまうのだ。

 

 iDで緊急マニュアルを開いて火おこしを選ぶと、緊急時の火おこしの仕方が、美咲の視界に動画で流れ始めた。

 

「可燃性の物が無い所で、木の枝を……」

 美咲にだけ聞こえる音声解説が同時に流れ始めるが、そんな説明動画を悠長に見ていられない。

 インターネットが使えれば、もっと早いのだが、無い物ねだりをしていて死にたくない。

 今ある手元の知識だけで対処しなければならない。

 

 iDに内蔵されている辞書で発火を引いて他には無いかと探す。

 集光発火……却下、落雷……却下、と言う風に役に立つ情報が検索出来ない。

 しかし、すぐにサポートコンシェルジュAIのロッテが、マッチの原料がリンであるという情報をもじもじしながら「もしかして」と出して来た。

 実によく出来たメイドだと美咲は喜ぶが、バケツ60杯の尿を蒸発させて発見したと言う説明をロッテが始めた為「そんな量出るか!」とウィンドウを閉じた。

 そもそも蒸発させる火を起こせた時点で、尿に用が無くなるでは無いか。

 

 少し混乱したが、この部屋になら、リンぐらいどこかにありそうだし、幸い、瓶の表記は英語書かれているので自動翻訳を使えば読む事もできる。

 マッチやライターの類があるに越した事は無いが、どこかにリンが無いかと、美咲はコソコソと部屋の中を、物陰を移動し、出口に向かいながら探し始めた。

 

 部屋の隅に、沢山の瓶が並んでいる棚があった。

 視界をiDの機能でズームして見ると、色々書かれたラベルがすぐに翻訳され、リンが入った瓶が見つかった。

 まだ天に見放されていないと思った。

 他にもアルミニウムや酸化鉄等が書かれているが、美咲の目にはリンしか入っていない。

 

 とにかく、あの瓶を猫猿に投げつければ、うまくすれば火が付き、それが周囲に引火する筈である。

 リンは自然発火するぐらいには燃えやすいらしいし、少なくとも、粉が散らばるだけで終わる事は無い。

 美咲は、学校の授業で、リンは有害と聞いた事があった。

 何の役に立つのか分からずに聞いていた授業だったが、それが今まさに役立とうとしていた。

 

 コソコソと棚の下まで移動してくると、猫猿達の様子をうかがった。

 まだまだオードブルは豊富らしく、夢中で腹を満たしているのが見える。

 

 リンが入った瓶は、棚の上の方で、取る時に猿達に見つかる訳にはいかない。

 タイミングを見計らって、一気に手を伸ばして瓶を掴む必要がある。

 持って来てしまった日誌をズボンに押し込み、これも持って来てしまった南京錠をそっと床に置いた。

 

 どのタイミングで手を伸ばすのか。

 

 その時、猫猿達が瓶を床に叩きつけ始めた。

 食事を次のメニューに進む気だろう。

 

 チャンスは、今しかない。

 美咲は思い切って手を伸ばすと、リンの瓶を掴み、すぐ物陰に隠れた。

 

 見つかった?

 

 猫猿達の方に、変化した様子は見られない。

 美咲は「よしっ!」と思った。

 心の中でガッツポーズし、南京錠を拾うと、そのまま静かに出口に向かった。

 

 そんなに、身を乗り出したつもりは無かった。

 油断したつもりも、自分では無かった。

 

「いっっっ!?」

 

 美咲は視界で火花が弾け、その場に受け身もとらずに倒れ込んだ。

 突然の事に混乱するしかない。

 

 リンの入った瓶は、そのまま握っていたが、南京錠が床に落ちた拍子に、床石とぶつかり、本物の火花を散らした。

 

 

 

 美咲の頭を襲った突然の鈍痛。

 

 猫猿の一匹が、美咲に気付き、アルコール漬けの瓶を絶妙なコントロールで投げていた。

 実に良い肩をしている。

 音も無い飛び道具は、美咲も予想できなかった。

 

 瓶は美咲の頭に大きなコブを作り、床で割れて中身が散らばった。

 瓶の主だった不細工な魚の死体と目があった。

 美咲がアルコールの水たまりに浸かりながら見上げると、嬉しそうに美咲を見下ろす猫猿達が近づいて来てくるのが見えた。

 

 足掻こうにも、美咲の身体は、素直には言う事を聞かなかった。

 軽い脳震盪を起こしている。

 あと、アルコールの、ニオイで少し酔っていた。

 

 猫猿の一匹が、美咲が握っていた南京錠とリンの入った瓶を遠くに蹴り飛ばすと、腕を踏みつけて動けない様にした。

 直後、錆びたナイフを美咲の左腕に突き立てた。

 

「-----っああああ!?」

 

 美咲は、あまりの激痛に言葉にならない叫びをあげた。

 酔いも一気に醒める。

 

 iDが自動で緊急連絡を入れようとしているが、圏外なのでどこにもかからない。

 

 刺されたのは、美咲が猫猿の腕に刺した個所と、律儀にも同じ所だった。

 猫猿は、ナイフを、グリグリを奥へ刺し込んでいった。

 錆びていて切れ味が良くない為、肉を切るのに抵抗があり、一気に深くは刺さっていかない。

 床には濃い赤色が広がり、濃厚な鉄の臭いが加わった。

 

「ぐっ、うううう……」

 

 iDによる使用者の状態表示で、視界に人の形の図が表示され、左腕が真っ赤に点滅している。

 左腕、重傷、感染症、破傷風の恐れありと、怖くて知りたくない情報が次々に表示された。

 美咲は、歯を食いしばり、痛みに涙が流れる目を閉じた。

 

 iDの表示が消え、視界が暗闇に包まれる。

 これが夢なら、覚めるチャンスは、きっと今しかない。

 お願いだから、夢なら覚めてと願った。

 

 しかし、悪夢は覚めず、開けた瞳に映ったのは、すぐ近くにまで顔を近づけた猫猿の凶悪な笑顔だった。

 始めて聞く、ケタケタと楽しそうな笑い声を響かせ、他の猫猿達も楽しそうに仲間が美咲を嬲る光景を見ていた。

 そこにあるのは、一方的な暴力だった。

 

 iDが自動で緊急連絡のリトライを発信するが、それはどこにも届かない。

 

 猫猿達は舌なめずりをすると、美咲の服を無理やり破き始めた。

 下に着ていた水着には服と言う認識が無いらしく、猫猿は水着に少し戸惑っていた。

 だが、食べやすい様に皮を剥いている感覚だろう。

 腹にあいた水着の穴を見つけると、爪を引っ掛けてジワジワと穴を広げて楽しみ始めた。

 もう少しで胸が露になるが、美咲は抵抗出来ず、されるがままに脱がされていくしかない。

 穴が広がっていく水着と、ボロを辛うじて纏った状態で、美咲は動かない身体で、本格的に嬲られ始めようとしていた。

 

 美咲があまりの恐怖に失禁するが、猫猿達はケタケタと笑い、余計に興奮して構わずに続けた。

 この状況でも、美咲はまだ諦めていなかった。

 仮に見物客がいたら、その誰の目にも、猫猿達は美咲の身体を、たっぷりと時間をかけて楽しんでから、食事を楽しもうと考えている外道、下種の類だとわかるだろう。

 しかし、美咲には、そういった発想自体が思い浮かんでおらず、殺される事、ただ純粋にそれだけを恐れていた為、自尊心では無く生存本能に突き動かされていた。

 塔の上では楽に死にたいなんて考えが浮かんでも来たが、この状況で殺されるのは、正直まっぴらごめんだった。

 意地でも足掻いて、こんな奴らの思い通りになんて絶対になってやるものかと思っていた。

 

 美咲は、言う事を聞かない身体を、アナログに確認した。

 ナイフが刺さっている左腕は、痛むが指先の感覚まであり、神経も腱も無事だった。

 しかし、痛みで力が入らない。

 

 まだ大怪我を負ってはいない右手で、辛うじて脳震盪から回復してきた指を使って床を弄った。

 手に、割れた瓶のガラス片が当たったのを感じた。

 猫猿達は、気付いていない。

 

 ガラス片を手の平の中にそっと隠した。

 相手は七匹もいるのだから、怯ませたらすぐに逃げ出さないといけない。

 美咲に馬乗りになっている猫猿が、美咲の顔を舐めまわそうと顔を近づけた。

 

 今しかない。

 

 ガラス片を握りなおすと、美咲は力を振り絞って、猫猿の目を一気に突こうとした。

 しかし猫猿は、寸での所で今の美咲が持てる全力の攻撃を、腕を掴んで止めてしまった。

 

 猫猿の大きな目が忌々し気に細められた。

 

 すると猫猿は、そのまま美咲の右腕を力任せに握り絞めた。

 鈍い音を立てて骨が折れると、美咲の手からガラス片が零れ落ちた。

 

「っああ!?」

 

 そこで、美咲の策が尽きた。

 

 馬乗りに抑え込まれ、両腕は使えず、もう殆ど動けない。

 なのに、まだ意識だけは、はっきりしていた。

 

 しかし、美咲の心は、この期に及んでまだ折れていなかった。

 意識がある限り、諦めるなと自分に言い聞かせた。

 噛みついてでも、最後まで抵抗してやると思った。

 

 美咲の反抗的な態度など、微塵も気にせず、猫猿の一匹がナイフが刺さったままの美咲の腕をつかむと、高くに掲げた。

 美咲は、力無くエビぞりの様な状態のまま無理やり起こされ、猫猿の腕に体重を預けていた。

 折れていない方の左腕がミシミシと悲鳴を上げ、刺された傷口からはどす黒い血があふれ出した。

 プツプツと、ナイフで切れかかっていた腕の筋肉が千切れていくのが分かった。

 

 視界の端では、赤い文字で止血してくださいと点滅表示が出るが、もはや邪魔でしかない。

 

「ああああああっ!」

 

 激痛に思考が支配され、早く地獄から解放されたいと本能が騒いだ。

 猫猿は、呻き叫ぶ美咲を、水槽の前にある開けた場所へ引きずっていくと、そこに置いてあった手術台の様な作業台を、邪魔そうに乱暴に倒した。

 猫猿達が、お楽しみを始めようと下品に笑うと、美咲を乱暴に台が置いてあった場所に投げとばした。

 

「がっ」と、美咲は床に叩きつけられ、呼吸が乱れた。

 

 拍子に、刺さったナイフも抜け、血が勢いを増して一気に流れ出ていくのが分かった。

 iDには、失血の致死量を警告するメーターが表示され、何ミリリットルが流れ出たかが死へのカウントダウンの様に表示されていた。

 

 床に叩きつけられた拍子に、美咲の鮮血が水槽の台座にある装置に付着すると、装置が勝手に動き始めた。

 

 猫猿達は、さっそく宴を楽しもう美咲の身体に群がった。

 美咲の柔肌を舐めまわし始め、美咲が動く手足をバタつかせると、猫猿の四匹が美咲の四肢を押さえた。

 息の荒い猫猿達は、大したチームワークを見せた。

 美咲は、耐えがたい不快感にも、痛みにも、歯を食いしばる事しかできなかった。

 

 美咲の足を押さえていた猫猿達が、その足を無理やり広げさようと引っ張って来た。

 力が強くて、とてもじゃないが抗う事が出来ない。

 

 その時、破られた服と一緒に、床に落ちた日誌が目に入った。

 美咲は、倒れたまま上を向くように、後ろを見た。

 希望の光を失いかけていた美咲の瞳に、小さな光が戻る。

 

 瞳には、ヒビが入った水槽が。

 そしてプレートのプロジェクトナンバー「906ー144ー7755」の数字が映っていた。

 すでに、水槽内の培養液の半分が抜け、巨大な中身が床にまで降りてきて、影を作っていた。

 

 その時、水槽の中の巨大な物が動いた。

 その事に、その場でただ一人、美咲だけが気付いていた。

 水槽の中身は、アルコール漬けの怪しい生き物達とは違って、まだ生きていた。

 

 美咲は、勇気を振り絞った。

 これは、美咲の出来る最後の悪あがきであり、正真正銘の一か八かだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ハローエレノア

「エレノア!」

 

 美咲は叫んだ。

 それは、部屋にあった日誌に書かれていた名前だった。

 

 猫猿達は、まだ騒ぎ抵抗する美咲に驚いた。

 だが、水槽の中に反応は無い。

 

「エレノア! 起きて!」

 

 美咲の叫んだ言葉は日本語だったが、今度は水槽内に反応があった。

 培養液が抜けて、コポコポと空気が入り、外の音が聞こえる様になったからだった。

 叫びに、名前を呼ばれ、それは確かに反応を示した。

 

 猫猿の一匹が、騒ぐ美咲の髪の毛を掴むと、もう一本の手で顔面を殴った。

 それでも、美咲は鼻血をドクドクと出しながら、叫び続けた。

 

「助けて! 起きてよ! お願いだから!」

 

 エレノアが何なのかは分からない。

 それでも美咲は、それを呼び続けるしか事しか出来ない。

 

 もう一度、猫猿が美咲を黙らせようと拳を振りおろした。

 拳は美咲の頬を殴り、口の中が切れた。

 

「ぐっ、たす・・・・・・っ!?」

 

 どんなに殴っても叫ぶのをやめない美咲に、猫猿は口を鼻ごと無理やり抑え込んだ。

 これでは、美咲もモゴモゴさえ言えない。

 と言うよりは、息さえ出来なかった。

 いくら水泳をやっていて肺活量があると言っても、肺一杯に空気を吸い込まないで我慢できる時間には限りがある。

 美咲の意識が酸欠で遠のく中、美咲が拭った水槽のガラスを覗き窓にして、美咲とエレノアの……

 

 

 

 目が合った。

 

 

 

 その瞬間だった。

 水槽の中で何かがガツンガツンと動く慌ただしい音が、部屋に響き渡った。

 すると、水槽のガラスに入っていたヒビが蜘蛛の巣状にドンドン広がっていく。

 

 猫猿達は騒然とした。

 

 水槽のガラスが一気に決壊すると、残った培養液に押し出され、水槽のガラスが床に散らばると同時に、水槽から何か巨大な物体が飛び出した。

 

 美咲には最初、黒い塊に見えた。

 黒い塊は、美咲を殴って口を押さえていた猫猿に勢いよく飛び付くと、美咲から猫猿を引き剥がし、美咲を飛び越えてそのままの勢いで猫猿を自重で床に押し潰した。

 押し潰された猫猿が、驚きの中で乱入者を見ようと目を見開いた。

 その目を、乱入者は長い鎌の様な物を振りおろして、一突きに潰してしまった。

 

 ギャア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!

 

 突然の乱入者に、他の猫猿達も驚愕した。

 目を潰された猫猿は乱入者の脚を掴むと、力任せに投げつけたが、乱入者は壁と床に脚をついて難なく着地すると、間髪入れずに今度は別の猫猿に掴みかかった。

 

 床に倒れたままの美咲には、何が起きているのか殆どわからなかった。

 だが、自分は、何に助けを求めていたのか、その正体を見ようと目を凝らした。

 

 黒い塊は、細長い脚が生え、そこにはいくつかの節があり、細かい毛が生えていた。

 それは、虫の脚に見えた。

 その前脚を、最初に飛びついた猫猿の目に突き刺したのだった。

 水槽から出てきたそれは、鎧の様な外殻に包まれた巨大な蜘蛛だった。

 よりにもよって、美咲が一番苦手とする生き物に、美咲は助けを求めていたのだ。

 

 さらに、エレノアが普通じゃないのは、大きさだけでは無かった。

 蜘蛛の顔が本来あるべき部分から、人間の上半身が生えていたのだ。

 長い髪の毛で顔も胸も隠れているが、それは美咲よりも少し年上ぐらいの少女に見えた。

 

 葵や兄が見たら、アラクネと呼ぶだろうが、蜘蛛嫌いの美咲には醜悪なモンスターにしか見えていない。

 美咲がエレノアと呼んだ半分蜘蛛の少女は、猫猿達が武器を拾い構えて威嚇しても怯まず、牙をむき出しにして『ふううぅ』と野生動物の様に、姿勢を低くして猫猿達に対して威嚇し返した。

 

 エレノアの巨体と跳躍力、それと仲間の片眼を奪った外殻で覆われた脚を警戒して、猫猿達が美咲を放置し、エレノアから距離をとった。

 するとエレノアは、猫猿から奪った美咲を、人の腕で軽々と抱き上げた。

 人の部分は、美咲と同じぐらいの大きさだが、蜘蛛の下半身のボリュームで結構な高さがあり、美咲の足は宙に浮いた。

 骨折した腕が抱き上げられた拍子に傷んだが、美咲はそれどころでは無かった。

 

「……た、食べるの!?」

 

 美咲の目には恐怖が浮かんでいた。

 モンスターから助かろうとすがった先が、またモンスターだったのだ。

 見方によっては状況が悪化している。

 

 エレノアは、美咲の言葉に返す様に、髪の隙間から美咲の目を見た。

 濡れて肌にはりつく金髪の隙間から見える碧い目は、美咲ではない、別の誰かを見ていた。

 だが、それは美咲には知りようも無い事であった。

 

 エレノアは、おもむろに言葉を発した。

 

『××××××』

 

 美咲は、全くエレノアの言葉の意味が分からなかった。

 視界では、翻訳失敗と表示が出ている。

 

 だが、この状況の中でエレノアについて分かった事があった。

 言語らしき物を喋るのだから、彼女とは意思の疎通が出来る。

 そして、抱きかかえたからには、この状況で猫猿達から美咲を奪うつもりである事だ。

 

 今の美咲には、それだけで十分過ぎる助っ人だった。

 

『×××××××××』

 

 エレノアが美咲を見ると、また何かを言った。

 美咲には言葉の意味が分からなかったし、視界には変わらず翻訳失敗の表示が出た。

 エレノアは、蜘蛛の前脚四本を高く掲げ、威嚇の構えを取り、戦闘態勢を整えると猫猿達を威圧した。

 エレノアに抱えられながら、美咲は息を飲んだ。

 

 先に仕掛けてきたのは、猫猿の一匹だった。

 槍を持って、正面からエレノアに襲いかかってきた。

 

 エレノアは、蜘蛛の腹を股の下から猫猿に向けて曲げると、糸くぼから糸を吹きかけた。

 その不意の目つぶしに、猫猿は顔面を糸で覆われ、その場で槍を振り回し始める。

 蜘蛛の前脚が槍を払い除けると、天井に届く程に高く、もう一本の脚をあげ、猫猿の脳天に一気に突き刺した。

 

 美咲は思わず目を閉じた。

 

 猫猿は頭を刺されて、ビクンビクンと痙攣すると、力無く首から下がダランとなり、やがて動かなくなった。

 エレノアは、猫猿を脚で刺したまま、他の猫猿達に向かって脚を蹴り上げた。

 頭蓋に大穴を開けた猫猿の死体が、脳漿と血をまき散らして斧を持った猫猿の一匹にぶつかった。

 

 猫猿が転倒すると、エレノアは蜘蛛の脚で転倒した猫猿の足首を一突きにし、自分の方に一気に引き寄せた。

 激痛に騒ぐ猫猿が足元に来ると、もう一本の脚で猫猿の胸を床に縫い付けた。

 心臓を一突きにしたらしく、脚を引き抜くと血がダムの決壊の様に傷口からドクドクと溢れ出し、猫猿の瞳孔が開き目からは速やかに生気が失われ、だらしなく舌を出して絶命した。

 

 エレノアの戦闘力は、圧倒的だった。

 美咲を抱きかかえたまま、前脚だけで猫猿を立て続けに二匹も倒してしまった。

 

 間違いなく、頼もしい存在なのだが、美咲にはそれ以上に恐ろしかった。

 このまま猫猿が全滅したら、エレノアが美咲をどうする気なのか、そんな不安が湧いてくるのだ。

 糸で巻かれるのか、生きたままかじられるのか、それとも内臓をとかされるのか、結局食べられてしまうのではないかと、悲惨な最期ばかり想像してしまう。

 

 敵の残りは、大きさと態度から見てこの中ではリーダー格の、美咲を特に目の敵にしている片目になった猫猿と、その手下が四匹だった。

 だが、全てが槍や斧で武装している上に、仲間を失った事で蜘蛛の脚や糸を警戒しながらも、階段を塞ぐように陣取って、かなり厄介な相手だった。

 

 その時、猫猿達がギャアギャアと声をあげ始めた。

 この猫猿達は、仲間同士で会話が出来る事が分かった。

 しかし、視界には自動翻訳が起動する気配が無く、会話として認識していないのが分かった。

 

 二匹がエレノアを足止めする為に残って、残り三匹が地下牢へと登っていった。

 逃げたのなら良いが、あの執念深そうなリーダー格の猫猿が外に行った時に見せた笑いに、嫌な感じしかしなかった。

 

 残った二匹は、近くにあったテーブルを倒して、即席の盾にし、蜘蛛糸に気を付けながら、槍でエレノアの脚のリーチの外からチクチクと突いて来た。

 けれども、エレノアの脚は八本あり、槍とテーブルを退けて残った脚で攻撃する事など簡単に出来る筈だった。

 美咲も、猫猿達もそう思っていた。

 ところが、猫猿の突いた槍が美咲に当たりそうになると、なぜかエレノアがそれを嫌がって守ろうとする事に、猫猿達がいち早く気付いた。

 すると、猫猿達は連携して、隙あらば美咲を狙い始めたのだ。

 

 エレノア一人でならどうにでもなりそうだが、理由は分からないがエレノアは、美咲を守る事を選び続けた。

 猫猿達の思わぬ頭の良さに、血が抜けて気持ちが良くなってきている美咲は、素直に驚いた。

 もちろん、そんな感心している場合ではなかった。

 これは間違いなく、見え見えの時間稼ぎである。

 

 エレノアの焦りを感じ取ったのか、猫猿の一匹がもう一匹から徐々に距離を取り、そのままエレノアを挟む様に陣取ろうとした。

 エレノアは、後ろから挟まれない様に、自身が入っていた水槽ギリギリにまで後退した。

 事態が悪くなっているのが、エレノアに抱えられているだけの美咲にも分かった。

 こうなると、猫猿が全滅した時の心配なんてしている場合ではない。

 とりあえずエレノアには勝って貰わなければ困る。

 

 ギャギャギャア!!

 

 その時、地下牢に凱旋の声が響いた。

 階段を下りてきた三匹の猫猿達は、それぞれリーダーはクロスボウを、手下二匹は弓矢を持っていた。

 どうやら、槍と言い斧と言い、今回の飛び道具と言い、猫猿達は砦の武器庫を見つけていた様だった。

 これには、エレノアも驚き、美咲の顔も一気に青ざめていった。

 

 

 

 猫猿の手下二匹が、順に弓矢でみさきエレノアを狙い撃とうとする。

 

 それに対して、脚四本を身体の前に盾の様に構え、エレノアは自身と美咲を守った。

 矢が飛んでくるのなんて、薄暗い中で、動体視力で止めたり避ける事は、簡単には出来ない。

 エレノアの脚の、装甲の様な外殻が鏃を難なく弾いたが、守りに徹した瞬間に、エレノアの蜘蛛の腹に、リーダー格の猿が放ったクロスボウの矢が命中した。

 

 弓矢とクロスボウの矢では、太さも威力も桁違いだった。

 外殻の当たった角度が良かったのか、小さなヒビが入るだけで貫通せずに矢は床へとそれた。

 

 リーダー格の猫猿は舌打ちした。

 リーダーに続けと、隙を突いた猫猿の一匹がエレノアの人間部分の腰に槍を突き刺した。

 傷口からは、赤い血があふれ出し、エレノアは悶絶しながらも蜘蛛の足を使って槍が深く刺さる前に素早く退けた。

 猫猿達は、またギャアギャアと嬉しそうに騒ぎ始めると、情報共有をしたのか、途端に弓矢で美咲を狙い始めた。

 エレノアは、前脚全てを使って盾を作るが、今度はクロスボウの矢が前脚の一本、右前部の外殻を貫通して突き刺さり、血が飛び散った。

 

『ふうううぅ、ふうううぅ』

 

 エレノアの呼吸は、痛みに荒くなった。

 攻めようと前に出ても、テーブルの盾と槍で押し返され、どれかの相手をしていると、別の攻撃が飛んできた。

 エレノアが攻めようとすると美咲が狙われ、無理やり防御姿勢を取らされ、そこから狙い撃ってくるクロスボウは、基本的に防御不能だった。

 硬い外殻にも傷やヒビが入り、角度が悪いと貫通して刺さるのだ。

 

 美咲を抱えながらでは、どう考えても飛び道具と数の暴力を相手にしては、エレノアに分が悪かった。

 ここまでハッキリと美咲が狙われると、美咲の中で曖昧だった疑問に一つ答えが出た。

 美咲は、ようやくエレノアが自分を猫猿達から守っている事に確信が持てた。

 同時に、会って間もないエレノアが命がけで美咲を守ろうと死力を尽くしている事に、新たな疑問と申し訳なさが生まれた。

 

 美咲がエレノアに感じた第一印象は、知っての通り良い物では無かった。

 蜘蛛の下半身を見ると、抱きかかえられて守られている今でさえも抵抗を感じる。

 無意識でも、全身に鳥肌が立ってしまう。

 こんな状況で無ければ、蜘蛛嫌いの美咲はエレノアに近寄りもしない筈だった。

 

 そんな相手とは知らないとは言え、初対面の他人を命がけで守っているエレノアの動機が気になった。

 だが、それ以上に、エレノアに対して失礼で最低な自分が何も出来ない状況に、いてもたってもいられなかった。

 

 美咲としては、助けてくれているエレノアを、既に裏切っているのだ。

 エレノアが助けてくれようとしているのならば、自分も何とかしなければならないと思った。

 それが、美咲とエレノア、二人の窮地なら、なおさらである。

 だが、武器を持たず、既に傷だらけの美咲には、何も出来ない。

 

 そんな事は百も承知だった。

 それでも美咲は、何が出来るか必死に考えた。

 

 ここまでずっと猫猿達は、執拗に美咲を狙ってきていた。

 それは間違いなかった。

 

 つまり、美咲を囮にすれば、確実に食いつく筈である。

 その隙に、エレノアは何が出来るだろうか?

 

 その時だった。

 

 美咲がいなければ、エレノアは自分だけを守れば良いし、両手だって使えると思った。

 気が付けば美咲の思考は、目的が当初のそれとは別の何かにすり替わっていた。

 

 この世界に来てからずっと、家に帰る事、生き残る事を求め、願った。

 エレノアの名前を叫んだのも、ただあの場で助けてくれる存在にすがりついただけである。

 それが、ここに来て、エレノアに身を挺して守られて、それよりも求めているものが生まれた事に気が付いた。

 

 エレノアは、美咲を助けなければ、ここを生きて出られるのでは、と思った。

 

 そもそも、エレノアを巻き込んだのは美咲なのだ。

 勝ち目が無いのなら、何も一緒に死ぬ必要は無い。

 言葉も通じないのに、助けてくれた。

 名前も知らない他人の為に、目覚めたばかりで身体を張っているのだ。

 

 それも、助けようとした相手は、心の中で恩人の身体を気持ち悪いと感じていたら、救われる筈がない。

 エレノアには、美咲を守らなければいけない義務も責任も無い筈である。

 

 美咲は、エレノアの腕の中で、エレノアに話しかけた。

 

「わ、私が、囮になる」

 

 声が震えていた。

 

『××××××!』

 

 エレノアが何を言っているか分からないが、通じたのだけは分かった。

 エレノアも、美咲の今にも泣きそうな、思いつめた表情で察した様だった。

 きっと、諦めるなって言ってると美咲は思った。

 言葉の通じない二人は、気が付けば言葉以外の全てで対話していた。

 美咲とエレノアは、お互いの目で、声で、行動で、息遣いで、お互いが何を考えているのか感じる事が出来ていた。

 

「行って」

 

 美咲は、そう言うと素直には動かない自身の身体をよじった。

 不意を突かれたエレノアの腕から、美咲が崩れ落ちる様に逃れた。

 

 怖いが、動かずにはいられなかった。

 猫猿も、武器も、エレノアの蜘蛛の部分も、全てが怖かった。

 でも、それ以上に怖かったのは、食べられる事でも、殺される事でも無い。

 さっき会ったばかりの、名前しか知らないエレノアと言う少女の期待を裏切る自分のままで死ぬ事の方が何倍も怖かった。

 

 それをエレノアが、知らないし、知る術がないとしてもだ。

 そんな事エレノアは求めていないし、独りよがりなのは分かっていた。

 それでも、美咲は、エレノアに対して不誠実なまま死ぬ事だけは、許せないと思ったのだった。

 

 美咲が辛うじて前のめりに体制を維持すると、猫猿のリーダーがエレノアが美咲を誤って落としたと思い、嬉しそうにクロスボウを向けた。

 クロスボウのリロードには、時間がかかる。

 エレノア一人なら、クロスボウが再発射されるまでの間に、状況をひっくり返せるかもしれない。

 それに、矢が狙いを外せば、美咲だって生き残れるかもしれない。

 

 そう自分に言い訳をして、美咲は賭けた。

 本当は、エレノアだけでも、生き残る事を願いながら。

 

「巻き込んでごめん……」

 

 狙いを定めた猫猿のクロスボウから、矢が発射された。

 美咲を狙った矢は、美咲の胸目がけて飛び出した。

 避けられない。

 美咲は、死を覚悟し、目を閉じた。

 

 ここまでかと思った。

 最後の言葉が、伝わる事の無い謝罪で終わる人生だなんて……

 

 

 

 目を開けると、美咲は、まだ生きていた。

 当たる直前に立ちはだかったエレノアの脚に突き刺さって、クロスボウの矢は止まっていた。

 エレノアは、黙って美咲を拾い上げると、猫猿達の攻撃に再び耐え始めた。

 

「なんで!?」

 

 意図は通じたはずなのに。

 言葉が通じないのがもどかしかった。

 

 エレノアにとって、美咲には助ける価値が無い事を伝えたい。

 それは、不思議な感覚だった。

 

 エレノアの事を、嫌われたいぐらいに嫌いなら、利用して助かって、永遠に別れれば良い。

 それに、エレノアが負けると決まった訳ではない。

 今の美咲にとって、一番楽な選択肢は、エレノアが勝手に助けてくれるのを、ただ待つ事である。

 なのに、それを選ぶことが、どうしても出来ない。

 

 美咲は、頬を涙が伝うのを感じた。

 今まで流したどの涙よりも辛かった。

 

 エレノアが美咲を抱きしめる力は、さっきよりも強くなっている。

 そこに息苦しさは無く、美咲を二度と落とさない意志が感じられるのだ。

 それが伝わると、美咲は余計に辛くなった。

 

 この感覚は、美咲も知っていた。

 それでも、こんなに強く感じたのは生まれて初めてだった。

 

『×××××××××、×××××……』

 

 エレノアが呟いた。

 意味は分からないが、美咲に向けられるエレノアの目には葛藤が見えた。

 

 美咲の涙を見て、エレノアは、自身の顔にかかっていた髪を、フルフルと首を上へ伸ばす様に顔を揺らして左右に分けた。

 美咲はエレノアの髪に隠れていた顔を、まっすぐ見つめた。

 ずっと日の当たらない水槽の中にいたのか、シミ一つない透き通る様な白い肌で、人形の様に整った顔立ちの少女だなと、美咲は思った。

 

 エレノアは、美咲の目を見た。

 

『エレノア』

 

 そう、自分の名前を言って、おでこをコツンと美咲のおでこに当てた。

 この時、エレノアは猫猿達に対して、反撃も含めて一切の攻撃を止めた。

 猫猿が隙有とばかりに弓矢でエレノアの上半身を狙い撃つが、守りにだけ徹する事を決めたエレノアに前脚で防がれ、傷を負わせられなかった。

 

 こんな状況なのに美咲は、目の前の少女と友達になろうと思った。

 どんな姿形であろうと、友達になりたいと思えた。

 エレノアの全てを受け入れよう。

 下半身が何でも関係ない。

 

 そう思えた瞬間、美咲は救われた気がした。

 これは、助けてくれたエレノアに相応しくない自分を変える、エレノアに与えられたチャンスだと思った。

 

「み、美咲」

 

 それが、どんなに残り少ない時間だとしても。

 エレノアに対して恥ずかしくない人間でありたいと思った。

 

『ミサキ』

 

 エレノアは名前を繰り返した。

 

「美咲」

 

 美咲は首を縦に振った。

 エレノアの目には、一つの決意がある事が美咲にも見て取れた。

 

『ミサキ、×××××××、×××……』と、美咲には分からない言葉を囁いた。

 

 美咲には、ごめんと謝っている様に聞こえた。

 

「え、ええ!?」と美咲が言い終える間もなく、エレノアの唇が美咲の唇に触れる寸前まで近づいた。

 

 唇の隙間からは、鋭い牙が顔を覗かせるが、不思議と怖さを感じない。

 全てを受け入れると腹をくくったからか、それともエレノアの牙が八重歯の様に可愛く見えたからか、美咲は分からない。

 近づいたエレノアの身体は培養液のにおいがしたが、それとは別に、遅れてエレノアのにおいを感じた。

 美咲は、思わずスンスンと嗅いでしまい、甘い、良いにおいだと思った。

 

 そのまま美咲は、空気に飲まれて目を閉じてしまった。

 今置かれている危機的状況とは別の理由で、胸がドキドキした。

 

 そして、これが最初で最後のキスかと思った。

 ちなみに、口の中は血の味でいっぱいである。

 

 しかし、エレノアの唇は美咲の血まみれの唇には一切振れずに軌道を下に変える。

 エレノアからすると、なぜか唇が震えている美咲。

 その、喉元に噛みついたのだった。

 

 エレノアの牙が、深々と美咲の皮膚に突き刺さった。

 

「あ、れ?」

 

 思っていたのと違った美咲の手足は、一度驚きに痙攣すると、すぐに大人しくなった。

 エレノアは、血を吸っている訳では無かった。

 美咲に、牙から何かを注入している。

 それが何かは、説明が無くてもすぐに分かった。

 毒である。

 

 ただでさえ血を流した上に、何も食べていない美咲は、毒が身体を巡ってくると貧血も手伝い視界がグルグルし始めた。

 視界の端では、iDが解析不能の異物混入を警告していた。

 

「人体に多大な影響が出る場合があります。最寄りの病院で治療を受けてください」

 

 ロッテがそんな事を言っているが、病院なんてどこにもない。

 

 美咲は、諦めずに足掻いた結果が、これかと思った。

 でも、猫猿達に嬲り殺されるよりは、かなりマシなのかな、とも思った。

 最後に出来た友達の手で、苦しまずに殺してもらうのだから。

 

 

 

 

 

 

 苦しくない。

 

 

 

 痛くない。

 

 

 

 不快さも無い。

 

 

 

 寒さも感じない。

 

 

 

 ただ、走馬灯……みたいなものが見えた。

 

「学校、クラスのみんな、葵ちゃん、お母さんとお父さん、お兄ちゃん……って、なんでお兄ちゃんがトリなんだろ」

 

 ぼんやりと、そんな事を思った。

 

「私、ブラコンなのかな? どっちかと言えば、お兄ちゃんの方がシスコンだったと思うけど」

 

 そんな事を思っていると、走馬灯なのに長居する兄が、何か言った。

 

「美咲が×××××××××××」

 

 夢でも言っていたなと思った。

 

「もう一回、ゆっくり言って、そしたら思いだせそう」

 

「美咲が、強く願えば」

 

「うん」

 

「絶対、叶うよ」

 

「なんだぁ、いつもの気休めだなぁ」

 

 美咲は、思い出してしまえば、こんなものかと思った。

 

「大丈夫だから、いつもみたいに、声に出して」

 

 兄は続けた。

 声に出してと、美咲に兄はいつもそう言っていた。

 言わなくてもいつも美咲を心配してくれたが、言えば何でも相談に乗ってくれた。

 

「うん、ありがと」

 

「どうしようもなくなったら、助けを呼ぶんだぞ」

 

「うん」

 

 お兄ちゃんは、本当に心配性だなと思った。

 

「絶対、駆け付けるからな」

 

「うん」

 

 でも、それはちょっと無理かもしれないと思った。

 

「最後に来てくれてありがと」

 

「最後じゃないさ」

 

 兄は走馬燈の中で、美咲に優しく笑いかけた。

 

 

 

 

「……生き、てる?」

 

 美咲が目を覚ますと、エレノアに首を噛まれてから、僅か数秒しか経っていなかった。

 首の傷からは、そんなに血が出ていない。

 既に出血自体が止まり始めていた。

 エレノアは美咲の首から牙を抜いてからも、変わらず美咲を抱え、守りながら、必死に猫猿達と戦い続けていた。

 

『××××!ミサキ、××××』

 

 戦いながらエレノアは、美咲に呼びかけた。

 すぐに視界では翻訳失敗と表示される。

 何を言っているのかも、言葉の意図も、美咲には通じなかった。

 だが、それで問題無かった。

 ただ美咲の生存を確かめられれば、エレノアは、それでよかった。

 

 美咲は、ただただ目の前の光景に目を見開いていた。

 体感時間が遅くなるのを感じ、音が遠のいていく。

 そして、美咲を除く全てが、スローモーションに見え始めた。

 

 さらに、白っぽい靄が部屋を満たし始めた。

 それは煙では無い。

 

 美咲の目には、お馴染みの絶望的な状況に重なって、部屋中に幽霊の様なビジョンが見えていた。

 

 美咲の意識が落ちていた僅かな間に、エレノアは追加で前脚に矢を何本も受けているし、槍にも何度も刺されて傷だらけで、疲労からか動きも精彩を欠き始めていた。

 さっきまで対処出来ていた事に、エレノアの処理が追い付かなくなってきて見えた。

 

 美咲の目には、輪をかけて絶望的な状況が、スローになった事によって客観的に見えていた。

 その光景に重なって、部屋中に幽霊の様な“何か”が見えるのだ。

 

 世界がスローに感じる体感時間の変化と、視界に広がる異常な光景。

 原因は、どう考えても一つしか考えられなかった。

 

 

 

 それがエレノアの毒なのは、すぐに分かった。

 

 体感時間にiDがついて来れず、極端な処理落ちみたいに、iDの挙動もスローだ。

 しかし、スローな中で自分だけ動ける訳では無く、あくまでも体感時間が変わっているだけの様だった。

 一種のトランス状態なのか、幻覚を見ているのか、美咲は幽霊のビジョンから目を離せなくなっていた。

 

 身体がスローの中では自由に動かないのだから、全神経を観察に集中させるしかない。

 見えている幽霊のビジョン、それが何なのか最初は分からなかった。

 スローの中で暫く見ていると、見える幽霊のビジョンは、この部屋を使っていた過去の人のようだった。

 

 声は聞こえないが、スローの中なのに目まぐるしく動いている。

 どうやら、この場で起きた事がそのまま、高速の残像の様に、美咲の目の前で再現されているみたいに見えた。

 ただし、無数の残像が重なっているのか、像がぼやけて、性別さえハッキリとは分からない物も多い。

 部屋中に無数の重なった人影が蠢いているのは、様々な時間の再現が同時に見えているかららしい。

 物も当時の物が、現在と重なって見えた。

 

「……場所の、記憶?」

 

 この幽霊全てが推測通り場所の記憶なら、この部屋の過去に何があったのだろうと思った。

 すると、ビジョンは絞り込まれ、大人が様々な年齢と人種の幼い子供を、この部屋に連れてくるのが見えた。

 

 子供は手術台に寝かされると、様々な注射を打たれ、苦しみ悶えては動かなくなった。

 大勢の子供が苦しみ、暴れ、動かなくなる姿が、同じ台の上で同時に見える。

 子供達の苦しむ残像が重なり加速する。

 

 10人はすぐに超え、100人なのか200人なのか、あまりにも像が重なっていて何人かは分からない。

 それは終わりが見えない、人体実験の光景だった。

 

「やめて、こんなの見たくない!」

 

 美咲が思うと、別の場面に切り替わった。

 同じ台に拘束された子供の身体が徐々に変化を初めた。

 それも、やはり重なって見えた。

 

 下半身が蛇や蠍の子供もいれば、美咲には何に変わっているのかさえ分からない物に変わっていく子供もいた。

 多くの子供は身体の一部が別の生き物に変わっていくが、中には不定形の何かに変化していく子供もいた。

 

 その中に、台に拘束具で縛り付けられ、苦しみ悶え暴れながら下半身が長い時間をかけて何かに変わっていく一人の少女がいた。

 最初は尾てい骨から尻尾が生える様に背骨が伸び初め、やがて人の足と尻尾が外骨格で覆われると、その中で内臓や脚が形成されていく。

 そのどれか一つとっても、成長痛では済まされない激痛なのだろう。

 少女は暴れようとするが拘束具のせいでそれさえも許されず、身体の変化も止まる事は無い。

 やがて背中の皮膚が割れると、脱皮をして中から現れた少女の下半身は蜘蛛へと変化していた。 

 

「あの子が……エレノア?」

 

 エレノアらしい子供に注目すると、注目したビジョンが目の前で繰り広げられ始めた。

 どうやら、美咲が気になるビジョンへとチャンネルが切り替わるらしい。

 意識の集中は、iDで慣れているせいか、ぎこちないがどうにか出来そうである。

 

 身体の一部が別の動物に変化した子供達は、揃いの服を着せられ、金属製の首輪をはめられ、大人達の言う事を聞かされている様だった。

 逆らった子供は、いともあっさり殺されたり、実験に使われて死んでいった。

 逆らわなかった子供達も注射を打たれ、薬を飲まされ、結局は実験に使われていた。

 

 それからも下半身が蜘蛛の子供には様々な薬が投与され、台の上でその子は、何度も苦しみもがいたが、ビジョンを見る限り、その全てを乗り切っていた。

 

 下半身が蜘蛛の子供には、大勢の友達がいた。

 みんな同じ境遇で、身体の一部が、別の動物だった。

 友達と話をするのと、食事だけが唯一の楽しみみたいだった。

 部屋の中で、大人達がいない時は、今は置かれていない檻の中で笑っている姿があった。

 この部屋では、皮肉にも人種も性別も姿形も超えて、子供達は固い絆で結ばれていた事がわかった。

 

 しかし、その数は次第に減っていき、気が付けば大勢いた下半身が蜘蛛の子供の友達は、たったの三人になっていた。

 

「なに、これ……」

 

 美咲は、あまりにも悲惨な過去の出来事に言葉を失っていた。

 子供の数が減ると、部屋にある瓶詰の数が増えていた。

 あの大人達は、何が目的で、こんな酷い事をやっているのだろうと思った。

 

 すると、またビジョンが切り替わり、場面が変わった。

 生き残った四人の子供達が、この部屋から一度逃亡を図ったビジョンが見えた。

 部屋の中しか見えないので、どれだけの時間を自由に過ごせたのかは分からない。

 

 次の場面では四人共捕まって、例の水槽の中に眠らされて、裸で入れられていた。

 水槽の中で四人の意識は無く、ただ栄養を与えて生かされている様に見えた。

 やはり、入れられた水槽の位置から見ても下半身が蜘蛛の子供がエレノアの様だった。

 大人は水槽の台座にある装置を操作して配管から水槽内に薬を注入したり、何かを日誌に書いたりしていた。

 

 時々、機械を調整して、水槽から子供達を眠らせたまま出すと、身体から様々ンサンプルを取ったり、牙等から毒を採取しては、また水槽に戻す事を繰り返す。

 場面が変わると、無理やり連れて来られたらしい大人達が、腕に注射を打たれていた。

 注射は、ギフトナンバー○○と手書きで書かれた薬品保存用の瓶と、様々な大人の腕の間を行ったり来たりしていた。

 水槽にもギフトと文字があった事を思い出した。

 

「ギフト……」

 

 場面がまた変わると、水槽に入れられていた下半身が蛇の子供が、水槽の外に出された時にどうやってか目覚め、拘束から脱出していた。

 それから、大人に巻き付いて、次々と絞め殺すと、誰もいないうちに他の子供達を助けようと水槽を開閉する機械を操作し始めた。

 しかし、どうやらそれが上手くいかなかったようで、今度は水槽を割ろうと、長い身体を水槽に巻きつかせた。

 大人を軽々と絞め殺した蛇の胴体は、ガラスをギリギリと締め付けて、ついにはヒビが入っていく。

 だが、その中の子供達は眠っていて反応がない。

 ようやく一つの水槽のガラスが割れたが、最初に水槽から出された下半身が蠍の子供は眠りから覚めない。

 次の水槽を壊そうと、下半身が蛇の子供が別の水槽に巻き付くが、騒ぎを聞いて駆けつけて来た武装した大人達に捕まってしまった。

 せっかく水槽の外に出る事が出来た下半身が蠍の子供は、目を覚まさぬまま、あっさりと回収されてしまう。

 

 また場面が変わると、下半身が蛇の子供が手術台の上に拘束されていた。

 下半身が長いので、手術台が五つも並べられ、その全てが床に固定されていた。

 大勢の大人が台の周りを囲み、子供の身体を文字通り尻尾の先から、胸の上まで“開き”始めた。

 

 この場面では、三つの水槽の中の子供達には意識があり、どうやら見せしめと実験を兼ねた、ここの大人達による子供達への躾の様だった。

 水槽がさっきの場面とは別の、現在と同じ物に全て変わっていて、頑丈さが向上している様に見えた。

 

 台の上で解体されていく子供の臓器が、この部屋の中で既に見た瓶の中に保管されていくのが光景に、美咲はゾッとした。

 台の上の子供は、中々死ねずに友達の方を見て何かを言おうとした。

 大声を出せる筈も無いのに、うるさかったのか、大人の一人が蛇の子供に猿轡をはめて黙らせる。

 大人達も、わざと死ねない様に、また、子供の意識を失わせない様に、急所を外し、痛みを消して実験をしている様だった。

 

 その光景を目の前にして、まだ幼いエレノアが必死に水槽を叩いていた。

 下半身が蠍の子供は、辛そうに目を背けていた。

 美咲が、何に変わったのか分からないと思っていた四人目の、他の子よりも年上の子供は、水槽のガラスに手をついて、反対のガラスを足で踏ん張って、全力で押していた。

 しかし、頑丈な物に交換された水槽のガラスは割れない。

 

 大人達は、台の上の子供の頭部を切り取って、他の瓶と同じように保存しようと道具の準備を始めた。

それは台の上の子供を物として扱い、壊そうとしているようにしか見えない。

 どこまでも胸糞の悪い光景である。

 

 水槽のガラスを叩き続けるエレノア。

 その時、手足をついて水槽を破壊しようとしていた子供の全身が限界を超えて力を出し過ぎたのか、自壊し血が溢れ出した。

 培養液が子供の血で赤く染まっていく。

 それでも、その子供はガラスを押す事をやめなかった。

 真赤に染まり、中が見えなくなった水槽は、手の平だけが変わらずにガラスに張り付いていた。

 それを見ていた大人達は、子供の無駄な努力を嘲笑う。

 

 しかし、大人達の余裕はすぐに消え失せた。

 

 ついに水槽のガラスに大きなヒビが入ったのだ。

 慌てた大人達は、水槽の中の子供達を眠らせようと水槽に繋がる配管に薬を注入したが、薬が到達するよりも早く、その四人目の子供は水槽を破壊した。

 

 割れた水槽から降り立ち、大人達の前に立つ血まみれの子供。

 美咲の目には、エレノアや他の子供とは違い、普通の少年に見えた。

 少年は体内の培養液を吐き出すと、息を大きく吸い込み、大人達を見た。

 

 その目は、獲物に狙いを定めた獣のようだった。

 

 それから先は、凄惨な光景だった。

 水槽を破壊した少年が、次々と“素手”で大人達を生きたままバラバラに引きちぎり始めた。

 部屋の中は血の海に変わっていった。

 友達の解体に絡んだ全ての大人を友達と同じ目に遭わせ、少年は台の上で死を待つだけの友達に駆け寄った。

 台の上の友達の猿轡を外し、友達に何か言われると、少年は泣きながら、友達の首を絞めて殺してしまった。

 台の上で殺された子供の顔は、少年に向かって笑いかけたままだった。

 水槽の中で蠍の子供は既に薬が効いて眠らされていたが、エレノアは薬にまだ耐えていて水槽の中から友達が友達を殺す場面を見ていた。

 エレノアは培養液の中だが、美咲にはエレノアが泣いているのが分かった。

 

『ミサキ×××××』

 

 スローでも、着実に時間は経っていた。

 エレノアの語り掛ける言葉は、美咲の耳に届いているが、美咲はビジョンに集中していて聞こえていなかった。

 

 ビジョンでは、水槽から脱出した少年が、死んだ友達から牙を抜くと、自分の首に刺した。

 すると、少年に異変が起き始めた。

 

 見た目の変化では無く、少年が手をかざすと、その手の中に炎が現れ、勢いよく燃え始めたのだ。

 美咲には、その光景が魔法か超能力にしか見えなかった。

 少年は、手の中の火を試しに投げたり、見るだけで周囲の物を手当たり次第に、不思議な力で燃やし始めた。

 

 自分の力を試し終えた少年は、台の上で亡くなった友達の亡骸を見ると、一気に焼き尽くした。

 すぐに部屋は火の海になり、火をつけた少年は、自分を止めようと部屋に入ってきた武装した大人達を片っ端から焼き始め、エレノアに何か言うと、そのまま部屋を出ていった。

 

 火を操る少年が、エレノアに何と言ったのかは分からない。

 だが美咲には、必ず助けに戻る事を伝えている様に見えた。

 

 美咲は、これが砦の火事の原因だろうと思った。

 

 その時、プールで聞いた音が聞こえた。

 より正確には、走馬灯から目覚めてから、ビジョンを見ながらずっと聞こえていたのに、ようやく気付いた。

 あの時、確かに聞いたノイズと似た音だった。

 

 音に集中したらビジョンが乱れてクリアに見えなくなり、すぐに無数のビジョンが重なっている状態に戻る。

 するとノイズが酷くなって聞こえた。

 

 美咲は、この音は、ビジョンとも、この世界に自分が飛ばされた現象とも関係があると思った。

 では、またどこかに飛ばされるのか? どうせなら帰りたい。

 正直に帰りたいけど、だけど今はまだ駄目だと思った。

 

 スローの中、猫猿達がエレノアにとどめを刺すつもりなのか、連携をして一斉に襲いかかり始めた。

 それでもエレノアは、美咲を強く抱きしめ、身を呈して庇い、守ろうとしている。

 ビジョンを見た美咲には、エレノアが本当に助けようとしているのは、きっと自分じゃない事が分かっていた。

 

 なぜ助けてくれているのか、これで合点がいった。

 最初から、美咲を助けようとしているのではなく、エレノアは、過去の自分が出来なかった事を代替品でもいいからやり直して、エレノア自身を救う事に必死だったのだ。

 美咲は、エレノアにとっては、偶然にも過去をやり直すチャンスであった。

 

 スローの世界の中で、声が聞こえた。

 

「それでも、エレノアを助けたいの?」

「助けたい」

 

 そう思った。

 

「まだ、会って数分だよ? 半分人間じゃないんだよ? 嫌いな蜘蛛なんだよ?」

「もう、関係無いよ。それでも」

 

「助けてくれたから?」

「それだけじゃない」

 

「過去を知って、同情しちゃった?」

「したかもしれない、けど、そんなのじゃない」

 

 スローのビジョンの中に、もう一人の美咲が現れ、心に直に質問してきた。

 これは、毒の作用か、貧血のせいか、美咲には分からなかった。

 

「私のせいで死なれたら罪悪感があるから?」

「あると思うけど、ちがう」

 

「じゃあ、一番大事な理由は?」

「……きだから」

 

「自分に言うのに、恥ずかしがるの?」

 

 

 

「気が付いたら、好きになってたの!」

 

 そう、強く思った。

 正直それが、どの好きなのかは分からなかった。

 恋人なんて、いた試しが無いのだ。

 

 それに、この短い時間で、いつ好きになったのかも、自分では覚えていない。

 それでも、エレノアの笑顔を、もっと明るい場所で見れたら素敵だなと思った。

 もし叶うなら、自分に向けてくれたら、どんなに嬉しいだろう。

 それは、どんなに幸せな瞬間だろうか……

 

「声に出して」

 

 美咲は、また兄の声が聞こえた気がした。

 

「助けを呼ぶんだぞ」

「絶対駆けつけるからな」

 

 兄の言葉を思い出した。

 

「わかんない、わかんないけど、エレノアを助けて!」

 

 美咲は、声に出して助けを求めた。

 それが誰に向けた言葉なのかは分からない。

 それでも、もし誰かに届いたら。

 そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 一際大きなノイズが聞こえた。

 そのノイズは最後の瞬間にだけ、ノイズでは無く知らない言葉の歌声に収束して聞こえた気がした。

 

 更に、その歌はプールの時とは違い、その場の全員に聞こえていた。

 ノイズが消えた瞬間、美咲を中心に周囲の空間が、シームレスに切り替わった。

 

 突然、部屋の中に一人増えていた。

 水槽を割った少年のビジョンの形をした影が一人そこに現れ、他のビジョンは全て消えていた。

 

 今の状況に、過去の少年の形をした影だけがレイヤーを重ねた様に突然現れたのだ。

 ノイズがその場の全員に聞こえた様に、少年の影が、その場の全員に見えていた。

 

 

 少年の影が、エレノアに振り向いた。

 美咲は、それが全然違うのに、一瞬自分の兄に見えた。

 

『ジャック!?』

 

 エレノアは、少年の影の暗い瞳に見つめられて息を飲んだ。

 少年の影は、少し驚いた表情を浮かべたが、エレノアに気付くと優しく笑いかけた。

 美咲には、少年がエレノアを迎えに来たように感じた。

 

 エレノアが美咲を見ると、美咲はエレノアを見返した。

 二人共、混乱していた。

 

 少年の影は、猫猿達に向き直ると、ビジョンで見たのと同じ様にゆっくりと手をかざした。

 猫猿達は、突然現れた少年に驚くが、ただの子供と判断すると、次には食べ物としか見れなくなっていた。

 そんな猫猿達を少年の影は、過去のビジョンで大人達に見せた顔をして見つめた。

 獲物を見る目である。

 

 猫猿達は、どちらが狩る側なのか気付きはしなかった。

 

 すると少年の影の、手の平の中に小さな炎が宿り、それは中心に収束し始め、光を放った。

 それがヤバい何かだと分かっていても、猫猿達は何も出来なかった。

 

『××』

 

 少年の影が呟いた。

 美咲でも、何と言っているのか今のは分かった。

 間違いなく「死ね」の一言である。

 

 少年の手の中で圧縮された炎は、一気に爆炎となって砦の中にある空間という空間を、その炎で埋め始めた。

 目の前から炎が迫り、咄嗟にエレノアは美咲を炎から庇った。

 

 すぐに爆炎が晴れると、少年の影は跡形も無く消えていた。

 まるで、全てを焼き尽くす為だけに現れた様に。

 

 エレノアの腕の中で、美咲は目を開けた。

 絶対に焼け死んだと思ったのに、火傷一つ無かった。

 まるで、エレノアの周囲に透明なドームがあったかのように、床には丸く無傷の床が残っている。

 爆炎はエレノアと、エレノアに抱きかかえられた美咲を避けていた。

 

 しかし猫猿達は、そうはいかなかった。

 突然の出火に、高濃度のアルコールを浴びていた毛むくじゃらの猫猿達は、事態を飲みこむ間もなく火だるまになり、床を転げまわる。

 爆炎がぶつかった身体の前面は、一瞬にして炭化している所まであった。

 炎に巻かれると、呼吸によって肺が焼け付き、猫猿達は次々と炎で溺れてやがて動かなくなっていく。

 火は床で水たまりを作っていたアルコールにもしっかり燃え移っており、爆炎が晴れても火の手が更に増していった。

 

 床に落ちていた日誌は、もう消し炭になっていたし、部屋にある薬品の瓶は、軒並み割れて色のついた煙やら有毒ガスを発生させて部屋を満たし始めていた。

 

 全身が現在進行形で焼け焦げていくリーダー格の猫猿は、他の猫猿よりも大分しぶとかった。

 仲間を咄嗟に盾にしてダメージを軽減させた上に、爆炎が晴れるまでは息を止めていたらしく、全身が燃えながらも、まだ窒息せずに立っていた。

 

 ただ一匹燃え残った猫猿は、美咲とエレノアが火傷一つせずに目の前にいても構わずに、身体の火を消そうと、まだ割れていない水槽にクロスボウを打ち込もうとした。

 しかし、矢が水槽に届く事は無かった。

 

 エレノアが、その矢を蜘蛛の脚で綺麗に叩き落としたのだ。

 炎でこれだけ明るければ、何度も撃ち込まれてタイミングに慣れたエレノアには簡単な事だった。

 

 猫猿は、残った片目をいっそう大きく見開き、エレノアの思わぬ邪魔に、憎しみの表情を浮かべた。

 

 エレノアは、猫猿に対して「いーっ」と歯を出した。

 

 猫猿は、燃えながらもクロスボウに矢を再装填しようとするが、弦が発射体制にまで引く力に耐えられず、猫猿の手の中で焼けて弾けた。

 歯を噛み割る程に怒り噛み締めるが、落ちていた斧を拾いあげると、水槽に駆け寄って必死に叩き始めた。

 

 その目は、もはや美咲では無く、今度はエレノアに対する復讐に燃えていた。

 だが、物理的に燃える身体でエレノアに掴みかかれば火傷は負わせられても、殺せないと判断してか、生き残る為の道を選んだのだった。

 

 しかし選択も空しく、水槽の丈夫なガラスにはヒビが入るだけで中々割れず、培養液はチョロチョロとしか漏れ出してこない。

 猫猿の行動を嘲笑うかのように、炎の熱に部屋に置いてあった、まだ辛うじて無事だったアルコールの瓶も割れていき、火の手が更に強まっていく。

 

 美咲がエレノアの腕に抱かれながら部屋の光景を見ていると、エレノアが美咲の目をまっすぐに見つめた。

 その目は、美咲を心配している目だった。

 

「エレノア……ごめん」

『ミサキ、×××××』

 

 美咲の呼びかけにエレノアは答えるが、お互い言葉の意味は分からなかった。

 だが、エレノアは、この惨事を起こしたのが美咲だとちゃんとわかっている様だった。

 

 当の美咲は、何が何だか分からないままこうなってしまっただけで、どうやら自分がやった事というのは分かるが、実感が伴っていなかった。

 恐らく、美咲がどうやってか呼び出した少年の影が、エレノアを助けたのだろう。

 

 エレノアは、美咲を肩に担ぎ直すと、猫猿の焼ける臭いを通り抜け、猫猿が水槽を叩き続けている音を後に、部屋を出た。

 死に損ないの猫猿に構っている余裕はないし、あの状態で猫猿が助かるとは美咲にも思えなかった。

 

 

 

 地下牢に出ると、天井には煙が充満し、床の藁が燃えて足の踏み場も無い状態だった。

 エレノアは、火傷も構わずに炎の上を走り抜け、砦のエントランスに向かった。

 そこは正門で、美咲が外から試した時には開かなかった扉があった。

 内側から見ても鍵の様な物は見えず、エレノアが押してみるが扉はやはり開かなかった。

 美咲は煙に軽くせき込みながら、煙を吸わない様に手で口を押さえ、エレノアに上へ行く様に指で上を指した。

 意味が分かったのか、エレノアは頷くと壁や吹き抜けを蜘蛛の脚を生かしてショートカットし、一気に砦の上まで登りきった。

 

 炎と煙から逃げる様に塔の屋根の上にまで登ると、エレノアは屋根瓦を一枚剥がし、森の方へと投げた。

 かなり距離があるが、森の中に瓦がフリスビーの様に消えていく。

 

 エレノアは、空中をグイグイと引っ張って何かを確認した。

 すると、次には、その何かの上に脚をのせてぶら下がってみせた。

 エレノアに抱えられているだけの美咲は、宙にぶら下がる感覚に驚き、あまりの高さに目がくらんだ。

高所恐怖症では無いが、予告が欲しいと思った。

 だが、言葉が分からないので仕方が無い。

 

 光が当たると、エレノアが塔と森に張った糸の道が揺れてチラチラと反射して見えた。

 美咲は、蜘蛛の脚でぶら下がりながら糸をゆっくりと歩いて行くエレノアの腕の中で、思わず小さな拍手をした。

 初めて、エレノアの下半身が蜘蛛で良かったと心の底から思えた。

 

 視界がさかさまのまま塔の方を見ると、エレノアの血で糸が染まり道が浮き上がっていた。

 でも、これでようやく助かった。

 エレノアの腕の中で美咲は、煙からも無事逃れ、ようやく深呼吸した。

 徐々に頭に血が上りつつあるピンチなど無視して、砦の中で孤独に死ぬ心配から解放されたのだった。

 

 

 

 ギャギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!

 

 今出てきた砦の方から聞こえてきた叫び声に、エレノアと美咲は振り返った。

 全身を炎に包まれながら、片目の猫猿が塔の上まで追いかけてきていた。

 

『「しつこい!』」

 

 美咲とエレノアは、違う言葉だが、意味でハモったのが二人ともわかった。

 エレノアは内心、とどめを刺すべきだったと後悔した。

 

 猫猿は、火のついた斧で糸を切ろうと振りかぶった。

 美咲は思わず目を閉じた。

 

 だが、エレノアの糸は丈夫で切れる気配も見せず、斧をあっさりとはねのけた。

 猫猿は悔しそうに雄叫びをあげながら、斧を口にくわえて、燃えたまま糸を渡り始めた。

 その速度は、木から木に飛び移る手長猿の様に、素早かった。

 

 エレノアは咄嗟に猫猿に糸を何発も吹き付けたが、猫猿は糸にぶら下がりながら身体を左右に揺らして糸を器用に避けながらすぐに追いついてくる。

 猫猿が糸から手を放してジャンプすると、エレノアに直接掴みかかって来た。

 

 燃える猫猿に抱きつかれ、エレノアは熱に耐えながら脚で強烈な蹴りを入れた。

 しかし、相手が近過ぎて足先が使えず、変な体制での膝蹴りになり、猫猿の肋骨を折り、内臓を破壊こそするが、捨て身の猫猿は全く怯まない。

 猫猿は血を吐きながら、口にくわえていた斧を手に持つと、エレノアを殺そうと斬りかかって来た。

 エレノアは対応する為、後ろ脚二本だけで糸にぶら下がりながら、六本の脚で斧を防ぎ、なんとか猫猿を引き剥がそうと蹴りを入れ続けた。

 

 どうにか猫猿の手から斧を払い落とすが、猫猿は素手になっても執念で掴みかかり、エレノアの前脚に噛みついてきた。

 エレノアは、猫猿の頭が動きを止めた好機と捉え、頭を潰そうと別の前脚で狙いを定めた。

 

 

「熱っ!?」

 

 

 猫猿の焼ける脚の指が、美咲の足首を掴んでいた。

 エレノアを狙っていると思い込んで、裏をかかれてしまった。

 

 猫猿がエレノアの前脚に噛みついたまま嬉しそうに笑ったのが、二人にも分かった。

 

『××××!?』

 

 エレノアが驚きに声をあげた。

 

 足首を掴まれた美咲は、猫猿に無理やりエレノアから引き剥がされると、そのまま深い堀へと向かって投げ落とされてしまった。

 驚きのあまり声も出ない美咲を、エレノアは掴もうと精一杯手を伸ばした。

 

 

 

 しかし美咲の手は、エレノアの手をすり抜けた。

 

 エレノアは、空いている前脚も精一杯伸ばした。

 美咲は、手こそ伸ばすものの、その前脚を掴むことを一瞬躊躇してしまった。

 

 それにエレノアも気付いた筈だった。

 それだけでなく、美咲の目にエレノアの下半身に向けた、制御出来ない恐怖があるのも、気付いていた筈だった。

 

 エレノアの笑顔を見たいと思ったのに、自分は何をやっているのだろうと思った。

 あと少しの所で、手も脚も、どちらも届かない。

 

 美咲は、毒とは関係なく、何もかもがスローに感じた。

 

 これで本当に死ぬんだと思った。

 それも、救いの手ならぬ脚を、自ら掴み損ねてである。

 

 美咲には、心残りが出来ていた。

 

 それは、エレノアが救われない事だ。

 エレノアは、救えなかった友達の代わりに、美咲を救おうとしたのだ。

 また助けられなかったら、エレノアは生き延びても落ち込むだろう。

 最後は笑って終わらないと後味が悪い。

 それは、エゴかもしれないが、それでも美咲はエレノアの笑顔が見たかった。

 

 そんな事を思う美咲の耳に、エレノアの叫ぶ声が聞こえた。

 

『ミサキ!』

 

 エレノアが猫猿を纏わりつかせたまま、糸を掴んでいた後ろ脚で、その糸を蹴った。

 

 落下しながら、美咲はエレノアの方を見た。

 エレノアの顔には、微塵の諦めも浮かんでいなかった。

 

「エレノア!」

 

 今度は、ちゃんとエレノアが美咲に伸ばした前脚を握り締めた。

 外殻は硬いのかと思っていたが、表面には細かい毛が生え、硬いには硬いのだが思いのほか弾力があった。

 火傷した個所が、茹でた甲殻類の様に黒から赤に色が変わっており、戦い続けたエレノアの体温で、爪先まで温かかった。

 

 エレノアは、落下しながらも前脚で美咲を引き寄せると、美咲の身体を、隙間なく密着させるように人の腕と蜘蛛の前脚を使って強く抱き締めた。

 

 ギャアギャアギャアギャア!

 

 猫猿はエレノアの脚から口をはなし、落下しながら「道連れにしてやった」とでも言いたげに、勝ち誇って叫んだ。

 しかし、猫猿にとどめを刺さないで砦を出た美咲とエレノアにだけ、詰めが甘いと言う後悔が降り注ぐものではない。

 油断大敵が適応されるのは、平等である事を猫猿は思い知る事となる。

 

 突如、ガクンと反動が身体を襲った。

 

 みんな揃って一緒に深い堀の底へ落ちている筈なのに、エレノアの落下だけが急に止まったのだ。

 自由落下からの急停止による反動は、油断していた猫猿の手がエレノアを逃がすのに、十分な衝撃があった。

 

 急停止の衝撃にも、エレノアは掴んだ美咲の身体を離さなかった。

 

 

 今度は、猫猿の見ている世界がスローになった。

 

 

 エレノアは、猫猿に向かって懲りずに「いーっ」と歯を出した。

 美咲は、結構良い性格しているなと思った。

 

 猫猿は、最後の最後で何が起きたのか訳が分からないまま、歯を出すエレノアと、抱えられたまま猫猿を複雑な表情で見つめる美咲を見上げながら、絶望の表情を浮かべて落ちていった。

 暗く深い堀の底へと吸い込まれ、鈍い音が響くと静かに底を炎で照らしていた。

 

 エレノアは、塔から森に通した自身の血で染まった横糸に、猫猿が近づいて来た時に、その手を糸で固定しようとした。

 糸の狙いは猫猿の手は外したが、横糸には当たっていた。

 それを、そのまま命綱に利用してバンジージャンプまがいの事をしていたのだった。

 

『××××?』

 

「だいじょぶ」

 

『××××……』

 

 お互い言葉は分からないが、何となく会話が成立した。

 エレノアは、スルスルとバンジージャンプに使った糸を登ると、横糸を血で浮き立たせながらなんとか森まで渡りきった。

 

 糸は、森に生える木の太い枝に繋がっていた。

 エレノアの脚が、しなる枝に降りると、指に糸くぼから出した体液をつけて、渡って来た糸を指でピンと弾いた。

 すると、斧の刃も弾いた糸が指で弾いた所でいとも簡単に切れ、風で塔の方にさらわれ、赤い糸はすぐに景色に溶け込んでしまった。

 

 美咲は、その光景を見ながら、今度こそ助かった実感を噛み締めた。

 

 ところが、噛み締めるには少し早かった。

 

 

 ギャッギャッギャッ!

 

 

 聞きなれた声に、二人は町の方に目をやった。

 そこには、猫猿の群が全速力で向かって来ているのが見えた。

 数は、優に百匹を超えている。

 

 エレノアの目には、驚きと動揺が浮かんだ。

 こんな事エレノアには想定外であった。

 七匹でも大苦戦だったのに、いくら何でも多すぎる。

 

 ところが、猫猿の群は、そのまま二人がいる木を素通りし、堀の淵にまで走っていってしまった。

 

 どうやら、片目の猫猿が落ちる時にあげた叫びを聞いて、砦から出る煙を目印に様子を見に来たようだった。

 二人はその場を、すぐにでも離れたかったが、足場の枝の下にも何匹も猫猿がいて、動く事が出来ない。

 木の枝の上でエレノアに抱えられている美咲は、そもそも移動する事が出来ないし、エレノアの巨体が不用意に動いて音でも出せば、猫猿達はすぐにでも気付くだろう。

 

 そうなれば、百匹では済まない相手を、たったのニ人でする事になってしまう。

 

 堀の底を覗き込む猫猿達は、そこで燃える仲間を見つけたのか口々にギャアギャアと会話していた。

 そのうち、一部の猫猿達がゾロゾロと町の方に戻り始めた。

 どうやら、このままやり過ごせそうと二人が思った時だった。

 

 

 ギ?

 

 

 真下で声が聞こえた。

 エレノアが下を見ると、二人のいる木の枝の下に、ほんの数滴の血が零れ落ちていて、一匹の猫猿がそれに気づいたのだ。

 美咲もエレノアも傷だらけで、おそらく二人の血だろう。

 

 猫猿が上を見ると、生い茂る枝葉の上に、確かに何かがいるのが見えた。

 

 

 ギャギャア! ギャギャア!

 

 

 見つかってしまった。

 町に帰ろうとしていた猫猿達も鳴き声の方に注目し、視線がその上に集中した。

 

 居場所がバレたと悟ると、エレノアは木の上の方に登り始めた。

 美咲が下を見ると、森中の木を猫猿達がのぼり、枝と枝の間をジャンプしながらエレノアの方に向かって来ているのが見えた。

 

 逃げ場は無いし、囲まれてしまっている。

 

 美咲は、地下室で見たみたいに、ビジョンが見えないか集中した。

 だが、世界がスローに感じる事も無ければ、ビジョンもノイズも現れない。

 

 そんなタイミングで、空気を読まずに視界にあるiDのウィンドウが点滅していた。

 美咲が視線を合わせて意識すると「深刻なエラーが発生しました」と表示される。

 

 どうやら、失血やエレノアの毒の混入によってインプラントナノデバイスを構成するバイオナノマシンの何割かが失われてしまったらしい。

 お手上げ状態の中、勝手にエラー回復の為にiDの再構成をしますと表示が出た。

 進捗表示バーが左から右へと満たされると「失敗」と表示された後に「再起動します。それでも問題が解決しない場合は、サポートセンターに連絡してください」とロッテが言い美咲はイラつく。

 

 一匹目の猫猿がエレノアの脚を掴んできた。

 美咲は、何も出来ないとしても、今はiDの事を心配している時では無かった。

 

 エレノアが猫猿の顔に糸を吹き付けて、なんとか逃れようとするが、すぐ近くにまで別の猫猿が迫って来ている。

 

 そんな中でiDを当然放置していると、自動で強制再起動がかかった。

 見覚えのある製品名のロゴが表示されると、すぐに起動が終了し、どうやら再構成が成功した様だったが、まったく喜べない。

 

 迫る猫猿の数は増え、エレノアは木のてっぺん付近まで登ってくるが、これ以上は逃げ場がなかった。

 上に逃げようにも、鍾乳石のつららまでの距離は100メートル以上あり、飛ぶ事でもできないと不可能だ。

 猫猿達に対して糸を出し続けるエレノアの蜘蛛の腹は、出し過ぎで痩せてきている。

 いよいよ打つ手が無くなって来た。

 

『××!』

 

 突然、人の声が森に響き渡った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ハローケイミス王国

『××!』

 

 突然、人の声が森に響き渡った。

 エレノアの言葉と同じく、意味は分からない。

 

 しかし、その声の主を探そうと猫猿達の何割かの意識が二人から逸れた。

 その時、エレノアと美咲の視線は、猿達が湧いて来た町に向いていた。

 

 町の方には、気が付けば大勢の人影が見えた。

 似たような格好で隊列を組んで、整列している。

 その姿は、西洋の騎士に見えた。

 

『×××!』

 

 兵士の中の一人が、号令を口にした。

 隊列を組んでいた兵士達は、一斉に抜刀すると、森の中に突撃し始めた。

 

 猫猿達が気付くと、戦う個体もいれば、逃げ出す個体もいた。

 兵士達は、高い士気と練度を見せつけ、猫猿達の数を確実に減らしていく。

 すぐに森の中は戦場と化した。

 

 目の前で繰り広げられる掃討戦に、エレノアと美咲は見ている事しか出来なかった。

 助かったらしいが、実感が湧いてこない。

 

 猫猿からは助かったが、目の前の兵士達が味方なのか敵なのか分からない。

 美咲がエレノアを初めて見た時の気分を、今度は二人で味わっていた。

 

 やがて戦場では、猫猿達は逃げ切った個体を除いて全滅した。

 

 地上に転がる死にかけの猫猿達を、兵士達が一体一体確認してとどめを刺し、死体になった猫猿達を武装していない町民らしき人々が荷車で堀の底に捨て始めた。

 町民の女達は、怪我人の手当てに、戦場を忙しく動き回っている。

 

 木の上から、人々の戦後処理を見ていた美咲は、学校の社会の授業中に見せられた戦争映画を思い出し、気分が悪くなった。

 

『××! ×××××!』

 

 木の下から声が聞こえた。

 声の主を見て見ると、兵士の一人だった。

 明らかに美咲とエレノアに話しかけている。

 

『××××××××』

 

 エレノアは兵士に何か答えると、木を降り始めた。

 美咲が心配そうにエレノアを見た。

 木を降りながら、エレノアは美咲を見返すが、笑うだけで何もしゃべらない。

 しかし、エレノアが降りていくのだから、どうやら、兵士達は敵では無いらしい。

 

 エレノアが地上に立つと、猫猿の死体処理をしていた兵士や町民達が手を休めて集まってきて、周囲を囲んだ。

 みんなエレノアと美咲を見て、勝手に口々に喋っている。

 

 エレノアは、そっと美咲を地面に下ろした。

 

 少しすると町民らしきおばさんが駆け寄ってきた。

 その手には、畳まれた布を持っている。

 おばさんは同情の視線を向けて、美咲とエレノアに「これを」と言って大きな布を手渡してくれた。

 

「?」

 

 美咲は、おばさんが日本語を話した様に聞こえた。

 偶然場面にマッチした似たような発音の、こちらの言葉だったのだろうかと思っていると、美咲にだけ聞こえる声で、突然、頭の中で直接話しかけられた。

 

「美咲様、先ほど新言語のパターン、構造分析を完了しました」

 

 非常に聞き覚えがある、少女の合成音声だった。

 視界を意識すると、視界の端に、美咲のサポートコンシェルジュAIであるロッテが、呼んでもいないのに立っていた。

 

「お気づきかと思いますが、自動翻訳に新言語を適応しています。あと、同時に新言語辞書を作成、常時更新します。意思疎通の為に新言語への発音変換を視界に表示しますので、どうかお活用ください」

 

 いやに流暢に喋る。

 ロッテは言い終えるとニッコリと笑い、視界の外に歩いて行ってしまった。

 ロッテの報告を聞いて美咲は、周囲の人々が話す会話によって、分析のサンプルが一度に手に入ったのだろうと思った。

 

 気が付くと、周囲の人々が話している言葉が全て日本語に聞こえていた。

 すると、こんな話が聞こえてきた。

 

「あの変な恰好、それにキメラ、まさかアレが噂のブリッツか?」

「あの子、フォレストゴブリンに襲われてたのか? まだ若いのに可哀そうに」

「あんな格好で、こんな傷だらけになって」

 

 あんな格好でと言われ、美咲は自分達を見た。

 

 美咲の顔面と腕は血まみれ。

 公衆の面前なのに服装は、大事な所こそ隠しているもののボロボロに破れた水着と、首にかけたゴーグルだけ。

 気が付けば水泳キャップが無いが、それは、まあ、修羅場のどこかで無くした以外に考えられないし、今の美咲には、どうでもいい。

 

 エレノアに関しては、身体が切り傷で血まみれ、蜘蛛の脚に関しては何本も矢が刺さったままである。

 服装に関しては、完全に全裸だった。

 しかし、その態度は堂々としたもので、髪の毛で胸が隠れているからか、手で隠す素振りも見せない。

 

 美咲は、急激に赤面すると、すぐに渡された布をマントの様にして羽織り、全身を隠した。

 骨折している腕が傷むが、羞恥心が勝る。

 布越しに腕の血が滲み、口や鼻から血が点々と滴って布を赤く染めた。

 

 エレノアは美咲を見ると、渡された布を腰にスカートの様に巻いた。

 そっちもだが隠す場所は、そこだけじゃない。

 

「エレノア、もっと隠して!」

 

 美咲は、小声で叫ぶと言う矛盾に満ちた行為をしながら、胸を隠せとジェスチャーした。

 大きな布だから、胸から巻けば人の部分をスッポリと隠せる筈である。

 

「ミサキ、さっきまで…… 言葉がわかるのか?」

 

 エレノアは驚くが、美咲が今伝えたいのは、そこじゃない。

 

「言葉は、その……さっき覚えたから! それより、隠して!」

「頭良いんだな」

 

 言葉が通じているのに、まるで話が噛み合わない。

 

「後で説明するから! 先に隠して!」

 

 美咲の言葉にエレノアは、少し恥ずかしそうに返事をした。

 

「その……もう、隠してるつもりなんだけど……」

 

 そう言うと、布からはみ出した蜘蛛の脚を出来るだけ畳んで、小さくなろうとした。

 

 美咲は、言葉に詰まってしまった。

 エレノアが元々は普通の人間だった事は、ビジョンを見て知っている。

 そのエレノアにとっては、蜘蛛の身体を人に見られる事に抵抗があるらしい。

 

「そんなつもりじゃ……」

 

 美咲は、なんてデリカシーが無いんだと自分に腹が立った。

 

 すると自分が包まっていた布を、エレノアの蜘蛛の背中にかけた。

 これぐらいしか、今の美咲には出来る事が思い浮かばない。

 エレノアが人に見られたくない部分を晒していると感じるているのなら、それを黙って見ているなんて事は出来なかった。

 

「どうして……ミサキは、いいのか?」

 

「いいの。私は、まあ、似たような格好、人に見られるの慣れてるしね。それに、エレノアは……」

 

 そこに、一際派手な鎧を着た人がやってきた。

 フルフェイスの兜で性別も分からない。

 その場にいる全員が、雑談を慎んだ。

 どうやら、偉い人の様だ。

 

「その服装、ブリッツ殿とお見受けする。我々はケイミス王国騎士団、私は団長のラスティと申します。此度はフォレストゴブリンからのイルミナ奪還作戦の為、この地に派遣されました」

 

 声から言って、中年の男性だろうか。

 美咲がそんな事を考えると、騎士が兜を外して顔を見せた。

 兜にも負けずに短く刈り込まれた金髪を逆立てた、中年と言うにはやや若いが、美咲から見れば十分におじさんと呼べる顔が現れた。

 髭は無く、身嗜みには気を使っているらしく、清潔感を感じる顔立ちである。

 

「あ、えっと」

 

 美咲は翻訳されない単語を程よく挟まれる事で、疑問しか浮かばず返答に困った。

 

「ブリッツ殿は、どうしてイルミナに? この件で応援要請は、していない筈ですが」

 

 視界の端からロッテが美咲を覗き込み「ブリッツは不明ですが、イルミナは、すぐそこの町の名前の様です」と言った。

 

「どうして、って……」

 

 美咲は悩んだ。

 正直に異世界の話をするべきだろうか?

 この世界で異世界の人間と言う存在が、現実的かつ常識の範囲に無いと、頭がおかしいと思われる恐れがある。

 だが逆に、常識だった場合は、すぐにでも助けを求めたい。

 

 その時、視界に美咲が指示も出していなければ考えてもいない長文の発音字幕が勝手に表示され、ロッテが「参考になれば」と言った。

 美咲は、確認するとすぐに読み始めた。

 

「ラスティさん。まずは、お礼を言わせてください。危ない所を助けて頂いて、本当にありがとうございました。私は百鬼美咲と言います。氏名が百鬼です。旅をしていたのですが誤って天井の穴から、この近くの湖に落ちてしまい、助けを求めてイルミナに行ったのですが、運悪くフォレストゴブリンに襲われて、見ての通り服も荷物も失って、殺されそうな所を、そこのエレノアさんに助けて貰いました。ですが、隠れていた所をフォレストゴブリンに見つかってしまい、二人共危ない所で皆さんが来てくれたんです」

 

 天井の穴から云々以外、嘘は言っていない。

 

 ロッテが参考と言って提案してきたセリフは、異世界云々は伏せられているが、おおよその事情を説明するには十分な長台詞だった。

 状況も分からない今、助けを求めるには丁度良い塩梅である。

 

 異世界については、徐々にでも情報を引き出してからでも遅くは無い。

 美咲は、棒読みにならない様に台詞を言いながら、猫猿はゴブリンなんてファンタジーな名前だったのかと思った。

 ゴブリンと言ったら、多くのファンタジーの中で弱い部類のモンスターなのに、危うく殺されかけた。

 

 美咲が何を思っているのか等、目の前にいるラスティは想像出来る訳も無く、ただ紳士的に返事をしてきた。

 

「ブリッツではなく、旅の方でしたか。変わった服を着ておられるので、もしやと思ったのですがお恥ずかしい。領内の不祥事に巻き込んでしまうとは、何と言って謝って良いのか言葉が見つかりません。我らがルークス・ルナール王も、領内で起きた不幸を見過ごせる様な方ではありません。どうかケイミスにて身体と心に負った傷を癒してください」

 

 視界の端でロッテが目だけ出して覗くと、美咲が気付いたのに気付き、目を細めて笑い視界の外へと引っ込んだ。

 こうして美咲は、言われるままにお言葉に甘えて、ケイミス王国騎士団の馬車に乗せて貰い、エレノアと共に、一路ケイミス王国へ向かう事となった。

 

 

 

 

 同日、午後。

 

 イルミナの町をフォレストゴブリンの群から奪還したケイミス王国騎士団は、イルミナ防衛の部隊を残して、残りは王都へ向かって移動していた。

 美咲とエレノアは、その馬車列、真ん中を進む幌のある荷馬車の中で揺られている。

 

 ラスティや他の兵士達は美咲だけでも、ちゃんと屋根付きの馬車に乗る様にすすめてくれた。

 だが、美咲がエレノアと一緒に乗りたいと言って、荷馬車に一緒に乗り込んだのだ。

 兵士達も、意地悪でエレノアに荷馬車に乗る事を強要した訳では無く、エレノア一人でかなりの場所を取る為、他に乗る場所が無いのでしょうが無かった。

 

 当然、荷馬車なので座る椅子も無く、荷物も積まれており、乗り心地はお世辞にも良くない。

 しかし、美咲はようやくエレノアとゆっくりと話をする時間が作れそうな事が、単純に嬉しかった。

 早く言葉を重ねて、エレノアの事が知りたくてウズウズしているのだ。

 

「あんた旅人なんだって? えらい肌が綺麗だね。まさか、実は貴族様かなんかかい? この服もえらい変わってるね。そっちのキメラのあんたは?」

 

 結論から言うと、二人がゆっくり話す時間は、ここでは訪れなかった。

 荷馬車の中で、どう見ても医師免許を持って無さそうなお姉さんが、二人の傷の手当をしてくれている。

 傷の手当と言っても、美咲の水着を脱がせて、全身の汚れをお湯で濡らした綺麗な布で拭き、折れた骨の位置を戻して添え木を当て、浅い傷に包帯を巻くぐらいの物で、ただの応急処置である。

 しかし、お姉さんは、その素朴な見た目に反して応急処置の手際は良く、骨もどうやら元の位置に収まっているようで、手当てしなれていた。

 お姉さんは見た所、ただの町娘に見えるが、イルミナに残らなかったのを見ると、別の町の人か、出稼ぎといったところだろう。

 

「あたしは、たぶん、ずっと捕まってたんだと思う。昔、さらわれて」

 

 エレノアが、お姉さんに答えた。

 さらっと重い台詞が聞こえてきたが、ビジョンを見た時から、そんな事だろうとは思っていた為、美咲はそれ程驚かなかった。

 お姉さんは美咲とは別の感覚で、驚いた様子こそ見せるがそれほどでは無かった。

 

「人狩りかい? そりゃ、あんた、大変だったね。でも、もう大丈夫さ。ルナール様に言えば、きっと故郷に帰してくれる」

 

「家は、覚えてないんだ」

 

 お姉さんが、美咲の腕の深い傷口を針と糸で縫おうとすると、それを見ていたエレノアが「もっといい方法がある」と言って蜘蛛の腹にある糸くぼから手の平にジェル状の糸を乗せ、美咲の傷口をピッタリ閉じてから、糸を薄く塗って傷口に蓋をした。

 糸がすぐに乾くと、傷口の上が薄い膜でコーティングされた様になり、傷口もぴったりと閉じられている。

 ようやくちゃんとした手当が行われて、iDの表示も緊急事態だった物が大人しくなっていた。

 傷口が外気から遮断されているらしく、ヒリヒリとした表面の痛みが消えた。

 

「あんた、えらい便利だね。それなら、ケイミスに住めばいい。騎士団なら年中怪我人が出るし、こっちも大助かりさ。旅人のあんたも、この傷が治ったら旅を続けられるさ。ほら、いつまでも裸でいないで、これ着な」

 

 荷馬車の上、幌一枚で囲われた女だけの空間。

 ミイラみたいになった美咲は、質素な服を渡された。

 ドロワーズかズロースと言うのだろうか。

 ハーフパンツみたいな下着にはゴムが無く、腰に紐で固定するだけの物だが、水着よりは包まれている感があるだけマシだし、文句は言えない。

 下着を履いて、一緒に渡されたワンピースを着ると、人種を除けばお姉さんと同じ町娘に見え、十分に溶け込めそうであった。

 

「あの、ルナール様って?」

 

 美咲が、気になっていた名前を尋ねた。

 ラスティは、王様と言っていたが、どういう人なのだろうか?

 

「あんた、ルナール様って言ったら、この国の王様で、現役のルークスさ。戻ったら、あんたらは謁見するんだ。くれぐれも失礼の無い様にね」

 

「謁見って王様に会うって事?」

 

「そりゃそうだろ」

 

「なんだか緊張してきた」

 

「大丈夫。とても聡明な方だからね」

 

「あの、ところで、ルークスって何? 王様の名前?」

 

 こうなったら分からない単語は、お姉さんに片っ端から聞いていこうと思った。

 

「あんた、頭でも強く打ったか、それとも、よっぽど田舎の出か? 別にバカにするつもりは無いけど、ルークスを知らないって冗談だろ?」

 

「田舎と言うよりは、異国の出身になるのかな。王様に失礼の無いように、いろいろ教えて欲しいです。えっと」

 

「ああ、あたしはレアラ。ここの騎士団で仕出しとか雑用をしてるよ。さっきいたイルミナの出身だ。あんた、この調子だとブリッツもグランツも知らないのかい?」

 

「はい。あの、私は百鬼美咲っていいます。彼女はエレノアです」

 

 美咲が首を縦に振ってから自己紹介をすると、レアラは何から説明した物かと考える。

 

「ナキリミサキとエレノアね。氏名がミサキでいいんだよな?」

 

「ナキリの方です」

 

「ふ~ん。名前の響きと言い、変わってるね。じゃあ、なんて呼べばいい? ミサキって呼んでいいかい?」

 

「はい!」

 

「ふふ、あたしはレアラでいいよ。あらためてよろしく。エレノアの方は、フルネームは?」

 

「これで全部」

 

「そうかい。じゃあ、エレノアって呼ぶよ」

 

「ああ」

 

 自己紹介をし終えると、レアラは美咲の質問を思い出した。

 

「そうだね~、順番に説明すると、ブリッツって言うのは、シェルって不思議な力を使える人の中で、アナトリアに所属している人で……ルークスって言うのは、その中でブリッツを部下に持っている人……かな。グランツは別格で、個有領域を持っている人だよ。って言っても私も、それ以上は詳しくは知らないんだけどね。でも、そんぐらいは常識さ」

 

「???」

 

 想像以上に難解で美咲は頭上に?を浮かべている。

 

「本当に何も知らないのかい? さては、穴ぐら出身だね? まあ、あたしも大差ないけどさ」

 

 そう言うとレアラは頬をポリポリとかいた。

 美咲はiDで視界に辞書を開くと、新言語仮登録一覧を開いた。

 

「あの、アナトリアと、シェルと、こゆうりょういき、って言うのも教えてください」

 

「しょうがないねぇ。それにしても、そんなでよく今まで旅が出来てたね、あんた。逆に凄いよ」

 

 そう言って笑いながら、レアラは親切に教えてくれる。

 世話焼きが性に合っているのだろう。

 

「アナトリアってのは、世界を管理している連中さ。シェルってのは、まれに手から火を出したり、水を氷にしたり、そう言う不思議な力を持って生まれてくる人がいるだろ? そう言う人の力の事だよ。あと何だっけ? ああ、そうだ、個有領域って言うは、アナトリアの巫女のアナトリ様から与えられるグランツの特別な力の事で、個有領域の中では、グランツは自分と契約した奴に、ブリッツみたいにシェルを使わせる事が出来るのさ。ちなみに、グランツもルークスも元ブリッツが殆どだから、みんなシェル使いさ」

 

 美咲が新しい情報の波に混乱していると、視界の端でロッテがメイド服のままタイプライターをバチバチうって、辞書の新単語登録をせっせと行っていた。

 単語登録が済むと、ポコンポコンとゲームのトロフィー解除みたいな演出音をさせて、視界の端に「○○を登録しました」と、まんまトロフィー解除風に出てくる。

 そんな設定した記憶は美咲には無い。

 可愛いけど、少しシュールな光景に美咲は冷静になった。

 

 どうやらアナトリアと言うのは、巫女のアナトリ様と言う人がいて、次にグランツ、その下にルークス、ブリッツと続く、美咲にとって謎の組織……らしい。

 

 その全員が、シェルと言う不思議な力を使えるというのだから、本当にファンタジーである。

 と言う事はルナール様は、王様をやりながらアナトリアのルークスと言う肩書も持っている凄い人なのだろう。

 

 美咲の頭では、どうせ一度に全ての理解までは追い付かないので、後で整理する為に出来るだけ多くの情報を聞こうと改めて思った。

 辞書を埋めようと視界を見て見ると、既に埋まっているけど意味が多分違う物があった。

 

「あの、キメラって言うのは?」

 

 美咲は、キメラと聞くとゲームの敵しか思い浮かばない。

 色々な動物が混ざった奴だ。

 辞書には、二つ以上の遺伝子情報を持つ人、または架空の合成生物とあった。

 

「キメラなら、あんたの隣にいるエレノアがそうだろ?」

 

「えっと、私が暮らしていた国だと、実際に見た事も聞いた事も無くって、どういう意味なのかなって……人種とか?」

 

 レアラは、少し言いにくそうにした。

 

「いいよ。あたしの事は」

 

 エレノアに言われると、レアラは「悪気はないからな」と言う風な、困り顔をして説明を始めた。

 

「キメラって言うのは、大昔にこの世界に棲みついた魔獣の末裔、って言われてた人達だよ。実際は、亜人種と違って身体の一部が別の生き物に見える人達の事さ。国によっては、今もかなりの差別が残っているけど、何とかって偉いグランツ様がずいぶん昔にキメラを養子にして、それからかなり世間の見方というか、風当たりが変わったかな。ケイミスでは、それよりも昔から差別なんてしたら牢屋に入れられてたね。あんた、本当に気を付けるんだよ。何気ない一言が誰の気に障るとも知れないんだから。特に、種族じゃなくて身体の特徴で呼ぶのは、御法度だよ」

 

「わ、わかりました」

 

 レアラの言い方だと、キメラと呼ばれる人々は、この世界では普通に存在しているらしい。

 ついでに亜人とか言う言葉も聞こえた。

 人種差別は、元いた世界でも根強く残っていたし、人種問題は、どこの世界でもデリケートである。

 

 しかし、そこで生まれた新たな疑問があった。

 キメラが普通に存在しているのなら、なぜエレノア達は人体改造をされてまでキメラに変えられる必要があったのかである。

 

「さ、これで処置は終わりっと。あんたが履けるスカートは無いから、悪いけど、またこれで我慢しておくれ。城に戻ったら、血のついてない奴と交換するよ」

 

 そう言うと、レアラはエレノアの傷の手当てを終え、服と布を渡した。

 

「……ありがと」

 

「こっちは仕事だからね。礼は良いよ」

 

 エレノアが服を着て、腰に布を巻くと、二人はようやく落ち着く事が出来た。

 

「他に聞きたいことはあるかい? ケイミスまでは、まだ半日はあるからね。わかる事なら何でも答えるよ」

 

「あの、じゃあ、イルミナの町はずれの砦って何なのかわかりませんか?」

 

 美咲の質問に、エレノアは少し驚いた顔をした。

 確かに、イルミナの町のすぐ近くにあって、そこがケイミス王国の領内なら、ケイミス王国の人が何か知っている可能性が高いのは当然の事だ。

 砦が何なのか、出来れば持ち主が分かれば、何かわかる事があるかも知れない。

 

「砦? ああ、あの燃えたやつね。かなり長い間ずっと廃墟だよ。私が生まれた頃には、もう誰も使ってなかったって言うし、危ないから近づくなって言われてたね」

 

「そう、なんだ……じゃ、じゃあ、もっと昔の事は、誰に聞けば?」

 

「うーん、イルミナの長老が生きていれば、一番早かっただろうけど、ゴブリンに食われちまったからな。でもどうして?」

 

「実は、エレノアが捕まっていたのが、あの砦で……」

 

「……なんだって、あんな所に? キメラを売る気なら一番近くの国で西のグレモスだし、廃墟になっちゃいるけど、あそこは昔から人が入らない様に、常に見張りがいたはずだよ。それに、扉は全て大昔にシェルで封印されたって話、町の奴なら誰でも知ってる事だよ。誘拐した子供でも、隠すならもっといい場所はいくらでもあるだろうにね」

 

 封印と聞いて、どうりで正門が開かない訳だと二人はそれぞれ思った。

 しかし、美咲だけは、そこで気になる事があった。

 

「あの、裏口が開いてたんですけど」

 

「そりゃ本当かい? でもまあ、そうか。私が聞いた話だと、あの砦は廃墟になって少なくとも百年以上経っているからね。封印が解けても不思議は……」

 

「百!?」

 

 美咲は、ロッテを見た。

 ロッテは意図が分からないようだが、どうも誤訳では無いらしい。

 

 それからエレノアを見た。

 エレノアも年月を聞いて驚いていた。

 実は、かなり年上らしい。

 どうやら、水槽の中でそこまで時間が経っていたるとは思っていなかったようだ。

 

 エレノアが、自分が誘拐された時には、普通の人間だった事を訂正しないのも、美咲は気になった。

 

「でも、まあ……それが本当なら、ルナール様に聞いてみると良いよ。ルナール様なら、誰が持ち主だったか調べられるし、何よりも自分の領内でそんな事を許せるお方じゃないから」

 

 しばらくそんな話をしていると、馬車の隊列が動きを止めた。

 幌布をめくって外を見ると、そこには巨大な横穴の開いた壁が見えた。

 天井の穴から日が照らす明るい鍾乳洞の中に、一切明かりの無い暗い洞窟が現れたのだった。

 

 

 

 ケイミス王国を目指す騎士団の隊列が、大きな横穴が開いた洞窟の壁の前で止まった。

 どうやら、そこは決まった休憩地点で、近くにある池では、馬車から解かれた馬達が水を飲んでいた。

 これから横穴の中を進むらしく、横穴を抜けるまでは暗い道が続くという。

 

 仕事で呼ばれたレアラが「また後でね」と、炊事に行っている間、二人きりになった時だった。

 

「さっきは、ありがとな。これ」

 

 美咲が、せっかく二人きりになったのに何から話して良いのやら悩んでいるのを見かね、エレノアから話しかけてきた。

 自身の蜘蛛の背中をスッポリと覆っている布をつまんで。

 布には目印の様に美咲の血がついている。

 

「ううん。ごめん」

 

 美咲は、なぜか謝ってしまった。

 

「なんで、謝るんだよ」

 

「だって、エレノアは、その……脚の事気にしてるって、少し考えれば……」

 

 エレノアを傷つけてしまったという後悔を思い出し、拭う事も出来なければ、扱い方も分からなかった。

 美咲は、加害者になると言う事に慣れていない。

 どうすれば、このモヤモヤが晴れるのかが分からず、謝ってしまったのだ。

 

「急にどうしたんだ? さっき会ったばかりで、相手の事なんて、すぐに分かる訳ないだろ? そんなの気にしてないから」

 

「それは……そう、なんだけど」

 

 美咲の言い分は、例のビジョンを見ているから言えることで、今の美咲の話には自身の視点しか無かった。

 慣れない罪の意識で気持ちに余裕が無いのと、美咲の精神年齢がまだ未熟な事が原因である。

 それに比べると、エレノアの方が美咲よりも今は冷静であった。

 美咲は、何から伝えた物かと悩み、考えがまとまらない。

 それでも、一個ずつでも、順番に話そうと思った。

 

「あの……あのね、エレノアに聞きたいことがあるんだ」

 

「その前に、あたしも聞きたい事があるんだけど。いいかな?」

 

 いきなり出鼻をくじかれた。

 だが、質問するよりも答える方が楽である。

 話しているうちに質問が固まる事もあるので、実際は助かっていた。

 

「あ、ああ、うん。なに?」

 

「あたしの名前は、どこで知ったんだ? この名前を知っているのは、ダチだけなのに。それに、あそこで見た……ジャックは、あれを出したのはミサキだろ?」

 

「あ、えっと、順番に説明するね。あの部屋にあった、研究日誌って言うのかな。その中に名前が書いてあったから、名前はそれで知ったんだ」

 

「研究日誌に……名前? あたしの? あいつらが?」

 

 エレノアは腑に落ちないという顔をする。

 まるで、日誌に名前が書かれている事があり得ないとでも言いたげである。

 

「私も聞きたかったんだけど、なんで英語で書かれていたのか。食堂で見た地図には、別の言葉で書かれてたのに」

 

「英語? 別の言葉? その日誌ってのは?」

 

 エレノアの反応を見る限り、英語で書かれていると言われても何のことか分からないみたいだった。

 

「火事で、燃えちゃった」

 

「なんて書いてあったか何か覚えてないか? 誰が書いたかだけでも」

 

 エレノアは、日誌に自分の名前を書いた人物を気にしていた。

 

「ごめん。虫食いだらけだったし、私、英語苦手で……でも、日誌に名前が書いてあったら、何かおかしいの?」

 

「……ああ、あたしの名前は、一緒に、あそこでつかまってたクレアって奴がつけてくれたんだ。さらった奴らは、あたしの事は番号で呼んでたから」

 

「そ、そうだったんだ。それじゃ、本当の名前は?」

 

「覚えてないんだ。その、なんだ、変な話して悪かった。ミサキは、じゃあ、あたしの事は……何も知らないんだよな? でも、じゃあ、あのジャックは……」

 

「あそこで助けてくれた子、ジャックって言うの?」

 

「あ、ああ……たぶん。子供の頃の、友達に似てたんだけどな、でも、さっき聞いただろ? もしかしたら百年ぐらい前だから。ミサキが会ってるわけ無いよな。それで、ミサキは、何を聞きたいんだ?」

 

「まずは、これの事」

 

 美咲は、首の噛み傷を指した。

 

「いきなり噛んだのは、悪かったよ。聞きたいのは、あの……シェルの事だよな」

 

「うん」

 

 美咲は、幽霊を見て呼び出したあの力もシェルなのかと思った。

 

「知ってる事は教えるけど、一つ約束してくれないか」

 

「約束って、どんな?」

 

「あたしの毒の事も、ミサキのシェルの事も、誰にも言わないで欲しい……あたしをさらった連中の仲間の耳に入らないとも限らないだろ? 百年以上経ってるかもしれないけどさ」

 

「……わかった。エレノアが言って欲しく無いなら言わないよ」

 

「約束だからな」

 

「うん」

 

 そこまで誓わせて、エレノアはようやく話を始めた。

 

「とは言ってもよ、実はあたしも詳しくは知らないんだ。わかる範囲で説明するから、それで勘弁してくれよ」

 

「うん。わかった」

 

「あたしをさらった連中は、あたしの毒の事をギフトって呼んでた」

 

「ギフト……」

 

 水槽のプレートの文字を思い出した。

 視界ではロッテが「ドイツ語でギフトは毒の意味があります」と教えてくれる。

 美咲は「へー」と思った。

 

「あたしは、その……連中が言っていたのは、一番最初にギフトを身体の中で作り出せた個体で、試作品だって」

 

 エレノアは、記憶を手繰り寄せる様にゆっくりと語る。

 

「あたしの毒が人の身体に入ると、シェルを使えるようになる事があるんだけど。今にして思えばさ、連中はシェル使いを作り出そうとしていたんだと思う」

 

「シェル使いを作る……」

 

「ああ、でも、あたしの毒は短い時間しかもたないし、また噛まないと使えないんだ。それに、シェルってのは、一人一人違くて、使える様になるシェル次第では、あたしの毒だと身体への負荷が大きすぎて……連中の実験では噛んだだけで殆どの奴が死んじまったよ」

 

「ほ、ほとんど……」

 

「ミサキを噛んだのは、本当にすまないと思ってる。だから、せめて名前を聞こうと思ったんだ。ミサキの事を忘れない様に」

 

「ま、まあ、ほら、こうして……生きてるし……」

 

 美咲は内心「名前を聞いたのは、墓標用でしたか……」と苦笑いした。

 分かり合っているつもりだったが、それなりに認識の齟齬がありそうである。

 

「あたしの毒は、効果も短いけど、短い時間で何度も噛めば、副作用で幻覚を見たり、高熱が出たり、下手すると死んじまうんだ。だから、最後の方は、ずっと薬の実験台だったよ。あたしが知っているのは、こんな所かな」

 

「だから、さっき森の中では噛まなかったんだ」

 

「ああ……他に聞きたい事は?」

 

 聞きたい事ならたくさんある。

 エレノアの話を聞きながら、質問がまとまった美咲は、順を追って話を始めた。

 

「私がシェル? を使った時にね、音が聞こえたんだけど」

 

「音? ああ、何か聞こえた気はするけど、悪い。あたしはシェルなんて使った事無いから、それは分からないかも」

 

「それと、これは多分なんだけど、過去の光景が見えたの。あの部屋の」

 

「光景?」

 

「エレノアがあの部屋に来て、姿を変えられて、水槽に入れられた所が見えたんだけど」

 

「どう言う事だ!?」

 

「ジャック君? あと、蛇と蠍のキメラに変えられた子達も見た。蛇の子がジャック君に……その」

 

「殺された所もか……」

 

「そう、それから、エレノアを助けて欲しいってお願いしたら、ジャック君が出てきたの」

 

「ミサキ……それが、ミサキの……シェルの力なのか?」

 

「わかんないけど、多分」

 

「過去の光景。ジャックだけじゃなくて、クレアとアリスも知ってるって事は、見たってのを信じるしか無いか……見た物を出せる力なのか……?」

 

「だから、エレノアにちゃんと言わなきゃって、馬車に乗ってからずっと思ってたんだけど、あのねエレノアが、私を助けてくれたのも、あの蛇の子の事があったからって……」

 

「……蛇じゃねぇよ……」

 

 エレノアは、ぼそりと呟いた。

 

「それでもね、蛇の子の代わりだとしても、私、エレノアに、たすけて、もらっ、て、かん、しゃ……」

 

 荷馬車の中を流れていた空気は、いつの間にか悪い方向へと淀み始めていた。

 美咲はエレノアの地雷に気付くのが、一歩遅かった。

 

「蛇じゃねぇ! クレアだ!! ああ、確かに、最初はミサキがクレアに見えたよ! 今度は助けられるんだって思ったさ! でもな、あたしはミサキの事を助けたくて助けたんだ! 勝手に一人で全部わかった風な口をきくな! 勘違いしてるんじゃねぇ!」

 

 エレノアは突然大声をあげ、美咲の両腕を掴んだ。

 せっかく治療した包帯には、傷口が開いたのか、じわりと血が滲んできてしまった。

 

「ご、ごめん……ごめんなさい。あの、あのね、私が言いたかったのは……ただ、ありがとうって……」

 

 ちゃんと伝えたかった。

 それがかえって裏目に出た。

 伝えたかった事の前置きのつもりが、とんでもない地雷を踏んでしまった。

 

 さっきレアラに注意されたばかりなのに……

 他に説明する言葉が思いつかなかったにしても、せめてレアラの様に蛇と言う事に悪気が無い事を事前に断るべきだった。

 

 エレノアの目には、友達を侮辱された憤りがあった。

 しかし、それ以上に、美咲に全てを見透かされているような焦りが滲み出ていた。

 それに美咲は気付けなかった。

 

「お前じゃ……クレアの代わりになんかならない……」

 

 エレノアは、辛そうな表情で、自分に言い聞かせるように吐き出すと、すぐに美咲から手を放した。

 

「……怒鳴って、悪い。腕も、傷口が……あたし、何を……」

 

 申し訳無さそうな美咲の顔と、包帯の血を見て冷静さを取り戻したエレノアは、なんて事をしてしまったんだと動揺した。

 こんな事をするつもりは無かった。

 ただ、美咲の事をクレアの代わりにしようと心のどこかで、無意識のうちにしていた。

 そんなズルい自分を指摘された気がして、それを隠したい気持ちが暴発してしまったのだった。

 美咲の包帯は、猫猿の引っ掻き傷の形に赤く染まっていく。

 

「ううん。私が、失礼な事言ったから……レアラさんに気を付けろって言われたばかりなのに……ほんとうにごめん」

 

 この時エレノアは、美咲のどこまでも誠実で真っ直ぐな瞳が怖くなった。

 汚くて卑怯で、嫌な自分を見られたくなかった。

 気付かれたら、きっと嫌われてしまうと思った。

 

「あぁ? ミサキが悪いなんて、そんな訳あるか……くそっ……悪い、ちょっと外で頭冷やしてくる……」

 

 そう言うと、美咲から逃げる様に馬車から降りていってしまった。

 美咲は引き留めようと立ち上がるが、馬車の外を見るとエレノアは森の中へと走って行ってしまった後だった。

 

 

 

 

 池のほとり、休憩地点とは森を挟んだはずれの場所。

 人影のない所で、エレノアが一人佇んでいた。

 

 エレノアが出て行って、すぐに追いかけたが、足の歩幅も早さも違うので、美咲は追いつくのに時間がかかってしまった。

 木の影でエレノアの様子を覗くと、エレノアは明らかに落ち込んで見える。

 

 どんな顔をして会えば良いのか分からないが、美咲はとりあえず謝ろうと、木の影から出て行った。

 

「……エレノア」

 

 呼ぶと、エレノアは黙って振り向いた。

 

「えっと……頭は冷えた?」

 

 美咲は、自分で何言ってるんだと思った。

 挑発しに来たわけではない。

 

「それなりにな……」

 

 エレノアは落ち込んだまま答えた。

 もう逃げる気は無いらしい。

 

「さっきは、ごめん」

 

「いいよ。あたしこそ、ミサキがクレアの名前知ってるわけ無いのにな。それに、酷いな、あたし……」

 

 美咲の血の滲んだ包帯を見て自己嫌悪するエレノアを前に、美咲は声を大きくして言った。

 

「あのね!」

 

 美咲が場の空気を切り替えようと出した声に、エレノアは驚いて顔をあげた。

 

「私もね、多分さらわれてきたんだ」

 

「……どう言う意味だよ? 旅してて、それで迷い込んだって」

 

 エレノアにとって、それは意外な内容だった。

 美咲の言葉にエレノアは混乱した。

 美咲の言い方ではエレノアには、連中にさらわれた風に聞こえてしまう。

 

「ゴブリンから逃げて砦に迷い込んだのは本当だけど、旅は嘘。さっき聞いたシェルを使った時に聞こえた音の話。私が暮らしてた場所で、その音が聞こえたら、気が付いたらイルミナの近くにある湖にいたの」

 

「?」

 

「私の国には、シェルを使える人なんていなかったから、だから多分、誰かにシェルを使って、ここに連れて来られたんだと思う」

 

 美咲の言葉を、エレノアは黙って聞いている。

 

「エレノア、私は、元の場所に、自分の国に帰りたいの。でも、それには、きっと、私を連れてきた人を探さないといけない」

 

「ミサキ、お前まさか、そいつを探す気なのか?」

 

「それしか今は帰る手がかりが無いんだ。それに、他に帰り方が見つかったら、別にそれでいいし」

 

「どっちにしても、そんな奴どうやって探すんだよ。何か手掛かりは?」

 

「わかんないけど、レアラさんの話だと、アナトリアって所に行けば、いっぱいシェルを使える人がいるんでしょ? まずは、そこに行こうと思ってるんだけど……」

 

「だけど? なんだよ」

 

「エレノアも一緒に行こう! そこなら、エレノアを元の身体に戻せる人がいるかもしれない!」

 

「あたしの……この、身体を……元に? そんな事……」

 

 出来る訳がないという言葉をエレノアは飲み込む。

 美咲からの思いもよらぬ提案に、エレノアは驚きを隠せない。

 

「エレノア、私はジャック君にも、クレアさんにも、アリスさんにも、誰の代わりにもなれない。ううん。誰かの代わりになんて、最初からなる気は無いよ! 私は百鬼美咲にしかなれないから! エレノアの言う通りだよ!」

 

「きゅ、急にどうしたんだ?」

 

 美咲の謎の気迫に押され、エレノアはたじろいだ。

 美咲はエレノアの言葉をスルーし、話を続けた。

 

「でもね、エレノアの新しい友達にならなれるって! なりたいって思ったんだ! さっきもね、それを言いたかった。友達になって、エレノアを元の身体に戻してたいって」

 

「な、何の話をしてるんだ? あたしと、友達に? 元の身体?」

 

「うん!!」

 

 美咲の目は、今までにない輝きを見せていた。

 傷だらけでボロボロなのに、その瞳には誰が見ても分かる希望が見える。

 

 家に帰れるかも身体を戻せるかも、どっちも実現可能なのかなんて誰にも分からない。

 それは根拠の無い自信の筈なのに、美咲になら探し出せてしまいそうな、不思議な説得力があった。

 

「でも、ミサキは、あたしの身体、怖いんだろ?」

 

 見てれば分かるよと言う顔をして、腰布から前脚を出して見せた。

 

「怖くない! 訳じゃ、ないけど……怖いけど」

 

 美咲は、言葉を濁しながらもエレノアの脚を、そっと触った。

 それから、やけくそ気味にギュッと抱きしめた。

 

「この脚だって、エレノアの一部だから、慣れる時間が欲しいんだ!」

 

「慣れるって、また正直だな。どうして……あたしの事、知らないで、そんな」

 

「だから、よく知りたいんだよ!」

 

「でも……」

「でもじゃない!」

 

「無理に、そんな」

「無理なんてしてない!」

 

 

「じゃ、じゃあ、なんで友達になりたいのか言ってみろよ。そうか、この身体が可哀そうだからか! 家に帰るついでに治してやろうって……ああ、わかったぞギフトか! どうせ、この身体が旅に便利なんだろ!」

 

 エレノアは、どうにか美咲を遠ざけようと言葉を吐き出した。

 その言葉の一つ一つは、どれも本心だろう。

 言葉の一つ一つがエレノアの不安な心を現していた。

 

 エレノアは、こんな自分と、本当に友達になってくれるのかが不安だった。

 一緒にいて、嫌われるのが怖いのだ。

 

 それでも美咲は、そんなエレノアに裏表無く気持ちを伝える事しか出来ない。

 もちろん、生きていればズルを考える事は沢山あるし、知略を巡らせる事も出来る。

 根っからのズボラで、甘えん坊なただの15歳の少女だ。

 

 しかし、人間関係と言う事に関して言えば、美咲は常に誠実な人間であろうとしてきた。

 そして美咲は、誠実さを土台に、自分の好き勝手に振る舞うのだ。

 他人を都合良く操る側の人間ではない。

 また、他人の都合で操られる側の人間でもなかった。

 それが、好きを原動力にしている時は、なおさらであった。

 本心を伝えるのには、言い訳も飾った言葉も不要である。

 

「好きだから!」

 

 言葉は溝を埋めてくれる。

 だが、どんな言葉でも良い訳では無い。

 自分に正直であり、傷つく事を恐れず、言葉を紡ぐ事こそが本心を伝える一歩となりえるのだ。

 

 

 それは、つまり告白であった。

 

 

「………………へ?」

 

 

 今までにない気の抜けた声が聞こえた。

 思いもよらぬ言葉。

 エレノアの脳は、言葉の音と意味を照合するのに、たっぷりと時間を必要とした。

 

「エレノアの事が、好きだから!」

 

 美咲は言った。

 ハッキリと。

 しばしの沈黙。

 

 

 

 その後。

 エレノアの脳内で、言葉の音と意味が合致すると、今度は言葉に価値が生まれた。

 顔が面白い様に、みるみる赤く染まっていく。

 エレノアにとってしてみれば、初めてされた告白であった。

 それが、友達としてだとしても、初めて面と向かって好きと言われる経験だったのだ。

 

 エレノアは、ついさっきまで抱えていた自分の悩みが掻き消されていくのを感じた。

 美咲の「好きだから」の一言で、心を凍てつかせていた氷が解け始めたのを感じずにはいられなかった。

 そこには小難しい理由も根拠も無い。

 

 こんな自分の事を、ただ好きになってくれる。

 クレアの代わりでは無く、百鬼美咲としてゼロから友達になってくれると言うのだ。

 目の前の、自信に満ち溢れた少女は、自分を受け入れてくれる事に疑いの余地を感じさせない。

 何の計算も裏も、そこには存在しない。

 

 エレノアは危うく泣きそうになるが、涙を堪えた。

 

 エレノアの異常な照れ方に、言った側の美咲も予想外で戸惑った。

 

「あ、あの、好きって、そういう意味じゃなくて、エレノアの事は大好きだけど、友だ……」

「わかってるから!」

 エレノアに黙れと言わんばかりの勢いで言葉を遮られ、美咲は「はい!」と口をつぐむ。

 

 エレノアは、寝起きでゴブリン達と死闘を繰り広げていた勇敢な少女とは、とても思えない動揺を見せていた。

 その視界は、徐々に色づいていく。

 エレノアにとって、ずっと暗く辛い世界だったそこが、明るく見え始めた。

 

 するとエレノアは、美咲の顔を、さっきとは別の理由でまっすぐに見られなくなっていた。

 それは初恋に近い感情だった。

 どうしようもなく、目の前の人間に惹かれてしまう。

 視界の端に美咲がいるだけで、その時間が幸せへと変わる感覚。

 

「ミサキは、その……思っていたよりか、変な奴だったんだな……」

 

 そう言うエレノアの顔は、限界まで真赤になっていく。

 頭から湯気が出てもおかしくない。

 火傷して赤くなった蜘蛛の脚も含め、エレノアは全身が真っ赤になっていた。

 

 美咲は、たまらなく可愛いと思った。

 

「それでも、いいよ。私は、エレノアと、ただ友達になりたいだけだもん」

 

 美咲はエレノアに無邪気な笑みを向けた。

 

 それを見て、自分の中に一つの邪な願望が生まれたのを、エレノアは感じた。

 他人に初めて懐く感覚だった。

 それは、独占欲であった。

 

 今や、この世でたった一人、エレノアの過去を知り、キメラの肉体を受け入れ、幸せを願ってくれる存在が目の前にいるのだ。

 エレノアにとって、誠実であろうとする百鬼美咲という存在は、この短い時間の間に、特別な者へと価値を大きく変えていた。

 自分だけの物にしたいと子供の様にエレノアが思ったとしても、それは仕方が無い事である。

 

 しかし、エレノアは「うん」と返事を言いかけるが、思いとどまり言葉を飲み込んでしまった。

 すると深呼吸して仕切り直し、誤魔化す様に返事をした。

 

「ははっ……ありがと。嬉しいよ、ほんと。こんなの百年ぶりぐらいかな? 生れて始めてかもしれない」

 

 エレノアは、照れながら慣れない冗談を言って笑っている。

 だが、その後に続く言葉は、美咲には思いもよらぬ物だった。

 

「でも、ごめん。友達にはなれない」

 

「……え? ど、どうして!?」

 

 まさか断られるとは思っていなかった。

 嬉しそうに赤くなって、満更でも無さそうなのに……

 

 美咲が分からないと言う顔をしていると、エレノアが申し訳なさそうに言った。

 

「その……あたしは、友達は……作らないって、決めてたんだ」

 

 その言葉の意味が分かるだけに、美咲は何も言い返せなかった。

 エレノアにとって、友達とは辛い記憶の方が遥かに大きい存在なのだ。

 大事であればある程、失う事を考えると怖くなる。

 その上、百年以上眠っていて、全てを失っているのだ。

 

 エレノアの気持ちを察する事が出来ても、本当に理解する事は美咲には出来ない。

 美咲は、どうしていいのか分からなかった。

 説得する台詞が思い浮かばない。

 

 つい先ほどゴブリンに殺されかけておいて「死なない様に頑張るから!」と明るく言った所で、説得力の欠片も無い。

 

 その時、二人だけの空間で、別の声が聞こえた。

 

 

 

「あなた、バカですか?」

 

 美咲の手からだった。

 薄々気付いていたが、やはりおかしい。

 

 美咲が恐る恐る袖をまくると、そこにはロッテが映し出されていた。

 また、呼んでもいないのに。

 

「ロッテ、ちょっと、どうしちゃったの!?」

 

「美咲様、どうかしましたか? 私、何か粗相をしましたか?」

 

 ロッテは、自身が表示されている美咲の皮膚をスピーカーの様に振動させて喋っていた。

 これもiDの一機能である。

 

「えええええぇ……粗相も何も、と、とりあえず、いきなり初対面でバカは無いと思うんだけどなぁ」

 

「……わかりました。大変失礼しました」

 

 ロッテは、コホンと咳払いをして仕切り直した。

 

「私は美咲様のメイドで、シャーロットと申します。以後お見知りおきを。エレノア」。

 

「どうなってんだこれ!?」

 

 エレノアは、予想外の所から現れて、美咲と話し出すロッテに目を丸くした。

 エレノアが美咲の手を持つと、ロッテをスリスリと触ろうとした。

 もちろんロッテには触れられない。

 

「美咲様を救っていただいた事には大変感謝しています。その節はどうも。それにしても、黙って聞いていれば、とんだ臆病者ですね」

 

「わかってない!」

 

 美咲は思わずツッコんでしまった。

 ロッテの失礼な物言いは、最初から完全に確信犯である。

 ロッテは、ナイスツッコミみたいに美咲に笑顔を向けるが、美咲は嬉しくない。

 

「なっ、誰だてめぇ! そこから出てきやがれ!」

 

 こっちも薄々気づいていたが、素のエレノアは、どうやらかなり口が悪いらしい。

 見た目は可憐な少女なのに、中身は悪ガキのままと言う感じである。

 

「ロッテ、どこか調子が悪いの?」

 

 AIが人を超えると言われるシンギュラリティは、美咲の暮らしていた2040年の地球では、まだ起きていない。

 確かに、人に限りなく近い動きをするAIは作られているが、そんなものは非効率過ぎて個人デバイスのサポートに使われる訳が無い。

 どんなに人間らしく振舞っていても、ロッテは一定の機能に特化したアプリケーションでしかない筈である。

 

「美咲様、わざわざメイドの心配をしてくださるなんて、あなたは本当に優しい方です。ですが、見ての通り元気ですので、ご心配なく」

 

 いくら美咲がロッテにカスタマイズを重ねていると言っても、所詮は個人デバイスの付属品の域を出る筈がない。

 正規品の枠から出ていない純正のサポートコンシェルジュAIに、ここまでの性能は、そもそも無い筈である。

 ここで言う性能とは、まだ美咲が設定してもいない辞書や翻訳を先回りして用意、運用していた事だけでなく、人をバカや臆病者呼ばわりする機能も含まれる。

 

 そこで美咲が思い出したのが、修羅場の裏側で起きていたiDのエラー修復だった。

 今の所、美咲でも分かるレベルで機能の枠を無視して、まるで自我でもあるかの様にロッテは振舞っている。

 ロッテを見る限り、どう考えてもエラーが残っていた。

 サポートセンターも無い異世界で、サポートする側のロッテがバグった可能性があるのだ。

 ウィルス感染等でiDのシステムが異常を起こす事は、よくあるが、大抵はオンラインのバックアップからデータ復旧を行えば元通りとなる。

 だが、ここにはバックアップなんて無いし、そもそもバグに害があるのかも分からなかった。

 

 だからと言って、とりあえず初期化をするわけにもいかない。

 初期化でロッテが直る保証も無ければ、初期化すれば確実に失われるデータがあまりにも多すぎた。

 特に、家族や友達の写真や動画。

 

 その次に、現実問題として、現地の言葉に対する自動翻訳と辞書である。

 デフォルトの自動翻訳の速度や精度では、美咲が再設定したところで大昔の衛星電話を使って片言で話すみたいな会話になってしまう。

 これが失われるだけで、異世界でのコミュニケーションが壊滅的になるのは目に見えていた。

 事実上、美咲はiDを操るロッテに頼っている状態なのだ。

 

 更に悪い事に、ロッテは自身の変化に気付いていない様だった。

 その中で救いは、ロッテは昔と変わらず美咲のメイドを演じ続けてくれている事である。

 

「エレノア、あなたが過去にさらわれたのは聞いていました。百年以上寝ていて、どこにも知り合いがいないのも聞いています。だからと言って、あなたがこれから先の人生を孤独に生きる事に、どれほどの意味があるでしょうか? ハッキリ言って無意味です。あなたは、再び友人を失う事を恐れているのでしょうが、私に言わせればただの怖がりです。あなたの言っている事は、何度も転んだから二度と歩かないと宣言しているのと大差ありません」

 

「なっ!? 好き勝手いいやがって! ガキの癖に、そっから出てこい!」

 

「ちょっ!? 痛っ痛いよ!」

 

 エレノアはロッテをつねるが、そんな事をしても美咲が痛がるだけである。

 ロッテは律儀につねられた所を避けて、話を続けた。

 

「美咲様から手を放して! あなたの問題は、暴力で解決できるんですか!」

 

 ロッテの言葉にエレノアは、怒っているからなのか、それとも図星なのか、何で赤くなっているのか分からないが、表情的には、かなり押されていた。

 

「何言ってやがるこいつぅ……」

 

「あんた達そんな所で何やってるの、飯だよ」

 

 レアラがわざわざ二人を探しに来ると、ロッテはすぐに姿を消した。

 レアラから隠れた様だった。

 

「ごめんなさい。すぐに戻るから!」

 

 美咲が返事をすると、レアラは二人が取り込み中と見て「早く来ないと、無くなっちまうよ」と言って、休憩地点に戻って行った。

 

「エレノア、一旦戻ろ? 話の続きは後でするから。ロッテの事も説明する」

 

「ちっ……わかったよ。それ、そのガキのシェルなのか?」

 

「違うけど、ちゃんと説明するから、ほら、ご飯だって」

 

 美咲に手を引かれ、エレノアは釈然としないまま休憩地点に戻り始めた。

 美咲は視界の端にいるロッテを見て、ロッテにだけ聞こえる声で話しかけた。 

 

「ロッテ、なんであんな事したの?」

 

「美咲様……実は私も、良く分からないんです。お二人の会話を聞いていたら、エレノアに腹が立ってしまって」

 

「エレノアに後で謝ろ。出来る?」

 

「ですが、エレノアは間違っています。美咲様の好意を……」

 

「ロッテ、ロッテの言った事は正しいかもしれないけど、エレノアだって正しいと思うの」

 

「どういう事ですか? 矛盾しています」

 

「私は、二人とも間違っていないって思ったの。まあ、友達になれないのは、残念だけどね。それに、ロッテとエレノアの仲が悪いのは、私は嫌だな」

 

「……わかりました」

 

 そう言うと、エレノアの手を引く美咲の手にロッテが表示された。

 

「エレノア、非礼を謝罪します」

 

「急になんだよ」

 

 エレノアはぶっきら棒に答えた。

 

「私の情報不足で、一方的な正論を押し付けてしまった。そう解釈しています。あなたがバカや臆病者という私の判断は訂正します」

 

「いいよ、別に。お前が言ったのは、むかついたけど」

 

「けど?」

 

 エレノアは脚を止めた。

 

「昔、ダチに言われたんだ。ダチを馬鹿にされたら、それが嘘でもムカつくけど、自分が馬鹿にされてムカついたら、それは本当の事だってな」

 

「エレノア……」

 

 美咲はエレノアの手を握り直した。

 

「と言う事は、私が正しかったと認めるのですね?」

 

「おい」

 

 ロッテの言葉に美咲がツッコんだ。

 

「冗談です。エレノア、あなたはバカでも臆病者でもない事は、今の発言で理解しました。改めて謝罪します。どうか、許してください」

 

 

 

 休憩地点に戻ると、レアラが二人の食事を荷馬車に置いて、また仕事に戻って行った。

 いやに癖のある肉の入ったスープと、それでふやかさないと噛む事も出来ないパンを、口内の傷が痛むのを我慢しながら食べつつ、美咲はエレノアに色々な事を説明する。

 

 ロッテが美咲の中に住んでいて、美咲にこの世界の言葉を教えている事。

 美咲のいた場所では、この世界でシェルが当たり前の様に、ロッテの様な存在が当たり前である事。

 美咲が見た物を記録したり出来る、シェルでは無い力を持っている事。

 

「ほら、面白いでしょ。これが私のいた場所」

 

 スカイツリーの展望台から見下ろす景色を、腕に表示して見せた。

 

「すっげぇ……けど、これって塔の上だろ? 建物もみんなデカいし」

 

「ふふふ、驚いたか」

 

 写真を見せるだけで、この優越感。

 美咲はエレノアの反応が嬉しくてたまらない。

 

「なあなあ、もっと大きく出来ないのか?」

 

「大きく?」

 

 美咲が腕一杯に写真を表示するが、包帯が邪魔だし、それほど大きく見えない。

 皮膚モニターは、皮膚と名前についているが、眼球を除く全身に表示が可能である。

 だが、ミイラ状態の美咲の腕では両腕合わせても大した面積が稼げない。

 

 そこで美咲は「そうだ」とスカートをまくり上げ、腹に表示してみせた。

 背中よりは狭いが、これならエレノアに説明しながら一緒に見られる。

 

「すげーすげー」

 

「こうやって触ると、写真の見たい所に、こうやって動かせるんだよ」

 

 そう言って美咲は、写真が表示された自分の腹を指でスライドした。

 すると、腹に映し出される写真が動く。

 

「なあなあ、触って良いか?」

 

 エレノアがやってみたいと期待の眼差しを向けた。

 

「いいよ、軽く触れば動くから」

 

 美咲がそう言うと、エレノアは美咲のお腹を触り始めた。

 

「すげーすげー」

 

「あはは、くすぐったいから! もっと優しく!」

 

 そんな事をしながら、家族や友達の写真をエレノアに見せていた美咲は、楽しそうな顔だなと思いエレノアの写真を撮って、腹に表示してみせた。

 盗撮である。

 

「これは誰なんだ? こいつもダチか?」

 

「誰って、エレノアじゃない」

 

「これが、あたし!?」

 

 そう言うと、美咲の腹に表示される楽しそうに笑う自分の写真をジッと見た。

 

「はじめて見たの?」

 

「あ、ああ、うん。はじめて見た。これがあたしか……」

 

「こんな事も出来るよ」

 

 そう言って美咲は撮影モードに切り替え、美咲の視点を腹に表示した。

 さっきまで止まっていたエレノアの写真が、エレノアの動きとリンクして動き始め、エレノアは度肝を抜かれる。

 

「すっげえすっげえ! 面白いシェルだな!」

 

「だから違うって……ん? もしかしてシェルっぽい、かも……」

 

 エレノアの反応だけでは不安だが、もしかしたらこの世界ではシェルと言い張れば、普通にiDが人前で使えるかもと美咲は思った。

 

「なにやってんの、あんた達」

 

 仕事を終えて戻って来たレアラが、スカートをまくり上げる美咲と、その前で興奮しながら良く分からない動きをするエレノアを目撃して発した言葉だった。

 美咲とエレノアは、レアラの顔を見て仲良く石の様に固まった。

 

 

 

 

 休憩を終えた騎士団の馬車が、一切の自然光の無い大きな横穴に入っていく。

 見た所、その横穴は人為的に掘られたトンネルの様だった。

 トンネルの壁はデコボコの表面がツルツルにコーティングされていて、崩落の危険は感じさせない。

 

 各馬車に松明の明かりを持つ先導者がいて、その光だけを頼りに馬車は暗闇を進むのだが、荷馬車の中にいては幌の外に火の揺らめきこそ見えるが、それ以外は暗すぎて何も見えない。

 レアラが言うには、このトンネルは、一本道の緩やかな上り坂で、通り抜けるのに3~5時間かかるという。

 

「当分はこんな感じさ。よかったら少し眠りな、疲れただろ」

 

 そうレアラに言われ、美咲とエレノアは荷馬車の中で、硬い床板の上に寄り添うように横になった。

 レアラはエレノアの場所を作る為に御者台に移動し、荷馬車の中は二人きりとなった。

 

 確かに、かなり疲れていた。

 むしろ今まで起きていたのが不思議なくらいだった。

 

 致死量では無いにしてもかなりの血を失っているし、十分な食事も休息も無いのだ。

 何よりも慣れない異国の地でモンスターに追いかけ回された後である。

 ここまで起きていたのは、異常事態に興奮していたのと、単純に死にたくないからであった。

 ここから先は休める時に休まないと、それこそ身体がもたない。

 

「なあ、ミサキ、まだ起きてるか?」

 

 エレノアがレアラに聞こえない程度の小声で話しかけてきた。

 

「うん、なに?」

「ああ……その……クレアの事、もう、怒ってないから……悪気が無いのもわかってるし……」

 

 エレノアは、他にも何か言いたそうにしているが、言葉が口から出てこない。

 

「うん」

 

 美咲は、やっと胸のつっかえが一つ取れた様な顔をすると、えへへと笑った。

 それを見るとエレノアも胸の奥に刺さった棘が取れた様な気がした。

 

「あとさ、さっきの話だけどさ」

 

「………………どれ?」

 

「アナトリアに行ってさ、ミサキが家に帰って、あたしは元にってやつ……」

 

「……うん」

 

「その……友達になれないなんて言っておいて、虫のいい話なのは分かっている……バカな奴だって思われてもしょうがないけど、それでも……アナトリアまで……一緒に……」

 

 エレノアは、勇気を振り絞る様に、顔も向けずに呟いた。

 

「……エレノアは、いいの?」

 

「いいって、ミサキは?」

 

「私は、いいよ。いいに決まってるよ。でも、エレノアは、私と一緒にいたくないんじゃ……」

 

「ミサキの事は、良い奴だと思ってる。もう知ってるよ。あたしには勿体無いぐらいさ」

 

「もったいないなんて大層な人間でもないんだけど……でも、はぁ~よかったぁ。一人だと心細かったんだ」

 

「ロッテがいるだろ?」

 

「そうですよ」

 

 ロッテが美咲の頬に表示され、話に割り込んで来た。

 暗いので表示の意味があまりないが、不満顔を見せたかったようである。

 

「ロッテは、身体の一部だもん」

「そう言う事なら」

 

 ロッテは満足そうに消えた。

 

「じゃあ、一緒に行っても……良いんだよな?」

 

「うん!」

 

「虫のいい話ついでに、もう一つだけ……いいか?」

 

「なになに?」

 

「私が元の姿に戻れたらさ、その時はさ……………………友達になって欲しい……」

 

 最後の方をちっちゃな声で、エレノアがゴニョゴニョと呟いた。

 

「……………………どういう事?」

 

 友達になれるのは良いが、それが今すぐでは無く、元の姿に戻ったらと言う条件が美咲にはよくわからなかった。

 

「あたしの勝手なのは分かってるよ。それでもさ、今のあたしじゃ嫌なんだ……あたしは、ハッキリ言って今の自分の身体が嫌いだ。ミサキが怖がるのも分かる。他人の脚なら何も思わないけど自分の身体だと気味が悪いって思うんだ。自分の身体じゃないって、ずっと、違和感を感じてる。元の身体に戻れるなら本当に戻りたい……」

 

「……」

 

「あたしは、本当のあたしに戻って、ちゃんとミサキと友達になりたいんだ……」

 

「ああ……」

 

 美咲は、ぼんやりと思った。

 エレノアには、美咲と似た所があると。

 

 エレノアも美咲と同じで、相手を大切に思えばこそ、それが独りよがりでも裏切りたくないのだ。

 美咲は、最初にエレノアの身体を怖いと思ったが、それをこれから乗り越えてでも友達になりたいと願った。

 それが命を助けてくれたエレノアに対する、美咲なりの誠実さに繋がると思ったからだ。

 

 エレノアの場合は、自身の身体を嫌い、過去のトラウマから二度と友達を作らないと決意していた。

 それでも、美咲という存在が現れて、錆び付いた決意が揺らいだ。

 だが、エレノアは美咲をクレアの代わりに助けていた無自覚を自覚してしまい、自分の内面まで嫌いになった。

 美咲は、それさえも含めてエレノアを受け入れ、ゼロから友達になりたいと望んでくれた。

 しかし、エレノアは、美咲と友達になる資格が無いと自分に言い聞かせ、自身の過去の選択に従った。

 資格を得る為の苦労を、失敗を、嫌われる事を恐れての選択だった。

 だが、その直後にロッテからぶつけられた説教じみた正論で、自身の過ちに気付いたのだ。

 

 勇気を出したエレノアは、美咲に相応しい心と身体を、エレノアの望む本当の自分を取り戻せたら、その時には友達になりたいと願った。

 そうしないと、自分を許せなかった。

 そうでなければ、自身が嫌いな身体を美咲にまで我慢させて、付き合っていく事になる。

 

 今のエレノアでは、常に美咲に一方的な我慢をさせると言う負い目が付きまとう。

 そんな形での友達には、なりたくない。

 エレノアの望む友達の関係とは、両者が対等なのだ。

 それは、どこまでも青臭い理想でもあるが、決意を曲げるエレノアにとっては必要な条件でもあった。

 

「……わがままだなぁ」

 

 美咲は、どこか嬉しそうに呟いた。

 エレノアの意図の全ては分からないが、エレノアが美咲を大切に思っている気持ちだけは伝わって来た。

 

「な、なんだよ、やっぱだめなのか?」

 

 エレノアは、断られても良いと言う覚悟で美咲に言ったつもりだったが、それでも不安だった。

 

「それでエレノアの気が済むなら、いいよ」

 

 美咲はエレノアを背中から優しく抱きしめた。

 ずっと抱きしめられていたが、抱きしめてみると美咲とさほど変わらない。

 柔らかいし、温かい。

 髪の毛から漂うエレノアのニオイは、やはり良いニオイに思える。

 

「なんだよそれ」

 

 また美咲に心を見透かされた様な気がした。

 しかし、今度は逃げ場も無いし逃げられない。

 だが、自由を奪う美咲の腕がエレノアには心地良く思えた。

 強張った身体は、背中越し美咲の温もりを感じていると、力が抜けていく。

 

 エレノアは「ああ……そうか……」と思った。

 見透かされたのではなく、理解してくれているのが鼓動と共に伝わって来た。

 

 

 

「でもさ、そうなると私とエレノアの関係って、何になるのかな? 友達じゃ無いんだよね?」

 

「あん? ああ、う~ん……」

 

 美咲から急に振られた冷静な質問に、エレノアが唸った。

 そんなの考えていない。

 

「同行者でしょうか?」

 

 ロッテが声だけで口を出して来た。

 

「合ってるけど、他に何か」

 

「同士、旅の道連れ、旅の仲間、相棒、友達未満、知り合い、他人、恩人……」

 

 美咲に言われて、ロッテはツラツラと単語を並べていく。

 

「エレノアは、どう思う? 何が良い?」

 

「なんでもいいって、そんなの」

 

「では、寄生虫というのは?」

「あぁん? マジで喧嘩うってるのか? てめぇにだけは言われたくねぇ」

「あなたも言ってくれますね」

 

 ロッテは、どうもエレノアの事が嫌いではないが、好きでも無いらしい。

 美咲は人の身体を経由して睨み合うのはやめて欲しいと思った。

 

「では、共生関係と言うのは?」

「また微妙な表現を」

「なーなー、それって決めないとダメなの?」

 

 結局、二人の関係は決まらず、エレノアがいつの間にか寝落ちる事で話は終わった。

 美咲の隣で、赤ん坊の様に両手を万歳して、スヤスヤと寝息を立てている。

 

 美咲は暗い中でiDの時計に焦点を合わせた。

 2040年8月18日午後4時と表示されていた。

 疲れ方としては、もう深夜でもおかしくなかった。

 だが、暗い中でエレノアとロッテとコソコソ話した時間は、修学旅行に似ていて楽しかった。

 エレノアと美咲、それにロッテのこの関係は、美咲からすれば既に十分に友達であった。

 ただ、エレノアの事を友達と言えないだけである。

 

 友達の定義を考えても仕方が無いが、大切だと思えばこそ友達と言えないとは、奇妙な関係である。

 

「美咲様、眠らないのですか?」

 

 ロッテが美咲にだけ聞こえる声で、心配そうに話しかけてきた。

 

「ううん、寝る。寝るよ。もしさ、何かあったら起こしてくれない?」

 

「わかりました。おやす……」

「まって、ロッテ。私の事を様で呼ぶの変えよう」

 

「では、なんとお呼びすれば? 設定変更を行います」

 

「ロッテは、なんて呼びたい?」

 

「……難しいですね。では…………美咲と。エレノアと同じように呼び捨てでいいですか?」

 

「うん。いいよ」

 

「美咲……美咲、おやすみなさい。どうか、良い夢を」

 

「うん」

 

 気付けば美咲は、ロッテに対して曖昧な事を言い、それも命令と言うよりは、友達への頼み事として伝えていた。

 いつのまにか自分がロッテを人間扱いしているのに気付いたが、それが自然な事の様に思えた。

 バグだとしても、ロッテが自律している事は事実であり、例えそれがプログラムによるパターンだとしても、ロッテに自我が無い事を証明する事は不可能である。

 それならば、面白くない方よりも、面白い方である事を期待するべきだ。

 何よりも、ここはシェルと言う魔法の力が実際にある異世界なのだ。

 ロッテは、きっと魂を持っているという風な想像の方が、ロマンがある。

 ぼんやりそんな事を考えながら、美咲は深い眠りについた。

 

 

 

 眠りが相当深かったのか、夢は見なかった。

 それどころか、目を閉じた瞬間に、時間が飛んだ様な感覚での、疲れが取れない睡眠だった。

 周囲は、まだ暗い。

 時計を見ると同日の午後6時と、寝てから2時間しか経過していない。

 エレノアは隣で変わらずスヤスヤと寝息を立てている。

 美咲は修学旅行のノリで悪戯したくなるが、ウズウズと疼く性分をグッと抑え込む。

 

 起きた美咲に気付いて、レアラが声をかけてきた。

 

「おや、起きたのかい?」

 

 いつの間にか御者台から戻ってきて、積荷の箱の上に座っている。

 

「おはよ」

 

 美咲は小声で言いながら、身体を起こした。

 

「ほら、前を見てごらん」

 

 レアラが幌をまくると、御者台越しに斜め前の方で、トンネルの壁がうっすらと見え始めていた。

 外光が入り込み、薄白く明るくなってくる。

 どうやら、外が近い。

 

「ケイミスに行った事は?」

 

「ううん。はじめて」

 

「そっか、綺麗な所だから、絶対に気に入るよ。この道を抜けたら山道に出るんだけどね、その真正面に丁度ケイミスの王城が見えて、私も初めて見た時は感動したものさ。ほら、もうすぐ地上に出るよ」

 

 レアラの言葉通り、前方の馬車が次々とトンネルを抜けて、山道を下り始める。

 やがて美咲達を乗せた荷馬車が、トンネルを抜けた。

 明るくなり、エレノアが欠伸をしながら身体を起こした。

 

「おはよ」

 と美咲が言うと、手だけ軽くあげて返事をした。

 かなり眠そうな目をしている。

 実は、あまり寝起きが良くないタイプらしい。

 

 外はと言うと、もう夕方だというのに、太陽は真上から光を降らせていた。

 と言っても、美咲のiDの時計と、この世界がリンクしている訳では無い。

 それどころか、1日24時間、1年365日では無い可能性もある。

 そんな事は、美咲も分かっていた。

 

 なので、とりあえず今がこの世界では、まだ昼ぐらいなのだろうと美咲は思った。

 空は雲が晴れている為、直射日光が眩しい。

 急な明暗の差から、目が光の量を調節し始める。

 視界が一度真っ白になり、徐々に景色が見えてくる。

 

 

 

 美咲は、目をこすった。

 視力は両目とも2以上ある。

 iDによる視力補正をすれば、視力を機械的に10程度にまで上げて昼間に星空を見る事も出来る。

 

 目の錯覚かとも思ったが、目をもう一度こすっても目の前の光景は変わらない。

 そこは、レアラの言うとおり地上だった。

 

 美咲は身体を御者台に乗り出した。

 

「ほっほっほ、お嬢ちゃん、王都は、はじめてかの? よかったら隣に座りなさい」

 

 御者台で馬を操っていた髭の生えたお爺さんが言った。

 

「どうだい、気に入ったかい?」

 

 後ろでレアラが、まるで自分の物を自慢するかのように様に言った。

 

 遠くの平野に、広大な王都が広がっている。

 美咲は勝手に、西洋建築の城壁や、某テーマパークにあるお城をイメージしていた。

 ところが、目の前に現れたのは、想像していた物とは別物であった。

 立派で巨大な王城が見えるが、その形状が独特で、まるでクリスタルで出来たシャンデリアが地面から生えた様な、一目でどうなっているのか判別できない程に細かく、豪華な建物。

 それが、日の光を反射してキラキラと上品な虹色に輝いていた。

 確かに感動する景色がそこには広がっていた。

 

 しかし、美咲が目を奪われたのは、そこだけではなかった。

 問題は、その向こう側、更なる遠景にある。

 

 地平線や山の輪郭線が、空と陸の境界に見える。

 それが美咲の知る景観の常識であった。

 

 しかし、目の前の世界は、どこまでも大地が広がっていて、大地が遠ざかれば遠ざかる程に上り坂になって見え、仕舞には大地が壁になり、それが坂道と同じ曲線で継ぎ目無く上まで続いていた。

 壁は途中で濃い青空に溶け込み暗くなっているが、そのままの曲線で天井にまで続いているのがうっすらと見えた。

 遥か遠くに見える上り坂から壁と、日が当たる天井にかけて、テレビで見た衛星写真そっくりの雲の模様が張り付いている。

 

 どう考えてもこの世界は、美咲が学校の授業で習った球形の惑星の上と言った形状ではなかった。

 この光景が可能なのは、球体の上では無い。

 とんでもなく巨大な球体の中にいなくてはいけない。

 

「これは、どうなって……」

 

 美咲は、遠景を見上げ、とりあえずパノラマ写真を一枚撮影した。

 

「これは、驚きましたね」

 

 ロッテが視界の端で、一緒に景色を見ながら呟いた。

 美咲は、自分がいるのは、球状世界の内側であると理解した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。