とらんあんぐる組曲 (レトロ騎士)
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十六夜想曲
序章


 
『日常。
 恐らくこれほど容易く得られ、守りつづける事が難しいものはない。
 変わっていくことは、日常にとって忌むべき事であるが、
 変化しない日常は止った空間であり、存在価値が無くなる。
 永遠に近く齢を重ねて来た彼女は、きっとそれを経験と共に理解しているのだろう。
 だからこそ、今のこの日をだれよりも大切に思えるのだ。』


「……百九十九、っ五百!」

 

 

 ふおん、と空気の分かれる音が、最後の掛け声と共にやむ。代わりに、はぁはぁと呼吸を整える声がわずかに残り、それもまた小さくなっていった。

 うららかと言うには少し強めの日差しが、庭の木陰で一心に剣を振っていた大柄な青年の、肩から額にかけて滑り込む。うっ、と眩しさに負けた時の独特のうめき声をあげ、その青年は左手を顔の上にかざした。

 光から目を逸らそうと下を向くと、素振りを始めた頃には頭が隠れる程度あった木の影が、太陽の角度が変わりほとんど無くなってしまっている。

 影が垂直に落ちると言う事は、真昼に近づいていると言う事だ。と、なればそろそろ彼女達が騒ぎ始める頃合だろう。

 

「こーすけー!お腹すいたのだ!」

「耕介さん、ごはん、ごはん~」

 

 二つの少女の声とドタドタと走る音が、白地の壁をした建物――彼の現在の家であり、職場でもある――さざなみ寮から聞こえてきた。

 あまりに予想どおりの展開に、青年は苦笑しながら剣を鞘に収め、一度大きく伸びをする。手足をほぐすようにブラブラと間接をまわして、ゆっくりと寮に歩いていく。

 

「さて、それじゃ昼食の準備に取り掛かりますか」

 

 体は疲れていても、これだけは休むわけにはいかない。といっても、決してそれが嫌ではなく、むしろ楽しみであった。

 自分を含めて八人分の食事――実際には何人かの大食いのため十人分以上――を作るのは確かに重労働ではあるが、自分の料理で喜んでくれる人達を見るのはそれ以上の幸福であると、彼は感じるからだ。

 リビングに入ると、すでに待ちきれない様子で少女達がソファーに座っている。その様子は、さながらお腹をすかせた犬猫――少なくても一人は間違いなく猫だったが――のように見えて、青年は楽しそうに笑った。

「はいはい、美緒にみなみちゃん。そんな顔しなくてもすぐに出来るよ。だから、皆を呼んで来てくれないかな。おいしいデザートつけてあげるから」

 ピクンと猫耳と尻尾を立てて美緒が、目を輝かせてみなみがソファーから跳ね起きる。

 

「らじゃったのだ!」

「わっかりましたー」

 

 同時に叫んで、二人は寮内をかけて行った。

 

「やれやれ。まったく元気だなぁ、あの二人は」

 

 刀を汚れない場所に立てかけてから手を洗い、早朝あらかじめ仕込んでおいた鍋に火をかけながら彼は呟いた。

 すると、立てかけておいた刀から、しゅん、と何かが飛び出し、それは瞬時に一人の女性の姿を形取った。金色の髪をなびかせて、天女のような着物を着た彼女は、この世のものとは思えないほどの美しさであり、それは本来なら見るものにある種の恐怖感すら与えかねないものだ。

 だが不思議と、彼女は柔らかく温かい。例えるのなら陽光のような雰囲気に満ちて、恐怖などと言う事からは無縁の存在であることが感じられた。

 その美女は微笑みながら、桜のような唇を開く。

 

「ふふ……あのくらいの齢の頃は、それが一番大事ですよ。耕介様」

「そうですね……でもあの二人の場合、どんな年齢になっても、あまり変わらない気がしますけど」

 

 耕介と呼ばれた青年は、いきなり現れ話し掛けてきたその金髪の女性にいささかも驚いた様子も見せず、むしろ愛しさをこめた瞳で彼女を見つめながら答えた。彼のそんな姿が彼女の藍色の瞳に映し出されているが、その映像が彼女自身に届く事は決して無い。そのことは耕介も理解しているが、彼は彼女に話し掛けるとき、必ず彼女の目を見て話すことにしていた。盲目であろうとも、彼女の目は何かを伝えたり受け止めたり出来るはずだと、彼は信じている。

 

「それでは、私は薫の様子をうかがってまいります。部屋で勉強していましたから、一区切りのつくまでは騒がしく呼ばれる事を望まないでしょう」

「そうですね。美緒だと無理やり連れてきてしまって、ケンカになるかもしれないですし。お願いします」

 

 耕介がそう相槌を打つと、彼女はふわっと床から浮かび上がり、二階の薫の部屋へと向かった。

 

 

 彼女は人間ではない。

 寮生の一人である神咲薫、その神咲家に四百年に渡り仕えてきた、神咲一灯流伝承『霊剣十六夜』に宿る魂の具現した姿であり、そして耕介が契った存在である。

 

 その名を、霊剣の銘に等しく『十六夜』といった。

 

 

 

 

 



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第一章

 『幸せという色の中には、僅かな濁りが存在する。
 それは色にほとんど影響を与えないが、取り除こうとすれば色は崩れていく。
 濁りを見つけようと必死になっていたのなら滑稽だが、ふと気づいてしまった彼は辛辣だ。
 純粋な彼は純粋であるがゆえ、濁りを無視できずに色を壊すだろう。』


「ふんふん…。ふふんー…。おーれーはー…。こうっすけー…。きみのーなかーまだー…」

 

 午後のさざなみ寮。

 昼間は騒がしかったここも、学生達はそれぞれの休日を満喫するため出かけており、住人達の姿はあまり見受けられない。もっとも、そう言う事に関係の無い職種もあるわけで、そう言う者たちは普段と変わらない生活を送っている。

 そんな者達の一人である耕介は、いつもの日課に取り組んでいた。

 浴室の脱衣所の横でガタタン、ガタタン、と、だいぶ寿命の悲鳴を上げるようになった洗濯機を前にして、耕介はぽんぽんと衣類を投げ込んでいく。2メートル近い身長と引き締まった筋肉を持つ青年が、楽しそうに鼻歌を歌いながら洗濯機に向かう姿はそれなりに異様ではあるのだが――

 

「どーしてそれが嫌になるほど似合うのかね、あんたは」

「いきなりなんですか、真雪さん」

 

 火のついてない煙草を咥え、後ろから声をかけてきた女性――仁村真雪のある意味感心したような声に、耕介は唇を曲げて答えた。

 

「いや別に―。あたしがひいひい言いながら原稿の仕上げを終わらせたって言うのに、あんたがムカツクぐらい機嫌よさそうだったから、からかってみたくて」

 

 にひひ、とイタズラが成功した子供のように真雪が笑う。

 耕介は残っていた衣服を片付けながら、呆れた顔で彼女を見た。

 

「それで、何のようですか。まさかそれだけってわけじゃないでしょう」

「いや、それだけ」

「……」

「怒るなよ。十六夜さんにはあんなにやさしいのに、えらく態度がちがうじゃないか」

「なっ……」 

 

 探るように横目で除く真雪の言葉に、耕介の顔が真っ赤になる。

 あの事件――薫が御架月を霊剣として使うことを決め、それと共に、耕介と十六夜が寮内で公認の中になって一年。なんどとなく寮生に冷やかされてきたが――最もその大半は、『さざなみお笑いコンビ』として耕介の相方である音大生の椎名ゆうひ、そして真雪の二人であるが――、いまだにこの手の免疫が出来ていないらしい。

 

「やれやれ……。やるこたやってるくせに何でここまで純情なんだか。ま、いいや。さっきのは冗談はともかく、病院に知佳を迎えに行ってくれないか?」

「洗濯も終わりますからいいっすけど……それなら最初から言ってくださいよ」

「わーたって。じゃ、あたしはこのまま風呂入って二日ぶりに寝るからよろしく~」

 

 ふああ、と大きなあくびを一つすると、真雪は半分目を閉じ酔っ払いさながらに浴室の前へ入ってくる。耕介がいるにもかかわらず服を脱ぎ出した彼女に、青年はあわててそこから出た。ところが自室へ向かう廊下の前で、再び真雪の呼ぶ声が聞こえ、振り返ると彼女はドアから顔だけ出してこちらを見ていた。

 

「真雪さん、今度は何ですか」

「ああ、言おうか言うまいか悩んだんだけど、やっぱり言う事にした」

「だからなんです?」

「あの変な歌はやめておけ」

「……」

 

 

 

 

 日差しに関して言えば六月というのは微妙な季節で、太陽の強い光が暗い雲によって遮られて辺りに大きな明暗を分けさせる。

 耕介は木洩れ日も似たその空間を、従姉弟でありさざなみ寮のオーナーである牧原愛から借りた彼女の愛車、通称「ミニちゃん」に乗って突き抜けていった。

 海鳴駅を通り過ぎると見えてくる大きな建物――海鳴大学病院に、真雪の妹「仁村知佳」は通っている。このあたり、それなりに複雑な事情があるのだが――まあ、今は特に触れないでおこう。

 駐車場にミニを停め、病室へと出向いた耕介だが知佳の担当主治医である矢沢医師に「もう少し検査に時間がかかる」と告げられ、彼は中庭のベンチで一休みする事にした。

 手近な自動販売機から冷たい緑茶を買い、ほっと息を吐いてのんびりと辺りを眺め、鳥達の囀りと街の喧騒に耳を傾ける。

 

「のどかだねえ……」

 

 ポツリと彼は呟いて、耕介は美味そうにお茶をすする。

 

「くすくすくす……」

「?」

 

 鳥達に混じって子供の笑い声が聞こえた。

 人影は無かったはずだと訝しがりながら辺りを見回すが、変わった様子は無い。当たり前だ。さきほど述べた通り、声は鳥達と聞こえてくる――すなわち空から。

 耕介は上を見て、ああ、と納得した。

 彼の視線の先にいたのは白いワンピースを着た、十四、五くらいの少女だった。木の枝に腰掛けるように浮かんでいる。

 

「何がそんなにおかしいんだい」

 

 耕介がそう彼女に声をかけると、少女は小さな体をびくっと震わせ、驚きというより

は不思議そうな顔をして、青年の元へ降りてくる。

 

「えっと……もしかしてあたしのこと……見えるの?」

「ああ、一応そういう関係の仕事もしてるから。で、どうして俺を見て笑ってたんだい?」

 

 目を細めて話し掛ける彼に安心したのか、少女は耕介の隣にちょこんと腰掛けた。

 

「うん、だっておにーさんが、まるでお爺さんみたいなことしてるんだもん」

 

 そう言って屈託なく笑う少女はとても元気に見える。だが、今この場でそれを見ることができるのは強い霊力の持ち主である耕介だけだった。それはつまり、彼女がこの世の存在でない事の証明――。

 ひとしきり笑った少女は、僅かに俯いた後、何か決心をしたように耕介に向き直った。

 

「あーあ、久しぶりに笑ったな~。ね、おにーさん、そういう仕事してるって、もしかして御払いとかできる?」

 

 十六夜を使った霊の強制的な浄化と違い、符や印の術――神咲の裏の技はまだ習い始めたばかりであるが――

 

「あ、ああ。まだ見習みたいなものだけど」

「じゃあ……あたしを成仏させてくれないかな?」

「キミが望むならそれは構わないけど……いいのか?」

 

 我ながら、祓い師としての自覚を欠いた発言だとは思う。

 

「……うん、あたし、三ヶ月前にこの病院で死んじゃったんだ。どうしても、気になる事があって残ってたんだけど……それもすんじゃったし」

「わかった……じゃあ、そのまま目を閉じて」

 

 ん、と口をあけずに返事をして、少女は瞳を閉じた。耕介は彼女の正面に立ち、常に持ち歩いている符を懐から出す。右手で印を組み、左手で構えたそれに精神を深く移していく。

 

「あたしね、彼氏がいたんだ」

 

 少女は目を閉じたまま、静かに語り出した。耕介はそれにかまわずに次の印を組む。

 

「去年の春に告白して、あれだけつまらなかった毎日が、どんどん楽しくなって……」

 

 ぽうっ、と、符が淡い光に包まれる。

 

「夏休みにはいっしょに叔父さんの所に旅行にいこう、って約束したんだけど――いろいろあってあたしは死んじゃった」

 

 符は変わらずに燐光を放ちつづけている。すでに準備は整っていたが、耕介はそのまま彼女の紡ぐ言葉を聞き続けた。

 

「それで彼の事が気になって、こっちに残ってたんだけど――そいつね、最近新しい彼女ができたのよ」

 

 一瞬――本当にほんの一瞬だけ耕介の手が震える。

 

「わかってるんだ。俊君は私のこと忘れたわけじゃないし、今でも好きでいてくれている。それにその女の人もすごくいい人で、あたしが死んで泣き崩れていた俊君に、本当に優しくしてくれている。でも、彼のそばに別の人が寄り添ってる姿を見ると、悔しくて悲しくて――」

 

 少女の閉じられていた瞳から、あふれるように一筋の雫がこぼれた。

 

「あたし、このままここにいても、どんどん自分が嫌な奴になりそうで――」

「もう、……大丈夫だから」

 

 耕介の呟いた言葉が合図となり、符がすっと少女の胸元に吸い込まれた。と、同時に、彼女の体が浮かび上がり、徐々に耕介の目からも、薄らいでいくのがわかる。

 

「あ……」

「大丈夫、キミは嫌な奴なんかじゃない。とってもいい子だよ。俺が保証する」

「ありがとう……。おにーさん、あたしね、さっき笑ったとき久々に幸せな気分になれたんだよ……」

「そか……。……あの、さ。一つだけ聞いて良いかな?」

「スリーサイズ以外なら」

 

 涙も拭かないでおどける彼女に、耕介は合わせて笑顔を作る。

 

「キミはさ、なんで……(嫉妬はしても、その女の人を恨まないんだ?)」

 言いかけて途中で止める。それは禁句にも近い質問のはずだ――今から消えていく彼女には。最後の瞬間は、そういう負の感情とは無縁で送るべきだろう。

「……いや、なんでもない」

「そっか……」

 

 不可解な彼の様子にも、少女は満足そうに笑う。それは、全てを終えようとしたものだけが得られる、悟りの表情だった。

 薄らいでいく少女の体は、美しくも儚い。思わず耕介は手を伸ばそうとするが、意味のないことだと気付き、代わりにぐっと握り締めた。

 そして――少女は消えていく。

 

「おにーさん、あたしが……を……たのは……」

 

 姿と共に掠れていく声。彼女の泣き笑いの顔の向こうに鳥達が舞っている。

 

「……でいる彼を……れた……だよ……」

 

 届かない声。意味にならない音節。それでも彼女が最後に青年に伝えようとした言葉。聞こえないのなら、せめてその唇の動きだけは忘れまいと――

 

「……さようなら」

 

 完全に何も無くなった空間に向かって――名も知らない少女に耕介は別れを告げた。

 

 

 

         ◇

「……ちゃーん。おにいちゃーん!」

 

 結んだお下げを揺らしながら、知佳が転がるように走ってきた。

 

「知佳……」

「ごめんね遅くなって。検査が長引いちゃって。……どうしたの?」

「いや、何でもないよ。夕食の準備もあるし帰ろうか」

「うん……?」

 

 耕介の様子はいつもと変わらないように見える。それでもどこかが違うと、知佳の中に眠る何かが告げていた。その感覚は、車を走らせている間も続く。目に見える変化と言えば、今日の耕介は妙に無口だと言う事ぐらいか。

 心を読んでみたいという感覚にとらわれる。

 変異性遺伝子障害という病気を持つ知佳は、その影響でいくつかの、いわゆる超能力といわれるものが使えた。普段は耳につけたピアスで制御しているのだが、彼女はそっとそれに手を伸ばし――やめよう。いくら親しいとはいえ、彼が隠しているのなら触れずにいるべきだろう。

 でも、ほんの少しだけ――

 知佳はそっと耕介の肩に手を乗せる。ピアスのスイッチは入っているので思考は読めないが、感情くらいならうっすらとわかる。

 耕介は、運転しながらも何か考え込んでいるようで、知佳のそんな様子には気付かないまま、溜息のように独りごちた。

 

「俺は……許せるんだろうか……」

 

 その呟きと共に彼女に届く感情。それは以前知佳が抱いたものと同じ――激しい自己嫌悪だった。

 

 



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第二章

『落ちていく感覚。
 剥がれ落ちた陶器の仮面を叩き割り、その破片が肉を切る。
 痛みと共に気付く血の赤さが、自らの犯した罪の証。』


         ◇

「うん、夏休みには耕介さんも連れて帰るから」

「わかった。それにしても……薫姉がそっちに行った時はいつ男を連れてくるのかって期待したけど、まさか十六夜が先にそうなるとはねえ」

 

 電話からの少年は、からかっていると言うよりは心底驚きを隠せないようだ。声の後に聞こえて来た溜息は無意識に漏れたものだろう。

 しかし、彼の台詞で赤面した少女はそこまで気がつかなかったらしく、それを純粋に自分への揶揄だと捕らえた。

 

「うるさかね!あんたも人の事言えんじゃろが!」

「あいにくと、俺には久美ちゃんがいるので」

 

 少年――和馬からでた女性の名に、薫はふと記憶をめぐらす。

 

「久美……ああ、名古屋で地鎮をした時に会った娘か……ってあんたいつの間に」

「薫姉が友達になったらっていったんだろ……それより、十六夜はどんな感じ?」

「……気になるか?」

 

 心持ち真剣になった弟の声に、薫はやっと本来のイニシアチブが戻った事を感じた。

 

「別に……ただどうしてるかな、って思っただけ」

「隠さんでもよかよ。あんたも小さい頃は十六夜にべったりだったし、耕介さんに取られたようで悔しいんじゃろ」

「なっ……」

 

 思わずにやりと唇が動きそうになったが、瞬間、真雪の意地悪そうな笑顔が自分と重なって慌てて口を押さえた。もちろん、そんなことは電話の向こうの和馬に分かるわけはないのだが。

 

「そ、そんなわけなか!だいたいそんなんは薫姉のほうじゃろ。いくら新たに御架月を使うことにしたからって、よく十六夜を耕介さんに任せる気になったな。本当は後悔しとんじゃなかと?」

「しょんなかよ。確かに始めは勢いでっていうのもあった。でも……十六夜のあんな姿見れば、だれも文句なんぞ言えん」

 

 だいたい十六夜に耕介さんを取られたって言うほうが強い、と思った事は言わないでおく。

 

「なんだそれ?」

「ま、あんたも見れば納得するから。那美や北斗にもよろしく言っといて」

「はいはい。じゃ、俺もその耕介さんとの対面を楽しみにしとるよ。どんな人だか話でしか知らないし、一度お手合わせ願いたいからな。十六夜の所有者になる以上、裏としての見こみがなければ任せられん」

「それはあんたが決める事じゃなかろうが。ま、よかよ。耕介さんの実力はうちのお墨付き。総合力はまだまだでも、純粋な霊力ならすでにあんたを越えとる」

「期待しないでまっとるよ、じゃな、薫姉」

 

 かちゃん、とアナログ電話独特の切断音が聞こえたのを確認して、薫は受話器を置いた。

 壁にかかった日めくりカレンダーを見ると、眼鏡をかけた女の子が29という数字を抱いて笑っている。なんでも真雪が連載している漫画のプレゼントグッズの一つだそうだ。

「こんなハズいもん使えるか!」と真雪は嫌がっていたが、いつのまにか完全に定着してしまった。

 

 もうすぐ六月が終わる。

 

 薫の通う大学は七月中旬には休みに入るが、弟達や寮の皆に合わせてお盆の後に実家に帰ろうと考えていた。本来なら盆に戻るべきなのだろうが、生業がら神咲家が一番忙しくなるときだ。耕介や十六夜のためにも、家の者とはゆっくり合わせてあげたいと思う。

 それに――どうせなら、耕介の実力をもっと上げて、家族達――特に和馬――を驚かせてやりたい。彼の成長力は目を見張るばかりで、剣の腕前もさる事ながら、それを超える霊力の力強さがあった。もっとも霊力のコントロールは並以下なのだが――それは、十六夜の相互供給型という霊剣の性質でカバーできるはずだ。完全放出型の御架月を使ったら、おそらく一度の技で全ての霊力を使いきってしまうかもしれないが。

 

「その辺も含めて……新しい修行のメニュー考えるかな……」

 

 そんな事を考えながら、薫はとりあえず自分の鍛錬をすることにする。今ごろは耕介が夕食の仕度に勤しんでいるだろう。食事が終われば、耕介との手合わせだ。

 

「とりあえず……うちが抜かれんようにせんと」

 

 気合を込める意味で、彼女はそう口に出し部屋の御架月を迎えに行った。

 

 

 

         ◇

 ~八月一日、夜~

 

 ここ一ヶ月の耕介は、あからさまにおかしかった。

 朝食の用意や掃除などの日課はしっかりこなしているのだが、作業中の耕介はどことなく上の空で、誰かが声をかけてもしばらく気付かない。かと思うと妙に神経質になったように辺りを気にしていたりする。

 日課をこなしているといったが、それもどうも染み付いた行動パターンを体が勝手に行っている、そんな印象である。

 話せばいつも通りの笑みを浮かべながら、誰にでも優しく対処するのだが――。彼が一人ソファーで横になっていたとき、風邪ひくだろうと揺り起こそうとしたゆうひの手を反射的にパン!と払いのけ、居合せた周りの寮生をぎょっとさせることがあった(もっとも耕介の情けないほどの平謝りでいつもどおりの雰囲気に戻ったが)。

 数日ならともかく、さすがに一月も続くと不安になった愛やゆうひが何かあったのか十六夜に問うたのだが、それについて一番心配しているのは彼女自身であるらしかった。すでに異変に気付いていた十六夜は、夜、二人きりになった時に耕介に聞いてみていたのだが、そもそも何が原因かわからないので「どうしたのか」と漠然としか質問が出来ない。しかも耕介は、ただいつもの笑みを浮かべて何でもないと言うだけだった。

 

「おかしいです」

「おかしいよね」

「おかしいな」

「おかしいのだ」

「おかしいです~」

「おかしいんとちゃいます?」

 

 耕介、十六夜。薫、御架月の霊剣組を抜いた寮のメンバーがリビングに集まり、一同に頷いた。本当はあと一人リスティという少女が居るのだが、六月から夏休みの終わりまで彼女の妹達のところに遊びに行っているのでこの場には参加していない。

 その代わりと言うわけではないのだが――一人だけ、寮生ではない者が加わっていた。

 

「……で、私を呼んだわけですか?」

 

 テーブルに置かれたクッキーを、パリッ、と小気味良い音を立ててかじっているポニーテールの少女が、半眼で皆を見まわす。

 彼女の名は千堂瞳。

 薫の風芽丘学園生時代の元同級生で、耕介とは幼なじみである。耕介とは昔付き合っていたと言う事実があるが、その事は誰にも言っていない。耕介とさざなみ寮で再会したときはやり直す事も考えたのだが、そのときすでに耕介は十六夜と契っており思いは途絶える事となった。

 まあ、彼をあっさりと諦めた理由として風芽丘の後輩に気になる少年がいたということがあったのだが――。結構良い仲になったらしいが、その少年は彼のさらに後輩の少女と付き合うことになったそうだ。

 その時はいきなりさざなみ寮に乗りこんで、薫に愚痴、真雪と自棄酒、みなみと自棄食い――みなみもその少年を好いていたらしく、泣きながらもいつもの倍の量を平らげた――をして、大暴れした事があった。

 なんやかんやで瞳はちょくちょく遊びに来るようになり、今日も真雪からのお誘いに興じたのだが――

 

「真雪さんから食事のお誘いなんて、なんか変だと思ってたら……やっぱり厄介ごとがあったんですね」

「ま、そういうな。あたしだけじゃなく一応ここにいるメンバー全員からの頼みなんだし。ていうか今は一人でも考える頭や情報がほしいんだ」

 

 一同はうんうんと頷いて瞳に視線を合わせる。

 音もなく溜息をつくと、瞳は耕介と薫が手合わせをしている庭に視線を向けた。

 

「今日、来た私を迎えてくれてたときはそんな変な感じはしなかったけど……具体的にどんな感じなの?」

 

 振り返って愛に聞く。一人に質問を傾けないと、彼女達はてんでばらばらな答えを返すに違いないからだ。

「そうですね……」と愛は記憶を呼び戻すように人差し指をあごに当てて語り出した。愛は天然ボケで有名だが、こういうところでは冷静に客観的な答えを述べてくれる。

 

「なるほど……」

 

 妙に納得したような瞳の仕草に、回りの視線の期待が高まった。

 

「なんか心当たりが!?」

「んにゃ、なんにも」

 

 ぺろ、っと舌を出しておどけた彼女にメンバー全員が脱力した。

 

「あ~あ、まったく知佳が耕介の考えてる事読んじまえば速いってのに……」

「お姉ちゃん!いくらなんでもそんな事出来ないよ!」

 

 真雪の呟きに知佳が叱責する。

 

「あー、わかったわかったって。まったく、坊主(リスティ)がいりゃ内緒で頼むんだがな~」

「お姉ちゃんってば!」

「あーうるさい!冗談だって」

 

 心底面倒くさそうに真雪がそっぽを向いた。

 瞳はそんな二人が昔の耕介と自分の掛合いのように感じ、思わず笑みがもれる。だがその瞬間――

 

「あ……そうか、私には違和感がわかんなかったわけだ。今の耕ちゃん、昔の耕ちゃんみたいなんだ」

 

 ポンッと玩具のピストルのような音で手を叩いて、瞳が少しだけ目を見開いてそう言った。

 彼女はその発言を特に意識したわけではなかったが、ふと周りを見ると皆がポカンとした顔で瞳を見ている――そこで始めて自分が耕介の秘密を言いかけた事に気付き、慌てて口を押さえたがもう遅かった。

 

『なにー!?』

 

 

 

         ◇

 さざなみ寮から聞こえてきた寮生全員の叫び声に、耕介の動きが一瞬鈍る。

 

「耕介様!」

 

 十六夜の声の意味を認識するより早く、耕介はほとんど反射的に手にした得物を下段に落として右に飛ぶ。

 

「くっ!」

 

 ガッ!

 横なぎに払われた木刀が耕介の脇腹に襲い掛かるが、僅かに彼の動きが勝りすんでの所でそれを弾いた。

 

「耕介さん、周囲の状況の変化に反応する事は大事ですが、戦闘への集中力をそいでは意味がなかとです」

「す、すまない薫」

 

 斬激を受けた反動で痺れた手の感触を取り戻すため、木刀の柄を強く握り締めて耕介は再び攻撃の構えを取る。目の見えない十六夜ですら感じ取った剣の動きを掴めないようではどうしようもない。

 

「それから十六夜!試合中に声をかけない!もちろん御架月も」

 

 薫は視線は耕介から動かさないまま、木に立て掛けた二本の霊剣の傍らで佇む金髪の女性と銀髪の少年――十六夜と御架月に声をかけた。

 

「すみません……」

「わかっています、薫様」

 

 十六夜は複雑な顔のままこうべを垂れる。

 

「姉さん、あんまり落ち込まないで……」

「ええ、大丈夫」

 

 弟のちょっとした気遣いが嬉しい。

 

「耕介さん、休まず行きますよ!」

「おう!」

 

 薫が木刀を構えそれに答える耕介の声を合図に、再び打ち合いが始まった。

 

 

         ◇

「あああああ……そんな何もハモッて驚かなくても……」

 

 小さく縮こまって皆の視線から逃れようとする瞳に、真雪が詰め寄った。

 

「昔の耕介みたいって……アイツあんなにぴりぴりしたやつだったんか?」

「真雪さん勘弁してください~。私がしゃべった事がばれたら耕ちゃんに怒られちゃう~」

 

 瞳はほとんど涙目で懇願するが逆効果だったようだ。真雪がにやりと笑って瞳に擦り寄る。

 

「言いからはいちまえって。そこまで言ったら今更隠したって無駄だし。だいたいあからさまに変なくせに隠してる耕介が悪い。早く教えろ」

「そ、そんな……みんな助けてよ~」

 

 真雪から何とか逃れようとして愛達を見るが――

 

「教えて……ください」

「私も……知りたいかな」

「にひひひひ」

「教えるのだ!」

「教えてほしいです~」

「お願いや、教えて~な~」

 

 全員真雪の手の下だった。

 瞳は一度大きな溜息をついたが、すぐに口元を引き締め真剣な顔になる。

 

「わかりました……でも条件があります。一つは私が話したって事を耕ちゃんに内緒にしてくれる事。……そして、たとえ耕ちゃんの過去がどんなであれ、今の耕ちゃんを信じられる事――約束できる?」

 

 答えを聞くまでもなく、彼女達の表情がそれを肯定していた。

 それを確認して無言で頷き、瞳はぽつりぽつりとではあるが語り出した。

 自分の姉が幼なじみで、それに連れてよく遊んでいた事(さすがに付き合っていた事は黙っていた)。いつもぶっきらぼうで、面倒くさい事には関わらないような性格だった事。荒れていた耕介の学生時代、ケンカで生傷が絶えず停学も何度もしていた事――

 

「なんていうか……典型的な「不良」だったわね。学校帰り煙草吸ってて、私がよく文句言ってたりしたっけ」

「なんか……信じられないね……今のお兄ちゃん見てると」

 

 知佳が目を丸くしている。

 

「私が始めてここに来たときは、今の耕ちゃんの方が信じられなかったけどね」

 

 肩をすくめて瞳。もう完全に諦めたようで、大分饒舌になっているようである。

 

「なるほど……稽古つけてやったときも素人にしてはなかなかやると思ったけど、ケンカで場慣れはしてたって事か。あたしを超えるにゃまだまだだけどな」

「それはそうですよ。耕ちゃんがキレたりしない限りは私や薫の方が上だろうし、剣の腕なら薫より強い真雪さん相手じゃ勝ち目はないです」

 

 そう答えた瞳の言葉に、にひひと笑っていた真雪が止る。

 

「なんだと?」

 

 少し怒りを込めた表情で――真雪が瞳を睨んだ。

 剣の腕なら――というのは、総合的な戦いなら薫の方が強い、と言う事だ。そして、瞳はその薫の上をいっている、と薫自らいわしめたことがある存在である。つまり、三人の総合的な強さは、瞳、薫、真雪の順となる。それは真雪自身も口には出さないが納得している事である。問題なのは――

 

「キレたりしない限りって……どういうことだ?本気になった耕介は実戦ではあたしらより強いって事か?」

 

 喋りすぎた、と瞳は内心で舌打ちした。このことは――まだ言えない。

 

「いえ、単なる言い間違いです。気にしないでください」

「千堂~、『しまった』って顔してそんなこと言っても説得力ねーぞ。言わないんなら力尽くでも――」

「……言いません。絶対に」

 

 真雪の獲物を射るような眼光を真正面から見つめ返し、瞳は座り方を微妙にずらして隙を無くした。真雪が半分本気だった事を察知しての無意識の動きだった。

 ぴりぴりと場が緊迫していくこの急激な空気の変化に、誰も喋る事が出来ず少女達は二人を見守っていた。そのとき―― 

 がっしゃあああん!

 

「きゃああああ!」

 

 突如庭につながるガラス扉が割れて、みなみが悲鳴を上げた。硝子と静寂の空気を一度に破壊したもの、それは―――

 

「あっ、くっ!」

 

 脇腹を押さえて苦しむ薫であった。

 一番近くにいた愛が駆け寄り薫の上半身を抱え上げる。

 

「か、薫ちゃん。大丈夫?」

「こ……こうす……」

 

 辛うじてそこまで言葉を発したかと思うと、ふっと彼女の体から力が抜けた。

 

「おい神咲、しっかりしろ!」

 

 真雪が薫の脈を取る。ほっと安堵の顔が浮かんだところを見ると、たんに気絶しただけのようだ。

 

「あ、あれ!」

 

 みなみが庭を指して叫んだ。彼女が指差す先には――

 

「十六夜!御架月!」

 

 地面に倒れた二つの霊剣が、仮初の人型を携えることなく闇夜の中で悲しそうにその刀身を光らせていた。

 




次は明日くらい


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第三章

『隠しておきたい過去。語りたくない自分。
 いくつもの傷痕を見せない為に、その上に新たな傷をつくる。』


 

        ◇

        

「おい、こんな状況なんだ。黙っているとは言わせないぜ!」

 

 真雪が瞳に詰め寄った。

 ソファーでは薫が寝かされて、愛が額に冷やしたタオルをかけている。

 十六夜と御架月は霊力を消耗しているらしく、いくら剣に呼びかけても出てこない。そして肝心の耕介の姿が消えていた。薫を無理やり起こすわけにもいかず、真雪は先ほどの話を聞くことにしたのだ。

 それはたんに好奇心ではなく、耕介の剣の師匠とも言うべき薫を倒したのが、間違いなく耕介本人だということからだ。

 

「神咲に勝つには偶然とかたまたまとか、そんなレベルの話じゃない!耕介の腕は何度か打ち合ったあたしもわかるが、まだまだあたしらにはおよばねぇ。急激に成長したなんてのはナンセンスだ。てことはアイツが純粋に神咲より強いってことになる」

「そう……です。というより、『戦い』に関していえば一番才能があるのは耕ちゃんだと思います」

 

 きっぱりと言いきり、一息置いて彼女は続ける。

「剣道選手としてなら真雪さん、武道としてなら私、剣士としてなら薫がそれぞれ抜きん出ています。薫と私で試合すれば七対三位で私ですが、実戦なら薫が分があるという感じですね」

 

「じゃあ、耕介は何なんだ」

「バーサーカー? ――うーんと……キレた時だけって意味では『象』って感じかも」

「な、なんかますますわからなくなって来てしもーたんですが……」

 

 ゆうひが頭を抱え込んだ。

 

「私、二度だけ本気でキレた耕ちゃん見たんだけど……あのときの耕ちゃん、思い出したくもないくらい怖い顔して――十数人の武器を持った暴走族相手に一人で全員再起不能にしちゃったの」

「そ、そんなことが……」

「それだけじゃないのよ、愛さん。その暴走族の他のメンバーが耕ちゃんに復讐しようとしたんだけど、半グレ、っていうの?。麻薬やらなんやらでそのグループの凶悪さに目をつけていた警察がアジトに乗り込んだら、銃や刃物を持った数十人の男達が血だらけで倒れてたの」

「そ、それって……」

「そう、耕ちゃん。一人でそんな事が出来るわけないって警察は対抗組織の暴走族とかを探ってたし本人も否定してたけど、私はその日返り血で真っ赤になって息を荒げてた耕ちゃんと会って家で手当てしたから間違いないわ。それ以来、地元の不良達の間じゃ『百人殺しの鬼』とか『死神耕介』とか呼ばれてたんだから」

 

 シーンとリビングに静寂が集まる。

 想像の許容量を超えたのか、みなみと美緒が目を回していた。他の女性達も息を飲んで黙ってしまっているが、真雪だけは納得いかない様子で訝しがっている。

 

「そんな奴があんなに変わったって?ぜーったい信じられねー!だいたい今の耕介が昔のようだって言うんなら、性格も昔に戻ってるってことかよ。傷つけた神咲を放っておいてどっかにいっちまうような奴に!」

「違う!」

 

 瞳が怒鳴る。息を荒げていたがすぐに落ち着かせて、また語り出した。

 

「本質的な面では耕ちゃんは変わってません。汚いゲスには容赦ないけど、弱い人やなにかに一生懸命な人には何だかんだで優しかったし。多分、前より素直になっただけです。私は、耕ちゃんが他人が幸せになる事で喜びを感じられる人だと信じてるから。だから――今耕ちゃんが何か隠してるかもしれないけど、信じてあげてくれないかな」

 

 にこ、っと、瞳が笑った。

 寮生達は、少し俯きながら考え込んでいる。

 先程彼女達とは約束したが、少し、いやかなり心配になってきた。やはりこの事は黙っているべきだったか――

 

「うん……私も信じるよー」

 

 知佳が憂いを秘めた笑みを浮かべて、そう言った。

 

「お兄ちゃん、優しかったもん。私の羽根を見ても『きれいだ』って笑ってくれた。妹になって、ずーと一緒に暮らしてきて……私が好きになったお兄ちゃん――。だから、私は信じるよー」

「……そうですね」

 

 知佳に続いて愛が顔を上げた。

 

「千堂さんの話に出てきた耕介さん、わたしが小さい頃にあった耕介さんとそっくりです。そして、耕介さんがこの寮に初めて来たときもそのときと変わってないと私は感じました。耕介さんは耕介さんですよ」

 

 吹っ切れたように愛が言った。

 隣にいたゆうひがそんな愛に触発されてか、ウンウンと頷きながら、

 

「そや。うちのボケに突っ込んでくれる耕介くんは、良い人に決まってる!相方として信じんでどうする!」

「あんなおいしい料理作ってくれる耕介さんが悪い人な訳ないです!」

「なのだ~!」

 

 みなみ、美緒も続く。一同は先程までの雰囲気も忘れて盛り上がった。だが、そこで彼女達がぴたりと止り、一人の人物をじっと見つめる。

 その人物――真雪は慌ててそっぽを向いた。だが照れくさそうに煙草を咥えながら、

 

「あーもう、あたしだってはなから信じてるよ!あたしが信じらんね―のはアイツが強いってことだけだ!当たり前だろ!」

 

 リビングにわっという歓声が響く。

 

「うちも……信じたいです」

 

 全員がソファーを振り向いた。

 薫がまだ痛む脇腹を押さえながら、その上半身を起こしていた。

 

 

         ◇

「耕介さん……どうしたんですか。霊力の同期が全然出来ていません」

「す、すまん……十六夜さん、もう一度お願いします」

 

 手に持った十六夜に再び力をこめる。それに伴い耕介の後ろに立つ人型の十六夜が、目を瞑り集中した。

 十六夜の刀身が微かに燐光を纏っていき、それがだんだんと強く――ならない。

 それは電池の切れかけた懐中電灯のように少し光ったと思うと弱まる事を繰り返し、最後にはすっと色を失い完全にただの鋼色に戻る。

 

「……耕介様?」

 

 十六夜が心配そうにその名を呼ぶ。耕介は焦ったように頭を振りながら、

 

「まってくれ、もう一度――」

「……今日は、もういいです」

 

 薫が溜息を吐きながらそう言い放つと、十六夜が眉を曲げた。

 

「薫、休憩入れてそれからもう一度お願いします」

「駄目。十六夜も気付いているじゃろ。今日の耕介さんは全然集中ができとらん」

「それは……」

 

 薫の言う通りである。十六夜自身が感じた霊力の不同調は一ヶ月前から時折見られ、さらに調子の悪くなっているここ数日でも最悪のものだった。十六夜には見ることが出来なかったが、霊剣十六夜に見られた点滅のような燐光も、力そのものは十分であるにもかかわらずそれが正常に流れていない為である。それは、全ての基本である集中がまるで出来ていない証拠だ。

 

「いったいどうしたとですか。先ほどの剣の稽古の時も上の空になる事が多かったですし、ここ一ヶ月の耕介さんは気合が全然入っていません」

「……いや、なんでもない。気のせいだよ」

 

 耕介が視線を逸らしてそう呟いた。

 まただ――最近の耕介にどうかしたのか聞くと、必ずこういう答を返してくる。少し煩わしげな表情を浮かべながら、だ。これで何でもないと言うのなら、どんなときに心配すればいいというのか。

 

「いいかげんにしてください!それとも、これがあなたの実力だと言うのなら、十六夜を耕介さんに継がせることなど出来ません。別の人間にまかせてもよかとですよ!」

 

 普段の薫なら、どんなに怒ってもこんな言葉は言わなかったはずだ。十六夜の望みを否定、無視するような発言は。

 だが、挙動のおかしい耕介への不安、自分に隠し事をしていることの悔しさ、もどかしい苛立ち。そんな事が一度に加わり薫の怒りは限界まで来ていた。そして、弟にあれだけ大見得を切って誉めた耕介の出来映えに、裏切られたような感覚さえ絡まり、彼女は自分自身でも後々後悔するほどの暴言を吐いてしまった。

 しかし、それに気付いたのはもっと後の事で、今の彼女は耕介を睨み感情を押さえずにいた。

 

「耕介さん、聞いているんですか!」

 

 俯いたまま反応のないの耕介に薫が怒鳴った。

 

「……は……ない」

 

 彼は身じろぎ一つしなかったが、小さな呟きらしきものをして、手にした十六夜を強く握り締める。

 

「耕介……様?」

 

 そして十六夜がまず彼の異変に気付いた。いつも彼が纏わせているやさしい気配が、今まで感じた事もないほどの大きな感情の高まりに変わっている。だがそれに気付いた瞬間、刀身と頭身、二つの十六夜がビクンと跳ねた。

 

「ああああああ!」

 

 耕介が握り締めている刀がかあぁっと大きく光り輝いていき、その光に比例するように十六夜自身も悲鳴のような声を上げ、霊剣へと吸い込まれた。

 

「十六夜!?」「姉さん!」

 

 そして薫達が異変に気付いたとき、耕介が動いた。

 

「十六夜は誰にも渡さねぇ!」

「な!?」

 

 すさまじい形相で、耕介が十六夜を構え薫に突っ込む。少女は急な展開に驚きながらも、体に染み付いた動きで横に飛ぶ。なんとかその一撃を交わすが、耕介は霊力に満ちた十六夜を水平に凪ぎそれを許さない。

 

「ちいぃ!」

 

 御架月で辛うじて受ける。それと同時に後ろに飛ぶと、急いで自らの霊剣に霊力を注いだ。

 

「薫様、まさか!」

 

 御架月の問いに答える暇などなかった。

 

「っはあああああああ!」

 

 キイン!チン!キン!

 

 耕介から繰り出される連続の剣筋は無茶苦茶で、一灯流に限らずとも型になっていない。しかし、純粋に重く、早い。そしてそれは確実に薫のそれを勝り追い込んでいく。

 

「そ、そんな……」

 

 手加減しているわけではない。みね打ちにしてはいるがそのせいで剣技そのものの手を緩めているわけではないのだ。にもかかわらず、弟子である耕介に手も足も出ない。

 

「うおおお!」

「ぐぅ!」

 

 耕介の一撃が、脇腹辺りで受け止めた御架月ごと薫の体を弾き飛ばす。地面に叩きつけられる瞬間受身を取って体制を取り直したが、ずきり、と重苦しい痛みが彼女のアバラ骨辺りから響いた。先の攻撃の衝撃を殺しきれずにいたらしい。

 だが、そのおかげで彼との間に距離が開いた。この間合いでなら――

 

「神気発勝……真威、楓陣刃ぁ!」

 

 薫が光の塊をその剣先から繰り出す。さらに――

 

「洸桜刃ぁぁ!」

 

 奥義の連撃。それは薫が御架月を手にしてから猛練習した努力の結晶。例え一撃目をかわしても、その逃げ道を塞ぐように二撃目が襲う。さらにそれを受ける事を考慮して、すでに追の太刀の予備動作に移る。実質三つの技の複雑混合技であり、技の出を早めて威力よりも命中させる事に重きを置いている。これならばたとえ直撃しても致命傷にはならないはずだ。

 だが――

 

 ばちぃ!

 

「な!」

 

 耕介は一撃目を十六夜で防ぐと、次いでくる洸桜刃を開いた左手で受け止めた。ばしゅうと煙を上げて光塊が握りつぶされる。光が消えた後、彼の手はうっすらと燐光らしきものを纏っているが、傷一つついているようには見えない。

 手加減をしていたとはいえ、霊剣により増幅された霊力の塊を生身で受けきれるものではない。ましてや直撃をして無傷でいるなど――

 

「薫……」

「こ、耕介さん?」

 

 耕介が突如頭を抱えて膝をついた。ゼイゼイと息を切らせ、何かを必死で堪えているようだ。

 

「に……げろ」

「え……」

「早く逃げろ!」

 

 耕介が叫んだ。

 薫は悩む。今の隙だらけの耕介なら確実に決められる――

 そう判断し、薫は御架月を構え一歩の踏み込みで耕介の正眼に飛び込み、痛む脇腹を無視して彼の首筋に刀の峰を落とす。もらった、と彼女が確信した刹那――

 がぁん!

 燐光を発した耕介の腕によって止められた。そして薫に大きな隙が出来る。

 

「しまっ……」

 

 すでに十六夜の切っ先が薫の胸に向かい標準を会わせ、それが恐ろしい速度で迫り――

 

「薫さまぁ!」

 

 思わず目を閉じた薫の耳に、御架月の声と、ざくぅと嫌な音が聞こえてくる。だが不思議と切られたときの鋭い痛みはなく、代わりに先ほど傷ついた脇腹が軽く悲鳴を上げていた。

 間を置いて開いた眼前には、不可解な現実があった。彼女を庇う様に立つ人型の御架月の直前で血に染まった刃が止っている。届いていない刃の血の原因は――

 

「耕……介さん……」

「ぐ、う……大丈夫か……薫」

 

 耕介の左の手の甲から刃が貫かれ、そのままの形で十六夜の刀身が握り閉められている。まるで、右手と左手に別の意思があるような、そう思わせる光景だった。

 ずるりと剣が引き抜かれ血が滴り落ちる。

 ザク、と十六夜を地面に突き刺し耕介は「はあ」と大きく息を吐いた。顔を上げた彼の顔は、いつもの明るい耕介のそれではなかったが、少なくても今までの恐ろしいものではない。

 

「こ、耕介さん……」

 

 薫の呼びかけに、はっと彼女の方を向く。薫は負傷した部分に左手を添えて、御架月に体を支えられている。怪我はしていないようだがよほど霊力と神経を使ったらしく体に力が入らないようだ。その姿がなんとも痛々しい。

 

「あ、ああ……」。

 

 そんな彼女を見て、耕介は何かに恐怖したように震え出しす。

 

「あああ……うわあぁああ!」

「耕介さん!?」

 

 耕介がいきなり踵を返して、外につながる門に向かって走る。あわてて追いかけようとするが、体の方が言うことを聞かない。その間に耕介は外へ飛び出してしまった。

 仕方なく残された十六夜の無事を確認しようと手に取ろうとした瞬間、おかしい事に気付いた。

 

「十六夜が……まだ霊力を放っている!?」

 

ドン!

 

 溢れ出た光源は力となり、破裂音を立ててその奔流を辺りに流す。薫はとっさに御架月を構えるが、それはあまりにも急過ぎた。

 

「きゃああ!」

「うわあ!」

 

 霊剣が飛ばされ、光が彼女を襲う。そのさなかで、自分を襲っている光の恐怖よりもそこから感じ取れる寂しさのような感覚を不思議に思いながら――彼女の視界が暗転した。

 彼女を支えていた御架月共々後ろに吹き飛ばされ、その衝撃で徐々に意識が薄らいでいく。自分が硝子をぶち破りながらさざなみ寮の中に入ってしまったことをかろうじて認識する。

 愛に体を抱えられ、先ほどの出来事を伝えようとするが――

 

「こ……こうす……」

 

 唇を動かす感覚もなくなって――完全に彼女の意識が途絶えた。 

 

 

 

 

「あとの出来事は、皆さんの方がよく知ってると思います」

 

 薫の話が終わり、皆が「ほう」と溜息をついた。

 

「でもなんで、十六夜さんが最後に爆発したん?」

 

 ゆうひが首をひねる。

 

「多分、十六夜は耕介さんから送られた大量の霊力を、うち達を傷つけないようにずっと押さえていたんです。ですが耕介さんの手から離れた事で、許容量を超えていた霊力の行き場がなくなり暴発したのだと思います。といっても霊力が吹き出ただけですから、十六夜自体には影響ないはずです。今は気絶しているような状態かと」

「え……じゃあ、耕介君は十六夜さんに力を押さえられている状態で、それで薫ちゃんよりも強かったんですか?」

「……ええ、もともと霊力の許容量ではうちより超えていると踏んでましたが、予想以上でした。それに体術的にもうちの遥か上でした。ですが、今まで手を抜いていたとも思えませんし……千堂の話は本当だったということです」

 

 急に自分の名が上がり思わず自分の顔を指差す瞳。

 

「神咲……いつから聞き耳立ててたんだ」

「話の腰を折るタイミングがなかっただけで、そんなつもりはなかとです。……一応、耕介さんと暴走族辺りの話からは聞いてました」

 

 少しだけ申し訳なさそうに薫が言った。質問をした真雪がそのついでとばかりに、

 

「聞き耳っていやあ、あたしらがここで話し込んでいたってのにおまえらがそんな事になってるなんて気付きもしなかったが、なんか理由でもあんのか?」

「……最近は、神気を飛ばす奥義の練習をしてましたから、万が一のことを考えて一応防音処理もかねた簡単な結界を張っておいたんです。外からの音は聞こえますけど」

「結構気を使ってたんだな……。ご苦労なこって。んで、アイツがキレると強いのはわかったとして、結局なんだって耕介があんなにキレちまったんだ?」

 

 薫が俯く。わからない、と言う意思表示だろうか。

 

「結局……そこにもどっちゃうんですよね……」

「なのだ」

 

 みなみが呟き、それに合わせて美緒が頷く。残りの寮生も同じだ。すると知佳がおずおずと手を上げた。発言するのに別にそうする必要はないのだが、そういう動作が彼女らしい。

 真雪が妹に「ホレ」と煙草で促した。

 

「えっと、お兄ちゃんは、十六夜さんは渡さないって言ったんだから……やっぱり十六夜さんに関係あるんじゃないのかな」

「そうだろうなー。でもどう言う意味だ?渡すも渡さないも十六夜の所有者は耕介だろーに。神咲家の形式云々はともかく」

 

 妹の疑問に頷く真雪。

 

「……うちが、十六夜を別の人に任せるって言ったせいでしょうか」

 

 薫が声を落としてそういうと、真雪はつまらなそうに煙草に火をつけ、

 

「だって本気じゃなかったんだろ?アイツがそれに気付かないとは思えねーぞ」 

「いいえ、耕介様は嫉妬する自分に悩んでいたせいで、正常な判断が出来なかったんでしょう」

 

 真雪に続いてそう答えたのは――

 

「みかちゃん!」

 

 愛が驚く。薫の部屋に安置しておいた二本の霊剣。そのうちの一本、御架月が人型を取りいつのまにか一階に降りていた。

 

「御架月……大丈夫?」

「はい、薫様。完全ではありませんが霊力も少し戻りました。姉さんもまだ意識が戻りませんが、大丈夫です」

 

 薫、他一同がほっと息をつく。

 

「ところで御架月。なにかわかったと?耕介さんが嫉妬したって……」

「ええ、先ほどの打ち合いをしているとき、姉さんから伝わる耕介様の神気がそう教えてくれていました」

「どうして、それが嫉妬だとわかる」

「わかりますよ……。僕も、姉さんが僕ではなく神咲家を庇った時、嫉妬に狂いましたから」

 

 ばつが悪そうに少し顔が暗くなる御架月。薫がそんな御架月に僅かに「すまん」と詫びる。

 

「でも、嫉妬するって誰に対してなんです?寮内には女性しかおらへんし、十六夜さんに誰か他にそういう関係になるような男がいるとは思えへんし」

「それは……おそらく――」

 




ワイ氏、読み返して耕介のKOUSUKEっプリに悶える


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第四章

『人は生きる間に、いくつも飾りを付けていく。
 それは己の誇りにもなれば、引きずるだけの足枷にも変わる。
 もしそれを取り外したいのなら、簡単な方法が一つ。
 かつて同じ重りを付けていた者から、その方法を聞けばいい。』



 

         ◇

 耕介が目を開けると、覗き込む二人の少女の顔があった。

 

「ここは……」

「あ、起きましたか?」

 

 声をかけたのは、声が思いのほか太い少女――否、よく見れば少年だ。しかもどこか見覚えがある。

 

「はい、ホットミルクです。落ち着きますよ」

 

 もう片方の――こちらは間違いなく少女だった――が湯気の立つマグカップを耕介に渡す。

 

「ありがとう……でも、君達は?」

「あれ……もしかしてオレ達の事忘れてますか?耕介さん」

 

 少年は少しシニカルに笑う。「あのときのパーティでは、ありがとうございました」

 その台詞で、耕介はやっと記憶がつながった。

 

「もしかして……真一郎君と……」

「さくらです。綺堂さくら」

 

 少女が微笑む。

 そうだ、前にさざなみ寮で風芽丘の生徒も交えてガーデンパーティしたときに来た子達で、その後も何度かさざなみ寮に遊びに来た事があった。

 特に少年の方は、瞳がフられて大暴走した原因となったあの少年である。隣の少女を見て、そうか……この子と付き合っているんだと、妙な納得をした。

 

「驚きましたよ。さくらと夜の町を散歩してたら道に倒れてるんですもん。手には怪我をしてるし、耕介さんじゃなかったら警察か病院に連絡してましたよ」

「すまない……すぐに出ていくから……」

「そんな、ゆっくりして行ってくださいよ。オレ達の方が普段お世話になっているんですから。あ、あとさざなみ寮の方に連絡を入れるのなら、そっちに電話がありますから」

「……」

 

 さざなみ寮、という言葉を聞いたとたん、耕介の顔が曇る。

 

「さざなみ寮で、何かあったんですか?」

「……いや、何でもないよ」

 

 何でもないというには、説得力のある表情ではない。だが真一郎は、あえてそれ以上聞かず、「ちょっと飲み物買ってきます」と席を立つ。ついで、さくらに耕介の手に巻かれた包帯を取りかえるよう頼んだ。

 止める間もなく家を出ていく真一郎。耕介は仕方なく、さくらに促され左手を差し出した。

 さくらが手馴れた様子で包帯を巻きつけていく。その時、耕介はあることに気付いた。

 

「この子……人間じゃない」

 

 彼女の体から、妖気が上がっている。それもかなり強い力だが、彼女が人に危害を与える存在には思えない。先ほど真一郎に送っていた眼差しから見ても、彼女はおそらく純粋に真一郎を好いている、普通の女の子なのだろう。まるで、自分と十六夜のようだった。そんな事を思うと、ふと耕介に疑問が沸いた。

 

「あの、さくらちゃん」

「どうしました?」

「一つ聞いて良いかな。答えたくなければいいけど」

「いいですけど……」

「君の正体のこと――真一郎君は知っているのかい?」

 

 彼女は一瞬だけびくっと体を震わせたが、耕介の目は冗談でも敵意でもない。それどころか追い詰められた小動物のような悲しさを持っていることに驚き、思わず「はい」とだけ答えた。

 

「そうか……」

「どうして、そんな事を?」

「俺も……恋人が人間じゃないから。そのせいで不安でたまらない時がある」

 

 意外な答だった。真一郎以外の男性には余り関わらないさくらだが、耕介には興味と親近感が沸き、彼に聞いてみることにした。

 

「それは、種族という壁があるからですか?」

「……いや、多分そういう事じゃなく、一方的に俺が悪いんだと思う。俺は……最低な人間だから」

 

 耕介が笑う。自虐的に。

 

「え……」

「俺は彼女と共に生きる事で、確実に大きな悲しみを与える事を知っている。それだけで十分に彼女を苦しめるのに、その後彼女が幸せになる事が許せないかもしれないんだ」

「……」

 

 さくらが無言で包帯を巻く。

 

「俺は彼女を幸せにすると約束しながら、不幸になる事を望んでいる。そしてその悪意で大切な家族まで傷つけた……俺の中にそんな自分がいた事が信じられない」

「……具体的に、言ってもらえませんか」

 

 耕介は大きく溜息をつくと、全てを独白するように答える。

 

「俺は……」

 

 

 

         ◇

 

「それは……多分……耕介様自身が消えた後の事だと思います」

『消えた後?』

 

 全員が声を合わせて聞き返した。

 

「はい、耕介様は確実に姉さんより先に死ぬ事になります。これは……紛れもない事実。そうなれば、霊剣十六夜は別の人が継ぐことになる。でも永遠に近い長い年月の中で、また自分と同じように姉さんが恋に落ちる事があるかもしれない」

「……じゃあ、お兄ちゃんはまだ存在すらもしてない人に嫉妬してたって事?」

「ええ、そしてそうなってしまったと仮定してみて、耕介様はその事を許容できないでいる自分に気付いた。だけどそれは姉さんの幸せを否定していることになる。そう思って、耕介様は、一人悩んでいたのではないでしょうか」

 

 

         ◇

「だから、俺は最低の人間なんだよ……。そうなると想像しただけで、嫉妬に狂う自分がいた。昔キレて暴れた事があったけど、それは相手が許せない事をしたからだった。でも、今回は違う。確実に、自分の中のどす黒い感情がさせているんだ」

「そうですか……」

 

 こっちこっちと時計の針がゆれている。独白を終えたその部屋は、妙な静けさが合った。包帯はすでに取りかえられており、さくらは苦悩する彼をそっと見守っていた。

 

「残された十六夜さんが、俺を思って泣いて欲しいと思っている。そして、その感情が別の男に向けられることを俺は恐れている。どちらにしろ、十六夜さんが悲しむのに、だ」

「……でも、あなたはその事で悩んでいる。それは……あなたのやさしさと強さです。わたしは、あなたが素晴らしい人だと思いますよ」

「……そんなたいそうなもんじゃない……。でもありがとう。少しだけ……軽くなった気がするよ」

 

 そう呟いて、耕介は立ちあがった。

 

「どちらへ?」

「帰るよ。どちらにしろいつまでも逃げるわけにはいかないから――。皆が俺を許してくれるかどうかわからないけど、それでも、裏切る事だけはしたくない。真一郎君には謝っておいて」

 わかりました、とさくらが答え、玄関に連れそう。

 

 玄関口を開けると、缶コーヒーをビニールにぶら下げていた真一郎が居た。

 

「あ、あれ?お帰りですか」

「あ、ああ。すまん、真一郎君。無駄足させちゃったな」

「いいですよ、じゃあ、ちょっとそこまで付き合います。さくら、留守番お願いね」

 

 耕介は断ろうとしたが、すでに真一郎は荷物を下ろして外で待っていた。これでは今更遠慮など出来ない。

 耕介がさくらに別れを告げると、彼女はまた来てください、と笑顔を送った。その言葉に違和感を感じたが、とりあえず手を振る。

 しばらく二人で歩いて、十分に真一郎の自宅から離れた事を確認して、先ほどの違和感の正体を確かめる

 

「真一郎君……もしかして」

「え、ええ。まあ、同棲のような感じで。あ、でもさくらの両親の承諾は取ってありますよ」

 

 どんな親だ、と少し呆れた。まあ、考えてみれば彼女の両親の少なくてもどちらかは人間ではない、と言う時点で一筋縄ではいかないのだが。

 と、耕介の胸の前にすっと缶コーヒーが差し出された。耕介よりふたまわり小さい真一郎が少し見上げるように腕を伸ばしている。どうやら先ほど買ってきたものらしい。遠慮するほどの事でもなく、耕介は「サンキュ」とひとこと言って受け取った。

 

「っアツ!」

 

 缶から手のひらに予想だにしなかった高音が伝わって、耕介はその缶を放り上げお手玉のように手の上で転がした。

 

「こ、これホット?」

「間違えて買ったヤツですけど……。あはは、引っかかりましたね」

「……ひどいなあ」

 

 歯を見せて笑う真一郎に、耕介は軽く――少しだけ本気で――睨む。しかし、真一郎はひるむことなく、それどころか逆に耕介を睨み返した。冗談などではなく、まっすぐに耕介の方に。

 

「それは、さくらに余計な事を言って苦しめた仕返しです」

「え……」

「自販機は、家のそばの電柱の暗がりにあるんです。戻ってくるのに一分もかかりませんよ。帰ってみたらなんか妙な雰囲気だったんで、気配殺してたんですけど」

「聞いてたのか……」

 

 それにしても、いくら警戒をしていなかったからとはいえ、それなりに猛者である耕介から気配を探らせないとは彼もあの事件――ガーデンパーティで起こったある騒動――以来腕を磨いていたという事だろうか。

 

「でも……俺なんか悪い事言ったかな。確かに愚痴っぽい事は言ったけど」

「オレ達も、耕介さんたちと一緒なんです」

「ああ、さくらちゃんが人間じゃないって事だろ」

「……さくらも不老長寿なんですよ」

 

 実際には完全な不老ではないが、それは説明しても意味のない事だろう。

 真一郎の沈痛な言葉に、耕介の目がはっと開く。

 

「耕介さんが悩んでいるそれは、オレにも当てはまることです。だから、オレの分身みたいな人からそんなこと言われれば、あの子が悩まないはずはないでしょう?」

「……すまん」

「詫びならオレじゃなくさくらに言ってください。オレは、もう悩みませんから」

「じゃあ、キミも……」

「前に、ね。と言っても、耕介さん程深刻には悩みませんでしたし、自分で勝手に自己完結しただけですけど。結局、大切なのは今二人で居られるこの日って事に気付けましたから」

 

 そう言って、歩きながら真一郎が自分のコーヒーをすすった。

 

「確かにそういう不安はないわけじゃないですけど、それを悩むのは自分の死期が近づいてからでもいいでしょう?今は許容できなくても、そのときの自分ならきっと、別のもっと大きな想いを持っているはずですから」

 

 そう言った後、真一郎は自分でも少し恥かしかったのか「な~んてね」と照れたように最後に続けて、おどけてみせた。

 

「それにね――」

「ん?」

「耕介さんにしたって、そうやって悩むってことは本心では十六夜さんを悲しませたくないってことでしょ?もしオレが死んだ後さくらにそういう人が出来たら、きっとそいつに嫉妬します。でも……さくらが苦しんでいる姿を見たくないから、それを救ってくれたそいつを恨んだりはできないと思います。」

 

 『どこかで見たような』口の動きで少年が言う。でも、初めて聞いたはずのその言葉。

 

「キミは……強いね」

 

 嘆息して、耕介。はは、と笑って真一郎が答えた。

 

「そんなことないですよ。多分、彼女の言葉のおかげだと」

「言葉?」

「ええ、さくらがオレに言った言葉です。『他の誰にも、どんな運命にも、あらゆる苦しみにも、死の宿命にさえあなたを渡さない。たとえ世界が砕けても、この腕の中にいてくれる限り』ってね。好きな子にここまで言われて、つまらない事で悩んでいられないですよ」

 

 へへへ、と笑った彼は顔を真っ赤にしていた。まさかこの話の展開で、惚気られるとは思わなかったが。それにしてもこういう照れた時のこの少年は本当に女の子のようで、白いワンピースなんてものを着ても似合いそうな――

(白いワンピース……?まてよ、そういえば、真一郎君のさっきの台詞、口の動きは……あのときの――!)

 おにーさん、と慕ってくれた、ほんの半月ほど前に合った幽霊の少女。彼女が最後に伝えようとした、でも音の届かなかったあの言葉――。

 

「……そうか」

「どうしました?」

 

 不意に立ち止まった耕介に真一郎が振り向くと、彼は思いのほかすっきりとした顔で夜空を仰いでいた。

 

「いやね、あんな小さな女の子も好きな人の為に頑張ってたのに、大の男が同じことでいじけてたら情けないな、と思ってね」

 

 謎かけのような耕介の言葉に少年は首をひねる。しかしなにか思い当たったのか、

 

「女の子って……まさか、オレの事ですか!?」

「は?!……ぷっ」

 

 目を丸くした耕介だが、目の前の女の子のような少年がなにか大きな勘違いをしている事に気付いて、思わず吹き出した。

 

「くっくく、あーはっははははは!」

「な、なに笑ってるんですか」

「はっは。いや、ほんと、なんでもないって」

 

 そう言いながらも、耕介は腹を抱えている。理不尽さに感じながらも、とりあえず耕介から沈んだ空気が抜けているようで、真一郎は嘆息した。

 

「なんか納得いきませんけど……それじゃ、オレはこの辺で戻ります。さくらが待ちくたびれちゃいますし」

「ああ、またいつでも遊びに来てくれ。さくらちゃんも一緒にね」

 

 真一郎は、はい、と一言だけ答えて、もと来た道を歩んでいく。

 耕介はそれを見送り、冷め切ったコーヒーのプルトックを開けて、景気づけとばかりに一気に流し込んだ。

 

「やっぱり、十六夜さんのいれてくれたお茶の方が上手いな……さて、とりあえずみんなに謝る言葉でも考えながら帰るとしますか」

 

 そんな事を思いながら、耕介は海鳴の街を進んでいった。月明かりと街頭の光が複雑に絡み、耕介の影を二重に移す。

 そしてそのすぐ後ろを――小さな闇が追っていた。

 

 

 

 

         ◇

「ふえ……なんかすごい話になってきたね」

 

 知佳は御架月の語った内容に、まわりの反応が気になって周りを見た。隣にいる姉が渋い顔で腕を組んでいる。

 

「なんか、随分と生々しい話になってきたな……。でもそれって推測に過ぎないだろ?」

「はい。でも、確信していいと思ってます」

「何故?」

 

 訝しがる真雪に御架月は深く目を閉じて、

 

「ボク達は実際姉弟で刀としても同じつくりですから、夫婦刀の霊剣程ではなくてもある程度互いの情報の交換や状態回復の援護が出来ます。そこで先程、姉さんを癒すために霊波同調をしたら、気絶したままの姉さんからさっきの耕介さんの思考が入ってきたんです。多分、姉さんに力を送ったときに一緒に入ったものでしょう」

「じゃあ間違いないって事か……。って待て。十六夜さんの情報にそれが入ってたって事は、十六夜さんも当然――」

「はい、私も気付きました」

 

 答えたのは御架月ではなく、少しやつれた顔で現れた十六夜――。

 

「ああ、大丈夫ですよ」

 

 自分の元に駆け寄る皆に、少し固い笑顔で答える。

 

「薫、耕介様は……まだ戻ってはいませんか?」

「……ああ、あれから二時間ほどたったがまだ帰っとらん」

「そうですか……」

 

 弱々しい声で十六夜が呟く。

 

 そのとき、廊下の方で電話のベルがけたたましく――実際はそれほど大きな音ではなかったのだろうが――鳴り響いた。愛が多少十六夜の方を心配げに見ながらも小走りにそちらに向かう。

 受話器を上げたらしく、辺りは再び静まって愛の声だけが微かに聞こえる。

 

「あ、あの十六夜さん。あまり落ち込まないで下さいー」

 

 その雰囲気に居た堪れなくなったのか、みなみが彼女に言う。気休めにしかならないとわかっているが、それでもそう言わずにはいられなかった。ところが、反応は意外なものだった。

 

「岡本様?私は落ち込んでなどいませんが……」

 

 台詞の内容はともかく、顔の方は気丈に強がっているようには見えない。一同があれ?と顔を見合わせた。

 

「え?で、でも十六夜さん、辛そうでしたし……」

「……耕介様が心配なんです」

 

 自分の辛さを隠す事は上手だが、言葉でも顔でも嘘がつけない人である。本気でそう言っているのであろう。

 もちろん、いなくなった耕介が心配なのはわかる。

 だが、話の流れからすれば十六夜自身にも辛い話だったはずだ。

 なのに、十六夜は別に落ち込んではいないとという。

 それはどうして、と誰かが聞く前に、愛が部屋に飛び込んできた。

 

「薫ちゃん!弟の和馬君からです」

 

 こんなときに、と薫が舌打ちしながら電話に向かう。受話器を上げるとき、少し乱暴に扱う。

 

「どうした和馬、いったい何が……」

「薫姉、そちらの『影蜘蛛』が逃げた」

 

 

 

 

 

 

「薫ちゃん、どうでした?」

 

 居間に戻ってきた薫に、愛が聞いた。

 

「ええ、ちょっと実家の方からの連絡でした。こちらの地方の神咲系列の神社で封印されていた妖魔が逃げたらしいんです。それで和馬がこちらに向かってます」

 

 えっ、とゆうひが息を呑んだ。

 

「ちょ、妖魔って……だいじょぶなん?」

「ええ、人が隠している欲望に憑いて霊力を吸う妖魔ですが、まず大きな害はないです。自分を維持するのに膨大な霊力を使うので他のことは出来ず、次々と憑く人を変えていきます。吸われた人は多少疲れを感じたり、眠気に襲われるでしょうが命に別状はありません。ただ、それがもとで事故が起こることもありますから、放置もできませんけれど」

「じゃあ、霊力が強い薫ちゃんとかだったら?」

「うちらにしても、似たようなものです。それほどその妖魔は自分の存在に膨大な力を要するんです。そして力の供給がなくなれば小さな土塊になって活動を一時停止する。今回は封印に使っていた札を悪戯した子供の霊力を吸って逃げ出したんですが、すでに何人か祓い師が妖気を追っているので数日中には見つかるでしょう。うちも関係者として参加する事になりますが」

 

 怪我をしている状態で、そんな事とんでもないと愛が止めようとしたが、

 

「薫、まさか『影蜘蛛』ですか?」

 

 十六夜が先程とは嘘のような剣幕で薫に問う。

 

「ああ、そうじゃ。でも十六夜、心配なかよ。御架月に癒しをしてもらえばこのぐらいは――」

「薫、私を連れてください!」

「ど、どうした。耕介さんのこともあるし、十六夜は寮でまって――」

「影蜘蛛が耕介様に憑いたら大変な事になります。そして間違いなく影蜘蛛はあの方を狙います」

「どういうことじゃ?確かに耕介さんは並外れた霊力を持ってるが、それでも――」

「耕介様の霊力はあのようなものじゃありません。おそらく、久遠の妖気をも上回りかねない底知れない霊力と妖力が存在してます」

 

 あまりの驚きに薫が目を見開いて息を飲む。

 久遠――。今は力を封印され小さな狐となって妹のそばにいるが、過去に力ある祓い師を含めた全国の神仏関係者を殺した強力な妖弧として怖れられた存在である。封印に成功したときも、多大な被害が出た。もし、そのレベルの力を持つものに影蜘蛛が憑いたとしたら――。

 

「そんな馬鹿な!いくらなんでも人間にそんな力が――」

 

 しかし薫は気付いた。十六夜は今、こう言っていた。

 

「……妖力。まさか、耕介さんは」

「ええ、間違いなく、人外の血が混じっています。それも、神獣級の。私が先ほど心配していたのは、耕介様が力を暴走させていないかと言う事なんです」

「そんな……」

 

 よろ、と薫がたたらを踏んだ。

 愛がそれを支えるように薫の肩をつかんで、

 

「あ、あの~話が見えないんですけど、耕介さんが人間じゃないってどういうことです?」

「……いえ、耕介さん自身は人間です。ですが、おそらく耕介さんの祖先に強力な妖魔がいたんです。父方の従姉弟の愛さんは普通の人ですから彼の母親の系列でしょう。そう考えてみれば叔母にあたる神奈さんのあの無限大の体力も納得できます」

 

 先代の管理人にして、耕介の叔母、神奈。

 このくせの強い寮の面々の面倒を余裕でこなしながら、まったくの疲労を見せないことで恐れられた女性である。

 

「で、でも耕介さんの家族にそんな人がいたなんて聞いてないですよ」

「多分、耕介さんは能力が隔世遺伝したんでしょう。そして、普段無意識に封じているその力が、本人がキレた時にだけその片鱗を見せる。……もしその力が影蜘蛛の霊力吸収能力とその存在維持に耐えられるものだったら――」

 

 口に出すのも恐ろしいと言うように、薫が震えた。十六夜が薫の背をさすり、落ち着いたのか彼女は言葉を続ける。

 

「もし耕介さんが影蜘蛛に憑かれたら、彼の一番大きな欲望を利用して体を操るでしょう。無理やり体を乗っ取ると激しい抵抗に合って自分が消失する恐れが出ますから。そして依り代の望みを成就させることでその支配力を意識の奥底まで深め、精神をのっとり完全に耕介さんと同化するはずです。そうして存在が確定してしまえば影蜘蛛の力は消失することなく、しかも肉体が持つ強力な能力を使い放題に鳴りますから」

 

 知佳が青ざめた。

 

「な、なんだかそれってものすごく大変なことなんじゃないの?」

「はい、耕介さん、と言う概念がなくなるどころか、もし耕介さんの力が十六夜の言う通りなら膨大な数の死傷者が出ます……」

 

 ぐっと拳を握り締める薫。

 

「な、なんでそんな危険なのをやっつけないで封印してんだよ!」

 

 真雪も事態の深刻さに気付き、煙草を震わせて叫ぶ。

 

「影蜘蛛というのは人の欲が生み出した妖魔です。元々概念だけの存在が霊力を使う事により土塊を依り代に実体化している。だから、土塊を壊すことは簡単でも概念を消滅させるのは困難なんです。ならばむしろそのまま封印する事によって、例え新たな影蜘蛛が生まれてもその概念を一つの依り代にまとめることができ、万一逃げられたとしても危険性も少ない。だから今までそのままにされてきたんです」

「危険性が少ないって……」

「……今回は、本当に予想外のケースなんです。影蜘蛛が憑く事が出来る体は人間だけですから、直接霊力を吸えるのも人間に限られます。そして、もし影蜘蛛の吸引能力を上回るほどに霊力を鍛えている人間なら、簡単に影蜘蛛を倒せるでしょうから―ー」

「ところが隠された力だけが化け物クラスなのに、それを使えない見習祓い師がここにいたってことか……」

 

 真雪の推理に薫が頷いた。

 

「薫、耕介様を探しましょう。耕介様が影蜘蛛に囚われる前に私達の腕(かいな)に入れることが出来れば問題は避けられます」

「うん、耕介さんも落ち着いたらきっと帰ってくる。なら、近くにいるかもしれない」

「お願いします……もしあの方を失ったら、私はもう生きて――いえ、この世界に存在できないと思いますから……」

 

 思い虚しく、その日耕介が見つかる事はなかった。

 




KOUSUKE最強ものがあってもいいじゃない。
という思いで当時書いた覚えがある。

超展開と設定のごりおしでつきすすむマン


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第五章


『愛情は麻薬に近い。
 愛を失う事による恐怖。失ったときの絶望。
 愛を得る事による快楽。得られたときの希望。
 どちらも人が狂うには十分過ぎる原料だ。
 もし愛により狂気に堕ちた人を救う物があるとすれば、皮肉にも、それすら愛であるに違いない。』



         ◇

~八月三日~午前一時。

 

 喉が焼けそうに乾いている。頭がガンガンと鳴る。自分の奥底から湧き上がる衝動を押さえようとするだけで体中がギシギシと痛む。

 体の中の何かがささやく。「その衝動に全て任せよ」と。

 黙れ――。

 耕介は自分に巣食うそいつに心の中で怒鳴る。

 いつからこうなっているのかはわからない。だが必死にそれに抵抗しながら、体はゆっくりとその場所へと歩んでいく。見なれた景色に、たかか数日離れていただけなのに懐かしさがこみ上げて来た。その誘惑に思わず走り出しそうになるが、僅かに残る理性がなんとか足の動きを押さえた。だが、ゆっくりとではあるが、確実にその場所へ進んでいく。

 彼女の待つ、さざなみ寮へ。

 

 

 

         ◇

同時刻――さざなみ寮

 

「どういうことじゃ!」

 

 薫の怒鳴り声が寮に響く。

 

「どういうこともない。もし耕介さんが影蜘蛛に乗っ取られていた場合、最悪のケースを防ぐ為その媒体――耕介さんを封印、消滅させるという事。こう言う事は、裏の薫姉のほうが判っているじゃろ」

 

 薫に対峙して座っている和馬が、至極冷静に言う。

 

「くっ……」

 

 夕方になり、和馬がさざなみを訪れて彼に今までの経緯を話した。もともと今回の事件を理由に薫と十六夜に会いに半分遊び気分で来ていた和馬は、とんでもない大事になったことにしばし慌てていたが、さすがに神咲の表を継ぐ予定の者だけのことはある。すでに現状を分析して落ち着いた様子だった。

 夕食時はこの大人数とは思えないほど皆黙って静かだったが、ちょうど夜中から始まった寮内での会議に――美緒とみなみは半分眠っていたが――あたりは騒然とした。知佳はリスティを呼び出してこの緊急時を伝えようとしたが、山の方へキャンプに出かけていたため連絡がつかなかった。そんな距離では念話で話すこともできない。

 

「おい、勝手なこと言うなよ小僧。一応あんなんでもうちには大切なヤツなんでね。簡単にそんなことされるわけには行かないんだ」

 

 真雪が半眼で数馬を睨む。霊力の少ない和馬にとって、己の能力は剣技である。しかし、目の前の女性が少なくても自分と同じかそれ以上の実力があることに気付き、彼は少しだけ臆した。

 

「わ、わかってませんね。耕介さんの意識がやられれば、それはもう耕介さんじゃない。ただの肉体だ。そうなったら覚悟はしてもらいますよ」

 

 そう答える少年に真雪は「ふん」と息巻いて、煙草に火をつけた。和馬は吹きかけられる煙を嫌そうに顔をしかめながら、

 

「どちらにしろ、耕介さんと影蜘蛛を探しましょう。全てはそこからです」

「っへ、お前も何もわかってね―な。耕介が影蜘蛛ってのにかちあってなきゃ、あいつは必ずここに帰ってくる。……んでもし取り憑かれてその欲望ってヤツを満たそうとしてんのなら――」

 

 真雪の後方で、ずっと無言で窓の外の様子を感じ取っている十六夜に煙草の先を向けて、

 

「結局、十六夜さんのところに来る。どっちにしろ、ここで待ってりゃやってくるさ。だから十六夜さんはああやってんだ」

 

 自分が耕介の事どころか十六夜すら理解していないと言われ、和馬はむっとする。こんなヤツに、十六夜の何がわかると彼女を睨むが――

 十六夜が目を閉じ、庭へのガラス戸に寄りかかったまま呟いた。

 

「――来ました」

 

 

 月明かりがぼうっと庭先を照らす中、一人の青年が虚ろな表情で仁王立ちしている。薄汚れた包帯を左手に巻くその青年は――

 

 

「耕介!」「耕介お兄ちゃん!」

 

 仁村姉妹が同じに彼の名を呼ぶ。その声に反応したのか、彼の体が震え出した。

 

「み、みんな……逃げろ……。俺の意識があルうちニ、十六夜サンを連レて……早く!あ、ああああああ!」

 

 絶叫し耕介が倒れた。そして震えが終わったかと思うとゆっくりとたち上がった。

 あらためて女性達が呼びかけるが彼は微動だにせず一点を見つめている。まるで、彼女以外は何も目に入らぬように――

 

「……十六夜……俺と同化して一つになれ。そうすれば、俺達はずっと一緒になれる」

「耕介……様……」

 

 耕介の抑揚のない声。だが、それでも彼女の愛しい人の声に代わりはなかった。思わず涙がこぼれそうになる。

 

「なーるほど、それがアイツの望みか。隠してた欲が金やら殺戮なんかじゃなくて十六夜さんだとか、ほんとどこまでいっても悪人にはなれないヤツだね」

 

 真雪が薄く笑った。

 薫は対照的に顔をしかめて、

 

「同化……影蜘蛛め、耕介さんの望みを利用して、十六夜の力をも奪う気でいます。なんとしても、十六夜を守らんと、そのときが最後じゃ」

 

 そのとき、和馬が耕介を指差した。

 

「薫姉、あれ!」

「!」

 

 和馬の指し示す先。耕介の背中の下方に、不自然に盛り上がったこぶのような部分――

 

「影蜘蛛か!あれを耕介さんから切り離せば何とかなるかもしれん。十六夜は下がって!行くよ御架月!」

 

 薫がガラス戸を引き、外に飛び出る。それに次いで二人も飛んだ。

 

「和馬……、仁村さんまで!何しよるとですか」

 

 二人が薫の後方で構えている。

 

「耕介さんの本当の実力、俺も見てみたくてね」

「アイツがあたしより強いなんてやっぱり実感わかねーからな。こうするのが手っ取り早い」

 

 煙草を足でもみ消し、真雪はそう嘯いた。

 

「それによ、あの二人に幸せになって欲しいのはお前だけじゃねぇんだ。見ろよ」

 

 促され、薫は動かない耕介に警戒を怠らずに視線をずらす。

 さざなみ寮の中で、みなみがバットを、美緒が威嚇するように爪を出して臨戦体制をしている。知佳もゆうひと愛、そして十六夜を守る形でサイコバリアの準備をしていた。

 

「皆様……」

「へっ、十六夜さん、これが無事終わったらまた宴会しましょう。……それから、ここまでみんな巻き込んでおいて、耕介と別れるようなことがあったら十六夜の刀身に落書きしますからね!」

 

 そう毒づいて、真雪は手にした木刀で、耕介に打ち込んだ。すると、が、と鈍い音を立てて切っ先が地面にめり込む。彼は僅かに半身をずらし回避したのだ。

 

「くそ!」

「邪魔……スるナ」

 

 耕介が軽くはたく様に真雪を押しのける。ただその動作だけで、真雪の体が大きく吹き飛んだ。

 

「あう!」

「お姉ちゃん!」

「心配すんな……ちょっと油断しただけだ」

 

 姉妹が会話を交わす間に、目の前では姉弟が剣を振るっていた。

 

「はぁぁぁ!」

「せええぇぇ!」

 

 ギン、キンと金属音がリズミカルに鳴る。凄まじいほどの二方からの剣撃を耕介は気を纏った腕で軽くいなしていた。解けた包帯ですら体の一部のように、二人をけん制して動く。

 

「神咲一刀流、長月の突き、時雨!」

「神気発勝……真威、楓陣刃ぁ!」

 

 和馬から無数の突きが、その九十度方向から気の光弾が飛んでくる。耕介は無表情のまま上方に軽く三メートルほど跳躍してそれをやり過ごす。しかし、まだそれで終わりではなかった。

 

「弥生の切り、桜月!」

「真威、緑円刃ぁ!」

 

 広い範囲で剣跡の残像を残して、和馬の刀が下段から一気に跳ねあがる。そして、薫の持つ御架月からいくつもの神気が円形に発生して、落ち行く葉のように耕介の周りを舞った。これで逃げ場は完全に封じて――

 

「かぁ!」

 

 ビクン、と腰が跳ねあがるような声を耕介が上げたかと思うと、彼を取り囲む気弾が消し飛んだ。そして、あっさりと体を捻って剣をかわして着地する。

 

「そ、そんな……」

 

 今の攻撃は、前のように力をセーブしたものではない。急所以外なら力いっぱいの攻撃でも耕介には致命傷にならないと判断して、渾身の力をこめた技である。それを――

 

「ちっくしょう!俺のとっておきを見せてやる!」

 

 寝かせた刀の刃を上に向け、上段に構える。

 

「オリジナル技の実戦テストだ……文月の烈、雷!」

 

 袈裟切り――切っ先が一本の線を描く。耕介はそれを詰まらなそうにひょいとよける。

 ヒュッ――ニ撃目。円の動きで刀が切り返される。腕ではなく手首によって返された刃は、止ることなく常に「活」の状態で標的に逆袈裟に向かう。耕介が少しだけ興味を覚えたように、後ろに飛んだ。そこで――耕介の心臓の位置で和馬の剣が止まり、柄に両手を添えて、

 

「はああああ!」

 全体重を乗せて、突いた――!

 

「!?」

 

 刀は止まっていた。いや、止められていた。耕介の腕に僅かにめり込んでいたが、それだけだ。血の一滴すら流れてはいない。さらにその姿が突如かき消えて、

 

「な――が!」

 

 残像すら捕らえる事が出来ないスピードで和馬の後ろに回りこんだ耕介が、和馬の首に左手をかけた。きっとこのまま力を加えれば小枝を折るように和馬を殺せるだろう。ひっ、と少年が軽い声で鳴く。

 

「あ……ぐ」

 

 和馬の体から力が抜けていく。耕介の手から、影蜘蛛が和馬の霊力を吸い取っているのだ。もともと彼の霊力が少ない為ある程度奪うと興味を失ったらしく脱力した彼から手を離す。

 

「げ、ほ……格が――違いすぎる!」

 

 半ば悲鳴のように和馬が叫んだ。

 薫の頬に冷や汗が流れる。耕介はゆっくりとではあるが十六夜に近づいていく。

 

「お兄ちゃん!ごめん!」

 

 ドウン、と爆炎が耕介の背中から上がった。見れば知佳が美しい羽を具現化させ、息をついている。彼女の能力で影蜘蛛を撃ったに違いない。真雪が思わず手を叩いて、

 

「ナイスだ知佳!」

 

 今の一撃なら、影蜘蛛だけを撃ち、耕介の方にはそれほどの被害はないはずだ。真雪がほっと息を吐いた瞬間、立ち上る白煙の中には――

 

「そんな……影蜘蛛の本体の部分を気の盾で守ってる。しかも知佳ちゃんの力の直撃を受けて傷一つついてないなんて」

 

 薫の嘆くような呟きが闇夜に溶けた。

 とてもではないが勝てる気がしない。しかも、今はその力の大半を影蜘蛛に吸われ続けている状態でこの強さである。もし、これで本当に同化してその必要がなくなったら、久遠の時の二の舞ではすまないかもしれない。

 

「耕介さん……正気に戻ってください!」

 

 薫が絶叫した。微かな希望は、やはりそれだけの意味しか持たず耕介に変化はなかった。

 

「無駄だ薫姉!耕介さんは体を完全に操られている」 

 

 その耕介が、薫に近づいて手を伸ばした。いつのまにか獣のように肥大した腕。そこからは禍禍しい気がうねり、爪先が薫の胸を狙っている。

 

「薫様!」

 

 御架月の言葉にはっとなって、薫があわてて霊剣で止める。胸の寸前で刃が交錯し、バチバチ、と火花を散った。

 

「うわああ!」

「御架月!?」

 

 圧倒的な霊力に押され、その力を失っていく。そして御架月は遂に気絶したらしく、その人型が霊剣に吸いこまれた。そして同時に御架月から神気の光が消えた。完全放出型霊剣の霊力が途絶えた――つまりそれは、薫の霊力がもうほとんど使い切ったと言う事である。全身で息をする度、薫から力が抜けていく。みれば和馬も満身創痍で膝を突いていて、真雪も始めの攻防で足をやられたらしく、助けを求めるのは無理だ。

 

「……耕介……さん」

 

 これまでか、と薫が目を伏せた瞬間、

 

「神咲先輩!」

 

 みなみの声に振り向くと、彼女がえい、と何かを投げる。思わずそれを受け取って――

「十六夜!?」

「薫、私を使ってください。私の霊力を、少しあなたに回します」

「なにをゆうとる!耕介さん――影蜘蛛の目的はおまえを取り込み耕介さんの精神を安定させてその肉体を奪う事じゃ。そうなれば、どうなるかはわかるじゃろ!」

「……大丈夫ですよ、薫。耕介様を信じてください」

 

 十六夜の強い表情。

 それを見ていた和馬が驚いている。

 

「止めるんだ十六夜!薫姉!」

 

 しかし、そんな彼の言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、

 

「……わかった。うちも、十六夜と耕介さんの絆に賭ける!」

 

 渾身の力をこめて、薫はたち上がった。膝が笑ってまともに構えられない状態だが、十六夜の決意を無駄にしたくない。

 

「十六夜、それでどうすればいい?」

「私を構えたまま、耕介様の方に向かってください。後は私が話をします」

 いまさらそんな、と言いたいが、どちらにしろ自分にはもう限界がきている。なら、全てを十六夜に託すことにした。

「わかった」

 

 みなが見守る中、薫は十六夜を携えて耕介に近づく。

 するとうれしそうに唇を曲げて、耕介が腕を広げた。

 

「オオ、イザヨイ。ワレノモトニキテクレタカ」

「耕介様、聞こえますか?」

「アア、キコエテイル」

「あなたじゃありません、私が話すのは、耕介様の心です」

 

 ビクリ、と耕介が止った。ゆがんだ笑顔が消える。

 

「耕介様。あなたが今望んでいる事が本当に私を取り込む事だとしても、私はそれを望みません。私は、あなたと他愛のない話をして、一緒に花を愛でて、私の点てた茶をおいしそうに飲んでくれるあなたを見て、共に肌を重ねて……。私が望むのは、そういう小さな幸せの積み重ねです」

 

 無表情の耕介の手が動き、静かに十六夜の刀身を取る。薫は渡すものかと力を込めようとするが、十六夜が小さく彼に渡すよう訴えた。

 

「もし、あなたがずっと私と共にいる事を望むなら、あなたが死んだ後私も自らの呪縛を断ち切り天に帰ります。私が一番悲しいのは、今の耕介様が耕介様でなくなる事。今までたくさんの悲しい事があり、それを乗り越えてきましたが、きっとそれだけはたえる事ができないでしょうから」

 

 耕介が柄に手を当てて掲げると、月の光が滑らかな金髪の聖女をそこに写しこんだ。

 

「だから、さざなみに帰りましょう。そして、私のそばにいてください。貴方に残された時間を、私にください」

 

 十六夜の手が、そっと耕介の頬に添えられた。そこには、熱い液体が流れている。見えなくても、それが涙である事は間違いようがなかった。以前私を好きだと言ってくれたとき、彼が流していたものとなにも変わっていない。

 

「耕介様……」

「十六夜……キミは、どうしてそこまで俺なんかを……」

 

 ふるふると、十六夜は笑顔のまま首を振って、

 

「あなたは、暗闇しか知らない私が、唯一光を感じれる存在なのです。だから……『俺なんか』などと言わないで……」

 

 

 「私などに――なんて、言わないでください、十六夜さん」

 と。

 

 それは、以前十六夜に向けて、耕介が綴った告白の言葉。

 それを今、自分に返されて、彼女がその台詞を忘れないでいた事が嬉しくて――。

 

「すまない、十六夜……」

 

 大粒の涙をぬぐうことなく、耕介はその愛しい人を抱きしめた。

 

 

「なんかすっごい、いい話になってきましたね」

「ううう、うちこういうのに弱いんや……」

 

 愛とゆうひがハンカチを取り出している。

 

「あはは……でも、ちょっと恥かしいかも」

「わ、わー、わー」

 

 知佳とみなみは顔を赤面させている。

 

 そして真雪と美緒はと言うと――

 

「なーんか、さんざん耕介が暴れたわりにゃ、いいとこだけアイツが持ってってやがるな。あとでたっぷりいじめてやろう」

「お詫びとして、ばーげんなっつとかいう高ーいアイスを一ヶ月分買わせるのだ」

 

 にひひ、と意地悪く笑った。

 

 

 十六夜が、耕介の胸に顔をうずめ、手を青年の腰に回す。

 幸せな空気が生まれ始めた、そのとき――

 

「きゃあ!」

 

 何を思ったのか、耕介が十六夜を突き飛ばした。

 

「何をしてるんです、耕介さん」

「薫……十六夜を連れて離れろ。こいつが、無理やり体を乗っ取ろうとしている」

 

 ぜは、と息をつく耕介。それを見て、薫が気付いた。

 

「しまった!まだ、影蜘蛛が憑いたままじゃ」

 

 耕介の背中のこぶが蠢いている。欲望に取りつくその妖魔は、強い負の欲求がなくなれば依り代の体を操る事が困難になる。だがいちかばちかの賭けに出たのだろう。必死で抵抗する耕介の動きに合わせるように、その胎動が大きくなっていく。しかしそれも一時の事で、力を使いだんだん小さくなっていくが――

 

「きゃああああああ!」

 

 十六夜の悲鳴があがった。耕介がなにごとかと見ると、十六夜からどんどん霊力が抜けていく。そのスピードは凄まじく、その姿が徐々に薄らいでいった。

 何故――?原因は、すぐにわかった。耕介の持つ霊剣である。

 傷ついていた左手一本の支配にかろうじて成功した影蜘蛛が、己の霊力吸収能力を耕介からだけではなくその手に持った霊剣十六夜からも吸い取っているのだ。それは、霊力の塊である十六夜にとっては、生命を削る行為に他ならない。

 

「十六夜ぃぃぃ!」

 

 耕介の絶叫が響く。和馬と薫が剣と符術で影蜘蛛を引き裂こうとするが、影蜘蛛の周りだけ発生している耕介の力を利用した気の盾の前にまるで歯が立たない。耕介も自由の利く右手で何とか握り締めた左手を取るが、腕や手首は動いても指先だけはガンとして柄から放れない。地面に右手を打ちつけて拳から血が吹き出ても指は動かない。そしてそうしている間にも、消えていく――。十六夜が、自分の目の前で――。

 

「うわあああ!十六夜ぃ!」

 

 半狂乱で耕介が叫ぶ。目の前の彼女は苦しそうに、それでも笑顔を向けている。そう。あのときの少女と同じだ。全てを終えようとしたものだけが得られる、悟ったようなその笑顔――。

 

「だめだ!諦めるな十六夜。俺はまだ、君になにもしてあげていない!」

「泣かないで……耕介様。私は、……幸せでしたから」

「俺と共に生きてくれるんだろう?残された時間を精一杯生きるんだろう!約束したじゃないか十六夜……」

 

 ぽたぽたと涙が落ちて、十六夜の頬を濡らす。しかし、その涙の向こうに見えるのは、契りを交わしたときに見た白い肌ではなく好けて見える土気色の地面――。

 

「薫……切れ!俺の腕を切り落とせ!」

 

 僅かなためらいもなく耕介が叫んだ。

 

「そ、そうだ薫姉!それなら最悪の事態は――」

 

 その言葉に、和馬は、はっと顔を上げて姉を見るが――

 

「だめじゃ……」

 

 だが薫は悲痛に答えた。

 

「駄目じゃ!そんなことをして失血で耕介さんが意識を失いでもしたら、影蜘蛛は貴方の体を完全に支配します! もしそうなったらここにいるうちらは皆殺しじゃ。……今のままなら十六夜が消えて耕介さんの霊力が尽きた後、影蜘蛛を封じれる……」

「そんな……こんなことって……こんなことってありかよ!」

「十六夜……すまん」

 

 なすすべなく息をついて地面にうなだれる和馬と薫。自分の無力さと消え逝く十六夜に、彼らも――そしてそれを見つめる寮内の女性達も、また涙していた。

 ふと、先ほどまでの耕介の絶叫が消えた。彼は不思議と落ちついた顔をして、手のひらの霊剣を見ていた。

 

「こう、すけさん?」

「薫、十六夜を、頼むな」

 

 いきなりの言葉に、その真意がわからず思わずあっけに取られる薫。

 そして、青年はいつも寮内で皆に見せていたいつもののほほんとした顔で十六夜に笑う。

 そのとき、十六夜は本能的にその予感が駆け抜けた。今までの諦めからの笑顔が消えて、それは恐怖に染まる。

 

 

「だめ、耕介様!」

 

「十六夜……愛してる」

 

 

 たったひとつの言葉を告げて――

 

 ドシュっ。

 

 

 霊剣十六夜が耕介の腹から背中に、そして影蜘蛛を貫く。

 

「神気、発勝……」

 

 霊剣が主の力を受けて光り輝き、その矮小な妖魔を燃やす。きぃぃ、とか細い声を上げ、それは土塊になり活動を停止した。誰しも呆然とする中で和馬がいち早く現状を把握した。

 

「薫姉、封印を!」

 

 弟の声に弾かれたように、薫が急いで封印の術を施す。それを半分閉じた目で確認して、耕介は内臓から逆流した血を口から垂らしながら微笑む。そして、正座をするように足を曲げたまま横に倒れた。刺さった霊剣をそのままに――

 

「耕……介様?」

 

 霊剣に注がれた霊力により力がある程度戻った十六夜が、聞こえた音を頼りに倒れた耕介に駆け寄る。触れた手に伝わる耕介の体。愛しい彼の体から自分の化身が生えている。そして、その反対側からも。

 

「いや……です……」

 

 水よりも粘着質のある液体がその手を汚す。それが、耕介の体から流れ出ているものであることが信じられない――。

 

 

「ぁ…い……いやああああああああ!」

 

 

 十六夜の叫び声が、漆黒の闇と星たちの中で、ただ悲痛に響き渡っていった。

 

 




う、く……俺の左手に眠る闇の力が……!
静まれ、しずまれ、シ・ズ・マ・レ……


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第六章

君や来む 我や行かむの 十六夜に
 槙の板戸も ささず寝にけり

           ~古今和歌集より~


 

         ◇

八月十六日~午後七時~ 

 

「お姉ちゃん、ご飯の用意が出来たよー。みんな呼んでー」

 

 台所の知佳が、一人ソファーで新聞を読んでいた真雪に言った。彼女は少し不満げにしながらも、へいへいと呟きながら妹に従う。

 あの事件から十日と少し過ぎて、さざなみ寮はまたいつもの雰囲気を取り戻しつつある。もっとも、メンバーが一人少なくなっているため、完全に元通りと言うわけには行かないが。

 変わった事と言えば、食事や洗濯などの家事が当番制になったことだ。はじめは不満の声も合ったが、実際今までそれをやってくれていた人がいないのだから仕方ない事であった。

 食事のときは、それなりには騒がしくなるが、それが終わるとやはりみんなどこかよそよそしくなる。そういうとき、改めて彼の居てくれた功績を再確認しざるを得ない。

 知佳はふともう一人気になる人物がいる事を思い出し、その質問に一番ふさわしい人に声をかける。

 

「あの……薫さん?」

「どうした?知佳ちゃん」

「十六夜さんはどこに?」

「いつもどおり……耕介さんのところに行ってるよ」

 

 予想通りの答だった。

 知佳はオーナーである愛の部屋の隣部屋を軽くノックして、返事を待たずに中に入る。

 

「十六夜さん……やっぱりここにいたんだ」

「……ええ」

 

 金色の髪を揺らして、その女性は知佳の方を向く。

 

「あんまり無理しないで、少し休んでね」

「ありがとうございます、知佳様。でも……少しでもそばに居たいのです」

 

 ふっと厳かに笑い、横で眠る男の髪をなでる。

 そこには一人の青年――耕介が静かな寝息を立てて布団に横たえられていた。

 

 

         ◇

「いやあああああああああ!」

「落ちつけ十六夜!」

 

 ぼろぼろと泣き叫んぶ十六夜を、薫が何とか押さえる。全員が集まって、耕介の体と十六夜を痛々しそうに見つめた。

 

「癒しを……癒しをかけなくては」

 

 泣き崩れた顔は虚ろで、ただ何かに突き動かされるように十六夜が弱々しい光を手に灯して耕介の体に手をかざす。

「ばか! そんな事をしたら十六夜の霊力が尽きて消滅してしまうじゃろが!」

 

 和馬が無理やりやめさせようと十六夜を組み敷こうとするが、十六夜はそれを邪険に払いのけて癒しを続けた。

 

「御架月、お前も止めろ!」

「……姉さん、ボクの霊力も使ってください」

「なっ?」

 

 和馬が信じられないと言ったように息を荒げた。

 

「ごめんなさい、和馬様。たとえ結果が悲しみに満ちていたとしても、ボクは姉さんが望んでいる事を最後までやらせてあげたいんです」

 

 ふ、っと気合を入れて、握った姉の手に霊力のほとんどを注ぎ込んだ。

 十六夜は何も反応せず、ただ一心に手を翳し続ける。だが、癒しの光がほんの少しだけ力を増した。

 それを見た真雪と知佳が、互いを見合わせて頷いた。

 

「……なあ、御架月。その霊力って、あたしらから使うこととかできねーか?」

「えと……ボクが魔刀に近かったころは、そうやって手に持った人から無理やり吸出し足りして姉さんの行方を追ってましたから、できなくはないですが……」

「ちょ、ちょっと待て御架月!それに仁科さんたちもっ!?」

 

 真雪と御架月のやりとりに驚いた和馬が声をあげるが、仁科姉妹はそれに気をかけることなくにやり、と笑って、

 

「よし、ならあたしたちの力もギリギリまで使ってくれ。霊力っつーのが足りなきゃ、死なない程度なら他のもんも使っていい」

「うん、遠慮しないで使えるだけね」

「わかりました、では、真雪様はボクに、知佳様は姉さんに手を触れてください」

 

 言われて真雪は御架月の腕に、知佳は十六夜の肩に手を置いた。

 そして、また光の強さがあがる。

 

 

「うちのも使え十六夜」

「わ、わたしも……」

 

 薫と愛が共に十六夜に手を添える。

 

「うちも忘れちゃ困るでー」

「あたし、また耕介さんのご飯食べたいですー」

「なのだ」

 

 ゆうひ、みなみ、美緒が続いた。

 

 

 薫が傷口を見ながらゆっくりと剣を抜いていく。

 癒されているとはいえ、刺さった剣を急に抜きとる事は失血死につながる問題だからだ。

 そうっと、そうっと。

 大切な宝物を取り扱うように。

 

 光は、いつのまにか眩しいほどにまで光量を上げている。

 

 

「……あー、くそっ……。わかったよ。俺のも使え!」

 

 頭を掻き毟って和馬が十六夜の手を取る。

 

「まったく、たしかに薫姉のいうとおりじゃ。あんな十六夜を見たら、なんも文句なんぞ言えん」

 

 電話で話した薫との内容を思い出しながら、薫姉の言葉を思い出してそうぼやいた。

 

 

 

 

         ◇

「傷は治って、お医者さんも大丈夫って言ってくれたけど、お兄ちゃんあれから目を覚まさないね」

「はい……」

 

 原因はわからない。いつ目がさめるか判らないが、いつ目が覚めてもおかしくないと医者は言う。

 

「十六夜さん、聞いてもいいですか?」

 

 知佳が視線を耕介から十六夜に移す。

 

「なんでしょう?」

「あのとき、お兄ちゃんが十六夜さんを無理やり取り込むかも知れないって思わなかったの?」

「……はい」

「なんでかな?」

「影蜘蛛は、宿主の本心の望みを増幅させることで、自分の力を削ることなく体の操縦をするんです。だから……耕介様が、私が『望まない』と言った事を、したいと思うわけがないではありませんか」

 

 微笑を浮かべたまま、十六夜は耕介の髪をなで続ける。

 知佳は、「納得した」と笑い、たち上がる。

 

「じやあ、私はもう行くね。まだ洗濯物あるし」

「はい、頑張ってください」

 

 知佳が去ると、部屋はまた闇になった。盲目の十六夜には光は関係ないため、万一耕介の起きたときの小さな明かりが付いているだけだった。

 窓は開いているが、ここまでは街灯の光も入らない。

 

「耕介様……私は待ってます。あなたが起きてくださるまで、すっとここで」

 

 寂しそうに、それでもどこか幸せそうに、彼女は耕介の髪をなでた。

 そして、小さく歌を口ずさむ。あの裏山で耕介と共に歌った歌だ。

 メロディーは風に乗り、開いた窓を抜けて飛んでいく。

 

 窓から月の光がさあっと流れるが、十六夜はそれを感じ取る事が出来ない。

 そして曲も終盤に差し掛かったとき――

 

 

「きれいな曲だね十六夜……」

 

 体がビクンと跳ねた。それは、彼女が一番聞きたかった声。

 

 

「……♪~♪、~♪」

 

「ック、耕……介様……ヒクッ、まるで、外れて、おります……」

 

 いつかの、あの時と、同じ会話。違うのは、嗚咽している自分だけ――

 

「ははは……」

 

 彼が、笑っている。その笑顔が見る事ができないことが口惜しい。

 

「今日は、何日だい?」

「まだ同じ月の……十六日の夜です」

「十六夜、か……ちょうど風情のある、いい時間に起きたのかな?」

「はい……でも、私はそんなことより、一日でも早く目覚めた貴方にお会いしたかった……」

「そうだね……ごめんな」

 

 謝りながら抱きしめられた耕介から伝わる温かさが嬉しい。

 

「十六夜……」

「耕介様……」

 

 

 二人の顔が少しずつ近づいて――

 

 

 

 ドンガラグワゴワシャーン!

 

 

 ごこかの野球選手の快音のような音を立て、寮生がドアを壊して部屋になだれ込んでくる。

 

「あいたたたたた……」

「お兄ちゃん、ごめん……」

「ごめんなさい……姉さん」

「みーなーみー!しっぽ踏んでるー!」

「ご、ごめんなさい美緒ちゃん」

「あーあ、もう少し待ってりゃお子様には見せられないラブシーンが見られたのにな」

「仁村さん!何ゆうとるですか!」

「あははー、でも薫ちゃんもちょっとは期待してたやろ?」

 

 

 口々にかってな事を言っている。特に真雪の鬼の首をとったかのような笑顔が怖い。

 

「なにやってるんですか、みんな!」

「いやな、知佳を探しにこの部屋にきたらなんか話し声が聞こえたんで覗いたんだ。そしたら皆集まって来ちまってな」

「そうじゃなくて、人の部屋を覗かないで下さい!」

「うるせー!さんざんあたしらに迷惑かけたんだ。こんぐらい許しやがれ!」

 

 それを言われると何もいえなくなる。

 

「よーし、そしたら宴会やるぞ宴会。耕介、ツマミ作れー」

「ちょっと、俺は病み上がりなんですよ!ほんとに数分前まで……」

「うるせー!お前の体が超健康状態なのは医者のお墨付きなんだよ!それにお前にはしばらく拒否権はなしだ!」

 

 こういう馬鹿みたいなかけあいも、いまの十六夜には嬉しく感じる。

 

「耕介様……私も手伝います」

「ありがとう、十六夜……」

「おー!耕介。いつの間にやら『十六夜さん』が『十六夜』に!こりゃーお前らの話も酒の肴にしなくちゃはじまんね―な」

 

 おー!と全員が腕を上げた。

 その日、寮生たちは顔を真っ赤にして照れている十六夜という、とても珍しいものを見ることができたのであった。

 



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終章

         ◇

「薫姉、わかったよ」

 

 秋口が近づいて、心なし風の暑さが和らいだ屋敷の渡り廊下を和馬が走って来る。

 

「なにがじゃ、和馬」

「耕介さんの祖先だよ。鬼神の血だ」

 

 ぶ、と含んでいたお茶を吹き出しそうになる薫。

 

「本当か」

「ああ、八百年前にある鬼神が一人の娘に恋をして子をもうけたって伝説がある。……伝説、なんだけど、一応その少女を調べたらモデルとなるような人が実在して、耕介さんの母親の家系につながってたよ。耕介さんはその力が隔世で覚醒したって事だね。なんかシャレみたいだけど」

「能力が遺伝していない神奈さんですらあの強さだからなぁ。うちらが耕介さんにかなわんはずじゃ」

「でも、もっと厳重に封印しなくて大丈夫なんか?」

「父さんとも話したが、とりあえずそのままにする事になった」

「なんで?」

 

 和馬は納得が行かない様子で、目を瞬かせる。

 

「一つは、神獣クラスの妖力を耕介さんの体に影響ないように封印するのは不可能じゃ。まさか鬼神だとは思わなんだが。それに、耕介さんが暴走して力を使ったとしても、人を殺めたりはせん」

 茶に息を吹きかけながら薫。

「何でそう言いきれる」

「暴走族を全滅させたという話は聞いたじゃろ。一瞬で数十人を皆殺しに出来るほどの力を持って、しかもキレているというのに結局一人の死人も出ておらん。うちのときも自らを傷つけてまで正気にもどっとる。……あの人は、昔から優しい人なんじゃ」

 

 薫はそこで一息つくように茶をすすった後、思い出したように呟く。

 

「鵺鳥の 嘆きを覚ゆ 埋もれ木の 下に宿るは 真木の心根――か」

「なんだ?その短歌は」

 

 いきなり和歌を口に出した姉に、和馬が眉をひそめる。

 

「十六夜が、耕介さんをそう歌で表していた。凶や悲しみが耕介さんを覆ってしまっても、彼はそれすら自分の力にして清く強い心を育てている。そういう歌らしい。……だからというわけじゃなかが、うちも耕介さんを信じようと思うとる。」

「……まあ、たしかに力を封印しても今さらって感じだけど」

 

 ひょい、と和馬の向いた視線の先――日当たりの良い縁側で耕介が十六夜の膝枕で寝息を立てている。

 

「十六夜がそばにいることが一番の封印か。……なんか、父さん達公認になったといえ、ああいちゃつかれるとな」

 

 和馬が膨れた。

 

「まあ、いいじゃろが。あの二人にはこれからも困難が山済みになっている。それでも耕介さんといることであれが幸せだと言ってくれるのなら、それを見守ってやる事が神咲に四百年仕えてくれた十六夜に出来る恩返しになる」

「そんなもんかね」

 

 ま、結局今のあんたは十六夜をとられて悔しがってるだけじゃ、と、薫はボソッと言った。

 

 

 

         ◇

「耕介様……」

「……ん?」

 

 眠そうに目を擦ってから、耕介が十六夜を見る。

 

「耕介様は、人はどうしたら幸せになれると思いますか」

 

 膝の上の耕介に、十六夜が優しく問う。

 

「そうだな……どうしたらっていわれてもわからないけど……俺が幸せに感じることを答えるんでもいいか?」

「はい、もともと、耕介様に幸せになっていただきたくて、聞いてみたことでしたから」

 

 なるほど、とうなずいて、耕介は少しだけ空を仰ぐと、起き上がり、空になった湯呑を十六夜に持たせた。

 

「そうだな……とりあえず、十六夜がいれてくれたお茶は美味しい。それを飲んでいるときは幸せだと思う」

「……はい」

 

 嬉しそうに彼女が笑った。彼女の手により、急須から湯呑へこぽこぽと湯が注がれる。

 

 立ち上る湯気は、風に凪ぎ、木々の木陰へと消えた。

 

                                     ~終~

 




以上、十六夜夜想曲でした。

投稿しながら悶えて死ぬマン。

次回、涙が奏でる鎮魂曲は、恭也&美由希のお話。


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涙が奏でる鎮魂曲
序章  「悔恨は重く、宵闇は冷たくて」


prologue 『Nightmare calls on me.』


         ◇

 目の前の男が、苦悶の表情で少年を見つめていた。

 倒れている男の体から滴り流れる血の量は、彼がゆっくりと死への道を歩んでいることを、それがもう引き返すことのできない距離であることを、雄弁に語っている。その赤い液体は、どくっどくっと規則正しい音を奏でながら、ゆっくりと血溜りを広げ、いつしか少年の足元に触れた。

 

「……とう、さん?」

 

 少年は絞るように声を出す。問うまでもなく、その男は確かに彼の父親であった。だが、何故父がこのような姿になっているのかわからず、少年はただ呆然と立ち尽くしていた。

 その場所は、自分と父以外のもの――地面、空、木々、人などはなにも存在せず、闇だけが広がっている。空気ですら、自分が呼吸できているかもわからないような曖昧さ。そして、目の前の父親。

 それは、あまりにも非現実的な光景であった。

 

(……当然だ。夢なんだからな)

 

 内側から第三者が見ているように、彼は少年の姿の自分を認識して、思う。

 

(これで何度目だろう、この夢を見るのは)

 

 悪夢を見る回数に意味などはないのだろうが、彼はそう考えずにはいられなかった。

 

「父さん!いま、助けるから!」

 

 夢の中の自分は、何の根拠もない空虚な言葉を父にかけ、どこから流れているかもわからない血を止めようと、必死にもがいていた。

 普段から流血の耐えない生活をしているせいか、夢であるにもかかわらず、血の感触だけが妙にリアルに伝わってくる。夢の自分も、夢だと認識している自分も、嫌悪感が涌き出るほどに。

 

「父さん!父さん!」

 

(……無駄なんだよ)

 

 子供の自分に、思わず言いたくなる。この後のことは、もう何度も見てきたのでわかりきっていることだった。かといって、慣れてしまったわけでも、慣れてしまいたいわけでもない。それでも、最後の瞬間が訪れるまで、この夢は覚めたことがなかった。 

 

「え……」

 

 少年が驚きの声をあげた。

 不意に、父との間に見えない壁ができたかのように、少年の手が押しのけられる。

 

(そうだ。そして父さんが――)

 

 体がどんどん離されていく。自分が動いているのか、父が動いているのかもわからない。少年は悲鳴のような声をあげるが、周りの闇はそれすら吸い込むのか、反響も起こらず消えていった。確実に二人の距離は開いて行き、それが五十メートルほどに達したあたりで――そのときはやってきた。

 ドン!

 

「うわああああああああああ!」

 

 父親の体から起こる爆発。炎に照らされて、なお闇しか見えない空間。爆風が光に遅れて少年の元に届き、いつしかあたりに静寂が戻ったとき、彼の目の前には全てがなくなっていた。

 そして、少年は恐怖する。孤独と、無力さと、絶望に。

 

「わあああああああああ!」

 

 最後の絶叫が少年から発せられたとき、世界はガラスが砕けるような悲鳴を上げながら崩壊を開始した。

 

 

         ◇

 

 目を開いたとき、彼の脳がまず認識したのは、月明かりにぼんやりと浮かび上がる天井と、規則正しく鼓動を鳴らす時計の針の音だった。

 自分の心臓が、眠っていたにしては早いスピードで動き、無駄のない引き締まった筋肉を纏う体が、うっすらと汗ばんでいる。裸で寝ていたため、その大部分はシーツに吸われていたが、体表面の無数の傷跡に沿って汗が溜まっていた。

 ふう、と息をついて、彼――高町恭也は、自分が現実世界に戻ってきたことを認識する。

 悪夢を見た割に、落ち着いている自分が少しだけ滑稽ではあったが、絶叫を上げて飛び起きたり、布団が濡れるほどの寝汗をかいているよりは良かった、と彼は思った。

 徐々に体の感覚が戻ると、長年の経験から己がしっかりと休養が取れたことがわかる。よい夢だろうと悪夢であろうと、眠れているのであれば、それは体にとってはプラスになる。それならば、恭也にとって夢の内容は、たいしたことではなかった。気にならない、と言えばもちろん嘘になるのだが。

 

「父さん……」

 

 夢での父の姿が、目を閉じてもいないのに脳裏に浮かんだ。

 彼の父親は、数年前に他界していた。

 永全不動八門一派・御神真刀流、小太刀二刀術――通称御神流と言われる殺人剣術。その使い手である彼の父――士郎は、その技術を人を殺めるためではなく、守るために使うことのできる、ボディガードの仕事に就いた。

 剣士としての誇りより、人としての誇りを尊ぶ、強くやさしい男だったが、ある日、士郎の雇い主のアルバート・クリステラの一人娘、フィアッセを爆弾テロから己の体で庇い、永久の眠りにつく。

 その事実を、義理の母である桃子から伝えられたのは、自宅で剣の鍛錬をしているときであった。

 悲しかった――士郎の死と、泣いている家族達が。

 憎かった――理不尽な暴力と、それが存在する現実が。

 そして――

 

「……悔しかった。無力な自分と、そのとき何もできなかったことが」

 

 呟く。そのとき誓った決意を忘れぬように。

 

「だから、俺は強くならなければならない」

 

 言葉に反応するように、布団の中で拳を握り締める。筋肉の収縮で肩が動くと、すぐ横から細い吐息が聞こえた。

 

「すー……すー……」

 

 首を曲げると、一人の少女がその裸体を恭也と共にかけられている毛布にくるまれて、幸せそうに寝息を立てていた。

 この状況では語るまでもなく、恭也が昨夜床を共にした女性で――剣の弟子であり、従妹であり、義妹であり、そして――恋人。

 彼女、高町美由希は義兄とは違い良い夢を見ているのか、時計の針よりもゆっくりとしたリズムで呼吸をしていた。

 恭也は上半身を起こし、彼女の寝顔を見下ろす。彼の顔が僅かに和らぐ。

 

「父さん……俺は、少しは大切なものを守れる力がついたのかな……?」

 

 起こさないよう注意しながら、彼女の頬を手でなぞり独りごちる。

 今では家族同然となったフィアッセと、その母ティオレのチャリティコンサート。それの妨害を企んだ犯罪組織『龍』との戦い。それは、怨恨、憎悪、思慕、欲望の絡み合った複雑なものだった。

 悲しい戦いだったが、それでも少しはみんなが幸せな方向へ進めたのではないかと、恭也は思い願う。

 それが――少なからず自分と美由希の剣術が役に立てたことは、剣の道を生きるものとして、これからの支えとなるはずだ。

 そのときの戦闘のおり、美由希は、恭也や父ですらなし得なかった御神流の奥義の極、『閃』をたった一度の偶然とはいえ、成功させるまでに成長した(もっとも本人はそんな奥義の存在すら知らなかったのだろうが)。

 彼女はまだ、他の奥義すら自在に扱う段階には達してはいないが、それでも出そうと意識して、かなりの確率で技を放てるようになった。このまま順調に行けば、自分の愛弟子はそう遠くない未来に御神流を修めるだろう。子供のころに誓った約束通り、自分よりも父よりも強く――。

 ドクン、と体の全体に、血液がめぐる深い感覚が、青年の顔に焦燥と重圧を与えた。

 

(そうだ。全ては良い方向に進んでいる。……なのに、この不安感はなんだ?)

 

 それは、ときおり今のように漠然と恭也を襲い、その曖昧さが彼の不安をさらに累乗させる。そしてこの現象は――あの夢を見始めてから始まったように思える。

 夢が深層審理のあらわれだというのなら、それは当時の後悔を今でも忘れられない為だろうか。それとも占いのように、これから起こる何かを暗示しているのだとでもいうのか――。

 己の考えに、恭也は少し皮肉げに唇を曲げた。

 

 

「……悪い冗談だ」

 

 



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第一章 「人、それぞれが持つ景色」

Chapter 1 『Theirs day to day. 』



         ◇

         

「高町君の、大泣きしているところって見たことある?」

 

『……はあ?』

 

 運転席に座り、腰まで伸びた艶やかな長髪を、耳元で少しかきあげながらそう言った女性――月村忍の言葉に、城島晶と鳳蓮飛は声をそろえて息を吐いた。

 

「だからさ、高町君が大声で泣いてる姿を、二人は見たことあるのかな~、て」

 

 聞き返された煩わしさを感じた様子もなく、忍は繰り返した。

 彼女は自分の車がコーナーに近づいてきたことを確認すると、ハンドルを軽く一回転させることで車体を横滑りさせて、絶妙のアクセルワークでドリフトを決める。キキィ、とタイヤの悲鳴があたりに響くが、彼女は気にした様子もなくギアをシフトアップさせた。

 二人の反応がないので、しばらく直線コースが続くことを確認して右手でハンドルを支えながら、忍は後ろを振り向いて顔を覗かせた。

 彼女の間違いなく美人だと言える容姿は、良い意味で幼さが残っている。年のころは十代後半のようだが、彼女の雰囲気と細やかなしぐさは、晶と蓮飛が息を呑むほどに大人びていた。

 二人はまだ十代前半。少女としては一番輝く年の頃ではあるが、女としてはこれからの期待になる。もっとも、その素質は体の節々に微細に表れ始めてはいたが、本人達にその自覚が生まれるには、まだ幾許かの年月を必要とするだろう。その彼女達が、同年代の女性と比べても明らかに抜きん出た『色』を持つ忍に、憧憬の念を持ったとしても無理からぬ事である。

 その忍が言った『高町君』というのが、少女達が共に師と仰ぐ青年、高町恭也のことであるのは分かりきったことではあったが――彼女達は質問の答えよりも、質問そのものの意味がよく把握できずにいるらしく、少し呆けた顔で忍を見つめていた。

 

「え~と、そういえば俺は見たことないですけど……って忍さん、前、前!」

 

 ショートカットの髪に手を当て、外見に相応しい少年のような口調でそう返した晶の声に、忍が再び前を見やると、運送会社のロゴが入ったトラックの車体が自分の車のすぐそばまで接近していた。両手でハンドルを握りなおすと、アクセルを深く踏み込んで一気に距離を離す。時速二百五十キロあたりで慌ただしく動いていたスピードメーターが止まり、マシンの限界速度を訴えていた。その様子に特にあせるでもなく、今度は視線を動かさず忍が続ける。

 

「そう。じゃあレンちゃんは?」

 

 レン――そう愛称で呼ばれた蓮飛は、独特のゆったりとした動作で頬をかくと、愛嬌のある苦笑いをしながら答えた。

 

「う~、おししょーの泣いとるとこですか。笑ってるところだってめずらしーゆうに……美由希ちゃんの泣いてるところなら見たことあるんやけど。でも忍さん、なんでそないなこと急に聞くんですかー?」

「うん、前に高町君と一緒に映画見たとき、彼、感動して涙流してたんだけど……なんかあの朴念じ……クールな高町君も、子供の頃にわんわん泣いた時があったのかなって、そのとき思ったのよ」

 

 忍の運転する朱色のスポーツカーは、いつのまにか対抗車線を逆走し始めていた。相対速度により今までとは比べものにならないほどに、前方からの対向車が迫ってくる。それに少しだけ真剣な面持ちになった忍はアクセルを緩めるが、それでもブレーキに足をかけることなく微小にハンドルを動かして、網の目を縫うように車と車の間をすり抜けた。

 そんな忍の手綱さばきを、蓮飛は感心したというより、少しあきれたように見据えた後、だぼだぼの袖口を脇に抱えるように腕組をして、

 

「確かに、テレビのヒューマンドラマで涙をこらえてるーいうんは、うちらも見たことがあったんけど。うーん……やっぱり想像もつかへん。なあ、晶」

「そうだな……俺も考えられないです。というより、できれば俺はそういう師匠は見たくないのかもしれないですね」

 

 蓮飛に促され、晶が答えた。

 そのような場面を見たとき、晶が恭也を幻滅してしまうと言う意味ではない。彼への尊敬の念が失われるというわけでもない。だが、師と仰ぐ青年のそういう弱いところを、自分は見てはいけないと漠然と思うのである。

 それは例えるのなら、自分が恭也に勝ちたいと思う反面、いつまでも一歩先行く存在であって欲しいと願う感情に似ている。多分、少女は彼を追い抜こうとしているのではなく、追いつきたいと思っているのだろう。その考えこそが、恭也に追いつくことの出来ない最大の理由であるのだろうが――。

 

「なるほど、ね」

 

 実際そこまで読み取れたわけではないのだろうが、真摯な瞳を向けて語るこの少女の言葉に、意味以上の深さを感じて忍は納得する。

 そのとき、その頷きを合図にしたかのように、けたたましいサイレンの音が響き始めた。

 日常的に聞くことの出来るものではないが、見かけたからと言って驚くほどのものでもない。だが、それが自分に向けられたものでなら、話は別である。

 

「おお~、ついにパトカーのおでましや~」

 

 蓮飛は関西弁の独特のイントネーションで呟いた。

 パトカーに忍の車が追い抜かれた瞬間、ドップラー効果によるサイレンの音程変化が起り耳を楽しませる。ここからが勝負どころである。

 

「さ~て、いくわよ!」

 

 忍の興奮した笑みが輝きを増した。

 

 

         ◇

 

「もうちょっとでしたね」

 

「あのコーナーリングでギアチェンジ間違わなければね~。スピード持て余して最後は民家に突っ込んじゃったし」

 

 ん~、と伸びをして忍。

 

「まあ、ガソリンスタンドにぶつかるよりはよかったんとちゃいますか?」

 

 えらく物騒なことを言う蓮飛に、忍は少し乾いた笑いを返した。

 忍が最新のレースゲーム――街中をタクシーが問答無用で暴走するらしい――で新記録を樹立させた後、三人がゲームセンターから出ると、時計の針は五時を回っていた。

 蓮飛がなんとなしに時計から視線を上げると、正面から入った西日に目をふさがれて、反射的に手をかざす。しかしそれも一瞬のことで、目が慣れてくると、夕焼けが街路樹と人々を茜色に染め上た様子が、網膜に映った。

 きっとそれは、今までに何度も見てきたはずの――見なれた風景。それでも、決して見飽きることはない景色。それを眺めて、素直に美しいと感じられる。そして、そう感じる自分が今ここにいられることを、蓮飛は感謝する。

 死の危険を孕む病気を患っていた時、生きて欲しいと望んだ家族同然の人達。そして手術に向かう勇気をくれた――

 

「な~に馬鹿みたいな面して浸ってやがるんだ、このミドリガメ」

 

 ……ついでに今の気分を台無しにしてくれた少女、晶に。

 

「ふっ。おサルにはとーてい理解できん人間様の感性や。気にせんでええで」

「なんだとこらー!さっきの格ゲーの続き、実戦でやるかー!」

「おお!やらいでか!」

 

 威嚇するように歯をむく晶に、小馬鹿するように半眼で笑う蓮飛。いつもの構図となった少女達に、忍はやれやれと肩をすくめた。

 まったくの他人から見れば一触即発の気まずい雰囲気だが、ある程度付き合いの深いものにとっては、これが彼女達同士における不器用な愛情表現であることは、理解に苦しくない。

 忍も慣れたもので、苦笑しながらその様子を見守った。

 

「くらえ新技、孔波連山!」

「琥王掌!」

 

 そしていつものように――

 

 ドン!

 

「うわああぁぁぁぁぁ……」

 

 飛び込むような踏み込みからの連続の正拳づきを、柳のように受け流しながらの蓮飛の掌底が、晶の鳩尾に決まる。彼女は四メートルほど後方に吹き飛ばされて、飛び石のように二、三度跳ねて地面を転がった。

 

「きゅう……」

「おー、今日は思ったより飛ばんかったなー」

 

 気絶、とまではいかないまでも軽く目を回した少女に、蓮飛はえげつない台詞をかける。

 忍は嘆息しながら、

 

「毎度毎度思うけど……よく死なないわよね(夜の一族のわたしが言うのもなんだけど)」

 

 と、呟き自分のことを考えた。 

 バンパイア、狼人間など『人間ではない血』の流れを汲む忍の一族は、吸血と言う行為と引き換えに不老長寿、自己治癒、変身能力など普通でない力を持っている。だがどうやら、一年ほど前からできた高町家がらみの交友関係を思い浮かべると、自分が一番普通じゃなかろうか、と思わないでもない。

 

「それじゃ、そろそろ帰ろうか?」

 

 忍が言う。

 

「そうですね。ああ、うちはおサルを引きずって買い物してから帰りますんで――。次は、今週の日曜のお花見で」

「うん。たしか前に行った……さざなみ寮のオーナーさんの所よね」

「そうです。また、わいわいやりましょー」

「じゃ、また。晶ちゃんも……」

 

 忍が視線を落とすと、彼女は襟を引っ張られ首吊りのようになりながらも、なんとか手を上げて、

 

「……お~す」

 

 と答えた。

 その滑稽さに、忍は少しだけ吹き出した。

 

 

 

         ◇

 その日の高町家の夕食は、いつもと変わらず賑やかだった。山菜をメインに、甘辛い煮付けや味噌汁がテーブルに並べられ、それらは談義に花を咲かせながらも、皆の胃袋に収まっていく。

 料理担当の蓮飛と晶は、どちらの料理が美味いかで口論し、高町家の末妹、なのはに怒られていた。

 

「もー、どうしてご飯のときくらい仲良くできないんですか!」

 

 栗色のツインテールの髪を揺らし、顔を膨らませて、なのはが叱る。

 

「だってカメが……」

「この馬鹿サルが……」

 

 二人は反論をしようとするが――

 

「ケンカは駄目です!」

『はい……』

 

 一言で小さくなった。

 

「相変わらず二人は、なのはに弱いな……」

「そうね……。発言力ならうちで二番目じゃない?」

 

 なんとなしに、彼女達を眺めながら思わず呟いた恭也に、美由希がおかわりのご飯を手渡してそう言った。剣を扱うとき以外かけ続けている眼鏡が白米の湯気で曇り、無意味に怪しさが増している。手が空いてから、彼女はポケットティッシュを取り出してそれを拭い取り、兄に向き直る。

 

「かーさん、なのは、フィアッセ……この三人には恭ちゃんだって勝てないでしょ」

「まあ、そうだが……」

 

 義母の桃子と、姉のように慕っていたフィアッセはともかく、妹のなのはに甘いことは、自他共に認めていることだった。

 なのはは、士郎と桃子の間にもうけられた子で、士郎の連れ子である恭也にとっては唯一の二親等の血縁であった。彼の妹への甘さは、そのことだけが理由になっているのではもちろんない。だが、彼女は生まれたときにすでに父がなく、自分も剣士としての修行に美由希共々あまりかまうことが出来なかった。

 本来なら父親に甘えたい盛りであるのに、我侭で――それは普通なら、我侭などとは言えない無邪気な思いであるのに――家族を悲しませまいと我慢しているこの子のことを思うと、彼女の小さなお願いくらい全てかなえてやりたいと、心の底から思うのである。

 妹として接してきた時間でいうなら、一番長いのは美由希だが、彼女は正確には従妹である。ものごころがつく境目くらいの時に士郎に預けられ、以後妹として恭也と一緒に暮らしてきた。

 御神流本家の、最後の正当伝承者にあたる美由希。士郎は、彼女がいずれ御神流を再建することを考えて、戸籍上は本来の御神の姓をそのままにしておいたらしい。もっとも、さすがの士郎も、息子が美由希と恋人になるとは思ってもいなかっただろうが。

 

「ん?どうしたの」

「いや……なんでもない」

 

 恭也は無意識に見つめていたのだろう。その視線を感じた美由希は彼を振り返り、少しだけ顔を赤らめながら不思議そうな顔をしていた。

 

 

 

「なんか……美由希、雰囲気変わったね」

 

 少し離れた席で桃子と店のことを話していたフィアッセが、遠巻きにその様子を見ながら、囁くように桃子に告げた。

 

「そう?いつもと変わらないように見えるけど」

 

 なのはにも受け継がれた栗色の長い髪を揺らして、桃子は美由希を見る。フィアッセは唇に人差し指を当て、コバルトブルーの瞳を軽く上方に移し、

 

「ん~、なんて言うのかな。前は剣の稽古ばかりで少し無理してるみたいなところがあったけど……時々ぼうっとして考え事してたり、急に赤くなったり……」

「でも……あの子元々ぼーっとしてるわよ?」

「そうなんだけど……例えば、恋でもしてるとか」

 

 やさしく微笑んで、美由希を見つめるフィアッセ。

 

「あの子が……?そう言われてみれば、少し女らしくなってきた……かな?」

「本当のところはわからないけど……でも、良いことだと思うよー」

「う~ん、桃子さん、複雑」

 

 血縁がないとはいえ、美由希は、そして恭也は間違いなく自分の子供であると思っている。いや、思っていると言うのは語弊があるだろう。思うまでもなく、それは当然のことなのだから。

 幼少から大人以上の責任感と意思を持った恭也を追うように、美由希も少しづつ一人で歩こうとし始めた。それは喜ばしいことと同時に、少し寂しくもあることだった。

 昔を思い、少し切なさがこみ上げてくる。

 

「でも、それならそれで、士郎さんに報告するのが楽しみね」

 

 笑う。強がりではなく本当の笑顔。辛い過去だ。でも、今はそれに負けないだけの幸せがある。そして、きっとこれからも。

 

「今日は飲もうか?桃子」

 

 フィアッセの、グラスを持つジェスチャー。

 

「うん!朝までがんがん行くわよ~」

 

 おー、と拳を振り上げる桃子。だが――

 

 

「おかーさん、フィアッセおねーちゃん。明日もお店でしょう!それに、飲みすぎはよくないです!」

 

『……はい』

 

 なのはに怒られた。

 

 

 高町なのは――本日、高町家最強を襲名。



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第二章 「偽りの誰かが踊る夢」

Chapter 2 『The dream can not wound my body. Bat it is not means nothing to me.』


 

 春先の爽やかな匂いのする朝。

 雨が嫌いなわけではないが、それでも日曜日はこういう日がいい、と青年は思った。今日は毎年恒例の花見の為に、早朝の美由希との鍛錬を早めに済ませ、シャワーで汗を流した後、恭也は一人庭先で茶を楽しんでいた。

 

「美味い……」

 

 ほう、と息をつく。親友の忍や勇梧あたりに見られたら、年よりくさいやら枯れてるだとか言われそうだが、なんと言われてもこの楽しみを奪われるわけにはいかない。

 庭を見とおせば、ウグイスが塀の上で踊りを楽しみながら、つぼみを着けた花へ喜びの歌を奏でている。

 暖かな日差しが地を這う昆虫たちを呼び起こし、風の音が耳元でさわさわと囁いている。

 それは、彼が望み続ける大切な平穏だった。たとえこのまま何もしていなくても、心安らぐ誰かがそばに居てさえすれば、きっと退屈することのない柔らかな世界。

 だが――

 

「これで、夢さえ静かなら、な……」

 

 湯呑を置いて、恭也は空を仰ぐ。そこに答えを探すように。

 意識が陰る。思い出したくもない昨日の夢の景色が、青年の心を締め付けるように浮かび上がっていった。

 

 

 

         ◇

 

 始まりは、いつもと同じだった。

 血の匂いだけが現実的な、存在感のない風景と倒れている父。

 だが、そばに立つ自分が違った。

 少年ではなく、成長した今の自分だ。手には使い込んだ愛刀が二本。

 そのことに気づくと、物語は急速に動いた。今までとは異なるそのイレギュラーから逃げるように、本来の過程のシーンを飛ばして、父が遠のく。

 思いがけない展開に一瞬呆けていた恭也は、自分に叱責するように舌打ちして走り出した。

 

(俺は何をしている!昔の無力な俺じゃない。今の俺がここに居るんだ。たとえこの世界が夢だとしても、現実が何も変わらないとしても、今の状況を無視してどうする!)

 

 距離が詰まる。当然、子供の体よりも運動能力が高いので、そのスピードが今までよりもはるかに遅い。

 あと数メートル。

 追いつける。そう思った。だが――

 

「!?」

 

 体の動きが鈍る。振り向くと人を象った黒い影が、恭也の肉体に羽蟻のようなおぞましい感触でまとわりついていた。

「これか!今まで俺が動けなくなった原因は!」

 今までの夢――少年の頃の自分が不意に前へ進めなくなり、父を救えなかった夢。だが、今回は違う。こいつを倒せば変わるはずだ。その後、士郎を救えればきっとこの悪夢は終わる。何も根拠はないが、そう思った。

 愛刀の小太刀――八景を構える。この世界の空虚な空気を吸いこみ、息を止める。そして、怒号の声を発すると同時に切りかかった。

 

「おおおおおっ!」

 

 凍てつくような刀身の輝きが、歪曲な線を描き影を切り裂く。確かな手応え。だが同時に襲う右面からの殺気。

 

「はあ!」

 

 己の感覚を信じてその場を飛びのく。瞬時に、今まで恭也が立っていた場所を暗く冷たい刃が凪ぎ、地面に打ち付けられた。

 ガァン!という轟音。地面と刃、どちらの材質もわからないが、少なくともその威力を物語るには十分なメロディ。

 

「なんだ……こいつらは」

 

 間合いを取り見まわすと、そこには先ほど一太刀で切り裂いた影と同様の者達が数十人、手にはそれぞれ形状の違う武器らしきものを持って、体をゆるがせながら恭也を取り囲んでいる。

 しかも、今の攻撃されたときのスピードや威力は、一般人の比ではない。

 冷や汗が頬を伝う。その心の萎縮を、膝の古傷の疼きが教える。だが、簡単ではないにしろ、決して勝てない相手ではない。

 

「奥義の連発を……覚悟か」

 

 人ではない以上、手加減をしなくて良いのは助かることだが、あまり救いにはならない。それに、今は時間が惜しい。こうしている間にも、ゆっくりとはいえ父の姿は離れ続けているのだ。

 

「スゥゥゥ……」

 

 再び息を吸う。そして――

 

「はあぁぁぁぁ!」

「!?」

 

 数体の影を蹴散らした、その、『鬨の声』をあげたのは恭也ではなかった。

 彼の無骨な声とは違い、高く澄んだ、そして普通ならばおそらくは血生臭い戦いとは縁遠いはずの――それは、少女の声。だが、恭也はそれが戦いに身を置く者の声であることを知っている。なぜなら――

 

「美由希!?」

「恭ちゃん、手伝うよ!」

 

『徹』

 

 御神流の基礎技のひとつ。だが、その効果は絶大だ。外部からの威力をそのまま内部に伝える、広くは『鎧通し』と呼ばれる技の御神流変異技。

 美由希が繰り出したその技が、影の一体を吹き飛ばした。

 何故おまえがここに――と、恭也は問いたかった。だが、今はこの場を片付けることが先である。

 確かに、不意の美由希の登場で自分の負担は楽になった。だが、それはあくまで戦力として、である。恭也は、一層の気合と共に剣を振りながらも、美由希が劣勢になったときいつでもフォローに入れるように、彼女の状況に気を配る。

 

「恭ちゃん!ここは私に任せてとーさんを……っく!」

 

 ガッ!ギッ!

 

 左右からの同時攻撃を、小太刀を一本づつ使ってなんとか防ぐ美由希。

 

「美由希!……おおおおおお!」

 

 声と共に恭也が駆ける。そして――

 

「っりゃあああぁぁ!」

 

 御神流・奥義之六、『薙旋』

 本来は抜刀の形から繰り出す、高速の四連撃。恭也が最も得意とする――そして要と言える技。その餌食になった三つの影が、「おぉぉ」と怨のような音を立てて霧散した。

「馬鹿!無理するな。俺を背後に背負って確実に前の敵を倒せ」

 

「う、うん……」

 

 美由希は叱責からか、悲しそうな顔をして頷く。

 

「気を抜くな!来るぞ!」

 

 再びの剣劇幕。

 恭也たちが全ての影を滅したのは、それから数十秒後だった。

 ふう、と息をつき、美由希を促す。

 

「よし!早く父さんのところへ行くぞ!」

「……うん」

 

 彼女は、まだ悲しそうにしていた。本来なら、練習でどんなに怒られたとしても、いつもの美由希には見られない反応。何故――

 しかし、それを聞いている場合ではない。

 まだ僅かに見える父の姿に向かって走る。その姿は徐々に大きくなり、表情まで見えてくるほどに近づいた。だが――

 

「なっ!?」

 

 士郎のそばに、今まで倒してきたのと同じ形の――ただ大きさだけがふたまわり大きいそれが、父の体にまとわりついている。

 

 ニヤリ。

 

 顔があったわけではない。だが、人間で言えばちょうど口にあたる部分に、恭也は確かに歯のような白いものを見て――そいつが笑ったように見えた。そして同時に――

 

 

 ドォオン!

 

 

 爆炎がおこる。風圧が青年を襲い、黒髪が踊った。

 

「なんで……」

 

 剣を離し、虚空に手を伸ばす。落ちた二本の小太刀が、跳ねることなく闇に沈んだ。彼は膝を突き、拳を地面に打ち付ける。

 

「なんで……」

 

 もう一度同じ言葉を。

 だがそれに答えるものはいない。父の体は炎になっている。そばにいたはずの美由希は、いつのまにか消えている。

 この世界は再び彼だけとなった。

 

(これは夢なんだ。わかっているそんなことは。だから理不尽で、無茶苦茶で、矛盾だらけで。だから自分は気にする必要はない。夢から覚めれば、きっと今回の新しい悪夢に辟易するだけだ)

 

 でも、それでも――

 

 

「なんでなんだよ!」

 

 

 カシャアアン、と――最後だけは、今までと同じように絶叫と破壊音と共に――

 

 

 

 

 

「たとえ夢でも――いや、夢だからこそ、か。あの焦燥感は本物だ」

 

 日曜の晴れ上がった空を見上げながら、恭也は唇を噛んで呟く。

 目が覚めれば、肉体的なもの――夢で負った傷や疲労は当然無くなっている。だが、精神的なものは別だ。一度感じてしまえば、それは思い出すという行為だけで簡単に追体験できてしまう。

 繰り返されると思われた夢の内容が変わった。そして、夢の中の自分が意のままに動けるようになった。

 悪夢に意味などあって欲しいものではない。だが、悪夢がその中での自分の行動により結末を変えるのならば――

 

「いったい、俺に何をさせようって言うんだ……」

 

 言葉を口に出してから、青年は自分がほとんど狂気じみた考えをしていることに気づき、隣の木柱に頭をぶつける。

 誰が、何の為にだと?そんな者がいるはずがない。

 

 少し……疲れてるのだろうか。

 

 部屋の中で鳩時計が時を告げる。さざなみ寮での約束の集合時刻には、まだかなりの余裕があるが、どうせ晶と美由希あたりが準備に追われることだろう。

 本日の宴が、少しは自分を助けてくれることを祈り、恭也は皆を呼びに立った。

 

 

 

 

 

 



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第三章 「さざなみは、優しさと激しさに満ちて」

Chapter 3 『Peoples of the Sazanami dormitory.』




 

「はっああああああ!」

「せぇぇぇぇ!」

 

 陽光に晒された二つの人影が、新緑の木々に囲まれたさざなみ寮の庭先で交差した。

 お互いが鈍く光る――片方は一本の太刀、もう一人は二本の小太刀を持っていた。

 本来の型より殺傷能力を抑えられ、それでもなお人を殺す力を秘める、その――刃落とし刀は、二人の体が重なると同時に鈍音を奏でる楽器となった。ガッガ、と小刻みに響くその音色は、徐々にリズムとその大きさを増して、周りで見守る観衆達のため息を誘った。

 

「おいおいおい……ありゃ神咲姉、マジだぜ」

 

 と、その観衆達の一人の仁村真雪が、火の付いていない煙草を咥えながら苦笑した。

 彼女は売れっ子の漫画家として多忙の日々を送っており、その不健康な生活を、見苦しくない程度に乱れたショートカットの髪といつでも眠そうな瞳が証明している。

 しかし一方、実家が剣の道場であり、彼女は会得している段位以上(剣道の段位は強さだけでなく、一定以上の剣道暦も必要なため)の剣道家でもある。

 今、目の前で行われているものは、剣道の試合などではなくより実戦的な、いわば「剣での戦い」であったが、それでもこの二人が超一流の剣士であることは、剣道家の彼女どころか、見守る他の素人達にも明白であった。

 

「まったく……むかしゃー剣道の試合でならあたしのほうに分があったのに、今のあいつじゃ勝てる気がしねぇ。しかもそれとタメ張る恭也もトンでもねえな……」

「これから年取るたびに体力の落ちる真雪じゃ一生勝てないのだ」

 

 真雪の呟きに、隣で立っていた陣内美緒が二本の尻尾と大きな猫耳――作り物ではなく自前である――を動かして「にへら」と波願した。

 

「はっはっは、真雪。痛い所を付かれたじゃないか」

 

 真雪と同じ銘柄の煙草を取り出しながら、白衣を着た銀髪の女性がシニカルに笑う。

 

「んだとー!猫に坊主……あたしゃまだ二十八だ!」

 

 七年前から変わらない呼び名で言われたリスティ――リスティ・槙原は、ふふん、と真雪そっくりな笑みを浮かべると、

 

「去年も一昨年もそう言ったよ」

「なのだ」

 

 美緒も同意する。

 どうやら真雪は、自分が三十代になってしまったことを否定し続けているらしい。

 

「ぐ……ちくしょー!愛!娘の躾がなってね―ぞ」

 

 腹いせとばかりに、宴会用の荷物を愛車の『ミニちゃん』から降ろしていたこの寮のオーナー、槙原愛に怒鳴る。

 おそらくは真雪とそう変わらない年齢なのだろうが、真雪と対照的に健康的な生活で保たれた肌と童顔のつくりが、彼女を遥かに若く感じさせる。実際、二十台前半と言われてもさほど不自然さは感じられないだろう。

 愛は、その顔相応の子供っぽい仕種で顔を膨らませた。

 

「なーにいってるんですか。素直だったうちの娘の性格を染め上げちゃったのは、真雪さんですよう」

 

 その通りである。

 リスティがこの寮に来た当初、彼女は非常に無口でクール……というより他人を信用しない無愛想な少女だった。高機動性遺伝子障害――通称HGSと呼ばれる病を持つ彼女は、病による苦しみの代わりに、念動や精神感応などのいわゆる超能力を使うことが出来た。だがその能力ですらリスティを苦しめる存在の一つであり、彼女はそれゆえ心を閉ざしていた。しかし寮生達と暮らし、そして同じ病を持つ真雪の妹、知佳との触れ合いにより徐々に普通の少女らしくなったのである。

 クローン技術から生み出された存在であり、身寄りが無かったリスティは、その後、愛の進めで彼女の養女となっていた。

 ただ問題なのは――彼女は真雪の影響が大きかったらしく、数年後の寮内不良ランキングで一、二を争う存在になってしまったことだろう。

 

「むむむむむ……」

 

 真雪もそのことを自覚しているのか、タバコを噛み締めて黙ってしまった。

 

 ガキイイイン!

 

 ひときわ大きな音が鳴り響き、彼女達がはっと振り向く。

 見ると、青年と女の剣がお互いの急所の直前で寸止めされている。

 

「……」

「……ふぅ、引き分け、かな?」

 

 呼吸を整え、少し汗で湿った長い前髪を後ろに回して女が言った。同時に殺気が消える。

 

「そう、ですね。良い勝負でした」

 

 剣を引き、青年――恭也が笑った。

 気配を読むまでは行かなくても、張り詰めていた緊張が解けたのは素人にも分かることだった。ほう、と辺りからため息をつくのがわかる。

 

「薫ちゃん、恭也さんもすごいです!」

 

 いまどき珍しい巫女服に身を包み、子狐を抱いている少女、神咲那美が感嘆の意を述べた。その声に恭也は照れくさそうに、女はたおやかに笑みを返す。

 那美の義姉で元さざなみ寮生でもある彼女――神咲薫は、実家の鹿児島から仕事で海鳴の近くに来たついでと、しばらく休暇に来ていた。彼女の仕事は、剣術道場である神咲家の裏の姿、退魔師である。霊剣という武器を主として霊障と戦う彼女は、剣術を学んだ者としての性(さが)であろうか、本日一緒に花見をする予定の青年で、実戦剣術を今に伝える御神流の剣士、恭也と手合わせを興じていたのだった。

 今、彼女の義妹が抱いている狐――妖孤である久遠に関わる事件において互いの実力を認め合い、手合わせをすることに興味を持っていたが、なかなか機会が無く今回まで実現していなかったのである。

 薫は那美の元に近づくと、大きく息を吐き出した。すると那美が、薄い黄色の液体の入ったコップを彼女に差し出した。

 

「薫ちゃん、喉が乾いたでしょ。耕介さんが二人にこれをって」

「義兄さんが……相変わらずよく気が付く人っちゃね」

 

 薫はコップを傾けて液体を口に含む。爽やかなレモンの甘味と酸味が、彼女の体に染み込んだ。

 目を瞑りその心地よい感覚に身を預けると、懐かしい風景が瞼に浮かぶ。

 今から数年前、薫がさざなみの寮生だった頃、鍛錬で疲れた彼女にさりげなく飲み物を用意してくれた青年、槙原――今では神咲の姓となった耕介の姿。

 代理管理人として突如女子寮に現れた大柄な青年に、始めは皆が警戒と畏怖を持っていたが、いつのまにかこの寮に無くてはならない存在となった人である。

 今では神咲家の養子となり、薫達の義兄、そして裏家業の正当伝承者として、退魔師とさざなみ寮管理人の二足の草鞋を踏んでいる。もっとも当代は、異例の薫・耕介、両名による正当伝承が行われて、薫が実家に戻り、海鳴で管理人を続けている彼は家事に勤しむ事が多いのだが。

 

「うちが大学を卒業して、この地を離れてずいぶん経っとるが、ここの雰囲気は変わっとらん」

 

 しみじみ思う。

 ここで暮らした者のほとんどが持つ感想だろう。たとえ住む人が、建物が変わったとしても、そこが自分の家だと胸を張って言える場所。そう思わせる魔力のようなものが、この家にはある。そして、その力の少なからずに、耕介や愛の存在があるのは間違い無いだろう。

 

「薫ちゃん、恭也さんどうだった?」

 

 感慨にふけっていたせいか那美の声に不意を付かれたように感じ、薫は少しだけどもって答えた。

 

「あ、……ああ。あの年で大した物……どころかとんでもない強さじゃ。手加減はしとらんのじゃろうが、おそらく殺し合いでなら、うちは勝てんじゃろ」

 

 今回の手合わせは、剣と素手による打撃系のみ、という形をとっていた。御神流にはさらに鋼糸と飛針の技があるそうだが、それだけの意味ではない、と薫は続けた。

 

「そんなに?」

「一つ一つが……人を殺す技じゃ。他のどんな生き物でもない、人だけを焦点においとる剣術。そう言う意味では、和真や父さんでも勝てんかもしれん。試合中、何度かうちの使える表の奥義を放ったが、恭也くんは恐らく基本の技だけで全て防いじょる。御架月で霊力を使って戦えばわからんが、それでも自信は無か」

 

 それに、彼はさらに上をいくとっておきの技を持っているような気がしてならないのだが。

 

(僅かに膝を庇った動きは、怪我でもしてたのか……それが無ければどれほどだったのか。まあ、それでも『本気』の義兄さんほどではなかったけんね)

 

 

「おい、堅物青年!たいしたもんだな」

 

 恭也が美由希から受け取ったジュースを飲んでいると、容赦無く背中をたたいて真雪が現れた。

 

「あの神咲と五分なんて……いやー、すっきりしたぜ!」

「っけほ。いや、俺も危なかったですよ」

 

 軽く咳き込み、恭也が苦笑する。

 

「薫さんの剣はすごく綺麗な型です。それでいて隙がほとんど無い。時間があれば、美由希ともやって欲しい相手だ」

 

 美由希も先ほどの戦いに興奮が冷めぬようで、鼻息を荒げて頷いた。

 真雪は煙草に火をつけると、一度大きく吸って横に吐き出す。

 

「まーな……一応この場にいる、さざなみ寮側メンバーじゃ二番目に強いやつだしな。変に深い意味じゃなくてな」

「二番目って……薫さんより強い人、いるんですか?」

 

 意外そうに、美由希がみつあみを揺らして聞いた。恭也も驚きを、少ない表情で表している。

 真雪はその反応に満足げに頷くと、もう一度煙草を大きく吸いこむ。

 

「ふ~。まあな。それこそ、あたし!って叫びたいとこだが――」

 

 視線を寮内の台所のほうに向ける。すると――

 

「すいません愛さん!魔法瓶の水筒ってまだありましたっけー?」

 

 ずいぶんほんわかした顔で表れた大きな青年――

 

「……え……耕介さんですか?」

「そうだ、嬢ちゃん。……まあ、キレた時っちゅー条件付だけどな」

 

 美由希に対し意味深に嘯く真雪。

 

「たしか……薫さんと同じく退魔師をなさってるんですよね。除霊とかそういうのはよくわかりませんけど、物理的な実戦なら薫さんを超えるほどとは到底……」

「確かにな。だが、今から七年くらい前にあたしと神咲と神咲・弟であいつ相手に本気で戦ったことがあったんだが、手も足も出なかった(前作の『十六夜想曲』参照)。神咲弟は本気も何も完全に殺す気だったし」

「!……殺すって……」

 

 美由希が息を呑む。

 

「知りたいだろ~。実は耕介と女と他の男でどろどろな愛憎劇が繰り広げられて――痛ぇ!」

 

 彼女は頭に割り箸を束ねてぶつけられ、その後に言葉を続けることが出来なかった。

 

「お姉ちゃん!何無茶苦茶言ってるの!」

 

 綺麗と言うよりはかわいいといったほうがしっくり来る、そんな雰囲気の女性が二階の窓から口を尖らせていた。真雪への呼称から推測される通り、彼女の実妹、仁村知佳である。

 

「知佳!姉に暴力振るうとは何事だ!」

「お姉ちゃんが美由希ちゃんたちにとんでもないこと吹き込んでいるからでしょ!」

 

 そう叫びながら、彼女は窓に足をかけて飛び降りた。薄手のシャツにジーパンという、動きやすいラフな姿だったが、それでも危険な行為である。

 一瞬、恭也と美由希が声を失うが、彼女は明らかに重力加速度に逆らったスピードで落ちて――いや、降りてくる。

 知佳の背中から生まれた白い羽が、太陽の光を透かして彼女の身に神々しさを纏わせた。

 HGS患者の持つ、外見的にもっとも顕著な特徴、フィンである。

 それは、持ち主の性格や心理状況によってそれぞれ異なった形、能力を持つ、肉体への苦しみの代価に得た特殊な存在である。能力の原動力は、例としては知佳はフィンに太陽光線を受けることで、リスティは食物の糖質を変換させエネルギーにしている。数百万人に一人という確率で発祥するこの病は、その発症者の少なさもあり、いまだに研究は進んでいない。

 もっとも――恭也の身近な関係者には、知佳、リスティ、その妹フィリス、そしてフィアッセと珍しくないほど居るのだが。

 

「なんだ、やっぱり冗談だったんですか」

 

 美由希が安堵の声を出す。真雪がそれに対し何か言おうとしているが、知佳の念動によりハンカチが姉の口にまとわりついてふさいでいた。

 

「いや……泥沼の愛憎劇はともかく、耕介さんの強さに関してはあながち嘘でもないんじゃないかな」

 

 それまで黙って彼女らのやり取りを見ていた恭也が、目線を耕介に止める。

 

「恭ちゃん、どういうこと?」

「俺は何度か耕介さんと鍛錬を付き合ったことがあったが――確かにかなりの腕だが薫さんほどではない。だが……どちらがより怖いか、と聞かれれば俺は耕介さんに票を投じる」

 

 まあ、そこに理由なんて無いのだが。と、恭也は肩をすくめた。

 

「なんと言うか……そうだな。薫さんを『狼』とするなら、耕介さんは『象』の怖さだ。速さも鋭さも狼のほうが上でも、敵に回すのなら象ほど恐ろしいものは無いだろう?」

 

 われながら良い表現だったと、恭也は満足げに言った。

 彼の言葉に目を丸くした知佳が一瞬気を抜いた隙に、真雪は口の拘束具から逃れ、彼女はこれ幸いと逃げて行った。

 

「知佳さん、本当なんですか?」

 

 兄の意見がかなり的をついていた為と思わせる知佳のその様子に、美由希は確認を取る。

 

「……うん。七年前に耕介お兄ちゃんが大変なことになって、薫さん達が戦ったのは本当。そのときのお兄ちゃん、妖怪さんに取り付かれて力を暴走させて……私達じゃ止められなかったんだ」

「妖怪ですか……それで、どうなったんですか?」

「お兄ちゃんの恋人が――今は奥さんだけど、やさしく語り掛けて、それでお兄ちゃんは正気に戻ったんだ」

 

 はて?と、恭也が首をかしげた。

 以前、那美に聞いた話で、彼が養子として神咲に入り、彼女らの義兄となったということは知っていたが、結婚したという話は覚えが無い。彼はここで寝起きしているのだから、その妻も寮に住んでいるというのが普通だろう。だが、那美意外に神咲の姓を持つ女性は寮生に居ないはずだ。実家に住む薫という可能性も、那美と同じく『義兄さん』と呼んでいるので、まず、ない。とすれば、夫婦別性にしているのだろうか。

 だが、彼の妹は納得したらしい。顔をほころばせ、そうなんですか、としきりに頷いていた。

 

「おい……美由希。耕介さんの奥さんって知っているのか?」

「うん。知らないの?ここに住んでるし、恭ちゃんも会ったことがあるよ?」

「……そうなのか?どの人なんだ?」

 

 庭に寮生全員が出ているわけではないが、とりあえず辺りを見まわしてみる。

 

「人じゃないよ」

「は?…………あ」

 

 かなり間抜けな声を出した後、ようやく一人の人物にたどり着く。

 

「十六夜さんか!」

「呼びましたか?」

「!?」

 

 青年の背後から音も無く気配が生まれ、透き通るような声がかけられる。

 戦う者としての性分か、驚愕による筋肉の収縮でひるむことは無く、大きく飛びのいて背面に体を変える。しかし、気配の正体を見据えて、恭也は力を抜いた。

 金色の髪がたなびいていた。風が強く吹いているわけではないが、繊細な髪は、それ自体が美しい生き物のように薄く流れている。

 羽衣のような着物を纏い、藍色の瞳を虚空に向けて宙に浮かぶその女性――十六夜。

 彼女は美しかった。

 だが、本来美しさというものは、非常に危ういものでもある。太陽が地平線へ沈む瞬間、ガラスの飾りが壊れる時、流星の一瞬の瞬き。それらは時として、涙を流すほど心揺さぶられる衝撃を与える。美しすぎる畏怖すべき美。儚いがゆえの、壊れる姿への美。

 つまり、もしある人を美しいと判断するなら、その人は同時に――嫌悪の対象にもなりうる。だが、

 

「どうなさいました?」

 

 彼女が微笑を浮かべた。

 ただそれだけの行為で、彼女の雰囲気が柔らかさと暖かさに満ちる。

 恐らく、本当の意味での美人というのは、こういう人のことだろうと恭也は思った。呼吸の仕方を忘れてしまったように、彼は呆けたように十六夜を見る。

 

「……いっつ~!~!~!~!」

 

 腕に激痛が走った。痛みには慣れているはずだが、裂傷や打撲とも違う脳天に突き刺さるような感覚に、恭也はうっすらと涙を浮かべて問題の個所を見やる。そこには細いながらも筋肉の張りついた腕から伸びた指先が、青年の二の腕を捻り上げていた。

 

「美由希……なんだ?」

 

 指の主である妹を見咎めるが、彼女は指を離しても不機嫌そうに恭也を睨むと、そっぽを向いた。

 

「どうか……なさいました?」

「な、何でも無いですよ」

 

 返事が無いことに困惑したのか、ハテナマークを浮かべて微笑んでいた十六夜に、美由希が慌てて手をパタパタさせた。

 

「私の名前が聞こえたので気になってしまったのですが……」

「耕介さんと十六夜さんの馴れ初めについて聞いていたんですよ」

「まあ……」

 

 十六夜は恥ずかしそうに、それでもうれしそうに頬を染めた。

 美由希と話す彼女だが、その顔は微小に美由希からずれていた。藍色の瞳も少女の姿を写しながらも、どこか遠くを見るように焦点が合っていない。

 それもそのはずである。彼女は盲目であった。

 神咲家に伝わる霊剣十六夜。それに宿る女性の魂の具現した姿、それが、今、恭也達の前にいる女の正体である。彼女は生まれついての盲目であるらしく、神咲家の始祖である灯真により、死して霊剣として魂だけの存在になった今でもそれは変わらなかった。

 霊剣十六夜は、退魔師として活躍する一灯流の裏の正式伝承者のみに渡される存在で、元々は薫が伝承していた。しかし彼女の寮生時代に十六夜は管理人の耕介と恋に落ち、彼は二人で共に生きるため十六夜の使用者となったのである。

 つまり、戸籍としては耕介は独身である。しかし、せっかくだからと身内だけで静かに式を挙げ、名実と共に契りを交わしたのであった(寮では寮で、三日に及ぶ大宴会があったが)。

 もちろん、それにともない神咲家の養子、一灯流の入門、退魔師としての修行と数々の問題もあったのだが、それはまた別の話である。

 ちなみに、共に一灯流を継いでいる薫は、十六夜の弟の魂が宿る霊剣御架月を使っている。

 

「そろそろ用意が出きるようですよ。桃子様達がお見え次第出発するそうです」

 

 告げて、十六夜が浮かび上がり、ガラス戸をすり抜けて寮に戻っていった。その姿を見送りながら、恭也は昨夜の家族達の姿を思い浮かべる。

 

「かーさん達……『デザートはまかせて』って張りきっていたからなあ。レンと晶も『打倒!耕介さん』ってギリギリまで仕込んでるし」

「なんか私達の周りって、凄腕の料理人ばっかりだね」

「まあ……食事に楽しみが持てるのはうれしいことだ」

 

 その反動のように、高町家にもさざなみ寮にも、料理が禁句になる者がいるのは置いておくとして――

 

 

 

 

「恭也君」

 

 薫が那美を携えて近づいてきた。

 

「はい。なんですか?」

「まずは、楽しかった。家族以外でここまで打ち合える人は久しぶりじゃった。できたら本気の君も見せてもらいたかったが――まあ、秘蔵の技があるのはうちも同じじゃけんね。我慢すると」

「……はい」

 

 御神流の奥義――その中でも異色を放ち、同時に御神流の御神流たる由縁でもある『神速』と呼ばれる歩法。二刀術とは本来何も関係無いこの技法は、それ単体では『威力』というものはない。それが他の技と絡むことで、防御としても攻撃としても効力を飛躍的に上昇させることができる奥義。

 

「あれは――本当に奥の手ですから。膝に負担がかかるので気軽に行えませんし……すいません」

「ふん……。それは妹さんも使えると?」

 

 言われた美由希は少し俯きながら照れたように頬を掻いて、

 

「一応はその領域にいるらしいんですけど……まだ使いこなすというレベルじゃないそうです。実際、三回に二回は失敗しますし」

「……まあ、俺もその位置に来てから、確実に使えるようになるまで三年かかっている。おまえはまだまださ」

 

 ぶっきらぼうに恭也が言う。きつい言い方であるが、彼の口から出た言葉としては賛辞に近い。それがわかっている美由希は、気づかれない程度に口元を緩めた。

 実際、彼女の成長は大したものである。技を覚える、ということに関しては苦手のようだが、技の本質を感覚的に身につける能力では天才的なものがあった。

 恭也は思う。おそらく、彼女は二年以内に現時点での自分に追いつくだろうと。鍛錬を続け、自分はもう少しは強くなれるだろうから、実際に超されるのはその先になるだろう。だが、きっとそれも時間の問題だ。

 

(その時は……俺が美由希を守るなんて言うのはおこがましいのかもな)

 

 自分が神速の領域に来て、三回に一回成功するまでに二年近くかかったことを、彼女は半年足らずでやってのけた。膝の怪我が自分にはあるとはいえ、その差が――そのまま美由希と自分の実力を埋めていくスピードだ。

 ドクン――

 と、脳髄に響くような感覚。胸の鼓動が早くなり、体中を襲う不安感。

 

(またか――なんだっていうんだ!)

 

 体を休めるときの呼吸法を使い、恭也は肉体を、そして脳を落ち着かせる。

 幸い、恭也のその変異に気付くものはいなかった。ふう、と息を吐いて心音が正常な速度に戻った時、薫が再び唇を開いた。

 

「そうか……あともう一つ、君に言いたいことがあったとね」

「……なんですか?」

 

 先ほどの事を悟られないよう、恭也はいつもよりゆっくりとした口調で返事をする。

 薫は特に気にした様子も無く、コホンと小さく咳払いをすると、改めて恭也に向き直り――頭を下げた。

 急な出来事に美由希と恭也が目を丸くする中、彼女はゆっくりと頭をあげる。恭也の瞳を薫が覗いた。

 

「すまなかった。そして、ありがとう。もし君が居なかったら、うちはこうして那美や久遠と仲ようできんかったじゃろ」

 

 少し間を置いて――恭也はその意味を理解した。

 久遠と那美との間に起きた、ある事件のことである。

 久遠は以前、多くの殺傷を繰り返した祟り付きの妖孤であった。那美とその弟は、両親をその時の久遠に殺され、以後神咲家に養子に迎えられていた。多大な犠牲を払い、薫と十六夜によりその力と怨念を封じられ、邪気の無い狐となった久遠。祟り付きとなった悲しい過去の経緯を知った那美は、いつしか敵である久遠を許し、共に暮らすようになる。

 だが、いつその祟りが封印を破るやも知れぬ状況で、薫は最悪の状況を避けるために、独断でその妖孤を殺してしまおうと考えたのである。己が罵られ、蔑まれ、心を罪悪感で壊れそうになることを覚悟して――。

 しかし、恭也が間一髪でそれを止め、その後、那美と久遠の思いの力によって、祟りのみを消滅させる事に成功したのであった。

 コンサートでの事件から数週間後の話である。

 

「そのことはもうすんだことですよ。……結局は、久遠と那美さんの絆の力です。それに、俺もなのはを悲しませたくはありませんでしたから」

 

 目を閉じて微笑みながら恭也が答えた。

 謙遜でもなんでもない。たとえ那美や久遠と関わっていなかったとしても、なのはの友達だということだけで、この小さい子狐を守ることに躊躇いはしなかっただろうから。

 

「く~ん」と下から声が聞こえたと思うと、ぽんっと音を立てて久遠が狐の姿から人型へと変化した。

「きょうや……」

 

 頭についた狐色の――狐なのだから当たり前だが――耳をピコピコと動かして、八歳程度の少女の姿となった久遠が青年の足に擦り寄った。

 薫はまどろみを見るように目を細め、

 

「ふふ……。それでも、きちんとした礼がしたかったと。あの時はばたばたしとったし……義兄さんにも散々叱られたし」

 

 言いながら、彼女は懐から小さな紺色の布巾着を取り出した。

 

「これはうちと、うちの一族からの礼の品だが……受け取ってもらえんね?」

「そんな……本当に、俺は何もしてないですよ」

 

 少し困ったように恭也。薫は表情を変えずにそれをさし伸ばした。

 

「遠慮、というのなら止めて欲しい。礼として贈呈しとるだけじゃなか。君に、うちらの感謝の気持ちを受け取って欲しかね」

 

 続くように、那美も「私からもお願いします」と言って、頭を下げた。

 

「……わかりました。大切にします」

 ここまで言われて断るのは、むしろ無礼になる。それに、誰かからの感謝の形が嬉しくないはずも無かった。

「開けても?」

 

 恭也の言葉に、薫が頷いた。

 両手で受け取ると、彼はその小さな巾着の紐口を緩めて指を指しこんだ。取り出された先に、青く輝く宝石のような滴型の珠がある。よく見ると、珠の表面に漢字を崩したような流線型の文字が刻まれている。

 

「これは……」

「ちょっとした霊力のこもった石。縁結びの効果があるそうじゃ」

 

「縁結び、ですか」

 

 苦笑して恭也。

 すぐ横に恋人が立っている状況で、迂闊な反応は出来ない。

 

「と、言うても別に恋人ができるとかいうたぐいのもんではなか。もともとは二つ一組のもので、この石を持つ者同士はどんなに離れていてもめぐり合わせてくれるという……そういう力をもっとるらしい。本来、親友や恋人や家族との一時的な別れに、無事な再会を願うために使われたと聞いとる。まあ、そういう使い方よりは、単に安全祈願のお守りと考えてくれればよかよ」

「では……もう一つは誰が?」

「残念ながら、うちに伝わるのはその片方だけ。けど、片方だけでも簡単な護符くらいの効果は保証すると。会いたい人にまたあえる、という意味で効力を発揮するけんね」

 

 薫の言葉に、興味深そうに恭也の手中の石を見ていた美由希が聞いた。

 

「じゃあ、その誰かわからない、もう片方を持つ人といつか会えたりとか?」

「いや……さっきも言った通り、自分と知人の相互の安全と再会を願うものだから――まったく面識の無い者同士に効果を及ぼすほど、力は強くはなかね。まあ、所有者の望む相手と会える確率を増やすくらいは、出きるかも知れなかが」

 

 なるほどと恭也は頷き、丁重にもとの巾着にしまうと、折角だからとさっそく腰のベルトに――暗器の飛針をしまうホルスターの邪魔にならない部分に――紐を縛り付けた。すると――

 

「恭也、薫……今の石、ボクにも見せてくれないか?」

 

 リスティがひょっこりと、好奇心というより不可解そうな顔をして現れた。恭也が思わず薫のほうを振り向くと、彼女は無言で頷く。元の持ち主に一応の了解を取ると、恭也はもう一度あの石を取り出した。しげしげとそれを見つめるリスティに、薫が訝しそうに問う。

 

「どしたんね、リスティ。宝石と言うわけではなかね。鉱石としてはたいした価値はなかよ」

「いや……これどっかで見たような気がするんだよ。仕事関係だと思うんだけど……」

 

 彼女の言葉に薫は思わず息を飲んだ。 

 リスティの仕事関係と言えば――警察関連である。いったいどのような経緯であろうか。

 

「……だめだ。思い出せない。気のせいかもしれないな」

 

 リスティが額に手を当てて首を振った。

 

「そうか……残念のような……ほっとしたような気分だ」

 

 恭也がため息を吐く。まあ、見知らぬ人と石の力で会ってもどうしようもない。

 今、そばにいない者で会いたい人がいないわけではないが、それがかなう事はありえなかった。なぜなら――彼はすでにこの世には存在していない。この霊玉にどれほどの力があるのか、その手の能力のない恭也にわかるはずも無いが、いかに強力だとしても死者と会わせることは不可能だろう。

 

「ん……そういえば、なのははどこにいったんだ」

「なのはちゃんなら、部屋で麗ちゃんと忍さんとゲームしてましたよ」

 

 ふと辺りを見まわした恭也に、那美は二階のベランダ脇の窓を見上げた。

 なんでも寮生の一人である麗は、来年から私立聖祥女子に推薦で入学することが決まっているIQ200を超える天才児で、自分で持ちこんだ巨大スクリーンを使って映画とゲームにいそしんでいるらしい。ゲーム好きの忍となのはが、それを見逃すはずが無かった。

 

「うみゅ~!」

 

 突如、気の抜けるような声。

 二階の窓にかかったカーテンに、万歳をするような腕のシルエットが浮かんでいる。

 

「へっへ~ん!これで十六勝目~♪」

 

 後者の声は、聞き覚えがあるものだった。

 

「月村……なにやってるんだ」

 

 恭也の呟きが聞こえたわけではないのだろうが、それを合図にしたようにカーテンと窓が開かれる。おそらくは空気の入れ替えをする気だったのだろう。

 

「あ、高町君。終わったの?」

「ああ……鳴り止んだ音で気付かなかったのか?」

「周りの音に気を取られて勝てる相手じゃなかったのよ」

 

 威張って言うことかどうかはわからないが。

 

「なのはは……そこにいるのか?」

「なのはちゃん?それなら今、一息入れるって言ってベランダに行ったわよ」

 

 ヒッチハイクをするように親指でベランダを指差した。

 その彼女の後ろで張りつくように、一人の少女が顔を出している。この子が麗なのだろう。

 

「う~忍さん。もう一回挑戦するです」

「はいはい、何回でもいいわよ~」

 

 座りなおしたのか、彼女達の頭が窓の下に沈んだ。

 

「あいつは……どこに行っても変わらんな」

 

 それが彼女の魅力と言えなくも無い。

 ベランダに視線を向け、なんとなく気になり妹の姿を探す。

 ガラっとガラス戸を引く音が聞こえて、見なれた栗色のツインテールがひょっこりと現れた。ちょこちょこと壁柵に近寄ると、なのはは足を浮かせてよりかかった。用があるわけではないのだが、恭也はとりあえず声をかけた。

 

「なのは」

「お兄ちゃん。終わったんだ。どうしたの?」

 

 話す時、笑顔になるのはこの子の癖なのかもしれない、と恭也は思った。

 

「ああ……かーさん達が着いたら出かけるそうだ。月村達にも伝えてくれ。言いそびれてしまった」

「はーい、わかりましたー」

 

 そのときだった。

 

 きしり――と。

 

 恭也はそんな音を聞いたような気がした。

 

 庭で談合している者達の声で、本来ならそんな小さな音など聞こえるはずが無い。

 だからその音の表現は、擬音語ではなく擬態語であるといえた。

 彼の視界が捕らえたあるモノの僅かな歪み。それを脳が直感で表現した言葉。「軋む」とは――よく言ったものだ。

 

 きしり――。

 

 再び、音。

 今度は気のせいなどではなく、はっきりと。

 その音は、皮肉にも擬態語で表現したものと同じだった。

 

 

         ◇

 さざなみ寮から少し離れた公道で――

 赤いワーゲンが、春の暖かさに喜ぶでもなく、どちらかというとけだるそうなエンジン音を立てて走っていた。

 助手席に座するフィアッセが、なんとなしに口ずさんでいた鼻歌を止めて、

 

「桃子~、これならみんな喜んでくれるね」

「うん!今回も耕介さんを唸らせるわよ~」

 

 後ろに乗せた大き目のクーラーボックスをバックミラーでちらりと見て、桃子は満足げに頷いた。

 

「うちらも、負けてませんで~」

「おう!」

 

 後部座席に座る二人の少女達、蓮飛と晶は、その体の小ささが幸いしてか、数々の料理が入った重箱と、デザートの入ったクーラーボックスに押されながらも、なんとかその場に納まっていた。

 フロントガラス越しに、大きな白地の建物が見えてくる。

 フィアッセはそれを直に見ようと、対向車が無いことを確認してから窓ガラスを開けて顔を出した。

 強く吹きつけながらも暖かい風が、彼女の長い髪を揺らした。

 

「あれ……」

 

 唐突に、彼女が真顔になる。

 桃子が横目でフィアッセを見た。

 

「どうしたの?フィアッセ」

「うん……なんだか、さざなみ寮のほうから……」

 

 いやな予感がするの、と。

 

 声に出したら、なぜかそれが本当に起こってしまいそうで、彼女は言葉を口の奥に押し込んだ。

 

 

 

         ◇

「えっ」

 

 なのはの呟きは、驚きからというより、ただ漏れた、という方が正しかったのかもしれない。

 だが、それが驚きの意味と同化するのに時間はかからなかった。

 もたれかかっていた柵格子が、みしみしと聞きなれない音を立てて歪み、一瞬それが止まった時――

 

 バキィン!

 

 鉄製の柵格子が、悲鳴のような音を立ててその根元から砕け散った。その衝撃のせいか、土台となっていたコンクリート部分にひびが入る。折れた鉄柵は、一度無事なままの柵に絡まり動きを遅くするが、なのはの体がその重さの支えを無くして、それよりも先に前へ飛び出た。

 恭也が動いたのは――なのはの悲鳴が上がるよりも早かった。もしくは、彼女の声が空気中を伝わり青年の耳に届くのよりも速かったのか。いずれにせよ、全ての神経が一点に集中し、ある領域に入った彼にそれが聞こえることは無かった。

 脳の中でスイッチが切り替わるように――恭也の視界が淡くなる。ちょうどモノクロームのような白黒の景色は、この状況下に色の識別は無意味だと告げたためか。

 

 ドクン――

 

 心臓の鼓動が一つ。

 それが、合図だった。

 

『神速』

 

 御神流奥義の歩法。

 極度に集中することで、空間の流れをスローモーションのように認識する。普通の人でも死に接する瞬間などに垣間見る、人間の持つ驚異的な状況認識能力。一流のスポーツマンなども、ある程度は任意により発動させることができるという。

 それを、御神流では確実に発動させることを求められる。そして、そのときの処理機能がある一定の領域を越えると、脳が、自身が認識する感覚と実際に動こうとする感覚に矛盾を感じ、それを埋めようと、自己防衛のため無意識にかけられている肉体のリミッターをはずす。

 それが故の驚異的な加速術。それが――『神速』である。

 

 時が遅く流れているような不思議な空間。その中を生ぬるいゼリー上の中を動いているように、恭也の体は駆け出した。

 一歩を踏み込む。

 それだけで、常人歩幅の数倍の距離を飛んだ。

 目測を見間違わないために、顔を上方に傾けてなのはの体を追う。

 恐怖に染まったなのはの顔が、崩れた鉄格子の破片と重なっていた。

 

(この距離――間に合う!)

 

 重力によりその加速度を増しつつも、彼女が地面に叩きつけられるより早く、その落下地点にたどり着ける自信が恭也にはあった。そして、それは決しておごりなどではなかったはずだ。

 地面を蹴り、最後の跳躍。伸ばした腕に妹の体が触れ、それを抱え込む。彼の大切な宝物は、確かに胸の中へと納まった。

 全てが、青年の思い描いた形に収縮する。 

 

 それでも彼は――一つの誤算をしていた。

 

 ぞっとするような感覚が、上方からざわめいていた。神速の領域から戻りつつある意識の中、彼が顔を上に向けられたのは、奇跡に近かったかもしれない。

 

「!」

 

 青空への視界を塞いだのは――根元が砕けて、鋭利な槍のように連なった矛先を向けた鉄柵と、人の頭ほどの大きさのいくつかのコンクリート片。なのはが落ちた後、ひびの入った部分が自身の重さに耐え切れず崩壊したものに違いなかった。

 色が着き掛けた風景から、再び色あせた世界へ。神速を――引き伸ばす。

 間違い無く、それは彼の限界を超えた行動だった。だが、それ以外に選択肢は無い。

 腕の中のなのはに覆い被さるような前傾姿勢をとり、その場から飛びのこうとする。が、おそらくは、コンマ秒の境で――間に合わない。

 それは、先の自信と同程度の確信だった。

 

 美由希が、跳ねた。

 恭也が駆け出した位置よりも数歩離れた場所から、彼女が動く。

 神速領域の彼の感覚の中でもそう見えるということは、彼女もまた、神速を発動させたということだ。

 彼女の手には、恭也が預けていた二振りの刃落とし刀が、抜き身で納まっていた。

 そして彼女は、一瞬で恭也までの距離をゼロにする。

 

(あの距離を――詰めた!?)

 

 恭也は驚愕する。

 彼がギリギリで届いた距離より離れているにもかかわらず、彼女は、より少ない時間でそれを可能にした。

 薫との仕合で疲労があったとはいえ――彼女はこの時、明らかに青年を超えていたのである。

 そして、神速の中での奥義への繋ぎ。それは、恭也が思わず見とれるほど滑らかだった。

 

 

『薙旋』

 

 鈍い破壊音。

 高速の連撃は、まずもっとも危険な鉄柵を吹き飛ばし、ついでくる石片を砕いていく。

 

 

 間に合った、と美由希は思った。

 間に合わない、と恭也は確信した。

 

 

 そして、それは恭也の判断が正しい。

 砕けた破片は幾分か小さくなっていたが、その分だけ数を増し、人を殺める能力を十分に保ち降り注ぐ。

 殺傷力こそ下がったが、それでもなお、子供一人の命を消し去るには十分な死神の礫。

 

 そして彼は――

 

 ためらわず、なのはに覆い被さり、地面に抱え込んだ。

 その時、恭也がとった行動が、父、士郎の最後の行動と同じだったのは――皮肉であると言う意外、喩えようもない。

 

 

 背中に激突する瓦礫の痛みが脳髄に響く。

 神速による肉体の酷使に膝も痛む。

 悲鳴じみた、美由希の自分と妹を呼ぶ声が、手の届きそうな場所にいながら妙に遠く感じた。

 青年の上に破片が積もり、埋め尽くされて彼の視界が真っ暗になる。頭にも打ち付けたのか、ぬるりと鉄の匂いのする液体が額を流れている。

 うすれゆく意識の中、最後までわかったのが妹の無事であったことは――彼にとっての幸いであったに違いない。

 

 震えながらも、元気に泣き声を挙げる、なのはの暖かさを感じて――

 恭也は意識を失った。

 

 



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第四章 「箱の中の猫達へ」

Captar 4 『Do you know the Schrodinger-cat?』


 

         ◇

 その暖かさは、冷たい死の感触だった。

 

 疼くような胸の奥の鼓動は、生きている実感としてはいささか物足りないものだったが、内臓から発する熱を帯びたそれは、彼女に心臓よりも明確な生を教えてくれた。

 だから、常人なら不快と思うべきその感覚を、彼女は少しだけ楽しんでいた。頬をくすぐる風の流れ程度には。

 今、彼女が歩いている街並みは、普通のそれよりいくらか閑散としていたが、あえてそう誇張するほどのものでもなかった。むしろ、その少しだけ平均以下の発展をしたと思わせる風景が、普通の街だという証明だともいえる。

 

「のどかで……良い街ね」

 

 どことなく皮肉めいたような彼女の呟きは、言葉に反して、街にではなく自虐的なものであった。 

 女は――子供が見ておばさんと言うかお姉さんと言うべきか、ぎりぎりの歳の頃だった。もっとも、彼女はどちらに呼ばれたところで、目くじらを立てるほど自分の歳を気にしてなどいない。

 若さに嫉妬するほど、自分に自信が無いわけではなかったからだった。

 実際――彼女の体の張りは、無理なダイエットを繰り返す二十代のものよりは上等であったし、顔も少しきつめな目が威圧感を与えないわけではないが、美人だと言えなくもない。

 紺色のジーンズと萌黄色のトレーナーの組み合わせが、彼女のファッションへの執着の無さを物語っていたが、すれ違う人が気にするほど奇抜ではなかった。

 軽くウエーブのかかった髪は漆塗りを思わせる濡羽色で、その黒い輝きは彼女の自慢でもあった。

 その髪をかきあげて、女はもう一度街を見る。

 

「ほんと、綺麗でやさしそうな街」

 

 血の匂いが染み込んだ自分にも、この街はやさしくしてくれるのだろうか、と女は笑う。

 おそらく、受け入れてくれるのだろう。

 

 かつて恋人だった男、士郎がこの街で暮らしているのだから――。

 

 

 

         ◇

 

 その暖かさは、冷たい死の感触に似ていた。

 服越しに伝わる土の温度は、ねっとりとした湿気を持って彼の皮膚に水分を与えている。しかし、上から降り注ぐ太陽の光は、それを奪い取ろうと彼の露出した肌を躍起になって焼いていた。

 結局、彼――恭也が目覚めたのは、酷い頭痛に寄るものだった。

 

「く……」

 

 ゆっくりと立ちあがる。

 ぼんやりとした意識をはっきりさせるため、とりあえず彼は額を抑えて頭を振った。そして、周りを見まわす。

 

「あ……?」

 

 間抜けとしか言いようのない声をあげて、恭也はもう一度辺りを見まわした。

 そこは、見覚えのある風景ではあった。

 

「さざなみ……寮?」

 

 一瞬で記憶がつながる。

 

「なのは!」

 

 叫んだ彼は、すぐに自分の周囲の地面に目を向ける。そこにあるのは――

 

「え……」

 

 何も無かった。いや、正確にはあるはずのものがそこにない、と表現するべきか。

 なのはも、瓦礫も、剣も、そして美由希達も――。

 気になって、崩壊したベランダを見上げた。

「どうなっている……」

 ベランダは、何事も無かったように日差しを浴びていた。

 

 ふいぃぃぃん

 

 混乱する中、耳慣れない音が聞こえる。

 恭也は、あわてて携帯を探ろうとするが、それが自分の着信音でないことに思い当たり、素直にそこに目を向けた。

 ベルトに結びつけた巾着――。それが青白く光っている。振動音のようなそれは、光の強弱に比例して音量を増減していた。

 そして、不意に小さくなる。

 

「お、おい」

 

 恭也が思わず声をかけたが、巾着の中の石は本当に小さく光を発するだけで、おとなしくなってしまった。

 ――何がなんだかわからない。

 この場になのはと寮生の姿が無く、瓦礫も消えてベランダが治っている。

 可能性としては、瓦礫をどけ、寮内でなのはを治療、何か特殊な力でベランダも直して(ここの寮生メンバーなら、一人ぐらいそういう力を持っていてもおかしくはない)、今に至るというところだろうか。なら、自分がこの場に寝かされたままなのは、動かすと危ない状態だったのだろうか。

 かなり無理があるが、一応の説明はつく。

 なのはの安否も気になる。なんにしろ、寮内に入って誰かに聞けばすむ事だ。

 恭也は石畳に足をかけ、縁側のガラス戸を引いた。

 リビングルームの中に入って見まわしたところ、誰の姿も見当たらず不安になったが、すぐに騒がしい足音と声が聞こえ、彼はほっとした。

 だが、それは予想だにしなかったこととなる。

 どたどたと素足で廊下を走る音が聞こえたと思うと、室内へ――つまりは恭也が今いる部屋への扉が開かれ――

 

「いーじゃないかよ!単なるスキンシップじゃねーか」

「そういう問題ではなかです!あれほど他人の胸を揉まないでと下さいと言っとるです……に……」

 

 その声の主が、恭也の姿を見咎めて固まった。

 だが、固まったのは恭也も同じだった。なぜなら――

 一人はポニーテールの少女だった。湯上りと思われる蒸気を肌から発し、その為なのか、白のティーシャツを透かして、淡い薄紅色のブラジャーが見えた。見たことがある人物のような気がしないでもないが、はっきりとした確証はない。

 もうひとりはやはり女性で――裸だった。まあ、一応申し訳程度にはバスタオルが巻かれていたが、大きな胸のせいでいつ落ちてもおかしくはない。

 どんな状況にも対応するのが御神流の常だが、さすがにこんな状況の対処法は学んではいなかった。ああ、そういえば家でフィアッセ相手に似たようなことをしたっけ、と、どうでもいいことが浮かんだりもした。

 何はともあれ、裸のほうの女性は――少しだけ髪形を含めた外見が違ったが、見知った人物だった。

 

「ま、真雪さ――」

 

 彼女の名を叫ぼうとして――

 

『痴漢!』

 

「――はい?」

 

 二人の息の合った大声に、青年はあっけに取られる。

 

「成敗!」

「――!」

 

 ポニーテールの少女が、いつのまにか木刀を構え、恭也に突進してくる。歳のわりに鋭い太刀筋に彼は反応が遅れたが、それでも幾分余裕でかわす。その速度に、少女は驚きを隠せない。

 

「うりゃあ!」

 

 やはり木刀で――真雪の袈裟切り。少女の攻撃でバランスを崩していたが、青年は片手一本で倒立するように体を支え、手で床を蹴るように飛びのいた。開いていたガラス戸から外に出る。

 真雪がそれにひゅう、と口笛を吹くと、舌なめずりをする。バスタオル一枚なのが決まらないが。

 

「へぇ……痴漢にしちゃやるじゃねえか」

「ちょ、ちょっと待ってください、俺は――」

「問答無用!神咲、挟み撃ちだ!」

 

(神咲――神咲だって?)

 

 恭也はようやく、その少女が誰に似ているか気付いた。

 

「まさか――薫さん!?」

 

 恭也の言葉に、少女が顔をしかめる。

 

「なんね、うちの名を知っているとは……ストーカー?」

 

 間違いではないようだ。

 とんでもないことだが――、この少女はあの薫と同一人物らしい。だが、当然ながら恭也の知る薫は、二十四、五歳の女性だったはずだ。ところがこの薫と称する少女は、どう見ても十代半ばにしか見えなかった。いくらそういう化粧をしたとしても、身長まで変えられるはずがない。

 さらに言えば、真雪についてもそうだ。恭也の知る彼女とそう変わるところはないが、よくみれば肌の張りが若々しい。

 と、いうことは――

 一つの結論に達する。その考えはあまりに馬鹿げていたが――それ以外の答えは思いつかなかった。

 

「痴漢ですか?」

「痴漢?どこなのだ!」

「痴漢って……ほんと?」

「痴漢やて~?」

「あうううう~、痴漢はいやです~」

「なにぃ!痴漢はどこだ!」

 

 いったいどこにいたのか――寮全体から住人の声が聞こえてくる。

 

(今は――まずい!)

 

 ざわめきが近づいている。住人達がこちらに来るのも時間の問題だった。

 彼女達が驚いている隙に靴を履き直し、恭也は真雪達に背を向けて駆け出した。腰のホルスターに手を伸ばし、鋼糸を取り出す。

 

「逃がすか!」

 

 彼の背を薫の声が追うが――

 

「はっ!」

 

 敷地の境となる壁の向こうに飛び出た庭の木の枝に、恭也は鋼糸の先の分銅を投げつけ絡ませた。青年は壁に向かって突進すると、ぶつかる瞬間に足で壁を垂直に蹴り、絡み付けた鋼糸で自分の体重ををたくし上げ、ちょど忍者の壁走りのように駆け上がった。右手が壁の頂上にかかり、そのままひらり、と向こう側に飛びおりる。

 

「なんと……」

 

 絶句した薫が正門から外に出たときは――すでに青年の姿は無かった。

 

 

 

 

         ◇

 今時の高校生にしてはずいぶんと雅の感のある、和式に偏った部屋で、「何者なのだろう」と薫は思った。

 その後寮生全員で探してみたが、あの不審者はどこにも見当たらなかった。

 

「おまえのファンじゃねーの?」

 

 と真雪は笑っていたが、自分だけならともかく他の寮生達にも危害がないとは言い切れない。少なくとも、あの男が体術の面において自分よりも勝っていることは明白だった。手加減していたとはいえ、完全に不意打ちからの一撃を、男は余裕でかわしている。

 もともと多少の騒動に怯える住人達ではないので、騒動が過ぎると自分のやるべきことに戻っていった。だが、どうしても不安が拭い切れない薫は、管理人であり、同時に信頼の置ける男性、耕介と相談し交代で見まわることにした。今ごろ彼は、夕方の赤い光に照らされて、十六夜と共に敷地内を歩いているはずだ。

 あまり自分の願望を口に出さない十六夜が、彼のパートナーを買って出たのは少々意外ではあったが、最近の二人の雰囲気をなんとなく気付いていた薫は、笑って許可を出していた。

 窓を空ければその姿が見えるかもしれないと思い、彼女はカーテンを引いて窓を開く。

 

「――むぐ!」

 

 一瞬だった。

 

 顔を窓から外に出したとたん、上から飛びこんできた何者かの手で口を塞がれ、かと思うと叫ぶ間もなく部屋に引きずりこまれた。背後に回られ右手の関節を極められ、顔を見ることも出来ない。口を覆う男の手の甲で見えないが、首筋に冷たい切っ先が触れているのがわかる。

 

「声を――出さないで下さい」

 

 あの時、なぜか自分の名を呼んだあの男の声。

 なんたる不覚。気配一つ感じることが出来ないなんて――。

 

「ひっ――」

 

 思わずして、軽い悲鳴をあげる。恐怖に体が震える。いくつもの霊障との命がけの戦いでも感じたことのない、それは、己の貞操への危機。涙を流さなかったのは、犯人へ屈することに、彼女の誇りがわずかに打ち勝ったためだろう。

 抵抗するにしても、刃物で頚動脈を抑えられているため迂闊なことは出来ない。

 これから起こりえることを想像して、冷や汗が流れる。

 後ろの男が、ゆっくりと語りだした。

 

「驚かしてすいません。騒がれたくは無かったんです。俺は、あなたに危害を加えるつもりはありません」

 

 おとなしくしていればだろう、と薫は心の中で罵倒する。首の刃を無効化できるかどうかは、分の悪いかけだったが――相手が口から手をどかしたその瞬間に、叫ぶことも覚悟する。

 

「今から口を開放しますが、あなたが叫び声を挙げたとしても、武器を手に取ったとしても俺は何もしないで立ち去ります。でもその前に、お願いですから俺の話を聞いてもらえませんか?」

 

 予想外の答えに薫は驚いた。思わず肩越しに後の男の顔を見ようと眼球を動かすが、僅かに体の一部が見えるだけだった。

「承諾していただけるのなら、一度頷いてください。NOなら横に。その場合でも俺はなにもしませんから、正直にお願いします」

 虚偽を語るような口ぶりには聞こえなかったが、それには何の保証もない。だから、この場しのぎにとりあえず頷いてしまうのも一先ずは手だ……。

 しばらく薫は考えて――顔を縦に動かした。

 油断させるためではなく、とりあえずこの男が、単なる変質者ではないらしいと判断して。

 彼は、小さく「ありがとうございます」と呟き、約束通り口から手を、喉の獲物をどけた。それを確認すると同時に、立てかけてあった木刀に飛びつき、振りかえって構えを取る。

 そこにいたのは、予想通り昼間のあの青年だった。注意深く相手の持つ凶器を確認し――愕然した。手に握られているのはただの紙切れだった。スーパーのチラシを折ってナイフの形を模したもの。カードのような形状ならともかく、折ってその形を造った為に厚みが増し、当然ながら殺傷能力はない。

 それは、その青年が初めから薫を傷つけるつもりのない何よりの証明だろう。それに気付き、先ほどより多少警戒を解き(あくまで多少だったが)、向き直る。

「それで、うちに何の用じゃ?」

 

「……その前に、一つ聞きたいことがあります」

 

 青年は真剣な表情だった。その気配は、厳格な薫の父を思わせる独特な雰囲気で、彼女はそれに引き込まれるような錯覚を受ける。

 

「……?」

 

 薫は無言で待った。そして、青年が言葉を発する。

 

「……今は、西暦何年ですか?」

 

 やはり、単なる変質者だったのかもしれない、と薫は思った。

 

 

 恭也は、自分の知る限りを薫に伝えた。

 

「じゃあ、なんね?君は未来からやってきたと、そう言うとると?」

「おそらく……。俺の気が狂っているので無ければ、そう言う事になります」

 

 いつしか、お互い座布団の上に座り正座をしていた。恭也を完全に信用したわけではなかったが、薫は彼を悪人とは思えなかったからである。

 なおかつ、あながち嘘とも思えないことを彼は語る。

 彼の話は、確かに狂人地味ていたが、嘘とは思えない真実味がある。那美のこと、久遠のこと、今の寮生達にすら伝えていないことを恭也は知っている。

 

「しかし……仮にそうだとして、いったいなんでうちに?」

「……これです」

 

 恭也は、腰につけた巾着を見せた。

 

「これは……家の蔵にあった……」

「ええ、あなたからもらったものです。俺がここで目覚めたとき、この石が光っていました。もし原因がこの石なら、元の持ち主のあなたなら何とかできるのでは、と思ったんです」

「でも、それならおかしい。うちは今こうして君と会っている。なのに、未来のうちは君の事を知っとるそぶりは見せなんだのじゃろ?」

「はい……演技している様子はありませんでした」

 

 恭也が俯く。しばらく薫は目を閉じて考えて――

 

「……曽祖父様(ひいじいさま)から聞いたことがある。今はもう失われた、神道とも魔術とも陰陽道かもわからないが、古の禁術に時を越える秘術があると。だが、それを使っても決して過去は変えられないとも聞いとる。もしそれと同じ原理で石の力が働いているとすれば――

 曽祖父様からその理由を教えてもらった時はうちも小さくて理解できんかったが、今ならわかる。もし曽祖父様の仮説が正しければ――多分、君は本当に未来から来たんじゃろ」

「仮説、ですか?」

「ああ。この後、君がどうなるかはわからんが――時を越える術は、対象者と会った人々の記憶を消す力があって、初めて成り立つと言っていた。おそらく、君が元の世界に戻った後、うちは今の記憶を失う……らしい。つまり、うちは君とは会わなかったこととなって歴史は動く」

「意味が……よくわかりませんが」

「うちは今、過去は変えられないと言ったが――厳密には、君が今ここにいる、ということですでに過去が変わったといえる。でも、うちにとってはこれから起こることが未来であって、それがどのような結果になろうとも過去が変わったことにはならん。君にとっての過去が変化したとしても、その変化を誰にも立証できないのなら歴史に狂いは生じん。

 たとえば――うちがハート、クラブ、スペード、ダイヤのトランプのAのうち、1枚を選ぶとする。ウチは『ハート』を選んだが、もし、そのことを知らない君が過去に行き、ウチの代わりにカードを選んでウチに渡したら、それは必ずハートになるはずじゃ。そして、その後ウチが君と会ったことを忘れれば――ほら、過去が変わらんことと同じになるじゃろ」

「もし、俺がカードのことを知っていて、違うカード……『スペード』を渡したとしたら?」

「ありえんよ。君は結果が知らなかったからこそ『ハート』というカードを選びウチに渡したのであって、もし結果を知って別のカードを渡したのなら、『君』か『世界』かどちらかが消滅しとる。

 つまり、君がカードを渡す前に、君はこの世界から消えて元の――うちにとっては未来の世界に戻るか、『ウチがハートを手にした世界』が消えて、『スペードを手にした世界』が継続されるか。

 そしてその場合でも、『ウチがハートを手にした』ということを知る君は消滅し、初めからウチがスペードを手にしていたことが真実になる。ほら、だれも本当は『ハートを手にしていた』という事を証明できないのだから、過去は変わっておらんのと同じじゃ」

 

 そこで一息つき、薫はちらり、と窓の外に目を向けて、

 

「そうじゃな……他の例をあげれば、君が現れたせいで、今、耕介さんと十六夜が見回りをしとるが――君が現れなかったとしても、結局別の理由で二人は同じ行動をとったいた、ということじゃろう。

 有名な親殺しのパラドックスを起こそうとしても、それは矛盾が生じたようで――なんにもならん。なにしろ、死んだという事象が残って、歴史が再構成される。

 その世界では、仮に殺される人が乙さんとして、『見知らぬどこかの誰かによって乙さんは殺された』という事象だけが残り、事象が続くわけじゃ。そして、今の乙さんの子供は消える……わけだが、そもそも、息子がいたなんてことを知っている人物はどこにもいない。ほら、『世界』に、どこにも矛盾はなくなった。比較することによって生まれる矛盾じゃ。比較すべき『歴史』が消えてるのであれば、もう、その矛盾を残しようがない。逆に、死ぬべき人を助けても同じ。その人が助かったと言う事実だけが残って世界が動く。その新しい世界に、乙さんの息子はいるかもしれんが、今存在する乙さんの息子とは全く別の記憶を持った存在で、連続性はない……」

「つまり、その息子が俺と仮定するなら……俺の知る世界、そして今の『俺』というアイデンティティーが消える訳ですか……」

「あくまで、その推論が正しければ、だけんども」

 

 少しは、理解できた。恭也は、もともとこういう複雑な話は苦手だが――大学の授業で興味を引いた話が、なんとなく思い出された。

 生きているか死んでいるかわからない、箱の中の猫。空けて確認をしない限り、その中の猫は生きているのと死んでいるのと中間の状態だと言う、思考実験の寓話。

 その猫のような曖昧さで、今いる世界は存在しているということだろうか。

 

「あ――」

 

 恭也がふいに声を挙げる。

 

「すみません、今は、何月何日ですか?」

 

 薫は、ええと……と腕時計を見て、その月日を告げる。

 

「そんな!……それじゃあ……そうか……それでこの石は……」

 

 呆然と、虚ろに呟く恭也に、薫は首をかしげた。

 

「いったい、どうしたね」

 

 恭也は、震える拳を握り締めた。

 

「今日、この日は……俺が『会いたいと望んだ人』――父さんの命日の、二週間前にあたる日だ」

 

 

 青年の声は、静かだった。

 




確かタイムリープの影響を受けてた気がする


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第五章 「剣士の想いは、刃で語れ」①

Chapter5 『The blade kisses their souls.』


         ◇

 夕暮れに染まる海鳴の街は、そこにある全ての存在の影を長くして、その美しさを誇示していた。

 青年は、その光景に夢のようなまどろみを感じながら、同時にこれは全て夢なのではないだろうか、とアスファルトに靴音を鳴らしながら思っていた。

 確かに全てのものがリアルで、自分の感覚も普段と何も変わらない。だが、それすらも夢の中の自分だからこそ、そう思うのであり、目覚めてしまえばなんてことの無いことかもしれない。

 だが、それを確認するすべは、その夢が覚めない限りは不可能だ。

 そして、もしこれが全て現実だとすれば――

 

「父さん……」

 

 腰につけた巾着を握る。

 うっすらと光っているであろうそれも、赤い太陽に晒されて、その光は見えなかった。

 

 

『君が言ったように、君のお父さんと会わせるためにその石が力を使っているのだとしたら――もとの世界に戻る方法は二つ。今の君をこの世界に繋ぎ止めている石の力が尽きるのをまつか、石の目的である父君と君が会うか。

 たださっきも言うたとおり、この事象が終わるときは、次の2パターンであることは覚えておいてほしい。①過去を改変せず石の力が尽きて何事もなく元の世界に戻る、②過去を変え世界が再構成されることで『今の君がなかったことになる』、そのどちらかじゃ。

 ……すまんが、正直なところウチもはっきりとはいえん。曽祖父様に聞いたことからの推測にしかすぎんから』

 

 

 薫はそう言っていた。

 今、自分が歩いているこの世界。もし、これが本当に過去の世界なら――恭也の進むべき場所は一つだった。

 商店街から住宅街へ繋がる坂道を登る疲労感は、その一歩一歩が時を遡る重さを彼に与えているようだった。

 そして、それは見えてくる。

 

「俺の……家」

 

 大きな木造の建物と、広い庭。塀の向こうに道場が見える。薄らいだ記憶を思い出せば、この日は身重の桃子が二三日病院で検査を受け、それに合わせて、この時代の自分は知り合いの合気道の師範に、泊り込みで指導を受けていたはずである。確か美由希は――自分について来ていた。だから、家にいるのは――士郎だけのはずだ。

 この門をくぐれば、父はいるのだろうか。

 期待と共に、不安も増大する。恭也は戸惑い、門の前でただじっとそれを見つめていた。

 

「なあ、君」

 

 真後ろから、声がかけられる。

 

 気配は感じなかった。恭也は――声を聞いた瞬間、死角を取られているにもかかわらず動けなかった。

 体が鉛のように重い。回そうとする首が、錆付いた歯車のようにぎしぎしと鳴った。

 なぜなら――

 

「俺ん家に、何か用かい」

 

 振り向いた先にいた人物――その声の主は、間違い無く恭也の父、士郎のものだった。

 

 声が、でなかった。

 頭が何もかも真っ白になった。

 恭也はこらえようとしたが、涙が一筋だけ流れ、それ以上を許さないために唇を噛んだ。

 その胸に飛び込みたかった。全てを語りたかった。でも、今何かをしようとすれば、きっと涙が止まらなくなる。だから――

 

「お、おい。どうした!」

 

 恭也は父に背を向けて、全力でその場から駆け出した。

 

 

 

 

         ◇

 

(俺は、いったい何をしている……)

 

 数百メートル走ったところで、今ではもう無くなってしまったはずの無人駐車場に入り、止まらない涙を拭う事も無く呼吸を整えていた。

 頭の混乱が、少しづつでがあるがおさまっていく。

 士郎の声、顔、雰囲気。全てが恭也の思い出に残されたものと同じだった。

 間違い無く、士郎はこの『時』を生きていた。

 

「じゃあ、あの悪夢を、変えられるのか?」

 

 家族全員が悲しみにくれる事となる士郎の死。

 一週間後には、最後の仕事となる、父の親友アルバートの護衛に旅立つ士郎。護衛を止めろという説得は不可能でも、病院にいるであろう身重の桃子や、子供の自分や美由希をさらって脅迫すれば、士郎どころかあのやさしいアルバートが予定を変更するかもしれない。そうなれば、フィアッセが狙われることも無くなり、全員が無事に済む可能性が生まれる。

 

「そうだ、そうすれば父さんの死ななかったその世界が継続される!……されて――されて、俺と、俺のいた世界が消える?」

 

 薫の言った推測が正しければ――そういうことになる。

 そうなれば確かに、士郎のいる未来が生まれるのだろう。だが同時に、士郎がいないことで生まれた出会い、感情、思い出を全て失うことになる。

 

「美由希……」

 

 愛しい人の名前。

 一年前までは、想像だにしなかった想い。

 いなくなった父の変わりになろうと、それこそ自分の全てを注いで、だからこそ生まれたこの感情。そして、彼女を見つめてきたのが恭也自身だったからこそ、美由希はその思いに答えてくれたのだと、彼は思う。

 言葉でそれを確かめ合い、数えることを止めてしまうくらい肌を重ねてきた。何があっても、守ろうとしていた存在。

 それが――無くなる。

 

「……できない……できない、できない!それが俺の我侭なんだとしても、そんなことはできない!」

 

 彼女が死ぬわけではない。ただ、今の関係が失われ――無かったことになる。

 彼女も自分も別の誰かを好きになっているかもしれないし、そうだとしても、それはそれで幸せを感じているだろう。

 その世界の恭也も、それを不思議がることなく当然のように受け入れているのだろう。

 

「でも……俺はもう知ってしまった。美由希が俺だけにくれる言葉も、あいつの唇の柔らかさも、肌の暖かさも!」

 

 ガッ、とはっきりとした音が聞こえるほどに、拳をブロック壁に叩きつける。 

 

「どんなに罵倒され、さげすまれたって、俺はあいつと居たいと願ったんだ……」

 

 

 ガッ!

 

「何で悩むんだよ、俺は……父さんを見捨てることになるのに……。あんなにも、何もできなかった自分を罵ったっていうのに!」

 

 拳は、血に塗れていた。その痛みが、これがあくまでも現実だという証のようで、どうしようもなくやるせなかった。

 

「どうしたらいい……。俺は、どうすれば……いいんだ……」

 

 力が抜けて、崩れるようにひざまずき、壁に爪を立てる。

 

「誰でもいい…何でもいいから……俺を助けてくれ……」

 

 恭也は、生まれて始めて、見えない何かにすがって嗚咽を漏らした。

 

 

 

 

         ◇

 

 朝は、ただの夢かも知れないこの世界にもやってきた。

 結局、恭也はその無人駐車場の軒先で一夜を過ごし、太陽が昇る前の暗いうちに目を覚ました。

 涙の後は薄く塩が付いていたが、負傷したはずの手は、思いのほか早くその傷跡を消しかかっていた。軽い空腹感は合ったが、一日飲まず食わずにいた割には感じなかった。本来あるべき排便の気配も、たいしたことはない。

 まあ、霊玉にこんな非常識なことを起こす力があるんだから、そのぐらいは大した事ではないのだろうと、なんとなく納得する。

 工事用に付けたと思われる水道で顔を洗い、タオルが無いので獣のように顔を振って水気を取る。

 濡れた皮膚にあたる空気が、冷たくて気持ちがよかった。

 

「よし……行くか」

 

 恭也は、その眼差しを高町家の方向に向ける。

 彼の決意は、哀しくも固かった。

 

 

         ◇

 高町家に着く。まだ薄暗い早朝のためか、ここに来るまで誰一人としてすれ違うことが無かった。時刻は、自分の経験から、四時を少し回った頃だろうと判断する。

 人の気配の薄いこの時間にも、士郎はいつも通り庭か道場で剣の鍛錬をしているだろう。

 

「あれ……」

 

 恭也は、ふと自分の家の前でうろつく三十歳前後の女性の姿を見つける。ウェーブのかかった黒髪と、少し釣りあがった目が印象的だった。

 その女性は、少しだけ奇抜なファッションをしていたが、元々そのようなことを気にしない恭也は、ただ彼女の行動だけを奇異の目で見た。

 門の前で何かを考えるように行ったり来たりしながらも、中の様子が気になるらしく背伸びをして壁の中を覗こうとしていた。

 

「あの……どうしました?」

「!……あ、えーと……ここのうちの人?」

 

 その人物は、不意の声に一瞬体を震わせた。

 思わず声をかけたのはいいが、青年はそう返されて返答に困る。まさか、ここに住んでいる人物の未来の姿です、と言うわけにもいかないだろう。

 

「あ……いや、違いますが、俺もこの家の人に会いに来たので」

「そう……ごめんなさい。あたしはなんでもないの。ただちょっと、この家の木々が綺麗だな、と思って――」

 

 そう言うと――彼女はきびすを返して走っていった。

 恭也はその姿を呆然と見送り、

 

「誰だろう……見たこと無い人なのに、なぜか懐かしい気がする……」

 

 不思議な感覚に、少し戸惑っていた。

 だが、今はやるべきことがある。そう言うことを気にしている暇は無かった。

 恭也は、大きく深呼吸をして、呼び鈴を押した。

 

 

 

 

         ◇

「で、俺に何の用かな」

 

 案内されたリビングで――といっても案内される必要は何も無かったのだが――その男、士郎は恭也の正面に座った。

 あれだけ心の準備をしたにもかかわらず涙を流しそうになるが、彼はなんとかそれを押しやる事に成功し、昨日の決意を告げる。それは、少し震えた声だった。だが、その意思は確かに士郎に届いた。

 

「いいだろう……君が何者かは知らんが、生半可な思いではなさそうだ」

 

 士郎は頷いた。そして、立ちあがる。恭也が昨日、苦悩の末に選んだ結論に答えるために。

 それは――

 

「君の挑戦を受けよう」

 

 生涯最後となる、父との仕合。それを、別れの儀とする事だった。

 

 

 




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    「剣士の想いは、刃で語れ」②

 

         ◇

 明けたばかりの空は、雀の声ですらまばらだった。今日一日の天気を保証するような太陽の日差しは、玄関から出てきた彼等の肌を突き刺すように照らしていた。

 庭の道場へ案内をする士郎の背中を追いながら、恭也は昨夜の決意を噛み締める。

 自分はこの選択をしたことで、父を見捨てた事に一生後悔の念に囚われるかもしれない。だが、違う世界と自分が生まれ、彼女を失ったことを、後悔すらできずにいるよりは――。

 道場に着く。

 そこで、一本の木刀を渡された。だが、恭也は首を振って、真剣での戦いを望むことを告げ、小太刀を二振り貸して欲しいと頼んだ。

 士郎は驚いていたが、にやりと笑い一度部屋に取りに戻る。帰ってきた時には、四振りの小太刀が握られていた。恭也の分と、自分の分である。

 

「どこで俺が二刀流だという事を知ったのか知らんが、それに合わせて戦う気か?自分の刀も持たずに剣士に剣で挑戦するとは……」

「……刀は、あります。だが、どうしてもそれをここに持ってくることがかなわなかった。ずうずうしいのを承知でお借りしますが……刀は、俺の一部です。そして、俺の流派も元から二刀流」

 

 刀を受け取り、脇に二本刺しをする。今ではもう絶滅してしまったと言っていい、侍のスタイル。

 

「ほう……抜刀の型も俺と同じか」

 

 恭也は無言で頷いた。

 

(そうです。俺はあなたの背を見て育ち、いつか肩を並べて戦うことを夢見ていた)

 

 すらぁ、と滑らかに抜刀する。今までに、何千、何万と繰り返してきた動作。

 それに合わせるように、士郎も抜く。

 刀を手にした時点で勝負は始まっている。だがお互い、もう少しだけ会話を楽しむことにする。

 

「そう言えば、まだ君の名も流派も聞いていなかったな」

「名は……明かせません。ですが流派は、あなたがよく知るものです」

 

 お互いに構える。同じ構え。

 

「……」

 

 士郎は、何も喋らなかった。驚きはあったのだろうが――この名も知らない剣士への興味が勝っていた。自分への殺意は無いが、青年の殺気は本物であると判断して――

 

「なら……俺ぐらいは語ろう。この勝負、御神流、高町……いや、『不破』士郎としてお受けする」

 

 士郎の目が、恭也が一度も見たことが無いほど鋭く、冷徹なものへと変わった。

 

 轟!

 

 風が、士郎の横を垂直に通り過ぎた。

 動いたのは、恭也が先だった。

 手加減一つ無い、恭也の正眼からの切りを、士郎は軽いステップで交わしていた。残った手が士郎の左脇腹に向かって繰り出されるが、士郎は「応!」と爆発するような勢いで息を吐き、刃で受け止める。

 しばらくギリギリと力比べが始まるが、士郎は恭也の下半身に蹴りを繰り出し、それを避けようとした彼のバックステップを利用して、自身も後ろに飛んで間合いを取った。

 

(……やはり、見よう見真似の二刀流ではない。だがなぜだ。あの動きは、御神流のそれとほとんど変わらん)

 

 士郎の驚きは、恭也にもわかった。

 

「はあああああぁぁぁぁ!」

「おおおおお!」

 

 再び距離が縮まり、高速の剣劇幕。

 刃の打ち合う音は、ガツンと言うような一撃の重い音ではなく、チチチチチ、という連続音。

 

「か!」

 

 そのさなかで恭也が繰り出したそれは――

 

(なに!)

 

『貫』

 

 微弱な筋肉の動きから、眼球の移動、呼吸の方法など、相手が自分に対して注意している全てを利用したフェイント。

 コンマレベルでの戦いにおいて行われる先読みを、全て裏切る形で出されるそれは、相手からすればまるで防御を全てすり抜けるように思わせる攻撃である。

 御神の――技だ。

 完全に不意をつかれ、無防備の士郎の胸目掛けて、恭也の刀が勢いを増す。ここから交わすことは不可能と、士郎は己の経験から悟った。

 士郎の視界が、瞬時に淡く白黒フィルムのように切り替わる。

 神速の領域である。

 左足を軸に、体を半回転させ、コマ送りのように動いている青年の刀をやり過ごし、そのまま背後に回ろうとした。

 

「――!」

 

 キチィン!

 

 刃が交差し、火花が散った。

 互いにバランスを崩し、距離が開く。

 

「…………」

 

 士郎の体に冷や汗が流れる。

 それは、相手の力を誤算した恐怖心からではない。ありえないことに直面した、驚愕からだった。

 青年が、口を開く。

 

「全力できてください。……あなたほどではないですが、俺も神速を使えます」

「な、に?」

 

 いいながら、自分の感覚に間違いが無かったことを、士郎は確信した。

 神速の領域についてくるだけならば、世界のどこかには御神と同じか別の方法で同様の効果をもたらす奥義があることは、ゼロではない。だが、青年は『神速』と御神流固有の名を出した。そして、先ほどからの彼の技一つ一つが、あることを決定づけている。

 

「御神流の使い手が、俺の知らないところにいるとはな……」

「……行きます」

 

 恭也は答えず、ただそれだけを口にした。

 彼は突進しながら、片方の腕を大きく後に開く。

 士郎は、それを迎え撃つ。青年の出そうとしている技は、看破できていた。士郎の妹の、もっとも得意とする技。

 

「りゃああああ!」

 

 御神流、裏・奥義の参、『射抜』

 『貫』の最終形であり、御神流の中で最大の射程と速度を誇る刺突技。

 それに迎え撃つは――

 

「はあぁぁぁぁ」

 

 御神流・奥義の弐、『虎乱』

 虎の牙のような鋭さで、二刀が交差する十文字切り。

 

 ヂイン!

 

 音がはぜた。

 剣圧に負けた恭也の体が、車に跳ねられたように吹き飛ばされ、木造の道場の扉にぶち当たる。その威力に耐えられなかった扉ごと、恭也は庭に転がり出た。

 だが、剣はまだ二振りとも手の中にある。御神流の勝負は、これだけでは終わらない。

 日光の下、恭也の刀がその光を反射して、彼の血液の沸騰を促す。体が、熱く燃える。

 士郎が、外からだとずいぶん暗く感じる道場の中から現れた。

 恭也の体は、まだ体制が崩れたままだった。それを正している間には、士郎の間合いに入られる。青年は小太刀の切っ先を地面に滑らせ、それにより跳ね上がった土が、士郎の顔に向かって飛んだ。

 士郎がその目潰しを避けるわずかの間に、恭也は構えなおす。

 互いに、自分の間合いから数歩離れた距離を保ち、二人は動きを止めた。

 

 恭也は、すぅっと深呼吸をして、気を引き締める。

 

「次に……俺の全ての力を込めます」

 

 士郎は、唇をきつく結んだまま、頷いた。

 

 士郎と恭也が動いた。

 お互いに、まだ神速には入らない。剣の間合いに入るのと同時に、二人とも神速に移る。さらに――

 

(――ここだ!)

 

 見切ったのではなく、単なるカンだと言っていいタイミングで、恭也はその神速の深度を増す。

 

 神速の二重がけ――

 

 肉体の速度は変わらずとも、空間を見切る感覚が圧倒的に強くなり、士郎の動きがさらに遅く感じられる。

 踏み込む。圧倒的な衝撃が、古傷の膝にかかった。その痛みをこらえて――

 

「うおぉぉぉぉぉぉぉ!」

 

 御神流・奥義之六、『薙旋』 

 

 父、士郎がもっとも得意とし、それゆえ恭也もまた己の切り札とした抜刀術。

 それに士郎が答えた技も、当然のように――

 

「おあぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 二つの同じ奥義の衝撃が、爆発音のように、新緑の風薫る庭先に響き渡った。

 

 

 

         ◇

「気がついたか?」

 

 恭也が目を覚ますと、おそらく士郎が運び込んだのだろう、道場の冷たい床の上で寝転がっていることに気付いた。

 

「俺は……負けたんですね」

 

 悔いは無かった。そもそも、勝ち負けはどうでもよかったのだ。ただ、言葉では伝えられない思いを、一人の剣士として刃で語りたかったのだから。

 

「ま、怪我はしてないよ。地面に叩きつけられたショックで気絶してただけだから。真剣でやったっていうのに打ち身だけで切り傷一つなかったしな」

 

 にやり、と士郎は笑う。手には――なぜだか日本酒のビンが握られている。あぐらをかいて座っていて、横にはコップが二つ。

 

「酒ぐらい呑めるだろう?挑戦を受けてやった礼に、付き合え」

「はぁ……」

 

 上半身を起こして、コップを受け取る。なんだかよくはわからないが、父と酒を酌み交わすことは初めてだ、と思うと妙に緊張した。

 注がれた透明な液体をあおり、一気に飲み干す。あまり強くないが、少しだけ辛い酒だった。だが、下戸である恭也にとっても、悪い味ではなかった。

 

「良い呑みっぷりだ。じゃあ、俺も……」

 

 士郎も、同じように酒を注ぐ。

 そうしてしばらく静かな空間を楽しむ。

 

「それで……君はいったい誰から御神流を?」

「名前は言えませんが……尊敬する男から」

「ふむ……一臣か?いや、あいつはあのとき、まだ弟子は取っていなかったはず……まあ、誰でもいいか」 

 

 恭也の答えに、しばらく黙考していた士郎だが、感慨なさげに思考を止める。

 

「詳しくは聞かんが……君は、不破だな」

「……?」

「違うのか?君の剣を受けて思ったが、御神のようだが本質は不破よりだ。それも、おそらく天性の、な」

「確かに……とう……いや、俺の師は不破でしたが、御神の一派という以外に何かあるのですか?」

「聞いていないのか。……まあ、俺も息子に教える気は無かったから、君の師もそうなのかもしれんが……。歴史の裏にある御神流、その中でもさらに裏の仕事に不破があった事は、君も知っているだろう?」

 

 頷く。

 

 要人の警護や、暗殺が御神の主な仕事だったが、不破は組織の末端までの殲滅など、より血生臭い任務をしてきた一族だ。

 

「御神の技は虎乱、鳴神、薙旋などの『切る』技が多いが、不破は裏の奥義『射抜』などに代表される刺突技が多い。つまりな、殺人『剣術』としては御神流が本家だが、純粋な『殺し』にかけては不破は御神の上をいくんだ。君の薙旋は、確かに御神の技だが、その質は不破に寄っていた……俺と同じようにな」

「そういえば……あなたは、はじめ『不破士郎』として勝負を受ける、と言いましたが」

「なに、つまらんことさ。俺は、ボディガードを仕事としている。それは、言ってみれば御神の仕事だ。結婚して不破から高町に名を変えたのは、二つ理由があるのだが、その一つが、俺の子供達に不破の――人殺しだけの生き方をしてもらいたくなかったからだ。

 だが、君との勝負は俺個人の物だ。剣士として君の本気に向き合うのなら、俺も殺しの剣士として本気の俺に戻るべきだと、そう思ったのさ」

 

 空になった恭也と自分のコップに、再び酒を注ぐ。

 

「ま、そんなこといっても、俺の息子は結局不破よりの性質を持っていたがね。血は争えんらしい」

「美沙斗さんの娘……美由希……さんは?」

 

 恭也にそう言われて、今日は一生分驚かされる、と士郎は言った。

 

「……まあ、君には隠しても無駄なようだな。……あの子は御神だよ。血としても、剣士の質としても、な。しかも、飛びっきりの才能を秘めている。まったく恭也も美由希も……俺達の子供達は、本当に才能に恵まれている。俺が、嫉妬するほどのな」

「嫉妬……ですか?」

 

 恭也は心底驚いていた。正直、御神の天才児と言われた士郎が、そういう感情を持つとは到底思えなかったからだ。それも自分に対して、である。

 

「ああ。恭也は教えたことを、まるであらかじめ知っていたかのようなスピードで覚えていく。完全に自分のものにするためには、反復の鍛錬が必要かもしれないが……そうだな、恭也の脅威は、基礎さえ教えればどんな応用的なことでも独学できてしまう、ということだ。俺は、たくさんの師に囲まれて、技の一つ一つを体に染み込ませるしかなかったってのに。

 美由希にはまだ剣術を教えていないが、あの子は俺と恭也の打ち合いを見て――いわゆる見取り稽古で剣の型を学んでいた。あの子には、技の本質を見て取る能力が、飛躍的に高い。おそらく、師が優秀であればあるほど、強くなるタイプだよ。それも、その師匠以上にな」

 

 事実、この八年後には美由希は士郎さえも会得できなかった『閃』を、会得しかかっていた。その美由希を、父から「師が優秀だから」といわれて、恭也は深く感動する。

 

「だからだろうな。恭也が強くなっていくたびに、俺がどこまで守ってやれる立場でいるのかと、不安になるのは。自分の弟子であり、子供だからな。あいつの成長が楽しみだが、同時に少し寂しくなる。

 

 まったく、男ってのはどうしようもない。どんな言葉で繕ったって、大切なものほど自分の力で守りたくなるんだから」

 

 はっ、と――。

 恭也は驚いたようにその顔を上げた。

 父の言葉が、胸に痛かった。

 そして――ようやく、見つづけていた悪夢と、不意に襲う不安感の意味がわかった気がしたからだ。

 自分は……美由希が強くなるたび、寂しさ嫉妬とがあったのだろう。だが、自分はその事実を受け入れまいと、無意識に思っていたのだ。そしてそれが、父を救えなかった罪悪感と絡まりあのような夢を見ていたのだろう。

 だが今は、父も同じ思いを持っていたことを知り、素直にその事実を受け入れられた。

 吹っ切れたように、恭也は笑顔を父に向ける。

 それは、この世界で士郎に向けた、初めての笑みだった。

 

 

 

         ◇

 しばらくちびりちびりと酒を交わして――

 

「士郎さん……俺、そろそろ行きます」

「そうか……機会があれば、また会えると良いが。息子達にも君との仕合を見せてやりたい」

「そうですね……機会があれば」

 

 永久にそれはかなわない事。でも、そう願うことぐらいは許されるだろう。

 

「君は、強かったよ。君の膝の怪我がなければどうなっていたか……恭也の奴も、君ぐらいになれば嬉しいが」

「……大丈夫ですよ。息子さんは、あなたを尊敬しています。あなたの背を追って、あなたのようになれることを目指して」

 

 すうっと。

 恭也は、己の覚悟を、言葉に乗せて。

 

「どんな時でも強く……成れるかはわかりませんが、少なくともそう決意をして、家族のために生きていきますから」

 

 生前の父には照れくさくて言えなかった正直な思いを、今、ぶつける。

 士郎は、少し不思議そうな顔をした後、

 

「ふふ……そうだと良いが」

 

 微笑んだ。

 

 恭也は道場を出て門に向かうと、見送りはいりません、と士郎に言った。

 だが、彼に背を向けた途中で、ふと思い出したように、振りかえって、

 

「そういえば……結婚した時に名前を変えたのは二つ理由があるって言ってましたけど……もう一つは何か、聞いてもいいですか?」

 

 そこまで重要なことではないが、ここで聞けなかったら、二度と真実はわからないであろう質問をする。

 士郎は、少しばつの悪そうに頬をかいて、

 

「そのことか。夏織……ああ、昔の恋人で恭也の実の母なんだが、そいつが俺に恭也を預けて消えた時、『もし結婚するようなことがあれば、婿養子になって苗字を変えろ』と言ってやがったのさ。俺にもよくはわからないし、従う義理は無いんだが……まあ、さっきのもう一つの理由もあったしな」

「……そう、ですか」

 

 母のことは――生前の士郎から少しだけ聞いていたが、そう言えば、名前も知らなかったことに気付く。

 だが、恭也にとって母は桃子だった。

 だから、実の母を恨むとか、会いたいと思うことは、その話を聞いた今でもとくには思わなかった。

 

 

「では……失礼しました」

「ああ、気をつけて」

 

 結局門まで付き添われ、最後の――本当に最後となる言葉を交わす。

 下りの坂道に向かって、恭也は歩き出した。後で、ばたんと扉の閉まる音が聞こえる。

 

「さよなら……父さん」

 

 振りかえらずに呟いた彼の言葉は、暖かい日向の匂いのする空気に優しく溶けた。

 アスファルトに落ちた涙が、まるで幻だったように、すっ……と乾いていった。

 

 



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第六章 「踊る、罪人達」

Capter6 『Cconcerto for fools.』



         ◇

         

 いつ崩れてもおかしくないような廃ビルで、美沙斗は瞑想をしていた。

 深く意識を広げていた空気に動きを感じ、彼女は剣に手を伸ばし、油断なく構える。

 

「よう、元気か?」

 

 現れたのは、兄の士郎だった。

 

「兄さん……お酒飲んでませんか?」

「ああ、ちょっと気が合った奴と一杯ね。別に、酔うような呑み方はしてないよ」

「それは、信頼していますが」

 

 士郎は持っていたビニール袋を彼女に渡す。中には途中のコンビニで買った、食料が入っている。

 

「なあ……ここに来るたびに言うが、止める気は無いのか?」

「たとえ、兄さんの頼みでも、それだけは」

 

 士郎はため息をつく。

 だが、それはあきらめや気だるさゆえのものではない。自分にも彼女の気持ちが理解出きるからこその、やるせなさだった。

 

「それに……やっと手がかりをくれる組織と繋がることが出来たんです。そこもかなりの非合法集団ですが、今回の依頼を達成すれば、正式なメンバーとして向かい入れてくれると約束してもらいました」

 

 そうか、と士郎は興味無さげにそれだけ言うと、座った。病院へ桃子を迎えに行くにはまだ時間に余裕がある。しばらく、彼女と近況の報告でもしよう。

 先ほどの青年のことを伝えようと思ったが、「なんで名前くらい聞かなかったのか」と怒られそうなので、黙っておくことにする。

 俺の人生、つくづく女には逆らえないらしい、と心の中で苦笑した。

 

 

 

         ◇

 

 あたしは、昔の夢を見ていた。

 まだ自分が「龍」と言われる組織に組していた時の、一時の思い出の夢だった。

 物心つく頃に蒸発した両親に代わってあたしを育てた親戚は、お世辞にも『善人』とは言えない人達だった。

 毎日のように続く折檻に嫌になったというより、命の危険を感じて逃げ出したのは、そこで暮らしてからそう長い時じゃなかった。

 当ても無く、自分の生まれた香港の町を歩いていた時、転機は訪れた。

 『龍』という組織の一員だったある男に拾われ、あたしは特殊情報調査員になるべくと、ありとあらゆる訓練を受けることになる。

 訓練はきつく、辛いものではあったけど、命に関わる折檻はなかったし、暖かい食事も出された。優秀な成績を残せば、誉められることもあった。

 少なくても、あの理不尽な家庭や硬い道路よりは、温かかった。

 十数年も過ぎると、スパイの腕を見こまれ周りから一目置かれる存在となれた。

 ある日、二ヶ月ほどの休暇を申請し、もとから組織に貢献の厚かったあたしはそれを許可される。一度仕事で来た時に気に入った日本で、あたしはその余暇を楽しもうとしていた。

 

 そして、あたしは――彼に出会った。

 

 

 

         ◇

 

 恭也は、悩んでいた。

 腰に下げた巾着は、まだ光を失ってはいなかった。

 もう、すべきことは無いはずである。だが、未だに彼はこの世界を徒歩していた。

 なにか、条件みたいなものでもあるんだろうかと思い首をひねるが、薫にもわからなかったことを自分がわかるはずも無い。

 少し途方にくれるが、仕方なく彼は、昔の海鳴の町を楽しむことにした。

 

「あれ……」

 

 恭也の時代にも残っている公園。まだ六時を過ぎたばかりのその場所は、まるで人の気配が無かった。

 だが大きな木の下にあるベンチに、高町家の前で見かけたあの女性が、ぽつんと……一人座って眠っていた。

 恭也は、その女性に近づくと、起こさないようそっと横に座った。

 特に用があったわけではない。

 ただ、なんとなく誰かと話したい気分だったのだ。

 そして、どうせ話すのなら――些細なこととはいえ、縁があった人がいい。

 その程度の理由だ。

 だが、正直な気持ちを言えば――とある「予感」があったのかもしれない、と、恭也はあとからそんな風に思うことになる。

 ただ、今、彼女を起こすことは、なんだかとんでもなく悪いような気がして、彼女が自分から起きるのをただじっと待つことにした。

 風が、少しだけ寒くなっていた。

 

 

 

         ◇

 おそらく、それは一生の不覚だったに違いない。

 仕事で、自分の体を武器に情報を集めることは茶飯事だったし、良い男を見つけて遊ぶことも、いつものことではあった。

 だから、その士郎と言う男に興味を持って、抱かれたのはそれほど不思議なことではなかった。

 ただ、いつもと違ったのは――本当に士郎を好きになってしまったことだった。

 どこにでもいそうな優しいだけの男のようで、同時に危険な血と鉄の匂いがあって、それなのに、なぜか心が安らぐ。

 今までにいないタイプだから、と言えばそれまでかもしれないが、あたしにとってそれは、間違い無く恋だった。

 組織のことを言うわけにはいかないが、素性を偽装して家庭を持っている者がいないわけではない。組織の中には、家族にばれない様に裏工作をする為の課もあるぐらいだ。きっと――うまくいく。

 あたしは、これからのことを生まれて初めて信じてもいない神に願った。

 

 士郎が『龍』と対立する御神流の使い手だと知ったのは――その二週間後のことだった。

 

 組織に予定より一週間早く戻り――あたしは士郎を忘れようと躍起になって仕事をしていた。

 訳を話して士郎と逃げることも考えたが――それは逃亡者として追われる自分に、彼を危険に巻き込むことになる。それに、自分が士郎と長く関われば関わるほど、組織が士郎のことを調べる可能性が増えていく。

 どんなことになっても、それだけはさせるわけには行かなかった。

 そしてしばらくが経ち、全てが仕事の中で埋没して、己の精神が擦り切れそうになる頃、あたしは自分が身篭っていることを知った。

 普段のあたしの性格が幸いして、父親が誰か追求されることはなかったが、代わりに子供を持つことを、組織は許さなかった。

 子供を育てるとなると仕事に関わるのは不可能になる。

 下っ端ならともかく、それなりの重役であるあたしは、そうなることが許されない。

 赤子の育児をする機関はさすがになかったし、組織が父親となる人物に預けようとするにも、あたしがそれを明かさなかった為だ。

 このままでは、おそらく堕胎を強制させられかねない。でも、始めて自分の中に感じたあの人との命を失うことは、あたしにはどうしても出来なかった。

 だから――あたしは「龍」から姿を消した。

 『龍』の持つ御神の情報の中から、彼のデータだけを抹消して――。

 

 

         ◇

「あの……」

 

 薄い声に起こされる。

 彼女が目をこすり瞼を開くと、逆光に晒されて顔が見えない青年が、目の前に立っていた。

 寝ぼけた頭は、その人物の顔の造りや雰囲気が、ある人物と似ていると判断し、その名を呼んでみる。

 

「……士郎?」

 

 青年は驚いて固まるが、その呪詛が解けると同時に首を横に振った。

 

「あれ……」

「目、覚めましたか?悪いとは思ったんですけど、風が強くなってきたので」

「あ……ありがとう」

 

 言われてみれば、少し肌寒かった事に気付いて、彼女は上着を直す。

 

「こほ!こほっ!」

 

 彼女が咳き込んだ。この風が運ぶ埃にやられたのだろうか。

 

「あの……士郎と言いましたが、お知り合いですか」

「え……ええ、ちょっとね」

 

 記憶がよみがえり、彼女は彼が士郎の家で会った青年だった事を思い出した。太陽の高さで判断すると、あの時から二時間は経っているのだろうか――。

「間違っていたらすいませんが――もしかして……夏織さんですか?」

 

「!……どこでその名を?」

 

 彼女――夏織は、偽名とはいえ自分の名を知るこの青年に、警戒の眼差しを向けるが、初めて会った時に士郎の知り合いだといっていたことを思いだし、安堵する。

「俺は、恭也と言います」

 青年の言葉は、何かを確かめるように夏織の表情を見ていた。

 

「恭……也?」

 

 夢の続きを見るように、思い出す。

 田舎町で、記録の残らないように産婆の経験のある人に取り上げてもらった息子。

 その子を、この世でもっとも安全だと思える場所、士郎に預けた時に彼に伝えた名前。

 夏織が呆然としていると、恭也は確信を得たように表情を落とした。

 

「……たまたま、士郎さんの息子さんと同じ名前なんですよ」

 

 恭也はそう言って……黙った。

 夏織も無言でいたが、顔を挙げて

 

「知ってるんだ。あたしのこと」

「はい。……だいたいのことは」

「……酷い女だと思っているでしょ?」

「……」

 

 恭也は、答えなかった。

 静かな空間に、雀の鳴き声が上空で流れている。

 それが鳴り止むのを待ってから、彼女は再び語った。

 

「でもね、言い訳にしか聞こえないかもしれないけど――あたしは、あの子を士郎に預けて逃げたことが、最良のことだったと信じている」

「何故、なんです」

 

 恭也の声は、少しだけ怒りが混じっていた。

 夏織は、彼の方は見ずに空を仰いで、

 

「あたしはね、ちょっとヤバイ奴等と関わってて、ああしなければ――あたしの周りの環境下に絶えられず、あの子は死んでいたと思う。そうなれば、きっとあたしも生きていく気力が無くなってたわ。だから、一番信頼できる人に、あたしはあたしの全てを預けたの」

「それを……士郎さんには伝えたんですか」

「……言えない。言ったらあの人は、絶対にあたしを守ろうとするから。それは、士郎と恭也を危険な目に合わすことになるから」

 

 夏織は気付かないうちに、拳を握り締めていた。

 恭也は、なんと言っていいかわからず、ただ自分の疑問だけを口にした。

 

「あの、その時苗字を変えるようにといったのは、何故です?」

「あまり、意味は無いのよ。そう言えば、あたしのことを忘れて良い人を見つけてくれるかな、って思ったのと――」

 

 不破でなくなれば、名前だけで組織から狙われることが無くなると思ったから、と、夏織は口に出さず、静かに言葉をつぐんだ。

 

「……どうして、俺にその話をしたんですか?」

「ふふふ……なんでだろうね。死ぬまで秘密にして持っていくつもりだったのに。でも、君は内緒にしてくれそうだし。それに息子と同じ名前だからかしらね」

 

 彼女は悲しげに笑った。

 

「あたしは、もうすぐこの地を離れないと行けない。会いに行こうと思ったけど、あの人はもう、新しい幸せをつかんでいる。だから、あたしが現れればそれを壊してしまう。でも、あたしを恨んでいるかもしれないけど、せめて最後に、恭也の元気な姿が見たくて――。お守りまで買ったけど、駄目だった見たいね」

 ぽろぽろと、表情を変えずに涙だけが夏織の目からこぼれる。見ていて痛々しいほどに――

 

 ふわっと空気がゆれた。恭也が、夏織を抱きしめていた。

 

「え……?」

「……大丈夫です。恭也は、あなたを恨んでなんかいない。きっといつか真実を知って、あなたに感謝するときがきます」

「あ、あの……」

「大丈夫ですよ。同じ名前の、俺が保証するんですから」

 

 すっと離れる。恭也は少し涙を浮かべ、顔を赤くして笑っていた。夏織も、少しだけ顔をほころばせた。

 

(父さんを、呼んでこよう……父さんが生きているこの時が、彼女の――母さんの望みをかなえる最後のチャンスだから……)

 

 それなら、きっと未来の世界が消滅することは無い。

 子供の自分を夏織と引き合わせることは、その記憶の無い出来事を行使する、つまり過去を操作させることになるが、この時、士郎が誰と会ったかを自分は知らないのだから、歴史が変わることにはならないはずだ。

 それは、単なる自己満足に過ぎないのかもしれない。二週間後に士郎は死に、夏織の存在を知ることなく、自分は成長するのだから。

 自分は今、この女性を母親だと思えているわけではない。

 彼女は間違いなく自分の母親なのだろう。そして、自分や父から去っていったのは、彼女にとってもどうしようもない何かの訳があったのだろう。

 だが、そうと知ってなお、自分にとっての母親は桃子以外にありえない。だから、恭也が彼女に感じ入り、そうしようと思ったのは、母親への親愛の情ではなく憐憫であった。

 

 だけれども。

 そんな傲慢な自己満足が理由であっても。

 そのぐらいの救いは彼女にあっても良いんじゃないかと、恭也は思った。

 

「すいません……ちょっと失礼します。あの……すぐ戻りますから、ここで待っていてもらえませんか?」

「こほっ……ええ、良いわよ」

 

 一度咳き込んでから、夏織は答えた。

 恭也は、先ほど永遠の別れを決めたはずの、士郎のいる高町家へ、その足を向けた。

 見送ろうと、夏織はその後姿をなんとなしに見て――目を見開いた。

 

「そっか……」

 

 彼女の呟きは、安らかな寝息のようだった。

 

 

 

         ◇

 美沙斗のターゲットは、そこにいた。

 写真で見せられた人物。日本人としての偽名は『柴村 夏織』。なんでもその女は『龍』の元情報工作員であり、生け捕りにすれば依頼者になるその対抗組織にとって、かなりの利益になるということだ。

 この仕事を依頼した組織は、成功時に組織に入ることを認めた上に、彼女から得た情報にあの事件に関わりのあることがあれば、全て提供すると約束をしてくれた。

 だが、たとえその約束が無かったとしても、彼女はその依頼を受けていただろう。

 

「『龍』の一員……絶対に許さん」

 

 美沙斗は隠れていた路地裏から、小太刀を握り締める。

 復讐に燃える彼女の目は、暗く濁っていた。

 彼女に依頼した組織こそが、彼女の追う『龍』そのものだとも知らずに――

 

 

         ◇

 その視線に、夏織は気付いていた。

 もし、美沙斗が本来の心で気配を絶っていたら無理だったかもしれないが、長い逃亡生活で鍛えられた気配の探り方は、強い殺気を放つ彼女を、いやがおうにも感じ取っていた。

 

「ゲームオーバー、か」

 

 もう逃げられないだろう。

 先日調べた情報で、『龍』が自分に対して玄人の捕獲者兼殺し屋を雇ったことは知っていた。捕まってしまえば、自分が抹消した『御神の一族の一人』に対するデータとその理由を、薬を使って聞き出すことぐらいは簡単にやってのけるだろう。

 それは、避けなくてはならない。

 百数十メートル先の路地裏から、黒い死神は現れた。

 己の余裕を知ってだろう。悠々と歩いてくる。

 だがそれも――霞む。

 こほっ、と咳き込んだ拍子に、乾いた血が舞った。

 どうやら、騙し騙し酷使してきた体も、限界が近いようだ。外からも、そして体の中からも、死神は歩いてくる。

 夏織は、前々からの決心とともに、懐から愛用の銃を取り出す。

 『AMTモデル・バックアップⅡ』

 重量わずか五百十グラムの、護身用の小型拳銃である。

 諜報員の夏織が、それを使う機会など皆無に近かったが、整備だけは毎日欠かさなかった大切な相棒だった。

 それを見た黒い殺し屋は、警戒を強めるが、銃を恐れている様子は無かった。歩調を変えず、ゆっくりと歩きつづけていた。

 夏織はゆっくりと深呼吸をした。

 数十秒で、全てが終わる。やり残したことはいろいろあるが、今すべき事は一つしかない。

 目を閉じ、人生を思い返すことだ。

 初めに思い出されるのは、虐待された子供時代。次に、犯罪に手を染めざるを得なかった組織の時代。そして……士郎との出会い。息子の誕生。

 

「なんだ……あたしの人生、意外と良かったじゃないか。女の幸せを、ほとんど達成してる」

 

 負け惜しみではない。

 夏織は、本心から自分の人生を憂いていた。

 

「なにより、息子の成長した姿を見れたんだ。ちょっとぶっきらぼうだったけど、父親よりいい男になって……あたしが若ければ放って置かないのに」

 

 青年が消えた道を、横目で追った。抱きしめられたときから、いや、初めて会ったときからなんとなく感じていたこと。

 

(あの露天商から買った怪しいお守り……ちゃんと効果あったんだ)

 

 会いたい人に会える縁結びの石と言われ、藁にもすがる思いで買った小さな石。

 吐血と咳を繰り返しながら、上着の内ポケットに入れてあるそれを上からなぞる。

 青年の後ろ姿を見送った時に見えた、首筋に並ぶ二つのほくろと、その横にあった小さな火傷の跡――。それは、恭也を士郎に預ける前に見つけたものと、彼女が誤って付けてしまったものと同じだった。

 それは、病気で霞んだ目による勘違いではないと、心から信じる。なにより、自分の息子を見間違うわけがない。

 未練があるとすれば、息子との最後の約束を果たせそうもないことくらいか――

 

「あたしは、死神なんかに負けない……今まで生きていて、神様になんか裏切られっぱなしだ。最後ぐらいは、自分の望んだ運命を作ってやる」

 

 彼女は、銃口を『そこ』に向けた。

 だが、少しだけ考え直して――それは、死神が女性だったせいもあったのかもしれない――その位置を下のほうへ移した。

 結果はどうせ同じことだ。なら、女としてのプライドを貫こう。そう夏織は思った。

 彼女の意図を読み取り、その死神は初めて慌てたように駆け出した。

 だが、もう遅い。引き金には、すでに指が絡んでいる。

 

「残念だったね、死神。あたしの人生は幸せだったよ。だから……あたしの、勝ちだ!」

 

 

 その音は、誇り高い獣の遠吠えのように……。

 

 

         ◇

 銃声が聞こえ、恭也は振りかえった。

 

「まさか……まさか!」

 

 再び公園へ――引き返す。

 数十秒かけてもどり公園が視界に入ると、遠くの路地に黒い人影が消えたのが見える。

 そして、ベンチには横たわる人の姿。

 凍るような背筋の震えに負けないように、近づこうとした瞬間――

 

「そんな、なんでこんな時に――」

 

 巾着の中の石が、激しく輝き出していた。

 そして、体も同じような発光を始め、動けなくなった。伸ばした手の先は、倒れている彼女にどうしても届かない。

 

「なんで、なんで……」

 

 まるで、あの夢のような――

 

「なんでなんだよ!」

 

 絶叫と共に――恭也の意識は闇に落ちた。

 

 

 

 



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第七章 「涙は、優しさの中で」

Capter7 『Her beautiful smile tempted the young man into kissing her.』



 

         ◇

 伸ばした手の先にあったのは――白い天井と、蛍光灯の光だった。

 頭には何か巻かれていて、皮膚と擦れて痒かった。

 

「あ……」

 

 見覚えのある場所だった。

 それもそのはず、恭也や美由希、蓮飛にフィアッセも何度も足を運んだ場所だ。

 

「病……室」

 

 上半身を起こしあたりを見まわすと――壁にかかった日めくりカレンダーが、あの花見の日の翌日をあらわしていた。当然その上にかかれた西暦も――

 

「帰って……来た?」

 

 いや、帰ってきたのなら、服が患者用に変わり、頭に包帯を巻かれて寝かされているのは変だ。

 

「まさか今までのは、夢……」

 

 言いかけて、そんなことは無いと自分に言い聞かせる。

 あの世界での感覚全てが明確に思い出せる。もしあれを夢だと言うのなら、自分はこれから現実と夢の区別がつかなくなる。

 

「あれ……」

 

 ふと、右手に何かを握り締めている事に気付いた。開くと――薫に渡された巾着を、汗が染み込むほど握り締めていた。

 

「……ちゃん、オレが……るから」

 

 廊下のほうから晶の声が聞こえて、はっとする。

 ガチャっとノブが回り、病室の扉が開かれた。

 

「美由希ちゃん……いいかげんに休んだほうが。丸一日寝てないんやで……」

「だって!だって恭ちゃんが目を覚ましてくれない……の、に……」

 

 眼の下にくまを作った美由希が、蓮飛と晶に付き添われて入ってきた。

 ところが入ったとたん恭也を見て、三人とも固まっている。

 どうするべきかわからず、恭也は

 

「……ああ」

 

 と言った。

 

「お、お師……」

「ししょ……」

 

 

「恭ちゃん!」

 

 

 美由希が、持っていたタオルを放り投げて、恭也に飛びついた。

 

「恭ちゃん、恭ちゃん、恭ちゃん……」

 

 起こした青年の上半身に、美由希はすがりつくように抱きしめる。

 

「うっく……ひく……」

 

 恭也は泣き止まない美由希を見下ろして、「ああ、俺は間違い無く戻ってきたんだ」と思った。

 珍しく仲良く手を取り合って喜んでいる蓮飛と晶を前にそうするのは、少し躊躇うが――

 

「ただいま、美由希……」

 

 そっと、彼女の肩を抱いた。

 

 

 

         ◇

 それからはてんやわんやだった。かわるがわる現れる家族とさざなみ寮の住人に、恭也は圧倒されっぱなしだったが、それも面会時間を過ぎれば静かになる。

 なのはは無事だった。

 恭也が完全にクッションになっていたおかげで、傷一つ無いらしい。

 それよりも、自分のせいで兄が目を覚ましてくれないんだと泣いて、それのほうが大変だったらしい。病室に現れたなのはを抱き上げて頭をなでてやると、彼女は笑ってくれた。

 担当医師のフィリスの言うところによると、怪我は十六夜によって癒されているのに意識を取り戻さないため、処置のしようが無かったとのことだ。俺はずっと病室で寝ていたのか、と聞くと、彼女は不思議そうな顔をして、「ええ」とだけ答えた。

 ちなみに、今回の騒動の原因についてだが、耕介と愛の話によると、ここ数年間で起こったいろいろな事件(ほんとうにいろいろあったらしいが)で、一度老朽化したベランダを補強修理したそうである。だが、そのとき頼んだ業者が手抜き工事をした事が原因で、今回の事故が起きたそうだ。真雪がその業者に木刀を持って乗り込み、そっちでも大騒ぎだったらしい。

 薫は、「お守りと言っておきながらすまない」と頭を下げたが、「結局無事に済んだのは、このお守りのおかげです」というと、少しだけうれしそうに笑った。

 「昔、俺と会ったことがありませんでしたか」と不自然じゃない程度に聞くと、彼女は「そういえば……子供の時に那美が君と会っていた頃、那美が会えない旨を伝えるために会ったことがあったっけ」と、答えた。

 確かに、それは正しい記憶だが、それはあのカードの話をしたときのことではない。

 つまりは、あの世界での薫が言った通り、あれが本当のことだったとしても薫はそのことを忘れていて、歴史はなにも変わっていない事になる。

 

 証拠は、なかった。

 

 ただ、リスティに気になることを一つ頼み、その日は大事を取って病院で過ごすことになる。

 翌日の検査で何事も無ければ、そのまま退院となるそうだ。

 その夜、恭也は全員の付き添いを断り、星が瞬く澄みきった空を見上げながら、あの世界で過ごした夜を思い出したりして――眠りについた。

 

 

 

         ◇

 朝、恭也の退院を迎えたのは、美由希とフィアッセと桃子だった。

 学生達はやるべきことのために、それぞれが自分たちの居場所にいるはずだ。

 美由希は……駄々をこねたらしい。

 普段はまじめな彼女のたっての我侭ということで、学校を休むことを承諾したそうだ。

 帰り道、真剣な顔のリスティが現れた。

 有無を言わさないような鋭い顔で、ちょっと付き合ってくれ、と恭也に言った。元からその気だった恭也は頷くと、俺はこの後一人で帰るから、と皆に別れを告げる……が、美由希だけは、絶対についていく、と言って聞かなかった。

 

「まあ、そんぐらい許してやんな。おまえが倒れた時一番泣いてたのはその子だ」

 

 と、リスティに言われ、恭也は何も言えなくなった。

 

 

 案内されたのは――特殊警察の鑑識の保管場所だった。

 ここからは、恭也一人で、と言われて、さすがの美由希も待合室で待たされている。

 

「さて……おまえに言われた通り、そのときその場所の事件を洗ってみたが……説明、してくれるんだろうな」

「……できる限りは」

 

 恭也は答えて、リスティは頷いた。

 読心の能力を持つ彼女だが、恭也のような者は、ある程度心のコントロールも鍛えているため、思考が読めないらしい。ようは、瞑想されてどうしようもなくなるのである。

 

「まず……事件当初、銃声を聞きつけた散歩中の市民の報告で、女性の死体が発見された。身分証明書を見ると、「柴村 夏織」とある。ただ、それは偽造だった。その後の調査で、それがあの『龍』の元構成員の一人であることが判っている。ただ、『龍』をハッキングして調べた資料によると、そいつはずいぶん前に除名されている」

 

 やはり――あの世界はあったのだ。そして恭也は、彼女がよりによって『龍』の一員だったという事実に愕然した。

 それに……彼女はおそらく『龍』に殺されたのだろう。助けられなかったという思いに力が抜けて、足元がふらつく。

 

「お、おい。大丈夫か?無理せず座れって」

「ええ、すいません……続きを」

 

 震える足を抑えつけて、恭也は先を促した。

 

「あ、ああ……それでだな。始めは殺人事件として捜査してたらしいんだが――結果、自殺と断定された」

「……え?」

「彼女の死因は銃によるものなんだが……その銃なんだが、どうも本人のものらしくてね。指紋も一種類だけだし、なにより弾丸の当たった服の部分に焦げ跡があった。それはつまり、銃口が服に押し付けられた状態で撃ったってことでね。自殺の典型的な跡なのさ。まあ、普通はこめかみに当てるんでひともんちゃくあったらしいんだが。ま、そんなことはいい。

 それに、彼女は重度のガンだったんだ。それももう末期で、生きていたのが不思議なぐらいだったらしい。理由も、十分だ」

 

 脂汗がにじみ出て、震えが止まらなかった。

 

「それで、……ボクが聞きたいのはこれだ。彼女の遺品なんだが――」

 

 小さなビニールの袋に包まれた、それは――

 

「これは……」

「ああ、薫が恭也に渡したあの石と同じものさ。内ポケットの中の布袋に、この紙と一緒に入っていた。……いったいどういうことだ?」

 

 すっとリスティが取り出したもう一つの袋に、小さな紙切れが入っていた。黒く染まっている斑点のようなものは、おそらくは彼女の血液だろう。

 そして、妙に達筆な字で、たった二つの漢字が書かれていた。

 

『恭也』と。

 

「おい……大丈夫か」

 

 リスティが不安そうに声をかける。恭也は、震えているだけで答えることが出来なかった。だが、しばらくリスティが黙っていると、彼は顔を見せないようにしながら、

 

「リスティさん……これ、紙のほうだけでも俺にもらえませんか?」

「なに?ちょ、ちょっとまて、さすがにそれはまずい……」

「お願いします!」

 

 恭也が、ただ頭を下げる。言えば、土下座でもなんでもしそうな勢いだった。リスティは驚いて目を丸くしていた。

 

「お願い……します……」

「~~!んー! コピーだ、コピーをとる!それで勘弁しろ!それだってまずいんだぞ、ほんとだぞ!……ちくしょう、ばれたら始末書で済むかなあ。もう何枚目かわからないけどさ」

 

 少し、自棄になったようにリスティは言った。

 

 

 

 

 美由希のところに現れた恭也は、終始無言だった。

 なぜか顔を見せないようにしながら、ただツカツカと歩いていく。

 リスティに、

 

「なんか知らないけど、恭也、思いつめてるみたいだった。とても聞きたかったことを聞くことも、心を読もうともできる雰囲気じゃ無かったよ。……付いていってあげな。恋人、なんだろ?」

 

 と言われ、美由希は顔を赤らめる。

 いつからか判らないが、読まれていたらしい。

 義兄の後を追い、いろいろ話しかけてみるが、彼は、何も返答をしなかった。ただ虚空を見るように、夢遊病者のように不安な足取りで歩き、時々道を間違えては、美由希に手を引かれていた。

 家に着くと、恭也の手を取って彼の部屋に連れていく。布団はしいてあるはずだから、とりあえず寝かせて休ませようと思ったのである。フィアッセと桃子は店に出ていて、寺子たちもまだ学校から戻ってはいないらしく、家はいつもが嘘のように静かだった。

 

「恭ちゃん、とりあえず今日はもう寝て、ゆっくり休んで……」

 

 布団を正そうと、屈んだとき――

 抱きしめられる。

 

「えっ?」

 

 恭也が、美由希を後から抱きしめていた。

 何事かと振り向こうとすると、唇を彼の唇で塞がれた。

 

「ん、んー……」

 

 力強く、奪われるような接吻け。舌が美由希の口内に入ってくる。情事の時の貪るようなそれに近かったが、そこに、恭也の思いのようなものが感じられなかった。例えるのなら、ただ無理やり口を押し付けられただけのように。

 数秒の間の後、やっと開放された。

 

「ぷはっ。ちょっと、恭ちゃん、どうしたの……きゃあ!」

 

 布団に押し倒される。胸に顔を埋められ、伸ばされた手が彼女を乱暴に愛撫していく。

 

「やだ!こんなのやだよ!恭ちゃん!やめて、やめてってば!」

 

 明らかに、いつもの恭也ではなかった。彼に体を預けることは嫌ではないが、こんな一方的な行為を理由も無くされたくはない。振りほどこうと、必死に体をひねる。だが、鍛錬で学んだそれも、師である恭也にかなうわけが無かった。

 

「お願い……恭ちゃん止めて……やめ……え?」

 

 いつのまにか、恭也の力が抜けていた。彼は、たしかに美由希を布団に押さえつける様に抱きしめてはいたが、強姦するようなそれではなく、ただ美由希の胸に顔を押し付けて――震えていた。

 暴れるのではなく、少女がゆっくり上半身を起こすと、恭也は全く抵抗をせずにそれに合わせる。

 ここまで無防備な恭也を、美由希は見たことが無かった。

 どうしたらいいのかわからずじっとしていると、彼女は自分の服にぽたぽたと雫が落ちるのを感じて、はっとした。

 

「恭ちゃん、もしかして……泣いてるの?」

 

 恭也は答えなかった。

 だが確かに、小さくくぐもった嗚咽が、彼の体の鼓動に合わせて存在していた。

 美由希は、初めて見た兄のその姿に戸惑いながらも、彼を包み込むように手を背中に回す。その手の感触を感じ取ったのか、恭也はビクンと体を跳ねさせた後、もう一度、彼女を強く抱きしめた。

 

「…美由…希……み…ゆきぃ……」

 

 彼の口からこぼれ落ちた少女の名。その声は儚く、何かを求める幼子のようで――。

 あやすように、美由希は彼の背中をなで続ける。いつも大きな存在だった兄が、今、壊れそうになりながら胸の中にいた。

 理由はわからないが、今、自分がなすべきことはきっと一つだと、美由希は思う。

 

「恭ちゃん……私は、ここに、いるよー……」

 

 ただ優しく、言葉をかける。

 髪を梳くように彼の頭に手を当てて、自分の胸に押し付ける。

 

「あ……うぁ……」

 

 恭也は、今まで誰にも見せまいとしていたことを。

 おそらく、今から流すのは、一生分のそれを――。

 自分の弱さの全てを、彼女にさらけ出して、

 

「…ぁぁ……うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」

 

 ただ、大声で泣いた。

 

 

 

 

         ◇

         

 その夜に見た夢は、あの、いつもの悪夢だった。

 だが、一つだけ違ったことがあった。

 士郎を追う恭也の前に現れる、何人もの影達。そして入ってくる美由希。

 影達の同時攻撃に、美由希が窮地になる。そこで、恭也は――

 

「美由希……任せたぞ」

 

 一人の剣士として、そしてあらゆる意味で自分の支えとなるものとして、彼は彼女を認めた。

 

「う……うん!」

 

 美由希が輝くような笑顔を向けて、すぐに真剣な顔に戻る。

 後から、抜き放った剣の音が聞こえたが、恭也は振りかえらなかった。見捨てたのではない。ただ彼女を、信じた。

 そして、

 

「りゃああああ!」

 

 父の前の大きな影を切り裂く。

 照明が落ちるように影達が消えた後、いつのまにか、怪我一つ無い姿で精悍な顔をほこらばせて立つ士郎を見上げる。

 美由希が、息を切らせてやってきた。そして恭也の横に並び、同じように父を見上げた。

 

「……美由希は、強くなったよ。父さん」

 

 恭也が美由希の肩を抱き寄せて言うと、父は、にやっと親指を立てて笑ったのだ。

 

 

 



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終章  「眠るあなたに花束を」

epilogue 『He sent “Sweet dream!” to her.』




 

         ◇

 次の週の日曜日。

 『高町恭也・全快おめでとうパーティ』と称されたそれは――結局は、ただの花見だった。

 

「おい、酒たんねーぞ、酒!耕介さっさと用意しろ~」

「あー!それはあたしのちくわなのだー!舞、返すのだ!」

「あれ、だってあたしの重箱にあったのは……さては麗!」

「うみゅうみゅうみゅ……もう食べちゃったのです」

「こらこの野猿!その煮付けには、三つ葉が重要だと言うたろーがー!」

「なにいってやがるドン亀!青菜を一緒に入れたほうが風味が増すんだよ!」

「桃子~、一緒に歌おうヨ~」

「よ~し、桃子さんがんばっちゃう!」

 

 あっちこっちで勝手な声が聞こえる。

 恭也が、声の聞こえない者達を探そうとあたりを見回すと――

 赤星が、さざなみ寮ちび&獣軍団と遊んで……いや、遊ばれていた。

 

「おーい……誰か……たすけて……」

 

 楽しそうなので放って置くことにする。

 その横では、こんなところにも携帯用テレビを持ち込んでゲームをするなのは、忍と、その付き人ノエルの姿。ノエルは忍の一族の作り上げたアンドロイドで、壊れていたところを忍が直して今に至っている。

 彼女が、その電子頭脳を使ってパズルゲームをするというのは、反則のような気がしないでもないが――

 

「わーい、三連勝~」

 

 なのはは、打ち負かしているようである。

 

「なのは様はすごいですね……」

「ほんと、ノエルの反応速度に勝てる人間がいるなんて……」

 

 驚愕の眼差しで忍はなのはを見つめる。ノエルも、表情こそ豊かではないが、確かに驚いているようだった。

 

「んーとね、んーとね。ずーと集中して画面見てて、自分がピンチになると……なんだか色が薄くなって、スローモーションみたいに見えることがあるんです」

 

 なんだか、とんでもないことを妹は口走っているようだが……怖いので気にしないことにした。

 桜の木から少し離れた場所では、那美や久遠、薫、愛、知佳、霊剣御架月がトランプをしていて、その向こうでは耕介と十六夜が、妙に風流な空気で談笑をしていた。

 他にも、さざなみ寮生の何人かが、思い思いに暴れている。

 

「よう、恭也。元気か?」

 

 リスティが、煙草を燻らせながら現れた。恭也は、そう言えばあの一件以来会っていなかったことを思い出した。

 

「あん時言いそびれたんだがな……ちょっといいか?今言うことじゃないかもしれないから、またでも良いけど」

 

 親指を、皆から離れた所に向ける。

 恭也は、無表情で頷いた。

 宴会の声が少し小さくなり、皆の死角になるような位置まで歩いて――

 

「……安心しろ。そんな警戒しなくても、心を覗いたりはしないよ。昔のボクじゃあるまいし、人のプライベートに土足で踏み込んだりはしない。……色恋沙汰は別だけどね」

 

 にやり、とシニカルに笑う。

 冗談はこれくらいにして、と彼女は前振りをすると、

「さて……話と言うのは、『彼女』の死んだときの様子についてだ」

 恭也が、静寂で理解を示す。その顔はわずかに強張っていたが、聞こうとする意思は伝わった。

 

「あの『夏織』という女性が――自殺と断定された理由なんだがな。自殺ならわざわざ無理な体制で心臓に向けたりはしない、と論争していたときに、女性の捜査官が『私でもそうしていたかも』と言って、決着したんだとさ。ボクも、その話を聞いて納得したよ。確かに、ボクもそうするかもしれない」

「どういうことです?」

 

 恭也は、声のトーンを変えずに言った。

 

「ボクも、女だからさ」

 

 リスティがウインクした。そして続ける。

 

「まあ……わからんかもしれないが、女ってやつぁ最後の瞬間だって綺麗でいたいもんなのさ。だから、みすみす顔に傷を作るのを避けたんだろうよ」

 

 そう言ったあと、リスティは恭也の反応があまりないことに、少しこほんと咳払いをして、また続けた。

 

「それにな……彼女の最後の顔――不思議と、笑ってるように見えるんだ。病気の痛みがすごかったはずなのに、モルヒネも使ってなかったっていうのに。ただ、すごく純粋な笑顔で目を瞑っている。そこに……傷は残したくはなかったんだろうな。推測でしかないが――彼女の最後は、安らかだったんだと思う。そして、それを誰かに伝えるためにそうしたんだろう。

 恭也と彼女にどんな関わりがあったのかしらないが、そう思うことが、少しでも君を楽にすると良いんだが」

 

 タバコをふかし、リスティは言った。

 恭也は腰のベルトに括り付けられた巾着に手を伸ばし、そこに入った霊玉と、あの紙を思う。

 

(彼女との、関係か……)

 

 恭也が過去に行ったという証拠は、何もない。あの全てが、良くできた夢と言えばそれまでだ。力を持つ石が自分に見せた幻想、ということすらありうる。たとえ、死んだ彼女が本当に母だったとしても、過去に自分と会っていたかどうかを知るすべはない。

 しかし、気づかなかった美由希への負の感情と、改めて気づかされた彼女への思いの強さ。それが心に刻み込まれたと言う事実だけは、間違い無く存在している。

 だから、信じよう。あの夢のような世界での出来事が、実在したことを。

 

「……大丈夫。それは悲しいことだったけど……俺には支えてくれる人がいるから、向き合えます」

 

 ちらり、と、恭也の後方で、気配を消すことも忘れて木陰に隠れる妹の姿を見た。

 

「ふ……そうか。がんばれよ!応援するぞ、禁断の恋に!」

「だ、誰が禁断ですか!」

 

 はっはっは、と、どこかの酔っ払い漫画家と同じ笑いをして、リスティは宴の席に戻っていった。

 頬をかいてそのあとを追う途中で、しゃがんで隠れているつもりの美由希の前に立った。

 

「ほら……なにをしている」

「え……、あ、うーんと……恭ちゃん、大丈夫?」

 

 立ちあがった後も、彼女は上目遣いで恭也の瞳を覗きこんだ。

 一週間前のこともあって、不安だったのだろう。

 できるだけいつも通りに、恭也は答えることにする。

 

「……ああ、大丈夫だ」

 

 そのとき、恭也の声に誘われたかのように、さあぁと風が流れ、桜の花びらが舞った。

 

「わぁ……」

 

 美由希はその光景に見惚れて、感嘆の息を漏らす。

 恭也は、舞い散る桜よりも、その中に立つ美由希のほうが美しい、と思った。

 恭也は彼女の肩を抱くと、「美由希」と名を呼んで、顔を近づけた。

 

「……あ……」

 

 美由希は、吐息のような甘い声を漏らすと、目を瞑って――

 二人は、唇を重ねた。

 

 

「あのー……もーしもーし……」

 

 接吻けのさなかに声をかけられ、二人は飛びのくように離れた。

 声をした方向に目を向けると、リスティがいわゆる不良の座り方でしゃがんで、あきれたように――実際あきれていたのだろう――二人を見ていた。

 

「あのさ……二人の世界に入るのは良いんだけど……場所、考えてる?」

 

 リスティが指差した先には――

 びっくりして固まっている高町家と、興味津々と全員が真雪になったような顔でにやついている、さざなみ寮の面々。

 恭也達は、完全に皆のことを失念していたようだ。

 秘密を知られてしまったことに、どうしたものかと恭也は悩んだが――どうせいつかはばらす気でいたことである。覚悟を決めた。未だにうろたえている美由希に、恭也は向き直って、

 

「美由希」

 

「え、えと、あの……どうしよう、恭ちゃん」

 そんな妹に、恭也はもう一度顔を近づけて言葉を紡いだ。

 

「美由希、愛している」

 

 恭也の一言に、あっけに取られたように辺りが静まり返った。

 美由希も、何を言われたかわからない、というように目をぱちくりさせていたが――恭也が皆の前で言った、という意味を悟り、顔を染める。そして、しばらく周りを気にして俯いていたが、彼女は一度大きく深呼吸して――「はい」と答えた。

 そして、今度は堂々と、恭也と長いキスをする。

 おおお!と周りがどよめいていた。

「よっし、みんな。恭也復活パーティを変更して、恭也・美由希カップル公認パーティだ。当然、今日の酒の肴はこいつらだ!」

 真雪の先導に従いさざなみ寮が、遅れて、なんだかやけになった感じの高町家が、おー、と呼応する。

 今日は長い一日になりそうだ、と、恭也は思った。

 

 

 

 

         ◇

 それは、連日降り続けた雨が上がり、葉木に溜まった水滴が虹色に輝く、ある晴れた日のこと。

 一人の青年が、その無愛想な顔とは相容れない花束を持って、子供達の喧騒が聞こえる公園を闊歩していた。

 そのすぐ後で、眼鏡をかけた少女が訝しそうに彼を追っている。

 恋人同士のようにも兄妹のようにも思える、二人の距離。

 そしてそれは、どちらもが正しい。

  青年は、一つのベンチの前でその足を止める。少女も、それに習った。

 

「恭ちゃん、ここに、何かあるの?」

 

 素直な疑問を口にし、美由希は恭也の顔を覗きこんだ。

 

「ああ……俺が、大切な人と別れた場所だ」

 

 花束を、そのベンチに置いて目を閉じる。そして、黙祷を捧げる。

 美由希には、彼の姿が、その誰かとの思い出をを懐かしんでいるように見えた。

 

「その人って……女の人?」

「そうだが……。なんだ?」

「……別に」

 

 少し不機嫌そうに、美由希。朴訥な彼も、さすがにその意味はわかる。

 

「えーと、いや、そういうことではなくてだな」

「いいよ。私は恭ちゃんを信じてるから。言いたくなければ言わなくても」

 

 美由希が顔を上げる。怒ってはいないが、少し寂しそうだった。

 

「……でも、それが恭ちゃんにとって苦しいことなら、できればでいいから教えて欲しい。半人前の私も、少しはそれを背負えると思うから」

 

 そう言って、美由希は彼の腕に自分の腕を絡めた。

 恭也は、自分の腕に頬を摺り寄せるように体重を預ける彼女を、いとおしそうに目を細めながら見て、一つの事を思う。

 美由希の胸で泣いたあの日、彼女に語ることは出来なかったが――いつか、全てを彼女に話そう。そして、できるのなら、自分の子供達にも伝えようと。

 

「……行こうか、美由希」

 

 その、夢のような物語を――。

 

                         涙が奏でる鎮魂曲 ~完~

 

 

 

 



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愚者達の狂想曲
序章  「天使の少女」 ~Ange'lique fillette~


L’ homme nest ni ang ni bete. Et le malheur vent que qui vent faire lange fait la hete.
 
「人間は天使でも獣でも無い。不幸なことは、天使を気取ろうとする者が、獣に成り下がってしまうことだ。」



         ◇

「天…使?」

 

 稲神山を流れる川辺で、美由希が義兄の恭也と共に毎年恒例の修行合宿に訪れたとある夏の夜のこと。

 新緑の瑞々しい空気が支配し、自然の音だけが深々とそこにある、済んだ場所。

 そこは、美由希たちが何度も訪れた場所だった。

 美しくはあるが、取り立てて珍しいものもない、ただそれだけの場所。

 気に入ってはいても、面白みがあることも、季節の変化以外は変わり映えもしない、その風景。

 だがその日、美由希は、そこで確かに「そう」としか思えないものを見た。

 

 それは一人の少女だった。

 

 年のころは、自分と同じかそれよりもわずかに年下だろうか。

 体つきの割には幼い顔立ちが、余計に彼女を童女のように思わせてしまう。

 だが、何よりも目立つのは、彼女の背中に生えている「それ」であった。

 白鳥を思わせる白い羽が背中からすうっと生えており、明らかな異形のそれに畏怖を感じさせるが――しかしてそれは、むしろ美しくさえ思えた。

 

 だから、美由希は彼女が天使ではないか思ったのだ。

 美しく、儚く、それでいて生きた人間のものとは思えない、命の熱さが感じられない彼女のことを。

 

 美由希が吸いつけられるようにその「天使」をじっと見ていると、彼女は大きな岩で祭られた塚の前まで歩みをつづける。

 それなりに猛者であると自負する自分にも感じ取れない、音も気配もない静かな歩み。

 それが、塚の前で、びたりと止まる。

 手を伸ばし、塚に指をかけ、寄りかかろうとして、何かに気づいたように彼女は一度動きを止めた。

 そして彼女は、くるうりと美由希を振り返り――

 

「美由希ー。どうした、薪はあったか? ……美由希?」

 

 兄の声が聞こえた。

 どうやら、薪拾いから一向に戻らない義妹を心配し、様子を見に来たらしい。

 だが、美由希は返答することもそちらを向くことも忘れ、その天使の姿がその塚に溶けるように入っていく様を、ただ呆けたように見つめていた。

 目の前で起きた映像は一瞬。

 初夏の熱気によって生まれた陽炎のように、淡く、儚く、どこか切なささえ思わせて、消えていく。

 全ては美由希の、空想だったように。

 彼女の見据えた先にあるのは、ただいつもどおりの風景があるだけ。

 

 白昼夢といわれればそれまでだ。

 何かの見間違いといわれてもしかたないことだ。

 自分自身ですらも、あれはただの幻といわれれば、納得してしまうくらいに、現実感がないのだから。

 

 だが、それでも。

 

 それがだたの一夜の幻、真夏の夜の夢であったとしても。

 

 

 消えた彼女の最後に見た顔が、とても哀しそうだったことを、美由希は覚えている。

 

 

 

 



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第一章 「音律は静かに、そして厳かに」

Capter1 『~Homicide~』


 

 

 

         ◇

「何にしても、難しい問題ではあるね」

 

 そう言った銀髪の女は、その回答に反して妙に安穏としていた。

 

「結局さ、そんなものはあってないようなものだろ?一つの現象に対して、どっかの誰かがそう思えばそうだし、別の誰かがそう思わないのなら、そうじゃないのさ」

 

 火の点いた煙草が、彼女の唇に挟まれて己の職務をまっとうし続けている。徐々にその姿が短くなっていく様は、人間の寿命を示す蝋燭に似ていた。

 彼女が紫煙を吐き出す。

 優雅と言うには程遠い仕草だが、自然ではある。どんな行為にせよ、無駄のない動きはそれだけで目を引くものだ。

 だが、自分の相棒とも言えるそれに向けられた友人たちの視線は、あまり好意的ではないと彼女は理解する。

 

「リスティさん、食事中くらい煙草止めてください」

 

 案の定、彼女の隣に座る巫女服の少女が口を尖らせた。怒られた彼女――リスティは「禁煙席じゃないんだから堅いコト言うな」と呟きながらも、素直に――三分の二程度残っていたので名残惜しそうだったが――灰皿に押し付けた。

 少女――那美がそれを見て満足げに頷くと、視線を前に向ける。

 机に並べられた料理の向こう側に、苦笑いしている美由希と仏頂面の青年――恭也が居た。

 彼女達が今居るのは、最近海鳴の街に出来たばかりの大きな喫茶店である。レンガ模様の外壁と、室内の重みのある煙突付のストーブ(もっとも形だけで火は点けられないらしいが)、ランプを模した灯りが特徴で、なかなか落ち着きのある雰囲気と評判の店だ。

 家が『翠屋』という名の喫茶店を営んでいる美由希と恭也の高町兄妹にとっては、商売敵となる訳だが――この店はオフィス街にあるということもあり、客はサラリーマンやOLがほとんどで、売り物の主力もパスタやハンバーグ類だった。

 洋菓子やサンドウィッチがメインで、学生を中心にして若い女性に人気の翠屋にはあまり影響がないと言えた。

 しかも、この喫茶店の若いマスターも翠屋のシュークリームのファンになり、時々買いに来ているらしい。

 そんなわけで――リスティ達に誘われたとき、恭也達は特に抵抗なくその門をくぐっている。

 店の名前は――聞いたこともない横文字で、誰の頭にも残っていなかったが。

 

「それで、何の話だったっけ。……そうそう。だからね、ボクはそう思うわけ。んで、キミ達はどうなのさ」

 

 言いながらリスティは、コーヒーカップの取っ手に、手袋をしたまま指をかけた。それを口に運び、目線だけで那美を指名する。那美は少し考えた後、

 

「私は、あると思いますよ。久遠が助かったのだって、そういうことの一つだと思いますし。もちろん、恭也さんとなのはちゃんのおかげでもありますけど」

 

 言って、恭也の顔を見る。少し照れたように俯いた彼の姿に那美の胸が高鳴った。青年とは初恋と言えなくもない思い出を共有しており、それが今でも完全には無くなっていないせいかもしれない。

 続けて、美由希が答える。

 

「う~ん。私はよくわからないな。あって欲しいと思うけど、それを認めちゃうと無条件の理不尽さも肯定しなければいけない気がして――」

 

 その言葉の重みがわかるのは、小さいころから彼女を見続けた恭也だけだったのだろうが――別に美由希は彼女達にそこまで理解して欲しいわけではない。だが、本心には違いなかった。

 その後しばらく沈黙が続き――それがどうやら自分も答えなければならないと言う無言の恫喝と感じ、恭也は仕方なさげに口を開こうとした時――

 

 ポロロン……

 

 一つのメロディが、店の中央の柱から聞こえてきた。

 その音の大きさは、霞のような淡いものだったが、不思議な存在感で満ちていた。その場にいた誰しもが――本来聞き慣れているはずの従業員達ですら――その曲の為に今までの動作を止める。

 柱時計に埋め込まれた、オルゴール。

 音は、鋭くも幻想的な独特さを持つ、それから生まれたものだった。おそらくは、時刻に反応して鳴り出すように作られているのだろう。だが、それが判ったといっても、それは野暮と言うものだ。今は、ただその音色を楽しめば良い。

 時間にして数十秒だろうか。曲が止み、再び辺りがざわめきを取り戻し出した。

 

「……で、恭也は? 君は、『奇跡』っていうものが、あると思うかい?」

 

 間を空けてリスティが言った。恭也は、有耶無耶に出来ると企んでいたのか、軽く舌打ちするような素振りを見せて――

 

「そうだな……リスティさんの考え方とあまり変わらないのかもしれないが――多分、それは『偶然』と同じことではあるんだろうな。

 ただ、その内容の大小に関わらず、その起った現象を『奇跡』と銘打ったほうが美しいのなら、それを『奇跡』と言っても良いのだと思う。なにも不治の病がいきなり完治するとか、生き別れの血縁に再会できた、というものである必要は無い。もっと些細な――例えば、ある人を好きになったということだけでも、世界中の異性からその人を選んだことは十分『奇跡』なのだと、俺は思う」

 

 青年の口調は静かだったが、普段の彼を知るものにとっては、今日の彼は饒舌だと思うことだろう。それほど、彼の言葉は滑らかに流れた。

 彼自身にしてみれば、『奇跡』というものは確かにあると思っている。

 あの『実母』との再会の出来事は、その最たるものだろう。

 だが、それを説明するわけにも行かないし、味方を変えればそれだって『石』が起こした偶然で、必然だとも言えるからだ。

 だから、恭也はただ思ったことをそのまま告げることにした。

 言い終わった後、どうも回りの反応が少ないことに青年は気づいた。

 見れば、三人の女性全員が目を丸くしている。

 

「なにか……変な事言っただろうか?」

 

 不安そうに恭也が口に出すと、『あっははは』とリスティが大笑いをした。

 

「ははっ、あはははは!いや、別にそう言うわけではないよ。ただ、キミがこの中で一番ロマンティックなことを言ったからね。みんな驚いてるんだ。愛あたりにそう言われれば違和感無いんだけどね」

 

 なんとなく、リスティは自分の養母の名を口に出してみる。

 恭也の顔が朱に染まっていく様を見ながら、次の一言でさらに朱くなることを期待して――

 

「まったく……やはり、恋人がいると違うね?恭也」

「!」

 

 予想通り、一気に赤くなる恭也の顔。だがその横で――

 

「……」

 

 もっと赤くなっている美由希がいた。

 

「キミ等……オモシロ過ぎだよ」

 

 リスティが真顔で言った。

 

 

 

 家族を含め、身近な知人達に恭也が美由希との関係を告知したのは、三ヶ月ほど前の春のことである。

 ある出来事によって入院してしまった恭也の退院パーティ――結局単なる花見になったが――にて、彼女との接吻けを見られた事が彼の覚悟を決めさせた。

 まあ、二人が義兄妹ということもあり、大騒ぎがあったのは言うまでも無いが――今ではその関係は全員の周知である。

 

「ま、冗談はそのくらいにして、だ。…その女の天使は、その村でいくつもの『奇跡』を起こしたそうなんだ。それに願いを言えば、大体のことはかなえてくれたらしい。例えば、人の傷を治したり、水脈を見つけたり、ね。そして彼女が天に帰るとき、人々はそこに感謝の意をこめて塚を作り、山全体を彼女の物とするために村を捨てたそうだ。それが、稲神山に祭られている塚に伝わる伝承。伝承……と言っても、ほんの六十年ほど前の話だけどね」

 

 リスティは、さり気に煙草を咥えようとして――那美の視線に気づいて止めた。

 美由希がその様子に苦笑しながら、

 

「聞きかじり程度には知っていましたけど――まさか、私の見たのが本当に天使だっていうんですか?だってそれって単なる言い伝えでしょう。本当に奇跡を起こせる天使がいるわけ無いと思うんだけど――」

「そうでもないよ。確かに『天使』なんていうのは居るかどうか判らないが、ある仮説が立てられる。それならば、伝承の説明もつく」

「?」

 

 美由希は首を傾げていた。

 初めに、「ああ」と頷いたのは恭也だった。

 

「なるほど。それならば確かに天使と言われるのかもしれない」

「恭ちゃん、どういうこと?」

「つまりな、天使の正体は羽のような物をもつ人間だったって事さ。俺達の周りにも居る、な」

 

 青年が銀髪の女を見やる。その行為で、美由希も理解した。

 リスティがにやりと笑って――

 

「なかなか理解が早い。そう、その天使がHGS患者だったとすれば、当時の人にとってその能力は奇跡のようだったろう。当時はまだ医学界ですら認知していなかった時代だからね。稲神山近くの山村では大正初期あたりから教会があったし、キリスト教とからんで天使に奉られたってわけだ。世界各地に伝わるその手の逸話も、同じケースなんじゃないかと、ボクは睨んでいる」

「でも、どうして今になってその人が現れたんでしょう?」

「美由希の質問はもっともだ。キミ等が山に行く前日、山で落雷があったことは知ってる?そのときどうも倒れた木が塚の一部を壊してしまったらしいんだ。おそらく、それで迷い出てきたんだろう。つまり――これは、那美の出番だったってことだ」

 

 急に自分の名を出されて、パフェに差し込んだスプーンがとまる。

 

「えと、……多分、美由希さんが見たのは、その人の幽霊じゃないかってことなんです。天に帰った、というのは亡くなられたという意味だとすれば、彼女は六十年前に亡くなり、崇められていた村人たちに供養されていたのが、その事故で安らかに眠れなくなってしまった。幽霊の目撃霊がふもとの住人の方々から上がって、警察のほうで霊障だと判断されて……だから明日私が行って鎮魂することになっていたんです。でもその前に、美由希さん達が出会ってしまった」

「まあ、それだけの話。美由希、安心していいよ。次回からは二人っきりで稽古以外も楽しんでこれるよ」

 

 リスティさん!と那美が怒鳴るが、銀髪の彼女は、くくくと笑うだけだ。

 不意にメロディが流れる。

 どうやらリスティの携帯電話らしく、耳に当てながら「キミ達は話してていいよ」と言わんばかりに手を振った。

 コホン、と那美は咳払いをすると少しだけ小声になりながら――

 

「それで、今日はとりあえず、元その村の人で、管理を任されている教会の高齢の神父さんに鎮魂の承諾を得に行くところなんです。別に宗教的なことをやるわけではありませんが、神父さんの管轄の場所で儀式的なことをするのは、さすがに失礼になると思いますから――」

 

 そこで恭也が相槌を打とうとした時だった。

 

「……な、に?」

 

 リスティの目が鋭くなる。それは普段の好奇心旺盛な猫を思わせるものから、獲物を見つけた虎へ変わるように――

 

「判った。すぐに向かう」

 

 電話を切り、ちっと舌打ちをする。いらつくように煙草を咥えて、立ち上がった。

 

「那美、すぐに教会に行くよ。それから恭也と美由希、キミ達も来てくれ。多分、お前らに事情聴取が必要になりそうだ」

「なにか、あったんですか?」

 

 不安そうに美由希が問うた。となりの恭也も、不可解そうにリスティを見ていた。

 

「ああ……その神父が死んでいたらしい。死亡推定時刻は三日前。恭也達が山にいた日だ。それもおそらく殺されて、ね」

 

 

 

         ◇

 恭也達への事情聴取は、簡素なものだった。その神父と面識が無いのだから当然と言えば当然だ。だが、疑いが晴れた理由は他にある。

 犠牲者の死に方である。

 もし刺殺や斬殺、糸状のものでの絞殺ならば容疑はかかったかもしれないが、死因は圧死。重圧――例えば巨大なボウリングの玉に押しつぶされたような――によるものだった。そして、それに順ずる凶器は発見されなかった。この時点で、警察はこれを特殊犯罪に認定。リスティおよび那美の管轄へと移る。

 

 山林に囲まれ、ひっそりとたたずむ岩を前にして――「これが問題の塚ですか」と、那美は静かに岩に触れる。

 表面は苔にまみれ、山林の空気を、より青臭いものへと変えていた。

 しばらく目を閉じて何かを感じ取るようなそぶりを見せた後、少女は驚くように目を開いた。

 

「これ、安眠のための術なんかじゃないです」

 

 怒ったように――否、それは憎悪に近いと言える。恭也ら三人は、その少女の雰囲気に驚いた。那美がここまであからさまに負の感情を表すのは珍しい。

 

「封印。しかも、とても悪意に満ちています」

 

 リスティの携帯が鳴る。場違いに明るいその音も、今は救いになるのか。たとえその内容が陰鬱としていても。

 

「……二人目が出たよ。被害者は、この村の出身の老人だ」

 

 煙草を吐き捨てる。

 咥える部分についた彼女の唾液が淫靡だったが、土草にまぎれて見えなくなった。

 

 

 



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第二章 「静寂の中の小鳥達」

         ◇

 夜の静けさは、その場所によってそれぞれ独立した世界を彩っていく。

 だが、静けさと言っても、音がしないことだけが『静けさ』ではない。

 例えば――動植物達の呼吸が聞こえる森林や、凍りついたような寒さを持つ人のいなくなったオフィス街。二例とも、存在する音が自然であるが故、それが気にかからない世界だ。だから、人はそこに静寂を感じる。自然と造形の対極さを持ちながら、それらはその一点で共通性を持っていた。

 そして、もう一つの『静けさ』が、図書室のような作られた――不自然な静寂。これは、その『音の無い』ということそのものが、耳を刺激する空間。

 恭也達が過ごすこの場所は――そのどちらもが入り混じったような雰囲気に満ちていた。

 音はある。風の流れ、川のせせらぎ、星の瞬きさえも音律を奏でているようだ。だが、三人の人間が焚き火を囲んでいるのにもかかわらず、会話らしい会話は行われていなかった。

 別に、気まずいわけではない。だが、それぞれが言葉を出すことを躊躇っていた。

 それでも、理由も無く友人同士が沈黙を続けるのは難しいことだった。

 

「すみません、こんなことに巻き込んでしまって……」

 

 雰囲気に飲まれて、というよりは、それは単に彼女の性格によるものだったのかもしれない。

 焚き火の前で、那美は申し訳なさそうに言った。

 

「いや……気にする事は無い。巻き込まれたのではなく、美由希が勝手に那美さんたちの事件に紛れ込んだだけだ」

「そうそう、それに、ここで鍛錬できなくなるのは困るから」

 

 兄妹が答える。

 

「それに、那美さん一人をこんな場所で野宿させられないさ。霊障には無力かもしれないが、物理的なものであれば俺達の専門だ。友人を守りたいと思うのは、それほどおかしいことではないだろう?」

「……は…い」

 

 時々、那美はこの友人たちの言葉に声を失うほど感激することがある。

 きっと、那美を含めて家族的な仲間に対して、彼等は己の命をかけることに何の躊躇いも持たないのだろう。それは、那美の義姉、義兄に通じる、決意の強さだ。

 だが同時に、それは那美の心に一つの闇を落とす。――自分が守られている側の人間ということに。そして、それは神咲家の一人として自分がいかに甘いかと言うことを叩き付けられるような気がするのだ。

 那美自身、気持ちだけならば、負けないと思う。しかし、それに伴う実際の実力を持って行使できないのであれば、それは単なる理想でしかない。彼等はそれを知っているから、努力と言う枷をしいてきたのだ。

 自分は――そこまでのことをしてきたと言えない。

 黙り込んでそんなことを考えていた那美を見た美由希は、なんとなく場の空気が重くなりつつあることに気づいたのか、少し大きめの声で少女に言葉をかける。

 

「そういえば……耕介さんや十六夜さんはどうしているんです?いつもの耕介さん達なら、那美さん一人でこさせないと思うんですけど。それに…久遠も見えませんし」

 

 美由希が述べた人物は、那美の義兄であり、また彼女が暮らす寮の管理人である神咲(旧姓、牧原)耕介と、その妻であり、彼の使う霊剣十六夜に宿る魂の具現した姿、十六夜のことである。

 二人とも日向のような雰囲気を持つ、とても優しい夫婦だった。たとえ人間ではなくとも、那美にとっても自慢の家族である。

 

「はい、義兄さん達は遅い夏休みを取って実家のほうに帰りました。十六夜も薫ちゃんと御架月に会えるって喜んでます。久遠も――浄化の儀式を行うために一緒に付いて行きました」

 

 美由希は少しとぼけたような顔で――単に思考が付いていかなかっただけだが――聞いた。

 

「浄化の儀式?」

「はい、久遠自身の祟りを払い、肉体にあった負の妖力は確かに消えました。でも、そのせいで、久遠はその力を今まで封じていた部分が空洞化してしまったんです。そしてそこは、大気中に歪となって存在する負の力が、久遠が望まずとも入り込んでいく絶好の場所になってしまった。もちろん、その歪は大した物ではありませんし、ほとんど影響は出ないでしょうけど、定期的に神咲家でそれを払うことにしたんです。それで、義兄さん達が帰省するのなら一緒にって……」

「ふ~ん、そうなんだ……じゃあもしかして、耕介さんは那美さんがこの事件を受けていることを知らないの?」

「……はい」

 

 その答えに、美由希はただ「ふ~ん」と頷いたが、恭也はその不自然さを見逃さなかった。

 おそらく、今回の任務が危険であることを那美はさざなみ寮生の面々に伝えていないのだろう。リスティが捜査本部に戻り、家に帰るように告げられた後、恭也達から隠れるように山に向かったのが良い証拠だ。青年が気配を感じて呼び止めなければ、彼女は今ここに一人でいたのだろう。

 

(無理……しているな)

 

 漠然と彼はそう感じた。

 理由は無いが、しいて挙げるとすれば――

 

(似てるんだ。あのときの美由希と)

 

 恭也の負担になるまいと、彼の禁を破り過度の鍛練を繰り返し、自らの体を壊しかけた義妹。その姿と、彼女が一人この山に残ころうとしていた姿が網膜で重なる。

 気丈に、だが痛々しく――自分を追い詰めるという行為は、愚考であるに違いない。だが、たちの悪いことに、愚かであるがゆえ譲れないものなのだ。

 そして、恭也にはそれを止める権利は無い。

 那美が己で考え、選択し、決意した自分自身のための答えだ。忠告することは出来ても、それに対して強制的に干渉するということは、彼女の人生を背負うことに他ならない。

 だが、青年はすでに人生を共に歩む者を決めている。

 だから――自分に出来るのは、友人として少し支えるだけに過ぎない。

 

「那美さん、具体的にこれからどうするか決めていますか?手順がわかっていれば、俺達も動きやすいですし」

「はい、塚にはすでに霊の存在はありませんでした。ですが、長年ここに囚われていた霊が、この場所を離れて長時間行動することは出来ないはずです。彼女が戻ってきたところで、話を聞こうと思います」

「大丈夫ですか?すでに二人の命を殺めた、悪意に満ちた相手なんでしょう?」

 

 塚の前で彼女が言った言葉を思い出して、青年は言った。

 那美は目を閉じ、静かに首を振る。

 

「違います。『悪意に満ちた』というのは、塚の封印そのもののことなんです」

「どういうこと?」

 

 美由希が焚火に枯れ木を投じながら聞いた。

 那美は視線を少女のほうに移し、

 

「私達は昔話から、村人達が『天使』に敬意を表して、彼女の死んだ後に奉ったものだと思っていました。でも、あれは禁法に近い封印の術です。死んだ者の体を閉じ込め、その霊体をここから出さない様にするためのもの――。つまり、この岩の下には、その人の遺体が埋められているはずです」

「そんな!いったい何の為に――」

「判りません……でも、村人たちは彼女を恐れ、封印した。そして六十年の歳月を経て、その封印が破られた。彼女がそれを恨み、当時の村人達を殺害しているのだとしても――そこには理由があったことになります。どんな理由にせよ、それは許されることではないかもしれませんが――理由があるのなら、話し合いで解決することだって出来ると思うんです」

 

 彼女らしい――と、剣士の兄妹は思った。

 退魔の家業を持つ神咲家。那美の義兄と義姉は、破邪や退魔に長じているが、彼女の能力は、言わば鎮魂。性格が良く出ていた。

 

「うん、私もそう思う。私が見た女の人、すごく寂しそうな顔してた。あの人が悪い人とは思えないもん」

 

 美由希がそう言うと、那美は破顔した。

 

『――!』

 

 ほぼ同時に――三人が一つの方向を向いた。そこには、銀色の燐光をまとった、清楚な女性の姿があった。人間でないことは、知識の疎い剣士達にもはっきりとわかる。

 剣を構え、いつでも行動に移せるようにする。那美も、懐に収めていた霊刀の位置を確認し、彼女の動きを見守る。

 その女性の背中には、確かにHGS患者の証明といえる、大きな白い翼があった。

 彼女はゆっくりと彼等に近づき――通り過ぎた。

 

「……え?」

 

 那美が素っ頓狂な声を出す。剣士達も、彼女のあまりの殺気の無さに毒気を向かれ――もちろん気を緩めたりはしなかったが――姿を目で追う。

 

「まって!」

 

 那美の声を無視して岩に手をかけ、美由希が見たときのように寂しげな表情を浮かべて、彼女は塚に入っていく。

 那美が彼女に手を伸ばす。一瞬、指先が消え行く彼女を掠めた。そのとき――

 

『どこに……あるの?』

 

 那美の脳に響いたその声は、哀しい詩を朗読するかのようだった。

 

 



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第三章 「矛盾と真実と」

 

 

 

 

 

         ◇

 駅前の喫茶店で――昨日と同じ四人が、昨日と同じ位置で会話をしている。

 違うところは、叱る人物と叱られる人物が逆転していることぐらいか。

 

「まったく――あんまり危険なことしないでくれ。愛と耕介に怒られるのはボクなんだから」

「すみません……」

 

 結局、あの後那美がいくら呼びかけても彼女は現れず、簡単な結界を張って出られないようにして三人は帰途についた。

 結界は三日程度もつそうだが、それでは何の解決にもならない。かといって、初めにされていた『封印』を、彼女はする気は無い。あれは、どちらかと言えば外法と呼ばれるものである。

 リスティが頬杖を付ながら唇を開く。

 

「それにしても……なんなんだろうな。その霊がHGSだったって言う推測が正しかったことは判ったけど……」

「はい、私達に危害を加える様子も無かったし、それに、憎しみや悪意が感じられなかったんです」

 

 那美がそういうと、恭也は軽くグリーンティーを飲み込んだ後、

 

「隠しているだけ、というわけでは?」

 

 聞いた。

 那美が答える。

 

「……ありえません。霊体と言うのは、いわば精神そのものです。だからこそ、生前の想いに囚われて理性を失ったり、一つの行動に縛られる者が多い。十六夜のように思考を持つ霊体もありますが、あの天使さんの場合は感情がストレートにぶつかってきました。『寂しさ』、『不安』。それだけです。

 つまり、思念が『霊体』という新たな体を持つのではなく、あくまでも『想い』だけが『精神――霊気の塊』となりこの場に留まっている、残留思念タイプですね。そのタイプが想いを偽称するのは、自己否定につながり、消滅してしまうのですから……」

「なるほど……ところでリスティさん、捜査のほうはどうなっていますか?」

 

 こっそり煙草を取り出そうとしていたリスティは、恭也に釘を刺されるように言われて、慌てて答える。

 

「どうもこうも……容疑者が霊じゃお手上げだからな。捜査自体は打ちきりに等しい。恐らくは事故として処理されるだろう。まあ、村の出身者を調べて聞き込みしたり、注意するよう伝えたり、彼等を警備したり、そのぐらいさ。……だがなあ、なんか彼等も詳しい事を教えてくれないんだ。何か隠してるとは思うんだが――」

「心を読むわけにはいかないんですか?」

 

 恭也の意見にリスティは苦い顔をして、

 

「それができれば楽なんだけどね。やっぱり公僕が個人のプライバシーを暴くとなると世間的にマズイんで、よほどの事件でお偉方の許可が下りないと、認められないんだ。それに、読心で読み取った資料は証拠にならないんだよ。……言いたかないが、それを認めると、HGS患者の偽装証言が横行する可能性があるからね。

 心を読んでわかりました。犯人はこの人です――なんていうのが、どれほど信憑性に薄いか想像はつくよね?」

 

 ふーむ、と青年が腕組をする。

 と、美由希がはたと思いついたように、

 

「あの、ちょっと気になるんだけど……いい?」

「どうしたんですか?美由希さん」

「霊になった人って、どうやって私達を攻撃するの?向こうは攻撃してくるのに、霊力の無い私達が反撃できないのって、なんだか悔しいでしょ」

「えーとですね、簡単な話、基本的に霊は物理的に直接干渉する事が出来ないんですが、精神的な力を霊力や妖力といった、精神、物理両方に影響を及ぼせるものに変えることができます。十六夜が触れることが出来るのも、私達が霊体に接触できるのも霊力を利用しているからで、そのときであればこちらから物理的に接触できます」

「じゃあ、向こうが物理的に攻撃してくる瞬間は、攻撃できるということ?」

「そうですね。ただ、それで人型の霊に傷を負わせても、急所的な部位は関係ありません。『もや』のような霊気の塊と同じです。向こうにしてみれば、体のどこを攻撃されようと『霊力』の一部を削られたわけですから。当然、痛覚もほとんど無いでしょう。

 十六夜を例に簡単に言えば、腕や足――頭を切りおとしても、その分の霊力を失っただけで再生できます。『肉体』ではなく、人間の形をかたどった霊気の塊――それが、十六夜です。ただ、彼女の場合、霊剣という媒体と神咲家の術によって、限りなく生前の肉体に近い感覚を持てるそうですが――」

「へ~、奥が深いんだ……」

 

 はっ――と。

 なんとなしに窓の外を眺めていたリスティが、凍りついたように止まる。

 心なしか瞳孔が開き、唇も僅かに震えていた。

 そして――

 

「くそ!ボクは馬鹿だ!」

 

 周りの目を気にせず、声を張り上げた。

 

「そうだ、そうだよ。どうしてボクはそのことに気づかなかったんだ!」

「ど、どうしたんですか?」

 

 美由希が慌てて声をかける。

 リスティは彼女を無視して那美の方を掴んだ。

 

「那美、人型でもその体は霊気の塊だって言ったよね」

「は、はい。言いましたけど……なにか?」

「いいかい、今回の事件はHGSの能力によって行われた。それは間違いが無い。HGS能力が使われたときの特有の、特殊な放射線が現場から検出されていたから。だけど、それを幽霊が使えるわけが無いんだ」

 

「ふむ?」

「え、どういうことなの?」

「リスティさん、なぜですか?」

 

 高町兄妹、那美ともども、首をかしげる。

 

「HGS能力は、例外無くフィンから得られるエネルギーを利用する。例を挙げれば、知佳は太陽光線をフィンに受けることで、ボクは摂取した糖質をフィンに送ることで、エネルギーに変える。しかしこれは、フィンの物理的なエネルギーの変換だ。ボク達は無意識にしているが、そこには複雑な化学反応と物理作用が生じている。

 いいかい?那美の話から言えば、たとえその霊がフィンを持っていたとしても、体と――『肉体』と繋がった物理的な羽じゃないってことだ。あくまでも、フィンの形をした『霊気』なんだ。HGS能力を模した霊力や妖力云々ならともかく、フィンを媒体にしたHGS能力そのものが使えるわけが無いんだよ! つまり、犯人は幽霊でもなんでもない、実在する生きたHGS能力者以外ありえないんだ」

 

 あ――と、三人が息を飲んだ。

 

「伝説に躍らされすぎていたよ。ボクはすぐに本部に行く。HGS患者のリストを――いや、あの村で起きた事件を調べてみる。村人達の隠していることも、すべて吐かせてやる。捜査を一からやり直しだ」

 

 いざとなれば、始末書覚悟で心を読むつもりだった。証拠にはならなくても、口を割らせる材料にはなるはずだ。

 彼女は立ち上がり、出口に向かって歩き出す。苛立っているのは、自分と同じ能力を持つものへの、近親憎悪からだろうか。

 ふと、止まる。首だけ那美を振り返り――

 

「あとで、塚に線香をあげに行くよ。故人とはいえ、冤罪を着せかけた謝罪はしないとね」

 

 冗談の様に本音を言う、彼女らしい言葉だった。

 

 柱時計から、あのメロディが奏でられ始めた。

 

 



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第四章 「残された枷」

 

         ◇

 夜。

 

 再び、塚。

 

 那美は結界を説き、寮から持参した座布団を敷いた。

 座る。

 美由希と恭也も、それに続いた。

 二人が着いてきたのは、護衛のためではない。この結末を、見届けるためだ。

 無言の時が流れる。ただ、昨日のような二種類の静けさが混ざった緊迫した雰囲気ではない。あくまでも、自然な音だけの静寂だった。

 小一時間ほどたっただろうか。岩が突如光ゴケがついたように、淡い光を発し始めた。

 恭也と美由希は息を呑むが、那美は落ち着いた様子でそれを見守った。

 天使が――そう言い換えて差し支えないほど美しい女性が現れる。その顔には寂しさ。皮肉なことに、その表情ですら美しかった。

 彼女はゆっくりと歩を進める。三人は、その姿を追った。だが、どうも彼女の方向性はおぼつかず、あっちこっちと徘徊するだけである。ただ、時折何かを探すように周囲の音を聞いていた。また、時には地面を掘るような仕草をするが、霊体である彼女の手が土にまみれることは無かった。 

 おそらく、彼女は彼女の求める何か以外に、反応は示さないのだろう。

 だが、闇雲に探したところで、まして幽霊の彼女に見つかるわけが無い。

 たっぷり二時間ほど歩き回った後、不安と寂しさをたたえた顔で、彼女は一つの木の下に腰掛けた。そこは、彼女が一番熱心にその何かを探していたところである。

 そして――

 

「――、――……」

 

 歌を、歌い始めた。静かに、優しい――そしてどこか安らぎを感じる、そのメロディ。

 歌は決して上手いといえるものではない。だが、その歌声を、素直に美しいと感じる。

 恭也は、歌手である友人、フィアッセの「歌は、その技術よりも歌を愛する心が一番大事」と言っていた事を思い出した。

 なるほど――。技術も心も一流のフィアッセに言われてもよく判らなかったが、今は、素直に納得できた。

 

「あ……この曲は……」

 

 ため息のように小さな声で、那美。その一言で、残りの二人も気づく。

 

「ああ、これは……」

「うん、そうだね」

 

 これで、やるべきことは決まった。今すぐにでも、行動は出来る。

 だけれども――

 

「――。――……」

 

 その歌が終わるまで、彼等はそれに聞きほれることにする。確認を取らずともその思いは、三人、共に等しかった。

 

 

 

         ◇

 次の日の夜、那美は彼女の手を引いて、海鳴りの街を歩いていた。繋いだ右手に注いでいる霊力を維持しながら、彼女を誘導する。

 岩から現れた天使は、霊力を持った那美の接触にも反応らしい反応は見せなかったが、それでも、その思いを汲み取ったのか大人しく付いてきている。

 塚と言う霊場から遠く離れたため、その姿は通常の人には見えない。誰かの手を握るように歩く那美の姿は奇異の目で見られるが――もっとも、それほど多くの人とはすれ違わなかったが――、彼女は気にしなかった。

 目的地に着くと、そこで高町兄妹が待っていた。さらに、髭を生やした三十前後の男が隣に居る。全員で、建物の中に入った。電気は、点けない。

 完全に関係者のみであることを確認して、那美は霊力を彼女に送る。うっすらとであるが、それの姿は那美以外の彼等にも見え始める。男は驚いていたが、それでも事前から聞いていたこともあり、取り乱すことなく頷き、柱に近づいた。

 しばらく彼が何かをした後――ポロロン……と、あのメロディーが流れ出す。

 

「あ……あああ!」

 

 突如、天使が涙を流して柱に近づく。時計に埋め込まれたオルゴールを見つけ、彼女は抱きしめるように手を回した。

 

「……うううぅぅぅぅ」

 

 涙が止まらないその顔は、歓喜。待ち人にようやく会えたように、彼女は今、再会の余韻に浸っていた。

 その姿勢のまま、ポウ……と、彼女の霊体に輝きが増す。周囲の面々が「あ……」と声をあげると同時に、彼女の姿は、光の塊となり――柱時計に降り注ぐように弾けた。

 幻想的な光景。

 その美しさを彼等は生涯忘れることが出来ないだろう。

 オルゴールは、彼女の光を纏う。そして、音色の大きさと共にそれは小さくなっていった。

 完全に音が止み、光が消えて――全てが終わったことを、皆に伝えていた。

 

 

 

 

 

         ◇

 翌日――本来定休日となる第三金曜日。

 喫茶店は、那美達の貸切になっていた。

 男――この店のマスターは、柱時計を見ながら、皆に語る。

 

「この柱時計はね、祖父の物なんだ。機械いじりが好きだった祖父は、自分でこのオルゴールを埋め込んだらしい。なんでも、好きだ

った人の忘れ形見と言っていたが――まさかそんなことがね」

 マスターは恋人の髪を梳くように――柔らかにそれを手でなぞった。

 

 昨夜、殺人事件の犯人は捕まった。

 やはり、HGS患者で――あの村の出身者である。

 彼は、つい最近まで記憶喪失の人間だった。犯行当時も、かなりの錯乱状態であり、責任能力が問えるか怪しいと言うことだ。

 

「普通ならそうなるとやるせないのだが――今回の場合、ボクは被害者に同情なんかしないよ」

 

 と、リスティは言った。

 あの村は――HGS患者の能力を利用し、潤った村だった。もともと海鳴とは疎遠であり、外界とも交流はほとんど無かった。だが、彼等はあるとき、大きな力を手に入れることになる。

 村の中で、一人の少女が生まれたのだ。

 彼女は、いつしかその背に羽を生やし、信じられない奇跡を起こしつづけた。村人は歓喜し彼女を聖女とたたえ、能力を重宝し、利用したが、出来立ての教会の神父は、そのことに言い顔を示さなかった。

 だが、その能力には副作用も存在する。能力を使うたびに苦しくなる体に、彼女はいつしか力を使うことを躊躇うようになった。

 そこで、手のひらを返したように、村人達の態度が変わる。そして、噂が流れたのだ。

 

「彼女は力を自分だけのために使うつもりだ」「いや、私達をあの恐ろしい能力で襲うかもしれない」

 

 これを機に、神父は彼女を「天使を偽った悪魔」という噂を流し――初めの噂も彼が唄ったのかもしれないが――、そして、キリスト教における最低の愚挙、魔女狩りを再現したのである。

 彼女は何日もの拷問の後、殺され、埋められた。そして、彼女の復讐を恐れた村人は、その上に封印のための塚を作ったのだ。

 そしてその事件から数年後、村人の中に再び羽を持つ少年が現れた。

 彼は様々な虐待と拷問を受けながらも、何とか脱出に成功したのだが――いくつもの県を越えた遠い町で倒れ、記憶を失い新たな生活を歩んだのだ。

 村人は、逃げた少年の復讐を恐れ、村を捨てる。そして、万一の監視者として、神父を管理人に置いたのである。

 そして、そのときの少年こそが、今回の犯人である。

 たまたま訪れたこの山で、彼は六十年前の記憶がフラッシュバックした。そして、そのときの行為を記憶の中で再体験した彼は、復讐を考えたのである。村の住人で――魔女狩りの件を直接行った大人だった者達の中で、生きているのは僅かに十二名。だが、今回殺害された二人こそが、率先して村人達を先導し、虐待をした者――神父と、当時の若者達のリーダー的存在だった男である。

 復讐を果たした彼は、警察の出頭に大人しく応じると、その全てを自白した。

 

「許される行為じゃないさ……どちらもな。ボクは、被害者と犯人の、どちらの弁護をする気も無い」

 

 怒りは、彼女の震える煙草からも読み取れる。

 

「でも、どうして殺された彼女の方は、村人達を恨まなかったんでしょう。普通なら、それが当然なのに」

 

 理不尽な暴力に対する美由希の怒り。それは、彼女の真意。

 

「美由希ちゃん……私にもわからないけど……それでも、信じられる人がいたからじゃないかな」

 

 マスターが、自分の入れたコーヒーを啜りながら言った。

 

「私の祖父は医者をしていてね。いろんな人を助けるのが喜びだ、と言っていた。そして、それは初恋の彼女から学んだと、よく私に言って聞かせてくれたよ」

 

 そう――。彼の祖父もまた、村の出身だったのである。

 

「恋人が羽を持っていたなんて話、祖父は言っていなかったから、HGSが顕著に発症する前だったんだろう――祖父は曽祖父に連れられて、医学を学ぶために海外へと向かった。その為彼女と別れて、そのときにこのオルゴールを渡したんだそうだ。そして数年後、医者になった彼が戻ってきたとき、彼女は死んでいた。村人の誰も理由を教えてくれず、ね。でも、二人がよく遊んだという木の下に、これが埋まっていたんだそうだ。そして、祖父はまた海外に……。今回の話を聞いて思ったんだが――おそらく、彼女は自分が殺されることを覚悟していたのだろう。そして、これだけは奪われたくなかったんだろうな」

 

 そして、そんなことを知らない彼は、それを形見として時計に組み込んで、家に飾りつけた。せめて、いつまでも彼女を忘れないために――。

 

「そして、やっと再会できたんだ。オルゴールにも、そのときの祖父の思いにも。人を憎むより、愛した人との思い出を探すことを心残りとした彼女だ。安らかであると、信じよう。私も、いまさらその村の人々を憎む気は無いしね」

 

 マスターの言葉に、リスティは唇を噛んだ。

 

 まだ一つ、誰にも言っていないことがある。

 こっそり村人の心を読み知ったことだが――

彼女は、村の男達に暴行を受けていた。光を受けられずにフィンの能力が使えない彼女を縛り上げ、数日間の間、休む間もなく犯し続けた。死んだのは、その結果である可能性もある。美しい娘であったそうだし、拷問される時の嗜虐性に、彼等に火がついたのかもしれない。

 マスターの祖父を想い続けていた彼女であらずとも、それが女性にとってどれほどの苦しみであるか、想像に硬くない。マスターは、彼女が憎しみより愛を選んだように語ったが、人間がそれほど出来た存在ではないことを、リスティは知っている。

 おそらく――死ぬ前に彼女は、すでに『壊れていた』のだろう。そして、死んだ後も壊れた精神が最後に求めたのは、辛い経験を呼び戻す復讐ではなく、せめてもの希望であった、遠く離れた人への思慕の証拠――このオルゴールだったに違いない。

 そう――それはあたかも、暗闇から光に向かって手を伸ばしたような――本能的な習性に過ぎない。

 

(救われない、よ)

 

 事実を一人で背負うには、重すぎる。だが、このことは――自分一人で闇に投じるべきだろう。悲しみを増すだけの事実を、誰に伝えよというのだ。もしかしたら、これは彼女に冤罪をかけた呪いかもしれない。

 カチ――と、煙草に火をつける。

 那美に咎められるが――

「黙祷のための煙草だ。許してくれよ」

 彼女の声の深さに、那美は何も言わなかった。

 

 



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終章  「御心よ、安らかに」

 

         ◇

 カラン――と、カウベルが鳴り扉が開く。

 貸切であるこの店に入ってくるのは、関係者しかありえない。入ってきたのは――

 

「かーさん!」

 

 桃子だった。

 

「やっほー、ここに居るって言うから迎えに着たわよ。……なんて、あたしもここのパスタ食べたかったんだけど♪」

 

 底抜けに明るい桃子の声に、妙に重かった空気が消えた。もっともリスティだけは、相変わらず暗かったが――。

 

「よし、それじゃ今日はご馳走しますよ。いつもシュークリームおまけしてもらってるし」

「あら、うれしい!」

 後は――なんとなく座談会になってしまった。

 それぞれが、それぞれに、会話を楽しみ、午後のひとときを過ごす。

 

「それにしても……ここの店の名前、いいですよね」

「そうですか?私も、なんとなくつけた名前なんですけどね」

 

 桃子の言葉に、うれしそうにマスターが答えた。

 

「かーさん、ここの店の名前の意味、わかるの?」

 

 美由希が聞くと、桃子が少し膨れて、

 

「あったりまえでしょ、これでもフランスに留学してたんだから」

 

 と、言われても、誰も名前がフランス語であると言うことすらわからなかったのだが。

 マスターが苦笑しながら言った。

 

「ここの店の名前はね……」

 

 語る。

 それを聞いた瞬間――

 

「……ぷっ……くははははははは!」

 

 リスティが急に笑い出した。

 

「ど、どうしたんですか?」

 

 と、マスター。

 今までが沈んだ表情だっただけに、無作法にあきれるよりも、驚きのほうが勝ったらしい。

 

「はっはっははは。いや、こっちのことだよ。……恭也、ボクの負けだよ。確かに、君の言うとおりだね」

 

『なになに?』『どういうこと?』と、周りの面々がリスティと恭也に聞き詰める。だが、恭也の方も意味がわからないらしい。

 唯一の理解者であるリスティは煙草を消すと、にんまりと笑った。

 

「いやね、ロマンチストな恭也も、捨てたもんじゃないってこと」

 

 言われて、恭也は何の事かと訝しがるが――思いつき、顔を朱に染めた。

 

「リ、リスティさん!そ、それは……」

 

 恭也の慌て振りに、美由希と那美もあの時のことに気づいたようだ。

 二人とも顔を見合わせて、くすくすと笑い始めた。

 桃子とマスターだけが、置いて行かれたようにポカンとしている。

 リスティは二本目の煙草に火をつけ、椅子に大きく寄りかかる。

 

「……なるほど、小さな偶然でも、『奇跡』と銘するほうが美しいのなら、『奇跡』といえる、か。……そうだね、こんなところにも小さな奇跡が転がっているんだ。この事件も、彼女の思いが最後に奇跡を起こした――と。ボクも、そう信じることにするよ……」

 

 

 店の名は『Retrouvailles』

 フランス語で、『再会』と言う意味である。

 

 

 

 

 

         ◇

 深夜の『Retrouvailles』

 誰も居ない、暗闇となった店内で、小さなメロディが流れていた。

 本来昼間に鳴るはずのその音色だが、昨晩マスターが一時的に時刻の設定を変えて鳴らしたために、今日もその設定が生きていたようだ。

 いつもよりほんの少し優しくなったその音色は、やはり、いつもよりほんの少しだけ演奏時間を延ばしているようだった。

 聴く者のいない、無人のコンサート。だが、それでも演奏者は――うっすらと光を発するオルゴールは、満足そうにいつもの曲を流しつづけた。

 明日になれば不審に思ったマスターが、あの時間に鳴るように調整してしまう。これからはまた、いつもの時刻に開幕することになる。

 だから、この闇夜の中での幻想的な演奏会は今日だけだ。誰に気付かれること無く始まり、そしてもうすぐ閉幕しようとしている。

 

 明日からは、彼女と客人達の為に。でも今日だけは、彼女一人の為に――。

 

 唯一の演奏項目は、無名の音楽家が作った優しい小さな子守唄。

 きっと、彼女も穏やかに眠れることだろう。

 

 

 

                               愚者達の狂想曲   ~終~

 



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想いを届ける交響曲
序章  「秋の季節にも側にいる春」


Ewiger Fr?hling


 

         ◇

 ある日の学校からの帰り道で、少年はなんとなく公園を突っ切ってみた。

 特に意味があったわけではない。

 理由を探すとすれば、気分を変えてみたかったからとか、鳥がその方向に飛んでいったからとか、そんなちっぽけなことだ。

 公園を横切ることで家路には多少遠回りになるのだから、本当に気まぐれだとしか言いようが無い。

 だが、実際に歩いてみると、夕日に染まった木々の景色が驚くほど綺麗で、踏みしめる土の香りが清々しかった。

 以来、彼はその道を使うようになった。

 

 彼が彼女を選んだ訳も――きっと、似たようなものだろう。

 

 

 

 

 

         ◇

 落葉樹に色が付き始めたのは、つい先日の――十月上旬のことだった。

 通年に比べて、やけに遅い紅葉の兆しである。

 テレビでも、気象予報士がその「異常さ」を取り上げていたが、冷静に考えればむしろ当然のことだといえる。

 今年に限らず、今までのどの年であれ、それなりの「異常」を持っていたのだ。ある年は集中豪雨に、ある年は気温の高低の大きさに。

 一年を通した気象が、今までの平均値を取りつづけるほうがよほど気色が悪いのではないか――。

 そう考えれば、その「異常」だという事がかえっていとおしく思えてしまうのである。

 

 

「ひねくれてるかな、俺」

 

 自分の意見を述べた相川真一郎は、その少女のような整った顔立ちにそぐわない台詞で最後にポツリと毒づいて、朝日の差し込む窓から自分の正面で座る彼女の方へと視線を動かした。

 赤毛の少女は、少しキョトンとした顔で真一郎を見ていたが、咥えていたストローを唇から放し――

 

「そうですね、ちょっと捻くれてるかもしれないです」

 

 それから可笑しそうに口元を押さえて、

 

「でも、嫌いじゃないですよ。そういうの」

 

 微笑んだ。

 純正の日本人にはまずありえない彫の深い顔は、自然な赤さの美しい髪とマッチして、言いようの無い美しい容姿である。釣りあがった目が多少きつく思えなくも無いが、幼さの残る表情が、それをチャームポイントに変えていた。

 花で彼女を喩えるとしたら――

 

『さくら』

 

 ちょうど、彼女の名前と同じ樹木が思い出されるだろう。

 綺堂さくら。

 真一郎の恋人である。

 出会いから、様々な事件に巻き込まれながらも、いまではこうして、登校前の朝食を共にする仲にまでなった。

 ちなみに――ここは真一郎の家のリビングルームである。

 真一郎が一人暮しをしていることを良いことに、さくらは時々こうして半同棲のようなことをしている。付き合い自体は相互の両親公認であるが――

 

「さすがに、毎日はまずいかな……」

 

 と、思わないでもないが、朝起きた時に彼女の笑顔があるという誘惑に、勝てずにいる。

 一年前のさくらを知るものには想像もつかないほどの弾んだ表情。

 そんな彼女を見て、真一郎は、「ああ、可愛いな」と素直に思う。

 人は、彼女のことを『美人』とか、『綺麗』と評価するが、真一郎がそう感じたことは、ほとんどない。

 過去に思いをはせてみても、猫や鳥と戯れる姿や、保健室のベッドで恥ずかしそうに布団を被っているところなど、どう考えても微笑ましいとしか言えないような光景しか、思い出せないのである。

 真一郎の幼馴染の一人、野々村小鳥に言わせると――

 

「それだけ、真くんの前でしかそういう姿を見せていないってことだよ」

 

 ということらしい。

 まあ、正直なところ、恋人が自分だけにしか見せない表情があるというのは嬉しいことである。男特有の身勝手な独占欲とはいえ、やはりそこは譲れないところである。

 そのこともあり、もし他の男がさくらのことを「綺麗だ」といっても、真一郎はあまり気にしない。それはある意味、その男がいかにさくらを理解していないか、というように思えるからだ。 

 だからこそ、彼女を「かわいい」という男は要注意である。

 もっとも要注意どころか――すでに、そう言ってさくらに近づいてきた後輩の一人を校舎裏に呼び出し、

 

「手ぇ出したらコロスよ♪」

 

 と、笑顔で釘を指していたりする。

 言われた少年は、「相川先輩の綺麗な顔の奥底に、鬼を見ました……」と、友人に証言したらしい。

 小柄な体と中性的な顔により誤解している人が多いが、真一郎はそれなりに喧嘩には強い。

 小さいころから空手をしていたので、そこいらのチンピラから女性を守る程度の心得はある。

 そうは言っても小鳥意外の知り合いの女性は、皆往々に真一郎より強いのだが……まあ、これは彼の特異な環境のせいなので、彼を攻めるのはかわいそうかもしれない。

 なにしろ、護身道の有段者が数名に、忍術使いが一人、暗殺術の使い手に、幽霊などという反則者までいる。

 悪友の端島大輔曰く、

 

「おまえが守るっていうより、おまえがみんなに守られてるっていう図の方が、絵になるような気がする」

 

 とのことだ。

 

「まあ、良かったじゃないか。彼女はか弱い女の子で」

 

 と続いたのだが、ここにも、大きな落とし穴がある……。

 

 

 

「どうしたんですか?先輩」

「あ、いや、ちょっとぼーとしてただけ」

 

 まさか、他の女性のことを考えてましたとは言えない。

 さくらは、少し訝しげな顔で真一郎を見つめていたが、特に変には思わなかったらしい。またすぐに微笑を浮かべ、食器の片づけを始めた。

 キッチンで軽く洗い物を済ませ、再びリビングに戻ると、自分の椅子に座――らずに、後から真一郎の首に手を回して、抱きしめる。さくらはそのまま甘えるように、自分の頬を真一郎の顔に擦り寄らせる。

 少年は少し困ったように――嬉しくないわけは無いので、少し照れた感じでお互いの顔を寄せ合う。

 カップルの熱い抱擁――には違いは無いが、二人の場合少しだけ異なることがあった。

 

「先輩……お腹すいた」

「……はいはい」

 

 苦笑をしながら、常備しているウェットティッシュで首筋を拭い、少年は差し出すように首をかしげた。

 少し湿った跡の残る首筋の血管は、トクントクンと生命のリズムを刻んでいる。そこに少女は軽く息を吹きかけ、真一郎がくすぐったそうに体をゆすると、「クスッ」と小さな笑みをもらしてから――牙を刺した。

 プツっという音と共に、小さく鋭い痛みが真一郎を襲う。しかしそれも一瞬のことで、コクンコクンと少女が喉を鳴らすのに合わせて血液が抜けていくと、意識を失う時の独特の快感が続いていた。

 

(少し……癖になるかもしれん)

 

 血を吸われることに、初めこそ違和感を感じていたが、慣れてしまった今、新しい感覚が目覚めつつある気がする。

 そんなどうでもいいことを考えていると、すっと、さくらの唇が離れた。

 そして、牙を突き立てた場所に子犬のように何度も舌をはわす。ぴちゃりという少し卑猥な音に、真一郎はともあらば襲い掛かってしまいそうな自分を必死に押さえていた。

 

「……ふう」

 

 ほうっと、さくらは息をつく。顔が僅かに昂揚していた。

 

「おいしかった?」

「……はい」

 

 飛び切りの笑顔で、さくらが答えてくれた。

 

 

 夜の一族と呼ばれる、人ではない血を紡ぐ一族。

 そして、祖父に人狼の、父に吸血鬼の血を引くハーフ。  

 それが相川真一郎の恋人、綺堂さくら。

 

 物語は、そんな二人の夢のような幸せな日々と――決して消えることの無い冷たい現実が形を作る。

 

 

 

 

 



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第一章 「流れていく喧騒の瞬間」

Falscher Frieden


 

 

 

         ◇

「秋と言われてなにを思う」

 

 と、聞いてみれば、食欲、スポーツ、読書、などがあがるだろう。

 しかし、シンプルに『風』というのもいいかもしれない。

 春の一番風や、冬の木枯しよりはイメージが薄いかもしれないが、秋口の風と言うのは独特の趣があった。

 真一郎が学校へと続くアスファルトを踏みしめて歩くと、冬の到来を予感させる冷たい風が、それでもどこか温もりを感じさせ、果実の実りを教えてくれるようだった。

 隣で肩を並べて――真一郎の小柄な体があってこそなのは置いておくとして――いるさくらが、心持ち顔を挙げて、真一郎の横顔を見る。

 

「うれしそうですね?」

「ん?……うん、そうだな。なんか、こういう雰囲気って、好きみたいだ」

 

 どこか、他人事のようにさくらに答える真一郎。

 彼等が通う風雅丘学園までは距離があることもあり、他の生徒の姿はまばらにしか見えない。二人で歩くこの道をまどろみながら楽しむのもいいだろう。

 

「……ぉ……ぅ」

 

 少しだけ、甘い香りがする。それがさくらのつけているシャンプーの香りだということに気づくのは少し間が開いた後だった。

「……は~…よぉ~……」

 それにしても、同じシャンプーを使っているのにこうも違いが出るもんか、と、少し思う。少しかいでみようと、真一郎は顔を寄せ――

 

「お~は~よ~!」

 

 ゴス!っと側方からの鈍い衝撃。景色が横に流れていき、体が宙に浮いている感覚。

 踵が地面について、コンマ秒の空中浮遊から逃れると、先ほどの衝撃物に目を寄せる。

 

「……唯子!いきなり何すんの!」

 

 真一郎より二周りは大きい彼女に、彼は怒鳴りつける。

 てへへ……と頬を掻きながら現れた彼女は、鷹城唯子。真一郎にとって、小鳥と並ぶもう一人の幼馴染である。

 

「……まっ…て……。唯子~、速いよ~。……あ、おはよう真くん」

 

 そして、その小鳥が息を切らせてとてとてと走ってきた。小柄な真一郎よりも、さらにもう一回り小さい小鳥は、ともすれば小学生に間違えられてもおかしくない。

 

「うん、おはよう……。って小鳥、大丈夫か?唯子、小鳥を置いてくるなよ」

「ごめんね小鳥ー。なんかこーいー天気だと元気有り余っちゃって」

 

 ぶんぶんと両手を振って声を高らかにする。

 ふと、真一郎の後ろを覗きこんだ。

 

「あれ……?さくらちゃんも一緒だったんだ。おはよ~」

「はい、おはようございます」

 

 さくらがおずおずと返す。

 ちなみに、唯子はさくらの秘密を真一郎以外に知っている数少ない人間でもある。

 

「……なんだよ唯子。俺の顔になんかついてるか?」

「ん~?いや~相変わらず仲いいな~って」

 

 少しだけ寂しそうに、唯子。

 さくらの秘密を知ることになった事件――さくらの腹違いの兄、氷村遊に操られていた時、彼女は真一郎に対する胸の内を告げている。

 半年以上足って、少しは吹っ切れたものの、まだ消え尽きていない思いがあるのかもしれない。

 

「そうそう、ねぇ真くん。弓華から手紙来てるんだよ~」

「へぇ、元気にしてるのか?」

 

『菟 弓華』

 

 以前、真一郎のクラスに編入してきた中国人である。

 その正体は、中国の暗殺組織「龍」で、「泊龍」の名を持つ暗殺者であった。

 級友の忍者娘――御剣いづみとの係わり合いでそのことを知った真一郎。

 様々な事件の末、彼女は今では改心して、いづみの兄、火影と良い仲になっているらしい。

 もちろん、そんなことを知らない小鳥は、ただ大好きな友達と文通しているだけなのだが。   

 

「?」

 

 ふっと辺りが暗くなる。といっても、真一郎の真上だけだったが。

 

「おーっす」

「おっはよーございまーす!」

 

 悪友、端島大輔と、井上ななかのカップルコンビが現れた。

 

「ううう……せっかくの朝の落ち着いた空間が、あっというまに宴会場に」

 

 ため息をつく真一郎の背中をバンバンとたたき、大輔は、

 

「ははは、ぼやくなって。彼女が大事なのはわかるが、親友も大事にしろ」

「まあ、いいけど……」

 

 大輔はくると首を変え、さくらに興味を向けた。

 

「それにしても、綺堂って同じ通学路だったんだ。どこにすんでるんだ?このへんか?」

「いえ、私は……」

 

 自分の住所を告げる。

 

「え?それって思いっきり逆方向じゃないですか!」

 

 ななかがそれに驚きの声をあげた。周りの皆も、息を飲む。

 さくらが自分の失態に気づき、あっと口を押さえたが、それはかえって逆効果である。堂々と、「迎えに来た」とでも言っておけば――真一郎の立場が無くなるだろうが――恐らく問題なかったに違いない。

 案の定、ななかと大輔が、「ははーん」とすこしいやらしげな目で二人を見る。

 

「な~るほど……どうりでシャンプーの匂いが同じだと思いましたよ……」

「やるなぁ……」

 

 ぼんっ!と音が鳴るほどに、さくらの顔が染まる。

 その様子に、鈍い小鳥と唯子も、なんとなくその意味を理解したようで、さくら以上に赤くなっている。

 

「こ、こら、そこの二人!なんか妙な顔でひそひそ話しないで……。唯子も小鳥も!放心しないの!」

 

 慌てる少年と少女を尻目に、大輔が一言言った。

 

「なぁ」

「……なんだよ大輔…」

 

 にま~と唇を歪ませて、

 

「今日の昼飯で良いぞ」

「なんだよそれ」

「いづみへのくちどめ料」

 

 情報を聞きつけて、にやにやと絡んでくるいづみの姿を思い浮かべて――

 

「……手を打とう」

 

 真一郎が折れた。

 

 

 

「――!?」

 

 不意に――真一郎が空を見上げる。

 背筋をなぞるような不快感に、体が考える前に反応している。

 真一郎は気づかなかったが――さくらも真一郎と同じ目線をたどっている。

 

「真くん……どうしたの?なんか怖い顔してる……」

 

 不安そうに、小鳥。

 

「……いや。気のせいみたい」

 

 そういいながらも、目線は動かさない。

 大輔の、「張りきりすぎて寝不足か?」という下世話な冗談も、耳を通りすぎていく。

 

「それより遅刻しそうだ。早く行こう」

 

 真一郎は皆の方へ向き直り、そう促す。

 気のせいだ――。

 自分の言った台詞ながら、それは本心ではないのだろうという漠然とした思いがあったが――。

 

「……まさか、ね」

 

 呟きは、誰の耳にも届かずに秋風に消えた。

 

 

 

         ◇

 ちなみに、大輔に昼飯をおごった直後の昼休みに、にたにたと笑ういづみが現れ、

 

「相川……昨晩はお楽しみでしたか?」

 

 真一郎は再び悪友の姿を探すことになるのだった。

 

 

 

 

 



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第二章 「親友と呼べる人」

Er ist der sehr wichtige Freund, der mir vertraut.



         ◇

 海鳴市桜台337-3。

 私立山乃瀬学院の裏道をまっすぐ行ったその先に、その白地の建物は国守山という大きな裏山を携えて存在している。

 柔らかな自然に囲まれたここ海鳴市でも、さらに多くの翠に囲まれたそれは、近代的ながらもどこか昔懐かしい雰囲気を与えてくれていた。

 さざなみ寮――。この町の教育機関に通うために、多くの女性がこの寮を利用してきた。性別が偏っているのは、この寮が女子寮であるからだが――色めいたはずの女子寮には似つかわしくないはずの大柄な青年が、これまた雰囲気にそぐわない真剣を片手に、庭先で一心に剣舞をしている。

 

「は!」

 

 最後に大きく息を吐き出し横になぎ払うと、残心――行動の後にも殺気を残し、状況の変化に対処すること――をゆっくりと解いていく。

 

「ふぅ……」

 

 息をついて体の力を抜くと、横から手の鳴る音が聞こえた。

 

「すごいですね……耕介さん」

「やあ、真一郎。来てたんだ」

 

 舞を終えた青年、槙原耕介――神咲耕介となる予定の――は、先ほどまでの指刺すような鋭い表情が嘘のように、のほほんとした顔でガラス戸の前にたたずむ少年を見る。

 彼は、ここさざなみ寮の管理人で、同時に神咲一灯流という流派の退魔師をしている。もっとも、後者のほうは正式な免許皆伝者ではないが、学び始めてわずか一年足らずで基本を習得し、異例のスピードで成長を続けているらしい。

「晩飯たべてくだろ?今日は珍しく人が少なくてね」

 

「さくらもいますけど、いいですか?」

「はっはは。相変わらずだな。今更君達が遠慮する必要は無いだろ?」

 

 豪快に笑う耕介。

 後で知ったことだが――彼の旧友以外で、男の知り合いを呼び捨てで呼ぶのは真一郎に対してだけだそうだ。

 それは耕介が並々ならぬ敬意と親愛を、真一郎に対してしていることに他ならない。

 耕介が真一郎の名をそう呼ぶようになったのは、今年の八月のことである。

 あることでずっと悩んでいた耕介は、ある日、さざなみ寮を飛び出して道に行き倒れたことがあった。

 その時の彼を介抱し、その悩みを振り払うきっかけを与えられたのである。(第一作、十六夜想曲参照)

 もっとも――それが耕介にどれほどの救いとなっていたのか、真一郎は理解していないのだが――

 

「じゃあ、飯食ったら手合わせしようか?組み手しにきたんだろ?」

「お願いします。今日は昨日より少しだけ強めで」

「わかってる。常に一歩前に……だろ?」

 

 そういってにやりと――決して不快ではない――笑みを浮かべる。

 女子寮と言うなかで男性の管理人という立場になっていても、皆からの信頼を受けているのが、わかるような気がした。

 耕介は、神咲一灯流での剣術を習う以前から、もともと喧嘩に明け暮れていた――簡単に言えば不良だった。今の姿からは信じられないかもしれないが、それなりに名の通った喧嘩屋だったらしい。そんなこともあり、空手の有段者の真一郎とはいえ、耕介からは一本もとることが出来ずにいる。

 そして何時のころからか、真一郎は耕介に鍛錬を頼むようになっていた。

 

「それにしても……よく続くね」

「……男の俺が、好きな人より物理的に弱いっていうのは、やっぱり……ね。少なくとも、守られる存在にはなりたくないんですよ。例え、さくらがそれを望んでいなくとも、ね」

「ま、それは仕方ないさ。男の身勝手なエゴって奴だし。こればっかりは、ゆずれないさ……。まあ、そう言って無茶すると、嫁さんが怒るけどな」

 

 ちゃ、と手にした刀を傾ける。それが合図とばかりに、刀がほんの少し燐光を放つと、しゅるんと言う音と共に、金髪の美しい女性が現れた。

 

「そうですよ、耕介様。この前の仕事の時も、無茶をして大怪我をなされたではありませんか」

 

 十六夜。耕介の妻である。もっとも、戸籍上では耕介は独身だが――

 そもそも、十六夜は人間ではない。

 退魔師の業を背負う神咲家。そこに四百年に渡り仕えてきた、霊剣十六夜に宿る魂が具現した姿――それが、刀の銘と等しい名を持つ、彼女の正体である。

 人間ではないものとの契り。それは、真一郎とさくらに通じるものでもある。

 それだけの為ではないが、この二人には幸せになって欲しい、と真一郎は思わずに居られなかった。

 十六夜が、微笑を――美笑ともじっても可笑しくない――浮かべ、盲目の瞳にちょうど真一郎の映像が入る位置に向き直る。

 

「相川様……あなたも、あまり無理はなさらないでくださいね。悲しむ方は大勢います。そして、それ以上に涙を流す連れ合いがいるのです」

「……はい」

 

 頭を垂れた。

 この人に叱られると、本当に自分が悪い事をしている気持ちにさせられると思う。

 それは、その言葉が彼女自身の生きてきた――過ごしてきた時間から学んだ、心からの訴えだからだろう。

 たった一言の言葉の重さ。

 盲目の天女は、いつもそれを教えてくれる。

 

「耕ちゃ~ん、おなかすいた~」

 

 不意に今から、声。

 

「千堂さん……いつもあんな感じなんですか?」

「ああ……学校じゃ猫かぶってたみたいだけどな……」

 

 もう卒業したとはいえ、唯子の先輩兼ライバルの千堂瞳は、女子からも男子からも憧れの、学校のアイドル的存在だった人物である。

 はっきりいって、今のこの姿を級友たちに教えても、誰も信じないに違いない。

 もっとも、幼馴染であり元恋人の耕介にとっては、逆なのだろうが――

 

「さてと……じゃあ、晩飯を仕上げるか!真一郎、手伝ってくれるか?」

「任せてください!」

 

 耕介に向かって親指を立てる真一郎。

 彼も、耕介には及ばないものの、料理の名人――もちろん素人としてはだが――である。

 大きく伸びをした真一郎は、なんとなしに視線を上げた。

 その先には今日の晩餐をたたえるように夕日が静かに沈んでいき、辺りの景色を朱色に染めている。

 赤く染まったその光景は確かに綺麗だった。

 情熱の色、激情の色――赤。

 そう称されるのが、決して言葉だけではないと感じる。

 だがなんとなく――彼には、それが血の色に見えた。

 それは、一羽の蝙蝠が不気味に空に飛び去ったことのせいか――

 

 

「まさか……、ね」

 今日、二度目となる台詞は、なぜか自分でも虚構に思えた。

 



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第三章 「壊された愛情の欠片は」

Ich wurde von ihm in der Liebe zu ihr bestritten.



         ◇

 風が静かに凪いでいる。

 秋風の匂いは甘く、それでいてどこか寂しい。

 優しいと感じるよりも早く、刺すような冷たい風に変わる。

 もし秋の風に人格があるのだとしたら、意外とぶっきらぼうな奴かもしれない、と、少年はフェンスに寄りかかりながら考えていた。

 フェンスの向こうに見えるのは、海鳴の中途半端に発展した町並みと、穏やかな海岸線。

 風牙丘学園の屋上からの、見なれた景色である。

 今は五時間目のチャイムが鳴ってから、十五分ほど過ぎた時刻である。早い話、赤毛の少年はサボりをしていた。

 すすっていた紙パックのジュースを潰し、備え付けのゴミ箱――誰かが私用に置いたバケツだが――に放り込む。

 

「……で、何時までそこにいる気?」

 

 真一郎は、体をフェンスによりかからせたまま、言った。

 それほど大きな声ではなかったが、聞こえたのだろう。給水等の影から、人間の影が現れる。

 出てきたのは、ハンサムと言って差し支えないが、どこか冷たさを感じずに入られない容姿の少年だった。

 そのどこか人を見下したような目が、真一郎には気に食わなかったが、それ以上に一個人として、その男に嫌悪感を持った。

 

「へぇ…気づいてたんだ?驚いたよ」

 

 その男は、きざったらしい動きで前髪を押さえた後、口笛を吹くように言葉を発する。

 言葉に反して、その男が驚いているようには思えなかった。

 

「……二度目までは偶然。三度目は必然ってね。お褒めの言葉はありがたいけど、気配を三度も感じて、それを気のせいだと認識する方がどうかしてるんだよ」

 

 睨む。

 自分がこの男に対しかなわない事は知っている。だが、心では負けるつもりは無い。

 

「それで、何のようだ?氷村。おまえの居場所はここじゃなく、冷たい棺桶の中じゃないか?ゲス吸血鬼」

「……下等な家畜の分際で、舐めた口を叩くじゃないか。今ここで、肉片に変えても良いんだぞ」

 

 見下した口調で、男――氷村遊が言った。

 男は、さくらの腹違いの兄、義兄となる青年である。

 さくらと同じ夜の一族であり、その一族の血を高尚なものとして、人間を下に引く、歪んだ性格の持ち主である。

 以前、真一郎と関係を持ったさくらに対し、純潔にこだわる彼が手を出してきた事件があった。

 その時は、彼の術を破り撃退したのだが――

 

「その気なら、今までにいくらでもチャンスがあったからね。おまえは愚かだけど、頭の回転は速いほうだ。無意味なことはしないだろう」

「ふん……。まあいい。どうせ貴様なんぞ、殺したところでうっとおしいだけだ。用さえ済めば、放って置いてやるさ」

「そうか、奇遇だな。俺もおまえにかまう暇は無い。失せろ」

「聴いてないのか?こちらに用があるんだ。貴様にその否定件は無い」

「だったら、その用件とやらをとっとと言え。わずらわしくない程度のことなら聴いてやる」

 

 あくまでも強気に、真一郎。握った手が震えそうなのを、何とか押しとどめる。なにしろ相手は何時でも自分を殺すだけの能力を秘めている。だが、それに臆したら、自分はこいつに対して決して勝てなくなるだろう。

 遊は、つまらなそうに一――

 

「なに、単純なことだ。綺堂と別れろ。そうすれば生かしておいてやる」

「……聞くと思うか?」

「別に。だがいくつか聞きたい。貴様は、本当に彼女が好きなのか?」

「どういう意味だ」

「彼女は、僕と同じ高尚な血を引いた一族だ。貴様は、下等な人間に過ぎない。一族を襲う脅威から彼女を守る術も、同じ時を過ごすことも出来ない。そんな貴様が彼女を幸せにするだと?笑わせる!おまえは僕達にとって、単なる食料に過ぎない!血を汚す異端者だ。貴様は単におまえのエゴだけで、彼女を縛っているだけだろう」

 

 射貫くような目で、遊。

 

「今はいい。だが、何十年と経った後も、彼女がおまえを愛すると思うか?彼女は若いままなのにも関わらず、貴様は醜く老い衰えていく。辛いだろうな。おまえの存在が、彼女を不幸にするんだ。にもかかわらず、おまえはさくらと共にいようとするのか!」

「……俺は…」

 

 言い返そうと口を動かす。だが、真一郎の唇は、閉じた貝のように硬く動かない。

「数日だけ有余をくれてやる。せいぜい、今の生活を楽しむが良いさ」

 

「まっ……」

 

 呼び止めようとした真一郎の指先に――遊の姿は無かった。

 ただ、声だけが響く。

 

「一週間後の同じ時刻。旧校舎の屋上で――」

 

 

 

 

         ◇

 校門で、さくらは真一郎の帰りを一人待っていた。夕暮れの霞む校舎を見上げて、思い人への思いに胸をはせる。

 一年前までは、考えもしなかったことだ。

 彼女に声を掛けてくる人間は多かったが、どれも下心が読み取れるものばかりで、正直、男性に対して嫌悪感に近いものがあったのかもしれない。

 それが今では、床を同じにするまでの人がいる。

 その人は、自分の呪うべき正体に驚きはしたものの、真っ直ぐに受け止めてそれら全てをひっくるめて愛してくれる。

 きっと、その彼を守る為ならば、自分は命を掛けて――他人の命を取ることにすら、躊躇いはないだろう。

 ……いや、自分との関係を壊そうとするものにも、きっと容赦はできないに違いない。

 

「あ……」

 

 その、少年が現れた。影の落ちた顔にがどこか沈んでいるように見えるが、落ちていく太陽のせいか、と、あまり気にしなかった。

「先輩!待ってました」

 

 飛びついて、腕にすがり付く。

 そして愛しい人の言葉を待って――

 

「…………」

「……え?」

 

 聞こえなかった。いや、予想外の事に脳が認識できなかったのだろうか――

 

「一人に……してもらえないか」

「……先……輩?」

 

 力が抜ける。

 同時に、振り払うように真一郎の腕が外れた。

 そして――真一郎は、振り返ることなく、夕刻の街に足を進めていった。

 ドサっと、さくらの手から鞄が落ちる。

 

「……え……先輩……どうして……」

 

 さくらはペタリ、と地面に座り込み――泣きはしなかった。だが、全てを失ったように放心をしていた。

 

 足元が崩れていく――そんな感覚を感じながら――

 

 

 



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第四章 「返された決意」

Er gab mir das Herz zu glauben.


 

 

 

          ◇

「最低だ……俺」

 

 あの日から、数日が経っていた。

 さくらとは、ろくに話をしていない。

 電話がかかってきても、学校で話し掛けられても、曖昧な返事で避けつづけている。

 

「……なにやってるんだろうな。今を精一杯、さくらと共に生きるって……決心したはずなのに」

 

 それは、決して軽い気持ちからではない。だが、それはあくまでも自分の為の決心だ。二人の関係に、自分が重荷になるなんて、考えたことも無かった。

 イライラをぶつけるように、近くの石ころを放り投げると、海の水面に波紋が広がった。

 座り込んでいる砂浜が、固い感触を臀部に返すが、それも今は気にならない。

 

「はぁ……」

 

 何度目かになるため息をついて―― 

 ピト、と頬に何かを押し付けられる感覚。

 緊張の抜けた脳は、しばらくそれに何の反応も示さなかったが――

 

「………ぃい~~~~!冷てぇ!」

 

 急な温度差に、跳ね上がる。

 

「あっはははははは!」

 

 きゃらきゃらと笑う男の声に気づき、真一郎は怒りを込めて睨みつけるがーー

 

「あ、あれ?耕介さん」

「よ!最近こないから、心配したぞ」

 

 買い物帰りなのか、片手に大荷物を抱えた槙原耕介が立っている。

 開いた手に持つ缶ジュースが、先ほどの悪戯の凶器らしい。

 

「ひどいですよ……」

「なに言ってる。先月、俺に同じコトしただろうが。ま、あの時はホットだったけど(十六夜想曲参照)」

 

 そう言って、少年の横に腰を下ろした。彼は買い物袋からジュースをもう一本取り出すと、ひょい、と真一郎に投げ渡す。そして、押し付けた方のジュースのプルトップを開き、豪快に口に傾けた。。

 青年は、ふう……と、さまになる形で息を吐き――

 

「んで、…さくらちゃんとなにがあった?」

「!?」

「驚くない。何時も一緒の二人がそろってなくて、元気なさそうにその一人が海岸で座ってりゃ、想像つくさ」

 

 少しだけ、憂いの表情で耕介。

 

「十六夜との事で迷惑掛けたおれが言える台詞じゃないかもしれないが、同じ悩みを持つ同士だ。話ぐらいは聞いて挙げれるぞ」

「……耕介さん」

「ま、正直興味も半分だ。軽く話せる範囲で良いさ」

 

 その言葉が、彼流の照れ隠しであることはわかる。

 真一郎は手にしたジュースを見つめ、開けることなく手のうちで転がす。

 

「……耕介さん。今更なんですが、十六夜さんと一緒になったこと、後悔してませんか?」

「ん?全然」

 

 青年は、まるでその質問を予想していたかのように、当然のように瞬時に答えを返す。

 

「普通には起る事のない、様々な困難があるのに?」

「うん」

 

 二度目の問いも、同じように。

 

「それが、結局十六夜さんを傷つけることになってもですか?」

「ああ」

 

 やはり即答。

 真一郎は、耕介のあまりのそっけなさに、彼が軽く流しているのかとその目を覗きこんが、

 

 ――深い。

 

 それが感想だった。

 耕介の目は、決して真一郎の訴えを軽んじているのではない。

 おそらくはそれが、揺るぎ無い信念なのだろう。

 

「困難があっても、あの性格だし十六夜が傷つくかどうかなんて、そんなのわかりゃしない。例え傷ついたとしても、それは俺と――十六夜自身の責任だろう」

「……は?」

 

 正直――言っている意味がわからなかった。仲睦まじく見える二人だが、耕介の今の台詞は、どこと無く冷めた意味に真一郎思えたのだ。

 

「お互いが、自分で選んだ道だ。その結末が不幸なものであったとしても、俺は後悔なんかしないし、きっと彼女もそうだと思う。それに、傷つくことが不幸なことだとは思わない。それは、きっと俺達のこれからに必要なことなんだと思うから」

「……」

「後の事なんか考えたって判らんが、少なくとも、今俺が十六夜から離れたら、確実にあいつは悲しむだろう。よくドラマなんかで、お互いの為に別れる――なんて切り出すやつがいるがな、恋人の、他人の幸せの定義を決めてどうする。だからな、そんなことをいう奴の台詞は間違いなく『自分の為』だ。都合のいい言葉で別れたいだけか、『逃げ出したい』のか、どちらかだよ。なら、さっさとそう言えばいい。そうじゃないというなら――二人で堕ちるところまで堕ちろ。逃げたいなら二人で逃げればいい。自分が決心して選ぶということは、その結末全てを受け入れる覚悟があって初めてするべきだと俺は思ってる。……それともなにか?君がさくらちゃんを選んだのも、やっぱり、彼女の体目当てだったか?」

「!?」

 

 真一郎は、目を見開く。

 耕介が、動じた様子も無く少し下卑た口調で続ける。

 

「まあ、しかたねぇよな。線の細そうなところはたまらないものがあるし。欲望をぶちまけてみたいって願望が生まれても当然だ」

 

 少年は、おそらく初めてこの青年に憎しみの感情を覚えた。しかも、おそらくは人生の中でも最大級の――

 無言で立ち上がり、青年を見下ろす。

 

「……耕介さん。それ以上侮辱するなら許しませんよ」

「あ?そう、かっこつけるなって。何しろあの容姿だ。男だったら、『ずっと一緒にいる』とか少しくらい大口叩いてでも落として、ベッドに引きずり込みたいものが――」

 

 バキィ!

 

 ――鈍い、音。

 

 少年の渾身の力をこめた右ストレートが、耕介の頬に突き刺さる。

 二メートル近い青年の体が、面白いように後ろに反れ、そのまま砂浜に倒れこんだ。

 息を切らせて震わせる真一郎の右の拳は、耕介の返り血か、それとも切れた手の甲の血か――おそらく両方だろう――が付き、ねっとりとした鉄の匂いが、潮の香りと混ざる。

 

「ふざけんな!あんたのゲスな想像で、大切なさくらを汚すんじゃねぇ!」

 

 よろよろと置きあがる耕介が、腫れた頬を押さえながら、真一郎に向き直る。

 

「大切だ?はん、正直に言ってみろよ。いい女だったんだろ?彼女を抱いて気分が良かったんだろ?自分は、そのせっかくの美味しい女を苦労せずに取って置きたいから、よけいな面倒に巻き込まれたくないって――」

 

 そこまで言って、耕介の眼前が闇になる。

 どうなっているかは判っていた。

 コンマ秒前に、真一郎の拳が迫ってくるのが、はっきり視界に映っていたからだ。

 ゴシュ、という耳慣れない音と共に、鼻の奥が熱くなる。鼻血が逆流して口から少し漏れたが、すぐに止まり、結局鼻自体からは血が流れなかった。

 真一朗は耕介の襟を掴み挙げ、憎悪の形相で睨みつけた。

 

「いいか!俺は全部覚悟して、さくらといっしょにいるんだ!あいつが悲しむのは見たくない、ただそれだけだ!あと一言でもさくらと俺との関係を貶めるようなこと言ってみろ。……殺してやる」

 

 はぁはぁと、真一郎の息の音だけが、妙に大きく感じる。襟を掴んでいるてがぶるぶると震えているのは、押さえきれない怒りを押さえているからだろう。

 そんな彼の姿を、少しゆっくりと見通した後――

 

「……なんだ。わかってるじゃないか」

 

 ニッ、と、いつもの人懐っこい笑みで、耕介が言った。

 

「…………え?」

 

 いきなりの青年の豹変振りに、上り詰めていた怒りが急速に冷えていく。

 力が抜け耕介の襟を放すと、彼は「やれやれ」と言いながら、倒れた時に服についた砂を払い落とす。

 

「とっくの昔に、答えなんて出てるんじゃないか。自分で忘れて自分で叫んでれば、世話ないだろ」

 

 わっはは、と耕介が笑う。

 そこで初めて、真一郎は耕介の真意に気づいた。

 

「あ、…あの、すいま…」

「謝らなくていい。悪いことをしたのはこっちだからな。……でも、すっきりしたろ?」

「……はい」

 

 自分が情けなくて、頭を落とす。

 

「あのさ、真一郎。君が俺に言ったんだぜ?『大切なのは、同じ時を過ごしているこの瞬間だ』って。だから、俺もその言葉を信じて、今ここにいる。……カッコ悪くったっていいさ。がむしゃらに、生きていこうぜ。――今を、な」

「は…い…」

 

 流れ落ちる涙を見られないように顔を下げる。

 

「……がんばりな。あんな奴に負けるなよ」

「はい……ぇ!?」

 

 あいつ、とは。

 今の真一郎にとって負けてならない相手は一人だけだ。だが、もし奴のことをいっているのなら、耕介はなぜそれを知っているのだろうか。

 

「ちょっと前に、さ。妙な妖気を感じて、向かいの高台から双眼鏡で覗いていた。神咲の術のなかに、読唇を可能にする技があってね。それで、二人の会話は知ってた」

 

 ぽかん、と真一郎。

 つまり、彼は全てを知った上で――初めから殴られる覚悟でここに来たと言う事だ。

 彼の心根に、少年はもう一度頭を下げる。

 

「じゃ、行くよ。腹を空かせた破壊獣達がうるさくてね」

「はい……」

 

 真一郎は、彼の背中を追うことが出来なかった。ずっと、頭を下げつづけていたからである。

 心の中で、あふれ出て伝えられない言葉――

 

「ありがとう」と繰り返しながら――。

 

 

          ◇

「大丈夫ですか?耕介様」

「ああ……ててて、良いパンチしてるよ。鍛えたかいがあったってことかな?」

 

 歩きながら、革ジャケットの懐に隠された、十六夜の位牌――携帯外出用である――に話しかける耕介。

 

「それにしても、どうなることかと思いました……私には、なにも教えてくださらないのですから……」

「ごめん。でも、ああいうのは男同士のほうが、いいかなってね」

「そうですね。あのように暴力的になってしまうのはいただけないですが――時々、殿方のそういう関係が、うらやましく思えます」

 

 少しすねたような口調だった十六夜の声に、覇気が戻ったように感じられる。

 

「それに、うれしかったのですよ。私との事を、あの様に語っていただいて」

「そう?でも、もともとあいつから学んだことを、返しただけなんだ」

 

 空を見上げる。服に付いた潮の匂いが、どことなく暖かかった。

 

「十六夜」

「はい?」

「……君が好きだ」

「……はい」

 

 十六夜と交わした契り。そして自分が――こうして十六夜と共にいる自分が、ここにあることを誇るように、歩く。

 

 




青臭くてワイが死ぬ


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第五章 「賭けるべきは己の思い」

Ich mu? dieses Spiel gewinnen.



         ◇

「で……覚悟は決まったか?」

「残念ながら――前よりも決心がついたよ。俺は、あいつのそばにいる」

 

 旧校舎の屋上で――。

 すでに腐敗した木々の匂いが充満し、独特の異世界感が支配する。

 風が――すでに冬のそれに近づいたそれは、ナイフのように肌を刺す。

 

「もう少し……利口だと思っていたがな」

「なに、馬鹿になるのもいいもんだよ。俺は、もう迷わずにさくらを信じるだけだ。あいつが、俺を信じてくれるように」

 

 静かな表情で、真一郎。

 

「信じるだと?下等なおまえを綺堂が?ふざけるなよ――」

「ふざけてなんかいない。むしろ問題だったのは、俺のさくらを信じる気持ちの強さだったんだ。

 俺は――一度さくらを疑って傷つけた事がある」

 

 おまえの犯行を勘違いしてな――、と、続ける。

 

「だから、俺は二度と彼女を疑ったりはしない。確かに不安はある。だが、無意味に疑心暗鬼にはならない。これから未来において、俺達は喧嘩をすることもあるだろう。要らない嫉妬に身を焦がすかもしれない。でも、――それでも、俺はさくらを信じる」

 

 言いきる。迷い無く。

 

「はっきり言って、もうおまえなんかどうだっていいんだ。俺はさくらの所に行きたい。この件の型が付くまで、会うわけには行かなかったんだからね」

 

 遊が、薄く笑った。

 

「戯言なんぞどうだっていい。なら――やはり、死んでもらう」

 

 ゾクリ――と、空気が変わった。

 心臓を鷲掴みにされたような感覚が、真一郎の背筋を通りぬけた。強気に出つづけているものの――この、力の差はどうしようもなく感じる。

 

「おまえのような奴に、一族の血が汚されてたまるか。家畜は家畜らしく、俺達の下で蠢けば良い」

 

 ざっ、と、遊が前にでる。

 

「後悔しろ。俺の譲歩に従わなかったことを」

 

 さらに一歩。

 真一郎の頬を、冷や汗が綴られる。

 この男がこの場で命を狙ってくるというのは、正直誤算である。

 

「あの時のようにいくと思うなよ。あれは綺堂の力があって、俺を追い込めたんだ。この校舎には俺が結界が張った。綺堂がここに気付くことはない」

 

 じりじりと間合いを詰めてくる。否――単に、恐怖感を与えてきているだけだ。そして、それを楽しんでいる。

 

(目を――見るな!)

 

 真一郎は、金縛りのように動かなかった体を奮い起こし、真横に飛ぶ。崩れかけた校舎の壁を後に背負い、前方からのみの攻撃に集中した。

 

「――は!逃げているつもりか?」

 

 遊は赤く染まった目をつりあがらせ、真っ直ぐに突進してくる。手刀を構え、真一郎の心臓目掛けて突き出した。

 

 ひゅ――と。

 

「――お?」

 

 真一郎の上半身が沈み、遊の突きが制服をかすめる。刃物で切られたように服もろとも肉が裂けるが、うっすらと赤い液体がにじむだけで、出血するまでには至らなかった。

 手刀はそのまま壁を突き破る。真一郎はその腕の肘の関節を捕らえると、そこに真横から体重を預けた。

 

「ぐ!」

 

 残った手が真一郎の頭に振りかぶり、打ち下ろそうとした瞬間、遊の間接の痛みが消える。同時に、真一郎頭がコンマ秒前まで存在していた場所を、打ち下ろした左手が通りすぎた。

 真一朗は、遊が壁から腕を引き抜く間に、大きく回りこんで対峙した。

 今は遊が壁を背にしている――ちょうど先ほどと逆の位置だった。

 

「やるじゃないか。苦しまずに殺してやるつもりだったのにな」

「そうそう……易々と殺されて……たまるか」

 

 息が切れる。

 体力的な疲れではなく、一瞬一瞬が生死に関わる為に神経が磨り減っていく。

 

「だが、ここまでだ。一撃で、心臓を刺し貫いてやる――」

 

 その瞬間、真一郎はポケットに忍ばせた一枚の紙を、遊に投げつけた。

 決して速いわけではないが、生き物のようにうねりを上げて接近するそれを、遊は交わすことが出来ない。

 

「な、に!」

 

 紙は、一枚の符であった。それは遊の右手に張りついたと同時に、輝きを発し始める。

 

「ぐ、ぁぁぁぁああ!」

 

 苦悶の表情で、叫ぶ遊。押さえた右手に張りついたそれは、燐光の光度を増したと思うと――

 

「楓刃!」

 

 ドン!っと――

 真一郎の声と合わせて、破裂した。

 

「が、は……」

 

 完全に力の入らない右腕を支えながら、遊が節々から血を流す。

 

「貴様……何を……」

「妖気と精気を吸い、その力をそのまま爆薬剤とする符だ。知り合いの、優秀な退魔師――見習だが――からもらった」

 

 次の符を用意しながら、真一郎。

 

「すでに術が込めてあって、俺のようなそういう力のない奴にも使える。万が一に備えて、もらっておいたんだ」

 

 嘘である。

 本当は、低級妖魔退散用の簡易符だ。

 それを、いづみに頼んで特殊な火薬を塗りこんでもらい、物理的な衝撃を致死性レベルまで上げてある。

 もし耕介にばれたら――まあ、パンチ数発で許してもらおう。

 

「ふ、ふふふふふ、ふははっははは!!やってくれるじゃないか。――殺しがいがあるぞ!」

 

 一発じゃ――無理か。

 

 確かに――遊は、ダメージを追っているものの、行動に異常をきたすほどではないようだ。

 符は――残り三枚。

 不意に――視線が、合う。

 

「しまっ……」

「おそい!」

 

 ガクン!と――体の自由が無くなる。

 遊の赤く光る目が、魅了の魔力の応用で真一郎の体の自由を奪っていた。

 首に手をかけ、頭上に持ち上げる。

 

「ぐぁ……」

 

 遊が真一郎の体に近づき、差し出した手で体をなぞる。

 

「この距離なら爆発は起こせまい。さて…どうしてくれるか。目玉でも取り出すか、内臓でもはみ出させるか――」

 

 余裕の表情でなれなれしく触ってくる遊を、少年は見上げながら――

 

 

 

         ◇

「確かに――こっちのほうに先輩が……」

 

 偶然、授業中に学校を抜け出して裏のほうに歩く赤毛の少年を見つけて――

 この一週間の彼の拒絶。それには、絶対に何かがあったからだと信じている。

 きっと、自分に言うことのできない何かがあったのだ。本当は、それをすべて話してほしいし、力になりたいと思う。

 だが、それは彼が語らぬ以上、決して踏み込んではならないのだろう。

 『恋人のすべてを理解したい』と思うのは当たり前のことかもしれないが、『恋人のすべてを知ろうとする』ことは、傲慢以外の何者でもない。

 例えどんなにお互いが近づいても、人には決して触れてはいけない部分が確実に存在する。だから、知るのではなく、理解しあう努力をするのだ。すべてを理解しあうことが、絶対に不可能だということを知りつつも。

 だが。それでいいと思う。

 もしも、二人が全てを理解しあうことがあれば、それは同時に、相手を『信じる』ことの意味がなくなってしまうのだ。

 皮肉なことに『信じる』ということは、相手に対し不安や猜疑心を持った上でしか起こりえない行動なのだ。

 だけど――それでも――

 

「先輩……」

 

 自分を抑えることができない。

 すでに、心が壊れそうだった。気付いたときには、教室を抜け出して旧校舎まで来てしまった。

 必死で気配を探る。

 ――おかしい。今までは、どんなに離れていても漠然と感じることができた真一郎の存在が、近くにあることはわかるのに、その場所がわからない。

 

「先輩、どこです!先輩!」

 

 あらん限りの声で、叫ぶ。そのとき――

 

「あなた――確かしんいちろうくんの……」

「!」

 

 上空から、女の声。

 そこに、彼女はいた。

 

「……七瀬さん?」

 

 この旧校舎をさ迷う思念体――春原七瀬。

 もともとその存在には気付いていたが、真一朗が出会ったことで、軽い面識はある。

 まず、校舎内から出ることのない彼女が、なぜ外のここに――

 だがその疑問を聞く暇も与えず、七瀬はさくらに駆け――飛びよってきた。

 

「お願い!しんいちろうくんを助けて!」

 

 一瞬呼吸が止まった。

 

「先輩!先輩はどこに!」

 

 

 

 

         ◇

「楓刃!」

 

 二人の中心点から、爆音が響く。

 そして、お互い反対の方向へと吹き飛んだ。

 

「……ぐ…う」

「がは・……」

 

 ダメージは、遊の方が僅かに大きく感じるが――

 

「ま、まさか、同士討ちを狙ってくるなんて…」

「あ、あいにく、死んでやれなくてね……」

 

 自分の精気を利用しての諸刃の剣。

 一度に二枚を使って爆発力を高めたが――まだ、勝負は終らない。

 遊が、立ち上がったからだ。

 

「やってくれる…・…だが、回復の遅い人間が、相打ちを挑むとは愚かだったな」

 

 近づいてくる。

 爆風にさらされた体は、力が入らずまともに動くことも出来ない。  

 符は――最後の一枚が、遠く離れた場所に吹き飛んでいた。

 

「これで――本当に最後だ」

 

 遊の手が真一郎の首にかかる。

 真一郎は、死を覚悟した。だが、決して目は瞑るまい。決して、この男に屈する訳にはいかないと己に言い聞かせる。

 

「これも、彼女に手を出した報いだ」

 

 遊が言う。

 確かに、さくらと別れれば、死なずに済んだかもしれない。だが、そうだとしても、その自分は抜け殻だ。どっちにしろ死んでいるのと同じなのだ。

 だから、後悔なんてしない。

 だけど最後に――ああ、さくらに会いたいな――

 

 意識が、薄れていく。

 

「先輩!!」

 

 少年が、一番聞きたかった声が届いて――

 

「な、なぜここが――」

「全部!あなたが!」

 

 さくらが絶叫と共に、遊の体を殴りつける。

 

「が、ぐぁぁ!」

 

 遊の体が、駒のように吹っ飛んだ。

 どさりと真一郎の体が崩れ落ちる、さくらがすぐさま駆け寄って、支えた。

 

「先輩、先輩…先輩……」

「へ、えへへ……カッコ悪いな、俺……」

「先輩…ひっく…先輩ぃ……」

 

 少年の反応で、命に別状が無いことを悟ると、さくらはあふれる涙を隠しもせずに彼をを抱きしめる。

 そして、恐ろしい形相で、壁に激突していた勇をその眼差しに捕らえた。

 

「許せない…私の大切な人を…絶対に許せない!」

 

 真一郎が、壁に寄りかかりながらも何とか立てることを確認すると、さくらは勇を見据える。

 

「いったはずよ……次はないって」

「き……綺堂。お、俺は……」

 

 伸ばした手の先をさくらの方を向け、よろよろと、救いを求めるように遊は歩く。

「あなたは、絶対にやってはいけないことをした。今この場に…いえ、この世界にいる事だって、私は我慢できそうにない……」

 さくらが、手を鋭く遊の心臓に向ける。

 横でその姿を見ていた真一郎は――気づいた。

 

「――!」

 

 彼女が、本気で――

 

「死になさい」

 

 手を振り上げて――

 

 

 

 遊は――その光景がスローモーションに見えた。

 さくらの手があがり、その切っ先が真っ直ぐに自分の心臓へと向けられていた。

 半年前の事件で、さくらの力が自分を大きくうわまっている事は、なんとなくは気づいていた。

 だから――こうなることは、予想通りではある。

 真一郎という男を殺せば、彼女はなりふりかまわず自分を殺すだろうということは。

 でも、それでも――

 

(許せなかったんだよ。君が人間なんかと一緒になるなんて――)

 

 生まれてから、どんな女性でも操ることができるという能力。

 あこがれだった人も、結局は力で動かすことが出来るという事実。

 恋なんてものが出来るわけもない。

 どんなに人に恋をしても、力で操れるという誘惑に、勝てるわけが無かった。

 でも――彼女は違う。

 同じ血を引くせいだが、彼女には魅了は効かず、対等に付き合える存在である。

 そして何より――

 

(綺麗だった……)

 

 だから――その彼女が、下等な人間などと付き合っていることが、許せなかった。

 血が汚されることなど、どうでもいい。

 彼女自身が汚されていくことに比べれば――

 

 徐々に伸びてくる少女の指先。

 俺は――ここで死ぬんだろうな……と、漠然と、そう思う。

 ああ、彼女に殺されるんなら、無意味な長い年月を過ごすより、良いのかもしれない。

 自分の存在が消えるという、恐怖はあるが――

 

「悪く……ないかもな」

 

 ゆっくり、目を閉じて――

 

 

「やめろぉぉぉぉぉ!」

 

 

 ザシュっ――

 

「え……?」

 

 ポタリ、ポタリと――

 

「な、…なんで……」

「お、おまえ……」

 

 さくらの手が、遊をかばうように立ちふさがる真一郎の、肩をえぐる形で止まっていた。

 

「……さくら。ダメだよ。……君が、そんな業を背負う必要はどこにも……ぐっ!」

 

 崩れ落ちる。

 

「先輩!先輩……!」

「だ、大丈夫。肩に当たっただけだから・…あの符を、取ってきてもらえる?」

 

 真一郎の指差す先に転がる紙切れ――言われたとおりにさくらが拾うと、真一郎は体に当てて、「癒」と呟く。

 ぱあぁぁぁ、と符から光が放たれて、少年の体に解けるように消えた。

 

「最後の一枚…癒しの符を取っておいて良かったよ。……あああ。ほら泣かないで」

「ごめんなさい、ごめんなさい先輩…」

 

 泣きじゃくるさくらの方を抱き、あやすように背中を叩く。

 そして、横目で息を切らせて睨む、遊の姿を見る。

 

「おい……なんで俺を助けた?」

「うっせ。おまえなんかでさくらを血で染めたくないんでね。……それに、同じ人に惚れた男を、見殺しには出来なかった。それだけだ」

 

 真一郎の言葉に、嗚咽を繰り返していたさくらが驚きの顔で遊の方を向く。

 遊は、舌打ちをしてそっぽを向いたが――それは肯定とってもおかしくはないだろう。

 

「とちゅうで、どうも『血』云々よりさくら自体にこだわっている気がしてね。多分、そうなんだろうとおもったんだよ」

「……はん。お気楽な奴だ。いつか足元を救われるぞ」

「かまわない。覚悟の上だ」

 

 もう一度、遊が舌打ちをする。

 そして、真一郎の傍らでどこか不思議そうな顔でこちらを見ているさくらを、ちらりと一瞥して――

 

「まったく……なんて顔をしてる。……悪かったよ、さくら。もう、おまえ等に手を出したりはしない。やっぱり、殺されたくは無いからな」

 

 立ち上がる。少しよろめいた。

 

「無理してるなよ」

「大きなお世話だ。適当に、その辺の奴の血を吸えば回復する。……なんだよ。別にむやみに大量の血を飲んだりしない」

 

 ぼんっと、蝙蝠に変化した。

 

「……一応、下等生物にしてはやる方だと認めてやる」

「ああそうか。とっとといっちまえ」

 

 少し笑いながら、真一郎。

 さくらも、真一郎に寄り添うように手を添えながら、遊を見る。

 

「……守れよ、そいつを。できなかったら、また殺しにくる」

「そうなったら、自分で命を絶ってやるさ」

 

 お互い、少しだけ黙って――

 

「ふん……じゃあな。真一郎」

 

 もう一度だけ、さくらに一瞥をくれてから、よたよたと飛んでいく蝙蝠は、ゆっくりと茜色の空に消えていった。

 真一郎は少し考えた後――

 

「……ああ、バイバイ、遊」

 

 初めて、彼の名前を口にした。

 

 



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終章  「誰にも、渡さない」

Wenn Schicksal und der Suffering Sie angriffen, sch?tze ich Sie dann.
Ich tue so, selbst wenn die Welt einst?rzt.
Solange Sie seien mit mir.
Ich liebe Sie, liebe Sie, liebe Sie...


         ◇

 

 二人きりの旧校舎の屋上で。

 少年と少女は寄り添い、語り合う。

 

「先輩……本当にだいじょうぶですか?」

「ああ…あとでちゃんと病院に行くとしても――いまはもう少しこのままで」

 

 フェンスに寄りかかり、肩を並べて座る二人。風は冷たかったが、触れ合っている部分は温かい。

 爆発音を立ててしまった以上、しばらくすれば誰かがやってくるかもしれないが――それでも、命を賭けて取り戻した、二人のこの時間は譲れない。

 ほんの少しの蜜月を、今は大事にしたい。

 

「色々言わなくちゃならないことがあるけど――ごめんな、さくら」

「……ゆるしません」

 

 すねたように、さくら。

 

「もう二度と――こんな危険なことはしないでください。でないと――」

「でないと?」

「もう、血を吸ってあげません」

 

 どうだ、といわんばかりに上目遣いで少年の瞳を覗き込む。

 かつては己の宿業として、嫌悪すらしていた異形の行為。

 だけど、いつしかそれは、二人の絆を育む愛おしい行為へと変わっていった。

 だからこその、その可愛らしい脅迫だ

 

「……はは、それは嫌だな」

 

 真一郎が、きゅっと、さくらを抱き寄せる力を大きくする。

 小さな少年の、その大きな抱擁に身をゆだね、さくらはめを閉じて彼の暖かさを感じる。

 このまますべてを許したくなるが、今はダメだ。

 この愛しい人がもう無理をしないように、ちゃんと「めっ」と叱らなくては。

 

「約束、してくれますか? ほんとうに、もう危険なことはしないって誓ってくれますか?」

「……ああ、少なくても、君と、何時か生まれる子供を守る為以外には、しない」

「ちょっとずるいですけど……わかりました。それはきっと私も同じだと思いますから」

 

 はあ、とため息。

 そういわれては、何もいえなくなる。

 自分も、真一郎のためなら、どんな危険なことでもするだろうから。

 

 さて、お説教が終わったなら、今度はご褒美の時間だ。

 そう思うと、さくらは手を伸ばして、少年の頬に添えた

 そして、そのまますっと、さくらが真一郎の顔を覗き込む。

 

「どうしたの?」

 

 何もしないまま、じっと自分を見ているさくらを不思議に思ったのが、真一郎が首をかしげた。

 さくらは、ふふっと小さく笑って、

 

「……約束してくれましたから、ご褒美に血を吸ってあげます」

「ちょと……いまは、どっちかっていうと俺の方が足りないんだけど……?」

「ダメですよ。ほら、こんなに血が流れてるんだから」

 

 その場所を、指でなぞる、確かに血液が少し付着しているが――

 

「イヤ、ですか?」

「……ううん、そこなら大歓迎」

 

 目を閉じて、

 

 

 

 言葉では、足りない想いを唇に。 

                         想いを届ける交響曲 ~終~

 

 



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その獣、人の身に焦がれ、遠吠えを哀歌に。
序章  「始まりの草原」


 ――。
 と、誰かが言った。
 それは、遥かか過去のことだったのかもしれないし、遠い未来のことなのかもしれない。
 
 ――。
 と、誰かが答えた。
 それは正しかったのかもしれないし、間違っていたのかもしれない。

 ――。
 と、誰かが願った。
 それは叶ったのかもしれないし、叶わなかったのかもしれない。

 ただ、それでも。きっと。


         ◇

 野原を走る。

 

 やわらかい、草。

 踏みしめるたび、土の温かさが足を伝う。

 弾む体に風が当たり、己の肌が感じる感覚が強くなる。

 そんなことの繰り返し。

 ただそれだけの行為が、彼女にとっては楽しくて、夢中になって走っていた。 

 頭が空っぽになるまで走る。別に忘れたい事があるわけでなく、といっても、特に覚えていたい事があるのではなく。

 『無意味』である事の意味など考えもしない。しいて言えば、楽しいからという事だけ。

 生きるために必要な知識以外、「学ぶ」という事に興味はなかった。

 

 彼女が生まれて初めて「疑問」を持ったのは、不思議な生き物――「人間」と出会った時からだった。

 

 初めての出会いでは、命を狙われた。

 とても硬い石の付いた木を飛ばす道具で追い掛け回され、この生き物は敵だと判断した。

 

 二度目に出会ったのは、冬の食料の乏しいときだった。

 空腹になりながらも威嚇をしていると、その生き物は手にしていた野菜を一つ、自分のほうへ投げてよこし、去っていった。他の生き物から、食料をもらう事など初めてだった。

 

 三度目では、何匹かの小さな人間に、石を投げつけられた。

 

 そして、四度目。

 そのときの自分は、人間の匂いのする鋼の牙にかかりかけ、足を怪我をしていた。

 怪我から来る熱で意識を失い、気が付くと足に白い布が巻かれ、ぬるまった芋粥が置かれていた。

 そして数日間世話をされ、自分は命を助けられた事に気付く。

 

 どんな生き物であれ、今まで出会ったものは同じ種類なら個体が違えど同じ反応があった。

 無視するもの、襲い掛かるもの、逃げ出そうとするもの。

 しかしこの生き物だけは、そのどれにも当てはまらず様々な反応を返してくる。

 それが不思議でたまらず、いつのまにか、この生き物の事を良く知りたいと思った。

 

 ある日の事。

 彼女がいつものように水を飲むために川に行くと、人間が一人倒れていた。

 匂いをかぐと、まだ生きてはいるようだが、かなり弱っている。あちこちに擦り傷があるので、崖から落ちたのかもしれない。

 ふと思いつき、彼女は、気まぐれに人間の真似をしてみる事にした。

 不思議な生き物である人間の真似をしてみれば、人間の気持ちがわかるかもしれないと思ったのだ。

 そして何枚かの大きな葉っぱを見つけると、銜えて運び、血で赤くにじんだ部分にそれをかける。そして、野いちごや木の実、きのこを見つけては人間の口元に落とす。それを繰り返した。

 なんとなく――本当になんとなくだが、この人間は、雌なのだろうと彼女は思った。

 女は黒髪の美しい少女であったが――彼女には人間の年齢はわからない。ただ大きさからして、それほど年老いてはいないのだろうと思った程度だ。

 小一時間もたつと、その人間は目を覚ました。目覚めると同時に、すぐさま自分の様態を確認し、女は驚く。

 葉っぱをかけられ、野草を供えられている。寝ているところを子供にいたずらをされたような、そんな自分の様子。

 それでも、それは間違いなく『善意』なのだと感じさせる。

 大きな葉の幾枚かは、傷口から落ち、その上に転がった食物が、まるで祝宴のために盛り付けたかのようにそこにある。

 

「……こ、れは……」

 

 そして、女は彼女を見る。

 

「狐、これはお前がやったのか?」

 

 もちろん、彼女に人間の言葉の意味がわかるわけではない。

 だが、なんとなく「くーん」と鳴く。

 

「くっくく…、狐に聞いてもわかるわけないか」

 

 上体を起こすと、女は野苺を口に含む。

 

「すっぱいな…。しかし、余命あと半月と言われた私を、狐が助けようとする、か。縁とは不思議なものだな」

 

 立ち上がる。まだふらついていたが、歩けないほどではないらしい。

 

「礼を言うぞ、狐。何もしてやれることはないが…そうだな、これをやろう」

 

 女は、小さな麻紐を取り出す。なんと読むべきか、無数の文字が墨で彩られているが、狐には、ただの模様としか思えない。

 

「獣に装飾品はいらぬかも知れぬが、お前が危険に陥ったとき、きっと助けになろう」

 

 獣は不思議そうに匂いを嗅いだが、特に暴れもせずにそれを首に通した。

 一度だけ、くぅん?と鳴いた。

 

 女が笑う。

 

「ああ、では縁があればまたな」

 

 

         ◇

 そしてその「縁」は、それからわずか半月でめぐり合わせることになる。

 彼女――狐は、弓矢を持った人間から逃げていた。

 

 油断していた。

 忘れていた。

 

 そもそも、人とは、自分たちにとってそのような存在ではないか。

 キュウンと、自分の泣き声のような音を立てて、弓から放たれた矢が空を裂く。それは、何の障害もなく彼女を襲ったが、首の麻紐が一瞬大きく輝くと、見えない何かがそれを弾いた。

 驚いた人間――猟師は慌てて何度か矢を放つが、不可視の壁が、そのことごとくを防ぐ。だが、数発目の矢を防いだ時、麻紐は、砂に変わるかのようにサラァ…と崩れ、同時にその役目を終える。

 もう、あの障壁は生まれない。

 そうと気付いた訳ではないだろうが、猟師が最後の矢を撃ち、それは彼女の脇腹を掠めた。

 最後の力を振り絞り、狩りの手段を失った人間から、できる限りはなれる狐。

 そのかいあってか、人間から逃げ出す事は成功したが、走るうちに傷口が開き、体の自由が利かなくなった。

 なんとか川辺にたどり着き水を含むが、体が受け付けない。

 

 死――。

 

 動物全てに等しく宿る感情――恐怖が生まれる。

 震えて――、それは体の痙攣か、孤独ゆえに死を甘受できない事の恐れか――。

 葉のすれる音が鳴った。

 

「…おお、やはりお主はいつぞやの…」

 

 草を分けいって、現れたのは。

 人間。あのときの人間だ。

 

「山道を通る途中、光が見えたのでな。もしやと思ったが…。すまなんだ、どうやら守り手の紐は、お前を助けきれんかったようだな」

 

 死相が見て取れる狐を痛々しく見つめる。その顔には、不思議と獣に浮かんでいるそれと同じ――いや、それよりも強くすらある相がある。

 彼女もまた、死期が近い。

 

「まったく――魂を食らう呪い、か。村を救うためとはいえ、妖術なんぞに手を染めた報いよの。おかげで桁外れに強い妖力は得たが、とんでもないものももらってしまったか…」

 

 息を荒げている狐の頭を、優しくなでる。

 

「おそらくは、この力を野放しにしないためなのだろうがな。まったく、良くできている。お前とここで、死に逝くのも一興か――」

 

 狐が、己をなでる女の手を弱々しく舐めた。

 女の手がぴたりと止まる。その長さの分だけ、女は考える。

 

「……おまえ、生きたいか?」

 

 返事はない。だが、獣の目に宿る光は、肯定しているように思えた。

 女は続ける。

 

「生きたい、よな……」

 

 しばし目を瞑り――

 

「…ふっ。どうせ滅するなら、恩人……恩狐に我が身を託すか」

 

 立ち上がる。

 腰から取り出した匕首で手のひらを切り、つぅ…っと流れ出た血液を狐の口元にたらした。

 こくん、と狐の喉が鳴り、飲み込んだ事を確認して印を切った。

 

「今はまだ、我の体と今のお主の体が不規則に変化するかも知れぬ。本来のお主の寿命を十と七回繰り返す年月を経て、体はお主の意のままとなるであろ」

 

 そして、呪を紡ぐ。

 

「私の分まで生きて――いや、違うな。お前はお前のあるがまま、生きろ。呪いが消えたこの体は、妖力が満ち、年老いることもなくなるだろう。おそらく、多くの権力者が望んで止まないこの世を支配し、『久遠』に生きる力をおまえは手に入れる。――だが、おまえであれば、きっと、間違った道には進む……まい……」

 

 徐々に、女の体から力が抜ける。

 

「なぁ……? 人よりもやさしき獣よ……」

 

 その言葉を最後に――彼女は狐の横に倒れた。

 一人と一匹の体が溶け合うように重なるのを、誰も見ることなく。

 

 

 

         ◇

 

 川辺に、『一人』の狐が居た。

 姿は人。だが心は狐。

 それでも、体が人である以上、心もだんだんと人間に近づくことだろう。

 

 目を覚ました彼女は、いつのまにか居なくなってしまったあの人間を思い、「くーん」と鳴いた。

 思うように動かない体を使い、河に近づき水を飲もうとする。

 

 狐は知らない。

 その女がどんな道を歩んできたのかを。

 

 狐は知らない。

 女が、最後に自分に何を望んだのかを。

 

 狐は知らない。

 これから自分にどんな数奇な運命が待ち受けているのかを。

 

 

 手にいれたのは、老いによる死を克服した命と、イカズチを呼ぶ力。

 また、それよりも価値のあるのは、憧れた生き物の体。

 そして――その生き物である、人の持ちうる人としての業。

 

 

 そして、河面に映る自分の姿を見、彼女は声なき悲鳴を上げる。

 

 それが、全ての始まり。

 



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第一章 「さざなみの予感」

         ◇

 

「くーちゃーん!あっはははっ!」

「くぅーん!」

 

 雪の降り積もる高町家の庭先で、少女と獣の声がした。

 一匹と一人の吐息は、雪の地面と同じ白さに色づき、気温の低さを視覚的に気付かせる。が、彼女達の嬉しそうな声は、それをものともせずに響いていた。

 

「ううう、元気いいなぁ……久遠はともかく、なのはちゃんまで」

 

 二人の様子にそうぼやいたのは、久遠の飼い主であり、霊障――この世ざらなるものにより生じるさまざまな害を取り扱う――と関わりを持つ事を生業とする、神咲一灯流を伝える一族に連なる娘、神咲那美である。

 命をかけることも珍しくないその生業を背負う彼女だが、コタツに入り込んで蜜柑を食べながらガラス戸の先を見ている様は、とても情けなく感じる。しかし、なんといわれようとこのぬくもりの誘惑には勝てないらしい。

 

「お茶です」

 

 すっと気配なく現れた青年の名は、高町恭也。後ろに彼の妹の――那美の親友でもある高町美由希も、お茶請けを抱えつつ続いた。

 短く切った髪の恭也とは対象に、長めのおさげを揺らしている美由希は、

 

「うー、廊下寒かった~」

 

 と、肩を震わせながら、コタツに潜り込む。

 

「じゃあ、俺はいつものところにいる。終わったら、ちゃんと那美さんを送ってやれ」

 

 恭也は、ぼそっとぶっきらぼうに言うと、黒いジャケットを軽くたるませて、部屋から出て行った。

 

「はー、この雪の中でも修行ですか…」

「うん、雨風が強いからって外での鍛錬を怠るのは、意味がないからね。恭ちゃん曰く、『悪天候時における戦いの練習になる』って。私も後で、みっちりやることに」

 

 那美の呟きとも取れる質問に、美由希が答えた。

 

「辛くないですか?」

「それは、やっぱり大変だけど……でも、どんな鍛錬も恭ちゃんが私のために考えてくれたものだから――。恭ちゃんが、私のマイナスになる事するわけないもん」

 

 絶対の信頼。

 かといって、決して盲目的なのではない。

 自分の意思を捨てるのではなく、自らの意思の全てで考え、青年を信じようと決意した。

 だから、例え裏切られたとしても、自分は絶対に恨む事はない。

 

「それに――最近の恭ちゃんは、結構優しいことを言ってくれるんだ…」

 

 少しだけほほを染めて、美由希。

 そんな彼女に、那美は素直に「ああ、うらやましいな」と思った。

 恭也と美由希――。

 二人は本当の兄妹ではない。

 正式には従兄妹同士に当る。

 その二人の関係は、師弟、兄妹、従兄妹と様々だが、もう一つ――恋人。

 その関係が知られるようになったのは、半年と少しを逆戻る、今年の4月の事である。それについては、大きな話があるのだが――とりあえず、その話は別の機会にとしよう。

 

 

 (私の初恋も恭也さんだっていったら、美由希さんはどんな顔をするだろう?)

 

 嫉妬というには可愛すぎる、小さないたずら心も浮かぶ。それを行使するほど、肝が据わっているわけではないのだが。

 

「じゃあ、そろそろ始めましょうか?」

「そうだね。勉強しに来てもらったのに、おしゃべりばっかりな訳にはいかないよね」

 

 美由希は3学期の為の、那美は大学入試のための――今日は、勉強会である。

 

 

         ◇

 

「せやぁぁぁ!」

「……ふぅ!」

 

 耕介の力任せの斬撃を、恭也は軽くそらして間合いを詰める。

 

(あいかわらず、豪快な剣筋だ…)

 

 なんどとなく対峙し、もう大方の動き、くせは見切っているものの、あいかわらず気が抜けない。

 一見すると、恭也が耕介を簡単にあしらっているようにも見えるが、実際には恭也はかなり神経を使って受けている。

 

(まったく、耕介さんにかかったら、赤星の十八番も意味がないな)

 

 友人の赤星啓吾。

 重い一撃が得意の剣道家である。

 だが、耕介の一撃はその赤星をふた周りも上回っている。

 大柄な体はその力の証明か。

 

(いくら木刀とはいえ、当たり所が悪ければ――いや、よくても死ぬな…)

 

 続けざまに繰り出してきた耕介の剣先を捌ていると、そんな思考が浮かぶ。

 もっとも、彼の剣の腕前そのものは、恭也のそれをはるかに下回ってはいるのだが。

 はずし方が判っている爆弾を除去しているようなものだ、とよく思う。

 どうすればいいかは判っていても、一つ一つが命に直面する。

 そんな危険なゲームに、恭也は冷や汗を流しながらも心躍ってしまう。

 笑う。

 戦いの合間に、不謹慎だとは思いつつも。

 

「う、おりゃあ!!」

「……くっ!」

 

 ガツン!という轟音がそのまま手に伝わってきたかのように、恭也の左手に痺れが走る。

 一瞬だが、完全に片手が殺された。

 

「せぃぃぃ!」

 

 連続の袈裟切り。

 耕介の気合と反する冷静な一撃。

 おそらく、耕介にとって、完璧なタイミングだ。

 そして――

 

「…………まいった」

 

 その言葉を発したのは、耕介だった。喉元に、恭也が右手に持つ木刀の切っ先がぴたりと突きつけられている。

 

「ふぅ…さすがですね。結構きわどかったですよ」

「よくいうよ。序盤あれだけあしらっといて…」

 

 やれやれと首を振る耕介。

 

「少しは力を付けたと思ったが…さすがに剣じゃ本職には勝てないか…」

 

 確かに――耕介の言うように、剣の腕は恭也がはるかに勝る。

 永全不動八門一派、御神真刀流小太刀二刀術。通称御神流。

 その本質は、「殺人」。

 人を殺す事を前提とし、その技術のみが集約した暗殺剣。

 それが、恭也の持つ流派である。

 対し、耕介は那美と同じく退魔師の家、神咲一灯流を学んでいる。

 剣士としての強さも求められるが、当然必須となるのは「霊力」と呼ばれるまったく別の法則からなる強さを使用する。

 その二人が「剣」の戦いをすれば、おのずと勝敗は決まってくるといえよう。

 そもそも、耕介は剣を学び始めたのは約八年前。対し、恭也は幼少時から十数年も続けている。その恭也から見て、この大柄の青年は「剣の素質」という面に関して言えば、耕介には悪いが『筋がいい』という程度だと感じている。

 だが、こと戦いとなれば、この人はその強さが飛躍的に高まっていると思う。

 基本的な戦いの重要要素で言えば、剣技、スピードでは恭也が圧倒的に勝ち、腕力はほぼ互角といったところか。

 しかし、耕介には恭也を圧倒的に凌駕している点がある。

 スタミナである。

 恭也が常に6~7分の力で動くのに対し、耕介はほぼ常に全力で動く。

 持久力云々の問題ではない。

 本来、一瞬の爆発によって起こる運動を、耕介は常に続けるのだ。

 はっきり言って、人間レベルではない。というより、人間がとれる行動ではないのだ。

 御神流には、神速という歩法の奥義がある。

 精神を極度に集中させる事で感覚を向上させ、体の感覚と脳の知覚に矛盾が起きるほどの誤差を出す。そのときに脳がその矛盾を打ち消そうと、本来かかっている体のリミッターをはずす。それによる超高速移動。

 それが神速という技である。

 だが、耕介の場合、それとも違う。

 普通の人間が100M走で使う「全力」を、耕介はフルマラソンでやろうとするようなものだ。それも、無意識に。

 厳密に言えば、それは素の肉体の力ではなく、霊力によってずっと体力を回復しているのでしょう、とは那美の弁だ。「普通は術式を組むので、無意識にしかも常時展開とかありえないんですけれど」と顔を引きつらせながらであったが。

 

 この人が、本気で戦ったらどうなるのか――。

 

 正直、恭也はそう思うとわくわくする。

 そうだ。自分でも不謹慎だと思うが――楽しいのだ。戦いが。

 剣士の性として、強いものと戦う嬉しさでもなければ、死のスリルを楽しむような破滅願望からでもない。

 ただひたすら、この暴力的な行動が楽しい。

 この人の強さは、「武」でも「試合」でも、「殺し合い」でもない。

 もっとシンプルに、――「喧嘩」だ。

 考えてみれば、それほど純粋に戦いを楽しめるものはない。

 そして同時に、彼にはその自分の欲望だけで他人を傷つける事に嫌悪する、優しい心も持っている。

 だからこの人は、人に優しく繊細なくせに、乱暴でもあるのだ。

 そういう意味で、恭也にとって耕介は、戦いに楽しさを求められた始めての人である。

 

「さて・・・もう一戦いくとするか」

「はい!」

 耕介の誘いに、答える。

 

 

         ◇

 

 ベルが鳴った。

 神咲耕介は、いつものようにお玉を持ったまま廊下に出る。

 ここさざなみ寮では見慣れた光景だが、2m近い巨漢が、そのような姿でいるのは、普通に見ればかなり異様でもある。

 

「はい、こちらさざなみ……てなんだ、薫か」

「なんだ、は、ひどかね」

 

 受話器越しの義妹の声は、どことなくとがっていた。

 

「いや、すまん。料理の仕込みがいいところだったんでな」

「まあ、よかけど…」

 

 電話の主、神咲薫は、神咲一灯流の退魔師としてそれなりに一目置かれている人間が、鼻歌を歌いながらおさんどんをしている姿を思って、少し目眩がした。まあ、そういう彼だからこそ、まだ他人だった頃に彼を信頼できたのも事実であるのだが。

 薫がさざなみ寮という女子寮で暮らしていた当時、管理人代行としてやってきた耕介――旧姓、槙原耕介に、始めは嫌悪感――と、言わないまでも、信頼はしていなかった。

 だがそれも、彼の明るい性格と真摯な態度に、徐々に心許せる存在となった。まさか、自分の義兄になるとは思いもよらなかったが。

 

「それで、急にどうしたんだ?何か事件があったか?」

「事件というほどではなかけど、ちょっと気になる事があると」

「ん?」

「義兄さんと十六夜が久遠をつれてお盆に帰省したとき、いつものように久遠を禊にかけたじゃろ?」

「ああ」

 

 過去のとある事件による憎悪から、祟り狐となっていた妖狐の久遠。

 一年前、那美と恭也の活躍でその祟りのみを消すことに成功した。おそらく、久遠の親友となった恭也の実妹、高町なのはとの絆も、大きな要因だろう。

 だが、その結果久遠の体には、消えた祟りの部分に霊力――妖力的に大きな空洞部が生まれたのである。

 そしてそこは、空中に漂う様々な邪気や歪みの、格好の住処になりえていた。

 もっとも、それほど影響の出るものではないのだが、念のためと数ヶ月に一度、といった形で定期的に祓いをしていたのである。

 そのため、今年のお盆も妻である霊剣十六夜と共に、久遠を連れて帰省をしていたのだが――。

 

「なんか問題でもあるのか?」

「払った邪気が散り散りにならないよう、毎回符に移して封印したじゃろ?それらをまとめて滅しようと、うちが今日それを担当したんじゃけんど――」

 

 一度口を切り、

 

「思ったほど、符に邪気が入ってなかったんじゃ」

「……?」

 

 疑問符としか思えない間を放つ耕介に、彼女は、「何でこの人は実戦以外のときはこうも抜けているのか」と、辟易する。あー、と一言いってから、

 

「最初に溜まってきた邪気を祓ったときは、ある程度予想どおりの量が出ていたが、それが回数を重ねるごとに少なくなってきとる。しかも、前回はその量が極端に少ない。体の中の邪気をはらう、という事は、被体者がこちらの術に対し完全に無抵抗…というより、術に対し無防備だからできるわけじゃろ?那美が例の事件でその祟りを払えたのも、久遠が己の祟りを憎悪と共に体の外に引きずり出したからじゃ。それが、ほとんどでなくなってきているという事は――」

「歪が、久遠の体にたまりつつある、という事か?」

 

 少し、控えめな声で耕介。

 

「判らん。そのそも海鳴の街全体の邪気が少ないかも知れんし、何かの拍子に那美が無意識に払っていたのかもしれん。もしくはそのいずれでもないのかもしれん。本当に、たまたまと言うこともある。正直に言えば、」

「それで、本家は何と言ってる?」

「まだ、報告してない。言えば、最重要妖怪である久遠の件は、同業者に報告せねばならん。そうすれば、今のうちに久遠を滅しようと、暴走するやからも出てくる恐れもある」

 

 以前のうちが動いたように、と、自責の念をこめて薫が言った。

 

「正直、うちも考えすぎじゃないかと思うが――一応、義兄さんにだけは報告しておこうと思って。少し、注意してみてあげてください」

「わかった…」

「あ、それから!」

 

 急に、慌てたように薫。

 

「ん?」

「お正月に戻るときは、少し長めにいてください。お盆のとき、うちは仕事で会えなかったけん」

「ああ、そうだな。十六夜も前回は残念がってたよ」

「……あ、…うん」

「……?」

 

 答えた薫の声は、なぜか寂しそうに聞こえた。

 だが、それも一瞬。彼女はすぐにいつもどおりの声で、

 

「日程についてはまた後ほど。義兄さん達の都合が決まったら教えてください」

「じゃあ、何かあったら連絡する。何もないのにこしたこたないけどな」

「うん、それじゃ」

 

 ちん……と受話器を置く。

 

(まったく、年末で忙しい時期に――なにっ!?)

 

 不意の気配。

 

「しまった!俺とした事が!」

 

 自分の「領域」に、略奪者達が入り込んだことに耕介は、己の犯した失態に悲鳴のような声を上げた。

 耕介は「そこ」に目を向けると、鍛えられた体を駆使し、全力で廊下をかける。

 そして飛び込んだその場所を見てー―耕介は愕然とした。

 

「……遅かったか」

 

 荒らされた現場を見て、力なく膝を突く。

 湧き上がるのは、後悔の念。

 犯人はわかっている。

 それを捕らえたところで、今さら失われた「彼ら」が戻ってくるわけではないことも判っている。

 だが、それでも――。

 

 …いや、まずするべきは、復讐よりも現状の回復だ。

 この凄惨な地を――台所を見れば、やらなければならぬという思いがあがる。

 

「……美緒と、舞のハンバーグ、少なめにしちゃる」

 

 思いっきりつまみ食いをされた食材たちを見て、耕介はそう決意した。

 

 玄関から、帰宅を告げる那美と久遠の声がした。

 

 

         ◇

 

 受話器を置いて――薫はため息をついた。

 

「……まったく――耕介さんは寂しくなかったとですか!」

 

 「義兄さん」と呼ぶようになり、久しく使っていなかった彼の名。

 家族となってしまった今、まさか十六夜の横恋慕をする気はないが――それでも、少し悔しい。

 

「薫姉、なに電話機の前で騒いでんの?」

 

 ひょっこりと現れた弟の和馬が、木刀を片手にそう聞いて――

 

「うるさか!」

 

 思いっきり怒鳴られた。 

 

 



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第二章 「偽りの絆のために」

         ◇

         

 冬の深夜となれば、その寒さは冷たさよりも痛さになる。

 ある意味凶器とすら呼べる風が窓を叩き、部屋の中の者を襲おうとするが、暖気を纏い、日の匂いを吸い込んだ布団に包まれた那美は、幸せそうに眠っている。その枕の直ぐ横で、久遠もまた安らかな寝息を立てていた。

 ふと、それが止む。

 耳がぴんとはね、体を動かさぬまま辺りの気配を探る。

 

「………ぉん……くお…ん」

 

 跳ね起きる。

 己を呼ぶ声に、彼女は警戒――ではない。信じられないといった驚愕、そして同時に懐かしさを感じる。

 窓に駆け寄る。

 そこに、声の主がいると確信したわけではないが、かすかな期待を胸にして――。

 

 なにも、ない。

 

 あるのは、見慣れたさざなみ寮の庭だ。

 それが、単なる声であったなら、久遠はそこで再び布団にもどっていたのかもしれない。

 そう、それが、彼女にとって忘れるる事ができない、「誰か」でさえなければ。

 

「…弥太――」

 

 つぶやき、一度、布団の主の方へ振り返る。彼女の親友は、何事もなかったように眠り続けている。

 

 そして――

 

 

 

「ひくちん!」

 

 くしゃみを一つして、那美は顔に当る寒気に起こされた。

 眠気と寒さの天秤に揺れるも、後者が勝ち仕方なく上体を起こした。

 眠い目をこすり、その原因のほうへと視線を向ける。

 僅かに、窓が開いており、その先の黒く染まった景色が未だ夜が明けていない事を示している。

 

「なんで窓が――久遠が…やったの?」

 

 枕元の彼女に声をかけたが――

 

「……え?」

 

 答えを返すべきものが、いない。

 ただ、風によって揺れるカーテンが、妙に機械的に動いているだけだった。

 

 

          ◇

 

「それで、久遠が外出禁止?」

「ええ、朝方泥だらけになってるのに帰ってきたと思ったら急に倒れこんで寝ちゃうんですもん。起きて問い詰めてもその理由も言わないし」

 

 不満げな様子を隠すことも無く、那美は、目の前のジュースをすすりこむ。

 対面では、驚いた顔で美由希が座っていた。

 

「なのはちゃんの所に行ったのかなって思ったけど、いくらなんでも夜中には行かないと思いますし」

「うん…それは無いと思うよ。昨日は寒いからって、レンと晶が湯たんぽ代わりに一緒に寝てたし。もし抜け出したのなら、あの二人が気付かないはず無いもの」

 

 高町家居候である、城島晶と鳳連飛、二人とも属性は違えど、本格的に武術を修練している。その二人の実力も、那美は知っている。

 

「湯たんぽ?」

「うん、子供の体温って高いから。取り合いになってた。それでもなのは、うれしそうだったけどね」

 

 くすくすと笑う美由希。どうやら視覚的にも見物だったようだ。

 ことり、と小さな音がして、二人のテーブルに見なれない白いプリンのようなものが置かれた。上にオレンジのソースとアーモンドがトッピングされていて、女性特有の甘味嗜好で有らずとも、食欲を促すだろう。

 

「相変わらず楽しそうな家だね。たまには、なのはちゃんも連れ来ておくれよ」

 

 そう言って皿を置きながら現れたのは、二人が今居る喫茶店の主人である。三十後半くらいの、髭の似合う「いかにも」な雰囲気のマスターだ。今年の夏、那美が鎮魂を担当したある事件をきっかけに、多少ならずとも親しくなった人物だ。

 

「これは?」

 

 目を輝かせながら那美。

 和菓子を好む彼女にしても、この見なれぬ菓子への期待は隠せないらしい。

 

「新作のブラン・マンジェ。アーモンドミルクと蜂蜜を使ったゼリーだよ。ババロアのフランス版みたいなものだね。冬のデザートだから、ちょうどいいかなって。メニューに載せる前の実験だから、おごりだよ。その代わり感想聞かせてね」

 

 軽くウィンクをするマスター。

 美由希の店である洋菓子屋『翠屋』をライバル視しつつも、「翠屋さんのシュークリームには勝てません」と、笑いながら買いに来る、気さくな人である。もっとも、売りはイタリアン系のパスタが主で、客層の違う翠屋と客の取り合いになるようなことがないのが原因の一つかもしれないが。 

 恭也、美由希の義理の母、桃子と同じくイタリアンとフランス料理を手がけており、なかなかの腕である。

 本人曰く、

 

「二つの料理を手がけてるから、本筋の一流店コックとまでは行かないんだけどね――という言い訳があったんだけど、高町さんはチーフパテェシエだったんだよね…。」

 

 だそうだ。

 だが、どことなく家庭的な雰囲気のある彼の料理は、無意味に高いその手のレストランより、よほど上等だと、彼女達は思う。

 二人はそれらに舌鼓を打つと、その旨を伝え、マスターもうれしそうに微笑んでいた。

 

「そういえば、神咲さん。さっきお客さんから小耳に挟んだんだけど、神咲さんのところは大丈夫だった?」

 

 キョトン、と自分を見つめる那美に、彼は言葉が足らないことに気付き、

 

「ああ、ごめん」

 

 と続けた。

 

「夕刊に載っていたらしいんだけど、なんでもここ数日で、宮司や巫女、住職とかの神仏関係者が、全国で何人も死んだり怪我をしたらしいよ。だから神咲さん達が来てくれて、ほっとしてたんだ」

「――やな事件ですね…」

 

 妙な既視感を感じつつ、那美は呟いた。既視感言うには、あまりにも悪夢めいた――

 いや、そんなはずはない。悪夢はすでに終わったのだから。

 

「昨日も二つ隣の市であったって。なんでも、今までの被害者は雨一つなかったのにみんな雷に打たれたとかで、警察も不思議がって――」

 

 

         ◇

「たしか――なのか?」

「ああ……。うちが直接調べたわけじゃなかが、その法力僧の話しじゃと、間違いなく『妖力』があったということじゃ」

 

 電話の向こう側から、悲痛な薫の声。

 それが、これが冗談でなく真実である何よりの証拠だった。

 

「死体が発見されたのは一週間前。焼け焦げていたせいで、腐乱はほとんどしとらんかったらしい。訳半年前の――義兄さん達が帰郷していた頃から今まで行方不明だった事件が、「落雷事故」となって処理された。……事実を知っているのは、うちらと一部の警察、その筋の関係者だけじゃ」

「……」

「もちろん、久遠が犯人だという証拠はないし、そもそも事件のおきたのが、義兄さん達の帰郷と重なってるかどうか、確定できん。だけんど、今、神咲家に同業者から『久遠』に対する見解を求める声が続々きとる。うちも当代として、なんとかせねばならん。当然、その日夜中に久遠が抜け出した事も、報告せねばならぬじゃろ」

 

 神咲家のもう一人の当代である管理人兼退魔師、耕介は「ふむ」と軽く相槌めいた声を出すと――

 

「それで、どうする?」

「どうするって……義兄さんはどう思ってると?」

「決まってるさ、することは一つだろ?」

「まさか――許さんよ!そげんこと」

 

 荒げた息が、直接つたわってくるようだ。

 

「……薫」

「久遠がやったかどうかわからんうちに、最後の手段を使うのは嫌じゃ……。もうあの子――那美が泣くのを見たくなか!たしかに、うちはあの時、久遠を切ろうとした。恭也君のおかげで未遂にすんだが、それでも未だに後悔を引きずっとる。

 もし久遠が犯人だとしても、一度祓えた祟りじゃ。もう一度、祓えんわけがない。うちは退魔師として失格かもしれんが、その希望にかけたいんじゃ!」

 

 おそらく――彼女は泣いているのだろう。

 嗚咽は聞こえなくとも、そう耕介は確信していた。

 彼女の言うとおり、いくら実力があるとしても、そのやさしさは退魔師に不要なものであるだろう。

 

(そして、――この俺もな。)

 

 そう自嘲めいた呟きをかみ殺し――

 

「薫、俺の答えは変わらないよ」

「そんな……耕介さん!」

 

 無意識にであろう、過去のように青年を呼ぶ名に、わずかに懐かしさを感じながら―――

 

「犯人は、久遠じゃないさ」

「……え?」

 

 薫の、声を飲む音がした。

 落ち着いた声で、耕介が言う。

 

「だから、やることは決まってるだろ?――真犯人を探すことだ」

「あ……うん!」

 

 はずんだ声の薫。

 耕介はわずかに唇をかむ。

 

(卑怯だな…俺は)

 

 そう、やることは決まっている。それ以外にない。

 真犯人を探す――その言葉が、『真犯人が久遠であれば、切らざるをえない』という意味を暗に持っていたとしても。

 

 

         ◇

「お、停電直ったのか?」

「おし、じゃあ早速ゲームしましょう、師匠!」

 

 青天の霹靂とは、まさに字句のままである。

 夕日に染まった冬空に、一度大きな雷が鳴った。そして直後、辺り一帯が停電していた。

 それも直復旧したようで、当初の目的の格闘ゲームのスイッチが入る。

 

「…いつも思うのだが…」

 

 モニターに映し出された荒野――に、互いに妙なポーズで前台詞を言い合う剣士と獣人のキャラを見つめて、恭也はそうつぶやいた。

 

「何ですか師匠?」

 

 答えたのは、本当の弟子ではないが、自分を師と仰ぐ少女、城島晶である。ちなみに、モニターからは目を離していない。 

 ナレーターが、試合開始の合図の振り、「真剣勝負…」と言い始めた。

 むう、と唸りながら青年は考える。

 

「なんで、こういうゲームは、『真剣勝負』っていってるのに、『一本目』とかいうんだろうな…」

「……言われてみれば、確かに」

 

 同時に、ゲームが開始される。

 そう言ってしまうのも無理はない。

 なにしろ、暗殺術である古流剣術、御神流の師範代(代と言っても、師範はいないが)である。真剣勝負であるのなら、勝敗は一度で決まる。何が悲しくて、奥義の一つも決めた相手が体力全快して、もう一度戦わなければならないのか、と、思うのも当然かもしれない。

 

「よーし!四連コンボ!」

「…む」

 

 どう考えても動きに無駄があるとしか思えない技を繰り出すキャラに、何か言ってやりたくもなるが、それなりに恭也もこの最新ゲームを楽しんでいた。

 恭也の選んだ二刀流剣士が、晶の空手使い獣人キャラに画面端まで追い込まれる。

「……むぅ」

「う、…しまった…」

 

 大技をはずした獣人に、小さくすばやく小技を連携する剣士。

 

「む、たりゃ…こなくそ……こうなりゃ…」

 

 フェイントで剣士の斬撃をすり抜け、完全に無防備な後ろに回りこむ。

 

「…!」

「決める!超必殺!グランド・ガイア……」

 

 そして獣人の体が大きく光り――

 

ぷつん――

 

「アタック~…?…てあれ?」

 

 いつの間にか画面が切り替わり、渋いスーツの眼鏡をかけたおっさんが、淡々と何か読み上げている。

 背景は荒野から、『ニュース最前線、PM5:55』というポップに変わっていた。

 

「……」

「……」

 

 二人で思わず画面を凝視していると、

 

「あ~、スマンです、お師匠」

 

 蓮飛が踏みつけていたテレビのリモコンを、ばつが悪そうに取り上げる。

 

「~~~!てめ!せっかく俺の華麗なる一撃を!それになんで師匠だけ謝って俺に何もいわねーんだ!」

「ほー、どうせあのまま突っ込んでもお師匠のカウンター食らってたに決まっとるやん。むしろ敗北見ずにすんだと感謝してもらいたいわ」

「んだとてめー!」

「やるか!」

「やらいでか!」

 

 ざ…と離れて間合いを取る二人。

 

「ふ…俺の新必殺技…くらって後悔するなよ?」

「えーかげん、ウチもなまった体動かさんとな」

 

 ゲームのキャラさながら、よくわからない前置きを言いつつ対峙する。

 そんな二人をやれやれと思いつつ、いつもの事なのでそのままテレビのニュースを見る恭也。

 それなりに面白い変化を見せる政治の話題から、一生縁がなさそうな地方のひき逃げのニュースが続く。

 そして――

 

「二人とも、ちょっと静かにしてくれ!」

 

 叫ぶ恭也に、お互いけん制しあっていた少女達が止まる。

 しゅん…としなだれる二人だが、叱った事を忘れたかのように恭也は画面に食い入る。

 

「ど、どうしたんです?」

「あ、あの師匠。ごめんなさい――」

 

 恭也は動かない。

 あまりに不思議なので、テレビに二人が目を向けると――恭也と同じように固まった。

 テレビ画面では、興奮したようにレポーターが現場の中継をしている。

 

『はい、こちらの住職と二人の寺子が何者かに殺害されたわけです……』

 

 その場所は、隣町とはいえそう遠くない距離にある寺だった。

 だが、それだけであれば、この辺も物騒になった、程度で終わる話である。

 それだけ、であれば。

 

 レポーターが続ける。

 

『スタジオの野中アナウンサーが伝えたように、つい先ほどこの場所で、尾を生やした謎の人物が雷らしきものを落としたという、不可思議な現象が目撃されており――』

 

 

 

 

         ◇

 恭也達が、格闘ゲームにいそしむ時刻より一時間前。

 海鳴市桜台337-3。女子寮『さざなみ寮』の一室で――

 

「義兄さん、やめてぇ!」

 

 十六夜を片手に、那美の部屋に入ろうとする耕介を見咎めて、少女は泣きながら飛び込んできた。後ろに、おさげ髪に眼鏡の少女、美由希も厳しい顔で続く。

 普段の彼女からは考えられない速さで、那美は耕介に突進する。そして、割り込むように押しのけて、耕介の前に立ちふさがる。

 

「――へ?」

 

 耕介が彼女達のほうへ振り向いたときの表情は、驚くほど抜けた顔だった。

 

「義兄さん、お願いだから…久遠を助けて……」

 

 泣きながら髪を振り乱し懇願する。青年は、ぽかんとそんな彼女を見ていたが

 

「那美、落ち着けって。…美由希ちゃん、これどうしたの……って君まで」

 

 美由希も腰に携えた練習刀を抜いて、びたりと構えている。

 

「耕介さん。神咲家の方針がどうであれ――久遠を切ると言うのなら、『今は』相手になります!」

「……」

 

 耕介が呆然と佇んでいると、彼の剣から光と共に爆発音が響き、一人の女性が現れる。

 名を――十六夜。剣と同じ銘である。

 耕介の妻にして、神咲の秘術により霊剣十六夜に宿る霊。

 その彼女が、優しく語りかける。

 

「那美、美由希様――耕介様は、そのようなつもりはありませんよ?」

『……え』

 

 見事に、はもった声で二人。

 しばらく二人で顔を見合わせた後、耕介に同時に向き直る。

 

「ああ、別に久遠を切ろうとしてるわけじゃないよ」

 

 やれやれといった口調で耕介。

 顔を赤くしながら、那美が詰め寄る。

 

「で、でも!今、義兄さんは符を持ってるじゃないですか!」

「良く見ろって。これは簡易封印結界用の札。確かに久遠の自由を奪うものだが、あくまで一時的なものだよ」

 

 青年はひらひらと符を見せるが、那美はまだ納得していないようだ。

 

「事件のことは知ってる、すでにそれで、久遠が犯人ではないかという見解もある。だからこそ――これが一番手っ取り早い方法なんだよ」

「……?」

「いいかい?久遠がこの符で封印されているときに事件がおきれば――」

 

 そこまでいって、ようやく合点が付いた。

 つまり、久遠のアリバイを実証しようとしているわけだ。

 容疑者が留置所にいるときに、その容疑のかかった事件がおきれば――

 

「本当は事件なんか起こらないに越した事はないんだけどね。どっちにしろ後手に回っている以上、こうするしかないと思ってさ」

 

 な、と、隣の十六夜に微笑みかける耕介。

 盲目の彼女もすでに彼の行動を察したように、頷く。

 

「……に、義兄さん…」

「まあ、黙っておまえの部屋に入ろうとしたのは悪かったけどさ……」

 

 ばつの悪そうに、耕介が笑う。那美はようやく安堵し、彼の胸に飛び込んで嗚咽する。

 青年は目を細めて、左手で那美の腰を軽く抱き、開いた右手でぽんぽんと彼女の後頭部をあやすように叩く。

 こうしてみると、この二人が血の繋がらない義兄妹というのが嘘のようだ、と美由希は思った。同じように義兄妹として、幼少時から十数年間つれ添った恭也に、今のような事をされたのは――覚えてる中では一度だけ。

 自らの体を壊しても剣士の境地にたどり着こうとした己を戒め、抱きしめてくれたあの神社の時だけだ。そして同時に、彼を異性として明確に求める自分に気付いた瞬間でもある。

 生涯忘れない、剣士として生きていく自分達の、数少ないロマンスの瞬間だと思うと、少女の心は熱くなる。

 

(……でもそのロマンスの直前に、拳で殴られそうになってるんだよね。……わたしの恋っていったい…)

 

 「無理をしようとしていた美由希を諌める」……言葉にすれば綺麗だが、ようは恭也が美由希をぶん殴ろうとした、である。

 少し、美由希の心に北風が吹いた。

 正直、素直に兄に甘える事のできる、目の前の二人の関係が少しうらやましかった。まあ、そうなってしまったらしまったで、男と女の関係が無理になるのであるから、そこはあきらめるところかもしれない。

 

「それじゃ、はじめよう。この部屋に結界を張って出られなくする。悪く言えば軟禁だけど――別に久遠が痛い思いをするわけじゃない。ようは、神咲外部の退魔集団へのアピールなんだから」

 

 そういってドアノブを空けた瞬間――ひゅう、と風が耕介の前髪と少女達の服をさらった。

 一瞬の気圧変化からだったのか、風は直に小さくなり冷たい空気の淀みに変わる。

 

「……!――久遠!」

 

 那美の悲鳴のような声が上がる。

 ドアの正面に配した窓が開かれ、人化した久遠が足をかけている。

 

「久遠、ドアの外の会話は聞こえてたでしょう?私達はあなたを信じていないんじゃない。周りへの証明を得たいだけ。――なんで、逃げようとするの?」

 

 那美には、今の久遠の考えがわからない。が、きっと、何かを勘違いしているのではないかと思い、そう諭そうとする。

 

「……那…美」

 

 だが、久遠は辛そうに、ふっと目をそらしただけだった。

 もう一度何かを言おうとする那美を止め、耕介が一歩前に出る。十六夜が連れ添うようにその右斜め後ろに進むが、彼を完全に信頼しているのか、口を挟む気はないようだ。

 

「久遠。別に直接おまえを封じ込めるわけじゃない。この部屋に符を張ることで、確かに外に出られなくはなる。だけど、それも今までの事件の頻度から考えて数日程度だし、久遠が部屋から出さえしなければ、なのはちゃんに遊びに来てもらったっていいんだ。それはわかるだろう?」

 

 コクリ、と頷く久遠。

 それを見て那美は、久遠は逃げようとしているのではなく、ただ外を見ていただけなのではと、安易ながらも甘い結論を出した。そして、きっと義兄もそう考えてくれるだろうと、彼の横顔を見上げる。

 だがそれを否定したのは、他でもない彼の言葉だった。

 

「なのに――なぜだ?なんでおまえは今、それから逃れるために俺達と戦うことすら覚悟している?」

 

 まさか、と、那美は久遠の顔を仰いだ。妖狐は少女の視線を気にせず、ただ耕介を見つめている。それが、彼の言葉が真実である証拠のように。

 

「答えろ、久遠」

 

 耕介の声質が低くなる。決して怒っている声ではない。ただ、己の意思に殉ずる声だ。

 久遠が口を開く。

 

「――ここに、閉じ込められるわけに、いかない」

 

 たどたどしい言葉で。

 

「何故?」

「……やらなくちゃ、いけない」

「なにを?」

「……」

「理由が俺達を納得させないのであれば、俺は力づくでもお前をここに閉じ込める。それも判っているな?」

 

 久遠は頷く。先ほどと同じように。そして――

 

「久遠!」

 

 悲鳴を上げたのは、那美。久遠が紫電を纏った腕をこちらに向けて突き出していたからだ。

 それを、当然知っていたかのように、耕介は表情を変えない。

 

「二つだけ聞く。答えたくなければ、黙ってていい。一つ目――おまえの行動は、今回の事件と関係があるのか?」

 

 久遠は、答えない。首を縦に振ろうとして、だが、何か感情を押し込めたように、ただ顔を伏せる。

 無言の久遠を見据えて、耕介が続ける。

 

「二つ目。一連の事件。おまえがやったのか?」

 

 その質問に――久遠は、今度こそ力強く首を振ることで答えた。

 目を瞑り、真横に。

 

「……信じよう。だけど、俺は今おまえを自由にする事を許されない立場にいる――」

 

 十六夜を構える。ちりちりと青白い「何か」が、刀身に宿る。

 ピン…とした空気に呑まれ、那美ですら動けなかった。

 久遠は放電すらしている手のひらを向けたまま、彼女のほうを見る。

 そして、一言だけ言った。

 

「那美……戻って、くるから」

 

 同時に発せられる電撃。

 蛇のように空中を伝い、そして――彼らの手前ではじけた。

 白色灯の破裂を思わせる閃光に、三人の目が封じられる。

 

「きゃあ!」

「うわっ!」

「く……」

 

 一瞬の目くらまし。

 だが、彼女にとっては、その一瞬で十分だった。

 開いたときに、妖弧の姿はなく――。

 

 

 

 そして、久遠の行方を危惧する彼らの元に届いた一番初めの情報は、遠くの方で微かに聞こえた雷鳴と、一瞬の停電。そして雷鳴より十数分後に流れた、テレビの緊急ニュースによって知った惨事だった。

 



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第三章 「ちぐはぐな部品」

前話、ラスト部分に記述漏れがあったので追加しました。


         ◇

 那美が泣いていた。

 何が悲しいというのではなく、おそらく酷い混乱から来るものが強かったのだろう。

 考えれば考えるほど、最悪のケースしか思いつかず、不安と恐怖が思考をとめていた。

 

 TVのニュースによって伝えられた凶報。

 久遠が消えた数時間後、突如聞こえた雷鳴は、海鳴市内の某所の神社にて起きた「落雷事故」のものだった。

 被害者は二名。どちらも、神社の関係者のものだ。

 

 

「那美、少し休むか?」

 

 耕介が言うと、彼女はただ首を横に振り提案を拒否する。

 コチコチと刻む時計の針が、妙にわずらわしく感じられる。時刻は午後十時。事件発生から四時間後の事である。

 さざなみ寮のリビングルームに、耕介、那美、リスティ、真雪、恭也、美由希、そして霊剣の十六夜という、おそらく高町家、さざなみ両グループの戦闘要員がそろい、顔をつき合わせている。

 他の主だった寮生は、師走の忙しさに追われそれぞれの用で外に出ていた。また残った連中も、耕介に言われて部屋にいる。

 高町家といえば、蓮飛と晶も参戦しようと訴えていたが、恭也の、

 

「足手まといだ」

 

 という一言に、黙ってしまった。

 あいかわらず歯に衣着せぬ、きつい恭也の物言いだが、その直後、

 

「二人とも、家を守ってくれ」

 

 と続けたあたり、彼の独特のやさしさが見える。

 問題は――なのはだった。

 まだ事件の事を知らされてはいないが、久遠と毎日のように遊んでいる彼女をごまかし続けるのは困難を極める。TVのニュースを見てしまったら、子供とはいえ賢いあの子のことである。気付かれるのも時間の問題だった。とりあえずフィアッセや母の桃子に言いくるめを頼み、恭也たちはここに抜け出すようにやってきていた。

 

「…それで、どうするんだい?」

 

 口火を切ったのは、銀髪の女性、リスティである。ヘビースモーカーの彼女だが、さすがに今の空気に押されて、タバコに火を付けず咥えているだけだった。

 言い方が薫と同じだった事に苦笑しつつ、

 

「どうもこうもないさ。真犯人を捕らえるだけだ」

 

 きわめて簡素に、耕介は答えた。

 

「……久遠を信用するってことかい?」

 

 真雪が口で器用に煙草を動かしながら、少しにらむように言った。

 

「あたしゃ、神咲の家のことは知らんし、久遠を助けたいのは当然だ。はっきり言っちまえば、どこぞの顔も知らん被害者なんぞよりは、久遠のほうが大事だよ。だが――いいのかい?」

 彼女は、あえて最後を濁すように聞く。しかし、それはこの場にいるものの総意であるに違いない。

 結局――全員が久遠を助けたいという事、同時に、久遠が犯人である可能性が拭えないという危惧。そして犯人であるのなら、久遠はもうここに入られなくなる事も――。

 

「いや、久遠は犯人じゃない」

 

 発言者は、意外にも恭也だった。

 彼にしては珍しく、対面した人ではなくどこか遠くをぼんやりと見つめるように思案しながら、言葉を続けた。

 

「物的証拠はないが――状況証拠なら、山ほどある」

 

 それに対して、真雪はというと意地が悪そうに――揶揄ではなく、彼女の癖である――笑うと、

 

「へぇ……堅物青年。あたしはむしろ、状況証拠から久遠が犯人である可能性を捨てきれないということだと思ってたんだが、どういうことだい?」

「……まず、動機がない」

「あん? そんなのは例のボウヤを神仏関係者に殺された恨みとやらじゃないんか?実際、過去にそういう行動をとってたんだろ?」

 

 過去に起きた悲しい事件。久遠の恋人といってもいい少年が、人間たちにより、殺された。

 そして、そのとき少年を殺すために動いたのが、とある神社の神主だった。

 その復讐の念にとらわれた当時の久遠は、その神主の着ていた服を見ると逆上、復讐するという狂気にとらわれていたのである。

 その事件のことを、真雪は言っているのだろう。

 

「恨みはあるかもしれない。たしかに、一度生まれた憎しみがゼロになることなんて決してないと思う。だが、記憶の封印がとかれて、事実を受け止めつつも暴走をやめたのは、久遠自身だ。復讐する気なら、なんでいままで行動を起こさなかったんだ?」

「……ふむ」

 

 なるほど。それは確かに、と思う。

 前回の「暴走」は、久遠の封印されていた記憶が蘇り、忘れていた憎悪を思い出したからだ。

 だが、今は?

 久遠は、自分の中の憎悪をしり、そのうえで大切な人たちとの絆によって、「人間」を恨むこと、危害を加えることをやめたのだ。

 それが今になってまた再燃したというのは、さすがに不自然すぎる。

 

「二つ目、久遠が犯人であるなら、何故ここまでわかりやすい行動をしておきながら、自分は犯人ではないといったのか。雷を使わず、単に爪やそこいらの石とかで殺してしまえば疑いは自分以外にも向かう。だがどの事件も、私がやりましたといわんばかりに、雷を落としてる。初めから俺達と戦おうとしているのならともかく、あれだけ派手に行動を起こして偽証する意味がない」

「……」

 

 久遠は狐だ。だが、きわめて賢い「妖狐」だ。

 もし耕介たちを騙そうとするのであれば、拙いながらももっと行動を取り繕うはずである。

 

「そして三つ目――。なんで、事件の発生場所がどんどん海鳴に近づいてくるのか、ということだ」

 

 そこで、耕介と十六夜を除くほぼ全員が、同時にめんを食らったように息に詰まる。耕介がテレビの横の本棚から、一冊の地図を出し、机において恭也を促した。

 

「いいですか?耕介さんから聞いた話によれば、最初の発生はここ――耕介さんたちが帰郷していた時とほぼ同時期――鹿児島です。そして、次がここ。その次がーー」

 

 たしかに――恭也の言うとおり、謎の落雷事故の発生箇所は件数が増すにつれ北上し、台風のようにコースを造った。

 

「5日前おきた事件が二つ隣の町。そして今日――あきらかに、意図を持って動いていると考えられませんか?」

 

 静まり返るリビング。理路整然と語る彼の横で、惚れ直したといわんばかりに、美由希が青年を見つめていた。

 隣に座するリスティが、ちらりとそんな彼女を見たあと、少しだけさめた表情で、

 

「恭也。だがそれは犯人が久遠でない証明にはならないと思うけど――言っておくが、久遠はその気になれば数時間もあれば大阪辺りまで行けるはず。鹿児島での滞在期間を考えれば、犯行時間との時間的アリバイは成り立たない」

 

 問う。

 もちろんリスティも、久遠が犯人であって欲しいわけではない。だが、リスティは、特殊警察とはいえ公僕である以上、私的感情を交えてしまうわけには行かない。

 早い話――彼女も、確証が欲しいのだ。曖昧な、身内感情的な馴れ合いでの保留措置ではなく、明確に久遠の無実を立証する何かを。

 まるで裁判所のような問答に、恭也はそれなりに様になった様子で――大きく頷く。そして、答えた。

 

「ええ、ですが、久遠が犯人だとすれば、普通は逆――つまり、犯行現場が海鳴から遠ざかっていくものではありませんか?」

「確かに。……だけどまて、それは単なるフェイクと考えられないか?疑われないためにそうしてる、ってわけで……。あとは、初めはばれないように遠くで犯行に及んでいたのが、慣れてきて手近になってきたとか――」

「リスティさん、俺が言った疑問の二つ目――忘れましたか?久遠が犯人なら、別にそんな回りくどいことしなくても、偽装は可能なんです。それに、最初の鹿児島の事件だけ久遠がいた場所と重なっている、つまり、久遠にとっては一番疑われる位置での犯行です。帰ってきた後も続けたとすれば、当然犯行現場は、海鳴の町から広がらなくてはおかしいんです」

「……なるほど。整理してみれば、動機も犯行方法も繋がっているようで、お互いの意味が矛盾しあってるんだな。そして片方で久遠が犯人であることをアピールしているのに、もう片方ではそれを否定するかのようなアピールになっている。しかし、それでも久遠の無実が証明されたわけじゃないよ?」

「はい。久遠の無実を証明する事はできません。ですが、この条件で『久遠が犯人である』という説より、もっと簡単に考えられることがあります」

「?」

 

 恭也は、これから自分が言う事をもう一度確かめるように、頭の中で台詞を反芻した。

 そして、それが間違い出ないことを確信したようすで、

 

「別の『誰か』が、久遠を追ってきている。久遠に自分の存在をアピールしながら、ね。そして久遠はその『誰か』と何らかの関わりを持っている。そう考えれば、全て納得がいきます」

「そうか…だから、物的証拠はなくとも状況証拠があるって言ったのか」

 

 今まで黙ってリスティと恭也のやり取りを見ていた真雪が、大きく紫煙を吐き出して――(いつの間にか点けていたらしい)頷いた。

 

「そう、これはあくまで推論です。しかし、久遠が犯人だというのも推論でしかない」

「となれば、どちらがより可能性が高いか、か。あたしらの久遠に対する甘さを差っ引いても、恭也の方が正しい……とは言わないまでも、有力な気がするね。多少の無理はあるけど、久遠が犯人だ、というよりは自然に思える。だけど、それが他の連中に通用するか?」

 

 特にコイツ等だ、と彼女は銀髪の女性に煙を吹きかける。

 リスティはとりたて怒った様子もなく、ふん、とそれをやり過ごした。

 

「真雪、確かにうち(特殊警察関連)が、久遠が犯人だという説を取りやめるとは思わないけど、今の話をまったく聞かないほど愚かじゃないよ。……まあそれでも久遠を有力視するだろうけど。現時点で想像でしかない犯人像を操作するより、浮かび上がっている容疑者を取り調べたほうが効率いいだろうし」

「まあな、それに根本的に久遠がこの件に関わっている事は間違いないんだ。じゃなきゃ、久遠はそもそも逃げる必要なんてないんだから」

 

 そこで、耕介が立ち上がった。

 その動作はおそらく無意識の事なのだろうが、全員の注目を集めるという効果は十分にある。

 

「よし、とりあえず俺は事件の詳しい調査をしてみる。妖怪がらみであることは間違いなさそうだしな。リスティは、警察のほうに今の見解を伝えてくれ。真雪さんは……」

「いいさ。どうせあたしは役に立てんしね。ま、ここの警護くらいはするよ」

 

 耕介が頷く。そして恭也たちを見て――

 

「ほんとは、君達を巻き込みたくはないんだが――言っても無駄だろ?」

 

 苦笑交じりに言った。

 彼らはあえて答えず、脇の愛刀をかちゃりと鳴らし、唇を曲げた。

 危ないからという理由で引き下がる二人ではない。それに、下手に勝手に動かれるより、行動を把握できたほうが安全ですらあると判断して、耕介は彼らに協力を仰ぐ。

 他のメンバーもそれは理解しているのか、誰も口を挟まなかった。

 

「君達はこの辺りで久遠を探してほしい。そして――那美」

 

 びくん、と、不意に名を呼ばれた少女が顔を上げる。初めは泣いていた彼女だったが、半ば放心していたように今までのやり取りを見ていたのだ。

 

「わ、私も久遠を探します!」

「いや――君はここに残れ」

 

 がた、と大仰に立ち上がった。

 

「何故ですか?私は久遠の親友なのに――」

「調べてもらいたい事がある。過去の神咲の歴史での妖狐の記述で関連性があるものを全て」

「……はい」

 

 かなり不満そうではあったが――静かに答えて再び椅子に沈んだ。

 耕介は自分に仕事を命じたが、それはただの理由付けであり言外に足手まといは付いてくるなと言っていると思えたからだ。

 だが、そんな那美を耕介は少し見据えた後、静かに言葉を継げる。

 

「……那美、久遠が犯人だと思うか?」

 

 唐突に言われて、少女は義兄の顔を仰ぐ。

 たしかに、さっきの部屋での一件のときは、そうかもしれないと思った。だから、思考をとめて泣きじゃくったのだから。

 

 だけど、今は――

 

 横に、首を振った。

 耕介が微笑む。

 

「なら、信じてまっててやれ。久遠は、帰ってくると言ったんだ。そのときおまえがいなきゃ、久遠が寂しがる」

 

 大きな手で、ぽすん、と那美の頭をなでる。

 にか、と、誰もが安心するような笑顔で。

 

 那美は、この人が兄になった事を、心から誇らしく思った。

 周りの一同も、義妹に慈しみの目を送り、頭を撫でている耕介を、優しく見守った。

 この大柄の青年が、他人の心を繊細に思えるすばらしい人間であると、改めて自覚する。

 

 

 そして、そのとき一同は、十六夜を除く全員が一つの事を考えたのだ。

 

『これで、アレさえなければ……』

 

 と。

 何故なら――

 

 

 彼の着ているセーターの上にかけられているエプロン。

 そこには大きく、

 

『十六夜 LOVE』

 

 と、刺繍がしてあったからである。

 

 

         ◇

         

「ちょっとまった堅物青年」

 

 それぞれの行うべき仕事に移りかけたそのとき、周りに人が少なくなった事を確認し、恭也に声をかけたのは、あいかわらず眠い目をした真雪である。

 なんですか、と一人反応すると手をとられ、さらに人気のない風呂場の前まで連れて行かれる。そして、ニタリと笑った。

 

「さっきしゃべった君の推理な――あれ、耕介の描いたシナリオだろ」

「な――!」

 

 驚く恭也に、くっくっくと下卑た笑いをする。

 

「どうせ、神咲の当代の意見だとムリヤリかばっているように見られるから、第三者の意見としてリスティに伝えさせたわけだ。ま、実際は心が読めるあいつを騙せるわけじゃないから、あくまで『神咲に関係のない人物の意見があった』という、既成事実を作るために。――違う?」

 

 答えない。ただ無言で固まっていた。

 なんだってこの人は、こう嘘を見破るのが得意なんだろう、と、恭也はそら恐ろしくなる。

 

「違うよ。耕介も恭也も嘘が下手なだけだ」

 

 聞いてもいない心の発言に答えられ、それは絶対に嘘だ、と思った。

 

 

 

 

 

 




シリーズ完結まであと3、4章くらい?


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