レミリア提督 (さいふぁ)
しおりを挟む

レミリア提督 Notice

 鮮血のような夜だった。

 

 

 

 地上は紅蓮に燃え盛る炎が瓦礫も死体も一緒くたにして燃やし、その明かりが夜空を照らして星の光を隠してしまっている。

 けれども、ピジョンブラッドの如き紅く、深く、そして暗い満月は、彼女だけが煌々と輝きながら冷酷な王のように静かに地上を見下ろし、頭上から降り注ぐ赤黒い深海機の残骸に追われる者たちを嘲笑っていた。建物はことごとく打ち崩されて無残な残骸に成り果て、港を囲んでいたガントリークレーンはまるで飴細工のようにねじ切られてドックに沈んでいる。周囲のふ頭は墜落した機体が機械的な部品ではなく生物のような肉片をまき散らしてさながら絨毯のように地上を覆っているのだ。

 特別に宗教を信じていなくとも、この光景を見て地獄を思わない者はおるまい。血の臭いと重油の臭い、焦げるような臭いに潮の臭いも交じって、鼻がひん曲がりそうな悪臭が漂っている。口の中は鉄臭くなったくせに水分が蒸発して干からび、気持ちの悪い生暖かい風が肌を撫でて身が震えた。その上おぞましいのはこれだけでなく、潰された虫の大群が中身をぶちまけて辺りを埋め尽くしているような景色の中に、赤い槍の針葉樹林が乱立している。

 

 いや、槍が立っているというだけでも相当な不条理だが、さらに不条理なのはその槍の一つ一つに先程港に上陸して侵攻して来たはずの深海棲艦の躯が串刺しになっていることだ。

 

 

 このような光景は聞いたことがあった。

 そう、決して見たのではない。だが確かに過去、十五世紀の半ばごろにルーマニアで見られた光景である。その時代に生きていたわけではないから実際に目の当たりにしたのではないが、きっとそれを目にした当時の人々はあまりの異様さに言葉を失ったに違いない。

 

 

 今の「赤城」と同じように。

 

 何もかもが現実感を喪失していた。けれど、網膜に映る映像は鮮明過ぎるほどのリアリティと圧倒的な説得力を持って脳に認識を強迫する。だから、否が応でも目の前で起こっていることが、夢でも幻でも何でもなく、真実であること、事実であることを気が狂いそうなくらい思い知らされる。この悪夢が始まって、「赤城」は何度も抗えない暴力を振るわれていたが、現在なお進行し続ける異常な事態それ自体さえもが、一つの暴力となってさらに「赤城」を蹂躙し、意思を座屈させていた。

 守るべき場所が地獄の底のように変化し、自分が全くそれを止められなかった。というよりたった今、一切合切の力を奪われて完全に無力であることを思い知らされるという絶望を味わい、「赤城」は秘所を不躾な手で侵されたかのような恥辱と屈辱にまみれていた。

 だが、泣こうにも眼孔からは何もこぼれず、喉からは干上がった声が漏れ出るばかりで、まるで意志を持たぬ人形のようにその場にへたり込んで見上げるしかない。

 

 

 

 山のように――まさに山のように積み上がった深海機の残骸の上で、悠然と足を組んで見下ろす彼女を。

 

 

 

 「串刺し公」の末裔を。

 

 

 

 次は自分だという確信に近い予感がある。つい数分前まで鎮守府の空を覆っていた深海機の軍勢の内の何割かは「赤城」の子供たちだった。しかしそれが今はすべて彼女の尻の下にあり、かくて空母としての能力のすべてを奪われた「赤城」は、本当に赤子同然に無力な存在に成り下がっている。彼女にとって今の「赤城」は――否、万全の状態であってもそうだっただろう――きっと容易い存在に違いなかった。

 

 では何をする?

 命乞いか? この期に及んでの悪あがきか?

 

 答えは出ない。

 思考は動くが、答えをはじき出せるような状況では既になかった。もう「赤城」にはどうしようもないのだ。

 命乞いをしても聞き入れられる確率は皆無に等しい。抵抗をしてみても虚しく捻り潰されるのは目に見えている。

 ならばいっそ、ここは武人らしく潔く死ぬべきなのかもしれない。

 もっと言えば、本当は「赤城」という女は当の昔に死んでいるのだ。今ここにいるのは、かつて「赤城」と名乗っていただけの亡霊であり、あるいは海軍の付けた仮称を借りて言えば「――」とも呼ぶべき存在で、それは「赤城」とは違う生き物のはずだ。

 どうしたことか、今の「――」には「赤城」としての自我と意識があるけれど、きっとこれは身体に残っていた彼女の残滓に過ぎない。

 

 だから、やはり“私”はここで死ぬべきなのだ。

 

 彼女の愛した「赤城」ではない。「赤城」の身体を借りただけの”私”は。

 

 

 

 

 

 

 

「いい夜ね」

 

 

 

 満月の化身は酷く上機嫌だった。

 まるで上質なワインに舌鼓を打っている時のように、彼女は穏やかな微笑みを浮かべて、さらにそれを”私”に向けている。

 

「今夜は血が滾るわ。だけどあんまり時間がないのが残念」

 

 彼女はゆるりと首を振り、話を続ける。

 “私”はと言えば、ただ黙って震えているだけでしかなかった。死んでなお、こんなにも恐ろしい思いをするなんて想像だにしなかった。死はすべての終わりだと思っていた。あるいは、靖国に導かれるのだろうと甘い見通しを立てていた。

 

 

 

 

 ――現実は、何もかもが違っていた。

 

 幻想が侵入し、介入し、介在し、世界の解釈を変えていく。運命が歯車の軋む音を立てて動いていく。

 目の前にいる彼女がそうだ。

 

「手短に終わらせましょう」

 

 そう言って彼女はそれまで腰掛けていた死骸の山から立ち上がる。同時に、不規則で幾何学的な形をした影のように暗い翼が背中からまっすぐ伸ばされた。

 

 

 

 ふわりと、彼女の小さな体躯は空中に浮き上がる。

 

 

 

 それが序章の終わり。

 

 

 

 それが終幕の始まり。

 

 

 

「こんなにも月が紅いから!」

 

 

 

 彼女は叫んだ。

 悪魔の背後の空間が、その身から放出される禍々しい魔力によって歪み、月はいよいよあり得ないほど煌々と紅く、悍ましく輝き出す。

 

 

 世界が震えた。

 

 

 幻想の侵食への拒絶反応。最後の抵抗として、あるいは逆にその力の支配が確立した印として、激震が走ったのかもしれない。

 何人たりとも彼女に逆らうことは許されない。彼女が作り出す幻惑の世界の中で、”私”は支配者の名を思い浮かべる。

 

 

 

 

 

 

 

「楽しい夜になりそうねッ‼」

 

 

 

 

 

 

 

 忘れもしない。

 

 

 

 彼女の名前は……。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

「レミリア・スカーレット少将?」

 

 

 人事局から電子メールで送られてきた通達のPDFファイルを開いた赤城は一度顔をパソコンの画面に近づけ、引き戻してから無意識に声を出した。

 

 司令室の隣、秘書艦に与えられた六畳ほどの狭い個室の中、摩天楼のように積み上げられた資料ファイルの塔に埋もれているデスクに一人腰を掛けて、今日の昼のカツ丼定食はうまかったなあ、などと膨らんだ胃袋に満足しつつスリープ状態のパソコンを叩き起こした直後である。メールチェックをしたところ、受信ボックスには何件かのメールが入っており、それらに目を通していた時、件の通達を見つけたのだった。

 

 それは、当鎮守府に新しい長官が着任することを知らせる通達であった。

 

 前任者が急病を理由に軍から去った後、しばらく後任が見つからなかったのだが、ようやく新しい人が来るようである。鎮守府長官不在の間、その代理として秘書艦に職務を兼務しつつ、鎮守府の顔として、最高意思決定者として、膨大な量の仕事を毎日早朝から深夜までこなしていた赤城としては、この通達はまさに心待ちにしていたものだった。酷い時、睡眠時間はたった一時間しかなく、寮で同室の加賀には日に日に顔色が悪くなっていると心配される始末である。普段はしない厚化粧で目の隈を隠し、トップが居ない中で周囲に不安が広まらないよう必死で取り繕っていたのだが、それももうそろそろ限界を迎えようとしていたのだ。何者であれ、後任者の着任に赤城は深く安堵したのだった。

 

 そうは言うものの、やはり「誰が来るのか」ということは赤城にとって(もちろん鎮守府の他の艦娘にとっても)大いに気になるところである。特に、その者の名前が横文字で表記されるようなら。

 

 

 赤城は鎮守府の最古参の一人であり、秘書艦である。

 

 それ故、赤城は軍の中の情報についてはかなり詳しかった。秘書艦という職務上、艦娘として戦場に出るよりも事務仕事の方が割合を多く占め、他の鎮守府や本部と電話・電子メール等で連絡を取り合うことを毎日している。だから、自ずと軍の中の様々な情報が入って来るのだ。そうして知り得た情報の中には現在軍に所属する現役の将官の名前とそれぞれの得意分野や立ち位置等も含まれており、そこから赤城は次にこの鎮守府に着任しそうな人物を何名かピックアップしていた。兵学校の卒業年次、席次、経歴、現在の役職等を総合的に検証した結果、自分でもかなり信頼出来る予想を立てるに至った。

 

 ……のだが、実際に通達に書いてあったことはまったく思いも寄らない名前だったのであるから、思わず声に出してしまったのだ。

 

 赤城はしばし固まり、パソコンの画面を食い入るように見つめた。が、どれほど眺めようと、液晶に書かれている奇妙な横文字の名前は変わることがなかった。

 

 はて、こんな名前の将官が居ただろうか? 

 

 赤城は頭を捻るが知っている中で少将の階級を持つ者はすべて漢字の名前である。誰がどう見てもこの人物は日本人ではない。いや、別に外国人であることがおかしいのではないのだ。

 

 現在の海軍は、母体こそ日本海軍であるものの、諸般の事情により国際共同で運用される軍隊となっており、つまりは「国連軍」と呼ばれる存在なのである。もっとも、その来歴や拠点の多さ、所属軍人の国籍から、実質的に日本がほとんどの権限を握っているのだが。

 

 とはいえ、そこは腐っても国連軍であり、当然ながら日本人以外の軍人も所属する。公的には軍内公用語は英語であり、事実赤城も英語でメールを打つことがしばしばある。要は、深海棲艦――人類から海の道と資源を奪い去った上、さらに海岸線を侵食しつつある敵――に各国が力を合わせて対抗しましょう、ということなのだから、ある日突然知らない名前の外国人が提督としてやって来ても不思議ではない。

 

 ただそうは言っても、広い人脈と豊富な知識に自信のある自分がこれまで聞いたこともない名前なのだから、それは驚くものである。ついでに、赤城の知る限りかつて鎮守府長官に外国人が着任した例はない。

 

 しかも、だ。あまり他国の人名には詳しくないが、どうやらこの「レミリア」という名前は女性のもののようである。男性形は何というのか知らないので確信は持てないものの、後任提督は世にも珍しい、というより我が軍初の女性外国人提督ということになるだろう。まあ、このあたりのことは後で詳しい“彼女”に聞くことにする。

 

 取り敢えず、赤城は取り合えずPDFファイルをプリントアウトした。紙媒体として三次元に現れた通達を手に取り、内容を今一度確認する。着任の日付は三日後の七月一日になっていた。

 

 えらく急なものである。恐らくぎりぎりまで外国人女性を提督にしていいのか揉めたのだろう。頭の固い保守的な日本人が権限を握る人事局にしては思い切ったことをしたものだから、それ故相当のすったもんだもあったに違いない。

 

 だが、問題はなかった。赤城は後任者を心待ちにしていたのだ。いつ着任してもいいように万全の態勢を整えてある。新任提督用の当鎮守府のガイダンスは冊子とデータの両方で作成済み。詳細な戦闘記録もあるし、口頭で戦況を簡潔に説明することも可能。長らく空室となっていた司令長官室には塵一つ落ちていないし、大型艦を自由に運用できるだけの十分な資源の備蓄もある。加えて、当鎮守府には帰国子女で英語に堪能な艦娘――金剛がいるし、赤城自身もある程度のレベルまでなら英語でのコミュニケーションが可能だ。例え新任提督が英語しか解せなくてもまったく問題はない。いかなる提督も、着任後速やかに当鎮守府における職務を理解し、直ちにその遂行を開始出来るようになっている。

 

 赤城は通達の紙をデスクの端に置いて上に文鎮を乗せる。こうしておけば後で忘れることもないだろう。この通達は寮の食堂横の掲示板に張り出すつもりだった。昼前にこれを見ていたら、昼食に向かう時に一緒に持って行けたのだが、今の時間では先にやらなければならないことも多いし、わざわざこれを張り出すためだけに秘書室のある鎮守府第一庁舎から数百メートルも離れた寮に向かうのはしんどい。何よりも、屋外に出る気がしない。

 

 それから赤城は一つ喉の渇きを覚えて、午前中に買い入れパソコンの横に置きっ放しになっていたペットボトルのお茶に手を伸ばす。昼のカツ丼はたいへん美味しく、また精の出る食べ物であったのだが、いくらか脂っこくてすぐに喉が渇いてしまったのだ。しかし、生憎なことにペットボトルは空。どうやらいつの間にか飲み干してしまっていたらしい。

 

 飲み物を買いに行くのは面倒だが我慢するのはもっと面倒だ。赤城は渋々デスクから立ち上がり部屋の外に出た。狭く圧迫感の強いもののクーラーが効いていて涼しい秘書室とは対照的に、外の廊下はねっとりとした熱い空気に満たされていてたいそう不快だった。その分圧迫感などはないが、どちらが過ごしやすいかと言われればもちろん部屋の中である。

 

 だが、赤城は汗一つかかず涼しい顔で廊下を進む。すべての艦娘の模範となるべき秘書艦はちょっとの熱さで顔を顰めるべきではない。きびきびとした歩調で目指すは休憩所の自動販売機。この鎮守府第一庁舎の一階裏にある。

 

 廊下には誰もいない。午後の一時を過ぎたところだ。艦娘たちはこれから海に出て訓練に励むであろうし、鎮守府の職員たちも各々の仕事に没頭し始めている頃だろう。忙しい赤城はさっささっさと足を動かし、三階にある秘書室から一階にまで下りて来る。目指す先には自販機が冷たい飲み物を抱えて赤城を待っているはずだ。

 

 

 

 体にまとわりついてくる空気を切り裂くように歩き、休憩所にやって来ると、数台並んだ自販機の内、一台が開けられているのが目に入った。がこん、がこんと缶飲料が補充される音がする。

 

「あ、こんにちは!」

 

 赤城がジュースを買うために別の自販機に近寄ると、飲料会社の制服を着た女が挨拶をしてきた。目を引く赤い髪を一房に絞った背の高い女だ。額に汗を浮かべながらも、彼女は暑さを感じさせない爽やかな笑顔を見せた。

 

「こんにちは」

 

 見ない顔だ。つい先日まで、ここの自販機の補充とメンテナンスに来ていたのは中年の男だった気がしたが、代わったのだろうか? 軍事施設である鎮守府に出入りする業者は、担当者が変更になる場合届け出を出さなければならない決まりになっているが、そんなものがあっただろうか。赤城は頭を巡らすが、それもほんのわずかな間だけだった。

 

 鬱陶しいまでの暑さの中、悠長に思考する気など起きなかったからだ。一日に処理する書類の数が膨大すぎて忘れているだけだろう。赤城はそう断じて緑茶のペットボトルを買った。

 

「暑いですねー!」

 

 やたら元気のいい女が話し掛けて来る。「そうですね。堪らないわ」と赤城も返す。

 

 それから互いに会釈して、赤城は休憩所を離れる。行儀が悪いと思いつつも、水分を失った体が勝手に動いて、お茶を飲みながら秘書室に戻ったのだった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 十九時。夕食のために集まった艦娘で食堂は賑わっていた。一台しかないクーラーは唸りを上げて冷たい風を吐き出し、その下に何人かの駆逐艦娘が居座って、少しでも風が当たる面積を広くしようとクーラーの口に向かって手を伸ばしていた。

 

 夕方に思わぬ仕事が入り、ついさっきまでそれと格闘してようやく終わらせた赤城は時間ぎりぎりに食堂に飛び込んだ。兵士でもある艦娘のタイムスケジュールはきっちりと決められている。十九時から二十時までの間は夕食の時間となっており、例外を除いてこの間に仕事をしてはならないのである。

 

 秘書艦が時間に遅れるわけにもいかず、赤城は秘書室から食堂まで走って来た。お陰で体の表面がじっとりと汗ばんだ。汗臭いのは嫌なのだが、どの道夕食時の食堂というのは訓練を終えたばかりの汗むさい艦娘が集まっているのだから、自分の臭いに過敏になる必要はないと断じる。

 

 赤城が食堂に入ると自分以外は全員集まっていた。軽巡の川内がクーラー下の駆逐艦たちに席につくように言い、食堂は静かになる。

 

 全員の目が赤城を見ていた。赤城は用意されている自分の席にはつかず、ゆっくりと壁伝いに食堂を半周する。ちょうど厨房を背にしながら艦娘たちと向き合い、忘れずに持って来た通達の紙を掲げてみせた。丁寧に一礼してから事務連絡を始める。

 

「えー、皆さん。お疲れ様です。一つ、大事な連絡があります」

 

 全員が静かに傾聴する。赤城の声と、厨房で調理器具を片付ける音だけが響く。

 

「先日から提督が長い間不在でしたが、この度新しい方が着任されることとなりました。『レミリア・スカーレット少将』という方です」

 

 ざっと食堂がどよめく。赤城の口から飛び出した横文字の名前に、赤城と同様他の艦娘たちも驚いたようだ。各々が各々、隣にいる者同士で顔を見合わせ囁き合う。

 

 赤城は手を挙げた。まだ話は終わっていない。

 

「お静かに。新しい提督は明々後日の七月一日にご着任される予定です。詳しくは食堂前の掲示板に紙を張り出しておくのでそちらを見てください。お名前の通り、海外から来られるので日本の様式や慣習などご存知ではないかもしれません。皆さん、新しい提督が少しでも早く慣れられるようにしっかりとサポート出来るようにお願いします 」

 

「はい」

 

 艦娘たちが返事をすると、赤城が座る前にすっと手が挙がった。鎮守府内で唯一の軽巡洋艦娘の川内である。

 

「何でしょうか、川内さん」

 

「日本人じゃないのはなんでですか?」

 

「それは、分かりません。ただ、どなたが来られても一緒ですよ。私たちは私たちのやるべきことをしっかりとやるだけです」

 

 川内の訊いたことはこの場にいる全員が知りたいことである。もちろん、赤城も含めて。

 

「連絡は以上です」

 

 そう言ってまた頭を下げてから赤城は先に座っている同僚の加賀の隣に移動する。テーブルには既に赤城の分の夕食を加賀が用意してくれていた。

 

 赤城は赤城で通達を見てから少し「レミリア・スカーレット」なる軍人について調べてみたのだが、その情報はまったく出て来なかった。日本人以外の人間について調べるのは初めてなので、単にスカーレット将軍が謎に包まれた人物なのか、海外の人間の情報は出てきづらいのかは分からない。

 

 それからいただきますと言って食事を始めたのだが、今度は赤城の目の前に座る戦艦の金剛が話し掛けて来た。彼女はこの鎮守府で最年長であり、最も武勲に優れた艦娘の一人である。

 

「何者かも分からないのデスか?」

 

「はい。全然ですよ。情報が出て来ないんです」

 

「経歴も、出自も不明? Where from? どこの国の出身かも?」

 

「はい。恐らくは英語圏の方だと思うのですが。名前からして」

 

「そうネー。Scarletっていうsecond nameは珍しいケド」

 

「ファーストネームならありますね。スカーレット・オハラとか。ところで、金剛さんにお願いがあるんですが」

 

「通訳ネー」

 

「はい」

 

 分かっているなら話が早い。英国出身の金剛は英語が堪能だ。日本語は発音がどこか怪しいが、英語の方は流暢に喋る。赤城も彼女に英語を教わったのだった。

 

「それはいいケド……」

 

「何でしょうか?」

 

「んー。別に、何でもないワ」

 

 金剛は何か言いかけていたが、結局口を噤んでしまった。まあ、彼女がいいと思ったのならいいのだろう。赤城は別段気に留めなかった。必要なことなら金剛は必ず話してくれるからだ。

 

 と、隣に座って黙々と食事をしていた加賀がポツリと呟いた。

 

「私も、英語を勉強しなければいけないかしら」

 

「え? まあ、直ぐに必要になるわけではないと思うけど。私も金剛さんもいるし。でも、話せるようになって損はしないと思うわ」

 

 加賀が心配しているのは、仕事が言葉の壁で阻まれないかだった。

 

 提督不在の間、鎮守府長官業務を一部代理していて仕事机を離れられない赤城に代わり、加賀が現在当鎮守府所属の艦隊旗艦を務めていた。通常は秘書艦が旗艦の任に就くのだが、赤城があまりにも忙し過ぎる故の処置であった。後任提督が来たら、赤城は旗艦に戻る予定であるが、元より不在の時などに赤城は加賀に旗艦の代理をお願いすることがよくある。必然、加賀も提督と接する機会も多くなるわけで、外国人が着任するなら英語力も求められてくるのだろう、ということである。国際化の世の中なのだ。

 

「加賀はどれくらいEnglishを喋れるのデスか?」

 

 金剛の問いに、加賀はしばらく逡巡したように沈黙し、それから口を開いた。

 

「はろー。ないすとみてぃゆー。まい、ねーむ、いず、“カーガ”」

 

 赤城と金剛は堪え切れず同時に噴出した。

 

「アハハハハハ!」

 

「クッ。加賀さん、何で名前だけ片言で言ったんですか……」

 

「オー! しゃらっぷ!」

 

 すっかりへそを曲げた加賀はそれっきり何も言わなくなってしまった。顔は羞恥で紅潮していて、これは機嫌が直るのに相当時間が掛かるだろう。それは分かっていたのだが、あまりにも加賀の発言が可笑しかったので思わず笑ってしまったのだ。

 

 本人は至って真面目なのである。加賀はほとんど冗談を言わないし、面白い言動で場を賑やかすひょうきん者でもない。英語の発音が下手なのは素なので、加賀としては真剣にかろうじて知っている英語のフレーズを口にしただけなのだ。それを笑われれば誰しも怒りはする。

 

 が、何度も言うように赤城にとっては面白かったのである。ついでに言えば、この後の加賀の行動も予想出来た。

 

 プライドが高く負けず嫌いな彼女だ。英語の単語帳を買ってきて、こっそり勉強を始めるに違いない。そして、いつの間にか英語を喋れるようになって赤城たちを見返そうとするだろう。もう、隠す前から隠しことがばればれなのだが、それが加賀の“らしい”ところである。

 

 

 そんなこんなで、その後は加賀の機嫌を直すのに赤城は苦労しなければならなかった。ただ、後から思えばこんな風に笑っていられたのも、この時までだったのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督2 Enthronement

 

 

 

 梅雨の晴れ間の七月一日は相も変わらず不快指数マックスの一日だった。冷房のない廊下など、ただ立っているだけで汗ばんできたし、日向のアスファルトは直射日光が強すぎるせいで白っぽく霞んで見える有様である。夏の風物詩である蝉はまだ鳴き始めていないが、梅雨が明ければわらわらと地面から這い出て来て、そこら中に茶色い脱け殻を残して一斉に喧しい音楽祭を開催することだろう。

 

 赤城にとって幸いなのは、狭いながらも一日中クーラーの効いた秘書室にいられることだった。秘書室は六畳ほどの広さしかなく、天井まで届く大きな棚が置かれているせいで圧迫感が尋常ではないし、その上赤城の仕事机があり、床には棚に入りきらないファイルが所狭しと積み重ねられていた。几帳面で普段から机周りの整理整頓を怠らない赤城をもってしても、部屋が足の踏み場もないほど散らかっている。その事実が、彼女が今抱えている仕事の膨大さを如実に物語っており、この部屋の惨状を一目見た者は、赤城が一日中涼しい中で過ごせられることへの妬みを飲み込んでしまうのだった。艦娘の戦場は海の上であるが、赤城に限ってはこの部屋がまさにそれである。

 

 だが、この殺人的な仕事量からの解放も既にカウントダウンに入っている。今日、待ちに待った新しい提督がこの鎮守府にやって来るのだ。外国人女性らしいということで一抹の不安がないわけではないが、赤城や金剛がサポートすれば言葉の壁を乗り越えて上手くいくことも不可能ではない。そうすれば、今赤城が抱えている司令長官の業務を手放すことが出来、空いた時間を本来の、つまり海上での「職務」に費やせるのだ。赤城も艦娘である以上、一日部屋に籠って仕事をしているより、海に出て戦いたいのである。

 

 ところで、提督が来る時間は事前に知らされていなかった。当人の予定が流動的なので予めには分からないということだそうだ。今日来るのは間違いないはず。出迎えるためにいつもより早起きし、いつもより化粧に気合を入れ、いつもより多めに朝食を摂って待ち構えていたのだが、遂に時計の針が午後の時間帯を指しても提督は現れる気配すらなかった。

 

 いつでも出迎えられるよう、普段は海で訓練に勤しんでいる加賀と金剛を陸に揚げて待機させているのだが、別室にいる彼女たちもいよいよ我慢しきれなくなっているだろう。とにかく、いつ来るのか聞いておかなければならない。

 

 ということで、赤城は人事局の内線を叩いた。

 

 出た相手は「確認して折り返し致します」と答えたっきり、一時間を経過しても解答を寄こさなかった。赤城はもう一度内線を叩く。

 

「二十一時到着予定とのことです」

 

 ようやく得られた回答に、赤城は思わず溜息を吐いてしまった。

 

 夜に来るならそうと言ってほしい。朝から気合を入れて空回りしていたのは何だったのか。待機させていた加賀と金剛の時間も無駄にさせてしまった。

 

 文句を言われるなと思いつつ金剛たちに知らせると、案の定非難ごうごうである。彼女たちに自由時間を与えて、赤城は秘書室で仕事に没頭し始めた。

 

 

 

 

****

 

 

 

 夕食の後、赤城は急いで身を清め、礼服を身に纏い改まった格好で鎮守府第一庁舎の玄関に立った。後から同じように礼服を着た加賀と金剛が続き、鎮守府の職員代表として加藤幕僚長も現れた。

 

 四十代半ばの加藤幕僚長は大きな体躯を持つ精悍な顔立ちの軍人である。赤城たち艦娘と並ぶと頭一つ高い。

 

 彼の階級は少将。幕僚長とは鎮守府司令長官を軍務・軍令両方の面で補佐する役職である。その役割は秘書艦と被るところも多いが、厳密にいえば秘書艦が幕僚長の職務を一部代行しているのである。

 

 現在の海軍は艦娘による戦力が主体である。兵器であると同時に兵士である彼女たちは“物”としてではなく“人”として管理・監督しなければならないが、ただの人間である幕僚長にそれが十全に行えると言えば、必ずしもそうではない。最近でこそ女性提督・女性幕僚長というのもちらほら見るようになってきたが、かつて軍は完全な男社会であり、そこに強い少女性を持った艦娘が加わったのだから、昔の軍人たちは艦娘の“世話”に大変手を焼いたと聞く。

 

 そうした教訓から艦娘の管理をする役職として「艦娘幕僚」――通称“秘書艦”という職が置かれるようになったのだ。要は、艦娘のことは艦娘に任せようというもので、上官たる司令長官や幕僚長は秘書艦一人を管理することにより、間接的に全艦娘を管理出来るようになる。故に、ある意味では加藤は赤城の直属の上司である。当然、提督不在の間は赤城以上に多忙な人である。ちなみに、彼にはアメリカへの赴任経験があり、英語もそこそこ話せる。

 

 もし提督がやって来て、英語で会話が進むとなると、この場で言葉が分からないのは加賀だけ。彼女が置いてけぼりにされて拗ねるのは目に見えているので、赤城は初っ端から金剛に通訳を頼んでいた。

 

「時間が、遅いね」

 

 頭上から声が降って来て、赤城は少し顎を上げた。見上げる加藤の顔は、あまり機嫌がよさそうではない。潮焼けした浅黒い顔の陰影が濃くなっている。

 

 何年か前、とある風呂をテーマにした漫画の実写映画で主演を務めた俳優に似ていると評判の彼は、鎮守府の艦娘たちからの人気も高い。それどころか他の鎮守府でも噂になっているようだ。確かに顔立ちは日本人にしては彫が深く男前であるし、落ち着きがあり渋さのある声は確かに魅力的だ。ただ彼も人の子であり、機嫌が悪くなるとなかなか直らないという厄介なところがあった。

 

「海外の方ですから、慣習などが日本と違うのでしょう」

 

「そうかな?」

 

 加藤が不機嫌そうにそう呟いた時、鎮守府の正門を一台の黒いクラウン・マジェスタが静かに潜った。

 

 来た。

 

 クラウンは前庭を回り、赤城たちの待ち構える庁舎の玄関に静かに横付けする。自然、体に力が入る。

 

 前部座席には二人。助手席から男が一人降りて来た。後部座席はウィンドウにスモークが貼られていて中の様子を窺えない。赤城たちは敬礼をしたまま、提督が降りるのを待った。

 

 助手席の男が後部ドアを開ける。辺りは不気味なほど静まり返っていた。人々が寝入る時間帯であるということを考慮しても尚、静か過ぎるほどだった。

 

 

 

 

 ゆっくりと、中の人物が姿を見せる。

 

 最初に目に入ったのは、妙に小さな黒い革靴だった。

 

 コツと、小さな音がして足が地面に立つ。

 

 白い礼服も小さかった。視線を足元から脛、膝、腿と辿らせていくと、意外なほど低い位置に腰がある。さらにそこから上には華奢な上体が伸びていて、頭は後部ドアのウィンドウくらいの高さしかない。

 

 子供だ。子供がいる。

 

 赤城は目を剥いた。そこにいるのは、まごうことなき幼い少女である。

 

 真っ白な礼服に、それよりもさらに白く透き通るような肌。背筋が凍るほど整った顔には大きな目がはめ込まれていて、眠たげな瞼から生えた長い睫毛が瞬きの度に揺れる。瞳は宝玉のように透明な真紅で、目を合わせたら吸い込まれてしまいそうなほどの深さがあった。

 

 そこに現れたのは、ハッと目を引くほど美しい少女。

 

 年は、小学校高学年くらい。十代前半だろう。整った顔に気の強さが見て取れたが、彼女が持つ独特の雰囲気を表す言葉は思い付かなかった。

 

 それでも敢えて言葉にするなら、「気高さ」だろうか。それも、単に気高いものではない。同時に身の凍えるような冷たさを伴った、さながら繊細な氷の彫刻の如き気高さである。彼女の傍に立っているだけで鳥肌が立つようだった。否、今の赤城の全身に鳥肌が立っていた。痺れるような感覚が皮膚の上を這い回り、赤城は小さく身震いする。

 

 しばし、赤城たちは言葉を失い立ちつくしていた。現れた彼女の容姿に衝撃を受けたこともそうだが、何より彼女の纏う独特の雰囲気にあてられてしまったのだ。

 

 本能的に悟る。

 

 彼女は、人の上にしか立たない者だ。生まれる前から支配者であることを決められていたような存在だ。彼女以外の全てが彼女の足元に跪き、頭を垂れ、忠誠と服従を誓うのだ。

 

 

 ゾッとした。

 

 

 悪寒とも歓喜ともいえぬ感覚が背筋を走り抜ける。それはオーガズムに達した時に近いものだった。体の奥底が疼き、精神は異様な興奮・高揚をしていた。

 

 赤城は今の自分を支配するこの感情に説明を付けられず、ただただひたすら体が勝手に動き出さないよう敬礼したままの姿勢を堅持した。

 

 

 

「お早う……いえ、こんばんは」

 

 その声は見た目に違わず舌足らずであるが、丁寧な発音に高貴さが感じ取れた。赤城たちはもう一度驚いた。彼女が流暢な日本語を話したことに。

 

「貴女たちが今度から私の部下になるのね?」

 

 柔らかく、険しく、温かく、冷たく。その声は相反する複数の色合いを含んでいる。彼女がどういう感情を持つのか。いやそもそも感情というものがあるのか。まったく読めない。

 

 彼女は人間だろうか。あまりにも神秘的で妖艶でそして怜悧な気配に、赤城には目の前の少女が人の姿をした人ならざる者であるかのように思えた。

 

「さあ、私を愉しませてちょうだい。貴女たちも私を忘れられなくしてあげるから」

 

 彼女は、柔らかく微笑んだ。天使のような、それでいてどこか不安にさせるような微笑みだった。彼女の声に心臓が反応し、激しく鐘を打つように四回も動悸する。

 

 血の色が映っているような紅い瞳が赤城を見据える。透き通るような眼に、己の全てを見透かされたような気がして、赤城は眩暈を覚えた。

 

 

 

 

 ああ、彼女に溺れてしまいそうだ。

 

 

 海に立っても沈まぬ艦娘が、たった一人の少女に沈没の危惧を抱いた。

 

 それが、レミリア・スカーレットという少女との邂逅であった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督3 The First Order

 

 

 

 新しい提督を案内して歩くという大役は赤城が担うことになった。加藤が忙しいと言って姿を消してしまったからだ。余程少女姿の提督が気に入らなかったらしい。

 

 金剛と加賀も戻ってしまい、二人きりになる赤城とレミリア・スカーレット。その状況をレミリアの方は全く気に留めていないようだった。澄ました顔で赤城の後に続く。

 

 一方の赤城と言えば、緊張のあまり声が震えるのを押さえるので必死だった。レミリアの纏う雰囲気に、赤城はすぐにでも膝を折ってしまいそうだったのだ。とにかく、頭の中でどこか彼女を忌避しようとする自分がいる。そのせいで、赤城はレミリアから離れたくて仕方がなかったが、役目を放棄するわけにもいかず、無論内心を顔に出してもならない。

 

「最後に」

 

 一通り鎮守府庁舎を案内して回り、赤城はようやくレミリアを司令室に連れて来ることが出来た。この後彼女を庁舎に隣接する長官邸に放り込めばこの苦行から解放される。明日からのことは考えないようにした。

 

「こちらが司令室。提督が執務をされる部屋になります」

 

 二人は部屋に入る。司令室は赤城の牙城である秘書室とは違い、大きく広々としている。

 

 入ってまず目に入るのは、鎮守府の軍港を見下ろせる大きな赤枠の窓。庁舎の三階にある司令室からは、ライトで煌々と照らされていた港湾施設を見渡せる。立ち並ぶガントリークレーンに古びた趣ある赤煉瓦の倉庫。海軍有数の拠点である当鎮守府の堂々たる景色である。前任の提督は、考え事をする際、よくこの窓から軍港を見下ろしていたのを覚えている。

 

 その窓から視線を横にずらせば、びっしりと本やファイルの詰まった大きな本棚がある。その本棚の手前に向き合いに置かれたソファが一組とガラステーブルがあり、これらが部屋の中央を占拠していた。そして、入口から入って左手、部屋の奥には大きな樫の机と背もたれの高い椅子が鎮座している。

 

 我が鎮守府司令室伝統の机と椅子であり、歴代の司令長官が皆ここに座り、職務を執り行ってきた。権威そのものであり、この部屋に入った者は誰しも一度はその存在感に畏まるものだ。赤城も、激務の間を縫ってこの机と椅子だけは毎日埃を払い、汚れを拭き取り、常に清潔に保っていた。誰も座っていなくとも、これは鎮守府そのものなのである。

 

 さて、海外から来た新任提督の反応はいかがだろうか。赤城はちらりとレミリアの様子を窺う。

 

 別段、変化はない。

 

 先程から案内をしている最中、ずっとレミリアは大人しくしていた。事務的な質問を二、三するだけで、後は赤城の説明を聞くだけであり、あくまで仕事は仕事と割り切っているような態度である。だから、彼女の案内をするというのは仕事の内容としては大変楽なものだったのだ。レミリアの存在感を除けば、であるが。

 

 そして、それは司令室に入っても変わらなかった。鎮守府の権威を表現する提督の机と椅子を見ても、だ。

 

「そこの本棚に入っているのは?」

 

 しかも、まず尋ねてきたのは本棚に関することである。余程肝が据わっているのか、単に関心がないのか、立派な司令室の中でもレミリアの様子は変わらない。歴代の権威も、彼女にとってはまるで取るに足らないものと言わんばかりだ。

 

「はい。我が鎮守府の歴史を記した資料や、過去の交戦記録、資源の備蓄量に関する過去のデータなどです。概ねそういった資料類ですね。一部、歴代の司令長官の方々が残したものもありますが」

 

 鎮守府のトップの部屋にある本棚とあって、さすがにその中身はお堅い資料ばかりだが、最下段の隅の一角は歴代長官たちが残した彼らの私物(ほぼ戦術や用兵の指南書)に占められている。後任のためにそうした書物を残していくことがこの鎮守府の歴代長官の間で受け継がれてきた伝統であり、それは明治の時代にこの鎮守府が開設されて以来、連綿と続けられているものだ。過去には何と成人男性向け雑誌を残していった破天荒な長官も居たといい(さすがに艦娘の登場を機に撤去されている)、そこは海軍流の“ユーモア”と言えないこともない。

 

「ふーん」

 

 もっとも、レミリアの関心はそこまでらしい。あまり興味なさそうに部屋を見回した後、ようやく彼女は部屋の奥に足を向けた。そのまますたすたと歩いて机の向こう側に回り、自分の背丈より大きい椅子を引いてそこにちょこんと座る。

 

 部屋の真ん中に立つ赤城から見ると、丁度レミリアの頭だけが机越しに見えた。駄目だ。これではどう見ても小さい子供が遊んでいるようにしか見えない。

 

 当のレミリアにも絵面の悪さが分かったのか、少し眉を顰めて気に食わなそうな顔を作って見せる。

 

「ダメね、これ。私じゃあ威厳が出ないわ。はい、撤去」

 

 即断即決でとんでもないことを言い出したレミリアに赤城は目を剥いた。

 

「で、ですが提督。その机は歴代の司令長官方が使われた我が鎮守府伝統の物であり……」

 

「伝統? それが? 今、私が、どう見えるかが大事なの。しかも大き過ぎて私には使い辛いし。邪魔だからどこかにしまっておいてよ。捨てろとは言わないからさ」

 

 赤城の反論を切り伏せ、レミリアは強引に決めてしまう。

 

 赤城とて机にそれほど愛着があるわけではない。ただ、一方的に物事を決めてしまうレミリアのやり方に反感を覚えた。それに、これほど大きな物を運び出す手間を考えてほしいものだとも思った。

 

 しかし決定は決定だ。恐らく、レミリアは一度決めたことをそうそう変える人物ではないだろう。自分の判断力に絶対的な自信を持っていて、強力な(あるいは強引な)リーダーシップで周囲を引っ張って行くタイプ。トップに立つ者の資質としては十分だが、付いていく方は大変である。しかも、柔軟性の塊のような人間だった前任者とは真逆のタイプとあって、これは苦労しそうだと、赤城は溜息を吐きたくなった。無論、心中を顔には出さないが。

 

「ん? これは?」

 

 レミリアが机の上に置いてある物を手に取る。一冊の薄い冊子。赤城が新任提督のために作った、この鎮守府の概要を書いたガイダンスである。

 

「この鎮守府のご案内です。今日お見せ出来たのは庁舎の中だけですが、他にも工廠や入渠ドック、演習場、艦娘寮、補給倉庫等様々な施設がございますから、それらを簡潔にご紹介する物です」

 

 本当なら、そのガイダンスを持たせて鎮守府内を案内するところだったが、スカーレット提督の着任が遅い時間となったため、それは明日に持ち越されることになった。

 

 というか、明日も案内をしなきゃならないのか。

 

「ふーん」

 

 レミリアはパラパラと冊子を捲り、一通り見終わると机の上に置いた。

 

「ま、後で目を通しておくわ。ところで……」

 

 レミリアは提督の仕事机の後ろ、部屋の一番奥の壁にある扉を指した。

 

「あっちは?」

 

「秘書室に繋がっております。私の、仕事部屋です」

 

「へえ」

 

「あ、提督! 中は……」

 

 赤城の制止も聞かず、レミリアは秘書室への扉に近付き、開けて中を覗く。

 

「うわ。散らかってるわね」

 

「お恥ずかしい……」

 

「もうちょっと片付けなさいよ」

 

「申し訳ございません。忙しさに手が回らずにいたんです」

 

「まあいいけど」

 

 レミリアを扉を閉めた。それで一通り興味は尽きたらしい。赤城の元に戻って来た。

 

「ま、こんな感じかしら?」

 

「はい。本日はこの辺で」

 

「そうね。消灯は何時かしら」

 

 赤城は部屋の壁に掛けられた時計をちらりと見た。

 

「二十二時です。丁度今ですね」

 

 言葉の通り、時計の針は「10」の数字を指そうとしていた。

 

「じゃあ貴女も戻って寝なければならないわね」

 

「はい。先に長官邸にご案内致します」

 

「長官邸……」

 

 レミリアはそこで何かを確認するように呟いた。わずかな間彼女は顎に手をあて考え込んだ様子を見せたが、直ぐに頷いた。

 

「いいわ。行きましょう」

 

 赤城はレミリアを連れ立って司令室を出る。途中とんでもない発言もあったが、概ねレミリアの案内はつつがなく終了するようだ。取り敢えず、一日目は乗り切った……のかもしれない。

 

 レミリアの隣はどうにも居心地が悪い。少女らしからぬ威厳も、人を強制的に跪かせるような独特の威圧感にも、赤城は慣れない。明日からのことは考えないようにした。

 

 

「貴女、仕事が多くて大変そうね。さっきの部屋の様子を見て思ったけど」

 

 庁舎に隣接する長官邸に向かう道すがら、レミリアが気さくに話し掛けて来た。

 

「ええ。書類仕事なんかが多くて一日中デスクに張り付いていないといけないんです。今は提督代理の役目もありますから」

 

 赤城は愛想良く答える。自分がレミリアに対して苦手意識を持っていることなどおくびにも出さない。それが出来るから赤城は秘書艦なのであり、感情が素直に出てしまう加賀や金剛には務まらない。自分を取り繕えるからこそ艦娘の顔役というものが任せられるのだ。

 

「へえ……。ということは、私の仕事も大変なのかしら?」

 

「申し上げにくいのですが、正直激務だと思います。前任の提督は過労でお体を悪くされてしまって……」

 

「どんなことするのよ」

 

「艦隊の指揮が主ですが、他にも装備の開発、入渠の管理、訓練・演習の計画と実行、鎮守府職員と艦娘の労務管理、その他設備の維持・修繕、出撃計画の作成、各種任務の遂行、上層部との折衝等々、多岐に渡ります。またこれらの職務に関する書類の作成も伴ってきますので」

 

 レミリアは言葉を失ったようだ。その眉間には深い谷間が出来ている。まあ、聞いて嬉しくなるようなことではない。

 

 だが、今赤城が言った仕事の大半は、今まで赤城がやってきたものだ。加藤も一部を引き受けたが、艦娘に関する仕事はすべて赤城の管轄となった。故に、赤城はその職務の大変さを身をもって知っており、レミリアの着任によってようやく激務から解放されることの喜びを噛みしめているのだ。例え、新任者が年端もいかぬ少女の姿をしていて、それに一抹以上の不安を抱いたとしても。彼女の纏う雰囲気に苦手意識を持ってこの先上手くやっていける自信がなくても。赤城は大いにレミリアの着任は歓迎していた。

 

 だからこそ、この小さく、そして後にとんでもない我儘であると赤城が骨の髄まで思い知らされることになるレミリア・スカーレットという名の提督の言葉に、優秀な秘書艦は心底仰天したのだった。

 

 

「面倒臭そうね。引き続き貴女がやってよ。私は艦隊の指揮とかだけでいいわ。トップが雑務に忙殺されるわけにはいかないのよ」

 

 

 

 

****

 

 

 

 こんなにしょげ返った赤城は見たことがない。

 

 加賀は一向に箸を進めていない同僚を見てそう思った。常日頃から「腹が減っては戦が出来ぬ」と言って憚らない彼女が、目の前の朝食にほとんど箸を付けないというのは前代未聞の椿事である。せいぜいがおかずの空豆をちまちまと口に運ぶ動作を機械的に繰り返すだけという異様な光景に、無意識に加賀の手も止まってしまっていた。

 

 一体全体、赤城のどこの歯車が壊れてしまったのか。理由は起床した直後に一方的に彼女の方から教えてくれた。

 

 多分に愚痴と悲嘆が混ざった彼女の話を要約するに、赤城を忙殺していた提督の仕事のほとんどをレミリアから再度押し付けられた、ということらしい。つまり、赤城の忙しさが今までと大して変わらないということなのである。

 

 愕然とし、絶望した彼女がそれをぶちまけられる相手は気心の知れた加賀だけなのだが、昨夜は赤城が部屋に戻って来た時には加賀は既に夢の中であった。かくて一晩熟成された愚痴やら悲嘆やら文句やらは寝起きの加賀を奇襲することになった。

 

 赤城が新任提督をどれだけ待ち侘びていたかを加賀はよく知っている。「仕事に殺されそう」と本気の顔で呟くくらいなのだから、赤城にとって激務は相当深刻な問題であったのだろう。ようやくそれから解放されると浮かれた途端、再び激務を押し付けられたとなっては、その落胆ぶりは筆舌に尽くしがたい。

 

「どうしたの?」

 

 加賀の向かいに座り朝食を摂る金剛が尋ねてきた。かくかくしかじかで、と加賀が説明すると金剛は露骨に顔を顰めて吐き捨てた。

 

「やっぱり、見た目通りお子様みたいネ」

 

 その一言に、加賀は眉を上げた。

 

 普段はとにかく陽気で騒がしい金剛が、こんな風にぼそりと陰口を叩くという陰湿な面を見せるのもまた珍しいことである。文句があるなら直接言いに行く裏表のないタイプだと思っていたのだが。今日はみんなどうしたのだろうか? 赤城にしろ金剛にしろ、加賀のあまり見たことがない一面を見せる。

 

 

 それにしても、一体レミリアというのはどういう人物なのだろうか。よくよく周囲の会話に耳を傾けると、他の艦娘たちもレミリアのことを話題にしているようだ。それにもかかわらず赤城に彼女のことを訊きに来ないのは、最早言わずもがなであろう。

 

 意気消沈する赤城やその赤城に同情して反感を覚えた金剛とは違い、加賀はそれほどレミリアを悪くは思っていなかった。確かに赤城に同情する気持ちはあるし、あんまりだと思わないこともないが、仕事に関してはレミリアに過剰に期待していた同僚にも問題があるように思える。

 

 第一、一目見た時分かるではないか。あの小さく我儘そうな彼女がつまらない書類仕事なんかするものか。加賀にはそんな光景すら想像出来なかった。

 

 だから、まあそこはいいのだ。せいぜい赤城の愚痴を聞いて、彼女が過労死しないように加賀も手伝えるところは手伝えばいい。では、加賀が気になるところというのは、やはり提督の本業に関してである。つまりは、艦隊の運用、作戦の指揮。

 

 いざ戦場に向かった時、彼女は果たして自分たちを勝利に導いてくれるのか。それとも屈辱的な敗北を誘引してしまうのか。

 

 鎮守府のことなど優秀な赤城や加藤がいるからどうとでもなる。最悪、レミリアは何もしなくても管理は周囲が代替出来る。だが、戦場ではそうはいかない。戦場に、レミリアの代わりはいないのだ。

 

 加賀が懸念するのは、この鎮守府が他とは大いに違うところがあることだった。それは、ここが最も精強な空母――第一航空戦隊「赤城」及び「加賀」の母港であること。

 

 全正規空母中、最高の練度で最も質の高い航空部隊を持つ赤城と加賀。名高き「最強」の誉れ。海軍の中でもその艦名を聞いて活躍を想起しない者はいない。確認撃沈数だけでも三桁に迫り、賜った勲章の数も二人合わせて二十に届く。文字通り最強の航空艦隊だ。

 

 それ故に随伴も選び抜かれた精鋭で固められている。艦娘最古参の一人に数えられる金剛。高い雷撃能力を中心に、火力・対空・対潜と隙のない木曾。殊、水雷戦能力が高く部隊を率いていた経験もあるベテランの川内。その川内に随行し、平均的に高い能力を持つ野分と舞風。そして一航戦の直衛として長らく戦ってきた歴戦の曙、漣、潮。この鎮守府のメンバーは誰も彼もが優秀で高い練度を持つ。

 

 これほどの者たちが集結したのは、単純にここが前線に最も近い鎮守府の一つであるから。以前、まだ一航戦以外の空母艦隊の戦力が充実していなかった頃は、赤城と加賀はほとんど毎日のように出撃を繰り返していたし、そうした需要の面でも前線に近いこの場所が選ばれた。必然、敵の勢力圏にも相対的に近接するためにその脅威を受けることもある。鎮守府どころか、海軍の主力の一角を成す一航戦と、敵の脅威から背後の都市を守るために、当然のことながら能力・練度が共に高い者が集められた。志願して来た者もいるし、引き抜かれた者もいる。

 

 そうであるからこそ、加賀にはレミリアの指揮能力が気になるのである。激しい深海棲艦との戦いにおいては艦娘の能力だけでは勝利を掴めない。この鎮守府が長らく戦線を維持してこれたのは、前任提督の卓越した指揮があったからこそである。

 

 それ故に、この鎮守府に着任してくるということは、やはりレミリアの指揮能力は高いのだろう。赤城は彼女の情報がまったく出て来ないと言っていたからどんなものかという疑問は残るものの、少しは期待していいかもしれない。

 

 レミリアは、その身体こそ少女そのものではあるものの、彼女が纏う雰囲気やさりげなく見せる大人びた仕草は、見た目通りの人物ではないことを明らかに示していた。彼女は幼い少女のようでもあるし、同時に老人のような貫禄も感じ取れた。

 

 最近の戦況は比較的落ち着いているから、すぐには大規模戦闘が起こることはないだろう。さりとて、小競り合いもそうそう起きるとは限らない。となると、手っ取り早くレミリアの指揮能力を測る機会というのは“作られた”状況で、ということになる。つまりは、「演習」である。

 

 レミリアや赤城にその気はあるのだろうか? もしすぐにやらないなら、加賀は自ら進言しようと考えた。指揮官の能力を把握しておくことは喫緊の課題である。それが、戦場で加賀たちの生死を分け得るのだから。

 

 

 食事を終えた加賀は箸を置いて「ごちそうさま」と小さく呟く。隣ではまだ赤城がちまちまと食べていた。今は米粒を一つ一つ口に運んでいる。その様子に苛立ちを覚えた加賀は、赤城の手から箸を強奪し、彼女の分のご飯を掬って、空いている方の手で赤城の顎をこじ開け無理矢理それを突っ込んだ。

 

「何するんですか!?」

 

 驚いて抗議の声を上げる赤城を「早く食べなさい!」と叱りつけた。

 

 怒られた赤城が朝食を食べ終わったのはその五分後であった。

 

 

 

****

 

 

 朝食の席で珍しく加賀に怒られ、気落ちしたまま赤城は司令室の扉を叩いた。今日からのことを考えると尚更気が晴れない。

 

 せめて、もう醜態を晒さないように。と、赤城はいつもの“秘書艦”の顔をして司令室からの返事を待った。

 

「どうぞ」

 

 と、舌足らずな声が答える。

 

「失礼します」中に入ると、幼い提督は部屋の真ん中のソファに座っていた。その手にはソーサーと中身の入った白いコーヒーカップ。部屋には香ばしい香りが充満している。朝から優雅にコーヒーブレイクとは大した貴族趣味だこと、と心の中で吐き捨てた。

 

 それから赤城はふと違和感を感じ取り、部屋の奥の机の方に視線を寄こした。否、正確には机があった方に。

 

「え?」

 

 妙に部屋が広い。それもそのはず。昨日までそこにあった大きな提督の机と椅子が丸ごと消えているのだから。

 

 あれほど存在感を放っていた物体が抜けて、司令室はまるでがらんどうにでもなったかのように物寂しい。今やその名残を示すのは、木の床の濃淡と引き抜かれて壁際に寄せられたLANケーブルや延長コードだけである。

 

「あの、提督……。机はどちらに?」

 

「おはよう」

 

 レミリアはそれには答えず、優雅に挨拶をする。

 

 動揺して挨拶を忘れていた赤城は慌てて「おはようございます」と返した。

 

「机は邪魔だったから仕舞ったわ」

 

「どちらに、ですか?」

 

「さあ? 人にやらせたから。どこかの物置にでも入れたんじゃない?」

 

 まさか、と赤城は焦った。いつの間に、誰に机を仕舞わせたのか。すぐにでもその置き場所を特定しなければならない。何故なら、

 

「あの机には機密文書も仕舞われていました。どなたが机を仕舞われたのでしょうか?」

 

「ああ。今あの机は空っぽ。中身は取り出しておいたわ。ほら、そこにあるわよ」

 

 レミリアが指さす先、そこには床に置かれたデスクトップパソコンとその上に乗せられた何冊かのファイル。パソコンも机の上にあった物で、提督の執務用である。

 

 赤城はとりあえずのところ胸を撫で下ろした。機密文書はどうやらこの部屋から出てはいないようだ。

 

 だが安心するのはまだ早い。

 

「パソコンも片付けられたのですか。それがないと仕事になりませんが」

 

 赤城の声に困惑がさらに上乗せされる。何となくこの後の展開が予想出来た。

 

 上層部や他の鎮守府、さらには工廠やドックなどからもメールでデータのやり取りをしたり、重要な情報が飛んで来たりするのだから、パソコンがなければ仕事にならないというのは言葉の通りの意味である。

 

 当然、赤城もそれをレミリアに指摘したが、

 

「使い方がよく分からないわ。だったら置いておいても邪魔なだけじゃない」

 

 はあ? と言い出しそうになるのを赤城はかろうじて飲み込んだ。

 

 このご時世、パソコンの使い方がよく分からないとは一体全体何事であろうか。レミリアが年寄りならばまだ話は分かる。老人に複雑なパソコンの使い方が分からなくても仕方がない。

 

 だが、彼女は見た目が少女であるものの、中身までそうとは限らないのではないだろうか。昨日から彼女と接し続けている赤城には、レミリアという人物の精神は幼稚な我儘や横暴さは散見されるものの、総じて成熟したものであるように思える。小難しい軍隊の話に付いていけるし、それなりに鋭い洞察力も持っているようだ。幼い外見に惑わされてはいけない。

 

 だからこそ、彼女がパソコンの使い方が分からないというのは不思議なことであった。老人か子供か、そのどちらか以外の世代の者なら、ほぼ確実にある程度はパソコンを使えるのだ。それが、例えメールを見るだけであっても。

 

「機械に疎いのよ」

 

 そんな赤城の内心を知ってか知らずか、レミリアは取ってつけたように言った。

 

 戸惑う赤城に対し、悠然とコーヒーを嗜むレミリア。なるほどその様は世間知らずの箱入り娘のように思えなくもない。ひょっとしたら彼女はとても厳しい家庭に育ち、パソコンの使用などを制限されてきたのかもしれない(それにしたって、先進国なら義務教育の段階で基本的なパソコンの使い方を授業で教えるだろうに)。

 

「そうですか」

 

 取り敢えず事が進まないので赤城はレミリアの言ったことに納得したように見せた。正直まったく信じられないが、強引にでもそう解釈しておかないと今日の仕事に取り組めそうになかった。

 

 予想通りの展開に、胃がもたれるような感じを覚える。結局、これでまた赤城の仕事が増えたのだ。提督のメールボックスをチェックし、重要な情報を彼女に伝えるという、余計な仕事が。

 

 内心うんざりしながら赤城は床に直接置かれたパソコンと機密文書のファイルを抱え上げる。

 

「どこに持っていくの?」

 

 

 

 その様子を見たレミリアが尋ねる。咎めるような口調ではなく、単に気になったから訊いただけという感じだ。赤城の中で戸惑いが苛立ちに変わる。

 

「私が預かっておきます。ところで、パソコンのログインIDとパスワードはお分かりですか?」

 

「ログイン? パスワード?」

 

「提督のパソコンを開けるための個人識別番号と本人確認用の合言葉です。ご着任前にお知らせされているはずですが」

 

 いささか口調が冷たかったかもしれない。パソコンに極端に疎いらしいレミリアには何のことか分からないかもしれないが、赤城には親切に教える気はなく、ぴしゃりと言った。

 

 しかし、そのような赤城の態度にもレミリアは気を悪くした様子を見せず、静かにコーヒーカップを置いてしばし考え込む。

 

「……ああ、あれか。確か『Remilia Scarlet』。『UNN1503』かな? どっちがどっちか忘れたけど、そんな記号を聞いた覚えがある」

 

「分かりました。提督のパソコンは私の机に置いておくので、使う時は声を掛けてください」

 

「ええ。その機会があればそうするわ」

 

 赤城は抱えた提督用のパソコンとファイルを秘書室に持って入り、自分の机の上に乗せると大きく胸を膨らませて生ぬるい空気の塊を吐き出す。

 

 提督不在の時と仕事量が変わらない。到底一人でやる量ではない仕事を無理にでもこなさなければならないのだ。加えて、この提督は何をしでかすか分からないときた。部屋から机を勝手に撤去し、忙しい朝から優雅にコーヒーブレイクと洒落込んでいるとはマイペースにもほどがある。自分が彼女に振り回される未来が見えていた。

 

 はあ、と赤城はもう一度重苦しい溜息を吐いた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督4 Game

砂浜に立った人から見える水平線は4kmから5km先だそうです。
海面に立った艦娘の場合も同じでしょうから、彼女たちの撃ち合いというのは半径数kmの範囲で行われているんだと思います。
ちなみに、この作品では艦娘たちはでっかくなったり船を出したりはしません。人間サイズで戦っています。


 

 

 

 本日快晴。波風穏やかなり。

 

 

 

 赤城は海風に吹かれて頬まで垂れてきた後ろ髪をかき上げた。足元から低く唸る主機の振動が全身を這い上がって来る。穏やかな波に身を任せるように揺られながら赤城は静止していた。

 

 今日、赤城は本当に久しぶりに海に立った。このところの激務でまったくそのチャンスがなかったのだ。最近は憂鬱と疲労に塗れてへろへろだった赤城の心も久方ぶりに高揚していた。

 

 やはり艦娘である以上、海に出られるというのは嬉しいものだ。赤城は別段戦闘狂というわけではないが、己の本分が海戦であることはよく承知しているし、だからこそいつも出撃していく仲間たちを岸壁から口惜しく見送っていた。

 

 もちろん、今日赤城が海に出たのは敵と戦うためではない。これは演習である。当鎮守府を二つに分けて戦うのである。

 

 

 発端は加賀であった。彼女が、新しい提督も来たので一回演習をして欲しいと言って来たのだ。それにレミリアや金剛が乗り、かくて本日の開催と相成ったのである。

 

 ただし、今回は鎮守府内で行われることになっているが、演習というものは本来他の鎮守府との対抗戦という形で開催されるものである。とはいえそうなると他所との都合の調整をしたり、上層部に申請を行って許可を貰わないといけなかったりと、いろいろと手続きが煩雑で時間が掛るし、何よりもそうした仕事をやるのは他ならぬ赤城である。

 

 鎮守府内での演習なら、度が過ぎなければ誰からも文句を言われることはないし、そもそもちょっと手配をするだけで実行出来てしまうから楽なのだ。その点、戦う相手がよく知る相手なので、練度を上げるにはいささか物足りないが。

 

 しかし、そもそも今日の演習というのは、「演習」と呼びはしているものの、中身はゲームのようなものである。本来の意味での演習といえば、お行儀良く隊列を組んで「索敵開始」だの「ワレ敵艦隊見ユ」だの「第一次攻撃隊発艦」だの「右舷撃ち方用意」だの、面倒な手順を踏んで格式張ったやり方でしなければならない。一応、実戦というのはそのような手順にそって行われるもの、とされているからだ。

 

 ただ、あまり決まり切ったやり方では面白味もないし肩も凝りかねない。二チームに分かれてからの、個別戦闘で各自が思い思いに動けるようなゲーム形式の方が好ましいと赤城は考えたのだ。この鎮守府に揃っている艦娘は、なまじ皆練度が高く基礎が固まっているので、訓練もどんどん応用的な内容にしていかなければならない。

 

 これで気晴らしには十分である。半分遊びのようなものなのだ。こうした演習自体も行われるのは久しぶりということで、鎮守府自体が盛り上がっていた。心なしか仲間たちの顔も明るい。

 

 彼女たちがやる気を出しているのだからやらない手はない。何よりも、赤城自身が海に出られるので大賛成なのだ。

 

 

「これより演習を始めます。各艦、準備はいいですか」

 

 逸る気持ちを抑えてインカムに声を吹き込んだ。「西、準備よし」という応答が返って来る。同時に視界の中で一筋の煙が空に上がった。相手方の、準備完了の合図だ。

 

 赤城が前を見据えると、数百メートル先に同じく波に揺られながら佇む同僚の姿が目に入った。赤城と色違いの衣装を身に纏い、身の丈より大きな和弓を持ち、彼女は静かに闘志を漲らせている。西の艦隊を率いるのは一航戦の加賀。対する赤城は東の旗艦。

 

 加賀の右側に目をやると、彼女の隣に巨大な砲塔と装甲板を威圧的に携え腕組みをする戦艦の姿がある。その名を金剛という。彼女も加賀と同じく爛々とした目でこちらを見据えている。

 

 さらに金剛の右には三人の駆逐艦が並ぶ。第七駆逐隊の曙、潮、漣である。その内、曙の背中から先程の煙の筋が立ち上がっている。煙突の形をした背部艤装から噴出させた煙幕である。

 

 彼女たちも比較的旧式の武装を背負いながら、長らく最前線で戦ってきた手練れである。三人ともこちらを真っ直ぐ射抜くように見つめていた。

 

 次いで、赤城は自身の右に並ぶ者たちに視線を移す。

 

 まず、隣に立つのは異様な数の魚雷を装備した重雷装巡洋艦。洋風のマントと眼帯を身に付けた彼女は海賊のような風体。名を、木曾という。腰に手をあて、口元に微かな笑みを浮かべ、これからの演習が楽しみで仕方がないといった具合だ。

 

 さらにその向こうには「海の忍者」と称される軽巡川内がいる。右手で首に巻いたスカーフを風で飛んでいかないように押さえ、左手で魚雷を回しながら遊んでいる。左手の所作とは対照的に、彼女は静かに西方の陣営を見ていた。

 

 川内の右には第四駆逐隊の野分と舞風。共にこの鎮守府では一番の新参だが、最新鋭駆逐艦の名に恥じぬ戦いぶりであり、赤城も信頼を置いている二人である。真面目な野分は直立不動で、お茶らけた舞風は脱力した姿勢だが、二人とも西方へ向けている目はぎらついていた。

 

 まるで、ゴーサインを待つ猟犬のようだ。

 

 自分の率いる面々を見て赤城はそんな感想を抱いた。遊びなようなものであって、遊びではない。当然、全員真剣勝負のつもりで臨んでいる。

 

 

 赤城は片手を上げて川内に合図を出す。それを視界の端で捉えた彼女は曙と同じように背部艤装から煙幕を立ち上げた。「東、準備よし」

 

 

「よろしい」

 

 インカムから楽しげな声が聞こえてきた。その発声元は、向かい合う艦娘たちからさらに数百メートルほど離れた岸壁に日傘と椅子を用意して見物を決め込んでいるこの鎮守府の新しい主人である。

 

 レミリア・スカーレット。この演習は、彼女に見せるための御前試合でもあった。

 

「では始めましょう」

 

 レミリアがゴングを鳴らす。遠くで、パァンという号砲の音が鳴った。

 

 それと、赤城が弓を構えることと、東の艦娘たちが飛び出すのはほぼ同時であった。

 

 海の上に充満していた闘気が爆発する。海水が撹拌されて中に巻き上げられる音、矢が空を切る音、コンマ数秒のラグをもってプロペラが唸る音。辺りは一気に戦場の喧騒に包まれた。

 

「各艦、予定通りに行動してください!」

 

 赤城は第二射を構えながらインカムに向って怒鳴る。

 

 同時に、木曾と川内が右へ、野分と舞風が左へ、舵を切りながら交差する。無論、全員全速力だ。ほんのわずかも気を抜くことは出来ない。そこはもう、金剛の射程圏内なのだから。

 

 海上に大きな花火が咲く。金剛の第一斉射。主砲に仰角を持たせず、ほぼ水平に撃ち込んできた。狙いは木曾と川内。赤城と彼女たちの間に巨大な水柱が何本も立ち上がった。

 

 着弾の轟音に、びりびりと空気が震える。最古参ながら改二になった金剛は、並みの戦艦なら赤子の手を捻るかのように容易く一蹴出来てしまう。それ程の火力をまともに受けたならば、普通の巡洋艦では足が竦んで何も出来ないまま一方的に嬲り倒されてお仕舞いだろう。

 

 だが、木曾と川内は違う。凡百ではないからこそ、彼女らはこの鎮守府にいるのであり、気狂いと紙一重の勇敢さを持つからこそ降り注ぐ鉄の雨の中に突っ込んでいける。二人は金剛の砲撃などかすりもしないと言わんばかりに、最大速力で戦艦との距離を詰めていく。

 

 第一斉射は遠弾だったようで、二人は無傷だ。金剛の狙いを分けるため、二人は左右に分かれた。一対二。挟撃は基本である。

 

 一旦、赤城は木曾たちから上空に目を向ける。

 

 そこでは激しい空戦が行われていた。パチパチと何かが弾けるような感覚が頭の隅で起こる。これは、自分の艦載機が撃墜された時に感じる感覚だ。

 

 落ちていく艦載機を補充するように、赤城は惜しみなく矢を放った。この無尽蔵ともいえる量の艦載機が一航戦の強みであり、全機発艦に要する時間が短いのが、一航戦が最強の空母といわれる所以の一つである。正確に射撃する必要がないので、今回の赤城は早打ちに徹していた。相対する加賀も、赤城に対抗するように次から次へと発艦させていく。言い方を変えれば、それは加賀が赤城のペースに巻き込まれているのである。少なくとも今、航空戦のイニシアチブを握っているのは赤城だ。

 

 しかしながら、戦力的に赤城たちが不利なのは明白であった。一隻しかいない戦艦は相手方に付いたし、加賀の搭載機数は赤城より上であり、空母同士の戦いでは搭載機数が物を言う。相手も同じく一航戦なのだ。

 

 無類の雷撃火力を持つ木曾を引き入れられたとはいえ、それだけで加賀と金剛のコンビに勝てるわけではない。制空権を取られて金剛が弾着観測射撃を出来るようになったらそれこそ目も当てられない惨状になる。

 

 だからこそ、赤城は奇策を取ることにした。

 

 すなわち、

 

「赤城さん。貴女まさか、艦戦しか積んでないの?」

 

 空戦は加賀隊が明らかに負けていた。お陰であちらの艦攻・艦爆が一機もこちらに到達していない。赤城の視界の中で落ちていくのは、護衛機を抑えられて無防備になった加賀の艦攻や艦爆ばかりであった。それもそのはず、赤城は烈風しか積んでいないのだから。

 

「まともに戦えば私の方が負けます。そうなれば砲爆撃で一方的に蹂躙されるのは火を見るよりも明らか。ならば、私が艦戦だけを積んで、加賀さんを完璧に抑えた方がまだ勝算があるというもの。私も攻撃に参加出来なくなりますが、制空権を確保出来るという副産物も得られますし、そうなれば川内が弾着観測を出来るようになって火力の不利を多少は埋め合わせられる。一石二鳥の作戦なのよ」

 

「それでも、金剛さんには勝てないわ……」

 

「勝負のステージに上がることは出来たわ。貴女が動けたらそれすら出来ないもの」

 

 加賀の指摘する通り、現状でなお赤城たちの勝利は厳しい。奇策は上手くいったものの、最大のポイントは木曾と川内が金剛をしのげるかである。

 

 作戦は順調だ。戦艦という最大の攻性兵器を守勢に回らせるために、赤城たちは先手先手で動いた。金剛に攻められれば負ける。彼女が攻め始める前に追い込んで落とすのだ。

 

 だが、それすらも巨人に棍棒一つで戦いを挑むような無謀とも言える作戦である。魚雷で落とせるような楽な相手ならそもそも端から赤城は眼中に入れていない。自分が艦攻で叩けばいいだけなのだ。

 

 無論、金剛はそんな生易しい相手ではない。百戦錬磨の古兵なのだ、あの戦艦は。小手先の戦術など軽く捻り潰してくれるだろう。

 

 赤城は再び目を戦艦と巡洋艦の戦場に向けた。

 

 木曾と川内は金剛の降らせる鉄の雨の中でも未だ健在だ。至近弾で多少損傷を受けてはいるものの、その高い機動力と魚雷で上手く金剛の狙いを外させ、翻弄している。

 

 だが、勝てるとは思えなかった。木曾たちは金剛の周りを動き回るだけで、彼女に与えられる決定打を持っていない。いや、確かに木曾の魚雷がそうなのだが、あれだけの機動戦の中で魚雷を当てるのはまず無理と言えるだろう。

 

 赤城の胸中に焦りが生まれる。

 

 状況は膠着状態に移行しつつあるが、自分たちに事態を動かす力がない。金剛を仕留めるためには木曾を射線に着かせなければならないが、金剛の激しい攻撃にそれは難しそうだ。というより、金剛自身が一番木曾の魚雷を警戒していて、命中弾を与えるより木曾に“撃たせない”射撃をしているようだった。

 

 加えて、舞風と野分は第七駆逐隊と数的不利な状況で戦っている。上手く動いて二人は善戦しているが、そちらはそちらで手一杯のようだ。

 

 何か手はないか。赤城は必死で頭を巡らした。その耳に、再び加賀の声が入る。

 

「なるほど。赤城さんの術中に嵌ってしまったようね」

 

 普段とあまり変わらないトーン。ぎりぎりで戦っている赤城に対し、加賀は随分と余裕そうである。いや、実際そうなのだろう。どう見ても、あちらのほうが圧倒的に有利なのだから。

 

「でもね、赤城さん。私はいつも余力を残して戦っているのよ。こういう時のために」

 

 加賀がおもむろに赤城に背を向ける。背負った矢筒が目に入った。

 

 まだ、そこには矢が入っている。

 

「まさか!?」

 

 加賀は全機発艦させていなかったのだ。まだわずかな数の艦載機を手元に残していた。そしてそれは、間違いなく艦載戦闘機ではないだろう。

 

 加賀の意図に気付いた赤城の思考が止まる。反射的に自分の矢筒に手を伸ばすが、矢を掴み取ろうとした指は空しく空を切るだけだった。もう、射ち尽くして赤城の“手持ち”はない。

 

 前半にハイペースで発艦させていたのが裏目に出た。赤城は慌てて上空の戦闘機に指令を出すが、間に合わないのは目に見えている。加賀もそれが分かっているのか、半ば自滅するように戦闘能力を喪失した赤城に完全に背中を見せて、悠然と矢を番えた。

 

 その、加賀の舐め切った態度は赤城のプライドを刺激するのに十分で、しかし赤城にはその場で地団太を踏むしかなかった。

 

「第二次攻撃隊、発進」

 

 加賀は静かに宣言した。反撃の合図であった。

 

 矢が放たれる。加賀の和弓から鋭い軌道で大空へ打ち上げられた数本の矢は上空で彗星十二型に変化すると、一度隊列を整えてから逆落としのように落ちていった。狙いは、金剛と相対する二隻の巡洋艦。

 

 そう。赤城たちには事態を打開することは難しくとも、火力的に有利な加賀たちには容易いことである。金剛を翻弄する木曾と川内の足を乱してしまえばいいだけなのだ。そうすれば、後は正確無比な金剛の艦砲射撃が二人を薙ぎ払う。

 

 作戦が崩壊した。赤城は成す術もなく木曾と川内が爆撃に晒されるのを見ているしかなかった。

 

 一瞬で摩天楼のようにそそり立った巨大な水柱に二人の姿が飲み込まれる。それが晴れた時、奇襲を受けた二人は深手を負っていた。

 

 木曾、中破。川内、大破。

 

 これで、木曾の雷撃能力が奪われてしまい、川内に至っては行動不能になった。もう、金剛を刺す鉾を放てない。一縷の望みも絶たれた。

 

 続いて、足の止まった二人に、金剛の砲塔が舌なめずりをするかのようにゆっくりと狙いを付けた。木曾が諦めず加速し始めるが、直に金剛に捉えられているのは明らかで、いくらもしない内に砲撃で吹き飛ばされるに違いなかった。

 

 ダメだ。負けだ。

 

 最早赤城たちに手は残されていなかった。そもそも、頼みの綱は木曾であり、その木曾が中破してしまってはどうにもしようがなかった。巡洋艦の二人は手負いになっても闘志を引っ込めず、必死で海面を蹴って金剛の狙いを外そうと動いている。だが、それが時間稼ぎ以上の意味を持たないのは誰の目にも明らかだった。

 

 もう、諦めた方がいい。二人が理不尽な鉄の雨に蹂躙される前に投了しよう。

 

 泣けるほど悔しかった。途中まで作戦が上手くいっていたのに、圧倒的優位な立場から加賀によってすべてをひっくり返されたのが尚のこと悔しかった。同僚に舐め切った態度を見せられたことも我慢ならない。

 

 せっかく意気込んで頑張ってくれていた四人には申し訳ない。木曾も川内も、野分も舞風もベストを尽くしてくれていたのに、そもそもの赤城の立案した作戦に決め手がなかったせいで屈辱的な黒星を付けることになる。ふがいない自分を殴りたくなった。

 

 本当ならどうにかしたいが、万策尽きてしまった。将棋で言えば詰み。チェスで言えばチェックメイト。もう出来ることと言えば負け惜しみを吐くくらいだが、それは赤城のプライドが許さない。

 

 潔く負けを認めるのだ。このまま往生際悪くあがいても、完膚なきまでにボロボロにされて惨めな気分になるだけだ。

 

 観念した赤城は加賀にその意を伝えようと口を開いた。

 

 その時だった。

 

 

 

「赤城。赤城」

 

 と、呼ぶ声がする。

 

「はい。提督」

 

 加賀と会話していた周波数とは違う無線から絶妙なタイミングで挟み込まれた呼び掛け。赤城は反射的に返事をした。相手は言うまでもなく、それまで見物していた鎮守府の主である。

 

「ほら、チャンスよ」

 

 レミリアは言う。その言葉に、赤城は考えるより先に飛びついた。

 

「チャンス? ですか?」

 

「そうよ。加賀が無防備じゃない」

 

 レミリアの指摘の通り、加賀は今艦載機を射出し尽くして実質丸腰である。しかも、油断しきってこちらに完全に背中を見せている状態。

 

 だが、それは赤城も同じであった。そもそも、赤城は艦戦しか積んで来ていないので加賀を攻撃することは叶わない。

 

「ですが、攻撃する手段がありません」

 

「駆逐艦が居るじゃない」

 

 赤城の反論に、レミリアは頓珍漢な言葉を返す。何を言っているのか。こちらの駆逐艦は二人とも手一杯なのだ。加賀を攻撃する余裕なんてあるわけがない。

 

「舞風も野分も手が離せませんよ」

 

「ああ、鈍いわねえ。戦闘機って言ったって、ちょっとは攻撃出来るでしょう? ほら、機銃で撃ったり」

 

「あ……」

 

 レミリアの言わんとしていることが分かった。

 

 なるほど、それならば勝算があるかもしれない。赤城は直ちに上空の戦闘機に指令を出す。

 

 加賀隊との空戦は未だ続いているが、赤城隊の艦戦に何機か敵を撃墜して手持無沙汰になった者たちがいる。新しい敵機を探してうろうろしていた烈風に母艦から攻撃の指示が飛んで来た。

 

 狙いは第七駆逐隊。

 

 ひらり、ひらりと数機が翼を返し、真っ逆様に海戦に夢中の駆逐隊に向かっていく。

 

 突然上空から機銃掃射を受けた第七駆逐隊の隊列が乱れる。ここぞとばかりに舞風が追い打ちの砲撃を撃ち込んだ。

 

 第七駆逐隊の三人は散り散りになり、慌てて個別に対空戦闘を開始した。彼女たちの意識は完全に上空の戦闘機に向き、野分と舞風から目が離れたようだ。

 

上手くいった。

 

「野分!!」

 

 赤城は二人の駆逐艦の内、冷静で射撃の腕が立つ方の名前を呼ぶ。

 

「加賀さんを雷撃して。今なら刺せるわ!」

 

「了解!」

 

 赤城の意図を悟った野分が反転する。

 

 戦闘中でも冷静さを失わない彼女は、周りをよく観察しながら戦うことが出来た。その能力は赤城も重宝しているもので、今回も加賀が無防備になっているのは見えていたことだろう。だから、野分の反応は早かった。

 

 白波を切って、野分は舞風から離れて行く。背を向けている相手方の旗艦に野分の焦点が合わせられる。射線を計算し、彼女は慎重に魚雷を構えた。

 

 絶望的に不利な状況の中、赤城たちに唯一残された一発逆転の手段。チャンスは一度のみ。旗艦を大破に追い込めば勝ちだ。狙うは加賀の撃破しかなかった。

 

「舞風は煙幕を! 烈風で援護するわ」

 

「了解でっす!」

 

 二人の駆逐艦の内、残った方が主砲から数発の煙幕弾を射出する。対峙する綾波型の第七駆逐隊の面々とは違い、陽炎型の舞風や野分は背部艤装に煙幕噴出装置を持たない。そこで彼女たちに与えられたのが煙幕弾。実弾の装弾数を犠牲にして、代わりに駆逐艦の足を生かす煙幕弾を装備することで、任意の場所に煙幕を展開して敵の視界を遮ることが出来るようになっている。

 

 煙幕弾は首尾良く七駆の頭上で破裂し、濃厚な煙が三人を覆い尽くす。

 

 さらに、舞風は前に飛び出した。視界の端に、射線に着く同僚の姿を映しながら、相手の注意がそちらに向かわないように矢鱈滅多らに打ちまくりながら突撃する。砲弾は煙幕を突き破り水柱を立てる。これで七駆の三人は間違いなく舞風に目を向けるはずだ。“この隙を野分が狙っているだろう”という予測までして勝手に守りに入ってくれたならなお好都合だ。

 

 赤城もさらに烈風に追撃を命じる。絶対に第七駆逐隊の目を野分に向けてはならない。例え妨害はされなくとも、加賀に通信を入れられたら目論見は破綻する。回避されるのはもちろん、防御姿勢を取られるだけでもダメだ。頑丈な正規空母を駆逐艦の魚雷で撃破するには完全なる奇襲が成立しなければならないのだから。

 

 

 野分が雷撃する。背部艤装から延ばされたアームの先に装着されている四連装魚雷管が下を向き、四発の槍が海に飛び込んだ。

 

 同時に、海上の空気が震え、轟音と共に木曾が水の壁に飲み込まれたのが見えた。ついに、金剛の砲撃が木曾を捉え、それを見た加賀は勝利を確信しただろう。油断した彼女が背後から近付く魚雷に気付いた様子はない。

 

 

 そう。だから、この一撃は当たるのだ!

 

「慢心したわね。加賀さん」

 

 放たれた槍は真っ直ぐに青い空母の背中に突き刺さった。巨大な水柱が加賀を飲み込む。

 

 

 

「ハートブレイク!」

 

 

 楽しげな少女の声が終了のゴングだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督5 Suspicion

 

「まさか、あそこから負けるなんて……」

 

 ㈱間宮製菓謹製『今夏限定プレミアロイヤルショコラアイス』(6個入り税別3880円)を買わされた加賀が恨めしそうに呟いた。相当機嫌が悪いのか、その声にも赤城をねめつける目にも陰気さが普段の五割増しくらいになっている。演習前に、負けた方が勝った方に『今夏限定プレミアロイヤルショコラアイス』(6個入り税別3880円)を奢るという約束をしていたのだから恨まれる節はないはずだ。

 

「油断するからよ」

 

 対して、赤城はこの上なく上機嫌だった。前々から欲しいと思いつつ、財布の中身とカロリーを計算して躊躇していたこの『今夏限定プレミアロイヤルショコラアイス』(6個入り税別3880円)を他人の奢りで手に入れられたのだ。機嫌が良くならないわけがなかった。

 

 もちろん、注文はアマゾンで。秘書艦特権発動だ。

 

「艦戦で攻撃なんて信じられないわ。それに背後から雷撃させるなんて卑怯よ」

 

「別に艦戦での攻撃が禁止されているわけじゃないし、後ろから撃たれるのが戦場でしょう。気を抜いていた加賀さんが悪いのよ」

 

「……卑怯よ」

 

 加賀はよっぽど根に持ったらしい。ぶちぶちと恨みごとを漏らす同僚を赤城は「はいはい」と軽くあしらった。まともに相手しても意味がないのは長い付き合いの中でよく学んでいる。

 

 鎮守府内演習後の食堂は活気に溢れていた。昼食に集まった艦娘たちは皆、久しぶりに思い切り戦えたのが良かったのか、約一名を除いてどの娘の表情も晴れ晴れとしている。食事が出来上がるまでの待ち時間に、暇を持て余した彼女たちによって食堂の真ん中では本日のヒーローインタビュー(という名のいじり倒し)が行われていた。受けているのは無論、敵の大将首を取った野分である。

 

「さあさあ! 恐縮です!! 本日のMVPの野分さんにお話しを伺いましょう! いかがでしたか? 本日の演習内容は!」

 

 漣がどこかの重巡の真似をしつつ、どこからかマイクを持ち出して野分の口元に差し出した。お立ち台(?)代わりの椅子に立たされた野分が目を白黒させながら「あ、危ないところもあったけど、勝てて良かったです」と若干ずれた感想を述べた。

 

 演習や出撃の後ではおなじみの光景である。お調子者の漣を中心に舞風や川内が囃し立て、その日最も活躍した艦娘にインタビューが行われる。赤城や加賀などもう何回受けたか分からないが、野分は初めてだった。

 

「いや~。でも驚きましたねえ。まさか、あの加賀大先輩のケツにあんなでっかい魚雷をぶち込むなんて! 野分さん、大人しい顔してやるときゃやるんですねえ~」

 

 と、とんでもない爆弾発言が漣の口から飛び出した。それを聞いた野分は目どころか顔面を白黒させているし、木曾や川内は腹を抱えて笑い出す。いささか下品に過ぎる冗談だが、赤城も思わず笑いそうになった。

 

 

「漣」

 

 

 当然、調子に乗り過ぎた駆逐艦には制裁が下る。ゾッとするほど温度の低い声が、少女たちの喧騒を一言で止めてしまった。

 

「後で……」

 

 漣を据わった目で見つめながら、加賀は人差し指を立てて軽く内側に曲げる。

 

 凍てつくような声色も相まって、見る者が見ればおっかない光景である。案の定、何も悪くないのに野分は震え上がってしまったようだ。

 

 だが、

 

「おー、怖ッ! 加賀さん怖すぎッスよぉ」

 

 漣はまるで動じていない。それどころかさらに加賀を茶化すあたり、この駆逐艦の肝の据わりようも相当である。逆に、そうでなければ一航戦の随伴など出来はしないのだが。

 

 まあ、漣が加賀をいじり過ぎて怒られるのはいつものことなので誰も本気にはしていない。ただ、野分は加賀が怒っているのは自分がきっかけだと考えたのだろう。

 

「申し訳ありませんでした! 背後から雷撃するような卑怯な真似をしてしまって……」

 

 野分は椅子から降りて、深々と頭を下げた。ひょっとしたら、先程の赤城と加賀の会話を耳にしたのかもしれない。あれは単なる負け惜しみなのだが。

 

「頭を上げなさい」

 

 一方の加賀は打って変わって怒ったそぶりを見せなかった。そもそも、本気で怒っているわけではない。彼女も冗談だと分かっているのだから。

 

「貴女が謝るようなことは何もないわ。むしろ、あの一瞬のチャンスをうまく物に出来たのは褒められるべきこと。貴女がMVPを取るのは当然よ。胸を張りなさい」

 

「は、はい!」

 

 野分の顔がぱっと明るくなる。「かわいいなあ」と赤城は心の中でほほ笑んだ。

 

 それからまた食堂は騒がしくなった。ワイワイと駆逐艦たちが喋り出し、木曾や川内が囃し立てる。静かなのは赤城の着いているテーブル周りくらいだった。

 

 隣の加賀はともかく、普段ならこういう騒ぎに嬉々として加わるはずの金剛も静かにしている。テーブルに両肘をついて手を組み、その上に顎を乗せて騒ぐ後輩たちを見る目は年長者のそれであり、金剛にはひどく珍しいものである。

 

「大人しいんですね」

 

 赤城は軽い冗談のつもりで金剛に訊いた。すると彼女はちらりと視線だけ赤城に振って口元を微かに緩める。

 

「見ているだけでVery amusing! デショ?」

 

「そうですね。みんな元気があって。今日は演習をやって良かったです」

 

「うん。そうネー」

 

 おや、と赤城は思った。金剛の目は後輩たちに向けられているものの、どこか遠くを見つめているような気がしたのだ。赤城との会話にもどことなく心ここにあらずという感じで応じている。

 

「何か、考えごとですか?」

 

 問い掛けると金剛は微かに頷いた。

 

「ちょっとネ。今日の演習のことで……」

 

「何かありましたか?」

 

 金剛がこうして考え込んでいるというのはあまり見ない光景である。普段の彼女は頭より口を先に動かすタイプで、こうして大人しくしていることはあまりない。だからと言って金剛は浅慮であるわけでもなく、年長者だけあってむしろ物をよく察して状況に応じた的確な発言をする人であり、つまりは頭の回転が早いのだ。それ故、彼女が考えに没頭しているというのは、それだけじっくりと考えるべき何らかの事柄があることを示している。金剛はつまらないことや下らないことに思考を割いたりはしない。

 

 だから赤城は気になって問いを重ねたのだが、金剛はそれには答えずしばし無言を貫いた。

 

 逡巡しているような間。眉間に皺を寄せ、小難しい顔をして見せてから金剛はようやく口を開いた。

 

「赤城。烈風で七駆を攻撃したのは、“誰の”発案?」

 

 返って来たのは返事ではなく質問。一瞬、赤城にはその意味が分からなかった。

 

 “誰の”とはどういうことか。その言い方ではまるで、赤城自身が烈風で駆逐艦を攻撃するというアイデアを思いついたわけではないと言っているようなものだ。いや、実際にそうなのだが。

 

 通常、艦戦で艦娘や深海棲艦を攻撃することはない。何故なら、艦娘の艦載機というのは手の平サイズしかなく、必然搭載している機銃が小さく威力も弱い。艦娘や敵の艦載機を撃墜するには十分な威力を持っているものの、機銃で艦船には有効打を与えられないため、機銃しか持たない戦闘機が艦船攻撃に用いられることはない。そもそも、艦戦は制空用と割り切っている赤城を含めた空母娘に、そのようなアイデアを思いつく頭がないからだ。

 

 だから、“誰の”と訊いたのか。

 

 赤城は金剛の質問の意図を悟った。ついでに言えば、金剛はもう答えも予想しているだろう。

 

「提督です。提督にアドバイスを頂いたのです」

 

「機銃で七駆を攻撃して注意を引きつけ、その隙に野分に雷撃させる。奇抜だけど、あのSituationでは有効な手ネ」

 

「状況をよく見てらっしゃったと思います。決して、単なる思い付きではないのでしょう」

 

「そうネ。それにしては、ちょっと目が良過ぎジャナイ?」

 

「というと?」

 

 金剛の言いたいことが分からない。何が「目が良過ぎ」なのか。

 

 そんな赤城の疑問は顔に出ていたのだろう。金剛は説明し出した。

 

「アナタたち空母にはあまり実感がないでしょうけど、航空戦ってネ、飛行機が小さ過ぎて下から見てるとどっちが勝っているのか判別付かないものヨ。水偵が弾着観測出来るようになって、初めて航空優勢が取れたんだって分かるの。空戦を見るだけで敵味方の勝敗が分かるのはせいぜい相手が深海棲艦の時くらい。それですらかろうじてなのに、艦娘同士の演習だったら判別はまずムリ。こっちには飛行機の区別すらつかないのヨ」

 

 確かに、金剛の言うとおり、航空戦の趨勢は空母以外にはかなり分かりづらい。空母は自分の艦載機と意識が繋がっているから艦載機を通して空戦の状況を知ることが出来るし、撃墜・被撃墜の量から優性と劣性が分かる。だが、空母以外は金剛の言葉の通りの有様だ。

 

「だからあの時、“赤城隊が艦戦ばかりで、加賀隊に対して航空優勢を取っている”というSituationを把握するためにはアナタたちからの報告がなければ、フツーは分からないはず」

 

――さて、ではアナタたちは提督にそういう報告をしたのかしら?

 

 赤城は隣で黙って話を聞いていた加賀に顔を向ける。加賀も同じく赤城の方を向いて、二人は顔を見合わせた。その目は「私はしていない」と語っている。むしろ、加賀にそれが出来なかったのは赤城がよく知っている。

 

 赤城は再び金剛に目を向けた。

 

「いいえ。私もしていないですし、加賀さんもしていないです」

 

「……そう。じゃあ、事前にどういう作戦を採るかも言ってなかった?」

 

「ええ。全く。今回提督は完全に見物されるという話になっていたので」

 

「無線では聞こえなかった? アナタたちはそんな話をしていたケド」

 

 金剛の指摘通り、赤城と加賀は演習中、赤城隊の艦戦について言葉を交わした。それは当然無線を介して行われたもので、無線機を持っていたレミリアにも聞くことは出来ただろう。彼女に無線の周波数を調整することが可能だったなら。

 

 だが、パソコンの使い方すら分からないほど機械に疎い彼女が、無線の仕組みを知っているとは考えられなかった。だからこそ、赤城はちょっとしたズルが出来たのだ。提督の無線の周波数を、自分との専用回線にするというズルを。

 

 それを説明すると加賀の目に剣呑な光が宿ったが赤城は無視した。戦力的に不利だったのだからそれくらいは許されるだろう、というのが言い分である。片や、金剛の方はそんな瑣末なことは気にも留めない。彼女の関心事は無線ではない。

 

「なら、提督は赤城が烈風しか積んでないのも知らなかったノネ」

 

「恐らくは……」

 

 ふう、と金剛は息を吐き出した。

 

 答えは出た。信じ難い答えだが、消去法でそれしかなかった。

 

「提督には、飛行機の区別が付くの?」

 

「それは分かりませんが、私は提督に一通りの艦載機をお見せしました」

 

 赤城が言うのは、数日前にレミリアに赤城の艦載機を見せたことだった。その中には今日赤城が使った烈風や、加賀が用いた流星改、彗星十二型等の最新鋭の艦載機が含まれている。その時のレミリアは「こんなものが空を飛ぶのね」と機体を手に持ち、しげしげと観察していた。

 

 それからレミリアは艦載機に興味を持ったのか、昨日も熱心に航空機識別表を見ていた。だから、短期間である程度の艦載機の区別がつくようになってもおかしくはない。赤城はそのような考えを金剛に対して述べた。

 

「赤城と加賀の艦載機の区別は?」

 

「機体後部の赤い帯の数で識別出来ます、とその時の説明した覚えがあります」

 

 赤城隊の艦載機は帯が一本。加賀隊は二本になる。戦闘中に一航戦が同時に艦載機の収容を行うと、毎回のように間違った方に降りて来る機体がある。機体の色は軍指定なのでその際は帯の数で見分けるのだが、赤城と加賀でさえ着艦してからでないと分からないものだ。余程近くを飛んで貰わない限り、飛行中の艦載機の所属識別をすることは叶わない。

 

「……やっぱり、さっきの演習で赤城に指示を出すには空戦のSituationを“目で見分け”なければならないわ」

 

 不可能だ、と断じることは出来なかった。演習は岸壁から数百メートルは離れた場所で行われていて、さらにその上空で行われていた空戦を見るのに、一体どれほどの視力が必要なのか。単純計算でレミリアと飛行機の距離は一キロ以上あったのだ。一キロ先の手の平サイズの物のわずかな塗装の違いを見分けるには一体どれほどの視力が要るのだろうか?

 

「双眼鏡を使ったのでは?」

 

 加賀が疑問を挟む。だが、金剛は首を振った。

 

「単に飛んでいる艦載機をLook upするだけならそれでもオーケー。でも、Watchはムズカシイ。まあ、その方が現実的なんだケド……」

 

「恐らく、今日提督は双眼鏡を持って来ていません。ひょっとしたらどこかに隠されていたのかもしれないけど」

 

 赤城は金剛の言葉を否定した。隠したかもしれないと言いつつ、赤城自身その可能性はないと考えている。というのも、今日は朝からレミリアと一緒だったが、彼女が双眼鏡を持っているところなど見ていないからだ。そんな物をわざわざ隠したりもしないだろう。

 

「きっとそうよ。空戦を肉眼で見たなんて幾ら何でもあり得ないわ。双眼鏡かオペラグラスでも持って来ていたのよ」

 

 ただ、加賀は決めつけるように言う。これでこの話は終わりだという響きを込めて。

 

 そうかもね。と赤城も頷く。これ以上こんな話をしても益はない。金剛は考え過ぎているのだろう。そろそろ食事が出てくるのだから与太話はさっさと終わらせて腹を満たしたい。

 

 ただ、金剛は腑に落ちないようで、黙ったままだった。それが妙に気になった。

 

 

****

 

 

 

 昼過ぎのレミリアは夢の中にいた。

 

 普段はぱっちり開いている大きな目が、今は眠気に負けたのか瞼に覆われてしまっている。すっかり定位置になったソファに腰掛けたままぐっすりだ。

 

 赤城がノックをしても返事がないので司令室の中を覗き込んだら、レミリアが寝ていたのだ。音を立てないようにそっと中に入り、顔を伺う。思いの外、レミリアはあどけない寝顔をしていた。その様は完全に幼い少女で、あの独特の雰囲気もなりを潜めていた。

 

 正直言ってかなり庇護欲を誘う。思わず座ったままのレミリアを優しく横たわらせソファに寝かせてしまった。かすかに彼女は身じろぎをしたが起きる気配はない。居眠りどころか完全に熟睡している。

 

 いろいろと報告があったのだが、それは後回しにした方が良さそうだ。今は寝かせてあげよう。

 

 そう思って秘書室に入ってから、改めて自分がレミリアに好意的な感情を抱いていることに気付いた。

 

 レミリアを寝かせてあげることも、寝顔を見て微笑ましい気持ちになることも、昨日までならしなかったに違いない。何故なのかと考えて、それからきっかけは午前中の演習だったのかもしれないと思った。

 

 彼女のアドバイスがなければ赤城は悔しい思いをしてたわけで、欲しかったアイスクリームも手に入れられなかっただろう。

 

 過程はどうあれ、レミリアの言葉が赤城の勝利のきっかけになったのだから、感謝しているし、何より純粋に嬉しかった。

 

 まだ完全に信頼出来るわけではないけれど、レミリアの目は確かなものかもしれない。仕事を押し付けられて大変なのだが、それでも彼女は付いて行ってもいい司令官ではないか。赤城はそう思い始めていた。

 

 それがレミリアに対する感情変化のきっかけだろう。決め手は先程の寝顔に違いないが。

 

 赤城とて若い娘であり、可愛いものには目がない。別段子供好きというわけではないのだか、レミリアの寝顔は赤城の琴線に触れるのには十分な愛らしさを持っていた。

 

 それを自覚すると、不思議と心が軽くなる。仕事は殺人的な量があるけれど、頑張ろうというポジティブな気持ちが湧いてくる。

 

 案外単純なものね、と赤城は自らに苦笑して午後の仕事に取り掛かった。レミリアが起きたら、まずは演習の時のお礼を言おう。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督6 The Tea of Memories

金剛さんじゅうななさい。

落ち着いた淑女というゲームの誰かさんとは真逆のタイプですが、こういう金剛さんも見てみたいと思います。


 

 

 

 一体全体、これはどういうことだ。

 

 金剛は自分が今置かれている状況に幾度目かの同じ疑問を抱いた。まったく、どうしてこうなったのか分からない。

 

 

 

「やっぱり、工業製品より天然ものの方がおいしいわね」

 

 というより、あれは紅茶じゃないわ。と目の前の少女提督は付け足した。

 

 その「あれ」がペットボトルの紅茶だというのは彼女自らが語ってくれた。どうやら昨日初めて自動販売機という文明の利器を利用し、ペットボトルの紅茶を買って顔を顰めることになったらしい。それを聞いただけなら金剛からすれば「だからなんだ」という話になるのだが、そこでその場に居合わせた七駆の漣が余計なことを言ったからなんだか事態がおかしな方向に流れたのだ。

 

 曰く、「この鎮守府では金剛が一番上手に紅茶を淹れる」と。

 

 だから、どうしてそう要らないことを口にするのか。

 

「貴女にお願いして正解だったわ」

 

 私は不正解デシタ。

 

 上機嫌なレミリアの言葉に金剛は心の中だけで反論した。

 

 

 現在、金剛は提督室の中でレミリアと二人だけで紅茶を飲んでいる。大きな執務机を撤去した彼女が代わりに仕事机に使っているテーブルにはこじんまりとしているが気品ある紅茶セットが並べられていて、二人でそれを挟んで小さな茶会を開いていた。これらはレミリアの持ち物である。よく使いこまれているので、彼女は常日頃から紅茶を嗜む人物なのだろう。一目見て、相当値の張る高級品であると分かった。

 

 やはりというか、レミリアの出身は裕福な家らしい。そうでなければ高級な茶器を持ち、良質な茶葉で淹れた紅茶を日常的に飲むことはない。もっとも、上品な仕草や気品漂う振る舞いによってそれはなんとなく分かっていたことである。金剛自身は別段金持ちでもない庶民なのだが、かつては身近に本物の「お嬢様」が居たから所作を見てすぐに察せられた。

 

 ただ、レミリアの紅茶好きには「無類の」という修飾語をつけるべきだろう。金剛も自分で茶器を所有するほど紅茶には思い入れがあるが、さすがにレミリアには敵わない。そんなことで張り合おうとも思わないが。

 

「ドウイタシマシテ」

 

 金剛は声に感情を込めずに社交辞令を返した。

 

 始め、レミリアから紅茶を淹れてほしいと頼まれた時は断ろうとしたのだが、持参品だという高級な茶器を見せられては淹れざるを得なかった。あまり安い茶葉を使っても失礼だと思い、渋々自分が持っている中で最高級の茶葉を持ち出したらこれだ。レミリアはたいそうご満悦で、恐らく今後も金剛に紅茶を頼むだろう。

 

 面倒なことになったと思った。

 

 その愚痴をぶちまけられる相手を金剛は頭に思い浮かべたのだが、今工廠にいるという秘書艦様は昨日から急に提督に対して肯定的なことを言い出すようになっていた。この間の演習で手助けしてもらったことが余程響いたらしい。まったく現金な奴だ、と呆れて物も言えない。

 

「そう言えば、貴女もブリテンの出身だと聞いたわ。やっぱりね」

 

 何が「やっぱりね」なのか。まさか彼の国の出身者がすべて紅茶好きだと言うんではないだろうか。

 

 そうではない。確かに国民的な飲み物ではあるが、金剛が紅茶を愛するのは純粋にそれを好き好んでいるからである。故に昔から愛飲しており、場所を移せど紅茶を飲まなかった日はほとんどない。

 

「どこの国から? イングランド? スコットランド?」

 

「Englandデス。Barrow. Barrow-in-Furness」

 

 バロー=イン=ファーネスはイングランド北西部、島の西アイルランド島との間に横たわるアイリッシュ海に面する港町だ。港町と言っても、バローにおける主要産業は漁業ではない。最も著名なのは造船業であり、全英でも造船における代表的な工業都市として知られている。

 

 その歴史は古く、産業革命時代までに遡る。造船で発展したこの町の名誉は、かつて七つの海を支配した大英帝国海軍における多くの主要艦船を建造し、その力の源泉の一つとして連合王国の輝かしい歴史に貢献し続けたこと。そしてそれは形を変えて今なお続いている栄誉ある伝統であることだ。

 

 バローの造船所は現在BAEシステムズの一部となっている。そこで行われているのは最早重厚長大な巨大艦船の建造ではない。小さくとも頑丈で、精密であれど堅牢な艦娘艤装の開発。それこそがバローの役割である。

 

 かつて金剛はこの町に生まれ、この町にて竣工した。

 

 

「あら? 近いじゃない。私は湖水地方なの」

 

 湖水地方……。

 

 金剛は声に出さずに呟いた。

 

 湖水地方はバローの北方に存在する風光明媚な土地だ。氷河時代に氷に削られた大地が複雑な起伏を作り、氷河が溶け去った大きな窪地に水が溜まって、丘と湖が連なる独特の風景が出来上がった。ピーターラビットの作品の舞台はこの地であり、英国の内外から数多くの観光客を集める代表的な観光地の一つでもある。

 

 金剛自身も比較的近距離にあったということもあって、幾度か訪れたことがある。シーズンを外せば観光客も少なく、ゆったりと歩き回れる。その代わり湖水“地方”というだけあって面積は広く、起伏も大きいためすべてを回りきることはかなわなかった。

 

 ただ、観光に訪れる分には非常に良い土地であると思うが、それは裏を返せば生活の便はあまりよろしくないということだ。

 

 そんな片田舎に彼女は住んでいたのだという。

 

「ウィンダミアから10マイルほど北に離れた小さな町に住んでいたのよ」

 

「金持ちはそんなとこに住んだりしまセンヨ」

 

「排ガスまみれの都会には住みたくなかったの」

 

 母国から離れた異国の地で出会った郷里の近い英国人。しかし、不思議と親近感は湧かなかった。

 

 普通なら自国の思い出話をしたり、英国人にしか通用しないようなジョークを言い合ったりするものだろう。仮に金剛が目の前の彼女とは別の英国人に出会ったなら、間違いなくそういう風な会話をする。自分はそういう性格をしている。

 

 だが、レミリアとそのような打ち解けたやり取りをする気は毛頭なかった。金剛は自分のコミュニケーション能力には自信を持っていて、どんなに気難しい相手だろうとある程度気を許した会話をすることが出来ると思っている。それだけの話術があって話題の引き出しも数多いはずなのだ。

 

 レミリアの方もあれこれと金剛に話し掛けて来て、積極的にコミュニケーションを取る気があるようだ。普段なら金剛も応じただろうが、ある一点が非常に気になって、というよりその気懸りのせいでレミリアを好意的に見れなくて、どうしてもレミリアと仲良くしようと思わないのだ。

 

 彼女の出身。ただその一点のみのために。

 

 

「静かに暮らすにはいい環境だったわ。時折ウィンダミアやカーライルの街に出るのだけど、ちょっとした旅行気分で楽しかったしね」

 

 自分の過去を喋り出すレミリア。その様子を見るに、レミリアはどうやら話好きな性格をしているようだった。最初に出会った時の厳かな雰囲気は何処へやら、砕けた様子でずいぶん饒舌だ。

 

 金剛は合の手を挟まず耳を傾けた。

 

「不便を感じたりはしなかったわねえ。優秀な華僑の女中がいたから家事に手を煩わされることもなかったし。暇潰しに読める本は無尽蔵にあって、居候している友人もいたから話し相手にも困らなかったわ」

 

 金剛は黙って聞いている。やはりというか、レミリアは思った以上の金持ちだったようだ。女中はともかく、大量の蔵書を持ち、居候を養えるなど普通の財力ではかなわない。

 

 それが、何故裕福な身分で日本まで来て軍隊にいるのか。ますます彼女の存在自体が謎めいてくる。

 

 落ちぶれた? いや、あるいは“追い出された”のだろうか。

 

「今は日本の田舎に住んでいるけど、昔より友人が増えて、新しい趣味も出来たし、楽しいわよ。田舎暮らしっていうのも」

 

 日本語が流暢なのは日本に移住してきたからか。あるいは逆かもしれない。日本語が流暢だからこそ日本に送られた可能性もある。どっちにしろ、金剛には知る由もなかった。

 

「どうして日本に来たのデスか?」

 

「色々あって、郷里に住み続けられなくなったの。それで知人の紹介で日本に来たのよ」

 

 やはり、と金剛は思った。ぼかした言い方も気になる。

 

 喋り好きな割に、訊いたことに対する答えが要領を得ない。何か隠しごとがあるのだろう。それが金剛が関心を寄せることなので、そこまで踏み込んでみようという考えが思い浮かんだが、直ぐにそれを破棄した。

 

 レミリアが答えてくれないのは明白だし、今時分で彼女から不信感を買いたくはない。金剛はあまり興味が無いように装った。

 

「最初はどうなるかと思ったけど、来てみると案外悪くなかったし、私はこの国を気に入っているのよ」

 

 金剛が続けなくとも、レミリアは勝手に喋り続けている。このまま気分良く口を動かしていて貰おうと考えた。

 

 金剛にはレミリアと友好する気はなくとも、彼女という存在には興味を持っていた。彼女の生い立ち、半生、日常、この鎮守府に来るまでの経緯。それらを直接訊くのは相当な信頼関係を築かなければならないわけで、つまりそれらの情報を得るには彼女と友好を築き、心を開いて貰うしかない。

 

 話好きのレミリアならその内話してくれるだろう。後は彼女の不振を買うようなことをしなければいいだけで、だから金剛はこのまま聞き役に徹することにしたのだ。今日話して貰えなくとも、明日には、あるいは来週には、話して貰えるかもしれない。ならば、この退屈な茶会も少しは有意義に感じられるというものだ。

 

 そうは言っても、多少の合の手を挟むくらいはする。無論、この程度の不自然にならないもので。

 

「どこにお家があるのデスか?」

 

 そう尋ねると、レミリアの口が止まった。

 

 彼女はおもむろにスコーンを手に取り、クランベリージャムをスプーンですくって白いパン生地にべったりとくっつけると、小さく口を開けて齧った。それから数秒ほど、考えるように彼女は咀嚼して、それを飲み下してからようやく答えた。

 

「長野、というところよ」

 

「長野県、デスか? 松本とか軽井沢とか」

 

「うーん。あんまり詳しくないから分からないけど、山の方よ。高い山があるの」

 

 高い山なら長野県下にはたくさんある。何しろ「日本の屋根」と呼ばれている地域だ。レミリアはその実何も言っていないに等しい。

 

 隠しごとをしているのか、単に親しくない相手にはそこまで打ち明けるつもりがないのか。

 

 金剛は後者だと考えた。ならば、今ここでレミリアから情報を無理に引き出す必要はない。

 

 慎重に行こう、と思った矢先に、やはり天性の話し好きなレミリアは勝手に続きを言い出した。

 

 

「家は湖の畔にあってね、これがまたよく霧の出るところなんだけど、空気はとても澄んでいるし、霧の朝はとても涼しくて清々しい気分になれるから気に入っているのよ。人里からは離れているけど、近くに神社があって頻繁に宴会をしているから結構賑やかだったりするしね」

 

「神社で宴会、ですか?」

 

「不謹慎だと思う?」

 

「ええ、まあ……」

 

 それは西洋風に言えば、十字架の前で酒盛りするようなものだ。不謹慎どころか神罰が下りそうなものだが、レミリアはいたく楽しそうに宴会の様子を語り始めた。

 

「それもそのはず、神社には巫女が居るんだけど、そいつが不謹慎の塊みたいな奴でね。修行はしないわ、縁側で茶を飲みながら一日を潰してばかり居るわ、普段は碌に神事の一つもしないわ、とても巫女とは思えないような罰当たりなのよ。でも、宴会の開き方だけは誰にも負けないくらい上手でね。私も含め、色んな奴があいつの下に集っては騒ぐのよ。

 

春は花見に秋は月見。夏は境内で涼みながら飲んで、冬は家の中で鍋を突つきながら飲む。そりゃあ、楽しいってものじゃない? 祖国に居る時にはそんな風に誰かれ構わず飲み交わして騒ぐことはなかったから、こういう酒の飲み方もあるのかって、最初は驚いたけどね」

 

「お祭りみたいなものデスカ」

 

「そう! お祭りよね。なんのお祭りかは知らないけど。みんな騒ぎたいからお祭りになっているの」

 

 レミリアはとても愉快そうだ。

 

 その様子から金剛も、神社での宴会はさぞかし楽しいものなのだろうと思った。英国に生まれ、英国に育ち、日本にやって来た外国人である金剛は、神社の縁日というものを体験したことがない。祭りと言っても共に行くような相手は限られていたし、一人でそういう場を訪れるような性格ではないから、せいぜいが地元の街の花火大会を見上げるくらいであった。

 

 だから、レミリアの口から語られる楽しそうな宴会の風景を想像することは出来なかったけれど、実に楽しそうだという感想は抱いた。

 

 そう。ほんの少しだけ、その宴会に行ってみたいとも思う。

 

「良いデスネ」

 

 もし自分がその場に行くとしたら横にいるのは一人を除いて他に居ない。その人物の顔が思い浮かんで、しかし慌ててかき消す。

 

 あり得ない仮定だ。永遠に訪れることのない場面なのだから、想像するのも無意味だろう。

 

「どうしたの?」

 

 声を掛けられて意識を目の前に戻すと、レミリアと視線が合う。

 

「……ちょっと、想像していました」

 

 誤魔化しても見透かされる気がして、正直に答える。想像は意味があろうとなかろうと、無料である。

 

「行ってみればいいわ。想像よりもずっと楽しいから。特に大切な人と行くのが、ね」

 

 見透かされるというより、思考を読まれたと言った方が適切かもしれない。

 

 先程ふと思い浮かんだ“あり得ない仮定”を、まるで見たかのように彼女は言い当てる。

 

 その真紅の瞳に、金剛の心が映っている。

 

 

 否、それは考えすぎだろう。いくらなんでも人の心なんて読めはしない。ひょっとしたら、これは金剛としては断じて認めたくないところだが、少しだけ寂しさが顔に出ていて、レミリアは目敏くそれに気付いたからああ言ったのかもしれない。

 

「……そうですネ。ところで」

 

 

 

 もう内心が顔に出ないように、せめてもの取り繕いのため、金剛は話題を変える。

 

「提督はお酒が飲めるのデスカ?」

 

「ええ? もちろんよ。これでも肝臓に自信があるの」

 

 なんなら競ってみる? と挑発するので、素直に首を振っておいた。

 

「遠慮しておきマス。あまり強くないので」

 

「そう、残念。まあ、もし貴女が誰かと一緒に神社の宴会に来たいなら、私が話を通しておくわ。大歓迎で、潰してあげるから」

 

 ケタケタと、目の前の小さな悪魔のような提督は笑った。

 

 それに、引き攣った愛想笑いを返しながら金剛は思う。

 

 今日、一つだけ分かったことがあった。

 

 決して、自分は彼女とは仲良く出来ない。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督7 Solicitation

 

 

 

 

 赤城はその日、午前中から加藤と共に練兵場に足を運んでいた。仕事の内容は艦娘の陸戦訓練であり、鎮守府の陸戦隊の指導の下、艦娘は炎天下のフィールドで汗を流していた。

 

 果たして、海の上を戦場とする艦娘が陸での戦い方を学ぶ必要があるのかと言えば、答えは「ある」になる。その必要性は、かつて別の鎮守府で上陸した深海棲艦を多大な犠牲を払いながら艦娘と歩兵が撃退したという歴史が証明してくれるし、実艦よりも遥かに近い距離で撃ち合う艦娘は時に海上で白兵戦を展開することもたまにある。その時にはCQC等の近接戦闘術が生存に大きな影響を与えるだろう。

 

 ベテランも新入りも入り混じって陸戦隊の隊員からの厳しい訓練にしごかれている。屈強な男ら相手に小柄な駆逐艦が果敢に徒手空拳を挑み、(わざとやられているのではあるが)投げ飛ばすのはなかなかに壮観な光景である。

 

 一方の赤城と言えば、訓練服を身に纏ってはいるものの書類を挟んだファイルボードを胸に抱え、雨避けの屋根があって日陰になっているフィールド脇のベンチからその様子を見守っていた。本来なら秘書艦である赤城といえど訓練に加わらなければならないのだが、そこを話があると言って加藤が呼び寄せたのである。

 

 赤城はちらりと隣のベンチで腕を組んでいる加藤の様子を窺った。堀の深い顔立ちにはさらに深い皺が刻まれていて、一見して彼が不機嫌だと分かる。それがこの鬱陶しい暑さのせいなのか、はたまた別の事柄なのか、あるいはその両方なのかまでは判別付かない。

 

 とにかく、最近の彼の機嫌はすこぶる悪かった。元々機嫌を直しにくいという厄介な性格を持っているということを差し引いても、ここ数日の加藤の不機嫌っぷりは異常である。彼と数年仕事をしている赤城にとってもこんなことは初めてであった。

 

 いい加減にして欲しい、というのが赤城の心中である。気難しさに輪をかけた彼と接するのは気を遣うのだ。そろそろ腹の虫の居所を直してもらわないとこちらが疲労するばかりである。

 

 ただ、それもすぐには無理そうだった。というのも、加藤の不機嫌の理由はレミリアの着任にあるからだ。

 

 

 

 そもそも、提督不在の期間は一月ばかりあったわけだが、前任提督が辞職した直後は幕僚長の加藤がそのまま昇任人事で提督のポストに収まると思われていた。実際、鎮守府の誰もがそう予想していたし、元より野心溢れる加藤が前任提督の時代から後任の座を狙っているのは有名で、彼自身も上層部に相当掛け合っていた。聞き知ったところでは、人脈を駆使してかなり周到な根回しもしていたらしい。

 

 ところが、後任の人事はいつまで経っても決まらなかった。その内鎮守府内では当初の下馬評に反して、大きな番狂わせがあるのではないかという噂がまことしやかに囁かれるようになり、レミリアの着任直前にはもう加藤の昇任はないものだとさえ言われるようになっていた。

 

 当然、加藤にすれば面白くない話である。それでも彼は健気に一月もの間待ち続けたし、上層部への掛け合いも怠らなかった。その結果が誰一人として予想しなかった外国人少女提督の誕生である。

 

 これで激怒しない人間がいるとしたら、それはもう神のような精神性を持つ聖人君子に限られるだろう。加藤からすれば最早裏切られたも同然で、怒り狂って数日は酒を飲み浸ったという。彼がレミリアに冷たい態度を取るのは半ば八つ当たりのようなものであるが、それも致仕方ないと言えよう。赤城も当初は同情していた。上層部の決定はあんまりである、と。

 

 けれど、それがずっと続けば話は別で、気を遣わされる上に仕事にも支障が出て来るのだからそろそろ大人らしく機嫌を直して欲しかった。しかも、着任からそろそろ一月が経とうとしている今日においてもこの有様であるから、一体彼の不機嫌はいつまで続くのだろうか。

 

 

 

「話というのは」

 

 訓練を見続けていた加藤が姿勢を変えないままおもむろに切り出した。

 

「提督のことだ」

 

 

 

 赤城は溜息を吐きたくなった。選りにも選って、一番気をつけなければならない、それも出来れば金輪際触れたくない話題である。

 

 どうしてそれを自分に振って来るのか。加藤からすれば、赤城とは仕事をする機会も多く、お互いが相手をよく知っているので、この手のデリケートな話題を振るのに気が楽なのだろう。そんな話などしたくない秘書艦からすればいい迷惑である。

 

 何と答えようか逡巡している内に、加藤は次の一言を言い放った。

 

 

「あの人事はおかしい」

 

 

 これである。ここ最近、すっかり彼の口癖になった言葉である。

 

 四週間の間に一体それを何度耳にしたことか。おかしいことなど分かり切っているし、決定してしまったのだからもう今更どうにもならないことである。それをいつまでも愚痴るものだから、未練がましくてみっともないと呆れていた。

 

「だから、俺は調べてみたんだ」と加藤は続けた。赤城の返事を待たないところをみると、単に愚痴を吐きたいわけではないらしい。というか、さすがにもうその段階は過ぎているはずだろう。

 

 本題に入ったと思い、赤城は聴きに徹した。

 

「レミリア・スカーレット少将なる軍人の経歴は出て来なかった。皆無だ。まったく出て来なかったんだ」

 

「皆無? ですか?」

 

 驚いて思わず訊き返した。仮にも少将の階級にある人物の経歴がまったく出て来ないとは一体全体何事だろうか。

 

 確かに赤城も彼女のことが気になり、多少調べてみたのだが情報が出て来なかった。しかしそれは、単に彼女が海外の出身で日本にある情報が少ないだけだと思っていたのだ。しかし、情報が“少ない”のと“ない”のとではまるで意味合いが違う。

 

「そうだ。ゼロだ。出生も不明、母校も不明。それどころか年齢すら分からない。軍人年鑑にも載っていなかったし、前職が何だったかも問い合わせて答えが返って来なかった。『確認出来ませんでした』だとさ。とにかく分かるのは、名前が『レミリア・スカーレット』で、階級が『少将』で、日本人ではない女性で、現職がこの鎮守府の司令官ということだけだ」

 

 信じられない気持ちに赤城はなった。そんなことが本当に有り得るのだろうか。それとも、あるいは彼女は、

 

「“高度に政治的な”方ということですか」

 

 彼女のことを説明するなら、最早そういった存在であると考えるしかない。そう、例えばどこかの王侯貴族の子女であるとかだ。

 

 

 現在、国連の実力装置として世界平和の実現(深海棲艦の討伐を含む)を目指す軍には世界中の王族や貴族の若者が入隊する。レミリアがやんごとなき身分だとしたら、一切不明の経歴や個人情報も、不釣り合いな少将という階級も、一応は説明が付く。

 

「そう考えるのが一番筋が通る。ただし、この最前線に配属される理由は見当もつかんがな」

 

「確かに……」

 

 実際、王侯貴族の軍人には家の位にもよるが、高い階級と高位の名誉職が与えられる。現在の軍ではそれが通例となっているのだが、さすがに最前線の切った張ったをしている鎮守府に送られることは有り得ないはずだった。

 

「俺ももう少し調べてみるが、何が出て来るか分からん。それどころか、何も出て来ないかもしれない。このおかしい人事も、きっと何か裏で大きな圧力が掛った結果のものなのだろう」

 

 それは加藤の言う通り、表沙汰には出来ない色々な事情があってこういうことになったのだろう。ただ、それは鎮守府でごく普通に働いている限りは自分たちに影響はないことである。

 

 それを知ってどうするのか?  赤城は直接尋ねてみた。純粋に興味が湧いたというより、彼の機嫌が直る目処が欲しくて、あえて訊いたのだ。直ぐにそれが間違いだったと後悔することになるのだが。

 

「ですが、幕僚長はそれを調べてどうされるおつもりなのですか」

 

 その問いに対し、加藤は少々言い淀んで、それから言葉を選んで答えた。

 

「……自分が何者の下に居るのかは、理解しておきたい」

 

 素性不明の人物など軍隊では存在し得ないはずである。しかし、それが実在するならそこには誰かがどうしても隠しておきたい何かがあるということ。果たしてそれを暴くのは賢いことなのだろうか。

 

 その辺りが分からないほど加藤は愚鈍ではない。むしろ、加藤こそそうした軍隊の中の“綺麗でない”事柄についてよく理解しているだろう。その彼が、あえて危険を冒してでもレミリアを詮索するのはなぜか。

 

 赤城には何となくその理由が予想出来て鼻白んだ。

 

 結局、そう言うことか。つまりは、加藤はまだ執着しているのだ。機嫌が直らないのも、なるほどよく分かった。同時に彼の抱いているどす黒い野心も。

 

 とはいえ、赤城には関係のない話である。加藤は上官としても優秀だし、政治手腕もそこそこある。人脈も広いし、いずれは軍の中枢に登りつめていく人物に違いなかった。彼の寵愛を受けていれば、後々優遇されるだろう。ただ、赤城には興味がない。いつ沈むとも分からない自分が、十年後のための権力闘争に参加する気はまったく起きない。

 

 そうした態度は赤城が常日頃から加藤とは事務的な話をしないようにしているところから、彼も察しているのではなかろうか。要するに、遠回しに権力闘争に巻き込まないでほしいと伝えているのだ。だというのに、彼はこういう話を振って来る。

 

 

「赤城」と彼は呼び、隣の秘書艦に目を向けた。

 

「俺に付いて来る気はないか」

 

「……妻子がいらっしゃるのに、プロポーズですか?」

 

 茶化すのが精一杯だった。

 

 加藤の目は本気だ。その眼光は、狼よりも虎を想起させる。獰猛な、そして傲慢な色を浮かべていた。

 

 まずいことになったと焦る。加藤に目を付けられたのだ。いや、目を付けられていて今まで上手く躱していたつもりが、直球で来られてしまったのだ。

 

 なんでそうなったのか。先程、レミリアを調査する理由を尋ねたせいだというのには直ぐに思い当たった。いらぬ誤解を与えてしまったようなのだ。

 

「違う。俺の部下として付いて来いと言っているのだ。俺はいずれ軍令部長になる。海軍を動かし、世界を守る男になる。だが、それも一人では成し得ない。お前という有能な部下がいなければ出来ないことだ。

どうだ? 俺と一緒に上がって行かないか? 

お前は鎮守府に置いておくには惜しい人材だ」

 

 まったく、余計なことを口にしてしまったものだ。今更ながらにほぞを噛むが、時既に遅し。この目の前の男は精悍な顔立ちの割に嫉妬深い女のようにしつこいのだった。

 

「お誉めに預かり光栄至極ですけれど、私は艦娘ですよ。海に出て戦うのが仕事です」

 

 赤城はなんとか躱そうとするが、加藤は食い下がる。

 

「そうだ。だが今一度考え直してくれ。お前はどうして弓を握る? 誰のために矢を飛ばす? お前が時に口にする『一航戦の誇り』とは何だ?」

 

 遂には、戦う理由にまで言及されるようになった。めげない加藤にうんざりするが、それを表情に出そうものならまたややこしいことになるわけで、赤城は努めて落ち着いた対応に徹する。

 

「国を、世界を、人々を守るためですよ。そのために私たちは生まれ、そのために私たちは海へ征くのです」

 

「しかし、それはいつまで出来るのだ? 翔鶴型。大鳳型。一航戦の後継者は既に生まれつつある。お前たちが上から引退を言い渡される日もそう遠くはないだろう。そうなったら、後はどうするのだ?」

 

 赤城は自分の顔に皺が浮き立つのを自覚した。今度はあからさまにならない程、されど無表情ではなく、ぎりぎりそうと言えるくらいに不快感を顔に出す。

 

 さすがに進退まで口にされたら表情を変えてもいいだろうし、牽制の意味も込めている。果たして牽制になるかは知らないが。

 

「それは……後進の教育にあたろうかと」

 

「それも悪くはない。だが、二人も必要か?」

 

その時の加藤の声はぞっとするほど冷たかった。ここに至って、初めて彼を恐ろしいと感じた。

 

 加藤は、ゆっくりと赤城に身を寄せて来る。

 

「教育者なら加賀で良い。あいつの方が向いている。空母としての実力も一流だし、なんだかんだで面倒見もいい。加賀に任せておけば大丈夫だ」

 

「……」

 

「なら、お前はどうする? 加賀と同じく教官をやるか? しかし、それでは宝の持ち腐れというものだ」

 

「宝とは、何ですか?」

 

「器だよ。お前が持つ、大器だ」

 

 いよいよ加藤は立ち上がり、赤城の目の前まで歩いて来た。

 

 それから覆い被さるように腰を曲げ、顔を近付けるので、視界は彼の巨躯の陰になって暗くなる。

 

「お前には大局を見極められる目がある。加賀にはそれがない。あいつは空母の才能に溢れているが、いささか視野が狭いきらいがある。その点、お前は物をよく見れているし、頭も良い。

お前が秘書艦になった時、自然とそれは決定されたんだろう? 誰もがお前が提督の片腕として、艦娘の筆頭として振る舞うことを認めたんだ。その結果、お前はうちの鎮守府の脳髄と言える存在にまでなった。お前がいなければこの基地は機能しなくなる。

俺が言うのは、単に鎮守府を海軍全体に置き換えただけの話だ。お前なら、海軍を動かす中枢に加われる。そして、俺ならお前をそこに連れて行ってやれる」

 

「か、買被りすぎですよ」

 

「買被りなもんか。俺は本当にそう思うんだ。過大評価のつもりもない」

 

「それなら、金剛さんの方が私なんかよりずっとすごい方ですよ。経験も豊富だし、頭の回転も速いし」

 

「確かにそうだが、金剛の場合頭が古い。その上、少々反抗的だ。

 

あれは現場の生き物だな。上に行く器ではない」

 

 駄目だ。何を言っても加藤の考えは変わらない。元より、無駄なあがき以上のものではないのだが。

 

 加藤は本気だ。本気で赤城を引き抜こうとしているのだ。

 

 こうなっては、赤城にもどうしようもなかった。今までのようにのらりくらりとかわしたり、それとなく態度を示すような遠回しな方法は通じない。けれど、彼に威圧されてきっぱりと断ることも出来なかった。

 

 

「か、考えさせていただきます」

 

 結局、半ば根負けするかのようにそう言った。あるいは言わされたのか。

 

 いずれにしろ、今後も加藤がしつこく勧誘して来るのは目に見えていた。

 

 

「いい返事を期待している」と言ってこの場は終わったが、赤城は加藤に聞こえないようにそっと淀んだ息を吐き出した。

 

 加藤は屋根の下から出て、炎天下の中、フィールドで訓練に勤しむ艦娘たちの元へ歩み寄って行く。何人かがそれに気付き、お辞儀する。その中の一人は頭を上げると、こちらに視線を向けた。

 

 

 

 その瞬間、不思議な錯覚に陥った。

 

 まるで彼女に、加賀に、先程の加藤とのやり取りを聞かれたような気がしたのだ。もちろん、怒鳴り合ったわけでもなく、加藤との会話が聞き取れる距離ではない。

 

 それはやっぱり錯覚で、気のせいなのだろう。きっと加賀は「お前も早くこっちに来い」と言いたいのだろう。話が終わったなら訓練に加われと、そう訴えかける目線だったのだ。

 

 気温は恐ろしく高いのに、妙な寒気がする。これもきっと、気のせいだろう。

 

 

 

 

****

 

 

 

「まあ、何と傲慢で欲深い人間なのでしょう!」

 

 

 

 執務室の真ん中に置かれたテーブルの上で、球面に映し出された映像を見ながらレミリアはそう言い放った。その芝居がかった口調に、レミリアの対面で同じく映像を見下ろしていた魔女は溜息交じりにこう返す。

 

 

「貴女からすればカエサルだって謙虚な一人の善王になるわ。レミィ」

 

 

 テーブルには大きく丸い水晶が一つ置かれていた。傷一つない滑らかな球面にはゆらゆらと水に映っているかのように不規則に揺れる赤城の姿。魔女の使い魔の目を通して送られてくる練兵場脇の光景だった。

 

 鎮守府庁舎の司令官室では制服を着た少女と紫色のゆったりとしたローブを纏った魔女が水晶を覗き込み、出来のいいメイドが淹れた紅茶に口を付けながら、怪奇な茶会が催されていた。この、近代的軍隊の格式高い部屋の中で、まるで中世の世界から出て来たかのような格好をしている魔女は、その部屋の主の友人であり、同じ屋根の下に住む居候で、普段は無精な彼女が鎮守府まで赴いたのは、単に親友であり家主である少女提督の要請(または強制)によるものだった。

 

「でも、否定はしないわ。この男はいずれ貴女を貶めようとするわよ。注意なさいな」

 

 友人を適度な言葉で適度に皮肉って少し溜飲の下がった魔女は大真面目な顔で(いつも通りの仏頂面だ)、こののっぴきならない見た目も中身も稚児そのものな悪魔に対し、さも自分が友人思いで知慮深い賢人であるかのように言葉を放った。

 

「ふん」

 

 魔女の高慢ちきな忠告を鼻で笑い、レミリアは足を組んでソファにもたれかかる。

 

「権謀術数なら勝手にやっていれば良いわ。この組織の中での地位も権力も、私には興味のないこと。私は私のやりたいことをやりたいようにやる。それを止められる者は誰もいないよ」

 

「さすがは我が友。我が悪魔。五百年も生きれば言うことが違うわ」

 

 魔女の軽口のような皮肉にレミリアは眉をわずかかにひそめた。どうやら、この出不精な友人は腹の虫の居所が悪いらしい。彼女の口は普段、閉じるか皮肉を言うかのどちらかにしか使われないが、今日は毒の強い皮肉を言うのに使われていた。

 

 だが、そんなことはどうでもいい。魔女の機嫌など、新しい本を与えれば一瞬で直ってしまうのだから。

 

 レミリアにとって気になったのは魔女が放ったその次の一言だった。

 

「だけど、あの子を取られるのは癪に障るのでしょう? 気に入ったから。咲夜とはまた違うタイプの優秀な手駒だし」

 

 貴女は独占欲が強いものね、と魔女は付け足した。

 

 さすがに同居しているだけあってレミリアの心中を見抜くのが早い。少女提督は魔女の指摘を概ね肯定する。だが、果たして癪に触るという表現は的確だろうかと思った。というのも、レミリアはその表現が、自分の赤城に対する感情と照らし合わせて腑に落ちなかったし、そもそもその感情を上手く言語化出来ないでいた。

 

 ただ、レミリアが赤城を大雑把に言って気に入っているのは確かなことである。だから、加藤が赤城を勧誘したことは気に食わないし、優秀な手駒もとい部下という魔女の言葉にも同意する。それどころか、赤城はどこぞのメイドよりも秀でている。少なくとも彼女は唐突に訳の分からない悪戯をしないし、魔女と共謀して館を迷路に変え、本を奪いに入った強盗を主人の部屋に誘導したりもしないに違いない。

 

 もっとも、仕事が早い分事務的で真面目過ぎるのが珠に疵で、件のメイドのように面白いことをして楽しませてくれるわけではない。それが出来る点で、自分の家で“飼っている”あのメイドの方が優秀と言えるのかもしれないが。

 

 

 

「人聞きの悪いこと言わないでくれる? 単に上官と部下というだけ」

 

 憮然としてレミリアが反論すると、友人はどうかしら、とからかうような声色で返した。

 

 そうやって自分をおちょくって気が済むならいくらでもやればいい。言外にそんな意味を込めながら紅茶を一口啜る。香ばしい琥珀色の液体は冷房の効いた部屋の空気に熱を奪われて少しぬるくなっていた。

 

「まあでも」レミリアはカップを回しながら続けた。

 

「彼女が咲夜だったら、あの男はもう串刺しになっていたわね」

 

 物騒な呟き。それはあり得ない仮定だったが、条件を変えれば十分に起こりえる可能性でもある。

 

 それに対し友人は、「それもそうね」と首肯してみせた。

 

 つまるところ、それがレミリアの赤城に対する評価である。優秀な部下であり、その手腕は信頼する。されど、己の「所有権」を主張するほど入れ込んではいない。正真正銘「レミリアのもの」であるメイドとは次元が違った。

 

 

 

「でもまあ、退屈はしなさそうね」

 

 それから魔女はぽろりと漏らした。レミリアは頷き、同意を伝える。

 

「良かったわね。わざわざ軍人になってこんなところまで来た甲斐があったじゃない。時間も資本もたっぷりあるし、思いっ切り楽しんだら?」

 

「資本はないわ。でも、元よりそのつもりだよ」

 

「そうだったわね。だから、ちゃんと真面目に働くのよ。書類仕事も、ね?」

 

「よくもまあ自分が絶対やらないことを、そんなにも偉そうに人にやれと言えるよ」

 

「あら? 賢明なる魔法使いの忠言は聞いておいた方がいいわよ?」

 

「お前は厚かましいだけ」

 

 

 口の減らない魔女にレミリアは疲れたように溜め息を吐いた。言い合っても無駄だというのは長い付き合いの中で散々理解させられている。この難儀な友人は、普段は舌を引っこ抜いたかのような無口のくせに、いざ喋り出すとやたらめたら弁が立つのだった。お前は魔女より弁護士の方が似合っている、というのは言わない約束だ。

 

 

「そうかもしれないわね。ところで、軍隊の知識も欲しいのよね。こっち方面はあまり詳しくなかったし」

 

 

 

 魔女が率直に訴えてきた要求に、レミリアはもう一度溜め息を吐いた。その、減らない棘付きの言葉と無尽蔵な知識欲に。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督8 Engagement

硫黄島(いおうとう)は島の名前。
Iwo Jima は古戦場の名称。


 

 

 

 季節も九月に入れば多少は暑さも和らぐ。日中の気温こそ真夏日一歩手前だが、朝夕は太陽が地上を温めるのを放棄したかのように涼しくなる。半袖だと少し肌寒いくらいだ。殊、海上ならなおさらで、それどころかある程度着込まないと海の上は地上とは段違いに寒く、下手をすると体調を崩しかねない。命を取った取られたをする戦場で、「風邪をひいて戦えません」は通用しない。

 

 しかも、今日のように空一面を鈍色の雲が覆い、太陽の見えない日などは冬かと思うくらい冷え込む。赤城は身動きを妨げない程度に長袖の上着を着込んで、やや荒れ気味の波の上に足を浮かべた。

 

 後ろには赤城に倣い防寒した加賀もいる。二人とも似通った格好をしていて、手には体よりも大きい長弓を携えている。見分けがつくのは、袴の色と髪の長さくらいだ。

 

 しかし、一航戦と今日の行動を共にする木曾と七駆の三人はなんと半袖だった。寒くないのかと疑うが、そもそも艦娘の艤装にはある程度の保温機能が付加されている。中には、それさえ有れば冬でも半袖で大丈夫という元気な者もいたりするくらいだから、彼女たちにとっては晩夏の肌寒さなどものの内にも入らないのだろう。

 

 

 さて、赤城たちは本日、任務のため出撃しているのである。演習よりもさらに久しい外洋での作戦行動だった。

 

 提督不在の期間は高度な戦略的・戦術的活動は出来ず、精々が近海を哨戒して時折はぐれの敵と小競り合いをするのが関の山だった。レミリアがやって来てからも、彼女が慣れるまである程度時間を要したし(それでもレミリアの飲み込みが早くて短縮出来た方だ)、だから夏も終わりのこの時期になってようやく本格的な作戦が出来るようになったわけだ。

 

 だからといって、この間の演習の時のように気楽に盛り上がれるものではない。これは実戦である。自然と、赤城たちの身にも力が入る。

 

 艦隊は単縦陣を組み、一路東を目指して進んでいた。頭上には赤城たちを見張るように一機の長い翼が飛んでいる。

 

 低視認性を高めるネイビーブルーの機体色に特徴的なアスペクト比の大きい主翼。機体から真っ直ぐ左右に突き出したそれは、下から見上げると大きな十字架が飛んでいるようにも思える。

 

 遠い海の向こうの国で開発された洋上無人偵察機――トライトンの役目は艦隊と母艦を繋ぐことである。テレビカメラやレーダーを始めとした各種センサーを搭載したこの無人機は、元々空軍用のグローバルホーク無人偵察機として開発されていたもの。トライトンはその海軍仕様にあたり、ここで運用されているのはさらに航空甲板からの発着艦可能なよう短距離離陸機に改良した機体だ。高性能な電子機器を駆使して戦場の様子を余すことなく母艦に乗り込む提督の元へと伝達する。

 

 そもそも外洋で活動するなら、艦娘には海上拠点となる母艦が必須である。艦娘の艤装ではあまり長い距離を航行出来ず、作戦海域近辺まで彼女たちを運ぶ船の存在がなくてはならないのだ。港の桟橋から飛び出して出来る任務は、精々が近海の警らくらいなものである。

 

 この母艦は基本的に艦娘を輸送するために特別な改造を受けた揚陸艦が専従することになっている。鎮守府を代表する軍艦と言えばこの艦娘母艦であり、作戦時には提督や多くの海兵を乗せて出港し、作戦海域に近づくと船体後部のドックから艦娘を出撃させ戦闘の指揮を行う。

 

 故に、艦隊にとっては母艦というのは母港と戦場を行き来するための欠かせない足であり、その存在の喪失は艤装の燃料欠乏による沈没を意味している。だからこそ、どんな艦娘も母艦の防衛には必死であり、母艦の方も護衛の艦娘を乗せてくるのが常であった。今回のその任に就いているのは川内と四駆の二人である。

 

 一方で、母艦は艦娘を出撃させた後は速やかに作戦海域からはなれなければならず、必然的に戦場を見ることが叶わなくなる。さりとて指揮を行うために戦場に近付くわけにもいかず、この矛盾を解くために導入されたのが艦娘装着の視点カメラと無人偵察機である。

 

 前者は戦場に立つ艦娘の視点からその様子をありのままに伝えられるし、後者はより安定した状況から俯瞰的な情報を手に入れられる。その無人偵察機の発着艦のために、艦娘母艦「硫黄島」には空母のような全通甲板がある。艦載用に改修されたトライトンはこの長い飛行甲板から飛び立つのだ。

 

 

 

 

「間も無く作戦海域に進入します」

 

 手首に巻き付けられた腕時計型携帯端末の画面が表示するGPS位置情報を見ながら赤城はインカムに声を吹き込んだ。旗艦は赤城であり、隊列の先頭を行く。後には加賀、木曾、曙、漣、潮の順で続く。

 

 

「了解。敵影なし。そのまま作戦海域に進入して下さい」

 

 母艦の男性オペレーターが応答した。彼もまた、無人機や視点カメラ、母艦のレーダーや赤外線センサーなどで戦場の状況を逐一観測し、状況を知らせてくれる。

 

 彼の言葉通り、見渡す限りの大海原には――雲を映して鉛のように重い色をしているし、波も少し荒いが――脅威となるような姿は見当たらない。だが、油断は出来なかった。ここはもう戦場なのだ。何も脅威は海の上に浮かんでいるだけではない。赤城は七駆に手早く対潜警戒の指示を出し、自身は端末の電探情報を注視する。

 

 ここ二週間ばかりの戦線は、はっきり言って軍の方が押され気味だった。敵はまるでボウフラのように無尽蔵に湧き出すし、それと比例するかのように航空戦力の脅威も増大していた。

 

 一方で全鎮守府の中で最大最強の航空戦力を持つ一航戦がしばらく戦線に出られなかったために、その代替として二航戦や五航戦が出っ張っていたが、いかんせん二航戦は搭載機数が不足しており、五航戦は新参で練度が十分ではない。

 

 無論、彼女たちの努力は無駄ではなく、なんとか戦線を押し留めるには十分に活躍している。ただ、それを維持出来るのも時間の問題で、これ以上増え続ける敵航空戦力を食い止めることは叶いそうもなかった。だからこその一航戦であり、赤城と加賀が弓を引いたなら、たちまちの内に敵空母を没せしめるだろう。

 

 本日の標的はまさにその敵空母である。敵戦力から、複数の正規空母“ヲ級”――それもグレードの高いエリートクラスないしフラグシップクラスが存在すると予想されていた。

 

「“金ぴかヲ級”が一杯なんて胸が熱くなるな」

 

 不意に無線に私語が乗せられて飛んで来た。声の主は木曾か。いつも強気で勇敢な彼女らしい軽口である。

 

「赤かろうが金ぴかだろうが、色無しだろうが、やることは変わんないわよ」

 

 木曾の軽口に不機嫌そうに返したのは曙だ。物事を難しく考え過ぎるきらいのある彼女だが、こういう時は単純明快な論理で行動するものだから、普段の姿はともかくとして、七駆の嚮導艦としてはこれ以上なく頼りになる。経験の浅い四駆ではこうはいかない。

 

「二人とも、私語を慎んで」

 

 曙より更に機嫌の悪そうな低い声が二人を窘めた。腹の虫が盲腸で悪さをしているかのようにむっつりとしているのは、言わずと知れた鎮守府の大御所様。加賀と呼ばれている。機嫌が悪いのは、昨日関係代名詞“what”の使い方が最後まで理解出来なかったからだ。

 

「加賀さんの言う通り。気を引き締めていきましょう」

 

 放っておいたら漣が乗り出して来てまた騒がしいことになる。そうなる前に赤城も釘を刺した。戦意が旺盛なのは結構なことだが、緊張感を欠いてはならない。「あー」と直後に聞こえた溜息は、乗り損ねた駆逐艦のものだった。

 

 作戦には大きな危険が伴う。それはいつもそうだが、今日のは殊更であった。

 

 まず、別の鎮守府から来た別働隊が敵空母の集結地点へ威力偵察を行う。接敵したら敵の戦力を計りつつ後方に退避し、一方別働隊の追撃に意識を割かれる敵空母部隊を一航戦が背後から奇襲するという手筈になっていた。

 

 この作戦を立てたのは上層部の連中で、赤城たちの提督レミリアはそれを二つ返事で了承したわけだが、果たしてそんなうまくいくだろうか? 戦場で計画通りに行く事柄など皆無に等しいのだ。

 

 嫌な予感はするものの、赤城は作戦通りに行動する。そろそろ艦載機を発艦させるタイミングだろう。

 

「別働隊が敵と交戦を開始した。一航戦は発艦準備を」

 

 オペレーターが状況を伝える。始まった。

 

「了解‼︎」

 

 赤城は鋭く返事をして、背負った矢筒から一本矢を取り出し、長弓に番えた。膝を軽く曲げ、重心を落として姿勢を安定させながら、四十五度の角度をつけて上空へ狙いを澄ました。

 

 全身の力を持って弓を引き絞る。ぎりぎりと弦がなり、弓全体が力を溜め入れてわずかに振動した。しかし、矢先は空のある一点を見据えたまま、まるでそれだけ固定されているかのように動かない。

 

 ふっ、と赤城は小さく息を吐き出した。同時に指を離す。

 

 空気が切り裂かれ、赤城の矢は一筋の閃光となり、弧を描いて鈍色の空へと放たれた。そして、コンマ数秒を置いて矢は光を放ち、何の魔法か、一瞬にして三機の飛行機に成る。

 

 大きな機体に特徴的な逆ガルウイング。流星改は赤城に背を向け飛び立った。その後ろ姿を見送らない内に赤城は次の矢を構え、再び空へと放つ。背後では加賀も同様の動作を繰り返していた。

 

 二人で合算六十機ほど空に打ち上げて弓を下ろした。

 

「第一次攻撃隊発艦完了。敵空母の位置情報を下さい」

 

 赤城がそう言うと、オペレーターが応答し、間も無く手元の端末に別働隊が探知した敵空母部隊の座標が転送されて来た。赤城は素早く、上空で円を描きながら待機していた自分の子供たちに指示を飛ばす。艦載機はひらりひらりと翼を返し、高度を上げて東の空へと舞い上がっていった。

 

 敵の座標を赤城は今一度確認する。現在地より東北東方向に数海里離れた場所だった。

 

 

 

 艦娘と深海棲艦の交戦距離は、主体が小さいので、実艦のそれとくらべて必然的に大幅に短くなっている。艦砲の射程距離は最大の46cm砲でも精々が五キロメートル程であるし、艦載機で空爆を仕掛けるにしても十キロが限度になる。海上なら空母同士の航空戦でも下手をしたら相手を見ながら戦えることになるわけで、今日の敵も互いに視認できる程度の距離に居ることだろう。赤城は水平線に目を凝らしたが、それらしい影は見当たらなかった。

 

 敵影を探すのを諦め、赤城はインカムから入って来る無線と情報端末が表示する戦況に神経を集中した。耳には戦場の緊迫した音声――別働隊の艦娘が少女にあるまじき口汚い言葉で敵を罵る声など――が次々と飛び込んで来ていた。どうやら彼女たちは相当苛烈な空襲に遭っているようで、轟沈艦こそ出ていないものの、開始数分で中・大破が続出し、早々に戦力を失ってしまったようであった。それを示すように、端末の画面は忙しなく更新され、電探が探知する敵味方の状況は目まぐるしく点が動いたり消えたりしていた。

 

「敵艦隊の情報は?」

 

 加賀がオペレーターに通信する。

 

「ヲ級フラグシップクラス1、同エリートクラス2、リ級エリート1、イ級2だ。戦艦はいないな」

 

「その程度の戦力なら楽勝だな。俺たちが出る幕もなさそうだ」

 

「慢心はいけませんよ」

 

 情報を聞いて笑う木曾を赤城は窘める。そう、慢心はいけない。何も敵がこれだけの戦力なはずがなかった。

 

「そうね。ここ最近の味方の被害を鑑みても、フラヲが一隻だけとは思えないわ。これは前哨戦に過ぎない」

 

「なら、さっさと捻り潰して次に行くとするか」

 

 加賀の言葉にも木曾は強気だ。彼女の良さはそこにあるのだが、時折こうした慢心とも油断ともとれる発言をするものだから、なるべく戦場では慎重に行動したい赤城の胸中をひやひやさせる。こういう時、金剛がいれば木曾もあまり調子に乗ったことを言わないのだが。

 

 生憎さま、その戦艦は本日非番であった。

 

 寄りにも寄って出撃の日に、というのは思わないでもないが、元より彼女は今日の非番を申請していたのだ。出撃が決定する前からである。その申請は受理されているし、だから今日彼女が休めるのは当然の権利であるし、むしろそうしなさいと金剛に言ったのはレミリアだった。

 

 金剛は自身の非番と出撃が重なったと知った時、非番の取り下げを口にしたのだがレミリアがそれを一蹴したのだ。金剛からすれば状況を見て起こした行動も、レミリアからすれば権利の侵害に映ったらしい。曰く、「貴女には休む権利がある」と。

 

 とにかく一悶着あった末、今日は金剛抜きでの出撃となった。もっとも、今回の主たる敵は空母であり、殴り合いを主任務とする戦艦が出る幕はあまりないだろう。赤城としても、金剛が居ないなら居ないで、その前提で作戦を立てればいいだけの話である。

 

 

「第一次攻撃隊が敵艦隊上空に到達。攻撃を開始します」

 

 攻撃隊を発艦させて守りが手薄になったところで、横合いからの空襲。防御の間に合わない敵艦隊に被害が続出する。赤城が見ている内に、端末画面から幾つかの敵反応が消失した。第一波の攻撃としてはまずまずの戦果だ。母艦をやられて慌てた敵の攻撃隊が、別働隊の上空から引き揚げていく。

 

「ありがとうございます! 助かりました!」

 

 別働隊の旗艦の声が聞こえて来て、赤城は口元に笑みを浮かべた。別働隊が釣り上げられたのは敵の哨戒部隊だけのようだが、轟沈艦が出なかったのならそれでいい。

 

「上々ね。敵の被害は甚大。もう一回行って止めを刺しましょう」

 

「ええ。第二次攻撃隊の発艦準備を開始します」

 

 加賀の提案に、赤城は応じ、再び弓を構えて矢を番えた。しかし、その矢が放たれることはなかった。

 

 

 

「待ちなさい」

 

 と、レミリアの制止があったからだ。彼女は母艦に乗って、トライトンやその他の手段によって情報を得て戦況を見ているわけである。

 

「提督、何でしょう」

 

「第二次攻撃隊は出さなくていいわ。あの敵はあのままに。空母も中破して戦闘力を失っているし、脅威にはならない」

 

 そう言うレミリアの言葉に、赤城は頭を捻った。

 

 確かに彼女に言うとおり敵艦隊はフラヲ中破、エリヲ二隻が轟沈していて航空戦力を失っているのだから、残して行っても背後を取られることはないだろう。ただし、それは今日だけの話で、損傷を受けた空母は海の底にあるという深海棲艦のねぐらに帰って傷を癒し、いずれ前線へ復帰するに違いない。事実、損傷を受けただけで沈まなかった同一個体が復帰するのは確認されていることであるし、だから今ここで叩いておけば後々の敵戦力を一つ削れるはずだった。

 

 けれど、レミリアは第二次攻撃を許可しない。戦力を出来るだけ温存しろと言っているのだ。

 

「確かに敵の本隊はまだですが、あれを潰せるくらいの余裕はありますよ」

 

「要らないわ」

 

 頑ななレミリアに若干の苛立ちを覚えるも、司令官の決定である。渋々弓矢を下げた。もしかしたら、彼女はもう何か掴んでいるのかもしれない。赤城は次の指示を彼女に仰いだ。

 

「では提督。このまま進撃でいいですね?」

 

「その前に。赤城、もっと下を警戒しなさい」

 

 下?

 

 赤城は視線を落とした。そこには、波打つ海面。空の色を映してか、いやに薄暗い色になっている。

 

 潜水艦ですか? 尋ねようとした赤城の言葉は潮の悲鳴のような、絶叫のような声に掻き消されてしまった。

 

 

「海中に異音です!! 魚雷じゃありませんッ!!」

 

 

 彼女がそう言い終わらないうちに、海面を突き破って赤い何かが飛び出して来た。バスケットボール大の赤黒く丸い物体。その一部は裂けるように口を開けていて、口の中には黄ばんだ人間のそれに似た前歯が並んでいた。

 

 物体には二つの目。赤い残光が尾を引く。

 

 敵の艦載機、それも新型の強力な奴だった。それが、赤城たちの足元の海中から湧き立つ泡ように無数に飛び出して来ていた。

 

 

 

 

****

 

 

 

 艦娘には月に四日、非番の日が与えられている。その日は出撃もなく、訓練もなく、どこで何をしていようと基本的に自由となっている。普段は特別な事情でもない限り鎮守府の門を出ることは出来ないが、非番の時は届け出さえ出しておけば外出も制限なしである。無論、門限はあるのだが、近場をうろつくにはさしたる問題ではなかった。

 

 大きな軍港である鎮守府の外は、軍都として栄えた港町がある。この街は陸地の三方を山に囲まれている天然の要衝であり、軍港の発展と共に栄えてきた街である。もっとも、現在では国の内情が安定しており陸側の防御は無意味なものとなっていて、かつては要塞が築かれていた街を囲う山の斜面も宅地開発で造成され、今では無数の住宅が軒を連ねている。

 

 本日非番の金剛は、適当に私服を合わせ、髪を結ってサングラスをかけた上で鎮守府を裏門からこっそりと出た。正門の方はやたら仰々しく、私服でそこから出るのは憚られるし、大通りに面しているので通行人も多く、あまり人に見られたくない金剛を始めとした艦娘たちは人通りの少ない裏門を好んで使っていた。

 

 ゆったりとした薄い生地のカットソーにくるぶし丈のデニムを合わせ、ショルダーバッグを提げて颯爽とヒールを鳴らしながら歩く金剛はどこから見てもお洒落で都会的な若い女性である。本当なら今日という日も海に出て巨砲を撃ち鳴らす戦艦娘であるとは、彼女とすれ違う通行人たちは想像すらしないだろう。服装を抜きにしても、派手な見た目の金剛は街を歩けば同性・異性問わず周囲の目を集めた。

 

 通りを歩いていても声を掛けられる頻度は明らかに並より多い。芋臭く地味な一航戦とは違い、衣服に金をかける金剛は一見すると若いセレブにも思えるからか、洋服屋で店員がすぐに高い商品を勧めてくる。その度に彼女は爽やかに店員を追い払い、じっくりと自分のセンスに任せて服を選ぶのが常だった。

 

 金剛のファッションセンスが洗練されているのは有名で、年下の艦娘たちがしばしば服選びの相談に来たりもする。お洒落な艦娘として名を馳せる金剛の元にはファッション誌の取材の申し入れもあったが、さすがに露出を控えたかったのでそれは断った。が、その話はどうやら他の鎮守府にまで伝わってしまったようで、先日なんか舞風が他所にいる姉妹艦の頼みで服選びの意見を聞きに来たくらいだった。

 

 必然、金剛は持っている私服の数も種類も多い。狭い寮室の小さなクローゼットは一杯だし、それでも間に合わないからベッドの下など、空いているスペースに衣装ケースを買って仕舞っているありさまだ。幸いにして一人部屋の彼女は誰にも気を使うことなく自室を占領することが出来ていた。

 

 そんな金剛だから非番の日は専ら給料を洋服屋で落とすばかりであったが、今日は行く先が駅前の商業ビルではなかった。鎮守府を出てから適当なところでタクシーを捕まえた金剛は、郊外の国道のバイパスへ向かうように運転手に指示した。

 

 この街には、地方都市の例に漏れず、郊外を片側二車線の大きなバイパスが走っている。道沿いにロードサイド型の様々な店舗が並ぶ街の大動脈で、比較的市街地の面積が狭いこの街では港からでも10分と掛らずに到達することが出来た。タクシーから降りた金剛は、立ち並ぶ店舗の内の一つに入って行く。

 

 そこは漫画喫茶である。中に入って席を取ると、ドリンクバーでコップに並々とコーラを注ぎ、漫画の棚には見向きもせずに指定のブースに入ってパソコンを立ち上げる。目的はそう、インターネットだった。

 

 基本的に、艦娘に私物でのインターネット利用は認められていない。パソコンや携帯で気軽にネットに接続出来るようになったところで、軍としては情報漏えいのリスクが高まるばかりであるから、防諜の観点から、艦娘は携帯の所持禁止・パソコンはオフラインの物のみ、という厳しい規制がかけられていた。携帯の代わりとしてPHSが支給されているから緊急連絡はそれで事足りる。オフラインのパソコンなど持っていてもしょうがないので、必然的に艦娘の私物に情報端末はないことが多い。

 

 そこで艦娘たちがインターネットを使うには、赤城のように仕事上必要である以外には、こうした外部の端末を利用するしかない。特に、こっそりと調べ物をするには、プライバシーの守られた個室で時間を気にせずパソコンを動かせ、履歴も残らないこの漫画喫茶はまさに最適の選択であった。

 

 早速インターネットで検索エンジンにいくつかの単語を放り込む。そして、結果ページに出てきたサイトを片っ端からクリックして中身をチェックしていった。

 

 金剛は眉を顰める。どうにも、思ったようなサイトが出て来ない。ほとんどが根拠の定かではない陰謀論や都市伝説の類を取り扱ったサイトで、金剛の求めるような情報は書かれていない。さらに単語を投入し、検索範囲を絞っていくが、結果は満足いくものではなかった。

 

 日本語ではこれが限界か。そう思った金剛は半角キーを押し、アルファベットを打ち込む。世界で最もポピュラーなアメリカ生まれの検索エンジンなら、英語のサイトの方が登録数は多かった。徐々に単語を増やし、先程と同様に結果を絞っていく。

 

 あった。

 

 あるサイトにたどり着いた時、金剛は思わず口元を釣り上げた。世界中から情報を拾い上げられるインターネットならではである。こんなローカルでマイナーな情報が見つかるのは。

 

 金剛は鞄からメモ帳とペンを取り出し、そのサイトに書いてあることを要約する。その内容は、概ね金剛が予想していた通りだった。最後にサイトのURLを写して金剛はメモ帳を仕舞い、それからようやくパソコンの画面右下に表示されている時刻に目をやった。

 

 もう一時過ぎだった。そんなに時間が経っていたのかと驚く。どうやら相当調べ物に没頭していたらしい。時間に気が付くと、思い出したように胃袋が空腹を訴え始めた。

 

 この漫画喫茶のいいところは、ブースのパソコンからちょっとした食事も注文できるところである。味はお世辞にも、といったところだが、胃袋を諫めるにはちょうどいい。軽食を注文した金剛は、待っている間に少しでも空腹を紛らわせようと、行き掛けにコップに注いだまま手を付けていなかったコーラを喉に流し込んだ。もうすっかり炭酸が抜けて温くなってしまっていた。

 

 半分ほど飲んで、再び金剛はキーボードに手をやる。欲しい情報は大体手に入れたが、もう少し調べ物を継続しようと思ったのだ。

 

 代わりに開いたのは、自らの軍のホームページ。軍の関係者が自軍のサイトを見るのにわざわざ基地を出て外部の端末からアクセスしないといけないというのもおかしな話だが、決まりである以上はしょうがない。

 

 軍のサイトからはさらに日本各地にある鎮守府の公式ページに飛べるリンクが張ってあった。適当に軍のページを漁ってから金剛は自分の鎮守府のページに飛んだ。

 

 間もなく、金剛の手が止まる。パソコンの画面にはうっすらと目を見開く自分の顔が反射している。もう一度メモ帳とペンを取り出し、震えの治まらない手で画面に表示されている文字を、文章を、一字一句余すことなく書き写して行く。

 

 

 そう、ちょうど書き終えた時だった。

 

 持ち出してきた緊急連絡用のPHSが震えた。

 

 何事かと、慌てて懐から出せば、簡素なメール――あるいはやや古風な言葉を使って「電報」と表現してもいい――が画面に表示されている。

 

『キンキュウジタイハッセイ。シキュウキチニモドレ』

 

「リョウカイ」と金剛は返信を素早く打つと、書き終えたメモ帳を仕舞い、慌ただしくパソコンを切ってブースを出た。今し方目にした信じ難い情報は頭の奥にとりあえず片付けておく。それどころではなくなったからだ。

 

 

 不吉な予感がした。このメールが来るということは、出撃した部隊に何かが起こったということだ。

 

 仮にもベテラン揃いなのだから大丈夫なはず、などという安直な楽観論を金剛は持たない。戦場ではベテランですらあっけなく死ぬのだから、そうした油断や慢心はご法度である。まして、今日の敵は強力な機動艦隊だと聞いている。あの一航戦ですら万に一つの敗北を喫してもおかしくはない。

 

 何時間で行けるだろうか。鎮守府に戻って艤装を身につけ、それからヘリで出撃。一旦母艦に着艦して、そこで補給し、海に出る。作戦海域までの距離を思い出し、金剛はカウンターで会計を済ませながら交戦開始までの時間を逆算した。

 

 

 

 

****

 

 

 

 敵の呼称は「深海棲艦」というのだから、海に潜れるのは当然の話で、噂では海底の巣から生まれてやって来るのだという。しかし、奴らは普段(潜水艦を除いて)海上に姿を現し、海の上で襲撃を掛けて来るのだから、あまりその噂を気にする者はいない。実際には深海棲艦についての研究というのは日本のみならず世界中で行われているという話だが、耳にするのは話ばかりで肝心の成果の方はまるっきり聞かない。つまりはそういうことで、深海棲艦の生態などほとんど分かっていないのである。

 

 

 だから、百戦錬磨のベテラン揃いであっても、よもや海中から敵の艦載機が飛び出して来るなど予想だにしなかった。

 

 

 

 完全に不意を突かれた形の赤城たちは瞬く間に被弾してしまった。赤城自身は何とか小破の損害で踏み止まることが出来たが、さっと周りに目を走らせれば隊の被害状況は思った以上に深刻だということが分かった。

 

 中破が二人。漣と、加賀だ。不意打ちを避け切れなかった。第一撃で狙われなかった木曾と曙、直前に敵の奇襲を察知した潮とレミリアの警告で足元に注意を向けていた赤城は何とか躱せたが、漣と加賀は無警戒のところをやられてしまったのだ。

 

 まずいことになった。赤城は奥歯を噛みしめる。

 

 海中から飛び出してきた敵機は藪蚊のように艦娘の周りにまとわりつき、執拗にその牙を向けて来る。それを追い払うので赤城は手一杯だった。矢を射る暇などなく、弓を振り回しながら追い立てられるようにその場をぐるぐると回る。艦隊はばらけ、三々五々に分裂してしまう。

 

 手には矢筒から抜き出した“艦戦”の矢が三本。せめて、これを番える一瞬の隙さえあれば、それさえ出来れば状況を打開することが出来るのだ。このままでは一方的に嬲られるだけで、その内全滅だろう。敵は至近距離で撃墜のリスクを負って攻撃を仕掛け、一方で奇襲することで艦載機を発艦させずに制空権を握ることに成功した。

 

 もっと頭の悪い連中だと思っていた。まさか、こんな計算された戦術で挑んで来るとは。

 

 己の慢心と油断に赤城の奥歯に力が加わる。長らくデスクワークに偏重しすぎて海に出る機会を減らしていたのが災いしたのかもしれない。奇襲は勘付けさせないからこそ奇襲と言うのだが、それをみすみす許しているようでは栄えある第一航空戦隊の名前に傷が付く。

 

 不名誉は返上しなければならない。

 

 

 一瞬だ。一瞬でも隙さえあれば……。

 

 

「潮! 全力でピンを鳴らしなさい!」

 

 

 その時叫んだのは曙だった。第七駆逐隊は、曙と漣が対空砲と爆雷を装備し、唯一潮だけがソナーと爆雷の対潜装備のみの装備だった。曙の言う「ピン」とはアクティブソーナーの出す音波のこと。これが水中の物体に反射して返って来ることでその物体がどこにあるかを探知する。アクティブソーナーはそのための装置だ。ただし、それにはもう一つ別の使い方があった。

 

「はい!」

 

 瞬時に曙の意図を理解した潮。次にはピイインと甲高い音が海面から空気中に伝わり、赤城の耳にまで届いた。最大出力のエコー。強烈な音波は、未だ水中に居た敵の艦載機の動きを止めるのに十分な威力を発揮した。

 

 水中では可視光線は屈折し、電波は吸収されてしまう。一方で音波は空気中にあるよりも三倍も速く伝達する。もし深海棲艦が海底を住処とするのなら、奴らは音に頼る以外に漆黒の深海で周囲を知る術を持たないはずだ。必然、赤城たちの居場所も音を辿ることで突き止めたのだろう。 

 

 ならば、その聴覚を一時的にでも麻痺させてしまえば隙が出来る。赤城にとって幸運だったのは、敵空母本体も水中に居たようで、本体が音響により怯んだことが海上で飛び交っていた敵機の動きに影響した。

 

 深海の空母と艦載機の繋がりというのは、空母娘と艦載機のそれよりも遥かに強い。基本的に中破状態になれば艦載機の扱いが出来なくなるのは両者共にだが、敵機の機動は母艦が損傷を受けた時にかなりの影響を受ける。ヲ級が轟沈した時、無傷だったその艦載機が瞬時に全滅するなどよく見られる光景で、だからこそたった一回の聴覚への攻撃が反撃への狼煙となる。

 

 一瞬生まれた敵機の隙。狙いが外れ、機動が乱れる。時間にして一秒足らずの短い間だけだったが、赤城にはそれで充分だった。

 

 矢が、空を切る。鋭く打ち出された三機の烈風。赤城の目の前で矢は飛行機に姿を変え、手近にいた球状の敵機に容赦なく弾幕を浴びせ掛ける。赤城はまた三本の矢を番え、弓を引いた。

 

 速射。速射。速射。

 

 後輩の空母から「マシンガンのよう」と評された早打ち。赤城の得意技であり、彼女の全艦載機八十二機をたったの一分で全展開出来る、他者の追随を許さない高速発艦。空戦が始まり艦娘への攻撃がおぼつかなくなった敵機の隙に乗じて、赤城は残っていた艦戦を全て射ち尽くした。

 

 彼女の周囲に居た敵機から撃墜し、徐々に包囲の輪を押し広げるように制空権を奪回していく。敵は完全に浮き足立っていて、強力な新型艦載機といえど一航戦赤城の相手ではなかった。

 

「ピンが効いたわ! やっぱり敵本体も海中に居るわね」

 

 自慢げな曙の声が耳元のインカムから入って来る。

 

「あら。じゃあ、爆雷で挨拶をお返ししましょう」

 

 それに答えるようにのんびりとした、優雅で余裕たっぷりな提督の声が届く。この前代未聞の敵襲の下にあっても悠然と構えていられるというのは、果たして大物なのかうつけ者なのか。

 

「分かってるわよ!!」

 

 レミリアに対し曙は乱暴に怒鳴り返す。ほぼ完璧に決まった敵の奇襲にわずかな綻びが生じた。その綻びに指を引っ掛けて力づくで引き裂くように、赤城は艦載機という名の暴力を振り回す。そうして出来る余裕は味方にわずかながらのチャンスを与えた。

 

「取舵一杯!」

 

 赤城が号令を出すと同時に曙が潮と共に背負った背部艤装の下から爆雷を投下する。小型バッテリーと煙突型の煙幕展開装置が一体となった背部艤装には、爆雷投射機を外付けされており、そこから近接信管によって自動的に敵艦を探知し爆発する爆雷がぼとぼとと海面に落ちていった。デフォルトでも駆逐艦の艤装には爆雷が付いているが、外付け装備なら弾数を増加させることで対潜能力を数倍にも高められる。

 

 艦隊が左へ旋回。爆雷の範囲から急いで離れる。爆雷の大きさは手榴弾よりも小さいが、深海棲艦を撃破するには十分な威力を持っていた。間もなく、くぐもった音が連続して海面がぼこぼこと盛り上がる。その音が響く度、飛び回っていた深海艦載機が動きを鈍くする。頭上を飛び交っていた敵の銃撃が一瞬止んだ。

 

「気泡の音……敵艦が浮上して来ます!」

 

 潮が叫んだ。どうやらやられた敵空母が姿を現すらしい。水上で決戦する気か。

 

 好都合だ。赤城はほくそ笑み、真上に今度は艦爆を展開する。これで浮き上がった敵を叩くのだ。

 

「全艦、構えて!!」

 

 マイクを叩き割らんほどの声量で怒鳴り、赤城はさらに艦攻の矢を番える。少し離れた目の前の海が泡立っていて、そこから次の瞬間には敵が飛び出してきた。

 

 派手な水しぶきが上がる。白い飛沫が飛び散り赤城たちの視界を遮る中、彼女は確かにそれを見た。間違いなく、それは青い残光だった。

 

「フラグシップ改!!」

 

 金色のオーラを纏うフラグシップクラスの中でも頭一つ飛び抜けて強力な個体。己が持つ別格の強さを示すようにその目は青い光を放っている。現在確認されているフラグシップ改は戦艦と空母。その内、今目の前に現れたのは空母の方だった。

 

 なるほど、これが敵の本隊か。

 

「“青い”ヲ級か!? 注意しろ! 他にも随伴でフラグシップがいるはずだ」

 

 落ち着いていたオペレーターの声に初めて動揺の色が見える。さすがに彼も、フラグシップ改の登場は予見していなかったらしい。しかし、赤城の方はまるで動じていなかった。

 

 水しぶきが重力に引かれて海面に落ちていき、波間に無数の雨粒となって降り注ぐ。敵空母は随分と憎々しげにこちらを睨んでいた。

 

 人間のようでいて、血の気がない青白い肌。海水に濡れているからか、あるいは粘膜のようなもので覆われているのか、てかてかとした光沢があった。それを除けば、目の前の“彼女”の顔立ちは整っていて、なるほどなかなかの美人だと変な感想を抱いた。それが、ありったけの憎悪を持って睨んで来るものだから、気の弱い者が見れば失神してしまうくらい恐ろしい形相になっている。

 

 彼女は触手の生えた黒くてグロテスクな形をした奇妙な帽子を被っている。それがヲ級の特徴であり、頭の数倍の大きさのそれには口が付いていて、その口から艦載機を文字通り吐き出すのだ。それが彼女たちの「発艦」であり、つまるところ帽子は飛行甲板の役割を担っているわけだった。すなわち、その帽子を破壊すればヲ級は戦闘力を失うので、それには頭上から爆撃するのが一番効果的だった。

 

 それ故の艦爆である。彼女が姿を見せた途端、そこに無数の爆弾が降って来た。

 

 水しぶきが収まったと思ったら今度は巨大な水柱がフラグシップ改ヲ級を襲う。

 

「私がフラグシップ改を相手にします。木曾たちは随伴を叩いて!」

 

 フラグシップ改は敵艦隊の旗艦らしい。彼女の背後にももう一隻フラグシップヲ級が姿を見せ、さらに随伴の重巡や駆逐艦も現れる。木曾と曙は赤城が言い終わる前に、とっくに装填していた主砲の引き金を引いていた。彼女たちに艦載機の加護を付けられないが、幸いにして随伴の空母の帽子は大きく抉れていた。

 

 損傷の度合いは中破くらいだろう。先程の爆雷攻撃が功を奏したようだ。空母が無力化されているなら、後はあの三人で始末出来る。だからこそ、目の前の敵の撃破が総てを決するのだ。

 

 彼の姿を視界の端に移し、赤城は新たに艦攻を放つ。水柱が収まれば、未だ健在な彼女が再び姿を見せた。

 

 あれほどの攻撃で、小破の損害に収まったらしい。フラグシップ改はその攻撃力もさながら、耐久力も他とは一線を画する。一撃で中破に追い込むには相当上手く当てないといけない。

 

 ただし、敵だって一方的にやられているばかりではない。ヲ級は手に持った杖を振り上げ、残った艦載機に指示を送る。

 

 やるかやられるかだ。フラグシップ改の攻撃をまともに受ければ、最悪轟沈する。運が良くても大破は確実。今の状況で赤城が倒されるのは、艦隊が全滅するのと同義だった。

 

 敵は左旋回で大きく進路を変えた赤城たちを追いかけて来た。同航戦だ。

 

 番えたままの艦攻を放って牽制を行う。

 

 

 頭を回せ。

 

 敵の数と脅威度。味方の戦闘力。温存している手持ちの残存数。敵機の残存数。先に出した第一次攻撃隊の到着時間。

 

 瞬時の計算の後、赤城は背後を振り返る。

 

 

「加賀さん、貰います!」

 

 

 旗艦の赤城に続く二番艦は中破した僚艦。彼女は飛行甲板と弓、それに片腕に損傷を負って戦闘能力を喪失していた。が、その矢筒は無傷であり、中には相当数の矢がまだ残っていた。

 

 敵と対峙するにあたって、赤城は自分の残りの手持ちでは数が不足することを悟っていた。バチバチと頭の中で何かが弾ける感覚が絶え間なく続いている。それはすなわち、絶え間なく空戦によって赤城の艦載機が撃墜されているということだ。護衛の艦戦の消耗が激しく、さらに艦攻や艦爆にも被害が拡大していて、敵機も相当数撃墜しているであろうが、このままでは赤城の方が数に押されて負けてしまうのは明らかだった。

 

 加えて、第一次攻撃隊が戻って来るのはもうすぐだが、このまままともにフラグシップ改と戦い続ければそれまでの短い間に勝負が付くだろう。無様に焼け焦げて海面に浮かぶ自分の姿が思い浮かんだ。

 

 ならば、手持ちを増やせばいい。空母と空母の戦いは数の勝負であり、より多数の艦載機を投入出来た方が勝つ。先程、加賀の矢筒が無傷であることは確認していた。加えて、他の空母の手持ちを扱うことに何の障害も存在しない。艦載機はあくまで艦載機であり、それ自体は空母に従属するユニットではなく独立したものである。空母と艦載機を繋ぐのは「矢を射る」あるいはその他の方法で“発艦”させるというプロセスを経ることであり、他人の艦載機でも、自分が発艦させれば自分の艦載機として扱えるのだ。

 

 ただし、それも無制限に行えるというわけではない。

 

 以心伝心と言うにふさわしい。瞬時に赤城の意図を悟った加賀が矢筒を思いっきり投げて渡した。これが出来るということは、戦況を見て加賀も同じ判断にたどり着いたのだろう。長年行動を共にしてきた故の連携だ。

 

 飛んで来たそれの肩紐に腕を通して引っ掛ける。急いで無造作に矢を引っ張り出し数本まとめて番えて射出した赤城だが、直後に頭の奥で疼くような痛みに襲われた。

 

 そろそろ、限界か……。

 

 既に赤城の展開している艦載機の数は先に出した第一次攻撃隊も含めて七十を超えている。空母が同時に展開出来る艦載機数は最大搭載機数と同じであるが、その値に近付けばこのように頭痛が現れる。それは多数の艦載機と意識を繋ぐことが脳に大きな負担を与えているからだ。ましてや自分の最大搭載機数を、すなわち限度を超えた数を展開すれば、その内頭痛が酷くなって戦いどころではなくなる。下手をすれば脳が焼き切れてしまう。

 

 艦載機を出し過ぎて脳死したなどという話は聞かないが、赤城も自分がどこまで展開出来るのかは分からない。というより、試したこともない。

 

 どの道、頭痛を抱えた状態では判断力も鈍るし長くは戦えない。一気に展開して、一気に叩く。時間との勝負だった。

 

 それでも赤城は手を止めない。さらに矢を放つ。頭痛が酷くなる。頭が割れそうなくらいに悪化する。

 

 

 顔が歪んだのを自覚した。

 

 無茶なのは分かっている。だが、やらねばならない。命が掛っているのだ。

 

 頭痛に襲われる中で、しかしそれでも赤城は状況を見極める。千載一遇のチャンス。これを逃せば勝利どころか生還さえ難しくなる。殺るか殺られるかの瀬戸際だった。

 

「取舵四十度!!」

 

 赤城は絶叫する。同時に舵を切り、白波を立てて左方向へ転回した。

 

 敵艦隊の頭を押さえるように、その進路上へ体を投げ出す。

 

 敵は水中から出て来たのだ。急速浮上で姿を現した潜水艦のようなもの。一方で、赤城たちの艦隊は元より艦載機扱いのために高速航行中だった。敵も機動部隊であるから足は速いが、水中からの奇襲という手を選んだからこそ、その足の速さを自ら殺してしまっている。つまり、現状で彼我の間にはかなりの速度差があった。

 

 ようやく加速し始めた敵艦隊と、最大戦速で同航戦を展開する味方。当然前に出るのは赤城たちであり、だからこそ敵の目の前で旋回し、その頭を押さえるように動くことが出来る。

 

 丁字有利。艦隊決戦においては理想的な交戦形態。逆に不利となる敵艦隊は、旗艦のみが正面に火力を投射出来るが、随伴艦は前が邪魔で撃てなくなる。つまりは、ほぼ一方的に撃ち込める状態だった。

 

 もちろんそれは空母である赤城にはさほど関係ないが、後ろには立派な主砲を携えた随伴艦が続いている。

 

 そして、チャンスをふいにする彼女たちではない。

 

「左砲戦! 魚雷戦! 目標、敵旗艦!!」

 

 曙の怒号が響く。小口径・中口径艦砲では堅牢なフラグシップ改には有効打を与えられないけれど、そうはいっても丁子有利で火力を旗艦に集中出来るのだ。フラグシップ改の集中を乱すには十分であり、そもそも本命はそれではない。

 

 

 

 上空では翼と翼がぶつかり合っていた。見上げた赤城は空戦が自分優位であることを知る。数に押される敵機が次々と海面に小さな水柱を立てていった。お陰で一機もこちらには到達していない。完全に敵の攻撃を食い止めていた。数の劣勢は覆すことが出来ていた。

 

 

 大丈夫、勝てる。そう言い聞かせ、さらなる発艦を行った。

 

 

 それは零戦でも烈風でもない。それまで温存していた赤城が誇る、最高練度のパイロットたち。壁のような弾幕を突き破り、戦艦棲姫の岩の如き装甲すらも打ち砕いて見せた最強の牙。他とは一線を画した小さな猛禽類が大空に翼を広げた。

 

 

 

天山十二型――村田隊。

 

 

 

「う……」

 

 思わず、呻いた。頭蓋骨を何度もハンマーで叩かれているような激烈な痛み。視界は白くなって、平衡感覚が薄まる。自分が立っているのか、一瞬分からなくなった。それでも、赤城は視線を決して逸らさない。

 

 額を手で押さえながら、震えながらも立ち続け、霧が掛ったような視界の中で、その中心に青い光を据え置く。それが、紅蓮の爆炎の中に包まれるまで敵を睨み続けていた。

 

 

「敵旗艦撃沈!」

 

 

 オペレーターの声と同時に赤城は気を失った。それ以上の記憶はなかった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督9 A Mad Tea-Party

今回はいつもと逆。


 

 

 

 カンカン、と鉄の扉がノックされた。木製の物とは違う音の響き方に加賀は最初それがノックだとは気付かず何の反応もしないままでいると、もう一度カンカンと音がしたので、ようやく扉の向こうで誰かが合図を出しているのだと理解した。

 

「はい」

 

 ノックの音が分からないほど呆けていたのかと自覚しながら返事をすると、扉が重そうに開く。開けたのは提督だった。

 

 艦娘母艦「硫黄島」の士官室の広さは四畳程で、その内の四半を二段ベッドが占めている上、天井や壁には細いパイプが何本も這い回っているので思った以上に狭い。ましてやその空間に三人も入るとなると息が詰まりそうになるが、幸いにして一人はベッドに横たわったままで、新たに入って来た一人はとても背が低い。そのせいか、加賀は提督が入室してもそれほど窮屈になったとは感じなかった。

 

「お疲れ様ね」

 

 レミリアはそんな挨拶をした。寝ている赤城に気を遣って優しく囁くように発音された言葉に、加賀は彼女が本当に労わってくれているのだと悟った。

 

「お疲れ様です」

 

 加賀は赤城が眠る下の段のベッドに腰掛けていたのを立ち上がり、深く頭を下げた。それでもレミリア相手では加賀の頭は彼女の頭より低い位置には下がらない。

 

「具合はどうかしら?」

 

「少し、良くはなっているみたいです。先程よりも寝息は安定しています」

 

「そう。貴女はどう?」

 

「問題ありません」

 

 それは良かったわ。レミリアは微笑んだ。

 

 先の海戦で、加賀は中破し、赤城は艦載機の展開し過ぎで気絶した。母艦に戻った彼女たちは直ぐに修復材で損傷を癒せたのだが、赤城は目を覚まさなかった。海上で気を失って以来、未だに昏々と眠り続けている。

 

「脳に深刻なダメージを負っているおそれがあると聞いたけど」

 

「十分考えられることです。私たち空母は艦載機と意識が繋がっていますから、あまりに多くを展開し過ぎると脳が焼き切れてしまってもおかしくありません」

 

 レミリアの問い掛けに、加賀は淡々とした口調で応える。それはいつも通りの加賀に見えたかもしれない。少なくとも、表情を含め外見はいつも通りだから。

 

 赤城は、加賀にとって唯一心の底まで打ち明けられる相手だ。誰よりも気を許せる相手だ。「信頼」という言葉では語り尽くせず、「絆」という言葉でも物足りない。自分と赤城の関係というのはそういう言葉では言い尽くせないものだと加賀は捉えていたし、だからといってあえて言語化するつもりもなかった。

 

 その唯一無二の戦友が目を覚まさないのだ。鎮守府に戻ったら「脳死」という残酷な診断を下されるかもしれない状態なのだ。気が狂いそうだった。

 

 それでも加賀が落ち着いて見えるのは単に感情の発露が苦手なだけで、いつもはそのせいで誤解を受けることが多々あるものの、今日ばかりは自分のその性質に感謝した。そうでなければ、今頃叫び、泣き狂ってみっともない姿を晒していたかもしれない。

 

 不安で不安で仕方がなかった。恐ろしくて堪らない。だから、レミリアが来てくれた時、加賀は心底安堵した。

 

 一人で居るのは怖かったし、けれども赤城を看ていなければならない。一緒に居てくれる誰かが居るだけで加賀の心はずいぶんと和らいだ。

 

「難儀ね」

 

 レミリアは小さく頷き、ベッドに腰を掛けた。そして、ゆっくりとした手つきで眠る赤城の髪を撫でる。何度も何度も手を往復させ、レミリアはしばらくその動作を繰り返す。

 

 加賀は立ったままその様子を見下ろしていた。上官が部下をこんな風に慈しむという光景は殺伐とした軍隊の中では見られない珍しいものだったし、何よりも見とれていた。

 

 母親が我が子を愛でるような、あるいは天使が赤子を祝福するような、そこには慈愛と祈りが込められているような、そんな気がしたのだ。

 

 

 自分の体から、何かが剥がれ落ちていく。錆ついて、冷え切った物がボロボロと毀れていく。

 

 それは長く軍隊に身を置いてきた加賀がいつの間にか身に纏った物。

 

 戦場に慈悲はなく、肩を並べる戦友との間にあるのは生死を共にすることへの一体感であって、鎮守府で仲間と共に騒いで癒されることはあっても、どこかで加賀はずっと緊張の中に身を置いてきた。敵はいつ襲ってくるか分からず、故に多少は許されても、完全に弛緩しきることはない。そうやっていつも気を張っていたからか、いつの間にか加賀は心に装甲を張り付けるようになっていた。

 

 ましてや、今は唯一無二の赤城が目を覚まさない。言い知れぬ不安と孤独感に、加賀はますます身を強張らせていたのだ。

 

 それが今、剥がれ落ちていく。レミリアの見せる母性に、優しさに、心が洗われるようだった。冷え切った硬い装甲を剥がした後に姿を見せるのは、柔らかく温かな加賀そのもの。いつも暗い中に押し込められていた感情が、抑えが外れて溢れ出す。

 

 

 気付けば頬を伝う感触。嗚咽を上げることなく、加賀は静かに泣いた。

 

 このまま、赤城が目を覚ましてくれればいいと、切に祈る。

 

 祈る相手は、果たして八百万の神か、あるいは目の前の小さな背中なのか、どっちかは分からなかったけれども。

 

 

 

 

****

 

 

 

 赤。赤。赤。

 

 周囲は全て赤だった。目に映る何もかもが赤色、あるいは紅色をしている。

 

 床も、天井も、壁も、壁際に置かれた小さなテーブルも、その上に花瓶も、花瓶に活けられたバラも、バラの茎さえも。すべてが赤もしくは紅色だった。

 

 頭が痛くなる。これほど同じ色ばかり見つめていては、あまりの異常性に脳の認識が追いつかなくなって頭痛が生まれるらしい。そういうこともあるんだと赤城は初めて知った。そんな知識を得るなんて思いも寄らなかったし、得たいとも思わなかった。ついでに、そう言えば自分も名前に「赤」という字が付くと、どうでもいいことに気付いた。

 

 赤色以外の認識をしよう。赤城が今立っているのは、赤い床にさらに赤いカーペットが敷かれた大きな廊下で、奥はずーと続いている。正直、周り全てが赤色なので廊下がどこまで続いているのか遠近が分からなかった。

 

 廊下の材質は、どうやら石のようだが、ペンキで塗った感じではなく、どうやって着色したのか分からないが、とにかく赤かった。試しにしゃがんでカーペットに覆われていない床に触れてみれば、冷たく硬い感触が指を押し返した。やっぱり石のようだ。綺麗に研磨されていて、若干の光沢を有している。

 

 明りは壁の上の方に取り付けられて一定間隔で並んでいる蝋燭の灯で、その蝋燭はこの建物の空間全体が洋風(色を除けば)の造りに反して、これまた赤い和蝋燭だった。それらを支える燭台は銅で出来ているようで、当然の如く赤みを帯びている。

 

 異様な赤一色を除けば、確かにここは西洋の城や宮殿の中のように思えたが、壁に額縁が飾られているわけでもなく、申し訳程度に生け花があるだけで、酷く殺風景だった。それにもう一つおかしなところがある。

 

 この廊下には、窓がない。

 

 廊下の片面の壁には一定間隔で扉が並んでいるのだが(木製のもちろん赤色である)、一方で窓は全くなかった。あまりにも赤色に空間が覆い尽くされていて赤城の目はいい加減疲れてきたので、外でも見て目を休めようと思ったのだが、窓がないことには外を見れない。あるいは、ここは地下なのだろうか。

 

 取り敢えずいつまでも同じところに留まっていてもしょうがないので、赤城は近くにあった扉を開ける。

 

 中は、廊下と同じく赤一色の部屋で、何も置かれていないがらんどうの空間だった。無論、窓もない。

 

 息が詰まりそうだった。赤城は隣の扉を開ける。そこもまた、先程と同じく、というよりそっくりそのままな部屋だった。

 

 

 何なんだ、ここは。

 

 背後を振り返っても延々と赤い廊下が続いている。異様な空間に一人放り出されて怖くなった赤城は走り出した。 

 

 とにかく外に出たい。どこかに窓でもあればそこから飛び出せるのに。けれど、どれほど走ってもまるで進んだ気がしなかった。

 

 一様に並ぶ扉。一様に据え付けられている燭台。一様に置かれている生け花。その全てが赤い。血のような、底なしの赤色。どろりとしてまとわりついてくるような色合い。

 

 しかも、走っても走っても響くのは自分の足音ばかり。誰もいない。気配もしない。

 

 何でもいい。赤以外の色が見たかった。黒でも、白でも、青でも。

 

 

 と、初めて赤城の視界に変化が現れる。彼女は足に力を込めて加速した。

 

 飛び出たのは巨大な空間。それは、大ホールだった。

 

 相も変わらず赤色ばかりだったが、造りはそれまでの廊下とは違っている。天井は廊下のそれより数倍高く、恐らくは吹き抜けになっているのだろう。その中心には山のように巨大なシャンデリア。

 

 ホールは円形であり、壁は優雅に弧を描いている。その壁に沿うように左右対称の階段が上っていて、その先は二階への廊下へと繋がっている。西洋建築によく見られるエントランスホールだった。

 

 ならば、と赤城は階段とは逆の方向を見る。

 

 そこには一際大きな扉。床との間に僅かな隙間が出来ているのか、そこから白い光が漏れ出していた。

 

 この巨大な館のような建物の中に来て初めて目にした赤以外の色。しかもその先はどうやら陽光降り注ぐ外のようなのだ。赤城は喜び狂って扉を思いきり開放した。

 

 

 

 それは、重厚そうな見た目とは裏腹にすんなりと開いた。

 

 刹那、白い光の洪水が溢れて来る。あまりの眩しさに思わず腕で目を覆った。同時にその光は多量の熱を帯びていて、ほんの僅かな間であるが、赤城は自分の身がその光に焼かれているような錯覚を覚えた。

 

 もちろん、錯覚は錯覚だ。目も、薄暗い空間から突然飛び出したから光量の調整が間に合わなかっただけだ。光に慣れると、まず視界に入ったのは赤茶けた煉瓦の道。やはりここでも赤色がある。けれど、他の色も存在していた。

 

 煉瓦の道の両脇には人の背丈より高い生垣が並んでいる。濃い緑色の生け垣はきちんと枝が整えられていて四角くそびえていた。そのせいであまり視界は広くないが、生垣の下から僅かに覗く地面もちゃんと土色をしていた。頭上を見上げれば、透き通るような青空。さあっと暑さの和らいだ風が吹き抜け、赤城の黒い長髪を揺らす。

 

 明らかに人の手で造られた庭園。このまま進めば誰かに会えるだろうか。少なくとも水場が近くにあるようで、どこからともなく水の音が聞こえて来る。

 

 赤城は歩き始めた。日の光を堪能するように。もう何年も太陽の下に出ていないかのような気がして、久々の日光浴に歓喜する。

 

 

 煉瓦の道は真っ直ぐではなく、緩いカーブを描いていた。少し進むと噴水に突き当たる。そこは左右から道が接続する交差点で、やはり視界を制限するように高い生垣が並んでいる。

 

 少し疲れを感じた赤城は噴水の淵に腰を掛け、しばし水音に耳を休ませた。

 

 爽やかな音を浴びていると心が安らいだ。思考に余裕が出来て、赤城は今の自分の境遇について考え始める。

 

 

 ここはどこだろうか。生垣の間からは、先程まで自分が居た真っ赤な館の威容が覗く。中から見ると窓がなかったが、外からは外壁に窓枠が付いているのが見えた。恐らくは飾り窓だろう。日の光の中でも、尚赤より紅いその館は異様そのものだった。

 

 不思議な空間である。高い生垣の続いているこの庭もそうだ。何もかもが縮尺を間違えたかのように大きい。あるいは自分が小さくなったのか。不思議の国に迷い込んで、大きくなったり小さくなったりしたのは誰だっただろう?

 

――アリス。そう、アリスだ。昔に読んだことがある。

 

 赤城は特別読書家といわけではないのでさほど小説など読んだことはないのだが、「不思議な国のアリス」は記憶に残っている数少ない話の一つだった。まだ姉が居た頃、赤城とは対照的に本読みだった彼女に勧められたのである。

 

 いかせん月日が経ち過ぎていてあまり詳細までは覚えていないが、こんな広くて大きい庭園ではトランプたちがクリケットに興じていそうだった。どこからともなく歓声が聞こえて来て……。ほら、人の声が聞こえる。

 

おや、と赤城は首を上げた。

 

 間近の噴水の音にまぎれて気付かなかったが、確かに誰かが話す声が聞こえて来る。それも複数あるようだ。時折笑ったように話し声が盛り上がる。

 

 どこから聞こえて来るのだろうか。辺りを見回しても生垣に阻まれて遠くを見通せない。ただ、赤城は艦娘らしく海上で的確に音を聞き分ける鋭い聴覚を持っていたので、慎重に音源を探って、おもむろに歩き出した。

 

 噴水のある交差点を、今まで歩いて来た道から右に折れ、同じように生け垣と煉瓦の続く庭の中を進む。すると、生垣の中に唐突に白いアーチが現れた。アーチは生垣を分断しており、そこには深い緑色の葉を茂らした蔦植物が絡みついている。ここまで来ると、話し声は明瞭に聞こえた。

 

 甲高い、少女の声だ。赤城はアーチを潜った。

 

 

 目の前では茶会が催されていた。生垣の向こうは芝生が広がり、芝生は生垣に囲まれていてこのアーチしか出入り口がないようだ。芝生の真ん中にテーブルがあって、その上に紅茶やお菓子を広げた幾人もの少女たちが楽しげに会話している。

 

 まるで、帽子屋とウサギの茶会だ。一番手前に背を向けて座っているのは、シルクハットではないが自分の頭より大きな山高帽を椅子の背もたれに引っ掛けた少女で、癖のある金髪が目を引いた。その隣には赤いヘアバンドを付けた、西洋人形のように整った横顔を見せる美少女。彼女から帽子の少女を挟んで反対側には紅白の、何故か脇を露出した黒髪の少女。さらにその隣には、黒髪の少女とは色違いのような青と白を基調とした(そして同じく脇を出した)少女が座っている。ただ、椅子はもう一つあり、どうやら茶会に参加しているのは五人のようだったが、もう一人の姿は見当たらなかった。

 

 その珍妙な組み合わせに、やっぱり帽子屋とウサギの茶会のようだと赤城は思った。

 

 少女たちの内、ふとこちらに目を向けた青と白の子が赤城に気付く。「あ、誰か来ましたよ!」

 

 全員が赤城の方を振り見た。その拍子に、帽子の少女が背もたれから帽子を落とす。彼女はすぐにそれを拾って軽く振って埃を払い、それから「おーい! サクヤー! 椅子もう一つ!」とどこへともなく叫んだ。

 

 赤城が戸惑ってその場に立ち尽くしていると、帽子の少女が手招きをして、

 

「そんなとこに立ってないでこっちに来いよ。もうすぐ椅子持って来るから」

 

「あ、はい……」

 

 唐突に茶会の招待を受けて、現状の認識もよく分からないまま赤城はテーブルまで移動する。帽子の隣のヘアバンドの少女が椅子を少しずらして場所を開けてくれる。彼女の反対は空いている椅子で、その目の前には食べ掛けのケーキが皿に乗せられていた。

 

 テーブルの上には、白いクロスが敷かれ、きっかり五人分のティーカップにティーポット、真ん中にはスコーンや切り分けられたケーキ、ガラス瓶にたっぷり詰められている蜂蜜やジャムが所狭しと並べられている。赤城に対しては興味なさそうにしていた紅白の少女がおもむろに手を伸ばし、スコーンを一つ取ってべったりとジャムを塗りつけ、口に運ぶ。それは大変甘そうで、美味しそうだった。事実、頬張った紅白の少女の顔がほころぶ。

 

「おーい! メイド長ー!」

 

 帽子が口に手を当てて、もう一度誰かを呼んだ。ふと赤城が目線を落とすと、今までなかったはずのティーカップと小皿がいつの間にか自分の前に置かれ、さらに背後にはどこからともなく椅子も現れていた。

 

 驚きのあまり声の出ない赤城に、横合いから言葉が掛けられる。

 

「どうぞ、お座りになって下さい」

 

 見ると、今の今まで空席だったところに青色の服を着た少女が座っている。目立つ銀髪に白いカチューシャを付けた彼女は、この奇妙な茶会の参加者の中で唯一その役割を、服装を以って明確に示していた。帽子が「メイド長」と呼んだのは彼女のことだろう。だが、いつの間にやって来たのか。気配は全くしなかった。

 

「あ、はい」

 

 恐る恐る椅子に腰を下ろそうとした。

 

「あ! ブーブークッ」

 

 青と白の少女が何かを叫び掛ける。が、その言葉はメイド長の手で口を封じられたせいで遮られてしまう。ただ、メイド長が空いている方の手でゴムの袋のようなものをさっと隠すのを赤城は見逃さなかった。それが何かまでは判別付かなかったが。

 

「紅茶を淹れて差し上げますわ」

 

 赤城が座ると、メイド長はティーポットを持って赤城の目の前でカップに並々と注いだ。途端に鼻孔を芳香な香りが満たす。カップの底が見える透き通った上品な褐色に、赤城の喉が鳴る。そういえば長い間飲まず食わずだった気がして、今更のように体の奥がざわざわと騒ぎ出した。

 

「ずいぶんと手厚いおもてなしだな。私にはそんなこと、滅多にしないくせに」

 

「お嬢様が貴女を客人扱いしたら考えないでもないわ。今までの行いをよく顧みることね」

 

「冷たい奴だな。親友だろう」

 

「そんなことは初めて聞いたわ」

 

 帽子とメイド長の辛辣な掛け合いを聞きながら、赤城はゆっくりと熱い液体を口に含む。何かのハーブが入っているのだろうか、香りが一気に口と鼻を占領してしまう。

 

 喉がもう一度鳴った。まだ幾分も冷えていない液体を、赤城は徐々に食道へと流し込んでいく。

 

 香りと味。茶葉が本来持つそれらと、添付されたハーブの持つそれらが、緻密に計算された上で掛け合わされ、徹底的に飲む者の感情を揺さぶるように調合された紅茶。美味しくなるべくして美味しくなった飲み物。

 

 かつて金剛に紅茶を淹れて貰ったことがあって、それも大変美味しくいただけたのだが、彼女には悪いがこれはその時の比ではない。赤城は一口で病み付きになった。

 

 どちらかと言えば猫舌気味の赤城だったが、喉が、舌が、胃袋が、紅茶を求めて仕方がなかった。気が付けばあっという間にカップは空になっており、もう一杯という意味を込めてメイド長を見ると、彼女は微笑んでポットを持ち上げた。

 

「紅茶もいいが、お菓子も絶品だぜ」

 

 と言いつつ、帽子が残っていたケーキを切り出し、自分の小皿に運ぶ。この五人の中で一番口数が多いのは彼女で、先程からよく喋っている。次には青と白の少女もお喋りなタイプなようだ。打って変わって、ヘアバンドの少女と紅白の少女は先程から一言も発していない。前者は香りを楽しむように静かの紅茶を啜り、後者はとにかくお菓子を詰め込んでいた。

 

 

 最初の紅茶の衝撃から立ち直った赤城には周囲を観察する余裕が生まれていた。見れば、この五人は仲良しなのだろう。全員十代半ばに見えるが、年頃の娘が集まって茶会をするというのはなかなか優雅な趣味をお持ちではないだろうか。その中に、武骨な軍人たる自分が入るというのも場違いな気がするが、不思議と居心地の悪さは感じなかった。

 

 ただ、それにしては五人とも奇妙な出で立ちをしている。恐らくだが、メイド長はこの館の使用人なのだろう。そこはまあいい。

 

 隣のヘアバンドの少女は、白いケープに青いブラウスとロングスカートというトリコロールカラーの格好で、なるほどどこかの貴族の娘と言われてもおかしくはない。顔立ちも、西洋人形そのもののようだ。

 

 一方で、帽子の少女は黒い服に白いエプロンと、さながら魔女っ子のような見てくれだった。箒こそ持っていないが、と思ったところで彼女の後ろの生け垣に箒が一本立て掛けられているのに気付いた。あれに乗って空を飛ぶのかしら、と想像する。箒に跨った帽子の姿は実にしっくりきた。

 

 他方、紅白の少女と青白の少女はどう見ても日本人だ。ただ、二人とも脇の出た、というより袖が脇のところだけ切り取られたような奇妙な上着を着ている。どちらかと言うと、ノースリーブと独立した袖という組み合わせだ。

 

 メイド長は使用人、帽子は魔女っ子、ヘアバンドの少女はどこかの令嬢としよう。この二人の立場というのはどういうものなのだろうか。まるで見当が付かなかった。

 

 そうやって思考を巡らす内、二杯目を飲み終えた赤城は、そろそろ食べ物が欲しくなってきたのでメイド長を見る。彼女が「どうぞお好きなのを」と答えたので、ゆっくりとスコーンに手を伸ばし、一つ取ってジャムを塗りつけ、一口齧った。

 

 甘いイチゴの香りと柔らかいパンの感触が広がる。これまた帽子の言うとおり、絶品のお菓子だった。先程から紅白の少女が脇目も振らず黙々と食するのも気持ちが分かる。

 

「美味しいでしょう。手が止まりませんよ」

 

 青白の少女が話し掛けてくる。赤城は頷くのが精一杯だった。

 

「あんまり食べ過ぎると太っちゃいますけどね」

 

 彼女は赤城の淡白な反応を気にも留めず続けた。

 

「それがサクヤの計画なんだよ。こうして、私たちを餌付けするのさ」

 

 帽子がケーキを口に運びながら間の手を入れる。彼女はちらりとメイド長に視線を流すが、言われた本人は涼しい顔をしていた。どうやらメイド長は「サクヤ」という名前で、この紅茶とお菓子を作った本人らしい。そういえば帽子は先程も「サクヤ」と呼んでいた。

 

「それでもいいですよ。ただ、自制をしないと……。はあ、食べても太らないレイムさんが羨ましい」

 

 やたら体重を気にする現代っ子のような青白の少女の発言。以前、潮がそんなようなことを言っていたというのを赤城は思い出した。

 

「その代わり、そいつは普段ペンペン草しか食ってないのさ。何せ貧乏だから……イテッ」

 

 ガタンと机が揺れる。紅白の少女が帽子の足を蹴ったらしく、帽子は顔を歪めた。

 

「太ったの痩せたの、馬鹿馬鹿しいわ。よくまあ体重でそんな悩めるわね」

 

 ここに至って初めて紅白が口を開く。

 

 潮が体重を過剰に気にして全然食べなくなったことがあったが、その時は鎮守府を上から下まで揺らせる大きな騒動に発展した。潮に今の発言を聞かせたら、どんな反応をするだろうかと赤城は考えて、そして多分あの時の騒動のように碌なことにならないだろうと思い至った。

 

 赤城としては、紅白の意見に全面的に賛成である。どの道、普段海上を動き回っている自分はあまり太らないのだ。もっとも、デスクワークが増えてきた最近においてはその限りではないが。

 

 

「ところで、あんた誰よ」

 

 ようやく赤城に興味を持ったのか、紅白の少女が真っ直ぐな視線を寄越す。鳶色の瞳。鋭く、深みを湛えたその色合いに、赤城は彼女が只者ではないことを悟る。他方、彼女のその瞳にはデジャブがあって、どこで見たのだろうかと一瞬逡巡してから、その目が金剛の持つそれとよく似ているのだと気付いた。

 

「あー。『自己紹介しましょう』って意味だぜ。多分……」

 

 どことなく剣呑な雰囲気になった茶会の場を誤魔化すように、帽子がそう言った。紅白の意図を赤城は察していたが、帽子は彼女なりに気を遣ってフォローを入れてくれたのだろう。それに感謝しつつ、帽子のメンツを立てるためにも赤城は努めて穏やかに名乗った。

 

「『赤城』と申します」

 

「何者よ」

 

 間髪入れず紅白が尋ねる。尋ねるというより、問い詰めるといった感じだが。

 

 さて、何と答えようか。一瞬赤城は迷った。

 

 適当に誤魔化してもいいが、彼女にはすぐ見抜かれそうな気がする。なので、正直に言おうと決めた。

 

「艦娘です。○×鎮守府の所属の者ですが」

 

「艦娘!?」

 

 真っ先に声を上げたのは青白の少女だった。他の四人は怪訝な顔をしている。

 

「え!? ホントに艦娘さんなんですか?」

 

 青白の少女が身を乗り出し、目を輝かせながら興奮して叫んだ。その反応を、赤城は嫌というほど知っている。

 

 片や、帽子は「カンムスってなんだ」とヘアバンドの少女に小声で尋ねた。尋ねられた方は、何で私に聞くのよと顔に書いて肩をすくめる。

 

 あれ? と思った。

 

 赤城からすれば、青白の少女の反応は珍しいものではないのだが、帽子のようにまったく艦娘のことを知らなそうなのはどういうことだろうか。ごく一般の日本国民なら、当然艦娘がどういう存在かは知っているわけで(もちろんここが日本ではない可能性は十分ある)、逆に赤城は驚かされてしまったのだ。

 

普通、一般人と相対した時は皆、青白の少女のように「これが艦娘か」と物珍しそうに反応するものだから、改まって艦娘がどういう存在かを説明するという経験をしたことがなかった。なので、どういう表現が適切なのか、ゆっくり言葉を選びながら赤城は自己紹介を続ける。

 

「私たち艦娘は国連海軍所属の兵士です。海の上で敵と戦う兵士ですね。艦娘の使命は、海に出て襲い来る敵を撃退することにあります」

 

「敵って、何?」

 

 紅白の質問は早い。もう一度彼女は即座に尋ねて来た。あまり考えて口にしているふうではない。心に浮かんだ疑問をそのまま言葉にしているのだろうか。

 

「深海棲艦、そう呼ばれている……怪物でしょうか」

 

 改めて敵対者のことを言葉にするというのは、難しいものであった。それは、普段自分が何と戦っているのかという認識に対する問い掛けであり、ひょっとしたら紅白の少女はそれを含んでそのような質問をしたのかもしれない。単純に思い浮かんだ疑問を訊いたのではなく、その先にある本質を問うたのだ。

 

 ならばこそ、赤城はもう一度よく考える。口にした「怪物」というのは正しい表現か。それは奴らの本質を言い表しているのか。

 

「よく分かんないけど、まあ要するに海の妖怪みたいなもんなのね」

 

 紅白は紅白で、自分なりに赤城の言葉を解釈したらしい。

 

 妖怪。なるほど、そういう言い方もあるのだろう。

 

「何だそれ? でっかいタコか?」

 

 と、頓珍漢な質問をしたのは帽子だった。もしかして、巨大な頭足類の怪物――クラーケンのことを言ったのだろうか。似ても似つかない全く的外れなその例えに、赤城は思わず口元が緩んでしまった。

 

「何だよ。可笑しいか?」

 

「いや……」

 

「可笑しいですよ」

 

 釈明しようとした赤城を青白の少女が遮った。

 

「深海棲艦はタコよりももっと恐ろしい存在なんです。あいつらは突然海の中から現れて船を人間諸共食べちゃうんですよ。こんな風に」

 

 そして彼女は両手をがばっと振り上げ、口を大きく開けて歯を見せた。

 

「ぎゃおー! たーべちゃうぞー!」

 

 噴出したのは帽子と紅白の二人。メイド長は「どうして知っているの」と頭を抱え込んだ。

 

「アヤさんに聞きました」

 

 と悪びれる様子もなくあっけらかんとして答える青白。

 

「お嬢様が聞いていたら、今日のディナーは巫女のもも肉のソテーになってたわね」

 

「あはは。それ、あいつのものまねか」

 

 よく笑う帽子。よっぽど先程の「ぎゃおー」がハマったのか。まあ、箸が転がっても可笑しい年頃なのだから、よく分からないことで笑い続けたりもするのだろう。ノリについていけない赤城は戸惑うばかりだった。

 

 それよりも、艦娘や深海棲艦のことを知らない帽子たちのことの方が気になる。というより、それらを知らない人間がいるこの場所は一体どこなのか。

 

「あの……」

 

 疑問を尋ねようとして声を掛けると、ようやくひとしきり笑い終えた帽子がまだ目の端に溜まっていた涙を拭き取りながら、

 

「ああ、悪い悪い。こっちも自己紹介しなきゃな」

 

 それから彼女は居住まいを正し、胸を張って名乗った。どうやら、名乗りを求められたと勘違いされてしまったらしい。かといって遮るのもそれはそれで失礼なような気がして、赤城は疑問を尋ねるのを後回しにした。

 

 

「私は霧雨魔理沙。普通の魔法使いだぜ」

 

 

 やっぱり帽子は魔女っ子だった。というより、大真面目に「魔法使いだぜ」という名乗られたことに赤城は目を白黒させた。そんな自己紹介があるとは知らなかったからだ。

 

「え……」

 

「あー」

 

 帽子――霧雨魔理沙は少し困ったように眉を寄せた。何と言おうか言いあぐねている。先程の赤城と同じ心持だろうか。もっとも、それ以上に名乗られた赤城の方が困惑しているのだが。

 

「ま、百聞は一見に如かずだな」

 

 そう言って彼女はおもむろに右手を上げ、ぱちんと指を弾く。驚いたことに、その指先から星が生まれた。

 

 そう、それは星だ。といっても、実際に宇宙に浮かぶ球体の恒星ではなく、黄色い五芒星だ。つまりは一般に「スター」として認知されている記号で、それが二次元ではなく三次元で現出したのである。

 

 現れた星は一つ。ふわふわと魔理沙の指の周りを浮いていたが、間もなく別の手に掴み取られてしまった。その手の主は、紅白の少女である。彼女が躊躇なく星を口元に持っていき齧ったのを見て、赤城は肝を抜かした。

 

 というか、食べれるの!?

 

 

「甘い……」

 

 紅白は感想を呟く。星は無残にも丸く齧り取られていた。

 

「恋の魔法は砂糖で出来ているからな」

 

「あんたの魔法の原料って、キノコでしょ」

 

「あ、レイムさん。私にもそれ下さい」

 

 今度は青白がとんでもないことを言って、「レイム」と呼ばれた紅白の少女から齧り掛けの星を貰い、自分も躊躇うことなく齧りついた。

 

「美味しいですね、これ」

 

「あら? 私も貰える?」

 

 次はメイド長だ。彼女も一口食べて、「結構甘いのね。砕いて粉砂糖代わりにしようかしら」と呟いた。まともそうに見えるが、メイド長も思った以上に変な子なのかもしれない。彼女は当然の如く原形を留めていない星(型お菓子?)を赤城に回した。

 

 衝撃から抜けきれず、訳も分からないまま、赤城も流されるように星を齧った。

 

 堅さは、煎餅くらい。一度力を込めるとすんなりと歯が通る。強烈な甘さが口の中に広がった。砂糖の塊を食べているかのような、ただひたすらの甘さである。

 

 そして赤城は思った。自分は何をしているのかと。これはどういうことなのかと。

 

 恐らくは、「星」の回し食いという、艦娘史上――否、文明史上初めて行われた奇天烈極まりないイベントに遭遇しており、あまつさえそれに参加しているのだ、と。そう考えると妙に空恐ろしくなった。これはまさにキ印のお茶会だ。

 

 

「私もいい?」

 

 

 鈴の音のような声が愕然とする赤城の耳に入った。まだ聞いたことのなかった声で、赤城がこの場に来てから一言も喋っていなかったのは隣のヘアバンドの少女だった。顔を向けると、彼女は赤城の方を覗きこむように首を傾げて「ちょうだい」と言った。

 

「あ、はい」

 

 見た目もさながら、声も綺麗だ。天は二物を与え過ぎる。

 

 彼女はそれから優雅な仕草で赤城から星のかけらを受け取ると、最後の一切れを口に放り込んだ。思わず同性の赤城も目を止めてしまう洗練された仕草だった。明らかに西洋人の見た目をしている彼女が、流暢な日本語を発したことにも驚いている。そういえば、以前も似たような経験をしたことがあった。

 

「甘過ぎるわね。糖分の取り過ぎになるわ」

 

 ただ、彼女は彼女でなかなかきつい性格をしているのかもしれない。割と好評(?)だった星の甘さに、辛口の評価を与える。言われた方の自称魔法使いは「オーケー。今度は『ほろ苦いビターな大人の恋』味にするぜ」と答えた。

 

「次はレイムだな」

 

 それから魔法使いは隣の紅白の肩を叩く。紅白は鬱陶しそうに眼を流すが、文句は言わずぼそりと名乗った。

 

「博霊霊夢。巫女をやってるわ」

 

「お巫女さん、ですか」

 

「はは! 驚いてるぜ。こんな脇出した巫女が居るもんかって」

 

 魔法使いが余計な茶々を入れる。当然、彼女はまた巫女に足を蹴られた。しかも、もう一人からも抗議を受けるのだった。

 

「酷いですよ魔理沙さん! 脇出しの何がいけないんですか! これはサベツです。ジンケンシンガイです。謝罪とお菓子を要求します!」

 

 青白も青白で、相当変わった個性の持ち主かもしれない。というより、彼女を含め、ここに居る全員が強烈な個性の持ち主で、それぞれマイペースだ。ゴーイングマイウェイを邁進しまくっている。

 

 

「あ、次は私ですね」

 

 痛みに呻く魔法使いが反論しないのを見て、青白の少女が赤城に視線を移した。

 

「私は東風谷早苗と言います。幻想郷を代表する守矢神社の風祝です。赤城さんはこちらにいらっしゃるのが初めてですよね。当社には、五穀豊穣・恋愛成就・学業成就・交通安全・金運向上・無病息災などなどたくさんのご利益がありますので、是非ご参拝下さいね」

 

「あ、はい。よろしくお願いしま……す?」

 

「しかも! しかもですよ。赤城さん、実はあなたに大変お得な情報がありまして」

 

「私に、ですか?」

 

「そうです! ここだけの話なんですが、ただ今我が守矢神社では『秋の初参拝特別キャンペーン』を開催中なんです。キャンペーン中は我が神社に初参拝された方に漏れなく、効力倍加(当社比)の『特性お守り』三セットをプレゼント! 種類は幾つかあって選べるんですが、艦娘の赤城さんには『武運長久』のお守りが特にオススメですね。偶然にも、実は我が神社のご祭神、八坂加奈子様は葦原中国一の戦神として称えられているお方。『武運長久』はまさに十八番なわけで、効力倍になります!

 

しかもです。キャンペーン中に付き、ご神徳100%増量中。つまりは二倍! 二倍ですので、これはもうお守りの効力が倍の倍の倍……ななな、なんとッ!! 八倍にもなるんですッ!!

 

さらに! さらに!! さらにッ!! これで終わりではありません。参拝後、おみくじ(別途料金)を引いていただいた方には無料で豪華景品が当たる抽選に参加するチャンスが! 景品には信州地酒の代表格――『純米吟醸“真澄”』他をご用意しておりますので……ぐえ」

 

 懐から出したチラシを赤城に押し付け、身を乗り出してマシンガンのようなセールストークを畳み掛けていた早苗の口が止まった。襟首を引っ張られて無理矢理元の席に戻される。引っ張ったのはもう一人の“巫女”だ。

 

「ちょっと、煩いわよ。そっちだけ喋り続けないでよ」

 

 霊夢は不機嫌そうに言い、早苗を引き戻してから赤城に向き直った。

 

「こいつの言ってることは大体嘘だから。お守りの効力八倍とかあり得ないから。あんなペテンまみれの神社に行くより、うちの博霊神社に来た方がいいわ。参拝はいつでも大歓迎だし、お賽銭入れてくれたらいいことあるわよ」

 

 息が詰まった早苗が咳き込んでいる間に今度は霊夢の方がセールストークを始めた。ただ、早苗のそれに比べるといかんせん具体性に欠けており、

 

「いいことってなんだよ」

 

 と、魔理沙に突っ込まれるありさまである。

 

 

「それは、あれよ。あれ……」

 

「どれだよ」

 

「あれ……。まあいいじゃない。細かいことは」

 

 結局、霊夢は答えられずに、そんなこと気にしても仕方ないわと打ち切った。やれやれと首を振る魔理沙。そこで、ようやく咳の治まった早苗が猛然と反撃に出た。

 

 

「ご利益が説明出来ない神社には人は来ないと思いますけどね」

 

「ああん?」

 

 そして火蓋が切られる巫女と巫女の争い。間もなく二人はそれぞれ自分の神社がいかに優れているかという自慢合戦を始めた。

 

 ここまで熱心に神社の勧誘を受けたことのない赤城としては、では両方参拝すればいいじゃないかと思うばかりであったが、二人の剣幕にただただ圧倒されて何も言えない。この茶会に参加してから振り回されっぱなしだった。

 

 

 

 

「さあ、金に執着する醜い聖職者どもは放っておきましょう。もう一杯いかが?」

 

 あっけにとられる赤城のカップに、静かに紅茶が注がれる。メイド長は騒ぎ出した二人のことなどまるで気に留めていないようだった。順番で言えば次は彼女が名乗る番になる。

 

「私はこの紅魔館で働いている十六夜咲夜と言います。以後よしなに」

 

「よろしくお願いします……」

 

 今までで一番まともな自己紹介をされたかもしれない。ちょっと言動に天然が入っているが、メイド長と呼ばれるだけあって基本的に物腰は丁寧なようだ。ようやく普通の対応をされて赤城の心中に安堵が広がった。

 

「紅魔館というのは……」

 

「先程までいらした赤い館ですわ」

 

 ただ、職場には問題ありそうだったが。

 

「ああ、そうなんですか」

 

 にっこりと笑顔を浮かべる彼女に赤城は「一体どうして何から何まで赤いのか」という積もり積もった疑問をぶつけられなかった。あんなところで働いていたらそれこそ色彩感覚が狂いそうなのだが、彼女は大丈夫なのだろうかと心配せずにはいられない。

 

 

「素直に言えばいいじゃない。『悪趣味な館』だって」

 

 そんな赤城の心を見透かしたかのような言葉が横合いから飛んで来た。それまでテーブルの周りを静観していたヘアバンドの少女である。

 

「……否定はしないわ」

 

 首を振るメイド長。まあ、普通はそうだろう。

 

「部下にそう言われているようじゃ、あの“お嬢様”の威信も失墜したわね。それはそうと、まだ名乗ってなかったかしら。私はアリス・マーガトロイド。人形師よ」

 

 彼女がそう言うと、その側のテーブルの下から小さな人形が這い上がって来た。人形はテーブルの上に立ち上がると、赤城に向かってぺこりとお辞儀をする。

 

 主人と同じトリコロールカラー。青いワンピースにフリルのあしらった白いエプロン、長めのブロンドヘアーには大きな赤いリボンが結ばれている。その可愛らしい人形の登場に、赤城の目が輝いた。

 

「わあ。可愛いですね」

 

 すると、赤城の感想に礼を言うように人形はもう一度お辞儀をする。ぎこちなさは全くなく、その動作は人間のように滑らかで、人形とは思えないほどだった。

 

「ロボットなんでしょうか。まるで生きているみたいです」

 

「ロボット? いいえ、機械じゃないわ。魔法の糸で操っているからそう見えるだけよ」

 

「魔法……」

 

「私も魔法使いなの」

 

 アリスがそう言うと、人形が自慢げに胸を張った。いちいちその動作が可愛らしい。

 

「こんな素敵な魔法があるんですね」

 

 お菓子の星を作ったり、可愛い人形を操ったり、本当に少女チックな魔法だ。不思議の国。ワンダーランド。“wonder”という単語には「ドキドキさせる」という意味もある。

 

「あら。いいこと言うじゃない」

 

 アリスの方もまんざらではなさそうで、ほんのりとした笑みを口元に浮かべる。

 

「そこの“自称”魔法使いとは違うのよ」

 

 ただ、皮肉屋なところが結構あるらしい。アリスはわずかに魔理沙の方に顔を振る。言われた方は巫女同士の喧嘩の仲裁に入ってそれどころではなさそうだった。

 

「お菓子の魔法も素敵でしたけど」

 

「あはっ。それ、本人が聞いたらどんな顔をするかしらね」

 

 赤城がそう返すと、今度は声を出して笑うアリス。楽しそうにクスクスして、上機嫌になった彼女はその笑いが残ったままの顔で赤城にこう言った。

 

 

 

「いいこと言ってくれたお礼に、一つ私もいいこと教えてあげる」

 

 私は人形を見えない魔法の糸で操っているわ、とアリスは片手を顔の位置まで持ち上げて指を動かした。

 

 

 

 

 

「似たように、貴女にも魔法の糸が付いている」

 

 

 

 

「え?」

 

 どういうことですか?

 

 訊き返そうとした言葉を、赤城はついに発することが出来なかった。自分の身に何が起こったか理解出来なくて、それどころではなくなってしまったからだ。見ている物が全く変わる。まるでドラマの場面転換のように、視覚とその認識の連続性が途切れる。

 

 

 

 

 気付けば、またあの赤い廊下の中に居た。

 

 延々と続く赤。先程までの明るい日差しの中のお茶会が幻想だったかのように思える、暗く、赤い世界。誰もいないがらんどうの空間に、巫女や魔法使いの声が掻き消えていく。

 

 

 

「もうそろそろ、お帰りの時間ですわ」

 

 

 

 突然背後から掛けられた声に赤城は飛び上がった。誰も居ないと思っていたが、真後ろにあのメイド長――十六夜咲夜が立っていたのだ。

 

 赤い廊下に浮かぶ青い衣装とくすんだ銀髪。

 

 果たして、彼女の瞳は白ウサギのような血色をしていただろうか。

 

 

「ずいぶんとお楽しみいただいたようでこちらとしても同慶に至ります。ですが、貴女はもう帰らねばなりません。これ以上こちらに居ては貴女“も”幻想になってしまいますわ」

 

 などと意味不明なことを口走る咲夜。赤い闇の中で彼女の瞳だけが、ぼうっと光を放つ。

 

 

 頭が回らない。

 

 周りはこんなに暗かっただろうか。紅魔館の廊下は多少なりとも蝋燭の光が照らしていたはずだが、今はそれすらも消えたように暗い。そのくせ、網膜はただひたすらの赤一色を認識し続ける。

 

 視界がぐるりと回った気がした。

 

 メイドの姿は闇に溶け込み、背後の赤と一緒くたになって判別付かない。

 

 世界が暗転する。最後に赤城は「お嬢様によろしく」という声を聞いた気がした。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

「あ!」

 

 

 色よりも先に、明るさよりも先に、耳がその声を認知することの方が早かった。

 

 続いて脳内に溢れてくる視覚情報。薄暗いと言える程度の明るさ。視界にぬっと現われる小さな顔。

 

 

「お早う」

 

 赤城を覗き込んでいた彼女のこじんまりとした小さな唇が動き、滑らかな言葉が鼓膜を震わせる。

 

 提督、と彼女を呼ぼうとしたけれど、赤城の喉は上手く発音出来ずに掠れた空気の音だけが歯の間から漏れ出た。

 

 赤城は身を起こした。体は不思議と軽い。

 

「大丈夫なの?」

 

 その場に居たもう一人が酷く心配そうに尋ねてくる。提督の後ろに控えていたのは同僚の加賀で、光の加減のせいなのか、ずいぶんとやつれて見えた。

 

 ここはどうやら軍艦の士官室の中らしい。見覚えのある狭い部屋は、恐らく「硫黄島」の中だからだろう。行きも赤城は加賀と二人、この部屋で寝泊まりしたはずだった。

 

 徐々に記憶が蘇ってくる。久しぶりの遠征。おとり艦隊。海中から現れた敵。青い目のフラグシップ改。

 

 

「あ。せ、戦闘はどうなりましたか?」

 

「安心して。私たちの勝利よ。貴女が頑張ったお陰でね」

 

 提督は答えた。彼女は小さく微笑む。

 

 彼女の血色の良い、柔らかな唇が三日月を作る。

 

 瞬間、赤城は錯覚した。まるで彼女が、レミリアが、あの赤一色の廊下に立っている光景が目に浮かんだ。

 

 赤と紅。館と主人。紅魔館とレミリア。

 

 その組み合わせは、とてもしっくりときた。

 

 あれは夢の中の光景で、赤城の脳が描き出した不思議の国だったはずだ。なのに、どうしてかレミリアがその中に居るのはとても自然なことのように思えた。

 

 あのお菓子と紅茶と魔法の世界で、レミリアはメイドを伴い、日傘を差しながら生垣の道を歩む。芝生の上で白い椅子とテーブルに着いて、彼女は午後の茶会を愉しんだ。十九世紀の英国貴族のような優雅な生活。溢るる光の中で、カップを置いたレミリアはふわりと笑うのだ。隣には魔法使いが座り、テーブルの周りには明るい笑い声がこだまする。銀髪のメイドが傍に控えて主人と客人の飲むペースに合わせて紅茶を注ぎ、お菓子を足し、客人たる魔法使いは主人を楽しませるために星の魔法を宙に描く。

 

摩訶不思議な少女たちの午後。レミリアはその中心に居て……。

 

 

 

 

 

「赤城さんはもっと別のことを心配出来ないの」

 

 

 冷や水のように浴びせられた言葉に、赤城の妄想が崩れていく。温かな庭園の光景は霧散し、代わりに冷たく硬い金属の部屋が視界に戻って来る。その真ん中で、眉を寄せて不機嫌顔を作って見せているのは加賀だった。

 

 無論、加賀は本当に不機嫌になったのだが、本気で怒っているわけではない。ただ、こういう顔をしている時は扱いに気をつけないとぷりぷり怒り出してしまうので、なるだけ赤城は気を遣って答えた。

 

「すみません、気になったもので。私はこの通り、元気ですから」

 

 努めて明るく答え、ついでに元気であることを示すために赤城は両手を振り上げてガッツポーズを作った。

 

 レミリアがくすりと笑う。ひょうきんな赤城の仕草に受けたようだが、肝心の加賀の方は眉間にもう一本皺を増やしただけだった。

 

 

 くしゃり。

 

 

 手を上げた拍子に、紙が潰れたような音がした。左手に違和感。何かを掴んでいる。

 

「何かしら?」

 

 加賀の気を反らすため、赤城はわざとそう呟いた。

 

 それが何か、本当は分かっていた。ただ、どうしてここにあるのか理解出来ない。

 

 あれは、夢の中での話ではなかったのか。

 

 三人で、赤城の手の中にあった物を覗き込む。

 

 それは本当に紙――チラシであった。手の中でくしゃくしゃになったチラシには、丸っこい手書きの字で(まるで十代の女の子が書きそうな字だ)、「秋の初参拝特別キャンペーン開催中!!」と大きく題が打たれている。見出しの下には、このチラシを手渡した本人が赤城に語った内容とほぼ同じことが書き連ねてあった。手書きの物を何枚もコピー印刷して配っているのだろう。ざらざらとした紙の質感が指に残った。

 

「神社の宣伝? 初めて見ました」

 

 思惑通り、チラシに気を取られた加賀が呟く。けれど、赤城はそれどころではなかった。

 

 赤城はちらりとレミリアの顔を窺う。彼女は無表情だった。

 

 驚いているわけでも、不思議がっているわけでもない。ただ、その顔からは何の感情も読み取れなかった。

 

 一体全体、どうして夢の中で手渡された物が今ここに存在しているのかという疑問より、赤城の頭を占めたのはレミリアの反応の方で、それもまた不可思議なことだった。

 

 何故? どうして? 尽きない疑問と謎。

 

 私の周りでは何が起こっているのだろう?

 

 初めて気になり始めた。思えば不思議なことばかりで、仕事に忙殺されていたから気に留らなかっただけで、考えれば考えるほど今この状況というのは不可解に過ぎている。

 

 不安が心の中で渦巻く。その種は間違いなく、顔を上げて赤城と目を合わせた少女提督だ。

 

「どうせならお守りを持って帰ってくれば良かったのに」

 

 レミリアはそう言って身を翻す。

 

「あの、どういう……」

 

「元気そうだし、私は戻るわ」

 

 問い掛けは無視された。彼女は背中越しに片手を上げて振る。

 

 その仕草が、人形師のやって見せたそれとよく似ていた。彼女は茶会の最後に何と言っていたか。

 

 

 

 

「またね、『赤城』」

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督10 Qeen of Siesta

赤城さんは、仕事にはシビアで無茶苦茶デキる人で後輩からは畏怖を含んだ目で見られるし先輩や上司から厚い信頼を置かれているけれど趣味というほどのものでもないけど学生時代にやっていた弓道を月一で公立体育館に併設されている射場に打ちに行くのと日々の食事を仕事の合間の楽しみにしている来年三十を迎える彼氏のいないそこそこ大きくて名の知れた企業に勤めるOL、的なところは正直言ってあると思います。


 

 

 

 その日、赤城は概ねいつも通りな朝食をとった後、いつも通りの時間に秘書室に入り、いつも通りに真っ先にパソコンを起動させて仕事に取り掛かった。朝食の「概ねいつも通り」というのは、何故か今日に限っていつも同じ時間に起きて同じ時間に食堂に行く同室の加賀の姿がなかったことで、それ以外はごく普通のいつも通りの朝食の風景であった。ほぼ毎日朝の行動を共にしている同僚の姿がないのは結構な異変と言えば異変だが、決して今までなかったわけではない。ごくたまに、彼女は朝早くから弓道場に行っていることがあって、それは前日の訓練で思い通りにいかなかったことが翌朝まで彼女の心の中でわだかまっていてそれを解消するためであるとか、あるいはもっと単純に大規模作戦の直前で打ち込みをしていたいとか、そういった理由である。

 

 だから、赤城も朝起きた時点から寝床に加賀の姿がなかったとしても、それをさほど気にしたりはしなかった。加賀は加賀でやることがあるのだし、秘書艦や同僚という立場であっても何でも首を突っ込んでいいものでもない。珍しく一人で黙々と質素かつ栄養バランスが熟考された朝食を食べながら今日の午前中の仕事のおおよその段取りを頭の中で組み上げ、午後からの予定を反芻しながら赤城はいつものルーチンとして秘書室までやって来たわけである。

 

 そしてルーチンはさらに続き、パソコンのデスクトップ画面が立ち上がると真っ先にメールボックスを開いて中身のチェックをする。目上の者からや急ぎの内容のメールはその場で即座に何らかの返事を行い、それから次々とアイコンをクリックして必要なソフトを起こしていく。その様はまるで兵舎で寝こけている兵士たちをラッパで一斉に叩き起こすかのようで、あっという間にツールバーには起動中のソフトアイコンが並んだ。

 

 これも何の変哲もない日々繰り返していること。赤城は何も思うことなく、正確には何の違和感も抱くことなくただ機械的に作業を進める。そうして今日という一日は、これまで赤城が幾度となく繰り返してきた日々と同質の変わらぬ平凡な一日で終わるはずだった。

 

 

 

 変化が訪れたのは、赤城が仕事を始めて間もなくである。時計の針が九時を回った頃で、ルーチンで言えばレミリアが大体朝司令室にやって来る時間だ。果たして、今日も今日とて彼女は九時過ぎに司令室に入って来て、そしてそのまま司令室と秘書室を繋ぐ扉を豪快に開け放った。あまりにもレミリアが勢いよく扉を開いたので、押し出された空気によって机に置いてある書類がいくつかひらひらと舞い上がる。音と勢いに驚いて赤城が振り向くと、そこには小さな上官が仁王立ちしていた。

 

 誰が見ても、レミリアは怒っていると瞬時に分かったであろう。普段から感情の発露は割とはっきりしているが常に冷静沈着な彼女にして珍しい。というか赤城にとっても初めて見るくらい猛烈に怒っているのである。言うまでもなく非常に良くない何かがあったに違いない。しかし、何か彼女をここまで激怒させるような事案があっただろうかと頭を巡らせてみても、とんと心当たりがあることは思い浮かばなかった。ここ半月余りは素晴らしいことに、軍隊では閑古鳥が鳴くくらい平和な日々であったはずだ。

 

 となれば、レミリアが怒っている原因は赤城の与り知らぬ事件が発生したことに違いない。当然、その事実自体が赤城にとってもここ最近の平和を台無しにするような好ましからざるものである。ならば、心して憤怒にまみれたレミリアから聞かなければならない。聞き方次第によっては、この上官をさらに過熱させかねないからだ。そして、ここまで怒ったレミリアを初めて見る以上、さらに怒らせた場合どうなるかは当然未知の事柄であり、赤城は固唾を飲んで彼女が口を開くのを待った。レミリアが扉を開いてから赤城が状況を思慮し慎重な対応を決定するまで、わずかゼロコンマ五秒である。

 

「おはよう、赤城」

 

 フランス人形のように真っ白な頬を紅色に染め上げながらも、レミリアは普段と変わらない落ち着き払った口調でまず挨拶をした。「おはようございます」と赤城も返してから、

 

「何があったのですか」

 

 と神妙に尋ねた。このタイミングではこちらから問い掛けた方が自然だと思ったからだ。決して、対応を間違ったわけではない。

 

 そのはずなのだが、レミリアの反応は赤城の予想外であった。

 

「『何があったのですか』って……。聞きたいのは私の方。何で貴女、ここにいるのよ?」

 

 赤城は自分の眉がハの字になるのを自覚したけれど、きっとその気持ちは万人に共感されてもいいと思う。

 

 レミリアが言っていることの意味が何一つ理解出来なかった。何故赤城が秘書室にいるのかと彼女は尋ねているのだろう。答えは言わずもがな、赤城が秘書艦で、秘書室が仕事場だからである。

 

 もちろん、レミリアも分かっているはずなのだが、あるいは何か一時的な健忘のような症状を患ってしまい、赤城の立場を忘れているのだろうか。

 

 あまりにも意味不明なことを言われたので、赤城は返す言葉を失ってしまっていた。何か言おうと思っても言葉が出て来ず、結果口は魚のようにむなしく開閉するだけ。

 

「……分からない?」

 

 絶句する赤城に対し、さらに悪いことにレミリアの怒りのボルテージは急激に上昇していっているようだった。どうやら赤城が理解出来ていないことによってそうなっているようだが、そんなことを言われても分からないのだからしょうがない。だが、とてもまずい状況に追い込まれてしまったということだけは考えるまでもなかった。何よりも悪いのは、何故こんなことになっているのか見当もつかないということだ。

 

 一体何が彼女をここまで怒らせたのか。

 

 その理由は赤城にあるようだが、本当に何の心当たりもない。いくら頭を回しても分かりそうになかったので、赤城は意を決して正直に尋ねることにした。これ以上黙っていても、きっと何も良くはならない。

 

「あの、すみません提督。私が何かまずいことを仕出かしてしまったというのは分かるのですが、恥ずかしいことにそれに心当たりがありません。恐縮極まりないのですが、ご指摘頂ければと……」

 

「……そう」

 

 相変わらずレミリアは怒りの表情のままだったが、幸い感情を爆発させることなくそのまま司令室に引っ込んでしまう。安堵するものではないが、それで間が出来て赤城は肺に詰まっていた空気を吐き出した。

 

 まずいことになったと思う。正直、自分がやったことで上官をここまで怒らせたのは初めてで、しかもその理由が思い当たらないときた。レミリアの勘違いであってくれればいいと思うが、どうもそんな気配はしないし、やっぱり原因は自分であるらしい。とはいえ、それが何であれまず平謝りして、それから対処に移り、場合によってはそれ相応の罰も覚悟しなければならないだろう。事情はどうあれ、人ひとりがここまで激怒するというのは余程の事態である。

 

 赤城がそんな覚悟を決めた時、レミリアが秘書室に再び入って来た。手には一枚の紙。それを赤城の目の前に突き出す。

 

「これよ」

 

 彼女の小さな手に乱雑に握られて皺寄ったそれは、艦娘の勤務計画表である。今月の、だ。

 

 今日の日付を見る。そこには、

 

「貴女、今日は休みなのよ!」

 

「……は、はい」

 

「『はい』じゃなくて!」

 

 勤務計画表は無残にもくしゃくしゃに丸められ、代わって真っ赤に燃える瞳が赤城を睨み上げる。

 

「何で非番の貴女が出て来ているのよ!」

 

「えっ。それは、仕事がありまして」

 

「明日からでいいでしょッ! 今日は休み! 休みよ。休みなさい!」

 

 レミリアはキンキンと高い声で繰り返すと、紙くず同然になった勤務計画表を握っていない方の手でまっすぐ秘書室の出入り口を、廊下の方を指す。

 

 しかし、赤城が戸惑い黙っていると、ついに彼女は大声で「早く出て行きなさいッ‼」と怒鳴った。

 

 

 

 

 

 

 かくて赤城は自らの牙城であるはずの秘書室から叩き出されてしまい、することもなくなってとぼとぼと寮の自室に戻って来た。こんな日は初めてである。

 

 結局、レミリアが怒っていたのは赤城が休日出勤したからだった。

 

 艦娘は、どこの鎮守府でもそうだが、月毎に勤務計画が策定され、それによって休日――すなわち非番が決定される。非番は月に四日であり、どんな艦娘にも必ず毎月与えられるもので、規則の上ではその日は出勤してはならず、手順に則って外出許可を得れば外に出てもいいし、公序良俗や法規則に反することでなければ基本的に何をしても自由。艦娘といえど労働基準法の偉大なる庇護の下にあるというわけだ。

 

 もちろん、軍隊であるから急な作戦や活動というのはあるもので、非番が潰れることも珍しくはないのだが、その場合も必ず振り替え休日が用意される。翌月に振り替えるのでなければ、四日は立場など関係なく艦娘は誰しも休みを取れるというわけだ。事実、今までもこの鎮守府においても赤城を含め、すべての艦娘に非番は与えられ続けてきた。

 

 だから、赤城にとってはますます腑に落ちないのである。レミリアがあれほど怒っていたことについて。

 

 

 手持無沙汰で自室に入ると、当たり前だが中は無人で、赤城以外の艦娘は普段通り訓練中だから寮の建物自体が静けさに包まれていた。同僚の加賀が朝からいなかったのはどうやら彼女が今日一日赤城の代わりに秘書艦業務を担うかららしく、それだけは唯一合点出来た。赤城を追い出す間際にレミリアがそう零したのだ。

 

 どうやら話は事前に出来上がっていたらしい。当の赤城がそんなことなど一言も聞いていないのは「ホウレンソウ」がなってないんじゃないかと思うが、よくよく記憶を探ってみればここ最近は夜更けまで残業していたので加賀と会話する機会が朝しかなかったし、加賀は朝に極端に弱い質であるからきっと赤城に非番のことを言い損ねてしまったのだろう。

 

 ただ、それはもういい。済んだことだ。問題は、手ぶらになった今日一日、果たしてどのように過ごすかということだった。

 

 何せ非番の日に仕事をするなど、赤城は今まで毎月そうしてきていたし、だからまともに休みらしい休みなど過ごしたことがない。デスクワークの多い赤城は、必然的に平日に海に出る時間がかなり限定されてしまう。だから休日は感覚を忘れないために海に出る貴重な時間だった。戦闘用の本艤装はともかく、訓練艤装なら工廠で名前を書けば数時間持ち出せる。あるいは、海に出なければ一日弓の打ち込みをしている。これももちろん、空母として当然積んでおかなければならない鍛錬の一つだ。

 

 とすれば、赤城の法定休日というのは、平日に処理し切れなかったデスクワークか、海上訓練か、弓の打ち込みかに費やされているわけで、休日らしい休日というのは全くない。確かに規則に照らして言えば休日出勤は違反行為であるが、こうした平日には出来ない、あるいはやり切れない業務をこなすのに非番の日はたいへん重宝した。というのも、普段の秘書艦の仕事というのは、その大方七割八割が急なものばかりであり、思うように仕事を進められないことも珍しくないからだ。

 

 逆を言えば、残っている仕事はさっさと終わらせていかないと後から後からやることが増えていってその内身動きが取れなくなってしまう。そうした意味ででもやはり休日出勤は赤城に欠かせないものであったし、周囲も「多忙であるから仕方がない。それどころか休みを潰してまで働いてくれて感謝しないといけない」と目を瞑ってくれていた。

 

 そして、赤城自身、休日出勤を繰り返してきたからか、もはやそういう働き方しか出来なくなってしまっていたのだ。出撃も含め、年がら年中365日無休で働くことになっていても、苦痛とは思わないし、休んでいるとかえって仕事のことで頭が一杯になってしまい、他のことに手が付かなくなるのだ。

 

 だから、今更「休日には休め」と言われたところで、ではどうすればいいのか皆目見当もつかない。もちろん、秘書艦になる前、それはだいぶ昔のことだが、その頃はごく普通の休日を過ごしていたように思う。何せもう何年も以前のことだから、どんな風に休みを潰していたか記憶があやふやである。この鎮守府に来る前は都会の港に居たから、確か街に繰り出していた。栄えていたから色んな物を買いに行った覚えがある。

 

しかし、この鎮守府に異動してからというもの、秘書艦に命じられ仕事に忙殺されていつの間にやら休出が当たり前となり、今となってはもはやまともな休日というのがどういうものであったかさえ思い出せない。うら若い女性なら街へ買い物に出掛けたり、グルメを漁ったり、映画を見に行ったりするのだろう。あるいは意中の誰かと観光地を訪れるというのもあるかもしれないが、生憎赤城には男っ気というものがからっきしである。そもそも出会いすらないし(この男社会において)、また誰かと親しくなりたいという願望もない。ついでに言えば物欲も乏しいし、行きたいお店や見たい映画などはどこに何があって、今どんな作品が上映中なのかという知識すら持たないのだから行きようがないのである。

 

 それを自覚すると、自分が恐ろしいほど世相に疎くなってしまっていることに愕然とする。一応新聞を読んだり、食堂のテレビでニュースを見たりするので社会を賑わせる事件や、政治・経済の主な話題は把握しているつもりであるが、世俗、特に娯楽面においてはおよそ他人とは比較にならないほど無知であった。

 

 これでは仕事人間ならぬ“仕事艦娘”である。いつの間にやら、自分は自分で思っている以上につまらない存在に成り下がってしまっているようで、そのことが一番ショックであった。

 

 

 

 

 赤城はのそりと部屋の中を移動し、タンスの一番下を開ける。そこには前の都会の鎮守府に居た頃によく着ていた私服が丁寧に仕舞われてある。虫に食われないよう防虫剤は四カ月に一度必ず入れ替えているし、防虫シートも半年毎に交換するのを忘れたことはない。服に濃く防虫剤の匂いが付いているのを除けば、今すぐにでも十分身に着けられる状態にある。

 

 しかしだ。この服自体相当前の物だし、今更着ても型落ちもいいところ。有り体に言えばセンスがもう「古い」。

 

 “色気より仕事”だった赤城とはいえ、自分が若い女であるという自覚はあるし、正直古い服を着て街を出歩くのは恥ずかしい。その辺りのことなら、鎮守府で一番詳しいのは間違いなく金剛だ。非番の度に外出する彼女なら、様々なアパレルショップを知っているだろうし、小洒落たアクセサリーショップやら和洋中の美味しい名店も聞けば教えてくれることだろう。ただ問題は、当然のことながら彼女は現在公務中であり、赤城にそんなことを教える暇はないということ。

 

 いや、別に街を知っているのは何も金剛だけではない。同室の加賀だって時折お洒落をして街へ出ることがあるのだから、きっといろんなお店を知っているに違いない。ついでに言えば、加賀は赤城と体格がほぼ変わらないはずだから、いざとなったら彼女の服を借りてもいい。その融通が利くくらいには加賀と親しいつもりである。

 

 だが、その加賀だって赤城に代わって秘書艦業務に従業しているわけで、つまるところ赤城は一人でこの休日を過ごさなければならないのだ。

 

 いやいや、一人が寂しいというのではない。結論として行きつくのは、どういう過程であれ「今日何すればいいか」である。街に出ないというのであれば、一日を鎮守府内で過ごすことになるのだが、果たしてすることがあるかと言えば……。

 

「ああ、そっか」

 

 滅多に出さない独り言を呟き、赤城はタンスを閉めて立ち上がる。

 

 思い出す必要もない。自分の趣味というのは当たり前にすることの一つで、休日を潰すならこれ以上ふさわしいものもないだろう。加えて、この趣味は実益を兼ねているから無駄な時間にもならない。

 

そう、弓道が赤城の唯一の趣味であった。

 

 

 

 

 

 

 弓道場に立っていざ弓を引いてみると、意外なほどに精神が集中出来なかった。本来は的に向かわなければならない意識が、これは鍛錬ではないと必死に自分に言い聞かせることに割かれてしまう。しかも、いろいろと雑念が湧いてくるのだ。今まで見せたことのないような怒り方をしたレミリア、自分が相当な世間知らずになってしまっていたことへの衝撃で、まったく集中出来ない。もし彼女に見つかったら、今度はあれ以上の剣幕で叱られるんじゃないかという懸念も頭をもたげ始めていた。

 

 それでも最初の何射かは気合で的へ命中させたのだから、それだけでも大したものだと自画自賛してもいいだろう。しかし、そうは言ってもこの雑念だらけの今の精神状態では射続けても大した意味はないし、気分も晴れないに違いない。気が散っていい加減な矢を放つくらいならと思い、早々に弓道場から引き揚げた。

 

 そして、いよいよ赤城は手持無沙汰になったのである。時間も十時台と非常に中途半端だ。

 

 することが思い付かない。暇だ暇だと嘆いても、妙案は浮かんで来ない。

 

 自らのあまりの仕事中毒っぷりに打ちひしがれ、赤城は半ば前後不覚の状態でふらふらと鎮守府内をさ迷い歩いた。途中、訓練中の艦娘を海の上に見掛けたが、彼女たちは当然赤城に気付くこともなく、一心不乱に打ち込んでいるようだった。

 

 何でも一途にやればいいというものでもないし、メリハリというのは様々な口からそう言われるように、やはり大切なものだった。「休む時にしっかり休む」という簡単なことさえ、今の赤城には出来ない。

 

 そして、そこまでして赤城が仕事に没頭してしまったのは、実は自覚していないけれど「自分がいなければ鎮守府は回らない」という意識があったのではないだろうかと思う。否、ただ目の前の仕事を言い訳に自覚するのを避けていただけだ。

 

 

 

 

 これこそまさに傲り。慢心。思い上がり。

 

 あれ程海上で慢心を他者に諫め続けてきた自分が、逆にこんなところで驕り高ぶっていたのだ。一体何様のつもりなのだろう。現実は、赤城が何もしなくても鎮守府はいつも通りに運営されているし、特にトラブルも起きていないようではないか。

 

 だからと言って自分がこの鎮守府に必要ないとは思わないが、馬鹿みたいに無休で働き続けてきたのは一体何のためだったのかと思わずにはいられない。赤城一人が居なくても案外何とかなるものだし、そこで妙な見栄を張って自分の必要性を強調しても、傲りは現実に跳ね返されるだけ。

 

 それどころか、今までそうしてきたことの弊害が、見えていなかっただけで、たった一日の休みを貰っただけで簡単に露呈し、今更ながら赤城は無様にも落ち込んでいるのである。

 

 赤城だって一人の女で、それが自分の時間のほとんどを犠牲にし、なけなしの自由時間をすべて趣味の弓道に充て、弓以外に楽しみを持つこともなく、ひたすらに仕事打ち込んできた結果は、見返りに見合わない代償の大きさを認識したことだけ。ファッションも、グルメも、あるいは恋愛も、赤城には何一つなく、どれもがいつの間にやら遠い存在になっていた。

 

 

 ダサい女。仕事オタク。つまらない人間性。売れ残り。

 

 12月26日のクリスマスケーキみたいな存在。味も落ち、魅力も落ち、ゴミ袋に放り込まれるか動物の餌になるだけの惨めな残飯。

 

 

 赤城の中で、自身を罵倒する様々な言葉が生み出され、それが脳内に響く度に心は鞭で打たれたように悲鳴を上げる。しかし自己嫌悪は止まるところを知らず、がっくりと項垂れたまま赤城は鎮守府庁舎の建物内を歩いた。

 

 すれ違う職員たちが挨拶をするが、意識が完全に内向きになっていた赤城は、体に染みついた敬礼の所作を条件反射のように繰り返すだけ。上の空で歩き続ける彼女を誰もが不審な目で見たが、普段淑やかで知性的な彼女が見せる異様な様子に誰も声を掛けられなかった。

 

 

 

 

 ――気付けば、休憩所に来ていた。

 

 立ち並ぶ数台の自販機の内の一台が開けられ、そこから缶飲料を補充するがこん、がこんという音がしている。

 

 どこかで見たことがある光景だ。デジャブだろうか。

 

 いや、そんな大したものではない。日常的に飲料会社の従業員が自販機の補充とメンテナンスにやって来るのだから、さして珍しい光景でもない。

 

 赤城は何を買うでもなく、据え付けられているベンチにトンと腰を下ろした。何となく、歩き疲れた気がする。しかし、それがどうしてかは分からない。そんなに歩き回っていたのだろうか。

 

「あ、こんにちは!」

 

 赤城に気付いたのか、それまで補充をしていたつなぎを着た女が元気よく挨拶する。赤い髪が目を引く背の高い女で、確かこの夏以降そのつなぎの飲料会社の自販機を管理している。夏でもいつも爽やかに挨拶して、清々しい笑顔を見せていた印象が強く残っていた。話すと気持ちのいい人物だ。

 

「お疲れですね」

 

 女が新しい缶飲料のカートンを開けながらにこやかに話し掛けてくる。

 

 首を微かに動かし、赤城はぼそぼそと肯定した。

 

「ええ。まあ」

 

「国を守ってらっしゃるんですから。大変ですよね」

 

 がこん、がこんと、また女は補充を始める。冷えていない炭酸飲料のアルミ缶が斜め上を向いた投入口に次々と落とし込まれていく。

 

 

 

 

 

「本当に。休む暇もなく働いていました」

 

 彼女の不快感を感じさせないさっぱりとした口調と表情に、赤城は自分でも珍しいと思うくらいに会話に乗った。人恋しさもあったのかもしれない。

 

「今日気付いたんですけど、私はここ何年か、まったく一日も休みを取っていなかったんですよね」

 

「それは、また……」

 

「どうかしてますよ」

 

 赤城は自嘲する。本当に、心底自分はどうかしていると思う。きっと、頭の中の大切なネジが何本かなくなってしまっているに違いない。

 

 けれど、女の方は笑ったりせず、しゃがんでから持って来た台車上の新しいカートンを開封する。

 

「だけど、今日は休みなんです。一日空いてしまったんです」

 

 自分は何を言っているのだろうか。いくら相手が顔見知りで、性格も人当たりが良くて接しやすいといっても、まるで赤の他人である。挨拶以外まともにコミュニケーションを図った覚えすらないないのに、どうして自分は心の内に溜まっているものをぶちまけているのだろう。

 

 けれど、いくら赤城がそう思っても口は止まらなかった。あるいは、理性も本気で吐露を遮ろうとはしていないようだった。

 

「今まで働き詰めだったから、かえって何をすればいいのか分かりません。弓道場に行っても身が入らないし、街に出ても何があるのかさっぱりで。私はこんな仕事一徹なだけの存在だったのかって思ってしまうんですよ。だから、もう休日の過ごし方なんか覚えていなくて……」

 

 

 そこまで言ってふとと思い出した。目の前の彼女は、今まさに仕事中だ。

 

 どうして気付かなかったのだろう。働いている人間に対して、「休みが暇で仕方ありません」と言うのはどう聞いても嫌味にしかならない。相手が相手なら激怒することだろう。

 

 幸いにして彼女は温厚そうだから感情を爆発させることはなさそうだが、それでも不愉快なはずだ。

 

 何てことをしてしまったのだろう。何でそんな簡単なことにも気付かなかったのだろう。

 

 本当にどうかしている。

 

「すみません! 他意はないんです」

 

 慌てて謝罪と釈明を述べる。女は無言で背を向けたまま、相変わらず補充を続けた。

 

 

 やはり、怒ってしまったのだろうか。それもそうだろう。

 

 赤城はいたたまれなくなってベンチから立ち上がった。これ以上この場にいて、気まずい空気を吸い続ける気は到底起きなかった。

 

「すみません」

 

 もう一度謝罪を口にして去ろうとした時、

 

 

「私で良かったですよね」

 

 

 と女が言った。

 

 足が、止まる。何を言われるのかとびくびくしながら振り返ると、意外なことに女は穏やかな笑みを浮かべていた。彼女は補充が終わったのか自販機を閉じ、空き箱を開いていく。慣れた手つきでさっささっさと段ボールを片しながら、彼女は続きを口にした。

 

「暇な時はね、寝ればいいんです」

 

「寝る、ですか?」

 

「そうです。お昼寝ですよ。特に昼食後が最適です。今日は天気もいいから海辺で横になるとさぞかし気持ちの良いことでしょう」

 

 女の口調は快活だ。そこに嫌味など全く含まれていない。

 

「私なんかもね、眠くなった時は休憩時間によく寝るんですよ。十分とか十五分とか。車の中でね」

 

 彼女は少し顎を後ろに向けた。指し示したのはいつも乗っている飲料会社のトラックだ。

 

「この間なんか、十分寝るつもりが目覚まし掛け忘れて一時間寝ちゃいまして。後で上司にばれてたっぷり絞られちゃいましたよ」

 

 女は「あっはっは」と景気よく笑う。赤城はつられて笑っていいのか分からなかった。

 

 そうしながらも、女はてきぱきと片づけを終え、使わなかった未開封のカートンと畳んだ段ボールを台車に乗せる。

 

「休みの日なんかは特にね。普段生産的な活動をしているんだから、休日ぐらい非生産的な過ごし方をしてもいいんじゃないですか?」

 

「非生産的な……」

 

 彼女はもう行くのだろう。それで結論が出たと思ったけれど、予想に反して女は手を止めた。

 

「私事なんですけど」と彼女は前置きして、さらに語る。

 

「以前、あるお金持ちの家の警備員のような仕事をしていましてね。まあ、警備と言っても平和なもので、田舎だからか特に何もないんです。それでいいのか悪いのか、暇で暇で仕方のないような仕事で、ほとんど一人だから好き放題に出来ました。昼寝をしたり、本を読んだり。近所の子供たちの遊び相手にもなったりしました。しかも、賄いのご飯が美味しくてですね。年下の上司がちょっと神経質なくらいで、総じていい職場でしたよ」

 

「……そうだったんですか。でも、ご転職されたと?」

 

「いろいろありましてね。ただ、だから何だという話ですけど、その仕事での楽しみはシエスタと食事でしたから、長いこと続けられていたんです。褒められた勤務態度じゃないのかもしれないですけど、私には肩肘張って働くっていうのが出来なくて。

 

もちろん、貴女は立派なご使命をお持ちなんだと思いますよ。責任も人一倍重いのでしょう。年中無休でなんて、相当な覚悟がなければそんな働き方は普通出来ませんよ。それはすごいことだし、私たちみたいなのからすれば国を守るために戦って下さるんだから感謝しないといけない。

 

でも、どんな人にだって休息っていうのは必要だと思いますよ。

 

寝ててもいいじゃないですか。休みなんですから。仕事中はやることやらないといけないでしょう。けど、休みの時まで“何かやらなきゃいけない”なんていうことはないと思います。それこそ休みだから“何もしない”のも、別にそれでいいんじゃないですか。休んでばっかりの私が偉そうに言えたことじゃないんですけどね」

 

 

 

 

 目から鱗、というのはこういうことを言うのだろう。

 

 それこそまさに顔から何かが剥がれ落ちていくような気がした。

 

 

 休みだから何もしない。

 

 休日も何かして、休日らしい休日を過ごすものだと考えていた赤城にとってはこの上ないほど新鮮な価値観。そうか、別に惰眠をむさぼっていても、無為で無駄な時間潰しをしてもいいんだ。

 

 新たな光明が差した気がした。

 

 

「そうですね! アドバイスいただきありがとうございますっ!」

 

 

 赤城は勢い良く、深々と頭を下げる。

 

 嫌味なことを言ってしまったのに、まさかこんな真摯な助言が返って来るとは思わなかった。彼女は赤城の失言を額面通りに受け取らず、悩みを見抜いてああ言ってくれたのだ。聡い女性だと思う。何より、その人格者っぷりに脱帽である。

 

「いやあ、大したことじゃないですよ。そんなに頭を下げられるとこっちが恐縮してしまいます」

 

「そんなことありませんよ。お陰様で助かりました」

 

「あはは。同慶です」

 

 赤城は跳ねるような足取りで休憩所から出た。

 

 次の予定、と言うほどのものでもないが、やることは決定した。休憩所のある鎮守府庁舎から飛び出し、そのまま急ぎ足で広々とした基地の中を縦断する。目指すは艦娘寮の自室。

 

 部屋に入ると、当然誰もいない。加賀が戻ってきた痕跡もない。そりゃそうだ。彼女は今秘書艦として働いているのだから。

 

 そんな彼女を差し置いて、こうして昼寝するのは少し胸が痛んだ。けれど、きっと彼女なら「うん」と言うに違いない。

 

 寝巻にきちんと着替えてから赤城はベッドで横になった。すると、まるで休眠を待っていたかのようにあっという間に瞼が重くなり、ほどなくして赤城の意識は途切れたのだった。

 

 

 

 

****

 

 

 

「あっははははっ‼ 何それ!? 貴女、最高ねぇ‼」

 

 

 甲高いレミリアの笑い声が司令室に木霊する。

 

 ここまで豪快に笑われると、かえって羞恥心などなくなって戸惑いが胸を占めるようになるらしい。無邪気に破顔するだけのレミリアを見ていると、一体今の話のどこにそんな可笑しな要素があったのかと勘繰り始める。が、とんと分からない。何がレミリアの琴線に触れたのやら。

 

 あっけにとられて目を丸くする赤城と、なおもクスクス楽しそうに声を漏らすレミリア。彼女はいつもの如く、朝のコーヒーブレイクを始めようと食器棚(家からの持参品だそうだ)の戸に手を掛けていたのだが、笑いのせいで完全に動作が中断されていた。一方、彼女の貴族趣味を無視して書類の山を目の前に置こうとした赤城も、戸惑いで動きが止まってしまっていた。

 

「えっと、どういうことでしょう」

 

「どういうことでしょうって! もう、面白すぎるじゃない。しかも自分じゃ気付いていないっていう」

 

「……分かりません」

 

 

 

 話題は昨日の赤城の休みのこと。

 

 実に数年ぶりのまともな休日は、総括すれば「散々な一日」であった。というのも、朝はレミリアに怒られてから世俗にすっかり疎くなってしまったり無意識の内に思い上がっていたことにショックを受け、お昼前は鎮守府内をふらふらと徘徊してそれを多数に目撃されていた(今朝、艦娘や職員たちに心配されてそれが分かった)。さらに、昼寝をしたのだがその後が問題で、目が覚めたのはなんと午後の九時過ぎ。もう消灯まで一時間もないという時間で、当然のことながら食堂も売店も閉まってしまっている。昼と夜の食事を抜くことになったツケは耐え難い空腹と冴えに冴えた意識のせいで不眠に陥るという地獄の如き苦痛として支払うハメになった。

 

 加賀が見かねて隠していたお菓子(規則違反だがこの際不問にする)を出してくれてそれを食べ漁ったが、そんなものでは到底胃袋を満たすことなど出来ず、結局赤城は朝まで空腹に苦しみ続けたのだった。

 

 本当にもう信じられないほど踏んだり蹴ったりである。

 

 

 

「種明かしをするとね」

 

 笑い過ぎて目尻に溜まり始めた涙をぬぐいながらレミリアは少し枯れた声で話し出した。

 

「加賀が言って来たのよ。貴女が今までずっと非番の日も働いていて、まともな休みを取っていないんだって。昨日の非番も出て来るだろうから、自分じゃ言っても聞かないから何とかして欲しい。でないと、いつか倒れてしまうってね」

 

 

 ああ、やはりそうなのか。

 

 

 薄々感じてはいたが、急にレミリアが命令を出してまで休みを取らせたのは、加賀からの懇願があったからだった。直接言わず、遠回しに気を遣うあたりが実に彼女らしく、一方でやはり加賀の思う通り彼女から休むように言われても昨日までの自分なら何だかんだ言い訳して休まなかったっだろう。

 

 結果は確かに「散々な一日」ではあったが、しかし不思議と心は軽く、肩の凝りも取れている気がする。今朝初めて顔を合わせたレミリアからは、「顔色が良くなったわね」と言われた。今のやり取りはそこからの続きである。

 

 休みを取ったことは、自分にとってプラスに働いたのだろうか。結果の評価を、未だ赤城は決めあぐねている。

 

 

「まあでも、良かったじゃない」

 

「そうでしょうか。酷い目にあった気がします」

 

「出来事だけを見ればそうだけどね。でも、昼前に寝て、そのまま夜更けまで起きないって、貴女相当疲れが溜まっていたのよ。今はそれが抜けていい顔しているわ」

 

「全然眠れなかったんですけど」

 

 そっと頬に指をあててみる。心なしか肌に張りが戻っているような。

 

「それね。ホント、面白いわぁ」

 

「何も面白いことありませんよ! 大変だったんですから」

 

「でしょうね。朝食も、一杯食べたのでしょう?」

 

「ええ。普段の三倍は入りました。二食抜いていますからね」

 

 今度はレミリアがあっけにとられる番だった。

 

 部屋の真ん中で足を止めたままの赤城を振り返って、彼女は大きな目を丸くする。

 

「三倍? よく食べられるわね」

 

「それくらい、胃が空っぽだったんです」

 

「貴女、結構食べるのが好きなタイプじゃない?」

 

「さあ? 腹が減っては戦が出来ぬと言いますし」

 

 言ってから、自分がやりかけていたことを思い出し、秘書室から持って入った書類をレミリアのテーブルの上に置く。元々あった仕事机を彼女が勝手に片付けてしまったので、今はソファに挟まれた低いテーブルがその代わりを務めていた。

 

 それらは取り急ぎレミリアのサインが必要な申請書の束だ。今から彼女がコーヒーブレイクするのだが、そんなことに構いはしない。赤城は少しレミリアに対して怒っていた。

 

「いやいや。よく食べる方だと思うわよ」

 

「何ですかそれ? 色気より食い気と仰りたいんですか?」

 

「うーん。確かに貴女、女にしては花が足りない気がする」

 

 グサリ。思わぬ言葉の刃は無防備な赤城の胸に深々と刺さる。

 

 これは、彼女の反撃なのだろうか。

 

「あの、提督……。あんまりストレートに言わないで下さい」

 

「突き刺さるってことは、自覚してるっていうことなのよね。なら、いいじゃない。花なんてこれから咲かせば。貴女ならすぐに綺麗な花を咲かせられるわ」

 

 

 ――まったく、この人はまたそういうことを言う。

 

 レミリアは酔っているわけじゃない。素で、平然と、こういうことをさらりと言ってのけるのだ。

 

 顔が熱くなるのを自覚した。食器棚を開けてコーヒーカップを取り出す提督の背中を睨み付け、赤城は言葉を投げる。

 

 

「提督がそういうことを仰っても、似合っていませんよ」

 

「あらそう。それは残念」

 

 レミリアはコーヒーカップを二つ取り出した。

 

「ところで、一杯いかが?」

 

「……仕事、始めませんか」

 

「いらないの?」

 

「頂戴します」

 

 赤城はソファに腰を下ろし、置いたばかりの書類をテーブルから自分の脇に移した。レミリアはその間、食器棚の上に乗せられているコーヒーメーカーに粉を入れ、隣に並べて置いてあったケトルから湯を注ぐ。濃厚な豆の匂いがふっと部屋中に広がった。

 

 それから彼女はおもむろに懐から懐中時計を取り出す。品のいいレトロな小物で、レミリアの雰囲気にはよく似合っていた。前にそのことを褒めると、「これは借り物よ」と返って来た。何のためかと言えば、コーヒーや紅茶の蒸らし時間を計るための物らしい。コーヒーの場合、きっかり三分である。

 

 

「肩肘張ってもしょうがないわ。気楽にいきましょう」

 

 ね? とレミリアは片目を閉じ、ペロッと舌を出す。

 

 そういう仕草を彼女がやるのはつくづく反則的だと思った。

 

 すっかり毒気を抜かれて赤城は笑うしかなかった。口元がだらしなく緩んでいるのを自覚する。

 

 彼女の台詞は昨日飲料会社の女が言っていたのと同じことだ思い出した。まるで示し合わせたように赤城を諭す、というのはさすがにいぶかりすぎだろう。けれど、別々の二人から同じことを言われるくらい、やっぱり自分は根を詰めていたのだ。

 

 気楽に。肩の力を抜いて。

 

 うん、たまにはそういうのもいいかもしれない。

 

 

「提督」

 

「ん?」

 

「お昼寝、してもいいですか?」

 

 

 レミリアはにっこりした。

 

 

「もちろんよ。ここなら眉間にナイフが刺さることもないからね」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督11 Flaming Night (1)

 

 

 

 涼しいというには少し温度の低い風が真正面から吹きつけて来て、レミリアは思わず目を瞑った。さあっと、少女を通り過ぎた風は、海からやって来て陸へと急ぎ足で駆け去っていく。

 

 もうすっかり秋になった。気温はだいぶ落ち着いたし、陽光も夏のギラギラとした殺人光線じみたものに比べれば随分と優しくなっている。もっとも、今日は空一面を灰色の雲が覆い、レミリアの肌に天敵である太陽光をきっちりと遮断してくれているので、日傘も差さずに外を歩くことが出来た。明後日には台風が上陸するということで、嵐の来訪を予感させるように今日から天気は下り坂だそうだ。人間が発明した、そこそこの確率で近日中の天気を言い当てる予報がそう教えてくれていた。

 

 風は少し冷たいが、長袖を着込んでいれば身を震わせることもない。程よい気温に、レミリアは例によって上機嫌で鎮守府行脚をしていた。

 

 この国には各地に鎮守府というのは設置されているわけで、当然各々司令官というのが存在する。そして、それぞれ鎮守府の運営方針というのは異なるだろう。ずっと司令室に構えていて何もかもを部下に任せる者もいれば、現場重視で現場の環境を整えることに尽力する者もいるだろうし、はたまた専ら本部に居てばかりの者も居よう。一口に鎮守府司令官と言えどその実情は十人十色。だが、その中でもレミリアは特に異色で、これほど奇異な司令官は他にいないと思う。

 

 別に、自画自賛というわけではない。ただ、こうして鎮守府を歩き回り、現場の軍人や艦娘と頻繁に話をする司令官は世界広しと言えどレミリアくらいしかいないのではないだろうか。この鎮守府では、日傘を差しながら敷地内を徘徊するレミリアの姿はすっかり名物となり、最初は不審な目で見ていた人々もやがて気軽にレミリアと話をするようになった。彼らにとっては自分たちの不満を長官に直訴するチャンスが割とたくさん増えるということでもあり、結果レミリアは下からの実に様々な要望や意見を吸い上げるようになった。それらの中には、この鎮守府では古株の部類に入る赤城でさえ知らないこともあり、しばしば彼女を感心させた。

 

 もちろん、レミリアは暇だから行脚を繰り返しているわけではない。赤城という、優秀過ぎるほど優秀な部下がいて、大概の仕事を丸投げしても大丈夫なのは確かなのだが、何よりレミリアが鎮守府内を見回るのは、レミリアが海軍という組織に不慣れであり、実情に対して余りにも無知だからだ。

 

 すべては百聞は一見に如かず。人伝に話を聞いても知識は増えるが理解が増すわけではない。知識に過大偏重している友人を思い浮かべながらレミリアは常からそう感じているのであり、それ故の行動であった。何よりもこうしたレミリアの方針が、赤城という今やすっかり片腕となった存在の理解を得ているのが大きい。

 

 かくて、レミリアは今日も今日とて鎮守府行脚に繰り出た。朝から工廠に顔を出し、雑談もそこそこにいくつかの機械の不調で作業が滞っているという情報を仕入れてから、今度は海沿いに、桟橋や突堤を見ながら歩いた。その中で釣り糸を垂らしている彼女を見かけると、ほんの一瞬立ち止まってからレミリアはそちらに足を向けたのである。

 

「ごきげんよう。釣果はどうかしら」

 

 横合いから声を掛けると、彼女は反対側に顎を振るように顔をそむけた。

 

 不機嫌なのか、とも思ったがそうではないようだ。彼女の顎の先、レミリアから見てちょうど彼女の体の影になっている側に水の張ったバケツがあり、その反応がレミリアが来たこと自体に対するものではなく、掛けた言葉への返答だったと気付いた。ひょいと彼女の頭越しにバケツの中身を除くと、水以外に何も入っていなかった。

 

「上々ね」

 

 冗談で秘書艦の口癖を真似てみる。

 

「太公望は休業中よ。絡むんなら漣のところにでも行ったら? 非番、一緒だし」

 

 冗談に怒ったのか、気を悪くしたのか、休業中の太公望はそっけない。

 

「たまには貴女とお話してみたいの」

 

「……あっそ。好きにすれば」

 

 彼女の言葉はひどく冷淡に聞こえる。顎先は微かに上を向き、釣り竿の先を見据える横顔はとんがっていた。不機嫌どころか取り付く島もないような様子だが、かき上げた髪の合い間から覗く耳たぶはやたら血色が良くなっている。

 

「好きにさせてもらうわ」

 

 彼女の、曙の反応を楽しみながらレミリアはゆっくりとその隣に腰を下ろす。嫌がらないので、受け入れてくれたということなのだろう。

 

 大きく海に突き出た突堤。足元のコンクリート護岸に波が当たっては砕け、当たっては砕けを繰り返している。彼女が海の上に突き出した釣り竿から延びる糸の先にはブイが取り付けられていて、絶え間なく突堤を洗う波にゆらゆらと不規則な軌道を描いて揺られていた。

 

 それにしても、波とは実に不思議なものだ。

 

 海というのは、それは湖も含めてだが、それ自体はただ単に巨大な水たまりに過ぎない。海は地球の表面積の七割を占めるというが、裏を返せばこの地上に海の水が入ってしまうくらいの大きな窪地があり、海というのはそこに水が溜まっているだけなはずだ。そうであれば、そこに本来水面の揺らぎである波という現象は発生しないのではないだろうか。コップに水を溜めたところで、そのコップを揺らさなければ水面に波は生まれない。仮に生まれても、揺らすのを止めればいずれ波も静まる。

 

 だがしかし、海は常に波打っている。そこはいつも揺れている。

 

 それは海の上を風が駆け抜けるからだろう。雨雲が空から雨という形で水を補給するからだろう。大地は一年間に数センチという極めて遅い速度で動いているからそれもあるのだろう。

 

 けれど何よりも、この地球自体が自転している。地球は太陽の周りを公転し、さらに自らも一日一周の速度で回っている。空を太陽が半周するのは、太陽が動いているからではなく地球が回っているからだ。言うなれば、海という中身を溜めた地球というコップは、常に動いており、故に水も常に揺らされている。

 

 そう考えると、今この足の下でコンクリート相手に玉砕を繰り返している波というのは、実はこの地球の自転が作り出した現象であり、深く考えれば自然の雄大さへと思い至るのだ。日が昇って沈み、波が護岸で砕け、私たちが回転しているというのは本質的にまったく同じなのである。

 

 なるほど、これほど世界の広さ、大きさを示すものはない。内陸の、山に囲まれた狭い土地の中にいるだけでは意識し得ないことだろう。海という開かれた場所に出て来たからこそ、レミリアはこの自然の雄大さに思いを馳せるようになった。海は広いな大きいな。まさにそうだ。母なる海。生命の故郷。

 

 そう考えると、自分たちというのは本当にちっぽけな存在でしかないのかもしれない。人間も艦娘も深海棲艦も、地球という巨大な船の中で這い回る虫けらのようなものなのだ。

 

 と、レミリアが世界の大きさに感慨を抱いていると、隣の彼女はおもむろにバケツの横、自分の荷物が入っているであろうバッグの中から一冊の文庫本を取り出した。かわいらしいウサギの絵柄がプリントされたブックカバーに覆われ、本の題名は分からない。

 

 それを見て、レミリアは曙という少女の度量の大きさに舌を巻く。

 

 彼女はこの雄大な海を前にして、釣り糸を垂らしながら、しかし自然に負けず劣らず鷹揚に構えて読書するというのだ。どこぞの知識人のように知識を漁るのではなく、小説という知的生産物から高度な知性と感性の摂取を行い、現実の世界を目の当たりにしながら細かな活字の世界へと旅立つ。レミリアでさえ畏れを抱かずにはいられなかった海に対し、海の上に立つことを生業とする彼女はまるで自らの優位を誇示するかのように余裕の態度で本を開いたのである。

 

「何よ?」

 

 彼女の尊大にして、悠然とした姿に感心と敬意の眼差しを向けていたレミリアに気付き、曙は心底鬱陶しそうな表情でそう言った。

 

「いいえ。なかなか、いいものだと思って」

 

「は?」

 

 言葉通り彼女は眉をハの字にして、ナニソレイミワカンナイと付け加えた。

 

 しかし、レミリアにそれ以上の意図を問うこともなく、彼女はまた文字の中に没入してしまう。どうやら静かな時間を過ごしたいようだったし、手持無沙汰ながら彼女と肩を並べて世界の動きを眺めているのもなかなかに情緒なものだと思ったから、レミリアも話し掛けずにいることにした。

 

 風は優しかったが、もう少し厚着をして来ればよかった。

 

 隣の曙と言えば、上着こそ夏服の半そでだが、寒さを勘案してかタイツを履いているし、上着の上にはフィッシングベストを羽織るという本格ぶり。水だけ入ったバケツの横には餌箱も置かれている。

 

 なかなか様になっていると言えよう。だが、肝心の釣果の方はさっぱりだった。

 

 曙は本を読んだまま、レミリアは水平線の向こうに視線を投げて頭を休めたまま、主観時間で十分は経過しただろうと思われる頃、隣の太公望はおもむろに文庫を閉じてしまった。

 

「何よ?」

 

 ぶっきらぼうに、藪から棒に、さっきも聞いたような単語だった。

 

 視線もあからさまに不審がっている。レミリアが何もせずに並んでいることが相当気になったらしい。

 

「別に。暇を潰してるだけよ」

 

「仕事しなさいよ」

 

「これも仕事の内」

 

「今、暇って言ったじゃない」

 

「暇な仕事もあるってことよ」

 

「意味分かんない」

 

 暖簾に腕押し。糠に釘。のらりくらりと遊びのような言葉で曙の追及をかわす。

 

 レミリアには確かに彼女に対して用事があった。釣り糸を垂らす背中を見た時、今朝赤城を通して聞いた要件を伝えなければならないことを思い出したのである。

 

 だが、曙は今まさに自分の趣味を楽しんでいるところ。この雄大な海に対し、たった一本の糸を垂らして幸を頂戴しようと挑戦している最中である。まして、この要件の内容を鑑みれば、彼女に今仕事の話をするのは無粋というものだろう。

 

「そうやって黙って横に居られるの、気持ち悪いから。用件があるんならさっさと言ったらどうよ? ただ暇なだけならどっか行って」

 

 と、曙。レミリアの心中を知る由もなく、彼女は彼女らしいきつい言葉を鞭のように振り回して叩きつけて来る。

 

 これが素の性格なのか、あるいは虚勢を張っているだけなのか、とにかく曙は口が悪い。仮にも上官たるレミリアに対してもこの言い方である。

 

 普通の者なら目に余る態度に激怒して営倉送りにしてしまうかもしれないが、生憎レミリアはその程度のことには目くじらを立てないほどに鷹揚で、見た目に反して老成していた。彼女がつんけんした物言いをする度、温かい視線を配って微笑みながら、まるでじゃれてくる子猫を見るように穏やかに接するのだ。それがなおのこと、プライドの高い曙を刺激するのも計算に入れながら。

 

「だから、何ニヤついてんのよ! 気持ち悪いなあ。用事は何よ?」

 

 おっといけない、とレミリアは無意識に緩みかけた口元に手をやる。これはけったいな能力を持つ妹の友人のせいなのに違いない。

 

「まあ、用事というほどのことでもないんだけどね」

 

「大したことじゃないわけ? まあ、いいわよ。せっかくだから聞いてあげる」

 

「あら。貴女は優しいわね」

 

「ッ! 余計な御託はいいの! それより早く言いなさいよ」

 

「早く言ってもいいの? 時間が余っているんでしょう?」

 

「ひ、暇じゃないしッ!」

 

「その割には釣れてないわね」

 

「うっさい! これから釣れるんだから!」

 

 ついに彼女は立ち上がって背筋を伸ばし、キンキンと実に良い声で叫び出した。

 

 これだから曙という娘は面白い。ちょっとからかうだけでこちらの期待以上の反応を見せてくれるのだから。

 

 レミリアだけでなく、周囲の誰もが彼女を温かく見守っている所以は、そういうところにあるのだろう。

 

「だからニヤけんなって!」

 

 ただ、あまりいじり倒してもかわいそうであるし、いい加減何も話が進まない。別にレミリアとしては暇が潰れるからそれでもいいのだが、やり過ぎると曙がへそを曲げて話を聞いてくれなくなる可能性があった。ここはそろそろ本題とやらに移るところであろう。

 

「それじゃあ、太公望の貴女に一つお仕事があるのよ。ホントは明日するつもりだったんだけど、今日こうして出会ったんだから先に言っておくわ」

 

「何?」

 

 その場に立ったまま、腕組みをして見下ろしながら彼女は不機嫌そうに眉を吊り上げる。それでも一応ちゃんと話を聞こうとするんだなと苦笑した。

 

 赤城が伝えてくれた上層部から来たという仕事の内容。正確には指令というものだが、聞いて実に面妖な内容だと思った。

 

 

「簡単なものよ。秋刀魚を釣りに行くの」

 

 

 

****

 

 

 

「おうええぇぇぇぉぉぉろろろえッ‼」

 

 ぼとぼとと嫌な音を立てながら海面に落ちていく今日の朝食。パンだかベーコンだかよく分からないドロドロに溶けた塊が、群青色の深い海に吸い込まれていく。

 

 海は偉大だ。吐瀉物さえ何も言わずに受け入れてくれるのだから。

 

「提督、お水どうぞ」

 

「ありがどう……」

 

 膨大な水の上を、馬力のあるエンジンで力強く進む漁船は、しかし小さいが故に波に乗り、波に揺られる。遠くの水平線は一度たりとも定まった高さになく、大きく不規則に上下に振れる。それを眺めていると、胃袋からまた込み上がって来るものがあった。

 

 もう何回やらかしたか分からない。十回より先は数えていない。

 

 吐き過ぎて喉が荒れて声が老婆のようにしわがれてしまっていた。

 

 潮に差し出してもらったミネラルウォーターを浴びるように飲みながらレミリアは思った。ついて来なければ良かったと。

 

 

 

 問題の上層部からの指令の内容。それは「沖合での秋刀魚漁を支援すること」であった。

 

 重要なのは支援の中身なのだが、艦娘らしく漁場から深海棲艦を排除して漁の安全を確保する、と考えていたが現実はレミリアの予想を遥かに超越した。もちろんその意味も含んではいたのだが、主として秋刀魚漁自体を行うことが指令の内容だったのだ。

 

 一体全体、軍人たる艦娘たちが漁師の真似事をしなければならないとはどういうことなのか。聞いたことに対する答えは意外なことに曙がよく知っていた。

 

 いわく、「去年もやったわよ。任務でね」とのこと。

 

 聞けば、去年はレミリアの鎮守府(まだ前任者が率いていたが)に直接声は掛からず、たまたま大規模遠征後で手の空いていた第七駆逐隊の三人が近隣鎮守府の秋刀魚漁に応援戦力(軍事的な意味合いではない)として派遣されたらしく、その際も漁船に乗り込み漁師よろしく海に出てたらふく秋刀魚を獲って来たそうな。肝心の漁をする目的なのだが、学術研究機関からの依頼による秋刀魚の生態調査と新型燃料としてのバイオ燃料の開発らしい。

 

 前者はただ単純に深海棲艦が魚類の生態にいかなる影響を与えているのかというのを研究する目的だが、後者がややこしい。理屈は赤城から聞かされたものの、レミリアは内容の半分も理解していなかった。どうやら秋刀魚だけが何故か加工することで艦娘の燃料になるということのようだ。七の倍数で計算する、つまり七尾で一単位の燃料が手に入るらしい。その「単位」の意味だが、これはどうやら「個」という単位で数えられ、一単位の燃料とは英語で言うところの“a tin”らしい。

 

 すなわち、「そういうこと」であり、「そういうこと」だから艦娘が漁師の真似事をするという面妖な任務が下された。というのが事の次第だ。

 

 よって、レミリア隷下の第七駆逐隊は軍が用意した漁船に乗って秋刀魚漁に繰り出たわけである。漁の面子は経験者の七駆で即決した。

 

 もちろん、七駆以外の他の艦娘は「硫黄島」に乗り込んで同じ海域に出撃する。七駆が向かうのはまだ深海棲艦の脅威が完全に排除されていない危険な海域であり、当然のことながら民間漁船はもっと安全な、陸に近い場所で漁を行う。「硫黄島」の戦力は、当然仲間である七駆を護る護衛という役割を担うのだが、同時に旬に合わせて一斉に出漁する民間漁船の安全も保証するという任務を請け負っている。七駆にはある程度の自衛も求められていた。

 

 しかしながら、こうした軍らしからぬ特殊なイベント、それも内陸に住んでいてはまず経験出来ないであろう海に出ての漁とあれば、それがレミリアの興味を惹かぬわけがなかった。赤城や漣がそれとなく反対するのを押し切り、レミリアは“司令官として”漁に同行することを決定してしまったのである。途方もない後悔をする羽目になるというのも露知らずに。

 

 

 出港前、初めての漁に無邪気にはしゃいでいた自分をぶん殴りたい。こんな目に合うならば大人しく「硫黄島」で待っていれば良かったのだ。漣の「漁船は揺れますから船酔いしちゃいますよ」という忠告に素直に従っていればこんなことにはならないですんだ。「硫黄島」に乗る分には船酔いは全くしなかったから、心配はないと慢心していたのが駄目だった。赤城の陳情を思い出すと耳が痛んで仕方がない。

 

 だが、後悔先に立たず。好奇心は猫をも殺す。

 

 「硫黄島」は近傍の海域にいるとはいえ、彼我の距離は数十海里も離れており、今すぐそちらに乗り移ることなど出来ない(なぜかと言えば、『硫黄島』のような大型艦が近くにいると魚群が逃げてしまうからだ。秋刀魚は特に臆病な魚だった)。さりとて、秋刀魚漁もれっきとした任務であるから港に戻るわけにもいかず、少なくとも一昼夜はこの漁船の上で酷い船酔いに耐えなければならなかった。

 

 徴用された漁船は二十年は使われていると思しきオンボロの小型船で、普段レミリアが乗り込む「硫黄島」とはクジラと金魚くらいの差がある。とはいえ初めての漁ということもあって、レミリアは上機嫌でこの漁船に「スカーレット・グローリー号」という輝かしい命名を行い、船体全部を深紅に塗り上げようと工廠に持ち掛けたがあえなく一蹴され、それでも何とか粘って船尾に名前だけ書いてもらったという経緯がある。「すかあれっと・ぐろうりい丸」と。

 

 しかしこの「スカーレット・グローリー号」改め「すかあれっと・ぐろうりい丸」は、恩深き名付け親であるはずのレミリアに対していささか冷たいようで、はっきり言えば乗り心地は最悪であった。海上のうねりに沿うように船は上へ下へ、前へ後ろへ、左へ右へ、時に転覆しそうになるくらい大きく傾いては、その度に不気味に軋み、レミリアの三半規管をひっくり返すのだ。

 

 お陰でこの様である。出港してから程なく、比較的波の穏やかな港内を進んでいる内からまともに立っていられなくなり、すぐに船のへりから身を乗り出して海に汚物をぶちまける羽目になった。以来、ずっとへりにもたれかかっては、こみ上げて来たものを吐き出す動作に終始している。

 

 波とは実に恐ろしいものだ。かつて、これほどまでレミリアを屈服させ、屈辱を感じさせた存在があっただろうか。

 

「お願い、もうちょっとゆっくり行って!」

 

 痛みに苦しむ重病人のような枯れた声で悲鳴を上げるレミリア。プライドも何もかもが打ち砕かれ、自分でも涙が出るほど情けなく喚くしかない。いや、喚けばぶり返してくる。

 

 レミリアのプライドを捨て去った叫びは、しかし、波の音やスクリュー音、エンジン音で騒がしい船上ではまったく聞こえなかったらしい。操舵輪を握る漣の耳には届かなかったようだ。

 

「さざなみぃ!」

 

 もう一度呼ぶが、やっぱり聞こえないようだ。先程水を渡してくれた潮も、今は漣の横に立って何か機械を操作している。もう一人の曙と言えば、彼女は漁船から降り、海に出て周辺警戒に当たっていた。

 

 どうやらレミリアが指示するまでもなく(それどころではないのだが)、船上での三人の役割分担は決まっているらしい。一人が操舵し、一人が雑用を行い、残る一人が艤装を付けて漁船の警護をする。そのために、彼女たちは艤装を二セット持って来ていた。三人で役割をローテーションしているようだった。

 

「さざなみー!」

 

 三度彼女を呼ぶが、やっぱり騒音で声が届かない。それならば近くに寄るかもっと大きな声を出せばいいのだが、生憎今のレミリアの状態ではどちらも出来そうになかった。

 

 何せ、頭がぐわんぐわん揺れるし、ずっと胃袋の中をナメクジが這い回っているような気持ち悪さが残っていて、何かすればすぐにぶり返してしまいそうなのだから。

 

 絶望的な状況だった。逃げ場のない漁船。酔い止め薬もない。おまけに任務の秋刀魚漁が終わるまで陸には帰れない。

 

「生きて、帰れるかしら……」

 

 レミリアは天を仰いだ。

 

 自分にはちょうどいい曇天で、この雲の向こうには茜空が広がっている。もういくばくもしない内に太陽は水平線に沈み、夜の暗幕が世界を覆っていくだろう。そうなれば、少しは調子を取り戻すかもしれない。むしろ、そうでなければ困るのだが。

 

 だから、レミリアは必死で自分に言い聞かせた。もう少しだ。もう少しの辛抱だと。

 

 

 

****

 

 

 果たして期待は見事に裏切られてしまった。

 

 胃が搔き乱され、脳みそが揺れるような気持ち悪さは日が沈んで完全に夜になってもまったく収まる気配など見せず、それどころかますます酷くなっているような気さえした。船のへりから離れることが出来ず、時折脱水症状にならないように潮に水を持って来てもらっては、腹を下す勢いで飲み干す。その繰り返しである。

 

 さすがに潮も呆れてきたのか、時間が経つにつれ対応が事務的で素っ気無いものになってきたし、視線に「何でついて来たんだ」という若干の非難が混じるようにもなってきていた。しかし、それはレミリア自身が一番痛感していることであり、こんな事態はまるで想像していなかったのだ。ああ、自分の浅ましさが悔しい。

 

 そんな役立たずを尻目に、「スカーレット・グローリー号」は漁場にたどり着いたようだ。「こちら『すかぐろ丸』。漁場に到着です。これより秋刀魚漁に取り掛かります」と無線にしゃべる漣の声が聞こえて来た。「『スカーレット・グローリー号』よ」と小声で訂正する。

 

 外洋は波が荒く、容赦なくレミリアを揺さぶる。無線の向こうで漣に誰かが応答し、漣は「了解でーす」と気の抜けた返事をした。何となく、相手は赤城だろうと思った。いよいよ漁の準備に取り掛かるのだろう。船上にいる漣と潮は二人とも慌しく動き始めた。

 

 秋刀魚漁は深夜、漁船に明かりを点けて行われる。秋刀魚には光に集うという習性があるのでそれを利用するわけだ。

 

 それら、漁に関する手順は出港前に一通り曙から教えてもらった。そもそも秋刀魚漁船というのは特徴的な見た目をしていて、船体自体はごく一般的な漁船なのだが、そこに櫛の歯のように船体から斜めに飛び出す集魚灯の支柱がいくつも取り付けられている。漁は初め、水中探信儀=ソナーで魚群を追い、狙った魚群の上に来たところでまず右舷側の集魚灯を点灯して魚をそちらに集める。その間に左舷側から棒受け網を海中に投下して沈めておく。網のセッティングが完了したら、船尾に近い集魚灯から順に消灯していき、タイミングを合わせて船首と左舷の集魚灯を点ける。すると魚は光を追って右舷から船首側へ移動し、さらに左舷側、すなわち網の上方に誘い込まれるのだ。

 

次に明るい集魚灯を消して代わりに赤色灯を光らせる。赤い光に興奮した秋刀魚は水面まで上がって来るので網を引き揚げて逃げ道を塞いだ後にポンプで海水ごと吸い上げて船倉へ流し込む。これを船倉が一杯になるまで繰り返すと任務終了だ。

 

 萎びたほうれん草のように船のへりにもたれかかってそこから離れられないレミリアを尻目に、漣と潮の二人は手際良く準備を進めていく。気持ち悪さと吐き気が小康状態になったレミリアは、その様子を眺めていた。忙しそうにする二人の背中からは「手伝え」という無言のオーラが醸し出されているし、それでなくとも人手が足りないので何かしなければならないのだという認識はしているのだが、生憎動けば船内で嘔吐するのは間違いないのでこの場を離れられない。実際、船酔いが襲って来て最初の一発はレミリア自身にとっても予想外であったので、船の中でぶちまけてしまっていた。

 

 その処理は二人がしてくれたのだが、以後吐く場合は海に吐くように漣にきつく言い付けられてしまった。普段はふざけてばかりいるが、漣は怒るとなかなか迫力があるという、貴重な教訓を学ぶことが出来た。

 

 思い出したくもない醜態のことを脳が勝手に想起して羞恥に身を悶えさせていると、船に近付く重低音と泡の音が聞こえて来る。前者は主機の稼働音であり、後者はそれによって回されるスクリュー音だ。海の方に顔を戻すと、案の定、警戒に出ていた曙が戻って来たところだった。

 

「あんた、まだ回復してないの?」

 

「……ええ」

 

「はあ。何しに来たのよ?」

 

 さすがは曙。潮が気を遣って言わなかったことをはっきりと言葉にしてくれる。心臓をナイフで切り刻まれるような痛みにレミリアは唸るしかない。

 

 提督が閉口している間に曙は漁船の揺れとうまくタイミングを合わせてへりに腰掛けると、艤装を付けた足を上げてくるりと180度反転して船の中に乗り込む。それから、へりに腰掛けたまま航行艤装を脱ぎ始めた。

 

「あけぼのー。こっち手伝ってよ!」

 

 左舷側で網の準備をしている漣が叫んだ。

 

「すぐ行くわ」

 

 答えた曙も、手早くがちゃがちゃと艤装を取り外していき、間もなく身軽になるとレミリアの傍にそれを置いた。隣にはもう一つ予備で持って来た綾波型艤装が並べて置かれている。

 

「分かってるわよ。そんなことは……」

 

 誰にも聞こえない独り言は、ほぼ同時に叫ばれた漣の声と被ってレミリア自身の耳にも届かなかった。

 

 

 

 

 

 

「魚群発見‼︎」

 

 いつの間にやら操舵室に戻った漣が声を張る。操舵室はこの「スカーレット・グローリー号」の艦橋にあたり、舵輪の他、航法装置やソーナー、レーダーの画面と操作機器が置かれている。集魚灯のスイッチもあり、誰かがそれを押したのか煌々と明かりが一斉に点灯される。

 

 思った以上に光りは明るかった。レミリア自身は昼でも夜でも同じように景色を見れるから、視界が明るく照らされること驚きはしないが、光量の急激な変化に反射的に目を細めた。

 

 まさに昼間のよう。船は漆黒の海に白く浮かび上がる。今夜は生憎の曇天で、星も月もないから尚のこと明るく感じられた。

 

「上行くわ!」

 

 曙が叫んで、操舵室の波除外壁に取り付けられた梯子を登って行く。操舵室の上にはマストが立っているのだが、その根本に探照灯が据え付けられており、これで離れたところにいる魚を集魚灯の光の範囲内まで誘うのである。

 

 曙が探照灯を点けると、右舷外側に光線が落ちて、円く紺色の海面が浮かび上がった。

 

「来てるよ! 右舷!」

 

 船上が俄かに緊張し始める。七駆の三人は、まるで深海棲艦と遭遇したかのように張り詰めた顔を見せていた。

 

 それはそうだ。漁は決して遊びではない。

 

 これは任務であり、彼女たちにとっては紛れもない職務であり、当然成功させる責任が生じているものだ。そして、部下である彼女たちが全力を投じて任務遂行にあたっている以上、その上官たるレミリアも動かなければならない。

 

 繰り返すが、これはごっこ遊びではない。だから、レミリアは立ち上がろうとした。今何が出来るか、そもそも漁という作業自体が初めてのレミリアには分からなかった。だが、少なくともここでこうして座り込んでいることが役割ではないのは確かだ。

 

 けれども、いかに強く決意したところで生理現象には敵わない。まるでタイミングを狙ったかのように船が波に乗り上げて大きく揺れる。普段から海の上で活動している七駆の三人は、柳のようなしなやかな体幹と強靭な足腰で揺れを吸収したが、舟揺れに慣れぬレミリアは立ち上がり掛けたところを、バランスを崩してまた元のように座り込んでしまう。

 

 おまけに、その拍子に三半規管を揺すられて込み上げて来たものがあった。

 

 慌ててへりから顔を出して海に吐こうとしたところで、しかしレミリアは必死でそれを飲み込まなければならなかった。

 

 集まっていたのだ。光に誘われた魚たちが。

 

 波が集魚灯の明かりを乱反射する水面の下、暗い水底に紛れるように泳ぐ無数の影。時折、腹の銀色が煌めく。

 

 視界に映る限りに魚たちが泳いでいる。

 

 吐くなど出来るものか。彼らに不浄な吐瀉物を浴びせられるものか。

 

 船は今、魚群の上にいるのだ。

 

 絶句して飲み込んだ胃液が喉を焼く。けれど、その痛みは高揚した精神に打ち消されてしまった。

 

「魚‼︎ 魚よ!」

 

 気付けば自分も叫んでいた。操舵室を振り返ると、漣が無言で親指を立てているところだった。

 

「どんどん集まって来てるわ!」

 

 探照灯を回しながら曙も絶叫する。彼女が照らす先、海面まで秋刀魚が登って来て、勢いよく跳ねる水音が響き渡った。

 

 潮と操舵室を飛び出した漣が急いで左舷の網を投下する。二人は手早く網を海に投げ入れていき、一通り終わると漣はまた走って操舵室に戻る。

 

「行くよー!」

 

 そして、合図する。

 

 目の前の集魚灯が消された。いよいよ漁は第二段階に入ったのだ。これより、船首を回るように魚を誘導していく。

 

 バチン、バチン、と順番に右舷の集魚灯が消されていき、それまでレミリアの真下の海面下を泳いでいた魚たちが船首方向へ離れていく。

 

「前に行ってるわ!」

 

 興奮と緊張が抑えられない。心臓が柄にもなく脈動している。腹に先程吐き出せなかった胃液が溜まって気持ち悪いが、我慢して再び立ち上がろうと試みた。

 

 その内に集魚灯は左舷側だけが点けられている状態になっていた。レミリアのいる右舷は相対的に暗くなる。小さな漁船なので、明るいのは明るいのだが、操舵室や漁具庫の影になった。

 

 その間隙を突くようなポトリという小さい音。レミリアが音の発生源――自分の左足の傍を見下ろしたところで、すべての集魚灯が消された。刹那、本物の闇が船上を包む。

 

 

 入れ替わりに点灯される赤色灯。

 

 一斉だ。一斉に海面まで上がって来た魚が跳ねて、壮大な水音を鳴り響かせたのだ。恵みの雨が海面を叩いている。

 

 いよいよ仕上げの時間。

 

 重い機械音が混じり、投げ入れられた網が秋刀魚を掬い上げる。

 

「網を上げて!」

 

 曙が叫びながら降りて来て、三人は船のへりから網を引っぱり上げ始めた。

 

「重いわ! 大漁よ‼︎」

 

 彼女の顔は笑っていた。

 

 そうだ。これ程の群れを捕まえたのだ。三人で持ち切れないくらい沢山の魚が掛かっているはずだ。

 

 

 

「上々ね!」

 

 

 

 レミリアも両手で網を掴むと、小さな体躯からは想像も出来ないような力で一気に引っぱり上げる。

 

 魚の跳ねる音が盛大になった。活きのいい尻尾に弾かれた水滴が頭まで掛かる。あっという間に全身ずぶ濡れになってしまう。

 

「あんた⁉︎ 生きてたの?」

 

 急に復活したレミリアに驚愕する曙。提督はそんな彼女を笑い、

 

「勝手に殺さないでくれる?」

 

 と、軽口を叩いた。

 

「また吐かないでしょうね! 無理しないでよ」

 

「心配ないわ」

 

「本当かしら?」

 

 棘の付いた気遣いの言葉にレミリアは朗らかに答える。曙というのはこういう娘だ。素直になれないのが微笑ましいというのか、可愛らしいというのか。彼女の人徳だろう。

 

 そして、実際レミリアは心配に及ばない状態だった。少なくとも、今から港に戻るまでは再び船酔いに苦しめられることはない。

 

 というのも、友人の魔女から魔法の酔い止め薬を貰ったからだ。先程、三人の意識が左舷の魚に向いた時、魔女の使い魔が薬を落としていった。それを飲めば、さすがに一流の魔女が調合した薬だけあって、効果は抜群。気持ち悪さはあっという間に消え去ったのだった。

 

 かくて、レミリアは劇的な復活を遂げる。船にへばりついて嘔吐を繰り返すだけの無様な時間は終わった。いよいよ、栄えある「スカーレット・グローリー号」の船長として活躍する時が来たのだ。

 

 レミリアの加勢により網の引き上げは一気に進み、機を見た漣が「ポンプ投入しまーす‼︎」と掛け声を出す。

 

 潮が船倉の蓋を開け、曙がどこに用意してあったのか、大量のロックアイスを持って来た。

 

 ポンプのモーターが唸り、左舷の海中から水ごと秋刀魚を吸い上げ始める。半透明のポンプの中を無数の魚影が流れていき、出口が突っ込まれた船倉の中へどんどんと秋刀魚が流し込まれる。曙は一緒にロックアイスを投入していった。

 

 豪快と言えば豪快。雑と言えば雑。

 

 魚は釣竿と糸と針を使い、水辺で何時間も掛けて捕獲するものだと思っていたレミリアからすれば、こうした漁は迫力あると感心もするし、情緒がないと白けたりもする。何と言っていいかよく分からない。

 

 小さな漁船の小さな船倉はいくらもしない内に一杯になってしまう。それでもまだ網の中には秋刀魚が大量に残っていたし、漣が別の船倉を開けたがそこもすぐ満杯になった。

 

 この漁場にはライバルが居ない。民間の漁師たちは陸から離れたこの場所まで来ないし、魚群を根こそぎさらって行く人間という天敵から解放された秋刀魚たちは繁殖極まって無尽蔵に泳ぎ回っている様子だった。

 

 この小さな漁船が沈みそうなくらい秋刀魚を抱え込んだところで、どうということもないのだろう。

 

 海は広大で偉大だ。その懐深さにレミリアは心底感服した。

 

 人々がいくら漁船を一杯にしたところで、海には何らの影響もなく、むしろ持って行けと言わんばかりに魚を与えてくれる。人里の人間が山でちまちま取った山菜をカゴ一杯にするのとは訳が違う。きっと、あの「硫黄島」の広い格納庫に満杯に魚を詰め込んだとしても、海は何も変わらない。捉えきれない魚が生きている。

 

 ポンプで魚を吸うのが豪快? あんなもの、別にどうということはないのだ。それくらいしなければ、お役は務まらないというわけだ。

 

 

 母なる海。無数の命を抱えて、無数の命を生かす。

 

 吃水の上がった船上から、漆黒の海面を眺め下ろし、レミリアはつくづくそう思うのだった。

 

 

 




長いので分割します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督11 Flaming Night (2)

 

 

 

 誰かが言った。「帰投するまでが任務だ」

 

 まさしくその通り。

 

 海が抱える生命は魚だけではない。人も艦娘も深海棲艦もそうだ。

 

 

 栄えある「スカーレット・グローリー号」は現在敵の追跡を受けていた。大量の秋刀魚を詰め込み重くなった漁船が苦し気にエンジンを唸らせながら西へ、陸の漁港へ戻っている最中、哨戒のため艤装を装着して海に出ていた潮の電探が真っ直ぐこちらに向かって北上して来る敵影を探知した。

 

 敵は針路を変更する気配もなく急速に距離を詰めて来る様子だったから、もうこちらに狙いを付けているのだろう。

 

 一方で、頼みの綱の「硫黄島」からの救援は間に合いそうになかった。それは母艦との距離的な問題もあるし、救援たる金剛らが秋刀魚漁とは別に民間漁船の警護という任務を受けていて、タイミング的にも母艦に帰投したばかりという彼女たちがすぐに再出撃出来ないこともあった。

 

 すなわち、「スカーレット・グローリー号」とその乗員であるレミリアたちは自力でこの窮地を脱しなければならない。そしてそうした状況故に、目の前にある選択肢の数は片手で数え足りるくらいしかなかった。

 

 

 

「敗北条件ははっきりしてるわ」

 

 一旦船に戻った潮も入れて四人で作戦を練り始めたところで、開口一発、曙は言い放つ。

 

「この漁船の上で一番価値が高いのはあんたよ」

 

 曙の刺すような視線がレミリアを見据える。彼女は提督の返事を待たずに続けて、

 

「文字通り司令官だから、簡単に死なすわけにはいかない。私たちはあんたを逃がすことに全力を尽くすわ」

 

 状況はとても悪かった。

 

 敵はその速度から考えても足の速い部隊であり、軽巡クラスが主力の水雷戦隊か、重巡主力の警戒部隊かのどちらかだろう。特に後者であった場合、戦力差から言っても絶望的だった。

 

 対して、こちらは主砲こそ十分な予備弾があるものの、魚雷は一斉射分しかない駆逐艦二隻が限界の戦力。おまけに鈍足の漁船を守らなければならないとあれば、もはや手段は選ぶ余地がなかった。

 

 だから、彼女の決断も早い。

 

「私と潮で囮になって時間を稼ぐ。漣は可能な限り全速で西に、『硫黄島』に向かって。この船が金剛さんの射程内に入るまでは何とかもたせるから。あと、最悪も考えて一基だけ主砲を置いていく。もしもの時用に、ね」

 

 彼女はそう言って自らが装着していた艤装の内、片方の主砲を取り外してその場に置いた。

 

 誰も反対しない。漣も潮も、当然のように曙の決断を受け入れたようだ。彼女たちには敵を発見した段階でこうなることが分かっていたのだろう。

 

 実際、現状の最善策は曙の言う通りしかない。誰かが犠牲にならなければ切り抜けられない状況で、だから曙は敗北条件を明確にしてそうならないための策を考えた。

 

 無論、先ほどから沈黙を維持しているレミリアの意思はそこに含まれていない。だが、レミリアにも当然それが最善策であることは理解出来ていた。

 

 激しく揺れる漁船では、ただ立っているのにも苦労する。操舵室の波除に掴まり、レミリアを見据える曙の眼は決まっていた。同じくその隣の潮も、前を向いたまま舵輪を握る漣も、変わらない眼をしているだろう。

 

「最後くらい、カッコ良く指示受けたいものね」

 

 レミリアが黙っていると、曙は彼女にしては珍しく穏やかな弧を口元に描いた。普段の彼女からは想像出来ない優しい声色。しかして、自分の運命を受け入れて覚悟の決まった揺れない瞳。

 

 提督はおもむろに彼女から視線を逸らし、漣の腕の横から覗けるレーダースコープに目を向ける。

 

 敵との距離はだいぶ縮まっているようだ。ざっと計算するに、日中ならもう水平線の上にその影を認めることが出来るだろう。そんな距離になっていた。

 

「曙」

 

 レミリアもまた決断する。

 

 彼女は自他共に認めるくらい恐ろしくプライドの高い生き物であり、この場での最高意思決定者でもあった。すなわち、提督が曙の“最善策”をそのまま受け入れることなど、たとえ天地がひっくり返ったとしてもあり得ないことだった。

 

 

 

 

「あまり私を甘く見ないことね」

 

「は?」

 

 曙の顔が歪む。唖然として漣が振り返った気配もした。潮も目を見開いている。

 

「私の言う通りに従っていたら、全員生き残れる。だから、四の五の言わずに動きなさい」

 

「……あんた、本当に最悪のクソ提督よね? 状況分かってる? どうやって切り抜けるわけよ?」

 

 曙は先ほどの穏やかな表情を鬼のように変貌させ、ありったけの怒りを込めてレミリアを睨む。そう、彼女はとても怒っている。しかし怒っているのは何も曙だけではない。

 

「説明している暇はない。今すぐ海に出て、私の指示に従い行動すること。分かった?」

 

「生半可なことしたら全滅するわよ! そっちこそ分かってるの?」

 

「分かっているかって? もちろんよ。世界の誰よりも理解しているわ。状況だけでなく、私たちの関係性もね。

 

いい? 私は司令官で、貴女たちは部下なの。これは命令よ」

 

「馬鹿げた命令で犬死させないで」

 

 曙はなおも唸る。こんな状況でなければ、決して気の長い性分ではない彼女は掴み掛かって来ただろう。

 

 レミリアはそれも分かっていた。自分の指示が彼女の怒りを買うことも、それ自体が荒唐無稽なことも。

 

 しかし、レミリアは凡百な人間ではなかった。その正体は五百余年を生きてきた化け物で、過去幾度となく戦争を経験してきた悪魔であった。

 

 悪魔は海の上で自身が戦うのは初めてであったが、それでもここが戦場の一端であるなら原則は何も変わらないと確信している。

 

 

 

「餓鬼のくせして一丁前に死のうとしてんじゃないわよ! ここでは生存こそがすべてに優先される。どうにかしてやるからおとなしく従いなさい!!」

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 古典的なレーダースコープは、円形の濃緑色の画面を白い線が回転し、小さな電子音と共に画面上の探知した情報を表示していく。刻々と、敵を示す白い点が近付いて来る。そして、その敵に対して角度を持って反抗する二つの青い光点が進んでいた。

 

「作戦は以上よ。困難だけれど、やり遂げましょう」

 

 そう締め括ってレミリアは会話していた無線を切る。相手は「硫黄島」で暇を持てあましているであろう秘書艦だ。彼女にも状況の悪さは伝わっているだろうし、その証拠にひどく切羽詰まった喋り方だった。普段は落ち着いて余裕があるだけに、彼女がああして緊迫した振る舞いを見せるというのは実に珍しいことである。むしろ、当事者たるレミリアの方が、詰まらないことを考える程度に余裕を持っていた。これでまた彼女をからかえるネタが増えたと、場違いなことを考えていたのである。

 

 もっとも、夜間攻撃が出来ない一航戦はまだ日が変わって二時間ほどしか経っていない今の時間帯は手持ち無沙汰だ。暗闇の中では目標の識別やそれどころか航法すら覚束ない艦載機隊は力を発揮出来ないし、だから空母も本当にお役御免になってしまう。

 

 そんな赤城との会話を隣で舵輪を握る漣がひどく不審な目を向けて聞いていた。

 

「気持ちは分かるけど、私を信じなさいな」

 

「どの道、こうなってはお嬢様を信じるしかないですよ。ってか、曙本気でキレてたし。あんな怒ったの久しぶり。失敗したら殺されるかもですよ」

 

「その時は殺されてやるわよ」

 

 レミリアはレーダースコープを見下ろす。

 

 彼我の距離は徐々にだが確実に縮まっていた。曙と潮を示す光点も少しずつ離れていく。

 

「回り込んで側面から攻撃しろって言ったって、向こうは電探装備してんだから気付かれるに決まってんでしょ!」

 

 ノイズ混じりの無線が曙の声で怒鳴る。レミリアが作戦の説明をした時と同じ言葉だ。彼女は強権的なレミリアに反発し、その策にも文句を付けた。

 

 だが上下関係は絶対であり、だから彼女はこうして不平を垂れながらも渋々従っているのだった。

 

 曙と潮には横から敵を撃てと指示している。そうすれば、三隻くらいは釣れるだろうと、そして三隻程度ならあの二人だけでも十分処理出来るという目算だ。

 

「釣れました‼︎」

 

 潮が叫ぶ。漁船に追随して直進する敵艦隊の右側面から接近した曙と潮。それに敵が反応した。

 

「敵艦隊、分裂します!」

 

 レーダースコープを覗き込みつつ漣が声を上げる。一方でレミリアは操舵室から離れ、速度と波で大きく揺れる中をものともせず、しっかりとした足取りで船体の後部に向かっていた。

 

 真っ黒い海の先を望むと、そこに敵艦隊がいる。先頭を行く敵旗艦は重巡ネ級、二番艦が軽巡ツ級、三番艦が雷巡チ級、あと三隻が駆逐艦だ。曙と潮の囮部隊に釣られたのはツ級と駆逐艦二隻。残る主力たるネ級とチ級と駆逐艦一隻は変わらず漁船を追って来る。

 

 状況の変化は明瞭にレミリアの網膜に映っていた。それは、夜戦を得意とする第七駆逐隊の面々にも不可能なことで、人間はもちろんのこと、ほぼすべての艦娘にすら当然成し得ない超能力の類である。レミリアは数キロ先の漆黒の中に紛れる黒い深海棲艦の姿をはっきりと視認していて、そしてそれこそが自らを勝利に導く一つの大前提であり、他のいかなる司令官にも出来ないことだと考える理由の一つだった。

 

 作戦の第一段階は完了した。さすがに曙も潮も経験豊富なだけあって、昼戦よりずっと難易度の高い夜戦においても卒なく役割を果たしていける。まず、敵の射線を減らすことが作戦の要であった。

 

 次いで、レミリアは空を見上げる。漁を済ませるまで空を覆っていた厚い雲はいつの間にやらどこかに行ってしまっていた。まるで、この戦闘のために誰かが天候をいじくったかのように。考えすぎか、とレミリアはかぶりを振った。

 

 月夜は明るい。上弦の、中途半端に欠けた秋月と、月光に紛れて申し訳程度に夜空にまぶされた星々。月を見て場所を、星を見て時間を知ることが出来る人間がどこかにいると聞いたことがある。そんな能力があれば、この状況では実に役に立っただろう。だが、人の世はなかなかに便利になったもので、そんなオカルト能力に頼らずとも同じことが可能らしい。

 

全地球測位システムとレーダー、そして目視によりレミリアは情勢を認識する。敵艦隊で最も長射程であるのは言うまでもなく旗艦のネ級。その射程圏内にすでに漁船は捉えられている。まだ砲撃して来ないのは、単に有効射程に入っていないだけの話に過ぎない。すなわち砲撃を受けるのは時間の問題であり、猶予は幾ばくも残されていないということである。

 

 ならばそろそろ自分の出番であろう。久方ぶりに戦場の真ん中で踊ることになる。高揚するかと思った己の精神は、しかし思いの外平静を保っていた。戦闘中に落ち着いていられるのはやはり踏んできた場数が多いからなのだろうと、冷静な自分が分析する。何をするべきかはもう決まっていた。

 

 曙が自衛と自決用に自分の主砲を一基残している。レミリアは一旦操舵室まで戻って、漣の傍らに置かれていたそれを手に取った。

 

「それ、どーすんのですか?」

 

「私でも撃てるかしら?」

 

「銃と一緒です。引き金を引けば撃つことは出来るけど、当てるのは訓練していないと無理ですよ」

 

 操縦に集中しながらも漣は答えてくれた。彼女は今、出せる限り最高の速度で必死に漁船を操っている。もちろん、レミリアには船の操縦など出来ないわけだから、二人しかいない船上では当然漣が舵を握ることになる。

 

「そうね。敵に当てるのは難しいかもしれないわ」

 

 駆逐艦用の10㎝長射砲は角ばった大よそドーム型の砲塔に二本の長い砲身が生えている。持ち手は砲塔の下側にあり、持ち手を握った上で人差し指だけを伸ばしてトリガーに引っ掛けるのが正しい保持方法だ。人差し指を前に強く引くと、少し重みのあるトリガーが引かれて砲弾が発射される。基本的に体格の小柄な駆逐艦娘たちが持つことを想定されているためか、レミリアの小さな手で持っても人差し指は十分にトリガーに掛かった。「安全装置外してくださいね」という漣の指摘で、砲塔の後ろについていた装置のスイッチをオフにする。

 

 この持ち方では揺れる船の上から数キロ先の敵に命中弾を与えるのはおろか、近くに着弾させるだけでも相当な鍛錬を要するだろう。艤装をこうして持つのは初めてのことで、改めてレミリアは艦娘がいかに難しいことを強いられているかというのを実感した。「よく出来るものだ」というのが率直な感想だった。

 

 レミリアは再び船体の最後部へ。遠い水平線を望むと、チカチカとした光が目に入る。

 

「敵が撃ってきたわ!」

 

「ちょっ! 待っ!」

 

 漣が悲鳴を上げる。慌てて舵を切ろうとしたのか、がくんと船が左に傾いた。

 

 レミリアは小さく舌打ちをしてその場に踏ん張り、船の旋回に合わせて首を回しながら敵砲弾が飛んで来る方向の夜空を睨み上げる。砲塔は持ったまま、構えない。

 

 

 

 空気を切り裂く小さな鋭い音がした。

 

 続いて大音響の破裂音。月明かりに高い水柱が立ち上がる。それは、漁船が残した航跡を踏み潰すようであった。水柱は六つ。敵から見れば近弾であり、まだ漁船は砲弾の散布界に収められていない。

 

「大丈夫! 当たってないよッ!」

 

 漣が叫んでいた。レミリアの耳にまで届かなかったが、おそらく曙か潮が心配しているのだろう。応答する漣の声は、いつもの気楽さや余裕が抜けていた。

 

 その直後に、再び遠い後方で明かりが輝く。敵の第二射。閃光の数が増えたようには見えなかったので、おそらくチ級はまだ砲撃して来ていないのだろう。

 

 当然のことながら、深海棲艦の武装であっても艦砲は大きい方が射程が長く威力も高い。重巡ネ級の主砲は雷巡チ級のそれと比べてもずっと大きく、故に射程距離もより長い。もっとも、チ級相手で一番注意を払わなければならないのは雷撃であり、この敵はそれが持ち味でもある。

 

 二度目の砲撃は同じく漁船の後ろに着弾したが、前回よりずっと距離が近かった。轟音と同時に爆風と水飛沫がレミリアを襲った。

 

 砂を浴びたように、無数の飛沫が当たって小さな痛みが顔に広がる。それに眉を顰めながらレミリアは思考を巡らした。

 

 ネ級の射撃精度は中々のものだ。おそらく次でこの漁船を散布界に収めることだろう。当然のことながら、非武装の民間漁船そのものであるこの船には装甲など張られておらず、直撃はもちろんのこと、至近弾ですら着弾の衝撃波で容易に船体を破壊されてしまう。漣の操船がいかに巧みであろうと、いつかは必ず捉えられるし、その“いつか”は敵の射撃間隔からいってもそう遠い先のことでもない。

 

 厳しい状況というのは初めから分かっている。ここが正念場。全員で生きて帰るために、他ならぬレミリア自身の力で切り抜けなければならない。

 

 あれだけ曙に対して大層に啖呵を切ったのだ。これであっさり被弾して沈んだら笑い者にもならない。

 

 三度、ネ級が砲撃する。

 

 レミリアはいよいよ主砲を構え、全神経を集中させて夜空を睨み上げる。

 

 飛翔する六つの砲弾。その黒い影を捉え、主砲のトリガーを引く。

 

 爆音と爆風。漁船の両側に高い水柱が立つ。左右から襲って来た波に小さな船は持ち上げられ、同時に後ろからの衝撃に押し出されるように前に飛び出した。

 

 漣が絶叫している。片や、レミリアは間近かで起こった爆発にも怯まず、口元を一文字に結ぶ。

 

 砲弾を砲弾で撃墜する。常人はおろか、超人ですら不可能なその芸当を、五百を超える吸血鬼は天性のセンスと豊富な経験に育まれた勘で実現してしまう。

 

 危険なコースだったのは放たれた第三射の六発の内、一発だけだった。だから、一対一でこちらの砲弾で撃ち落とせば良かった。その結果が今さっきの空中爆発。かち合った二つの砲弾が中空で炸裂したのだった。

 

 四度目の発射炎が煌めく。光ってから砲弾が飛んで来るまでの時間差は極めて短く、しかも敵艦隊の方が追い付いて来ているのでさらに短くなっていく。そのわずかな間にレミリアは己の目だけで砲弾の飛翔コースを捕捉し、直撃弾・至近弾のコースに入っている砲弾を見極めなければならない。

 

 そして、撃つのだ。

 

 四度目は三発が至近弾のコースに、すなわち漁船を破壊し得る弾だった。

 

「――ヤッ」

 

 小さく呟いて、レミリアも“三発”放った。

 

 空中に現れる三つの花火。鼓膜を破るような破裂音。

 

 漁船の速度が一度がくんと落ちたが、すぐにまた加速し始めた。

 

 レミリアは口元を吊り上げる。

 

 やれば出来るものだ、と不敵な笑みを浮かべたのだ。

 

「これ、どーなってんのッ!? お嬢様ぁ!」

 

「そのまま操縦していて! 曙たちは!?」

 

「随伴は全部沈めたって! 主力を追い始めたところだよ!!」

 

「そう……ッ!」

 

 五度目の斉射。今度は二発迎撃する。

 

 先程分離した敵の随伴を処理した曙たちが主力に追いついて射撃の妨害をしてくれればもう少し余裕も出来るだろう。当然のことながら、敵の射線は少ないに越したことはない。

 

 だが、今のままでも十分だった。レミリアは完璧に砲弾のコースを見極め、寸分の狂いもなく迎撃を完遂している。

 

 

 目で、音速近くの速度で飛んで来る砲弾を捉えるのは造作もないことだった。

 

 何故ならレミリアは、吸血鬼は、それ以上の速度で飛ぶことが出来るからだ。無論、動体視力もそれ相応のものが備わっている。ならば、どうして自分より遅い砲弾を捉えられないなどということがあろうか。レミリアにとって、深海棲艦の砲弾は止まっているに等しき「遅さ」で飛んで来るものだった。

 

 後は、こちらの主砲でそれを撃てば良い。弾を飛ばすのは得意だし、一度に二発までしか発射出来ない10㎝連装砲でも、“ちょっとした裏ワザ”を用いることで三発以上の同時迎撃も可能だった。

 

 最早、敵の砲撃など何も怖くない。すべて、撃ち漏らしなく撃墜出来るからだ。

 

 それからの幾度とない砲撃も、レミリアはすべて凌ぎ切った。何度目からか雷巡も砲撃に参加して来たが、やはり問題はなかった。回数をこなす度、レミリアの集中は研ぎ澄まされ、より遠くで、すなわちより早く砲弾を迎撃出来るようになっていった。

 

「漣!」

 

 レミリアは操船に必死な駆逐艦を呼ぶ。

 

「はにゃー!」

 

 余裕のない彼女は奇声を返事の代わりにした。悲鳴には聞こえなかったが、彼女が目を回しているのは容易に想像出来た。

 

「探照灯を! 探照灯を敵艦隊に照射して!!」

 

「えーッ! 無理ッ! 手が離せない!」

 

「操縦は自動に出来るでしょッ」

 

「出来るけどさあッ! どうなっても知らないよ!!」

 

「構わないわ」

 

 漁船の針路が定まる。それまで激しく転進を繰り返していたのが、一定方向に進み出す。

 

 直線運動は格好の狙い時だ。しかし、危険は承知しても、その危険のすべてを排除出来るなら問題はない。苛立ったように放たれた敵の砲弾は、やはりレミリアの迎撃を受けて当たらない。

 

「行きますよーッ」

 

 マスト下の探照灯台まで登ったのだろう、半ばやけくそ気味に漣は喚き、船の後方にまっすぐな光の筋が浮かび上がる。

 

 照らし出されるネ級。黒い装甲を身にまとった人型の深海棲艦。その腰元からは大蛇のようにうねる尻尾が鎌首をもたげ、三門の砲が付いた砲塔を構えている。それが二つ。ネ級の主砲は合計六門ある。

 

 そのネ級の周囲に、いきなり複数の水柱が立つ。

 

 探照灯で照らされた敵の旗艦を狙って、追随する曙か潮が撃ったのだろう。それは絶妙なタイミングでの射撃で、今まさに主砲を構えていたネ級は射撃を妨害された。

 

 水柱で一瞬姿は隠れたものの、直撃弾ではなく、ネ級は再び現れた。もっとも、当たったところで駆逐艦の主砲では堅牢なネ級は撃破出来ない。

 

 そう、いくら敵の砲撃を防げたところで、レミリアの持つ10㎝長射砲でも曙や潮でもネ級の撃沈は無理な話であった。

 

 だから、レミリアは“盾”となる策と同時に“矛”になる策も講じていた。

 

 砲撃の合間。騒がしい船上が少しだけ静かになる。お陰で、その無線をレミリアは聞き取ることが出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こちら一航戦赤城。攻撃隊目標上空に到達。爆撃開始します!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これこそが反撃の号令。仕掛けた作戦が狂いなく、時計の歯車が噛み合うように、思惑通りに発動する。

 

 カタルシスが脊髄を貫く。

 

 天から空を切り裂き、真っ直ぐ落ちて来る幾つもの黒い粒。それが、ネ級の周囲に着弾し、水柱と爆炎を噴出させるのを見ながら、勝利の瞬間に震える。

 

 まだ夜明け前で暗い中、あの空母らは見事命中弾を出した。いくら敵が探照灯で照らし出されているからといって、これは神業の類いだと言っても過言ではない。

 

「パネェ!」

 

 と、同じく見ていた漣も歓声を上げる。だが、まだ終わっていない。

 

「仕上げなさい! 曙‼︎ 潮‼︎」

 

 夜の海にレミリアの怒号が響く。

 

 水柱が収まった時、中破した敵が再び姿を見せる。その時には、懐刀はもう真後ろまで来ていた。

 

 被弾の衝撃で動けないネ級。その背中に連続して火炎が吹き上がる。

 

 至近距離からの連撃なら、低威力の駆逐艦主砲でも大抵の敵は葬ることが出来る。砕かれて舞い上がったネ級の艤装の破片が炎に照らされた時には、もうその姿は海に沈んでいた。残ったチ級と駆逐艦も潮の餌食となった。破壊と勝利の爆炎がレミリアの顔を熱する。

 

 燃えながら深海棲艦の残骸が沈没し、その炎が海水に飲まれて消えるのを見届け、少女提督はゆっくりと背を向け操舵室に戻る。

 

 

「お嬢様……」

 

 探照灯を消して降りて来た漣が、何かを言い淀む。砲弾の迎撃も彼女は間近で見ていた。ならば、あれが人間業ではないことはよく理解出来ただろう。

 

 ただ、あえて言い訳や誤魔化しは言わない。漣が見たものをどう受け取り、周囲にどう言うか、レミリアは頓着するつもりはなかった。

 

 ちらりと視線だけ流して余裕の笑みを浮かべて見せる。そして、無線機のトランシーバーを手に取り、

 

 

 

「作戦完了。完璧な勝利には皆の貢献があったわ。礼を言いましょう」

 

「赤城です。提督、まさかこんな方法で私たちに夜間攻撃を行わせてしまうなんて。思いも寄りませんでしたよ」

 

 

 無線の向こうでは、赤城が心底感心したように言っていた。

 

 それもそのはず。先程ネ級を爆撃したのは、赤城と加賀が発艦させた艦載爆撃機部隊であった。

 

 本来、空母娘は夜間に艦載機を運用出来ないはずである。理由は、発艦はともかくとして、夜間における着艦方法(もちろん艦娘での話だ)が確立されていないことと、各機体単位でのレーダー・電探の装備が不能で航法や目標識別に難があることだった。故に、今まで空母といえば夜間は一切行動出来ず、ただ敵の砲撃や雷撃を浴びないように逃げ回るだけで、口さがない者の中には夜戦における空母を「お荷物」と揶揄するのも居たりした。

 

 そして、海軍という組織レベルでも空母は夜間に行動出来ないものという認識が広まっていたのである。それは、他ならぬ空母たち自身の間にも。

 

 だがレミリアは上記の三つの問題さえ解決出来れば空母の夜間活用も不可能ではないと考えた。まず、着艦の問題については、艦載機の帰投が日の出後になるように時間調整をした上で発艦させれば良い。今回の場合も、未明に起こったことだからこそ発艦した艦載機の着艦時間が早朝、明るくなってからという予定が立てられた。

 

 次いで航法の問題も、短距離離陸能力を付与された特殊改造型の無人哨戒機MQ-4「トライトン」を予め「硫黄島」の飛行甲板から発艦させて、赤城と加賀の攻撃隊の先導を任せてしまうことで解決を図った。洋上艦から運用され、かつ高精度のGPSやその他の種々のセンサー類によって正確な航法が可能な無人機なればこそである。発艦した艦載機隊は「トライトン」の航法灯を頼りに後を付かせれば良い。

 

 最後に、目標識別はぎりぎりまで攻撃隊の到着を待ち、危険を承知で探照灯照射を行うことで可能にしたのだった。月も星もよく見える明るい晴天の夜なら、探照灯の光線に浮かび上がった敵艦はさぞかし空からもよく見えたことだろう。

 

 レミリアとしては、航空爆撃によって敵の足止めを出来ればいいと考えていて、損傷を与えて追撃を不能にするという本命は曙たちに任せるつもりだった。しかし、赤城と加賀の攻撃隊の爆撃精度は予想以上で、初めてなはずの夜間攻撃にもかかわらず初撃で敵をほとんど戦闘不能に追い込んでしまった。曙と潮の止めも痛快極まりなく、あの危機的な状況から奇跡的な完全勝利を導くことが出来たのだ。

 

「貴女たちの精度には驚かされたわ。よく命中出したわね」

 

 思ったことを素直に賞賛として口に出した。赤城と加賀が、最強と誉高い一航戦と呼ばれる所以を目の当たりにしたからだ。

 

「自分でも出来過ぎだと思っていますよ。ぶっつけ本番だったのに上手くいって驚きました」

 

 と、赤城は謙遜する。ここで驕らないのが彼女の美徳だった。

 

「提督、今回はたまたま成功しただけです」

 

 ぼそりとした加賀の、忠告のような言葉も聞こえて来た。「仰る通りだわ」とだけ、レミリアは返す。

 

 あまり空母たちとお喋りしていられないようだ。背後から艦娘艤装が駆動する機械音が近付いて来ていた。

 

 それは本当にただの機械音であるが、何となくレミリアの頭の中でその艤装の主が「怒っているな」と浮かんだ。

 

 

「こんのっクソ提督ッ!!」

 

 

 想像通り、いや想像するまでもなかったようだ。キンキンと甲高い怒声が船上に響き渡る。きっと、今の声を無線越しに聞いた赤城たちも苦笑していることだろう。

 

「どんだけトチ狂ってるワケ!? しんっじらんないッ!! あんだけ砲撃浴びたのに無傷!? しかも夜間爆撃!? 一体全体どういうことなのよっ!!」

 

 空母に対する作戦の説明は曙と潮が再出撃してからしたので、横でレミリアが無線に喋るのを聞いていた漣だけしか事前に内容を知らなかった。レミリアにはまったくそんなつもりはなかったのだが、曙からすれば自分が蚊帳の外に置かれたという気がするのだろう。再出撃前のやり取りの影響もあって、相当頭にきているようだった。

 

 喚き声を浴びながら、レミリアはゆっくりと振り返る。そこにはもちろん、小さな体を震わせて耳の穴から噴気を放出しかねない勢いの曙がいる。まあ、小さいといっても身長は彼女の方がレミリアより少し高い。よって、“上から”怒られる格好となった。

 

「何の説明もないし! いきなり『命令に従え』だし! こっちは何が何だか全ッ然分かんないんだけど!!」

 

 彼女は本土まで聞こえんばかりの声量で怒鳴り散らす。一流のトランペット奏者並みの肺活量だと思った。元々声が甲高くて通りの良い上、鼻息荒く叫ぶので輪がかかっている。まさに今の曙は遮二無二吹き鳴らしているラッパのようにやかましい。

 

 彼女の後ろで、ゆっくりと船上に上がって戻って来た潮が苦笑いを浮かべている。「ちゃんと怒られてくださいね」という無言のメッセージが込められた笑みだ。

 

「ってか、正気!? 一歩間違えれば死んでたわよ! 至近弾だけでも危険なのに! 切り抜けられたのは奇跡よ! 分ってるの!?」

 

 と、曙はまだ興奮が収まらない。怒りだけでなく、戦闘直後ということもあって奮起した闘争本能が落ち着いていないのだろう。目も異様なまでにぎらついている。

 

「ええ。でも、お陰で全員無事じゃない」

 

「……ッ! ああ、そうねッ! あんたの脳ミソ以外はね!」

 

「酷い言われよう」

 

「言うわよ、そりゃあ! ほんっとに……ッ」

 

「心の底から心配してくれていたのね」

 

「そうよッ! 散々心配させられてこっちはいい迷惑よ!」

 

「……そう」

 

 

 レミリアは目の前に立った曙に手を伸ばす。熱くなったその体、首の後ろまで腕を回して彼女をそっと抱き寄せた。

 

 

「ごめんなさいね。でも、貴女たちを決して死なせたくなかったからなのよ」

 

 彼女の耳元にそっと囁き掛ける。曙は抵抗しなかった。

 

「私は死なないわ。だから、心配しないで」

 

「……」

 

「それと、もう二度と私の前で自己犠牲を謳わないこと。私はアナタたちを殺したりはしない」

 

 ――絶対に、ね。

 

 

 小刻みに震える曙の体を、繊細で華奢な体を、彼女が痛がらない程度に強く抱きしめる。この少女は本質的には闘争心の塊であり、勇ましい軍人なのだ。最前線の海に出て、夜闇を物ともせず、周囲に沸き立つ水の柱に臆せず、果敢に敵と渡り合える立派な戦士だ。

 

 それは確かなこと。けれど、だからと言って彼女が恐怖を感じないわけではない。死ぬことを恐れぬわけではない。覚悟を決める心の強さはあっても、感覚が麻痺しているのではないのだから。

 

 殿を申し出た時の穏やかな笑みは精一杯の強がりだった。怯えや恐怖を見せまいと必死に取り繕う彼女の姿は痛々しかった。それでも自らの役目を果たそうと、レミリアや率いる潮と漣を不安にさせないように、彼女は強気な嚮導艦を演じて見せる。

 

 ただ、それは弱さではない。死を目の前にしてなお強がりを演じられる小さな強さ。そういうものを、レミリアは両手で優しく包むように守りたくなってしまう。彼女が隠し通せなかった怯えや恐怖を見抜いて、それに挫けぬように膝を震わせている曙を、レミリアは何よりも尊く思うのだ。

 

 だから、真実の怒りを持って厳命を出し、全員が生き残れる未来をもぎ取った。正直なところ、艦載機の夜間攻撃などその場の思い付きでしかない。思い付きでしかないし、結果的にうまくいっただけのことなのだが、たとえそれが博打であっても彼女たちが死なない未来があるなら全財産をそこに賭けるのがレミリアという生き物の性だった。

 

 

 駆逐艦は提督の肩に手を置き、二人の間に腕一本の距離を作る。向かい合って、彼女は真っ直ぐ相手の目を見つめた。

 

 

 

「当り前じゃない」

 

 

 

 曙は唇を吊り上げて白い歯を見せる。

 

 獰猛な、闘志に溢れた貌。

 

 戦士の証。

 

 彼女は海にて異形を滅ぼす“駆逐艦”だ。

 

 

 

「簡単には死んでやらないわ。あんたより長生きしてやるんだからね」

 

 

 

 その言葉に、レミリアは大いに笑った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督12 A Declaration

 

 

 

 彼女は何故踊るのだろうかと考えた。

 

 古今東西、「踊り」と称される複数の特定の動作の体系化された組み合わせはさまざまな国や地域において、各々の土地と文化に見合った方法で形作られ、そして口伝であるいは文字として連綿と受け継がれてきた。世界が海底のケーブルと宇宙の衛星によってネットワーク社会として横の繋がりを持つようになると、世界各地の「踊り」も電子情報に乗って、時に踊る人間そのものが空を飛び、水平に展開されていく。すると、世界各地「踊り子」たちの間で、世界各地の「踊り」が共有され、それらの「踊り」は彼らの卓越した創造的で芸術的な才能により、組み合わされ、融合され、相乗効果を持ち上げて、さらなる新しい「踊り」へと昇華していった。

 

 それを一言、「文化交流」とつまらない言葉で片付けることも出来るだろう。あるいは「文化融合」などと新しい言葉を作り表現することも可能である。オーケストラと共にサックスとピアノが聴衆の耳を愉しませ、浮世絵の手法を取り入れて描かれた西洋画が美術館に飾られるのと同様、大洋と赤道を越えて寄り合わされた新しい「踊り」が生み出されるのも、それはまた「文化交流」であり、「文化融合」であり、あるいはその他の表現によって言い表わされる。

 

 だが、言葉は何でもいい。重要ではない。着目すべき点は、そこに疑問が二つ生まれ得るということだ。

 

 

 一つ目、何故そういった現象が起こるのかということ。

 

 音楽は聴覚情報による表現であるし、絵画は二次元的な静的視覚情報による表現である。そして「踊り」は三次元的な動的視覚情報による表現である。そこにあるのは、手段の違い。技法の違い。ただし、やり方が違えば表現したいもの、表現出来るものにも差異が出て来る。無論、音楽や絵画の目的が「表現」だけとは限らない。例えば軍楽隊が演奏する勇ましい行進曲には交響曲のような徹底的な音と音の調和は求められず、その目的は兵と軍の士気向上である。

 

 二つ目の問い。音楽にしろ絵画にしろ踊りにしろ、彼らは何を「目的」にそうした文化を継承するのかということ。表現としての「踊り」によって表したいもの、主張したいこと。あるいは表現以外の「踊り」によって、獲得したい事柄。「踊り子」たちの歴史の間で交わされてきた彼ら同士、または彼らとそれ以外の者たちの有機的な交流による生成物が、果たして「踊り子」たちが望んだものであるのかどうかというのは、彼らに興味の目を向ける上においてはいたく気になるものである。

 

 

 そこで、先程の疑問だ。『彼女は何故踊るのだろうか』には以上の二つの問いが根本的に含まれている。すなわち、彼女が見せる「踊り」の根源と、「踊り」を通して追究するものを探るのであり、そこには同時に彼女と言う存在への本質的な鋭い問い掛けが仕込み刀のように組み込まれているのだ。

 

 そもそも、どうしてそのような疑問が生まれて来るかと言えば、それは彼女が艦娘と言うある種の兵士であるからである。

 

 

 

 波が岸壁を洗う音に混じって、桟橋に置かれたラジカセからアップテンポの曲が流れる。

 

 早口のラップ。刻まれるビート。耳に心地よい韻を踏んだ英語。

 

 周囲に建物のない開放的な桟橋では、曲は反響せず、波の音に溶け込み、小さく掻き消えて行く。それでも彼女が音楽に合わせて激しい踊りを見せれば、まるでニューヨークの汚い路地裏に彷徨いこんでしまったかのような気分になった。

 

 彼女が踊っているのはブレイクダンス。世界で最もダンサーの人口が多い「踊り」で、先進国の路地裏なら人種を問わず踊っている人間をちらほら見る。元はアメリカのギャング同士が、流血沙汰の代替手段として発展させたもので、それらはいつしか彼の国の黒人を中心とした若者らの間で広まり、ブラジルの格闘技カポエイラやアフリカの民族舞踊の動きを取り含んで発展した。

 

 バレエや社交ダンス、他の民族舞踊とは違い、その「踊り」は必ずしも地に足を付けたものではない。音楽に合わせて軽快にステップを踏んでいたかと思うと、次の瞬間には手を地面について逆さまになりながら回転する。背中を軸にくるりと円を描いた直後に飛び上がり、そのまま後方宙返り。翻ったスカートの下は黒いスパッツだからか、彼女は気にも留めていない。むしろ、衣服の翻りすらパフォーマンスの一部として計算されているようだった。

 

 再び前後左右にステップ。リズミカルに、しかしアクセントとしてわざとテンポを崩した一歩を踏んで繰り返す。彼女の一房の金髪は汗に濡れ、パフォーマンスの間に短く吐き出される息遣いが聞こえる。

 

 そして、音楽はいよいよクライマックスに向かい、一旦スローダウンする。山場の前に一瞬つけられた谷間。ドラムが静まりアカペラになる。

 

 同時に、激しく踊ってた彼女の体も動きを止める。だが、完全には静止しない。両腕を腰元からゆっくりと肩の位置にまで持ち上げ、鳥が羽を広げるように左右に開いた。 その動きはこの国の伝統的な舞踊を想起させる。実際、それを真似たものだろう。

 

 次いで、曲が一気に盛り上がる。クライマックスへの突入とタイミングを合わせ、小振りな尻を小刻みに振ってからダイナミックな動きへ。両腕を大きく回し、細くしなやかな脚は残像を引く。今までよりもより激しく、よりアクロバティックに。

 

 二連続の宙返り。彼女の口から英語が紡がれ、額に張り付いていた前髪は遠心力で舞い上がり毛先から滴を飛ばす。 

 

 曲が、サビの最期の繰り返しに入る。彼女は片手を地面につけて逆立ちすると、そのままその腕を軸に回転蹴りを放つ。

 

 爪先が空を切り裂く音共に音楽が終わり、彼女の靴が軽快にコンクリートの桟橋を叩いた。

 

 

 

 ぱちぱちと拍手の音が桟橋に響く。喝采の混じった盛大なものではないが、真摯に称賛の意を込めて叩かれる手に、踊り手は嬉しそうに、照れ臭そうに破顔する。

 

「かっこいいじゃない」

 

 見物人は二人。その内の一人が拍手を終えると舞風を褒め称えた。

 

「ありがと、提督」

 

 彼女はそう言いながら、新しい曲を流し出したラジカセのスイッチを切り、その上に乗せてあったタオルを手に取って顔の汗をぬぐった。肩で息をしながら、クールダウンするようにその場を歩き回った。その間も、彼女は実に嬉しそうな表情を浮かべている。

 

「いつもは」まだ呼吸の整わない内に彼女は喋り出した。「見てるの、のわっちだけだから、ちょっと緊張しちゃった」

 

「でも、いつもより動きが良かったわ」

 

 その野分が舞風を褒めると、言われた方はまた照れ臭そうに笑う。「ホント?」

 

「ええ。あまりああいうダンスは知らないけど、舞風が非常に上手だというのは分かったわ。動きも面白かったし、楽しませてもらったわ」

 

「うへへ」

 

 レミリアの言葉に、舞風はフニャフニャとした顔になる。

 

「でも、意外ですね。司令がブレイクダンスをご覧になるなんて」

 

 レミリアの隣に腰を下ろしている野分が話し掛けてくる。レミリアは「そうね」と頷き、

 

「ダンスと言えばワルツばっかりしか知らないけど、新しい物事を知るのは嫌いじゃないから」

 

「ワルツか~」

 

 息の整った舞風は両手をふわりと上げ、地面に足を這わすようなステップを踏み始める。

 

「テンテレレ、テンテレレ、テンテレレテンテレレン」

 

 口で音楽を刻みながらくるくると回りながら踊る舞風。相方こそいないものの、両腕の位置といい、ステップといい、テンポといい、見事なワルツである。どうやら踊りと名の付く動きなら何でも出来るらしい。

 

 実に類稀なる才能である。そして、そうした才能とそれを実際に動きとして出力出来るしなやかな体。運動神経に恵まれた彼女のそうした特性というのは、実戦においても色濃く反映されている。

 

 リズム感抜群で、ぶれない体幹を持ち、激しい動きを連続させられる十分な体力。それらは戦場において敵艦を翻弄し、速やかに仕留めることを可能にしていた。そのためか、陸上での白兵戦訓練でも彼女は鎮守府で一番の成績を修めている。本気の陸戦隊員と勝負して投げ飛ばしてしまうくらいなのだから。

 

「のわっちも踊ってみればいいのにね。楽しいよ」

 

 ひとしきりワルツを終えた舞風は笑う。

 

「私はあまり運動神経良くないから。あと、のわっちって呼ばないで」

 

「射撃の腕はピカイチなんだけどねー」

 

「まあ……」

 

 今度は野分が照れる番であった。

 

 事実、野分の射撃精度はずば抜けている。いつだったかの演習において、背を向けて棒立ちであったとはいえ、加賀に正確無比な雷撃を直撃させたその腕前からも十分に分かる。射撃訓練においても、成績は先輩の巡洋艦や駆逐艦を差し置いて文句なしのトップに君臨している。そのことを、どうやら舞風に比べてかなり控えめな彼女は誇示したりはしないのだが、直球で褒められて否定はしない辺り、プライドを持っているのだろう。

 

「なるほどね。貴女たちはバランスのいいコンビなのね」

 

「だから、ここに来れたんだ」

 

 舞風は得意げに胸を張った。

 

 

 そう、確か第四駆逐隊の二人は志願してこの鎮守府に異動して来たと聞く。最前線として、また一航戦の母港として有名なこの鎮守府は、かつてより錬度の高い者だけが集う少数精鋭の基地である。それ故、この鎮守府に所属するということはそれだけで大きなステータスになり、目指す艦娘は多いのだという。無論門戸は狭く、厳しい選抜を勝ち抜いてきた者たちだけがその栄誉に与かれる。

 

 舞風と野分はまさにそうしてこの鎮守府にやって来た。

 

 接近戦の得意な舞風、抜群の射撃の腕を持つ野分。何より、この二人はその息がぴったりと合っている。総合力でこそ七駆に一歩劣るが(あちらは平均的に何でも高いレベルでこなせる)、遣いどころを誤らなければたった二人の駆逐艦とはいえ大きな戦力になることは間違いなく、だからこそ赤城は先の演習で勝つことが出来たのだ。

 

「頼りになるわ」

 

 レミリアは立ち上がり、大きく伸びをする。

 

 

 

 本日は曇天。暑くもなく、寒くもなく、実によい天気である。

 

 もう少し彼女らと話をしてみようと思い、「ところで」レミリアはラジカセを持ち上げたところの舞風に問い掛けた。「貴女たちはどうしてここに来たの?」

 

 すると、舞風は動きを止め、ぱちりぱちりと瞬きを二三度繰り返すと、レミリアの質問の意図を計りかねたのか野分と視線を交わす。それまで朗らかだった彼女の顔に翳りが差し、レミリアはやはり本来なら触れるべきではないことだったのだと確認する。だが、こうしたことはレミリアがこの鎮守府の最高責任者であり、舞風と野分が部下であり、そして彼女たちの”動機”が彼女たち自身の働きぶりに関わってくるようなら、課題点を抽出し、解決を図る義務があろう。故に、レミリアは二人の最も繊細な部分へ踏み込んだ。

 

 鎮守府に所属している艦娘たちの、各々の来歴、例えばここに志願して来た理由などは大抵すでに勉強済みである。履歴書に書かれるような事柄なら人事の記録に山ほど載っていた。しかし、あくまでそれらは表面的な事実の羅列であり、心底では当事者たちが何を考え、何を感じているのか、こうしたことは本人たちの口から直接聞き出すにほかない。

 

 あくまでもさりげなく、「ふと気になったから聞いてみた」程度の軽さを演出しながら慎重に踏み込んでいく。

 

 果たしてその試みはうまくいったようで、間もなく話辛そうにしながらも、色々あってさ、と前置きしてから舞風はポツリポツリと語り出す。

 

 

「昔、第四駆逐隊は四人居たんだ。私と、のわっちと、あと二人。萩風と嵐って言うんだけど」

 

 そこで、舞風は言葉を切り、気まずそうに視線を桟橋に這わす。時間が経ったとは言え傷が癒えたわけではなく、二人にとっては忘れがたい辛さがまだ残っているのだろう。心中を察すると、少しばかりの罪悪感が胸を刺す。

 

「戦闘で、轟沈したんです」

 

 続けたのは野分の方だった。彼女は舞風より幾分かはっきりとした言葉を繋いだ。

 

 ぼかした言い方はしなかったし、レミリアを見据える野分の視線は真っ直ぐだ。それで、二人が辛さを受け止めても、悲劇に目を逸らしているわけではないと分かった。

 

「まだ錬度が低く、経験も浅い頃でした。敵の奇襲に遭って、二人は野分たちを逃すために犠牲になったんです」

 

「あ、あの頃はさ、私もまだ全然動けなかったし、のわっちも今ほど射撃が上手じゃなかったの。ぺーぺーの新兵で、それでいきなり奇襲されたんだから何にも出来なかったんだよ。で、萩風と嵐はおとりになって……」

 

「だから、私たちはそれから徹底的に自分を鍛えたんです。たった二人になってしまったけど、出来ることは何でもやりました。綺麗なことも、綺麗でないことも……。そうやって、この鎮守府に来るための切符を手に入れたんです」

 

 遠くで船笛が鳴る。港を出て行く貨物船がお別れの合図をしたのだろう。

 

 野分はその音に反応し、海の方に目を向けて貨物船を望む。舞風は地面に何かを探しているように視線を落したままだ。

 

 ぼぉ。船笛がもう一度鳴る。

 

 野分は貨物船から目を離さず再び口を開き、レミリアに問い掛けた。

 

 

 

「ご存知ですか? 沈んだ艦娘は、深海棲艦となって帰って来るって」

 

 

 

 レミリアが首を振ると、野分はさもありなんと頷く。

 

「まあ、単なる根も葉もない噂ですからね」

 

 野分はちらりと舞風に目を流した。

 

 そこには重苦しく黙ったままの駆逐艦がおり、先程まで明るく踊っていた者と同一人物とは思えない。ダンスによって熱されていた空気は、いつの間にか海風が運び去ってしまっていた。

 

「野分たちがここを志願したのは、ここが最前線だからです。ここに所属すれば、いろんな海域に出撃して、いろんな敵と戦えます。普通、駆逐艦というのは大多数が護衛任務や輸送任務、近海の哨戒任務に従事していて、最前線に出て敵とがんがん撃ち合えるのはほんの一部に留まります。野分たちは、その一部になりたかった。そうやって最前線に出続ければ、いずれ萩風と嵐に再会出来ると思ったから」

 

 二人が例え、深海棲艦になっていたとしても。

 

 付け加えられた最後の一言は、波音に掻き消されそうなほど小さな声で紡がれた。会ってどうするかは、彼女は語らないし、語りそうにもない。

 

「馬鹿げてるとは思うよ」

 

 代わりに、舞風が続ける。

 

「のわっちの言う通り、沈んだ艦娘が深海棲艦になるなんて噂でしかないし、ホントにそんなことがあったなんて聞かないからさ。出所なんて分かったもんじゃない

 

――だけどね、提督」

 

「……」

 

「そんな噂に縋りたいほど、私たちははぎっちとあらっちにもう一度会いたいんだ。だって、私達の大事な姉妹だもん。血は繋がってないけど、それでも姉だし、妹だよ。会いたいのは当然だよ」

 

 胸一杯に詰まっている感情を吐き出したかのような舞風の声は切なさに溢れていて、それは懇願のようにも聞こえた。

 

 彼女たちは同じ「陽炎型」と分類される兵装を背負う艦娘であり、その分類というのは単純に兵装に立脚している。すなわち、「陽炎型駆逐艦」というのは、「陽炎型の兵装を背負う艦娘の集団」という意味であり、それ以上はない。

 

 これは陽炎型に限らず、他のすべての艦娘に言えることだが、一方で個々の艦娘たちは同型艦を姉妹と呼び親しむ傾向を持つ。例えば、陽炎型で言えば「長女」の陽炎を筆頭に18人姉妹として彼女たちは振る舞う。

 

「海の上で一人だけだなんて、そんなの寂し過ぎるからだよ」

 

 どうして艦娘は姉妹の関係性を重視するのかというレミリアの問いに対し、以前漣はそう答えた。

 

 血を別たない姉妹がいるからこそ彼女たちは孤独と戦える。個人で完結した戦闘力を持つ故に、他者との関係の中に安堵を求める。

 

 彼女たちもまた心を持つ生き物であり、競争と緊張の中で、それを分かち合え、安らぎを共有できる姉妹艦というのは必要不可欠な存在なのだ。それが例え離れ離れになっていたとしても、姉妹が居るということは轟沈の恐怖に常に晒される彼女たちにとって、大きな勇気の発生源となる。

 

 では、その姉妹を戦闘で失った艦娘はどうなるのか。その実例が目の前の二人である。

 

 舞風も野分も、言葉にしてその悲愴や苦痛を語らない。しかし、その瞳に宿る仄暗い光が、翳りの差した表情が、わずかながらも、しかし雄弁に彼女たちの内面を教えてくれる。

 

 誰かを失った時、人はそれを悲しみ、もう一度会いたいと願う。神に縋り、魔術に縋り、祈りを捧げ、禁忌に足を踏み入れ、我が身を犠牲にしてでも叶わぬ再会を求めるのだ。喪った妻を取り戻すために冥府に下ったオルフェウスのように。

 

 自分もそうなるだろうか。

 

 レミリアはたった一人の妹の顔を思い浮かべる。あの子を失った時、自分はどうなるのだろうかと。憤怒か、慟哭か、悲嘆か。その時自分が見せ得る反応に、レミリアは予想を付けられなかった。

 

 ただ、漠然と悲しむのだろうなとしか分からない。しかし、それだけでも二人の気持ちを察するには十分であった。

 

 彼女たちは根も葉もない噂に縋った。大切な姉妹を敵として迎えることになるとしても再会したいと願い、血が滲むような努力の末、この場所にやって来たのだ。

 

「もし」その上で、レミリアは問う。「再会出来たらどうする? 敵として」

 

 舞風は、顔を反らした。野分は沈黙を維持した。

 

 それが、答えだった。

 

 会いたいと願った先にあるもの。愛しい誰かと再会した時に生まれる感情。彼女達たちはそれを再会する前から心の中に抱いている。

 

 そう言えば先程の舞風のダンス。今回こそレミリアというイレギュラーなギャラリーがいたが、普段はその踊りを見るのは野分だけだという。この姉妹はいつも二人で行動しているし、その間に別の誰かが入り込んでいるなど滅多になかった。

 

 けれども、果たしてそれは本来の光景なのだろうか。実は舞風のダンスを見ているのは一人だけではなかったのではないだろうか。踊る舞風を野分が見るという構図は、本当は大切なものが欠損している構図で、そこには元々欠けてはならない何かが存在していたのではないだろうか。

 

「……そう。そうなのね」

 

 レミリアは首を振る。彼女たちの目的は、ただ再会することではない。

 

 場所はどこでもいい。三人が一人を取り囲み、あるいは四人一緒になって踊る。それこそが、二人が望む到達点なのだ。

 

 

 ――まったく、愚かしい。そう断じる。

 

 

 こうした考えをレミリアはこの国に来た時から嫌っていた。死してなお得られるものなどありはしない。例え死後の世界が“ある”としても、冥土の地まで持ち越せるものなど己の意志しかない。物や人を望んだところで、得られる術はないのだ。

 

 舞風も野分も、どこかの戦場で姉妹と出会えば、その瞬間に二人とも生還を放棄するだろう。この沈黙はそういう意味だった。運よく姉妹との“戦闘”に勝利しても、それで沈んだ姉妹が戻って来る保証はなく、彼女たちは誰にも望まれない心中を選択するのだ。

 

 死ぬのが怖くないかという問いはするだけ無駄だろう。最早彼女たちの心に残っているのは勇気でも希望でもない。二人の望みは、望みのない世界に我身を没せしめることであり、それは正しく絶望なのだ。

 

 この鎮守府で最も新しく、最も新鮮であるはずの舞風と野分の血は、きっと死にかけの老人のように濁り、淀み、苦味を増してどろりとした不愉快な液体と化しているのだろう。そのような血が自分の体に流れているとしたら、というあり得ない仮定にもかかわらず、想像すると全身が総毛立つような感覚に襲われる。

 

 遠い海と大陸の向こうから来たレミリアにすれば、「美しい死」の話など存在しないと考えるし、それを大真面目に実行しようとしているのも実に馬鹿げているとしか思えない。まったくもってそういうことは無駄だと捉えるのが主義であった。

 

 舞風の朗らかな人柄とエキサイティングなダンスの裏に、野分の実直で優秀な成績の裏に、こんな悲しい話が隠されていたというのは、正直レミリアも大いに同情するところである。だが、そこから先は認めない。認めるわけにはいかない。

 

 

 故に、命令を下そう。

 

 ここではレミリアが上官であり、舞風と野分は部下である。

 

「気に入らないわ」

 

 レミリアは吐き捨てた。舞風と野分の、悲壮な決意を、まずは靴底で踏みにじる。

 

 当然、それまで悲しみの籠っていた瞳に、剣呑な光が宿り始める。二人は悲しげな表情から、隠しきれない不快感を滲ませていた。

 

 

 

「まったく、気に入らない」

 

 

 

 もう一度、粉々になるまで。

 

「提督には、悪いと思うよ!」

 

 先に声を荒げたのは舞風だ。

 

 無論、レミリアには予想の範囲であり、細かいことは言わないし気分を害したりもしない。

 

「だけど、私たちはそのために今までやってきたんだ。今更否定しないでよ!!」

 

「萩風と嵐と再会して、一緒に海に沈んでいくの? 実に素晴らしいわ」

 

 いよいよ、舞風ははっきりとした怒気を放出し出した。温厚な彼女にしては珍しく(ある意味当然だが)、眼にも力が籠り、まるで深海棲艦を睨むような目つきになっている。隣では野分も明らかに棘のある視線を向けていた。

 

「でも、私にはもっといい考えがある」

 

 レミリアは両手を大きく広げた。首を左に傾げ、口元を釣り上げて前歯を見せる。

 

「取り戻すんだ。貴女たちの沈んだ姉妹を、再びこの空の下に連れ戻す。素敵でしょう?」

 

 はあ? と舞風が口を開け、野分は不愉快そうに眉をひそめた。

 

 何を言っているんだこいつは、と二人ともあからさまである。

 

「出来ないと思う?」

 

「そりゃあ……」

 

 やけに自信ありげなレミリアの姿に、舞風の顔に困惑の色が浮かび、同意を求めるように彼女は野分を見た。野分も野分で、「あり得ないと思います」とにべもなく否定する。

 

「あり得ない? 本当にそうかしら?」

 

「というと?」

 

「そもそもよ。一説には、艦娘と深海棲艦との間には深い関係があると言うじゃない」

 

 それもまた、根も葉もない噂の範疇であるが、レミリアは以前からそういう話があることを聞いていた。もちろん、真実であるという証拠はなく、どちらかと言えば“オカルト”に近いのだが。

 

「例えば、駆逐棲姫のように艦娘に酷似した容姿の深海棲艦も現れている。そこに何かしらの関係があったとしても不思議じゃないわ。まるでコインの表と裏で、艦娘か深海棲艦かというのは、表か裏かの違いしかない。艦娘が深海棲艦になるのなら、また逆もしかりなのかもね」

 

 仮説だけど。とレミリアは付け加えた。

 

 しかし、レミリアとしてはほとんど真実に近い仮説のつもりで、というよりもうそれしかないという確信さえ抱いていた。

 

 深海棲艦にも種類があり、例えば知能で言えば、昆虫のようにごく単純な行動原理しか持たない下級の深海棲艦から、言語を扱い人間と意思疎通さえ図れるような非常に高度な知能を持つ者もいる。人類はそれらすべてを「深海棲艦」というカテゴリーの中に押し込めてしまっているが、実はその「深海棲艦」にも色んな種類が存在する。中には、かつて艦娘だった「深海棲艦」もいる。そういう話だ。

 

 すなわち、

 

「そうした深海棲艦と艦娘の違いはその方向性ただ一つ。人間の味方をするか、敵対するかの違いだけ。根っ子は同じ。見る角度を変えれば、同じものでも違って見えるように。精神の生き物なのよ。精神の有り様が違えば存在も変わってしまう」

 

「そ、そんなわけない!」

 

 強い言葉でレミリアを否定したのは舞風だ。その瞳には雫すら浮かんでいて、きっと彼女はレミリアが語る恐ろしい仮説を心から拒絶したいのだろう。舞風は心に高い城壁を築き上げ、銃眼から無数の鉄砲と矢を放ち、それ以上提督の言葉の侵食を受け付けまいと必死で戦っているようだった。

 

「私たちは、あいつらとは違うんだ! あいつらから私たちが生まれるなんて、そんな、そんな馬鹿な話はないよ!!」

 

「そうですよ。司令の話はあまりにも突拍子がありません。現実的ではありませんし、そんな噂は所詮噂。ただの幻想にすぎませんよ」

 

 野分も舞風に同調する。普段真面目で物腰の柔らかい彼女ですら、レミリアの言葉を強く全否定するのだ。余程この話は受け入れがたいのであろう。

 

「幻想か……」

 

 偶然にして、野分は意識したわけではなくその単語を使ったのであろう。しかし、レミリアはそこに何やら運命めいたものを感じざるを得なかった。

 

 その幻想は、今お前の前に立って言葉を交わしているというのに。

 

 アイロニックな笑みが口元に浮かぶのを抑えきれなかった。

 

「幻想と言うなら、貴女たち自身がそうではないの。いやそもそも、艦娘と深海棲艦の本質が共通していないなら、どうして沈んだ艦娘が深海棲艦になるというの? そうでしょう? 貴女たちの中に、思い当たることはない?」

 

「それは……」

 

 二人とも口を噤む。どうやら思い当たりがあるようだった。

 

 はっきり言って、今の切り返しは出まかせでしかなかったのだが、巧く二人を誘導することが出来たようだ。後はこのまま力で押し切ってしまえばいい。取っ掛かりは見つかったのだから。

 

「貴女たちがどういう存在なのかを証明した科学者はいない。的確に表現出来た弁論家もいない。議員は艦娘の法的定義に頭を悩ませたし、官僚はいつも艦娘の取り扱いに曖昧さを含ませざるを得なかった。

 

万物森羅万象に定義を与え、合理性を求める人間たちは、今まで一度だって艦娘の本質に言及出来たことはないはず。常に曖昧なところを曖昧なままに、不明瞭な部分を不明瞭なままにして、ただ己が分かる範囲で艦娘を利用して来たの。

 

そういう存在を、何と言うか知っている?」

 

 オカルトっていうのよ。

 

 

 

 言葉の槍は、二人の心に合った強固な城壁を突き破った。否、それはしかるべくしてそうなった。

 

 何故なら、彼女たちはもちろん、自分たちがどういう存在であるか、言葉にしないにしろ、皆気付いているのであるから。

 

「幻想なのよ。すべて、幻想なの」

 

「……うん」

 

「けれど、幻想だからって、それが真実じゃないとは限らないじゃない」

 

 艦娘が幻想であるなら、「艦娘が深海棲艦になる」という噂も、「艦娘は深海棲艦より生まれ出る」という噂も、また幻想ではないか。

 

 幻想だって姿を持つ。噂だって真になる。

 

 もし萩風と嵐が深海棲艦になっているなら、信じ方を変えればいい。その二人を深海棲艦として捉えるのではなく、艦娘として捉え直すのだ。そこに一定のプロセスが必要だとしても、プロセス自体の難易度は高くないし、故にレミリアは確固たる自信を持つのである。

 

 

 小さな提督は不敵に笑う。

 

 取り戻したいというなら、取り戻して見せよう。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督13 A secret of scarlet

A secret makes a woman woman.


 

 

 

 この者は煙草を吸うのかと思った。

 

 知り合いの意外な一面を発見するというのは、いつだって愉快なことである。レミリアは日傘を差しながら足音を立てないように彼女の傍に近寄っていった。

 

 

 鎮守府の桟橋から少し離れた防波堤の上。立ち並ぶ倉庫が海に面する人気のないここが彼女のお気に入りらしく、鎮守府庁舎の司令室の窓の端からわずかに覗けるこの場所に、何をするでもなく海を眺める小さな人影がしばしば現れるのをレミリアは以前から知っていた。ただ、彼女がここで煙草を吸っているのは初めて見る。

 

 防波堤に腰掛け、足元のテトラポットに波が砕かれる音を聞きながら、彼女は入り江の向こうの海をぼんやりと眺めていた。咥えた紙筒から立ち昇る紫煙が静かに風に流されている。

 

 防波堤の高さは地面から一メートル程あり、レミリアは日傘を落さないように防波堤に飛び乗った。タンッと軽い靴音がするが、煙草を吹かす彼女は彫刻のように固まったまま海に目を向けている。何も言われないので、レミリアも何も言わずそっと彼女の横に腰を下ろした。

 

 それからしばらく沈黙の時間が過ぎる。二人して話すこともなく、ただひたすら波の音を聞きながら景色を鑑賞していた。思考をするのでもなく、景色の中に何か面白いものを探すのでもなく、無言で無為な時間を過ごす。

 

 先程防波堤に上る前に見た懐中時計が指していたのは三時の十分前。午後も下って来たころ合い。ただ何もしないでいると、いくらもしない内に瞼が重くなって、その内にレミリアの頭がこくんと船をこいだ。

 

 それにはっと目を覚ます。あっという間に居眠りを始めてしまったらしい。

 

 確かに耳に響く波の音や首元を吹き抜ける風が心地よいが、仮にも自分とあろう者がすぐに居眠りをこくなど恥ずかしいことこの上ない。顔が熱くなったレミリアは、今の痴態が見られていないかと隣に座る者をそっと確認するが、彼女は先程と変わらぬ姿勢で無表情に水平線に視線を投げていた。

 

 気付いていないのか、あるいは気付いていてあえて無視しているのか。レミリアとしては前者を願うばかりだが、それはそうとこうも彼女に動きがないと本当に生きているのかとさえ思えてくる。実はこれは彼女の姿形をそっくりそのまま模倣した彫像ではないかと。

 

「提督さあ」

 

 不意に、彼女が――川内が動いた。咥えたままの煙草を離し、ふうっと煙を吐き出した。それでようやく彼女が生きている本物であると確認したレミリアは、緊張の糸を少し解くことが出来た。

 

「何かしら?」

 

「舞風と野分に、変なこと吹き込んだでしょ」

 

 川内は夕食のメニューを尋ねるような気軽さでレミリアに問い掛ける。

 

 鼻腔を紫煙の臭いが満たす。

 

「変なことではないわ。ただちょっと、激励してあげただけ」

 

「激励か」

 

 くすくすと彼女は喉の奥で笑う。「今の二人を見たら激励されたとは思わないんだけど」

 

「あら? 元気がないのかしら?」

 

「元気がないというより、ずっとむすっとしてる。笑わなくなったし、悩んでるみたいね。どうしたのか聞いたら『提督が』って言うからさ」

 

「悪いことを言ったつもりはないわ」

 

 レミリアは日傘を掲げ上げ、天を仰いだ。傘の向こうに見える空は澄んだ青空で、先日のように曇っていたら最高の天気だったのにと惜しむ。

 

「ああいう考え方は、ちょっと気に食わなかったからね。それを率直に伝えただけよ。私、上官だし」

 

「まあ、そうだろうね。あの二人は、あれで結構根暗なところあるから」

 

 川内の言葉に、今度はレミリアが笑う番だった。

 

 彼女はレミリアを責めているのではなく、ただ単に世間話をしているようである。そう言えば、川内はよく四駆の二人と一緒にいるところを見るなと思い出した。赤城の部隊運用でも、川内と四駆はいつもセットになっている。

 

「それで、提督は何を言ったのさ?」

 

「聞いてないの?」

 

「語ってくれなかったから。気になるんだよねえ。あれだけマイナスの方向に全速力で疾走していた二人を立ち止らせちゃうような言葉って」

 

「別に、大したことじゃないわ。ただ、素敵な提案をしただけよ」

 

 それから、レミリアは手短に先日四駆の二人に言った内容を川内に説明した。その間、彼女は短くなった煙草を防波堤のコンクリートに押しつけて火を消し、ご丁寧に懐から取り出した携帯灰皿に詰め込んでいた。

 

 そして、レミリアの話が終わってから、新しい一本を取り出しながら彼女は小さく口元を歪める。

 

「それは素敵ね。本当に……」

 

 小さく呟いた言葉は、海風に語尾が流されて聞き取れなかった。川内は煙草を咥え、ライターで火を付けようとする。けれど、風のせいで思うように火が付かないのか、何度もカチカチと鳴らしてようやくライターをしまった。

 

 ふうと煙が吐き出され、海風に乗って虚空へと霧散していく。レミリアは黙ってその行方を目で追っていた。川内もまた沈黙し、煙を吸っては吐き出し、吸っては吐き出しを繰り返した。

 

 

「五年前の話さ」

 

 しばらくそれをやってから、気が済んだのか川内は語り出した。

 

「その頃は第四駆逐隊も新入りのペーペーでね。後方でなんてことのない小さな輸送作戦の護衛ばかりやってたんだ。敵も少ない安定した海域だったし、たまに出現しても新人で処理出来るような雑魚ばっか。

 

……その日も例によって輸送船団の護衛をしててさ。四駆の四人は任務を終えて自分たちの拠点に帰る途中だったんだ。その航路はそれまでも何度も通ったことのある道で、迷うことなんてないし海の様子も把握済み。いつものように仕事して、いつものように帰っていただけなんだ。

 

ただちょっと時間が遅かった。護衛していた輸送船のトラブルで作戦に遅延が出てね。仕事終わりが二、三時間ばかり延びてしまったのさ。

 

だから、帰り道の途中で日が沈んで、四人は夜間航行をしなければならなくなった。もちろん訓練は受けていたから出来るっちゃ出来るんだけど、いかんせん慣れないものだから索敵が疎かになったんだろうね。もうすぐ拠点だってところで、小さい群島があったんだけど、その間の海峡とも呼べないような狭い水路を通ったんだ。

 

いつもの道よ? でも、それが最悪だった」

 

 トントンと、音を立てることなく川内は手に持ったままの煙草を指で軽く叩いて灰を落した。

 

「待ち伏せさ。待ち伏せの夜戦。

 

敵はエリート軽巡を旗艦とした水雷戦隊で、確か六隻編成だったと思う。エリ軽一隻と後はノーマルの駆逐艦。数では不利だけど、昼に出会えば楽に対処出来る相手だね。

 

でも夜だ。夜戦なんだよ。夜の軽巡や駆逐艦ってのは、深海棲艦でも艦娘でも、昼間とはまるで別物。どんな雑魚だって戦艦を食ってしまうくらい凶暴になる。まして、相手は数が多かったんだ。その優位を利用して、敵は部隊を二つに分けた。駆逐艦のみの囮と旗艦を含む主力。

 

まず囮が四駆を攻撃した。最初の砲撃は命中しなかったけど、完全な奇襲になって四駆は一瞬でパニックに陥ってしまった。それでもその状況で反撃したってんだから、新人にしちゃあ上出来さ。だけど、敵の方が一枚も二枚も上手だった。

 

囮は囮で、初撃が外れるとすぐに反転して逃げた。いや、逃げたようにみせた。

 

もちろん、四駆はその後を追ったよ。パニックになって、それから頭に血が昇ったんだろうね。熱くなって囮を追い掛けちゃったの。で、これが致命的だった。

 

待ち構えていたんだよ、罠にかかるのを。

 

囮を追った四駆を、その側面から敵の主力が砲撃した。これで二連続の奇襲になった。

 

まず、萩風が被弾して航行不能になって、野分も中破。この時点で四駆の戦闘力は半減。つまり、ほぼ壊滅状態さ。

 

その場にいたわけじゃないから想像するしかないんだけど、そりゃあもうすごいパニックになっただろうね。何が何だか分からなくなって、感情のままに叫ぶしかなかったみたいだった。だけど、少し救いがあったのは、嵐が比較的冷静だったことかな。

 

嵐は錯乱する舞風や野分を説き伏せて、先に逃げるように言ったんだ。自分が敵を引きつけて、隙を見て萩風と一緒に後を追うって、そう言ったらしい。ま、要は殿さ。生還の見込みなんてまずあり得ない。嵐は死を覚悟して、それでも残る三人を助けようとしたんだ。

 

で、結果は知っての通り。二人は帰らなかった」

 

 そこまで言い終えると、川内は煙草を咥えて煙を灰に流し込む。ふうっと吐き出して、紫煙が空へ昇って行くのを見送った。

 

 実は、レミリアは今の話を既に知っている。何せ、軍隊と言うのは機密事項も多いが、それ以上に日々の細々とした出来事にまできっちりと記録を残す組織らしく、ましてやそれが本業たる「戦闘」のこととなると、これはこれでしっかりとどこかの紙に記し残されているものだ。もちろん、それを閲覧するには一定の権限がなければならないが、レミリアにおいては権限が不足することはなかった。

 

 そう、五年前のここより遥か南方で起きた惨事である。川内の言う、その前線への補給基地に近い島嶼で行われた突然の夜戦。犠牲者も出たこの戦いは軍に相当の衝撃を与えた。

 

 無論、第四駆逐隊は奇襲を受けた後、緊急事態を基地に知らせている。そして、近くを航行中だった別の部隊が直ちに救援に向かったのだ。先の夜戦で襲って来た敵の水雷戦隊は、この味方の増援により壊滅させられたのだが、生憎萩風と嵐を救うことは出来なかった。

 

 ここまでは記録の通り。川内や四駆の二人の話とも矛盾しない。ただ一点、気になるのはその時駆けつけた救援の部隊というものの正体が分からなかっただけ。記録には単に「別任務を終えて帰還中だった水雷戦隊」としか書かれていない。

 

 これはおそらく高度な機密事項なのだろう。この記録は幹部クラスなら誰でも閲覧出来るものなので、明かせない情報は載せられていなかった。

 

 問題はそこではない。

 

 記録を読んだ時、レミリアは自身の記憶の中の、とある情報とその記録の間にある奇妙な符合点を見つけた。単なる偶然かもしれないが、ちょっと気になることがあったのである。

 

 故にレミリアは川内に話し掛けたのだ。

 

「五年前のその日は結局、近くにいた味方が舞風と野分を助け、敵を撃滅して終幕となったのね」

 

「何だ。ひょっとして提督、知ってたの?」

 

「ええ」

 

 そう。ある、確信を持って……。

 

「それならそうと言ってよ。無駄話しちゃったじゃない!」

 

「無駄があるのも一興よ。それより、気になるのはその時駆けつけた味方の存在。

 

調べても出て来なかったから、人に聞こうと思ってね」

 

「へえ。まあ、大っぴらに出来ない連中だったんでしょうね」

 

「赤城に聞いたら、言ってくれなくてね。何か知ってるみたいだったけど、あの子はそういうこと、絶対に口を割らないだろうし。多分、誰かに口止めされているんだろうと思うわ」

 

「赤城さんは真面目だから」

 

「最近は割と仲良くやってるんだけどねえ。ちょっと頭が固いというか、真面目すぎるのよ」

 

「まあ、あの人はね。『仕事が恋人です』を地で行く人だけど、それは単に真面目なだけで、基本的には普通の女性だよ。内心羽根を伸ばしたいと思ってるかもね」

 

「それは検討しておくわ。でも、本人がほとんど自分からばらしちゃったから世話ないわね」

 

 くすくすと、川内はまた喉の奥を鳴らして笑った。愉快で仕方がないといった風だ。

 

 短くなった二本目をさっきと同じようにコンクリートに押しつけて火を消す。けれど、すぐに灰皿に捨てず、そのままぐりぐりと潰れた煙草をコンクリートで削り始めた。

 

「ま、ここに来た時点で分かってはいたんだけどね。ばれるのは思ったより早かったかな」

 

「自分から誘っておいて何を言っているの? ここは赤城の部屋からも見えるのよ。あの煙草嫌いが見たら、目くじら立てて怒るだろうから注意しようと思ってね」

 

「わざわざ日傘を持って来て、私が吸ってる姿を遮ってくれたのね。優しいよ、提督は」

 

「日傘はそれだけじゃあないんだけど……。それで、そろそろ答え合わせと行こうじゃない」

 

「答え合わせも何も、丸しか付けられないじゃん」

 

「あら? 赤点かもしれないわよ」

 

「十分合格ライン超えてます」

 

 川内はほとんどすり潰されてなくなった煙草の残骸を携帯灰皿に突っ込んだ。そこまで削ったなら、もういっそ擦り切ればいいのにとレミリアは見ながら思った。

 

「ご明察の通り、四駆の救援に駆け付けたのは私の部隊だったんだ。任務の帰投中に連絡を受けて、一番近くにいたのが私たちだったから急行したよ。

 

んで、行ったらそこに居たのは弱い敵で、三分くらいで全部ぶっとばせた。錬度が高かったらなんてことのない雑魚よ。まあ、問題はその後だったんだけどさ。

 

――実は、その時には嵐はまだ“浮いて”いたんだよね。萩風はもういなくなってたけど、大破してボロボロの嵐はまだいた。でもそれは、ただ単に浮力が残っているから“浮いて”いるだけの状態で、見た瞬間『これはもう助からないな』って分かったよ。

 

最期の言葉を聞いてあげなきゃって思って、私は嵐を抱き上げた。そしたら、嵐は何て言ったと思う?」

 

 離れろ!! だって。

 

「もうそれはすごい音量で、とても沈みかけの艦娘の出す声じゃなかった。私も当時の僚艦もびっくりして固まったけど、その後もっとすごいことが起きた。

 

……嵐の身体が、青白くなっていって、手足から何だかよく分からないけどぬめぬめしたもんが生えて来たんだ。ああ、今でもその時の音とか感触を覚えてる。気持ちが悪いというか、あれはもう言葉じゃ表現できないよ。

 

あり得ないことが起こっているんだと思った。現実感がなかった。何かは分からないけど、何かが起こってた。

 

それで、私たちは何も出来なかったの。私の腕の中で、艦娘じゃない何かに変貌していく嵐を見ていることしか出来なかった。

 

でもそれがいけなかったんだろうね。

 

右の脇腹の前くらい、ちょうど肝臓のある辺り。すっごい強烈な衝撃を受けて、私は吹っ飛んだんだ」

 

 川内は「ほら、これがその時の」と言って、上着の裾を捲った。

 

 彼女の言葉通り、右脇腹の、肝臓のある辺りに赤い、大きな傷跡が残っている。川内の白く艶やかな腹に、ミミズが這ったような醜い傷があった。

 

「本当に宙を舞ったよ。辛うじて意識は失わなかったけど、受身さえ取れなくて頭から海に落ちた。お腹が熱かったのを覚えてる。しかも、傷口に海水が入り込んで来たんだから、その後はすごい激痛で。とにかくひたすら痛くて呻いたことしか覚えてない。

 

後で僚艦に聞いたら、私を吹っ飛ばした嵐はそのまま海に消えたんだって。だから戦闘は起こらなかった。僚艦たちは、彼女を攻撃しなかったのさ」

 

 川内は脇腹の傷を一撫ですると、裾を下ろした。

 

「それから三日三晩熱に浮かされて、苦しんでた。一か月の間ベッドから離れられなかったし、ようやく復帰出来たのは、リハビリ期間を含めて二ヶ月経ってからだったよ。

 

私の部隊は夜間戦闘専門の部隊だったからさ、復帰後初めての任務ももちろん夜戦だった。でも、艤装を付けて母艦から夜の海に飛び出した途端、立っていられなくなったんだ。

 

あの、嵐の変貌する音とか感触が蘇って来てね。気付いたらその場に蹲って吐いていた。その日食べた物全部と、それでも収まらずに胃液まで吐いてた。もうその場から動けなくって、僚艦に抱えられて母艦に引きずり戻されたよ。

 

後で医者に診てもらったらPTSDだってさ。いわゆるトラウマってやつ。

 

とにかく、夜が駄目になった。夜の海に出ると一発でフラッシュバックがあって動けなくなる。それでなくても夜中に暗い所で動くのが嫌になったし。

 

私は夜戦の専門家だったわけだけど、何の皮肉かそれがまったく夜戦出来なくなったのよ。ほんとにもう、呆れるね」

 

 川内は自嘲気味に笑い、それまで防波堤の端から下ろしていた足を立てて、背後に手をついた。

 

「昼間は別に普通に動けたから、幸い艦娘をクビにはならなかったけど、それまでいた部隊には居られなくなった。それで、この鎮守府に来たんだ。

 

提督も、その記録を見て気付いたんでしょ?」

 

 レミリアは頷いた。

 

 着任して早々、赤城から川内に夜戦をさせないように言われており、その理由が気になって調べたら彼女が夜戦専門の部隊からこの鎮守府に、五年前に異動しているという記録にあたったのだ。正し、その理由は分からなかったのだが、四駆の話を聞いて、もしやと思ったのがきっかけである。

 

「結局、嵐の身に起こったことは、噂の通りなのね」

 

「だろうね。嵐はあの時、深海棲艦になったんだ。だから、私が受けたのはれっきとした攻撃よ。

 

多分、萩風もそうだろうね。嵐は萩風が深海棲艦になるのを見てたから、そして自分もそうなるだろうと思ったから、『離れろ!!』って叫んだのよ。でも、私が呆けてたからついに理性を失ったの。言ってしまえば、攻撃を受けたのは私の自業自得なんだけども」

 

「それ以来、萩風と嵐は現れていないの?」

 

「深海棲艦として? うーん、聞かないなあ。私自身出会わないし」

 

「このこと、あの二人には言ってあるの?」

 

「言うわけないじゃん。言えないよ」

 

 川内は苦笑とも自嘲ともとれる表情を浮かべた。

 

「そんなこと言ったら、あの二人が遠いとこに行っちゃうよ」

 

「……それもそうね」

 

「うん。だから、提督には感謝しているのよ」

 

「感謝?」

 

「そそ。だって、私じゃ二人を止められなかったから。きっと二人が死地へ向かって行くのを見送ることしか出来なかったから。だから、ああして言葉一つで二人を止めてくれたことに感謝してるし、嫉妬もしちゃうね。まあ、私には出来ないことだったんだけどさ」

 

 川内はそれっきり口を閉ざす。先程と同じようにただひたすらに入り江の向こう、外洋を眺め始めた。

 

 そう言えば、この鎮守府のある入り江は南に面しており、すなわちレミリアと川内は今南方の方角に身体を向けているのだと気付いた。この海の先に、深海の怨嗟がとぐろをまく南方海域が存在する。

 

 

「気に食わなかっただけ」

 

 レミリアは同じ言葉を繰り返した。

 

「足元どころか、自分の背後にある影を見下ろしているだけのような暗い考えを私は好かないの。ただ、それだけのことなのよ」

 

 

 

 川内はおもむろに懐を探り出し、ごそごそとまた新しい煙草を取り出す。どうやら上着の左の内ポケットにしまっているらしく、それを右手を防波堤についたまま横着して左手で取り出そうとするものだから、やり辛そうに箱を取り出していた。

 

「結構吸うのね」

 

「一週間で三本までって決めてるんだ。あんまり吸ってると臭いで気付かれるし」

 

「あら、今週はもう終わりじゃない」

 

「ホントは今日のところは一本で済ませるつもりだったんだけどね」

 

「私のせいだとでも言いたいの?」

 

「うん」 

 

 軽口をたたき合いながら、川内はライターで火をつけようとする。が、例によって海風の所為で思うように火が付かないらしく、カチカチと何度も鳴らしていた。風は川内に禁煙を勧めるかのように強まっており、なかなか着火出来ないことにイライラしたのか、川内はついに軽く舌打ちしてライターをポケットに仕舞い込んだ。

 

「また今度だね」

 

 一度は咥えた煙草を離して、口惜しそうに呟く。

 

 

 

 パチンと、軽快な音が鳴った。

 

 静かに立ち昇る紫煙。指で挟んでいた煙草の先から白い煙が唐突に現れたことに目を丸くする川内。何事かと煙草を覗き込むが、ライターもなく火が付いたことを除けばそこに異常はなかった。

 

「提督、何かした?」

 

 レミリアは満足気に微笑む。来た時と同じように何も言わずに立ち上がると、くるりと海に背を向け、防波堤から飛び降りる。

 

 ふわりと、柔らかい青紫の髪が塩気を含んだ空気を含んで膨らむ。差した日傘はそのままに、宙に浮きそうな軽やかさで。

 

 小さく靴音をさせて地面に飛び降りると、レミリアは傘を少し傾け、飛び降りた背中を目で追っていた川内の方をわずかに振り返った。

 

「ミステリアスな貴女が素敵だと思うわ。秘密は女を輝かせるのよ」

 

 川内は笑う。今日、それまで見せたどの笑い方とも違う表情だった。

 

「提督も、素敵よ」

 

「ありがとう。今ぐらいは赤城が工廠に行ってるから、吸っててもばれないわ。でも、あんまりゆっくりしてると見つかるかもしれないから気をつけなさいね。元“督戦隊”さん」

 

「それも分かってたかあ。ご忠告どうも。この一本はしっかり味わせてもらいますよ」

 

 

 レミリアは暗殺部隊の元隊長へ優雅に手を振り、のんびりとした歩調で鎮守府庁舎へと帰って行くのであった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督14 In the secretarial office

「そのファイルはその棚の下から二段目の一番右に入れて。そっちは、別だから机の上でいいわ。ああ、そこそこ」

 

加賀は赤城に指示された通り、手に持っていたB5サイズの青いバインダーファイルを棚に突っ込み、別のファイルを赤城の事務机の上に置いた。その間も赤城は手を止めることなく、二台のパソコン――自分の物と提督の物――を叩き、カタカタと何やら書類作成に勤しんでいるようである。

 

「赤城さん、先月分の制服の申請控えは?」

「そっちの棚の一番上の段よ。八月分まで入っているのでその隣に」

 

 赤城の指さす書類棚の一番上に、丁寧にラベルの張られたファイルが並べられており、加賀は少し背伸びをして「制服申請八月分」のファイルの隣に九月分を差し入れる。

 

 現在、一航戦の二人はマンハッタンのようにファイルが積み重なった塔が林立する秘書室に居た。赤城はそこで事務仕事をこなさなければならず、一方の加賀はそんな赤城の状態を鑑みて自ら仕事の手伝いを名乗り上げたのである。

 と言っても、秘書艦の仕事のほとんどは秘書艦にしか出来ない。能力の問題と言うより、組織管理上の権限の問題であった。端的に言えば、秘書艦の仕事を秘書艦以外の艦娘が行うことは軍規に反するのである。

 そこで加賀は、秘書艦以外が出来る仕事、例えば散らかった部屋の片づけを始めたのである。どこに何を仕舞うかは赤城の指示に従わなければならないわけだが、現状それは赤城にとって大いに助けになっているようであった。

 

 

 不意に電話が鳴る。ワンコール後、加賀が電話を取った。「はい、秘書室です」

 相手は港務部だった。出たのが赤城ではないと分かったのだろう、「赤城さんはいらっしゃいますか」と尋ねる。

 加賀は忙しそうな赤城をちらりと窺って、「今席を外されています。代わりに承りますが?」

 相手は伝言をと言ってから要件を加賀に伝える。その内容が加賀にも解かる簡単なことなので、赤城の代わりに加賀は対応した。港務部の女性事務員はそれで事が済んだらしく、礼を言って電話を切った。

 

「……いちいち、この程度のことを赤城さんに聞いてどうするの」

 

 受話器を置いてから加賀は吐き捨てるように呟いた。別段赤城に向けた言葉というわけではなかったが、秘書艦は苦笑を浮かべる。

 

「それだけ、皆さんに頼りにされているということだから」

「頼りにされ過ぎよ。何でも赤城さんに聞けばいいと思ってる。答える方の手間を知らないで」

「そうね。ところで加賀さん、一段落しましたし、そろそろ休憩でもしませんか?」

 

 言いつつ、赤城は立ち上がる。「そうね」と加賀も同意した。

 午後一から始まった部屋の片づけは、二時間経ってようやく終わりの兆しが見えて来ていた。林立していたファイルの塔はすっかり姿を消し、残すところは赤城の机周りだけとなっている。それも、元より几帳面な部屋の主がある程度整理していたので、ほんの三十分もすれば綺麗になるだろう。

 赤城は自分の席の後ろ、背の低い棚の上に置かれている電気ケトルとインスタントのコーヒースティックを手に取った。紙コップとホルダーを二つずつ取り出し、スティックの粉末を入れてお湯を注ぐ。

 加賀は赤城の隣の空き机(提督のパソコンや資料を置く補助の作業台として備品庫から持って来た物らしい)に腰掛けながら紙コップホルダーを受け取った。口を付けると、砂糖を溶かし過ぎた甘ったるく熱い液体が喉を流れ落ちる。

 

「だいぶ片づいたわね」

 

 すっきりとした部屋を見ながら赤城は呟いた。

 

「ええ。これで仕事もしやすくなるでしょう」

「そうね。助かります。お陰で今日までに終わらせたかった仕事も全部出来そうだし、明日からは多分海に出れるわ。久しぶりに皆で航行訓練しましょう」

「楽しみね。やっぱり、赤城さんがいないと締まらないから」

「私がいなくてもちゃんと締めないと」

 

 言いつつ、赤城は心なしか楽しそうである。誰が見てもワーカーホリック気味な彼女であるけれど、本来的には書類仕事より海に出ることのほうが嬉しいのだ。昔から変わらない赤城を見ていると加賀の心も落ち着いた。

 日々殺人的な量の仕事をこなしている赤城だが、加賀や金剛、加藤幕僚長らの手伝いもあり、こうして海上訓練の余裕を持つまでに仕事を減らすことに成功した。本来彼女のやる必要のないことまで赤城はしているが、文句を言ったのは最初だけで後は黙々とやり遂げてしまう。それは純粋にすごいことであると、加賀は賢明な赤城に心中で称賛を贈っていた。

 

「ところで赤城さん。提督はどちらに?」

 

 実は先程から気になっていたのだが、この秘書室の隣、司令室からは物音が一切せず、人の気配も感じられなかったのだ。加賀は提督はどこかに出かけているのだろうと当たりを付けていたが、果たして赤城の返答は予想通りであった。

 

「工廠。お昼から新しい機械の導入について工廠長からプレゼンを受けてらっしゃるわ」

「赤城さんはいいの?」

「決裁しましたから」

 

 赤城はそう言ってにっこりと笑った。

 ああ、なるほど。加賀は得心する。そう言えば、この鎮守府の実権はほぼすべて目の前の彼女が握っているのだった。

 本来鎮守府司令官たるレミリアが持つ最高決定権は、彼女自身が半ばその権限を放棄したことで赤城に移っている。提督の決裁すなわち赤城の決裁であり、あの加藤幕僚長ですら今では赤城に稟議を提出するのだという。初めこそ提督の仕事まで押しつけられて嘆いていた赤城だが、期せずして手に入ったその権力を、いつの間にか存分に振るっているようである。

 

「何か提督に用事があったのかしら?」

「いえ……」

「いつもこんな感じよ。居ても、居なくても、ずっと静かだわ」

 

 赤城は音を立てることなくコーヒーを啜った。猫舌気味な彼女は、熱い飲み物をすぐに飲まず、ある程度冷めたと思ったところで舌を火傷しないように少しずつ啜る癖があった。いつもはしっかり者のくせに、時折こうして幼さを感じさせる仕草を見せる時の赤城が、加賀はたまらなく好きだった。

 

「もうすぐ南方への遠征があるみたいだけど、その間どうするの?」

 

 あんまり赤城を注視していて気付かれても恥ずかしい。彼女は加賀を拒絶したりはしないだろうが、“その気”のある人だと思われるのは不本意だった。だから、加賀としてはあまり重視していない事務的な事柄について尋ねて紛らわせようとした。

 何も疑問を持たない赤城は紙コップから一度口を離して答える。

 

「あんまり考えてないけど、基本的にはルーチンを回す感じかな。提督やあの子たちが居なくても、仕事が減ることはないしね。ただ、七駆には負担が掛かっちゃうかも」

「いつも通りって言うことかしら。提督が居なくて赤城さんも大変じゃない?」

「私が? 冗談。いつもと変わりないわよ。あの人、何にもしないんだから」

 

 と、赤城は楽しそうに笑った。言葉にこそ棘が多少含まれていたけれど、口ぶりは至って軽やかで多分に愉快さを含んでいる。なるほど、赤城は随分レミリアと仲良くなったようだと加賀は得心した。

 初期の頃と比べ、赤城はレミリアに対してだいぶ肯定的な目を向けるようになっていた。膨張した仕事量に比例して、赤城の持つ権力も増大しており、それが彼女自身にとってもメリットになったからということもあるだろう。以前から鎮守府のいろいろな問題を認識し、それらを解決していきたいと思いつつも、秘書艦という立場上なかなか出来なかったこともあり、実質的な提督代理として手に入れた力を使えるようになったことは、赤城に自由な「改革」を可能にしたのである。

 ただ、それ以上に赤城自身のレミリアに対する感情の変化というのが大きい。

 初めは印象が悪く、赤城もレミリアのことを好いてはいなかったようだが、あの演習の時以来彼女を指揮官として信用し、随分と協力的になっていた。もちろん、その後も色々とあって二人の間に徐々に信頼関係というものが形成されていったのだろう。金剛は「現金なヤツ」となじっていたが、加賀としては秘書艦である赤城が提督と仲良くやれるようになったのは好ましいことだと歓迎している。

 

「でもね、よく見てらっしゃるのよ。私たちのこと」

 

 赤城は続けた。加賀にとっても思いの外、良い評価である。

 正直なところを言えば、驚いたとまでは行かないまでも、意外さに心に小波が立った。何故なら、それは加賀がレミリアに対して下している評価とそう変わりがないからだ。確かにレミリアは頻繁に鎮守府の中を出歩き、そこに居る人間や艦娘、妖精をよく観察している。

 

「随分と、持ち上げるのね」

「ええ。この間も、遠征班のメンバー決めで揉めたでしょう?」

 

 何のことか、それは記憶に新しい出来事で、今度の南方への遠征メンバーを決める際に一悶着あったのだ。加賀もその騒動に参加して、レミリアに反対の意を表示する側だった。加賀に限らずほとんどの鎮守府の艦娘がレミリアのメンバー決めに反対したのだが、元よりそれを素直に聞き入れるような性格をしていない提督は、強引に遠征メンバーを確定させてしまった。お陰で、未だにへそを曲げている者がちらほらと居る。

 

「あれも何かお考えがあってのことよ。強引で頑固なところのある人だけど、間違いはしない、と思う」

「……そうね」

 

 思い浮かんだのは狭い士官室の中で赤城を撫でる少女提督の姿。

 あの時彼女は何を思い、何を考えながら赤城を見下ろしていたのだろう。撫でる手付きは子を愛する母のように優しく、瞳には慈愛が溢れていた。見た目は年端もいかない幼い姿なのに、どうしてかそこに溢れんばかりの母性を見出してしまった。

 あれ以来、加賀は変に色眼鏡を掛けてレミリアを見るようになってしまった。悪い意味ではないが、思考にバイアスが掛かり、一つの疑問が心を離れないでいる。レミリアを見る時、常にその疑問が頭に浮かぶ。

 どうして彼女はあれほどまで慈悲深い眼で赤城を見下ろしていたのだろうか。

 それは赤城にだけ向けられていたもの? いや、きっと彼女はもっと懐が大きい。だから、遠征メンバーをあの四人にしたのだ。レミリアはとても困難なことを成し遂げようとしていて、そのために必要な人材を選出したに過ぎない。きっと誰も聞いたことのないことをやろうとしている。彼女の持つ慈悲の心が大きいゆえに。

 それら全ては加賀の想像の産物。根拠はなく、事実ではない。

 だが、加賀には見えたのだ。この遠征の先、“彼女たち”が笑う未来が。まるで運命が目の前に明示されたように、ふと一つの映像が脳裏をよぎった。

 

「信じたいと思うわ。提督は、とてもとても優しい方だから」

「あら? 加賀さんも随分と提督にぞっこんね」

 

 赤城はいたずらっぽく笑う。冗談のようなことを言うその笑顔に、かすかに彼女の抱く甘えを見出す。そんなところを見せてくれるのは、ここに居るのが加賀だからに他ならない。そういうところも加賀はとても好意的に見ていた。

 

 

****

 

 

 片付けが終わると加賀は秘書室から出て行った。そもそも片付けを手伝いに来てもらっただけなので、どの道それ以上この部屋に留める理由もなかった。「少し弓をいじりたいから」とか言っていた気がするが、その時赤城はキーボードを叩くのに熱中していてあまり聞いておらず、生返事をしたように思う。

 結局、仕事は思った以上にはかどった。余計な片付けのことを考えずに済んだというのもあるが、何より必要なものを不要なものの山の中から探す手間がなくなったことが一番大きいだろう。整理整頓がいかに仕事の効率を上昇させるか、赤城は改めて確認するのだった。

 加賀が手伝いを申し出てくれたことに心底感謝する。彼女がいなかったら仕事が終わらなかっただろう。部屋がすっきりしたのに伴ない、心なしか気分も晴れやかだった。

時刻は六時を回ったところ。あと一時間もしない内に夕食の時間となる。海上で訓練に勤しんでいた艦娘たちも上陸して、今頃は艤装の片づけとシャワーをしているところだろうか。

 何をするにも中途半端な時間だった。

 やるべきことはすべて終わってしまっているし、片付けも済んでいる。何か新しく始めようと思っても、頭に浮かぶのは時間の掛かりそうなことばかりだった。

 

 よし。今日の仕事は終わりにしよう。

 

 いつも頑張っているんだから、と勝手な言い訳を作り出す。赤城は公人の身分だからきちんと職務に励まなければいけないが、ちょっとくらいなら許されるだろう。許されてもいいだろう。

 空き時間に暇潰しくらい誰だってするもんじゃない。ともう一つ言い訳を立てて赤城はパソコンの画面で開きっ放しになっているWordやExcel、ファイルを次々と閉じて行く。そして、デスクトップ画面に戻すと、インターネットのアイコンを開いた。

 

 ザ・ネットサーフィンである。

 普通、艦娘がインターネットにアクセス出来る環境というのは、鎮守府の外部に行かないとないのだが秘書艦は別だった。いわゆる秘書艦特権というやつで、パソコンを貸与されている赤城はいつでも自由にネットに入ることが出来た。

 他の鎮守府にはその特権を利用して、仕事中に頻繁にネットサーフィンを繰り返しているというけしからん艦娘もいるらしい。赤城がするのはこれが初めてだが、自分が言えたことじゃないなと思う。

 もちろん、規則には触れる行為だ。しかし、悪いことをしているという自覚を持ちつつ、わくわくとした感情が抑えられない。

 

 「2ちゃんねる」という掲示板を見てみましょうか。それとも「まとめサイト」? 「ニコニコ動画」や「YouTube」もいいですね。

 

 一時間に満たない間で、何を見ようか一瞬悩み、それから「2ちゃんねる」にした。ネットの掲示板といえばこれである。

 トップページを開くと、カテゴリーの一覧がずらりと並んでいる。その一番上に来ているのが「地震」なのだから、この国の国土事情というものを端的に表していることだ。

 ページをスクロールしていくと、実にさまざまなカテゴリーがあった。政治経済軍事社会といった堅めの内容のものもあれば、生活や趣味など、身近な話題をカテゴライズしたものもある。さすが最大の掲示板。その規模は質量共に圧倒的だ。

 その中で、赤城の目を引く項目があった。「艦娘」である。

 クリックしようか迷う。そこに書いてあるのは、一般庶民から見た艦娘の姿。一部、ネットばかりしているという秘書艦も書き込みをしているかもしれないが、大多数はそうだ。

 自分たちが人々からどう思われているのか。それが気にならないと言えば嘘になるが、しかし「もし悪いことばかり書かれていたら」「誹謗中傷されていたら」という不安もあって見るのが怖い。

 

 赤城はしばらく逡巡する。所在なさげな右手がマウスをいじっていると、画面の中で矢印がふらふらと揺れる。

 十秒ほど考え込んで、結局見ないことに決めた。興味より不安が勝った。

 

 けれど、だからと言って他に見たいものがあるわけでもない。便所の落書きと揶揄されるだけあって、ここに書いてあることを見ても大して知見が増えるわけでもないし、正真正銘時間を無駄に潰すためにあるようなものだ。

 選択肢が多すぎるというのもそれはそれで不便であるらしい。いろいろと目移りしてしまった結果、最終的に「世相を知ろう」と思ってニュース板を開いた。

 ズラリと並ぶスレッドタイトル。まず思ったのは、字が細かくて見辛いこと。

 目を細め、画面に顔を近付けて丹念にタイトルを追っていく。

 どれも最近の出来事を話題にしたスレッドだ。大多数が政治経済社会のトピックだが、中にはニュースと呼べるのか疑問符が付くようなものもある。「マ○コ・デラックスVS戦艦長門」というタイトルには声を出して笑ってしまった。

 

 画面をさらに下にスクロールしていく。延々と青い文字が続いているが、その中で強烈に赤城の目を引くスレッドがあった。

 

 

「守矢神社再建![無断転載禁止]ⓒ2ch.net(108)」

 

 

 まさか、と思った。

 あり得ないと、思いたかった。

 震える手でマウスを動かし、スレッドタイトルをクリックする。

 

 

 内容は、大きく関心を引くようなものではない。タイトルの通りで、ある神社が再建されていたというものだ。元のニュースも、全国的な取り扱いではなく、地場の新聞紙のホームページから引っ張ってきたもの。言うなれば地方の小さな扱いのニュースでしかなかった。

 ある内陸の県で、数年前に火災で全焼してしまい、それから長らく仮設の社殿だった神社が、ようやく最近になって再建されたという話。

 火災のニュース自体は当時それなりに話題になったようで、レスを見ても覚えのある人はそこそこいるようだ。

 

――あの神社、まだ再建されてなかったのか。

――なんか警察関係とかでいろいろもめてたらしい。

――なんで警察?

――火事になった時、神主の娘が行方不明になったんだよ。死体も見つかんなかったし、その子が放火したとか言われてた。

――マジか。

――この間この神社に肝試し行ったら女の悲鳴が聞こえたわ。

――そういう話はオカ板へどうぞ。

――ってかその子どこ行ったんだよ。

――まだ見つかってなかった希ガス。

――守矢神社でググれば火事のことはすぐ分かるはず。

 

 じわりと、背筋を冷たいものが流れていった。

 何か、知ってはいけないことを知ってしまったような。言い知れぬ不安感が赤城を襲う。

 これ以上は探ってはだめだ。

 頭の中で警報が鳴り響く。しかし、手は意志に反するかのように動き、気付けば「守矢神社 火事」と検索していた。

 真っ先に出て来たのは有名なオンライン百科事典。ページを開くと、そこそこの分量で守矢神社のことが書かれていた。地元ではそれなりに有名な神社らしく、来歴から祭神、神社の祭などがつらつらと記されている。

 ページを下に繰っていく。火事については、書かれていた。

 それは確かに三年前にあった出来事のようで、しかしあくまで軽く触れる程度のことしか書かれていない。脚注が付いていたのでクリックするとページが出典元へ飛ぶ。そこから、先程と同じ新聞紙のオンライン記事のページへリンクが繋がった。

 

 幸い、記事はまだ生きていた。

 

 写真付きの記事。その写真には激しく炎上する社殿が写されている。

 三年前のある秋の日。深夜に守矢神社の本殿から出火。火は瞬く間に燃え広がり、木造の本殿と拝殿など四棟を全焼させた後、明け方にようやく鎮火された。この火災で守矢神社は境内の主要な施設がほぼ全滅するという甚大な損害を受けてしばらく封鎖されることになる。

 しかし、被害はそれだけではなく、神社の神主の一人娘が火災の後、行方不明となっているのだ。当時中学一年生の少女は、何故か深夜に行方をくらませた。

 火の気のない本殿から出火したこととの関連から、当初はこの少女による放火の疑いで警察も捜査していたようだが、放火の痕跡こそ発見できたものの、一向に少女の行方は分からずじまいであった。

 その後、神社は最近になって再建されたが、この少女の行方は今現在も分かっていない。

 

 

 彼女の名前は、「東風谷早苗」といった。

 

 

 

「うそ、でしょ……」

 

 赤城は絶句する。

 東風谷という珍しい名字で、しかも同じ名前。年齢も当時十三歳で、もし彼女が今日まで生きているとしたら十五歳か十六歳。ちょうど高校生くらいの年恰好になる。

 

 符合点が、あまりにも多すぎる。唯一違うのは、彼女が語った守矢神社の祭神で、彼女は「八坂加奈子」なる神がいると言っていたが、実際に守矢神社に祭られているのは「タケミナカタノカミ」という神様だ。

 

 けれど、それだけでは否定材料にならない。

 

 あの夢の中で、自分は一体どこに彷徨いこんでしまったのか?

 

 持ち帰ったチラシ。

 実在する守矢神社とその焼失。

 火災の後行方不明になった少女。

 思い浮かぶのは有り得ない仮定。否定材料のないそれは、普通に考えれば笑止千万な荒唐無稽な仮説である。

 

 

 あの夢の中で、赤城は何を思い出したか。

 そう、不思議の国のアリスだ。アリスは河畔の草地で昼寝をしていて、摩訶不思議な地下の世界へと彷徨う込んでしまった。到底夢とは思えないリアリティのある夢。否、アリスは本当に不思議の国を訪れていたのだ。

 

「赤城さん!」

 

 突然扉がノックされ、名前を呼ばれた。赤城は飛び上がって、その拍子に椅子がはねて音を立てる。

 

「赤城さん?」

「は、はい」

 

 再度の呼び掛けに、赤城は動揺しつつ応答した。声は裏返っていた。

 

「失礼しますよ」

 

 扉が開いて、ひょっこり顔を見せたのは潮である。トレードマークの、頭頂部付近から寝癖のように立った一房の髪がふわふわと跳ねた。

 

「あの、もう夕食の時間です」

「え?」

 

 赤城はパソコンの時計に目を移す。時刻は七時を十分も過ぎていた。

 

 もうそんなに時間が経っていたのか。

 

「あ……。ご、ごめんなさい。すぐに行くから、先に食べててね」

 

 取り繕うような愛想笑いを張り付け、赤城は動揺を悟られまいと潮を追い払うように言った。心配顔の潮は「分かりました」と返して下がる。聞き分けのいい子で良かった。これが、加賀辺りが直接来ていたらまたややこしいことになっていただろう。

 赤城は大急ぎで立ち上げていたネットのページを閉じる。丁寧に履歴まで消去し、私用の痕跡を消す。

 

 今日見たことは何かの間違い……ではない。

 何もかも現実なのだ。

 不思議の国の夢は、本当は夢ではなかった。

 

「あそこは……」

 

 東風谷早苗は、自身の神社を紹介する時こう言っていたはずだ。「幻想郷を代表する守矢神社」と。

 だが、実際の守矢神社というのは内陸のある県にあった。そこは別の地名で呼ばれている地域だ。

 あの夢が現実なら、赤城が迷い込んだ不思議の国の名前は「幻想郷」と呼ばれる場所ということになる。それが不思議の国の名前。そうだ、幻想郷とは、こことは違う世界。燃え上がる炎と共に守矢神社は消滅し、彼の不思議の国へといざなわれた。

 そこははたして死後の世界か。異世界か。

 

「幻想郷……」

 

 赤城は仕事机の一番下にある引き出しを開ける。そこには申請書や稟議書の控えを種類分けしたファイルが何冊も詰まっているのだが、その一番奥に一枚だけ仕事には関係のない紙を挟んでいる。万に一つも同室の加賀に見られぬように寮室には置かず、自らのテリトリーであるこのデスクの中に仕舞い込んでいた。

 取り出したのは、少女らしい手書きの勧誘パンフレット、とも言えぬような粗末な紙。それでも一生懸命書いたであろう本人の真剣な顔が浮かぶような力作だった。

 

 夢の中でこれを赤城に渡したのも、「東風谷早苗」という少女だった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督15 Inheritance

 午前中は赤城と共に軍幹部とのテレビ会議に出席し、現在の各戦線の戦況と今後の戦略について話し合った。

 午後からは午前の会議の内容を元に鎮守府幹部、レミリア自身と幕僚長の加藤、秘書艦の赤城や工廠長、資材補給部長、「硫黄島」艦長、港務部長らでテーブルを囲んでさらなる会議であった。

 主な議題というのは最近「駆逐棲姫」という深海棲艦の出現でにわかに騒がしくなっている南方戦線や、比較的落ち着いている西方戦線、そして大激戦地の中部戦線の戦力再分配についてだった。他の鎮守府や泊地ではそれなりに異動があったようだが、この鎮守府に限ってはそれはあまり影響がないようで、上層部は取り敢えずレミリアのところからは戦力を減らしもしないし増やしもしないという決定をしたようである。

 

 午前の会議で決まったのは、結局上層部の戦略として、中部太平洋深部のどこかにいるという空母水鬼・戦艦水鬼の撃破を最終目標とし、当面の間は北太平洋への進出に力を入れていくということだった。

 その内容を、午後からの会議で赤城が発表した。レミリアといえば黙って椅子に座り、時々それっぽい発言を一言二言するだけである。

 鎮守府内では戦力の主体が一航戦の空母ということもあって、空母水鬼の撃破を目標にすることになった。赤城達も以前一度刃を交えたことのある敵で、その時は引き分けに終わったらしい相当な強敵だそうだ。大量の艦載機、威力の高い攻撃、堅牢な艤装、そして豊富な随伴艦。どれをとっても今までの敵空母とは一線を画しており、海軍最強の航空戦力である一航戦を持ってしても引き分けに持ち込むのが精一杯だったとのことだ。

 

「空母水鬼は恐ろしい難敵ですが、必ずこれを撃破し、中部太平洋に平穏を取り戻しましょう!」

 

 と言って赤城は締めくくる。

 賛同の拍手がまばらに聞こえた後は、鎮守府内での意見交換は要望の発表の時間に充てられた。

 こうして各部署の代表者が集まると、いろいろんな意見が出てくるものだと思いながらレミリアは聞いていた。特に港務部と資材補給部と工廠の三すくみの論戦など、傍から聞いている分には面白かった。最終的に意見調整役を急に求められて、それぞれの要望を「全部やればいいんじゃないかな」と言って、赤城に呆れ顔をされたりもしたのだが。

 

 

 それはさておき、午後の会議はこうした白熱の論戦の影響もあり、終わったのは夕方になってからである。司令室の窓からは赤い夕日が差し込んで来る時間帯で、レミリアは眩しいからカーテンを閉めるように赤城に指示した。

 基本的に真面目で優秀な赤城は、言われたことをすぐにやる。嫌な顔一つ見せずにてきぱきと遮光していく秘書艦の後姿を眺めながら、レミリアはふと思いついたことを口にしてみた。

 

「ねえ、この後弓道場に行ってみない?」

 

 振り返った赤城は不思議そうな顔をした。

 

「弓道場ですか」

「ええ。弓を射るのを見たいの。予定、大丈夫かしら?」

「大丈夫ですが……」

 

 急にどうしたのかと言いたげに言葉尻が濁る赤城だが、レミリアが気まぐれを見せるのはいつものことであり、それに振り回されつつもすっかり慣れてしまった秘書艦は頷いた。

 

「では行きましょう」

 

 レミリアは早速部屋を出る。戸惑いつつも赤城もすぐに付いて来た。

 

 

 弓道場というのは、その名の通り弓の鍛錬を行う場所で、鎮守府庁舎から離れた艦娘寮に隣接して位置する平屋の一戸建てだ。利用するのは専ら一航戦の二人のみであり、事実上彼女たち専用の建物となっていた。

 レミリアも、着任したばかりの頃に一度赤城に案内してもらって以来、用事もないのでとんと行く機会を持っていなかった場所であった。記憶を頼りに艦娘寮までやって来て、その入り口横から裏手へ続く廊下を渡ると弓道場にたどり着く。

 中は、当然のように静かだ。この弓道場のもう一人の利用者と言えば、今頃はまだ海の上で訓練に勤しんでいるからである。

 最初の案内の時、赤城は「この弓道場は正式なものではありません」という趣旨の説明をしていた。その言葉の通りなのか、正式な弓道場というものを知らないレミリアには分からないが、中はかなり簡素な造りをしている。

 弓を射る場である為、建物の奥行きは長く、木目張りの射場の正面に五つの的が並んでいるのが見えた。意外に的との距離は遠く、射場から眺めるそれは小さい。赤城は「用意してきます」と言って、射場に隣接する更衣室へ入っていった。

 手持無沙汰になったレミリアはしばらく何もせず弓道場の中を見回してみる。

 特段目立った飾り付けのない射場は、見方を変えればひどく殺風景に見えるかもしれない。木張りの壁が囲い、的場とは反対、射手からみて背中側になる壁の上方に大きな海軍旗が掲げられているだけ。使用者が少ないためか床もあまり擦り切れておらず、ピカピカに磨かれている。赤城と加賀が小まめに掃除しているのだろう。

 静謐とした空間だ。聞こえてくる物音と言えば、更衣室で赤城が準備するわずかなそれと、遠く微かな軍港の喧騒。それを除けば弓道場の中には静かで穏やかな時間が流れていた。

 がらり、と音を立って更衣室の引き戸が開く。姿を現したのは、褐色の第三種軍装から着替えた赤城の姿。一礼し、するりと射場に入って来る。

 彼女の艦娘としての正式軍装は紅白の弓道着で、袴の丈が動きやすいように短く切られているものだが、今の姿はごく一般的な(レミリアのイメージ通りの)黒袴の弓道着である。それが、手に身長以上もある長弓と長い矢を携えて現れた。

 

 ほう、とレミリアは一息を吐く。彼女の姿に感嘆したのだ。

 淑やかな美貌と軍人らしい凛とした佇まいの赤城がこうして弓道着を身にまとえば、それはまさに熟達の弓道者の体現であろう。それまでただ穏やかな時間の流れていた弓道場の空気が引き締まり、彼女が今手に持つ弓に張られた弦のような緊張が空間を覆う。

 

「お待たせしました」

 

 はにかむ様に言うが、赤城は落ち着き払っている。

 

「格好いいじゃない」

「ありがとうございます」

 

 レミリアの褒め言葉に赤城はわずかに照れ臭そうに頬を染める。それだけを見れば彼女らしい愛嬌に思えるかもしれないが、隙のないその出で立ちに提督は心中唸らされてしまう。例え愛嬌を見せている最中であっても、何をしても静かに対応し受け流されてしまいそうな、しなやかな強かさを感じさせるのは流石であろう。このような気配というのは、長く戦場に身を置いてきた歴戦の強者にしか持ち得ないものであることを、レミリアは知っていた。

 弓と矢をそれぞれ左手と右手に持ち、両手を腰に当てたまま赤城は足音を立てることなくそっと射場の真ん中、レミリアの目の前まで歩いて来る。彼女はもう一度レミリアに会釈し、それから身体を的へ向けて腰を折る。

 一礼。彼女はそのまま的場の方へ数歩歩み寄り、身体を的に対して平行に、左半身を向けた。足を開いて体勢を整える。右手に持っていた矢を、左手に移して弓と一緒に持つと、上体を腰に乗せたようにどっしりと構えた。これが恐らく射の土台となる姿勢なのだろう。赤城の比較的華奢な身体が、この時ばかりは岩のように重厚な安定感を見せる。

 続いて矢を弦に掛け、両手で弓矢を構えて赤城は的を見据える。もう既にその精神は研ぎ澄まされて的を向いており、いつもの穏やかさとは別の一面が現れていた。秘書艦として、提督の片腕として、優秀なオフィスレディから一転、弓の達人としての顔を覗かせる赤城に、レミリアの心中も興奮で昂り始めていた。

 赤城は弓矢を持ったまま、それを大きく掲げ上げる。弓道など寸分も分からないレミリアにとって、恐らくそれぞれが細かく決められている一連の動作に、どういう意味があるのかは知り得ないところである。説明されたところで、知識として蓄えられても真に理解するに及ばないだろう。しかし、洗練されて流れるように“型”を続ける赤城を見ていると、そこに感じるものがある。

 赤城にとっては慣れ親しんだ動作。あるいは、「射法」と呼ぶのかもしれない。いよいよ彼女は弓を開き、矢を水平に保ったまま掲げ上げたそれを顔の辺りまで引き絞りながら降ろしていく。

 力が込められ、微かに震える弓。しかし上体は安定し、彼女の視線はぴたりと的に固定されていた。

 

 真っ直ぐ。真っ直ぐだ。

 

 身体を的に対して真っ直ぐ。弓を垂直に真っ直ぐ。矢を床に対して真っ直ぐ。直線と直線が交差するように意識された姿勢。ただし、それは定規によって機械的に引かれた直線ではなく、天に向かって立ち上がる竹のような直線だ。力を込めれば折れるような脆さは感じさせず、むしろしなりながらも決して芯が折れない、歪まない強さを含んでいる。

 赤城が弓を引き絞るにつれ、射場から余計な雑音が排され、静謐とした緊張感が高まっていく。見つめるレミリアは自らの呼吸の音すら煩く感じて息を止め、瞬きもせずに赤城を凝視する。

 びしっと弦が跳ねる音がした。

 

 渾身の矢が放たれ、過たず的の中心を射抜く。

それまで力の籠っていた赤城の体は、放った時の姿勢を保ったまま腕を開き、しばし動かない。射る前の緊張をそのままに、赤城は鋭い目で矢の突き刺さった的を見据えていた。

 やがて赤城は姿勢を崩し、緊張を解いてその場から下がり、最後に一礼する。

 

 

 たった一射。それが、射場から小指の爪ほどの大きさに見える的の中心を射抜くのはまったく偶然ではない。

 赤城はレミリアの方を振り向くと、少し嬉しそうな、誇らしげな表情を見せた。言葉にして表わさないが、彼女にとっても今のは会心の一撃だったのだろう。レミリアの口からは素直に称賛が飛び出した。

 

「Brilliant!! 素晴らしいわ!」

 

 声を張り、拍手する。赤城は茹で上がった蛸のような顔色になった。

 

「未だかつて私にこれ程卓越した演武を見せた者はいない。貴女は最高の弓道者よ!」

 

 レミリアの、ストレートな賛辞に奥ゆかしい赤城は大層恥ずかしがっているようだった。褒めちぎられて身を縮込ませながらも、しかし存外まんざらでもなさそうである。

 一方のレミリアも興奮が冷めやらない。極められた技術の粋に完全に心を奪われてしまっている。

 

 パーフェクト! 

 

 心底相手を褒めたことなど、人生の中でそうそうあったことではない。赤城の弓には、どれほどの称賛を与えようとも足りない気がしていた。

 

「もう、そんなに……」

 

 赤くなりながらも、赤城の頬は緩んでいる。先程までの凛とした振る舞いはどこへやら、一転して少女のように照れる赤城。普段の頼もしい姿を見ていると、意外なほど違った一面である。

 

「私もこれほど人を褒めた経験はそれほどある訳じゃないわ。逆を言えば、赤城の技量がそれだけ素晴らしいということなのだけどね」

「あ、ありがとうございます」

 

 赤城は称賛を素直に受け取り、丁寧にお辞儀をした。

 ここが彼女の良いところである。謙虚であり、とても礼儀正しい。

 元よりレミリアは赤城のことを気に入っていた。仕事が出来て、気遣いも上手。応対も丁寧で驕ったところがない。普段は頼もしいかと思えば、今のように時々少女っぽさを見せたりもする。容姿も端麗で、極められた技術も持つとあれば、レミリアの琴線に触れるには十分であった。

 彼女が部下で良かったと、少女提督はつくづく思うのであった。

 

 

****

 

 

 赤城はそれから何度か練習をして弓を片付けた。その間、赤城に代わって艦隊のまとめ役を担っている加賀は忙しいのか一度も弓道場に来なかった。それにわずかに罪悪感を感じつつも、久方ぶりに気合の入った鍛錬が出来て気分は晴れやかになった。

 一射一射、心を込めて丁寧に射る。矢は、ただ一度も的を外れることはなかった。

 結局レミリアは最初から最後まで赤城の鍛錬を見学していて、矢が的に当たる度に拍手をしたり、感慨深げな溜息を吐いたりしていた。その目は幼子のようにきらきらと輝き、赤城の技術に彼女はただひたすらに感服しているようであった。

 そんな反応をされて、赤城と言えば嬉しさ半分、気恥ずかしさ半分で、どういう表情を見せていいのか分からなかったけれど、しかし精神の方は非常に集中出来ていた。過去の経験から言っても今日の調子というのはすこぶる良く、数は少ないとはいえ矢がすべて的に当たったのもまた珍しい。

 練習を終えて赤城は上機嫌で着替え終わると、更衣室の掃除用具箱からモップを一つ取り出して射場に戻った。

 

「提督。掃除をしますので、先にお戻り下さい」

 

 練習の後の弓道場の掃除は欠かさない。時間があまりないので本格的な雑巾掛けをする訳ではなく、簡単にモップで床の埃を払うだけである。

 

「あら。私も手伝うわよ」

 

 赤城は一瞬言葉を失う。

 まさか、雑事を嫌うレミリアからそんな言葉を聞けるとは思わなかったのだ。もちろん、目上の相手に掃除の手伝いを期待していた訳ではないが、彼女の性格からして手伝いを申し出るなど夢にも思っていない。そのはずだったのだが、機嫌が良いのは何も赤城だけではなかったようだ。

 

「提督? ええっと、悪いですよ」

「いいのよ。普段から仕事を押し付けているしね。たまには手伝わないと」

 

 と、レミリアはにこやかだ。

 赤城は頭を下げて、更衣室からもう一つモップを取り出してきた。

 

 普段から仕事を押し付けている、というのは確かにその通りだ。機械に疎く、煩わしい書類仕事を厭うレミリアは、それらすべてを赤城に丸投げしている。初めは、彼女の着任前と仕事量が何ら変わりなくなったことに大きく不満を抱いたが、時間が経つにつれ赤城はレミリアの評価を改めるようになっていた。

 正直、今でも提督の仕事を肩代わりするのは面倒だとは思うが、一方で仕事量はレミリアが着任して以来、徐々に減ってきている。何故なら、彼女がそれまで鎮守府に存在していた無用なしきたりを廃し、無駄な書類仕事を削り、紙の量そのものの削減を実行したからだ。

 意味のない会議を廃止し、ちょっとしたトラブルでもいちいち作成される長ったらしい報告書を無くして口頭での報告に変えた。現場の裁量権を増やして臨機応変に行動出来るように自由化を行い、対立意見の奨励を告知した。

 レミリアは司令室に籠って仕事をするより、頻繁に鎮守府内を歩き回り、そこで働く人々との交流に重きを置いているようだった。そのためか着任してから日が浅いにもかかわらず、レミリアが親しく会話する相手はたくさん出来たようで、艦娘にしろ軍人にしろ、赤城も度々レミリアが誰かと話をしている姿を見ていた。

 下をよく見ている提督だと思う。だからか、赤城もレミリアとなら仕事がやりやすかった。自分の考えに固執せず、柔軟な発想の持ち主である彼女は、必要性をきちんと説明すれば、ある程度のことに寛容であるし、時にはあまり綺麗でない事柄についても目を瞑ったりしてくれる。

 それ故にか、ここで掃除の手伝いを申し出るというのは、最初赤城に驚きを持って迎えられたが、よくよく思い直せばさほど意外なことでもなかった。

 厚意を素直に受け取り、感謝の辞を述べる。その後二人で床を軽くモップ掛けをして弓道場を後にした。

 

 

 

 

「矢を射るための基本となる作法を『射法八節』と呼びます。『足踏み』・『胴造り』・『弓構え』・『打ち起こし』・『引き分け』・『会』・『離れ』・『残心』。これらの動作を間違えず、丁寧に、そして滞りなく行わなければ矢は狙ったところに飛んでいきません」

「さっき繰り返していたのはそれね」

「弓道の基本動作ですからね。弓を始める人はまずこれを徹底的に叩き込まれます。それこそ、目を瞑っていても出来るくらいに」

 

 赤城はレミリアと話しながら司令室に戻る。秋も深まった今日この頃、日没は思いの外早く、既に空は夜の帳に覆われて暗くなっている。

 夕食まではまだしばらくあり、時間的には中途半端になってしまった。ちょうどいい手頃な仕事を片付けようと頭を巡らせたが、思い浮かぶのは時間の掛かりそうなものばかりで、夕食前にやるのは少しばかり都合が悪い。結局手持無沙汰になってしまった隙間時間で、赤城はそれならいっそレミリアと話をしてみるのもいいかもしれないと思い付いた。

 普段は物静かで、そもそもあまり司令室にいない提督とは、なかなか雑談するという機会に恵まれなかったからだ。それに、存外気分が良かった。

 

「もちろん、型が実戦でそのまま使える訳ではありませんが、『射法八節』の真髄というのはただ型を守ることではないんです。一矢、一射にしっかりと心を込める。気持ちを込める。それこそが重要であり、実戦においても変わらない部分なのですよ」

 

 気分良く赤城は自説を展開し、レミリアに語る。仕事と出撃の合間で、赤城が大切にしている数少ない自分の時間が、弓であった。

 激務の中に暇を見つけては足繁く弓道場に通い、一射に精神を注入して射る。時間が少ないからこそ、たった一本の矢も疎かにすることなく、一つ一つの質を高め、己の技術を磨いていく。空母娘として戦闘に弓を使う故にその鍛錬が求められるが、それとは別に赤城は趣味として弓道に打ち込んできた。

 そして、この経験こそが赤城を海軍有数の艦娘に仕立て上げたのである。

 

 一矢入魂。

 

 赤城の座右の銘であり、弓道場での鍛錬中であろうと、海上での戦闘中であろうと(それは例え得意の早打ちであっても)、矢の一本一本に心を込めるのを決して忘れない。自らの弓が放つ矢にただ一本の無駄なものはなく、それらすべてに意味がある。

 

 あるいは、意味のある矢を放つ。

 赤城が自分に課したルールというのは、ただそれだけのとても単純なもの。それを極めていった結果が、一航戦の名声であり、大きな賛辞をもらい受ける弓技なのだ。

 赤城はそれを飾ることなくレミリアに伝えた。あれほど自分の技を褒め称えてくれた彼女なら、この真髄を理解してくれると思ったから。

 心が軽かったし、だからレミリアに語る口もいたく饒舌になった。そしてレミリアも、赤城の言葉に相槌を打ち、感嘆したように声を漏らすのである。

 

「どんな単純なルールでも、自分自身に徹底させるのはとても難しい。誰しもどこかに甘えを残してしまうものだけれど、それを排除しきって技術を最高レベルに持っていくのは、心から讃えられる功績よ」

「私ひとりの力ではありません。一人だけだったら絶対に甘えが出ていたと思います」

「それは、加賀がいたから? 切磋琢磨できる仲間がいたから?」

「はい。それもありますね。加賀さんと私は支え合える仲間であり、競い合う好敵手の関係です。今も昔も変わりありませんし、これからも変わらないでしょう」

「いい関係ね。でも、その言い方だと他に貴女を支えた人がいるみたい」

「そうです。私に弓を教えてくれた人がいます。『射法八節』もその人に叩き込まれました」

 

 司令室に戻る廊下で二人、並び歩きながら言葉を交わす。そう言えば、彼女に姉の話をするのは初めてであった。それどころか、この話自体、加賀などのわずかな人数しか知らないことだ。

 

「へえ。赤城の師匠ね」

 

 レミリアは興味を持ったようだ。

 廊下の窓からは半月の、意外と明るい月光が差し込み、床に窓枠の影を投げている。二人はその影をまたぐようにゆっくりと歩いていた。

 夜になっても工廠やら接岸中の船舶やらからいろいろな喧騒が聞こえてくるが、鎮守府庁舎の内部自体は静寂に包まれている。廊下の中に響く音は会話する声と微かに聞こえる、足が床に敷かれた絨毯を踏み締める音のみ。よくよく耳を澄ませば、レミリアの呼吸の音がして、そこから彼女の感情が手に取るように感じ取れそうであった。

 

「私には姉がいました。私より一足先に空母娘として就役していた彼女に教えてもらったんです」

「姉? あら、貴女。妹なの?」

「実はそうなんですよ」

「そう言えば貴女、『天城型二番艦』と言ったわね」

 

 驚いたように目を丸くしていたレミリアも、赤城の艦型を思い出して得心したように頷いた。そう、赤城はネームシップ(長女)ではない。

 

「姉は『天城』と言いました。あの、伊豆の天城山から取られた名前です」

 

 天城型空母はたった二艦しかいなかった。それも、元々空母ではなく戦艦として就役するはずだったのだが、度重なる計画の変更があり、結局空母として姉「天城」は進水することになったのだ。

 故に妹である赤城も空母として就役したのだが、予定されていた三番艦・四番艦の建造は予算不足でキャンセルになってしまった。だから赤城は生まれてこの方、ずっと妹であり姉にはなったことがない。ついでに言えば、「姉妹艦」というくくりで全くの赤の他人と疑似姉妹を作ることがほとんどな艦娘の中にあって、天城と赤城だけは正真正銘血の繋がった本物の姉妹同士であった。天城は、彼女が「天城」という名を与えられるより以前から、「赤城」と名乗ることになった妹の姉だったのだ。

 

「言いました? 過去形なのね」

 

 話を聞いていたレミリアは細かいところに気付いた。

 彼女はふと立ち止まって、赤城の顔を見上げる。赤城もつられて足を止め、しかしレミリアを見返さずに床に視線を落した。

 

「ええ。姉はもう、だいぶ前に『亡くなり』ましたから」

「……それは、戦死ということ?」

「いえ。殉職です」

 

 軍属の者が、戦闘において死ぬことを正しく「戦死」と言い、事故やその他の原因で職務中に死亡することを「殉職」と言う。天城の場合、それはまさしく殉職であった。

 

「もう十数年前になりますが、神戸で大きな地震がありました。その時私たちはそこにいたんです。神戸港の民間工場で、当時加賀さんの艤装が建造されていました。艤装建造の初の民間委託として、私たちは妖精たちの制御と、運用面からメーカーの技術者に助言をするため派遣されていたんです。

と言っても、朝から晩まで工場の中で作業員たちにつきっきりで、寝泊まりもそこでしていたんですけどね。それが、良くなかったんです」

 

 未明に都市を襲った巨大地震。まだ多くの人が(もちろん天城と赤城も)寝ている時間、突然街は大きく揺れ、建物は崩れ、高速道路が横倒しになった。

 日本史上屈指の大災害。激震に見舞われた港の工場も半壊する大損害を被った。

 

「私は、運良く助かりました。加賀さん自身はその時呉に居て無事でした。でも、姉はそうじゃなかったんです」

 

 揺れと轟音で叩き起こされた赤城は、何が起こったか分からない内に崩れて来た宿舎の天井と床の間に落ちて、何とか事なきを得た。救出されたのは数時間後であったが、幸いにして骨も折ることなく、軽い脱臼で済んだ。

 しかし、崩れた建物から出て来て目にしたのは、既に物言わぬ姉の姿だった。

 

「姉は、落ちて来た梁の直撃を受けて腰が潰されていたんです。即死だったと思います。痛みを感じることもなく逝けたのでしょう。顔は、寝ている時そのままでした」

 

 艤装を外した状態では、艦娘と言えど人間とほぼ同じ強度になる。逆を言えば、艦娘の生命を支えているのは艤装であり、それがあるからこそ砲弾や魚雷の直撃にも耐えられるのだ。なければ、脆さはそこらの人間と何ら変わりはない。

 初め、毛布を掛けられて寝かされている姉を見て、意識を失っているだけだと思った。その頬に触ってみて、彼女の体が硬く、冷たくなっているのに気付いて、慌てて毛布を捲った。

 

 今でもその時の光景は覚えている。思い出したくもないのに、鮮明に原形を失った姉の身体を記憶している。

 

 

 

「顔が、綺麗なままだったのがせめてもの救いだったんじゃないかと思います」

 

 美人な姉は美人なまま死ぬことが出来た。

 葬儀にはたくさんの人が来て、中には着任したばかりの加賀の姿もあった。加賀とは彼女が艦娘になる前から面識があったものの、言葉を交わしたのはその葬儀の場が初めてであり、それも沈痛な社交辞令だけだったように覚えている。

 

「その姉が私に残してくれた数少ない形見が、弓でした。形があるわけではないけれど、私には決して忘れられないものです」

 

 今まで、ただ一射の矢にも気を抜いたことなどない。精神を集中させ、魂を込めて弦を引いてきた。

 それが加賀の目には「姉への未練を引き摺っている」と映り、しんどそうだと言われたりもしたが、手を抜いた矢を放つなどしては自分で自分を許せそうになかった。唯一にして最愛の姉が残してくれたこの弓を、一体どうしてないがしろに出来ると言うのか。

 

 

 

「いいじゃない」

 

 レミリアは赤城の語りを聞くとそう返した。彼女はゆっくりと歩み出し、少し先に見えた司令室へと向かっていく。

 赤城も彼女に続いた。

 

「少し重い気もするけど、それが貴女の生き方なら私は応援するわ」

「提督……」

「実は私にも妹が居てね。これがまた生意気な性格なんだけど」

 

 後姿を追う形になった赤城からはレミリアの表情は伺えないけれど、楽しげな口調から彼女が明るい顔をしているのを想像出来た。

 

「妹さんがいらっしゃったんですね」

「ふふ。驚いた?」

「いえ。ただちょっと、腑に落ちたところがあって」

「そうかしら」

 

 レミリアは一歩一歩、絨毯の感触を踏み締めるように歩いた。牛歩のような、と言えばそうかもしれないが、今はこの速度が心地良かった。

 

「もし私が死んで、あの子が一人残されることになったとして。私はきっとあの世であの子の幸せを願うでしょう。同時に心配で身を焦がすでしょう。立派な艦娘になったら、鼻を高く伸ばしているでしょう」

 

 レミリアは司令室の前にたどり着くと、そのまま扉を開けて中に入る。

 赤城も続いたけれど、レミリアは入室しても明かりを付けることなく、部屋の真ん中、ソファーの元へと寄って行く。だから、赤城も電灯のスイッチに手を伸ばさなかった。

 当然部屋は暗かったけれど、どこからか入ってきた月の明かりでぼんやりと中の様子は分かった。

 

「でも、本当はただ毎日を元気に暮らしていてくれたらそれで満足すると思う。大層なことは望まないし、自分でもささやか過ぎると思うけれど、それが正直なところなのよね」

「……そう、ですね。姉も、きっとそうだと思います」

 

 赤城は薄暗闇の中で首肯する。レミリアはソファに腰掛けず、黙って手招きをしただけ。かすかな明かりが辛うじて彼女の小さな仕草を照らしていたから赤城に見えたのだ。

 

「まあ、案外冷めているから私が居なくてもそんなに気にしないかもしれないけどね。どちらかと言うと、一人遊びの好きなインドア派だから」

 

 そう言ってレミリアは自嘲気味に笑う。小さな人影が微かに震えた。

 彼女はソファの前に立ったままだ。腰を下すかと思いきや、何故だか赤城を隣に立たせて話を続ける。

 

「そんなことないですよ。姉がいないと、妹は寂しい思いをするんですから」

「そうかもね。そうであってほしいものね」

 

 肯定と、そして願望。

 ぽろりと口から零れるように出たレミリアのその言葉は、わずかに余韻を残して司令室の闇に溶けていった。

 小さな提督はしばらく口をつぐみ、部屋のどこかへと視線を彷徨わせたようだ。赤城は手持無沙汰になってレミリアの頭を見下ろしていた。彼女の丸い頭部は微動だにせず、まるで固まってしまったようにそのままでいる。

 思わずその頭を撫でてしまいたくなったのは、果たして母性本能のせいなのだろうか。何となくレミリアがそんなことを求めているような気がして、しかし衝動は衝動であり理性の歯止めが掛かって赤城は浮き掛けた手を下した。

 

 

 

「でもね」

 

 再び闇の中に声が響く。滑らかな水面に波紋を立てたように。

 同時に彼女はくるりと赤城の方に身体を向けて、たった今その頭にやろうとした空母の手を引っ張った。

 座れ、という合図。逆らわず、赤城は柔らかなソファに腰を沈める。

 

「今一番寂しそうなのは、貴女よ」

 

 座った赤城の目の前に立つレミリア。目の高さがちょうど彼女の胸くらいで、赤城はレミリアを見上げる格好になった。ひょっとしたら、こうして彼女から見下ろされながら相対するのは初めてのことかもしれない。

 

「……提督」

「貴女のお姉さんのようには出来ないかもしれないけど。ほら、おいで」

 

 レミリアは両手を広げ、そっと胸元へ赤城の頭を迎え入れる。

 赤城も抵抗せず、任されるままに彼女に抱きすくめられた。

 

 まだ、着馴れていない制服の少し硬い感触が顔全体を覆う。頬にひんやりとしたボタンの金属が当たっている。

 彼女の着ている制服は少し温度が低かった。けれど、それ以上に服の下にある彼女の体は熱量を持っていて、肺が呼吸によって膨らむ度に彼女の体温が伝わってくる気がした。大人より少しペースの速い、低く響くような鼓動は不思議と安らかで心地の良い音で、赤城は目を閉じて身体全体をレミリアに預ける。

 柔らかく甘い匂いが鼻腔を満たし、赤城はレミリアの背中まで手を回して彼女の胸に鼻を押し付けた。

 こうして抱きしめられるのはいつ以来だろう。思い出せる限り、赤城を抱いたのは姉だけで、だから赤城は十数年もこうして誰かから温もりを分けてもらったことがなかったことになる。

 

 そう、随分と久しい感覚だ。

 心の中で何かが剥がれ落ちていき、幼い自分が露出する。柔らかく、傷つきやすく、だからこそ熱が伝わりやすい部分。

 レミリアは姉ではない。彼女は彼女の妹の姉であって、赤城の本当の姉はあの神戸の街で亡くなってしまっていた。

 けれど、こうして抱きしめ、抱きしめられていると自分のすべてを曝け出して、寄りかかって、どこまでも甘えてしまいたくなる。

 頼りになる秘書艦という仮面も、熟達の弓道者という勲章も、今は外してただ一人の妹として、姉への無限の甘えを見せたくなる。

 

 

 はあ、と無意識に熱い吐息が口から洩れる。

 

 レミリアは優しく赤城の後頭部を撫でていた。その感触が気持ち良くて、赤城はさらに彼女の胸に顔をこすりつける。

 

 

 

 

――提督。

 

――なあに?

 

――ずっと、このままでいいですか?

 

――もう、甘えん坊さんね。

 

――甘えていたいです。

 

――ええ。いいわよ。気が済むまで。

 

――はい……。

 

――私の可愛い可愛い赤城。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督16 The long voyage

 こうして船の甲板から水平線を見ながら旅をするというのもなかなか情緒溢れるではないか、とレミリアはしみじみと思う。視界は果てまで青一色。抜けるような青空と、空の色を映した紺碧の海。陸地は水平線の向こうで、うねる波の景色が延々と広がっているだけ。だというのに、どうして海を見続けても飽きが来ないのだろうか。

 レミリアの長きにわたる人生経験において、こうして長期間船に乗って海を渡るというのは、実は初めてのことである。かつての住居も今の居住地も内陸にあり、海を見る機会自体がそんなに多くなかった。故郷に暮らしていた頃、最も家から離れたのはオークニー諸島に旅をした時で、数時間フェリーに乗ったが船旅と言えるくらいのものではない。遥か祖国の地から極東の島国へ移住した際は、何だかよく分からない方法であらゆる過程をすっ飛ばして移って来たものだから、船旅なぞついぞする機会がなかったのだ。

 もちろん、これまでの出撃任務で、この船に乗って海に出たことはあったし、二泊三日で外洋を回ったこともある。ただ、今のように数週間かけて(本来船旅というのは非常に長い期間を海で過ごすことであろうと思う)遠出をするというのは初めてだった。

 

 

 船は、レミリアを乗せる艦娘母艦「硫黄島」はこの広大な海の上でただ一隻、悠然と水面に白い波を立てながら一路南を目指して進んでいた。向かう先は、彼の激戦地「南方海域」。島から島へ、海峡から海峡へ、島嶼の間を駆け巡り、敵と味方が入り乱れる熱き地の戦場。赤道の向こう。天地のひっくり返った南半球だ。

 これもまたレミリアにとって初体験となる。膨大な財産を持ちながら、あまり家の外に出歩かなかったレミリアには、赤道を超えるという体験がなかった。季節が逆転した世界とはどんなものなのだろうか。生い茂る熱帯雨林や延々と続く雨季、極彩色の花々に鮮やかな動物たち。透き通る翡翠色の海やその下に白く広がるサンゴ礁。想像すれば胸が躍る。

 身の回りには熱帯や南半球のことなどまったく知らない者たちしかおらず、家に帰って友人にこれから向かう世界の話を聞かせてやろう。言葉を尽くして南の楽園の夢を語ってやろう。

 また一つ、自分に自慢することが増えると思えば、長い船旅も実に愉快になる。子供っぽいと自覚しながら、顕示欲が満たされる感覚に口元が締まらない。

 

 

 

「なに海見ながらニヤけてんだ。面白いもんでもあったのか?」

 

 不意打ちのように横合いから掛けられた声に、レミリアの顔から一瞬にして夢想が消え去る。緩んでいた表情筋は引き締まり、いつものような厳かな顔立ちに戻った。

 振り向くと、そこにいたのは隻眼の艦娘。伸び放題で櫛も入れられず、隠さない程度に分けられた前髪の間から、左目だけがレミリアを見下ろしている。右目は黒い眼帯に覆われ、さらに乱雑な前髪で半分隠されていた。

 名前は「木曾」という。今回の長期遠征のメンバーの一人である。

 白いセーラー服にセーラー帽という出で立ちは、初対面の時から既視感があった。知り合いに、似たような恰好をしている者がいるのだ。ただ、目の前の艦娘はその知り合いとは違い、正真正銘海軍の所属である。

 

「何でもないわ」

 

 気を抜いているところを見られてしまった恥ずかしさで顔が紅潮するのを何とか抑えながら、レミリアは極力澄ました風を演じて素っ気なく呟いた。だが、木曾にはバレバレだったのだろう、彼女は実に愉快そうな色を瞳に湛えている。

 

「深くは聞かないさ」

「……広めないでほしいのだけど」

 

 レミリアは観念した。どうせ彼女には分かり切っているのだし、取り繕ったところで意味はない。それより、「提督が海を見ながらニヤけていた」などと言い広められて威厳が損なわれる方が痛い。それ故の降伏宣言だった。

 

「口止め料は高いぜ」

 

 片や相手の艦娘は、レミリアが折れたことに気を良くしたのか、これ幸いとばかりに調子に乗ってそんなことを嘯く。

 

「どれくらいかしらね」

「ま、それは考えておくさ」

 

 言いながらも、木曾の顔から悪戯っぽい笑みが消えない。レミリアは溜息を吐いたのだった。

 

「冗談だよ。誰にだってニヤけることぐらいあるだろう」

 

 今度はからからと笑いながら、彼女は甲板を囲う手すりにもたれかかり、先程までレミリアがそうしていたように、水平線へと視線を投げた。

 

「長期遠征の時、移動中は暇だからな。妄想にふけるのも悪くない暇潰しさ。ただ、人目に付くところでやるのはお勧めしないがな」

 

 レミリアが何も言わない内から彼女は勝手に喋り出す。艦隊の中では、あまり寡黙な方ではなかった。

 

「ご忠告ありがとう。貴女も暇なのね」

 

 レミリアは彼女の隣に並ぶ。もたれかかるには、レミリアにとって手すりは少々高過ぎるので、どうしても首元から上だけ飛び出る変な姿勢になってしまう。絵面が悪いのを意識して、已むなく支柱を掴んで顎を手すりに乗せた。威厳など欠片もなかった。

 

「そりゃあな。漫画を読むにも飽きたし、かと言ってすることもないから、散歩をしていたのさ」

「漫画? そんな物を持って来ているの?」

「暇潰しだよ。みんな結構そういうもんを持ち込んで来てるんだ。荷物の半分以上は暇潰しの道具さ」

「そう。私は何も持って来なかったわ」

 

 レミリアがそう漏らすと、木曾は苦笑を浮かべた。

 

「やっちまったな。行きはいいが、帰りは暇で暇で死にそうになるぜ」

「それは由々しき事態ね」

 

 多少大袈裟にレミリアが答えると、何が面白かったのか木曾は声を上げて笑った。

 

「そうだな。その通りだ。仕方ない、後で貸してやろう」

「あら? 何だか貸しばかりが増えていくわね。後が怖いわ」

「期待してるぜ」

 

 レミリアにとって、木曾は話しやすい相手であった。赤城のように真面目過ぎるのは堅苦しいし、加賀のように寡黙な者とは会話が弾まない。金剛には何だか避けられているようだし、潮は丁寧だが常に一歩引いている。曙は口が悪いし、舞風と野分は先日の一件でやはりレミリアを避けるようになっていた。だから、自然と話相手はいつもノリの良い漣や、口数は多くないものの聞き上手な川内、そしてこちらに合わせて会話のペースを作ってくれる木曾に限定されていた。

 その内木曾は、この通り粗暴な口調で赤城曰く「慢心した発言も多い」とのことなのだが、裏腹に実は細かな気配りの出来る優しい性格をしているので、レミリアは彼女のことを気に入っているのである。

 

「まったく、漣と言い貴女と言い、私を誰だと思っているのかしら?」

「提督。お金持ちなんだろう? 今度、飯でも奢ってくれ」

「うちは結構金欠なの! でも、たまには外食もいいわねえ」

 

 なんてことのない会話をしながら、二人でゆったりと広がる大海原を眺めていた。

 

 

 特にすることもない空白の時間。移動のためだけに使われる一日。忙しなく生きる者なら、この一時でさえ自己鍛錬や勉強に費やして無駄にするべきではないというだろう。しかし、レミリアにとってはただ無為に過ごす時間も、下らない冗談を言い合う時間も、とても尊いものだと思うのだ。

 鎮守府に来てから交友関係がいくらか広がり、こうして気の合う艦娘と取るに足らない軽口を叩き合うことに楽しさを見出した。難しいことなど考えず、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出して一緒に笑える時間も、それが生死を問われる戦争の狭間に差し込まれた穏やかな時間であるなら、どうしてそれをないがしろに出来ようか。緊張と緊張の間のこの緩みが、レミリアにはとても愛おしく感じるのだ。

 

「ところで」

 

 真顔に戻った木曾は、海を眺めながら会話の流れを切り替えた。緩んでばかりもいられないな、とレミリアは気を引き締める。

 大体、彼女がここに持って来た話の内容は、つまりこれから切り出される本題の中身は想像が付いているのだが。

 

「今回のこの編成、わざとこうしたんだろう? あいつらが行きたがるのを知っていて、どうするつもりかも分かった上で、あえてこういう編成にしたんだ。違うか?」

 

 なるほど、木曾は怒っているのか。

 

 レミリアは「そうよ」と頷いた。その返答に、いささか木曾の纏う空気が暗いものになる。

 

「なんでだ? 止めることも出来ただろうに」

「行きたいと言ったんだもの。任務の性質に合った戦力だと思ったし、提督としての判断の上での選択だわ」

「それであいつらがどうなってもいいというのか?」

「戦争よ。元より死ぬのは覚悟の上でしょう」

 

 木曾の隻眼が、海風で散った前髪の奥から少女提督を睨み下ろす。レミリアはそれを涼しい顔で受け流した。

 彼女の言う「あいつら」とは第四駆逐隊の舞風と野分のことだ。今回の長期遠征につき、真っ先に手を上げて参加の意を申し出た。

 そもそもの話、今回の遠征の主体はレミリアの鎮守府ではない。南方戦線はレミリアたちの戦場ではないからだ。

 

 

 始まりは、南方の島々に築かれた国連軍の陸上拠点への補給線が襲われたことである。

 こうした陸上拠点は、上陸し陸地を侵食する深海棲艦へ対抗するため、艦娘ではない陸軍戦力によって維持されているもので、当然最前線であるから絶えず物資を要求する。そこで彼らへの補給を行うために艦娘が動員されており、特に前線に近い補給線では、船を用いず艦娘自身が物資を運搬する役割を担っていた。

 物資を運搬する以上、兵装には大きな制限が掛かっており、護衛が付くとはいえ、輸送任務中の艦娘は攻撃に対して非常に脆弱である。もっとも、補給線を襲う敵は比較的弱く、軽装備の輸送艦隊でも十分撃退出来るものなのだが、中には極めて強大な敵も含まれたりもするのだ。

 

 命からがら逃げ帰った輸送艦隊が報告したのは、二隻の駆逐棲姫のことだった。早速討伐隊が編成されてこの甚大な脅威に立ち向かっていったのだが、結果は散々たるもので、駆逐艦とはいえ姫クラスの強敵に戦艦を含んだ部隊ですら蹂躙されてしまったという。

 

 以後、この二隻の深海棲艦は活動を活発化させる。決まって夜、それも毎晩のように出現しては補給線を寸断し、迎撃部隊を返り討ちにしてしまうのだった。幾度かの海戦を経て、軍上層部はこれを駆逐棲姫より強力な艦種、「駆逐水鬼」と名付けた。そして、必ず二隻で登場することから、前線の間ではいつしか「双子の駆逐水鬼」と呼ばれるようになっていた。

 事態は南方戦線の各拠点で対処可能なレベルを超越し、本土を含めた各鎮守府へ、上層部から応援戦力の拠出が命じられる。無論、レミリアの元にもその命令は届き、赤城との協議の結果、最大四隻までなら出せるという返答をしたのである。

 駆逐水鬼の出現時間から、戦闘は夜間になると予想されるため、夜戦能力が最も高い木曾は固定として、後の面子は第七駆逐隊の三人になった、はずだった。実際、赤城もそれでほぼ決まりと言ったし、レミリアも妥当な面子だろうと納得していた。が、この遠征メンバーの選定は大きく狂うことになる。

 

 何故なら、遠征の話を聞いた舞風と野分が、恐ろしく差し迫った顔で志願を申し出て来たのである。その理由は、戦闘中に撮影された、探哨灯の光に照らし出された駆逐水鬼の姿を写した写真を見れば、誰にでも考えるまでもなく理解出来るだろう。五年前の海戦で沈んだはずの、萩風に酷似したその姿を見れば。

 当然、誰もが反対した。元より遠征参加予定だった第七駆逐隊の三人も、写真を見て大凡の事情を察したのか真っ先に舞風と野分を説得しに向かった。さらに、詳しいところの事情まで把握している秘書艦の赤城や古参の金剛と加賀、そして川内と親しい木曾はそろって二人を止めようとした。

 レミリアに直訴しようと司令室に突進して来る舞風と野分を、彼女たちは身体を使って遮り、半ば乱闘のような様相になって、しかしそれでも四駆は制止を振り切りレミリアの前に立ったのである。レミリアは、服も髪も乱れ、荒い息を吐きながら爛々と光る眼で見下ろす二人の前で、足を組み悠然と紅茶を嗜みながら彼女たちの陳情に首肯したのだった。

 

 至極当然の結果として、今度は提督が大反対を受ける身になった。しかし、その程度のことで動じる様な肝を持っておらず、遠征メンバーに第四駆逐隊が確定したのである。そして、唯一反対しなかった川内は、「遠征メンバーに空きが出たんだったら」と言って、これも参加を申し出て、レミリアは頷いた。

 また、反対にあったが、結局秘書艦の赤城が折れたことで反対意見が抑えられ、メンバー全員が確定して今日に至った。お陰で金剛は露骨な態度を見せるし、曙は顔を合わせる度に怒っていたが、レミリアの方はと言えばまるで気にも留めなかった。赤城だけは呆れ顔を見せてはいたが、最終的に賛同してくれたところを見るに意図を察してくれたのかもしれなかった。

 

 木曾もまた強硬に反対した艦娘の一人であり、現にこうして出征してからも抗議をしに来る。

 

「出ちまったものはしょうがない。けど、どうするつもりなんだ? あいつらは生きて帰るつもりで来たわけじゃない。しかも夜戦の出来ない川内まで。まさか南に行って何もしないつもりか?」

 

 木曾は何とか怒りの感情を抑え込むことに成功したのだろう、理性的な言葉を持ってレミリアと対話しようとする。お前の心積もりを聞きたいと、真摯な態度で臨む。

 

「取り合えず、貴女と舞風と野分の三人で出撃ね。川内は夜の海に出られないし、ちょっと頑張ってもらうことになるけど」

「だろうな。まあ、この際戦力云々の話はいい。問題はあいつらのことだ。止めても絶対に駆逐水鬼の元へと向かうぞ。端から玉砕して、心中しようって腹積もりでな」

「でしょうね。ま、行かせてあげればいいんじゃないかしら」

 

 レミリアの気のない返事に、木曾の口が「へ」の字に歪む。舌打ちしそうになるのを、彼女はぎりぎりで最低限の礼節を思い出して堪えられたようだ。これが金剛や曙だったら憤慨していたことだろう。

 

「何でだ? お前は言ったんじゃなかったのか。『萩風と嵐を取り戻せ』って。あいつらが沈むのを黙って見ているのか?」

「言ったわね」

 

 けれど、レミリアに答えるつもりはまるでなかった。

 今ここで木曾に言葉を尽くして説明したところで、きっと何の理解も得られないだろうし、それを聞いて彼女が変な行動を起こさないとも限らない。むしろ、木曾の性分を考えれば四駆に何か言いに行くのは確実だろう。それはレミリアにとって好ましくない展開だった。

 

「ただ、あの子たちが私に『沈みたい』と言ったわけじゃない。あの子たちはあの子たちなりの考えがあって行動している。それを心中だと決めつけて、頭ごなしに否定をするのはどうなのかしら?」

 

 木曾を落ち着かせるための方便。言いながらも、自分の言えたことではないなと自嘲する。

 倫理的に問題があったとはいえ、彼女たちが自ら望んだ心中を完全に否定したのは他ならぬレミリア自身である。木曾に同じことをするなというのは詭弁でしかないわけだが、それは自覚の上であるし木曾も分かった上で反論しない。彼女は筋違いなことは絶対に口にしない性分だからだ。

 

「ま、様子を見ましょう。今ここですべてを決めつけるのは早急に過ぎるわ。船旅は長いもの。たっぷりと考える時間も備える時間もあるのだから」

 

 結局、このレミリアの一言で木曾は渋々といった感じで頷いた。表情を見るに納得していないのは明らかだが、もう彼女はこれ以上何も口出しはしないだろう。状況が変われば話は別だが、一度こうして頷いた以上、問題を再燃させることはない。

 言葉で誑かした感もあってすっきりしないが、今日のところはこれでいいだろう。仮に今ここで彼女に本当のところを打ち明けたとして、いかなる弁舌を振るえば理解をしてもらえるというのか。この物質社会に生きる彼女が、運命という曖昧模糊で存在自体不確かな幻想にどれほどの現実感を抱くというのか。

 だからレミリアは説明しなかったし、そもそも説明不能だからこそそれはそういうものなのだという。

 

 これが運命なのだ。これが、レミリアの下僕なのだ。

 

 

 総ては我が手の中にある。

 

 

****

 

 

 ところで、この艦には艦そのものの乗務員や艦娘、指揮官に交じり、一人だけ“民間人”が乗り込んでいた。艦娘の母艦である「硫黄島」自体は前線から離れた後方に待機するため、比較的危険からは遠ざけられている。とはいえ、それはあくまで危険から“遠い”だけの話であり、安全性が保障されているわけではないから、民間人と言えど戦場に赴く軍艦に乗り込むにはそれ相応の覚悟が必要となる。軍民問わず、そうした覚悟を持つ者こそがこの場にいるべきであろう。

 無論、レミリアも軍服を纏う以上覚悟というのは持っているのだが、果たして彼女はどうなのだろうかという疑問は大きい。

 

 木曾が「トレーニングしてくる」と言って去ってから時間にして十分少々。体内時計が正確なのではなく、正確な腕時計をしているからだ。

 艦内の散歩も飽きて来たのだろう、若干眠たげな顔で(いつも眠たげだが)彼女は現れた。長い紫髪に清楚な白いブラウスの下から存在感を放つ豊満な身体。出不精のくせに、出るところは出て凹むところは凹んだ羨ましいスタイル。

 けだるげな表情と仕草でごく自然にレミリアの隣に立ち、先程の木曾と同じように手すりに身を預けて、アンニュイな溜息を吐いた。失恋をして傷心の船旅に出た女のようだとレミリアは思った。

 

「ジャーナリストっていうのは、取材対象の横に馴れ馴れしく立って、聞えよがしに重い溜息を吐き出したりするものなのかしら」

「貴女に聞きたいことなんてないから」

 

 それが友人に向ける言葉だろうか。余り毒舌ばかり振るわれると、いかに懐の大きい自分と言えど関係について再考する必要が出てくるのではないかと悪魔は頭を抱える。

 

「酷いことを言うわね」

「拗ねないでよ。貴女のことは何でも知っているという意味よ」

「はい、そうですか」

 

 だけど、こういう一言で気分が晴れる単純な自分がいるのも真実。友人に巧いこと転がされている自覚を持ちながらも、気分は悪くならない。お互い付き合い方というのを熟知しているからか、やっぱり彼女と友人関係でいるのは心地いいのだ。

 

「ちょっと話し相手をしてほしいだけよ」

 

 隣の自称ジャーナリストは語り出す。レミリアは怒っているふりをしてあえて何の相槌も打たなかった。意地の悪い言葉で自分を翻弄する友人へのちょっとした仕返しだった。

 

「船旅にも飽きて来たところなの。面白い暇潰しもないし、手持ちの本も読み切ってしまったわ」

 

 そう言えば彼女、「取材道具」と称してキャリーバッグ二つ一杯に辞書みたいに分厚い本を詰め込んで乗船していた。相当な量の活字だと思うが、この書痴の前ではペラペラのパンフレットに等しいらしく、たった数日で読み切ってしまったようだ。

 恐ろしいことにこの酔狂な読書家は、一度本読みに没頭し始めるとまるまる一週間椅子の上でただひたすらページをめくっていることさえある。そしてたった七日間の間に、椅子の周りに高い本の塔が建築されるのである。それくらいに、彼女の読書速度というのは速いのだ。

 

「後先考えずに読み耽るからよ」

 

 思ったことが何故か口を出ていた。相槌を打ってやらないという決心は、早速自分自身に反故にされてしまった。

 

「ええ。本当にその通りよ。でも、ちょうどいい話相手の蝙蝠がいるだけ私は運がいいわ。そう思うでしょ?」

 

 無視だ無視! 

 

 この性悪な友人は、そうやってレミリアをからかい、反応を見て楽しむつもりなのだ。相手にすればするほど向こうは意地悪く笑うだけなのだから、何を言われてもずっと無反応でいればいい。

 

「怒らないでよ、提督。そうね、レミィがどんなふうに艦娘と接しているのか、聞かせてほしいのよ」

 

 レミリアは無言だ。無言で海を睨み続ける。

 

「あの『駆逐水鬼』の写真を見てどう思った? レミィの見解を聞かせて」

 

 ねえ、レミィ。と猫なで声で囁きかける友人。実にぞわぞわする。

 

「いいじゃない。誰も聞いてやしないわ。そういう“魔法”を掛けているもの」

 

 友人の怪しい吐息が耳に掛かる。レミリアはついに鬱陶しげに腕を振った。

 相手の鼻先を狙った裏拳は思いの外鋭い動きで躱されてしまう。この一見動きの鈍そうな女は、しかしどうしてかいろいろと器用に出来る女であった。書痴のくせに、単なる本の虫には収まらないなかなかに多彩な能力の持ち主なのである。

 

「私だって貴女に怒ることもあるのよ、パチェ」

「機嫌が悪いわね。何かあった?」

 

 ふんっとレミリアは鼻を鳴らす。どうにも先程から気分が晴れない。何だか胸の内がかさついて酷く不愉快なのだ。大凡、原因は突き止めていたのだが、その原因に対して感情を逆立てる自分がいることに納得出来ず、それがさらに気分を害する悪循環に陥っていた。

 片や、友人は「しょうがない」と言う表情を浮かべて肩をすくめる。単に雑談がしたくて寄って来たわけではないだろうから、そろそろ本題を切り出すだろう。レミリアとしても、余談にふける気分ではないのでそちらの方がありがたい。

 

「『段取り』の話をしましょう。レミィ。貴女の予想通りなら、第四駆逐隊の二人はとても都合の悪い状況に陥ることになる。それは私もそう思う。そこに、私の魔法が必要になる」

 

 だから、彼女――パチュリー・ノーレッジは“国際的に有名なマスコミのジャーナリストでレミリアとは旧知の仲”などという似合わない設定をぶら下げて「硫黄島」に乗り込んで来たのだ。

 

「いい術式が組めたの。ただ、それを成功させて貴女の思うとおりに事を運ぶには、ちょっと面倒な『段取り』を取らなきゃいけない。今日はその相談よ」

 

 その言葉を聞いて、レミリアはようやく機嫌が好転したのを自覚する。思惑が想定通りに行きそうになるのだから、いい気がしないわけがなかった。

 

「場所を変えましょう」

 

 そう言って、二人は誰にも見咎められることなく、軍艦の奥深くへと潜り込んでいったのだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督17 Operation Mánagarmr

 

 コロネハイカラ島は標高千七百メートル程度の成層火山が海面より突き出たほぼ円形の島である。島はサーモン海とニュージア海を隔てるニュージア諸島の一つであり、サーモン諸島共和国西部州に属する。同州最大の陸地であるニュージア島とは、狭い海峡のようなバニラ湾を挟んで対峙しており、さらに周辺には大小さまざまな島が浮かぶ。

 コロネハイカラ島自体は周辺の島々と同じく、ほぼその全域が熱帯雨林に覆われている深い緑の島であり、人の居住というのはニュージア島から移り住んだごくわずかな先住民を除けばまったくなく、森に棲むのは希少な熱帯の動物や昆虫ばかりであった。それ故か、今までこの島が有名になることなど一切なく、飛行場もなければもちろん雨林の開拓も進んでおらず、この地球上に残された数少ない秘境の地となっていた。

 そんな、熱帯の片隅にある小さく地味なこの島は、実は現在世界中の目を集めるまでに有名となっている。

 何故か?

 その理由は、この島が現在、唯一地上で人間と深海棲艦が直接砲火を交えている場所であるからだ。

 

 

 経緯はこうだ。

 元々、サーモン諸島西部州は人間側の勢力下にあった場所である。この西に広がる激戦地――サーモン海峡と最前線を支えるいくつかの泊地との間を結ぶ緩衝地帯であり、時に艦娘はこの島々を天然の要害として利用し、態勢を立て直すために一旦島影の海に集合して再出撃するなどといった作戦行動が頻繁に行われている場所だった。したがって島の周辺には誰が決めたわけでもないが、自然といくつかの艦隊集結点というのが設定されており、島に暮らす原住民にとっても、海岸から見る艦娘の姿というのは日常の一つになっているような、そんな島であった。

 ところが、最近出現した「双子の駆逐水鬼」の圧倒的戦力により、西部州周辺の海域の制海権は深海棲艦に奪取されてしまったのである。原住民の避難は直ちに開始され、その作戦こそ成功裏に終わったものの、肝心の海戦の方は艦娘側が負け続けるありさまであり、ついに深海棲艦は島々への上陸を開始、陸地の侵食を始めた。

 かくて、この上陸深海棲艦を海へ蹴落とすべく陸軍兵力が派兵されるに至ったが、肝心の補給線が駆逐水鬼によって大きな脅威に晒されており、緒戦こそ勝利を収めた陸軍も、補給が滞りがちになるにつれて徐々に追い込まれ、撤退を繰り返し、ニュージア島からは退却、コロネハイカラ島が戦場になったのだ。

 

 コロネハイカラ島は最前線の島であり、そして最終防衛線でもある。この島の陥落は陸軍の敗北を意味し、戦力的にも、全軍の士気の面でも、ニュージア諸島防衛が叶わなくなるだろう。

 優秀で手入れの届いた装備と常に潤沢な物資がある限り、陸軍が深海棲艦に勝てるのは既に実証されている。彼らが負け戦に追い込まれているのは偏に補給の不足であり、そのため陸軍から海軍を非難する声が盛大に上がっていた。無論、当の海軍も手をこまねいているわけでもなく、コロネハイカラ島の戦略的重要性を鑑み、全軍から優秀な艦娘をかき集めて討伐隊を編成、大規模作戦の実施となったのである。

 駆逐水鬼の撃破。それこそがニュージア諸島の命運を握っていた。

 

 

 ところで、駆逐水鬼はそれまで夜間にばかり襲撃を行っていたのだが、昼間に目撃されていないわけではない。むしろ、太陽の光がある分昼間の目撃の方が多く、艦隊が襲われたという情報こそないものの、その存在自体が補給線を寸断していたのである。この双子が居座る限り、物資の補充など満足に行えるはずもなく、さりとて夜間はどこから襲われるか分かったものではないので、補給など悠長なことはしていられない。

 したがって、昼間の駆逐水鬼の戦闘力は未知数であったが、積極的に襲撃を仕掛けて来ないところを見るに活動レベルは夜間よりも幾分落ちるのではないかという予測が立てられていた。そこから、昼間に駆逐水鬼を強襲する作戦が立てられたのである。

 もちろん、昼間の戦いで撃沈できるような生易しい相手ではない。作戦は二段階であり、昼間に攻撃を仕掛けた後、こちらの部隊は撤退。続いてコロネハイカラ島の島影に隠れながら移動させた本隊により背後から夜襲を仕掛け、連戦で疲弊したところを撃沈する。

 この軍事活動は「マーナガルム作戦」と名付けられた。

 作戦の総指揮を執るのは、南方統括泊地の海軍中将であり、彼は前線から遥か後方の泊地に座っている。最前線にいるのは「硫黄島」に乗り込むレミリア・スカーレット少将で、海軍中将の指示を受けつつ戦術指揮を行う手筈になっていた。

 

 

 

****

 

 

 

 艦娘母艦「硫黄島」の艦尾ウェルドックは早朝から喧騒に包まれていた。ドック内には六人の艦娘が各々艤装を装着しており、さらにその周りを多数の作業員が駆け回る。艦娘が身動ぎする度に兵装が擦れ、作業員たちの話声や怒鳴り声が反響し、ドックは実に騒がしい。

 今、その中の艦娘の一人としてしゃがみながら艤装を装着しつつある川内にとって、出撃前のこのような騒がしさというのは、ある種心地良さを感じさせるものだった。当然、これから艦娘達が向かう先は戦場である。川内のように悠長に構えている者は他におらず、皆眼光鋭く、黙々と準備しながらも殺気立っていた。ほんのちょっと邪魔になるだけで舌打ちが聞こえてきそうな、そんな緊張感の中にいる。

 川内は作業員に呼ばれ、艤装を付けたまま立ち上がるとガチャガチャと金属の擦れる騒がしい音を立てながらドック床面に付けられた射出用レールに足を乗せる。レールには艦娘を乗せるキャリアがセットされており、作業員がすぐに川内の足元に蹲って航行艤装をキャリアに固定した。

 「硫黄島」の艦尾ウェルドックはかなり広い空間で、艤装が巨大なことで有名な大和型や扶桑型が二人並んでも余裕がある程度には幅がある。ドック床面には二本の射出用レールがあり、それぞれのレールには三台ずつキャリアが設置されている。合計で六台、すなわち一度に一艦隊分の艦娘をセッティングし打ち出すことが出来るわけである。川内はその内進行方向左側のレール最後尾のキャリアに乗っていた。この位置は六番艦である。

 

 

 

「おはよう、諸君」

 

 頭上から、高く、朗々とした声が響いた。ドック内の騒音に負けじと発せられたその声は、はっきりと川内の鼓膜を振るわせる。

見上げると、そこに小さな提督が立っていた。

 特注したXSサイズの第三種軍装(それでも少しぶかぶかだ)を纏ったレミリアが犬走りからドックを見下ろしていた。現れた司令官の姿に、それまで出撃準備していた艦娘や作業員たちが手を止め、敬礼する。

 レミリアはこめかみに手を当てた後、「やりながら聞いてくれていいわ」と言った。お言葉に甘えて、という気配で作業員たちが仕事を再開する。一方、既にキャリアに全員乗せられ、最後の点検も終えて後は射出を待つだけになった艦娘らは、そのまま直立不動で提督を見上げ続ける。

 

「ドックの中で完全装備の艦娘が出撃待機している光景というのは、なかなかに壮観な眺めね」

 

 そろって自分を見上げる六つの顔をドック内を俯瞰しながらレミリアが語り出した。

 

「今日は運命の一戦。南方戦線の存続を左右する一大決戦。ご存知の通り、我らの眼前に立ちはだかるのは双子の駆逐水鬼よ。

この未曽有の敵に、南方戦線は崩壊寸前まで追い込まれてしまった。諸君らの中にも、それをよく知っている者もいるでしょう。まさしくこの熱帯の海で勝利し続けた百戦錬磨の強者たちですら手こずる強敵。

我らは、今までこの敵にさんざん煮え湯を飲まされて来た。沈められた輸送船はわずか半月足らずで十を超え、ニュージアの島で英霊の地に迎えられた陸兵は五百に近い。それはもう、見事な惨敗だったわ。

だからこそ、相手に不足はない! 流れ弾で沈む雑魚でも、片手で始末出来る有象無象でもない。仄暗い水底から浮かび上がって来た本物の怨念よ。ならば、諸君らは存分に戦えるでしょう。ありったけの砲弾を叩き込み、必殺の魚雷で穿て! 剛力を振るい、暴力で薙ぎ払い、火力で焼き滅ぼせ! そうして諸君の精強さを証明して見せろ」

 

 両腕を大きく広げ、朗々とした声でレミリアは叫ぶ。声はドックの中で何度も反響し、エコーが掛かって川内の脳髄まで届いた。

 余韻がまだ空間に残響している内にレミリアは広げた片腕を曲げ、手首の腕時計を覗き込んだ。

 

「もうすぐ日の出。朝日が昇るわ」

 

 彼女はドックの後方、川内たちの向く方を見やる。

 それを合図にしたかのように、タイミングを合わせてゆっくりとドックドアが開き、機械が唸り声を上げ、徐々に床面が後ろへと傾き始めた。同時に、海水が流入してレールの先が海に浸かる。

 艦娘たちが艤装を吹かし始めた。ドアの駆動音と合わさってドックはこれまで以上の騒音に包まれる。

 徐々に開いていくドックドア。それにつれ、赤い朝日に照らされる海が姿を見せる。朝の水面はとても穏やかそうで、これから激戦が始まることを予感させない。

 暁の陽光が入り口を照らし、ふわりと中に入り込んで来る。温かく、心地よい光だ。川内の見上げる前で、レミリアは眩しそうに目を細めた。

 

「諸君!」

 

 犬走りから艦娘たちと一緒に海を見ていたレミリアが再び声を張り上げた。この騒がしい空間の中で、彼女の声は小さな体のどこから出したのかと思うほどよく耳に届いた。

 

「さあ、時間だ。暁の水平線に繰りいでよ!! 出撃ッ!!」

 

 

 号令と共に、爆竹をいくつもまとめて発破させたような派手な音が鳴る。同時に、音を残して一番艦がドックから飛び出した。

 続いて、同じ音が連続して二番艦、三番艦と順次発艦していく。

 あっという間に川内の番に至り、身体が前へ凄まじい力で引っ張られる。と思ったのも束の間、着水した時の抵抗で一気にスピードが削られ、今度は前のめりになる。荒っぽい発艦方法だが、ここでこけるのは新兵だけである。

 直後に川内はスクリューが水を掴む感触を手にした。水を得た機関が喜び声のような爆音を立て、海水を撹拌し、川内の体を力強く前へと引っ張り始めた。川内も艤装に合わせ、悠々と穏やかな海面を滑る。

 前方では他のメンバーが単縦陣を形成しているところだった。各地の鎮守府や泊地から臨時で集められたためにそれぞれの所属が違い、川内を含めお互い初対面同士のこの艦隊だが、全員が己の腕に自信を持ち、名乗りを上げて出て来ただけあって、陣形の形成など当然の如くやってしまう。川内もごく自然な流れで単縦陣の最後尾に張り付いた。

 

 

 朝日が、戦場へ向かう艦娘たちを照らし出す。

 母艦である「硫黄島」は既に小さくなり、地球の巨大さを感じられる大海原には、たったの六人だけ。

 わずかに顔を東へ向ければ、すぐさま目に溢れんばかりの光が入って来て、眩しさに瞼を下ろした。

 

 川内は朝の海が好きだ。

 かつての部隊に所属していた頃、それは戦いの終わりと束の間の平穏を象徴するものであり、今では戦闘前のほんのわずかな休息の景色だった。

 これから戦闘を控えているというのに、川内の胸中は凪いだ渚のように穏やかで、ともすれば心地良さに居眠りしてしまいそうだ。不意に衝動が襲って来て、川内は大口を開けて欠伸した。

 

 

 

 

“出撃早々欠伸するなんて、随分と余裕ね”

 

 

 

 唐突に頭の中に響いた「声」に、川内ははっとする。痴態を見られたのかと、慌てて周囲を見回すと、艦隊の後方上空を観測用の無人偵察機がぴたりとついて来ているのが目に入った。しかし、その位置からでは川内の欠伸はカメラに映らなかったはずだ。

 

「六番艦、川内。どうした?」

 

 川内の様子の変化を認めたのだろう、カメラの向こうで艦隊の動向を見ているオペレーターが声を掛ける。

 

「いいえ、何でもありません」

 

 すぐさま川内は応答し、挙動不審を見咎められないように前を向く。

 きっと今の声は気のせいだろう。ひょっとしたら、作戦中に欠伸などかました自分自身を自制心が咎めたのかもしれない。まさか、レミリアがどこからか見ていて囁いたわけではないだろう。何せ、今の声は耳から聞こえたのではなく、直接脳内に響いたのだから。

 

“しっかり前を向いていないとこけるわよ”

「やっぱり提督じゃん」

 

 川内は口の中だけで呟いた。心中激しく動揺しているが、どうやらオペレーターに気配を悟られない程度には平静さを装えたらしい。

 

「何これ。どうなってんの」

 

 再び、川内は音にならない言葉を発する。口元で耳をそばだてないと聞こえないくらい小さな声は、川内の口腔に反響してそのまま喉に落ちて消えてしまう。風切り音や艤装の機械音でやかましいこの場では絶対に他者に聞こえないはずだ。しかし、川内は何となくそれで会話出来るような気がしたのである。

 

“テレパシーよ。声を出さなくても、言葉を思い浮かべるだけでいいわ。頭の中だけで話をする感覚ね”

“こう? 聞こえる? どうぞ”

“感度良好よ。どうぞ”

 

 予想外に川内が早く順応したことに気を良くしたのか、クスクスとレミリアが笑う。脳内で誰かが笑い声を零すという未知の感覚に、川内は何とも言えない気持ち悪さを感じて身震いした。

 

“笑わないで提督。気持ち悪いよ”

“あら、失敬したわ”

 

 なんとか自分を落ち着けた川内はようやく冷静にことを見つめ直せるようになった。まずはともかく、この状況についてもう少し説明を貰わないといけない。

 

“この会話は私と貴女の間だけにしか伝わらないわ。距離も関係ないし、回線は作戦中繋ぎっぱなしにしているから、気軽に呼んでくれればすぐ答えられるわよ”

“なるほどね。無線の代わりになると思っておけばいい?”

“そんなものかしらね。やけに飲み込みが早いじゃない”

“姫クラスの深海棲艦がね、こんな風に話し掛けてくることがあるのさ。聞こえ方はもうちょっと違うんだけど”

“へえ……”

 

 実際のところ、確かに姫クラス以上の深海棲艦はテレパシーのような声を出すことが出来る。かつて、一航戦の随伴として参加した海戦で対峙した空母水鬼という最上位の深海棲艦はこちらに話し掛けて来た。といっても、ほとんど脅しのような言葉ばかりだったが、無線もないのにやり取り出来たのは不思議である。声の響き方は、今のレミリアのように頭に直接伝わるものではなく、遠くから話し声を聞いているようなものだった。

 そういう経験があるから、突然のテレパシーにも川内は対応出来たのだ。

 

“で、提督は私と何の内緒話がしたいのさ?”

“ええ。作戦のことでちょっとね”

 

 レミリアのその一言で、川内はおおよその事情を察することが出来た。

 まず、そもそもどういう原理か知らないが、レミリアがテレパシーで川内個人にこっそり話をしている時点で、目的は今日の作戦目標とは相反するところにあるのは容易に想像がつく。この作戦自体は、後方の南方統括泊地に坐する海軍中将が指揮を執り、レミリアは言ってしまえば前線司令官程度の役割しか与えられていないわけである。指揮系統上も階級上も、当然レミリアには中将に反抗することが出来ない。だから、こうして秘密裏に話し掛けて来たのだ。

 とすれば、だいたい目的の内容は察しがつく。

 

“駆逐水鬼を、懐柔したいのかな?”

“……貴女、どうしてそんなに勘が鋭いのかしら。何か特別な生まれだとか?”

“そう? 提督が分かりやすいんだよ”

“分かりやすいつもりはないんだけどね。ま、察してくれているなら話が早い。懐柔というのは厳密には違うけれど、大体そんなところね。駆逐水鬼に対して揺さぶりを掛けたいの”

“それでどうなるってのさ。深海棲艦は言葉を話せても理解し合える存在じゃないよ”

“さあ? どうかしらね”

 

 根拠が何なのか、レミリアは妙に自信ありげだ。もっとも、こんなオカルト極まりないテレパシーを使えるくらいだから、ひょっとしたら川内が予想も出来ないような奇天烈な解決策でも用意しているのかもしれない。

 いずれにしろ、こうしてテレパシーで繋がっているということはレミリアの言う通りに従った方がいいということだ。どうやらテレパシーでの会話と川内が頭の中で回す思考は別領域にあるようで、考えた内容がそのままレミリアに伝わることはないようだが、逆を言えばこうして「頭と頭」の間に回線を繋げられるのだから、もしかしたら思考の盗聴も出来たりするのかもしれない。

 長く戦場に居ると、どうしても科学的に説明出来ないような不可思議な現象に出くわすことがある。その時、それを目の当たりにした兵士が抱くのは、この世界には自分たちが与り知らぬ何かがやはり存在するのだという、未知への憧憬とも恐怖とも言える感慨である。まず、そもそもの「艦娘」という存在からして、全く現代科学では説明出来ていないし、ならばテレパシーの一つや二つ、同じように説明出来ない事象があってもおかしくはないのかもしれなかった。

 ただ、今ここで考えても埒が明かないことなので、川内は取り敢えずレミリアの正体について考察することを脇に置いた。

 

“でも、貴女だって何かしら言いたくて出て来たわけよね”

“まあね。何かが変わるもんじゃないし、話が通じなかったら仕方ないと思う。その時は潔く諦めるよ”

“それでも言葉を掛けようと思ったのは、どこかに突破口があるからでしょう”

“うん。多分、あの二人は他の深海棲艦と違って理性が残っているんだと思う”

“へえ?”

 

 川内は写真を思い浮かべた。駆逐水鬼が写されていた写真だ。

 その写真には、不鮮明ながら人相を十分判別可能なくらいにしっかりと駆逐水鬼の姿が撮られていた。夜間の、それも戦闘の合間。戦闘記録用に艦娘が装備していたカメラにて撮影されている。

 駆逐水鬼はカメラを見ていた。はっきりと彼女はカメラに目を向けていた。まるで、撮ってくれと言わんばかりに。

 それは単に駆逐水鬼がカメラを持っている艦娘に向いていただけの話かもしれない。しかし、川内にはあれが単なる偶然には思えなかった。

 メッセージだ。駆逐水鬼は自ら写真に撮られることにより、誰かにメッセージを送った。その対象が誰であるかは最早言葉にする必要すらないだろう。

 彼女たちは何かを求めている。どういうつもりで駆逐水鬼がメッセージを送ったのかは知れない。それを確認するために川内は出撃したのだ。

 

“提督も同じでしょ。それに、私が想定する最悪は駆逐水鬼が四駆の二人を自分と同じ深海棲艦にしてしまうこと。絶対に防がないといけないことだし、だから提督は策を講じたんだ”

“考えていることは同じね”

“なら、利害が一致しているってことでしょ”

 

 この戦いは、単純に敵を倒して沈めればそれで済むものではない。大多数の艦娘や軍人はそう考えているかもしれないが、それではきっと作戦は失敗し、結局人類はニュージア諸島を失うことになる。何よりも、艦娘が深海棲艦になるという噂が現実となりつつある今、精一杯それに抵抗しなければならないのだ。

 ただ、果たしてそれを理解しているのは一体どれほどいるのか。レミリアと川内、あるいは舞風と野分も同じことを恐れているのかもしれない。いずれにせよ、賽はまだ投げられていないのだった。

 

 

 

****

 

 

 

 進撃は順調だった。

 幾度かの小規模な海戦を経たが、錬度の高い艦娘が集められた艦隊はさほどの被弾もなく、現れた敵をなぎ倒しながらほぼ予定通りの時刻にコロネハイカラ島北方まで到達した。

 

「こちら妙高。当初の接敵予想海域に入りましたが敵影ありません。確認お願いします」

 

 旗艦が無線交信している。

 艦隊は不意の急襲に備え、乙字行動をしながら周囲警戒に当たっていた。巡洋艦は偵察機を飛ばし、駆逐艦は電探とソーナーに傾注する。川内も自らが射出した偵察機と密に連絡を取り合いながら、己の目でも海を見渡し、わずかな異変でも見逃すまいとする。

 天気はすこぶる良かった。やや雲が多いので、雲間からの艦載機の奇襲に注意しなければならないが、波は比較的穏やかで走りやすい。総じて戦闘にはもってこいの状況だった。

 こんな日には水上戦闘での奇襲というのは成り立たない。潜水艦が襲ってくるならいざ知らず、視界がよく効くので敵の発見は早いだろう。

 と思ったところで、川内は慢心はいけないとかぶりを振る。先日、我らが主力艦隊は海中からヲ級の奇襲を受けたばかりではないか。深海棲艦がそういう手を使わないとは限らない。特に、駆逐水鬼はそれこそ人間と同じ知能を持っているはずだから。

 

 川内は島の方へ視線を向ける。

 コロネハイカラ島は成層火山であり、富士山のように広いすそ野を持っている。雄大な山容は深い緑に覆われ、動植物の楽園となっているそうだ。

 もしこの場で視覚的に優位に立とうと考えるなら、島を背にして姿勢を低くしながら静かに近づいて来ることだ。そうすれば、島と自分の姿が重なって見え辛いし、海面に近くなればレーダー波の乱反射で電探での感知も遅れる。

 川内は敵の立場になって考えた。駆逐水鬼が逃げの一手を取らず、襲って来るならどういう方法が合理的か、と。

 そう言えば、今川内たちがいるのは島からニキロ程しか離れていない場所だ。余りに島が近いので、そちらの方には偵察機を飛ばしていない。岩礁も多いと予想される島の 近辺に、座礁のリスクを負ってでも深海棲艦が潜んでいるとは考え辛いとされたからだ。

 だが、本当だろうか。何せ、敵はこの目の前の島にすでに上陸しているのだから、陸地から引き返して来ることもあり得るかもしれない。

 

 皆、沖を見ている。

 

 そう思った時だった。真昼の日光を浴びても尚、黒々と生い茂る島のジャングル。その影の中で動く何かがあった。否、森の中にいるのではなく、森と自らの姿を同化させているのだ。それは、島の近くを航行する際に敵に見つかりにくくする手法の一つで、小型艦の艦娘なら大抵の者は知っていることだった。特に、錬度に関わらず島嶼の多い南方で戦っていた艦娘はやり方を熟知しているだろう。

 姿勢を低くし、波を立てずに忍者のように移動する。しかし、本土や中部海域で戦ってきた艦娘は知らないかもしれない。だから、南方での経験のない艦娘ばかりが集まったこの艦隊の艦娘は誰も島へ目を向けていないのだ。

 

「敵発見! 右舷! 砲雷撃戦用意!」

 

 川内は絶叫した。発砲許可を待たずに叫ぶ。

 艦娘と深海棲艦の交戦距離は短い。目視で彼我の距離を測るとせいぜい一キロだった。

 そんなに接近を許していたのかという驚愕と、油断と索敵不足への悪態が口をつきかける。敵は既に川内の主砲の射程距離内であり、川内たちもまた敵の射程内にいる。

 

「て、敵!? 射撃許可を!」

「許可するわ」

 

 動揺する妙高に、レミリアは平然と返した。なるほど、想定の範囲内というわけか。

 川内の発砲で、敵も気付かれたと分かったのだろう。進路を合わせて波が立つくらい一気に加速し出した。川内の初弾は置いていかれるように敵艦隊の後方に着弾する。

 

「方位175に敵! 同航戦で交戦始まってます!」

 

 敵艦隊は六隻。重巡以下の艦種のみで戦艦や空母はいない。が、先頭の二隻が例の「双子の駆逐水鬼」だった。

 

「随伴を沈めなさい」

 

 レミリアが指示を飛ばす。それは、川内がレミリアに申し入れようとしていたことで、意図を先に汲み取ってくれたのだろう。まあ、これからやろうとしていることを考えれば随伴は邪魔でしかない。

 敵重巡の第一斉射。川内たちの左に弾が落ちる。遠弾だ。

 

「主砲斉射!」

 

 代わるように妙高以下、艦隊のメンバーが射撃を開始する。さすがに錬度が違うのか、初弾でいくらかが敵の随伴艦に命中し、二隻が落伍した。

 浮足立つ敵。冷静に射撃して来たのは駆逐水鬼だけだが、砲弾は今度は手前に落ちてしまう。これが演技ではないのなら、駆逐水鬼はその脅威の割に射撃が下手なのかもしれない。こうして彼女たちと昼間に撃ち合いになったのはこの戦闘が初めてで、それまで駆逐水鬼が猛威を振るったのはすべて夜戦でのことだ。

 夜戦というのは、昼戦とは違い、いかに夜闇にまぎれて接近し、敵の急所に痛打を叩き込むかがミソになる。昼戦とは求められる技能が異なり、昼間は大火力で圧倒出来る戦艦が、夜は小回りの効く駆逐艦にいとも簡単に倒されてしまうのはそういう事情があるからである。火力もさながら、機動力や隠密性が物を言う。

 要は、射撃能力より接近能力が求められるわけだから、多少射撃が下手でも、近付ければ誰でも当てられるというのだ。まして、駆逐水鬼は元は錬度の低い駆逐艦だった。昼に勝負を仕掛けてこなかったのも、まともに砲雷撃戦を出来る自信がなかったからだろう。

 下手な鉄砲も何とやらというが、腕がいいよりはましだ。随伴の掃除が終わるのを見計らって、川内は舵を切った。味方の射撃は既に駆逐水鬼に向いている。

 

「川内!?」

 

 旗艦の妙高が驚嘆して叫ぶ。

 

「何しているのですか? 戻りなさい!」

 

 制止の声を振り切って、川内は駆逐水鬼との距離を詰めていく。速度は既に最高。風切り音が耳を覆い、髪は乱れながら後方へ流れる。

 

「しゃ、射撃中止! 射撃中止! 少将、川内が!」

「そのままにして」

「え!?」

「駆逐水鬼に降伏勧告を与えるわ」

「降伏……?」

 

 川内は無線を切った。代わりに、こっそりと持ち出してきた拡声機のスイッチを入れる。

 

「私は、国連軍海軍所属川内型一番艦の川内だ!! 久しぶりだね、駆逐艦『萩風』! それと『嵐』!」

 

 顔がはっきりと見えるところまで近づく。既に双方射撃は止まっていて、誰もが彼我の間に飛び込んできた川内の動向に注目していた。

 駆逐水鬼の姿は、ほとんど艦娘そのものだ。駆逐棲姫とは違ってしっかりと両足が付いている上、身体に纏う艤装も艦娘のそれに近い。人間の男のそれのような大きな両手が生えているし、兵装には深海棲艦特有の黒い光沢もみられるが、衣装そのものは陽炎型駆逐艦のそれを彷彿させる。腰のベルトや太股のホルダー、極めつけは胸元のリボンとスカーフ。ほとんどモノトーンカラーの駆逐水鬼の恰好の中にあって、それだけがはっきりと赤色と分かった。

 今まで、これ程人に近い姿の深海棲艦など見たことがない。なるほど、これなら彼女たちの知能の高さもよく分かる。まさに二人は“元艦娘”なのだ。

 先頭を行く旗艦の方、髪が長くて胸元にリボンを結んでいるのが萩風。後ろの、短髪で胸元がスカーフになっているのが嵐だろう。二人の違いというのはその程度しかなかった。

 

「覚えてるかな? 五年前、夜襲を受けた君たちの救援に駆け付けたのよ」

 

 川内は言いながらさらに近づいていく。暗く淀んだ赤い瞳孔が二対、川内を警戒するようにじっと見つめている。その主砲はしっかりとこちらに向けられていた。

 

“まだ撃って来ないわ”

“分かってる。へまはしないさ”

 

 心配なのか話し掛けて来たレミリアに、確信をもって答える。そう、まだ撃って来ない。駆逐水鬼たちはきっと、今川内のことを見極めているのだろう。敵なのか味方なのか、自分たちに害があるのかそうでないのか。

 

「そうだ。君たち、第四駆逐隊のためにね」

 

 反応したのは嵐の方だ。眉が跳ねた。

 突破口を見つけた。

 

「私たちには君たちを傷つける意思はない! 萩風、嵐。戻って来ない? 舞風と野分が待ってるよ」

 

 今度ははっきりと、嵐が目を丸くする。口が「あっ」という形に開かれ、彼女は何かに気付いたように表情を変えた。

 それに、川内は確かな手応えを感じ取る。

 行ける、と思った。

 まだ彼女たちには理性が、記憶が残っている。完全な深海棲艦になっているわけじゃない。

 

 

 だが、

 

 

 

「ウルサイッ!!」

 

 突然、絹を裂くような甲高い声が海原に響いた。

 

「ウソヲツクナ! オマエタチハ、ワタシタチヲシズメヨウトスル! ワタシタチヲ、アノ、クライミナソコニ……ッ!!」

 

 叫んだのは萩風だ。その艤装の両腕が、威嚇するように構えられる。

 

「違う! 萩風!」

「ソノナマエデヨブナァ!!」

 

 ついに爆音が轟いた。

 激情に任せて放たれた一撃。川内の肩を掠めて背後の海に着弾する。

 

“引きなさい、川内!”

 

 レミリアの声が頭の中で響く。

 

「まだだよ! もうひと押しなんだから!」

 

 感情を爆発させた萩風と、詰め寄る川内の間で嵐が戸惑ったような顔をしていた。そこに、川内は未だ突破口が閉じられていないと感じていた。まだ行ける。まだ終わっちゃいない。

 

“チッ”

 

 誰かが舌打ちした。

 刹那、背中をぞわりとした冷気が覆う。何か禍々しいものが、自分の両肩にのしかかったようなおぞましい感覚に襲われた。

 同時に、急に体が重くなった気がした。足が海に沈み込み、航行艤装の唸り声がトーンダウンしてくぐもったような音になる。誰かが川内の肩に乗り上がり、両腕を広げて目の前の二人を威嚇している、そんなビジュアルが思い浮かんだ。何もないはずなのに、黒く禍々しい何かがそこにいる。

 果たしてそれは川内だけが垣間見た幻影だったのだろうか。

 否、不可視の幻影ははっきりと萩風たちの目にも映ったらしい。むしろ、これは二人に見せるために出されたものだった。

 

「ヨルノ……!」

 

 萩風が怯む。激しく見せていた怒りは引っ込み、川内から、幻影から逃げるように海に飛び込んでしまう。後には嵐が続いた。

 

「待って!」

 

 制止の声は届かない。二人はあっという間に波間に消えてしまった。

 あの幻影は一体なんだろうか。考えるまでもなく、川内にはその犯人が分かっていた。

 

 

 

“何してんのさ、提督”

 

 ふつふつと怒りが湧いてくる。

 あともう少しだったのに。もうちょっとだったのに。

 

 直前で妨害を受けたことに、川内は珍しく怒りを抱いていた。

 

“ああでもしなければ、撃たれていたわよ”

“そんなことない。二人ともちゃんと私を見てた。言葉が通じてた。もうちょっとだったんだよ!”

“いいえ。あれが限界よ”

 

 レミリアは冷静だ。落ち着いている。

 それが、尚のこと癪に障るのだ。

 

“もういい!”

 

 テレパシーというのを一方的に遮断出来るのかは分からないが、川内ははっきりとした拒絶の意志を見せて通信を切った。代わりに無線のスイッチを入れる。

 

「川内……」

 

 直ぐに冷ややかな妙高の声がインカムから聞こえてきた。

 

「これは、一体どういうことですか?」

「どうもこうもないよ」

「後で、上に報告します。降伏勧告なんて聞いていません」

「お好きにどーぞ」

 

 怫然として川内は隊列に戻った。他のメンバーの白い目線が痛いが、気にしていないふりをして波を切ってつき進んだ。今は誰とも喋りたくない気分だったのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督18 A night raid

狩猟クエスト
「双子の駆逐水鬼」

メインターゲット 報奨金     38400z
駆逐水鬼二頭の狩猟 

サブターゲット 報奨金      4800z
両方の帽子破壊

目的地:コロネハイカラ島沖
制限時間:50分
契約金:3900z


 特別夜間挺身隊。大層な名前を付けられているもんだと江風は笑った。

 

 

 なるほど、確かに自分たちがやろうとしているのは「挺身」であろう。未曾有の強敵に、たった六人の選りすぐりの精鋭で挑むのだ。これほどふさわしいネーミングもあるまい。

 

 旗艦は「矢矧」。

 彼の大戦艦「大和」「武蔵」の直衛を務める最新鋭軽巡で、その右腕として最前線で強敵たちと渡り合ってきた猛者。エリート街道まっしぐらの彼女の武勇は江風もよく耳にしている。それが大戦艦様の護衛を外れてこんな辺境までやって来たのだから、軍上層部は今回の事態を余程のことと捉えているのだ。

 

 続いて二番艦には雷巡「木曾」。

 最強と名高い一航戦と同じ鎮守府に所属するベテラン艦娘で、自身も比類なき雷撃火力をもって敵を粉砕してきた。北方海域出身とのことで、そちらでの戦果も有名。彼女の所属する鎮守府自体、精鋭中の精鋭である艦娘しかたどり着けない場所であり、肩書がその実力の高さを雄弁に物語っている。

 

 三番艦と四番艦には「時雨」と「江風」。

 今でこそ所属が違うものの、かつては同じ部隊に所属した姉妹艦同士。勝手知ったる仲で、この作戦において再会出来たことを純粋に喜び合った。もっとも、時雨にはもう一人会わせたい人がいたのだが、それは時雨が断ってしまった。

 

 最後尾の五番艦と六番艦は「舞風」と「野分」だ。

 混成部隊が中心の今作戦の中で、ほぼ唯一と言っていい部隊ごと参加した艦娘である。木曾と同じ鎮守府に所属し、その実力の高さは折り紙つき。加えて、今回の敵にとても強い因縁を持っている。

 何せ、敵と目される「双子の駆逐水鬼」は元は駆逐艦「萩風」と「嵐」と言われているのだ。彼女たちは五年前のある夜、海戦で轟沈した。その時同僚だったのが舞風と野分なのである。

 事実は小説より奇なりとは言うが、何ともまあ運命的ではないかと思う。かつての海戦で生き残った者と沈んでしまった者、それが時を超えて立場を違え、敵同士として再会することになる。何とも言い難いドラマがそこにはあった。

 

 そして、そうした因縁を自分たちがまた目にすることになるであろうということにも、奇妙な巡り合わせを感じずにはいられない。かつて江風と時雨は、軽巡川内率いる夜戦部隊に所属していたのだ。もちろん、第四駆逐隊が危機に陥ったその現場に駆け付けたし、「嵐」の最期を“看取った”時に起こったことも鮮明に記憶に残っている。あの、誘い出すような駆逐水鬼の写真を見て、江風は時雨と共にこの作戦に参加すると名乗りを上げた。

 するとどうだろう。あの、川内さえも参加しているではないか。夜戦が出来なくなったはずの彼女も、きっと自分とそう違わない考えで手を挙げたのだろう。むしろ、あの時のことが切欠で夜の海に出れなくなってしまったのだから、川内の方がよりたくさんのものを抱えてやって来ているに違いない。

 この奇妙な偶然――「萩風」と「嵐」に因縁のある艦娘たちが集まったという状況に、江風は何か作為的な気配を感じていた。まるで、どこかに脚本家が居て、そいつが登場人物を物語の都合のいい様に選出したような、そんな気がしてならない。

 

 

 

 

 

 単縦陣で夕闇の海をつき進む中、江風はちらりと背後を窺う。

 もう既に日は沈み、星と月の明かりだけに照らされるので、江風は頭に装着した暗視装置を目元まで下す。

 モノトーンの視界の中では、二人の顔はまぶしくてちっとも見えない。画面はコントラストだけで描かれるので、赤外線を発するすべてが白っぽく見えるのだ。

 けれど、今もむっつりと黙ったままでいるのだろう。暗視装置を通して、ちらちらと揺れる二人の赤外線チップが目に映る。もちろん、無機質なチップは表情を教えてはくれない。

 母艦の「硫黄島」の中で初めて見た時、二人を見て江風は「暗い奴らだなあ」なんて感想を抱いた。何せ、舞風と野分はいつ見ても二人一緒で他人を寄せ付けない雰囲気をこれでもかと放出していたし、誰に話し掛けられても表情を変えず、事務的に短く応答するだけなのだ。排他的で根暗な性格をしていると思っても仕方がない。実は舞風は明るい人柄で、野分はとても真面目で丁寧な艦娘だと木曾から聞いたが、果たして本当だろうかと疑ってしまう。

 そんな二人を木曾はやたらと気に掛けていた。何かあればすぐに声を掛けていたし、いろいろと気に揉んでいる様子だった。聞けば、二人が駆逐水鬼に引き摺り込まれないか心配なのだという。

 それは流石に気にし過ぎだ、とは言わなかった。まさか、二人がそんなつもりで作戦に参加したわけではないだろうと思う。が、木曾の本気の心配顔を見ているとあながちそうとも言い切れないんじゃないかと、江風も心配になってきたのだ。だから、四番艦という位置を貰ったのである。ここならすぐに二人に手を出せるからだ。

 

 

「昼間は」

 

 不意に木曾の声が鼓膜を振るわせる。静かだった無線の中で、彼女は唐突に喋り始めた。

 

「川内の奴が駆逐水鬼に降伏勧告を出したらしい」

「聞いたわ」

 

 返答したのは、驚いたことに矢矧であった。頭の堅そうなエリートだから私語を注意するかと思ったのだが、江風の予想に反して彼女は木曾の雑談に答えた。

 

「馬鹿げたことだと思うか?」

 

 木曾は答えた矢矧に問い掛ける。

 

「さあ? 結局逃げられたみたいだし、徒労ではあったかもね」

「違うよ」

 

 三人目が無線に割り入る。あまり聞き慣れない声。確かこれは舞風のはずだ。

 

「川内さんの言葉は『はぎっち』と『あらっち』にちゃんと通じたんだよ。うん、通じたんだ」

 

 通じたよ、ほんとに。

 

 続け様に呟いた舞風に、しばらく沈黙が隊を覆う。

 

 

 全員息を潜めるようにこっそりと動いていた。

 もう夜だ。どこから敵が襲ってきてもおかしくない。

 呼吸を殺し、気配を消し、波の音に紛れるように忍べ。夜闇を見据え、静寂の中に殺気がないかを警戒しろ。

 すべて、川内の教えである。江風は今も、それを忠実に守っていた。

 

 かつての彼女は、その恐るべき戦闘能力の高さと活躍ぶりから敬意と畏怖を持って「夜戦の鬼」と呼ばれていた。数いる軽巡や駆逐艦は皆夜戦の能力が高く、中には平然と戦艦や空母を沈めてしまう猛者も居る中で、川内の実力とそれに伴う戦果というのは一際目立っていた。

 それ故か、彼女を中心に作られた部隊は夜間戦闘専門で、昼間に戦艦や空母が撃ち漏らした敵を追撃し、夜戦で沈めるのが主な任務であった。「残飯処理」とさえ嘲られるような仕事ではあったが、危険度で言えば昼戦の比ではない。何せ、直接的に敵の状態を探ることは叶わず、電探や昼に戦った艦娘からの断片的な情報のみで敵の様子を想像し、それに備え、懐に飛び込むのだ。昼間にしこたま撃たれてボロボロになっていたはずの敵艦隊が、予想以上に早い戦力補充を受けて待ち構えていたことも一度や二度ではない。

 何度も返り討ちに遭い、轟沈の危機に瀕しながらも敵に勝利し、ただ一度も僚艦を失うことなく連れ帰った川内の凄まじさ。それは間近で見ていた江風たち以外には理解されないことだろう。

 恐るべきはその目の良さで、艦娘の研究者によれば原因不明であるが、彼女の目にはスターライトスコープと同じような機能が備わっているらしく、月明かりがなくとも星の光だけで夜目が効くようだという。それ故、彼女は江風の知る限り、今自分が装着しているような赤外線暗視装置を必要としたことがなかった。川内は、夜間における戦闘経験の総てを、自らの網膜のみで捉え、数多の戦果を残してきたのである。

 正真正銘、化け物じみた能力だ。

 

 だが、川内の本当の凄さというのは、そこではないと思っている。

 自分も所属し、川内に率いられた夜間戦闘専門部隊。それには「残飯処理」部隊としての他に、もう一つ別の側面があった。

 

 それが、督戦任務。

 敵前逃亡や脱走をする不届きな兵を追撃し、軍の手の届かないところに逃げられる前に捕縛ないし撃沈する仕事だ。特に艦娘の脱走というのは深刻な事態で、高度な機密情報の塊でなおかつ実艦と同じ威力の兵器を人間大の存在が扱える艦娘というのは、これが例えば脱走を許して訳の分からないテロリストや過激派と合流してしまった場合、甚大な脅威になる。何せ艦娘というのは、見てくれだけで言えば人間の少女と変わりない。それがテロリストの指示に従ってどこかの都会の真ん中で暴れ始めたとしよう。街中に突然軍艦が現れて四方八方に乱射し出したのと同じ暴力が民間人を襲うことになる。一発一発の威力が銃弾や爆弾と比べて桁違いに大きいので、目も当てられないことになる。

 また、艦娘自体が機密だらけの存在で、その情報を明かせば人類のテクノロジーが五十年分は進むとさえ言われているくらいだから、漏えいすればどこでどのように悪用されるか分かったものではない。

 故に、艦娘の逃亡や脱走というのは必ず防がれなければならない事態で、そうならないように艦娘の教育をしたり細かく点呼を行うなど対策は採られている。しかし、それでもごく少数、怖じ気づいて逃げ出す者がいるのだ。

 ほぼすべての逃亡者は追われやすい陸地ではなく、海上で、それも夜間に逃げ出す。そうした艦娘を追い掛け、捕縛し、時には撃沈するのが江風たちの仕事であった。

 敵を撃つのとは訳が違う。相手は同じ艦娘なのだ。

 捕縛出来るなら捕縛すればいいが、撃沈しなければならなくなった時など、気の重さは尋常ではない。任務を成功させれば尚のこと、後味の悪さはずっと後まで尾を引く。

 必然、江風を始めとした当時の僚艦全員が嫌がる仕事だった。逃亡者とはいえ「仲間殺し」を強要されるのだから。

 それで精神を崩すような者は居なかったが、当然誰もやりたいとは思わなかった。それは、川内も一緒だろう。

 けれど、江風が川内を尊敬するのは、そのような任務であっても嫌な顔をせず、忠実に取り組み、確実に成功させることだった。時には現場で逃亡者を捕縛するか撃沈するか判断しなければならなかったが、川内は冷徹に判断を下し、絶対に失敗をしなかった。

 並みの精神力で出来ることではない。血も涙もない、というのは少し違う。

 心を痛めずに出来る仕事ではなかった。苦しまずに完遂することなど不可能だった。

 川内とて葛藤しないはずがない。しかし彼女はそれをおくびにも出さず、ほんの少しの甘さや妥協も見せはしなかった。

 

 だから、「夜戦の鬼」なのだ。

 だから、江風は今も川内を慕うのだ。

 

 彼女ほどの艦娘はいない。今後も現れることもない。

 

 

――その彼女が、倒すべき深海棲艦に降伏勧告を行った。

 

 

「あり得ねえだろ、そンなこと」

 

 

 あの川内が、夜戦にトラウマを植え付けられて引退してしまったとしても、あれだけ苛烈で冷徹だった彼女が降伏勧告などという甘ったれたことをするはずがない。元がどんな艦娘であったとしても、敵ならば絶対に撃つはずだ。

 

「あの川内さんが、ンな甘ちゃんなことするわけがねえよ」

 

 だが、どんなに言葉で否定しようと、川内が降伏勧告を行ったのは事実だ。木曾だけではなく、ここに居る艦娘全員がすでに知っている話で、それどころか出撃前は「硫黄島」全体がその話題で持ちきりだった。作戦になかった降伏勧告を強行するという川内の独断専行も、それをあっさり認めた指揮官も、怒り心頭で艦橋に怒鳴り込んだ妙高や他の昼戦のメンバーのことも。

 妙高たちが帰還した時にはすでに江風の艦隊は出撃していたのだが、途中でオペレーターが「硫黄島」内での騒ぎのことをぽろりと漏らしたのである。

 それを聞いた艦隊のメンバーの反応はそれぞれだったが、中でも舞風は特に感情を昂ぶらせているようだった。頭ごなしに否定する江風に、彼女はむきになって怒鳴り返す。

 

「……川内さんだからだよ! 『はぎっち』と『あらっち』の心に呼び掛けて、艦娘に戻るように説得しようとしたんだよ」

「ハッ! それこそ臍で茶が沸く妄言だな。ンなわけねーだろ! あいつらは立派な深海棲艦なンだ。例え天地がひっくり返っても、通じ合うなンざ起こらねえよ」

「あんたに何が分かるのさ!」

「そっちこそ! 川内さんの意図が分かってねえだろ! 撹乱だよ。言葉で揺さぶりを掛けて戦意を削ろうってわけさ!」

「はい、そこまで」

 

 怒鳴り合う舞風と江風の間に、露骨な苛立ちを含んだ矢矧の冷たい声が差し込まれる。「戦闘前に言い合うのはやめて」

 

「わりぃ」

「すみません……」

 

 有無を言わせぬ矢矧に、江風と舞風は素直に矛を収めた。旗艦の言うとおり、今は戦闘前であり、仲間割れに近い口論を繰り広げている場合ではない。

 

「正直、私も川内さんの意図は撹乱だと思うわ。でなきゃ、あの提督の指示でしょうね」

「……ッ」

 

 矢矧にも諭されて、舞風はいよいよ言葉を飲み込んだ。口元まで出掛けていたそれを、無理やり飲み下したような、その時にわずかに響いた彼女の息遣いは無線越しに微かに江風の耳まで届いた。

 

「そんなことより、作戦に集中しましょう。もうすぐバニラ湾に進入するわ」

 

 矢矧の合図で部隊の空気が切り替わる。各艦戦闘態勢へ。

 この辺りの切り替えの早さというのは、さすがベテランだ。現状に対して一番物が言いたそうな舞風だって、もう沈黙して主砲を構えている。

 気が合う相手だとは思わないが、肩を並べて戦うには十分信頼出来るだろう。

 

 

 眼前にはバニラ湾への南側の入り口となる、コロネハイカラ島とニュージア島から飛び出した半島にはさまれた狭い水道が黒々と横たわっている。左右の陸地は敵の勢力下にあり、いつ挟撃を受けてもおかしくない。

 本当なら、この辺りの陸地を確保した上で水道から湾内へ突入するべきなのだろうが、そのような時間的・戦力的余裕もない以上、危険を冒して強行突破しなければならない。昼間の陽動が、紆余曲折があったとはいえ一応の成功を収めているわけだが、しかし安心出来る状況ではなかった。

 

 極力見つからないように、隠密性を最大限に発揮して、艦隊は滑るように水道に入った。

 空気がピリピリと張り詰める。ほんの少し余計な物音を立てただけで前後の味方から砲口を向けられそうな緊張感が身を包んだ。常人ならとうに参ってしまうくらいの雰囲気の中で、しかし江風はそれを心地良いとすら感じていた。ああ、またこの懐かしい戦場に帰って来たんだという、懐古の気持ちすら湧き上がってくる。

 かつて所属していた夜間戦闘専門部隊の中で、現在本土の拠点に所属していないのは江風だけである。当時の上官や同僚たちが皆本土へ転属した中、江風だけが南方の拠点に配属されたままだった。それが、江風のお世辞にも上官受けの良いとは言えない態度のせいだと姉妹艦たちは口を揃えるが、実際には違う。

 もちろん、江風にも本土転属への話は来た。しかし、それを蹴ってまで南方に居残り続けたのだ。

 ただ偏に、この戦場の空気をもう一度吸うため。

 場所を選ばず、時を選ばず、敵味方入り乱れる海で戦うため。

 最前線こそが己の生きる場所であり、そして死に場所であると定めて。

 故に、江風はこの状況を満喫(そう、まさに満喫だ)していた。血は騒ぎ、心は躍り、頭は冴え渡っている。頼もしい仲間と、倒すべき強敵。そして南方戦線の命運は自分たちの双肩に掛かっているという状況は、江風をどこまでも“滾らせた”。

 ただ一つ不満を打ち明けるとするなら、この部隊に敬愛する川内がいないことだけだった。

 

 

****

 

 

 江風の予想に反し、意外にも進軍はスムーズにいった。

 駆逐水鬼が手ぐすねを引いて待ち構えているかと思えば、会敵は一度だけで、それもたまたまバニラ湾を横断していた敵の輸送部隊であった。恐らくはニュージア島からコロネハイカラ島の深海陸上部隊への支援物資を輸送していたと思われるが、何しろ輸送部隊であり完全武装の江風たちの敵ではない。まるで道に生えている雑草を踏み潰すように圧倒して全滅させると、夜の海はまた元の静けさを取り戻した。

 目標の駆逐水鬼が撤退していて、敵部隊がこれで終わりなら拍子抜けもいいところである。

 完全状態の駆逐水鬼を相手にするのは、ベテランぞろいのこの部隊と言えど流石に分は悪いだろうということで――実際江風も同感である――昼間に戦力を削る作戦になったのだが、ひょっとしたらそれが裏目に出てしまったのかもしれない。そんな不安が部隊を覆い始めていた。

 考え得る限り、実はそれが最悪の可能性なのかもしれない。意気揚々と夜間突撃したはいいものの肝心の駆逐水鬼はどこかへ逃げてしまって、「夜のピクニックで終わりました」はさすがに格好悪過ぎる。

 現在地はコロネハイカラ島の北東。島から見て北を十二時とするならおおよそ一時の位置にあたる。既にバニラ湾はほとんど抜けてしまって、会敵予想ポイントも通過済み。ひょっとしたら、本当に敵はいないのかもしれない。島をもう少し北側へ回り込めば、そこは今日の昼間に駆逐水鬼との戦闘があった場所になる。

 

「そこまで行って判断しましょう」

 

 と矢矧は言った。

 若干厭戦気分が広がってきてしまっていて、皆渋々という感じで頷いた。このまま敵が見つからなければ戦果ほぼなしで帰投することになるだろう。

 肩すかしはいつしか苛立ちに変わっていた。

 皆、ここに戦いに来たのだ。それが出来ず、倒すべき敵を見失ってすごすごと戻るなど、プライドが許さない。それで、誰もがむっつりと黙りこんでしまっている。

 されど海は静かであり、深海棲艦が現れる前兆の、あの不吉な予感のようなものもしない。これから何か出て来るんじゃないかと危機感より、早く出て来てくれという懇願にも似た欲求が頭を占める。

 油断も慢心もなく、最大限の警戒と張り詰める空気。眼光は鋭く夜の波間に敵を探し、耳はさざ波の間に深海からの声を待っている。

 今なら、例え潜水艦が相手でも奇襲は受けないという自信があった。

 

「もうすぐ、昼間の海戦ポイントよ」

 

 矢矧の声だけが無線を寂しく喋らせる。答える者はおらず、江風は無言で顎を沈めた。

 沈黙を了解の意と捉えたのだろう。矢矧の方もそれ以上何も言わなかった。

 昼間の海戦ポイントは島の真北。十二時の方向にあたる。

 その時、随伴を全滅させられた双子の駆逐水鬼は川内の降伏勧告に砲撃で応じ、その後海中へ姿を消したのだという。この時点で、駆逐水鬼の被害は共に小破だったから、敵はさほど弱っていない状態だということだ。随伴を排除出来ただけでも上出来となのだから贅沢は言わない。

 

「そう言えばさ」

 

 重苦しい沈黙を破り、江風はしばらくぶりに口を開いた。話し掛けた相手は、木曾だ。

 

「木曾さんは以前、海中から“フラヲ改”の奇襲を受けたことがあンだよね」

「んあ? 俺か? まあ、そうだが」

 

 急に話し掛けられて、木曾の反応は少し遅れた。江風の意図が分からず戸惑っているように揺れる声で彼女は答える。

 

「うん。そン時さ、どういう感じだったの?」

「どういう感じって言ってもな……。それこそ、本当に奇襲だったぜ。突然海の中から敵の艦載機が飛び出して来たんだ。被弾しなかったのは、単に運良く狙われなかったからだ」

「突然、ねぇ」

「直前に提督が警告してくれてたからな。赤城さんがギリギリで攻撃を躱せられたから俺たちの首は皮一枚で繋がったんだよ。あの時、赤城さんも被弾して艦載機飛ばせなくなってたら、今ここに俺は居なかっただろう」

 

 木曾はそう言って、小さな失敗談を語るように微かな自嘲を込めて鼻を鳴らした。下手をしたら沈んでいたかもしれない状況をそんな風に笑って言える辺り、木曾も相当な数の修羅場を抜けてきているのであろう。ただ、江風が気になったのは彼女の言い方ではなかった。

 

「あの、外人提督でしょ? どうやって分かったのさ」

「……そういやそうだな。提督は何であの奇襲を見抜けたんだろうな」

 

 木曾が呑気にそう呟いた時、唐突にもう一つ別の声が割り込んできた。

 

「未来予知よ。未来予知」

 

 楽しげな少女の声。江風の背中は無意識に跳ねた。

 何のことはない。この作戦の直接の指揮を執っている件の提督である。微かに笑いを含んだ、冗談めかした口調で彼女は木曾の疑問に答えた。

 

「おお。寝てなかったのかよ。それとも今起きたか?」

 

 あっけらかんと木曾は提督をからかう。どうやら、彼女はこれくらいのことを言っても許されるくらい提督とは打ち解けているらしい。返って来た言葉も冗談の応酬だった。

 

「朝からずっと起きてるから眠くて仕方がないわ。早く片付けて帰って来てちょうだい」

「そいつはいいな。だが、どうやら敵さんは見当たらないようだ。もう寝ちまってもいいかもな」

 

 木曾は笑う。レミリア・スカーレットという外人提督もつられて笑った。

 

「あらあら。貴女は少し早とちりが多いわね。敵ならもう居るわよ」

 

 提督は笑ったまま言い、空気が凍りつく。

 

 瞬間、江風は隊列が乱れるのも構わず大きく転舵する。同時に、駆逐艦や軽巡に標準装備されている小型爆雷を艤装から全弾投下した。

 

「やっぱりか!」

「貴女の読みは正しいわ、江風。双子の駆逐水鬼は海中に潜んでいる。貴女たちの丁度真下よ!」

 

 江風のすぐ後をついて来ていた五番艦の舞風が驚いて、その小さな体躯を跳ねさせていた。「読み」じゃないんだけど! と頭の中だけで反駁しながら、遠心力に逆らって歯を食いしばる。

 本来夜戦においては隊列維持の大原則があるのだが、江風はあえてそれを破った。理由の一つは、暗視装置と敵味方判別用の赤外線チップによって同士討ちが避けられること。他の一つは、不規則な動きをしなければ海中からの奇襲を受けるかもしれないからだった。

 

「全艦!! 爆雷攻撃! 今よ!」

 

 矢矧が怒鳴る。隊列はいよいよばらばらになり、各々勝手に爆雷をぼとぼとと海面に落としていく。

 辺りが静まりかえる。喧騒と喧騒の間に差し込まれた、無音で緊張が高まっていくほんの数秒の時間。その場で誰もが武器を構え、唾を飲み込み、次に来る敵の姿を探す。

 

一秒。

 

二秒。

 

江風は心の中でカウントする。

 

三秒。海中でくぐもった爆音が響き、水面が大きく盛り上がった。

 

「上がって来るよ!」

 

 時雨も叫び、その声は無線越しではなく直接江風の耳に届いた。しかし、ワンテンポ遅れて無線が時雨の叫び声を伝える前に、爆雷攻撃とは違う派手な水柱が立ち上がる。

 海は赤外線を放たず、暗視装置の視界の中では黒々としている。それは、今暗視装置を外して裸眼で見ても同じだろう。

 ただ、黒い水柱のシルエットの中に、確かに熱量を放ち白く映る姿があった。

 

「撃てッ!!」

 

 矢矧の号令と共に主砲を構えていた全艦が一斉に発射する。

 ほぼ水平に放たれた鉄の弾は、数発が海上に姿を現した駆逐水鬼の身体に命中し、残りは白線を曳いて夜闇の向こうへと消えていった。

 絶叫。人間のものでも、艦娘のものでもない、ただおぞましい声。

 濃淡の視界の中でも、相手の姿形ははっきりと見て取れた。人のような影。腰部から左右に延びる艤装の基部は灰色で、そこからさらに木枝のように生えた腕は白い。紛れもなく、写真に写っていた方の駆逐水鬼だ。

 艤装云々を除けば、暗視装置を通してでもはっきりそうと分かるくらいそっくりな人の形。なるほど、これなら四駆の二人が騒ぐのも頷ける。

 だが、敵は一隻ではないはずだ。

 

「提督! もう一体はどこだ!?」

「矢矧の後ろよ!! 舞風! 野分! 援護しなさい!」

「りょ、了解!」

 

 状況はめまぐるしい。江風は先に現れた駆逐水鬼の背後に回り込みながら、矢矧の後方を見る。旗艦の敵味方識別用の赤外線チップには黒抜きで「F」と書いてあるから分かりやすい。

 その矢矧といえば反転して、レミリアの警告通りにもう一体が出現するのに備えていた。同時に、四駆の二人が前へ飛び出し、

 

「来た!」

 

 矢矧の叫びと重なるようにもう一つの水柱が立つ。雄叫びが轟き、水柱の中から敵は砲撃を開始した。パッと明るい炎が水柱の向こうで輝く。

 

「回避! 回避!」

 

 艦隊はさらに散り散りになる。狙いも何もつけられずに放たれた敵弾が空しく暗い海に着弾するが、先に現れた方もただ黙って見ているわけではなかった。

 後に出現した駆逐水鬼の攻撃を避けた矢矧に向けて、先の駆逐水鬼が主砲を発射する。

 

「矢矧さん! 避けろ!!」

 

 江風の警告は、しかし間に合わなかった。一瞬の隙を突かれて矢矧の周囲に水柱と爆炎が立つ。水柱は至近弾が作ったものだが、爆炎は直撃弾が生じた証拠だ。案の定、視界が晴れると矢矧の姿はそこになく、恐らく被弾の衝撃で夜闇のどこかに弾き飛ばされてしまったのだろう。

 轟沈はしていないようだ。なら、まだ大丈夫なはず。

 

「時雨姉貴! 照明弾上げて!」

「もう撃った!」

 

 普段落ち着いた時雨の声もだいぶ緊迫している。彼女らしくない怒声。その言葉通り、間もなく上空からテルミットの閃光がゆっくりと降って来た。

 可視光によって視界が効くようになった。江風は暗視装置を上げ、裸眼で戦場を見る。

 

 はっきりと夜の海に浮かぶ双子の駆逐水鬼。

 

 髪が長い方が「萩風」で、短い方が「嵐」だそうだ。

 

 

「はぎっち!! あらっち!!」

「野分と舞風よ! 分かる!?」

 

 明瞭になったその姿は、まず何よりも四駆の二人に改めて衝撃を与えたのだろう。今が激戦の最中だというにもかかわらず、二人はありったけの声量で敵艦に呼び掛ける。

 

「……キ、……ゼ」

 

 一瞬、駆逐水鬼の動きが止まる。「嵐」の方が呆けたように呟いたのを江風は聞き逃さなかった。

 明確な隙を見せた敵。そこで立ち止る臆病者は居ない。真っ先に飛び込んだのは、腰に差した対艦軍刀を抜いた木曾だった。

 

「オイオイ! 覚えてんのかよッ!」

 

 軍刀が輝くテルミットの光を鋭く反射し、振り下ろされて残像を引く。直前に気付いた「嵐」は腰元の艤装から延びる巨大な両腕を交差させて木曾の一刀を受け止めた。

 派手に鳴り響く金属の音。

 

「木曾さん、やめて! その子はあらっちだよ!」

 

 舞風が悲鳴を上げる。

 

「お前ら、そんなこと言いに来たのかぁ!? 違うだろ! はしゃいでるクソガキしばいて連れ戻しに来たんだろうがッ!」

 木曾は鍔迫り合いの状態から飛び上がって「嵐」の足を蹴って距離を置き、着水して一旦離れようとする。すかさず、艤装の主砲を木曾に向ける「嵐」。その目はさらに憎しみを燃やし、顔は悪感情のあまりおどろおどろしく歪んでいた。

 腹に響く轟音。木曾のマントの端が砲撃で弾き飛ばされる。

 翻る黒い布。くるりと「嵐」に振り向いた木曾。

 

「甘いな」

 

 彼女の最大の武器が一斉に海へ飛び込んだ。放たれた魚雷は、わずか一秒も掛けることなく至近距離にいた「嵐」に命中する。

 

 今までで一番大きい水柱が立ち上がる。

 

 

「アラシッ!!」

 

 「萩風」が名前を呼んだ。そう、片割れの名前を。

 

 ひょっとしたら、と思わないでもない。先程からの様子を見るに、駆逐水鬼にはかなりの“記憶”が残っているようで、明らかに舞風や野分の声に反応しているし、極めつけは今の「嵐」の被弾に対する「萩風」のリアクションだ。

 理性はないにしろ、認識はある。

 だとするなら、彼女たちを連れ戻すということは万に一つの可能性として起こり得るかもしれない。そう、例えば撃沈するのではなく、鹵獲するなどして。

 

 

 

「ハッ! ンなわけねーだろが!」

 

 だが、江風はそれを一蹴する。

 今まで、追い詰められて命乞いする艦娘を沈めてきた。懇願する仲間を容赦なく撃ってきた。そんな自分が今更敵の救出をするなど、それこそ笑止千万だ。笑い話にもならない。

 

 これは敵だ。一度敵と見定めたなら、躊躇なく撃滅するのが駆逐艦江風だ。

 

「沈め!」

 

 姿勢を低く、海面を這うように突撃する。

 狙いは動揺して隙を見せまくっている「萩風」。背後から急襲して、致命傷を与えるのだ。

 しかし、そこは腐っても強敵駆逐水鬼だった。

 ギリギリで江風の接近に気付いた「萩風」が、あらんかぎりの力を込めて艤装の腕を振る。ただただひたすらに暴力的な裏拳の一撃。目の前に振るわれた腕へ飛び込む形となった江風は、その暴力をまともに受けてしまう。

 艦娘の防御機構として展開される装甲シールドがバチリと火花を上げる。シールドは被弾個所への圧力を軽減してくれるが、伝播する衝撃そのものがなくなるわけではない。特に、深海棲艦の剛腕をまともに食らったような場合、即死しない程度の、しかし強烈な衝撃を食らうことになってしまう。

 

「グッ」

 

 肺が押し潰されて、呻き声と共に空気がすべて吐き出された。江風の軽い身体は真逆のベクトルへ放り出され、放物線を描いて勢いよく海面に叩きつけられる。

 視界が黒く染まる。全身が海中に沈む。

 水の中で江風は左手にわずかな痺れを確認し、次に水を通してくぐもって聞こえる爆発音を認識した。確かな手応えを感じながら、直ぐに作動する浮上装置に身を任せると江風の体は波を割って飛び出す。実に便利なもので、浮上装置は艦娘が海中に沈んだことを感知すると自動的に浮力を確保して勝手に水面まで体を押し上げてくれるのだ。

 再び夜空の下に戻った江風の目の前では「萩風」が派手に火を噴いていた。彼女の腕の一撃を食らう直前、発射管から抜いた魚雷の一本を艤装と身体の間に差し込んだのである。

 

「江風!」

「小破だ! 心配すンな、時雨姉貴!」

 

 衝撃は身体から抜けきらず、芯から響くような鈍い痛みが全身を支配する。立ち上がる時に足が震えたが、江風は歯を食いしばって堪えた。

 艤装の破損もなければ、骨折も脱臼もしていない。ならば、痛み程度で江風は止まらない。止まるはずがない。

 

 

「ったく。あったま来たわ!!」

 

 そこでようやく復活したのか、先程被弾した旗艦の怒りがたっぷり込められた呟きがヘッドセットのイヤフォンから流れて来た。どうやら恨み言を喋れるくらいには元気らしい。

 

「木曾と第四駆逐隊は短髪の方を。私と時雨と江風で長髪の方を相手にするわ!」

 

 テルミットが燃え尽きて、煤が海に落ちる。昼間のように明るく照らし出されていた海上は再び星と月と爆炎の光しかない暗闇へと戻った。その闇に紛れて、どこからか矢矧が砲撃し、「萩風」の周囲にどかどかと水柱を立てていた。

 直撃弾はなし。だが、夜戦に関しては他者に対して一日の長があると自負する江風から見てもなかなかの射撃精度で、恐らく中破しているだろうにもかかわらずこれだけの至近弾が出せるなら、矢矧は相当夜戦慣れした艦娘と言える。

 江風は外していた暗視装置を再び装着する。先程の被弾の衝撃で壊れなかったのは幸いだ。無論、海で使う物だから完全防水性である。

 

「ドコカラ……ドコカラウッテルノヨッ!?」

 

 駆逐水鬼はいよいよ苛立ちをぶちまけるように怒鳴り散らし、主砲を乱射する。その仕草はまさに艦娘のようで、ますます“撃ち辛く”なった。

 矢矧の狙いは双子の分断だ。六対二で相手の連携攻撃を許すより、三対一で各個撃破を狙った方がいいと判断したのだろう。妥当なところである。問題は、戦力の分配なのだが。

 

「沈めるつもりで行け。でないとこっちが食われるぞ!」

 

 「嵐」と相対する木曾が四駆に怒鳴っている。あの二人が今のところ使い物になるとは言い難いが、「嵐」の方の気を引き付けてくれるだけでいいのだ。戦力的には江風たちの比重が大きくなっている。だから、先に「萩風」を無力化してしまえばいい。

 

「敵の装甲システム、艤装を破壊して! 今ならさっきの江風の攻撃が効いてるからチャンスよ」

 

 無線で矢矧が手早く指示をする。本人はやはり夜闇に隠れたままだが、状況をきちんと把握してこちらを動かせるなら問題はない。矢矧の実力を見定め、江風の体は自然と反応するように飛び出した。

 顎先が波で洗われるくらいの前傾姿勢で急加速する。主機の回転は限界値を振り切っていた。絞り出すような雄叫びを上げながらスクリューが回り、闇色の水面が絹を裂くように割れる。

 

「挟み込むぜ、時雨姉貴!」

「うん!」

 

 江風と時雨は左右に分かれ、「萩風」に挟撃を仕掛ける。ただし、二対一ではなく三対一。駆逐艦に気を取られる「萩風」の晒す隙をついて矢矧が砲撃する。

 狙いは腰元の艤装。そこを破壊さえすれば、とにかく駆逐水鬼の動きは止まるはずだ。普通なら深海棲艦は艤装を潰されると浮力を失って沈む。いわば撃沈だが、この例外中の例外のような存在である駆逐水鬼に同じことが言えるかは未知数だ。

 ただ、戦闘中に難しいことを考えるのは江風の得意なことではなかった。艤装を破壊して、それでどうなるかなんて悠長に予想している暇はない。「萩風」が沈んでしまったら、それは四駆には悪いが仕方ないと諦めてもらうしかない。

 主砲の12cmB型砲塔を二刀流のように構え、連撃を叩き込む。至近距離からの間髪入れぬ砲撃。綺麗に全弾命中し、派手な爆音と共に「萩風」の艤装が盛大に飛び散った。

 

「……ッ!!」

 

 最早その口から飛び出すのは言葉ではなく獣のような雄叫びで、溢れかえる憎悪に「萩風」は身を焦がしているようだった。だが、追い込んでいるのは何も江風だけではない。「萩風」が江風に気を取られている隙に、背後で時雨が魚雷を数発まとめて放った。

 それに気付かぬ「萩風」に避ける暇などあるはずもなく、今度は後ろからの衝撃にその青白い体躯が吹き飛ばされて海面を飛び石のように跳ねた。

 ガコンと両方の主砲がほぼ同時に小さく振動し、艤装内の揚弾装置が砲弾を再装填したことを教えてくれる。体を内側に投げ倒しながら江風は萩風の周囲を円弧を描いて疾風のように海面を駆け抜けた。

 

「今よ! 畳み掛けて!!」

 

 矢矧の命令が飛ぶ。それを聞く前に、江風は海に倒れ込んだ「萩風」を追撃せんと接近し、自分の身に迫った危機が頭に中で映し出されるのを認識する。

 だが、分かったところで既に加速のついていた江風にはどうしようもなかった。

 

「クッ!!」

 

 防御姿勢を取る間もなく、突然襲ってきた足元からの衝撃を殺すことも出来ず、まともに食らってしまう。

 

 

 足が砕けるかと思った。気が付けば江風の身体は高々と放り上げられていて、夜空へと吸い込まれるように飛んでいたのだ。

 衝撃で砕けて顔から吹き飛ぶ暗視装置。代わって、目に映るのは雲一つない快晴の夜。

 闇色の天幕には砂金のように輝く星星が散りばめられ、その中で紅く燃える半月が異様な存在感を主張している。そのどこまでも深い紅色はまるで、この戦闘の中で誰かに代わって月が血を流しているかのようだった。

 

 ふわりと、江風は空中で一旦制止し、それから急速に重力に引っ張られて海面へと落下を始める。

 

 

 夜空が遠のいていく。

 

 

 

 

 

「江風!!」

 

 

 誰かの悲鳴と共に、江風は海面に叩きつけられた。

 目の前で火花が飛び、意識が明滅する。視界が黒く染まったのは、夜の海に浸かったせいだけではないだろう。

 全身を巨大なハンマーで叩かれたかのような衝撃が突き抜け、呼吸することもままならず江風は最早為すがままになる。

 しかし、それで沈まないのが艦娘であり、江風本人より余程頑丈と思われる艤装の浮上装置が再度作動し、打ち上げられるように頭が海面から飛び出した。そこでようやく、江風は自分の身に何が起こったのかを理解することが出来た。

 

 目の前に、先程まで木曾たちと戦っていたはずの「嵐」が立っていたのだ。江風は彼女が海中から飛び出て来た時の突き上げを食らって宙に放り投げられたのだろう。

 その艤装の腕が江風に向けられている。駆逐水鬼は、艤装の右腕に主砲が据え付けられていて、一方左腕は指先が魚雷になっていた。生体と機械が融合している典型的な深海棲艦の艤装であり、無論それは“見た目通り”の破壊力を有している。

 すなわち、今貫手のように構えられている左腕は、いわば五発の魚雷を装備した発射管と同義。そして、江風と指先の距離は腕一本分も離れてはいない。

 まずいと思った。江風は落下のダメージから復帰出来ておらず、艤装の装甲も既に中破状態を上回ってだいぶ弱っているだろう。まともに貫手を食らえば、どうなるかは想像する必要すらなかった。

 今更油断したのを悔やんでも仕方がない。木曾と四駆の二人がどうなったかは知らないが、この双子の駆逐水鬼は互いを助け合うように行動しているようで、恐らく「萩風」の危機に「嵐」は駆け付けたのだろう。その奇襲を、そんなことを全く想定していなかった江風はまともに受けてしまった。

 よく考えれば分かったことだ。矢矧の分断作戦に対し、知能が高くおまけに潜航も出来る駆逐水鬼たちがどういう対処をするのか。江風が敵の立場だったとしても同じ方法を考え付いただろう。一旦海に潜って姿をくらまし、仲間を助けに行くなんていう単純な方法は……。

 つまり、もう少し慎重にしていれば回避出来た事態だった。が、すべては遅きに失している。

 

「避けて! 江風ッ!!」

 

 時雨の叫びを耳にする。

 悲痛極まりない、姉の叫び声。その言葉通りに従うのはどうやっても無理だというのは直感的に理解したし、だから呼応するように江風は声なき言葉を呟いた。

 

 

 

「ごめん、時雨姉貴……」

 

 誰にも伝わらない遺言は闇に紛れてしまった。

 

 

 

 振りかぶる「嵐」。

 

 轟く爆音。

 

 開かれるまなこ。

 

 

 

 

 ――目の前で、駆逐水鬼の身体が真横に薙ぎ倒されたのを江風ははっきりと見た。

 

 誰かの砲撃が直撃したのだ。

 

 

 矢矧か。時雨か。

 しかし、次に無線から聞こえて来たその声に、江風は心底驚嘆することになる。

 

 

 

 

 

「いい夜だね。みんな、夜戦楽しんでる?」

 

 

 

 

 

 嘘だと断じた。

 あり得ないと思った。

 そこに現れたのは、居るはずのない、来るはずのない艦娘。

 夜闇に紛れ、近くを誰かが通過する。その波が、茫然と浮かぶだけの江風を揺らした。

 腹に響く砲音が連続する。ちかちかと発射炎が闇を瞬間的に照らすが、そこに砲撃の主の姿は映らない。

 誰が撃っているのかは分からない。

 けれど、江風は夜中にこんな風に戦える艦娘を一人だけ知っていた。普通なら発射炎から位置が特定されてしまうが、彼女の場合移動速度が速過ぎて、光を捉えた時にはもうそこには居ない。だから、「忍者」とさえ称された。

 

 

「川内、さん……」

 

 

 彼女は誰よりも夜戦を得意としていたけれど、不幸にも夜戦にトラウマを植え付けられてしまった。そして、もう二度と夜の海には立てなくなっていたはずだ。

 克服したのか。いや、そうであるなら最初からこの部隊に参加していただろう。

 ならば……。

 

 

「いいねえ。やっぱり、夜戦はいいよ」

 

 

 彼女は楽しげに笑う。

 血で血を洗う鋼鉄の殴り合いの中で、彼女は一際愉快な色を声に乗せ、歌うように「夜戦」と呟く。

 その射撃は、まるで昼間に撃っているかのように正確無比だ。

 合流した駆逐水鬼は、どこからともなく、周囲を回りながら撃ってくる川内に、完全に翻弄されてしまっていた。実際、川内はこのわずかな月と星の光だけで駆逐水鬼の姿を捉えきれており、外れることのない砲弾を放ち、当たることのない軌跡を描いている。

 

 そう。そこに居たのは紛れもない「夜戦の鬼」。

 かつて、江風や時雨を始めとする精鋭駆逐艦を率いた督戦部隊の隊長の姿があった。

 

「い、今よ! 時雨、照明弾もう一発! 光ったら全艦飽和攻撃を仕掛けて!!」

 

 好機を見た矢矧が指示する。

 時雨の主砲から照明弾が発射され、打ち上げられたそれがマグネシウムを燃やしながらまばゆい光を放って落ちて来る。

 照らし出される夜戦。

 追い込まれた双子の駆逐水鬼。それを取り囲む艦娘たち。

 

「撃てぇーッ!!」

 

 重なる砲音。中口径・小口径主砲ばかりと言えど、数を揃えて撃てばかなりの破壊力を持つ。加えて、至近距離の、それも照明弾の明かりの下では外す方が難しいだろう。

 誰もがそう考えた。そう考えて、しっかりと狙って撃った。

 だが、放たれた砲弾はすべて外れ、空しく海面に水柱を作るだけ。

 発射炎が輝く中で、江風は駆逐水鬼「萩風」と「嵐」が共に水に潜っていくのをはっきりと捉えた。海面に倒れ込み、水しぶきを上げて水の中に消えてしまう。

 

「敵艦潜航! 備えて!!」

 

 矢矧の怒号。

 先程の江風への奇襲を想定しての命令であり、全員がその場に留まらず、武器を構えたまま不規則な動きをする。江風も少し身を捻るだけで激しく体を苛む激痛に歯を食いしばり、海面から立ち上がってふらふらと移動し始めた。が、テルミットに照らされる海面には特段の変化もなく、また何かの音も聞こえなかった。

 緊張が、少し緩められる。

 この場にソーナーを装備している艦娘がいないのが悔やまれた。一人でもいれば海中の様子を聞き分けられたのだが。

 だからしばらく無言で動き回り、ようやく全員が何の気配もなくなっていることに気付いたのである。そう、駆逐水鬼は戦線を離脱してしまっていた。

 

「まさか、逃げられた!?」

「今更かよ!」

 

 矢矧と木曾が吐き捨てた。

 先程までの激戦は収まり、何事もなかったかのような静かな海に戻っている。

 それまでバラけていた艦隊は集合し、各々が照明弾の下に姿を現す。

 主機までダメージが入り、全くスピードの出せない江風は時雨に肩を貸してもらい、半ば引き摺られるようにしてやっとまともに動けるようになっていた。

 被害が特に酷いのは江風であり、次いで先に中破した矢矧だ。旗艦の主砲は片方が潰されて一門だけになってしまっていたが、彼女はその状態で「萩風」に至近弾を与えていたのだ。

 

「はぎっち? あらっち?」

 

 舞風の呼び掛けが空しく響いた。もちろん、答える者はおらず、ただ波と艤装の唸る音だけが静けさを強調している。

 

「クソッ!! ここまで来て取り逃がすの!? 冗談じゃないわ。探して! まだ近くに居るはずよ!」

「どうやって探すんだよ!」

 

 焦って喚く矢矧に、木曾が突っかかった。

 言い分は木曾の方が正しく、夜間に潜航している艦娘や深海棲艦を探し出すことはほぼ不可能に近かった。夜戦における潜水艦が水上艦に対して無類の強さを誇るのは、ただその存在の察知が極めて困難であるためだ。

 だが、往生際が悪い性格なのか、単に負けず嫌いなのか、矢矧は尚も諦めようとはしない。痛みと悔しさにその貌は元の端正な顔立ちが分からないほど歪んでいる。まるで深海棲艦だ。

 

「まだよ! 提督! スカーレット少将!! 敵艦の位置は分かりますか!!?」

 

 必死で矢矧は提督に呼び掛ける。手段は不明だが、あの外人提督は海中から襲って来た駆逐水鬼の攻撃を的確に言い当ててていた。それがどうやって探知されたのか、江風には想像もつかないが、レミリアには潜航している駆逐水鬼を追跡する手段があるようだった。

 矢矧もそれは分かっているから、藁でも縋る思いでレミリアに詰め寄る。

 

「そうね。まだ近くに居るわ」

 

 だが、熱くなっている矢矧とは対照的に、レミリアの声は落ち着いていて、いっそ平坦と言ってしまってもいいくらい冷めていた。まるで他人事のようなその言葉に、想像するまでもなく矢矧の苛立ちが爆発しそうになっているのが感じ取れる。

 ただ、それは捉えようによっては余裕とも言えなくもない。位置を掴んでいるからこその余裕なのだろうか。

 

「逃げられる前に位置を教えて下さい! 大至急!!」

「いえ。その前に部隊の再編を行うわ」

「……は?」

 

 意外な提督の言葉に、矢矧が気の抜けた声を出す。

 いや、矢矧だけでなくその場にいた誰もが口には出さないものの驚愕していた。

 

「まず、大破寸前の江風は下げるわね。時雨が護衛について、『硫黄島』まで帰って来て」

「何を……」

「矢矧、貴女もよ。貴女も中破しているでしょう。木曾を護衛に付けるから、一緒に戻って来ること」

「で、ですが!」

 

 強引に部隊の再編成を行うレミリアに矢矧が食ってかかる。しかし、そこで別のところから制止が入った。

 

「しょうがねえ。中破が二人も出てるのは事実だ」

「木曾!?」

「残る三人で追撃。お前が言いたいのはそういうことだろう?」

「よく分かってるじゃない」

 

 提督は満悦な様子で、くすくすと無線の向こうで笑いを零す。この状況で笑えるなど、途方もない胆力の持ち主か、あるいは途方もないうつけ者のどちらかだろう。江風には、この提督は前者に思えた。無論、ただ三人で追っていくだけでは、手負いとはいえ、あの強敵である駆逐水鬼を倒せはしない。彼女には恐らく何か、一発逆転とはいかなくても確実性の高い勝算があるのだろう。

 

「川内、舞風、野分の三人で追撃部隊を編成。駆逐水鬼を仕留めるのよ」

 

 あまりにも予想通り過ぎて、何よりもこの状況が誰かの意図の下で完全に用意されたもののような気がして、気付けば江風も喉の奥を鳴らしていた。隣で、江風の身体を支えている時雨が何事かという顔をして振り向いた。

 

「いいンじゃねーの?」

 

 愉快で仕方がなかった。

 共に戦えないのは残念だが、あの「夜戦の鬼」が再び夜の海に舞い戻って来てくれたことに、江風は自分でも意外なほど機嫌を良くしているようだった。その上、この面妖な提督が作り上げた追撃部隊の、あまりに因縁めいた人選にも、そこに意味深なものを感じて、また笑いが止まらない。

 

 ああ、そうだ。これを運命と言わずして何と呼ぶのか。

 

 ターゲットである駆逐水鬼「萩風」「嵐」の元同僚である舞風と野分。その駆逐水鬼に傷を負わされ、一度は前線から退き、夜戦にトラウマを植え付けられてしまった川内。

 三人が三人とも、いや五人と言うべきか。それぞれが互いに持つ因縁が、今まさに結実しようとしている。それを最後まで見届けられないのは残念極まりないが、むしろここまで見られたことに江風は自分の幸運を感じざるを得なかった。

 面白い。最高に、面白い状況だ。

 

 

「江風は賛成だね」

「ちょっと!」

 

 尚も矢矧は楯つくが、しかしそれも木曾がその肩に手を置いたことで、いよいよ彼女も諦めざるを得なくなったようだ。悔しさあふれるあまり唇を噛み締め、「分かりました。撤退します」と言葉を震わせる。

 

「じゃあ、決まりね。追撃部隊は進路を170に採って。残りは西へ」

 

 レミリアの指示で、先程から無言を貫く川内と尚も戸惑い顔の舞風と強張った表情の野分は背を向けて走り出した。

 

 

 かくて部隊は二つに分かれ、戦いはいよいよ最終幕へと突入したのである。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督19 Trust Me!

 川内たちが母艦の「硫黄島」に帰還したのは日没直前であった。

 敵主力の随伴を掃除し、小破させ、若干ながら駆逐水鬼の戦力を削ぐという一応の作戦目的は達成出来たわけだが、一方でその時の川内の予定にない降伏勧告により、隊内の空気は最悪だった。当事者である川内に突き刺さる視線は冷たく、まるで針の筵に居るような居心地の悪さであった。

 それに加えて、川内の方もレミリアに対しての不満が相当に膨らんでおり、結局帰りは誰も口を開かず、誰もが機嫌悪く沈黙したままだったのだ。

 それは「硫黄島」のウェルドックに収容されてからも変わらず、作業員たちが戻って来た艦娘から艤装を取り外している際も、最低限の事務的な会話以外、言葉が交わされることはなかった。普通なら、この時間は作業員にほぼ任せきりになるので、艦娘たちは作戦終わりの一時をリラックスしながら雑談に興じたりするものだが、今日に限っては誰もそんな気分にはならなかったのだろう。

 作業が終わり、艤装が取り外されると川内以外の妙高を始めとした昼戦のメンバーは肩を怒らせたままさっさとウェルドックから出て行ってしまう。恐らくは、艦橋にいるであろうレミリアに直接事の真意を問い質しに行ったのだろう。あのレミリアが妙高たちの詰問にまともに受け答えをするとは思えず、徒労に終わることは想像に難くないが。

 

 

 一方、一人残された川内も作戦終わりの疲労感がどっと押し寄せて来ていて、未だ騒がしいウェルドックにそれ以上残る用事もないので、とぼとぼと自分に与えられた艦室に戻ることにした。

 どのみちもう日没であるし、夜に出られない自分は用済みだ。後は夜戦のメンバーが上手くやって駆逐水鬼を撃沈するなり鹵獲するなり、あるいは失敗して撤退するなりして戦いは今夜中に終わるだろう。そこまで考える余裕もなく、ただ今はベッドに横になることだけを求めた。

 ウェルドックから艦室までへのやたら長く感じられる経路を歩き抜き、扉を開けた時、川内は室内で待ち構えていた人物を見て動きを止めた。止めざるを得なかった。

 

「あら? お帰りなさい」

 

 艦橋に居るはずのレミリアだった。いや、居なければならないはずだ。彼女はこの作戦の指揮官なのだから。

 ところが目の前の少女提督といえば、川内のベッドに腰を掛けてこちらを見上げているばかり。何かの作業の途中というわけでもなさそうで、単にしばらく前からここで川内を待っていたのだろう。

 

 川内は扉を閉めて中に入った。

 

 

「……何やってんのさ、こんなとこで」

「待っていたのよ。貴女を」

「作戦はいいの?」

「コロネハイカラ島に近付くまでは消化試合よ。オペレーターに任せておいても問題ないわ」

 

 作戦全体の指揮は指揮官が執るが、航路のガイドや探知した情報の伝達などは指揮官の補佐役である作戦オペレーターが担う。作戦において重大な意思決定を行うのはあくまで責任者である指揮官の職責だが、中には簡単な戦闘の指揮などをオペレーターに任せてしまう者もいる。レミリアはそうした指揮官の、典型的な一人だった。

 

「私は、提督と話したいことはないんだけど」

 

 だから、彼女がこうして川内の艦室まで足を延ばしたのは、何かしら言いたいことがあってなのだろうが、それを分かった上で川内はつっけんどんに返す。昼戦で、駆逐水鬼の説得工作を妨害された怒りはまだ心の底で燻っていたからだ。

 

「そう? 私にはいっぱいあるのよ」

 

 レミリアはベットから腰を上げて川内の目の前に立つ。

 

「さっきはね、貴女の身が危なかったから下がらせたの」

 

 その目は真っ直ぐ川内を見上げていた。

 川内はレミリアのややオーバーサイズな軍服の胸元に目を落す。

 

「もうちょっとで嵐の方が口説き落とせそうだったのに?」

「ええ。でもその前に萩風が逆上していたでしょう。そうなってたら、貴女は最悪轟沈していたかもしれない」

「……」

 

 レミリアの言っていることは正しい。

 確かにあの時、嵐は降伏勧告に揺らいでいたようだが萩風の方は完全に敵意を増幅させていた。仮に嵐を口説き落とせていたとしても、その後萩風がどういう行動に出ていたかは想像がつかない。ならば、あの場でのレミリアの判断は正しいと言えよう。

 それでも川内が悔しいのは、あと一歩のところで二人を取り逃がしてしまったからに他ならない。もう少しで、と思わずには居られないのだ。

 

 

 

「ねえ、川内」

 

 囁き掛けるように名を呼ぶレミリア。

 川内は尚も彼女の胸元を睨んだまま。

 

「もう一度、出撃出来る?」

「……は?」

 

 パッと視線を上げると、レミリアのルビーのような瞳が視界の中心に据えられる。

 いつも真っ直ぐなその目が、やはり今も真剣な色を帯びて川内に向けられていた。

 

「何言ってるのさ? 私は夜の海に出れないんだよ? 出たら嘔吐する。戦闘どころか航行すらまともに出来なくなる。前にも言ったでしょ?」

「ええ。知っているわ。それを踏まえて言ってるの」

「何で……」

 

 川内は首を振る。

 レミリアは強引だが、常に冷静で、艦娘のことをよく見ていて、正しい指示を下す優秀な提督だと思っていた。だから川内も彼女のことを信頼していたし、突拍子のないことを始めても素直に従っていた。

 決して無茶は言わないと思っていた。でも、こればかりは失望を禁じ得ない。

 

「無理なことをやれって言われても……」

「そうかしら? 私には今の貴女が夜戦をすることが無理だなんて思えないけど」

「無理だよ!」

 

 苛立ちが頂点に達し、川内は思わず声を荒げた。

 

「提督は知らないでしょ! あれがどんなに辛いか! 思い出したくもない光景がずっと頭の中に流れていて止まらないんだ。気持ち悪い物が全身を這っているようで、いくらぶちまけても足らない。内臓を吐き出すんじゃないかってくらい嘔吐して、でも何も治まらなくて、自分の頭を撃ち抜きたくなる! それが、トラウマってやつなのよ!!」

 

 一気にまくし立て、川内は肩を上下させて荒い息を吐く。

 自分でも、ここまで怒鳴ったのは久しぶりだと思った。言いたいことは山ほどあるが、理性がギリギリで感情を抑え込んでいる。頭の中ではいろんな光景がぐるぐると回っていた。

 

 

 トラウマは川内から何もかも奪い去ってしまったのだ。大好きで、自分の生き場所と定めていた夜戦も、気の置けない精鋭の部下も、戦士としてのプライドも。

 残ったのは、かつての仲間に失望の表情を向けられるだけの惨めな燃えカスのような自分だった。それがどれほど川内の自尊心を傷つけたか、彼女にはきっと分からないだろう。

 対するレミリアは川内の言葉に対して感情を昂ぶらせるようなことはなく、静かに顔を反らしてゆっくりとベッドの方に踏み出した。そして彼女は川内が部屋に入って来た時と同じようにベッドに腰を掛け、片方の手でベッドを軽く叩いて隣に来るように促す。

 そこで意固地になるのも子供っぽい気がして、川内は逆らわずにレミリアの隣に腰を下ろした。そうして二人で並んで座って、特にやり場のない視線を目の前の、木曾のベッドを覆っているカーテンの上に彷徨わせる。

 

 

 

 

 

「私には妹が一人居てね」とつとつとレミリアは語り出す。「さらに、その妹の友人に姉がいる子が居て、二人とも仲がいいからその子の姉と私も交流を持つようになったの」

 

 いきなりの身の上話。彼女がこうして身内のことを話すのは珍しいが、この場においてするような話ではないと思う。しかし、遮るのも気が悪いので川内は黙ってそのまま彼女の言葉に耳を傾けることにした。

 

「私とそいつは妹同士みたいに友人と呼べる間柄じゃなくて、顔を合わせたらちょっと世間話をするくらいの知り合いなんだけどね。でも、そいつは普段から家に引き籠っている出不精な奴で、話があったらこっちから会いに行かなくちゃならないからまず滅多に顔を合わさないのよ」

「……」

「普通はそんなことしないんだけど、この間はちょっと聞きたいことがあって、私が仕事で動けなかったから代わりに使いを遣らせて聞いて来たの」

「……何を?」

「PTSDについて」

 

 放り投げられた言葉に、木曾のベッドの側面を彷徨っていた川内の焦点が固定される。何の変哲もないカーテンの一点で、そこに興味を引くようなものがあるわけではない。ただ、目線を動かしている余裕がなくなるほど全身の神経が耳に集中してしまっただけだ。

 

「そいつは人間の心理に関して右に出る者が居ないくらい詳しくってね。だから貴女のトラウマの話を聞いて使いにPTSDの勉強をさせに行かせたわ。どういう原因で発症して、どういう症状が現れて、そしてどうしたら治るのか。

……で、聞いたところによれば、心理療法やら薬物療法やらいろいろと治療法はあるけど、本人の苦しみを考慮しなければ放っておいても数カ月から、長くても数年で患者の半数以上から症状が軽減したり消えてしまったりするんですって。中には一生酷いトラウマに苛まれちゃう人もいるらしいけど、それはごく少数。多くは何年かで状況が改善する。それは全く治療しなくても、そうなるそうよ」

 

 慣れってすごいわねえ。と呑気にレミリアは付け足した。

 

 けれど、川内は完全に体が硬直してしまい、指の一本すら動かせなくなっていた。

 今も脇腹、それと心に残る傷は五年も前に付けられたものだ。

 

「それを聞いてから私は赤城に、貴女が今の鎮守府に転属してからの出撃記録を全部調べさせたわ。というか、本人が覚えていたから聞いたんだけど……。

貴女は五年前の戦闘での負傷の後、夜間の出撃を行ったのは前の部隊での最後の任務の時だけ。出撃した途端嘔吐して直ぐに引き返すことになった――つまりPTSDを発症した時よね。その後診断を受けて貴女は一度も出撃の機会を得ることなく今の鎮守府にやって来た。

赤城は貴女の病気のことを聞かされていたから、当時の鎮守府長官と相談して貴女を夜間に掛かる任務に出さないようにしていたわ。

つまり、貴女は五年前から一度も夜間出撃を行っていない。もしこの間にPTSDの回復や、症状の軽減が進んでいれば、現在なら夜間出撃してもさして問題ないはずよ。

加えて、これも赤城から聞いたんだけど。貴女、今の鎮守府に来た時はずいぶんと悪夢にうなされていたみたいだけど、それもいつしか消えてなくなったそうね。以前私に五年前のことを話してくれたけど、その時も貴女は過去の出来事として語っていた。PTSDが酷いなら、思い出した時点で何かしらの大きな反応を見せるはずだけど、そういったことはなかったわねえ。

もちろん、これらはあくまで人間での例だけど、人間と同じようにPTSDを発症する艦娘が、人間とは違う経過でその自然治癒が起こるとは考え辛いわ。精神構造が全く同じではないにしても、人間と艦娘ではかなり共通している部分があると思う。精神病に関して言えば、人間に言えることは同様に艦娘に言えるのではないかしら」

「……」

「結論を言えば、貴女のPTSDは自然治癒ないし症状の軽減が起こっていて、恐らくはもう夜の海に出ても問題ないはず。むしろ、貴女自身が夜の海に出られないと思い込んで、不必要に自分を縛ってしまっているんじゃないの?

――そして、私は司令官よ。貴女のようなずば抜けた夜戦能力を持つ艦娘を、このまま腐らせておくつもりはないわ」

 

 

 当たり前の話だが、彼女は心理学者でもなければ精神科医でもない。その話が本当かどうかの裏付けなんてあるわけがないし、人間心理に詳しい知り合いとやらのことも眉唾っぽい。

 けれど、そのような屁理屈を押しのけて川内の心を惹きつけてしまうくらいレミリアの話には吸引力があった。彼女の言うことが真実なら、自分はまたあの心地良い闇の中に戻れるのだ。

 ならば、川内にどうしてこの話を否定出来ようか。夢物語を語られているんだと自覚しても、どうしようもなく魅了されているのだ。

 

「川内。貴女がこの遠征について来た本当の理由。私はまだちゃんと聞いていないわ」

 

 レミリアはうっすらと笑い、少し首を傾けて川内を見上げていた。その様子を視界の端で捉えながら、川内は木曾のベッドから無機質な金属の床に視線を落していく。

 

 ゆっくりと、手前に近付くように。

 

「……聞いて、失望しない?」

 

 少しばかりの恐れがあった。後ろめたい理由だし、それを語ることに恐れを抱いていること自体も後ろめたかった。

 けれど、そんな川内の不安を見透かしたように、レミリアは優しい声音で囁く。

 

「しないわよ」

「ほんと?」

「本当よ。私を信じて」

 

 トラスト・ミー。トラスト・ミー。

 

 いつだったか金剛が言っていた。「Trust me」には強い意味があるのだと。私の総てを信じてくれという重い意味を持つのだと。

 レミリアは、果たしてそこまで信じられる人物か。

 

 川内は意を決して口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「自己満足なのよ。私は誰かを救える艦娘だってことを証明したいだけなんだ。結局、自尊心を満たすための自慰行為でしかなくて、本心から四駆の子たちを助けてあげたいわけじゃない。

幻滅するかもしれないけどね、これが本当の私なんだ。

提督は、私が昔率いていた部隊が、深海棲艦だけじゃなくて脱走した艦娘を沈める督戦隊だったってのは知ってるよね。実際、何度も督戦任務にあたったし、何回も仲間であるはずの艦娘を沈めてきたよ。どんなに命乞いされても、どんなに逃げ回られても、最後には必ず私たちは躊躇なく仲間を撃った。撃たれた子と仲の良かった艦娘に殺されかけたこともあったしね。

異形の敵じゃなくて、自分たちと同じ姿をした、人と同じ姿をした艦娘を、泣いていようが怒っていようが笑っていようが、そんなこと全く関係なく、的を撃つように撃ったよ。撃たれた艦娘が弾け飛んで、手足がばらばらになったり、内臓が飛び出したりして酷い死体になってもそれを見続けてきた。

今でも全員の顔を覚えている。どんな風に死んだかも、ね。

それが夢に出て来るんだ。今まで見てきた艦娘の死体が出て来て、いろんな声で、憎悪に歪んだいろんな顔で、私に『早く死ね』『早く死ね』って叫ぶ夢だよ。朝起きたら最悪な気分さ。その夢を見る度に本当に死にたくなるしね。

それだけの罪を背負った艦娘なの、私は。死んだら絶対地獄行きだよ。きっと先に死んだ、私に殺された艦娘たちに、永遠に逆襲され続けるんだ。

苦しいだろうね。そんな死後は想像したくないけど、そうなっても仕方のないことをしてきたんだ。今更言い訳しないし、許しも請わない。ただそういう任務を与えられていたってだけで、平然と仲間殺しをやっていたんだから、許されるわけないよね。

いいんだ、そんなことは。もう割り切ってるから。

ただ、私はそうやって艦娘を殺してきただけの悪い奴で終わりたくないのよ。私にも艦娘を救えるってことを、ただそれだけを示したいんだ。

……五年前の夜戦で、第四駆逐隊の救援命令が入った時、私は今こそその証明をするべき時が来たんだと思ったよ。四駆を救出して、誰かの仇じゃなく、恩人になろうとした。

深海棲艦になった直後の嵐が私を攻撃した時、私の仲間たちが嵐を攻撃しなかったのはどうしてか分かる? あの子たちの錬度なら、一瞬で嵐を蜂の巣にすることぐらいなんでもなかった。元々艦娘を殺して来たんだから、深海棲艦になった艦娘を撃つのに躊躇することもない。

あの時に仲間の砲が火を吹かなかったのは、私が『救出に向かう先の駆逐艦がどんな状態でも、何があっても、決して撃つな』って命令していたからなんだ。だって、撃っちゃったらそれは敵と同じ、裏切り者と同じ扱いってことだからね。萩風も嵐も、敵でもなければ裏切り者でもない。ただ、“私が救えるかもしれない哀れで無力な艦娘”でしかなかったんだから。

でも、知っての通りそれは上手くいかなかった。私は傷を負わされ、惨めな奴に落ちぶれちゃった。因果応報だとも思ったけど、さすがに堪えたなあ。救えなかっただけなら、次頑張ればいいやで済んだだろうけどさ。身体と心に残る傷を受けて、あの後夜戦も出来なくなったとあっちゃあ、そりゃあこだわりたくもなる。萩風と嵐の出現を待っていたのは何もあの子たちだけじゃなかったのよ。

だけど、今の私に何が出来る? 萩風と嵐を撃沈して『彼女たちの魂は救われた。めでたし、めでたし』なんて詭弁で誤魔化したくなかった。私が欲しかったのは目に見える形での結果。艦娘に復帰して元気にしてる二人の姿なんだよ。その姿があってこそ初めて、私は彼女たちを救えたと言えるんだ。

もちろん、それが荒唐無稽な話だってことは自覚してる。可能性で言えば、ゼロじゃないってだけで、ほとんどあってないようなものだからね。しかも前代未聞の試みだから、確立された方法は当然のこと、現実性のある手段すら思い浮かばなかった。

撃つのは論外。ぶん殴って熱い言葉でも浴びせて何かが変わるかといえば、そんな安っぽい学園ドラマみたいなことになるとは思えないし。結局、私が思い付いたのはただ言葉を掛けて説得するっていう、芸のない方法だけだった。他になかったけど仕方ないよ。

しかも、肝心の夜戦には参加出来ないしね。無理なら無理で、諦めようと思ったよ。

簡単に諦められることじゃないけど、世の中どうしようもないことなんていくらでもある。不完全燃焼のまま、この傷を抱えて死ぬまで生きていくっていうのも、私に用意されたおあつらえ向きの末路よ。

それでも、私はこだわりたかった。最後まで諦めたくなかった。聞こえのいい言葉で言えば、『自分の可能性を信じていたかった』。だから、提督に説得を妨害された時、あれだけ怒ったんだ。何だか、私の努力が水の泡にされた気がしてね。

でも、努力っていうほどのことをしてないし、そもそもの動機が不純極まりないから、本当なら私に怒る筋合いなんてないのにね。

結局、私はこんな薄汚い奴なのさ。夜戦の結果がどうなるかは分からないけど、二人が救われたなら、私は説得工作が効いたんだって、勝手に自分で自分を慰めるだろうし、失敗したなら自分のことを『クソやろう』って罵りながら生きていくことになるだろうね。

……ただ、今の提督の話を聞いて思っちゃったんだ。

もし、もう一度チャンスがあるなら、私は二人を救いに行きたいよ。それが罪滅ぼしであっても、善人の真似事であっても、私は私のために、今後の私をほんの少し慰めるために、出撃したい。

チャンスがあるなら。ううん、チャンスを下さい」

 

 提督、お願い……。

 

 

 

 

 

 それはまさしく懇願だった。

 身勝手で卑屈な少女の、これ以上ないくらい我儘な懇願だった。それを「お前の勝手だ」と一蹴するのは実に容易いことであろう。

 

 しかし、懇願を聞いているのは威厳ある為政者でもなければ、高潔な聖人でもない。

 彼女は悪魔であり、善とは対極にある存在であり、つまり人間ではなかった。

 加えてこの悪魔は、生活のために悪魔に魂を売った人間を自らの館で飼い慣らしたり、模範的な艦娘として振る舞うためにすべてを仮面の下に封じ込めてしまう弱さを持つ艦娘を気に入ってしまうくらい、人間と艦娘が好きな悪魔であった。

 だから、自己満足のために他者を救うという傲慢な艦娘を、彼女が気に入らないわけがなかったのだ。

 

 悪魔は腰掛けていたベッドの端から嬉々として立ち上がり、少女を座らせたままその眼前に立って両肩に手を置く。顔を上げた少女の両の瞳を、禍々しいほどに紅く輝く眼で覗き込み、悪魔を悪魔たらしめる鋭い牙を笑顔で飾り立て、朗々とした声で宣告した。

 

 

「いいでしょう! 川内!!」

 

 唐突に態度を豹変させた悪魔に、少女は目を剥く。

 だが、驚く少女に構わず、悪魔は興奮して捲し立てた。

 

「もし貴女があっさり諦めるようなら、私も諦めようと思っていたわ。夜戦のトラウマに縛られているようなら、無理強いは出来なかったから。

でも、貴女はきっともう夜の海に出ても大丈夫。そして、貴女の本音を聞いて、やっぱり貴女にしかこの役目は任せられないと確認したわ。そう、萩風と嵐を取り戻す立役者は、ね。

だから、貴女はこれから出撃する。急ぎコロネハイカラ島へ向かい、そこで戦っている夜戦部隊と駆逐水鬼の間に割って入り、舞風と野分を連れて二人の“救出”をするのよ。

ええ、そう。もちろんあの二人が居なければ始まらないわ。三人で、深海棲艦を艦娘に戻すの。いえ、私も協力するから四人ね。

だけど、一つだけ条件があるわ。この条件が満たされなければ、私たちの目的は達成出来ない」

「……条件?」

「そう。簡単なことよ。

――『Trust Me!』。

私を信じなさい。死ぬまでね」

 

 レミリアは強い口調で言った。

 先程のような、優しい声音ではない。はっきりとした命令口調だった。

 

「さすれば、私は貴女の望むものを貴女に与えてあげられる。これは契約よ。違反することは許されない」

 

 さあ、どうする?

 

 

 

 

 川内は迷った。

 今度のトラスト・ミーはニュアンスが違う。明確に、契約の条件として出されたものだ。しかも、一生。

 

 本当に、彼女を信じていけるのか。

 本当に、彼女はやってくれるのか。

 

 この限りなく勝算の低い賭けに、川内は一生の信頼を投じて本当に成功するのか。

 

 そうだ、これはまごうことなき悪魔の所業だ。ある利益のために、魂やそれに匹敵するくらい大きな対価を要求する。これこそが真実悪魔の契約であり、川内は今まさにそれを迫られているのである。

 レミリアの、ぞっとする冷気のようなオーラが部屋の温度を急速に下げていく。身体が震えるほど完璧に整ったその容貌は、今や破滅的な色香を放ち、血色の虹彩が妖艶に輝いている。年端もいかぬ背格好に似合わぬ、魔性の香りが充満する。

 甘ったるい微かな匂いが川内の鼻腔を刺激した。悪魔は悪魔的な笑みを浮かべて、彼女がいざなう先は果たして破滅か。栄光か。

 今ここで彼女の甘言に乗り、一歩を踏み出せばきっと良くも悪くも二度と戻って来られなくなる気がした。それはそれは大変恐ろしく、いわんや大変危険な賭けだ。軍服を着て人間のふりをしていても、この悪魔はやはり悪魔で、川内の魂を絡め取って吸い尽くそうとしているのではないか。理性がそんな警告をけたたましく鳴らす。

 だが。それ以上に、圧倒的に、レミリアの誘いは魅力的だった。彼女を一生信じるだけで、川内は「他者を救済出来る自分」を手に入れられ、一度は打ち砕かれた自尊心を取り戻すことが出来るのだ。

 ならば、どうしてこの誘いを蹴れようか。川内にはこれを否定するだけの強力な材料はなく、だから躊躇は少しの間で、意を決して頷いたのだった。

 

 

「いいよ。提督を一生信じるよ」

 

 

 けれど、何よりも川内の背中を押したのは、レミリアが川内の“提督”だという事実だ。

 何しろ艦娘にとって提督というのは、自身の生殺与奪の全てを掌握している存在であり、その立場の関係がある以上、川内にレミリアを信じないという選択肢はなかった。命を預けている相手なのだから、信じずに戦争を生き抜くなどあり得ないことなのだ。

 もちろん、川内は提督としてのレミリアだけを信じるわけではない。契約は、レミリア個人を信じることを要求しており、川内もそれを踏まえて頷いたのである。例え将来彼女が川内の提督ではなくなったとしても、彼女を信じ続けなければいけない。

 そして、自分にそれが可能だと思えたのだ。

 それほどまでに、川内にとってレミリアは魅力的で、心を許せる相手だった。

 

「契約成立よ」

 

 悪魔は笑う。それだけだ。

 契約書、とはいかなくとも、何か証拠になるようなものを残すものだと思っていた川内にとっては拍子抜けだった。そのままレミリアは川内の肩から手を離し、すたすたと部屋の入口に向かっていく。

 

「さあ、そうと決まれば善は急げよ! 時間がないわ。作戦は後で説明するから、今すぐドックに向かいなさい。こんなこともあろうかと、艤装は貴女が戻り次第、再出撃に備えて最優先で整備するように言ってあるから、多分もう準備出来ていると思うわ」

「ええ!? 何それ。提督、初めから私を出撃させるつもりじゃん」

 

 大層なことを言っていた割に、ちゃっかり段取りを組んでいたレミリアに、川内は驚き半分、非難半分の声を上げた。何だか謀られたような気がする。

が、彼女は首を振った。

 

「私にとっても貴女が乗ってくれるかは賭けだったのよ。ただ、賭けが上手くいった時の用意はしておかないと駄目だったから」

 

 理屈はそうだが、巧い言い逃れだと思う。どうにも、レミリアは最初から川内が動くことを分かっていた気がしてならないのだ。

 だが、今さっき「一生信じる」と誓ったばかりである。疑うのは良くないと邪念を切り捨て、川内は艦室から飛び出した。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督20 No Life Queen











(゚Д゚)ホワァ!!





















 

 深夜の海は墨のように真っ黒で、目に見えないうねりが川内たちの身体を上下左右に揺らしている。波と波の間を切り裂くように進む内に、川内の身体は持ち上げられ、引き下ろされ、右へ左へ振られて、「波が荒くて走り辛いなあ」という感想は心の内から消えないままになっていた。

 先程までは、海は穏やかで実に走りやすかったが、いつの間にやら風が出て来て、波が荒れ始めている。そのくせ、夜空には雲一つ浮かんでおらず、星は瞬きながら海上へ自らの光を落していた。川内は己の目が“特殊”であることをよく分かっている。星と月の明かりだけで夜闇も昼間のように見通せてしまうのだから。

 五年ぶりの夜間航行。戻って来てみると、夜の海が自分の生きる場所だと再確認出来た。体の調子は絶好調で、気分は清々しい。やはり、自分は夜の生き物だとつくづく思う。

 先程の夜戦は、さまざまな事情があって不完全燃焼のまま終わってしまった。もちろん、ただ戦うために来たのではないが、それでも夜戦が出来るとなると胸が弾む。願わくば、このまま目的も達成出来ればいい。

 

 逃げた萩風と嵐を追う三人は川内を先頭に、舞風、野分と単縦陣に並んで南へと進んでいた。

 眼前には黒々とした火山が海面からそびえ立ち、その後ろに煌めく星が天幕に飾られている。下半分の月は赤よりも赤く、禍々しい光彩を放っていて、川内はまるで常世の国に彷徨いこんだような錯覚をした。長かった今日一日の間に合った様々な出来事がそう思わせているのかもしれない。

 何もかもが現実離れしていて、川内が今まで生きてきた世界を根底から覆してしまったような気がした。

 

「針路を方位150に変更。そのまま島を回り込んで」

 

 心中にいろいろな思いの渦巻いている川内とは対照的に、レミリアの声はひどく平坦だった。感情の読み取れない、抑揚のない淡々とした口調。

 それが、妙に緊張を煽る。気のせいだろうか。

 

「了解しました」

 

 すかさず野分が応答する。声の響きはいささか冷たく、レミリアに負けず劣らず素っ気ないように聞こえたが、彼女と彼女の相棒とは数年来の付き合いである川内には、それが野分が冷淡というわけではなく、ただ単に緊張のあまり余裕がないだけというのはよく分かっていた。普段は冷静な彼女も、今この状況においては酷く精神を強張らせているのだろう。それは致し方のないことであるし、むしろこの状況で緊張せぬ者といえば、それこそ常人離れした余程の胆力の持ち主の他におるまい。しかも、彼女でさえこうなのだから、もう一人の心中はどれほど荒れているのだろうか。

 舞風は先程から押し黙ったままだ。何を思っているのか、それを知りたくて川内は話し掛けた。

 

「舞風、大丈夫?」

「……大丈夫です」

 

 返って来たのは、まったく信頼出来ない「大丈夫」だった。

 

「大丈夫そうな声じゃないよ。怖いの?」

「怖くないです。ただ、あの二人がホントに戻って来れるかなって思っちゃって。矢矧さんや江風さんをあんな風に攻撃したし、時間も五年経ってるし」

 

 少し語気を強めて早口で捲し立てた舞風の言葉には、風に崩されようとしているガラス細工みたく繊細で脆い響きが含まれていた。ほんの少し何かが噛み合わなかっただけで、彼女は簡単に絶望してしまいそうな恐ろしさがある。

 怖くないと本人は言ったが、それは精一杯の強がりだろう。本当は、強い恐怖に苛まれているはずだ。

 

“舞風を振るい立たせるには、貴女の強い言葉が必要よ”

 

 レミリアは助言する。

 

“貴女は私を信じてくれたけれど、もう一人信じなければならない人物がいる。それは、貴女自身。貴女が自分を信じるからこそ、そこで初めて舞風も野分も、貴女を信じることが出来るようになるの”

“うん”

“さあ、言ってあげて。二人とも貴女の言葉を待っているわ”

 

 レミリアはそっと背中を押してくれる。

 彼女は信頼出来る導き手で、きっと契約がなくても川内はレミリアに頷いていただろう。

 

「舞風、それと野分」

 

「はい」と二人は揃って返事をした。

 

「私を信じなさい。必ず、萩風と嵐を取り戻してみせるから。あの二人はまだちゃんとあんたたちのことを認識しているし、さっきの夜戦でも攻撃しなかったでしょ?」

 

 それは、夜戦に参加するまでの間、川内が飛び交う無線を傍聴して分かったことだ。嵐は木曾とやり合っていたが、舞風と野分が攻撃されたような気配はなかった。事実、舞風もそんなことは言っていない。

 

「はい」

 

 果たして野分は頷いた。

 そう、嵐はかつての仲間で、姉妹である二人を攻撃しなかった。その訳は、

 

「攻撃出来なかったんだよ。まだどこかに姉として、妹としての意識が残ってるんだ。だから、姉妹を撃てなかった。なら、チャンスはあるでしょう。私はそれに賭けるためにここに来たんだから」

 

 発した言葉の半分は自分自身に言い聞かせるためのもの。ここまで来て、という思いはある。

 なんだかんだでレミリアに乗せられた気もするが、事実はこうして川内は夜の海に戻って来れているのだ。もちろんトラウマは消えてはいなかったが、行動不能になることはなかった。

 ウェルドックのドアが開き、漆黒の水面を前にした時、少しの記憶の想起はあったが、それ以上に「またここに戻って来れたんだ」という興奮が全身を支配した。レールにセットされ、射出されるまでの僅かな時間すら待ち遠しかった。

 いざ夜の海に飛び出せば、レミリアの言った通りトラウマは問題なく、夜戦の主はまたそこに帰って来た。

 そうして最初の障害を克服したことを確認すれば、後はレミリアに従い、結果に向けて邁進するだけ。最早川内の中では、萩風と嵐は必ず救い出す者と決定されていた。

 

「ですが、一体どうやって?」

 

 一方の野分はまだ不安が抜けきらないようだった。

 それもそのはず、川内は二人を救うための具体的な方法を提示していないのだから。不信感を拭い切れないのも当然の話だろう。

 しかし、それを今見せるわけにはいかなかった。舞風も野分も、まだ“オカルト”の領域に足を踏み入れてはいない。そこへいざなわれてはいない。なら、まだ方法を教えるのは早過ぎる。

 

「後で分かる。今はただ、私を信じてついて来て。あんたたちが信じてくれなきゃ、萩風も嵐も救い出せないんだからね」

 

 言っていて、自分でも無茶苦茶なことだという自覚はあった。問答無用で私を信じろ、と。理由も何もなく、ただただ強引に、一方的に、信頼や信用を強制する。元より、川内が舞風と野分に慕われていなければ成り立たない方法だったが、逆を言えばこんな無茶なことが通用するくらい三人の間には強い信頼関係が出来ていたのである。

 

 初めて出会ったのは五年前。それから今の鎮守府で一緒になったのが二年と半年前のことで、以来川内は頻繁に舞風や野分と行動を共にしてきた。赤城や前提督の部隊運用の都合もあったけれど、多くは川内やあるいは四駆の方から望んで一緒になっていたのである。だから、たった二年半の時間とはいえ、三人の間に出来た信頼関係は何よりも太かったし、お互いがお互いのことをよく理解していて、心は口に出さずとも通い合っていた。

 

「……分かったよ」

 

 先に返事をしたのは舞風だ。川内も先に頷くのは舞風だろうと思っていたから、予想通りだった。

 こういう時、頭でいろいろと考えてしまう野分に比べて、自分の直感に従う舞風の方が決断は早い。往々にして、野分は舞風に引っ張られるように賛同するのだった。

 

「どっち道、もう川内さん信じてついてくしかないんだ。だったら、何も言わない。その代わり、必ずはぎっちとあらっちを助けてあげようよ!」

「……舞風」

「ほら、のわっちも」

 

 舞風が野分に手を差し伸べる。

 いや、実際に舞風が手を差し伸べたわけではない。ただ、そのような言葉を口にしただけ。

 

「うん」

 

 けれど、それは何よりも野分を強く牽引する。彼女は踊り子の言葉に頷き、川内に続くことを決意する。舞風も野分も、川内の言葉に乗ったのだ。二つ目の賭けに、川内は勝利した。

 

「よし。二人ともいい感じだよ」

 

 川内は笑う。

 同時に胸元に手を当て、懐に仕舞っているそれが今もそこにあることを確かめる。これがあるなら、川内はもう最後の賭けに負ける気がしないのだ。

 

 

****

 

 

「スペルカード?」

 

 レミリアの友人だという女が渡してきたのはトランプのような長方形の厚紙で、その表面には川内が見たこともないような文字(あるいは記号)で何かが書かれていた。それを除けば、灰色というか銀色というか何とも言い辛い微妙な色をした、何の変哲もないただの厚紙である。

 それをくるくると回して、川内はしげしげと眺めた。

 

「レミィと貴女がこれから行おうとすることに、そのカードは必要不可欠なの。落さないように大切に仕舞っていてね」

 

 女は事務的な口調でそう告げた。

 

 

 艦室からウェルドックへ急ぐ川内を、自分が急かしたのにレミリアは途中で引き留めた。「会わせたい奴がいるの」と言われて紹介されたのが、従軍記者だと名乗るこの女だった。一応名刺を受取ったが、そこに書かれている有名なマスコミの社名を疑うくらいには胡散臭い女で、レミリアも何が目的で自分に紹介したのだろうかと首を傾げた。

 その狙いがこの厚紙を川内に渡すことなのだとしたら、では一体これは何なのだろうか。

 

 女は“スペルカード”と称される物だと言い、

 

「それは、何もしなければただの厚紙よ。スペルを唱えて掲げることで、初めて効力を持つ呪物」

 

 スペルとは、呪文とは。

 女が語るそれらの意味。それを聞いて、川内はまるで彼女が魔術師か何かのようだと感じた。ならば、彼女がレミリアの友人であるというのも(とんでもなく胡散臭いのも)頷ける話だった。

 いずれにしろ、女もレミリアも、スペルカードなるこの厚紙が目的遂行のためのキーアイテムになるのだと口を揃えた。

 であるなら、川内がそれを拒絶する理由はないし、女に対していろいろと思うことはあるものの、何も口に出さずに持って出て来たのである。

 

“結局、さっきの提督のお友達は、あれなの? 魔法を使えるとか、そういう感じの人?”

“貴女もだいぶ慣れてきたわね。ご名答よ。あれは魔女。見て分かったと思うけど”

“うん。まあ”

“胡散臭いこと極まりないけど、気のいい奴なのよ。ちょっと気難しくて、神経質で、面倒臭い性格で、ねちっこくて、回りくどくて、おまけに人の尊厳なんかなんとも思ってない毒を吐きまくるけど”

 

 出撃してからレミリアに女の正体を尋ねるとこんな答えが返って来た。どうやら女はレミリアにとって気の置けない友人らしく、それからしばらく彼女のことをこきおろしていた。普段そういう言動をしないレミリアだけに、その姿は新鮮に思えた。

 レミリアはその後も「魔女も人間も素直さが一番必要」とか「人の話を聞く時は相手の方を向くとか常識よね」とか、ぶつくさといろいろ呟いていたが、初対面の川内でもあの女がレミリアより一枚も二枚も上手だろうというのは分かった。何をやろうとレミリアが返り討ちにされる未来しか思い浮かばない。普段の頼もしい姿はどこへやら、見た目相応の振る舞いを見せていた。

 

 

 閑話休題。

 魔法のカードは先の夜戦でも落ちずに懐にある。使うタイミングはレミリアが指示すると言うが、効力を発揮させるためのスペルについて川内が教えられていたのは、使う時になれば自然と分かる、という実に曖昧で意味不明なものだった。自然と分かる、というのは一体どういうことなのかという疑問は先程から川内の頭の中を無限軌道で巡り続けているが、答えを魔女にもレミリアにもまだ尋ねていない。

 いやそもそもの話、元からして自分の与り知らぬ理屈の世界でのことだ。聞いて分かるものでもないのかもしれない。

 今はただ、言われた通りに事を進めるだけ。自分に言い聞かせ、頭の中を延々と巡り続ける無為な疑問を切り伏せて、戦闘に思考を集中させる。

 

 川内たちは島の東側を南下していた。どういった方法かは聞いていないが、レミリアは萩風と嵐の居場所を確実に掴んでいるようで、ソーナーのない川内たちはただ彼女の言う通りに足を進めればいい。もっとも、今更レミリアが「こんな魔法で海に潜った相手の居場所を突き止めているのよ」と奇天烈な種明かしをしたところで、川内には絶対に驚かない自信があった。どんなからくりであれ、それはそういうものなんだというある種の達観によって受け入れられることだろう。

 

 

“もうすぐ会敵するわ”

“これ以上、逃げられないよね”

“大丈夫。保障するわ”

 

 レミリアは自信満々だ。

 驚く、驚かないは別として、今後の行動に関わってくるかも知れないのでからくりは一応知っておきたかった。

 

“何か、あるの?”

“結界を張っているのよ”

“結界? 安倍清明みたいな?”

“陰陽道とは違うけれど、イメージでは正しいわ。島の北から東に掛けて、陸地を含めて周辺の海域に円形の結界を張っている。深海棲艦はこの結界の中と外を出入り出来ないようになっているけど、艦娘の貴女たちはもちろん可能よ”

“そんな便利なもんなんだね”

“準備が面倒なんだけれど。で、結界の範囲内に居ることは月を見れば分かるわ”

 

“月?”と川内は空を見上げる。

 

“月が赤く見えるでしょう。それが、結界内に居ることの証拠よ”

 

 どういう原理か不明(不明だからこその魔法なのだろう)だが、それはそういうものらしい。とにかく、月が赤ければ結界の中であり、深海棲艦である萩風と嵐はそう遠くへは逃げられないということだ。

 紅月を目印にすればいい。どの道、決着が着くまで自分たちが結界から外へ出ることはない。

 

“さあ、来るわよ”

 

 レミリアからの再度のテレパシー。川内の思考は中断される。

 島はいよいよ近付いて、真っ黒な影が間近で川内たちの上に覆い被さっていた。

 

 

「舞風、野分」

「はい!」

 

 呼び掛けに舞風が応答する。意味は通じたのだろう。声の響きがかなり硬くなっていた。

 

「もうすぐよ」

「了解……です!」

 

 暗闇の海上にそれらしい姿はない。もしかしたら、まだ潜航したままなのかもしれない。

 だが、こちらにはレミリアが居る。彼女が付いている限り、海中からの奇襲は恐れる必要がない。

 それは実に心強いものだった。夜間において何よりも恐ろしいのは、目に見えぬ、手の届かぬ、海中からの急襲なのだ。その可能性が除去されるだけで、夜戦において艦娘が採れる選択肢は格段に増える。

 

“川内! 正面よ!!”

「艦隊! 逐次回頭。取舵一杯!!」

 

 川内は怒鳴った。身体を左に倒し、白波を切りながら鋭く弧を描く。

 右に流れていく島影。それを背景に、突然海面に大きな水飛沫が立ち上がった。

 

「出たよ!」

 

 海から飛び出してきたのは、萩風と嵐の二人。深海棲艦らしい不気味な姿が弱い月明かりに照らし出された。先程の夜戦での傷はまだ生々しくそのままで、その有様はいっそグロテスクと言ってもいいくらいだ。

 そのまま二人は川内たちを追って来る。追う方と追われる方が逆転し、双方は同航戦の形態で南下をし始める。

 まずいと思った。

 

“川内、もうすぐ結界の外に出るわ。反転して!”

 

 月を見上げる余裕はなかった。萩風の艤装――腰の後ろから伸びる太い右腕に装着された主砲――がパッと光り、主砲を撃って来たのだ。川内を敵と認識したか、あるいは追い詰められていよいよ凶暴性を発揮し出したのか。とっさの判断を迫られた。

 同航戦という形態は交戦時間が長くなりやすい状態。それは夜間と言えど変わりないし、ましてや相手は何隻もの船を沈めてきた二人である。元が艦娘とは言え、現在の行動原理は深海棲艦のそれで、容赦なく攻撃してくるのは火を見るよりも明らかだ。

 主砲の砲撃は牽制と目くらまし。半月と星々の光が海面に描かれた白い筋によって歪に反射され、川内の網膜に飛び込んでくる。

 

「取舵! 十時の方向に艦首向けて!!」

 

 叫ぶや否や川内はもう一度身体を左に倒して、旋回。丁度萩風たちに背を向ける進路を執る。

 背筋を冷たいものが流れ落ち、こめかみから耳の前を、決して運動のために流れ出たのではない汗が伝った。胸が押し潰されそうになる緊張に、呼吸が浅くなり、不規則に短く息を吸っては吐き、ただそれが命中しないことを祈った。

 スクリューが水を掻き分ける不気味な音が間近を通過する。何度戦闘を経験しても、この音にだけは慣れることが出来そうもない。間一髪、魚雷を回避出来たことに安堵する間もなく、川内はもう一度取舵を命じた。

 そう、攻撃は何も魚雷だけではない。同時に周囲にいくつもの水柱が立ち上がり、腹に響く低い轟音が辺りを支配する。

 

「夾叉されています!!」

「構わないで!」

 

 野分の悲鳴を怒声で掻き消し、川内たちは反転。追って来た萩風たちとは擦れ違う。

 慌てて転回する深海棲艦の二人。川内は逃げるように今度は北を向いて走り出した。

 相手の反応は早い。反転して、先程と同じように川内たちを追う形になる。

 

“容赦なく撃って来たね!”

“理性的な行動は期待しない方がいいわ。こちらに舞風や野分が居ると言っても、恐らく躊躇はしないでしょう”

 

 歯ぎしりする川内に、レミリアは相変わらず落ち着いた返しをする。

 

“で、どうすればいい?”

“何とか二人を島の方へ誘導してみて”

“また難しい注文だねぇ!!”

 

 川内の脳は焼き切れるほどの高速回転していた。レミリアの要求に応えるためにどうするべきか、必死で知恵を絞る。

 だが、状況は悠長に思考する暇など与えはしない。再び、背後で砲音が轟いた。

 頭は瞬時に切り替わる。思考を中断し、目の前の状況への対処を優先。

 

 一秒。

 複数の飛翔音が重なり、彼我の間に壁のような水柱が出来る。照準が外れたのか、今度は近弾だ。

 

「雷跡に注意!」

 

 言いながら、川内は心の中でカウントする。

 

 二秒、三秒……。

 

 昼戦の時に確認したことだが、駆逐水鬼「萩風」「嵐」の主砲の発射間隔は最短で七秒だ。艦娘の艤装と同じく、揚弾装置の都合で最低でもそれくらいの時間が掛かるらしい。

 四秒、五秒と数えた時、不意に川内の周囲の海面が大きく隆起する。

 

「ッ!!」

 

 パッと見る限りは小口径砲の威力だが、意識の外からの砲撃だった。遠弾。着弾位置が離れているため当たることはないが、背筋は冷えた。

 

“ああ、そうか。陸地にも揚がっていたわね”

“提督! まさか!!”

 

 結界は、深海棲艦の動きを封じる。張られた時にその範囲内に居た深海棲艦は結界が解除されるまで外には出られないし、他の深海棲艦も結界の中には入れない。だが、何も元から結界に閉じ込められていた深海棲艦は萩風と嵐の二人だけではなかったのだ。

 

 島を見る。熱帯雨林の影と重なって非常に分かり辛いが、そこに何か蠢くものが複数いた。植物とは違う形。明らかに風に揺らされる枝葉の動きではない。そもそも、今は木を大きく揺らすほど強い風など吹いていない。

 

“余計な敵を排除なさい”

“クソッ!!”

「川内さん! 敵の増援ですッ!!」

 

 野分が絶叫する。

 即座に返した川内の応答も同じような叫びになった。

 

「島に上陸していた奴らが戻って来た! 降りかかる火の粉を払うよ! 左砲戦!! 目標、陸上の敵深海棲艦‼」

「了解! 舞風、交戦開始!」

「野分、交戦します!! タリホーッ!!」

「主砲斉射! 撃ち方始めェ!!」

 

 鼓膜を破るような爆音と共に、一瞬川内の視界が明るく輝く。タイミングを合わせて発射された14cm砲と12cm砲が眩しい発射炎を噴き出した。

 

「面舵!! 撃って来るよ!」

 

 進路を右へ。川内は目まぐるしく指示を出す。

 

 先程の射撃で、敵にこちらの位置を晒してしまっているのだ。直ぐに進路を変更して飛んで来る砲弾を避けなければならない。

 島の沿岸部で不規則な炎が光る。第一斉射の砲撃が着弾したようだった。同時に不気味な飛翔音が鳴り響いて、左舷側の海に水柱を林立させ、予想通り攻撃が到達する。着弾の位置も思った通りで、発射炎が見えたところに正直に撃ち込んだのだろう。どうやら萩風と嵐は、変な話だが、教科書通りに攻撃して来ているようだった。

 やはり彼女たちの錬度は低い。低いままに深海棲艦になり、そして今日までほとんどそれが変わらなかったのかもしれない。この五年で、トップレベルの駆逐艦にまで成長した舞風と野分とは対照的だ。

 楽な相手、とは思えない。状況が状況だ。追撃して来る二人だけではなく、陸地からの敵も捌かなければならない。先程の第一斉射では仕留め切れなかった島の敵が、また撃って来たのだろう。黒い森のシルエットの袂に閃光がちらつく。

 

「島へ砲撃して!」

 

 とにかく狙うは余計な敵の排除だ。このまま萩風たちの追撃を受けながら、陸地の敵を掃討していく。

 艦隊の第二斉射。

 時雨から照明弾を貰ってくれば良かったと、川内は今更ながらにほぞを噛む。もう深海棲艦の増援はないものと思い込み、自分の夜戦の腕を信じて碌な装備を持って来なかったのが仇になりつつある。コロネハイカラ島には既に深海棲艦が上陸していたことをすっかり失念していたのだ。

 

“逃げながら撃ってばかりでは仕方ないわ。萩風と嵐への攻撃を許可する。撃沈しないように、砲雷撃で二人を島側へ追い込むのよ”

“ホント、提督は無茶ばっかり言うよねッ!”

 

 レミリアが付けてきた注文に、川内は威勢よく反駁した。もちろん、求められたことには最善を尽くすつもりだ。ただ、直ぐにそれが可能かといえば、生憎そう上手くはいかない。

 聞き慣れた何度目かの音。砲弾が空気を切り裂く気味の悪い音。

 ズドンと、今度は間近で轟音が響いて、視界が白い水飛沫に遮られた。進行方向目の前。追って来ている二人が作り上げた水の壁が艦隊の行く手を塞ぐが、川内は何の躊躇いもなく水柱の中に突入した。

 全方位から身体を叩く海水。それは水が当たったというより、石つぶての雨を浴びているようで、全身に痛みが広がる。足元が揺れ、バランスを崩しそうになるが、重心を前に倒して勢いよく飛び出した。

 

「川内さん!!」

 

 後ろで、きちんと水柱を避けたであろう舞風が心配そうに名を呼んだ。当然だが、着弾の水柱は強引に突破するものではなく、回避するものである。ただ単に、先頭を行く川内に水柱を避ける余裕がなかっただけの話で、いつもこんな無茶をするわけではない。

 

 

「舞風!」

 

 一方の川内も、別の意図があって彼女の名前を呼ぶ。

 

「ちょっとお願い! 萩風と嵐の気を引いてくれる?」

「……ッ! 了解です!!」

「出来るだけ島側へ誘導して。私と野分はその間に陸地の敵を片付けるから」

「別行動ってわけですね」

「そういうこと! 散開して敵に当たれ! ブレイクッ!!」

 

 掛け声と共に、舞風が大きく右に舵を切る。面舵一杯ではなく、体を横に倒しての海面を削りながらの急旋回だ。彼女の小さく、しなやかな体躯が海の上で躍動し、その姿はあっという間に夜闇に紛れる。

 川内も、野分を引き連れたまま右へ大きく弧を描く。

 

「180度回頭したら第三斉射行くよ!」

「はい!」

 

 二人はゆっくり盛大に円弧を海面に刻みながら、北から南へ進路を変える。より島に近い方では、舞風と萩風たちの撃ち合いが始まっていた。

 

「撃てーッ!!」

 

 先程から続く陸地からの砲撃の音。水柱の数。そこから想像するに、陸上の敵はそれほど多くはないはずだ。具体的にどれほどの敵が結界の中に閉じ込められているのかは分からないが、当然その数は限られてくるし増えることもない。

 被弾しなければ状況は少しずつ川内側に有利になるはずだった。

 

 

 

「川内さん、残弾20%切りました!」

「ああ! チクショウ!」

 

 野分の報告に、川内は喚く。無線の向こうでは野分が付けているインカムのマイクが、残弾数減少を警告するアラーム音を拾っている。

 

 そう、四駆の二人は出撃してから何度か海戦を経ているのだった。あまり長く戦うことは出来ないし、減っているのはもちろん残弾だけでなく燃料もそうだ。

 残弾が減れば当然敵への攻撃能力や火力が大幅に減じてしまうし、燃料が減れば燃料切れを恐れる艦娘が自分の行動を無意識に制限してしまったりする。もちろん、タンクが空になればその瞬間に動きは止まり、あとはただ海上に浮くだけのブイと化してしまう。それこそが、本当に最悪の事態だ。そして野分はもうその一歩手前のところまで来ていた。

 

“通信聞いてる!? 提督!”

 

 何故か先程から無線を使わないレミリアに、川内はテレパシーで怒鳴った。そもそも、思考のやり取りそのものと言えるテレパシーで、果たして「怒鳴る」なんて行為が可能なのかは知れないが、とにかく切迫した調子で言った。

 

“ええ。ええ。聞いているわ!”

 

 答えるレミリアの声も珍しく深刻そうだ。それが如何に今の状況が悪いかを物語っていた。いつも余裕そうな彼女が焦っている。

 その事実が、余計に川内の胸中をざわめかせて仕方がない。野分の残弾が少ないなら、当然舞風も同じ状態である。しかも、彼女は囮役なのだ。

 

「舞風! 残弾は!?」

 

 ヘッドセットから伸びるマイクに、川内は自分の声を叩きつけるように怒鳴った。

 だが、聞こえて来るのはノイズの出す不愉快な音だけ。

 

「舞風!」

 

 もう一度呼ぶ。しかし、やはり応答はない。

 ぞっと、背筋を冷たいものが流れ落ちた。脊椎の中に液体窒素を流したかのように。そして、それとは真反対に頭は燃えるように熱くなっていく。よく聞けば、今さっきまで響いていた舞風が姉妹艦と交わす砲音がいつの間にやら静まっていた。

 萩風たちの牽制のために舞風を独立行動させたが、ひょっとしたらそれはとんでもない判断ミスだったかもしれない。

 

「舞風、答えなさいッ!!」

「川内さん! 五時の方向から雷跡ですッ!!」

 

 川内の呼び掛けは野分の身を切るような悲鳴に掻き消された。

 

 振り返る。

 

 白い筋が足元に向かって伸びて来て……。

 

 

 

 

「飛べッ!!」

 

 咄嗟に川内は踵を踏み込んでいた。海に浮かぶための“靴”である主機、踵に取り付けられているスクリューが深く沈み、推力は上を向く。波の盛り上がり、海面を掛け登るようにして川内の足が海から離れた。

 

 

 跳躍。

 

 真下を白く細かな泡を立てながら魚雷が通過していく。

 

 間一髪の回避だが、川内はそれどころではなかった。着水するや否や、魚雷が来た方向に視線を向ける。

 川内の目は特殊で夜闇も昼間のように見通せる。加えて、素の視力も2.0あり、数キロメートル程度先の物なら昼夜問わずにはっきりと見分けることが出来た。

 

 

 思いの外近い距離。闇に浮かぶ青白い二つの顔。

 萩風と嵐はもうすぐそこにまで迫って来ていた。

 

 

 

「ウソでしょッ!!」

 

 信じられないものを見た。信じたくない光景があった。

 嵐の脇に抱えられた、舞風の姿。ぐったりとして動かない。死んでいるのか、生きているのか。見ただけでは分からなかった。

 

 だが、何ということだ。川内は致命的なミスを犯してしまっていた。

 舞風を一人にするべきではなかったし、萩風たちの相手もさせるべきではなかった。三人で追撃を躱しながら陸地の敵の掃討をするべきだったのだ。

 

 このままでは、舞風は引き込まれてしまう。深海棲艦に、駆逐水鬼に、変貌してしまう。

 それは、敵が一体増えるなどという単純な話ではなく、すなわちこれまで川内が築いて来た総てがふいになってしまうということなのだ。そう、何もかもが水泡に帰してしまうのだ。

 

 

“提督!”

 

 

 最早、頼れるのは彼女しか居ない。信じられるのは彼女しか残されていない。

 

 懐に手をやる。そこにあるのは、文字通りの切り札。

 

“やむを得ないわ! カードを切りなさい!!”

 

 レミリアの声が頭の中で反響する。その前に川内はスペルカードを取り出していた。右手に持ち、月明かりにかざすように掲げる。

 

 言葉は自然と出た。あの魔女が言ったように、今まで一度も発したことのない呪文が無意識の内に口から紡ぎ出された。

 

 

 

「金符『シルバードラゴン』!!」

 

 

 

****

 

 

 

 視界が銀色で埋め尽くされ、川内は思わず目を瞑った。しかしそれでも尚溢れる光は、熱量を伴って瞼を貫通する。竜巻のような渦巻く爆風が襲って来て、川内の身体は激しく揺さぶられた。

 何が起こったのか分からない。

 スペルカードを掲げ、自分でも知らぬ内に唱えていた呪文が紡がれると同時に、そのカードから尋常ではない光量が溢れて来て、すぐに川内は何も見えなくなってしまったのだ。

 

 しばらく光の暴力を耐えていると、やがて瞼の向こうで少し眩しさが和らぐ。恐る恐る目を開けると、昼間のように明るく照らし出された水面が見えた。

 先程まではほとんど無風だったのに、今は風が渦巻いて波は高くうねり、黒々とした海面が白い光を反射している。その光の元をたどり、川内は目を見開いた。

 

 

 魔法やら呪文やら、ファンタジックな言葉がやたら出て来たし、自分自身もテレパシーなんてものを使っていたから、何か今までの常識を覆すようなものが飛び出すんじゃないかと想像していた。だが、これはあまりにも強烈じゃないか!

 

 

――発光する巨体。

 

――長い尻尾。

 

――広い翼。

 

――S字に曲げられたひょろ長い首。

 

――鋭い角の生えた蜥蜴のような頭。

 

 

 

 この世に、こうしたものが存在しているという事実を目の当たりにして精神が酷く揺さぶられる。

 

 悠然と羽ばたき、銀色の残光で軌跡を描きながら頭上を旋回するのは、一頭の竜だった。

 

 

 言葉を失う。というより、このような時に発する言葉を持っていなかった。

 突然の異形の登場に、風は恐怖で悲鳴を上げているように唸り、海は世界の動揺を表現するかのように荒れ狂う。 波に揺られ唖然としながら、ゆっくりと上空を飛ぶ竜を、川内はただただ見上げるしかない。あまりにも現実離れした光景に頭が追い付かず、目の前の事象を理解することは到底出来そうになかった。

 体長数十メートルはあろうかという巨体は全身が眩く光を発しており、照明弾で照らされたように辺りは明るくなっていた。 その翼が羽ばたく度に空気を引き裂き、猛風が甲高い声を響かせる。

 

 しかも、出現したのは竜だけではなかった。その背中、あるいは肩と呼ぶべきか、首の付け根の背筋と両翼が交差するところに人影が見えたのだ。

 その影は銀色の光に照らし出されている。頭髪は青紫色で、白っぽいドレスのようなものを身にまとっているのだろう。どうにも目を凝らさないとはっきり見えないのは、竜があまりに巨大なせいであり、また人影が小柄なためだ。

 人影が片手を天に突き上げ、何かを掴み取る。そこに何かがあったのか、あるいは手を突き上げたからそこに何かが“現出”したのか、血のように赤い色をした細長い棒が彼女の突き上げた手を中心に前後に伸びるようにして現れた。その棒の片方の先端は大きな鏃のような三角形で、まるで槍だと川内の脳裏に浮かぶ。

 

 人影より大きな槍。竜の騎乗するその姿が手を振り降ろし、槍を投擲する。

 

 夜闇の中に、定規で引いたような鋭い直線が一瞬光った。続いて眩い閃光が辺りを紅く照らし、鼓膜を破るような轟音が爆風を伴って周囲を無差別に襲い掛かる。

 投げられた槍はコロネハイカラ島の海辺に着弾し、そこに居たであろう深海棲艦の陸上部隊をまとめて葬り去った。閃光の中に派手に吹き上げられた土や植物、そして何より黒い敵の残骸が浮かび上がる。

 尋常ではない威力。ただ一発の槍が、巨大な戦艦の砲撃にも匹敵する破壊力を持っていた。恐ろしいのは竜ではなく、その背中に跨る真実の怪物の方に違いない。

 

 

「何、あれ……」

 

 同じく亡失して呟いた野分の声で、ようやく川内は我に返った。忘れてはならない。ここは戦場なのだ。

 それから、真っ先に川内の頭に浮かんだのは、嵐に捉えられてしまった舞風のことだった。背後を振り返り、先程その位置を確認した方向に目を向ける。

 発光する竜のお陰で視界はよく効いた。果たして、萩風と嵐、そして嵐の脇に抱えられた舞風はさほど変わらぬ場所に居る。二人の駆逐水鬼は、ついさっきまでの川内と同じく頭上を舞う竜を茫然と見上げていた。

 今しかないと決断する。

 空の存在は川内の理解力を遥かに超越していて意識の外に追いやるのは却って簡単だった。ある種の現実逃避のような心理を利用して、川内は己を制御し、中断された戦闘に集中する。

 

「野分!」

 

 唸る風に負けじと、川内は声を張る。

 

「舞風を取り戻すよ!」

「は、はいっ!」

 

 速度は全力。乱れる気流を肩で切り裂き、時化る海を走り抜ける。

 目標はまだ空を見上げていた。このまま気付かれない内に、と思ったところで、不気味な風切り音を立てながらいきなり空から竜が急降下して来る。

 

 

 見上げた川内の目が竜の背に乗る“彼女”を捉え、“彼女”もまた川内を見下ろしていた。

 

 

 嫌というほど見慣れた幼い造形。今まで見たこともないほど深い緋色の双眸。人の姿にて人ならざる容姿。

 

 

「提督……」

 

 

 視線が交わったのは一瞬だけ。竜の巨大な翼が彼女の姿を隠し、その足が海面に落ちる。鷲のように鋭い爪が、そこで見上げていた萩風を掴み取った。

 風が一層吹き荒れ、竜が錯乱して悲鳴を上げる萩風を引っ張り上げた。嵐はなす術もなく攫われる姉妹を見ているしかない。

 まるでおとぎ話の一場面を目撃しているようだった。空から襲って来て姫を攫っていく悪竜と、されるがままの悲劇のお姫様。その姫が、深海から戻って来た亡霊のような存在だとしても、この光景をそのように言ってしまってもいいのかもしれない。

 ほどなく持ち上げられた萩風は空中で竜の足から放たれてしまう。夜空に放り投げられ、彼女は哀れ、絶叫しながら放物線を描いて島の方へと落ちて行く。

 

「ハギッ!!」

 

 見ていた嵐も気が気ではないだろう。薄暗い島の元へ消えた萩風の安否は海からでは見えない。一方で、彼女は完全にそちらを向いて背中を晒してしまっていた。

 竜は川内たちにより大きなチャンスを作ってくれたのかもしれない。目の前で今し方起きた恐ろしい光景に構わず、川内は突撃を止めない。

 

 嵐が気付いたのは、もう真後ろに迫られてからだった。その時には遅く、川内との間合いは嵐にどんな回避も許さないほど狭まっていた。

 右手を肩より後ろに回し、川内は振りかぶる。腰の回転で拳を打ち出し、腕を捻ってさらに捩じりを加えた。

 

 

「歯ァ、食いしばれェ!!」

 

 

 鉄が凹むような、大きな音が鳴り響いた。速度が拳に乗せられ、嵐の顔面を直撃する。骨が砕けるかと思うほどの凄まじい衝撃が襲って来て、あまりの痛みに腕の感覚が飛んでしまう。それでも川内は力を緩めず、全力を保ったまま拳を振り抜いた。

 もんどりを打って海面に倒れる嵐。その脇に抱えられていた意識のない舞風がぐったりとしたまま投げ出される。遅れてやって来た右腕の激痛に反応が鈍ったのと、そもそも速度の出し過ぎで咄嗟に舞風を掴むことも出来なかった川内は、倒れる彼女を背後に見送ることになってしまった。

 あっ、と思った時には遅い。意識のない舞風の身体が海へ落ちようとして、間一髪抱きすくめた者が居た。

 直ぐ背後を着いて来ていた野分だった。彼女は舞風を抱え、急いでその場から離れる。

 

「ナイスキャッチ!!」

 

 川内は野分を褒め称え、狭い弧を描きながら反転する。

 ついさっき嵐を殴ったところを振り返って川内は舌打ちした。そこに、倒れたはずの嵐の姿がない。予想以上に早く彼女は消えてしまっていた。

沈んだのか。いや、そんなわけがない。

 

「野分! 下から来るよ!!」

 

 たった一発の拳だけで、頑丈な駆逐水鬼である嵐が屈するとは思えなかった。可能性はどう考えても後者で、ならば海中からの急襲に備えなければならない。

 ついでに言えば、次に嵐が狙いそうな相手も分かっていた。野分は舞風を抱えていて思うように動けない上、燃料が少なく全速力が出せない。

 それは野分も分かっていて、彼女は出来得る限りで之の字運動を、不規則な航路を描き、逃れようとする。しかしそれも、彼女のほぼ真下から立ち上がった水柱が無意味にしてしまった。

 吹き飛ばされ、なぎ倒される野分。舞風と共に海面に叩きつけられて、降って来る水の礫の中にかつての仲間の姿を見る。

 

「クソッ!」

 

 大声で悪態を吐いて川内は嵐に主砲を向けたが、引き金を引くことは出来なかった。余りにも野分と嵐の距離が近過ぎるし、未だに引かない右腕の激痛と激しくうねる波が狙いを付け辛くしていた。先の夜戦で江風を助けた時のように、万全の状態で穏やかな波ならピンポイントで嵐に当てられるが、今は状況が悪過ぎた。このまま撃てば野分に当たってしまう。

 

 

「カエセ!」

 

 激昂した嵐の声は少し離れたところに居る川内の耳にまで届いた。

 

「“マイ”ヲカエセ!!」

「嵐! 私よ! 野分よ!!」

 

 負けじと叫び返す野分の声も同じく聞こえた。だが頭に血が昇ったのか、とうにそもそもの理性のタガが外れている嵐は姉妹艦であるはずの野分に砲を向けた。

 

「“マイ”トッ!」

 

 それは駄々をこねる幼い子供のような声で……。

 

「マタミンナデ、イッショニ……!!」

「そう! 一緒になろう! 元の、“第四駆逐隊”に戻ろう!!」

「ダメダ! オレタチハモウモドレナイ……。ダカラ、イッショニシズンデクレヨ! “マイ”モ! “ノワッチ”モ!!」

「違うッ!!」

 

 主砲を向ける嵐にも怯まず、野分は声を張り上げる。彼女の眼元には決壊寸前のダムのように水が蓄えられていて、ほんのちょっと動いただけでとめどなく流れ出してしまいそうだった。

 それでも彼女は信じているのだ。また、嵐は戻って来れると。暴力を振るわれても、喉元に凶器を突き付けられても、その信頼にはほんの少しの動揺もない。

 だから、彼女は必死で言葉を掛けた。必死で思いを伝えた。まるで、そうすれば嵐が目を覚ましてくれると祈るように。

 

「一緒に、帰るのよ!! また一緒に出撃して! 甘いお菓子を食べて! 夜更かしして! 昔みたいに戻ろうッ!!」

「ムリダ! ソンナノ、ムリダ!! モドレナイカラ、キテクレヨ! サビシインダッ!!」

 

 嵐は今まで聞いたこともないような悲痛な声を上げながら、野分の額に主砲を突きつけた。

 それで、野分の表情が崩れていく。彼女の中で、彼女を支えていた大切な柱が折れたようだった。

 

 

 

 

 ドンと、腹に響く砲音が轟く。

 

 銀光に浮かぶ一筋の黒い煙。硝煙は、野分のすぐ隣から立ち昇っていた。

 信じられないという表情を見せる嵐。撃ったのは野分ではなく、つい先程まで意識を失っていたはずの舞風だった。

 

「……何、してんの」

 

 震える声で彼女は呟く。

 

「……誰に、向けてんのよ」

 

 それは、温厚で朗らかな彼女が初めて見せた烈火の如き憤怒。

 

「姉妹の見分けもつかなくなったの!? 嵐は!!」

 

 立ち上がった彼女は、さらに二発、三発と嵐に撃ち込む。

 言葉にならない声で喚き散らしながら、舞風はひたすらに嵐を撃った。やがて、元より残弾の少ない主砲が弾切れを起こしても舞風の叫びは止まらず、我に返った野分がその手を掴んでからようやく落ち着いた。

 その間、嵐はただ一方的に撃たれるのみで、砲撃がやんでボロボロになりながらもまだ海に立っていた。

 

 こんな光景は見たくない。こんなものを見るために夜の海に出て来たわけではない。なのに、どうしてこうなってしまうのだろう。

 胸の内で膨らむ何かを抱えながら、川内は構えていた主砲を下ろし、舞風の傍へ向かう。どう見ても嵐は戦意を喪失しているし、錯乱した舞風のことも心配だった。

 

「ゴメン……」

 

 嵐はそれだけを残し、舞風たちに背を向けて走り出す。向かう先は萩風が投げられた島だった。

 加速してどんどんと離れていくその背中から、川内は夜空に目を向ける。

 上空をゆっくりと旋回しながら見守っていた竜の背中の彼女と再び目が合った。彼女は無言で、腕を島の方へ振る。

 

 追え。

 

 テレパシーも何もなかったけれど、言いたいことはそうだと分かった。見えたか分からないが、川内も黙って頷いた。

 二人とも、海上に立ち尽くしたままだ。舞風は燃え尽きたように俯いているし、野分も言葉を失ったようで、ただ舞風の背中をさすっていた。

 そこにいるのは大切な姉妹と決別し、打ちひしがれて傷付いた少女たちの姿。本来ならば敵味方の垣根を越えて手を取り合うはずだった彼女たちは、何かの擦れ違いで反発し合う磁石のように分かたれてしまった。たった今、川内が目にしたのはその場面なのだ。

 だからこそ、川内には言わなければならないことがある。この状況で、その役目を果たせるのは自分しかいないと自覚していた。

 

「行こう」

 

 声を掛けた川内を、野分が泣きそうな瞳で見上げる。舞風は顔を上げず、静かに頭を振るだけだった。

 

「無理だよ……」

「無理なもんか」

「無理だよ。ホントに」

 

 未だかつて、これほど絶望に満ちた声を川内は聞いたことがなかった。すべてを諦めた者というのは、最早涙も流せないのか。舞風の言葉は酷く乾燥していて、そこに一片の希望も探り出せない。

 

「あらっちを撃ったんだ。もう、取り返しつかないよ……。はぎっちも、二人とも、完全に……深海棲艦になってたんだよ」

 

 どうしようもないよ。

 

 身を絞るように呟く舞風。野分も沈痛な表情で、否定しない。

 その様子に、川内の奥歯が鳴る。胸の奥で膨らんでいたものがついに破裂し、猛烈な感情の奔流となって突き上げて来て、そして川内はそれを抑え込む術を知らなかった。

 

「諦めるなッ!!」

 

 舞風の肩が、怒声に震える。野分も驚いて目を剥いた。

 今まで、二人の前でこれほどの怒りを見せたことがあっただろうか。江風の前では何度も激怒したことがあったけれど、夜戦を出来なくなってから自分でも随分と角が丸くなったと自覚していたから、舞風にも野分にもこうして怒ったことはなかったはずだ。

 けれど、今は昔に戻ったように感情が溢れ返って来ていた。

 

「まだ何とかなる! 萩風も、嵐も、まだ助かる! まだ救える!! まだ、何も終わっちゃいないんだから!!」

 

 ついに顔を上げた舞風。

 並ぶ二人の肩に両手を置くと、右手だけ骨が疼くような激痛が走ったけれど、川内は無理やり笑顔で撃ち消した。

 

「そりゃあ、私たちだけじゃどうしようもないかもしれない。沈んだ艦娘が深海棲艦になって戻って来るなんて前代未聞だし、その上さらにその深海棲艦を艦娘に戻そうなんて誰も想像すらしていなかったはずよ。だからはっきり言って確かな方法なんてない。あの二人が艦娘に戻る保証なんてどこにもない」

 

 二人にとって、川内は頼みの綱なのだろう。川内自身が信じろと言ったから二人はここまで付いて来てくれたのだ。

 だというのに、その川内は手の平を返したように「保証がない」と言うので、二人とも目に明らかな失望を宿した。「ああ、私たちは騙されたのか」という、若干の怒りも含んで。

 だがもちろん、川内は否定で話を終わらせるつもりはない。

 

「だけど、私は確信を持って出て来たんだ。トラウマを克服し、単艦で出撃したのは、あの子たちを二人とも助けられる算段があったから。

それはさっき言わなかったよね? 言っても信じて貰えなかっただろうけど、でも今なら分かるでしょ。

上を見なよ。あの、空を飛んでいる存在を! 私たちの想像を上回る、不可思議があるってことを!」

 

 二人の目に、希望は戻らない。ただ、その瞳に月光が少し反射したような気がした。

 

「この世界には、まだまだ沢山私たちの与り知らない事柄がある。その中にはおとぎ話に出て来る魔法もあるんだよ。

私たちには出来ないことも、その魔法なら出来るかもしれない。その存在になら出来るかもしれない。

もちろん保証はないよ。やっぱりどうやったって無理な物ってのはあるだろうさ。だけど、賭けてみなければ始まらないじゃんか。

諦めるのは簡単だよ? でも、舞風も野分も、諦めたくなくて、萩風と嵐をどうしても取り戻したくて。だからあれだけの反対を押し切って、ここまで頑張って来たんだよね。

後一歩だよ? ここで諦めるの?

……私は嫌だね、そんなの。

私はいろんな物を捨ててここに来た。自分が取り返しのつかないことをやって、戻れない道を進んでいるっていう自覚がある。

もう私には、魔法に、奇跡に賭けるしかないんだ。それが自分自身で為せることじゃなくて、所詮は他力本願だとしてもね。

でも、私たちが信じなきゃ、祈らなきゃ、一体誰があの二人のことを信じるの? 一体誰が祈りを捧げるの? 

魔法は魔法でしかなくて、不可思議はあくまで不可思議でしかない。私たちにそれを使うことは出来ないけれど、それをあの二人に対して向かうように仕向けることは出来る。逆に、そうしなければ未来永劫、萩風も嵐も駆逐水鬼のままなんだ!!」

 

 確証も保証もない。川内が手に持つたった一枚の札には、ただ「信じる」という言葉のみが書いてある。

 

 一体、誰を?

 無論、レミリアだ。

 

 彼女を信じることが契約の条件であり、また川内に採れる唯一の選択肢だった。一点の疑いもなく、ただ萩風と嵐が戻ることを彼女に託し、信じ切って、祈らなければならない。そうでなければ、二人を救うことなんてあり得ないし、賭けに成功した時二人を抱きかかえてあげられない。

 ひたすら愚直に彼女を信じ、夢のような幸せな結末を追い求めるだけ。しかしそれこそが、奇跡を起こす原動なのだ。

 

「だから、行こう! 二人を迎えに!」

 

 二人から手を離し、川内はくるりと島へ身体を向ける。

 

 

 本当に他力本願でしかない。悔しいことだが、今の川内たちには事態を好転させる手段はなく、博打を打たなければどうしようもない。

 けれど、心の底から萩風と嵐を救いたくて川内は悪魔に魂を売った。それが倫理に反し、途方もない後悔をする羽目になったとしても、間違った選択だったとは露ほども思わない。

 もうこの身はどうしようもないほど血で穢れている。今更何をしようが罪が消えることはないし、地獄に落ちることも変わりはない。ならば、全力で我儘を言おうじゃないか。天が定めた運命という物が存在するなら、人知を超える力を利用してそれを捻じ曲げ、欲しい結果を手に入れてみせようではないか。

 最早、自分の罪滅ぼしや自己満足なんてどうでも良かった。

 ただ、舞風と野分が、そして萩風と嵐が、四人で笑い合っている。そんな未来があればいいなと思うだけだ。

 

 

****

 

 

 果たして、二人の駆逐艦は川内の後を追って来た。風を切る音、波を超える音、艤装の唸る音に混じって、背後から続く彼女たちの気配を感じ、川内の胸中に安堵が広がる。

 川内はあくまで脇役であり、彼女たちこそ主役なのだ。

 後は、もう二人の主役の元へ向かうだけ。

 

 コロネハイカラ島の周辺は、海面の下に岩礁が隠れているようで、近付けば座礁の危険があると事前に説明を受けていた。その説明を艦娘にしたのは、他ならぬ提督である。

 島の海岸に、先程の槍が穿った巨大なクレーターが出来ていた。それを見てあの槍の破壊力に唾を飲み込んでしまうが、恐らく彼女は岩礁と陸上部隊をまとめて吹き飛ばす意図で槍を投げたのだろう。

 川内はクレーターを横切って、浜辺に上陸する。航行艤装を脱ぎ、裸足で揚がると、足が柔らかい地面に沈み込んだ。

 熱帯雨林の腐葉土は思った以上に冷たく、自然と体が震えた。泥まみれになりながらも、酷く荒れた地面を歩く。

 辺りは凄惨な有様で、着弾の衝撃で薙ぎ倒されたマングローブがそこらじゅうに横たわり、黒く焦げて煙を吹いている。色んな物が焼けた臭いが混ざりあって吐き気のするような酷い悪臭となって充満しており、無意識に鼻に手をやった。

 地面には引き摺ったような跡が、海辺から森の方へと続いている。それを視線で辿っていくと、少し先に上陸したであろう嵐の姿があった。

 

「嵐!」と名を呼ぶと、驚いたように身体を震わせてから、彼女は主砲を川内に向ける。

 

「クルナ!」

 

 嵐は何かの上に跨っていた。その何かの姿を認めた時、川内はようやく彼女が何をしているか悟って、叫んでいた。

 

「やめなさい! 嵐!!」

 

 彼女が跨っていたのは、彼女以上に満身創痍の萩風だった。意識はあるのか、萩風は嵐を見上げているが、抵抗しようとはしてない。嵐の両手は萩風の首に掛けられていた。

 

「クルナ!!」もう一度嵐は喚いた。「コナイデクレ!!」

 

 主砲を向けられて川内も動けない。ここは海の上ではないから、自由に動いて狙いを外すなんてことも出来ない。追い付いて来た舞風か野分かのどちらかが、光景を目の当たりにして息を飲む音がした。

 

「何やってるの!? あらっち!!」

「“マイ”……」

 

 ゴメンナ、と彼女は深海棲艦らしからぬ弱々しい言葉を吐いた。

 

「オレタチハ、モウイッショニナレナイ。“ダイヨンクチクタイ”ニモドレナイ。クラクテ、ツメタクテ、サビシクテ、クルシイ、アノシンカイニ、マタ……シズムンダ!!」

 

 彼女は泣いていた。はっきりと目に見える、涙を流していた。

 その時川内の心に浮かんだのは、「深海棲艦も泣いたりするんだ」という妙な感慨で、だからちょっとばかり親近感を覚えたりもした。

 そう、嵐には喜怒哀楽がある。いや、“残っている”と言うべきか。

 あるいは、こうとも言えるかもしれない。

 

 ――取り戻した、と。

 

 

「ヨニンデ、イタカッタ。ウミニシズミタクナンテナカッタ。

ズット“ハギ”トフタリダケデ、カイテイヲサマヨッテイタ。ダレカニヨバレタキガシテ、ウミノウエニモドッテミレバ、ダレモガオレタチヲコウゲキシタ。ダレモ、オレタチヲタスケヨウトシテクレナカッタ」

 

 深海棲艦の声と言うのは、人間のようでまた似て非なるものだ。妙に甲高かったり、くぐもっていたり、時には気味の悪いエコーが掛かっていたりする。ひと声聞けば絶対に忘れられなくなるような声質で、同じ言葉を喋っていても、遠い存在だと認識するのは、そういうところがあるからだった。

 人の声ではない。艦娘の声でもない。敢えて言うなら、それは怨霊の声だ。死者の声だ。

 不気味で、寒気がする。長いこと聞きたくない。正直に言えば、一時も耳に入れたくない種類の音なのだ。深海棲艦の声と言うのは。

 

 しかし、今は違った。

 今、川内は全神経を傾けて嵐の声に耳を澄ましている。その声を、少しでもはっきりと聞き取ろうとしている。

 何故ならば、少し実その声質が変化していっているから。

 徐々に、徐々に、人ならざる者の声から、人の、艦娘の声へと。

 

「“マイ”ト“ノワッチ”ニ、サイゴニアエテヨカッタヨ。フタリトモゲンキデナ。オレタチは、モウ、逝くよ。

ゴメンな。一緒ニ居られなくテ。ケド、忘れないでくれよ。俺たちのこと……」

 

 戻っている。嵐の声は確かに、深海棲艦のそれから、彼女が本来持つ声へと戻りつつある。

 一方的に告げられる別れの言葉に反して、彼女は確かに変わりつつあった。

 にもかかわらず、嵐は艤装の左手で貫手を作って萩風の胸に狙いを定め、萩風は右腕の主砲を嵐の額に突き付ける。

 後一瞬で、全てがデッドエンド。そんな状態にまでなってしまう。

 

「そうじゃないでしょッ!! 私たちが何のためにここまで来たのか、分かってよッ! 嵐!!」

 

 野分が駆け出す。泥に足を取られるのも構わず、喉を絞ったような掠れた声で叫びながら。

 

「もうちょっとなんだから! もうちょっとで、帰れるんだからぁ!!」

 

 つられるように舞風も走りだした。ほとんど泣きながら、涙を撒き、鼻水を垂らして子供のようだ。

 川内も思わず後を追い掛ける。まだ二人よりかは幾分冷静で、自暴自棄になっている嵐がどういう行動に出るか分からないから二人を止めようとした。

 後を走っていた舞風の袖を掴んで力づくで引き戻す。野分は足元の倒木だか石だかに足を取られてしまい、その場でもんどり打って泥の中に盛大に身を投げることになった。

 そんな、必死で走り寄ろうとする姉妹艦たちに、嵐は泣き顔のような、怒ったようにも、あるいは笑っているようにも見える微妙な表情を見せた。彼女の中でどういう感情が吹き荒れているのか、彼女自身にも表しきれていないようだ。

 ただし、そこに一つはっきりと見出せる感情があるとしたら、それは「嬉しさ」だろうか。必死で駆けつけてくれた舞風と野分に対する、嬉しさだ。

 

「“マイカゼ”ハ、ワラッテ、オドッテ」

 

 言いたいことを言い終えたというより、感情がつっかえて言葉が出なくなってしまったように沈黙する嵐に代わって喋り出したのは、首を絞められているままの萩風だ。彼女はそれまでの戦いで見せていた激しい感情を引っ込めて、穏やかに姉妹艦を見つめている。

 

「“ノワキ”ハ、チャント、“マイカゼ”ヲササエテアゲテ」

 

 フタリナラ、ワタシタチガイナクテモダイジョウブダカラ……。

 

 そう付け加えた萩風は優しく微笑む。

 ああ、何と人間らしい表情なのだろう。一体、今の彼女たちをどうして深海棲艦などという化け物と呼べるだろうか。そこにあるのはただ少しばかりの素朴な感情だけ。

 二人は強大な駆逐水鬼ではない。ただ、姉妹の幸せを願うちっぽけな駆逐艦娘だ。

 けれど、このまま嵐と萩風は心中するつもりなのだろう。それがいかなる心理から導き出された行動なのか、どうしてここまで“自我”を取り戻せて、愛する姉妹が近くまで駆けつけて、その選択をするのか、甚だ川内には分からなかった。

 それとも、何だ。どうやったところで深海棲艦は艦娘に戻れないとでも言うのか。自らを無害な存在にするには、自決するしかないと悲嘆するのか。

 もう、川内たちには打つ手がなくて、嵐にも萩風にもどうしようもないのだろうか。

 

 ならば。ならば!

 

 この救出劇を、バッドエンドで終わらせようというのが世の定めなら、常軌で二人を救えぬと言うならば。

 では、常軌を逸脱した方法で救って見せようではないか!

 

 何せ、こちらにはこの世界が忘れ去った幻想がいるのだ。世界が駆逐水鬼の行く末を悲劇と固定してしまっているなら、世界に存在する誰にも彼女たちを救えぬと言うなら、世界に存在しなくなった幻想ならばその運命を覆せるはずだ。

 いわんや、彼女こそが幻想。世界の果てにて夢幻の住人であるモノ。

 

――故に、川内は彼女を呼ぶ。今、この世界でたった一人、哀れな仔羊たちを救い得る存在を。

 

 

 

 

「来いよ! デーモンロードッ!!」

 

 

 

 

 轟、と風が唸った。残っていた熱帯雨林が激しく掻き乱されて盛大に枝が擦れる。川内の言葉に導かれ、竜が再び降りて来た。

 

 いや、違う。降りて来たなどと言うのではない。落ちて来たのだ。

 

 

 川内から見て、嵐のさらに向こう。艦娘と深海棲艦の頭上を掠め、巨大な銀色の影が生い茂った木々を吹き飛ばしながら墜落する。

 太陽が現れたのかと思う、一際眩しい光が暴力となって川内たちに襲い掛かり、次には鼓膜が破れるような爆音と壁のような爆風が容赦なく叩きつけられた。

 

「ぐっ!」

 

 光と風に怯み、身を屈める。事態の進行があまりにも予想外過ぎて理解が追い付かなかった。

 顔を上げると、マングローブ林は赤々と燃え上がり、闇の中でも黒いと認識出来る煙を濛々と吹き上げていた。炎の熱で顔の温度が上がり、一方で背筋は氷が当てられたかのように冷たい。

 自分たちの知る何かが、自分たちの知らないところで決定的に変わったような気がした。見慣れた世界は見慣れたまま、しかし歯車が狂って知らない世界へと変貌した気がした。

 

 川内の慣れ親しんだ「現実」という世界に、「幻想」という名の異物が混入される。そして、その異物が入った故に世界が変わる。

 

「幻想」は人の形をして、人とは完全に違う姿で、川内の目の前に姿を現したのだ。

 

 

 

 ――燃え上がる炎を背景に、一人の少女が立っていた。墜落の衝撃も、爆発も、まるで何事もなかったかのように彼女はそこに居た。

 身にまとう衣装は見慣れた軍装ではなく、この熱帯の島に酷く場違いな白いドレスだ。何よりも彼女が人ではないことを示しているのは、その背中から左右に飛び出す黒い翼の存在だった。彼女の身長よりも大きいと思しきそれは、蝙蝠のようで……。

 

 

 

「艦娘って、楽しい生き物よね」

 

 場違いな格好の少女は場違いに愉快気な声で、友人に話し掛けるような軽い口調で言葉を紡いだ。

 ゆったりと両手が広げられる。

 

「泣いて、笑って、怒って、喜んで。見ていて飽きないわ。狂おしいほどに愛おしく、狂おしいほどに愉快な存在。戦いの運命に縛られ、傷付き、苦しみ、嘆こうとも、それでもなお屈服せず運命に抗おうとするなんて、本当にもう身悶えするほど愛くるしい」

 

 悠然と彼女は近付いて来る。その声は言葉の通りどこまでも楽しげで、少女は少女らしく、興奮に彩られて軽い足取りだ。

 

「私は悲しい物語より楽しい物語の方が好きよ。悲劇もそれはそれで面白いけれど、やっぱりハッピーエンドがいいわね」

 

 それまで逆光で影になっていた彼女の顔が照らし出される。彼女が広げた両手が光っているのだ。いや、手自体ではなくその掌に何か発光するものが収束していた。

 

「来るなァ!!」

「ヨルノ……『オウ』!」

 

 それまで茫然と眺めていた嵐が叫び、萩風は突然狂ったように嵐に向けていた主砲をレミリアに狙いを変えて撃ち出した。狙いも何もあったものではない。ただの乱射。当然、至近距離から放たれた無数の砲弾が彼女に襲い掛かる……はずだった。

 弾はすべて彼女の背後に着弾する。二人と彼女の距離はほぼ数十メートルという近さなのに、一発として彼女に当たらない。その様子は、川内の目にまるで砲弾“が”彼女を避けて着弾しているように映った。

 

「もしここで貴女たちが死ぬ運命だというのなら、私がそれを曲げてみせましょう。私の両の手が、その運命を変えてみせましょう」

 

 砲撃の中で、悪魔はゆっくりとした口調で語る。

 

「貴女たちが死ぬ必要なんてない。救われないなんて嘆くこともない。涙も悲しみも、全部私が飲み干してあげるわ。

皆、私の子。

皆、私の血。

忘れたなら思い出させてあげる。海馬の奥に、シナプスの影に、私の名を仕舞い込んでいるなら、今こそ貴女たちは忘却に気付くでしょう!

そして、もう二度と私を忘れられなくしてあげる。こんなにも月は紅く! こんなにも夜は暑いから!」

 

 少女は宣言した。

 

「我が名はレミリア・スカーレット!!

栄えあるツェペシュの末裔!

紅月の夜の王!!」

 

 

 スカーレット・マイスタ。

 

 

 レミリアは左手を振る。その掌に集まっていた光が、球状の巨大な大玉となって嵐に放たれた。

 避ける暇もなかったのだろう。大玉は嵐に当たると、風船が割れるような派手な音を立てて弾けた。直撃を受けた嵐も萩風の上から吹っ飛び、地面に叩きつけられる。

 

 そこから始まったのは、正真正銘の弾幕だった。

 一度背中の翼で大きく羽ばたくと、レミリアの身体がふわりと宙に浮かぶ。そのまま滞空しながら彼女が交互に左右の手を振りると、その度に掌から紅い大玉が放たれて嵐や萩風に襲い掛かる。同時に、大玉の周りに大小の丸い弾が飛び交い、無秩序に地面に着弾しては破孔を穿つ。

 そのほとんどすべてが無意味に撒き散らされているもので、木の破片が転がる地面をさらに耕し、土埃を上げ、ひたすらに破壊をばら撒く。狙いが付けられているのは大玉だけだが、着弾した時の激しい音とは裏腹に威力はさほど高くないようで、嵐は両腕で防御の構えを取り、萩風は地面に蹲ってやり過ごそうとする。

 弾幕のほとんどは何か意味があるように見えなかった。周辺に敵はいないし、壊すべき何かがあるわけでもない。この弾幕が、レミリアの持つ尋常ならざる力によって生み出されているものだとしても、こうしてただばら撒くのはその力の浪費なだけに思えた。それでも、敢えてそこに意味を見出すとしたら、それはこの弾幕が描き出す華麗さや美しさではないかという気がする。

 弾幕は不規則に放たれているのではない。大中小の弾がそれぞれ決められたように弾き飛ばされている。レミリアが右腕を振るえば反時計回りに、左腕を振るえば時計回りに弾が撒かれる。まるで、彼女はこうして「魅せる」弾幕を放っているかのようだった。

 だが、見惚れている場合ではない。弾幕がさほど自分に害のあるものではないと気付いた嵐が猛然と反撃に出たのだ。

 その身体は続く戦いの影響で全身傷だらけであり、艤装も破損が酷い。半分潰れた主砲やら惨たらしく肉のえぐれた腕やらが、如何に嵐が追い込まれつつあるかを如実に示している。それでも尚闘志を失わない瞳で、彼女は咆哮し、空に浮かぶ脅威へ立ち向かっていった。

 片方だけになり、焼けただれ、砲身が赤く発熱する主砲をレミリアに向け、雄叫びを上げながら発砲する。最早彼女には、相手がそうした攻撃がまともに通じる存在ではないというのは分かっているだろう。だが、最後まで諦めないのは駆逐艦「嵐」としての矜持なのか、あるいは深海棲艦「嵐」としての破壊衝動なのか、果たしてどちらだろう。

 

 

 

 いずれにせよ、やはり彼女の攻撃は無意味なものだった。

 

 レミリアが弾幕を消す。消える時、弾幕は一斉に掻き消すように宙へ溶けていった。

 そして彼女は小さく羽ばたくと、空中で姿勢を変え、頭を下に足を上げて、何もないはずの空間を思い切り蹴りつけた。

 

 バッド・レディ・スクランブル!

 

 そんな宣言を聞いたような気がした。空間を蹴って勢いよく飛び出したレミリアは、身体に捻りを加えて、白い衝撃波をまといながら錐揉み状態で一直線に嵐の下に飛び込んでいく。

 レミリアに掴みかかられた嵐は、地面に再度叩きつけられ、さらに勢い余って引き摺られる。衝撃の余波で濛々と土煙が立ち上り、川内の目から二人を隠したのも束の間、激しい風が吹き荒れて二人の姿が再び現れた。

 ついに戦闘不能になって倒れ伏す嵐と、その身体に跨って裂けたような笑みを浮かべるレミリア。

 

「嵐!!」

 

 野分が飛び出そうとするのを、川内は袖を掴んで遮った。事態はもう、艦娘にどうこう出来るレベルを遥かに超えている。とっくに、川内たちに出来るのはただ祈り、見守るだけになっているのだ。

 

「後ろ!!」

 

 今度は舞風が叫ぶ。その言葉の通り、レミリアの背後に立ち上がった萩風の姿があった。

 竜に放り投げられ、嵐と心中寸前まで行き、弾幕に襲われて、彼女もまた満身創痍になっていたが、未だその目は爛々と光を放ち、大きく振りかぶって艤装の両腕でレミリアに殴りかかったのだ。

 

 執拗と言えば執拗。勇敢と言えば勇敢。

 往生際の悪さとも、不撓不屈とも言える彼女の精神性を、川内は素直に称賛する。嵐同様、最後まで諦めないその姿勢はひょっとしたら彼女が持つ「仲間」への想いがなせるものなのかもしれない。

 海上での夜戦の時や心中の時とは打って変わって、その顔に現れているのは溢れんばかりの憎しみでも諦観の笑顔でもなく、恐怖と激痛に歯を食いしばりながらも、必死で戦おうとする戦士の意地だ。

 

 これこそが、萩風の本当の姿なのかもしれない。彼女は今まさに、深海棲艦ではなく、「萩風」という一人の少女として戦っていた。

 

 だが、悲しいかな。その健気な反撃も圧倒的な力に粉砕されてしまう。

 

 レミリアは上体だけ捻ると、背後から振り下ろされる萩風の巨大な拳を片手で受け止める。肉を打つ鈍い音がして、飛び掛かった萩風の身体が動きを止めた。

 

 驚愕と恐怖に染まる萩風。掴み取られた拳を離すことも出来ず、あり得ないほどの怪力で振り回され、萩風は宙に浮く。そのままレミリアが掴んでいる方の腕を振り降ろすとされるがままに萩風も叩き伏せられてしまった。

 

 

 勝負は完全に着いた。否、元より勝負になどなっていなかった。

 南方戦線を崩壊寸前まで追い込んだ、未曾有の強敵だったはずの「双子の駆逐水鬼」は今や見るも無残に泥にまみれ、ただ圧倒的な暴力に蹂躙されるだけだった。最早虫の息の二人は指一本動かすことも出来ないのか、苦しげに表情を歪めながら、自分たちを見下ろす深紅の双眸を見上げるのみ。

 

 彼女たちは確かに多くの人間を死地に追いやったが、その代償が果たしてこれなのか。暴力とは、斯くも理不尽に振るわれるものなのか。

 言葉を発せない二人の内、まずは萩風の方にレミリアが覆い被さる。

 ぐったりとした彼女を抱え上げ、背後で燃える炎の明かりにその顔が照らし出されるように掲げるレミリア。

 

 

 その唇が、ゆっくりと開かれた。

 

 唾液で白く反射する小さな歯が見える。その奥に、川内は鋭い牙を認めた。

 

 

 レミリアは正真正銘化け物だ。今まで人の皮を被っていたのが、それをかなぐり捨てて正体を現した。

 

 では何の化け物か。ただ怪力を振るうだけの存在か。

 

 いや違う。彼女は自らの正体を、名前と一緒に披露した。そして今、自らの種族を証明する牙を明かりに照らし出している。

 

 

 レミリア・スカーレットは吸血鬼だ。

 

 

 ドラキュラ――ヴラド・ツェペシュの末裔を名乗る少女は、大きく口を開いて萩風にキスをする。それこそがまさに、彼女を彼女たらしめる行為に他ならない。

 

 捉えられて身動きの取れない萩風は目を見開き、せめてもの抵抗に両腕を振り回すが、万力のように固定されていてはどうしようもない。二人の唇が重なり合う場所で、萩風の皮膚をレミリアの牙が貫通し、そこから血を吸い出しているのを想像して、川内はぞっとした。

 

 

 何とおぞましく、何と淫靡な光景だろう。

 燃え盛る炎を背景に、深々とキスをする少女と少女。それだけなら映画のワンシーンにも思えたけれど、あまりにも背徳的で吐き気さえしてきた。

 

 ほどなく、レミリアは萩風から口を離す。

 意識をなくし、その場に崩れ落ちる姉妹艦を見て、そして次は自分の番であることを悟って、嵐が小さく悲鳴を上げる。

 恍惚とした表情の吸血鬼に、嵐は這ってでも離れようとする。が、あっけなく覆い被さって来たレミリアに取り押さえられ、尚も頭を振って逃れようとするが、額を片手で押えられてはどうにもならなかった。嵐を地面に押さえつけたまま、レミリアは萩風と同じくキスをする。

 一瞬、背中の翼が跳ねたが、やがてゆっくりと下まで降ろされ、二人の顔を川内たちから隠してしまう。

 嵐は足をばたつかせてあらんかぎりの力で抵抗していたけれど、それもやがて大人しくなって、ついには動かなくなる。しばらく嵐を組み伏せていたレミリアも、相手が大人しくなるといよいよ血を吸い出したようだった。

 

 時間は異様に長く感じられた。燃え上がる木々がぱちぱちと弾ける不規則な音は、時計の秒針が刻む音に思え、動きのない光景に川内は自分の心臓すら止まっていたかのような錯覚を覚える。喉は完全に干上がり、火災から伝わって来る熱のせいなのか、こめかみから流れ落ちる汗が止まらない。

 動くことも、目を閉じることさえも許可されていないようで、川内もまたなす術もなくレミリアの吸血行為を網膜に刻みつけるより他なかった。彼女が嵐を離して立ち上がり、紅い液体を口元から流すまで、川内たちに許されていたのは呼吸することだけだった。

 

 

「終わったわ」

 

 彼女は口元の血を指で拭う。映画を観終わった子供のような表情で、彼女はうっすらと笑った。

 

「提督」

 

 川内は、漣が彼女を呼ぶ時のように、レミリアを呼び直した。

 

「……いや、お嬢様」

 

 そう噂されているように、彼女はやはり貴族の出身なのかもしれない。

 化け物の身分に貴賤があるのかはともかくとして、隔絶した力とそれに裏打ちされた自信とプライド、高過ぎるそれらを持つ故に身に付けられた気品が、川内にレミリアをそう呼ばせた。

 

「吸血鬼だったんだね」

 

 確認するように呟くと、レミリアはにっこりと笑みを深めた。

 

「そうよ。私は吸血鬼。夜の王」

 

 不死の女王は喉を鳴らした。

 

「そして、運命の支配者」

 

 

 

 レミリア・スカーレット。

 

 我らが提督にして、永遠に幼き紅い月。

 

 

 川内は自然とその場に膝を着いた。彼女を畏怖して、立っていられなくなったのだ。

 頭を垂れて、恭しく敬意を表する。元より契約したこの身は、彼女に忠誠を誓わなければならないが、その事実を差し引いても尚、心底レミリアを畏れる気持ちがあらゆる感情を超越した。

 目の前に、大きな気配が立つ。顔に冷たい手が添えられ、目を上げると、血色の瞳が見下ろしている。長い睫毛の付いた瞼は眠たげに半分ほど閉じられていて、その奥から底知れない緋色が川内の姿を反射していた。

 彼女はほとんど何もしていない。ただ少し、川内の頬に指を添えているだけ。にもかかわらず、川内はまるで雁字搦めになったように身動きが取れなくなってしまった。肺が呼吸することさえ圧迫されて、息が苦しくなる。

 

 意識が覚醒しているのに金縛りにあっていた。

 

 パッと、レミリアが手を離した。小さな悲鳴が上がる。漏らしたのは野分か。

 

「怖がる必要はないわ」

 

 レミリアは野分に目を向けると歌うように呟いた。この場にはあまりにもそぐわぬ、しかしとても彼女らしい口調。

 

「あの子たちは無事よ。ただちょっと、愛情のキスをしただけ」

 

 自ら行為をそんな風に言い表し、レミリアは軽やかに振り返って歩き出す。

 

 

 手を後ろに組み、ピクニックに出掛けるような調子で。

 

 

 

「さあ、帰りましょう。私と、貴女たち“五人”でね」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督21 Compleat remission

 物事が全て狙い通りに、上手くいってしまった後と言うのは、意外と興奮しないものだということを川内は初めて知った。それまで数多くの戦場を渡り歩いて来て、これ程までに完璧に目的を達成出来たという経験がなかったからだ。

 守りたかった舞風と野分は負傷しているものの命に別条はなく、救いたかった萩風と嵐は意識はないけれどちゃんと呼吸している。確かに川内は、第四駆逐隊が四人に戻れたことを確認した。

 疲労は見えるもののまだ元気な舞風や野分とは違い、レミリアに二人仲好く戦闘不能に追い込まれてしまった萩風と嵐の姿は見るも無残な有様だった。川内たちが二人を助け起こした時、駆逐水鬼の特徴とも言える太い腕の生えた艤装は見当たらず、彼女たちの周囲に黒い煤のような物だけが散らばっているのみで、後は何も身に付けられていない。二人とも全裸で横たわっていたのである。

 いくらなんでもこれはまずいと川内が言うと、レミリアは少し考え、それから指を弾いた。何もない空間から、大きなポンチョのような布が二枚、ひらりひらりと宙を舞い、裸の二人に被さる。

 これには川内も含め、見ていた三人全員が閉口してしまった。これが魔法だ、と言われればそうなのかもしれないが、改めて目の前に人知を超えた存在が立っていることを思い知らされる。

 艦娘たちが驚きのあまり言葉を失ったままでいると、若干機嫌を悪くしたようにレミリアは頬を膨らませて手を叩いた。

 

「呆けている場合じゃないわ。早く帰りましょう」

 

 声と音に急かされて三人は我に返ると、慌てて倒れたままの二人の容体を調べ始めた。

 萩風も嵐も、駆逐水鬼だった時は肌が青白く血の気がなかったが、今は人間のような肌色で、顔色も血の気が戻っていた。呼吸と脈拍を確認し、二人が生きていることに安堵する。まだ意識が戻らないのは心配だが、何はともあれ二人は深海棲艦ではなくなったようだった。

 ただ、心配といえばもう一つ、川内の頭にある懸念が思い浮かんだ。

 

 レミリアは吸血鬼で、先程はその名の通りの行為を二人に施していた。

 ドラキュラ伯爵の物語を川内は全て知っているわけではないが、どこかのテレビで見た、青白い顔の男が美女の喉元に食らいついて血を吸うと、美女もまた血の気を失って吸血鬼になる。そんな描写があった筈だ。

 

「あの子たちは、その、大丈夫なの?」

 

 単刀直入に尋ねることが躊躇われて、言葉を濁してしまったが、レミリアに意図は通じたようだ。彼女は首を振る。

 

「大丈夫よ」

 

 横で聞いていた舞風と野分も、不安げな表情を見せていた。ある程度説明を受けていて、まだ事態について行けている川内はともかくとして、二人はまったく青天の霹靂で今までのことを見ていただろう。その心中が不安と混乱で埋め尽くされているのは想像に難くない。

 それを察してか、レミリアも優しげな笑みを二人に向けた。

 

「貴女たちの姉妹は深海棲艦ではなくなった。艦娘として再び生を歩める。それは保証するわ」

「……でも」

 

 尚も舞風は困惑顔だ。それは確かに、いきなり大丈夫だと言われても「はい、そうですか」と返事出来るものではないだろう。ましてや、相手は超常の存在である。彼女の言葉のどこまでが真実で、どこまでが虚実なのか。舞風にそれを測る物差しなどないだろうし、川内のように何かしらのやり取りがあって信頼関係を築き上げられたものでもない。

 

「血を吸われたら、吸血鬼になるんじゃ」

 

 それにしても、舞風はわざわざ川内が言葉を濁したことをはっきりと、単刀直入に言ってしまった。吸血鬼に、「吸血鬼になってしまうんじゃないの」と尋ねるのは、よく考えればとても失礼なことだろうし、だから川内もぼかしたのだが。生憎、混乱の極みにある舞風にはそこまで思考を回す余裕がなかったのかもしれない。

 片や、レミリアと言えば別段気分を害した様子もなく、朗らかに笑って答えた。

 

「確かに血を吸って吸血鬼に、自分の眷族にすることは出来るわ。でも、いつもそうするわけじゃない。子供作りたくないならゴムを着けるのと一緒よ」

「ゴム……!?」

 

 息を飲んだ野分に、レミリアはさらに楽しげに笑った。下品な例えはどうやら狙ったものらしい。

 何気なく品のない冗談を飛ばして鷹揚に笑う姿には年長者の貫禄があったが、そもそもレミリアの見た目からしてその手の発言は色々と危険だ。果たしてこの熱帯の島で法律がどう適用されるのかは分からないが、倫理的にアウトだということははっきりしている。

 

「そういう、ものなの?」

 

 顔面を紅潮させて絶句する野分に対して、舞風は冗談にニコリともすることなく真剣な表情で問い返す。案外スルースキルが高いのだろう。

 

「ええ。そういものよ。そもそも、私はこうしてあの子たちを助け出すためにここに来たの。なのに眷族にしてどうするのよって話」

 

 先程までの、威厳と威圧感はすっかり鳴りを潜め、かわっていつもの「提督」らしいフランクな態度の彼女が現れていた。レミリアの中で何かのスイッチが切り替わったのかもしれないが、どうやら彼女も緊張を解いて幾分リラックスしているようだ。

 舞風は嵐を抱き上げ、その額に自分の額を合わせる。泥だらけになっている赤い髪を優しく撫でて、彼女は呼気と共に「ごめんね」という言葉を小さく吐き出した。

 

 ああそうか。舞風が不安になっているのは、吸血鬼云々ではないのだ、と川内は気付いた。

 

 彼女が一番心配しているのは、先程嵐を撃ってしまったことなのだ。大切な姉妹艦のはずなのに、演習砲弾ではなく実弾を、敵に向けるべき主砲を錯乱して叩き込んでしまった。

 舞風は、そのことをきっと後悔しているのだろう。よりにも寄って、と思っているのだろう。

 レミリアが川内に目配せする。彼女も舞風の真意に気付いたらしい。

 川内はこくりと頷いて、舞風の背後に立ち、思いの外華奢な肩をそっと抱きしめてやる。

 

「大丈夫だって。舞風がこんなにも二人を想ってるんだよ。その想いはきっと通じるし、二人とも舞風のことを恨んだりしないよ」

 

 優しく囁き掛けると、舞風は小さく肩を震わせた。

 

「……あらっちは」

 

 泥にまみれた嵐を、彼女は本当に愛おしそうに抱く。そこに存在していることを確かめるように、彼女の鼓動を感じるように。

 

 

「優しいから、怒ったりしないって分かってる。でも、でもね。怖いんだ。また、遠くへ行っちゃいそうな気がして……」

 

 

 

 取り戻した姉妹。間近に見えた四人一緒の未来。

 目の前の幸福に、舞風は躊躇しているようだった。あまりにも事が思い通りに進み過ぎて、却って彼女は結果を上手く受け止められなくなっているのかもしれない。

 

 けれど、川内の脳裏に浮かぶのは笑い合う四人の姿だ。

 舞風が得意のダンスを披露して、嵐がそれを真似する。野分が下手くそな嵐の踊りを笑って、舞風は萩風の手を取りさらにワルツのステップを踏む。

 戦いの合間のそんな穏やかな一時を、彼女たちが手に入れる未来はもうそれほど遠くないはずだ。

 

 

「今すぐ一緒になるのは難しいかもしれない」

 

 レミリアはおもむろに話し出した。

 舞風は顔を上げ、彼女に目を向ける。

 

「貴女たちの間には錬度の開きがあるし、駆逐水鬼として活動していたその子たちがすぐに軍に受け入れられるかと言うとそうじゃないかもしれない。残念ながら、面倒な手続きやら過程というのがたくさんあるのよ。

でも、いつか必ず貴女たちは一緒になれるわ。それは、この名にかけて保障する。もし誰かが貴女たちを離れ離れにしようとしたら、その時は私に言いなさい。何とかしてあげるわ」

 

 提督は不敵に笑った。ずいぶんな大言を吐いたが、彼女なら本当に有言実行してしまいそうだ。

 そこで初めて、沈んでいた舞風の表情が明るくなるのを川内は見た。

 パッと花が咲いたように彼女は笑い、それが本当の彼女の姿で、やっといつもの舞風に戻って少女は

 

「ありがとね、提督」

 

 と言った。

 野分も舞風の隣に並び、彼女らしく深々と頭を下げて「ありがとうございます」と礼を言う。

 その身は歓喜に溢れ、湧き上がる感情を今にも爆発させようとしていた。実際、野分の目元には涙が溜まっている。

 レミリアも満足気だ。一つ頷いて、彼女はもう一度手を叩いた。

 

「さあ帰りましょう。皆待っているわ」

 

 

 

*****

 

 

 実際問題として、川内たちの残燃料が少ないのは確かなことだった。特に舞風と野分のそれは深刻で、長引いた戦闘の余波でもうほとんど残っていない。どう計算しても、自力で「硫黄島」まで帰るのは不可能だった。

 

「こんなこともあろうかと、艦長に『硫黄島』で来るように命じてあるわ」

 

 とは、やたら段取りのいい提督の言。予想される問題に対して、的確に対処法を用意しておくというのはなかなか出来ることではない。

 川内が無線で「硫黄島」と連絡を取り合うと、夜明けには島の近くまで行けるという返答があった。

 

「しばらくここで待機ね。寝たかったら寝ててもいいわよ」

 

 とレミリアは言うが、下は泥の地面であるし、未だに周囲の熱帯雨林は燃えているし、そもそもこの島にはまだ敵が残っているはずで、とうてい寝れるような環境ではない。辺りには焦げ臭い臭いが充満していて、川内は火災の火を見て敵が集まって来ないかと心配になる。まあ、負けることはないのだろうけれど。

 

 しかし、それにしても待ち時間が長くなってしまった。もうとうに日付は変わっているだろうけれど、夜明けはまだまだ先である。

 一言で言うと暇になったのだ。

 舞風と野分はそれぞれ嵐と萩風を抱え、燃えていない、恐らく戦いの衝撃で吹き飛ばされたと思われるマングローブの倒木に腰掛けていた。川内とレミリアも同じ木に座り、六人で仲良く並んで迎えの船を待った。

 川内は空を見上げる。半月は見上げるほどの角度にあらず、もう水平線の向こうに沈もうとしていた。

 

「月が、紅いね」

 

 レミリアに向けてそう呟くと、彼女は黙って頷いた。もちろん、意味は通じたのだろう。

 

「あ、ホントだ」

 

 同じように見上げたのは舞風で、野分と顔を合わせて「あんな色になるんだね」と言った。

 

「本当に紅い色をしているわけじゃないわ。そう見えるだけなのよ」

 

 とレミリアが説明を始める。

 それから彼女は川内にしたように、この島の周辺には結界が張られていることを打ち明けた。だから、外から敵が侵入して来ることもないとも。

 それを聞いた駆逐艦二人は信じられないように目を見開いたけれど、それは今更だろう。二人ともすぐに、そういうもんなんだと、妙に納得してしまったようだ。

 

「私たちは超常の存在よ。そして、今は誰も信じなくなった幻想でもある」

 

 レミリアはそう語る。

 

 

 彼女のような幻想の存在は、かつて世界中のどこにでも暮らしていた。人が居る所ならどこにでもいて、人と共に歴史を歩んできた。

 人間は彼らを畏れ、敬い、常にその存在の下で慎ましくもたくましく生きていたらしい。人間が時には楯ついて戦いを挑んだこともあり、実際それで倒された幻想もあるという。しかし、それでも人間が幻想を忘れることはなかったのだ。

 時代が変わったのは、明確に産業革命を経てからだとレミリアは言った。

 彼女も、幼い少女のようななりをして、実は五百年以上も生きているそうだ。十六世紀の生まれだと言われても、生憎川内たちにはピンとこなかった。それどころか、世界史の勉強などまともにしていない川内にはその時代に何があったかさえ知らなかった。

 歴史の勉強が足りていない川内が遠い過去に想像を及ばしている間にも不老長寿の少女は語る。

 人々は科学技術と経済が発展すると、やがて物質的な豊かさを享受するようになり、お金が世界を巡るようになって幻想よりその力を畏れ、欲するようになった。科学で説明出来ない幻想の存在は、不確かな法螺話というレッテルを貼られて忘れ去られるか、下世話な好奇心を満たすだけのおとぎ話のカテゴリに押し込まれてしまう。

 かつては人と共にあり、人の心の中に棲んでいた幻想はいつしか世界に存在することすら出来なくなり、人知を超える強大な力も霞と消え去った。さらに彼らが好んで潜んでいた荒野や深い森も次々と開発されて、心理的にも物理的にも住むところを失ってしまった幻想たちは、やがて自分たちを守るため、まだ残されていた未開の土地を結界で区切り、そこを終生の地と定めた。

 科学と経済の発展する世界とは分け隔てられ、古き良き幻想たちが安住出来る場所。

 

 ――それが、幻想郷だ。

 

 

 

「幻想であるが故に忘れ去られ、人間から否定された私たちに残された最後の理想郷。

私たちは一人ひとりが人間よりも遥かに強力な力を持っているわ。たった一人で万の軍勢を殲滅出来るし、数百の鋼鉄船を沈めてみせましょう。けれど、人間の世界そのものにはどうしようもなく無力だったわ。私たちがどんなに望んでも文明は進み、人間は科学への憧憬を強めていった。

弓矢が鉄砲に代わり、鉄砲が大砲やミサイルへと発展していっても、私の肉体はその全てを弾き返し、それらに滅ぼされることはない。けれど、ただ『忘れられる』だけで、たったそれだけで、私たちはなす術もなくことごとく駆逐されていったわ。それこそ、見事というより他はない」

 

 レミリアの語る世界は無常だ。異形への怖れとある種の憧れは、いつのまにやらテクノロジーと利便性への夢へ挿げ替えられ、金融という物差しによって夢が図られる時代へとなってしまっていた。異形はまごう事なき人間への脅威であり、人々は意識してか無意識か、彼らを忘却の彼方に追いやることによってついにこれに勝利し、ヒエラルキーの頂点として繁栄を謳歌している。

 いわんや、それが世界というものなのかもしれない。世界は、異形の力を以ってしてもどうしようもなく無情なものなのだ。

 

 それでも、語るレミリアの眼差しに悲哀や怒りはまったく見受けられない。面接で自分の経歴を語るように、ただ過去にそういうことがあって今どうなったか、というのを説明しているだけのような、妙に淡白で味気ない語り口だ。

 だから、次に彼女がいつものような、何か面白いものを見つけた時にするちょっと子供っぽい笑みを浮かべた時、川内は唾を飲み込んでより傾聴の姿勢になった。あるいは、それがレミリアの話術なのかもしれない。

 

「けれど、貴女たち艦娘と深海棲艦はこの世界に生きている。“説明出来ない対象”として、科学の域を超えて存在している。

深海棲艦は、狩られる恐怖を忘れていた人間に、それを散々思い出させたわ。

文明の利器が通用しない脅威。殺し合いではなく、自分たちを虐殺の被害者にしてしまう猛威。人間にとってそれは、まさに現世に戻って来た悪夢だったでしょう。

けれど、彼らは同じく夢幻の力で対抗する手段を得た。それが、艦娘。

かつて、妖怪や悪魔に人間たちが異形の力――妖術や魔術――を用いて立ち向かっていったように、深海棲艦に対して艦娘という力を身に付けたの。貴女たちは人間の力そのものであり、人間が思い出した幻想でもある」

「私たちの力って、魔法とか魔術の類なの?」

 

 川内が尋ねると、レミリアは素直に首肯した。

 

「その認識で違いないわ。だってそうでしょ? そんな小さな玩具みたいな鉄砲が、何倍も大きい艦砲と同等の破壊力を持っているのよ。炸薬の量や砲弾の質量からは到底考えられないような威力がある。短い呪文で複雑な術式を展開する魔女の業と通ずるところがあると思わない?」

「じゃあ、あらっちとはぎっちが深海棲艦になったのは……」

「“裏返った”のよ」

「“裏返った”?」

 

 レミリアは少し考え込む。頭の中で艦娘たちに分かりやすいような説明を組み立てるために設けた間のようだ。

 

「艦娘は元々ただの人間。でも、知っての通り誰でもなれるわけじゃなく、一定の適性がみられなければ艦娘にはなれない。

その適性というのは、政府や軍は色々と理屈をつけて説明しようと努力しているみたいだけど、私から言わせればこの一言に尽きるわ。

『幻想への感受性』」

「幻想への感受性?」

 

 舞風はオウム返しに問い返したが、川内にはピンとくる言葉であった。

 もちろんその言葉自体は今初めて聞いたものだが、レミリアの言わんとしていることになんとなく心当たりがあるのだ。

 

「そのままの意味よ。幻想をどれだけ感じて受け入れられるか。その度合ね。

艦娘も幻想の力を扱う存在だから、当然それを艦娘本人が受け入れられなければ扱えるわけがない。現に、そういった感受性を持つ貴女たちだからこそ、私から常識を逸脱するような話を聞いても頭ごなしに否定するようなことをしないのでしょう。貴女たちが、私の言うこと、私という存在、あるいは私の背後にあるその他多くの幻想を受け入れ始めている証拠なのよ。

もちろん、感受性というのだから、人それぞれよ。と言うより、幻想に対するその人の心の構え方ね。摩訶不思議を摩訶不思議として受け入れるか、幻や見間違いと断じて拒絶するか。それはその人の精神性が左右する。

艦娘というのは、摩訶不思議を摩訶不思議として受け入れた少女たちのこと。だからこそ、貴女たちは幻想の力を扱える。幻想を受け入れたことで、自分自身も幻想に近付いていく。それらすべては、個々の艦娘の精神性が為せる結果。

つまり――」

 

 と、レミリアは言葉を切って一呼吸置く。軽く唇を舐め、聞きに入っている三人の艦娘に軽く視線を投げてから、一つひとつ文を置いていくようなゆっくりとした喋りで続けた。

 

「つまり艦娘は、と言うより幻想というのは、精神性によって決められるもの。解釈の問題よ。

例えば、酸化鉄とアルミニウムを着火して噴き上がる炎を見て、それが魔法で呼び出された火蜥蜴の息吹と解釈するのか、単なるテルミット反応だと解説するのか、その違い。

私たち妖怪のような幻想の存在は、精神性によって自身の在り方が確立されるの。

もちろん、生きているわよ。ただ、魂の依存相手が人間とは違うだけ。

私たちは心臓を刺されようが首を刎ねられようが死にはしないわ。多くの場合、肉体の損傷が私たちを殺すことに繋がらない。何故ならそれは私たちの魂が肉体に依存していないから。

人間は逆よね。魂は器である肉体に入っていないといけない。その肉体が著しく損傷すれば魂を保持していられなくて、人間は死んでしまうわ。だけど、私たちはそうならない。艦娘も、ね。

貴女たち艦娘が敵の砲弾で体を吹き飛ばされても、修復材で元通りになるのは、魂が肉体に依存していないからよ。だから傷付いたところで修復出来ればそれでいい。

では、妖怪や艦娘の魂はどこに依存しているか。それが、精神よ」

 

 回りくどくて長い話だが、レミリアは明確に“そう”だと言っている。舞風も野分もピンと来ていなさそうな顔をしているが、それでも話を理解していないわけじゃない野分が的を得た合いの手を入れた。

 

「私たち、もう人間じゃないってことですか? 艦娘は妖怪だって」

「さあ?」

 

 だが、予想に反してレミリアは口の端を皮肉っぽく歪めて肩をすくめるだけだった。肯定をしたのでも否定をしたのでもない。

 

「さあって?」

「精神や解釈の問題って言ったでしょ? 艦娘たちが、『結局自分は何者なのか』と考えるのは、それぞれの己に対する解釈の仕方次第。

自分を妖怪だと思えばそうでしょう。でも、人間と思えばそれもまた真になる。

幻想郷っていうのは、酷い言い方をすると忘れ去られた幻想たちが集まる掃き溜めのような場所よ。だから、色んな奴が居る。吸血鬼はレアだけど、天狗ならうんざりするくらいたくさん居るわ。他にも魔法使いとか妖獣とか、亡霊やら死神やら、とにかく色々。中には人間も居るけど、妖怪より余程人間離れしているような連中が、自分のことを『全く以って人間である』って名乗っているのよ。不老不死であったり、どんな妖怪も調伏してしまう神力を持っていたりしても。

まあだから、多少化け物じみているからって人間であることを諦める必要はないわね」

「ってことは、自分のことを人間と思えば人間だし、そうじゃないと思えば人間じゃなくなるんだ」

「その通りよ、舞風。でも、この解釈の仕方次第っていうのが曲者でね」

「曲者?」

「要はね。深海棲艦だって妖怪の一種と捉えられるわ」

「だから、艦娘自身が自分を“深海棲艦になった”と解釈すれば深海棲艦になる。『裏返る』ってのはそういうことだよね、提督」

 

 川内が言葉をまとめると、レミリアは得心したように頷いた。

 

「でもそれって、卵が先か鶏が先かってことじゃ……」

 

 野分も賢い艦娘だ。難解なレミリアの話もちゃんと噛み砕いて飲み込めているらしい。

 そこでふと、川内は喉の引っ掛かりが取れたような感覚になった。納得出来ていないことがようやく腑に落ちたような気がする。

 

「そうね。元から、沈んだ艦娘は深海棲艦になる、という方程式があったわけじゃない。むしろ、萩風と嵐の二人が轟沈した後に深海棲艦になることによって、『沈んだ艦娘は深海棲艦になる』という図式を作ってしまった。図らずも、その先例となってしまった。だから、今まで一度だって“元艦娘”の深海棲艦なんて存在が出現したことがなかったのよ。

だけど、単なる妄想と解釈は違うもの。妄想だけでいくら何でも艦娘だって妖怪だって在り方が変わったりはしないわ。本人たちが強烈に『沈んだら深海棲艦になる』と思い込んでもいなければ起き得なかったはず」

「司令、それはそういう噂を耳にしていたからです」

「そう。そこよ。その噂が根も葉もないものなのか、あるいは火種があるような噂だったのか、今となっては分からないわ。だから、卵か鶏かという話になった。

ただし、もうそれは重要ではない。何故なら、事実として『沈んだ艦娘は深海棲艦になる』という現象が起こってしまっているから」

 

 川内の背後で、舞風かあるいは野分か、どちらかが身を固くした気配がした。もちろん、川内だって聞いて心地の良い言葉じゃないから少し顔が引き攣るのを自覚する。

 

 

 

「そして、『また艦娘に戻ることが出来る』ということもね」

 

 レミリアは不敵に笑う。得意気な、自慢気な笑みだ。

 

「萩風と嵐が艦娘に戻れた理由だけど、正確にはあれは吸血行為ではなかった。その逆で、私の血を流し込むことで一時的に二人の身体の支配権を獲得したの。その上で二人を強制的に艦娘へともう一度“裏返した”。

芸のない力技だけど、私じゃなきゃ出来ない方法だったよ」

「それってつまり……」

「だから言ったでしょ? 大丈夫だって」

 

 心配する野分に笑い、レミリアは首を振る。それから、眠る萩風を穏やかに見下ろした。

 

 

 

「巧くいったの、かな?」

 

 と尋ねたのは舞風。

 眉間に小さく皺を寄せる彼女に、レミリアは目を流して、

 

「巧くいったのよ。疑いの余地がないくらい、結果は最良のもの。でもあくまで私の力が作用したのは二人の肉体的な部分のみ。なら、あと重要なのは何か分かるわよね?」

 

 意味深なレミリアの問い。彼女がやったのは、萩風と嵐を深海棲艦という呪縛から開放することだけだった。それは言うなれば症状を抑えて寛解に至った段階。完治を目指すならばもう一押しが必要だ。

 レミリアの問い掛けたこと。言わんとしていること。三人ともすぐにピンと来た。

 

 

「心、だよね」

 

 

 三人を代表して答えたのは川内だ。

 対して、レミリアは得心して頷く。

 

「そう。心の繋がりこそが重要だった。肉体だけを戻してもどうにもならない。深海の檻に囚われた二人の心を取り戻すには、貴女たちの存在はなくてはならないものだったのだからね」

 

 そう言って締めくくったレミリアに、舞風は無言で嵐の身体を抱きしめる。

 それこそが、戦果だ。穏やかな顔で眠る二人が存在しているという事実が川内たちにとっての勝利だ。

 

「戻れたなら、それでいいんです」

 

 呟いた野分も、川内と同じだっただろう。彼女は萩風の頬を優しく撫でる。

 目を閉じ、呼吸する度にわずかに上下する肩を、トントン、トントンとリズミカルに叩いた。

 

「二度と離しません。二度と失いません。これから、四人で一緒に生きていくんです」

 

 野分はいつものように引き締まった表情で、生真面目な彼女らしく、強く決意する。萩風の肩を叩いている方とは別の手は彼女の手をしっかりと握っていた。

 この終わりない戦争の中で、ただ生きていくことさえ苦労する世の中で、野分は小さな体に力を漲らせている。それが、彼女たちがこの世界で生きていく理由であり、気易く手で触れることを許されない彼女たちの聖域だ。だからこそ途方もなく尊いし、先の見えない暗闇に差し込む一筋の光となり、彼女たちの生きる道標となる。

 

 五年越しの奪還。

 不条理に姉妹を奪われた少女たちは不条理を以って取り戻した。このことが、例えどれほど世界を歪め、挑発することであろうとも、彼女たちはきっとわずかほども後悔などしていないだろう。

 舞風も、野分も、かつてのように悪夢に捕らわれ、悲嘆に暮れていたか弱い存在ではない。在るのは、守るべき姉妹を取り戻し、四人の幸福を維持するために戦う戦士の姿だ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 太陽が水平線の向こうに近付いて、「おはよう」の挨拶をする前に盛大にもったいぶって闇色の空を明るく染め上げた頃、ようやく待っていた船がやって来た。

「日の出前に帰れそうで良かったわ」とはレミリアの談。吸血鬼はどうやら本当に太陽の光が苦手らしく、浴びたら煙を噴くとのこと。どうしてですか、という野分の愚直な、そしてナンセンスな質問は、妖しげな笑みと共に発せられた「それはそういうものよ」の言葉で切って捨てられてしまった。

 

 夜明けの海に姿を現した「硫黄島」の周囲には、駆逐水鬼が居なくなったとはいえここが敵の勢力下であることは変わりないので、がっちりと護衛の艦娘が警戒していた。よく見ると、川内と仲違した昼戦のメンバーである。

 尻に敷いていたマングローブの樹皮の跡が大臀筋の形を変えてしまったと思うくらい長く座っていた川内は、待ちわびたフラットトップを水平線に見つけると、腰を鳴らしながらよっこらせと立ち上がった。ずっと姿勢が固定されていたので体中が痛んだ。それは舞風や野分も一緒らしく、川内に続いた二人とも互いにどこそこが痺れたと漏らしていた。

 片やレミリアと言えば、余程柔軟な体をしているのか、あるいはそもそも身体のつくりが違うのか、痺れも痛みもなさそうで、跳ねるようにマングローブから腰を上げると、一つ伸びをして「長かったわ」と呑気に呟く。

 

「ところで、提督さ」

 

 と、川内は気になっていたことを尋ねた。

 

「このまま戻るわけじゃないんでしょ?」

「……あー」

 

 たった今言われて初めて思い出した、と言わんばかりの生ぬるい返事をすると、レミリアはしばし「硫黄島」を眺めながら考え込んだ。

 戦線に登場する方法は友人に協力させたり、川内に魔法のカードを使わせたりといろいろ周到な準備を組んだくせに、どうやら帰る手段はあまり真剣に考えていなかったらしい。船を呼んだはいいものの、まさか背中から翼を生やしたまま何食わぬ顔で「提督」に戻るわけにもいくまい。普段は人と変わらない姿を“偽装”しているようだから、そこには何かしらの手間が必要なはずだ。

 

「えっと、それじゃあ服の中に隠れるわ」

 

 しばらく考えて、レミリアが出した答えがこれだ。意味が分からないので、川内はその通りに忌憚なく聞き返すと、

 

「蝙蝠になってポケットに隠れてるから、乗艦したら人目に付かない適当な場所に行って。また戻るから」

 

 とのたまう。

 

 何かの比喩かと思えば、正味に言葉の通りであり、川内たちの見ている目の前で幼い吸血鬼は一匹の小さな蝙蝠に変身してしまったのだ。

 多少のことでは驚かなくなった、なんていうのは自惚れ以外の何物でもなかった。想像を絶する摩訶不思議に言葉も出ない川内たちと、パタパタと空気を叩いて川内の懐に飛び込み、さも当然のように衣装のポケットにごそごそと潜り込む蝙蝠(レミリア)。気が付けば、言葉通りレミリアは姿を隠してしまい、それどころか唖然として動けない川内に対してテレパシーで、“早く行きましょう”と何事もなかったように急かすのである。

 最早考えるのも億劫になって、川内は同じく絶句している駆逐艦二人に目配せをすると、いそいそと艤装を履き直して海に出た。

 

 とにかく考えても分からないものはどうしようもない。それよりもやるべきことはたくさんあり、まずは歓迎を受けるのもそこそこに、急いで「硫黄島」に戻らなければならない。無線で交信すると、オペレーターが手短にねぎらいの言葉を掛けてくれる。

 素っ気ないといえば素っ気ないが、その「御苦労」の一言がようやく幻想の世界から現実に戻って来たのだという安心を与えてくれた。理解不能なものを目の当たりにし続けるのは、いくら川内がそういった類に鷹揚であるからと言って、精神的に疲弊しないわけではないのだ。

 母艦との速度を合わせ、開いて浸水したウェルドックの中に入る。後から、気絶した二人をおぶった舞風と野分も続く。

 三人、いや五人がドック内に入ると、直ぐに大きなモーターの駆動音を響かせながらドックドアが閉まり、川内が水面下で発光するライトを目印にレールの上に立つと、ほどなくして排水が始まりそのまま足の艤装がレールにキャッチされる。慌ただしく作業員が降りて来て川内たちをレールから下ろした。

 舞風は嵐を、野分は萩風を背負ったまま艤装を脱いでドックの床に両の足で降り立つ。そして顔を上げ、犬走りから自分たちを見下ろすたくさんの顔に気付いた。

 

 

 早朝という時間にもかかわらず、手が空いている人間や艦娘が全員詰め掛けているんではないかというほどそこは人で溢れ返っている。誰もが期待で満ちた目で、眠気など微塵も感じさせない高揚した表情で、ただ無言で五人を見下ろしている。

 その中には負傷した江風や矢矧、時雨と木曾という先に帰った夜戦のメンバーもいて、全員が全員、何かを待っているようだ。

 

 それは何か?

 

 

 

 ドックの下で、一番前に立つ川内はぐるりと犬走りを見回し、それから一度視線を落した。

 

 右手。利き手。主砲を持ち、サインを送り、箸や鉛筆を握る手。

 あるいは、目的を達成する手。

 

 拳を握りしめた。さっきは嵐をぶん殴るのに使われたのもこの右手の拳で、殴った衝撃は時間が経ってだいぶ和らいでいた。だから、こうして天井に向けて拳を突き上げてもまったく違和感がない。

 

 

 無言で、川内は右手を天に掲げた。

 

 

 瞬間、爆発する歓声。

 

 待っていた、待ちわびていた人々が、各々好き勝手に声を上げ、何を言っているのか分からない雄叫びのような音が塊となって五人を揺さぶった。真横にいた作業員も大歓声を上げて、川内と拳を突き合わせる。

 両手を上げて万歳する者、川内と同じく拳を掲げる者、隣同士で抱き合う者、拍手する者。みんなそれぞれだけれど、精一杯に喜びを露わにし、この前代未聞の大戦果を讃えた。中には犬走りから飛び降りた奴もいる。

 江風だ。

 

 

 

「川内さあああああん!!」

 

 

 

 負傷していたはずの彼女は、そんなことなどまったくなかったかのような激しい動きで川内の胸に飛び込んで来た。

 

「サイッコーだね! サイコーだよッ!! ホントにやっちまったよ!」

 

 興奮して江風は叫んだ。どうやら自制が効かなくなってしまったらしく、意味のない称賛の言葉を無茶苦茶に繰り返すばかり。そして、戦い明けで疲れ切っている川内の体を無遠慮にバンバンと叩きまくった。

 

「すげえぜ。さすがはアタシの川内さんだ。まさか、深海棲艦になっていた仲間を助けて戻って来るなンてな! こんなこと、あの榛名さんだって出来ないぜ」

「あ、ありがと」

 

 帰って来たという事実が、一気に疲労感を増幅させ、歓声に揺さぶられる川内をさらに休息へと急かす。にもかかわらず、隣の駆逐艦といえば勝手に喋り続けて解放してくれそうになかった。

 いい加減に、と口を開こうとしたところで、この馬鹿騒ぎの中でもはっきりとした声が届いた。

 

 

「よう。やりやがったな、この馬鹿ども」

「馬鹿とは、失礼だね」

「いんや。お前らは馬鹿さ。馬鹿も大馬鹿。海軍創設以来の記録的なうつけ者だ。きっと歴史の教科書にも名前が乗るだろうよ」

 

 戦い終わりの仲間を称賛するどころか激しく罵倒しながら犬走りから降りて来たのは、眼帯を外して褐色の軍装に着替えた木曾だ。両手をポケットに突っ込んで、不敵に笑いながら悠然と歩いて来る。後ろには矢矧と時雨も続いていた。

 

「馬鹿でもいい」木曾に言い返したのは、一歩踏み出した舞風。その顔は誇りに満ちている。

「こうして二人を取り戻せたんだもん。何て言われようと関係ないよ」

 

「ええ」続いて野分も並んだ。

「私たちは、確かに勝利したんですから」

 

 

 ニヤニヤと笑っていた木曾がさらに笑みを深める。その後ろで矢矧が肩をすくめ、時雨はほっとしたような顔を見せた。

 

「横須賀に帰ったら貴女たちのことを大和と武蔵に自慢してあげるわ。この一世一代の大馬鹿を成し遂げた英雄だってね」

 

 途中での戦線離脱に一番抵抗していた矢矧だが、今は晴れ晴れとした表情だ。この頭の硬そうな艦娘が素直に称賛の言葉を向ける辺り、川内たちが成し遂げたのはやはり余程のことらしい。

 讃えられる三人。けれど、本当の立役者はここに姿を現さない。

 蝙蝠に変わった彼女は、今も大人しく川内のポケットの中でうずくまっているようだった。もちろん、こんな衆目がある中で自らの正体を明らかには出来ないだろうが、真に讃えられるべき者にその言葉が向けられないことが、いささか川内には納得がいかなかった。

 結局、取り戻せたのはレミリアのおかげなのだから。

 

“私はいいわよ”

 

 しかし、そんな川内の内心を見透かしたように、ポケットの中の蝙蝠がテレパシーを飛ばして来る。いや、彼女のことだから読心術なんて代物も使えたりするのかもしれない。

 

“なんでさ? 提督のお陰には違いないよ”

“私は吸血鬼よ。悪魔よ。それが人間に褒め称えられてどうするのよ”

“だからって……”

“いいえ。そこが重要なところなの。人間たちにとっての英雄は、やはり人間でなければならない。悪魔を英雄に祭り上げても、むしろそれは悪魔にとって毒を食らうようなものにしかならないのよ”

 

 と言うレミリア。

 今一つその理屈には納得出来はしないが、何も言うなというならあえて逆らうことはしない。

 だが、謙遜がてら、彼女を持ち上げておくことくらいは許されるだろう。

 

「私たちだけの力じゃないよ。提督の指揮もあってこその結果。皆の勝利だよ」

 

 川内がそう言うと、それまで黙っていた時雨が首を振った。

 

「少なくとも、川内さんのお陰で僕は妹を失わずにすんだよ」

 

 彼女は、今も鬱陶しく川内に抱きついている江風に目を向けた。

 その、子狐のように甘える歴戦の駆逐艦は、輝く瞳で川内を見上げて、ニカッと笑う。

 

「そうさ! 川内さんが夜戦に戻って来たのは痺れたねェ!」

 

 どうやら彼女がひどく機嫌がいいのは、それもあってのことのようだった。単に作戦を成功させただけでなく、川内は元より得意としていた戦場、夜の海に再び出れるようになったのだから、その川内に憧憬を抱いていた江風が自分のことのように喜ぶのも無理はない話ではある。

 ただ一つ。そろそろ本気で邪魔になって来たのだ。

 もちろん、褒めちぎれられ、可愛がっていた元部下にひっつかれるのは、照れ臭くてむず痒いような気分にもなるが、悪い気はしない。自分のような罪に汚れた者がこんな手放しの称賛を受けていいものかとも思うが、案外現金なもので、気分が良かったのであまりそういうことは考えなかった。

 けれど、一通り歓迎を受けたところで、続いて川内が欲するのは何よりも休息である。消耗した体力に誤魔化しは効かず、何はなくとも、まずベッドで横になりたかった。

 ドック内ではいつの間にやら凱旋歌が歌われ出していて、作業員も船員も艦娘もいっしょくたになって大声で歌っている。当然の話だが、いつまでもこんなっところに留まっていては就寝など何時間先になるか分かったものではない。

 

「おい、江風」

 

 べたべたと川内にひっつく江風に、木曾がやや顔を引き締めて名を呼んだ。眼帯を外し、普段の数倍厳つい見てくれになった彼女がそんな風にすると、まるで睨みつけられているようで気の弱い者なら泣き出してしまうかもしれない。しかし、生憎この狐のような駆逐艦は敵戦艦と出会っても不敵に笑っているような、図太い神経の持ち主だった。

 

「なンですかぁー?」

「川内は疲れてるんだ。いい加減休ませてやれよ」

「ああ!」

 

 江風は声を上げる。ようやく今、川内が作戦帰りだということに気付いたようだった。

 

「すンません! 川内さん、お部屋まで案内しますよ!!」

 

 尚も川内と一緒に居たがる江風。自分は一体どれほどこの子に好かれているのだろうと思うと、その好意を無下には出来ない。出来ないが、今は休むことが最優先だ。

 

「いや、いいよ。大丈夫だから」

「そういうこった。さあ、行こうぜ」

 

 木曾が踵を返してドックから艦内へ続く扉へ向かって行く。すると、見物していた船員たちがさっと道を開けた。

 

 まるで花道だ。その真ん中をゆっくりと歩きながら、川内はドックを抜けて艦内に入る。

 花道の左右から人々が手を伸ばしすので、川内は両手を広げて一人ひとりにタッチしながら歩いた。本当に、身に余るくらいの英雄扱い。大したことをした訳ではないけれど、今は存分に好意を受け取っておこうと思う。

 

 

 そうだ。これはまさに凱旋だ。

 最高の結果を、川内は母艦に持ち帰ったのだ。そう考えると、顔がニヤ付くのを止められない。

 例えこれが一瞬の夢であったとしても、日陰者の自分には最高の瞬間だった。

 

 

 

 

 

******

 

 

 それから川内は泥のように眠り、酷い空腹で目が覚めた。「お腹と背中がくっつきそうだ」と言うが、いやはやまさにその通りだ。言い得て妙とは、このような言葉に対していうのだろう。

 

 ベッドで目覚めた時、強烈な空腹が川内を襲った。食べ物を求めて仕方のなかった胃が、川内が覚醒した途端激しく自己主張を始めたのだ。あまりに急激に伸縮するので、初めそれが空腹ではなく腹痛だと勘違いしたくらいである。

 文字通り川内は飛び起きた。閉めていたカーテンを荒っぽく引き開け、急いで寝巻から第三種軍装に着替えて、同僚の存在や時間の確認もせずに艦室を飛び出した。

 記憶を頼りにそのまま艦内の食堂に向かう。途中で擦れ違った船員が恭しく敬礼して来るのに、いちいち律儀に立ち止まったりせず簡単な返礼で答えて、ガンルームに飛び込んだ。

 タイミングがいいのか悪いのか、恐らくは食事の時間も終わりの頃だろうと思われた。何人かが食事をしており、さらに数人が空の食器を乗せたお盆を持って立ち上がっているところだ。

 

 艦娘に厳密な階級というのは実は与えられていないのだが、一般的に士官扱いされている。今現在のところ深海棲艦に対する唯一の対抗戦力であるし、海軍全体の中では決して数の多い方ではない。必然的にその扱いも優遇されていくようになるのだが、多くの場合、艦娘は大尉以下の者からは敬語で話し掛けられ、少佐以上からは下の者として扱われる。

 現に川内が第一士官室(ガンルーム)に飛び込んだ時も、そこにいた全員がすぐさま敬礼をして迎えてくれたのである。

 

「お目覚めになられたのですね」

 

 その内の一人、二十代後半くらいの落ち着いた感じの尉官が話し掛けて来る。

 

「ああ、うん」

「直ぐにお食事をご用意致しますよ。少々お待ち下さい」

 

 そう言って彼は下げる食器と一緒に厨房へと向かって行った。

 何だか、記憶にない対応をされて、川内はしばしその場に立ちすくんだ。今まで、わざわざ艦娘に食事を持って来てくれるような尉官が居ただろうか。

 しばらく待っていると、先程の尉官が食事を持って来てくれた。

 

「ありがとう、ございます……」

 

 慣れない扱いに相も変わらず川内が戸惑っていると、彼はにこにこと朗らかに笑い、敬礼してから場を下がった。何ともよく出来た兵である。

 ただ、彼には悪いが味は分からなかった。とにかく体が求めるままにがっついたので、分かるはずもない。あまりに急激に食べ物を押し込んだので、驚いた胃が、あれだけ川内をせかしたくせに食べ物を押し戻そうとする。吐き気をこらえながら、それでも川内は必死で食べた。

 食事は簡素なものだ。冷凍のハンバーグに付け合わせの野菜、サラダにスープとご飯という、安いファミレスでももうちょっとましな物が出て来るだろうというレベル。残念なことに、「硫黄島」は食事が美味くないことで有名な艦だった。

 それでも腹に入れば皆同じ。ささやかな食事を五分という記録的な(鎮守府にはもっとたくさんの量を同じ時間で食べられる人がいる)短時間で食べ終えた川内は、食器を厨房に戻す途中に見慣れた顔と出くわした。

 

「おはよう。ソースついてるぞ」

 

 と、木曾は自分の口元に人差指を当てた。

 慌てて紙ナプキンで口を拭う川内を、「どんだけ慌てて食ったんだよ」と木曾は笑う。

 

「ゴメン。ありがと」

「ったく。起きるのが遅すぎるぜ」

「どれくらい寝てた?」

「あー。三十時間くらいかな」

「さんじゅッ!? 丸一日以上?」

「そうだよ。寝過ぎだ、お前」

「うわー。そんなに寝てたんだー。道理でお腹が減るはずだよ」

 

 自分の睡眠時間に軽く驚いた川内だが、むしろまたいつものように木曾と他愛もないことを言い合っていることに感激を覚えた。ああ、戻って来れたんだと。

 何よりもそれが嬉しかった。作戦前は九割方上手くいくわけがないと考えていたから、いつものようには笑い合えないという悲観さえしていたのを思えば、今のこの状況というのはまったく幸運と言うに他ない。

 

「舞風も野分も、とっくに目を覚まして待っていたんだからな。いつまでもお前が起きないもんだから、揉む必要のない気を揉んでたぞ。可哀そうに」

「ああ。謝っておかないとね」

「呑気だな。何もお前を待っていたのはあの二人だけじゃない」

 

 呆れる木曾。川内はあっけらかんとしして返した。

 

「ん? 何さ? 祝賀会でもしてくれんの?」

「違うわアホ!」

 

 とぼける川内を一括してから、木曾はやや表情を翳らせた。

 それで、川内もこれからの話が今の自分の気分を下げてしまうような話題であると悟る。目の前の雷巡は正直だから、口で言う前にこうして表情が内心を明瞭に教えてくれるのだ。

 

「萩風と嵐のことだ」

 思った以上に神妙になる木曾に、川内はふざけていた態度を引っ込めて沈黙する。食器を下げると、「ついて来い」と言う彼女の後に続き、しばらく艦内を歩いて、やって来たのは司令官室だ。

 

 この部屋は艦娘を指揮する提督の居室であり、鎮守府におけるそれと同じ役割を持っている。普段は艦娘と言えど秘書艦を除いて入ることは許されず、それどころか近付くことすら滅多にない。現に、川内も今の鎮守府に来てから長いし、その間ずっと遠征の度に母艦の「硫黄島」に乗り込んだが、今まで一度も来たことがなかった。

 木曾が扉をノックし、「川内を連れて来た」と言うと、中から厳かに「入りなさい」という少女の声がした。

 

 まさか、と思うが、彼女がここにいるのはまったく不思議ではない。何しろ彼女は……。

 

 

 

 

「おはよう。寝ぼすけさん」

 

 司令室の奥の椅子に悠然と腰掛けて川内を迎えたのは、白い第一種軍装を野暮ったく着こなしたスカーレット提督、その人である。

 

 そう、彼女が今のこの部屋の主だ。だから、彼女がここにいるのはおかしなことではない。おかしなことではないのだが、それでも川内は食べたばかりのハンバーグを口から噴き戻しそうになった。

 

 不可解なことが一つ。蝙蝠に化けた上、川内の戦闘衣装のポケットに隠れたはずの彼女、帰還直後の川内は疲労と睡魔のあまり、彼女の存在を完全に失念してベッドにダイブしたのである。つまり、隠れたままの彼女を解放した覚えがないのだが。

 この通り、レミリアは提督として何食わぬ顔で椅子に座っている。

 まさか、この場でその理由を問い質すことは出来まい。

 ひょっとしたら自力でポケットから脱出したのかもしれない。確か、寝る前に着替えた時にその辺に放りっぱなしにしていたから。

 

 それより、忘れていたことを彼女は怒っているだろうか。ちらりと顔を窺うが、いつものような澄まし顔の奥に感情を見て取ることは出来なかった。

 

 

「さあ、役者も揃ったことだし、話をしましょう」

 

 司令室の真ん中には四角く大きな黒い樫の机が置かれていて、上座にレミリアが座り、他に数人の艦娘が机を囲んでいた。

 レミリアの右前の席が空いていて、左前には舞風と野分がちょこんと身の丈より大きい椅子に腰掛けている。二人は川内と目を合わすと、小さく会釈をしてくれたが、どうにも元気がない。野分は澄ましているようで今一つ澄まし切れていない顔をしているし、舞風に至っては完全に内心が表に出てしまっている。

 木曾と川内は並んで空いている席、レミリアの右前に着席する。川内の隣には妙高と江風が並んでいた。お堅い妙高は引き締まった表情だが、江風は相変わらず場違いな笑顔を向けて来る。

 へらへらしている駆逐艦を睨んで、川内はレミリアの方を向いた。場の雰囲気はあまり良くないし、きっと川内以外の全員がこれからの話の内容をある程度知っているのかもしれない。舞風の暗い表情がそれを物語っていた。

 

「話と言うのは」

 

 レミリアも川内を見つめ、口を開いた。

 

「先日の作戦で救出した駆逐艦『萩風』と『嵐』の処遇についてよ」

 

 なるほど、と川内は得心して顎を沈めた。

 確かに、これはあまり愉快になりそうな話ではないだろう。

 

 一度は確かに敵として人類に牙を剥いた二人。救出成功に浮かれてそこまで頭が回らなかったが、普通に考えれば海軍が二人をどう扱うのか、ある程度予想が付く。間違いなく碌なものではないだろう。最悪、処刑も考えられるのだ。

 何せ、彼女たちは駆逐水鬼として、決して少なくない人間の命を奪ったし、どういう状態であれ、その罪が消えることはない。ましてや、組織に盾突いた二人を海軍がそのまま許すなどあり得ないことである。

 

「はっきり言って、海軍上層部も今回の件には困惑しているし、二人の処遇についても上では意見が割れて会議が紛糾しているそうよ」

 

 重苦しい話題だが、レミリアは淡々と感情を込めずに続けた。

 

「でも、大勢としては二人に厳罰を科すべし、ということになっているわ。もう一方の意見は、彼女たちを研究施設に放り込んで徹底的に研究すべきというもの。いずれにしろ、あの二人の今後は人としての扱いを受けるものではなくなるわね」

 

 川内はちらりと舞風の様子を窺う。

 見るまでもなかった。その唇は白くなるまで噛みしめられている。

 

「ね、そうでしょう?」

 

 そこでレミリアは川内から、隣の妙高に視線を移した。

 

 

「はい」と妙高は生真面目に頷く。

 

「私たちの提督は二人の体を解析した後、然るべき処置、あえて単刀直入に申し上げますと、『処刑』すべきだとおっしゃっております」

 

 その言葉で川内は、妙高も江風と同じ南方海域の統括泊地所属で、しかもそこの秘書艦の一人だったという事実を思い出した。川内の巣のように規模が小さければ鎮守府でも秘書艦は一人しか置かれないが、泊地と言えど南方を統括するそこは規模が大きく、所属する艦娘の数も多いので秘書艦は複数置かれる。妙高はその内の一人なのだ。当然、そこの提督であり、この作戦の総指揮官である中将の意向もダイレクトに耳に入っているだろう。

 

「まあ、そうよね……」

 

 そして、あっさりと納得するように首肯するレミリア。余りにも淡白な反応だったので、川内も目が点になってしまった。あれだけ必死になって、魔法やら何やらまで引っ張り出してきて救出した二人が処刑されそうになっているのに、彼女は何も思わないのだろうか。まるで他人事である。

 当然、そんな彼女の態度に業を煮やす者が居るわけで、突然立ち上がったのは第四駆逐隊の野分だった。

 普段は冷静な彼女だが、落ち着いて見える分感情を貯め込んでしまいやすく、限界が来ると爆発してしまう。感情の起伏の穏やかさならむしろ舞風の方がそうで、野分は怒る時は激しく怒るタイプだった。

 

 

「待って下さい、提督!!」

 

 案の定、野分は怒り心頭だった。激情が注入された言葉を吐き出す。

 

「あの子たちを見殺しにするというのですか!? あんなに必死になって助けた二人を、このままみすみす処刑台に送ると言うのですかッ!!」

「野分、落ち着け」

 

 声を張る野分に、真向かいから木曾が低く諌める。

 しかし、感情が荒れ狂っている野分は止まらない。

 

「落ち着いていられませんよ! こんな! こんなことって!!」

「野分、座れ!」

「あの子たちはもう深海棲艦じゃない! 艦娘なんですよッ!!」

「座れッ!!」

 

 木曾の手が机を叩く。堅い樫の木でも割れるんじゃないかと思うほど大きな音がして、野分の肩が跳ねた。

 

「もう一度だけ言う。座れ、野分」

 

 低く、脅すような声。厳つい彼女が、普段から鋭い眼光を戦闘時のようにぎらつかせて上目遣いで睨み上げるのだ。これで言うことを聞かない者は居ないだろう。

 野分も泣きそうな顔で崩れるように腰を落した。そのまま項垂れてしまう。

 

 

 

「……見ての通り、二人の処刑は私の部下の精神衛生上、あまり好ましいことではないわ」

 

 レミリアは何事もなかったかのように話を再開した。その目は相変わらず妙高に向けられている。

 

「そこで、物は相談なんだけれどね。二人の処分を何とか出来ないかと思うの」

「ですが、彼女たちがやってしまったことは取り返しがつきません。どうあっても、重罰は逃れられないかと」

「そう。その通り。犯した罪は消えないし、被害者側の処罰感情が収まるはずもない。あの二人が、本当に深海棲艦――駆逐水鬼だったらね」

 

 司令官室が水を打ったように静まる。

 誰もがレミリアを見ていた。沈んでいた野分やずっと机を睨んでいた舞風でさえ、ポカンとして少女提督を見つめている。

 

 

「今はまだ、二人のことは私たちと海軍の上層部の一部しか知らない。私たちは二人を“元駆逐水鬼”として扱っているけれど、この情報は世間に公表出来るようなものではないでしょう? 当然よね。公表したら最後、艦娘は深海棲艦になり得るという事実に世界が大混乱に陥ってしまうものね」

 

 いや、大混乱ごときの話ではなくなる。

 今まで、深海棲艦との戦いは「深海棲艦vs艦娘」という構図で成り立って来ていたのだ。そこにあるのは、「艦娘が正義で、深海棲艦が悪」という勧善懲悪的な前提である。だからこそ、人間同士の殺し合いとは違う、人間を守るための戦争という大義名分が可能だった。

 ところが、もし駆逐水鬼と萩風・嵐の関係を暴露してしまえば、その構図が崩壊してしまう。今まで戦ってきた敵は実は艦娘と同質の存在であり、艦娘は深海棲艦に、深海棲艦は艦娘になり得るのだとしたら、人々は「艦娘が居るから深海棲艦が生まれるのだ」という暴論が広まらないとも限らない。それこそ、ここ十数年で海軍が、いや世界が築き上げて来た“艦娘”という概念の破壊が起こる。

 それが誰にとっても都合の悪いことであるのは言うまでもないし、何より現場で戦う川内のような艦娘にどれほど辛い真実であるかは明瞭過ぎるほどに明瞭だろう。

 

 そうだ。私たちは私たちの敵になり得るのだ。

 

 

「上層部の言いたいことは分かるかしら? 『艦娘は沈んだら深海棲艦になり、かつての仲間や人間を襲うだろう。そうして一度は敵として対立した深海棲艦が艦娘に戻ったところで、その者に再び居場所は提供されない。何故なら、沈んでも取り戻せることが確かなら、艦娘の犠牲を厭わない指揮官や自身を顧みない艦娘が出て来るからだ』ということ。

沈んでも次があると思うなら、犠牲に頓着しなくなってしまい、それが敵を増やすことに繋がる。そして、敵として立ちはだかる艦娘を奪還した時、また味方に戻ってくれるならそれは艦娘自身にも轟沈に対する恐怖を不必要に和らげてしまうかもしれない」

 

 そうなのだ。海軍から見れば、事情はどうあれ萩風と嵐は明確に「裏切り者」になる。少なくとも一度は確実に敵になったのだから、これを許すという道理はないだろう。それこそ、組織の規律に関わる話である。

 裏切り者には死を。軍事組織における鉄則ではないか。

 

 本来なら、これは川内自身言いたくないことだが、彼女たちはコロネハイカラ島で死んでいるべきだったのだ。二人は既に沈んだ身であり、もう太陽の下に戻って来ることは出来ないはずだった。

 それが、世界が定めた運命であり、必然でもあった。

 なのに、川内たちはその必然を捻じ曲げ、二人を救出してしまったのだ。そこには必ず何かの歪みが生じてしまうものだし、その歪みの矯正が今になってこうして襲って来ている。

 

 

 

「けれどね」とレミリアは続けた。

「これらの話は全て、萩風と嵐が自分の意志の下、駆逐水鬼として行動出来ていたという前提で成り立つものなのよ」

 

 全員が固唾を飲む。レミリアの言わんとしていること。川内にはそれが分かったような気がした。

 

「これを見て」

 

 提督は机の上に、何とも名伏しがたい奇妙な物体を置いた。何かの破片のようで、全体の形状は不規則。素材も灰色のぬめりとした光沢がある何かで出来ていて、こちらも不明。破片からは二つ、角のように繊維状の突起が飛び出していた。

 それが何か、川内にはピンと来た。ある意味、艦娘にとっては嫌というほど見慣れている物のはずだ。

 

「提督、それは深海棲艦の艤装なの?」

 

 確かめるように尋ねる。しかし、訊くまでもないことだ。

 

「ご名答」

 

 レミリアは、案の定頷いた。「では、その艤装のどこの部分かは分かる?」

「それは……」

 

 これは勘だ。根拠があるわけではないけれど、川内は答えを口にした。

 

「ひょっとして、装着部?」

 

 果たして、レミリアは頷いた。

 

「そうよ。これは萩風の。嵐にも同じ物が付いていたけれど。問題はこの装着部の位置よ。二人とも艤装が腰元に装着されていたけれど、この接合部の角になっている部分は彼女たちの腰から体内に侵入していて、丁度第一腰椎に穴を開けていたわ。この穴は腰椎の中の神経まで到達していて、恐らく深海棲艦の艤装が腰椎から中枢神経に侵入して、二人の精神を乗っ取っていたと思われる。この角は、その形跡というわけね」

 

 ぞっとする話だ。しかし、川内にはこれがまったくの捏造であると分かった。

 何しろ、川内は直接二人の体を調べ、そこに異常がないことをこの目で確認している。もちろん、二人の腰元に深海棲艦の艤装が一部残っていたことなんてないし、負傷していたことを除けば、彼女たちの体は綺麗なものだった。

 舞風と野分の様子を窺うと、二人とも俯いて顔を伏せてしまっていたが、そこに様子の変化は別段見られない。

 それで、川内は何となくレミリアのやろうとしていることが分かった。

 つまりは、彼女は事実を捏造し、萩風と嵐があたかも「深海棲艦の艤装に意志を支配されていた」ということにしたいのだろう。そのために、どこでどんな風に用意したかも分からない、“深海艤装の装着部”などという眉唾な物まで引っ張り出してきた。もちろん、レミリアは二人の身体に痕跡、「第一腰椎の穴」とやらが存在すると言うので、何らかの方法で辻褄合わせに二人の身体に細工をしたかもしれない。「今、二人の身体の中枢系に検査をしているところよ」と付け足された言葉がそれを裏付けている。

 しかし、これは確かに効果の高い方法だろう。二人が正常な意思決定を行える状況下になかったといえば、少なくともその時点で犯した罪に対しては無罪放免になる。むしろ、二人を被害者として祭上げ、同情を寄せさせることさえ可能だ。

 もちろん、実際に二人とも正常な精神状態ではなかっただろう。言うなれば「心神喪失状態にあった」わけで、レミリアは証拠を作ってまで議論をそちらに誘導しようとしている。そうしなければ彼女たちが罪人として裁かれてしまうからだ。

 

 事実、事情を一切知らない木曾や妙高、江風は青ざめた顔をしている。

 それはそうだろう。深海棲艦の艤装に意志を乗っ取られるなど、それが例え他人の話であってもその他人は同じ艦娘なのだ。轟沈すれば自分もそうなるのではないか、という想像が一瞬でも頭をよぎるなら、ぞっとしないはずがなかった。

 そして、そんな彼女たちの反応を見て、さらにレミリアは神妙な表情で、嘘を平然と吐き続けた。

 

「私は、駆逐水鬼と駆逐艦『萩風』『嵐』が別物だと考えるわ。私たちが敵として対峙した、あの深海棲艦は“元艦娘”ではなく、艦娘の肉体を利用しただけのただの深海棲艦よ。駆逐水鬼の正体は哀れな轟沈艦じゃなかった。寄生虫のように他者の肉体を乗っ取る、こいつだったのよ」

 

 真面目くさった顔でレミリアは手に持った“艤装の装着部”を振って見せ、迫真の口調でいけしゃあしゃあと虚実を真実のように語る。部下でさえ騙すことに一片の躊躇も見せないその様は、やはり彼女がそう言った通り、五百余年を生きて来た年の功がなせる業なのだろうか。

 

「……それは、その、あいつらは大丈夫なのか?」

 

 と、恐る恐る尋ねたのは木曾。彼女も完璧に騙されているようだった。

 もちろん、レミリアが語る言葉の全てが嘘というわけではないし、人を騙す際には真実と虚実を織り交ぜれば効果的であるとよく言われるように、彼女は嘘の中に真実を混ぜている。その真実というのは、例えばこのようなことであったりするわけで、

 

「それは分からないわ。恐らくは大丈夫でしょうけれど、何かしらの後遺症は残るかもしれない」

 

 という懸念は実際問題として存在するものだ。それがどういったものであれ、一時的にかつ数年間深海棲艦だったことには変わりない萩風と嵐には何らかの後遺症があっても不思議ではない。

 川内にしても、二人の処遇の問題ともう一つ考えなければならない事柄として、この後遺症の問題が思い浮かんだのである。自身の経験から照らし合わせても、身体的には健康であったとしても精神的には、例えばPTSDのような精神疾患に苛まされる可能性は十分にあった。

 

「しかし、少将」

 

 木曾と同じくレミリアの掌で転がされている妙高が発言する。

 

「そうなると二人はまず経過観察を行わなければなりません。もし本当に精神を乗っ取られていただけだと言うなら、我々は彼女たちに治療と心理ケアを施し、仲間として丁重に扱う必要があります。それは、今までの議論とは方向性が真逆のもの。

問題は、どこでそういった施術を行うかですが」

「ええ。もちろん、まず本土では無理でしょうね。上層部が許可を下ろさないわ」

「ですよね。だから、恐らく彼女たちを引き取るのは、我々の泊地になるかと思います」

「そう。そこで貴女にお願いがあるの。そちらの泊地の中将に口添えしてもらえないかしら。私からも依頼はするけれど」

 

 妙高の顔にははっきりと戸惑いが現れていた。

 それもそのはず、予想外の方向にトントン拍子で進む話に、しかも自分も巻き込まれてしまったのだ。レミリアは初めから萩風と嵐を南方統括泊地に預けるつもりだったのだろう。

 妙高からすればそんなことは寝耳に水であろうが、仮にもレミリアは少将の階級にある。尉官クラスの艦娘である妙高に逆らうことなど出来るはずもなく、彼女は渋々と言った感じで頷いたのだった。

 

 南方統括泊地の内情というのがどういったものであるのか、川内には与り知らぬところではあるが、彼の泊地を治める中将の名前は以前からよく耳にしており、あくまで噂レベルではあるがどのような人となりの人物であるかというのも聞き知ってはいる。

 そこから察するに、恐らく中将も首を振りはしないだろう。腹心の一人である妙高と仮にも本土の鎮守府司令官であるレミリアからの依頼とあれば、階級が高いと言えど無下にしては組織の輪に角が立つからだ。

 となれば、萩風と嵐の当面の処遇は今ここで決定してしまったのだが、当然それに納得出来ない者たちが居るわけで、その内の一人、今まで仲良く俯いてた四駆の内、舞風がおもむろに手を挙げた。

 指先を天井に向けて真っ直ぐに、手本のような挙手で、彼女は少し潤んだ瞳をレミリアに向ける。

 

「何かしら」

「提督、提案があります」

 

 姉妹艦の野分と比べても少し幼過ぎるきらいのある舞風だが、思いの外しっかりした言葉で話し始めた。

 

「萩風も嵐も、深海棲艦から戻ったばかりで、とても不安定だと思うんです。後遺症……があるかは分からないけど、でも不安になったり、泣き出したり、そういうことがあるかもしれません。もちろん、二人ともしっかりしたところはありますよ。萩風は賢くて真面目だし、嵐は元気が良くて頼りになるし。

だけど、今回のことはホントに特殊なことだったから、二人とも怖いと思います。そういう時に、私と野分が、姉妹だから、一緒にいて支えてあげられたらいいと思うんです。だから、うちの鎮守府じゃ、駄目ですか?」

「……そうね」

 

 レミリアは目を閉じてしばらく逡巡するように沈黙する。彼女と、舞風と野分と、三人はどこまで口裏を合わせているのかは知らないが、今の舞風の言葉はきっと本心から出たものだ。もう一度四人の第四駆逐隊に戻るために彼女たちは力を振り絞って戦ったのだから、それが一緒になれないとなるとこう言いたくもなるのだろう。

 野分も何か言いたそうに口を半開きにしたが、結局彼女の方は何も言わず、レミリアが答えるのを待ったようだ。

 

「まあ、その意見にも一理あるわ」

 

 提督は目を開け、手元の“艤装の装着部”を軽くいじりつつ、

 

「でもそう出来ない理由が二つある。

一つはさっき言ったように、上層部がまだどうなるか分からない萩風と嵐を本土から遠ざけておきたいと考えるからよ。経緯はどうあれ、二人が深海棲艦だったのは確かなことで、完全に人間の側に無害であるという確信を持てない限り本土に近付けることはないでしょうね。

それと、二つ目の理由だけど」

「……」

「最前線で活躍出来る貴女たちと、錬度が低いままのあの二人を同じ部隊では運用出来ないわ。錬度の開きが大き過ぎると作戦行動に支障が出るし、だからといって貴女たちを二人の教官役にすることも推奨されない。というのも、軍全体で見ても、貴女たちのように最前線で戦える駆逐艦娘というのは数が限られていて、なるだけ後ろに下がらせたくない、というのが用兵側の本音なのよね。

そういうわけだから、私としても貴女たちを手放したくないの」

 

 最後の一言が、完全に舞風を黙らせた。

 結局、彼女たちはばらばらになってしまうのだ。がっくりと項垂れる舞風に、川内も同情を禁じ得ない。何とかならないものかとない知恵を振り絞ってみるが、レミリアの言っていることはとても筋が通っているし、生憎妙案など思い付きそうもなかった。

 

 明日をも知れぬ命。いつ再会出来るとも分からぬ広い世界。死が四人を別つ前に、彼女たちが共に並び立てる未来は訪れるのか、それを保証する神はおらず、ただ冷ややかな現実の前に唇を噛むしかない。

 

 

 

「ちょっと、いいか?」

 

 と、そこで挙手もせずに不躾に割り込んで来た者が居た。これまで沈黙を守っていた江風である。

 聞く者が聞けば激怒するような礼節に欠いた言動だが、その辺りのことについてはかなり鷹揚なレミリアは、別段気分を害した様子もなく首肯し、江風に先を促した。

 

「今の話なンだけど、結局うちであの子らの面倒を見るンだよな。だったら、教官役はこの江風さんに任せてくれよ」

「ちょっと」

 

 突拍子もないことを言い出した江風を妙高が咎める。そもそも、萩風と嵐が南方統括泊地に行くかさえ決まっていないのに(ほぼ確定とはいえ、まだ中将の許可が下りていない)、いきなり算段を付け始めるのだ。妙高が怒らないわけないのだが、川内の言うことさえ聞かない江風が、それ以外の言葉に素直に従うだろうか。答えは否である。

 

「悪い提案じゃないと思うンだけどさ。腕には自信があるし、ちゃんと教えてやれるよ。それに、もし万が一あいつらが何かの間違いでこっちに砲を向けるようなことがあっても、江風なら二人まとめて抑え込めるぜ。その辺りは責任持ってやるからさ。舞風も、見ず知らずの誰かより顔見知り程度でも知り合いに任せる方が安心出来るだろ?」

 

 な! と舞風に気障ったくウィンクする江風。

 沈んでいたその顔に、色が戻ったような気がした。そこで、川内も手を挙げて立ち上がる。

 

「提督。私も江風の提案を推します。元上官として保障します。江風は信頼出来る艦娘です」

 

 この援護射撃は江風にとっても意外だったらしい。一瞬驚いたように目を見開き、それからいつものように不敵な、そして楽し気な表情を作る。

「さすが川内さん。言ってくれるぜ!」という彼女の心の声が聞こえて来そうだ。

 

「そ、それなら。私たちも賛同します。ね、野分」

 

 続いたのは舞風。隣の野分に同意を求めると急な展開についていけていないのか、戸惑いつつも野分も頷いた。

 

「それならそれでいいけど」

 

 対して、レミリアはあっさりしている。その理由はすぐに彼女の口から述べられた。

 

「南方で二人を預かることになったとして、その後どうするかは結局南方の問題だからね。私が采配するわけじゃないわ。萩風と嵐の教官を務めるつもりなら、自分で中将に具申しないと駄目よ。一応、口添えはしてみるけどね」

「そうだね。ま、何とか交渉してみるさ。タフネゴシエーター江風さんの腕の見せ所だね」

 

 威勢よくガッツポーズを作る江風。そんな二つ名は初めて聞いた。

 隣では妙高が呆れ返って首を傾げている有様。江風が調子に乗ると碌なことがないのは、元上官として川内は熟知しているので、妙高への同情を禁じ得ない。真面目そうな彼女のことだから、きっと江風には手を焼いているに違いない。

 

 実力はあるし、元気もいいのだが、如何せん問題児過ぎるのが難点だった。決して悪い奴ではないのだが、トラブルメーカーなのだ。

 ただ、そうであっても江風の下への面倒見の良さというのは川内も一目置いているところ。かつての部隊では、白露型姉妹の末っ子、涼風の世話を甲斐甲斐しく焼いていた記憶がある。甘やかし過ぎているような気もしたが、江風と涼風の関係は非常に良好だった。

 複雑な過去を持つ萩風と嵐の指導役には彼女は適任かもしれない。物事を真っ直ぐ見つめ、力強く引っ張っていってくれる先輩。恐らく大きなトラウマを背負うことになるであろう二人には、きっと必要な存在だ。それに、舞風と野分が二人ともちゃんと納得してくれるなら、これ以上いうことは何もないだろう。

 

 ただ一つ。川内が思うことは一つ。

 願わくば、また四人がともにいられるようになることを。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 木曾と江風と妙高が退席した後の司令室は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 確かに話は先を見れるところに落ち着いたのだが、それもまだ未定であり、加えてこの空気を放出する駆逐艦が二人もいる。そもそも、彼女たちの目的と言うのは、萩風と嵐、元々の同僚であり姉妹を取り戻して再び一緒になることだったのだ。その目的が達成されないことがほぼ確定してしまった現段階で、「二人とも助かって良かったね」なんて笑えるわけがない。

 しかし、よくよく考えれば結果は上々。確かに永遠の離別を覚悟したはずの相手は戻って来たのだから。

 

「心配しなくても」

 

 不意にレミリアが口を開く。沈黙を破って喋り出すなら彼女だろうと川内は思っていたが、事実その通りである。

 

「二人とも悪いようにはならないわ」

「……そう、でしょうか」

 

 不安を零したのは野分。いつもの精悍な顔つきは鳴りを潜め、表情はこの上なく疲れ切っている。

 

「萩風も嵐も、二人とも深海棲艦だったという事実は覆りません。何より、私たちの敵は私たち自身だったということが成り立ってしまっているんです。だから……」

「悩ましいところね。でも、貴女が思うほど事態は悪くないわよ」

「……」

「案外この組織は艦娘に甘いところがあるからね。制限も多いけれど、休日や高い報酬が保障されていて、福利厚生も充実している。それもそうよね。艦娘が居なければ人類は深海棲艦とまともに戦うことすら出来ないんだから。

そんな大切な艦娘を、あまつさえ組織が処刑するなどあってはならないことだ、という声は少なからず現場にあるみたいなのよ。上層部の中にも同じ意見を持つ者も含まれていて、萩風と嵐の処遇を巡って議論が紛糾しているのもそこにあるわけ。要は三つ巴の論戦になっていて、今は“厳罰派”の声が大きいけれど、恐らくこれはひっくり返るわ。

何しろ、今のあの二人は“萩風と嵐という艦娘であって、駆逐水鬼ではない”のだから。二人を守るための手段は私も講じているし、それが上手くいけば擁護の声をもっと大きく出来る」

「……でも、さっきのあれは作り物なんですよね。私たちは、深海棲艦になるんですよね」

 

 ああ、やはりそこか。

 野分が感じているのは、沈めば自分も同じように深海棲艦になるという恐ろしさであり、今まで自分たちが撃って来た敵の中にはひょっとしたらかつての仲間が含まれていたかもしれないという怖さだ。駆逐水鬼の救出は、皮肉にも艦娘と深海棲艦が表裏一体であることを証明してしまったのである。

 ならば、川内がやって来たことは何だったのだろう。督戦任務で沈めた仲間たちは、自分を恨んで襲って来るのだろうか。

 

「そうね。艦娘と深海棲艦はコインの裏表なのよね」

 

 レミリアはそれまで座っていた大きく威厳のある椅子から立ち上がった。

 

「違いは一つだけ。人間に与するか、対立するか」

 

 喋りながらつかつかと彼女は歩み寄っていく。そこにいるのは川内だ。

 

「そして、貴女たちは人間に与する側であり、故に人間に危害を加える一切を排除する使命を背負っている。一度敵と認めた者への容赦は必要ない。躊躇なく引き金を引くことが求められているのであり、“元同胞”だろうがなんだろうが、襲って来るなら撃たなければいけないわ。それがたとえ自分自身だったとしてもね」

 

 少女提督は川内の後ろに立ち、軽巡が座る椅子の背もたれに手を掛ける。川内が首をひねって見上げると、深い緋色の瞳が見下ろしていた。

 

「何故ならこれは戦争だから。ゲームじゃない。スポーツでもない。生きて、死ぬ戦争。貴女たちは兵士であると同時に兵器であり、自軍に脅威をもたらす存在を撃滅しなければならない。駆逐水鬼は本当に例外中の例外よ。彼女たちにはまだちゃんと心が残っていたから、だから私たちはあの子たちを絶望の淵から救い出してあげられた。もし心を失っていたら、撃つしかなかったのよ」

「……うん」

「悲しいけれど、それが現実なの。敵は撃たなければならないという至上命令がある以上、誰もそれに逆らうことは出来ないわ。その相手が、昨日まで寝食を共にした同じ艦娘であってもね。

――だけど、もしまだ救う余地があるなら、決して仲間は見捨ててはいけない。これもまた鉄の掟よ。彼女がどんな状態になってしまっていたとしても、まだ仲間として取り戻せるならいかなる労力を払ってでも救出しなさい。それでも、自分たちだけでなし得ないというなら、その時は私を呼んでくれて構わないわ。手が空いてたら助けに行くわよ」

「……そこは『いつでも行く』って言おうよ、提督」

 

 最後の最後で格好の付かない一言が飛び出して来て、川内は若干の失望を言葉にして吐き出した。

 いやまあ、提督らしいっちゃらしいんだけど、と心の中でひとりごちる。しかし、レミリアの方は心外だと言わんばかりに憮然とした表情を作ってみせた。

 

「あら? 私、これでも意外と忙しいのよ。紅茶を飲んだり、弾幕ごっこしたり、神社に行ったり、飲み会あったり」

「なんだか暇そうなんだけど」

「失敬ね」

 

 優雅な暇人でありそうなこのお嬢様は、機嫌を悪くしたのかぷいっとそっぽを向いてしまう。白くて柔らかそうなほっぺたが膨らんでいた。

 

 

「プッ、アハハ」

 

 厳かな司令室に軽やかな笑い声が響く。声の主は舞風。口元に手を当て、楽しそうに破顔していた。

 

「提督らしいよね」

 

 笑いの収まらぬ舞風。こらえ切れないのか、言葉の端が浮いていた。

 

「そういうとこ、結構好きだよ」

「ありがとう。うれしいわ」

「頼っちゃうからね」

「任せなさい。気が向いたら、だけど」

「うん。気が向いたらでいい。ちゃんと、来てよね」

 

 それからふと舞風は真顔になる。

 

 

 

 

「約束だよ」

 

 

 

 

 ささやくような小声で彼女は呟いた。

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声量だったのに、レミリアははっきりと頷く。

 だから何だということはないのだし、この時はこれで終わった。その後特別なことは何もなかったはずだ。

 

 

 だが、もっと後から思えば、ひょっとしたら舞風は何かを予感していたのかもしれない。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督22 Dethronement

 

 

 その知らせを聞いた時、赤城の心情を一番占めたのは安堵であった。次いで歓喜である。

 不安要素が取り除かれたことを確認し、次に仲間が上々の結果を獲得したことに喜びを感じたのである。轟沈を覚悟したかのように南方に赴いた舞風と野分の二人は、姉妹艦が変貌していたとされる深海棲艦「駆逐水鬼」を討伐するのではなく、この敵が確かにかつての姉妹艦であり、そして彼女たちを深海の呪いから解き放ったのだ。

 予想はいい意味で裏切られた。どうあっても二人の心に傷を残す遠征になるであろうと考えていた赤城は、心配事の一切が取り除かれて安心し、喜んだ。しかも、良い知らせはそれだけではない。同じく遠征に参加した川内も、長年彼女を苦しめていたトラウマを克服し、名に聞く「夜戦の鬼」としての顔を取り戻したのだという。

 

 百点満点どころか、二百点満点の結果。

 無論、この奇跡のような勝利の影には、そこに提督レミリアの力があったことは言うまでもない。いやむしろ、彼女はこの勝利を得るためにいろいろと手を回していたのかもしれないし、周囲の反対を押し切って舞風たちの参加を許可したのも、ひょっとしたらこの結果のためだったのかもしれない。恐らく、当初の予定通り第七駆逐隊が参加していてはこうはならなかっただろう。

 知らせはあっという間に鎮守府を巡った。その日の晩には、参加出来なかった七駆の漣が祝賀会のサプライズプレゼントの募集を始めたくらいである。残った艦娘一同全員一致で「㈱間宮製菓 クッキーアソートセット(¥16000)」に決まった。これはこの秋に発売された最新のお菓子で、まだ鎮守府の誰も食べたことがなく、「前に舞風ちゃんがこのクッキーアソートを食べたいって言ってたから」という潮からの情報提供が決め手になった。

 間宮製菓のお菓子はどれもこれも値が張り、一般の艦娘にはなかなか手の出づらいものばかりであるが、今回ばかりは鎮守府の「福利厚生」の予算で(つまり経費で)プレゼントを買うことになった。決裁には提督であるレミリアのサインが必要だが、彼女の口にお菓子を突っ込んでおけば事後承認でも全く問題ないだろう。ザ・秘書艦特権発動である。

 

 と、まあ。このような経緯があり、赤城はしばらく上機嫌の日々を過ごしていた。

 鎮守府を母港とする艦娘母艦の「硫黄島」が遠征に出てしまっている以上赤城たちにはせいぜいが近海の哨戒任務程度の出撃しかなく、レミリアたちが帰ってくるまでの約半月、緊張は適度にすれどものんびりとした時間が流れていた。機嫌が良ければ自然と仕事もはかどり、大したトラブルもなく、非番も加賀と合わせて久しぶりに二人で街に買い物に出掛けたりと、赤城は平和を謳歌していたのだ。

 しかし、そうした穏やかで温かい日々は長くは続かないのが世の常。

 ある日、赤城は金剛と加藤に呼び出された。

 

 

 

 

 

 そこは、鎮守府第一庁舎の一階、休憩所に近い建物の奥まったところにある小会議室であった。古めかしい庁舎の外観とは裏腹に、現代のオフィスのような内装のまぶしい会議室の中には、可動式テーブルと床から延びるコードがつなげられたパソコンが用意され、二人の人物が待ち構えていた。

パソコンの目の前を陣取っているのは赤城を呼び出した張本人、金剛だ。そして、彼女の隣には気難しそうにしかめっ面を構えた幕僚長の加藤がパイプ椅子にふんぞり返って座っている。

 その光景を見て、赤城はこれから自分が聞く話は到底愉快になりそうにないなと予想した。何しろ、まずこの二人の組み合わせというのが奇妙だ。エリート街道まっしぐらの加藤と現場叩き上げの金剛では、ある意味陳腐であるが、仲があまりよろしくなかった。何かと意見の対立があるのが常で、頻繁に赤城は二人の間で仲裁をしなければならなかったし、二人の考え方や好みを熟知していたから、尚のことこうして二人が雁首を揃えているのが不可解で仕方がないのである。

 赤城が会議室に入室すると、金剛は加藤とは反対側の椅子を引いて座るように促す。加藤に一つ会釈をして、赤城はいそいそとその椅子に腰を下ろした。

 

「これを見て」

 

 何の前振りもなく、金剛はいきなりパソコンを滑らせて赤城に見せた。液晶の画面には、海外のホームページだろう、ずらずらと英文が並んでいる。

 人並以上には英語でのコミュニケーションが出来るとはいえ、まとまった量の英文を読むのにはそれなりに時間がかかる。画面に表示されたアルファベットの洪水に若干辟易しながら、とりあえず題名だけ読んでみる。

 

「『北イングランドの歴史と伝承』、ですか?」

「Yes.これはカーライルの地元大学の歴史学者がインターネット上で公表している論文ヨ。Northern Englandの風俗史や伝承についてかなり詳しく書かれているワ。特に、中世以降のものの文量が多い」

 

 言いながら、金剛はマウスをいじってページをどんどんスクロールしていく。ただそれを眺めているだけの赤城には、まるで画面の中を下から上に、黒い文字が津波のように駆け上っているように見えた。

 

「興味深いのはここから。16世紀以降ネ。この辺りはCumbria countyの伝承についての記述がある。見てほしいのは、湖水地方に古くから残る言い伝えのことで……コレ」

 

 白魚のような指が、ある一節を指す。

 

「単なる偶然だとは思えないワ」

 

 そこに書かれている文字を、見慣れたはずのアルファベットを、最初赤城の脳は認識しなかった。いや、出来なかった。

 

「『……そして、中世以降の湖水地方のみならず北イングランドの人々の間で猛威を振るった伝承に登場するこの悪魔の名前は』」

 

 金剛が英文を訳し、声に出して読み上げる。

 

 

 

「Remilia Scarlet」

 

 

 

 

 

 

 

 レミリア・スカーレット、あるいは“紅い悪魔”は、一般に幼い少女の姿をとって現われるという。稚児の姿になるのは獲物である人間の油断を誘うためともいわれ、その体の元になったのはさらに昔にレミリア・スカーレットに襲われた少女のものであるようだ。

 無論、これは仮初の姿形であるから、子供の身なりをしているからといって安易に近付いてはならない。それはこの狡猾な悪魔が用意した罠であり、人々の庇護欲を刺激し、警戒心を解き、より捕まえやすくするための手段に過ぎないのだ。不幸にも見た目に騙され、寄って来る人間を、彼女は――当然のことではあるが――人外の怪力で捉えると、その喉笛をかっ裂き、噴き出す生き血を啜り、挙句には獲物の血を一滴残らず飲み下してしまう。

 想像するだけ身震いするような恐ろしい話であるが、こうした恐怖は口から口へ人々の間で広く伝播し、伝承の大元となった湖水地方だけでなく、遠く離れたロンドンですら、同時代のある貴族の小話にこの悪魔が登場するくらい広まっていた。大いに誇張された形跡があるとはいえ、16世紀後半のイングランドの住人たちにとって――この時代はエリザベス一世の治世であり、大ブリテンが栄華を極めていたにもかかわらず――繁栄に影を落とす存在であったことは否めない。レミリアは時に、その恐ろしい食事風景の形容から、“紅い悪魔”とも呼ばれていた。

 特に、レミリアが住んでいたという湖水地方での人々の畏怖の具合は飛び抜けており、彼らにとって貴重な食糧であり収入源であるはずの牧羊を、一定数生贄として差し出していたり、他にも小麦などの農作物を献上していた。これは湖水地方の住人に対するある種の租税であり、彼らから見れば自分たちがレミリアに襲われないための保険でもあったようだ。

(中略)

 このようにイングランド中にその悪名を轟かせていたレミリアであるが、実情はそれほど詳しくは分かっていない。あくまで伝承の中においてだが、確かに言える(つまり複数のレミリアに関する伝承の中で共通している)項目は、彼女が幼い少女の姿であること、その背中には蝙蝠のそれを大きくしたような黒い羽根が生えていること、犬歯が大人の男のものよりも大きいこと、岩を砕く怪力と100マイルを一瞬で移動する速度を持つこと、瞳が血のような色合いをしていることである。こうして並べてみると、レミリアについて語られることの多くは彼女の容姿に関したものであり、その背景、例えば家族構成などについての情報はほとんどない。唯一確認出来た事例は、1600年に当時の国会議員の日記に出て来る話として、レミリアには妹が一人居るというものであるが、他に同様の証言は存在しない。

 

 

 

 

 

「まさか……」

 

 

 

 信じられなかった。こんな話があるなんて、あり得るなんて。

 そう。彼女は確かに幼い少女の姿をしていて、けれど犬歯は人よりちょっと大きくて目立つだけで、背中に羽根なんて生えていないし、腕力だって見た目相応だ。

 これは何かの間違い。単なる偶然。

 

「赤城、最初はワタシも信じられなかったワ。でも、あまりにも符号点が多すぎる。彼女の名前を聞いた時、聞き覚えがある気がして調べてみたらこんな資料が出て来た」

「悪魔だなんて、そんな」

「ええ。悪魔が実在するなんてワタシも思いたくない。だけど、よく考えてみて。ワタシたちのEnemy、敵は何? 得体の知れない、深海の化け物。この国の古くからの言葉でいうなら『妖怪変化』。悪魔みたいなものデショ? いえ、そもそもワタシたち自身が人の理から外れた存在。この手の人外が他に居ても不思議じゃナイ」

 

 

 

 足元が崩れていくような気がした。

 自分自身が何かに飲み込まれて行ってしまうような気がした。

 

 ――まあ要するに海の妖怪みたいなもんなのね。

 

 脳裏に蘇る、どこかの紅白巫女の声。彼女は確かに、そんな言葉で深海棲艦を例えた。

 あれは不思議の国の中、夢の中でのことだ。現実じゃない。

 けれど、あの夢の中で紅白巫女の隣に居た「東風谷早苗」は実在の人物で、守矢神社も実在している神社だった。それらの存在は報道により広く世間に知れ渡っている。未解決事件として。

 世間一般ではそうなっているが、赤城はあの神社と東風谷早苗という少女がどこに行ったのかを知っている。その場所の名前を述べることが出来る。

 東風谷早苗は新天地で新たな友人に恵まれたのだろう。それがあの時、紅い館の庭で茶会を楽しんでいた面子なのだ。紅白巫女は彼女の友人の一人である。

 

「こんなことが……」

「動揺しているところ悪いが」

 

 そこで初めて沈黙を守っていた加藤が口を開いた。

 赤城はそれで彼の存在を思い出す。そうだ、このお堅い軍人が伝承に出て来る悪魔のことなど真に受けるだろうか。

 

「幕僚長! これは何かの!」

「赤城、その前にこれを見てくれ」

 

 加藤がそう言うと、示し合わせたように金剛がマウスを動かし、それまで表示されていた英文のサイトから、ブラウザのタブを変えて別のページを起こした。

 それは、対外的に公開しているこの鎮守府のホームページである。内部にいるので意外に見ないものであるが、赤城もこの作成には少し関わっていた。

 

「見ての通り、うちのホームページだ。知っていると思うが、ここに鎮守府長官の挨拶が載っている」

 

 加藤の言葉に合わせて金剛がさらにページを開いていく。目次から、「鎮守府長官の挨拶」という文字を選択し、クリックする。

 わずかなリーディングの間を置いて、ページが切り替わった。

 

「……はあ」

 

 全身から力が急速に抜けていく。体を支え切れなくなって、椅子の背もたれに身を預ける。

 確かに、内部にいる限り対外的なホームページというのはなかなか見る機会のないものだし、作成そのものは軍中枢のシステム部門が担当するわけだから、誰かに言及されたりしない限りは存在すら忘れがちなものである。だが、それにしたってこれはおかしいではないか。どうして誰も気付かなかったのだろう。あるいは、これが悪魔の力とでもいうのか。

 

「俺は、幕僚長じゃなかったのか」

 

 そこに書かれていたのは“鎮守府長官”加藤少将の挨拶である。

 今目の前にいる彼の顔写真と共に、覚えのあり過ぎる挨拶文が綴られていた。それもそのはず、この挨拶文を書いたのは赤城自身であり、「提督」からの依頼で、とにかく当たり障りのない内容を意識して書いた覚えがある。その「提督」というのは、つまりレミリアのことで。

 

「なんで、これが!」

「書いたのはお前で間違いないな。赤城」

 

 加藤が唸るように喋り、赤城に確認する。

 

 そうだ。その通りだ。この挨拶文は、レミリアの言葉として書いたのだ。

 決して、加藤のためではなかった。

 

「これは確かに、“レミリア・スカーレット少将”の名前で書いたんです!」

「それなんだがな」

 

 声を張り上げる赤城を遮り、尚も低い調子で彼は続ける。

 

「我が国海軍に、“レミリア・スカーレット”なる人物は所属していない」

「……っ!」

「所属していた形跡もない。当然、少女の年恰好をした女性軍人など、誰も見たことがないそうだ」

 

 

 

 パキン。と、頭の中で何かが割れる音が響いた。

 夢見心地、というよりはむしろその逆のような、つまり“夢から目が覚めていくような”心地であった。

 そう。赤城は今まで、壮大な夢を見ていたのだ。レミリア・スカーレットなる将軍は存在しておらず、鎮守府の長官は幕僚長だった加藤が後を継ぎ、新しい誰かを迎えることもなくこの鎮守府は少し人が変わって、他は概ね今まで通りに運営されてきていた。

 

 

 何もかも夢だったのだ。

 ふわりと笑いかける小さな少女は風に流される煙のように霧散してゆき、少し舌足らずで威厳に満ちた声は木霊の中に消える。朝の司令室で優雅にコーヒーを飲む背中も、三時に紅茶を嗜む姿も、日傘をさして日光をまぶしく反射するコンクリートの護岸の上を歩く足取りも、踊る舞風を楽しげに見つめる表情も、懐いた工廠の妖精が飛び乗った肩も、「硫黄島」の艦橋でレーダースコープを見下ろしながら不敵な弧を描く口元も、弓道場に響いた絶賛の声も、月明かりの照らす司令室で赤城を抱きしめた温もりも。

 すべてが、何もかもが、幻想となり虚空へ消え去っていく。

 戦闘で意識を失い、「硫黄島」の士官室で目覚めた時のように。温かく穏やかな夢が冷たい現実に溶解し、寂寥が心を埋め尽くしてしまう。

 

 赤城が見ていたのは一体何だったのだろうか。彼女の後ろ姿が溶け込んでいた平穏な日々は、単なる幻でしかなかったのだろうか。

 ならば、この胸を刺す痛みの正体を捉えられないのは何故だろう。

 

 寂しさ? 失望? あるいは別の何か?

 

 分からない。感情の正体も、それの処理の仕方も。

 赤城の優秀な頭脳を持ってすら、まったく答えが出ない。

 事実をどう受け止めればよいのか途方に暮れ、今まで当たり前だと思っていた光景が突然鏡を割るように崩壊していくのを、指を咥えて眺めているしかない。現実と感情のはざまに落とし込まれて、赤城は考えるのをやめた。少なくともそうすれば、理解したくないことを理解せずに済むだろうから。

 しかし。だというのに、目の前の二人が、あるいは現実と名の付く言葉が、容赦なく閉じこもろうとする赤城の扉をこじ開ける。

 

「ワタシたちの提督は、加藤少将で間違いない。レミリア・スカーレットと名乗るあの少女は、ワタシたちを誑かし、騙そうとする正体不明の犯罪者でしかないワ」

「洗脳されているんだ。彼女を無害な人物であると思い込まされている。冷静になれ、赤城。落ち着いて考えれば、何もかもがおかしいことは分かるはずだろう」

 

 囁かれるその言葉たちこそ、悪魔の甘言に聞こえた。

 だけど、極度の混乱の中でもかろうじて失われ切れていない赤城の理性が、二人の言こそが正しいのだと、レミリアこそ幻惑の根源であるのだと、やかましく騒ぎ立てる。

 きっとそうだ。正しいのは金剛や加藤で、レミリアが間違っているのだ。彼女は人を騙して軍の重要ポストに居座っていた悪党なのだ。

 

 

 赤城の信じたあの提督は、偽物だったのだ。

 

 

 

 

 両手で顔を覆う。

 涙が出そうだった。今にも泣き出しそうだった。泣き顔を見られたくなくて、手で顔を覆ったのだ。

 けれど、涙腺が干からびたように涙は出て来ない。こんなにも泣きたいと思っているのに、残酷なほど目は反応しなかった。

 あの時は、自然と涙が出たのに。

 

「Shockingなのは分かるワ。でも、受け入れなきゃ」

 

 赤城は首を振る。いやいやをするように、無言で首を振った。

 やっぱり、目元からは何も出なかった。

 どうやっても泣けない。この感情を吐き出す術を、赤城は持たない。

 だから、しばらく顔を隠したままで、ようやく出て来た声で、言葉を繋いだ。

 

「確かめさせてください。その、機会だけは下さい」

 

 それが、精一杯の懇願だった。

 二人は、渋々といったふうに頷いた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 「硫黄島」が接岸したのは、まだ太陽が姿を見せていない早朝のことであった。起床時間には少し早いが、赤城は寝床から起き出して既に「正装」を身にまとっている。正装というのは、礼服のことではなく艦娘の制服、つまり戦闘服のことであった。

 その上で、最低限の艤装――弓や飛行甲板、主機などを除きそれらの装着部だけを取り付けた状態で赤城は桟橋に立った。

 鎮守府の長たる提督を迎える黒のクラウン・マジェスタが静かに桟橋にやって来る。時間が時間ということで、大戦果を挙げた英雄の帰還にもかかわらず、出迎えはそれほど多くない。赤城と係員とクラウンとタグボートくらいで、思った以上に寂しい凱旋となりそうだ。

 それが、まるで今後を予感しているように思えてならない。空は雲が多く、切れ目からちらちらと旭日の陽光が見えるくらいである。そのくせ、初冬らしい身を切るような寒風が吹き付け、赤城の黒い長髪を無造作にかき乱しては大急ぎで陸へ走り去っていく。

 ゆっくりと桟橋に近づいて来る「硫黄島」の周囲を、不安そうにタグボートが寄り添っているが、彼らは操船術において有名な艦長の見事なコントロールに出番をなくして暇を持て余しているようにも見えた。なんの危なげもなく、全長200メートルを超える巨艦は吸い寄せられるように近づいて来る。甲板から係留索が投げられ、桟橋で受け取った係員らが大急ぎでそれをボラードに巻き付けていった。

 バラ積み船の上に飛行甲板と艦橋を乗っけたような「硫黄島」は、喫水から立ち上がる垂直な舷側をぴたりと岸壁に添える。人が忙しなく動き回り、タラップが大慌てで降ろされると、舷門に堵列員が並び、程なく号笛が鳴らされた。

 悠然と舷門に姿を現すレミリア。堵列員に答礼しながらタラップの前まで来ると、地上に赤城の姿を目に捉えたのか、少し微笑んだ。

 それは、純粋に好意のある者に対して向けられる類の笑み。見た瞬間に胸がチクリと痛む。

 果たして今の自分がそのような笑みを向けられるに値するのだろうか。何しろ赤城は彼女のことを……。

 レミリアがゆっくりとタラップを降りて来る。海軍旗に敬礼すると、運転手が開けたドアからクラウンに乗り込んだ。赤城も、彼女の隣に身を潜り込ませる。

 これらはすべて、海軍提督たる人物に敬意をもって行われる持て成しだ。組織として、提督に対し礼儀を尽くしているのだ。

 では、レミリアはその礼儀を受けるにふさわしい人物であろうか。

 ひょっとしたら、彼女は提督どころか、海軍の軍人ですらない可能性がある。

 

「朝早くからご苦労様」

 

 何も知らない彼女は呑気に部下をねぎらう。

 レミリアは、いい提督だと思う。部下のことをよく見ているし、度量が大きく、作戦指揮の腕もいい。今回の南方遠征においても、大成功と言える戦果を残したのだから、正しく彼女の力は評価されるべきだ。彼女の右腕として任務に従事する赤城にとっても、多少の強引さに目を瞑れば、部下として働くことに何の不満もないし、上官として慕う気持ちがないと言えば嘘になる。

 だからこそ、彼女が本当に海軍の、この鎮守府の提督であるのかを確かめなければならない。赤城にも海軍の一員として、防人としての矜持がある。不惜身命の誓いを立て、戦場の海に打ち出るに、真に仕える相手として果たしてレミリアはふさわしいのか。

 この半年、彼女が赤城たちの間に残したものは大きい。彼女の影響はあまりにも広がっていて、故に彼女の正体が知りたくて仕方がない。

 

「長旅、お疲れ様でした」

 

 赤城は何も悟られないよう、表情を取り繕い、いつも通りを完璧に演じてみせる。内心を気取られては、目論見は破綻してしまう。今赤城に与えられている役割は、何事もなく彼女を鎮守府庁舎の、金剛と加藤が待ち構えている司令室に連れていくことなのだ。

 そこには二人以外にも、加藤に率いられた陸戦隊の精鋭たちが“不測の事態”に備えている。司令室にさえ連れて行けば、何が起こってもどうにでも出来る布陣であった。しかし、逆を言えば司令室は処刑場にも等しい場所であり、まさに赤城は彼女をそこに連行する死刑執行人なのだ。

 だが何より、赤城は思っていることをレミリアに知られたくなかった。単に役割をこなす上での障害になるという意味以上に、感情的にそれが嫌なのだ。これが何の感情なのか、赤城は名前を付けることに躊躇する。

 今更だ。今更、自分がそんなことを思うなんておかしいにもほどがある。

 

 

 ――まるで、自分がレミリアを裏切っているように感じるなんて、本当にどうかしている。

 

 

 

「何か、あった?」

 

 気付けば、紅い大きな瞳が赤城を覗き込んでいる。

 ドキリと心臓が跳ね上がった。その音がレミリアに聞こえなかったかと思い、さらに赤城は肝を冷やす。

 バレてはダメだ。ここでバレては、何もかもが終いになってしまう。

 

「あ、いえ……。少し、考え事をしていまして」

「ふぅん。貴女の頭を悩ませるほどの何があるのかしら?」

「大したことではありませんよ。……強いて言うなら、提督のことでしょうか」

 

 不意に、赤城はすべてを打ち明けたくなる衝動に駆られた。今ここで、レミリアに対して何もかもぶちまけてしまいそうになった。そんなことをすればすべてが終わりだが、「構うもんか」という言葉さえ頭に浮かんだ。この矛盾した感情を抱えたまま演技を続けるくらいなら、いっそのこと愚直な正直者に身を落とした方がましだ。

 けれど、もちろんそんなことが許されるはずがない。自分でも意外なほど強力な自制心が、暴れ出しそうだった感情にタガを締め、今一度仮面を被り直して赤城は「秘書艦赤城」を取り戻す。

 

「私、そんなに貴女を振り回しているかしら?」

「ご着任されてから振り回されてばかりなんですけれど」

「そう? これでも我儘は控えているつもりなんだけどなあ」

 

 ほら、他愛のない会話もこの通りソツなくこなせる。

 車内は至って和やかな雰囲気だ。レミリアの軽口に乗り、リラックスしたムードを作るなど、造作もないこと。すべてをいつも通りに、何も予感させず、何も警戒させず、あそこまで連れて行けばいい。

 レミリアの頭越しに、反対側のサイドウィンドウに映る自分の顔を見る。何もおかしなところはないし、普段と変わりない表情を作れている。

 車はほどなくして鎮守府庁舎の前に停車した。桟橋からここまでの、わずかな距離の移動に使われるだけのもので、鎮守府司令官というのはこうした扱いを受ける者なのだ。

 レミリアにとって、恐らく司令官扱いはこれが最後になる。彼女の今後がどうなるかは分からないが、きっと栄光からは程遠い、暗いものになるだろう。

 そう考えると、どうしてか胸が痛む。

 だが、分からない。何故胸が痛むのか。何故、自分はこんなにも将来を悲観しているのだろうか。むしろ、そうなるべきはレミリアなはずなのに。

 

「さっきの続きだけど」

 

 玄関から建物の中へ、赤城に先導されるレミリアが唐突にそんなことを言い出した。

 

「やっぱり、私は貴女を振り回し過ぎていたかもしれないわね」

「提督?」

「なまじ貴女がよく言うことを聞くし、仕事も出来るからそれに甘えていたのかもしれないわ。ごめんなさいね。大変だったでしょう」

 

 言葉が出なかった。何か言おうとしても、声帯は凍り付いたように動かず空気が漏れるだけだった。

 やめてくれ、と思う。今更そんなふうに謝られても、もう後戻り出来ないところまで来てしまっているのだ。彼女との温かい日々は、二度と訪れることはないのだ。

 それに、何よりこうして彼女に謝られると、まるで自分が悪い気がしてならない。感じる必要のないはずの罪悪感を感じてしまう。

 

「今更かもしれないけどね」

「……えっと」

「でも、それももう終わり。そんなに辛そうな顔して、必死で取り繕わなくてもいいのよ」

「……!」

「この先に何があるか、さすがに予想がつくわ。ケジメは、つけないといけないわね」

 

 赤城の足が止まる。靴の裏が床に張り付いたようだ。

 動かなくなった赤城の脇をレミリアがすり抜ける。

 

「行きましょう」

 

 けれど、赤城は硬直し、案山子のように突っ立ったまま。ついて来ない秘書艦の気配を感じて、レミリアが振り向く。

 いつものように、紅く少し潤んだ瞳が、いつもの位置から赤城を見上げている。そんなふうに背の低い彼女が自分を見上げることに赤城はいつの間にか慣れていたし、彼女に対して俯いて表情を隠そうとしても出来ないことはとうの昔に学んでいた。だというのに、無意識に俯いて、彼女と目を合わせまいとする。もしそうなったら、きっと堪え切れないだろうから。

 

 何か言わなければいけない気がした。

 

 けれど、言うべき言葉は何も出て来なかった。

 

 喉は干からびて、唇は渇き切って。

 

 

 

「行きましょう」

 

 もう一度レミリアはそう言い、再び背を向けて歩き出す。ついぞ何も言うことが出来ず、運命の場所へと向かうその背中を追うしかない。

 

 足は、ゆっくりと動き出した。彼女に追いすがるように、赤城は無言でついていく。

 玄関から司令室までの道は、彼女と共に何度も歩いた。最初は、彼女が着任した時。独特の雰囲気に慣れなくて、やたら気を張って案内した覚えがある。しかし、それもいつの間にかレミリアという存在に慣れたことでなくなり、時に仕事の話をしながら、時に雑談に花を咲かせながら、二人して並んで歩いた。

 一回だけ例外がある。その時は、彼女の前で自分の弓を披露した後で、互いにこの上なく上機嫌で、赤城はこの道を歩いている最中、得意気に射法八節の解説をしていた。後にも先にも彼女を弓道場に招待したのはこの時だけであり、その後にあったこと共に、とても印象深く心に残っている。

 

 わずか半年の間にあったことだ。

 だというのに、思い出がどうしてこんなにも鮮やかに色づいているのだろう。レミリアと過ごした半年が、どうしてこんなにも尊く思えるのだろう。

 それがもう戻らないと分かっているからだろうか。だから、こんなにも大切にして宝箱に仕舞い込んでしまいたくなるのだろうか。

 

 

 レミリアは司令室の前に立つ。すべてを終わらせるその場所へ、彼女はやって来た。

 今ならまだ間に合う。赤城は、彼女の袖を掴んで引き留めるべきなのだ。そうすれば、少なくとも彼女が罪人として貶められることなく、どこか海軍も深海棲艦もいない穏やかな場所に逃がしてあげられるのだから。

 手を伸ばす。紺色の、丈の余った制服の袖を掴もうとして、虚しく赤城の指は空を切った。

 レミリアは、とても罪人とは思えないほど背筋を張り、威風堂々と扉を開けて司令室に入る。そこに何の躊躇もなく、むしろ溢れんばかりの威厳に満ち満ちていて、眩しさに赤城は目を細める。

 金剛の話を聞いた時はとても信じられなかったが、今ならあの話もあながち嘘ではないと思った。

 レミリアが何百万の人間を畏怖させた稀代の悪魔だというのなら、真実それはそうだと、赤城は確信を持って言える気がした。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 司令室の中には、案の定金剛と加藤が待ち構えていた。

 加藤は腰に拳銃のホルダーを下げているし、金剛も赤城と同じく戦闘服をまとい、艤装を装着している。

 中にいるのは二人だけだが、隣の秘書室には手練れの陸戦隊員が控えているのだろう。隠し切れない殺気が司令室の中を満たしている。

 しかし、異様な雰囲気の司令室に入っても、レミリアは変わらず堂々としていた。「ここは私の部屋だ。それの何がおかしい」と言わんばかりに。

 

 

 

「お早う」

 

 声にも張りがある。レミリアはまるで動じていなかったし、そんなレミリアを目の当たりにした金剛や加藤も平然としていた。

 

「お早うゴザイマス」

「お早う。少将」

 

 一触即発の空気の中、朝の挨拶が交わされる。

 

「貴方たち二人がこうして出迎えてくれるなんて、今日は幸先がいいのかしらね」

「そうだな。そうであることを祈ろう」

 

 加藤が尊大な調子で言い放つ。東洋人にしては落ちくぼんだ眼孔から鋭い眼がレミリアを見据えていた。

 

 

 

「レミリア・スカーレット少将。いや、スカーレット・デビルと呼ぶべきか?」

 

 

 

 開戦の狼煙は上げられた。

 その瞬間のレミリアの表情を、司令室の入り口の脇に立った赤城が見ることは出来なかった。しかし、彼女の肩が動揺して跳ねることも、膝が震えることもなかった。

 レミリアは実に、レミリアらしくあったのだ。

 

「その名で呼ばれるのは久しいわね。ということは、貴方たちは私の正体についてもちゃんと分かっているわけね」

「Yes. 貴女は湖水地方で古くから恐れられている悪魔――吸血鬼だ」

 

 そう言って金剛は懐から小さなロザリオを取り出した。銀白色の十字架が、電灯の光を反射する。

 銀のロザリオは、西欧で魔除けの小道具として用いられていると聞いたことがあった。それをレミリアに向けるということの意味を、金剛は分かっているのだろうか。

 いや、もちろん彼女は理解しているだろう。この中で、未だに迷いを残しているのは赤城だけなのだから。

 

「そう。そういうこと……」

「極力こちらとしても穏便に済ませたい。投降してくれないか」

 

 加藤は敵意を隠そうともせず、穏やかな振りをして投降を促す。それが形式的なやり取りであるのは誰にでも分かった。加藤は実力行使に頓着するつもりは毛頭ないのだろう。

 レミリアの力が果たしてどれほどのものかは知れない。だが、一応赤城を含めて艤装を付けた艦娘が二人、さらに数人の選りすぐりの兵士がいるのだ。まず間違いなくレミリアには抵抗の余地がないし、だから加藤もこの上なく強気だ。

 

「それは、私に貴方たちに対して膝をつけということ?」

「そうだ」

「ふぅん」

 

 レミリアはゆっくりと頷いて、それからこう言い放った。

 

 

 

 

「お断りね!」

 

 

 ゴウッと風が唸る。窓を閉め切って密室状態のはずの司令室を、生暖かい風が吹き荒れ、本棚から本が吹き飛び、埃が舞い上がる。

 

「こんな物で」レミリアは金剛へ手を伸ばした。「私を抑え込めるなんて思わないことね」

 

 彼女は金剛からロザリオを捥ぎ取った。艤装を付けた金剛は、常人を遥かに超越した膂力を持っているはずだが、いとも容易く、それこそ幼い子供から物を取り上げるように、レミリアはロザリオを奪ったのだ。

 そして、唖然とする金剛が見ている前で、片手でそのロザリオを握り潰す。小さくとも銀で出来た聖なる十字架は、無残にも金属の屑へと返らされてしまった。

 金剛の顔が色を失う。

 

「化け物め! 突入‼」

 

 拳銃を構えた加藤の合図とともに、秘書室と廊下に繋がるドアをそれぞれ蹴破って、何人もの男たちが雪崩れ込んで来た。全員が全員拳銃を構え、すべての銃口が部屋の中心に立つ向けられている。

 

「観念しろ。逃げ場はないぞ」

 

 銃を構えながら、加藤と金剛はゆっくりと兵士たちの側に寄っていく。寒々としていたはずの朝の司令室の空気はいつの間にか硝煙を微かに含んだ熱気に包まれていた。

 銃を向けられ、男たちに囲まれ、降伏勧告を受けても尚、レミリアは今までと変わらぬ悠然とした姿勢を崩さない。それどころか、声には不遜で不敵な響きが満々と詰められていて、恐らく彼女の口元も声と同じく弧を描いているだろう。

 

「逃げ場か。ないなら、作ればいいじゃない」

 

 おもむろにレミリアは懐に手を入れる。

 警告はなかった。加藤の銃が火を噴いて、破裂するような銃声が轟く。レミリアの体がくの字に折れ曲がり、赤城は息を飲んだ。

 制止も何もない。躊躇のない加藤の暴挙に、怒りの視線を向けてみれば、彼の方が驚愕に目を見開いていた。赤城が一瞬レミリアから視線を外したその刹那に、撃たれたはずの彼女は何事もなかったかのように懐から取り出したものを頭上に放り上げていたのである。

 

 それは、この場で出すにはいささか奇妙に過ぎる物だった。

 何の変哲もない、トランプくらいの大きさの紅い厚紙。表面に何か文字らしきものが書かれているのが見えたが、わずかな間の出来事だったので何だったのかは分からなかった。というより、直後に起こったことで何が書かれていたかなんて気にする余裕が失せてしまったのだ。

 投げられたカードは、天井近くまで勢いを保ったがすぐに重力に引っ張られ、ひらりひらりと舞い落ちる。

 

 ――レッド・マジック!

 

 言葉は、彼女が発したのだろう。

 赤い魔法。

 

 まさにその通り、魔法のようにカードから赤い色の弾が飛び出して来た。

 

 

 バケツをひっくり返したかのように、カードから溢れ出る赤い弾。二種類あった。バレーボール大の、わずかに発光する半透明の大きい弾とゴルフボールサイズの小さい弾がそれぞれ雪崩れるようにレミリアに向けて落ちていく。

 だが、彼女に向かっていくのは魔法の弾だけではなかった。耳をつんざく銃声が連続し、ほとんど反射的に加藤が拳銃を連射する。次々と殺意の鉛弾がレミリアの柔らかく小さい体を撃ち抜いていった。

 紺色の制服に血が滲んでそこだけ色が濃くなる。崩れ落ちる彼女の体を、頭上から降って来た赤い弾の群れが隠してしまう。

 

 すべてがスローモーションに見えた。

 

 訳も分からず、赤城は光景を眺めているしかなかったし、目の前で起こっていることが常軌を逸脱し過ぎていて反応しろという方が無理だろう。早過ぎる、そしてあまりにも暴力的な加藤の銃撃と、目を疑うような魔法の同時進行に、金剛や突入して来た陸戦隊員たちもあっけにとられて動きを止める中、レミリアを覆い尽くした赤い弾が、床に衝突し、跳ね返ったのだ。

 

 

 動きはまるでピンポン玉だった。大量のピンポン玉をばらまいたような現象が起きた。

 

 

 無尽蔵に、無秩序にカードから溢れ出る大小の赤い弾が床で反射し、さらに互いやレミリアの体にぶつかり合って、不規則に部屋中に飛び散ったのである。

 

 

 

 一瞬で室内は大混乱に陥った。

 無数の弾がその場にいる全員に襲い掛かり、さらに壁や天井に跳ね返って前後左右上下、あらゆる方向から飛んで来た。

 もちろん、赤城もそれに巻き込まれた。とにかく接触面積を減らそうと、頭を抱えてその場にうずくまる。腕や胴体にどんどんと弾が衝突し、その度に誰かに叩かれたような衝撃が全身に伝わる。幸いにして、弾の威力はそれほど高くない。当たってもせいぜい痛いだけなのだが、それが何十発と押し寄せて来るとなると話は変わってくる。

 再び銃声が轟き、ガラスの割れる派手な音が連続し、悲鳴が木霊した。「銃を撃つな!」と誰かが怒鳴る。

 さらに、パァンと弾ける大音響が炸裂し、一層激しい弾幕が降り掛かって来た。たまらず、赤城は這って部屋から出ようとする。

 弾幕の中で必死に顔を上げたその目の前を、小さな足が横切った。

 

 

 

 

「さようなら」

 

 

 

 

 混迷を極める喧騒の中で、遠くから聞こえたような、それでいて耳元で囁かれたような声が確かにした。

 誰の声かは言うまでもない。

 レミリアはやはり人間ではなかったのだ。あれだけ何発もの銃弾を浴びても、彼女は元気に走って逃げ出せている。その事実に、少し、ほんの少し赤城は安堵した。ひょっとしたら彼女が永遠に失われてしまったかもしれないなんて思ったから。

 だけど、まだ何も終わっていない。終わらせるわけにもいかない。

 

「提督!!」

 

 赤城は叫びながら立ち上がり、レミリアの後を追った。未だ弾幕溢れる部屋から、背中に弾を浴びながら押されるように飛び出した。

 外の廊下も大変なことになっている。司令室から赤城より先に脱出した陸戦隊員が、開け放たれた扉から廊下にまで溢れて来た弾幕に叩かれているのだ。ピンポン玉のように、そしてピンポン玉よりも長く跳ね続ける赤い弾が、ポンポンと廊下を飛び回っている。弾は部屋の中からどんどん出て来ていて、いくらもしない内にこの廊下も司令室の中と同じくらいの混乱に覆い尽くされてしまうだろう。そうなる前に、赤城は全力で廊下を駆け抜けた。

 跳ね回る大小の魔弾に自ら体をぶつけるように、弾を弾き飛ばすようにして突進すると、その内階下へ降りる階段に到達する。レミリアの逃げ足は思いの外早く、既に視界の中にはその痕跡すら見付けることが出来ない。とにかく下に降りたのだろうとあたりを付けて段飛ばしで駆け下だり、最後の三段は省略して飛び降りた。

 よくよく考えれば、今のレミリアに逃げ場などないはずだ。加藤のことだから警衛所や歩哨にもきちんと根回しをして、万に一つにもレミリアが鎮守府から脱出出来ないようにしていることだろう。軍事施設というのは入るのも難しいが、出るのも難しい、ある意味でそれ自体が広い密室のような空間だ。まして、こうなってはまともな手段での脱出など不可能である。

 ならば、レミリアはどこに行くだろう? 彼女が吸血鬼なら、もうそろそろ水平線に姿を現した太陽はまさに天敵なはずだから、日の当たるところには行かないだろう。

 とすれば、日陰。建物の中。

 この鎮守府庁舎の中のどこかに隠れる? いや、混乱から復帰した加藤がすぐさま捜索隊を編成するだろうから、どこに隠れても見つけられてしまう。

 では、どうする? 赤城がレミリアなら、どういう手段を採るだろうか?

 

 頭を絞った。けれど、案など思い浮かばない。小説の主人公でもないのだから、窮地に咄嗟の機転を利かすなんてそうそう出来るものでもない。赤城は艦娘として戦場で戦ってきたから、多少の不測事態には対応出来るが、今回のようなことは初めてだし、元々混乱していて頭が上手く働かない。

 そして、それに反比例するように感情は空転し始め、焦燥がさらに赤城を駆り立てる。

 何としてでもレミリアと会わないといけない。

 先程、司令室への道中でついぞ言えなかった言葉を、別れを告げた彼女に赤城も言わなければならない言葉を、どうしてもこの口で届けなければならない。

 ただの提督と艦娘としてではない。自らの妹に対するそれと同等の慈しみをもって、赤城がずっと前に喪ってしまった姉の代わりとして、この身を抱き締めてくれた彼女に、まだ何も返していないのだから。肉親を喪った寂しさを、ほんの少しだけ温めてくれたお礼をしていないのだから。

 

 少し前の自分を、最後のチャンスを不意にしてしまった愚か者を、この手で殴り飛ばしたい。

 あの時、ちゃんと言葉にしていればこんなひどいことにはならなかったはずだ。きっと、自分が取るべき行動も正しく選択出来ただろう。振り回したことを謝罪し、最後の最後まで提督として堂々と振舞った彼女に、あんな無様をさせるべきではなかった。

 レミリアが加藤に降伏勧告を受け、罪人のように扱われた時、赤城の胸中に生まれたその感情を名付けるなら、それは「怒り」以外にない。レミリアへの侮辱は、赤城への侮辱であったのだ。

 

 

 

 どうして気付かなかったのだろう。

 

 ――ああ、そうだ。

 

 私は、提督を、レミリアを、慕い、信じていたのだ。

 貴女の下で戦えることに、誇りを持っていたのだ。貴女の手兵であることに矜持を抱いていたのだ。

 貴女が例え軍人でなくとも、人間ではない悪魔であったとしても、人々を騙してその地位を手に入れていたのだとしても。

 貴女が私の提督であり、私が貴女に抱いた感情に嘘偽りはありません。貴女が、私に本当の慈愛を注いでくれたように。

 

 

 

 

 

「提督‼」

 

 彼女を呼び止めるために、追いつくために、声の限りを絞り出す。

 

「出て来て下さい!」

 

 階段をさらに降りて一階に到達しても、やはりレミリアの姿はない。

 騒ぎを聞きつけた職員たちがやって来る。

 

「誰か! 提督の姿を見ていませんか!?」

 

 事情を知らない彼らは戸惑い、一様に首を振るだけ。

 問答する時間も惜しい。赤城はさらに駆け出した。玄関へ回るが、そこにも誰もいない。

 

「提督! 赤城です。貴女の赤城ですッ‼」

 

 声が枯れてもいいと思った。とにかく会わなければ、会って想いを伝えなければ、その一心で叫び続けた。

 廊下を駆け抜け、何度も人とぶつかりそうになり、足がもつれて躓きながらも、必死で走った。

 正面に居ないなら、建物の裏手。ちょうど西側であり、庁舎自体が日光を遮る陰になる休憩所の方に回り込む。

 唸る自販機が並ぶ休憩所。当然のことながら、朝食前のこの時間では誰もいない。しかし、人の気配はした。

 レミリアがいるのかと思った。期待に胸が跳ね、赤城は休憩所のさらに裏手に飛び出す。

 ブオン、というのはエンジン音だろう。

 今まで見たこともないこんな早い時間に、見慣れた飲料会社のトラックがある。今まさにエンジンを掛けて出ようとしたところで、運転席の窓越しに赤髪のいつもの女と目が合う。

 ちょっと前に赤城の休日の話し相手をしてくれた人のいい彼女だ。名前は知らない。どこかの書類で見たはずだが、記憶がない。

 彼女は相変わらず愛想よくにこにこと笑い、赤城に向けて会釈すると車を発進させた。

 どうして彼女はこんな時間に来ているのだろう。予定の関係で朝になってしまったのか。

 走り去るトラック。庁舎の裏手からそのまま裏門に抜けていくつもりだろう。

 

「……まさか!」

 

 いくらなんでも不自然過ぎやしないか。この時間は確かに休憩所に人は居ないが、だからと言って少し早過ぎるのではないか。

 何より、彼女が鎮守府を脱出する手段は、現状あのトラックに隠れて運ばれる以外にないのではないか?

 毎週鎮守府に来ている飲料会社のトラックだ。あの女と衛兵たちも顔見知りだろう。ましてや出て行くトラックの荷台の検査なんてしないはずだ。

 

 再び、赤城は駆け出した。脱兎の如く、飛び出した。

 弾丸の如く朝日に照らされるアスファルトの道を突っ走る。しかし、女は気付いているのか気付いていて無視しているのか、トラックはどんどん遠のいていく。

 海の上なら車より早く走れるのに、陸ではあまりに遅い。スクリューを回転させるのと同じように、足は動いてくれない。

 

「待って! ……待って」

 

 息が切れる。酸素を求めて肺が激しく脈動する。

 こんなに苦しいのに、こんなに全力を出しているのに、トラックと赤城の距離は無情にも離れる一方。どれだけ走っても追い付けない。艤装を付けていても、陸の上では艦娘の足は普通の人間と大差ないのだ。 そもそも、速く走るためにあるわけではない。トラックの後ろ姿は警備隊の建物の角を曲がって見えなくなった。その先は、もうすぐ裏門である。

 裏門では許可証を返すためだけに少しの間止まるはずだ。しかし、その間に追い付けるはずがなかった。

 警備隊の建物を曲がる。真正面に裏門。すでに門を出たトラック。

 

「待って! 提督! 待って‼」

 

 叫んでも、もう声は届かない。伸ばした手の指の間から、街中へ消えてゆくトラックを見送るしかない。

 

 

「てい、とく……」

 

 

 足は自然と止まった。膝に手をついて、荒い息を吐き出す。

 顎を滴が伝い、汗とは別の水が頬を流れ落ちる。

 悔しかった。何よりも、寸でのところで何も言えず、チャンスをふいにして失ってしまったことが、それらすべてが自分の不甲斐なさによるものだから、何よりも悔しかった。

 

 レミリアは逃げ切ったのだ。

 周囲のすべてが敵となったこの基地から、見事逃げおおせた。

 実に早い転落だろう。ついさっきまで、彼女は栄光の凱旋を果たしていたのだ。それが、たった十数分の間に一転、逃亡者になってしまった。

 だが、赤城にとってそれは些末のことである。十数分前までの自分なら言えなかったことは、今ならはっきりと宣言出来る。

 

「提督……。私は、貴女の」

 

 届かない言葉を口にする。このまま自分の中で腐らせていても仕方がないと思った。

 だけど、続きを言えなかった。

 絶対に聞こえない想いを虚空に告げても、一体それが何になるのだ。もう、自分が彼女と会うことは二度とないのだから。こんな別れ方になってしまったのは、すべて自分のせいなのだから。

 もっといい終わらせ方があったはずだ。誇り高い彼女を傷付けずに逃がせることだって出来たはずだ。

 

 

 

 

「赤城さん!」

 

 誰かが名前を呼んでいる。

 とても、聞き慣れた声だ。ああ、彼女ならきっと……。

 

「赤城さん!!」

 

 加賀は、普段の冷静さが嘘のように取り乱していた。いつもは低く、ぼそぼそと聞き取りにくい言葉しか発しない口で、聞いたこともないほど大きな声で叫んでいる。

 彼女は茫然自失とする赤城の肩を揺さぶり、反応しないのを見て抱き締めた。

 

「赤城さん。落ち着いて」

「……ぅあ」

 

 涙が止まらない。ぼろぼろと目元のダムを決壊させながら、赤城は加賀に身を任せて泣いた。

 

「本当に……。貴女がこんなに泣くだなんて……」

 

 加賀の、人より少し高い体温が、黒い穴の開いた赤城の胸に温もりを注ぎ込んでいく。失ってしまったもの、失ってしまったことに嘆く赤城を、結局加賀は無言で支え続けるしかなかったのだろう。だから、赤城も何も言わず、訳も話さず、ただ溢れる感情を溢れるままに、加賀の胸に顔を埋めて泣き続けた。

 その間に、遠くでサイレンが鳴り、加藤の声が鎮守府中のスピーカーから流れて来る。

 彼は、レミリアがスパイであること、総員で捜索し必ず発見すること、抵抗する場合は射撃も許可することを繰り返して告げた。早朝の基地は俄かに騒がしくなり、軍靴の音が赤城と加賀の横を走り抜けていく。

 加賀の鼓動は変わらない。落ち着いているのか、彼女は赤城を慰めるのに一生懸命気を割いていてくれているようだった。赤城を離さなかったし、赤城も離れようとはしなかった。それどころか、赤城は加藤の放送を聞き、涙を流しながらも笑っていたのだ。

 嗚咽の中に笑い声を隠し、カタカタと身を震わせる。

 赤城の更なる異変に気付いた加賀が覗き込んできた。

 

「赤城、さん?」

 

 彼女はギョッとしただろう。何しろ、つい今し方まで泣いていたはずの赤城が、何故か笑っているのだ。それは、赤城自身ですらおかしいと思っているのだから、加賀からすれば尚のこと理解し難いに違いない。

 だけど、笑っているのにはちゃんと理由がある。

 必死でレミリアを捉えようとする加藤。スピーカー越しに伝わって来る彼の妄執じみた感情を、赤城は嘲笑っているのだ。ざまあ見ろ! お前の捕まえたい相手はお前の手の届かないところへ逃げおおせたんだぞ、と。

 しかしそこは赤城も手の届かないところでもあり、加藤に捕まえられないレミリアは、同様に赤城にも捕まえられないのである。それを自覚すると、衝動がもう一度こみ上げて来て、赤城はまた加賀の胸に顔を叩きつけるようにして慟哭した。

 もう、ぐちゃぐちゃだった。泣いて、笑って、赤城の中は整理がつかないほど滅茶苦茶に荒れ切っていた。

 傍らの加賀も混乱の極みにあっただろう。支離滅裂な同僚の姿を見て、彼女は困り果てているだろう。

 赤城は動かず、加賀は動けず、二人して道の真ん中で固まっているしかなかった。

 

 

 

****

 

 

 

 赤城がようやく泣き止んだのは、それから五分ほどした時だった。

 さすがに泣き過ぎたのか、涙はもう絞っても出そうになかったし、体力を消耗して加賀の支えなしでは一人でまともに立つことすら出来なくなっていた。そんな情けない同僚のことを、加賀は決して邪険に扱わなかったし、もたれ掛かるばかりの赤城に彼女はしっかりと寄り添った。

 今は、その優しさが何より身に染みる。

 そうだ。いつだって加賀は赤城の隣にいてくれて、言葉は多くないけれど大事なことを察して支えてくれるのだ。

 今更ながらに、自分は加賀なしではやっていけないなと思う。

 

「聞きたいことはたくさんあるけど、取り合えず朝食にしましょうか」

 

 食事の話を振ってくれたのは、加賀なりの気遣いだろう。感謝しながら、赤城は頷いた。

 

「でもその前に、貴女は顔を洗ってきた方がいいわ。とても人前に出られない」

 

 赤城はもう一度無言で頷いた。

 

「今の時間なら食堂は人が少ないはず。みんな、さっきの号令で出払っているから」

 

 加賀は、彼女にしてはえらく饒舌だ。どちらかというと、彼女はあまり気の遣い方が上手ではないが今はとにかくそんな他愛もない、中身もない言葉が嬉しかった。

 

「私もお腹が減ってきました。今日のメニューは何かしら」

 

 結局、話し掛けるのは加賀だけで、赤城はずっと何も言わないまま半分引きずられるように一旦寮に戻って来た。

 途中、何人もの兵士を見かけたが、誰も何も声を掛けようとはしなかった。天下の一航戦である加賀が睨みを利かせて、近寄らせなかったのだろう。がっちりと彼女に守られていたお陰で赤城は何とか寮まで戻れたのだ。

 自室に申し訳程度に備え付けられた洗面台で鏡を見ると、酷く憔悴した女がそこにいた。髪もぼさぼさで、どこかのホラー映画に出て来る幽霊と言われてもおかしくなさそうだ。目元など、普段の一.五倍くらいに腫れ上がってしまっている。

 確かに、これでは人前に出られない。何度か派手に水を撒きながら顔を洗ってみるが、ちっとも良くならなかった。

 仕方がないので赤城は顔を洗うのをやめて、タオルで水をふき取りながら洗面台から寝室へ移動する。不思議なことに、何故か室内に加賀の姿がなかった。トイレを見たがやはりおらず、気配も全くしない。どうやら顔を洗っている間にどこかに出掛けてしまったようだった。

 一人になり、ようやく赤城は落ち着きを取り戻してきた。

 起こったことの整理はまだつかないし、今後のことも考えられない。まして、レミリアのことなどもっての外だ。

 今日は一日、この自室の中で閉じこもっていたい気分だった。けれど、赤城は秘書艦だし、艦娘のまとめ役だ。レミリアのことは加賀や事情の知らない他の艦娘に説明する必要があるし、この大騒動の収集にも当たらなければならない。誰も赤城が休むことなど許さないだろう。

 ひょっとしたら、レミリアなら「貴女酷い顔をしているわ。今日は出なくていいわよ」くらい言ってくれたかもしれないけれど。

 

 

 いや、やめよう。

 赤城は首を振って邪念を振り払った。彼女はもういない。戻っても来ない。

 顔色を隠す厚化粧は、提督不在の一時期の激務ですっかり身に馴染んでいる。やっている内に加賀も戻って来るだろう。

 そうして化粧台で必死に顔を作っている間に、思った通り加賀が戻って来た。手にはビニール袋。

 

「お帰り」

「もう、大丈夫なの? 今日くらいは体調不良で休んでいても」

「そんなこと、言ってる場合じゃないわ」

 

 どちらかと言えば、自分に言い聞かせるように言ったつもりだった。けれど、加賀は自分の心配への否定と捉えたのか、頬を膨らませたが不満は口にしなかった。代わりに、袋の中身を取り出して、部屋の真ん中に置かれているテーブルの上に並べる。

 鏡越しに確認すると、菓子パンだった。

 

「食堂、閉まっているの」

「……そう」

 

 理由は言われなくとも察しがついた。この状況下では、恐らく食堂は昼まで開かないだろう。加藤は鎮守府の警戒レベルを引き上げたはずだから、外部の人間の出入りも制限される。売店も開かないはずなので、菓子パンの出どころは買い溜めをしていた他の艦娘か。例えば、七駆の漣とかだろう。

 

「加賀さん」

「はい」

「ありがとうございます」

「いえ。どういたしまして」

 

 会話はそれだけ。でも、赤城と加賀の会話というのはいつもこんなものだ。

 味気ないと言えば味気ないけれど、こんなものでも通じ合っているのだから、信頼というのは強固に結ばれている。彼女の、静かな優しさが純粋に嬉しかった。

 これから先のことは、きっと赤城にとって辛いことになる。レミリアは罪人として扱われ、彼女を侮辱する無数の言葉を聞くことになるだろう。彼女自身はそうした声からは隔絶した場所に逃れられたとは言え、赤城は苦痛を堪え、耳を塞ぐわけにはいかないし、レミリアが逮捕される可能性がなくなったわけでもない。

 何より、別れの言葉を告げられなかったことが心残りだった。

 

 

 

 

 

「赤城さん」

 

 化粧を終えてそれまで着ていた制服から作業服へ、装いを変える赤城の背中に加賀が呟いた。

 

「はい。何でしょうか」

「……これは、私の邪推でしかないけど、良かったら聞いてくれる?」

「はい」

「赤城さん」

 

 背中越しに返事をすると、もう一度彼女は名前を呼んだ。

 

 そういえば、彼女はどこまで知っているのだろう。どこまで見ていたのだろう。

 金剛と加藤の二人は加賀まで情報を回さなかったはずだ。何しろ、彼女は傍目に見てもレミリア贔屓なところがあったし、この潔癖な同僚は恐らくああいうやり方を許すような性格をしていない。それは逆を言えば、加賀から軽蔑の対象になり得る、レミリアの失脚の企みに参加してしまったということなのだが、彼女は果たしてそこまで分かっているのだろうか。

 

 いや、確認するまでもない。

 加賀は聡い。きっと、全ての事情を知らなくとも、わずかな断片的な情報から全体を想像してしまっているに違いない。そして、その上で赤城を慰めてくれたのだし、寄り添ってくれている。

 

 

 

「提督に何かを伝え損ねて、電話もメールもないなら」

 

 彼女はとても優しい心の持ち主だ。

 だから、赤城にとって今最も必要な言葉を囁いてくれる。

 

「私たちは空母よ。矢文という手もあるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 赤城は疾風のように鎮守府の敷地を駆け抜けた。

 レミリアを追い掛けた時よりもずっとか速く走った。

 その異様なまでの健脚に驚いた人々が振り向く視線も意に介さず、一心不乱、猪突猛進に整備工廠を目指す。

 

 目的は自分の弓だ。練習弓ではなく、実際に海上に出て、敵を射るために用いる戦弓だ。

 寮を飛び出し、無機質なアスファルトを踏み、緑を落とした冬の木々を傍目に見て、猛然と工廠に突入する。突然、鬼のような形相で髪を振り乱して飛び込んで来た赤城に、工員たちは皆唾を飲み込んだ。ずんずんと建物の中に入り込んで来た赤城を誰も咎めようとすらしない。

 赤城は真っ直ぐ艤装の保管庫に来ると、ドアの横にある電子端末に人差し指を押し当て、パスワードを打ち込む。指紋認証とパスの二重鍵だが、設定したのは他ならぬ赤城である。圧縮空気の漏れる音を出しながら保管庫のドアが開くと、赤城は大股で入室した。

 自分の艤装は一番奥にある。命令もないのに勝手に持ち出し使用することは、本来ならば軍規に違反するところだが、構いはしなかった。

 罰なら後でいくらでも受けられる。でも、今しか出来ないことがあるのだ。

 

 赤城は戦弓と、矢を一本持ち出した。

 工廠を飛び出し、視界の広がる前の広場の中心に立つ。

 両足を肩幅に開き、矢を番えた弓を斜め四十五度に掲げる。鏃の向かう空はよく冬晴れした青色で、澄み渡っていた。朝方に覆っていた雲もいつの間にかどこかに行ってしまっている。

 これだけ天気が良ければ、空から下界はよく見えるだろう。渾身の力で弦を引きつつ、赤城は最後に見た飲料会社のトラックを鮮明に想起する。

 

「届いて」

 

 押し出すように呟いた。

 勢い良く放たれる矢。鏃の後ろに、白い紙を結んだ赤城の矢だ。

 矢は高く飛び上がった後、一機の小さな飛行機へと姿を変える。

 

 

 艦上偵察機「彩雲」

 赤城たち空母の目であり、大海原から敵を見つけ出す索敵能力と、どんな敵機の追随も許さない快足の持ち主。今は、追われる者ではなく追う者として翼を広げていた。

 パイロットである妖精ともども、機体はもう帰って来ないかもしれない。むしろ、帰って来なければいいのだ。

 妖精は格好良く敬礼していた。彩雲という装備の化身である彼は、こうして赤城のメッセンジャーとして飛行出来ることを喜んでさえいた。だから、赤城はこの彩雲に総てを託したのだ。

 どうか、私と彼女の間の架け橋になってくれますように、と。

 

 

 

****

 

 

 

 流れ往く街の風景。

 幻想郷にない、コンクリートの森。

 サイドウィンドウにうっすらと反射する自分の顔は、窓に映る景色に紛れて判然としない。けれど、今はそれでいい。憮然とした自分の顔など見ても気持ちがいいものではないだろうから。

 

「危ないところでしたけど、何とかなって良かったですねえ」

 

 隣の運転席でハンドルを握る、飲料会社の作業着を着た部下が呑気なことを言っている。それがまた板についていて、こんな場合じゃなかったら声に出して笑ってやっていただろう。しかし、生憎レミリアはにこりとも笑える気分ではなかった。

 

「あの人、赤城さんでしたっけ。最後まで追って来ていましたよ」

 

 レミリアの機嫌を察していないのか、察していて敢えてそうしているのか、部下――紅美鈴は構わず喋り続ける。

 「うるさい」と言って黙らせることは簡単だが、何故だかそんな気が起きなかったし、さりとて会話に乗る気もなかった。結局レミリアが取った選択肢は、黙って美鈴の独り言を聞いていることだった。

 

「何か、言うつもりだったんじゃないんですかね。捕まえようという感じはしませんでした」

 

 レミリアはその姿を見ていない。その時、レミリアは美鈴が運転するトラックの荷台の中に身を潜めていたからで、助手席に座ったのは鎮守府からいくらか離れたコンビニの駐車場でのことだ。それから、レミリアは自らの顔を隠すように目深に帽子をかぶり、ずっと窓の外を眺めていた。この間に発した言葉は一つもない。

 美鈴は、その能力から、殊“気を遣う”ということに対して他人よりもずっと秀でているはずだ。だというのに、彼女は無神経にも話を続けるし、内容もレミリアの機嫌を下げるのにこれ以上ないくらいふさわしい話題だった。

 

「お嬢様、あの人のことを結構気に入ってましたよね」

 

 それら、美鈴の言うことの一切をレミリアは無視した。口を開けば、この罪のあまりない部下に八つ当たりをしてしまいそうだったからだ。

 

「最後に何か、言うべきだったんじゃないかと思います」

 

 もう戻っては来れませんからね。美鈴の言葉には、言外にそんな響きが含まれている。

 言われなくても分かっているよと返したい。別れの言葉を告げたけれど、レミリアが赤城に対して言いたかったのはそんなことではない。

 彼女が走ってトラックを追い掛けて来ていたのは気配で分かっている。トラックを止めようと思えば止められたし、実際美鈴もそのつもりだったのだろう。

 けれど、結局レミリアは何もしなかった。そのまま、鎮守府から、後を追う赤城から、逃げ去ってしまったのだ。

 もしあの時、車を止めて彼女と顔を合わせていれば、きっとレミリアは威厳を保てなかった。彼女の慕う提督像を最後の最後で崩してしまったに違いなかった。見た目相応の我儘を言って、彼女を失望させてしまっていたに違いない。

 

 吸血鬼とて鬼の一種。この国で鬼が人を攫ったように、レミリアもかつて祖国で無数の人間を誘拐し、血の生贄としてきた。今でこそ幻想郷のルールという縛りもあって人攫いはしなくなったものの、それは出来なくなったことを意味するのではない。幻想郷の外でなら、レミリアは鬼として振舞い、鬼として人を攫えるだろう。

 だが、赤城は攫ってはならない人だ。

 彼女はこの国を守るために欠かせない人材で、何より艦娘として誇りに満ちている。そんな存在を、自らの勝手な感情で攫ってしまうほどレミリアは幼くないし、伊達に五百年も生きていない。レミリアが本当に気に入っていたのは、弱さや脆さを抱えながらも崇高な赤城の姿なのだから。彼女を攫ってしまったら、その瞬間彼女に対する興味は失せてしまうに違いなかった。

 だから、最後に会わなかったのだ。

 彼女がそれによってどれ程傷付くか分かっていようとも、レミリアは荷台の隅で蹲って彼女の気配が遠のいていくのを静かに待つより他なかった。

 

 美鈴もいよいよ何も言わなくなっていた。空虚に言葉を掛けても仕方がないと諦めたのか、ついに内心を察してくれたのか。

 ただ無言がキャビンを支配し、トラックは街から郊外へ。郊外から山へと進んでゆく。

 空は憎らしいほどすっきりと晴れ渡り、日の光を浴びれない吸血鬼には毒々しささえ感じられる青色をしている。トラックは一路北へ向かっているのでキャビンの中まで日光が入って来ることはないが、天気の良さとレミリアの機嫌というのは反比例の関係にある。

 

 

 車は山道に差し掛かった。枯れた木立は森の中の見通しを良くして、生命が隠れる冬がやって来たことを明示している。

 冬は嫌いだった。

 寒いし、乾燥しているし、雪は冷たくて触りたくないし、暖炉が部屋を暖めるにも時間がかかって、その間レミリアはベッドに潜り込んだまま。そして何より、冬は生き物の姿がめっきり減って寂しくなる。静かなのは好むところであるが、やはりレミリアは賑やかなところの方が好きなのだ。

 しかし、今日ばかりは木々が葉を落とし、視界が広がっていたことがいい方向に働いた。

 

「お嬢様。車、停めますね」

 

 そう言うと、美鈴はレミリアの返事も待たずトラックを適当な木陰になっている道端に停車させた。そして、彼女は「外に出てみてください」と言うのだ。

 何事か。問い詰めることはなく、レミリアは言われるがままドアを開けて外に出る。「上です」と同じく道に降りた美鈴がトラック越しに声を掛ける。

 レミリアは空を見上げた。

 枯葉がわずかに残るばかりの茶色い枝の向こうに青空と、自分に向かって飛び込んで来る何か。

 ドンと、胸に衝撃が伝わった。反射的にぶつかったそれを掴むと、固い金属の感触がする。

 物を見て驚いた。

 そこにあったのは、空母娘が飛ばすミニチュアサイズの艦載機なのだ。

 濃緑色の機体、そのコクピットからのっそりとパイロットである妖精が這い出て来て勢い良く敬礼する。機体の後部、尾翼の手前には一本の赤い帯が描かれていて、この飛行機の所属を教えてくれていた。

 

「そうか。お前は……」

 

 妖精は頷く。そして、必死で小さな手を振って、機体の下の方を指さした。

 何かあるのか。覗き込んでみると、小さな白い紙が括り付けられている。

 

「お。飛行機?」

 

 ちょうどタイミング良く車体を回り込んでレミリアの隣にやって来た美鈴に艦載機と妖精を押し付け、レミリアは機体から取った紙を開く。何かのメモ用紙の片隅を破いただけの小さな紙片で、震える指には少々扱いづらい。

 意外に手こずりながら、几帳面に折り目正しく畳まれた紙片を開く。その正体は、予想通りの手紙だった。

 よく見知った、やや筆圧が弱くて線の細い、彼女の性格を表すように細やかで角のまるい丁寧な文字が書き綴られている。

 いや、書き綴られているなんて大層なものではなくて、手紙はとても短かった。余程切羽詰まって書いたらしい。

 溢れるほどのその想いを、彼女は無理矢理一言に詰め込んでいた。

 

 

 

「拝啓 レミリア・スカーレット提督

 

 今まで、ありがとうございました。

 

 貴女の赤城より」

 

 

 

 

 

 静かな木漏れ日が斑の濃淡をつくる山道を、車は走って行く。

 カーラジオからは最近流行りのポップス音楽が流れ、女性歌手がアップテンポの曲を歌っていた。美鈴曰く「よく聞くんですよ」とのことで、すっかりメロディーを覚えたのか、彼女は曲に合わせて鼻歌を鳴らしている。

 幹枝ばかりが目立つようになってすっかり冬の色に変わった山を眺めながら、レミリアは相変わらず無言を貫いていた。手元には寒くなっても葉を落とさない杉のような色の飛行機と、それにもたれ掛かって鼻提灯を膨らませる妖精。大切な手紙は胸のポケットに折り目正しく仕舞い込んでいる。

 

「帰ったら、飲みに行きましょうか」

 

 お気に入りの流行歌が終わると美鈴が唐突に提案した。

 

「どこに?」

 

 と、今度はレミリアもちゃんと反応する。

 

「霊夢のところでもいいし、夜雀の屋台でも」

「それなら神社がいいわ。海を知らない連中に、海の良さを自慢してやりたいの」

「あはは。魔理沙辺りが食いついてきそうですね。あ!」

「何?」

「ああ。お土産忘れちゃった。咲夜さんに海の幸を色々頼まれてたんだけど」

「最後、ばたばたしていたから仕方がないわ。ま、これで済ませましょう」

 

 そう言ってレミリアは懐から缶詰を一つ取り出す。秋刀魚の缶詰だ。

 

「おお! お嬢様、どこでこんな物を?」

「拝借したの」

「海軍伝統の銀縄ですか。お手が早い!」

「誉め言葉じゃないような」

「ふふ。これで何とか『五分間耐久殺人ドール』の刑は免れましたね」

「何それ?」

「咲夜さんの『お仕置き百式・その百五十一』です」

「百式なのに百を超えてるって、これ如何に」

「今は五百を超えていますね。もうすぐお嬢様のご年齢に追い付きますよ」

「何をやってるのよ。貴女たち」

 

 他愛もない会話。

 行く先には、あの騒動だらけで平和な幻想郷。

 海から、戦場から遠く離れた半年ぶりの棲み処。

 レミリアの居ない間に誰かがまた異変騒ぎを起こしたのだろうか。あるいはいつものように少女たちが笑い、特に変化のない、けれど楽しい時間が流れているのだろうか。

 

 幻想は幻想郷に。

 

 あるべきものがあるべきところに収まる。交差した運命の糸はほつれて、またそれぞれの道をゆく。

 

 

 

 

「またね。赤城」

 

 

 

 呟いた言葉はエンジン音に紛れ、儚く消えていった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督23 After moonset

 事情の説明会はレミリアが逃げ出した日の晩にまでずれ込んでしまった。

 というのも、昼間は様々な後処理に赤城の手が全く空かなかったし、大本営から幹部やら憲兵やらがぞろぞろとやって来て、彼らに出迎えの挨拶をするだけでも相当な時間を食った。問題が問題だけに、赤城も事は簡単に済まされないだろうと考えていたし、事実はその通りだ。

 その間、金剛を含めて赤城以外の艦娘は自室待機を命じられていた(一部はそれ以前から寮に籠っていたようだが)他、つい最近までレミリアと行動を共にしていた川内、木曾、舞風、野分の四名は憲兵による取り調べを受けている。同じ取り調べは赤城も受けたが、ごく簡単で形式的なものだった。恐らく、加藤と共にレミリアを失脚させた功績が重く見られたのだろうと思う。果たしてそれを功績と呼ぶのかは別として。

 

 一方で、川内たちは相当な詰問を受けたらしく、夜こうして食堂にようやく一同会するころには四人ともすっかり疲労の色を濃く表すことになっていた。特に川内は疲れ切っているようで、どうにも彼女はレミリアに肩入れし過ぎていたのか憲兵に噛みついてしまったらしく、それが一人だけ飛び抜けて拘束時間が長くなった理由のようだ。ちなみに、彼女だけ明日も取り調べを受けると、赤城はやって来た憲兵隊の指揮官から耳打ちされていた。

 時間は夜の七時を過ぎたところで、通常のタイムスケジュールと相違なく全員の前に食膳が用意されていた。しかし、普段は雑談などで賑やかになるはずの食事の時間は、今日に限っては重苦しい沈黙に支配され、皆もそもそと飯をかき込むばかりである。誰も何も言葉を発しないのは、駄弁る気分にならないというのもあるが、何よりも話していいことが見つからずに戸惑った結果沈黙という選択をしたというような理由だと感じられた。少なくとも赤城はそうだったし、加賀もそうであろう。

 

 しばらくは食器が鳴る音と、何人かが必要最小限のやりとりを交わすひそひそ声が食堂に響くだけ。その内それらの音も減っていき、食べ終わった者が一人また一人と箸を置いて待機に入る。やがて全員が食事を終えると食堂は本当に静かになってしまった。

 嫌な静けさ。重く圧し掛かる空気。それでも、赤城は秘書艦であり、艦娘が待っている以上立ち上がって責任を果たさなければならなかった。厨房側、食事の受け渡し口の前に立ち、全員の顔を見渡して一礼する。

 

「皆さん、恐らく全員がご存知であるかと思いますが、改めて大変残念なお知らせをしなければなりません。今年の7月1日よりこの鎮守府の鎮守府長官として着任されていましたレミリア・スカーレット……さんですが、彼女が実は軍関係者でも何でもない、工作員だった可能性が浮上しました。それについて今朝方ご本人に確認したところ、彼女は当鎮守府より逃走、現在行方が掴めなくなっております」

 

 全員が黙って聞いていた。そのほとんどは淡々と、極力感情を殺して話す赤城に目を向けているが、三人だけ顔を伏せている者たちがいた。川内と舞風、野分である。

 

「事態はいまだ収束に至っておりませんが、当面のところ当鎮守府の代表は幕僚長の加藤雅治少将が兼任されることとなります。今後しばらくは憲兵の方から事情聴取があったり、軍内外からの関係者の皆様が鎮守府に出入りされるなど、普段とは違う日々が続くと思います。つきましては、皆さん艦娘の本分たるものを忘れず、このような困難な状況にありますが、一致団結して乗り越えていきましょう。よろしくお願い致します」

 

 もう一度頭を下げて事務連絡を終わる。

 もちろん、こんな挨拶程度の話で済まされるわけでもなく、待っていたかのように真っ直ぐと挙げられた右手があった。「曙さん」と赤城は彼女の名を呼ぶ。

 

「質問。結局、あいつは何だったの?」

「それは、調査中です。もし彼女が捕まれば、その時にはすべて判明するかと」

「ああ、そう。まだ何にも分かんないってことね。……ったく、情けないったりゃありゃあしないわね」

 

 曙は足と腕を組み、憮然とした態度でそう言い放つ。

 彼女の言い分は分かる。一体全体、レミリアがどういう方法で軍に潜り込んだのかは不明だが、彼女は半年間完璧に軍人として振舞っていた。中枢部の一つである人事局さえ動かしての着任だったわけだし、その手法は目を見張るものがある。逆を言えば、曙の言う通り軍の不手際や脆弱性が露呈したのであるが。

 

「彼女の潜入を許した原因とその対策も考えなければなりません。少なくとも私たちは半年間騙され続けていたのですから」

「違うわよ」

 

 曙の言葉に応えるように言った赤城に対し、その本人から否定の声が飛び出した。

 

 彼女らしい、鋭い響きをもって。

 

「情けないって言ったのはあんたのその面のこと! 何よ、捨てられた子犬みたいな顔して。秘書艦なんだからぴしっとしなさいよ」

「え……?」

 

 無意識に手が頬まで上がった。

 顔に指の感触。指に、いつもより若干温度が高い頬の感触。

 

「私……」

 

 何か言おうと思ったけれど、言葉は形を作る前に崩れて、死骸のような空気だけが口から漏れ出した。助けを求めるように同僚の顔を見ると、彼女はゆっくりと頭を振った。

 それで、ようやく我に返る。

 

 思い出せば、朝から赤城は酷い有様だっただろう。泣きはらし、疲れ果て、責任の重圧に押し潰されそうになり、たった一日で身も心もすり切れ尽くそうとしている。事態は赤城の感情とは真逆の方向へと進み、望まぬ言葉を放ち、望まぬ仕事をこなさなければならない。今までも組織の歯車の一つとして働いて来た赤城だが、それは自分自身の中にある使命感が動機となって赤城の身を動かしていたから上手くいっていたのであり、今日のように自身が正反対のことを望んでいるのに仕事をしなければならないのは初めてだった。それがこれほど疲弊することだったなんて思いもしなかった。

 捨てられた子犬とはまさにその通りかもしれない。

 彼女は軍人でも何でもなかったのだが、それでもこの半年間、彼女が赤城の心の数割を占有していたのは間違いないことで、それがなくなった今、赤城はまさしく捨てられた状態にあるのかもしれない。

 彼女をこの鎮守府から追い出す策略に加担したというのに。

 

「す、すみません。疲れが出ていたのかもしれませんね」

「……ったく。まあいいけど」

 

 苦しい言い訳に曙は盛大に呆れ返り、それきっり口をつぐんでしまう。

 

 食堂の中の空気は最悪だった。曙はそれを分かっていて、尚ああいうやりとりを吹っ掛けて来たのだろう。本当にいい性格している。

 

「皆さん」

 

 声を絞り出す。ここまで言葉を発するのに苦労した覚えは、たぶん人生の中で一回もなかったんじゃないかと思う。自分で言うのもなんだが、赤城は割と口が達者な方だと思っていたのだが。

 

「今日はお開きにしましょう。夜更かしをしないように、明日に備えて早めに寝てください」

 

 疲れたと言っているようなものだが、それでも構わない。今はとにかく部屋に帰ってベッドに飛び込みたかった。

 ただ一つ、赤城が救われたのは他の艦娘も同じような心持だったらしく、誰もがのそのそとしながらも食器を片付け、そそくさと食堂を出て行ったことだった。

 明日からのことは考えないようにする。無言で赤城の分の食器まで下げてくれる加賀に感謝しつつ、二人は並んで寮室まで戻った。

 

 

 

****

 

 

 

 しかし、赤城は一つ見落としていたことがあった。彼女のミスは、あまりの疲労のあまりそのことに気付かず何のフォローも入れられなかったことだろう。

いつもの彼女なら、勘も鋭く川内の異変に気付いていたはずだ。俯きで垂れた前髪に顔が隠れた軽巡が、凄まじい目で金剛のことを睨んでいたのは。

 金剛のすぐそばに座っていた加賀は何とはなしに空気の悪さを感じていたがその大元までは分からなかったし、それは川内の後ろに座っていた潮も一緒である。曙の意識は完全に赤城に向いてしまっていたし、木曾もそうだった。野分も持ち前の生真面目さで姿勢だけは真っ直ぐにしていたが、内に没頭し過ぎていた。睨まれていた金剛本人もまた考え事に意識を割かれていた。

 気付いたのは勘の鋭い漣と、川内の真向かいに座っていた舞風だけ。

 赤城と曙のやり取りの間、舞風はわずかに視線を上げて川内の方を伺う。だが、異様過ぎる川内の雰囲気に何も言えずただ押し黙るだけだった。

 漣は川内と舞風の細かな変化の両方を意識に入れていたが、あえて何もしなかった。行動をするべきタイミングではなかった。

 赤城が解散を告げると、おもむろに川内は立ち上がってそそくさと食器を片付ける。

 

「あ、ごめん。マイマイにお話があるんだ。先行ってて」

 

 漣は曙と潮に言った。それは舞風と野分にも聞こえただろう。二人は顔を見合わせた。

 

「私、ですか?」

「そそ。片したらついて来て」

 

 訝しむ舞風に、漣は片目を閉じて笑みを投げる。いつもの自分のキャラクターに沿った仕草。舞風は不審がりながらも特に疑ったりはしない。

 その内に金剛も金剛でさっさと食堂を出て行ってしまう。

 漣はもう一度舞風に声を掛けて、慌てて自分も食堂を飛び出した。

 

「あの、話って?」

「金剛さん追って」

「金剛さん?」

 

 追いついてきた舞風に用件を言いながら、漣は廊下を駆けた。

 

 金剛は、川内はどこに消えた? 

 

 二人の足は想像以上に速かった。寮の一階の廊下を端まで行ってみるが、どこにもその影がない。

 

「あれ?」

 

 おかしいのは舞風も気付いたようだ。肩を並べて階段を上がっていく一航戦コンビの背中はさっき見掛けたから、その二人の直前に食堂を出た川内や直後に出た金剛もすぐ見つかりそうなものだったが。

 

「トイレか!」

 

 そこで、見落としていた場所に漣は気付いた。

 食堂から二部屋挟んだところにトイレがある。駆逐艦二人は急いで廊下を戻りトイレに飛び込むと、ちょうど川内の罵声が響いたところだった。

 

「あんたは全部知っていてやったんだろッ‼」

 

 何かを叩きつける鈍い音も響いた。遅かったかと歯噛みしながら飛び込むと、金剛に掴み掛かった鬼のような形相の川内。

 

「やめて! やめて!」

 

 漣は二人の間に体を突っ込んで筋の立つ川内の両腕を金剛の上着の襟から引き離そうとする。だが、存外力の強い彼女の腕はびくともしなかった。

 水雷屋というのはこれだから困る。ほっそりした見た目の奴ばっかりだが、その実骨格に硬い筋肉が巻き付いた怪力の持ち主ばかりで、しかもその上人一倍気の短い連中ぞろいだ。川内もその例に漏れず、少女の見た目に騙されて甘く見ていると、大の男くらい簡単に捻り潰せるから痛い目にあう。

 そうは言っても、介入した駆逐艦二人も同じ畑である。舞風が後ろから羽交い絞めにし、漣が無理矢理金剛から引き剥がすとようやく軽巡は戦艦を手放した。

 

「舞風放して! 一発入れないと気が済まないッ!」

 

 ここまで怒った川内は初めて見る。ここに来た時には既に諸事情があって川内はかつて持っていただろう苛烈さをすっかり引っ込めてしまっていたし、月日が経つ内に性格の角が取れて円くなっていったようだったから、大抵のことは鷹揚に受け流せる成熟した精神の持ち主と思っていた。

 ところがどうだ。今は絶賛大噴火中だ。本当に血液が沸騰していそうなくらい顔が紅潮している。

 言葉にしなくても“やばい”状況だが、思わず漣は「やばい」と呟いてしまった。

 

「こいつは! こいつはさあ!!」

「ちょっと落ち着きなよ! はい、深呼吸して!」

「漣! 邪魔ッ!」

「川内さん!」

 

 それからしばらく三人は罵声を交わしながらもみ合いへし合いを繰り返した。ここが寮室から離れたところにあるトイレの中だからか、騒ぎを聞きつけて他の艦娘がやって来なかったのは運が良かった。とにもかくにも、川内が疲れて大人しくなるころには、漣も舞風も疲労困憊で外気温と同じくらいまで冷え込んだトイレの中にいるにもかかわらず、汗が次々と流れ落ちる有様だった。それでもやっとこさまともに話を出来る状態にまでなったのだ。

 

「喧嘩しないでよ。何があったの?」

 

 乱れた呼吸を整えつつ、漣は先ほどから燻っていた疑問をようやく口に出来た。

 川内の様子がおかしいのには気付いていたが、その理由は本人から聞かない限りはっきりとは分からない。レミリアに関わることであるのは間違いないが、それがどうして川内と金剛の確執に繋がるのかが理解出来なかった。

 

「そいつが、提督を追い出したんだよ!!」

 

 暴れ出そうとしなくなったものの未だ川内は怒れる獣だった。風に聞いた「夜戦の鬼」という二つ名は伊達ではないらしい。そう言えば、彼女は直近の戦闘で夜戦能力を取り戻したばかりではないか。

 

「罠にはめて! 卑劣な方法で! もちろん、提督の正体もすべて知った上でねッ。赤城さんまで巻き込んで、苦しませて‼」

 

 いきり立つ感情ばかりが先行して、川内の言うことは今一つ要領を得ない。

 どうやらレミリアの失脚について(失脚と言っていいのかは別として)、川内は金剛に責任があると見なしているようだった。

 対して、金剛は終始落ち着いている。この時期の北風さえもう少しましと思えるくらい温度の低い目で川内を見下ろしていた。

 

「彼女は最初から提督などではありまセン。ただのスパイ。ただの犯罪者。いい加減、目を覚ましなさい」

 

 口を吐いて出た言葉も、視線に負けず劣らず冷ややかだった。あんまりにも冷然とした言い方だったので、漣にはそれはそれでどうなんだという感想が浮かんだが、すぐにそれどころではなくなってしまった。

 当然、鎮まりかけていた川内の怒りが再炎上する。無言で飛び掛かろうとする軽巡を、漣は身体を当てて阻止せねばならなかった。

 ばたばたと騒がしい音を立て、舞風も巻き込んで漣はトイレの壁に川内を押し付ける。全力で押し返さないと、逆にこちらが吹き飛ばされてしまいそうな恐ろしい勢いだ。

 

「もう! ダメだって!」

「憲兵も来てるんですよ。暴れたら川内さんが捕まっちゃいます!」

 

 漣と舞風二人掛かりで川内を諫める。多少聞き分けが良くなったのか、川内も抵抗を止めた。

 

「金剛さんも、そういう言い方はちょっとまずいと思いますよ」

「事実は事実。分からず屋にははっきりと告げないといけないのヨ」

 

 頭を抱えてしゃがみ込みたくなった。

 分からず屋なのはどっちなのか。

 金剛の良くない点の一つは、変に頑固なところがあって、しかも物をストレートに言い過ぎるところだった。一見冷静のように見えても実はとても感情的になっていて、彼女の場合怒りが増していくたびに相手に対して冷ややかになるのが特徴だった。今の川内にそんなことを言ったところでどうにもならないのは、金剛自身だって分かっているだろうに。

 それが金剛も金剛で意固地になって、自分の考えに固執する。結局、何を言ったところで既に燃え盛っている川内にはガソリンをぶっかけるような結果にしかならない。これ以上二人を同じ場所に置いていても状況が悪くなる一方なので、漣は舞風に目配せして川内をトイレから連れ出すように頼んだ。

 意図を察してくれた舞風が川内を引きずってトイレから出て行く。ようやく金剛と腰を据えて話が出来るようになった。

 

「一体全体、どうしたんですか?」

「あの子が呼び出したのヨ。あの女――スカーレットのことで何をしたんだってネ」

「お嬢様? 金剛さんは何か関わってたんです?」

「関わるも何も、彼女の正体を暴いたのはワタシ。それを加藤と赤城に教えて三人で今朝問い詰めた。そしたら逃げ出されたっていうワケ」

「ああ。なるほど」

 

 金剛の説明は幾分言葉足らずであったが、漣を納得させるには充分であった。

 遠征前から川内はレミリアに入れ込んでいる様子があったし、遠征を経てますますぞっこんになっていったというのは聞いていたところである。あれだけの大成功を収めればレミリアが求心力を高めるのは無理もない話。実際、川内だけじゃなく同じ遠征に参加した木曾や舞風、野分からの評価もうなぎ登りだった。

 

 だから、レミリアの今後は上手くいくと誰もが思っていた。難敵駆逐水鬼の討伐と仲間の救出。これに喜ばない艦娘はいない。

 しかしいざ戻って来てみればこの有様である。レミリアがこの鎮守府の土をもう一度踏んだのは今朝のことで、今後踏むこともないのも今日確定したことだった。

 余りの急転直下に川内が動揺し、取り乱すのも仕方ないことと言えよう。そして彼女は事の真相を嗅ぎ付け、核心的なところにいる金剛を問い詰めて真実を知ることになった。結果、先ほどのような騒ぎになってしまったのである。

 

 漣には正直なところ、誰が悪いとは言い切れなかった。

 いや、よく考えれば悪者ははっきりしているのだ。言うまでもなく、不当に鎮守府司令官として居座っていたレミリアである。

 結局、事が起こったのはすべてがすべて彼女が因縁となっており、そうでなければ金剛と加藤による下剋上も、赤城の心労も、川内の激昂も、何も起きなかったはずだ。彼女がおらず、あるいは正しく提督になっていれば、こうして艦隊の中に大きな亀裂が入ることもなかっただろう。その意味ではレミリアは確かに悪者だし、まずそもそものルールを破り過ぎている。

 

 けれど、そうは言っても漣はレミリアをそこまで悪く言えなかった。

 彼女が上げた成果。何より彼女の人となりが、少なからず漣の心を惹き付けたのは確かな事実で、彼女の言葉一つ一つが自分たちを騙すための欺瞞であるとは思いたくなかった。

 彼女は正しく提督ではなかったかもしれないが、正しく漣たちを導こうとしてはいた。そう思いたい。

 川内もきっと同じ気持ちだろう。否、彼女の方がより想いは強いかもしれない。

 遠征の間に川内とレミリアの間に何があったのか、それはおそらく同行していた木曾や舞風たちも知らない、当事者だけに共有される秘密だろう。けれども、その秘密とやらが二人の関係を深化させる方向の類いであるのはほぼ間違いない。漣の勘が正しければ、萩風と嵐の救出は川内自身に対する救いでもあったはずだ。だから、軽巡が激怒するのも無理からぬことだった。それに、漣でさえ金剛の言い草には眉をしかめそうになるのだから。

 

「金剛さんのしたこと、間違ってはないと思いますよ」

「I know! 間違っていたのはレミリア・スカーレットであり、川内ヨ!」

「ええ。でも、正しいとも思わないです」

「……」

「漣には、何が本当に正しいのか分かりません。どうすれば良かったのかも分かりません。ただ一つはっきり言えるのは、このままじゃ艦隊が分解しちゃいかねないってことです」

「突然のことで受け止め切れていないダケ。時間が経てば落ち着いて頭も冷える。どうすればいいかも、その時になったら自ずと分かるハズ」

「……だといいんですけどね。赤城さんの心労がこれ以上増えないことを祈ります」

「ソウネ」

 

 漣に同意して呟いた金剛の表情は、毅然としていた口調とは裏腹にどこか思い詰めたような色を含んでいた。当然ながら漣には人の心は読めないから、浮かない彼女の心中は分からない。どうしてそんなふうになるのかも想像がつかない。

 

「ごめんね」

 

 ポロリと、零れるように彼女は呟いた。

 

「チョット、感情的になっていたワ」

 

 幾分頭が冷えたのだろう。顔色は良くないまま、金剛は釈明する。

 何と答えていいのか分からなかった。事情がよく把握出来ていないのもあるし、艦娘の中で最年長の金剛がこんなふうに謝ってくるのも初めてのことで、今何を言うべきかが思い浮かばない。かといって無言でいるのも無視したと捉えられかねないので、漣はぎこちなく頷くしかなかった。

 

「アナタの言う通りネ。今は艦隊にとって正念場。事情はどうあれ、ワタシが蒔いた種なんだから、責任があるワ」

 

 そう言ってから、おもむろに金剛は漣を抱き寄せた。優しく漣の背中に腕を回し、反対側の肩に手を乗せる。漣も反抗せずに任せた。

 

「I'm all right. でも、とても心配掛けたワ。ごめんね」

「いえ……」

 

 そう言えるだけ、彼女は大人だった。

 危ないところだったのだ。もし漣が気付いて二人を止めに入っていなかったら、きっと艦隊は瓦解し始めていただろう。

 

 レミリアが居なくなったことは思いの外艦娘たちに悪影響を及ぼしていた。単なる職場の上下関係という枠組みを超えた何かが、彼女との間には結ばれてしまっていて、それが無理矢理断ち切られた今、思いも寄らなかった衝撃に困惑し、上手く受け止められないでいる。

 それは漣自身がそうだし、赤城や舞風も同じだろう。川内も曙も。そして、この目の前にいる戦艦も、きっと喪失感に覆われているのだ。

 少なくとも、彼女がやったことは正しい。組織の論理に従えば、誰も彼女を非難することが出来ない。

 だけど、その正しさとやらに確信を持てないでいるのも確かだ。酷く疲弊したような彼女の面持ちが、内心を静かに語ってくれている。そうした、金剛が見せる自身の戸惑いは、漣の心も揺さぶった。

 レミリアを失ったことによる喪失感。そして、艦隊の行く先が霧に覆われてしまったことによる漠然とした不安感。

 ポジティブに考えようとしても、どうしても頭の中にのしかかったそれらが消えてくれない。金剛と別れ、寮室のベッドに横になっても何も気が晴れるようなことはなかったのだった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督24 A Fixer

 

 三月にもなると鎮守府もだいぶ落ち着いてきた。

 レミリアの騒動は年始の慌ただしさと相まって、今までにない忙しい年の暮れとなったが、気づけば正月を迎えていた。食堂では冬休みをもらった艦娘たちがテレビで箱根駅伝を見ながら「今年は早稲田だ」「青学だ」「東洋が三連覇する」などなど言い合い、餅を賭けてはわいわいと騒いでいた。赤城もその喧騒の中に加わっており、早稲田にベットしたので三日には山ほど餅を貰うことが出来た。

 

 レミリアの事件に対する捜査は年が明けてもしばらく続いていたが、前代未聞の不祥事となるはずの本件は、誰かがどこかで上手に情報操作をしているらしく報道には出なかった。テレビ局や新聞社が群れを成して押し寄せて来るのではないかと恐れていたのが杞憂となってとりあえずのところは安心した。

 そうして年明けが過ぎれば、新しい(本来の)提督、加藤の指揮の下、鎮守府は平常を取り戻し以前のように回り出す。彼の采配は彼らしく無難なものが多いが、さほど悪いというものでもない。むしろ、鎮守府での経験は彼の方が長いのだから、その辺りは“よく分かっている”指示が出される。

 加藤は働き者で、今までレミリアがやりたがらなかった書類仕事なんかもどんどん片付けていくので、赤城の負担は目に見えて激減していた。海上訓練や弓の鍛錬に使える時間も増えて、レミリアが居た時のように意識的に休日を作らなくとも、非番になると必然的に手が空くようになった。それが寂しいのやら楽なのやら、複雑なところである。仕事が減るのに比例して、それまで事実上赤城が握っていた提督の決裁権も加藤の下に戻って行って、もうかつてのように自分自身でいろんなことを融通するというのが通用しなくなってしまった。同僚に対しては辛辣な加賀に言わせれば、「黒幕の座を追われたわね」ということらしい。肯定も否定もしかねる。

 それまでが異常なほど働き詰めだったからか、いざ時間が空き始めると何をやっていいか分からないようになってしまっていた。平日のちょっとした空き時間、何か自分に出来ることはないかと思い立ち、ぶらり鎮守府行脚の旅に出たのは確か一月の末だったはず。以来、時間を見つけては歩き回っている。

 寂しいと言えば、鎮守府の中を歩き回る白い日傘の少女の姿がなくなったことだった。ふと気づけば、防波堤の上を、倉庫と倉庫の間を、工廠前から庁舎へ登っていく並木坂を、彼女が歩いているんではないかと思って無意識に探している。

 もちろん居るわけがない。彼女はあの日鎮守府を逃げ出して以来、どこに消えたのかも分かっていない。捜査は続いているかもしれないが、彼女が捕まったという話は聞かないので巧いこと逃げおおせたのだろう。あの時メッセンジャーにした彩雲も帰って来ていないし、あの妖精の気配を感じることもなかった。空母娘とパイロット妖精というのはどこかで意識が繋がっているものだが、不思議と彼との繋がりはまったく感じない。あの日以来、ぷっつりと途切れたままだ。

 ならばきっと、レミリアと妖精はおとぎの国に行ったのかもしれない。赤城が夢の中で彷徨い込んだ、変な茶会や真っ赤な館のあった、不思議の国に。

 

 彼女が戻って来ることはないのだろうな、と思う。そもそもの目的からして、何のために鎮守府に潜り込んだのかもまったく分からずじまいだが、レミリアとはもう会わないだろうという予感だけがあった。

 それが寂しいような気がするけれど、あるべきことなのかもしれない。きっとレミリアと赤城は、本来であれば交差することのない道を歩んでいた者同士だったはずだ。

 それはそれで納得出来る。自分に無理に言い聞かせる必要もなく、喉にストンと落ちるように、理屈には納得出来る。

 お互いの道はこのように分かたれて然るべきだったのだと、まったくもってそうだと思う。

 ただ、一筋縄でいかないのが感情というものだ。

 

 

 

****

 

 

 

 最近、いろんな人から「よく散歩してらっしゃいますね」と言われることが多くなった。「前の提督が居なくなったので」と、世間話のついでにいろんな頼みごとを受けることもしばしばである。そう言えば、レミリアはどこからどう聞いたのか、赤城すら知らないような鎮守府内の細かな情報を知っていることがあって度々驚かされたのだが、なるほどこうやって細かく出歩いてはいろんなことをたくさんの人から話してもらっていたのだろう。そう考えれば、彼女は非常に下の面倒見のいい、良い上司だったと言えるかもしれない。

 息苦しい秘書室の中から気分転換に散歩に出て、そしてまた戻って来た時、まるでタイミングを見計らったかのように電話機が甲高く鳴った。慌てて電話機に駆け寄り、受話器を取って耳に当てながら自分のデスクに腰を下ろす。

 

 

「こんにちわ! 呉の榛名です」

 

 

 聞こえて来たのは明瞭で涼やかな美しい女声だ。この声の主を赤城はとてもよく知っていて、昔からの付き合いがある。

 十年来の友人であると共に、艦娘としての大先輩。名は榛名、艦型は金剛型三番艦。すなわち、金剛の“妹”である。

 妹と言っても、艦娘の“姉妹”は実際に血が繋がっていることのほうが珍しいので、金剛と榛名はもちろん血縁ある姉妹ではない。英国出身でハーフの金剛と純粋な日本人である榛名は遠縁ということもない、元はまったく赤の他人同士である。それが“姉妹”の括りに入れられているのは、彼女の艤装が金剛のそれを模倣して造られたものであり、必然的にほぼ同じ性能の艦娘となったからだった。要は「姉妹艦」なのである。

 

 そして、金剛と赤城が同じ鎮守府に居ることに榛名が関係していないはずがなかった。二人との縁は赤城が艦娘となり加賀と共に初めて配属された首都近郊の鎮守府で出会った時以来のものである。まだ新人で、特に姉を喪って精神的にも苦しんでいた赤城を一人前の艦娘にまで育て上げてくれたのが金剛と榛名の二人なのだ。

 その後、赤城は金剛と同じ鎮守府に配属になったが、首都近郊の鎮守府で秘書艦まで登り詰めた榛名はさらに出世して今は呉の鎮守府に居る。離れ離れになっても交流は続いていて、時折こうして電話が掛かって来たりするのだ。話す内容は仕事のことが多いが、間宮製菓の新作についての情報交換も頻繁に交わしている。というのも、榛名は間宮のお菓子にはまったく目がなく、新商品のチェックはもちろんのこと、株価の変動からパティシエの異動まで、どこから仕入れているのか甚だ疑問になるような情報を持っていたりするのだ。同じく間宮好きの赤城と意気投合するのは当然である。

 彼女は非常に優秀な艦娘で、その実務能力の高さはこの図体の大きな組織の中でも殊更に評価されていた。もちろん、赤城も榛名は頼りにしている。そして、榛名もまた赤城を同じくらい信頼してくれているらしく、お互いに仕事を色々と頼み合うことも頻繁にあった。

 艦娘としてはかなり年季の古い榛名は、軍人や軍属、艦娘やあるいは軍外部にまであらゆるところに顔が効いて、時に驚くようなコネクションを持っているから、そうした人脈の広さに仕事を助けてもらったことが少なくない。逆に、赤城は艦娘の中でも独特の派閥を作っている空母娘たちに絶大な影響力を持っていて、それによって自分が直接艦隊の「指揮」を執ることも多い榛名は容易に彼女たちの協力を得ることが出来た(何しろエアカバーを担う空母娘は戦略的にも戦術的にも極めて重要だ)。

 二人の間に仕事の話は多い。ただ、いつもそんな堅苦しい会話だけしているわけではなく、内線を使って堂々と私的な雑談に花を咲かせたりもする。今日の場合は後者だった。

 

「広島の直営店の店長が変わったんですけど、新しい人はパリでもう十年以上も修行されていた方なんです。その人の作るお菓子は甘さが控えめで、味のバランスが整っていると評判なんですよ。今までの間宮のお菓子と言えば、とにかく甘ったるいことが特徴でしたけど、今年から『味の多様性の追求』という新戦略を打ち出していますから、恐らくその一環なのでしょう。前の広島店の店長は甘党でしたからね」

 

 話し出した時点で、これは長くなるな、と思った赤城は、榛名が「広島の直営店の店長が」と言った時点で、部屋に掛けられている時計をちらりと見上げて時間を確認した。丁度三時になったところだった。

 以後、長針が「3」の数字を指すまで、彼女は延々と喋り続けていた。間宮のことになると何よりも熱心になるのが榛名の特徴で、赤城を除き普段あまり人を悪く言わない加賀でさえ「常軌を逸脱している」と痛烈に批判するくらいである。

 間宮はネット販売の他に全国規模で店舗を展開しているが、創業地の広島駅構内にある旗艦店はフランチャイズではない本社直営で、新作の発表もここから出されることが多い。その旗艦店の店長に今までとは違う毛色を持つ人物を宛がったことは間宮製菓の戦略の大転換を象徴する出来事なのだという。

 日本広しと言えど、ここまで熱心な間宮信者は他に類を見ないだろう。大好物どころか、最早間宮の菓子を崇拝していると評しても過言ではない艦娘は、どうやらこの戦略の大転換(彼女の言葉を借りれば“ピボット”)を好意的に受け入れているようだった。よって、延々十五分語り続けた後、「そう思いますよね、赤城さん」と強く同意を求められた。

 

「ええ、そうですね」

 

 と頷きながら、加賀の、榛名に対する批判は実に的確なものだと思った。

 加えて言うなら、今二人は職務中である。もっと言うなら公務中である。軍隊も役所の一種であり、そこに勤める者は艦娘と言えど公務員であるはずで、つまり二人の給与の元となるのは国民から徴収した税金である。その給与の算出には時間も関係するので、出勤してから退勤するまでは休憩中を除き、当然真摯に職務に取り組む義務があるはずである。断じて、一つの製菓会社とその製品について私的な語らいをしてはならない。

 という建前は重要だ。

 

「今までの間宮は美味しいのは美味しいのですが、少し甘さに偏り過ぎているきらいがありました。それで受け入れない人もいらっしゃったわけです」

 

 と、まだまだ話が続きそうだったので、赤城はいよいよ釘を刺すことにした。

 

「その話はまた今度にしましょう。榛名“司令官”」

「……あ、そ、そうですね」

 

 この国の海軍において、艦娘としては異例の二つ名を持つ榛名は、ようやく怒涛の間宮語りを止めるに至った。これでも彼女は呉鎮守府の秘書艦であり、舞鶴鎮守府の司令官を兼任する提督に代わり、時に艦隊の指揮をも行う「最優」の艦娘でもある。ただの秘書艦にとどまらない彼女は、時に(しばしば揶揄の響きをもって)「榛名司令官」と呼ばれることもあった。

 艦娘の中でも特に優秀で戦果も上げており、且つ人望もある者だけが秘書艦に選ばれるのだが、榛名の場合そこからさらに一歩進んで、その卓越した戦略眼や指揮能力を買われて艦隊指揮を任されることもある、実質的に代理の司令官としての立場を手に入れている。基本的に彼女は非常に優れた傑物であり、戦上手であり、また組織内での振舞い方をよく承知している世渡り上手でもあった。「何でも知っている」と言われるその情報力も、軍内外に広がっている豊富な人脈のなせるものであろう。間宮が絡まなければ、だが。

 

「今日の赤城さんはつれませんね」

「電話でいきなり十五分も喋り続けられたら誰だってそうなります」

「うーん、いけずですね。ま、いいや」

「それで、今日はどうされましたか?」

「ちょっとした、お知らせです」

 

 気を取り直したのか、立ち直りの早い榛名は明瞭な声でそう言った。

 これは恐ろしいことの予兆だと、赤城は思った。何しろ、情報通の榛名が教えてくれることというのは、ほとんどすべてが何かしらの警告であったり忠告であったりする。つまり、聞き逃したり知らなかったりすれば、確実に自分たちに損害が発生するような言葉というわけだ。しかし、そもそもそういう知らせがあるということ自体、赤城にとって碌でもない状況だろう。

 残りの「ほとんど」以外の知らせは、言うまでもなく間宮に関することである。この、何でも知っていて何でも出来るずば抜けた秀才の数少ない欠点が、職務上の責任の重さに対して間宮の菓子の比重を高く設定しているところだった。ただし、今日に限って言えば散々間宮については話していたので(それでもまだ話し足りない様子だが)、恐らくこれから彼女が口にする「お知らせ」とやらの内容は、洋菓子のような甘いものではないだろう。

 

「はい。何でしょうか」

 

 とは言え、榛名は純粋な親切心で教えてくれるのだから、赤城は気を引き締めて彼女の次の言葉を待つことにした。

 

「“前”の司令官についての続報です」

 

 言葉に、嫌なものを感じる。わざわざ知らせる必要のある続報だ。

 レミリアと彼女の引き起こした騒動については、榛名は完全に第三者であり、外から見たことしか分からない。如何に彼女が情報通であろうとも、現地に居た人々が、つまり当事者たちが、レミリアに対して何を思っていたかなんて知り得ないだろう。赤城が、「捕まらないでほしい」と望んでいるなんて、実際榛名は知る由もないのだ。

 

「捜査は打ち切られました」

 

 だが、予想に反したひと言を榛名は――彼女にしてはかなり粗雑に――放り投げるようにして発した。

 よって、赤城は直ちに問い返す。

 

「どういうことですか?」

「そのままの意味ですよ。捜査は打ち切られました」

「何故ですか? 憲兵だってやって来たし、しっかり事情聴取までされたんですけど」

「第一に、こんなことは恥ずかし過ぎるからです。だってそうでしょう? 半年もの間、正体不明の人物が重要なポストに着いていたんですよ。いくら海外の軍との人材の交換があるといったって、普通の組織ならどこの馬の骨かも分からないような人間を中枢に入れたりするはずがありません。国連海軍とは名ばかりで、実際には各国の海軍の集合体でしかないんです。他所の国から来られた方には名誉職を宛がい、実務に着かせないのは常識でしょう」

「だというのに、彼女は実際の指揮権を持つポジションに収まった。収めてしまった。ちゃんと身辺調査をしているのか、人事がまともに機能しているのか、危機管理が出来ているのか、っていう話になる。そういうことですね」 

「仰る通り。この組織は、相も変わらず深刻な隠蔽体質なようです」

 

 呆れたように榛名が言った。電話の向こうで彼女が、眉間に深い皺を作り、形の良い唇の間から重いため息を吐き出している光景がありありと思い浮かぶ。

 権力志向の強い榛名だが、その理由の一つにはこうした組織の古い体質を自らの手で変革しようという意気込みが挙げられる。

 

「そして第二に、これが一番強い理由なんですけど、外務省の横槍があったからです」

「というと?」

「実は、捜査の過程でレミリア・スカーレットの出身とされる王立海軍にも疑いの目が向けられました。当然ですよね。ただ、彼らはレミリアの身分を保障していましたし、自国のVIPがスパイ容疑で追われたなんてことになったわけですから、とても怒りました。ですので、外交ルートを通じて日本政府に抗議を行ったのです。

で、その窓口になるのはご存知の通り、事なかれ主義の外務省です。彼らはその抗議を留めるどころか英国政府の言うままに軍に伝えて来たんです。彼らの事なかれ主義は国内に対してはあまり適用されないみたいでしてね。

さらに、軍内部にも外務省と仲良く付き合いたいと思っておられる方々が多いわけです。特に海外での駐在武官の経験が長い程、そういう考えになりますから。かく言う榛名も親善外交として各国を回りましたし、一時は在英大使館に居ましたからその気持ちは分からないでもないんですけどね。榛名のところにも電話が掛かって来ましたし。

まあ、以上のような経緯があって、組織として今回のことはこれ以上捜査しないという方針になりました。結局、レミリア・スカーレットという人物の身元も不明なままです。一応、王立海軍が保障していますけれど、それもどこまで本当か怪しいものです。もしかしたら本当に彼らが言うような高貴な人物で、英国にとっては重要な存在なのかもしれません。

だとすれば、抗議を受けるのも当然の話で、むしろ抗議だけで済んで良かったとも言えます。まあ、『防諜上の理由があった』という“言い訳”は一応のところ立ちますし、後は外務省が上手いことあちらを宥めすかしてくれたら、円満解決ではないですけど、決着という形にはなります」

 

 微妙に言葉は厳しいが、決着がついたこと自体に対しては納得しているような言い方だった。赤城にとっても、レミリアがこれ以上追われることはないということは少しだけ安心出来る材料だ。もっとも、本人はとうの昔に人間の手で追える範囲から逃げ出していただろうが。

 

「そうですか」

 

 何と言えばいいか分からないので、赤城はとりあえず無難な相槌を打っておいた。

 もしレミリアがやったことを悪と定義するなら、赤城は間違いなく被害者の一人であり、そして同時にその悪を放逐した正義でもある。だが、個人としてレミリアを悪とみなすことは到底出来そうになかったし、そもそもそんな風に思っていない。彼女を批判すればいいのか、捜査が止まったことに“不安”を口にすればいいのか。ポジションに適した発言が求められているのか、気の置けない友人に対して素直に思っていることを伝えればいいのか。

 果たしてその問いは、改めて榛名に突き付けられることになった。

 

「淡泊ですね。実際のところ、赤城さんは今回の一連の出来事をどう思ってらっしゃるんです?」

 

 だから、答えに窮した。

 

「ずっと不思議だったんです。言葉は悪いんですけど、貴女ほどの方があれだけ盛大に騙されて、それに対して特に何らかのリアクションを取っていないということ。憲兵に任せていたのかもしれませんけど、榛名には何にも愚痴ったりしませんでした。ほら、前は『新しい提督が来なくて仕事が多すぎる』とかで散々言ってましたよね。でも、今回のことについて貴女はとても落ち着いている。

ひょっとしたら、貴女は今回のことの本当の顛末を、真実をご存知じゃないのかな、なんて思うんです。赤城さんなら、いかにもそれはありそうな気がして」

「そんなこと、ありません。私は何も知りませんでしたし、今も真実なんて分かりません」

「不愉快にさせてしまったのなら、ごめんなさい。ただ、榛名は心配しているんです。

貴女はだいぶ自分に対して抑圧的な人です。そして、とても強い人です。普通の人なら破綻するようなところまで無理を利かせても耐えられちゃうんです。だけどそんなことばかり繰り返していたら、さすがに貴女だっていつかは耐え切れなくなってしまう。

そちらに、誰か他の人は居ますか? 赤城さん一人ですか? なら、思い切ってここで吐いちゃうのもありですよ。どうせ相手は榛名なんですから、気負う必要なんてありませんし」

 

 分かっている。それなりに長い付き合いだ。彼女が心から親身になってくれているというのは、電話越しからでもひしひしと伝わって来るその気持ちで、よく分かった。

 例え、今ここで赤城が何を述べようと、それが途方もなく荒唐無稽なことであろうと、あるいは組織の意向や利害に反することであろうと、榛名は決して馬鹿にしたりしないし笑ったりもしない。真正面から真剣に受け止めてくれる。何を言っても榛名はその言葉に真面目に向き合い、すべてを肯定してくれる。

 けれども、だからこそ言えないことというのもあるのだ。与太話だと思って、それこそ酒の肴に愚痴のように漏らして、聞いたら鼻で笑ってくれるような、そんなあしらうような扱いをしてほしい話というのも、時にはあったりするものだ。

 赤城はレミリアを批判して然るべき立場にあるとも言えるし、そうでないとも言える。真実がどうあれ、当事者同士の感情がどうあれ、レミリアが正体を騙り、非合法にこの鎮守府に潜入していたのはれっきとした事実であり、榛名の言うように赤城はものの見事に騙されて利用されていた。本来であるなら赤城には真っ先にそれに気付いて正しい対応をする責任があっただろう。

 だが、出来なかった。そこはレミリアの人心掌握術が巧妙だったのか、赤城はすっかり彼女を信頼し切っていた。信じるべきではない相手を信じてしまっていた。上官としてだけではない。人として、彼女に居ない姉の姿を重ね、信頼した。

 気付いたのは金剛であり、加藤である。二人が居なければ、きっとレミリアは今も鎮守府に居座っていたことだろうし、赤城はその右腕として采配を振るっていただろう。レミリアの思う通りに、その意に従って。

 だがそれは歪んだ姿である。正しくない光景である。本当の鎮守府司令官は加藤であり、赤城は彼の下についていなければならないはずである。だからこそ、金剛と加藤は手を組んで行動を起こした。赤城の協力は不可欠だったから、二人は赤城を「正しいことを為すこと」に誘った。

 それは赤城の足元を崩してしまうような恐ろしい誘いであったが、結局赤城はレミリアを追放することを選んだ。迷いながらも一旦はそれを受諾したし、言うまでもなく正道な選択であるというのは頭では分かっている。だから、レミリアが居なくなってから、一度も赤城は彼女を擁護するような言葉は口にしていない。それは自分がするべきことではないし、してはならないことなのだ。

 レミリアに対して払うべきであった正しい作法は、最低限のレベルで言うと、容赦なく鎮守府から蹴り出すことだった。逮捕して司法の裁きを受けさせられるならそれが一番いいが、追い出すだけでも秩序と正当な指揮系統は取り戻せるわけで、実際にそうなった。躊躇なくそうした結果に結び付く行動を起こした金剛と加藤はまったくもって正しい。

 

 ただ、二人のようにきっぱりと割り切れない自分が居るのも事実だ。

 厄介なのは感情の問題。赤城はどうしても彼女を「裏切った」と思わずにはいられない。彼女を否定する言葉を聞いた時、胸の奥が熱くなり血管が拡幅するのを自覚する。

 レミリアが鎮守府に居たことは正しいことではなかったけれど、だからと言って彼女が成したこと、口にした言葉、そして伝えてくれた想いや気持ち、何よりそれに対して赤城が抱いた感情までが否定しされて然るべきものだったとは、断じて言うものではない。それらはすべてまごうことなき真実であり、赤城の中で大切にしまっておかなければならないものだ。

 そして、そうした思いがあるからこそ、赤城はレミリアが居たこと自体も否定出来ないでいる。結果論かもしれないし、「擁護」になってしまうかもしれないけれど、レミリアがここに来て赤城たちと出会い、少なからず心を通わせ、奇跡のような出来事を起こしたのは、決して貶められていいことではないはずだ。

 彼女を信頼したこと、彼女が例え慰めだったとしても姉として振舞ってくれたこと、そうした彼女の在り方。それらすべてを、赤城は誰にも否定してほしくない。

 とは言え、やはり自分にはそこまで偉そうに言う資格はないのだろうとも思う。何より、一番レミリアのことを否定してしまったのは、他ならぬ自分なのだ。

 軍に所属する艦娘として、秘書艦として、あるいは国家公務員として、正しいことをしたのだとしても、赤城を赤城足らしめる根源的な部分に居る自分が、その選択を酷い言葉でなじるのだ。「裏切りだ。裏切りだ。主君への裏切りだ」と。

 馬鹿げたことである。赤城が忠義を尽くすべき相手は国民国家であり、断じてどこかの悪魔ではないはずなのに。不当に居座っていた悪魔を追い払うのは誰にも否定され得ぬ行動だったはずなのに。どうにも御しきれないこの感情という怪物が赤城を苛むのである。

 ままならないことで、ままならないからずっと赤城は正しさと感情の板挟みになっていた。そして、そのことに意味などなく、つまるところ取るに足らない些末な悩みであって、こんな心理にいつまでも振り回されているべきではない。気晴らしに鎮守府を散歩しても、もうどこにも答えなどあるわけがない。何故なら、答えを見つける必要もないほどつまらないことなのだから。

 

 だから、こんな鬱屈とした感情は、酒臭い息とともにさっさと吐き出してしまえばいい。そして、隣で聞いている誰かに「そんなちっぽけなことで悩んでいるのか」なんて馬鹿にされてしまえばいい。案外、その方が気が楽になるだろう。

 とはいえ真正面から受け止めてくれようとしている榛名に対して、ただ管を巻くだけなのは気が引ける。そんなしっかりと構えて聴いてくれる必要などないことだ。

 

「そこまで深刻なことではありませんよ。お気持ちだけでも十分感謝しています。大したことで悩んでいるわけでもありませんし。それに、愚痴を吐くなら居酒屋が一番じゃないですか? 時間が空いたらですけど、また飲みに行きましょうよ。加賀さんと金剛さんも入れて」

「いいですね! 榛名も久しぶりに皆さんと飲みたいです。一人だけ広島に飛ばされちゃったので、ずっと寂しい思いをしていたんですよ」

 

 飲みに誘えば食い付いて来るだろうと思ったら、やはりその通りだった。酒が彼女の第二の好物なのだ。

 

 しかし、一方で榛名は下戸である。酒が好きなくせに、ジョッキ一杯ですぐに白雪のような肌を朱色に染め始めるのだ。そうして始まるのが怒涛のマシンガントークであり、酔うと陽気になるタイプの榛名は、スイッチが入って延々と一人で喋り続けるようになる。どれだけ溜め込んでいるのかと驚くくらい色々な話をするし、同じ話の繰り返しも多い。酷い時は一時間以上喋り続けていたことさえあった。しかも、相手にしないとしつこく絡んで来るので鬱陶しいことこの上ない。

 間宮以外で彼女の数少ない欠点の一つが、酒癖が多少悪いということだ。そうして飲み明かした次の日には、酷い頭痛と共に酔った時のことを綺麗さっぱり忘れているのが常である。

 とはいえ、旧友と飲むのは楽しい。彼女を誘ったのは決して誤魔化しではなく、本心からのことだった。

 

「そうですね。何とか都合を作ってみましょう。そちらは中々遠いですけど、榛名、やってみせます!」

「ええ。楽しみにしていますね」

 

 と言って、電話は穏やかに切られた。時間にして約三十分の長電話であった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

「今度、榛名さんと飲みに行きましょう」

 

 赤城がそう言うと、仕事終わりから就寝までの隙間の時間を本を読むことで潰していた加賀が顔を上げた。床に尻を置いてベッドに背を預け、三角座りで縮こまるようにして立てた膝を書見台代わりにするのが、いつもの相棒の読書姿勢だった。何故そんな窮屈そうな姿勢で読むのかという疑問が生まれないこともない。

 読んでいる本の題名が「誰とでも三分で打ち解けられる話し方」。最近の加賀はこの手の自己啓発本に熱中していて、とりわけコミュニケーション・スキルについてのものが多いようだ。しかし、残念なことに彼女の口下手さはちっとも改善の兆しが見受けられない。

 

「榛名さん、来るの?」

 

 わざわざあんな遠いところから? というニュアンスを含んで、加賀はそう尋ねた。

 

「何とか都合を作るって。まあ、あの人のことだからどうにかするんじゃないの」

「どうにかって……。誰が後始末をすると思っているの?」

 

 加賀のハスキーボイスがいつにもまして低い。あまり歓迎的ではないようだが、その理由には心当たりがある。

 

 結構前の話になるのだが、まだ赤城と加賀、金剛と榛名の四人が首都近郊、横須賀の基地に居た頃、先に金剛だけが転属となった。もちろん大先輩には基地を挙げて送別したのだが、それとは別に四人だけで外泊許可をもらい、一晩飲み明かしたことがあった。

 赤城はその時のことをあまりよく覚えていない。二件目に梯子した時以降の記憶がないのだが、それはつまりそういうことだ。後で聞いたところによると、加賀が他の三人の世話を見たらしい。

 彼女は酒に強く、きつい日本酒をたらふく飲んでようやく赤くなるかというところだ。そしてあまり酒が好きではないようなので、宴会でも潰れることはないし、どちらかというと他人の世話を見る必要があるためにどこか線引きしている風な振る舞いをする。だから、赤城や金剛、そして榛名といった酒をよく飲むメンツと組むと必然的にすべての“後処理”を加賀一人が担うことになる。というか、担わされる。それが分かっているから、あまりいい顔をしないのだ。

 

「自重はするわよ。前とは違うの」

 

 暗にかつてのことを批判してくる加賀に、赤城はきっぱりと言い切った。以前はまだ若かったのだ。少し調子に乗り過ぎることもあったかもしれないが、今はもうそんなことはない。いい大人なのだから。

 だが、加賀は完全に疑ってかかっているのか、「お前に出来るわけないだろう」と言わんばかりの胡乱な目を向けて来る。実に納得のいかないことである。

 

 自分では全くそうは思わないのだが、赤城はよく酒好きと言われることがある。だが、そうではない。

 宴会というのは、酒を飲んで皆と楽しい時間を共有する場なのだ。アルコールは人間関係を円滑にする潤滑油の働きをする。ならば、飲むのは当然の礼儀であり作法だ。誰しも陰鬱な雰囲気の中で飲みたいわけではないから、場を盛り上げる必要があるだろうし、宴会の中では中心的な役割を担うことが多い自分は率先してそうした雰囲気作りを行う必要がある。

 その手段として赤城は酒を飲むのであって、決して酒に飲まれているわけでも酒乱であるわけでもない。

 赤城が率先して盛り上げつつ、加賀はたしなむ程度に抑えて周囲を見る。いいコンビじゃないか、一航戦。

 いや、一人にばかり何かと面倒が多い“後始末”を任せっきりにするのも悪い。酒にだらしない奴、なんて相棒に思われているのも癪なので、赤城としてもしっかりしているところを示していかなければならないだろう。

 

「まあ、いいけど」

 

 加賀はまだ何か言いたげな様子だったが、結局何も言わずに読んでいた本に視線を戻しただけだった。すべての場合に当てはまるわけではないが、言いたいことがあるならちゃんと言葉にしないと伝わらないことというのはたくさんある。気持ちや考えを言葉として出力することこそがコミュニケーションの基本だと、今彼女が必死で読んでいる本に書いていないのだろうか。

 

「セッティングは任せてください」

 

 赤城がそう言うと加賀はただ黙って頷いた。

 淡泊な反応だが、プライベートの加賀と言えばいつもこんな調子である。今はとにもかくにもコミュニケーション能力を活字の力で向上させることに意識を割いているらしい。

 と思ったら、本を読みながらなのか、あるいはそういう“振り”をしているだけなのか、意外にも加賀は話を続けた。

 

「どうして、榛名さんはこっちに来てまで飲みたいと?」

 

 ページから目を上げずに彼女は尋ねた。

 

「私が誘ったのよ。久しぶりだし、飲みに行きたいですって」

「……赤城さんは、何故榛名さんを誘ったの?」

「え? それは、まあ、話の流れかしら?」

「何の話? あの人のこと?」

 

 言い訳じみた受け答えをする赤城は、間髪入れず鋭く突き付けられた確信を持った問いに、図星を突かれて喉が詰まった。加賀が「あの人」と呼ぶのは一人しか居ない。彼女は提督ではなくなったし、少将という階級も偽りだった。さりとて、まだ加賀の意識の中では彼女のことを名前で呼び捨てることも、「さん」付けしてよそよそしい呼び方をすることも出来なかったのだろう。結果、「あの人」呼びとなった。そう、レミリアのことである。

 

「まあ、そうかしら」

「……そう」

 

 恐らく、加賀にはお見通しなのだろう。赤城が思っていること。レミリアへの複雑な感情。

 

「最近は、煮え切らない様子だったから、榛名さんにも指摘されたのね」

「煮え切らないというか……」

「そうでしょう。おまけにあの人の真似事まで始めて」

 

 加賀の言葉には微かに非難の色があった。

 レミリアの真似と言うなら、それは確かにそうだろう。だが赤城としては情報収集のやり方としてレミリアの方法を踏襲したに過ぎない。少なくともそのつもりである。

 

「ああやって歩き回りながら、あの人の姿を探している。インターネットであの人の名前を検索している。もう居なくなった人にいつまでもこだわって、得られもしない答えを求めている」

 

 図星だった。どうして、という疑問が立つ。

 レミリアの姿を探していることを、彼女のことを調べていることを、そして赤城が今も尚レミリアに執着心を抱いていることを。加賀はまるで心が読めるように見抜いていた。

 

 

「見ていて、イライラするの」

 

 そして彼女は、彼女にしてはまた珍しく、酷く尖った言葉をオブラートに包みもせずにそのままぶつけてきた。まるで投げ槍のように、言葉は赤城の胸に突き刺さった。

 いつの間にやら加賀は顔を上げて、黒目がちな瞳でじっとりと赤城を見据えている。

 

「いつまでもウジウジ悩んで。こちらが気を遣って声を掛けても何でもない振りをして愛想笑いを浮かべるだけ。そのくせ、悩んでいることを隠しもしない。同じ部屋に居る身にもなってほしいわ」

 

 思いの外加賀は辛辣で、意外なほどよく“効いた”。彼女がここまで言うのは本当に稀なこと。赤城は黙らざるを得なかった。

 

「決別しろとか、ケジメをつけろとか言っているんじゃないの。ただ、このままでは赤城さんが一番苦しいと思うわ。早いところ折り合いをつけて整理しないと、苦しみは長く続くわよ」

「難しいことを言うのね」

「ええ。でも、赤城さんなら出来るはずのことよ」

 

 折り合いをつけるなんて、口で言うほど簡単じゃないわ。喉元まで競り上がってきた言葉を嚥下する。

 加賀の言うことはまったく正論だ。口調は辛辣だが、優しい彼女のことだから本心から悩む赤城を案じてくれていることだろう。それが分かっているから、赤城も余計な口答えはしなかった。だから、少し話を変えてみた。

 

「そういうことを言うってことは、ひょっとして榛名さんから電話が掛かって来たのかしら?」

 

 すると、加賀は小さく頷き、

 

「ええ。かなり“キている”みたいだから、私からも声を掛けてあげるようにって」

 

 やっぱりか、と赤城は口の中だけで呟いた。

 ほんの三十分ほど(それも半分は間宮の話)しか喋っていないにもかかわらず、榛名は的確に赤城の悩みを見抜いて加賀にフォローまでお願いしていた。その洞察力の鋭さと、細やかな気の回し方に、やはり彼女には敵わないなと思い知らされる。

 ある意味、そうしたところで人望を得られたからこそ榛名は高い地位まで登り詰められたとも言えるだろう。

 

「それと」と加賀は続けた。

 

「榛名さん、あの人のことを悪く評価しているわけじゃないみたい」

「え?」

「南方での作戦のこととか、私たちがさせられた夜間航空攻撃のこととか。短い期間でやったことに意義深いことが多いと言っていたわ。特に、南方でのこと、四駆の子たちの救出を、榛名さんはとても高く買っているみたい。『艦娘を想って理不尽と戦ってくれた人に悪い人は居ない』って。買いかぶり過ぎよね?」

 

 今回の件、榛名は関わっていないはずだ。彼女は遠く呉鎮守府に居て、レミリアが居た間一度たりともこちらには来ていないのだから、当然レミリアとは面識があるわけではない。同じ組織の中であっても、第三者であった。

 それなのに、榛名はレミリアを否定するどころか、肯定した。誰もが彼女を悪と、罪人となじる中で、離れたところに居た第三者がレミリアを認めていたのだ。

 

「そ、そう……」

 

 レミリアの件は揉み消された。悪しき組織の隠蔽体質と言えよう。それに安堵した赤城が非難出来ることではないけれど。

 

 

「あと、こうも言っていたわ。『赤城さんの人を見る目は確かだから、赤城さんが信じたならきっと正しいことを出来る人だったんでしょう』ともね」

 

 

 なんだそりゃ、と思わずにはいられなかった。赤城本人に対しては「盛大に騙されていた」などと失礼なことを言っておきながら、後から他人伝手でそんなことを嘯くのである。加賀のことだから脚色せずにそのまま榛名の言葉を伝えただろう。つまり、どちらが彼女の本心かと言われれば……。

 

「貴女の欠点は、他人に心配を掛けてもそれに気を払わないこと。これで、ちょっとは懲りたかしら?」

 

 そう言って、加賀は薄っすらとした笑みを浮かべる。勝ち誇ったような、してやったりな顔だ。

 だから赤城の肩も自然と揺れ、額に手を当てて天井を仰ぎ見る。喉が小気味良く鳴った。

 

「懲りた。懲りた。懲りました。もう、榛名さんにも加賀さんにも敵いません」

「そうよ。それくらい殊勝になればいいの」

 

 と、加賀がさらに得意気な表情になる。今日の彼女は中々手強い。

 彼女にも迷惑を掛けただろう。ずっと心配してくれていたし、気を揉んでいたのだ。赤城は分かっていながらそれを見ない振りをし続けていた。だから、怒られても仕方がないのだし、榛名と共にやり込められた後では反撃のしようもなかった。だから、観念して赤城は湧き上がる感情に従って素直にこう言った。

 

「そうします。ところで、さっきの飲みの話だけど、駅前に出来た新しい居酒屋さんが結構評判良いらしいの。そこに行きましょうよ」

「いいけど。でも、一人で三人を介抱させるのはもうやめてほしいわ」

 

 加賀は急に苦虫を噛み潰したような顔になって、唸るようにそう言ってまた活字に視線を落とした。なるほど、あの時のことは余程彼女にとって苦い記憶であるらしい。

 ならばと、赤城は思い付いたことを悪戯めいた声に乗せて口に出してみた。

 

「じゃあ、今度は私たちが加賀さんを介抱してあげるわ。どこまで飲ませたら潰れるか、ちょっと見てみたい気がするの」

「潰れません」

 

 加賀は憮然とした顔で上目遣いに赤城を睨んだ。酒の強さにはかなり自信があるようだ。

 

「楽しみにしておきますね」

 

 赤城は笑って、同僚を煽る。これはもう、榛名には一刻も早く来てもらわなければいけないだろう。明日電話する時に急かしてみよう(もちろん挑戦にさそってみよう)。

 

 

 

 

 

 





榛名→酒に弱いくせに酒が好きなのであっという間に記憶を飛ばしてしまうタイプ。
金剛→酒に強くて飲み方もちゃんと弁えているが、潰れたふりして人に甘えるタイプ。
赤城→強いが一番よく飲むので潰れやすいタイプ。
加賀→めちゃくちゃ強くて潰れないが故にババ(介抱)を引くタイプ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督25 The Sea of Memories

少し時系列が前後します。


こんごうさんじゅうななさい


 もう何度目か分からないある茶会の時、レミリア・スカーレットは不意に、年老いた人間のように昔話を始めた。老人の昔話が長いとはその通りだが、レミリアの場合もまた同じことが言えた。すなわち、彼女は人並み以上の優れた記憶力にて脳裏に刻んだ事情を、事細かに説明しながら、初めて海を見た時のことを語ってくれたのである。

 それは奇しくも、金剛が見ていた故郷の風景と同じ海であった。レミリアの口から言葉にして中空に描かれる海の景色は、金剛の記憶の中にあるそれと寸分違わず、吹き付ける風の感触と濃厚な潮の匂いと共にありありと蘇る。

 

 

 

「初めて見た海というのは、どうしてか忘れずに覚えていられるものよ」

 

 彼女はティーカップを置いて、司令室の窓の外を眺める。

 今日は雲の少ない秋空の晴天。トップスの上にアウターを重ねたくなる気温。でも、木々が色づくにはまだまだ早い。

 レミリアの瞳には、しかし、そんな秋の港と空は映っていないだろう。彼女が今見詰めている景色の遠さを、金剛はよく知っている。

 

「あの時は」少女は述懐を始める。「今と同じ秋の頃で、よく晴れていたわ。その割に空は霞んでいたんだけどね。あの町の造船所から出る煙で、気持ちのいい空ではなかった」

 

 灰色がかった空気。どこからともなく漂ってくる鼻について離れない臭気と脂っこくて粘り着くような風。

 

「それでも、あの日、町外れの海岸から見た海は脳裏に刻みつけられている。潮の匂いも、細波の音も、すぐに思い出せる。女中と二人だけで行ったのよ。道中の列車の旅も、工業都市への訪問も、砂浜を素足で踏んだことも、何もかも初めてで楽しかったわね。靴を脱いで、波打ち際を歩いた。引く波を追い掛けて、寄せる波から逃げて。無邪気に遊んで、結局帰りの列車ではよく寝ていたことを女中にからかわれてしまった。いい思い出よね」

 

 彼女の記憶は彼女の中にしか存在しない。彼女が語る思い出の中の海を、金剛は限りなく類似した“同じ海”で例えることは出来るけれど、まったく同じものではない。彼女の口にする海と金剛の知っている海は同じで別物のはずだ。だから当然、レミリアの語りを聞いて頭の中で勝手に開いたアルバムのページに、写真のように切り取られた思い出の風景にある海は金剛の中にしかないもの。あの午後の海辺で波音を背に悲しく笑う少女の姿は金剛だけのものだ。

 けれど、金剛の意に反して勝手に浮かび上がってくるその景色は、レミリアの見たそれと間違いなく共通しているのだろう。あるいは、だからこそ思い浮かぶのかもしれない。例えば、もてなしで出された紅茶を飲んだ時、本当にお気に入りの紅茶の味を思い出してしまうように。

 

 彼女の正体を鑑みると、金剛と彼女との間にはおそらく大きな時間的隔たりというものが存在するはずである。決して同じ日にその町に居たわけではない。けれども、確かに金剛とレミリアは同じ通りを歩み、同じ海を目にしたのだ。

 そうして一つの景色を思い出すと、連鎖的に次々と思い出がよみがえってくる。生まれ育った故郷であったさまざまな出来事を、良いことも悪いことも、金剛は余すことなくちゃんと覚えていた。忘れもしない。忘れようもない。“金剛”という女の、そして「金剛」という戦艦の原点。

 

 

 そう、あのバローの町を。

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 今世紀に入ったのがそろそろ一昔前と言われるようになる現在。今日において「金剛」と呼ばれる艦娘がバロー=イン=ファーネスで生まれたのは、パリでベトナム人とアメリカ人が和平協定に調印した年だった。その頃はまだ、人類は人類同士で戦争をする余裕があったのだ。

 父は日本人で母がイングランド人。二人は共に同じ会社――ヴィッカース・シップビルダーズ・グループに勤める技術者で、しかも同じ職場の同僚であった。

 父は日本から「国際共同開発」という名目で派遣されて来ており、当時最先端の研究開発が行われていたバローの造船所にやって来たのだった。それから金剛が生まれるまでは、ありきたりな、つまり父が同僚だった母に惚れてプロポーズを行い、交際の果て挙式して、という流れがあったわけである。

 そこは、それ。金剛の今日までの人生を決定したのは、二人が共通のテーマを持っていたからに他ならない。それこそが、「艦娘」と呼ばれる存在。すなわち、深海棲艦への対抗戦力である。

 

 最初の深海棲艦が現れたのが朝鮮戦争のすぐ後で、それから十年、その活動レベルは低く、人類は連中のことをさほど脅威には捉えていなかった。その状況が一変するのが北海でデンマークの客船が撃沈された時であった。

 これ以後、深海棲艦はその活動を活発化させ、行動領域も拡大、人類への深刻な脅威を与え始めた。

 当初、各国海軍にて対処していた人類だが、間もなく艦砲や対艦ミサイルの効果が極めて限定的であることに気付いた。それらによる破壊のエネルギーは確かに深海棲艦の動きを止められるが連中はすぐに破損箇所を修復してしまう。加えて数も膨大であり、しかも撃沈は不可能。少なくない犠牲を払い、艦隊全体の残弾がゼロになるほど撃ち尽くしてようやく撃退出来るというありさまであった。

 どんなに安い砲弾も無限に供給出来るはすがない。ましてや、命中精度も威力も高いミサイルはそれ相応に高額であり、深海棲艦に対してこれらの打撃力で対処していては、駆逐は叶わず財政破綻も来す。よって、至急対深海棲艦において有効な兵器の開発が求められた。

 金剛の両親はその兵器の開発者でもあった。

 

 最初の艦娘が誕生したのはまさにバローの造船所でのこと。これは金剛を含め世界でもごく一部の人間しか知らないことであるが、その最初の艦娘というのは金剛のことである。

 日本と英国の間にどんな密約があったのかは知らない。しかし、内容は分からずとも存在は確かだった密約により、父は何かを持って英国の地を踏んだのだ。日本から提供されたその何かと、バローの造船所にあった何かが組み合わされ、史上初の対深海棲艦兵器――金剛型一番艦艤装が完成した。

 無論、これは当時の最高機密であり、父母がその製作者であったとしてもそんなことは露と知らず、混血児であること以外にはごくごく平凡な、後に金剛となる少女にはまったくもって関係のないことであった。まだ純真であった自分は父母の抱える秘密など気付きもせず、二人が家でもそうであるように仲睦まじく船を造っているのだろうとしか考えてなかった。

 

 艦娘という存在が質量を持って金剛の前に現れたのは、十七歳の夏に父に連れられて初めてバローの造船所に入った時である。

 造船所の巨大で迷路のような敷地の中を連れ回され、休日の一日を潰して様々なテストを受けた。筆記試験、体力測定、水泳などなど。

 最後に工場のような場所に案内され、そこでようやく出会ったのだ。「金剛」に。

 

 

 

 艦娘の核とは、素体と呼ばれる肉体である。素体はそのままではただの人間と同じであり、深海棲艦に対抗するためには艤装という機械式の武器を装着しなければならない。

 艤装を装着した状態の素体は水面に浮くことが可能で、また外部からの何らかの力の作用に対して非常に強靭になるという特性を持っている。 ただし攻撃面において、あくまで深海棲艦を破壊するのは艤装から放たれた砲弾・魚雷・爆弾であるのだから、極論を言えば扱い方さえ知っていれば誰でも艤装は扱える。

 それでは、艤装を軍艦に搭載せずにわざわざ素体を必要とする理由は何なのか。答えは、艤装を乗せただけの船や使えるだけの人間には艤装の庇護は受けられないということだ。

 「女神の護り」と呼ばれるその効果がなければ、たった数キロの距離で行われる深海棲艦との交戦では生き残れない。巨大な空母や戦艦が艦隊を組んで縦横無尽に海を駆け回る従来の海戦に比して、深海棲艦との戦いは敵も艤装もサイズが極めて小さいために、それ相応に戦闘のスケールも小さくなっている。

 敵は大きくてもせいぜいがアフリカゾウ程度であるが、各国海軍が保有する最も小さい艦艇でも、それより一回りは大きい。至近距離で撃ち合うことになる以上、このサイズの差は致命的であり、小さい上に「女神の護り」を受けられる艦娘の絶対的優位は揺るがないということになる。

 金剛となる少女の目の前に現れたのは、金剛型の試作艤装だった。見た目も、現在の本艤装と比べてかなり質素だったように思う。主砲を最大四基装着出来る本艤装に比べ、試作艤装は一基のみ。身体を囲む装甲盾もなく、航行装置も最低限の機能しか付いていない物。もっとも、当時の技術ではそれが精一杯だったのだろう。

 しかも、今のように素体に直接艤装を装着するのではなく、艤装服というものを身に着けた上でさらにそこに艤装を装着する方式だった。艤装服は頭からつま先まで全身をすっぽり覆う物で、見た目はそのまま宇宙服。それがチャレンジャー号を思い起こさせて嫌だった。

 

 突然、訳も分からず造船所に連れてこられて、訳の分からない機械を身に付けさせられた理由は、すぐに両親の口から聞くことになった。

 誰でも艤装を扱えるが、「女神の護り」を受けられるのは艤装を装着する素体のみ。だが、誰でもその権利を天賦されているというわけではなく、素体に選ばれるには極めて高い適性が必要だった。

 政府は数年前からこの適性を持つ人間を探していたのだという。それは極秘裏に進められ、対象は老若男女問わなかった。

 適性のテストがどのように行われていたのかは結局分からずじまいである。これは現在に至っても機密事項で、軍の一部の人間以外は当事者である艦娘ですら誰も知らない。ただ、当然機密事項であるという理由は金剛を納得させ得るものであるはずもなく、恐らくは知っていたであろう、そして聞いても肝腎なことは何一つとして教えてくれなかった両親に怒鳴った覚えがある。

 

 今思えば、父も母も守秘義務というのを背負っていて、言いたくても言えず、娘からの罵倒を甘んじて受け入れるしかなかったのだろうとは理解している。両親とはそれ以来ずっと不仲だったし、二十歳を最後にもう会っていない。二人が今も生きているかさえ分からない。

 自由主義国家にありながら、金剛の自由は十七の時を最後に失われた。艦娘になることへの拒否権はなかった。何故なら、当時素体の適性を持っているのが分かっていたのは金剛だけであったし、仮に金剛以外に適性者が現れたとしても、その人物には別の新しい艤装が与えられるだけで、つまりバローの造船所に連れて来られた時点で金剛の運命は確定してしまっていたのだ。最早、残りの人生は国家が敷いたレールの上を走る以外に許されたものではなかった。まず与えられた使命は、現状では実戦に到底耐えられない試作艤装を、対深海棲艦用特効兵器である本艤装へ発展させること。しかる後、本艤装を背負って深海棲艦を駆逐し、人類に航行の自由を取り戻すことだった。

 それは連合王国(そして間違いなく協力関係にあった合衆国や日本といった西側諸国)の意思であり、個人ごときが抗えるものではなかった。それからの三年間は試作艤装を本艤装へと発展させるために費やされ、金剛と両親は親子からパートナーという関係に変化した。

 

 もうその頃には、事情はどうあれ実の娘を政府に売った両親を親とは思えなくなっていたし、何より金剛は世のすべてに絶望していた。いつか、この艤装が完成した暁にはまず造船所を砲撃で吹き飛ばして、それからテムズ川まで行ってビッグベンを瓦礫に変えてやろうとさえ考えていた。

 そうした復讐心が当時の生き甲斐であり、そのためだけに金剛は艤装の完成に全力を尽くしていた。思い返せば、ひどく幼稚で短絡的な動機だった。少なくとも、艦娘という存在の意義を理解している今はそのようなことを考えることはない。ただ、つまらないものであってもその復讐心がなければ今日の艦娘の発展はなかったし、自分の働きが意図しなかったとはいえ、世界中において多くの人命を救うことに繋がったのは事実であり、そこは誇りに思っている。

 それに、両親がいくら自分たちの研究のためとはいえ、娘を進んで政府に献上したりするはずがないというのも分かっている。二人は適性検査の結果を知らされて驚嘆し、苦悩したに違いない。当時の二人の細かい表情まで覚えていないし、何も知らずに青春を謳歌していたから何も気付かなかった。

 拒否権がなかったのは両親も同じ。何の皮肉か、彼らの生涯の研究テーマを完成させたのは彼らの血の結晶だった。あるいは、そういう親の下に生まれたから金剛は艦娘になったのだろうか。

 未だに艦娘の適性が現れる要因について学術的な説明はなされておらず、金剛が思うに今後もそれが可能になることはないだろう。艦娘という存在を利用しながら、人類は思いの外艦娘について知らない。深海棲艦と共に艦娘を対象にした研究は続いているが、今も根本的なことはほとんど分かっていないのだった。

 かつて抱いていた恨みのような感情はもうない。二人の苦悩も想像出来るし、両親も両親で可哀想な目に遭ったのだというのも理解している。冷たい態度をとっていたことについては謝罪しようという気持ちもないことはない。けれど、頭ではいくら理解しても、感情的に納得出来ないことというのは必ず存在する。

 両親をまだ完全に許したわけではない。少なくとも彼らは知っていたはずだ。否、知っていなければおかしい。

 

 

 ――艦娘が年を取らないということを。

 

 

 それが、未だに便りの一つも出さない理由だった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 二十歳になってすぐ、本艤装が完成した。それを装着していよいよ本当に金剛が「金剛」になった時、身体に流れる時間は止まった。どんな人間も逃れられない老化の定めから、金剛は解き放たれたのだ。

 理由は不明。「女神の護り」の副作用だというのが通説だが、そもそもの「女神の護り」からしてよく分かっていない事象なので、艦娘の老化が止まることの原因は解明されていない。

 確かな事実として、金剛は二十歳の頃から顔にシワが増えたことはないし、肌のツヤも衰えていない。乳が垂れてくることもない。

 

 その年にあったことはよく覚えている。英国にとって一番大きな出来事はEUの発足だろうか。

 EUの始まりはもう随分と以前のことのように語られる。昨今の金融危機の中で、様々な論者がEUのことを肯定的にも否定的にも語るが、内容はともかくとして、皆口を揃えてその年を懐古的に語らう。

 なるほど、人間たちにとっては1993年というのは斯くも昔なのだろう。金剛にはまるで昨日のことのように思える。なにせ、自分の外見はその年から何一つとして変わっていないのだから。

 これはすべての艦娘に言えることだった。素体としての適性が現れるのは、初潮を迎えた少女から二十歳頃までの若い女性。適性判定を受けた最高齢は二十二歳だそうだ。

 適性判定を受けた少女たちは、概ね一年か二年の訓練と教育を受けた後に本艤装を背負うことになる。つまり、その時点で少女たちの加齢は停止するので、必然的に艦娘には年若い(外見の)者しかいない。

 実年齢で言えば、当然最初の艦娘である金剛が最高齢になる。もし真っ当な人間としての人生を歩んでいれば、思春期の子供を持っていたかもしれないくらいの年齢だ。

 それはある意味、究極のアンチエイジングであった。これが永遠のものであるのか、また艦娘は老衰で死ぬのか、時間だけが教えてくれるだろう。

 しかし、現在においては艦娘は不老になる唯一の手段である。結果的にではあるが、人類は史上初めての「不老」というものを獲得したのだ。それは始皇帝が求めて止まず、エリザベート・バートリが渇望し、多くの人々を狂わせた魔法だった。

 まあ、金剛にはそんなもの、要らなかったのだが。

 

 

 

 しかしながら、この世に絶望し、破壊欲求と憎悪に囚われていた艦娘になる前の金剛が、結局味方に砲火を噴くことなく深海棲艦との戦いに身を投じていったのは、ある後輩の存在があったからだった。

 彼女は文字通り金剛の次に現れた適性者であり、政治的な都合により祖国を離れて日本に行くことになっていた金剛の代わりに(そもそも『金剛』という艦名は日本で就役するから与えられたものであった)、王立海軍にて初の艦娘となった。

 その後輩は金剛よりも歳が二つ下で、金剛が十九の時に出会った。彼女がバローにやって来たのだ。当時はまだ艦娘の技術というものがバローでしか扱えなかったのである。

 後輩はロンドンの出身だった。その頃には、彼女にはまだ人間としての名前があり(もちろん金剛にも)、とてもありきたりな名前だったように思う。あまりにもありきたり過ぎて、すぐにそれが偽名であることに気付けた程度に。

 彼女にはその辺りの妙な胡散臭さというものがあったけれど、人柄に至ってははっきり言って驚くくらい穏やかで誠実だった。彼女は誰をも愛することが出来る性格の持ち主で、故に誰からも愛される人で、金剛も例外なく出会ってからいくらもしない内に彼女と打ち解けるようになった。

 もちろん、当時の艦娘適性者というのは金剛と後輩しか居ないわけで、悩み事や苦痛を共有出来る相手というのも互いを除いて他にはなかった。打ち解けるのに時間は掛からないのも当たり前のことだろう。

 彼女はとても聞き上手なタイプで、元より饒舌な方の金剛は一方的にあらゆる話をした。多くは自分が楽しかった頃の学校生活などの経験談であり、彼女は積極的に口を挟んだりすることこそなかったものの、適度なタイミングで相槌を打ち、話の内容によって目まぐるしく表情を変えた。面白い話にはコロコロと笑い、自慢話には素直に羨ましそうな目をして、悲しいことには自分もそうであるかのように顔を曇らせた。

 希望もなく、厭世感に支配されていた当時の金剛には、彼女の登場は春の朝日のように暖かく明るいもののように思えた。自分と同じ立場にありながら、彼女は将来についていかほどにも絶望していなかった。眩しい程に輝いていた。

 きっと、彼女にはバローのすべてがキラキラと光って見えたのだろう。彼女はとても天真爛漫であった。それこそ、金剛が大嫌いだった宇宙服のような艤装服を指して、「未知の世界への探求を感じさせますね」と言うくらいには。

 艤装開発のスケジュールの都合上、金剛は毎日のほとんどの時間を後輩と一緒に過ごした。それは金剛の心を覆っていた氷を、彼女の暖かさが溶かすのには十分な時間であっただろう。

 少なからず、彼女の肯定的な物の見方が金剛の思考を前向きにした影響はある。気付けば心の奥底で燃えていた憎悪の火は灰の中で燻る程度になっていた。彼女と過ごす優しい時間が金剛の中から冷たいものを取り去って行ってしまったに違いなかった。

 

 時が経つにつれ、金剛と後輩の間の話題は仕事である艤装開発や艦娘のことから、お互いのプライベートへと変化していった。仕事の合間に与えられた細やかな休日も共有するようになり、仕事中だけでなくプライベートでも行動を共にした。造船所の敷地内で住み込みしながらの生活は軍隊よろしく管理されていたけれど、外出は割と鷹揚に許されていたので、休日の度に息苦しい工場の敷地から出ては羽を広げたものである。初めのうちはバローを知らない後輩を金剛が案内していたが、後にはバローを離れて遠出するようになって色々な場所に行った。

 不自由の対価なのか給料だけは良くて、口座には金が溜まっていたので外出の折に散々使い回った覚えがある。両親の職業を除けば所詮は庶民の娘でしかなかった金剛と比べ、後輩は本当に良質な物、高級な物を見抜く眼を持っていた。それ故か後輩は金遣いが荒く、しばしば一回の外出で結構な数のポンド紙幣をすってしまい、帰りの交通費を金剛が貸すこともままあった。彼女の場合、浪費癖があるというより、金銭感覚が庶民とはかけ離れていたからそうなってしまっていたように思う。反面、彼女が金剛に勧める物で、それが土産物であれ、美術品であれ、食べ物であれ、ハズレだったことがなかった。彼女は金剛の趣味趣向を把握した上で、良い物を勧めてくるのだ。

 後輩と小旅行に行くようになった頃には、金剛も彼女の出自が特別なものであることに薄々気付き始めていた。自分とは違う価値観や金銭感覚、確かな審美眼、そして何よりティーカップに伸ばす指の使い方ひとつにも感じる気品の良さ。彼女は間違いなくやんごとなき家の生まれだった。

 

 ところで、紅茶と言えば、金剛が紅茶をよく飲むようになったのも後輩の影響だった。文化的な背景もあって、元より紅茶を飲む機会は多かった金剛だか、特別に思い入れがあったわけではない。客人にはコーヒーではなく紅茶を出す程度である。

 だが、後輩は病的と言えるくらい紅茶を愛していて、頻繁に二人でティーセットをテーブルの上に広げていたものだ。紅茶の種類や入れ方、茶葉や茶器の選び方なんかも、全部その後輩から教わったものだ。

 彼女から紅茶についての諸々を教えられる内に、彼女が実家から持参したと言う茶器や、どこかから伝手で取り寄せる茶葉も、すべて庶民には手の届きようのない高級品であることが分かってきた。それもやはり、彼女の出自というものを示唆していたように思う。

 後輩ははっきりとは家のことを口にはしなかった。金剛と親しくなっても、彼女は決して実家の話をしようとはしなかったし、金剛も察して何も聞かなかった。ただ、やはり上品な彼女のことは造船所の中でも噂の種になったようで、いつだったか、彼女が王室に近い相当高貴な家系の出であると耳にしたことがあった。

 それが果たして真実かは分からない。金剛にとってはどうでも良いことであった。

 

 艦娘になるのに身分は関係ないのだろう。けれど、彼女は一度も艦娘のことを否定しなかったし、それどころかむしろ艦娘になれることを喜んでさえいた。ある時、彼女がふと漏らしたのが、「艦娘になれば人々を守れるようになるんです」という言葉で、そこに複雑な過去を垣間見た気がした。

 そして、金剛がそうしたように後輩もまた金剛にとって触れてほしくないところを察して、気を遣っていてくれた。彼女には、金剛が艦娘という存在を肯定的に見ていないし、心中に後ろ暗い思いを抱いているのも分かっていただろう。けれど彼女はその手の話題を避けて一切艦娘についてどう思っているかなどといった愚問は口にしなかったし、それどころか艦娘に関する話題すら仕事中以外で口にすることはなかった。互いに、どこか本音を隠して付き合っているという自覚はあった。

 しかし、本当に親しい者同士の間でもこうしたことは一種の礼儀として行われているものだし、金剛と後輩だけが特別な関係性を持っていたわけはなく、またそうあるべしと金剛自身は考えていた。金剛の勝手な思い込みではなく、間違いなく彼女とは唯一無二の関係だっただろうと思うのだ。例え本音を隠し合っていようとも、そんなことは微塵も意味を持たないことである。

 

 

 あの日まで、少なくとも金剛は彼女との関係をそう思っていた。二人はただの親友同士。そのはずだった。

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 二人の関係性が明確に変わったのは、本艤装の開発が完了し、各種動作試験も異常なく終了して、いよいよ金剛が戦艦娘「金剛」として祖国を旅立つ前日のことだった。その日は旅立ち前の慌ただしさから一旦は解放された一日となった。

 祖国で過ごす最後の一日の相手に選んだのは両親ではなく後輩だったのは当然のこと。いよいよ正真正銘本物の艦娘として完成した「金剛」には、もはや気を許せる相手は同じ境遇の後輩しかいなくなってしまったのだから。

 後輩もまた、金剛との別れを惜しんでいた。それでも気丈な彼女はいつものように振舞っていたけれど、輝きを霞ませる翳りのようなものがその身を覆っていたのは隠し切れていなかった。当然金剛も同じで、人の理を離れて“艦娘”となったことへの衝撃、政治に翻弄されて不自由を強いられることへの悔しさ、遠い異国の地で就役しなければならないという重圧、何より戦場で未知の敵と殺し合わなければならないという恐怖が、金剛の心に重石のように伸し掛かって、今にも潰れそうだった。

 せっかく分かり合える無二の相手と一緒になれたのに、また誰かの都合で引き離されることに、金剛の中で一度は消えかけていた怨嗟の炎が再び勢いを取り戻し始めていた。自分はきっとこの憎しみの感情から逃れられないだろうという、ある種の諦観も抱いて彼女との別れに耐えなければならないことに絶望していた。本艤装が完成してからあの日までのひと月ばかり試験に費やされた日々は、金剛の心を磨り減らすのに十分な時間だった。

 

 その日は確かに特別な一日だったが、始まりは波乱を予感させぬ平凡でありふれたものだった。もうだいぶ昔のことなので詳細はかなりあやふやなのだが、多分午前中はテレビ番組か何かを見ていたのだと思う。あるいは映画かもしれないし、実は劇場に足を運んでいたのかもしれない。覚えていないが、何を見ていたか、劇の題名は覚えている。

 「ペール・ギュント」だ。夢想家で嘘つきで女と金にだらしないロクデナシが故郷を追われ、色んな女を言葉巧みに誑かしつつ、騙したり騙されたりを繰り返し、財産を築いたり失ったりした後、故郷に帰るという話だ。波乱万丈と言えばその通りだが、原因の九割方はその男自身の言動や性格のせいなので、見ている間まったく主人公に共感出来なかった。それでも金剛がこの話を覚えているのは、故郷に置いてきた純真な娘が年老いても彼を待っていた、という救いがあったからかもしれない。それが、後に続く出来事を示しているように思えたからかもしれない。

 

 劇を見終わった後は後輩を町へ連れ出した。だが、金剛は行き先を決めておらず、適当にメインストリートをぶらついて軒を連ねるショーガラスを覗いては何も買わずに立ち去るという冷やかしを二人で繰り返していた。昼になって腹が減ったので、昼食の場所を相談して決めた。バローにある主だった外食店のことは、その時にはとうに網羅していたから、食べたい物を言い合えば自然といくつか店の候補が絞られて、その中から適当なところを選んだのだ。

 覚えている限り、その日のランチでは会話が弾まず、ひどく味気ないものだった。何を食べたかなんてもう思い出せないけれど、互いに口数少なく黙々と食べるだけだったのは確かに記憶にある。

 それから、ランチを食べ終わる頃になって、次にどこに行こうかという話になったはずだ。

 何にも決めずに出てきたから、どこにも行きたいところがなかった。そもそも、大体バローの町のことは知り尽くしていたのでわざわざ今更行きたいと思うようなところがなかったのだ。

 しばらく二人して悩んでいたように思う。結論が出ないまま店を後にした時、ふと後輩が漏らしたその一言は今でも耳に残っている。

 

「海を、見に行きたいです」

 

 その時金剛が返した言葉は確かこんなものだった。

 

「海ならいつでも見ているじゃない」

「ええ。でも、渚から海を見たいんです」

 

 彼女にしては珍しく頑なな響きを含んだ言い方だった。

 元々予定もなかったので金剛は後輩の要望通り、町はずれにある小さなビーチに向かう。

 そこはアイリッシュ海を南に臨むビーチで、湾を挟んで反対側にあるブラックプールの街並みが遠くに見える場所だった。夏場には保養に訪れる人でそれなりに賑わうが、金剛が日本に旅立ったのは秋の中頃であり、海水浴には適さない冷たい風が吹きすさぶ季節となっていたので寒い砂浜には金剛と後輩以外、人影はまったくなかった。その日も例によって冬かと思う風が冷たく吹き荒れていて、コートを持って来なかったことをひどく後悔した覚えがある。

 なんてことのない、よく見知った海だった。その場所は以前にも何度か訪れたことがあり、今更風景を見て感動するようなものでもないし、何故彼女がここに来たいと言ったのか分からなかった。

 二人で寄せては引く波の音に耳を預けて佇んでいた。海辺に立つには少々薄着だった金剛は早くその場を離れて暖房のよく効いたカフェでお茶でもしたかったけれど、生憎そうはならなかった。というのも、隣に並んでいたはずの後輩がおもむろに履いていたローファーとソックスを脱ぎ、裸足になって砂浜を駆け出したのだ。

 あっけにとられる金剛の前で、彼女は高価なスカートが砂と海水に汚れるのも気にせずにそのまま海へと突っ込んでいく。そして、派手な水飛沫を上げて波打ち際から数歩進んだところで立ち止まると、両足を肩幅に開いて背中を反らし、遠い海原へ雄叫びを上げ始めた。

 腹の底から力一杯絞り出した遠吠えのような声だった。ビーチの対岸の町どころか、そのずっと向こうにある大陸まで声を届かせんと、彼女は大きく息を吸い込んで何度も雄叫びを上げた。

 その時の自分の気持ちを、受けた衝撃を、金剛は未だにうまく言葉に出来ない。その出来事の後に理由は何となく察することは出来たけれど、とにかくその時金剛は本気で彼女の正気を疑った。

 よく考えれば、彼女は自分を抑圧するタイプで、金剛との別れというショックもあっていよいよ精神への負担が限界を超えてしまったのか、という可能性がまず頭に浮かんだ。普段の気品ある彼女からは到底想像出来ない意味不明な行動に、どう反応していいか分からなかった。唖然としてその場に立ち尽くす金剛を、気が済むまで叫び倒した彼女が振り返る。

 

 ――彼女は泣いていた。控えめに言ってとてつもない美女である彼女は、まるで生まれたての赤ん坊のように顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。美人は美しく泣くものだと言うけれど、多分それは嘘なのだろう。何せその時の彼女の泣き顔といえば、元の繊細な造形をまったく台無しにする不細工な泣きっ面だったからだ。

 彼女の泣き顔は立ちすくんでいた金剛の足を動かすのに十分な理由となった。慌てて駆け寄ると、彼女はためらうことなく金剛に身を預けて胸元に顔をうずめる。鼻水を垂らし、おんおんと声を上げながら泣く彼女の背中をしばらく撫でてあげなければならなかった。そうしてしばしの間波打ち際で抱き合っていると、やがて彼女は少し落ち着きを取り戻していきなり叫び出した理由を話してくれた。

 

「こうして海へ向かって叫べば、貴女は遠い東の果てからでも私の声を聞き取ってくれますか」

 

 彼女の声はひどくかすれていた。

 意味が分からないので、仕方なく金剛は彼女の名前を呼ぶ。それは彼女がホテルにチェックインするために必要とするだけの、記号のような偽名だったけれど、その頃の金剛にとっては後輩を指す唯一の名前であった。

 

「世界中の海は繋がっています。私の歌が偏西風に乗って貴女の耳にまで届くことを願います」

「便りを出すわ」

「いっぱい書いてください。私もいっぱい書いて送ります。でも、手紙だけでは寂しいんですよ。貴女の声が聞きたくなるでしょう。貴女の存在を感じたくなるでしょう。その時私はどうすればいいのでしょうか」

 

 彼女の言葉はひどく震えていた。小さな柱が一つ折れただけでも、全体が崩れ落ちてしまいそうな繊細な響きだった。そして、ようやく金剛は彼女がどうして奇行に出たのか、その理由を飲み込めた。彼女は気が狂ったのではなく、気が狂いそうなほどの寂寥感に苛まれているのであって、海に向かって叫んだのもそうした感情から心を開放しようとしたためだろう。結果は、ますます寂しさが溢れて涙を止められなくなってしまったのだが。

 そう思うと急に彼女が愛おしくなる。しかし愛おしくなる故に、もどかしくも目の前で傷付いている彼女をただ優しく慰めるしか出来ない。気の利いたことの一つでも言えたら良かったのにと、今でも後悔している。

 

「行かないでください」

「行かなければならないわ。大丈夫、いつかきっとまた会えるから」

「それはいつですか? いつまで私は貴女との再会を待ち侘びなければならないのですか?」

「……いつか、よ」

「なら、私も日本に行きます。貴女と一緒に極東戦線で戦います!」

「ダメよ。貴女は祖国の艦隊を率いなければならない」

 

 食い下がる彼女に金剛がそう言うと、ついに諦めたのか、体を離して一歩二歩下がる。うつむいたままの後輩を金剛はただ黙って見下ろしていた。向かい合う二人の足元を寄せては引く波が洗い、すっかり靴はびしょぬれになってしまう。しばらくは波の音が静寂を支配していて、合間に彼女の息遣いが聞こえるだけだった。

 

 こういう時にちゃんと言葉を掛けてやれない自分のことが本当に嫌いだった。この瞬間に何かを言っていれば、きっとその後の二人の関係はもっと良いものになっていたはずだ。

 けれども金剛が口を開く前に彼女は一つ深呼吸すると、つっかえていたものを絞り出すように続きを言う。

 

 

 

「せめて、笑っていてください。貴女の笑顔があれば、私はいつまでも頑張れます」

 

 

 彼女は顔を上げた。

 髪はほつれて跳ねているし、目元は赤く腫れあがって上唇には鼻水の跡が白く残っていたけれど、彼女はその顔で笑ったのだ。美人は美しく笑うものだとも言うけれど、やっぱりその通りだと実感する。

 

 

 あの時の彼女の顔は忘れられない。一生忘れない。

 

 

 灰色の海と霞んだ空を背景にして、記憶の中の彼女は金色に輝いている。地上に降り立った女神のように後光が差して、彼女はその中心にいる。

 

 

 

「愛しています。私は貴女を一人の人として、心の底から愛しています。だから必ず、帰って来て下さい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 それは金剛が受けた生涯で一度の、そして恐らくは最初で最後になる、真実の愛の告白だった。

 

 困惑がなかったと言えば嘘になる。彼女から堰を突き破って出た感情の洪水は金剛を飲み込み、激しく揺さぶった。

 動揺しなかったと言えばそんなはずがない。受け止め方なんて知らなかったし、突然のことで頭が真っ白になってしまったのだ。

 人生で後悔しない人などいない。誰だって自分の選択や行動、そして言葉に後悔しながら生きている。

 もちろん金剛だってそうだ。初恋の彼にクリスマスプレゼントを贈らなかったのも、辛い思いをしていただろう両親のことを少しも理解してあげようとしなかったことも。小さなことも大きなことも、数え切れない後悔を重ねながら今日まで生きてきた。

 だけど、そんなことよりももっと後悔していることがある。

 

 どうしてあの時の彼女の告白に誠実に答えてあげられなかったのだろう。悔やんでも悔やみきれない。思い出すと自己嫌悪がぶり返してきて気分が沈む。

 結局、金剛ははっきりした返事をしなかった。何せ、彼女からそんなふうに愛を告白されるなんて夢にも思っていなかったのだから。突然のことで混迷を極めた金剛は、愚かしいことにそのまま大切なその出来事を有耶無耶に流してしまった。

 自分と彼女の関係は気の置けない親友同士だったはずだ。先輩と後輩、年上と年下という形ではあったけれど、長年の付き合いがあるように親しかった、でもただの友達だったはずだ。

 けれども、彼女の方ではそうではなかった。親友同士と思っていたのは金剛で、彼女にとって金剛は恋の相手だったのだ。

 

 思い返せば、年頃の娘二人の組み合わせにしては彼女と交わした会話の中に色恋の話はなかったように思う。そんなものの一つや二つ、あるいは頻繁にしてもおかしくはないはずだけれど、不思議と恋話に花を咲かせることがなかった。金剛自身は人並みに誰かに恋したことがあって、一度や二度の苦い経験だってないこともない。あまり自ら話したいことではなかったから無意識的に避けていたのかもしれないが、彼女からその手の話題を振ってくることがまるでなかったから話さなかっただけに過ぎない。逆に、彼女と言えば容姿端麗の割に色恋沙汰には疎そうな“お嬢様”だったから、金剛からも話すことはなかったのだった。

 つまり、知る限り彼女にとって金剛はまさに「初恋の相手」というわけだ。

 

 初恋は実らないとよく言うけれど、告白を受けた当時の金剛にはそんなことを考える余裕はなかった。彼女が“イエス”とも“ノー”とも取れない曖昧な返事をどう受け取ったかは知らない。ひとつ言い訳をするなら、まさか彼女が本物の同性愛者だったとは思いも寄らず、混乱の極みに達してしまったのも致し方のないことだったのだ。

 ただ、考えてみればそれもさほど不思議なことではない。彼女がどういう環境で育ったのかあまり分からないが、文字通りの「箱入りのお嬢様」だったことは想像に難くない。華よ蝶よと育てられ、厳しい躾けや“相応しい教養”とやらを身に着けるためにピアノや乗馬を始めとした様々な稽古も受けさせられたらしい。当然、男に恋する暇など碌になかっただろう。女ばかりの環境で育てられ、いざ家から外に出られたと思えば、行先は片田舎の造船所。

 そこに居た年が近く、同じ境遇の先輩。知らない世界を知っていて、色々な所にも連れ回してくれて、密度の濃い時間を共有した。きっかけや時間といった条件は不足なく揃っている。同性にもかかわらず、恋に落ちてしまったとしても不思議ではないだろう。

 彼女が恋の話をしなかったのは、きっと怖かったからだ。自分が同性愛者だということはちゃんと理解していた。ただし、その恋が成就するには相手もそうでなければならない。

 だから金剛の恋話を聞くことで、金剛の好みを知ること、金剛が“自分とは違う”ことを知るのが恐ろしかったのだ。幸いにして、金剛のそれまでの人生において、自身の恋が実った経験はなかったから積極的にその手の話をしなかった。それは、きっと彼女を大いに安心させたに違いない。告白へ踏み出す勇気を醸成するくらいには。

 故に、最後の一日に彼女は打って出た。恐らくは彼女にとって一世一代の大博打だ。芯の強い彼女らしい、勇気ある真っ向勝負。

 金剛は彼女を称えるべきだった。最大限の敬意と礼節を以ってはっきりと断ってあげるべきだった。

 金剛は同性愛者ではなく、しかもいつ死ぬとも知れぬ身の艦娘である。そして、明日には遠い異国の地へと旅立つのだ。彼女を受け入れる余地などあるはずがなかったし、それは自明の事柄で、きっと彼女も分かっていたことだろう。

 離れ離れになって一緒には居られない。今までのように楽しい時間を共有することはもうない。それでも、ほんのわずかでも自分の気持ちに応えてくれれば。

 そんな風に思っていたのだろう。あわよくば、という考えもあったのかもしれない。すべては想像の域を出ないが、彼女は一縷の望みを掛けて愛を告白した。

 それで振られてしまったのならきっと彼女は新たな一歩を踏み出せたはずだ。今までのような親友関係に戻れはしないかもしれないけど、二人の気が合うのは確かなことなので大陸の西と東で離れてしまってもお互いの絆を信じ合える、そんな関係に深化出来ていたかもしれない。

 

 だが、金剛は答えをはぐらかした。はっきりとしたことを言わなかった。何と言ったのか、今となってはもう覚えていない。元より混乱の中にあって咄嗟に出した言葉だ。覚えていなくても仕方ない。

 けれど、その後に彼女が言ったことは覚えている。自分の記憶力の良さを疑うくらいに、はっきりと。

 彼女の微笑みとともに。

 

 

「ええ。待っています」

 

 ソルヴェイグのように。と、劇に出て来た娘に例えて彼女は言った。

 

 

「貴女が私を受け入れてくれるまで。戦争が終わって帰って来た時に私にキスしてくれるまで。ずっと、ずっと待っています」

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 その瞬間、二人の間に流れていた時間は止まった。まるで、誰かが懐中時計の針を止めてしまったように。

 未だに金剛はあの時の返事をしていない。戦争は終わる見込みがなく、敵は無尽蔵に沸き続けている。もちろん、祖国に帰れる目途も立っていない。

 今では日本語も随分と上達し、東洋の生活にもすっかり馴染んだ。知り合いもこっちに居る方が多い。はっきり言って、祖国に戻らずとも金剛はこの国で生きていける。

 艦娘という立場上なかなか恋愛は出来ないものだし、「金剛」という名を背負った以上、最早そういったことは諦めなければならないという覚悟はとっくの昔に出来ていて、今更思うこともない。例えば、今なら彼女から告白されてもちゃんと断れるだろう。

 

 後輩――今では「ウォースパイト」という艦名を名乗っている――とは、年に一回程度手紙のやり取りをするくらいだ。こちらから、あるいはあちらから手紙を出して、受け取った方が返事を出す。書く内容はその一年にあったこと。「お元気で何よりです」という半ば社交辞令と化した挨拶の延長上にあることばかり。

 互いにあの日のことは一切触れない。触れるとすれば金剛からだろうが、当の金剛がずっと煮え切らない態度だからから、結局告白は宙ぶらりんになったままだ。

 返事をしないのは、負い目のようなものがあって言い出しにくいからだ。毎年彼女に手紙を書く度に「今年こそは」と思うのだが、いざペンを握るとどうしてか思い切ったことが書けず、気付けば当たり障りのない手紙なっていて書き直すのも億劫でそのままポストに投げてしまう。今頃になって告白の返事をするのも変じゃないかとか、いつまで引き摺っているんだとか、いろいろと言い訳を作っては告白のことをフェードアウトさせようとする狡い自分が居る。

 そして、彼女からの手紙もそれ相応に当たり障りのないもので、向こうから返事を求めて来るものではない。けれど、読めば分かってしまうのだ。単語の節々に、ピリオドと頭文字の間に、文と文の隙間に。彼女が言葉を待っているということが。

 読む度に、金剛は自己嫌悪と後悔に陥り、後ろめたいところを糾弾されているような居心地の悪さを感じる。

 彼女との手紙のやり取りが年に一回という頻度なのも、到底頻繁にそうする気が起きなかったからで、しかし一方で彼女との関係を完全に断ち切ってしまうのも寂しい気がして、その二つの身勝手による妥協の産物だった。つくづく、自分は優柔不断な女だと思う。

 

 一方で、彼女は金剛の想像以上に忍耐強い性格だったようだ。執念深い、と言ってもいい。

 彼女と分かれてからの数年間は、その内彼女も諦めるだろうなんて考えたりもしたのだが、甘かったようだ。未だに健気に金剛の返事を待っているところを見るに、彼女は余程心の根が強いのだろう。そして、そういう彼女の健気さが分かるが故に金剛の中では罪悪感が強まっていき、ますます雁字搦めになってたったの一言が遠のいてゆくのだった。

 何もしないうちに時間だけが過ぎ去ってゆく。彼女は確かに我慢強いが、あの日の海辺で堪え切れない感情を海に向かって吐き出したように、いずれそこには限界が訪れる。その時にはいよいよ彼女の気が触れてしまうかもしれない。そうなってはもう取り返しがつかない。

 そう理解しつつも、しかしこうしてはっきりとしない関係性があの日以来二十年近く続いていた。

 

 不老とはいえ実年齢で言えば二人ともとうに三十代に入っており、一の位を四捨五入すれば知りたくもない月日の流れを思い知ることになる歳だ。あと何年戦争が続くのかは分からないし、何年生きられるかさえ知れない。

 彼女の歌が聞こえたことは二十年経っても一度もなかったし、聞きに行くこともなかった。でもきっと、彼女のことだから窓辺に座って東を見ながら好きな歌を口ずさんでいるに違いない。手紙にはそんなこと書かれていないし、示唆するような記述も見受けられなかったが、間違いなくそうだという確信はある。歌の中には金剛の知っている歌も、知らない歌もあるだろう。賢いのに、歌声が届くはずなんてないと分かっているのに、彼女は極東へと続く空に歌声を飛ばすのだ。ペール・ギュントを待ち続けたソルヴェイグのように。

 

 それが分かっていて、果たして金剛は死ぬまでに彼女に返事が出来るだろうか。いやあるいは。

 

 二人のようにまた会うことが出来るだろうか。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 レミリアがいきなり思い出話をし始めるので、それに刺激されてか金剛も随分と昔のことを思い出していた。

 紅茶はすっかり温くなってしまっている。今日はレミリアが淹れた紅茶だ。正直言って彼女のことは好きではないが、淹れる紅茶の味は抜群だった。どこか、後輩が淹れていた紅茶の味に通じるものがあって、いつの間にやらレミリアとの茶会はお気に入りの時間となっている。

 茶会ではほとんどレミリア一人が喋りっぱなしで、金剛は黙って聞いていることが多い。あまり気の合わない相手であるし、元来の性格から気の合わない相手と話を弾ませるタイプではないからだ。もっとも、レミリアはそれについては何も言わず、見た目の割に長々と話を続けるのが常だった。

 

「バローと言えば」思い出話にも区切りがついたところで、少女はついでのように切り出した。

 

「最初の艦娘が生まれたところよね」

「Yes. ウォースパイトですね」

 

 世間的にはそういうことになっている。世界最初の艦娘が、英国の政治的な敗北によって他国に渡さなければならなかったというのは、彼らの面子に大いに関わることらしかった。人間というのはいつもくだらないことに気を払って、しょうもない嘘をつくものだ。

 お陰で、ウォースパイトは今や深海棲艦対抗戦力の象徴。人類の英雄である。

 

 “世界最初”ということ、実際の海戦での華々しい活躍、気品ある佇まいとそこらの女優やモデルでは太刀打ち出来ないような端麗な容姿。これだけ要件がそろえば、彼女が世界にその名を轟かせるくらいの有名人になるのに苦労はなかったろう。彼女は実質的に世界的な艦娘の代表であり、英国国防省(MOD)内で絶大な権勢を振るう重鎮でもあり、しばしば国連海軍のスポークスマン的役割を担って発言を求められたりもする。“日本初”の艦娘とはいえ、所詮は一介の兵卒でしかない金剛とは雲泥の差だ。

 別に有名になりたいという顕示欲があるわけではない。ただ、彼女に告白の返事をしないのは、あまりにも自分とは違い過ぎる立ち位置の差というのも影響しているのは確かだった。あれ程の傑物の愛を蹴ってしまうのは恐れ多いのである。

 

「ウォースパイト、ね」

 

 レミリアは持っていたティーカップをソーサーの上に戻しながら呟いた。中の紅茶は一滴も残っていない。

 

「貴女の、『後輩』だったと聞いたのだけど」

 

 金剛は自分のティーカップを見下ろす。こちらにも紅茶は入っていない。恐らくポットも空だろう。

 

「彼女はバローの生まれじゃない。それは貴女」

 

 二人が向かい合う間のテーブルの真ん中には、バスケットに山盛りにされたクッキーがある。レミリアはほっそりとした指をそこに伸ばすと、鳥の羽を摘まむように一枚取って口に運んだ。

 

「よくぞご存知で。ええ、その通りデス」

 

 侮れない相手である。レミリアがどこから情報を仕入れて来るのか、とんと分からないのだが、時に信じられないようなことを知っているのだ。金剛とウォースパイトの関係も、本来彼女の階級であれば知るに及ばない情報のはずだ。それどころか、日本の中で知っている者は片手の指で数え足りるくらいしかいない。

 ただ、金剛にとっては特に隠す必要性のない情報。あっさりと認める。

 

「ふーん」

「何カ?」

「いーえ、別に。ただ、私の目の前に“海の女神”の先輩が居るんだなと思って」

 

 レミリアは両肘をテーブルに立てて手を重ね合わせ、その上に顎を乗せた。上目遣いで見つめる目元が楽しげな皺を作っている。

 

 

 気に食わない。本当に、気に食わない女だ。

 何でも見透かしていると言わんばかりの視線。こまっしゃくれた表情。見た目不相応に余裕のある言葉遣い。

 子供そのものの顔のくせに、金剛より遥か年上のごとく振舞う。いや、実際そうなのだろう。だから、尚のこと気に食わないのだ。

 

 金剛は知っている。彼女の正体を。彼女の謂れを。

 そして彼女もまた、「金剛がそのことを知っている」という事実を知っているだろう。

 

 

「それがドウシマシタ?」

「素敵な後輩を持っていて羨ましいわ」

「自慢の後輩なんデスヨ」

「ええ。しかもあれで浮いた話の一つもない。血統に恥じない淑女。手籠めにしたら、どんな声で鳴いてくれるのかしらね」

 

 さらりと投げられた挑発にこめかみがはち切れそうなくらい脈打つ。視界が白っぽくなる。

 誘いに乗ってはいけないと、理性が怒りを必死で宥めた。

 もちろん、言葉程度で感情的になるほど子供ではない。自分の余裕を見せつけるためにあえて金剛は笑みを浮かべ、

 

 

 

「ウサギのように静かですワ」

 

 と言ってやる。

 

 やっぱりこの女は気に食わない。いずれ、そう遠くないうちに対決する時が来るだろう。

 予感ではなく確信があった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督26 Pivot

 

 極東の島国は、比較的気候の安定している大陸西部とは打って変わって、夏は暑く冬は寒い、レミリアには少々苦手な気候の場所である。ずっと春のような心地良い天気が続けばいいと思うのに、夏暑い日は暴力的な直射日光が地表を熱し、冬寒い日は体の芯まで凍り付くほど気温が下がる。特に真冬の今日はひと際冷え込んでいて家から一歩でも出る気力が湧かない。こういう日は、日がな一日中、暖炉の傍で薪の弾ける音を聞きながら怠惰を貪るのが良い。

 

 ベッドの上で寝転がりながら好物のクッキーをかじっていたら、メイドがひどく胡乱な目を無言のまま向けてきて非常に居心地が悪かったので、仕方なく安楽椅子に腰掛けて「お上品に」読書することにした。読書の時に手にする本は大抵が家の図書室から持ち出して来たもので、気の置けない親友はレミリアが勝手に蔵書を借りていっても、白黒魔法使いを相手にした時のように、不快そうに眉間に小皺を立てたりしない。だから、暇な時はせっかく家にある無尽蔵な知識の宝庫を少しばかり活用してやろうと気を利かせて読んでやるのだ。第一、借りた本はすぐに返す。

 今日の読み物は、財政学の本だった。あの活字中毒の魔女はとにかくあらゆるジャンルの本を図書館に溜め込んでいるらしく、知りたいことは大体あそこで調べられた。

 好きな物に金を掛けることを躊躇しないレミリアは、しばしば金遣いが荒いと指摘を受けることがあって、その自覚もしている。紅魔館の家計簿をつけているのはメイドなので、基本的に金のことは全部彼女に任せているのだが、最近は特に酷くなったのか、収支が赤字に偏り過ぎているので自重するようにと、忠告を受ける始末だった。実際財布の口が狭まっている。主人がこれではいけないと反省して、少しばかり勉強をしているのである。

 情けないお天道様とは違い、暖かな暖炉の火は優しかった。最近は「昼行性蝙蝠」と揶揄されるような昼夜逆転生活――昼に起きて夜に寝る――を送っていたから、昼間はあんまり眠くならない。といっても日光が苦手なのは相変わらずなので、散歩よりこうして家の中で一日中活字の世界に没入していた。そもそも、冬は寒くて外に出る気がしない。温かい自室の中でぬくぬくと暇を潰しているくらいが丁度よい。そして、レミリアがそういう生活をしているせいか、すっかり怠け癖がついてしまった近頃寝食を共にしている小さな妖精は、現在椅子の傍の足高テーブルの上で、わざわざこしらえてやった専用のミニ布団を被ってぐっすりである。

 

 彼(なのか彼女なのか。見た目は男性個体ぽいが基本的に彼らに性別はないと言われている)は妖精と言っても、ここ幻想郷に元より暮らしている妖精とは違った存在で、外の世界の艦娘が扱う艤装の妖精である。幻想郷の妖精が自然現象の擬人化であるように、艤装の妖精は艤装の擬人化だと言えるだろうか。

 彼は自分そのものである小さな飛行機に乗って、レミリアの手元に飛んで来たのだ。一つの手紙を携えて。

 以来、レミリアはずっとこの妖精(と飛行機)を傍に置いている。

 

 本来は攻撃隊に先んじて敵の目前まで進み、その情勢を偵察して情報を持って帰る勇敢な役目を追う妖精だ。しかしながら、平和で平穏な幻想郷には偵察するべき敵などおらず、そもそも飛行機を飛ばす燃料すらないので、彼はずっとこの紅魔館の中で食っちゃ寝を繰り返していた。最近は手に乗せると以前より少しばかり重みを感じるのだが、気のせいだろうか。

 いずれの話だが、この妖精は本来の主人の下に返してやらねばならない。土壇場で、手紙と言えないような紙切れを飛ばして来たあの艦娘に。

 しかしテーブルの上に寝かせたままにしておくのは良くないかもしれない。ここには三時になると紅茶を置くし、そういう場所に布団を敷かせているとメイドがいい顔をしないのだ。それどころか、最近のメイドはしばしばレミリアに対して小言を言うようになっていた。今まで以上に家の中でだらけているからだろうか。彼女がレミリアの私室を掃除する時に部屋に残っていると、露骨に「邪魔だ」という視線を向けてくるのですごすごと図書室に退避しなければならなくなったりと、何だか扱いがぞんざいになっている気がする。

 レミリアは読んでいたページにしおりを挟むと、気持ち良さそうに寝ている妖精を起こさぬよう両手の指で器用に布団ごと彼女をすくい、そのままゆっくりと書斎机に移動させた。書斎机は普段使いの足高テーブルと違い、ごくたまに何か仕事がある時に作業するための物で、日頃はちょっとした物置と化していた。現に今も図書室から借りてきて読み終わった本が雑然と積み上げられている。

 これらの本も返さなければならないと思いつつ、まだ返却していなかった。レミリアとの仲だから魔女が未返却の本について何かを言って来ることはない。むしろ、最近積極的に利用していることに対して彼女は傍目に見ても気を良くしている様子だ。

 とにかく、レミリアにしては珍しく、色んな本を読み漁っている。蔵書には困らないし、膨大な活字資源の有効活用でもある。積み重ねられた本の背表紙を見ても、「魔法使いの医療」「癌に対する魔術的アプローチ」「魔法薬調合法」「賢者の石の作成と活用について」「吸血鬼研究史」「スラヴ吸血鬼伝説考」「クジラと狂犬病」「ポルフィリン症の基礎」「幻の動物とその生息地」などなど、実に統一性も脈絡もない。概して難解な学術書の類ばかりであるというのが共通点と言えようか。いくつか外の世界の本も混じっているようだ。

 

 しばしの間重ねられた本を眺めているとコンコンとドアがノックされた。

 返事をすると、一つしかない入口のドアがゆっくりと開かれ、案の定メイドが姿を見せる。

 

「お客様です。お目通しされますか」

 

 慇懃な調子でメイドが問うので、レミリアは「私が呼んだのよ」と頷いた。

 見る限り、メイドは一人で来客の姿など彼女の背後にはなかったのだが、そこはさすがに不可思議が当たり前に存在する幻想郷。次の瞬間にはメイドが立っていた場所に入れ替わりのようにその客人が現れる。

 

「あ、あれ?」

 

 幻想郷にやって来てまだ数年しか経っていない客人は、突然自分の周りの景色が変わったことに目を丸くしていた。これがメイドの「能力」で、彼女は時間を止めることが出来るのだ。今も時を止めて、どこかで待たせていた客人をレミリアの部屋まで運んで来て、さっさと自分は仕事に戻ったに違いない。まあ、お茶くらいはすぐに持ってくるだろう。

 

「よく来たわね。さあ、座って。座って」

 

 レミリアは書斎机の前から離れて客人を迎える。足高テーブルの周りには来客用にもう一つ椅子があるので、それを勧めた。

 

「ありがとうございます」

 

 客人は丁寧に礼を言ってゆっくりと差し出された椅子に腰掛ける。どこぞの巫女とは違い、似たような肩書を持っていながら彼女の態度は礼節を弁えている。きちんと躾されてきたのだろう。

 

 彼女の名前は東風谷早苗。幻想郷にある二つの神社の内、新しい方に居る巫女だ。もっとも、新しいと言っても由緒を辿れば博麗より余程古いと思われるが。

 正確には風祝という名称らしく、(当人ら曰く)厳密には巫女とは違う聖職者らしい。だが、西洋文化圏から来たレミリアにはその違いというのが説明されてもよく分からなかった。仕える相手がはっきりしているかいないかの違いだろうか。どちらも脇を出しているのには変わりない。

 

 

 閑話休題。

 早苗が座って一息つくともう二人の間の足高テーブルにはティーセットが一通り広げられていた。風祝は特に驚いた様子を見せない。先程は自分の場所移動に驚いていたようだが、同じ能力を使って突然出現した(ように見える)ティーセットには特別な反応をしない。

 レミリアが不思議に思ってそのことを指摘すると、「見慣れちゃいました」という答えが返って来た。

 

「レミリアさんがいらっしゃらない間、よく咲夜さんに誘われてお茶をしてたんです。あの人、いつも能力で用意を全部済ませちゃうからもう驚かなくなって」

「へえ。あの子も随分と社交的になったものね」

「あ。ヒドイですね。咲夜さん、話し上手聞き上手なんですよ」

「研ぎ澄まされたナイフみたいな性格だったんだけどね」

「優しい人だと思いますけど」

 

 と、なかなか早苗からの評価が良いメイドである。

 どうやら結構な頻度で茶会を開いていたらしい。当然、早苗だけでなく年の近い白黒魔法使いやらもう一人の巫女やらも誘われていただろう。最近何度か館の門前でその巫女がうろついているのを見掛けたが、あれはそういうわけだったようだ。

 レミリアの知り得る限り、咲夜は紅茶と茶菓子の腕前においては右に並ぶ者が居ないほど卓越している。少なくとも紅茶に関しては本場出身のレミリアにも一家言あるのだが、メイドにはまったく敵わない。当然、同世代の少女たちの胃袋をがっちりと掴むのは造作も無いことだろう。実際その先例としてレミリアがあり、つまるところ彼女を家に置いているのは、その家事能力の高さもさながら、茶と菓子の腕前が第一の理由である。

 

 それにしても、とレミリアは首を傾げたくなった。主人が留守にしているのをいいことにメイドは友人と茶会を楽しんでいたらしい。別にそれについて文句を言うつもりはない。咲夜も年頃の娘なので友人と過ごす時間を長くしたいと思うのは当然のことだろうし、彼女の交友関係が紅魔館の外に広がっていくのは育ての親でもあるレミリアにとっても歓迎するべきことだ。

 ただ、問題はその頻度である。早苗の口調からはそれなりの回数を繰り返していたようだった。

 正直なところを言うと、紅魔館は豪奢な建物だが、外箱とは裏腹にあまり裕福ではないのが実情だ。いや、裕福ではなくなったと言うのが正しいだろう。原因は言うまでもなく主人の奢侈過剰による赤字である。基本的に家のことは何もしないレミリアが家計などというものに目を向けざるを得なくなるくらいの状況ということだ。

 だから、部下たるメイドが高頻度で茶会を開いているというのは矛盾する話ではある。とは言え、レミリアが生きていく上で不可欠な菓子と紅茶の材料については、有能なメイド兼秘書である咲夜が格安ルートをしっかりと確保しているらしいので、茶会程度なら問題ないと彼女は判断したのかもしれない。

 結局、その程度なら目くじらを立てるほどのことではないなと考え直して、レミリアはメイドのちょっとした“遊び”には目を瞑ることにした。

 

 そんなことを考えている内に、早苗が褒め称えたからか、いつの間にやら彼女の眼前に一切れのチーズタルトが置かれていた。これは咲夜の得意料理の一つで、誰もが垂涎する絶品である。一方、主人に出された菓子は簡単なブリオッシュだけだった。この差は何なのだろう?

 

「まあ、いいわ」

 

 やたら手厳しいメイドの対応に失意を覚えつつも、レミリアはせっかく招いた客人の相手を再開する。

 

「そうそう。ご用事は何でしたか?」

 

 美味そうにチーズタルトを頬張りながら、早苗も尋ねてきた。一口くらい分けてほしいと思ったけれど、彼女がそうしない理由は目の前に同じチーズタルトが置かれているのに気付いたことで分かった。

 

「別に、そんなに大したことじゃないんだけどね」

「ふむふむ」

「私が居ない間、こっちに来たのが居たでしょ?」

「あ! あの人ですね」

 

 早苗はすぐに何のことか察したようだ。「艦娘の、えっと……」

 

「赤城」

「そうです! いきなり本物の艦娘さんが来られてびっくりしちゃいましたよ。あれ、何ででしょう?」

「偶然ね。どうも糸が繋がったのかもしれない。咲夜がすぐに帰したんでしょ?」

「はい。あんまりにも急だったのでお話全然出来なかったんですけど」

 

 ティーカップを持ち上げながら早苗は残念そうに首を振る。赤城と話せなかったのを今でも残念がっている様子だ。

 最近(と言っても数年前だが)幻想郷にやって来た彼女は、当然海を知っているし艦娘や深海棲艦のことも分かっている。外の世界において彼女たちの存在を知らない人間は居ない。もっとも、内陸部に住んでいたという早苗には、艦娘を生で見る機会などなかったようで、赤城と出会えたことに感動しているようだった。

 実際会ってみれば分かるが、艦娘と言えどそこらの人間とさして変わらない。ただ彼女たちは不思議な機械を操作出来て、年を取らないだけだ。デスクワークに勤しむ赤城など優秀な秘書そのもので、どこかの企業や公官庁でスーツを着て働いていてもまったく違和感がないだろう。海に出て敵と相対している姿を見なければ、彼女たちを艦娘と実感することは少ないかもしれない。

 

 ところで、人と似ているようで少し人と違う存在と言えば、目の前の神職もそうだ。

 一般には彼女は人間だと思われているが、厳密には純然たる人間ではない。普段は見てくれも言動や振る舞いもまったく思春期の人間の少女そのものである早苗でも、レミリアのような者が見れば差異は一目瞭然だ。

 彼女は現人神と呼ばれる存在で、言葉を変えて言えば「半人半神」。彼女は守矢神社の二柱の神に仕える風祝であると同時に、自身も同様に信仰を受ける三柱目の神でもある。その神格は八坂や洩矢に比べればずっと低いが、それでも神は神。力は本物だ。

 では、そのような本物の神から見て、“あれ”はどういう風に目に映ったのだろう。

 

「ねえ、東風谷。貴女、赤城を見てどう思った?」

「どう、ですか」

 

 早苗は一口啜ったティーカップをソーサーの上に戻す。

 レミリアはあえて漠然とした言葉で問いを投げ掛けた。早苗がどう答えるか見てみたかったのである。

 それに対して、早苗は意図を察しようとしているのか、しばし黙り込んで考えた。もっとも、その間も手は止まることなく、小さなフォークで小さくチーズタルトを小分けに切り分けていた。

 

「そうですね」

 

 彼女は一口サイズにチーズタルトを分解したところで、ようやく手を止めて問い掛けの答えを述べる。

 

「この人、神を信じてくれなさそうだなって思いました」

 

 考え込んだ割にはあっさりとした答えである。「でも、勧誘したんでしょ?」と返してみると、風祝は頷いた。

 

「第一印象で信仰に興味を持ってくれそうな人かそうじゃないかっていうのは大体分かるようになりました。けれど、どんな人でも一度は勧誘するようにしています。例え入信してくれなくても、神社に参拝に来られる方の全員が信者というわけではありませんし、守矢神社のことを知ってもらうという意味では大事なことだと思います」

「へえ。赤城は信仰してくれなさそうだったと」

「ええ。それは霊夢さんにも分かったと思いますよ。だから、やる気なさそうだったし。あ、それはいつものことか」

「いつものことでしょう。それでチラシを渡すだけにしたのね」

「いえいえ。それは単純にお守りを手持ちしていなかっただけです。ただ、あれで守矢神社と赤城さんとの間に『縁』が出来ました。それがどう転ぶか、どう化けるか分かりませんけど、こうやって地道に種を蒔いていくのも私の仕事ですから」

「なるほどね」

 

 年端もいかない娘、などと軽んじて良い相手ではない。早苗は同年代の少女たちどころか、大人と比べても遜色ないしっかりとした考えの持ち主であるようだった。二十歳にも満たない娘が、「種を蒔く」仕事の意義をちゃんと理解しているのだ。すぐに結果に繋がらなくても、続けていくことに意味があるのだというのをよく承知している。これは全く以って教育の賜物だろう。

 その点で言えば、咲夜は早苗に少し負けているのかもしれない。メイドにはまだ目先の結果を追い求めすぎる未熟さがある。掃除を丁寧にすればより館は綺麗になるし、料理では下準備を整えればより美味しい物が出来上がる。彼女の仕事の性質を考えればそういう傾向を持つのも致し方のないことだとは思うが、こうして差を見せられると何となく悔しいのは何故だろうか。

 

 

 閑話休題。

 レミリアは思った以上に早苗が良い話し相手であると分かったことに気をよくする。聡明で礼儀正しい彼女のようなタイプは幻想郷では珍しい。

 

「『縁』か。私には少し難しい言葉だわ」

「漠然としていますもんね。はっきり言い表そうと思っても中々上手に説明出来ないですし、それどころか説明しようとすればするほどどんどんあやふやになっていく気がする不思議な言葉です。噛み砕こうとしても霞を食べているような、そんな感じ。だから、そうですね、大雑把に言えば『繋がり』と訳せるんでしょうか。そんな、はっきりした物じゃないですけど」

「あるいは『運命的』な関係」

「『運命』ですか。それも難しい言葉です。同じじゃないかもしれないけど、近いところではあると思いますよ」

「確かにそうね。まあ、要は赤城と守矢の間には『運命』的な、『縁』のような繋がりが出来た。貴女はそれを作った」

「そうなりますね」

 

 早苗はチーズタルトを会話の合間に食べていたので、あっという間にそのお菓子は皿から消えてしまった。

 レミリアも出されたチーズタルトを突付き始めた。あまり長いこと放置していると酸化して風味が落ちてしまう。この手の日持ちしない食べ物は出来立てが一番美味い。

 一切れを口に運ぶと、とろけるような食感と共に優しい甘さが広がる。顔を綻ばせるには十分で、かといって無意味に強調し過ぎない程度には控えめな甘さ。余程入念に味を計算しなければこんな菓子は作り得ない。これが外の世界の菓子職人の手によるものなら、レミリアは本心から絶賛していただろう。

甘い菓子は癒やしだ。

 どこに居ても、何をしていても、これが食べられるというならレミリアは何でも乗り越えられる。

 

 

 

「聞くところによれば」

 

 三切れ程食べてから、レミリアはまた早苗に問い掛けた。

 

「貴女たちは幻想郷に移転するにあたって、外の世界にあった元々の神社を燃やしたそうね」

「ご存知でしたか」

 

 早苗は特に憚る様子もなく頷いた。

 建物への放火は、外の世界ではもちろんのこと、幻想郷においても基本的には大罪である。ましてや火を着けたのが神を祭る社殿とあれば、祟りがあってもおかしくはない。だが、目の前の神職は悪びれた風もなく、香ばしい液体を丁寧に啜っているだけだ。

 

「あれは、神奈子様の指示だったんですけど。

幻想郷への移転の手筈がすべて整った後、最後の仕上げとして、私は神社に火を放ちました。拝殿、幣殿、神楽殿、勅使殿、廊下、神馬舎、手水所、灯篭、御柱……。とにかく木造で燃える物は全部燃やしました。残したのは社務所と燃やせなかった鳥居くらいです。後は、森林火災に繋がらないように、鎮守の森は結界で守りましたけど。

ただ、これで、外にあった守矢神社は全焼してしまいました。それこそ、神社があったと分からないくらい徹底的に焼き尽くして、もう復興出来ないくらいになりました。

でも、これは必要なことだったんです。守矢神社という存在が外の世界と決別し、幻想郷に来るために私たちは人々に『もう守矢はなくなってしまったんだ』と思わせなければならなかったんです。

幻想の存在が幻想郷に引き込まれるためには、外の世界で忘れられること、幻想であると認定されることが条件だと言います。ならば、燃やされた神社は、そこにあった信仰が社殿もろとも灰燼に帰したことで、誰の目にも見えて手に触れられる建物がなくなることで、誰もが守矢神社が永久に失われたのだと考えることで、ようやく外の世界から切り離された『幻想』になることが出来たと言えるのです。今はひょっとしたら新しい社殿が建て直されているかもしれませんが、そこにあるのはあくまで守矢神社の“レプリカ”のような、空っぽの入れ物でしかありません」

「それはそうかもしれないけど、自分の神社を燃やせと言うのはすごいわね。実行する貴女も大概だけど」

「いえいえ。びっくりしたんですよ? この場だからぶっちゃけて言えますけど、正直初めて聞いた時は神奈子様の正気を疑いました。だって神社ですよ? 千年単位で信仰されてきた聖域ですよ? そこに火を着けて燃やし尽くせって、普通の考えじゃないですよ」

「それを思い付ける辺りが、さすが神話時代の生き証人と言うわけか」

「神奈子様の仰ることなら間違いはないと、思い切ってやりました。実際、それで正しかったですし。けど……」

 

 それまで饒舌に話していた早苗は、ふと何かに詰まったように言葉を切って虚空を見上げる。

 ほんの一瞬のことだったけれど、彼女の瞳にはどこか遠い景色が映ったのだろう。近く、そしてはるか遠い郷里か。残してきた親御や旧友たちか。

 

「寂しいんですよね。神奈子様のやり方を批判するわけじゃないですけど、外の世界との繋がりを、『縁』を無理矢理にもぶった切ってやって来たようなものですから。もう自分があそこに戻ることはないって思うと、ちょっと、寂しいような気がして。

ああして赤城さんを勧誘して、チラシを渡して、ほんの気休めかもしれないけど、外との『縁』を作り直そうとしたのは、寂しさがあったから、というのもあります」

 

 幻想郷に導かれるには二つの方法がある。受動的か能動的か。外の世界から忘れ去られるという状況を甘受することで幻想へと至るか、あるいは自ら外の世界との繋がりを絶って宙に浮き、幻想郷に引き込まれるか。その二つだ。

 前者は「忘却」という哀しみを、後者は「決別」という哀しみを、背負うことを避けられない。そうした者たちを幻想郷はすべて受け入れる。なるほど、とても残酷なことだろう。

 

 あるいは、だからこそ幻想郷の住人たちは楽しく生きようとしているのかもしれない。大きな哀しみを背負ってきたからこそ、最後の楽園で哀しむことなく日々の享楽に耽るのだろう。この、何時までも続く余生を精一杯楽しもうとする。

 何しろここには楽しい連中がたくさん居る。レミリアの周りを見回しても、ぐーたらな巫女や、はちゃめちゃな魔法使い。スカした人形遣いに、底抜けに明るい目の前の風祝。弄る方のウサギと弄られる方のウサギに、殺し合うほど仲睦まじい不死人たち。死んでいるのに大喰らいな亡霊といつも振り回されてばかりの従者。神出鬼没の隙間妖怪にパパラッチの烏天狗。

 どいつもこいつも、見ていても話していても楽しい相手ばかりだ。毎夜毎夜、酒を飲んでは騒いで食べて。時折誰かが異変を起こしたら、巫女や魔法使いが右へ左へ行き交うのを笑い、トトカルチョの嵐が巻き起こり、それが終わればまた徹夜で宴会。考えることも馬鹿馬鹿しくなるくらい楽しい日常が、この永遠の楽園にはあった。

 

 忘れ去られた哀しみがあるからこそ、そうした日々はますます色鮮やかに、キラキラと光を帯びて輝いていくのだ。それをレミリアはとても尊いものだと思っている。

 もう、この楽園から離れるつもりはなかった。もちろん、幻想郷を出たらどこにも行く当てがないのは確かだが、そんな消極的な理由ではなく、ここが好きだからこそレミリアは死ぬまで幻想郷で暮らしていくつもりだ。もしこの箱庭を壊そうとする不届きな輩が現れたとしたら、レミリアは己の全てを以ってそいつを叩きのめす所存である。

 

 それは同時に今まで自分が五百年過ごしてきた世界との永遠の決別を意味する。守矢の風祝のように感傷を抱くかどうかなんて分からなかった。少なくとも、今自分は寂しいとは思っていない。

 

 

「それで、その『縁』が上手く結ばれる見込みはありそう?」

「分かりません。あまり期待はしていません。さっきも言った通り赤城さんはあまり神を信じるタイプには見えなかったので。

だけど、もしあれが実を結べば、私たちは新たな力を得られるはずです。私の目的はあくまで布教。神奈子様や諏訪子様への信仰を獲得していくことにあります。その範囲は何も幻想郷に留まりません」

「でも、貴女たちは外で信仰を得られないからこっちに来たわけでしょう?」

 

 レミリアが問い返すと、お菓子も紅茶も食べ終わった早苗は静かにフォークを置いてから頷いた。従者の“作品”をじっくりと味わっている主人の手元にはまだ両方が残っている。

 

「はい。外では誰も神を信じなくなったから、神奈子様と諏訪子様は幻想郷への移住を決意されました。それはその通りです。

ですが、だからといって外の住人に対して布教しても無駄だということにはなりませんよね? それをお二方に止められたわけでもありませんし。

何より、赤城さんはこの紅魔館に来られました。この幻想郷に。忘れ去られた楽園に。

直接その目で見て、空気を肌で感じて、巫女や魔法使いと喋って、しかも魔法で出来たお星まで食べたんですよ! あの時、幻想は確かに赤城さんの目の前で否定しようのない現実として存在していたんです。信じるとか信じないとか以前に、紛れもなくそこに在って、手で触れられたわけです。守矢神社も、魔法の星も、“時間を操る程度の能力”も、実体として赤城さんに迫って来たはず。赤城さんがどんな人間性を持った方であろうと、それを否定するなんて出来るわけがないんです!」

 

 食べ終わったからか、早苗はいたく熱が入った様子で力説した。

 確かに赤城は幻想郷に来て、幻想を目の当たりにし、そこから紙切れ一枚を持って帰って来た。たかが紙切れ一枚、されど紙切れ一枚。早苗の狙い通り、「縁」が出来たからこそ起こったことだろう。

 赤城が幻想郷に飛んだのは、恐らく本当に偶然だ。どこかの気まぐれな妖怪の賢者がちょっかいを出した可能性がないとも言い切れないが、そうする理由も意味も考えられないので、やはりただの偶然と思われる。だが、偶然と言えど何もないところで突然起きるわけではないし、ならば赤城が幻想郷に来たのはそれ以前からレミリアという「縁」が結ばれていたからに他ならない。早苗がチラシを渡したことは、彼女と幻想郷との「縁」をより強固にする方向に働いたと見るのが正しいだろう。

 

「幻想郷自体が外との繋がりなくして成り立たないじゃないですか。

例えば、ここは内陸だから住人たちが、人間にしろ妖怪にしろ、自力で塩を生産することは出来ません。けれど、塩を摂らなければ人間は死んでしまいます。そして、人間が居なくなれば、妖怪たちも存在し続けられませんし、人間も妖怪も居なくなれば幻想郷は崩壊します。

そもそも、幻想郷自体が外の世界と“区切り”があることによって成り立っているわけじゃないですか。外の世界と分けられることによって幻想郷は存在することが出来ているとも言えるのです。

だからもう外との関係を完全に断ち切るなんていうのは不可能ですし、それどころかむしろ依存していると言ってもいいでしょう。そこにはもう切っても切れない『縁』が結ばれているわけです。

だったら、入って来るばかりじゃなくて少しばかりこちらから外へ向けて『縁』を結ぼうと働き掛けてもいいんじゃないですか。

その意味では、赤城さんとお会い出来たのは絶好の機会でした。ああして外来の方とお話出来るチャンスは中々ないですからね」

「でも、赤城は難しいんでしょ。神を信じてくれなさそうって言ったじゃない」

「ええ。だから“絶好”の機会だったんです」

 

 早苗は笑う。巧く自分のペースに顧客を引き込めた時のセールスマンのような目をしていた。

 

「赤城さんは信仰してくれなさそうな人でした。

でも、そういう人を口説き落とすのが私のような神職の仕事なんです。布教とはそういうことです。

赤城さんを落とすのは難しそうでしたけど、その分ああいう人は一度落とせば敬虔な信徒となって、そうそう簡単に信仰を捨てたりはしません。掴めるなら、がっちり掴んでおきたいタイプなんです。勧誘したのは、それが一番の理由だったんですよ。

だから、あの時私は本気で赤城さんを口説きに掛かりました。お守りを持っていませんでしたけど、あれば絶対に渡していましたし、出来るなら神社に連れて行って、神奈子様と直接お引き合わせしたかったですね。目の前の神様に本物の神力を見せられれば、例えそれで感服しなくても、強烈な印象を与えることくらいは出来たはずですから」

 

 だけど勘付いた霊夢さんに妨害され、咲夜さんに阻止されちゃいましたけどね。と風祝は残念そうに首を振る。その姿が可笑しくて、いよいよレミリアは声を上げて笑い出してしまった。

 早苗は目を丸くする。目の前の悪魔がどうしていきなり笑い出したのか理解していないようだ。

 

「いや、なるほどね。貴女は保険の販売員なんか向いてそうね。ああ、これでも褒め言葉よ」

 

 ひとしきり笑い終えてから、吸血鬼は冗談半分にそう言った。

 

「あ、ありがとうございます。でも……、保険、ですか?」

「いいの。例えだから」

「はあ……」

「でもさ、一つ訊いていい?」

「何でしょう?」

「外での信仰を得たところで、それが眉唾やペテンじゃないっていうことを信者に信じ続けさせるにはどうするつもりなの? 信仰を維持するために何をするの?」

 

 すると早苗は小首を傾げて宙に視線を上げて考え込む。答えを考えているというより、自分の中にある答えをどのような言葉で表現しようかと考えているような様子である。

 彼女は数秒程度の時間、そうして逡巡していたが、やがてレミリアに視線を戻してこう答えた。

 

「信仰とは、神を求めることです。言葉にしろ、声なき声にしろ、神を信じる者が信じる神を求めることで成り立つのです。

そして神はそうした声を、祈りを、拾い上げ、自らの力を示し、正しい道を教え諭さなければなりません。古来よりそうして信仰というのは続いてきました。人は神に救いを求め、神は奇跡を起こして人を救うのです。そこに、場所は関係ありません。

もし、守矢の神を信じる人が外の世界で救済を求めているならば、例え神奈子様や諏訪子様が動けなくても、私がその人を救いに外に行きます。私だって奇跡を起こせますから。私だって、現人神なんですから」

 

 人を、「救いに行きます」という言葉は、言おうと思っても実際に言うのは憚られるものだ。早苗は、自分が口にしたことの一切に疑いを抱いていないような、その状況が訪れれば躊躇なく言葉通りのことを実行すると決意しているような、揺るぎない口調で宣言する。なるほど、彼女は確かに神であるらしかったし、同時にそのひたむきさが彼女が人間らしい人間であることを示しているようでもあった。

 

 

 

 博麗神社かどこかで宴会が開かれると、レミリアはたまに守矢の主と席を共にして飲むことがある。件の神様は酒が入るといたく饒舌に昔話を語ってくれたりするものだが、それ以上に長々と聞かされるのは彼女の神社の娘のことである。本人が聞いたら羞恥で居た堪れなくなるのは確実な言葉で散々に褒めちぎるのが常だった。レミリアを含め周囲は大抵幻想郷のパワーバランスを占める大物たちが並んでいるので、神の娘自慢が始まるとそこからやいのやいのと自分たちの従者やお気に入りの自慢を負けじと語り出すのもお約束の流れとなっている。

 レミリアもその例に漏れず咲夜の自慢話を声高に語ってみせたことなど、それこそ数知れずあるが、今早苗を前にして、あの神が鼻高々に自慢する気が分かった。今度、また神と飲む機会があったら、自慢話をするのではなく風祝の出来の良さを褒めてやろうと思う。

 

 

 そんなことを考えつつ、ようやくメイドの菓子と茶を味わい終えたレミリアは、存分に己の舌を愉しませられたことに満足しながら椅子に沈み込んだ。

 

「なるほど、ビジネスチャンスがある、というわけね」

「ビジネスじゃないですよぅ」

 

 答える早苗の声はお菓子のように甘ったるい。

 

「私は、私に課せられた使命を全うしようとしているだけなんですから」

 

 彼女の目的は、あくまで布教だ。先程、当人が言っていた通りである。

 だが、その姿はどう見てもやり手のセールスマンにしか見えなかったのだが、彼女の機嫌を損ねても悪いと思ってあえては口にしなかった。

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

「カミ」

 

 唐突に放り投げられた単語。

 何が言いたいのだろう? たっぷり三拍は間が開いた。単語を発した主は、続ける言葉を選ぶのに戸惑っているようだ。そんな妙な沈黙だった。

 レミリアは聞き返さずに、自分を寝間着に着せ替えているメイドが述語を口にするまで待つ。

 

「切らないんですか?」

 

 という問い掛けが来たので、ようやく主語が意味しているのは“God”ではなく、“Hair”だと分かった。今日の昼間に本物の神が訪ねて来てお茶したから、それに関する話だと思ったのだが違うようである。まったく、紛らわしい。

 

 それはさておき、この紅魔館においてレミリアからメイド長の役目を拝命しているのは十六夜咲夜である。紅魔館で唯一、レミリアの身の回りの世話を許されている存在で、種族は正真正銘純粋な人間だ。といっても、紅魔館の労働者は、他に、遊んでばかりのメイド妖精か従順なだけが取り柄のホフゴブリンしか居ないので、必然的にメイド長という役職をこなせるのは咲夜だけになる。

 彼女の仕事は基本的に部下となるメイド妖精やホフゴブリンを取り仕切ってハウスキーピングに務める傍ら、レミリアや他の住人たちの食事を作り、アフタヌーンティーを用意し、朝と晩に主人の召し物を取り替えることだ。その他、日々のベッドメイキングから侵入者の排除まで、職務の範疇は非常に広範である。そして、その中には伸び過ぎた主人の髪を切るということも含まれていて、先の問い掛けはそれを踏まえたものだった。

 

 実際、彼女に指摘されるまでもなくレミリアの髪は伸びていた。幻想郷に来た頃から、ずっとレミリアは髪型をミディアムか長くてもセミロング程度にしていた。それが今や後ろ髪の毛先が肩甲骨より下まで伸びている。

 

 こうなったのには二つの理由があった。

 一つは外の世界の鎮守府に潜入していたために髪を切るチャンスがなかなかなく、何だかんだでしばらく切らずじまいだったこと。もう一つが、意識が「髪を切れない」から「切らない」に変わったこと。すなわち、

 

「伸ばしているのよ。ちょっとした願掛けね」

「願掛け、ですか」

 

 メイドはレミリアの寝間着のボタンを掛ける手を止めず、興味深そうな声色で返した。

 言われるまでもなく、自分でも似合わないことをしていると思っている。まるで思春期の少女がするような根拠のない願掛けである。それこそ今日の客人であった現代っ子がしそうなことだが、そもそもあれも神の一柱であるから願掛けなどしないのかもしれないと思い直した。

 とはいえ、レミリアは割りと真剣にやっているつもりだ。夏になると汗をかいたりしてそれなりに苦労するかもしれないが、その時が来るまで髪は切らないと心に決めている。

 

「こだわるのですね」

「まあね。邪魔になり過ぎない内に切れれば良いんだけど」

 

 昼の部屋着から寝間着へ、レミリアの着替えが完了すると、咲夜は脱がせた部屋着をわざわざ丁寧に畳み始めた。どうせこの後すぐに洗濯するのだから畳まなくてもいいのにと思ったけれど、咲夜は変なところで意地を張って几帳面さを見せることがある。言っても首を振るだろう。主人の服はどんな場合でも丁重に扱うのが彼女の流儀なのだ。

 次いで、咲夜は簡単にベッドを整える。こうして主人の寝床を作るのも彼女の立派な仕事の内に入るのだが、時折それが就寝を急かしているような気がするのも事実。何となくそれが気に食わないので、せっせと仕事をするメイドの背中についつい意地悪な言葉を投げ掛けてしまった。

 

「ねえ、お前は私の髪を切りたいのかしら?」

 

 メイドの手は相変わらず止まらない。滞りなく、無駄もなく、テキパキと布団を整えながら、

 

「変なことを仰らないで下さい」

「おやおや。私にはお見通しなのよ?」

「何のことですか? さ、早く寝ますよ」

「素直じゃないね。正直に言えば触らせてあげるのに」

 

 意地悪な顔で言う意地悪な言葉。対して、振り返った咲夜の顔は無反応だったけれど、その手が痙攣したように微かに跳ねたのを見逃さない。

 レミリアはこれ見よがしに後ろ髪を一房摘んで、指で弄った。もちろん、強情なメイドへの挑発以外の意味はない。

 

「……違います」

 

 急に小声になる咲夜。言葉も先程までのようなハキハキとした言い方ではなく、自信なさそうな弱々しいものだった。

 

「違わないわ」

「違います。ただ、その……お手入れ、しないといけないと思って」

 

 尻切れトンボの語尾は聞き取れないくらい小さかった。それに、レミリアはようやく満足する。

 完全で瀟洒な従者姿はどこへやら。咲夜は年相応の姿を見せ、照れているのか頬や耳たぶがほんのり赤く染まっている。

 

 こんな姿を、彼女はレミリアの前でしか晒さない。

 咲夜がこんなにも弱々しく愛らしい少女であることはレミリア以外知る者は存在しない。

 普段の言動には抜けたところがあっても、咲夜は完璧なメイド長を演じきっていて誰もが彼女は大人びていて頼りになる性格だと思っている。もちろんそれはその通りだが、一方でハリボテの虚勢であるのもまた事実だ。

 つまり、それを知っているレミリアというのは、世界で最も効果的に咲夜の弱点を突くことの出来る存在で、そうするとメイドはあっさりと主人に屈服して弱さを曝け出してしまう。時に意地悪なレミリアは、そうやって咲夜の仮面を剥がしては楽しんでいた。

 

「ふふん。じゃあ髪を梳く権利を与えるわ」

 

 素直になればいいのに、咲夜はこういうところで妙なプライドが邪魔をするのか、意地を張る。どうせレミリアには全部見通されてしまうのに、虚勢を見せずにはいられないらしい。

 今も、メイドはバツの悪そうな顔で躊躇いを見せていた。

 本当に、素直じゃない。

 言い方を変えよう。

 

「髪を、梳いてほしいのだけど」

「……寝る前ですよ?」

「このまま寝たら寝癖がつきそうなのよ」

「分かりました」

 

 と言う頃には既に彼女の右手には櫛が握られている。心なしか顔も嬉しそうだ。

 レミリアがベッドの端に腰掛けているので咲夜も同じように隣に腰を下ろす。背中を向けると、恐る恐るといった感じで彼女は髪に触れた。

 そっと、櫛が入れられる。力が入り過ぎているのか、手が震えている。それが伝わってきて、思わず笑い出しそうになった。

 

 彼女にとって主人の髪を梳くのは決して慣れぬ作業ではないはずなのだが、今し方のやり取りもあって変に緊張してしまっているらしい。

 妙なところで力んでしまう人間だった。そういうところも咲夜の「可愛さ」としてレミリアはいたく気に入っているのだが。

 ただ、しばらく無言でいると咲夜も程よく力が抜けたらしい。余裕が出て、「願掛けはいつまでされるのですか」と囁いた。

 

「ちゃんと終わらせられるまで、かしら」

「ですが……」

「ええ。そうよ」

 

 レミリアは目を閉じる。

 視界に映る自室の景色に代わり、脳裏を占めるようになるのはあの外の鎮守府の光景。そこで働く人々と艦娘。絶え間なく打ち寄せる波。磯臭い海風。

 

「仕切り直したい。一度はしくじったわ。二度はない」

「……」

「だけど、その権利すらないの。状況は既に私の手を離れてしまっている」

「私から、博麗に取り次ぎさせましょうか?」

「そうね。その時になったらお願いするかも。でも、まだいいわ。考えがまとまっていないもの」

「何か、秘策があるのですね」

「まあね。今までとはやり方を大きく変えるわ。戦略の大転換――Pivotってやつよ」

 

 レミリアは目を開ける。

 そこに在るのは見慣れた自室の風景。軽く頷くと、咲夜は手を止めて櫛を髪から離した。

 小さな主人は隣に座る従者の首筋に、細っそりとした手を伸ばして巻き付ける。合図を察した咲夜は静かに腰を持ち上げ、逆らわずに身を寄せて主人の目の前で跪いた。それでも、ベッドに腰掛けるレミリアよりも咲夜の目線の方が高いので、主人は従者の頭を両手で抱き寄せ、従者は腰を折って主人の腕の中に埋もれる。

 レミリアは静かに、触れるか触れないかの繊細さで咲夜の鼻先に口付けをする。恐らくはそんなところへの接吻など予想だにしていなかったであろう未熟な従者は、素直に驚きを顔に出して、頬を赤らめた。長いまつ毛のついた瞼が、二度三度慌てたように瞬きして、その奥にはめられている透き通った青色の瞳が重力に従って落ちていく。

 もちろん、老獪な主人には今の従者の心理までお見通しだ。こうして彼女の想像の範疇にない行動を突然起こして、その度に動揺する様を眺めて楽しむのが、性格の悪い吸血鬼のお気に入りの遊びの一つであった。

 

「怖い?」

 

 レミリアは囁いた。吐いた息で相手の前髪が揺れる距離。咲夜は「いえ……」と蚊の鳴くような声で答えた。

 

「ただ、またお嬢様が危ない目に遭われるんじゃないかって」

「心配?」

「はい」

「そう。人間のくせして、私の身を案じるなんて、お前も偉くなったもんだねえ」

「すみません。出過ぎたことを申しました」

 

 意地悪を言うと、咲夜は悲しそうに謝った。彼女はまだ人生経験の浅い少女で、とても純真なのだ。主人の底意地の悪い言葉も率直に受け取ってしまって、勝手に傷付いて勝手に悲しむ。今までもこの手のやり取りは何回もあったが、未だに彼女は慣れないらしい。いい加減にあしらい方を覚えればいいのに、レミリアの言うことなら何でも真に受ける彼女の心は、きっと汚れを知らず澄んでいるのだろう。

 だから、レミリアはこう言った。

 

「怒っているわけじゃないわ。むしろ、私はお前のそういうところが気に入っているの」

 

 レミリアは咲夜の感情を振り回す方法を熟知している。呆けたように主人の顔に目を向ける従者が思っていることなんて、一から十まで手に取るように分かるのだ。ただし、小振りながら鼻梁の通った鼻から、彼女の白さを汚す赤い物が垂れたのは、さすがのレミリアと言えど予想外であった。

 

「あら」

 

 滅多に見せない従者の粗相に、思わず声が出てしまう。ところが、こういうことは本人には意外と感覚が薄いものなのか、咲夜は(彼女にしては)長い間それに気付かなかった。右手の人差し指を唇の上に当てて、そこに付着した物を目で確認してようやく鼻血が出ていることを認識したようだ。

 その瞬間、レミリアは咲夜の肩に手を置き、ほんの少しだけ力を込めた。そうでもしなければ、従者は時を止めてすぐにでも主人の面前から逃げ出していたであろうから。

 逃走を封じられた咲夜は、その代わりに謝罪することを選んだ。

 

「申し訳ありません。出直して来ます」

 

 だが、レミリアは肩に置いた手で咲夜を体ごと引き寄せると、彼女の鼻の下に口を寄せて血を舐め取った。ほんの一瞬の出来事で、理解が追い付いていない咲夜はあっけにとられてレミリアが満足気に笑みを浮かべた時も、まだ何をされたのか分かっていなかった。そんな彼女の血はレミリアにとって最も好ましい味をしている。

 やがて咲夜が衝撃から復帰して事態を認識した時、彼女はいよいよ顔全体を真っ赤に染め上げた。動揺のあまり時間を止めることすら忘れたのだろう。湯気が吹きそうなほど羞恥に身を焦がし、忙しなく何度も瞬きを繰り返していた。

 

「お、お嬢様!?」

「何よ?」

「な、何てことを……! 不潔ですわ!」

「何がよ?」

 

 いよいよ両手で鼻を覆い隠した従者は、精一杯の抗議の声を上げる。だが、主人は至って冷静に、そして悪辣に応答した。何しろ、レミリアは悪魔である。

 

「血、血を! 鼻血を!」

「血? 何を言っているの? 私は吸血鬼よ。血くらい舐めて当然じゃない」

「……ッ! 失礼しますッ!!」

 

 ついに耐え切れなくなった従者は姿を消した。彼女はきっと大慌てで洗面所に向かったのだろう。今頃は必死で顔を洗っているところか。

 いたいけな少女を散々甚振った悪魔は、その夜満足して熟睡することが出来た。ただし、その代償というものは当然のごとく付いて回るものであって、それは翌朝に訪れたのである。

 

 次の日、思う存分眠ったレミリアが気分良く朝食の席に着くと、珍しく朝から赤ワインが置いてあった。においを嗅ぐとやたらと獣臭い。試しに飲んでみるとイノシシの血であったので、レミリアは慌ててトイレに駆け込まなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督 幕間 Kaga

https://syosetu.org/novel/131199/23.html


 それはふとした不注意が原因だった。

 

 場所は、艦娘艤装の整備工廠から司令室のある第一庁舎に抜ける道で、杉の木が両脇に並んで植えられているので少し見通しが悪いところだった。鎮守府内の敷地は若干起伏があるので、この道も第一庁舎から工廠へ向けて緩やかな下り坂になっている。その坂を海から駆け上がって来た風が思いの外強かったのだ。

 並木道になっているが、ちょうど風向きと道の延びる方向が一致したのか、風の通り道になったようである。耳元で唸りながら、悪戯小僧のような突風がレミリアにぶつかって駆け抜けて行く。その冷たさに無意識に身震いした時、注意が一瞬疎かになってしまって風に手から大切な日傘をかすめ取られてしまったのだ。

 あっと思った時にはもう遅い。大事に抱えていたはずの日傘は大きく宙を舞い、レミリアの背後数メートルのところに音を立てて落下した。

 

 間の悪いことに、道は南西‐北東方向に走っており、時間的に日が差す向きとも一致していたのである。秋とはいえ立派な直射日光。日陰のなくなっていた道路上でまともにそれを浴びることになったレミリアは、種族的な問題から、当然煙を吹くことになってしまった。顔面が燃え上がるような激痛に駆られ、慌てて日傘を拾い上げる。

 一旦日光を遮ってしまえば瞬く間に身体の修復は始まるが、それでもしばらく火傷を負ったようなじわじわとした痛みが残った。その痛みと、風の冷たさに気を取られて醜態を晒したことに顔をしかめながらレミリアは周囲を見回す。

 人っ子一人居なかった。時間が正午を過ぎてそこそこ経った頃合いだったこともあり、鎮守府内を移動している人は少ないのが幸いした。加えて、日光を遮るのには役に立たなかった並木が、人目から姿を隠してくれたので、この道路上に居なければレミリアの醜態を目撃することは出来ないだろう。危うく自分の正体がばれてしまうところだったが、運良く人に見られなかったようだ。

 身体のダメージはいくらでも回復出来るから、それだけが心配だった。レミリアはほっと胸を撫で下ろす。

 今度からは出来るだけ日陰を歩くようにしよう。いくら日傘があるといっても、今日のような些細なミスをまた犯さないという保障はないし、リスクは低減しておきたい。特に、晴れていて風の強い日などは要注意だ。

 

 と、そのような自省をして再び歩き出したところで、目の前、工廠の方から坂を登って来る人物が目に入った。青い袴が見えたので、彼女は加賀である。

 タイミング的に見られてはいないだろう。何食わぬ顔でレミリアは歩を進め、加賀との距離を縮めていった。

 

 

「あら? ご機嫌よう」

「お疲れ様です」

 

 レミリアが会釈すると、加賀もわざわざ立ち止まってお辞儀をする。その様子に別段おかしなところは見受けられないので、やはり醜態は目撃されていなかったのだと安堵した。

 

「暇そうね」

 

 加賀は手ぶらだったし、元々機嫌が良かったのもあってレミリアは彼女に話を振った。醜態のことを忘れ、気を紛らわせようという意図もあった。

 

「いえ。今、揚がったところなんです。これから赤城さんのお手伝いをしようと思いまして」

 

 と、加賀が言うのでよく見ると、彼女の白くきめ細やかな肌が少し潤っていた。今日は乾燥しているので内勤の仕事をしていただけなら表皮が水分を保持することは難しいだろうが、艤装を付けて海の上を走り回った後なら汗もかくだろう。もっとも息を切らしていないところを見るに、揚がってから少し経っているのかもしれない。

 

「訓練はいいの?」

「今日は終わりです。川内と四駆で哨戒に出掛けますから、私と金剛さんと七駆は待機に入るんです」

 

 と、聞けば即座に答えが返って来る。 この鎮守府の艦娘の日々のスケジュールを決めているのは加賀だった。

 普通、その手の仕事は秘書艦が担うものらしいが、赤城の負担減という名目で艦娘の訓練を取り仕切っているのは加賀である。だから彼女には今、誰が、どこで、何をしているのかがちゃんと頭に入っているらしく、彼女に予定を聞いて間違った答えが返って来たことがない。一方のレミリアはどちらかと言えば大雑把な性質で、家のことなんかも一切合切を使用人に任せっきりであり、細々とした人・物・金の管理はまるでやったことがなかったし、そういうことが出来る赤城や加賀が少しばかり羨ましかったりする。まあ恐らく、実際やろうとしても刺激の薄いルーチンワークは一日で飽きてしまって何にも出来ないのだろうけれど。

 それはともかくとして、加賀は空き時間に赤城の手伝いをしようというらしい。これもよくあることだった。

 

「へえ。赤城は今何しているかしら?」

「何かトラブルがなければ、秘書室で書類作成をしているところだと思います。この時間は大体そういう仕事をやっているので」

「ああ、そう。……詳しいのね」

「いつものことですから」

 

 舌を巻くレミリアに、加賀は淡々とした調子で答える。感情の起伏が穏やかなのか、あるいは単にあまり表に出ないのか、大概加賀は淡白で抑揚のない喋り方をするし、喜怒哀楽もほとんど見せない無表情でいる。それがあまり彼女を知らない者には“冷たい人”と映るようで、しばしばレミリアは彼女の不評や陰口を耳にすることがあった。実際、レミリア自身も初めは彼女をそういう性格の持ち主だと思っていたりもした。

 果たしてそれらの内、どれくらいを彼女が知り得ているのかは分からないが、きっと加賀は何を言われても気にしないだろう。気質は大人しいし、見た目通り精神的にも成熟しているのだろう。落ち着きと余裕を欠かさない彼女は、まず滅多なことでは怒らないはずだ。しかし、感情がないわけではない。

 

 一度だけ、レミリアは彼女が涙を流すところを見た。先日の戦闘で、赤城が気を失って目を覚まさなかった時、加賀は確かに泣いていたのだ。

 どうやら彼女は赤城の前では少しばかり情緒豊かになるようで、泣いたり怒ったり、当たり前の感情を表に出すらしい。それ以来、レミリアには加賀の心の動きが少し読めるようになっていた。

 とはいうものの、今日のように事務的に対応する彼女の内心を見抜くのは至難の業である。ぶっちゃけて言えば分からない。分かる必要もないのだろうけれど。

 

 

「いつもと言えば、提督」

 

 ところが、意外なことに加賀は自らの言葉で話の方向を変えた。

 レミリアと加賀の場合、大抵話の主導権を握っているのはレミリアだ。加賀は物静かに聞いているか、適当な相槌を打つだけのどちらかで、自分から話をすることはほとんどない。例えあったとしても、それは仕事に関する事柄で、雑談など話し掛けて来た覚えはなかった。

 だから、レミリアはまた何か用事があるのかと思って黙って頷いて先を促したのだ。

 

「晴れている日はいつも日傘を差されていますね」

 

 やっぱり意外なことに、仕事の話ではなかった。

 驚きつつも、こうして彼女とは駄弁るのは新鮮であり、少し嬉しくもある。聞かれたことが少しばかり答えるのに気を遣うが悪くは思わなかったし、だからレミリアも慎重に言葉を選びつつもさほど気負わずに答えた。

 

「ええ。そうね。私、肌が弱くて日に焼けたくないから」

 

 嘘ではない。物は言いようである。

 加賀は相変わらず何を考えているのか分からない無表情だ。当然、話を振って来た意図も読めない。

 

「そうですか。私も、あまり日に焼けたくないものです」

 

 と言う加賀。何だかこれで終わりそうな気配もするが、さすがにそれはないだろう。

 口下手なのは相も変わらずで、言いたいことが全然分からない。

 もし彼女がどこぞの魔法使いが酒の席で語る与太話のように、この無表情のままオチをつけたとしたら、本気で吹き出すに違いない。真顔で言われると、大して面白くない話でも面白いように聞こえるからだ。

 先を読めないからこそ、レミリアは加賀が何か面白いことでも言い出すんじゃないかと期待してみたりする。笑い話なら大歓迎であり、だからレミリアは聴覚に神経を集中させて加賀の言葉を聞いたのだが、

 

 

 

「ただですね。私は日の光を浴びて煙を吹いたりはしないのです」

 

 

 

 刹那、レミリアは停止した。

 いや、確かに二人ともその場に立ち止まって話をしているのだが、レミリアだけ心臓も呼吸も止まった。

 

 見られていたのだ。

 あの瞬間を。レミリアが人ではないことを証明する瞬間を。

 並木で見通しが悪いし、人影もなかったから大丈夫だ。などというのはあまりにもご都合主義であった。

 

 血が、音を立てて顔から引いていく。

 

 

「行きましょうか、提督」

 

 加賀は変化のない無表情でそう続けた。

 

 

 

 

 

 まずいことになったと思った。

 

 当たり前の話だが、正体が露呈すればレミリアはこの鎮守府には居られなくなる。それなりに目的があってここにやって来ているわけだから、その目的を達成出来ないまま追い出されるのは都合が良くなかった。

 どうすればいいのかと頭を巡らせてみる。

 もし、レミリアが日光を浴びて煙を吹いたのを見たのが今目の前にいる加賀だけなら、極論、彼女を暴力などで黙らせることも出来なくはない。いかに相手が艦娘と言えど、そして今が真昼間で吸血鬼の苦手とする時間帯と言えど、力でレミリアが負けることはあり得ないだろうし、加賀が足を使って逃げ切ることなど不可能だ。人目の付かないところで脅しておけばどうにかなりそうな気もした。

 だが、その方法はあまりにも暴力的に過ぎる。

 何よりも、レミリアは目の前を歩く彼女に対して乱暴なことをしたくなかった。気高い彼女を侮辱するようなことをすれば、かえって自分が惨めになる予感があった。

 

 先程から無言で少し前を歩く加賀の後頭部を見上げてみる。

 彼女はいつも同じ髪型だ。頭に左側で房を作っている。それがあまり着飾らない彼女の数少ないお洒落なのか、単に楽だから髪を結っているのかは分からない。いつ見ても大体同じ位置に房が作られている。

 彼女が一歩一歩、歩く度に揺れる房を眺めながらレミリアは対応を考えた。

 このまま、いっそのこと妥協して何らかの取引、つまりは口止めをした方がいいのかもしれない。問題は、黙ったままの加賀の狙いが想像つかないことだった。向かっているのは第一庁舎の方だが、まさか赤城に言いに行くわけではないだろう。そんなことになればもはや一貫の終わりなのだが。

 

 

「ああ」

 

 と、唐突に沈黙を破って加賀が声を上げる。「思い出しました」

 

「……何を?」

「吸血鬼です。太陽の光に身を焦がすのは吸血鬼ですね。名前が出て来ませんでした」

 

 レミリアは無意識の内に飲み込んでいた空気の塊をそっと吐き出す。

 何を言い出すのかと思えばこんなことである。拍子抜けた。

 

「ええ。正解よ」

「やりました」

 

 得意気な加賀。何というか、今一つ考えていることが分からず、ペースを奪われてしまった。

 どうやら今までの沈黙は「吸血鬼」という単語を思い出すために費やされていた時間らしい。もっと他に難しいことを言われるんじゃないかと身構えていたのが何だか馬鹿らしくなってきた。

 

「それで?」

 

 妙な肩透かしを食らったレミリアは意図の読めないことに若干辟易しだして先を促す。要求があるならさっさと言ってほしい。この話をあまり外で長い時間したくなかった。当然、誰かに聞かれる可能性があるからだ。

 

「はい」

 

 と言って、加賀は立ち止まってしまう。つられて思わずレミリアも足を止め、振り返った加賀の顔を見上げる。その目蓋が、いつもより若干閉じられていた。

 レミリアの言った意味が分からないと言いたそうな表情。「何でしょうか?」と言葉は遅れてやって来た。

 

「だから、私に何か要求があるのかしら? 口止めの代わりとして」

 

 苛立ちが表に出てしまい、やや語気が強かったかもしれない。言ってから「しまったな」と軽く悔やんだが、加賀の表情は変わらなかったし、却ってそれがほんの少しだけ不安を煽った。不用意な言動で彼女を刺激し、レミリアにとって不利な行動をされるのはまったく得策ではないからだ。弱みを握られるのは本当に厄介なことだと臍を噛むが、今更何をどうしたところで時間というのは戻らない。時間に関する能力を持っている家の使用人をもってしても、過去は変えられないのだから。

 

「……口止め、ですか」

 

 だが、加賀の口調は至って不思議そうな響きを持っていた。とぼけているわけでもなく、どうやらレミリアがどうしてそんなことを言うのか、本気で訝しんでいるようだ。両の眉がわずかに寄せられて眉間に縦皺が浮き立つ。どうでもいいが、普段すまし顔ばかりの彼女が眉をひそめると妙な迫力が出て、レミリアは自分がますます弱い立場に追い込まれていっている気がした。

 

「そうよ。さっき見たことは黙っていてほしいの」

 

 観念して懇願を始めると、加賀は首を傾げてから「それなら」と言った。

 

「赤城さんの負担を減らしてはいただけませんか。特に、明後日は赤城さん、非番日なんですが、彼女はいつも非番でも出て来るんです。そのせいで年中働き詰めで、全く休まないんですよ。明後日も当然休日出勤するでしょうから、提督からどうか休むように言って下さい。私が言っても聞き入れてくれないのです」

「……そんなことでいいの?」

 

 肩透かしは二度目だった。

 驚くレミリアに、加賀はいつものすまし顔に戻って「他にありませんし」と素っ気無い。

 

「いやでも、金銀財宝が欲しいとか、満漢全席が食べたいとか、そういうのはないの?」

「今のお給料に不満はありませんし、そんなに食欲も出ません。そもそも、私たち艦娘は海を守るために滅私奉公で戦う兵士でありますから、あまり我欲を追求するのは褒められることではありません」

 

 レミリアは唸らざるを得なかった。

 思わぬところで加賀の覚悟というものを知ることになったが、そうした献身的な姿勢には敬服せざるを得ない。特に、今は提督としてこの鎮守府に居る以上、命懸けで戦うことに誇りを抱いている彼女にはもう何も言えなかった。金や物で釣ろうというのは、そんな彼女に対する侮辱でしかないだろう。そして、誇り高い彼女の前ではそのような言葉は慎むべきだろう。

 

「……分かったわ」

 

 結局、レミリアが言えるのはこれだけしかない。「赤城には休むようにきつく言っておく」

 

「お願いします」

 

 と、加賀は頭を下げた。

 

 

 まったくもって、不可思議な娘である。幻想郷においては、誰かの弱みを握った途端、大はしゃぎで無茶苦茶な要求をしてくるならず者ばかりであるから、加賀のような礼儀正しく謙虚な者というのは、今までほとんど見たことがなかった。特に、レミリアの知り合いである幻想郷の住人の大多数とは性格が真逆であろう。

 

「というか、驚かないのかしら?」

 

 不思議といえば、いつもと変わりない加賀の様子である。何しろ見知った相手が太陽の光を浴びて煙を吹いたのを見て、「吸血鬼なんですか。そうですか」で済ませようとする加賀の精神性にレミリアの方がびっくり仰天なのだ。あまりにも普通な様子なので、口止めがどうとか欲求がどうとか言ってあれこれ考えたのだが、それらすべてはレミリアの空回りに終わってしまった。

 今、彼女が何を思っているのか。素直にそれが知りたい。

 

「確かにびっくりはしました」

 

 対して、加賀は平然として答える。

 

「けれど、世の中には深海棲艦のような化け物もおりますし、何より私たち艦娘自身が半分オカルトの塊のような存在です。ですから、この国に鬼や幽霊、西洋に狼男や吸血鬼が居てもおかしくはないんじゃないでしょうか」

「いやまあ、そうなんだけどさ」

「それに、提督が人間ではなかったとしても、だから何だという話です。提督が提督であることに変わりはありません。それとも、貴女は私たちの血を吸うためにここにいらっしゃるとでも仰るのでしょうか」

 

 これにはさすがにレミリアも閉口させられた。

 垣間見たのは強い信頼。こちらの内心を見透かす鋭い目に、何を言っても無駄だという気がした。

 彼女には覚り妖怪のように人心を読む力でもあるのだろうか。

 レミリアが黙っていると、加賀は目を合わせてきた。まだ何か言いたいことがあるのだろうと思い、レミリアもじっとその瞳を見上げる。

 

「ただ一つ確認したいことがあります」

 

 思った通り、加賀はまた話を切り出した。

 

「ええ。どうぞ」

「はい。

私たちは、兵士です。いつ沈んでもおかしくない戦場で、命を懸けて戦っております。運が良かったのか、私は初陣から今日まで十年以上生き永らえて来ましたが、次の戦闘で沈められる可能性はゼロではありません。だからと言って簡単に沈むつもりはありませんが、つまり私たちはそのようなリスクを背負い、覚悟を持って海に出ているのです。

そしてそれは私たち艦娘だけでなく、他の全ての将兵の方々も同様であります。『硫黄島』の乗員たちも、鎮守府の内勤の職員たちも、皆死を覚悟して戦っているのです」

 

 ――ですから、提督。

 

「私たちは、死ぬ覚悟のない者に“使われ”たくありません。私たちと共に戦う以上、私たちと生死を共に出来る方に指揮をお願いしたい。

失礼を承知で申し上げますが、提督にはそのお覚悟はおありですか?」

 

 

 二人の間を、少しも弱まる気配のない風が吹き抜けていく。先程のようにレミリアの手から大事な日傘を奪おうとするので、しっかりと手で傘の柄を支えなければならなかった。

 それでも、気を抜きさえしなければ吸血鬼の膂力が風如きに負けるはずもない。右手で傘を持ちながら、レミリアは空いていた左手を、袖口から先だけを日傘の作る影の外――すなわち日の光の中に差し出した。

 肉の焼ける音がする。灰白色の煙を吹きながら左手は見る見るうちに炭化し、黒焦げになって原型を失った左手はまもなく手首から捥ぎ取られるように落ちてしまった。粉々の炭と化した左手を風が攫う。

 加賀は、先程までほとんど変化しなかった表情を、明確に驚嘆の色に染め上げてその様子を凝視していた。どこか、怪異に慣れている様子を見せていたけれど、やはりこうして目の前で尋常ならざる光景を見せられては如何な加賀と言えど驚かずにはいられないらしい。

 一方で、レミリアは激痛に顔が強張るのを自覚していた。左手の感覚は完全に失われたが、手首から手前の神経が猛烈な痛みを伝えている。

 だが、それも束の間、左手を日傘の中に引き戻すと今度は修復が始まった。手首からまず骨が伸び、それに腱が張って、筋肉が付き、血管が絡んで脂肪そして表皮の順に、まるで巻き戻しのように失われたはずの左手が形作られる。

 修復に掛かった時間は二秒、三秒程度だ。完全に元通りになると、煩かった激痛もぴたりと止み、指を軽く動かしてみても全く違和感はなかった。

 加賀は、言葉を失ったように目を見開いていた。

 

 

「吸血鬼には弱点が多い」

 

 何事もなかったかのように、レミリアは修復したばかりの左手を、傘を持つ右手に添えた。

 

「日光はその代表格。他にも銀が苦手だし、折れた小枝や鰯の頭には近付けない。そして、流れる水も渡らない」

 

 加賀の目蓋がいつもくらいの位置に下りてくる。意外と早く衝撃から復帰したらしい。

 

「水は日光の次に苦手。空間全体に水が流れる状態になる雨の時は基本的に表に出られないし、川や水路も自力では越えようと思わない。海もそうよ。潮の流れがあるからね」

 

 レミリアは加賀から行き先へ、体を向けて歩き出した。

 辺りには相変わらず人影がなく、二人っきりだ。こういう話をするには好都合だった。

 

「そんな吸血鬼が、船を失って海に沈めばどうなるのか、実際に聞いたことはないけれど、恐らくは溺死すると思う」

「……不死身、ではないんですか?」

「不老長寿なのであって、死が用意されていないわけではないわ。まあ、人間ほど早く死には至らないでしょうけど」

「……」

「もちろん、人より頑丈なのは間違いないから、貴女たちでは死ぬような致命傷を負っても簡単には死なない。だから、そういう意味では貴女たちと本当に生死を共にすることは出来ないわ。

だけど、私だって目的があってここに来ている。守りたいものがあって、それを守るためにここに居る。命を賭している貴女たちからすれば、私の守りたいものなんてつまらないものかもしれないし、覚悟が足らないと言われるかもしれない。でも、決して私には蔑ろに出来ないもので、そのためには私はいくらでも必死になれる。それを守るためなら、何を捨ててもいいくらいには、ね。

それくらいの覚悟は、持っているつもりよ」

 

 加賀に対して、すべてを打ち明けることは出来ない。

 レミリアにはレミリアの事情で秘密にしていることがあって、覚悟を晒してぶつかって来た加賀に対して、やはり言えないものは言えない。けれど、言える範囲のことで正直になり、誠意は見せようと思った。

 それが彼女の信頼に応えたことになるのか、決めるのは加賀だ。結果的にレミリアが軽蔑されようとも、それは致し方のないことだろうと割り切るつもりだった。

 

 

 果たして彼女は、

 

「提督」

 

 と、レミリアを呼んだ。 

 立ち止まって振り返る。加賀は、深々と頭を下げた。

 

「ご無礼なことを言い、大変申し訳ございません。どうか、お許しください」

 

 足を揃え、両手の指の先まで力を張り詰めた、見事な最敬礼であった。

 

「加賀、頭を上げて」

 

 すっと、彼女は姿勢を戻す。

 表情が、いくらか和らいでいることに気付いた。

 

「最初から、何となく感じてはいたんです。貴女が人ではないことを」

「そう。やっぱり分かるものね」

「はい。ですが、私にとってそれは重要ではありませんでした。驚きましたし、貴女がここに来られた理由も見当が付きませんでしたが、それは些細なことです。貴女が提督として私たちの前に現れた以上、私が気になったのは司令官としての実力や資質。つまり、『命を預ける』に相応しいか、でした」

「加賀から見て、私はどうかしら?」

 

 今度こそ、加賀は薄っすらと笑う。

 

「これからも、どうぞよろしくお願い致します」

 

 と、また頭を下げた。

 

「そう。よろしくね」

 

 なかなか愛らしい笑い方をするものだと思った。

 頭を上げた加賀の顔にはまだ微笑みが張り付いていたが、幾分かそれは照れも含まれていたのかもしれない。微かに耳たぶの血色が良くなっていたし、再び歩き出した彼女の足取りは心なしか軽くなっているように思えた。

 そこに、無表情な加賀の本質を見る。彼女はその表現がいくらか出辛いだけで、本当は感情豊かな女性なのだろう。

 そして、恐らくはとても優しい心根の持ち主だ。要求がないのかと聞かれて真っ先に飛び出たのが赤城のことだったし、人ではないことを知って尚レミリアを受け入れる度量の大きさもある。まず第一、人のために泣けるのだから、優しくないわけない。

 

「それと、提督」

「何かしら?」

「さっきみたいなことは、その、もうしないで下さい」

 

 レミリアははっとする。加賀の言うことの意味が分かったからだ。

 そう、確かに彼女ならそう言うだろう。

 

「しないわよ。日の光を浴びるのは痛いのよ」

 

 レミリアも笑う。

 手を焼いた程度では吸血鬼は死なないが、加賀と言えば酷く心配そうな顔をするものだから、安心させるために、そして加賀のような部下に恵まれたことに、レミリアは満面の笑みを浮かべるのだった。

 

 

****

 

 

 

 

 第一庁舎から整備工廠へ続く並木の下り坂を歩きながら、加賀はまだもう少し気温が高かった頃に同じ場所であった出来事を思い出していた。

 あの時は逆に整備工廠から第一庁舎に向けて歩いていた時で、本当に偶然レミリアの日傘が宙に舞ったのを目撃したのだ。坂を下ったところは工廠に大型機械を搬入するために広場となっているのだが、その広場から坂へ上がっていくのに少し道が曲がっており、曲がり角のところにちょうど太い幹のヒマラヤ杉が立っている。その影に立ってしまうと坂からは見えなくなるのだ。レミリアが日傘を飛ばされた時、そして彼女が体から煙を吹いた時、加賀は思わずその木の影に隠れて様子を伺った。

 加賀の存在に気付かなかったレミリアは、その後加賀が何食わぬ顔で現れても平然としていたし、だから見なかったことにするようにも出来た。それをわざわざあんな話に持って行ったのは、やはりレミリアの正体が気になったからだろうと、後になってから思うのだ。

 結果的にあの時の出来事は悪い方向には向かわなかった。レミリアもそれなりの覚悟を持って来ているということが分かったし、それはそれで良かったと思う。他の誰も知らないのなら、二人の間だけの秘密にして今日まで過ごしてきた。

 

 

 けれど、秘密というのはいつか露呈するものなのかもしれない。

 レミリアが吸血鬼であることを、今日、赤城が知った。

 

 間が良いのか悪いのか、加賀はいつものように赤城の手伝いをしていて、その際に不意に赤城が仕事を中断して秘書室を出て行ってしまったのである。あまりにも急だったし、部屋を出ようとした彼女にそれとなく聞いても要領を得ない返事しか返って来なかった。赤城は代わりに加賀にいくつか仕事を頼んだのだが、彼女には悪いと思いつつも出て行った後に無断でパソコンを見た。

 無論、パスロックが掛かっていたが、赤城は意外と抜けているところがあって、パスワードはいくつか使い回しにしており見当付くものを適当に打ち込んでいたら三つ目でログイン出来たのである。

 まず、メールを見た。そこに加藤からの呼び出しがあった。

 何となく嫌な予感がした。

 ここ最近の鎮守府は、レミリアが指揮した南方での作戦が成功裏に終わり、非常に活気付いていて赤城の機嫌も良かったのだが、加藤の送ったメールは場所と指示が書かれたたった二行だけの素っ気無いもので、それが気味悪く思えたのだ。恐らく赤城も同じことを感じたのか、急いで出て行こうとしたのはそのせいもあるだろう。

 加賀は秘書室を出て、赤城が呼び出された部屋の前まで行く。

 そこは建物一階の小会議室。隣の部屋は倉庫という場所で、人が来ることも珍しい奥まったところにある。足音を忍ばせ、隣の倉庫に静かに侵入して壁に耳を当てると、くぐもっていながらもかろうじて会議室内の会話が分かる程度には音が聞こえた。この倉庫と会議室は元々一つの部屋であり、何年か前に庁舎のリフォームをした際に薄い壁で仕切ったはずだ。

 会議室の中に居たのは赤城と加藤と金剛の三人。

 嫌な予感は的中したと思った。

 以前から、加藤と金剛の二人が何かをひそひそと話している場面を見ており、その内容こそ分からなかったものの、何か良くないことであると感じていた。 それが現実になったのだろう。

 

 会議室の中で、赤城の声のトーンが上がる。

 彼女は驚き、少し取り乱しているようだった。会話の内容は断片的であるが聞き取れて、そこからおおよそのところは想像出来た。

 そして、そこまで分かれば次に何が起こるのか、三人が何を起こそうとするのかは予想するまでもない。話が終わって三人が会議室を出てからも、加賀は少しの間倉庫の中で佇んでいた。

 自分が何をするべきか考えないといけない。けれど、思考は上手くまとまらず、取り留めのない思い付きばかりが頭の中を巡る。

 いくら考えても答えは出そうになかったし、気付けば痛くなるほど唇を強く噛み過ぎていたらしい。わずかに血の味がした。

 とにかく何か飲んで落ち着こうと思い、そして秘書室を離れた言い訳を作るために、加賀は休憩所に向かった。

 

 がこん、がこんと缶飲料を補充する音が響いていた。そこに居たのは赤い髪の女で、この夏――ちょうどレミリアが着任した頃からここに出入りしている業者の者だ。

 彼女の名前は確か、

 

「紅(くれない)さん」

「あ! こんにちわ。お疲れ様です」

 

 紅と呼ばれた女は、いつものように威勢よく挨拶する。見る度に快活な挨拶をする彼女は鎮守府内でもちょっとした人気が出ていて、コミュニケーションの塊のような漣などはよく話をするらしく、加賀も彼女から女の名前を聞いたのである。

 変わった苗字だと思った。フルネームは「紅美鈴(くれない・みすず)」というらしい。字面を見れば中国人のような名前であるが、秘書室に保管されていた搬入業者の名簿を見ると、この字と読みで登録されている。

 

「私の名前、ご存知なんですね」

 

 紅は爽やかだ。いきなり名前を呼ばれても特に不快そうな様子は見せない。そのことに、加賀は少し安堵した。

 

「ええ。漣から聞きました」

「漣さんからですか! よくお話をするんですよね。貴女はひょっとして」

「加賀です。ご存知かとは思いますが」

「あはは。お噂はかねがね」

 

 紅の笑顔が愛想笑いに変わる。案の定というか、漣は加賀の名誉毀損すれすれのことを言いふらしているらしい。何はともあれ、それは後で絞めないといけない。

 

 

 

 閑話休題。

 

 加賀と会話する間も紅は手際良く空き箱を畳んでいた。仕事も早く元気もいいとあれば、彼女に好感を抱く人間は多いだろう。

 潜り込むにはうってつけの人材かもしれない。

 

「珍しいお名前だから記憶しておりました」

 

 和やかな雰囲気で話しながら、自然と本題に入るというような高等話術は、自他共に認める口下手な加賀には到底不可能なことで、話を切り出すとしたら単刀直入に言うしかない。口の上手い人ならそれでは躱されてしまうかもしれないが、加賀は別に彼女と敵対しようというつもりはないのだ。それさえ分かってもらえれば、どうにかなると考えていた。

 

「ええ。よく言われますよ」

 

 紅は愛想よく答える。

 警戒はされていないようだった。

 

「そうですか。ところで、私たちの提督のお名前も、姓が『スカーレット』。緋色を意味する言葉になります」

「えっと、『レミリア・スカーレット』将軍でしたっけ? 漣さんがよくお話に出される方ですね」

「はい。名前、同じですよね」

 

 紅は困ったような顔になった。

 加賀の言いたいことが掴めないらしい。あるいは、とぼけているだけなのか。

 

「それは、どういう……?」

「紅さん」

 

 いよいよ、加賀は本題を切り出した。彼女の名前を呼び、ほぼ間違いなくレミリアの関係者であろう紅に、決定的な一言を告げる。

 

「私たちの提督は、吸血鬼です」

 

 自販機の唸る音は、加賀の小さな声をうまいことかき消してくれるだろう。至近距離の紅にだけ届いたはずだ。

 目の前の彼女の表情が凍り付く。張り付いていた笑みが剥がれ、何も感じさせない無表情に変わっていた。

 確信があったわけではない。ただ、レミリアの着任と紅のやって来た時期。名前の一致。そして何より、レミリアから感じ取れる人ならざる気配と同じものが、微かに紅からも感じ取れたのである。

 それは勘と言ってもいい。だが、加賀は自分の勘を頼りにしていた。

 長い間戦場で生きて来られたのもその勘があったからで、故に信頼は絶大だった。

 紅もやはり人ではなく、そうである以上レミリアと何らかの関係があると思うのは不自然ではない。

 

「貴女は、一体……」

「別に、それについてとやかく言うつもりはありません」

 

 加賀がそう言い放つと、紅は不思議そうな顔をした。あるいは、訝しんで加賀の出方を伺っているような。

 どこかで見た反応だった。

 

「ただ問題は、提督の正体がまずい人たちにばれてしまったのです」

「まずい、人たち?」

「提督のことを良く思っていない人たちです。提督は今遠征に出られていて、帰って来られるのは来週の火曜日の予定です。その時に、彼らは提督を捕まえようとすると思います」

「……」

「私が手引きします。提督を、逃がしてください」

 

 お願いします、と加賀は頭を下げた。

 

 こんなことしか出来ないのが悔しいが、一方で来るべき時が来てしまったのだと思う自分もいる。ただ、その時にレミリアを犯罪者として逮捕させてはならない。

 赤城ではきっと止められない。混乱の中にいる彼女は加藤と金剛に流されて、レミリア失脚の片棒を担がされている。

 ならば、知ってしまった者の責任として、自分が何とかしなければならないだろう。紅が潜入していた目的は不明だが、彼女がレミリアの仲間ならきっと協力してくれるはずだ。

 

 

 

「……はい、分かりました。って言えないですね」

 

「え?」

「貴女の目的は何ですか? 貴女が、お嬢様に危害を加えないという保障はありますか?」

 

 さっきまでの爽やかさはすっかり影を潜め、代わりに鋭い眼光で加賀を威圧する紅がいた。

 その目に異様な力が籠っているのを感じて、やはり人ではないんだと確信した。

 

 

「私は、彼女の部下です」

 

 口八丁手八丁では紅は丸め込めない。そもそも、加賀にはそんなことは無理だ。

 ならば、愚直と言われようとも真正面からぶつかっていくしかない。必死で訴えかけるしかない。

 

「提督は覚悟を持って私たちと共に出陣してくださいました。共に戦ってくださいました。その御恩には報いなければなりません」

「それが信ずるに値するのですか」

「分かっています。言葉だけでは信用も信頼も得られません。でも、今の私にはこれ以上のことは申し上げられないのです。どうか、お願いします」

 

 もう一度、今度はもっと深く、紅に対して頭を下げる。

 彼女の協力がなければレミリアを逃がすことは出来ない。もしここで信用を得られなければ、何もかもが終わりだ。他に思いつく策はなかった。

 紅の視線が自分の頭に注がれている。加賀は頭を下げたままだった。

 もしこんなところを誰かに見られては、きっと変な噂が立つだろう。最悪、加藤に知られてしまうと面倒なことになる。

 だが、一歩も引くわけにはいかなかった。

 腰が痛い。足の筋肉が張って攣りそうだ。頭を下げ続けるというのはとても疲れる動作で、けれど加賀はいいと言われるまで絶対に頭を上げるものかと決め込んでいた。

 

 果たして、観念したような溜息が吐かれる。

 

 

「顔を上げてください」

 

 根負けしたのか、呆れたような紅の声。恐る恐る顔を上げると、彼女はどこから取り出したのか小さな紙片に何かを書き込み、それを加賀に差し出す。

 メモ帳の切れ端。罫線が引かれた紙に、十一桁の電話番号があった。

 

「仕事用です。お嬢様が帰って来る前日にその番号に電話してください。打ち合わせをしましょう。ただ、連絡をするのはそれ一回だけ。あまり何度も電話していると、貴女の方が怪しまれるんじゃないですかね」

「……分かりました。ありがとうございます」

「それでは」

 

 素っ気無く彼女は言い、荷物を片付けて開けっ放しにしていた自販機を閉めると、そそくさと休憩所を後にした。

 彼女の姿が見えなくなり、すぐにトラックのエンジンを吹かす音がして、それが去って行くのを聞いてから、ようやく加賀は肺に溜め込んでいた空気を吐き出した。取り敢えずひと仕事が終わったような、疲れが肩に残っているような、あるいは「くたびれた」という感想が浮かぶような心持ちである。

 だが、まだ何も解決していない。やるべきことはたくさんあって、全て完遂しなければならない。

 それから加賀はしばらくぼんやりと休憩所のベンチに腰を掛けて自販機を見上げていた。しかし、間もなくやって来た赤城に声を掛けられて我に返る。

 

「加賀さん。どこに行ったのかと思えば」

 

 どうやら彼女は秘書室に居なかった加賀を探し回っていたらしい。若干荒い息を吐きながら、ほっとしたような表情を見せる。

 

「ごめんなさい。ちょっと喉が渇いたもので、休んでいたの」

 

 加賀は、いつもの「加賀」としてのお面を被って答えた。全ての段取りは、赤城にも気付かれてはならない。

 隠し事は苦手で、特にこの竹馬の戦友に対して今まで何かを隠し通せたためしがない。もっとも、それでも不都合は生じなかったし、加賀は赤城と対立することなどほとんどなかったからそもそも隠し事をする意味は大抵の場合なかった。だから、やって来れたのだ。

 だが、今は違う。彼女との長い付き合いの中で、初めて加賀は赤城に決して悟られてはならない秘密を抱え込むことになった。

 

「それなら一言書き置いてくれればいいのに。お疲れなら手伝いはもういいですよ」

 

 声の調子は少し不機嫌そうであるが、表情を見る限りはそれほど気を悪くしているわけではなさそうだ。ただ、どことなくいつもの余裕ある顔付きに翳が差しているように思えた。

 もちろん加賀はその理由を知っているし、赤城が途方もない厄介事を抱え込んでしまい、これから当分の間それに頭を悩ませ、あるいはどのような結末に至ろうと一生の傷を抱え込んでしまうのは想像に難くなかった。そう、間違いなく赤城は傷付く。レミリアを慕っているからこそ、彼女は自らを呪うことになるだろう。誇り高いからこそ、自己の矛盾を許せないだろう。

 赤城の人を見る目は確かで、自分が真について行くべき相手しか慕わない。彼女の中で「敬服に値する」という枠組みに入れられた相手にはとことん付き従い、支持しようとする。一度誰かをそう分類すれば、その後何があろうとも決してその分類を変えることはないし、だからこそ彼女の人を見る目は厳しい。

 そして、加賀の知る限り赤城はレミリアに心を開き掛けていた。言うまでもなく、彼女がレミリアを受け入れ、慕っている証拠だった。そうでなければレミリアの冗談に付き合ったり、軽口半分で小言を言ってみたりはしない。その気になれば誰とでも雑談にふける程度にはコミュニケーションを取れるだろうが、性格的にそこまで社交的ではなかった。

 故に、赤城は大きな葛藤と矛盾から逃れられない。彼女のやろうとしていることは職務上全く正当であっても、心情においては到底受け入れられるものではないからだ。だからといって感情論で職務に背くような愚かなことはしないけれど、それはつまり逃げ道がないということで、赤城は必ず矛盾を抱えることになる。そして彼女はその矛盾を解消出来ず、さりとてそのまま受容も出来ず、一生自分を許すことはない。

 それが分かっていて、けれど何の手も打とうとしない自分は赤城の戦友失格かもしれないと思った。言うまでもなく加賀にとって最も大切な人は赤城であり、彼女が苦しんでいるのを見るのは自分のことのように辛い。

 しかし、もうどうあっても、誰も傷付かずに済む方法はないのだ。どうやったところで、赤城が苦しまないで済むことはないのだ。

 残酷な話。あるいはこれを運命と呼ぶなら、神は本当に冷酷な性格をしていると思う。

 なればこそ、たとえ赤城の意に反するようなことであっても、最大限傷が浅く済む方法を加賀は模索する。

 紅が居たのは不幸中の幸いと言えたかもしれない。もし目論見が上手くいってレミリアを無事に逃がせられたら、きっとそれが最善の結果になるだろう。少なくとも、赤城が必要以上に自分を責めてしまうことはなくなる。

 

「いいえ。もう少し手伝うわ」

 

 守らなければならない。

 レミリアが守りたいものは結局分からずじまいだったけれど、案外こんなふうに身近なもののために彼女はここに来たのかもしれない。

 とにかく、加賀には守らなければならない人が居る。その人に背を向け、真実を隠し通してでも。

 

「いいの?」

「行きましょう。さっき言われたこと、まだ出来ていないのよ」

 

 加賀はいつも通りを演じる。

 案外それは楽なもので、意外なほど平常心を保つことが出来た。勘の鋭い赤城と言えど気付いた様子はない。

 何気ない会話をしながら、何とか隠し通せそうな気がしたのだ。

 

 

 ――それが、つい一時間ほど前の出来事。

 赤城の仕事の手伝いは早々に終わったが、彼女は些細なミスを連発した。何でもないように取り繕って見せていたが、理由は嫌というほど心当たりがあったし、必死でいつものように仕事をしようと頑張る赤城を見て、加賀も不用意な慰めを言えなくなってしまった。

 彼女がタイプミスをする度、ファイルに書類を取り違えて綴じる度、電話口で言い回しや相手の名前を間違える度、彼女が動揺しているのが手に取るように分かって、加賀の胸は締め付けられるようだった。赤城は気丈だから、いつものように振舞おうと必死で努力していたけれど、その背中は雨に打たれているように濡れていた。

 いたたまれなくなって、加賀は強引に仕事を切り上げ、赤城に休むように告げたのだが、変に頑固なところのある彼女は逆に加賀に退室を促したのである。「もう大丈夫だから」とぎくしゃくした笑みを浮かべる赤城を見て、ついに加賀は引き下がらざるを得なくなってしまった。

 それも昔からよくあることである。

 

 赤城は、肝心な時に加賀の忠告を無視して無理を犯すという悪い癖があった。それが偏に彼女の頑固さのせいであるというのはとっくに承知していることだけれど、だからと言って加賀に出来ることは少ない。どんなに言葉を尽くしても想いを語り切るにはもの足らず、伝わらなかった分赤城は忠告を軽く捉えてしまい、無理を押し通す。そして、それでもなお体調も崩さず結果を出してしまうのだから、こんなに始末に負えないことは他にないだろう。

 赤城は頼りになって、何でも出来て、それ故一番身近な相手の心配に気付かない。

 今までは、ぎりぎりそれで上手くいっていた。けれど、今回ばかりはどうなるか予想もつかない。

 

 自室に戻る道を辿りながら考える。

 今加賀に出来ることはほとんどない。ただ最良の結果のために、時が過ぎるのをじっと待っているしかないのだ。

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 当日はいつもより一時間早く赤城が起き出した。

 「硫黄島」の到着が早朝、日の出前になるというのは事前に聞いていたからこれは予想通りである。

 

「おはよう」

 

 加賀は、さも今起きたかのように体を起こして赤城に声を掛けた。さほど広くない二人部屋の二段ベッドの上の段から、ごそごそと着替えを引っ張り出している赤城の頭を見下す。

 

「おはよう。起こしちゃったかしら?」

「ええ」

 

 白々しく頷いた。本当は、昨日の晩から一睡も出来ていない。ずっと眼が冴えたままだった。

 結局、隠し事は赤城にばれずに済んだ。昨日、言われた通り紅に電話をして到着時間の予定を伝え、段取りの打ち合わせをした時も、誰にも気付かれずに終わった。

 自分は赤城を騙していると思うと胸がチクリと痛んだが、止まるわけにはいかない。

 

「提督を迎えに行かなくちゃ。加賀さんは寝てていいわよ」

「いえ。目が覚めてしまったし、少し外の空気を吸って来るわ」

 

 適当なことを言って、加賀は赤城と一緒に仕度をした。寝巻から作業服に着替え、顔と歯を洗って髪を整える。赤城は艦娘の制服を着こみ、しっかりと化粧までしていそいそと出て行った。恐らくこの後工廠に向かい、艤装を身に着けるのだろう。言ってしまえば、彼女は不測の事態に備えているのだ。

 そんなこと、よく考えれば分かるだろうに。

 あのレミリアが赤城に危害を加えたりするものだろうか。無駄な抵抗はせずに逃げの一手を取るだろうというのは、昨日電話口で紅がそう言っていたし、加賀も同じ意見だった。

 

 吸血鬼という種族であるレミリアの実力がどれほどであるかは分からない。ただ、とても強いのだと紅は言う。人間はおろか、艦娘でも止められる相手ではないだろう、と。

 しかし、レミリアに限って暴力を無暗に振るうことはない。高潔な彼女は、きっとそんなことをしない。

 ただ、彼女も人と同じように傷付き、悲しむだけだ。

 

 今日、むしろ戦いに赴くのは加賀の方だった。

 誰もが傷付く中で、せめてその不幸の度合いを浅くするために、どう転んでも悪い方向にしか行かない結果を少しでもましなものにするために、加賀は勝負に出なければならない。

 

 

 艦娘寮を出て、加賀は第一庁舎に向かった。

 外から三階の司令室の窓を見上げると、厚手のカーテンが閉められていて中の様子は伺えなかった。だが、あの中で加藤と金剛がレミリアを待ち構えているのだろう。

 加賀はそのまま庁舎の三階に上がり、司令室の近くの適当な部屋に身を潜り込ませる。

 さすがに早朝のこの時間、建物の中は静寂に包まれていた。まだ、大多数は出勤前だ。これは好都合だった。

 そのままじっとしていると、やがて扉越しに話し声が聞こえて来る。

 言わずもがな。レミリアと赤城だ。

 二人はそのまま加賀の隠れている部屋の前を通り過ぎ、司令室に入って行った。

 どのようなやり取りがそこで行われるにしろ、レミリアは必ず逃げ出してくる。無暗な殺傷もしないだろうと、レミリアをよく知る紅は言っていたから、余程のことがなければ血生臭い展開にはならないという予測を立てていた。

 だがそもそもの話、もう現状自体が余程のことと言えるかもしれない。よく考えてみれば、本来部下であるはずの加藤や金剛がレミリアに対して手の平を返すというのだから。

 しかもその協力者は赤城だけではなく、足音を忍ばせながらも確かに司令室の前に現れた陸戦隊の兵士たちもそうである。彼らはきっと完全に武装しているだろうし、加藤からレミリアを躊躇なく撃つようにも指示されているに違いない。加藤は陸戦隊に対して大きな影響力を持つ男だった。

 いくら加賀と言えど、屈強な陸戦隊員に立ちはだかられては具合が悪い。彼らの登場は予想通りであったため、一応それなりに対抗手段というものは用意してきたつもりである。

 といっても、持って来たのは特殊警棒だ。

 これは加賀の所有物ではなく、漣の私物を借りてきた物だ。それも随分前の話だ。ちなみに、所有者曰く「護身用」とのことだが、一体全体何を思ってこんな物を持とうと思ったのか甚だ不明である。

 

 上着の中に隠して持って来た特殊警棒を取り出して伸ばす。戦闘術を体得している艦娘が持っているとなると、この狭い建物内の空間も考慮すれば、いくら陸戦隊員と言えど脅威に感じるだろう。威嚇するには十分事足りると思った。

 ただまずは様子を見て行動しなければならない。

 

「突入!」という、加藤の怒号は加賀の耳にもはっきり届いた。激しい足音が連続し、陸戦隊員が司令室になだれ込む。

 

 なるほど、と加賀は一人頷いた。

 まだレミリアは無事なのだ。そして、加藤はミスを犯した。

 レミリアの見た目に騙されて彼女を軽んじたのか、屈強な手兵に慢心したのか、司令室の中で事を済ませられると思ったようだ。彼は狭い部屋の中に人を集めてしまった。

 お陰で廊下は無人になっている。そっと隠れていた別室から出た加賀は、それから忍び足で階段の方へと向かう。

 

 

 その時だった。

 不意に鳴り響いた高い破裂音が鼓膜を震わせる。

 一瞬、心臓が跳ねた。まさかと思い、振り返ると無人の廊下があるだけ。慌てて階段の影に身を隠してその後の様子を伺う。

 その間にも激しい物音は司令室から響き続けていた。

 連続する銃声。続いてガラスの割れる音や男のものと思われる悲鳴。

 司令室の中で、何か穏やかではないことが起きていた。特に、さっきの銃声は間違いなく加藤か陸戦隊員が発砲したものであろう。

 程なくして司令室の扉が弾き飛ばすような勢いで開け放たれ、陸戦隊員の何人かが転がり出て来た。

 その光景に加賀はさらに驚かされるが、生憎悠長にしている場合ではなかったようだ。隊員と同時に廊下に出て来た赤い弾。材質が何なのかも分かりかねる球体で、発光しながらピンポン玉のように廊下を跳ね回り始めた。

 唖然とする加賀の目の前で、鍛え抜かれたはずの大男たちが赤い弾に叩かれて転げ回り、部屋からはどんどんと弾が溢れ出て来る。

 

 一体全体、何が起こっているのか。赤城は無事なのか。

 思わず飛び出そうとした加賀に向かって、疾風のように部屋から小さな人影が突っ込んで来た。

 

 

 

 レミリアだった。

 

 撃たれたのか制服に血を滲ませながら、彼女は小さな体躯に似合わぬ健脚で瞬く間に廊下を走り抜けて、加賀にも気付かず階段を駆け下りる。

 

「提督!」

 

 あっけにとられて反応が遅れた加賀は慌てて彼女の後を追い掛けた。

 レミリアが振り向く。

 今まで見たこともないほど必死な表情だった。いつも余裕あるそぶりを見せていたのに、今はそれが剥がれて端正な顔が歪んでいる。

 

「加賀!?」

「休憩所! 休憩所に行って下さい! 迎えが来ています!」

 

 とにかく伝えなければと、無我夢中でそれだけを口にする。

 果たしてそれで意味が通じたのか、レミリアは一つ頷いた。彼女の足は加賀の予想以上に速く、一階に降りる頃には小さな背中は廊下の角を曲がって姿を消した後であった。

 加賀も必死である。頭上で赤城がレミリアを呼ぶ声が聞こえた。

 今彼女に見つかるのは非常にまずい。せっかく隠して来たことがふいになってしまうと焦った。 

 半分逃げるようにして休憩所に飛び込むと、打ち合わせ通りそこには紅が居て、彼女は乗って来たトラックのドアを開けてレミリアを荷台の中に乗せるところだった。

 

「提督!」

 

 もう一度呼ぶと、レミリアはまた加賀を見てくれた。

 小さな吸血鬼は、普段の尊大な態度が嘘のような弱々しい笑みを浮かべる。

 

「ありがとう。元気でね」

 

 彼女は一つ、敬礼をする。それが存外、様になっていた。

 

「こちらこそ。ご達者で居てください」

 

 加賀も答礼し、細やかで味気ない別れの儀式は終わった。

 間もなく赤城がレミリアを呼びながら近付いて来たのが聞こえて、加賀は休憩所を離れてすぐ近くにあったトイレの中に身を隠す。同時に紅がトラックに乗り込んで、赤城が来たタイミングで車を発進させた。その音が、はっきりと聞こえた。

 すぐに、彼女の足音が去って行く。

 

 ああ、追い掛けるのかと思った。

 

 赤城はきっと自分の選択を後悔したのだ。今まさに彼女は傷付いている。

 だから必死で走るのだろう。どうやっても追い付けないトラックを追い掛けるのだろう。

 赤城との付き合いは長いし、彼女が考えていることも感じていることも手に取るように分かる。だからこそ、親友の心情を想像して嬉しいような悲しいような気持ちになった。

 最後の最後でレミリアを信じようとしたその心こそが、彼女を救うのだと思う。一方で、信じたからこそ傷付かざるを得ない。

 

 レミリアを追い掛ければ赤城は自分を恨んでしまう。自分の選択を間違ったものだと認識する。

 だけど、彼女は追わなければならない。自分が提督を裏切ったことを後悔しなければならない。

 

 

「泣いて、苦しみなさい」

 

 誰にも聞こえない独り言。タイル張りの狭い空間の中に、加賀のハスキーボイスは溶けて消える。

 それは赤城に対する呪いの言葉であり、救済の合図でもある。

 これが最良なのだと、加賀も信じているのだから。

 

 

 ゆっくりと、トイレを出た。

 何も急ぐ必要はない。今すべきことは明確だ。

 休憩所から外に出て、赤城が辿ったであろうルートを通り、彼女を追う。恐らく、裏門まで続く道中のどこかで赤城は倒れているだろう。

 警備隊の建物の角を曲がると、真正面が裏門だ。その手前で、地べたに直接へたり込み、髪を振り乱して慟哭している女の姿があった。

 

 胸が抉られるような気がした。

 あんなに泣いている赤城を初めて見たと思う。話に聞くだけでは、過去にも一度、彼女が姉を喪った時にも号泣したことがあるそうだ。

 

 つまりはそういうこと。

 そして、赤城が泣く理由の内、数割は加賀のせいであるのは間違いない。そう考えると、罪悪感が喉元を締め付けるのだ。堪らず、彼女の元へ駆け寄った。

 

 

「赤城さん!」

 

 

****

 

 

 

 

 

 その後は泣きじゃくったり、そうかと思えば急に不気味な笑い声を立てたり、とにかく情緒不安定に陥った同僚を寮室まで引きずって行き、とりあえず部屋に放り込んでから食堂に向かう。

 一夜越しの空腹で、すっかり元気がなくなっているのを自覚していた。その上、朝一番の騒動で走ったり叫んだりしたものだから、何か食べないと倒れてしまいそうな気がしていた。

 

 ところが、ある意味当然ではあるものの、残念至極なことに食堂が開いていなかったのだ。いつもならとうに朝食の準備を終えて料理が出て来ていてもおかしくないはずなのに、厨房には人影はおろか電気すら付けられておらず、真っ暗である。食堂で働くのは鎮守府所属の給養員たちなのだが、彼らの姿はそこになかった。理由は恐らく、レミリアの件で鎮守府自体が非常事態下に置かれたからだろう。

 そう思うと、紅は本当にぎりぎりのタイミングでレミリアを運び出したらしい。あと一歩遅ければ鎮守府は完全閉鎖、裏門が閉じられて大変なことになっていたに違いなかった。

 

 レミリアは運が良かったのだ。対して、食堂が開かなくなって食事にありつけない加賀たちは不幸であると言えよう。

 無人の食堂を前にして加賀はしばし考え込み、それから一つの打開策を思い付いた。

 踵を返し、艦娘寮に戻る。と言っても向かった先は自室ではなく、同じ寮の自室の一つ上の階にある第七駆逐隊三人の寮室であった。

 訪ねると、中には漣一人の姿しかない。

 

「こんな朝っぱらに何用ですか?」

 

 自分のベッドに腰掛けて雑誌をめくっていた彼女は、加賀が現れると胡乱な顔をしてみせた。

 普段はとにかく陽気で騒がしい漣だが、一人で居る時は意外なほど静かである。さらに、誰かと居る時でもその相手が加賀の場合は、皆で集まって騒いでいる姿からは想像出来ないくらい彼女は落ち着いた言動をする。しばしば意味不明なネットスラングを含む雑音のような冗談ばかり飛ばすその口は、加賀の前でだけ打って変わって寡黙で、そして時折知的な発言が飛び出したりするのだから、人というのはよく分からないものだと思う。

 あるいは、こちらの方が漣の本質かもしれなかった。とにかく彼女は、加賀と一対一の時はふざけない。

 

「借りていた物、返すわ」

 

 と言って加賀は懐から特殊警棒を取り出す。結局使わなかったが、持っていて少しだけ心強かったのは事実だ。

 漣は、たった今加賀が取り出すまで全くその存在を忘却していたかのように「あ」と声を漏らした。

 

「使わなかったんですか」

「ええ。でもありがとう。それと、何かないかしら?」

「はあ」

 

 嫌そうな表情と共にわざとらしく吐き出された大きな溜息。加賀ははっきりとした目的語を口にしなかったが、漣には言われずとも分かっているのだろう。

 

 アメリカの首都を「パリ!」と言うくらいのひょうきんな道化者という仮面は、加賀の前では脱ぎ捨てられる。その実漣が聡い娘だというのは、恐らく彼女の親友である曙や潮以上に加賀はよく知っている。何故ならこの姿は加賀の前だけで晒されるからだ。

 

「冷蔵庫の中ですよぉ。カレーパン三つとコッペパン一つ、焼きそばパン二つ、プチチーズもっちも二つ。後なんかあったはず。飲み物、『午後ティー』は潮のだから置いといてくださいねー。コーラは曙のだけど持って行ってもおk」

「米は?」

「ありません。買って来てください」

「そう。パン、貰うわね」

「お返しは?」

「考えておくわ。赤城さんが空腹なの」

「オーライ。分かりました」

 

 漣は読みかけの雑誌を閉じて、部屋の真ん中のテーブルに放り投げた。

 

 七駆の寮室には小型の冷蔵庫が据え付けられていて、その中にはいつもお菓子や軽食なんかが詰め込まれている。どうやら彼女たち三人は頻繁に売店で買い溜めをしているらしく、時々加賀も分けてもらうことがあった。

 赤城に言わせればこれらの行為は規則違反になるのだろうが、加賀が黙認しているためか、彼女も目を瞑っていた。その結果、漣から食料を頂戴することに成功したのである。

 

「あと二人はどこに行ったの?」

 

 冷蔵庫中のパンを物色しながら背中越しに尋ねる。

 

「川内さんたちの迎えです。今頃桟橋だと思うけど……」

 

 漣の言葉が尻すぼみになった。

 先程、加藤がスピーカーで発令させた命令のことだろう。彼は、鎮守府の敷地の隅々まで届く放送で、レミリアがスパイであり見つけ次第捉えるように繰り返していた。当然、寮室の中と言えど漣の耳にも入ったはずだ。

 

「行かないのね」

「行かないのではなく、ここで見張っているのです。スパイが寮に逃げ込んで来たりしないようにね」

「あら。では私たちも協力するわ。一人で見張るには、この寮は少々広いでしょうから」

「助かりまーす」

 

 加賀は適当なパンを見繕うと、顔を上げて部屋の中を見回す。

 余り私物のない加賀たちの部屋とは異なり、間取りと面積は同じながら三人の共用部屋ということもあって、七駆の寮室の中は物が多くて雑然としていた。それでなくとも、漣や潮なんかは買い物の頻度が高いタイプで、持ち物もたくさんあるのだろう。整理しきれていないのか、片付けられていない漫画本やら雑誌がタンスの上に積み上げられていて、ゴミ箱は溢れかえっているし、床にまで空箱が落ちている。

 加賀は机の上に放りっ放しになっていたビニール袋を手に取った。中には何も入っていなかったので、そのまま見繕ったパンを詰め込んだ。

 

「川内たちが来たら、自室で待機するように言って。後の指示は、たぶん赤城さんがするから」

 

 それだけを言い残して部屋を出ようとした。

 

 だというのに、漣が余計なことを言うので足が止まる。止まらざるを得なかった。

 

「加賀さんさ、何かやらかしたんですか?」

 

 問い掛けの意味が分からなかった。今のこの状況で、「やらかす」の主語が加賀になるのはおかしいのではないだろうか。むしろ、尋ねるべき事柄としてはレミリアのことだろうに。

 漣の意図が掴めず、加賀が黙っていると彼女はさらに付け足した。

 

「おかしくないです? こんだけ鎮守府が大騒ぎになってるのに、赤城さんが寮の中に居るんですよね。加賀さんも何だか落ち着いているし。お嬢様絡みで、加賀さんは何が起こっているのかちゃんと全部分かってるような気がしてさあ。良かったら、漣たちには状況がイミフだから教えてほしいなって」

 

 今度は加賀の方が溜息を吐きたくなった。けれど、そうしてしまうとすべてを白状するのと同じになる気がして、何とか吐き出したいものを飲み込む。それでも、何となく漣には分かってしまうのだろう。

 舌足らずな声や幼い見た目、頭の軽そうな言葉に騙されてはいけない。彼女は存外鋭い娘であり、だからこそ加賀とは相性が良く、一方で苦手でもあった。赤城と同じく、どんなに無表情を取り繕っても、漣は的確に加賀の内心を見抜くことが出来た。

 

「さあ? 赤城さんは朝から出迎えに行っていてまた戻って来たわ」

 

 それでも、加賀は嘘を吐く。嘘だということがばれると分かっていても、今まで隠して来ていたことを事後であっても明らかにするつもりはなかったし、何より形だけ見れば組織の意に反してスパイを逃がしたことになるのだ。それ自体が重罪であるし、まだまだ捕まるつもりはなかった。

 

「……そっか。ま、結局指示待ちってことですねぇ」

 

 何を悟ったのか、漣はそのまま追求することもなく、ベッドに身を投げる。

 

「そういうことよ」

 

 加賀はようやく部屋を出ることが出来た。漣も加賀から話を聞くことを諦めてくれたようで、これは運が良かったと言えよう。もっとも、彼女はそこまでしつこい性質ではないから、あっさりしている時は拍子抜けるほどあっさりしている。うるさくて煩わしいのは曙の方だ。

 それからようやく自室に戻ると、赤城はいそいそとファンデーションを顔に塗りたくっている最中だった。疲労を隠すための、いつもの厚化粧である。

 

「お帰り」

「もう、大丈夫なの? 今日くらいは体調不良で休んでいても」

「そんなこと、言ってる場合じゃないわ」

 

 化粧台に向いたまま放たれた言葉は、少し乱暴な調子だった。それは赤城が自分自身に向けているもののような気がして、加賀の中で不満が膨らむ。こうやって、赤城はまた無理を押し通そうとするのだ。いつか彼女が壊れてしまうんじゃないかという懸念は、日々大きくなるばかりで、だというのにいくら忠告しても赤城は聞きやしなかった。

 これが加賀でなかったら、きっとどんなに優しい人でも愛想を尽かしてしまうに違いない。親身になっても頑なに受け入れてくれないのだから、気を遣ってやること自体が馬鹿らしくなってしまう。

 

 だけど、加賀には放っておけない人だったのだ。

 だから、彼女の背中が欲しているものを自然と察して、そんなこと言ってやる義理なんてないのに言葉は無意識に口をついて出てしまう。

 

 彼女が後悔しないように。やり残したことを、伝え損ねた想いを伝えられるように。

 

 加賀は実に適切な助言をするのだ。

 

 

 

「私たちは空母よ。矢文という手もあるわ」

 

 

 

 と言うと、化粧の手が止まる。

 

 それから彼女は大慌てで、大切な化粧品が床に落ちて転がるのもいとわず、メモ帳の端を切り取って何かを走り書きして風のように寮室を飛び出して行った。

 後に残されたのは、一人になった加賀だけ。落ちた化粧品を拾って台の上にきちんと並べてやる。

 

 部屋の中は暖房が程よく効いていて居心地がいい。赤城が出て行ってすることも話し相手もなくなったので、先に食事を済ませようと漣の部屋から持って来たビニール袋を広げ、菓子パンを一つ取り出して包装を開ける。

 イチゴジャムとマーガリンを挟んだコッペパンで、齧るとケーキのような甘さが口の中に広がった。甘いだけでさほど美味しくもないコンビニの菓子パンだけれど、空腹は和らいだ。胃が膨らんでいくのを感じながら、咀嚼しつつ窓の外に矢が飛ぶのを見る。

 それでやっと、少しだけ苦労が報われたような気がした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督27 KIA

Killed in Action


 それはさほど難しくない要撃任務だったはずだ。

 本土を目指して西進して来る深海棲艦の前衛部隊と思われる敵を迎え撃てば良かった。決して簡単とは言えないし、気を抜いてはならない任務ではあったけれど、一航戦とその随伴の実力をもってすれば手こずるようなものでもない。もちろん油断も慢心もなかったし、いつも通り冷静に事を進めていたはずなのだ。

 

 けれど、気付いた時にはもう遅い。

 赤城たちは、引き返せないところにまで足を踏み入れてしまっていた。

 どんなに悔いても後の祭り。自分の行動や判断を一つ一つ思い出していって失敗や失策を見い出そうとしても、小さなことはあったけれども、大局を左右するような致命的な失敗はなかった。ただ、運が悪かった。敵の方が何枚も上手だった。

 

 負けを認めるにも時間が必要。

 確かにその通り。けれど、赤城は未だに敗北を受け入れられない。

 

 

 

 

****

 

 

 

 出撃は慌ただしかった。

 昨日の夕刻、突然本土に向かって行進する深海棲艦の艦隊が発見されたのだ。洋上偵察用の無人哨戒機からの報告だった。

 

 それから夜を通しての敵艦隊の解析と予想進路の割り出しが行われ、結果、空母ヲ級フラグシップを旗艦に二隻の戦艦タ級フラグシップと重巡や軽巡が随伴する比較的強力な艦隊であると判明。三十六時間以内に敵艦隊は艦載機の行動可能圏内まで本土に接近すると見込まれた。

 敵の予想進路に最も近い拠点は赤城たちの鎮守府であり、当然一航戦がこれを迎え撃つ決定が下される。

 

 緊急の出港。もっとも、この程度のことはしばしば起こり得るもので、実際経験の長い赤城たちは幾度となくこのような慌ただしい出撃を繰り返して来た。場数を踏めばそれだけ慣れるもので、突然の出撃にてんてこ舞いの人間たちを尻目に、ベテランの多い艦娘は特に慌てることもなく淡々と準備をしていた。

 発見から翌日の早朝には「硫黄島」に乗って出港すると、そのまま一路東へ向かい、昼前には完全装備の艦娘が六人、ウェルドックに集合している。

 艦隊の編成は、旗艦を赤城に、加賀、金剛、曙、漣、潮と続く。この鎮守府では一番オーソドックスな編成である。

 

 サポート体制は万全だった。

 既に複数の無人哨戒機「トライトン」が空を飛んでいたし、有人機のP-3Cや早期警戒機も参加している。その上、偵察衛星も動員されており、まさに敵艦隊は丸裸にされている状態だった。攻撃隊どころか、偵察機さえ発艦させていない段階で、もう赤城は敵の情報を思いのままに知ることが出来ていたのである。

 増援の要請も行われていた。近隣の拠点や関東地方の主幹拠点から続々と増派部隊が編成され、準備が整い次第順次出撃することになっていた。

 何も怖いことなどない。ここまでお膳が立てられれば、今日初めて海に出た新人空母だって戦果を挙げられるに違いない。そう言っても過言ではないくらい盤石な迎撃態勢が構築されていた。

 

 これが海軍の強みである。

 人間の軍隊とは違い、深海棲艦の襲来には兆候というものが存在しない。ある日突然、ある場所に突然、奴らは現れるのだ。今回のように一晩の猶予があったのは幸運な方で、中にはまったく無警戒のところを襲われることさえある。当然、そうはならないように常日頃からの哨戒活動というのは入念に行われているのだが、それでいざ敵を発見しても準備が整わなければ満足な迎撃は出来ない。

 故に、海軍の即応力というのは歴史上類を見ないほど高いものとなっている。対深海棲艦において主力となる艦娘の艤装は常に最良の状態に保たれ、日常の点検の他、専門の整備職が管理をしている。艦娘の海上拠点となる母艦はガスタービンエンジンを搭載し、特に艦娘の燃料や弾薬はほぼ常に入れっぱなしになっている。一度出港したら洋上での再補給が必要だが、全通甲板を持つ「硫黄島」ならそれも難しくはない。

 現状で何週間も継戦するのは困難だが、手痛い一撃を食らわして敵の出鼻を挫くには十分過ぎる戦力だ。

 

 

 

「敵は方位90。真っ直ぐ東。発艦準備が整い次第報告せよ」

「こちら赤城。了解です」

 

 オペレーターに返事し、赤城は空を見上げた。

 雲が多い。一抹の不安を抱く。

 空は一面灰色の重そうな雲に覆われて視界が悪い。雲上から襲って来られたら目視で発見するのは不可能だろう。

 いくらサポートが充実しているからと言って、機械に索敵を任せきりにしたくはない。それは別に機械の力を信用していないからというわけではなく、ただ単純に自分の目と、目に繋がった艦上偵察機によって確かめなければどうにも不安だからだ。もちろん現代のレーダーは非常に高性能だし、艦載機による索敵でも見付けられなかった敵を発見することもあり、その力は信用している。要は、赤城の頭が古いということなのだろう。事務仕事をやっていても、相手に何か要件を伝える時にメール一辺倒ではなく、ちゃんと電話を掛けて口で伝達しないと気がすまない質なのである。

 

 程なく赤城はオペレーターに報告を入れた。発艦準備と言っても、陣形をそれまで単縦陣で進んでいたのを輪形陣に変え、彼我の位置情報から攻撃可能時間や移動距離などの諸々の計算をしていたくらいである。今回は防空戦も想定して艦戦を多めに搭載して来ていたので、打撃力はそれほどでもない。

 

「第一次攻撃隊、発艦します!」

 

 号令を合図に、加賀と二人で攻撃隊と護衛の戦闘機隊を空に打ち上げていく。

 

「敵の動向は? 発艦の兆候が見られるようなら、このまま直掩機も上げたいのだけど」

 

 と、加賀が進言する。

 

「いや、敵艦隊に動きはない。まだいい」

「動きがない……?」

 

 聞き返した加賀の声に不審の色が混じる。

 考えていることは一緒だ。赤城も今のオペレーターの回答が不審なものであるという感想を抱いた。彼自身のことではなく、純粋に彼が言った内容について。

 敵は索敵をしていないのだろうか。これだけ無人機が飛び回っているのに、敵の索敵機とは遭遇しないのだろうか?

 確かに、高性能なレーダーで索敵出来る味方の方が深海棲艦より優位である。敵もあれでレーダーを装備していたりするのだが、さすがに合成開口レーダーや早期警戒機といった最新装備で警備する海軍の索敵能力には数段劣ってしまう。故に、深海棲艦の隠密行動といえば潜水艦よろしく潜行以外にない。海上に出て活動を始めた場合、ほぼ間違いなく軍の索敵網のどこかしらに引っ掛かってしまうのだ。

 そうは言っても、現在捕捉中の敵艦隊は発見されてから時間が経っているし、昨晩からずっと無人機が張り付いて追跡している。その無人機が追い払われたり撃墜されたという情報はないが、連中は人間に追跡されていることに気付いていないのだろうか。

 それはそれで赤城にとっては都合が良いのだが、あまりにも上手く行き過ぎると逆に不安になってくる。

 

 

 これは、何かの罠ではないか?

 深海棲艦の知能は一般に低いが、中には人間並みの者も居る。昨年の駆逐水鬼討伐戦で判明した通り、中には“元艦娘”の深海棲艦も存在するわけだから、人間のように緻密な戦術や戦略を組み立てられる頭のいい敵が居ても不思議ではない。

 

 しかし、赤城たちの警戒とは裏腹に状況は気持ち良く進んだ。

 発艦した攻撃隊は結局直前まで敵に気付かれることなく接近し、そのまま迎撃態勢の整わない敵艦隊を蹂躙する。元々の艦攻の数が少ないから撃沈多数とはならなかったが、主力であろう空母を中破させて無力化したのは大きい。航空戦力を喪失した敵艦隊なら、後は戻って来た攻撃隊を再出撃させてじっくり叩けばいい。

 一発で空母を潰せて運が良かった、というのが正直な感想。

 

 ようやく昼と夜の時間が同じくらいになってきた三月。冬と違ってゆっくりと太陽が傾き始めたころに攻撃隊が戻って来た。

 その収容を終えてほっと一息ついたその瞬間だった。

 

 

「Warning!! 五時の方向から魚雷接近!!」

 

 

 突然インカムを震わせる金剛の怒声。年相応に落ち着いて滅多に怒鳴らない彼女なだけに、突然の大声に赤城の背中が跳ねた。

 金剛は輪形陣の最後尾に陣取っている。だから、背後から狙い撃たれた魚雷に彼女だけが気付いたのだ。

 

 だが、その時にはもう遅い。

 赤城の右隣で爆音が轟く。自分の身長より数倍高い巨大な水柱が真横で立ち上がり、すぐに礫のように水飛沫が頭上から降りかかる。

 

「加賀さん!?」

 

 果たして、命中弾を受けたのは相方であった。

 水柱が収まったそこには、加賀の姿がある。

 

 直撃だ。「女神の護り」が効いたのか、あれほどの爆発でも死ぬどころか五体満足だが、その姿は最早健在とは言い難い。

 魚雷をまともに食らったのだ。彼女は立って航行も続けられているが、意識が飛ばされてしまったのか朦朧とした様子だった。主機にダメージが入って速力も落ち、艦隊から落伍し始めている。已む無く艦隊の速度を減速させる。

 

「潮! 追い払って!!」

 

 曙の怒号が飛ぶ。現在艦隊の中で対戦装備を搭載しているのは潮だけだ。加賀の右隣に位置取りしていた潮が艦隊から離れていく。

 

「状況を報告せよ」

 

 次いで慌てたようなオペレーターの声。突然の事態に、彼も動揺している。

 落ち着かなければならない。こういう時こそ、旗艦である自分が動じてはならないのだ。

 そう、自分に言い聞かせて、赤城は努めて冷静に応答する。

 

「こちら赤城。加賀が大破しています。現在我が艦隊は敵潜水艦の襲撃を受けています! 撤退の許可を!」

「了解した。北西へ退避せよ」

 

 オペレーターの代わりに答えたのは提督の加藤だ。

 判断はやけにあっさりしているが、基本的に大破艦が出たら撤退する。これはどこの鎮守府でも、どの艦隊でも、そしてどんな作戦中でも同じだ。彼の判断は間違っていないし、だから赤城もすぐさま北西への転針の合図を出そうとした。

 

「敵潜水艦より第二射接近中!」

 

 潮の警告に再度体を強張らせる。

 

「回避! 回避!」

 

 曙が叫びながら雷跡に向かって主砲を放つ。

 だが、そんなものは気休めでしかない。艦隊の面々は一斉に迫る魚雷に背を向けるように回頭する。

 シュッ、シュッという水を撹拌する不気味な音が脇を通り過ぎた。

 

「加賀の容態は!」

 

 加藤の問い掛けに、赤城はもう一度加賀を見る。

 一見すれば彼女は立って航行できているからどれほどの損害を受けているのか分かり辛い。しかしそれは、艦娘が艤装から受ける「女神の護り」の効果によってなされているものにすぎない。ほとんど意識を喪失した加賀に代わり、艤装の方が自動で航行とそれに必要な姿勢保持をしているだけだ。赤城が加賀の状態を「大破」と言ったのは、彼女が自分の意志で艤装を制御出来る状況ではなくなったからである。

 破片は装甲によって弾き返されたから外傷は目立っていない。だが、被弾の瞬間彼女の体を貫いた強烈な衝撃は確実に脳にダメージを与えている。

 

「出血は軽微ですが意識がありません。脳挫傷の可能性があります!」

「まずいな。とにかく早く帰って来い。増援の部隊も出撃している。急がせるから諦めるな!」

「了解!」

 

 そうだ。まだ加賀が大破しただけだ。味方は他にもたくさん居る。

 想定外の事態に赤城の胸が苦しくなるが、思っているほど状況は悪くない。今のところ潜水艦だけが脅威だし、味方の庇護下に入れば取り敢えずのところは一安心である。

 悪い方に考えすぎることはない。

 自分にそう言い聞かせる。けれど、どうしてか不安が拭い切れない。

 

 

 

 程なくして大きな爆音がした。

 

「敵潜水艦を排除しました!」

 

 喜色ばんだ潮の声が耳に入ってくる。

 

「上々ね。すぐに艦隊に戻って来て下さい」

 

 脅威が取り除かれたことに、赤城は胸を撫で下ろす。後の心配事は、ほぼ加賀の容態だけとなる。

 

 

「……あ」

 

 無線を通して微かに聞こえたかすれ声。

 

「……あかぎ、さん」

「加賀さん!」

 

 どこか浮ついたような相棒に名前を呼ばれて咄嗟に振り返る。加賀は相変わらず脱力したような不自然な姿勢で(そうなるのは艤装が無理矢理彼女を立たせているからだ)、けれどもゆっくりと首を動かして赤城の方を向く。

 

「加賀さん、聞こえますか?」

「はい……」

「大丈夫ですか? どこが痛いですか?」

「……足。あと、全身……」

「頭は? 頭はどう?」

「そっちは、大丈夫。多分、脳震盪で、気を失ってただけ」

 

 予断は許さないが、しっかりとした加賀の返答に赤城は安堵した。足を中心に骨折や打撲はあるだろうし、中枢系の損傷も詳しく診てみないことには素人に判断出来るものではないから安心し切ることは出来ないが、意識を取り戻したというのは大きい。やはり、何をするにも自分の意志で艤装を操らなければならないからだ。

 

「現在、私たちは北西方向へ退避中です。『硫黄島』が迎えに来てくれています。増援部隊も既にこちらに向かっています。加賀さんは敵の潜水艦からの雷撃をもらってしまったんですよ。でも、その敵は先程排除出来ました。あとは、このまま母艦に戻るだけです」

「……そう」

 

 赤城が状況を説明しても、加賀の返事は短かった。

 様子を見るに、だいぶ具合が悪いのだろう。下半身を中心に痛みを訴えて、余裕はなさそうだった。

 モルヒネでもあれば良いのだが、艦娘艦隊に衛生兵など居ない。衛生用品も、「女神の護り」任せにしているから持ち出して出撃することなどまず滅多にない。加賀には悪いが、しばらくの間は痛みに耐えてもらわなければならなかった。

 

「赤城さん……」

 

 ところが、加賀は相棒を呼ぶ。

 相当辛いであろうに、一体何を話そうというのだろうか。余程重大なことだと思い、赤城は耳を傾ける。

 

 

「……運命って、信じる?」

 

 

 こんな時に、彼女は何を言い出すのだろう?

 

 

 赤城は思わず我が耳を疑い、次いで加賀の正気を疑う。被弾の衝撃でちょっとおかしくなったのだろうか?

 

「何の話ですか?」

「運命、が、もし見えたら……」

 

 しかし、加賀は思いの外強い調子で赤城の言葉を遮った。

 その気迫に押される形で閉口する。

 

「こんな、ことにはならない。彼女は、目の前の運命を、見ることが出来て、だから海中からの奇襲も、知り得た……」

 

 加賀の言わんとしていることが分からない。

 “彼女”とはレミリアのことだろう。確かにレミリアは未来予知でもしているかのように深海棲艦の奇襲を言い当てた。ヲ級改の時に一回、そして赤城は聞いただけだが、南方での作戦の時にも駆逐水鬼の攻撃を予知したらしい。

 それが、加賀の言うように運命を見ること云々に繋がるのかもしれない。

 だが、それは今この状況で話さなければならないことだろうか?

 

「加賀さん、苦しいんなら黙って……」

「罠よ!」

 

 今度は叫んで遮る。

 その反動で痛みに顔をしかめる加賀を、赤城は何も言えずに見詰めるしかなかった。

 

「……これは、罠よ。さっき、気を失ってる間に、運命が、見えたの。これは、敵が仕組んだ罠。まだ、安心しちゃいけない……」

 

 

 

 

「ああ、そうだな」

 

 絶句する赤城に代わり、加賀の言葉に答えたのは加藤であった。

 しかし、無線越しに聞く彼の声は、いつものような張りや、あるいは生気が抜けてしまっているような気がした。

 

「赤城、端末を見ろ」

 

 そう言うので、赤城は手首に巻き付けられた情報端末の画面を見下ろす。

 そこには無人機や艦隊の他の艦娘が探知した敵の情報を合成して表示されている。デフォルトでは画面の背景は濃緑色なのだが、今は様子が異なっていた。

 

 先程までとは違う。敵の存在を表す白い光点が、ここより凡そ東の方向に無数に表示されているのだ。

 

「敵艦隊出現だ。この現れ方だと、海中から浮上して来たな」

 

 人は、あまりにも悪い事態に直面すると、思いの外取り乱さないらしい。

 そんな、知りたくもない知識が増える。

 加藤は落ち着いていた。何故なら、彼はもはやどうにもならないことを理解していたし、取り乱す気力も失せてしまっていたから。

 どうしてそんなことが分かるかと言えば、もちろん赤城も同じ精神状態になったからだ。

 

 敵艦の白い光点からさらにモヤのようなものが広がる。言うまでもなくこれは、敵の艦載機である。

 

「Holy Shit!! 航空戦用意!!」

 

 金剛が口汚く罵る。彼女がそう言いたくなる気持は痛いほど分かった。

 戻って来た潮も合わせて、艦隊は再び輪形陣に戻り、随伴の四人は主砲を空に向ける

 敵の正体は不明だが、ヲ級クラスの敵ならなんとか攻撃を凌げるかもしれない。轟沈寸前の加賀に着弾しなければそれで良い。

 しかしながら、彼女が見たという運命は赤城の想像を遥かに超えた、非常に残酷なものだった。

 

 

 

 

 

 声が聞こえた。

 

 深海棲艦の声。

 

 艦娘を水底へと誘う亡霊の声。

 

 

 

 

 

 

 

 

「久シブリダナ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故だろう。どうしてだろう。

 いや、答えは決まっている。すべては仕組まれていたのだ。

 最初の敵艦隊は釣り餌だった。それを叩いて満足しているところに、足元から潜水艦が奇襲する手筈だった。実際、それは成功した。

 魚雷の威力も、堅牢な正規空母を一撃で大破させる威力だったのだから、敵はおそらくフラグシップクラスの潜水艦だったのだろう。

 ほうほうの体で鈍足な損傷艦を引き連れて逃げる赤城たちは奴らの格好の餌となる。

 

 そう。すべてはあいつが仕組んだ罠。

 かつて、一度だけ刃を交えたことのある強敵。

 最近ちらほらと姿を見せるようになって軍としても警戒していたところだった。だというのに、このザマである。あいつは相当に頭がいいのだろう。

 まさか、こんなふうに嵌められるとは思わなかった。

 

 でも、何も、今じゃなくていいじゃないか。お前じゃなくていいじゃないか。

 

 

「何でお前なのよ!?」

 

 

 赤城は叫んだ。この声が聞こえたかは分からない。

 ただ、どこからか嘲笑うような声が虚空に反響する。

 

 

 

「空母……水鬼……ッ!!」

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 深海棲艦の分類に「水鬼」というカテゴリーが作られたのは比較的最近のことだ。

 それまで最高クラスだった「姫」を超える存在としての意味である。「姫」よりも堅固で、より高い破壊力を持ち、より大規模な艦隊を統制出来る指揮能力を持つ者。それが「水鬼」という深海棲艦だ。

 空母水鬼は文字通り、数ある空母系深海棲艦の頂点であり、MI作戦で赤城たちを苦しめた空母棲姫を凌駕する最強の空母だ。棲姫を超える膨大な数の艦載機を操作し、生半可な攻撃では傷一つ付かない堅牢な装甲を備える。従える野獣のような艤装(このクラスの深海棲艦になると艤装の一部が分離独立している)は今まで見たこともないほど巨大なもので、彼女はその上に悠然と腰掛けている。

 

 想像以上の強敵。

 

 突如現れたそれに対して、為す術はなかった。精々、防空用の直掩機を上げるくらいだが、それも焼け石に水のような気がしてならない。

 先の海戦の時と同じく、負傷して戦えない加賀が自分の矢筒を赤城に渡してくる。前回はこれで航空戦力の数的不利を覆したが、今度の相手は空母水鬼で、ヲ級改などとは次元の違う存在だ。

 まして、前回のように艦載機の同時制御数の限度を超えたために失神するようなことがあれば、それこそ艦隊の全滅も有り得ることである。取り敢えず矢筒は預かったものの、使うかどうかは未知数だった。

 せめて加賀が健在であればと思うが、それもないものねだりというか、そもそも敵潜水艦の狙いからして空母だったのだろう。完全に敵の手の平の上で踊る道化になっていた。

 

 無線の向こうでは味方が激しくやり合っている。主に「硫黄島」の加藤やオペレーターが他所の部隊にありったけの増援をすぐにでも連れて来いと命じているようだ。ただ、位置関係からどう考えても増援が到着する前に敵の攻撃隊に襲われる。

 端末の電探画面上では、発艦した敵艦載機隊を示す白いモヤが三つに分かれていた。赤城たちの後ろ、六時方向から来る一派と、五時、七時方向の進路を取るのがそれぞれ一派ずつ。敵は完全に飽和攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。何百機居るかさえ分かったものではない。少なくとも、赤城が打ち上げた直掩機の数倍の数なのは間違いない。

 

 自分が生き残れるビジョンが見えなかった。

 だから、赤城は一言だけ無線に吹き込む。

 

「皆さん、覚悟してくださいね……」

 

 誰もが承知している。皆、決して口に出して言わないが、寮の自室の何処かに、ある日突然このような事態に直面してもいいように遺書を書き残しているはずだった。もちろん赤城もそうである。果たしてそれを残す相手はもう顔も忘れた両親くらいしか居ないけれど、せめて自分が戦った痕跡を残したくて遺書を書いていた。

 今まで運良く生き残ってこれたので遺書はただの紙切れでしかなかったのだが、今日こそその遺書が遺書たる意味合いを持つようになる日かもしれない。

 

「『硫黄島』直衛の四人も出撃させた。合流次第海上で連合艦隊を編成し、艦隊防空に努めよ」

「了解です」

 

 加藤は「硫黄島」を守っていた木曾と川内、舞風と野分の四人も出したようだ。最も近い増援と言えば彼女たちのことだが、肝心の航空戦力の補強がないのであれば心許ない。

 敵艦載機隊は刻一刻と近付いて来ていた。赤城は直掩機を上昇させて高度の優位を取る。せめてもの対策だった。

 

「敵発見しました!」

 

 輪形陣の左を守る漣が、自分の斜め後ろの上空を指しながら叫ぶ。

 つられてそちらを見上げると、確かに灰色の雲に黒胡麻を撒いたような粒が見える。あれだけでも百は下らない数だろう。

 

「ちょっと、大盤振る舞いしすぎじゃないかなぁ」

 

 と、漣は呆れたように呟いた。

 

「気合い入れなさいよ。ここまでやってくれるなんて、逆に名誉なんだからね」

「曙はポジティブだね。ま、やるけどさ」

 

 次いで上空の艦載機から情報が送られて来る。雲の上にも敵編隊を発見したようだった。

 

「来ますよ。全艦、交戦開始!!」

 

 戦いの幕が切って落とされる。

 

 

 

 

 

 

 初めは熾烈な航空戦。上空では翼と翼がぶつかり合い、火花を散らし、血飛沫の様な紅蓮を噴き上げて堕ちてゆく。

 しかし、直掩機だけでは攻撃を防ぎきれない。

 穴だらけの防空網を突破し、歪な形の敵機が襲い来る。

 

「回避! 回避!」

 

 誰かが絶叫している。

 陣形も何もあったものではない。無我夢中で回頭する赤城の直ぐ側に高い高い水柱がそそり立つ。

 敵機は四方八方から押し寄せていた。空を見上げれば、流体力学を無視した不気味な形の深海艦載機ばかりが飛んでいる。味方機はどこに行ったのかと探すが、視界に映る範囲には居なかった。それでも赤城は自らの子供とも言える彼らとは意識が繋がっているので、見えないところで彼らも奮戦しているのは感じていた。

 

 あまりにも敵の数が多すぎて判然としないが、どうやら狙いは赤城と加賀らしい。そりゃそうだ。大物から狙っていくだろう。

 だから、赤城は必死で動き回っていた。出来るだけ元気に見えるように動いた。

 何故なら、赤城はまだ一発も被弾していないのだ。二、三発くらったところで沈みはしない。

 だが加賀は違う。彼女はあと一発でも被弾すればすぐにでも沈んでしまいそうな深手を負っている。

 随伴の四人も、赤城を追随していた。激しく転進する艦隊運動の中でも、手慣れた彼女たちは効果的に弾幕を展開している。針路が変わっても射線が被らないように互いを見ながら阿吽の呼吸で調整を繰り返し、極力穴が開かないようにする。口で言うのは簡単でも、実際にやるにはベテランの業が必要だ。

 

 

 攻撃が始まって体感的に十五分は経過しただろうか。

 これだけの数だ。敵機が爆弾や魚雷を一通り投下し終えるにも結構な時間が掛かるだろう。果たしてそれまで保つのだろうか。

 戦場の海は歪な翼が奏でる耳障りな風切音と、聴覚がおかしくなりそうな対空砲の射撃音に包まれている。それに混じって、時折腹に響く轟音が轟く。

 

「Yes! Bandit down!」

 

 無線を通して軽やかな英語が聞こえる。背後を守る戦艦の主砲が敵機を弾き飛ばしたらしい。大口径主砲で敵を撃墜出来るのは世界広しと言えど彼女くらいなものではないだろうか。

 

 と、自分の目の前を黒い塊が横切る。

 敵の艦攻だ。防空網を突破して陣形の中まで突っ込んで来た。ただし、問題はそこではない。

 

「二時に雷跡! 回避して!」

 

 曙の叫ぶ通り、赤城は自分に向かって来る数条の白い線を海面に認める。

 咄嗟に舵を切った。艦船より余程小回りの効く艦娘ならではの動き。雷跡と雷跡の間に身を滑り込ませるようにして回避する。

 だが、ほんの一息も吐く暇はない。今度は別方向からの艦攻の肉薄。

 

「右! 接近して来ます!」

 

 敵機は悲鳴を上げながら対空砲を振り回す潮の肩を掠め、猛スピードで海面スレスレを飛びながら突入して来る。

 その機体にはもう魚雷は下げられていない。だというのに、まるで自爆特攻するようにまっすぐ赤城に向かって来るのだ。

 誰かが放った高角砲弾が敵機の目の前で爆発、黒い煙の塊が中空に現れた。それを食らったのか、バランスを崩した敵はそのまま波間に突っ込んで水柱を立てる。

 その影から、白い雷跡。

 

 当たる、と思った。

 

 自分が何をしたかも自覚出来ないような刹那、かかとを踏み込んでスクリューを沈める。当然推力は上へ向き、波に乗る赤城の体を中空へと持ち上げる。

 膝を畳んで、わずかな間、海面から完全に足を離した。

 その瞬間、獲物を喰らい損ねた魚雷が真下を通過していく。

 

「はは……」

 

 思わず笑いが漏れる。

 この手の身軽な動きは軽快な小型艦艦娘が時々見せるが、正規空母のような鈍重な艦娘が行うものではない。艤装の重さが違うのだが、まあ四の五の言っている場合ではなかったのだ。

 敵の雷撃は、しかしそこで一瞬途切れる。

 意図して出来たものではないだろう空白。肺に溜めていた空気を吐き出すしか出来そうにない束の間。

 

 加賀のことが気になって振り返る。

 彼女は再び落伍し始めていた。主機にダメージが入っていてどうあっても 速度が出ないのだ。

 先程までは艦隊の速度を落とすことで彼女に合わせていたのだが、この空襲下にあって速度を落とすことは自殺行為に等しい。結果、付いて来れない加賀が遅れ始める。

 それでも彼女は懸命だった。

 「女神の護り」は痛覚を遮断するものではないから、今現在彼女の全身を激痛が襲っているだろう。常人なら呻き声をあげて動けなくなるくらいの痛みに違いない。それは、いつも以上に強張って土気色に変色したその顔が明瞭に物語っている。

 モルヒネはない。ちょっとでも身をよじれば電流のように痛みが身体を駆け巡る。そんな状態にあって、彼女は自身の速力を自覚し、空を注視し、ギリギリのところで魚雷や爆弾を回避している。もはや碌に効かなくなった舵を必死で切り、転回方向に身体を倒して何とかまともに旋回している。だが、そうした動きは刻一刻と彼女の身体を蝕んでいくだろう。筋肉や骨格、関節を破壊していくだろう。

 それでも、直撃を食らうよりは遥かにましだ。次の被弾は轟沈を意味している。

 

 そんな加賀のフォローに入っているのは金剛だった。

 身を守ることさえままならない彼女の代わりに、長大な主砲と大型艦故の補助兵装としての針山のような機銃を絶えず射撃して敵を近付けんとしている。

 奮戦、というにふさわしい。

 持てる力のすべてを、出し得る技量のすべてを、金剛は護るために振るう。

 

「敵機、直上!」

 

 空を見上げていた加賀が叫ぶ。

 頭上は死角だ。特に今日のような雲底の低い日は。

 だからこそ、赤城も急降下爆撃を警戒して直掩機を艦隊の直上に配置した。しかし、数に優る敵はその盾さえ突破して来る。

 空から落ちる黒い塊。

 

「回避してッ!」

 

 悲鳴のような声は裏返ってひどく甲高い。

 加賀が左に転舵する。身体を倒して、水面に着くんではないかというほど倒して。

 

 だが、間に合わない。

 

 

 

 瞬間、爆音。

 盛り上がる紅蓮の炎。その中に加賀の姿が包まれる。

 

 

「加賀さん!?」

 

 助けに行こうとする。足は無意識に彼女の方向を向いていた。

 炎は黒い煙へと姿を変え、ゆっくりと上空へ昇ってゆく。悪魔の口から吹き出したようなどす黒い爆煙に、最悪の可能性が脳裏をよぎる。

 

 すわ轟沈かと手を伸ばした赤城の先、煙の下に居たのは加賀ではなかった。

 

 

 

 

「金剛さん!!」

 

 加賀を庇って被弾したのは金剛。

 お陰で加賀は何とか無事だ。否、無事と言えるような状態ではないが、少なくとも沈んではいない。

 

「Ahh!」

 

 無線からかすかな呻き声が聞こえた。

 

「大丈夫ですか?」

「Yeah! 中破で済んだワ」

 

 煙を突き破って戦艦が再び姿を現す。さしもの堅牢な金剛と言えど、爆弾の直撃を食らっては無事では済まなかったらしい。

 ピカピカに磨かれていた装甲は黒く煤で汚れ、主砲塔の二つは割れてしまっている。金剛自身も怪我が酷く、頭から出血している。けれども、彼女は笑って親指を立ててみせた。

 

「そんな簡単にワタシがやられるわけないデショ!」

「そう、ですよね」

「さ、行きましょう。まだ空襲中ヨ!」

 

 そうだ。ゆっくり喋っている場合ではない。

 空にはまだまだ無数の敵機が飛び交っていて、爆撃を続けようとしている。

 気を抜いてはならない。

 何も終わってはいない。

 

 

 

 そう、自分に言い聞かせた時だった。

 

 耳元を、蚊の羽音のように不愉快な音を立てて黒い塊が通り過ぎた。

 一瞬、それを目で追う。

 所謂、新型機と呼ばれる敵機で、バスケットボール大の白い球体に目と口がついている異形の航空機だ。今通り過ぎたのは、確かよく魚雷をぶら下げている艦攻だったと思う。

 

 雷撃が来る。

 振り返った視界の隅で、

 大きな水柱が立った。

 

 思いの外近い其処には、誰が居ただろうか? 魚雷は、誰に当たったのだろうか?

 

 水柱の中に、青い袴と長弓が見えた。

 悲鳴は出なかった。赤城の口からも、金剛の口からも、彼女の口からも。

 

 爆発の衝撃で、何かが飛び出した。

 それは偶然、赤城のすぐ傍に墜落する。

 

 

 

 艦娘には「女神の護り」という特殊な加護があって、それさえあれば爆撃を受けても砲撃を受けても、普通なら身体が四散するような衝撃であっても、精々が重傷で済む。これはどんな時も艤装を着けている限り艦娘を護るが、一つだけ例外があり、大破した時のみその効果が薄まってしまう。だから、大破した艦娘が強い衝撃を受けると普通の人間と同じように肉体が破壊されてしまうことがある。

 大破時の被弾。 轟沈の原因は今のところすべてこれだ。

 故に、艦隊に大破艦が出た場合には即座に撤退が命じられる。艦娘の命は無理して喪うにはあまりにも貴重過ぎるから。

 しかしながら、もし撤退中に追撃を受けたなら、そしてその時に直撃弾を受けたなら、その艦娘の死は不可避となる。

 人体が間近で爆圧を受ければ強度的に弱い関節部を主にしてバラバラに分離してしまうように、その艦娘も見るも無残な状態になってしまう。

 

 

 今、赤城の目の前に落ちた“それ”もそうだった。

 

 

 

 

 見慣れた人の顔がある。不自然なほど低い位置に、つまりは海面に浮いている。

 

 薄茶色の瞳からは生気の光が失せていて、空っぽのガラス玉はただ鈍色の空を反射しているのみ。波間に漂うその体は、腰より下がない。

 海水に赤黒い何かが広がっていく。すらりとした左右の腕も、片方は肘から先が、片方は肩から、千切れてなくなってしまっていた。断面からはやはり赤い液体が海を汚し始めていた。

 

 

「加賀……さん……?」

 

 

 行き過ぎて、慌てて舵を切って戻る。

 助け起こそうとして手が宙を掠めた。

 もうその時には、浮力を失った“それ”は沈んでいたから。

 

 主機を止める。その場にうずくまって、海の中に両手を突っ込んで沈んだ彼女を掴み取ろうとする。

 けれど、どこまでも重い塩水しか触れない。

 彼女の身体から漏れ出た赤い重油が海面を漂うだけで、もはや影も形もない。

 それでも、彼女を助けようとして手を伸ばした。

 

 

 誰かに、肩を掴まれて引き上げられる。

 

 誰が? 誰が邪魔をするのだ!?

 

 

 

 

 

 

「赤城ッ!!」

 

 その瞬間、音が戻って来る。

 すぐ近くで轟音が鳴り響き、全身を震わせた。

 

「早く!」

 

 手を引かれて動き出す。焦げ付いた栗色の髪の毛が前を走っている。

 

「加賀は死んだわ! 早く逃げて!!」

 

 金剛だった。

 金剛は赤城の手を引きながらぐいぐいと進み出していた。

 

「あ……、かが、加賀さん! そう、加賀さんが被弾したの! 早く曳航の準備をしなきゃ。金剛さん待って下さい」

「違う! 加賀はもう駄目!」

 

 視界に曙の姿が映った。彼女も心配して駆け付けてくれたのだろう。

 ちょうどいい。曳航は駆逐艦に任せてしまおう。

 

「曙、加賀さんを曳航してあげて。すぐに!」

 

 すると、一瞬曙は彼女らしくない、泣きそうな表情を見せて首を振る。

 

「曙! 早くしなさい! 旗艦命令よ!」

「加賀さんは……」

「赤城ッ!! いい加減にしなさいッ!!」

 

 怒鳴られた。

 また金剛が、それこそ阿の形相で怒鳴っている。

 

「加賀は沈んだの! 轟沈よ! 轟沈が出たのヨ!!」

「……」

「上よッ!!」

 

 言葉を受け入れられぬ内に遮られる。今度は曙の悲鳴だった。

 反射的に上を見上げる。

 

 自分に向かって来る黒い粒。その大きさは変わらない。

 見かけの大きさが変わらない爆弾は、当たるのだという。外れコースに入っている物は逆に徐々に大きく見えるそうだ。

 

 

 だから、当たるなと思った。

 

 

 

 

 

 

 意識が途切れる。

 同時に何十本もの金槌で頭を叩かれたような衝撃だった。

 体が宙に浮くのを感じる。巨人に掴まれて放り投げられたように自由が効かない。

 けれど、それも瞬きする間もない短い時間。

 次には何か硬いものに身体が叩きつけられていた。ごりごりと骨が砕けるような不気味な感触が響いてきた。

 視界が激しく明滅し、やがて身体の動きが止まったのか白い泡に包まれる。

 泡だらけで何も見えない。全身が持ち上げられる感触がして、視界が明るくなった。

 意識が朦朧としている。目の前が白っぽくなって何も見えない。

 少し、その感覚が心地良いと思った。このままこうして寝ていたいと思った。

 すぐに、激痛に意識が叩き起こされるのだけれど。

 

 

「っあ!」

 

 全身を駆け巡る悍ましい激痛。身体が引き裂かれるのではないかと思うほどの猛烈な痛み。

 思わず身体を丸めて、さらなる痛みに声なき声を上げる羽目になった。

 

 状況は明確だ。

 間違いなく直撃弾。長い艦娘歴の中でもここまで手酷くやられたのはほんの一回か二回だったはずだ。あまりにも全身が痛いので、どこに被弾したのかさえ分からない。恐らくは爆轟の衝撃波に晒されて身体の奥深くまでダメージが浸透したのだろう。

 こんなに痛かったっけと、意識がどうでもいいことを思い出そうとする。そうでもしなければ気がおかしくなりそうだった。

 ただ、この痛みは赤城の頭を覚醒させるには十分な作用をもたらす。現在は目下空襲中で、呑気に痛みに呻いている場合ではないのを思い出す。呆けてこのまま海に沈めば肉体の損傷で死ぬ前に溺死してしまうだろう。艤装だってどうなったのかはすぐに分からない。

 

 慌てて立ち上がろうとする。

 脚が火を吹いているように痛い。歯を食いしばって無理矢理にでも身体を起こした。

 

「くっそ……」

 

 思わず下品な悪態を吐いてしまう。

 こんなことを言っていたら相棒にまた窘められてしまうだろう。

 

 

 ……相棒?

 

 

 

 

 

「マズハ、一人」

 

 

 どこか遠くから、けれどもすぐ耳元で囁かれているような声が聞こえる。不自然なエコーがかかった不自然な声。人間のものではない。

 深海棲艦の声だった。

 一部の深海棲艦は人間の言葉を話すことが出来て、一応意思疎通も可能だ。それが相互理解に繋がった前例はないが、相手の声が聞こえれば相手にもこちらの声が聞こえるらしい。それは一種のテレパシーのようなものだと解釈されていた。

 今の声は空母水鬼のもの。

 赤城も以前戦った時に聞いたことがある。同じ個体なのだろう、同じ声である。

 

 

 

「悪魔ノ手下。次ハ、オ前ダヨ」

 

 

 次は?

 

 

 次があるなら、前もあったはずだ。

 

「お前、何を……」

「加賀ハ沈メタヨ」

「加賀……」

 

 

 赤城は天を仰ぐ。

 声の、その音源を探るように。

 空は相変わらずの曇り空で、鉛色の雲が途切れることなく水平線まで覆っている。

 もちろん、雲の上の太陽も青空も見えない。

 

 そうだ。それは分かる。

 

 こんなことあり得ないのは分かっている。

 

 きっと、目に血でも入ったのだ。それで、こんな風に見えるのだ。

 

 

 

 ――空の全てが赤く染まっている。

 

 

 

 

 天上には雲に遮られて見えぬはずの月が、血のような真っ赤な月が浮いている。

 声は相変わらず響いていた。

 まるで、冥土へ誘う死神の声のように。

 

 

「赤城、オ前モ沈メ」

「……ぃ」

「諦メルンダナ。モハヤ、逃レル術ハ無イ」

「……さいッ!」

「サア、コッチニ来イ。赤城」

「うるさいッ!!」

 

 弓を取る。左肘からごりごりと何かがぶつかりあうような不愉快な感覚が伝わる。

 矢筒に右手を伸ばした。思う通りに動かない。それでも力任せに動かすと、今度は矢を取り落としそうになった。人差し指と中指で引っ掛けるようにして何とか弦まで矢を持っていって番える。

 するとどうだ。まったく右腕に力が入らないので弦を引けないではないか。仕方がないので、弦と矢筈を一緒に口で咥え、首を伸ばして弓を引く。途中、背中の方からメリメリという不気味な音がしたが構いはしなかった。

 ふっと息を吐いて矢を離す。案の定力の入っていない矢は碌に飛ばなかったが、重要なのは飛距離ではない。空母娘が、艤装の長弓を使い、艦載機の矢を番えて射出するという動作なのだ。

 矢は三機の艦攻に分かれる。先程敵の囮艦隊を粉砕した赤城の牙。村田隊だ。

 同じ動作を繰り返し、赤城は次々と矢を放ってゆく。その度に身体の至る所が軋み、関節が潰れ、骨が砕かれ、筋肉が破断する音がしたけれど、やっぱり構いはしなかった。今ここで自分の体がどうなろうとも知ったことではない。

 

 ここで使い物にならない身体など要らない。

 赤城は矢を放ち続けた。射ち尽くすまで。

 そのすべてが艦攻だ。

 無論、狙いはただ一つ。

 

 艦載機に編隊は組ませない。先に発艦したものから順次上昇させていく。

 矢を射ち尽くすと、今度は直掩機に指令を出す。空戦に次ぐ空戦ですっかり消耗し切ってもう数えるほどしか残っていない艦戦隊だけれど、すべての防御を捨てて艦攻の護衛につくように命じた。

 もちろん、彼らには帰りの燃料はない。残弾も殆ど残っていない。それでも、艦攻には護衛が必要だから無理にでも命令する。

 

「赤城! 何しているんだ!? 被害報告を先に行え!」

 

 無線の向こうで加藤が喚いている。

 彼だって動揺しているのだろう。だから、そんな“つまらない”ことを言うのだろう。

 

 ああ、彼女だったら「行け」と言っただろうに。

 

 今は居ない小さな少女を想起し、赤城は口元を釣り上げた。

 防水性抜群のインカムは生きている。無線はまだ使えた。

 

 

 だから――。

 

 いつも通り、冷静沈着な一航戦の旗艦を装い、はきはきと明瞭な言葉で宣言する。

 

 

 

 

「第二次攻撃隊、全機発艦!」

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 海戦の間に、いつの間にか彼我の艦隊の距離は接近したらしい。というより、海面をのたうち回る艦娘艦隊に敵が追い付いたと言うべきか。

 もはや、敵の姿は水平線の上に現れて目で捉えることが出来ていた。

 それ故、こちらからの攻撃隊の到着も早い。

 一旦上昇した村田隊はそのまま急降下爆撃を敢行するように魚雷を抱えたまま一気に高度を落とす。

 

 当然、敵の迎撃は熾烈だ。なにせ、今も赤城たちを襲う攻撃隊を除いても十分な数の直掩機を出せるくらいなのだ。肉薄する村田隊を認めた敵艦隊の中心から、黒いモヤのようなものが立ち上がった。その一つひとつが敵の迎撃機である。

 そして、そのモヤの根本に仇敵が居る。

 艦載機を通して送られてくるビジョンに意識を集中させた。敵の攻撃は続いているが、被弾など怖くなかった。

 ただただ、あの敵を沈めることだけが頭を占めている。

 

 加賀を沈めた、あいつを。

 

 

「コノ期ニ及ンデ、往生際ノ悪イコトダ。イイダロウ……相手ヲシテヤル」

 

 敵は尚も悠然と構えていた。

 圧倒的優位な立場から、這い回る蛆虫を見下ろすように。それどころか、憎しみに駆られて捨て身の反撃を試みる赤城を嘲笑しているようだった。

 数的不利が覆らないのは事実だ。艦載機の数が半端なければ、随伴の数も半端ない。片や、赤城はと言えば大破して身体は壊れたブリキ人形みたいにまともに動かすことさえやっとの有様。これで馬鹿にされなかったら、深海棲艦は人間より余程礼節を弁えた紳士淑女だろう。

 

 何十隻という大小様々な深海棲艦が一斉に砲塔を空に向け、視界が白く染まるくらい濃密な弾幕を作る。いや、弾幕というよりもはや装甲と言った方が良いかもしれない。最初に突入した三機はあっと言う間に捕まって火を噴きながら海面に突入する結果となった。

 次の三機は陣形の最も外側に居た護衛の駆逐艦に雷撃した後、被弾して錐揉み状態に陥る。相打ちのように、その駆逐艦を吹き飛ばした。

 もちろん、迎撃機も上がっている。黒いモヤがそのまま村田隊の進路に覆い被さってくる。

 

 虎の子の熟練搭乗員たちは、しかし一寸の躊躇もなく敵へと突撃して止まる気配を見せない。

 圧倒的に火力も兵力も優位な敵への目前での突撃。旅順要塞に銃一丁で死に行く兵士のように。あるいは、長篠で鉄砲隊に突撃した騎馬隊のように。

 死を臆することなく、残弾尽きて尚己を弾丸にして、敵の弾幕へと切り込んで行く。

 

 ただ、歩兵や騎兵と違って航空機は速いし、弾幕は濃密であってもすべてを薙ぎ払うような圧倒的な機関銃は存在しない。死を厭わぬ突撃を繰り返していれば、一機くらいは突破出来るものだ。

 

 

 その機体は運が良かった。運良く不規則な弾幕の間の“道”を見つけ、運良く襲い来る迎撃機を躱せた。

 護衛を突破すれば、目の前には空母水鬼が居る。

 巨大な黒い艤装の上に、彼女は安楽椅子に腰掛けるように足を組んで悠然と座っていた。

 衣装は闇の漆黒。されど、その肌と髪は花嫁の純白。

 容姿はどこか、後輩の空母の一人を思い起こさせる。彼女も同じように色白で線が細い。

 もちろん、その子はちゃんと生きているし、ちゃんと艦娘だ。こんな化物ではない。

 

 艦攻は魚雷を投下した。

 その瞬間、主翼に衝撃。被弾。

 パッと赤い炎が瞬くが、パイロット妖精は端から帰還など考えておらず、飛び続けられる限り飛び続け、一直線に空母水鬼に向かう。

 

 水鬼が手を伸ばした。

 機体は吸い込まれるようにその手に。化物は艦攻を掴み取る。

 衝撃で機体がひしゃげる。操縦席の中で押し潰されたパイロットの目を通して、空母水鬼の顔が赤城の脳裏に映し出された。

 テレビカメラ越しに見ているような映像。それが、一瞬ブレる。

 魚雷が命中したのだ。そう、ただそれだけだった。衝撃だけで、火を噴くこともなければ喫水線下に穴が空いたことに慌てる素振りも見せない。

 尋常ではない堅牢さ。一撃食らって大破する艦娘とは比較にならない装甲。

 空母水鬼はニンマリと気味の悪い笑みを浮かべた。

 

「残念ダッタナ」

 

 それは勝利宣言。

 魚雷を被弾したのも、おそらくはわざとだろう。圧倒的な差を示すため、絶望によって赤城の意思を粉砕するため。

 

 けれど、尋常ではないのは赤城も同じだった。

 今なら、きっと空母水鬼にはよく聞こえることだろう。

 赤城もまた顔を引き裂いたような笑みを浮かべる。

 

 

 

 

「火の……塊となって……沈んでしまえッ!!」

 

 

 

 

 

 

 赤城の手持ちは随分と減ってしまっていた。

 艦戦も、艦攻も、もうほとんどすべて撃ち落とされてしまっている。故に、展開出来る艦載機数には余裕が出来ていた。

 加えて、空母水鬼は赤城の主力が村田隊であることは分かっていても、こういうことが可能であるとは知らなかったはずだ。

 赤城はまだ、加賀の矢筒を持っている。先程渡されたそれには、彼女の牙であった艦爆の矢がたっぷり入っていた。

 

 何のために虎の子の艦攻を消耗させてでも低空からの突撃を繰り返したのか。

 戦術なき突撃ではない。火力に圧倒されるばかりの歩兵でも騎兵でもない。

 無謀な戦力の浪費ではない。

 激痛によって覚醒した赤城の頭脳は、目覚めるやいなや脳内麻薬を遮二無二吐き出し、少しばかり思考する猶予を作り出した。そして、ほんのわずかであっても考えることが出来たなら、赤城は己の目的を達成するために合理的な手段を捻り出す。例えその目的が生存を前提としたものではなくとも、その手段が損害の一切を度外視した捨て身の攻撃であったとしても。

 

 あまりにも多くの犠牲を払いすぎた。壊滅した村田隊の復興は望めないかもしれない。

 でもそれでも良かった。

 

 すべてはこの一撃のためにある。そうでなければ、彼らの存在意義はない。

 すべてをこの一撃に賭ける。そうでなければ、空に散った彼らは浮かばれない。

 

 死に物狂いの艦攻の雷撃は敵の注意を上手く低空へと引き付けた。大破して本来なら戦闘不能になったはずの赤城が、往生際悪く、憎しみに駆られて無闇矢鱈に仕掛けて来ただけだと、空母水鬼はそう断じたに違いない。彼女は他の深海棲艦とは一線を画した知能を持つが故にそう考え、最も合理的に赤城を“潰す”方法で迎え撃って、実際に行動した。

 だが、誰かを罠に嵌められるだけの知能を持つことは、逆に自分がそうならないことへの保証にはなり得ない。策士は策に溺れ、自らの頭上に作られた空白の存在を忘れてしまう。それこそが、赤城の狙い。村田隊の壊滅と引き換えに得た起死回生の一手。

 

 

「敵直上……急降下!!」

 

 

 空母水鬼の真上。天頂から翼を翻して彗星が落ちる。

 一直線に、機体を引き上げることなど考えていない。そのまま、ロケットのように空母水鬼に突入する。脳裏の映像は消え失せ、代わりに視界の奥、敵艦隊の中心に閃光が瞬いて黒いきのこ雲が立ち上るのを捉える。

 

 敵の艦載機の制御が一気に悪化した。

 周囲を飛び交っていた黒い塊は突然錐揉み状態に陥ったり、ふらふらとバンクしたり、明らかに挙動がおかしくなっている。満身創痍の赤城たちに未練もないのか、一斉に身を翻して空へと戻って行く。

 

 中破した。空母水鬼は確実に中破した。

 沈められなかったのが惜しい。

 今の赤城ではこれが精一杯だった。万全の状態なら、ひょっとしたら撃沈出来ていたかもしれない。あくまで、仮定の話である。

 

 それで気が抜けてしまう。

 脳内麻薬の効力が切れ、今更のように激痛が、先程とは比べ物にならないほどの激痛が全身を襲う。

 そこからはあっという間だった。今まで麻痺させていた痛みがぶり返してきて、脳がそれに耐えられなくなったのだ。正確には、耐えきれず破綻を来す前に、脳が自ら機能を停止した。

 電源を落とすように、赤城の意識が途切れる。

 視界が真っ暗闇に堕ちてゆく。

 

 その間際、確かに声を聞いた。

 

 再び、空母水鬼の声。

 

 

 

 

「迎エニ行クゾ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




前イベE6でも14秋でも、こいつには苦労した(´・ω・`)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督28 Abyssal Carcinogenesis

 

 

 

 気が付くと光の中に居た。

 白く、明るい包み込むような光。柔らかなそれは雪を溶かす冬の陽光のよう。たおやかで心地良い光だ。

 続いて耳が音を知覚する。

 規則正しく一定の拍子で連続する甲高い電子音。けれど、耳に障る不快さはなく、むしろ鼓動と一致するそれに安心感を覚えた。

 いや、それもそうだろう。首をゆっくりと捻って音源を見れば、案の定心電計がある。音と鼓動が一致するのではなく、音は鼓動を表しているのだから。

 

 一瞬病院かとも思った。かすかに鼻を刺す薬品の匂いと硬すぎず柔らかすぎないベッドが身体を程良く支えている。しかし何かで固定されているのか、自由は思うように効かず、仕方なく赤城は首と眼球だけを回して周囲の様子を観察した。

 やはり、病院ではない。見覚えのある部屋だった。

 長らく秘書艦として働いていたから、鎮守府のことはほぼ知り尽くしている。どこに何があって、どの部屋が何の用途に使われているのかは、ほとんどすべて頭に入っていた。ここは、今赤城が寝かされているこの部屋は、鎮守府第二庁舎の一階の南面にある医務室のはずだ。医官が一人勤務しているのだが、見る限りでは彼の姿はない。

 席を外しているだけなのか。そもそも、艦娘である自分を医官が診るのだろうか。

 辛うじて動く首を起こして固定されて動かない身体を観察する。

 赤城は医務室のベッドの一つに丁寧に寝かされているようで、頭の側の直ぐ傍には心電計があり、液晶モニターに規則正しい波形が延々と表示され続けている。その反対側には点滴があり、吊り下げられたパックから透明な液が流れるチューブが掛け布団の中へと伸びていた。

 

 試しに右腕を動かそうとしていみる。

 

「っあ!」

 

 電流のように走り抜けた激痛に思わず悲鳴を上げてしまった。点滴の注射針が変な刺さり方をしたのだろうか。

 いや、そうではなく痛みは腕の中心、すなわち骨から発せられたような感じがした。それに、妙に腕の感触が重い気もする。

 もう一度試してみる気は起きなかった。代わりに左腕を動かそうとして、再び同じような激痛が走る。今度は情けない悲鳴こそ上げなかったものの、唇を噛んで悶絶する羽目になった。

 

 どうやら腕は両方ともダメになっているらしい。では、脚はどうだろうかと疑問に思うのだが、また同じようなことがあると思うと、痛みを恐れて動かす勇気が湧いてこない。仕方がないのでベッドに体重を預けて天井を仰ぎ見る。

 何があって、どうしてこんな状態になっているのか、起こったことを順番に思い出せる程度には記憶はしっかりしていた。どうやら、赤城は運良く生き残ることが出来たらしい。すっかり重傷患者の仲間入りをしてしまっているが、命は幸いにしてまだあるようだった。

 

 

 

 そう、“赤城は”生き残れた。

 

 目を閉じればすぐさま浮かんで来る光景。

 人体が受ければ一溜まりもない巨大な爆発。宙を飛んで足元に落下した肉塊。波間に浮かぶ見慣れた人の、人形のような空っぽの顔。

 

「ぅ……」

 

 込み上げて来たものを無我夢中で飲み込んだ。このまま仰向けの状態で嘔吐すれば、自分の吐瀉物で窒息する危険がある。そんな理性が働いて、胸の奥を焼き尽くすような胃酸を必死で飲み下した。

 

 衝動が落ち着くまでとにかく身体を固くして耐える。もう大丈夫だと判断して息を吐き出すと、強烈な酸の臭いがした。

 

 

 そう、加賀は死んだ。轟沈した。

 あまりにもあっけない最期。信じたくないほど惨たらしい死に様。

 あれが運命だとでも言うのだろうか。今まで国民国家の安全のために粉骨砕身してきた結末が、全身を引き裂かれて海面に叩き付けられる末路なのだろうか。

 彼女は言葉を残すことすら出来なかった。きっと、何が起こったかも分からぬまま暴力によって命を刈り取られてしまったのだ。

 

 それが何だか無性に悲しい。無性に悔しい。

 彼女の人生は、こんなにも容易く破断させられていいものなのだろうか? そんなに安いものだったのだろうか?

 

 

 仕方ないのよ、と誰かが頭の中で囁く。

 戦争だもの。死ぬことは珍しいことじゃないわ。

 

 

 囁きが聞こえた。

 赤城の思考には何かが居る。その何かは無情な言葉で加賀の死を小さく畳もうとする。

 侮辱だ、と思った。それは加賀に対する侮辱であり、死した彼女をさらに貶めるものだ。

 仕方がないなんて、簡単な言葉で片付けていいことじゃないのだ。

 確かに戦場では死は珍しいものではない。実際、赤城たち艦娘は皆遺書を書いてから出撃している。それは艦娘が艦娘として戦い続けるために必要な最低限の覚悟の証だから。

 見たことはないけれど、きっと加賀も何か書き残しているだろう。白紙の紙に遺したい言葉を綴った時に、誰もがある日突然訪れる終幕を覚悟するのだ。それが出来ぬ者に海に立つ資格はない。戦うということはそういうことで、遺される者たちに永遠に消えない傷跡を刻みつけて黄泉路の果てに向かうことなのだ。例え、暁の水平線へ針路を定めようとも、旭に染まる水面に航路を刻もうとも、足元には常に死の影が潜んでいる。ふとした瞬間に影に足を引っ張られて飲み込まれてしまうなんて、割とよくあることだった。

 

 

 そう。死ぬことは珍しくなく、死ぬことは仕方のないこと。

 名もなき兵士が、名も知らぬ艦娘が、赤城の知らないところで沈んだとしても、仕方のないこと。ただ、今回ばかりは違う。沈んだのは数え切れないほど名前を呼んだ相手で、名前どころか性格さえ熟知している相手で、好物も、趣味も、考えていることさえも、何でも赤城の知っている相手。

 相棒と呼ぶには足らず、いっそ姉妹と言ってしまってもいいくらい親しい。実の姉を喪い、実の妹を喪い、互いに欠いてしまった半身を埋め合わせるように時間を共にした血の繋がらない、艦級も違う姉妹艦。

 加賀が死んで、永遠に失われて、それを「仕方がない」の一言で処理するなど出来ようはずもない。むしろ、そうして悲しみから自身を守ろうとする自分の浅ましさに唾棄する。軽蔑する。

 

 

 悲しみに暮れることは義務ではないけれど、悲しまずに済まそうというのは許し難かった。

 だから赤城は涙を流す。腕が動かなくて目元が拭えないので、ただ垂れ流すだけの涙だった。

 

 

 

 

 

****

 

 再び白い天井。相変わらずベッドに寝かされて見上げているだけ。

 どうやら今の今まで眠っていたらしい。悪い夢でも見ていたんじゃないかと思ったが、残念ながら石でも入ったかのように重い両手両足に、現実は現実であることを思い知らされる。

 加賀の死を悼み、泣いたことまでは覚えているが、そこから先は記憶がない。泣き疲れて寝てしまったようだった。我ながら何と無様で情けないことかと恥じ入るが、そもそも手足さえ動かせない現状ではメンツもクソもなかった。

 

 ふと、鼻をくすぐる甘い香りに気付く。どこかで嗅いだ覚えのある匂いだ。

 誰かが付けていた香水。と言っても、この鎮守府で日常的に香水を付ける人物には一人しか心当たりがない。

 

「Good morning!」

 

 彼女の名を呼ぶ前に、耳障りの良い軽快な英語が鼓膜を震わせる。日本に来てから相当な年月が経っているはずだが、ネイティブの流暢な英語は健在である。かろうじて動く首を回すと、ベッドの横に茶髪が座っていた。

 

「やっと目が覚めたみたいネ。気分はどう?」

「……おはよう、ございます」

 

 誰が喋っているか分からないくらい酷いしわがれ声だった。まるで老婆だ。

 一瞬びっくりして言葉が途切れたが、せめて聞かれたことにはちゃんと答えようと試みた。

 

「気分は良くないです」

「まあ、そうよネ……」

 

 金剛は肩をすくめる。アングロ・サクソンの血が入っている彼女がそうした仕草をすると、洋画に出てくる女優のように様になった。

 ただ、それ故に褐色の第三種軍装は恐ろしく似合わない。バービー人形にGIジョーの服を着せているようなものだ。

 

「これでもアナタはだいぶ回復したのヨ。明石のお陰ネー」

「明石さん、ですか?」

 

 不意に出て来た名前に思わず問い返してしまった。普段は聞かぬ名前だ。

 

 

 明石というのは戦闘で負傷した艦娘の治療を請け負う「工作艦」という特殊な艦種の艦娘である。「餅は餅屋」ではないが、艦娘のことは艦娘が一番良く分かっているのだから、深刻な戦傷の治療を艦娘に任せてしまおう、という考えの下に置かれている専門職だ。その辺りの考え方は秘書艦が設置されているのと共通していると言えよう。

 ただし、基本的に艦娘の配置されている拠点なら、大抵最低一人は居る秘書艦と違い、「工作艦」という特殊な立場上、明石は海軍において唯一無二の存在である。

 通常は、戦闘で大破した程度の艦娘は各拠点で艤装の修理や身体の治療が施されるので、明石の出番はない。というか、そんなことでいちいち拠点を回っていては彼女の身がもたない。だから、明石は拠点の設備だけでは治療しきれないような極端に酷い怪我をした艦娘だけを診る。あるいは、普通なら破棄せざるを得ないほど破損した艤装を、それが破棄出来ないような貴重な物であったり、補充が追い付かない場合にコスト度外視で修理するために呼ばれる。

 金剛の口から明石の名前が出されたということは、赤城の傷はそれほどまでに深刻だったという証左だ。事実、手足がまともに動かせない現状を鑑みると、さもありなんと思える。

 

 ただ、だからこそ気になったことがあった。

 

「六ケ所には移されるのですか?」

「ああ。そこまで酷くはないって言ってたワ」

「そう、ですか……」

 

 明石でさえ手に負えないくらいの傷の場合、もはや拠点での治療は諦められて専門の施設に送られる。それが所謂“六ケ所”。青森県は六ケ所村にある海軍病院である。傷兵院の一つで、全国に複数ある海軍病院の中で、唯一艦娘の専門的治療が可能な施設がここだ。

 負傷した艦娘も傷痍軍人であるから、こうした傷兵院に入れられる。人間と違って手足が飛ばされようが、身体に穴が開こうが艤装を付けている限り死なない艦娘は、明石という存在もあって滅多にこのような病院に行くことはない。しかし逆を言えば、六ケ所の病院に入院させられるということは、長期または永久の戦線離脱――すなわち艦娘としての「終わり」を意味する。

 これが艦娘に与える心理的ショックというのは計り知れないものだという。そもそも、深海棲艦と戦うために人としての人生を投げ打った艦娘にとって、戦線離脱は存在意義を奪われるに等しいこと。だから、ただでさえ大怪我をしてショックを受けている艦娘が六ヶ所に移されると、当人は絶望し、精神疾患を発症したり、酷い時には廃人になったりすると聞いたことがある。

 幸いにして、赤城はそこまではいかなかった。加賀を失った上、六ケ所に放り込まれたとしたら自分の精神がもたなかっただろう。

 

「安心して。アナタは治る」

「……はい」

「一番辛いのはアナタ。でも、一人じゃない。ワタシも居る。テートクも居る。曙たちや舞風たちも、木曾も、川内も居る。みんな、アナタの味方よ」

 

 優しく、真っ直ぐな金剛の言葉。それに、少しだけ赤城は心がほぐれた。

 

「ありがとう、ございます」

「いいのよ。ムリしないで。泣きたい時は泣きなさい。辛い時はそう言いなさい。何時でもワタシたちはアナタに寄り添うからネ」

 

 目の奥がふいに疼く。人前で泣くのは恥ずかしいので、赤城は必死で衝動を堪えなければならなかった。そうでないと、きっと恥も外聞もなく、金剛の目の前で幼子のように大声で喚いていただろう。「泣きたい時は」と彼女は言うけれど、泣けない時はあるのだから。

 

「そろそろ戻るワ」

 

 それを察してくれたのだろう。おもむろに金剛は立ち上がる。

 

「すみません」と赤城は謝罪する。気を遣わせてしまったことに対してだが、よく考えれば今更である。これだけの怪我をしているのだから、もう既に周囲には多大な迷惑を掛けているに違いなかった。

 

「気にしないで。メイワクだなんて思ってないヨ」

 

 じゃあね、と彼女は手を振って医務室を出て行った。

 

 

 ふっと、体の力が抜ける。

 金剛は本当に素敵な女性だと思う。最も親愛の情を向けていたのは加賀で、最も尊敬しているのが金剛だ。

 ただし、そんな彼女の前だから体に力が入ってしまう。特に、今のような状態であれば尚更だった。

 

 

 

 

****

 

 

 それからの一週間ばかりは寝たきりで過ごした。手も足も動かせない状態では何も出来ないので、ただ日がな一日中ベッドに横たわって天井を見上げ続けるばかり。もはや退屈を通り越して石にでもなった気分だった。

 多忙で全国各地を飛び回っている明石は、赤城が目覚めた時には既にこの鎮守府を離れていたらしい。治療と言うか、点滴の交換や採血などは元から所属している医官が専らやってくれた。ただ、男である彼に赤城の様々な「世話」をさせるわけにはいかないので、そこは同じ艦娘が交代でやってくれている。

 戦死した加賀と療養中の赤城が抜けた穴は、彼女たちがうまく仕事を持ち回してやりくりしているようだった。特に秘書艦としての仕事は、過去に秘書艦経験がある金剛や、まとめ役に向いている曙が肩代わりしてくれていた。そのことについて二人に礼を言うと、金剛はただ魅惑的な笑みを浮かべ、曙は「早く治して戻って来なさいよ」とツンケンしながらも慰めてくれた。

 

 ただ、事実上鎮守府の主力だった一航戦が壊滅したため、出撃の機会は当分なくなってしまったらしい。加賀の轟沈という大事件は鎮守府のみならず海軍全体にも衝撃を与え、上層部は急遽対応策を検討しているとのことだった。見舞いに訪れた加藤は幾分憔悴した顔をして見せながら、あの海戦の後の騒動を大まかに語り、最後に大きな溜息を吐いた。

 彼にとっても、隷下の主力空母を喪うというのは辛いことだったに違いない。直接言葉にしては言わなかったが、口ぶりからして彼がかなり厳しくその責任を追求されているのは察せられた。

 後に曙から聞いた話では、敗戦の将となった彼を更迭するという案も出ているそうで、今は彼にとっても正念場なのだという。何か出来ることはないかと申し出ると、「それはこっちで何とかするわよ」と一蹴されてしまった。小さな体で実に頼もしいのが曙という艦娘だった。

 

 

 話は変わって、このように赤城には見舞いに訪れる誰かが絶えなかった。それは寝たきりで何もすることがない身としてはこの上なくありがたいことで、見舞い人との雑談は暇を潰し、気を紛らわせるのにこれ以上ない時間だった。一人になった時はずっと加賀のことを考え、彼女との思い出を呼び起こしては回顧に耽り、あるいはあの海戦でどうすれば彼女を救えたかという意味のない妄想を繰り返すだけなのだから。

 この一週間、ダントツで見舞いに来てくれたのは金剛だった。最低一日に二度、朝起きた時と夜寝る前。自分の寝顔が見られているのだと思うと気恥ずかしかったが、数日経てばそれにも慣れた。夜寝付く前に居てくれるのはありがたく、加賀のことを考えて耐え難い寂しさや後悔の念に苛まれるのを防いでくれているのだろう。彼女とはもうかなり長い間仕事をしているけれど、正直ここまで世話見が良くて思い遣りのある人であるというのは初めて知ったことだった。

 彼女に次いで見舞いに来てくれるのは漣と舞風の二人だった。共に人懐っこい性格で、漣とは前から仲が良かったし、舞風も赤城を慕ってくれている。二人とも明るい性格で冗談をよく言うので、彼女たちと居ると気が紛れた。堅苦しいことは何も言わないので、赤城も思ったことを素直に口に出来てとても気楽だった。

 ただ、赤城と同じくらいに加賀と親しかった漣は時折、会話が途切れた間隙のような瞬間に、寂しそうな色を見せることがある。気持ちは痛いほど分かるし、だから赤城は気付いても何も言わなかった。何より、漣自身が気を遣って加賀のことは決して口にしないようにしているのだから。

 一方で、舞風の方はやたらと明るかった。以前から元気のある子だと思っていたけれど、鎮守府自体が静かになっている現状で、それでも尚舞風は朗らかに振る舞っている。彼女の場合、無理して明るくいようという傾向があるけれど、それを差し引いても妙に元気なのだ。そして、漣同様加賀に関わることは一切言わないけれど、頻繁に希望を持つようにという趣旨の励ましの言葉はくれた。まるで、舞風自身がその言葉を信じ込んでいるように。

 彼女と、彼女の“元”姉妹艦たちの話は赤城もよく聞いている。だから、舞風は遠回しに「そういう可能性もあるんだ」と伝えたいのだろう。要は、彼女なりの気遣いなのだ。

 ただ、今ばかりは加賀のことを考えるのは何よりも辛かった。舞風と話していると、少しばかりそんなところが引っ掛かる。

 

 

 と、まあ。この三人がよく見舞いに来てくれるのだが、逆にこの一週間まったく顔を見なかった相手も居た。

 

 それが、川内だった。

 

 

 彼女は別に負傷してるわけではない。あの海戦で悲劇を目の当たりにしたわけでもない。当時は四駆の二人と共に「硫黄島」を出撃して現場に急行していたはずだ。

 加賀の轟沈は彼女にもショッキングだっただろうが、それが赤城に会いに来ない理由にどう繋がるのかは分からなかった。舞風にそれとなく訪ねたところ、適当な言葉で話を濁らされたので、何かあるなと思った。

 果たして、このまま見舞いに訪れないのかと思われた川内だが、一週間経ってようやく彼女は医務室に姿を現した。

 

「こんにちは」

「こんにちは」

 

 ぎこちなく挨拶する彼女を、赤城は快く迎えた。何であれ、見舞いに来てくれた後輩を無碍に扱うわけにはいかない。

 

「ご気分、どうですか?」

「まあまあね」

 

 どことなく距離感を測りかねているような川内。社交辞令も恐る恐るといった感じで、ベテラン艦娘の貫禄がある普段の彼女にしては不可思議な態度だった。

 なかなか見舞いに来なかったことが後ろめたいのだろうか。もしそんなことで彼女が悩んでいるのだとしたら、何ともいじらしい。赤城は極力柔らかく微笑んで見せた。

 どうやらそれは奏功したらしく、川内はホッとしたようにベッドの傍に置かれている椅子にストンと腰を下ろした。

 

「あの……」

 

 目線を掛け布団に這わせたまま、川内は口を開いた。

 

「怪我、治りそうですか?」

「ひと月もしたら立てるようになるみたい」

「ひと月、ですか。手足は動かせるんですか?」

「今は無理ね。ギプスで固定されているし、動かすと痛いのよ」

「骨折なんですか?」

「そうね。修復材も効かないくらい酷いみたい。何にも出来なくなっちゃった」

 

 赤城は苦笑した。言葉の通りだからだ。

 対して、川内はニコリともしない。先程からずっと仏頂面で、眉間に皺が寄ったまま。機嫌が悪いのか緊張しているのか、とにかくこんな川内は初めて見た。

 一体、どうしたというのだろう。赤城は到底他人を心配出来る身ではないのだが、自分のことを棚上げして川内が心配になった。彼女の場合、何かあるとしたらレミリアに関わることだとは思うのだが。

 気を揉む赤城の目の前で、川内はおもむろに立ち上がる。「ちょっと、見てもいいですか?」と尋ねながら掛け布団に手を伸ばした。

 

「……いいけど、どうしたの?」

「気になることがあって」

 

 そう言って、彼女は掛け布団をめくった。

 露わになる赤城の体。病院着のような薄緑の服を着ている以外には下着も纏っていないので、こうして空気中にさらされると恥ずかしさが先行する。全身の至る所からコードやチューブが伸びていて、それらは赤城の周りにある機械に繋がり、手足は白いギプスに覆われていた。

 そんな痛ましい赤城の身体を、川内は無感情な目で見下ろす。彼女が何を考えているのかまったく分からない。今の赤城は何をされても一切抵抗出来ないので、万に一つもないとは思うが、思考の読めない川内が少しだけ恐ろしくなった。

 彼女はふと、赤城の左手のギプスに手を伸ばす。指三本だけでギプスの表面に触れると、今度は右手の方に伸ばした。

 妙な行動だ。ギプスの硬さを確かめているような触り方で、しかし意図がまったく見えない。

 

「あの……」

 

 と訪ねようとした時、「足もいいですか?」と被せられた。

 頷く前にはすでに足のギプスにまで川内の手が伸びていた。左足、右足の順に触れると、川内は仏頂面を更に強張らせて目を閉じる。

 何かに逡巡しているような顔に見えた。

 それから彼女はまた元の通りに布団を掛け直し、椅子に座る。何かを決心したように目を開くと、今度は真っ直ぐ赤城を見据えた。

 

「本当は、こんなこと言いたくないんですけど、言わなきゃいけないことですから、覚悟して聞いて下さい」

「ええ」

「今、赤城さんの手足のギプスに触らせてもらいました。気付いたことがあります」

「……何?」

「温度です」

「温度?」

「はい。両手のギプスには熱が移っていて暖かかったんですけど、足のギプスは冷たかったんです。びっくりするくらいに」

 

 意味が分からなかった。

 赤城は足まで布団を被せられて、外気に触れているのは首から上だけだし、手足で温度が変わるはずがない。足が冷たいという感覚もない。そもそも、何故川内はギプスの温度を確かめるという奇妙な行動を取ったのか。

 訳も分からず混乱していると、川内は解説しようとしてくれた。それが果たして解説になるかは別として。

 

「これは私の所感ですけど、結論から言うと、赤城さんは深海棲艦化し始めています」

「……は?」

「足だけ冷たいのがその証拠です。私は、私だけは艦娘が深海棲艦になるのを目の前で見て、その時彼女の身体にも触れていましたから分かるんです。

生物とは思えないほど冷たくなる。それが深海棲艦化の兆候です。足のギプスが冷たいのは熱が奪われているからでしょう」

 

 彼女は何を言っているのだ?

 

 経過観察のために今朝も医官がギプスを外して手足を見たし、その時には赤城も自分の体の様子を確認したけれど、まったくおかしなところは見受けられなかった。バイタルは安定しており、医官も特に異常を感知した様子はなかった。

 

「多分、まだ表面に出て来てないだけです。足の奥では確実に進行していて、それが『冷たさ』として現れているんですよ」

「馬鹿なことを言わないで! そんなわけないでしょ!」

「本当です。近いうちに必ず現れます!」

「私は沈んでないッ!!」

 

 金切り声は裏返っていた。叫んだ拍子に両腕に走った痛みに顔をしかめる。

 川内の言っていることはまったくの妄言だ。あり得ない話だ。

 第一、深海棲艦になるのは轟沈した艦娘ではないか。彼女が目の当たりにした駆逐水鬼はそうではなかったのか。

 だから、沈んでいない赤城が深海棲艦になるわけがない。この負傷も一過性のもので特に後遺症の恐れはなく、六ケ所に送られるほど長期の戦線離脱を余儀なくされるほどの重傷ではない。治療すれば治る程度の怪我。ならば、深海棲艦化など起こるはずがないだろう。

 

「……違うんです。そうじゃないんです」

「出て行って!!」

「赤城さん、落ち着いて……」

「出て行きなさいッ!!」

 

 再び腕に衝撃が走った。

 興奮して叫ぶのは良くないと理性が諌める。けれど、感情の昂ぶりはすぐには収まらない。

 これで手足が動かせたなら、枕の一つでも投げつけているところだ。しかしそれは出来ないので、精一杯睨み付けて部屋を出て行くように威圧するしかなかった。

 果たして川内は、泣きそうな顔になってそそくさと立ち上がり、「すみません」と小さく謝ってから医務室を後にした。

 

 

 はあっと大きく息を吐き出して、後頭部を枕に打ち付ける。

 バツの悪さが胸の内に湧き出す。怒りはまだ残っているけれど、取って代わるように後悔が心を占め始める。

 少し、川内を邪険に扱いすぎた。彼女の言ったことは荒唐無稽極まりなかったし、だから赤城も怒鳴ったのだけど、川内に害意があったわけじゃないのは確かだ。むしろ、彼女なりに赤城を心配してくれていたのかもしれない。

 そこに考えが及ぶと、今の川内への仕打ちは酷いものだったという後悔が生まれた。

 赤城はもう一度頭を枕に打ち付けた。

 

 瞬間、腕が鋭く疼いた。どうやら首を起こした時に意図せず腕まで動いてしまったらしい。このように、微動させただけでも痛みが走るのは難儀なことだった。

 怒鳴った時もそうだ。自分の声が骨を伝わり腕まで到達すると、過剰反応のような痛みが走る。だから、この一週間赤城は極力体を動かさないようにしていた。それでも、何度か不注意で腕を動かしてしまって呻くことにはなった。

 けれど、足はいくら動かしても痛みが走ったことは一度もなかった。

 腕より足のほうが軽傷なのかと思ったけれど、むしろ逆だと医官は言っていたからおかしいとは感じていたのだ。あるいは、足の方は痛みを感じることさえ出来なくなるほどの重傷なのか。

 だとしたら、川内の言うことはあながち妄言とも言い切れなくなる。

 海戦で被弾した時、頭上から降って来た爆弾は足元で爆発した。一番影響を受けたのが両足なのは間違いなく、それ故に足の方が重傷だと言われても腑に落ちる。

 もっと、川内の言うことをよく聞くべきだった。あんな風に追い出すべきではなかった。

 

 恐ろしい可能性に気付いたのだ。

 軽巡の言葉が真実なら、赤城は本当に最悪と言うべき事態に陥るに違いない。

 

 

 

 

 

「失礼します」

 

 夕方。窓の外が朱色に染まっているのがカーテン越しにも分かる時間帯になって、新たな見舞い人がやって来た。

 

「今、よろしいですか?」

 

 畏まって入って来た少女の、結い上げた銀髪と着崩した陽炎型制服。いつも一緒の舞風の姿はなく、彼女は一人だった。

 憔悴している赤城はちらりと目線を流すだけ。ただ、拒否する理由もないので野分を受け入れた。

 野分もそれを肯定の意と捉えたのだろう。ゆっくりとベッドまで寄って来て、椅子に腰を下ろす。物音を立てぬように気を払っているような緩慢な動作だった。いつもきびきびと動く彼女にしては珍しい。やはり、気を遣っているのだろう。

 そこでふと彼女が表情を変える。何かに気付いたように声は出さずに口が開かれ、次いでバツの悪そうな顔になる。

 

「すみません、何も持って来ませんでした」

「ああ、そんなこと。別に、良いのよ」

「すみません」

 

 野分はもう一度謝罪した。何とも堅苦しいが、これが彼女の良さだと赤城は思っている。

 真面目に過ぎるのは考えものだが、野分の場合はそんなところが可愛らしい。現に、今だって見舞いの品を持たずに手ぶらで来たなんて小さなことで大真面目に頭を下げるのだから。

 もっとも、日常の見舞いの度に一々品を持って来てもらっては、この狭い医務室はすぐに物で一杯になってしまうだろう。実際、野分が目を向けた窓際には金剛や漣たちが来る度に持ち込んだ見舞いの品で溢れ返っている。

 

「それで、どうしたの?」

 

 元々それほど表情豊かなタイプではないし、どちらかと言えば無表情な時が多い野分だが、今日はいつにも増して表情が硬い。用件は、おそらく予想の範疇だろう。

 

「川内さんと、お話されましたよね」

「そうね。やっぱり、そのことなのね」

「はい……」

 

 事情は分かった。川内が赤城に追い出されたのを聞いて、野分はフォローのために飛び込んで来たのだ。

 その機転の良さに感謝する。赤城もまた、聞きたいことがあったのだから。

 

「川内には謝っていると伝えてくれないかしら。怒鳴ってごめんなさいって」

「あ、はい。でも、赤城さんが気を揉むことじゃないですよ。多分、あの人の言い方が悪かっただけだと思うので」

「彼女なりに心配してくれていたのよね。それを、私、カッとなって追い出しちゃった」

「川内さんはそれくらいじゃ凹んだりしませんよ」

 

 と言う野分に、赤城は安堵の笑みをこぼす。不器用な彼女の気遣いが、荒んでいた心を少しばかり癒やしてくれた。

 片や、赤城が微笑んだにも関わらず野分の表情はまるで緩め方を忘れたかのように引き攣ったままだ。

 彼女が言わんとしていることは分かる。川内は決して冗談や憶測であんなことを口にしたわけではない。もちろん、赤城とて頭では分かっているのだし、だからこそ取り乱したりもしたのだ。

 そうして一旦精神が消耗して気力が失せれば、次には耐え難い絶望が襲ってくる。

 続きを言い辛そうにしている野分に代わり、赤城は重々しく口を開いた。

 

「本当に、深海棲艦化しているのね……」

「……はい」

 

 掠れた野分の声は辛うじて聞こえる程度の大きさだった。

 少し前の赤城ならばきっと強く否定していただろう。現実がどうであるにせよ、少なくとも否定しきってみせる気丈さは保てたはずだ。

 だが、今はそうではない。深海棲艦化という信じがたい事実を突き付けられても否定することは出来なかった。

 何故なら、実例を知ってしまっているから。駆逐水鬼という深海棲艦になった萩風と嵐という生きた証人の存在があるから。

 しかも、川内も野分もその実例のことをよく知っている。深海棲艦化が進むと身体が冷たくなるというのは、実体験に基いている故に極めて説得力があった。実際、川内の言う通りなのだろう。それが理解出来たからこそ赤城は取り乱したのだ。

 

 

「……そっか」

 

 

 赤城は観念したように呟く。もはや、否定をしようという気が起きない。思い直してみれば、事実を受け入れるしかなくなる。

 より悪いことに、現実に抗う気力は同時に現実を変えようという気力でもあったことだ。深海棲艦化という事実を受け入れた赤城は、そのまま自身が変化することへの抵抗を放棄してしまった。

 

「でも、希望を捨てないで下さい」

 

 打って変わって、野分の声に力が戻っていた。

 舞風のようなことを言うのだなと思う。あの朗らかな駆逐艦娘がしきりに励ましてくれたのは、きっと彼女も深海棲艦化の事実を知っていたからだ。

 野分の場合は言葉が不器用なので幾分ストレートな物言いだが、言いたいことは二人して一緒。

 

「自分が深海棲艦になると思ったらそうなります。だけど、赤城さんはまだれっきとした艦娘です。希望を捨てなかったら、悪い方にはいきません。だから、絶対に諦めないで下さい」

「諦めないでって……」

 

 

 赤城は自嘲した。

 

 加賀を喪い、自らも叩きのめされた自分に、今更どんな希望を抱けと言うのだろう?

 

 

「簡単に言わないでよ。もう、取り戻せないのよ。諦める以外にどうしろって言うの?」

「司令はおっしゃってました! 艦娘は、自分が深海棲艦になると思ったらそうなっちゃうんだって。そう解釈しちゃったらその通りになるんだって」

「思い込みで深海棲艦になるって? そんな……」

 

 馬鹿な話があるわけないじゃない。

 という否定の言葉は出せなかった。自分の身に起きたこと、起きつつあること。それらを含めて考えた時、果たして本当に赤城は深海棲艦へ向かっていないと断言出来るだろうか。

 答えは否、だ。

 川内に深海棲艦化を告げられた時は咄嗟に否定したものの、感情の昂ぶりが落ち着いて頭が冷えると、確かに軽巡の言う通りなのかもしれないと思い直した。

 

 

 

「駄目です……」

 

 野分の声は可哀そうなくらい震えている。

 

「そう思っちゃ、駄目なんです。自分を強く持って、見失っちゃ駄目なんですから」

 

 彼女にだって赤城が何を思ったか、思ってしまったか、ちゃんと理解出来ている。存外、野分は聡い娘なのだ。

 だからこそ、彼女は自分が無力であることを噛み締めなければならない。空虚なものに縋りつくより他ない。

 

「奇跡は存在するんです。信じなきゃ、諦めちゃ、絶対に……駄目なんです」

「そう何度も起きないから、奇跡は奇跡と言うのよ。所詮は、幻想でしかないんだから」

 

 赤城がそう口にしたのを最後に、医務室を沈黙が占領した。

 野分からの反駁はない。しばらくして彼女が立ち去るまで、二人とも口を開くことはなかった。

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 正直に言って、彼のことは嫌いだ。

 

 まず、性格が合わない。

 

 精悍な見た目に反してねちっこくて細かいことを気にするタイプなので、どちらかと言えば良い意味での「適当さ」を好む川内とは真逆なのだ。

 価値観の差異と言えばそれまでなのだろうが、それ故合わない時はとことん合わない。

 しかし、性格的に苦手だからと言って、仕事は別。まして相手は上官なのだ。少なくとも加藤は、上官として一定の信頼を置いてもいいと思える程度の手腕がある軍人だった。何より、「妥当なことを妥当な手段で主張すれば聞いてくれる」くらいには合理的である。

 だから、川内はこうしてわざわざ司令室にまで足を運び、彼の眼前で必要だと思うことを直訴していた。

 

「市民の避難を優先させて下さい。現在の戦力では、先の海戦の時と同規模の敵の来襲を食い止められません」

「奴らは来る、と言うことか」

 

 話を聞いてくれるだけでもありがたい。川内とて、自分が無茶を言っているのは重々承知の上だ。

 荒唐無稽な話。普通なら鼻で笑われるのが関の山。

 

「根拠は?」

 

 案の定、加藤からはそう返って来る。

 予想の範疇なので、司令室に入る前に色々と理屈は考えた。

 

 まず何より、加賀の轟沈と赤城の戦線離脱による戦力的空白の発生。損傷させたとは言えまだまだ健在な、執拗で狡猾な空母水鬼。先の海戦で戦場に出ていた全ての艦娘が耳にした空母水鬼の「迎エニ行クゾ」という言葉。

 ただ、それらはわざわざ川内が言わなくとも加藤は理解しているし、上層部も把握済み。それが果たして「避難準備」という警告を出すに値するだけの理由かと言われれば、現状で加藤を含んだ軍の見解では「否」となるだろう。これらの事実に対する軍上層部の反応は、一航戦に代わる戦力の早急な補充と早期警戒網の拡充、哨戒活動の強化である。一組織人として見た場合、ぐうの音も出ないほど妥当な対応策と言えた。

 

 航空戦力を欠いた現在の鎮守府では空母水鬼にはまったく無力であるし、敵の早期発見は戦闘員・非戦闘員を問わず人命の生存率向上には不可欠だ。実際に、加藤はこうした現状に危機感を抱いていることだろう。

 しかし、それでは足りないのだ。川内にはもっと差し迫った危険があると思えたのだ。

 

 その理由は偏に、

 

 

「直感です」

「なら、尚更難しいな」

 

 

 これも、予想通りだ。

 避難準備は法律に基いて市町村長が行うもので、軍にその権限はない。何か危険が迫っているのを察知したら地元の自治体に警告を発するぐらいしか出来ない。多くの場合、軍が避難勧告や避難指示の要請を行い、自治体がそれを受諾する形で発するのだが、当然それ相応の根拠が求められる。少なくとも、現場の艦娘一人の直感では不十分だ。

 

「個人的には艦娘の意見というのは尊重したい。例えそれが直感であっても、君たちが発する警告というのは一定の重さがあるものだと思っている」

 

 分かっている。加藤だって、川内がわざわざ直談判しに来たことの意味を、よく分かっているのだ。

 

 だが、彼は司令官である。

 

「しかしな。知っての通り銃後には生活がある。住民をどこかに避難させるというのは、彼らの生活を破断させてしまうことに他ならない。それが許されるのは、彼らの命を何にもまして守らなければならない時だけだ。

今がその時か? よく考えろ。

人はそう簡単に家や仕事を捨てられないんだ」

 

 まったくもって正論である。反論の言葉は思い浮かばない。

 故に、沈黙するしかない川内。

 

 ただ、加藤はさらに続けた。

 

「とは言え心構えがあるかないかだけでも違う。市長にはそれとなく申し入れてみよう」

 

 川内は軍人だ。

 軍人という自覚があるし、客観的に見て艦娘とは軍人の一種だ。

 そして、加藤もまた正しく軍人である。

 軍人の背負う職責というのは、所属や階級によって変わりはするものの、究極的には国益の保護に尽きる。では、その国益は何かというと、これもまた時と場合と定義の仕方によって意味合いが千変万化するだろう。例えば、本土に向けて進撃する深海棲艦という脅威がある場合、国土の蹂躙を防ぐことや近海の安全を保障すること、そしてもちろん人命保護も国益に含まれる。

 だから、川内が深海棲艦の脅威について住民の避難を進言するのは至極真っ当なことだ。だからこそ、その根拠が直感であっても加藤は川内の意を汲んでくれた。

 いきなり司令室に飛び込んで得られた結果としては上出来だろう。

 

「ありがとうございます」

 

 川内は頭を下げた。こうしてこちらの言うことを聞いてくれたのだから、ここは礼を言わずに済ませられはしない。

 けれど、話はこれで終わったわけではない。

 こうして川内が直訴しに来たのは、あまりにも深刻な赤城の状態を知ってからだった。

 彼女は確実に深海棲艦になる。それも、さほど長い時間を掛けずに。

 当然、空母水鬼もそのタイミングで現れるだろう。あれだけの戦力を率いて来られては抵抗どころか厳重な早期警戒網さえ無意味になる。

 

 

「それと、もう一つ報告があります」

「何だ?」

 

 まだあるのかと、若干加藤は鬱陶しそうな顔になった。

 これを言えば赤城は六ケ所送りになるかもしれない。けれど、川内としてはどうしても彼に報告しなければならなかった。

 

「赤城さんは今、深海棲艦化しています!」

 

 加藤は目を見開いた。そこに込められているのは信じがたい驚き。

 もちろん、彼だって萩風と嵐の一件は知っている。二人が五年前に「轟沈」し、深海棲艦として姿を現したことを。

 恐らく、ある一定以上の権限があって、あの陽炎型の二人に起きたことを知る軍人や艦娘のほぼすべてが「轟沈」と深海棲艦化を結び付けて考えていることだろう。加藤もその内の一人だし、赤城も多分そうだ。彼女へのフォローは野分に任せたから、認識を改められたかもしれないが。

 

 ただし、本来「轟沈」と深海棲艦化が結び付けられるものではないことは、川内と舞風、野分の三人だけが知っている。レミリアの口から直接そう聞いたのだから。

 艦娘を深海棲艦へと変貌させてしまう本当の要因、必要な触媒。それはその艦娘本人の自分への解釈の仕方であるということを。

 

 

 基本的に、艦娘の「轟沈」はその艦娘の死を意味するから、軍も言葉の扱いには慎重だ。艦娘の出自を考えればそれも致し方のないところがあるだろう。

 とは言え狭義には「轟沈」とはそのまま、急速に沈没することを意味するだけだ。それが艦娘の死と結び付くのは、艤装のない艦娘は決して泳げないからである。この理由については諸説あるが、多くの艦娘の間では、海に立てる艦娘は海を踏みつけることになるから海に嫌われ泳げなくなる、と考えられている。

 それはどんなに訓練しても絶対に克服不可能で、海軍の所属にも関わらず、艦娘は誰ひとりとして泳げないし水泳の訓練もない。だから、艤装の機能を海上で失えば溺死は免れない。

 しかし、「轟沈」して海に引きずり込まれた艦娘が、必ずしも直ちに溺死すると言い切れるわけでもないのもまた事実。「轟沈」は死に直結するが、その間にはわずかながらのタイムラグがある。そしてそのタイムラグの間に深海棲艦化が起こった時、艦娘は深海棲艦になるのだ。そう、萩風と嵐のように。

 

 つまりはそういうこと。

 陸で殉死した艦娘が深海棲艦化しなかったのは溺れずに、絶望する間もなく、死んだからだ。一方で、川内の手によって粛清された艦娘は、明確に「殺された」から深海棲艦にならなかった。督戦任務においては、ただ艤装を破壊して溺死させるような回りくどい方法は採られず、誰が見てもその艦娘が死んだと分かるような状態にすることが求められた。だから、川内たちは脳や心臓、すなわち人としての急所を破壊したのだ。

 艦娘の兵装の威力では、当然粉微塵になるのだから、粛清された艦娘の死体というのは直視に耐えないものばかりであった。あるいは、それ故に彼女たちは深海棲艦にならなかったのだろう。

 

 艦娘本人が死んでおらず、且つ本人が深海棲艦化を受け入れるかあるいは自分がそうなると解釈すること。それが深海棲艦化の具体条件だ。

 だから、その条件に赤城と加賀を当てはめればどちらがどうなるのかが分かる。戦闘中に敵の攻撃で無残にも身体を破壊された加賀は、そのままの意味で戦死し、生き残ったものの酷い精神的損傷を受けた赤城は今まさに深海棲艦になろうとしている。実際、赤城は艤装を失い、溺死しかけたところを金剛によって助け起こされて難を逃れた。条件を満たしてしまったのだ。

 

 

 表情が強張ったままの加藤に、川内はこのような仮説を披露した。話が進むに連れて彼の顔はますます険しくなり、川内が言い終わってもしばらく黙り込んで彫刻のように固まってしまう。

 加藤がどのようにこのことを消化しようとするのかは未知数だ。川内の仮説には証拠がないのだから、彼には「妄言に過ぎない」と否定することも出来よう。

 だが、それはないと川内は踏んでいた。聡明な加藤のことだ。可能性を捨て切るだけの材料がなければ必ず検証しようと試みるはず。

 

「……少し、考えさせてくれ」

 

 結局、加藤の答えはそれだった。即断即決出来ない類のことであるのは川内も理解している。

 

「分かりました」

 

 もうこれ以上川内には言うこともない。言えることもない。最後に赤城の処遇を決めるのは加藤であり、それ以外には居ないのだから。

 ただ、彼がどういう決断をするにしろ、時間がそれを許してくれるかというのはまた別の問題だろう。

 もちろん、言葉にせずとも彼にだって分かっていることだし、だから必要のなくなった川内もそのまま司令室を辞したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督29 Dream Battle!!

お嬢様VS???


 

 

 

 艦娘と妖精との関係はどういうものだろうか?

 分身というと語弊があるし、さりとて「一部」と呼ぶのも少し引っ掛かる。妖精の意識は主人である艦娘本人と繋がっていて、視覚を共有し、その意思に従う。主従で言えば、艦娘が主で、妖精が従。妖精を通して艦娘本人と意思疎通を図ることはどうやら難しいが、妖精本人は艦娘の異常を察知出来るようだ。一方で、妖精本人にも自我が存在しているのか、自らの意思で行動出来たりする。

 これが艦娘と妖精の関係性について一般的に言えることかは分からない。というのも、今レミリアが居る幻想郷という場所は極めて特殊であるから、ひょっとしたら幻想郷を覆う二つの結界が何らかの干渉をしている可能性があるからだ。

 

 艦娘と妖精の関係性について、レミリアはずっと考えてきた。その結果、ある仮定にたどり着いた。

 例えば、吸血鬼は自分の全身あるいは一部を蝙蝠に変化させることが出来る。仮に、今人差し指を一匹の蝙蝠に変えたとして、その蝙蝠はレミリアの「何」と言えるだろうか?

 

 一部? 使い魔? あるいはそのもの?

 

 眷属ではないだろうか、というのがレミリアの答えである。

 まずそもそも、レミリアにとって人差し指一本がない程度は大して困るようなことではない。復元してしまえばそれでいい。あるいは、蝙蝠を指に戻すことも可能だ。

 当然、この蝙蝠も元はレミリアの一部なので、蝙蝠を通した視界を得られるし、音も臭いも分かる。蝙蝠が攻撃されれば痛みを感じるし、自分の手足のように自由自在に操れる。そういう意味では、蝙蝠はレミリアそのものと言ってしまってもいいが、仮に殺されたとしても痛いだけでレミリア自身の生命が脅かされることはない。

 妖怪は精神に依存する存在であり、肉体をいくら分割したとしても、精神的同一性が保証出来るなら自身の存在に影響がもたらされることはない。

 

 他の例を出してみる。

 レミリアの妹は等身大の分身を作り出せるが、この分身は妹本人とまったく同じように振る舞い、まったく同じように自我を持ち、それでいて妹本人の意志に支配されている。さすがに本人と同じように力が振るえるわけではないが、弾幕を出すことは造作も無いらしく、彼女は分身を使ったスペルカードを一つ作っていた。

 とはいえ、妹が高度な魔法で作り出した分身と蝙蝠は違うものだ。分身というのは蝙蝠よりも出来ることの幅はもっと広いものである。扱いに習熟すれば自分と同じように振舞わせることも可能だが、これはさすがに特殊な事例と言えよう。

 艦娘の妖精というはそこまで自由度が高い存在ではないだろう。眷属の一種かあるいはそれに近いものと考えるのが妥当だ。ただし、前述の通り妖精を通した意思疎通は出来ない(少なくともこの幻想郷では)ようなので、レミリアと蝙蝠の関係性とはまた異なる。その気になれば、レミリアは蝙蝠を「喋らす」ことも出来るのだから。

 

 

 

「……というのはいかがかしら?」

 

 レミリアは目の前で本に目を落としたままこちらを見ようともしない友人の魔女に自説を披露した。彼女は話を聞いているのかいないのか、レミリアが喋っている間、片時も本から目を話すことなかった。レミリアが魔女の前で椅子に腰を下ろし、たった今話し終えるまでほんの一瞬も、である。

 巨大な図書館の真ん中で、お気に入りの安楽椅子の周りに本を積み上げ、埋もれるようにして彼女は読書に没頭していた。いつも通り手にしているのは小難しい魔導書で、レミリアにしてみれば題名を見ただけでも辟易する代物だ。ページをめくれば一分以内に爆睡出来る自信がある。

 ところがこの魔女はそんな活字の洪水など何のその、ページをめくる白魚のような細い指は十秒に一回のペースでページをめくる。その早さだと粗読以外に考えられないが、彼女の域になれば斜め読みで難解な魔導書の内容を網羅出来るようになるらしかった。構造が複雑な文も、論旨不明瞭な段落も、凝った言い回しも、紙を撫でるように視線を這わせ、視認し、咀嚼し、吟味し、消化して頭の中にある知識の貯蔵庫に次から次へと放り込んでいく。その作業が、見開きに綴られている数百字につき十秒である。

 

「相変わらず、気持ち悪いぐらいの速読ね」

「言うに事欠いて、気持ち悪いとはね」

 

 魔女は即座に反撃してきた。自分への悪口には非常に反応が早い。

 

 以前本人に聞いたことがあるのだが、どうも彼女は脳の思考領域を「読書に使う部分」と「その他の作業に使う部分」に、意識して分けることが出来るらしい。いわば「ながら作業」の極地とも言えるもので、本を読みつつ会話したり、あるいはもっと高度で頭を使う作業――例えば他人との議論やあまつさえ弾幕ごっこも出来てしまうらしい。つまり、今の話だって聞いていないようでしっかり聞いているはずである。本人にその気があれば、だが。

 

「覚えておきなさいね。口は災いの元よ」

「何だい。何だい。そんなに本読みに忙しいの? その本の何ページに『友達との良い関係の築き方』は書いてあるのさ?」

「そんなものあったかしらね? 第一章に『鬱陶しい蝙蝠を大人しくさせる十の素敵な魔法』は書いてあったけれど」

「……相変わらず、口が減らないね」

「お互い様よ」

 

 そこでようやく魔女はちらりと視線を上げてレミリアを見た。口元が嫌味ったらしく歪んでいる。機嫌は、おそらく平均より良い方だろう。

 

「私の前にわざわざやって来て、艦娘と妖精の関係性について自慢げに高説を垂れる。暇なの?」

「暇じゃないわよ。だから来たのよ」

「……ったく。咲夜にでも構ってもらいなさいよ」

 

 呆れ混じりに魔女は本を閉じた。どうやら腰を据えて相手をしてくれるらしい。レミリアはニコニコと笑顔を浮かべてみせた。

 

「何だかんだ言って優しいのね、パチェ。咲夜は邪魔をするとすごく不機嫌になるのよ」

「人間の召使に威圧されるのが怖い吸血鬼って」

「怖がってはないわ。失礼ね。忙しいのに邪魔しちゃ悪いじゃない」

「私も忙しいのだけど?」

「妖怪のくせして生き急がない。ま、今は私の話に付き合ってよ」

「それは命令よね」

 

 魔女は肩をすくめた。

 抵抗は無意味であるのは分からぬ彼女ではない。魔女は観念したように会話に乗った。

 

「それで? さっきの鼻高に語って下さった仮説がどうしたの?」

「いーえ? パチェはどう思うのかしらと聞いてみたかっただけ」

 

 吸血鬼はニコニコしたままだ。外っ面だけは愛嬌があって可愛らしいのだが、醸し出される威圧感のような雰囲気が笑顔に不気味さを付け足している。もちろん、吸血鬼はそんなところもちゃんと計算してやっている。

 

「どうもこうも。貴女がそう思うんならそうなんじゃないの? 私はどちらかと言えば門外漢なんだけど」

「よく言うよ。真剣に考えてみて」

 

 そう言ってレミリアは手の平に載せた妖精を持ち上げてみせる。

 彼は何だか機嫌悪そうに頬を膨らませていた。レミリアの小さな手の上で胡座をかき、腕を組んでプイッと顔を背けている。

 

 赤城の身に何かあったらしいということはすぐに分かった。

 というのも、ここ数日、急に妖精があたふたとし始めたのだ。それまでレミリアと一緒に自堕落な生活を送っていた彼が、視界に入る度に小さな両腕を振り回し、必死で外を指差すのだ。言葉を喋れない彼にとっては、ボディランゲージや表情筋が意思表示をする手段である。ただし、言葉よりも遥かに不自由なそれらのコミュニケーション手段は、伝えたいことを正確に伝えるのには向いていない。レミリアも事実、赤城に何かあったのだろうということまでしか察せられなかった。

 彼は赤城と繋がっている。彼女に何があったのかはすぐに分かったのだろうし、すぐにそれをレミリアに伝えて助けを求めだした。

 ところが、レミリアがなかなか腰を上げないので業を煮やした彼はついにへそを曲げたようにふくれっ面をしたままになってしまったのだ。いくら目を合わせようとしても絶対に顔を背けてしまう。

 

「怒ってるわ」

「そう。私が動かないからね」

「なるほどね。レミィがやりたいことは分かったけれど。……ふむ」

 

 魔女は手を顎に当ててそれらしく唸った。

 この動作は「癖」というより「ふり」である。そうやっていかにも考えているようなふりをして、相手に気を遣わせ、余計なことを言わせないようにする、ある種の牽制といったところだ。顎に手を当てる前に魔女の優秀な頭脳は問い掛けに対する答えを弾き出し、答えを考えているふりをしている間に、実は別なことを考えているのだ。

 

「妖精を通じて艦娘本人とは意思疎通出来るかもしれないが、幻想郷の結界がそれを妨げている可能性がある。面白い考えね」

「でしょう?」

「そうね。だから?」

「だから? って……」

「実証したければ外に出ればいいじゃない。仮説を立てたら実験によってその確認を行うのは学術の基本よ」

「いやまあ、そうなんだけどさ」

 

 魔女はもう一度大きな大きな溜息を吐いた。もう、お前の相手をするのは疲れた、と言わんばかりだ。

 気だるげな日陰者は随分と億劫そうにゆったりとした衣装の懐をまさぐり、すぐに何かを取り出した。蝋のように白いその手には、透明な液体が入った試験管がある。

 いかにも怪しげな物を、怪しげな魔女が思わせぶりに取り出したから、一瞬レミリアはそれがまた良くない薬の類だと疑ってしまったが、すぐにその正体に察しが付いて、吸血鬼はにんまりと丸っこい笑顔を作った。

 

「頼まれていた物は出来たわよ。まだ試作品だから量産化するにはもう少し改良が必要だけど」

「さすがはパチェね。仕事が早いわ」

 

 だから早く行ってちょうだい、という無言の圧力。気を反らそうという意図は明白で、だからレミリアは笑って友人を褒め称えはしたものの、見せたのは作り笑いだけに留めた。

 実のところ、表面的な態度に見せているほど機嫌がいいわけではなく、少しばかり魔女の仕事の早さに安堵したというのが正直なところである。

 ここ最近は考え事が山積みとなってずっと頭を巡らしていたからか、肉体的には碌に動いてもいないのに、疲労感ばかりが積み重なっていった。妖怪の中ではまだまだ若い方のレミリアは、それ相応に気力も溢れているはずだが、「考える」という行為は思いの外エネルギーを消費するものであるようだった。その上、少しばかり悩み事が出来ているのも少なからぬ割合を占める要因の一つだろう。

 

 単純なことである。妖精が訴え掛ける赤城の危機。その下へ駆け付けるべきか否か。

 ただ一人の艦娘に、そこまで肩入れするべきなのか。レミリアはずっと決めあぐねていた。

 

 

 

****

 

 

 

 

「幻想郷を出てお前の主人の下に行くのは難しくないよ」

 

 まだ日が沈む前の黄昏時。親友に図書館から追い出された紅魔館の主人は、日傘を差しながらゆっくりと幻想郷の空を飛んでいた。

 ゆっくりと言っても、並の妖怪が飛ぶ速度よりはずっと速い。本気ならばもっと速く飛べるが、あまり広くない幻想郷で無闇矢鱈に飛ばしたところですぐに結界にぶつかるだけである。それほど急ぐわけでもないので、のんびりと飛行を楽しんでいた。

 いつもなら大抵お供をするメイドの咲夜は連れ立っていない。彼女はこの時間帯は忙しく、今頃はディナーの準備に追われている頃だろう。食事を必要としない魔女や妖精メイドを除けば、紅魔館は毎日そこそこの食料を消費する場所で、料理のほとんどすべてを咲夜一人が作っている。主人を始めとしてわがままな住人が居るので、各人の好みに合わせた味付けをしなければいけないらしく、よって料理中の咲夜は容易には話し掛けてはならない人物となる。

 もっとも、今日の場合はひと言断って出て来た。夕食は要らないと。しかし、真夜中になる前には帰って来ると。

 一方で赤城の妖精は連れ出している。妖精は基本的にレミリアの私室に居るが、レミリアは例え館の中であろうと自室から動く場合はほとんど妖精を連れ回っていた。何となく、彼と距離を置く気にならない。だから、今晩もこうして妖精を懐に仕舞い込んで、昼と夜との境目の色をした空を飛んでいるのだった。

 

 目的地は、間もなく見えてきた小高い山の上の神社。周りを囲む鎮守の森は、一足先に夜が訪れたのか、黒々として木々は影の中に溶け込んでいる。

 東向きの神社。朝は日当たりが良いが、裏手にある森の中でも殊更に樹齢の古い大木が何本も生えているためか、夕方はあっという間に夜闇に包まれてしまう。人里遠く離れた幻想郷の東端に位置するこの神社は、かねてより「妖怪神社」と揶揄されるくらいに人ならざる者たちが集う場所となっているが、その理由の一つは間違いなく郷の中でもとりわけ早く夜になる“暗さ”であろう。そう、魑魅魍魎たちが跋扈する夜の暗闇だ。

 とはいえ、腐ってもここは聖域だ。レミリアはきちんと神社の正面になる鳥居の東側に着地し、厳かな鳥居をくぐって境内に入った。

 博麗神社はその名の通り神の領域であるが、同時にここには一人の住人が居て、彼女の住居でもある。正門たる鳥居をくぐらず、自分の家の庭先に勝手に入り込まれたとしたら、それが例え親しい間柄の友人だったとしても、住人からすればあまり快いものではない。特に、彼女はがさつに見えて(実際がさつだが)、意外とそういうところに神経質になったりする。ただ、基本的に来るもの拒まずのスタンスを取る博麗の巫女なので、招かれなければ他人の家に上がれないという謂れのある吸血鬼も、いつでも好きな時に来れる場所だった。

 

 彼女の家である社務所兼住宅は、拝殿をぐるりと回り込んだ裏手にあった。そこは、神社の西に聳える大木と、大きな社殿の陰に隠れた日当たりの悪い場所である。唯一、お昼時のみ南から太陽の光が差し込むので、ここの主人はしばしば南向きの縁側で日向ぼっこをしていた。黄昏時の今は、住居にも明かりが点いていて、屋根から飛び出している小さな煙突から白っぽい湯気が立ち昇っている。巫女は食事の準備中なのだろう。

 

 冬が終わり、もう春と呼べる時期になった今日は、とてもそうとは思えないくらい寒い一日となっていた。先週まではぽかぽかと暖かい陽気に包まれていたから、その反動で寒さがぶり返したのかもしれない。いくら頑強な妖怪の身体と言えど季節外れの寒さは身に染みて、空を飛ぶのもあってなおさら着込んで来なければならなかった。最近はレミリアに対して素っ気ない赤城の妖精も、それとは別の理由でコートの中に潜り込んだっきりピクリとも動かなくなっている。

 特に日陰となる社務所の辺りはひと際冷え込んでいるようで、普段巫女が腰掛けている縁側もぴったりと雨戸まで閉められて寒さを遮断しているようであった。中ではきっと巫女が温かい料理を作っていることだろう。それに期待してレミリアは玄関を黙って開けた。

 中は少しだけ温かい気がしたが、それでも寒々としている。東洋の家に上がる時にはそうするように、レミリアはきちんとブーツを脱ぎ、土間に並べて置くとひんやりとした空気の廊下を進んだ。足裏から厚手の靴下を通して床板の冷たさが伝わって来た。

 横長の社務所兼住宅は、建物のほぼ中央にある玄関を境に、向かって右側が社務所、左側が住居スペースに分けられている。もちろん巫女が居るのは住居スペースの方で、レミリアはそちらに足を向け、奥から二番目の部屋の襖を開けた。

 

 そこが茶の間である。台所で調理中であろう住人の姿は当然そこにはなく、物寂しくちゃぶ台が一つ、座布団が一つ置かれているだけだった。ちゃぶ台の上には一人分の食器と、何故か見慣れた八卦炉が土製の焜炉にすっぽりと収められて置かれている。この八卦炉は「ミニ八卦炉」と呼ばれる特別な物で、その名の通り、手の小さな少女でも扱いやすいように小振りな大きさをしている。

 しかし、小さいと言っても「ミニ八卦炉」は立派なマジックアイテム。本来の持ち主である魔法使いの少女の愛用の道具であり、彼女を表すトレードマークの一つでもあった。だから、それがこの部屋の中にある――それも焜炉に収められた状態で存在するというのは酷く不可思議な状況であった。件の魔法使いはこの神社の巫女と仲が良いから夕食を共にしていてもおかしくはないのだが、それにしては食器も座布団も一人分しか用意されていないのでますます不思議である。

 そうやってレミリアが首を捻っていると、入って来た入り口とは別の、台所に通じる障子戸が開いて巫女がひょっこり顔を出した。

 

「なんだ、あんたか」

 

 挨拶もなく上がったレミリアが言えることではないが、人を迎えるにはいささか失礼な反応である。いつもの可憐な巫女装束ではなく、どてらを着込んだ野暮ったい恰好の少女こそ、この神社の住人、博麗霊夢だ。

 

「何の用?」

「霊夢の手料理が食べたくなっちゃった」

「はあ?」

 

 レミリアとしては精一杯の愛嬌をもって可愛らしく言ったつもりだが、霊夢は露骨に顔を顰めただけである。鋭い眼光がますます鋭くなり、眉間に縦皺が浮き立つと、年端もいかない少女のくせして妙な凄みが出た。さすがに幼少の頃から魑魅魍魎に囲まれて生きてきた人間は違う。齢五百を超える吸血鬼を前にしてもまったく怯まないどころか、逆に威圧してくるのだ。

 

「あんたの分なんて用意してないけど。来るって連絡ももらってなかったし」

「『行く』と言っておけば準備してくれてたってことね?」

「ええそうよ。退魔結界を張ってたわ」

「だから言わなかったのよ」

 

 レミリアはにこにこと笑いながらコートを脱いで、ポケットに潜り込んでいた妖精を引っ張り出して自身の肩の上に移すと、丁寧に折りたたんで部屋の隅に置いた。

 その様子を見ていた霊夢はひと言、

 

「誰もあんたに飯を出すって言ってないけど」

「けち臭い。貴女だって、うちに来て散々咲夜にたかっているんでしょう? 私が同じことしちゃだめなの?」

「同じことを返すんなら、その権利は咲夜にあるでしょ」

「咲夜のものは全て私のものよ」

 

 口答えして引かないレミリアに、霊夢はしばらく睨むようなきつい視線を向けていたが、やがて根負けしたのか「分かったわよ」とぶっきらぼうに言い捨てて台所に戻って行った。

 

「その代わり、あんたもちょっとは手伝いなさいよ。ただ飯食わせるつもりはないから」

「ええ。それはもちろん。ところで、鍋料理みたいだけど、何の鍋なの?」

「牡丹鍋よ」

「……え゛っ!?」

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 イノシシの肉は思ったよりも柔らかく、しっかり血抜きされていたのか臭みもなく、おいしくいただけた。つい先日、メイドに下らないちょっかいを出して手痛いしっぺ返しを食らったため、イノシシという名称を忌避していたのだが、心配は無用だった。咲夜ほどではないが、霊夢はこれでなかなか料理が上手なのである。

 彼女が珍しく牡丹鍋を作っていた理由は、どうやら昼間に隙間の妖怪が突然大量のイノシシ肉を差し入れしてきたかららしい。相手が相手なので霊夢が訝しんでいると、隙間妖怪は「今晩は寒くなるから牡丹鍋にでもした方がいいわよ。誰か来るかもしれないし」と助言して、自分はさっさと消えてしまったという。どう考えても謀られたような気がする。

 それで大量の肉の処分に困った霊夢は、助言通りに牡丹鍋にすることにした。一人で食べ切れない量だったが、隙間妖怪の言葉通り誰かが来ることを期待していたそうだ。彼女としては、魔法使いや小鬼、仙人辺りを予想していたらしく、レミリアが来たのは想定外だったとのこと。口ではぐちぐち言いながらも、とっくに二人分の飯は用意していてそのつもりだったわけである。

 

 ちなみに、焜炉に収められていたミニ八卦炉は、レミリアの予想通り鍋を煮込む火力源として用いられた。それは良いのだが(以前に本来の持ち主が八卦炉で料理しているところを見たことがある)、不思議なのはどうして霊夢が当たり前にそれを扱っているのかである。尋ねてみるとあっさり教えてくれた。

 それによると、どうもこの冬の始まりの時期に、霊夢は持ち主の魔理沙に弾幕勝負を吹っ掛け、そして勝ったらしい。弾幕勝負では負けた方は勝った方の言うことを聞かなければならない。霊夢は春までの間ミニ八卦炉を一つ融通するように言って、無事魔法使いから借り上げたのだ。理由は、まさに今日そうしたように鍋料理をするのに最適だったから、という非常に身勝手なものだった。

 おまけに、性質の悪いことにこの巫女は飯のことが絡むと滅法強く、魔理沙はその後八卦炉を取り返そうと何度か再戦を挑んだそうだが、可哀そうなことに尽く負けて結局諦めることになったらしい。

 

「それにしても」

 

 食後、くつろぎながらぐい呑みでちびちびと清酒を呷りつつ、霊夢は同じように酒を舐めているレミリアに向かって尋ねた。

 

「あんたが一人でこんな時間に来るなんて珍しいじゃない。しかも、そんな思い詰めたような顔して」

 

 レミリアは空になったぐい呑みを座卓の上に置き、牡丹鍋の残った味噌出汁を匙ですくって、食器の横に座らせている妖精に与えた。彼は匙の首を掴んで口元に引き寄せると、音を立てずに汁を啜る。

 食事の間中、レミリアはずっと妖精を自分の手元に座らせていたし、時折小さな野菜や肉の切れ端を食べさせていたが、霊夢は妖精についてはひと言も言及しなかった。認識はしているだろうから、ただ単に興味がないだけかもしれない。

 

「そう見える?」

 

 妖精が匙から口を離すのを見てレミリアは答えた。

 

「見えるも何も、相談事があって来たんでしょうが」

「うん」

「何なのよ。あんたんとこの居候でも咲夜でもなく、私にする相談事って」

「もう一度出してくれない?」

 

 単刀直入に言う。回りくどい話は、巫女が好むものではない。

 霊夢はすぐには答えず、手元に目を向けてぐい呑みに酒を継ぎ足すと、それを口に運んで一気に呷った。普段は白い彼女の顔が、温かい鍋を食べたためか、アルコールが入ったためか、あるいはその両方によるものか、いい具合に朱に染まっている。血色良く上気した様は、先程の牡丹肉のようだと思った。

 

「駄目」

 

 もったいぶった割に、霊夢は取り付く島もなく、短くひと言で切って捨てた。容赦のなさはさすがであるが、この答えはレミリアが予想した通りだった。むしろ、望んでいた言葉とさえ言ってもいい。どの道霊夢にはそれしか言いようがないし、レミリアはそれも理解していた。

 

「第一、私に決定権はないわよ。頼むんなら紫の奴にでも頼んだら?」

「そうね……」

 

 霊夢は幻想郷を囲む二つの大結界の内の一つ、博麗大結界の要にして、郷と外の境目を封じる博麗神社の主でもある。その存在は幻想郷の存続には不可欠で、それ故に彼女はあらゆる面で特別扱いを受けたし、当人の能力も抜きん出て特異なものだった。

 しかし例え霊夢本人がどれ程特別な存在で、どれ程特別な立場にあろうとも、特別な権限を持っているわけではない。博麗神社の巫女であるが、それ以上でもそれ以下でもない。幻想郷と外との出入りは基本的に「賢者たち」と呼ばれる一部の大妖怪だけが許可出来るものなのだ。能力的に巫女にそれが可能だったとしても、実行すれば怒られるのは霊夢である。

 

「あんた、失敗したんでしょ。外で失敗して、逃げ帰って来たんでしょ。だからあんたは“あいつら”に見限られた。惨めなもんよね。もう見向きもされなくなって、仕方なく私のところに泣きついて来たんでしょ。ほんと、惨めなもんよね」

「二回も言わなくていいじゃない」

 

 失敗とか、惨めとか、レミリアがこの世で最も好まない部類にカテゴリーしている言葉を、意識してか無意識的にか、霊夢は容赦なく浴びせ掛けて来た。温まったはずの彼女の身体から、こんなにも身の凍て付くような言葉が発せられるのが驚きだったが、霊夢はどんな相手にもとことん非情になれる精神性の持ち主であるのだ。

 レミリアは不意に身体を後ろに倒し、畳の上に寝転んだ。火照った体にひんやりとしたい草が心地良い。

 

「ああっ! もうッ! その通りよ!」

 

 呻き声とも雄叫びともつかぬ声を腹の底から絞り出す。こんな姿、紅魔館で晒せるものではない。

 

 レミリアは、スカーレット家の主だ。紅魔館という組織の首領だ。

 それは“家”という形態をしているが、その実、紅魔館というのは集団ではなく組織である。主、レミリア・スカーレットのために生き、レミリア・スカーレットと目的を共有する、正真正銘の組織なのだ。もし仮に主が戦いを望めば、その瞬間に紅魔館の全ては戦闘態勢へと移行する。最たる例が、紅霧異変であった。

 ただ、組織の長として求心力を維持するために、レミリアは“強い主人”として振舞わなければならない。そうした姿は、レミリアが最も好ましいと考える自分の像に合致しているものだが、裏を返せば紅魔館の中で“強い主人”以外の振る舞いをすることは許されないということでもある。本来はくつろぎの空間である家の中で、肩肘張った振舞いをしなければならないというのは、気の休まる暇もなく、中々に気疲れすることだった。

 だから、こうしてレミリアは時折外出して、とにかく紅魔館の誰も見ていない、誰も知り得ないところで息抜きをすることがある。相手が霊夢なら、いくら仲が良いといっても、レミリアのこんな姿を咲夜に漏らしたりはしないから、博麗神社は重要な息抜き場となっていた。

 どれ程惨めで情けなく、弱気なところを見せても、基本的に他人に興味のない霊夢はそれをネタに噂したりしないし、そんなことはしてはならないと分かる程度にはちゃんと分別がつく人間である。あるいは、だからこそ相談相手として最適なのかもしれない。他人に興味がないから誰にも肩入れせず、常に離れたところから、第三者としての視点から、言葉を与えてくれるものだ。人間らしくはないが、聖職者らしくはある。

 

「スカーレット家の家訓の一つに」

 

 天井を仰いだままレミリアは喋り続けた。

 

「失敗は自分で取り戻せっていうのがある」

 

 相槌の代わりに、徳利を置く音がした。どうやらまだまだ飲むつもりらしい。

 

「スカーレット家の家訓っていうのは、つまり私が自分に課したルールみたいなものよ」

「へえ」

 

 今度はぐい呑みが置かれる小さな音がした。酒臭い巫女からは酒臭い言葉が吐き出される。

 

「あんた、結構息苦しい生き方してんのね」

「まあね。これでも色々背負ってる身よ」

「はぁん。意外だわ。そういうところ」

「そう?」

「うん。だってさ、ここの妖怪連中って言ったらさ、どいつもこいつも好き勝手しながら生きている奴らばっかじゃない? 特に力を持ってるのはそうよね。自分の感情とか欲求とかが最優先。他人の迷惑なんて知ったこっちゃない。あんたもその口だと思っていたわ」

「貴女に言われると腹が立つのは何故かしら? それはその通りなんだけど」

 

 レミリアは両手を天井に向かって伸ばし、反動をつけて前へ振って上体を起こす。目の前ではまた巫女がぐい呑みに酒を注いでいたので、それに倣って自分の徳利に手を伸ばした。盃に注がれた透明な清き液体を一息に呷ると、一瞬にして顔に血液が殺到し、喉の奥が火傷したように熱くなる。舌触りは滑らかなのに、身体を芯から刺激する度数の強い酒だ。吸血鬼も鬼の一種であるから酒には強いが、レミリア以上に飲んでいる霊夢の方はどうだろうか。明日は確実に二日酔いで屍になるだろう。

 

「まあ、組織の上に立つっていうのも、縛られることが多いのよ」

「文の奴も似たようなこと言ってたわね」

「あれこそ、雁字搦めだろう」

 

 霊夢の言う「文」とは、烏天狗のブン屋のことである。かの天狗は幻想郷の中でも最も古く、最も大きな階層性組織の一員で、組織の中では中くらいか平均より少し上の地位に居るらしかった。

 彼女は同族の天狗たちからは「変わり者」と見られていて、割と自由気ままに振舞っているふうではあるが、そんな彼女をしても組織の一員であるということは「自由に動けない」ということであるらしい。ましてや天狗社会の真ん中では、雁字搦めになるのも致し方のないことだろう。あくまでピラミッドの頂点に立つレミリアとは制限の度合いが違うようだ。ただし、それは程度の差であって、どちらも組織の一員としての制限からは逃れられないのは同じである。

 

「自分の都合じゃ動けなくなる。我儘言っても、度が過ぎた悪戯をしても、それは強者であるが故に許される余裕ある振舞いと解釈される。弱音を吐いたりとか、泣いたりとか、そういうところを見せられなくなるの。そりゃあ、自分を信じて付いて来てくれる奴らに弱い姿を見せたいとは思わないけどさ。家の中でも気を張ってなきゃいけないって、結構しんどいものよ」

「難しいこと考えてんのね」

 

 対面する霊夢はちゃぶ台に肘を立てて支えにした手の平に顎を乗せていた。酔いが回ったのか、眠そうに瞼が落ち掛けている。

 

「難しいのよ。そういうところを見せたら、求心力を失うもの」

「求心力、ねえ」

 

 ふぁぁ、と霊夢は大きな欠伸をした。人の話を聞いているのかいないのか。今はとにかく眠たいのだろう。半開きだった瞼はいよいよ落ち切ってしまった。

 これ以上話しても意味がないか、とレミリアが腰を上げようとした時、見計らったように目を閉じたまま巫女が口を開いた。

 

「あんたの悩みって、その小さい奴に関係することでしょ」

 

 眠たげな表情とは裏腹に、言葉には鋭さがあった。「その小さい奴」というのは、茶碗に背を預けて舟を漕いでいる赤城の妖精を指しているのだろう。

 

「そう。貴女、前に赤城と会ったでしょ?」

「あったわねえ。咲夜がすぐに帰したみたいだけど」

「この妖精は、あの子の眷属のようなものよ」

「眷属ねぇ……。んで?」

「彼女たちは外の世界で戦争をしている。深海棲艦という海を荒らす敵を退治するために戦っている。

それは戦争だから、怪我もするし、運が悪ければ死んでしまうことだってある。もしそうした災難が降りかかったなら、それも彼女の運命」

「じゃあ、あんたは何に悩んでいるの?」

「あの子は、紅魔館の一員じゃない。私の“ファミリー”じゃない。私は私の“ファミリー”のために在って、彼女たちの主人でなければいけない。求心力を維持するとはそういうことよ。

紅魔館の者ではない者を、主人が幻想郷のルールを破ってまで助けに突っ走って行ったら、置いて行かれた紅魔館の面々はどう思う? 私は彼女たちの主であって、赤城の主ではないの」

 

 一度は失敗した。

 目的は外の世界にはびこる深海棲艦を駆逐すること。その手段としてレミリアには外の軍に潜入し、自ら指揮官として采配を振る傍ら、深海棲艦の弱点を炙り出し、効果的な戦略を構築することが求められていた。

 しかし失敗してしまう。目的を果たせぬまま、十全な情報収集も出来ぬまま、レミリアは失脚し、無様に幻想郷に逃げ帰って来るはめになってしまった。それが、レミリアを支援していた「賢者たち」を失望させるには十分な理由となった。再挑戦の権利は与えられず、この問題は既にレミリアの手を離れている。

 

 だが、レミリアはやり直したい。今度こそ失敗しない。

 そう決意する理由や背景事情は複雑で込み入ったものだが、何よりも先に立つのは、己のプライドと求心力を保つためという理由だ。

 だから、今度はもっと入念な計画を立てた。周到に準備も進めている。これらは「賢者たち」を説得するのに大きく寄与するだろう。それに、この問題の解決におけるレミリアの優位性というのは別に失われたわけではない。

 

 

 問題は厄介な物だった。外の世界で繁殖し、海上交通と漁業を大きく制限する深海棲艦の存在は、間接的に幻想郷の存続にも危機を与えている。最も深刻なのは、外の世界で生産量不足になった食塩の問題で、海も岩塩もない幻想郷では外からの塩の輸入が頼りだった。

 何故なら、いつだったか山の風祝が言ったように、塩は人間が生きる上で不可欠な栄養素の一つであり、それは幻想郷の人間といえど変わらない。塩がなければ人は死んでしまう。そして、幻想郷を作る多くの神や妖怪といった存在は、人間の存在を前提としており、人間が居なければ消滅する運命にある。だから、塩のあるなしはそのまま幻想郷の存続に直結しているのだ。

 ところが、最近は深海棲艦の跳梁跋扈が著しく、外の世界では塩の生産量が不足するようになっていた。当然、その影響は幻想郷にも表れてくる。

 外の世界から幻想郷に塩を輸入しているのは「賢者たち」の一人、隙間妖怪こと八雲紫である。幸いにして彼女は相当量の塩を備蓄していたから、深海棲艦が現れてもしばらくの間は塩不足が表面化することはなかった。「賢者たち」もその間に深海棲艦が駆逐されるだろうとタカを括っていた。

 ところが、「賢者たち」の予想に反して、深海棲艦は減るどころか増える一方であり、当初は「外の問題は外で解決するもの」と不干渉を貫いていた彼らも、いよいよ対処に動かなければならなくなった。そこで白羽の矢がレミリアに立ったのだ。

 かくして、レミリアは提督として鎮守府に着任することとなる。

 

 しかし与えられた役目を完遂することなくレミリアは幻想郷に戻って来た。「賢者たち」はレミリアに失望し、大いに非難の言葉を浴びせ掛けたが、プライドの高い紅魔はそれらすべてを甘んじて受け入れた。他の誰よりも失望していたのは、他ならぬレミリア自身だったのである。

 故に、レミリアは家訓に従い、勝手に失敗を取り戻すための計画の立案とその準備を行い始めた。もちろん、「賢者たち」はどこかでそうしたレミリアの動きを感知していることだろう。分かっていないなら、直談判しに行けばいいだけの話。深海棲艦に手をこまねいているのは彼らも同じであり、レミリアが最も有効な対抗手段であるという認識は変わっていないはずだから。

 

 だから、再度の挑戦はレミリアの意志でもあり、紅魔館の総意でもあった。魔女も、門番も、メイドだって、皆レミリアのために力を発揮しようとしてくれている。後少しばかり準備が整うまで時間が掛かるが、それさえ出来ればレミリアは迷うことなくもう一度外に出ていただろう。実際、ついこの間まで迷いなんてなかったし、これ程悩むなんて露ほどにも想像していなかった。

 

 赤城の危機を妖精が感じ取ったのは数日前。彼は今すぐに助けに行けと、無言で訴えた。

 

 だがそれは出来ない相談だった。準備はまだ整っていないし、正式に再挑戦の権利をもらったわけでもない。今外に行こうとすれば、確実にルールを破ることになり、レミリアにはきついペナルティが課せられることだろう。それは、計画のすべてを破綻させるに十分な代物だというのは容易に想像出来た。何よりもそれは紅魔館の総意に反する。一時の情にほだされてルールを破るなど、強い主人のあるべき姿ではない。

 

 だというのに、赤城を助けるべきだという気持ちは日に日に大きくなっているのだ。そうしなければ一生後悔するぞ、と脅す声が頭の中で響く始末。

 赤城は、確かにレミリアが気に入っていた艦娘だ。少しばかりそこに妹の姿を重ねたというのが正直なところ。情がないと言えば嘘になるし、素直に白状すると「助けに行きたい」という想いだってある。

 ただ、特定の艦娘にそこまで入れ込む必要はないと思っていた。彼女がしているのは戦争なのだから、そういうこともあるだろう。その点は、人間より余程長生きしているレミリアの方がよく理解している。

 つまりはそう思う程度のことで、もちろんレミリア以外の紅魔館の住人たち、例えば美鈴なども分かっていることだろう。レミリアが愚行を犯すなんて門番は想像すらしていないだろうし、実際それで問題ない。これはあくまでレミリア本人の感情の問題である。

 

 優先すべき問題ではない。レミリアは“ファミリー”のことを第一に考えなければならない。何故なら自分がその主人だから。

 

 

「あんたの好きにすりゃあいいけどさあ。私を、巻き込まない範囲で」

 

 再び若干唐突とも思えるタイミングで霊夢が口を開く。ただ、瞼は相変わらず閉じられたまま。

 

「まあ、そう言うよね。霊夢ならね」

「うん。でも、一個気になることが、あるんだけどぉ」

「何よ」

「さっきそいつのことを『眷属』って言ったじゃない」

「言ったわね」

 

 妖精のことを指して言う霊夢に、レミリアは頷く。もう八割方眠気に負けている巫女は、声もだいぶ眠そうで間延びをしていた。

 

「私には、そうは、見えないんだけど……」

 

 その言葉を最後に、いよいよ目の前の霊夢は動かなくなってしまう。かすかに寝息も聞こえ始めた。どうやら彼女は夢の中に誘われたようだ。

 言われたことの意味を考える前に、やれやれと思いながらもレミリアは立ち上がるしかなかった。すると、ふっと頭の中から血液が抜け出す感覚がして、視界がぶれた。慌てて手元のちゃぶ台に手を着いて身体を支える。どうやら自分も少しばかり酔いが回っているようだ。

 どうにか立ち上がり、中々重くなってしまった足を引きずるようにして霊夢の元まで来ると、肩を掴んで揺すってみる。巫女の身体は力なくぐらぐらと揺れ、そのうちバランスを失って後ろにバタンと倒れた。その拍子に霊夢は後頭部を畳に打ち付けて、「んあっ」と間の抜けた声を漏らした。

 衝撃で少しだけ意識が覚醒したらしい霊夢だが、未だ瞼は半開き。とろんとした目が当てもなくさ迷っている。

 

「霊夢。こんなところで寝たら風邪ひくわよ」

「んんんんっ」

 

 霊夢は何の意味があるのか呻き声を上げて、身体を反転させ、肩と腰を同時に持ち上げる。四つん這いの姿勢になると立ち上がるかと思いきや、そのままドタドタと歩き方の下手糞な四足歩行動物のように部屋の中を進み、隣の床の間に通じる障子戸を開ける。床の間にはすでに布団が敷いてあったので、どうやら霊夢は初めから飲んですぐ寝るつもりだったようだ。彼女はそのまま寝間着にも着替えず、布団の中に潜り込んでしまう。

 着替えたらどうなの、という言葉は喉元まで出て来たが、言っても無駄なようなのでレミリアは黙って障子戸を閉めた。

 

 レミリアは再びちゃぶ台の下に戻ると、徳利を持ち上げてそのまま残っていた酒を呷った。カッと体が熱くなる。

 酔いもいい感じで回っているし、巫女はさっさと寝入ってしまった。レミリアはコートを拾って帰り支度を始める。寝こけている妖精をコートのポケットに突っ込むと、何となくまだ酒が足りていない気がした。霊夢は潰れてしまったが、鬼であるレミリアにはまだまだ飲み足りないのだ。

 酒はどこに仕舞ってあるだろうか。台所への障子戸を開けると、冷たい空気が流れ込んで来て酔いが少し醒めてしまう。暖かかった茶の間とは打って変わって、台所はそこに在る全ての物が冷気を発しているかのように寒い。さっさと酒を、と思って首を回すと、思いの外すぐにそれは見つかった。入り口左手、棚の上にでっかい酒瓶が置かれている。銘柄は宴会でもよく見るやつで、そんなに高い物じゃなさそうだ。おまけに少し開けられているようで中身が減っている。

 これでいいか、と酒瓶を抱えると、レミリアは何も言わずに玄関まで戻り、ブーツを履いて外に出た。夜も更けて外はますます寒く、広げた羽も凍て付きそうだった。

 火照った体からどんどんと熱が奪われていく。上空に飛び立つと、酔っているにもかかわらず首元を抜けていく風の冷たさに震えが止まらなくなってしまった。早く早くと気が逸り、帰りの道中は出来るだけとばす。頭上は見事な星空だったが、ゆっくりと天体観測と洒落込むにはいささか気温が低すぎた。

 

 ほんの数分の飛行だったが、見慣れた家の門が見えて来るまでは思いの外時間が掛かったような気がする。絶え間なく薪の弾ける音がする暖炉とふかふかの毛布がもう目の前にあると思うと、体の震えはいよいよ収まらなくなった。とにかくレミリアは家路を急ぎ、急ぎ過ぎた故に門を勢い余って破壊するところだった。

 門前には門番が立っている。彼女にぶつかりそうになって、慌てて急制動を掛けたのだ。

 普段、門番は日の出から日の入りまでの紅魔館の門を守っている。それは、館の主であるレミリアが夜行性であるため、無防備に寝ている昼の間、外敵を排除する必要があるからだ。夜間はレミリアの力が十分に強いので守る必要がない。

 だがもちろん、外敵など久しく持っていない紅魔館にそのような厳重な防御は不要であるから、今の門番の専らの仕事と言えば、訪問者の応対や庭の管理くらいなものである。特に最近はレミリアが昼間に起きていることが多いので、そのような仕事の方が重要になって、いわゆる“門番”という役職名も半ば形骸化しているのが実情だった。

 そんな門番が、日がどっぷりと沈んだ寒い夜にこうして門を見張っているのはとても珍しい。夜中に吸血鬼を訪ねて来るような物好きは、幻想郷と言えどまず滅多に現れないからだ。

 

「ただいま、美鈴。こんな時間までご苦労サマ」

 

 若干ふわふわとした足取りで美鈴の前に着地したレミリアは、苦労の多い部下を労った。酒の力もあって、機嫌は悪くない。

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

 美鈴は白い息を吐きながら慇懃にお辞儀する。

 

「待っててくれたの?」

「ええ。もちろんですよ。さ、寒いので早く中に入りましょう」

 

 と言う美鈴の言葉は少し震えていた。二人は門から玄関までの道を並んで歩きながら喋った。

 

「そうね。お酒を頂戴して来たのよ。一緒に飲まない?」

「お嬢様、だいぶ酔っておられますね。飲み過ぎてはいけませんよ」

「大丈夫よ! 私はお酒に強いんだからぁ」

「はいはい。そうですね」

「ところで咲夜は?」

「寝てますよ。“眠気”に誘われて。疲れていたんでしょう」

「そう。気が利くじゃない」

 

 機転の利く美鈴に感謝だ。

 レミリアを崇拝していると言っても過言ではないメイドには、こんな風に酔っ払った姿は見せられるものではない。彼女が崇めているのは、強く気高い吸血鬼であって、決して酒臭い鬼の子ではないのだから。

 その点で言えば、妹を除き紅魔館では一番付き合いの長い美鈴は、あまり肩を張らずに話せる貴重な相手でもある。彼女の前なら多少の醜態を見せても安心出来る程度には、レミリアは門番を信頼していた。こうして酔いに任せた他愛もない与太話に付き合ってくれるのも、美鈴を除いて他に居ない。

 

「そのお酒はどうしたんです?」

「霊夢のところから持って来たのよ。飲み足そうと思って」

「霊夢には言ってあるのですか?」

「次に会った時に言うわ」

「なるほど。明日は大変になりそうです」

 

 門番は快活に笑った。

 

 

 

****

 

 

 

 話しながら紅魔館の玄関にたどり着くと、レミリアはすぐさま扉を開けて中に入る。がらんどうのエントランスホールも寒々としているので、ふわりと宙に浮いた吸血鬼は、自慢の大きな羽で一生懸命パタパタと羽ばたいて自室へと向かう。部屋はきっと咲夜か美鈴のどちらかが温めてくれているだろう。

 美鈴も宙にふよふよと浮いて後をついて来る。自室に帰って来ると、想像した通り暖炉では薪が燃え、中は天国のように温かかった。

 レミリアは足高テーブルに、ドンと酒瓶を置くと、ポケットから妖精を引っ張り出し、コートを脱いで椅子の背もたれに掛ける。自室には小さな食器棚があり、そこには主に装飾用の皿などが飾られているのだが、実は中にこっそりグラスが仕舞われていた。

 時たまレミリアは、咲夜にばれないようにこっそりカクテルを作って飲むことがある。幼い見た目から下戸と間違われやすいレミリアだが、見た目に反してそこそこ酒飲みなのだ。わざわざ親友の魔女に頼み込んで、メイドが開けて見ても“単なる飾りの皿しか並べられていないようにしか見えない”特別製の食器棚を作ってもらったくらいには、である。皿を陳列する趣味はないので、これは完全にカモフラージュ。メイド(というより人間)の認識を阻害する魔法で隠された食器棚の奥には、愛用のグラスが仕舞い込まれている。

 

「さあさあ、飲みましょう!」

 

 レミリアは上機嫌でグラスを二つ取り出すと、美鈴は酒瓶を開ける。

 

「割らないんですか?」

「ライムジュースでもあればいいけど、なにもないからそのまま飲むわ」

 

 門番は主人がテーブルに置いたグラスにそれぞれ三分の二ほど酒を注ぐ。二人は乾杯をして、それから喉にアルコールを流し込んだ。

 外の寒さで冷えた身体がまた熱を帯びる。食道から染み込んでいくようなアルコールに、レミリアはぶるぶると身を震わせる。さすがは霊夢だ。安いばかりで大して美味くもない酒を持っている。やはり、何かで割った方が美味しく飲めたと思ったが、今更寒い廊下に出るのは大変億劫だったので、そのまま呷ることにした。

 二人が飲んでいる間、テーブルに無造作に乗せられていた妖精はふらふらと彷徨い、やがてその場に倒れて動かなくなってしまった。レミリアがあちらこちらに連れ回した上、寒い中神社まで行ったので疲れ切ってしまったのだろう。「寝かさなきゃ」と呟いてから、レミリアは妖精を摘まみ上げて書斎机にあった、彼専用の小さな布団の中に寝かせた。

 

「甲斐甲斐しくお世話しているんですね」

 

 その様子を眺めていた美鈴がふと口を開いた。

 レミリアは椅子に戻り、グラスに残っていた清酒を飲み干す。

 

「ええ。あの子の、『眷属』だもの」

「赤城さん、でしたっけ」

 

 美鈴は酒瓶を手に取ったが、レミリアは微笑みながら軽く手の平を見せる。

 

「そうよ。艦載機が飛ぶところは見た?」

「生では見てませんね。一般にはあまり艦娘は披露されていないんでしょう。テレビ番組では特集が組まれて、そこで艦娘が飛行機を飛ばしているのは見ましたけどね」

「あんな小さなものでもちゃんと飛べるのよ。大したものだわ」

「その、あんな小さなもので、彼女たちは戦争をしているんですよね」

「そう。あれは、戦争。殺し合い」

 

 美鈴はゆっくりとグラスの中の液体を回す。

 彼女だって間近で艦娘のことを見ていた。飲料会社の従業員として鎮守府に出入りしていたのは、レミリアの支援要員だったからだ。レミリアとしては門番を連れて行く必要性をあまり感じていなかったのだが、咲夜が自分も付いて行くと煩かったので、メイドの代わりに美鈴を選んだのである。結果的にはそれが窮地に陥ったレミリアを助けることになった。彼女が加賀と結託していたというのは心底驚いたのだが。

 それはどうやら加賀が美鈴に頭を下げてまで、協力を仰いだから実現したことらしい。

 

「最初、彼女に頼まれた時、驚きましたし不審にも思いました。お嬢様の正体を知って尚、お嬢様に味方しようとするんですからね。普通、彼女のような者からすれば、吸血鬼というのは忌避するべき存在です。間違っても、感情移入する相手じゃない。お嬢様はどうやってあの艦娘を篭絡したのですか」

「失礼ね。人聞きの悪いことを言うんじゃないわ。ただ、ちょっとした不注意で正体がバレてしまっただけなのよ」

「それはまた珍しい」

「日傘を飛ばしたの。それを加賀に見られてね。でも、彼女は私が吸血鬼であることを知っても、態度を変えなかったわ。彼女にとって大事なのは、自分たち同じ覚悟を持って戦ってくれるか、ということだったから」

「なるほど。それで……」

 

 門番は一人、何かに得心したように呟いて、グラスに残っていた酒を飲み干した。

 それを眺めながら、レミリアは霊夢が言った言葉の意味を考える。

 

 艤装の妖精は艦娘の分身か眷属に値するものだというのがレミリアの仮説だった。自分が蝙蝠に分裂し、それら蝙蝠を自分の身体の一部として操れるように、個々の妖精と意識が繋がっている艦娘も妖精を同じように扱えるのだと考えていた。

 その仮説を霊夢に言ったわけではないが、「眷属」と表現したのはこの考えに基づいたものだ。霊夢も、レミリアのような者がどういう意味合いで「眷属」という言葉を使うかは分かっているだろう。分かった上で、彼女はそれを真正面から否定した。

 では、何だと言うのだろうか。妖精が艦娘本人の「眷属」ではないのなら、何だと言うのだろうか。答えを聞くべき相手は今頃はどっぷりと夢の中だった。だから、ふと目の前の従者に問い掛けたくなった。

 

「ねえ、美鈴」

「はい。お嬢様」

 

 酔っていても、美鈴の返事はしっかりしていた。忠誠心の強さなら咲夜さえも上回るのではないかと思しき彼女なら、誠実に答えてくれるだろうか。

 

「貴女にはあの妖精が赤城の何に見えるかしら?」

「先程『眷属』と仰られませんでしたっけ?」

「違う違う。美鈴の忌憚ない意見を聞きたいの」

「うーん。それは、お嬢様の仰る通りだと思いますよ。さすがに艦娘のことをよく分かってらっしゃいます」

「ほんとにそう思う?」

「と言いますと?」

「ちょっと、引っ掛かりを覚えたりはしない?」

「……本当にそう思いますよ。霊夢に何を言われたのかは分かりませんけど、はっきりと言葉に出されていないのなら、霊夢自身にも分かってないでしょうし、気にすることはありません。自由に動き回って、飲み食いもして、ちゃんと喜怒哀楽もある。それが、霊夢には『ただの眷属』には見えなかっただけでしょう」

 

 そんなことは妖怪の眷属にはさして珍しいことでもないのに、と従者は付け加えた。機嫌良さそうに彼女はにこやかにしていて、実際レミリアと久しぶりにこうして二人になれたことが嬉しいのだろう。

 美鈴からすれば何気なく口にした言葉に違いない。確たる意図があったわけではなく、何となくそういう表現をしたのだ。しかし、レミリアは大きな光明を得た気分だった。そこを辿っていけば、霊夢が意味深に呟いたことの意味も分かる気がした。

 ――ただの眷属。なんて。

 

 あと少しで何か分かりそうだった。ただ、それを考えるには酔いが回り過ぎていささか眠かった。

 今考えなければ、霊夢の言葉の意味にたどり着けないと感じたけれど、アルコールは吸血鬼にも容赦なく作用して、意識がどんどんと白んでいく。起こしなさいよ美鈴。という言葉さえも眠気に呑まれてしまった。案外役に立たない門番は、目の前で寝落ちし掛けている主人を微笑ましそうに見つめているだけだったからだ。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 翌日、レミリアが目を覚ましたのはベッドの上だった。どうやらあの後美鈴が寝かせてくれていたらしい。窓から外を見ると太陽が傾き始めた時間帯であった。

 吸血鬼といっても、自室に窓を作らなければいくら何でも息苦しくて居心地が悪いので、北向きの壁に窓がある。そこから見える景色が少し赤っぽく染まっていたので、もう夕方なのだと分かった。

 少なくとも半日以上は飲まず食わずだったわけだが、空腹も喉の渇きも感じない。そもそも肉体に依存しない妖怪は、あまり飲食に対する欲求を持たないのが常である。一部お菓子や酒を好む者も居るが、大抵の場合それを求めるのは娯楽や嗜好としてであり、人間で言えば遊びに近い。従って、過剰な飲酒を行っても人間のようにアルコールの分解に時間が掛かって体調に影響が出るようなことはなく、頭痛も吐き気もない爽やかな寝起きが可能だった。

 

 自室の中の足高テーブルには昨晩そのままにグラスが二つと一升瓶が置かれていた。ということは、レミリアの身の回りの世話を焼くことに情熱を燃やしている人間のメイドも、今日はまだこの部屋に入って来ていないのだろう。もし彼女が出しっ放しの酒とグラスを見付けたら、きっと顔色を変えてそれらを“処分”したに違いないから。

 どうやら人間の方の従者は、レミリアが飲酒するべきではないと考えているらしい。もちろん表立って主人の意に反するようなことはしないが、神社の宴会でレミリアが酒を飲む度に何とも言えない複雑な色を湛えた目をするのである。お互いがそれぞれ別の相手と話していても、彼女はちらちらと主人の様子を伺う。ややこしいことに、彼女の感情のどこかが刺激を受けるらしかった。

 なので、レミリアはさっさと「秘密の」食器棚にグラスと酒瓶を仕舞い込む。ここはレミリアが確保している数少ない“プライベート空間”であった。

 

 次にレミリアは自分の装いを変える。妙におせっかいな門番がご丁寧に寝間着に着替えさせてくれていたようだ。それを普段着に着替えるのだが、メイドが居ないということは誰も着替えさせてくれる者が居ないということなので、服を変えるのは自分でしなければならない。

 寝間着から普段着の白いドレスへ。ドレスと言っても飾り立てた立派な物ではなく、あくまで普段着のシンプルなデザインの物だ。寝間着を脱いで、クローゼットから普段着を取り出して着るのだが、困ったことにしばらく手を止めて思い出さなければならないほど着方を忘れてしまっていた。幸いにしてすぐに思い出せたのだが、自分でやらないことは覚えていてもいつの間にか忘れてしまうものらしい。あまりメイドに任せっきりにするのも考え物だった。

 

 そうしていつも通りのレミリア・スカーレットに戻ると、気分転換に図書館にでも行こうと何食わぬ顔で自室を出る。丁度出たところにメイドが立っていて、驚いた吸血鬼は「うわぁお!」と声を出してしまった。

 

「お嬢様」

 

 待ち構えていたメイドは、何とも粘り気のある視線で主人を見下ろしながら、硬い声で言った。

 

「昨晩は遅くまで飲んでいらしたそうですね」

「ええ。まあね」

 

 メイドの声には明らかに非難の色が含まれていたが、別段隠すようなことでもないので首肯する。

 

「結構な量を飲まれたと。おまけに、酒を一本持ち帰りましたね?」

「言うほど飲んでないし、酒も持って帰ってないわ」

 

 正直に話すとややこしいので、レミリアは何気ない風を装って嘘を吐いた。手元に酒を隠し持っていることが咲夜にバレたら面倒なことになりそうだったし、食器棚に隠している限り彼女には決して見付けられないので、隠し通せる自信があった。

 

「先程霊夢が怒鳴り込んで来たのです。酒が一本なくなってるって」

「気のせいじゃない?」

 

 吸血鬼は小さく肩をすくめた。霊夢には後で口止めを渡しておかなければならない。

 咲夜は尚も不審の目をしていたが、やがて追及を諦めたのか、「寝具を洗います」と告げて主人の部屋の中に入った。心配性なのか、レミリアが長いこと霊夢の元で飲んでいたことが気に入らないのか、どうにも腹の虫の居所が悪いらしい。そんな程度のことで機嫌を悪くする従者の未熟さと、子供っぽさにレミリアは少しばかり頬を緩めた。

 

 こんなことを言うと、周りには驚かれたり否定されたりするのだが、実は咲夜は独占欲が強いところがある。往々にしてその独占欲はレミリアに対してのみ示されるので、彼女を知る周囲の者たちは、この瀟洒さが売りのメイドはクールでドライな性格をしていると思いがちだ。もちろんそれは多くの場合正鵠を得ている評価となるのだが、レミリアに関することに限り、時に咲夜は異様な執着を見せたり、貪欲な振る舞いをすることがある。

 例えば、レミリアの身の回りの世話を焼きたがる。レミリアが食べる物を自分で作りたがる。特に後者は酷いもので、多くの人妖が集う神社の宴会でも、進んで料理を作るのだ。レミリアの口に合いそうな物を、レミリア好みの味付けで。

 故に、昨晩は完全にレミリアの食事に関与出来なかったので、咲夜の機嫌はすこぶる悪いようだった。

 

 メイドは主人の部屋に入ると、無造作に広げられて皺だらけになったシーツや、脱ぎ散らかされている寝間着を見て顔を顰める。次の瞬間には、彼女は得意の能力を使ってそうした「見苦しい物」を片付け、新品で皺ひとつない真っ新なシーツに交換し終えていた。完全で瀟洒な従者は、まずベッドメイキングの質と速度からして他者の追随を許さない。

 次いで彼女は、少し前の主人と同じく書斎机の上で惰眠を貪っている妖精に目を向ける。彼はレミリアがそのように扱っているからか、紅魔館においてはゲストとして迎え入れられているのだが、不機嫌な少女はそんなことに頓着せず容赦なく妖精から布団を奪い去った。

 文字通り叩き起こされた妖精は、たった今まで自分を覆っていた布団が消えたことに仰天する。きょろきょろと周りを見回しても、掃除のためにカーテンの交換を始めたメイドと、それを苦笑しながら眺めている吸血鬼しか居ない。

 時間停止を活用することで超効率的に家事をこなせる優秀な使用人は、それこそあっという間に散らかっていた主人の部屋を整え終わった。部屋の中の掃き掃除はつい一昨日に終わらせているので、三日おきのそれが行われるのは明日である。寝具の交換などは毎日主人が起き次第すぐに行っているものなので、これでメイドはルーチンを一つ終わらせたことになる。

 

 だから、主人の部屋での用事が済んだ咲夜はそのまま出て行こうとしたし、レミリアも彼女がそうするだろうと思って黙って見ているつもりだった。彼女が出て行くまで待って図書館へ向かおうと思った。しかし、奇妙なことにメイドは、ゼンマイが停まったからくり人形のように部屋の真ん中で立ち止まってしまう。

 何かあったのだろうか。その身体が向いているのは書斎机。出しっ放しの本が何冊も積み上げられている、お世辞にも整理されているとは言い難い場所だ。今日は機嫌が悪いから、目に付いたそこが気に入らないのだろうか。使用人だけあって、彼女は片付けなければ気が済まない性分なのだ。

 

「お嬢様」

 

 立ち止まって一、二秒の空白を置き、思い出したようにメイドは主人を呼んだ。

 

「どうしたの?」

「その子……」

 

 咲夜は、彼女にしては珍しく、ぼんやりとした調子で続けた。見ているのは散らかった書斎机ではない。積み上げられた本の間で、不貞腐れたように座り込んでいる妖精だ。見詰められていることに気付いた彼も、メイドを見上げる。

 

「喋れないんですよね」

 

 少しばかり後ろに立つレミリアを振り返った咲夜。その目からはあまり感情が読み取れなかった。

 話の意図も分からないので、取り合えず首肯する。

 

「ええ。そうよ。それが?」

「では、筆談ならどうでしょうか」

 

 そう言いつつ咲夜はどこからともなく紙と小さな鉛筆を取り出し、瞬きの合間に書斎机の側に寄って、机の上で緊張した面持ちでメイドの様子を伺っている妖精の前に、そっと置いた。

 

「喋れないのに字が書けるわけないわ」

「そうでしょうか。この妖精は、艦娘と繋がっているのでしょう?」

 

 メイドにしては珍しくレミリアの言葉を否定する。その目が、「それは違う」と言っていた。

 妖精は艦娘の眷属。そうでないならば、何なのか。

 霊夢には違って見えた。「ただの眷属」には見えなかった。

 メイドの後ろに魔女の姿を見る。あの魔女は、披露した仮説について何も言っていない。

 

「分身や眷属というだけではありません」

 

 何を指して言っているのかは明白だった。仮説のことは咲夜には話していない。とすれば、彼女はパチュリーから聞いたのだろう。仮説のことと、筆談なら意思疎通が図れるかもしれないという案も。

 直接言わず、メイドを通して伝えるのがあの魔女らしいやり方だった。

 本当に重要な言葉を伝えるのに、迂遠な方法を採るのが如何にも……。

 

「ただ主人のいいなりとなる木偶の坊じゃない。幻想郷の妖精が自然現象の具現であるように、きっと艦娘の妖精は、その艦娘の心の具現なのでしょう。

お嬢様は彼女の心をないがしろにするのですか? その叫びに耳を塞ぐのですか?」

 

 咲夜の言った「心」という言葉は、とても自然に受け入れることが出来た。喉の奥に引っ掛かっていたものがストンと落ちていくように。

 霊夢が感じたもの。レミリアもまた感じていた。飛んで来た彼は、飛ばした彼女は、小さな紙切れに何を記していたのだろうか。レミリアはそれを受け取ったはずだ。ただの紙切れではなく、そこに乗せられていた想いを。

 

 

 果たして妖精は紙の上に立ち、鉛筆を拾い上げる。

 ほとんど使い終わりの削れきった鉛筆だったが、体の小さい妖精にとっては大きな物らしく、彼は両腕で抱え上げた。そのまま、足を動かし紙の上をよたよたと危なっかしげに歩く。鉛筆の芯が紙に後を引いていく。

 レミリアと咲夜は妖精が全身を使って書き記すのをじっと見詰めていた。

 

 咲夜が、あるいは咲夜を通してパチュリーが言った通り、彼は字を書けたのだ。それは読みやすさや丁寧さからは程遠い、それこそ「ミミズが這ったような」という比喩がぴったりな汚い字ではあったけれど、ちゃんと判読出来る字だった。文とは言えぬつたない単語の連続だったけれど、意味は読み取れた。

 

 

 

「カガ シズム

アカギ ムカエ モウスグ」

 

 鉛筆を抱えながら文字を書くというのは、身体の小さい彼にとっては大変な重労働であろう。しばし鉛筆を支えにして息を整えていたが、またおもむろに動き出してもう一度文字を綴る。

 

「タスケテ」

 

 そこまで書き終えた時、妖精はいよいよ精魂尽きたのか鉛筆を取り落とした。カランと軽い音がして鉛筆が机に転がる。

 彼はレミリアを見上げていた。それは、今までのように怒っている様子でもなく、また慌てている様子でもない。

 

 ただひたすらの懇願。

 

 

「ああ……」

 

 ようやく。ようやく。

 レミリアはようやく、己が恐ろしくなるくらい時間を浪費してしまっていたことを自覚した。光陰矢の如し。たったの一秒さえもが無為に出来ないはずなのに。

 

 幻想郷は平和だ。いつも通りの日常が、のんびりとした時間に乗って流れている。乱されることのない平穏にかまけて、レミリアはついついゆっくりとしてしまっていた。

 外の世界では戦争やっているのに。今こうしている間にも、世界の海のどこかで誰かが傷付き、苦しみ、呪詛を吐いて戦っているのに。

 戦争とは濁流のようなものだ。巻き込まれたらひとたまりもない。あっという間に泥水に飲み込まれ、押し潰され、引き裂かれ、何かに衝突して回転し、浮き沈み、為す術もなく暴力に流されるしかない。そこに人間や妖怪の差異はなく、誰も彼もが血と暴力で彩られた恐ろしい殺し合いの中に引き寄せられて出られなくなってしまうのだ。

 

 赤城が居るのはそういう世界。そういう戦争。

 敵が攻撃してくるのだから、ある日突然仲間が死ぬことだってある。レミリアの知り合いが死ぬことだってある。窮地を救ってくれた、あの恩人とも言うべき艦娘が、もう二度と浮き上がれない水底に沈没することだってあるのだ!

 

 そして魔の手は赤城にも伸び掛かっている。妖精が訴える危機は真実だろう。

 加賀は沈んだ。次は赤城の番だ。

 

 もう沈んだ者は、死んだ者は、蘇らせることは出来ない。世の理がそうだから、いくら力を持った吸血鬼と言えども不可能だ。

 だが、まだ生きている者は救うことが可能なはず。まだ、レミリアに出来ることは残されているはずだ。

 

 

「お嬢様」

 

 そんなレミリアの内心を見透かしたように、また従者が呼んだ。今度はもう少し柔らかな声音で。

 

 

「ルールだとか、しがらみだとか、そうした物に縛られていませんか。いつも自由奔放に、我儘放題に振舞うのに、今回ばかりはどうしてそんなに抑制的なのですか。

……お嬢様。

烏滸がましいことを言いますけれど、やっぱりあなたは好き勝手振舞ってこそです。それこそが、レミリア・スカーレットの在り方ではないでしょうか。

私は、そんなあなたをお慕いしております。お嬢様が好き勝手振舞うなら、私も好き勝手に付いて行きます。

だからどうか、後悔のなさらないようにだけしてください」

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

「距離はそこそこあるけど、私が全力で飛べばそれこそ一刻程度で行けるわ」

 

 紅魔館から飛び立ったレミリアは懐の妖精に語り掛けた

 幻想郷から結界を抜けて「外の世界」に出た場合、どこに出るかというのは結界の抜け方による。隙間妖怪の境界を操る力を利用した場合は任意の場所に出られるが、その他の方法だと決まった場所にしか行けないらしい。その内、もっともオーソドックスな方法というのが、幻想郷と外の世界との間に建つ神社を通るもので、当然外に出た場合は外にある神社の境内に行くことになる。

 

「ただし」

 

 とレミリアはポケットから顔を覗かせる妖精に語り掛けた。

 

「最初に最大の障壁を乗り越えなければならない。それが難しいのよ」

 

 まさに、問題はその神社なのだ。

 そこに居る巫女は、昨日レミリアを通さないとはっきりと言っていた。彼女のことだから、それはブラフでも牽制でも何でもなく、本心からの言葉だろう。酒の席だからと言って、そういう類の冗談を飛ばす人間ではないことは、よく承知している。だからこそ、あの神社は最初にして最大の障壁となるのだ。戦わなければならないのは、幻想郷きっての実力者であり、あらゆる妖怪を調伏する博麗の巫女であり、数多くの異変を解決してきたトラブルシュータ―。 

 

 神社へは最速で飛んだ。そうすれば、紅魔館からではものの五分と掛からず到着する。 

 鳥居はくぐらない。境内の中に地響きと砂埃を立てて吸血鬼は着地した。自分の来訪を告げるためのノック代わりの挨拶のつもりだったが、どうやらそれは不要だったようだ。すぐにどこからともなく霊力の混じった風が吹いて、もうもうと立ち込めた砂煙を持ち運んでいった。

 博麗神社の主人は既に待ち構えている。

 目の前に、拝殿を背にして立つ紅白の巫女。だらんとお祓い棒を持った腕を垂らし、一見すれば突っ立っているだけのように見える。けれど、よくよく観察すれば身体のどこにも無駄な力が入っておらず、さりとて脱力しきっているのでもない、いつでも攻撃態勢に移れる姿勢だというのが分かった。構えらしい格好はしていないけれど、真実構えというのはこういうものであると言える姿勢。一部の武術を極めた者にしか許されないはずのそれを、巫女は天性の勘で体得しているのだろう。

 

 ただし、そこに居たのは巫女一人だけではなかった。隣には白黒魔法使いの姿もある。箒を持った彼女も巫女と同じくレミリアを待ち構えていた様子だ。

 彼女は巫女と比べて傑出した人間というわけではないが、それでも異変の際には大妖怪にまったく怯まず渡り合える実力を持つ、自称「普通の魔法使い」だ。魔法が扱えるだけの人間だからと言って、甘く見ては痛い目に遭うだろう。

 

 異変解決屋が二人も揃っている。身体が少しだけ震え始めた。

 

「これはこれは。貴女たち二人で歓迎してもらえるなんて嬉しいわね」

「私の八卦炉で鍋しやがったって聞いたからな。美味しかったか?」

 

 いつものふてぶてしい勝気な顔で魔法使いが笑う。言葉の通り、口元は笑っていても目が笑っていなかったので、八卦炉が勝手に使われたのが気に食わないようだと思われる。鍋をしたのは霊夢であって、レミリアは相伴しただけなのに、何だか少し理不尽なような気がする。

 

「美味しかったわよ。でも、鍋をしたのは霊夢じゃない」

「一緒に食ったお前は同罪だぜ!」

 

 どうもつまらないところでつまらない恨みを買ってしまったらしい。魔法使いが隣の巫女を責めないのは非常に納得がいかないのだが……。何しろ、魔法使いから八卦炉を略奪して燃料代わりにしていた張本人なのだ。

 次に、今まで黙っていた巫女が自分のことは棚に上げてこう言った。

 

「あんたさ。私の酒、持って行ったでしょ」

「拝借したのよ。等価交換するわ」

「嫌よ。あんたをぶちのめして、あんたの酒を奪う」

 

 どうやら巫女の機嫌もすこぶる悪いようだ。咲夜と言い、魔理沙と言い、霊夢と言い、思春期の少女というのはすぐに不機嫌になって扱いづらいものである。お利口な早苗が如何に扱いやすいかがよく分かった。

 

「朝から二日酔いでさあ。腹の虫の居所が悪いのよね」

「だからって私に八つ当たり? そんなんだからこの神社は人も来ないんじゃない?」

「何ですってぇッ!!?」

「……って早苗が言ってたわ」

 

 レミリアは肩をすくめた。決して巫女の凄みが恐ろしかったのではない。たまに毒を吐く守矢の風祝が本当にそんなことを言っていたのだ。

 あいつ、しばく。と低く呟く霊夢の傍らで、魔理沙が立てていた箒を水平にして構えた。

 合図だ。

 

「まあ、そんなことはいいんだよ。取り合えず、お前を倒せばスカッとしそうだからな。遠慮なくやられてくれていいんだぜ」

「笑止! 人間風情が吸血鬼に吹いてんじゃないわよ」

「吸血鬼風情が巫女に吹いてんじゃないわッ!!」

 

 三人は同時に空に飛び立つ。魔理沙は箒に跨って、レミリアは羽を広げて、霊夢は身一つで。

 宵闇の空。夕日を遮る黒い雲。薄暗い神社。

 光が炸裂する。各々の弾幕が各々に光を放ち、辺りを明るく照らし出した。

 三人から撒き散らされる弾幕。スペル宣言のない通常弾幕で、ジャブのようなものだ。が、今まで何度も二人と戦ってきたレミリアも知らないパターンである。恐らくはまた新たにパターンを開発したのだろう。大雑把な性格の霊夢は気ままにパターンを作っているのかもしれないし、研究熱心な魔理沙はより洗練されたパワフルなパターンを開発したのかもしれない。二人の弾幕に対する姿勢は真逆だった。

 ただひと口に「弾幕」と言っても撒かれるのは言葉通りの「弾」ではない。それは膨大な数の御札と星。御札はその一つ一つに霊夢の霊力が込められた、妖怪には大変ありがたくない御札である。もちろん、一発でも被弾すればうんざりするほど激痛を味わされることになるだろう。その点で言えば魔力の塊でしかない星の弾幕は幾分か相手をするのが楽な対象だった。

 実際弾幕ごっこでばらまかれるのは「弾」以外にもこうした御札や魔力の星の他、針・ナイフといった武器・凶器の類から、米粒や花弁、果ては天井やらオンバシラといったどう見ても弾とは呼べないような代物まで何でもありである。ついでに言えば、弾は誘導弾も可能で、現に霊夢の御札にはホーミング性能が付与されていた。

 吸血鬼の膂力に任せて自機狙いで追尾して来る弾幕を速度で振り切る。同時に自分も魔弾を周囲に撒き散らし、襲い来る弾幕を迎撃しなければならなかった。そうでないとあっという間に被弾して地面とキスをさせられる羽目になる。

 ましてや相手は二人でこちらは一人。弾幕ごっこには人数を定めたルールはないとは言え、数で劣っているのなら不利になるのはどんな勝負事でも一緒である。特に、幼少の頃から仲の良かった二人のコンビネーションは抜群だ。結界を張るように御札が広く撒き散らされ、その間隙を星の弾幕が飛び交ってレミリアを狙う。個別に戦った時よりも圧倒的に戦いづらい。

 二人分なだけに、弾幕の密度が桁違いだ。通常弾幕でこれなのだから、スペルを発動されたらどうなることやら。

 だからレミリアは数的不利な状況で戦う際の定石を実行した。すなわち、各個撃破である。

 巫女と魔法使いの差を利用して二人を引き離し、まず魔理沙から狙う。二人の差というのが、飛行速度の違いだ。単純な速度なら霊夢よりも圧倒的に魔理沙が速い。それこそ、吸血鬼に比肩する速さで飛べるのだ。

 宵口の空を駆け巡るレミリアに追い付けるのは魔理沙。とにかく霊夢と引き離す。

 だが、そんなレミリアの思惑を打ち砕くように無情にもスペルが宣誓された。それも、二人同時に。

 

「霊符『夢想封印 集』!!」

「魔符『ノンディレクショナルレーザー』!!」

 

 辺りに無造作に撒かれていた御札が霊夢の周囲に収束していく。まるで鎧のように彼女を囲い、巫女の姿は御札に隠れて見えなくなってしまう。だが、これは防御のための技ではない。次の瞬間には、霊夢の周りの御札は次々とうねりを作りながらレミリアに向けて射出され始めた。

 一方、魔理沙の周囲には小型の魔法陣が複数展開され、その中心から色とりどりのレーザーが放たれた。友人の魔女が扱っている技を、魔理沙が模倣したスペルなので、この手のものの対処法はレミリアとてよく心得ているものだが、問題はそれが霊夢のスペルと同時に始められたということに尽きる。

 

 強烈なホーミング性能を持って迫り来る御札の津波と、文字通り「光の速度」で飛んで来るレーザー。第一撃は力任せに羽ばたいて急下降しながらかろうじて回避出来た。

 その代償としてレミリアは高度を失う。加速をつけ、鎮守の森の枝先を掠めながら飛び、背後から旋回して追跡して来る御札の弾幕を魔弾で迎撃する。迎撃不能なレーザーは機動で避けるしかない。

 可能な限り速度を出し、食らい付く御札から離れる。レーザーの射程外に出られると思ったのか、魔理沙が魔法陣を広げたまま追って来た。一方の霊夢は次々と御札を撒き散らしている。

 

 これで当初の狙い通り二人を引き離すことに成功しつつあるが、問題のスペルはまだ解除されていない。魔理沙のレーザーはともかく、霊夢が際限なく御札を追加するので、何重もの御札が波状攻撃を仕掛けてくる有様になっていた。到底自分の弾幕だけでは迎撃しきれるものではない。

 神社の周囲を大きく旋回しながら、前後左右上下からうねりながら襲い来る御札を注視する。ぎりぎりまで引き付けて急旋回で回避。だが、そうは問屋が卸さない。狙い澄ましたようなタイミングでレミリアの周囲を赤や緑のレーザーが囲み、視界と移動スペースを制限する。

 まるで檻のようなものだった。羽を捩じり、急激に身体の向きを変えてほとんど直角ともいえる角度で旋回しなければならなくなった。お陰でレーザーは回避出来たが、ホーミングする御札を避ける暇がなくなってしまった。

 まずいと思った時には反射的に身体が反応している。

 大きな爆発音が辺りに響き渡った。

 その正体は、瞬時にかつ大量に放出されたレミリアの妖力が霊力のある御札とぶつかり合い、拮抗した力が弾けた時の音。間一髪それで被弾は免れたが、代償は大きかった。速度も高度も失ったのである。空中戦においてそれは致命的な状態に陥ったということであり、追って来ている魔理沙からすれば、半ば止まったも同然なレミリアはこの上なく美味しいカモに見えることだろう。だから、慌てて森の中に避難しなければならなかった。

 

「うわッ!」

 

 案の定、チャンスを見付けた魔理沙のレーザーが目の前を掠め、思わず悲鳴を上げてしまう。枝や幹を蹴り、身体にぶつかる葉を弾きながら、木から木へ飛び移るように森の中を駆け抜ける。その間も上空を飛ぶ魔理沙は次々とレーザーを撃ち込んで来た。

 しかし、逃げ回っているだけではいつかやられてしまう。

 木々を蹴りながら再び速度を得たレミリアは、全力で羽ばたきながら空へと、暗幕に覆われたコロシアムへと飛び上がる。

 正面角度から二条のレーザー。

 羽を反らし、気流を操作して大きく円柱を描くようにロールする。直後に体を捻ってさらに角度をつけて上昇へ。急激な軌道変更に意識を持っていかれそうになる。肩や羽をレーザーが掠めて、チリリと痛みが走った。

 

「グレイズ稼げるわねぇ!!」

 

 痛みに負けぬように、強がって叫ぶ。

 弾幕は大きく幅を取って回避するより、ぎりぎりで避けた方が見栄えがいいとされており、そうした避け方を「グレイズ」と呼んでいた。上級者になれば弾幕に飛び込み、グレイズを稼いで“魅せる”ことが重視されている。

 

 目の前には箒に跨る魔法使いの姿。

 ほとんどぶつかるようにして突っ込んで来た吸血鬼を、人間の魔法使いは冷静に回避した。そのまま上空へと飛び抜けていくレミリアを、魔理沙は旋回して追跡する。

 

 

「来い。空戦の仕方を教えてやるわ!」

 

 夜空に紅魔が叫んだ。呼応するように魔法使いは加速するのが見えた。

 

 普段は明るく元気一杯で、強気なことばかり言っている魔理沙だが、その実とてつもない負けず嫌いでかつ大変な努力家であり、人には決して見えないところで努力を重ねる人間だということを、レミリアはよく知っていた。もちろん、彼女のそういう姿を直接に目の当たりしたわけではないが、研究を続ける魔理沙を見た者の証言や、あるいはレミリア自身が直接魔理沙と接して、彼女の技量がより高まって洗練されていくのを実感し、影で自己研磨に励む姿を垣間見たのである。

 そうであるが故に、魔理沙は努力を諦めない。強い者の背中を追い掛け、確実に自分の技術の向上に役立てようとする。その結果が彼女の魔法であり、弾幕であった。

 

 だがどうだろうか。今まで彼女に“空の飛び方”を教えた者は居ただろうか。努力家の魔理沙はきっと、我流で箒で飛ぶ方法を体得したに違いない。ならば、数多くの敵と空や地上で戦ってきたレミリアには敵わないだろう。

 どうすれば敵の攻撃を避けられるのか。どう動けば敵が惑わされて自分の前に来るのか。それらは実戦の中でしか鍛えられない類の技術なのだから。

 

 羽ばたきながら上昇して、大きくループ。だが、ループの頂点で体を翻して水平飛行に移る。

 逃げるレミリアを追う魔理沙。左に旋回すれば、同じように左に回り、右に動けば右に追う。その間もレーザーを撃ちながら、レミリアに肉薄する。二人は絡み合い、縺れ合い、夜空に複雑な軌跡を残した。風が耳を切り、唸りを上げて髪を搔き乱す。

 客観的に見ても、魔理沙はレミリアによく食い付いていた。箒というマジックアイテムに乗りながらも、速度と機動力で優る吸血鬼相手に一歩も引いていない飛び方を見せている。

 だが、空戦の仕方で言えばレミリアの方が何枚も上手なのだ。大きく左旋回する最中、意図的に身体を滑らせる。いわゆる「横滑り」という動きで、魔理沙が思い描いているものとは違う軌道の描き方をする。

 レミリアが不自然に高度を下げ始めたことに気付いた魔理沙が、自分も箒の柄の先を少し下に向けて追随しようとした瞬間、吸血鬼は不意に高度を上げた。

 加速のまま勢い余って魔理沙はレミリアの足元を飛び抜けてしまう。それこそが狙いだった。

 

 綺麗にはまったわね。

 レミリアはほくそ笑んだ。まんまと魔理沙の背後を取った形だ。後は後ろから撃ち放題。

 しかし、

 

「ああ、もう!」

 

 そのタイミングで襲って来たホーミング弾幕に、苛立ちの声が飛び出した。レミリアが魔理沙との空戦に夢中になっている間に霊夢が追い付いたのだ。

 即座に手元で三本の小さな矢を妖力で形作り、追い掛けて来た御札の弾幕に投げ付ける。霊夢自身の移動速度も、放たれる弾幕の速度も、どちらも吸血鬼のレミリアから見れば止まっているように遅い。だから、速度で逃げてしまえばいくら精度の高いホーミング弾幕とて恐れる必要はなかった。

 とはいえ、霊夢に意識を割かれたことが良くなかった。

 その隙に体勢を立て直した魔理沙が、今度はレミリアに向かって突っ込んで来たのだ。

 

 さっきのお返しというわけか。

 売られた喧嘩を買う。加速して魔理沙を迎え撃つ。

 魔法使いは虹色の星の弾幕を、レミリアは赤いクナイ弾を。それぞれ全周に撒きながら、正面へ突撃する。

 魔理沙は避けない。レミリアも避けない。

 二人が交錯する瞬間、不意に吸血鬼の方が軌道を変えた。

 

 直後、二人の間を飛び抜けていく陰陽玉。

 

「無粋だぜ! 霊夢!!」

 

 魔理沙が初めて友人に抗議の声を上げた。

 

「うるさい! あんたばっかり」

 

 どうやら霊夢は置いてけぼりにされたことが気に入らないようだった。さらに二つ、三つと陰陽玉を飛ばし、さらに御札もばら撒いていく。

 これで再び二対一。またレミリアは逃げるようにどんどんと高度を上げていく。二人がすぐに後を追って来るが、今度はスペルがない。ホーミングする御札も、色とりどりのレーザーも、スペルが時間切れしたからなくなったのだ。お陰で随分と楽になった。

 

 レミリアはある程度高度を稼ぐと、身体を翻して下降に転じる。それも、ほとんど垂直と言えるような急降下だ。

 そのまま真っ直ぐ落ちていくのではなく、羽を捻って空力操作を行い、円筒の内側をなぞる様に大きく回る。正面から飛んで来た陰陽玉を躱し、レミリアが向かう先は魔法使い。妖力の矢を構えると、魔理沙は慌てたように身を翻した。

 だがそれはブラフ。レミリアとすれ違った霊夢と、旋回した魔理沙は離れてしまう。急降下の惰性で急上昇に転じると、レミリアを見失ったであろう魔法使いを下から狙う。

 

「魔理沙!!」

 

 霊夢が叫んだ時にはもう遅い。手に持ったままの矢を投げ付けると、それは魔法使いに直撃して彼女は悲鳴を上げた。

 もちろん手加減した一撃だ。その証拠に魔理沙はバランスを崩し掛けたものの、吹き飛んだりはしなかった。箒に乗ったままふらふらと高度を下げてやがて森の中に突っ込んで姿を消してしまう。本気の一撃なら、今頃彼女は血の華になっていただろう。

 

「あーあ。やられちゃった」

 

 霊夢が少しだけ残念そうに呟いた。レミリアは空中で巫女と向かい合う。

 

「これでやっと本命と戦えるわ」

「お遊びは終わりってわけ!? いいわよ、ぶっ飛ばしてあげる!」

 

 やたらと好戦的な言葉の端々に、自分が負けるわけがないという自信が垣間見える。

 彼女はレミリアを舐めているのではない。彼女の種族は人間で、レミリアは吸血鬼。吸血鬼は人間よりずっと力は強いが、霊夢は「博麗の巫女」という唯一無二の力を持つ。それは妖怪を屈服させ、調伏し、時に葬る力。彼女が今手に持っているお祓い棒も、ただの細い小枝の棒と侮ってはならない。軽く叩かれただけでも妖怪であるレミリアにとっては強烈な一撃となり、しばらく痛みに呻くことになるだろう。

 霊夢は強い。まともに戦えばレミリアと言えども負ける。

 今まで五百年生きてきた中で、何度も戦争を経験し、幾多の強敵と渡り合ってきたが、真剣勝負で霊夢に勝てる気がしない。どんな攻撃も“勘”で避けられ、どんなに避けても“勘”で当てられる。ガードしたところで、霊力の込められた一撃を喰らえば、それだけで場合によっては致命傷となりかねない。

 だからレミリアに限らず妖怪たちは皆、心の何処かで巫女「博麗霊夢」を恐れている。分け隔てない人間「博麗霊夢」を慕っているのは、実はその恐れの裏返しなのだ。恐ろしいから仲良くして身を守ろうというのではなく、恐ろしいからこそ興味がそそられ、心が惹かれるのである。少なくとも、彼女と酒を呑むことを厭う妖怪は居ない。

 

「お子様は帰る時間よ。こちとら飯の前なんだからさっさと撃墜してやるわ!」

「お前よりずっと長生きしてるんだよっ!」

 

 

 再び衝突。

 両者ともに堰を切ったように弾幕を展開する。

 紅魔からは真紅の魔弾が、紅白巫女からは無数の御札が。空間を埋め尽くし、交差し、衝突し、弾けて閃光を放って霞へと消える。互いが射出する弾幕は、相手の弾幕とぶつかり合って相殺され、二人の中心で色とりどりの光の壁を作り上げていた。

 もしこれが異変なら、霊夢は最初のステージのボスに当てはめられるだろうか。理不尽なくらい強い一面ボスだ。

 少し前の異変の時には、異変解決者たちを最初に迎え撃ったのが西行寺の亡霊だったという。彼女自身は異変に関わっていなかったので完全に暇潰しの余興だったらしい。それも大概だと思うが、結構本気の巫女とは比べるべくもないだろう。こんな大盤振る舞いな一面ボスなんて今までになかったに違いない。まず、弾幕の密度からして初戦の相手ではない。

 

 彼女は今、異変解決モードすなわち「博麗の巫女」として戦っている。

 もちろん、「博麗の巫女」という特殊な立場であったとしても、霊夢は所詮一介の人間でしかない。ただ、あくまで人間の少女として弾幕ごっこをする霊夢と、「博麗の巫女」として弾幕勝負をする霊夢は別物と考えるべきだろう。何よりも霊夢自身の意識が違うのだ。その差は如実に現れ、例えば弾幕の密度であったり、例えば一撃の威力であったり、例えばホーミングの精度であったり、例えば“勘”の鋭さであったり……といったところが違ってくる。

 今までレミリアが異変解決モードの霊夢と対峙したことは何度かある。初めて顔を合わせたのが、忘れもしない紅霧異変。霊夢は異変解決者としてレミリアの本拠である紅魔館に乗り込んで来て、それなりに本気で戦った紅魔を容赦なく叩き潰してくれた。その後も永夜異変や、神社が倒壊した時の騒動など、「巫女としての」霊夢とは何度か手合わせをしてるが、いずれの場合も彼女の強さは別格だったと記憶している。そしてどうやら今回も同じらしかった。

 

 

 

「ちゃっちゃと終わらせるわよ。

神霊『夢想封印 瞬』!!」

 

 

 巫女が叫ぶ。通常弾幕の御札が消え、紅白の衣装が暗幕の下を駆け出した。

 ぶれる霊夢の姿。残像を引きながら、彼女は高速で飛び回り始めた。

 いくら速く飛べても、霊夢も所詮は人間である。数里の距離を一瞬にして飛び抜ける吸血鬼の動体視力に捉えられぬわけがない。実際、霊夢より余程移動速度の速い白黒魔法使いの姿は、彼女がどんなに速度を出してもはっきりとレミリアの目には映った。

 ところが、今の霊夢はどうだろう。レミリアの目にさえ姿が幾重にも重なり、残像を引いて飛んでいる。

 ただ単純に速いのではない。小刻みに、高頻度で近距離の瞬間移動を繰り返しているのだ。それが結果的に軌跡上に連なる無数の残像という形で視認されている。

 

 もちろん、逃げ回るだけのスペルではない。時折霊夢は動きを一瞬だけ止め、膨大な数の御札と光弾を全周に撒き散らしていく。

 御札は無誘導で空間を埋め尽くして飛んで行くものと、「夢想封印 集」のようにレミリアを狙って収束するものがある。霊力を固めて作った光弾はとんでもない速度でレミリアを追跡して来た。

 まず、光弾を赤いクナイ弾で迎撃する。クナイ弾はレミリアの妖力で自分自身の血液を固形化させたもので、弾幕としてばら撒く弾の中では一番威力が高いものだ。逆にそうでなければ霊夢の光弾を相殺することが出来ない。生半可な攻撃ではこのスペルを凌ぐことは叶わない。

 そもそも、「夢想封印」という技は霊夢が持つ博麗の力を弾幕に応用しているものだ。基本的には妖怪の苦手な霊力を元にして弾を作り出しており、被弾でもしようものなら瞬く間に伸されてしまう。

 その博麗の力を基礎にして、霊夢はいくつかのバリエーションを編み出していた。それが「集」であったり「散」であったりするわけだが、この「瞬」はそれらの内で最も強力な弾幕技だと言えた。

 特殊な移動方法によって逃げ回る霊夢にこちらの弾を当てるのは至難の業。上手くタイミングを合わせないといけない。その上で、機動を制限する無誘導の御札と、確実にこちらを仕留めようとする誘導性の御札や死角を突いてくる高速の光弾を躱さなければならないのだ。上級者でさえ簡単に被弾する凶悪極まりない弾幕である。

 

 逃げる霊夢と追い掛けるレミリア。しかし吸血鬼は自身も鋭い機動でホーミングする御札や光弾から逃げなければならなかった。

 二人は交差し、絡み合いながら神社の周辺を飛び回る。

 遮二無二ばら撒かれる弾幕は、鬱蒼と生い茂った鎮守の森に降り注ぎ、小枝や葉っぱを散らし、腐葉土の地面に小さなクレーターをいくつも作り出していた。激しい弾幕争いに驚いた鳥や小動物たちが慌てて逃げ出す間にも、二人は空を駆け巡った。

 レミリアは全速力だ。天狗に勝るとも劣らない速度が既に出ている。だというのに、瞬間移動を繰り返す霊夢との距離は一向に縮まる気配を見せなかった。

 唯一のチャンスは彼女が弾幕を放つために動きを止める一秒にも満たない時間。

 吸血鬼の反応速度ならそれでも十分だが、しつこく追撃する御札と光弾のコンボがそれを許さない。

 実によく出来た技だ。

 移動中の本人には当てられず、チャンスと思しき一瞬をホーミング弾が潰し、先回りを阻止する文字通りの弾幕まで展開される。正攻法ではまず勝ち目は見出だせそうにない。

 

 だからこそ、反則的な一手が効果を発揮する。

 

 

「紅符『不夜城レッド』!!」

 

 両手を広げ、たがを外すように一気に妖力を開放。風船を膨らませるかのように急激に膨張させていく。が、風船と言うほど空虚なものではなく、どちらかと言えば爆発で生じる火球に近い。高密度のエネルギーの塊であり、有り余った妖力の一部が光に変換され、レミリアの全身を真紅の閃光が包む。

 そこに飛び込むホーミング弾幕。霊力で作られた妖怪には不得手なそれを、ただ力任せに放った妖力で強引にねじ伏せる。周辺に散布されていた無誘導の御札まで、妖力で弾き飛ばした。

 弾幕を剥ぎ取られた霊夢が再び展開させようと動きを止める。

 訪れた千載一遇のチャンス。右手に魔力を充填し、指向性を持たせて一つの形を作り上げていく。

 

「必殺『ハートブレイク』!」

 

 それは槍の形をしていた。本来は作った途端に射出する魔弾をその場に留めて錬成したのがこの必殺の心槍。

 しかし、作ると言ってもそれは吸血鬼の持つ速度で成されるわけで、普通の人間の目では到底捉え切れるものではない。レミリアは大きく振りかぶり、今まさに新たなホーミング弾幕を展開しようとしていた霊夢に投げつける。

 空間を引き裂き、紅い光線を残して霊夢に向かう槍。

 派手な爆音がして大量の御札が辺りに飛び散った。レミリアは煙の残る爆発点を迂回して突進する。

 案の定、そこに巫女の姿はない。やはり“勘”付いて御札弾幕を犠牲に槍の攻撃を防ぎきって逃げたようだ。

 相も変わらぬ楽園の不思議な巫女に、紅魔から苦笑が漏れた。

 簡単にはやられてくれない。背後から気配を感じ、再度手の中で槍を作りながら振り返った。

 

 

 宵口の空に舞う紅白の蝶。

 

 ひらひらと巫女装束が風に流され、宙を揺蕩う。分離した袖や、広がりのあるスカート、髪を結ぶ大きなリボンやもみあげの飾りなどが気流を受けて動くものだから、霊夢の姿はどこに居ても目に入る。彼女は今、両手を左右に広げ、目を閉じて歌うように口を開け、霊力を開放している。

 どこに隠しているのだろうか。袖口から雪崩れるように御札が飛び出し、輪郭がぼんやりと発光する身体から光弾が生み出される。

 

 

 再び「夢想封印 瞬」。

 厄介なホーミング弾幕に捕まる前に、レミリアもまた槍を投擲した。

 槍と御札がぶつかり、中空に大きな花火が出現する。

 その直前、弾幕の背後で霊夢の姿が消えたのを視認した。

 

「うざったいわねぇ!!」

 

 どこからともなく悪態を吐く巫女の怒声が聞こえてきた。

 振り返るレミリア。背後の上空には紺色の暗幕が広がっているだけ。

 しまった、ブラフか! と気付いた時には気配が迫っているのを感知した。

 かろうじて首だけを回して連続瞬間移動で肉薄する霊夢の姿を捉える。その手には大きな御札が何枚も握られていて、気付いた時には彼女はそれを投げ放っていた。

 全力を込めて羽で空気を叩き、姿勢を変える。

 顎の先を御札が掠めて飛び抜けていった。グレイズしただけでも走る鋭い痛みに顔が歪んだ。

 

「チッ! 避けんな!」

「無茶言わないでよね!!」

 

 口の悪い巫女に叫び返して、レミリアは一旦彼女との距離を置く。そうしなければ、ただ力任せに振るわれた暴力的な蹴りの一撃の餌食となっていただろう。

 吸血鬼相手に人間が肉弾攻撃を仕掛けるなど普段なら一笑に付すところだが、生憎霊夢の攻撃はすべて霊力充満なので喰らえば笑い事では済まなくなる。彼女が妖怪退治を生業とし、強者・猛者ぞろいの大妖怪たちから軒並み一目置いかれている理由はこれだ。

 近接格闘戦で挑んでも簡単には負ける気はしないが、逆を言えばその程度の自信しかないわけで、肉弾戦には滅法強い吸血鬼でもこの巫女のリーチの範囲内で戦うのは少々危険が過ぎる。だから、レミリアはあくまで射撃による撃ち合いを優先した。

 またぞろ霊夢の姿が消える。が、レミリアは焦らない。動きは読めている。振り返るといくらか離れた空中に紅白が舞っていた。

 心槍のスペルはまだ続いている。口の中だけで呪文を高速詠唱。

 レミリアの周囲に現れる五つの紅い魔法陣。

 

「Enemy shrine maiden is in sight! Open fire!」

 

 手を伸ばし、前方で両手を広げる巫女を指差す。

 魔法陣からぬっと姿を現す五本の心槍。

 

「Fire!!」

 

 合図と共に五本の槍が射出される。

 同時に巫女の身体から淡い青色に光る立方体の結界が展開された。その内側で、袖口から無尽蔵に御札が流れ出し、弧を描いて飛来する。

 空間を切り取るように拡大する結界と五本の心槍が衝突。だが、博麗の力そのものとも言える強力な結界に、心槍は粉砕されてしまう。結界の表面だけで爆発四散した槍は霊夢の御札攻撃を防ぐことが出来なかった。

 

「Fire! Fire!! Fire!!!」

 

 迫り来る結界と御札を避けるため、レミリアは上空へと飛び上がる。展開した魔法陣も背負われるように一緒に動き、再びそこから槍が放たれた。

 レミリアが動いた時には、霊夢ももうその場には居ない。彼女は少し先を飛んでいる。

 拡大していた結界が消滅し、濁流のような勢いで御札がうねりながら襲い掛かって来た。それをもう一度槍で迎撃しながら再び追撃戦に移行する。

 霊夢は動きを止める度に結界と御札を展開し、打ち破る術のないレミリアは槍で御札を撃破するしかなかった。

 このままではジリ貧だ。いっそのこと耐久勝負に出て霊夢の疲労を待ってもいいが、生憎レミリアには時間があまり与えられていない。妖精の伝えた危機、つまり深海棲艦の手が赤城に伸びているというのが本当なら、一刻も早くここは突破しなければならないステージだ。

 それに、耐久勝負というならそれこそ霊夢の十八番である。何しろ、彼女にはあの隙間の大妖怪でさえ手の出しようがなくなる無敵の技があるのだ。時間制限付きでもそれを使われたら本当にレミリアには打つ手がなくなってしまう。ならば、このまま彼女が「夢想封印 瞬」を続けている間に勝負を着けるべきだ。

 

 狙いは結界が消え、新しい結界を展開するまでのわずかな合間。御札による攻撃を防ぎつつ、霊夢へ一撃当てる必要がある。

 離れれば攻撃が当たらない。さりとて近付き過ぎれば御札の餌食となる。

 

 いや、あるいは……。

 

 

「Spell break!」

 

 レミリアは一度叫んで心槍のスペルを消す。

 同時に展開出来るのは一度に一つのスペルのみだ。新しい技を使いたいなら、今ある技を一旦消さなければならない。それは明確なスキを生み出すことを意味していた。

 霊夢がまた新たに結界を展開する。御札の弾幕も、だ。

 槍による迎撃がなくなったなら、御札の弾幕は別の手段で防がなければならない。

 足元に妖力を集中。「不夜城レッド」の応用で、溜め込んだ力を指向性を持たせた爆発力に転換する。

 盛大な爆音が轟いた。衝撃でロケットのように打ち出されるレミリアの身体。

 飛び出す先は霊夢の頭上だ。

 普通に追い掛けても瞬間移動する巫女には追い付けない。ならば、もっと強力な加速で一気に距離を詰めてしまえばいい。後は、自慢のスピードで巫女の頭上を維持し、頭を抑えられよう。

 当然のごとく御札の弾幕が追い掛けて来る。ただ、今は弾幕パターンを少し変えたためか、高速でホーミングする光弾がない。その代わりに結界が展開されているので、霊夢としては防御と攻撃を兼ね備えた弾幕を張っているつもりなのだろう。実際、先程のパターンより厄介だとは感じている。

 だからこそ、もうひと工夫が必要になっていた。

 

 レミリアは吸血鬼である。故に、自分の体を無数の蝙蝠に変化させられる。

 霊夢の頭上を傘を広げるように真っ黒な蝙蝠の群れが覆う。その一匹一匹がレミリア自身であり、当然弾幕を放てる。

 数による面的制圧。スペルでも何でもない、ただの通常弾幕である上、威力はお世辞にも高いとは言えないが、御札を迎撃しつつ霊夢を押さえ込むには十分事足りた。

 彼女の頭上を覆い、雨あられと弾幕を降らせる。

 巫女は癇癪を立てて何事かを喚いた。彼女は結界を消し、再度弾幕のパターンを変更する。

 御札をばら撒きつつ、霊夢の周辺に色とりどりの光弾が浮かんだ。その一つひとつがおそらく霊力の塊だろう。元々、「夢想封印」といえばこの霊力の光弾をホーミングさせる弾幕のことだった。

 

 あの短気でがさつな性格の霊夢なら、鬱陶しい攻撃は手っ取り早く消し去りたいと思うだろう。気長に持久戦なんて、自分の能力に合致する技があっても彼女の性分にはそぐわないものだ。

 だが、だからこそ計算された攻撃には弱い。“勘”に頼ってばかりで頭を使わないから、ひねりの効いた不意打ちには対処出来ないのだ。

 

 

 ここらで一つ、彼女の知らない新しいスペルを使ってみようと思う。

 

 

 

「発艦『艦上偵察機彩雲』!!」

 

 

 

 蝙蝠になったまま、レミリアはスペル宣言を行う。

 今まさに光弾を放とうとしていた霊夢の懐に、一つの影が飛び込んだ。

 それは、この幻想郷には元より存在しない機械。濃緑色の機体に、赤い日の丸が描かれている。もちろん、操縦しているのは赤城の妖精である。

 これこそがレミリアが蝙蝠弾幕を展開した理由だった。最初から妖精とその乗機をいかにして使うかを考えていたのである。蝙蝠弾幕に紛らせれば、そして攻撃で霊夢の意識を反らせれば、それこそメイドが使う技ではないが、ミスディレクションを誘って彩雲を射出出来る。

 本来は艦上偵察機として運用されるその飛行機は、深海棲艦の迎撃を振り切るくらい俊足で、攻撃に意識を割いて動きを止めている霊夢の不意を突くには足りるくらい俊敏であった。無論、光弾を躱して目の前に現れた飛行機に霊夢は驚き、目を丸くする。

 ただし、彩雲には元々攻撃能力がない。あくまで偵察用の機体なので、非武装が基本である。足は速いが、逆を言えばそれだけしかない。

 

 ところで、彩雲には一匹の蝙蝠が引っ付いていた。弾幕に紛れて発艦する中で、さり気なく機体の後部に飛び付いて霊夢の前まで「乗って」来たのだ。

 

 驚く霊夢の目前で、蝙蝠は彩雲から離れる。

 

 

「このっ!」

 

 気付いた霊夢が防御のために持っていたお祓い棒を咄嗟に振るう。だが、人間の反応速度など、吸血鬼には止まっているようなものだ。

 そして、レミリアは蝙蝠一匹あればそこから復活出来る。

 白い、小さな子供の指が巫女服の襟を掴んだ。まずは蝙蝠を右手に戻し、そこに上空で展開させていた他の蝙蝠を引き寄せる。手首、肘、二の腕、肩、首元の順に徐々に身体を再生、押し寄せる蝙蝠の圧力で霊夢を押し込んだ。足場のない空中で、物理的な圧力に対して霊夢は抗う術を持たない。

 だから、目の前で抱きつくように現れたレミリアを霊夢は思わず受け止めてしまう。吸血鬼は体重をかけて密着したまま神社の境内へと突っ込んだ。

 

 

 着地の衝撃でもうもうと砂埃が立ち込める。

 

 レミリアとしては、霊夢の体に衝撃が伝わらないように上手く着地したつもりだ。しかし、巫女は痛そうに顔をしかめて小さく呻く。

 ひどい怪我をしたようには見えないので、どこかを打ち付けて痛いだけなのだろう。痛みに耐えつつも、馬乗りになった格好のレミリアをしっかりと睨んでいる。

 弾幕は消滅した。後から彩雲が小さなプロペラ音を響かせて心配そうに頭上を旋回し出した。

 

 

「こすい手を使うじゃない!」

「ちゃんとスペル宣言はしたわよ」

「……チッ」

 

 巫女は盛大に舌打ちする。その目が「早くどけ」と言っているので、レミリアは素直に彼女の上から離れた。

 立ち上がろうとする霊夢に手を伸ばすと、「ありがと」と礼を言いつつ彼女は手を借りた。

 

 弾幕ごっこは終わり。夜空を彩っていた無数の光はすべてなかったかのように溶けて消えた。

 霊夢は両手で服に付いた土埃を払う。「はあ。もう、ご飯の前だっていうのに。先にお風呂入ろっかな」というボヤキが、彼女が異変解決者ではなく年相応の少女に戻ったことを表していた。

 それから彼女は顔を上げてレミリアをぴたりと見据える。

 レミリアもまた霊夢を見詰めた。

 すっかり辺りは暗くなってしまっているので、夜目が効く吸血鬼はともかく、人間である霊夢には目の前に居るレミリアの顔さえはっきりとは分からないだろう。だというのに、霊夢は少しだけ笑ってこんなことを言った。

 

「やっと、いい面構えになったじゃない」

「いつもそうでしょ」

「アホか! 昨日のあんたの顔といったら、酷いもんだったわよ。一瞬どこの誰だか分かんなかったわ」

「そんなに?」

「そうよ! 色々あったのは知ってるけどさ、外から戻って来てもずっと家に籠ったまんまだし、出て来たと思ったら一人でふらっとやって来て、しかも思い詰めた顔してんの。何事かと思ったわよ」

「それは悪かったわ」

「……うん。でも、もう覚悟決まったみたいね」

「ええ。ありがとう。世話を掛けたわ。後は、外に出ることを考えなくちゃいけないんだけどね。八雲の奴を説得して」

「必要ないわ」

 

 霊夢はにんまりと笑った。レミリアは首を傾げた。

 はて、昨日彼女は自分に決定権はないと言っていたはずだ。レミリアがもう一度外に出るには、結界の管理者である大妖怪に直談判しなければならないはずである。

 しかし、霊夢は言い切った。

 

「弾幕ごっこよ! あんた、私たちに勝ったのよ!

こうやれば正解でしょ。博麗の巫女をぶっ飛ばして行くんだから。紫の奴だって、あんたんとこの手下だって、あるいは他の連中だって、みんなあんたが本気だってことを理解するわ。これだけで、あんたの覚悟は周りに十分伝わる。うじうじ悩んで、回りくどいことをするよりよっぽど分かりやすいわ!」

 

 ああ、そうだ。

 レミリアは得心する。霊夢の言っていることの意味が分かったのだ。

 弾幕ごっこ――正式名称「命名決闘法」。

 

 この決闘法によって負けた者は勝った者の言うことを聞かなければならない。幻想郷で最も一般的に用いられている紛争解決手段である。それ故に、レミリアが己の都合を優先させるのに最も優れた手段でもあった。命名決闘法において勝負に勝ったという事実は、この郷では大きな権威を持つのだから。

 

「そうだね。こいつは名案だ。本気で戦ってくれたことにも感謝してる」

「当り前じゃない! 博麗の巫女、舐めんじゃないわよ」

 

 その時、不意に神社の境内を囲む茂みがガサガサと揺れ、魔法使いが姿を現した。森の中に不時着した彼女は、全身に小枝や葉っぱを引っ付けた状態だ。「ひどい目に遭ったぜ」とボヤく割りに、口ぶりはどこか嬉しそうに弾んでいる。

 

「あら、おかえり」

 

 霊夢が迎えると、魔理沙は山高帽子に付いた葉っぱを払いながら「ただいまだぜ」と答えた。

 

「勝負あったみたいだな」

「ええ。魔理沙も、ありがとう」

「気味が悪いくらい殊勝な言葉だな」

 

 憎まれ口を叩く魔理沙に、レミリアは苦笑する。彼女のことだから、きっと霊夢の案に二つ返事で乗ったのだろう。

 

「まあ、私は八卦炉を取り返すついでだからな」

 

 上着に引っ掛かっている小枝を摘まみながら、魔理沙は笑う。持つべきは良き友人だ。

 

「それよりさ。先にお風呂入っちゃわない?」

「お。そうだな。すっかり泥だらけになっちまったからな。久しぶりに一緒に入ろうぜ」

 

 二人は仲良さそうに頷き合うと、そのまま社務所の方へ向かって行こうとする。だから、レミリアは慌てて呼び止めた。肝心なことを忘れてもらっては困る。

 

「待ってよ!」

「あ、そうだった。もう行けるわよ」

「あら? そう……。さすが、仕事の早い巫女だけあるわね。その調子で、結界の維持管理、頑張って」

「うっさい。早く行け」

 

 そんな捨て台詞を残して霊夢は魔理沙と共に拝殿の影に消えていった。つい先ほどまで吸血鬼と互角に渡り合っていたとは思えない、少女らしい姿だった。

 

 レミリアはまだ頭上を飛び回っていた彩雲に手を伸ばし、引き寄せる。

 赤城のように艤装の飛行甲板に着艦させることは出来ない。なので、飛んでいる飛行機を直接手で掴み取った。

 

「ご苦労さん。貴方のお陰で勝てたわ」

 

 礼を言うと、コクピットから這い出してきた妖精が得意げに胸を張った。「それじゃあ行きましょう」と声を掛けて、レミリアは一歩踏み出す。

 ところが、すぐに足を止めることになる。

 

「あー! レミリア! まだ居るぅ?」

 

 行ったはずの霊夢の声が聞こえた。見えないだけで、どうやらまだすぐ近くに居るらしい。あるいは、戻って来たのか。

「居るわよ!」と叫び返すと、すぐに返事が来た。

 

 要件はつまり、

 

「お賽銭よろしくねッ!」

 

 レミリアは妖精と顔を合わせ、煩悩まみれの巫女に苦笑を浮かべる。話をよく理解していない妖精はキョトンとした表情だった。

 仕方ないわね、とため息を吐き、ぱちんと軽く指を弾いた。

 賽銭箱の上から数枚のコインが降って、軽やかな音を立てながら箱の中に落ちる。音を聞く限り、木と金属がぶつかりあったような感じしかしなかったので、相も変わらず賽銭箱の中はすっからかんだったようだ。

 もちろん、入れたコインは本物。物質創造なんて大層なものではなく、ただ単に家にあったコインを魔法で転送させただけである。財布を持って来ていなかったからだ。

 帰ったら台帳に「お賽銭」という名目と金額を書いておかないといけない。そうでないと咲夜に怒られてしまうのだから。

 そう考えながら、レミリアは止めていた足を踏み出した。

 

 

 




サブタイトルは原曲ではなく、某アレンジからです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督30 Into the Dusk Horizon 1

 

 

 備えあれば憂いなしと言うが、それは備えることでどうにかなるという前提の下で成り立つ言葉である。十分な武器弾薬、潤沢な燃料、倉庫に山積みになった修復剤、綿密な哨戒網、円滑な連絡体制。いずれも戦闘においては欠かすことの出来ない資源である。これらを満足に取り揃えられるなら、戦争というものは実に楽々と推し進められるであろう。それが出来れば苦労しない、という話だ。

 だが何よりも重要なのは、何はなくとも味方の数である。寡兵で大軍を撃退したというのは古今東西しばしば耳にする話だが、それは相手が余程弱い、数だけの集団であるか、味方に卓越した戦術家が居ること、何より地形や天候に恵まれていることが条件だ。真っ平らな海の上では地形も糞もない。

 港を見回すと、誰もが慌てふためき忙しなく行き交っている。まだ接岸したままの「硫黄島」甲板から、行先を急ぐ輸送ヘリが二機、爆音を轟かせながら飛び出していった。おそらくは市民の輸送に駆り出されたのだろう。鎮守府背後の市への避難警告は何時間も前に出されて、今頃は大勢が街を出ようと押し合い圧し合いしているに違いない。

 鎮守府でも、非戦闘要員の軍属の職員らはもう避難をし始めている。今ここに残っているのは、戦うために命を賭ける軍人だけ。その中でも、艦娘は特に真っ先に敵の懐に飛び込まなければならない。

 

 先程、鎮守府司令官からありがたい激励の言葉を頂戴した。軍人というのは、「死ね」という一言を素晴らしく機知と教養に富んだ美辞麗句で婉曲に表現して下さるものだ。おまけに、お国から細やかなるプレゼントまで戴いた。

 カリコリと口の中で砂糖の塊を噛み砕きながら、川内は慌ただしい港を眺めていた。食べているのは金平糖だが、そこらの駄菓子屋で売っている安物とは違う。何と、菊の御紋入りなのだ。「恩賜の金平糖」と言うらしいが、今日までこんな代物があること自体、川内はまったく知らなかった。少し前まで金平糖ではなく煙草だったそうで、そっちの方が良かったなと思う。あまり甘いばかりの砂糖菓子は好きではないのだ。

 とはいえ、のんびりと菓子を食べてばかりもいられない。本来なら一刻も早く敵を迎え撃たなければならないのだが、出撃前に一つすることがあるために川内たちは港で待機しているのだった。

 

 

 突然、大きな船笛を鳴り響かせ、「硫黄島」がゆっくりと動き出す。タグボートに引っ張られながら、いよいよ出港だ。行き先は首都近郊の横須賀鎮守府。平たく言うと、貴重な艦娘母艦を失うわけには行かないので逃げるのである。間に合うかどうかはさておき、だが。

 それなら、置いていかれる艦娘の命はどうなんだと思わないこともないのだが、「硫黄島」一隻を維持する金で、一体何十人の艦娘の維持費が賄えるかということを考えれば、組織として合理的な判断をせざるを得ないのだということは理解出来る。そして、「硫黄島」の護衛として“逃される”のが、最も年若い者であるのも納得出来ない話ではない。

 離岸する「硫黄島」の巨躯を背後に、二人の艦娘が近付いて来る。準備が整ったのだろう、「硫黄島」直掩である第四駆逐隊の「舞風」と「野分」は、別れを告げにやって来た。

 

 

 敬礼する二人を川内たちは穏やかに迎える。

 実は、二人を先に逃がそうと提案したのは加藤だった。二人が鎮守府の艦娘の中では最も若く、将来有望であるから、少しでも生存率の高い任務を充てがうべきだと彼は言ったのだ。艦娘の中に反対意見を言う者は居なかった。当の二人以外には。

 国家に忠実で勤勉で有能な兵士である舞風と野分は、最後の一発を射ち尽くすまで奮戦する覚悟だと強弁した。まして、他の艦娘を残して自分たちだけ戦場を離れるわけにはいかないと懇願した。

 けれど、誰かが「硫黄島」を守らねばならないのもまた事実であり、最終的に二人は折れることになる。悔しそうに握りしめられた拳を見ると胸が苦しくなったが、それが一番なのだと川内は自分に言い聞かせた。

 

「皆さん!」

 

 威勢よく野分が声を張る。すでに目は赤く充血して、鼻頭も腫れていた。

 これじゃあまるで、今生の別れのようじゃないか。

 

「御武運を!」

 

 彼女にしては珍しい、短く歯切れの悪い言葉だった。溢れる想いを言葉に出来る語彙がなくて、それしか言えないような言い方だ。

 

「お待ちしていますから!」

 

 野分でさえ感情を抑え切れていないのだから、より素直な舞風に至っては堪え切れなかった涙を流している有様だ。

 

「必ず、生きて、また会いましょう!!」

 

 それでも素直な分、舞風の言葉は想いに正直だった。川内たちには言えぬ一言を、“生きて”という言葉を、舞風なら口に出して言える。

 彼女への批判的な意味合いではなく、それは彼女にしか言えぬ言葉なのだ。舞風も、そして野分も、まだ十分生きていける余地がある。片や、あの世に片足を突っ込んでいる川内たちは、眩しい二人を憧憬の眼差しを持って眺めるしかなかった。

 

「金平糖、もらった?」

 

 半死人の川内が何も言えぬ内に、金剛が優しく問い掛ける。

 

「はい」

 

 と、野分が硬い表情で頷いた。

 

「そう。ソレ食べて元気出しなさい。こっちのことは心配しなくてもダイジョーブだから」

「……でも」

「ワタシたちは二人よりずっとかベテランなの! 深海棲艦なんか海の底に蹴落としてやるからネー!」

 

 金剛はウィンクしながら親指を立てる。さすがにネイティブらしく、わざとらしさのない自然な動作だった。

 それがハッタリであることはこの場の誰にも分かっている。けれど、そんな言葉一つで舞風が笑みを浮かべるくらい励まされたのもまた事実。金剛の言葉には不思議と説得力があって、これから死地に向かう川内にとってさえ、彼女にそう言われれば生きて帰って来れそうな気がした。

 

「必ず、約束ですからね!」

「もちろんヨ。アナタたちも絶対に沈まないコト! 暁の水平線に勝利を刻みつけるまでネ」

「はいッ!」

 

 二人はそろって敬礼し、背を向ける。

 

 

 戦場は分かたれた。彼女たちは彼女たちの、自分たちは自分たちの、戦いを制さなければならない。例え弾が尽き、舵も折れようとも、この身をすり減らしてでも守るべきものがあるのだから。

 去ってゆく二人の背中を見つめながら、誰もが思っただろう。

 これが、今生の別れにならぬようにと。

 

 

「さて」

 

 金剛が軽く艤装を鳴らして百八十度転回する。

 

「そろそろ時間ネ。ワタシたちも出撃しましょう!」

 

 彼女もまた自らの戦場へと舳先を向ける。後には木曾、川内、曙、漣、潮と続き、六人は単縦陣にて港の外へ、迫り来る敵の前へと舵を切った。

 軍港を奥に仕舞い込んでいる入り江は南を向いている。右からは赤い西日が差してきて、海を進む艦娘を赤く染め上げていた。右後ろを振り返ってみると、後を付いてくるように「硫黄島」の巨体があり、その巨体の周りを一生懸命踏み潰されないように寄り添っている二つの小さな影がある。

 入り江を出れば川内たちは東へと向かい、「硫黄島」はそのまま南進する。取舵を切りながら大きく円弧を海面に刻みつけ、六つの航跡が夕日に背を向けて自らの影を追う。

 

 

 

「これより我らは敵侵攻艦隊の要撃に向かう」

 

 先頭を行く金剛が、何時になく硬い声を無線に吹き込んだ。

 

「我らの背後には無辜の民が居る。我らの勇壮無比なる味方が向かっている。

国民の逃げる時間を、友軍が駆けつける時間を、稼ぐのが我らの目的。

残弾尽くすまで奮戦し、一隻でも多くを葬り、一分でも長く戦線を維持せよ。

ここで退いても我らに未来はない。しからば、勝利こそが我らの道。

皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ!!」

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 鎮守府内にけたたましくサイレンが鳴り響いている。避難を促す放送音声が軽いエコーがかかって聞こえた。

 ようやく腕のギブスが取れてリハビリを始められたという頃なのにこれだ。大規模な深海棲艦艦隊の接近があり、基地はおろか、背後の街にも避難勧告が出されたという。本土を未だ襲ったことのない未曾有の規模だということで、鎮守府では大急ぎでの防御態勢の構築が進められている。だが、時間的にはどう考えても間に合わないし、気休めがせいぜいだろう。

 こうした状況だから、逃げられる者は逃げよ、という指示が下ったらしい。普段赤城の看病をしている医官がそう言って連れ出そうとしたのを、固辞した。

 仲間たちは皆海に出ただろう。航空戦力のない彼女たちだけで敵の艦隊に突っ込むのは最早帰還を考えていない無謀な特攻としか言いようがないが、それでも彼女たちは艦娘だから戦いに背を向けることは許されないのだ。それに、数名がしつこく「諦めるな」とか「希望を持って」とか言うので、いっそその通りにしてやろうかという気も起きた。

 

 戦いの場に赴けない自分が情けないというのもある。もし自分がいれば、赤城は空母だから、彼女たちの頭上を護り、少しでも戦いを有利に導けたに違いない。

 けれども、今の赤城に許されているのは陸地で芋虫のように這いつくばって動くことしかない。足のギブスは未だに取れず、移動には車椅子を要する。それでもただ指を加えて何もしないで居ることは耐えられなかったから、赤城は避難を勧める医官を制し、逆に彼に逃げるように諭した。自分は工廠に行き、艤装を身に着けて出来るだけ戦うとも宣言した。少なくとも赤城は艦娘であるから、艤装を身に着ければ「女神の護り」を受けられるし、今から着の身着のままで逃げ出すよりはそちらの方が余程生存率が高いように思われたから、とも付け加えた。

 頑なさを見せる赤城を説得するだけの言葉を、医官は持ち合わせていなかった。最終的に彼は折れ、医務室には赤城一人だけが取り残された。彼は去り際にベッドの傍に車椅子を用意し、それから敬礼して「健闘を祈ります」と言って辞した。

 結果、赤城はじたばたと一人で身体を車椅子に腕力だけで収めるという慣れぬ作業に奮闘する羽目になった。足の感覚は相変わらずなく、下半身は鉄でも引いているかのように重い。苦労して車椅子に座ると、赤城はさっさと医務室を後にした。

 幸いにして医務室は一階にあったから玄関に行くのに苦労はしなかった。その一方で、腕だけで車輪を回して動かさなければならない車椅子というのは、とても腕の筋肉に負荷がかかるものだとも学んだ。何しろ赤城と言えば、こうして車椅子に座って、しかもそれを自力で動かすという経験をしたことは初めてなのだ。英国にはウォースパイトという戦艦が居るが、彼女の艤装は椅子型となっているので、彼女は座したまま戦うことが出来ると聞いたことがある。自分の艤装もそうだったなら良かったのにと思う。

 

 

 医務室のある第二庁舎の玄関から外に出る。視界には誰もいない。

 この鎮守府を含め、軍事基地というのは常に軍人が居るものだし、軍人だけでは組織を動かしきれないからそれを補佐する軍属の人間も居るから、常に一定数の人数が動いているはずなのだが、今日はまるでもぬけの殻である。大方は避難し終えたのだろう。そして戦える者たちの内、艦娘は海へ行き、陸兵たちはどこかに陣地を構築してそこに篭ったのかもしれない。鎮守府それ自体を盾にした水際防衛戦を展開するつもりなのだろう。

 敵は思ったより早く接近して来ているのかもしれない。赤城は車椅子を急いで転がした。

 第二庁舎から工廠はすぐ近くにあって、玄関先にいる赤城の目の前には工廠の、赤錆で覆われた大きな建物がいくつも並んでいた。ただ、第二庁舎は工廠より一段高い所に建っているので、そこから下りて向かわなければならない。段差は玄関前の階段を下るか、階段脇のスロープで越えられるようになっている。車椅子の赤城は無論、スロープを使うしかない。スロープは踊り場で二つ折りになっていて、二段の手摺が付いていた。赤城は自分の手が届きやすい下の段の手摺を掴みながらゆっくりと下りていく。途中、踊り場での反転に苦労しながら、さらにスロープを下っていると、頭上で聞き慣れた不気味な音がした。

 低いモーター音に風切り音がプラスミックスされた奇妙な音だ。それが深海艦載機の発する独特な飛行音であるというのに気付くのにコンマ一秒もかからなかった。何しろ、嫌というほど聞き慣れた音であるが、さりとて受け入れられる音でもない。しかもそれがこんなところで聞こえたということに、赤城は歯噛みした。

 ついに始まったのだ。爆音は少し離れたところで轟いた。爆発地点は赤城の位置からは第二庁舎の建物が壁となって見えなかったが、レーダー施設の方だったのは間違いない。

 

 それから、次から次へと空に黒い機体が飛来して、所構わず爆弾を落としていくようになった。赤城は必死で車椅子の車輪を回して第二庁舎から工廠までの短い道のりを出来る限り急いで突破した。工廠前の広場を横切ると、そこが艦娘用の工廠第三号棟であり、普段の艤装の保管場所である。

 内部はがらんどうで、既に工員たちは避難しきった後だった。それでも修復剤が取り出しやすいように入り口脇に並べて置かれていたのは、逃げ出す時に彼らが最大限気遣ってくれた結果だろう。万一負傷した艦娘が戻って来ることを想定してのことなのだ。規則の観点から言えば、貴重な高速修復材を出しっ放しにしておくのは明確な違反だが、今はその機転がありがたかった。

 工廠の入り口から少し入った右手に艤装の保管庫がある。保管庫は後から工廠の建物の中に別で設けられた構造物で、他と異なり、そこだけコンクリートの頑丈なトーチカのような造りになっていた。

 保管庫の前に来ると、赤城は電子端末にパスコードを入力しようとして、自分の手がそこに届かないことを認識する。微妙に高い位置にあって、車椅子に座った状態からでは指先まで伸ばしてもボタンを押せないのだ。片手で車椅子の肘掛けに体重を掛けて体を持ち上げ、ようやくパスコードを入力、指紋認証も済ませると鋼鉄製の重いドアが滑らかに動いた。

 反動で車椅子に沈み込み、支えにしていた左腕を軽く振る。身体は同年代の女性より鍛えてあって筋力にも自信があるが、さすがに車椅子で移動するのに腕を酷使しすぎた。上腕筋が軽い不随意運動を起こしており、このまま休ませずに使い続ければすぐにこむら返りを起こしそうだった。

 だが連続する地響きが聞こえて来て悠長にする時間はないことを改めて悟り、保管庫に入室する。

 中には予備まで含め、所属艦娘全員分の艤装が保管されている。といっても、今出撃中の艦娘の艤装は予備しかない。一方で、一人分だけ予備艤装と普段使いの本艤装の二つがある。その艤装が置かれている棚には荷札があって、「赤城」と楷書体で簡素に記されていた。他方、隣の「加賀」の場所には予備艤装しかない。

 赤城は自分の艤装を棚から引っ張り下ろす。前掛けの形をした装着部、籠手、胸当て、機関と一体化された航行艤装、煙突型の制御ユニット、サブ兵装の20cm単装砲、矢筒、長弓、そして正規空母の象徴でもある飛行甲板。まず前掛けと胸当てを着けて艦娘としての力が発揮出来るようにすると、足のギブスを力づくで割る。

 中から出て来たのは、深海棲艦の黒い艤装に覆われ醜く変形した己の体の一部……ではなく、やせ細って白蝋のように不健康な肌の色をしてしまっているが、ちゃんとした自分の足である。懸念されていたことはまるで杞憂だったのだろうか。歩くのに不安を覚えるくらい細くなっているが、どの道艤装を着ければ関係ない。感覚もなく、触っているのに足からはその感触がないというのに違和感を覚えるが、気にしていたところでどうなるものでもない。その内感覚が戻るだろうと根拠もない楽観で不安を片付けた。

 

 航行艤装を強引に履かせると、赤城はそのまま車椅子から立ち上がろうとして、足に力が入らず真正面の棚に体を預けることになった。

 感覚がないだけではない。まるで言うことを聞かない。膝を曲げろと命じても、足はピクリとも動かなかった。

 だがこれも織り込み済み。赤城は再び車椅子に腰掛けると、飛行甲板を装着し、矢筒の紐を肩に通す。制御ユニットも籠手も、と一通り身に着けて、単装砲を膝に置いてから最後に長弓を取る。長すぎる和弓の取り回しに苦戦しながらも車椅子で建物の入口まで戻ろうとする。

 動けるまでに回復した今ならば、そこにある修復剤で足を治せるかもしれない。入口に戻った赤城は修復剤の一つを手に取り、蓋を開け、中身を足にそのままぶっかけた。これが修復剤の使い方であり、ただ損傷箇所に浴びせるだけで不思議なことに傷を癒やしてしまう。案の定、足の感覚が一瞬で戻った。

 自然回復に任せれば艦娘のそれというのは非常に長い時間が掛かる。骨が折れて二三日で完治する人間が居ないように、何もしなければだらだらと怪我を引き摺ることになり、場合によっては深刻な後遺症が残ることもある。損傷はすぐに修復してしかるべし、である。

 赤城は立ち上がった。今度はバランスを崩すようなことはなかったが、久しぶりの立位に一気に頭から血流が下がって目の前がくらくらする。艤装の姿勢制御機能に任せて倒れるのを防ぐと、力強く血液を押し出した心臓によって頭に血が戻り、意識がはっきりした赤城は一歩踏み出した。カツン、と硬い音がして航行ユニットと工廠のコンクリートの床がぶつかる。

 

 外は既に激しい爆撃にさらされていた。すぐ近くで巨大な爆音がして工廠の建物が揺れる。赤城は動じずに工廠から出た。

 

 

 

「――ギ」

 

 遠くに声が聞こえた。よく耳を澄まさないとこの騒乱の中では聞こえないくらい小さな声なのに、耳にこびり付いて離れないようなしつこさがある。

 

「――ギ。アカギ」

 

 声は、名前を呼んでいた。

 

 

 

 

 

「迎エニ来タゾ。赤城!」

 

 

 

 

 心臓が跳ねた。不整脈のように跳ねた。

 一瞬で全身の力を奪われた赤城は呻きすら上げられずにその場に崩れ落ちる。取り落とされた長弓が軽い音を立ててアスファルトの地面に落ちた。胸の谷間に手を突っ込んで、肋骨の上から激しく動悸する心臓を抑えようとする。

 幸いにして動悸はすぐに収まったが、だからといって赤城は一息つくことすら出来なかった。

 今度は足だ。燃えるような猛烈な激痛が足から神経を伝い、赤城の脳の機能の大部分を麻痺させてしまった。苦しげに悲鳴を上げ、反射的に身体を丸める。

 足を見てもそこに変化はない。ただひたすらの激痛がある。

 続いて、再び心臓が脈打ち、赤城は声にならない声を上げた。足と胸と、激痛と動悸に意識を保っていられなくなり、ついにはそれを手放した。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 空は数えるのも億劫になるくらいの敵機に覆われていた。薄雲の張った夕空を歪な黒い塊が幾つもの集団となって通り過ぎ、どんどんと鎮守府に襲い掛かっていくのを金剛たちはただ見上げているしかない。対空砲の届かない高度だし、撃ったところで撃墜も期待は出来ない。

 ただ、幸いと言って良いのかはさておき、その艦載機が眼下の金剛たちを襲うことはほとんどなかった。たまに思い出したように数機が爆撃や雷撃を試みるが、対空砲で迎撃しつつ回避すれば撃ち落とされるか引き下がっていくかのどちらかの結果になった。

 航空戦力のない金剛たちに空襲を止める手段は空母の無力化以外にない。だが、当然敵空母は幾重もの防御線に守られた奥に居るだろう。この艦隊の旗艦にして主力は、先程不気味な声を発していた空母水鬼で間違いない。先の海戦で、「迎エニ行クゾ」と宣言していた通りになった。空を飛ぶ艦載機の多くが、膨大な機数を扱えるという空母水鬼の手駒だと思われた。つまり、空襲を止めるためには敵艦隊の最深部まで、何重もの護衛を突破し、岩のような装甲を持つかの敵を少なくとも中破状態まで追い込まなければならない。

 それはどう考えても無理そうだった。現状の戦力を無視しても考え得る手段は二つで、大規模な航空部隊によって、先の海戦で赤城がしてみせたように、敵機を低高度におびき寄せてからがら空きになった頭上から急降下爆撃を敢行する陽動作戦か、潜水艦の浸透による海中からの奇襲かのどちらかだ。ただし、前者は既に実行された手で、後者も魚雷ごときであの堅牢極まりない空母水鬼を崩すことが出来るとは思えなかった。金剛は戦艦だから、それこそ徹甲弾でもお見舞いしてやれば何とかなると思いたいが、問題はどうやっても現状の戦力で空母水鬼を主砲の射程圏内に捉えられるまで接近する手段がないことだった。

 故に、金剛は早々に主戦力の撃破を諦めた。遅滞戦闘により敵の先鋒を足止めし、味方が到達するまでの可能な限りの時間稼ぎをする。生存を優先にし、真正面からぶつからず敵の警戒レベルを最大限に引き上げた上で進撃に時間を浪費させる。

 後に続く艦娘にはその命令を出す。だが、言っている自分が、言葉で言うほど簡単なことではないと自覚していた。

 それでもやらねばならない。やらねば、あるのは絶望的な敗北のみだ。

 

 敵艦隊の押し寄せている東へ進むと、先行進出している潜水艦部隊を発見した。

 戦艦である金剛は何も出来ないので随伴の木曾と七駆に任せてさっさと処理する。幾つもの爆雷が海中で炸裂し、海面に大きな盛り上がりを作るのを後ろにしながら、さらに東へ。

 水雷戦隊は正面火力で吹き飛ばした。前衛を務めていた軽空母旗艦の小さな機動部隊も、第一撃の空襲を軽くいなし、主砲の射程圏内に捉えれば簡単に海の藻屑と化す。36cm主砲が火を噴く度、海面には桂林の如き水柱が立ち、その間に巻き込まれた敵艦は弾け飛び、四散し、無数の破片がくるくると回転しながら宙を舞って海面に落ちていく。それは巨人の振るう鉄槌だ。それは火山の噴火だ。鋼鉄の砲弾が立ち塞がる全てをなぎ払い、六百kgを超える怒りが深海の魔物に地獄への道を与えた。

 

 

 海軍最先任。他の総ての艦娘よりも長く海に戦い、幾度もの勝利と敗北を積み重ね、今日まで生き延びてきた。それこそが金剛という戦艦の矜持だ。その矜持を持ってして、金剛は「今日負けぬ」という決意を胸に秘める。だが、秘めただけでは終わらぬその決意は、砲門から竜の息吹のように噴き出す砲炎となって、亜音速で打ち出される鉄塊となって、時に金剛自身の口から飛び出す咆哮となって、世に示されるのだった。

 

 

 

 決意の奥底にあるのは、悔恨の感情。

 助けられなかった加賀。守れなかった赤城。

 何が最先任だ。何が最古参だ。

 自分より年若い者が血を流し、海に沈むのを許すならば、そのような称号などいらない。金剛石の名を背負い、護法善神の名を借りるならば、今ここで汚名返上出来なくてはならない。

 

「前方敵影! 十一時の方向!」

 

 電探が新たな敵の出現を告げる。金剛は叫び、水平線に現れたその影を見る。

 敵制空権下での反航戦。

 

「木曾は甲標的の発進を!」

「もう出してる!」

「早いネー!!」

 

 仲間を賞賛し、金剛は遠くの敵影を見つめる。

 繰り返すが敵の制空権下だ。空には味方の飛行機が一機も飛んでいない。それは金剛の弾着観測用の水上偵察機も含めて、だ。もちろん不用意に発艦させればあっという間に敵戦闘機の餌食となるだろう。対して敵は逆に偵察機を飛ばしたい放題だ。現にこうして対峙する金剛たちの頭上に敵の水偵が舞っている。

 何もかも不利な要素しかない。敵は弾着観測射撃を好きなだけ撃てる。なんなら近接航空支援だって難しいことじゃない。物量は圧倒的に相手が上で、しかもこの度の敵艦隊は難敵と言って差し支えがない。

 遠目でも分かる。六隻編成の単縦陣。先頭の二隻の陰が他よりも大きい。身長くらいの大きさの物を抱えているように見えたが、それこそが戦艦ル級の最大の特徴である主砲と一体化した巨大な防盾である。しかも、先頭のル級にはチラチラと黄色い火種のように輝く光が見えた。すぐ後ろを走るもう一隻には赤色のそれ。上位クラスのフラグシップとエリートの戦艦。それに重巡以下小型の随伴艦が続く。空母は居ないようだった。

 

「目標! 敵旗艦! Tallyho!!」

 

 金剛は叫ぶ。最大戦速で海面を走り、長い茶髪が激しくかき乱されながら頭皮を引っ張った。海風を浴びても未だ冷めやらぬ熱い砲身がゆっくりと転回し、仰角を取って敵影を睨む。砲塔の中で揚弾機構が薬室に徹甲弾を放り込む音がした。

 突如として敵艦隊の三番手を走る重巡に水柱が立つ。それが晴れた時、そこに重巡の姿はない。

 Nice kill! 心の中だけで雷巡を賞賛した。先に発進させた甲標的より放たれた先制の魚雷が見事命中したのだ。それは敵にとって完全な不意打ちとなり、仲間をいきなり沈められた艦隊の中に動揺が走る。

 何か大きな動きがあったわけではないが、少なくとも金剛の目にはそう映った。経験上、先制雷撃を成功させた場合、残った敵艦にも心理的動揺を与え得ることを金剛は知っていたのだ。だから、その隙を逃さぬようにトリガーを引く。

 

「Fireeeeeeee!!!」

 

 絶叫。轟音。

 反動を腰で柔らかく吸収するが、しきれない分は金剛の速度を削る方向に働いた。自分の体の両側を巨大な爆炎が取り囲み、一瞬戦艦は紅蓮の花弁に飲み込まれる。

 敵艦隊は既に金剛の射程圏内だった。そしてそれは、金剛もまた相手の射程圏内にあることの証でもあった。金剛の主砲発射に遅れること数秒、敵艦隊の先頭二隻からチカチカと光るものがほとばしる。

 すぐに敵の周囲に無数の水柱が彷彿する。それだけでなく爆炎も見えた。

 

「初弾命中!」

 

 叫んだのも束の間、耳がおかしくなる轟音に金剛は囲まれた。至近弾を示す水柱は自分の左右に立つ。夾叉だ。敵の散布界に収められたのだ。弾着観測が出来るなら、これはある意味当然の結果だった。では、それが出来ない金剛が初弾で命中を出したのは何故か。練度の差だ。

 ガコンと重い音がして次弾装填が完了する。

 まだ巡洋艦の主砲では届かない距離。金剛だけが第二射を放つ。敵も続くように撃った。

 再び敵の先頭を36cm砲弾が襲う。爆炎が噴き上がり、旗艦のフラグシップ戦艦が痛ましい黒煙を上げた。その結果に満足する前に、金剛に敵弾が到達する。

 今度は水柱だけではなかった。身体が分裂しそうになるような巨大な衝撃。轟音と振動。重い金剛の身体が海面からわずかに、しかし確かに浮いた。

 

「Damm!!」

 

 反射的に悪態が口から飛び出す。郷里の後輩とは違い、お世辞にも育ちは良いとは言えないのだ。衝撃の出処、右の装甲を確認する。確かにそこは惨たらしく抉られて、鋼鉄の装甲板が無残にもめくれ上がっていた。しかし、被害はその程度。せいぜい砲弾が掠っただけで、損害判定は小破と言ったところだ。

 

「金剛さん!」

 

 心配した後ろの木曾が叫ぶ。金剛は背中越しに親指を立てて見せた。

 

「戦闘に支障なしネー!」

 

 ダメージは敵の方が大きい。旗艦のフラグシップ戦艦は濛々と黒煙を上げて艦隊から落伍しつつあった。だが、その戦艦がまだ闘志を失っていないのは、こちらに向けられた砲口からも明らかである。ル級にとどめを刺すべく、金剛は第三射を放つ。

 その頃には彼我の距離はかなり近付いていた。中口径砲の射程圏内に入っている。

 殴り合いはいつもそうだ。巡洋艦が参加してきてからが本番である。戦艦の主砲は温まり、それまでの幾度かの射撃によって狙いは定まっており、しかも距離が縮まっているのである。命中弾が双方ともに出やすい状況であり、この上射線が増えるのだから、砲戦は混沌となり、鉄で鉄を穿つ激しい殴り合いとなる。

 主砲はもちろんのこと、副砲から電探まで、あらゆる武器を駆使して敵を制圧しなければならない。敵が撃つ。味方が撃つ。双方に水柱が乱立する。

 フラグシップ戦艦は三発目の徹甲弾までは耐えきれなかったようで、轟音と悲鳴を上げて海中に没した。随伴の駆逐艦も木曾や川内の主砲に吹き飛ばされた。その一方で、敵の攻撃は先頭を行く金剛に集中し、瞬く間に金剛は被弾し、身体を幾度も鉄槌で叩かれたかのような衝撃に耐えなければならなかった。

 耐久は一気に削られる。既に大破と呼べる値にまで下がっていた。四基の主砲塔の内二つは割れ、装甲板は丸く抉られ、直撃を受けた肩は脱臼と骨折を起こして左腕が使い物にならなくなっていた。

 それでも金剛の闘志は微塵も揺るぐことはない。好き放題に砲弾を浴びせかける深海棲艦に向け、激昂の雄叫びを上げ、さらに残った主砲を打ち鳴らす。至近距離からの水平射撃がエリート戦艦の防盾を叩き割った。そこに魚雷が命中し、足元から崩された戦艦は天に手を伸ばしながら海中へと飲み込まれていった。

 

「敵部隊……全滅!」

 

 やっと一つ、おそらく先鋒の打撃部隊だっただろうル級二隻の部隊を下した。これで、敵は出鼻をくじかれた形になったはずだ。しかし、代償は大きかった。

 無線に戦果報告を入れながらも、金剛は状況のさらなる悪化に焦燥を抱いていた。

 

「金剛さん、退避してくれ!」

 

 二番艦の木曾が寄り添う。情けないことに金剛は彼女の手を借りなければ立つこともやっとの状態だった。左肩は焼け付くように痛み、その他何度も被弾した衝撃が金剛の身体の至る所に目に見えない損傷を与え、体力を削り取っていた。ただ立っているだけでも膝が笑い始めるのだから、これは重傷だと自分自身でも認めざるを得なかった。

 木曾が退避を勧めるのも無理はない。だが、金剛にはそのつもりは一切なかった。もしその結果死ぬことになったとしても、それが運命というものならば受け入れる覚悟もあった。

 

 

 

「ちょっと! 何よあれ!」

 

 金剛と木曾が問答している内に、周囲を双眼鏡で観察していた曙が声を上げる。彼女は双眼鏡で北を見たまま、指をさした。

 全員がそちらを向く。遠くの水平線上に幾つかの陰があった。

 

「補給艦だわ! 随伴の駆逐艦も見える! 真っ直ぐ西に向かってる。あいつら、揚陸部隊よ!!」

 

 遠すぎて肉眼では確認不能だが、双眼鏡を覗く曙がそう言うのだから間違いないだろう。

 

「おいおい、マジかよ」

 

 木曾が呆れ混じれに呟いて、艦隊のメンバーを見回す。金剛以外は全員無傷だ。だが肝心の戦艦は大破してまともに戦えない。

 幸いにして、前衛の主力を撃破しているから敵の打撃力には多少なりとも隙間が出来たはずである。鎮守府に接近する揚陸部隊は無防備同然だから、金剛の主砲がなくとも撃滅することは難しいことじゃない。金剛には木曾がそう考えたように思えた。何しろ、自分が木曾の立場であっても同じように考えるだろうから。

 

「行くワ。ワタシも行く」

 

 自分だけが離脱するなんて考えられなかった。主砲はまだ二基残っている。残弾も尽きてはいない。副砲だってある。敵は柔らかい駆逐艦と補給艦だ。目を瞑っていたって沈められる敵だ。恐れるに足りない。

 

「そうも言ってられないよ」

 

 だが金剛を止めたのは意外な人物の意外な言葉だった。

 川内は、こういう場で真っ先に発言するタイプではないと思っていた。他の誰もが言わないなら必要なことを発言する、というのが川内の基本的な議論のスタンスで、口数の多くない彼女らしいものだ。だから、そんな川内がわざわざ金剛の意思を棄却するような発言を真っ先にするということは、何か余程のことがあるのだ。

 果たして彼女は自身の左手首に巻き付けられた携帯端末の画面を右の人差し指で軽く叩く。

 

「基地の中から敵性反応だ。これは、何かな?」

 

 全員が自分の端末を見る。既に壊れてしまっていた金剛は木曾の物を見せてもらった。

 川内の言う通り、画面の端の方(鎮守府の方だ)に深海棲艦を表す白い光点がポツリとあった。

 

「提督! 加藤少将!!」

 

 木曾が無線に向かって叫ぶ。だが、応答はなかった。何度彼女が呼ぼうとも、司令部に繋がっているはずの周波数からは耳障りなノイズが聞こえるだけだ。

 そこでようやく金剛は悟る。鎮守府には激しい爆撃が浴びせられたのだ。彼は、それに巻き込まれてしまった。

 地下シェルターに逃げる前だったのか、あるいはシェルターごと押し潰されたのか。ひょっとしたら無線施設だけがやられて彼は無事なのかもしれないが、その可能性は低そうだと直感した。

 となると、もう一人心配なのは赤城のことだ。出撃前に加藤は必ず避難させると言っていたが、あの赤城の性格を考えれば、彼女が大人しく避難民に紛れて運ばれる姿が思い浮かばない。それは金剛だけでなく、この場に居る全員が共通して考えたことだった。

 

「なら、戻るべきだな」

 

 最初にそれを口にしたのは木曾だった。

 

「金剛さん、今から旗艦は俺が引き継ぐ」

「What!? 勝手に……」

「ああ、勝手だからな。俺は。んで、勝手ついでに旗艦命令としてあんたに退避を命じる。一人じゃなんだから、護衛には川内を着けて、二人で鎮守府内の敵性反応の確認もしてきてほしい」

「先任のワタシに命令?」

「旗艦だからな。司令部と連絡がつかない以上、部隊を指揮・統制する責任は俺にあるし、大破した金剛さんにはその責任を全う出来ないのは誰の目にも明らか。あんたを除けば、この中で最先任は俺だ。俺が旗艦を引き継ぐのに異論はないな」

 

 筋の通った木曾の言葉に金剛も反論の術を持たなかった。だが、だからといって落ち着いていられたかと言えばそうではない。

 大破して旗艦の任を捨て、後輩に部隊を預けて自分は後方に下る羽目になるという屈辱に、握った拳が震えた。何よりもそのような醜態を重ねる自分に腹が立ち、情けなかった。

 それでも金剛は最先任であり、彼女たちを支える唯一の大型艦であるから、弱気なところを見せるわけにはいかない。

 

 

「みんな、武運長久を。健闘を……祈りマス」

 

 木曾は黙って拳を掲げた。それに川内と曙が続き、漣と潮も同じく拳で天を衝く。

 金剛も右腕を突き上げた。

 

「また、会おう。あんたが居ないと火力不足だからな。工廠で修復剤を浴びたら戻って来てくれ」

「ええ。すぐに、ネ」

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 身体重い。足が熱い。

 たった一歩踏み出すことさえ筋肉が張り裂けそうになる。足の中に熱した石炭を埋め込まれたかのように猛烈な熱さが収まる気配もなく神経を刺激し続けている。

 爆音と振動に叩き起こされ、赤城は自分が未だ整備工廠の入口前で倒れていることを再認識した。ぼんやりと意識を半覚醒させている猶予などなく、直ちに激痛とも取れる熱さに叩き起こされる。足が異様に熱いのだ。外見は何もなっていない、少しばかりやせ細った自分の足なのに、触ってみると電撃を浴びたような刺激が痛覚を走った。そのくせ、指に触れた足の皮膚はまるで体温のようなものを感じない。これ程までに熱を発していると知覚しているにも関わらずだ。

 そして何も熱さを感じたのは足からだけではない。顔や腕も熱気を感じていた。顔を見上げると、整備工廠から建物二つほど離れた工廠の別の建物から赤々と炎が噴き出していたのだ。炎上したその熱気が海風に乗って赤城の肌を撫でていた。

 

 それで状況を思い出す。そうだ、この鎮守府は現在敵の空襲下にあるのだ。

 いつまでも倒れているわけにはいかなかった。艤装は確保したから次は弾薬である。それを補給するにはもちろん弾薬庫に行かなければならなかったが、弾薬庫は鎮守府の敷地の端、地形の高低差を利用しした地下構造物の中に収められている。工廠からの距離は普通に歩いても十分は必要な程度だ。

 とにかくそちらに向かわなければならない。歯を食いしばって身体を起こす。それからゆっくりと膝を立てて足を地面に。

 最早熱いのか痛いのか冷たいのか痒いのか痺れているのか、判別付かないぐちゃぐちゃの感触がした。あまりにも同時に伝えられる情報が多すぎて神経が“詰まって”しまったらしい。

 

 つまり、痛く感じないってことね。

 

 赤城はそう自分に言い聞かせて立ち上がる。両足は生まれたての子鹿のように震えたが、それだけだった。自分が立てることを認識すると、次に一歩踏み出した。

 いや、踏み出したなどと言うほどのものでもない。足がまともに上がらず、航行艤装の底をアスファルトで擦るような動きだった。耳障りな金属音が響く。

 

 これが、天下の一航戦の末路か。

 

 自分で思って、情けなくなる。世界最強の機動部隊と持て囃されたのも今は昔。相棒は海中に没し、残された赤城は最早まともに立って歩くことすらままならない。上空から見れば格好の餌だろうが、不思議なことに敵の艦載機は赤城に見向きもせずに鎮守府の他の場所に爆弾を雨あられと降らせている。それが、まるでお前など狙う価値もない、と嘲られているように思えた。

 もちろんそんなものは気のせいだ。艦載機が狙って来ないのは、単に赤城に気付いていないだけか、あるいは他にもっと価値の高い目標があるから。けれど、僻んだようなその考えは一度心に思い浮かぶと消そうとしてもこびり付いた染みのように消えなかった。

 

 

 無様な転落だった。

 栄光の中に居た赤城と加賀。出撃し、戦果を上げる度に拍手喝采を持って出迎えられた。後輩の空母たちは皆々目を輝かせて二人に教えを請うた。随伴の艦娘たちはお供に抜擢されたことにさえ誇りを見い出していた。司令官や参謀は困難な目的を達成するのに一航戦にその任を与え、赤城と加賀もまた結果を持って期待に答えた。メディアは二人が出れば制空権の確保は容易いと派手に書き立て、政治家は手放しで二人の活躍を賞賛した。大衆は一航戦を持て囃し、企業は赤城と加賀、どちらかの名前を使って宣伝合戦を始めた。ここ数年、女の子の将来の夢で一番人気は「空母」であり、あこがれの有名人には頻繁に赤城か加賀の名前が挙がる。

 それが今やどうだ。加賀は深い海の底に眠り、赤城は足を引きずるようにして歩くしかない。

 敗北し、堕落し、蹂躙され、屈服して、地を這う蛆虫の如き。高く弦を鳴らして矢を飛ばすこともなく、「第一航空戦隊」の御名を朗々と名乗ることすらない。矢を飛ばしても敵を撃つ弾はなく、海に出ようにも機関に焚べる油もない。

 無二の戦友を失い、誇りを失い、弾も油もなく、背負うのは空っぽの艤装のみ。天を見上げれば己以外の艦載機が我が物顔で飛び回り、仲間たちを、見慣れた基地を、守るべき街を、好き勝手に蹂躙していく。赤城はそれをただ指を咥えて眺めているだけしか出来ない。ああ、我が矢が飛ぶなら、この無粋な異形共をたちまちの内に頭上から駆逐出来たのに!!

 

 

 

 どうしてこうなったのだろう。何が間違っていたのだろう。

 

 一航戦は何故負けた? どこに綻びがあった?

 

 思い浮かぶのは悲しげな顔の戦友。

 優しかった彼女。誰よりも慈悲に溢れていて、誰よりも赤城を見ていた。加賀はいつも赤城の傍に居てくれて、必要な時に必要な言葉をくれた。

 今、彼女がここに居れば支えてくれていただろうか。この絶望的な光景の中でも励ましてくれていただろうか。

 きっと、強い彼女は諦めなかったに違いない。彼女が人前で動揺を見せたところを赤城は知らないし、どんなに悪い状況であっても決して弱音を吐くことはなかった。だから、一航戦は戦い続けられた。勝ち続けられたのだ。

 その彼女を失った今、一人残された赤城には歩くことさえ満足に出来ない。

 

 加賀はどうして沈んだ?

 

 あの海戦で雷撃を食らわなければ、いやもっと前に敵の囮作戦を見抜けていれば。慎重に行動していれば。対潜警戒を最大限にしていれば。加賀にバルジを装備させていれば。乙字運動をしていれば。

 するべきことをしていれば出なかった犠牲だ。赤城の采配が間違っていなければ避けられた喪失だ。

 加賀が沈んだのは、赤城のせいなのだ。

 

 

 油断。慢心。過小評価。

 持て囃されすぎていた。いくつもの成功と、長い経験から自分たちを見誤っていたのかもしれない。

 あるいは、彼女が居たらこうはならなかっただろうか。海中からの奇襲を見破り、何もかもを把握して戦場に君臨したあの小さな悪魔の少女が居たならば。彼女の持つ人智を超えた力があれば、加賀を失わずに済んだのか。

 サイズの合わない白い軍服。波打つ青紫の髪。宝石のような透き通った紅い瞳。

 暗い部屋の中で抱き寄せられた。その時に鼻腔をくすぐった彼女の匂い。どんな匂いだったか忘れたけれど、その時心を包んだ暖かな安心感は鮮明に覚えている。柔らかく小さな腰に手を回すと、柔らかさが心地良く感じられた。

 

 

 

 

 

 

「赤城」

 

 とレミリアが呼ぶ。

 

「赤城さん」

 

 と加賀が呼ぶ。

 

「赤城」

 

 そして最後に、姉が呼んだ。地震で死ぬ前の、いつもと変わらない姉だ。

 

 懐かしい姿。また会いたかった最愛の姉。

 赤城なんかよりずっと綺麗で、背が高くて、気高い人だった。艦娘には珍しい血を分けた実の姉妹で、姉は「天城」の名を授かり、改装空母の先鋭を担うはずだった。誰よりも弓が得意で、国体での優勝経験も買われ、弓を扱う空母の基礎を築き上げる使命を背負っていた。赤城が艦娘になったのはそのついで。たまたま同じように適性が出たからで、でもその時は姉も喜んでくれた。赤城も大好きな姉と共に一緒に居られることが嬉しかった。

 覚悟なんてない。自分がこれから向かおうとしている先が、一歩間違えれば深い海の底に引きずり込まれる戦場だなんて想像すらしていなかった。ただ、姉と同じことが出来ることに無邪気にはしゃいでいただけなのだ。

 けれど優劣の差は決定的に現れ、姉は元からの弓道経験もあってめきめきと頭角を見せた。一方の赤城は弓道初心者で、矢をまともに飛ばすことさえ覚束なかった。周囲は誰もが姉に期待し、妹にはお世辞のような励ましの言葉しか掛けなかった。それでも最初は自分も期待されているんだと頑張っていたけれど、その内に自分を見る目と姉を見る目が異なることに気付いた。

 

 なんでも一番は「天城」。「赤城」は二番艦で二番手。

 就役してからもそれは変わらず、戦果を挙げたのも、表彰されたのもいつも姉であり、姉だけだった。

 それでも赤城は姉を裏切ることも、嫉妬に狂って愚行に走ることもなかった。その理由はただ一つ。姉がいつも赤城の弓を見て、悪い射を放ったなら適切な助言を与え、良い射を放ったなら褒めてくれていたからに他ならない。それこそが、姉からの褒め言葉こそが、赤城の誇りであり矜持であった。

 

 

 彼女があの忌まわしい地震で死ぬまでは。

 

 

 

 

 姉は突然に逝ってしまった。赤城を一人残して。未熟な弓しか持たぬ赤城を残して。

 もう彼女が赤城を褒めることはなかった。艶やかな唇が開いて赤城の名前を呼ぶこともなかった。女性にしてはやや大きく、弦を握り続けていたからか少し硬い手が撫でてくれることもなかった。

 大きな喪失感が胸を支配し、ひとしきり泣いた後には耐えがたい空虚が襲って来た。しばらく赤城は休養を取り、周囲もそれを認めた。しかしそれがひと月を数え、ふた月になる頃には不信と非難の対象になった。赤城はいつまでも自室にこもって動かず、誰からの接触も避けていたのだ。

 ある日突然、寮室の鍵を開けて加賀が入って来るまで、赤城はほとんど飲まず食わず風呂にも入らず睡眠も摂らずだった。

 

 加賀は言った。今日から同じ第一航空戦隊に編入されました。だから、空き部屋もない関係で相部屋になるからこれからよろしく。あなた、とっても臭うからお風呂に入ってきてちょうだい。

 

 

 

 

 

 赤城は激しく抗弁した。第一航空戦隊はかつて姉と赤城によって構成されていた、二人だけの部隊だったはずだ。自分たち姉妹を表す代名詞だったはずだ。そこは血の繋がった肉親以外を踏み込ませぬ聖域であり、“家庭”だったはずだ。

 そこに、いきなり部外者が侵入してきた。彼女は自分も同じ改装空母で赤城や天城よりも多くの艦載機を扱えるから、戦術的に現状の戦力ではあなたと私が組むことが最適解なのよ、といったことを赤城の感情などまるきり知らんぷりで淡々と、冷酷に言い放った。少なくともその時の赤城にはそう聞こえた。後で本人の口から聞いたところによると、加賀も加賀で取り乱す赤城に面を食らい、どうにか理屈で説得しようと試みたらしい。だが、感情的になっている相手に理屈を説いても受け入れられないのはよくある話で、そんなことも知らないほどお互い未熟だったのね、と酒の糧にして笑った。

 一方で、加賀もまた弓道の有段者であり、赤城より実年齢が一つ上だった彼女は、姉の次の代の国体優勝者だった。前年も決勝で姉と競い、二位に甘んじたものの確かな実力者だった。

 それが、赤城に火を付けた。自分の弓は姉の弓だ。一度は姉に負けた加賀なぞに負けるわけにはいかない。

 鍛錬に鍛錬を重ね、手の豆が破けて血が出ようとも、打ち過ぎて一日に一回は弦を張替えなければならなくとも、弓を弾く手を休めるつもりはなかった。そうして気付けば赤城は加賀と共に一航戦として、英雄として名を馳せていた。南方敵海域への強行偵察を皮切りに、サーモン海域での一連の決戦、西方海域進出のための橋頭保の構築、北方での遊撃作戦、ピーコック島攻略作戦、そしてMI作戦にて艦隊旗艦を務めて、堂々の凱旋を果たした。第一航空戦隊「赤城」「加賀」の名は天にも昇る勢いで、その快進撃は誰にも止められなかった。

 

 二人は栄光の中に居た。

 赤城は姉の遺した弓を武器に、阿吽の呼吸の相棒を引き連れ、北はベーリングから南は珊瑚海、西はカレー洋から東はMI沖まで縦横無尽に走り尽し、行く先々で尽く深海棲艦を沈め続けた。

 後輩の世代が育ってくると赤城と加賀は今の鎮守府に配属され、そこでレミリアに出会う。

 

 不思議な少女提督は二人の間にするりと入り込んできた。謎めいていた彼女の存在が気になって、そしてそれ以上に惹き付けられた。何でも見通したような目。見た目相応に甲高く舌足らずなのに落ち着いた言葉を紡ぐ声。ちょっとした時に見せる魅惑的な笑み。

 何よりも赤城を彼女に夢中にさせたのは、そこに今は亡き姉の面影を見出したからかもしれない。

 容姿は全く似ていない。声も違う。背丈だってだいぶ差がある。

 それでもレミリアは姉であり、赤城は妹だった。

 

 

 ――でも、今はもう誰もいない。

 

 

 

 

 赤城の本当の姉は墓の中に入って久しい。

 

 赤城の無二の戦友は手の届かない深海の底だ。

 

 赤城の安寧たる提督は自らの手で永久に追い出した。

 

 

 一人残されたのは赤城だけ。大切な人はいつもこの両の手で引き留めようにも指の間からするりと抜けていく。元より最初から手など伸ばしていないのかもしれない。手も伸ばさずに赤城は求めるばかりなのかもしれない。

 

「赤城」と姉が、

 

「赤城さん」と加賀が、

 

「赤城」とレミリアが、

 

 名前を呼ぶのだ。

 

 

 彼女たちは未だ地を這うように進む赤城の前に立ち、皆優しげな微笑みを浮かべている。

 

 姉は懐かしい笑みを。

 

 加賀は引き攣ったような表情を。

 

 レミリアは子供のように無邪気な笑顔を。

 

 

 赤城の知っている三人の笑い。姉は大らかで淑やかだ。加賀は不器用だけど慈悲に溢れている。レミリアは愛らしくも気高い。

 それはもう見ることのない、戻ることのない光景。赤城の脳はそれを幻覚と自覚し、幻覚と知りながらも縋りつくように手を伸ばす。次こそはこの手から逃さないように。もう二度と大切な人と分かたれぬように。

 両腕を広げた。手を開いた拍子に持っていた弓と副砲が落ちて派手な音を立てた。

 三人の胸元に飛び込む。彼女たちの下に行けるなら、他の何をも捨てても構いやしない。そう思って、赤城は身を投げ出した。

 

 

 だが、したたかに顎を打って赤城の視界が激しく明滅する。痛みに悶絶して転がると、ようやく夢見心地から覚めた。

 空は赤黒く変色した宵の口で、見上げている間にも黒い艦載機が飛び交っている。赤城が転がっているのは第二庁舎の前を行く道であり、そこには当然姉も加賀もレミリアも居ない。

 所詮は幻。赤城の脳が見せた刹那の願望。

 結局、赤城は独りぼっちだった。誰も助けず、一人鎮守府のど真ん中で転がっている。敵からも味方からも見向きもされなくなったかつての一航戦なんて、ずいぶん皮肉が聞いているじゃないかと自嘲した。笑わなければ気がおかしくなりそうだった。

 

 赤城は緩慢な動作で立ち上がる。

 自分はどこに向かおうとしていたのだろう。弓や副砲を持って何をしようとしていたのだろう。

 取り合えず地面に落ちているそれを拾い上げ、赤城はまた一歩踏み出した。不思議なことに先程までの激痛のような熱は消えていて、身体はずいぶん楽になっていたし、お陰で足取りも軽かった。走る、という行為には至らないけれど、まともに歩行するには十分なくらい体力が回復していた。

 姉たちの幻影を見たからだろうか。歩けるようになったのは幸いだ。

 

 

 

 と、背後でガチャガチャと金属の擦れる音がして、赤城は振り返る。爆撃音や、それを迎撃する対空砲の射撃音で騒がしい鎮守府だが、人の気配を感じさせる音を耳にしたのは医官と別れてぶりだ。赤城は期待に胸を弾ませて振り返る。

 視界の真ん中。整備工廠に向かう二つの影が見えた。

 一つは巨大な主砲を携えた戦艦。もう一つはそれよりも幾分か小柄で、艤装もこじんまりとしている軽巡クラス。

 

“いけない”

“深海棲艦だわ”

“守備隊を突破してもう上陸して来たのね”

 

 思い立ったら即実行。赤城は副砲を構える。一応射撃訓練は受けているが、弓の射ほど砲の扱いに長けているわけではないし、狙ったところで真っ直ぐ弾が飛んで行くかも怪しい。それでも、今ここで弓を引くより副砲を撃った方が早いと判断した。

 出来るだけ狙いを付けたつもりだ。単装砲一門だけだから、戦艦と軽巡にまともに反撃されたら勝てない。でもここは海の上ではなく陸の上であり、赤城は自分の装甲には自信があった。それに、副砲でダメなら艦載機があるし、艦爆なら大抵の戦艦の装甲を引き裂ける。しかも幸運なことに相手はこちらに気付いておらず一目散に工廠を目指しているし、軽巡はともかく戦艦は守備隊の突破の際に深手を負ったのか、軽巡に支えられて歩くのもやっとの様子だった。

 

 今ならやれる。

 そう思って引き金を引いた。副砲は轟音を立てて火を噴き、弓を引いた時よりずっと強い振動が手首を襲う。砲艦はいつもこんな反動の強い物を撃っているのかと驚いた。

 もちろん、驚いたのは赤城だけではない。突如視野外からの砲撃を受けた敵二人も仰天したことだろう。敵は悪運が強いのか、あるいは単に赤城の射撃が下手糞だったのか、副砲の一撃はまったく的外れな場所に飛んで行き、驚かせる以上の効果を発揮しなかった。しかも、単装砲一門だけだ。次弾装填まで発砲は出来ない。

 だがそれでも十分だった。敵は大いに動揺し、軽巡は戦艦を半ば突き飛ばすようにして離した。

 闘志を見せたのは元気に動ける軽巡の方だ。手負いの戦艦から離れるように動き出し、工廠前から広場を突っ切って第一庁舎へ続く坂のたもとへ駆けていく。その坂には並木があって、軽巡からすれば身を隠せる遮蔽物が欲しかったのだろう、と赤城は予想した。

 反撃は動揺のあまり来ない。好都合だった。

 次弾装填が済むとすぐに赤城は二発目を放った。二発目は軽巡の背後に着弾して地面を派手に吹き飛ばす。衝撃波で後ろから突き飛ばされる格好となった軽巡は地面を転がり、勢いそのままに並木の一つに身を隠す。木々の間にはツツジの茂みもあり、茂みに隠れながら木と木の間を移動することだって可能だ。

 

 逃すつもりはない。赤城は走って軽巡を追い掛ける。

 三発目が装填されると、軽巡が逃げ込んだ杉の木の根元に打ち込む。さすがに距離が近いので外すことはなく、杉の木は派手に吹き飛んで盛大に枝を鳴らしながら地面に倒れてしまった。葉と枝の破片が宙を舞う中、赤城は軽巡が隠れたであろう茂みの向こう側を覗き込んだ。

 果たして軽巡はそこに居た。彼女は先程の着弾の衝撃で地面に叩きつけられ、未だその衝撃から復帰出来ていなかったのだ。

 赤城は軽巡に止めを刺すべく、目の前に立って副砲を構える。それを見た軽巡は後ずさるが、逃げられないのは火を見るよりも明らか。

 

 

 

 

 

「待って! 赤城さん!!」

 

 聞き慣れた声がした。よく見ると、赤城が必死で追っていたのは軽巡の川内だった。

 彼女は慌てたように「待って! 待って!」と叫んでいた。

 

「……川内、さん?」

「そ、そうだよ。川内だよ!」

「どうしてここに? 深海棲艦はどうしたの?」

「待って! まずは落ち着こう。赤城さん、ゆっくり深呼吸して」

「川内さん、私は……」

 

 赤城はゆっくりと自分の手元を見下ろした。

 

 そこには副砲がある。だが、見知った20㎝単装砲ではない。

 

 おかしい。自分はサブ兵装の20㎝単装砲を持ち出して来たはずだ。持っている物は、単装砲であるのは間違いないが、20㎝単装砲とは違う形の、しかしどこか別のところで見たことがあるような形状の武器だった。端的に言えば、深海棲艦がよく持っているような黒い有機的な形をした無機物の砲塔だった。

 それだけではない。副砲を構える左手も上腕の半分までが黒く、ところどころに赤いひび割れが走った装甲に覆われていた。もっと見下ろすと、足にも似たような装甲が張り付いていた。

 

 

「何……これ……」

 

 

 これは。これはまるで!

 

 

 開いた口から音を立てて空気が漏れる。心臓が早鐘のようになり、全身の産毛が総毛立つ。

 

「い、いやああああああああッ!!」

 

 絹を裂くような悲鳴を上げて、赤城は無我夢中で駆け出していた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督31 Into the Dusk Horizon 2





 曳行索に繋がれ、曳行艦の進むがままに立位で引っ張られるのは中々に間抜けな絵面だなと金剛は自嘲した。それもこれも、敵の戦艦から集中砲火を浴びたせいだが、味方が被弾しなかったのでまあ良しとする。

 実際のところ、金剛は航行艤装にそれほどダメージは受けていなかったので、今の川内の速度程度なら自力でも出すことは可能だった。ただ、仲間が曳行することを強制したし、そっちの方が傷んだ体には優しいという理由で引っ張られるままになることを選んだのだ。決してこちらの方が楽だから、などという情けない理由ではない。

 

 川内が味方と交信する無線を聞きながら、金剛は予想通り“最悪な”状況に置かれていることを認識する。

 敵の主力は未だ距離があるが、主体は航空戦力なのでこうして空襲を受けている以上、到達を許していると言うべき状況であった。鎮守府には既に相当の被害が出ており、死傷者続出、防御陣地の構築もままならず、それどころか市街地にまで爆撃は及びつつあるという。さらに悪いことに、鎮守府の司令部との連絡が途絶え指揮系統が混乱していた。退避中の「硫黄島」にも攻撃が始まっているとのことだ。

 

 

 以上が、川内と交信していたAWACSの管制官が早口で捲し立てた内容だった。もちろん、そんなことは言われなくとも見れば明らかである。金剛の眼前にある見慣れたはずの景色は変貌し、慣れ親しんだ鎮守府は至る所から巨大な黒煙を空に噴き上げ、その下には時折ちらちらと真っ赤な炎が揺れているのが見えた。大気は熱気で歪められて揺れ、絶え間なく続く爆発音による空震を肌で感じる。

 空は敵の航空機で埋め尽くされていた。それらは基地への爆撃に執心しているようで曳行される金剛には見向きもしないが、あそこに戻るということは爆弾の雨の中に飛び込むもことを意味していた。

 しかし、戻らねばならないのも事実だ。大破して轟沈寸前の金剛には喫緊で修復材が必要だった。

 

 

 危険は承知の上。元より命の保障がある仕事ではない。今日生きていることが明日も生きていられることの根拠には成り得ないのが艦娘という身分であった。まして、碌な対空砲も持たぬ金剛と川内では艦載機に狙われたらひとたまりもない。

 ただ、不幸中の幸いというべきか、金剛はどうしてか中々悪運が強い方だった。今日まで生き永らえてこれたのもそうだし、敵の第一波がちょうどのタイミングで引き揚げ始めたのもそうだ。どんな軍勢も補給を必要とするし、それは深海棲艦であっても変わらない。一通り爆撃を終えた敵機は次々と上昇していき、自らの母艦の元へ戻りだしていた。

 

「運がいいね」

 

 空を見上げながら川内は小さく笑った。自らに訪れたささやかな幸運を歓迎している様子だ。同時にそこには「こんな幸運ではどうにもならない」という諦めも含まれているようにも見える。

 

「神に、感謝するネー」

「これで生き残れたら一回くらいはお賽銭入れに行こうかな」

「神を一番信じてなさそうなのによく言うワ」

「まあね」

「でも、悪魔は信じてる」

 

 川内は振り返った。その顔には特にこれといった感情は浮かんでいなかったが、直感的に、まだ怒っているんだな、とは思った。それもそのはず、金剛も彼女とは和解した覚えがない。

 

「そういう契約だから」

 

 平然とした川内に金剛は思わず乾いた笑い声を上げた。契約。契約ときたか。

 

「このご時世、悪魔に魂を売ったなんて大マジメにぬかすヤツが居るなんて。対価に何を得たの?」

 

 これが生きて川内と顔を合わせる最後の機会かもしれないと思うと、言葉は自然に出て来た。

 彼女とこうして話すのは今までもそう何回もあったことではない。レミリアのことで対立する前から別段仲が悪かったわけではないが、さりとてよく喋る関係であったわけでもない。川内は軽巡だけあって行動を共にする駆逐艦たちと仲が良かったし、金剛は最先任・最古参という肩書もあって他の艦娘は一歩引いた態度で接するのが常だった。

 今更それについて思うこともないが、だからこそ川内と二人きりで話す機会など今まで滅多になかったので、この際だからという気持ちが生じたのだろう。そしてそれは川内とも少なからず共通した考えだったらしい。

 

「希望、かな」

「希望? そう。じゃあワタシは希望を追い出してしまったわけ」

「そうだね。やってくれたと思ったよ」

 

 そう言って川内は悪ガキのような無邪気な笑みを浮かべた。彼女にしては珍しい、というより金剛の見たことのない表情だった。こんな顔も出来たのかと思わぬ感慨を抱いてしまう。

 

 

 軽巡の経歴は金剛も聞き知っているところである。夜襲専門の遊撃部隊。それも、脱走した仲間を追う督戦任務も含まれている特殊な部隊だったはずだ。

 その難易度もさることながら、常に緊張に身を置き続けなければならないような立場にあっただろう。時には深海棲艦に向けるべき砲魚雷を同じ艦娘に向けなければならなかった。それは心を殺さなければ全う出来ない類の任務であろう。

 そうした環境が、川内の中から何か大切なものを奪い去っていったのは想像に難くない。実際、この鎮守府に彼女が異動して来た頃は酷いもので、まなこは「死んだ目」という表現がこれ以上ないくらいぴったり。何に対しても斜に構えていて、精神の荒み具合も尋常じゃなかった。ましてやトラウマを抱え込んで、かつての部隊を半ば追い出される形でやって来たのである。

 しかし、着任してからの五年という歳月は川内の傷付いた心を修復させるのにはある程度意味のあった時間だったのだろう。月日が経つに連れ彼女は落ち着き、因縁のある四駆の二人が来たこともあって人間らしさというものを取り戻していったように思う。

 

 

 

 金剛は最も古い艦娘だ。必然、今まで多くの艦娘を見てきた。

 信念をもって戦う者。戦果を誇りにして軍役を使命と捉える者。戦うことを仕事と捉え淡々と任務をこなす者。

 

 しかし、誰しもそのような強い心の持ち主ばかりではない。中には挫折したり、心を壊したり、逃げ出す者も居た。着任したばかりの川内は、金剛の目には“長くはもたない”ように見えた。彼女は心を壊しかけていて、それが完全に崩壊してしまうのは時間の問題のように思えたのだ。

 けれど川内は金剛が思ったより強い精神の持ち主で、周囲の助けもあったには違いないが、それでも最終的には自分の力で持ち直したのだろう。

 特に、レミリアが居なくなってから、正確にはマーナガルム作戦が成功裏に終わり、彼女が奇跡的な成果を上げて凱旋した時からだ。明らかに川内の顔付きは変わっていたように思う。金剛には敵意を見せたけれど、その目に明瞭な輝きを宿していたのもまた事実なのだ。

 

 

 

 なるほど、それが「希望」か。

 

 なるほど、だからあれほどまでに怒りを見せたのか。

 

 金剛は納得する。レミリアがどういう存在であれ、川内にとっては間違いなく見るべき存在であって、彼女の言葉を借りるなら「希望」であった。川内はレミリアの敬虔なる信徒なのだ。神を冒涜すればキリスト教徒が怒るように、彼女はレミリアを追放した金剛に激怒した。

 それでも金剛は自分が間違ったことをしたとは思わない。レミリアを追い出し、正しく提督であるべき加藤にその座を引き渡したのは正しい選択だったと今でも胸を張って言える。

 けれど、だからと言ってレミリアの成し遂げたことまで否定するつもりもなかった。

 

 

 

「彼女が居れば、こんな事態は避けられたと思う?」

 

 意味のない問いだ。分かっていたけれど、聞かずにはいられなかった。

 

「そうだね。こうはならなかった。加賀さんは沈まなかったし、鎮守府が爆撃を受けることもなかったんじゃないかな」

「つまり、こうなった遠因はワタシにあると?」

「……いや」

 

 川内はかぶりを振った。

 意外なことに、彼女は否定した。

 

「多分、金剛さんじゃなくても誰かが同じことをしていたよ。お嬢様が不当にうちの鎮守府に居座っていたのは事実だしね」

「それでもあの海戦まで彼女が居れば、少なくとも加賀が沈むことはなかった」

 

 その瞬間、少しだけ金剛を振り返った彼女の目に何が映っていたのかを言い当てられない。瞳にあったのは悲しみかもしれないし、憐みかもしれないし、あるいはもっと別の感情だったかもしれない。

 けれど、その次に川内の口から零れ出たのは、愚直なまでに純真な、血の通った温もりを感じさせる言葉だった。

 

「だから信じるのさ。沈んだ艦娘だって、もう二度と戻って来れないわけじゃないってことを、お嬢様は証明してみせたよ」

「……」

「金剛さん。私は見たよ。コロネハイカラ島の夜。あの力がどれ程のものか。この世に対抗し得る存在なんて想像すら出来ない天蓋の力。あり得ないことを実現してしまう幻想」

「彼女は、ワタシの祖国じゃあ伝承にも語り継がれる悪魔の中の悪魔ヨ」

「そりゃあ、そうさ! まさに、悪魔みたいな力だったからね。駆逐水鬼は控えめに言ってもかなり強い深海棲艦だったけど、お嬢様は歯牙にも掛けなかった。深海棲艦なんて恐れるに足りないね」

 

 でも彼女はもう居ない、と言い掛けて金剛は思い直した。

 川内はまだ愚直にレミリアのことを信じている。その力があれば今日の危機も跳ね返せると、そう言わんばかりだ。

 それはまるで、

 

「戻って来る。お嬢様は必ず来る」

「それも、彼女を信じているからそう言えるの?」

「そんな気がするじゃん?」

 

 川内はまた笑った。

 だから、金剛も少しだけ口元を緩めようという気になった。

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 話しているうちに鎮守府の埠頭にたどり着いた二人は、そのまま陸に揚がる。川内は曳行索を外し、ごく自然な動作で金剛の右脇に肩を滑り込ませると、まるでそうするのが当たり前のように歩き出した。

 金剛にとってそうやって支えてくれるのはとても助かることだった。何しろ、被弾のダメージ自体は全身に及んでいてい、明確な外傷のある左肩だけでなく、ありとあらゆる関節が軋み声をあげている有様であるから、多少なりとも楽をさせてくれるのはありがたい。川内は金剛の歩く速度に合わせてくれるので牛歩のような歩みだったが、それでも急いでいるつもりで工廠へ向かう。

 

 鎮守府は酷い被害を受けていて、埠頭から海沿いに工廠へ向かう間にもいくつか大穴や転がっているコンクリート片を迂回しなければならなかった。岸壁に沿って並んでいたガントリークレーンは軒並み崩れ落ち、鎮守府の象徴であった第一庁舎もすっかり瓦礫の山となってしまっている。あの様子では司令部が壊滅したというのは間違いなさそうだった。見える範囲で無事そうなのは第二庁舎とその向かいの整備工廠くらいで、後は遠くに見える艦娘寮が未だ健在な姿を残すだけ。目的地が無事なのは幸いだが、他は目を覆いたくなるくらい荒れ果てていた。

 川内がよく隠れて煙草を吸っていた海沿いの倉庫はすべて屋根を落としていくつかが火だるまになって燃えている。つい今朝方まで当たり前に存在していた日常の景色が、今やまったく変わり果てている光景に、金剛の内に何とも言えないものが芽生える。自分たちが今まで過ごしてきたこの場所が、この日常が、こんなにもあっけなく壊れてしまうのかと思うと、どうにもやるせないのだ。

 見知った建物が瓦礫に変わり、季節の移り変わりを教えてくれていた植物が燃え尽きて黒い炭になっている。そこに日常の儚さを感じずにはいられなかった。

 自然と二人の口は重くなる。レミリアのことを真っ直ぐに信じている川内でさえ、目の前の凄惨な現実には空虚な言葉も発せられないのだろう。

 その点、彼女より人生経験の豊富な金剛はまだ立ち直りが早かった。

 

 

「まだ、終わっちゃいないワ」

「……」

「レミリア・スカーレットは来るんでしょ? なら、まだ諦める段階じゃない」

「……別に、諦めたわけじゃないよ」

 

 意地を張ったような声に、金剛は頷いた。そうだ。それでいい。

 

「ただ、何て言うかさ。ちょっとショックなだけ。大抵のことは受け流せるようになったと思ったんだけど、これは強烈だよ」

「ダウト。川内は全然物事を受け流せてないネー。斜に構えてるダケー」

「何それ? お説教?」

「Yes! オ・セッキョウ! こういう時こそ、気を取り直して自分を見失わないコト。神でも悪魔でも、信じると言い切ったんだから、最後まで信じ切りなさい。自信のないヤツが信者だったら、信じられる方も不安になるんじゃない?」

「お嬢様を信じなくなったわけじゃないよ。ただ、心にクル光景だったってだけ」

「だったら尚のこと挫けちゃダメ。誰だってさ、目の前の現実に嘆いてばかりいるヤツより、困難に立ち向かおうとしているヤツに手を貸したくなるでしょ? それは神も悪魔も人間も、変わらないと思うワ」

 

 アナタには強く信じ続ける心があるでしょ? 金剛は川内に笑い掛けた。

 

 川内もまた、少しだけ自分より背の高い金剛を見上げ、笑う。そうだ。この強さが彼女の持ち味なのだ。

 

 

 

 

 その彼女の笑顔が凍りついた時、だから金剛の背筋には途方もなく冷たいものが流れ落ちた。

 

 

「避けて!!」

 

 

 彼女は叫び、金剛の腰に回していた手を全力で押す。突き飛ばされた格好になった金剛は負傷した左肩から落ちないように咄嗟に足を踏み出して前にニ、三歩進む。腹に響く爆音と背後から叩き付けられた衝撃波によろめいた。砕かれた土やコンクリートの破片が装甲に当たってバチリバチリと小さな火花が飛ぶ。

 砲撃があったということだけを認識し、金剛は突き飛ばされた勢いのまま駆け出す。視界の端、ちょうど第二庁舎の前に何か赤黒い大きな存在が居て、それが突然横合いから砲撃を放ったのだ。

 

 もう、上陸したのか。

 一瞬そんな言葉が頭に浮かぶが、すぐにそうではないと自分自身で否定する。ほんの少しだけ顔をそちらに向けてみれば分かることだ。ところどころ赤くひび割れた黒い異形の艤装。白濁したような不健康な肌。色素を失った長い髪。

 

 彼女はどちらかと言えば色白だったし、艶やかな黒髪がヤマトナデシコらしくて金剛は好きだった。温厚そうな顔付きで、美味しそうな食べ物にはすぐに輝く目がチャームポイントだと思っていた。

 

 

 面影は残っている。それが余計に胸を締め付ける。

 歪な艤装を携え、憎悪を顔に貼り付けていようとも、赤城だというのが分かるのだ。いや、赤城だったというのが。何しろ、もう十数年生死を共にしてきた仲間である。顔を忘れようにも忘れられないくらい長く深い付き合いだ。

 

 

「行って!! 金剛さんは工廠に! 私が引き付けるから!!」

 

 川内が工廠から離れるように、第一庁舎へ続く坂の方向に駆けて行く。航行艤装を履いたままなので派手な音が鳴り、それが赤城の気を引いたようだ。最早艦娘ですらなくなったかつての一航戦は、憎悪に駆られるままに狙いを川内へと定める。

 

「Shitt!! Shitt!!」

 

 今この光景を神が空から見下ろしているなら、金剛は大声で罵詈雑言を浴びせ掛けたい気分だった。こんな時にどうすればいいかなんて聖書のどこにも書いていなかったし、十字架に祈っても何かが変わるとは思えなかった。金剛の長きに渡る艦娘経験の中でも、今日ほど胸糞悪い気分にされたのは未だかつてなかった。

 

 

 鎮守府の中の敵性反応。あれはこういうことだったのだ。

 一体何の試練なのだろう。赤城が深海棲艦になるなんて、誰がそんな悪辣な運命を仕組んだのだろう。そもそも、深海棲艦化というのは轟沈しなければ起こり得ないはずじゃなかったのか? 赤城は沈んでもいなければ、今朝だって元気そうな顔で金剛を見送ってくれていたのに! 彼女は順調に回復していて、腕のギブスが取れ、戦線復帰にも長くはかからないと医官からも太鼓判を押されていた。

 

 

 胸の内で吹き荒れる怒りが言葉にならない。悪態を吐き回りながら、金剛は整備工廠の中に飛び込んだ。兎にも角にも回復し、川内を助け、赤城を止めなければならない。赤城の深海棲艦化は紛れもない事実であり、金剛には(気持ち的には到底受け入れられないけれど)事実として直視するしかない。そうであるならば、何はなくとも対応策を考えなければならない。

 鍵は川内が握っている。少なくとも彼女は、駆逐水鬼が萩風と嵐に戻るのを、レミリアがそれを実現させたのを見ているはずだ。そこに大きなヒントが隠されているはずだ。

 だから、金剛は川内がやられるのを何としてでも阻止しなければならない。ましてや、赤城に仲間を撃たせてはならない。もう、一人だって仲間を失うわけにはいかないのだから。

 幸いにして、気の利いた工員が入り口近くに高速修復剤を出しっ放しにしてくれていたようだ。それを拾おうとして、金剛の耳に赤城の砲音以外の音が入った。

 

 

 

 聞き慣れた、深海艦載機の飛翔音。ハッとして見上げる。

 

 もちろん天井があるだけだが、鳴り響いた轟音と共に屋根がそれを支える鉄骨ごと頭上から降って来た。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 赤城が撃つのは副砲だ。

 元々戦艦として計画されていたという天城型は、空母への改装となった際にもサブ兵装として20cm副砲を装備するようになっていた。まだ、各艦種ごとの運用方法が固まっていなかった昔の話であり、赤城が古い空母であることの証でもあった。当時空母は水上打撃部隊の上空援護をする存在として捉えられていて、必然砲戦に巻き込まれるために近接戦に備えて副砲を装備させたのだという。他でもない赤城本人の口から聞いたことがあった。

 そうは言っても20cm砲である。軽巡の装甲で受け止めるにはいささか重すぎる。重巡と同じ火力の艦砲なので、自衛用として見るには過剰火力としか言いようがない。空母の運用が固まってくると無用の長物として赤城やほぼ同期の加賀が副砲を戦場に持ち出すことはなくなった。彼女たちはそんな物を使わなくとも十分強力な火力を備えていたし、副砲を持っておくくらいなら一機でも多くの攻撃機を装備した方が合理的だったからだ。

 だから、川内もその存在自体を今の今まで忘れていた。そして赤城はその存在をちゃんと覚えていて、しかも扱い方も忘れてはいなかった。

 

 忘れていてくれたら良かったのにと思わずにはいられない。さすがに本職の砲艦ではないし、その上単装砲なので一発ずつ発射されるわけで、命中精度は正直高くない。川内が砲口の向きを見極め、地上を走って避けられる程度である。

 しかし何よりも、“敵”として立ちはだかるその存在自体が脅威だった。

 

 一体、誰が撃てるだろうか? 彼女は今朝まで元気な顔をしていた同じ仲間なのだ。

 

 彼女は黒い艤装を纏っている。

 腕を覆う籠手、膝上まであるサイハイブーツの装甲。いつも左肩に装着している飛行甲板も、見慣れた木目調のそれではなく、黒く長細い無機質な鉄板のよう。もう一つ空母赤城のトレードマークとも言えた弓は右手に握られているが、最初川内はそれを「弓」であるとは認識出来なかった。何しろそれは、かつて「弓」であったと思われる艤装は、まるでワニのように大口を開けている。実際に口としか言いようのない形状で、深海棲艦特有の、あの“歯の生えた口”の造形そのものなのだ。川内が「弓」だったと認識出来たのは、単にその大口を開けた艤装が何となく“弓なり”に反っているように見えたからで、それも離れた位置から見ただけなので錯覚かもしれない。

 艤装には割れかけた卵よろしくヒビが入っており、その中に溶岩のように赤く輝く光が覗いていた。その光は赤城が副砲を放つ度、彼女の憎悪に呼応してますます禍々しく輝きを増し、脈動するように明滅する。

 

 

 

「赤城さん! 川内だよ! 仲間だよッ!!」

 

 叫んでみるが効果はなしだ。完全に我を失い、まるで憎き仇敵を相手にしたように川内を邪視している。

 

 

 駆逐水鬼「嵐」には理性が残っていて、言葉を掛ければ彼女は揺らいだ。同じく「萩風」は「嵐」よりずっと深海棲艦化が進んでいたようで、言葉だけでは逆上するだけだったが、それでもまだ言葉に反応して怒りを見せるだけ人間味があったと言えたし、最終的には彼女も艦娘に戻れた。だが、今目の前で相対する赤城には言葉が一つも通じていない。さりとて川内に出来るのは呼び掛けて目を覚ましてもらうことしかないのだが、どうにもそれは難しそうだった。

 艦砲は20cm単装砲一門だけ。一発撃てば装填まで少し間があるし、赤城も砲撃以外の攻撃手段、例えば川内が最も恐れる艦載機の発艦を行わないので、逃げることは不可能ではなかった。

 

 遮蔽物のない工廠前の広場、そして工廠に向かった金剛から赤城を引き離すため、川内は第一庁舎へ続く坂へと駆ける。その坂は道の両側が並木になっている上に木の根元には生け垣もあって姿を隠すことが出来る。流石に20cm砲弾から身を守れる盾にはなりはしないが、木の陰に隠れながら赤城を誘導することは難しくなかった。それをしたところで、川内には赤城をどうすることも出来ないのだが。

 背後に着弾した二撃目。爆発によって生じた衝撃波が背中に直撃するが、その勢いに乗る形で前へ転がり、並木の陰に飛び込む。

 艤装が重いのか、赤城の動きはそれほど素早くはなかった。元より艦娘にしろ深海棲艦にしろ、海での活動を主としているので、陸での動きはさほど速くない。身軽な川内なら跳んで走っては難しくないが、重い空母の艤装を携える赤城の場合はそうはいかないようだった。

 ツツジの生け垣に身を隠し、しゃがんだまま素早く移動する。

 

 どうすればいい? 時間稼ぎをして、いつ来るか分からないレミリアを待つか?

 

 自分がこの状況でいつまでもつのか、と考えた時、間近で爆音がして意識が飛んだ。視界がぐるりと反転し、耳の奥から金属がなるような甲高い音が聞こえ、世界がゆっくりと回る。誰かに目一杯の力で全身を同時に殴られたような衝撃で川内の身体は吹っ飛び、地面に嫌というほど叩き付けられた。

 それでも、川内には豊富な経験からくる慣れというものがあった。今まで至近弾や時には命中弾によって、重力に逆らって身体が宙を舞い、流体のくせにコンクリートのような硬さを発揮する海面に叩き付けられて意識を飛ばしかけたことなど何度もあった。その分、心理的衝撃を含めて復帰するのはさほど時間を要しない程度に、川内はタフだった。

 

 ただし、今日ばかりはそのタフさも意味をなさない。川内が常人よりもずっと早く着弾の衝撃から意識を目覚めさせた時には目の前に赤城が立っていたのだ。重そうな金属音がして、彼女の構えている副砲の薬室に砲弾が装填される。川内を撃ち抜けるトドメの一発だ。

 ヤバイ、という感想しか出て来ない。咄嗟に尻を地面に擦り付けながら後ずさる。

 

「待って! 赤城さん!!」

 

 と、反射的に口走った。

 

 それは完全に無意識の内に脳が出力した言葉だったのだが、お陰で川内は救われた。運の良いことに、今にも川内を撃とうとしていた赤城が動きを止めたのである。

 

「待って! 待って!」

 

 慌てて付け足すと、赤城は呆けたような顔になって、ポツリと漏らした。

 

「……川内、さん?」

「そ、そうだよ。川内だよ!」

 

 声はいつもの赤城のそれだった。戸惑ったような、驚いたような、今の今まで自分が何をしていたのかまるで認識していないような声色。熱が冷めて、ふと我に返ったような。

 だから川内はここぞとばかりに自分を主張する。仲間であると、訴え掛ける。

 すると赤城は顔を引き締め、問い掛けた。

 

「どうしてここに? 深海棲艦はどうしたの?」

「待って! まずは落ち着こう。赤城さん、ゆっくり深呼吸して」

「川内さん、私は……」

 

 不意に赤城が俯く。自分の身体を見下ろす。

 異常に気付いたのだ。ああ、まずいな。これから起こることを悟ったが、時既に遅しであった。

 彼女は何か信じられない物を発見したように自分の腕や足を見つめ、絶句する。

 

「何……これ……」

 

 声ははっきり分かる程度に震えている。次に彼女がどういう反応を見せるかは考えるまでもない。

 前兆に、大きく息を吸い込む音がした。

 

 

「い、いやああああああああッ!!」

 

 

 絹を裂くような悲鳴を上げて、赤城は第一庁舎の方へ、坂を駆け上がっていく。

 

 川内は早鐘のように鳴る心臓が落ち着くまでその場を動けず、ただ錯乱して逃げて行く赤城の背中を見送るしかない。ようやく鼓動が落ち着いた時、自分がただ首の皮一枚で命が繋がったのだという感想だけが思い浮かぶ。

 ただ、落ち着いていられる時間は少なかった。すぐに、深海艦載機の飛翔音が上空に響いたからだ。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 戦場における“勝利”の定義は立場や肩書、そして作戦目的によって様々であろうが、木曾という一人の艦娘にとってのそれは何時いかなる場合でも常に「生還」、ただその一言に尽きた。

 戦術的勝利も、戦略的勝利も、それらを欲するのは指揮官であり参謀であり、時に政治家であり国民である。しかし、戦場に生きる個々の兵士にとってそれらは必ずしも自らの「勝ち」を意味するものではない。例え大規模な会戦に勝利しようとも、戦闘後に自分が生きていなければ何の意味もない、というのが木曾の考えであった。名誉の戦死などという眉唾で空虚な誉れには微塵も興味がない。だから、例えその戦闘で負けようとも生きている限り木曾は「勝利」し続けられるのだ。

 しばしば軍隊では帰還を想定しない片道切符の攻撃という行為が礼讃される。国家に命を捧げ、任務に殉ずることこそが最高の忠誠であり、勇気であり、栄誉であると謳い、英雄的行為の果てに死した者を祭り上げる。なるほど、それは確かに英雄であろう。勇敢で、自己犠牲的であったと言えるだろう。木曾も別にそうした英雄たちの勇気と行動を否定するつもりはない。

 ただ、自分はそういう考え方をしないだけだ。例え無様と嘲笑されようとも、臆病であると罵倒されようとも、生還こそが最大の忠誠の表現であり、それこそが真実の勇気ある選択の結果であると信じてやまない。木曾らしい言葉遣いをもって言えば、「ここで死んでもどうにもならねえ」である。

 だから撤退を命じた。今や木曾は旗艦であり、自分のみならず部下の命についても責任を負う立場にある。第七駆逐隊の三人を生かすも殺すも木曾の一言次第。突撃を命じれば彼女たちは躊躇なく敵に向かっていくだろう。その先に海の底が見えていたとしても、命令一つで彼女たちは命を投げ出す。

 それが分かっているからこそ、木曾は撤退を命じた。優秀な兵士である彼女たちは木曾の意図を汲み、一切の異議申し立てを行わなかった。伊達に同じ鎮守府で肩を並べて戦ってきた戦友同士ではない。生還こそが最大の勝利であるという木曾の価値観を彼女たちは完全に理解しており、その価値観の元に下される命令であるのも承知している。

 

 

 

 弾薬はほぼ底をついた。燃料も残り少ない。

 既に二個の強襲揚陸部隊を迎撃し、随伴の戦闘艦を含めて四人で十隻以上は沈めているはずだ。さすがにここまでの連戦を続ければ弾も油も尽きるというもの。これ以上戦ったところで主砲も魚雷も沈黙するだけだ。

 それに比して、敵は無尽蔵と言っても過言ではないほど湧いて出て来た。先鋒の部隊は食い止めたから、後続が来るまでは少しばかり時間的猶予がある。だがそれにしたって、敵の揚陸部隊は津波のように押し寄せて来るのはほぼ間違いなかった。

 

「とにかく補給だ。弾がなけりゃ戦えねえからな。だが、俺たちが補給している間に敵は上陸を果たすだろう。そうなれば、地上での水際戦闘しかなくなる。最悪、市街地への侵入を阻止出来ればいい。塹壕戦でも白兵戦でも何でもやって戦うぞ」

「艦娘に穴掘って戦えっていうの? 前代未聞の命令だね」

 

 半ばやけっぱちのような声で喚いたのは漣だった。

 木曾の目から見ても聡明と評していい彼女が、こうして真っ向から抗議の声を上げるのは珍しい。普段ならふざけ半分の言葉の中に鋭い指摘を混ぜ込むはずだ。それだけ、彼女にも余裕がないということなのだろう。

 

「ああ。俺も初めてだ。ワクワクするよな」

「魚雷は使えないけど」

「クレイモアの代わりにはなるさ」

 

 木曾は笑った。半分は強がりだったが、ワクワクしているというのは、表現はともかく、そう言っても差支えのない心境なのは確かだ。

 

 

 撤退の判断が迅速だったお陰で、敵機が第一波の攻撃を粗方終えて一旦鎮守府の上空から消えた空白の時間に鎮守府まで戻って来れた。手ひどく破壊され、至る所から煙を噴き上げる母港を見ると、味方など一人も生き残っていないように思えるが、必死で救援を求める陸戦隊員の無線は傍受出来ていた。彼らが生きているなら、彼らと共に戦線を維持して敵を食い止められる。味方は一人でも多いに越したことはない。

 だが、肝心の司令部からは一切の連絡がなかった。これの意味するところは明白であり、それについては艦隊の中で既に共有されている。

 

「金剛さんと川内さんも心配です。どこで合流しましょう?」

 

 と、潮が心配そうに言う。木曾は頭を回したが、二人と悠長に落ち合っている時間はないと判断した。

 

「無線で呼ぶしかない。聞こえてなくても、あの二人なら銃撃音を聞きつけて勝手に動けるから大丈夫だ」

「そう、ですよね。ベテランだもんね」

「でも、どうすんの? 弾薬庫に行くんでしょ? その時に攻撃を受けたらひとたまりもないわよ」

 

 今度は曙が指摘する。木曾は首を振った。

 

「そん時は諦めろ。運がなかったんだって」

「あっそ」

 

 曙はぶっきらぼうに呟いた。

 

 

 鎮守府は、鎮守府だった場所はもう目の前だ。いつも艦娘たちが使っていた桟橋が目の前にある。コンクリートの長い突堤が湾内に突き出し、そこからさらに浮桟橋が飛び出ている。その先端が階段状になっていて、いつもそこから海に出て、そこから陸に揚がっていた。

 桟橋から艤装の置き場の工廠への道のりはそこそこ長い。それがいつも面倒でよく愚痴を言い合っていたものだ。

 

「各艦上陸、いや待て!!」

 

 木曾は空を見上げて叫んだ。

 頭上を、敵機が通り過ぎていく。再び攻撃隊がやって来たのだ。工廠の方で大きな爆発音がして、黒々としたきのこ雲が立ち上がる。

 

「くっそ! 敵の第二波だ」

 

 桟橋はもう目の前だ。だが、陸に揚がれば格好の標的であることは間違いない。地上での動きは当然、海上で動くよりも遅くなる。

 

「迂回しよう! 第五ドックの傍から揚がろう」

 

 木曾は東を指さす。第五ドックは、艦娘の艤装の建造に使われるという意味でのドックではなく、鋼鉄の実艦を修理するための設備だった。鎮守府には「硫黄島」の入渠出来る第一ドックを筆頭に、五つの艦船用ドックが並び、第五ドックはその一番端、基地の中でも東端に位置していた。第五ドックの裏手には山が迫り、そこから山の裾伝いに弾薬庫へと向かえるはずだった。

 桟橋を目指していた木曾たちが回頭する。しかし、その時に信じられないものを目にした。

 破壊された鎮守府、上空に敵機が飛び交うそこから、飛び立つ無数の影があったのだ。無論、それは艦載機であるはずだ。そして、現状そのようなことが可能な人物は、負傷していた赤城以外に存在しないはずである。

 避難すると聞いていたがやはりまだ残っていたのだ。傷んだ体を引き摺って無理に艤装を引っ張り出して来たのか。

 赤城が発艦させたと思しき艦載機は、しかし上空を飛び交う敵機を攻撃する素振りを見せなかった。そしてまた深海の艦載機も彼らを攻撃しようとはしなかった。お互い護衛の戦闘機が随伴しているはずにもかかわらず、彼我の間に空戦が生じていない。

 明らかにおかしい光景。木曾たちが新たに現れた艦載機を見上げている内に、草原を見つけた蝗群のごとく黒々としたそれらは東へ退避する艦娘に向かって来る。それにつれ、深海艦載機の飛翔音が大きくなり、ようやく木曾は事態を理解した。

 

 

 鎮守府の中から発艦したのは、今向かって来ているのは、敵機だ!

 

 

 

「対空戦闘用意ッ!!」

 

 絶叫は、しかし間に合わない。

 いびつな形のあの死の鳥たち。見慣れた烈風でも流星でもなく、宇宙船のような形をした敵機。

 対空砲など、雷巡と駆逐艦の豆鉄砲など、あってないようなものだった。気付けば目の前に黒い塊がばらばらと降って来て、木曾は着弾の衝撃で自分の足が海面から離れるのを知覚した。

 敵機は執拗だった。最初の一撃で中破した木曾を飛び越えると、すぐに反転して再接近する。爆撃と雷撃の中に機銃掃射も織り込んで、瞬く間に木曾は大破へ追い込まれてしまった。海上をのた打ち回るように逃げ惑っている内に隊列は崩れ去り、各々が必死で海面に円弧を描いている。

 二度、三度、敵は爆撃を敢行し、その度に木曾たちは悲鳴を上げるしかない。

 もう駄目だと思った。逃げるすべなどない。艤装の加護さえ易々と打ち砕かれた。

 

 ――だが、敵機が突然引き上げていく。あれだけしつこく追い回して来たのに、あっさりと諦めたように次々と翼を翻して上昇していく。

 

 

 

「助かった、のか?」

 

 呆然と空を見上げる木曾を背に、興味をなくしたように鎮守府に戻って行く敵機。爆撃は相変わらず続いていたが、どうにもその動きはおかしい。

 とはいえ、理由を探るには情報が不足し過ぎていたし、そんな余裕もなかった。何しろ、たった数分で木曾たち四人は満身創痍になったのだ。

 幸いにして打撲で腕や腰が痛む程度の負傷だが、艤装は酷く破損していて大破と呼べる状態だった。すぐに集合して来た七駆も手酷くやられていて、曙はまだ元気そうだが、漣は頭から血を流し、左足を引き摺っている。潮はこの三人の中では運がいい方のなのか、中破状態であり、身体にはそこまでダメージが及んでいないようだった。

 

 自分も含め、これ以上海を走って遠く離れた第五ドックに行くのは不可能に思われた。無理に向かったところで体力を消耗するし、ひょっとしたら漣は沈んでしまうかもしれない。

 幸いにして敵の攻撃は何故か小康状態に入った。この機に無理にでも上陸してしまおう。

 長い桟橋を歩く気にはなれなかった。木曾は先頭を進み、倉庫が立ち並ぶ方へ向かう。そこはテトラポッドが置かれ、防波堤が立ちはだかる、到底上陸に適した場所ではないが、岸壁の中では最も鎮守府の中枢に近い場所だった。

 木曾は残っていた主砲を一発、岸壁に放った。防波堤が吹き飛び、白い煙が立ち上る。

 

「あそこから揚がる。潮は漣を支えてやってくれ」

 

 木曾は手短に指示を出すと、自分が真っ先にテトラポッドに取り付き、もう役に立たないであろう航行艤装を脱ぎ捨てた。それから足場の安定した所を確保すると後に続く曙を引っ張り上げ、次に潮に押された漣を引き上げた。

 漣は痛みに顔を顰めるが、弱音を吐いたりはしなかった。引き上げた彼女を曙に預けると、最後に潮を手伝う。四人全員がテトラポッドに揚がると、木曾は先に進みながら言った。

 

「装備は主砲と装着部以外全部捨てろ。弾薬を補給したら陸戦隊と合流する。漣は衛生兵に見させる。まあ、連中が生きていたらの話だがな」

「死んでたらどうすんのよ」

 

 言われた通り自分の背部艤装を外しながら、曙が尋ねた。

 

「そうだな。曙は漣を連れて市街地へ逃げろ」

「バカ! まだ戦えるわよ」

「後から俺たちも合流する。生き残ることが最優先だからな」

「あんたは旗艦でしかも替えの利かない雷巡でしょ! 残すならあんたよ」

「それを言うなら誰もがそうだ。曙だって漣だって潮だって、世界に一人しか居ねえんだからよ」

「だからって、敵を置いて仲間を残して逃げろって言うの!?」

 

 激昂して曙は地面を踏み鳴らした。

 小さな嚮導艦は成長しなくなった小さな体を目一杯に膨らませ、雷巡をねめつけた。

 

「舐めるんじゃないわよ! 私も、漣も潮も、この艦の名前を背負った時から覚悟してんのよ。『逃げずに戦う』って! 

その結果、死んでも構わないとさえ思ってたわ。怖くても、痛くても、絶対逃げないんだって。呪いみたいにそう思い込んで自分を縛ってたのよ。

それをあいつは真正面から砕きやがった。あのクソ提督は、『死なせない』って言いやがった。

だから、私も誓ったの。あいつに、私より小さいくせに餓鬼扱いしてきた本物のクソ提督に。

――あんたより絶対長生きしてやるんだって」

 

 

 

 曙は唯一残した艤装、10㎝連装高角砲を掲げる。

 

 

 

「私は死なない。仲間も死なせない。

戦って、戦って、戦い抜いて! 絶対に最後まで生き残って見せるわッ!!」

 

 

 

 二つ目の10㎝連装高角砲が持ち上げられ、曙のそれと並んだ。潮だ。

 

「私も!! 死にません! 生きて帰ることを誓います!」

 

 三つ目の10㎝連装高角砲が弱々しく掲げられ、しかし明瞭に持ち手の意思を示した。漣は顔面を赤く染め、痛みに苦悶を浮かべながらも、瞳には決意を浮かべている。

 

「加賀さんの仇を討ちたい。それまで、漣だって絶対に死んでやるもんか!!」

 

 最後に並んだのは15㎝三連装副砲だ。

 

 

 六門と三門。合計九門の砲口が天を睨む。

 

 

「お前ら、レミリアの奴に染まりすぎだよ。あの無茶苦茶な提督なら、最良の結果を追求して、しかもそれを勝ち取って来ちまうだろうがな。

だが、あいつはもうここには居ねえ。呼んだって声が届かねえ。

ならどうするか?

俺たち自身の手で勝利を捥ぎ取るしかねえ。深海の連中を海に蹴落として、この街を守るッ! それで、俺たちは全員生き残るッ!

そうだろッ!! お前ら!!!!」

 

 

 雄叫びが轟く。

 

 

 それは強がりでも何でもない。戦いに勝ち残ることが、本当に自分たちに出来ると、四人は心底そう確信しているからだ。

 怪我など関係なかった。痛みは己を奮い立たせる燃料。流れる血は排出された臆病な心。

 

 四人は移動を開始する。漣を一番元気な潮が背負い、四人は物陰から物陰へ、崩れた倉庫から、同じく建物の半分が吹き飛んだポンプ室。坂を上り兵舎の並びを過ぎると、低い丘をくり抜いて作られた弾薬庫に到達する。

 地下壕を横に掘った弾薬庫には、艦娘の砲弾や炸薬、魚雷、航空爆弾に加え、小火器の弾薬も保管されている。それを示すかのように巨大な鋼鉄製の扉が地下壕を塞いでいた。その扉の前に何人かの兵士たちが集まっている。

 深海棲艦の艦載機はほとんどが街へ向かっていった。鎮守府は粗方破壊しつくしたと考えているのだろう。重油タンクが巨大な薪になっているのがその証拠だった。

 

「生きていたのか」

 

 陸戦隊の隊長が呆然自失として呟いた。

 彼らは皆傷ついていた。漣より重篤な隊員も居る。ある者は肩から夥しい血を流し、ある者は太ももの付け根を布で縛っていて、ズボンはぐっしょりと濡れている。担架に寝かされている者、座り込んだままぼんやりと空を見上げたままの者。隊長自身も頬に切り傷を作っていて顔が血まみれだった。

 

「お互いな。俺たちも残弾が尽きたから補給しに来たんだ。弾薬庫がまだ無事で良かったよ」

「ああ。だが、悠長にしている暇はないぞ」

「そうだ。先鋒は何とか食い止めたが、次の揚陸部隊が迫っている。上陸されるのも時間の問題だ。防御線を構築して水際で侵入を阻止しなきゃならねえ」

「口で言うほど簡単じゃあないぞ」

 

 言葉とは裏腹に、隊長は機嫌良さそうに口を歪めた。

 

「来い。陸での戦い方を教えてやる」

 

 重い金属音がして、弾薬庫の扉が開かれた。

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

「メイデイ! メイデイ! メイデイ! こちらヴァイパー3!! 被弾した! 墜落する。至急救助を!!」

 

 

 パイロットの悲鳴はノイズに打ち切られた。ガンシップが一機、尾翼から煙を吹きながらコマのように回転し、海面に叩き付けられて白い飛沫を上げる。あの様子では乗っていた人間は衝撃に耐えられなかっただろう。これでヘリの残りは二機だけとなってしまった。

 

「ヴァイパー3、墜落! ヴァイパー3、墜落! 畜生ッ!」

 

 僚機のパイロットが喚く。悪態を吐く彼の気持ちは野分にも痛いほど分かった。

 

 

 

 野分と僚艦の舞風の第四駆逐隊と、艦娘母艦「硫黄島」は目下敵の空襲下にある。空を覆うのはせいぜいが五十機程度の敵艦載機であるが、それでもまともな航空戦力のない野分たちと「硫黄島」にとっては絶望的なまでの脅威だった。何しろ、手元にあるのは10㎝連装高角砲。威力のさほど高くない小口径の高角砲だ。これがまだ12㎝高角砲なら頼もしかったかもしれないが、生憎野分たちの鎮守府には元より用意されていた艤装ではなかった。

 だからといって敵は手を緩めてはくれない。

 

 野分は「硫黄島」右弦に、舞風は左舷に陣取り、それぞれ左右から襲い来る敵機を迎撃していた。数えているだけで野分は既に七機は撃墜しているし、舞風もきっと同じくらい撃墜しているだろう。敵の攻撃がいい加減緩んでもいい頃なのに、尚も戦闘は激しい。

 

 「硫黄島」とて無抵抗でいるつもりはなかったようだ。

 搭載しているガンシップ、AH-1攻撃ヘリコプター五機全機発艦させ、さらに無人機もすべて射出している。

 深海棲艦に艦娘の武器以外の“通常兵器”が無効なのは有名な話だが、艦載機に関しては例外的に効果があることが確認されていた。何しろ飛行機である。飛べなくなったら脅威ではないし、飛行機が飛ぶには複雑な機構が必要で、それは深海棲艦も変わらなかったのだ。ミサイルや速射砲弾の直撃が、艦載機のバランスを崩し、時にそれ自体を崩壊させ、撃墜に至ることはよく知られている。

 だから「硫黄島」も対空ミサイルを積んだガンシップや無人攻撃機を繰り出した。

 ヘリはミサイルが尽きると機銃で応戦し、無人機は自爆特攻を敢行した。

 それでもようやく半分程度に減らすのがやっと。そして、深海棲艦は戦力が半減したからと言って撤退してくれるような生易しい相手ではない。敵の攻撃もますます苛烈さを増し、攻撃隊を守るために前に出た護衛戦闘機がヘリを落としていく。

 

「攻撃機を狙え! あの、でかい爆弾をぶら下げたやつだ!!」

 

 無線でまた誰かが叫んだ。

 同時に、偵察用の無人機がガンシップを狙っていた敵機に突っ込み、空中で火だるまになる。そのまま両機は白い煙で放物線を描き、海面に落ちて小さな水柱を二つ立ち上げた。

 

「上だ!!」

 

 ヘリ部隊の隊長機の悲鳴。

 反射的に空を見上げた野分の目に、急降下する艦爆の姿が映る。その機体から黒い果実のような物が切り離されて、真っ直ぐ吸い込まれるように「硫黄島」に落ちた。

 爆音。紅蓮の炎がマストより高く上がり、巨艦は一瞬停止して海面を跳ね上がったように見えたのは気のせいではない。少し離れたところに居る野分の肌に、火傷しそうなくらい熱い爆風が叩き付けられた。

 

「被弾! 『硫黄島』被弾ッ!!」

 

 無線が一気に騒がしくなる。機関への影響は少ないのか、母艦は動いているが、開戦以来一度も被弾したことのない“幸運艦”が痛々しく黒い煙を上げるのは野分の心に少なくない衝撃を与えた。

 

 

「舞風! 舞風!」

 

 おそらく艦の反対側に居るであろう戦友に呼びかける。

 

「大丈夫だよ!」

 

 言葉とは裏腹に答える舞風の声もとても焦っているように聞こえた。

 彼女がまだ健在であることだけが野分のガタつく精神を鎮める。主砲を握り直すと、ヘッドセットのスピーカーからオペレーターの怒声が聞こえて来た。

 

「右舷に敵機接近中! 野分、迎撃しろ!!」

 

 言われるまでもなくモーター音のような気味の悪い音が響いている。野分は視野の中に低高度で接近する二機の雷撃機を捉え、主砲を向けた。手に持った砲塔と背部艤装から伸びるアームの先に据え付けられた砲塔。二基四門が一斉に火を噴く。

 敵機の進路上を狙う。空に時限信管によって炸裂した砲弾が綿飴のような黒い煙を作る。

 

 

 

 野分は雄叫びを上げた。

 

 突貫せんと眼前に飛び込んで来る敵機の鼻先に向け、無我夢中で砲弾を放った。その内の一発が、向かって左を飛んでいた敵機に当たり、深海に棲む黒い鳥は翼から血のように黒煙の尾を引いて海面に突っ込んだ。

 だがもう一機が止まらない。雷撃高度まで下がった敵はそのまま魚雷を投下、直後に誰かの撃った弾に弾かれてクルクルと回転しながら海に還った。

 

「右舷魚雷接近中!! 回避! 回避!」

 

 叫んだ時にはもう遅い。野分の背後を掠めていった黒い影が、その巨体故にやっと舵が効いて回頭し始めた「硫黄島」の腹に突き刺さる。

 爆圧波は足元からも感じられた。四万トンを超える鋼鉄の要塞は悲鳴のような軋みを上げて持ち上げられ、いくつかの破片が宙を舞った。魚雷は艦首に命中し、そこに巨大な破孔を穿つ。巨艦の速度が一気に鈍り、“彼女”は痛みに呻いているようだった。

 

「クソッ。クソッ!!」

 

 母艦を守れなかったことに野分は悪態を漏らす。もう少し撃墜が早ければ、雷撃を被弾することはなかったはずだ。

 甲板を打ち破って艦内に侵入し、炸裂する航空爆弾は甚大な火災を生じさせるので脅威だが、喫水線下に穴を開け、浸水を引き起こして浮力を奪う魚雷はもっと脅威だ。信じられないことに、適切な処置を施されなければ今の一撃で「硫黄島」がその巨体を海に沈めることだってあるのだから。

 

 

「野分!」

 

 悪態と悲鳴といくつかの冷静でまともな指示で埋め尽くされた無線音声の中に、姉妹艦の呼び声が混じる。

 

「野分見て! 敵が引き上げていくよ!」

 

 無線の向こうの舞風が空を指さしているように見えたので、野分もつられて空を見上げる。

 彼女の言う通り、深海艦載機が次々と上昇し始め、北の空へと向かって消えていく。

 

「見ろ! 敵が撤退していくぞ!」

「こちらヴァイパー1。燃料が残り少ない。着艦を求む」

「撃ち方止め! 撃ち方止め!」

 

 オペレーターやヘリのパイロットたちが安堵の声を漏らす。「硫黄島」は大破とも言える大損害を受け、左に傾いている有様だったが沈む気配はなかったし自力航行も可能なようだ。

 生き残ったという安心はあった。けれど、敵が去って行った北の空を見て、野分は言い知れぬ不安に襲われたのだ。

 

 

 

 空が赤い。夕焼けに雲が焼かれているような赤さではなく、そこだけが奇妙に赤いのだ。その証拠に、すでに日没を迎えつつある大空には紺色の暗幕が掛かっており、尚の事北の空の異様さを強調しているように思えた。

 

 あの空の下には鎮守府がある。果たしてあの空の赤さは基地を焼く炎の光が映ったものだろうか。あるいはまた別の理由があってのことだろうか。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 目が覚めると、瞼を開けたつもりなのに視界は暗闇一杯に包まれていた。右を見ても左を見ても、眼球の動きは感じられるが見える物の変化は分からない。

 それでも何度か目を瞬かせていると、その内に暗闇に慣れてようやく周囲の判別が付くようになった。それに合わせて、自分の身体がほとんど動かないことにも気付いた。

 

 どうやら金剛は崩れ落ちた工廠の天井の下敷きになっているらしい。試しに身体を軽くひねってみると、右手と右足に決して小さくない痛みが走り、苦しい喘ぎ声を漏らすはめになった。逆に左足は動かせるし、左腕にも右腕のような圧迫感はない。

 だが、左肩を負傷した影響で左手はほとんど動かせないし、左足だけではどうにもならない。さらに首を回して状況確認を進めると、身体のすぐ傍に艤装が転がっていて、それが崩れて来た天井を支えて床との間に生存空間を作り、金剛はその中に収まったので九死に一生を得たようだった。

 とは言え、手足を挟まれた状況ではどうしようもない。力を籠めても身体が動かないし、そもそも力がうまく入らない。本来ならこの程度の鉄材で出来ただけの天井など、すぐに弾き飛ばしてしまえるものだが、大破したことで出力はだいぶ弱まってしまっているようだった。

 動けなければどうしようもない。瓦礫の隙間からわずかに入り込んで来る光がなければ金剛は物を見ることさえ出来ない状況なのだ。このままいつ来るともしれない、そもそも来るかも分からない救出を待ち続ける他ないのだろうか。いや、もういっそのこと救出はないものと考えた方がいいのかもしれない。

 

 外、つまり崩れた工廠の周囲では、いくつもの水音と重い物を引き摺るような金属の擦れる不快な音が響き、犬のような息遣いも聞こえてきていた。金剛が埋まった瓦礫の上を何かが歩き、すっかり鉄くずの山となった工廠を乗り越えていく。外に居るのは思ったよりも多くの“奴ら”で、目を閉じれば海から這い上がって来た魔物たちの群がちょうどこの辺りを徘徊している光景が思い浮かぶ。

 

 やがてそれらに交じって耳をつんざく轟音が鳴り響いた。それも、いくつも重なって。

 また、着弾音と思しき破裂音も轟き、二次爆発を起こしているのか無秩序に爆音が続いた。

 

 

 破壊が進む。爆発。火災。崩壊。

 

 金剛の見知ったものが、見慣れたものが、十余年を過ごした日常のすべてが、無慈悲で冷酷でそのくせ苛烈で容赦のない暴力によって、ただひたすらの瓦礫に変えられていく。地面には大穴が空き、建っていた物すべては倒壊して面影さえ失う。四季の移ろいに合わせて葉の色を変えた並木は、いつもミツバチを侍らしていた可憐な花々は、何度も歩いた艦娘寮から裏門へ続く変哲のないアスファルトの道は、赤城と加賀が鍛錬を欠かさず汗を流していた弓道場は……。

 

 何もかもが撃ち抜かれ、吹き飛ばされ、崩れていく。

 けれども、金剛は何も出来ない。瓦礫に埋まり、手足を抑えられては動きようもなかった。

 

 日常が破壊されていくのを、音を聞いて光景を思い浮かべるだけで直接目の当たりに出来ないのは果たして良いのか悪いのか。

 

 

 

 

 結局、またこうだ。

 

 金剛はまた、自分の大切なモノ、守りたいモノが失われていくのを、ただの傍観者として横で見聞きする権利しか与えられない。歯噛みしながら取り返しのつかない事態の進行をただただ眺めているだけしか出来ない。戦艦と呼ばれる力を持ちながら、守りたいモノの一つたりとて守れやしないのだ!

 

 加賀だってそうだ。

 堅牢な装甲で傷付いた彼女を守ることが出来ず、冷たい海の底に沈めてしまった。

 

 赤城もそうだ。

 彼女は負傷の果てに深海棲艦へと身を落とし、仲間へ砲撃することすら躊躇う素振りを見せなくなってしまった。

 

 鎮守府だってそうだ。

 決して長くはないけれど、仲間たちと出会えたこの地に金剛は少なくない愛着を抱いていたのに、守る権利すら剥奪されて横たわりながら破壊される音を聞いているしかない。

 

 

 世界で最も硬い鉱物の名を背負っているのに、金剛は害意と殺意の込められた砲弾を弾き返せなかった。

 護法の天部に名を借りているのに、懲悪を為せず撃退することさえも叶わなかった。

 最古参の艦娘と称えられようとも、演習では大和型に負けぬ戦いぶりで畏怖を集めようとも、実際に戦いに出てみれば金剛は、誰も、何も守れぬ情けない女でしかなかった。無様に打ち倒され、血を流して瓦礫に埋まり、死にきれず、さりとて命を賭してなお戦い続けることも許されず、それどころか敵に存在さえ気付いてもらえず、噎び泣きながら悔しさに胸を押し潰されるしかない。

 まだ自分はこんなに泣けるのかと驚くくらい、涙は次から次へと止まる気配を見せずに流れ落ちた。両手を動かせぬ金剛は感情に振り回されるまま。嗚咽を漏らしても、騒がしい外の喧噪にまぎれて深海棲艦が気付くことはない。

 

 

 

 金剛は泣き続けた。涙をぬぐうことが出来ない。

 

 脳裏にはいろんな人たちのいろんな顔が浮かび上がって、心は締め付けられるようにきりきりと痛む。

 

 

 

 

 艦娘としての適性が現れず、重圧に潰れて自殺した妹のことをほとんど語らなかった加賀。その深い悲しみは決して表に出されず、彼女は心の奥底に仕舞い込んでいた。一航戦の一人として、初期から頭角を現していた偉大な姉に、加賀の妹は最大の敬意と憧憬を抱いていたのだろう。同じく艦娘を目指した彼女には、しかし艦娘としての適性は現れなかった。そして、姉があまりにも偉大過ぎたがため、妹は艦娘になれなかった絶望と重圧に圧し潰されて海に身を投げたのだった。

 

 赤城も同じく姉妹を喪っている。彼女の場合は姉。純粋な災害による殉死であり、赤城にはなんらの過失もないことだったのだが、彼女にとっては耐え難い喪失だったに違いない。引きこもった赤城を部屋から引っ張り出したのが加賀だった。それでも当初は二人はただ同じ部隊の同僚でしかなかったのだろう。関係性が明確に変化したのは、加賀の妹が自殺してから。ただ、二人の間の何が変わったのかを、金剛ははっきりと言葉には出来ない。

 

 川内は今の鎮守府に来たばかりの頃、相当荒んでいて、誰も近寄らせなかった。目の前で艦娘が沈むところを見たという彼女の心に大きな傷があったのは一目瞭然だった。そんな彼女が、倉庫を背に防波堤で一服していた金剛に目を付けて近寄って来たので、煙草の吸い方を教えたのは何時だっただろうか。彼女の異動があってからそれほど時間が経っていない頃だったように思う。その後、金剛は喫煙を辞めたが、川内は今日まできちんと制限を設けながらも吸い続けているはずだ。

 

 木曾は昔、北方海域で戦っていた頃、ある海戦で部下の艦娘を失い、自らも手酷い傷を負って逃げ帰ったことがあった。その時の記憶は、本人が酒でも飲まない限り決して話そうとしない、とても無様で情けない、思い出したくもないものなのだろう。不思議なことに、手足を吹っ飛ばされようが修復材を浴びれば元通りになる艦娘にもかかわらず、その海戦で負った右目の傷が消えることは決してなかった。何故なら、木曾自身が敗北した証としてその傷を残すことを望んでいるからだと、本人から聞いたことがある。

 

 曙のキャリアはこの鎮守府で始まったから、新兵の時代から金剛が世話を見ている一人だった。彼女は強がりで、意地っ張りで、面倒な性格をしていた。その上極端な負けず嫌いで、仲間思いで、とても優しい心の持ち主でもあった。理不尽なことを決して許さない、真っ直ぐな性格なのだ。だから、彼女が、彼女たち第七駆逐隊が、大切にしていた仲間の一人が戦場のストレスに耐え切れず、精神のバランスを崩したことを、曙はどこまでも悔いている。その艦娘が戦闘の恐怖に打ち勝てず、鎮守府の裏山に逃げ込んだ時、一晩中声が枯れるまで彼女の名前を呼び続けながら探していた曙の姿を、今でも克明に覚えている。

 

 漣はノリの軽い性格からか、金剛とは比較的ウマが合った。彼女は誰とでもすぐに仲良くなれたし、隣に居てくれると明るい気分になれる類の人柄の持ち主だ。だから“ウマが合う”のも別に金剛だけではなかったし、親しい間柄の相手は鎮守府の中にたくさん持っていただろう。その中でもとりわけ加賀は彼女と格別に“ウマが合って”お互いがお互いを特別視していた。あの二人は心が通じ合っていたんだと本気で思う。二人の間に何があったのかは分からないが、漣の姉妹艦が居なくなった時、彼女を支えたのはその痛みを誰よりも深く理解していた加賀だったのだ。そうでなければあの漣が人目も憚らず慟哭したりするものか。あの漣が。“フレンドリーでノリの軽い”という自分のキャラクターを大切にしていたあの漣が。

 

 潮はその点、一番厄介な子だったかもしれない。何故なら彼女は本音を絶対に外に出そうとはせず、常に一歩引いたところから静かに見守っているような娘だったのだ。曙や漣がどれ程嘆こうとも、潮は一滴も涙を流さず、ただただ悲しそうな顔をしているだけだった。だからこそ、金剛には彼女が他の二人よりもずっと脆いのだ思った。けれど、声を掛けても、酒を飲ませても、散歩に連れ出しても、潮はなかなか思っていることを口にせず、随分とやきもきさせてくれたものだ。ようやく彼女が本心を吐露したのは、ある戦いで金剛が彼女を庇って大破した時。潮は、普段なら絶対に出さないような大声でこう叫んだ。「私の前から居なくならないでください」

 

 明るさと朗らかさで言えば舞風は漣に劣らないムードメーカーである。南方での辛い経験を引き摺ってやって来た彼女は、それはそれはもう痛ましいくらいに空元気を発揮し、無理矢理に明るく振舞っていた。彼女はよく笑ったけれど、誰もがその笑顔が本心からのものでないことに気付いてた。誰も僚艦であり姉妹艦を喪った彼女に掛けるべき言葉など持っていなかった。だから金剛は言葉ではなく踊りを教えた。教養の範疇で、金剛自身がある人物から教わったものだ。元よりダンス好きな舞風が、ワルツやタンゴ、タップとレパートリーを増やしていくのに時間はそう掛からず、時が経つにつれ彼女は本当に弾けるような笑顔を見せるようになった。

 

 その点で言えば、野分の方が手こずったかもしれない。生まれついての性格から前向きな気質のあった舞風に比べ、野分はその逆だった。本当にこの二人は凹凸のよく噛み合ったコンビだと思う。彼女も舞風と同じく言葉を必要としておらず、だから金剛は戦い方を教えた。職務に対して真摯に取り組む野分には、実力をより伸ばす方向で成長を与えた方が良いだろうと判断したのだ。戦艦と駆逐艦では想定している敵も武器も戦い方も違ったけれど、自身の豊富な経験をもって金剛は野分を鍛えた。

 

 

 

 

 皆、金剛の教え子であり後輩であり、大切な仲間だった。皆、大切な誰かを喪った。決して癒えきることのない傷を負い、涙も枯れ果てるほど流し尽くして、けれどきっといつか本当に笑い合える日々が訪れることを信じていた。

 皆、誰かを喪ったからこそ、今となりに居る仲間を思い合うのだ。自分と同じ悲しみを背負っている。同じ重しをしょい込んでいる。だから赤城はこの面子を集めたのだろう。

 愛する人を唐突に、理不尽に、奪い去られる「別離」という名の毒。その毒がもたらす苦痛を誰よりも分かっていた赤城だからこそ、孤独になろうとしていた艦娘たちを自らの周りに集めた。曙、漣、潮の三人を異動させなかったのも、木曾と川内、舞風と野分を引っ張り込んだのも、すべてはそのためだったのだ。結果的に一航戦を中心としてコンパクトにまとまった質の高い部隊が出来上がったのも、皆どこかで悲しみを分かち合える仲間同士だったから。

 

 そんな彼女たちと戦えることが誇りだった。誰もが深く傷付き、そして誰もがそれを乗り越えて強くなった。ただ一緒に実戦に出ただけでは得られぬ尊いもの。深いところで繋がった仲間たちこそが、金剛の誇りそのものだったのだ。

 

 

 だが、その誇りは今や崩壊する鎮守府の中に埋もれた。

 

 

 

 金剛は左手を動かす。肩から突き刺すような激痛が走り、腕は針金が仕込まれたように動かし辛いが、無理にでも左手を頭の横に持っていき、そこに転がっていた副砲を手に取る。通常、金剛の副砲というのは防循と一体化した巨大な砲台に埋め込まれているのだが、実は取り外して手に持つことも出来た。

 傍らに転がった砲台から、副砲を取り外そうとするが、いかんせん力の入らない片手だけでは上手く出来なかった。おまけに動かせば動かすほど痛みが走るので、金剛はしばらく荒い息を吐いて休憩しなければならなかった。

 気を取り直してもう一度不自由な左手でいじると、ガコンと音がして副砲が外れる。外した状態でも砲弾は装填され、指で引き金を引くことで発射可能だ。

 金剛はもう痛みで麻痺しかけている左腕を震わせながら(そして震えで思うように動かないことに若干苛立ちながら)、意志の力で副砲を構える。その砲口を、自らの耳元に突き付けて。

 砲塔はヌルヌルとした液体に濡れていたし、耳に砲口が触れると思いの外冷たい感触に背筋を何かが走った。

 この位置からなら確実に頭を吹き飛ばせるだろう。「女神の守り」が効いていたとしても、既に大破状態だし、至近距離からの15㎝副砲の砲撃を弾けはしない。

 

 もうこれ以上居られなかった。戦えなくなるほど無様に打ちのめされ、瓦礫に埋もれて逃げるどころか動くことすら不可能。しかし、死ぬことが許されるわけでもなく、ただ時間が過ぎ、基地が破壊され、味方が撃たれるのを黙って聞いているしかない。これが生き地獄でないなら、何だというのだろう?

 金剛という艦娘が今まで築き上げてきたもの、積み上げてきたもの。その全てがふいになる。無様を通り越して、生き恥を通り越して、誰にも知覚されぬまま埋もれ続けるなど到底耐えられない。このまま死ぬことも戦うことも許されず横たわっていることしか出来ないなら、一体今までの人生というのは何だったのだろう。こんな末路しか用意されていないのだとしたら、自分は何のために自由を奪われ生きてきたのだろう。大切なものも守れぬ己に、一体如何ほどの価値があるというのだろう。

 

 考えれば考えるほど、意味を問えば問うほど、胸が引き裂かれそうになる。自分の内に開いた奈落に吸い込まれそうになる。

 

 

「ソウネ。これが、私の……」

 

 

 掠れた呟きは外を騒がす地響きと砲音に紛れて、自分の耳ですらほとんど聞き取れなかった。

 このままここで苦しんでいるくらいなら、いっそ死んだ方が楽になれるかもしれない。どうせ、意味のない人生だったんだ。

 投げやりな気持ちが胸を支配した。諦めると、心が楽になった。この引き金が、全てを終わらせてくれるのだと思うと、救いは手の届く場所にあるようにさえ思えた。

 嗚咽を上げても、助けてくれる人はいない。慰めてくれる人もいない。泣いても誰も気付かない。

 誰にも気付いてもらえないなら、それは生きているとは言えないのではないか。ならば、頭を撃ち抜いて死んでいるのと変わらない状態じゃないか。

 

 

 金剛はゆっくりと目を閉じる。

 薄暗闇が完全な暗闇に代わる。瞼の外に光がほとんどないから、瞳を閉じればそこは完全な漆黒が横たわっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 さあ、世界に別れを告げよう。

 

 さようならと言おう。叫んだところで、深海棲艦の耳にさえ届かない。

 

 

 

 

 

 引き金に指を掛ける。砲弾は装填済み。音速を超えた鉄塊が頭を叩き割るのは一瞬。

 

 自由を奪われ、祖国に売られ、異国の地ではいいように使われて、戦争に明け暮れていた。それでも腐らずに仲間を守り続けてきたし、長く暮らしたこの街と鎮守府が第二の故郷に思えて、それなりに愛着を持っていた。

 

 

 

 

 だけれども、全ては一瞬の暴力によって奪われた。加賀は沈み、赤城は絶望に堕ち、第二の故郷は戦火に焼かれた。

 

 焼け落ちる基地と共に、金剛の誇りも灰になった。

 

 守ってきたものなんて簡単に略奪され、破壊される。結局のところ、金剛の人生は奪われるばかりだったのかもしれない。

 

 でも、それももう終わり。ようやく、しがらみから解放される。最後にせめてこの命だけは自分の自由にしてやろうと、他の誰でもなく自分自身で決着をつけてやろうと思った。他人にも化け物にも、運命にさえも己の命だけは奪わせなかったのなら、少しだけ勝ち誇れるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 だから、歓喜の歌を歌おう。火のように酔いしれて、崇高な歓喜の聖所に飛び込もう。

 

 例えこの先に虚無があろうとも、今この虚しさに包まれるよりは余程ましではないか!

 

 

 

 

 さらば、世界よ。さらば……、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――貴女が私を受け入れてくれるまで。戦争が終わって帰って来た時に私にキスしてくれるまで。ずっと、ずっと待っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 咆哮。

 

 

 

 

 天を割り、地を震わせる怒号。

 

 

 

 

 

 伸し掛かっていた鉄の屋根は乗っていた深海棲艦諸共空高く舞い、弾き飛ばされた鋼材が四方に巻き散らされ、周辺の異形をただその勢いと質量をもって叩き潰す。

 全身を血が巡っていた。洪水のように果てしない勢いで血は血管を流れた。

 赤血球が細胞の一つひとつにまで力を充填していくのを感じながら、金剛は艤装を背負い立ち上がった。瓦礫の山があったそこは、まるでカルデラ火山のように窪みを作り、その中心に鬼神の如き表情の戦艦が立つ。

 

 周囲の全ては敵だった。工廠の周辺に上陸した深海棲艦の大部隊。瓦礫が吹き飛ばされた衝撃からまだ復帰出来ていない魑魅魍魎を闘志に燃える双眸が睥睨し、鬼神は主砲を鳴らした。

 

 

 

 

 炸裂するは怒りの砲撃。轟き渡るは激昂の雄叫び。

 

 

 次々と深海棲艦が撃ち抜かれていき、無数の肉片となって千切れ飛ぶ。狙いを付けなくとも撃てば敵に当たった。ほとんど奇襲と言ってもいい金剛の砲撃に深海棲艦の隊列は総崩れになり、一隻たりとも有効な反撃を撃てていない。元より、知能に劣る深海魚の延長線上にあるような連中だ。鬼・姫クラスでもなければ、金剛の敵ではない。

 

 

 

 

 ここに立つのは、艦娘の祖。

 

 名にし負うヴァジュラダラ。

 

 不沈の戦乙女。

 

 これ則ち、優麗にして勇壮なる金剛型一番艦。

 

 

 

 

 

 天蓋を割り、大地を激震させる36㎝砲の轟き。深海の亡霊どもを海の底に叩き返す金剛石の槌を振り回し、乙女は戦場に踊る。

 

 

 

 

 土壇場でどこからか流れ出していた修復材の液が満身創痍だった金剛の身体を治したのだ。それは瓦礫に埋まるだけだった彼女に力を取り戻させ、復活の礎となる。ただ、金剛は何もそこまで計算していたわけではない。

 

 一つの想いが頭を支配した。一人の女の顔が脳裏によぎった。

 

 

 まだ、返事をしていないじゃないか。

 

 

 彼女の愛の告白をないがしろにしたまま死ぬことなんて出来るはずがない! 金剛にはどう屁理屈を捏ねたって絶対に無理だったのだ!!

 

 

 

 

「こんなところで死ねるわけナイネーッ!!」

 

 絶叫しながら、工廠前の広場でうろたえていたル級の頭を弾き飛ばす。翻れば重巡リ級が工廠の瓦礫の上から狙っていたので、足元の鋼材を蹴飛ばしてやると、見事に顎に当たって視界から消え失せた。手近に居たヘ級を副砲で薙ぎ払うと、再装填された主砲を三隻の駆逐艦がまとまって陸へ這い上がろうとしていたところに撃ち込んで地獄まで吹き飛ばす。

 

 

 

 もう一度会うんだ。

 

 金剛は決意した。永遠の別離ではない。例え引き裂かれたとしても、彼女はまだ手の届くところに居るのだから! ペール・ギュントだって最後はソルヴェイグに再会して真実の愛を知ったではないか。

 今度こそちゃんと返事をする。もう二十年も先延ばしにしていたその言葉を、面と向かって告げる。それが真実の愛を告白してくれた掛け替えのない彼女への、唯一の心ある答えだ。

 何より、また彼女の愛おしい顔を見たかった。「ウォースパイト」なんていうこまっしゃくれた仮面を引っぺがして、不細工な嬉し泣きをこの目に収めてやるのだ。あの子はきっと百年の恋も冷めるようなくしゃくしゃな顔で泣くだろう。清楚で高貴な旗艦? 浮いた話の一つもない? そりゃそうだ。あの泣き顔を見たらどんなイタリア男だって白けてしまう。世界で唯一、彼女の泣き顔を愛せるのは金剛だけなのだから!

 

 会ったら何と言おう? この二十年の話を、頼もしく誇り高い仲間たちを自慢しようか。それとも自分が上げた戦果をひけらかそうか。

 

 いや、何よりも真っ先に言うべきことがある。何を置いても、まず口にしなければならない言葉がある。

 少し、練習しよう。その時になったら、案外上手く言えないことだってある。何しろ金剛だってこんな言葉、口にしたことがなかったのだから。

 どもったり噛んだりしたら、死ぬほど格好悪い。

 

 

 

「I love you!」

 

 

 恥ずかしいから練習の言葉は主砲が火を噴く時の轟音でかき消した。誰も聞いていない。だからノーカウント。

 

 

「I love you!! "Mary"!!」

 

 

 

 

 

 金剛は駆け出した。

 

 潜水艦のくせに陸地に揚がったカ級を蹴り飛ばし、海から砲撃して来たタ級に水平射撃をぶち込んで細切れにして、工廠から少し離れた岸壁に伸し掛かって気持ち悪い何かを吐き出している輸送艦の群に副砲をしこたま撃ち込んだ。

 

 そして立ち止まり、空を見上げる。腹の底から湧き上がって来た感情が抑えられず、口を開けて笑った。

 天はいつの間にか紅色の霧のようなものに覆われている。本来暗幕を飾る星々のきらめきは紅霧に隠され、月明かりさえ届かない。天気予報じゃ今晩は快晴だって言っていたのに、見たことも聞いたこともない天気になっている。

 

 

 ほら、見ろ! 

 

 

 戦乙女は叫んだ。

 神は居るかどうか分からないが、悪魔は確実に居る。紅い霧はあの小さな悪魔の仕業に違いない。

 

 金剛は笑う。獰猛な肉食獣の如き形相で天を仰ぎ、笑う。

 

 

 

 ヤツが戻って来たのだ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




Come back Flandre!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督32 Into the Dusk Horizon 3

 

 

 工廠が爆撃を受けて崩壊するのを目の当たりにした時、川内の心中はどうしようもない虚無に覆われてしまった。深手を負った金剛があの崩壊の中で生き延びられたとは思えない。新たに襲って来た敵の第二波の最初の一発が、ものの見事に整備工廠に直撃し、一瞬にして鉄の屋根で作られた天井を地上に落としてしまったのだ。

 金剛を助けに行くことは叶わなかった。地上に居る川内を発見した敵機がこちらに向かって来て、川内は逃げなければならなかったからだ。

 地面を蹴ったところで艦娘は速く走れないけれど、対空砲を遮二無二撃ちながら逃げ惑えば案外避けられるもので、近くに着弾した衝撃で二度三度転がされながらも、川内は何とか爆撃をしのいでいた。その内に敵機が何故か街の方向へ向かって行くので何とか首の皮一枚繋がった状況だった。

 けれども、襲っていた深海艦載機の中には、明らかに鎮守府の中から発艦したと思われる機体が混ざっていたことは、川内に決して浅くない傷を残している。ショックがあまりに強すぎて、敵機が襲って来ないことが分かっても、川内は折れた木の幹に身を預けてしばらく息を整えなければならなかった。

 

 

 

 あれは、川内の予想が正しいなら、赤城が発艦させたのではないか?

 

 深海棲艦の上陸はまだのはず。ならば、基地の中に居る“深海棲艦”は赤城一人だけ。

 それが意味するところを分からぬ川内ではない。けれど、だからと言って出来ることはなく、視界の中に現れた黒い影を見付けると猶更そうだった。

 ばったり、という言葉がぴったりな状況だ。休憩もそこそこに、爆撃をやり過ごして工廠へ向かおうとしていた川内は、ちょうどその周辺から上陸して来た深海棲艦の群れと遭遇してしまったのだ。気付いた時にはもう遅く、背中を見せて咄嗟に駆け出した川内に砲弾が放たれていた。

 

 工廠から東へ、通信所の傍を走る。元々そこには基地の中で一番高い通信塔が建っていたのだが、第一波の爆撃で足元を崩されたのか、見事に横倒しになってしまっていて、塔の先端が建造ドッグに突っ込んでいた。鉄骨の歪んだ塔が通信所と建造ドッグの間の道を塞いでしまっているので、川内は鉄骨をくぐらなければならなかったのだが、当然足は遅くなる。そこに敵の砲弾が着弾し、背後から爆圧を受けた川内は前へと飛ばされ、鉄塔に激突した。

 周囲にどかどかと砲弾が降り注ぎ、爆発の嵐に為すがままになって軽巡は地面を転がる。何が起こったか分からない内に、絶え間なく叩き付けられ、気付いた時には全身の感覚がなくなっていた。敵の攻撃が一旦止むと、ようやく自分が地面に手足を投げ打って、動けないことを認識する。

 

 激痛は最早感じないし、手足はちっとも言うことを聞かなかった。「女神の護り」が緩和しない衝撃が全身を叩き、川内の身体からスタミナを奪い去っていたのだ。かろうじて動く頭を転がして駆けて来た方を見ると、ル級がゆっくりと歩み寄って来ていた。

 

 

 両手に持った主砲と一体化した巨大な防循が川内を狙う。

 ツイてないなと川内は自嘲する。衝撃の抜けきらない身体ではどうやったって次の一撃を避けることは不可能だし、軽巡の川内が戦艦の砲撃に耐え得る装甲を持っているわけもない。

 ル級は獲物に動く気配がないと分かっているのか、すぐには撃たずに一歩一歩近づいて来る。路上を塞いでいた通信塔の残骸は先程の砲撃で中程が吹き飛んで、地面には折れ、千切られた鉄骨や転がった川内から外れた艤装の一部が散乱していた。その上を、ル級は悠々と歩く。

 

 

 

 

 そうだよ。もっと来い。

 

 いつ撃たれるかは分からない。が、どうやら嗜虐的な性格らしいこのル級は、無抵抗の川内に死を覚悟させる十分な時間を与えるつもりらしかった。深海の戦艦は鉄塔の残骸を乗り越え、川内の艤装を足で蹴散らして、もう手の届きそうな場所までやって来る。そしておもむろに立ち止まると、重そうに防循を地面に立て、主砲の俯角を大きく取って目の前の川内に砲口を向けた。

 口には実に邪な笑みが浮かんでおり、深海棲艦にしてはいたく悪辣な人間味がある奴だ。人類にとって悪役である彼らは、悪役らしく歪んだ性格をしている。ただし、足元が疎かになるのも、悪役にふさわしい振舞いだ。すっかり目の前の弱り切った獲物への警戒を解き、嗜虐に酔っているル級は、砲撃で飛ばされた川内から脱落した魚雷発射管が足元に落ちているのに気付いていない。その魚雷発射管を、川内の副砲が狙っていることにも、だ。

 もちろん魚雷発射管には魚雷が装填済みであり、だから川内はそれを躊躇なく撃ち抜いた。

 土壇場でル級が気付いたが、ほぼ何も出来ないまま敵は足元の爆発に宙高く打ち上げられる。爆音と閃光によって視覚と聴覚を奪われ、再度爆発によって吹き飛んだ川内は、何度も地面に身体を打ち付け、ブレの酷いカメラ映像のような視界を認識しつつ、気付けば木立の中に居た。

 

 辺りには濛々と土煙が舞い上がり、その向こうから散発的な砲撃音が轟いては少し離れた地面を抉っていく。

 頭を打ち付けたのか、しばらく「木立の中で転がっていること」以上の状況を理解出来なかった。ようやく認識と記憶が結びついて、なぜ今こんなことになっているのかを思い出した頃には、とても悠長な考え事をするわけにはいかなくなっていた。身体の感覚が少しずつ戻って来ると、強烈な吐き気がしてその場に横たわりながら込み上げて来たものを吐き出したけれど、口の端から垂れたのは赤色の混じった苦くて粘っこい液体だけだった。

 

 吐き気が収まるまで吐くと、川内は焼けるような喉の痛みに軽く呻いた。身体を起こそうとして、背筋に痛みが走ってさらにもう一度苦しい呻きを上げる。

 肘を立てて上体を支え上げようとすると肘が震える。膝を立てようとすると足が震える。立ち上がるのに失敗して転がると、左脇腹から右肩まで鋭い痛みが突き抜けた。鼻に鼻水か何かが付着していて呼吸の邪魔になったので乱雑に手の甲で拭うと、真っ赤だったので鼻血だ。口を開けて息をすると、ぐふゅう、ぐふゅう、と間の抜けた音がした。

 

 それでも立たなければならない。土煙の向こう側を警戒しているのか、ル級に続く深海棲艦は居ないが、それが川内を探しに来るのも時間の問題だろう。激痛に歯を食いしばりながら力の入らない手足で体を持ち上げ、川内はよろよろと生まれたての小鹿のように震えながら立ち上がった。

 まともに足が上がらない。歩こうにも航行ユニットの底で地表を擦るような一歩になる。それでもその場に寝転がっているよりは余程ましだったから、最早どこに異常があるのかを感知する機能すら破綻した身体を引き摺って進む。海沿いの道から坂には上がったところに艦娘寮がある。そこに身を隠そうと思った。

 

 

 

 坂、と言っても道があるわけではない。緑地化と言うより人目から隠すために植えられた広葉樹の木立がある斜面を登るのだ。木の幹を掴んで身体を引っ張り上げながら、まさしく牛歩の遅さで寮へと向かう。

 爆発の衝撃で一時的に機能不全になっていた聴覚が少しだけ戻って来る。顔を上げて周りを見回す気力もないので、わずかばかり意識を音に集中させると、鎮守府の中を荒らす深海棲艦の砲撃音が鳴り響いていた。追って来ている気配はないようなので、土煙に見えなくなった川内のことは諦めたか、死んだと断じたのだろう。

 その判断は間違いではないな、と川内は自嘲する。誰だって、それこそ深海棲艦だって、今の自分を見たら最早動く屍同然になったと思うだろうし、無力化されているのは事実だ。ここが陸地であるだけで、もし海の上だったなら艤装が浮力を失ってとうに沈んでいたかもしれない。兵装は副砲だけになり、装甲は既に機能しなくなっている。ここまで手酷くやられたのは覚えている限りでは一度もなかった。

 

 身体は鉄で出来ているかのように重く、坂を登るのにひどく時間が掛かった。それでもようやく斜面を登りきると、まだ無傷な艦娘寮がそびえている。三階建ての、特に変哲のない建物だから深海棲艦もあまり重視していないのかもしれない。幸いにして身を隠すには悪くない場所だ。

 

 

 

 

 ああ、そう言えばと川内は思い出す。

 

 何でこんな時にこんなことを、という自問も同時に生まれたが、それはさて置き、ふと脳裏に浮かんだことがあるのだ。レミリアは頻繁に鎮守府の中を歩き回り、色んな人々との交流を図っていたので基地の至る所でその姿を目撃したが、終ぞ艦娘寮で見掛けることはなかった。その理由を聞いたわけではないし、そもそも今初めてその事実を認識したのだから、あんまり気にならなかったのだろう。

 

 しかし、何故? という疑問が浮かんだ。艦娘寮にはその名の通り艦娘しか住んでいないので、日中は人気がないから来る理由もないのかもしれないが、とは言えいつも完全に無人になるわけではないから、来ていてもおかしくはなかった。

 

 

 

 川内は艦娘寮の建物を回り込み、裏庭に出る。そこは寮と弓道場の間隙に申し訳程度に芝生を植えた、さほど飾り気があるものでもない庭で、日当たりだけは良かったので非番に日向ぼっこをする艦娘がちらほら見られた場所だ。逆を言えばその程度のものでしかなかったのだし、吸血鬼だというレミリアにはおよそ関係のない場所だっただろう。

 

 

 

 

 

 彼女はここに来なかった。何時でも何処でも居ると思われたレミリアでさえ、来なかった。

 理由は分からない。けれど、それはとても重要なことのように思えた。何か、忘れてはならないことを示唆しているような気がした。

 

 

 

 

 

 そう。例えばの話。

 彼女は本当に助けに来てくれるのか?

 彼女だって来ない場所がある。来れない時と場合もあるだろう。

 それが今日だったら……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 川内は足を止めた。自分がとても恐ろしい可能性に気付いてしまったからだ。

 

 

 

「まさか……」

 

 

 

 乾いた笑いが口から漏れるけれど、どうしてもそれを否定しきれない。

 

 レミリアは消えたのだ。彼女が死んだとは思わないが、「幻想」であるレミリアはその本来の棲み処であるはずの「幻想郷」に帰ったのではないか。この世界から追い出された怪異たちが最後に求める安寧の地に。紙の裏表のようにそれはそこにあって、けれど永遠に交わることのない場所に。

 

 

 レミリアは――、

 

 

 

 

 

「うっ……」

 

 足から急に力が抜けて膝を着いた。身体の芯から何かが込み上げて来る。

 気持ちの悪い、言いようのない感覚。それは津波が陸地を浸食するように急速に川内の全身に拡大する。血管を冷たい液体が流れ、身体中を巡っているような気もした。

 自分が何か別なモノに変わっていく。血は温度を失い、骨が熱を発し、筋肉の細胞が裏返って内臓が溶けるような悍ましい感触。両腕で自分を抱いてみたけれど、何故か体温が感じられず、そのことに愕然として川内は凍り付いた。

 

 あり得ないと言い切れないその可能性を。目の前で実際に目撃したその現象を。

 

「待って……」

 

 それが起こることと轟沈は必ずしも同義ではない。嵐は沈む前に変化したし、彼女はその後も死にはしなかった。「赤城」が艦娘にあらざる異形へと変化していくのもこの目でたった今焼き付けてきたばかりじゃないか。しかも理性を失った彼女からの攻撃を受けていた。

 

 同じことが我が身に起きないなんて、誰が保障してくれていたのだ?

 

 レミリアを信じたから大丈夫だった? じゃあ信じなくなったらどうなる?

 

 

 

 自分への解釈の変化がそれを引き起こす触媒となる。では、自我の喪失とでも言うべきその解釈は、いつ、どのように、何をきっかけに、起こるのだろうか。艦娘は、何を失った時に自分さえも見失ってしまうのだろうか。

 川内には加賀のような相棒と呼べる存在は居ない。強いて言うなら第四駆逐隊がそうだが、彼女たちは「硫黄島」と共に避難したし、おそらくは健在なはず。

 

 であるならば、艦娘が深海棲艦化を受け入れてしまうのは……、

 

 

 

 

「萩風と嵐は姉妹との離別。赤城さんは加賀さんの喪失」

 

 艦娘が何かを失った時、それは起こる。何かとは、在り来たりな言葉では言い表せない、その艦娘の精神的支柱、あるいは根幹を為すもの。

 駆逐艦たちの場合は同じ部隊の仲間だった。

 一航戦の場合は彼女の支えでもあった掛け替えのない相棒。

 

 

 では川内は何か。川内は、何を失ったのか?

 

 

 

 

 

 ――レミリア以外の何があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、お嬢様」

 

 彼女は川内の前から消えた。彼女を追放した金剛に対して激怒して見せたのはそのためだ。

 

「ごめんなさい、お嬢様……」

 

 川内は今、何を思った? 誰を疑った?

 レミリアが助けに来ないなんて思ってしまったんだ?

 

「許してよ、お嬢様……」

 

 契約の対価を支払わなかった時、当然ペナルティが発生するだろう。

 川内は四駆の二人を救うために、悪魔に魂を売った。レミリアを信じると誓った。

 なのに、それを反故にしてしまったら。信じると誓った相手を疑ったら。

 

「ごめん。ごめんなさい」

 

 

 

 

 抱き寄せていた両手を見る。指先が、どうしてこんなに白くなっているのだろう? まるで、水に長いこと浸けていたようにふやけて真っ青だ。

 身体を流れる血は水銀のように硬く冷たい。それに反して、骨はそれ自体が熱源であるように熱い。

 自分は今、深海棲艦へと少しずつ変化していっているのだと、そう認識した。

 もう、人と同じものを見れなくなる。人と同じ音を聞けなくなる。人と同じ心を持てなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――化け物は、この世に存在することすら認められないのですわ。

 

 ――ならば私の顛末は、これが定めというもの。

 

 ――貴女も普通とは違う力をお持ちですから、こうはならないように気を付けて下さい。

 

 

 

 記憶の中から引っ張り上げられたのは、もう何年も前の出来事で。その時相対した彼女は、そんな言葉を残して自らを没せしめた。総てを諦めたような、それでいて寂しそうな、悲しい微笑みを浮かべて。

 

 予言だった。彼女の忠告は見事的中した。

 思えば、あの艦娘は何か悟っていたのだろう。だからこそ悲劇の結末を自ら選択し、ああ言えたのだ。今まさに化け物に成り下がろうとして、ようやく川内は言葉の意味を身に染みて理解する。

 

 

 

 

 

 遠くで砲音が鳴り響いて空気を震わせた。それにプロペラ音も紛れていた。

 いよいよ、深海棲艦が基地の中を荒らし始めたようだ。いずれ、近い内にこの場所にもやって来るだろう。残っていた艦娘寮も破壊されてしまうのも時間の問題だ。川内は、その前にもう理性を失い、心を失っているかもしれない。何より、ここにはレミリアが居ないのだから。

 

 ずっと、低いプロペラ音が頭上から降って来る。同じところを旋回しているようだ。

 胡乱な目で川内は空を見上げる。耳元に寄り付く鬱陶しい蚊を睨むように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あり得ないはずの光景。

 

 この空には、異形の深海艦載機しか飛んでいないはずだった。その飛翔音は飛行機とは思えぬような、さながらSF映画でUFOが飛んでいるような音がする。一方で、艦娘が飛ばすのはプロペラの艦載機で、この鎮守府にはそれが出来る人物は一人しか居なかったはずだ。川内も金剛も、水上機は持ち出していなかったから、艦載機扱いが可能なのは赤城だけだった。

 

 けれどその赤城も深海棲艦に身を堕とした。だから、弓を使ってプロペラ機を発艦させられないはずなのに。

 だったら、空を飛んでいるあれはどこの艦載機なのだろう? 味方を表す濃緑色と日の丸。左右に真っ直ぐ広げられた主翼と、尾翼までほっそりとスマートに伸びる機体。尾部の赤い帯は、一本。

 

 

 

 

 

 

 あれはそう。彩雲だったはずだ。

 艦隊で彩雲を運用していたのは旗艦を務めることの多かった赤城。もちろん、加賀も扱えたがメインはやはり赤城だった。旗艦である彼女が情報を集めるのに重宝していた偵察機である。何より、あの識別帯は赤城の艦載機であることの証左だ。

 

 しかし、今の赤城には彩雲の扱いは出来ないはず。ならば、飛んでいるあれはどこの所属か?

 

 そんな川内の疑問に答えようともせず、何かを伝えんと彩雲は大きな弧を描きながら旋回し続ける。その中心には、真円の満月。

 今朝のブリーフィングで、確か今晩は満月だと言っていた。

 だが、こんなに大きかっただろうか? 試しに手を伸ばして広げてみると、五本の指の先まですっぽりと満月に収まる。スーパームーンなんてものじゃない。こんなに大きい満月があっただろうか。まるで目の前にあるようじゃないか。

 しかも、満月の周囲は紅い霧のような雲が広がっている。また、月も血を塗りたくったように紅い。

 

 そう、コロネハイカラ島で見た時のように。

 

 

 

 

 自分が如何に愚か者であるかを思い知る。

 

 

 

 疑う? 誰を?

 

 失う? 何を?

 

 

 

 

 川内は笑った。

 

 声を大にして笑った。

 

 信じる信じないなんてばからしい。信じようとも信じずにいようとも、彼女は来るのだ。本人がそう宣言したのだし、プライドの高い彼女が実行出来ないことをそう軽々しく口にするわけがないのだから、言った以上はやるということなのだ。

 

 

 

 

 

 

「来たな! デーモンロード!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 身体が熱かった。心は憎しみで溢れていた。

 上半身だけになった加賀の姿がずっと頭から離れない。すべてが憎かった。

 深海棲艦も、敵の罠に気付かなかった間抜けな海軍も、彼女を護りきれなかった役立たずの味方も、そして自分自身も。

 

 弓を射る必要なんてなかった。手を伸ばして目標を指示すれば、愛おしい我が子のような艦載機たちは自在に操ることが出来た。あの、妖精の乗っていたミニチュアなんかよりよっぽど思い通りになる。

 空には自分の艦載機と“彼女”の艦載機が鳥の大群のように飛び回っていて、子供たちの目を通して見る地上の全てを支配していた。“彼女”の力は絶大だった。あらゆるものがことごとく打ち砕かれたし、逃げ惑う人間たちには何一つ出来ないでいた。時折銃を向けて反撃する人間も、空から見ればやっぱり小粒のようなので、怒声すら届かない高みから嘲笑う。“彼女”の子供たちが爆弾を巻き散らす。すると、人工物と名の付く物は全て砕かれ、崩れ、転がり、折れ、飛び上がって叩き付けられる。それを眺めていると胸がすくような気分になった。自分にも“彼女”にも敵う人間なんて居ないし、誰からの反撃も受け付けないのだから。

 

 

 

 空を支配する者が地上も海も支配する。圧倒的な物量を誇る艦載機隊に、いくら愚かな人間や艦娘が豆鉄砲を撃ち上げようと、それは大火に如雨露で水を掛けるようなものでしかない。それはそういうものなのだ。押し寄せるのは死の嵐。何者であろうとも、これに逆らい、抗うことなど出来ようはずもない。

 手始めに海に浮かぶ艦娘を叩く。すると、“彼女”が語り掛けてきて、死に体の艦娘より人間の街を焼き払えと嘯いた。

 

 艦娘たちは打ちのめされた挙句、もはや抵抗する意思すら奪われたように基地を捨てて逃げようとした。東へ。そちらには“彼女”の率いる本体が居るというのに。

 

 

 

 まったく、嘆かわしいことだ。

 

 自分たちの大切な鎮守府を、守るべき土地を見捨てて保身に走るとは、軍人の風上にも置けない。そのような臆病者が軍の中にはうんざりするくらい紛れ込んでいて、だからくだらない机上の空論だけの作戦が立案され、そのツケを現場が支払うことになる。そうでなければ加賀が沈むなどあり得なかったはずだ。栄光の一航戦が、最強の名を欲しいままにしてすべての艦娘の理想を体現していた一航戦が、崩壊するなど起こり得てはならないことだったのだ。

 

 

 

 だから、分からせる。調教する。

 

 力とはどういうものか。恐怖の根源がどこにあるのか。

 慢心の代償には何が支払われるのか。

 

 「赤城」は愚かで学ばない人間たちに、自らの血を以って理解させてやると決心した。全ては愚か者のせいなのだから。

 

 

 

「焼キ尽セ。人間ガ憎イダロウ。海軍ガ憎イダロウ。

ナラバ、オ前ノ思ウママニ鎌ヲ振ルエ! 命ヲ奪イ去レ。ソレハ我ラノ糧ト成リ、コノ胸ノ内ニ燃エ盛ル憎悪ノ炎ノ燃料ト成リ、我ラヲ突キ動カス。純然タル暴力コソガ我ラニ安寧ヲモタラスノダ!」

 

 

 遠くで、近くで、“彼女”の声がする。

 その通りだと思った。憎しみこそが「赤城」の重油。憎悪を募らせることでスクリューが回転する。

 

 全身の手足が熱い。それも骨自体が熱を発しているか、身体の内側が燃えているようだ。「赤城」の中で憎しみが沸き上がれば上がるほど熱量も比例して増大していく。

 

 

 

 

 

 

 ――燃えろ! 堕ちろ!

 

 鎮守府を焼く。街を焼く。

 見慣れた建物に爆弾が落ちてコンクリートの破片が飛び散り、駅に停車したままの電車に直撃してひっくり返し、電波塔を根元から崩して倒壊させる。暴虐と暴力の嵐に哀れな人間たちは悲鳴を上げながら逃げ惑うしかなく、空は「赤城」の支配地となった。

 

 

 

 

 ――加賀は! 加賀は、お前たちのせいで!

 

 日々戦いに身をやつす艦娘が居るのをどれだけの人間が意識しているだろう。殺し合いの果てに沈む艦娘の悲哀を、誰が弔おうというのだろう。

 

 

 

 

 ――お前たちがのうのうと暮らしている間に加賀は!

 

 優しく、我慢強かった彼女はどんなに辛い時でも泣き言の一つも言わなかったし、有能でもあったからどんな要求でも応えてしまった。長きに渡る行軍の果てに敵地最深部で旗艦を打ち取れと言われれば満身創痍になりながらも沈めて帰って来たし、膨大な搭載機数をあてにされてしまい身を守る砲もないのに戦艦部隊に随伴して殴り合いに巻き込まれて何度も巨砲に撃たれたこともあった。

 

 

 

 栄光の一航戦と称えられるまでに、空母がそれほど重要視されていなかった時代。艦載機が多いという理由だけであちらこちらの戦場に引っ張り出され、戦いの度に大破しては生死の淵を彷徨っていた。「強力無比な万能空母」などと謳えば聞こえはいいが、その実海軍は加賀本人の疲労も顧みずに都合のいいようにこき扱っていただけだ。“民意”とやらに縋る政治家たちが「国民の安全」と「国益」を名目に海軍へ無茶な作戦を要求し、海軍もまた権力を握っている幹部たちが自分の出世のために政治家に取り入って無理を押し通した。その負荷は現場にかかり、加賀はもろにその呷りを受けた犠牲者だった。

 その挙句があの末路。確かに「一航戦、一航戦」と称えられはしたが、それにしたってほとんど対外的なプロパガンダであったし、有名になってからも結局使い走りで戦わせられたのは何ら変わりがない。だと言うのに、国家のために人生を捧げ、不自由に耐え、女としてのささやかな幸福を追求する権利すら自ら投げ捨てて戦い続けた加賀は文句の一つも言わなかった。思えば彼女が苦言を呈した相手は同僚の他になく、数多の矛盾と理不尽を内包した国家や軍、あるいは社会そのものへの批判を聞いたことは一度たりともない。

 

 加賀は、理想的な守護者だった。どんな悲劇にも耐え、守るべきものを否定せず、誰よりも強く誇り高かった。

 彼女の目的は出会った頃から変わらず、この戦争そのものの終結。自らの手で終止符を打つことを望んでいた。そのために彼女は己が捧げられるありとあらゆる犠牲を支払い、自らを封殺してでも使命に殉じた。どんなに組織にとって都合よく扱われようとも、「重宝」という言葉遊びで酷使されようとも、家族を喪おうとも、決して泣き言も愚痴も零さなかった。信念こそが彼女を支えていた。結果、己が肉体を無残にも二つに引き裂かれ、別れの言葉を告げる間もなく海中に没したのだ。

 

 

 

 

 無念だっただろう。どれほどの想いを胸に抱き沈んだのか。志半ばにして死ななければならない無常に、悲哀と悔恨を述べる権利すらなかったことが、どれほどの未練を残すことになったのか。最早それらの想いは軽々しく口にすることすら憚られる。

 

 なればこそ、加賀に代わって信念を主張するのは、志を引き継ぐのは、誇りを継承するのは。「赤城」の他に誰が居ようか。彼女の無念、悲哀、悔恨、理想、大志。それらを受け継ぎ、世に示し明らかにするのは、まさに遺された「赤城」の使命ではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 加賀は国を憎んだだろうか。憎んだに違いない。

 

 軍に憤っただろうか。憤ったに違いない。

 

 国民を恨んだだろうか。恨んだに違いない。

 

 

 

 

 

 晴らされなかったそれを、一体誰が晴らすというのか。何も語ることすら出来ずに沈んでしまった彼女の言葉に魂を吹き込んで蘇らせるのは、一体誰の役目か。

 

 故に、「赤城」は“翼”を開いた。復讐という名の“翼”を。

 都合よく扱った国家に。犠牲を強いた軍に。勝手な理想を押し付けた国民に。

 加賀に代わって「赤城」が復讐する。燃え盛る力と憎悪の果てに、全てを灰燼に帰したとしても、構いはしない。加賀の死を一時の報道だけで済まして、その想いも苦しみも志も歴史に刻もうとしない愚かなこの国に、渾身の力を込めて鉄槌を叩き付ける。

 人々は理解するだろう。自分たちがないがしろにしてきた艦娘の命の重さを、身を以って思い知るだろう。

 

 

 今宵、人類の歴史に「赤城」が刻み付ける名を、「加賀」と記憶することになる。

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆弾の直撃を受けた結果か、見知った建物は無数の瓦礫と化していた。明治の時代からそこに建っていたという石造りの荘厳な軍権力の象徴は、失墜を表すかのように無残に崩れ去り、大理石だったと思しき破片が山となっているだけだった。仰々しいばかりの玄関口も、埃一つ落ちていなかった艶のある絨毯も、明かりを消すと窓から月光が差し込んだ廊下も、机が取り払われて伽藍洞のようになった司令室も、ファイルが積み重なってせせこましかった己の牙城たる秘書室も、激務の合間に艦娘たちがくつろいでいた休憩所も。何もかもが瓦礫に埋もれ、何もかもが霞のような思い出の中にしか残っていなかった。

 あれほど頑丈だと思われた鎮守府第一庁舎は、一航戦ある限りその力と栄光を訪れる者に示し続けるであろうと思われた建物は、もうこの世に存在しない。一航戦が脆くも崩れ去ったのと同様に。

 

 そしてまた、「赤城」は崩れた第一庁舎を前にしても何の感慨も抱かなかった。ただ目の前に瓦礫があることを「瓦礫がある」と見たままに認識し、受け止めただけである。既に「赤城」は「赤城」ではなく、頭のどこかで誰かが、変わっていくことを警告しているような気もしたけれど、概ね「赤城」としては変化を受け入れていた。

 

 

 

 手足を見れば黒い装甲が張り付いていて、装甲は所々身の内から湧き上がる怒りでひび割れ、割れ目から煌々と紅蓮の光を放っている。一方で装甲に覆われていない身体は青白く、水に濡れたように艶めかしい光沢を持っていた。艤装は歪に膨れ上がり、長弓は憤怒の咢(アギト)となって噛み付く獲物を待っているかのように大きく口を開けていた。

 体中に力が漲っている。奥底から無限に湧き出して来るエネルギーの奔流が血となって全身を巡り、膨大な熱量となって空気中に放出されている。脳は無数の艦載機と繋がれており、何も言わずとも「赤城」の意思に従って子供たちは空を舞い、大地に死を降り注ぐ。人間が悲鳴を上げる度、轟音を立ててビルが崩れる度、ガスタンクが盛大に吹き飛ぶ度、艦載機を通じて言い知れぬ快感が「赤城」の脳髄を貫いた。一機一機の艦載機と「赤城」は深いところで繋がっていて、彼らの見るもの聞くもの、翼で切る風、燃え盛る煙の臭い。それらすべてを「赤城」はまるでその場に居るかのように感じることが出来る。「赤城」は“母なる艦”であり、母艦に対しての子供たちが艦載機だった。

 

 

 

 

 破壊は爽快だった。

 

 破戒は心地良かった。

 

 

 抵抗の出来ない人間たちが逃げ惑い、無力な軍人たちが物陰に身を隠すしかないのを、「赤城」は子供たちの目を通して大空から眺めることが出来た。まさに高みの見物。そして、ただ眺めているだけでなく気に食わないものは言葉を発するまでもなく、意思を持つだけで子供たちが勝手に潰してくれるのだから、これ以上気持ちのいいことなどこの世に存在しないとさえ思えた。

 この街は栄光の一航戦と強固な鎮守府という要塞に守られた楽園だった。深海棲艦の脅威が全世界の海岸線を侵食する中にあって、防御に適した湾の奥という立地と堅牢な軍事基地が障壁となって、街は人間たちの住み良い場所であっただろう。彼らは戦争の恐怖も悲劇も知らず、平和を謳歌していた。

 

 しかしそれも今は昔。今朝まで楽園だった街には爆弾が投げられ、無残に破壊されつつある。この楽園に爆薬と憎しみの詰まった“血の雨”を降らしているのは、かつて街を守っていた防人であることを、人々は想像出来るだろうか。ましてやそれが、自分たちの愚と無知が原因となって引き起こされたと知ったら、なんと嘆くだろうか。

 

 

 

 これはあくまで代行だ。復讐の代行だ。

 艦娘から人間と国家へのささやかなる仕返しだ。

 

 街を守っていた基地は今や瓦礫の続く荒れ地である。その最たる象徴が、崩れ去った第一庁舎。本物の怒りと力の前には、例え権力と言えど、こんなにも脆い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「役立たず……」

 

 

 噛み締める様に呟いた。低く、唸り声のように。

 

 

「役立たず……」

 

 

 呪詛のように。

 恐らくは瓦礫に埋もれて死んだであろう鎮守府司令官に向かって。責務を負いながら、それを果たす間もなくあっけなく死んだ彼を、「赤城」は罵る。加賀を守れなかった彼を罵倒する。

 

 

「役、立たず……」

 

 

 目元が熱い。手足の熱とは違う。

 

 

「役……立たず……」

 

 

 目頭から流れ出た熱い物は鼻の脇を流れ落ち、唇を伝って顎に雫となって垂れる。それが一つ、二つと同じところを通って雫が膨らむと、重力に逆らえなくなり、いよいよ顎から落ちた。

 膝から力が抜けて、その場に跪く。何か大事なモノを喪った気がして、それがなくなったばかりにもう自分の身体を両足で支えることも出来なくなった。

 

 

 

 

 

 

「どうして……」

 

 立っていられないの?

 

 

 

「どうして……」

 

 守れなかったの?

 

 

 

「どうして……」

 

 加賀は沈んだの?

 

 

 

 

 

 

 

 何も守れなかった。ただ一人。隣に居てくれた掛け替えのない人でさえ守れなかった。

 誇りなんて、栄光なんて、どうでも良かったのだ。ただ、彼女が隣に居てくれさえすれば、他は何でも良かったのだ。彼女が居ない日常なんて想像することもなく、想像しただけでも恐ろしかったのだ。

 

 

 初めは負けん気だった。姉が教えてくれた弓で彼女に負けるのが悔しかったからだ。一本でも多く、的に当てたかったから。指の豆が潰れるくらい打ち込んで、打ち込んで、打ち込み続けた。

 けれど時は経ち、いつしか相棒は隣に居るのが当たり前な存在へと変わっていた。弓のことは彼女に訊けば何でも的確な助言が返って来たし、初めて旗艦を任されて不安だった時も、拙い言葉だったけれどえらく励ましてもらった。自分の立てた作戦に不安があればすぐに相談したし、捌き切れない仕事を頼む相手も彼女以外に居なかった。

 そんな彼女が肉親を喪った時、薄れかけていた恐怖がぶり返してきた。愛する人の死という、どうしようもなく恐ろしいそれを、思い出したのだ。

 深く傷付いた彼女が、悲しみのあまり狂って遠くに行くのではないかと思うと夜も眠れなかった。だから必死で繋ぎ止めた。目に見えない風に流されそうになる加賀を、引っ張って、手繰り寄せて、必死で抱き締めて、結局泣いたのは自分ばかり。彼女は困ったような顔をしながらも優しく包んでくれていた。呆れ果てて離れられてしまっても文句は言えないのに、泣きたいのは加賀の方なのに、彼女はずっと泣きじゃくる自分を慰めてくれるのだ。

 

 

 

 冷たい人だなんて思っていてごめんなさい。そうやって謝っても、返ってくるのは静かな微笑みだけ。

 

 ただ、もう一生分情けないところを見せただろうに、どうも自分は見栄っ張りで、負けず嫌いで、しかも我儘だったのだと思う。彼女には戦果で負けたくなくて必死に鍛錬に打ち込んだし、“デキる”秘書艦という像を維持したくて激務もこなし続けた。けれど、結局一人でやり切れずに彼女の力を借りるところも度々あったし、楽な方につい流されて厚意に甘えることも少なくなかった。

 

 

 

 誰よりも彼女のことを信頼していた。

 どうでもいい相手に見栄を張ったりしない。悔しさを感じたりしない。ましてや、泣きじゃくってしがみついたりしない。他の誰でもなく、自分の隣には加賀にしか居てほしくなかったし、彼女が離れていくなんて想像もしたくなかった。

 彼女は艦娘としては一流だった。弓の腕もずば抜けていた。口下手だけれど、意思表示は分かりづらいことが多いけれど、本当は誰よりも優しい人だった。「何を考えているか分からない」なんて謗られることもあったけれど、それは単に不器用なだけ。不器用で、不器用なりに優しさと誠意を見せる彼女が大好きだった。

 だから彼女のことを誰よりも信じていた。実力も、優しさも。あるいはそれだけではなく、ただ隣に居てくれることさえも、それが当然なんだと思っていた。傍に居てくれること自体を信頼していたのかもしれない。

 

 故に、彼女が居なくなるなんて信じられなかった。信じたくなかった。

 その時旗艦は「赤城」で、「赤城」の目の前で彼女は魚雷を被弾し、真っ二つになって沈んだ。「赤城」はただ見ているだけで、事前に警告も送れず、何も出来なかった。

 

 

 

 

 

 

「加賀……」

 

 名前を呼ばれた時、彼女は少しだけ嬉しそうにする。

 傍目には無表情に見えたけれど、何というか雰囲気のようなものが少しだけ柔らかくなるのだ。そして、呼べば呼ぶほど彼女がまとう硬い空気は解れていって、柔らかい本当の加賀が姿を覗かせる。その瞬間が、たまらなく好きだった。

 

 

 

 

「加賀……」

 

 けれども。

 もう、その名を呼んで嬉しそうにする艦娘は居ない。彼女の名前は瓦礫の山に反響することなく空気に溶けて消えていく。

 

 鎮守府は静かだった。

 生きとし生けるモノの大半が死ぬか逃げるかして、空を覆っていた艦載機も今は街を攻撃するのに執心している。時折、遠くで散発的に銃声が響くくらいだ。抵抗勢力もなくなって、上陸した深海棲艦の主砲も中々砲火を噴かない。

 

 

 

 

「加賀……」

 

 だから誰もその呟きを耳にしていないだろう。この場には自分以外居ないのだから。

 その代わり、騒がしかったら決して聞こえなかったであろう小さな音も耳に入った。

 

 

 ――低い、プロペラ音。

 

 聞き慣れたそれに意識が覚醒する。己の内に閉じ籠りかけていた意識を叩き起こし、空を見上げる。

 

 

 聞き間違うはずがない。他ならぬそれは……。

 

 

 

 

 

 

 

「あ……」

 

 声が口から漏れた。

 空を飛んでいる飛行機。濃緑色の、スマートな機影。赤い一本帯。

 見紛うはずがない。ある時から一機欠番だった艦上偵察機。土壇場で彼女へと放った使者。

 紙切れに殴り書きしたあの手紙とも言えぬメッセージは、確かに届いていたのだ。そして今、放った艦載機は戻って来た。

 

 けれど、偵察機との繋がりを感じられない。それもそのはず、母艦が艦載機と繋がるためには「発艦」という過程が不可欠となってくるからだ。

 

 

 

 では誰が「発艦」させたのだろうか。

 

 加賀は居ない。「赤城」の手元にあの偵察機はなかった。艦娘の増援だろうか? 一航戦に次ぐベテランの二航戦や、経験は浅いが実力は確かな五航戦が来たのだろうか。彼女たちならばあの足の速い大型偵察機を運用することに苦労はないはずだ。ひょっとしたら、どこかで、かつて「赤城」所属だったあの機体を引き継いだ誰かが飛ばしているのかもしれない。

 しかし、それよりもずっと高い可能性がある。信じがたいことだけれど、今目の前の現実はそれを示唆している。

 

 

 

 あの偵察機を送り込んだ相手。託した手紙の宛先。

 何より、旋回する偵察機の背後に浮かぶ巨大で、血のように紅い月。彩雲は月の周りを回るように大きく旋回し続けている。まるで、彼女が現れることを空の下の全員に知らしめているようではないだろうか。

 

 

 胸の奥が騒めいた。精神は抑えきれないくらい高揚し始めている。

 

 心臓は早鐘のように鳴り打ち、目眩がする。この感覚にはデジャブがあった。それはいつだったか。

 

 思い出そうとして、一つ気付いたことがある。

 

 

 

 

 

 月は、「赤城」の位置から見てちょうど崩れた庁舎の背後に浮かんでいるのだが、そこに一つのシルエットが現れたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 動かせない身体。震える精神。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瓦礫の上に小さな人影が立っている。

 

 白いドレスを身にまとい、頭にはナイトキャップを被っている小柄な少女。その背中からは、胴体ほども大きい黒々とした翼が左右に飛び出していて、小さな体躯を思いの外大きく見せる効果に寄与しているようだ。

 

 

 

 

 

 

「楽しそうね。私も混ぜてもらえる?」

 

 

 

 

 

 少女は鈴の音を鳴らしたような甲高い声で、楽し気な口調で語り掛けた。

 返事が出来ない。喉が干からびて、舌が口の中で張り付いたまま剥がれない。

 沈黙したままでいると、悪魔は尚も楽し気な様子で一方的にこう言った。

 

 

「始めましょうよ。ここはエリュシオン。血の雨に濡れる楽園」

 

 

 彼女が大きく両手を広げると、指の先から紅い何かが噴き出す。それは尋常ならざる速度で急速に拡散し、空気より軽いのかどんどんと上昇していっているようだった。霧のようなものだという認識をするのに、「赤城」は少しばかり時間を必要とした。

 

 

 

「今宵に開かれるのは魑魅魍魎も踊り狂う楽しい夜宴」

 

 

 

 反応したのは本能の仕業か。

 

 

 身体が構える。力を振るわんとして。大いなる脅威に対抗せんとして。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督33

 

 

 

 

 まず、副砲という選択肢が思い浮かんだので、「赤城」は瓦礫の上の少女に砲を向けた。

 装填済み。一拍子も置く間もなく引き金を引けば相手は瓦礫ごと吹き飛んで夜空に消えるはずだった。“はずだった”というのは、実際にそうはならなかったという意味で、気付けば「赤城」の目の前に白い帽子があった。

 認知することさえ不可能な速度。もちろん、防御の構えも何もあったものじゃない。腹に衝撃があったかと思えば、すっかり霧で紅くなった夜空を飛んでいる。不気味な浮遊感と衝撃に胃がひっくり返そうになった。遥か後方に突き飛ばされる格好で「赤城」の身体は放物線を描き、そして地面に叩き付けられて転がる。

 

 墜落した衝撃で全身を打ち付けたせいで激痛に呻くことになった。手足にまったく力が入らず、芋虫のようにその場でのそのそともがくしかない。

 当然それだけで済むはずがなく、すぐ近くに着弾があったような地響きがして「赤城」の身体がわずかに跳ねた。

 

 

 あり得ないことの連続と、急転直下に目まぐるしく変化する状況に頭がついていかない。たった今まで自分は第一庁舎前の庭に居たはずなのに、ここはそこから数百メートルは離れている「硫黄島」用の桟橋だった。周辺は桟橋らしく一面にコンクリートを分厚く張ってあり、それが墜落時の衝撃を余計に強める方向に働いたらしく、相当数の骨が折れたと思われる。身体が言うことを聞かない。

 意志の力でやっとこさ顔を上げて地響きのした方を見ると、足をコンクリートにのめり込ませている少女の姿があった。彼女は大業そうに片足ずつコンクリートから引き抜くと、パンパンと軽くスカートを叩いた。

 この場にも、直前の圧倒的な暴力にも似合わわない、可愛らしい動作だ。整った顔立ちは「赤城」の見知ったものだったが、その背中から左右に自然なしなやかさで広げられた黒い蝙蝠のような翼を見るのは初めてだった。それが彼女が愛らしい容姿をしていながら人とはかけ離れた存在であることを如実に示している。

 

 

 化け物め!! 

 

 口の中だけ悪態を吐き、「赤城」は身体の修復に専念する。不思議なことに今のこの体内には修復機能が備わっているらしく、本能的に治癒を意識するだけで全身の痛みが引いていき、砕けた骨が癒着するのが分かった。前者はともかく、後者は何となく頭の中でそんなイメージが思い浮かんだだけのことなのだが、全く根拠もない妄想というわけでもないだろう。

 ただ、肝心なのは回復しつつあるという事実を目の前の少女に悟られてはならないということ。幸いにして、信じられないほど油断や慢心にまみれた様子で彼女は気持ち良さそうに、声高らかに喋り出した。

 

「私の住処でのルールでは、技に名前をつけて繰り出す時に宣言しなければならないわ。『命名決闘法』。今宵はその遊びにしましょう」

 

 見た目相応の、幼い女児が友達を遊戯に誘う時のような舌足らずな声と屈託のない笑顔。彼女はこれからのことが楽しみで仕方がないといった様子で、心中の感情がそのまま一切手を加えられることなく顔に出ている。

 

 

 遊びか。と呟いて、「赤城」は艶やかな唇を歪める。

 

 いくら何でも「赤城」を舐め過ぎだ。一航戦がどういうものか、その身を以って少女は思い知ることになるだろう。膨大な数の艦載機を同時にコントロールする力というのが、どれほどの暴力であるかを彼女は知らない。街の攻撃に専念していた「赤城」と、そしてこの深海棲艦たちの親玉の“子供たち”は今頃次から次へと翼を翻して鎮守府に戻って来ていることだろう。その上、あの賢い旗艦ならさらに増援も発艦させているかもしれない。圧倒的な物量を以って一気に総てを叩き潰す。それこそが空母の力だ。

 

 ただそれまで少女をこの場に釘付けにしておかなければならない。なんなら、ある程度攻撃して力を削いでおくべきだろう。

 故に、回復の終わった「赤城」は立ち上がる。立ち上がりながら艤装の副砲を全て少女に向け、躊躇することなく全力で砲撃を叩き込んだ。

 激しい砲爆音が鳴り響き、少女の立っていたその場所を砲弾が抉る。コンクリートの破片が飛び散り、その内の幾つかは「赤城」まで飛んで来て顔や艤装に当たっては弾かれていた。「赤城」はそんなものなど気にも留めず、三回ほど連続射撃を同じ場所に撃ち続けてから砲門を一旦閉じた。

 

 

 辺りには濛々と土煙が立ち込め、遥か空中に舞い上げられた破片がパラパラと音を立てて降って来る。

 

 「赤城」はあくまで空母であるから、戦艦のような強力な砲火力を投射することは出来ない。現に今携えている副砲だって、それは副砲とカテゴライズされる類の中口径砲で、威力も大口径の戦艦主砲とは比べるべくもない。しかし、そうは言っても全六門の中口径砲が一斉に、それも三度火を噴いたのだ。合計十八発の砲弾があの少女をコンクリートの地面諸共耕しただろう。

 

 艦載機を呼び戻すまでもなかった。自衛用のサブ兵装でも何とかなった。破壊の化身となった今の「赤城」には立ち塞がる総てを打ち砕く力があるのだ。

 乾いた笑い声が乾いた空気と共に口から漏れる。背後から重そうな物を引き摺る音と金属同士がぶつかり合う音がしたので振り返ると、先程の砲撃を聞きつけたのか、深海棲艦たちが集まって来ていた。どいつもこいつも黄色や赤のオーラを纏い、それが薄暗い中でぼんやりと光っている。中には青色のものを纏っている者も居た。深海棲艦たちはもちろん「赤城」に敵意を見せることなく、立ち込める土煙と空母を遠巻きに眺めているだけだった。大方、鎮守府内の抵抗勢力を排除して手持無沙汰になったのだろう。

 

 

 そう言えば、と「赤城」は空を見上げる。

 日が沈んでだいぶ経つが、夜中にしては辺りは明るかった。普通ならシルエットしか見えないだろう、崩れた建物や倒れた埠頭沿いのガントリークレーンの姿がはっきりと見える。異様に巨大な月を除いても空は明るすぎて、その原因というのが見上げて分かった。霧が、空を覆う霧それ自体が、薄ぼんやりと発光しているのだ。

 

 

 

 そう。霧はまだそこにあった。消えてなどいなかった。

 

 ハッとする。

 

 油断も慢心も、「赤城」が何より気を付けていたことじゃないか。

 

 

 副砲に再装填し、土煙の向こうに照準を合わせる。「赤城」の目の前で視界を遮っていたそれがどこからともなく吹いて来た風によって飛ばされ、視界が晴れていく。そこに白いドレス姿の少女が再び姿を見せたなら、もう一度、今度は弾が尽きるまで撃ち込んでやろう。

 だが、「赤城」の予想に反して土煙の向こうには何もなかった。いや、正確には何もなくなってしまったと言うべきか。もちろんそれは砲撃の結果としては妥当なもので、あれだけの砲弾の嵐を生き延びられる存在などありはしないのは当然。死体が残らなくても何もおかしいことではない。実際、硬いコンクリートの地面には幾つもの破孔が穿たれている。

 

 気にし過ぎだ。「赤城」は過敏に反応した自分を諫める。風が吹いたのも偶然。というか自然。夜に海から風が吹くことなんて毎日のことじゃないか。

 別に何もおかしいことなどありはしない。いくらあの少女が強大な力を持っていようとも、あれだけの砲撃を避けたりあるいは耐えたりすることが出来るはずがない。ましてや、“蝙蝠”が生き延びたりするだろうか?

 

 

 

 

「は……?」

 

 蝙蝠?

 

 

 疑念が生まれる。何故そこに、と思う前に、その蝙蝠が笑ったのを見た。少なくとも、「赤城」の目には蝙蝠は笑ったように見えた。

 

 

 黒い塊が、クレーターの上に集まる。キーキーと甲高く耳障りな鳴き声と、鳥肌が立つような気味の悪い無数の羽ばたき音が木霊し、どこからともなく現れた無数の蝙蝠たちがその場でとぐろを巻くように集まり、すぐに一つに戻っていく。

 

 

 

 

「『うちーかた、はじめっ!』って言わなきゃだめでしょ!」

 

 

 

 

 そこに現れたのは、先程と何一つ変わらぬ白いドレス姿の少女。楽し気に嗤う仕草も、愉悦に浸った声音も、何一つ砲撃前と変わらない。

 あれだけの砲撃を食らって、どうして傷一つないのだろう。まさか、あの蝙蝠たちに化けていたとでも言うのか。

 なんで? という問いが胸の内で爆発する。引き金を引こうと指に力を込めたところで、まったくそれが為せないことに気付いた。

 

 少女から目を逸らせない。指が、否、指だけでなく全身が震えてまるで言うことを聞かないことを認識する。不随意運動のように「赤城」の意思とは関係なく、小刻みに震えているだけだ。

 少女は大きく口を開けた。唇を釣り上げて上下の歯を見せつけるような変わった口の開け方。意図は明白で、人間で言えば犬歯に当たる鋭く尖った三角形の歯を見せびらかしたのだ。犬歯と言うには他の歯に比して大き過ぎ、どちらかと言えば牙のようなそれ。

 

 

 それで、彼女が何者かということを再認識する。

 あの戦艦はロザリオを掲げながら叫んだ。英国の古い伝承には人の喉笛を掻っ切ったと書いてあった。

 少女は人ではなく、少女の形をした化け物――吸血鬼だ。首筋に噛み付いて人間の生き血を啜るという。病人のように白い肌と、大の男の犬歯より大きい牙を持つ。岩をも砕く膂力と、大陸を一晩で駆け抜ける速力。ひと声吠えれば悪魔の軍勢が傅く化け物の中の化け物。悪魔中の悪魔。それ則ち怪異の王。

 

 

 だが一方で、有名な存在である分その弱点も広く知れ渡っていた。現に「赤城」もすぐに思い出せたくらいだ。

 まず、日光に弱い。しかし今は夜であり、日の出はまだまだ先。

 白い杭で心臓を貫かれれば死ぬ。死ぬかは分からないが、杭の代わりになる物ならいくらでも見繕える。

 さらに、大蒜を嫌い、聖水を浴びせられると体が溶けるという。

 これだけ弱点があるのだし、圧倒的な攻撃をぶつければ正面からの力押しで勝てるかもしれない。

 

 

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。相手は人外の化け物だが、こちらにはまだまだ味方となる深海棲艦が後ろに控えているし、「赤城」と艦隊旗艦の主戦力たる艦載機隊だって向かって来ている最中だ。何も手が打てなくなったわけではないし、やりようはいくらでもあるはず。

 吸血鬼が蝙蝠に化けて攻撃をやり過ごそうというなら、それすら許さぬ大火力と飽和攻撃で制圧してしまえばいい。物量はこちらが圧倒的に上なのだ。数に物を言わせて力づくで押し潰してしまえば如何に強大な存在であろうとも灰燼に成り果てるしかないだろう。

 

 ただ、「赤城」が次の一手を打つ前に、背後に控え兵装を構える深海棲艦たちに号令を下す前に、吸血鬼はおもむろに右手の親指を自分の口元に持って行くと、空気に晒していた犬歯もとい牙に指の腹を押し付け、一気に引いた。

 突然の奇行に「赤城」が目を瞬かせていると、彼女は切った親指の第一関節を人差し指で押す。すると指の腹にぷっくりとした血の球が浮かんだ。少女が指の腹を下に向けると、少しずつ溢れ出ていた血が重力を支えきれずに雫となって地面に落ちる。

 

「宣言することが大事。こうやってね」

 

 血の雫が地面に落ちた瞬間、少女の足元を中心に幾何学図形が回転しながら展開される。地上絵のように地面に描かれたそれは何かの規則性に支配された同心円状の複雑な模様で、線が赤く発光している。巨大な魔法陣のようだ。魔法陣は少女と「赤城」の周囲だけではなく、建物や瓦礫の下に潜り込むように広がっていて、障害物より先にも展開されているようだった。

 あまりに常軌を逸脱した光景に目を剥く。またもや何か恐ろしいことが始まろうとしているのではないか。頭の中でけたたましく警報が鳴り響くが、最早何をするにも手遅れであることは明白で、「赤城」にはただ見ていることしか出来なかった。

 

 自分が無力であることを感じ始めた空母を前にして、幼い吸血鬼は酷く嗜虐的な笑みを浮かべつつ技名を宣言する。

 

 

 

「必殺『ハートブレイク』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 木曾たちが最終的に行き着いたのは警備隊の事務所がある建物だった。既に警備隊の姿はなく、彼らは退却したか逃げたのだろう。そうでなければどこかで死体になっているはずだった。ここを過ぎればすぐ後ろには裏門があり、裏門の外は住宅街である。すなわち、ここを突破されればもう後がないという場所だった。そんな場所に陣取って、しかも押され気味で突破されそうになっているというのが、木曾たちの置かれている状況だった。

 

 

 弾薬庫からここまで来るまでに二人死んだ。五人が負傷し、その内の一人に木曾自身が含まれている。至近弾となって着弾した砲弾の破片が左腕に突き刺さったのだ。幸いにして艦娘である木曾は簡単な応急処置だけですぐに動けるようになったが、同じ攻撃で二人がバラバラに吹き飛ばされて他に四人が身体が欠損するような酷い怪我を負った。

 弾薬庫で合流した時にはまだ十人以上居た陸戦隊も、まともに戦えるのはもう四、五人だけになっている。それに木曾と曙、潮を加えた人数が実質的な戦力だった。

 

 艦娘と同じく深海棲艦の一撃は艦砲のそれと同程度の破壊力を持つ。いつ建物ごと吹き飛ばされるか分からない状況で、かろうじて残っている曙と潮の主砲を頼りに、近付く深海棲艦を一隻一隻狙撃して撃破しているのが精一杯だ。対戦車ロケット砲や重機関銃、迫撃砲など、使えそうな物はひと通り弾薬庫から持ち出して来たが、こうした対人間用の兵器というのは深海棲艦に対して非常に限定的な効果しか発揮しない。何しろ連中は“軍艦”なのだ。巨大な鋼鉄の船が人間大に小さくなり、手足が生えて動き回れるようになったのが深海棲艦であり、艦娘である。小さくなったからと言って別に装甲が脆くなったわけでもない。

 

 ましてやここは沈むことのない陸の上。完全撃破以外に止める手段はない。

 

 

 

 木曾は陸戦隊の隊長と曙を引き連れ、警備隊の建物から少し離れた木立に身を隠していた。建物と木立からの射線が交差する点、裏門へと続く道の上がキルゾーンだ。のこのこと進んで来た深海棲艦を正面と側面から挟撃し、手早く撃破する。

 隊長は指揮を、曙が主たる火力である10㎝高角砲を持ち、木曾が火炎瓶や通常兵器でそれを支援する。特に火炎瓶はよく効いて、深海棲艦は存外火に弱く、着火するとあたふたと逃げ回り始める。そこを曙の主砲で的確に撃ち抜いていくのだ。交戦距離が海上より遥かに短くなる陸上では、普段から数キロ先の豆粒みたいな大きさの的に弾を撃ち込んでいる艦娘にとって、命中弾を与えるのは非常に楽な仕事だった。地面は波打たないし、敵も海の上を航行するのに比べれば止まっているようなものだ。ましてや深海棲艦を狩るのに慣れた曙にとっては、陸の上を這いまわるだけの敵を撃つのは造作もないことだろう。

 撃っては移動を繰り返す。上陸した深海棲艦は鎮守府全体に拡散しているようで、裏門に来るのはそれ程多くない。だからと言って正門やあるいは他の場所へ向かった敵を追撃するだけの戦力はなく、最も住宅街と中心街に近い裏門だけは死守せんと戦っているのだ。時折遠くで戦艦の大口径主砲が砲火を噴く轟音が聞こえて来たので、敵かあるいは金剛が戦っているのだろう。

 もちろんすべての敵を撃破することは不可能だ。死体に出来たのは軽巡や駆逐艦ばかりであり、より頑強な重巡や戦艦とは戦っていなかった。今来ているのは恐らく先遣として上陸した部隊だろう。この後本隊である主力艦が来ることは目に見えていた。しかし、木曾たちには戦艦の装甲を撃ち抜くすべがない。

 せめて金剛が居ればと歯噛みするが、ないものねだりをしても仕方がなかった。それどころか彼女は生きているのかすら怪しく、時折聞こえる大口径砲の砲音が彼女のものであることを祈るばかりである。

 

 

 

「漣! 漣!」

 

 木曾は持って来たトランシーバーに呼び掛けた。陸戦隊から借りた物で、警備隊の建物の傍に居る漣たちとの連絡用だ。

 

「救援部隊はどうだ?」

 

 幸いにして警備隊の事務所の中には長距離無線があり、それはまだ健在だった。鎮守府自体の通信所は爆撃で破壊されてしまったが、警備隊が独立した無線を持っていたのでそれを使って中央と連絡を取ろうと負傷した陸戦隊員が動いてくれたのだ。彼らは銃を持って戦えなくなったが、動ける者はこうして支援に回ってくれている。

 鎮守府への敵襲の一報はあっただろうが、海軍本部もその後の状況は把握していなかったはず。何しろ早々に通信所が潰されてしまったのだから。

 

「さっき連絡取れたよ。こっちに向かってるけどまだ時間が掛かりそうだって」

「どれくらいだ? あとどれくらいで来てくれるんだ!?」

「……二時間は見積もった方がいいかも」

 

 ふざけんな! という罵声が口をついて出そうになった。漣相手に怒鳴り散らしても彼女が悪いわけではないので気分を悪くさせるだけだと思い止まる。それでも胸の内に一度沸き上がった感情を出さずにはいられず、木曾はその場に唾を吐き捨てた。

 

 

 二時間! とても持ちこたえられるはずがない。そんな悠長なことを言っていたら、救援が来た時には木曾たちはとっくに肉塊に変わり果てているだろう。

 中央の反応が思ったより鈍い。状況が混迷しているのを含めても、対応が遅いと思わずにはいられなかった。しかし、彼らを批判してもどうにもならないのも現実。気を取り直して木曾は考えをまとめる。

 

 今優先すべきことは生存だ。生き残ることだ。

 どうせ玉砕したところで敵には大して打撃を与えられないだろう。それならば、嫌らしくしぶとく粘って少しでも敵の注意を街から自分たちに引き付けておくべき。そのためには生き延びていることが大前提だ。

 

「どれくらいだって?」

 

 木曾が無線交信を終えたのを見計らって隊長が尋ねて来た。「二時間だそうだ」と正直に言うと、彼も顔を顰めた。

 

「そんなに保てない」

「言っても仕方がねえ。出来るだけ粘るしかないだろう」

 

 吐き捨てるように言ってから、すぐに木曾は人差し指を口元に当てた。

 警備隊から南東の、教育隊の兵舎があった場所。兵舎自体はとっくに瓦礫の山だが、身を隠し伏撃するにはもってこいの場所だった。警備隊の事務所との間に深海棲艦が現れたのだ。ヘ級と見られる軽巡とロ級の後期型らしき足の生えた駆逐艦。歪な黒い塊に人の上半身と両腕が合体したような軽巡と、大きなイタチザメに人間の両足がそのまま付け足されたような気味の悪い外観の駆逐艦のツーペアだ。どちらも海の上ではすばしっこい厄介な敵だが、陸の上ではびっくりするくらい動きが鈍い。見た目は悪いが処理は楽な相手。深海棲艦は人型に近付くほど強くなる傾向があるので、異形の連中と言うのはすなわち雑魚連中である。

 

 隊長が無反動砲を担いで瓦礫の山を下っていく。武器は海外の特殊部隊でも隊員たちが「誰が撃つか」で喧嘩するという一物。みんな大好きカールグスタフさんだ。

 彼が瓦礫の山の影でポジションに着くのを確認すると、木曾は手を振って隊長に合図を送り、火炎瓶に着火する。カールグスタフ無反動砲が爆音を立て、ロケットと言うより小型の大砲と呼ぶにふさわしい威力で軽巡と駆逐艦の間に着弾した。派手な土煙が立ち上がるが、二隻がよろめく程度の被害しか受けていないのを木曾はその目で確認した。だからこそ、これは足止めにしかならないし、そしてそれで十分だった。

 

 軽巡と駆逐艦の目が(あるならば、の話だが)隊長の隠れていた瓦礫の影を向く。彼はその前に走って逃げ出していた。

 気を取られた一瞬。木曾が投擲した火炎瓶が縦に回転しながら放物線を描き、駆逐艦の頭に当たる。刹那、ロ級は火に包まれ、悍ましい雄叫びを上げた。同時に軽巡の頭を10㎝砲弾が撃ち抜き、瞬く間に二隻が無力化される。

 

「一丁上がり」

 

 木曾は僚艦に笑い掛けて親指を立てる。だが、曙は踵を返すとひどく慌てた表情で瓦礫の山から飛び降りた。

 

「逃げて!!」

 

 その叫びに何かを思う前に身体が動く。直後、背後から爆圧を受けて木曾は綺麗に宙を舞って地面に叩き付けられた。受け身を取りつつ身体を転がして衝撃を和らげられたのは日ごろの訓練の賜物だろう。それでも、全身を芯まで貫いた痛みに呻き声が漏れた。

 

 

 

 仲間が居たのだ。

 

 偶々か、あるいは罠だったのか。深海棲艦は他にも居たのだ。

 

「畜生!」

 

 悪態を吐きながら立ち上がる。周りを見ると着弾の衝撃で木曾と同じく吹き飛ばされた曙と隊長が同じく立ち上がり掛けているところだった。二人ともさほどダメージは受けていないのだろう。だが、先程まで自分たちが居た瓦礫の山の上に現れた存在を見て、また木曾は「畜生!」と吐き捨てた。

 

 重巡だ。ネ級だ。

 

 強力な人型深海棲艦。見た目は人間の女性と大差なく、片側だけ伸ばしたアシンメトリーな白い髪の毛に片目が隠され、露出したもう片方には青白い光が灯っている。最大の特徴は、全身を覆う衣服のような装甲から尻尾のように生えた艤装で、先端が二股に分かれ、それぞれに三連装の中口径砲が備えられている。首の付け根から口元までを覆うマスクのような装甲板と長い前髪に隠れ、その表情はほとんど伺えない。ただ覗く左目だけが冷淡な光を宿したまま三人を見下ろしていた。

 “色なし”のノーマルクラスのネ級だが、完全な人間体であることが示す通り、艦娘の間ではとりわけ危険な深海棲艦として認知されている。

 中口径砲ではなかなか貫けない堅牢な装甲に、戦艦に比肩する強力な主砲、何より快速な小型艦に匹敵する機動力とそれに起因する回避力の高さ。走攻守にバランス良く優れた手ごわい相手である。その足の速さは陸地の上と言うこともあって多少削がれるだろうが、攻撃力と防御力は何ら変わることはない。駆逐艦主砲だけではまず撃破など望むべくもない相手だった。

 

 

 

 

 ここまでか。

 

 自慢の魚雷があれば沈めるのはそんなに難しい相手ではないが、陸地の上では雷撃不可能だし、そもそも魚雷はもう手元にない。艦娘の武器と言えば曙の10㎝高角砲が一基のみ。徹甲弾もないのではネ級には勝つ手段がない。

 それは相手も分かっているようで、蛇が獲物を狙うように尻尾の主砲がゆっくりと鎌首をもたげ、合計六門の砲口を三人に向ける。

 

「くたばれ×××!!」

 

 大声で口汚く罵りながら中指を立てた。ネ級は表情一つ変えない。

 が、突然響いた轟音にその体が瓦礫の上になぎ倒される。

 連続する砲音。ネ級の周囲の瓦礫が爆発し、高々と空に舞い上がる。「撃ち込め!」と木曾が叫んだ時にはもう曙の主砲も火を噴いていた。

 

 初めにネ級を撃ったのは、しかし曙ではない。明らかに別の方向からの砲撃だった。

 

 

 

「まだ生きてる!!」

 

 後ろの方から聞き慣れた叫び声が聞こえて、木曾は思わず笑みを零してしまった。そして振り返らずに、立ち込めた土煙に身を隠しながらネ級の立っていた瓦礫の山に肉薄する。

 果たして叫び声の言う通り、煙の向こうに薄っすらと映る敵の影を認めた。そこに向かって残っていた火炎瓶を全力で投げつける。これが手持ちでは最後の一本だったが、外した感触はなかった。実際、火炎瓶は見事煙の向こうのネ級に直撃する。

 

 だが相手は駆逐艦のように簡単にはやられてくれない。火に包まれながらもネ級は瓦礫を駆け下って来た。木曾は慌てて逃げるが、不思議と艤装を背負ったままのネ級の方が足が速い。

 主砲にダメージがあったのか発砲されなかったのは運が良かった。その上木曾はさらにツイていて、丁度なりふり構わず煙の中から姿を晒した格好になったネ級は自ら狙いやすい的になった。

 

 燃えていたのだ。照準を着けるのに苦労はなかっただろう。間もなく集中砲火を浴び、しかしそれでも堅牢な装甲を撃ち抜くことは叶わない。ただし、足止めにはなったし、致命的な時間の浪費を強いることには成功した。

 突然、爆音がしてネ級の身体が四散、バラバラに吹き飛んだ胴体や艤装の破片が辺りに飛び散った。古今東西、火の手が弾薬庫に回り、爆沈した船の例は枚挙にいとまがない。小さくなって燃えるネ級の残骸を見下ろし、木曾はほっと息を吐いてからやって来た軽巡に振り返った。

 

「助かった」

「後でタスポ貸して。どっかで落としちゃった」

「持ってねーっつうの! もうとっくに返却済みだわ!」

 

 そうなのだ。木曾もかつては喫煙者だったが、一昨年禁煙に成功して以来一本も吸っていない。言葉通りタスポも返却済みだった。

 

 

 

 顔を見ると、彼女は酷い有様で全身血まみれだ。最早自分の容姿に気を払う余裕すらないのか、口の端から血が混じった唾液が糸を引いて垂れている。鼻血は出ているし、足からの出血も酷い。というより今の彼女の表皮で血に濡れていない場所を探す方が難しい。髪も山姥みたいにぼさぼさだ。

 満身創痍になりながらも、しかし軽巡は元気そうな様子で、自分の要求が一蹴されると唇を尖らせた。戦闘の緊張感にそぐわない態度。今がどういう状況か分からぬ川内ではないから、いたく余裕のある様子に木曾は眉を顰めた。

 

「コンビニやってないでしょ? 街の人はみんな避難しちゃってるでしょ」

「自販機動かす電気だって通ってるか怪しいぞ。っていうか、余裕綽々だな」

「ん。まあね」

 

 川内は得意気に笑う。彼女は上機嫌で、そしてとても興奮しているようだ。あまりにも過酷な状況に、脳内麻薬が垂れ流しになって理性の回路がショートしてしまっているらしい。

 

「そんなことは後さ。他の子たちは?」

「警備隊のところに。手持ちがなくなったし、一旦退却する」

「オーケー」

 

 鼻歌でも歌い出しそうな川内は口の悪い曙に「気味悪い」と罵られようが気にしていない様子だった。

 四人は走って警備隊の建物まで戻り、そこで建物に隠れていた潮と再会した。隣には漣と残っていた陸戦隊員たちが控えていた。

 

「川内さん!!」

 

 潮が強張っていた表情を崩して目を潤ませる。

 

「みんな元気……そうじゃないね」

 

 そこには負傷した兵士も居る。さすがに川内も察して声のトーンを落とした。

 

 

 

「取り合えず、情報交換しよう」

 

 と切り出してから、彼女は手短に別れてから見聞きしたことを語った。

 それによると、深海棲艦化した赤城に襲われ、金剛と別れた川内は艦娘寮に一旦避難し、そこから敵の合間を縫って弾薬庫までたどり着いたのだという。すると、どこからどう先回りして来たのか、ばったり金剛と出くわしたらしい。金剛が持って来た高速修復材の残りを浴びた川内は、急いで補給を行い、また彼女と別れたのだという。金剛は水際で上陸を阻止するために海の方に向かったとのことだ。先程から時折響いていた大口径主砲の轟音はやはり彼女のものであったらしい。

 一方の川内も隠れつつ戦闘音がした裏門に向かい、そこで丁度ネ級に襲われていた木曾たちを見つけることになったようだった。軽巡によれば、鎮守府の中に散らばった深海棲艦の数はそれ程多くないようで、その内のほとんどが正門に向かうか埠頭の方に向かっていたという。

 

「案外、もう連中は街まで到達しているかもしれないな」

 

 海岸線沿いに伸びた鎮守府は正門と裏門の間の距離はそこそこあって、正門はどちらかと言えば郊外に近い場所に位置していた。だからこそ、木曾たちは中心街に近接する裏門の守備に回ったのであり、必然正門には防御線が張られることはなくなったのだった。

 

「こっちの方はあんまり来てないみたいだね。正門か、後は大体金剛さんが引き付けてくれているよ」

「それよ! 金剛さん一人にするわけにいかないでしょ」

 

 曙が半分非難の混じった声で川内を問い詰めると、軽巡は相変わらずの飄々とした様子でそれを受け流した。

 

「大丈夫じゃないかな? あの人、変にテンション高かったし」

「はあ? ナニソレ」

「うるさいくらいだったよ。早口で英語を捲し立てるから何言ってるか分かんなかったし。言うだけ言って補給したら工廠の方に走って行った。だからもう好きにさせとくことにしたんだ」

 

 そう言って川内は肩をすくめる。何一つ要領の得ない説明だった。

 

「よく分からんが」

 

 これ以上詳しく聞いても、川内自身が金剛の様子についてあまり理解しているようではないので埒が明かないと判断した木曾は、話を取りまとめに掛かった。

 

「金剛さんはとりあえず後回しだ。こちらから伝えられることと言えば、中央からの救援があと二時間もしないと来ないことくらいだ」

 

 すると川内はまた不敵な笑みを浮かべる。謎と言えば、彼女の妙な自信も謎だった。

 

「必要ないね。それまでには片が付くよ」

「あ? どういう意味だ?」

「空を見なよ。ほら」

 

 と言って川内は指を立てた。つられて木曾も空を見上げて、ようやく異様な光景が広がっていることに気付いた。

 

 

 

 空が紅い。赤潮が浮いているかのように紅い。よくよく見ると、夜空がそういう色に変化しているのではなく、天幕と地上の間に紅の霧のようなものが広がっているのだと分かった。

 こんな現象は見たことがない。ただ、一つだけ心当たりと言うか、予想出来ることがあった。それが正しいなら、川内の様子も説明がつく。

 

「まさか……」

「そのまさか、さ! お嬢様が戻って来たんだよ!」

「おい、冗談だろ!!」

 

 木曾は笑おうとして、うまく笑えなかった。川内がとても伊達や酔狂で言っているわけじゃないと分かっていたからだ。

 周りを見渡せば曙も漣も潮も、隊長や陸戦隊員たちも信じがたいような顔をしている。

 

「性質が悪いぜ」

 

 木曾は首を振った。

 

 

 あの少女提督がどうやら“人ではないナニカ”だったらしいというのは聞き知っているところだが、こんな不気味な現象を引き起こしてしまえるような存在なのだろうか。にわかには信じがたく、では戻って来た彼女はどこに居るのだろうかとその姿を探して辺りを見回すとまったく別のものを見付けてしまった。

 

 

 

 

「おい、冗談だろ……」

 

 もう一度木曾は同じことを口にする。

 

 

 先程ネ級を撃破した兵舎の瓦礫の影から、のっそりと姿を現した人型を見る。重そうな砲盾を杖のように歩くに合わせて交互に前へ突き出してこちらに向かって来る黒い女。全身に金色のオーラを纏い、左目だけが青い炎を噴き上げている。さらにその後ろから、同じく金色の個体、赤色の個体が続く。

 

 ル級たちはあまり素早く動けないようで、砲盾を引き摺るようにゆっくりと歩み寄って来る。

 

「川内! おい! 呼べよ! レミリアの奴を呼べよッ!」

 

 木曾は無我夢中で叫んだ。視界の端で潮が漣を引き摺って建物から離れようとしている。

 

「『助けて』って!! なあッ!!」

 

 先頭を行くル級改が砲盾を地面に突き立て、砲口をはっきりと木曾に向けた。

 

 それが合図。全員がその場から離れようと、ある者は建物の影へ、ある者は建物から離れて。木曾は離れる方を選んだ。

 耳をつんざく轟音。衝撃波に薙ぎ払われ、何度も身体を地面に叩き付けられる。視界が激しく明滅し、間近で響いた破裂音に麻痺した耳が痛みを発した。

 

 

 受け身も取れずにいた木曾は衝撃から復帰出来なかった。ただ、自分が転がった地面が赤く、ぼんやりと光るのを認識する。それが何かだなんて、多分きっと普通の状態でも想像つかなかっただろうし、ましてや砲撃を受けて頭がまともに働いていない状態ではただ視覚情報を脳に仕入れるくらいしか出来ることがなかった。とにかく地面が光っていて、次に迫り来るル級たちの存在を思い出してその様子を伺った時、深海棲艦が立っていた場所に地面と同じ色に光る“柱”が代わりに立っていたことを見ただけだ。

 

 

 

 衝撃と、常軌を逸脱した光景に、目の前の現実を受け入れられない。爆圧を受けたせいで網膜がおかしくなってしまったのかと思った。誰かに尋ねようにも近くに誰が居るか分からなかったし、耳が聞こえないので喋れなかった。

 ただ、見間違いでなければだが。どうやらさっきまでゆっくりと歩いていたル級三体は、地面から生えた紅く光る槍に串刺しにされているようだ。

 

 おい、冗談だろ!! と言おうとして、口から漏れたのは乾いた空気だけ。

 

 深海棲艦は地面から突き上げられた槍に刺し貫かれ、その死骸が墓標のように立ち並んでいる。

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親友たる大魔女の魔法陣展開法を参考に、瞬時に複数の標的に照準を定めて得意の“妖力の槍”で穿つ魔法。初めての試みで、固有の技名も付けていないから便宜上既存の技名を流用したが、中々上手に決まったようだ。赤城の応援に駆け付けた深海棲艦も、鎮守府の中をうろついていた深海棲艦も、陸に足を着けた者は全て照準し、一匹残らず槍で貫いた。一発で成功させられるとは、我ながら戦闘センスはずば抜けていると自賛してみる。おかげで鎮守府の至る所で、かつて串刺し公ヴラド・ツェペシュがオスマン兵の死体を街道沿いに並べた時の光景が再現されていることだろう。

 初めての技の出来に満足しつつ、レミリアは目の前で立ったまま震えている空母に目を向ける。大人しそうな顔をして彼女はかなり太い肝っ玉の持ち主だ。これだけの光景を目の当たりにしても腰を抜かしていないなら、十分及第点と言えよう。あるいは、あまりに現実離れし過ぎて受け入れ切れていないだけかもしれない。

 

 だが、いずれにしろ自分から逸らされない視線の中に気丈さを見出すと、吸血鬼は満足気に鼻を鳴らした。彼女の心はまだ折れていないし、手札も残っている。

 

 

 

「夜ノ王」

 

 

 

 どこか遠くから、それでいて耳元で囁かれているような奇妙なエコーの掛かった声がレミリアを呼んだ。ああこれは、と思い出してまた鼻を鳴らした。今度は不愉快であることを表して。

 

「夜ノ王」もう一度深海棲艦が呼ぶ。

 

 

「我ラノ目的ハ、ソノ娘ダ。大人シク引キ渡シテクレレバ何モシナイ」

 

 

 音源の特定出来ない声は思いの外気持ち悪さを残す。実際に話し掛けてきている深海棲艦の居場所はこの鎮守府の港よりもずっと離れた場所だろう。安全な場所から高見の見物を決め込み、「大人しくすれば何もしない」なんて高慢ちきな戯言を嘯く輩は大変気に食わない存在だ。取引を持ち掛けたいならせめて面と向かって話せ、と言いたい。

 

 上空には、レミリアが霧で覆ったその上には無数の艦載機が飛び交っている。姿は紅霧に阻まれて直接は見えないが、プロペラ音とは違う独特の風切り音が幾重にも重なって辺り一帯に響いていた。中には赤城が発艦させたものも含まれているだろうが、音に聞くだけでも相当数が飛んでいると思われるので、これだけの数の艦載機を操れるのは空母系のかなりハイグレードな深海棲艦に限られるだろう。提督“だった”頃、中部太平洋戦線において深海棲艦の脅威の一つの核とみなされていた「空母水鬼」が妥当だろうか。

 “姫”を超える“水鬼”クラスの深海棲艦なら、この鎮守府に上陸し、さらに周辺海域にも控えているであろう大艦隊を指揮・統制するのはさほど難しいことではないはずだ。

 では空母水鬼は紅霧に隠された地上の情報をどうやって得ているのであろうか。上空の艦載機がレミリアの魔力で生み出された紅霧を透過して地上を見ることは出来ないはずなので、地上に水鬼の目の代わりがあるに違いなかった。そして、その候補というのはさほど数があるわけではないし、一番可能性が考えられるのは、誰がどう見たって目の前に居る深海棲艦化した赤城くらいしかないだろう。

 

 

 故に、レミリアはわざわざ右手を顔の前に持ち上げ、手の甲を赤城に向け、中指だけ立てた。

 

「“弾幕ごっこ”をいつ終わらせるか決めるのは私よ」

 

 果たして予想通り、赤城の目を通してレミリアの挑発を見た空母水鬼が反応する。

 

「ソウカ。ソレハ残念ダ。デハ、終ワリニシヨウ」

 

 上空を飛んでいた艦載機の飛翔音が変わる。具体的に何がどう変わったかと言うと難しいが、一旦音が小さくなり、それからてんでバラバラに聞こえていたものがそろったように思えたのだ。もちろん「気のせい」と言える範疇の変化だが、上空で無秩序に飛び交っていた艦載機が群体を形成し、隊列を整え、レミリアを破砕せんと急降下爆撃の予備動作に入るのがありありと思い浮かんだ。

 

 

 

 

 なるほどこれが空母水鬼の自信の源である。圧倒的な物量と破壊力を持つ艦載機隊があれば怖いものなどないのだろう。手下の深海棲艦が大小関わらず十把一絡げに槍で刺し貫かれて壊滅しようとも、水鬼にとってはさほどの痛みではないのだ。手下より自分の艦載機の方を信頼していそうだった。

 

 ということはつまり、教育してやらねばならないのである。思い上がった空母水鬼に身の程を教えてやる必要がある。

 

 年長者、特に親や兄姉は敬うこと。言葉遣いは丁寧にすること。遊びの最中に無粋なことを言って場を白けさせないこと。あと、自分より強い者にはへりくだってひれ伏すこと。

 

 

 餓鬼が。と呟いてレミリアは地面を蹴る。

 

 

 

 

 空へ飛び上がり、螺旋を描きながら上昇を始める。比較的低高度に散布していた紅霧はすぐに突き抜けた。その上には空母水鬼や赤城、あるいは水鬼の護衛の空母たちの艦載機が飛び回っている。徐々に隊列を組み上げている最中なのだろう。既に形成された飛行編隊が幾つも黒い蛇のように空に浮かんでいた。

 

 およそ飛行機とは言えぬ形の小さな怪異たち。それが百、二百の数ではない。軽く五百は数えられるだろうと思しき大群だ。所謂「旧型機」と呼ばれる宇宙船のような機体も多数だが、それ以上に「新型機」と呼ばれる丸いバスケットボール大の艦載機が多い。機体は白く、目と口がはっきりと存在していてさらにヒレかあるいはトサカのような突起が見て取れる。凶暴そうな風貌だが、実際凶暴で、その威力は艦娘の間でも恐れる者が多いと聞いた。

 第一線で戦い続けた赤城や加賀をして、最大限の警戒と全力を以て迎撃を行わせるものであるのだから、その脅威と言うのは余程のものであるのだろう。巨大な航空爆弾をぶら下げているのは艦攻。そうでないのは既に爆弾を落とした艦攻か艦戦だろう。艦戦はもちろんのこと、爆弾を投下した後の艦攻も機銃で武装しているから制空戦に参加してきて厄介だとは、いつだったか赤城がぼやいていた覚えがある。まさか本人がその機体を扱うことになるとは誰も想像していなかった。

 

 

 紅霧から飛び出したレミリアを見付けると、艦載機たちは編隊を組むのを中断し、一目散にこちらに向かって来た。周囲は下方向以外すべて深海機に囲まれている。つまり、ほぼ全方向から攻撃を受けることになった。

 背中の羽を全力ではばたかせて、レミリアはとにかく加速した。機銃掃射くらいでは頑強な吸血鬼の表皮が傷付くとは思わなかったが、鬱陶しいのは間違いない。大きく螺旋を描きながらどんどん上昇していく。

 一部の艦載機が攻撃を仕掛けて来て夜空に曳光弾の筋が引かれたが、加速するレミリアには当たらない。そのまま速度に乗って強引に艦載機の大群を突破する。途中、深海機の大編隊を遠巻きに眺めていた彩雲の機影が見えたので、この場を離れる様に指示を出した。指示と言っても、単に頭の中で「鎮守府の上空から離れなさい」と念じるだけであり、彩雲と意識が繋がっているのでそれで十分だった。命令が通じた彩雲は翼を翻し、大きく旋回しながら宵闇の向こうへと姿を紛れ込ませる。

 

 

 レミリアは尚も高度を上げ続けた。軍勢の中を突破された深海機はそれを追随する。だが、レミリアには千里を一晩と掛からずに駆け抜ける足がある。これを凌駕出来るのはより以上の速さを誇る烏天狗か、地点から地点への瞬間移動が可能な紅白巫女や隙間の妖怪に限られるだろう。当然、深海機ではどんなに頑張ったところで追い付けるものではない。それも、レミリアは直線的に上昇するのではなく、速度差を少しでも小さくするためにわざわざ螺旋軌道を描いているのだが、深海機はそれでもどんどん引き離されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 夜空に薄ぼんやりと掛かっていた雲を突き抜けると、暗幕に砂金をばらまいたような夜空が広がっていた。天高くに星々を従えるように無慈悲に紅い満月が居座り、冷淡な表情で地上を見下ろしている。今宵行われることの全てを、この夜空の女王に見届けてもらうことになるだろう。

 

 紅月は血のように紅く、妖しく、禍々しく。輝いている。

 

 吸血鬼は、月に囚われた悪魔は、おもむろに上昇を止め、空中に留まった。そこはレミリアと見下ろす星月以外存在しない夜空の真っただ中。まだまだ寒い高高度。追い掛けて来た深海機たちは遥か眼下にある。

 

 

 

 空中にてレミリアは立位を取り、月と向き合う。

 これは、戦いに赴く前の十字軍兵士が教会で神に必勝を誓うようなものだ。かつてこの国で源氏の武士たちが八幡の神前にて杯を掲げたようなものだ。

 

 偉大なる月のしもべたる妖怪の少女は恭しく主人に向かって一礼を捧げると、大げさな口ぶりで宣言した。

 

 

「宴もたけなわに。おいたの過ぎるじゃじゃ馬空母にはきつーい仕置きをしてやりましょう。

月よ。我が栄光の守護神よ。

貴方の御前に一つ華麗なる不可能弾幕を捧げてみせます。とくとご覧あれ」

 

 

 レミリアは技名を呟きながら、後ろに倒れ込んだ。羽を広げ、両手を広げ、首元を冷たい空気が長い髪をかき乱しつつ駆け抜けるをの感じながら、何の支えもない空中にて夜空に身を投げ出す。イカロスが天より落ちた時、彼は眼下に広がる大地と雲に何を思っただろうか。

 

 

 

 

 今の大地は月に照らされて真っ赤だ。鎮守府の上は紅霧に覆われ、街からは幾条もの黒々とした煙が立ち上り、内陸の方へと流れていた。真正面、つまり真下からは深海機が唸りを上げながら登って来ている。

 

 レミリアは両手と羽を目一杯に広げたまま頭を下にして落ちていく。落ちながらレミリアは自らの軌跡を夜空に刻み付けるため、妖力を紅霧という形で少しずつ噴出させた。そして身体をわずかに捻って回転力を加えると、指の先から放出される紅霧が二重螺旋を描いていく。

 

 

 

 深海機は真正面に。彼我の距離はぐんぐんと縮まる。

 

 

 

 レミリアはナイフの形をした魔弾を妖力で作り出す。それが一つ二つと増えていき、間もなく弾幕と呼べるくらいの密度になった。紅魔は回転しながら夜空に軌跡を残し、全身から撒き散らされる弾幕の密度を徐々に上げていく。

 

 深海棲艦の艦上戦闘機が先頭になって、大群を引っ張り上げるように上昇していた。その先頭の機体は例の「新型機」であり、機体の半分ほどを占める大きな口を全開にして鋭い牙を見せ、その奥から怪物が吹く火のような閃光が迸る。曳光弾がレミリアの髪を掠めていった。

 自然の重力落下に身を任せる吸血鬼と、全速力で重力を振り切る深海機。相対速度は亜音速に至るだろう。しかし、艦載機には、その目を通じてこの光景を見ているであろう航空母艦には、はっきりとそれが認識出来たはずだ。紅い尾を引きながら顔面一杯の邪悪な笑顔で落ちて来る悪魔の姿が。

 

 悪魔はその比類なき動体視力でもって目に映る標的の総てを捉えていた。何しろ、音を超える速度で森の中を、葉っぱ一枚掠らず駆け抜けられるのだ。自分から見て、音より遅い速度で突っ込んで来る標的の姿をどうして捉えられないというのだろう。

 

 

 

 

 ヘッド・トゥ・ヘッド。

 

 

 

 

 大群の先頭を飛ぶ最初の一機と交錯する瞬間、レミリアの身体が一瞬白い光に包まれたかと思うと、それを合図にしたように弾幕の密度が一気に増した。

 

 間隙のある「遊戯弾幕」から、一寸の隙間もない「不可能弾幕」へ。それまで適度に隙間のあった弾幕は、閃光を合図に回避不能な壁へと変化する。

 

 同時にカウントダウン開始。レミリアは落下し、弾幕をばら撒きながら秒数を数えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一秒。

 すれ違う標的に紅いナイフ弾が突き刺さる。

 

 

 

 二秒。

 刺し貫かれた艦載機は制御を失い、その瞬間にただの歪な塊となった。

 

 

 

 三秒。

 レミリアと交差する艦載機は、ただ一機の例外もなく、全ての機体が被弾する。避ける隙間などない。

 

 

 

 四秒。

 撃ち抜かれ、引き裂かれ、弾き飛ばされて、無残な残骸へと変えられて虚空に散る。

 

 

 

 五秒。

 月と星を覆い隠す真紅の幕が、さながら巨大な顎(アギト)のように艦載機を次々と飲み込んでいく。

 

 

 

 六秒。

 大群を引き裂きながら悪魔が落ちる。その前には機銃を放つ深海の艦載機。その後ろにはスクラップになった艦載機。

 

 

 

 七秒。

 レミリアを先端に、不可能弾幕はじょうご型に広がり、重力に引っ張られるまま艦載機の大群に上から襲い掛かる。

 

 

 

 八秒。

 ようやく危機を察した母艦が指示の変更を行ったのか、突っ込むばかりだった深海機は旋回してレミリアから逃れようとする。

 

 

 

 九秒。

 だがもう遅い。上空からは弾幕の外、被弾した機体の破片が霧雨のように降り注ぎ始めている。これほど広い大空であっても逃れるところは何処にもなかった。

 

 

 

 十秒。

 吸血鬼が紅霧を貫いた。霧を抜けると急速に地面が視野一杯に広がっていく。

 

 

 

 十一秒。

 紅月の視界には、母艦の制御下にある深海機が一機も残らなかった。全てが無残な破片となった。

 

 

 

 

 吸血鬼が地響きを立てて着地。反動で地面が弾け飛ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

Fitfull Nightmare

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十二秒間の悪夢。

 

 

 被弾した艦載機の残骸が雨のように辺りに降り注ぎ、砕け散り、雪のように降り積もっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督34 Save my Daughters!

 

 

 鮮血のような夜だった。

 

 

 

 地上は紅蓮に燃え盛る炎が瓦礫も死体も一緒くたにして燃やし、その明かりが夜空を照らして星の光を隠してしまっている。

 けれども、ピジョンブラッドの如き紅く、深く、そして暗い満月は、彼女だけが煌々と輝きながら冷酷な王のように静かに地上を見下ろし、頭上から降り注ぐ赤黒い深海機の残骸に追われる者たちを嘲笑っていた。建物はことごとく打ち崩されて無残な残骸に成り果て、港を囲んでいたガントリークレーンはまるで飴細工のようにねじ切られてドックに沈んでいる。周囲の埠頭は墜落した機体が機械的な部品ではなく生物のような肉片をまき散らしてさながら絨毯のように地上を覆っているのだ。

 特別に宗教を信じていなくとも、この光景を見て地獄を思わない者はおるまい。血の臭いと重油の臭い、焦げるような臭いに潮の臭いも交じって、鼻がひん曲がりそうな悪臭が漂っている。口の中は鉄臭くなったくせに水分が蒸発して干からび、気持ちの悪い生暖かい風が肌を撫でて身が震えた。その上おぞましいのはこれだけでなく、潰された虫の大群が中身をぶちまけて辺りを埋め尽くしているような景色の中に、赤い槍の針葉樹林が乱立している。

 いや、槍が立っているというだけでも相当な不条理だが、さらに不条理なのはその槍の一つ一つに先程港に上陸して侵攻して来たはずの深海棲艦の躯が串刺しになっていることだ。

 

 このような光景は聞いたことがあった。

 そう、決して見たのではない。だが確かに過去、十五世紀の半ばごろにルーマニアで見られた光景である。その時代に生きていたわけではないから実際に目の当たりにしたのではないが、きっとそれを目にした当時の人々はあまりの異様さに言葉を失ったに違いない。

 

 

 

 今の「赤城」と同じように。

 何もかもが現実感を喪失していた。けれど、網膜に映る映像は鮮明過ぎるほどのリアリティと圧倒的な説得力を持って脳に認識を強迫する。だから、否が応でも目の前で起こっていることが、夢でも幻でも何でもなく、真実であること、事実であることを気が狂いそうなくらい思い知らされる。この悪夢が始まって、「赤城」は何度も抗えない暴力を振るわれていたが、現在なお進行し続ける異常な事態それ自体さえもが、一つの暴力となってさらに「赤城」を蹂躙し、意思を座屈させていた。

 守るべき場所が地獄の底のように変化し、自分が全くそれを止められなかった。というよりたった今、一切合切の力を奪われて完全に無力であることを思い知らされるという絶望を味わい、「赤城」は秘所を不躾な手で侵されたかのような恥辱と屈辱にまみれていた。

 だが、泣こうにも眼孔からは何もこぼれず、喉からは干上がった声が漏れ出るばかりで、まるで意志を持たぬ人形のようにその場にへたり込んで見上げるしかない。

 

 

 

 山のように――まさに山のように積み上がった深海機の残骸の上で、悠然と足を組んで見下ろす彼女を。

 

 

 

 「串刺し公」の末裔を。

 

 

 

 次は自分だという確信に近い予感がある。つい数分前まで鎮守府の空を覆っていた深海機の軍勢の内の何割かは「赤城」の子供たちだった。しかしそれが今はすべて彼女の尻の下にあり、かくて空母としての能力のすべてを奪われた「赤城」は、本当に赤子同然に無力な存在に成り下がっている。彼女にとって今の「赤城」は――否、万全の状態であってもそうだっただろう――きっと容易い存在に違いなかった。

 

 では何をする?

 命乞いか? この期に及んでの悪あがきか?

 

 答えは出ない。

 思考は動くが、答えをはじき出せるような状況では既になかった。もう「赤城」にはどうしようもないのだ。

 命乞いをしても聞き入れられる確率は皆無に等しい。抵抗をしてみても虚しく捻り潰されるのは目に見えている。

 ならばいっそ、ここは武人らしく潔く死ぬべきなのかもしれない。

 もっと言えば、本当は「赤城」という女は当の昔に死んでいるのだ。今ここにいるのは、かつて「赤城」と名乗っていただけの亡霊であり、あるいは海軍の付けた仮称を借りて言えば「空母棲姫」とも呼ぶべき存在で、それは「赤城」とは違う生き物のはずだ。

 どうしたことか、今の「空母棲姫」には「赤城」としての自我と意識があるけれど、きっとこれは身体に残っていた彼女の残滓に過ぎない。

 

 だから、やはり“私”はここで死ぬべきなのだ。

 彼女の愛した「赤城」ではない。「赤城」の身体を借りただけの”私”は。

 

 

 

 

 

 

 

「いい夜ね」

 

 満月の化身は酷く上機嫌だった。

 まるで上質なワインに舌鼓を打っている時のように、彼女は穏やかな微笑みを浮かべて、さらにそれを”私”に向けている。

 

「今夜は血が滾るわ。だけどあんまり時間がないのが残念」

 

 彼女はゆるりと首を振り、話を続ける。

 “私”はと言えば、ただ黙って震えているだけでしかなかった。死んでなお、こんなにも恐ろしい思いをするなんて想像だにしなかった。死はすべての終わりだと思っていた。あるいは、靖国に導かれるのだろうと甘い見通しを立てていた。

 

 

 

 ――現実は、何もかもが違っていた。

 

 幻想が侵入し、介入し、介在し、世界の解釈を変えていく。運命が歯車の軋む音を立てて動いていく。

 目の前にいる彼女がそうだ。

 

「手短に終わらせましょう」

 

 そう言って彼女はそれまで腰掛けていた死骸の山から立ち上がる。同時に、不規則で幾何学的な形をした影のように暗い翼が背中からまっすぐ伸ばされた。

 ふわりと、彼女の小さな体躯は空中に浮き上がる。

 

 

 

 それが序章の終わり。

 

 それが終幕の始まり。

 

 

 

「こんなにも月が紅いから!」

 

 

 

 彼女は叫んだ。

 悪魔の背後の空間が、その身から放出される禍々しい魔力によって歪み、月はいよいよあり得ないほど煌々と紅く、悍ましく輝き出す。

 

 

 世界が震えた。

 

 幻想の侵食への拒絶反応。最後の抵抗として、あるいは逆にその力の支配が確立した印として、激震が走ったのかもしれない。

 何人たりとも彼女に逆らうことは許されない。彼女が作り出す幻惑の世界の中で、”私”は支配者の名を思い浮かべる。

 

 

 

 

 

 

 

「楽しい夜になりそうねッ‼」

 

 

 

 

 

 

 

 忘れもしない。

 彼女の名前は……。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 レミリア・スカーレット――齢五百を超える吸血鬼は、積み重なった深海機の残骸の山から小躍りするように飛び降りると、軽く地面を踏んで赤城の懐にまで肉薄した。半ば深海棲艦化しながらも、長年培ってきた戦闘の経験が無意識にそうさせたのか、認識速度を上回るスピードで接近するレミリアに対し、半ば呆然としていた赤城はようやく我に返ったのか、反射的に副砲を前に出して攻撃を受け止めようとする。

 正真正銘の艦娘だった頃とは違い、彼女の艤装は中口径の副砲や大きな口のような形になった弓であったりと、元が分からないような変貌を遂げている。深海棲艦自体がこのように歪で禍々しい艤装を携えているものだが、彼女もその例外とはならなかったようだ。

 では、その艤装の強度はどれほどのものだろうか。少なくとも一部の深海棲艦は頑丈で堅固な装甲により生半可な攻撃を跳ね返すことが出来る。姫クラスの上位の深海棲艦になると、徹甲弾の直撃をまともに食らっても装甲がへこむ程度の損害しか与えられないような、信じられないほど硬い敵も居るという。赤城は、いや最早ほとんど深海棲艦へと変化した今なら「空母棲姫」と呼ぶべき彼女は、やはり並み以上の堅牢さを持ち合わせているだろう。だが、その程度だ。

 レミリアは特に考えずに右手を伸ばしただけだった。拳を握ってすらいない。殴打ではなく、指を鉤型に開いて「空母棲姫」が身を護るために突き出した副砲を掴み取る。しかし力加減を間違えてしまったのか、指が易々と副砲の砲循を貫いてバラバラに破壊していく。砕けた副砲が無数の破片となって飛び散る中、突き出したレミリアの手が「空母棲姫」の首を掴んだ。

 彼女に逃れる術はなかった。そのまま力任せに叩き付けると地響きが深海機の残骸を揺らした。

 レミリアは「空母棲姫」の首を離さずにその上に馬乗りになると、苦痛に顔を歪めているので少しだけ力を緩めた。深海棲艦は激しく咳き込みながら、少しでも多く酸素を取り込もうと音を立てて息を吸い込んだ。跨ったレミリアの下で彼女の肺が激しく膨らみ、全身が脈動していた。

 そこにあったのは無感情な生きようとする本能だ。「空母棲姫」は敵意や憎悪を抱くこともなく、というよりそんな余裕すらなく、ひたすらにただ激しく呼吸をするだけ。生物としての本能が自然とそのような行動をさせているのだ。けれど今、レミリアはもう一度彼女の首を絞めることが出来るし、そうすれば彼女は呼吸困難で死んでしまうだろう。あるいはもっと別の方法で命を奪うことも出来る。何しろ跨っているのだ。彼女に抗うことなど出来はしない。

 つまり、「空母棲姫」の生殺与奪は全てがレミリアの手の中にある。それも、ほんの少しだけの力でレミリアは「空母棲姫」を自分の好きなように出来る圧倒的に優位な立場に居た。

 

 

 

 

 

 

 

 戦場を支配すること。それがレミリアの戦いの作法だった。

 かつてルーマニア公が自国に侵攻して来たオスマン兵の死体を串刺しにして街道沿いに並べた時、彼はその光景それ自体と見た者が悟ったであろう狂気で敵の足をすくませた。ノルマンディーに上陸した連合軍は、戦艦を並べ、無数の戦闘機をばら撒き、大量の兵員を一度に上陸させることで、圧倒的な物量によって陸海空の全てを掌握して、橋頭保を思うがままに築き上げた。

 ヴラド・ツェペシュもドワイト・アイゼンハワーも、多数の兵士を効果的に動かすことによって敵を打ち倒すことが出来た。彼らは軍勢の指揮官であり、群体としての戦闘単位である多数の部隊の頭脳であったわけだ。それは彼らが人間であり、組織化された集団によって高度な目的を達成することを得意とする知的生命体だからである。

 

 個々の人間の力は弱い。しかし、彼らは常に仲間と結託することによってより大きな脅威との戦いに打ち勝つことが出来た。対象は自然であったり、別の人間の組織であったり、あるいは幻想の存在、すなわち怪異であったりしただろう。時にはうまくいかなかったかもしれないが、歴史は、常に最後には人間が困難を克服出来ることを証明している。

 一方で、レミリアのような怪異、あるいは妖怪は、単体で圧倒的な力を持つ存在だ。群体を凌駕する個体であり、群体が個体を内包し制圧するという常識を打ち破れるからこそ、レミリアは幻想として存在することが出来た。そのために、多くの人間が集団とならなければ成し得ないことのほとんどすべてを、レミリアは自分一人の力で実現することが可能だ。

 

 串刺しの死体を並べることは既に実行し、今現在この鎮守府の中で誰でも目にすることの出来る光景となっている。この光景を目の当たりにした、鎮守府内に残っている数少ない艦娘を含む人間たちには甚大なる心理的影響が及ぼされているであろう。意図的に伝承をなぞるような行動を取ったことで、本来であれば幻想郷の外の世界では弱体化するはずのレミリアは、力を取り戻せていた。幻想郷に逃れた者たちにとって、人間から向けられる畏怖と恐怖こそがその力の源泉である。一晩で少数とは言え外の世界の人間に本物の恐怖を見せつけたレミリアは、往時の力を再び振るえるようになっていたのだ。

 オーバーロード作戦のように、人間の軍隊を叩き潰しながら大陸を席巻することだってその気になれば難しくない。それだけの力を持った悪魔なのだ。レミリア・スカーレットと言うのは。妖怪たちが信奉する月を二つ名に抱くのは決して伊達や酔狂ではない。

 例えその相手が自らと同じ異形であったとしても、それら異形の中で取り分けの力を持つレミリアにとって、自分より下位の相手に(それがどんなに数を集めたところで)後れを取ることなど考えられなかった。むしろ、レミリアの個人的な嗜好を含めれば、人間ではない存在にこそ悪魔はより辛辣であるかもしれない。

 

 今まで多くの人間と戦った。聖職者、傭兵、時に正規軍。またはただの農民。神の名に誓いを立て、あるいは単に金のため、王の命令、はたまた生活を守るべく。人間たちは実に様々な理由でレミリアに挑み、いつも敗北した。レミリアが悪魔と呼ばれることそれ自体を理由にして立ち向かって来た狂信者も居た。いずれにしろ、誰もレミリアの命を奪うに至らず、幼き吸血鬼に挑戦することは挑戦者の死を意味するようになっていった。

 初めは自らを(レミリアからすれば)勝手な理由で襲って来る人間たちに唾棄し、敵意を募らせていたレミリアだが、時を経るうちに憎さ余ってと言うのか、むしろ無力な彼らに愛おしさすら抱くようになった。館の扉を蹴破って突入して来るような無礼者がやって来ても、レミリアは礼儀正しく応対し、正々堂々と正面から圧倒し、殺した後は丁重に埋葬して墓まで立てた。

 弱い人間を哀れに思ったこともあったけれど、今はそんな感情は抱かない。それは弱いながらも懸命な人間に対する侮辱であるとさえ考えている。彼らに対しては一定の敬意を払って接するべきというのが、現在のレミリアの方針である。

 

 

 

 そんな風に考えるようになったからか、ついにある時一人で挑んで来た人間を殺すことなく捕らえたのだろう。興味深いことにその人間は年端もいかない少女で、そんな子供が悪魔に挑むという事実だけでも驚きなのに、この少女はその上さらに時間を操るという稀有な特殊能力を持ち合わせていたのだ。その時点で五百歳も間近になっていたレミリアでさえも初めて見る能力であり、興味を引くには十分な魅力あるものだった。だから、如何にしてそのような特殊能力を持つ人間の少女が自分に挑むことになったのか、背後事情を知りたいと思ったのも不思議ではない。

 だが、理由はこれ以上ないくらい拍子抜けしたものだった。と言うのも、少女の目的はレミリアの首……によって得られる賞金だったらしい。どうやらレミリアの首には本人も知らない内に破格の賞金が賭けられていたようで、自分の能力に自信のあった少女は単身吸血鬼に挑むことにしたようだった。それまで時間を操るという大層な能力を、盗みの手段以上に利用していなかった彼女は、一方で自分の能力の可能性についてはしっかり認識していたらしい。加えて、毎日の食事を他人から盗んだもので賄わざるを得ないほど困窮していた彼女にとって、伝説の悪魔の賞金首は何物にも代えがたい魅力があったのだろう。ましてや他者の持ち得ない特殊能力があるとなれば、苦労してでも銀刃のナイフを集めて挑戦するだけの価値があったはずだ。

 はたして結果は半分程度巧くいったようだった。確かに未体験の能力を持つ相手にレミリアは戸惑ったが、それも初めの内だけで、肝心の武器が苦手な銀で出来てはいたものの大して脅威ではないと分かると持久戦に持ち込んで、結果少女は体力切れのため、あっさりと降参した。元より失う物のなかった彼女はレミリアの質問には正直に答えたし、疲労しているところにそれなりの料理を出されたためか全く抵抗の意思を持たなかったようだ。

 拍子抜けと言えば拍子抜けだが、金という現実的な理由が、人間離れした少女の人間らしさを表しているようで、話を聞いたレミリアは大いに笑ったものだ。それから上機嫌の悪魔は少女を気に入り、自分の家で養うことに決めた。一定の家事労働さえすれば後は何をしようと自由で、衣食が保障されている紅魔館の使用人職である。生活に困窮していた少女が断る理由はなかった。

 

 初めはそうして生きるために働いていた少女だが、その理由は何時しかレミリアも知らないところで変貌を遂げていたらしい。彼女はレミリアへの忠誠心を見せるようになり、主人をよく慕い、主人の良き話し相手となった。だから、今や彼女はレミリアの一番のお気に入りだ。幻想の郷に引っ越して周りが妖怪だらけの環境になろうとも、彼女が妖怪になろうとしなかったところも高評価だ。永夜の異変で吸血鬼になることを誘った時も、彼女は主人の望みを把握してか、あるいは本心からそう思っているのか、人間であることを止めようとはしなかった。それでいて、妖怪よりはるかに短い生の全ての時間を捧げることを誓った。

 それはレミリアにとって満額回答だった。悪魔は人間が好きで、人間が人間であることを止めて自分より弱小の怪異になることを何よりも忌み嫌っていた。

 

 人間は愛おしいが、弱いだけの怪異、人間に力で勝てることに思い上がっているような下らない妖怪は心底嫌いなのだ。それはかつて力に溺れていた自分を見ているようにも思えたし、なまじ個として確立している妖怪だけに人間のような集合の力を発揮出来ない弱小妖怪には興味もなかった。数多の人間たちのように集まって戦える者、巫女のように人間のくせに強い者、魔法使いのように妖怪らしく生きながらどこまでも普通の人間である者、メイドのように悪魔に仕えながら人間であろうとする者。

 彼らこそがレミリアの愛するべき存在なのだ。

 

 

 

 故に、今まさに怪異へ成り下がろうとしている女にレミリアは問い掛けを発する。

 

「お前もそうなるのか、赤城」

 

 もう彼女の首は絞めていない。その代わり、顔の両横に手を着いて覆い被さり、レミリアは真下から見上げる彼女の瞳に視線を注いでいた。

 

「お前の望みは何だ? 深海棲艦になってまで得たいものは何だ?」

 

 悲しかった。巫女や魔法使いたちと同じくらい気に入っていた彼女が、こうして別な存在に成り変わろうとしている事実が、ただひたすら悲しく、空しかった。

 

 

 職務を優先してきた赤城。責任感のみで動いてきた人生。欲しい物と言えば、ちょっと贅沢な食べ物くらい。

 姉を失い、戦いに明け暮れる日々。 そんな中で彼女は大層な活躍ぶりに比してあまりに小さなものを守ろうとしていた。

 

 問い掛けた瞬間、今や妖艶な赤色に染まった瞳の中に幾つもの感情が錯綜したのを見逃さなかった。今までささやかな望みばかりを抱いてきたであろう彼女が、何か大きなものを心の底から望んでいるのだということを悟る。

 

「赤城。何を望んでいるの? お前の求めるものは!」

「カガ!!」

 

 不意に彼女はレミリアを遮って叫んだ。赤色の瞳に寂寥を映す海面を見る。

 

「カガ、さんが! 加賀さんが、沈んだの! 沈んじゃって、死んじゃった。でも、ワタシ、もう一度会いたい……」

 

 言葉尻はほとんど呼気に紛れて聞こえなかった。「会いたい」というのは、多分そう言ったのだろうという推定だ。

 

 

 

 なるほど、そうだったのか。レミリアは得心する。

 

 加賀は赤城の唯一の理解者であった。天城亡き後、心の隙間を埋めてくれたかけがえのない親友。

 沈んでしまった彼女にもう一度会うため、赤城は深海棲艦になることを、敵の手に下ることを望んだのだ。

 

 

 

 

「ダカラ迎エニ来タンダヨ」

 

 

 

 遠くから、空母水鬼が口を挟む。どこでどう話を聞いていたのか、深海棲艦の首領は自慢の艦載機部隊を全滅させられたというのに余裕たっぷりな口ぶりだった。

 レミリアはおもむろに体を起こして「赤城」の上から離れる。すたすたと歩いて埠頭の先端まで来ると、鎮守府の前に広がる海を見渡した。声の聞こえて来た湾の外に視線を投げると、遠くまで空が赤く染まっている。あんな距離まで紅霧を振り撒いてはいないので、空を染めているのは深海棲艦の力だろう。提督として潜入していた時、一部の深海棲艦によって海域とその上空が赤く染まるという謎の現象が発生することがあると耳にしたことがあった。レミリアからすればそれは謎でも何でもなかったのだが。

 

 

 悪魔は目を細め、遠くを見通す。

 

 湾内には幾つもの深海棲艦の影があった。先に上陸していたのは先遣部隊であり、この大艦隊のほんの一角を構成するに過ぎなかったようだ。大多数はまだ海上にあって、幾重にも構築された艦隊による防御線の一番奥に、空母水鬼率いる本隊が控えているようだった。なるほど、確かにこれだけの手下に囲まれていれば余裕も持てるというものだろう。加えて、空母水鬼は艦載機を全て撃ち落とされたからといって動揺して浮足立つような脆弱な精神性の持ち主でもなかったらしい。

 そこは評価しよう。徒党を組むという点では深海棲艦は人間に近いから、自分よりずっと弱小な存在とはいえ、今までそれなりに良い印象を持っていたのだ。人間の組織という“強い相手”との戦い方を心得ている、と。

 

 加えて言うなら、戦いにおいて負けた方が勝った方に蹂躙され、略奪されるのは当然の結末であるというのも理解していたし、実際自分が今までそうしてきたことだから、鎮守府や街がどれだけ破壊されようともさして気には留めなかった。それはそういうものだ。幻想を排除する世界に抗えなくなった己が、幻想郷へ避難せざるを得なくなったのだって、加藤や金剛の策によって鎮守府を追われて逃げ出したのだって、レミリアが負けたからそんな無様な結果になっただけのこと。それは他でもない自分が悪いからで、誰にも責任転嫁出来ないことだ。

 だから、敗者の結末についてレミリアはとやかく言ったりはしない。運命なのだと、受け入れるだけの心はある。

 

「加賀ニ会ワセテヤル」

 

 尚も「赤城」に呼び掛ける空母水鬼。だが、「赤城」は返事をせずに嗚咽を漏らすだけだった。

 

「そうか、お前が加賀を沈めたのか」

 

 レミリアは呟いた。近くに居て耳をそばだてなければ聞こえないような音量だったが、やはり空母水鬼には聞こえたらしい。「ソウダ」と答えが返って来た。

 

「魚雷デ、真ッ二ツニシタ」

「縦に? 横に?」

「横ニ、ダ」

「それなら、上半身はちゃんとあるってわけね」

「モウ、海ノ底ダケドナ!」

「だからお前には取りに行けないって? その通り。水は日光と同じくらい苦手だもの。ちょっと手っ取り早く釣って来てよ」

 

 

 悪魔は嗤う。嗜虐的な笑みを口元に浮かべる。

 

 敗者は蹂躙されるべき。加賀が戦いの中で沈んだのなら、それは加賀の責任であって、つまり彼女が深海棲艦に打ち勝つだけの強さを持っていなかっただけのことであって、他の誰にも責任を問えない事実である。人間はそうではないかもしれないが、少なくともレミリアはそう考える。

 

 赤城が敗北したのは、赤城の弱さに原因があるわけで、今現在彼女が無様を晒しているのは自業自得と言えた。負けるのは、負ける方が悪いのであって、勝つ方は例えそれが偶然や幸運によってであろうと勝つべくして勝つという運命だったというだけのこと。

 

 

 

 二人がもしただの人間であったならば、そう考えていただろう。レミリアもいちいち個人の生き死にを気にしたりはしない。

 けれど、決定的に違う事実があった。彼女たちは艦娘であり、しかもレミリアからすれば決して悪くない関係を築けた相手でもあった。

 

 加賀はレミリアの逃亡に手を貸してくれた恩人だった。

 

 赤城はレミリアが惹かれたお気に入りだった。

 

 二人の窮状を断片的であれ妖精から知らされた時、レミリアは二人に対して同情と憐憫と、ほんのわずかな仲間意識を己の中に見出した。また、この場所に来て、片方が死に、片方が死に瀕しているのを目の当たりにした時、胸中の小さな仲間意識は爆発したように巨大な怒りへと膨れ上がった。空母水鬼の、赤城を深海棲艦に堕落させようという意図が気に食わない。誇り高き者を、卑しい存在に引きずり込もうとするその意思が、しかもその対象が赤城であるなら、レミリアが己を滾らせて力を振るうだけの理由になり得るのだ。

 

 

「話ハ終ワリダ。例エ艦載機ガナクテモ、ドウトデモナルノサッ!」

 

 

 空母水鬼は叫ぶ。その言葉を合図に、海上にチカチカと閃光が走った。

 控えていた護衛艦隊の一斉攻撃。この小さな鎮守府など、敷地丸ごと潰してしまう圧倒的な飽和攻撃だ。空に不気味な飛翔音が鳴り響き、紅霧を切り裂き砲弾が放物線を描いて埠頭に立つレミリアに向かって落ちて来る。

 それが一発や二発ではなく、数百という数で。

 

「出来るもんならやってみなさいな。たった今、お前の運命は確定したよ。コンティニューは出来ないのさ!!」

 

 吸血鬼の全身が紅く光り、身体を中心に無数の弾幕が展開される。技名も何もない通常弾幕だが、“弾幕ごっこ”で使用するそれとは威力が隔絶している本気の弾幕だ。そして、無秩序に放たれているように見えてその実きちんと計算されて撒かれている弾幕でもあった。

 空中で、降って来た砲弾と撒き散らされたクナイ弾がぶつかり合う。砲弾と魔弾は衝突するとその場で弾けて小さな花火を作る。鼓膜を削るような爆音が何度も、それこそ降って来る砲弾の数だけ響くと、レミリアの頭上に無数の花火が現れた。

 

 一発もない。深海棲艦の一斉射撃によって放たれた砲弾の雨で、鎮守府に着弾した物はただ一発もなかった。その全てが悪魔による迎撃弾幕によって撃ち落とされたのだ。

 レミリアは数百に及ぶ砲弾を視界の中に捉えると、それぞれの落下コースにクナイ弾を丁度のタイミングで放った。いつだったか、人間の軍隊が紅魔館を襲った時、一斉に射掛けられた矢の雨を迎撃した時も同じようなことをしたので、別に難しいことではなかった。

 

 

 そして、渾身の斉射を防ぎ切ったことでレミリアには少しだけの時間的猶予が生まれる。最も装填速度の速い小口径砲であっても、再装填には数秒を要する故に、その間レミリアは自由に動くことが出来た。

 

 

 

 悪魔は艦隊の奥を見通す。

 

 

 水平線の上。巨大な艤装を持つ姫クラスの戦艦を従えた深海棲艦の首領の姿を視界に捕らえる。

 

 

 ヤツは、艦載機を全て撃ち落とされ、一斉攻撃も阻まれて尚、悠然と艤装の上に腰掛けてゆったりとした笑みを浮かべていた。類稀なる吸血鬼の視力でもって、レミリアはその口が「加賀ハ私ノ手ノ中ダヨ」と挑発するのを認識する。

 

 

 怒髪が天を衝く。後ろに引いた一歩が埠頭のコンクリートを踏み砕く。

 

 

 レミリアの体を中心に、同心円状に小さな衝撃波が放たれると、まるで均される様にして海は凪いで静まり返った。空から紅霧が消え失せ、深紅の満月が全身を露わになる。戦場の真っただ中にあって、しかし戦場となった鎮守府には一切の動きが消え失せていた。

 

 

 悪魔はその力を右手に込める。何か大きな物を掴むように軽く曲げられた指の間で、まばゆい光を放ちながら妖力が蓄積されていった。抑えきれない憤怒の力は禍々しいまでに煌々と輝き、月にも劣らぬ緋色に染め上げられている。

 

 

 レミリアは右手を大きく後ろに引くと、反対の左手を前に伸ばして人差し指で空母水鬼を指す。

 

 

 大きく振りかぶって妖力とは別に全身に溜め込まれたエネルギーを、筋肉と関節のバネによって一気に開放。腰を回し、背筋を伸ばし、腕を大きく振って遠心力を得物に乗せると同時に、身体の中心から最後の一押しに爆発的な魔力を右手に送る。迸る力の奔流が右手の中で長細い形を中空に刻んだ。

 

 

 

 

 

 

 それは心槍ではない。弾幕ではない。ただひたすら、己の持つ妖力を注ぎ込んだ必中確殺の槍。巨大な穂が狙い通りに刺し貫く、神代の武器。

 

 レミリアの宣言と共にそれは投げられた。

 

 

 

 

 

 

 

――神槍

 

――スピア・ザ・グングニル!!

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 まず粉砕されたのは、コンクリートを固めて造られた埠頭だった。音速の数十倍の速度で投擲された神槍が生み出した衝撃波がコンクリートの表面を砕き、次いで海面を割る。膨大な水飛沫が巻き上げられ、その進路上に居た深海棲艦は槍が到達すると原子レベルに分解されて消滅した。それでも槍を止めるには至らず、というより瞬きする間もなく槍は空母水鬼の本隊まで飛んだ。

 旗艦の危機を察知した護衛の戦艦棲姫が身を盾にして槍の前に飛び出したが、堅牢さで有名なその自慢の装甲ですら神の槍を止めるには至らない。穂先がその体を刺し貫いた時、実際には溢れんばかりの閃光で視界が奪われた中、空母水鬼は己の敗北を悟る。自分からはあまりに隔絶したその天蓋の力に、為す術もなく消し飛ばされる運命を受け入れながら、爆発の中に姿を消したのだった。

 

 

 着弾の瞬間、海の上に太陽が現れたのではないかと思うほどの光が迸り、巨大な火球が膨れ上がった。火球は表面に衝撃波を伴いながら成長すると、数秒の間まばゆく輝きながら空気より軽いために上空へと浮き上がる。

 

 火球によって生み出された衝撃波は、周辺の空気を吹き飛ばして新たに円環の雲を作り、急速に拡散した。海の上であったために障害物に阻まれることのない強烈な衝撃波は、本隊の周辺を固めていた護衛艦隊の深海棲艦たちを一瞬にして細切れにすると、妖力の紅い霧を伴いながら全方位を破壊し尽くす。埠頭に立つレミリアの元にも届き、殴られたような衝撃が身体を貫いて内陸へと過ぎていった。

 土煙が立ち込め、巻き上げられた海水が霧のように降って来た。次いで埠頭に到達したのは、火球によって弾き飛ばされた海水で、それは津波という形で陸地に襲い掛かる。だが、水が苦手なレミリアが軽く手を振って妖力をぶつけると、壁に反射されたように津波は水際で止まり、後には激しく海面を荒立たせるだけだった。それでも水は完全に防げず、レミリアはいくらか水飛沫を浴びることになってしまったけれど、何ら問題はなかった。

 

 眼前には巨大で紅蓮に燃えるきのこ雲が空母水鬼の墓標のようにそそり立っている。墓標は尚も溢れるエネルギーを光として放出しながらゆっくりと上昇していき、その周囲からはリング状となった雲が輪を徐々に広げて、この世のものとは思えない光景を作り出していた。

 

 

 

 レミリアはゆっくりと振り返る。

 

 背後にあった鎮守府は衝撃波によっていよいよ破壊しつくされた様相を呈しており、最早元々ここにあった物で原形を留めている物など何もないかのように思われた。右を見ても左を見ても瓦礫と破片の山。墜落した深海機の残骸は衝撃波で一掃されてどこかへ飛んで行ってしまったのだろうか。絨毯のように敷き詰められていたそれらは見る限りでは消えていた。

 

 レミリアは埠頭から陸へ戻る。歩いている内に空から雨が降ってきた。

 

 

 吸血鬼が“嫌がることのない”雨だ。それは水ではなく、血が降ってきているのだ。視界は間もなく赤い雨に染まり、大地にはねっとりとした液体が溜まった。

 だからレミリアは血の雨の中を平然と歩いた。強く漂う鉄の臭い。濡れるがままに任せ、悪魔はゆっくりと進む。その視線の先には、地面に手足を投げ打って仰向けに雨を浴びている「赤城」の姿があった。

 レミリアがその傍にまでやって来て見下ろすと、彼女は呆然とした様子で何事かを呟いていた。何を言っているのか聞こうとしゃがみ込んだところで、自分の耳が音を聞けなくなっていることに気付く。右耳を触ってみると何かの液体が指に付着したので、目の前に持って来てそれが血であることを確認する。

 血の雨は今も空から降ってレミリアの全身を濡らしているけれど、さすがに吸血鬼だけあって指に付いた血を嗅ぐだけでその種類を判別することが出来た。

 自分の血だった。どうやら爆音によって鼓膜が破れて出血したらしい。急いで修復すると、すぐに血の雨が地面を叩く音が喧しく聞こえてきた。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 

 激しい雨音の中で、掠れた呟きはとても聞き取りづらかった。レミリアがそれを認識出来たのは、しゃがみ込んで口元に耳を近付けていたからに過ぎない。

「ごめんなさい」と彼女は繰り返す。

 

 堕落したこと、無辜の人々を害したことへの謝罪。彼女が自分自身を裏切ってしまったことへの慟哭。

 

 レミリアは、それが赤城の心を潰すことを悟る。いつだったか、現人神が言ったように、信仰を持たないであろう彼女はこの重圧に耐えられない。傷付いた艦娘たちを彼女は救おうとした。その行いこそが宗教の目指すところ。故に、正確には赤城は宗教を必要としなかったのだ。

 救済者。図らずも彼女は自らそう成ろうとしてしまい、図らずも持って生まれた大きな器によってその目的を半ばまで達成し、図らずも偉大な空母として憧憬と尊敬を集めるに至った。強く、高潔だからこそ、彼女は真に救いを求めることはなかった。救う側であろうとしたから、自分自身の救済など考えていなかった。

 

 

 では、今まさに傷付いた赤城を一体誰が救うのだろう。彼女が誰よりも深く愛していた加賀は最早水底に沈んでしまっている。二度も理不尽な死別を強いられた赤城を、今救けられるのは、レミリアと、仲間たち以外にない。

 赤城がどういう目的でこの鎮守府の艦娘たちを集めたのか。秘書艦として艦娘の人事権に介入出来た赤城は、自分と同じような苦痛を味わった艦娘を引っ張ってきた。そうした経緯を、レミリアは提督として潜入してから比較的早くに把握したのである。記録に書かれている言葉は、艦娘たちがいかに壮絶な体験をしてきたか、生々しい表現ではなかったものの、それでも十分想像可能な程度には伝えてくれた。

 

 

 心を動かしたのは、赤城のそういうところだった。仲間のために運命と戦おうとする彼女の姿を、艦娘を救おうという想いを、途方もなく尊いものだと感じたのだ。

 だからこそ、赤城に心を許したのかもしれない。

 

 赤城はレミリアを信じた。レミリアは赤城を慈しんだ。そこに縁が、結び付きが生まれた。

 生まれてしまったそれを、もう取り消すことは出来ないし、そうするつもりもない。レミリアはこのまま赤城をここに寝かせて立ち去るという選択肢を採り得ない。もしここで彼女を見殺しにすれば、レミリアはもう一生自分を許すことが出来なくなる。胸に刻んだ我が名と誇りを再確認し、永代の悪魔は己に誓いを立てた。

 

 あるいは、因果は逆で、己が道と彼女の道は交差する運命だったのかもしれない。レミリアは自分自身に対して能力を行使し、運命を視ることは滅多にしない。誰もが人生と言う名のそれぞれ物語の主人公であるなら、レミリアもまたレミリアの物語の主人公である。だが、運命を視た瞬間レミリアは物語の中の登場人物ではなく、全てを知るメタフィクションの存在に昇華してしまう。物語の先を、途中をすっ飛ばして垣間見てしまうのだ。これ以上ないくらい無粋で興ざめ。だからこそ、レミリアは自分を“視ない”。先の見えぬ道を歩き、そこで出会うものすべてを受け入れる。

 

 赤城が居たからこの鎮守府に来たのではない。艦娘を救おうとあがく者を知ってここに来たのではない。それは本当にただの偶然で、そのような偶然に恵まれたことはレミリアにとって望外の喜びであった。

 

 

 

「忘れないで」

 

 囁きは聞こえただろうか。赤城の様子に変化はない。

 それでも構いはしない。言葉は重要ではない。

 レミリアは幻想だ。世界に一度忘れ去られた存在だ。世界の裏側に蓄積された記憶の中から幻想の情報が抹消されたことが幻想を幻想たらしめたのであるなら、それに対抗するのは個々の人々が幻想を覚えていることである。忘れ去られ、この世界から退去を迫られたことが運命であるならば、それは受け入れるしかないけれど、レミリアだってタダで負けてやるつもりなどなかった。

 レミリアを幻想として記憶しているのなら、幻想と知ってなお否定しないのなら、そんな人物に自分のことを覚えていてほしいと願うのは一体どれだけの悪なのだろうか。レミリアの言葉を、触れた時の体温を覚えていてほしかった。そのために、赤城は人の側に立っていなければならない。断じて、自分と同じ忘れられる側に来てはならないのだ。

 たとえ一時的に忘却したとしても、最後に思い出してくれればいい。赤城が居るなら、レミリアの小さく、されど大いなる反逆は成功する。

 

「忘れないでほしい。だから、私は……」

 

 優しく彼女の後頭部と背中に手を回す。赤城は抵抗しなかった。一切動こうとしなかった。ただ瞬きを繰り返し、うわ言のように謝罪の言葉を繰り返すだけ。その心が今まさに死に掛けて、最後の断末魔を上げているのだろう。

 

 心が死ねば赤城はどうなるのだろうか? 完全に深海棲艦に堕ちるだろうか? 

 

 あるいは、心の死が赤城という生命の終わりとなるだろうか。

 

 その可能性は高そうだった。だから、レミリアは赤城の上体をそっと抱き起すと、胸元に抱え込み、空いた手で前髪をそっと払って露わになった額に軽い口付けをする。母親が我が子に愛を示すような口付けだった。

 それから紅魔は周りに近付いて来た足音を耳にして顔を上げる。気付けば血の雨は止んで、辺りには不気味なほどの静寂が漂っていた。だから、彼女たちが現れたのもすぐに分かった。

 

 

 

 

「我が祖国に古より伝わる悪魔」

 

 厳かな声で、それが一番似合わない艦娘がそう言った。金剛は全身に傷を負い、艤装もほぼ原形を留めておらず、身に着けていた制服もぼろ布と化して肢体を露わにしていたが、爛々と光る瞳だけは尽きぬことのない闘志を湛えている。

 彼女だけではない。川内、木曾、曙、漣、潮。

 この鎮守府に所属している艦娘たちが集っていた。皆、負傷していない箇所を探すことが難しいくらい傷だらけで、血の雨を浴びたからではなく、自身の出血によって血まみれだった。けれども全員、意思のはっきりした目をしている。

 

「これは人間には勝ち目がないネー。アナタを倒せると思ってたワタシが間違ってたワ」

「そりゃあな。とんでもない悪魔だからな」

 

 半ば冗談めかした金剛の言葉に、木曾が反応して二人は小さな笑みを零した。

 

 

 

「あの程度には負けないさ」

 

 レミリアは赤城を抱きしめたまま器用に肩をすくめてみせると、「ところで」と続けた。

 

「喫緊の課題がある。この子、このままだと死んでしまうわ」

 

 艦娘の何人かは黙って頷いた。見れば分かる、と言いたげな顔をしているのは木曾だ。

 

「私は、この子を助けたい。このまま死なせるわけにはいかないから」

 

 

 

 ここは、キズモノたちの鎮守府。赤城が集め、抱き留めた艦娘たち。赤城の手で、光ある運命に導かれた子羊の群れ。

 

 羊たちはどうする? 

 

 悪魔が誰ともなしに投げた言葉を拾ったのは、ある駆逐艦娘であった。

 

 

 

「らしくないわね」

 

 口を挟んだのは曙。どこかが痛むのか、顔を顰めながらも彼女はいつものように勝気な顔で、真っ直ぐな瞳で、艦娘を代表して悪魔に答える。

 

「あんた、悪魔なんでしょ? 悪魔らしく、『こいつの魂を食べてやる』とか言ったら?」

 

 非常に、非常に遠回しな同意の表明と、意外と子供っぽい発想にレミリアは少しだけ口元を緩めることが出来た。

 

「ええ、そうね。悪魔らしく、悪い方法でやろうと思う。そこで提案なんだけど、私に手を貸してみる気はない?」

「手を貸すって? ワタシたちに悪魔の下っ端になれって言うの?」

 

 提案に抗議の声を上げたのは金剛。ごく自然に肩をすくめて呆れたように首をゆっくり振る。

 

「ええ。そうよ」

「報酬は?」

 

 と尋ねる木曾はなかなかに乗り気な様子。レミリアは目を閉じて少しだけ思考を巡らせ、それからまた目を開いてこう言った。

 

「一人頭、二千万円でどう?」

「金かよ」

 

 雷巡は明らかに馬鹿にしたように笑って、それから隣に立っている曙を見た。曙はさらに隣の漣を見て、この中では一番重傷で潮に支えられて立つのがやっと漣は、一番元気そうな潮を見る。潮は求めるような視線を川内に向けると、川内は金剛を見たので、戦艦は目を丸くして自分を指し「ワタシ?」と頓狂な声を上げた。

 

「最先任ですし」

「代表権が、あると思います」

 

 川内と潮に外堀を埋められて金剛は溜息を吐いた。彼女は額に指をあててしばし逡巡の様子を見せると、もう一度重そうな息を吐いた。

 

 

 

 

 

「で、何をすればいいの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督 幕間

 犠牲は決して少なくなかったが、第四駆逐隊は与えられた任務を完遂した。「硫黄島」がタグボートによって修理ドックに押し込まれるのを見続けてようやく野分は任務から解放されたことを実感する。暖かく出迎えてくれた横須賀鎮守府の艦娘たちは、野分と舞風の二人に早く休息を摂るように勧めたが、二人は「硫黄島」が安全なドックの中に入るまで任務は終わらないと考えて、二人で護衛し続けた。

 

 戦死者は全部で八十名にものぼる。ガンシップのパイロットや、被弾の衝撃で吹き飛ばされた者、行方不明になって戦死したとみなされている者。「硫黄島」の搭乗員数に比すれば八十の命が失われたことはあまりにも大きい損害だった。その上、ヘリは二機が失われ、無人機に至っては全滅、「硫黄島」それ自体も長期のドック入りを強いられてしまった。

 

 それでも、横鎮の艦娘たちや指揮官たちは二人に労いの言葉を掛け、努力と功績を手放しに称えた。ただ、誰も、二人の鎮守府がどうなったのかを教えてはくれなかった。

 

 

 

「寮の部屋を空けてあるの。相部屋になっちゃうけどいいかしら?」

 

 横須賀での野分と舞風の世話役を買って出たのは、二人と面識のある矢矧だった。マーナガルム作戦で一緒に戦った時よりかは気さくな雰囲気を出す彼女の気遣いが、見知らぬ者だらけの鎮守府に放り込まれたばかりの二人にとって、気休め程度であっても安心材料になったのは確かだ。

 しかし、そんな彼女でさえ野分たちの鎮守府のその後については語ってはくれない。情報が入って来ているかいないかだけでも知りたいのに、まったく口を閉ざし、聞こうとすれば露骨に話題を逸らすのだ。

 

「何かあれば気軽に呼んでね」と言って仕事に戻った矢矧。二人は艦娘寮の空き部屋に放り込まれた形になった。矢矧は結構多忙な身らしく、聞けば次期横須賀鎮守府秘書艦に内定しており、現在はその研修に追われているのだという。横須賀程の巨大な鎮守府ともなると、秘書艦も複数置かれ、矢矧はその内の一人になるそうだ。

 気軽に呼んでね、とは言われたものの、敷地も広くどこに何があるかもまだよく分からない横鎮の中ですることなどほとんどなかった。任務の報告書などは「硫黄島」の艦長が作成してくれるようで、野分にも舞風にもこれといった仕事は与えられなかった。むしろ、周囲の軍人や艦娘からは「今は休むことが任務だ」とさえ言われる有様である。

 

「疲れたね」

 

 あまり使われていないのか、感触の硬いベッドに身を横たえながら天井を見上げていた野分に、同じように寝転がった舞風が呟いた。二段ベッドかと思いきや、六畳そこそこの広さの部屋にはシングルが二台据え置かれていた。

 

「うん」

 

 疲れたと言えば疲れている。全身に疲労が溜まって野分は動く気にもなれなかった。潮風を浴び続けたので風呂に入って体を洗いたいし、胃袋も空っぽで何か食べたかったが、何よりもまず全身を覆う疲労感を抜き取りたい。だから、二人してベッドに寝たままなのだ。

 

「みんな、どうなったのかな」

「分からない」

「生きてる、よね。死なないって、金剛さん言ってたもんね」

「うん。大丈夫だよ」

 

 言葉が口を滑っている自覚はあった。敵の規模がどれ程だったのか、正確なところを野分も掴んではいないが、まともに相対すれば生還を諦める程度には巨大な軍勢だっただろう。横鎮や大湊からの救援部隊が向かったとのことだが、その後のことは何も聞かない。鎮守府を出港したのが午前中で、日没前には横須賀に到着出来たのだから、おそらく決着はもう着いているだろう。

 

 情報が欲しい。

 知りたい、という欲求はどうしても強かった。だから野分は億劫だけれど身を起こした。

 

「のわっち?」

「外に行こう。まず、お風呂よ。それから何か食べましょ」

「……うん」

 

 その言葉を舞風は待っていたのだろう。野分と同じくしんどそうだったが、素直に彼女も起き上がった。

 

 

 

 風呂と食堂の場所は寮ですれ違った艦娘に聞いた。一応、矢矧から彼女の持っているPHSの番号を聞いていたが、忙しそうな矢矧に些末なことを尋ねるのは憚られたし、意外と世話見の良さそうな彼女ならひょっとしたら仕事から離れて案内にやって来るかもしれないと思ったからだ。それはさすがに具合が悪いだろうということで、たまたま近くに別の艦娘が居たから聞くことにした。

 横鎮は何もかも規模が大きいようで、艦娘寮にも何人もの艦娘が住んでいる。そのため大浴場に大食堂、おまけに夜勤の艦娘のために夜遅くまで営業している売店もあるようで、鎮守府の中を移動しないといけないのではないかと心配をしていた二人を安心させた。風呂に入って塩を洗い流すと、二人はそのまま食堂にやって来て遅い夕食を注文した。

 本来なら夕食は決められた時間に一斉にとるものと決められているが、今日横鎮に来たばかりだと言うと、既に食器の片づけを始めていた厨房の職員たちは手を止めてわざわざうどんを作ってくれた。

 仕事を中断させて悪いと恐縮しつつも、湯気立つきつねうどんを前にすると、腹どころか喉まで鳴って、野分は夢中でうどんを掻き込んだ。簡単な、冷凍麺を解凍して出汁粉末をお湯に溶かしただけのうどんなのに、涙が出るくらい美味しかった。舞風が若干涙ぐんでいたのは、彼女が猫舌にもかかわらず熱いうどんを野分と同じく慌てて掻き込んだため、だけではないだろう。

 お揚げは味がよく染みていた。出汁まできっちり飲み干すと、身体が内側から温まって気持ちがいい。しっかり手を合わせて「ごちそうさまでした」と感謝を表す。

 

 

 

 

 

 

 

「ちゃんと手を合わせるのね。えらいわ」

 

 

 

 

 

 ふと横合いから声を掛けられ、野分は慌てて振り返った。一つ離れたテーブルに一人の女が座っている。

 さっきまで食堂に居たのは野分と舞風だけだったはず。厨房ではまだ何人かが片付けをしていたが、誰も食堂には出て来ていなかった。

 

 その上、女の恰好もまた珍妙なものである。まず目を引いたのは長い金髪で、海外の女優のような艶と光沢のある美しい髪だった。頭には蝶結びの赤い紐で飾られた白いふんわりとした帽子を被っており、長い髪の毛先もいくらか束ねてリボンで結ばれていた。美しいと言えばその顔立ちも同じく、視線を向けられるだけで身が竦むような美貌である。

 彼女は大きく胸元の開いた煽情的な紫のドレスに身を包んでおり、明らかにこの軍事施設には似合わぬ出で立ちであった。どこかのホテルのパーティ会場ならいざ知らず、基本的に軍装ないし作業服か背広姿しかいない基地の中でするような恰好ではない。彼女はどうみてもこの横須賀鎮守府の所属ではない、外部の人物だろう。奇妙なことに傍らには白い日傘が丁寧にテーブルに立て掛けられていた。もう夜なのに。

 艦娘しか利用しない食堂に居るような人物には思えなかった。というより、まともな存在ではないと、頭の中で警告する声が響く。

 だが、立ち上がろうにも尻は椅子に張り付いたまま、足は硬化して野分の意思に反してピクリとも動かない。女の見詰める視線に、身体は全く言うことを聞かなくなってしまっていた。まるで、身体の支配権を女に奪われてしまったかのようだ。

 

 

 

「あの吸血鬼に使い走りにされるのはとても不服なんだけど」

 

 と女は前置きをした。「あの吸血鬼」という言葉に心当たりのある野分だったが、そこを指摘する発言は許されていないようだった。舌が喉に張り付いて動かない。女のアメジストの瞳が「黙って聞きなさい」と命じている。

 

「伝言よ。『片は付いた。今日から丁度一週間後に迎えをやるから準備して待っていなさい』と」

「迎えって?」

 

 意外なことに、舞風は女に問い返すことが出来た。野分は硬直して動けなかったというのに。

 

「そこまでは知らないわ。自分の手下をやるんでしょう」

「あ、じゃなくて……。何で、提督は迎えをやるって言ったのかなって」

「手元に動かせる艦娘を置きたいのでしょう。次は、ヨーロッパに行くと言っていたわ」

「ヨーロッパ、ですか」

 

 気付けば自分の舌も動かせるようになっていたので、野分はさらに生まれた疑問を投げ掛けた。

 迎えをやるということは、二人に軍を離れろと言っているのと同じだ。軍を非正規な手段で出た艦娘がどうなるかというのは野分も聞き知るところであるし、それはつまり自分たちが追われる身になるということ。レミリアは分かっていないはずがないのに、そう言ったのだ。そしてまた、唐突に出て来た「ヨーロッパ」という単語に混乱はさらに深まるばかりだった。

 他方、女は「そんなこと知らないわよ」と言いたげな投げやりな顔で肩をすくめる。

 

「他の、他の人たちも一緒なんですか? 金剛さんとか、川内さんとか」

「さあ? まあ、あの吸血鬼は貴女たちのお仲間も全員助けたそうだから声を掛けているかもしれないわね。彼女の目的は知っているけど、何をどうするつもりまでかは聞いていないから、詳しいことは教えられないわよ」

「あ、それじゃあみんな無事だったんですね」

 

 舞風はほっとしたように呟いた。それで話を打ち切るタイミングと見たのか、女はすくっと立ち上がり、日傘を手に取った。

 

「私からは以上よ。聞きたいことがあるならもう本人に直接ぶつければいいわ」

 

 機嫌が悪いのは本当らしく、用事が済んだと言わんばかりに女は踵を返して食堂から立ち去ろうとする。

 聞きたいことは山積みだったが、女の態度からもう聞き出せることはなにもなさそうだったし、彼女の言う通りレミリアに直接尋ねるしかないようだった。そもそも、女が何者であるかさえ定かではなく、この謎めいた状況の中でただ一つ分かったのはどうやら鎮守府の艦娘たちは無事だということだけだった。

 

 

 

 

「ああ、それと」

 

 不意に女は立ち止まり、わずかに後ろを振り返ってこう言った。

 

 

 

「あの吸血鬼の肩を持ってやる必要はないんだけどね。貴女たちを悪いようにしないと思うわ。あれは存外お人好しでね。貴女たちが姉妹艦と共に暮らせる未来というのを、ちゃんと描いているんじゃないかしら」

 

 

 それじゃあね、と女は背を向けたまま手を軽く振って食堂から出て行った。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 シの半音下げ。ファ。ド。ファ。レの半音下げ。ミの黒鍵・ファ。もう一度ミの黒鍵。ソのナチュラル。

 シの黒鍵・ファ。ド・レの黒鍵。ド・レの黒鍵・ド。シの黒鍵・ラ。

 間違えた。最後の音はラの半音下げである。指が白鍵を叩いてしまった。

 

 難しい。中々頭の中で鳴り響く目標の音楽のように弾けない。

 

 部屋が暗いせいだろうか。窓もなく陽光溢れる世界からは隔絶された小さな部屋の中は、少女と少女のピアノと、それから大切な棺が一つ。端から端まで十歩も歩けば到達してしまうこの狭い空間が、少女の演奏会場だった。狭すぎて録に音が響かず、打鍵の奏では冷たい壁に吸い込まれていってしまう。

 だけどそれでいい。ここは練習部屋。本番はいつともどこでとも知れない。明日訪れるのか、十年後か、はたまた百年後か。いずれ来るその日その時のため、少女は毎日練習し続ける。

 とは言え、今日は練習をし過ぎて指が傷んだ。時計もないこの部屋だから、少女が時間の観念を忘れて久しい。ただ疲れ切ってかすかな痛みを発する指先だけが時の経過を教えてくれる。指を休めるために手を止め、自分が理想とする音楽を想起する。脳内に叩き込まれた思い出の音こそが少女の道標。

 

 

 

 途端に暗い地下室の中は、広々として明るい大きなコンサートホールへと早変わりする。高い天井。ステージを中心にして階段状に整然と並ぶ観客席。二階席まである千人は容易に収容出来そうなホールだ。照明の集まるステージはニスの塗られた木目の床が光を反射し、その上にはピカピカに磨かれた黒いグランドピアノが据え置かれている。

 演奏はそこに奏者が腰を下ろすことでようやく開幕する。奏者は鍵盤を前にして両手を構え、一息吐くと曲を奏で始めた。

 

 テンポの速い曲だった。序盤から奏者の指が激しく狂ったように鍵盤の上を踊りまわる。そのくせ、音は一つもずれることなく、楽譜通りに黒鍵と白鍵を正確に叩いていく。弦が叩かれて発する音はピアノから飛び出すと辺り一帯の空間に広まり、壁や天井に反射して聴き手を包み込むように響いた。奏者によって息を吹き込まれたピアノは高らかに歌い上げ、音符が奏者の周りをゆっくり回転しながら踊った。

 

 休めていたはずの指が自然と動き出してしまう。空中に鍵盤を見出した指は奏者を真似て曲を奏でる。小さく開いた口からはテンポに合わせたハミングが漏れる。

 今や少女は一つの楽器と化していた。頭の中で演奏する奏者に合わせて、指で中空のピアノを弾き、足でリズムを採って、旋律をか細い声が謡う。

 

 奏者である彼女が弾いて見せた音楽。少女の弾きたい曲。

 それまで少女の頭の中に漠然としか存在しなかったその曲を、彼女は楽譜に落とし込んだ。今もその楽譜は目の前のピアノに据えられている。鉛筆で手書きしただけの、お世辞にも綺麗とは言えない楽譜だけれど、彼女の残してくれた大切な指標だった。少女にピアノを教えられなくなった彼女が、今後の練習に役立つようにと、書いて作ってくれた楽譜。もう単なる音符を記載した紙ではなくなってしまっていた。

 

 目指す音楽は頭の中にある。こうしてイメージを想起することだって出来る。後は、実際にピアノで奏でられるようになるだけ。

 でもそれが難しい。頭の中の奏者の姿に自分が重なることがなかった。

 

 

 少し休んだらまた練習だ。いつの日か彼女に聞かせるため、今日も少女は――フランドールは、ピアノを弾き続ける。

 未だ目覚めない彼女のため。棺の中で眠り続ける友人に捧げるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                少女祈祷中……

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督 登場人物紹介

謹賀瑞雲!

続編にもうしばらく時間が掛かりそうなので、間を持たせるのに簡単な登場人物・設定等の紹介を。


登場人物紹介

 

 

レミリア・スカーレット

500歳以上? 元欧州屈指の大悪魔にして、現幻想郷紅魔館当主。「運命を操る程度の能力」なる眉唾な力を持っていると主張するが、お付きのメイドから支持されている以外は身内でさえ眉唾扱いしている。そして、そのメイドですら本気で信じてはいない。

昔はとんがったところがたくさんあったが、500年も生きてきて色々と丸くなる。この先も幻想郷で穏やかに暮らしていきたいと思っているが、ひょんなことから外の世界に来て鎮守府に着任することになり、所属の艦娘と交流を深めることになった。

カリスマがあるようで実は既にスーパーノヴァ・レベルで盛大にカリスマブレイクしている。ちなみに、「咲夜のことはババアになっても愛す」が座右の銘。

作中最強クラスの戦闘力。戦闘力は、だが……。

 

 

赤城

あかぎさんじゅうさんさい。艦娘歴16年のベテランで、同僚の加賀と共に多数の戦線に出撃して、世界屈指の撃沈スコアを残す。その功績が認められたのと、加賀共々一航戦を独立して運用出来るようにするため、わざわざ鎮守府が一つ作られた。また、赤城もそれを利用し、鎮守府のメンバーを選定、各地から引き抜きを行った。

かつては同型艦の艦娘にもなった実姉が居たが、某大震災で亡くなってしまう。そのことは赤城の心に影を落とし、今の鎮守府を作る動機にもなった。

ワーカーホリック気味、というか完全にワーカーホリック。生来の真面目さとそれ故に楽しみを食事にしか見出せなくなり、花より団子、仕事が恋人です! を地で行くようになる。花もなく枯れゆく自分を自覚して超絶焦り中だが、お菓子の他に牛丼を食べたり、バーガーを食べたりしていたら徐々に丸くなってしまった。

 

 

加賀

赤城の同僚で、着任以来コンビを組んでいた。硬化した表情筋、超コミュ障、ストイック過ぎる性格が仇となって、初対面の人には怖がられることが多い。根は優しく思い遣りのある性格である。

艦娘になる前に妹が一人おり、「実姉妹」の艦娘として天城型の再来と期待されていたが、妹に適性は現れず、それをプレッシャーに感じてしまった妹が自殺するという悲別を経験している。悲嘆に暮れた加賀を慰め、支えてくれたのが他ならぬ赤城で、以来加賀は赤城に並々ならぬ恩義を感じている。

なお、赤城の他には漣と特に仲が良い。お互い本音を出せないという点では非常に共通するのでどこかシンパシーを感じている模様。

 

 

金剛

こんごうさんじゅうななさい。最古参で最年長の艦娘。かつては同型艦の榛名とペアを組んで行動しており、しかも当時は一航戦の二人も同じ鎮守府所属だったので今でもこの四人は仲が良い。今は榛名だけが別の鎮守府に行ってしまっているが、何かの折に集まった際は四人で飲みに行く。赤城の誘いで今の鎮守府にやって来た。

政治的な事情から、艦娘になった順番が二歳年下のウォースパイトと逆転しているため、公的には「二番目」の艦娘であるが、実際に艦娘になったのは金剛が先。

ベテランらしく、みんなの頼れる大先輩。優秀な軍人らしく、どんな時も落ち着いていて的確な判断を下せる。しかして本性は、祖国で告ってきた後輩(同性)へ碌に返事もせずに日本にとんずらこいた上、未だに返事していない真性のヘタレである。

 

 

川内

夜戦バカではなく夜戦の鬼。ハードモードな人生を歩んできた苦労人。艦娘たちには「体質」として認識される特殊能力があり、川内の場合はスターライトスコープと同じく、微小な光を捉えられる目である。

かつてはその目を活かして夜戦部隊を率いていた。その頃は一部督戦任務もこなしており、どんな無理難題でも、忌避されるような内容であっても、徹底して遂行する姿勢から、当時の部下たちからは「鬼」と畏怖された。一方で、同じ艦娘でさえも撃ってきた反動から、誰かを救いたいという強い思いを抱いている。しかし、幾人かの艦娘の救助に失敗したことで、その強い思い故にトラウマを抱えることになってしまった。ちなみに、駆逐艦ばかりを好くので、ロリコン疑惑を受けている。

 

 

木曾

キャプテンキソー。海賊のようないかつい見た目に、デカい軍刀を引っ提げ、おまけに性格まで超男勝りな艦娘。艦娘に惚れられる艦娘。北方海域を中心に戦ってきた歴戦の艦娘で練度が高く、改二改装を経て雷巡になっている。

トレードマークの右目の眼帯は、北方で戦っていた時の傷跡を隠すためで、現在右目の視力はほとんどない。この傷を負うことになった作戦で部下の艦娘を喪っており、それ故か修復材でも傷跡は消えなくなってしまった。

今では傷のことも戒めだと思い、過去共々受け入れている。ちなみに、好きな色はパステルピンク、好きなアイスブランドはサーティワン。

 

 

第七駆逐隊嚮導艦。初任が現在の鎮守府で、七駆編成も同時。かつては標準的なデスロン(DesRon:駆逐隊)と同じく四隻編成だったが、その内の一人の艦娘が脱走まがいの事件を起こし、六ケ所村の海軍病院に措置入院させられてしまう。このことが、彼女の中で軍組織に対する決定的な不信感を植え付けることになり、後の粗暴な言葉遣いと態度へと繋がった。

口が悪すぎて軍法会議に放り込まれそうになったことが何度もある。が、事情を汲んだ上官に恵まれて今までお咎めがなかった。口調以外の勤務態度は優秀で、能力も高く、しかも年長者には絶対に逆らわないので、多少の口の悪さは大目に見られている。

 

 

駆逐艦漣、出るっ!(`・ω・´) 第七駆逐隊の二番手で、猪突猛進しがちな曙の軌道修正役。だが本人も強烈なキャラクターの持ち主で、明るいというよりやかましいタイプ。お菓子やパンなどを三人の相部屋に多数買い溜めしている。

基本的に誰とでもフレンドリーに話せるが、これは本人が意図して作ったキャラクター性によるもの。加賀との仲は特別で、彼女の前に限ってはこのキャラクター性を脱いで接することもある。心にもないことならべらべらと喋れるが、本心から思っていることとなるとなかなか言い出せないという意味でコミュ障。その点で言えば、口下手すぎて本心が出せない加賀とは共通しており、お互いに実は似た者同士であると思っている。

 

 

デカァァァァァいッ説明不要!! 鎮守府四大巨乳の一角にして、七駆の調整役。間を取り持つのが上手く、頭の回転も速いので赤城も何かと頼りにすることが多い。一見奥手に見えるが、積極的になる時は本当に積極的。一歩離れたところから物事を見ているので、アクの強い曙と漣をコントロールするのも上手。

加賀や漣以上に本心を明かさないが、同僚の脱走事件で傷付いており、心の底ではもう誰も失いたくはないと思っている。その分、軍組織への不信感は曙以上に強く、秘書艦の赤城でさえ一定程度の信用しかしていなかった。

意外と正義感と腕っぷしが強く、入隊前には痴漢や万引き犯の捕縛に学生ながら助力して感謝状を贈られたこともある。そのため、曙も漣も、潮には逆らおうとしない。

 

 

舞風

第四駆逐隊の一人で、鎮守府では一番の新参。一番のロリ。そして、一番肉体派かもしれない。ダンスなら何でも踊れる運動神経の持ち主。朗らかで人懐っこく、いつもニコニコと笑みを絶やさないが、それが空元気であるというのは鎮守府の中では共通知となっている。同僚の萩風と嵐を亡くしたことを引きずっており、よく笑っていても本心から笑うことはなかった。

意外と戦闘力は高く、しかも血の気が多い。普段は前述の通り人懐っこいのだが、一度スイッチが入ると非常に交戦的になる。艦娘ながら白兵戦も得意で、体格で劣っていても果敢に攻める度胸と、相手を圧倒出来る技を持つ。愛称は「マイマイ」。特技はカポエイラ。

 

 

のわっち

第四駆逐隊の(書類上の)嚮導艦。とにかく堅苦しく、生真面目。何事にも冷静に努めようとしているが、実は意外と感情的。精神的には未熟なところも多いが、殊、射撃に関しては抜群の成績を修めており、同じ艤装を背負う舞風と比べても命中率に有意な差がある。

舞風と同じく萩風と嵐の一件を引きずっている。よく舞風が踊っているのを横で見ているが、その踊りが彼女にとって悔悟や謝罪の意味を持っているのに気付いていながら、自らもまたそこに贖罪を見出している。平たく言えば、傷の舐め合いである。

ちなみに、目立ちたがらないくせにええ格好しい。「のわっち、のわっち~」で全てを台無しにされ、泣きが入る。

 

 

加藤

演 阿○寛。……ではなく、そっくりさん。そっくりだとよく言われる。階級は少将。出世志向がとっても強いが、イマイチパッとしないので中々上に上がれずにいる。ある日突然レミリアの着任が決定し、目前に迫っていた念願の司令官の座が遠のいたので、レミリアをこれ以上ないくらい逆恨みしている(的外れではないのだが)。

後に何とか念願叶ったものの、今度は加賀の喪失と一航戦の崩壊という、鎮守府のアイデンティティを揺るがす事態に陥り、敗戦の将の烙印を押されてしまう。艦隊運営自体は地に足の着いたものであり、職務もそつなくこなしていたので、組織人としては優秀であった。ただ、それ故に奇をてらった空母水鬼の戦術にはまってしまい、さらに挽回しようとしたところで……。

 

 

榛名

金剛型三番艦。現呉鎮守府筆頭秘書艦。日本ではネームシップの金剛、二番艦の比叡に続き、姉妹艦の霧島と共に三番目の艦娘として着任した。よって、金剛に次ぐキャリアの長さを誇るが、前線に出るだけでなく、在英大使館に駐在していたり、諜報部門に所属していたりと、異色の経歴を持つ艦娘でもある。艦娘としての戦闘能力や指揮官としての能力も高く、現在の呉や、横須賀などの大規模な拠点で秘書艦を務めている。

出身の家系も歴史的に由緒正しいものであるためか、軍内部だけでなく、政官財界あらゆる方面に広範な人脈を持ち、それ故に海軍制服組の影の権力者として恐れられている。ちなみに、無類の洋菓子好きで、とりわけ間宮製菓がお気に入り。賄賂を渡すなら金より間宮、という噂がまことしやかに囁かれている。

 

 

ウォースパイト

英国艦隊旗艦の艦娘。ブリティッシュロイヤルレズ。幼少より特殊な環境で育てられた箱入り娘。現在は栄えある王立海軍“艦婦”艦隊(Women's Freet Service)を率いる女傑で、「代将」の階級を持つ。政治的都合から先輩の金剛と着任時期を前後させられているので、公的には世界“初”の艦娘である。深海棲艦との戦いに人々を鼓舞するための国境を越えた活動が評価され、軍人ながらタイム誌の「世界で最も影響力のある100人のリスト」に掲載された。

イギリスを含めたEU諸国海軍は対深海棲艦任務に合同で当たっており、この合同部隊には非EU加盟国ながらロシアも参加している。ウォースパイトは実質的にこのEU+ロシア艦隊の旗艦でもあり、イギリス海峡での救出作戦を成功に導き、地中海から深海棲艦を追い出して欧州のライフラインを確保した功績で勇名を馳せた。

同性愛者であることを自覚しており、もし深海棲艦との戦いが終わったなら、カミングアウトして想い人と添い遂げようと考えている。最近Twitterを始めた。

 

 

紅美鈴

うだつの上がらない門番。「くれないみすず」と読めることを利用し、そう名乗って自販機会社に潜入していた。基本的には緊急時のサポート要員として、紅魔館メイド長の命により派遣された。紅魔館の中ではレミリアに仕えていた時間が一番長く、メイド長の先輩にあたるのだが、現在は一介の門番であるため、立場は下となっている。

元々外の世界にあった紅魔館で使用人をしていただけあって、ある程度文明社会には慣れており、適応力も高い。トラックからポルシェまでなんでも運転出来る万能妖怪。なお、咲夜さんのお仕置き用サンドバッグも兼任。

 

 

十六夜咲夜

レミリアの秘蔵っ子。目に入れても痛くないほど可愛がられているメイドさん。本人はその寵愛に応えようとやや空回り気味。化け物だらけの紅魔館に所属していながら、種族は人間のまま。度々主人から吸血鬼にならないかと誘われているが、思うところがあって断っている模様。レミリアが外の世界に行くことには最後まで反対しており、説得も受け付けなかったが、最終的には渋々主張を取り下げた。その代わり、美鈴を応急要員として派遣した。

元々は外の世界の人間で、レミリアの賞金首目当てで侵入し、敗北してそのまま飼い慣らされてしまった。何だかんだ尽くしている内にすっかり気に入られ、今では一番のお気に入りになってしまった。でも、お給金は出ない。最近帳簿と睨み合っていることが多くなった。

 

 

博麗霊夢

言わずと知れた楽園の素敵なお巫女さん。チャーミングポイントは脇。やから。山の神社の可愛い風祝さんによると、参拝客が来ないのは立地の悪さや寄り付く妖怪の多さではなく、その性格のせい。

口は悪いしがめついが、来るもの拒まずの姿勢が多くの妖怪を引き付けている。レミリアも彼女のことを気に入っているが、霊夢はレミリアのことはあまり深く考えていない。しかし、しばしばレミリアはパーティに誘ってくれるので、美味しいもの目当てで割と大切にしていたりはする。

咲夜さんに胃袋を握られているので彼女には逆らえない。

 

 

東風谷早苗

山の神社の可愛い風祝。参拝客倍加キャンペーンを開催したり、神徳増倍のお守りで人を釣ろうとする俗な聖職者。でも信仰や宗教については神職らしく真面目に考えている。実家の神社に放火して、信仰が完全に失せたところで神と共に幻想入りをしてきた。

信仰の獲得には熱心で、営業に余念がない。人と人、人と事物、人と神を繋げる「縁」が何よりも大切で、その「縁」を繋げるために日夜活動している。そして、一度「縁」が結ばれたなら、その「縁」を維持するために早苗は奇跡を起こすことさえ躊躇わない。

また、最近幻想郷に来たこともあって、艦娘や深海棲艦についての一般レベルの知識を持っている。咲夜さんの紅茶は三度の飯より好き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舞台設定等

 

 

 

赤城さんの鎮守府

東日本の太平洋側、某地方都市に存在する海軍の拠点。大湊警備府よりこじんまりとした造りながら、大型艦船が接岸出来る桟橋を備え、艦娘を運用する上での施設が一通り揃っている充実した基地。

赤城ら一航戦の母港に設定されており、艦娘母艦「硫黄島」の母港でもある。

 

 

日本海軍

日本国における軍事組織の一つで、主として海上・海中での活動を行う。日本国のほとんどすべての艦娘が海軍に所属しており、すべての艦娘が海軍内にて運用されている。

形式上は国連軍の一員として、国際協調の下、人類共通の敵である深海棲艦の駆除を行っているが、実際には各国の様々な内情や利権、感情論により、一体的な運用とはなっていない。その中で、所属の艦娘の兵員数が最大で、最も組織的に運用している日本海軍の発言力は強く、これと並ぶのはEU連合艦隊の旗艦であるウォースパイトを有するイギリス海軍、艦娘以外の海軍組織が最も大きいアメリカ海軍くらいであり、この三者を指して、「世界三大海軍」と呼ぶこともある。

 

 

深海棲艦

1950年代前半に突如として出現。その後徐々に勢力を伸ばして世界中の海に広がった新種の生物と考えられる。最初はソロモン諸島など、オセアニアの島々を襲っているだけだったが、1980年代に入って爆発的に増殖。タスマン海でのフェリー船撃沈事件以後活動を急激に活発化させて、世界の海運が壊滅的被害を受けてしまう。

目的は不明。人間や艦娘を見つけると無条件で襲って来る。50年以上研究され続けているが、未だに正体が分からない。遺伝子も分析不能な未知のもので、体の構成物質も人間には合成不可能なものだった。つまり、人間には深海棲艦が作れない。

唯一の弱点は艦娘による攻撃。一方で、通常兵器で撃破不可能で、足止めが関の山。一部戦術核が使用されたが、やはり効かなかった(一応損傷は与えられたようである)。ところが、真偽不明な噂話として、敬虔なカトリック神父が聖水を浴びせたら装甲が溶けて撃退出来たとか、シャチの群れに襲われているはぐれ艦を見た、といった証言が無数に報告されている。

 

 

艦娘

深海棲艦出現後、鹵獲した深海棲艦の構造を解析、得られたデータを応用して開発された、海上機動用携行武器システム運用者の総称。武器システムを「艤装」と呼ぶ。

潜水艦以外は海面に立つことが出来、妖精と呼ばれる一般には不可視な小さな生物を目視し、自分の手足のように使役することが可能。潜水艦は酸素ボンベなしでも長時間海中での行動が可能である。

何故か艦娘になれる適性を持つのは第二次性徴期から二十代前半までの女性のみであり、この理由はよく分かっていない。そもそも、艦娘自体、よく分からない深海棲艦の一部を利用した結果、思うような結果が得られたのでそれを利用しているにすぎず、深海棲艦共々原理的に不明なところが多々ある。

しばしば「艦娘は海に立つから泳げない」と言われるが、実際に潜水艦も含め、すべての艦娘は補助器具を用いても水泳が出来ない。その理由も分かっていない。

 

 

女神の護り

艦娘が艤装を一部でも装着することによって得られる効果。海に沈まない、脳や心臓を抉られても死なない、などの性質が付与される。背部艤装と艦娘の身体を接続し、艤装を固定する「装着部」と呼ばれるパーツのみでも発動するため、装着部が軽量で動きを阻害しない程度に小さいのもあって、陸上でもこれだけを着けて活動する艦娘も少なくない。装着部には装甲の発動スイッチもあり、アップリケ式などの追加装甲板以外では、基本的な装甲の展開を装着部の装着のみで発動させられるという強みもある。

艤装はそれ自体は金属の塊であり、大変な重量物であるが、それを人間体の艦娘が背負って支えていられるのは、「女神の護り」の効果の一つであるという仮説もある。

艤装が深刻な損傷を受けた時、この効果が消えることがある。その場合、艤装の自重により艦娘は直ちにその場に沈没、仮に艤装をパージしても艦娘は泳げないため、いずれにしろ溺死は免れない。戦闘中、敵の攻撃により「女神の護り」を失い、艦娘が沈没することを、「轟沈」と呼ぶ。

 

 

艦娘母艦「硫黄島」

硫黄島型艦娘母艦一番艦。「いおうじま」と読む。元は強襲揚陸艦として建造された軍艦だが、艦娘の運用拡大に従い、ウェルドックなどを改装、艦娘の運用に特化した艦になった。艦娘はウェルドック内から直接海に発進する他、艦上で運用される輸送ヘリからの展開も可能。損傷した艦娘を回復させる入渠設備、艤装の修理も行える格納庫、必要な燃料と弾薬も積み込むことが可能で、艦娘用の広めの士官室など、さながら動く鎮守府と呼べるほど充実した設備を備える。その上、輸送ヘリ、武装ヘリ、さらに短距離発進型の無人機の運用能力もあり、非常に多機能である。その分価格は高騰しており、戦闘海域に赴く際には必ず直掩の艦娘を随行させなければならない。

艦のモデルは某星条国海軍のワスプ級強襲揚陸艦。名前の由来はイオージマ級強襲揚陸艦。同型艦に「沖縄」、「大宮」などがある。

 

 

MQ-4J トライトン(短距離離陸型)

某国で開発された大型の無人偵察機の洋上運用型を輸入して日本独自仕様に改造した無人哨戒機。硫黄島型の艦上からの運用も可能なように、短距離離陸能力や空中給油能力が付与されており、離陸重量の抑制と滞空時間の延長がはかられている。基本的には母艦からの管制によって制御されるが、P-3CやP-1のような有人の哨戒機の補助として運用される場合もある。これら有人哨戒機では近付くのが危険な深海棲艦の勢力範囲において情報収集するのが主な役割。任務後は母艦に着艦せず、陸上の基地まで飛んで行って着陸する。

日本はトライトン以外にも多種多様の無人機を運用している。

 

 

夜間戦闘部隊

かつて川内が率いていた夜間戦闘専門の水雷戦隊。編成当時新鋭だった白露型駆逐艦の時雨、夕立、海風、江風、涼風が所属しており、いずれも高い練度を誇っていた。

基本的には夜間戦闘において深海棲艦を撃滅することを主任務としていたが、少数精鋭で夜間の活動が主という性質から、ダーティな任務に駆り出されることも少なくなく、こうした任務の中には督戦任務――脱走した艦娘の捕縛またはその場での処刑――も含まれていたため、この部隊の存在自体が秘匿されていた。

建前上、部隊の指揮権は艦隊司令官が握っているが、督戦部隊でもあった同隊は、性質上防諜組織の情報保全隊の助言を受けて任務を遂行することとされた。しかし実際には情報保全隊が指図を行っており、実質的にその指揮下にあった。なお、当時情報保全隊付きの艦娘であった戦艦「榛名」が同隊の事実上の指揮官であり、督戦任務等の防諜案件はすべて榛名の指示で動いていたいう。艦娘は機密情報の塊でもあるため、その脱走は防諜組織である情報保全隊の管轄案件となるのである。

現在は解隊されて、当時のメンバーはバラバラに配属されているものの、情報保全隊付きの艦娘が実質的に同隊の任務を引き継いでいる、とのこと。

 

 

六ケ所村海軍傷兵院

青森県六ケ所村に存在する海軍病院で、日本で唯一艦娘の治療を専門的に行える病院。身体的、精神的な損傷により戦えなくなった艦娘が入院しており、艦娘たちの間では六ケ所の病院に送られることは事実上の戦力外通告であると恐れられている。

また、この傷兵院は大きく二つの施設に分かれており、一つは元来の病院施設であるが、もう一方は病院に付属する研究所である。研究所では艦娘や深海棲艦に関わる研究が行われており、内容は高度に秘匿されているため詳細は不明。このような施設の性質から、隣接して海軍特殊部隊の訓練施設も置かれており、非常時にはそこから兵士たちが警備のため出動出来る態勢となっている。

通常、艦娘が「六ケ所」という場合には主に病院のことを指すが、文脈によっては研究所を指す場合もある。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督 裏 Marine Snow1

ご無沙汰しておりますが、今回から鈴熊編です。


 最近、横須賀の街を不審者が騒がせているらしい。鎮守府からの公式な通達こそないものの、艦娘や軍人たちの間で噂として囁かれていた。いや、噂どころか事実の伝聞として鈴谷も何度も耳にした。すでに、不審者騒ぎは立派な刑事事件として扱われ、地元新聞で小さいながらも記事が書かれたという。

 

 曰く、連続無差別暴行傷害事件。

 事件の内容はこうだ。大体月に一度の頻度で発生し、夕方から宵の口にかけての時間帯、人気のない暗がりに引きずり込まれて被害を受ける人が出る。被害者は皆、首筋に二つの傷跡を付けられ、気絶させられていた。年齢や性別には共通点はなく、総じて二十代から五十代の男女が関係なく襲われているそうだ。今まで被害者全員、軽症を負うものの命に別状はなく、発見された時はむしろ丁重に扱われているのではないかと思えるくらい優しく寝かされているという。持ち物がなくなったということもない。

 彼らが特に乱暴を受けた様子もない。しかし、全員犯人の顔は覚えていないと言う。気付けば病院や救急車の中であったり、あるいは自力で覚醒して見覚えのない暗がりに居ることに戸惑ったりと様々だが、共通しているのは犯行が行われたと思われる前後の時間帯での記憶が無いか、もしくは非常に曖昧であることだ。だから、犯人の人相はおろか、どうやって被害者を気絶させたのかさえ不明である。

 当然、目撃者も居ない。犯行は被害者が一人になるタイミングを見計らい、人目につかない場所に引きずり込んで短時間に行われている。犯人は極めて慎重で狡猾、そして手際も良い。

 また、明らかな有形力の行使を行っている人物を指してこう評するのはおかしなことかもしれないが、犯人は“紳士的”でもある。

 何らかの強い目的を持っているのだろうか。被害者に対して犯人が行うのは謎の傷跡を付けることだけ。それに何の理由があるのかは分からないが、その他金品を奪ったり、性的暴行を加えたり等は一切なされていない。犯行後は被害者を汚れにくいような場所に安置し、時に被害者の携帯電話のアラームを設定して立ち去っている。アラームは被害者の覚醒を促したり、第三者が気付きやすくするためのものと思われる。そして、狙われる年齢層も老人や子供はおらず、被害者の全員が健康に異常のない成人男女であった。

 警察も目下、目撃証言の収集や警備体制の強化など、捜査や対策を推し進めているが、今のところ何の手掛かりも得られていないのが現状だ。何よりもまず、傷跡を付けることの目的が不明。警察は、自分の存在を誇示したいためか、ストレス発散か、あるいは単なるイタズラの延長にある愉快犯かと考えている。

 

 しかし、だ。

 記事を読んだ鈴谷が思うに、そんなふざけた理由で人を襲う人間が、しかも襲いやすい老人や子供を避け、石橋を叩いて渡るように慎重に犯行を実行し、“紳士的”に被害者を扱うだろうか。鈴谷も現場を見た捜査官ではないから憶測しか言えないのだが、どうも犯人の行動には犯行に対する罪悪感が見え隠れする気がするのだ。その上で、明らかな弱者である老人や子供、加えて病人や障碍者を避けている。どちらかと言えば襲いにくい、反撃も予想される成人男性を襲っている辺り、そういう「意図」があるのではないだろうか。

 

 では、犯人の目的は何か。

 警察発表でも報道でも言及されていないが、まことしやかに囁かれている噂がある。

 被害者は皆、犯行直後に貧血症状を訴えたのだそうだ。

 それが本当かどうかは分からない。何せ発表も報道もされていないのだから。

 ただ、もしそれが事実だとして、そこから首筋の二つの傷跡というものを考えた時、思わずにはいられない。まるで“吸血鬼だ”と。

 

 馬鹿げた話だ。週刊誌の読み過ぎかもしれない。暇な時に基地内の売店で女性週刊誌を立ち読みするのはそろそろやめた方がいいと同僚にも指摘されている。

 ただし、鈴谷だけでなく噂をする全員が口を揃えて「まるで吸血鬼の仕業だ」と言うのだ。別に鈴谷個人の考えでもない。

 人によっては「現代の吸血鬼」とか「例の吸血事件」とか言ったりする。貧血症状の有無も定かではないし、首筋の傷跡というのも思っているのとは違ったりして、真実ではないのかもしれない。実は人に優しい愉快犯が本当の犯人像かもしれない。

 所詮、噂は噂である。鈴谷とて真に受けているわけではない。ちょっとした空き時間に、同僚と暇を潰すのに口にする与太話の域を出ないものだ。

 それに、噂をする艦娘も軍人も、誰も自分が襲われるとは思っていない。何故なら、もうすでに犯行は半年くらい繰り返されているが、被害者の中には軍人や軍属の者が居ないのだ。この横須賀の街には腐るほど居るにも関わらず。

 また被害者の傾向を考えるなら、少女の成りをしている艦娘はターゲット外だ。仮に襲われても、普段から深海棲艦と戦っている屈強な自分たちが簡単にやられるわけがないと思っている。それどころか、襲って来たら逆に捕まえて、銃後の安寧にひとつ貢献してやろう、と宣う艦娘まで出て来る始末。実際、鈴谷も警戒こそすれど、恐怖も不安も抱いてはいなかった。深海戦艦ル級の方が余程恐ろしい相手である。

 だから、数少ない非番の日に街に出ることに鈴谷は何の抵抗感も抱いていなかった。

 

 

 

 

 それは駅前の商店街から基地への帰り道でのことだった。珍しく鈴谷は一人で街を歩いていた

 非番の日はほとんど同僚にして寮も同室の熊野と被るので、大抵は二人で「デート」をする。それでなくとも所属部隊まで一緒なので、鈴谷と熊野は公私問わず常に二人で行動しているのだが、今日は生憎熊野とは別行動になっていた。例によって非番も被っていて、鈴谷は先週公開されたばかりの映画を見に行こうと誘ったのだが、何やら「用事がありますの」と言われて断られてしまったのだ。

 もっとも、別にそれ自体はおかしいことではない。寮室まで一緒なのだから、下手をすると二十四時間常に顔を合わせている日も珍しくないとはいえ、お互い個人的な時間というのも持っている。むしろ、いつも一緒に居るからこそ一人の時間もちゃんと確保しようと話し合って決めたのだ。そうでないと、いつか相手にうんざりしてストレスが溜まってしまうだろうから。

 今までも非番が被ったのに別行動を取ったことは何度もある。鈴谷にだって一人でしたいことはあるし、熊野だって同じだろう。映画はまだ公開されたばかりでしばらくやっているだろうから、また今度見に行くことにした。ちゃんとそこで「行きますわ」と約束してくれるのが熊野のエライところである。

 

 かくして、特に用事もないけれど鈴谷は駅前の商店街をぶらつき、何か自分の心をくすぐるような物が売られていないかひと通り見て回り、別段欲しい物が出来なかったので手ぶらで帰るところだった。

 昼前に基地を出たので、半日歩き回ることになり、結構足が疲れている。これは帰ってすぐ風呂に入ってマッサージしなきゃなとか、埋め合わせに熊野にやらせようかなどと考えながら繁華街をゆっくり進んでいた。

 日曜日の夕方だ。行き交う人は多い。艦娘と言えど私服を着てその中に紛れてしまえばそこらの少女たちと変わりなくなる。

 実際、実年齢で言っても、艦娘としての経験が浅い方になる鈴谷はすれ違う少女たちからいくらも年が離れているわけではない。艦娘が老けないというのは有名な話で、いつまでも(見た目は)若さを保っていられるのは悪くない気分だが、一方で実年齢不相応な扱いを受ける場合もあるので、「一長一短かな」と思っている。自分より年下と思われる男共に子供扱いされるのは腹が立つ、ということだ。

 今日も暇そうにぶらついていたからか、昼間に暇そうな男に声を掛けられた。ちょうどいいやと思って飯をたかり、見た目相応の“頭の軽そうな女子高生”っぽく適当に中身のない話をして、最後に艦娘であることを打ち明けると、相手の男はひどく驚いた顔でバツ悪そうに去って行った。

 鈴谷流ナンパ男撃退術である。大抵の艦娘はよくよく見ればそこらの女と違い、何となく無骨さというか、ピリピリとした気配を纏っているものだが、自他ともに認める「ユルい」性格の鈴谷はその例外にあたるらしい。久しぶりに高校時代の同級生と会ったりすると、「昔と変わらない」と言われる。言葉の意味はそのままだ。

 だからか、チャラチャラした男がよく声を掛けてくる。その度に楽しく会話に乗ったふりをして、あるいは“その気”になった演技でラブホの前まで行って、さらりと「艦娘だけどダイジョーブ?」みたいなことを打ち明けると、誰もが慌てて逃げるのだ。それもそのはず。護国奉仕する艦娘に手を出したとなれば、刑事罰こそないものの、世間の糾弾は免れ得ない。世間体を気にするような連中ではないが、やはり艦娘というのは社会からどこか特別扱いを受けているフシがあるから手を出しづらいのだろう。

 熊野にはそういうところが「性格が悪い」と言われるのだが、それは自覚の上。逆に彼女の場合はまったくナンパなど受けないらしい。見た目で言えば彼女も“女子高生”っぽいはずなのだが、どうにもあちらには生来の頑固さがあって、それが表に出て来ているのかもしれない。しかも、頭がカタい上にお胸も硬いので、これはどうしようもない。

 彼女は鈴谷とは真逆のタイプで、本当にびっくりするくらい性格が好対照なのだ。生来の気質もあって小言は多いし、部屋を散らかしているとすぐに片付けるし、細かいところも多々ある。鈴谷の方は何から何までアバウトなので、よく「凹凸コンビ」と揶揄される。それ故の仲の良さかもしれないけれど。

 

 

 閑話休題。

 駅前から横鎮に向かうには繁華街を通りぬけて国道16号線を渡らなければならない。繁華街は碁盤の目状に区画整理された町並みで、人通りも多い。高層マンションも何棟か建っていて、それらが夕日を浴びて朱色に染まっていた。

 なんてことのない休日の夕方だ。過ぎ行く人の足には「明日が月曜日だ」という憂鬱がちらほら見えるとはいえ、総じて平和な一日が過ぎようとしている。

 だから、鈴谷も特に思うことはなかった。完全に暇潰しのためだけに費やされた一日に少しのもったいなさを感じはするものの、それ以上の感傷はない。そうした日常の有難味にさえ感謝しようと思わない平凡そのものの時間が過ぎていた。

 

 

 

 だが、街を歩いていた鈴谷はふと足を止める。

 何かの間隙だろうか、偶然人通りが少なくなった一瞬。歩いているのは、スマホに夢中になっている若い女性が一人、連れ立って喋っている中年男性の二人組、うつむき加減でゆっくりと歩を進めている老人。

 誰もこちらを見ていない。意識も向けていない。周囲は店もあるが、この時間はまだ開店していない居酒屋や、休日は休みの銀行、あるいは潰れてシャッターが閉まった空き店舗ばかり。

 

 

 右を見る。

 

 

 建物と建物の隙間。ビルとビルの谷間。

 暗がりになっているそこ。奥は見通せない。不思議と、光を遮る何かがそこに横たわっているように、時間帯の割に暗い場所だ。

 

 音がしたわけでも気配がしたわけでもない。なのに、気付けば鈴谷は暗がりに足を一歩踏み出していた。

 どうして自分がそんなことをしているのか分からない内に、鈴谷の姿はふっとビルとビルの合間に飲み込まれてしまう。通行人は誰もそのことに気付かなかった。

 

 

 

 

 人が一人通るのもやっとの狭い狭い路地裏。室外機か換気扇か、何かの低い機械の唸り声が響くだけで、街の喧騒は路地に入った途端に遠のいた。

 鈴谷は両隣に迫るビルの外壁に据え付けられた室外機に躓かないように注意して進む。人の手さえ滅多に入っていないのだろう、靴越しでも足元にザラザラとした砂や埃が散っているのが分かる。頭上は細く切り取られた夕焼け空が見えるだけで、路地は暗い。この先にはまた入って来た通りとは別の通りがあるはずだが、暗幕に覆われているかのように向こう側が見通せない。

 何故だろうか。目を凝らしてみると、路地には塞ぐように何かがあるからだと分かった。

 

 シルエットだ。それが光を遮り、路地の向こうを見通せないようにしてしまっているらしい。

 不意にシルエットが動く。小さくなった。いや、“しゃがみ込んだ”のか。

 人が居る。鈴谷はようやく気付いた。自分の前の路地を塞いでいるのは人間だ。誰かがそこで何かをしているらしい。

 

 

 こんなところで何を?

 

 

 声を掛けようとして、自分の行動も説明が難しいことに気付いた。どうしてこんなところに足を踏み入れたのか訊かれたら、逆に自分が答えられない。何しろ、自分自身にさえその理由が分からないからだ。ただ、何かに誘われるようにふらっと入って来てしまった。

 こんなところで隠れてコソコソと何をやっているのかという好奇心が湧き出す。ひょっとしたら目の前の人物は何か良からぬことをしているんじゃないかと思い、首を伸ばして様子を伺う。

 

 

 

 

 鈴谷は気配を殺した。息も止めた。

 

 その人物はしゃがみ込み、地面にある何かをいじっている。

 

 鈴谷は目を瞬かせ、何をしているのかよく見ようと腰を曲げる。

 

 

 

 彼か、彼女か、怪しい人物は地面にある何かを抱え上げた。

 

 だらんと、抱え上げられた物から細長い物が垂れる。力なく、重力に引っ張られるままに。

 

 

 

 

 シルエットだけでも分かった。見慣れた造形だ。見間違うはずもない。

 

 

 じゅるり。湿っぽい音が響く。ちょうど、男女がねっとりとしたキスをしたらそんな音がする。

 ただ、直感的に思ったのは、「食べているな」ということだった。

 目の前の人物はこんな汚い路地裏で食事中だ。

 

 

 

 何を食べているのだろうか?

 

 

 抱え上げられた物から垂れたのは何だろうか?

 

 

 

 

 

 

 それは、人間の手じゃなかったのか?

 

 

 

 

 ゾワリと、背筋を悍ましいものが貫く。何か恐ろしいものを前にしている。

 深海棲艦を相手にした時とは違う。得体の知れないモノに対する恐怖。

 

 身体が強張っていく。全身に力が入って思うように動かない。

 今の鈴谷は丸腰だ。当然、艤装すら身に着けていない。

 艤装の加護はない。ある例外を除くが、基本的には艦娘が超人的な力を発揮出来るのは、あくまで艤装を装着している間だけでしかない。

 逃げろ、と頭の中で発せられる警告。抵抗する理由もないので、本能の命じるままに鈴谷は足を一歩引いた。

 

 

 

 ざり。

 

 

 

 心臓が縮み上がった。全身の血流が一瞬にして凍結した。

 不用意に動かした足が、地面に散らばる砂を鳴らす。低い機械音だけの路地では、小さな足音もよく響く。

 

 目の前の人物の肩が跳ねる。弾かれたようにそいつは振り返った。

 暗闇にちらりと光が反射する。目を見てはならないと思った。

 視線を下げる鈴谷。それが致命的な判断だというのに気付いた時にはもう遅い。

 反射的に腕で急所を守る。咄嗟にそういう反応が出来るのは、鈴谷がやはり戦闘要員であるからだろう。艦娘は一通り白兵戦の手解きを受けているから、素人の暴漢程度なら簡単に撃退してしまえる。

 

 

 

 だが、予想した衝撃も暴力もなかった。

 伏せていた目を上げて前を見ると、不思議なことに先程までそこに居た人物の姿はなかった。

 まるで、そこには最初から誰も居なかったかのように、忽然と消えてしまった。

 

 あれは何だったのだろうか。見間違い、ではないだろう。

 頭上を見上げてみても、相変わらず細長い夕空が見えるだけ。当然、路地の先にも誰もいない。

 念の為に振り返っても、やはり入って来た通りを行き過ぎる人の姿がちらちらと見えるのみだ。この路地の向こうは、何気ない日常が繰り返されている。

 

 

 ようやく、怪しい人物が居なくなった実感が湧いてきて鈴谷は溜まった息を吐き出した。それから、ハッと思い出す。この場所にはまだもう一人居るはずなのだ。

 案の定、見下ろすと路地の汚い地面に誰かが倒れている。先程、抱え上げられていたのはその人だ。

 

「大丈夫ですか!」

 

 思ったよりすんなりと足は動き出し、鈴谷は慌てて横たわっている人を抱え起こす。

 薄暗い中なのではっきりとは分からないが、三十代くらいの壮健な男性だ。何かスポーツをやっているのか、体付きはがっしりとしていて体重も重い。女の細腕では上半身すら抱え起こすのに一苦労だった。ましてや当人が完全に意識をなくしてぐったりしているとなれば、普段から身体を鍛えている鈴谷でも手古摺った。

 ただ、幸いにして彼は生きているようだった。首筋を触ると、指先にはっきりとした脈動が伝わる。

 兎にも角にもまずは救急車だ。生憎、個人的な情報通信機器の携帯を制限されている艦娘は往々にして携帯電話を持っていない。鈴谷のその例に漏れず、持ち合わせがあるのは基地との緊急連絡用のPHSのみだ。最近はめっきり見なくなった代物だが軍では未だに現役だし、119番通報するのはこれで十分である。

 電話を掛けながら、彼を起こそうと試みた。肩を掴んで軽く揺すろうとし、指が何か生温かいものに触れる。

 粘り気のあるそれ。ゆっくりと手を離して指先を見るがよく見えない。ただ気持ち悪い感触だけが感じられる。

 「119」と数字を押しただけでまだ発信していないPHSの画面を指に近づけてみる。そこから発せられる光が指先を白く照らし出した。

 光を反射する液体がわずかに付着しているようだ。かすかに赤みを帯びているのは光の加減ではない。

 続けざまにPHSの光を男性の首筋に向ける。

 ドンピシャリだ。どうやら鈴谷は思ったより厄介な事態に遭遇してしまったようだった。

 

 彼の首筋には二つの傷跡が付いていた。小さく赤い傷跡だ。まだ血が止まっていないのか、ぷっくりと血玉が膨らんでいる。そして、傷の周辺は透明な液体によって濡れていた。

 

「マジ、かよ……」

 

 無意識に溢れた呟きは路地の闇の中に消えた。

 

 例の連続暴行傷害事件。目撃者が居ないとされたこの事件の、鈴谷は最初の目撃者となってしまったらしい。

 しかもどうやら事件に関して囁かれている噂が現実味を帯びていることまで見てしまった。

 どう考えても、今目の前に横たわっている被害者の首筋にある傷跡は、昔どこかで見た古い吸血鬼映画にあったものだ。ちょうど、人間の犬歯とこの二つの傷の間隔は一緒くらいだろう。

 面倒なことになったと思った。けれど、意識のない彼をこのままここに寝かせておくわけにもいかないし、警察に通報しないという選択肢もない。救急と警察を呼ぶのは最低限の義務と言える。

 被害者は幸いにして大した怪我をしているわけではなさそうなので、問題は警察の取り調べの方だろう。目下巷を騒がせている事件の目撃者ということで、おそらく根掘り葉掘り聞かれるに違いない。警察と関わった時の面倒臭さというのは、艦娘になる前は人に言えないような荒んだ生活をしていた鈴谷にとって身に滲みて理解していることだった。補導された経験は一回や二回で済まないし、取り調べに何時間も拘束されてうんざりしたのだって忘れてはいない。

 それでも、悪さをしていたのは昔の話で、今は仮にも国防を担う立派な艦娘だ。それが犯罪を目にして捜査に協力しないなど、果たして許される行為であろうか。何より、あの正義感溢れる同僚の熊野が許しはしないだろう。

 遅くなれば彼女にまた小言の十や二十を頂戴するかもしれない。まあ、事情が事情だけにそんなにうるさくは言わないだろうが。

 帰りが遅くなるのは避けられないだろう。

 辟易しながらも、まずは119番に電話を掛けた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 案の定、帰ったのは日が変わってからであった。これでもまだ早い方で、鈴谷が横鎮の秘書艦にPHSで「助け」を呼ばなければきっと一晩警察署で泊まることになっていたに違いない。基地からの迎えが警察署に来て、さんざん圧力を掛けてもらった結果、取り調べ途中ながら鈴谷は解放されたのである。話を聞いていた刑事はまだ聞き足りないことがある様子だったが、鈴谷としては誠心誠意話せることはすべて話したつもりである。

 取り調べは嫌に執拗だった。ただの目撃者にすぎないのに、まるで「お前がやったんだろ」と言われているような気さえした。生まれも育ちも横須賀の鈴谷は、かつての素行不良が地元の警察官たちの間でも知れ渡っていて、そのせいで色眼鏡を掛けて見られてしまっていたのだろう。現に連れて来られた警察署も、かつて何度もお世話になった見知った場所である。

 

 ただそうは言ってもだ。チラホラと知った顔の警官と目が合う度に「また何かやらかしたのか」という呆れ顔までされる謂れはない。仮にも同じ公務員なのだから、こちらの立場というものも尊重して欲しいものだ。

 もっとも、全部予想の範疇だ。むしろ、通報直後にはもっと面倒なことになると身構えていたものだから、これでもマシな方と言える。艦娘という立場を最初に明かしたことが奏功したのだろう。普段は偉そうにしている警察といえど、さすがに艦娘を邪険には扱えなかったらしい。それでも失礼をいくらか受けたが。

 当然、予想出来ることには対策を講じる必要がある。鈴谷は早々にPHSで秘書艦に事件に遭遇して警察に行くという連絡を入れ、迎えをお願いしていた。その結果、日を跨いだとは言え、比較的早く解放される結果になったのである。

 警察は古い組織で権力も強いが、軍も同じくらい(あるいはそれ以上に)古くてもっと権力の強い組織である。権力を権力でねじ伏せるのはなかなかに気分が良かった。増してや、ねじ伏せられる相手があの警察とあれば、取り調べで溜まった鬱憤も勢い良く吹き飛んで消える。

 ところが、基地に帰ってからも大変だった。

 鎮守府司令官からは直々に労いの言葉を頂いたものの、それとなくMP(海軍憲兵)からの聴取が控えていることを示唆された。まだあれが続くのかと思うと、がっくりと肩が下がる。

 先に帰っていた熊野は寮室で迎えてくれていたが、案の定お小言をいただいた。曰く「先に助けを呼びなさい」とか「傷付けられる危険があったのですわ。もっと我が身を省みることも重要です」とか。心配を掛けたのだから言わせておこうと思った。どうも、鈴谷が例の事件の目撃者となったという情報は早速鎮守府内を飛び回っていて、あっと言う間に熊野の耳にも入ってしまったらしい。

 

 

 

 翌日は示唆された通りMPからの聴取があり、それだけで半日潰れてしまった。やはりというか、警察と同じく鈴谷に疑いの目が向けられているようだ。

 鈴谷からすれば納得出来ない話だが、確かに犯行を目撃したものの、目を逸らした隙に逃げられて、しかも見ていなかったからどこに逃げたのかも分からないというのはいささか不自然だろうか。犯行現場から鈴谷が立っていた方とは反対側の路地入り口は十数メートルほどしかなかったとは言え、あっさり逃しているのである。別に捕まえる義務も責任もなかったのだし、むしろ挑んだとしても相手は大の男を気絶させられる技術を持っているのだから、いくら艦娘とは言え鈴谷が返り討ちにされていた可能性は高かった。

 勝てなかっただろう、というのが鈴谷の見解。恐怖で足がすくんだなどとは一言も言っていないし言うわけもないが、それによって鈴谷が動かなかったことと相手が不必要に傷つけるような行動に出なかったことは運が良かっただろう。いくら艦娘として戦闘技術には自信があるとは言え、あの犯人にはまず勝ち目がないはずだ。それは鈴谷だけの見解だけでなく、鈴谷の話を聞いた捜査官や憲兵も同意していることだった。

 

 犯人はどのような手段を用いているのかは分からないが、成人男性さえ圧倒する技術を持っている。それは所謂体術の類で、薬品などを用いたものではないと考えられていた。

 何故そうなるのか。何故、技術と言い切れるのか。

 それもそのはず。女に大男を倒すのは普通は無理だからだ。鈴谷とて、屈強な水兵を相手にするとしたら、体術を駆使しなければ勝負にもならない。しかも、体格差は体術を持ってしても埋めがたい差である。あの犯人は容易にそのハンデを超えて見せたのだ。

 軍人、格闘家。そうした犯人像が浮かび上がりつつある。

 鈴谷があの時目撃した犯人。振り返った一瞬、妙に身体のラインがほっそりしていた。完全にシルエットだけだったから性別までは断言出来ないが、鈴谷個人としてはあの肩の華奢な感じは女性のそれであると確信している。

 だからこそ、犯人は余程戦い慣れていて、かつ戦闘技術も卓越している人物に限られる。今回の被害者は、そうでなければ簡単に打倒されるような人ではなかっただろう。あのガタイの良さから相当身体を鍛えていると見られ、一般人と言えど鈴谷でも昏倒させるには苦労するはずだ。

 ただ、それはあくまで「常識的な」方法論に限った話。犯人が体術で被害者を圧倒し、犯行に及んだという前提でのこと。

 どんなに強くても、犯人は人間だ。撃てば死ぬ、人間だ。

 

 だがもし犯人が人間ではなかったとしたら? それこそ、本当に“血を吸う鬼”であったとしたら?

 

 人外の化け物には人間を襲うことなんて簡単なのかもしれない。

 それもあながち荒唐無稽な妄言というわけでもない。現実の脅威として、正体不明の怪物である深海棲艦は出現して未だに海を跳梁跋扈している。艦娘を護る「女神の護り」というのもオカルトの類としか言いようがない。

 そうした科学では解明出来ない存在や事象を日頃から相手にしているからこそ、鎮守府の中でまことしやかに「吸血鬼」の噂などがささやかれるのだ。誰もが「居てもおかしくない」と思っているからこそ、好奇心半分だとしても、そんな不確かな噂が流れる。

 しかも、犯人が吸血鬼っぽいことをしていたという目撃証言まで出て来てしまった。他ならぬ鈴谷が目にしたために。

 これから噂はさらに補強されて、それどころかほとんど真実としてささやかれるようになるだろう。鈴谷の下にも真意を確かめに来る連中が押し寄せることだろう。

 

 まったく面倒なことになったと思う。取り調べは取り敢えずのところ落ち着いたけれど、警察のしつこさは骨の髄まで理解している鈴谷である。これで終わりとは思えない。

 

 

 それに、懸念はもう一つあった。

 鈴谷は犯人の顔を見ていないが、犯人は鈴谷の顔を見たのだろうかということ。逆光になっていたあの路地の中では、おそらく分からなかったとは思うが、それも自信を持って言えるようなものではない。

 もしただの人間なら、厳重に警備された鎮守府の中に侵入するのは不可能なので心配する必要もないのだが、人智を超えた化物となれば話は別。

 警備を突破してやって来るかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「眠れていないの?」

 

 事件に遭遇して二日後、寝不足気味でズキズキと痛む頭を抱えながら食堂でちまちまと定食ランチを突いていた鈴谷に声を掛ける者が居た。

 頭上から降って来た聞き慣れた声に顔を上げると、鈴谷と同じ定食ランチが乗ったトレーを持つ同僚の姿。彼女は午前中、鈴谷とは別れて研修を受けていたはずだ。上官からの評価の高い熊野は、一部の優秀な艦娘だけが選任される「艦娘幕僚」、いわゆる秘書艦の候補生に見事指定され、最近は研修漬けの日々を送っていた。

 鈴谷には、いつも忙しそうで司令官の使いっ走りみたいになっている秘書艦の何がいいのかまるで分からないが、真面目な熊野は熱心に研修を受けているようだ。元より責任感の強い彼女にはお似合いだと思うけれども。

 

 

 それはもう、熊野は自他ともに認める優秀で模範的な艦娘だ。何をやらせてもそつなくこなし、平均以上の出来に仕上げる。書類を作れと言われれば指示した本人が求める以上の質で作って返すし、艦隊を統率しろと言われれば見事作戦目標を達成した後、堂々と帰還する。作戦中の戦闘も時に定石通りに、時に型破りな方法で、最も状況に即した合理的な戦術をもって敵を撃破する。艦隊旗艦として指揮下の艦娘を有効に動かし、滞りなく戦闘を進めて勝利をもぎ取るのは並大抵のことではない。その姿を最も近くで見ている鈴谷からしても、純粋に彼女の手腕には脱帽する。

 絵に描いたように優秀な艦娘だ。これで艦娘でなければ順調に軍政畑を出世して中央に入ったかもしれない。いや、艦娘であってもノンキャリのエリートとして出世するだろう。今の海軍はかつて程キャリア・ノンキャリアの差を付けなくなっているから、艦娘出身と言えどいいところまで行ける可能性は十分ある。

 そんな将来バラ色が約束されているエリート艦娘は、大業そうに鈴谷の前の席に腰を下ろす。

 

「研修でお疲れ?」

 

 海に出て走り回っていることより座学ばかりの研修が疲れるものだろうかという皮肉交じりに尋ねる。すると熊野はどう受け取ったのか、素直に頷いた。

 

「まったくですわ。自分で選んだ道とは言え、こうも退屈なお勉強が続くのかと思うとうんざりします」

 

 肩でも凝っているのか、熊野はしんどそうに首を回す。それから「体力を費やすより気力を費やす方が疲れますの」としっかり皮肉を返してきた。

「鈴谷には無理だわぁ」と適当に答えて受け流す。

 

 二人の馴れ初めは、偶然艦級が同じだったことだ。最上型重巡洋艦の三番艦が鈴谷で、四番艦が熊野だっただけのこと。つまり姉妹艦の関係である。出会ったのも横須賀教育隊で、書類上のカテゴリーがたまたま同じ括りだっただけの赤の他人同士だった。とは言え用兵の都合上姉妹艦同士で部隊を編成した方が合理的だし、管理の都合上寮室を一緒にしたり行動を共にさせた方がやりやすい。

 ただし、姉妹艦同士でも本人らの人間関係というのは当然生じてくるものだから、中には姉妹艦と折り合いがうまくつかなくて編成が変えられたという例もあるらしい。幸いにして鈴谷と熊野においては今のところ関係は非常に良好であり、その必要性は一切生じていない。今のところ、だが。

 

 まだ養成所でしごかれている見習い艦娘だったころから、よく周囲から「凹凸コンビ」と揶揄されていた。鈴谷自身、それは的を得た指摘だと思っている。

 とにかく几帳面な熊野と大雑把が服を着て歩いているような鈴谷では揶揄もされよう。そもそもの生い立ちからして真反対のようで、貧しい家庭に生まれて学生時代は「不良少女」やら「非行少女」やら呼ばれて、そのまんま艦娘になったら今度は「不良艦娘」と後ろ指さされているような鈴谷と、(あまり詳しくは本人が語りたがらないので知らないものの)それなりに裕福な家庭に生まれ育ち、厳しい教育を受けて、艦娘になったらなったで「ノブレス・オブリージュ」や「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂」を地で行く模範的艦娘の熊野である。それはもう、見事なまでに真逆であった。

 何しろ熊野の唯一の欠点は「鈴谷」だと言われるくらいである。さすがにそれはあんまりなので耳にした時にはむかっ腹も立ったけれど、一歩引いて考えてみれば一理あるとも思った。付き合う人種もその人の品格の一部とみなされるので、例えばの話、高学歴高収入で医師や弁護士といった立派な職業に就いている人間が、暴力団関係者と仲良くしていたらあんまり尊敬はされないだろう。当人の考えは別として、鈴谷の存在が熊野の評価にとってマイナスであるのは否めない。

 しかし、だからと言って鈴谷にも熊野にも、お互い別れるつもりは毛頭ない。性格というより相性が非常に気持ち良く合致しているので、お互い隣り合っていて居心地がいいのだ。鈴谷はしっかり者の熊野に甘えられるし、熊野も普段の模範的艦娘という像を捨てて愚痴を言える相手は鈴谷に限られる。どちらも他人には見せられない姿だ。凹凸はしっかりと組み合わさっているのである。

 ただ、最近においてはその限りではなくなってきている。というのも、秘書艦研修ばかりでめっきり海に出られなくなった、あるいは出られたとしても完全に鈴谷とは別行動になる熊野との間に、何となく距離が出来てしまっているような気がしてならない。経験の浅い鈴谷にとって、ベテラン艦娘が選ばれる秘書艦という立場はとても遠く、自分たちが関わるようなものではないと思っていた。元より鈴谷にはそんな可能性はないし、熊野にとっても当分先の話だと、二人してそう思っていた。

 

 ところが、ひと月ほど前に熊野に対して秘書艦候補生の話が来たと聞いた時、直感的に熊野が離れていってしまうと感じたのだ。そして、それは事実となった。

 置いて行かれているような寂しさ、あるいはこれまで一緒だった道が分岐点に到達し、これから別々の先を行かなくてはならなくなったような気分。最近鈴谷の胸の内を支配するのはそんな感情ばかりである。

 

「眠れていないの?」と彼女は言った。

 

 その理由を、熊野は先日遭遇したばかりの事件の目撃と考えるだろう。そう思って声を掛けて来たのだろう。

 確かにそれもある。目撃者だから、口封じに狙われない可能性もないとは言えない。しかも、あの事件の犯人はひょっとしたら化物かもしれないと思うと、恐怖を感じないわけではない。脅威の数を勘定したりもした。

 だが、それらはすべて憶測の上だ。

 現実は、常識的な思考が優先される。すなわち、犯人はさして害のある人物ではなく、必要以上に他者を傷つけることを忌避するタイプで、鈴谷はがっちりと守られた基地の中で過ごし、海に出る時は無敵な艤装を装着している。万に一つも攻撃を受けることはない。受けたとしても傷一つ付かない。傷付いたとしても鈴谷は問題ない。

 だから、眠れていない理由の大部分を占めるのはまったく別の問題、つまりは熊野のことだった。

 でも、当人に面と向かってそれを言うわけにはいかない。特に熊野の性格なら真に受けてしまい、悩みに悩んでド壷にはまるのは目に見えている。多忙な彼女を下らないことで悩ませたくない。

 だから、鈴谷は適当に話を合わせて誤魔化す。

 

「少し肌が荒れてますし、目元の色も悪いですわ」

「目付きが悪いってよく言われるよ」

「そういうことじゃありません。例の事件のことが尾を引いているんですわね?」

「確認のための質問だよね。ま、その通りなんだけどさあ」

「あまり、気にしてはダメよ。辛かったらカウンセラーもいらっしゃるわけだから、一度相談に行って来られてはいかが?」

「考えとく」

 

 カウンセリングなど受けるつもりはまったくないからそう答えておいた。仮に受けるとしても、相談するのは別のことになるだろう。

 それで解決するなら誰も苦労はしない。子供の頃はさんざんカウンセリングの類は受けたけれど、それが役に立った試しは一度たりとて有りはしなかった。だから、鈴谷はカウンセリングやカウンセラーという存在を一切信用していない。

 カウンセラーというのは話を聞いてくれる。当たり前だ。それが仕事なのだから。

 そして、こちらの言うこと、悩み、想い、その他諸々を一応は理解してくれる。そこから、「人を思い遣って」とか「君の自由に、けれど少しだけでもいいから相手の気持ちも考えてみよう」とか、誰も彼もが同じようなところに話を持って行く。理解はしてくれても、決して受け入れてはくれない。少なくとも、幾度とないカウンセリング経験の中で鈴谷はそう感じた。だから毒にも薬にもならないカウンセラーより、「不良艦娘」と呼ばれている鈴谷であっても、小言を言いつつも受け入れて友人をやってくれている熊野の方が余程重要な存在なのだ。

 

 彼女は唯一無二である。彼女が居なくなれば鈴谷は孤立する。

 多少面倒臭い性格をしていても、きっと熊野は多くの人に気に入られるだろう。秘書艦候補生に選ばれたのも、上からの受けが良かった証拠だ。

 対して鈴谷は、仕事上のものを除いて熊野以外に人付き合いがない。上官の受けも悪いし、他の艦娘たちは「不良」である鈴谷に近付きたがらない。

 

 

 

 故に、鈴谷は熊野が離れていくことに恐怖する。

 

 故に、彼女を突き放すようなことは決して口にしない。

 

 

 だけど、熊野には熊野の道があって、その道の先が鈴谷の道とは違う方向にあることも理解している。彼女がその道を進むことを止められないし、鈴谷の道に引き込むことも有り得ない。彼女には彼女の夢があり、鈴谷は当人からそれを聞かされていたし、彼女がその夢に向かってひたむきに努力しているのも知っている。熊野が目指すのは組織の中でも高見に位置していて、そこは鈴谷のような「不良」には到底望むべくもないような場所。きっと熊野はいつかその場所に到達するだろう。そして、その時自分は彼女のそばには居ないだろう。何故なら、鈴谷には熊野と並び立てるほどの頭脳もなければ、人望もないのだから。

 別れは必然であり、それも遠くない未来の話だ。次期秘書艦に内定したのも、彼女が夢へ向かって着実に歩んでいる証拠だった。少なくとも、鈴谷はそう考えていた。

 もう頭ではとうに理解している。後は心がそれを受け入れるだけ。自分の我がままで、この愛すべき同僚の行く末を変えてしまうわけにはいかない。

 けれど、理性の判断に感情がなかなかついていけないのも事実だ。毎晩、消灯された寮室の中でベッドに潜り込み、熊野が穏やかな寝息を立て始めるのを耳にしてから目を閉じると、途端に矛盾した理性と感情が押し寄せて来てしまい、せっかくの眠気を何処かに蹴飛ばすのだ。だからいつも眠気が限界になるまで意味のない葛藤を繰り返し、結果寝不足になってしまっている。

 

「貴女がそう言う時はまったくするつもりがない時ですわ」

 

 そんな鈴谷の悩みなど露知らず、心配を無碍にされたと思ったのか熊野は少しむくれ顔になった。

 いつものことだ。熊野は人の機微を敏感に察知出来るくせに、鈴谷が悩んでいることを言い当てられたためしがない。このお嬢様は意外とそういうところが鈍かったりする。

 それはもちろん、鈴谷が自分のことを隠すのが上手だということもあるのだろうけれど。

 

「分かる?」

 

 と、笑って隠せばほらこの通り。熊野はむくれ顔のまま的はずれな心配をしているだけ。

 

 何も気付かない。何も気付かせない。

 

「『分かる?』じゃありません。まったく、貴女は……」

 

 この辺りで追求は打ち切られる。熊野はあまりしつこいタイプではない。彼女も鈴谷の性格はよく分かっている。鈴谷が何か相談するべきことを抱えているならまずは熊野に話をするということを。そしてそれがないなら必要以上に踏み込むようなことでもないということを。

 十年来の友人同士というわけではないが、熊野は鈴谷との付き合い方は心得ている。絶妙な距離感を保つのが非常にうまい。だから、鈴谷にとっても熊野の隣は居心地がいい。

 だけど、世の中には熊野に相談出来ないことなんていくらでもあって、その内の幾つかを鈴谷が抱え込んでしまう可能性は決して低くないのだ。熊野はそれをまだ分かっていない。そういうところが“鈍い”のだ。

 

「ダイジョーブ。なんかあれば言うからさ」

 

 微笑みと共にそう言ってあげれば、心配症な熊野も落ち着く。

 扱い方はよく心得ているもので、こう言っておけば大丈夫だ、という言い方というのが幾つかあるのだ。熊野も案外単純なもので、言葉一つで不安になったり安心したりする。

 けれど、そうやって鈴谷を、等身大の鈴谷を、「不良」というレッテルを貼らずに鈴谷を見てくれるのは彼女しか居ない。鈴谷のことで不安になったり安心したりするのは、それだけ熊野はしっかり見てくれているという証左である。熊野にとって鈴谷はとても大切な存在で、それはそっくりそのままひっくり返して鈴谷にも同じことが言える。

 だからこそ、鈴谷もまた熊野を不安がらせられない。彼女が恐れること自体を鈴谷は恐れている。

 例え仮初めの、何にもならない空虚な言葉だったとしても、それで熊野を安心させられるなら鈴谷はいくらでも言葉を弄そう。

 鈴谷は、自分が熊野の道に転がる岩になることを望んでいない。

 

 

「ま、いいですけれど」と投げ捨てられたような言葉を最後に彼女はようやっと食事に手を付け始める。

 彼女はまだ食べ始めだが、鈴谷はもう食べ終わりそうである。もっとも、昼休みはまだ時間があるのでゆっくり熊野を待ってやっているのもいい。どの道、一人になったところですることなんて喫煙所でだらけるくらいしかないのだ。鈴谷は喫煙者であった。

 

 煙草について言えば、これは入隊する前からの習慣だ。十七歳の時に艦娘としての適性があるのが分かり、拒否権なく艦娘にさせられたので、立派な未成年喫煙者だったことになる。年齢的なことを言えば今現在は既に成人しているので吸っていても問題はないのだが、たまに街中で吸っていると警察官に咎められたりする。その度に艦娘だからと説明しなければならない。何しろ見てくれが入隊直後から変わっていないのだから。

 ただし、最近はあまり吸うことがなくなった。入隊し、正式配属されてからも日に十本は吸っていたのだが、ここ何年かは一週間経ってもひと箱空にならないこともよくあるようになった。理由は、煙草の値上げが著しいのと、目の前の彼女が大変な嫌煙家だからだ。

 どちらかと言うと後者の方が大きい。臭いに敏感な熊野は、ちょっとでも鈴谷が煙草臭いとすぐに、やれ「健康が」とか「副流煙が」とか「部屋に臭いが」とか細々と言い出すのだ。うるさくてかなわないから隠れて吸うようにしたり、海に出る前に吸って潮の匂いで誤魔化そうとしたり、吸った後に全身ファブリーズしたりと鈴谷もあの手この手で臭い対策をしていたのだが、その内にすべて面倒臭くなり、結果吸う頻度自体が落ちていった。

 

「煙草を吸いたそうですわね」

 

 ところがどっこい、熊野は見事に鈴谷の思っていることを言い当ててきた。

 

「いや? そんなことないよ」

「いいえ。顔に書いてあります。私ほど鈴谷を見慣れていれば、その程度すぐに分かりますわ」

 

 なんだそりゃ。

 眉が波打つのを自覚する鈴谷に対して、熊野は得意顔だ。澄ましたふうにしてお上品にご飯を口に運んでいる。

 彼女にしては珍しい物言いだ。普段はこんな風に自分で自分を持ち上げるような言い方をしたりはしない。

 

「吸わないから。熊野が嫌がるの知ってるし、吸うとしても気付かれないようにこっそりやるよ」

「そうやって私に気を遣っているからあんまり吸わないようになったのでしょう?」

 

 その言葉に鈴谷は素直に驚いた。まさか熊野がそんなことを言うとは思いも寄らなかったからだ。

 今までの熊野といえば、どちらかというと鈴谷が禁煙することには諸手を挙げて賛成するようなタイプだった。臭いについて口喧しかったのも、二人の共有スペースである寮室にタバコの臭いが付くのを嫌がったというのもあるが、純粋に鈴谷の健康を慮ってのことだったはずだ。だから、鈴谷も少しばかり健康を気にかけて熊野の言うことに従ってみようなんて殊勝な気持ちが湧いて、意図的に喫煙の頻度を下げたところもある。決して「面倒臭い」だけが理由ではなかった。

 

 それが「私に気を遣って」ときた。

 

 

「まあ、そういうところもないことはないけど」

 

 咄嗟に誤魔化そうと思ったけれど、もうすでに色々と見抜かれているようなので、鈴谷は正直に言うことにした。

 

「やっぱり、私のために我慢なさってるのね」

「……それだけじゃないけど」

「そうですわ。鈴谷のことですもの。ああ、だけどあんまり無理はなさらないで。吸いたくなったらお好きな時に吸われていいのよ。臭いのこともうるさく言いません」

 

 うん?

 

 鈴谷は目を見開いた。何か信じられないものにでも直面したように。

 いやはや、実際信じがたい。自他ともに認める嫌煙家から、喫煙の容認発言が飛び出したのだ。これで驚かないほど鈴谷は図太くない。

 

「どうしたの、熊野? 何か変な物でも食べた?」

 

 と、思わず聞き返してしまったのも仕方がない。それほどまでに熊野の発言は鈴谷に衝撃をもたらしたのだ。

 

「失礼ですわね」

 

 片や、熊野と言えば言われたことに素直に反応して頬をふくらませる。よくある反応の一つだ。

 

「私、これでも鈴谷のことを考えて言ったのですよ。今まで、私の我儘で貴女を縛り付けてしまっていたから」

 

 人生史上類を見ないほど驚愕している鈴谷に対して、あくまで熊野はいつもとそれほど変わらない様子である。鈴谷が驚いていることに対してもあんまり気が向いていないようだ。本当に、鈍いんだか鋭いんだかよく分からない。

 

 それはそれとして、どうも熊野の様子がおかしい。

 

「ホント、どうしたの?」

「どうも、ありませんわ。ただ、最近ちょっと自分を省みる機会があったものだから」

 

 熊野はふと箸を止める。それまでバランス良く主食主菜副菜を満遍なく食べていたのを、ぴったりとやめてしまう。

 

 目を伏せる熊野。何か言い出しそうなので、鈴谷も黙っていた。

 

 

 

「鈴谷は」

 

 それから、彼女は顔を上げることなく切り出した。

 

「私の、傍に居てくれますか?」

 

 まるで訊くこと自体を恥じるような訊き方だった。それを口にすることさえ憚られることをそれでもあえて決心して口にしているような、そんな口調だった。

 恥ずかしいなら訊かなければいいのに、けれど熊野の中では何か重大な決心があってそれ故に表に出された問い掛けなのだろう。そんなこと、訊くまでもないのに。

いつだって、鈴谷の答えはただ一つだ。熊野が居なければ孤独になるのに、どうして自ら離れるというのだろう。夢より自分を選んでくれればと、何度都合のいい妄想をしたことだろう。

 でも、きっと鈍い熊野には分からないのだ。そんな鈴谷の内心なんて、これっぽっちも気付いてやがらないのだ。だから、ちゃんと言葉にして言ってあげる必要がある。

 

「当たり前じゃん。鈴谷は熊野とずっと一緒だよ」

 

 何故なら、現在進行形で鈴谷は熊野と共に居られる残り時間の短さを嘆いているくらいなのだ。それが延びるならば何を差し出してもいいと思えるくらい、熊野との時間を大切にしている。

 「当たり前」と言ったのはそれを確かめるため。こうして二人の意志が共通であることを確認すれば、別れられずに済むと思えたから。

 分岐する道がまた一緒に戻るんじゃないかと思えたから。

 

「熊野が秘書艦になっても、運用は変わらないだろうし、どっちかだけが他のとこに飛ばされることもないでしょ?」

 

 けれど、鈴谷は思っていることを上手に笑顔の下に隠してしまえる。暗いことなんて何にも考えていない様に装う。

 

「……そう、ですわね」

 

 つられたように、熊野も笑う。けれど、いつもの自信たっぷりなそれとは違い、ひどく弱々しかった。

 

「ごめんなさい。変なことを訊いてしまいましたわ。気にしないでください」

「うん。聞かなかったことにしておくから」

「そうしてくださいな」

 

 再び熊野は箸を動かし始めた。つまらない話はもう終わりだ。

 

 

 ああ、まったく。本当に、つまらないことだ。あんな訊き方、まるで熊野は“その時”を予感しているみたいじゃないか。不吉ったらありゃあしない。そういうことを言うと、いわゆる「フラグが立つ」ことになるというのを、この鈍ちん重巡娘は理解しているのだろうか。

 いや、きっと分かっていないのだろうな。子供っぽい熊野は、思ったことをそのまま口にしてしまったのだろうな。

 きっと、ナーバスになっているのだ。以前は非番の度によく「デート」していたのに、最近は熊野が「用事がある」とかで全然一緒に出掛けられていない。そのことが他ならぬ熊野自身に悪影響を及ぼして、だからこんなふうにいきなり訳の分からないことを言い出したりしたのだろう。

 案外世間知らずの箱入り娘だから、こんな頓珍漢なことを口にする。そういうことが良くないことを引き付けるのだと、知らないのだろう。オカルトかもしれないが、世の中には変なジンクスが転がっていたりするものだ。

 熊野が深刻な顔で、いかにもなことを口にしたら、妙に切迫した感が醸し出されて、本当に悪いことが起きそうな気がしてしまう。

 ああ、不吉極まりない。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 今日の蠍座の運勢はどんビリです。

 

 今朝の占いでそんなことを言っていただろうか? 

 やかましく電子音を鳴り響かせるPHSを懐から取り出して、画面に表示された電話の発信者を見た瞬間、鈴谷の脳裏に浮かんだことである。今日はとにかく不吉な「フラグ」が立つ日らしい。まったく嘆かわしいことだ。

 鈴谷をうんざりさせている電話の発信者は、「秘書室」となっていた。PHSの液晶に表示されているのはそれだけで、つまり鈴谷が電話帳に発信番号を「秘書室」とだけでしか登録していないからだ。

 この短い三文字の、普通名詞と言える単語は、ここでは一人の人物を表す固有名詞となる。

 横須賀鎮守府に三人居る秘書艦の内、二人はまず鈴谷に電話を掛けてくることはない。何となく煙たがられているのは知っているし、こちらから話す用事もない。だから、秘書艦の仕事部屋である秘書室から電話を掛けてくるのは消去法で一人に限られる。

 コールが五回鳴ったところで、鈴谷は観念して通話ボタンを押しながら端末を耳に当てた。

 

「はい、鈴谷です」

「こんにちわ。榛名です」

 

 お世辞にも音質がいいとは言えないPHSのスピーカー越しでも、尚、綺麗な発声と賛辞出来る明朗で心地良い声が名を名乗る。

 

 横須賀鎮守府筆頭秘書艦、金剛型高速戦艦三番艦「榛名」。

 仰々しい肩書とは裏腹に、電話の主は女優顔負けの美貌の持ち主で、かつ美声の持ち主でもある。ただ仕事の話をしているだけなのに、発声の良さに男が惚れてしまったという伝説でさえ生み出されるくらいだ。もしそんな阿呆な男がこの世に実在するとして、そいつが実物を見たらどうなるのだろうと想像するのは少し面白いかもしれないが。

 ただし、見た目や声に騙されてはいけない。

 この「榛名」という艦娘はとんでもない食わせ者なのだ。正直に言って、鈴谷は彼女のことを苦手としていた。

 

「ご用件は何でしょうか?」

 

 不良、不良と言われる鈴谷でさえ、彼女との話では畏まった言葉遣いをする。仮にタメ口を利いても榛名は怒りもしなければ咎めもしないだろうが、そのせいで“何か”あったらと思うと恐ろしくてとてもする気になれない。その“何か”が何なのかが分からないというのが、一番怖いのだ。

 

「少しお話したいことがありまして、今からでも秘書室にお越しいただけませんか?」

「はい。ですが、私、これから演習が入っているのですが」

「それについてですが、演習は十五時まで延期になりました。なので、鈴谷さんのお時間が少しばかり空いてしまっていると思います。それを少しばかり頂戴出来ないでしょうか」

 

 相手は格下の鈴谷にも下手に出ているが、だからと言って拒否権があるわけではない。提示されている選択肢は「はい」か「Yes」しかない。

 

「了解致しました」

 

 質問は許されるだろうか。

 今日の鈴谷の午後の予定は、十四時から海に出て演習するという素晴らしいものだったはずだ。六対六の基地内演習だが、なまじ人数が多いので上手にサボれば楽を出来る時間でもある。

 ところが、たった今その予定は変更されてしまった。演習は急遽一時間延期になったらしいのだが、果たしてそれを榛名に尋ねる権利は与えられているだろうか。

 

「演習判定システムのサーバーがダウンしてしまったんです。現在再起動させているところですので、そんなに時間は掛からないでしょう。しかし、十四時半までにサーバーの復旧が出来なければ本日の演習はキャンセルです」

 

 だが、相手は鈴谷がそういう疑問を持ったことに対してもちゃんと答えを用意していた。聞かれる前に教えてくれるのだから、榛名は非常に要領がいい。逆に、そうでなければ筆頭秘書艦など務まりはしないのだろうけれど。

 

「ありがとうございます。直ちに向かいます」

「お待ちしておりますね」

 

 内容は簡潔にして明確。話の内容というのが非常に、非常に、気になるが、優秀な秘書艦というのは電話一つとっても無駄がなく洗練されている。さすがにあの熊野でもこうはいかないだろう。慣れれば出来るようになるかもしれないが。

 

 それにしても、やはり話の内容というのが気になる。榛名からわざわざ電話を掛けてきて、しかもすぐに来いである。余程の用事であるのは想像に難くなく、よしんばそうじゃなくともろくでもない話なのは間違いない。

 昼食後に食堂を出て午後の座学に向かう熊野と別れた鈴谷は、時間も押しているので艤装を持ち出すために工廠へ向かっているところだった。位置関係で言えば榛名の居る鎮守府司令部庁舎はやや内陸の手、丘陵地を切り開いた中にあり、海際の工廠からは離れている。だが、当然のことながら行動は早いに越したことはなく、鈴谷は大急ぎで庁舎まで走った。

 庁舎に飛び込んで一気に最上階まで駆け上がる。横須賀程の大規模基地の司令部となればそれ相応に大きい。東西に長い庁舎の正面左、西側の端が司令官室であり、その手前にあるのが秘書室だ。

 秘書室の扉の前にたどり着くと、鈴谷はあまり音がしないようにゆっくりと深呼吸をする。そうして息を整え、心構えを持ってからノックした。

 

「どうぞ」と間髪入れず返事が響く。

 

「失礼します」

 

 中に居たのは一人だけだった。

 入り口から見て正面の大きいデスクに着いているのが筆頭秘書艦榛名である。

 やや灰色がかった長い黒髪に、目鼻立ちの整った小顔。正統派美女として名高いのもうなずける話で、その美貌は海軍全体はおろか、世間にさえ知れ渡っている。巷では西洋一の美人艦娘がウォースパイトなら、東洋一の美人艦娘は榛名だ、などと下らない噂もささやかれているくらいだ。実際に面と向かい合っても、同性の鈴谷でさえ惚れ惚れしてしまうような魅力を放っている。

 しかも、これで秘書艦の筆頭を務めるのである。他に二人居るとは言え、この巨大な横須賀鎮守府をまとめ上げ、円滑に業務を回していくのは並大抵の手腕で行えるものではない。

 加えて、年功序列で言えば彼女より上にある艦娘は日本には二人しか居ない。同型艦で着任が先だった「金剛」と「比叡」の二人だけ。この二人は現在横須賀とは別の基地にそれぞれ配属されている。さらに、最古参の彼女はその経歴の長さに見合った戦果も積み上げており、今でこそデスクワークが主で海戦に赴くことは少ないものの、実績の数字だけなら全艦娘の中でも確実にトップテンに入るだろう。さすがにここまでくれば、海軍広しと言えど逆らう艦娘は一人も居ない。

 天は二物も三物も与えるらしい。密かに熊野が憧れを抱いているのもうなずける話というわけだ。

 

「どうぞお掛けになって」

 

 そう言って榛名は自分のデスクの前にあるパイプ椅子を指し示す。わざわざ用意してくれていたらしい。鈴谷は恐縮しつつ、ひと言断ってから腰を下ろした。

 幸いにしてなのか、後の二人の秘書艦は席を外していた。榛名のデスクの正面には向かい合った二つのデスクが合わさった島があり、そこが彼女の部下の席である。

 つまり、さして広くない秘書室の中で鈴谷は榛名と二人きりだ。

 

「さて、お呼びした用件は二つあります。一つは、先日の件で警察から連絡がありまして、もう一度鈴谷さんにお話を伺いたいとのことです」

 

 ああ、これは本題ではないなと感じた。

 正直なところ、鈴谷にとってはどっちでもいいことだ。どう答えようが、こうして榛名が尋ねてきた時点ではもう軍としての警察への回答は確定しているのだから。つまり、この話は単に間をもたせるだけの、鈴谷に“次の話に備え”させ、少しだけでも場の空気を“温めて”おくためのもの。

 けれども形式的なやり取りというのは必要だ。

 

「それは、任意ですか?」

「“任意です”」

 

 榛名は微笑んだ。不気味な笑いだった。

 

「分かりました。お断りしたいと思います」

 

 どの道そう言うしかない。警察がどういう言い方をしたのかは知らないが、榛名が“任意”と言ったのだから、それは絶対に辞書的な意味での“任意”なのだろう。ならば、断ることが正解だ。

 

「はい。実は鈴谷さんがそうおっしゃるだろうと思って先にお断りさせていただいております。今のはあくまで鈴谷さん個人の意思を確認するためのものでした」

「やっぱり、そうですか」

「やっぱりそうです。何しろ、警察の狙いは貴女の勾留だったんですからね」

「疑われてるんですね、私」

「ええ。警察は疑っておりますね。ですが、腹の立つ話だとは思いませんか? 暗がりの中で見た相手の人相がまったく分からなくても、別におかしなことじゃありません。なのにそれを『おかしい。何か隠しているんだ』と疑ってかかっている。馬鹿にしていると思いませんか?」

 

 いつも冷静で、愛想はいいものの感情を見せることの少ない榛名にしては珍しく、いたく気持ちの篭った言葉だった。ひょっとしたら警察と直接話したのだろうか。向こうは相手が榛名だとも知らずに偉そうに物を言ったのかもしれない。電話を掛けた警察官がコテンパンにやり込められたのは想像に難くない。何せ、榛名だ。

 

「まあ、私は有名ですし」

「そのようですね。お噂はかねがね耳にしております」

「アハハ。恥ずかしい話です」

「でも、それも昔の話ではありませんか。それは確かに以前は色々されていたかもしれませんけど、今の鈴谷さんは国民国家を防衛し、大義のために粉骨砕身する立派な防人。誰にも後ろ指さされるようなことはありません。昔がどうであれ、色眼鏡を掛けて見るのはどう考えても偏見というもの。鈴谷さんは被害者の保護に努め、然るべき機関に事件後直ちに通報されているのですから、その時点で義務は十分果たされている。むしろ警察にとっては謝辞を述べるべき相手でしょう」

 

 どうやら榛名は相当頭にきているらしい。こんなに怒っている彼女を見るのは初めてだ。その怒りの矛先が自分に向いていなくて鈴谷は心底安堵した。

 火山が噴火したような激しい怒り方ではないが、怒ったら報復や制裁は確実に実行するタイプだ。おっかないことこの上ない。榛名の持つ権力でそんなことをされたら、抗う術などほとんどないのだから。

 それから榛名は居住まいを正すように一つ咳払いをすると、話を続けた。

 

「失礼しました。少し感情的になってしまいましたね」

「いえ、そう言っていただけるだけで恐縮です」

「当然のことです。それと今後ですが、もし仮に警察が鈴谷さんに直接接触してきても、すべて鎮守府を通すように言って断ってくださいね。貴女はプライベートであっても国家の軍人であるわけですし、軍としても無関係ではいられないことです」

「もし、無理に連れて行かれたとしたら?」

「……大したものではありませんが、榛名は個人的に少しばかり霞が関にコネがあります。警察に、筋を通すようにと諭すことも出来ますので」

 

 さらりととんでもないことを言う榛名に、鈴谷はもう呆れるしかない。

 深海棲艦や吸血鬼より、榛名のほうがよっぽど化け物じみていそうな気がする。味方と思えば心強いが、敵にしないようにするのは本当に気を遣う。

 

「だから、鈴谷さんがご心配なさるようなことは何もありません。その内真犯人も捕まるでしょう」

「そう、願います」

「ええ。それで話は変わりまして、もう一つの用件ですけれども」

 

 こちらの方が重要なことなのですが、と榛名は分かりきった前置きをして、

 

「最上型重巡洋艦三番艦鈴谷。貴女に改装命令が出されました」

「……改、装?」

 

 意外過ぎる話に、思わずオウム返しに聞き返してしまった。

 まさか、自分にそんな話が降りてくるとは夢にも思っていなかったからだ。

 

 改装というのは、書いて字の如く艦娘を、正確には艤装を改装することである。主な狙いは総合的な能力向上。火力、耐久力、装甲防御、機関出力、操舵力、凌波性、安定性、俊敏性、その他諸々の要素を艤装に手を加えて改良することだ。部品の取り替えから始まる単純な改良もあれば、艤装をある程度分解した上で作動機構そのものをいじるような大掛かりなものまで様々だ。改装を受ける艦娘の短所を補い、長所を伸ばし、あるいは期待される役割に沿うように改造する。

 ただ、改装というのは軍にとってもそれなりの資金と資源を費やすものであるから、必然的に対象となる艦娘は選ばれる。基本的には単純な撃破数、すなわち戦果が多い者や、戦闘任務には従事していないものの護衛などの後方任務で著しく長い経験を積んだ者など、選定基準は複数あるようだが、いずれにしてもそれなりの練度に達しているとみなされ、かつ今後の活躍も期待され、艦娘を管理する秘書艦等(秘書艦自身の場合は直属の司令官)からの推薦があって初めて改装の栄誉を頂戴出来る。大抵改装は一人につき一度のみだが、古い者の中には二度目の改装を受ける者もいる。そういう艦娘はよっぽどの戦果を挙げた本物の英雄であり、例えば今目の前にいる榛名がそうだ。

 しかし、鈴谷はまさか自分がその栄誉に与れるとは想像だにしていなかった。

 確かに戦果という点では、他者よりは優れた成績を残せているという自負はある。それは客観的に数字として現れているから嘘偽りのないもので、毎度艦娘ごとの戦果一覧表を見る度、自分の成績に気を良くしている。だが、逆を言えば「不良」である鈴谷には戦果くらいしか他人に誇るものがない。戦うこと以外のあらゆることが平均値以下であるという自覚はあるし、実際周りからもそう思われているだろう。

 だからこそ、今まで面倒な仕事を押し付けられたりはしなかった。誰もが、「お前は海に出て戦っていてくれればいい」と考えているだけのようだったから。そして、鈴谷にとってもそうである方が都合が良かった。

 もちろん、上官受けの悪い自分が戦果だけで改装を受ける資格をもらえるわけがない。軍はそんなに甘いところではない。

 とすれば、鈴谷を推薦した者が居る。それも評判の悪い艦娘をゴリ押し出来るような力を持った人物。必然的に一人に絞られる。

 

「しかも、ただの改装ではありません」

 

 疑問が解消せぬ内に、さらに榛名から衝撃的な事実を告げられて鈴谷の思考は硬直することになった。

 

「艦種変更を含む改装になります」

「え……?」

 

 衝撃的なひと言に、鈴谷は絶句する。まさかの、さらにまさかの通告。これで驚くなと言うのが無理な話だ。

 

 

 艦種変更とは、改装に際して艦娘の艦種を変えることだ。艦種変更を伴う改装というのは二度目の改装を受けることより珍しい。理由は単純に艦種が変われば運用が変わり、艦娘本人を中心に一から訓練し直さなければならなくなるからである。その間、艦娘本人は戦線を離脱しなければならないので、通常の改装における習熟訓練より長期の不戦力化となってしまうわけだ。加えて、当然のことながら艤装も大きくいじることになり改装に掛かる時間自体も伸びてしまうし、コストも飛躍的にアップする。だから、艦種変更をするにはそれ相応の大きなメリットがなければならない。

 

 最初の衝撃から復帰した鈴谷は次に、そのメリットが何かと考えた。現在の自分の艦種は重巡洋艦であり、比較的数は揃っている部類だから同艦種の中では最も年次の若い鈴谷は“余裕”とみなされているのかもしれない。現状の戦況も逼迫しているわけではないし、そもそも大所帯の横鎮であるから戦力には困っていない。鈴谷が抜けても痛手にはならないのだろう。

 その点で時間の問題はクリアしたとして、残るは金だ。鈴谷にそこまで「投資」する意義があるのかということだ。例えばの話、水上機母艦を、強い戦力で頭数の少ない軽空母に転換したり、人数の足りている軽巡を他の追随を許さない雷撃力を誇る重雷装巡洋艦にしたり、水上打撃部隊に補助航空戦力を与えるために戦艦を航空戦艦にしたりと、今まで実行された艦種変更にはそれぞれ大きなメリットがある。

 

 

「その、変更っていうのは、どうなるんですか?」

 

 こればかりは聞かないことには分からない。

 果たして榛名は快く答えてくれた。

 

「航空巡洋艦です」

「航空……?」

 

 聞き慣れない、というか聞いたことのない言葉だった。航空母艦でもなく、なんちゃら艦でもなく、“航空巡洋艦”という艦種。

 

「はい。文字通り飛行機を扱う巡洋艦です」

「はあ……」

 

 鈴谷の返事は今ひとつ要領を得ない。そもそも、重巡自体が艦隊の目として水上偵察機を日常的に扱う艦種であるから、今更“飛行機を扱う巡洋艦”などと言われてもピンと来ないのである。言葉の響きから航空戦艦に近い感じだが、どうなのだろう。

 

「ええっと、そうですね」

 

 話が分からない鈴谷に、榛名は説明を重ねる。逡巡してから、彼女は少しばかり話を変えた。

 

「呉鎮に、利根型って居ますよね」

「居ますね」

「彼女たちの艦種は重巡ですけれど、俗に“偵察巡洋艦”なんて呼ばれたりもしています。ご存知ですか?」

「なんか、聞いたことはありますけど」

「なら、話は早い。彼女たちがそう呼ばれるのは、普通の重巡より水偵の搭載数を増やし、索敵能力を強化しているからです。重巡の役割の一つである『艦隊の目』としての機能を増強したわけですね。

で、航空巡洋艦――長いので航巡と略しますが――、航巡は利根型の延長線上にあるものと考えて下さい。すなわち、索敵能力を大幅に強化した重巡です」

 

 なるほど、と納得。

 索敵というのは増やしたところで増やしすぎるものではない。純粋に索敵能力を伸ばす方向への進化は至極妥当なものだ。艦隊における巡洋艦の役割が「目」であるならば、それに特化した巡洋艦というのはかなり需要が高い。

 しかし、だ。その対象が寄りにも寄って鈴谷なのか。飛行機を飛ばすより砲弾を飛ばす方が得意な鈴谷なのか。

 航空巡洋艦の意義は理解出来るが、適材適所で考えると果たして自分が適任なのかとは思わずにはいられない。

 だが、聡明な榛名にはそんな鈴谷の疑問さえもお見通しなのだろう。

 

「航巡は何も鈴谷さんが初めての例ではありません。先行して、最上型の一番艦と二番艦、最上さんと三隈さんが既に改装を終え、習熟訓練も完了して実戦投入されています。そこでの運用成績は今のところ用兵側の要求水準を満たすものでありますから、三番艦の改装も決定されたんですよ」

「え、そうなんだ……」

 

 思わず素の口調が出てしまった。

 すぐに気付いて慌てて頭を下げると、榛名は優しく微笑みを返してくれた。どうやら許されたらしい。

 それはともかくとして、最上と三隈は鈴谷と同じ最上型のネームシップと二番艦、いわゆる“長女”と“次女”だ。無論、血縁関係はない。ついでに言えば人間関係も薄く、二人とは一度か二度顔を合わせただけで、正直なところ人相もあやふやになっている。そんな程度の繋がりしかない姉妹艦なので、二人のことはほとんど何も知らなかった。精々が南方の戦線でよろしくやっているくらいしか聞かないし、興味もないからそれ以上知ろうとも思わない。だから、二人が新しい艦種に改装されていたというのも今初めて知ったことだ。

 

「元々、最上型の四人の選定基準は航巡改装を見越して、艦載機扱いの適性、いわゆる空母適性も考慮されていました。航空巡洋艦の構想は鈴谷さんが思っておられるより以前からあったもので、その試験運用型としての利根型、目標としての“改”最上型が設定されたのです。最上型の改装が完了次第、おそらく改良版となりますが利根型も本格的に航巡に艦種変更されることになっています。そこまでが計画です」

 

 そう言いながら、榛名はおもむろにデスクの上に手を伸ばしていた。正確には、きちんと整理された机上の端に置かれた冊子に。

 几帳面に角が揃えられ、ホッチキスで止められた折り目一つない冊子。鈴谷は受け取りながら拍子の文字に目を向けた。「航空巡洋艦運用計画」とある。

 

「私、そんなに空母適性があるとは実感が無いんですけど」

 

 腑に落ちないのはそこで、鈴谷は別段水上機の扱いが上手なわけではない。もちろん、仮にも重巡なのだから一通り出来るし、実戦でも役に立つ程度には扱えるが、空母のように多数を自在に統制することなど到底無理だと思えた。艦娘になる時に検査で出たいろいろな適性のデータを表でもらったが、確かにそこには空母適性が「乙(甲乙丙丁戊の五段階評価の上から二番目)」と書いてあったので、データ上はそうなるのかもしれない。鈴谷の場合はその他の適性、例えば砲撃や雷撃、航行の適性も良かったから巡洋艦に選ばれたものだと思っていたのだが。

 実感が薄いので、榛名の言うことや適性データの結果はどうにもしっくりこないのである。

 ところが、鈴谷の疑問に対して榛名は上品に笑う。

 

「でも鈴谷さん、水偵の扱い、上手ですよね」

「そうですか? 普通だと思いますけど」

「ええ。見ていて思いますよ。あれ、苦手な人は本当に苦手で扱い方がぎこちなかったりするものですけれど、鈴谷さんは無駄なく的確に操作出来ています。これは空母適性が高い証拠で、かく言う榛名なんかは『丁』でしたから未だに飛行機を飛ばすのがうまくいかなくて苦労します。というか、空母適性が『乙』まで出たら十分空母になれますよ。適性『甲』じゃないと無理な正規空母はともかく、軽空母としてなら十分活躍が可能なレベルです」

 

 自分が空母、というのは想像しづらい。離れたところから敵を爆撃して、何機もの飛行機を飛ばして、空戦に勝った負けたをするのはどうにも性分に合わない気がした。やっぱり自分は主砲で殴り合うのがしっくりくる。

 しかし、航巡はどうだろうか。巡洋艦というくらいなのだから、殴り合いには参加するのだろう。艦載機を飛ばしつつ、砲戦や雷撃戦をこなすとなると、それはそれでややこしそうだなと思う。

 

「実際の運用では使ってもらうのは水上爆撃機が主となります。限定的とは言え航空戦力を取り扱うことになるので、その点は空母と変わりがなくなるでしょう。

水上機による哨戒・索敵活動と敵勢力への先制航空攻撃、もしくは近接航空支援、さらに制空権確保に向けた航空優勢の確立。この辺りが主たる役割となるでしょう。もちろん、航空戦艦という前例はありますが、あちらは低速艦ですし、戦艦の火力と航空戦力のバランスを取るのが難しくて扱いづらいところがあります。その点、航巡は重巡の代用として水上打撃部隊に無理なく組み込めて、且つ火力を落とさずに航空戦力を持たせられるのです。これは大きいことです。

それに、水上機を運用する関係で対潜哨戒も可能となりますから、軽巡や駆逐艦といった小型艦を打撃部隊に編入する必要性もなくなる。むしろ、火力を増強させることさえ可能なのです。その代わり、航巡は大変忙しくなるでしょうけどね」

 

 榛名は機嫌良さそうに饒舌に語った。まるで航巡という艦種を誇りに思っているように、自分がそうであるかのように航巡の良さを披露する。

 ひょっとしたら、この計画に彼女が一枚噛んでいるのかもしれない。やたら航巡について詳しいところを見るに、その可能性はかなり濃厚だった。

 

「すごい、ですね。でもこれ、私一人だけなんですか?」

 

 榛名は小首をかしげた。彼女の長い前髪がはらりと垂れる。

 あらわになった目尻に、笑い皺が小さくついているのが見えた。

 

「ええ。そうですよ? 熊野さんは今回改装が見送られています」

「その理由、聞いてもいいですか?」

「もちろん。隠すようなことでもないですし。

単純なことですよ。彼女は改装を受けている暇などないからです」

「……と言うと?」

「熊野さんが秘書艦研修を受けておられるのはご存知ですよね。彼女は来月には晴れて横須賀鎮守府の秘書艦の仲間入りを果たすわけです。そんな多忙な彼女に、さらに艦種変更による改装と習熟訓練を受けさせるのはさすがに酷というものでしょう。でもご安心を。落ち着けば彼女も航巡に改装されますからね」

「ってことは、秘書艦が一人増えるということなんですか?」

「いえ? 人数は据え置きです。一人抜けますから」

「抜けるって、それは」

「これはまだ内示しか出てないので秘密ですよ」

 

 榛名はそう言いながら長くほっそりとした指を口元に当てる。

 

「榛名、呉に行くんです」

「え、マジ?」

「マジです。大マジです。再来月からですけどね」

 

 もはや体裁を整えるのさえ忘れて鈴谷は素の反応で驚いた。対して、榛名はいたずらがバレてしまった子供のように無邪気な表情を浮かべている。

 大規模鎮守府から大規模鎮守府への横移動だからそんなに驚くことでもないが、横須賀から彼女の姿がなくなるのが意外なのだ。

 何しろ、横須賀鎮守府筆頭秘書艦と言えば、全艦娘がたどり着ける最高ポジションとさえ呼ばれることもある地位だ。そこから外れることは降格のような気もしないでもない。だが、榛名が降格されるようなへまをするだろうか。

 どうにもこの人事には裏がありそうだが、純朴そうに笑う秘書艦はきっと口にはしないだろうし、鈴谷には知る権限もない。

 

「がんばってください。榛名が居なくなったら鈴谷さんへの風当たりは強くなってしまうかもしれませんけれど、航巡という貴重な地位が貴女を守ってくれます。それに、熊野さんも秘書艦になるので悪いことにはならないとは思いますけどね」

「……はい」

「榛名はこれでも鈴谷さんのことを気に入っているんですよ。みんな偏見を持って貴女を悪く言いますけど、貴女はすごく私たちの力になってくれています。それを、榛名は正当に評価しています。だから、めげずにがんばってください。勝手なお願いかもしれませんけどね」

「……はい。ありがとう、ございます」

 

 

 この人への評価を改めないといけないのかもしれない。

 ただ絶大な権勢を振るう恐ろしい権力者ではなかった。残念なことに、榛名にはそういう一面もあるのだろうけれど、それだけが榛名の姿ではなかったのだ。

 だがまさか、庇ってもらえているとは思っていなかった。鈴谷の一体どこが彼女に評価されているのか見当もつかないのだか。

 しかし、思わぬところで思わぬ味方を得ていたのは悪くない気分だ。運用が変わるわけでもなさそうで、熊野も将来的に航巡改装すると言うのだから、鈴谷と別れないんじゃないだろうか。

 であるならば、気分は高揚すれど落胆はしない。

 

 今晩はよく眠れそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督 裏 Marine Snow2

 

 

 

 

 榛名から改装の告知を受けた後のひと月というのは、鈴谷の人生史上でも初めて艦娘として着任した頃に匹敵するくらい多忙を極めた。

 通常のルーチン、すなわち演習やら哨戒やらといった活動こそなくなったものの、艦種変更されたということで数えるのも億劫になるくらいの各種試験と報告書――その結果報告を事細かに記さねばならない――の作成が主な戦犯だ。言葉にしてしまえばただそれだけだが、書類作成についてはその手の事務仕事がからっきしダメな鈴谷にとって無理難題を押し付けられているに等しい。

 改装自体は従来の重巡の艤装に飛行甲板を接続するだけの簡単なものだっただけに、最初は気を抜いていたのがいけなかったのだろう。想像を絶する仕事の量に鈴谷は試験開始初日で音を上げそうになった。試験を行うこと自体はまだいいが、とにかく文書を作るのが不得手なのだ。自分が行ったこととはいえ、それを論理的にかつ明確かつ簡潔に要点をまとめて書き上げるという作業が、これほどまでの苦行であるとは思いも寄らなかった。

 もちろん、今までの艦娘生活の中で何がしかの報告書作成を指示されたことは何度もある。それらの仕事は各艦娘が当然実行し、提出しなければならないものだったのだが、小学校の読書感想文すらまともに書けなかったくらい「物を書く」という行為が苦手な鈴谷にとっては苦行以外の何物でもなかった。だから、そういう場合はだいたい熊野に任せてしまっていたものである。学生時代はお手本のような優等生だった熊野は頭も良く、その手の文書作成も手慣れていた。それに、二人はいつも大概一緒の部隊で行動したから、別に鈴谷の分の報告書を熊野が作ったところで不都合が生じたりすることもなかったのである。

 かくしてサボっていたツケが一気にこのひと月に回って来てしまったのだった。これまで少しでも文書作成のスキルを身に着けておいたらこれほどまで苦労する羽目には陥らなかっただろうが、後悔は先に立たないものである。

 しかも、今回ばかりは熊野に投げられなかった。というのも、熊野も鈴谷と同じか、あるいはそれ以上に多忙だったからだ。

 秘書艦研修というのは鈴谷が思っていた以上に長く続き、特に今月に入ってからというもの、熊野はずっと榛名や他の秘書艦の傍に付いて実地研修という名目で仕事に追われていた。「彼女が居ないと横鎮が回らない」と言われる榛名の横である。かの筆頭秘書艦が滅多に海に出ないのは、ただ単純にその時間がないからだ。

 加えて、熊野はこの研修をこなしつつルーチンとして海にも出ていた。話に聞くだけでも鬼畜じみたスケジュールだし、さすがに熊野も余裕のない顔で毎日を必死に過ごしていた。だから、当然鈴谷は頼み事など出来なかったのである。

 しかし、仕方がないとは言え熊野の助けがないという状況は鈴谷にとって絶望そのものだった。今時、文書作成といえばすべてパソコンで行うものである。ただ、ガラパゴス携帯のボタンを押すスピードなら自信のある鈴谷も、パソコンの扱い方はそれほど詳しいわけではない。ブラインドタッチなんて夢のまた夢だし、最初はワードとエクセルの違いすら分からなかった。熊野曰くは「そんなもの、学校の授業で当然教わるものですわよ」とのことだが、出席不足で留年ぎりぎりだった鈴谷の記憶にそんな授業を受けた覚えはないし、仮に出ていたとしても居眠りしていただろうから内容など聞いてすらいない。

 このひと月で鈴谷はさんざん過去の自分の行いを悔い改めさせられた。今までもう少し真面目にやっていればここまで苦労することもなかっただろう、と。

 ただそうは言ってもだ。やっとこさワードで物が書ける程度のパソコン初心者に、だ。二百ページ近い報告書を、エクセルの表を挿入したり参照させたりしながら作れというのはどう考えても無理じゃないだろうか。パソコンの本体を頭上に持ち上げたところで、気力を振り絞って思い留まったことは勲章ものの成果ではないだろうか。

 徹夜でパソコンに張り付いたのも一度や二度ではなく、肌荒れさえ気にする余裕もなく、いつ自分が寝たのかさえ思い出せない状態で、朝から海に出て散々意味の分からない試験をさせられ、夜はそれらのデータを報告する。しかも、慣れない水上爆撃機の取扱にも習熟しなければならなかった。このひと月の鈴谷のモットーが「殺されるなら仕事ではなく敵に」というものになったのも無理からぬ話である。

 だからと言って熊野に助けを乞うわけにもいかず、見かねた彼女が無理して声を掛けてくれるのも固辞し、初め鈴谷は一人で頑張っていた。だが、どうやっても限界を超えているわけだからすぐに破綻を来す。「重巡に戻してくれ」という願望を抱き始めたころに手を差し伸べてくれた人物が現れた。

 榛名である。

 どうやら彼女は鈴谷の惨状を熊野から聞かされていたらしかった。何とか熊野の世話にはなるまいと悪戦苦闘していたのだが、間接的には彼女にも助けられたことになり、若干惨めな気分にもなったが、そうは言っても背に腹は代えられない。しかも大先輩からの厚意であるから断るわけにもいかない。

 当たり前のことだが、榛名もこの手のデスクワークは得意だ。加えて彼女の場合は教え方が丁寧で分かりやすいので、パソコンが苦手な鈴谷もすぐにある程度形になった文書を作れるようになった。彼女が言うには、鈴谷はまだ慣れていないだけとのことだった。

 忙しい合間を縫ってわざわざ手助けしてくれる榛名のお陰で、鈴谷の仕事は随分と捗った。改めて気に入ってもらえているというのを実感しながら、鈴谷はもうこの人には頭が上がらないなと苦笑するしかない。忙しいのには変わりはないが、それでも初めのころに比べたら格段に楽になったのである。

 時が経つにつれて文書作成のスキルはメキメキと上達し、死にそうになっていたのが嘘のようだった。榛名も「覚えが早い」と褒めてくれていたし、鈴谷自身、なんだか自分が「デキる女」になった気がして調子も良かった。

 昨日、ようやく最後の試験が終わり、試験と習熟のための期間が終了した鈴谷は、さんざん苦労をした分今までにないくらいの充足感に包まれていた。熊野の秘書艦研修ももうすぐ完了とのことなので、これでようやく二人は元の生活に戻れるだろう。榛名が呉に異動するのもそろそろなので、いよいよ鈴谷は航巡として海に出ることになり、熊野は新しい秘書艦としての責任を負うようになる。

 ここ数日の鈴谷は機嫌が良かったし、もっとはっきり言えば浮かれていた。せっかく仲良くなった榛名が居なくなってしまうのは寂しいし残念だったが、それを差し引いても有り余るくらい上機嫌だったのだ。何しろ今まで自分には出来ないと思っていた書類仕事が人並にこなせるようにまでなったのであるし、艦娘としても航空巡洋艦として一歩高みに登ったのだ。鈴谷は自分が“進化”したと思った。言葉通りの意味で、だ。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 その日、入浴まで済ませた鈴谷は一人寮室で熊野の帰りを待っていた。

 どうも彼女は予定外の残業があって長引いてしまっているらしい。正式な就任はまだとは言え、すでに秘書艦の仕事を一部任されている親友はなかなか休まらないようだ。ここ最近はずっと機嫌のいい鈴谷は、熊野が忙しく共に過ごせる時間が減ってしまっていることについて、以前とは打って変わって「それも熊野が一歩高みに昇ったってことだよね」と肯定的に捉えるようになっていた。本音を言えばやはり一緒に居たいというのが正直なところだが、わがままを言って相手を困らせるほど子供でもない。今晩の内にどうしても熊野に話しておきたいことがあったので、帰室の遅い熊野のPHSに電話を掛けていつ帰って来れそうか聞こうとも考えたが、余計な気を遣わせそうなのでその案は却下した。

 

「ただいま。遅くなりました」

 

 暇潰しに女性ファッション誌をベッドに寝転びながら捲っていると、ガチャガチャと鍵を回す音がして熊野が帰って来た。何となく、声に張りがない。余程疲れているのだろう。

 

「おかえり~。お疲れ~ぃ!」

 

 鈴谷はベッドの上で身体の向きを変えて元気よく片手を上げる。片や、仕事帰りでくたびれている熊野は小さく笑い返すだけだった。

 

「待っていてくれたの? 先に寝ていればよろしかったのに」

「まあね。ちょっと相談事があってさ」

「相談? 何ですの?」

「うん。それより先に着替えちゃいなよ。お風呂も行ってさ」

「ええ。そうしますわ」

 

 そう言うと熊野はそそくさと着替えを持って風呂に行ってしまう。入居ドックのことを俗に「風呂」と呼ぶが、この場合はそうではなくて本当に浴場である。

 消灯時間まではまだ一時間以上余裕がある。熊野が帰って来るまで再び手持ち無沙汰になった鈴谷は先程まで眺めていたファッション誌に目を戻し、それからすぐに思い直してベッドを立った。

 

 鈴谷と熊野の寮室は二人部屋で、部屋の一番奥、窓際にベッドが二つ並んでいる。ちょうどツインのホテルルームのような感じだ。その内、熊野が使う方のベッドの横に本棚が置いてあって、そこにたくさん雑誌が詰まっている。読んでいたファッション誌もそこに仕舞われていた物だが、鈴谷はそれを戻さず、本棚を漁って別の物を引っ張り出した。

 別のファッション誌やカタログばかりを三、四冊だ。それらを自分のベッドの上で開き、見比べているとまた鍵が回されて熊野が戻って来た。

 春先という季節柄、昼間は暖かくなっても夜中はまだ寒い。湯冷めして冷えないように熊野は寝間着の上に黒いカーディガンを羽織っていた。いつも房にしている長い亜麻色の髪は浅葱色のシュシュでまとめて肩より前に垂らされている。一方、同じく髪の長い鈴谷も亜麻色のシュシュを着けていた。このシュシュは昨年の冬入りのころに、ちょうど熊野が遠征して手柄を立てて帰って来たので、その記念にお互いに贈り合った物だ。それぞれの髪色に合わせている。

 

「お待たせしましたわ。それで、相談事とは一体?」

 

 熊野は自分のベッドに腰を掛けると、訝しげに鈴谷が広げている雑誌類を見下ろしながら切り出した。

 

「うん。榛名さんのことでさ」

 

 と鈴谷が答えると、その瞬間熊野は相談事の内容を察したようだ。得心したように軽くうなずき、

 

「そうですわね。その必要がありますわ」

「そうそう。で、何にしようかなって思って」

 

 間もなく呉に異動する榛名に対しては、鎮守府を挙げて送別会を行う。当然、鈴谷も熊野もそれには参加するつもりだが、他に二人だけで榛名に贈り物をしようと考えたのだ。二人とも最近は特に彼女に対して非常にお世話になっている。熊野は秘書艦研修で教わったし、鈴谷も個人的に仕事を助けてもらった。このまま彼女を手を振って見送るだけというのも無礼な話である。

 だが、生憎榛名と最近になってようやく喋るようになった鈴谷には彼女の好みが分からない。それなら以前から榛名とはそこそこ仲の良かった熊野に聞くべきだろうということで、相談を持ち掛けたのだ。

 

「なら、簡単ですわ。食べ物がいいでしょう」

 

 と、早速熊野から答えが返って来た。

 

「そうなの? 何か、思い出に残る物とかでも」

「榛名さん、あまりそういう物はお好きではないみたい。人に貰うなら食べ物がいい、と以前仰っていましたわ」

「へえ。間宮とか?」

「鉄板ですわね。でも、それで正解かも」

 

 鈴谷が間宮の名前を出すと、熊野はあっさり同意した。

 間宮とは海峡ではなく企業の名前だ。正しくは間宮製菓と言い、全国的にも有名な菓子業者である。特に何故か艦娘の間では人気が高く、値の張る商品ばかりなものの、艦娘にはよく売れていると聞く。創業者が元海軍関係者だったとのことで、その辺りの事情からか間宮製菓自体が海軍とは仲が良いらしい。

 

「間宮でいいんだ。いや、物にもよるだろうけどさ」

「間宮は大変お好きですわ。新商品が出ると毎回チェックされているのだとか。他の鎮守府にも同じように間宮がお好きな方がいらっしゃって、よく二人で相談されていると、こっそり教えてもらったことがあります」

「そりゃ、よっぽどの好き者だね。ってか、秘書艦ってそんなことやってるんだ」

「あくまで“仕事のついでのコミュニケーション”だそうですけど。その辺り、融通が利くところが秘書艦の楽しいところなのですわ」

 

 鈴谷が本棚から取り出した中には間宮製菓の最新版カタログも含まれている。鈴谷自身、先程自分で間宮を候補に上げたから持ち出したわけだが、どうやら当たりだったらしい。カタログを手にとって表紙を捲る。

 その最初の見開き、目玉商品が今月発売の新作で、何やら長ったらしい噛みそうなカタカナの名前が書かれていた。どうやら詰め合わせのものらしいが、お値段が何と七千円を超えている。

 なにこれ高っけえ。ボッタクリじゃないの? と思いつつ鈴谷がさらにカタログのページを捲ると、「あ、ちょっと」と熊野が声を上げる。

 

「今のでいいですわ」

「ええ!?」

 

 抗議半分驚き半分で喚いた鈴谷は決して悪くない。新作はとんでもない値段である。艦娘はそれほど安月給ではないとはいえ、選択肢から外すには十分説得力ある理由となり得る金額だ。

 

「もちろん、私も半分は出しますわよ」

 

 そう言うや否や、熊野は立ち上がってクローゼットに向かっていく。何をするのかと眺めていると、クローゼットを開けて制服の中を漁り、財布を取り出してお札を何枚か引っ張り出した。戻ってきた彼女はそれを鈴谷に差し出す。

 

「これでよろしい?」

 

 新作の値段は偶数だったが、単純に2で割ると中途半端な端数が出てしまう。熊野が差し出した金額は、端数の百円単位を切り上げたきりの良い数字だった。

 

「あ、ありがと……」

「ご不満かしら?」

「いや、そうじゃないけど」

「ならいいじゃありませんの。お金ではないとはいえ、それなりの物は用意すべきですわ。特に、榛名さんは間宮には一家言お持ちのようですので」

「……意外と、ミーハーなんだね。あの人」

 

 結局、熊野に押し切られて高額なお菓子を買うことになった。

 幸いにして間宮製菓の直営店が横須賀中央駅の駅前にあるので、そこで直接買えるだろう。その役目は、明日鈴谷がすることになった。

 本当は二人で行ければ良かったのだが、生憎非番が一日ずれているのだ。明日は鈴谷が非番で熊野は訓練。明後日がその逆。来週の末までに榛名は呉に行ってしまうので、贈り物を買うタイミングはこの非番しかないわけである。

 

「あ、でも。明日って夕方から雨降るって天気予報で言ってたよね」

「……ええ。鈴谷も、早く帰って来た方がいいでしょう」

「うん。まあ、午前中には済ませられると思うけどね」

 

 そんな他愛のない話をしつつ、鈴谷はベッドに広げていた雑誌やカタログを丁寧に本棚に仕舞っていく。この本棚は置き場所からも分かる通り、元々熊野の私物であり、そこに鈴谷がいくらか場所を借りて自分の本や雑誌を入れさせてもらっていた。当然きちんと戻しておかなければすぐに一言二言飛んで来る。

 

「じゃ、そろそろ寝ますかねえ」

 

 消灯時間まではまだ間があるが、夜更かしは肌の天敵である。雑誌を仕舞い終えた鈴谷は電気を消そうと立ち上がり掛けた。

 

 

 そこに、

 

 

 

「鈴谷」

 

 

 

 と、熊野が名を呼ぶ。

 

「ん? どしたん?」

 

 気付くと、熊野は何故か鈴谷のベッドに腰掛けていた。そうして彼女は立った鈴谷を真っ直ぐ見上げている。

 見下ろす格好となった鈴谷は、そこで初めて気付いた事実に驚いた。

 

 熊野の顔色がとても悪い。

 

 風呂上がりで化粧を落としていることもあって、目の下のくまがくっきりと浮かび上がっている。今の今まで気付かなかったのは、ずっと鈴谷が雑誌やカタログに目を落としていて、ほとんど彼女の顔を見ていなかったからだ。当然、くまだけでなく肌も彼女にしては考えられないくらいガサガサに荒れている。

 忙しいのは分かっていた。まともに鏡を見る時間さえ惜しまれるほど多忙を極めていた。

 だから肌の手入れや十分な休息が叶わなかったのも無理な話ではない。

 しかし、本当に疲労だけでここまで顔色が悪くなるだろうか? 心なしか顔の線も細くなっている気がする。元々小顔気味の熊野だが、頬骨の形が見て取れるのだから、やつれたと言った方がいい。

 同じように鈴谷も少し前まで仕事に忙殺されていて、自分の容姿を省みる余裕をなくしていた。今は調子も良くなってだいぶ回復したけれど、ほんの二週間ほど前は、“ネバタ砂漠”のように凄惨に肌荒れしていたのだ。目付きもいつにも増して悪くなっていたし、鏡を見ることにさえ嫌気が差す有様だった。

 それでも今の熊野ほどではない。

 疲れているどころか、精気が吸い取られてしまったような顔。深淵を覗き込んだがゆえに深淵に魅入られてしまった顔。

 

「熊野、どうしたの……」

 

 明らかに異常といえるレベルだ。逆に、どうして今まで気付かなかったのかというくらい。

 

「鈴谷」

 

 と、彼女はもう一度呼ぶ。

 いっそ、死相が出てしまっていると言ってもいいくらいやつれた顔の中で、両の眼だけが異様にギラついている。しかしその眼は、いつものような“瞳の代わりにエメラルドがはまっている”ような綺麗なものではなく、まるで濁った池の水だ。それなのに、一度視線が合うと逸らせなくなるような力が籠もっている。

 いつから、というのが分からない。熊野の異常には今初めて気付いたが、これは一日や二日で起こるようなことではない。

 彼女はずっと前からこんなふうになってしまっていたのだ。それを、浮かれていた鈴谷はまったく気付かなかった。毎日絶対に顔を合わせているのに、それこそ熊野のスッピン顔なんて飽きるほど見てきたのに。

 

「お、おかしいよ……」

 

 彼女は何かに蝕まれている。

 心なしか、眼孔も落ち窪んでいるように見えた。

 

「どうしちゃったの? 何があったの? ねえ……」

「鈴谷」

 

 熊野は鈴谷の言葉を遮って三度名前を呼ぶ。

 

「お願い。今は何も聞かないで。

ただ、胸を貸して……」

「……うん」

 

 懇願するような切ない熊野の声に、頷くしかなかった。

 ベッドに腰掛けると、彼女はやたらと緩慢な動作で鈴谷の背中に手を回し、胸に顔を埋める。程なくして、かすかに押さえ込んだように低く、くぐもった、しかしはっきりそうと分かる嗚咽が耳に届いた。

 それがもう一度鈴谷を驚かせる。

 今の熊野は信じられないほど弱々しい姿を曝け出している。正直、あまりにも予想外過ぎて、立て続けに衝撃を受けて、どう受け止めていいのかという戸惑いが胸を覆い尽くしていた。

 

 何か言うべきなのだろうか。何を言うべきなのだろうか。

 

 脳裏に浮かぶのは疑問ばかりで解答はない。掛けるべき言葉を失った結果鈴谷は沈黙する。

 ただ、何もしないというわけにはいかなかった。正しい言葉も正しい行動も思い付かなかった。気付けば押し殺したように泣く熊野の頭を優しく抱え込み、撫でている。柔らかな亜麻色の絹が指に絡んでは、撫で下ろすにつれて引っ掛かることなくするりと指の間を抜けていく。

 幼子を慰めるようなこの行為が果たして正しいのかは分からない。分からないことだらけだ。けれど、だからと言って他にするべきことなど考え付かない。

 

 

 二人の間を時間だけが過ぎていく。

 ベッドの間には小さな台があり、読書灯と共用の目覚まし時計が置かれていた。鈴谷は熊野の頭を撫でながらずっとその時計の針を見続ける。長針が「11」から「12」を指してもまだ熊野はそのままだ。

 彼女は静かに泣いている。時折嗚咽が溢れる程度で、ややもするとこのままの体勢で寝てしまっているんじゃないかと思うくらい動かなかった。

 けれど、それはまごうことなき号泣であり、春の嵐のごとく激しい慟哭だった。

 そのことだけは鈴谷も理解出来た。理由は一切不明だけれども、彼女の中で何がしかの感情が抑えきれなくなってしまっているのだった。

 

 

 

 時計の針が「2」を指そうというころ、熊野はようやく落ち着いたようで、おもむろに身を捩って鈴谷の背に回していた両手を解こうとする。鈴谷がそれとなく身を離すと、熊野は顔を見せたくないのかうつむいたまま小さく「ごめんなさい。服を汚してしまいましたわ」と呟いた。

 

「いいよ。気にしないで」

「……ごめんなさい」

 

 もう一度、それこそ蚊の鳴くような声で謝罪の言葉が紡がれる。そのまま熊野は立ち上がり、そそくさと自分のベッドに戻ってしまう。「寝ますわ」と素っ気なく言い残してさっさと布団を被るので、鈴谷も立ち上がって豆電球だけを残し、部屋を暗くする。

 けれど、このままいつも通り床に就く気にはなれなかった。だから、自分のベッドではなく熊野の横に潜り込む。

 

「鈴谷?」

 

 という戸惑いと若干の抗議を含んだ声がしたので、

 

「いいじゃん。一緒に寝ようよ」

 

 と言う。すると、

 

「暑いですわ」

 

 と返って来るので、熊野は少しだけいつもの自分を取り戻せたようだった。

 もちろん鈴谷は離れる気はないので、了承を得ないまま布団の中で熊野の手を握る。妙に冷たかった。いつだって冷え性気味な熊野の手は冷たいけれど、今日は殊更だった。

 

 

「大丈夫だから。鈴谷が一緒に居るからね」

 

「……」

 

「この手は、絶対に離さないから」

 

「……ごめんなさい」

 

 

 何に対する謝罪か。それを問う声が出ない。

 

 

 

「鈴谷、ごめんなさい……」

 

 

 

 答える代わりに、指と指を絡ませてしっかりと手を握る。

 そうしなければ、熊野がどこか遠くに行ってしまいそうな気がしてならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝目が覚めると、すでに熊野は起き出して仕度を済ませていた。彼女は朝に強くていつも鈴谷より先に起きる。鈴谷は逆で、夜型だから朝に弱かった。

 だから、彼女が窓際に立って、まだ閉められたままのカーテンのわずかな隙間から朝日が差し込んでいるのをただ眺めているのを見た時も、寝ぼけ半分の鈴谷は特に感慨を抱いたりしなかった。しかし、すぐに飛び起きることになる。

 

「あら? お早う」

 

 物音に気付いた熊野は平然と挨拶を投げ掛けて来た。いつもと変わらぬ、澄ましたお嬢様だ。

 

 目元のくまは消えていないものの、昨晩よりは随分と顔色が戻っている。

 

「……あ、おはよ」

 

 反射的に口から漏れたのは酷く気の抜けた声だった。言ってから、他にもっと言うべきことがあるんじゃないかと思ってしまうくらいに間抜けな言葉だった。

 

「寝癖、付いていますわよ」

「え? あ、ホントだ」

「そろそろ朝食の時間ですわ。ほら、早く起きて」

 

 熊野に急かされるまま、鈴谷はゆっくりとベッドから這い出る。そう言えば寝ていたのは自分の寝床ではなく、熊野のそれだった。こうして彼女と同じ布団に潜り込んでいたのは随分と久しぶりのような気がした。

 鈴谷がのそのそと仕度をする間、熊野は何か分厚い本を広げて読んでいた。寮室に、一人一台据付けのテーブルと椅子。姿勢正しく熊野は椅子に腰掛け、朝から何やら難しいお勉強に勤しんでいるようだった。ピンと伸ばした背筋はいつ見ても美しい。意識しなければすぐに猫背になってしまう鈴谷とは大違いだ。

 

「今日は、どこ行くの?」

 

 そんな熊野の背中に、鈴谷は着替えながら尋ねた。

 

「第五演習海域ですわ」

 

 背中越しに、すぐに答えが返って来る。お嬢様はどうやら目の前の本にご執心のようで、振り向きやしない。

 鈴谷は頭の中で地図を開きながら彼女の行き先の位置を確認する。「第五演習海域」とは伊豆大島の東側のエリアだ。貨物船や大島と本土を結ぶフェリー船の航路を阻害しないように設定された長方形のエリアである。

 

「誰と行くの?」

「二航戦の方々と。空母機動部隊における護衛と水上戦闘についての訓練です」

「重巡が? ってことは、いよいよ大規模作戦が始まるってことか」

「そうですわね。聞くところによれば、あの一航戦のお二方も参加されるようで」

 

 一航戦と聞いて、鈴谷は一度だけ姿を見たことがある二人を思い出す。

 直接話したことはないが、気品ある雰囲気の艦娘だった。その分、取っ付き辛そうで用事もないから鈴谷は話し掛けなかったし、向こうも知らないだろう。関わることのない別次元の人たちだ。

 そもそも、水上打撃部隊や水雷戦隊の一部として行動することがほとんどの重巡洋艦は、機動戦の主力を担う空母と同じ部隊に編成されること自体がまれである。中口径主砲の中で最も大きい「20cm砲」をメインの武器として扱う重巡は、それ自体が打撃力の源泉として数えられる。だから、航空戦の主体である空母とその護衛からなる機動艦隊には基本的に組み入れられることがない。

 それが、重巡まで機動艦隊に入れられるということになると、いよいよ空母メインの大規模作戦が発動されるということなのだろう。重巡の打撃力を持ってして空母を守らなければならないような危険な前線に出るということなのだから。

 実際、最近になってにわかに慌ただしくなっていく横鎮の様子や、そこここから聞こえて来る大規模作戦が近付いているという噂。いよいよ発令される時が迫っているのだろう。

 

 それから鈴谷が着替え終わると熊野も読んでいた本を閉じ、二人揃って食堂に向かった。非番だろうがそうでなかろうが、食堂の開いている時間は限られているし、食事の時間も決まっている。食住が基地の中で完結する以上、それは仕方のないことだ。

 食事中は噂の大規模作戦のことについて他愛もなく喋り、食べ終われば熊野は工廠に向かい、鈴谷は一旦部屋に戻った。

 朝から買い物に行かなければならない。昨日熊野と話した榛名への贈り物を調達するのは鈴谷の役目だからだ。

 それに、午後からは天気が下り坂になるという予報が出ているので、出来れば昼までには戻って来たかった。だから、少し早いとは思いつつ、鈴谷は急ぎ足で裏門に向かい、警衛所で外出届を出してから横須賀の街に繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予定を少し過ぎたが、鈴谷は昼過ぎには帰って来た。

 天気予報の通り、空には鉛色の雲が一面に広がっている。朝よりも雲の色は徐々に黒ずんでいっている気がしたので、そろそろ雨が降り出しそうだった。低気圧が近付いているからか、風も強まり、宙を這う電線や若葉を携えた街路樹が激しく揺さぶられては騒がしく音を立てている。

 鬱陶しい風に髪が乱されるのに顔をしかめながら、いそいそと裏門を通り、鎮守府の敷地に入る。出来るだけ建物の影に隠れながら場所を選んで歩いた。そうでないと、乱暴な風に好き放題髪をかき乱されてヒドい見てくれになってしまうからだ。

 これだけ天気が荒れ始めたとなると、これは海もそれなりの有様になっていそうだ。気圧が下がれば、強風が吹けば、当然海は時化る。波は高く、不規則になる。高波を食らって破損もしなければ転覆しても沈没しないのは、船とは違う艦娘の強みだが、質量の軽さは如何ともしがたい。簡単に波に流されてしまうので、荒天下での艦隊行動は困難であり、しばしば艦娘が編隊から落伍するという事故が発生している。

 とは言え、難しいということが絶対的な否定条件にはならないし、荒れた海での航行も機械に頼るなり何なりでいくらかやりようはあるもので、慣れた艦娘ならばさほど心配はいらない。経験は浅けれど、熊野は「走る」のが上手な艦娘であるから、そうそう簡単に波に流されはしないだろう。

 ただし、やはり天気が荒れた時というのは何かしら不測の事態が起こるものだ。大抵は軍の作戦行動や活動に関係のない海難事故の類で、普通はその手のトラブルには海上保安庁が出動するのだが、たまに海保から軍に応援要請が入る場合があり、そういう時はだいたい艦娘が遣わされる。小回りが利く上に電探を装備すればそれなりの索敵能力を持つので、慢性的に人手不足な海保の助けとなるのだ。

 しかも非番だと尚更声が掛かりやすい。出撃や訓練で出ている艦娘を呼び戻すのは色々と都合が悪いし時間も掛かるが、基地の中に居るか外に出ていてもPHSですぐに呼び戻せる非番の艦娘は割りと早く海に出せるからである。

 鎮守府の中に居ても特にすることはないが、雨も降るし、前述の理由で不測の事態がないとも限らないので、鈴谷は寄り道せずに目的の物だけを買って戻って来たのだった。

 

 

 荷物を置きに一旦寮室に帰り、それからちょうどいい時間だったので食堂に行ってランチを食べる。

 基本的に熊野以外喋る相手の居ない鈴谷は、彼女が居なければ独りだ。食堂には他にも何人か非番と思しき艦娘の姿がチラホラあって、彼女たちは仲良さそうに駄弁っていたが、鈴谷は一人黙々と箸を動かすだけである。

 これでも学生時代は友人が多い方だった。初対面の相手でもそれなりに打ち解けられる程度のコミュニケーション能力はあったので、話す相手には困らなかった覚えがある。高校の担任教師からは「どこに出しても恥ずかしい」と言われるくらいの不良生徒だったし、付き合う人間もそれ相応のレベルだったけれど、基本的に人と話すことに苦痛はないし、どんな相手でもコミュニケーションを取れる自信がある。

 それは今も変わっていないが、そもそも鈴谷は元よりさほど他人に興味を持つ性格をしていない。だから、一緒に悪さしたり遊んだりする“連れ”は持てども、深い付き合いをする“親友”というのは持ったことがなかった。熊野が現れるまでは。

 

 それがどうしてこんなに深く付き合うようになったのか。

 彼女との馴れ初めを聞かれれば、それこそ色んなことがあって今のようになったとしか言いようがない。たくさん思い出はあるし、中には思い出したくないこともある。紆余曲折を経て、二人は互いに心を開き合った。

 経済的に苦しい家庭に生まれ、小中は地元の公立校を卒業、何とか入学した高校もいわゆる「底辺校」だった鈴谷。対して、熊野はその筋では有名な家系の生まれで、当然実家は金持ち、幼稚園から高校までエレベーター式の私立校だったらしい。名前を聞いたら鈴谷でも知っているような有名なところだった。もちろん偏差値も高いし、実際、熊野は教養もあって聡明である。

 月とスッポンという言葉がこれほど当てはまるコンビもそうは居ないだろう。鈴谷が唯一熊野に勝っているところだと思うのは、精々がバストの大きさであるが、それにしたって人の好みによるから、自慢するようなものでもない。後は、強いて言うなら艦娘としてのセンスだろうか。少なくとも、撃沈スコアは鈴谷の方が上である。しかしながら、人間性を含めた他の部分においては熊野に優る要素が何一つない。

 だが、熊野は決して鈴谷を見下したりしないし、ぞんざいに扱ったりもしない。少なからず彼女は鈴谷に対して敬意を払っていて、小言は多いし口調もきつい時があるが、それもすべては鈴谷を思ってのことだから、不愉快にはならないのである。

 

 

 

 だからだろうか。熊野と深い付き合いになったのは。

 

 今までそうやって鈴谷のことを見てくれた相手は誰も居なかったのだ。親も教師も鈴谷のことは出来の悪い子供だと思っていたし、近付いて来る男は発育のいい体目当てだし、女友達は単に一緒に遊ぶだけの存在だった。それ以外の人間は当然鈴谷を避けるか、嫌っていた。

 

 けれど、熊野は違った。彼女は鈴谷のことを等身大で見てくれた初めての存在。初めて、心を許そうと思った相手なのだ。

 その熊野が居なければ鈴谷は独りになる。親しみやすさを前面に押し出したキャラクターを演じなかったのもあるし、「不良」だったという事実が、育ちの良い娘が多い艦娘の間では敬遠されているらしい。仕事の用事でもなければ声を掛けてくる艦娘は居ないし、それもそもそもの頻度が少ないから、熊野が居ないなら鈴谷はずっと孤立しているような状態になっている。

 当たり前だ。2引く1は1である。引かれた1はどこかの数字にまた足し合わせることも出来ようが、残った1はずっと1のままそこにある。誰に対しても興味を示さないから、誰からも興味を示されない。

 

 孤独には慣れていた。一人で居ることを苦痛には感じない。寂しいという感覚は薄い。

 ただし、それは集団の中での話。このような、食堂の中で一人ボソボソとランチを食べている状況でのこと。

 寮室に戻れば、否が応でもその広さを感じる。

 二人分の生活スペースに一人しか居ないという欠損を認識せずにはいられない。

 だから、熊野と非番が重ならない日は外に出るようにしている。大勢の中の一人なら寂しいとは思わない。けれど、二人の内の一人だけなら、いくら鈴谷とて寂しさを感じてしまうから。それは特別だからこそそうなのだ。

 

 

 

 ――いや、やめよう。

 

 とりとめもなく湧き上がる不吉な思考を押さえ込む。考えても詮のないことだ。

 別に何かが起こるわけじゃない。ただ単に非番のが重ならなかった一日というだけ。今晩にもまた顔を合わせるだろうし、明後日は逆に熊野が非番だが、次回はまた二人一緒だ。この週末を過ぎればいよいよ本当に秘書艦に就任する熊野が多忙なのは変わりないが、このひと月よりは肩を並べられる時間は戻って来ているだろう。

 こんなふうに独りで飯を食べているから詰まらないことを考え始めるのだ。さっさと食べ終わって部屋に帰えろう。昼寝でもするか、雑誌でも読むか、することもないんだし暇を気ままに潰しておけばいい。

 そう思い、鈴谷は残っていたランチを片付ける。周りにはまだ何人もの艦娘や軍人たちがいる。彼ら彼女らは皆食べるのは早いので、今残っているのは遅くに食堂に入って来た者たちだろう。もうそろそろ昼休みの時間も終わるので、それまでにはここを出なければならない。

 鈴谷も、考え事などしなければ食べるのは同年代の女性よりは早い自信がある。何しろ、いつ招集が掛かるか分からない、作戦中はいつ飯を食べる時間が確保出来るか分からない軍隊である。食べられる時に可能な限り早く食べるという癖がついていた。

 

 米粒一つ残さず食器を空にすると、トレーごと持って行って返却口に入れる。「ごちそうさまでした」と一声掛けてからさっさと食堂を出た。

 そのタイミングで、ジーンズのポケットに無造作に突っ込んでいたPHSが甲高い着信音を鳴り響く。

 食堂の外の廊下。人通りの少なくなった昼一。PHSの時計はちょうど13:00を表示している。それを確認してから鈴谷は通話ボタンを押した。

 

 

「榛名です」

 

 

 鈴谷が名乗る前に相手が名乗る。

 

 

「鈴谷さん、今どこですか?」

「えっと、食堂前ですけど。ちょうど出たところで」

「なら、今すぐ司令室に来て下さい」

「あ、はい……」

 

 鈴谷の返事をまともに聞いていたかすら分からないうちに榛名は電話を切ってしまった。いつも落ち着いている彼女にしては妙に慌ただしい様子だ。

 ただならぬ気配を感じて、鈴谷は身震いする。榛名があれほど慌てるのは鈴谷が知る限りでは初めてだ。彼女がそんなふうにならざるを得ないほど、何か良くないことが起こっている。

 乱暴にPHSをポケットに突っ込み、私服であることも忘れて鈴谷は走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 司令室に入ると、中では二人が鈴谷を待ち構えていた。榛名と、横鎮司令官。二人は部屋の真ん中に置かれたソファに腰掛けていた。

 外はもう酷い土砂降りで、天気予報は見事的中したようだ。不幸にも食堂のある建物から、司令室のある司令部庁舎までの間は屋外を通らなければならない。傘を借りて慌てて走って来たけれど、傘が役に立たないほどの土砂降りだったのでずぶ濡れになってしまった。どうやらランチを食べている間に降り始めたらしい。

 そんな濡れ鼠の鈴谷を二人が見上げている。「あ、これはダメなヤツだ」と直感が告げる。学生時代に散々悪さをしてきたお陰か、相手が事態や状況をどの程度深刻に捉えているかが判別出来るようになっていた。特に、相手が怒りを見せるより、途方に暮れていたり、諦観しているような気配を出していると、事態が悪い方向に後戻り出来ないところまで進んでしまっていると考えて良い。そう、ちょうど今、強張った表情で振り返った榛名や、鈴谷に視線だけしか寄越さなかった司令官のように。

 今すぐに踵を返したくなった鈴谷に、まずは榛名が口を開く。

 

「大変なことになりました」

 

 案の定、榛名の声が異様に低く、固い。この後にロクでもないことが告げられるのだ。しかも、それは身構えた鈴谷の想像を遥かに超える衝撃の一言だった。

 

 

 

「今朝、警察から連絡があったんです。鈴谷さんが目撃された暴行傷害事件、その重要参考人として、熊野さんの名前が挙がっていると」

 

 

 

「……は?」

 

 

 想定外の名前が出て来たことに、鈴谷は絶句した。

 

 

 熊野が? 何で?

 

 

 一斉に疑問が噴出し、あっという間に頭の中を埋め尽くす。

 呆然として硬直する鈴谷に、尚も榛名が続きを語る。

 

「鈴谷さん、貴女が目撃された事件で被害者の身体には犯人の物と思われる唾液が付着していました。その唾液の中には被害者の物とは違う血液型の血液が含まれていて、警察がそれをDNA鑑定したところ、熊野さんのそれと一致したのです」

 

 彼女は何を言っているのだ?

 あの事件の被害者は艦娘や軍とは関係のない一般人で、熊野と接触するはずがない。だと言うのに、何故彼の身体に熊野の血が付いているというのだろう?

 

 言っていることがおかしい。被害者に触ったのは、目撃した鈴谷と……犯人だけだ。

 

「う、うそだ……」

 

 そう言えば、あの日は熊野も非番だった。街に出ていたはずだ。そして、帰って来た時に見たら、唇の端が切れていて小さなかさぶたが出来ていた。

 

「あり得ないでしょ……」

 

 鈴谷が見た犯人は、女だった。それは間違いなくそう言える。シルエットだけとはいえ、あの線の細さ、肩の華奢さは女以外にあり得ないと思う。ちょうど、見慣れた彼女が似たようなスレンダーな体型をしているから。

 

「それだけじゃありません。警察はもう一つ証拠を持っているそうです。彼らは熊野さんがいつも使う通用門付近の監視カメラの映像を調べ上げ、今まで犯行が行われた日はすべて熊野さんが非番で、かつ貴女を含め誰とも行動を共にしていない日だということを突き止めたのです。いつも、熊野さんはベージュのコートを着ていましたよね。一方、前回の事件の犯行現場付近のカメラにはダークグリーンのコートを着た人物が映っており、警察はこのコートの種類を調べました。それで分かったのは、そのコートはリバーシブルになっていて、裏はベージュ色だということ。コートの形は通用門を通っていた熊野さんが着ていた物と一致したとのことでした」

 

 それには心当たりがある。熊野が高校時代から使っているお気に入りで、冬には外出の折、必ず着て出て行く物だった。

 

「鈴谷さんが事件を目撃された日も、熊野さんはそのコートを着て、出掛けられていたのです……」

 

 ああ、そうだ。あの日も春になってもう温かいのに熊野はコートを着て出ていったのだ。何でも、少し肌寒い気がするから、と。

 そして帰って来た時には唇の端を切っていた。真新しい傷だろう。気付いたその場では何も言わずに二日後に指摘をすると、手入れが出来ていなかったという答えが返って来た。

 

 だけど、それがどうしたのだ? 

 

 たまたま同じコートを持っている人物が居たのかもしれない。唇もたまたま切ったのかもしれない。

 

 すべては偶然で……。

 

 

 ああ、だから「重要参考人」なんだ。

 

 

「鈴谷さん!」

 

 気付けば鈴谷はその場に崩れ落ちていた。榛名が慌てて支えてくれたけれど、気を遣う余裕はなかった。

 信じられない事実を突きつけられて、動くことが出来ない。立っていることすらままならない。頭を抱え込んで震えるしかない。

 

 一体どうして?

 

 ただ一つの疑問だけが鈴谷を満たした。他のことを考える余裕などないし、思い浮かぶのは今までの熊野の姿ばかり。

 亜麻色のポニーテール。戦士にしては細すぎるくらい細い身体のライン。白磁と言うにふさわしい日焼け知らずの肌。「鈴谷」と愛おしそうに呼ぶ声。

 

 熊野が人を、罪もない無辜の人を傷付けた? 

 

 冗談にしては質が悪い。あんなに立派な彼女が、秘書艦に選ばれるくらい模範的な艦娘が、どうして誰かを傷付けるというのだろう。

 おせっかいで口うるさいところもあるけれど、それは彼女の優しさの裏返しであり、気遣いがよく出来て、何よりも上品だ。自分のパートナーにはもったいないくらいいい子で、それ故に鈴谷は熊野のことが好きなのだ。

 熊野が悪いことをするわけがない。ルールにはうるさい性格なんだから尚の事。

 きっとすべては偶然で、よく似た人物像の誰かが真犯人なのだ。

 そうだ。そう言おう。いや、言わなければならない。

 今、熊野を弁護出来るのは自分だけだ。

 

 決心して鈴谷が顔を上げた時、司令官が口を開いた。

 

「MPまで話が行っている。さっそく申し入れてきたよ。お前たちの部屋のクローゼットを調べさせて欲しい、とな。まあ、それには少し待ったを掛けているが」

 

 MP、つまり海軍憲兵は、海軍の中で警察に代わり警察権を執行する機関だ。鎮守府の中に居る熊野を捕まえるには、警察も彼らに任せるしかない。

 だが、一方で海軍憲兵もまた軍隊の一部である。特に、エリートの軍人たちには同じ「制服組」の警察を見下す傾向があり、それはMPでも恐らく変わりはないだろう。そんな彼らが“格下”の警察の言うことを聞いて身内を、それも現在海軍の主力たる艦娘を、捕まえようとするのは余程のことである。逆を言えば、プライドの高いMPでさえぐうの音も出ないほどの確固たる物証を、警察は握っているということなのだ。榛名の言った証拠の他にも、警察は何かを掴んでいるのかもしれない。そうでなければ、彼らもこんな話をして来なかっただろう。

 

 何が起こっているのかを全部は飲み込めていないが、それがどれ程の重さを持っているのかは骨の髄まで理解した。むしろ、鈴谷だからこそ事の重大性を実感している。数々の補導歴から、少なからず警察というのがどういう組織なのかは分かっているつもりである。例えば、彼らが弱い者には強権的であったり、軍に対して鬱屈した何かを抱いていたり、などだ。

 そんな彼らが、艦娘を容疑者に挙げた。榛名曰くは「重要参考人」だが、そんな表現は何の気休めにもならない。司令官は深くソファに身を沈め、頭を背もたれに預けると盛大に息を吐き出した。

 榛名は「座りましょう」と鈴谷に囁き、抱え上げようとする。既に自分で立てるくらいには回復した鈴谷は引き起こされる前に立ち上がった。それから二人でよたよたとソファまで歩いて行き、司令官の前に腰を下ろす。その時初めて、榛名が左手の手の平に大きな絆創膏を貼り付けているのに気付いた。とは言え、怪我の理由を秘書艦に尋ねられる状況でもなかったし、鈴谷自身がそれについて考察している余裕がなかった。

 二人が座るのを待って、司令官は背もたれから頭をわずかに起こし、下目で榛名を見ながら問い掛けた。

 

「熊野は、“黒”か?」

 

 榛名は逡巡する素振りを見せた。その問いに含まれている総ての意図を読み取ろうとするように。

 しばし、雨音が室内を満たす。先程よりさらに雨脚は強まっているようだ。

 たっぷり三拍は置いてから、意図が読めたのか、あるいは言葉を選び終わったのか、榛名はゆっくりと答えた。

 

「限りなく黒に近いグレーかと。物証が出てしまっています」

「そうだな。それと、鈴谷。コートに心当たりはあるか?」

「それは……」

 

 正直に答えるべきだろうか。いや、隠してもどうせ分かることだ。鈴谷には肯定するしかない。

 

「あります」

「……そうか」

 

 司令官はもう一度ソファの背もたれに後頭部を預けて天井を仰ぎ見る。重い息が吐き出された。

 

 部屋の空気は鉛のように重く、窓ガラスを激しく叩く雨がそれに拍車をかけている。

 

 

 

「現役の」

 

 司令官は天井を仰いだまま喋り出した。

 

「艦娘が逮捕されるなどあってはならん。艦娘艦隊創設以来最悪の不祥事になる」

「ですが、警察は捕まえる気満々ですよ」

 

 合いの手を榛名が挟む。

 

「そこだ」と司令官は顔を起こし、榛名を見据えた。

 

「握り潰すことは出来ん。連中は軍事機密のはずの艦娘のDNAデータまで入手したのだ。『重要参考人』というのはこちらに配慮してのことだろう。本当はすぐにでも逮捕状を取れるんじゃないか? だが、相手は艦娘だから物証を固めていても、自白するまでそうしないつもりだ。だから、『重要参考人』なんだよ」

「同感です」

「とにかく熊野に話を聞かねばならん。場合によっては県警本部長とも会う必要がある」

「ええ。ですが、MPの方は」

「当然だ。ところで、熊野は今どこに居る?」

「第五演習海域に」

「すぐに呼び戻せ。兎にも角にも聞くべきことが山のようにあるんだからな!」

「了解致しました」

 

 鈴谷が言葉を失い見ているだけの間に話は進んでいく。きっと二人は頭の中で今回の騒動の落とし所を探し始めているのだろう。

 間違いなく事態は最悪へと陥るだろう。恐らく、警察は正しい。鈴谷には最早否定出来ぬことだった。証拠と言えるものはないけれど、確信は誰よりも強く抱くことが出来た。

 

 それは他ならぬ鈴谷だからこそ。

 

 昨晩のあの熊野の様子。妙にやつれた顔。意味不明だった謝罪。

 今なら分かる。頭の中で、バラバラに散らばっていたパズルのピースが次々とはまり込み、一つの絵を作り上げていく。

 いっそ、爽快と表現してもいいほど真実が急速に浮かび上がってくる。何もかもが、鈴谷の知る熊野に関するあらゆることが真相を、最悪の真相を指し示していた。

 

 

 ああ、間違いない。

 

 

 ここ数ヶ月横須賀で発生していた連続暴行傷害事件。その犯人は熊野に他ならない。

 今この場で、鈴谷は誰よりも強くそう言える。自分のすべてを賭けてもいい。熊野が犯人であると告発出来るのだ。「限りなく黒に近いグレー」どころか、「真っ黒」以外の何色でもない。

 けれど、思っていることとそれを実際に口に出すことは違う。ここで熊野が犯人であると叫んだところで、一体何がどうなるというのだろう。

 

 結局のところ、待ち構えているのは引き裂かれる運命でしかない。早ければ明日にでも熊野は逮捕されるだろう。そうなれば、良くても追放だ。最悪、処刑されるかもしれない。軍として、護るべき人々を傷付ける艦娘など、存在自体を許容し得ないのだから。

 

 

 

 だが、事態は鈴谷の想像を超え、さらに悪い方向へと転がっていく。

 突然、司令室に着信音が鳴り響いた。慌てて懐を確認したのは鈴谷と榛名で、鳴っていたのは榛名のPHSだった。

 

「はい。榛名です」

 

 彼女は急いで電話に出る。相手は分からないが、「緊急事態です」という声が電話口から漏れて聞こえて来た。

 ただし、続けて相手が言った言葉までは聞こえなかった。それよりも、鈴谷は見る見るうちに顔が青ざめていく榛名に目を奪われていたのだ。

 

「す、すぐに折り返します……」

 

 震える声でやっとのようにそう答えて、榛名はPHSを切る。その顔は色をなくしていた。

 もともと色白だが、そんなレベルの話ではない。彼女の体を巡っているはずの血がすべて消えてしまったんじゃないかと思うくらい真っ青である。

 

 

 

「提督……」

 

 

 

 ほとんど泣きそうな声で榛名は司令官を呼んだ。

 

 

 

「大変です……。出撃中の艦隊から連絡で……。熊野さんが、落伍して、行方不明になった、と――」

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜になると大雨は止み、静けさが戻って来た。

 雨が降ったのと、日が沈んだのとで外は思いの外寒く、鎮守府の中を歩く人々は皆足早に通り過ぎるだけ。それも夕食の時間が終わるころには動く影もなくなり、すっかり宵の静寂が基地を包み込んだ。

 艦娘の寮は窓が街の方を向いているので、部屋の電気を点けていなくともカーテンさえ開けていればそこそこ明るい。逆に、宿直や徹夜の突貫工事をする工廠の人間くらいしか動く者が居なくなる鎮守府は、あっという間に闇に飲まれるので暗い。

 それでも今晩は騒がしい方だろう。まだ夜間装備を携えた捜索部隊が帰って来ていないし、急遽市ヶ谷の海軍庁から幹部も派遣されたようである。

 

 しかし、鈴谷は呼ばれなかった。昼間、司令室を半ば追い出されるように辞してから、ずっと自室待機を命じられている。

 以後、ずっと部屋にこもりっきりで外に出ていない。夕食も、食欲がまったく湧かなくて行かなかった。

 

 

 

 考えているのは熊野のこと。

 彼女が犯人なのは間違いないし、最早そのことは鈴谷だけでなく司令官や榛名、それどころか海軍の上層部まで確信を抱いているだろう。少なくとも二人は気付いたはずだ。熊野が落伍したと聞いた時、彼女が遭難したのではなく、本当は“逃亡”したのだということに。

 何より、鈴谷はそう解釈した。熊野は逃げたのだ。

 

 彼女の航行技術をもってすれば今日の嵐と言えど航路を逸れることはない。熊野のことを誰よりも近くで見続けていた鈴谷だからこそ断言出来る。だから、熊野は落伍したのではなく、嵐の中で落伍したように見せかけて逃げたのだ。本来なら遭難信号が発信されるところだが、その反応はなかったと言うから、これはもう確実である。

 

 何故逃げたか。もちろん、やましいことがあるから。捕まりたくないから逃げたのだ。

 その理由こそが、今日刑事が訪ねて来た理由であり、鈴谷のすべてを突き崩した原因である。考えればあまりにもタイミングが良すぎるが、変なところで勘の鋭い熊野のことだから、“虫の知らせ”でも受けたのかもしれない。

 

 とにかく、彼女はもう居ない。鈴谷の前から消えてしまった。

 裏切られた、とは思わない。きっと、何か事情があったはず。使命感と責任感が誰よりも強い熊野が、それでも人を傷付けなければならなかった止むに止まれぬ事情というものが。

 

 

 思えば、被害者には必要最小限の傷だけを付け、後は丁重に扱うなど実に熊野らしいではないか。彼女は何らかの理由で人を襲わずにはいられなかったものの、それ以上の危害を加えるつもりはまったく持っていなかった。当たり前だ。熊野はそんな残虐な性格ではない。

 だから、鈴谷に事件を目撃されたのは完全なる計算外だったのだろう。慌てて彼女は逃走した。

 きっと、熊野は最初から目撃者が鈴谷であることに気付いていたに違いない。それでも、何でもないふうに装って警察署から帰って来た鈴谷を出迎えた。

 その時の鈴谷自身が疲労し、熊野をあまり細かく観察している余裕がなかったとは言え、振る舞いにまったく不自然さを感じさせない演技力は見事と言うに他ない。一体全体、どんなメンタルの強さをしていればそんなことが可能なのだろうか。

 さらに驚くべきことに彼女は犯行の目撃者とひと月あまり寝食を共にし、露呈する恐怖と戦いながら日常を過ごしてきた。鋼、どころかダイヤモンドのようなメンタルを持っていなければ不可能だろう。

 元々芯の強い子だとは思っていたけれど、まさかこれほどとは想像だにしなかった。一体、熊野はこのひと月の間、何を思い、何を考え、何を感じながら過ごしてきたのだろうか。目撃者鈴谷が熊野のことを認識していなかったのには早々に気付いただろうが、それであっても“後処理”もせずに現場を立ち去ったのだから、いつ警察が来るか怯えなかったはずがない。その恐怖は、確実に熊野の心を削っていった。

 

 いくらメンタルが強くとも限度がある。熊野は人一倍精神がタフだったからひと月保ったけれど、いよいよ限界が訪れたのだ。

 それが、昨日泣いた理由だ。

 つまり、そこまで彼女は追い詰められていた。理由が分からなかったけれど、分かるはずもない。熊野は口が裂けても告白出来なかっただろう。

 彼女にとって目撃者鈴谷というのは、つまるところ巻き込んでしまったという負い目の対象である。これ以上負担を掛けないようにと口をつぐみ、「最もましであると熊野が思う」方法を、すなわち鈴谷に一番負担が掛からないと考えた方法を、彼女は選択した。それが“逃亡”だ。

 

 警察に捕まって自白すれば、最もその煽りを受けるのは鈴谷である。何しろ直接犯行を眼にしている上に寮も同室の姉妹艦。仲の良さも評判だから、警察でなくとも関与を疑うし、ややもすれば「熊野を庇っていた」と言われかねない。真実がどうであれ、ただでさえ「不良」と名の知れている鈴谷が、周囲から犯人扱いを受けるのは間違いないだろう。

 だから、“逃げた”のだ。そうすれば自分から犯行を自白したのと同然だし、周囲の心証も悪化する。あるいは、それこそが熊野の目的。ヘイトを自分に集めることで、逆説的に鈴谷を疑惑から外す目論見。

 いかにも彼女の考えそうなことじゃないか。そうやって自分だけを悪者にすれば他が助かると考えている高慢なところなんて、熊野を熊野たらしめる本質だ。

 まったく要らないことを考えつくものだ。今更鈴谷は自分が何を言われようが気にしないし、だから余計なお世話にしかならない。

 犯人扱いされて居辛くなったところで何にも思わない。だってそこにはもう、熊野は居ないのだから。

 

 どうしてそこまでするのだろう。

 いや、そもそもどうして熊野はあんな事件を引き起こしたのだろう。

 動機はまったく分からなかった。心当たりも、いろいろなことを思い出して少しでも記憶の中から手掛かりを探り出そうとしたけれど、全部徒労に終わった。

 結局、熊野が何をしていたかも不明だ。

 最近はめっきり聞かなくなったが、以前は「吸血鬼の仕業だ」などという噂も飛び交っていた。だが、まさか熊野は人間の生き血が欲しくて事件を起こしたわけではないだろう。それこそ本当に吸血鬼になってしまう。

 では、何が動機だったのだろうか? それがいくら考えても分からない。本人に訊かない限りは、きっと真相は永遠に闇の中だ。

 

 だから、泣けてくる。

 

 鈴谷は自分が熊野の一番の理解者だと思っていたけれど、それは単なる思い上がりに過ぎなかった。熊野のことをさんざん鈍い鈍いとからかっていたけれど、本当に鈍かったのは鈴谷の方だった。人知れず彼女が犯罪に手を染め、苦悩していたのに一切気付かなかったのだから。

 熊野の性格なら、犯行の告白は絶対にない。だから、鈴谷の方から気付いてあげるしかない。

 ではもし、気付けていたらどうなっていただろう? 少しは熊野の心を救えただろうか。彼女が抱え込んでしまっていた何か大きな悩みを解決に導いてあげられただろうか。

 もしそう出来たのなら、熊野がやつれることも、泣くこともなかった。

 気高くプライドも高い彼女が、あんなふうに弱さをさらけ出すことなんてなかった。こんなふうに無様に逃げるまで追い詰められることもなかったのだ!

 

 鈴谷は基本的にどんな熊野でも好きだし、自分だけに弱いところを見せて欲しいとも思っている。例え犯罪者になったとしても、それが熊野に幻滅する理由にはならない。

 ただ、一番好きなのはやっぱり気高い彼女であって、脳裏に浮かぶのは背筋をピンと伸ばし、誇りと使命感に満ちた表情で水平線の向こうを見通す姿だった。

 

 熊野はいつだって鈴谷の前に立っている。華奢だけれど頼りになるその背中を眺めるのが好きで、鈴谷はずっと熊野の後を付いてきた。今更彼女なしで居られるわけがない。

 

 だから、尚の事泣けてくる。

 

 熊野は逃げた。だが、逃げるだけでは何も終わらない。どこかで決着を付けなければならない。

 

 

 そこまで思い至って、鈴谷はようやく身を投げ出していたベッドから起き上がった。部屋に据え付けられている読書机には、一冊の本が置かれている。

 熊野が今朝読んでいた本だ。彼女は出掛ける時にきちんとその本を棚にしまったけれど、一目でどの本か分かった。何しろ、まるで気付いてくれと言わんばかりに背表紙が少しだけ飛び出していたのである。普段、鈴谷が同じことをすれば目くじらを立てるような几帳面な性格の熊野がそんないい加減なことをするわけがない。だから、これは意図的なもの。問題はその内容である。

 タイトルは「艦娘の艤装が持つ諸特性について」という物で、つまりこれは海軍大学校で発表された論文なのだろう。本一冊に仕上げられるくらい長ったらしい論文だ。

 なんだって朝の忙しい時に熊野はこんなものを広げていたのだろうか。そこに大事なメッセージが込められている気がして、鈴谷は読書机の前に腰を下ろし、本を開いた。

 まず冒頭にあった概要だけをさらうと、中身は題名の通り艦娘の艤装が持つ不可思議な特性や機能について書かれているものらしい。

 しばらく前からこのタイトルの本が置かれていたのは知っていたけれど、興味もないので特に熊野に内容を尋ねたことなどはなかった。勉強熱心な彼女はこんな難解な論文でも読んでしまえるのである。

 ただ、熊野がどんなに頭が良くて、どんなに本を読むのが速くても、今朝の短い時間に内容の全てを見るのは不可能だ。彼女が今朝読んでいたのはほんの一部分だけ。確認が必要な文章だけ。そこに書かれている内容こそ、鈴谷の知りたいものだった。

 目次を見てそれらしい内容が書かれている章がないか探ってみるが、目次の章題すら難しすぎて何について書いてあるのか分からなかった。鈴谷はあまり活字が得意ではないし、頭がいいわけでもない。今まで、仕事上で必要とされた頭脳労働については、大抵信頼のおける同僚に丸投げしてきたのだった。

 苛立ちが積もっていく。適当にページを開いてみても、白い紙の上を漢字や数字が踊るばかり。意味を見出せないそれらは、最早文字ではなく単なる記号としてしか認識出来なかった。

 

 そしてついに鈴谷は投げ出した。

 どうやっても、熊野が今朝見ていたページにたどり着きそうになかった。わざとらしく背表紙を浮かせていた割に、読んでいたページが分かるようなヒントは残されていなかった。ひょっとしたら、本の仕舞い方が甘かったのも、朝が忙しくて慌てていたからかもしれない。そんな素振りは全く見受けられず、むしろ悠々とした様子だったけれど。

 

 

 鈴谷はもう一度ベッドに、熊野のベッドに身を投げ出した。シーツには熊野の匂いというものが染み込んでいて、横になっているとその匂いに包まれてすぐ身近に彼女の存在を感じられる。

 ほんのりと甘い、普段使っているシャンプーや香水のそれも混じった匂い。世界で一番鈴谷が好きな匂い。

 温もりがほしい。ほんのちょっとでも力を込めれば折れてしまいそうな細い体躯を抱き締めたい。

 「鈴谷」って耳元で囁いて欲しい。乱れた髪を優しく撫でて整えて欲しい。身を預け、彼女の胸元から翡翠のような瞳を見上げたい。

 

 そんな願いさえもう叶わないのだろうか。

 もうあの愛おしい顔を見ることも出来なくなるのだろうか。

 

 ベッドに横たわる鈴谷はシーツを鷲掴みにして顔に引き寄せる。そうして、少しでも多く熊野の痕跡を掻き集めようとするように。

 けれど、いずれ彼女の気配はこの部屋から消えてしまうだろう。後には主の居なくなった寝床や持ち物が化石のように残されるだけであり、そこに亜麻色のポニーテールを見出すのは鈴谷の脳裏に浮かぶ幻影のみになる。

 

 熊野はどこに行ったのだろう。鈴谷を置いて、どこに行こうというのだろう。

 

 

 

 

 不意に、電子音が暗い部屋の中で鳴り響いた。鈴谷の身体と一緒に熊野のベッドの上に放り出されているPHSだ。

 あまりにも唐突に鳴ったので驚いた鈴谷は咄嗟に身を起こす。心臓が跳ね、激しい動悸が胸を打ち付けた。それが収まるまでの間、着信音を鳴らしながら震えるPHSを見ていた。

 こんな時にわざわざ鈴谷に連絡を入れてくる人物は一人しか思い浮かばない。用件は熊野に関することであるとは分かっても、具体的に何かまでは想像がつかず、期待と恐れが鈴谷の中でせめぎ合ってしばらくPHSを放置していた。

 それでも、掛かって来た電話は取らねばならない。恐る恐る手を伸ばし、通話ボタンを押す。

 

「鈴谷さん!」

 

 案の定、榛名だ。

 

「今すぐ、制服に着替えて司令部庁舎まで来て下さい。会議が始まります!」

 

 そう言うなり、榛名は忙しいのか一方的に電話を切ってしまった。

 彼女は会議と言った。何の会議だろうか? 消灯時間も迫る今頃から始める会議とはロクなものではないのは確かだ。余程急いで話し合う用件……は、一つしかない。

 とにもかくにも呼び出された以上はすぐに赴かなければならない。億劫そうに鈴谷はベッドから立ち上がり、私服を脱ぎ捨て、畳みもせずに自分のベッドの上に放り投げると、下着姿のままクローゼットを開けて「最上型三番艦」の制服を引っ張り出す。

 プリーツスカートを履き、ブラウンのブレザーを羽織るとまるで本物の女子高生のように見える。到底戦場に赴く格好ではないが、艦娘というのはどいつもこいつも兵士らしからぬ服装をしているものだ。曲がりなりにもそれが制服だというのだから仕方がない。

生のように見える。到底戦場に赴く格好ではないが、艦娘というのはどいつもこいつも兵士らしからぬ服装をしているものだ。曲がりなりにもそれが制服だというのだから仕方がない。

 そうして鈴谷は「鈴谷」になると、さすがに着替えるだけにゆっくりとし過ぎたので急いで寮室を飛び出した。

 昼間の雨が止んでいたのは幸いだった。艦娘寮から司令部庁舎まではこれまたなかなかの距離があり、急ぎ足では間に合いそうにないので走らなければならないからだ。横鎮程の規模になると何から何まで巨大で、敷地の広大さも半端ではない。あまりに広すぎるのも考えもので、実質横鎮の中心部となる司令部庁舎は工廠や入渠ドッグ、補給処や桟橋といった主要な施設のどこからも遠いので非常に不便である。

 

 五分ほど走り続け、ようやく息を切らしながら庁舎に飛び込むと、一階の玄関で榛名が待ち構えていた。

 庁舎は宵も深まっているというのにそこだけ煌々と明かり灯っていて、今が如何に異常な状況下であるかを如実に示している。普段は、消灯時刻になると真っ先に明かりが消える建物だからだ。

 

「もう始まっています」

 

 榛名は開口一発そう告げた。

 

「海軍の幹部の方々、今集まれる面々がすべて集まっています。熊野さんの件で、明日以降の対応について協議するための緊急会議です。鈴谷さんも呼ばれましたので」

「は、はい」

 

 反論も質問も許されない雰囲気だ。榛名の物言いも何時になく冷たい響きを含んでいて、表情も強張っている。

 鈴谷が気圧されている間に彼女は踵を返し、庁舎一階、鈴谷も知っている大会議室に向かって廊下を早足で進んでいく。

 取り残されないように急いで後をついていく。榛名は大会議室の前、格式張った木の扉の前に立つと、ひと呼吸置いてから勢い良くノックする。

 

「失礼します」と張りのある声。すぐに返事が来て、榛名は会議室の扉を躊躇なく開ける。

 

 敬礼して入室する彼女に鈴谷も続いた。その瞬間、避けられなかったこととは言え、会議室に入ったことを後悔した。

 

 

 一斉に鈴谷を見詰める大勢の目。誰も彼もがいい年した年配の男たちだが、歴戦の軍人らしく皆その視線には尋常ではない鋭さを含んでいる。

 会議室の中には口の字型にテーブルが置かれ、会議の出席者がそれを囲んで座っている。各々の前には中途半端に減ったペットボトルの水やお茶が置いてあり、それなりの時間この会議が行われていたことを示していた。

 知っている顔も多いが知らない顔もある。知っている顔といっても、写真で見たりして知っているだけで直接話したことなどない。「知り合っている」という意味で知っている顔といえば、この中では唯一横鎮司令官だけだろう。

 

 

「座り給え」

 

 会議室の一番奥、上座下座で言えば上座にあたる席に座っている口ひげを生やした軍人が厳かに言う。肩に燦然と輝く大将の階級章。海軍幕僚長の顔と名前くらいはさすがに艦娘なら誰でも知っている。海軍の制服組ではトップの肩書で、言ってしまえば事実上海軍の実権を握っている人物だ。その左右には軍令部長や軍令部次長、連合艦隊(GF)司令長官、軍務局長などなど錚々たる面子ばかりが顔を揃えている。

 これでは海軍将官会議に招集されたようなもの。鈴谷は胃袋がぎゅっと縮まるような痛みを覚えた。

 鈴谷と榛名が座るように指し示されたのは下座だ。口の字型のテーブルの内、入り口に最も近い手前のテーブルに三つ席があって、その後ろから見て、つまり上座に座る幹部たちを前にして一番右に横鎮司令官が座っている。そして何故か、榛名に三つの席の内、真ん中に座るように促された。断るわけにも行かず、渋々そこに尻を下ろすが、まったく落ち着けない。

 何しろ左右を上官に挟まれている上、真正面はお歴々の皆様方だ。これで落ち着ける者が居るなら、そいつは図太いを通り越して無神経と言える。少なくとも鈴谷は緊張のあまり体が震えて仕方がなかった。

 

 

「時間も遅いから要点だけを話してほしい」

 

 尋問を取り仕切るのは、お偉方の中でも一番階級が低いと思われる軍令部次長のようだ。顔は見たことあるし、役職も知っているが名前が思い出せない。

 

「君は、熊野が非番中に何をしていたか把握しているか?」

「……い、いいえ」

 

 舌が喉に張り付いてうまく声が出せず、何とかそれだけしか答えられなかった。こんなところでまともに話せる度胸はない。

 

「君と熊野は仲が良いと聞いたが、非番が重なっても別行動の日があった。それはどうして?」

「そ、それぞれ自分の用事があって……」

「その用事について、熊野は何か言っていたか?」

「……分かりま、せん」

「別の聞き方をしよう。以前と比べ、熊野の様子が特段変わった覚えはあるか?」

「それは……」

 

 緊張しながらも辛うじて答えてた鈴谷が言い淀む。それ自体が最早質問に対する答えのようなものであったが、当の鈴谷にはそこまで気を回せる余裕がない。

 思い出されるのは、熊野の異変。そう、まさしく異変だった。

 今まで見たことともないほどか弱く、あまりにも幼かった昨夜の熊野。気高く、気丈である普段の姿をまるごと投げ捨てて、殻の中に仕舞込まれていた柔らかい部分を露出させたような熊野。

 それが生来の強い責任感と愚行に対する罪悪感に苛まれた結果、限界が訪れた証なのだろう。

 察しろと言う方が無理なのかもしれない。何しろ熊野ときたら、自分のことを一切喋らないのだ。精神が強い彼女は、限界まで苦痛に耐えられてしまう。

けれど、サインは確実に出ていた。それは身体的なものであったし、普段の振る舞いにも紛れ込んでいた。意識的にか無意識的にか、彼女は助けを求めていたのだ。

 ただ、鈴谷がそれに気付かなかっただけの話。

 

「鈴谷さん」

 

 不意に、耳元で囁かれたような小声で名前を呼ばれる。あからさまに振り向くわけにもいかないので視線だけ動かして左を見ると、太ももに乗せた自分の左手に榛名の手が伸びているのが見えた。その指が優しく握りしめた鈴谷の拳に触れる。

 鈴谷は榛名を受け入れた。手を開くと、彼女は握りしめてくれる。まるで、励ますように。

 

「あったんだな?」

 

 軍令部次長の冷たい響きを含んだ言葉に顔をあげて前を見れば、険しい視線が自分に集中していた。

 今は思考に埋没出来る時間ではない。何とかこの尋問をやり過ごさなければならない。挫けそうになる心を、確かな左手の感触を支えにして奮い立たせる。

 

「ありました。でも、激務で疲れているだけだと思っていました」

 

 幹部の内の一人が音が聞こえるくらい盛大に息を吐いて椅子に沈み込んだ。軍令部次長は手元の紙に何かを書き込んでいる。鈴谷の発言でもメモしているのかもしれない。

 しばらく彼が字を刻む音だけが部屋に響いていたが、それが止まると待っていたように今度は連合艦隊(GF)司令長官が口を開いた。

 

「犯行を目撃した時、相手が熊野だとは気付かなかったのか?」

「はい。女性だとは思いましたけれど」

「暗がりの中で、分からなかったのだな」

「はい」

 

 GF長官は横を見る。その視線の先には、腕組みをして聞きに徹していた海軍幕僚長。

 

「保科幕僚長」

「……秋元長官。熊野の身柄を拘束することが先だ」

 

 幕僚長はGF長官にそう答えて目を横鎮司令官に向けた。

 

「捜索状況は?」

「まだ、不明です。熊野は大島東沖合五キロのところで落伍したことが確認されており、現在捜索部隊をその近辺に派遣しております。しかし、雨は止んだものの未だ波が荒く難航している状況です。哨戒機も、風が強い上に雲底も低く、飛ばすのが困難です」

「逃走と見て間違いなさそうだな」

「はい」

「なら、督戦隊は待機しているか?」

「それについては私から申し上げます」

 

 司令官に代わって答えたのは榛名だ。鈴谷には聞き慣れない「督戦隊」なる部隊について彼女はスラスラと滞りなく答えた。

 

「軽巡川内以下の督戦隊六隻をすでに大島近海に派遣しています。やむを得ない場合の実弾使用による威嚇射撃の許可は与えておりますが、司令官の名で『熊野』の捕縛を命じています。必ず捕まえろと、そう厳命しております」

「捜索部隊は他に居るのか?」

「有志の艦娘で結成した臨時部隊を一部隊派遣していますが、こちらには交戦許可は与えておりません。そもそも、彼女たちは事情を知りませんから『熊野』と戦闘になる可能性すら想定していないでしょう」

 

 有志の艦娘と聞いて思い浮かぶ名前がいくつかある。熊野は人望があったから、鈴谷と違って動いてくれる人が何人も居るのだろう。

 ただ、督戦隊とそれに与えられた交戦許可は気になった。まるで、敵を相手にしているかのような言葉ばかりではないかと。いや、それを言うなら「督戦隊」という存在自体が熊野を敵と見なしているように思えてならない。

 

 

 

「威嚇射撃、か」

 

 

 

 ふと、それまで黙っていた軍務局長が呟く。

 

 

 

「最初から、交戦させることは出来ないのかね?」

 

 

 

 鈴谷ははっとして榛名を見た。

 彼女も目を見開いている。艶やかなその唇が震えている。

 

「……それは、どういう?」

「皆まで言わせるなよ。督戦隊は“撃て”ないのか?」

「まさか、そのようなことを……」

 

 榛名のこめかみから玉のような雫が頬を伝い落ちていった。

 左手が痛い。いつの間にか、榛名の手には力が込められていて、鈴谷の左手を握り締めている。

 

「荒天下での強行軍による遭難。それはそれで批判は浴びるが、このまま熊野の犯罪が世間に公表されるよりは遥かにましだろ」

「どうせ、督戦のことは表に上がらないんだ。このまま“不慮の事故”になってしまえば、警察も追求出来まい」

 

 軍務局長に賛同するのは、知らない顔の一つだ。階級章から少将だと分かる。さらに、この少将以外に幾人かが同意するように頷いた。

 

 

 一方、鈴谷はそれどころではない。

 確かに熊野の処遇について恐ろしい意見が前を飛び交っていて、どうなるのかという恐怖が胸の内に広がりつつあるのだが、それ以上に握り締められる左手の痛みに意識を割かれていた。榛名に視線で訴えかけようにも、彼女は愕然とした表情で幹部たちを見詰めていて鈴谷には見向きもしない。というか、目の前の彼ら以外眼中にないような様子だ。鈴谷の手を握り締めていることにさえ気付いているかも怪しい。

 

「待って下さい! それは、あまりにも……」

「あまりにも、何だ? 榛名、よく考えてみたまえ。もしこのまま熊野の犯罪が露呈した場合、批判の矢面に立たされるのは君たち艦娘なんだぞ」

「世間は無情だ。君らの今までの活躍によって生活が守られていることなど忘れて、盛大に叩くだろう。そうなれば、今後苦しむのは罪もない、一生懸命使命を果たそうとしているだけの他の艦娘たちなのだ」

「本来なら軍規に則って処罰するべきだろうが、今回ばかりは例外中の例外だろうな」

 

 次から次へと、軍務局長を擁護する意見が飛び出してくる。それにつれて榛名が込める力も強まっていった。もう、鈴谷の左手の感覚は薄くなりつつある。

 彼らの言葉の一つひとつが榛名の逆鱗を刺しているのだろう。秘書艦の顔面は白粉を塗りたくったように蒼白で、つい先程まで驚愕のあまり半開きになっていた口は固く閉じられ、目の前のテーブルを睨む視線はそこに深海棲艦の姿を見出したかのように鋭い。

 彼女の怒りは握った手を通じて有り余るくらい伝わって来る。それどころか、その怒りに鈴谷はすっかり飲み込まれ、圧倒されてしまっていた。目の前の幹部たちより、隣で憤激に身を震わせている榛名の方が恐ろしい。

 

 

 

「まあ、待て」

 

 

 

 場の雰囲気が危険な香りを醸し出したころにそれを慮ったのか、幕僚長が重々しく口を開いた。

 

「それを言うなら、今までの熊野の貢献も忘れるべきではない。それに、もし我々がこのまま熊野を“処分”したことが後になって発覚した場合、ここにいる全員の首がすげ替わるだろうし、国連からの信用も失うだろう。艦娘の中から逮捕者が出るのは甚大な不祥事だが、それよりは遥かにダメージが少ない。

現役の艦娘の死亡には轟沈と不慮の事故以外の理由は存在しない。筋を通しておかねばならんのだ。逆にそれをしておけば、批判はあろうが組織としての体裁は維持される。我が国は法治国家なのだぞ。当然、当人には弁明の機会が与えられて然るべきだ。そしてその上で……。熊野は責任感の強い性格だと聞いている。犯行が事実なら、何をするべきかは自分で判断出来るだろう。それが、今の状況では一番だ」

 

 まさに鶴の一声だった。それまで声高に熊野の抹殺を主張していた軍務局長とその賛同者たちも軒並み閉口する。

 

「それで、いいな?」

 

 と幕僚長は確認を取るが、もちろん反論はどこからも上がらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい。手、痛かったでしょう」

 

 司令庁舎の一階の端には自販機が数台並べられた小部屋がある。そこは休憩所で、昼間は手隙な艦娘やら軍人やらがよくたむろしている場所だ。当然、深夜のこの時間帯では人気もまったくない。

 鈴谷は自販機の前に据え付けられたベンチに榛名と並んで座り、彼女に奢ってもらった缶コーヒーを開けずに弄んでいた。すっかり痺れてしまった左手の感覚を取り戻すためだ。

 

「あ、お気になさらないで下さい」

 

 社交辞令でも何でもなく、本当に鈴谷は怒っていなかったし、むしろ榛名には感謝しなければならないくらいだと思っていた。会議の時、手の痛みがなければ、きっと鈴谷は幹部たちの前でキレて取り返しの付かないことになっていたはずだから。

 

「ううん。ホントにごめんなさい。榛名ったら、カッとなって鈴谷さんのことが頭から飛んでしまったんです。ダメですよね」

 

 ベンチに深く沈み込む榛名。まるで、敗残兵のような顔だった。

 いつもの自信に溢れた歴戦の艦娘という姿はどこかに行ってしまったようだ。鈴谷にしても、どんな言葉を掛けていいか見当もつかないから、ただ黙って隣で座っているしかない。

 榛名は燃え尽きたようだった。先程までの、燃え盛っていた怒りの炎は鎮火して、後に残されたのは白い灰である。

 

 

 

「でも、悔しくないですか?」

 

 その状態で、榛名は自販機を見たまま問い掛ける。

 

「あんなに頑張っていた熊野さんを、秘書艦になれるくらい真面目で、優秀で、戦果も上げていた彼女を、あんなふうに貶めるなんて。大罪人のように扱って。あまつさえ殺してしまえなんて、よく言えたものです」

 

 口調は静かだけれど、未だくすぶる火種は消える気配を見せていない。積もった灰の中はまだ相当量の熱量を含んでいて、抑えきれないそれが彼女の口から漏れ出している。

 熊野が“大”罪人かは別として、罪人であることはほぼ疑いようがない。「疑わしきは罰せず」の原則があるから懲戒処分には出来なかったし、それ故の暗殺案も出て来たりしたのだが、結果的には幕僚長の大岡裁き、もとい温情判決によって退職勧奨に落ち着いた。組織としては、それでいいのだろう。

 

「榛名は悔しかった。とても、とても! 悔しかった! 

熊野さんはいい子です。無闇に人を傷つけるなんて絶対にしません。きっと何か事情があったんです。ううん。事情なんてものじゃない。もっと差し迫った何かが彼女を突き動かしたんです。

でも、熊野さんのことだから絶対に自責の念に駆られたはず。そうやって苦しんで、苦しんで、苦しみ果てた挙句にこの仕打ちですか!」

 

 なんて不条理なんでしょう! と榛名は嘆く。

 

 

 怒りがまた再燃したようだった。けれど、今度はその矛先を向けるべき相手は居ない。結果、怒りをぶつけられるのは彼女の手に握られた缶コーヒーで、固いスチール缶であるはずなのにすでに無残にもひしゃげていた。このまま榛名が握りしめ続ければ、未開封のそれはその内プルタブを吹き飛ばして中身を噴出させるだろう。鈴谷は何も言わずに見ていた。

 

 

「別に、組織の判断に異を唱えているわけではありません」

 

 一人、榛名は弁明するように続けた。缶を握り締めたまま、両腕で身体を抱いて背を丸める。ちょうど、腹痛に苦しむ人がするような格好だ。

 

「保科幕僚長の処断は正しいと思います。例え榛名が同じ立場であったとしても、同じことを言ったでしょう。ただ、その他の人たちの言い分が許せないんです……」

 

 再燃した炎が再び鎮火したのか、それっきり榛名は黙り込んでしまう。吐き出さずにはいられなかった怒りを吐き出して、気が済んだのか気まずくなったのか。

 片や、鈴谷と言えばただ聞いているだけだった。

 榛名の怒りは最もで、実際鈴谷も同じことを思わないこともない。少なからず、胸の内に榛名に同調する気持ちがあるのは確かだ。

 けれど鈴谷の内心の大部分は憤る榛名を冷めた目で見ている。ただ怒りをぶちまけることが今するべきことなのだろうか、と。

 つまり、こうして待っているだけの時間というのは無駄に思えてならないのだ。海軍の幹部たちはまだ今後の対応を協議するということで、あの息の詰まるような会議室に籠もっている。鈴谷も榛名ももう必要なかったから追い出されたというわけで、正直なところ、鈴谷としてもあれ以上会議室に居ては窒息死するところだったからありがたい。

 ならば、他にするべきことがある。何よりまず、熊野はまだ見付かっていない。

 有志による捜索部隊と榛名が手配したという督戦隊なる部隊、そして天候回復を待っている有人・無人両方の哨戒機。

 恐らく、熊野一人を探すために相当なマンパワーが投入されている。彼ら・彼女らは、仲間を助けるためにと、寝る間も惜しんで探してくれているのだろう。その助力には鈴谷も頭を垂れるしかないが、果たして彼ら・彼女らは熊野が犯罪を犯していたと知ったらどう反応するだろうか。そのために逃げ出していたなどと知ったら、何と言うだろうか。

 誹謗中傷を受けるかもしれない。必要以上に侮辱されるかもしれない。そうした言葉は確実に熊野の精神をえぐり、自尊心に泥を塗りつけるだろう。想像もつかないほど熊野を傷付けるに違いない。

 けれど、それ以上に熊野は自分を許せない。あの気高い熊野が、犯罪者に身を落とした自分自身を許容するはずがない。

 だから逃げたのだ。許されざる自分に相応の処罰を与えるため。その制限をする軍隊という組織から離脱したのだ。

 

 

「榛名さん」

 

 一つの可能性に思い当たった。すると、もうそれ以外、あり得ないような気がした。

 その可能性が確かなのか確認したくて、鈴谷は榛名に尋ねてみた。

 熊野の残したメッセージの意味。それを確認するために。

 

「今朝、熊野は本を読んでたんです。難しそうな論文でした。確か、『艦娘の艤装が持つ諸特性について』っていうタイトルで、書いた人は……」

 

 

「待ってください」榛名は鈴谷を遮った。「その論文は知っています。と言うか、熊野さんが持っていた本は、榛名があげた物です」

 

「内容、分かりますか? 読んでみたんですけど難しすぎて分かんなくって。でも、今朝熊野が見ていたくらいだから大事なものの気がして」

「あれは艤装の特性についての分析と観察の結果を並べたものです。正直学術研究向けで、現場の艦娘たちなら誰もが知って、い、る……」

 

 榛名の言葉尻が不自然に途切れた。彼女はまた顔色を失い、目を見開いていた。

 

「まさか……」

 

 その様子と漏れ出たひと言を聞いて、榛名が自分と同じ可能性に思い当たったと確信する。

 

「あ、あの論文の中には、艤装の機能を強制的に喪失させる方法も書いてあるんです。簡単なことなんです。燃料タンクに海水を流し込めばいい。そうすれば、艤装の機能が停止し、艦娘は沈没します」

「それって、自殺の方法ですよね」

 

 鈴谷の一言に、榛名が勢い良く立ち上がる。

 

 

「そういうことなのっ!? 逃げたのは時間稼ぎをするため? いや、それならもう……」

 

 ひとり呟いていた榛名は、慌てたように左腕の腕時計を見下ろすと、振り返って鈴谷と目を合わせた。

 鈴谷は立ち上がり、榛名と向き合う。そして、深々と頭を下げる。

 

「行かせて下さい。鈴谷も、捜索に、行かせて下さい」

「……あと十五分で捜索部隊を運んだ輸送ヘリが戻って来ます。付いて来て下さい」

 

 鈴谷が頷く前に榛名は踵を返した。ひしゃげた缶コーヒーを無造作に懐に仕舞うと、急ぎ足で休憩所を出て行くので、慌てて後に続いた。

 

 

「本当は」

 

 彼女は小走りで庁舎の廊下を進みながら、告げる。

 

「提督から命令されていたんです。鈴谷さんを出撃させないようにって」

「何で、ですか?」

「ある意味重要参考人ですからね。今更ですから言いますけど、提督は貴女のことも疑っていましたよ」

 

 それはそうだろう。鈴谷は頷いた。特に驚きはない。

 何しろ容疑者とは同室で、仲の良さは評判だったのだ。その上現場を目撃したのだから、これで疑うなという方が無理である。それでも、鈴谷に疑いの目を向けず、擁護してくれていたであろう榛名はよっぽどのお人好しなのかもしれない。

 二人は司令部庁舎を飛び出し、工廠に向かう。通常、兵装や航行艤装はそちらに保管されており、海に出るなら必ず寄らなければならないようになっている。この上実弾を持ち出すには、許可証を持って弾薬庫に行かなければならないが、今回は戦闘を見込んでいないのでそちらに用事はない。

 榛名は走りながらPHSで工廠に電話を掛けていた。大至急、二人の艤装に燃料を注入するようにと言っていた。

 司令部庁舎から工廠までは走っても数分掛かる。

 大急ぎで建物に飛び込んだころにはすでに燃料注入が始まっていて、鈴谷が腕時計型の携帯端末やら通信用のインカムを装着している間に準備が終わった。基本的に二十四時間体制でスクランブル発進に対応出来るようになっている工廠には交代制で常に人が居る。深夜だから工廠長のような責任者は不在だったが、それが却って運が良かったようで、もし工廠長が居たら鈴谷は止められていたかもしれない。段取りのいい司令官のことだから、工廠長にも榛名にしたのと同じ命令を下していただろう。

 だが、それは末端の作業員たちにまでは伝わっていなかった。彼らは夜中に慌ただしく出撃する二人へ不審の目を向けることすらなかったのだから。

 お陰で、十分もしない内に鈴谷と榛名はヘリポートまでやって来た。そこでは既に地上誘導員が待機していた。

 

「榛名さん」 

 

 ヘリの到着を待ちながら、鈴谷は榛名に問い掛けた。

 

「なんで、熊野の奴は死のうとしてるんですか……」

 

 口にしてから、無意味な問いだと思った。鈴谷にさえ見当もつかないのに、榛名に分かるわけがない。熊野が何を考えていたのか、何を思っていたのか、何を感じていたのか。あれだけ熊野と密度の濃い時間を過ごし、彼女のことは何でも分かっているつもりだったのに、今や大親友の姿は霧の向こうにあって見通せない。

 

「自分を許せなかったのかもしれません。責任感の強い子ですから」

 

 榛名は自分の手の平を見下ろしている。不格好に貼り付けられた大きな絆創膏を、もう片方の手の指でなぞりながら、鈴谷の無意味な問い掛けにも律義に答える。その横顔に見出せたのは、後悔に苛まれる苦悶だった。

 

 榛名の言っていることは正しい。彼女はやはり熊野のことをよく分かっている。性格も、価値観も。

 ルールに煩い熊野が自分から法を犯すとは考え辛かった。民間人を襲っていたのはそうせざるを得ない理由があったからに違いないが、だからと言ってそれを言い訳にして罪悪感から逃れようとする性格ではない。彼女ならむしろ、真正面から自分自身を強烈に批判するだろう。榛名の言う通り、自分を許せなかったはずだ。

 けれど、そこから自殺を選択するというのは少し飛躍しすぎている気がする。いくら熊野が自分を許せなくても、安易に死を選ぶことはない。それどころか、死ぬことを「逃げ」と考えそうなくらいである。もし本当に熊野が自分を止めたいと願ったなら、彼女は警察に自首したかもしれないし、誰かに相談したかもしれない。いずれにせよ、自殺を選ぶことはあり得ないはずだ。

 

 ところが、現実熊野は死のうとしている。鈴谷を置いてまで、死のうとしている。それはつまり、熊野が「自分は死ななければならない」と決断したということなのだ。

 

 なんでそうなるの? なんで死のうとするの? 死んだらすべて終わりじゃん……。

 

 悔しかった。

 熊野が罪を犯していることに気付けなかったこと。死を思い留まらせるくらい彼女の中で大きな存在になれなかったこと。熊野のことを何一つ理解してあげられなかったこと。

 理由が分からなければどうしようもない。どんなに一緒に居ても、熊野は本当に大切なことを打ち明けてはくれなかった。

 鈴谷にとって熊野はかけがえのない大切な人。世界で一番、なんていう陳腐な表現でしか言い表せないくらい大事な人。

 でも、熊野にとっての鈴谷は同じだったのだろうか?

 それとも、鈴谷もまた熊野に隠し事をしていたから、罰が当たったのだろうか?

 

「熊野さんは、必ず見付かります」

 

 秘書艦はそう言った。自分に言い聞かせるように、頑なな表情で。

 

「たくさんの人たちが探しているのです。見付けられないわけがありませんから」

「沈んじゃったら、もう……」

「悪い方に考えるのはやめましょう。電車に飛び込んだり、首を吊ったりするのとはわけが違います。私たち艦娘は衝動的に死のうと思っても死ねるものではありません。だから、きっと思い直したり、躊躇したりするはずです。誰だって、死ぬのは怖いのです」

 

 前向きな、否、前向きになろうとしている榛名の言葉は、ひどく空虚に響いた。それこそ、遠くから近付いて来るヘリのローター音にさえかき消されてしまいそうな、痛々しいくらい弱い言葉だった。

 歴戦の秘書艦だって誤ることくらいある。

 たとえ死に向かい合ったとしても、一度決断すればそこに躊躇を挟まない強さが、熊野にはあるのだ。きっと、今の彼女を止めるには、物理的に手足を縛って拘束してしまう他にない。

 だから、間に合わない可能性を恐れているのだという反論は、到底口に出せるものではなかった。

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事態は急転直下を迎える。

 鈴谷が榛名と共に横須賀港を出発した時には、件の督戦隊は熊野を発見していたのだ。

 そのことを報告する無電はなかった。わけあって督戦隊は熊野発見の報を出さなかった。出せなかった。

 だが、重要なのはそこではない。仮にその報告を受けたところで、両者は房総半島の南東の沖合、東京湾にある横須賀軍港から遥かに離れた場所に居て、鈴谷には手も足も出せなかったのだから。

 だから、大事なのはその後に起こったことで、発見された熊野は見付かったことに気付くと、何ら警告を発することもなくいきなり襲い掛かって来たのだという。

 とは言え、熊野が持っていたのはあくまで演習弾。一方、督戦隊は実弾装備である。相手が重巡と言えど、弾丸が実弾と演習弾では雲泥の差がある。実質、熊野に戦闘能力はなく、督戦隊は威嚇射撃で熊野を止めようとした。

 

 しかし、督戦隊所属の駆逐艦娘が榛名に語るところによれば、熊野は“激しく”抵抗し、実弾を打ち込まれても一切怯みはしなかった。しかも、事もあろうに夜戦編成の督戦隊に対して接近戦を挑み、部隊を撹乱、混戦に持ち込んだのだ。

 戦闘は熾烈を極めた。波が荒いことが督戦隊の艦隊運動に対して不利に働き、部隊は散り散りになる。まともな武器のない熊野は、徒手空拳で戦った。真っ先に長距離無線機を破壊されたお陰で督戦隊は後に哨戒機に発見してもらうまで、一時所在不明となる。その上、無線機の破壊後も接近戦で暴れ回る熊野を相手と荒れる海を相手にしなければならなかった。

 冗談のような話だが、後から追い付いた有志の捜索部隊の艦娘から無線を借りなければならなかった督戦隊の駆逐艦娘の言うことは事実だろう。全ての艦娘は陸上における格闘戦も想定した訓練を受けているから、それを応用して海上での格闘を行うことは不条理ではない。理論上はあり得るかもしれない。だが、それを実際にやるかどうかとなると、最早それは正気の沙汰ではないと言える。

 

 ただし、熊野だ。鈴谷にとって、艤装を付けたまま荒波に乗って駆逐艦に体当たりせんと突撃する彼女の姿をありありと思い浮かべることはさほど難しくない。普段の仕事は真面目にきっちりこなすタイプの熊野だが、戦闘になるとどうしてか型破りなことをしでかしてしまうことがある。夜戦で敵に接近して、砲弾も魚雷も打ち込まず、主砲で殴りつけて倒したことが何回かあったから、同じことを艦娘にしていてもおかしくはない。

 

 とにかく、熊野は通信連絡を妨害したかったのだろう。結果的に督戦隊はバラバラになり、駆逐艦たちは熊野を見失ってしまった。唯一、旗艦だった軽巡だけが熊野を追い、二人は暗い海の向こうへと消えた。

 その軽巡も無線機を破壊されたのか、近距離無線の範囲外に出てしまったのか音信不通になり、捜索部隊と合流出来た督戦隊のメンバーだけが現状を知らせてきて今に至る。だから、熊野がまだ生きているかは結局分からないままだ。

 督戦隊も、捜索部隊も、あるいは海軍の幹部たちさえも想像していなかった事態が起きていた。ある捜索部隊の艦娘は、熊野が「脱走した」のだと言った。彼女は不慮の遭難事故に遭ってしまったのではなく、自らの意志で軍を裏切ったのだと。

 それを皮切りに、捜索部隊の艦娘たちは次々と熊野を非難する言葉を口にする。仲間を助けるためにと奮起して危険な夜の海に出てみれば、真実が「裏切り」だったのであれば一つや二つ言いたいことが出て来るものだろう。それについて、鈴谷はどうこう思うことはない。実際に熊野はそれだけのことをしでかしているのだ。非難されるのは当然だし、処罰されても文句を言える立場ではない。

 ただ、鈴谷の前を走る榛名はそうではないだろう。彼女は何も言わなかったけれど、その身を怒りに震わせているのは想像するまでもなかった。

 それでも、少しばかり鈴谷が安心したのは、一人だけ一方的に非難される熊野を擁護した者が居たことだった。それは榛名でもなければもちろん鈴谷でもない。矢矧という、鈴谷たちの二期下の後輩で、軽巡クラスの艦娘では最も年次の若い、まだ新人の域を抜け切れていない艦娘だった。

 同じ巡洋艦ながら、主に打撃部隊の一員として戦う重巡と水雷戦隊を率いることがほとんどの軽巡では、なかなか行動を共にすることはないのだが、不思議と矢矧は熊野をよく慕っていた。何かにつけては熊野について回っていたし、鈴谷と熊野が仲良さそうに喋っているのを、羨ましそうな目で見ていることだって一度や二度ではなかったから、鈴谷もよく知っている。そんな矢矧を熊野も可愛がっていたし、だから矢矧が熊野を庇うのはおかしなことではない。

 

 ただ、誰もが非難すると思われていた熊野を、鈴谷や榛名以外に守ろうとする人がいる。それが、少しだけ鈴谷の心を安らがせた。

 

 

 一方で、熊野と戦闘になった督戦隊のメンバーは熊野についてあまり多くを語ろうとはしなかった。彼女たちは熊野のことを批判もしなければ擁護もせず、ただ一人がこんなことを零しただけだった。

 

 

 

「あいつは、本当に艦娘なンか?」

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こちら川内。捜索中の部隊、全員に無事を報告します」

 

 熊野と共に音信不通になったという督戦隊の旗艦が、探しに出ていた自分の艦隊に発見され、通信が入れてきたのは夜が明けてからだった。鈴谷と榛名はヘリから飛び降りて、連絡待ちのため、房総半島の南東の沖合を回遊しているところだった。

 無線の声は酷く掠れており、ザラザラとしたノイズが含まれていることを考慮しても尚、川内という艦娘が疲労の極みにあることを明瞭に教えてくれた。任務終わりで疲れ切った艦娘というのは、確かにこんなような気だるい声を出す。

 

「川内さん!? 状況報告を!」

 

 待ち構えていたかのように榛名が叫んだ。キーンという不快な音割れが鼓膜を貫く。

 

「榛名、さん?」

「熊野さんは? 熊野さんはどうなったんですか?」

「……残念ですが」

 

 相も変わらず乾ききった声で、川内は淡々と報告する。

 

 

 

 

「抵抗激しく捕縛が叶わなかったため、やむを得ず撃沈しました」

 

 

 

 瞬間、誰もが息を呑んだ。スッと、空気を吸い込む音がした。

 

 

 

 

 ゲキチン。ゲキチン。ゲキチン。

 

 意味のない音の羅列が、単語の並びが頭の中をめぐる。

 

 言葉の意味が分からない。「ゲキチン」とは、敵を撃って沈めることじゃなかったのか?

 

 

 

 

「そんなこと、言ってませんよ……」

「すみません、本当なら許可を取るべきでしたが、艦隊から離脱したためどうしようもありませんでした」

 

 川内は淡白だ。榛名のほうが露骨に感情を見せているから、尚の事その淡白さが強調されている。

 釈明と言うほどのものではなく、ただただ事実を述べているに過ぎない。「これこれこういう状況で敵と遭遇し、このように撃沈しました」と戦果報告を行っているような口ぶりだった。

 

 彼女は言った。「どうしようもなかった」と。

 熊野は激しく抵抗し、孤立した川内は連絡手段を持ち得なかった。

 彼女たちとはすぐに会合する。位置情報を聞くに、距離が思ったより近い。もうすぐ水平線に浮かぶ、幾つかの影を認めることだろう。

 

 

 川内には言いたいことがある。

 

 

 

 

 ――熊野は、「どうしようもなかった」で沈めていい存在だったのかと。

 

 

 

 

 

 

「とにかく詳細を! もうそちらに合流出来ますから!」

 

 高速戦艦の名は伊達ではなく、その背を追い越すには航行艤装に最大の負荷を掛けなければならなかった。

 スクリューが唸りを上げ、ギアが弾け飛びそうな勢いで回り、それでも尚鈴谷は増速を掛けた。機関出力はすでに限界に達している。荒さが抜けない波を引き裂き、顔まで飛んで来る水飛沫を浴びながら、前傾姿勢で川内に向かう。

 電探で相手の位置を確認しながら行くと、間もなく水平線の上に幾つかの点を見付けた。宵の帳が消えるころ、海が山吹色に染まる暁の水平線上に、その姿は立っている。

 

 

「鈴谷さん! 待って!」

 

 榛名の静止を後ろに置き去り、鈴谷はあらん限りの速度で目の前の艦隊に突入する。

 複縦陣の隊列に飛び込み、左列の先頭を走っていた橙色の衣装にぶつかっていく。

 

「危ない!」

 

 誰かが叫んだ。その時には、鈴谷は軽巡の服を掴み、引きずり倒しているところだった。砲塔と砲塔がぶつかり合って激しい衝突音を響かせる。鈴谷は下半身を捻って足を横に揃え、海面を切り裂きながら水の抵抗で速度を殺していく。

 その間、軽巡は引きずられるままだった。まるでこうなることを予見していたかのように彼女は大人しい。熊野が抵抗したというのは真実なのか、首周りに演習砲弾に仕込まれている青い顔料がべったりと付着していた。

 盛大に水を弾き飛ばしながらようやく身体が静止すると、鈴谷は改めて軽巡の胸倉を掴み直した。

 

 

 

「『どうしようもなかった』だって?」

 

 

 

 見たことあるようなないような、黒髪の少女顔は散々振り回されたにも関わらず落ち着いていた。それだけで、この艦娘が今まで相当の修羅場を切り抜けてきたのだと思えた。鈴谷より艦歴が長いのは間違いないだろう。

 

 しかし、それは関係ない。

 関係ないから、ありったけの言葉をぶつける。

 

 

「『どうしようもない』だけで、熊野を沈めたの!?」

「ああ、沈めたよ」

 

 

 軽巡は冷然と言い放った。

 突き放したように、凍てついた氷のように、ただの音声という現象として言葉を発した。

 

「彼女は激しく抵抗した。演習弾しか持っていないっていう事前情報の通りだったけど、海上で躊躇なく白兵戦を仕掛けてきて、こっちも四人を戦闘不能に追い込まれた」

「……あの子は、死ぬつもりだったんだ。そんなことするわけないじゃん」

 

 鈴谷は即座に否定した。演習砲弾の顔料は、軽巡の首周りだけでなく、髪にも付いていたし、顔にも少し残っていた。それは紛れもなく熊野が抵抗した証だ。

 

「逆だよ。彼女は死のうとしていたからこそ、それを邪魔する私たちを攻撃したんだ。だから、当然反撃する。それでも艦隊が崩されたから、私は一人で追ったよ。

だけどね……。熊野は最後の最後で怖くなったのさ。死ぬのが怖くなったんだ……。

もちろん、人としてそれは当たり前のことなのかもしれない。誰だって、そんな簡単に自分で死ぬ覚悟を持てるわけないしね。

ただ、私にとってはどっちかって言うと躊躇される方が良くなかった。何をやらかしたかはこっちも耳にしていたから、彼女の存在は軍には都合が悪いと考えた」

 

 軽巡は嗤った。嘲りに歪んだ口元から犬歯が覗き、静かな敵意を潜ませた瞳がガラスのように鈴谷のシルエットを反射する。

 

 

 ――だから、私は撃ったのよ。そうすれば、全てが丸く収まるから。

 

 

 

 瞬間、世界が真っ赤に染まった。

 

 掴み掛かっていた軽巡の身体を突き飛ばし、距離を取る。持ち出して来た20cm主砲を構え、砲口を目の前の軽巡の頭に。狙いを付けるまでもない間隔。

 揚弾機構が作動し、砲弾を薬室に送り込む。次いで、引き金を引けば撃鉄が薬莢を叩き、爆発力が報復の鉄槌を撃ち出す。

 この距離ならどんな防御も意味を成さない。中口径砲では最高威力の20cm砲弾だ。軽巡ごとき、一撃で粉微塵にしてくれるだろう。

 

 

 

「やめなさい!」

 

 怒声。衝撃。軽い引き金。

 聞き慣れたはずの炸裂音は鳴り響かず、視界がぶれて軽巡の姿が隠れる。

 

 その時になってようやく鈴谷は思い出した。ああそうだ。兵装はあれども弾薬は持って来なかったのだと。

 

 ならば、直接砲塔で殴りつけようと思ったけれど、誰かが鈴谷を押さえ込んでぐいぐいと押し込むように軽巡から離そうとしているので出来なかった。抗おうにも、艤装重量は相手の方が上で、巡洋艦の鈴谷ではびくともしない。旧式とは言え、戦艦はやっぱり戦艦だ。

 

「もう、やめて下さい……」

 

 榛名の言葉はどうしようもなく震えていた。

 

 

 抱きすくめるようにして軽巡から鈴谷を引き剥がした榛名は、そのまま鈴谷の背中に手を回して、本当に抱きしめた。

 身動きの取れない鈴谷は、駆逐艦にエスコートされながらこの場を去っていく軽巡の後ろ姿を見送るしかない。軽巡はあれだけ怒鳴られても何とも思っていないのか、素っ気なく背を見せるだけだった。機械のように無感情で無機質な振る舞い。むしろ、お付きの駆逐艦たちの方が刺々しい視線を残していくだけ、まだ人間味があると言えよう。

 

 彼女たちが去りゆく間、榛名はずっと鈴谷を抱き締めたままだった。

 彼女は泣いているようで、身体の震えは直接鈴谷に伝わってきたし、押し殺したような低い嗚咽はずっと耳元で響いていた。

 

 感情の昂ぶりを抑えられない榛名とは対称的に、鈴谷は妙に冷めた気持ちになって、先程まで軽巡にぶつけていた激情が嘘のように静まってしまった。

 

 

 

「ごめん、なさい……」

 

 何故か榛名は謝る。鈴谷にはその意味が分からない。

 

「本当に、ごめんなさい。こんなことになって、こんな結末になって、全部榛名が無力だから、誰も救えなかったんです」

 

 

 それはどうなのだろう?

 

 榛名のせいなのだろうか?

 

 

 

「もう、いいよ」

 

 鈴谷は抱き付いていた榛名をそっと離す。彼女は抵抗しなかった。

 酷い顔だ。美人であっても、大泣きしたら泣き顔というのはやっぱりあんまり見れるようなものじゃなくなるらしい。さすがに榛名も見られるのは恥ずかしいのか、すぐに両手で顔を覆ってしまった。

 

「もう、熊野は戻って来ないんだよ」

 

 あの亜麻色の髪を、澄ました声を、聞くことはない。彼女は永遠に深い海の底に沈んだ。この辺りは巨大な日本海溝へ海底が落ち込んでいく場所だから、遺体は深海何千メートルというところに沈んでしまっただろう。回収することすら不可能だ。深淵を覗き込んだ彼女は、それ故に深淵の底へといざなわれてしまった。

 わざとこういう場所を選んだのだ。罪を犯した自分を永遠に海底に封じ込めるため。遺体を、引き揚げられることを避けたかったのだろう。

 

 どこまでも深い群青の海が、熊野の墓標になる。彼女はこの碧い世界の中心で、誰にも妨げられることなく永久に眠る。

 

 

 

 さようなら、熊野。

 

 

 

 心の中だけで別れを告げる。それともう一つ、この宣言だけはしておかなければならない。

 

 

 仇は、必ず討つよ。

 

 

 怒りが消えたわけではない。激情は確かに、心の奥底でその炎を灯したまま、再び燃え上がる時を待っている。

 復讐で熊野が還って来るわけではないし、あの軽巡を殺したところで気が晴れるとも限らない。

 ただ、もう世界は鈴谷にとって無価値になってしまった。熊野の居ない世界になど、鈴谷は意味を見出さないのだから。

 

 けれど、鈴谷は生きている。傷一つなく、熊野が沈んだ海に立っている。

 このままここで一緒に沈んでしまうのもいいかもしれないが、どうしてか死ぬ気にはなれない。ただ生きているから、呼吸をして心臓が動いているから、鈴谷はまだ生きているだけだ。

 ならば、何か一つでもやることを見つけよう。それが意味のない復讐であっても構いはしない。

 熊野が天国に昇ったのか地獄に落ちたのかは分からないけれど、もし仮に地獄に落ちたなら、鈴谷も一緒に落ちればどこかで再会出来るかもしれない。もし天国に昇れたなら、まあそれも含めて地獄ということだろう。

 

 これで、鈴谷と熊野の物語は終わった。後は、エピローグのような鈴谷だけしか登場しない蛇足の話が続くだけ。鈴谷が鈴谷のために仕返しをするだけの物語だ。

 

 

 

 空っぽになった世界の真ん中。大海原に立つ鈴谷の頭上から、季節外れの雪が降り出した。空を見上げると、明るい朝だと言うのに雲もその向こうに広がるはずの青空も、すべて色があるようで色のない、灰色一色だった。空と雲の境界を形作るのは、微妙なコントラストの差異だけ。

 その雲から、もうすぐ夏になると言うのに雪が降ってきた。

 白い雪。手を伸ばしても、手の平に乗らない雪。

 音もなく、風に吹かれることも、陽光を反射することもなく、ただ真っ白で、白濁した、冷たいようで冷たくない雪が深々と降り出した。

 すすり泣く榛名を抱かかえ、彼女の艶やかな黒髪も清潔な白い上着も、全てが最早灰色としか認識出来なくなった視界の中で、鈴谷は独り空を見上げ、降り止まぬ雪を眺める。

 触れることの出来ない幻の……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督35 A pawn in the Devil

 男は焦っていた。愛車のランドクルーザーのアクセルをせわしなく踏んでは離す。前の車との車間距離は広げないし、広がったとしてもすぐに加速してさらに前へと車体を突き進める。タクシーがウィンカーもなく進路変更してきて、男は慌てて急ブレーキを踏んだ。

 

「パキ野郎がッ!」

 

 交通ルールもどこ吹く風の出稼ぎ労働者が運転するタクシーに悪態を吐き、対向車線から割り込んできたタクシーを追い抜いていく。

 片側四車線の道路を可能な限りアクセルを踏みながら、男は夜の街を走っていた。ナトリウム灯に照らされたヤシの並木が後ろに飛んでいく。帰宅ラッシュの時間をとうに過ぎているので、広々とした道路にはまばらに車が走るだけ。その間を縫うように男が操るランドクルーザーが走り抜けていった。

 

 

 男の名前は脇坂と言った。そして、男が今愛車を走らせているのは、彼の遥かなる母国「日本」ではなく、また彼が数年前まで滞在していたイギリス最前線のポーツマスでもなく、そこは中東の新興都市――ドバイである。

 

 オリエントの数千年の歴史の中で言えば、ドバイが交易の中心都市として建設され、それがさらに世界的な大都市へと発展したのは、つい最近のことだ。今では二百万を超える人口を擁するこの都市は、ほんの三十年ほど前までは砂漠と海に挟まれた小さな港町でしかなかった。驚異的な速度の発展は、人の一生にも満たない短い時間に成し遂げられたのである。それは、全世界を席捲した深海棲艦という猛威を加味すれば、文字通り偉業と言うべきであろう。深海棲艦の活動がほとんど見られないペルシャ湾という地勢を最大限に生かし、交易によって急成長を遂げた。それだけでなく、安全な地域に位置し、しかもイスラム教国家の中では外国人に対する制約が少ないドバイという街は、特に欧州の、キリスト教圏に暮らす人々にとっては理想的な移住先に見えるのだろう。観光客だけでなく、欧州を始めとした各国からの転入が絶えないドバイは、それ故に高い成長率を記録することが出来るようになったのである。

 今では世界最高クラスの「富裕国」であり、ヒト・モノ、そしてカネが集中する経済の中心地なのだ。かくいう脇坂もまた、この出来立ての街に送り出されたビジネスマンの一人である。深海棲艦の脅威をさほど心配せずに安心してビジネスを行えるドバイは、世界各地で貿易と海運を潰されて危機的状況に陥っていたグローバル企業たちの目には、極めて魅力的な投資先として映ったであろう。彼らは諸手を挙げてドバイにカネをつぎ込み、その結果砂漠の真ん中に針山のような高層ビルが林立する光景が見られるようになった。当然、それだけの「ハコモノ」が出来上がれば、そこで働く人間もおのずと集まって来る。脇坂はそうした内の一人であった。

 

 脇坂がドバイにやって来てもう二年を超えている。前の赴任地はポーツマスだった。日本生まれ、日本育ちの純粋な日本人である脇坂は、大学を卒業して今の会社に入り、唐突に海外への赴任を命じられるまで、国境を越えたことがなかった。彼がポーツマス、そしてドバイにやって来ることになったのも、全ては会社の「お得意先」に振り回された結果である。

 最近は業種を問わず海外勤務になる日本人も少なくないから、脇坂は自分が特別な環境に居るとは考えていないし、秀でた人間であるなんて思い上がったりもしていない。ただ一点、「お得意先」が日本海軍であることが、長く祖国を離れて仕事をすることになった唯一の理由だろう。そこに自分が宛がわれたのは、自己主張が強くなく、温厚で、何より従順な性格であるから、傲慢な軍人の機嫌を損ねないと判断されたからだ。脇坂を海外勤務させるという決定を下したのが、日本に居た時の最後の上司なのか、それとも人事部の誰かなのかは知らないが、その人物は人を見る確かな目の持ち主であったらしい。何故なら、脇坂は会社の期待通りに海軍の軍人の相手を出来ているからである。

 自分からリーダーシップを取るタイプではないし、自己顕示欲が強いわけでもないから、文化も価値観もルールも日本とは全く異なる外国に来ても、脇坂は極力目立たず、現地のルールを順守するように努めていた。赴任先でトラブルを起こせば会社に迷惑が掛かる。だから、控えめに過ごすようにしていたのだ。

 にもかかわらず、今こうして脇坂がなりふり構わず車を飛ばしているのは、のっぴきならない事情があったからだった。

 

 

 ほんの数時間前、出張先のシンガポールからドバイ国際空港に“帰って来た”脇坂は、空港から比較的近くにある、旧市街地デイラ地区のアル・バラハの自宅マンションに帰宅した。独身である彼は、家に帰っても一人である。名指しで送られて来る郵便物など、母国の親兄弟からの物を除けばほとんどない。ましてや、これ見よがしに玄関ドアとドア枠のわずかな隙間にメッセージカードが突っ込まれていたことなんてこれまで一度もなかった。そのメッセージカードを見た瞬間、脇坂の顔から血が音を立てて引いていった。着替えを詰め込んだキャリーバッグを玄関に放り込むと、出張から帰って来た時のスーツ姿のまま、大慌てで自家用車に乗り込んだのである。

 目的地はそれほど離れているわけではない。途中、渋滞に捕まったとしても小一時間もあればたどり着ける程度の近さである。それでも、焦る気持ちがアクセルペダルに直接伝わり、自分でも驚くくらい速度超過をし続けていた。最近、道路脇の至る所に設置され出した速度自動検知器に捕捉されれば、すぐに携帯電話に罰金請求のメールが飛んで来るようになっているが、そんなものに構いはしなかった。とにかくそれどころではなかったのだ。

 アル・バラハから港湾沿いの道を北東へ。それからカイロ通りに入って一旦南東に向かい、奇麗なクローバー型のインターチェンジを経由して、ドバイ市街地を縦断する高速道路――シェイク・ザイード・ロードを、隣のシャールジャ首長国方面へ走る。シャールジャとの境界の手前で高速道路を逸れて街中に入っていくと、その辺りがアル・ナフダの一帯だ。

 いち民間企業の、いち従業員、つまり単なるサラリーマンでしかない脇坂は、決して高給取りとは言えない。また、まだまだ発展途上で物価も安いドバイだが、特筆すべきは家賃の高さで、しかも一年契約の一括先払い式であるから、これがかなり貯蓄を削り取ってしまい、彼は裕福とは程遠い生活を送っていた。ドバイと言えば富豪の街というイメージがあるが、どこの国でもそうであるように金持ちはほんの一握りしか存在せず、大多数は金のない人々である。脇坂もどちらかと言えば後者に分類されるであろう。それでも、定職に就いていられるだけ、まだ恵まれているのかもしれない。

 とは言え、彼は常に金に困っていた。会社から振り込まれる給料だけでは到底返し切れない借金を抱えていたのである。その借金は紆余曲折があって背負ったものなのだが、これがかなりの額で、いつも脇坂の頭を悩ませていた。だから、彼は少々無理をしてでも家賃の安いアル・ナフダで古いマンションの一室を、自宅とは別に賃借したのだ。今彼はそこに向かっていた。

 

 

 

****

 

 

 

 速度超過の罰金メールがメールボックスに積み重なるのも厭わずに「別室」にやって来た脇坂は急いではいたものの、建物のマンションの駐車場に車を停めた。路上駐車すれば罰金をさらに増やすことになるからだ。

 三階まで上がり、消えかけの照明しかない暗い廊下を進んで、突き当りの部屋の前に立つ。そこが「別室」だ。ポケットから鍵を取り出し、震える手で開錠する。

 ドアはすんなりと開いた。部屋の中は真っ暗で、電灯のスイッチを入れると、廊下と変わらない暗い照明が灯る。

 人の気配はしない。玄関に見知らぬ靴が脱ぎ捨てられていることもない。

 誰かが居る様子もないなら、と安心して玄関に入り、ドアを閉めようとしたところで“引っ掛かった”。外開きのドアを引いても、何かがつっかえたようにうまく閉まらない。

 振り返った脇坂は、警戒を解いたまま、つまり油断してなんの身構えもないままだった。

 

 心臓が一瞬止まったかと思った。本当に何の気配もなかったのだ。背筋を不快なものが走り抜ける。

 

 

 

 

 頭一つ低い位置。真っ黒なアバヤに、顔だけが白く浮かんでいる。

 

 見知らぬ女がいつの間にか真後ろに立っていて、その女がドアを動かないようにしていたのだ。驚きのあまり声も出ない脇坂に向けて、女は小さく微笑んで軽い会釈をしてみせた。少なくとも、女は幽霊ではないようだった。

 

 

「小西洋行の脇坂さんだね。入っていいかな?」

 

 

 女は日本語を喋った。よく見れば、顔の堀は浅く、彼女がアラブ人ではなく東アジアの人種であることを示している。日本語が流暢なので、まず間違いなく脇坂と同じ日本人だ。それも、脇坂の会社の名前も知っているような人物だ。

 見覚えのある顔ではない。確認を取るような今の言葉からも、お互い初対面のようである。少しだけ冷静さを取り戻した脇坂はそんな分析をしつつ、取り敢えず女が促したように「別室」に入った。

 

 

 

 見知らぬ女と薄暗い部屋の中で二人。気味が悪い。

 向こうは脇坂の身分を知っていたが、脇坂には女の正体がまったく見当もつかない。相手はこちらが何者であるかを知っているのに、その逆が成り立たないというのは非常に気持ちの悪い状況だった。

 

「驚かせちゃってごめんね」

 

 女は多少律義な性格をしているのか、頭を下げた。脇坂にはそんなこと、どうでも良かったので、気の抜けた意味のない「ああ」と「ええ」との中間のような音が口から出ただけだった。

 部屋の真ん中には近くに住む現地人から譲ってもらったソファーが二つ、テーブルを挟んで向かい合うように置かれている。どうやら女は脇坂に話があるようなので、そこに座るように言ってから自分も女の対面に腰を下ろした。女は手に持っていた紙袋を丁寧にテーブルの上に置くと、すぐにアバヤを脱ぐ。

 夏真っ盛りのドバイは、夜中でも気温が30度を超える。部屋の中は尋常じゃないくらい熱気が籠っていたので、テーブルの上に無造作に放り出されていたエアコンのリモコンを手に取り、冷房を最大にする。古いエアコンが調子の悪そうな音を立てて、臭い風を吐き出し始めた。

 夜中でも空調なしで寝れないくらい熱い夏のドバイは、日中ともなると命に関わるくらいの気温になる。あまりにも暑すぎて危険なので、外を出歩く人がほとんど居ない。それがどれ程の灼熱地獄であるかは、一日もあれば誰だって骨の髄まで理解出来るだろう。だから、アバヤを纏うなら、その下にはスーツなんかではなく、もっと涼しい服装を選ぶはずである。そうでないのなら、目の前の女はまだドバイの暑さを理解していない、来たばっかりの外国人ということになる。

 つまり、この女はわざわざ脇坂を訪ねるために遥々ドバイまでやって来たのだろう。決して少なくない金と短くない時間、そして脇坂の“個人的な”事情まで調べ上げる労力に見合うだけの目的があるというわけだ。

 

 

 脇坂の勤める「株式会社小西洋行」は、軍事・防衛産業専門の商社である。脇坂はドバイ駐在員であり、会社がこの地にオフィスを構えているのは、ドバイの外港であるジュベル・アリ地区に、日本海軍が小規模な駐屯地を置いているからで、彼の仕事はこの駐屯地で扱われる武器類の調達、払い下げ品の仲介などであった。

 軍需専門の商社というのは国内において小西洋行、ただ一社であり、必然的に顧客は軍隊だけになる。したがって、海軍が国内外に置いている駐屯地の近くには必ず小西洋行のオフィスがあった。何故なら、そうした駐屯地(鎮守府や泊地と呼ばれることもある)には、現状海軍の主戦力である艦娘たちが所属しているからだ。

 

 艦娘は、それまで数百年の運用の歴史があった軍艦とは違い、ほんの二十年ほど前に現れた「謎の」兵器である。この「謎」というのは比喩でもなんでもなく、本当にそのままの意味で「謎」なのだ。艦娘と言えば、誰もが思い浮かべるであろうことは、彼女たちのみが可能な「海上立位」、すなわち「海の上に立てる」という特徴であろう。

 船が水に浮かぶのは、その船が喫水線以下の部分で自重と同じ重量の水を押し退けており、浮力がその反作用として働いているからだ。しかし、艤装と本人の体重込みで総重量80㎏の駆逐艦娘が、80㎏の海水を押し退けているかと言えばそうではない。しかし、ではどうしてこの駆逐艦娘が海上に立っていられるかという問いには誰も答えられないのだ。また、その駆逐艦娘が持つ「12.7㎝砲」と呼ばれる武器は、現代の同口径の艦砲の数十分の一の大きさでしかないにもかかわらず、それと同等の威力の砲弾を撃ち出すことが出来る。さりとて、発射の反動でたった80㎏しかない艦娘が吹き飛ばされることはない。

 これは現代科学ではまったく説明不可能な現象である。しかしそれはそれとして、賢い人類は分からないなりも艦娘とその艤装という「謎の塊」と付き合い、利用しようと努力した。軍艦と同等の破壊力を持ち、人間大であるために断面積が小さく、しかも艤装が壊れない限り沈まない上、軍艦よりもはるかに機敏で俊足である艦娘は、攻防走に優れた希有な兵器だ。ただし、弱点としては使用されている技術フォーマットが古めかしいので、射撃の照準精度や通信速度、索敵能力などは、現代艦の装備とは比較にならないほど劣っている。だからこそ、最近になって艦娘の扱いにこなれてきた軍は艦娘のこうした弱点を補強すべく、既存技術との融合を目指し始めていた。

 小西洋行の仕事の一つは、こうした軍の動きと歩調を合わせ、彼らが求める通信端末や小型レーダーを調達することだ。ただし、現場の艦娘たちが求める物は、彼女たちの所在地によって異なる。例えば、ポーツマスの艦娘は新型の小型曳航式ソーナーを欲した。何故なら、イギリス海峡では深海棲艦の潜水艦がうようよと湧いて出て来るからだ。一方、ドバイの艦娘は小型のドローンをねだった。“操縦訓練”と称して遊ぶためである。

 既に退職してしまった先輩が以前、「オレたちは艦娘が欲しいと言ったらアイスクリームも買って来てやらないといけない」と言ったことがある。もちろん、軍人たる艦娘が民間人の商社マンをお遣いさせられるわけがない。これは単なる揶揄。しかし、「アイスクリーム」を、「ソーナー」や「ドローン」に置き換えれば、それが脇坂の仕事を端的に表す言葉となる。

 

 最初に女は「“小西洋行”の」と、わざわざ会社名を含めて脇坂の名前を確認した。単に脇坂の本人確認をしたいのなら、フルネームを言えばそれで済むはず。しかし社名を含んだということは、目の前の女は“小西洋行”の脇坂に用事があるということだ。

 真っ当な話ではないのは確実。もし恥じ入る必要のない話なら、昼間にジュベル・アリのオフィスに電話を掛けてアポイントメントを取ればいい。そんな常識的な方法を使わず、自宅にメッセージカードを差し込んで、この「別室」にわざわざ呼び出したのだから、間違いなく後ろめたい、世間に大っぴらに出来ない類の用件なのだろう。

 しかも、相手は脇坂の弱みをちゃんと把握している。ここに呼び出したということは、脇坂に断らせないという強い意思表示に他ならない。事実、脛に大きな傷のある脇坂は、もう女が何を言ってこようと絶対に拒否出来ないだろうと諦めていた。

 だが、会話が相手のペースになるのは癪である。無駄な抵抗かも知れないが、せめて主導権だけでも取りに行かねば、このままでは女の言いなりになるしかない。

 

「色々と聞きたいことがあるが、まずはお前の正体を知りたい。一体、どこの誰なんだ?」

 

 女は視線を宙に這わせて考える仕草を見せた。この女がべらぼうに演技の上手い人間でなければ、考え込むようなこの仕草に不自然さは見受けられなかった。まるで、名前を聞かれることを想定していなかったかのようである。

 少なくとも、自分の名前をすぐに明かせないような立場らしい。スパイと言うにはあからさまに怪しいので、そうではないだろう。例えば、ヤクザや犯罪者集団の手先。それも、相当な資金力と情報収集能力を持った大規模な組織である。だが、女というのも珍しいし、直感がそうではないと告げていた。

 というより、女の顔に見覚えはないが、どうにも彼女が纏っている雰囲気には心当たりがあるのだ。それどころか、脇坂は徐々に女の正体に気付きつつあった。

 

「うーん、そうねえ。名前は出せないけど、名無しさんじゃ不便だから……。じゃあ、『佐助』って呼んでよ。猿飛佐助の『佐助』ね!」

「お前はふざけてんのか!?」

 

 低い声で威嚇する。緊張感のない言い方と馬鹿みたいな偽名に思わず怒鳴りそうになったのは事実だが、威嚇に出たのは計算の上だった。怒った振りをして相手の気勢を削ごうとしたのだ。同時に、そのふざけた偽名から、勘付いていた女の正体について、脇坂は確信を持つに至った。

 猿飛佐助は忍者だが、海軍には「忍者」と揶揄された部隊がかつて存在していた。公的に海軍がその部隊の存在を認めたことはなかったし、しばしば彼らはわざわざその存在を否定してみせた。だが、仕事柄海軍の内情にはある程度精通している脇坂は、その部隊の実在を知っていたのである。

 女は他にも偽名の候補はあったであろうに、わざわざ忍者の名前を選んだ。それで、脇坂には女の正体が分かったのだった。

 

「まあ、そう怒んないでよ」

 

 暖簾に腕押しと言わんばかりに艦娘は飄々と振る舞いを崩さなかった。

 

「これでも真面目な話をしに来たつもりなのよ? そろそろエアコンも効き始めたしさ、本題に入ってもいいかな?」

 

 虚勢は通じず、また話の腰を折る理由もないので、脇坂は黙って頷いた。この「別室」に引きずり出された時点で「佐助」の話にはある程度の見当は付いていた。それが脇坂にとって碌でもない内容であるのは間違いないということも。

 

「じゃあ、まずはこれを受け取ってほしいんだ。ほんの、お近付きの印に、ね」

 

 そう言いながら、「佐助」は大事そうに持って来てテーブルの上に置いた紙袋の中から縦長の桐箱を丁重な手付きで取り出した。古いエアコンが巻き散らす不快な臭いが充満しつつある中で、桐箱から漂う微かな香ばしさを鼻が鋭く嗅ぎ分ける。酷く懐かしい匂いだ。そもそも、海外生活が長かったからこんな上等な桐箱を見るなど何時ぶりか思い出せもしない。

 箱には銘が打たれていなかった。「佐助」は音を立てないようにそっと箱をテーブルに乗せると、両手で蓋を持ち上げ、それを脇に置いてから相手にも見えるように箱を起こす。箱の形状から中身が酒瓶だと予想したのは正しかったが、意外なことに酒は酒でも、清酒ではなく果実酒であった。

 黒に近い深紅のワインボトルが、山吹色の布に包まれて、箱の中に納まっている。脇坂は「佐助」に視線を寄こし、彼女が頷いたのを見てワインボトルに手を伸ばした。ゆっくりとボトルを取り出し、顔の前に掲げてエチケットを覗き込む。

 

“Scarlet FRANDILIA 2009”

 

 見たことのないワインだ。エチケットには鉛筆画風に洋館の絵が描かれており、その絵を下にして恐らくは生産者とワイン名を現すアルファベット、そしてヴィンテージ(生産年)が記載されているだけで、生産国やアルコール度数、酸化防止剤、何よりブドウ品種の表記はない。

 「佐助」が日本から来たとして、わざわざ持ち込んでくるくらいなのだから、これは恐らく日本産のワインであろう。日本産ワインと言えば山梨県産や長野県産が有名で、ブドウの品種には赤ワインなら欧州原産の「メルロー」種や、日本固有種の「マスカット・ベーリーA」種が考えられる。「メルロー」なら、長野で栽培していたはずである。

 ボトルを回して裏側を見ても、食品衛生法によって義務付けられている添加物や賞味期限、製造者の表示ラベルがない。普通はそのラベルに付随して印刷されるはずのJANコードもなく、ラベルを剥がしたような痕跡も見付けられなかった。

 

 脇坂はボトルをそっと桐箱に戻し、自分を熱心に観察している「佐助」に目を向ける。彼の動作を見て何を慮ったのか、脇坂が口を開く前に「佐助」の方が先んじて、

 

「メチルアルコールは入ってないから安心してよ」

 

 と、的外れなことを言った。

 冗談にしても酷いその一言に、脇坂は鼻で笑って返す。

 

「まともな頭のある奴ならそんな粗悪品は造らねえ。食中毒が表面化したら、そこから足が付くだろ?」

「……それもそうだね」

 

 棘のある脇坂の反論に、「佐助」は気分を害した様子もなく、笑って頷いた。案外、愛想は悪くないようだ。

 不完全なエチケットや法令で定められている表示がないのなら、このワインは密造酒ということになる。もしこのボトルに入っているのがワインではなく単なるブドウジュースであるなら、それを造ること自体は違法ではない。だが、意味深にこの場所に呼び出して、意味深に取り出して見せびらかしたのだからその可能性は低いであろう。わざわざ「メチルアルコールが入っていない」と注釈を付けたのも、間接的にボトルの中身が酒であることを示していた。

 

「なるほど。こいつを売れと言うわけか。それがお前の要求か」

「そーゆうこと」

 

 艦娘は朗らかに笑った。年頃の少女らしい、快活な笑顔だ。こんな場で、こんな話をしながら浮かべる笑顔の中では、恐らく最もふさわしくない類のものであった。愛想笑いには違いないが、その割に裏表を感じさせないのは好印象である。営業マンとしては見習うべきだろう。

 恐らく、「佐助」はそれさえも計算に入れている。脇坂は、彼女にとって「客」なのだ。彼女は商品を売りに来た。ここは、その商談の場である。

 ただし、拒否権が事実上否定された状況において持ち掛けられた商談を、果たして本当に“商談”と呼んでいいのかは甚だ疑問である。何しろ、この「別室」の中には、様々な酒の入った箱、あるいは酒瓶そのものが所狭しと積み上げられているのだ。その多くが、「佐助」が持って来たワインと同様、密造酒である。それを、どこからどう知り得たのか、「佐助」は分かっていてこの場所を指定し、脇坂を呼び出したのだ。

 

 彼の裏の顔は、酒の密売人である。

 ドバイでは30%もの高い酒税が掛けられている。しかも、酒を販売することはもちろん、購入するのにさえライセンスが必要なのだ。さすがにイスラム教国だけあって、いくら外国文化に寛容な観光大国と言っても、日本や欧米と比べれば厳しい規制がかけられており、公共の場所で飲酒することさえ禁止されている上、飲酒運転をしようものなら即座に投獄される。しかし、それでもこの国は他のイスラム国家に比べればずっとか酒に寛容だと言われるのだ。

 さて、そんなドバイで酒を密売すればどうなるか。まず、ドバイに酒を輸入した場合、実に50%もの関税が課せられるのだが、密輸すればこれは当然ゼロになる。その酒を、正規のリカーライセンスを持つ販売店へ売れば、酒税30%分が儲けになるのだ。

 この、正規の販売店へ酒を卸す流通ルートの確保が難しいのだが、その点で言えば脇坂には大きな強みがあった。それは彼が物資の集まるジュベル・アリ地区で働いていて、しかも軍需専門とは言え仕事柄多くの商人たちと顔を合わせる商社マンであり、付き合いで地元の富豪が主催するパーティに招かれることもしばしばであったから、それなりに人脈を築き上げることに成功した、と言う点である。

 

 この人脈こそが脇坂の武器だった。出会った人々の中から酒の密売に協力してくれそうな人物を探し出すのである。その中には富豪も何人か含まれていた。金を持っている彼らは強力な味方であり、上質な酒を密輸して安く売り渡すことを対価に、色々と取り計らいをしてくれるのだ。しかも、富豪同士の繋がりを通じて、より酒への規制が厳しい近隣諸国、サウジ・アラビアやカタールなんかにも酒を卸せるようになった。中継貿易の街、ドバイだからこそ、こうしたイスラム諸国への流通ルートも構築出来るのである。これがアブダビではこうも上手くはいかないだろう。

 とは言え、脇坂とて本音ではリスクの高い酒の密売をしたくなかった。それなのに彼がこんな悪どい商売をし始めたのは、膨大な額の借金を背負ってしまっているからだった。その借金と言うのは、決して彼の無謀の結果や、自己統制に失敗したから背負ったものではない。ただ、起業するという友人に出資し、借金の連帯保証人にサインまで書いたからだった。彼は大学まで脇坂と一緒だった幼馴染で、一度も彼を裏切ったことのない竹馬の友だった。その竹馬の友は事業に失敗して失踪、債権者は当然、連帯保証人に債務の履行を要求した。

 軽率だったと言えばそうに違いない。だが、十数年来の友人を信用するなと言う方が間違っているのではないか。

 未だに消えた友人の無事を祈っている脇坂はきっとお人好しなのだろう。そして、その起業した友人よりは多少商才にも恵まれていたらしい。少なくとも今日この日まで、脇坂は商社マンとしての表の顔と、酒の密売人としての裏の顔を上手に両立させてきたのだから。

 

 

 だが、今はかつてないほど危機的な状況下にあった。

 ふざけた名前を名乗ったが、「佐助」は絶対的に優位な位置に居る。その彼女は、付け加えるようにこう言った。

 

「あと、要求はもう一つあってさ。脇坂さんの『お友達』も紹介して欲しいんだ」

 

 脇坂は机を叩いて立ち上がった。桐箱が跳ねて音を立てる。

 女を罵倒する汚い言葉の数々は、もう少しで口を突いて出て来るところだった。それが出なかったのは、大の男が怒り凄んでも、眉一つ動かさず、涼しい表情を微細も変化させない現役の艦娘に、彼女の優位性を再認識させられたからである。感情に任せて「佐助」に怒鳴り散らすのはとても賢明な行為とは言えなかった。余裕な態度を崩さない彼女に、恫喝は効果がないのは目に見えている。怒るとは思えないが、仮に怒らせたとしても脇坂には何らメリットがない。

 だから、脇坂は何とか踏みとどまり、無言で腰を下ろす。その間も「佐助」は何も言わず、澄ました顔で目の前の男が自分を取り戻すのを待っていた。

 その態度が癪に障り、脇坂の感情をさらに逆撫でるが、少なくとも今は脇坂に反撃の手立てなど全くない。女が脇坂を屈服させるのは実に簡単で、それにはたった一本の電話を警察署に掛ければいいだけである。この「別室」の場所と借主の脇坂の名前を言えばいい。警察は大喜びでここに来るだろう。そして、部屋の中に山と積まれた密輸された酒の数々に目を輝かせるはずである。「これは大物が釣れたぞ」と。

 つまり、脇坂にとって「佐助」が今、この部屋の中に居るという状況それ自体が、抗いようのない恫喝になっているのだ。「佐助」はもちろんそれを分かっている。こうなっては脇坂には無条件降伏をして、相手の要求すべてを飲み込むしかないのだった。

 

 それでも、密売先を教えろと言うのは承服しかねる要求である。得体の知れないワインを売るのは構わない。単に商品のラインナップが一つ増えるだけだからだ。しかし、密売先は違った。商売相手は脇坂自身の営業努力によって築き上げられた人脈の産物であり、掛け替えのない財産なのだ。それを、どこの誰とも分からない女においそれと渡せるはずもない。

 だが、抗うことは許されていなかった。結局脇坂に出来ることと言えば、「佐助」に嫌味を言うことくらいだった。

 

「ニコニコ愛想を振りまくのは上手でも、中身はとんだヤクザなんだな、お前。言っておくけど、俺の客たちは俺の名前がないと話も聞いてくれんぞ」

「だから、脇坂さんとは末永くお付き合いしたいのさ」

 

 いけしゃあしゃあと女が言いのけたので、脇坂は怒りを通り越して呆れ返ってしまう。「忍者」と称された非公式部隊に所属していたであろうこの艦娘、さすがに肝の座りようは堂に入っているらしい。

 

「ホントだよ、嘘じゃないよ。本当に私たちは上手にお付き合いしたいと考えているんだ。脅されてるって思ってるかもしれないけど、そんなつもりじゃないってのは頭に入れていて欲しい。これでも一応取引するつもりなんだけど」

「取引? 実質、断る権利なんてないのに何が取引だ」

「そう言わないでよ。こちらのお願い事ばかりわけにもいかないしさ。二つお願いしたわけだから、逆にこっちから脇坂さんの為になることを言わないといけないよね。一つ目は、これだよ」

 

 いぶかしむ脇坂に対し、「佐助」は愛想を崩さず、ジャケットの内側から細長いケースを取り出した。筆ペン一本が入りそうな程度の小さなケース。彼女はそれを丁寧に開け、中身を開陳した。

 

 出て来たのは注射器だ。その中には透明な液体が封入されており、液体の薬品名を表しているであろう「ERM」という頭字語が印字されたシールが貼られてある。

 見るからに碌な物ではないので、脇坂はあからさまに顔を顰めた。当たり前の話だが、生れてこの方、麻薬の類に手を出したことはない。覚醒剤など、どんなに辛くても欲しいとも思わない。まさか、“取引”の対価に違法薬物が必要な人間だとでも思われていたのだろうか。言葉を失った脇坂が「佐助」を睨み付けると、その反応から脇坂が考えたことを悟ったのか、彼女ははっきりと首を振った。

 

「ヤバい物じゃないよ。これはバローで開発された高速修復材の改良品。私たちは『緊急修復材――Emergency Repair Material』って呼んでる。まあ、名は体を現すって言葉通り、応急的に使える修復材なんだ」

 

 それは“ヤバい”代物じゃないか、という反論を何とか飲み込んだ脇坂は、「佐助」が言った言葉を反芻して咀嚼する。彼女はこれがバロー、つまりイギリスのバロー=イン=ファーネスで開発されたと言った。ここでのこの街の名前は、艦娘の艤装や関連用品の開発元である造船所のことを指している。

 

 

 1980年代に開発が始まった兵器としての艦娘は、90年代初頭に史上初の艦娘であるウォースパイトが就役したことで完成したと言われている。ウォースパイトが、正確には彼女の艤装が、製造されたのが、バロー=イン=ファーネスにある、現BAEシステムズ社(当時で言えばヴィッカース・シップ・ビルダーズ社)の造船所で、今でもここは謎多き艦娘についての最先端の研究と開発を行っている場所だった。

 などと言えば聞こえは良いが、実態は得体の知れない技術を使って得体の知れない物体を生み出している謎の施設にすぎない。頭の大事なネジをなくしたマッドサイエンティストたちが勢ぞろいして、訳の分からないことだらけの艦娘の艤装をいじくり回している、というのが脇坂の勝手な想像だった。実際、バローの造船所でしか造り出せないとされている「開発資材」という物資が存在しているのだ。

 この「開発資材」は、艦娘の艤装を建造・開発する上で、絶対に欠くことの出来ない物であった。完全にブラックボックス化されていて、と言うよりいじり回しても誰も何も、正体どころかヒントさえ掴めないのである。そのくせ、「開発資材」を用いずに艤装を造っても、それは形だけを似せた単なる豆鉄砲でしかなく、艤装で水上立位や深海棲艦の撃破を実現するには「開発資材」を使用して造らなければならない。

 実際のところ、バローの造船所に居る研究者たちがどれ程艦娘の艤装のことを理解しているのかは分からないが、脇坂が思うに、少なくとも艤装や修復材(これらは俗に『妖精の技術』と呼ばれる)に手を加えて思い通りの品を造り出せるだけの能力を持っているわけではないだろう。もし彼らにそんなことが出来るなら、とっくにこうした「妖精の技術」と現代の戦闘ユニットとの結合が実現しているはずだ。しかし、現実にはそうはなっていないし、そうなりそうだという話も聞いたことがなかった。

 だから、艦娘から「高速修復材の改良品の開発に成功した」などと打ち明けられても、まったく信じられない。バローで如何にして「開発資材」が造られているかは当の技術者たち以外に誰にも分からない秘密なのである。そしてまた、艦娘の損傷を回復させる「修復材」もそれと同様だ。こちらに関しては通常の「修復材」と、その成分を濃縮して効能を高め、修復速度を向上させた「高速修復材」の二種類が確認されているが、「開発資材」や艤装の動作機構同様、その原理は不明である。一つ確実に知れ渡っているのは、「高速修復材」はより希少で高価であること、故に艦娘運用国すべての軍隊で、通常の「修復材」使用が優先されるということであった。

 もちろん、バローの造船所以外の機関が通常の「修復材」を濃縮させて「高速修復材」を造ろうとしたことはある。だが、遠心分離機にかけようが、加圧しようが、試みのすべてが上手くいかなかった。結局、「高速修復材」を手に入れるにはバローから調達する他なかったのである。

 しかし、バローで可能なことが、他の同等の設備がある機関で不可能だというのは道理に合わないのではないだろうか。彼らにそれが可能なのは、バローにだけ特別な妖精が存在しており、その妖精たちが「開発資材」と「修復材」の製造、「高速修復材」への濃縮作業を行っているからだと推察されている。

 だから、「開発資材」と「修復材」という艦娘の建造・運用に不可欠な二つの資源を供給する唯一の機関であるバローの造船所が、各国の注目を集めないわけがなかった。当地の技術者たちの一挙手一投足のすべてが監視されていると言っても過言ではなく、バローでの動きは公表前から速やかに各国に伝わるようになっていた。特に、最大の艦娘運用国である日本はその辺りのリアクションが驚く程速い。

 

 軍需専門商社の小西洋行は「修復材」の供給についてBAEシステムズ社と代理店契約を締結している。「開発資材」の代理店契約こそ他社に奪われてしまったものの、「修復材」関連はいわば小西洋行の専売権の範疇にあると言える。だからこそ、「修復材」関連の分野で会社が知らないことなどあるわけがないのだ。

 

「バローでそんな物が作られたなんて話、聞いたことないな」

 

 もちろん、BAEが、代理店とは言え、小西洋行に自社の機密情報を教えてくれるわけではないだろう。それでも、人の口に戸は立てられないと言うのだから、どこかで情報が漏れ出て来るものだ。ましてや、“高速修復材の改良品”なるものが開発されたのだとしたら、それが計画されている段階からまことしやかにそのような噂が囁かれ始めてもおかしくはない。「佐助」が持って来たのが「緊急修復材」とやらの完成品だとするなら、完成まで何も伝わってこなかったなどと言うのは実に腑に落ちない話である。

 それとも、極端にBAEの機密管理が厳重だったのだろうか。

 

「秘中の秘だったからね。何より革新的なのは、これが機械的に量産出来るようになったことさ」

「なんだと!?」

 

 声を張り上げた脇坂に、「佐助」が苦笑を漏らす。まるで、彼の反応を楽しんでいるかのようだった。

 当の脇坂はそんな相手の様子が目に入っていない。たった今彼女が言った言葉があまりにも受け入れがたかったのだ。

 「妖精の技術」は未だ解明されていない神秘そのものである。修復材を濃縮して高速修復材にする方法を人類は知らないはずだった。しかし、今の「佐助」の言を正直に解釈するなら、人間はその原理を解明し、さらに応用を効かせて量産化に成功したことになる。

 もしこれが真実なら、産業革命以来の、世界の仕組みそのものを激変させる巨大な技術革新の到来だ。艦娘のように海の上に立てるようになったのなら、まず海運が変わる。場合によっては海上にメガフロートのような巨大な建築物を、浮力の計算をせずに建設出来るかもしれない。また、修復材を艦娘以外の人間に使用出来るようになれば、間違いなく医療は激変する。「妖精の技術」を解明出来たのだとしたら、その影響は人類の生活の隅々まで及び、歴史の流れが大きく変わるだろう。

 

 あまりにも突飛な話だった。あまりにも現実離れしていた。だから、脇坂には実感が湧かなかったし、スケールが壮大すぎて、まったく信じる気が起きなかった。

 故に、最初の衝撃が大方抜けると、少し冷えた頭が「そんなわけがない」と冷静な指摘をする。ましてや、そんな話が寄りにもよって自分に持って来られるなど、あるわけがない。確かに珍しい専門商社に勤めていて、要人との人脈が多少なりとも築けているという点を考慮すると、平均的な日本のサラリーマンとは言い切れないかもしれないが、しかしそうは言っても脇坂自身は特別非凡な才覚を持っているわけでもなく、単にたまたま入った会社がこんな仕事をしている会社だったというだけだ。人脈にしたってアルコール関係を除けばほとんど仕事上の繋がりであるし、そのアルコール関係で築いた人脈とて、仕事で培った営業スキルの賜物である。つまるところ、脇坂は特別な天才ではないし、スターにもなり得ない、極めて平凡な人間であって、歴史の転換点に立ち会うような豪運の持ち主でもない。学生時代に一回だけ挑戦したパチンコではビギナーズラックなんか起こらず、ただ財布の金を吸い取られて生活費に困った思い出しかないし、何回か購入した宝くじは当然すべて外れた。

 

 自分にツキが回って来たと浮かれるほど足元がおぼついていないつもりはない。うまい話に裏があるのは世の常だ。そう考えると、途端に目の前の女がペテン師に思えてきた。否、実際ペテン師だろう。

 だが、どうせペテンに引っ掛けるなら、もう少し上手な話の組み方はなかったのだろうか。軍事専門商社の人間として、ある程度艦娘関連の事情については知識と理解がある脇坂だからこそ、「『妖精の技術』で造られた修復材を機械生産出来るようになった」などという話を信じるはずもないのは、少し頭を働かせれば分かるはずだろうに。

 ひょっとしたら「佐助」は艦娘ではないのかもしれない。第一、拒否権が認められない取引を強いられた上に、突拍子もない話と怪しい薬品を持ち出してくるような艦娘が存在するだろうか。少なくとも日本の艦娘は立派な軍人、立派な公人であり、犯罪まがいの行為を堂々と行うことは考え辛い。艦娘は特にその辺りについては厳しく教育されるようだから、未だかつて警察に逮捕された艦娘というのは存在しないし、品行方正に疑いが持たれたこともない。そもそも、「佐助」は自分のことを艦娘だと言ったことはない。

 いずれにしろ、脇坂の言うことは決まっていた。

 

「あまりにも話の内容が非現実的だ。俺を騙したいならもっとマシな話をしろよ。そいつがシャブじゃないって言うんなら、証明してみろ」

 

 脇坂が注射器を顎でしゃくると、「佐助」は困ったように少し眉間に皺を寄せた。しかし、食って掛かったような言い方をしたにもかかわらず彼女は腹を立てることもなく、先程桐箱を取り出した紙袋にもう一度手を突っ込んで、今度はポリウレタン製と思われる薄いポーチのような物を取り出した。ノートパソコンの保護ケースのような気がするが、それにしてはサイズが小さいし、女が片手で掴める薄さと軽さをしているのだろう。ただ、ケースの表に“齧りかけの林檎”のロゴが見えて、それが何かを察した。ドバイでは金持ちを中心に最近徐々に普及しだしているタブレット端末だろう。

 案の定、「佐助」がケースの中から取り出したのは、プラチナホワイトのタブレット端末だった。

 

「今すぐそれの中身を証明するのは難しいけどさ」言いながら、彼女は何やら端末を操作し始める。「仕方ないからちょっと助っ人に手を貸してもらうことにするよ」

 

 女は操作していた端末を半回転させ、画面を脇坂の方に向ける。

 

 

 そこにはクラシック調の揺り椅子に腰掛けた金髪の美女が映し出されていた。美女はまるでこちらが見えているかのように、脇坂と「目が合う」と、小さく微笑んで手を振った。

 

「Skypeだよ」

 

 補足説明をするように「佐助」がテレビ電話アプリの名前を口にした。つまり、画面の向こうの美女には、目を丸くする脇坂の顔が見えているというわけで、しかも脇坂は美女の顔をよく知っていたし、相手もそうだ。

 

 

 

「Hallow! こんばんわ。久しぶりね、Mr. Wakisaka! 元気かしら?」

 

 

 

 美女の艦名は「ウォースパイト」と言った。かつて脇坂が居たポーツマスの海軍基地にて、王立海軍“艦婦艦隊”の旗艦として部隊を率いていた傑物であり、彼の教え子だった人物。

 

「そんなに驚くことないじゃない。センダイはちゃんと説明をしていなかったの?」

「あー、する前に全否定されちゃって……。仕方なしに、ウォースパイトさんに協力を仰いだ次第です、はい」

 

 脇坂は腰掛けていたソファに体重を預け、天井を仰いで顔を両手で覆う。あまりにも事が進みすぎて、理解が追い付かない。

 

 取り敢えず分かったことが一つある。「佐助」と名乗った女の艦名は「川内」だ。川内型軽巡洋艦の一番艦。もちろん、正真正銘の艦娘である。

 

「Mr? Are you alright? 具合が悪いの?」

「……ああ、いや。ちょっと頭の中を整理していただけだ」

 

 何とか状況が飲み込めた脇坂は、タブレット画面の向こうの戦艦と向かい合う。彼女は心配するように身を乗り出していたが、脇坂が居住まいを正すとまた元のように揺り椅子に深く腰掛け、リラックスした様子に戻った。

 

「どうやら、センダイが丁寧な説明をしていなかったようね。ごめんなさい。こちらからは見えないけど、そこにERMがあるのでしょう? ERMは本物だわ。私がセンダイの代わりに説明しましょう」

 

 几帳面なウォースパイトは背筋を伸ばし、神妙な顔でそう申し出てくれたが、脇坂は片手を前に出して遠慮の意を示す。本物のウォースパイトが出て来た時点で、緊急修復材(ERM)を信用するには必要十分なのだ。何しろ、彼女こそ世界最初の艦娘であり、バローの造船所での「開発資材」や「修復材」の製造を取り仕切っていると言われている艦娘である。一般には、ウォースパイトの隷下にある妖精たちが、そうした資材を生産していると考えられていた。

 加えて言うなら、脇坂は本物のウォースパイトをよく知っていた。本来であれば、同じポーツマスの街に居たとは言え、あまり接点を持つ相手ではなかっただろう。当時の脇坂の相手は、在英武官の艦娘であり、一方で今も昔もウォースパイトは多忙を極める王立海軍の顔なのだ。それが、二人が接点を持つようになったのは、当時ウォースパイトが日本語を学習しており、それまで彼女に日本語を教えていた在英武官だった「榛名」が、脇坂の英国赴任と同時期に偶然入れ替わるようにして日本へ帰国することになり、ウォースパイトに必要な後任を探していた彼女に頼まれて、その後を引き継いだことが始まりだった。それから、脇坂はウォースパイトに言葉を教え、ウォースパイトは脇坂に英国の文化や振舞い方を伝授した。決して長い時間そのような関係だったわけではないが、彼女のことをよく知るには十分な密度のある時間を過ごしてきたのだった。

 「佐助」もとい艦娘「川内」は、何一つ事実と違うことなど言っていなかったし、騙そうとする意図もなかったわけである。

 

「いや、もういい。分かった。信じられないことだけど、信じよう」

「Thank you. 貴方の気持ち、分かるわ。それでも信じてくれてありがとう」

「ああ、どういたしまして」

 

 正直なところ、未だに信じられないところはある。緊急修復材が開発されたということは、「妖精の技術」に人間の手が加えられるようになったということであり、それは科学文明を超特急で前進させるほどのインパクトを持つ革新的な成果なのだ。驚くなと言う方が無理である。

 しかし、これはまだ話の序の口であり、川内が言うように取引をしたいのなら、向こうには何かしらの提示があるはずで、話の続きを促してそれを聞かなければならない。もっとも、すでに脇坂には何を言ってくるかは予想出来ていたのだが。

 

 

「では、続きは私から」

 

 ウォースパイトは椅子の上で背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねて喋り出した。高貴で気品のある美女に真剣な話をされると、自ずと小市民たる脇坂の身も引き締まるというものだ。少し身を乗り出し、タブレットの向こうの彼女を注視する。

 

「詳しいことまでは明かせないけれど、ERMの基本的な作用についてある程度説明しておかなければならないわ。少し難しい言葉が入るわ。日本語での意味を知らない単語はそのまま英語で言うから、解説が必要なら言って。補足するから」

「ああ、分かった」

「ありがとう。まず、ERMは通常の修復材と成分はほとんど同じ。いずれの修復材も、艦娘が元々持っている高度なSelf-healing, Self-replication ability,  Angiogenesisといった能力を発動させるための鍵よ。修復材は艦娘が持っているPluripotent stem cellsが損傷部位を再生させるために必要。この点において、艦娘は非常に機械的よ。何しろ、通常の状態では損傷したとしてもPluripotent stem cellsは働かない。これらのcellsは修復材が存在しなければdifferentiationを起こさない。修復材は、differentiationを開始するためのswitchのようなものとも言えるかしら」

 

 脇坂は眉を顰めた。ウォースパイトは、彼女が自分で言った通り、難解な単語は英語そのままで発せられたが、逆にそれらは脇坂の知らない単語であったからだ。言っていることは何となく分かる。医学の話だから、訳されていないのは医学用語だろう。"Self-healing"は「自己修復性」、"Self-replication ability"は「自己複製能」、"differentiation"は「分化」だ。後の二つの用語は分からない。一つは細胞のことを言っているのだろう。

 

「アンジオジェネシスとプルリポテント・ステム・セルズってのは何だ?」

 

 ウォースパイトは少し首を傾げ、脇坂の問いに対する答えを編み出す素振りを見せた。しかし、意外にもそれに答えたのは、英国艦隊旗艦を映すタブレット端末を抱えていた川内の方であった。

 川内はいつの間にやら取り出したスマートフォンで単語の意味を調べたらしい。インターネットでの検索画面を脇坂に向けた。

 

「Angiogenesisは『血管新生』。文字通り、血管が新しく作られたり、作り直される機能のことだよ」次に彼女は、まだ扱いに慣れぬぎこちない手付きでスマートフォンを操作し、もう一つの用語の意味を調べた。

 

「Pluripotent stem cellsは『多能性幹細胞』だね。色んな細胞に分化出来るっていう細胞。ES細胞もこれに含まれるらしいよ」

 

 それで、脇坂もピンときた。何年か前に、胚から作り出された、どんな細胞にも変われる(つまりどんな部位も形成出来る)万能細胞についての論文で捏造があったとして、世界的な大スキャンダルが巻き起こったことがあった。その時の万能細胞の名前が「ES細胞」だったはずだ。これは人のES細胞を作れたという嘘を吐いたことが原因だったが、それと同じ類の細胞を艦娘が持っているのだとしたら、世界中の医者がひっくり返るのではないだろうか。

 そんなおおそれた話は聞いたことがなかったので、恐らくこの情報は今初めてここで明かされたのだろう。

 現実味のない話だが、ウォースパイトの言っていることが本当なら、艦娘は夢の技術の結晶である。艦娘たちの異様な回復能力と不死性はよく知られていることだが、そのからくりがまたとんでもないものだったのだ。

 

「さて、今の説明は、あくまで通常の修復材、もしくは既存のFRM(高速修復材)の効能のことよ。ERMはそれらとは少し違う。この薬剤の特徴は、ワクチンのように予め対象の艦娘の体内に投与しておくと、その艦娘が重大な身体欠損を抱えた時、効能を発揮して応急的に修復を行うところにあるわ。厳密には仕組みが違うけれど、怪我をすると血が固まって傷口を塞ぐのと同じようなものと考えれば分かりやすいと思う。

でも、元々修復材の効果は、艦娘が持っているPluripotent stem cellsのdifferentiationを促すことだったはず。ERMにはもちろんそれは可能だけれど、それだけじゃないの。ERMの中には通常の修復材と同じ成分の他、幾種類かのstem cells(幹細胞)が混ぜられていて、艦娘の身体の異常を察知した時に、異常個所に集まって欠けた部位を補充する働きを持つわ。もちろん、この働きは艤装にも同様よ」

「ちょっと待ってくれ」

 

 難解な内容に手古摺りながら、何とかウォースパイトの話を聴いていた脇坂だが、彼女がついでのように付け加えた一言が理解の範疇を越えてしまっており、途中で話を遮った。

 彼女は今何と言ったのか。“緊急修復材は身体の欠損を補う働きを持っていて、しかもそれは艤装にも同様に働く”という意味に聞こえたのだが、本当だろうか。そもそも、話の趣旨は艦娘が薬剤によって凄まじい再生能力を得たというものであった。その大前提として、これは医学的な内容だったはずだ。にもかかわらず、どうしてその話の中で当たり前のように機械の修復が可能だという言葉が出て来るのか?

 

「肉体の再生の話をしているんじゃなかったか? 何で艤装が出て来るんだ?」

「ERMで艤装も修復出来るからよ。むしろ、こちらを直さなければ沈没してしまうわ」

「それは分かるが、人体を修復するための傷薬で、どうして鉄の塊まで直せるのかが理解出来ないんだ」

「艤装は、私たち艦娘の肉体と連動しているものだからよ。それぞれの損傷が互いに影響し合うことがあるの」

「それじゃあ、まるで艤装は君らの身体の一部みたいじゃないか。え? まさか、艦娘ってのは金属を身体の一部にしてしまえるって言うんじゃないだろうな」

 

 突拍子もない荒唐無稽な話ばかり続けられていよいよ理解力の限界が近付いてくると、脇坂の中でそれが感情を強く刺激するようになった。訳の分からないことばかり言われれば、自ずと苛立ちが募るものだ。いささか口調が荒っぽくなってしまうのを自覚しながらも、苛立ちをぶつける相手は画面の向こうの戦艦娘くらいしか居ないので、ついつい言い方が悪くなってしまう。

 しかし、感情をコントロールする能力の観点で見ると、ウォースパイトの精神はよほど成熟したものだった。彼女の中で平常心がわずかも揺らいだ気配はなかったし、表情筋を上手に使ってすまなそうな顔を作るのも、完ぺきにこなしてみせた。それを分かっていながらも、やはり見た目麗しい女にそんな顔をされると罪悪感が湧いてくるもので、苛立ちは沈静化されてしまう。

 

「いや、別に責めてるわけじゃないんだ」結果、こんな釈明のようなことを口走ることになった。「ただ、理解が追い付かなくて」

 

「いいの。私の方こそ説明のやり方が悪かったわ。けれど、貴方の言う通り、艤装と言うのは艦娘にとって身体の一部と言ってもいいかもしれないわね。そして、実際に金属の身体を持つ生物が存在するの」

 

 溜めを作るためか、ウォースパイトはそこで一旦言葉を切った。脇坂は小さく顎を沈めて傾聴の姿勢を示す。

 

「つい最近、数年前だけど、西インド洋の深海で調査中にScaly-footという巻貝が発見されたの。新種の生物よ」

 

 聞いたことのない話だったが、真っ先に脇坂の興味を引いたのは、インド洋で深海調査が行われていたという点だった。というのも、8年程前に日本軍が中心となった“国連軍合同統合任務部隊”が大規模な「西伐」を実行し、インド洋からあらかた深海棲艦を掃き出したことがあったのだが、その後もしばらくインド洋は危険地帯と認識されていて、ここでの深海棲艦の撲滅宣言が出されたのは、確か一昨年のことだったはずだ。ウォースパイトの言い方からすれば、貝が見付かったのはもっと以前のことのようにも聞こえるのだが。

 

「深海棲艦の生息地捜索の途中で、この貝が見付かったのよ」

 

 まるで脇坂の心を読んだように英国艦隊の旗艦が答えた。彼女のこの頭の回転の速さは希有なものだ。

 

「Scaly-footは、深海の熱水噴出口周辺に生息しているわ。驚くべきことに、この生物はそこで得られる硫化鉄を体内に取り込んで鎧として利用している。三層に分けられる貝殻の外側の層と、足の部分にね。Scale――つまり『鱗』とは、硫化鉄の鱗を持っていることに由来するの」

「そいつらはどうやって鉄を利用してるんだ?」

「まだ、詳しいことまでは分かっていないわ。何しろ新しく見付かったばかりの生き物だから。ただ、この貝の発見は深海棲艦の生態解明に近付く手掛かりとなりそうだわ。何故なら、深海棲艦も同様のことが可能だと考えられるから」

 

 そこまで言われれば、脇坂の回転の遅い頭でも理解が追い付き始めた。

 深海棲艦が金属の身体を持つ生命体ではないかと言われているのは事実だ。実際に、連中は艤装を自分の身体の一部のように扱っているのだと、現場の艦娘たちは口を揃える。

 そして、一部ではそうした深海棲艦の特徴は艦娘も持っていると指摘されており、ここが両者の共通点と認識されていた。「沈んだ艦娘が深海棲艦に変貌する」などというナンセンスな噂が囁かれたりするのも、火のないところに煙は立たないということなのだろう。

 

 ウォースパイトはそれまでモニターの向こうの脇坂から視線を外し、部屋のどこかに向ける。そこに何かを発見したのではなく、誰しもが考えを巡らす時、あるいは遠くの事物に思いを馳せる時にそうするような遠い目である。小さく揺り椅子を動かし、うわ言のように「私たちは深海棲艦と同じ」と呟いた。

 彼女はそれまでひじ掛けに緩やかに乗せていた両手をももの上で組むと、今度はそこに目を落とし、先程までの明瞭な口調とは打って変わって、濡れぼそったような声で続きを口にした。

 

「本質的に、私たちはあの化け物と似通っているのかもしれない」

 

 小さな声は、タブレット端末越しではとても聞き辛く、そのため脇坂の上体は自然と前へ出た。かすかに、彼女の湿っぽく艶めかしい吐息の音が聞こえる。

 ウォースパイトは徐に顔を上げ、端末の向こうの脇坂と目を合わせ、

 

「案外、真実なんてこんなものかもしれない。知れば知るほど、いい思いをしなくなることだってあるわ」

 

 そして彼女らしからぬ頼りなさげな笑みを浮かべるのだった。

 敵は、謎のエイリアンではない。いや、そうでは“なくなった”と言うべきか。

 艦娘の謎が徐々に紐解かれていった時、そこに宿敵との共通点を見付けてしまった。彼女たちがたった一度の大事な人生を捧げて戦っている未曽有の敵と、不思議の力を得た自分たちがどこかで繋がっていたと知った時、それがその艦娘にどれ程の衝撃を与え得るのだろうか。それは、栄光の王立海軍最高の艦娘をして落胆せしめる衝撃だったのだろうか。

 噂は所詮噂である。「証明されていない」と言える逃げ道があった。

 しかし、真実が暴かれてしまったのなら。その真実が噂と合致するものであったのなら。受け入れがたい事実が彼女たちの目の前に横たわることになるのだ。

 その意味では、科学を持って何でもかんでも暴き回るのは、果たして賢明な行為であるのかと思わなくもない。時には知らない方がいいこともある。不思議は不思議のままにしておいた方がいいこともある。

 

 

「そう、しみったれるなよ」

 

 気の利いた言葉なんて咄嗟に出て来たりするほど頭が回るタイプではない脇坂だが、目の前に落ち込んでいる人が居れば慰めの言葉を掛けるくらいの人情は持ち合わせている。

 

「あんたたちの作った物はとんでもない代物さ。それの対価に真実を得たのだとしても、十分お釣りが来るんじゃないか」

「そうね。その通りよ。『シミッタレル』なんてしていられないわ」

「……無理に、そういう品のない言葉を真似る必要なないんだぜ」

「仕方がないわ。私の古い友人はよく口汚く罵ることがあったから、その悪い癖が移ってしまったのかもしれない」

 

 麗しの大戦艦は小首を傾げながら淑やかな笑みを浮かべた。もう、すっかり「戦う姫君」に戻ったようだ。透き通るような容姿や、気品ある振る舞いについつい忘れがちになるが、彼女は最前線で幾度となく深海棲艦と殺し合いを演じてきた歴戦の兵士なのである。

 

 

 

「さて、話の続きをしましょう」

 

 わずかに尻を浮かせて椅子に座り直したウォースパイトは、リラックスしたように足を組んだ。

 

「ここからが本題。私たちの要求はセンダイから聞いたでしょう? その対価に私たちが差し出せる物がERM。つまり、もう分かると思うけれど、貴方たちの会社だけにERMの販売を委託するわ」

「思い切ったことをしてくれるんだな」

「そう不条理なことでもないわ。実際に『コニシヨーコー』には修復材の取り扱い実績がある。ERMの存在を嗅ぎ付けた他の日本の商社が水面下で動き始めているわ。でも、私は彼らにERMを任せるつもりはない。その役割には『コニシヨーコー』がふさわしいと考えている」

「聞くところが聞けば、大騒ぎになる問題発言だぜ」

「構わないわ。どうせ誰も聞いていないもの」

 

 ウォースパイトは不敵だった。これで、「ネルソン以来の英雄」だの「ブーティカの再来」だのと持ち上げられているのだから聞いて呆れる。

 ただ、呆れ返るにはまだ早い。彼女の話がこれで終わりではないことは、最初に川内が要求二つに対して対価も二つあると言ったことをしっかり覚えている脇坂には分かっていた。そもそも、川内(とウォースパイト)側の要求は、脇坂の会社や仕事とは関係のない、怪しい酒の密売と販売ルートの開示である。

 だから、提示されるべき対価も脇坂個人を利するものでなければおかしい。確かに、ERMの独占販売権を獲ってきたと会社に報告すれば出世や昇給などの利益を得られるだろうが、あくまで間接的なものであるし、確実にそうなるとも言い切れない。

 

「それから二つ目の対価。今の貴方の借金をこちらで肩代わりするわ」

 

 故に、提示されるのは直接的で、個人的な利益。

 よりにもよってウォースパイトにそう言われてしまえば、脇坂としては頷くしかないのだった。借金がなくなれば脇坂に酒を密売する理由もなくなってしまうのだが、途中で話を降りさせてもらえる様子はない。断れない、逃げられない状況に追い込んで要求を飲ませるなんて、いかにも強欲なアングロ・サクソンらしいやり方だった。確かに脛に瑕があるのは脇坂だが、容赦なくそこを突いてくるところが残酷極まりない。しかも、最も性質が悪いのは、向こうが提示する利益は脇坂を乗り気にさせるには十分なくらい魅力的だったことだ。

 太い釣り針に刺さった餌に喰いつくのを自覚しながらも、脇坂は頷くしかなかった。

 

「分かった。やろう」

 

 言い知れぬ敗北感と、やっと借金から解放されるという安堵が同居した奇妙な気持ちになる。正直なところ、酒の密売はリスクが高過ぎてさっさと終わらせたかったのだ。すべてが露呈して何もかもを失ってしまう悪夢を見た経験だって、一度や二度ではない。

 川内とウォースパイトは怪しいワインの卸しを依頼したが、彼女たちは同時に卸し先の紹介と、脇坂が密売をしている理由である借金の肩代わりを申し出た。これが意味するところは、ある程度時間が経ったら彼女たちが脇坂に代わって酒を売りさばいていくということだ。

 地位と身分がしっかりしている彼女たちがどうしてこんな裏稼業に手を染めるのだとか、そんなことはどうでも良かった。理由など聞いてもどうせ教えてもらえないし、知っているより知らない方が良いような碌でもないものだろう。法に反する商売をしている以上、余計なことに首を突っ込んで藪から蛇を出すような真似をしない程度の賢明さと慎重さは不可欠なものだ。

 

「Thank you very much indeed Mr. Wakisaka. 全てを内密に行うこと、貴方についての情報をすべて機密情報として扱い、然る後にその全てを破棄することを約束するわ」

 

 ウォースパイトは、大英帝国の力と余裕を現すような落ち着いた微笑みを浮かべた。

 

「それでは、お元気で。See you!」

 

 彼女は徐に画面に向かって手を伸ばし、自分の目の前にあった機器を操作して通話を切った。川内もタブレットを持ち上げ、アプリを閉じる。

 

 

 

 

「ウォースパイトと知り合いだったとはな。イギリスに行ったことがあるのか?」

 

 淑女との通話が終わり、少しだけ余裕を取り戻した脇坂は、川内に話し掛けてみた。特に意図があったわけではない、単なる雑談である。

 

「つい最近ね」

「そうか。今はどこの所属なんだ?」

「それは秘密」

「お前は川内型一番艦の川内で合ってるよな」

 

 脇坂がそう尋ねると、タブレットをケースに仕舞っていた手を止め、彼女は肩をすくめた。

 

「そうだよ。ウォー様がばらしちゃった」

「ウォー様?」

「ウォースパイトさんのこと。見た目、『様』付けした方がいいような感じじゃん? オーラがあるって言うかさ」

 

 なるほど、と脇坂は頷く。確かに彼女が纏う気品ある雰囲気には、彼女を丁重に扱わなければならないという義務感を呼び起こす作用がある。この飄々とした艦娘をして、そう言わしめるのだから、まったくウォースパイトという女は脇坂らとは生まれからして違うのだろう。実は彼女が王家筋の生まれだという噂を、イギリスに居たころに幾度か耳にしたことがある。

 会話している内にタブレットを元の通り紙袋に仕舞った川内は、それからソファにもたれ込んで一息吐き出した。仕事を終えてリラックスしたのか、ふと思い立ったように小さく身体を跳ねさせて身を乗り出すと、テーブルに置かれたままになっていたワインを手に取る。

 

「どう? 一杯やる? 美味しいよ」

 

 悪だくみを考えていそうな無邪気な笑みを浮かべながら問い掛ける艦娘に、脇坂は眉間に皺を寄せ頭を振ってみせた。

 

「俺は車で来たんだ。この国じゃ飲酒運転は即投獄だ」

「そうなの。日本より厳しいじゃん」

「忘れんなよ。ここはイスラム圏内だぜ」

「ああそっか。そうだったね」

「というか、お前は酒を飲んでいいのか?」

 

 特に深く考えずに口を突いて出た問い。それに対し、川内はこの部屋に入って来て初めて不機嫌そうな顔をした。

 少しだけムッとしたようにふくれて、低い声で抗議する。

 

「馬鹿にしないでよ。艦娘って見た目変わらないだけ。私はこれでも今年で28なの」

「へえ。意外と歳食ってるんだな」

「失礼な! あんまりそういうこと言ってるとモテないよ?」

「今更この歳で女にモテたいとは思わんよ」

「脇坂さん、いくつ?」

「この間四十になった」

「うわ、おじさんじゃん」

「あと十年もすればお前も『おばさん』呼ばわりされることになるからな」

「あと十年って、私まだ三十代だよ」

「四捨五入で四十だろうが。もう立派な『おばさん』だよ」

「うーん。歳は取りたくないなあ」

 

 艦娘は腕組みをして首を傾げる。

 彼女たちの見た目が変わらないのは有名な話だが、中身があまり成熟していないように見えるのは川内個人の問題だろうか。彼女のこの飄々とした、ややもすれば軽薄に見られるような振る舞いは、元々の性格に起因するのであろうが、しかしお道化た態度で本音を透かさないのはそれなりの場数を踏んできて身に着けたスキルなのかもしれない。

 

「お前は今一つ信用出来ないからな。その酒の中に何が入ってるかも分からんし。悪いが持って帰ってくれ」

「えー。せっかく持って来たのに? ホントにただのワインだよ。売り物にするんだしさ。ヤバい物は入れないって」

 

 しょうがないなあ、と文句を垂れながらも、川内は割合あっさりとワインも紙袋に戻した。下手をしたら得体の知れない酒を押し付けられるかもしれないと危惧したのだが、どうやら杞憂だったようだ。

 

「まあ、私が信用出来ないって言うのは当然かもしれないけど。ただ、もうドバイには来ないから。もし次に会うとしても、それは日本で、だよ」

「じゃあ、今後のことはどうするんだ?」

「ウォー様が派遣する代理人が来るんで、全部その人にやってもらいます」

 

 川内は立ち上がってアバヤを被り、紙袋を持ち上げて来た時と同じ格好に戻る。

 

「私はここに長居しちゃ駄目なんだ。会っていいのも脇坂さんだけ」

 

 その言い方に脇坂はふと違和感を覚えた。彼女は誰かの指示でここにやって来た。代理人を派遣したり、SNSアプリで通話して直接説得したりと、どうやら裏ではウォースパイトが仕切っているようだが、それならば何故ここに来たのが川内なのかが分からない。イギリスの艦娘の指示で日本の艦娘が動いているというのはとても腑に落ちない話である。共に、それぞれの国の税金で給与が支払われる公人なのであって、どちらかがどちらかの隷下に入るのは余程特殊な場合でしか考えられない。

 そもそも、ウォースパイトの交友関係もある程度知っている脇坂には、彼女の代理人になり得る人物を幾人か思い浮かべることが出来る。彼らはいずれもウォースパイトが厚い信頼を置く側近たちであり、ドバイでの酒の密売の話にこの女傑が主体的に関わっているのなら、あまり縁のなさそうな川内ではなく、その側近たちの内の誰かを寄越すはずだろう。わざわざ後から代理人として送り込むのは二度手間である。

 故に、川内はウォースパイトの代理人ではなく、彼女を派遣したのは別の誰か。それも、日本海軍の中の誰かであろう。

 

 

 

「ここは、イスラム教の国なんだよね」

 

 帰り支度を終えた川内だったが、部屋を出ようとしたところで足を止め、見送りに立ち上がった脇坂に背を向けたまま、不意にそんなことを言い出した。

 

「つまり、神様の見ている土地って言えるかもしれない」

「そうかもしれんな」

 

 話を合わせて相槌を打つ。彼女の言いたいことが見えてこない。

 

「だから、ここには長居出来ないんだよ。天罰が下るかもしれないから。何しろ、私は悪魔の手先だからね」

「何だそりゃ? どういう意味だよ」

「そのまんまの意味よ。ああ、それとさ」

 

 川内は少しだけ後ろを振り返った。といっても、顔は身体の真横より後ろに回っていない。アバヤのフードと、薄暗い電灯が作る陰影に紛れて、彼女の表情は窺い知れない。

 

 

 

「『八雲紫』って名前に気を付けて。その名前を耳にしたら、すぐに隠れてね。約束だよ」

 

 

 

 そう言うと、川内は止めていた足を前に出し、玄関へと進み出す。

 

「誰なんだ、そいつは」

 

 意味が分からず脇坂が呼び止めても、川内は止まらなかった。そのまま玄関扉を開けて、「じゃあね」と小さく手を振って外に出て行ってしまった。

 後に残されたのは、最後の言葉の意味が分からず立ち尽くす部屋の主だけであり、さっきまで川内がそこに居たという気配は驚くほど綺麗に消えてしまっていた。

 彼女が何故、去り際にあのような意味深なことを口にしたのかは分からない。何かの警告のようだが、少なくとも脇坂の記憶の中には「八雲紫」なる人物の名前は存在しなかった。

 競合他社の社員だろうか。ウォースパイトの話から、どうやらERMを大手商社も狙っているらしい。しかし、もしそうならば「すぐに隠れてね」とはならないだろう。

 ならば、警察や諜報機関の捜査員か。少なくとも公には出来ないことをしているのだから、それならば雲隠れしろと言うのも理解出来る。だが、本当にそうなのだろうか。

 

 結局、川内の残した言葉の意味が分からず、脇坂は家に帰るのも忘れて一晩その部屋で答えの出ない問答を繰り返すことになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督36 “One good turn deserves another”

 

 

「この国の言葉で言えば、『情は人のためにならず』。親切は親切をもたらす」

 

 

 広がる雄大な景色を眺めながら彼女は語り掛ける。

 外は薄雲が掛かるだけの晴れ渡った青空で、緑色の丘陵の至る所に白い風車が立ち並び、海から吹きつける風に羽根をゆったりと回していた。この国ならどこにでもあるはずの、空を不規則に縁取る山岳は見えず、なだらかな地平線とも水平線とも言える景色が視界の果てまで続いているだけ。少し埃が多いのか、空は霞み、陽光を乱反射して白ずんでいるのが珠に瑕だが、それを差し引いても十分に爽やかな光景だ。外には平和で雄大な世界が広がっていて、少し強い風が室内に吹き込んで来ては彼女の髪に悪戯をして逃げていく。その度に彼女は乱れた髪をかき上げた。

 

 そう。“外から直接”風が吹き込んで来る。遮るものは何もない。外に面した部屋の壁は一部を残して消え去り、そこには巨大な穴が空いているだけだ。風はそこから室内に入り込んでいた。

 

 盛んに風力発電が行われるくらいだからこの土地にはよく強風が吹き付けるのであろうし、事実風車を回す風が木々を揺さぶる音がよく聞こえている。だがそれ以上に、その病室の中はやかましい機械音で埋め尽くされていた。

 一本また一本とコードやチューブが抜き取られる度に機械がけたたましく警報を鳴り響かせる。だが、彼女は不愉快なアラームにはまったく構う素振りを見せず、後ろ手を組みながら自然と人工の織り交ざった景色へ話し続けていた。

 

「良い言葉よね。私たちは誰もが孤独に生きているわけではない。助け合い、支え合い、互いを慮って犠牲を払い、見返りを得て良好な関係を維持しながら集団の一員として生きている。自分一人が強くとも、自分だけが受益しても、それでは人の輪に入れはしない。宴会に酒を持ち寄らない無粋者が爪弾きにされるように」

 

 返答は待たずに彼女はゆっくりと振り返り、外を眺めていた深紅の瞳を背後に横たわる人物へと向ける。

 

 

 

 清潔さを証明するような真っ白なシーツに覆われたベッドも、今はコンクリートの塵で汚れている。しかし、明らかにそうした物とは異なる黒い塊が静かに寝息を立てていた。外に広がる長閑な風景と白いベッドはこの部屋が療養所の一室であるかのように穏やかな空間を作り上げているが、その中心にて横たわるベッドの主の姿は水彩画に飛び散った油汚れのように浮き立っていた。あるいは、牧歌的なこの農村の中に点在する原子力施設のように、もっと有り体に言えば異物のように彼女はそこに眠る。

 

 元は人の姿をしていた。毎日海に出て日に焼けているはずなのに、紫外線からも守られて、彼女の肌は美肌というに相応しく白くきめ細やかだった。

 だがそれも今は見る影もない。全身の大凡八割ほどをグロテスクな黒い塊が覆い、下半身から上半身の左半分にかけて、もはや人の原形すら留めていない。そこに生体らしいパーツがあったことなど微塵も伺えないような、本来の彼女からはかけ離れた無機質な物体が張り付いている。ヘドロのような若干の光沢をもつ歪な黒い物質は、彼女の両脚の代わりにサメの顔面のようなフォルムを形作り、腹部には亀の甲羅のような固い装甲となって張り付いている。人の体に何かが貼り付いているいうより、不気味な物体に人の上半身が乗せられていると言うべき有様である。

 実際それらは彼女の肉体と一体化していて分離不可能だった。故に彼女は人の姿に戻されるのではなく、また戻す試みもなされず、そのまま無数のコードやチューブで機械に繋がれて「半深海棲艦」の生態サンプルとしてこの病室のような、あるいは実験室のような、狭い部屋の中に閉じ込められていた。

 

 娯楽も何もなく、ただ実験動物のように扱われ、身動きも取れず、薬で眠らされたまま覚醒する権利すら剥奪されている。もはや人としての尊厳など一切失ってしまったベッドの主へ憐みの表情を向け、女は一歩、二歩とベッドに歩み寄った。

 あるいは、本来もうすでに“故人”として公的記録にその名を刻まれてしまっているベッドの主を、まるで生者のごとく扱う方がおかしいのかもしれない。とはいえ女は異常を通常とし、通常を異常とする人智を超えた存在であったから、むしろこのような細かなことは意識の俎上にも上らないのかもしれなかった。

 

「けれど、自分を第一に据えてしまうのもまた人間であり、そこが人間の悲しい性よ。事態が逼迫していればいるほど、危急であればあるほど、人は保身を真っ先に考えてしまう。それでも他人のために立ち上がり、我が身を投げ打って行動する勇気を、私はとても尊敬している」

 

 鳴り響く機械音と、唸る風音の中にあっても、女の言葉は明瞭であった。

 

 語りのような、独白のような言葉を紡ぐ彼女は、人ではない。

 一見すれば、彼女は若く背の高いアングロ・サクソンの女に見えるだろう。腰まで届くウェーブのかかった青紫のロングヘア。小さく整った顔は冷汗がするほど美しく、胸から上が大きく開いたオフショルダーの深紅のドレスを膨らませる二つの果実は豊満に実り、人々を淫靡な香りで魅了してやまない。そして、まるでパーティでダンスを楽しむような服装だからこそ、唯一人ならざる者であることを示す一対の黒い翼も、大胆に露出した白磁のような背中から、今は優雅にその存在を主張している。

 背中からまっすぐ横に突き出た三角形の蝙蝠のような翼。彼女は人ではなく、悪魔であった。

 

 名を、レミリア・スカーレットという。

 

 

 

「あの時、貴女は私を助けた。

私は大きなしくじりを犯し、追い詰められていたの。司令室から脱出しても行く当てなど考えていなかったし、朝日が昇り行動範囲も大幅に狭められるようになって、逃げ場などありはしなかったわ。あの時貴女があそこにいて、美鈴の迎えを手配してくれていなければ本当に危なかった。

まだ、お礼も言っていなかったわね。

――助けてくれてありがとう。

深く感謝しているし、恩義も感じている。貴女のこの恩を必ず返さなければならないと決心している。

だから、今日ここに来たのよ」

 

 不意に高いアラーム音が鳴り響き、間もなくスイッチが切られてすべての機械の電源が落とされ、ふと部屋は静寂に包まれた。一瞬後、風が吹いて砂塵が舞い上がる。

 

「加賀」

 

 レミリアは名前を呼ぶ。

 

 それは、ベッドの主が本来持っていた名前。けれど、彼女がある戦場の海で敵の攻撃を受けて轟沈し、そのまま死亡判定となって過去のものとなった。以来、彼女は死んだ者として扱われ、同じ海から今のようなグロテスクな姿となって一応“救出”された後も、本来の名前ではなく「海軍検体405号」という無機質な記号で呼ばれている。

 記号に、彼女が持っていた人間性を現す意味はない。寡黙というより口下手で、控えめな性格をしていて決して自らの努力を他人に見せようとせず、そして何より深い慈愛の情を持っていた「加賀」という人格は否定され、ただ海軍が研究のために保管しているサンプル以上の意味を持たない記号でしかない。

 しかしそれは、彼女の素晴らしい人格を知っている者からすれば、いかに有益性のある研究のためと言えど彼女を物として扱われていることに怒りを覚えることであった。あの心優しい艦娘の、尊厳のすべてを踏みにじり、永遠に出られない牢獄の中で治療をするのでもなくただ機械に繋げてデータを取るだけなど、一体誰が許すのだろうか。

 

 故に、レミリアはこの場所にやって来た。

 

 

 青森県六ケ所村。

 核燃料再処理施設、石油備蓄施設、風力発電所。エネルギー産業の施設が立ち並ぶこの片田舎の農村に、海軍の秘密研究所はひっそりと建てられていた。

 風光明媚な平坦と瀟洒と言っていいほど無機質な施設の中に混ぜられたこの研究所は、外観だけ見れば病院のようであるし、実際病院としての機能も有している。表向きは、長らく続く深海棲艦との戦いで負傷し、長期的な治療を要する艦娘や軍人を療養するための病院であり、医師免許や看護師資格を持った人間が多く勤めている。だが、この病院の主要設備がコンパクトにまとまった北棟とは別に、そこから渡り廊下で繋がれている南棟こそ、秘密研究所の中枢部であった。

 南棟には艦娘や深海棲艦の専門家がデスクを構え、北棟とはまったく異なる間取りで小分けされ、ご丁寧に隙間なくブラインドされた部屋の中では捕獲された深海棲艦のサンプルが、様々な分類で仕分けられて保管されているのである。それらの中において加賀は特殊な位置にあり、すなわち「深海棲艦と艦娘の中間の存在」として、両者の関係性を解き明かすため――このような大儀な目的の下――三階の一室、病室のようにこしらえられた部屋に閉じ込められていた。

 彼女はあらゆる種類の計測機器や人工臓器の類の機械に繋がれ、強制的に生命活動を保たれながら、脈拍からアルファ波の微細な変化まで、一切合切をデータ化させられている。それこそが研究の手法であり、ここで採られたデータは必ず今後の人類に役立つであろう。

 だがしかし。そんなことは人でなしの悪魔にはまったく関係もなければ、微塵の興味も起こさない事柄である。それならまだ聖書の中の退屈なイエス・キリストの説法の方が面白げあるというもの。

 

 そう。目的は――、

 

 

 

「助けてあげるわ」

 

 

 

 ところで、悪魔は一人ではなかった。レミリアの部下であり、長い赤髪を一纏めにしたダークスーツの女が加賀を縛っていた機械のスイッチを切り、ベッドに横たわったまま昏睡する彼女を抱え上げる。

 

 レミリアはベッドの脇から部屋の出口へ向かう。後には加賀を背負った部下の女が続いた。

 シーツと同じく白い病室のような監獄の扉を開ける。扉は二重構造で内側は鉄格子になっていたが、今は巨大な力で無理矢理開けられたかのように鉄格子はO字型にひしゃげ、開きっ放しになっていた。装甲の張られた重い外側の扉は取っ手こそ付いているが機械認証式の自動ドアで、素手で開けるには大の男が四人で全体重をかけて押さなければびくともしない代物である。ドアは壊れて既に電気など通じていなかったが、レミリアが取っ手を掴んでスライドさせると何の抵抗もなくするりと動いた。

 本来は危険な敵である深海棲艦を、場合によってはそのまま保管することもある施設の性格上、外側はもちろんのこと、内側からの脅威にも対処出来るように極めて厳重な警備態勢が敷かれていた。警備兵は選りすぐりであり、世界トップクラスの訓練で鍛え上げられた精鋭たちが蟻の一匹すら通さんとばかりに施設を守っている。この秘密研究所の敷地のすぐ裏手には海軍陸戦隊の演習場もある上、施設自体も北棟とは違って要塞化されており、多重のセキュリティシステムに加えて特に危険な個体を保管する部屋には二重扉が必ず設置されていた。

 しかし、並大抵の厳重さではないこの施設も、人外相手には無力だったようだ。

 

 部屋の外、研究所の内部はまるで爆弾テロの後のように荒れ果てている。病院のように真っ白だった廊下は燻る炎によって黒く焦げ、天井のLED照明は無残に割れて破片が床に落ちて広がっていた。加賀の病室の斜向かいにあった部屋のドアは吹き飛んで姿を消し、代わりに出入口に迷彩服を身に着けた両脚が力なく投げ出されている。

 見る影もなくなった施設の中を、レミリアは加賀を背負った部下を引き連れて悠然と歩く。もはや元が何だったかも分からない破片が飛び散る廊下の隅、申し訳程度に置かれた観葉植物の影に隠れている白衣の研究員が小さく悲鳴を上げるが、優雅で妖艶な悪魔はまったく無視した。せいぜい、黒縁メガネが神経質そうな細い輪郭に似合っていないなと思ったくらいだ。

 散乱する瓦礫やガラス片を踏み砕き彼女はエレベーターホールまでやって来ると、何事もないようにボタンを押す。待っていたとばかりにエレベーターが開き、生死も不明な兵士の転がる箱の中に乗り込んだ。

 レミリアは超然としていた。施設が破壊され、抵抗した海軍陸戦隊の兵士がそこかしこに無様に倒れているのは、すべて彼女の仕業だ。

 

 

 つい二十分ほど前に施設の玄関先に車で乗り付けた悪魔は、まずエントランス一帯を破壊し尽くし、隣りの演習場から装甲車に乗って駆け付けて来た陸戦隊の兵士たちを瞬く間に制圧すると、装甲車を受付カウンターに投げつけてその威力を見せつけた。そして、それから次から次へと襲い掛かって来た兵士を、一人の例外もなく粉砕した。完全武装の兵士が強固な防御態勢を敷いていた研究施設は、それが人間のテロリストなら、どんな襲撃者に対しても容易には陥落しなかっただろう。だが、相手は生きた伝承であり、人智を超える本物の化け物。鍛え抜かれた屈強な人間たちはわずか数分の内にすべて無力化され手足を床に投げ出す羽目になった。

 戦闘というのもおこがましい。一方的な蹂躙の果て、レミリアは海軍の最深部に捕らわれていた哀れなお姫様を救い出すことに成功したが、彼女にとっては寝て起きるよりも簡単なことだった。

 

 優雅な悪魔がゆっくりとした動作で懐からサングラスを取り出し、それを掛けたところでエレベーターが一階に到着してドアが開く。そこはエントランスホールだ。まだ残っている硝煙の臭いが鼻を刺す。エントランスではもぎ取られた装甲車のノーズ部分が受付カウンターにのめり込むようしてに転がっていた。

 

 この建物は意外にも来訪者に親切な設計だったのか、一階のエレベーターはエントランスのすぐ傍にあった。さらにエレベーターの隣には待合用のベンチが転がっており、そこに一人の兵士が体を預けていた。もっとも、そのベンチは元々エレベーターとは反対側の壁際に設置されていた物で、やって来た時の一騒動の際にレミリアが兵士諸共移動させたはずだった。

 彼にはまだ意識があった。そして根性もあった。レミリアがエレベーターから降りたのを見ると、彼はなけなしの気力を振り絞って離さずにいたサブマシンガンをもたげる。

 さすがに鍛え抜かれた精鋭兵だ。この期に及んで闘志尽きないその精神力に純粋な賞賛の意味を込めて口笛を鳴らす。だが、だからと言って銃撃を許すような懐の甘さは持ち合わせていないレミリアは、人間の認識出来ない速度で兵士に詰め寄るとその手からサブマシンガンを奪い取った。そして彼、ではなく彼が体を預けているベンチの背もたれに銃口を向けると引き金を引いた。

 やかましい銃撃音が鳴り響き、背もたれに無数の穴が開いて小さな火花が飛び散る。弾を撃ち尽くすと悪魔は銃を脇に投げ捨てて震える兵士ににっこりと魅惑的な笑みを残し、踵を返した。彼はそのまま情けない呻き声をあげ、ついに気力が尽きたのか意識を失う。悪魔の笑みはただの感情表現ではなく、人間を心底恐怖させるもの。屈強でタフな兵士と言えど、弱った状態でまともに向けられては意識を保つのも難しいだろう。

 

 レミリアは無言のままエントランスを出る。

 目の前にはさっき乗って来たばかりのポルシェがよく躾けられたコリー犬のように大人しく待っていた。部下の美鈴がどこからか引っ張って来たレミリア好みの赤色。このせせこましい道路事情の国で、アクセルを踏み込むのは狂気の沙汰にしか思えないようなパワーを持った車。それもまたレミリアの好みに合っていた。自殺寸前まで加速するなんて、実に刺激的だ。

 けれど、残念なことに彼我の間には直射日光が降り注ぎ、吸血鬼という種族のレミリアにとってこの世とあの世を隔てるステュクスの川のごとく、光の境界線として横たわっていた。悪魔は一旦玄関の庇が作る影の際で立ち止まり、天からの光に目を細める。反射光と言えど、そしてサングラス越しと言えど、日光は悪魔にとってとても有害なもの。しかし、紅魔は普通の悪魔よりも遥かに力の強い存在であったから、きちんと遮光すれば何も恐れることはない。ふと自身の左側、庇の柱に立て掛けられていた小洒落たレース付きの花柄の日傘を手に取ると、慣れた手付きで傘を差して日向に足を進めた。

 

 入口の周りも酷い有様で、隣接する訓練所から応援の兵士が乗って来た装甲車は後部座席より後ろの半分だけになって燃え盛り、運転席部分は視界の中にすらない。悪魔相手には何の役にも立たなかった銃と薬莢と人間が散乱する中、二人は買い物帰りのように自らの車に戻って来た。

 遠くから、甲高いサイレンの音が近付いて来る。通報を受けた地元の警察が大急ぎで駆け付けて来たのだろう。だがそれまでにはマシンを発進させられそうだった。

 

「あの子たちは脱出したかしら?」

 

 日傘を差し、降り注ぐ日光の中を悠然と歩きながらサングラスの悪魔は後に続く手下に問う。

 

「“時間の心配はない”ですからね。もうとっくに目的を果たして今頃はランデブーポイントに向かっていることでしょう」

 

 その返答に悪魔は満足げに頷くと、両手の塞がっている美鈴のため、愛車の後部ドアを開けた。美鈴は軽く頭を垂れると、未だ目を覚まさない加賀を丁重に座席に座らせる。その間にレミリアは助手席に身を潜り込ませ、間もなく運転席に座った部下に厳かに顎を沈めて合図を送った。すべては滞りなく、悪魔とその手下はまんまとお姫様を救い出した。あるいは攫ったとも言えるのか。

 

「ご安全に! まだ夢の中よ」

 

 レミリアはルームミラーに映る加賀の寝顔を見ながら言った。幸いにして、彼女の端正な顔には醜い侵食は至っていないようで、首から上だけを見れば眠り姫だ。

 

「保障は出来ませんね」

 

 ハンドルを握った美鈴は悪戯っぽい笑みを浮かべて答える。車は軽いスキール音を響かせて青空の下を走り出した。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督37 Investigation

 

 

 青森駅に隣接して建てられた商業施設「ラビナ」の二階フロアの一角、外資系の大手コーヒーチェーン店の中で、黒いパンツスーツと淡い青色のブラウスを着こなした若い女がスマートフォンをいじりながら手持ち無沙汰にしていた。

 ブラウスの色より少しだけ緑の混じった長い髪を後頭部で結い上げて白いうなじを露わにし、瞼に掛かる前髪を右から左に流して左耳に引っ掛けている。その左耳の耳たぶからは小さなイアリングが下げられていて、同じ物が右耳にも付いていた。女は自分の手の平より画面の面積が広いと思われるスマートフォンを両手に持って、胸元で抱え込むように操作している。彼女の前のテーブルにはストローが挿しっぱなしのプラカップが一つ置かれ、中には今月新発売だという長ったらしい名前のカラフルな色のジュースが三分の一ほど残されていた。

 女の座る椅子の足元には彼女の物と思われるベージュのショルダーバッグが置かれていて、一見すれば就職活動中の女子大生か今年入社したばかりの新人OLのように見える。だが女の正体がそのどちらでもないことを、息を切らしながらコーヒー店に踏み込んだ海軍中佐、村井大輝は知っていた。

 

 初めて訪れた青森駅。その構内にある別のコーヒーチェーン店で待っていても一向に待ち人の姿が現れないので確認の連絡を入れたところ、駅の真横にある商業施設に入居する方のコーヒー店だったというのを知って、慌てて走って来たのだ。彼女はその返答をしたと思われるスマートフォンを何やら熱心にいじったまま、入店した村井に気付く様子はない。

 

「すまん。遅れた」

 

 息を整えた村井は注文もせずにすたすたと女の元にやって来ると、顔を上げる気配のない彼女に声を掛けた。

 それでようやく気付いたのか、女が億劫そうに村井を見上げる。少女らしい、まだあどけなさを残す小顔に、ぱっちりとした大きな目と気の強さを表すように尖った鼻、艶やかなリップの塗られた唇がはめ込まれている。彼女と道ですれ違う男なら誰もが一度はその顔を確認するであろう美女だ。

 その顔立ちといい、恰好といい、どこからどう見ても女は大学生か新社会人だが、村井の姿を認めた彼女は次にそうした“一般人”には縁のない動作をしてみせた。

 

「あ、お疲れ様です」

 

 どこか弛緩したような声で挨拶しながら、彼女は立ち上がってお辞儀をする。今の彼女は帽子を被っていないので、礼儀作法としてはこれで良い。挙手注目の礼は着帽時にするものと定められているからだ。

 

「ここじゃ何ですから、外に出ましょうか」

 

 女はそう言って飲みかけのジュースを飲み干し、てきぱきとした動作で返却口に氷だけになったプラカップを置くと、先に外に出た村井の元に早足で戻って来た。それから二人は連れ立って商業施設の中を歩き出す。

 

「青森駅に来るのは初めてで迷ってしまったんだ。駅の方の店にしてくれれば良かったのに」

「いやあ、最初そのつもりだったんですけどねぇ。あっちは席が空いてなくて、仕方なしにこっちに来たんですよ」

 

 村井が軽く非難混じりに言うと、女も軽い調子で釈明した。互いに相手のことをよく程度知っている間柄であるから、余計な雑談もなく会話への入り方もスムーズだ。

 そのまま二人は他愛もない雑談をしながら商業施設を出て、村井が乗って来た車を停めたというコインパーキングにやって来る。

 

「何で大湊に行かなかったんだ?」

「予定が合わなくって。始発の新幹線で青森まで来たんですよ」

 

 小銭分だけの駐車料金を支払った村井は運転席に、女は助手席に乗り込んだ。車はネイビーブルーのハッチバックタイプの乗用車である。スーツ姿の女と、同じくグレーのスーツをまとった村井が乗ると、どこかの会社の営業車に見えないこともない。

 

「じゃあ、早速向かうけど、いいか?」

「はーい!」

 

 女が元気よく返事をすると、村井は車を発進させる。

 

「速報の資料は今朝メールで来ていただろ? 見たか?」

「見ましたよ。来る途中、新幹線の中で」

「あれからまだ新しい情報などは入って来ていない。ま、目で見て確かめるしかないってことだ」

「あ、そっすか」

 

 女は気のない返事をすると、コンソールボックスと助手席の間に挟まれている角型2号の茶封筒に目を付けた。彼女は村井の許可無くそれに手を伸ばすと、気付いた村井は「資料にあった写真だよ」と言った。

 

「見ていいですか?」

「ああ」

 

 村井が生返事をした時には、形ばかりの伺いを立てた女はすでに茶封筒を開いている。中には村井の言葉通り、クリアファイルに挟まれた数枚の現場写真があり、女にはもう見覚えのある物であるらしかった。

 写真に写っているのは酷く破壊された建物の内部で、崩れ落ちた天井や黒焦げになった内壁、外れて床に倒れた扉など散々な有様である。とりわけ、エントランスの受付カウンターにのめり込んでいる車両の一部を写した写真は、この事件を象徴するようなショッキングなものだ。最初、新幹線の中で添付ファイルの画像を開いてこの写真を見た時、女がまず抱いた感想が「爆弾テロの後みたい」というものだったそうだが、それも当然と言えよう。

 

「犠牲者は出なかったんですよね」

「奇跡的にな。重傷者でも、精々手足の骨折程度らしい」

「殺す必要もないほど、圧倒的な実力差があったってことですねぇ」

 

 女のその言葉に、村井は何も返さなかった。ちょうど、脇道から原付バイクが飛び出して来て、慌ててブレーキを踏んだからだ。「おぉう」と女は声を漏らし、ブレーキを踏んだせいで目の前の信号がタイミング悪く赤に変わったことに村井は顔をしかめる。原付バイクは何事もなかったかのようにそのまま走り去って行った。

 村井はハンドルを軽く指で叩きながら、返事の代わりに問い掛けた。

 

「どう思う? 何者の仕業だ?」

「こーいうのはお門違いなんですけどぉ」

「そうとも言い切れないだろ。君の追っている艦娘も容疑者には挙がっているんだ」

「うーん。それは現場を見てからじゃないとねぇ。警察、まだ居たら嫌だなあ」

「鑑識くらいは居るんじゃないか? まあ、その辺りの調整は大湊と県警の間で済んでるだろう」

「そーですねー」

 

 間延びした声。女はどこか上の空だ。封筒から出した写真をまた封筒に仕舞い、ダッシュボードの上に放り投げる。

 車は信号だらけで混雑する市街地を抜け、郊外を走る幹線道路まで出た。スピードに乗り、快適に走れるようになって少しばかり機嫌を直した村井は、つまらなそうに窓の外を見ている浅葱色の後頭部に再び話し掛けた。

 

「ところで、何で制服じゃないんだ?」

 

 と、尋ねると、女は振り向いて清楚な髪型に似合わない怪しい笑みを浮かべる。

 

「制服だったら、どー見ても援交でしたよ?」

「……そうか」

 

 村井は頷かざるを得なかった。

 確かに彼女の言う通りだ。スーツ姿のこの女の正体は艦娘であり、彼女の艦型の制服は一見すると女子高校生のそれにも見える。見た目も年齢も彼女より二回りは上に見える村井が並んで歩いていると、“そういう風”に思われても仕方がないかもしれない。彼女がスーツならばまだ新入社員と上司という見方も出来るから、なるほど彼女なりの気遣いだったというわけだ。

 

「っていうのは建前で、ホントは制服着てたら艦娘だって分かって目立つから嫌だったんです」

 

 一人納得しかけた村井は思わず鼻で笑った。相変わらずの人を小馬鹿にしたような態度といい、言い草といい、村井には笑うことしか出来ない。

 彼女はこれで上意下達が徹底される組織の中で上手いこと生き抜いてきているのだ。要領がいいのか、こういうキャラクター性が受け入れられている。何より、その戦闘センスはずば抜けており、それ故に実戦経験も豊富、伴って練度も艦娘の中では確実にトップ10に食い込むくらい高い。何だかんだ言って今の海軍は実力主義の色が強い組織であり、“強い奴”ならばある程度の横柄さや不躾が許されてしまう空気がある。それが艦娘なら尚の事。

 

 彼女はほぼ艦種が一緒の重巡洋艦娘の他の艦娘たちと比べても、戦果は頭一つ以上は余裕で飛び出している。常に戦闘態勢を強いられている現在の軍は、否応なしに実力主義的側面を年々濃くしているが、彼女はそうした組織の変化に巧く乗じて今の地位と役職を獲得した者だ。その実力をもってすれば、今の職責は十分果たせるであろうし、異論を唱えるような者もいない。

 言ってしまえば、彼女はその戦果と実力故、ある程度奔放に振る舞ったところで咎められはしないのだ。見てくれはともかくとして、実年齢で言えば女は村井より二回り離れているくらいだろうから、彼女の奔放さを「若さ故」と言うことも出来るだろう。

 

 しかし、何度も仕事で顔を合わせる内にそう単純なことでもないと気付いた。元より艦娘というのは誰もがややこしい事情を抱えていたりするものだが、彼女の場合殊更厄介なバックグラウンドを抱えており、深入りすればドブにはまって抜け出せなくなりそうな気配がする。だから、村井は軽薄な彼女の態度にはあえて口を挟まないようにしていた。

 それが彼女――最上型三番艦「鈴谷」との付き合い方である。

 

 

 

****

 

 

 

 

 事件が起こったのは昨日の朝。ちょうど九時を過ぎた頃合いだった。

 事件現場となった青森県六ケ所村の海軍病院。朝一の慌ただしさがひと段落した時間帯。南北に別れた二棟の建物の内、南棟の玄関先に唐突に赤いスポーツカーが停車した。南棟の入り口には民間警備員に扮した海軍陸戦隊所属の兵士が立っていたのだが、車は彼の目の前に堂々と乗り付けたらしい。

 もっともその警備兵は初め、車は入院患者の見舞いに来た客の物だと思ったようだ。北棟は傷痍軍人の入院している本当の意味での病院であるから、しばしば見舞客が間違えて南棟の方にやって来てしまうことがある。南棟は許可証がなければ入れないので、警備兵の役割には勘違いした見舞客を北棟に向かわせることも含まれていた。

 だから、その時も彼はスポーツカーの主が北棟と間違えてやって来たのだと思った。しかも、その認識はすぐには改められなかった。というのも、車には二人が乗っていたのだが、その内運転席に座っていた女が降りてきて愛想良く尋ねてきたのだ。「すみません、車はどこに停めればよろしいですか?」と。

 その様子に怪しいところはなかった。あえて言うなら、助手席に座っていた外国人と思われる別の女の雰囲気は妙なものだったようだ。けれど、警備兵は特に気にすることなくいつも通りに出て来た女に笑顔で応対した。丁寧に北棟のことを教えると女は大業に礼を述べた。非常に腰の低いその振る舞いに気を良くした警備兵は自然と警戒を解いてしまい、女がさり気なく距離を詰めてきたことに気付いた時にはすでにそのリーチの中に捉えられてしまっていた。以後この警備兵の記憶は途絶え、後に破壊された施設の玄関先で寝転がっているところを救助され、次に目が覚めたのは収容先の病院でのことだった。

 

 ところで、異変が起こったことを別の兵士が目撃していた。南棟の玄関先にある監視カメラは、建物の中にある警備隊の詰め所で管理されていて、当直だった兵士が一部始終を目の当たりにしたのである。彼は直ちに敷地に隣接する演習場内の自隊に応援要請を行い、同時に建物内のサイレンを鳴らした。

 けたたましく鳴ったベルの音は端的に異常事態の発生を告げる。病院に勤めている職員たちは慌てて避難を開始し、代わって警備兵たちが玄関に向かう。そこで、大きな音が鳴り響いた。エントランスの庇が豪快に破壊された音だった。

 そこからは一方的な暴虐と蹂躙の開始である。訓練が厳しいことで有名な陸戦隊の兵士たちが隣接する演習場から軽装甲機動車に乗ってやって来た後、たった五分もしない時間であった。海外で言えば海兵隊に該当する精鋭たちの一個小隊が、信じられないことにたった二人の女によってそれ程の短時間で無力化されてしまったのである。

 カメラは早々に破壊されてしまったので映像記録はほとんど残っておらず、目撃者からの証言を取りまとめることでしか当時の状況を知る術はないが、一聞しただけでは耳を疑って終わるような荒唐無稽な話であるのは間違いない。何かのコメディのように人間が宙を舞い、鋼鉄の塊であるはずの軽装甲機動車が小枝のように真っ二つにへし折られる。「戦車を持って来てもあの二人は止められなかっただろう」とは、気絶させられた兵士が思わずといった様子で零した言葉である。

 

 物的被害は甚大だった。前述の軽装甲機動車を含め、警備隊の装備はことごとくスクラップにされたし、戦闘の余波を受けて施設の建物も著しく破壊された。当分の間は立ち入りさえ禁じられる程度に、である。

 ただし、不思議なことに人的被害は物的被害に対して過小で、まず死者が居ない。負傷者の数は両手の指で数え切れないくらいなのだが、それですら命に関わる程の大怪我を負った者は居ないのである。それだけ襲撃者が手加減をしていたのだろう。裏を返せば、陸戦隊を相手にしてそれほどの余裕を持てるということだ。

 

 では、二人の女の目的は何だったのだろうか?

 

 答えはその病院、改め艦政本部先進研究所に保管されていたある“モノ”だった。「海軍検体405号」というのが、その名前である。

 

 

 

 

 

 昼前には車は目的地に到着した。田舎だから車も少なく、渋滞も青森市内を抜ける時に多少引っ掛かったくらいでほぼ快調・快適な道のりだった。それでも、長時間座席に固定されたままだとどうにも身体が固まってしまう。運転席を降りた村井は肩の凝りをほぐすように軽く首を回し、ジャケットの乱れを直した。

 

 目の前には手酷く破壊された研究所の建物。玄関には刑事ドラマでお馴染みの黄色いテープが貼られ、そこかしこを「青森県警」の作業着を着た鑑識が動き回っている。誰も彼もが妙に殺気立っているのは気のせいではないだろう。単純に忙しくて余裕が無いから、という理由だけではなさそうな、嫌な雰囲気が漂っている。

 死人の出た現場じゃあるまいし、と思いつつも、村井もその理由を何とはなしに察する。チラチラと、鬱陶しげにこちらを伺う鑑識たちの鋭い視線を浴びれば否が応でも分かるというものだ。

 とすれば、ここが元来我らが海軍の施設であると言えど、あまりでかい顔をして歩き回っては警察との間に余計な角が立ちそうである。分相応に大人しくしていた方がいいなと村井が決めたところで、ようやく助手席から這い出て来た鈴谷が地に足をつけるなり大きく背中を反らして伸びをした。それだけで彼女の人並み以上に実った胸はその形状をこれでもかと言うほど強調してくるが、目の保養などと悠長なことを言っている場合ではない。明らかにこちらを見る鑑識の視線が険しくなって、村井の方針は早速くじかれたも同然だった。

 自由奔放を絵に描いたようなこの艦娘に何を言っても無駄な気はするが、それでも一応窘めておこうと村井は呆れ混じりに小声で忠告を発した。

 

「警察も居るから大人しくしてくれよ」

「はーい」

 

 案の定と言うか、気のない返事である。

 彼女は優秀な戦闘員であるが、だからと言って決して上官受けの良い優等生ではない。職務上の要請から村井は鈴谷の経歴をすべて洗い出したことがある。その結果は、このような苦労を当然のように予想させるものだった。

 

 鈴谷のセールスポイントを一つ挙げるとするなら、それは卓越した戦闘センスと活用の結果としての戦果である。だが、逆を言えば彼女にはそれ以外に見るべき点はなく、遅刻が多く勤務態度は人並み以下で、おまけに「言葉遣いがなっていない」という軍人として以前の欠点まで指摘される始末。艦娘になる前から幾度かの補導歴があり、素行不良は元々のようだ。社会不適合者というのは言い過ぎかもしれないが、一歩踏み誤っていればいつそうなっていてもおかしくはない人生を歩んできているようだった。あるいは、踏み誤らなかったからこそ、今ここに居られると言えるのかもしれないが。

 

 そんな彼女に、警察と海軍の微妙な関係に配慮して振る舞えというのは無理難題に違いない。そもそも、過去の経験から警察を嫌っている可能性は高そうだ。

 

 

 

「すみません、情報保全隊の村井中佐ですか?」

 

 鈴谷に気を取られて村井は、背後から近付いてきた人物に声を掛けられるまで気付かなかった。振り返ると自分より目線一つ下の位置から愛想笑いを浮かべた丸顔が見上げていた。大尉の階級章を引っ下げ、右腕に「MP」と印字された黒い腕章を付けている。また、彼が左手で持っている角2の茶封筒が妙な存在感を示していた。

 

「ご苦労。いかにも、情報保全隊第二情報保全室の村井だ。君は、憲兵か?」

「はい。失礼致しました。憲兵隊大湊分遣隊長の杉浦です。本件の現場を任されております」

 

 なるほど、と村井は得心する。先程からの鑑識たちの妙な視線はやはり思った通りだったらしい。軍と警察の複雑な利害や力学が絡み合った結果、この場を掌握したのは“主人”である海軍だったというわけで、犯罪捜査の「協力」に駆り出された警察は下手に出ざるを得なくなったということだ。ただし、それは個々の警察官の感情まで抑えられるものではなかったので、エラそうな軍人が来たから彼らなりの歓迎をもって迎えてくれたわけである。現場の責任者がこの目の前の憲兵大尉なら、この場で最も階級が高いのは中佐である村井だ。

 

「メールにてお送り致しておりました資料はご覧いただけましたでしょうか?」

 

 さて、その杉浦大尉だが、朝方にメールで資料を送ってくれた張本人である。時間が時間だから徹夜で作ってくれたのだろう。事件の流れが適度な分量で書き上げられた良い資料で、読んで理解するのにさしたる時間を要しなかった。大尉は優秀な人間なようだ。

 朝は誰でも忙しい。村井も昨晩遅くに青森に入ったため、大湊まで行く時間もなく、やむを得ず市内にホテルを取ってそこで一晩を過ごした。起きて部屋に持ち込んだ仕事用のパソコンを開くと、杉浦からのメールが入っていたのである。鈴谷が新幹線の中で見たというのも同じ物のはずだ。

 

「見たよ。よく纏められていたね」

「ありがとうございます。しかし、あれは今朝までの情報をまとめた速報のつもりでした。お二人が来られるまでに色々と判明したこともございますし、資料には書き切れなかったものもございますので、それはまた後程ご説明させていただきましょう」

「分かった。取り敢えず現場だな。専門家が居るから見てもらおう」

 

 村井が手で鈴谷を示すと、当の本人はぼんやりと研究所の建物に視線を投げたままこちらに気付いていないようだった。「鈴谷」と呼ぶとそこでようやく自分が紹介される番だと認識したらしい。それらしくお辞儀して「情報保全隊付特務艦の鈴谷です。よろしくどうぞー」と相変わらずの軽薄さをもって名乗った。

 

 この張り詰めた空気の中、徹夜明けの若手将校に対して「よろしくどうぞー」と言える鈴谷の度胸を、村井は買っている。杉浦も村井の手前、感情を荒らげるようなことはしないものの、村井に対しては人懐っこそうな愛想笑いを浮かべていた丸顔があからさまに引き攣っていた。彼はちらりと村井に視線を投げ掛けてくるが、そんな意味深な視線をもらったところで鈴谷はどうにも出来ないし、だから諦めろと首を振るしかない。艦娘には色んな者が居る。これはその実例の一つだ。

 その辺りはさすがに若くして憲兵分隊を任されるだけあって、杉浦も事を荒立てるような愚かなことはしない。警察の目の前で軍人同士が諍いを起こしても笑いものになるだけなので、とっとと仕事に入ることにした。何はなくとも、まずは現場検証から始めねばならない。

 

「防犯カメラに映っていたのはポルシェです。4ドアなのでパナメーラかと思われますが、まだはっきりしたことは分かっておりません」

「高級車で軍の施設に乗り付けて強襲するとはな。まるで007の世界だ」

「まったくです。これでアストンマーチンに乗ったブリオーニの男が犯人だったら、我々はイギリス政府に抗議しなければならないところでしたよ」

 

 玄関は、元はガラス張りだったのだろうと推測されるが、今では見るも無残な有様だった。二本の支柱に支えられ(てい)た庇が入り口の前に日陰を作っているが、そこには無数のガラス片と剥がれ落ちた庇の天井板が散乱し、支柱も片方が消滅している上、残った方には無数の弾痕が開いており、この場で起こった戦闘の激しさを物語っている。

 

「カメラは? 銃で撃ち抜かれたと書いてあったが」

 

 村井が尋ねると、杉浦は庇の一角を指した。そこには天井板を支えていたと思しきアルミの枠が残っているだけで、その枠の間から恐らくカメラの残骸だろうと思われるコード類が垂れ下がっている。

 

「銃で撃たれた後、何らかの衝撃でさらに破壊されてほとんど残っていません」

「他にカメラは?」

「エントランスに二基、死角をカバーし合うように設置されていましたが、映像は途切れています」

「何でだ?」

「はい。今朝方、意識を取り戻した警備兵たちの証言から分かったのですが、施設の電源が襲撃早々に落とされたらしいのです」

「電源?」

「別行動してたのが居たってことなんでしょ?」

 

 首を傾げた村井に答えたのは鈴谷だった。それまで暇そうに話し合う二人を尻目に破壊された玄関口を観察したりしていた彼女だが、話は聞いていたらしい。指摘は的確だったようで、杉浦も少々の驚きを顔に表しつつも頷いた。

 

「はい、その通りです。襲撃が始まり、警備兵が自隊に連絡を入れて受話器を置いたその瞬間、建物の全ての電気が消えたそうです。照明もパソコンも、もちろん監視カメラも、全部止まりました。ただし、非常用電源が作動して最低限の機器は稼働し続けたようですが、その中にカメラは含まれていなかったようですね」

「外部との連絡を遮断するためか」

「加えて、混乱を拡大させる目的もあったのかもしれません。いずれにせよ、それによって犯人の情報は目撃証言に頼らざるを得なくなったのは事実です」

「似顔絵は描かせているのか?」

「そちらは警察で。ただ、どうにも妙なことが……」

 

 それまでスラスラと滞りなく説明していた杉浦が初めて言葉尻を濁した。

 

「妙な?」

「はい。と言いますのも、目撃者は全て、警備兵も施設の職員も含めて全員が、犯人の顔を覚えていないのです」

 

 何だそれは、と思わず村井の眉が寄る。

 だが、言った杉浦自身も自分の言葉に納得出来ていない様子で、戸惑いが表に出てしまっているような話し方で続けた。

 

「二人組であったこと。両方女であったこと。激しい戦闘になったこと。建物や車両が破壊されたことなどは覚えているのですが、肝心の容姿に関しては不思議なことにさっぱりなのです。誰に聞いても要領の得ない返事ばかりで、『よく見てなかった』や『よく見えなかった』という答えしか返って来ません」

 

 まるで交通事故加害者の弁明みたいだな、と思った。施設の職員が逃げるのに必死で犯人の容姿までよく観察出来ていなかったのは百歩譲って致し方ないとしよう。仮にも警備を任されている選りすぐりの兵士がそんなお粗末なことしか言えないのは怒りを通り越して呆れ果てるしかない。我が海軍の兵士の質はそんなに落ちてしまっているのかと嘆かずにはいられない。

 ただ、そう言ってばかりでもいられないので、犯人の手掛かりは数少ない物証を頼りにするしかないようだ。その中でも最も有力な手掛かりと思われるのは車だろう。ポルシェ、それも4ドアとなれば青森県がいくら広くても走っている台数は数えられるくらいしかないに違いない。

 

「車を探せ。色は何色だ?」

「赤です。真っ赤な色です。今、県警が各地で検問をしているようです」

 

 そう言いながら、杉浦は持っていた封筒を開け、中からクリアファイルに挟まれた紙を取り出す。村井も気になっていたもので、今の話の流れからすると恐らくは監視カメラの静止画像を印刷した物だろうと思われた。

 

「これが、その時の映像です」と、杉浦がクリアファイルの中身を差し出してくる。それは案の定カメラの画像で、フルカラーで印刷されていた。

 何枚かある内の一枚目は、エントランスからガラス壁を通して入り口前までを映す角度で据え付けられていたカメラの画像で、ちょうど犯人の乗った車が乗り付けた瞬間を映していた。車は確かに4ドアで真っ赤。その特徴的な形がポルシェであることを明瞭に示している。二枚目は、それに気付いて車に近寄る警備兵と、運転席から降りてきた女が向き合っているところ。そして、三枚目はその警備兵が地面に倒れて伸びている場面だった。

 四枚目は助手席からもう一人が降りてきた場面である。二人の服装は、運転手がダークスーツと思われる黒い服装で、助手席の女は真っ赤なドレスのように見えた。状況や、この直後に彼女たちが起こした事件と比べると、あまりにも異質で不自然な格好である。しかも、助手席の方は日傘を差してサングラスを掛けているので、まるでセレブの貴婦人のようだ。真っ先にそれが気になった村井は時系列順に重ねられていた画像の紙、四枚目を捲る。

 五枚目はもう一つのカメラ、エントランスの自動ドアのすぐ傍の天井から見下ろす位置で、入って来た人物の顔をはっきりと映すためのものである。そこには、先に建物内に入って来たであろうと思われるドレス姿の女の顔がしっかりと映っていた。何しろ、彼女はカメラを見上げているのだから。

 

 日本人ではない、堀の深い顔立ち。目は大きく、鼻梁は高く、程よく丸みを帯びた輪郭に、緩やかなウェーブのかかった青紫の長髪。彼女はわざわざサングラスを外し、堂々とカメラを見上げ、まるで己の存在を誇示するように不敵な笑みを浮かべているのである。

 だから、目が合った。

 手に持っているのはインクが乗っただけのただの印刷物で、刷られているのも過去に起こった出来事の画像でしかない。だというのに、その女と“目が合った”村井の背筋を冷たいものが流れ落ちていった。

 決定的な瞬間だ。それ以降、つまり六枚目はない。それは、カメラが機能していたのはここまでだったことを示していた。

 

「あ、この顔……」

 

 気付けば、いつの間にか隣にやってきてカメラ画像を覗き込んでいた鈴谷が小さく呟いた。彼女はよく手入れされている眉間の肌を波立たせて、普段とは裏腹に真剣な眼差しで女を見下ろしている。

 

「心当たりがあるのか?」

 

 村井の知る限り、鈴谷には海外遠征以外での出国歴はなかったはずだし、キャリアの中で海外艦娘との共闘を行った経験もなかったはずだ。外国人の知り合いなど居そうにないのだが、どうやら何か引っ掛かりがあるらしい。

 

「どっかで、見た覚えがあるんだよねぇ」

「鈴谷さんも、そうですか……」

 

 今度は杉浦が意味深に呟く。

 

「鈴谷“も”? どういうことだ?」

「ええ。今の鈴谷さんのような反応を示した者が何人かおりまして。その全員がここの研究員で、同じようにその女の写真を見せたところ、『見覚えがある』と」

「研究員が? この女の正体は突き止められるのか?」

「いいえ、中佐。我々はもうこの女の正体を突き止めました」

「何だと?」

 

 想定外の答えに、村井は素直に驚きを見せてしまった。そんなにすぐに人相の照合が出来るものなのだろうか。

 

「ああ、分かった。確かにそうだよね。有名人だもんね」

 

 今度は隣りの鈴谷までそう言い出した。

 

「おい、一体誰なんだ?」

「中佐、知らないんですか? 有名ですよ。クリスティーナ・リーって」

「クリスティーナ……」

 

 思い当たる名前だった。彼女は確か、

 

「緊急修復材の、発明者か」

 

 なるほど、それなら研究員たちや鈴谷に見覚えがあったのもうなずける。世界各国の、艦娘を運用する海軍にとって、その名前は非常に有名で、そして人気があるものだ。

 

 

 クリスティーナ・リーというこの英国生まれの稀代の天才は、元々イギリスの軍需企業BAEシステムズ社に所属していた研究員であった。彼女はそこから独立した後に会社を立ち上げ、艦娘の損傷を修復する修復材を改良した「緊急修復材」を開発したのである。

 これは世紀の大発明ともてはやされた偉業だった。

 

 艦娘は艤装を付けている限り不死である。常人なら死んでいなければおかしいくらい身体を損壊しても(致死量の失血や致命的な臓器の破壊があっても)、絶対に死なない。だが、酷く負傷したまま帰還した艦娘からすぐに艤装を取ると、そのまま彼女は死んでしまう。だから、艤装を取る前に艤装ごと艦娘を回復させる手段が必要だった。

 それが液体修復剤で満たした「入渠ドック」であり、見た目は大容量の湯船なので多くの艦娘は「風呂」と呼んでいる。負傷した艦娘はその程度にもよるが、艤装を付けたまま入渠ドックに入ると、数時間後には元通りに回復するのだ。今のところ修復剤が効能を発揮するのは艦娘に対してだけであり、その原理は一切が不明である。

 しかし入渠ドックは大掛かりな設備なので、陸上拠点か若しくは大規模な艦船である大型艦娘母艦にしか設置出来ない。しかも、損傷の程度に応じて必要な入渠時間は比例して増加するので、場合によっては艦娘を長時間戦場から離脱させなければならない。

 そこで修復剤を濃縮させ、短時間で効果が出るような薬品が開発された。それが「高速修復剤」である。

 これは文字通り、数日単位での入渠が必要な損傷を負った戦艦を、たったの数十秒で元通りに回復させてしまう代物。その需要は常に高く、前線で戦う艦娘にはすっかり必需品となったようだ。特に、短期間に戦力の集中投入を求められるような戦況である場合は不可欠と言って過言ではなく、限られた艦娘で再出撃を繰り返すのであるから、「風呂」に入った負傷者には片っ端から高速修復材をぶっかけなければならない。

 もちろん、「ぶっかける」という表現自体は比喩だ。実際には一度艦娘を「風呂」の湯船に漬け、その上で濃縮された修復材である高速修復材を使用する。高速修復材は上部が開放された円筒状の容器に封じられていて、使用に際しては蓋を取り、中身の液体を湯船の中に流し込むようになっていた。余程緊急を要する場合であれば艦娘に直接浴びせ掛けることもあるようだが、それはあまりにも費用対効果の悪い方法で、滅多に採られることはないという。

 さて、高速修復材の効果だが、その名に違わず瞬く間に艦娘の損傷を元通りに直し、筋肉に溜まった乳酸なども全部分解してしまう。このような高速修復材は、容器の形状から俗に「バケツ」と呼称されるが、その呼び名には似合わぬほど高価であるのが難点であった。当たり前の話だが、濃縮という過程を経ている分、価格はどうしても上乗せされてしまう。

 ただし、高速修復材にはこれ以外にも欠点があり、通常の修復剤と同様に「風呂」に入れなければならないため、使用場所は拠点や母艦の中だけとなる。つまり、戦闘中によくあるような、即座の修復が必要なくらい程度の著しい損傷を受けた場合や致命傷を受けた場合では戦闘区域から該当の艦娘が拠点や母艦に帰還する前に轟沈してしまう可能性が高いのだ。艤装の浮力を失えば、金属の塊である艤装それ自体が重しとなるし、そもそも艦娘は何故か泳ぐことが出来ない。よって、即座に浮力を喪失する程の損傷を受けた瞬間、その艦娘の死は確定してしまう。

 

 今まではこれを防ぐ手段はなかった。戦場において、不確定要素によって兵士の命の保証がないのと同じで、どれだけ分厚い装甲に守られ、「女神の護り」というオカルト領域の力が艦娘をあらゆる脅威から遠ざけたとしても、たったの一撃でそれら全てを無力化されてしまえば艦娘本人が無傷であっても(それほどの一撃ならば本人が無傷であることはまずあり得ないが)、問答無用で海に引きずり込まれて溺死するのは避けられない。故に、このような最悪の事態を避けられるかどうかは、艦娘が本質的に危険な戦場に出ざるを得ない以上、運としか言いようがなかった。

 

 だが、一方で艦娘は“運が悪かった”で喪うにはあまりにも高価で、希少な兵器である。

 まず、艦娘になれる女性自体が高い適性が必要なために数が少ない。また、適性者が見つかったからと言ってすぐに艦娘として戦えるわけではなく、当然訓練しなければならないし、海軍軍人として必要な知識も叩き込まなければならない。そして、本人の適性に見合った艤装を開発し、建造し、それをテストして、と諸々の過程を経ていくと、必然的に一人の艦娘を就役させるのに莫大なコストがかかってしまう。

 そのコストが如何に大きいかは、おおよそ駆逐艦娘十人を就役させるのに必要な費用と汎用駆逐艦一隻の建造費はほぼ同じと言われていることから推して図るべしだろう。すなわち、たった一人の駆逐艦娘に対して、数十億円の導入コストが必要になるわけである。これが巡洋艦になれば当然費用も上がるし、空母や戦艦ともなれば目を剥くような金額になるのだ。内訳のほとんどを占めるのが艤装の開発と建造の費用で、未知の技術を使用している故に信じがたい金がかかっているのだという。その金が何に使われているかまでは、さすがに村井と言えど知らないが、艦娘が意外と高いというのは有名な話である。

 それほどまでに高価で、しかも艦娘の大半は年端もいかぬ少女の成りをしているのだから、戦闘で多数の戦死者を出せば世論から袋叩きにされてしまう。政府はただでさえ艦娘を運用するのに倫理や道徳面でギリギリのバランスを取っているのだから、この均衡を崩すほど艦娘を消耗するわけにはいかないのだ。

 だからこそ、艦娘はそれぞれがあくまで一人の兵士であるにも関わらず、重層的なセーフティで守られている。あるいは、守られようとしている。修復剤や「女神の護り」はその内の一部であるし、それ以外にも多数の無人機や電子戦機を使用した複合的な索敵網、前線の一歩手前まで進出する一通りの設備を有した母艦など、サポート体制も非常に充実している。それ故、艦娘の戦死率は1%に満たないと言われている。

 だが、それでも轟沈という悲劇は起きてしまうものだ。これに対しての根本的な解決策は、場が戦場である以上なかなかに難しいが、今年になって有力な選択肢が生まれたのである。

 

 

 それが「緊急修復剤」。

 これは高速修復材をベースに開発されたもので、艦娘が大破したなどして「女神の護り」から外れそうになった時、応急処置的に損傷を回復させる薬剤だ。その使用方法は、従来までの修復剤のように身体の外部から浴びせるのではなく、予め対象の艦娘に薬液を注射しておく。この薬剤はある種の抗体のように効果を持続するので、艦娘が一定以上の損傷を受けた時に自動的に効能を発揮、本人と艤装を同時に修復してしまうという優れものである。

 その辺りの原理というのは、元々の艦娘関連の技術が不可思議やらオカルトの領域で、少なくとも現代人類の科学では解明不可能なので「それはそうなるもの」としか扱われていない。

 何より彼女の成し遂げたことが偉業と称えられたのは、彼女が妖精の技術、すなわちオカルトの領域で作られた高速修復材を“改良して”、緊急修復材を開発出来たことである。つまり、今まで人類には不可侵であった妖精の技術を、初めて応用した人物だったのだ。

 

 故に、この事実は村井に少なくない衝撃を与えた。現実は常軌を逸脱していた。

 同盟国の、それも民間企業の代表者が我が国海軍の研究所を直接襲撃する。それも、尋常ではない破壊力をもって。

 

 

 

****

 

 

 

 動揺を何とか抑え込んだ村井は、現場検証を再開するため写真を杉浦に返した。彼も彼で戸惑いを隠せない様子で、この場でただ一人、普段と変わらないのは鈴谷だけであった。

 今はいつも通りの鈴谷の存在がありがたい。彼女が動揺していないから、村井も落ち着けたのだ。

 それに時間もあまりない。村井は玄関からエントランスホールに足を踏み入れた。

 

 中は無残の一言に尽きる。まず、原型を留めている物が何もない。ここが一番激しい戦場になったというのは見れば分かるが、それにしたって破壊の程度が酷すぎる。TNTでも爆発したかのような光景が広がっていた。

 タイル張りの床にはガラスや天井やあるいはそれ以外の何かの破片、薬莢などが散乱したままで、元々のタイルがほとんど見えない。見えているところも、タイルが割れて大きなヒビが入っていたり欠けていたりしていた。最も象徴的で戦慄した光景を作り上げていた、エントランスに突っ込まれた軽装甲機動車のノーズとエンジンルームはさすがに撤去されていたが、痕跡は生々しく残っている。エントランス奥の壁には巨大な穴が空いており、巻き込まれた受付カウンターは無数の破片と化していた。何故それがカウンターと分かったかと言えば、杉浦が説明してくれたからである。そうでなければきっと気付かなかったに違いない。

 他にも待合椅子や観葉植物が辛うじて残骸からそうと分かる程度に残されている。ただ、天井の被害も大きく、天井板はほぼ全てなくなっており、その上を這っている無数のパイプが露わになっていた。しかも、それらパイプのうちの幾つかは何をどうしたのか、天井裏からもぎ取られて床に転がっている。

 

「人間がやったこととは思えんな」

「まったくです。しかも、部隊からの銃弾の雨を掻い潜っていたのですからね」

 

 杉浦が指し示す先にはエントランスの壁があり、そこには無数の穴が開いていた。言うまでもなく銃痕である。

 兵士たちは機関銃でも持ち出したのだろうか? いずれにしろ、生々しく残された銃痕を見るに、相当な量の銃弾が放たれたに違いなく、しかし犯人であるらしきクリスティーナ・リーとお付きの女はそれらを回避して警備隊を無力化した。

 ジェームズ・ボンドでさえ不可能と思われる冗談のような話だ。だが現実であり、そうである以上調査のために破壊された研究所までわざわざやって来た村井は、MI6のトップスパイにも成し得ないことを成し得る方法を探らなければならない。

 とは言え、それは困難を極める課題だった。状況があまりにも現実離れしているので、頑張って想像力を働かせたところで思い付く方法は一つしかない。村井は海軍軍人であるから、自身の職業経験から形成された海軍軍人の常識というものに照らし合わせて考えてみると、思い浮かぶ唯一の可能性が艦娘である。つまり、リーはともかくとして、お付きの女は艦娘である可能性が高い。それも、海外の艦娘だ。

 先程から杉浦は気を遣ってその可能性には言及していないが、彼も同じ考えだろう。ただ、目の前にその艦娘の一人である鈴谷が居るから口にしていないのだ。

 

 現在までのところ、艦娘が犯罪を犯したという実例はない。いや、正確には一つだけあるにはあるのだが、それは公表されずに闇に葬られたので誰も知らないことになっている。だから、国民国家防衛のため日夜奮闘している彼女らは、世間一般では基本的に英雄扱いを受け、反社会的行為からは最も遠いところに居るものというのが社会の認識となっていた。そして海軍もまた、そうした世間が艦娘に対して抱いている勝手なイメージを利用して大々的なプロパカンダを展開し、自分たちへの支持を集めようとしている。それはどこの国でも似たような事情だった。

 もし艦娘が犯罪に関与していると世間に公表されれば、それはその国だけの問題ではなくなるだろう。艦娘と彼女たちを運用する各国海軍が、国連軍として国際協調の美名の下に実行している深海棲艦の駆除活動の大きな停滞を強いられることは明白。それが諸国間の関係悪化を招き、外交上大きな問題となる。つまり、事はローカルな、各国海軍の中で済むような話ではなくなってしまう。

 艦娘というのは、斯くも脆く繊細なガラス細工の上に立っている存在なのだ。少女たちに武器を持たせ異形と戦わせるというそのやり方は、政治家や軍人たちが途方もない労力を注ぎ込んで、ようやく民主主義社会に認可を受けたものなのだから。もしそこに不祥事が存在したなら、艦娘を運用する軍やそれを支持する政権は一気に立場を失うだろう。その意味で、世界中の艦娘艦隊は一蓮托生と言えた。

 

 現場の破壊の程度から、当初より艦娘の関与が疑われている。だからこそ村井が派遣されてきたわけだ。キャリアのスタートこそ憲兵だったものの、潜入していたスパイを捕まえるという大手柄を挙げた後は情報保全隊に配属となり、以後そこで十年以上防諜任務に従事してきた。その経験が買われて今回の騒動の沈静化を命じられたのである。そして、村井と同じく、異色の経歴を持つ艦娘、鈴谷もまたその立場の特殊性を鑑みて、村井の助手に充てがわれた。

 

 だから、杉浦は気を遣う必要などない。鈴谷は対艦娘戦力。艦娘を抑えられる艦娘なのだから。

 実力の高い彼女だからこそ、未知の脅威にも対抗出来る。

 ただし、それを踏まえた上で鈴谷の次の発言を二人は聞かなければならなかった。彼女は、言外に艦娘の犯罪関与の可能性を仄めかした二人に対して「安心していいですよ」と言いのけたのだ。

 

「これは艦娘の仕業じゃない。いくら艦娘って言ったって、ここまで上手に破壊することは出来ませんよ」

 

 鈴谷は飛び散った受付カウンターの破片を拾い上げ、しげしげと眺めながら続けた。

 

「どういうことだ? 君らは艤装を着けていれば凄まじい馬力を出せるだろう?」

「ん、いやまあ、その通りですけど。でもさすがにこれは無理かなぁ。艦娘の力って言うのは極端に破壊力が強いから、暴れるとこんな建物、すぐに倒壊しちゃいかねませんからねえ。犯人は派手にやってますけど、構造に致命的なダメージが入らないようにあえて手加減しているようにも見える。その証拠に、壁や柱を直接攻撃していないですし、そもそも破壊が目的じゃなかったですからね」

 

 それはその通りだと思った。実際鈴谷の指摘通り、建物の強度に関わる柱や外壁の破損はせいぜいが弾痕程度で、天井や床面あるいは受付カウンターのように原型が分からなくなるほどの衝撃を受けている様子はなかった。

 鈴谷自身、最前線での戦闘経験が豊富な艦娘であるし、艤装を装着した上での陸上戦闘も他の艦娘に比べて得意である。実力は折り紙付きというわけで、それを知っている村井はだからこそ閉口せざるを得ない。“艦娘に対抗する艦娘”と位置付けられている彼女は、殊の外艦娘については造詣が深い専門家と言えよう。

 しかし困ったことが一つ。艦娘は今回の事件を引き起こした最も可能性のある存在と見なされていたから、筋書きが狂ってしまったのである。当然、次の疑問は出て来るだろう。二人の内、代表して村井が思ったことをそのまま口にした。

 

「では、何者だったのだ? リーは人間だろうが、もう一人は……」

「それは鈴谷には分かんないですよぉ。っていうか、それを調べるんでしょ?」

 

 鈴谷は弄んでいた破片を投げ捨て、今度はエントランスホールの脇に設置されているエレベーターに足を向けた。

 

「犯人はエレベーターを使った。ここのエレベーターは停電してても非常電源で稼働するから普通に使えた。何でですかぁ?」

「もしもの時に運び出さなければならない物があるからです」

 

 と、杉浦。その「運び出さなければならない物」というのが、

 

「『海軍検体405号』」

 

 鈴谷がエレベーターのボタンを押すと、ベルが鳴ってドアが開いた。

 箱の中にも銃痕が見受けられる。杉浦の資料によれば、この中に一人兵士が倒れていたそうだ。

 

「犯人は三階の病室、もとい『海軍検体405号』の保管室まで行っています」

 

 鈴谷に続いて村井と杉浦はエレベーターに乗り込んだ。憲兵分隊長は鈴谷の言葉を引き継ぐように、資料では省かれていた状況を補足説明する。

 

「明らかに襲撃犯の狙いは『海軍検体405号』でした。エントランスでひと通り警備兵を返り討ちにした後、二人はこのエレベーターに乗って三階に来ます」

 

 エレベーターが静かにドアを開く。

 そこは、エントランスに負けず劣らず手酷く破壊されていた。エントランスに続き、第二の戦場となったのがこの三階の廊下である。先回りして襲撃犯を待ち伏せしていた数名が攻撃を仕掛けたのだが、あえなく返り討ちにあい、床に転がることになった。

 ここはエントランスとは違って襲撃犯がエレベーターで昇って来た時にはまだ職員たちが残っており、彼らも戦闘に巻き込まれてしまったようだ。逃げるに逃げられなくなった彼らは、物陰に隠れてやり過ごすしかなかった。幸いにして襲撃犯は妨害する兵以外に危害を加えることはなく、巻き込まれた職員は全員無傷で済んだ。

 村井たち三人は廊下を進みながら、「海軍検体405号」の保管室、もとい病室までやって来る。

 

「見てください、これを。人間の力ではこんなことは不可能です」

 

 目の前の光景に村井は溜息を吐くしかない。

 病室やら保管室というのはこの部屋をあまり適切に表現する言葉ではないようだ。どちらかと言えば“独房”が近い。

 確かに部屋の内装だけを見れば、白い壁天井に、医療機器とそのモニターに囲まれたベッドと、病室そのもののようにも思える。だが、入り口にある鉄格子と分厚い鋼鉄製の扉があまりにも内装と不釣り合いな物々しさを醸し出していた。ただし、入り口と反対側の壁は吹き飛ばされて姿を消し、直接外が眺められるようになっていたし、鉄格子はOの字型に捻じ曲げられていてより一層異様な光景となっている。

 鋼鉄の扉は傷こそないものの、その重量は半端ではなく、大の男が四人がかりで押してようやく動くか動かないかという代物らしい。通常は電動で開閉するのだが、もちろん襲撃当時には電源が落ちていたので当然開閉しないはずである。よしんば電気が通っていたとしても、開閉スイッチは特定の暗証番号を入口横の据え付け端末に入力しなければならない仕組みになっていたので、理論上に女二人に「海軍検体405号」の保管室に入室することは不可能だったはずだ。

 だが、襲撃犯はそれを“物理的”に成し遂げてしまったのである。ここで言う“物理的”というのは、つまり「素手で」ということだ。

 にわかには信じがたい。だが、確かに襲撃犯はロックが掛かった重い扉を手で開け、さらに中の鉄格子を捻じ曲げて強引に侵入した。極めつけは、コンクリート製の分厚い壁をぶち抜いていることである。相当量の爆薬がなければ不可能なはずだが、室内には爆発の痕跡がない。障子を殴って穴を空けるのとはわけが違う。やはり、これを可能にする「馬力」を発揮出来るのは艦娘しか考えられないのだが。

 

「完全に力技だね。どうやって開けようか考える前に手を使ったって感じ」

 

 鈴谷は部屋の中央まで進み、主が居なくなったベッドの脇に立つ。壁を粉砕した時に噴出したであろう砂塵が降り積もったの掛け布団を捲ると、灰色の砂塵が舞うものの、それ以外はシミひとつない清潔なシーツしかない。彼女は数秒の間ベッドの上に何かの痕跡を探っているように視線を注いでいたが、やがてくるりと後ろを向いて、ベッドを囲む医療機器を見る。

 

「さっきから言ってる『海軍検体405号』って、艦娘のことですよね」

 

 その一言で、水溜りに石を投げ込んだ時のように村井と杉浦の間に波紋が広がる。彼女の指摘は核心に触れるものだった。村井もまた「海軍検体405号」の正体を正確に分かっているわけではないが、鈴谷とは同じ考えである。

 それでもあえて理由を訊いた。仮にも諜報の専門家である村井に、隠し事は通用しないという意味を込めて。

 

「何故、そう思う?」

「んー? 深海棲艦なら鎖で縛り付けておくだろうし、心電図を取ったりしないんじゃないですか? あいつらには心臓がないっていう話だし」

「器官としての心臓はあるだろう。それがさほど重要ではないから急所ではないだけのことだ」

「そうかもねぇ。それと、あいつらはヌメヌメした粘液まみれだけど、ベッドはそれで汚れたようには見えないんですけどぉ」

 

 鈴谷は振り返ってベッド越しに村井と向かい合い、白いシーツを軽く撫でる。「ほら、粉しかないし」と、コンクリートの塵が付着した指の先を見せた。それ以外に何かが付いている様子はない。

 

「ねえ? 何かご存知なーい? 杉浦、ダ・イ・イ」

 

 杉浦の階級だけを一音ずつ区切るように発音し、鈴谷は首を傾げて笑う。とても笑顔なんて言えない、トラが威嚇しているような表情。細まった両目の奥から、底知れぬ深みを湛えた若草色の瞳が覗く。

 真っ直ぐに見詰められていない村井でさえ思わず身震いをしそうになった暗い笑みだった。まともに視線を向けられた杉浦が傍らで硬直する気配がする。見ずとも彼が人懐っこそうな丸顔を強張らせているのは分かった。

 

 村井も杉浦も内地や後方での仕事ばかりで、前線に出た経験は軍人にも関わらずほとんどない。そもそも、憲兵や情報保全隊という部署・部隊自体が「内なる敵」にしか目を向けていない存在であり、組織内の調和と規律を担保するためにあるのだから当然だ。それはそれで軍隊という組織が統制を確保するために必要不可欠な存在なのだが、逆を言えば軍隊の本来的な任務である、「外敵との戦闘」に参加していないことを意味する。

 一方で、鈴谷はまさにその「外敵との戦闘」で鍛え上げられてきた純粋な兵士である。見た目は高校生くらいの少女であっても、その本質は殺し殺される実力装置の歯車の一つ。あどけなさの残る顔でも、その身に宿る凶暴性を露出されると想像以上の凄みがある。

 頭の切れる鈴谷は、そうした凄みすら計算した上で“笑って”見せたのだろう。それでも村井は彼女と以前から知り合いであったから、そうした底知れなさや凶暴性というものはある程度分かっていてまだ落ち着いていられた。だが、今日初めて鈴谷と対面したばかりの杉浦はそうではなかったようだ。普段は兵卒に恐れられる憲兵が、完全に鈴谷に気圧されてしまっていた。

 

「いや、そ、それは……」

「んー?」

 

 どもる杉浦に、鈴谷はさらに頭を傾け、ニンマリと笑う。相変わらず、眼孔の向こうには何もない。何も見受けられない。

 分かってやっているのだから、鈴谷という娘は相当ひねくれた性格をしている。自分がどういう顔をすれば相手がそれをどう受け止め、どう反応するのかをちゃんと計算していて、最も自分が望む反応を引き出そうと凄みすら駆使出来るのだ。見た目は完全に少女のそれだし、実年齢で言っても杉浦よりいくらか年下なだけのはずだが、老獪さで言えば杉浦は完全に鈴谷に負けてしまっている。

 

「鈴谷」

 

 と、村井が窘めなければ、きっと杉浦は鈴谷にとって食われていただろう。艦娘は誤魔化すように愛想笑いを浮かべると、「ゴメンナサーイ」と白々しく謝罪の言葉を口にする。

 

「いえ、まあ、確かにお二人には話すべきかもしれません」

 

 蛇に睨まれた蛙そのものだった杉浦は、ようやく金縛りから解放されてホッとした様子だ。彼も彼で、腐っても憲兵だから立ち直りは早い。

 

「『海軍検体405号』の正体。それについてですが」

 

 杉浦はそこで一旦言葉を切って唇を舐める。

 

「昨年の海戦で轟沈した、空母娘『加賀』です」

 

 彼がそう言うと、鈴谷はまたあの凄みのある笑みを浮かべた。今度は特別誰かに向けたものではなく、ただただ彼女の内なる感情の高揚を表現するかのような笑みだ。

 

 

 

****

 

 

 

 海軍検体405号――航空母艦「加賀」は、かつて勇名を馳せた第一航空戦隊の片割れであった。その実力は空母娘としては海軍随一とまで讃えられていた。

 現在、加賀たち“旧”一航戦に代わり第一航空戦隊を構成しているのは翔鶴型の二人だが、同じ一航戦の名を背負っていても内実には雲泥の差があるという。カタログスペックで言えば艤装が旧式の加賀より翔鶴型の方が能力は高いことになるが、経験年数の差を鑑みても戦果には大きな開きがある。加賀と、その相棒赤城の残した戦果というのは、一部隊の功績としては未だに破られていない。

 二人はまさに海軍航空戦力の基幹であった。東日本のある地方都市に、一航戦のためだけの運用拠点として鎮守府が用意されたくらいである。その基地が、規模で言えば大湊警備府より小さいにも関わらず、格上の「鎮守府」扱いだったのも、すべては一航戦が本拠地であったためだった。そこに集められた艦娘は、一航戦以外でも各艦種ごとに抜きん出た成績を収めた実力者揃いであり、貴重な大型艦娘輸送艦さえ配備されていたのだ。如何に二人の能力が軍にとって貴重だったかが窺い知れる。

 ただし、それも昨年の春までの話。ある海戦の最中、強敵「空母水鬼」の奇襲攻撃によって加賀は轟沈し、赤城も大破して一航戦は壊滅した。それが海軍全体に及ぼした衝撃は相当なものだったが、一航戦の不運はそれに留まらず、加賀の轟沈から幾ばくもしない内に空母水鬼が彼女たちの鎮守府を襲撃したのである。

 この時は残った艦娘や各部隊の奮戦によって辛くも敵を撃退したようだが、一航戦の本拠だった鎮守府は見るも無残に破壊し尽くされてしまい、結局放棄されることになった。一年以上経った今も復旧の目処は立っておらず、現場には瓦礫が放置されたままだ。

 

 と、以上までのことなら全国紙でも大々的に報じられて、今や国民なら誰でも知っている。重要なのはその後のことで、実はしばらくしてから加賀が轟沈した付近の海域で、ある「物体」が引き上げられたのだ。

 それこそが「海軍検体405号」。かつての航空母艦「加賀」である。

 

 

 

「駆逐水鬼の例はご存知でしょう。轟沈した艦娘が何らかの要因で深海棲艦に突然変異する事例が確認されています。駆逐水鬼はその最初の実例であり、『加賀』は二例目でした。引き上げられた彼女の肉体はほとんどが深海棲艦化していたのです」

 

 「加賀」は五体満足ではなかったし、胴体のほとんどは深海棲艦特有の黒い物質に変化していた。そして、驚くべきことに彼女はまだ生きていた。ただし、「加賀」にとって幸運だったのはそこまでであった。

 深海棲艦の構成物質については未だにほとんど解明されていないが、「加賀」が人間の技術では再起不能なまで侵されていたのは自明であった。だから、引き上げられて早々に「加賀」の治療は諦められ、深海棲艦化という現象を調べるためにこの研究所に“保管”されることとなったのである。それが「海軍検体405号」という名称の由来。

 「加賀」は不思議なことに中途半端に深海棲艦化したままの状態で、引き上げられてからもその状態が前進することも後退することもなかった。ほとんどの薬は効果がなく、だから研究者たちもデータ取りのために「加賀」に色々な機器を取り付けて、日々の状況を逐一観測していた。心電図はその内の一つだったというわけだ。

 しかしながら、何事にも例外というものは存在する。「加賀」に投与した薬の中で、唯一彼女に状態変化を引き起こした物があったのである。

 

「高速修復剤は駄目でしたが、それをベースに開発された緊急修復薬を投与すると、『加賀』の深海棲艦化していた部分が溶融し出したそうです。同時にそれまで安定していたバイタルも急激に悪化したため、研究員たちは『加賀』への投与を即座に打ち切りました」

「それは何故なんだ?」

「いえ、そこまでは……。当の研究員たちにさえこの現象の理由は分からなかったようで、結局『加賀』は現状維持のまま経過観察するということになりました」

「そうか」

 

 杉浦の説明に、村井は頷くしかなかった。

 艦娘と深海棲艦の関係性。修復材が文字通り修復を可能とする原理。これらは艦娘に関する事柄で、もっとも謎めいている領域だ。

 クリスティーナ・リーにおいては、特に後者の原理を解き明かし、それによって緊急修復材を開発し得たと推測されているが、では彼女がいかなる原理でこのような薬剤を作り得たのかはほとんど明らかにされていない。

 もちろん、緊急修復材の普及と共にこの点は注目された。だから、艦娘の運用主体である各国の海軍はその種を暴こうと躍起になり、今世界中で盛んに緊急修復材の分析が行われている。ただ、当然開発会社の企業機密に触れることであろうから、もし緊急修復剤の研究が公になった場合は大きな訴訟リスクが表面化する。だからこそ、この六ヶ所の研究施設のような場所が必要とされるのだ。

 

「ところでさー」

 

 相も変わらず間の抜けたような鈴谷の声はよく通る。いい加減慣れたのか、杉浦ももう感情を害したような顔を見せることはなくなった。

 

「さっき、別行動してたのが居たって言ってましたよね。そいつら、電源を落とした後は何をしてたんですかぁ?」

「……それは、まだ分かっていません」

「何か無くなってる物とか」

「……」

 

 鈴谷の返しに杉浦は黙り込む。首元を人差し指で掻きながら考えるのは彼の癖だろうか。その様子から何か心当たりがありそうだ。それ以前に、村井にも心当たりがあるし、鈴谷も同じように考えてわざわざ意地の悪い問い掛けを杉浦に投げたのだろう。

 

「主任研究員から、そのような申告がありました」

 

 杉浦は言い辛そうに答えた。

 

「やはり、緊急修復剤に関する研究データの幾つかが紛失している、と」

 

 

 

****

 

 

 

 最近はどこもかしこも禁煙・分煙の世の中になってしまって喫煙者は皆肩身の狭い思いをしている。公共の場では大概喫煙所が設けられていて、そこでしか一服出来ないか、あるいはそもそも全面禁煙でニコチン不足に苛立たなければならないかのどちらかになりつつある。それを世知辛いとは感じつつも、時流に逆らえない喫煙者である村井は、煙草の害を鑑みれば致し方のないことだとも思うのだ。

 逆に、そうやって喫煙場所が限定されてきたために、今度は喫煙者同士で交流することが増え、思わぬ友人を喫煙所で得ることもあろう。軍事基地も非喫煙者に配慮してどこも喫煙所が設けられるようになったから、一服している時に意外な顔と相見えることもある。それが力のある有能な上官であったりしたら、我が身の僥倖と思わなければならない。煙を立てている間の世間話から、どう転じて出世に繋がるか分からないものだから。

 とは言え世の中そんなに都合良くはいかない。喫煙所に来たところで、タイミングが悪ければ一人で寂しくふかせるしかないし、あるいは嫌な相手と一緒になって気まずい一時になるかもしれない。今現在はどちらかと言えば後者であった。

 

 六ケ所から大湊警備府に移動し、今日の調査結果をひと通りレポートに書き終えた村井は、一服のために兵舎の一階にある喫煙所に足を運んだ。喫煙所は一階の端にあって、そこから海でも見えればいいのだが、生憎目の前には広葉樹の中途半端な茂みしかない。建物角に当たる場所なので、茂みはベランダの目隠しとしても役に立っているわけではなく、敷地の中のたまたま出来たスペースを埋めるように木が植えられているような、本当に中途半端なものだ。そんなところで煙草を咥えたところで風情も何もあったものではないから、ただただ休憩のための場所でしかないのだろう。

 村井が喫煙所にやって来た時、既にそこでは一筋の煙が天に伸びていて、浅葱色の髪を下ろした先客が居た。

 

「暇そうだな」

 

 ぼんやりと茂みの向こうに視線を投げているであろう背中に声を掛ける。気付いた彼女は振り返り、のっそりと立ち上がって頭を下げた。動作に機敏さがない。

 

「キューケイですよぉ」

 

 相も変わらず間延びした気怠げな口調で鈴谷は言った。

 

「鈴谷、色々調べたりして疲れたんです」

「それを言うなら俺も一緒だろ」

 

 喫煙所と言っても、建物の一角の壁を取り払い、アクリルの板で軒を作った半屋外のスペースだ。目の前は小さな茂みがあって、コンクリートの打たれた床には黒ずんだ落ち葉が散らばっている。そのスペースの真ん中に一つだけ長椅子が置かれていて、鈴谷は端っ子に背中を丸めながら小さく座っていた。

 普通、歴戦の艦娘というのはそれなりの貫禄を持ち、オーラや雰囲気を纏っているものだ。だが、こうして掃除も行き届いていない喫煙所の片隅で煙草を吸っている鈴谷は、背負った老いに耐えきれず背中が曲がってしまった老婆のようであった。彼女は本来非常に優れた能力を持つ艦娘であるはずなのだが、そのような気配が一切見受けられないのはある意味凄いと言えなくもない。

 

 出会った時からそうだった。気怠げな声に面倒臭そうな表情で、目に映る全てがつまらないとでも言いたげな瞳をしている。彼女が心の底から笑うことはなく、精気のないその眼に何かが宿る気配すら感じられなかった。

 艦娘というのは誰も彼も厄介な事情を抱えていたりするものだが、今まで鈴谷のように気力のない者とは出会ったことがなかった。それぞれ事情を抱えながらも、どの艦娘も皆使命感に燃え、その瞳に、その顔つきに、精悍さが垣間見えた。だが、鈴谷に限ってはそうしたものから対極に位置しているのではないかと思う。それは単純に村井の主観と言い切れるものでもないだろう。

 

「メンドクサイですねー」

 

 鈴谷は再び腰を下ろし、足を組んだ。上になった膝に肘を立て、顎に手をついて顔を支える。口の端で咥えた煙草をゆっくりと上下に揺らしながらまたぼんやりと茂みを眺め始めていた。

 

「しょうがないさ。で、そっちは何か分かったのか?」

「口頭でいいですか?」

 

 彼女は支えにしていた手から顎を上げ、咥えていた煙草を離して言った。若干いたずらっぽい笑みを浮かべているので、鈴谷も完全に表情を失ったわけではない。

 

「ああ」

「えーっと、じゃあ何から言おうかなぁ」

 

 そう呟きつつ鈴谷はまた煙草を咥えて煙を肺に入れ、スーッと吐き出してから続けた。

 

「“注射”を作ってるのはご存知イギリスの会社です。栄えあるロイヤルネイビーとの繋がりが深いからこそ、開発出来たんですよねー」

 

 村井は頷いた。それはとうに知っていることだからだ。

 鈴谷の言う“注射”とは、緊急修復剤の俗称であり、由来はその使用方法にある。この薬剤を開発し、特許権を取得し、製造を独占しているのは、クリスティーナ・リーが代表を務める英国のベンチャー企業「サルマン社」である。この会社はイギリスでの艦娘研究のメッカ、史上初の艦娘「ウォースパイト」を生み出したかつてのヴィッカース・シップビルダーズ社――現在のBAEシステムズ社で長年に渡って蓄積されたノウハウと最先端の知識、それらに民間のアイディアと技術を化合させて新たな装備を開発するというコンセプトで設立された会社……だそうだ。

 緊急修復剤が世に公表されても、最初は誰もがそれを眉唾物として一顧だにしなかった。それが手の平を返したように受注が殺到するようになるのは、サルマン社の後ろ盾となったウォースパイトがその効力を身をもって証明して見せたからである。

 世界的に有名で、事実上艦娘の代表役であるウォースパイトが推していたというのが大きな理由となったのか、現場の艦娘を中心に緊急修復剤を求める声が強くなり、海軍上層部はそれに発破を掛けられた形で大量注文、一気に普及させていった。修復材関係をBAEから卸していた商社の熱心な売り込みがあったというのもある。無論これは艦娘たちには好評だったのだが、海軍の中にはあまりにも性急な注文に、安全性の面での疑問を抱く一派が出て来た。そうした一部の軍人たちは、果たして本当に緊急修復剤が安全であるのか、効力を持つのか研究しようとした。それが、六ケ所で行われていたのである。

 

 公然とこの薬剤を分析しその研究を行うことは、それ自体がサルマン社の特許権を侵害するものではないが、権利の侵害を恐れた同社が売り控え等を実行する可能性があるため、研究の事実は機密事項に指定されていた。とは言え、緊急修復剤の研究を行っているのは何も日本海軍だけではないし、それは公然の秘密と化していたから、六ケ所でそれが行われているのはある程度海軍の内部事情に詳しい者なら容易に想像ついただろう。

 特許出願に関しては発明の技術的範囲やその明細を提示しなければならない。これは出願された特許請求によって明らかであるが、殊、艦娘関連の技術に関しては科学的に未解明である領域は非常に多く、従ってそれらを用いた発明品の技術的解説にはどうしても曖昧さを含めなければならない。むしろ、サルマン社がこうして緊急修復剤を開発出来たことこそ神業に等しいのである。当然、海軍としてはその正体や原理を暴かずにはいられないだろう。

 結果、研究がどこまで進んでいたのかはさすがに部外者たる村井や鈴谷にも分からなかった。そこは最重要機密に指定されている。ただ、研究結果を記述した幾つかのレポートや解析方法の説明書が紛失、もとい“盗難”していた。

 ちなみに、コンピューター上に保存されていた電子データの方は全くの手付かずであり、無くなっていたのは書類だけだった。もっとも、犯人たちは自分たちで施設の電源を落としているのだからこれは当然かもしれない。

 つまるところ、リー一味の目的は二つあり、一つは「海軍検体405号」、もう一つが緊急修復剤の解析結果だった。前者を強奪するために陽動を兼ねて派手に暴れまわった正面突破チームと、研究員が避難した隙を狙って秘密裏に書類を盗み出す別チームに別れていたようである。研究所の電源を落としたのはこの別チームだったと考えられる。

 厄介なことに、監視カメラにはっきりと顔を映していた正面突破チームに対し、別チームの方は全く目撃者も居なければ物証も残っていない状態で、その存在は正面突破チームには確実に不可能と思われる電源の喪失で示唆されているに過ぎない。恐らく実在はしたのだろうが、こちらは相当に窃盗慣れしていた人物なのか、ただ「盗まれた」という事実だけを残し、目的を完遂している。

 捜査担当者のベテラン刑事は長年の勘からこれを窃盗と言い切ったが、警察組織としては現状はっきりした物証が挙がっていないので窃盗事件として処理することさえ難しいと嘆いていた。書類を盗み出したのは相当な手練であろうとも。

 あのカメラに写っていた人物が本当にクリスティーナ・リーであるなら、彼女が緊急修復材の研究データを盗み出したのは恐らくその成果を確認するため。艦娘関連の研究において英国に匹敵する水準を持っているのが日本の海軍だった。ここでの充実した研究体制から、彼女は自分の商品がどこまで解析されているのかを調べようとしたのかもしれない。調べてどうするつもりなのかまでは、さすがに本人に聞かなければ分からないだろうが。

 

 ここで問題となるのがもう一つの目的。「海軍検体405号」を力づくで奪い取ったのには、それ相応の何か大きな理由があるはずだ。主任研究員は、「海軍検体405号」、すなわち「加賀」の深海艤装を溶融させたことから、緊急修復剤は深海棲艦にとって毒物となるのではないかと考察していた。一部の毒物が人体を構成するたんぱく質を破壊するように。

 だが、それは当然ながら研究所の外には出されていない機密情報であったし、また盗み出されたであろう解析結果の書類にも記述されてもいない。この事実は「加賀」の観察レポートの方にしか書かれておらず、そちらは無事であったのだ。犯人が見た可能性もあるが、しかしそれも観察レポートが鍵付きの棚に仕舞われていて、且つその棚に開けられた形跡がないことから、まずあり得ないと断じられた。

 

 

 

「クリスティーナ・リーは、緊急修復材の『副作用』について調べたかったのかもしれません」

「副作用?」

「ほら、薬に新たな副作用が発見されることって、たまにあるでしょ? それと同じですよ。緊急修復材が深海艤装を溶かす効果を持っているのを、リーは知らなかった可能性があります。ただ、最高機密の『加賀』の存在を把握していたんだから、溶かしたという観測結果自体もどこかで知ったのかも。で、『加賀』を奪い取るついでにそのデータもいただきに来た。ただし、こちらは目的を達せられずに時間が来たから諦めるしかなかった……のかもしれませんねぇ」

「なるほど。問題はその情報源とリーが何をどこまで知っているか、だな」

 

 世の中には艦娘という存在自体に異を唱える者もいる。彼らは海軍とは全く関係のない人物ばかりが集まったいわゆる“市民団体”の類である。野党の後援団体となってしばしば国会に艦娘の話題を持ち込むなどロビイングも盛んに行っているし、もちろん“市民団体”らしく街中デモも実行して紙面を賑わせたりしている。だがいずれにしろ、今回のような大規模かつ暴力的な犯罪を可能なほど高度に組織化されてもいないし、そのようなことが可能な過激な人物が参加した形跡もない。それは防諜活動の一環でこうした“市民団体”の監視も行っている村井自身が一番分かっていることだ。

 そもそも、彼らに六ケ所の秘密研究所を嗅ぎ付けることが可能だとは考え辛いし、よしんばどこからか嗅ぎ付けたとしても、そこで何が行われているのかを突き止めるのは不可能だ。ここまで大胆な犯行を強行するには、「加賀」や観測結果の存在について確信を抱いていなければならない。

 

「ところで」と一本吸い終えた鈴谷は煙草を灰皿に突っ込み、「そのサルマン社なんですけどね」

「ん?」

「来週、シンガポールでパーティを開くそうですよ。もちろん、代表者も来る予定です」

「シンガポール?」

「ソースは明かせませんけど、ほぼ確実みたい。鈴谷としては、この機会にクリスティーナ・リーについてもっと詳しく調べられたら、どうかなって思いましてぇ」

「罠かも知れんぞ。奴はあれだけ堂々とカメラに自分の顔を晒しているんだ。まるで、捕まえてみろと言わんばかりにな。当然こちらが調べてシンガポールに来ることも想定済みだろう。だというのに、ホイホイとパーティに出席すると思うか?」

 

 それこそあり得ないことだろうと村井は断じた。

 あそこにはシンガポール海軍の敷地を間借りして日本海軍が小さな基地を設置していた。規模が小さいとは言え、シンガポール自体の戦略的、地政学的重要性により、海軍の中では重視されている基地だったはずだ。

 同基地の司令官は柳本中将という、海軍では名の知れた往年の軍人であり、村井も会って話したことこそないものの、対深海棲艦戦争が始まった頃からずっと戦ってきた人物であると聞いている。

 拠点があるなら、そこに人員を配置して包囲網を形成することは難しいことではない。現地警察にも協力を要請し、リーを捕縛するのは十分可能だ。

 

「そのパーティには、各国の要人も参加します。シンガポール政府の閣僚やうちの海軍のお偉いさん、そして“あの”ウォースパイトも」

「なんだと?」

「鈴谷がリーなら、もうとっくに根回し工作は終わらせてますね。それに日程は来週です。あと一週間くらい。リーはちゃんとこっちの足元を見ているんですよ。『海軍検体405号』も、緊急修復材の解析結果も、どっちも公には出来ない情報ですし、そもそも六ケ所自体が機密事項に該当します。だから、警察に捜査の主導権を渡さなかったんでしょ? リーは日本が自分を指名手配出来ないことを読んでいるし、よしんばそれを可能にするにしても時間が掛かることも分かってます。少なくとも、あと一週間じゃ無理。警察がリーの顔写真付き手配書を公表するころには、本人はとっくに雲隠れしていることでしょう。

仰る通り、リーがカメラにわざと映ったのは、こっちを挑発するためですよ」

「くそっ。そういうことか……」

「だから、シンガポールであんまり派手に動いちゃうとこっちの分が悪くなります。確実な追跡手段を構築しておくことの方が先決かと。それに、リーにはシンガポールで何かしなきゃならない用事があるんじゃないですか? だから、わざわざあそこに行くんです」

 

 自分が苦虫を噛み潰したような顔をしているのを自覚しながら、村井は頷いた。鈴谷の指摘は鋭く、的確だ。軽薄そうな見た目と態度だが、彼女は情報保全隊付き艦娘という役職を十二分に全うしている優秀な人材なのである。

 ただ、悠長にしている時間はなかった。鈴谷の言う通り、パーティが開催されるのは来週である。もしシンガポールに向かうなら今すぐにでも準備を初めておかなければ間に合わないだろう。村井は吸っていた煙草を途中で灰皿に押し付けて潰す。少しもったいない気もしないこともないが、急ぐことがあるので早足に喫煙所を後にした。鈴谷はもう何も言わず、新しい煙草を咥え、来た時と同じように背中を丸めて外を眺めながら煙をふかすだけの彫像に戻っていた。

 

 

 

 

****

 

 

 

 埃っぽい部屋の中から、シミだらけのくたびれたカーテンが掛けられた窓を見ると、隙間から外が見えた。

 大湊で一泊するにあたって与えられた、空いている寮室。喫煙所もそうだが、人手不足の著しいこの基地ではまともに掃除が行き届いている場所が珍しいようだ。鈴谷の居る寮室も、どうにも埃っぽくて一泊だけならまだしも、二泊以上はお断りさせていただきたいような汚い部屋だった。

 窓があり、ベッドがあり、小さな作業机とテレビが有る以外は、壁に絵も架けられていなければ飾りの植物もないような殺風景な空間である。暇潰しにテレビでも見ようと思って電源ボタンを押したら、何と映らなかった。コンセントはちゃんと差してあったので、どこか故障しているのかもしれない。修理部品すらあるか怪しい古いブラウン管のテレビだから、もうお役御免なのだろう。管理室に報告するのも面倒なのでそのままにしてある。

 手持ちの煙草も先程喫煙所で吸い切ってしまった。そこまでニコチン中毒というわけではないので、吸わなければ落ち着かないということもないが、暇潰しが全くなくなったので退屈極まりない。することもないので、鈴谷はベッドに寝っ転がり、ただただぼんやりとしていた。

 

 意識のスイッチを切ったような感覚だ。パソコンで言えばスリープモードとでも言うのだろうか。別に寝ているわけではないが。

 何となく、ベッドから見上げる窓に視線を這わせていた。そろそろ暑くなってきたこの季節にそぐわない厚手のカーテンだ。普段使われることのないであろうこの部屋だから、きっとこのカーテンも年中付け替えられることはないのかもしれない。人手不足なのではなく、この大湊警備府の人間が横着なのだろう。

 そのカーテンは完全に閉められているわけではなく、少しばかり隙間が空いていてそこから窓の外が見えた。

 

 ――外は、雪だった。

 

 今日の天気予報は晴れ。降水確率、東北北部から北海道南部にかけては5%。最低気温は18度。もちろん、外を歩く人間は誰もコートを着込んでいない。

 でも、窓の外では雪が降っている。音もなく、積もることもなく、ただ空から降り注ぐ白い結晶が一切れの影となって上から下へ横切っていく。

 

 白い結晶か、と鈴谷は自嘲した。到底そんな詩的に表現するに値するようなものではない。要は、ただの幻覚だ。

 ある時から、鈴谷の眼には存在しない幻の雪が映るようになった。幻覚だから当然冷たくないし、積もったりもしない。ただ網膜に有りもしない白い影が映るだけである。

 幻の雪が室内で「降る」ことはなく、外に出るか外を見た時にしか「降らない」。幻だから実際に寒いわけではないし、特に害もないので鈴谷はずっと放っておいた。ただ少しばかり困ることがあって、本当に雪が降った時に区別がつかないことが何度かあった。

 何故こんな幻を見るのかは分からない。医者にかかったわけでもないので詳しく原因を精査したりはしていないし、仮にそうしたところで原因を特定出来るとも思えない。心当たりが一つだけある他は思い付く原因というのはなかった。

 

 あの日からずっと幻の雪が降り続いている。決して鳴らぬ、決して晴れぬ、幻の雪。

 

 外に出て見上げれば、空はずっと鉛色だ。誰かが泣き腫らした目元のように膨らんだ暗い雲が天一面を覆い尽くし、そこから止むことのない浮池のようなものが地上へ降り注いでいる。ウェザーニュースによれば、今日は一日快晴だったそうだが、鈴谷の眼には朝からずっと雪が降って見えたし、青空なんて片鱗も見られなかった。今朝起きた横須賀の寮室から見える景色は曇り空で、東北新幹線に乗り換えた東京では暗い雲が低く垂れ込めて高層ビルに支えられながら雪を降らせ、青森に来てからも止むことは当然なかった。ニュース番組の天気予報士は、今日一日日本全国で好天気となると宣言していた。

 

 解釈、というほど大層なものではないが、鈴谷は漠然とこの幻の雪について、これは「呪い」だと思っている。

 あの日から鈴谷に掛けられた呪い。青空を見れぬという呪い。

 

 熊野が居なくなった、あの日からずっと続き、これからも死ぬまで続く呪い。

 

 あるいは、そのことを忘れぬために打ち付けられた釘なのかもしれない。鈴谷をずっとあの日に留め置いておくための。

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督38 DESRON117

 

「こちらマーライオン2。目標貨物船を視認。周囲に、一、ニ、三……三隻の小型船を発見! 小型船の船上に武器を構えた人物多数。海賊と思量」

「こちら基地司令部、了解マーライオン2。貴機は貨物船に接近し、海賊船のアプローチを牽制出来るか?」

「海賊船には武装した船員が銃を振り上げて威嚇しており、接近は困難!」

「了解。では第百十七駆逐隊を展開し滞空待機に入れ。百十七駆逐隊は海賊船を牽制せよ」

「『江風』、了解ッ!」

 

 降下準備だ。嚮導艦の張りのある声をヘッドセットから聞きながら、駆逐艦「嵐」は少し尻を動かして位置を調整する。頭の数十センチ上で激しく回転するローターがある状態では、肉声ではどんなに怒鳴ってもまともに会話は図れない。口元のマイクにありったけの音量で声を吹き込んで、ようやく何を言っているかが判別出来る程度にうるさいのだ。

 

 小型汎用ヘリコプター、MH-6「リトルバード」は卵型の小さな機体に尻尾を生やしたような形をしている。卵型の前面は大きな窓となっており、そこに二名のパイロットが座る。その後ろは機体をくり抜くように空けられた大きなスペースがあって左右が見通せるようになっていた。操縦席のすぐ後ろにあるそのスペースは荷室で、機体の両脇には荷室の床面と段差なく水平になるように板が張り出されている。機体が小さいのでヘリの中にパイロット以外の人間を座らせる余裕が無いのため、ここが座席になるのだ。定員は左右に二人づつ、合計四人。

 嵐と僚艦の「萩風」の二人は機体の右舷に、嚮導艦の江風だけが左舷に座っていた。艦娘三人と二人のパイロットを乗せた小型ヘリは、江風の威勢の良い応答を聞くと一気に機体を前のめりにして高度を下げる。心臓が浮くような不快な感覚に嵐は顔をしかめ、メインローターと頭の間、機体から水平に飛び出した支柱を握る手に力を込めた。水に足をつけて浮くことが艦娘の本分と考えている嵐には、何度経験しても三次元の機動は慣れない。高度が変わる度に内臓が上下に引っ張られる感触が特に嫌いだ。

 とはいえ、こうしてヘリに乗って出撃するのはもう何十回と経験しているから要領は分かったもので、ヘリを降りていよいよ海上に展開するタイミングも近付いているので、さっさと準備に取り掛かった。準備と言っても、荷室の奥から延びる命綱の先端に取り付けられたカラビナを、腰のベルトから外すだけである。手を後ろに回し、カラビナを外して奥に放り投げると、ちょうど隣で萩風も同じ動作をしているところだった。

 萩風と顔を見合わせてうなずき合い、互いにいつでも飛び降りれる準備が整ったことを確認する。嵐は支柱を掴んでいない方の手を前に伸ばし、操縦席の副操縦士に親指を立てて見せた。

 高度を下げたリトルバード――マーライオン2が海面スレスレを飛ぶ。足のすぐ下には群青色の海。風が強いので波が荒い。嵐は掴んでいた支柱を離し、躊躇なくヘリから飛び降りた。

 

 

 

 一般に、艦娘と言えば戦闘海域の近くまで母艦に乗って向かい、ある程度の近付いたら母艦のドックから出撃、“自分の足”で戦場へ赴くイメージを抱かれている。事実としてそれは間違いないし、深海棲艦の脅威の大きい海域に近付く場合は主にその方法で出撃する。母艦ないし母港を出発して警戒しながら敵地最深部を目指すのが、多くの場合でのやり方だ。

 ただし、迅速さが求められる状況下で且つ深海棲艦の脅威度が低い場合、ゆっくりと大型の艦娘母艦を動かしている暇はないし、費用対効果の面でも賢い手段とは言えない。そのような場合、小回りが利いて船や艦娘よりよほど移動速度の速いヘリコプターに乗り、さながらヘリボーンのように目的地近辺に展開する。特に、第百十七駆逐隊(DESRON117)が所属するシンガポール・チャンギ租借基地は、周囲を大陸と大きな島に囲まれているという地理的要因から深海棲艦の脅威を受けることがほぼなく、また基地自体が小規模で大きな輸送船や艦娘母艦を運用するには少々狭いという事情もあって、展開方法は大概ヘリコプターとなる。

 基地には小型の汎用ヘリMH-6が三機と、近接火力支援用に「リトルバード」を武装させた改造型のAH-6「キラーエッグ」一機、より大型の汎用ヘリコプターSH-60 「オーシャンホーク」一機が配備され、通常はこれらのヘリコプターが艦娘の足となり、時に火力支援も担っている。

 

 また、そもそもシンガポールでの任務自体、深海棲艦とまともにやりあうような高強度な戦闘がほとんどない。嵐たちシンガポール所属艦娘の主たる任務は、至近の難所、マラッカ海峡を通過する民間船を、沿岸部から襲って来る海賊の脅威から守ることであり、戦闘の強度としてはずっと低いものとなる。例えば、現況のように貨物船を乗っ取ろうとする海賊共を追い払ったりするのが仕事なのだ。

 だから、支援する兵器が輸送ヘリでも十分だし、これにミニガンを搭載した「キラーエッグ」や「オーシャンホーク」が居ればほぼそれで火力が足りてしまう。求められるのは迅速さであって、たった三隻とは言え駆逐隊の火力は想定任務には過剰だった。事実、嵐たちは全員魚雷は置いて来ていて、それぞれ主砲塔も一基づつしか持っていない。後は索敵用の電探やソーナーだけである。

 この主砲も、用途は威嚇射撃かあるいは見せびらかして脅すことだけだ。これで狙う敵は居ないし、交戦規定や国際法の関係から、海賊と言えどおいそれと艦砲射撃で吹き飛ばすのは禁じられているので、正直なところなくても困らない。ただ、持っていた方が威圧感が出るというだけの話である。

 

 

「嵐は左舷へ。萩風は右舷に付け。江風は後ろで追随する海賊船を牽制するぜ!」

 

 嚮導艦からの鋭い指示が飛ぶ。次々に着水した三人はそれぞれの位置に向かった。

 シンガポールを目指すパナマ船籍の中型コンテナ船が今回の護衛対象だ。一時間ほど前にマラッカ海峡を航行中の同船から救難要請が入った。海賊船に追跡されていると言う。

 マラッカ海峡と言えば、スマトラ島とマレー半島に挟まれた北西ー南東方向に細長く延びる海運の一大要衝だ。カレー洋と太平洋の中間にあり、中継拠点シンガポールも間近にある。特に、南西諸島海域で深海棲艦の活動が活発な現在、より南のズンダ海峡やロンボク海峡経由のルートが危険であるために、貿易船のほとんどすべてがこの海峡を通過するようになっていた。

  もともとマラッカ海峡は航海の難所として有名で、浅瀬、岩礁、強い潮流、頻発するスコール、スマトラ島の山火事によって発生する煙など、ありとあらゆる危険な要素が詰め込まれた場所である。水深が浅い場所もあるために超大型のタンカーや貨物船は航行出来ずマラッカマックスという制限を受けるため、一隻の輸送量は必然的に低下してしまう。当然、それを補うには隻数を増やすしかない上、深海棲艦の脅威をほぼ受けないという必要条件を満たせる東南アジアの重要な海峡はマラッカ海峡を除いて他にないので、どうしてもこの海峡に船が集中してしまうのだ。

 航路の過密化は船舶の「渋滞」を招き、特にカレー洋方面からシンガポールを目指す輸送船は海峡入り口で、「交通整理」を受けて停滞を強いられる場合が多い。これは輸送コストを跳ね上げさせる要因であると共に、船会社たちの長年の悩みの種である海賊にまたとないチャンスを与えるものだった。

 

 元より沿岸部の貧困問題に端を発して海賊が頻出する海峡だったのだが、深海棲艦の登場後、過密化する航路とそれに伴う「交通整理」で多数の輸送船が停滞するようになると一気にその被害が増加した。海賊たちにとって、順番待ちのために速度を落として航行する輸送船はネギを背負ったカモに等しく、海峡沿岸部で身代金ビジネスが成長するのに時間は掛からなかった。

 狙いやすい輸送船は数え切れないほど居て、手軽にそれなりの額の身代金が手に入るのである。海賊の数と身代金を含む輸送費は指数関数的に増大し、深刻な問題となっている。この種の犯罪に対しては、通常沿岸国の海上警察が取締を行うものだが、それでは圧倒的に人手が足りなかった。必然的に利害関係のある各国も“自主的に”輸送船の護衛を送り込むようになる。日本もその一つで、シンガポールの租借基地はまさにそうした輸送船護衛の拠点として同国より借り上げて設置されたという経緯があった。シンガポールには海上保安庁も駐留しているが、海保だけでは到底数が足りないので、海軍も厳しい法的制限の中で護衛任務に就いている。

 ただし、ここまでなら何も艦娘を動員する必要性があるわけではない。艦娘自体が動かす分にはローコストで汎用性や機動力の高い“使いやすい兵器”であるのは間違いないし、ヘリに乗れて高速で移動しつつ軍艦並みの火力を投射できるのは非常に魅力的である。だが、やはり本来的には艦娘の敵は深海棲艦だ。シンガポール基地にはDESRON117を含めて二個の駆逐隊が置かれているが、彼女たちの存在意義は決してゼロにはならない深海棲艦の脅威への対抗手段である。

 

 マラッカ海峡やシンガポール周辺に深海棲艦が姿を見せることはほとんどない。これらの海域は完全に人類の勢力圏であり、深海棲艦とて容易には近付けない。だが、それでも半年に一回程度の頻度で「迷い込ん」だり、浸透を計ってきたりと、どうしても出現することがある。多くの場合は潜水艦だが、たまにはぐれ艦の駆逐艦級が現れるので、そういった敵を掃除するのがそもそもの任務であるのだ。

 しかし、シンガポールに駐留している以上、海軍力の一端である艦娘も、船舶護衛の必要性からは決して逃れられない。だから、嵐も「こんなことは艦娘の仕事じゃないよな」と思いながらも、海賊を追い払うのに駆り出される他ないのだった。しかも駆り出されるのは、つまり事件が起こるのは大抵シンガポールから間近な場所であり、下手をしたら発生場所から高層ビル街のシルエットが望めるような距離だ。

 

 多くの場合、艦娘が海賊船を臨検や拿捕をすることはない。艦娘個人にはそれだけの能力がないと見なされて、法的権限が与えられていないからだ。当然、撃沈も許可されないので精々出来るのが威嚇射撃であり、大抵は追い払うことに終始する。ここに海上保安官や海兵を乗せたロクマル――SH60-F“オーシャンホーク”が応援に来ると臨検や拿捕も可能になるのだが、それは稀な場合であり、本格的な取締を行うのはやはり海上警察や軍艦なのである。

 すると、一回の出動時間は短くなり、一日の中で出動してはすぐに海賊を追い払って戻り、また出動して、ということを繰り返すようになる。場合によっては朝に追い払った海賊船を、午後の出動でまた相手しなければならなくなったこともあり、完全にイタチごっこの様相を呈していた。海賊を捕まえられるわけではないが、海賊もまた艦娘に対して有効な攻撃手段がないので、大概は艦娘が来ると向こうの方が撤退していくのだが、だからこそいつまで経っても連中の数は減らないのである。

 

 海賊が生まれる原因が貧困であるのは誰もが知っている。不作の年に爆発的に数が増えるのもよく知られたことで、食い扶持のない男たちは好むと好まざると海賊になるしかない。そして、海賊の数に比して海賊を取り締まる公権力の頭数は圧倒的に少ない。

 今日もただ追い払うだけになりそうだった。護衛対象は少し錆の浮いた水色の船体にでかでかと「MURASA LINE」と書かれたコンテナ船だ。船の正面から接近した嵐たち三人は、それぞれ指示通りの配置につく。嵐は左舷に、萩風は反対側の右舷に、嚮導艦の江風は貨物船とすれ違い、背後から迫る海賊の漁船に真っ直ぐ向かっていく。

 最近の貨物船は海賊に襲われたらただ逃げるだけではない。救援の部隊が到着するまで海賊を寄せ付けないよう、最低限の武器を装備するようになっていた。現に嵐たちの護衛対象になった貨物船も、船体の後部から機関銃を漁船に向かって撃っている。激しい銃撃音がして、漁船の前の海面に小さな水柱がいくつも乱立した。射程の長さから、どうやら重機関銃のようだ。退役軍人でも雇って撃たせているのだろう。

 左舷から嵐を大きく躱そうと弧を描きながら漁船の一隻が近付いて来た。相当な速度を出しているのか、船体は波の間を飛ぶように跳ね、白い水飛沫が盛大に舞い上げられていた。速度で振り切り、出遅れた隙に貨物船に張り付いて乗り移ろうという魂胆なのだろう。その漁船の上では何人かの男たちが銃を振り上げていた。

 もちろん、それを見過ごす嵐ではない。速力と俊敏さなら、艦娘は漁船程度に負けることはない。特に、陽炎型の航行艤装はそれまでの駆逐艦と比べて非常にパワフルだ。

 

 加速する。水の抵抗を切り裂きながら良好な馬力を誇る主機が嵐を速やかに最大戦速まで到達させた。漁船との距離は見る間に縮まっていく。

 大きく迂回する漁船に対し、嵐は円弧の内側から接近。漁船上の海賊たちが一斉に銃を構え、軽快な射撃音が水面に木霊し始める。お約束のようなAKの掃射。走る嵐の足元の海面に砂粒を撒いたように小さな水柱が現れる。しかし、実際には人間の扱う小火器程度は艦娘にとっては砂よりも軽い物で、直撃を受けたところで装甲が一発残らず弾き返して傷一つ付かない。

 深海棲艦にはある程度銃撃が効くが、艦娘にはまったく無効であるというのは常識。それなりに経験を積んだ海賊ならその程度のことは知っていて当然なのだが、意味もないのに必死で嵐に銃弾を浴びせかけている彼らは、恐らく海賊としては初心者なのだろう。銃撃は無意味で、速力や機動力も漁船程度では比べ物にならない艦娘を攻撃し、振り切って貨物船に取り付こうという考え自体が浅はかだ。普通の海賊なら、救援に艦娘がやって来た時点でどうしようもないのを理解しているからさっさと撤退する。艦娘は法的制限によって海賊を攻撃出来ないのを彼らは知っているし、下手に時間を掛けると臨検や拿捕の危険性が高くなるのも分かっているのだ。

 それをしないということは、今日の海賊たちは海賊の中でも常識知らずの素人なのだろう。嵐は威嚇射撃もせずにただ漁船に寄っていった。もちろん銃撃を浴びせかけられるが、傷一つ付かないことを保証されているのだから何も怖くない。

 海賊たちもようやく嵐が“無敵”であることに気付いたらしい。その内に船上の一人がしゃがみ込み、何かを拾い上げた。

 細長いそれを、彼は肩に担いで嵐の方へと向ける。先端が膨らんだ子供の身長くらいの長さの筒状の物体。トリガー付きのハンドクリップを握って、彼は引き金に指を掛けた。

 

「RPG!」

 

 上空から様子をうかがっていたマーライオン2のパイロットが叫んだ。同時に、派手な破裂音が鳴り響く。

 

 旧ソ連製の高名な対戦車ロケット砲。いわゆる「バズーカ砲」の一種なので、本来は戦車や装甲車両などに向けられる兵器だが、テロリストや犯罪者はとにかく何にでもこれを撃ち込めばいいと思っているのか、ありとあらゆる物が狙われる。海賊たちの中にはしばしばこの種の兵器をどこからか調達してくる輩がおり、嵐もRPGを向けられた経験はこれが初めてではない。盛大な発射音がして、白い煙の尾を残し、弾頭は嵐の眼前を通り抜けてはるか向こうの海面に着弾して水柱に変わり果てた。

 

 危険なほど速度を出して激しく揺れる漁船の上から、文字通り人間大の標的に無誘導のロケット弾を命中させる技術を、そこら辺のチンピラ崩れが持っているわけがない。だから、RPGが外れても当然だし、そもそも直撃を食らったところで嵐が受ける影響は精々バランスを崩す程度だ。

 浅薄な海賊たちの抵抗にいい加減鼻白んできたところで、いよいよ対抗手段がなくなった(元より有りはしないが)船上では、軽いパニックが起こっていた。ある者は狂ったように銃を乱射し、ある者はその場にうずくまり、ある者は操縦席にしがみついている。

 試しに脅しのつもりで主砲を漁船に向けてみると、漁船は泡を食ったように急旋回して、何人かの海賊が振り落とされそうになっていた。それから、船を軽くするつもりなのか銃やら何やらを海に捨てて、仲間の漁船に脇目も振らず、一目散に水平線へと駆け出した。

 

「くっだらねえ」

 

 逃げる漁船を目で追いながら、嵐は吐き捨てる。他の二隻も貨物船から離れていくので、どうやらひと仕事片付いたようだ。

 これ以上は艦娘の仕事ではないし、艦娘に出来ることもない。無線で海賊の逃げた方向をインドネシアの海上警察に連絡するマーライオン2のパイロットの声を聞きながら、艦娘三人は貨物船を離れて合流する。後はヘリに回収してもらえば任務終了。

 これが今の嵐たちの仕事だった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 艦娘というのは事細かに管理されている。多くの場合、大規模な拠点には艦娘を管理する艦娘、いわゆる「秘書艦」が置かれ、各拠点の長は秘書艦を通じて所属する全ての艦娘を管理することになっているが、そこまで規模の大きくない拠点では艦娘ではない軍人が直接管理するようになっていた。

 ただ、艦娘の管理と一口に言ってもその仕事の内容は多岐に渡り、基本的な労務管理、消費する燃料や弾薬の管理、艤装の整備・修繕の依頼、制服の調達、メンタルケアなどなど、書き出していけばそれこそ切りがない。当然、さばかなければいけない作業や仕事の量は膨大になるので、例え秘書艦を置かずとも艦娘を管理するには専門の担当者を配置する必要がある。秘書艦制度のないシンガポール基地において、艦娘管理の担当を務めるのは黒檜という名前の軍人だった。

 階級は大尉。実年齢を嵐は聞いたことがなかったが、見た目はまだ若く二十代である。濡烏の艶やかな髪を肩口で切り揃えた美人で、温厚な性格を表すように顔付きも丸みを帯びている。 艦娘担当者は秘書艦制度に準じ、管理対象がすべて女性個体であることもあって、皆女性軍人が充てがわれる。彼女もその内の一人だった。

 

 海賊を追い払うだけの簡単な仕事から基地に戻って来た第百十七駆逐隊の三人は会議室でデブリーフィングに入っていた。室内に居るのは四人だけで、三人と一人が向かい合わせにテーブルに着いている。百十七駆逐隊の前に座るのが黒檜大尉で、彼女はあの後追跡を受けた海賊が特に追い掛けて来ていたヘリを撒こうともせず、一目散にアジトらしき島に逃げ帰ったという報告を簡単に述べた。相手が頭のいい海賊なら、そういう場合には偽のアジトを予め設けておいてヘリに追い掛けられたらそちらに逃げ込み、夜の内に本当のアジトに移動しているという可能性があるが、今回は本当にあの海賊たちが拠点に使っている場所らしい。桟橋やら整備工場のような施設やらが上空から確認出来たとのこと。

 所詮はおつむがその程度の連中だった。あと数日以内にはもれなく警察に御用となるだろうし、艦娘の関知する必要のあることでもない。興味もないので嵐はろくに黒檜の話を聞いていなかったが、おもむろに話題を変えた彼女の次の言葉には顔を上げざるを得なかった。

 

「ところで、話は変わりますが、萩風さんと嵐さんの改装命令が正式に下されました」

「おお!」

 

 即座に声を上げた者が居る。それは改装を受ける当人の萩風でも嵐でもなく、横で聞いていただけの江風だった。

 あっけに取られる二人に代わって、江風は熱烈な拍手を送る。

 

「やったなぁ! お前ら、頑張ってきた甲斐あンじゃン!」

「江風さん、落ち着いて」

 

 一人はしゃぎ回る江風に黒檜も苦笑気味だ。

 しかし、江風は言っても聞かない性格だし、何より嵐たちの改装を本人たちよりも楽しみにしていたのだ。彼女は、自分が鍛えた教え子たちが立派に成長していくのを日々喜び、艦娘として一皮剥けることになる改装を誰よりも心待ちにしていた。それを知っているからこそ嵐は改装を受けるという事実自体より、江風を喜ばせられたことを嬉しく思う。

 江風には感謝してもしきれない。二人をここまで育ててくれたのは彼女だし、何より彼女が居なければ嵐も萩風も、今この場に座っていることはあり得なかったのだから。

 

「江風さん、いいですか?」

 

 黒檜が重ねて窘めると、嵐の手を握ってぶんぶんと振り回していた江風がようやく元のように椅子に収まった。それでも興奮冷めやらぬ彼女の声は、場違いなほど大きい。

 

「いいよ! 続けてくれ」

「ここからが重要ですからね。まず日程ですが、来月の23日に本土の呉海軍工廠にてお二人の艤装改装が実施されます。最低、その三日前には本土入りしていなければいけませんので、19日の日曜日にはこちらを発つようにします」

「へえ。いよいよこの二人も本土の土を踏めるようになったのか」

「ええ。それも偏に皆さんの努力の賜物です」

 

 まるで自分のことのように黒檜は誇らしげに言った。彼女もまた二人の“理解者”であり、他に類を見ない異色の経歴を持つ駆逐艦二人に対して寛容であった。

 それは、嵐と萩風の二人が過去に深海棲艦であったこと、人類の敵として振る舞い今の仲間たちを撃ったこと、それによって少なくない数の犠牲者が出たことを、ようやく海軍が受け入れ始めたことを示していた。本来であればそれが許されざる罪であることを嵐も萩風も否定をするつもりはないが、だからと言って辞退するのは喜んでくれる江風や黒檜の顔に泥を塗ることになるだろうし、それは誰にも望まれぬ選択肢だ。

 とは言え嵐には江風ほど手放しに改装を歓迎することは出来なかった。むしろ、自分たちの罪を誰よりも深く理解しているからこそ、こういう形で「ご褒美」を頂戴出来ることに戸惑いと良くない疑念を抱かずにはいられない。ふと横を見るとタイミングよく萩風もこちらを見ていたので視線が合った。どうやら彼女も同じ心持ちらしい。

 単純に「ご褒美」と考えていいものではない。嵐も萩風も、主力駆逐艦と名高い「陽炎型駆逐艦」の艤装を背負う艦娘であり、従来とは一線を画した艦隊型駆逐艦として、ネームシップ以下最前線への配属が多い艦型だ。それが二隻も、しかもめきめきと練度を上げている。となれば、慢性的な戦力不足を嘆く海軍の上層部が諸々の事情に目を瞑って“元深海棲艦”に改装を許可したのは想像に難くない話であろう。必ずしも各拠点の現場ではそうではないのだが、軍内では広く小型艦の数的不足が知られていて、少なくとも最新鋭の「陽炎型駆逐艦」十九隻では物足りず、改良型で準姉妹艦と言える「夕雲型駆逐艦」の建造が始まったのだが、これが実戦運用可能になるにはまだ時間がかかる。その辺の事情というのは、情報通でもない嵐でさえ知っているようなことなので、改装命令の背景は誰にだって容易に想像出来るだろう。

 もっとも、真実が何にせよ、貰える物は貰っておくべきだ。改装自体はデメリットのないものだし、何よりこういう形で支えてくれた人々に恩返し出来るのは嵐としても本望である。彼女たちの喜ぶ顔を見られるのは悪い気はしない。改装を受けられること自体よりも、むしろそちらの方が嵐にとっては良いことのように思える。ああ良かった、ここまで来れたんだ、と。

 ようやく、あの二人に追い付いている自覚を持てたんだ、と。それが何よりも嬉しかった。自分たちの遙か先を行く姉妹艦。今日もどこかの最前線で戦っているであろう小さな英雄たち。いつの日か、あの二人と並んでまた元の第四駆逐隊に戻るために、すべてはそのために、嵐も萩風もがむしゃらにやって来たのだから。

 

 

 

 

 

「もう一つ、連絡事項があります。嵐さん、いいですか?」

 

 黒檜はおもむろに話題を変えた。敬礼しながら整列する軍人たちの作った花道を歩きながら、手を振る(自分も含めた)四人の駆逐艦娘の姿を思い浮かべていた嵐は呼び掛けられてようやく空想の世界から現実に引き戻された。そのような空想が実現し得るかはさておき、まずは目の前の現実と少々頭の固い艦娘担当者を相手にしなければならない。黒檜は温厚な人柄なので多少のことなら優しく咎めるくらいで済ましてくれるが、だからと言って調子に乗っているとさすがに怒られるだろう。

 普段穏やかな人ほど怒った時は怖いと聞くが、黒檜はまさにその例えに当てはまる人物だ。嵐は彼女が本気で怒ったところを一度だけ見たことあるのだが、普段の温厚さからは想像出来ないような激しい怒り方だった。しかもそれがほぼ初対面と言える時期のことだったので、第一印象として黒檜は恐ろしい人と嵐の脳にはインプットされてしまっているし、今後彼女の怒りをまた目にする機会がなければ幸福だろうと考えている。ついでに言うと、どことなく黒檜は仮面を付けて振る舞っているように見えるので、その下の素顔というのが想像つかない。そういう底知れなさが彼女にはある。

 

「何だい? 江風の二回目の改装かい?」

 

 と、ちっとも黒檜の機嫌なんか考えていない嚮導艦が余計な茶々を入れる。彼女は大抵の相手に対して、性別も年齢も、そして階級さえも気にすることなく同じようにフランクな態度で接し、しかもそれがどうしてかあっさり受け入れられてしまう。生まれついてのキャラクター性が不躾とも言える態度を許してしまうのだ。ある意味ではすごい才能だが、黒檜も江風のことはよく知っているもので、多少本気で目を輝かせた彼女を「いいえ、違います」とにこやかに切り捨てた。

 続いて、黒檜は柔らかな営業スマイルをさっと顔から消し、一転神妙な面持ちでこう言った。

 

「本省からの連絡がありました」

「へえ」

 

 フザケていた江風の目付きが変わる。お調子者の軽薄な駆逐艦から、最前線で叩き上げられた歴戦の兵士への顔になる。本省とは、言わずもがな。市ヶ谷の海軍省のことである。

 

「なンて?」

「明日の夜、シンガポールであるパーティが開催されます。その際に、シンガポール基地として周辺警備にあたるようにという命令です」

「パーティだと?」

 

 黒檜の口から発せられたこの場にそぐわぬ単語は当惑を持って受け止められた。訝しむ三人の駆逐艦娘を代表して、江風がオウム返しに問い質す。

 一方の黒檜は相も変わらず淡々と淀みなく解説を加えた。

 

「場所はザ・フラトン・ホテル・シンガポール。名前は聞かれたことがあると思いますが、シンガポールで最高級のホテルの一つに数えられています」

 

 シンガポールの都心を穏やかに貫く川がマリーナ湾に注ぎ込む河口を見下ろす位置に荘厳な建物がある。それがザ・フラトン・ホテル・シンガポール。すぐ傍はシンガポールの金融街であり、壁のような高層ビルが立ち並ぶダウンタウンだ。現在、ホテルとして利用されている建物は元々郵便局として建てられたもので、だから中心街に隣接した立地となっている。また、シンガポールを象徴する“水を吐く”マーライオンの像も至近にあり、湾側からビル群を背景にマーライオンの写真を撮った時に、その中にこのホテルも映り込むような近さである。 

 だから、名前だけなら確かに嵐も耳にしたことがあった。自分とは縁もゆかりもない、一部の金持ちたちだけが宿泊することを許されるような別世界のホテルだと思っていたのだが、まさかこんなところでこんなふうにその名を耳にするとは思いも寄らなかった。そもそも、黒檜にホテルの名前を出されてもすぐに思い出せなかったくらい、自分とは程遠いところにあった場所だ。

 しかし、どうやら今回はこの高級ホテルが海軍基地の会議室で話題に上る事態らしい。本省が海外の高級ホテルで開かれるパーティに首を突っ込もうとしているのは不自然だし、その時に艦娘を警備に就かせるというのはもっと不自然なことだった。その理由はすぐに黒檜の口から語られる。

 

「ある、イギリスの企業の代表が主催するパーティーです。その会社の名前は『サルマン社』で、あの緊急修復剤を精製したメーカーです。実は基地司令と私が招待を受けていまして。指示はオペレーターに任せますので、ちゃんと従ってくださいね。特に江風さん」

 

 名指しを受けた駆逐艦は悪戯っぽく舌を出した。黒檜は呆れ半分で江風を睨む。

 

 サルマン社の名前自体は聞いたことがあるし、緊急修復剤も末端のシンガポール基地までは届いていないものの、海軍全体では急速に普及し始めていると有名である。これは、いわゆる「バケツ」の俗称で親しまれる高速修復材をさらに濃縮し、注射という形で艦娘の体内に打ち込むことで応急処置を可能とするダメージコントロールの一種だった。このシンガポールに緊急修復剤(早速「注射」という愛称が付いた)が届くのも時間の問題である。

 その「注射」の開発元がわざわざ南国の島にやって来て、豪奢なホテルで豪奢なパーティーを開くのだという。どう考えても日本海軍へのさらなる売り込みが目的だろう。これなら本省が把握しているのも、艦娘に警備させるのも納得だ。

 

「今までブラックボックスだった妖精の技術の応用に初めて成功した企業です。シンガポール国内のみならず、各国から国際企業の重役たちが集まりますし、我軍からも艦政本部長以下の幹部たち、国連海軍の幹部などの錚々たる面子が一同に会する重要なパーティーとなるでしょう。噂では、ロイヤルネイビーの代表、『ウォースパイト』もやって来るそうですからね。気を引き締めて任務に臨んでください。そこはいつも通りです」

「ン、分かった」

 

 江風はあっさりと頷いて、それからもうその話には興味をなくしたようだった。嵐も萩風も質問を投げなかったので、「それでは解散してください」とだけ言い残して、忙しいのか黒檜は会議室をさっさと出て行った。

 しかし、そんな艦娘担当官とは対照的に、仕事が終われば真っ先に休みたがる江風は立ち上がる素振りすら見せない。この後のスケジュールは自由時間と言う名の休憩時間に、食事と風呂、最後にルーチンの部屋掃除が入っているだけで、実質課業はこれで終わりと言えた。いつもなら伸びをしながらそそくさと自室に戻るであろう嚮導艦は、何やら考え込んでいる様子である。

 萩風と顔を見合わせると、彼女も首を傾げた。恐る恐る背中を丸める江風に声を掛けてみる。

 

「あの、江風さん。何かあるんですか?」

「ン?」

 

 そこでようやく後輩二人も残っていることに気付いたかのように江風は少しだけ顔を横向けた。

 

「ああ。ちょっと、な」

「気になることでも?」

「まあな。あ、そうだ。お前ら、明日のパーティの警備の時、ちゃンと装備を考えて選べよ。何が起こるか分かンないからな」

「え? それって……」

「いい夜になりそうな気がするぜ」

 

 そう言って江風は立ち上がり、質問を受け付けない気配を出して会議室を後にする。残された嵐は再び萩風と顔を見合わせるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督39 At the party

赤城さんと加賀さん、おめでとう!


 

 シンガポールに近年出来た新しいランドマークと言えば、三棟並んだ高層ビルの上に巨大な「船」を乗せたような形の建物だ。このマリーナ・ベイ・サンズという奇抜なホテルから夜間に放たれる緑色のレーザーが向かう先、マリーナ湾を挟んで対岸にあるのがザ・フラトン・ホテル・シンガポールである。二十一世紀の夜明けとともに開業したため、ホテルとしての歴史は浅いが、建物自体はこのマレー半島の先端の島が植民地だった頃から存在している由緒正しいものだ。

 フラトン・ホテルの立地するシンガポール川河口の一帯は元より都市国家の古くからの中心街であり、ホテルになる以前の建物の主な使い道は郵便局であった。その名残に、ホテルとして蘇った現在でも内部にはかつて使われていたポストやセピア色の写真が展示されていて、訪れる全ての人が往時を偲べるようになっている。

 一時は植民地政府も入居していた関係か、建物はパラディアン様式の非常に豪奢なもので、重厚さと美しさの計算され尽くした調和が見る者すべてを圧倒する。夜間には柱廊の内側からライトアップされ、影になる屋根とのコントラストを際立たせる。

 そんなシンガポールでも有数の最高級ホテルだが、今夜ばかりはエントランス前に並ぶ高級車の車列でその豪華さに輪が掛かっていた。世界中から富裕層の集まるシンガポールにおいても、これほどまでに高級車を一度に目にする機会はそう多くはないだろう。ロールスロイス、ベントレー、フェラーリ、マイバッハ、ポルシェと、見ているだけできらめくボディの輝きに網膜を焼き切られてしまいそうな車が揃っている。

 だが、もちろん車の展示会が行われているわけではない。ただ単に、今日このホテルで行われるパーティーの参加者が、各々自慢のマシンでホテルに乗り付けただけなのだ。参加者たちはすでに車を降りてホテルの中に吸い込まれていった後だった。

 

 

 自分は今、かなり場違いなところにいるんだと黒檜は居並ぶ高級車を前にして臆している最中だった。そもそもここに集まっているのは、若く鋭気ある実業家や老練で成熟した投資家、自信に満ち溢れたひと目で高給取りと分かるビジネスマンといった民間人や、シンガポールとその周辺国の政治家、普段大きな階級章を引っ提げているような高位の軍人たちであり、所詮は大尉でしかない黒檜には来る資格さえ与えられていない気がしてならない。最初にそう思ったからこそパーティーの主催者から“何をまかり間違ったのか”招待状が届いた時、きっぱりと断るつもりだった。だが、上から命じられては行くしかなかった。組織人の悲しい宿命である。

 宿命と言えば、もう一つ。黒檜はれっきとした日本国軍人であるから、特別な場合やプライベートを除いて、常時制服を着用していなければならない。それは、このような奢侈な場でも例外ではない。「軍人服装規定」により、第二種夏服を着用している。海軍軍人の代名詞ともなっている、真っ白い軍服だ。輝かしいホテルの中にあっても目立つ純白は衆目を集めてしまうので、集まる視線にますます場違いなところに来ている気がして、緊張と羞恥ばかりが全身を支配していく。

 あまりにも住む世界が違いすぎる。正直に言ってなどと前置きしなくとも、黒檜は今すぐにでも帰りたかった。綺羅びやかさとは程遠い、無骨で無機的な軍事基地がひどく懐かしく思えてくる。むしろそうした場所に居て、質素で機能的な作業服を身にまとう方が余程自分にはふさわしいだろう。どうしてもこのホテルに入らなければならないのかという、今日幾度目かの疑問は、しかし半歩前を歩く老年の将軍には口が裂けてもぶつけられないもので、先程から不満を漏らすことはおろかそれを顔に出すことさえはばかられることに、黒檜はとても抑圧された気分だった。

 彼こそがシンガポール租借基地を治める「提督」、柳本海軍中将だ。

 恐らく、この、小さいながらも重要な基地での指揮がその長い経歴の最後に添えられる花であろうと思われる彼は、退役間近な年齢ながら壮健で筋肉質の堂々とした体躯の持ち主で、高身長であることも相まって白い軍服が非常に似合っている。だからこそ余計に(緊張で凝り固まっていることが表に出てしまっているであろう)自分のことが対比的に悪目立ちするようで嫌なのだ。彼と黒檜とでは年齢が父と娘と言えるほど離れているので、若い黒檜が護衛を兼ねた付添として連れて来られたのだが、これではどう見ても柳本の方が頼り甲斐があって“強そう”に見えるではないか。しかも、太平洋と時代の荒波に揉まれ続けてきた彼は、内心動揺しっぱなしの黒檜とは違って、こんな華やかな社交の場においても威風堂々と振る舞っている。年の功と言ってしまえば、それはその通りなのだが……。

 彼は臆することなく、まるでそこに来るのが当然のように淀みない足取りでホテルのエントランスをくぐり抜ける。丁度入口になっている回転ドアの前にボーイがおり、彼は恭しく頭を垂れて客人を迎えた。軍隊というのはどこでも格式張ったことが大好きなので、黒檜もこの手の歓迎というのはするのもされるのも十分経験済みだが、とは言え民間ホテルの出迎え方というのはまた一味違っているようだ。その違いの故、そして元より緊張が極まりつつあった心理状態だったこともあって、いよいよ掌が妙な汗に濡れ始めていた。自分でも動揺して視線が泳いでいる認識がある。

 だがしかし、目の前の将軍は部下の異変などちっとも気に留める様子もなくどんどんと進んでエントランスからロビーに入って行った。足取りこそゆったりとしているものの、歩幅の違いか黒檜はやや早足で付いて行かなければならない。そして、ロビーに入って思わず足を止めることになった。

 

 こここそがこのホテルの最大の特徴であり、顔でもある巨大な吹き抜けの空間だ。頭上は大きな採光窓となって昼間は陽光がロビーに降り注ぐようになっているのだが、地上階から最上階までが一気に開いているので非常に広々としている。この吹き抜けを囲う内壁には窓やベランダが取り付けられており、客室でもあるのかと黒檜は思ったのだが、チラホラと人の顔が見えるのでそれは思った通りのようだ。世にも珍しい「ホテルの内側を向いた」客室であるが、それこそがこのホテルが絶対的な自信を自分に抱いている証拠と言えよう。

 ホテルが“中の景色”として売りにするだけあって、ロビーと吹き抜けはとても豪奢で優雅だ。吹き抜けの地上階には「コートヤード」という有名なカフェがあって、黒檜もホテルの名前と一緒に耳にしたことがあった。もうすぐ夕食の時間だが、カフェでは優雅にくつろぎながら紅茶を飲んでいる人が何人か見えた。こんなところで紅茶を飲めたら、それは最高の時間になるだろう。

 だがいつまでも圧倒されているわけにもいかない。気を取り直して先に行ってしまった柳本の背中を探すと、意外にもその姿がすぐには見付けられなかった。部下を黙って置いていくような人物ではないので、きっと近くに居るのだろうが、ロビー内にはパーティ参加者やその付き人、あるいは関係のない宿泊客などで案外混み合っており、全体を見渡せない。正面にはグランドステア――地下一階に繋がる大階段があり、上から見下ろしても地下階に彼の姿は見当たらない。左右を見回していると、ロビー内にたむろする人の合間から見慣れた上官の後頭部を発見した。

 黒檜は早足で柳本の下に近付いた。彼は入り口から入って左手、カフェの向こう側に居て、誰かと挨拶を交わしているようだった。そこはホテルの歴史を説明するギャラリーで、小さなブロックソファが並べられており、将軍と向かい合っている二人の人物はそこで彼を待っていた様子だ。

 一人は壮年の男性で、もう一人が若い女性。二人ともスーツ姿で一見してビジネスパーソンに見えるが、柳本に対して十度の敬礼をして、柳本も規定に則って答礼しているので、彼らは軍人なのだろう。けれども、黒檜はこのホテルで“身内”と待ち合わせをしていたなど一言も聞いていなかった。慌てて柳本の隣に並び、黒檜は二人に名乗った。

 

「シンガポール基地の黒檜です。お初お目に掛かります」

「情報保全隊、中佐の村井だ」

「同じく、情報保全隊付、最上型巡洋艦三番艦の鈴谷です」

 

 名乗りを受けた瞬間、黒檜は二つの違和感を抱いた。一つは、“情報保全隊”がこの場にいること。彼らの本来の役割はその名が示す通り「防諜」であり、どちらかと言えば反戦団体の集会にこっそりと潜入しているような泥臭い仕事のイメージで、このようなパーティーの場に出て来ることは職務の範疇に入りそうにない。地味なスーツなので、華やかなパーティーのドレスコードを満たすような格好ではない。

 二人がこの場に居る理由で、すぐに思い付くのは、「海軍軍人倫理規定」に関わることだ。今夜のパーティはクリスティーナ・リーというイギリスの実業家の主催するものだが、彼女は海軍が調達している「緊急修復材」の供給メーカーの代表者である。すなわち、彼女は海軍の利害関係者。その利害関係者の主催するパーティに、軍人はおいそれと参加してはならない。下手をすれば(しなくても!)、癒着を疑われてしまう。ただし、多人数が参加する場合においてはその限りではない。

 もっとも、それは倫理規定がそうなっているのであって、海軍という組織がどう考えるかはまた別の話だ。

 つまるところ、彼らの目的はパーティの監視、もっと言えば新進気鋭のイギリス人実業家が、誇り高い海軍軍人に小賢しく賄賂を贈ったりするような人物ではないか見極めに来た、といったところだろうか。

 もちろん、これは憶測だし、そうでない可能性も十分ある。だから、黒檜は素直に村井に目的を尋ねてみた。「あの、お二人はどうしてここに?」

 

「一言で言えば『調査』だ。サルマン社と彼らが開発した製品については、海軍自体がかなり注目していることなのでな」

「じゃあ、本省がパーティ会場周辺の警備をしろと命じたのは何故だい?」

 

 煙に巻こうとする村井へ、柳本は鋭い問いを投げた。村井は少し困ったような顔になる。ここで、柳本にそのことを追及されるとは考えていなかったのだろう。上司に助け舟を出したのは、隣の艦娘であった。

 

「失礼ですが、中将はご存知でしょう。この場では言えませんが、先週起こったことです」

「あれか……」

「そうです。その絡みです」

 

 予想は外れた。というより、黒檜には全く意味不明のやり取りだったが、柳本は納得したようだった。その様子から、言及されたのは恐らく機密事項に該当する事柄なのだろうと察する。それなら、必要なければ黒檜には情報が開示されないので、何のことかを予想するのは無意味だ。

 故に、黒檜にとって気になるのは鈴谷の存在。これが違和感の二つ目。まず、「情報保全隊付」などという役職の艦娘が存在することが初耳だし、“最上型”の艦娘が所属しているというのもおかしい。

 

 最上型というのはかつて重巡の艦型の一つだった。「だった」というのは、今は重巡ではないからだ。彼女たちの現在の艦種は「航空巡洋艦」。重巡に準ずる艦種であるが、重巡並みの打撃力を維持しつつ、重巡には扱えない水上爆撃機を多数運用可能なように特殊な改装を施された艦娘たちである。その意義は水上打撃部隊に限定的であっても航空戦力を自力で賄うことを可能にさせ、作戦行動の基本となる偵察能力の大幅な強化にある。だからこそ使い勝手のいい航巡は人気だし、実際鈴谷の“姉”たる最上型の一番艦と二番艦は最前線で引っ張りだこになっているという。

 すなわち、航巡というのは非常に戦術的価値の高い、貴重な艦種なのだ。それが最前線ではなく後方でしか活躍の場がなさそうな情報保全隊の艦娘をしているというのだから、これをおかしいと思わない方がおかしい。

 持ち物を見ても、小さなハンドバッグしか持っていない。艤装は持って来ていないようだ。それも当然。艦娘の兵装はその大きさからすれば明らかに過大な破壊力を持っている。文字通り、鋼鉄の軍艦に匹敵する火力があるのだ。そんな危険物を、言うなれば軍艦の主砲を、街中のホテルに持って来るような酔狂は居ないし、居てもらっては大いに困る。

 

「何にせよ、ここにはシンガポールや日本のみならず、世界中から重要な人物たちが集まって来る。くれぐれも、よろしく頼むよ」

 

 柳本は、彼からすれば吹けば飛ぶような遥かに階級が下の二人に向かって重々しく釘を差し、釘を差された方の二人も恭しくお辞儀をした。

 

 

 

****

 

 

 

 

"Welcome、ladies and gentlemen! Good evening. I cannot help being grateful to you for attending our party today."

(ようこそ、紳士淑女の皆さん。こんばんは。今日は私たちのパーティにお集まりいただいたことに感謝の念を禁じえません)

 

 

 ゆったりとして軽やかな英語が耳に心地良く響いた。

 この、フラトン・ホテルでも最大の面積を誇るバールルームにはパーティーに招待された参加者たちが一同に集まっている。彼らの視線の先には床より一段高く設けられたお立ち台があり、その背後の壁には三つの大きなモニター画面が据え付けられていて、画面にはこのパーティーを主催する企業のロゴマークが表示されていた。真ん中と向かって左のモニター画面の間、お立ちの端に置かれた細い演台の向こうでスピーチを始めた人物が居た。主催者、サルマン社代表のクリスティーナ・リーである。

 

"I believe that the new products we have developed causes a huge change in the war between the humans-fleetgirls union and the abyssal fleet. However, if our products were the things only for that, you would not have come here like this today."

(私たちが開発した新しい製品は、人類・艦娘の連合と深海棲艦との戦争に一つの大きな変化をもたらすものと信じております。しかし、私たちの製品がただそれだけのための物であるとしたならば、皆さんが今日ここにこうしてお集まりされることはなかったでしょう)

 

 リーは会場を見渡しながら淀みなくスピーチを続けた。彼女はネイティブだが、ネイティブらしい単語と単語が繋がった早口の英語ではなく、英語が得意な人も不得意な人も聞き取りやすいように、しっかりと単語同士を区切った発音と平易な表現に腐心しているようだった。

 

"Even though it was partial, we have succeeded elucidating 'Fairy's technologies' which had been black boxed until then and could not be clarified by even the most advanced science. It led to the development of Emergency Repair Material this time. I'm convinced that this success will contribute greatly to progress of the scientific civilization of humanity."

(部分的ではありましたが、私たちは、それまでブラックボックス化されていて、最先端科学でも解明出来ていなかった『妖精の技術』の解明に、成功を収めました。それにより、この度の緊急修復剤の開発に至ったのです。この成功が人類の科学文明の前進に大きく寄与すると、私は確信しています)

 

 

 まだ三十歳に達していないだろうと思われる、この若く背の高いアングロサクソンの女は、生まれついての天才的な頭脳を持って飛び級で大学を卒業した後、バロー=イン=ファーネスにあるBAEの先端技術研究所に勤め始めた。そこは軍の依頼で艦娘と深海棲艦に関わる技術の研究・開発を行っている施設で、そこが持つ役割の特性上、機密情報に触れる機会も多々あったであろう彼女の、BAE時代の功績は明らかになっていないが、どうやら艦娘の艤装の研究に携わっていたようである。彼女はBAEに勤め出してから数年後、そこを自ら退職した。

 けれど、それによって彼女とBAE、そして英国海軍の繋がりが切れたわけではない。むしろ、より以上に密接になっていたと考えるべきだろう。退職から一年、彼女はスピーチで述べたように今まで人類が手出し出来ていなかった妖精の技術を応用し、緊急修復剤を作り上げたのである。

 

 妖精の技術は、艦娘の艤装を動かし、建造し、修復する「妖精」と呼ばれる小さな人形生物の持つ技術で、「女神の護り」を与えられた艤装や名称の元になった実際の砲と同じ威力を持つ艦娘の砲、妖精が操縦するミニチュアサイズの艦載機など、現代科学では到底実現不可能な兵器を作り出す源泉である。この技術を物に出来れば、人類のテクノロジーは軽く一世紀分進歩するだろうと言われていたが、今までそのような快挙を成し遂げられた人間は居なかった。だからこそ、リーとその仲間たちが成し遂げたことがこれほどまでに注目されるのだ。

 彼女たちは妖精の技術を応用して緊急修復剤を作り出した。「応用」するには原理が分からなければならない。それはイコール、彼女たちが妖精の技術を解明出来たというのと同じこと。これがどれほどの大成功であるか、表現の仕方は筆の得意なマスコミにでも任せるとして、黒檜としては控えめに言って「ノーベル賞は当然。それですら彼女の快挙を称えるには物足らない」程度だろうと考えている。

 

 

 リーは最初に挨拶を述べた後、後ろのモニターを示し、「それでは簡単に緊急修復剤の原理をご説明しましょう」と言った。

  それから彼女は五分程度の短い間であったが、よくまとめられた緊急修復剤についてのプレゼンテーションをモニターの映像を交えて行い、ひと言挨拶してからお立ちから下りた。参加者たちはようやく思い思いに出された料理にありつける時間を迎えられた。いや、正確には参加者の一人である黒檜は、だ。

 黒檜には緊急修復剤のことなどあまりよく分からない。リーの説明は上手だったが、どうにもそのプレゼンテーションには重要な部分がぼかされているようで、釈然としないところがある。ただ、それを本人に直接聞こうにも人気者の彼女はあっという間に他の参加者に囲まれてしまったし、そもそもあまり緊急修復剤の原理に興味を持っていなかった。重要なのはそれが有用かどうかであって、今のところ艦娘担当者としてはその有用性を認めつつ、しかし逼迫した必要性は感じていない、というのが正直なところである。

 その点は直属の上官である柳本も同じ見解だ。緊急修復剤を求めるのは主に最前線の部隊であり、シンガポールのような後方に位置する基地ではあまり必要にならない。現場の艦娘たちもどちらかと言えば休暇を要求するだろう。そんな程度のことである。

 

「見ろ、ウォースパイトも居るぞ」

 

 特に何かが起こりそうな気配もないので、あくまで呼ばれたから来ただけの黒檜は早速美味しい料理に舌鼓を打っていたのだが、不意に傍らの柳本がそう声を掛けてきた。彼が目を向ける方を見ると、確かに見たことのある有名人が居た。ガラス繊維のような透き通ったプラチナブロンドの美女が、爽やかな微笑みを浮かべてシンガポールの外務大臣と談笑している。どこかの女優のような美しい容姿の彼女だが、これでも立派な艦娘である。制服も着ていないし、とてもそうは見えないが。

 

 彼女こそ、“世界最初”の艦娘にして、栄光ある大英帝国海軍の“艦婦”艦隊(Women's Fleet Service)の旗艦であり、希少な「代将」の階級を与えられた艦娘でもある。その威光はブリテン島のみならず世界中に届いており、国連軍においても全世界の艦娘の事実上の代表としての地位を認められている存在だ。

 噂には聞いていたが、シンガポールにやって来たのは本当らしかった。サルマン社は彼女にとっても肝いりの企業、ということなのだろう。

 黒檜が物珍しげに眺めていたせいか、ふと彼女は気配を感じ取ってこちらを向いた。そして、淑やかな笑みを浮かべながら軽く会釈してくれる。黒檜も思わず食事の手を止めてしまった。

 その間に、今度は柳本がどこかの企業経営者のような恰幅のいい男に捕まったので、黒檜は一人黙々と皿に料理を盛り付けるしかなかった。本当を言えば、こうした立食会でただ食べるだけというのは失礼に値するのだろう。ここは社交の場であるから、見知らぬ人との交流を深めることを目指して動かなければならないはずだ。

 けれども、ただの軍人である以外は特にこれと言って特徴がない(と自覚している)黒檜には、こういう場で誰かに振れる話題の持ち合わせというものがない。だから、黒檜は手近に居る誰かと話すより、一人で食べることを選んだ。料理が美味いことも大きな比重を占める理由だったけれど。

 しかし、黒檜がそうだからと言って周りの人間まで同じではない。彼らはむしろ、人とコミュニケーションを取るためにここに来ているのだから。

 

「ここの料理は美味しいわね」

 

 不意に流暢な日本語で話し掛けられて黒檜は飛び上がった。あんまりにも驚いたので咀嚼中だった七面鳥のもも肉の塊を喉に詰まらせるところだった。

 

「驚かせてしまった? ごめんなさいね」

 

 彼女は艶やかに微笑んだ。二度目の衝撃を受けていた黒檜に返す言葉はない。

 というのも、目の前に立つ美しい女は、先程まで演台でプレゼントをしていた主催者なのだ。何もしなくとも人だかりに囲まれてあっという間に姿が見えなくなってしまうような人気者なのに、今は一人で黒檜の傍に寄って来ていた。柳本に助けを呼ぼうとして目だけで彼を探すと、いつの間にやら二つほど離れたテーブルで若い男と楽しげに談笑中である。つまり、黒檜は何故か主催者と一対一で話さなければならない状況になってしまっていた。

 出来るだけ目立たず、この時間をやり過ごそうとしていたのに、一体全体どういう運命のいたずらで時の人から話し掛けられる事態になったのだろう。確かに黒檜の所属する組織は彼女の会社の主要な顧客の一つであることには間違いないが、別に黒檜には調達に関しての決定権などないし、実質的なユーザーである艦娘でもないのだから、まったくもってリーが話し掛けてきた意図が見えてこなかった。

 

「では、改めて。私はクリスティーナ・リーよ」

「日本海軍シンガポール基地所属の黒檜……です」

「基地所属! そう、貴女は艦娘ではないのね?」

 

 やっぱりそうか、と黒檜は一人納得する。艦娘は皆若い女性であるし、黒檜も艦娘と言えなくもない容姿をしているから、たまに間違えられることがある。リーも同じなのだろう。

 

「でも、それで失望したりなんかしないわ。普段は何をしているの?」

「艦娘の管理担当をしています」

 

 リーはどういうわけか少し興奮気味だった。まるで十代の少女のように透き通った赤い瞳を輝かせ、コロコロと表情を変える度に少しずつ頭が動くので、緩やかに結い上げたウェーブの掛かった髪がふさふさと揺れる。大人びた真紅のドレスに対して、その子供っぽい振る舞いが、彼女をどうしようもなく魅惑的に見せていた。

 

「あら。ということは、私の招待を受けてくれたということなのね。嬉しいわ」

「ま、まあ。色々ありますし……」

「こういう場は初めて? でも、今の貴女はとても輝いているわ。白い制服が綺麗ね。大理石のよう」

 

 海軍軍人が白い制服を着ているなど珍しくもないし、彼女の国でだってそれは同じだ。それに、まさか同性からそのような言葉を掛けられるとは思ってもいなかった。

 答えに窮しているうちに、リーはまだペラペラと機嫌良さそうに喋り続ける。

 

「私としては現場で私たちの製品を使うユーザーの意見を聞きたいの。それを今後のさらなる開発に取り入れていきたい。貴女はどう思うかしら?」

「ええっと……」

「それとも、『マラッカの海賊を追い払うのに私たちの製品は必要ない』かしら?」

「……」

「当たりね。意地悪を言ったわけじゃないから気を悪くしないで。軍隊というのは合理性の組織だから、必要のない物をいたずらに発注したりしないのは知っているよ。でも、私にはいつかあれが必要になる日が来ると分かるわ」

「そうでしょう、ね」

「そうよ。いずれは皆、それも遠くない将来に。もちろん、貴女もね」

「……え?」

 

 意味深なリーに反射的に問い返す。だが彼女は口の端を釣り上げるだけだった。

 リーは美女だ。顔のパーツの配置は完璧で、しかも頭蓋骨の大きさに対しての目鼻口の大きさの比率もちょうど良い。まるで誰かが「美しくなるように」整えたような美貌だ。自然の造形美とは思えないほどの美しい顔で、彼女は柔らかく微笑む。天使のような、それでいてどこか不安にさせるような微笑みだった。彼女の声に心臓が反応し、激しく鐘を打つように四回も動悸する。血の色が映っているような紅い瞳が黒檜を見据える。透き通るような眼に、己の全てを見透かされたような気がして、黒檜は眩暈を覚えた。

 

 ――いや! この感覚、どこかで……。

 

 デジャブが訪れる。どうしてか、自分が“覚えている”ことに黒檜は気付いた。

 おかしい。リーとは初対面なのだ。彼女の顔を今まで写真で見たこともない。声を聞くのも、顔を見るのも、すべて今日が初めて。知っていたことと言えば彼女が「クリスティーナ・リー」という名前で、バローのBAEシステムズ社先端技術研究所の元所員で、現在はサルマン社という企業の代表を務めているという、書類を読んで覚えただけの知識のみ。だから、黒檜が彼女についてエピソード記憶を想起し得るはずがない。

 きっと何か、よく似たものの記憶が引っ掛かっているのだ。それがあまりにも脳の奥の深い部分に仕舞い込まれていて思い出せないだけだ。

 

 

 

「上々ね」

 

 

 

 彼女は一言呟いた。それは、時折黒檜が口に出す癖だった。

 偶然? まさか意図的ではないだろう。たまたま、彼女がそういう言葉を選んだだけだ。数万語もある日本語の単語の中から、黒檜の口癖となっている「上々」という言葉を彼女が偶発的に選択する確立というのは、ゼロではないのだから……。

 

 だが、何が良かったのだ? 何が「上々」なのか?

 

 その答えを問い質す前に、リーは呼ばれて黒檜の前を離れていってしまう。彼女を呼んだのは、先程まで外務大臣と話していたはずのウォースパイトだった。

 栄えある英国艦隊の旗艦は、ちらりと黒檜に視線を投げると、今度はさっきのように愛想を見せてはくれなかった。彼女はどうやら不機嫌のようで、視線にも表情にも冷たさが垣間見えた。

 一方で、黒檜に背を向けるリーの足取りは楽しげで、手に持ったワイングラスの中身が盛大に揺れて零れそうになっているのも気付いていない様子だ。二人は間もなく合流し、すぐに要人たちに囲まれてまた姿が見えなくなってしまった。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

  どうにも黒檜にはこうした華やかな社交の場というのは合わないらしい。料理は美味しいが食べ続けているわけにもいかないようで、あの後リー以外にも何人かから話を振られ、その度に適当に受け答えしてやり過ごすことになった。自分とはまったく違う世界に生きる人々に話を合わせるのは思いの外、労力の要求されることで、宴もたけなわになる頃にはすっかり疲れ切ってしまっていた。

 致し方なく柳本には一言断って会場を辞すことにした。これ以上パーティーに居てもただただ疲弊していくだけだろうと思ったからだ。

 パーティー会場から出て、吹き抜けのロビーに戻る。驚いたことに、カフェ「コートヤード」はまだ営業していて、時間が遅いために人数こそ数えるほどしかいないものの、それでもチラホラと利用客の姿があった。だから、黒檜もすぐに彼女の姿を見つけることが出来た。

 

「ずっと、待ってるの?」

 

 鈴谷は空になったカップを置いたままスマートフォンを抱え込むように見ていたが、黒檜が前の席に腰掛けると気配に気付いて眠そうな目を向けた。姿勢が悪くて目が悪くなりそうだ。

 

「えっと、まあ」

「村井中佐は?」

「一服に」

「そっか。私は疲れたから出て来ちゃった」

 

 鈴谷の顔にははっきりと不信感が表れていたので、黒檜は正直に言った。すると彼女は黒檜にはもう興味を失ったようで、背もたれに体をあずけると、「ああいうのは肩が凝りますよねぇ」と呟いた。

 どうやら、彼女は勝手にパーティーから逃げ出したことを咎めるほど真面目な性分ではないらしい。見た目からして「遊んでる学生」のような鈴谷だが、良くも悪くも寛容なのはありがたい。これで小言の多い相棒のようだったら、せっかく逃げ出して来た意味がなかった。

 

 

 

「……ぃ。……い。黒檜大尉!」

 

 気付くと、鈴谷がひどく不審げな顔でいる。「どうしたんですかぁ?」と間延びした声が訊いてくるので、黒檜は少しだけ頭を振って答えた。

 

「何でもない。思ったより疲れてるみたいだわ。少し、外に出てくるわね」

 

 と言って立ち上がり、黒檜はそそくさとカフェを後にする。鈴谷は興味がなさそうに「はーい」と上辺だけの返事をした。

 

 まただ。また、記憶に齟齬を感じた。

 今度は先程のデジャブよりもはっきりしている。思い出したこともない誰かの存在が、明瞭に脳裏をよぎった。でも、今はもうそれが誰だったのか思い出せない。それが妙な苛立たしさとなって黒檜の胸の内に少しの荒廃をもたらす。景色でも眺めて気を落ち着かせようと、メインエントランスを出てホテルの目の前に掛かっている吊橋のたもとに足を運んだ。

 

 この橋はカベナ橋と言って、シンガポール川に架かる最古の橋らしい。有名な観光名所で、もうだいぶ夜が更けた時間にも関わらず、結構な人通りがあった。中心街に近いし、そもそもシンガポール自体が不夜城のごとく明るい街だから、四六時中人の動きはある。フラトンホテルの目の前をシンガポール川が流れており、岸壁の上からはビルの夜光を反射する水面を見下ろせた。ちなみに、カベナ橋のたもとには面白い物があって、川に飛び込んで遊んでいる五人の子供の銅像が設置されているのだが、岸壁から飛んだ子、飛ぼうとしている子、それを岸壁に腰掛けて眺めている子など、今にも動き出しそうなリアルな像で、ここではちょっとした名所となっている。

 それは、きっとかつてこの川辺で見られた光景なのだろう。真っ先に飛び降りた少年など、両手を広げてまるで宙に浮いているようだ。「落ちそう」と思って“五人”を眺めていると、不思議と心が落ち着いた。

 黒檜はゆっくりとした足取りで川沿いを下り始める。すぐ右手にはホテルのカフェテラスがあったけれど、営業時間を過ぎているのか人気はなかった。名所となっているカベナ橋から離れていっているせいか、人通りもめっきり少ない。ほとんどの人は橋を渡り対岸に行くか、渡って来てホテルの前を行き過ぎていく。子供たちの像のすぐ傍には岸壁から水面近くまで降りていく階段があって、リバークルーズ船の乗り場になっている。今はそこに一隻のボートが接岸されており、波に揺られるたびに軋んで音を立てていた。

 

 落ち着いてくると、頭の中を整理する余裕が生まれた。記憶の齟齬について、黒檜は考えをまとめ始める。

 そもそも、自身の記憶に不明瞭なところがあるのは知っていた。はっきり言えば、およそ一年より前から、軍に入隊する前までの記憶が思い出せないのだ。医者によるとその期間のエピソード記憶がごっそりの抜け落ちているような状態らしい。逆にそれ以外の記憶は異常なく、黒檜は海軍の細かな規則をちゃんと覚えているし、入隊後に徹底的に身に叩き込まれたであろう敬礼の仕方やロープの結び方は、思い出そうとしなくとも体が覚えている。戦傷によって頭部にダメージが有り、致命的にこそならなかったものの海馬に傷が生じたため、と説明を受けた。海馬が司るのがエピソード記憶なので、一部欠落している箇所があるそうだ。

 ただ、海軍軍人として必要な知識は消えていなかったことが幸いして、黒檜は再就職先を探さなくて済んだ。どこかのお人好しが記憶を失った黒檜の後ろ盾となってくれたらしく、その人物のお陰で療養の意味合いも含み、後方で安定したシンガポール基地に配属してもらったのだ。それが、十ヶ月程前の話。

 実を言うと、黒檜は後ろ盾となってくれたその人物のことを何も知らない。海軍の関係者であることは間違いないのだが、階級や立場はおろか、性別すら分からない。ただ、シンガポール基地に配属された時に柳本にどうしてシンガポールに飛ばされたのかを率直に尋ねたら、彼が言ったのだ。「君の後ろ盾になったお人好しからの頼みごとでね。あれには借りがあるから受け入れたんだよ」と。

 どうやらその人物は柳本とは知古の者らしいが、正体をそれとなく探っても彼は教えてはくれなかった。余程秘密にしておきたい何かがあるのか、黒檜の意図は分かっているだろうに彼は少しも答えてくれない。ただ、その人物がどれだけお人好しであろうと、少なくとも一度も会ったことのない相手にこのように情けをかけるとは考えづらいので、恐らくは記憶がなくなる以前に知り合っているのだろう。問題は、黒檜がそれを覚えていないことなのだ。

 知らないと言えば、実は記憶が失われている期間に何があって、どういう経歴を持っていたのかということを、黒檜はまったく教えてもらえていない。そもそも記憶喪失になった経緯すら不明で、何らかの戦傷によるものということまでは予想がつくのだが、どうしてかそれは明らかにされていないのだ。このシンガポールに配属されて十ヶ月。時折、滞りなく艦娘担当者として彼女たちの世話や管理を卒なくこなせていける自分自身に対して、何者であったのかという不信感を覚えることがある。

 自分のことを調べようという意志もあった。けれど、忙しさを言い訳にして行動に移していない。本音を言えば、怖いのだ。自分が何者で、何をしてきて、どうしてこうなったのか。自分にとって最も身近である「自分」という人間が、自分にとってまったく未知な人物であることの矛盾と、その矛盾を解消した時に目の前に晒されるであろう真実に向き合う覚悟がない。

 それを臆病となじる理性があるのも事実だ。しかし、「知らぬが仏」という言葉もあるように、必ずしも真実を明らかにしておくことが最善であるとは限らない。という見解が今のところ黒檜の心中の大部分を占める。葛藤するほど悩んでもいないし、そこまでせめぎ合う気持ちもない、まあ、要するに、逃げているのだ。真実を知ることから。

 このような“自分のことを覚えていない自分”に対して不信感や不快感を覚えたとしても、今まで黒檜はそのことに真面目に向き合わなかった。そんなことをしなくとも、気のいい駆逐艦たちや、鷹揚な上官に恵まれ、心地良い職場があって心地良い日々を送れていた。そうやって日々の忙しさにかまけていれば恐ろしい真実に目を向けないことへの言い訳が立てられていたのである。

 ところが、このパーティーに参加して二度、黒檜は自分の記憶に疑惑を抱かざるを得なかった。一度目はデジャブ、二度目は違和感。どちらもはっきりしたものではないが、何かを思い出しかけたということは自覚している。

 柳本が過去のことを教えてくれなかったのは、黒檜がそれを知ることを望んでいないと見抜かれていたからだろう。実際、今でも恐ろしいのだ。パンドラの箱を空けてしまうのではないかと思って。

 黒檜の身近には重い過去を背負っている者たちが居る。かつて深海棲艦「駆逐水鬼」として海軍や人類に牙を向いた百十七駆逐隊の萩風と嵐がそうだ。数奇な運命を辿り、多くの壁や困難に阻まれながらもそれらを超克し、周囲の理解者に助けられながら、過去に潰されず前へ進んでいる二人の姿勢には素直に敬意を表そう。だが、黒檜には彼女たちほどの強さはなかった。もし彼女たちのような受け入れがたい過去が自分にあったのだとしたら、黒檜自身がそれに耐えきれないだろうし、想像するのも恐ろしいことだ。

 

 

 

 

 ――Excuse me.

 

 思考に没していた中で突然に声を掛けられて黒檜は心臓を縮み上がらせた。あまりにも没入しすぎていたから、背後から近付いて来たその人物の気配にも一切気付かなかった。

 振り向くと、そこにはホテルの制服を身にまとった女が一人。言わずともフラトンの従業員だろう。長い赤髪を後頭部で高く結い上げて一房にした女で、シンガポールでは最も多い中国系の住人だと思われた。彼女は瑞々しい唇で円弧を描き、続いてシンガポール人には珍しい“綺麗な”英語を喋った。

 

「驚かせてすみません。当ホテルのお客様でしょうか? こんなところで夜風に当たっていると風邪をひいてしまいますよ」

「……ああ。ええ、そうですね。でも、少し外の空気を吸いたかったんです」

「夜の散歩は悪くありませんね」

 

 ホテルの女性従業員は軽やかに会話に乗り、一歩距離を詰めてきた。

 彼女の用件はホテルへ戻るように促すことだけなのだろうか。

 

「そうね。たまには……」

「たまには、いいでしょう」女性従業員は黒檜の言葉を遮り、そして引き継いだ。「私の個人的なオススメは遊覧船で夜景を楽しむことです」

「夜景もいいですね」

「でしょう? ただ、それはまたの機会になります。少なくとも、今夜は出来ません」

「……あの、それは?」

 

 発言の真意を問い質そうとした黒檜だったが、不意に全身から力が抜けてそれ以上言葉を続けられなくなった。崩れ行く視界の中で、先程から固定されたように変わらない女の愛想笑いだけが中心に据えられたままだった。自重を支えるほど足の筋肉を使うことす叶わなくなり、黒檜はその場にしゃがみ込むように倒れる。それを、女が黒檜の胴体を抱える形で支えた。

 

「少し、眠っていてくださいね」

 

 目の前が真っ白になる。日本語で語られた女のその言葉だけが、直接頭の中に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督40 Like chasing the White Rabbit

 ずっと考えていた。クリスティーナ・リーは何故シンガポールに来たのか。

 パーティには色んな人間が集まっていた。エントランスでパーティにやって来る面々を待ち受けていた鈴谷は、その全員の顔が分かるように超小型レンズがはめ込まれたペン型カメラで彼らを盗撮していたのである。地元の富豪やシンガポールの政治家、日本や欧米の企業経営者など、錚々たる面子が集合している。そんな中で、白いカンドゥーラをまとったアラブ人たちはとても浮いて見えた。が、金持ちたちは誰も気にしていないのか、彼らはごく当たり前のようにパーティ会場に入っていった。

 日本とアラブを結び付けるほとんど唯一のものは、石油である。ここシンガポールは、カレー洋沿岸沖をアラブから航行して来たタンカーが錨を下ろす中継地でもあるので、アラブ人が居ること自体は不自然ではない。ただ、彼らがリーのパーティに来ていることが今一つ腑に落ちないのだ。

 厄介なのは、考えても分からない謎が増えるばかりである。リーとシンガポール、リーとアラブ人たち。結び付ける物は何であろうか。

 リーがここに来ているなら、奪い取った「海軍検体405号」、すなわち「加賀」も連れて来ているかもしれない。彼女がどこのホテルに宿をとっているかはまだ分からないが、少なくとも人目に付く場所に「加賀」を寝かせていたりはしないだろう。そもそも、「加賀」を拉致した理由も判然としない。

 

 スマートフォンをで暇を潰しつつ誰かを待っているふりをしながら考え込んでいた鈴谷だが、不意に気配を感じて顔を上げるとパーティ会場を抜け出してきたらしい黒檜が向かいに腰を下ろしたところだった。彼女は「疲れた」などと嘯いて、ばつの悪そうな笑みを浮かべる。別に咎めるつもりもないので適当に相槌を打って再び考えに没頭しようとするが、ふと違和感を覚えてまた黒檜に視線をやる。

 相槌に対する反応がなかったし、急に静かになったのが変だ。案の定、黒檜の目は泳ぎ、どこか遠くを見ていた。試しに手を伸ばして目の前で振って見せても反応がない。心ここにあらずと言うか、見えていないようだ。

 

「大尉?」と呼び掛けてみるが、ぼんやりとした黒檜の様子は変わらない。

 

「大尉、大尉、黒檜大尉!」

 

 今度は少し強く呼ぶ。すると、ようやく現世に戻って来たのか、目の焦点が合って黒目がちの瞳が鈴谷を見据えた。

 

「どうしたんですかぁ?」

「何でもない。思ったより疲れてるみたいだわ。少し、外に出てくるわね」

 

 黒檜は頭を振り、取り繕うようにそう答えた。ぼんやりしすぎだろうと思ったが、変に追及しても何も出て来なさそうなので、適当に返事をしておいた。黒檜はそそくさとエントランスを後にし、外に出て行ってしまう。それを見送り、鈴谷は思索に戻る。

 

 どうしてリーはシンガポールでパーティなど開いたのだろう。今回のパーティ、主旨は「緊急修復材の更なる普及に向けた交流」となっているが、既にそんなことをしなくともサルマン社には世界各国から緊急修復材の大量の受注が集まっているはずである。こんなことをするのは今更な気もするし、これだけ派手にするということは何かを隠すのが目的ではないだろうか。手品師がよくそうするように、“あるところに目を集めておいて”誰も見ていないところでタネを仕込む。ミスディレクションだ。

 だが、そうするとなると何を隠そうとしているかが問題になる。派手にパーティを開いてまで隠したいものは何だろうか? 何かをしようとしている?

 リーには仲間が居る。リー本人はパーティに参加しているのだから、終わるまで身動きが取れない。ならば、パーティ中に何かをしようとするなら仲間に頼るはずだ。鈴谷の知る限り、リーには仲間が数人。一人は六ケ所の施設を襲撃した時にリーにお供していたダークスーツの長髪の女で、その時別動隊として動いていたであろう人物も存在する。

 リーにはシンガポールでしなければならないことがある。パーティを開いたのはそのためだとしたら、仲間たちはもう動き始めているだろう。今のところ面が割れているのは長髪の女だけだが、闇雲に探してもその女を見付けられる可能性は低い。女が単に加賀の世話をしているのでなければ、だが。

 いや、そこだ。加賀を連れて来ているとしたら、それも理由が分からない。どうやって日本から、という手段について考えるのは後にして、リーが加賀を必要とした理由だ。加賀とシンガポールを結び付けるものは……。

 

 

「おい、寝てるのか?」

 

 頭上から低い男の声が降ってきて思考を止められた鈴谷は、若干の苛立ちを覚えながら村井を見上げる。至福の時を過ごして戻って来た彼は、大業そうに前のソファ――先程まで黒檜が座っていたところ――に腰を下ろした。

 

「考え中だったか?」

「まあ、そうです。何で、リーの奴はこんなパーティを開いたのかって、その理由を」

「気になるよな。おまけに直接関係なさそうなアラブ人も居たし。奴は熱心にERMの宣伝をしているが、それだけ売りさばきたい理由が金以外にもありそうだよな。だが、奴が何を考えているのか見当もつかん」

「何かを隠したいんだと思います。こちらの目を欺きたい。だけど、じゃあ何を隠そうっていうのかが分からなくて」

「今頃、何かをしようとしているって言うのか?」

「そうです。これだけ人を集めたんだし、何か狙いがあるはず」

「全員に招待状を送っているらしい。そこまで労力を掛けるんだから、余程のことだろう」

 

 村井は腕組みをしてソファに沈み込む。少し、彼の顔に焦燥のようなものが浮かんでいる。リーとその仲間は今晩動くかもしれない。だが、それを突き止められないのはとてももどかしいことだった。

 彼の言う通り、招待状を参加者全員分ばら撒いたわけだから、リーは余程このパーティを開きたかったと見える。

 

 

「あれ?」

「どうした?」

 

 今、何かが引っ掛かった。

 

「何か気付いたのか?」

「あ、いや……」

 

 すぐに思い出せない。喉元まで出かかっているのに、すっきりと吐き出せない。言葉にしようとして、言うべきことをド忘れしてしまったような気持ち悪さが胸の内に渦巻く。

 

「えっと、その」頭を抱えて鈴谷は唸る。そして、ようやく思い出した。気になった単語を。

 

「招待状だ!」

「招待状? それがどうかしたのか?」

「招待状って、名指しで来たんですよね。中将には中将宛で。黒檜大尉には大尉宛で」

「そうらしいが、それが?」

 

 村井はまだ気付いていないようだ。だが、言ったのは彼だ。全員に招待状が送られている、と。

 それは、金持ちのパーティでは不自然なことではないのかもしれない。こんなパーティに飛び入り参加する無粋者はなかなか居ないだろう。普通は、主催者から招待を受けて参加するものだ。

 実際に、この場に集まったのはそういったパーティに慣れた人物たちばかり。彼らが今日、このホテルに集ったのは、全てリーの招待があったから。そして、人種の違いはあれど、皆社会的ステータスが相当高い人間ばかりだ。企業経営者、大企業の幹部、政治家、官僚、そして高級将校。ただし、明らかに一人異質な人物が混ざっていた。

 それは他でもない、シンガポール基地所属の艦娘管理担当の大尉、黒檜だ。

 

 シンガポール基地司令の柳本中将が招待されているのはおかしくない。彼はシンガポールでは一定の影響力を持つ軍人であるし、階級も十分高い。一般に高級将校と言えば大佐以上を指すが、シンガポール基地には柳本の部下で、大佐階級の軍人は居たはずだ。招待状を送るなら、と言うよりこのパーティに相応しいステータスを持つ人間をシンガポール基地から柳本の他にもう一人選ぶなら、やはり中将の副官が適している。そもそも、それほど階級の高くない黒檜を名指しして呼ぶ理由は何だ?

 

 それこそがパーティの目的だとしたら? 彼女を呼び出すことが狙いだとしたら?

 

 艦娘担当など、普段は基地の外に出たりしない。基地は警備が厳重で、手を出し辛い。ならば、自ら外に出て来てもらった方が、その後の融通を効かせやすい。

 今まで詰まっていた物がするすると出て来る。バラバラだったピースが組み上がり始め、少しずつ全体像の輪郭がはっきり見え出した。

 リーが「加賀」をシンガポールに連れて来たのだとしたら、なおさら筋書きが見えてくる。黒檜の経歴を考えれば、何となくリーのしたいことが分かる。

 

 

「大尉だ!」

 

 鈴谷は座っていたソファから跳ね上がり、ホールの中を猛然と駆け出した。先程黒檜が出て行った正面玄関をガラス扉を破る勢いで通り抜け、ホテルから飛び出す。

 

 

 外は“雪”だった。もちろん、常夏の国であるから、行き交う人々の中でテレビやインターネット以外で「雪」という存在を目にした者は少ないだろう。単に、それが鈴谷には見えているだけだ。

 煌々と輝くホテルと街灯で外はそれなりに明るかったが、遅い時間帯にもかかわらず人通りは絶えない。だが、探す範囲は限られているはずだ。本当に雪が降っているわけではないから寒くはない。黒檜は少し夜風にあたりに行っただけで、中に柳本が居る以上、ホテルから離れたりはしないだろう。目の前にある吊り橋を渡ったりはしないはずだ。

 視線を橋からその下を流れる川へ移す。川べりまで駆け寄って下を覗き、左右に素早く目をやってそこに誰も居ないことを確認する。繋がれているボートも無人だし、橋の下にも誰も居ない。

 ホテルの入り口を振り返り、それから反対側にも顔を向ける。黒檜はどちらに行ったのだろう? 出て来た時に出会わなかったのだから、入り口とは反対側に行ったのだろう。そちらは人通りがほとんどなく、街灯も数が少ないので薄暗い。

 鈴谷は再び駆け出した。艤装を持って来ていないので俊敏に動ける。ホテルと川の間の歩道を走り抜け、目の前に見えるもう一つ下流の橋のたもとへ向かう。そちらは電飾で輝く太い鉄骨の橋だ。

 鉄骨の橋とホテルの建物との間には生垣があって視界を遮られている。その向こうに何があるのかを知りたくて、鈴谷は全力で走った。

 

 生垣を抜けた先は鉄骨の橋を渡る道路の歩道になっており、歩道と車道との間には街路樹と背の低い植物の植え込みが境界線となっていた。ただし、車道側は一車線分空いており、実際に車の通る車線とそのスペースは連結されたブロックによって区切られている。ホテル脇から道路に飛び出してきた鈴谷の視界に映ったのは、そのブロックを今まさに乗り越えた人影であった。その人影は“一人”にしては異様に大きいシルエットで。

 ――もっと言うなら、恐らくその人影は「誰か」を抱えていたように見えた。

 人影はブロックのすぐ傍に停めた車に抱えている「誰か」を乗せる。シンガポールは日本と同じく左側通行であり、そして走っている車は大抵右ハンドルである。左ハンドル車でなければ、ブロック側は助手席。人影はそこに動かない「誰か」を乗せると、すぐに自分も運転席側に回った。

 

「待て!」

 

 怒鳴り声で相手も気付いたらしい。人影は鈴谷を見て動きを止め、事もあろうに右手をこめかみに添えてから、気障ったくその手を跳ねるように上げた。「残念だったね」なんて声が聞こえてきそうな仕草だった。

 そして人影は車に乗り込むと、爆音を響かせて走り出し、ブロックの手前まで飛び出した鈴谷とすれ違った。その一瞬、運転席に座った長髪の女と、助手席で眠る黒檜の顔を確認する。女は間違いなく六ケ所が襲撃された時、監視カメラに映っていた人物だった。事が相手の思惑通りに進んでいると認識して、無意識に舌打ちをしている。

 このままリー一味の好き勝手にさせるつもりは毛頭なかった。鈴谷には車がなかったが、ないならば奪い取ればいいだけのこと。懐から持って来ていた拳銃を取り出し、ちょうどホテルの角を曲がってやって来た車の前に飛び出す。その車はタイヤが鳴るほど急ブレーキをかけて止まった。

 銃を構え、銃口を運転席に向けながらあらん限りの声で「Get off!! Get off!!」と怒鳴り、車に近付く。ヘッドライトが逆光になっていて正面に立った時は分からなかったが、どうやら止めたのはタクシーらしい。屋根の上のランプは「TAXI」。この表示によると、タクシーは空車で走っている最中だったようだ。

 

「Don't shoot! Don't shoot!!」

 

 無理やり車を止めさせられた上、理不尽にも銃口を向けられている哀れなタクシー運転手は、両手を上げながらこちらも必死で叫んだ。すぐに降りようとしなかったので、ドアを開けてもう一度怒鳴る。

 

「Get off! OK?」

「OK! OK! Please don't shoot!」

 

 年配の運転手はそう言いながらもなかなか手が遅く、降りるのにもたついた。苛立ちが頂点に達したところで、彼がシートベルトを外すのと同時に襟首を掴んで無理矢理引きずり出す。気が弱いのか、パニックになっているのか、「No! No!」と意味のない懇願を繰り返す運転手を道路に投げ捨てると、鈴谷はそのまま運転席に収まり、銃を助手席に放り出して車を発進させた。あんまりにも慌てていたので、アクセルを踏んだ時にはまだドアが閉まり切っていなかったくらいだった。

 

 

 鉄骨の橋を渡りながらシートベルトを締め、リーの手下を追う。橋を渡り切った先は小さな環状交差点になっていて、右方向へはぐるりと回るだけなので、左へ曲がる。アクセル踏みっぱなしなので、右のフロントフェンダーがタイヤと擦るんじゃないかと思うくらい車体が前に沈み込んだ。それでもリアタイヤが滑り出さなかったのはグリップ力を目一杯に使ったからだろう。

 加速は緩めない。ガソリンエンジンとは異なる特徴的な唸り声で、乗っている車がディーゼル車であることに気付く。日本のタクシーは大抵LPG(液化石油ガス)エンジンを積んでいるが、シンガポールではディーゼルらしい。

 道なりにブロックが並び、右に曲がっていく。ブロックが途切れたところで左からの合流があった。合流してくる車を躱すと道幅が広くなり、荘厳な博物館の建物を左に見ながら先行車の間を縫うように突き進む。歩行者も自転車も存在している一般道では狂気の沙汰とも言える速度だ。

 目の前に信号があったが、黒と白と灰色以外の色を識別出来ない鈴谷には、明度の差を見分けて三つ並んだランプの内、どれが点灯しているのかで信号の色を判断しなければならない。幸いにしてシンガポールの交通規則では左側通行であり、信号機のランプは日本のそれと同じ並びになる。交差点を減速せずに通過する先行車の存在からも、それが青色であると判断する。そして、その先に左右に不規則に振れるテールランプを見付けた。目障りな幻の「雪」が降り続いているので判別し辛いが、間違いなく先程逃げたリーの手下の車であろう。

 

 追うべき車のテールランプは左へ消えていく。この先はどうやら直行する通りに合流するらしい。

 鈴谷はそれなりに運転経験があったし、現役艦娘だけあって度胸も人並み以上に持っている。ただ、そうは言っても技術的に無謀なことに挑戦するほど浅はかでもなかったので、オートマ車でドリフトするようなことはしない。そもそも、交差点内はブロックによって通路が作られていて車を滑らせられるほど広くなっていなかった。十分減速して、グリップで遠心力を殺しながら大通りへ合流。対して、ターゲットは夜中でも減らない交通量に苦戦しているのか、先程より速度を落としたので「PORSCHE」のロゴが見える程度まで車間距離が縮まった。前の信号が赤色を示しているのか、五本ある車線の全てに先行車が停まっている。進路を塞がれた形のターゲットだが、急に右にスライドするように進むと、右手のショッピングモール前の車寄せに突っ込み、クラクションを鳴らしながらそこから広い歩道に乗り上げて先行車を躱そうとした。蜘蛛の子を散らすように歩行者たちが慌てて飛びのき、暴走するポルシェと後を追うタクシーを唖然としながら見送る。

 信号はまだ変わらないので交差する通りを車が行き交っているが、ターゲットの方も必死なのか溢れるほど度胸があるのか、歩道から減速しながらも交差点に突っ込んで、流れに逆らう形で右折して逃げていく。通りは一方通行で、ターゲットは事もあろうにそれを逆走しだしたのだ。無論、鈴谷もついていく。

 

 一方通行と言っても日本とは違いそれなりに広い道路であったのと、夜間で比較的交通量が少なかったのがせめてもの幸いで、ターゲットも鈴谷も向かって来る車を避けて走るスペースを見付けることが出来た。

 逆走しながらも鈴谷はアクセルを緩めない。と言うより、無我夢中でなりふり構わず逃げる相手を追い掛けるのに、悠長にブレーキを踏んだりしている暇がない。あちらはポルシェ、こちらはタクシー用のクラウン・コンフォートで、マシンの性能差は言わずもがな。それでも鈴谷が後を追えているのは相手が前を行って思ったように飛ばせないからだろう。

 加えて言うなら、対向車との相対速度が時速100㎞以上になっても、すなわち猛スピードで対向車が突っ込んでくるように見える状況になっても、鈴谷は少しも冷静さを失わなかった。前から来る対向車の一台一台を落ち着いて回避していく。

 これは何も鈴谷の肝っ玉が据わっているからという理由だけではない。免許を取得してからは五年ほどしか経っていないが、運転歴で言えばもう「十年以上」になる。言うまでもなく、これは鈴谷がかつて無免許運転を繰り返していたからだ。

 

 初めて車を運転したのは十五歳の時。高校に入って一週間後に付き合いだした四番目の彼氏が車好きだったのだ。彼は五つ上の大学生で、資産家の息子だったから金があったらしく、毎日スポーツカーをこれ見よがしに乗り回していた。しかも、困ったことに順法精神と言うのものがとにかく希薄で、道路交通法や道路運送車両法といった交通関連法規に対しては特にそうだった。およそ運転免許を与えられるに値しない人間であったが(原付免許さえ取れない年齢の少女に自動車を運転させるくらいだ!)、運転技術に関してはそこそこあったように思う。

 彼曰く、鈴谷には「センスがある」そうだ。だから、彼は鈴谷に運転をさせたがったし、驚くほど愚かで怖いもの知らずだった十五歳の鈴谷も喜んでハンドルを握った。結局、彼とは半年程付き合った頃にドリフトの練習をしていた鈴谷が彼のお気に入りを横転させて破損させてしまい、それが理由で大喧嘩して別れてしまった。ただ、その半年の間に、鈴谷はまともに運転免許を取るだけでは絶対に体験出来ないような様々な操作方法を教えてもらったのである。

 だから、情報保全隊付き艦娘になり、海に出るより陸の上で仕事することが増え、その都合で教習所に行って“初めて”車を運転することになった時、鈴谷があまりにも操作に慣れているのを見た教習官が引き攣った笑いを浮かべたのも無理からぬことだった。その教習官は色々と察したのだろう。何しろ、普通免許を取りに来る女性の大半がAT限定にする中でわざわざMT車の教習を選び、しかも半クラでの発進の際に一回もエンストさせなかったのだから。

 

 

 ついに逆走に耐えかねたのか、それまで川の流れに逆らうように一方通行を掻き分けていたポルシェが、急ブレーキを踏んで脇道に逸れる。この状況ではそう長いこと逆走出来ないからそろそろ曲がるだろうと予想していたが、その通りだった。ファーストフード店の入ったオフィスビルと雑居ビルの間の細い路地に入る。鈴谷もパッシングとクラクションで向かって来る車に威嚇しながら同じところで角を曲がった。その時、視界の端に進行方向と同じ方向を向いた矢印と「ONE WAY」の文字の看板を捉えた。

 どうやら相手の狙いは狭い道で鈴谷を巻こうというものらしい。だが、(ポルシェに比べれば)非力な分、車体も小さなタクシーと、がたいの大きな欧州車ではどちらが狭小路が得意であるかは考えるまでもないだろう。逃げるなら、そのエンジンのパワーを活かせる、線形が良く車の少ない道路、例えば高速道路などに逃げ込むべきで、跳ね馬で路地を走るのは、日本車相手では少々分が悪い。

 ただ、リーの手下にとって幸運だったのは、その路地がほぼ一本道で二車線の幅員があり、歩行者も先行車も存在せず、ほとんど真っ直ぐだったことだろう。品性の欠片もないようなアクセルのベタ踏みで加速し、建物が飛び出す形でクランクになっている部分にも減速せずに駆け抜ける。その先は先程の一方通行とは1ブロック隣の大通りとの合流で、こちらは対面通行。中央分離帯が存在するので合流の手前の路面には左に曲がった大きな矢印が描かれているのだが、ポルシェはそれを当然のように無視した。大通りの半分を突っ切り、中央分離帯にもなっている花壇を強引に乗り越えると反対車線に飛び出した。

 繰り返すが、シンガポールは左側通行である。脇道から飛び出した場合、右から突っ込まれる危険性があるが、イチかバチかで鈴谷はポルシェの後を追う。途端にけたたましいクラクションが響き渡り、それから逃げるようにアクセルを踏むと、今度は花壇の縁石に乗り上げた衝撃で車体が大きく跳ねた。後頭部をヘッドレストに打ち付けるのと、車の底が縁石に擦れる不気味な音を聞くのは同時だった。

 視界がぶれるが、両手と右足の操作は正確さを失わない。要するに、体が覚えているのだ。前輪が反対車線の路面を踏むのを感じた瞬間、両手は無意識にステアを右に切っている。同時に右足がアクセルペダルを踏み足し、車が花壇から押し出される。

 相手の運転は荒っぽい上に危険極まりないが、さほど技術があるようには見えない。ポルシェは激しくクラクションを鳴らしながら、車と車の間を掻き分けるように逃げる。多少車体が擦れようがサイドミラーが飛ぼうがお構いなしだ。一千万前後するであろう高級車が順調にスクラップに近付いていく。

 一方の鈴谷は広い道でしかも順行しているから少し余裕が出来たので、そこで初めて胸ポケットにスマートフォンが低いバイブ音を出しながら震えているのに気が付いた。視線は前に固定したまま一回ポケットからスマートフォンを取り出し、視界に入るように顔の前に掲げて発信者名を確認する。「村井中佐」とあったので、躊躇わず通話を受ける。

 

「やっと出やがったな! お前、どこに居るんだ!」

 

 電話の向こうからは明らかに激怒している男の声が聞こえて来た。さっと目を周囲に走らせ、道端に立っている「Victoria St」の標識を視認する。だが、村井にはそれを伝えない。

 

 今でこそ鈴谷に対して色々と「諦め」て何も言わなくなった村井だが、出会ったばかりの頃は礼儀作法や言葉遣いを中心によく鈴谷に対して怒っていた。鈴谷が勝手な行動をする度に彼の罵声が飛んだものである。しかし、いくら怒鳴られようが鈴谷が一向に態度を改める様子を見せなかったので、遂に根負けしたのか呆れ返ったのか、今では余程のことがない限り窘められることさえなくなった。ところが、そんな村井が今は昔のように感情を爆発させて怒鳴っている。これは余程のことだなと、どこか他人事のように鈴谷は考えた。

 とはいえ、今回ばかりは鈴谷が悪いわけではない。車を強奪したことには弁明の余地はないが、そもそもリーの手下が黒檜を攫わなければ起こらなかったことなので、やっぱりそれは仕方がないことだ。そう言い聞かせつつ、鈴谷は平坦な声で報告を行った。

 

「黒檜大尉がリーの手下に拉致されました。車で逃走中です。大尉も乗せられています」

「何だと? クソッ。今どこなんだ?」

「分かりませんけど、街の中を爆走中!」

「お前も車なのか!? 車はどうしたんだ!?」

 

 村井の声が大きいので分かり辛いが、電話口の向こうは何やらざわめいているようだ。彼のどうでもいい問いには、適当な答えを言ってはぐらかしつつ、気になったことを尋ねる。

 

「車は借りました。それより、パーティは終わったんですか?」

「ああ、たった今な。中将もご一緒だ」

 

 ポルシェが交差点でまた進路を変える。目の前の信号のランプの内、最も右が消え、最も左が点灯した。つまり、赤から青に変わったところで、交差点に突入して左折。おまけに、同じように左折しようとしていた別の車を押し退けるように追突する慌てっぷりだ。衝撃で交差点内に停止したその車を避け、鈴谷も片手でステアを切って左折する。

 

「リーは?」ターゲットから目を離さず、鈴谷は電話を続けた。

「あいつが大尉に用事があるなら、手下とどこかで合流するはずです。なら、今すぐそこから動かないと間に合わない」

「それが、いつの間にか消えやがった。ウォースパイトも居ねえ。こっちも俺と中将だけだから探すのも無理だ。中将が部隊を待機させると仰っているから、お前は無茶をせずにこっちと合流しろ。どの道、リーの手下は警察が対処することになるだろう。幸いにして、ここには警察のトップも来ているらしいからな!」

 

 村井がそう言ったタイミングで、まるで見計らったかのようにサイレンの音が聞こえて来た。誰かからの通報があったのか、それとも異常な走行をする二台を自ら見付けたのか、ようやくパトカーのお出ましである。

 村井と中将がシンガポール警察と話を着けてくれるなら鈴谷の追跡は必要ない。あんな傷だらけのポルシェなんて他に走っていないだろうから今見失ったとしてもすぐにまた見付けられるだろう。冷静に考えれば村井の言っていることは正しい。

 だが、そこで素直に言うことを聞かないのが、鈴谷と言う艦娘である。村井もそれは身に染みて理解しているだろう。故に、懇願するように「頼むから一般人を巻き込むような事故を起こさないでくれ」と言ったのだ。

 

「リョーカイッ! 安全に注意して追跡を続けますっ!」

「俺は止まれと言っているんだッ!!」

 

 村井の喚きを皆まで聞かず、鈴谷は通話を切断し、特に慌てることなく元のポケットに戻した。

 

 

 次の交差点は信号が赤のようだが、ポルシェはクラクションを鳴らし減速しながら突入、横から走って来たバスと衝突しそうになるがギリギリで躱した。かわいそうなこのバスはポルシェを避けようとして別の乗用車と衝突し、そこにさらに後続が追突した。交差点の真ん中で玉突き事故を起こした三台を大きく避けて、鈴谷は追跡を続行する。大破した車はなかったから、重傷者は出ていないだろう。だが、暴走するポルシェによって徐々に被害が拡大しつつある。

 今走っている通りも四車線ある一方通行だ。車も少ないので、ポルシェはどんどん加速していく。鈴谷もアクセルを全開にするが、根本的にエンジンの馬力が違い過ぎている上に、事故車を避けるのに減速したせいでさらに離されてしまった。距離を離されるのは逃げられる恐れがあるという以前に、見失う可能性が強いので鈴谷は内心焦った。視界の中にしか存在しない「雪」だが、“見えて”しまう以上、それが視界を妨げるのだ。実在しないから道が凍ることもないけれど、白い雪は遠くを見通した時にカーテンのようになって見たい物を隠してしまう。だから、逃げる相手を見失わないように最大限加速するしかなかったし、ポルシェが変に脇道に入ったりしないように祈るばかりだ。今出来ることと言えば、執念深く追い続けることしかない。そして、その執念深さはリーの手下にも伝わったことだろう。

 

 車を運転する際に心掛けるようにとよく言われることは、「かもしれない運転」だ。右折待ちの車が急に曲がってくるかもしれない、脇道から自転車が飛び出してくるかもしれない、目の前のトラックが急ブレーキを踏むかもしれない。要するに、危険予測を行い、想定される脅威に対し対応出来る運転をせよ、ということである。「かもしれない運転」は交通法規を順守し、安全に車を操作するための方法論だ。そうした意味において、既にシンガポールの標準的なタクシー運転手が一生の間に犯す交通違反の数以上に違反を繰り返している鈴谷にとって、「かもしれない運転」を要求するのは今更というものだろう。しかし、鈴谷は「かもしれない運転」をするべきであった。急にポルシェが減速し交差点を右折する。鈴谷もそのまま追い駆けようとして、彼我の間にウィンカーを点滅させながら車線変更してきた車に気付くのが遅れた。相手を追うことに夢中になりすぎて見えていなかったのだ。そして、気付いた時には遅きに失していた。

 「他の車の車線変更もあるかもしれない」と予測するべきであった鈴谷はそれをせず、咄嗟にハンドルを切るという対応しか出来なかった。そして、それは高速域でするべき動作ではなかったのである。

 

 悲鳴を上げた時にはもう遅い。車はスピンに陥っており、既に運転者の操作を受け付ける状態にはなかった。

 景色が吹き飛んでいく。実際には車体が激しく回転してそう見えただけだ。理屈ではそうだと分かっているのに、1トンもある鉄の塊が、自分を乗せたそれが、制御を失って暴走するエネルギーに任せたままになるというのは、思った以上に恐怖を与えるものだ。運転中に制御に失敗してクラッシュした経験はあるものの、この恐怖感というのは慣れるものではない。

 衝撃があってようやく車体が止まった後も、鈴谷は恐怖から心を解放するのに少し手間取った。ただ、身体へのダメージはほとんどない。鈴谷を吹き飛ばそうとした慣性力はシートベルトが受け止めたし、激しくスピンして速度が殺されたおかげで衝撃自体が少なかった。その証拠にエアバッグが作動していない。車は交差点の角、歩道の縁に立てられた車止めにノーズを突っ込む形で止まっていた。元々減速し始めていた上、全力でブレーキを踏んだので、衝突のエネルギーは少なかったのだろう。ボンネットの変形も小さく、ダメージは小さそうだ。

 クラッシュの衝撃から鈴谷を復帰させたのは近付いて来るサイレンの音だった。それも一つや二つではない。何重奏ものサイレンが鳴り響き、通り沿いの建物の壁面に光が踊る。パトランプの色は識別出来ないが、コントラストが違うので二色のようだ。

 舌打ちしながらキーを回してエンジンを再始動させる。運がいいことに一発で動き出した。ギアをリバースに入れ、そのままアクセルを踏む。ポルシェが逃げたのは真後ろの方向だ。そして、左からは数えるのも億劫な数のパトカーが接近していたから悠長に方向転換をしている暇などなかった。

 そこに、進路を塞ぐように突っ込んでくる一台のパトカー。無論、止まるつもりも避けるつもりもない鈴谷はわざとリアをぶつけてパトカーを弾き飛ばす。大きな金属が凹む音と衝撃が運転席の艦娘を揺さぶるが、構いはしない。どうせリアだ。バンパーが外れかけて路面と接触しているのか、耳障りな音が鳴り響いている。

 邪魔者を排除し、十分に加速したところでステアを切り込み、シフトレバーはニュートラルに、軽くブレーキを踏んでノーズを左に“飛ばす”。車体はスピンするが、今度はきちんと鈴谷の頭の中で思い描いた通りの動きだ。反転したところでドライブギアを入れてアクセルを一気に踏み込んだ。エンジンが吠える。

 

 逃がさない。逃がすつもりはない。

 

 誰もが認める「短気」な性格。時に抑えの効かなくなる感情、そして暴力衝動。一度スイッチが入ってしまうと、行くところまで行ってしまうという危険性。それらはすべて鈴谷のパーソナリティの中に存在する負の側面であり、またその自覚を持っている。昔から喧嘩っ早かったし、強かった。喧嘩を売られれば必ず買い、相手にその代償の大きさを思い知らせた。男相手でも怯まなかったし、男相手でも負けなかった。学生時代、起こした暴力沙汰は数知れず、幾度となく教師に叱られたし、時には警察に補導されることもあって、否が応でも鈴谷は自分の凶暴性を認識せざるを得なかったのだ。暴力装置を扱う艦娘になった後も性格診断の結果からそうした性分は問題視され、セルフコントロールのカウンセリングを受けたことも一度や二度ではない。

 それでも、生まれ持った性格というのはなかなか矯正出来るものではない。昔ほどなりふり構わず喧嘩することこそなくなったものの、一度「キレ」たら歯止めが効かなくなるのは変わっていない。そして今、鈴谷には「スイッチ」が入ってしまった。舐め腐ったあのリーの手下に相応の報いを与え、リー本人の鼻を明かしてやらねば気が済まない。

 背後からはパトカーが肉薄して来ている。一台が鈴谷を追い越し、前に出た。塞がるように車線変更をしてくるので、ステアを短く切って右に出てそれを躱す。そこにもう一台が追い付いてきた。どうやら警察の車両はタクシーのそれより馬力がある……というわけではなく、単に鈴谷の車がフルスピードを出せないだけだ。やはり先程のクラッシュの影響が残ってしまっているらしい。

 道はまた一方通行の四車線だった。両側には二階建ての似たような建物が並び、歩道を行き交う人の数が多い。下町のような風情の街並みだ。どうやらインド人街にやってきたらしい。暴走する鈴谷は衆目の的になっていた。

 

 クソッ、と口の中で悪態を吐く。周りにこれだけ人が多い環境では安易に“仕掛けられない”。

 二台のパトカーがクラウンに取り付いて走行を妨害してくるので、早いところ排除したいのだが、何も考えずにそれをすると歩行者を巻き込んで大惨事を引き起こしかねない。いくら艦娘と言えど、テロまがいの大事故を起こした者を警察がおいそれと見逃すことはないだろう。さすがにそうなっては面倒極まりないし、日本の外交力をもってしても投獄は避けられない。ここは耐えるしかないところだった。警察も同じ条件なのだ。強引なことをしてクラッシュするようなことがあれば、後は想像に難くない。

 とは言え、鈴谷は少しばかり運が良かった。逃げていたポルシェが前方で信号に捕まっていたのだ。行く手の左側にヒンドゥー教の寺院があって、寺院の前の横断歩道を整理する信号機が停止信号になっていた。左右を車両に挟まれ、行く手を無数の歩行者が横断していたため、進むに進めなくなってしまったらしい。ポルシェはクラクションを激しく鳴らしながら強引に人の波をかき分け、信号が変わる前に横断歩道を突破した。それでも、生じた大きな時間的ロスは鈴谷が追い付くのに十分なものであった。

 精緻な無数の像で飾り付けられた塔門が明るくライトアップされている寺院の前を、猛スピードで通過する。信号で止まっていた先行車がダマになっていたが、運よく開いた車線から追い越すことが出来た。邪魔をしていたパトカーの運転手は要領が悪いのか、鈴谷のようにうまく車と車の間を抜けられず、減速を強いられる。

 一時的にパトカーから解放された鈴谷は、まだ加速途中だったポルシェに躊躇なく追突する。激しい衝突音がして、ポルシェが前に飛び出た。罵詈雑言が聞こえて来そうな荒っぽい運転でポルシェは左に逃げる。鈴谷はその後を追わなかった。少し先で中型トラックが脇道から入ってきたからだ。

 ポルシェが慌ててブレーキを踏み、トラックは左から二番目の車線に入る。リーの手下は左端の車線からトラックを追い抜こうとした。その間に追い付いた鈴谷はトラックを右から追い抜き、普通はそのままトラックの前に余裕を持って滑り込むであろうが、あえてリアバンパーをトラックのフロントと接触させる。

 驚いたのはトラックの運転手だろう。後ろから煽られていたと思ったら、今度は横から体当たりを食らったのである。避けようとした運転手はハンドルを左に切った。当然、その左側から追い越そうとしていたポルシェを巻き込む。

 激しい衝突音と共に火花が飛び散った。けれど、致命的なクラッシュには至らない。それは偏にトラック運転手の腕が良かったからだろう。この運転手は自分が左を走る乗用車と接触したことを感知すると、すぐにハンドルを戻して元の車線を維持するように努めたのだ。その素晴らしい対応は、ポルシェに日本車に対する報復を行う機会を与えた。

 車体をさらに破損させながらもトラックの横から抜け出したポルシェが、前を走るクラウンに追突する。背中からタックルを食らったような衝撃が鈴谷を襲い、前に飛び出し掛けた身体をシートベルトが受け止めた。加速して逃げようとするが、さらに二撃目を受ける。ルームミラーで後ろを確認すると、リアウィンドウに大きなクモの巣が出来ていて、背後の車両の運転席までは見えなかった。わずかに、彼我の車間が開いたことが視認出来るのみ。ポルシェは三撃目に備えて少し距離を置いた。

 サイドミラーでも後ろの様子を確認すると、タイミングを見計らってハンドルを左に切って、車線を開ける。同時にブレーキを少しだけ踏んで、追突しようと前に飛び出したポルシェと並び、直ちに報復行動に移った。

 助手席側から側面をぶつける。その際のリーの手下の咄嗟の反応は良かった。彼女は自分も鈴谷の側にハンドルを切って、衝撃を相殺することを目論んだのだ。果たしてその目論見は狙い通りにいき、車重と馬力で劣るクラウンが歩道側に飛ばされてしまう。

 

 並走しながらポルシェの車内を睨むと、リーの手下と目が合った。六ケ所を襲った二人の内の一人で間違いない。アジア系の顔立ちだが、直感的に日本人ではないと思った。ややエキゾチックな造形から、恐らくは大陸系であろう。彼女とクラウンとの間、助手席にはこれだけの激しいカーチェイスの中でも昏々と眠り続ける黒檜の姿があった。どうやら単に気絶しているのではなく、何らかの薬品などで昏睡させられているらしい。

 それは悪い情報だった。さすがにエアバッグは装備されているであろうが、それでも意識がないということは耐衝撃姿勢が取れず、車内に身体を打ち付けて負傷してしまう可能性が高い。故に、わざとクラッシュに持ち込んで強引に車を停めるという手段は避けなければならなかった。

 喧嘩っ早く、頭に血が上ると感情を爆発させるという性分は学生時代とは変わらないものの、かつてと違うのは鈴谷が大人になったという点である。それはつまり、「してはならない」ことの分別を持ち合わせているという意味だ。この場合においての「してはならない」ことというのは、黒檜を不必要に傷付けてしまうことである。

 ならば、出来ることは少ない。既にポルシェはボロボロだから、各部に相当の負荷が溜まっているはずである。その中でも特にタイヤは走行には欠かせない物。故に、狙うべきはタイヤをパンクさせることだ。

 

 だが、ポルシェはそれ以上鈴谷の挑発には乗らず、あくまで逃げることを優先した。優位な加速性能を最大限に活かし、スピードで振り切ろうとする。一方で、後れを取っていたパトカーたちも追い付いてきた。先程の二台以外にもまだたくさん追い駆けてきている。村井と中将は警察のトップと一緒に居て、彼らにも協力してもらおうと交渉したのではなかったのか。

 そんな疑問が胸に浮かんでいる内に、少し先を走るポルシェが交差点の中で派手に吹き飛び、何かにぶつかって止まった。どうやら横からパトカーに突っ込まれたらしい。追い掛けて来る他に先回りして待ち伏せしているのも居るらしい。

 鈴谷のやることは変わらない。こちら向きに、進行方向とは真反対を向いたポルシェが再び動き出す。衝突の衝撃で右のヘッドライトが消えているが、車自体はまだ走れるらしく、突っ込んで来たパトカーから飛び出した警官を轢きかけながら、パトカーが飛び出してきた通りを走り出す。鈴谷も目一杯にハンドルを切りながら、同じ交差点を右折しようとしたが、スピードに乗りすぎていて止まっていたパトカーにわざと側面からぶつかりに行って遠心力を打ち消さなければならなかった。

 出遅れた形の鈴谷だが、相手も先程の衝突の影響でそう飛ばせる状態ではないらしい。ポルシェにしては加速が鈍いので、車間はぐんぐんと近付いている。今度の道は片側二車線の対面通行の道路で、今まで走って来た道よりは幅員が狭い。それが走りにくさに繋がっているのか、ポルシェはけたたましくクラクションを鳴らし、先行車をどかしながら走らなければならないようだった。

 

 もう少しで追い付ける。そう思った時、左に目障りなパトランプが現れる。

 

「鬱陶しいなあ!! もうッ!!」

 

 苛立ちが頂点に達した鈴谷は、ハンドルを切って車体をパトカーにぶつける。それも、それなりに勢いがついた状態で。

 不意打ちを食らった形のパトカーは、態勢を立て直すのに失敗した。コントロールを失い、そのまま道路端の植え込みに乗り上げて太い幹の街路樹に激突、無数の部品と破片を巻き散らしながら横転、火花を散らして路面を滑っていく。上手い具合にクラッシュして追っ手の邪魔になってくれたので溜飲の下がった鈴谷は気を良くして、改めて自分の本来の敵との追い駆けっこに集中する。

 

 どうあってもポルシェは止まらなさそうなので、やはりパンクさせて無理矢理に止めるしか方法はなさそうだった。 

 そうと決まれば行動は早い。ターゲットに追い付くと並走状態からもたれ掛かるように、左のフロントタイヤにバンパーの角を打ち込むようにして車体をぶつけに行く。ポルシェはあえて相殺しようとせずに同じ方にハンドルを切って衝撃を受け止めると、急ブレーキを踏んだ。

 意味の分からないブレーキングに頭が付いて行かず、反応が遅れる。体当たりの前振りかと思ったが突っ込んで来る様子はない。

 

 前に目を向けた時、ようやくその理由が分かった。前方は交差点になっており、そこに数台のパトカーが並んで即席のバリケードを張っていたのだ。慌ててハンドルを切って、パトカーとパトカーの間に突入する。だが、それで終わりではなかった。

 反射的にブレーキを踏んだことがより事態を悪化させてしまったのだろう。バリケードを突き破った直後、特大の力を受けて車体は吹き飛ばされ、街路樹に突っ込んで停止する。その横をポルシェが走り抜けていった。要するに、バリケードを突破するための露払いにされたのだ。

 

 度重なる衝突と、二度のクラッシュで、既にクラウンのノーズは原型を失っているし、ボンネットは大きく波打っている。ウィンドウもひび割れだらけで、フロントガラスを除けば、外がまともに見えない。

 再度のクラッシュでまた停止してしまったエンジンの始動を試みるが、キーを捻ってもセルモーターが咳き込むような音を上げるだけだ。二度、三度繰り返してみるが反応がない。いよいよお陀仏かと思って顔を上げると、いつの間にやら銃を構えた警官たちがクラウンを取り囲んでいた。

 このままやられっ放しで警察のお世話になるのは凄まじく癪だ。それに警官たちが鈴谷をどう扱うかも分からないし、今ここで投降しても何一つ良いことなどないだろう。だからダメ元で四度目の始動を試した時、ついにエンジンに火が入ったのには思わず笑みが零れてしまった。

 クラクションを鳴らし、車をバックさせる。急に動き出したクラウンに警官たちが発砲をし始め、弾丸がボディの鋼板を貫く甲高い音が響いた。これで鈴谷に弾が当たったら、この警官たちは始末書では済まないだろうに、彼らはそこまで考えが及んでいないようだ。というより、ボロボロのクラウンに乗っている女が深海棲艦への唯一の対抗戦力の一人であることに気付いていないらしい。さりとて、彼らに対し懇切丁寧に自己紹介をしている余裕もない。そして何より、既に鈴谷の理性のたがは吹き飛んでしまっていたのだ。「一人や二人、轢いちゃってもいいや」と思って、目の前で一人の警官が両手を広げて止めようとしているところに突進する。

 間一髪、警官はその場を飛びのいて人身事故の被害者になることを回避した。ただし、そのお陰で鈴谷を逃がすことになってしまったのだが。

 

 最早、限界寸前のエンジンに鞭を打つようにアクセルを踏み込みながら逃げるポルシェを追う。警察の追跡対象には当然跳ね馬も含まれていて、一台のパトカーが鈴谷に先行して追跡している。先程まで対面通行だった通りは、バリケードの設置されていた交差点を境に逆向きの一方通行になっているらしく、鈴谷もポルシェも、そしてパトカーも、全部逆走状態だった。そして、二車線から一車線へ、道はさらに狭まっていた。

 逃げるリーの手下にとって幸運だったのは、左右の歩道が街路樹が植えられているものの、車一台が通れる程度の幅を持っていたことだった。対向車を歩道に乗り上げて避けるような強引な運転で、追っ手を引き離そうとする。

 後を追うパトカーも同じように歩道に乗り上げた。シンガポールの警察は日本の警察と違って、かなりアグレッシブに動けるらしい。追っ手のパトカーに狙いを絞り、歩道の段差を越える瞬間、不安定になるところを見計らって斜め後ろから小突くように当たると、すぐにパトカーはバランスを崩し、立て直そうと慌ててハンドルを切ったためにスピン状態に陥った。路面を滑走しながら道を斜めに横切っていくパトカーの脇を通り抜ける。同時にそのパトカーは道端のバス停、その手前にある車止めに激突してスクラップになった。

 

「あはははッ!!」

 

 邪魔者が居なくなり、鈴谷は嬌声を上げる。クラッシュしたパトカーがいい具合に道を塞いでくれたから、これでしばらく警察の追跡から逃れられるだろう。欲しいのはポルシェと戦う時間的猶予なのだ。

 問題のポルシェは突き当りの丁字路を右折し、ビルの陰に姿を隠す。鈴谷も後を追う。

 その先はまた交差点になっており、今度はそちらを左に曲がっていくのが見えた。ただ、左手の角の敷地は、造成中なのか更地になっていて、柵も何も設置されていなかった。だから、鈴谷は躊躇せずそこを斜めに横断する。地面の凹凸に車体が激しく揺さぶられ、ハンドルを取られそうになるが、構わずにアクセルを踏み続けた。

 強引に造成地を踏破して歩道から飛び出しポルシェの横っ面に車体を叩き付ける。二台の持つ運動エネルギーは衝突の際に相殺されることなく、ほぼその勢いを保ったままベクトルが合わさり、ポルシェとクラウンは引っ付いたまま小さな橋を渡って脇道へ突っ込んでいった。それでも、鈴谷もリーの手下もコントロールを失っていたわけではない。川沿いの道に入っても、激しく衝突を繰り返す。

 

 いよいよリーの手下は逃げに徹するより、しつこい鈴谷を排除した方がいいと判断したらしい。今までよりずっと積極的に車体をぶつけてきた。

 鈴谷の車はもう何時止まってもおかしくない。このまま体当たりを食らい続けていると洒落にならないことになりそうだった。

 ブレーキを踏み、並走状態から、ポルシェの後ろに付くように位置を調整する。ポルシェはポルシェで、車体を左に持って行った。意図が読まれたのかと若干焦りが生まれるが、落ち着いて右後ろに移動し、先程パトカーにやったように小突いて車体に働いている力の均衡を崩そうとする。だが、そこで運転席のパワーウィンドウが開いていることに気付いた。

 長髪の女がそこから右腕を出し、トランプ大のカードのような物を指で挟んでいるのが見えた。同時に女は邪な笑みを浮かべ、何事かを叫ぶ。

 

 何を言ったのかは唸るエンジン音に紛れて聞こえなかった。ただただ、それが碌でもないことが起こる予兆の気がして、反射的に離れようとした。車道と川の間は広い歩道になっていて、一段高い。クラウンが縁石に乗り上げるのと同時に、女の手元のカードから、「カラフルな」ゴルフボール大の玉がたくさん飛び出してきた。そして、それらは鈴谷の車の下に潜り込んでいったように思う。

 「思う」というのは、そこから先はあまりよく覚えていないからだ。断片的な情報のみが不連続に記憶に残っている。車が持ち上げられるような気味の悪い感覚も覚えている。頭を抱えて逃げる歩行者。後輪が川べりの柵を越えきれずに引っ掛かった時の衝撃。眼前に迫る真っ黒い川面。

 

 

 車はフロントから水面に叩き付けられた。エアバッグが作動し、膨らんだ白い袋が顔面を叩く。

 それは、鈴谷から貴重な数秒の時間を奪い取った。脳を揺さぶられた衝撃から意識が少しだけ復帰するのに、数秒という時間を要したのだ。言い換えれば、鈴谷の脳が、車もろとも水没する危機を察知するのに数秒必要だったということである。

 

「ヤバッ!」

 

 最悪の状況だった。車は完全に棺桶と化していたのだ。重いエンジンがある前部から沈み出している。すぐに沈み切ることはないが、それは逆に車内外で水位に差が出来ることの証拠でもあった。車外の水位が車内に侵入した水より高いのなら、水圧の差によってドアは開かない。

 脱出に使える物は一つしかなかった。車内に水が入ってくる前に、シートベルトを外して助手席のフットマットの上に落ちていた拳銃を拾う。シートを倒して運転席から抜け出すと、後部座席に素早く移動して、銃口をリアウィンドウに向けた。

 特殊な用途の車両でなければ、通常車のリアウィンドウは単なる強化ガラスだ。幾度とない追突を受けて既にヒビだらけになっている部分に一発撃ち込むと、ガラスが粉々に砕け散った。

 割れ残ったガラスを拳銃で払いながら出口を確保すると、銃を捨ててトランクルームの上に這い出す。車は既に半分以上沈んでいて、完全に水没するのがもうすぐなのは明らかだ。

 車が転落したのは、川と言っても用水路に近い、両岸が完全にコンクリートで護岸されている水路であった。野次馬たちが集まり始め、川べりから沈みゆく車と鈴谷を見下ろしている。彼らの足元の柵の付け根に飛び移れるか距離を測るが、どう頑張ってもそれは無理そうだった。

 艤装を持って来なかったのが裏目に出た。艦娘は、艤装がなければ水とはとことん相性が悪い。これはほとんど一般に知られていない事実だが、すべての艦娘にとって極めて重要な事実でもあるのだ。不思議なことに、どんなに泳ぎが得意だった人物でも、一度艦娘になれば二度と泳げなくなる。艤装も着けていないのに水に入れば、身体が鉄に変わったように水中に引きずり込まれるのである。この川の水深がさほど深くなくとも、車と一緒に水没すれば待っているのは溺死する運命だ。しかも、この衆目のある中で。

 今更、生に執着するつもりはないが、さすがにそんな末路は願い下げである。だが、今のところ鈴谷に打つ手は何一つ残されていなかった。今この状況においては、艤装を持たない鈴谷は、泳げない単なる女でしかない。

 万事休すかと思われた時、野次馬の一人が思い切った行動に出た。その野次馬は柵を乗り越えると、躊躇うことなく川に飛び込んだのだ。

 

「早く! 掴まってください!」

 

 驚いたことに、飛び込んだ野次馬は年端もいかない少女で、しかも流暢な日本語を喋った。どうやら日本人らしい。危機に瀕した同胞を見かねて助けに入ってくれたのか、彼女は泳いで鈴谷の足元までやって来る。

 車はもう、鈴谷の立つリアデッキを残して沈んでしまっている。選択肢は他になかった。けれど、艦娘には皆、水への恐怖心が植え付けられていて、それは鈴谷も例外ではなかった。艦娘になるまでは何も怖くなかったただの水が、今は途方もなく恐ろしい。

 

 風呂に入る時、鈴谷を含め大多数の艦娘はシャワーを浴びるだけで済ます。何故なら、「湯船の中に沈んでしまうかもしれない」と考えるからだ。もちろん、冷静になって気を付けていればそんなことは起こらないのだが、特に意識を失ったりしなくとも、湯船に入った艦娘が沈んでしまうのは実際に起こることだった。誰しも艦娘になったばかりの頃に、人間だった頃の習慣で皆湯船に入ると、あまりにも勝手が違うことに戸惑い、簡単に沈んで溺れかけるという経験をする。その時に、今まで慣れ親しんでいた水が、自分とは恐ろしく遠い存在になってしまったのだと、そして艤装がない状態では恐怖の対象にしかならないということを身をもって学習するのだ。それはある意味での通過儀礼でもあった。

 だからこそ、鈴谷の足は動かない。刷り込まれた恐怖が身体を硬直させる。

 

「泳げないんですよね!? 早く!!」

 

 飛び込んだ少女が怒鳴る。その間にもう一人川に飛び込んだ。

 覚悟を決める。目をつぶり、一歩を踏み出して川に身を投げた。

 しっかりとした両腕に受け止められる。だが全身が水に浸かった瞬間、少女が苦し気に息を吐いたのが聞こえた。支える相手の全体重が掛かったら、華奢な少女にはかなり苦しいだろう。自分でも全身から脱力して身体が沈むのが分かった。

 藁にもすがる思いで少女の腕にしがみ付く。そこに後から飛び込んだもう一人もやって来て鈴谷の脇の下に腕を入れ、こちらは力強く岸まで引っ張り出した。

 

 川の両側の護岸は垂直で、その上の歩道が少しせり出している箇所があった。水面から歩道まではそれほど高さがあるわけでもなく、上で見ていた野次馬たちが、柵の間から手を伸ばしてきて鈴谷を引っ張り上げようとする。川に飛び込んだ二人も、脱力して動けない鈴谷を苦労しながら持ち上げ、鈴谷が手を伸ばすと野次馬たちの手がそれを掴み、引っ張り上げた。複数人で、男ばかりらしく、水の中では信じられないくらい重かった鈴谷の身体は軽々と持ち上げられる。鈴谷自身、柵を掴めるようになると、コンクリート護岸に足を引っ掛け、要領良く登っていく。水から出てさえしまえば、そこは体力トレーニングを積んだ軍人であるから、柵を乗り越えるのに苦労はしなかった。

 地面に足が着いた瞬間、今度は膝から力が抜けてその場に崩れ落ちる。何人かが声を掛けてくれるので、「Thank you. Thank you.」と繰り返して応じる。その間に飛び込んだ二人も川から引っ張り上げられた。見れば、どちらも同じような年ごろの少女である。野次馬の男たちが意を決する前に、この若い二人が誰よりも積極的に助けに動いたのは意外であった。

 この状況で二人に礼を言わないほど非常識なつもりはない。ただ、サイレンの音が木霊しながら聞こえてきた時、鈴谷はこの場から今すぐ立ち去らなければならないということを理解した。だから、助けてくれた少女たちに「ごめん、ありがとう」と短くしかお礼を言えなかったし、集まっていた人々の間を掻き分けて逃げ出すことしか出来なかった。

 

 

「ちょっと待ちなさいよ、アンタ!」

 

 すぐに二人の内一人が追い掛けて来る。先程とは別の声に聞こえたから、後から飛び込んだ方だろう。しかし、そんな彼女とは逆に先に飛び込んだ方も追いすがって来て、こちらは鈴谷の腕を取ると引っ張るように早足で歩き出した。

 

「警察に捕まったらまずいんですよね? こっちに来て下さい」

 

 どうやら、彼女は色々と事情を察してくれたらしい。真っ先に川に飛び込んだことと言い、決断が早く機転も利く頭の持ち主なのだろう。鈴谷は逆らわず、彼女の指示に従う。川から助け出された上、逃走にも手を貸してもらえることに驚き禁じ得なかった。もう一人も反対側の腕を掴んだので、鈴谷は二人の少女に挟まれてしまった。

 両手に花、と言えば聞こえはいいが、あまりにも事が上手く進みすぎていくことに捻くれた性分の鈴谷の中で警戒心が湧き出す。少女たちは川の両岸を結ぶ歩行者用の小さな橋を渡り、川沿いに並ぶ小汚いマンションの間に向かっていた。ここは繁華街ではなく、低所得者向けの住宅地のようだった。そんなところにたまたま勇敢な日本人の少女が二人居て、そこに鈴谷の車が突っ込み、救助してもらい、さらに警察からの逃走まで手助けしてもらえる。あまりにも都合良く事が進みすぎだ。それらすべてが偶然の一致だとは考えられなかった。

 

「ねえ」

 

 故に、鈴谷は聞かずにいられない。

 

「助けてくれたことには感謝するけど、ただの善意でそうしたわけじゃないんでしょ? 何者なの?」

 

 右腕を掴んでいた、後から飛び込んだ方の少女が鈴谷に剣呑な目線を向ける。こちらの方が少し背が低い。小首を傾げるように少し顎を沈めながら、相手を下から睨み上げる目付きがやたらと堂に入っているので、恐らくそんな可愛らしい性分をしている子ではないんだろうな、と思った。彼女は鈴谷を睨みつけこそしたが、何も言わず、その内に左腕を掴んでいる、先に飛び込んだ方の少女が答えを口にした。

 

「あなたが追っているのと同じ方を追っている者です」

「さっきの、ポルシェの奴を?」

「そうです。それと、その主人の方も」

 

 左の少女は前を向いたままそう言った。ポルシェの女の主人――言うまでもなく、クリスティーナ・リーのことだ。

 

「後で詳しいことはお話しします。こちらとしても、日本海軍の方に協力をお願いしたいですし」

 

 その少女は少し顔を鈴谷に向けて、自らの友好さを示す様に柔らかく微笑んだ。彼女の濡れた髪が街灯の光を反射している。

 

 

 鈴谷は、少女が二つの髪飾りのような物を着けていることに気付いた。左のこめかみ付近に蛙をあしらった髪飾りと、その下に垂らした一房をまとめる蛇をあしらった髪留め。可愛らしいファッションだが、特徴的で、最近の流行からは外れるだろうか。

 

 少しだけ、神秘的な雰囲気のする少女であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




白うさぎを追い駆けて


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督41 Welcome to Wonderland!

 

 嵐は初めて艦娘として艤装を背負ってから、あと二月ほどで八年になる。普通、八年の経験を持つ艦娘と言えば、もう十分中堅であるし、ひと通りの経験を積んで兵士として「使い物になる」レベルに達したとみなされる。何しろ艦娘というのはそこら辺に居る一般人の少女をあの手この手で籠絡し、基地に連れて来て適性を測り、その適性に見合った艤装を背負わせたら、「ハイ、出来上がり」なのだ。もちろん、軍人として必要な最小限の知識や技能は身に着けさせるが、だからと言って艤装を背負ったばかりの小娘に戦場で生きる覚悟も決意もなければ、そこまで精神が成熟しているわけでもない。

 言ってしまえば銃を持たせただけの少年兵に毛が生えたようなものだし、実際艦娘の存在自体を否定する一部の民間団体からは明確に艦娘を指して「少年兵だ!」という批判を浴びることも少なくない。小娘を戦場に送ればどうなるかは誰だって想像出来るだろうが、それは陸の上だけの話だ。生憎と言うのか幸いと言うのか、艦娘というのは多少の損傷には打たれ強く、普通の人間なら即死するような衝撃を受けても軽症で済むような、人知を超えた存在でもある。「女神の護り」として一般にも知られたこの原因不明の効果により、艦娘は危険な戦場であっても非常に守られているのだ。よって、街中の少女をいきなり戦場に送っても棺で家族の下に帰る者はほとんどいない(だが、決してゼロではない)。

 ただ、誰しも人というのは環境に適応し、慣れてくるものだ。初めは敵の砲撃に足をすくませて棒立ちになるかその場にしゃがみ込むしかなかった哀れな少女は、いつしか目の前で水柱が立ってもそれに突っ込んでいくようなクソ度胸を身に付けるようになる。少女が艦娘として使い物になるのに、八年という時間は十分なものなのだ。

 

 嵐と、いつも隣りにいる萩風の八年の内、最初の一年間は座学の勉強や艦娘としての艤装への習熟訓練に費やされ、ほとんどの時間を内地の育成学校で過ごした。そこでの日々は楽しくも穏やかな時間だったが、その間に兵士としての自覚が育まれるわけでもなく、正直に言えば学生時代の延長線上の生活でしかなかった。だが、この一年間が艦娘としての嵐のすべてにおいて礎となった時間であることは間違いない。血の繋がらない三人の“姉妹”を手に入れたのは艦娘の育成学校でのことであり、その三人と嵐というのが後の第四駆逐隊を編成する四人の駆逐艦娘だった。この出会いがなければ、深海棲艦と艦娘との間に新しい関係性が見出されることもなく、“奇跡”も起きなかっただろう。

 そうして最初の一年を過ぎると嵐は海に出て、以来ずっと海(の底)で過ごしている。ただし、来歴が特殊すぎるほど特殊なので、実質的に艦娘として活動したのは三年程度になる。艦娘で三年といえば、まだ新人の域を出ない。

 とはいえ、八年は八年だ。その間に経験したことは並の艦娘にはあり得ないことの連続だっただろう。特に、自分の足で溺死することなく海底を彷徨い歩くなど、経験したくても出来るようなものではない。ある意味では嵐と萩風は「経験豊富な」艦娘でもあった。

 だがしかし。そんな「経験豊富な」艦娘であったとしても、こうした体験というのはなかなか得難いものではないだろうか。大都市の夜間遊覧飛行を含む任務というのは、普段海面上での二次元的な活動がほとんどの艦娘にはまず訪れない機会だろうと思う。あらゆるものが人工的であるこの島国において、夜空を照らす高層ビルはその象徴である。

 

 

 現在、嵐の所属する第百十七駆逐隊は出撃中だった。シンガポール周辺での任務は多くの場合、現場へ急行する足としてヘリコプターを使う。今も嵐たち三人は小型ヘリ――MH6に乗ってシンガポール港上空を飛行中だ。眼前は都市のダウンタウンであり、深夜にも関わらず不夜城のごとく煌々ときらめき輝いていた。

 街の上空では潮の香りより排ガスの臭いの方が強い。急に鼻がむず痒くなって嵐は一つくしゃみをした。

 

「基地司令部よりマーライオン2へ。警察からの連絡あり。市街地で大規模なカーチェイスが発生した模様。現在状況確認中につき、上空にて待機せよ」

「マーライオン2、了解。滞空待機する」

 

 ヘッドセットから基地とパイロットのやり取りが聞こえて来て、嵐は隣りに座る萩風に声を張り上げて尋ねた。

 

「『大規模なカーチェイス』って何だ?」

「えっ!? 何っ!?」

 

 小さなヘリコプターの機外に半ば身を乗り出す様に座っているから、風切り音と頭上を回るローターの爆音が凄まじく、余程声を張り上げないと何を言っているか聞こえない。案の定、萩風は聞き返した。耳を近付ける姉妹艦に、もう一度嵐は怒鳴った。

 

「『大規模なカーチェイス』って何だッ!?」

 

 今度は言葉が聞こえたのか、萩風は市街地の方を指さし、

 

「あれのことじゃない!!?」

 

 と叫んだ。その指の方向を見ると、確かにビルとビルとの間に赤い光が明滅しているように見える。あれは恐らくパトカーの赤色灯だろう。

 シンガポールは典型的な都市国家で、シンガポール島全域が都市と呼べるが、その中心地は何と言っても島南部のマリーナ湾を取り囲むエリアだろう。有名な、海に向かって水を吐くマーライオンの像もここに位置しており、三棟の高層ビルが屋上で繋がったマリーナベイ・サンズや、針山のビル群、今夜パーティが開かれたフラトン・ホテルもこのエリアに含まれている。

 萩風が指さしたのはそんなダウンタウンより少し北よりの場所であった。日本海軍のヘリが市街地上空を飛行することはシンガポール政府との協定で禁止されているので、カーチェイスを上から眺めることは出来ない。

 当初の指示通り、江風以下の第117駆逐隊はパーティの開始に合わせて基地より出撃し、シンガポール島沖合で哨戒を始めた。本省からの命令での任務だったわけであるが、特別何かがあるわけでもない。不測の事態に備えて高角砲に対空電探を装備、予備弾薬まで持ち出し、海空の敵に対応出来るよう兵装を選んだのだが、はっきり言ってこのような駆逐艦としてはほぼ完全な武装をする必要もなかった。深海棲艦が出て来そうな気配もなかったし、海賊出没の情報もない。

 江風は不吉なことを言っていたが、嵐自身は何事もなく今夜という夜は終わるだろうと油断していたから、緊急入電があり、ヘリに拾われることになったのには驚いた。パーティ中に不測の事態が発生したと言う連絡だったが、その内容はまだ分からなかった。基地に訊いても「詳細確認中」との返答しかなく、かれこれ三十分はヘリに乗せられて空を飛んでいる。

 

 だんだんと事態が悪い方に移ろいつつあるということを、嵐は理性ではなく本能的に察していた。夜景は信じられないほど綺麗だが、ところどころで見られる赤いサイレンが、この街で少しずつ異常が起き始めていることを示している。ふと隣を見ると、似たような心境なのか、萩風もまたいつになく真剣な面持ちで街を眺めていた。大雑把な嵐と違って常に丁寧に整えられている細い眉が眉間に落ち込むように真っ直ぐに立てられている。

 見詰められていることに気付いた彼女が嵐に目を移した。嵐も、萩風も、そのまま互いに無言で視線を交錯させる。頭上を回るローターやエンジンの音がまともな会話を不可能にするくらい騒がしいからという理由ではなく、ただ二人の間に言葉が必要なかっただけだ。

 嵐が感じていることを、萩風もまた感じていた。二人とも同じ気持ちだった。萩風が、膝の上に乗せた主砲を抱えていた手を徐に伸ばして、同じように自分の主砲を抱えている嵐の手に添えるのを見て、それが間違いないことを確認する。嵐が添えられた手を握り返すと、色とりどりのネオンに照らされている白い頬の陰影が少し変化して、小さなえくぼが作られた。

 

 

 

 

「至急! 至急! 基地司令部よりマーライオン2へ」

 

 僚艦との絆を確かめるための二人の短い時間は、ヘッドセットから聞こえてきた音質の悪い通信によって遮られてしまう。ただならぬ気配を感じて、萩風は手を放し、二人とも主砲を抱え直した。

 

「こちらマーライオン2。聞こえている。どうぞ」

「柳本中将から連絡があった。黒檜大尉が拉致された。犯人は現在市街地を逃走中。カーチェイスはそれによるものだ」

「なんだってっ!!?」

 

 真っ先に反応したのは、自分でも驚いたことに自分自身だった。狭い機上で嵐は小さく身体を跳ね上げ、眼下のシンガポールに視線を投げる。

 

「誰だ、今の声は? 嵐か? 落ち着け。まだ続きがある」

 

 基地のオペレーターは少し苛立ったように嵐を窘めると、残りの情報を伝えた。

 

「犯人は車両を使用して逃走した模様。警察が追跡中だ。また、警察とは別に、独自に逃走車両を追跡した一般車両が存在した模様。これの詳細は確認中だが、恐らくパーティに同行していた情報保全隊付特務艦の艦娘と思われる。彼女の所在も現在不明となっている」

「マーライオン2、了解。当機は市街地上空を飛行出来ない。追跡の支援も行えないが、どうするか指示されたし」

「マーライオン2及び百十七駆は帰投せよ。これ以上の滞空待機は不要」

「待ってくれ!」

 

 冷然と告げられたオペレーターの一言に、嵐とは反対側に座る江風が抗議の声を上げた。

 

「大尉は何で連れ去られたンだ?」

「それは分からない」

「だろ? 分かンねーことだらけだぜ。そンな状況下で、江風たちを引っ込めるのは得策じゃない。もう少し落ち着くまで待機しておいた方がいいぜ」

「追跡は市街地で行われている。君たちの手出し出来ない場所だ。警察のヘリも出動しているから、上空からの追跡はこちらに任せろ。逃亡犯が海に出る蓋然性は低い。これ以上はヘリの燃料も無駄になる。それに、これは命令だ」

「くそ……」

 

 容赦のないオペレーターに、江風が悪態を漏らす。彼女の気持ちは痛いほど分かった。嵐だって、否、嵐こそより強くそう思うのだ。

 どうやら、江風が懸念したことは彼女にとって想像を絶する形で現実となってしまったようだ。

 誘拐犯が何者なのか、それは捕まえてみないことには分からないし、狙いが黒檜だったのかたまたま狙われたのが黒檜だったのかも定かではない。ただ、誰にとっても驚くような出来事が起こったわけだ。

 黒檜はれっきとした軍人であり、海軍兵学校で規定通りの戦闘訓練も受けているはずだが、普段の彼女の業務といえばまさに「お役所仕事」なのである。それは仕事が杓子定規で遅いということではなく、役所でやっているような事務仕事がほとんどを占めているという意味で、要するに彼女は戦闘要員ではないということだ。

 

「OLと大して変わらないか」と、黒檜に対して若干失礼なことを考えつつ、しかし嵐としては看過出来ぬ状況であるのに、無情にも帰還を命じられたことにふがいなさを感じるしかない。

 彼女は、嵐と萩風の貴重な理解者だ。二人の過去を知って尚受け入れ、他の艦娘と変わらぬ態度で接してくれる。過去を指した非難を浴びることも少なくない嵐たちだが、今のところ二人がシンガポールで快適に過ごせているのは黒檜のお陰なのだ。

 シンガポールに配属されたばかりの頃は酷い言葉を投げられることも多かった。自分たちのしたことを考えればどんな誹謗中傷も受け入れるしかないし、反論する資格すらないと考えていた。だけど、言葉の刃に心が傷付かないはずがない。萩風なんかは酷いもので、中傷される度に一人枕を濡らしていた。

 昔から喧嘩っ早いところのある嵐も我慢していたが、ある時ついに堪忍袋の緒が切れたことがあって、その時も萩風と二人諸共かなり酷いことを言われたのだ。最初は黙って聞いていたものの、その内萩風が耐えきれずに泣き出してしまい、それでも何も言わずに岩になろうとしていた。だが、結局気の長い方ではない嵐は我慢しきれなかった。厳罰を覚悟で相手の顔面に拳を叩き込もうと踏み出した時、間に入ったのが黒檜だった。その時彼女はまだシンガポールに配属されて二日目で、あまり事情もよく分かっていなかっただろう。しかし、いやあるいはだからこそ、激怒“出来た”。

 殴りかかろうとした嵐を背中で受け止め、恐らくは震え上がるような恐ろしい顔で猛然と相手を批判し始めたのである。そのあまりの剣幕に相手も驚いて逃げるようにその場を立ち去るしかなかった。以来、彼女があれほど本気で怒ったことを見たことはないが、相当に衝撃的な出会いだったのは確かだ。

 その後は黒檜は嵐と萩風の置かれた境遇に同情し、周囲に対して理解を促すように行動し始めた。二人を誹謗するような言葉を言う相手に対しては顔を突き合わせて対話を図り、説得していったのである。お陰で、半年もしない内にシンガポールで嵐たちを悪く言う者は居なくなった。それは、黒檜が怒った相手もそうだった。

 時折、基地の外部から来た人間や艦娘から色々と言われたりもするが、その程度なら嵐たちもあまり気にしなくなった。何にしても黒檜が行動を起こしてくれたお陰だし、嵐も萩風も彼女には深く感謝している。黒檜は、いわば二人にとっての恩人だ。

 

 その恩人が理不尽な犯罪の被害者となり、今も悪党の手の中に囚われている状況で、のこのこと基地に帰るしかないのは悔しさを通り越して情けなささえ感じる。同盟国でもない国の軍のヘリが市街地上空を飛び回るのを良しとしないシンガポール政府の言い分も、自分たち艦娘がどれ程の暴力装置であるかも理解している。犯罪者を捕まえるのは警察の仕事であって、例えその被害者が大切な仲間であったとしても、軍のしゃしゃり出る幕はないのだということも、毎日マラッカ海峡で仕事をしているからこそ身に染みて分かっている。帰還の命令が妥当であることも。

 

 旋回して基地に機首を向けるヘリ。「こンなこと、してる場合じゃねえのに……」という、江風の絞り出すような呟きがヘッドセットから聞こえてきた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 鈴谷を助けた二人の少女の名前は、先に川に飛び込んだ方が「東風谷早苗」、後から飛び込んだ方が「博麗霊夢」と言った。鈴谷は二人に連れられ、低所得者用のマンションの屋上に上って、まず服を乾かし始める。

 屋上には大きな横長の看板が据え付けられており、博麗は持っていた紐を看板の支柱と支柱の間に結び付けて即席の洗濯紐を作ると、びしょ濡れになった三人の上着を引っ掛けた。鈴谷はスーツ姿だが、常夏の国に来た二人は共にTシャツにハーフパンツと、非常にラフな格好である。紐に引っ掛けられたのは、鈴谷のジャケットとブラウス、少女二人のTシャツだった。つまり、三人とも上半身は下着のみということになるが、女同士、衆目がある場所なわけでもないので、恥じらいというものは考えもしない。ちなみに、鈴谷と東風谷はブラジャーだったが、博麗は何とサラシを巻いていた。

 

 火を焚く必要もないほど温かいので、屋上を這い回る送水管に並んで腰掛けながら、半裸の三人は情報交換を始める。

 

「私たちは」

 

 どこの、何者であるか、という問い掛けに対し、神妙な面持ちで東風谷が答えた。

 

「幻想郷という場所から来ました。そこに守谷神社という神社があって、私はそこの風祝。霊夢さんは別の、博麗神社という神社の巫女です」

 

 聞いてすぐに意味を理解するには難のある発言だった。知らない名詞が複数出て来たので、まず分かりやすいところから咀嚼していく。どうやら二人は別々の神社の神職らしい。普通、神社の巫女と言えば、初詣の神社でおみくじを売っているようなアルバイトをイメージするが、中には正規雇用として神社に採用される本職も存在する。二人は見かけの年齢から「バイト巫女」のように思えるが、それなら自己紹介にわざわざ「巫女」と名乗ったりはしないだろう。“風祝”が何かは分からないが、東風谷の言い方から「巫女」と大差のない職のようだ。

 問題は、地名らしき「幻想郷」という名詞だ。聞いたことがないし、「幻想」と名の付く場所が存在するのも奇妙である。

 

「『幻想郷』ってのは、どこのことなの?」

 

 すると、東風谷は困ったような顔になった。まるで、その言葉を説明する語彙を持ち合わせていないと言わんばかりだ。そこで、鈴谷は少し助け船を出してみる。

 

「日本なの?」

「まあ、そうと言えると思います」

 

 はっきりしない答えに、眉間に皺が寄る。だが、短気を起こすにはまだ早い。彼女たちは有力な情報提供者になり得るからだ。

 

「都道府県で言えば、どこ?」

「……う~ん。難しいですね。あれは、何県なんだろ?」

 

 東風谷は首を傾げた。「何県なんだろ?」と言われても、それはむしろ鈴谷が知りたいことである。

 

「幻想郷は、こっちの世界の言葉じゃ説明しきれないわよ」

 

 不意に、黙って会話を聞いていた博麗が東風谷を挟んだ反対側から口を挟んだ。というより、悩む東風谷に対して助け舟を出したのだろう。鈴谷はあえて無言で首を傾げ、博麗にどういう意味なのか説明することを促した。

 

「あんたには信じられないかもしれないけど、幻想郷には神も、妖怪も、幽霊も実在するわ。それらすべては、こっちの世界で否定された幻想。そういう幻想たちが生き延びるために作った場所が、幻想郷なの。この早苗だって、元々こっちの世界の住人だったけど、守谷の神が存在を保てなくなるからって幻想郷に引っ越してきたのよ」

 

 博麗神社の巫女は饒舌につらつらと語ったが、鈴谷には話の半分も理解出来なかった。恐らく彼女は聡明で、色々なことを理解しているのだろう。ただ、頭の中にあるそれらの理解を適切に言語化して他者と共有するという行為がとことん苦手なのだ。学者や、官僚に多いタイプか。頭はいいが、口下手で、難解なことを咀嚼して相手の理解しやすいように言い換えることが出来ない。

 とは言え、博麗の言いたいことを把握しなければ、さすがにこの後の話には付いていけそうになかったので、仕方なく鈴谷は東風谷に視線を送った。聡い彼女はそれだけで自分に期待されている役割を理解したのだろう。言葉を選ぶようにゆっくりと解説をしてくれた。

 

「ええと、『こっちの世界』というのは、今私たちや鈴谷さんが居る、この世界のことです。ですが、幻想郷はこの世界とは別の、いわば異世界や不思議の国のような存在と言えるでしょう」

「夢の中の世界ってこと?」

「そうとも言えるかもしれませんね。普通の方法ではこちらの世界から幻想郷に行くことは出来ません。幻想郷はこちらの世界、私たちは『外の世界』と呼んでいますが、この『外の世界』とは結界で隔離されています。

幻想郷では、『外の世界』で否定された不思議や、忘れ去られた事象が存在します。例えば、魔法。例えば、奇跡。こちらの世界では、それらはすべて否定されていることでしょう。科学的に説明されるか、『気のせい』とか『勘違い』とか『幻覚だった』とか言われているようなことが、幻想郷では実際に存在するし、実際に起きるのです」

「魔法や奇跡が存在する世界? そんなものが、ホントに実在するってわけ?」

「そうです。実際、私の友人の一人は、本物の魔法が扱えて、星を降らせたり、箒で空を飛んだり出来るんですよ」

「毒リンゴとか食わそうとしたりする?」

「いいえ。彼女の場合は毒キノコですね」

 

 東風谷はにっこりと笑った。

 

 それにしても、魔法や奇跡も存在する世界に、神社まであるのだから、何とも統一性のないような混沌としているような気がする。不思議の国から来たのだから、不思議なことの一つでも出来るかもしれない。

 幻想郷という場所は極めて興味深い場所であったが、今鈴谷にとって重要なのは、夢とおとぎの国に想いを馳せることではない。そんな夢見がちな時分はとっくに過ぎたし、魔法や奇跡があったところで、欲しいと思うものは特にない。

 

「それで、その幻想郷から来た二人はさぁ、どういう理由があってこっちに来たの?」

「そりゃあ、あいつを追うためよ。あの、レミリア・スカーレットっていう餓鬼をね」

 

 今度は博麗が答えた。彼女が出した名前に聞き覚えがあって、鈴谷は目を細める。

 

 およそ二年前、東日本のある海軍鎮守府に「提督」として着任した外国人が居た。その人物の名前が「レミリア・スカーレット」。だが、実際には彼女は素性不明な不審人物であり、それに気付いた当該鎮守府の所属者によって追い出された。

 それ以来、この人物は行方不明になっているので、真実、一体どこの誰だったのか、何が目的でこの鎮守府に潜入していたのか、スパイなのか、そうではないのか、詳しいことは何一つ分かっていない。彼女について、当該鎮守府が提出した報告書ではその辺りのことは一切書かれていないし、そこには「追い出した」などと格好をつけて書いてあったが、その実、単に逃げられただけである。当人に詳細を尋問する機会も失われてしまったので真実は明らかになっていない。

 このことは海軍上層部の沽券に関わるので、一切公表されていない。よって、最高機密の情報となっているのだが、鈴谷が「レミリア・スカーレット」について知っていたのは、こうしたスパイと思しき不審人物を洗い出し、身辺調査を行い、時に逆スカウトを行い、時に捕縛して尋問をする、情報保全隊に所属しているからだ。当時、「レミリア・スカーレット」が潜入していた鎮守府の所属艦娘で、現在行方知れずとなっている者が一名存在しており、この艦娘たちを追うことが元々の鈴谷の仕事であった。

 

 思わぬところで思わぬ名前を聞くことになったのは、純粋に驚きである。だが、これは鈴谷にとって好都合だった。「レミリア・スカーレット」と「クリスティーナ・リー」は、どこかで繋がった。スカーレットの案件とリーの案件、それぞれ別の仕事を並行しなければならないのは面倒だと考えていたが、その二つが根っこのところで繋がっているなら、実質一つの仕事だ。面倒ごとが一つにまとまったなら、面倒さは半減であろう。

 

「その名前は聞いたことがあるけど、今回の話に関わってくるわけね」

 

「そうよ」博麗は首肯した。「どこで聞いたの?」

 

「それは言えない」

 

 きっぱりと鈴谷が断ると、博麗は俯き加減になって上目遣いで険のある視線を向けてくる。これが彼女の威嚇の仕方らしい。

 何となく以前の自分に重なるようで、いい気持ちにならない。誰が見ても不良と分かる不良だった頃の自分を、鈴谷はあまり好きではないのだ。もっとも、本質的なところは変わっていないものの、かつてより大人になった鈴谷は不快感を表に出さないように気を払いながら、もう一言付け加えた。

 

「守秘義務があるから」

「あ、そう」

 

 鈴谷が答えられないことを理解したのか、わざとらしく大きなため息を吐くと、もう興味をなくしたと言わんばかりに博麗は送水管から尻を離して干してあるTシャツに向かう。自分のTシャツに手を伸ばして乾き具合を確かめると、「全然ダメね」と呟いて、もう一度大きなため息を吐いた。そのまま彼女は目元に掛かった前髪をかき上げ、今度は看板の支柱に腰を預けると腕を組んでむっつり黙り込んでしまった。

 その様子を眺めていた東風谷が再び鈴谷に向き直り、すっかり話す気がなくなった博麗に代わって続きを口にする。

 

「レミリア・スカーレットさんは、吸血鬼です。ヴァンパイア」

「……マジで言ってんの、それ。吸血鬼って、あの血を吸う奴? ドラキュラ伯爵みたいな?」

「そうです。その吸血鬼です」

「ホントにそんなのが存在するなんて……」

 

 東風谷曰くは、幻想郷という場所においてフィクションに出て来るような妖怪変化が闊歩することは当たり前であり、日常であるらしい。だが、そもそもフィクションはあくまでフィクションとしてしか考えてこなかった鈴谷には、言葉で言われて理解しても、すんなりと頭に入ってくる話ではない。確かに世の中には化け物のような深海棲艦という存在が海を泳いでいるが、基本的に人類側の認識として、深海棲艦は「新種の生物」である。その生態は多くが謎に包まれているが、あくまで生物の範疇にあり、未解明ではあるものの「いずれ解明に至る」という前提条件をもってしての認識だった。

 しかし、吸血鬼はそうではない。ブラム・ストーカーの小説に出て来る架空の存在。それが吸血鬼に対する現代人のほぼ共通した認識であろう。何故なら、深海棲艦と違って吸血鬼は誰もがその存在を確認出来るようなものではないからだ。ネッシー、チュパカブラ、あるいはエリアンのような、都市伝説(法螺話)のキャラクターでしかない。

 

 それに、「吸血鬼」という単語には大きな因縁がある。忘れもしない七年前の出来事。横須賀の街を静かに襲っていた「吸血鬼」の脅威。しかしてその正体は、鈴谷の最愛の人であったわけだが。

 事の真相は結局分からずじまいだったが、この時も被害者の首筋に残されていた傷跡から「吸血鬼の仕業ではないか」と実しやかに囁かれた。もちろん、鈴谷も熊野が本当に「吸血鬼」になっていたとは考えていない。彼女が何を考え、何に苦しみ、どうしてあのような事件を起こしたのかは未だ謎であるし、恐らくはこの謎が解かれることは永遠にないだろうと思っている。何しろ、熊野はもう居ないのだ。死んでしまったのだ。死者が何かを言うことはない。そして、鈴谷自身、この謎が明らかになることを望んでいない。

 

 

 

 閑話休題。

 無論、熊野の事件でも、犯人が「吸血鬼の真似事」をしているのだという前提的な認識があったのでそういう噂が流れただけで、誰も本気で犯人が吸血鬼であるとは考えていなかった。「吸血鬼の仕業」というのは、あくまで熊野の犯行の様態に対する比喩的表現でしかなかったわけだ。

 

「ええ、そうです。その認識で間違いありません。だからこそ、吸血鬼は幻想なのです」

「架空の存在と見なされたからこそ、幻想になったってことなんだね」

 

 かつて、人々は吸血鬼の存在を信じていた。ところが、その名の知名度こそ非常に高いものの、科学技術が発達した現代ではほとんどすべての人々が吸血鬼はフィクションの中にしか存在しないと考えている。実際に世に存在していた吸血鬼はそうやって実在性そのものを否定されてしまったからこそ、それが否定されぬ世界、言い方を変えれば“自らを受け入れてくれる”世界に避難しなければならなくなった。その世界こそが「幻想郷」なのである。

 吸血鬼だけではない。昔の人々の目には不思議に映った現象の多くが科学的に説明されるようになり、誰も足を踏み入れたことがなかった土地が開墾されてどんな場所も地図に載るようになったことで、幻想がこの世界に存在する余地がなくなってしまったのだと、風祝は説いた。だからこそ、幻想たちが存在出来る世界、すなわち幻想郷が必要になったのだとも。

 

「吸血鬼を始めとした妖怪たちは、一人ひとりが人間が束になっても傷一つ付けるのがやっとのような強大な力を持っています。それでも、存在そのものを否定されてしまったら、彼ら・彼女らの力など意味を為しません。ただ煙のように薄れて消えていってしまうのです」

 

 東風谷の口ぶりには、彼女がその事実を悲観的に捉えていることが如実に表れていた。

 

「でも、その吸血鬼は自分を否定したはずの世界に戻って来た」

「はい。そして未だに幻想郷に帰って来ません」

 

 これは大変な事態なのです、と付け加えた東風谷は深刻な表情をしている。

 

「レミリアさんは幻想郷のパワーバランスを成す一角でした。幻想郷には他にも力の強い妖怪が居て、それ程広くない土地の中で棲み分けを行って共存しているわけです。もちろん、レミリアさんもその一人であり、彼女を欠いては幻想郷のバランスも崩れてしまいます。しかし、さっきも言った通りレミリアさんはある時『外の世界』、つまりこちらの世界に出て行ったきり、戻って来ていません。このままでは幻想郷のパワーバランスが狂ってしまいますから、私たちはレミリアさんが戻って来ない理由を探り、彼女を連れ戻すためにこちらにやって来たのです」

「……穏便に済ませたい感じがするね」

「それはそうですよ。私なんかでは全く敵わないくらい強大な存在なんです。事を構えるような展開は極力避けなければなりません」

「パワーバランスの一角を担ってるって言うんなら、他にも強い奴が居るわけでしょ? その『より強い存在』が連れ戻しに来ればいいじゃん? あんたたちじゃなきゃダメな理由とかあるの?」

 

 すると、東風谷は博麗と顔を見合わせ、相方に了承を取るような素振りを見せた。相方が頷いたので、東風谷は鈴谷の質問に答えることが出来たようだ。

 

「実は、妖怪たちは『外の世界』に来ることが基本的に出来ないんです。何故なら、妖怪たちはこちらでは既にその存在を否定されてしまっているので、無理に居続けようとすれば消えてしまう。だからこそ、幻想郷という場所が作られて、妖怪たちがそこに集まったのだと言えるのですけれど」

 

 東風谷の話は現実離れしすぎていて今一つ理解に難儀したが、それでも鈴谷は引っ掛かりが一つ解消されたことを感じ取った。スカーレットの強さというものがどれ程なのか、深海棲艦とまともに戦い得るものなのか、そこは分からない。少なくとも海軍に潜入していた時に彼女自身が深海棲艦と戦ったという「記録は」残っていない。一度だけ直接会敵したことがあったようだが、結局その時も当時部下だった艦娘たちが対応している。だから、スカーレットが強者と言われても今一つピンと来ないのだが、仮に東風谷の言う通り「強い」存在であるなら、スカーレットを含め、そうした存在が「こちらの世界」に来て暴れ回っていてもおかしくない。そうであれば、深海棲艦との戦争の様相というのも大きく変わっていただろう。

 だが、実際には「こちらの世界」に妖怪が跳梁跋扈することなどなく、強いて言うなら深海棲艦がそれに該当するであろうが、吸血鬼が何かをしたという話は今の今まで聞いたことがなかった。それはもちろん、吸血鬼が「実在しない」とされているからだ。少なくとも現代において地球上で最強の存在は人間か深海棲艦と言えるだろう。

 

 ようやく飲み込めた鈴谷は、スカーレットより「強い存在」が彼女を連れ戻しに来ない理由にも納得した。東風谷と博麗が派遣されたのは、彼女たちが紛れもなく人間であるからだった。人間は、幻想郷にも「こちらの世界」にも、共通して存在している。人間は、誰かが信じるか否かによって存在を否定されるようなものではない。ヒト科ヒト属の一種である生物であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。

 しかし、ここで矛盾が生じる。何故なら、スカーレット以外の幻想たちは「こちらの世界」に来れないにも関わらず、スカーレットは少なくとも半年間は「こちらの世界」で存在していたのだ。これは明らかに東風谷の説明と辻褄が合わないことだった。

 

「正直、その理由は分かりません。レミリアさんには仲間が居て、その仲間たちも幻想なのですが、彼女たちも消えたりしていないようですから、何かからくりがあるのだと思います。けれど、私たちにはそこまでが分かっていません」

 

 本当に東風谷たちが、スカーレットが“消えない”理由を知っているかどうかは判別しかねた。東風谷は困ったような顔でもっともらしく言っていたが、その言葉を鵜呑みにするほど鈴谷は脇が甘いつもりはない。誰かの言うことを馬鹿正直に信じていたら、防諜など務まらないからだ。

 とは言え、追及するだけの材料もないので、あえてそこに突っ込むことはしない。代わりに鈴谷は、今の彼女たちと吸血鬼の関係性を尋ねた。

 

「平たく言えば、レミリアさんが何を考えているのかが分からないのです。で、いつまでも出奔されたままでは困りますから、何とか連れ戻せないかと思ってシンガポールまでやって来た、というのが事の次第です」

 

 と、東風谷は困り顔だ。

 

「仮に、吸血鬼が帰ることを拒んだとしたら、どうするの?」

「うーん。そこは、最悪実力行使もあるでしょうけど……」

「まるで、力づくでどうにか出来るみたいなことを言うんだね。さっきは『全く敵わない』とか言ってたように思うけど?」

「それは、ほぼ間違いなくレミリアさんがこちらに来て弱体化しているからですよ。消えないだけで、力は大幅に弱まっているはず。ですが、私たちは人間なので力を失うことはないのです。存在としての強さが己の力の強さに直結する妖怪と違って、人間は人間ですから」

 

 東風谷曰くはそういうことなので、幻想郷にどれ程の数の人間が住んでいるかは知らないが、この年端もいかない少女二人が強大な吸血鬼を連れ帰るに適切な人選であるらしい。神職というのはそれほど力があるものなのだろうか。

 

「へえ。今のレミリア・スカーレットなら、あんたたちでもどうにか出来るってこと?」

 

 鈴谷としては特にそんな意図を持った発言ではなかったのだが、それまで面倒な説明事をすべて東風谷に丸投げして沈黙を維持していた博麗が敏感に反応した。

 

「は? 何言ってんの、元々あんなちんちくりんに負けるわけ……」

「あー! そうです! そうです! 私たちでもどうにかレミリアさんに勝てるくらいです。はいッ!」

 

 何か言い掛けた博麗を、東風谷が慌てて塞かき消すような大声で遮った。発言を妨害された方はいたく機嫌を損ねた様子だ。若干不貞腐れたような気持ちが見て取れた。

 

 少女二人とスカーレットの力比べがどうであるかに興味あるが、今の優先順位は他が上位になる。大事なのは、この少女たちがある事柄について答えていないことだった。

 東風谷は言った。レミリア・スカーレットが幻想郷に“戻って来ない理由”を探り、連れ戻すためにやって来たのだと。

 その言葉を素直に解釈するなら、彼女たちはスカーレットを連れ戻すことが役目であり、場合によっては吸血鬼が出奔したままの理由を聞いてある程度理解を示す必要性がある、と考えているようだ。そこに、スカーレットが「こちらの世界」に“来た理由”は含まれていない。何故ならば、彼女たちはその理由を知っているからであろう。

 

「一つ気になったんだけどさ」

 

 何となく裏の事情が読めてきた鈴谷は、組んでいた腕を解いて、さりげなく鈴谷の背後に回ろうとしている博麗に意識を割きつつ、視線は東風谷から外さずに問い掛ける。同時に、気付かれないように膝から力を抜いた。

 

 

「吸血鬼が幻想郷から出て来たのはなんで? その理由を、あんたたちは知ってるみたいだけど、良かったら鈴谷にも教えてくれるかなあって思うんだけど」

 

 一瞬、東風谷が博麗に目配せする。

 

「ねえ、“早苗ちゃん”」

 

 

 

 艦娘に猫なで声で名前を呼ばれた少女は、表情を強張らせた。怖気づかせるつもりはなかったが、舐めた態度をとられるのは気に食わない。これでも鈴谷は軍人、すなわち国家権力の一部であり、一般の少女から軽んじられるようでは面目も何もあったものではない。プライドの話ではないが、こちらの力をある程度誇示しておかなければ、重要な話はしてくれないだろう。

 果たして、威嚇が効いたのか、少女は答えた。ただし、東風谷ではなく博麗である。

 

 

「レミリアの奴がこっちに来て、初めに何をしてたかは知ってるわ」

 

 気付けば虎が威嚇しているような鋭い目付きの博麗が看板の支柱から腰を離し、両手を身体の横に垂らしたままの姿勢で直立していた。注目すべきは右手に御幣のような物が握られている点で、つい先ほどまで彼女はそんな物を持っていなかったはずだ。上半身はサラシだけなので隠すことも出来なかったはずだが、どこから取り出したのだろうか。いずれにしろ、彼女は警戒心を隠すつもりもないようで、御幣はその表れである。

 

「あんたがあいつの名前を知っていたのは、あいつがあんたたちの組織に潜り込んでいたから。違う?」

 

 そう問い掛ける博麗に、一瞬逡巡した鈴谷だが、すぐに「違わないよ」と首を振った。スカーレットの存在は、海軍内では機密事項で、それ故先程「レミリア・スカーレット」の名前を知っている理由を聞かれた時に、守秘義務を理由にして答えることを拒んだのだが、何のことはない、彼女たちは聞くまでもなく鈴谷の側の事情を分かっていたのだ。ならば、守秘義務に反するが、下手に情報を隠すより、ある程度開示した方が話は進みやすいだろう。

 

「確かに子供みたいな見てくれの外国人の将軍がうちの組織の中で指揮を振るっていたよ。そいつの名前が『レミリア・スカーレット』だった」

「そうよ。そいつがレミリアよ」

 

 かつて海軍に潜入していた「レミリア・スカーレット少将」なる人物は、とても背が低く、子供と見間違えるような背格好をしていたという。というより、スカーレットの見た目は子供そのものなのだ。彼女を映した写真は数少ないが、いくつか残されていたそれらを見た鈴谷はそう感じずにはいられなかった。不思議なことに、幼い姿の提督を、当時の鎮守府の全員が受け入れていたのである。それこそ、“魔法が掛かった”ように。

 

「で、あんたはレミリアが何で自分たちの組織に潜り込むようなことをしたのか、何をしようとしていたのかを探っているってわけね」

「そうだね。それが、鈴谷の仕事だし」

「それくらいのことなら、教えてあげてもいいわよ」

 

 博麗は、初めて笑った。不遜な笑みだったが、彼女のような年代の少女が浮かべるような表情ではなかったが、それでも笑みは笑みだった。

 

「要求は?」

 

 持ち掛けられた取引に、鈴谷は応じることにした。未だ博麗は警戒を解いていないが、彼女と対立する必要性はどこにもないし、彼女たちには利用価値がありそうである。訊いてはいるものの、実は彼女が何を言いだすかは見当がついていた。その上で、既に相手の要求を飲むことを決めていた。

 

「私たちに協力してくれる? こっちの世界じゃ、私たちに出来ることは限られてるし」

「いいよ。手を貸してあげる。その代わり、こっちのお願いも聞いてよね」

「交渉成立よ」

 

 そう言って、ようやく博麗は肩の力を抜いた。御幣を支柱に立掛け、強張っていた筋肉を解すように首元を揉みながら肩を回す。さらに、首を曲げて骨を鳴らすと、博麗は干してあるTシャツを取り上げ、大きく振って風で水分を飛ばそうとする。二度、三度それを繰り返してから徐にシャツを鼻に持って行き臭いを嗅ぐと、「臭い」と呟いた。

 気温も高いが、湿度も高いシンガポールの夜だ。干してもほとんど乾かない上、臭いも残るだろう。これ以上は干している意味がないと判断したのか、博麗は生乾きのシャツを着た。

 

「さっきの質問には答えてくれるんでしょ?」

 

 マイペースな博麗はそのまま好きにさせておくと何も教えてくれそうにないので、回答を催促する。巫女はTシャツを着る際に巻き込んだ髪を襟口から引き出しながら軽く頷いて、

 

「ああ、レミリアがこっちに来た理由?」

「そうそう」

「あれね、何だっけ? あの、海の化け物のこと……」

「深海棲艦?」

「そう。確かそんな名前。その深海なんたらを倒すために、あいつはこっちに来たみたい」

 

 鈴谷は口元に手をやる。これは極めて興味深い情報であった。

 深海棲艦は人類の不倶戴天の敵。それを、スカーレットは駆逐するためにやって来た。元々人間を襲い、喰らっていた吸血鬼が、である。

 無論、博麗の話には続きがあって、驚く鈴谷のことなど気にも留めていない彼女はつらつらと語る。

 

「幻想郷って内陸にあって、海には面していないの。だから、大体の物は自給自足で賄えるんだけど、海とは繋がっていないから一つだけどうしても外の世界から手に入れなきゃならない物がある」

「塩のこと?」

「そうよ」

 

 博麗は首肯した。

 

 

 塩。しお。Sault. 

 古代ローマでは「Sal」と呼ばれ、通貨の代わりとして兵士たちに現物支給されていた必需品である。塩自体が人間が生きていく上で欠かせられない物質であり、塩分の不足により脱水症状や筋肉の痙攣、果ては意識障害から昏睡に至り、最悪は死ぬ場合もある。特に、塩分不足による低ナトリウム血症は作戦行動中の艦娘にとって致命的な事態であり、艦隊に一人でも低ナトリウム血症の兆候があると、即刻作戦が中止されることもあり得るくらい深刻に考えられていた。こうした事態には日中炎天下での海上航行中に熱中症と共に陥りやすいため、各員の水分と塩分のバランス良い補給が厳命されている。

 こうした背景もあり、艦娘である鈴谷は塩がどれ程人体にとって不可欠なものであるかをよく理解していた。それでなくとも、四方を海に囲まれた日本は工業用途を含め大量に塩を消費する国であり、多くを輸入に頼っていたにもかかわらず、深海棲艦の出現で海外からの塩の供給が減って深刻な事態に陥ったことがあるのだ。今は自国内での生産量が十分増えて以前ほど塩不足が騒がれることはなくなったが、当然塩の価格は跳ね上がり、経済を圧迫するようになっていた。それで、多くの日本人は塩の重要性を嫌というほど思い知らされているはずだ。

 だから、内陸にあるという幻想郷が塩の調達に苦労するのは想像するまでもなかった。そして、その問題の深刻さについても鈴谷はすぐに実感を伴って理解した。幻想郷側が普段どのようにして塩を調達していたかは不明だが、外部と何らかの取引をして手に入れていたと考えるのが妥当だろうか。とすると、外部すなわち日本国で塩不足になりその価格が高騰するのは相当幻想郷に悪影響を及ぼしたはずである。それに対するリアクションとして、諸悪の根源たる深海棲艦を排除しようとするのは、当然と言えば当然だ。

 

「確かに深海棲艦が居なくなれば塩の安定供給は可能だね」

「外の世界の人間がいつまでも深海棲艦の駆除に手をこまねいているからこっちから出て行かなきゃならなくなったってわけよ。まあ、存亡も懸かっていたことだし」

 

 若干棘が含まれた表現だったが、博麗の言っていることは概ね正しい。鈴谷たち“外の世界の人間”側が深海棲艦との戦いを長いこと続けているのはまごうことなき事実であるし、決め手を欠いてここまで戦争が延びてしまっているのもまた事実である。

 

 最近の大学生より少し上の世代は、生れた時から国が深海棲艦と戦っていると言える世代だろう。もう四半世紀以上もこの戦いを続けているのだから、各国とも経済活動や政治体制は深海棲艦との戦いを前提としたものに変化していた。塩価格が高騰したのは、そうした状況下でさらに経済成長が起こったことが切欠であり、各家庭や企業とも塩が高くなったことに苦労しながらもなんとか対応をしている。むしろ、厚生労働省などは塩の需要過剰を逆手に取り、健康促進のためと称して減塩キャンペーンを主導したくらいなのだ。一時期は食費節約と高血圧の解消のため、減塩料理が大ブレークしたこともあった。

 こうした事象は、日本に限らず世界各国で類似しているという。これが意味するのは、人類は深海棲艦という存在を好むと好まざると受け入れ始め、その存在を当然として社会を構築し直したということだ。もっと簡潔で平たい表現を使うなら、「慣れた」とも言えるだろうか。

 人類は深海棲艦の存在に、海の異形と戦うことに、「慣れた」。「慣れてしまった」。それは例えば世界的な供給連鎖や人の移動、国際関係、学術研究などもそうである。いずれにしろ、人間社会のあらゆる領域で深海棲艦を前提とした仕組みが再構築され、それらが今の世界を動かしている。もっと言えば、深海棲艦との戦争も、むしろそのことを商売のタネにしている企業も存在するくらいで、艦娘の存在も賛否両論はありながらも広く社会に受容されているし、学校の教科書にも毎日のニュースにも当たり前のように「深海棲艦」や「艦娘」といった単語が現れるようになっていた。深海棲艦の権利――“アビシス・ライツ”――なる概念を主張する色物団体も出現しているというのだから、人類の深海棲艦への「慣れ」の程度が知れるというものである。

 ただし、こうして深海棲艦に「慣れた」のは、あくまで鈴谷の知っている世界の住人たちだけで、目の前の少女たちを含めた異世界の住人たちはそうではなかった。思うに、彼女たちが来た「幻想郷」という場所は限られた人数しか居ない小さなコミュニティで、経済活動のレベルも「こちらの世界」とは比較にならないほど低く、それ故に塩価格の高騰を許容出来る経済的な強靭さや冗長性がなかったのだろう。彼らは深海棲艦との戦いが長引くことに耐えられない。それを前提とした社会システムの再構築が出来ない。だから、「排除」という結論に達したのだ。

 

 

 潜入していた理由が分かり、腑に落ちていなかったことがすんなりと飲み込めた。スカーレットの“当初の”目的は、深海棲艦の討伐であったわけである。実際にどの程度深海棲艦を駆除するつもりであったのかは定かではないが、少なくとも幻想郷の社会システムが破綻を来さない程度にその影響力を減じる必要はあったであろう。そこで白羽の矢が立ったのが、幻想郷のパワーバランスの一角を担うというレミリア・スカーレットだった。

 ところが困ったことに、この強い吸血鬼は外に出て行ったきり、幻想郷側の意志に背いて独断専行をし始めてしまった。幻想郷側からすれば、それはそれは心休まらない事態だろう。狭いコミュニティの中にもかかわらず、強大だというスカーレットのような連中がひしめき合っている幻想郷で、微妙なバランスの上に成り立っていた社会がそれを支える重要な柱を一つ欠けばどうなってしまうかは簡単な想像だ。

 東風谷たちに与えられた使命は、可能な限り穏便にスカーレットを連れ戻すこと。問題は、間違いなくレミリア・スカーレットは自分が幻想郷でどのような影響力を持つか自覚しているのに、戻らないだけの強い目的を持っているという点だ。その自覚がなければ、彼女が幻想郷の中でパワーバランスを担うことが認められなかったであろう。何しろ、同等の存在は他にも居るらしいから、自分の力の強さも分からないほどの愚か者であれば、それこそ即座に排除されているはずだ。にもかかわらず、スカーレットは幻想郷に帰らず、「こちらの世界」に来たままだという。しかも、その仲間まで連れているというのだから、スカーレットには「こちら」に居続けるだけの何か強い理由があるのは間違いない。

 

「でも、レミリア・スカーレットが海軍に潜り込んだのはもう二年も前のことだよ? それにしては随分と時間が経っているような気がするけど?」

「実はレミリアさん、二年前に海軍に潜入し始めた後、一度戻って来ているんです」

 

 今度答えたのは東風谷の方だった。

 

「レミリアさんの潜入について調べておられたのならご存知かとは思いますが、潜入していたのがバレて追い出されていますよね。その後、レミリアさんは一旦幻想郷に戻って来たんです」

 

 なるほど、それでスカーレットが捕まらなかったのか。

 軍が血眼になってスカーレットの後を追っても、まったく足取りさえ掴めなかった理由がここにある。幻想郷に逃げ帰られていたのなら、それは捕まえられないはずだ。

 

「でも、また『こっち』に来たんだよね? やっぱり、深海棲艦を倒すために?」

「ええ、そうです。少なくとも、去年の時点ではそうでした。幻想郷には、そこを管理する『賢者』と呼ばれる妖怪たちが居ます。レミリアさんは『賢者』の一員ではないのですが、『賢者』に直談判して、一度失敗した深海棲艦の駆除を再度請け負うことの合意を取り付けました。ただ、さっきも言った通り、一年経ってもレミリアさんは帰って来ませんし、その気配もない。なので、私たちが派遣されることになったのです」

 

 そういうことだったのか、と鈴谷は独りごちる。

 

 スカーレットが幻想郷の管理者たる『賢者』に対して唱えた「深海棲艦の駆除」という目的は、「こちら」に来て活動する許しを得るための方便だった可能性が高い。いかな「賢者」と言えど力が弱まる「こちらの世界」では思うように動けない一方で、スカーレットとその一味には何かしらのからくりがあり、彼女たちは「こちらの世界」においても行動をさほど制限されないようであった。少なくとも、“消えてなくなることはなく、目的を追求できるだけの活動能力を維持することが可能”という見込みはあったようだ。だから、一度出てしまえば「賢者」の手の届かないところで思う存分やれるというわけである。

 目下、そのような奔放な振る舞いを見せる人物は、このシンガポールにおいて鈴谷の知る限り一人しか居ない。バラバラだったピースが少しずつ繋がり始め、段々と絵の全体がおぼろげながらその姿を現し始めた。

 

「で、今は『クリスティーナ・リー』って名乗ってるってことね」

 

 東風谷は首肯した。

 俄かには信じがたいが、スカーレットも東風谷たちも、そのような“信じがたいことがある”世界の住人であるのだ。例えば、スカーレットが年端もいかない少女の姿であったとしても、それは彼女がどこからどう見ても成人である「クリスティーナ・リー」と同一人物であることの否定材料にはなり得ない。

 

「ああいう手合いは自分の姿をある程度自由にいじれるの。だから、見た目に拘っちゃ駄目よ」

 

 と、合いの手を入れてくれる博麗の言葉はまさしくその通りであろう。

 

「大人の姿のレミリアさんも、子供の姿のレミリアさんも、どちらも同じレミリアさんです。でも、それが当たり前だと分からない『外の世界』の人たちには、別人に見えてしまう。そうやって他人を惑わすことが、レミリアさんが容姿を変えた狙いなのでしょう」

 

 と、東風谷が忠告を発する。

 レミリア・スカーレットはペテン師のようなものだ。いや、そのものだ、と言い切ってしまってもいいかもしれない。嘘を吐くし、真実は言わないし、人を騙そうとする。自らの姿さえも変えて、欺こうとする。

 さらに厄介なことに、本来この吸血鬼は艦娘でさえ敵わないような力の持ち主でもあるのだ。今はどうかは分からない。東風谷や博麗は勝てると考えているようだが、六ケ所でのあの暴れっぷりや、堂々と悪事を働く自由奔放ぶりに、スカーレットが弱体化したとは到底思えなかった。この点、少女たち二人には大きな認識の誤りがあるのではないだろうか。

 

 何よりももう一つ、スカーレットの力が弱まっていないことの証拠となり得る事実が存在する。

 鈴谷は念のため、スカーレットが二度目に「こちら」に来た日付を東風谷に確認した。彼女は「西暦で言うと」と断りを入れ、その日付を口にした。それこそが、スカーレットの力を示す言葉であった。

 

 

「ただ、あいつは今日、思い切った行動に出たわ」

 

 博麗は言う。

 

「あいつの手下に紅美鈴って奴が居る。さっき、あんたと追い駆けっこしてた奴よ。そいつがあんたたちの仲間を攫った。逃げる先は、もちろんレミリアのところ」

「それは鈴谷も知りたいところだね。見当はつく?」

「まだよ。あいつが次に何かすれば、その時に放出される妖力を感知して見付けられるかもしれないけど、今は大人しくしているみたいだから無理」

 

 そんなことが出来るのかと感心する。スカーレットと手下の足取りが分からない状況で、博麗の探知能力はそれ以外に頼る術がないものであった。

 気付けば街中に響いていたサイレンの音も聞こえなくなっている。手下のポルシェは上手いこと逃げおおせたのかもしれない。

 

「でも、霊夢さん。勘で何となく分かったりしませんか? 大体の方向だけでも」

「勘?」

 

 鈴谷が問い返すと、東風谷は「そうなんです!」と頷いた。

 

「霊夢さんの勘の鋭さって、神懸ってまして。ほとんど的中するんですよね。特にこういう時なんかは」

 

 と言われた本人は、うつむき加減で顎に手を当てて考え込んでいる様子だ。勘と言う割には悩んでいるように見える。

 だが、すぐに博麗はほっそりした腕を上げて、ある方向を指さした。その指の先を幻の白い雪がすり抜けていく。

 

「あっち。あっちの方に居ると思う」

「本当ですか?」

「うん。……けど、なんか嫌な感じがするのよね。早く向かった方がいいかも」

 

 鈴谷は東風谷を見る。その顔は曇っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督42 Reunion

 

 バタバタと、遠くから空を震わせる音が聞こえる。途切れることなく連続するそれは段々と離れていっているのか、小さくなっていったけれど、また新しく同じような音が聞こえてきて、そちらは段々と大きくなる。その音がヘリコプターの回転するローター音であると気付くのに数秒を要した。少なくとも二機は飛んでいるのだと理解して、それからヘリは自分のことを探しているのだろうと考えた。夜空をローターで切り裂き、白い光線を機首から斜め下に投げているヘリの姿を思い浮かべる。次に、そう言えば軍のヘリは特別の許可がないと市街地の上を飛べないから、今飛んでいるのはきっと警察のヘリだという考えが浮かぶ。

 ぼんやりと空を飛ぶヘリを想像していると、やがて頭が動き出した。軽い目眩がする。目を瞬かせ、黒檜は意識を沼から引き上げるように覚醒させた。すぐに左肩の違和感に気付く。鈍い痛みがじんわりと左肩全体を覆うように広がっていた。少し左腕を持ち上げてみると、電流が走ったような刺激があって顔を顰める。どこかに強くぶつけてしまったのだろうか。

 仕方がないので、左腕は動かさないようにしてから周囲の状況観察に移る。視界は思いの外薄暗い。それが頭上から降り注ぐ黄色いランプの光が弱いせいだというのはすぐに気付いた。ランプは一つ、見上げると低い天井からコードごとぶら下げられているのが目に入る。背中には硬い感触、尻の下には柔らかいクッションのような物があって、視線を下ろすと椅子に座らされているのだと分かった。目の前には木のテーブルがあり、その向こうは縦に規則正しく並んだ凹凸のある金属の壁。足元はベニヤ板を張った床だ。どうやら狭い室内のような空間らしい。じっとりとした不愉快な熱気がまとわりついて、何もしていないのにこめかみを汗が伝い落ちる

 ヘリのローターの振動が空気を伝わって来る。椅子の背もたれのすぐ背後は対面と同じく波板状の壁で、ようやく黒檜はここが貨物コンテナの中であることに気付いた。

 

 

「暑いわね」

 

 と誰かが言った。そこで初めて隣に同じく椅子に座っている人物が居ることを認識する。視線を向けて、黒檜はもう一度驚いた。

 黒檜と並んで座っているのはクリスティーナ・リーだった。パーティーで見た時そのままの真紅のドレス姿で、彼女はこの狭いコンテナの中で女王のように悠然と腰掛けている。

 段々と記憶が蘇ってきた。パーティー会場を抜け、一人でホテル横の川縁で休んでいたら赤髪の女に襲われたのだ。その時からさほど時間は経っていないのだろう。自分も制服を着たままだった。

 

 シンガポールの港には大規模で広大なコンテナターミナルがある。ここが貨物コンテナの中だとしたら、そのターミナルの何処かになるのだろうか。あまりにも広いので恰好の隠れ場所となる。まるで都市に潜むテロリストのアジトのようだ。実際、それに近いだろう。

 ということは、恐らく捜索には時間が掛かり、すぐには助けは来ない。叫んでも意味は無いだろうし、支給されている携帯電話はポケットに入れていたはずだが感触がないから抜き取られたかどこかで落としたのだろう。もっとも、ここから電波が通じるかは怪しいところだが。

 軍人としてはそれなりに戦闘術の手解きは受けているはずなのだが、いかんせん黒檜にはその記憶がない。実際に、体が動くか試したこともないので、抵抗するのは無為に身を危険に晒すことになる。大人しくリーと話した方が得策だ。どの道、左肩が痛んでまともに動かせないので戦うなんて以ての外なのだが。

 

「何が、目的なんですか?」

 

 ただ、誘拐されたことは覚えている限り一度もなく、人質として誘拐の(恐らく)首謀者とどんな話をすればいいか皆目検討もつかなかったので、単刀直入に目的を尋ねることにした。リーの性格は分からないが、いきなり激昂したり高圧的に振る舞ったりするようなタイプではなさそうだ。少なくとも“話は出来る”だろう。

 対して、リーは何がおかしいのかくつくつと喉を鳴らす。

 

「いきなり突っ込んで来るのねえ。ちょっとはお喋りを楽しみましょうよ」

「話に花を咲かせるには、少し暑過ぎませんか?」

「それもそうね」

 

 リーは納得したように頷くと、おもむろに両手を頭の上に上げてパンパンと打ち鳴らした。

 すぐに反応があった。金具が外れる音がして、黒檜から見てリーの向こう側、コンテナのドアが外から開かれると新鮮な空気が流れ込み、多少熱気が抜けて暑さが和らぐ。ドアを開けたのは見知らぬ若い女で、黄色いランプに白っぽい髪が照らされていた。彼女が一歩コンテナの中に踏み込んで来ると、そこだけ三つ編みにしたもみあげが揺れる。髪も白ければ色も白く、顔立ちは少女から女への過渡期のようなあどけなさを少し残したものだった。整った容貌だが、しかし愛想がない。というより、本人は上品に会釈をしている余裕が無いのだろう。ズリズリと何か重い物をコンテナの中に一生懸命引っ張り上げるところだった。

 リーも黒檜も手伝わずにそれを眺めていた。コンテナと外の地面には大き目の段差があって、彼女の引っ張り上げようとしている物がそこに引っ掛かってしまったらしい。少女は苛立ったように乱暴にショルダーベルトを引っ張って、無理矢理にそれをコンテナの中に引き上げることでようやく目的を為した。

 彼女が引きずっていたのは大きな業務用クーラーボックスで、フタを開けると中には容量目一杯の大きさの巨大な氷が詰まっていた。華奢な少女が運ぶようなものではないし、彼女はとても苦労してそれを運んで来たのか汗だくだった。ところが、リーは涼しげな顔で見ているだけだったし、黒檜は警戒して動かない。手伝いがないことに少しばかりへそを曲げてしまったのか、少女は軽く会釈をしてからコンテナを辞し、それから荒っぽくドアを閉めてしまった。

 

「これで涼しくなるわ」

「怒ってましたけど」

「ワインがあるの。飲みましょう」

 

 黒檜を無視してリーはテーブルの端に手を伸ばす。そこには言葉通りワインボトルと二つのグラスが置かれていて、リーは黒檜と一杯やろうというつもりだったようだ。黒檜としては到底アルコールを飲むような気分にはならないのだが、人質という立場上逆らえるはずもない。リーが黒檜と自身の前にグラスを移し、小気味良い音を立ててコルク栓を抜き、赤い液体を注いでいくのを見ているしかなかった。ラベルには「Scalet FRANDILIA 2010」と書いてあるが、見たことがないワイン名だということをぼんやりと思った。

 リーは注ぎ終わるとグラスを持ち上げる。黒檜もそれに倣うと、彼女は「乾杯」と言った。

 ちん、と澄んだ音が鳴る。リーはひどく上機嫌で、豪快にグラスを仰いだ。

 

「さあ、お飲み」

 

 黒檜が口をつけないでいると、早速一杯空にした彼女はボトルに手を伸ばしながらワインを勧めた。仕方がないので、一口含んでみる。

 柔らかな舌触りとすっきりとした酸味。酒、それもぶどう酒の味など全然分からない黒檜でも、それなりに高質で上品な物だというのは想像ついた。パーティー会場から拝借して来たのだろうか。ただ、残念なことにコンテナの中が暑すぎたためか、ワインはとても温くなってしまっていた。どうせなら、持って来させた氷の上で冷やせば良かったのにと思う。

 

「今日は良き日よ。神様に感謝しなくちゃね」

 

 と、リーは相変わらず楽しげである。何が彼女を喜ばせているのか、先程からずっとにこにこと笑顔を絶やさない。

 だが、黒檜にしてみれば笑えるような状況でもないし、とりあえずリーに危害を加える意思がなさそうなことに安堵しているのが正直なところだ。目的、ないしこちらに対する要求を見極めなければどうしようもない。機嫌の良いままに饒舌に喋ってくれればいいのだが。

 

「ワインは美味しい? 家にある物でも特に上質なやつを選んできたの」

「あまり、洋酒は分からないんですけど、良い物だとは思います。でも、どうしてこんな場で?」

「それはもちろん。貴女と乾杯するためよ」

 

 黒檜は眉をひそめた。それではまるで黒檜自体が目的だったようではないか、と。でなければ、わざわざ上質なワインを遥々シンガポールまで持参したりしない。まるで、久しぶりに旧知の友人に会いに来たような振る舞いだ。

 

「色々と、積もる話があるわ。思い出も語らいたい。貴女のことをもっと聞きたい。……でも、覚えていないんじゃあしょうがないわね」

 

 リーは相変わらず口元に笑味を浮かべているが、そこで初めて明るい感情とは別の“含み”が混じった。寂しさのような、悲しさのような、少しばかり暗い感情。

 やはり、そうだった。リーとは以前に面識がある。だが、黒檜は覚えていない。覚えていないのだ。

 それも、リーとはそれなりに親しい間柄だったのだろう。少なくとも彼女の方は黒檜に対して親近感を抱いていたに違いない。先程から上機嫌なのも、上質なワインをわざわざ持って来たのも、それで説明がつく。彼女は黒檜と再会出来るのをきっと心待ちにしていたのだろう。

 ではどうしてこんな乱暴な方法を選び、コンテナの中という場所に連れて来たのだろうか。何か後ろ暗いことでもあって、こっそりと会わなければいけないのだろうか。

 ただ、それをそのまま口に出して尋ねるのは憚られた。寂しさを誤魔化すことなくはっきりと表す(きっとリー自身は気付いていない)彼女を見ていると、どうしても不躾なことを聞くのは躊躇われる。黒檜と再会出来たことを喜び、黒檜が記憶をなくしてしまったことに落ち込み、感情は取り繕われることなく素直に露わにされる。

 だから、黒檜は昔のことについては口にしない。ただし、聞くべきことは聞いておくべきだと、理性が諭した。

 

「どうして、私に記憶が無いことをご存知なんですか?」

「私のせいよ」

 

 彼女は短く言った。それからまたグラスを空にして、注ぎ直すことなくテーブルに置いて背もたれに身を預けた。

 

「何もかも、私のせい。貴女たちのことも、戦争のことも……」

「それは?」

「だから、ケジメをつける」

 

 リーは三度ボトルに手を伸ばし、自分のグラスに中身を注いだ。それで空になってしまったのか、グラスに波々とワインが注がれるとボトルの口から雫が二、三滴ばかり落ちておしまいだった。彼女は空のボトルを持ったまま勢い良くグラスの中身を飲み干した。やけっぱちのような飲み方で、先程までの上機嫌さはいつの間にやら影を潜めている。グラスも空にした彼女はボトルと一緒にテーブルの上に置き、急に立ち上がる。

 唐突な彼女の変化に黒檜は戸惑い、まだたっぷりワインの入った自分のグラスを揺らす。その間にもリーはテーブルを回り込んで黒檜の前を横切り、入り口とは反対側に向かった。そこには、今初めて気付いたのだが、白い材質不明の仕切り板があって、ただでさえ狭いコンテナ内でさらに圧迫感が増している元凶となっていた。本来ならコンテナはもっと奥行きがあるはずなのだが、仕切り板の存在によってその半分程度のスペースしかないように見えてしまっている。

 

「見せたいものがあるの」

 

 リーはそう言って仕切り板に軽く触れる。その途端だ。黒檜の目に信じられないものが映った。

 仕切り板が消えたのだ。彼女が触った途端にまるで初めから存在していなかったように消え失せてしまった。だが、確かに物理的に空間を仕切る板はその場にあったはずだ。何故なら、仕切られていた向こう側から、床上を這うようにゆっくりと白い煙がこちらに伝って来ているから。テレビやコンサートのステージ演出でよく見掛けるドライアイスの煙のようだ。というか、本当にそうだろう。その証拠に、ひんやりとした空気が煙とともに足元に入り込んで来た。

 

 常軌を逸脱した光景に黒檜が言葉を失い、目を剥いていると、リーは煙を蹴散らしながら向こう側に入っていってしまった。そちらにも今黒檜が居る方と同じく天井からコードごと吊り下げられたランプがあり、その下で光に照らされている大きなベッドが置かれていた。ただのベッドで、丁寧に布団が掛けられて誰かが寝かされている。

 

「来て」とリーが呼ぶので、黒檜はワイングラスをテーブルに置いてからのろのろとした動作で椅子から立ち上がった。

 床を這う煙を踏むように奥に進む。途中、仕切り板のあったところも見たが、存在の痕跡すら見出だせなかった。

 仕切られていた奥の空間はやはりドライアイスで冷やされていたのか、非常にひんやりとしていた。ただし、そのまま密閉していては二酸化炭素中毒になるので、どこかに換気口があるのだろう。煙はコンテナの一番奥の壁の方にも流れて行っている。

 

「見て」

 

 言われるままに、黒檜はベッドの主に目を向ける。

 

 女が寝かされていた。綺麗な女だと思った。

 

 日焼けを知らない白い肌に、すらりと筋の通った鼻梁。やや薄い唇と尖った顎は少し冷酷そうな印象を持たせたが、美しい女であることには間違いない。彼女は首から上だけを外に出し、他は掛け布団の下に隠れている。だが、妙に布団の膨らみが小さいのだ。

 その顔立ちから彼女が成人かそれに近い年齢であるとは思われたが、膨らみの大きさはまるで子供のそれである。掛け布団を捲ってみたい衝動に襲われたが、同時にその下を見るのが恐ろしくて黒檜は動けなかった。

 だが、黒檜が何も言わないのを見て、リーが動く。彼女は女に被せてある掛け布団を掴むと、ゆっくりとそれを捲り、女の身体を光の下に晒し出した。

 

 ヒウッという、空気が吸い込まれるような小さな悲鳴が聞こえた。それは黒檜の口から発せられたものだ。

 

 

 捲られた布団の下にあった女の姿。あまりにも恐ろしいそれに、ただただ衝撃に飲まれてしまった。

 女は、人の姿をしていなかった。顔と、胸元辺りまでは人間のそれであったが、他は異形だった。

 まず、足がない。これが布団の膨らみが小さく見えた原因で、恐らく股間があったと思われる位置にはサメの頭のような三角形の黒い塊が天井を突いている。塊にはまっすぐな亀裂があり、亀裂に沿って灰色の歯が並んでいる。つまり、そこには大きな口がある。

 無論、異形なのは下半身だけではない。腹部は亀の甲羅のような黒い板状の物体が覆っており、両腕は脚と同じく黒い塊に置き換えられている。こちらはどちらかと言えば籠手を長くしたような細長い物で、やはり金属質の光沢を帯びていた。そして、そうした黒い異形と対比的に、胸から上の大きく膨らんだ乳房や整った顔が接合している。

 人間と化物を融合させようとしてそれに失敗したような名状し難い何か。人にもなれず、化物にもなれず、中途半端な状態で放置されているような哀れな存在。そんな感想が頭に思い浮かんだ。

 そして次に、彼女の身体のほとんどを覆っている黒い塊は深海棲艦の艤装によく似ていると気付いた。

 

 脳裏を、萩風と嵐の顔がよぎる。まさか、この女は……、

 

 

 

「『海軍検体405号』」

 

 リーは無機質な単語を放り投げた。

 聞き慣れぬその響きに黒檜は首を傾げる。女の状態には察しがついたが、検体とはどういうことか。

 

「彼女は轟沈した艦娘。ところが、つい数ヶ月前に運良く海の中から引き揚げられたの。でも、その時にはもうこういう状態で、以来海軍の研究施設に“保管”されていたわ。艦娘と、深海棲艦の関係性を研究するための貴重なサンプルとしてね」

「サンプルって? 艦娘なんでしょう?」

「正確には、艦娘『だった』よ。引き揚げられてから一度も意識を取り戻していない。生命反応はあるから定義の上では『生きている』と言えるけど、艦娘とも深海棲艦とも言えぬ存在になってしまっているわ」

「……治せないんですか?」

「彼女を治すことが私の目的の一つ。だから、わざわざ日本海軍からこの子を連れて来たんだから」

「軍には治すつもりがなかった、ってことなんですか」

「そうよ」

 

 信じられない話だ。

 艦娘は、若い娘を国益のために国家に捧げられた結果、生まれる存在。ある意味では人身御供に近いが、近代法と高度な人権意識が普及した現代でそのような言葉が罷り通ることはあり得ない。それでも背に腹は代えられないとして、少女たちの幾つかの基本的人権を制限し艦娘という制度を導入したのだが、それ故に政府や軍は艦娘の扱いに一層の気を払わなければならなかった。彼らが必死に「艦娘=英雄」という図式を維持し、数多くの権利とある程度の安全を保障しているのは、憲法違反すれすれで艦娘が存在しているからに他ならない。

 だから、その艦娘を物のように扱い、もし仮にそれが世間に公表されてしまえば確実に政権が交替するし、艦娘制度の維持そのものが難しくなる。何をもってもまず艦娘を送り出した親たちが許さないだろうし、当然マスコミや世論は親の怒りに追従する。そうなれば人類は深海棲艦への対抗手段を失ってしまうだろう。

 それが抑止力となって、艦娘は不当な扱いを受けないようになっている。完全にゼロではないし、目に見えないところでイジメや体罰、侮辱などあるだろうが、理屈の上ではそうだ。少なくとも組織的に且つあからさまに不当な扱いがなされることは起こり得ないはずだった。

 だが、軍はこの艦娘を研究対象として見なしていた。これは明確に犯罪であり、軍と艦娘が取り結んでいる契約に違反するものだ。世に公表されれば軍に対する艦娘や世間の信頼は崩壊し、この制度の維持も困難になるだろう。

 

「暴露、するのですか?」

「それも一つの方法ね」

 

 リーはゆっくりと眠る艦娘の頬を撫でていた。まるで母親が娘にそうするような柔らかな手つきで。

 

「だけど、真実を明らかにするのは私の目的ではないわ」

 

 黒檜はリーが艦娘を撫でるのを眺めているだけだった。ところがリーは不意に艦娘から手を離し、そのまま黒檜に伸ばしてその手を取る。左手が持ち上げられ、艦娘の顔にまで導かれるのを抵抗せずに見ていた。

 

「触れてみて」

 

 言われるままに黒檜は自分の意志で指を伸ばし、他人を許可なく触るのが一瞬ためらわれて動きが止まったけれど、どうしてかそうすることが正解のように思えて軽く艦娘の頬に触った。

 彼女の肌は滑らかで、きめ細やかで、そして少しばかり温かい。

 生きていると思った。すると、もう駄目だった。目元が急に熱せられて、顔を何かが流れ落ちていった。

 

「は、あ……」

 

 無我夢中でその場に跪き、右手も伸ばして彼女の顔を包み込む。

 温かかった。白い皮膚の下に確かに血液が流れていて、それによってちゃんと体温が保たれている。生きているのだと実感した。

 

 この子は生きている。生きているのだ!

 

 口からは知らぬ間に嗚咽が漏れていた。黒檜ではない、黒檜の中に居る“誰か”が涙を流している。

 

 

 記憶のない期間、その間にあったこと。その間に生きていた“誰か”が、今もまだ黒檜の中に居て、彼女とこの艦娘はきっと深い仲だったのだ。そしてきっと悲しい別れがあって、今ようやく再会出来たのだ。

 

「名前は『加賀』よ」

 

 いつのまにか隣で同じように膝をついて黒檜の肩を抱いていたリーが囁いた。

 

「加賀……、加賀、加賀!」

 

 顔が熱い。涙が止まらない。舌は狂ったように動き、彼女の名前を呼び続ける。

 ひどく口に馴染んだ発音だった。まるで、今まで何千回もその名前を呼んできたかのように。そして、実際にそうだったに違いない!

 

「加賀! 加賀! 起きて、加賀!」

 

 懐かしい。とても懐かしい響き。

 黒檜の中の“誰か”は荒れ狂って加賀を呼ぶ。何一つ突っかかることなく、ぎこちなさなど微塵もなく、空に風があるように、海に波があるように、“誰か”は自然に加賀の名を呼ぶ。

 けれど、加賀は目覚めない。未だ彼女は静かに寝息を立てている。生きているのに、覚醒していない。

 

「起きない! 加賀、起きないの!」

 

 誰かは隣のリーに助けを求めた。縋り付くように懇願する。

 

 不思議なことが出来る貴女はきっと魔法使い。ならば、その魔法で加賀を目覚めさせられないの?

 

 リーは首を振った。

 

「私は魔法使いではない。加賀を目覚めさせるには貴女の力が必要なの」

「どうすればいいの? ねえ、どうしたら加賀は起きるの!?」

「記憶よ。貴女は全てを記憶を取り戻さないといけない。それは貴女が失っていた自分に戻ることと同義。そうして本来の貴女が戻って来た時、彼女の意識は初めて混濁の沼の底から引き揚げられるのよ!」

「わ、分からない! 何も覚えてないの! 記憶がないの! 加賀のこと、思い出せないのッ!」

 

 

 ねえ、どうにかしてよ。

 

 

 気付けばリーに掴み掛かっていて、彼女に向かって叫んでいた。けれど、リーは悲しそうにしているだけだ。

 不思議なことが出来ても、彼女には無力なんだと、ようやく黒檜は悟った。それで力が抜けてその場にうずくまるしかなかった。

 

「……加賀は、どうなるの? ずっと、このままなの?」

「いえ。このままではいずれ死んでしまうでしょう。艦娘としても深海棲艦としても生きることなく力尽きてしまうわ」

「目が覚めれば、助かる?」

「艦娘としてなら、修復材で治せるはずよ」

「どうしたら、いいの? どうしたら、私は思い出せるの?」

「仲間を、かつての貴女の仲間を探していくの。彼女たちと出逢えば記憶を取り戻せる。貴女はそれでしか本来の自分を取り戻せない。加賀を目覚めさせるのも現状ではそれしか方法がないわ」

「仲間……」

「貴女たちの組織には記録が残っているわ。加賀と、貴女と、彼女たちと、そして私。皆、一時は共に戦ったのよ」

「貴女も? 貴女も私の仲間だった?」

「正確には上官だったけれどね」

「上官? 貴女は確かバローの元研究者だったはず」

 

 黒檜がそう言うと、不意にリーはおかしそうに声を上げた。

 

「それは嘘よ。『クリスティーナ・リー』という架空の人物の経歴よ。私は研究者じゃなかったわ」

 

 クスクスと楽しそうにリーは喉を鳴らす。久しぶりに彼女が笑った気がしたが、五分前は同じように笑ってワインを仰いでいたはずだから黒檜の気のせいだろう。

 

 よく分からない。コンテナの中は異様に熱く、頭が働かない。

 

「私の本当の名前はレミリア・スカーレット。そして、貴女の名前は『赤城』。貴女も艦娘だったのよ」

「赤城……、艦娘……」

 

 黒檜はうわ言のように反芻する。

 身体が熱かった。コンテナが熱いのではない。ドライアイスの煙は未だに足元に漂っている。それなのに、全身から流れ出る汗が止まらない。

 

「そう。貴女は立派で、誇り高い艦娘だった。加賀と共に、栄光の中に居た。私はそれを間近でつぶさに見ていた。私以外の貴女の仲間たちもそれを見ていた。数多くの人々が貴女と加賀を助けようとした。それがあって今の貴女が、加賀が、ここに居る」

 

 だからね、

 

「堕ちちゃ駄目よ。自分を見失っちゃ駄目よ。貴女は『赤城』。貴女は艦娘。国を守るために海を駆け、敵を倒すために一矢に魂を込めた防人。その誇りは、例え記憶を失ったとしても消えるものではないわ! 

思い出しなさい! 貴女の中にある貴女の誇りを!! 貴女が弓を引き絞った理由を!! それは今も貴女の中にあるのッ!!」

 

 黒檜の肩を掴み、彼女は怒鳴る。負傷している左肩が痛かった。それも気にならなくなるくらい身体が熱かった。

 

 震えが止まらない。自分の身体が自分のものではなくなくなってしまったかのようだ。

 視界は白く、霧がかかったように不鮮明になっていく。「咲夜ぁ!! 加賀をお願いッ!!」と間近で誰かが叫んでも、それが誰かが分からなかった。

 とにかく熱い。身体の中で燃料が燃えているかのように、ボイラーを焚いているかのように、熱い。同時に全身が重かった。手足に鉄の塊をぶら下げているかのように、骨が鋼に変わったかのように、重い。

 色々な感覚と感情が頭の中を埋め尽くしていた。熱いと感じるのも、体が重いと感じるのもそうだ。それだけではない。身体の中を巡る血は冷たかった。自分の状態が分からない。ただただ、苦しい。

 

 

 

 

 ――全テヲ燃ヤセ!

 

 

 

 

 声が聞こえた。腹の底から絞り出したような声だ。

 

 

 ――加賀ヲ救オウトシナカッタ人間ヲ!

 

 

 何も分からない。頭が一杯だ。身体から熱いという感覚が消えた。重いという感覚も消えた。冷たい血液の感触も消えた。心臓を握られるような苦しさも消えた。

 けれど、一つだけ残っているものがある。声が聞こえる度、水で満たされていくようにそれは自分の中で膨らんでいく。

 

 

 ――復讐ノ翼ヲ開ケ!!

 

 

 「憎しみ」という感情だけが、己を支配していく。身をゆだねると心地が良い。全てを憎むことがこんなにも心地良いだなんて、思いもしなかった。

 

 

 

「赤城!!」

 

 

 けれど、その心地良さも外からの衝撃で打ち消されてしまう。左の肩に走った激痛と、間近の大声に、ぼやけていた視界が晴れる。

 

「……ぁ」

 

 目の前には、紅玉のような澄んだ瞳。血の色を映したような眼。

 途端に、別の感情が、憎しみではない感情が噴出する。

 身体が震える。怒りに燃えたその瞳に、とても、とても「恐怖」した。

 

「目を、覚ましなさい!! 赤城ッ!!」

 

 その存在は叫んだ。渾身の怒りをもって、名を呼んだ。

 

 

 

 満月の化身。「串座し公」の末裔。永代の吸血鬼。

 その御名は忌まわしき血に塗れ、その力は最果ての地に落ちても尚、この世に死と争いをもたらした。

 望月を背負い、骸の山に座して鮮血を浴び、恐怖を巻き散らす、その鬼の異名は。

 

 

 

 ――夜ノ王ッ!!

 

 

 

 

****

 

 

 

 

「緊急事態だ!」

 

 工廠で艤装を外していた嵐たちの前に飛び込んで来たのは、この基地の副官であった。彼は、柳本中将の下で働く幕僚の一人で、階級は大佐だった。普段は落ち着いた振舞いなのだが、今回ばかりは血相を変えていたので、その場にいる誰もがただ事ではないことを察した。

 

「港湾地区に深海棲艦と思しき存在が出現した。これを正体が判明するまで今後『アンノウン』と呼ぶ。アンノウンは航空機を発艦し、警察のヘリを攻撃したそうだ。警察がこちらに応援要請を行った。直ちに艤装を換装し、再出撃せよ」

「航空機だって? こっちには空母が居ねーンだぞ」

「そんな贅沢を言っていられる暇はない。市街地の至近で出現したんだ。一刻も早く現場に急行し、対応せよ」

「くそっ」

 

 工廠の中がにわかに騒がしくなる。嵐の12㎝砲を降ろそうとしていた作業員たちが目に見えて慌ただしくなった。

 

「あの、港湾地区って具体的にどの辺りなんですか?」

 

 同じく主砲をを降ろす作業を待っている萩風が大佐に尋ねた。彼は苦虫を噛み潰したような顔で、「ブラニ島のコンテナヤード内だ」と吐き捨てるように答えた。

 ブラニ島はシンガポール本島の南に接する小島で、すぐ傍にはリゾート地として有名なセントーサ島が隣接している。ゴルフ場やテーマパークが建設されている隣島とは違い、ブラニ島の大部分はコンテナヤードや桟橋として利用されており、残った土地も消防署や水上警察が使っている。しかし、人が住んでいないわけではないし、もっと問題なのはここがリゾート地とダウンタウンとの間にあることだった。

 

「陸の上か」

 

 江風の小さくはなったその一言が全員の絶望的な心境を端的に表している。大佐の伝えた情報は、突如出現した敵が航空戦力持ちの陸上型深海棲艦であることを強く示唆している。

 警察が何かを見間違って「深海棲艦出現」という誤報を出したと考えるほど嵐たちは楽観的ではない。彼らの扱うヘリは日本から輸入された最新のセンサーで固められている。夜間に活動する上で赤外線探知機は必須装備であろうが、仮にそれだけしか搭載していなくとも、深海棲艦かそうでないかの識別は容易だ。出現場所が既に具体的に判明している点から見ても、彼らは正確に発生した事態を把握していると見て間違いない。つまり、深海棲艦は間違いなくシンガポールの港に現れたのである。

 その相手が潜水艦やはぐれの小型艦ではなく、陸上型深海棲艦であると考えられることが最悪の一言に尽きた。ここでは普段弱小な敵しか相手にしなかったし、深海棲艦が現れること自体が稀であったから装備が極めて貧弱なのだ。飛行場姫や離島棲鬼に代表される陸上型深海棲艦とは、その名の通り陸の上に陣取っている深海棲艦で、この敵の特徴は陣取った場所を自らの領地として(その周辺も含め)占領出来ること、魚雷による攻撃が無効で効果的な打撃を与えるには専用の特殊な装備が必要なことである。逆を言えば、専用の対地装備さえ準備出来るなら、低火力の駆逐艦のみでもある程度損傷を与えることは可能だ。ただし、そうした装備がないなら、はっきり言って、手も足も出ない。

 かと言って、放っておけば街を攻撃にさらすことになる上、ブラニ島とその周辺が深海棲艦によって「領地化」されてしまうだろう。東南アジアで最も大きく、最も戦力も装備も充実している拠点は、インドネシアのリンガ基地であり、シンガポールから最も近い拠点もここである。直線距離にして二百キロメートル程度しか離れていないので、増援が今すぐ出発したなら夜明けの前に到着するだろう。リンガには軽空母二隻によって構成される第四航空戦隊が駐在しているし、対地装備を持てる重巡も用意出来るはずだ。もっとも、その増援が到着するまでに現在のシンガポールの戦力だけでどれだけ耐えられるかという点が問題となるのだが。

 

「萩、嵐! 主砲は高角砲に換装、対空電探を装備しろ」

 

 悠長にしている時間はない。今こうしている間にも市街地への空爆が開始されているかもしれないのだ。故に、嚮導艦江風の判断と指示は迅速だった。

 

「換装の間に説明するからよく聞けよ。これからしなきゃなンねーのは、敵の意識を江風たちに向け続けることだ。市街地に手を出されるようなことは許されないぜ」

 

 説明する江風の声はいつになく真剣だ。いつも飄々として、ともすれば軽薄と見られかねない言動の多い彼女だが、さすがに今回ばかりはそんな余裕もないらしい。眼の光は鋭利な刃物のような輝きを放っていて、それはまさに数々の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の駆逐艦の顔だった。彼女のこのような顔というのは、ここ一年ばかり世話になっている嵐にとって初めて見るものだった。

 

「今の状況で分かっていることは少ない。情報収集も怠るンじゃないぜ。何か気付いたらどンな小さなことでも必ず報告を入れろ。仮にこの中の誰かが沈ンでも、その情報が突破口になったりするかもしンねーからな」

 

 さらりと放たれた非情な言葉に、嵐の身体は敏感に反応した。

 基本的に艤装の脱着が作業員任せになる艦娘は、その作業中は航行艤装ごと艦娘を移動させられるキャリアに乗せられたままになる。換装を待つ嵐の両の手は掴む物は何もなく、だから自然と力がこもって拳が握られていた。今やその拳にはさらに力が込められて小刻みに震えている。

 

 「沈む」という単語に、嵐と同僚の萩風は誰よりも因縁がある。

 一度は轟沈した身だ。その時の恐怖は生半可なものではなかったし、未だに忘れようとしても忘れられない。だから、普段嵐は沈んだ時のことは思い出さないようにしていたし、仮に何かのきっかけで記憶が想起されてしまったら、今でも恐怖で身体が震えたりするのだ。そして、そのことを江風は知っている。何故なら、江風は嵐と萩風の“救出”作戦に参加した一人であるし、二人が過去に体験したこと、しでかしてしまったことを知った上で引き取ることを名乗り出てくれた人物でもある。もちろん、二人が抱え込んでいる恐怖も後悔もその他の諸々の感情も、彼女は把握していることだろう。

 その上で、あえて「沈む」という単語を口に出したのだ。江風は単に無神経なだけでも冷酷なわけでもない。

 このシンガポールには四百万人以上の人間が住んでいる。観光客も含めれば、今晩この都市国家に居る人間の数はもっと多いだろう。それが今、深海棲艦の脅威にさらされているのだ。恐怖を言い訳にして震えている暇などあるはずもなかった。

 同時に、彼女の厳しい言葉は二人への信頼の証だ。「お前たちなら恐怖程度に屈服しない」という、強固な信頼の裏返しだ。

 

「攻撃も欠かすンじゃない。今の手持ちの武器で大したダメージが与えられるとは思えねーが、重要なのは注意を引くことなンだ。現着したらすぐ行動を開始する。それから後は、一瞬たりとも敵の注意を市街地に向けさせるな。分かったな!」

 

 そう言った江風は、すぐに表情を緩めて、こうも付け加えた。

 

「あと、さっきはああ言ったけど、出来るだけ全員で帰って来よーな」

「……誰に言ってるんすか。俺も萩も、守らなきゃならないものは守り通すし、沈むつもりもありませんよ」

「頼むぜ」

 

 その会話の間に、今までで一番早く仕事をしたと思われる作業員たちが艤装の換装を終えた。後は弾薬と燃料の補給だけというところで、嵐たちの頭上を横切っている天井クレーンが突然動き出した。これは人力での持ち運びが困難な戦艦などの大型な艤装を装着する際や、整備などで重量物を移動させるときにしか稼働させない器具であり、手作業で脱着も整備も可能な小型の艤装に対しては通常使わない物であった。基本的に駆逐艦しか居ないシンガポール基地の工廠にある設備としては正直過剰で、普段使わない物が急に動き出したので、嵐は少々驚いた。見上げると、視界に映ったのは天井クレーンによって運ばれている鋼鉄製のケースだ。

 もちろん、クレーンを操作しているのは資格を持っている作業員だが、彼に指示を出していたのは先程の大佐である。鋼鉄製のケースは艤装運搬用の専用品なので、中身も当然艦娘の艤装と思われる。だが、シンガポール基地所属のもう一つの駆逐隊がリンガ基地に派遣中で、現在シンガポールで稼働している部隊が自分たちだけという状況で、一体誰の艤装が持ち出されたのであろうか。嵐たちの居る作業場に隣接している艤装保管庫から引っ張り出されたと思われるが、ケースの大きさからどうも小型艦のそれではなさそうだし、心当たりもない。

 その答えを、大佐が天井クレーンのやかましい稼働音に負けじと声を張り上げながら教えてくれた。

 

「それは情報保全隊付特務艦娘の艤装だ。彼女は現在別行動中であり、現場に向かっていると思われる。中将からの指示だ。これを現場付近まで運搬し、現地で同艦娘と合流し次第受け渡せ」

 

 クレーンは嵐の頭上で止まり、それからゆっくりと運搬ケースを降ろし始める。

 

「俺っすか!?」と驚く嵐に、「持って行くだけだろ」と嚮導艦は言い捨てた。感情が顔に出やすい江風は誰が見ても不機嫌だと一目で分かる表情だ。帰還命令を受けてからずっと腹の虫の居所が悪い様子だったが、ますます機嫌が悪くなっている。悪いパターンを想定した意見具申が却下されたことや、その後の事態の進行が想定した通りに進んでしまったことなどが彼女の機嫌を大いに損ねる理由になっているらしい。だが、運ばれてきた艤装ケースを見ようともしない態度に、嵐は少しばかり違和感を覚えた。基本的に度量の大きい(と嵐は思っている)江風は、普段機嫌を損ねてもこんなふうに拒絶の意が見て取れるような態度をしないからだ。その辺りのことをよく知っている嵐だからこそ、これは何かあるなと勘付いた。

 

「艤装は航空巡洋艦『鈴谷』の物だ。丁重に扱え。今の状況では貴重な火力源となってくれる艦娘だぞ」

 

 艤装の入れ物と言ってもそれほど大きなものではない。展開していないから箱に収めると意外とコンパクトになるのだ。今回の相手が陸上型深海棲艦と思われるので、軽量化のため魚雷発射管は外していた。だから、その魚雷発射管を装着していた場所から曳航索を伸ばして艤装ケースを引っ張れるだろう。

 その作業が終わるまで待ってから、大佐は「それでは可及的速やかに現場海域に急行せよ」と命じた。キャリアに乗せられたまま、工廠のすぐ外の海に放り出される。

 

 今回は航空戦力が確認されていることから、普段移動に使うヘリは使えない。もっとも、使わずとも「走って」行ける距離である。陽炎型より旧式の艤装を操るはずの江風の足は今までにないほど速く、艤装ケースを曳航していて速度の出せない嵐はそれに付いて行くだけで精一杯になってしまった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 ぞわりと、背筋を走った悪寒に鈴谷は身を震わせた。

 

 その時、鈴谷を含む三人は空を飛んでいる最中だった。東風谷と博麗はただの人間にも関わらず、神通力のような不思議な力で空を飛べるのだという。「それは女の子だからです」と東風谷は教えてくれたが、理由になっていないし、訳が分からなかった。

 なので、唯一空を飛べない鈴谷は二人に両側から抱えられてふわふわと遊覧飛行中だった。艦娘であるからヘリに搭乗した経験は何度もあるし、海の上に立つことなど日常茶飯事で、自分の足元が固体でないことに特別恐怖を抱いたりすることはないのだが、それでもたった二人の人間に支えられているだけの状態で空を飛ぶというのは、そんな鈴谷にさえ恐怖心を抱かせるに十分なことだった。東風谷曰くはどちらか一人だけが鈴谷を背負っても飛べるとのことだが、そんな飛行方法は願い下げである。

 二人の飛行速度は正直なところ、自転車並みの速度で遅いと言えた。それでも地上を走るよりはずっと速い。唯一注意しなければならないのは、逃げたリー、もといスカーレットの手下を上空から探しているシンガポール警察のヘリに見付からないようにすることだけんはずだった。

 夜ということもあって地上から見付かる恐れはあまり考えなくて良かったが、ヘリから身を隠すのに建物の陰に隠れるため、迂回したり高度を上下させたりしていたので、さほど距離は進めていない。ところが、鈴谷がようやくこの特殊な空輸方法と不安定さに慣れてきたところで、何かのっぴきならない事態が起きてしまったのである。二人共と密着していたからか、その瞬間に彼女たちも身を強張らせたことがダイレクトに伝わってきた。

 

 悪寒の発生原因と思われる異常事態が起きたのは、港の辺り。先程博麗が指さした方向だ。つまり、彼女の悪い予感は的中してしまったことになる。

 

「何ですか、今の……」

 

 呟いた東風谷の声が少し震えている。

 一方、鈴谷は何となく事情を察していた。先程感じた悪寒は、ある状況に遭遇した時に感じるそれによく似ていたからだ。こういう感覚は、恐らく前線に出たことのある艦娘にしか分からないだろう。東風谷や博麗には、悪い事態になっていることは察せられても、実際に何が起こったかまでは把握しかねるはずだ。

 

「深海棲艦だよ」

 

 だが、自分で言って理由に対する疑問が浮かぶ。どうして、深海棲艦がシンガポールの港に現れた?

 

「なんでか知らないけど、深海棲艦が出たんだ」

「最低の展開ね」

 

 博麗が吐き捨てる。見なくとも彼女が苦々しく顔を歪めているのが分かった。

 

「レミリアの奴、一体何をやらかしたのよ」

 

 そうだ。これには間違いなくスカーレットが関わっている。緊急修復材を開発して世界中に売りさばき、海軍の施設を強襲して「加賀」を奪取し、黒檜まで誘拐して、さらにこの上何をしようというのか。こんな都市に近い場所で深海棲艦が現れたらどういう事態になるのか想像出来ないはずがない。あるいは、彼女は吸血鬼と呼ばれる人外であるからこそ、人間たちへの被害も顧みないとでもいうのだろうか。

 鈴谷が怒りを感じるのは、スカーレットの傍若無人な振る舞いそれ自体ではない。スカーレットに自分たちがいい様に振り回され、後手後手になった挙句にこんな事態の対処をさせられることに腹が立つのだ。

 だが、無暗に腹を立てていても仕方がない。艤装を持って来ていない今の鈴谷に、深海棲艦相手で出来ることはほとんどないだろう。かと言って、今更シンガポール基地に戻っている時間もなかったし、そんなことをすれば真っ先にカーチェイスについての詰問を受けることになるから、その気も起きなかった。

 

「もう迂回せずに高度を取って真っ直ぐ向かって」

 

 ヘリに見付かるリスクは低まったとみて、鈴谷は二人にそう指示を出した。警察のヘリも異常を感知したのか、港の方に向かい始めている。

 

「あんた、武器持ってないんでしょ? 深海棲艦とじゃ戦えないんじゃないの?」

「うん。だから、現場に着いたら対応してもらえる? 吸血鬼を実力行使で連れ戻すくらいの力はあるんでしょ?」

「はあ? あんた、私たちを顎で使うつもり?」

「いえ、霊夢さん。それしかありません。今からどこかに立ち寄っている時間もありませんし、ここは鈴谷さんの指示に従いましょう」

 

 一瞬剣呑な雰囲気を纏い掛けた博麗は、東風谷に諭されて黙り込む。即座に反論をしないところを見ると、どうやら納得はしないもののこちらの指示に従うことを受け入れてくれたようである。

 

 レミリア・スカーレットの実力が如何程であるかは定かではないが、鈴谷はそれが“深海棲艦の大規模艦隊に匹敵する”程度と考えていた。根拠は、その大規模艦隊に攻撃を受け破壊された鎮守府の事後処理に赴いた時、明らかに深海棲艦の手によるものではない破壊の痕跡を見付けたことだった。海軍の公式の報告書では、鎮守府の破壊は全て深海棲艦と海軍との戦闘中に起きたもので、この戦闘により深海棲艦は“撃退”された、とされている。

 しかし、追撃部隊が編成され、付近を捜索したものの残存深海棲艦はただ一隻も発見されず、一方で逃げ延びた避難民の多数が、海上での巨大な爆発を目にしていた。その爆発はすさまじい規模だったようで、真夜中にもかかわらず昼間のように明るくなり、そして燃え上がるような赤いキノコ雲が発生していたという。だから、彼らの多くはその爆発が軍による核攻撃だと考えていた。その誤解がメディアを通して広まってしまったので、政府はそれを解くために幾度か記者会見を開かなければならなかったほどだ。

 ただ、当の軍にもこの大爆発を説明することが出来なかった。単純に何が起こったか分からなかったのである。したがって、件の報告書には爆発があったという事実のみ簡単に触れられているだけで、原因の追及などは一切記述されていない。

 未だに事の真相は不明だが、壊滅した鎮守府の現地調査を行い、報告書の作成にも一部携わった身として、先程の二人の少女の話は大いに興味を惹かれた。彼女たちと話す前から、鈴谷はレミリア・スカーレットが鎮守府が壊滅した日にその場に来ていたのではないかと考えていたからだ。もちろん、当時そこに居た所属の艦娘たちは誰も「口を割らなかった」が、“異なる状況で戦っていた”はずの全員が口裏を合わせたように同じことを語ったのが却って不自然だった。スカーレットを鎮守府から追い出す立役者となった戦艦娘でさえそうだったのだから余計に違和感を覚えた。

 

 現地の状況をこの目で見た鈴谷はそこに残されていた深海棲艦の仕業とは異なる破壊の痕跡から、深海棲艦でも艦娘でも、もちろん軍人・軍属の人員でもない何者かが当時そこに居たのは間違いないと、考えていた。先日の研究施設襲撃事件の調査と二人の少女の話から、鎮守府跡に痕跡を残したのはスカーレットであり、彼女が常軌を逸脱した破壊を生み起こせる何かしらの力の持ち主ではないかということに思い至ったのである。彼女は巨大な爆発の原因でもあったかもしれない。その推測が正しいことは、東風谷にスカーレットが二度目に「こちらの世界」に来た日付を確認することで、確信した。あの日、風前の灯火だった街と鎮守府を救い、巨大爆発まで起こして深海棲艦の艦隊を“撃滅”した張本人は、レミリア・スカーレットなのだと。だから、不自然な痕跡があったり、探しても一隻の深海棲艦も見付からなかったのだ。

 とすると、スカーレットの力というのは多数の艦娘が束になってようやく匹敵するような途方もないものということになる。それを、この少女たちは「弱体化した」と言い、自分たちならまだ実力行使でどうにかなると考えているようなのだ。それが本当かどうかはさておき、鈴谷としてはスカーレットの力を見ておきたいところではある。今後もしスカーレットに対して実力行使することが起こり得るなら、情報は出来るだけ持っておいた方が有利になるのは間違いない。真正面からぶつかって勝てる相手ではないと予想はしているが、突ける弱点があるのかないのか、それだけでも分かっていればスカーレットに対する対応というのも変わってくる。

 

 その点で言えば、博麗と東風谷は貴重な情報提供者だ。彼女たちは既に色々なことを教えてくれていたし、いっそのことスカーレットと戦わせてみればさらに多くの情報が手に入れられるに違いない。二人は生身で空を飛ぶという奇跡のような行為を実行しているし、他にも多くのことが出来るようだった。

 もっとも、目下の脅威は深海棲艦である。鈴谷自身が無力な状況で突如出現した深海棲艦らしき脅威と戦えるのはこの二人だけだった。スカーレットの相手をしてもらう前に、深海棲艦に対処してもらわなければならない。東風谷はそのことをすぐに理解したし、博麗も渋々ながら分かってはくれただろう。

 さて、問題はそのスカーレットが何をするかだった。この状況が彼女の意図の下にあるのか、それともそうではないのかが分からない以上、戦況が混迷に落ちていく可能性は十分考えられた。もちろん、シンガポール基地の方も静観などするはずがない。

 

「なんか出て来たわよ!」

 

 思考に没していると、隣で博麗が叫び、鈴谷とは反対の手に持っていたお祓い棒を進む先に向ける。

 

 雪の向こう側、マリーナ・ベイ・サンズから夜空に伸びる光線の先、貨物コンテナのヤードがあると思しきエリアから、素早く動く小さなシルエットが飛び出した。

 まさか、と嫌な予想をする。ダウンタウンに近いからか、ネオンの光で夜空が明るい。貨物ヤード自体も夜間も盛んに稼働しているためか、煌々と光を放っていた。おかげで先行する警察ヘリの姿もよく見える。

 先に異常を察知したのだろう。ヘリが突然急旋回を始めた。

 

「何か飛んでる?」

「そうだよ。あれは、深海棲艦の艦載機だ」

 

 博麗に答えた鈴谷は歯ぎしりする。ヘリに纏わりつくようにその周囲を飛び回っている影の正体、紛れもなく深海の艦載機だ。

 それが意味するところは状況がこの上なく悪いということだった。すなわち、相手は航空戦力持ち。航空母艦若しくは、陸上型深海棲艦である。

 ヘリはあっけなく撃墜されるだろう。そう鈴谷は予想したが、意外なことにヘリは追い払われる形にはなったが、逃げることは出来たようだ。というのも、深海機がヘリを攻撃しなかったからである。あくまで、その周囲を蜂のように飛び回って威嚇するだけだった。そして、ダウンタウンの方向へ逃げていくヘリを追い掛けたりもしなかった。こちらの理由も明白だった。次の目標を見付けたからである。

 

「こっちに来ますよ! 霊夢さん!!」

 

 東風谷に名前を呼ばれた巫女が御幣を振る。

 その動作が合図になっていたのだろう。目の前に半透明なガラス壁のような物が現れた。光の屈折率が違うのか、何かがそこに出現したことだけが見て取れた。

 材質は不明だが硬い物らしく、こちらに向かって来た深海機三機が、鳥がそうなるようにガラス壁にぶつかって潰れた。大きな打音が鳴り響き、原型を失った深海機が落下する。

 

「何!? 今の!」

「結界よ」

 

 鈴谷の問いに博麗は短く答える。彼女は当たり前のことを聞くなと言わんばかりの口ぶりだが、異形とは言え仮にも航空機を完全に阻止出来る遮断壁を即座に構築出来るというのは大概条理から外れている。少なくとも、艦娘の装甲より遥かに頑丈だと思われた。

 否、これこそが彼女たちが幻想の世界の住人である証なのだ。

 

「あの深海棲艦は、戦艦なんですか?」

 

 左の風祝が質問を投げてきたので、「いや、多分空母か飛行場姫みたいな陸上型だと思う」と答えたところ、質問者が首を傾げたのが視界の端に映った。彼女はどうやら現代の日本の一般市民程度の知識を持っているらしく、四十八都道府県のことや「戦艦」という単語について知っていた。内陸にあって他とは隔絶しているという幻想郷に在っては、「戦艦」について知り得る機会はまずないと考えられるが、そうした知識はどこで手に入れたのだろうか。

 

 それはさておき、東風谷の知識レベルに合わせて話す必要があった。少なくとも、深海棲艦の艦種類型についての最低限の知識もないと見て間違いないだろう。

 

「あいつらにも色々種類があるんだけど、今回出て来たのは多分、航空機を主兵装として扱う深海棲艦ってことよ。それが海の上に立っている奴なら『空母』、陸の上に陣取っている奴なら『陸上型深海棲艦』って呼ぶ」

「え!? 深海棲艦って、海にしか居ないんじゃないんですか?」

「中には陸の上に居る奴も存在するよ。そういうのを相手にするには、特殊な装備が必要で、たぶんここの基地にはないと思うけど」

「どうするんですか、それ! っていうか、どうしたらいいんですか!?」

「そもそも、シンガポールの駐在艦娘に空母は居なかったはず。敵が空母なら、こっちも空母を出さないと勝ち目がほとんどないんだけど」

「ますますまずいじゃないですか! 航空機って、さっきのがそうなんですよね? あんなのがもっと一杯出て来るってことですよね!?」

「そうだね」

「じゃあ、どうやれば……」

「空母とか、空母に近い性質の陸上型の特徴は、ある程度損害を与えれば航空機を操れなくなる。だから、さっさとぶっ壊してしまえば、あとはこっちが好き放題に出来る」

 

 鈴谷がそう言うと、二人の会話を黙って聞いていた右隣りの博麗が喉を鳴らした。

 

「ぶっ壊す、か。いいじゃない。そういう単純明快なの、悪くないわ。やることがはっきりしていて」

 

 思いの外、彼女は楽しそうだった。乗り気なのはいいことだ。

 

「そういうことだよ」

 

 鈴谷も同調して口の端を釣り上げる。

 

「そんな単純なことじゃ……」と東風谷は文句を言い掛けたが口を噤んだ。この二人には何を言ってももう無駄だと察したのだろう。鈴谷は、この東風谷の頭の回転の速さを好意的に評価していた。

 

「単純だけど、簡単じゃなさそうね」

「そうそう。一筋縄じゃ行かないと思うよ。あの吸血鬼も居るだろうから」

 

 会話の間に、さらにコンテナヤードの辺りから艦載機が上昇してくる。今度は四機。その様子に鈴谷は違和感を覚えた。

 何かがおかしい。だが、何がおかしい?

 次の深海機に対して、博麗は結界で防ぐのではなく自ら攻撃した。彼女はまた、御幣を大きく振るう。シャッと紙垂が鳴る。その幣串の先端から白い光弾が四つ飛び出し、それぞれが正面から接近する深海機に向かっていた。

 危険を察知したのか、編隊を組んでいた深海機がそれぞれ上昇と旋回を開始して光弾を回避しようとする。だが、光弾は逃げる深海機を追跡し、吸い込まれるように命中した。

 

 ミサイルかよ! 

 

 あまりに常軌を逸脱した光景に、思わずそう叫びたくなった。だが、それも束の間、「来たわよ!」と鋭い博麗の警告が聞こえて、意識がそちらに割かれる。

 見上げると、上から降ってくる黒い大きな影。見間違いでなければ、それは四十フィートの船積みコンテナではないか?

 再び結界が張られ、そこにコンテナが激突して轟音を立てた。下を見るとコンテナが落ちていくのは海だったので、地上に被害が出ることはなさそうだ。いつの間にかコンテナヤードの近くまで来ていたらしい。

 だが、それにしてもどうしてあんな物が宙を舞って飛んで来たのだろうか。果たして、その答えは「出たわよ」という博麗の尋常ならざる声によって示された。

 

 眼前である。

 積み上げられたコンテナの山の頂上。そこに、一つの人影が立っていた。背中に翼を生やした、「深紅」のドレス姿。明るいコンテナヤードの中にあり、その威容はよく見えた。

 不意に、ヤードに灯っていた明かりが停電したかのようにすべて消える。それによって辺りが暗闇に包まれても、ぼんやりとした「紅い」光を自ら放つ異形の王の姿は決して見失うことがなかった。見失うなど出来なかった。

 彼女はそこに存在し、ただそれだけで己以外の誰をも畏怖させる威厳を纏っていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督43 The great descendant of tepes

 最初の衝撃でゴルフボールのように弾き飛ばされたレミリアは、コンテナの山の中に墜落した。だが、そこは人間より遥かに頑丈な吸血鬼。相当な勢いで鋼鉄製の四十フィートコンテナの側面に激突しても、コンテナを凹ますだけで自分の身体には全く傷を受けなかった。墜落の際にしたたかに打ち付けてしまった背中の筋肉を解すように背伸びをすると、何事もなかったかのように立ち上がる。

 そこは船から下ろされたコンテナの仮置き場のような場所で、レミリアが立っているのはコンテナの山と山との間、動線となっている谷間にあたる。前後にはコンテナが壁のように積み上げられ、視界が遮られているので自分を吹き飛ばした赤城が今どんな状態になっているのか、直接それを目で確認することは出来なかった。もっとも、見るまでもなく想像はついたが。

 

「お嬢様!」

 

 加えて、レミリアは独りではなかった。真っ先に駆け付けて来たのは、レミリアの最も信頼する腹心であり片腕である、メイド長の十六夜咲夜である。暗闇の中なので純粋な人間たる彼女にはほとんどレミリアの姿は見えないであろうが、吸血鬼たる主人には彼女の姿ははっきりと目に映っている。「事」が起こる直前に、彼女には寝たきりで無防備な加賀の保護を頼んであった。時間停止という極めて貴重な能力の持ち主であるこの人間は、その威力を如何なく発揮ししつつも、突然の爆発に慌てて馳せ参じたらしい。加賀を抱えたままの状態で、彼女は主人のすぐ傍に現れた。

 

「加賀は、無事そうね。ありがとう。そのまま彼女を安全な場所に退避させて」

「御意に。しかし、お嬢様。これは想定外の事態では?」

 

 ほとんどの事情を説明してあるので、今何が起こっているのかを把握している使用人の顔は深刻だ。ところが、レミリアは首を振り、

 

「いいえ。想定内よ。いくつか想定したパターンの中で一番悪いパターンだけど」

 

 と、肩をすくめる。

 こうなることは予想していた。もっとも、「最悪こうなるな」と考えていた程度に過ぎないが。

 

 レミリアとしては、記憶のほとんどをなくした赤城(今は黒檜と名乗っている)を加賀と面会させて、ある程度記憶の想起を促すつもりだった。消滅したわけではないが、記憶と共に赤城としての自我も封印されてしまっているので、今の赤城に「赤城」としての自覚はない状態である。要するに、その自我を思い出させようとしたのだ。

 もちろん、それはきっかけに過ぎない。だが、何のきっかけもなければ彼女は今後も「赤城」とは別人として生きていくことになっただろう。それはレミリアの望む未来ではなかった。

 故に、加賀が歪な形であるとは言え、引き揚げられたことは望外の知らせであったし、彼女と赤城を再び引き合わせることで、赤城の中での変化を促進する狙いがあったわけだ。そして、事態は狙い通りに進行した。進行“し過ぎて”しまった。

 

 過去、赤城は一度だけ深海棲艦になりかけたことがある。この時、彼女を堕落せしめようとしていたのは空母水鬼と名付けられた上位の深海棲艦だったのだが、赤城の中に深海棲艦化する極めて大きな要因があったことが、あのような事態を招いてしまった。言うまでもなく、戦友である加賀の喪失である。

 加賀の存在は、赤城の心を支える大黒柱であった。実姉を震災で亡くした彼女にとって、加賀という女性は単なる友人以上に重い意味を持った人だったのだろう。本質的に赤城には他者に心の拠り所を求めずにいられない脆さがあるとレミリアは考えている。赤城本人がそれを自覚していたかどうかは怪しいし、赤城にとって加賀は掛け替えのない存在だったとしても、加賀にとっての赤城はそうではなかったかもしれない。二人の関係性をレミリアとて正確に把握していたわけではないので、断言出来ないところは多々あるが、それでも赤城が精神的に崩れないために加賀は必要だった。ところが、突然にその支柱がなくなってしまったものだから、赤城に走った衝撃の大きさは想像を絶するものだったはずだ。だからか、彼女の精神が瓦解をし始めるのに時間は掛からなかった。

 

 艦娘は精神の在り方、その変容により、存在そのものまで変化してしまうことがある。その意味では、艦娘は人間よりもずっと妖怪寄りであると言えよう。この存在の変化というのが、人間が名付けた「深海棲艦化」と呼ばれる現象だ。つまり、あの時赤城に起こった変化も、加賀という大きな存在を失ってしまったことで起こったことだった。

 とはいえ、今の彼女は記憶のない「空っぽ」の状態であり、赤城としての自我も忘れて別人を名乗っているし、当人はそのことを疑ってもいない。だが、だからと言って赤城が赤城であることに変わりはないので、例え過去を思い出せなくとも、別人格が芽生えていたとしても、根本的には変わっていない。

 要は、その根本を引っ張り出すために、未だ目覚める徴候のない加賀と会わせたのだ。目論み通り、これが記憶を失った赤城に大きな変化をもたらした。問題は、その変化がレミリアの望まぬところまで進んでしまったことにある。

 加賀との無言の再会は、加賀の喪失が直接的原因である故、一度は阻止出来た深海棲艦化を再度進行させることにもなってしまった。それが今の状況だ。

 

「このままでは、大変なことになるのでは?」

 

 メイドは心配顔であるが、レミリアは落ち着いて彼女の懸念を否定する。

 

「それ程大事には至らないでしょう。確かに赤城は深海棲艦になろうとしている。けれど、完全に変化することはないし、その力を発揮することもない。何故だか分かる? 彼女が『空っぽ』だからよ」

「『空っぽ』だから、ですか?」

「ええ。今の赤城は主要な記憶がない。ミソは、『主要』という点よ。艦娘になったこととか、その後に起きた出来事の思い出とか、加賀の喪失なんて、みんな覚えていない。だけど、彼女が覚えていないのは見聞きした事実に関する記憶ばかりで、その時々で彼女の内面に起こった感情についてのものはちゃんと残っているわ。そうした感情はあの子の魂に刻まれた記憶だから、弄ることが出来なかったのよ。だから、加賀を失った時の衝撃と、喪失感が残っている故に、今こんなことになってしまったのね。でも、加賀を失ったこと自体の記憶はないし、艦娘としての記憶もない。当然、その自覚もない。今の赤城は“限りなく人間に近い”存在よ。そして、幻想を否定されたこの世界で、“限りなく人間に近い”赤城が、ほぼ完全な幻想種である深海棲艦になることはあり得ない。今あそこに現れたのは、張りぼての深海棲艦もどき。その意味で『空っぽ』と言ったの」

 

 元々レミリアたちの計画に深く関わっておらず、後から事情説明されただけで理解の浅いメイドは、分かったような顔をして頷いているものの、実際にはさほど状況を理解していないだろう。ただ、今の赤城がそれ程脅威ではないということくらいを分かった程度か。もちろん、彼女が行動するにはその程度の理解で十分である。

 この使用人は意外と口うるさく、特にレミリアが深海棲艦排除の計画に失敗して幻想郷に帰って来た辺りからそれが顕著になってしまった。だから、少しでも説明をしておかないと、後でやかましく言い立てられる。それが煩わしくて、レミリアはわざわざ解説を行ったのだ。

 

「お嬢様! 大変ですよ! 大変なことに!!」

 

 そのタイミングで、大声を出しながら駆け付けてくる部下がもう一人。こちらは時間停止などと言う便利な能力は持たないので、走ってやって来た。

 

「ああ、美鈴ね。大丈夫よ。落ち着いて。想定内だから」

「でも、あの人深海棲艦に……」

「いいの、何とかなるから」

 

 今の赤城に出来ることは少ないので、多少目を離していても問題ないから時間的余裕はまだあった。しかし、咲夜にしたのと同じ説明をもう一度する気にはならない。

 

「いいんですか」

「いいのよ」

 

 美鈴の場合、説明はあまり必要ではない。彼女はメイドほど口うるさくないからだ。部下としてはほとんどの面で美鈴より咲夜の方が優秀なのだが、扱いやすさという点においては圧倒的に美鈴の方が勝っている。咲夜は根が真面目すぎるが、美鈴は力の抜き方をよく心得ているのだ。これは年の功であり、人間であるメイドと、妖怪である門番の、生きてきた時間の長さの違いによるものだろう。

 色々と察したであろう美鈴は、指示待ちの姿勢になった。それを確認してから、レミリアは門番に手を差し出す。

 

「あれ持ってる?」

「あ、はい」

 

 美鈴は懐からペンケースを二つ取り出した。受け取ったレミリアはそれぞれのケースを開けて中に注射器が一本ずつ収められていることを確認する。注射器のには「ERM(緊急修復材)」と書かれたラベルが貼られている。

 ケースの蓋を閉じてからレミリアはくるりと振り返ってメイドに顔を向けた。

 

「状況を鎮静化し次第、速やかに撤収に移るわ。まず、咲夜はさっきも言った通り、加賀を安全な場所に退避させて。それと、撤収の準備もお願い」

 

 使用人は短く「御意に」と答えた。それから今度は美鈴と向かい合い、受け取った緊急修復材のケースを一つ差し出す。

 

「美鈴には二つの指示を与えるわ。一つは、これをあいつに渡して私の指示を伝えて。言うわよ、いい? 『今の赤城に戦闘能力はなきに等しいけれど、あの子が本質的に艦娘であることに変わりはないわ。中途半端とは言え深海棲艦化が起こって、艤装は出て来ているから海に立つことは出来る。海に出られたら私に手出し出来ないから、そうなった場合はこの注射を赤城に打ち込んで。そうすれば艤装の解除が出来るはずだから』」

 

 門番は恭しく頷いた。

 

「あと、もう一つ。美鈴自身は例の魔法を起動させて。やり方は説明した通りよ。覚えているわよね?」

「ええ、もちろんです。それで、お嬢様はどうされるんでしょう?」

「招かれざる客の相手をしなければならないわね」

「それは……」

「霊夢よ」

「巫女が来ているのですか!?」

「ええ」

 

 別に不思議なことではなかった。レミリアはもう一年以上外の世界に出たままなのだ。妖怪の賢者たちが連れ戻そうと考えるのはごく自然なことだし、そのために宛がわれる人選として博麗の巫女たる少女に白羽の矢が立つのも理に適っている。そして、幻想郷で生まれ、幻想郷で育ったがために外の世界のことに疎い霊夢を支えるため、近年外の世界からやって来たもう一人の巫女が選ばれるのも不思議ではない。

 と言っても、レミリアが二人がシンガポールまで追って来ているのを知ったのは、ごく最近、「ついさっき」のことである。美鈴の運転する車を追跡していた艦娘と思われる女。その女が追跡に失敗して川に落下した時、助けに入った二人の日本語を喋る少女が居た、という報告を受けていたからだ。わざわざ川に飛び込むような勇敢な日本語話者の少女が、都合良くシンガポールに二人も居たりしない。偶然ではないなら必然。ならば、必然性を持ち得る人物として考えられるのは、レミリアを追う妖怪の賢者たちの手駒以外にない。簡単な推論である。

 では、一体誰がレミリアにその報告を入れたのか。それは、吸血鬼に与する王立海軍の気高き艦娘――ウォースパイトだ。彼女は在シンガポール英国高等弁務官事務所(英連邦加盟国における大使館に相当)の職員を密かに動かしていた。美鈴が追っ手を振り切れない場合はこの職員が妨害に入る手筈になっていたのだ。だが、美鈴は首尾よく逃げ切り、職員が追っ手の「その後」を確認してウォースパイトに連絡を入れている。

 よって、レミリアは現況の把握について、それが正確であることに自信を持っている。赤城が暴れ出せば、お得意の神懸った「勘」でそれを察知した霊夢は大急ぎで駆け付けて来るだろう。当然早苗や救助した追っ手の艦娘も一緒のはず。だが、状況と霊夢の性格上、早苗との共闘は考え辛い。霊夢はレミリアを探し、早苗と艦娘は赤城に対処しようとするだろう。

 もちろん、ここにやって来ようとするのは彼女たちだけではない。言うまでもなく、シンガポール駐在の艦娘部隊も出動する。レミリアは可能な限り状況の混乱を抑えたかった。招かれざる客は、巫女たちだけで十分間に合っている。霊夢たちが来てしまうのは状況鎮静化の障害にしかならないのだが、感情は理性とは全く異なることを求めていた。

 

 今の自分の力が、どこまであの不思議な巫女に通用するのかを知りたい。“お遊び”の弾幕ごっこで彼女とは何度も戦ったことがある。勝ったこともあったし、負けたこともあった。遊びではあったが、まごうことなき真剣勝負。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。ただ、そこには命のやり取りはない。厳密に言えば事故で死んでしまうこともあり得るが、弾幕ごっこそれ自体は相手の死を目的にしていない。あくまで、相手より派手で、美しく、そして攻略の難易度の高い弾幕を張ることがその目的なのだ。その大前提の上で、レミリアは今まで霊夢と戦ってきた。

 しかし、時に霊夢は妖怪を意図して殺すことがある。それは彼女の「博麗の巫女」としての役割が要請するものだ。幻想郷は、そこに暮らす人間を殺す妖怪を、あるいは自ら望んで人ならざる者への変化を遂げた人間を、容赦しない。端的な実力行使の担い手として「博麗の巫女」は存在する。

 

 では、今のレミリアはどうだろうか? 自ら望んだわけではないが、「人間」だった赤城を「深海棲艦」に変貌させたレミリアなら、「博麗の巫女」の懲罰対象になるだろうか。例えそれが他人であっても、“そうなるかもしれない”と分かっていながら積極的に阻止しなかった未必の故意が成立したとしても、「博麗の巫女」は御幣を振るうだろうか。

 目的が本来のものからずれていっているという自覚はある。わざわざ強敵と正面から戦う必要はない。単に、レミリアがそうしたいからそうするという、我がままなだけ。個人的欲求でしかない。

 こんなことが出来るのは、保険をしっかりと掛けていたからである。つまり、レミリアは自分自身が何もしなくとも今の状況を鎮静化させられるだけの十分な準備を整えているということだ。

 

「面白いでしょ? 今夜はいい夜になりそうだわ」

 

 こんなに楽しいのは久しぶりだった。自分でやり始めたこととは言え、“詰まらない仕事”ばかりだったここ最近、本心では退屈していたのだ。こうして気持ちが昂るのは随分と久しい気がする。

 

「霊夢は私が相手をする。さあ、二人とも行って。今宵の宴はまだまだこれから盛り上がるんだもの!」

 

 

 

****

 

 

 

 

 巫女と吸血鬼が激突する。

 上空に血の色のような「赤い」巨大な魔方陣が描かれ、そこから同じ色の、これまた縮尺を間違ったのではないかと思うほど大きな槍が次から次へと射出され始めた。そのすべてが一人空を飛ぶ博麗に向かって放たれている。一発一発が途方もない威力を持っているのだろう。だが、どんな攻撃も避けられてしまえば意味がない。吸血鬼の背後、光背のように掲げられた魔方陣は、海側から接近する博麗に向けて槍を撃っているが、すべてが巫女には回避されていた。

 威力が大きいと分かったのは、標的に命中せず海面に着弾した槍が轟音と共に数十メートルはあろうかという巨大な水柱を立ち上げるからだ。それは、槍の一本一本が長門型の41㎝砲弾匹敵すると思われるエネルギーを持っているということの証左である。そんなものを生身の人間が食らえば一溜りもないどころか、小さな肉片すら残さず粉みじんに砕かれてしまう。

 しかし、博麗は何も恐れている様子ではない。それどころか、彼女は果敢にも吸血鬼に立ち向かおうとしていた。戦艦の主砲に撃たれるということがどんなに恐ろしいかを、鈴谷は身に染みて理解している。例えそれが味方で、発射されるのも演習砲弾で、自分が絶対に死なないという状況であったとしても、耳をつんざく砲音と見上げるほどに大きい水柱の前に、足より先に心が逃げ出しそうになる。慣れればその内度胸のようなものを手に入れるが、それでも大口径主砲による砲撃に対する恐怖を完全には拭い去れない。高い運動エネルギーを持つ砲弾を撃ち出す攻撃には、物理的なそれ以上に、精神を圧迫するエネルギーが含まれているのだ。

 そんな攻撃にもかかわらず、まったく怯む様子を見せることなくひらりひらりと槍を躱す博麗の肝っ玉はどれだけ大きいのだろう。自分の背後で轟音を立てて海に着弾する槍の威力を分かっていないわけではないはずだ。分かった上で、しかし彼女はまるで恐れていない。もちろん、変に委縮して動きを止めてしまえば被弾するのは目に見えているから、博麗は正しい選択をしている。けれど、それと肝の太さを両立させるのは並大抵のことではないのだ。

 

「あれ、弾幕じゃない。遊びじゃないです。本気の攻撃ですよ」

 

 空を飛べない鈴谷を背負うのは東風谷。彼女も槍の威力に唖然としているようだ。彼女曰くは、幻想郷の住人たちはスポーツ感覚で「弾幕勝負」なる遊びに興じるらしい。人間も妖怪も関係なく、皆が平等に参加出来る遊びとのことだが、今のスカーレットは「遊んで」くれるほど甘い存在ではないということだ。

 あまりにも常軌を逸脱した光景に、言葉が思い浮かばない。翼もないのに空を飛ぶなんて芸当を見せられて一度驚いているので、もう何があっても少々のことでは驚かないだろうとたかを括っていたのだが、想像を絶する吸血鬼の力には絶句するしかなかった。こんな破壊力のある攻撃を機関銃のように連続で撃ち出せるのだから、それは深海棲艦の大艦隊も簡単に全滅してしまうだろう。

 そしてまた、博麗に危なっかしさが一切見受けられないのにも驚く。彼女の周囲にはいつの間にか玉のような物体が、衛星のごとく周回している。何かしらの攻撃準備のようで、徐々に近付いてくる巫女を見て警戒したのか吸血鬼は行動を変えた。

 槍の発射台となっていた巨大魔方陣が消える。次の攻撃はすぐさま始まった。スカーレットは腕を振り、そこから先程とは別の小さな槍を飛ばす。この槍は三本ずつ発射されるようで、スカーレットが腕を振る度、次々と生成されていった。まるで、巫女を寄せ付けないようにしている。

 だが、今度は博麗も避けるだけでなく、反撃に出た。自分の周りを周回させていた玉を前へ飛ばす。玉と槍が激突して爆発音が鳴り響いた。なるほど、確かに博麗にはスカーレットを連れ戻す人員として選ばれるにふさわしい実力があるのだろう。二人のそれは拮抗しているように思えた。多少分が悪いと考えたのか、あるいは他に何か狙いがあるのか、それまでコンテナヤードの上で浮かんでいた吸血鬼が動き出す。博麗から離れていっているように見えた。

 当然、博麗は後を追う。その間にも二人は槍と玉の応酬を続けていた。スカーレットはともかく、巫女の方もどこからともなくあの玉を無尽蔵に作り出せるようで、“残弾”の心配は不要そうだ。というより、今二人の間で起こっていることを科学的に真正面から説明しようと試みることは無駄な労力に違いない。あれは、鈴谷の持っている常識や知識で測れる現象ではないのだ。

 

「鈴谷さん、霊夢さんが戦ってくれている内に急ぎましょう」

「あ、うん」

 

 東風谷に声を掛けられて、鈴谷はようやく戦いに釘付けになっていた視線をそこから反らすことが出来た。

 

 二手に分かれたのは、博麗が吸血鬼を相手している内に東風谷と鈴谷で現れた深海棲艦に対処するためだ。どうやらあの吸血鬼はこの状況を意図的に起こしたか、もしくは想定の範疇として利用しているらしい。博麗との交戦を避けない辺り、そのように考えても問題ないだろう。同時に、彼女にはまだまだ幻想郷に帰る意思もないことを示していた。

 だが、まず優先すべきは深海棲艦である。種類が分かれば対処法も自ずと決まるので、相手を確認することが先決だった。ただ、深海棲艦はしばしば新種が現れることがあり、その場合はまた面倒なことになるのではあるが。

 それはさておき、やることが明確であっても実際にそれを為すのは簡単ではないのが現実だ。鈴谷の眼下に広がるコンテナヤードは不気味なほど暗く、静まり返っている。光源と言えば上空でやり合っている吸血鬼と巫女が放つ弾幕の光か、接岸している貨物船にぽつりぽつりと燈る灯りくらいしかない。これはコンテナヤードが完全に停電しており、船は自家発電装置で電力を得ていることを意味していた。

 

「あの、船の人は避難されているのでしょうか」

 

 ふと、東風谷がそんな疑問を口にする。接岸中の貨物船はまさに荷役中だったと思われる。当然、船の船員、ガントリークレーンの操縦員、コンテナを荷扱う荷役要員などの人員がそこには居るはずだが、上空からでは暗すぎるのもあって、少なくとも人間が動いているようには見えなかった。

 

「いや、逃げる暇なんてなかったでしょ」

 

 どう考えても、深海棲艦が出現し、博麗がスカーレットと戦い始めるまでのさほど長くない時間に、この広大なコンテナヤードから人が掃けたとは思えない。ましてや突然停電したのだから逃げる暇などなかっただろう。

 しかも、あのスカーレットの槍の破壊力を鑑みるに、あんなものが地上や船舶を直撃したら大惨事になるのは誰の目にも明らかだった。東風谷もそこに思い至ったのだろう。彼女は徐に上着の中に手を突っ込み、すぐに何かを引っ張り出した。

 玉である。ソフトボール大で、白と黒の二つの滴が絡み合うような紋様が描かれている。どこかで見たようなデザインだと思ったら、すぐに韓国の国旗に似たような図柄があることを思い出した。

 どこからともなく玉を取り出した東風谷は、それを何に使うのかと鈴谷が見詰めている間に徐に口元に近付けて、「霊夢さん!」と語気を強めに友人の名を呼んだ。

 

「何よッ!」

 

 すぐに応答があった。鈴谷の聞き間違いでなければ、博麗の声が東風谷の手中にある玉から聞こえたように思える。実際、それは聞き間違いでも幻聴でもなかった。東風谷が玉に向かって会話し出したからだ。

 

「まだ下に人が残ってます! レミリアさんの攻撃がそちらに向かないようにうまく誘導してください!」

「はあ!? ムチャ言わないでよ!」

 

 紛れもなく博麗の声だ。巫女が喚いている。その余裕のなさは、スカーレットと激しい攻防を繰り広げている光景と矛盾していない。

 玉はまるで無線機だった。信じがたいことに、東風谷はこれでどうやら博麗と遠隔通信を行えているらしい。どのような原理で何を媒介にして可能としているのかまるで理解出来ないが、用法は無線や電話とさして変わらないのだろう。

 

「レミリアさんの攻撃の威力、本気ですよ!」

「んなこたぁ分かってるわよッ! あいつ、幻想郷に居る時より強くなってるわ!! どういうことよ。外に来たら弱体化するって、紫の奴が言ってたのに!!」

「海の上で戦うようにしましょう!」

「吸血鬼は海の上を飛べないはずよ。その証拠に、陸地の上空から移動しようとしないわ! こっちは大丈夫だから、そっちはそっちの仕事をやって!」

「……分かりました。こちらは引き続き深海棲艦を探します」

 

 どうやら、博麗は吸血鬼に圧され気味なようだ。だが、だからと言って彼女に今から助太刀に行くわけにもいかない。深海棲艦がまだ見付かっていないのだ。本体はおろか、先程ヘリや鈴谷たちを攻撃しようとした艦載機も、その影を見せない。

 博麗の言っていた「スカーレットが強くなっている」という情報も気になるが、今はそれより深海棲艦が優先される。海に出た可能性もあるので、巫女と吸血鬼の戦闘による閃光を頼りにしながら暗い海上に視線を這わすが、漆黒の海は異形の存在を隠匿しているのか、はたまたそこには何もないのか、鈴谷は怪しい影も発見出来なかった。

 こういう時に対水上電探があればすぐに索敵出来るのだが、夜間に、それも肉眼で人間大の深海棲艦を探すのは困難を極める。

 だが、この状況下で深海棲艦を探すことが難しいという事実自体に違和感を覚えた。博麗とスカーレットが上空でぶつかり合い、派手に戦っているのを深海棲艦が把握していないわけがない。ましてや、ここは市街地至近の港湾エリアなのだ。人間ないし艦娘を攻撃する習性のある深海棲艦が何の行動も起こしていないのは不可解極まりない。

 いや、違う。何もしていないわけがない。鈴谷が知る限り、深海棲艦と言うのはこの状況、この場所で静観に徹するような行動原理を持たない。持たないからこそ、連中は人類最大の敵として恐れられ、優先的な駆除の対象になっているのだ。

 しかも、相手は高い機動力を持つ航空機を操るタイプ。仮に本体が動かずとも、自分の子供たちを飛ばせば良い。航空巡洋艦として、本格的な航空母艦ほどではないが複数の艦載機の運用も時には行う鈴谷だから、航空戦のいろはは分かっているつもりだ。もし自分なら、この場合はどうするべきかと考える。すると、答えは自ずと導き出された。

 

「上!」

「え!?」

「上から来る!!」

 

 今まで地上と海上を見下ろしていた目を、今度は上空に向ける。自分たちの頭上。幻想の戦いの光で照らされる夜空の中。

 暗幕に紛れて蠢く影がある。それらはまさに鈴谷と東風谷に向かって急降下を仕掛けてきたところだった。鈴谷が警告の叫びを上げる前に自力で向かい来る脅威に気付いた東風谷が身体を捻り、強引に機動を変える。

 複数の風切り音が響いて深海機が真横を通り過ぎた。一機、二機なんて数ではない。少なく見積もっても二十機は居ただろうか。まるで艦爆隊の急降下爆撃のように隊列を組みながら整然と突っ込んで来たのだ。

 東風谷の無理矢理な旋回に振り落とされそうになるが、何とかしがみ付いて耐えた鈴谷は、やり過ごした深海機が隊列を組んだまま反転するのを視認する。

 

「もう一度来る!」

「応戦します! 秘術『グレイソーマタージ』!!」

 

 再び向かって来る深海機の編隊に向けて、彼女はまるでそれを遮ろうとしたかのように片手を伸ばして指を広げる。「来るな」と言っているかのような動作。ただし、その手は宣告と共に伸ばされたものだ。

 風祝の伸ばした右手が光る。閃光と言っても良い眩い輝きはすぐに分裂して形を作った。

 五芒星。それが部分部分で重なりながらいくつも現れる。空中に刻まれるように描かれた光る紋様は、まるで意志を持っているかのように重なり合った間隔を拡大し、そして捩じれるように形を崩していく。星を描いていたのは線ではない。小さな光の粒が規則正しく並んで、まるでビーズで作った星のアクセサリーのようだった。

 光るビーズがバラバラになって夜空に飛び散る。少女の手の先に生まれたのは、白や「緑」に光る大量の弾幕だった。生半可な数ではない。何しろ、元となる五芒星の大きさからして、一つひとつが東風谷がすっぽり収まるようなサイズだったのだ。それぞれの辺を構成していた弾の数もそれ相応に多かった。そしてそれらが今、捩じれるような軌道を描きながら東風谷を中心として全周囲に拡散し始めたのである。

 まるで、花火を爆発の中心から見ているような光景だった。しかも、東風谷はさらにもう一度同じ弾幕を生み出した。先の弾幕が広がり切らない内にまた五芒星が描かれる。五個ずつ、二層に重なるように配置された五芒星が互いの斥力で弾き出されるように展開し、形を崩して弾幕となる。

 こうして出来た濃密な弾幕の壁は、向かい来る深海機を迎撃するに十分なものだった。輪形陣で展開した空母機動部隊が針山のように装備した高角砲と対空機銃を全門発射したとしても、ここまで密度の濃い弾幕は張れないであろう。東風谷の弾幕は、鈴谷をしてそう思わせるに足る防壁であったし、実際にその効果は「覿面」の一言に尽きた。

 光るビーズは単なる光ではなかった。確実に質量を持っていた。そこに無謀にも突っ込んだ深海機はたちまちの内に無数の破孔を穿たれ、飛行に必要な形状を失って重力の虜になる。弾幕はしばらくして消えたが、その頃には深海機もすべからく空の塵となって海に降り注いでいるところだった。

 

「ふぅ……。危なかった。でも、意外といけますね、私」

 

 自らが起こした結果に対し、あまりにも軽々しい東風谷の言葉に、あっけにとられていた鈴谷は我に返る。

 どんな艦娘だって、あんな濃密で、あんな威力の高い弾幕を張ることは出来ない。鉄火を噴く艦娘の兵装では成し得ぬことなのだろう。

 それ故に幻想。それ故に不可思議。

 つくづく思い知らされる。彼女たちは、鈴谷が与り知らぬ世界からの来訪者。そこでは鈴谷の知らぬ法則が働き、鈴谷の知らぬ力を持つ者たちが暮らし、鈴谷の知らぬ現象が起きるのだ。普通の少女のように見えて、東風谷も立派な不思議の国の住人なのである。

 

「そう言えばさっきの飛行機、撃ってきませんでしたね」

 

 目の前で起こった魔法のような現象を受け止めきれない航巡の様子に気付いていないのか、気付いていてあえて無視したのか、何事もなかったかのように問い掛けてきた。

 

「え? あ、うん。そうだった、ね……」

 

 半分上の空で同意した鈴谷は、二拍ほど間をおいて、ようやく言われた内容を正しく認識する。

 

 そうだ。深海機は撃って来なかった。

 深海棲艦との戦闘についてはまったくの素人であるはずの東風谷でさえおかしいと感じたのだ。連中の習性をよく知る艦娘からすれば、おかしいどころか「異様」とすら感じられる。

 そう言えば、深海機は警察のヘリを追い払った時も発砲していなかった。そもそも、空を自在に飛び回れる深海棲艦の航空機を前にして、ほぼ非武装の警察ヘリが“生きて帰れる”こと自体がおかしいのだ。普通なら機銃掃射で穴だらけにされて、乗員全員が殉職していただろう。

 先程の上空からの奇襲もそうだ。攻撃対象と見做した東風谷と鈴谷を、深海機は上から好きに狙える状況だったのに、たった一発も撃たなかった。だからこそ二人は今五体満足で居られるのだが、本来はあり得ないことだ。深海機は夜間も活動出来るから、夜だからというのは理由にならない。あの機動性からも飛んでいたのは恐らく戦闘機で、こいつらの武器と言えば機銃しかない。

 まるで、弾切れになってしまっていたかのようだった。しかしそれも奇妙な話。母艦(もしくは基地)となる深海棲艦は、つい先ほど現れたばかりなのである。燃料も弾薬も不足するはずがない。

 何かがおかしい。そして、おかしなことはもう一つあった。

 

「ねえ、マリーナ・ベイ・サンズはどこ?」

「え? マリーナ?」

「マリーナ・ベイ・サンズ。ホテルだよ。ほら、さっき見たでしょ? 三つのビルの上に空中庭園が乗っかった建物」

「あ、さっき横を通って来ましたよね。あれ、そう言えばあんな目立つ建物なのに、見えない……」

 

 東風谷はもうコンテナヤードの上空まで飛んで来ていた。高度はガントリークレーンの先端が間近に見える程度の高さしかないが、それでも派手なシンガポールのランドマークはここからでもよく見えるはずである。件のホテルはマリーナ湾とシンガポール港の間に半島状に突き出した場所に立地しており、海からはよく見えるはずだ。

 ところが、辺りを見回してみてもそれらしき建物が見えない。それどころか、ぎらぎらと眩しく輝いているはずの街の灯り自体が見えない。ただぼんやりと明るく、星も見えない夜空があるだけだ。海や陸地との境界線は曖昧で、すぐ近くにあるはずのリゾート地のセントーサ島も、どこにあるのかが分からなかった。

 それ以前に、スカーレットがコンテナの山の上に姿を現した時、ヤードの島全体が停電を起こしたようにすべての明かりを消した。深海棲艦によって送電線が切断されたのではないかと考えたが、事実はそうでなかったとしたら、あの時一体何が起こったのだろうか。

 

「ねえ、おかしいことばかりじゃん? 深海機は威嚇射撃すらしてこなかった。突然停電も起こった」

「ええ、これはまずいかもしれません。停電したり、見えるはずの街の景色が見えないのは、ひょっとしたら何らかの結界が張られたからかもしれません」

「結界?」

「領域を二つに分け隔てる結界です。だからこちらから外側の景色が見えないし、電気が遮断されてしまったから島内で停電が起きたのかも。どうやら、私たちは閉じ込められたみたいですね」

 

 閉じ込められたって、と言い掛けて、誰がそれをしたのかに思い当たった鈴谷は代わりに別のことを口にした。

 

「どうすりゃ出られるの?」

「普通、結界はそれを張った本人か、何かしらの条件を満たす者しか通れません。それ以外は力づくで無理矢理突破するしかないです。ただ、結界を通るにしろ破るにしろ、その結界の種類や仕組みを正しく理解していることが最低条件になります」

「どういう結界かっていうのは分析出来る?」

「ある程度は出来ますけど、簡単じゃないでしょうね」

「これも、吸血鬼の力なの?」

 

 それまですらすらと答えていた東風谷だったが、この質問にはすぐに答えなかった。代わりに、彼女はずり落ちかけていた鈴谷をもう一度背負い直す。言うべき言葉を探す間に、間を持たせるためにそうしたようだった。

 

「いいえ」と、答えを探し当てた風祝が再び口を開く。

 

「恐らく違います。この結界はかなり大きい部類に入ると思いますが、ここまで大きい結界を作れるには高度な魔法が必要なんです。レミリアさんは力の強い妖怪ですが、こんな大規模な結界を展開出来るほど魔法に通じているわけじゃありません。ただ、レミリアさんには魔法使いのご友人が居て、その魔法使いならこれだけの結界も容易く作れるでしょう」

 

 今度は魔法使いときた。いや、この世であり得ないものと否定された諸々が集まる幻想郷である。魔法使いなんてポピュラーな存在が居ても何ら不思議ではない。世にも恐ろしい吸血鬼や霊験あらたかな巫女が跳梁跋扈する世界なのだ。

 問題は、スカーレットには長髪の女以外にも仲間が居るということだった。あの長髪の女が東風谷の言うような魔法使いであるとは考え辛かった。結界を張れる力があるなら、わざわざ車で黒檜を拉致する必要もないだろう。魔法使いというくらいなのだから結界を張る以外のことも出来るだろうし、それこそ鈴谷には想像もつかないことが可能であっても不思議ではない。だから、お得意の魔法とやらで鈴谷の追跡を躱せたはずだ。それをしなかったということは、長髪の女は魔法使いではなく、この結界の作成者は別に存在することになる。

 厄介なのはそこだった。馬鹿げた力を振り回す吸血鬼に、未だ姿を見せない長髪の女。そして、新たに存在が示唆された魔法使い。他に仲間が居るかもしれない。巫女二人の説明からも、スカーレット一味の中で最強なのは間違いなく吸血鬼なのだが、彼女にばかり気を取られているわけにもいかないというわけだ。

 

「あいつの仲間って、一体何人居るの?」

「私の知る限り、他に二人は居るかもしれません。レミリアさんの片腕のメイド長と、レミリアさんの妹です」

「妹? 血縁者が居るの?」

「私も見たことがないですし、引き籠りだって聞いたことがあるから来ていないかもしれませんけど。ただ、メイド長の方は確実にいらっしゃるかと……」

「そのメイド長ってのは、何者なの?」

「人間です。本当に、ただの人間ですけど」

 

 東風谷はやけに言い辛そうだった。どうも誰かに忖度して、メイド長なる人物について打ち明けることを憚っている様子だ。

 それが鈴谷を不愉快にさせる。短気が過ぎるのは良くないし、東風谷に当たっても仕方がないと自覚しつつも、ついつい問い詰める口調が厳しいものになってしまった。

 

「ただの人間なら、大したことないんだよね!? それとも、そいつも何か特殊なことが出来るの?」

「え、ええ。時間を操れるそうですが……」

「はあ!?」

「突然目の前に現れたりしますから、あの人のことも警戒しないといけないんですけど」

「……マジかよ」

 

 どうやら、悪い意味でスカーレット一味は粒揃いらしい。時間を操れるという人間に、巨大結界を作る魔法使い、長髪の女の能力は不明だが、異世界から来た割には車の運転を卒なくこなしていたので、それはそれで厄介である。何よりも、一番はあの吸血鬼だ。

 

 未だ、博麗との戦いは続いている。互いに、先程の東風谷のような弾幕を出し合い、空中で激しくぶつかり合っている。

 

「弱体化するってのは、期待しない方がいいみたいだね」

 

 博麗の言った通りだ。スカーレット自身は、本来弱まるところを、何かしらのからくりで逆に強化されている。ひょっとしたら、その仲間たちもそうかもしれない。

 

「多分、そうですね。聞いていた話と全然違います。何もかもが狂ってるし、全部がおかしい。ここは外の世界なのに、当たり前みたいに幻想が存在している。外の世界には外の世界の常識があるはずなのに、それが全部壊れてしまってる。もう何が何だか、訳が分かりませんよ!」

 

 しっかりしているように見えて、東風谷はやはりまだ大人になり切れていない少女なのだろう。半分泣き言のように吐き出した言葉には、彼女の混乱が明瞭に現れていた。

 こんな時、この少女に対して、あの子なら何と言葉を掛けただろう。心優しい熊野なら、きっと温かい言葉を与えたはずだ。想定外の事態の連続で混乱の極みにある東風谷に、熊野なら落ち着かせるようにしただろう。

 

「一回、地上に降りよう」

 

 熊野ならこう言うだろうと考えた鈴谷は、その通りのことを口にする。東風谷の肩を軽く叩いて注意を引き付ける。

 

「恐らくだけど、スカーレットの奴があれだけ派手に動いているのは陽動だよ。あんたたちを自分に引き付けるためにそうしているだけ。何でそんなことをしているかと言えば、きっと深海棲艦に近付いて欲しくないからだと思う。逆を言えば、今この状況を打開するには、どうにかして深海棲艦を見付け出して倒すしかない。弱くなっているはずの奴が逆に強くなっちゃってたとかさ、巨大な結界に閉じ込められちゃったとかさ、そういうことを考え始めると収拾がつかなくなるよ」

 

 東風谷は二度、三度鼻をすする。

 

「……結界の外に、深海棲艦が居る可能性はありますか?」

 

 と、質問を投げ返してきた少女の声は、思いの外しっかりしていた。感情の高ぶりではなく、理性的な響きに、取り乱しかけていた彼女が落ち着きを取り戻したことを知る。

 

「それは多分ない。スカーレットからしたら、その結界の中に入ってわざわざ邪魔者たちの相手をしようとは思わないでしょ。どっかの結界に閉じ込めとけばそれで済むはずなのに、陽動するってことは結界の中に深海棲艦が居るからだよ」

 

 スカーレットは、理由はどうあれ、鈴谷たちを深海棲艦から遠ざけたいと考えているようだ。結界を張ったのは博麗たちの接近拒否をしようと目論んだからだろうし、他にも邪魔をしそうな勢力が存在する。言うまでもなく、シンガポール基地の艦娘部隊だ。そして、恐らくそちらは狙い通りになったのだろう。何しろ、完全に「こちらの世界」の住人である艦娘部隊に、幻想の結界を突破する術などないのは間違いないからだ。

 とすれば、もう邪魔になるのは東風谷と鈴谷だけになる。スカーレット自身が博麗への対処に専念している今、こちらに対応してくるのは長髪の女か東風谷の言うメイド長なる人物のどちらか。残り一方は深海棲艦に何かしらの行動を起こすと思われる。存在のはっきりしない魔法使いは、この際居ないものと考えるべきだ。少なくとも、鈴谷がスカーレットなら手持ちの戦力をそのように割り当てる。もちろん、他に仲間が居ればまた違ってくるが。

 

「なら、深海棲艦を見付けて倒すしかなさそうですね」

「倒したらどうなるのかは分からないけど、少なくともスカーレット一味にしたらその深海棲艦には生きていてもらわないといけないみたいだからね」

 

 東風谷は深海機を見事に撃墜したが、同じことは通常兵器、つまり人間が従来から持っていたミサイルや銃弾によっても可能である。一方で、深海棲艦の撃破については歴史上これを成し得たのは艦娘以外に存在しない。彼女たちが「こちらの世界」の法則が通用しない人間であるということが、一体どれほど深海棲艦を撃破するのに重要な要素となり得るだろうか。

 そこは未知数だが、上手くいけばスカーレットに対する交渉材料として活用出来るかもしれない。今回現れた深海棲艦に対し、スカーレットはどうやら何かしらの価値を見出している様子だからだ。言葉を換えれば、それは「恫喝」とも言う。

 

「もうそんなに離れたところに居ないはずだよ。結界の範囲はそれ程広くないはずだから、探す範囲もそれ相応だよ」

「そうですね……」

 

 風祝が頷いた時だった。

 

 

 

「早苗ッ!! 構えて! 来るわよ!!」

 

 唐突に博麗の怒声が響く。先程東風谷が遠隔通信用として使っていた白黒の玉から聞こえてきた。その玉を東風谷は胸元に仕舞い込んでいたが、尋常ならざる叫び声に東風谷は慌ててそれを取り出した。

 

「何ですか!? 霊夢さん!」

「上を見なさいッ!!」

 

 二人はつられて顔を上げる。そして、ようやく博麗の警告の意味を知った。同時に、構える時間などほとんど残されていないことも。

 コンテナヤードの上空で戦っていた吸血鬼と巫女。その片方の周囲を禍々しい「赤色」が渦を巻いていた。まるで、そこにブラックホールがあって周囲の何もかもを吸い込もうとしているような光景だ。他方、博麗の方は白っぽく光る半透明の箱型の何かを纏っている。誰かに解説されたわけではないが、直感的にそれが防護用の障壁、あるいは結界のようなものだと理解する。

 あの巫女が、吸血鬼と対等に渡り合っていた巫女が、全力を防御に投じている。障壁は博麗の身体をすっぽりと囲うに十分な大きさを持っていた。そうしなければならない攻撃が来るという意味だった。

 

「まずっ……!!」

 

 東風谷が唸る。彼女は両手を前に突き出し、博麗のそれと似たような障壁を繰り出した。

 それと同時だ。夜空の一点に集中していた禍々しい光が、直線となって空を「紅く」切り裂いたのは。

 

 

 大音響が鳴り響く。博麗が吸血鬼から射出された真っ直ぐな閃光に対し、障壁を斜めに当てた。避弾経始と同じ原理であろう。向かって来る飛翔体(あれをそう言っていいかは別として)に対し、その進行方向に斜度がつく形で装甲を用意すれば、飛翔体は装甲上で跳弾して別方向に飛んで行ってしまう。装甲に伝わるエネルギーは、垂直に受けた場合に比べて小さくなる。見かけ上も装甲が厚くなるので、防御力が向上するというのが避弾経始の考え方だ。

 鳴り響いた轟音は、射出された何かと博麗の障壁が衝突した音で、スカーレットの攻撃は上空に弾かれて明後日の方向に飛んでいく。それが何か分からなかった。ただ眩しいだけの光ではなく、限りなく大質量を持った砲弾に近いように思われた。それも、特殊な炸薬を込められた砲弾だ。核、あるいはそれに匹敵するエネルギーを内包した炸薬を。

 

 咄嗟に瞼を閉じて顔を背けたのは正しい判断だった。両手両足で東風谷の身体にしがみ付かなければならなかった鈴谷は腕で顔を庇うことが出来なかったのである。

 だから、桁違いの光度の閃光を目にして網膜を焼き切られることはなかった。それでも、薄い目蓋の皮膚を貫通して、世界中を照らし出せるくらいの眩しい光が目に飛び込んできた。

 何が起こったのかを理解する前に、衝撃波と轟音が到達する。前者においては東風谷の張った障壁がいくらか緩和したが、後者については全くなす術がなかった。何しろ、両手が塞がっていたので耳を保護出来なかったのだ。鼓膜が破壊される。

 両耳に走る猛烈な痛みと上方向から叩き付けられた尋常ではない圧力に悲鳴を上げた。上げたつもりだった。実際には自分が本当に悲鳴を上げたのかなんて判らなかった。

 

 目の前で起こったのが巨大な爆発だと直感する。襲ってきた光と音と空気の壁は鈴谷の頭から思考能力を根こそぎ奪い去り、ただ宙に浮いていただけの二人を容赦なく圧し潰そうとした。だから、何も認識することさえ出来なかったのだった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

「萩、嵐。様子がおかしい。警戒しろよ」

 

 第百十七駆逐隊の嚮導艦が低い声を無線に吹き込んだのは、彼女を先頭に単縦陣で進む部隊が、マリーナ・ベイ・サンズを右手に見つつフェリー用の埠頭の眼前を通り過ぎ、シンガポール島とセントーサ島に挟まれた狭い場所に収まっているブラ二島をようやく視認出来る位置までたどり着いた時だった。江風がこのような警告を発した理由は明確で、そこにあるものが妙な見え方をしたからである。

 すなわち、ブラニ島は見えた。しかし、どうにも薄っぺらい、奇妙な見え方だった。

 

 大部分がコンテナヤードとして利用されている他は元々の島の土地に当たる部分にまだ緑が残されているブラニ島は、明暗がはっきり分かれている。昼夜問わず稼働しているコンテナヤードは非常に明るく、緑地は鬱蒼と暗い。しかも、島の北側は水路を挟んでさらに貨物ヤードが広がっており、高速道路を境にしてその外側は高層ビル街となっていて、こちらは夜であることを忘れているかのように煌々と光っている。

 様々な方向から放たれた光は、複雑な陰影の濃淡を作り出す。それが立体感を持って人間の目に映るわけだが、今目の前に見えるコンテナヤードの島は、一見していつもと変わらぬ様子である。

 まず、それがおかしい。現況はこの島内に突然深海棲艦が出現するという非常事態下であるはずだ。にもかかわらず、“いつもと変わらぬ様子”というのはあり得ない。ただ、それ以上に奇妙だったのは、まるでそう見えるようにそこに島の画像がプロジェクターで投影されているかのような印象を受けたことだった。三次元に存在する島ではなく、島を撮影した写真を見せられている気分になったのである。

 警察のヘリを襲ったという深海棲艦の航空機が影も形もないのも気になる。例え肉眼で見えなくとも、嵐は対空電探を装備しているのだから見付けられそうなものであるが、その気配はない。恐れていた市街地への襲撃も今のところ報告はなく、辺りは不気味なほど静まり返っていた。

 

 おかしなことはもう一つあり、非武装の警察ヘリが、深海棲艦に撃墜されていないという事実がそうだ。本来なら遭遇してしまった時点で、ヘリの命運が悲劇的なものになるのは確実なのだが、幸運なことにヘリは生きて帰ることに成功した。ただし、深海棲艦のことならそれ専門の研究者よりも詳しいという自負のある嵐の見立てでは、そんな幸運など起こり得るはずはなく、何らかの理由によってヘリは深海機の攻撃を受けなかっただけなのである。その理由が何なのかは皆目見当もつかないのだが。

 江風の警告を聞いていたオペレーターは「警戒しながら島に接近しろ」と命じた。隊内通信用の近距離無線でも、シンガポール基地とは見通し圏内にあるこの位置からなら交信可能だ。通常は旗艦もしくは随伴艦の中から選ばれた任意の艦娘が長距離無線機で司令部と交信するものである。

 

「百十七駆、了解。これよりブラニ島に東より接近する。対空、対水上警戒を厳となせ」

 

 いつも砕けている江風の口調が、今日に限っては異様なほど硬い。それだけでも彼女の警戒ぶりが伺い知れた。

 そうは言っても、深海機や深海棲艦がを襲ってきたら、二人と違って巡洋艦の艤装という大荷物を抱えている嵐はいささか回避に難が生じる。いくら警戒したところで、避けられなければ意味がないのだ。口にしても埒の開かぬことであるからあえてそれを言う愚は犯さないが、内心は心底深海棲艦が大人しくしてくれることを祈っている。

 緊張のあまり、妙な汗までかき出した。目を皿のようにしてブラニ島を見続けるが、映像を見ているような違和感は拭えなかったし、それ以外に妙な様子なども発見出来なかった。深海棲艦など初めから居ないかのように、辺りは平穏であった。例えそれが仮初のものでしかなかったとしても、これから何かが起こる予兆のようなものは一切見当たらない。様子がおかしな島は、ただそれだけが異様なのであって、そこに何かしらの兆候を見出すことはなかった。

 

「止まれ」

 

 不意に江風が合図を出したので、前を行く萩風が急に航行を停止、そこに追突しそうになって嵐も慌てて止まった。

 目の前には背の低い橋がある。街灯が一定間隔に並び、上をサイレンを鳴らしながらパトカーが走って行く。恐らく、避難誘導のために派遣された警官隊のパトカーであろう。

 これはおかしなことだった。嵐たちは東からブラニ島に接近していた。ブラニ島へ渡る橋は、シンガポール島からセントーサ島に繋がる橋から枝分かれしており、ブラニ島西端に接続する。つまり、嵐たちが来た方向から見て、シンガポール島と二つの島を結ぶ橋は反対側に存在している。東側から端に接近するにはブラニ島を北か南に回り込む必要があるのだが、江風がとった航路はまっすぐ進むものであった。普通ならそのままブラニ島にぶつかるのだが、橋に到達してしまった。つまり、地図上で言えば三人は島の上を「航行」してきたのである。

 もちろん、上陸などしていない。あり得ないことだった。まるで、そこに島がなかったかのように、三人は海の上を走ってきたのだ。

 

 背筋を悪寒が走り、嵐は身震いする。

 ブラニ島は見えていたはずだ。なのに、そこには海しかなかった。

 

「江風さん、これ、どういうことっすか」

「江風に訊くなよ。こっちが知りたいぜ。何がどうなってンだ!?」

 

 嚮導艦は振り返って、島があるはずの背後を見た。その顔には嵐や萩風と違い、四ツ目の暗視ゴーグルが装着されている。嵐たちは特殊な眼を持っていて、暗視ゴーグルなしでもほとんど光のない暗闇を見通せるのだが、“普通の”眼を持つ江風には夜間行動にあたって暗視ゴーグルが必要になる。そのゴーグルはわずかな光を増幅させて肉眼でも十分見えるようにする仕組みのもので、周りがこれだけ明るければ何をどうしたところで島を見落とすことなんてあるはずがなかった。むしろ、江風の“普通の”肉眼だってブラニ島を十分網膜に捉えられるだろう、と思うくらいに周囲が明るいのだ。

 

「まるで、島まるごと神隠しにあったみたい。完全に消えちゃった……」

 

 萩風の言葉を、嵐は妙にすんなり飲み込むことが出来た。

 そう。まさに神隠し。島を一つ丸々隠し込んでしまう神隠し。

 

「もう一度確かめに行くぞ」

 

 江風は針路を東にとり進み出す。目の前にはブラニ島。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、そこにあるはずの島は決してたどり着けぬ場所にある。立体映像を見ているような感覚だ。目には映っているし、触れられそうだが、手を伸ばしてもそこにあるのは空気のみ。

 

「江風よりチャンギHQへ。敵機影は確認出来るか?」

「こちら基地司令部。レーダーに感なし」

「ブラニ島の島影は映ってるかい?」

「こちらからでは元よりブラニ島をレーダーで捉えることは出来ない。シンガポールの市街地の陰に隠れるからだ」

「了解」

 

 嚮導艦と基地のオペレーターの短い交信を聞いていた嵐は、では深海機はどこに行ったんだ? と喚きたくなった。そんなことを口にしてもどうにもならないのは分かっているが、あまりにも理不尽で不可解なことが連続すると、どうにも気が立ってしまうようだ。

 

 二度目も嵐たちは“無事”島を通過した。してしまった。気付けば島の東側に来ていた。目の前には貨物ヤードの島が見える。

 ブラニ島内にはPCG(警察軍沿岸警備隊)の本部もあるが、現在のところ当局もこちらとの連絡がつかないようである。

 

「また素通りした!? どうなってンだよッ!」

 

 訳分かんねー! という悪態が無線から聞こえてきた。それはまさに、三人の心情を表す言葉だった。

 

「基地司令部より百十七駆逐隊へ」

 

 そこに、先程のオペレーターとは違う、落ち着いた声音の主が話し掛けてきた。この声、喋り方は間違いなくシンガポール基地司令官の柳本中将だ。

 

「こちら第百十七駆逐隊。どうぞ」

 

 基本的に、無線で相手の階級は呼ばない。軍用無線は傍受が難しい様に特殊な技術が使われているが、それでもどこで誰が聞いているか分からない。嚮導艦曰くは「壁に耳あり、障子に目ありだぜ」とのことだが、情報漏洩には細心の注意を払うのは当たり前のことだ。

 嵐は頼りの中将の登場に内心歓喜したし、それは江風も同じだろう。だが、彼女の声は努めて抑揚を抑えているような響きがあった。恐らく、声が浮つかないように無理矢理抑え込んだのだろう。

 

「少し、待機しよう。目下のところ、深海棲艦の動向が確認されていない。これは、その場に『居ない』と考えて良いだろう。現在、リンガ基地から増援を呼び寄せている。これが到着するまで君たちは周辺を警戒しつつ待機せよ。以上だ」

「了解」

 

 現状、理解不能なことが連続して発生しているし、未だ継続もしているが、特段差し迫った脅威が存在しているわけではない。萩風の表現を借りるなら、ブラニ島自体が神隠しにあったようなもの。つまり、そこに居ると思しき深海棲艦諸共島がどこかに行ってしまったのだ。だから、隠されてしまった島が戻って来ない限りどうなるというものでもない。

 

「待機は分かりますけど、でも江風さん。ブラニ島にはまだ人もいらっしゃるんですよね? その人たちはどうなるんですか?」

「萩、言いたいことは分かるぜ。だけど、こんな状況じゃどうしようもねーよ」

 

 僚艦の懸念はもっともなものだった。

 どこかに消えた島。その島の中に居た人々はどうなる? しかも、そこには同時に深海棲艦も存在しているかもしれないのに。

 同じことは萩風も考えていたようだ。

 

「深海棲艦が島に居るとしたら、島に居た人たちが傷付けられちゃうんじゃ」

「ああ、分かってる。分かってるぜ。だけど……」

 

 不意に、江風からの無線が途切れた。

 話しながら、三人は単縦陣でブラニ島とシンガポール島の間の水路――ケッペル・ハーバーをゆっくり進んでいる時だった。前を見て、「何か」がおかしいことに気付いた。江風がどうなったのか見えない。猫のような夜闇を見通せる目をもってしても見えぬ暗黒が、そこにある。

 

 

 いや……、

 

 

「江風さん? あれ? 何? いやっ!」

 

 今度は萩風の悲鳴。嚮導艦と僚艦の身に何が起こったか分からない内に、嵐は異様なものを目にした。

 

 

 不夜城の如き都市の灯りが間近にあって明るいはずの海。そこに、光を全く通さない「何か」が存在していた。それは嵐の針路を塞ぐように目の前に現れた。艦娘は船舶と同じくすぐには止まれない。あっと思った時には、そこにある「何か」に突っ込んでいた。

 だが、何よりもそれが異様だったのは、嵐の勘違いでなければ、確かに“目が合った”ことだった。そう、その「何か」の中からこちらを覗く、無数の目玉と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……し! ……らし! 嵐!」

 

 気付けば大声で名前を呼ばれ、肩を揺さぶられていた。

 

「しっかりしろ!」

 

 目の前には江風の赤い髪。たくさんの目玉が消え、四ツ目のゴーグルを外した嚮導艦の顔がそこにある。周囲も明るく、江風の安堵したような表情も、すぐ傍に立っている無二の親友の無事な姿もはっきりと見て取れた。

 

 先程のあれは何だったのだろうか。

 

「あの、江風さん? 目玉、一杯あって、見ました? なんか、異様なのが……」

「落ち着け。目玉を見たみてーだな。萩もそうか?」

 

 江風に尋ねられると、萩風はやや強張った顔のまま頷いた。

 

「ってことは、三人とも同じもン見ちまったンだな」

「い、一体何が起こったんすか?」

「どうやら、神隠しされちまったみたいだ。さっきのあれは、こちら側へ繋がる入り口だったみてーだな」

「え? 神隠し? こちら側? って、何なんすか?」

「言葉で説明するより、見た方が早い。これだよ」

 

 江風は身をひるがえして自身の陰に隠れていた光景を嵐の前に開示する。目に映ったのは、灯りこそ消えているものの、貨物船が接岸したままのコンテナヤードの島。

 つい先程まで血眼になって探していたブラニ島だ。今度は、偽物の幻影ではない。

 

「あの、これって……」

「周りに街の景色がない。つまり、江風たちは隠されていた島の方に来たンだ」

 

 振り返る。背後には間近にビル街のネオンが見える……はずだった。そこには何もなかった。ただ、ぼんやりと明るい夜闇が広がっているだけで、目に映るはずの街はどこにもない。

 区切られた海。切り取られた空間。何か大きな力によって檻に閉じ込められた。出ることは叶わず、戦うことを強いられるコロッセウムのように。

 

 このような体験をするのは、実は二度目だった。

 一度目は忘れもしない、あの不吉極まりない紅い月が昇った南国の夜。コロネハイカラ島を望む真夜中の海。嵐は確かにそこで出会ったのだ。何人も抗えぬ圧倒的で絶望的な、真実の理不尽と。

 あの時、嵐も萩風もまだ深海棲艦だった。自分たちを狩りに来た艦娘の部隊(そこには江風も含まれていた)と戦い、逃げた先は決して出れぬ牢獄だった。海には不可視の壁がそそり立ち、天にはこの世のものではないグロテスクな月が浮かんでいた。追って来た艦娘と戦う中で目にしたのは、迸る銀の光と、それに跨る紅く小さな人影。しかしてその人影は人にあらず、常世の果てから生まれた闇の具現。

 脳裏に刻まれた恐怖は忘れようとしても忘れられるものではない。ふとしたきっかけで思い出してしまうと、今でも身震いする。あの力がこの世界のどこかに未だ存在しているということが恐ろしかった。また出会ってしまうのではないかと、唐突にあの力が振るわれるのではないかと、いつかそんなことが起きる気がしてならない時がある。

 

 ネオンも何も光っていないはずなのに、不思議と空は明るい。月も星もない夜なのに、地上は薄ぼんやりと照らし出されている。

 その理由は考えるまでもなかった。星の代わりに空で煌めく無数の弾幕を見上げれば、それが光源であることに疑いの余地はない。白い弾幕、青い弾幕、緑の弾幕。色とりどりの光の洪水が空を流れていく。さながら花火のように美しく花開く。

 

 だが、それらすべてを食い尽くさんばかりに天を覆う弾幕があった。

 

 紅い、鮮血のような弾幕。空一面を埋め尽くし、他の弾幕さえも隠してしまう。それは、嵐には、コロネハイカラ島の夜に、自分に向けて振るわれたものと同じであるように見えた。膝を立てても、頭から無理矢理抑えつけて地面にのめり込ませようとする、問答無用で乱雑な暴力。それが今、再び目の前に存在している。

 予感していた通りのことが現実となることを認識し、嵐の胸中を絶望的な諦観が埋め尽くしていく。

 

 恐怖は、何か、誰かと戦っていた。それが白い弾幕の使い手なのかもしれない。だが、戦況は芳しくないようだ。紅い力は圧倒的だった。

 

 

 

「あれは……」

「……夜の王!」

 

 口から漏れ出た言葉を、同じ恐怖に曝された萩風が引き継いだ。嵐があの夜のことを思い出した時、不思議と萩風も決まって同じ記憶を想起していた。だから、同時に同じ恐怖に苛まれた二人は、その度に抱き合って互いを慰め合った。そうでもしなければ、とても一人では耐えられなかったから。

 思い出すのと、もう一度本物を目の当たりにするのとでは真に迫ってくるものが違う。端的に言えば、それは恐怖の質であり、今や二人は最も質の良い恐怖に囚われて、足すら動かなくなってしまっていたのだ。

 けれど、この場にはもう一人居る。彼女は同じ夜、同じ戦場で嵐たちと戦った。今では誰よりも二人の支えになってくれる人だ。

 

「お前ら、どうしたンだよ!?」

「江風、さん……」

「あそこに居るのは、私たちがあの夜に戦った相手なんです。夜の王。私たちにとっての、恐怖そのもの……」

 

 嵐は、萩風は、救いを求めて、助けを求めて、江風に手を伸ばす。彼女なら、躊躇うことなく伸ばした手を取ってくれると期待して。

 果たして嚮導艦は期待通りに二人の手を取った。彼女は身体が固まってしまった二人の首元にそれぞれ腕を回すと、二人纏めて正面から抱き込んだ。

 

「落ち着け」

 

 丁度、二人の頭の間に自分の頭がきた江風は耳元で囁く。

 

「落ち着け。お前らがビビっちまうのは分かる。あの日、あの夜、江風たちが撤退した後何が起こったかを知らねえけど、お前らがこうなっちまうようなことが起こったンだよな。で、あの時お前らに恐怖を植え付けた奴が、今そこに居ンだよな」

「そ、そうっす」

「ああ、解ってる。だけど、お前らにはこの江風さんが付いてるンだぜ? 怖いかもしれねえ。けど、お前らなら乗り越えられるさ」

 

 二人にとっての恩人であり、師匠である艦娘は、身体を離し、両手を二人の肩に置いて弟子たちを正面から見据えた。迷いのない瞳で、いつものような飄々として不適な笑みを浮かべながら。

 

「いいか、お前らは一人じゃない。二人だけでもない。三人だ。江風入れて、三人居るンだ。三人居たら実行力! って言うだろ?」

「自己啓発スローガンですか! 何っすか、それ。初めて聞きました」

「今思い付いたンだよ! まあ、今みたいに、ボケにはちゃんとツッコミ入れれるくらいの余裕を持とうぜって話だ」

 

 江風の話は、誰がどう聞いてもこじ付けだと思うだろう。なまじ口がよく回る分、普段から適当なことばかり言っている。

 ただ、下らない戯言でも、それで嵐が少しだけ自分を取り戻せたのは事実だった。少年のように邪気のない笑顔を見せる江風を見ていると、自然と頬が緩んでしまう。すると、強張っていた体中の筋肉が解れていくのだ。

 

「よし、いい面構えになったな!」

 

 嚮導艦は満足げに頷くと、「それじゃあ、深海棲艦を探そう」と言った。

 

 彼女曰く、ブラニ島が隔離されたような状態になっているのは、ここに深海棲艦が居るからだという。嵐たちが“こちら”に来れたのは偶然なのかそうではないのか定かではないが、この状態から島を解放し、元に戻すには深海棲艦の討伐が必要だろうとのことだ。

 常識では考えられないようなことが連続して起こっているが、艦娘としてそれなりの数の修羅場をくぐり抜けてきた江風は嵐たちほど動揺していない。何よりもそれが、二人にとっては頼もしかった。心情的なものだけでなく、論理的にもこの局面で部隊指揮官が落ち着いているのは非常に重要なことだ。

 

「嵐は情報保全隊付きの艦娘を探せ。『勘』が正しけりゃあ、そいつはもうここに来てるだろうよ」

「『勘』っすか?」

「『勘』だ。まあ、正確には予知夢ってことなンだろーけど」

「予知夢?」

「そうだよ。時々夢を見るのさ。少し先の夢。しかもそれが不思議と正夢になるンだよなぁ。今日のことも、ちょっと前に夢に見たことがあンのさ」

「じゃ、じゃあ、江風さんはこうなることが分かってたってことっすか!?」

「全部じゃないけど、大よその流れはね」

 

 なるほど、と嵐は内心頷いた。嵐や萩風と同じく彼女は特殊な能力の持ち主で、江風の場合は“そういうことが出来る”のだろう。彼女は予知夢が見れるのだ。

 そこまで思い至って妙に納得してしまうと、頭が冷えてきた。江風の言う通りなら、「情報保全隊付」という胡散臭い肩書きを持つ艦娘もここに来ている。彼女は巡洋艦クラスであるらしいから、艤装の受け渡しが無事に済めば現況で最大の火力源となってくれるだろう。圧倒的に人手も火力も足りない状況だから、彼女の参戦は喫緊である。江風もそれを分かっていて、嵐には単独で件の艦娘を探すように指示を下した。自分と萩風は深海棲艦を探すという。二手に分かれ、嵐は島を東回りに周り、江風たちは一旦西側に向かった。ただし、島の西側には島に接続する道路があるので直接行き来は出来ないため、二人はまた戻って来なければならない。

 

 江風の予知夢は、それ程精度の高いものではないらしい。寝ている時、あるいは目を覚ましている間に断片的にある場面を第三者的に「目撃する」体裁で見ることが出来るだけに過ぎないという。つまり、その場で何が起こるかは分かっても、例えばそれが何時なのか、どういう経緯で起こり、どういう結果に至るのか。そういった詳しいことについては分からない。彼女が得られるのは極めて断片的な情報であり、事が起こる前にそれらの情報を繋げて何が起こるのかを予測するのは不可能だ。言ってしまえば、デジャブに毛が生えたようなものである。

 事実、今回も江風にはブラニ島が隔離されてしまったこととか、自分たちが隔離された島の側に侵入出来ることといった情報しか、予知夢で見ることが出来なかったようだ。どうすれば隔離状態を解除出来るのかという肝心な情報は、そこには含まれていない。

 故に、それが起こることは江風さえも知らなかった。ただ、彼女は豊富な実戦経験の中で培われてきた鋭い洞察力によって、事態の危険性を予測したようだ。二手に分かれて五分もしない内に、警告の怒声が無線から飛んで来た。

 

「嵐! 衝撃に備えろ!!」

 

 言われるまでもなく、上空に異変が起きていたことは察知していた。

 見上げれば、先程までの花火の撃ち合いが落ち着いている。それは、空の上で戦っていた二つの勢力が戦闘を止めたということではない。単に、局面が少し変化しただけのこと。

 

 片方が青白い光に覆われている。もう片方には、黒と赤が混ざり合ったような名状しがたい色が渦を巻いて集まっていた。それが、何かの攻撃の予兆、それも特大のものであることを察した嵐は、とっさの判断で海に潜った。

 嵐はれっきとした水上艦の艦娘であるが、潜航した経験は他のどの水上艦艦娘よりも豊富だという自負がある。それは決して自慢するようなことではないが、冗談ではなく事実としてそうなのだ。何しろ、嵐と、そして愛すべき僚艦萩風の人生において、最大の汚点とも言うべき「駆逐水鬼」だった数年間、二人は海に潜って姿を隠し、身を潜めながらその時間の大部分を過ごしてきたのだから。

 思い出したくもないが、潜航する方法についての記憶は残っていたし、何より身体が覚えていた。例え元の艦娘に戻ったとしても、その頃に覚えた技術を使えば潜航することは不可能ではない。萩風に至っては、江風も一緒に海面下に引きずり込んだだろう。この手の技術については、嵐よりも萩風の方が上手だった。

 

 果たして、その決断は全くもって最善であった。例え海面下数十㎝と言えど、空気中に身を晒しているよりは余程良い。

 上方向から押さえ付ける様な異常な圧力。自らの意志で水に潜った嵐の身体が、さらに水中に押し込まれる。膨大な気泡の音に混じって、腹の底に響くような轟音が聞こえる。目を瞑っていても分かるくらいに周囲が明るくなっている。

 呼吸を止めながら秒を数え、それが“7”までいったところで、艤装の浮力に任せて浮き上がる。最低限、目を開ける程度に水を振り払い、周囲に視線を走らせて状況を観察する。海面上は未だ猛烈な風が吹き荒れ、海は狂ったように波立っていた。襲って来た爆風の影響だろうか、コンテナヤードや接岸している貨物船に積み上げられたコンテナの山は無残にも崩れ去り、頑丈なはずのガントリークレーンでさえ歪んでしまっている。上空から降り注ぐ眩い光によって、その様子を明瞭に見ることが出来た。

 嵐は海の上で立ち上がり、耳元の防水無線機から軽く水を払って叫んだ。無線機がカタログスペック通りなら、身体が完全に水没してもその性能を発揮するはずだ。

 

「江風さん! 萩! 応答してくれ!!」

「嵐! 大丈夫か!? こっちは二人とも無事だ!!」

 

 無線機は正しく機能した。安堵の息を吐くが、すぐに別の懸念が頭に浮かんだ。

 

「すごい爆発でした! 核爆発っすか!?」

「いや、核じゃないッ! 核なら電磁パルスで無線機がイカれてる! こいつが無事ってことは、あれは核以外の爆発だったってことだよ」

 

 そう。核爆発ではない。あの攻撃の予兆は大爆発がこの世に非ざる力で引き起こされたことの何よりの証明になる。

 嵐の知る限り、これだけの現象を発生させられるだけの力を持つ存在はただ一つ。並の艦娘部隊なら歯牙にも掛けなかった「双子の駆逐水鬼」を、赤子の腕を捻るが如く容易く叩き潰してしまった。それが、あの「夜の王」の力。

 

 あの日、あの夜。

 彼女は確かにこう名乗った。

 

 

 ――栄えあるツェペシュの末裔!

 

 ――紅月の夜の王!!

 

 

 その御名こそは、

 

 

 

 

「レミリア・スカーレット!!」

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督44 Isolated Island

 

 

 途中まで、状況はすべてレミリアの考えた通りに進行していた。深海棲艦化した赤城だが、完全な変質には至らず、その実態は伽藍洞のハリボテそのものである。変わろうにも変わるだけの“材料”がないのでは、変わりようがない。それを象徴するように、赤城は弾薬を持っていない。本来、深海棲艦ならそれは自製出来るはずだが、見た目がそれっぽくなっただけの今の赤城に、深海棲艦の能力を持ち合わせているはずもなかった。それでも、数機の艦載機を生み出したのは驚異的である。もっとも、その艦載機に撃つための弾がなかったので、何の脅威にもならなかったのだが。

 邪魔な現地警察のヘリは艦載機に追い払われた。そのまま向かって来る巫女たちも追い払ってくれることを望んだが、さすがにそれは無理だったようだ。敢無く霊夢に一蹴されてしまった。

 

 その後は、舞台となるブラニ島を隔離する結界を展開する。この役目を負ったのは美鈴だ。本来、この手の魔術的な仕掛けの作成と発動は大親友の魔女の専売特許なのだが、残念ながら彼女は今シンガポールに居ない。その代わり、魔女は自分が居なくても結界を展開出来るように手を打ってくれていた。

 それが、魔女の魔力を込めたカードである。このカード自体は、幻想郷の決闘法、スペルカードルールからヒントを得て作った物だ。スペルカードルールでは、決闘者が互いに使用するスペルの名前を書いたカードを持ち、適度なタイミングでそのカードを提示、技名を宣告し、自身の魔力や妖力を消費して弾幕を張る。ここにおいて、スペルカードとは突き詰めて言えば単なる紙であり、「技名」という情報を伝達するだけの媒体でしかない。徹頭徹尾、儀礼的な意味合いしか持たない物体なのである。

 だが、どんな物にも魂が宿る幻想郷で、単なる紙と言えど、繰り返し何かしらの意味を込めて使用していれば、特にそれが魔力や妖力と密接に触れ合うのであれば、そのカード自体に少しずつ力が移っていく。このような現象は散見されており、そのため幻想郷ではスペルカードが呪物と化して無用な混乱を引き起こす前に、力が移り始めたカードを処分することが不文律として共有されていた。これにヒントを得たのが、魔女の新しい魔術だった。

 すなわち、魔力を込めたカードを自ら作るのである。このカードは魔女本人に代わって彼女の魔法を展開するために使用される。さながらスペルカードのように掲げて技名を宣告すれば、誰でも魔法が使えるようになる優れものだった。実際は、スペルカードと言うものの、例の決闘法とは真逆のプロセスを経るのだが、形式上は類似している。

 手軽に魔法が使えるようになる分、実現出来る魔法は比較的簡易で単一のものしかない。状況に即した柔軟な魔法や、大規模な魔術を展開するにはやはり魔女本人にご登場いただかなければならないが、そこまでの魔法が必要でないならこのカードは極めて便利な代物であった。

 今回はブラニ島全体を隔離する結界を展開する魔法が設定されている。カードの使用法は簡単で、使用者のわずかな魔力ないし妖力を発動キーとして、定型句の短い呪文を唱えることで魔法が発動するようになっていた。結界の範囲を広げたり、持続時間を延ばしたりは出来ないが、レミリアにとっては必要十分なので、汎用性の高い魔女という人材をシンガポールとは別の場所に配置することが出来た。

 ただし、手軽さ相応に本質的には弱い魔法である。はっきり言って人間としては規格外の力を持つ博麗の巫女や、現人神である守谷の風祝に外部から攻撃された場合、耐えられないだろう。結界を展開する第一義は赤城を逃がさないためであるので、壊されてしまうのは非常に都合が悪い。加えて言うなら、この結界は内側からの衝撃に強いように調整されている。ならば、結界内に二人を招き入れ、レミリアが直接相手をした方が良い。例え中で“弾幕ごっこの範疇を越えた戦い”をしようとも、その余波で破られるようなことを心配する必要がない程度の強度は保証されている。

 

 予定通り巫女たちが結界内に入ってくると、レミリアの相手は紅白の方になった。山の神に仕える方は、同時に連れ込んだ艦娘と共に赤城の捜索に動いている。

 問題はその赤城だった。彼女はレミリアが加賀の一時安置所として使っていた偽装コンテナを破壊すると姿を消してしまったのだ。もちろん、赤城が限定的な深海棲艦化に陥った場合、このような行動は予想されていたので、魔女から貰った簡易魔術を発動出来るカードを持ち込んだのである。範囲を区切れば後は虱潰しに探すだけ。結界内の大部分を占めるのはコンテナヤードの島だが、陸地の上なら探しやすい。レミリアが霊夢の相手をして動けない間に、咲夜か美鈴、どちらかあるいは両方が捜索してくれるだろう。優秀な彼女たちなら主人の意図を察してそれくらいの行動は出来る。厄介なのは海に出られた場合で、種族的な問題により、乗り物などがなければレミリアは海上に出ることが出来ない。厳密に言えば自力で海に出られるのだが、そこは「種族的な問題」というところの難儀な点である。無論、海上を滑るように動ける深海棲艦化した赤城では、どんなに泳ぎが得意であっても部下二人では探し切れないだろう。だから、赤城が海に出た場合に対応出来る人物を用意してあって、現状その人物の力を頼らざるを得ないようである。

 とは言え、厄介なことは他にもあった。初めは思い通りになっていたのだが、途中からはそうではなくなってしまったのだ。つまり、イレギュラーが発生したということ。

 

 結界内に、招かれざる客が侵入したことを感知する。といっても、超感覚的なものではなく、単に視界に映っただけだ。空ではレミリアの本気の攻撃と、博麗の弾幕や結界の応酬が繰り広げられており、周辺はそこそこ明るい。黒々としている海面の上を滑る三つの影を空から見付けるのは容易かった。

 それはどう考えても艦娘だった。予めシンガポールの戦力配置は確認してある。それによれば、日本海軍シンガポール租借基地に配置されている艦娘戦力は、二個駆逐隊のみ。ただし、今日は一方が近隣のリンガ基地に滞在しており、実質一個駆逐隊しか居ない。第百十七駆逐隊というのがそれだ。この駆逐隊の面子を、レミリアはある程度知っていた。

 もっとも、それは関係がない。誰がおろうとも一緒だった。そのはずだった。

 しかし、今やその三人の姿が結界内にある。自力では入れないのだから、誰かの手引きがあってそこに居る。誰か? レミリアが思い付く限り、そんなことが可能なのはたった一人しか居ない。

 

 隙間妖怪め!

 

 心中で悪態を吐き、方針を変える。海に出たであろう赤城が艦娘部隊と先に接触してしまうと面倒なことになる。さりとて、彼女たちを直接攻撃することは出来ない。故に、少々回りくどい手段を選ぶ必要がある。

 巫女の攻撃がひと段落した瞬間を見計らい、右手に妖力を集中させる。今搔き集められる分だけをとにかくつぎ込み、一つの形を作り上げた。といっても、普段よりレミリアの力は強化されているから、今まで巫女に見せたことのある同じ技とは桁違いの威力を持っているだろう。気配だけでそれが途方もなく危険なものと察知した霊夢は、早々に二重の結界を張って衝撃に備える。賢いのは、結界の力だけでは受け止めきれないと判断して攻撃の射線に対し、結界を斜めに張ったことだ。

 丁度良いので合わせさせてもらおう。右手の妖力の塊を巫女の結界、斜め上に向いた面に向かって投擲する。すると、大音響を立てて妖力の塊は結界に衝突し、大部分のエネルギーを上方向に反射されて上空へ飛んで行った。もちろん、そのままでは島を囲う結界に刺さってしまうのでそうなる前に自爆させる。

 その際に起きた激しい爆発は、赤城たちの鎮守府を襲撃した空母水鬼と隷下の艦隊を消滅させる時に起こしたものとほぼ同等の威力を持っていた。ただし、エネルギーの配分は大部分を光として出力、音や熱になる割合を抑えてある。大量の妖力を任意のエネルギーとして放出させるのは言うほど簡単なものではないが、その手の精緻な操作は得意である。

 言ってしまえば、超特大の勘尺玉だ。威力は大きいが、爆発自体は大きい花火と変わらないので、地上への被害は極小化されるだろう。艦娘部隊と山の巫女への牽制には十分だった。

 

「レミリアァァァァッ!!」

 

 夜空に罵声が木霊する。年頃の少女にあるまじき汚い発音で人の名前を呼んでくれるのは、博麗の巫女だ。強固な結界によって身を守った彼女は無傷のようである。というか、無傷で居てもらわなければ困る。彼女を不用意に傷付けるようなことがあっては、後々面倒なことになってしまうからだ。

 だからこそ見た目だけ派手な、手加減した攻撃を放ったのだが、どうやらそれだけでも巫女の脳みそを沸騰させるのには十分だったようだ。

 本気で怒ったのか、猛然と弾幕を張りながら突っ込んでくる。それを、自身も弾幕を張って捌きながら、仲間に指示を与えた。

 

“島の南側の水路に回って! 北側には赤城の姿は見えないわ”

 

 どこに隠していたのか、複数の陰陽玉を衛星のように周回させながら、そこから霊力満タンの光弾を撃ち出す霊夢。先程よりも激しいそれを、レミリアは妖力弾を放って相殺する。時に血のクナイ弾で、時に矢で、時に槍で、すべての霊夢の攻撃を打ち消す。その間に本人への牽制を投げるのも忘れない。今のレミリアなら、本来妖怪が苦手とする霊力で出来た弾幕を、力づくで打ち破ってしまえる。

 霊夢もそれを分かっているはずだ。端正な彼女の顔が、怒りと苛立ちで醜く歪んでいる。寂れた神社の縁側で茶を飲んでいるだけで絵になる柳眉の持ち主なのに、今や山姥もかくやというおどろおどろしい表情だ。

 頭に血が上りすぎているのだろうか。だが、霊夢に限ってそれはないと断じる。彼女はいつもどこか冷めているところがある。今回に限って怒りに我を忘れるようなことはないだろう。

 

 ならば、どうしてそんながむしゃらに攻撃してくる? 

 

「なるほど、そういうことか」

 

 考え得るのは、そういう戦術であること。例えば、レミリアの秘蔵っ子のメイドがよく使う手、とか。

 

 ミスディレクションか。

 

 悪魔は振り向いた。紅白巫女への牽制に大玉を投げ付け、振り向きざまに背後から襲って来た人物に心槍を叩き付ける。相手はギリギリで御幣を振り、上段から振り下ろされた槍の軌道を反らして間一髪で躱した。彼女の長い緑髪が数本宙を舞う。

 

「案外こすい手を使うのねぇ!!」

 

 面白くなってきた、と紅魔は嗤う。先程の大爆発で、霊夢一人では手に余ると判断されたらしい。もう一人の巫女、東風谷早苗まで加勢してきた。

 とすれば、早苗が背負っていた艦娘は地上に降りたのだろう。あの様子では艤装を持っていないようだったので、そうすると艦娘もただの人間と同じであり、地べたを這うしかない。何の障害にもならないだろう。

 少々計算外だが、巫女が二人ともレミリアの相手をしてくれるのは結構なことであった。これで、早苗が赤城と先に接触する可能性がなくなったわけである。

 

「あんた、そろそろ大人しくなりなさいよ!」

 

 そう言って背後から霊夢が飛び掛かって来る。

 レミリアはもう一つ心槍を生み出すと、背中側の霊夢に向かって振るう。槍は最後まで握らない。遠心力によって柄が掌から離れると同時に爆発させる。背中を押す爆風によって加速をつけ、狙いを早苗に絞った。

 弾幕を巻き散らしながら残った心槍で突くと、早苗は結界で攻撃を防ごうとする。その意図は半分達成されて、半分そうではなかった。早苗の結界は弾幕を阻止することは出来たが、突き出された槍には無力だった。無残にも半透明な障壁が赤黒い、人の胴体ほどもある大きな穂先に食い破られる。結界の強度は博麗のそれよりも弱いようだ。最近異変解決に赴くようになったとは言え、幼少の頃から大妖怪と渡り合っていた霊夢とは踏んできた場数が違う。霊夢ならここで槍を結界で受けようとは考えなかっただろう。隙の大きな「突き」をしたのだ。単純に避けて、反撃に転じる方が賢明だ。

 それでも、早苗は若いだけあって小さなその判断ミスを取り返すに十分なくらい反射神経が良かった。結界を突き破ってきた槍を身を屈めることで回避する。同時に、自らの力を解放することも忘れない。経験こそ少ないものの、ある程度異変解決を行ってきたことで戦いの中での動き方を覚えてきたのだろう。ただし、容易に反撃を許すほどレミリアは甘い存在ではない。

 

 柄を握る右手を支点にして、槍を回転させる。穂先ではなく石突の側で殴打を仕掛ける。軽く回しているように見えるが、これは妖力の塊。触れれば人体など簡単に弾け飛んでしまう。

 もちろん、それだけでは避けられるので、空いた左手からクナイ弾を射出する。

 早苗は対応出来なかった。槍が結界を突き破ってから二秒も経っていない。それだけの短い時間で、複数の攻撃を捌ききれるほど彼女はまだ実戦慣れしていないのだ。何よりも、これは今まで彼女が興じてきた弾幕ごっこという「お遊戯」ではない。彼女が今までどれ程妖怪退治――つまり「お遊戯」ではない本気の殺し合い――に勤しんできたかは分からないが、レミリアほどの大妖を相手にしたことはなかっただろう。

 もちろんレミリアとて、酒飲み仲間の愛娘を本気で殺すつもりはない。だが、本気で攻撃しなければ“彼女”は来なかった。

 

 振るった槍が手から弾き飛ばされ、クナイ弾も弾かれる。立ちふさがったのは、怒りに燃える楽園の巫女。これで、二人を同時に視界に収めることが出来た。目的は達成したので一旦攻撃の手を止める。

 

「いい夜ね」

 

 機嫌の良いレミリアは二人に語り掛けた。すっかり頭に血が上ってしまっている霊夢がすぐさま飛び掛かろうとするが、早苗が服を引っ張って留める。

 

「楽しんでいるかしら? 私は楽しいわよ」

「ふざけんな! 早くこの結界を解きなさいよ」

 

 霊夢は完全に話を聞いてくれそうにない。肩をすくめて、こちらの様子から何かしら読み取れるものを探そうとしている早苗に目を向ける。まだこちらの方が話は出来るだろう。

 

「先程、艦娘さんが居るのを見ました。あれは、レミリアさんが呼んだわけじゃないですよね? 想定外だったんじゃないですか? 彼女たちがこの結界に入ってくることは」

「あら、鋭いわね。その通りよ」

 

 答えながらもレミリアは余裕の笑みを浮かべる。相対する少女たちの視線は鋭いが、すぐに飛び掛かってくる気配はなさそうだ。霊夢だけならどうかは分からなかったが、早苗がうまい具合に抑えになってくれている。

 

「目論見が上手くいくとは限りませんよ」

「どうかしらね? あの程度は想定外の内にも入らないわ」

「深海棲艦を使って何をしようとしているか知りませんけど、人々に危害を加えるなら、いくらレミリアさんでも許しません」

「赤城のこと? 違うわよ。あの子は完全に深海棲艦になったわけじゃない。むしろ、そうはなれない。今は中途半端な状態になってしまってるだけ。だから、戻してあげなきゃいけないでしょう?」

 

 早苗の眉間に深い皺が刻まれる。霊夢に至っては完全に疑っている眼だ。

 そんなに信じられないものかしら? と少し傷付く。レミリアとしては真実を言っているつもりなのだが、どうやら二人には通じないらしい。

 

 まあ、これだけ大掛かりなことをして暴れ倒せばそうなるか。

 

 溜息を吐き、首を捻って凝りを解す。会話での時間稼ぎはあまり効果がないようだ。二人ともレミリアへの不信感が頂点に達しているようなので、何を言っても信用してもらえなさそうであるし、それならこれ以上は話にならないだろう。

 

 致し方ない、と紅魔は片手を上げる。その先の空間に浮かぶ五つの魔方陣。攻撃させぬようにと弾幕を撃ち出した二人の巫女。

 レミリアは上げた手を振り下ろす。それを合図に魔方陣から姿を現すのは心槍。

 戦いが再び始まる。夜空の舞踏会はもうそろそろクライマックスだ。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 博麗の分が悪いと言って、東風谷は鈴谷を地上に置いて空に上がってしまった。先の大爆発により、東風谷が背負っていた鈴谷諸共墜落してしまい、鈴谷が負傷したことが原因だった。彼女は呪文を唱え、何やら秘術めいたもので鈴谷に対して簡単な治療を施すと、その場で休むように言い付けてから博麗に加勢していった。

 常識を逸脱した現象が起こることに慣れ始めた鈴谷は、言われた通りにその場に腰を下ろして休んでいた。といっても、考え事をしているだけなのだが、逆を言えばそれくらいしかすることがない。深海棲艦を探すにしろ、艤装がない状態では何も出来ないからだ。仮に相手が陸上型だとしても、艤装もなしに相対するのは単なる自殺と変わらない。よって、今鈴谷に出来ることは、荒れたコンテナヤードの一画で腰を下ろして状況を見守ることくらいだった。

 

 下手な考え休むに似たり、ってねえ。

 

 自虐を思い浮かべながら、コンテナに背を預けて空を見上げる。二人の巫女と吸血鬼が戦っていた。下から遠目に見ても、吸血鬼が二人より一枚も二枚も上手なのが分かる。巫女たちの攻撃は全て吸血鬼が張る弾幕に阻止される一方、吸血鬼は長い槍を振り回しつつ弾幕をばらまき、対応困難な攻撃を繰り広げているように見えた。

 すると、見ている内に両者が攻撃の手を止めた。何か話しているようだが、決裂したのかまたすぐにぶつかり合う。今度は吸血鬼が中空から槍を射出し始めた。

 スカーレットは数的不利をものともしていないようだ。むしろ戦況は吸血鬼に有利であり、二人がかりでも巫女たちは苦戦を強いられていた。

 二人が弱いのか。あるいは吸血鬼が強すぎるのか。理由としては後者だろうか。スカーレットは矢鱈目鱈強くなっていると、東風谷は言っていた。

 この状況の中で鈴谷はまったく無力だった。東風谷もそれを分かって、大人しく待っているように言ったのだろう。だが、することがなくなっても、疑問がなくなったわけではない。

 

 こんな感覚は久しぶり、と言うべきなのだろうか。

 いつだったか、熊野と共に任務で海に出た時、帰りが遅れてすっかり夜が更けてから帰港したことがあった。ちょうど、八月の頭の頃だったと思う。その日、その時間帯に、たまたま横須賀で花火大会が開かれていた。鎮守府の敷地の少し南側だった。空に、色とりどりの大輪の花が、いくつもいくつも絶えることなく咲き散っていて、偶然鈴谷たちはそれを何の障害物もない特等席から眺めることが出来たのだ。その時の旗艦が気を利かせて航行を少し止めてくれたので、熊野と二人してしばし花火を見上げた。

 鈴谷が覚えているのは、花火が半分だけで、残り半分はそれを見上げて口を半開きにしながら夢中になっている親友の顔だ。炎色反応が引き起こす極彩色を瑞々しい瞳が反射し、それを傍らで鈴谷が注視していることなど気付きもせずにひたすらに見入っている無邪気な顔。心に残っているのは、口が裂けても言えなかった、花火よりもそれを見上げている熊野の方が綺麗だという感想。

 

 そう。あの時の花火のように。

 

 色とりどりの花が夜空に咲いている。とっくに色を喪った世界で、死んだ雪の降る世界で、この世にないはずの幻想の花火だけが、残酷なまでに色鮮やかに咲き乱れている。紅く、白く、青く。乱れ散り、混ざり合い、降り注いで、また花開く。

 

 これは何を意味しているのだろう。先程のカーチェイスの最後でも、スカーレットの手下がカラフルな何かを放ち、それが鈴谷の車を持ち上げて川に落としたのだ。

 魔法。あるいはそれに類するもの。ならば、色が見えるのか。この世にないものが、ないもの“だけが”、色を持って見えるのなら、きっと鈴谷はもう……、

 

 

 

 

 

 パンッ。

 

 軽い音が聞こえ、視界の中に光りながら尾を引いて天に昇る流れ星が現れた。

 夜空がぱっと明るくなる。見紛うことがなければ、それは間違いなく信号弾だ。艤装の装備ではなく、ハンドガン型の小さな装備品である。主に夜戦に赴く水雷戦隊や発着艦時の風向き確認のために空母艦隊が使用するもので、周囲を照らし出すことに焦点を当てた照明弾と違い、コミュニケーションのための道具である。色や種類によって意味が異なる。夜空を飾る幻想の花火と違い、こちらの色は識別出来ないが、そうであってもその信号弾の意味は明確だった。つまり、仲間の到着を告げるものだ。

 

 仲間?

 

 鈴谷は首を傾げる。仲間とは艦娘のことだろうか? 何しろ、ここは隔離された結界の中。侵入するには、巫女たちのように初めから結界が展開される内側に居なければならないのではないだろうか。

 しかし、記憶を探っても先に艦娘が居たとは思えない。

 疑問が次から次へと湧き出てくるが、いずれにしろ会ってみれば分かることだ。鈴谷は立ち上がり、海へ向かって走り出した。

 傾いだガントリークレーンの向こう。暗い海の上を駆ける影が一つ。鈴谷は手を振りながら追い掛ける。

 

「おーい‼︎」

 

 声を張り上げたのが聞こえたのか、艦娘らしき影は鈴谷に気付いたようだ。陸に向かって舵を切り、二人は岸壁で落ち合った。

 小柄な体躯と小口径砲は駆逐艦の証。主砲の取り付け方や制服から、陽炎型と思われる。やはり、シンガポール基地の駐屯駆逐隊の一人であるようだ。

 

「本土から来た艦娘ですか?」

 

 駆逐艦は固い声で問うた。

 

「そうだよ」

「先に所属と名前を教えてください」

「情報保全隊付、最上型三番艦の『鈴谷』」

「ああ」

 

 すると、駆逐艦は一瞬ホッとしたような表情を浮かべた。緊張が幾分解除され、少し頰が緩む。

 

「第百十七駆逐隊、陽炎型の『嵐』です。よろしくです」

 

 嵐という名前には覚えがある。かつて深海棲艦「駆逐水鬼」だった二人の内の片方。そして、海軍の知る限り、完全な深海棲艦から完全な艦娘に戻った唯一の事例の当事者である。

 何の巡り合わせだろうか。彼女たちが深海棲艦から戻った時の作戦を指揮していたのが、今上空で暴れている吸血鬼だった。

 そういう因果があったから? と、勘ぐってしまうくらい、よく出来た偶然だった。スカーレットがシンガポールで行動を起こしたのも、そこに関係があるのだろうか?   

  とすると、嵐が味方とは言い切れなくなってしまう。実際、駆逐水鬼“救助”作戦に参加していた「川内」は現在所在不明となっており、これは脱走したと考えられている。つまり、鈴谷の追跡対象であり、嵐が何か関係しているなら、込み入った話になってくる。

 さて、どうしようかと苦笑を浮かべると、嵐は強張った表情をさらに緩めた。鈴谷の笑みを友愛の表れと勘違いしたらしい。

 

「嵐は鈴谷に会いに来たの?」

「あ、そうっす」

 

 いきなり、嵐の口調が砕けたものになった。これで彼女がスカーレットの差し金で来たのなら、女優顔負けの演技力の持ち主ということになるだろう。出会ってまだ五分と経っていないが、なんとなく嵐にはスパイの真似事など無理なような気がする。腹に一物を持つのではなく、良く言えば裏表のない明朗闊達さがこの艦娘の人間性ではないだろうか。

 

「鈴谷さんの艤装持って来たんです」

 

 そう言って、彼女は袈裟懸けしたベルトの先、大きな金属製のボックスを身体の前に出した。言葉通り、艤装運搬専用の鋼鉄製ケースだ。鈴谷にとっても見慣れた物で、だからこそ何故それを今ここで嵐が持っているのかが分からない。これではまるで、嵐が鈴谷と落ち合うことつもりで艤装をわざわざ持って来てくれたことになる。しかし、カーチェイス中に村井と話して以来、スマホをなくしたのもあって、連絡は取ってなかった。鈴谷がブラ二島に現れるのをどうやって知り得たというのだ?

 

「司令からの指示だったんです。鈴谷さんは現場に現れるから持ってけって」

 

 司令、つまりシンガポール基地の責任者である柳本中将。

 経験豊富な大ベテランとのことだが、まさか鈴谷がブラ二島に来ることまで読んだのだろうか? いや、読んだのだろう。そして確信したからこそ、負担になるのを分かって嵐に鈴谷の艤装を持たせたのだ。

 ずば抜けたその読みの的確さに、遥か後輩たる鈴谷は戦慄する。一体どうしてこれほどの傑物が辺境の小規模基地の司令官などという閑職に甘んじているのだろうか? いずれにせよ、柳本中将の読みは当たった。彼としても、この状況では少しでも戦力が欲しいところだろう。鈴谷も、艤装を装着して初めて動けるようになる。

 これは嵐がスカーレットの回し者である可能性はほぼなくなったな、と考えつつ、駆逐艦から艤装を受け取る。

 

「あれ? あんま驚かないんすね。俺なんか、ホントに鈴谷さんと会えてびっくりしてるんですけど」

「いやいや。驚いてるよ! ってか、嵐は鈴谷にどんなリアクション求めてるわけよ?」

「あー。いや、なんか平然としてるんで」

 

 そこで鈴谷はある可能性に思い至った。岸壁の縁に腰掛け、艤装を装着しながら尋ねる。

 

「話変わるけどさ、嵐はどこ出身?」

「え⁉︎ 出身っすか? 俺は加古川です」

「どこそれ」

「兵庫ですよ! ちょうど、神戸と姫路の間なんすけど。あ、重巡に加古さんって居ますよね。その艦名の由来になった川が加古川って言うんですけど、街の名前もそこからとられてるんです」

 

 やっぱりそうか、と一人納得する。兵庫県なんて神戸以外、後は田舎のイメージだったが嵐の出身地もそうだったようだ。道理で喋り方が田舎臭い気がしたのである。しかも、リアクション芸を求めるあたり、関西の出ではないかと疑ったが、こちらも当たりだったようだ。

 

「あの、でもそれが何か?」

「何でもないよ。関西出身かなって気がしただけだから。それより、外部との連絡は取れる?」

「いや、無理です。何て言うか、信じられないかもしれないっすけど、ここはどうも他とは隔離されてしまってるみたいで、外とは連絡が取れないし行き来することも出来ないみたいなんです」

「やっぱりそうなんだ」

 

 すると、嵐は隠すこともなく驚きの表情を見せた。どうやら演技などというものからは一番遠くに位置する類の人物らしい。彼女はきっと、鈴谷が今までずっと島の中に居たと勘違いしているのだろう。実際には不思議なことが出来る少女と行動を共にし、嵐以上に現状の正確な把握が出来ているのだが、それをあえて打ち明ける理由はない。言えば、何故そんなことを知り得たのかという問いが返ってくるのは目に見えていたし、嵐に無用な不信感を植え付けるだけだ。それに、東風谷たちのことを鈴谷は秘密にしておきたいと考えたのである。少なくとも、必要と判断した場合以外に安易に彼女たちとの繋がりを明らかにするべきではない。

 

「何となくそんな気はしてたんだ。街灯りは見えないし、おかしいとは思ってたよ」

 

 だから適当に誤魔化して、さっさと本題に繋げる。

 

「でも、外と行き来出来ないんなら、嵐たちはどうやってここまで来たの?」

「あ、それは、何て言うか……」

 

 駆逐艦の言葉が急に歯切れ悪くなる。

 隠そうとしているのではない。むしろ、彼女は鈴谷に訊かれたことに対して懸命に答えようとしている。だが、思うように言葉が出て来ないみたいだ。言いあぐねている、という状態だろうか。言葉を探しているが彼女にとって腑に落ちる表現が出て来ず、それが歯切れ悪さに繋がっているようだった。

 

「言い辛いんすけど、何か……ワープしたみたいで」

「ワープ?」

「そうなんです。まさにそうとしか言いようのないことが起こって。さっきまで俺たちは外に居たんです。で、ブラニ島が見えず、近付けないから何が起こっているんだってなってました。それで、本来ブラニ島があるはずの周辺を探し回っていたんですけど、その途中でいきなりこっちに移動して来て。それが、まるでワープしたみたいでした」

 

 これも、不思議の一つだろう。現在、ブラニ島は周囲とは結界によって隔離されている。それは、この世界には存在しないはずの幻想世界の技術によって為されたものである。ならば、その結界を貫くのか、あるいは回避するのかして中と外を繋ぐトンネルを作ることが出来る者が存在するとしたら、それもまた幻想の使い手であるに違いなかった。その使い手がスカーレットの側に居るのか、あるいはスカーレットと対立する側に居るのかは定かではない。だが、普通に考えればスカーレット側に嵐たちを招き入れる理由は何もないはずで、東風谷たちの側ならばその理由は十分あり得るだろう。とするなら、秘密裏に支援をする何者かが居ることになる。

 それが、巫女たちの言っていた「賢者」、つまり二人をこちらの世界に送り込んだ幻想郷の上層部連中であるならば、第百十七駆逐隊の身に起こったことは説明を付けられそうだった。

 重要なのは、その「賢者」が出来ることの限界である。今のところ、巫女二人を派遣し、現地艦娘を結界内に誘い込むしかしていない。スカーレット一味に対する直接的行動に出ていないところを見ると、間接的な関与が限度なのかもしれない。まあ、こうして嵐が艤装を持って来てくれただけでも鈴谷としては大助かりなので、これ以上の支援を求めるのは贅沢というものだろうか。

 

 艤装は装着部や航行ユニット、バックパック式の背部艤装といった基本的な部分の他に、兵装は主砲、対空電探、対空機銃、三式弾である。本来的に艦娘としての装備はこれでほぼ一式そろっていることになるのだが、鈴谷の艤装は他とは多分に異なり、特殊な装備が多い。そうした装備の必要性についての認識は、艤装を用意してくれた柳本中将や工廠の整備員にはなかったと見られ、嵐が持って来てくれた物の中には含まれていなかった。もっとも、今のこの状況でそれらの装備があったところで役に立つかは分からないが。

 何はともあれ、これで鈴谷は本来の戦闘力を取り戻した。大きな力に翻弄されて逃げ回るしか出来ないだけの小娘ではない。不死身の戦士に戻ったのである。

 すべての艤装を装着し、主砲を装填する。砲弾が薬室に送り込まれる聞き慣れた音が耳に心地良い。航行艤装を始動し、腰掛けていた岸壁から海面に飛び降りる。

 

「嵐は、鈴谷と合流した後どうするの?」

「深海棲艦を探します。僚艦は先に探しに行ってます」

「オッケー。取り敢えず島の北側には居なさそうだから、南に回ろうっか」

「あ、はい」

 

 いきなり航行艤装を最大出力にして加速すると、艤装に過負荷がかかって故障を招くことになるので、ゆっくりと回転数を上昇させていく。急加速すればその分余分に燃料を食って燃費にも悪い。もっとも、鈴谷は生まれてこの方、“燃費”などという概念を重要視したことなどなかったし、それどころか行動を選択する際の判断材料としてこの概念を持ち出すことさえなかった。つまり、全く考えたことがなかった。

 鈴谷が速度に乗るまでの間、嵐は「情報保全隊付の鈴谷さんと合流しました」と無線に吹き込んでいた。相手は恐らく彼女の駆逐隊の僚艦だろう。

 

「そういやさ」

 

 そんな嵐の姿を見ていて、鈴谷はある物が足りないことが気になっていた。

 

「暗視ゴーグルは?」

「あ、すみません。持って来てないです。忘れてました」

「そっか。しゃーないね。……じゃなくて、嵐はゴーグル着けないの?」

「あー」

 

 と、言い辛そうに駆逐艦は声を伸ばす。艦娘同士、隠すようなことでもないだろうに、と思う。嵐がなぜ暗視ゴーグルを着けていないかは何となく分かっているが、これは一応の確認のためである。

 

「えっと、俺たちは……。って、俺と、あと、僚艦の萩風っていうのが居るんですけど、俺たち二人はゴーグルがなくても見える目を持ってるんっすね。だから、要らないっていうか。持って来てないです」

「やっぱそうか。じゃあ、前に行ってもらっていい? それなら嵐の方が探しやすいでしょ」

「了解!」

 

 駆逐艦が少し加速し、鈴谷の前を行く。彼女が夜行動物のような目を持っているならそちらを頼った方が捜索はしやすいし、鈴谷の場合“視界が悪い”ので尚のことである。

 

 ブラニ島は上から見ると、鈍角の角を一つ欠いた東西方向に長い菱餅のような形をしている。島の北岸はすべて貨物船専用の岸壁となっているが、南岸は場所によって用途が違い、浮桟橋やPCGのボートのふ頭、あるいは単なる護岸などだ。さほど探す範囲は広くないが、見落としのないように嵐はゆっくりと進んでいく。

 岸辺には何人もの人影があった。港湾の労働者や政府職員などであろう。いずれも現状の把握が出来ておらず大わらわといった様子で、その動きに統一感はない。

 島内が未だかつてない異常事態に大混乱となっているのは明らかであったが、しかし不思議なことに深海棲艦の気配は一切しないのである。普通これだけ人間があからさまに動き回っていたら、人間に対して極大の攻撃性を発露する深海棲艦が真っ先に破壊活動に勤しみ始めるはずだ。そのような形跡も兆候も一切発見されないのである。

 

 思えば、先程東風谷と共に襲われた深海機も、機銃掃射出来るタイミングだったのにそれをしなかった。弾薬を搭載していなかった。弾切れかと思ったが、ひょっとしたら真実は違うのかもしれない。現れたのは普通の、鈴谷たちのよく知る深海棲艦ではないのかもしれない。深海機は初めから弾薬を搭載しておらず、故に発砲するのではなく、体当たりのような突撃を仕掛けてきたのだとしたら。ここに居るのが空母ならば、その空母は攻撃能力を初めから持っていないことになる。

 

 

 果たして、鈴谷のその予想は的中した。

 

「あっ!!」と、嵐が声を上げる。彼女はやにわに加速し始め、何かを追い駆けだした。

 

 もちろん、すぐ後ろを航行していた鈴谷にもそのシルエットが見えた。鈴谷より“目の良い”嵐にはもっとはっきり分かっただろう。

 

「見付けたね!」

 

 唸る主機の音と押し退けられる波のざわめきに負けじと声を張ると、駆逐艦は頷いた。何か言ったのかもしれないが、隊内無線さえ持っていない鈴谷には何も聞こえなかった。

 深海棲艦とはちょうど鉢合わせした形になっていた。向こうがこちらに向かって来ていたのである。だが、艦娘の姿を見付けると慌てたように踵を返して来た方向に逃げ始めた。鈴谷の知る限り、艦娘と出会って真っ先に逃げを選ぶような深海棲艦と遭遇するのは、これが初めてのことではないだろうか。後々弾切れなどで“撤退”することになるとしても、艦娘と遭遇すれば連中は、どんな状況であれ、少なくとも一度は襲い掛かってくるはずだった。

 何にせよ、撃ってこないのなら捕まえて確かめればいいことだ。相手はほとんど無抵抗とも言える状態なのだろう。

 

 ただし、もう一つおかしなことが起こった。突然その場に第三者が現れ、状況に介入し出したのだ。第三者は深海棲艦が来た方向、今は深海棲艦が逃げ出そうとした方向から現れた。鈴谷の目には黒いシルエットとしてしか認識出来なかったが、人型で海の上に立っているように見えたから、人型の深海棲艦か艦娘のどちらかであろう。前者なら厄介なことになるが、後者ならば考えられるのは嵐の仲間であることだった。

 

「あいつは!?」

「艦娘です!! でも、うちの隊の人じゃないっ!!」

 

 嵐の隊の艦娘じゃない?

 

 現在シンガポールに存在する艦娘は、鈴谷と第百十七駆逐隊の三人、そしてウォースパイトの五人だ。嵐が自分の艦隊の僚艦ではないと言うのだから、現れたのはウォースパイトということになる。

 王立海軍の旗艦の艦種は戦艦であり、まるで玉座のような巨大な艤装に座して戦うことで有名だった。元より戦艦という艦種自体が重厚な装甲板と大きな主砲塔を装着しているため、かなり威圧感のある見た目となる。だが、鈴谷が思うに新しく現れたシルエットはもっと細身で、艤装も小ぶりな、どう見ても軽巡か大型の駆逐艦サイズだった。少なくとも、あの小ささで戦艦とは言えないだろう。

 そしてその矛盾はシルエットの艦娘が逃げる深海棲艦を俊敏な動きで捕縛したことでより拡大した。砲撃の反動に耐えるために意図的に艤装の重量を重くしてある戦艦にはあのような素早い動きは出来ない。もっと小型軽量な艦娘の動きである。鈴谷たちと新たな乱入者に挟まれた深海棲艦はさらに針路を変えて逃げようとしたところを、乱入者にあえなく捕まってしまった。

 海上航行中に同じく航行中の他艦と接触するのは非常に危険な行為であり、海軍の内規では禁止事項の一つとなっている。艦娘はそれなりに高速で動いているので、接触した場合に衝突エネルギーが非常に大きく、互いに艤装や本人が大きく損傷する危険性が高いためだ。もちろん、これは相手が深海棲艦であっても何ら変わりはない。

 だが、それは航行中の接触が技術的に不可能であることとは同義ではない。特に、一度外洋に出てしまえば上官たちの目が届かないわけで、戦闘中に何かしらの理由によって仲間や深海棲艦と意図的に接触する艦娘は決して居ないわけではない。その理由は例えば負傷した仲間を危険地帯から迅速に離脱させるためであったり、深海棲艦を直接殴打するためであったりする。上手にやればぶつかって互いにダメージを受けることもないから、航行技術に自信のある艦娘ほど、こうした行為に対する抵抗感が少ない傾向にある。

 ただし、難しいのは確かなことだ。それを全力で逃げる相手に対して難なく成し遂げてしまうの艦娘は相当な実力者だろう。

 

 その艦娘は暴れる深海棲艦を羽交い絞めにして島の方に引っ張っていく。手近にあるPCGのボートが横付けされている埠頭に向かっているようだ。そして、その姿は誰かが打ち上げた照明弾によって鈴谷の目にもはっきりと映った。その誰かはきっと百十七駆の誰かだろう。嵐ではなく、彼女の僚艦のどちらかになる。

 

 

 問題はそんなことではなかった。空からゆっくり落ちてくるテルミットの輝きが暴いた新たな艦娘の正体。そして、深海棲艦の正体。

 深海棲艦の左腕には、注射器のような物が刺さっていた。いや、深海棲艦などと呼ぶべきではないだろう。艦娘の腕に抱かれたその人物は、ついさっき鈴谷とホテルで言葉を交わしたシンガポール基地の艦娘担当官なのだから。

 

「うそだろ!」

 

 駆逐艦が喚く。

 彼女の声は、彼女の真横を通り過ぎる時に聞こえた。その時にはもう加速し出していたし、主砲を向けていた。鈴谷の目に映っていたのは、艦娘担当官の大尉ではなく、彼女を抱く艦娘だけだった。ここに居るはずのない、消えたはずの艦娘。

 

 忘れもしない。七年経っても決して忘れない。あの日に起こった忌まわしい出来事。最愛の人を死に追いやった仇敵。

 

 憎悪が膨れ上がる。全身の血液が沸騰する。感情に反比例するように、顔面の筋肉を吊り上げる。

 

 抑えきれない憤怒と生来の凶暴性が化学反応を起こし、爆発的な熱量となって鈴谷の全身を駆け巡った。

 

 

「アッハァッ!! 川内じゃぁぁぁん!!」

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 すぐ傍で放たれたその声に、狂気しか含まれていないのを感じ取って嵐は震え上がった。剥き出しの感情。猛り狂ったそれが何のフィルターに通されることもなくそのまま外に吐き出され、嵐の心を震わせた。

 その声の主を、嵐はたった今まで「フランクで落ち着いた先輩」と認識していた。「情報保全隊付」なんていう特殊な肩書の持ち主だからどんな人物かと身構えていたのだが、実際に会ってみると親しみやすい人だと思ったのである。後輩の嵐に対して偉そうに振舞うこともなく、その立場から特殊な過去については知っているだろうに変な偏見を持って接するようなこともなく、だから嵐は鈴谷のことを「悪い人じゃないな」と考えていたのだ。

 

 だが、今はどうだ? まるで別人に変わったかのような変貌ぶり。

 

 驚いていることなら一杯ある。例えば、深海棲艦だと思って追い駆けていたのがよく知る黒檜だったとか、急に現れたのがかつて四駆の僚艦と共に自分たちを助けに来てくれた軽巡の先輩だとかだ。けれど、鈴谷の狂気には一番驚かされてしまった。人が、あんなふうに狂い切った声を出せるということに、ただただ慄くしかなかった。だから、鈴谷が主砲を撃つのを止める余力などもありはしなかった。

 

 腹に響く砲音。照明弾ではなく、発射炎によって一瞬辺りが照らし出される。ほぼ同時にPCGの桟橋の一画が大音響と共に吹き飛び、そこにあったコンクリートやボートが無数の破片となって空に舞い上がった。何よりも、着弾地点は黒檜から二十メートルほどしか離れていない。

 嵐は何も言えなかった。黒檜に当たったらどうするんだとか、どうして同じ艦娘に砲を向けるんだとか、シンガポールの警察の施設を破壊したらどうなるのかとか、数々の疑問が噴き出てきたが、全く一つも口に出すことが出来なかった。それだけの勇気も度胸も、今の嵐には兼ね備わってなかったのである。

 

「今更どの面下げてあたしの前に出て来てんだよ!」

 

 鈴谷は狂っていた。その狂気を目の当たりにしても、川内は落ち着いていたように思う。残ったPCGのボートの中に黒檜を放り込むと、舵を切ってそこから離れようとした。意図は明確で、躊躇なく砲撃する鈴谷から逃げようとしたのだろう。もちろん、鈴谷は後を追う。追うだけじゃなく、次弾を装填して、また主砲を放った。

 今度は大きな水柱が二つ。重巡の20㎝砲弾だ。軽巡の装甲では耐え切れない破壊力を持っている。直撃すればどうなるかなんて、誰だって想像がつくだろう。しかし、鈴谷に砲撃を止める気配は全くない。嵐はただ黙ってついていくしかなかった。

 

「こんなことして何になるんだよッ!!」

 

 さすがに腹に据えかねたのか、川内は怒鳴った。だが、それで今の鈴谷が止まるように思えない。

 

「何になるかってぇ!? 何にもならねーよッ!! お前が死んだところで熊野が帰って来るわけじゃないんだしさぁ! けど、あの子が海に沈んだのにお前がのうのうと生きていることがあたしは許せねーんだよ!! 熊野を殺したお前が、何の罰も受けずに平気な顔して当たり前に存在してるのがマジで耐えらんないの!! あたしたちにした仕打ちを忘れたとは言わせねーよ!! だから、さっさと沈んでサメの餌にでもなってくんねーかなぁぁぁ!!」

 

 鈴谷は本当に狂っている。支離滅裂な言葉を叫び、再度主砲を装填して川内を撃沈しようとするのだ。砲弾は挟叉して着弾したので、鈴谷は本気で川内を狙っているのだろう。

 ただ、どうしてだろうか。先を行く彼女の背中は、何か大きなものを背負ってくたびれているように思えた。怒りや憎しみといった感情もあるだろう。だが、それ以上にもっと強くて大きな感情があるように思えたのだ。

 

 気のせいだろうか。

 

 そんなことを考えていると、余計に止められなくなる。本来は鈴谷を止めなければならないのに、嵐は先程とは違った理由で口出し出来なくなってしまった。

 

 

 

「嵐! 何が起こってるの?」

 

 無線から僚艦の声が聞こえる。それと同時に、自分の脇を誰かが追い越していった。それは江風に他ならなかった。

 

 赤い長髪と白いマントがはためき、嚮導艦は鈴谷に後ろから取り付いた。その直前に気付いた巡洋艦は身を翻して江風を避けようとする。ただ、機敏さは駆逐艦である江風の方が数段上回っており、避けたにもかかわらず鈴谷は江風に捕まった。それでやっと彼女砲撃は止まり、嵐は胸を撫で下ろした。

 だが、事態はまだ落ち着いたわけではない。航行しながら密着することになった二人は互いの顔に主砲を向け合っている。そのまま息を合わせたように速度を緩めていくが、視線だけで相手を射殺しそうな目で睨み合っているのは変わらない。

 

「邪魔すんなよ」

 

 完全に停止してから鈴谷が威嚇する。江風は一歩も引かなかった。

 

「てめえこそ、誰に向かって撃ってンだ?」

「軍を脱走した裏切り者だよ。沈められて当然でしょ?」

「何様のつもりだよ、お前。仲間を撃つことがどういうことか分かってやってンのか?」

「ハッ。そういや、あんたもそうだったね? 先輩としての助言をしてくれるのかなぁ? どこをどう撃ったらいいかって」

 

 江風が主砲を握っていない左手で鈴谷の胸倉を掴み、自分に引き寄せる。そして、鼻っ柱に噛み付きそうな距離で顔を合わせ、歯を剥き出しにしてこう言った。

 

「次に川内さんに砲を向けてみろ。必ずお前の頭を吹き飛ばして地獄に叩き落してやる。よく覚えておけ、このクズ女!!」

 

 ここまで怒った江風を、嵐は未だかつて見たことがなかった。

 彼女があの軽巡、川内を心底慕っているのは嵐も知っていることだ。何かあればすぐに川内のことを引き合いに出して、彼女が如何に優れた艦娘で、指揮官だったかをつらつらと語ってみせる。そのような話を頻繁に聞かされていたから、川内がどれだけすごい艦娘か、そして江風がどれだけ川内に心酔しているかを嵐はとてもよく知っていた。

 その川内を沈めようとしたのだから、江風の怒りは相当なもののはずだ。嵐ならあれだけの怒りを目の当たりにしたらびびって何も言えなくなってしまうが、鈴谷にはまるで響いていないようだった。こちらもこちらで、狂気が収まったと思ったら白けた目になり、密着している江風の腹を思いっ切り蹴って距離を置くと、「あーもう、川内の奴が逃げちゃったじゃん」と苛立たしそうに喚いた。

 両手を上げて攻撃の意志がないことを示すと、さすがの江風もそれ以上掴み掛るようなことはなかった。それでも狼のように鋭い目で睨んでいるのは変わらない。

 

「ねえ、何があったの?」

 

 と、いつの間にか隣にやって来た萩風が尋ねた。

 嵐は首を振り、「それより、大尉を探しに行かなきゃ。萩も手伝ってくれ」と答える。

 

「大尉? どうして大尉が?」

「分からないけど、大尉が居るんだ。警察のボート置き場のところだ」

 

 取り敢えず江風も鈴谷も落ち着いたようだし、もうこれ以上面倒事に巻き込まれるのは嫌だったので、嵐は萩風を連れて来た方向に戻る。

 

 PCGの桟橋は、砲撃によって破壊された痕跡が生々しく残っていた。そこに職員たちが集まっている。そこともう一つ、桟橋に横づけされているボートの一隻にも人だかりが出来ている。嵐はそこに近付いて行った。

 ボートの中でPCGの職員たちに助け起こされているのは、見慣れた人の姿だった。

 

「大尉!!」

 

 まず、萩風がボートに取り付いて黒檜に手を伸ばす。警察官たちは慌てる萩風を落ち着かせようとした。彼女は黒檜の脈を計り、安堵したような表情を浮かべる。嵐もそうだが、萩風も艦娘担当官には恩義を抱いていたし、心から慕っているのだ。

 

「無事か。萩」

「うん。気を失っているだけみたい」

「そっか。良かった」

「うん。けど、何で大尉がこんなところに」

 

 萩風の疑問は当然だった。ただ、自分の目で見たものが完全に信じ切れない嵐は、それを正直に告げようとは思わなかった。少なくとも、自分一人で判断していいことではないし、直属の上官たる嚮導艦に相談するのが先決だろう。自分たちという先例があるからこそ、安易に行動出来ないのはよく理解している。

 

 だが、そうなると一つの事実が存在することになる。

 黒檜は、深海棲艦になっていた。艤装を持たぬ彼女が海上立位を実行するには深海棲艦となるしかない。そして、ただの人間は深海棲艦になれないはずだった。つまり、黒檜は本当は艦娘だったのだ。

 嵐は彼女が艤装を装着しているところなど見たことがない。泳げないところも見たことがない。艦娘が「艦娘担当官」になることはないし、この役職の名称は秘書艦に相当する役割を果たす非艦娘の人間に与えられるもののはずである。だから、彼女が人間だということに疑いを抱いたこともなかった。実際に今、警察官たちによってボートから引き上げられるその姿はどこからどう見ても普通の人間の女なのだ。

 

「こちら基地司令部。百十七駆、応答せよ。繰り返す、応答せよ」

 

 不意に、それまで通信が途絶していた基地からの無線が聞こえてきた。まだ少しノイズが残っているが、確かに聞き慣れた男性オペレーターの声である。

 

「あ、こちら第百十七駆逐隊。嵐です!」

「やっと繋がったな!! 状況を報告せよ! 貴隊は今どこに居る?」

 

 隣の萩風と顔を見合わせると彼女の顔も喜色ばんでいた。背後を振り向くと、そこにはセントーサ島の大きな島影がある。北側のコンテナヤードにも明かりが着き始め、辺りはどんどん明るくなっていった。

 

「戻って来たのね!」

「そうみたいだな」

 

 ああ良かったぁ、と大きな息を吐き出す萩風の肩を叩き、オペレーターの問い掛けに答える。

 

「現在はブラニ島のPCG本部前です。深海棲艦の脅威は……なくなりました」

「なくなった、というのは、排除したということか」

「詳しいことは後で説明します。それと、すぐに救急車を一台手配してください」

「負傷者が居るのか?」

「ええ。大尉です。黒檜大尉が、現在PCGに保護されています」

「……分かった。手配する」

 

 オペレーターの作ったわずかな間は、彼が驚いたことの証だろう。彼だって、黒檜がなぜここに居るのか分からないはずだ。もちろん、嵐だって過程は分からない。ただ、一度拉致された彼女はブラニ島に連れて来られたらしい。それが、あの紅い悪魔の仕業なのかは知らないが、重要なのは彼女が健在であることだった。念のための救急車だが、もし本当に黒檜が艦娘ならば、彼女の搬送先は病院ではなくシンガポール基地になるだろう。艦娘の負傷を治すには、修復材に漬けるのが最も効率の良い方法だからだ。

 

「ところで、江風はどうした?」

「あー、こちら江風。うちの隊は全員健在だ」

 

 無線を聞いていたらしい嚮導艦が返事をする。その声には疲労の色が色濃く出ていた。

 

「それは結構。例の、『情報保全隊付』とは合流出来たか?」

「……ちっ。そいつなら、横で殴り飛ばしたくなるような面下げながら突っ立ってやがるよ」

 

 嵐の聞き間違いでなければ、江風は舌打ちをした。もう一度喧嘩をし始めたわけではないようなので、放っておいても江風の精神衛生以外に問題は起きないだろう。

 川内がどこに行ったかも知りたかったが、鈴谷の言が本当なら、彼女は脱走した艦娘ということになる。艦娘が軍を脱走すればどうなるかは嵐だって知っているし、だから軽率に彼女の名前を出すわけにはいかなかった。

 

「了解した。ヘリを出す。安全が確認出来次第ピックアップするから、全員その場で待機せよ」

 

 空を見上げてもそこに星はない。月も浮かんでいない。その代わりに存在していた花火の打ち合いのような弾幕も見えず、恐怖の象徴も飛んでいなかった。

 

 やっと終わったのか。

 

 あまりにも長く、あまりにも異常なことが多すぎた夜だった。この数時間だけであちこちに移動したし、頭を使うことばかりで、おまけに目の前で起きる尋常ではない出来事の連続に、嵐は心身ともにすっかり疲弊しきってしまった。江風の声が疲れていたのも同じ理由だろう。今はとにかく早く帰ってベッドに潜り込みたい。萩風と共同部屋の硬いベッドだが、そんな物でも無性に恋しかった。

 難しいことを考えるのも長ったらしい報告をするのも、明日すればいいではないか。

 だが、そうもいかないのが軍人の悲しいところである。基地に帰れば真っ先に何があったか報告を求められるだろう。常人には理解不能なことを、一から説明しなければならない。頭の固い上官たちは信じようとしないだろう。すると、報告は長引く。

 どう考えても、早い内にベッドに潜り込むことは不可能なようだった。それが憂鬱で、嵐は大きなため息を吐き出した。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督45 Science is not so common

 

 昔、中国にとても優秀な役人が居た。役人は能力が秀でていたが、同時にとてつもなくプライドが高く、役人に甘んじていることに不満を持ち、また大変詩の才能があったため詩人になることを志した。彼は人との交流を絶って詩を書き続けたが、先達に教えを乞うこともなかったため大成せず、結局家族を食わせるのに困って元の役人に戻ることになってしまう。ところが、その頃にはかつての部下たちが遥かに出世しており、彼は元部下たちに使われる日々を過ごすことになる。プライドの高かった彼はそれに耐え切れず、ついに発狂して山に逃れそのまま帰って来ることがなかった。

 後の日に、その役人と旧知の仲だったある人が山を通ると、人食い虎に襲われる。しかし、虎は何かに気付いて草陰に身を隠してしまった。そしてそこから、人の声で語り掛けてきた。曰く、その虎は通り掛かった人の友人、かつて山に逃げた男だったのだと。しかし、今は自尊心と羞恥心に圧し潰され、醜い虎に変わってしまい、人の心を忘れつつあるのだと言う。虎は友人に、自分が書いた詩を残すこと、家族に自分は死んだと伝えること、そしてここから離れてから一度振り返ることを頼んだ。友人がその通りにすると約束すると、やにわに草むらから虎が飛び出してきて、月に向かって吠えたのだった。

 

 ――言わずと知れた「山月記」のあらすじである。

 この話ではある男が「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」によってやがて虎に変わってしまう。人は誰しも心の中に獣を飼っている。男の場合は自尊心であり羞恥心であり、それらは虎のような獣であった。男はこの獣を飼い慣らすどころか太らし続け、遂に自分自身の姿さえも内面の獣の姿、つまりは虎の姿に変えてしまった。

 虎は、通り掛かった友人に己の末路をなるべくしてなったものと言いながらも、悲嘆と悔恨に塗れて、せめてもと作った詩を残すように依頼する。その後に、残してきた家族のことを頼むのだ。このように本来は先に家族の身を案ずるべきところを、詩を残すことを先に頼む性情であるからこそ、己は虎になったのだと、男は自嘲した。

 翻って、自分はどうだろうかと、黒檜は回顧する。

 昨晩、己が“人ではなかった”という事実がもたらした最初の衝撃からようやく復帰した黒檜は、医務室の寝台の上で半身を起こし、膝を立てて昔読んだ詩のことを思い出していた。黒檜が知っている中で、人から人ではないものに変化した話というのはいくつかあったが、それらの中で最も初めに思い浮かんだのが、この虎になった男の悲劇譚であったのだ。

 男は心の内に獣を飼っていた。やがて、獣そのものになった。では、黒檜は獣を飼っているのだろうか。

 今までそのような自覚もなかったし、心当たりもなかった。自尊心や羞恥心ではないかもしれない。人を人でなくする醜悪な何某かが己の心の内に巣食っているのだろうか。

 男は虎になった。黒檜は――深海棲艦になった。

 

 

 

 昨晩、パーティに参加した後誘拐され、目覚めたら狭いコンテナの中で、あの不思議な女と二人きりだった。彼女は黒檜に記憶がないと言い、それは自分のせいで、そのケジメをつけると、宣言するように口にした。黒檜は深海棲艦に成りかけの艦娘「加賀」と引き合わされ、その前で慟哭し、クリスティーナ・リー、もといレミリア・スカーレットに懇願するように涙を流したのだ。どうすれば加賀が戻るのか、と。

 彼女は、かつての仲間と出会い、記憶を取り戻せと告げた。それは黒檜としてではない。艦娘「赤城」としての記憶だ。

 しかし、「赤城」としての記憶、それについて聞かされた後、黒檜の身体は確実に変化した。あの、全身が燃えるように熱くなる悍ましい感覚。忘れようとしても忘れられない。

 気が付けば、黒檜は海に立っていた。艤装を持たないはずなのに、身体には艤装が“まとわりついていて”、本当に海に立っていた。動くのも自在だった。けれど、ある一定の範囲から出ることは出来ず、ふらふらと水路の上を彷徨いながら、時折空の上で繰り広げられる派手な花火が咲くのを見上げていた。だが、それも長くは続かず、見知った顔に見付かり、また別の誰かに捕まって、三度気を失うことになった。そして、目が覚めたら今朝、この寝台の上で天井を見上げていたのである。

 場所が、自分の所属する基地の医務室であることはすぐに分かった。まず、どうしてこんなところで寝ているのだろうと疑問を抱き、昨晩のことを思い出し、自分が深海棲艦になっていたという記憶を想起して絶望した。

 

 目覚めてからは医官や柳本、情報保全隊の村井という中佐、そして江風と萩風が様子を見に来てくれた。医官は黒檜の身体に異常はないと告げ、柳本は昨晩起きたことを彼らが把握している範囲で伝え、村井はリーに攫われている間に起ったことを尋ね、江風は川内という艦娘が助けてくれたのだと教えてくれた。

 村井の質問に、黒檜は正直に答えなかった。答えられなかったと言うべきだろう。リー=スカーレットのことも、記憶のことも、もちろん加賀のことも、深海棲艦になったことも、全てについて口を閉ざし、記憶が混濁してはっきり覚えていないという旨の回答をした。そうでなければ、後に何が起こるか想像するだけでも恐ろしかったのだ。

 ここには、かつて深海棲艦として人類を襲ったことのある艦娘が二人居る。二人とも大変な強運によって艦娘としての地位を保証された例外中の例外である。二人には、彼女たちのために尽力してくれるたくさんの人々が居たのだ。故に、本来であれば極刑に処されてもおかしくないほどの罪を犯してしまった二人だけれど、無罪放免となり、それどころか再び艦娘として戦うことすら出来るようになった。

 だが、黒檜に同じ強運が訪れるだろうか。昨晩、深海棲艦になっていた間の記憶が完全に残っているわけではない。途中で途切れている。何よりも恐ろしいのは、記憶が残っていない間に自分が何をしていたのかが分からないということだ。ひょっとしたら誰かを傷付けてしまったかもしれない。殺めてしまったかもしれない。自分が取り返しのつかないことをしでかした可能性がある。何しろ、深海棲艦だったのだから。

 それを誰かに尋ねるわけにもいかなかった。どうやら軍は昨晩現れた深海棲艦の正体を把握していないようで、黒檜のことを単なる被害者と見做しているらしい。

 真実を打ち明けるべきか否かという葛藤がないと言えば嘘になる。国を想えば、周囲の人々を想えば、何をするのが正しい選択なのかは明白だ。また何時、深海棲艦になるかも分からないのだから、どこかに隔離しておくのが正しい対処法だろう。少なくとも、昨晩の真実を知ったのなら、海軍の上層部はそのように判断するはずだ。実に妥当な決定である。

 しかし、黒檜は到底真実を、覚えていることを、正直に告白する勇気を持てそうになかった。黒檜を躊躇わせるのは、何のことはない、単なる自己保身への執心である。浅ましく、醜く、驚くほど愚かな感情であるにもかかわらず、それは途方もなく強固で抗いがたいものだった。“元駆逐水鬼”に対する海軍の反応が、あと少し何かが違っていたら二人とも今頃生きていなかったであろうことが容易に想像出来るような苛烈なものであったという経緯を詳しく知る身としては、昨晩のことが露呈したら自分にも同じことが起きるのだという恐怖に捕らわれてしまう。萩風と嵐は色々な歯車が上手い具合に噛み合わさって最良の結果を得た。だが、そんなことが二度も三度も起こると思うほど黒檜は夢見がちではない。

 深海棲艦になってしまった以上、黒檜は本質的に艦娘なのだろう。艤装を背負えて、修復材で傷が治り、海で泳げないのだろう。昨日よりもっと前の、記憶がない期間に黒檜は何某という艦娘だったのだ。“彼女”にはレミリア・スカーレットが関わっており、かつての自分の上官ですらあった。

 きっと、碌でもない艦娘だったのだろう。国や人々を守ることより保身を優先するような性質なのだから。

 

 

 

 

 医務室には窓がないが、時計を見ればそろそろ日没の時間であるというのは分かる。そんな頃になって、ようやく一人の艦娘がばつの悪そうな顔をしながら黒檜の前に現れ、丸椅子の上に華奢な身体を座らせた。そう言えば、いつも一緒に行動している相方が嚮導艦と共に先に見舞いにやって来ていたのに、何故か嵐の姿はそこになかったし、居ない理由を尋ねても相方は要領の得ない答えしか口にしなかったので、どうしたのだろうと気にはなっていたのだ。昨日の一件で怪我をしたとは聞いていなかったし、実際に目の前に座った部下の艦娘は、元気そうではある。

 裏表がないという貴重な美徳の持ち主である彼女は、裏を返せば隠し事が出来ない性格で、要するに本人が上手く何かを隠しているつもりでも周りから見れば挙動不審であるので隠し事があるのが一目瞭然になってしまうタイプだ。明らかに何か本題を抱えているだろうに、嵐と言えば「身体は大丈夫か」とか、「暇じゃないか」とか、「昨日の晩は危ないところもあったが、無事に帰って来れて良かった」とか、中身のない話しかしなかった。黒檜は彼女が自分から何かを切り出すまで待とうとしたのだが、十分経っても本題が出そうになかったので、しびれを切らして単刀直入に尋ねた。

 

「嵐さん、私に何か話があるんじゃないの?」

 

 まさに言葉を詰まらしたという様子で、それまで饒舌に喋っていた口を閉ざす嵐。視線が黒檜から逃げるように泳ぎ、行儀よく膝の上に置かれた両手に力が籠められる。

 良い意味で、嵐は単純だ。分かりやすいということが欠点ではなく美点として挙げられるのは、偏に彼女の人柄ゆえだろう。黒檜はそのことをとても好ましく感じていたし、彼女の顔が強張っていても身構えることもなかった。

 大よそ、話の内容は見当がついている。だからこそ、その話をしに来たのが、“知った”のが、嵐で良かったと、本心からそう思えるのだ。

 

「あ、あの! 誤解をしないで欲しいんですけど、俺は何も言うつもりはないし、ただ、大尉がひょっとしたら気にしているんじゃないかって思って……」

「気にしていないって言ったら、嘘になるわ」

 

 嵐は口を一文字に結んだ。

 江風の話では、昨晩は嵐だけが作戦当時別行動をとったらしい。それは鈴谷に艤装を届けるためだったそうだが、ということは鈴谷も目撃者なのだろうか。

 

「俺は、言うつもりないです。大尉には恩が一杯あるし、居なくなってほしくないし」

「昨日の夜、嵐さんがどう行動していたかは江風さんから報告を受けています。嵐さんが『見た』ということは、一緒に行動していたその人も見ていたのよね? 鈴谷さんも」

「鈴谷さんは……俺が起きたら基地の中に居ませんでした。でも、江風さんも司令も何も言ってなかったし、鈴谷さんからそういう報告があったら、今頃大尉は大変なことになっていたと思います。俺、あの人が帰って来たら頼み込んでみるつもりなんです。大尉のこと……」

「嵐さん」

 

 黒檜は駆逐艦の言葉を遮った。それは、理性が導いた判断だった。

 鈴谷のことはよく知らない。昨日、初めて会ったばかりの艦娘だし、好き勝手に振舞っているようなので、わざわざ黒檜が口出すこともないだろう。川内も、戦闘の後にどこかに消えたというのが事実なら、考え辛い可能性ではあるが、ひょっとしたら脱走した艦娘なのかもしれない。

 だが、嵐はその二人とは違う。正規の部隊に所属している一般の艦娘で、他とは少し違った来歴を持っている。その来歴を考慮しても彼女はよく働き、結果も残して、この度それが評価されて「改装」という栄誉に与かることになった。まごうことなき、彼女の努力の賜物である。

 だからこそ、今はとても大事な時期だ。嵐がするべき報告を怠り、しかもその内容がかつて彼女自身が遭遇した状況と類似したものであるなら、周囲の人間はそのことをどう捉えるだろうか? 嵐の特殊な来歴――かつて深海棲艦であったということ――が、悪い意味で再評価されてしまうかもしれない。そして、彼女の今までの努力をふいにしてしまうかもしれない。最悪の処分を下されてしまうかもしれない。

 嵐は言わなければならないのだ。昨晩、黒檜が深海棲艦であったこと、それを目撃したという事実を。正直に告白しなければならない。

 

 不思議なことに、自己保身と嵐の将来を天秤にかけた時、それは嵐の方に傾いてしまう。そして、黒檜自身、そうであることを何ら疑うことなく受け入れることが出来た。

 黒檜とて我が身がかわいい。自分を守りたい。嵐が見たことを報告してしまったら、それが命取りになることも十分理解している。本音を言えば、彼女にこのまま黙っていて欲しいという気持ちもある。

 けれど、沈黙を維持することで万一それが露呈した場合、嵐は取り返しのつかない損害を被ってしまうだろう。それが黒檜からの頼みでなくとも、彼女が忖度して口を閉ざしたとしたら、少なからぬ責任が黒檜にあるということになる。確かに自分を守りたいが、それ以上に黒檜はこの慕ってくれている艦娘を守りたいと思ったし、自分のせいで彼女が傷付くのは何にも増して耐え難い。

 嵐は、嵐だからこそ、事実を明らかにした後の黒檜の処遇について経験に基づき、正鵠を射た理解をしているだろう。何が問題視され、誰がどんな反応をしてどのような判断を下すのかを、彼女は正確に予言出来るはずである。同時に、自分が口を閉ざした時、つまり隠蔽を計った場合のリスクについて、それが自分のみならず萩風や江風にも損失を与え得るものであるということも重々承知しているのだ。故に、彼女は葛藤し、迷いながら黒檜の前に現れた。

 だが、黒檜が思うに、嵐はここで事実を告白するような性格ではない。むしろ、その隠蔽を選ぶ方だし、実際にそうしようとした。黒檜が思っている以上に嵐は黒檜に対して恩義を感じているようだが、その想いが強ければ強いほど、彼女は黒檜に損失を与える選択肢を選び得ない。あわよくば隠し通せばいい、と考えるだろう。それが誤った判断であることを彼女に教えられるのは、黒檜以外の他に誰も居ない。

 

「言うのよ。私のことは大丈夫だから。報告をしない方がまずいことになります」

「でも! そんなことしたら大尉は!」

「いいの。昨晩、見聞きしたことを正直に報告しなさい。これは、貴女の上官としての命令です」

「……いや、でも! 大尉は知らないかもしれないけど、俺と萩が助かった後、六ケ所の研究所に送って研究材料にしようって話も出て来てたんです。そうはならなかったけど、今度こそってこともあるかもしれないし……」

「でももへちまもねーだろうがよぉ」

 

 医務室の扉が雑な音を立てて開けられ、不機嫌極まりない声が飛び込んできた。いつからか扉の外で聞き耳を立てていたらしい。他に誰かの姿はないので、現れた江風以外にそこには居なかったのだろう。

 盗み聞きされていたこと自体には少し肝が冷えたような気がしたが、奇妙なことにそれをしていたのが江風であることに黒檜は安堵した。聡い彼女のことだから、嵐を説得して適切な言い方で報告を上げてくれるだろう。黒檜は江風に対してそのような信頼感を抱いている。

 百十七駆逐隊の嚮導艦はゆっくりとした足取りで部屋に入って、自分の部下を見据えながら唸るような声で続けた。

 

「お前が何かを隠してンのは皆分かってンだよ。萩も、中将も、情保隊の村井って中佐もな。特に、情保隊にはバレるとヤバい。そうなる前に、包み隠さず打ち明けた方が賢明だ」

「……分かってるっす。だけど、大尉が、それでもし大変なことになったら。俺、どうしたらいいか……」

「大尉、大尉って。うるせーよ」

 

 ついに嵐の前に立った江風は、その胸倉を掴んで引っ張り上げた。掴まれた本人は少し引き攣りを起こしたように喉を鳴らし、嚮導艦の粗野な行動にもまったく無抵抗だった。「江風さん!」と黒檜は咎めたが、一瞥さえくれなかった。金色の瞳は餓狼が獲物を狙うが如く、嵐に据えられて微動だにしない。

 

「よく考えろよ。元駆逐水鬼のお前らを引き取って世話を見てるのは誰だ? 中将だろ? そういうことには理解のあるお人さ。散々世話になったくせに、お前は中将が大尉を守らないような薄情者に思えたのか?」

「いや、違い、ます……」

「だろ? それにもう一つ言うなら、お前らが六ケ所で変態マッドサイエンティスト共のオモチャにならずに済んだのは、裏で榛名さんが色々と動いてくれてたからだ。あの人は江風たち艦娘の守護神みたいな人だからな。大尉のことだって言えば助けてくれるはずさ。特に、昔馴染みなンだから絶対にそうさ」

「榛名さんって、あの、呉鎮の?」

 

 江風は部下を放し、「そうだよ」と頷いた。

 本土における四大鎮守府の一つ、横須賀鎮守府に次ぐ規模の呉鎮守府において、そこに属するすべての実働部隊の責任者であるのが金剛型三番艦の「榛名」だ。このような立場に就くのは通常艦娘ではない高位の軍人であり、平たく言えばフォースユーザー(事態対処責任者)なわけである。艦娘艦隊の部隊は基本的には基地や鎮守府ごとの所属になり、ある程度の規模の拠点になれば後方支援をする部隊の総責任者たる地方総監と、実働部隊を指揮する艦隊司令官が別個に存在することになる。榛名はフォースユーザーたる艦隊司令官に史上初めて就任した現役の艦娘であり、今後二例目が出ないであろうと予想されている逸材でもあった。

 その名は黒檜とて幾度となく耳にしてきた。あまりにも有名な人物なので、良い噂も悪い噂も色々と聞こえてくるものである。

 しかし、江風の言うような「艦娘の守護神」という表現は聞いたことがなかったし、それが江風のパーソナリティによって捻り出されたものなのか、あるいは他の誰かが榛名を表してそう言ったのを借用しているのかは分からない。いずれにしろ、「守護神」と例えられるような何かしらの下地となる事実は存在しているのだろう。

 

 だが、それにしても――、

 

「私と榛名さんが、昔馴染み?」

「ああ、そうさ。そういや、大尉は記憶喪失なンだったな」

 

 さっきまで嵐が座っていた椅子に当たり前のように腰を下ろしながら江風は言った。座るところを奪われた部下の艦娘は居辛そうな顔でその後ろに立ち尽くしている。

 

「江風はさ、結構人の顔を覚えるのは得意なンだ。一度見た人のことはほぼ忘れない。だから、大尉のことも会った時にすぐに分かったよ。有名で色ンなところに露出があったから尚更さ。なあ、“元”第一航空戦隊の『赤城』さん」

「え!? 第一航空戦隊? って、あの……?」

 

 真っ先に反応したのは、江風の後ろで聞き耳を立てているだけだった嵐だ。目を見開いて嚮導艦と艦娘担当官を交互に見遣り、「マジですか」と呟きを残した。

 

「何だよ。知らなかったのかよ? 萩は気付いてたぜ」

「え、そうなんすか!? っていうか、気付いてなかったのって、ひょっとして俺だけ……」

「そうだなあ。皆、分かってたしなあ。公然の秘密になってたから誰も何も言わなかったけど、まさか気付いてなかった奴が居るなンて、そっちの方が驚きだぜ」

 

 きひひ、と上機嫌に笑う江風に対し、嵐は赤面して俯いた。僚艦で大親友の萩風さえ知っていたことに自分だけ気付いていなかったことが余程恥ずかしいのだろう。それを言うなら、当の本人も知らなかったわけだから、嵐が恥じることは何もない。

 江風は機嫌を直してくれたようだし、嵐は何ともまあいじらしいところを見せてくれたので、少しだけ強張った筋肉から力を抜いて、頬を緩める。江風の言っていることに間違いはない。昨晩、レミリア・スカーレットも黒檜のことを「赤城」と呼んだし、だから一航戦のもう一人だった「加賀」と引き合わせたのだろう。

 そして、記憶はなくとも知識はある黒檜は、赤城と加賀の一航戦がどういう部隊で、どれ程の活躍をしたのか、それは覚えている。主観的な経験ではなく、客観的な事実としての情報だ。かつて第一航空戦隊が、「金剛」と「榛名」によって構成された第三戦隊と一体運用され、艦娘の基本的な運用法の確立に戦術思想の醸成、そして言うまでもなく深海棲艦を多数撃沈して国難を凌ぐという戦果を挙げたことを知っている。だから、赤城と榛名が昔馴染みであることには納得出来た。

 

「まずは中将と相談してみるよ。大尉に居なくなられちゃ困るのは皆同じだからねぇ」

「嵐さんのことは、責めないであげてね。迷うのは仕方のないことだと思うから」

「分かってるって」

 

 少年のように悪戯っぽく笑う江風を見て、ふと心の内から不安感が消えているのに気付いた。今後の自分の処遇とか、嵐の将来だとか、頭を悩ませていた物がきれいさっぱりなくなってしまっている。

 不思議だと思った。江風の言葉には妙に説得力がある。振る舞いこそ軽薄に見られるようなものも多い彼女だが、経験豊富で頭の回転も速いので、普段から黒檜は頼りにしていたのだが、それを差し引いても今の彼女は大いに頼もしいと思えた。同時に、こうやって自分のために力を尽くしてくれようとする江風や嵐という何物にも代えがたき仲間に巡り合うことが出来ていたことに感謝する。

 考えるべきことは多いし、分からないことも多い。それでも、こうして身近なところに味方が居るのは思いの外、黒檜に勇気を与えたのだった。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 夜、赤道直下と言えども気温が下がり、昼間よりずっと過ごしやすくなる。場所が海に近く、風通しが良い建物の屋上ともなれば尚更のことで、だからこそこのバーは夜間にしか開かれない。顔を上げずとも街の灯りは視界に入ってくるし、ひと度目を向ければ三棟のホテルや巨大観覧車の放つ煌々としたネオンが間近にあり、その向こうには市街地が夜の営みのまま煌めいている。翻って海を見れば、投錨して入港を待っている無数の商船の航行灯が暗幕に砂金を撒いたように光っていて、どこを探そうとも視界の中に暗い場所がない。

 

 つい最近開業したばかりの植物園の中心に、鋼鉄製の樹木が十二本生えている。その中でひと際高い「樹」の頂上は露天のバーになっており、景色を眺めながら酒と会話を楽しんでいる男女の組がいくつか座っていた。ただ、その中で一人だけ、誰も連れずに飲んでいる女が居る。

 孤独というより、孤高と表現した方がふさわしい居住まい。背中を流れる長いブロンドは薄暗いバーの中では銀色に輝いているようにも見え、静かにグラスに口づけする横顔は絵画のようで、不夜城の明かりに照らされ尚更に神秘性を纏っている。どこまでも気品高いこの女に話し掛けようという者はおらず、彼女は街の明かりを遠目に見ながら、静かに酒を嗜んでいるようであった。

 相席者は居ない。時折彼女は注文を出して酒を追加するので、その時に給仕が近付くくらいである。

 遠い過去を心の内に再現しているのか、ここには居ない誰かに想いを巡らせているのか、彼女は独り淡々とグラスを呷っていた。その様はまるで厳かな神事の最中のようで、何人も触れることを許されないような隔絶の向こう側にある。バーの店員はそんな彼女のことを時折視線をやりながら観察していたが、入店してから小一時間経っても、少しも様子が変わることはなかった。楽しんで酒を飲んでいるようには見えない。他の客に比べ、一人で居るというのもあってか、少しばかり飲むスピードは速いようだ。

 安易に話し掛けることが禁忌であるのは弁えていたし、店員にとっては彼女の正体などどうでも良かった。ただ、まともな人間ではないと感じていたし、纏っている雰囲気もそこらの白人の観光客とは明らかに異なっている。出来れば早く出て行って欲しかったし、面倒事なんてまっぴらだ。

 だが、そんな彼の細やかな願いはあえなく手折られた。場が変化したのだ。

 

 孤高の女の前に来訪者が現れる。雰囲気で分かった。日本人だ。

 新たな登場人物は静かにバーに上がってくると、カウンターの前を通り掛けにビールを注文して、音も立てずに女の下に歩み寄っていく。肩に下げていた大きなボストンバッグをその場に置いて、何の断りもなく彼女の向かいの椅子に腰を下ろした。そして、まるでそれが当たり前かのようにリラックスしたように背もたれに身を預ける。それでも、女の静謐とした居住まいは何ら乱れることはなかったし、やって来たばかりにしては信じ難いほど厚かましい客はそんな彼女の醸し出す空気について何ら考慮していないようだった。

 寄りにも寄ってどうしてそこに、と一部始終を目にしていた店員は呆れ返った。どう見ても二人は親しい間柄にあるようではないし、それどころか知り合いのようにも思えない。新しい客はマリーナ・ベイ・サンズを背にして少しばかり笑みを浮かべていたが、そこに握手をしようという意図は一切見て取れなかった。

 店員は悪い予想が当たってしまったことに辟易してた。二人の傍に近付きたくなかったが、新しい客が注文したビールは持って行かなければならない。

 

「Good evening」

 

 新しい客はインド系の給仕がビールを自分の前に置き、逃げるようにその場を去るのを見送ってから、やや平らな発音の英語を発した。

 

"Good evening"

 

 対して、女はとても流暢な早口の短い挨拶を返した。英語はやや慣れないもう一人の耳にはもっと別の言葉に聞こえたが、一秒、二秒の時差をもってようやく脳が同じ挨拶を返されたのだと認識した。

 

「Nice to meet you. I am Suzuya and a ship girl of the Japanese Navy」

「Nice to meet you too Suzuya. 後は日本語でいいわ」

 

 女は続けてそう言った。それで鈴谷はほっと胸をなでおろす。決して英語が喋れないわけではないし、ある程度のレベルの会話までなら自信はあったが、それでも母語を話せるのとそうでないのとでは雲泥の差がある。片や、相手の日本語はややぎこちなさがあるものの、日本人である鈴谷が聞いても十分聞き取りやすい水準であった。

 

「日本語お上手だねぇ」

 

 純然たる敬意を表する。思った通りのことを口にすると、顔が強張っていたウォースパイトがようやく、口元だけだが、表情筋を弛緩させた。

 

「ありがとう。たくさん勉強したの」

「日本が好きなの? 京都とか来た?」

「いいえ。まだ日本には行ったことがないの」

「ふーん。じゃあ、どうして流暢に話せるようになるくらい頑張って勉強したの?」

「理由を知りたい? ふふ」

 

 王立海軍随一の淑女は謎めいた小さな笑みを浮かべた。それから静かに持っていたワイングラスを置き、空いた両手を膝下に下ろして椅子に寄り掛かる。

 その表情は鈴谷がやって来た時よりは幾分もリラックスしており、歴戦の艦娘としての貫禄が垣間見えるようになっていた。いくらか余裕を取り戻したであろう彼女は、それを示すような微笑みを浮かべたまま鈴谷にこう言った。

 

「準備は怠りたくないからよ。戦いも、他のことだって同じ。もし将来、日本で暮らすことがあるなら、日本語を勉強しておくのは必要なことでしょう?」

「それもそうだねぇ。準備って大切だもんね。ところで、そこまでして日本で暮らすことを考える理由って、やっぱりあの人のことなの?」

「あの人? Who is?」

「金剛さん」

 

 ウォースパイトはたおやかに微笑んだままである。笑みは彼女が友好的な心情を抱いたから浮かべているのではなく、単に今鈴谷に見せるべき表情として顔面に張り付けているだけだ。つまり、内心を悟られないためのポーカーフェイス。しかし、そうしていること自体が彼女の内心が揺れていることの証に他ならない。

 目の前の英傑と、日本で一番古い艦娘の因縁は鈴谷も知っている。特段、機密指定されている情報ではないが、知っている者は非常に限られるであろうと言える類の情報である。ウォースパイトはかつて、初めて艦娘が生まれたバローの造船所で金剛と一緒だったことがある。しかも、二人は浅からぬ関係にあったようで、今でも手紙のやり取りは続けているらしい。「通信の秘密は、これを侵してはならない」ので、やり取りの内容までは知り得ないが、二人が今でも深い繋がりを持っているのは間違いないようだ。それこそ、ウォースパイトが多忙の合間を縫って日本語の勉強を続けるくらいの仲なのだから、推して計るべしであろう。

 

「勘違いしないで欲しいんだけど」

 

 戦艦は一見して穏やかな顔をしているが、目だけは鋭く光っているので、明らかに鈴谷に対して不信感を抱いているのだと分かった。だから、少しだけ自分の立場についての説明を交えつつ、釈明をしなければならない。

 

「鈴谷はあくまで『クリスティーナ・リー』っていう女が私たちの懐から何の情報を盗み出したのかを知りたいわけ。あいつがそっちの回し者じゃないのは分かってるけど、何故かあなたは協力関係にあるみたいだよねえ。鈴谷たちは情報が欲しい。それも、出来れば穏便な方法で」

「取引をしたいということ?」

「そうだよ」

 

 ウォースパイトはようやく偽物の笑みを引っ込め、腕を組んで何事かを考え始める。端正な顔の眉間に皺を立て、目を閉じて悩まし気に物思いにふける様子は、それを写真に撮っただけで値段が付きそうな美しさがあった。

 オスカー像を抱え持って笑っていても可笑しくない美貌。公然の秘密となっている由緒正しき高貴な血筋。華奢な体躯からは想像も出来ない勇敢で強靭な精神と徹底的な勝利への執着心。そして何より、歴史に刻まれてしかるべき功績の数々。

 彼女はあまりにも大きな存在で、あまりにも目立つ人物だ。その名は彼女の祖国の中に留まらず、全世界に響き渡っている。ひと目見れば誰しも悟った。この類まれな美貌の女は、単に美しいだけの花ではないということを。あまりにも大きく、美しく、故に今まで彼女の武器になったであろうそれらが、今は諸刃の剣となって彼女自身を傷付けてしまう。

 わざわざ「穏便な方法で」と口にしたのは、「穏便でない方法」も選択し得るということを暗に示すためだった。それに気付かないウォースパイトではない。彼女は持ち上げられるだけの偶像ではなく、怜悧な頭脳と勇敢な心をもって敵を打ち倒してきた英雄なのだ。

 

 しかしてその英雄はしばしの熟考を終えると、目を開いて冷然と言い放った。

 

「しないわ。その理由がないもの」

 

 非常に洗練されていて且つ一義的な拒絶の通告であった。あまりにもはっきりと、当然のように告げられたので、言われた瞬間は鈴谷も何の疑いもなくその言葉をそのまま飲み込んでしまったくらいだ。「ああ、そうなんですね」と、思わずうなずいてしまいそうになった。

 もちろん、こんなところで「はいそうですか」と納得して引き下がってはいけない。鈴谷とて仕事でこの場にやって来てウォースパイトと話をしている。情報保全隊の中では鈴谷より上位にある村井が、そのように指示を出したからだった。彼はこのEU艦隊の旗艦を懐柔して、スカーレット一味の情報を手に入れようと画策していたのである。

 

「そっかぁ」

 

 軽い揺さぶりにはびくともしない堅牢な戦艦の勢いに飲まれてはいけないと自分を戒めつつ、鈴谷は醜悪に見えるような表情を浮かべた。

 

「だったら、その理由を作ってあげればいいわけじゃん?」

「面白い冗談ね」

 

 ウォースパイトは吐き捨てるように言うと、置いていたワイングラスを手にとって静かに口に運ぶ。さすがに一筋縄ではいかない手合いだ。

 

「そう思う? けど、私たちが持っている情報のいくつかをつまびらかにすると聞いても、同じことが言えるかな?」

 

 クリスティーナ・リーとウォースパイトの関係。そして、リーが日本とシンガポールで犯した悪行。何も、公的な発表でなくても良い。ゴシップ誌にでもこっそりリークすれば、彼らは盛大に書き立てて、出歯亀たちの興味と関心を掻っ攫ってくれるだろう。リーの会社は緊急修復材の製造を独占することであまりに急激に、そして大きくなり過ぎた。ウォースパイトもまた重要な存在になり過ぎた。そんな彼女たちのことを快く思わない連中は必ずどこかに存在するし、そうした連中にとって、ウォースパイトとリーのスキャンダルは格好のネタになるだろう。彼らは批判するためだけに批判を展開し、ここぞとばかりに攻撃を畳みかけようとする。

 黒檜誘拐の主犯格でもあるクリスティーナ・リー=レミリア・スカーレットがウォースパイトと近い関係だったというのは、英国戦艦にとっては致死的なスキャンダルである。彼女は最初からリーのサルマン社に協力しており、しかもその関係性を隠してはいなかったのだから、リーの犯罪はウォースパイトにとっては非常に都合が悪い。一部では政界進出も囁かれている彼女だから、スキャンダルによるイメージの悪化というのは避けたいはずだ。

 別に鈴谷もウォースパイトの邪魔して恨みを買いたいわけではない。彼女が政治家になるかどうかなんて微塵も興味がなかったし、つまらない権力闘争に関わるつもりもない。

 日本でもシンガポールでも、リーの悪事はそれぞれの国の警察が捜査を担っている。ただ、案件が案件だけに情報保全隊とその隊付艦娘の鈴谷が関わる必要があった。それも、ただ関わるだけでなく、鈴谷たち情報保全隊は事件の特殊性からそれぞれの警察の捜査に対してかなり大きな発言力を持っている。艦娘の問題は国家の安全保障と人権問題や経済問題が複雑に絡み合った非常にデリケートな領域にあって、軍の、それも一部の部署を除いて部外者が安易に口出し出来る問題ではなく、その特殊性が故に艦娘関連の問題についてはその情報を守る情報保全隊に事実上の大きな権限が持たされていた。縦割りの官僚機構の中で、警察が垣根を破って勝手に情報公開をすることは決して許されないし、少なくとも情報保全隊の同意がない内には決して行われない。リーが六ケ所の研究所を襲って多数の負傷者を出し、黒檜を誘拐した挙句、シンガポールに損害を与えた事実は、情報保全隊の匙加減で世に公にするかしないかが決められる。

 

 

「本当に、面白い冗談だわ」

 

 それでも、超然としたウォースパイトの姿勢は何ら崩れることがなかった。グラスに残っていたワインを飲み干し、音もなくそれを置いた彼女は鈴谷の背後に目を向ける。そこにあるのはもちろん、シンガポールの新しい象徴であった。

 

「貴女が知っているかは分からないけれど」

 

 遠くを見つめたまま、淑女がそんな言葉で話を再開させる。何を言い出すのかと、鈴谷は耳を傾けた。

 

「私の国の首相の義理の弟がBritish Petroleumに居るの」

「……」

「彼は、最近会社が立ち上げたProjectの責任者に任命された。そのProjectの目的が、North Sea oilの開発よ」

 

 唐突に始まった石油の話。彼女が迂遠なことを言い出したのには何か理由がある。イギリス首相の義弟が石油メジャーに居るという情報は初耳だが、わざわざ口に出したのだから重要なことなのだろう。

 それにしても、「石油か」と思わずにはいられない。最近、その関連で熱い話題と言えば、鈴谷も一つしか思い浮かばなかった。ウォースパイトが口にしたある油田。North Sea oil――北海油田だ。

 1960年にイギリスが開発を始めたこの新しい油田は、それから間もない1963年に付近で客船が深海棲艦によって撃沈、220名が死亡するという大惨事が発生したことによってその開発が無期限休止となっていた。これ以後、長らく北海は深海棲艦が跳梁跋扈する危険な海域となり、海を渡ることはおろか、その上空を飛行することさえ禁じられる有様であった。

 一方で、開発が途中で放棄された北海油田は膨大な埋蔵量があると目されており、これを惜しんだ人類側による北海の制海権奪還が以後数十年試みられることになる。この戦いが決着したのはつい最近のことで、欧州近海を巣食っていた深海棲艦がようやく駆逐され、北海は人類が進出してもいい海に戻ったのだった。

 もちろん、長い時間と決して少なくない血を消費して取り戻せた利権を人類が手つかずのままにしておくはずがない。待っていましたとばかりに国際石油メジャーが北海に殺到し、現在油田の開発プロジェクトが次々と立ち上げられ、多数が進行しているところだ。

 当然、その中には日本の商社も含まれている。金の臭いに鋭い彼らがこんな大きな獲物をみすみす見逃すはずがない。だが、手の早い国際石油メジャーが既に牛耳りつつある中、出遅れた日本企業に出来るのは、彼らとパートナーシップを締結して開発事業に何とか参加させてもらうことだけだった。

 

「貴女の国の会社がNorth Sea oilの利権を欲しているのは知っているでしょう? だけど、それはどうしてだと思う?」

「お金が欲しいから……ってわけじゃないよねぇ」

「もちろん、それもあるでしょう。でも重要なのはそんなことではないわ。重要な事柄は、私たちの国はOPECに参加しないということよ」

 

 そこまで言われれば、鈴谷もウォースパイトの言わんとしていることを理解出来た。

 現在、世界の原油のほとんどをOPEC11か国が産出している。当然、この主権国家による巨大カルテルは原油価格の安定と自分たち産油国の利益を守るために協調減産を行い、高値維持に努めていた。世界中で深海棲艦との戦争が続いている以上、石油の需要は常にひっ迫している状態であり、主たる消費国であるアメリカやEU、そして日本と、OPEC各国との間で増産についての応酬が繰り広げられるのが常だった。対深海棲艦戦争において戦費高騰の要因の一つがOPECの協調減産による原油価格の高止まりであることは間違いない。

 だからこそ、OPECに関わらない新しい産油地として北海に脚光が浴びせられているのである。北海油田の主な開発者となる欧米系の石油企業やイギリス、ノルウェーなどの新しい産油国は今までOPECに散々煮え湯を飲まされてきており、その強力な価格決定力を削ごうとするだろう。高止まりする原油価格とそれによる戦費高騰にあえぐ日本としては、北海の新しい石油は喉から手が出るくらい欲しいものに違いなかった。しかも、そこに開発利権まで絡んでくるというのであれば、それこそ挙国一致の姿勢で北海に資本をつぎ込むだろう。

 問題は、遠く離れたところに存在する日本が北海で石油と利権を受け取れるかどうかはイギリスの匙加減で決まるという点にあった。つまり、今、日英関係が悪化するようなことがあれば、日本はこの魅力的な油田に対する優位な権利を手に入れられない恐れがある。普段国民がガソリンスタンドでいくら支払っているかを気にも留めたことがない政治家も、さすがに北海の石油利権を失うような愚は犯さないだろう。そして、文民統制の原理がある限り、軍人たる鈴谷たちは決して政治家には逆らえないのだ。

 

「それともう一つ。クリスティーナはBPのこの新しいProjectに出資している」

「なるほどね。そういうことかぁ」

 

 どうしてクリスティーナ・リーもとい、レミリア・スカーレットが日本やシンガポールであれほど好き勝手に振舞い、暴れ回ることが出来たのか。自分を追ってやって来る日本人たちを歯牙にもかけない素振りを見せたのか。これが理由だったのだ。彼女は周到に自分の身を護る手段を講じていたし、それによって日本側が手出し出来ないこともきちんと計算していたのである。シンガポールはコモンウェルスの国で、もうとっくに根回し済みだろう。

 やはり、巡洋艦では戦艦を落とすのは無理なようだ。こっちの砲撃は向こうには効かず、逆に相手の砲撃はこちらに致命傷を与え得るほどに強力だ。

 

「あーあ。や~っぱ難しいよねぇ」

 

 姿勢を崩し、両手を上げて鈴谷は背もたれに身を預けた。降伏の合図。ウォースパイトは微塵も表情を変えずに静かに見つめている。

 村井は何とかウォースパイトを懐柔したいようだが、考えてみれば百戦錬磨のこの英国人が簡単になびいてくれるわけがない。それこそ、彼女を落としたいなら旧知の仲で頭も切れる榛名を使うべきだったのではないだろうか。鈴谷ではなく榛名が同じことを言ったのなら、ウォースパイトもまだ取り付く島くらいはあったかもしれない。

 だがここに呉鎮守府の女傑は居ないし、彼女を頼ることも出来ない。プランAは失敗だ。

 

 

 

****

 

 

 

 

「これは個人的な興味なんだけどさ、何でクリスティーナ・リーに協力してるの?」

 

 職務上、スカーレットを追うことになったのはかつて彼女の“部下”だった艦娘の失踪にスカーレットが関わっている可能性が疑われた時からだが、鈴谷は個人的にも彼女に興味を寄せていて、しかもそれはより以前からのことだった。ある時、水上機の運用方法の拡大を模索していたところに、とある航空戦隊が前代未聞の夜間航空攻撃を成し遂げたという情報を手にしたのだ。

 

 それは当時夜戦において航空戦力を活用する方法を探っていた鈴谷にとって、降って湧いたような僥倖だった。調べてみると随分アナログで荒削りな方法だったが、インスピレーションは十分にあった。全天候型の無人偵察機に航空隊を道案内させ、探照灯で標的を照らして攻撃を誘導するという原始的な手段だったが、卓越した空母娘の操縦術と息の合ったコンビネーションが奇跡的な結果を生み出すことになった。

 公的に記録が残っているもので、夜間航空攻撃を成功させた事例は今のところこれしかない。故に、鈴谷は記録を徹底的に調べ上げた。

 この戦闘でのやり方は、司令官を乗せた船が敵艦隊に追撃されている中で、ほとんどその司令官の思い付きで試された方法だったから、これをそのまま活用することはないだろう。うまくやればもっとスマートに出来るはずだと考えたのだ。

 無論、本人たちに聞くのが一番いいやり方だったのだろうが、生憎実行した一航戦は壊滅し、当時彼女たちを指揮した司令官は追い出された後。それがレミリア・スカーレットだったのだ。他に類を見ない横文字の名前が気になった。

 さらに調べてみれば、彼女はとても奇妙な経緯で日本にやって来ていることになっているのが分かった。疑問点を追求してみると、さらにいくつかの情報を入手出来たのだが、最終的に鈴谷がこの経緯の全体像を把握したのは、偽物の提督が鎮守府を追い出され、内部調査が行われてからだった。

 

「今から二年くらい前に、日本のある鎮守府にイギリスからやって来た『レミリア・スカーレット』っていう名前の女が指揮官として着任したんだけど、これがまた胡散臭い奴でね。英国貴族の子女って言うじゃん? その英国貴族の子女はイングランドの出身で、出身地がウィンダミア。割りと、バローの近くなんだよねぇ。しかも、ご丁寧なことに『ウィンザー家の人と遠縁である』っていう“血統書”まで付いていたんだって。そこまでされたら軍も受け入れるしかなかったんだけど、無理してねじ込んだ形だったからおかしなことだらけになっちゃった。例えばホームページでは参謀長のはずの人が司令官になっていたり、レミリア・スカーレットのことを知らない将軍がいたり」

 

 二人の間のテーブルの上には空のグラスしかない。ウォースパイトは飲み干したワインの追加を頼まなかったし、鈴谷もビールを継ぎ足そうと考えなかったからだ。バーの店員は穏やかではないテーブルの雰囲気を察して近寄ろうともしなかった。この店は景色はいいが、店員の対応があまり良くない。少なくとも、日本の丁寧なサービスに慣れている鈴谷の目にはひどく素っ気なく映った。もっとも、この国ではこれが当たり前なのかもしれない。

 何よりビールは薄くてあまり酔った気がしなかった。

 

「普通ならそんな“血統書”を用意するのなんか無理。だけど、王立海軍にはそれが可能な人が一人だけ居た。その人はレミリア・スカーレットを自分の遠縁ということにして、権力とコネを使って日本にねじ入れることが出来たんだ。ねえ、――さん」

 

 鈴谷はウォースパイトの本当の名前を呼んだ。彼女が生まれた時に与えられた名前。艦娘として覚醒する以前に名乗っていた正式な名前。ファミリーネームのない、長ったらしい名前。

 ウォースパイトは顕著な反応を見せない。目を閉じて黙り込んでしまっている。話を聞いているのか、それとも聞いているふりをしているのかは定かではないが、前者だと信じて鈴谷は続けた。

 

「日本と英国の海軍には日英同盟の時代からの長い付き合いがある。お互いにお互いの国に行ったことのある軍人なんてたくさん居るし、手の届く範囲で日本へのコネを探そうなんて思えばいくらでも出来たはず。

実際それは容易くて、貴女はまんまと偽提督を潜入させることに成功した。しかもそのレミリア・スカーレットが行った先が、同郷の『金剛』が居る鎮守府だったんだから、もう出来過ぎだよね」

 

 戦艦が目を開く。それを見て、鈴谷は確かな手ごたえを感じ取った。

 一見、平然として表情をいささかも変えていないように思えるが、ゆっくりと開かれた目蓋の奥に、隠し切れない敵意の光が宿っているのを見逃さなかった。ここに来て初めて見せた人間らしい反応。

 

 スカーレットが潜入していた鎮守府には当時、加藤少将という幕僚長が所属していた。彼はレミリア・スカーレットを正規の司令官ではないと断じて金剛や赤城と結託し、不届き者を追放した張本人である。まあ、追放と言っても、格好付けのために報告書にそう書いただけで、実際のところは捕まえようとしてまんまと逃げおおせられてしまったのだろう。秘書艦でありレミリア・スカーレットの片腕だったはずの赤城をどうやって寝返らせたのかは気になるところだが、真実は忘却の彼方にある。つまりかつての赤城である黒檜が忘れているだけなのだ。

 黒檜は、というより赤城は、レミリア・スカーレットの鎮守府の生き残りである。当人は深刻な記憶喪失のために情報を引き出す対象には今のところなっていないが、思い出してくれさえすれば色々と聞きたいことがある。だがそれはすぐにどうこう出来る類のものではない。まず集中すべきは目の前のウォースパイトだ。

 

「レミリア・スカーレットは逃げた後の行方が分からなかったんだけど、つい最近別の名前で表に出て来た。『クリスティーナ・リー』って名乗りながらね。あなたとは昔馴染みで、随分と仲良くしているみたいだけど、何でそんな仲良しなのかなって気になってさ」

「仲良し、ね……」

 

 意味深に呟き、ウォースパイトは両腕を腹の前で交差させて天を仰いだ。一秒、二秒そうやってマイセンのような白い喉元を鈴谷に見せつけた後、彼女は顎を下ろし、やたらと低い声で話し始めた。

 

「私とレミリアは仲良しや友人関係ではないわ。適切に関係性を言い表す言葉が見付からないけど、そんなに友好的なものではないことは確かよ」

 

 彼女の話には大いに興味をそそられるが、何よりも鈴谷はウォースパイトが質問に答え始めたことに驚いていた。先程までの様子を見るに、どうあっても口を割りそうになかったので、ダメ元で何かリアクションを得られればいいとしか考えていなかったのだが、意外や意外、ウォースパイトは鈴谷の望むように答えてくれている。声が低く聞き取りにくいのもあって、自然と身体がテーブルの上に乗り出した。

 

「昔、レミリアがWindermereの近くに住んでいたのは真実よ。今はもうそこには住んでいないし、それどころかEnglandからも去ってしまったけれど、それまでは彼女は非常に恐れられる存在だった。あまりにも強大な力を持つ故に。

私の国の政府は今でもその力を恐れている。自分たちにそれが振るわれればひとたまりもないことをよく理解しているから。けれど、ひと度他人に、特に連合王国に害を与える何者かにその力が振るわれるならば、それは大いに私たちの力となるでしょう。

利用出来るなら、そうするに越したことはない。そして実際にレミリアの力を必要としたことが過去に一度だけあったわ。それが、Battle of Britainの時。Naziの爆撃に喘ぎ、奴らの上陸を恐れていたSir Winston Churchillは、もしもそのような事態になった場合、レミリアに力を貸して欲しいと頼み込んだ。レミリアはこれを承諾して、もし本当に連中がブリテン島の地を踏んだ時には、彼女が奴らを撃退することが約束された。当時はそこまで逼迫していたのよ」

 

 ナチス・ドイツのイギリス本土上陸作戦を「アシカ作戦」と呼ぶ。実際にドイツがそう名付けたからだが、これは作戦計画だけで実行に移されることはなかった。ドイツ空軍が制空権を、ドイツ海軍が制海権を、それぞれ確保することが出来なかったからだ。しかし、もし仮に当時のドイツが作戦決行に必要なそれらの条件を達成してしまったとしたら、まだソ連侵攻を始める前で、国内のリソースを対英戦のみに注ぐことが出来たドイツを、イギリスは押し留めることが出来なかっただろう。後世の人々がそう考えるのだから、当時イギリスを率いていたチャーチルの頭は危機感で一杯になっていたに違いない。

 ウォースパイトの言が正しいなら、スカーレットの力は恐れられると同時に、最悪の事態に陥った時の保険としての働きを期待される程に強大だったということになる。「困った時の神頼み」ならぬ、「困った時の化け物頼み」と言ったところか。本当にそれ程逼迫していたということでもあるし、当てにされる程強かったということでもある。

 その強大な存在が、戻って来たのだ。往時を直に知る人物はイギリス政府内でももう居ない。だが、戦後生まれのウォースパイトが大戦中のエピソードを知っているところを見るに、知識の継承は為されているようだから、イギリス政府としてもスカーレットの帰還は心休まらぬ事態であったのだろう。

 だから、この戦艦や、あるいはその背後に居るイギリス政府はスカーレットに協力するのだろうか。

 

「私の血筋は知っているわね。艦娘になったくらいだから分かるとは思うけど、私の家系は一族の中でも末端に位置していた。血統は良くても、それ程重要ではなかったの。だから、代々私の家系にはある役割があった。それが、レミリアとの折衝役としての役割よ」

 

 レミリア・スカーレットは過去幾度となくイギリスで暴れ、その度に膨大な犠牲が出た。人間はどれ程の軍勢を送り込もうとも、どんな実力ある聖職者を連れて来ようとも、ただ一度も彼女を押し留めることは出来なかった。その内に誰もが彼女に抗うことを諦め、全ての言に従い、ただひたすら怒りを買わぬようにやり過ごすようになっていく。それは時の国王も同じであった。

 国の安定のために、吸血鬼を刺激してはならない。求められればすべて答えなければならない。欲しいと言った物を差し出さなければならない。彼女の機嫌を損ねぬよう、そして人間が二度と彼女に抗わぬという“忠誠心”を持っていることを証明するために、国王は自らの一族に連なる者を一人、人質としてスカーレットに差し出すようになった。

 本家筋から最も離れた分家。形式上は王位の継承もあり得るとされているが、実質的にその望みがない、普通なら下野させるような末端の家系を、その人質に宛がったのである。血は薄いとは言え、君主の血筋の者。形だけだとしても、吸血鬼のプライドを傷付けぬ身分の人質だ。この人質を入れた効果は確かにあって、吸血鬼は徐々に暴れることがなくなっていった。

 

「人が長く生きていけば落ち着きを身に着けていくように、レミリアも時代が下るごとに大人しくなっていった。私の祖父の代からは人質という意味は薄れ、政府との連絡や折衝と、茶飲み相手を兼任するような状態になっていたの。父も、私もそうだった。特に、私には同性だからか懇意にしてくれたわ。私が父から茶飲みの相手役を引き継いだのは五歳の時だったから、彼女にしたら新しい友人を得たような感覚だったのかもしれない。

けれど、幼い頃の私でも、彼女が自分とは違う何かであると察していた。隠そうとしても消えない血の気配を感じ取って、私は彼女が怖くて怖くて仕方がなかった。父も表面上は友好的に接しながらも、いつも怯えていたわ。それも私は感じていたから、尚のことレミリアを恐れたのよ。彼女を怒らせてはならない。彼女の言葉を否定してはならない。今はそれ程でもないけれど、昔はそんな強迫観念のようなものに憑りつかれていた」

 

 でも、恐れは当然のことだった。

 

 ウォースパイトは言う。似たようなことを、博麗霊夢という少女も言っていたことを思い出した。

 

 実を言うと、鈴谷はここに来る前、幻想郷から来た二人の聖職者の少女たちと再度の情報交換をしていた。特に昨晩の戦いでは、二人にとっても不可解なことが続いていたらしく、少しでも状況を正確に把握するためにお互いに知っていることを打ち明けている。曲がりなりにも国家公務員の一員である鈴谷は職務上知り得た情報をおいそれと外部の者に明かしてはならないのだが、二人の少女たちとの関係は村井にさえ報告していない、完全に独断専行で維持しているものだった。

 鈴谷はスカーレットが東北地方にあった鎮守府に潜入していた時に何をしたか、そしてその鎮守府が深海棲艦に強襲された日にどうやってこれを防いだかを、考察も交えながら語った。いずれも機密情報だが、構いはしなかった。時にリスクを冒さなければ得られない情報というのも存在するのだ。

 無論、鈴谷から語るばかりではない。博麗は、昨晩のスカーレットの力は異常だと、明確に感じていたらしい。特に、巨大な槍の投擲によって引き起こした大爆発は今まで見たこともないほど力が収束していたものだったと。東北の鎮守府を襲った深海棲艦を消し飛ばしたのも、同じ技ではないかと東風谷が指摘したので、そうかもしれないと鈴谷も頷いた。あの威力なら確かに強大な深海棲艦の艦隊を十把一絡げにしてあの世まで吹き飛ばせてもおかしくはない。

 普通、レミリア・スカーレットのような妖怪や怪異、あるいは祟り神は、人々から畏れられれば畏れられる程、その力を増していくものだと、博麗は解説した。スカーレットは元々幻想郷のパワーバランスを担う一角と認められるくらいだから、彼女に対する畏れもまた相応に大きかったはずである。それは今のウォースパイトの話によって裏付けされよう。七つの海を支配し、帝国主義を極めた大英帝国が、機嫌を損ねることさえ恐れた相手なのだ。力があるから畏れられたのか、あるいは畏れられたからこそ力を得たのか、どちらが真実かは分からないし、重要ではない。それはそういうものだ、と巫女は説いた。

 その上で昨晩のことを考えると、スカーレットに対する畏れが増したのでなければ、あれだけの力は持ち得ない。だが、長らく「こちらの世界」から離れていたスカーレットが、今更人々にそんな畏れられるものだろうか。博麗も東風谷も、そこが引っ掛かっているようだった。

 イギリス政府にしてみたら、居なくなったと思った吸血鬼が今頃になってひょっこり戻って来て、迷惑千万に違いない。ただ、この吸血鬼の存在は秘匿されていたし、仮に公開したところで人々が簡単に存在を信じるはずもない。妖怪は自分に対する畏れが広まれば広まるほどその力を増していくというのだから、ごく一部の限られた人間だけが畏怖していても大して強くはならないらしい。

 博麗たちはこの謎を探ってみると言っていた。鈴谷は、スカーレットの真意を量ることに専念する。

 

「私自身、レミリアの振るう暴力を直接目の当たりにしたことはないわ。言い伝えはうんざりするくらい聞いてきたけれど。

そこで貴女に尋ねたいのだけれど、貴女は昨晩、レミリアが戦うのを見たはず。どうだった? 彼女の強さは」

「……控えめに言って、とんでもないものだったよ」

「そうでしょう。艦娘では敵わないはずよ。昨晩レミリアに対抗し得た存在が居るとしたら、貴女と行動を共にしていた少女たちくらいかしら?」

 

 何で知ってるの? と思わず聞き返しそうになるのを堪えて、表情が崩れないように内心を落ち着ける。博麗と東風谷との関係は一切秘密にしているつもりだったのに、既にウォースパイトに知られているとは思いも寄らなかった。だが、よくよく考えてみると、ウォースパイトにそのことを教えられたのはスカーレットくらいなものだろう。何しろ、一緒に行動しているところを彼女は見ているはずなのだ。伝わっていても不思議ではない。

 

「もう知っていると思うけれど、彼女たちは私たちとは違う世界に生きていて、違う法則に支配されている。私たちが忘れ去った物、私たちが否定した物。それが彼女たちの世界には存在する。そこは私たちからすれば全く異なる世界。

中でも、レミリアは異質な存在よ。彼女には特異な能力がある」

「能力? それって、魔法が使えるとかそういうこと?」

「違うわ。レミリアは色々なことが出来るけれど、そのほとんどは『吸血鬼』という種族に裏打ちされているか、彼女自身の経験と努力によって獲得したかしたものよ。でも、レミリア個人が持っているその能力はそれらとはまるで異質なもの。彼女のみに宿った力。仮に彼女と同じ吸血鬼が居るとしても、決して真似は出来ない。その力とは、『運命を操る』というもの」

 

 普段の鈴谷なら、大真面目な顔で「運命を操れる」などと言われたら、その瞬間に吹き出していただろう。いくら何でも荒唐無稽に過ぎる。冗談にしても、ひどくチープな出来で、笑うとしても「嘲笑」の意味での笑いしか出て来ない。

 ただ、今はそんな風にはならなかった。というのも、ウォースパイトの話に集中し過ぎていたからだ。もちろん、戦艦は秀逸な本場仕込みのブリティッシュ・ジョークを披露したわけではないし、イギリス流のアイロニックなメタファーを口にしたわけでもない。あまりにも現実離れし過ぎていて、脳の認識がついて行かなかったのだ。話をしている途中に、突然学者に難解な専門用語を差し込まれた時のような感覚に似ているだろうか。意味を理解しようとして、しかし出来ず、脳が一瞬フリーズする。

 

「分からない、という顔をしているわね。でも、安心して。私自身も理解をしているわけではないから」

 

 と、言った本人でさえこんな調子だ。

 

 では、「運命を操る」力とやらは、一体何なのだ? 

 

「問題は、まさにそこにあるわ。あれだけの力を持った存在の固有の能力が、“一体全体何なのか分からない、ひどく抽象的なもの”ということ。分かる? 相手の手の内が分かれば、対処のしようはある。けれど、それが分からなければ対策も対応も不可能よ」

「嘘じゃないの?」

「嘘? レミリアに、そんな嘘を吐く理由なんてない。虚飾する必要もないほど強い。それに、私は一度だけ彼女の能力を体験したことがあるわ」

「体験?」

「そう。体験よ。言葉選びは間違っていない。それは、こういう話よ。

私の父は、もう死んで十五年になるけれど、晩年は癌に侵されていたの。発見された時には既に全身に転移が始まっていて手遅れだったわ。私がそれをレミリアに伝えたら、彼女はこう言ったの。『彼には良くしてもらった。癌の苦しみは長引くと聞くから、せめて苦しまずに死ねるように死因を変える』とね。

実際に、父は癌では死ななかった。自宅での療養中に、私の目の前で階段から落ちて首の骨を折り、死んだの。あまりにもあっけない最期だった。レミリアにそのことを言うと、『一瞬だったでしょう』と返って来たわ」

 

 眉唾のような話だが、ウォースパイトは嘘を言っているようには見えない。彼女の父親の病気と死因は、後で調べれば裏付けが取れるだろう。もっとも、ウォースパイトなら調べて分かる範囲のことで嘘を吐くような浅慮なことは言わないだろうから、父親が事故死したのは事実とみて間違いない。

 スカーレットの言ったことが本当なら、この吸血鬼は人間の死に対して介入し、癌で苦しんでいた彼を介錯したことになる。ウォースパイトは実際にそうだったと信じ込んでいる様子だが、スカーレットが事実について都合の良い解釈を勝手に述べただけかもしれないし、記憶違いを起こしているだけかもしれない。そして、確かめる術もない。ましてや、この真偽不明な話が「運命を操る」力とやらの実証であると言われても、鈴谷からすれば到底肯定出来るものではなかった。

 

 けれど、本当にそんなことが可能であるのだとしたら? 「運命」などという不確かな物を操作し、他人の人生を変えることが出来るなら? 

 

 それは最早、神にも等しい力ではないだろうか。理屈も何も、あったものではない。

 

 

「信じられる? 信じられないでしょう?」

 

 戦艦は小さく首を傾げた。問い掛けに、鈴谷は頷くしかなかった。

 

「私たちは深海棲艦という既存の生物学理論では説明の難しい存在を日常的に相手にしているから、現代科学から外れた事象を前にしてもそれを頭ごなしに否定することはない。実際、貴女はレミリアのことを深海棲艦の延長線上にあるものとして捉えているようね。艦娘であるならそういう捉え方になるのも仕方がないことではあるけれど、はっきり言ってそれは誤りよ。あれは深海棲艦なんかと同じ軸で見ていいものではない」

 

 ウォースパイトの言っていることはよく分からない。スカーレットは宇宙人か何かとでも言うのだろうか?

 吸血鬼と深海棲艦が全く異なるものだというのは、最初に聖職者二人から説明を受けた時にそう認識したし、今までその認識の上で行動してきた。深海棲艦は、現代科学でも解明されていない「新種の生物」であって、吸血鬼は伝説の存在だ。

 それをウォースパイトに説明すると、芳姿の艦娘は頷いた。

 

「そう。やはり、思った通り」

 

 ただし、彼女が頷いたのは鈴谷の言を肯定したからではなく、自らが口にした通りだったことを確認したからだった。

 

「貴女はレミリアを、『この世に存在する不思議』として捉えているのよ。仕方ないことだとは思う。何故なら、レミリアは元々この世界に存在していたし、今も存在し、“人間”として活動しているから。けれど、この認識は、本来は誤りよ。

彼女は存在してはならないモノ。この世にあってはならないモノ。世界に否定されたということは、世界に存在することを許されなくなったということ。貴女は、どうすればレミリアを捕まえられるかと考えているようだけれど、根本的にそれは間違っている。彼女に、私たちの常識は通用しない」

「常識が、通用しない?」

「そう。彼女の世界にはその世界なりの理屈があるのでしょう。けれど、それらはきっと私たちの理解可能なものではないに違いないわ。

レミリアが暮らす『Genso-kyo』という世界は、私たちが想像するよりももっと異なる世界でしょう。何故なら、私たちは私たちの暮らすこの世界を基準にしてしか想像力を働かせることが出来ないから。四次元の世界を想像しようとしても、その景色を思い浮かべることが出来ないのと同じ」

「……」

「例えて言うなら、そうね。私たちが今居る世界は海の中よ。『常識』という名の水が当たり前に存在する場所。私たちの『常識』は『科学』によって作られている。私たちの周りで起こる事象は、ほとんどに合理的な説明を付すことが可能よ。『科学』で説明出来ることがありふれているとも言える。未だ説明出来ないことも、単にそうするに十分な知識が不足しているというだけ。

では、逆に魔法はどう? 私たちが魔法という単語を思い浮かべた時、私たちはそれが存在する世界を想像しなければならない。けれど、その『想像』した魔法は、本当に魔法なのかしら? 別世界に実在する魔法が、私たちの『想像』から乖離していないなんて、一体誰が証明出来る? 出来るわけがない。何故なら、そんなものは身の回りにないから。魔法が存在する世界を説明出来るなら、それは魔法でも何でもなく、ただの科学かその知識を応用した技術よ。

魚にとって、自らの周りに水が存在するのは当たり前。彼らにとって、それが『常識』よ。裏を返せば水の中に囚われているとも言えるわ。水の中でしか生きられないということは、水の外は別の世界ということ。だから外のことは分からない。魚たちも同じように空気に満たされた空間を想像するしかない。けれど、その『想像』によって実際に空を飛んでいる鳥の姿を正しく思い浮かべられているかと言えば、きっとそうではないのよ」

「面白い例えだね。じゃあ、レミリア・スカーレットは空を飛んでる鳥だっていうの?」

「そうよ。彼女の姿を正しく知るには、肺を獲得して水の外に出られるようにならないといけない。空の下から見上げたなら、きっとその姿も目に映るでしょう」

「不思議を見るには、不思議の世界にいかなきゃいけないってこと?」

「その通り。彼女を理解したいのなら、今のこの世界の『常識』を捨てる必要がある。『科学』に捕らわれていたままでは、レミリアを見ることは出来ない」

 

 ウォースパイトの表現を借りるなら、鈴谷は今まで「水の外」の世界を見ることがなかった。その存在さえ知らなかったのだから当然だ。

 だが、今や「水の外」があることを知ってしまった。そこに空気があって、水中とはまったく別の世界が広がっていることを知った。空の上を鳥が舞い、風が吹き、底抜けの青空が天を形成しているということを、例えそれが伝聞であったとしても、鈴谷は知覚したのである。

 博麗や東風谷から幻想郷の説明を受けた時も、吸血鬼の桁違いの力を目の当たりにした時も、どうしてかしっくりと来なかった。だが、ウォースパイトの言う「水の外」の世界という考え方は、奇妙なことにすんなり受け入れられた。

 幻想郷から来た二人の少女は同じ人間なれど、根本的には異世界の住人である。物事の捉え方、考え方、とりわけスカーレットに対するそれが、鈴谷とは根本的に異なっている。特に博麗とはその乖離が顕著であると感じていた。東風谷は元々こちらの世界で暮らしていたと言っていたし、なるほどある程度こちらの技術や社会、文化について理解があるようだったが、二つの世界の差についてそんなに深い議論を交わしたわけではない。あくまで、鈴谷にとってこの二人は情報提供者でしかないのだ。

 そして、スカーレットの力そのものは、あまりに強烈過ぎて、まともに受け止め切れなかった。巨大な爆発も、壮大な弾幕も、“何かそうなる理屈があって”吸血鬼が作り出したものなのだろうという漠然と考えるしかなかった。むしろ、そのことについては博麗や東風谷が詳しいのだから、スカーレットがどういう力を扱えるようになっているのか、その分析は二人に任せてしまおうとさえ考えていた。そして、理屈が分かれば対処法もおのずと導き出せるだろうとも。

 

 昨晩、鈴谷は初めて「幻想郷」の技術を知り、それを実際に体験した。常軌を逸脱したそれらに対して驚きながらも、“そういうものもあるんだ”と捉えた上で行動した。だが、ウォースパイトに言わせるなら、そうした捉え方は誤りなのだ。スカーレットは、そもそも鈴谷の理解の範疇外に存在している。少なくとも、「幻想郷」を知らぬ鈴谷に、吸血鬼を理解することなど叶わないと宣う。同時に、それらはこの世界に存在してはならないものなのだと言う。

 

 

「世界は水の中だけじゃない。私たちの知っていた水中という世界は、全世界の半分にも満たない空間だったの。『科学』というのは、私たちが思っているほど一般的ではなかったわ。

そして今、私たちの世界には私たちの知らない世界からやって来た、本来存在するべきではない来訪者が紛れ込んでいる。

――レミリア・スカーレットとは、そういう存在よ」

「それってつまり、あの吸血鬼はこの世に居てはならないから、排除するべきってことかな?」

「究極的には、その通り。あってはならないモノがここにあるのだから、それは世界にひずみを生み出すわ。けれど、実際に彼女をこの世界から追い出すのは難しい。はっきり言って、彼女を妨げるのは無謀な挑戦でしかない。かつてと同じく、この世界に強者として君臨しているレミリアを打倒する手段はないに等しいわ。しかも、単に力が強いだけでなく、狡猾で、柔軟性があって、何よりこちらの『常識』が通用しない。これでは手の打ちようがないというものよ」

「常識が通用しない、ねぇ……」

 

 戦艦の言葉を口の中で転がすように反芻する。本当だろうか?

 スカーレットは何かしらの方法で「緊急修復材」を製造している。今のウォースパイトの話を聞くに、それも恐らく「幻想郷」の技術を用いて成したものだろう。ただ、タネが何であれ、「緊急修復材」が戦場に赴く日本を含むすべての国の艦娘にとって大いに役立っていることは紛れもない事実だ。一方で、秘匿されているものの彼女が日本に対して有害な行動を起こしたことも揺るぎようのない事実である。とはいえ、現時点では形式的には彼女はまだ日本の「敵」ではない。

 ただし、形式はあくまで形式である。防諜組織である情報保全隊としてスカーレットの調査を行うということは、もっとかみ砕いて言うと、スカーレットの弱みを探るということに他ならない。すなわち、スカーレットを潜在的な敵対者として見做し、対立関係が公になる前に脛の傷の位置を把握しておこう、という魂胆なのである。

 故に、情保隊としてはスカーレットについて可能な限り情報が欲しい。それとは別の文脈で、鈴谷個人もまたスカーレットに興味を持っている。

 だが、彼女に鈴谷の知る「常識」はまるで通用しない。それどころか、同じ世界から来たはずの博麗たちでさえ驚くようなことが起こっているらしい。ここまでくると、最早レミリア・スカーレットという存在を計る物差しはどこにもないんじゃないかと思ってしまうくらいだ。正直なところ、鈴谷もスカーレットについては計りかねるところが多々あって、どうにも考えあぐねていたのである。目的は不明、その力の限度も不明、おまけに「幻想郷」の人間にも分からないような強さを発揮しているというのだから、この手の存在と初めて相対することになった鈴谷には到底理解出来るものではなかった。

 言うまでもなく、「幻想郷」それ自体が鈴谷の知らない未知の世界だ。水の中とは別の、空気の中の世界となる。そこに水の中では考えられない奇想天外な何かが存在していようとも、「幻想郷」ではそれが当たり前なのだ。

 

 しかし、まったく理解不能な世界なのだろうか? 非科学的であるということは、理解不能と同値ではないのではないだろうか? 

 

 現に、水の中に住みながら空気の世界から来た住人と仲良く付き合っている物好きが居るじゃないか。本人たちの感情はどうであれ、ウォースパイト(とその背後に居る人間たち)とレミリア・スカーレット一味は明らかに協力関係にある。戦艦は口でこそ「恐れている」などと宣いながら、スカーレットに恐喝や強要されているという素振りを見せていないし、もちろん言及したわけでもない。思うに、彼女たちはスカーレットと手を組む上で何かしらの利益を得ているのではないか? つまり、ウォースパイたちとスカーレット一味の協力関係は“ギブ・アンド・テイク”で、片方が他方に従属しているような上下関係ではない。

 とするなら、仮にウォースパイトが内心本当にスカーレットのことを恐れているのだとしても、それこそ代々付き合いを続けてきた家系である。何かしら、スカーレットとの付き合い方というものを心得ていることは十分あり得た。

 

 確かに、スカーレットは手ごわい手合いだろう。表立って敵対的な関係にはなっていないが、この先そうなろうとならずとも、いずれにしろ彼女と相対するなら手を煩わされるのは間違いない。

 しかし、それが何だというのだ? 理解出来ないわけがない。現に、ウォースパイトよりスカーレットの本質を理解しているであろう“人間”が存在するのだ。こちら側とあちら側で、人間の脳や理解力に顕著な差異があるはずもない。博麗霊夢や東風谷早苗に出来て、鈴谷に出来ない道理はない。何より、欧州棲姫とその隷下の大艦隊を撃滅し、凱旋したポーツマスの軍港で彼女の雄姿を一目見ようと集まった記者や大衆を前にして、「人類の歴史は、常に我々が最終的に困難に打ち勝つことを証明し続けてきた」と言い切った張本人が、目の前に居るではないか。それもたった数か月前のことだ。

 スカーレットこそ、打ち勝つべき困難そのものではないか。鈴谷はそう思わずにはいられない。

 戦艦は、「レミリア・スカーレットに手を出すな」と警告している。だが、彼女たちの関係性がどういうものかによって、その警告のニュアンスは大きく異なるだろう。

 

 

「なるほど、分かったよ。きっと、あいつには鈴谷の想像も出来ないようなことが出来るんだろうねぇ」

「そういう捉え方もあり得るかもしれない。だからこそ……」

「あ、一つ誤解を解いておきたいんだけど」

 

 ウォースパイトの言葉を遮り、鈴谷は細くて肉付きの薄い人差し指を立てて、相手の注意を引き付ける。

 

「必ずしも、レミリア・スカーレットと対立するわけじゃないんだ。むしろ、鈴谷“としては”何かしら得られるものがあったらいいかなって考えてるんだけどぉ」

「彼女と取引をしたいということ?」

「そう」

 

 すると、ウォースパイトはひどく表情を歪めてしまった。今まであまり感情豊かな振る舞いを見せていなかったので、意外と言えば意外な仕草である。

 

「やめておいた方がいいわ。レミリアは、種族としては『吸血鬼』と呼ばれる種族だけど、その本質は天に逆らう魔物。つまり、悪魔よ。悪魔と取引しても、望みが叶うわけではなく、大切なものを奪われるだけという話を、日本では聞かないかしら?」

「『悪魔の契約』ってヤツ? まあ、日本でも有名だよ。でも、鈴谷としては、そこは別にどうでもいいんだけどね」

 

 戦艦はさらに眉間に皺を寄せ、それから徐にテーブルに片肘を突いて顎に手を当てて何事かを考え始めた。ところが、そうかと思えばまたすぐにその姿勢を解いて顔を上げ、こんなことを尋ねた。

 

「ちなみに、どんなことを彼女に頼むつもり?」

 

 それを訊いてくるということは、鈴谷が“本当に”個人的な事情でスカーレットと話をしたい用事があることに勘付いたのだろう。実際、少しそれを匂わすような言い方をしたのだが、やはり聡明な彼女はすぐに分かったようだった。

 職業人として、鈴谷はスカーレットの弱みを探らなければならない。これは軍が、情保隊がそのような方針をもって動いているから、そこに所属している鈴谷も共有しなければならない目的である。

 だが、それを差し引いても、鈴谷にはスカーレットを追う理由があった。それも、可能な限り穏便な方法で、だ。

 さほど強い理由ではない。期待を寄せているわけではない。ただ、博麗や東風谷と出会い、彼女たちからこの世界にはない摩訶不思議が「幻想郷」にはあって、レミリア・スカーレットという吸血鬼は聖職者の二人でさえも止められないくらい強大な存在に膨れ上がり、ウォースパイトから「水の外」の世界が広がっていることを聞かされた。だから、ふと思ってしまったのだ。

 

 もし、そんなことが可能ならばと。

 

 

「こっちの『常識』が通用しないってことは、私たちには考えられないようなことが起こせるってことだよね。だったら、『死者蘇生』とかも出来るのかなあ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――結果から言えば、鈴谷はこの問いに対するウォースパイトの答えを聞くことはなかった。出来なかったというのが正確だ。

 

 ただ、これは彼女の責任ではない。彼女が殊更に鈴谷に対して冷淡だったわけではない。少なくとも、ウォースパイトは何かしら自分の思ったことを述べようとしてくれていた。憂を含んだ視線で航巡を見詰めながら、戦艦は何かを言おうとしたのだ。問題は、そこで鈴谷が視界の端に黒い影を認めたことにあって、もっと言うならその瞬間に心臓を刺すような冷たい殺気を感じ取ったことにあった。

 

 何の予兆もない。あまりにも脈絡がなく、唐突過ぎる出現。自分の左に立った影に対して、鈴谷は可能な限り反射神経を稼働させて、振り下ろされた一撃を椅子ごと反対側に倒れることで回避した。同時に、テーブルを蹴り上げて襲撃者の追撃を妨害したのだから、奇襲に対する反応としては上出来だろう。

 襲撃者が倒されたテーブルに足を取られている間に立ち上がる。向かい合うと、煌々としたマリーナ・ベイ・サンズの明かりに照らされ、その人物の姿が明らかになった。

 

 年若い女。“見た目の”年齢で言えば、鈴谷とそう幾つも離れていないだろう。身にまとうのは西洋風の女中服で、彼女が変わった趣味の持ち主ではないのなら、身なりはそのまま身分を表すものだ。

 

 シンガポールではメイド――外国人家庭内労働者が相当な人数、存在している。何せ、メイド専用の就労ビザが発行されるくらいだ。そこから分かる通り、彼女たちは皆、シンガポールより所得水準の低い近隣国から出稼ぎにやって来た移民である。少なくとも、白人種ではないだろう。それに、今時メイドと言えど、どこぞの国のサブカルチャーのように、“それっぽい”服を着ているわけではない。きっと全員、この暑い国では涼し気でカジュアルな装いで働いているはずである。夜中でもさほど涼しくなるわけではないのだから、一体誰が丈の長いスカートを履き、長袖に手袋までするような暑苦しい格好をするというのだろうか。

 だから、目の前に急に現れた「メイド」はこの国に海外からやって来た身分の高い人物の付き人。

 では、彼女の主人はウォースパイトか? 否、それは違う。もしそうなら、ウォースパイトから制止の声が上がっていいはずである。ついさっきまで、鈴谷と話をしていたし、それが終わったわけでもないのだから。

 制止がなかったということは、鈴谷が思うに、この「メイド」の正体は一つしか考えられない。何より、そうでなければ手に小型のハンマーなど握っていないだろう。

 だが、それにしてはよく分からない武器の選択だ。あんな物で頭を殴られたら、例え女の力であっても脳に深刻な損傷を受けることになる。一方で、当たり所さえ悪くなければせいぜい骨が折れる程度で、瞬時にこちらの動きを止められる武器ではない。これなら、スタンガンやあるいは本物の銃の方が余程脅威だった。何しろ、鈴谷は艦娘であり、しかも今は服の下に艤装の装着部を着けていて、最低限の加護を得られる状態である。ハンマーで多少殴られたくらいでは致命傷を受けることはない。

 それとも、ピンポイントで後頭部を殴り付けられる方法があって、余程の自信を抱いているのだろうか。ただ、それを確認するつもりはなかった。何であれ、「メイド」が鈴谷に対して攻撃の意志を持っているのは間違いないことで、彼女が脅威であるのは紛れもない事実なのだ。脅威はさっさと排除するに限る。

 よって、鈴谷は銃を抜こうとした。そして、それが出来なかった。

 

 ふと、“目を離してもいないのに”、瞬きした瞬間に「メイド」の姿が消える。起こったことを理解する以前の話だった。状況を認識するのが精一杯で、次の瞬間には銃を抜く手に激烈な衝撃を受け、力が抜けていた。拳銃が床に叩き付けられる。その音を認識した時にはもう後頭部に衝撃を受けていた。そう、「メイド」にはあったのだ。ピンポイントで後頭部を殴り付けられる方法が。

 何が何だか分からない内に、意識が遠のく。けれど、そこまでされても気を失わなかったのは、鈴谷が他とは少し違う艦娘だったからかもしれない。すぐにダメージから回復した鈴谷は、あえて殴られた方の手を伸ばし、「メイド」の上着を掴む。意表を突かれた相手の足を払うのは簡単だった。床に引き倒し、組み付いてマウントを取ろうとする。

 だが、「メイド」がやられていたのはそこまでだった。今度は側頭部に強烈な衝撃。意識が飛び、身体が硬直する。それが二度、三度と続けばさすがに耐えることは出来なかった。徐々に意識が遠退いていく。

 

 消えゆく視界の中で鈴谷は思った。

 

 

 

 ――結果から言えば、鈴谷の問いに対するウォースパイトの答えを聞くことは出来なかったが、スカーレット側の明確な回答は得られた、と。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督46 Brain-Machine Interface

ぼくのかんがえたさいきょうのかんむす。


 英国高等弁務官事務所――英連邦諸国間において相互に設置される大使館に相当する在外公館であり、接受国に常駐する外交使節団の長たる高等弁務官が主に執務を行う施設だ。英連邦諸国間において「大使」ではなく「高等弁務官」が置かれるのは、大使が「女王陛下の特命全権大使」という位置付けであるためで、英連邦においては元来が大英帝国とその植民地であったことから、国家元首は英国国王(または女王)であった。今でも英国女王と同一人物を国家元首として戴く英連邦王国とそれ以外の英連邦各国に分かれるが、後者においても慣習的に英連邦からの外交使節団長は「高等弁務官」とされ、在外公館は「高等弁務官事務所」になる。すなわち、「高等弁務官」とは、大使が女王の代理人であることに対し、彼らは「女王陛下の下の政府の代表」ということになる。実際、シンガポールの国家元首は大統領だが、シンガポールと連合王国は高等弁務官を交換している。

 当然、高等弁務官事務所は大使館に準ずる施設であり、その内部は接受国の法が及ばぬ範囲となる。英国高等弁務官事務所は島のやや内陸にある丘の麓に建っていた。シンガポール最大の繁華街であるオーチャードの界隈から西にそこそこ歩いたタングリン通りにあり、周囲には合衆国やPRCの大使館、オーストラリア高等弁務官事務所、ブリティッシュ・カウンシル、そしてシンガポール外務省が立地している。

 

 突然現れて日本の艦娘を昏倒させたレミリアの従者はウォースパイトを高等弁務官事務所まで「護衛する」と告げた。そこに行けば、ウォースパイトは母国から自身に関するあらゆる権利の保護を受けられるためだ。

 正直なところ、ウォースパイト自身はそのようなことは望んでいなかったし、望ましいとも考えていなかった。自分はシンガポールに来てからずっとマリーナ・ベイ・サンズの一室に宿を取っており、母国での煩雑な業務から解放されて優雅なホテル暮らしを満喫していたのだ。植物園のバーで酒を愉しんでいたのは、そこがホテルにほど近く、夜景が素晴らしいからという理由以外になかった。完全にプライベートの時間である。それなのに、何が悲しくて外交官のお堅い面などを拝まなければならないのだろう。高等弁務官事務所に行けば、母国との煩わしいやり取りや手続きが待っているのは目に見えていた。

 それに、あの日本の艦娘は少なくともウォースパイトに対して敵意や害意のようなものを持っているようには見えなかった。彼女の職務は彼女にウォースパイトを然るべき場所へ連れて行くことを要求していただろうが、彼女個人の意思はそこから乖離しているように思われた。だから、少しだけ話を、話さなくてもいい話をしたのだろう。

 結果、彼女は思いがけない望みを口にした。「死者蘇生」。この世に非ざる者たちなら、そのような外法の術を知っているかもしれない。一度死んでしまった者をよみがえらせることがこの世界において不可能で、仮に可能だったとしても禁忌とされているのなら、この世界ではない別の常識の下にある世界の法則なら可能なのかもしれない。「鈴谷」というあの艦娘は、そう考えたのだろう。そう考えるに至る何かを背負っているのだろう。

 ウォースパイトには彼女の背負っているものが想像出来てしまった。仮にも、深海棲艦とは戦争と呼べるほど熾烈な衝突を繰り返している艦娘だから、“ありきたりな”悲劇というものを抱え込んでしまうことは珍しくない。鈴谷もきっとその手合いで、およそ幸福からは程遠いところに居る艦娘なのだろう。

 ありきたりな悲劇。だが、本人にとっては何よりも耐え難い。もう、喪われた命は戻って来ないという諦めが前提にあるからこそ、鈴谷はあんなことを尋ねたのだ。本人も、そのことにあまり期待を寄せていないだろう。レミリアが「死者蘇生」を受け入れてくれるなどとは本気で考えていないはずだ。けれど、思わずそんな妄言に近いことを口にしてしまうくらい、彼女の背負ってしまったものは大きく、重い。

 仮に、レミリアの従者に邪魔をされなかったとしても、ウォースパイトが口にしようとしていた答えは、鈴谷にとって空虚なものでしかなかっただろう。従者が鈴谷を攻撃した時に制止しなかったのも、今大人しく「護衛」されたままなのも、ウォースパイト自身、鈴谷に自分の出した答えを言いたくないからだった。彼女とまた顔を合わせれば、沈痛な問い掛けに対する答えを言わなければならなくなる。それは言いたくないことで、高等弁務官事務所に行くことで身に降り掛かる面倒事と天秤にかけてもなお、忌避してしまうくらい嫌なことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 従者は地下鉄で移動すると言った。ここ数日で覚えたシンガポールの地下鉄網を思い出しながら「地下鉄で行くの? どの駅から?」と尋ねる。

「はい、デイム」恭しく従者は頷いた。女王陛下よりナイト爵を叙勲された艦娘“ウォースパイト”は「デイム」の敬称を付けて呼ばれるに値する。

 

「ベイフロント駅からです。そこからMRTを乗り継いでオーチャードへ向かいます」

 

 MRTはシンガポールの地下鉄のことで、マリーナ・ベイ・サンズ直下にある駅がMRTダウンタウン線のベイフロント駅だ。ここからダウンタウン線に乗り、ニュートン駅でMRT南北線に乗り換えれば次の駅が目指すオーチャード駅である。オーチャードの界隈から英国高等弁務官事務所はいささか離れているが、あの辺りならタクシーが絶えず走っているので足には困らないはずだ。

 この従者はレミリアに付き従っている者たちの内の一人で、主人が最も信頼する手下である。種族を聞けば、驚いたことにただの人間であるという。吸血鬼であるレミリアが“歯形”の一つも付けずに大事に手元に置いておくなど、余程お気に入りなのだろうと思った。実際、彼女は有能な人物で、必要なこと以外喋らないし、主人より前には絶対に前に出ない。名前を聞けば「イザヨイ・サクヤ」と返ってきた。見た目はどう見ても白人種なのだが、日本人のような名前である。聞けば、主人より賜った大切な名前だそうだ。その割に話す英語ははっきりと分かるくらいのスラブ訛りなので、出身は東欧なのかもしれない。

 

 考えるまでもなく、サクヤがウォースパイトを“助けに”きたのはレミリアの指示によるものだった。だが、一体何故? という疑問が生まれる。ウォースパイトには、自分がレミリアの庇護を受け、高等弁務官事務所まで護衛される理由が思い当たらなかった。

 鈴谷は害意を持った相手ではなかったし、仮に日本軍がウォースパイトを何かの容疑で捕縛しようとも、旧知の仲である榛名という頼り先がある。榛名は、彼女が在英日本大使館に駐在武官として着任した当初からの知り合いで、一緒に様々な仕事をする内に仲良くなって今では友人同士と言える関係である。仲間想いであるし、頭が良く、日本軍の中ではかなり権力を持っているから、何かあっても助けてもらえるだろう。よって、何も心配することはないはずだった。

 

「残念ながら、お嬢様は貴女様に差し迫った脅威があると断ぜられました」

 

 しかし、従者は否定する。

 

「日本軍は貴女様を不当に拘束し、重要な情報を搾取しようと目論んでおります。私たちと貴女方の関わり。貴女方にとって特に知られてはならないのは、お嬢様が貴女方の軍事作戦を全面的に支援し、欧州棲姫以下の深海棲艦を壊滅させた先日の決戦の舞台裏です」

 

 植物園の薄暗い遊歩道を早足で進みながら、従者は小さな声で、しかもとても早口で喋った。少しでも離れれば聞き取れないので、必然的にサクヤとの距離は密着と言えるほどに近くなる。人に聞かれてはならない話をしているのだから当然だが、すれ違う人間はほとんど居ない。

 確かに、彼女の言う通りウォースパイトと王立海軍、あるいは英国政府が今最も他人に知られたくない情報は、レミリア・スカーレットという吸血鬼が数か月前の欧州での大海戦を勝利に導いた実質的な立役者であるということである。魔力で構成された竜に騎乗して「流水を渡れない」という吸血鬼の弱点をも超克したレミリアの活躍ぶりは凄まじかった。いや、活躍などという言葉では足らないだろう。ただただ一方的な虐殺であった。深海棲艦はその艦種やクラスに関わらず、レミリアに触れられた傍から沈んでいった。

 深海棲艦の最も恐ろしいところは、いつ、どこに、どれくらいの数、どの艦種・クラスが出現するかが分からないことである。しかし、レミリアが居ればそんなことも事前に分かったし、適切な戦力配置を行うことで最大限の効率で敵を撃破出来るようになった。戦力が足らない戦域があればそこにはレミリア自身が赴けばいい。場合によっては彼女の活動する戦域に艦娘を派遣する必要もない。潜水艦でさえレミリアからは逃げられなかった。堅牢さで悪名高い戦艦棲姫は、不要になった紙を破き捨てるような気軽さで八つ裂きにされた。

 もちろん、こうした出来事は決して表に出されないように厳重に秘匿されている。よって、表向きはウォースパイト率いる欧州連合艦隊が欧州近海と北大西洋から深海棲艦を駆逐したとされているし、歴史に刻まれるであろうこの“事実”を修正する予定はない。実質的にはほとんどレミリア個人の戦果だったとしても、彼女が英雄になることは絶対に起こり得ないことだ。

 仮に、このことが外部に漏れてしまったらどうなるだろうか? レミリアが吸血鬼であるという情報がどこまで人々に受け入れられるかは未知数だが、少なくとも「ウォースパイトらが欧州での戦争を終わらせた」という“事実”を、世界の人々が少なからず疑うことになるのは確実だ。そうなると都合が悪いのは他ならぬ英国政府である。何しろ、欧州と北大西洋から深海棲艦の脅威が消えた今、既に「戦後」の覇権争いが水面下で始まっている。英国政府はその中心にあり、かつての大英帝国の栄光を取り戻さんという大きな野心を胸に、合衆国やロシア、ドイツとの熾烈な競争を繰り広げていた。

 しかし、未だ「戦中」である極東の島国にとっては“遠い国の事情”のはずだし、英国政府としてそれはしばらくそうであって欲しいだろう。欧州での決戦の真実が明らかになるということは、日本がこの競争に参加するということでもあり、「欧州戦線を終結に導いた」という連合王国の偉業が台無しにされるということでもある。

 当然、ウォースパイトもこんなことは百も承知だった。正直、自国政府がパイの奪い合いに勝とうが負けようが興味なかったし、当面の休暇を得られたことに概ね満足して、後は最終的な自分の望み――対深海棲艦戦争の終結――が叶えられればそれで良かった。ただ、だからと言って機密情報を口にするほど愚かではない。それを踏まえた上で先程のサクヤの発言を受け取ると、どこからどう聞いても失言と言うしかない。

 人に聞かれてはならない事柄であるから、ウォースパイトも小声で話した。小声で、不躾なことを口にしたレミリアの片腕を叱る。

 

「私がそんな口の軽い女に見える? レミリアが本当にそう考えているなら、それは大変な思い違いだということを伝えなさい」

「デイム。お嬢様は貴女様に敬意を払っておられます。最大限に。しかし、日本軍の持つ技術は我々の想像を上回る水準にまで至っているのです」

 

 小さくも強い口調で戦艦に迫られても、サクヤは表情を微塵も変えなかったし、声に動揺が含まれることもなかった。伝説の吸血鬼の従者という肩書は伊達ではないらしい。彼女の言葉には何ら迷いが含まれていなかった。不確かなことを言う時に混じる自信のなさも見受けられなかった。つまり、サクヤは日本軍がウォースパイトに与える脅威の深刻さについて強い確信を抱いているのである。

 

「貴女様が不必要なことを喋らないのはお嬢様もよく承知しておられます。ですが、懸念されているのはそのようなことではありません。日本軍は恐ろしいことに、誰かの脳内を直接覗き見る技術を既に手に入れているのです」

 

 サクヤは非常に深刻な表情で語ったが、その内容は信じがたいものだ。彼女の言う「懸念」が、日本人がMRI装置をフラフープ並みに小型化することに成功した、という程度のことであればどれほど安堵しただろうか。

 

「思考の盗聴。あるいは、読心術と呼べる類のものです」

 

 従者は付け加えた。

 

「信じられないわ」

 

 思ったことが素直に口を突いて出る。これがジョークなら、サクヤのジョークセンスは大変嘆かわしい水準にあると言えよう。ジョークでないなら……、現実は大いに嘆かわしいということである。

 

「ブレイン・マシン・インターフェース。あるいは、その中に含まれるブレイン・ストリーミング(脳の読み込み)技術を、彼らは高い水準で既に実用化させているのです」

 

 幻想の世界から来たという少女の口がやたら小難しいことを喋った。

 

 ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)とは、文字通り人間の脳と機械を接続する機器やその方法のことだ。人間が手足を使って操作するヒューマン・マシン・インターフェースと違い、BMIは脳波、あるいは脳の電気信号などを直接機械が読み取り、あるいは感覚器官を通さずに直接脳に情報(刺激)を送り込むものである。まだ研究と開発が始まったばかりの分野であり、BMI用のハードウェアやソフトウェアは試作段階にある。それでも、この分野の研究が将来にもたらす利益は莫大なものと見られていて、投資を積極的に行っている投資家も存在している。事実、ウォースパイトも密かに注目していた。

 今のところBMIに寄せられている期待のほとんどは医療関係者と一部の難病患者、身体障害者らからのものだろう。後天的な理由で半身不随などの後遺症を背負ってしまった人々は機械を通して自らの手足を動かせるようになるし、失明した患者が再び光ある世界を見ることが出来るようにもなる。

 次いで注目しているのは、ウォースパイトを始めとした軍事関係者。パワードスーツや、軍用ロボットの遠隔操作などに応用出来るのではないかと考えている。その点で言えば、艦娘がやっていることは軍事分野でのBMIの活用の想定に近い。艦載機の操縦などはまさに、BMIが目指す軍用端末の遠隔操作そのものである。

 

 BMIには二つのアプローチ――脳内チップを埋め込む侵襲式と頭部に外付け機器を装着するだけの非侵襲式――があるが、前者においては医学的なリスクや人に適用する際の倫理上の問題が付きまとい、後者においてはそのようなリスクや問題点は少ないが、頭蓋骨という「障害物」を通して脳波を読み取ることになるので正確性に難が生じる。いずれにしろ、この分野の研究はまだほとんど進んでいないし、実用化もされていない。少なくとも、ウォースパイトはその認識である。艦娘の艦載機操作方法はBMIへの落とし込みが可能と考えられており、民間の研究機関の依頼に応じて実験に参加したこともあったので(被験者となったのは副官の艦娘だったが)、ある程度BMIについては知識を持っているつもりだった。

 

「先週、私たちが日本海軍の研究施設を強襲したのはご存知ですね」

「ええ。もちろん知っているわ」

「それには二つの目的がありました。一つは、捕らわれていた艦娘を保護・回収すること。もう一つが、彼らが進めているこの研究についての情報を得ることでした。私が仰せつかったのは後者の目的を達成すること。お嬢様と門番が表で人間たちの気を引いている間に施設に侵入した私は、そこで日本人たちが行っている脳の研究の資料を読み漁りました。驚きましたわ。彼らはもう既に脳の中に機械を埋め込み、人の思考を読み込んだり、あるいは何らかの情報を書き込んだりする技術を手に入れていたのです」

「侵襲式の技術を実用化していたということ!?」

 

 サクヤが驚いたように、ウォースパイトも驚かざるを得なかった。侵襲式のBMIが、非侵襲式に比べてあまり研究が進んでいないのは、それが人間を対象にして実験を行うことが出来ないからだ。せいぜいが動物実験を繰り返すくらいで、今の段階で人間を対象とした実験を行うにはあまりにも医学的リスクが高すぎるし、倫理上の問題もついて回る。

 だが、日本海軍の研究者たちはそうした問題を克服して実用化に漕ぎつけたという。母国と日本とで技術者の能力に極端な差があるとは考え辛いから、彼らは何らかの好材料を得て実験を繰り返せたと見るべきだ。そして、ウォースパイトの思い付く限りそのような好材料はただ一つしかない。

 

 生きた、人間だ。

 

 彼らは人体実験をしていたのだ。そうでなければ、侵襲式のBMIを実用化出来るはずがない。時間も、何十年とかけてやってきたわけではないだろうから(そもそもBMI研究が始まったのが、脳波測定技術が確立されてからである)、長くとも十年程度の研究期間だったはずだ。それだけしかない時間でより難しい侵襲式を実用化するには、犠牲を顧みないような非道な人体実験を繰り返すしかないだろう。なにせ、脳を直接弄るのだ。実験体となった人間は死亡する可能性が高いし、良くても後遺症が残ってしまう。

 それが事実なのだとしたら、ウォースパイトやレミリアのことなどより余程大きなスキャンダルである。

 しかし、それは考え辛いと、自分の中の冷静な部分が指摘する。日本のように戸籍制度が確立され、権力の分立と整備された法体系、汚職の少ない法務執行機関を持つ先進国で、人の命を浪費するような人体実験が果たして行えるだろうか? 警察の捜査や内部告発を掻い潜って続けられるだろうか?

 

「いかにも、その通りです」

 

 以上のようなウォースパイトの指摘に対し、サクヤは頷いた。

 

「人体実験は行われていましたが、仮に失敗しても死なないような被験者が選ばれていたのです。そうです。艦娘です」

「確かに、修復材をかければ脳の損傷でも治せてしまう。けれど、数が少なく常に深海棲艦との戦いに追われている艦娘がそんな実験に自分を差し出すかしら? 考え辛いわ」

「いえ、確かに実験に協力した艦娘は存在するのです。それも、貴女様が知っている艦娘ですよ」

「何? どういうこと?」

「たった今まで、貴女様の前に居た艦娘です。デイム」

 

 そう言われて、本当にさっきまで自分の目の前に座っていた艦娘の姿を思い出す。かすかに憂を含んだ瞳。「死者蘇生が可能か」と問うた時の疲れ切った声。ああ、確かに彼女なら自分の身体を人体実験に差し出しても不思議ではないだろう。

 妙に納得してしまって、それを自覚すると胸の内に広がるのは同情と虚しさだった。同じ艦娘として、人体実験に身を差し出すことを選ぶに至った艦娘が存在することに心が痛んだ。彼女のような艦娘が生み出されてしまう現実にも打ちひしがれた。

 

 鈴谷も“ありきたりな悲劇”を抱え込んだありきたりな艦娘なのだ。“ありきたりな悲劇”だから、別に艦娘ではない普通の兵士でも抱え込んでしまうことはあるし、退役した彼らが抱える問題が社会問題化してしまうのもまたよくあること。どこの国でも、どこの軍隊でも、戦争をしているのだから必ず一定数、そういう兵士や退役軍人は生まれてしまうし、艦娘もその例に漏れない。

 軽度のPTSDで済めばまだいい方だ。酷い時は自殺したり、錯乱して周囲を傷付けたり、あるいは死ぬまで悪夢に捕らわれて気が狂ってしまう。もちろん、艦娘だからといってそうならないわけじゃないし、むしろうら若い乙女を徴兵しているのだから、目の前で仲間の轟沈を目にすれば相当な規模でその精神が傷付いてしまう。結果、どこかおかしくなってしまった艦娘が生まれてしまうわけだ。幸いなのは、艦娘はほぼ艦娘だけで行動し戦闘する上、艦娘の轟沈など滅多に起きないから、ほとんどの艦娘が精神を壊さなくて済んでいることだろうか。ウォースパイトだって人死にを見なかったわけではないが、精神構造が強かったのか、自分が狂ってしまうようなことはなかった。辛い思い出は、友人への手紙にしたためることで遠くに居る彼女と分かち合えた。

 鈴谷は不幸にもウォースパイトのように強くもなければ、辛さを分かち合える誰かを持たなかったのだろう。あるいは、その誰かを喪ってしまったのかもしれない。

 いずれにせよ彼女もまた、他の“ありきたりな悲劇”に遭遇してそれを上手く消化出来なかった兵士たちのように、どこかをおかしくしてしまったのだ。幻の力に縋ってでも取り戻したいくらい大切な人を喪い、彼女は壊れてしまった。こうなる前の鈴谷をウォースパイトは当然全く知らないが、少なくとも自分の脳みそを科学者に差し出そうとするような人物ではなかっただろう。想い合える人が居るなら、自分自身のことも大事にしようと考えるからだ。

 大切な人を喪い、なげやりになった鈴谷は自分の脳をBMI研究に供出した。事実は大方そんなところだろうか。

 

「何にせよ、日本軍は貴女の脳から情報を引っ張り出す技術を持っています。このような読心術は幻想郷でさえ、あらゆる能力の中で最も忌み嫌われているものであります。場所が違えど、誰しも心と精神の安寧を求めるものですから」

「悪い冗談だわ」

 

 既に読心術が存在してそのこと自体も周知されている幻想郷の異質具合も大概に思うが、科学技術を持って同じことをしようとする人間がこの世に居ることに辟易する。

 思想・良心の自由は、人類にとって絶対的に守られている自由である。何故なら、誰も他人の思考を覗き見ることが出来ないからだ。少なくとも、五分前まではウォースパイトはそう考えていた。ところが、今やそんな大前提ですら脆くも崩れ去ってしまったのだ。

 これが冗談であれば、例えそれがウォースパイトの逆鱗を刺激するほど悪辣だったとしても、どれ程良かっただろうか。レミリアは人を本気で怒らせるような冗談を決して口にしないくらいには賢いし、彼女が最も重い信用を置く腹心も軽率に妄言を吐くような愚か者ではないようだ。サクヤが入手したBMIに関する情報はかなり確度が高いのではないか。そう考えたからこそ、レミリアもサクヤをウォースパイトの下まで派遣したのだろう。

 

「デイム、残念ながらもう一つ悪い情報です。尾行されています」

 

 サクヤは前方に視線を固定しながら早口で囁いた。もうすぐ遊歩道を抜ける。その先は地下鉄の駅だ。

 

「貴女の他には?」

「お嬢様と美鈴、それともう一人、日本の艦娘は今日の日没と同時にシンガポールを発っております。私のみ、貴女様の護衛のため少し遅れて出発する予定でした」

「そう。……高等弁務官事務所から迎えを呼ぶ時間はあまりなさそうね」

「呼んでも来られないでしょう。私たちの行き先は、恐らく日本人たちも把握しているはず」

「じゃあ、事務所の前で妨害に遭う可能性もあるわ」

「その程度なら突破出来ます」

「後ろの追跡者は排除出来る?」

「容易いことですが、あまりこちらの手の内を晒したくはありません。私の能力は奇襲にこそ向いておりますので、使い時を選ぶ必要がございます」

 

 サクヤには時間を操作出来るという特殊能力があるらしい。「らしい」というのは、ウォースパイトにとってはまるで実感がないものだからだ。先程、鈴谷を強襲した時に使ったようだが、単に素早く動いているだけなのか、それとも本当に時間を操作して動いていたのかは見ているだけでは分からなかった。現に、今もごく普通に歩いているだけで、そのような特殊能力を用いて素早く移動しようという気配は感じない。あまりにも現実離れし過ぎていて、本当にそんな力を持っているのかは、正直眉唾だと思っている。

 だが、こちらの常識が通用しないのが幻想郷。読心術が既に存在しているようなところだから、種族が人間と言えど、とんでもない能力を持った者が居ても何らおかしくはない。

 

「もうすぐ、地下への入り口です」

 

 植物園の敷地を出ると目の前に大通りがあるが、交通量が多いので地下道で潜れるようになっていた。地下道はそのままベイフロント駅に直結している。待ち伏せには格好のポイントだった。

 

「気を付けて」

 

 ウォースパイトはレミリアの従者に注意を促したが、従者はやけに自信たっぷりと「待ち伏せはありません」と答えた。「見て来ましたから」とも。

 思わず、耳を疑った。従者はまったく変わらぬ様子でウォースパイトの少し後ろを歩いている。

 

「見て来た?」

 

 振り返って尋ねると、従者はさも当然だと言わんばかりに頷いた。

 

「はい、確かに」

 

 いつ? と聞き返そうとして、彼女の能力を思い出す。もし、時間操作が本当に可能なら、そのような問い掛けはまったく無意味だろう。もっとも、時間操作能力者のサクヤが能力を使っている時のことを「いつそうしたか」と尋ねられて何と答えるかには少しだけ興味があったが。

 

 閑話休題。言葉遊びをしている場合ではない。サクヤが見た限りでは待ち伏せはなかったようだが、安心出来る状況ではないのは変わりない。

 実際、地下道に入っても本当に待ち伏せはなかったし、何か不穏なことが起きている様子もなかった。すれ違う人、同じ方向に向かう人。彼らは皆、日常の中にあってそこから逸脱していない様子だった。尾行して来ているのは鈴谷なのか、あるいは彼女の仲間なのかは定かではないが、とても緊迫したような状況には思えない。それでも、従者の表情は強張っていたし、周囲の人間に不審なところがないかを素早く観察していく彼女の瞳は猛禽類のように鋭い光を宿している。

 

「切符は?」

 

 結局何事もなく改札の前にまで来る。シンガポールには改札にタッチして使うタイプのICカードが存在するが、短期間だけ滞在することになっていたウォースパイトは電車に乗るには切符を買わなければならなかった。そんなウォースパイトの事情を見越していたのか、サクヤは迷うことなく懐から切符を二枚取り出し、一枚を差し出した。準備の良いことだと思いつつ、ありがたくそれを受け取る。

 そして、改札に切符を通し、プラットホームへと降りるエスカレーターに向かう途中。駅のコンコース内にけたたましいベルの音が鳴り響いた。

 二人で思わず天井を見上げてしまう。恐らくは、火災報知器のベルだろう。

 煙はどこにも見えなかったし、焦げ臭い臭いもしなかったが、ベルが鳴ったのならその可能性がまず考えられる。そうでなければ機械の誤作動などによる誤報であろうが、従者が思い当たったのはそのいずれでもないようだった。彼女は舌打ちこそしなかったものの、苦々しく顔を歪め、焦った様子で言った。

 

「まずい! 駅を出ましょう。今ので電車は止まりました。これは罠です!」

 

 従者は改札を指さす。ウォースパイトにも彼女がどんな可能性に思い当たったのがようやく察せられた。未だ鳴り響くベルは、日本人たちの仕業だった。彼らはどういう手段をもってか、駅の火災報知機を作動させ、電車の運行を妨害したのだ。言うまでもなく、ウォースパイトの足を奪うためである。

 そして、ここは地下鉄の駅。出入口は限られており、包囲するにはとてもやりやすい場所である。入り口で待ち伏せがなかったのも当然だった。招き入れてから出入り口を封鎖してしまえば、もうウォースパイトたちの逃げ場はなくなる。改札を通った後のホームへ降りる前というタイミングも絶妙だった。振り返れば改札の向こう側からスーツを着たアジア人が何人も向かって来ている。

 

「デイム、少しだけ失礼致します。包囲を突破するのに能力を使いますので」

「ええ、いいけれど」

 

 従者の申し出にウォースパイトが頷くと、彼女は恭しく頭を垂れ――、

 

 

 

 ――気付けばショッピングモールの中に居た。

 

 そこは、紛れもなくショッピングモールで、駅ではない。自分の位置を確認して、理解出来ないことが起こったことに愕然とする。今までレミリアたちの常識はずれな力を目の当たりにしてきたし、彼女たちに驚かされるのにもいい加減に慣れてきたと思っていた。だが、今回は違う。我が身に直接それが起こったのだ。これがサクヤの能力によるものだと頭では分かっていても、やはり何故そうなるのかが理解出来ないし、自分の身にそれが作用したことに少なからずショックを受けた。

 ベイフロント駅は、ウォースパイトとサクヤが入った地下道からの出入り口とは反対側が、マリーナ・ベイ・サンズのショッピングモールと直接繋がっている。このショッピングモールの最大の特徴は、建物の中にまで水を引いて運河を作っていることだった。運河は最も下のレベル、地下二階にあり、そこから地上階までが吹き抜け構造となっている。

 駅は地下二階と地下一階の中間のところにあり、ウォースパイトが居たのは運河を一つ下の階に見下ろす場所だったので、地下一階だろう。改札の中から、一瞬にしてショッピングモールの中にまで移動していたのだ。

 だが、状況はウォースパイトに驚いている暇を与えない程に厳しい。

 

「デイム」と呼び掛けられて、我に返る。

 

「失礼ですが、デイム。状況がひっ迫しておりますので、私が先行させていただきます」

 少し息切れした様子の従者はそう言って、今度は自分が先を進み始める。前を行くのにわざわざ断る辺り、レミリアにはよく教育されているようだった。こんな時でも焦らずに落ち着いているサクヤを、ウォースパイトは少しだけ気に入り始めていた。

 何はともあれ、彼女のおかげで一旦危機は脱した。「ありがとう」と礼を述べると、「まだ早いです。先程見えた追手は全員足を潰しておきましたが、まだ他にも居るはずです」

 サクヤは少しだけ得意気な顔で、懐に仕舞っていたハンマーの柄を見せる。こんな物で身体を殴られたら、痛いだけでは済まない。追手に少しだけ同情しつつも、ウォースパイトは一拍子の間だけサクヤに視線を合わせる。意図はそれで十分伝わった。従者はさらに足を早めた。

 

 サクヤの言う通り、追手は他にも居るだろう。鈴谷をウォースパイトの前の椅子まで送り込んだ組織があるのだから、あの程度の頭数ではないはずだ。彼らが巨大な官僚機構である日本軍の内のどの部署の人間たちなのか、ウォースパイトに思い当たる候補は一つしかなかったが、それが正しいという確信は得られなかった。

 レミリアは情報と共に、実験台となっていたある艦娘を奪取している。当然、取り戻そうとする連中が出張ってくるだろう。日本軍の防諜組織だ。

 それに、追手と言えば、間違いなくあの鈴谷もその内に入るだろう。彼女がいかなる理由で防諜組織に手を貸しているのかは想像が及ばないが、BMIの実験に協力するような立場なのだから、相当特殊な立ち位置に居るはずだ。防諜組織と動きを同調させ、この後、再び現れるかもしれない。

 彼女は艤装を着けていた。昨日はそうではなかったから、こうなることをある程度予見していたようだ。すると、厄介なのはサクヤの方である。従者の能力は強力無比だが、攻撃手段がハンマーによる打撃しかないのであれば、いくら何でも艦娘である鈴谷には通用しない。先程は上手く昏倒させることに成功したが、次はどうか分からない。

 

「けれど、ここに来たということは何か次善の策を考えてあるのでしょう?」

「仰る通りです。ただ、先に申し上げておかなければならないのですが」

 

 地上階へのエスカレーターを登りながら、サクヤは一旦言葉を切って少しだけこちらを振り向いた。彼女は警告を発することなく続きを口にしたので、恐らく追手はまだ来ていないのだろう。

 

「いささか不愉快な思いをさせてしまうかもしれません。あまり快適ではないことはどうかご覚悟下さい」

 

 サクヤは少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げた。あまり表情が変わらないタイプだから、こういう仕草は珍しい。それが本心から出たものなのか、あるいは従者としてのパフォーマンスなのかは分からないが、少なくともウォースパイトが気を悪くするようなことはなかった。正確には、“より気を悪くするようなことはなかった”だが。

 

「ご心配なく。もう、十分不愉快な思いをしているから。貴女のせいではなく、不躾な日本人たちのせいだけど」

 

 従者は軽く微笑み、エスカレーターを登り切って出口へと足早に進む。

 既に夕食の時間帯を過ぎて閉店時間が迫ってきているショッピングモール内は行き交う人の数も少なくなってきており、中にはもう閉めてしまった店舗もあった。まだ開いている店も店員は帰りたそうな顔で客も来ない中時間が来るのを待っている。

 不夜城のようなシンガポールでも、街が眠りに就く時間というのは少なからず存在する。このショッピングモールも今まさに就寝のための準備を整えつつあって、日中の喧騒などとは対照的な穏やかな静けさがモール内を包み込んでいた。そんな中で、足早に歩く使用人服姿のサクヤは人目を集めている。やはりと言うか、まるで18世紀から抜け出してきたようなその格好は、現代資本主義の象徴とでも言うべきこのショッピングモールの中にあって、いささか悪目立ちしているようだ。

 しかし、従者はそんなことなど毛ほども気に留めることなく、颯爽と歩いて行く。少々早足なので、ウォースパイトも意識して付いて行かなければ置いて行かれそうだった。

 ショッピングモールから出ると、ヤシの木の並木があり、その反対側がウッドデッキになっていてさらに向こうにマリーナ湾が広がっていた。湾の向こう岸は窮屈そうに並ぶ高層ビル群で、水を吐くマーライオン像と昨日のパーティ会場になったホテルが見える。恋人と夜景を眺めながら語らい合うには絶好の場所だが、厳つい男の集団から追われて逃げる先としてはかなり不適切な選択のように思えた。ここまで来たら左右どちらかに行くしかない。右に行けばマリーナ湾を渡る橋で、左に行けば湾岸沿いにダウンタウンに向かうことが出来る。だが、迷うことのないサクヤの足は海へと向かっていく。

 

「ねえ、どうするの? もう行き止まりよ!」

 

 ウッドデッキと海を区切る手すりに到達したサクヤは、呼び掛けたウォースパイトに反応するようにそこで立ち止まって振り返った。まさか、泳いで海を渡るとでも言うのだろうか。しかし、艦娘であり且つ現在艤装を身に着けていないウォースパイトには水に入ることが不可能だ。厳密には、なす術もなく沈没するだけである。

 

「飛びます」

 

 果たして、従者の答えは耳を疑うような言葉だったのだが、彼女はまるで英国女王の名前を答える時のように平然と言ってのけた。信じられない気持ちになって、ウォースパイトは思わず聞き返してしまう。

 

「冗談でしょう?」

「残念ながら、そうするより他ありません。さもなければ包囲されてしまいます」

「……冗談よね」

 

 何度聞いても答えは一緒のようだ。先程の、唐突な釈明の意味が分かった。なるほど、確かにあまり愉快なことにはなりそうにない。

 同時に、今頃ホテルの部屋でくつろいでいられるはずが、どうしてこんな目に遭わなければならないのかと、うんざりした気分に陥った。ウォースパイトは単に、お国からもらった細やかな休日をシンガポールで楽しみたいだけだったのに。それもこれも、すべては不躾な日本人たちの“粗相”で台無しになってしまった。

 

「どうやって飛ぶの? 私に翼はないわ。貴女の背中にも見えないけれど」

「問題なく。翼がなくとも空は飛べます。ですが、それは私だけですので貴女様は恐縮ですが私がお抱えしてお運びすることになります」

 

 いよいよ、ウォースパイトは頭を抱えてその場に膝を着きたくなったのだが、生憎そんな反応さえ許されない程時間は逼迫していたのだった。

 

「追手が来ました」

 

 従者は静かに、しかしひっ迫した口調で告げた。顔を上げると、右からも左からも(つまり海の方向以外すべてから)、こちらに近付いてくる人影が見えた。やはり、追手は地下鉄駅に現れたあの数人だけではなかったのだ。

 

 

 

****

 

 

 

 

 地下鉄の駅からウォースパイトとスカーレットの手下が“消えた”という報告は、多分に戸惑いを含んだ村井の口から伝えられた。彼によると、二人が改札を通り過ぎた後に手筈通り地下鉄の火災報知機を作動させて電車を止め、逃げ場がなくして追い詰めたところ、忽然と消えてしまったのだという。その時、追跡要員は四人。改札を挟んで向き合っている状況だったし、近くに身を隠すようなものもないコンコースのど真ん中。それが、瞬間移動をしたかのように消えたのだ。しかも、その瞬間に四人とも足に強烈な痛みを覚えた。まるで、何かで殴打されたような激痛で、あまりの痛さに駅の真ん中で大の男が四人、転がることになった。

 村井はそれを「情けない話だ」と憤慨して言ったが、鈴谷にすれば仕方のないことだろうと思うばかりである。というのも、ウォースパイトを連れて逃走を図っていたスカーレットの手下が、異能の力の使い手だからだ。

 名前は「十六夜咲夜」。年齢は十代後半から二十歳前後と思われるが、正確には不明。職業は家庭内労働だが、本質的にはレミリア・スカーレット専属の使用人ということになるようだ。種族は単なる「人間」ということだが、かの大英帝国さえ畏怖せしめた稀代の吸血鬼が、最も重い信頼を置き、最も寵愛する「人間」である。「餌って意味じゃないの?」という、いささか不躾な鈴谷の疑問に対し、十六夜咲夜について豊富な警告を与えてくれた博麗の巫女は首を振った。

 

「あいつは咲夜の奴をかなり気に入ってるわ。実際、何度か『吸血鬼にならないか』って誘ってるみたいだし。その度に断ってるって言ってたけど」

「咲夜さんは人間ですから、吸血鬼になったりしたら霊夢さんに退治されちゃいますもんね」

 

 と、東風谷が合の手を入れると、博麗は頷いた。

 

「それが幻想郷の掟なんだからそうするわ」

 

 博麗の本来の仕事は妖怪退治らしい。妖怪たちが逃げた先にある幻想郷で「妖怪退治」をするのはどうなんだ、という疑問が浮かばないこともないが、そこにはどうやら何かしらのルールがあるらしく、そのルールに基づいた秩序を維持するのが博麗の仕事であるようだった。それは神職と言うより、警察の役割に近いだろうか。今回、スカーレットが博麗に追われることになったのも、その秩序を乱すような危険性があるため看過出来ないとなったからである。

 幻想郷の秩序を尊重している内は博麗の妖怪退治の対象にならず(彼女の言葉の端々を繋げて考えると、どうもスカーレットは少なくとも一度は博麗の妖怪退治の標的になったことがあるようである)、友好的な関係にあるというが、ひと度その秩序を乱せば恐ろしい巫女による制裁が待っている。十六夜咲夜においてもそれは同じらしく、普段は良好な関係だそうだが、今は博麗の制裁対象とのことだった。

 

 今、この場に彼女たちが居てくれれば大いに助けにはなっただろう。しかし、二人は今頃ホテルの部屋でくつろいでいるところだ。携帯電話も持っていない人種だから呼び寄せる手段がないし、仮にあったとしても二人を呼ぶつもりはなかった。理由は単純に、自分と二人との接点を村井に知られたくなかったからである。それに、現段階ではまだスカーレットと決定的な対立関係には陥っていないと考えていたのだ。

 

 もっとも、今は違う。

 地下鉄駅での出来事を聞くに、スカーレットのメイドは想像以上に厄介な手合いに違いない。博麗か東風谷かのどちらかの手を貸してもらうようにしたら良かったと、早くも若干の後悔が湧き出していた。

 そもそも、十六夜咲夜がウォースパイトを助けに現れたのは少々想定を外れていた。というのも、今まで鈴谷たち情保隊が認知する限り、スカーレットのサポートをしていたのは「紅美鈴」という名の中華系の女である。博麗曰くは、これも妖怪らしい。実力で言えばスカーレットの足元にも及ばないが、色々出来る器用な妖怪らしく、普段は昼行燈だが、爪を隠した鷹というのが博麗の評価だった。

 実際、紅美鈴はスカーレットが偽提督として振舞っていた間、飲料会社の社員を装って鎮守府に出入りしていた形跡があるし、追放された時の逃走にも手を貸している。そして、六ケ所の襲撃や黒檜の拉致も行っており、その行動はスカーレット自身の行動、あるいは意思にかなり密接にリンクしているようである。

 だから、初め鈴谷もウォースパイトを助けに来るとしたら紅美鈴だと考えていた。面は割れているのだから、鈴谷がウォースパイトと直接対峙している間、紅美鈴が近付いて来ないか警戒する人員を配置していたのである。

 しかし、実際に来たのは十六夜だった。バーのある人口ツリーの構造物周辺には情保隊のメンバーが警戒線を張っていたにも関わらず、メイドは気付かれることなく侵入し、鈴谷を強襲してウォースパイトをそこから連れ出した。

 狙いはあくまでウォースパイトの身柄確保であるし、妖怪である紅美鈴を捕まえるのは難しい上にリスクが大きい。よって、もしバーからウォースパイトが逃げたら、すぐには捕まえようとせずに尾行するように、という指示が下されていた。そして、徒歩で逃走した場合に捕まえる場所として想定されていたのが、ベイフロント駅だった。ウォースパイトが逃げるとしたらイギリス高等弁務官事務所しかなく、そこに行くには車でなければ地下鉄しか考えられなかったからだ。

 駅の改札を二人が通った後、わざとボヤを起こして火災報知機を作動させ、電車の運行を止めるところまでは上手くいった。その後が、常軌を逸脱していただけである。

 

 時間操作――それが、十六夜咲夜の持つ異能の力。単なる人間が持つ力だ。

 

 スカーレットの退治に対して自信ありげな博麗でさえ「厄介」と評し、東風谷に至っては「訳が分かりません」と匙を投げるような、法外な能力である。十六夜はその力を躊躇うことなく使用し、遺憾なくその威力を見せつけた。鈴谷を襲った時、構えていたにもかかわらずあっけなく後頭部に打撃を食らったのも、駅で追い詰められた状況からあっさり逃走し、おまけに反撃のように追跡者の足を潰していったのも、時間操作の能力を使ったからだろう。実際にその力を目の当たりにしてみて、なるほど博麗や東風谷が口を揃えて警告を発した理由というのがよく理解出来た。

 だが、対処のしようがないわけではない。情報は本当に大切なものだ。鈴谷には貴重な情報提供者がおり、彼女たちは少なくない回数、十六夜咲夜と戦ったことがあり、その能力も性格も熟知していて、そうした情報を鈴谷に与えてくれたのである。

 十六夜は主人のように、防ぎようのない馬鹿げた破壊力を持っているわけではない。身体能力はただの人間と同じレベルなので、何かと時間操作の能力に依存する傾向があるという。なまじ、それが強力無比なだけあって頼りすぎるのが彼女の弱点だと博麗は言った。それに加えて、攻撃手段が普段はナイフに限られる点も挙げられよう。実際、鈴谷を襲った時にはハンマーを振るっていたが、ナイフにしろハンマーにしろ、それ自体は銃ほど脅威になるわけではないし、スカーレットの常軌を逸脱した攻撃とは比較にならない。あくまで、十六夜咲夜は人間なのだ。

 正面から相手を制圧するだけの力がないので、必然的に十六夜は搦め手を使うことがほとんどだと言ったのは、東風谷だった。スカーレットのように不可解に力が強化されている恐れもあまりないとも付け加えた。従って、遮蔽物の多い陸上ではかなり有利に振舞えるであろうが、そういったものが何もない海上ではどうだろうか。

 彼女の力は厄介だが、勝算は決して低くない。そして、十六夜さえ排除してしまえば、ウォースパイトを捕縛するのは簡単な仕事だ。

 

 

 

 

 

 バーで気絶させられた鈴谷だがすぐに覚醒して、村井にウォースパイトと十六夜が逃げたことを伝える。もちろん、彼は人口ツリー周辺を固めていた部下たちから報告を受けていたのでそれを把握していたし、すぐに鈴谷に準備をして海に出るよう指示した。上手くいけば地下鉄の駅で捕縛出来るが、そう簡単に事が進むとは村井も考えておらず、万全を期するため、予めウォースパイトがスカーレットの手下の助けで逃亡した場合はマリーナ湾に展開する手筈となっていた。鈴谷は既に艤装の最も基本的な部分――装着部を身に着けていたし、持参したボストンバッグには航行艤装を入れていた。

 ボストンバッグを肩に引っ掛け、植物園を出て北に向かう。植物園のある公園からは一部、マリーナ湾へ直接降りられるようになっていて、遊歩道を外れて海辺まで来ると、バッグから航行艤装を取り出して装着する。バッグに入れていたのは航行艤装と他にいくつかの機器だけであり、残りはシンガポール基地からヘリが輸送してくる。

 案の定、いくらも待たない内にローター音が聞こえてきた。コールサイン「マーライオン3」、SH-60対潜哨戒ヘリだ。ヘリは艤装運搬ケースを懸架している。正直、このケースを持って来るためだけに動かすには少々大きい機体だと思うが、シンガポール基地にある他のヘリと言えば、遥かに小型のMH-6しかないので仕方がないのだろう。ヘリが鈴谷のすぐ傍まで来てケースを陸地に置くと、素早くその中から艤装の残りを取り出す。主砲、背部、飛行甲板、それからいくつかのウェアラブルコンピューターやIR(赤外線)カメラ、ヘッドセット、無線機、そしてアンテナ類。

 鈴谷が必要な物をすべて取り出して合図を送ると、ホバリングして待っていたヘリは上昇して基地へと帰っていく。ローター音を聞きつけて野次馬が集まり出していたので、大急ぎで装備を装着し終えると、鈴谷はマリーナ湾へと泳ぎ出した。

 

 常夏の国でも、海の上は少し肌寒いくらいに涼しい。潮風を肩で切りながら、マリーナ湾を西へ進む。そうしながら、取り敢えず身に着けただけの機器を順に起動させていった。まず脚部の航行艤装に外付けされている小型発電機を動かす。他に背部艤装にバッテリーがあるので、ウェアラブルコンピューターなどの電子端末への電力供給は、初めこのバッテリーから行われるが、長時間使用するには発電機が必須だ。

 次いで起動させるのは肩甲骨の間、胸椎の上に乗せるように装着されている小さな装置である。仮称だが、鈴谷たちはブレイン・マシン・インターフェース制御コンピューター(BMICC)と呼んでいる。その名の通り、脳と接続された小型のコンピューターだ。厳密に言うと、鈴谷の脳内に埋め込まれている小さな集積回路のチップとの情報をやり取りするためのデバイスである。

 

 鈴谷は世界で唯一の特殊な役割を持たされた艦娘と言えるかもしれない。防諜機関に所属しているという身分の特殊性を除いても異例尽くしであるし、中でも殊更なのは高侵襲性ブレイン・マシン・インターフェースの生体サンプルであり、その技術の発展に最も貢献しているという点であろう。これはつまり、脳内にチップを埋め込み、艤装を含めた数々の電子機器と接続、実用化への必要なデータ収集を行っているということである。

 BMIは脳からの情報の読出し、脳への情報の書き込み、いずれも双方向に行うもので、体内においてその起点となるのがチップだが、チップよりワイヤレス通信で送られてきた情報、あるいはチップに情報を送り込むのがBMICCの仕事だ。この機械は脳から得た、あるいは脳へ送る情報と、それ以外の電子装置とやり取りに使う情報を所定のプロトコルに基いて変換する役割を持つ。それ以外にも、BMIの稼働状況の監視やエラーチェックなど、システムを維持・管理する仕事も行う。

 BMICCを起動して真っ先に鈴谷はエラーチェックを開始させた。先程、頭を鈍器で強打させられたので、脳内チップに影響が出ていないか確認する必要があったからだ。

 エラーチェックにはしばし時間が必要なので、その間に他の機器も順次起動させていく。片眼式のヘッドマウントディスプレイが付属しているヘッドセットはベースを日本の艦娘に支給されている製品にしてあるから、鈴谷にとっても使い慣れているものだ。スイッチを入れてソフトウェア無線を起動し、スマートフォンを接続して村井に電話を掛ける。スマホは制服のポケットに突っ込んでいても無線機と接続しているので、ヘッドセットを介して通話可能だ。

 

「鈴谷、海に出ました」

 

 彼に電話が繋がると、すかさず状況を伝える。

 

「了解。交戦許可はもう下りている。ただし、市街地への発砲は禁止。艦載機が陸地の上を飛ぶのも禁止だ」

「分っかりましたぁ。それで、あいつらは今どこに?」

 

 余計な言葉は差し込まず、必要最小限のやり取りだけをしながら、手首に巻き付けるタイプの腕時計型端末のスイッチを押す。すると通信システムが立ち上がって、鈴谷を戦術データ・リンクに参加させた。鈴谷の装備は電子端末を中心に固有の物が多いが、これはどの艦娘も身に着けている物だ。

 電子装置の装備品が多い鈴谷だが、その中心となるのは胸部に装着するタイプのタッチパネル式タブレット端末である。こちらの端末は既存の戦術データ・リンクとは別のデータ・リンクを接続するもので、さらに指揮制御用のソフトウェアも入っている。

 

「ショッピングモールに現れた。いつの間にか移動したようだが、一体どういうからくりなのかまるで想像がつかん。今、何とか海辺に追い詰めるところだ」

 

 村井は呆れたようにそう言ったが、メイドとウォースパイトが“どうやって瞬間移動をしたか”を既に把握している鈴谷は抑揚のない声で返答した。

 

「じゃあ、予定通りに行きますね」

 

 通話しながらタブレット端末を操作して必要なアプリケーションを呼び出す。データ・リンクにレーダー画面、兵装の指揮制御システム。忘れてならないのは射撃管制装置で、ハードは腰元に着けている。

 

「ああ。こちらは先回りしておく。GPSは拾えているか?」

「問題ありませーん」

 

 間延びした声で応じつつ、タブレットの画面にマップを表示させ、そこに現れているGPS信号の位置を確認する。信号はマリーナ・ベイ・サンズの西側、マリーナ湾の海辺に居た。一方、自分自身を現す信号も表示されており、こちらはマリーナ・ベイ・サンズの北側から湾を回り込むように移動している最中だ。

 

 十六夜に襲われた時、鈴谷はただ抵抗していたわけではない。隠し持っていたGPS発信機をこっそり彼女の懐に忍び込ませることを試み、それに成功した。気付かれた様子はないから、これでしばらく追跡を続けられる。例えあの使用人が時間を操作してどこかに逃げようとも、その位置情報はリアルタイムでこちらの手に入るのだ。

 鈴谷は村井との通話を切ると、今度はシンガポール基地への無線を繋いだ。

 

「こちら情報保全隊鈴谷。シンガポールHQ(基地司令部)へ。捜査対象が逃走を開始。協力者が居ます。ファイアスカウトの準備は出来ていますか?」

 

 無線のインカムに向かって呼び掛けると、司令部のオペレーターが慌てたように応答をした。不測の事態があると考えてバックアップのために待機させていたのだが、担当者は気構えなどしておらず、漫画でも読んでサボっていたのかもしれない。

 

「き、基地司令部より鈴谷へ。無人機は発進可能だ」

「じゃあ、出してください」

「おい、くれぐれも、市街地上空での交戦はするなよ」

「分かってまーす」

 

 話半分に聞いていた鈴谷は気の抜けた返事をする。タブレット端末は鈴谷が装備している各種電子機器を操作するためのインターフェースだ。データ・リンクのアプリケーションをデスクトップに展開させて少し待つと、ダイアログが出て来て既知の端末とのデータ・リンクを繋げるかどうか訊いてきた。

 もちろん、「はい」を押す。ダイアログの中にデータ・リンクの接続先として一つのコードが表示されているが、それは「MQ-8B ファイアスカウト」無人偵察ヘリコプターを指すコードだった。

 

 ファイアスカウトはどこかの戦術部隊から借りてきた物ではなく、完全に鈴谷の裁量によって使用出来る兵器で、そのリンク・レベルは艤装と同じだ。さすがに整備は専門職に任せないといけないが、その他の多くは命令コードの入力一つで自在にコントロール可能なようになっている。ファイアスカウトはいわば鈴谷にとっての「空の目」であり、多数のセンサー類で探知した情報をリアルタイムでデータ・リンクを介して母艦に送ることを役目としている。

 また、このデータ・リンクも特別仕様だった。正式名称は多機能艦娘間データリンク(Multifunction Inter-Girlships Date Link:MIGDL)と言い、既存の腕時計型端末が司るリンク16の戦術データ・リンクとはまるで異なる代物である。データ・リンクの仕様が異なればアンテナも違い、小型で貧弱な出力のリンク16用アンテナとは別に、背部艤装から頭上に伸ばされたマストの先端に取り付けられた平たい円盤がMIGDLアンテナだ。この中に発信機と受信機が収められていた。

 リンク16はUHF帯の周波数を利用し、やり取り可能な情報はテキスト・データのみとなっている。現在のところ、NATOや日本を含むそのオブザーバーの軍で最も普及している戦術データ・リンクのフォーマットがリンク16だが、通信速度の上限が低く、鈴谷のような高度にシステム化された艦娘が要求する水準を満たさなくなっていた。

 

 鈴谷を除くすべての艦娘は、現代の軍隊の水準から言えば驚くほどわずかな電子装置しか搭載しない。元となる艦娘が小さいユニットなのであまりごてごてと機械を取り付けられないという事情はあるが、それにしても少ないのだ。標準装備となっているのは、妖精が操る艤装の電探や水中探信儀などを除くと、簡単な無線装置とリンク16の端末、ヘッドセットとアンテナくらいなものである。

 

 だが、鈴谷は違う。従来の艦娘とは比べ物にならないほどシステム化された鈴谷という“戦闘ユニット”は、必然的に膨大なデータ通信を要求する。その要求を満たすため、リンク16に加えて伝送速度が速く容量の大きい新たなデータ・リンクが必要になった。そこで開発されたのがMIGDLだ。

 このデータ・リンクはCバンドの周波数帯を利用し、大容量の高速データ通信が可能で、動画の送受信も楽に行える伝送速度になっている。その反面、見通し圏内でしか通信を行えないが、ファイアスカウトなどの滞空している無人機を中継することで水平線以遠との通信も不可能ではない。

 本来はその名称通り、艦娘同士での情報のやり取りに使用するものであるが、鈴谷以外の艦娘が未だMIGDLに対応していないのと、先に対応したのが無人航空機やイージス艦、早期警戒機などの新たに電子装備を搭載する余力のある戦闘ユニットだったため、今のところこれらの航空機や戦闘艦と鈴谷を結ぶのに使われているだけである。ただし、将来的にはもちろん鈴谷以外の艦娘にも普及させる予定なのは間違いない。

 

 

 多数のコンピューター、複数のセンサーのフュージョン、高度な通信システム、そしてBMI。こうした最新技術で出来た電子装置によって身を固めた鈴谷は、既存の艦娘とは全く異なる次元に位置している。

 現代の軍隊は、「ネットワーク化」された戦闘ユニットの集合体と言っても差し支えない。排水量が10万トンを超えるスーパーキャリア(巨大航空母艦)から、最も階級の低い一人の兵士まで、ありとあらゆる戦闘ユニットが通信システムを介して相互に繋がり、巨大なネットワークを構築している。ネットワークは陸海空の垣根をも取り払った。例えばある兵士が堅固な目標を発見した時、その情報は自身の部隊内のみならず部隊外にも直ちに共有され、空を飛んでいるAWACS(空中早期警戒管制機)が情報を仲介し、数百キロ離れた海上を航行中のイージス艦がAWACSの指示の下、対地巡航ミサイルを発射してこの目標を撃破する。そんな芸当も当たり前のように可能になっているのだ。

 このような現代の軍隊の中にあって、無誘導の艦砲と魚雷、貧弱で低性能なレーダーとソーナーしか持たない艦娘は、とても“時代遅れ”な代物と見なされていた。深海棲艦の撃沈には艦娘の力が必要不可欠だが、問題は彼女たちをネットワークに組み込むことが容易ではないという点に尽きた。

 艦娘はその装備の全てが深海棲艦を攻撃するためにあると言っても過言ではない。しかして体格は人間の少女と同じであり、後付け出来る装備の量には限りがある。よって、今までは腕時計型の携帯端末とリンク16用の通信アンテナ、そして短距離用の無線くらいしか装備させられなかった。艦隊の中に一人だけ長距離用の無線機を背負わせることで基地との連絡はつくようにしていたが、可能であってもその程度である。

 しかし、陸上の歩兵一人ひとりがネットワークに参加している現代において、艦娘にそれが出来ないという道理はない。そこで、艦娘をネットワークに参加させるシステムの構築と通信端末の開発が始まった。そして、出来上がった試作品の試験のため、既にBMIの生体モデルとして実戦における運用データの収集を行っていた鈴谷に白羽の矢が立ったのである。今ではBMIと指揮管制システム、データ・リンクなどの通信システムが一体運用され、その生データを取ることが鈴谷の仕事の一つとなっていた。

 

 そもそもを言えば、現代の軍隊が「ネットワーク化」されたのも深海棲艦に対処するためだ。

 艦娘と同じく兵装のフォーマットが古い深海棲艦はミサイルでは撃沈出来ない厄介な敵であったが、その進撃を食い止めることは艦娘でなくとも可能だった。敵の艦型の識別は可視光画像の他、逆合成開口レーダーなどを用いれば可能であり、敵機の行動可能圏外から敵艦隊を観察、指揮・統制を行っている鬼・姫クラスの旗艦を特定さえ出来れば後はそこにミサイルを撃ち込めばいい。深海棲艦の対空火器では対処不能な超音速対艦ミサイルならピンポイントで旗艦に命中させることも可能で、撃沈には至らなくとも戦意を喪失させれば、それで取り敢えずの防衛には事足りる。こうした考えの下、日本海軍もイージス艦を始めとした戦闘艦を複数配備しており、それらの艦には超音速対艦巡航ミサイルが搭載されている。艦娘が居なくとも、最低限国土は守れるようにはなっていた。

 

 無論、同じようなことを艦娘が出来ればそれに越したことはない。そこで生まれたのが、「鈴谷」と言う艦娘だったのだ。

 鈴谷は、海軍が目指す艦娘の完成形の実証である。高度な通信システム、高性能なセンサーと計算速度の速いコンピューターによりネットワークのノード(節)としての役割を果たす新たな艦娘。それは現代艦のそれぞれが複雑に構成されたシステムであり、自身もまた軍事ネットワークという巨大なシステムの一端を担う「システム艦」であるように、艦娘もまたシステムの中に、それ自体がシステムとして組み込まれることを意味していた。システム・オブ・システムズ。フォーマットの古い艦娘の艤装さえも取り込んだ、高度にシステム化された艦娘である。

 

 鈴谷たちはそれを「システム艦娘」と呼んでいた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 無人ヘリは離陸したし、鈴谷とのリンクも繋がったが、マリーナ湾上空に来るにはもう少し時間が掛かるだろう。だから、先に場を整えておいた方がいい。

 鈴谷は肩掛け式の大きな艤装に手をやる。それこそ、鈴谷の最大の特徴と言ってもいい。そう、飛行甲板である。

 飛行甲板は独立した艤装であり、表面は鉄製の甲板、その裏は格納庫になっている。格納庫には取っ手がついておりそれを引っ張って開けると中には艦載機が収められている。これを取り出してカタパルトに設置すると発艦準備が完了、後は鈴谷の合図で発艦となる。

 これも不思議なもので、格納庫に収まっている時の艦載機は手の平よりも小さいのだが、取り出して飛行甲板に乗せると倍くらいの大きさになる。もっとも、空母たちは矢や紙を飛行機に変えているのだからこの程度で驚いてはいけない。

 艦載機の発艦準備が整ったところで、急いで飛行甲板を上空に向けて艦載機に命じる。爆竹を鳴らしたような音が連続し、勢い良く水上機が飛び出していく。黒塗りの、鈴谷特別仕様の水上攻撃機「瑞雲」だ。合計四機を射出し、発艦作業を終える。

 

「マリーナ湾上空にアンノウンを検出。陸地から現れたように見えたぞ。警戒しろ」

 

 今晩、情保隊が活動するのでその支援を行うように、という指示しかもらっていないであろう基地のオペレーターは、戸惑いを隠し切れていない声で言った。彼には何が起こっているのか全く分かっていないだろう。だが、もちろん鈴谷には分かっていた。湾上空に現れたのは十六夜咲夜。村井たちに追い込まれて彼女は空へと飛び立ったのであり、その姿をレーダーが探知したのだ。

 

「りょーかい!」

 

 状況は予想通りに進行している。メイドが空に飛び立ったのも、計算の内だ。

 彼女のような幻想郷住人は翼がなくても空を飛べるらしい。その理由について考えることは無意味である。そういうものなのだ。ウォースパイトが言ったように、彼女たちにはこちらの常識が通用しないのだから、“翼がなければ空を飛べない”などという道理は通用しない。事実、博麗も東風谷も身一つで空を飛んだし、十六夜も同じことが出来ると二人は断言した。もちろん、紅美鈴も。

 当初の想定は紅美鈴がウォースパイトを助けに来ることだったので、陸上の逃走経路を遮断すれば、空へ逃げると踏んだのだ。やや内陸にあるイギリス高等弁務官事務所へマリーナ・ベイ・サンズの界隈から向かおうとした場合、その手段があるならばマリーナ湾を渡るのが最短のコースになる。マリーナ・ベイ・サンズを含むウォーターフロントのエリアはまだまだ開発途上であり交通手段は比較的乏しいが、ダウンタウンまで逃げればそれこそ移動手段など選り取り見取りである。したがって、ダウンタウンまで逃げられた場合、警察の支援が期待出来ないこともあって、情保隊には追跡が困難となってしまうことが予想された。

 その一方で、艦娘である鈴谷にとってマリーナ湾という海の上はホームグラウンドと言っても差し支えない。空に飛び上がればなおさら追い詰めやすくなる。ウォースパイトを助けに来たのが時間操作能力の持ち主だったのは想定外だったが、彼女の能力は障害物の多い陸上でこそ威力を発揮し、逆に遮蔽物も何もない海上ならかなり脅威度は低くなるだろうから、無理に当初の予定を変える必要がなかったのは幸運だった。

 しかも、空を飛べる人間の飛行速度はまったくもって速くない。一方、艦娘の航行速度は、鈴谷のように高速艦で且つ湾内のような波の穏やかな場所ならば40ノット以上も出せる。GPSに加えレーダーでも探知しているのだから、彼女がいくら時間を弄ろうとも逃げられはしない。この湾の中で必ず捕まえてやる、と鈴谷は仕返しを誓った。

 

 BMICCがエラーチェックを完了させ、異常がなかった旨を報告してくる。その報告はタブレットの画面にダイアログとして表示された。ダイアログを消すと、BMI――鈴谷を始めとした関係者が「艦娘脳波リンクシステム」と呼ぶそれを起動させる。

 

 それこそが、航空巡洋艦にして兵装実験艦「鈴谷」の最大の秘密であり、最重要な兵装。空母や航空巡洋艦が艦載機を操縦する仕組みと、レミリア・スカーレットが実現した無人機を使用した夜間航法にインスピレーションを得て、鈴谷が中心となって開発した新しいリンクシステムである。戦術データ・リンクやMIGDLといった通信インフラに艦娘の脳を組み込むことがこのシステムの根幹であり、艦娘の艤装やあるいは他のデータ・リンク参加ユニットが得た情報を艦娘の脳を介して艦載機と共有する。艦船や電子戦機といった高度な電子探知装置を持つユニットが、鈴谷の艦載機をレーダーで補足し、その位置情報を鈴谷と艦載機とで共有することで、航法を確立させるものだ。もちろん航法だけに使うわけではなく、索敵や攻撃目標の識別、選択、そこへの誘導も、すべて他のユニットに任せてしまうことで、戦闘をより効率化させることを実現した。

 

 BMIを使用して艦娘をネットワークの中に組み込むのは共同交戦能力(CEC)を獲得することを目的としているからである。情報共有は戦術データ・リンクを介して行えるが、そこから先に進んだCEC――例えば、空母から発艦した艦載機をその瞬間からAWACSが誘導、目標データの提供、攻撃の指示など、普段空母が行っていることの全てを引き受けるといったようなこと――が可能になる。この例えで言えば、空母はそれまで同時展開可能な艦載機数が、自分自身の空母適性により制限されていたのが、発艦させてからの管制を他の戦闘ユニットが代替出来るなら、制限を取り払えるようになるということである。また、損傷度合いが大きくなった場合に艦載機管制能力を喪失して攻撃出来なくなるという致命的な弱点も補えるようになると見込まれていた。

 空母に限らず、艦娘は自身の艤装を究極的には脳によって操作している。特に艦載機制御においてはそれが顕著である。もし、「艦娘脳波リンクシステム」を通して艦娘の脳の内、艤装の制御に関わっている部分に直接情報を送り込めるようになるなら、外部からその艤装を操作出来るようになる。それは今までとは比べ物にならない精度での射撃、数々の制限の突破、幅広く柔軟な運用を可能にし、より効率的に深海棲艦を破壊することが可能になるという意味だ。人が狙って撃つより、コンピューターが正確な発射諸元を元に弾道計算をして射撃する方が、無誘導の砲弾でも遥かに高い命中率を得られるようになる。

 

 究極的には、こういったことも出来るだろう。

 艦娘の主砲や魚雷を無人艦艇に搭載し、「艦娘脳波リンクシステム」とMIGDL、射撃管制装置で艤装を遠隔操作、艦娘本人は本土の基地にある空調の効いたコンテナボックスの中で、同じく無人航空機が撮影する映像を見ながらコーヒーカップ片手に目標を選定し、射撃を指示して敵を撃破する。そんな冗談のような戦い方さえ可能になるのだ。被弾して自分の内臓の色を確認することもなければ、轟沈のリスクを背負うこともない。傷一つ付かないことを保証された絶対的な安全圏から戦争をして勝てるのである。戦いが終われば何時間も掛けて母艦に帰るようなことはなく、任務明けすぐに自室のベッドに飛び込んで睡魔に身を任せるのだって容易い。戦場に直接赴くわけではないのだから、「戦う場所」を変えるのは接続する艤装を変えるのと同じ行為になる。アリューシャン諸島の沖合で敵を撃破した三十分後に、オセアニアで戦闘を始めるなんてことも当たり前のように出来るだろう。

 

 もちろん、こんなことはある程度知識のある軍人なら誰でも思い付く。今は、昔のように人の目で見て敵を探すような戦い方はしない。レーダー波か音波が敵を探し出す時代なのだ。それも、数百キロ、時に数千キロの距離から。

 今までは思い付いてはいても、実際に試そうとする人間も艦娘も居なかった。艦娘は艤装のすべてを自身の脳で司るわけだから、艦娘本人だけならともかく、艤装までネットワークに参加させるとなると、どうしても脳をいじることになるためだ。軍人たちは“国民からお預かりした”艦娘に人体実験まがいの試みを行うことを忌避したし、艦娘たちにとっても忙しい日々の任務の合間を縫って危険な人体実験に身を差し出すような暇はなかった。何よりリスクを考えれば誰しも避けた。どんな艦娘も、成功するかも分からない実験に参加して自分が使い物にならなくなるくらいなら、戦場で敵を一隻でも多く沈めることが本分であると考えている。

 ただ、一部の軍人や研究者たちはそうした試みに興味を持っていて、そこに鈴谷が現れたので、こんな酔狂な実験が行われることになったのだ。鈴谷は他の艦娘とは違う特殊な立ち位置にあって、何かあって「自分が壊れる」リスクも恐れなかった。自暴自棄に近いような厭世感があったのと、この新しい実験が退屈な人生に刺激になるんじゃないかと考えたから、鈴谷は六ケ所の研究所に自分を売り込んだ。レミリア・スカーレットの夜間航空攻撃を参考に、航空巡洋艦としての知識を総動員してシステムの叩き台を作り、直接六ヶ所の所長と話をした。

 当初渋っていた彼も鈴谷の熱心な説得を受けて実験を承諾した。その結果、鈴谷は自分の瑞雲をネットワークに参加させられるようになったのである。

 こうなれば昼も夜もない。副産物として、鈴谷は水上機と同じ要領で無人機をも操縦出来るようになっていた。これで、鈴谷は全天候における航空攻撃能力を獲得した。嵐の日でも、積乱雲の上から無人攻撃機を操ってミサイルを撃ち込める。

 

 人と機械の融合。サイボーグにでもなった気分だが、実際それに近い。そもそも、艦娘という存在自体がそういうものなのだから。

 しかし、今までは試験会場でシステムを動かすばかりだった。海の上をプログラムで動く無人のボート相手に爆撃したりミサイルを撃ったり、結果が分かり切っているようなつまらない試験しかしてこなかった。鈴谷の瑞雲が無人ボートを木っ端微塵に吹き飛ばす度に科学者たちは大はしゃぎでデータを採取して回ったが、新しい“玩具”を手にしたら実戦でそれを試してみたくなるのが艦娘の性。当然、作られた環境での試験など面白いものではない。

 一時はこの実験を降りようかと思っていた。いつまで経っても実戦での試験運用の許可が降りなかったからだ。

 それでも鈴谷が居なくなれば実験は続けられなくなる。いつの間にやら熱意が逆転した科学者たちに引き止められて今日までこのシステムを持っていたが、やはり止めなくて良かったと思う。降って湧いたようなこの機会を逃すわけがない。

 本当ならシステムを使うのには研究所の許可が必要だったが、今は先日の襲撃で機能停止した状態だし、そもそも鈴谷は誰の許可も取るつもりはなかった。そうやって意味不明なルールで己を縛るすべてを、鈴谷は敵視している。やりたいようにやる。それが鈴谷のモットーだ。

 しかも、相手は異能の力の使い手なのだ。鈴谷の未知の力を持つ信じられない存在なのだ。あの使用人服の少女に、鈴谷の「科学」がどれだけ通用するかという興味もあった。

 

 

 発艦させた瑞雲四機での追撃戦。マリーナ湾上空にようやく到着したファイアスカウトは鈴谷と瑞雲の「眼」となるから、少し高度を取って状況を俯瞰させる。レーダー画面では、十六夜咲夜を現すフリップ(光点)は、ちょうどマリーナ湾の真ん中にまで来ていた。

 逃げも隠れも出来ない海の上。こちらにはセンサー満載の無人機と、四機の艦載機。何より、海の上なら自在に動ける鈴谷自身が居る。

 これで場は整えられた。鈴谷は自然に口元が吊り上がるのを抑えられない。

 

「さてさて、やっちゃうよ!」

 

 さあ、狩りの時間だ。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督47 Battle of Marina-Bay

だいぶ間が空いてしまいましたが、帰ってきました。
シンガポール編は今回でほぼほぼ終わりです。


 サクヤが考えていた「次善の策」が妙案であると、ウォースパイトは考えなかった。その認識は、彼女がウォースパイトを背負い、自らの力で翼もないのにもかかわらず宙に浮いたところで、より強い確信に変わった。

 時間を止めたりすることが出来る人間が、身一つで空を飛ぶことに今更驚いたりはしない。目の前で起きたことをありのままに受け止めて動揺することのなくなったウォースパイトは、今の状況が自分たちにとって悪くなりつつあると断じた。サクヤはショッピングモールの先のウッドデッキからマリーナ湾の上空へ舞い上がったが、その様子は日本人の追手に見られていたのだ。

 明らかに早すぎる登場だった。駅でサクヤが足を潰した追手は四人。当然、その他にも居るだろうとは考えていたのだが、ショッピングモール内まで瞬間移動したにもかかわらず、さほどのタイムロスで追い付いて来るのはいくら何でも対応が早いと感じた。サクヤの力はこの世の摂理から大きく逸脱するが、それを前にしても動揺が少ないのではないか。少なくとも、何らかの対策が講じられているのは間違いなさそうだ。

 単純な手段を考えるなら、位置情報を発信する機器をこっそりと仕込んでおくことか。すると、思い出されるのはバーでの一幕。サクヤに急襲された鈴谷はすぐさま対応し、反撃に転じてマウントを取るところまで持って行った。その後に頭を殴られて彼女は昏倒してしまったが、確実にその時身体接触はあった。

 仕込むとしたら、その時だろう。

 

「失礼するわ」

 

 一言断ってから、サクヤの懐をまさぐる。「何かあるのですか?」と従者が訝しむ間に、彼女のスカートのポケットの中に小さな機械が入り込んでいるのを見付けた。取り出してみると、案の定GPSの発信機である。

 

「これよ。この発信機で日本人たちは私たちの居場所を把握していたんだわ」

 

 一瞬の格闘の間にこれを気付かれることなく仕込んだ鈴谷の手際の良さに感心しつつ、発信機を海に投げ捨てる。

 この事実は、ウォースパイトにある確信を抱かせた。

 

「誘い込まれたわね」

「どういうことです? デイム。ここは海の上ですよ」

「海の上だからよ!」

 

 サクヤの居る世界に艦娘は存在しない。彼女には、艦娘がどういう存在かが実感出来ないのだろう。

 海の上を飛んでいれば、例え人間大の大きさしかなかったとしても、レーダーで感知することは難しくない。サクヤの時間操作能力がどの程度の時間有効なのかを考える。ウォースパイトの目の前では鈴谷への襲撃と駅からショッピングモールへの移動にしか使わなかったので、あまり長時間(サクヤの主観時間で)使用出来ないのかもしれない。尋ねてみる。

 

「自分一人だけなら何時間でも使え続けますが、人ひとりを運びながらだと体力的な限界があります」

 

 曰く、自分以外の物体(生物を含む)に対しては、時間停止中はほとんど干渉出来ないのだという。せいぜいが移動させるくらいであるが、移動させられるということはそこに「速度」という概念が存在しているということに他ならない。既知の通り、速度は距離を時間で割ることで得られるが、仮に時間停止の世界=時間[0]とするなら、ゼロ除算して速度を得ることは出来ないから、これはおかしなことになる。もしくは、時間を最小限に細分化しているのだとしたら、速度は限りなくその上限、すなわち光速度に近付いていくが、そうなると彼女やウォースパイトが移動した時に押し退けられた空気が衝撃波として拡散するはずである。そうなっていないので、これも矛盾する。

 もっとも、彼女の世界の法則はこの世のものではないのだから、この世の常識で考えるのは不都合が生じるものであろう。鈴谷にそう言ったばかりなのに、ウォースパイト自身が物理学でサクヤの異能を説明しようとするのは自己矛盾もいいところだ。

 何にせよ、サクヤの能力には限界がある。それは異能の力のことでなく、サクヤが人間であるが故の限界だ。体力的、精神的、知力的な限界というのは、サクヤが身体的には普通の人間と同等である以上、こちらの世界の人間とそう大きくは変わらない。冷静沈着な振る舞いと特殊過ぎる力の保有によりつい忘れがちになるが、サクヤはあくまで二十歳前後の若い女でしかなく、体付きを見ても屈強さはいささかも感じられず、むしろ華奢な方だと言えよう。事実、鈴谷との肉弾戦ではあっさり上位を取られてしまっていた。

 対して、相手は正真正銘、本物の艦娘である。それを言うなら、ウォースパイトだって紛れもない艦娘なのだが、鈴谷との決定的な違いは艤装を持っているかいないかだった。あくまで休暇でシンガポールに来ていて装備は何も持っていないウォースパイトと、バーに現れた時に持参していたボストンバッグに最低限の艤装を詰め込んでいたであろう鈴谷とでは、まったく次元が異なる。今のウォースパイトはただの泳げない女でしかないが、鈴谷は海の上を疾走することの出来る兵士だ。この差はウォースパイトたちにとって致命的と言っても過言ではない。

 

 ところで、先程ヘリのローター音が聞こえてきた。姿は建物の陰に隠れて見えなかったが、音が聞こえたということは近くまで来ていたということ。すぐにどこかに飛び去ってしまったようだが、そのヘリが民間機やシンガポール当局の所属機体であると考えるほどウォースパイトは楽観的ではなかった。こんな時にこんなところでヘリを飛ばすのは、どう考えてもシンガポール租借基地の日本軍だけだろう。そこにあるのはすべて輸送ヘリだと聞いているが、それではあのヘリが何を運んで来たかが問題である。艤装をヘリで空輸し、海上で艦娘本人に受け渡すようなことは決して頻度は高くないものの、かといって珍しい戦術でもなかった。それ専用に艤装の運搬ケースが開発されたくらいだ。

 

 

 ヘリが運んで来たのは、増援の艦娘か、あるいは鈴谷の艤装の残りか。

 果たして、その答えはどうやら後者だったらしい。

 

「何か聞こえます」

 

 初めに異常を察知したのはサクヤの方だった。

 

「プロペラ音でしょうか」

 

 そう言われてウォースパイトも耳をすませば、確かに波音や耳元を吹き抜ける潮風の声に混じり、低く連続する音が聞こえる。間違いなくプロペラ音だ。

 こんな街中を、夜中にセスナが飛んでいるわけがない。艦娘の艤装の一つである艦載機も考え辛いが、それでもこちらはないわけではない。実際、ウォースパイトの副官ポジションに居る空母娘は、夜間にソードフィッシュ艦上雷撃機を運用する能力を持っている。艦娘艦載機による夜間行動はあり得ないことではないのだ。

 英国や合衆国に比べ、日本はこの分野においては後塵を拝していると言われてきたが、大規模な空母機動部隊を運用している彼らが空母娘による夜間航空攻撃を諦めているとは到底考えられない。むしろ、もう既に夜間機を実装していてもおかしくはないだろう。そして、今考えられる限り、シンガポールにおいて艦載機を運用可能な艦娘は鈴谷ただ一人である。何故なら、ウォースパイトには艤装がないし、シンガポール基地に元から所属する日本の艦娘は全員駆逐艦だからだ。

 

「一機や二機じゃないわ」

 

 プロペラ音は複数聞こえてきた。それも、上空から聞こえるように思える。

 空戦の基本は、高度を取ること。位置エネルギーはそのまま運動エネルギーに変換出来るし、低空を低速で飛ぶなど、撃ち落としてくれと言っているようなものだからだ。

 突如、空が明るく輝く。天から降ってくる眩い光。ウォースパイトはその光を直接目に入れないように注意しながら、上空に航空機の姿を探す。

 照明弾だが、発射音はしなかったから主砲から撃ち上げるタイプではなく、航空機から投下するタイプなのだろう。ならば、近くに投下した機体が飛んでいるはずだった。そう思って探してみると、非常に分かり辛いが確かに一機見付けた。

 

「居たわ!」

 

 叫んで指をさす。

 見え辛いのは、夜間の視認性を悪化させるため、暗色に塗装してあるからか。それでも、ウォースパイトの目には主翼の下にぶら下げられた二つのフロートが確かに映った。

 空母が扱うタイプの機体ではない。戦艦や巡洋艦が搭載している水上機だ。

 

「デイム! これは!?」

「警告よ!」

 

 鈴谷たち日本軍の目的がウォースパイトの持っている情報ならば、彼女たちは捕縛しようとするはずである。今の状況なら、どこかの陸地に強制着陸させる以外に手段はない。何しろ、ウォースパイトは海を泳げないからだ。さすがに溺死に追い込まれるようなことはないと思いたい。

 

「そして、予告でもある! 二時の方向、上空に機影が見えるわ!」

「あれですか!」

 

 すぐに見付けられたあたり、サクヤは視力が良いのだろう。それはウォースパイトにとっても良いことだった。何しろ、見付けた水上機が翼を翻し、こちらに向かって急降下してきた時、サクヤはすぐに反応して左に回避しようとしたのだから。

 自分たちの右側を曳光弾が尾を曳いて海に落ちていく。明らかに威嚇射撃と分かる距離があったが、照明弾だけでなくまさか本当に撃ってくるとは思わなかった。艦娘の操る艦載機は模型のような小さく精緻な作りになっているが、模型と違ってこれには動力があり、実際に空を飛んで戦闘をすることが出来る。撃つ弾はもちろん銃弾で、もしそんなものが人体に直撃すれば「痛い」では済まないだろう。

 ただ、そんなことはそもそも艦娘が人間を攻撃することが厳しく禁じられているから起こり得ないことだったはずだ。

 もちろん、本当に撃墜するつもりで撃ってはこないだろう。あくまで警告のための射撃。だが、夜間に水上機を飛ばし、さらにわざと当てないように警告射撃を行うには相当の技量と技術力が必要なのではないかと思われた。

 鈴谷はウォースパイトの想像以上に手強い存在に違いない。彼女の艦種は恐らく巡洋艦クラス。空母であれば水上機を使わないし、駆逐艦や潜水艦にはそもそも水上機の扱いが無理だ。戦艦と言うにはそんな雰囲気もなかったし、一部水上機母艦という艦種もあるにはあるが、サクヤと対峙した時に瞳に宿った凶暴な光は、水上打撃部隊で自分の「お供」がよく見せていたものに近かった。

 主砲弾での殴り合いを主任務とする戦艦や巡洋艦は、それ故に戦闘時には獰猛な闘争心を見せる。ウォースパイト自身はあまり自分がそういう野蛮さを持っているとは思いたくないが、最も危険な砲弾の雨の中に突っ込んでいかなければならないのだから闘争心というのは欠かせられるものではない。とりわけ、戦艦より火力と防御に劣り、速力に勝るために突撃の先頭を担うことの多い巡洋艦クラスの艦娘は、恐怖に打ち勝つために人一倍闘争心が強い傾向にある。

 鈴谷もそうだった。後方での活動が多い水上機母艦ではあの眼光は持ち得ないだろう。そこに艦載機扱い能力が加わるのだ。これは甚大な脅威と言えた。

 とすれば、彼女の艦型には一つ心当たりがある。それが正解なら、鈴谷は相当厄介な相手と言わざるを得ないだろう。あれは普通の巡洋艦ではない。

 

「事前情報と違います。シンガポールに航空攻撃可能な艦娘が居るとは聞いていません」

「彼女は恐らく『航空巡洋艦』ね」

「航空……?」

「ええ。艦載機扱いに長けた巡洋艦の艦娘よ。日本独自のものね。通常の巡洋艦は、偵察や弾着観測に使う非武装の水上機しか扱わないけれど、航空巡洋艦は制空戦や空襲まで可能な武装した水上機を扱えるの。以前、日本の友人からそのような能力を持つ巡洋艦を導入する構想を聞いたことがあったわ。それが実現していたのよ」

 

 恐らく、ウォースパイトは「航空巡洋艦」と呼ばれる珍しい艦種について、世界で五番目以内に入るくらい詳しい。何故なら、この艦種の発案者にして創設者である日本の艦娘に対して、彼女が自分の案をより洗練されたものに昇華させるにあたって数多くの助言を授けたし、またそれらが彼女の案の中に織り込まれていることをよく知っているからだ。在英大使館駐在武官だった当時、榛名は自らが考えたこの新しい艦種の構想について、ウォースパイトに語ってみせた。榛名の構想が現実に産声を上げ、現場で実際に運用されて成果も出し始めているということも、ウォースパイトはよく知っている。諜報活動の妙では日本を歯牙にも掛けない自国政府がそうした情報を収集していたからだ。

 サクヤが空に飛び立つ前に鈴谷の艦種について思い当たっていたなら、ウォースパイトはレミリアの従者をもっと強硬に引き留めていただろう。通常、巡洋艦の運用する水上偵察機は非武装だから、追われてもそれほど脅威にはならないと軽んじたのである。何より、ダウンタウンのビル街に逃げ込んでしまえば追跡は不可能。シンガポール政府は日本軍の航空機が、例えそれが艦娘が操る玩具のようなものであれ、自国領土の上空を飛ぶことを一切許していないからである。ましてや、人口の密集する市街地など論外だ。

 

 鈴谷の目的ははっきりしていた。水上機は連続で襲ってくる。ウォースパイトも、サクヤも、それが鈴谷の思い通りにサクヤを飛ばせるための誘導だと気付いていたが、だからと言ってどうしようもなかった。放物線を描く曳光弾の軌跡に当たった時、二人に訪れる運命が何なのかは想像するまでもない。避ける以外になかった。

 照明弾が海に落ち、眩いばかりに輝いていたマグネシウムの光が消え、湾の上は不夜城にぼんやりと照らされる世界に戻る。それでも、水上機による威嚇射撃、意図したニアミスといった「ソフト」な攻撃は続けられた。正確に、絶え間なく、だ。

 時間が経てば経つほど、ウォースパイトの中で鈴谷の脅威レベルが高騰していく。大体の戦艦や巡洋艦の艦娘は水上機を扱えるが、その能力の差は素体本人の艦載機扱い適性によってピンからキリまである。ただ、ウォースパイトの経験上、大砲を振り回す能力と飛行機を飛ばす能力が両立した例はほとんどないと言えた。前者が優れていれば戦艦・巡洋艦に、後者が優れていれば空母になる。この二つの適性あるいは能力が、二律背反であるという証明がなされたことは知る限り一度もないが、経験則としてそれに近い関係にあるのではないかと考えていた。だから、榛名から「航空巡洋艦」の構想を聞かされた時も、その実現性について憂慮したし、友人に対してそれに拘らないようにという助言も行ったくらいだ。

 榛名は友人からの助言を真摯に受け取ったが、現実はどうやらウォースパイトの考えを凌駕していたようである。鈴谷は砲艦としての適性と、艦載機扱いの適性を高い水準で両立させている艦娘だ。もし鈴谷が王立海軍の所属であったなら、ウォースパイトは自分の持つ権力を存分に振るって彼女を己が麾下の艦隊に編入させたことだろう。こんな希有な能力を持つ艦娘は非常に有用であるに違いない。

 もちろん、これは皮肉である。そんな皮肉でもって現実をなじらなければ、脳髄が焼き切れそうだった。

 屈辱と羞恥が、火刑の炎のように急速にウォースパイトの身を焦がしていく。栄えある王立海軍“艦婦”艦隊の旗艦にとって、顔をぬかるみに押し付けられるような屈辱を味わうことは本当に久しぶりだった。

 以前に同じような思いをしたのは、もう十数年も昔のことだ。その頃はまだ駆け出しで、今はウォースパイトの副官として辣腕を振るってくれている空母娘も田舎から出て来たばかりの泣き虫だったし、今ではもう二度と顔を見れない艦娘も居た。ある時、ブリテン島の東岸を襲ってきた深海棲艦の迎撃に失敗し、命からがら敗走したことがあった。それだけならまだしも、艦娘を蹴散らした敵は本島に上陸、近隣の港町を散々荒らしまわって多数の市民を虐殺したのである。

 ウォースパイトの艦隊は逃げ帰ってきた時誰も欠けていなかったし、残弾もまだあった。敗走することになったのは、事前情報の誤りであったり、コミュニケーションの失敗であったり、そうしたミスが重なった結果だった。それでも、残弾はまだあったのだからもう少し長く戦っていれば市民を避難させられたのではないか。あるいは敵が諦めて撤退したのではないか。そんなどうしようもない悔恨の念が無尽蔵に湧き出してきて、自らの無力さを徹底的に思い知らされたという苦い記憶がある。

 その時は不可抗力もあったとは言え、責任の一端は間違いなく自分にあると断言出来た。だからこそウォースパイトを強く立ち上がり、戦い続けられたのだ。この時の屈辱は決して忘れないだろう。

 だが、屈辱にも種類があるのだということを、ウォースパイトは今日学んだ。艦娘として、戦艦として、王立海軍旗艦としての矜持と自負を踏み躙られるような屈辱。厄介なのは、そこに嫉妬が含まれていることだった。もう少し深く言えば、嫉妬は羨望の裏返しだった。鈴谷は自らの艤装と足で海に立ち、ウォースパイトは人に背負われて運ばれる。

 

 総て艦娘は艤装に身をくるめば海に立てるが、一度それをはずせば海はおろか、水に入ることすら禁忌とされる。ただ一人の例外もなく艦娘は水に浮くことが出来ず、したがって泳ぐことも出来ない。一般にはあまり知られていない事実だが、当の艦娘たちにとっては無視出来ない重大な事実だ。そのせいで風呂に入るにも細心の注意と同伴者が必要になるくらいである。ウォースパイトが初期に携わったいくつかの重要な仕事の一つに、入浴方法のマニュアル作成という作業が含まれていたことは特筆に値するだろう。

 

 普通、人体には肺という胸腔の大部分を占める大きな浮袋があるため、溺れない限りは水に沈まない。アルキメデスの原理の通り、物体の平均密度が水のそれより小さければ浮力が生じるのだから、肺という空気の入った袋のお陰で人体の平均密度は水の密度を下回り、浮くことが出来る。一方で、鉄の塊を背負っているにもかかわらず水面に立てる艦娘にはこの原理は適用されないようで、しかもそれは艤装を外しても同じだった。言うまでもなく艦娘の素体の体内にも肺袋は存在するし、その容積は艦娘ではない同年代の同程度の体格の人間とさほど変わらないにもかかわらず、全く水に浮くことが出来ないのだ。

 これは艦娘が抱える大きな謎の一つであると認識されていたが、重要なのはそんなことではない。水に浮けない以上、艦娘にとって水とは、海とは、恐怖の対象でしかないのである。それは、あまねく艦娘にとって共通の認識だった。人々が考えているのとは裏腹に、艦娘は水と、とことん相性が悪い。

 

 足元を見れば、漆黒の世界が広がっている。夜光に照らされて空が夜とは思えないほど明るいのと対照的に、海はあの世に繋がっていると思わせるほど不気味に暗く、淀んでいた。今が艤装を身に着けていないという状態であることはあまり関係がない。仮に艤装を身に着けていても、ごく稀に足元の水面の下を想像して、言い知れぬ恐怖に心を絡め捕られてしまうことがあった。もし、今この艤装がその力を失ったとしたら? 誰も、どうして艤装があれば海に立てるか解明出来ていないのに、ある日突然艤装が機能を失ってしまう恐れがないということを証明出来ようか。

 

 こうした恐怖を感じた時、それでもウォースパイトが海に立てたのは、結局のところ心の底で己の艤装を信じたからである。仕組みのよく分からないその機械は、何にも替え難い戦友なのだ。幾度となく敵と戦い、敵を沈め、己を生き永らえさせてきた艤装に、ウォースパイトは自分が置ける最大限の信頼を置いている。その信頼は、紛れもなく王立海軍の旗艦をそうたらしめる矜持の源泉であった。

 

 では、艤装のない“ただの泳げない女”である今のウォースパイトに何があるだろう? あるいは、“ただの泳げない女”であることを嫌というほど自覚させる鈴谷の攻撃はウォースパイトに何を与えただろう?

 現況において、海はおろか空さえも支配しているのは紛れもなく鈴谷だった。彼女は手の届かないところに居て、殴られても傷一つつかない堅牢な装甲に身を包んでいる。何をしようとウォースパイトは絶対的に無力であった。

 ウォースパイトは戦艦である。鈴谷が持つ主砲の何倍もの威力がある巨砲を容易く振り回し、水平線に重なる豆粒のような標的を正確に撃ち抜く技術にも自信がある。鈴谷が何機航空機を送り込んでこようが、針山のような機銃と対空砲ですべて撃墜してみせよう。だが、それらの内のどんなことも、艤装がなければ一つとして実行出来ない。

 何より腹が立つのは、鈴谷にとってウォースパイトは何の脅威でもなく、彼女はそれを当然のこととして行動している、という事実だ。つまり、鈴谷にとって脅威なのはメイドの能力であり、ウォースパイトなどはむしろ無力な野兎に等しいと考えているということだ。そして、その考え、あるいは認識は、まったくもって的確であるという点だ。

 未だかつて、ウォースパイトをここまで軽んじた人物は居なかった。鈴谷は特段他国の艦娘に対して侮蔑的であるわけではないだろう。彼女はある意味では“誠実な”姿勢で取り組んでいると言える。正しく状況を俯瞰し、正しく脅威を見積もり、それに基づいて適切に行動する。鈴谷は間違いなく優秀な兵士だった。

 

 真実、今の状況ではウォースパイトは何の役にも立たない。それでもせめて何か出来ることはないかと考えて眼下に巡洋艦の姿を探すが、黒い絵の具を厚く塗り込めたような海原にその姿は気配すらなく、そこにはただ何があるかも分からない闇が広がっている。恐らく世界で最も明るい部類に入るであろうシンガポールの大都市を眼前にして、海は驚くほど暗い。日本の小・中型艦の艦娘の用兵思想においては、欧州各国海軍のそれよりも夜間戦闘能力に対する比重が特筆するほど大きいと聞いたことがあるが、まさにその話を裏付けるように鈴谷は夜闇に紛れ、影をも追わせず、息を潜めながら艦載機を操るだけでウォースパイトたちを束縛してしまった。

 

 他方、日本の艦娘たちと違って夜戦に傾倒した訓練を行ってきたわけではない戦艦が目視での索敵に失敗している内に、その身を背負う人間の従者はそろそろ体力の限界を迎えようとしていた。しかし、ウォースパイトには彼女の呼吸が荒く、速くなっているのに気付いたとしてもどうしようもない。執拗で的確な鈴谷の「威嚇」はサクヤに不必要な回避行動を強要し、時間を浪費させ、さらに精神をナイフのように切り刻んで削り取っていった。仮に彼女がSAS(英軍特殊部隊)の屈強な隊員だったとしても、消耗しきるまでの時間がいくらか伸びた程度の違いしかなかっただろう。このままサクヤが体力の限界を迎えて海に墜落すれば、ウォースパイトに待っているのは溺死する運命だけだ。そして、それはもういつ起こってもおかしくない。

 だから、戦艦に出来ることと言えば、一番近くの陸地に着陸するように指示することくらいしかなかった。自分でも分かっていたのだろう、サクヤは何も答えずに頷きを返しただけで、フラフラと漂いながらゆっくりと陸地に近付いていく。彼女の不安定な飛行はウォースパイトの脳を不愉快に揺さぶり、墜落への極大の恐怖まで与えてくれたが、しがみつく以外にどうしようもないので、ただただ彼女の体力の限界が訪れないことを祈るだけだ。首筋には玉のような汗が浮かび、苦しそうな呼吸の音が不気味に響いて聞こえた。鈴谷の水上機は周囲を飛び回るだけで威嚇射撃をして来なくなったが、プロペラの音が蜂の羽音のようにも聞こえてそれがさらに不安を煽り立てる。

 サクヤが向かったのは、シンガポールで最も有名な場所だろう。絶えず続く水の音。普段はライトアップされているのに今晩に限って街灯りにしか照らされていないマーライオン像だ。そこへ、サクヤは一心不乱に向かって行った。

 確かに、マーライオン像の傍は護岸の上から海に降りれるように階段状になっている。普段は観光客が大勢たむろしているが、像がライトアップされていないのもあって、人の姿はそこにはない。杳として居場所の知れない鈴谷がどこかで息を潜めている可能性はあったし、海の上に姿が見えないなら、むしろそうとしか考えられないという現実的な思考が頭に浮かんだ。論理的に考えれば四方を市街地に囲まれたマリーナ湾は夜でも明るいはずで、ウォースパイトの目に暗く映ったのも、抱いた恐怖がなせる錯覚だったのかもしれない。それなのに一切姿が見えないのは明らかに不自然だし、すると考えられるのはサクヤが着陸するのを見越して遮蔽物の多い陸地に揚がって身を隠している以外にないだろう。

 脅威が分かっていても、対処のしようがなかった。サクヤの体力が限界に近付いているし、その限界がすなわちウォースパイトの寿命でもあった。敢えて言うなら、日本人たちの巧みな誘導に嵌められて空に上がった瞬間、勝負は決まってしまっていたのだろう。

 

 遂にサクヤがマーライオン像の近くに着陸する。彼女は足がコンクリートの階段に触れた瞬間、脱力して身を投げ出したので、疲れ切った従者を押し潰してさらに消耗させてしまわないようにウォースパイトは横に転がらなければならなかった。背負っている方は言うまでもないが、自分より体格が小さな人間に背負われている方も気付かぬ内に体力を消耗してしまっていたらしい。お世辞にも居心地の良い場所とは言えなかったが、それでもしばらく階段の上に横たわっていたいと思った。

 だが、そうも言っていられる状況ではない。姿は見えないが艦載機がずっと追跡して来ていたし、今も頭上を飛び回っているから鈴谷は二人がどこに降り立ったか把握しているだろう。そして、彼女や彼女の仲間たちが捕縛に急行しない理由は何一つ考えられなかった。

 

 過去、戦争中には体力を十分に回復出来ない状況というのにもうんざりするほど遭遇してきたから、ウォースパイトは割合すぐに立ち上がれた。問題はサクヤだったが、彼女も状況を正しく認識していたようで、顎の先から滴を垂らしながらも顔を上げ、戦艦に向かってこう言った。

 

「逃げてください。貴女様、一人だけでも……」

 

 言葉を発するだけでも苦しそうだが、それだけにその忠言には無視出来ない重みがあった。彼女がその特異な能力を発動させるのにどれだけ体力を消費するのかは分からないが、移動するだけの体力を回復させるにもしばらく待たなければならないだろう。そして、日本人の狙いがウォースパイトであることがはっきりしている以上、疲労困憊のサクヤを連れて逃げるのは捕縛される確率をいたずらに高める結果にしかならない。

 残したところで死ぬわけではない。そう信じてウォースパイトは頷き、踵を返して階段を駆け上がる。上がり切ってからふと気になり、背後を振り返った。

 

 その瞬間、乾いた音が鳴り響く。

 気付かなかった己の失態を自覚するが、既に手遅れだった。マーライオン像の陰から身を覗かせている人物の手には拳銃が握られており、しかもその銃口は海の方、つまり今まさに立ち上がろうとしていたレミリアの従者に向いていたのだ。従者はその場に崩れ落ち、ウォースパイトが立ち止まったことに気付いたその人物がこちらを仰ぎ見た。

 最も警戒するべき対象。薄暗く判別付きかねるが、それでも確かに鈴谷が少しだけ歯を見せながらナイフで切ったような邪な笑みを浮かべたのを見た。

 

「逃げて!」

 

 絞り出すようなサクヤの怒鳴り声に背中を押され、ウォースパイトは再び走り出すしかなかった。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 航行用の艤装を履いて地上を歩くのは、ちょうどスキーブーツで歩くのと近い感覚だというのが、鈴谷の偽らざる考えだ。艦娘の中でスキー経験のある者はそう多くはないが、鈴谷は少数派になるその内の一人だった。どちらも足首が固定されていて、ソールに全く柔軟性がなく、非常に歩き辛い。しかも、航行艤装で上手に地上を歩くためには少々コツが必要で、それは踵に付いている推進器と舵を傷付けぬよう、爪先立ちをしなければならないという点である。

 艤装の型によって地上歩行がまったく出来ない物もあったが、幸いにして最上型のそれは可能な物だった。とは言え、出来るからと言ってしていいわけではなく、むしろ航行艤装を履いたままでの歩行は大事な部分を傷付けてしまう恐れがあるために原則として禁じられていた。だから、航行艤装を履くのは出撃の準備の中で最後にくる工程だったし、そうして海に立てるようになった艦娘はまず専用のキャリアーに乗せられ、火薬の力によってレールの上を滑るキャリアーごと水面に“飛ばされる”のが常だった。陸上の基地から出撃する場合も、艦娘母艦から送り出される場合も、どちらも同じようにした。よって、敵に追われて島に逃げ込んで身を隠したりするような経験がなければ、多くの艦娘は航行艤装を履いたまま地上を歩くことはないだろう。

 

 鈴谷は違った。鈴谷が「まとも」な艦娘であった期間はキャリアの半分にも満たない。鈴谷の敵が深海棲艦だったのはほんの数年程度で、残りの期間は普通では体験出来ないような任務に赴き、時に悍ましい汚れ仕事に携わることもあった。そうした仕事の中で、時たま艤装ごと地上に揚がって歩き回ることがあっただけのことである。鈴谷は海軍で唯一無二の特殊な役割を与えられた艦娘で、ある意味では組織の汚点を一身に背負う身でもあった。だから、普通の艦娘なら深海棲艦に通用しないからほとんど扱わない拳銃の扱いにも慣れていたし、それで誰かを撃ったことも初めてではなかった。

 鈴谷はどうやら飛び道具を扱う才に恵まれていたらしく、艤装の艦砲と同じく銃での射撃成績も良好であるし、射撃訓練も暇を見付けては小まめに勤しんでいたから、薄暗い中でも人間の足を撃ち抜くのは造作もないことだった。激痛と被弾のショックに十六夜咲夜が崩れ落ち、ウォースパイトが彼女を置いて逃げるのを見送ってから、推進器と舵を傷付けぬよう細心の注意を払いながらコンクリート製の階段を下りる。村井たちの到着はまだだったが、ウォースパイトは遠くに逃げられずに間もなく捕まることだろう。

 

 メイドが倒れていたのは階段が海面と接するすぐ傍であり、艦娘である鈴谷は一旦海に出てから階段にもたれかかる様にして苦しんでいる彼女に近付いた。釜に火を入れ、暖機しながらいつでも動き出せるように備える。

 情保隊の本来の目的はウォースパイトを捕まえることである。彼女を捕まえられさえすれば十六夜の方は放っておいてもいいし、鈴谷もそう思わないこともないのだが、今はメイドも捕まえる絶好のチャンスで、これを見逃すのはとてももったいない気がした。何より、このメイドはスカーレットに最も近い人物であり、聞けば吸血鬼の寵愛を一身に受けているという。だから、身動きを取れなくなっている彼女を捕縛すれば実に様々なことに利用出来るだろうと考えた。情報を吐かせるのも良し、軍隊らしく「捕虜交換」と称して奪われた加賀の身を取り返しても良し、あるいは鈴谷のもっと個人的な目的のための取引材料にしても良しである。

 

 ウォースパイトに言った「死者蘇生」という案を、鈴谷は割と本気で考えていた。この世で否定されたはずの理不尽な存在が当たり前のような顔をして戻って来ている今、自然の摂理に反することでも起こせるのではないか。拒否はされたが、否定をされたわけではない。まずは実現可能性を探るところから取り組むべきだが、鈴谷は荒唐無稽と言われようと「死者蘇生」に一縷の望みを託していた。

 熊野を取り戻せたのなら、艦娘としての立場など顧みるつもりはない。例え、脱走艦娘として追われることになってもいい。どの道、熊野も咎人なのだ。最愛の人となら世界のどこへでも逃げられる気がしたし、幸いにして仕事の報酬は良い上にあまり使わずにいるから口座には結構な額の金が残っている。それを逃亡資金にして、狭苦しい島国とはおさらばしてしまおう。皮算用だと分かっていても、そんな妄想をするのはとても愉快だった。

 

 だからこそ、鈴谷は本気だ。この上なく本気だ。

 

 あまり近付きすぎることがないよう、少し間合いを開けて十六夜咲夜を見下ろす。威嚇射撃だったとしても、当たれば確実に死ぬ弾道に囲まれながら追い立てられたことは体力だけでなく精神も消耗させただろうし、その上出血も強いられてメイドはもう既にボロボロだった。

 

 

「さっきの話だけどさあ」

 

 「死者蘇生」という言葉を発したのはウォースパイトに向けてだったが、鈴谷はメイドがその話を聞いていた前提で話し掛けた。

 

「あんたたちは死んだ人間を生き返らせられる魔法とか、そういうのを知ってる?」

 

 問い掛けにメイドはしばらく答えなかった。彼女は荒い息を吐きながら鈴谷を見上げていた。足を見れば出血をしていたが、動脈を傷付けるような当たり方はしていないし、それ程重症のようにも見えない。

 

「……定義に、因りますわ」

 

 不意に、十六夜が口を開いた。てっきり彼女が心の中で問い掛けについて沈黙を維持することを決定したものだと考えて、次にどうしようかと思案し始めた航巡は少々意表を突かれた形になり、すぐに遠回しなその言い方に対する質問を投げ返すことが出来なかった。一方、メイドは鈴谷がすぐに答えなかったことを、先を促されていると感じたのか、望み通り解説を入れてくれた。

 

「単に、魂を取り戻すことならそれほど難しくはありません。何らかの方法で魂を確保して容れ物を用意し、そこに放り込むだけです。生前の肉体とは違いますが、まあ同一人物と言えるでしょう。あくまで、魂魄という視点から、ですが」

「どういうこと?」

「仮に魂を取り戻し、仮初の肉体に宿したとしても、生前の人物と同一の精神性や自我まで残っているとは限らないということです」

 

 それは悪い情報だった。仮初の肉体とやらが何を指すのか分からないが、メイドが言うように何らかの方法で熊野の魂を取り戻し、それを肉体に入れ直すことまで成功した場面を想像してみた。今までしたことのない類の想像だったので、具体的な様子を思い浮かべるのは難しかったが、脳裏に出て来た映像は抜け殻のようになった熊野に自分がかいがいしく食事を与えている場面だった。本当に“これ”が熊野なのか。熊野の格好をした何かではないか。呼び掛けても応じず、日がな一日中虚空を見詰めているだけの等身大の人形。きっと自分は疑うだろう。熊野の魂は本当に戻って来たのだろうかと。

 不愉快な想像だ。多大な失望を感じながらも、それでも往生際の悪い航巡は諦めることはなかった。第一、メイドが言っていることが真実であるとは限らない。何しろ、鈴谷を含めこの世界の誰もが与り知らぬ法則で動く異世界のことなのだ。それが正しいか正しくないかを判定出来るだけの材料は何もない。メイドが他の方法を知らないだけ、という可能性もあり得る。

 だから、鈴谷の中でメイドの価値はさらに上がっていった。それは恐らく吸血鬼の手下が企図したのとは逆の結果だろう。もちろん、その主人に対する人質としての価値のことだ。ウォースパイトは「悪魔の契約」では締結した人間側が大切な物を奪われると警告したが、では最初からその悪魔の大切な物を手に入れた上で取引に臨めばどうだろうか。

 

 やることは変わらないわけである。後は、“逃げる隙を窺っている”彼女を如何に引き留め、捕縛するかだった。方法として例えば、メイドが顔を真っ赤にするくらい激怒するような挑発を投げ掛け、彼女から冷静さと、逃走という合理的な手段を放棄させる、という手段がある。問題は何と言えば彼女がそこまで怒るかだったが。

 

 

「そっかぁ、それは難しいね」

 

 

 一つ、思い付いたことがある。メイドはそこまでキレないかもしれないが、確実に鈴谷に殺意を向けて来るであろうことだ。

 

「あ、そうだそうだ。今閃いたんだけどさ、『赤城』を利用するって手もあるんだよねぇ」

「……」

「『赤城』はさ、昨日の晩にあったことを全部白状したよ。深海棲艦になったこと、自分が元『赤城』で今は記憶を失っていること、レミリア・スカーレットに取り戻すように言われたこと。そうすれば、加賀を回復させられること」

 

 十六夜は相変わらず鈴谷の前から逃げ出す隙を窺っている様子だったが、右手に持った拳銃がそれをさせないという持ち主の強い意志を表明していたがため、中々実行に移せないようであった。体力が回復しきっていないというのもあるかもしれない。いずれにせよ、時間を止めて逃げられる彼女はその気になればいつでもここから立ち去ることが出来る。そうなると、せっかく仕込んだGPS発信機も捨てられてしまった今、彼女を追い駆けるのはほぼ不可能であろう。だから、早く鈴谷はメイドから逃走の意志を奪う必要があった。そして、その目論見は次の一言によって上手く達成出来た。

 

「鈴谷はね、それを妨害することが出来るんだよ」

 

 

 探るようなメイドの目に、鋭い光が宿る。暗さに目が慣れてきていた鈴谷は、彼女がわずかに眉間に皺を立てたのを見逃さなかった。それで、自分が賭けに勝ったことを確信する。

 

「わざわざ実力行使で奪ってきたんだから、あんたの“お嬢様”にとって、加賀は余程大事なんだね。もちろん、『赤城』も。去年、『赤城』の居た鎮守府が壊滅した時、大慌てで助けに行ったそうじゃん? 単なる潜伏先としか考えていなかったなら、リスクを冒してまでそんなことはしない。だから、昨日『赤城』と加賀を引き合わせたのも、あいつにとっては必要な儀式だった。違う?」

 

 メイドは答えない。彼女を逃がさないために、理性を飛ばすほど怒らせる以外の方法は一つ。鈴谷に対する認識を“回避すべき追

手”から“排除すべき脅威”へと改めることだった。スカーレットへの忠誠心が強いという十六夜なら、主人を邪魔する障害を排除しようと考えるだろう。賭けに勝てるだけの見積もりはあったし、実際にそうなった。

 

「昼間、目を覚ました大尉、もとい『赤城』に事情聴取したのは鈴谷だけ。だから、『赤城』が何を白状したか知っているのも鈴谷だけ。だけどぉ、鈴谷だって組織の一員だからさあ、報・連・相ってのが求められるわけ。分かるでしょ? 今後、『赤城』があんたのご主人様の言に従って記憶を取り戻すことが出来るか出来ないかは、鈴谷の匙加減次第なの」

 

 メイドは知らないし、今真実を知る術はない。だから、嘘やハッタリもこの場だけなら通用する。実際には「赤城」の告白は彼女の上官たる柳本中将も知っている。というより、部下の艦娘から報告を受けた中将が、「赤城」と一対一でヒアリングをしていたから知っていて当然だ。しかし、中将は「赤城」から聞いたすべてを村井に伝えたわけではなかった。彼は、彼と「赤城」に都合の悪いことは言っていない。では、何故鈴谷がそのことを知っているかというと、これはとても単純なことである。単に、ヒアリングの場を盗聴していたからだ。

 ヒアリングの場は医務室で、「赤城」が寝かされている部屋だった。盗聴を警戒して、中将は部下にコンセントを確認させたり、電波探知機まで持ち出したりして随分念入りに部屋を調べ、盗聴器が仕掛けられていないことを確認していた。だが、彼は失念していたのだ。普通の人間には見えない、艦娘たちが操る「妖精」と呼ばれる存在。彼らとその主人たる艦娘は意識が繋がっているということを。

 盗聴するのはとても簡単なことだった。鈴谷は自分の艤装の妖精を一人、「赤城」の医務室に忍び込ませていた。なので、そこで何が話されていたかはすべて筒抜けで聞くことが出来たのである。

 

 そして、メイドに対して吐いた嘘は一つだけだった。『赤城』が白状した内容を知っているのが鈴谷だけ、という点のみ。つまり、“彼女の今後が鈴谷の匙加減次第”というのは本当なのだ。鈴谷は盗聴した内容を村井に伝えていないどころか、盗聴していた事実さえ報告していない。だが、それで叱責されることはないし、この後基地に帰り、ウォースパイトを捕まえてご満悦の彼をさらに喜ばせる報告をするのは難しいことではない。彼が「赤城」の告白の内容を知ればどうするかは予想がついた。だからこそ、中将も村井には自分たちにとって都合の悪いことを伝えなかったのである。

 

 実際、「赤城」が海軍という巨大組織の中で、記憶を取り戻すなどというある種の“私事”で動くには、それなりに強力な後ろ盾が必要なはずだ。スカーレットがそれについてどう考えているのかは定かではないが、彼女も一時だけとは言え海軍の中に居たのだから、組織の中で個人が自分勝手に動けないのは分かっているだろう。だが、わざわざそうするように諭したのだから、何かしら算段があるのかもしれない。ただし、村井や彼の情報保全隊にはその算段が何であれ、「赤城」を捕えての妨害をすることは非常に簡単に出来るのだ。

 

 

 と、賢いメイドならここまでのことは当然理解したはずである。吸血鬼の力は強大だし、イギリス海軍にも強い影響力を持っているようだが、同じような力が日本海軍に通用するわけではない。スカーレットの目的は未だ不明だが、加賀を回復させることが最終目的であれ、あるいは中間目標であれ、それを妨害することをメイドは良しとしないだろう。

 

 それに、と考え、鈴谷は可能な限り悪辣に見える笑みを浮かべる。

 

「別に、加賀や『赤城』のことが重要じゃないって言うんなら、もう鈴谷は追わないからさ、どこへでも逃げていいんだよ。だけど、あんた一人にウォースパイトの逃走を任せたあんたのご主人様はさ、自分の腹心が護衛対象を捕まえられた挙句、『赤城』の邪魔をされるのを知らされて逃げ帰って来たら、とっても失望するんじゃないかなぁ? まあ、優しいあんたのご主人様はあんたを責めたりしないかもしれない。けど、あんたはそれじゃあ余計に惨めになるだけだよね?」

「露骨すぎるわ。そんな見え透いた挑発に乗るとでも? それにお嬢様の支援がないとでも思う?」

 

 メイドは案外落ち着いた口調で反論してきた。だが、内心は見掛けほど冷静ではないようだ。その証拠に、丁寧語が取れてしまっている。

 彼女はこの期に及んでスカーレットの存在を仄めかして逆に威圧しようとしてきたのだから、往生際の悪さは鈴谷と遜色ないのかもしれない。だが、メイドが孤立しているのは明白だった。

 

 マリーナ湾の上空をメイドが戦艦を背負って飛んでいる間、鈴谷が最も警戒していたのがスカーレットからの助太刀で、曲がりなりにも「提督」として着任していたのだから、自分の手下と“お友達”がどれ程危機的状況にあるか、吸血鬼には分かるはずだった。にもかかわらず何の支援もなかったのだから、既にスカーレットとその一味は、メイドを残してシンガポールを去ったと見て良いだろう。何しろ昨日あれだけ派手に暴れたのだから、これ以上シンガポールに潜伏し続けるのは難しい。

 こけ脅しを見破った鈴谷は彼女が自分の術中に嵌っていることに気を良くし、反論を無視して続けた。

 

「分かってる? さっきも言ったけど、昨日『赤城』がどうなってたかを知ってるのは、今のところ本人と鈴谷だけなんだよ。何しろ、この目で見たからね。深海棲艦になったっていうのは、それだけで重罪なんだ。ついでに言えば、そうなった、あるいはそうなりそうな艦娘を見付けて始末するのも鈴谷の仕事の内なんだよねぇ。だから、明日からも『赤城』が生きていられるようにすることも出来るし」

 

 

 メイドが目の前から姿を消すのと、鈴谷が左手で飛行甲板を持ち上げて胸と首を守り、右腕を後ろに振るのは同時だった。

 

 

 

 

「すぐに処刑しちゃうことも出来るわけさあッ!!」

 

 怒鳴りながら背後に現れたメイドを迎撃する。拳銃が火を噴き、攻撃が読まれたことに意表を突かれた十六夜の肩を掠めた。顔に動揺が現れたのは一瞬で、自動拳銃がブローバックするわずかな間に姿を消して逃走した。

 失敗したか、という懸念は、彼女の姿がマーライオン像の陰に見えたことで払拭された。逃走ではなく、態勢を立て直すための一時的な撤退らしい。

 

 いいよ、そう来なくっちゃ!

 

 アドレナリンが脳内に充填されていくのを自覚しながら、鈴谷は笑う。全身の神経が一斉に騒ぎ出したような興奮が身体を支配し、居ても立ってもいられずに海を蹴ってマーライオン像の前に回り込む。メイドもその動きに対応したのか、すぐに姿を消した。

 今度こそ、彼女が逃げたわけでも撤退したわけでもないと確信した鈴谷だが、次の攻撃を直感で察知することは出来なかった。それでも、反射的に身を屈めて攻撃の回避に徹する。

 

 頭上をナイフが一閃した。宙に浮いたメイドに向かって発砲。だが、その時には彼女はもう居ない。顎に衝撃を食らって、加えられた応力により強制的に顔が天を仰ぐ。脳が揺さぶられて視界が明滅する中、無我夢中で左の太ももに装着させている主砲塔を旋回、海面に向けて発射した。

 

 間近で響く轟音と風圧、足元から突き上げるような波が盛り上がり、マーライオン像の倍はあろうかという巨大な水柱が立った。艦娘である鈴谷だからこそ至近弾には耐えられるが、生身の人間なら風圧、というより衝撃波で身体がバラバラになっているだろう。頭上から滝のように海水が降ってくる。

 メイドがやられたとは思えない。暖機していた機関と航行艤装の推進装置を接続して動き出す。こんな陸の近くで主砲を放つことになるとは思わなかったし、したくなかった。今の発射音と着弾の轟音で野次馬が集まってくるだろう。それはあまり好ましいとは言えない事態である。

 よって、鈴谷は陸地から離れた。完全に敵意に囚われている十六夜は追い掛けて来るだろうから、即座にスピードに乗り、マリーナ湾の中心方向へと向かう。タブレット端末を操作して片眼式のヘッドマウントディスプレイに上空の無人ヘリに搭載されたレーダーの画面を表示、メイドが追いついて来たかを確認する。

 

 と、そこで鈴谷は奇妙なものを目にした。

 レーダー画面を移動する自分自身を表す塗り潰された三角形のフリップ(光点)。そこに薄ぼんやりと別のフリップが重なるように表示される。

 初めて見る現象だった。それが何を意味するかを考察する前に、野性的な“勘”とも言うべき強い危機感により、鈴谷は背後に飛行甲板を振る。本来そのように使う物ではないが、鉄の塊であるから素材自体が持つ硬さによってある程度物理的な衝撃を阻止することが可能だ。例えば、刃物での斬撃など、である。

 金属と金属を打つ音が鳴り、飛行甲板を通じて軽い衝撃が腕に伝わってくる。振るわれていたのは、刃渡り30㎝はあろうかという大振りのバヨネットだった。人間の肉を骨から削ぎ落とすには十分な威力を持つ凶器。その狙いは明らかに鈴谷の首筋だった。

 

 先程もそうだ。人口ツリーの屋上バーで襲われた時も、メイドは明確に鈴谷の首の付け根、もしくは後頭部を狙って来た。これが偶然ではないのなら、メイドは何らかの理由があってその場所を狙っていることになる。確かに後頭部は急所の一つだが、もっと狙いやすい場所は他にもあるし、何度も同じところを狙って来るならいくら時間操作能力を絡めて攻撃しようとも、段々手が読めてくる。当然、メイドはそのリスクを承知しているだろう。それにもかかわらずこだわるということは、強い理由があるからだ。そして、鈴谷の想像力が及ぶ限り、その理由というのは一つしかないように思われた。

 

 ――脳内チップか。

 

 「艦娘脳波リンクシステム」の核とも言うべきのが、鈴谷の後頭葉と頭蓋骨の間に差し込むように設置された脳内チップである。チップは複数あり、それぞれ「読み出し」用と「書き込み」用に分かれているが、いずれも後頭部に位置している。このチップの存在が鈴谷のBMIが高侵襲性であることの何よりの証だった。

 無論、外部からの衝撃が加わればデリケートな部品であるから簡単に壊れてしまうし、破損したチップが脳内に残留していると持続的に脳出血や脳ヘルニアを引き起こす原因となるだろう。もし、メイドが本当にチップを狙って来ているのだとしたら、なるほどなかなか的確なものである。

 だが、そうすると大きな疑問が生じる。どうして彼女は脳内チップのことを知っているのかという点だ。

 

 ただし、状況が状況だけに鈴谷はこの疑問について答えを考えるのを後回しにせざるを得なかった。言うまでもなく今は交戦中であり、じっくり考え事などしていればあの大きなバヨネットによってなます切りにされてしまう。あんな物、世界一武器類の所持に厳しい日本でなくとも、大抵の国で所持は違法だろう。

 

 そしてもう一つ、むしろこちらの方が鈴谷の興味を惹く事柄がある。

 シャドウだ。レーダー画面に現れたシャドウ。

 

 通常、レーダー画面がこのようなシャドウを映すことはない。真っ先に考えられるのは故障や不具合の類であるが、そうでないことはすぐに判明した。

 再び、ヘッドアップディスプレイのレーダー画面にシャドウが映る。それは鈴谷の進行方向に現れた。ほぼ同時に、目の前に無数の光る何かも出現した。

 驚きに声を上げることさえ出来なかった。避けようとして避けられるものではない。鈴谷はその時艤装の推進力を使って前方に二十ノット程度の速度で進んでいた。路肩を走っているロードバイクよりやや早い程度の速度だが、波もありそれなりに重量のある艤装を背負って走っているのであれば、慣性の法則により当然すぐには止まれないし、急に舵を切っても転ぶだけ。さほどの速度ではないとは言え、抵抗の強い水面にそのまま倒れ込めば頑丈な鈴谷自身は負傷しなくとも装備が破損する恐れは大いにある。デリケートな電子機器が多いのだ。

 かと言って、しゃがんで避けることも出来なかった。何しろ、それらはご丁寧にも何本かが下から突き上げるようにして鈴谷に向かうように“配置”されていたのだから。

 無数の、刃が煌めく鋭いナイフ。刃先をすべて鈴谷の身体と向かい合うように“配置”されたナイフが空中に並んでいる。誰がそんなことをしたのかは明白だったが、問題はどう対処するかだった。考える時間も避けるスペースもない。

 身を縮めて少しでも見掛けの表面積を小さくし、両腕で頭と胸を同時に庇う。飛行甲板という“盾”を身体の前に持って来る余裕さえなかった。

 痛みというより、腕や太ももに無理矢理ねじ込まれるような異物感の方が強い。自らの慣性と鈴谷の慣性によって相対速度が高められた結果、ナイフは深々と艦娘の身体に刺さった。それも、一つや二つではない。両手の指で数えてもまだ足りないだろう。

 けれど、急所は外していたし、元より頑丈さには自信のある鈴谷は気にしなかった。そんなことよりも、ヘッドアップディスプレイのレーダー画面に生じた三度目のシャドウの方が余程重要だった。それは鈴谷を現すフリップに重なるように現れる。真上ではなく、若干右寄りに。

 

 シャドウの正体には勘付いていた。

 メイドは自分の能力に絶対的な自信を持っているだろう。そりゃそうだ。「時間を操る」なんて、他に出来る奴はこの世に居ないに違いない。けれど、だからこそ彼女は鈴谷の動きへの対応が遅れた。勘では見破れないと思っていたであろう攻撃を、鈴谷が迎撃したからだ。巨大なバヨネットを振り、鈴谷の身体のどこかを破壊しようとしていたメイドに銃を持ったままの右手を裏拳で叩き付ける。

 殺さない程度に軽く。もっとも、ナイフが全身に突き刺さった状態ではあまり力を込められなかった。それでも十分意味のある攻撃にはなる。反応しきれなかった十六夜は裏拳を顔に食らい、反対方向に吹っ飛んだ。

 碌に力が入っていなかったので、今ので首の骨が折れたりはしていないだろうが、顔面から伝わった衝撃は確実に脳を揺さぶったはずだ。自らの身一つで宙を飛べる幻想郷住人であっても、意識を飛ばされれば当然墜落してしまうものらしい。ましてや、艦娘と違って艤装による浮力の提供を受けられない“ただの”人間である十六夜には、海面に落ちた時に浮かぶ術がなかった。

 

 メイドを捕まえる絶好のチャンスだったが、さすがに先に刺さったナイフを抜かないとまずいので、手早く抜いていく。痛みには慣れている。歯を食いしばりながら十数本のナイフを抜いて海に捨てると、まだメイドはその場に浮いていた。ところが、ようやく身柄を拘束しようと鈴谷が手を伸ばした時には、運良く目を覚まして海に落ちたはずのメイドはそこに居ない。けれど、鈴谷は焦らなかった。

 メイドがどこに行ったかはレーダー画面を見ればいい。原理は不明だが、彼女が「時間を操る」能力を発動して移動した時、移動の直前、移動先に妙なシャドウが現れるのに気付いたからだ。どうしてそんなことが起こるのか素人なりに見当をつけてみるとする。恐らく「時間」に関わる能力だから何らかの形で量子に作用し、それがレーダー波を構成する光子にも影響を及ぼした結果、シャドウとして発現したのかもしれない。

 重要なのは原理ではないし、そんなものは後でじっくり考察でもすればいい。今重要なのは、それによってメイドの動きが読めるようになったという点に尽きる。同様の現象に気付いてから、二回目にそれを目にした時は半信半疑だったが、三回も見れば確信を抱くには十分だった。シャドウの出現とメイドの能力使用のタイミングが一致することに気付けば、二つの事象がリンクしていることを理解するのに時間は必要ない。

 

 メイドの動きには明らかな動揺が見て取れた。彼女が次に現れたのは鈴谷の背後の少し離れ位置だったが、航巡はすぐに振り返らずに上空で待機していた瑞雲を動かす。振り返れば彼女は鈴谷が自分の動きを読めることを察するだろう。そうすると、理由はどうあれ鈴谷が自分の動きを分かる前提でメイドは次の行動を決めるだろうし、それではせっかく得たこの大きなアドバンテージが無意味になってしまう。だが、“どこに移動したか気付かないふり”をすれば、先程の一撃も勘によるものかもしれないと思うはずだ。不正確な状況観察による誤った情勢判断の結果、メイドの意思決定と行動も不適切なものになる。特に、動揺を見せて動きを止めるなど致命的だ。

 

 ところで、瑞雲はただの水上機ではなく、それなりに武装可能な機体だった。装甲の薄い敵の小型艦なら、爆撃で十分撃沈出来るくらいのペイロードがあったし、もちろん先程用いたように機銃掃射も可能で、何かと使い勝手がいい。速度が遅いのと機動性があまり良くないのが欠点だが、空戦をするのでなければそれはあまり気にならない。特に、止まっている目標に牽制を行うのには十分であった。

 メイドは気付いていない。脅威は鈴谷自身だけでなく、手足のように操れる頭上の艦載機にもあるのだということを、艦娘について深い知識がないであろう彼女には分かりっこない。着弾の衝撃で戦闘能力を奪ってしまえばこちらの勝ちだ。

 だから、鈴谷は自分が勝利まであと一歩のところに居ることをその瞬間まで信じて疑わなかった。疑う要素など何もなかった。気付かなかったのは鈴谷の方だったのに。

 

 

 メイドは脅威の数をちゃんと把握していたのである。鈴谷がそのことを理解したのは、瑞雲がすべて撃墜され、自分の意識とパイロット役の妖精との接続が遮断された時だった。艦載機のコントロールが突然手の中から零れ落ちる不愉快な感覚。よく知っているし、だからこそ瞬時に何が起こったのかを把握したが、どうしてそうなったのかが分からなかった。

 反射的に顔を上げれば、無残に破壊された瑞雲の残骸が空から降ってきていた。だが、鈴谷はそんな光景をぼんやりと見上げている場合ではなかったのだ。

 

 どん、という衝撃を受ける。肝臓の辺りに焼けるような感覚があって、見下ろすとちょうど該当の個所の制服が本来の色を失ってどす黒く染まっていた。

 

 全身からが力が抜けていく。痛みという痛みを感じないのに、立っていられなくなった。こういう場合、艦娘本人に代わって姿勢制御を行うのはその艦娘の艤装である。どんな艦娘の艤装にも付いているパワーアシスト機能がそうさせるのだ。

 例によって鈴谷もその場に倒れ込むことはなかったのだが、さすがに腹を刺されて平気ではいられなかったし、直感で「おかしい」と確信するだけの“異常”があった。傷は深く確実に内臓を傷付けていて、服を絞れるほどの出血がある。普通の人間なら余命幾ばくもなくなるような致命傷だが、幸か不幸か艦娘である鈴谷はこの傷であっても死ぬことはない……のかもしれない。

 

 いや、少し前までならそこは断言出来ていただろう。しかし、今はそうではなかった。

 傷の治りが遅い。大量のナイフで刺された時の傷はさっそく塞ぎ始めていたが、鈴谷の基準で言えば「時間が掛かりすぎ」ている。

 

 艦娘の中には、常人には不可能なことが可能な者が存在するのは知られた話だ。艤装のパワーアシストを受けられるとか、水面に立てるとか、そういったことではない。その艦娘個人に属する“体質”のようなものであろうか。例えば星月の明かりだけで夜でも昼のように見ることが出来たり、音速を越える砲弾を目で追えるような動体視力を持っていたりと、常人には不可能な類の能力である。

 こうした能力、あるいは“体質”はいずれも艦娘になった瞬間に獲得されるものらしく、艦娘になる前の素体本人の身体能力に起因するものではない。鈴谷もその内の一人だった。鈴谷の場合、その身が得た能力は尋常ならざる回復力だ。

 

 元より、修復材を浴びればどんな致命傷でも治癒するのが艦娘だが、鈴谷には修復材ですら不要だった。例え頭を切り落とされようとも瞬く間に元に戻るし、もちろんそれで死ぬことはない。どれ程高威力の攻撃を受けようとも、たちどころに回復してしまう化け物じみた能力なのだ。

 自分が異質な力を得たことを初めて知った時には大いに戸惑ったものの、それが非常に有用であることに気付くと戸惑いは綺麗さっぱりなくなり、反対に回復能力に対する深い自信を持つようになった。深海棲艦の攻撃など何も怖くないし、電車に轢かれようが大量の放射線を浴びようが(そんな経験はいずれもないが)、それで自分が死ぬとは全く思っていない。完全な不死ではないにしろ、この世界で誰よりもそれに近い存在だという確信がある。

 

 だからこそ、メイドの攻撃が大量の出血を強いた時もさしたる危機感はなかった。鈴谷らしいとても簡単な物言いをすれば「すぐ治るから気にしない」である。

 が、事実は予想に反しており、傷は鈴谷が想定していたよりもずっと治りが遅かった。数は多かったが致命傷が一つもなかったのと、傷の修復に伴って血液の再生産も行われているようだから貧血で判断力が鈍るようなことがなかったのは幸いだった。

 ところが、今度は洒落にならない。刺されたのは肝臓であり、常人なら即死を免れないような急所で、艦娘でも致命的になる部位だ。メイドは正確にそこを狙ってきた。偶然ではないだろうし、一撃で重要な臓器を破壊することが出来るようになるには余程人体の構造に熟知していなければならない。鈴谷が死ななかったのは艤装を身に着けていたことと、特異な回復力を持っていたからに過ぎなかった。その鈴谷をもってしても肝臓への一撃は致命傷と呼べるくらい重大で、戦闘不能に陥ってしまう。

 

 

 殺されると思った。

 自分自身の生命への執着はさほどない。熊野を喪ったあの日から、鈴谷はずっと生ける屍に等しい存在に成り下がっていたから、今更本当の屍にされること自体にはどうとも思うことはない。だから、メイドに殺されることに対して抵抗したのは別の理由があったからだ。鈴谷は、熊野を生き返らせる方法がある可能性を探っていた。それを得るためにメイドと戦っていた。そういう理由があるなら、今、命を手放すのはとても都合が悪い。

 

 とは言え、回復力が完全に失われているわけでも阻害されているわけでもない。刺された傷を手で抑えつけて圧迫止血を試みる。場所が場所だけにそれだけで止血するのは無理だろうが、かといっていたずらに血液を失うのは賢明なことではない。メイドを含め、幻想郷の住人たちはこの世に非ざる力の使い手である。メイド自身の能力が時間操作に関するものであるなら、鈴谷の回復能力に何らかの干渉をして治癒を遅らせていると思われるのはその道具、すなわち彼女の武器たる刃物であろうか。ナイフやバヨネットに何らかのからくりがあるのかもしれない。

 傷口を左手で塞ぎ、さらにその上から拳銃を持ったまま前腕を押し付けて圧迫する。とめどなく溢れ出てくる自分の血で左手の感触が気持ち悪いし、抑え切れない血液が右の手首から滴となって海に落ちていく有様だ。それでも、鈴谷の化け物じみた回復力はこの傷をも少しずつ治していく。

 

 両手が塞がり、脱力して艤装の力でその場に“立たされている”だけの艦娘。誰がどう見ても無防備な獲物だった。実際、鈴谷には抵抗する力などなかった。

 再び、レーダー画面にシャドウが現れる。メイドの次の攻撃。当たり所が悪ければ今度こそ本当に死んでしまうかもしれない。

 鈴谷は目を閉じる。腕には力が入らず、牽制のために拳銃を持ち上げることすら出来ない。

 

 

 

 

 ――さあ、行きますわよ。鈴谷――

 

 懐かしい声が聞こえた。きっと、気のせいだろう。

 

 

 いつも自分の前を行っていた同じ制服姿。優秀な彼女はよく旗艦を任され、そういう時は鈴谷が必ず二番艦になった。

 

 誰よりも近くから熊野を見ることの出来る場所。無線で飛んで来る指示を一言も聞き漏らさないように真剣に聞いている横顔も、高く結われたひと房の髪が潮風になびくのも、すらりと長い指が艦隊の随伴員に敵の位置を示すため伸ばされるのも、主機が鳴らす騒音の中でもよく聞こえる独特で力強い喊声も。全部目の前の熊野の姿だった。

 

 簡単に手折れそうなくらいほっそりした身体で、不安になるくらい華奢な背中で、熊野はいつも迷うことのない航跡を残しながら進んでいた。鈴谷は彼女を追い掛けるばかりだった。

 

 

 あの子はとっくに沈んでしまったはずなのに。……いや、生き返らせようとしているんだっけ。

 

 

 

 

 

 

 乾いた銃声が響く。予備動作を勘付かれないように、腕を組むようにして右手の拳銃を左の脇に差し込んで射線を通す。

 目暗で撃った不意打ちにしては上出来だった。背後で重い物が落ちた水音がしたのを聞き、鈴谷は自分の足で立ち上がる。メイドの武器にどんなからくりがあるにせよ、それは鈴谷の回復力を完全に喪失させる程度のものではなかった。遅々としながらも確実に傷は塞がり、血は補充されていったのである。

 振り返れば撃墜されたメイドが海面でもがいていた。狙って得た結果ではない。肝臓を刺されて死にかけていたのは事実だし、身動きが取れなくなったのも隙を見せて攻撃を誘う演技というわけでもなかった。気が付けば身体に力が戻っていて、どうにか追撃を妨害しようと牽制を撃ったら、偶然命中したらしい。だからこそ、メイドにもこの結果は予想出来ず、彼女は失態を演じることになってしまったようだ。

 お得意の時間操作能力で逃げなかったところを見るに、傷は浅いものではないのかもしれない。必死で手をばたつかせて浮かんでいるのは、一見すると水で戯れているようだが、そう判断するのは誤りである。これは溺れているサインであり、このまま溺死されても困るので、銃を持っていない左手でメイドの腕を引っ張る。ところが、左手はまだ自分の血でべっとりと濡れていたので、メイドの腕はぬるりと滑ってしまった。それでさらに吸血鬼の手下は無様に沈みかけてしまうので、慌てて左手を海面に突っ込んで血を洗うと、もう一度、今度はしっかり腕を掴んで引っ張り上げた。その間、銃口を彼女に向け続けることはもちろん忘れない。

 十六夜咲夜は抵抗しなかった。理由を探して彼女の身体を確認すると、左の脇腹で服が黒くなっている。恐らくは血の染み。致命傷ではないが、重傷であろう。戦闘能力を奪うには十分な一撃が入っていたようだ。目にはまだ敵意が残っているが、眼光に鋭さはなく、表情にはどちらかと言うと疲労と苦痛が現れている。

 鈴谷とてまだ十分に回復し切れていないが、圧倒的に優位な位置にはいる。時間を操る能力の底が知れないので、まだ何をしてくるか分からないし警戒しなければならないが、“ただの人間”であるからこそメイドの限界は目前に迫っているのが明白だった。もちろん、火事場の馬鹿力という言葉ある通り、追い詰められた人間が底力を発揮して思わぬ反撃を繰り出してくることは十分考えられる。だからこそ、必要以上に相手を追い込むのは却って危険を招くし、捕まえるならさっさと気絶させた方がいい。

 

 この人間は情報の塊なのだ。スカーレットの目的に、能力や鈴谷の回復力を奪った武器のからくりなど、聞き出したいことは山のようにあるし、スカーレットとの取引にも使えそうだ。

 

「大人しくしてなよ」

 

 鈴谷はメイドの腕を中途半端に引っ張り上げ、あえて彼女の下半身が海に浸かるようにしていた。負傷による出血と戦闘での疲労が蓄積されている上に負荷の強い姿勢に固定されていることによる体力の逓減が彼女から確実に抵抗の意志を奪っている。鈴谷に掴まれていない方の手を傷口に当てて圧迫止血を試みている十六夜は、恨みのこもった眼で航巡をねめつけているが、いかんせん視線に迫力がない。そんな彼女にゆっくりとした口調を心掛けながら話し掛ける。追い込むだけでは土壇場の抵抗を誘発するので、こうして逃げ道を用意してやるのも一つの手だ。

 

「暴れなきゃ、こっちもこれ以上乱暴には扱わない。だけど、抵抗すれば鈴谷はすぐに撃つからね。話を聞かせてもらえなくなるのは残念だけど、死体からも得られる情報ってのはいっぱいあるから」

 

 分かった? と尋ねてみるが、メイドの顎は微塵も動かなかった。喋ることはおろか、頷くことすら拒否しているようである。もっとも、鈴谷も彼女から今何か芳しい反応を得られるとは考えていなかった。

 遠くからはヘリのローター音が聞こえてくる。先程、鈴谷の艤装を運んで来てくれたマーライオン3が戻って来たのだろう。マリーナ湾で鈴谷が戦闘に突入した場合、基地に引き返したヘリが応援を運んで再び来る手筈となっていた。その応援が、昨日砲口を向け合った相手であるかは定かではない。昨日の一件があり、近隣のリンガ基地に出張していたシンガポール基地所属の別隊が戻って来ていたので、そちらが来た可能性もある。鈴谷としてはなるべく江風とは顔を合わせたくなかった。

 

 ともあれ、これで状況は沈静化する。連絡はないが、陸では村井たちがウォースパイトの捕縛を完了させている頃合いだろう。戦闘中にその連絡があって集中を切らすのが嫌なので、余程緊急のことでなければ鈴谷が戦闘に入ったら連絡をしないように彼には頼んであった。もっとも、鈴谷は万に一つも彼がしくじるとは考えていないので、例え連絡がなくとも何の心配もしていないのだが。

 ヘリの音はメイドの耳にも入っただろう。それに対するリアクションなのか、それまで黙って鈴谷を睨むばかりだった彼女に動きがあった。と言っても、わずかに口を開いて苦しそうな息を吐き出したくらいである。ただ、彼女はその口を閉じずにそのまま喋り出した。

 

「お嬢様が、貴女たちの妨害について、何もお考えではないと思う?」

 

 痛みと疲労で息は切れ切れだったが、メイドは何かしらの強い意志を持って話し始めたらしかった。鈴谷はこの言葉には特に反応を示さない。先程はこちらの話を無視していたのに、どうして急に話し出したのか、その意図を計りながら会話に乗るかどうかを逡巡していたからである。

 

「お嬢様の目的は、あの『加賀』という艦娘を、治癒すること。それを、妨げる者が居るなら、お嬢様は一切容赦しない」

 

 どうやら、親切にも警告を発してくれているようだ。もちろん、それだけではないだろうから、ひとまずメイドの会話に応じることにした。笑いながら肩をすくめて、「そりゃあ、怖いね」と応えてみる。

 

「お嬢様のことを、過小評価しすぎよ。貴女たちでは束になってかかっても敵わない」

「そうなんだ。そんなに強い奴なら、正体を暴かれたくらいで泣きべそかきながら逃げ出したりしないはずだけど。じゃあ、二年前にうちの鎮守府に潜伏していたのがバレて追い出されたどこかの誰かさんは、あんたのご主人様とは別人だったのかな?」

 

 メイドの視線にはっきりと殺意が宿る。鈴谷は、ちゃんと“打って響いた”ことに気を良くした。

 

「理由があるわ」

 

 だが、気を取り直したのか十六夜咲夜は不敵な笑みを浮かべる。

 

「無知な貴女には分からないのでしょう。自分が何者なのか、艦娘とは何なのか、貴女と貴女の仲間たちはまるで分かっていない」

 

 吸血鬼の手下は笑みを濃くする。最早その口元には隠し切れない邪ささえ見て取れた。

 意味が分からない。まるで、メイドは艦娘の正体を知っていると言わんばかりだ。

 

「自分の中に流れている血の味を知っている? どうして艦娘が生まれたのかを知っている? どうして海の上に立てるのに、生身では泳げないのかを知っている?」

「何が、言いたいの?」

「哀れね」

 

 表情を一転させ、メイドは吐き捨てるように短く言い切った。こちらを煽るような笑みは引っ込み、代わりに抑え切れない感情が表れている。

 

 憎悪、いや、嫌悪。

 この世で自分が一番嫌いなものを目の当たりにした時のように表情を歪め、メイドは掠れながらも、溢れる感情の籠った声で怒鳴り始めた。

 

 

「哀れだと言っているのよ!! 自分が何たるかも知らない、世の理も分からないくせに、その力の恩恵だけは受け取る卑しいお前たちが! 

知らないようだから教えてあげるわッ! お前のその体の中には、お前が仇を為そうとしているレミリア・スカーレット様の血が流れているのよ!! お前たちは所詮、お嬢様のまがいもの。その血を分け与えられて、限られた力を振るうことしか出来ない複製品。そんなものが、本物のお嬢様に敵うわけがないでしょうがッ!!

艦娘っていうのはねえ、精霊魔法と境界を操る程度の能力を掛け合わせ、その力に対して人体に親和性を持たせるために希釈されたお嬢様の血を注入された人間たちのことよ。だから、お前たちは水面を境界としてその上に立てるし、その代償として水に浮けなくなった。お前のその回復力も、お嬢様に由来するわ。

私の武器が刺さった傷は治りが遅かったでしょう? 理由を教えてあげる。私の武器は全て銀で出来ている。退魔の力を持つ金属よ。だから、吸血鬼の血が流れ、その力の一部を得たお前にはよく効くの! ――こういう風にねッ!!」

 

 

 メイドが絶叫する。左腕が鈴谷の身体から分離し、痛みを感じる前に胸に衝撃を受けて海面に倒れ込んだ。

 

 喉の奥から込み上げてくるものがあって、たまらずにそれを吐き出すと鉄の臭いが鼻腔を一杯に満たして、それがさらに嘔吐を促進させる。けれど、仰向けに倒れてしまったから吐き出そうとするもので喉が詰まり、息が出来なくなった。

 それでも、息をする必要はなくなったのかもしれない。何かを思う前に、視界が暗転する。最後に見たのは、鈴谷の身体を踏みつけながら、左胸に刺さったバヨネットを引き抜くメイドの姿だった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

「撃て! 撃てぇ!!」

 

 江風が怒鳴り、ヘリの機上整備員がドア・ガンの引き金を引く。毎分二千発以上の7.62mm弾をばらまく六連装ガトリング機関銃が、文字通り火を噴く。「ミニガン」の愛称で呼ばれるこの機関銃は、発射速度が速すぎて夜間などは銃口から火を噴いているようにしか見えないので、その発射の様子は時に「竜の吐息」と比喩されることもある。

 地上や海上の敵兵力への面的制圧には絶大な威力を発揮するこの武器は、常日頃から海賊への対処に追われているシンガポールのSH60哨戒ヘリに本来取り付けられる必要がある物ではない。「無痛ガン」と呼ばれるくらいに人間を一瞬で細切れにすることが可能なこの銃も、深海棲艦相手には嫌がらせ程度にしか通用しないし、海上警察の代行としての海賊の追跡は基本的に逮捕を目的としているので、海賊船諸共海の藻屑にしてしまうようなミニガンは過剰火力だった。それでもヘリに搭載されているのは、海賊に紛れて本物のテロリストがしばしば現れることがあり、彼らに対しては時に容赦なく発射することが推奨されるからだ。

 今回は、味方の艦娘に取り付いた不審者を追い払うのに使われた。

 最も小型の部類に入るとは言え、駆逐艦の主砲の威力はかなりのものだし、そんなものをヘリの機上で発射すれば衝撃でヘリが墜落してしまう。その点、いかな「竜の吐息」と言えど、艦娘には深海棲艦と同じく通常兵器は通じないので、ミニガンは悪い選択肢ではなかった。誤射してしまっても傷付ける恐れはないので、安心して撃てるというわけだ。

 

 銃身の回転音と発射音が混じり合った特有の音が響き、排出ベルトから薬きょうが滝のように海に落ちていく。鈴谷の周りの海面に小さな水柱がカーテンのように立ち上がると、航巡の上に立っていた不審人物は姿を消した。嵐の見間違いでなければ、彼女はそこから“消えて居なくなった”。

 

「消えた!?」

 

 嵐が驚いて頓狂な声を上げると、江風が「撃ち方止め」と怒鳴る。ヘリはすぐには高度を落とさず、上空を旋回し出した。そうして、不審人物が再び襲って来ないか警戒していたが、あまり時間を掛けると下の艦娘が無事ではなくなる可能性もあるので、江風がパイロットに合図を送り高度を下げさせた。それでも、普段ヘリから海に飛び降りる高度よりはずっと高いし、速度も出ている。危険な試みだが、戦場で危険でないことは何もないので、江風は自分に続いて飛び降りるように嵐と萩風に言い、そしてさっさとヘリから海に身を投げた。

 

「萩、行くぞ」

 

 僚艦に声を掛け、嵐も意を決して空中に躍り出る。すぐに重力に捕まり、そのまま海面まで引き込まれて派手な水柱を立てることになった。艤装の浮上機能が作動して、海面下に沈んだ嵐の身体を押し上げる。背後で同じように大きな音がしたので、萩風も無事飛び降りたのだろう。

 すぐに主砲に装填されていた照明弾を撃ち上げる。先に行った江風は探照灯を回転させて周囲を警戒しているようだ。

 

「嵐は鈴谷の下に向かえ。容体を報告しろ」

「了解っす!」

 

 周辺警戒は上空を飛び回っているヘリと僚艦たちに任せ、指示の通り鈴谷に近付く。照明弾が光を放ち、浮かんだまま波に揺られる艦娘を照らし出した。

 ぴくりともしない。波間を漂っている浮遊物と見間違いそうになる。

 鈴谷に近付くと、海面に少し色の違う部分があることに気付いた。その理由を探ろうとして足元に視線を落とす。息を飲む。

 

 道理で動きがないわけだ。鈴谷を中心として、彼女から流れ出した膨大な量の血が海を染めているのだ。頭に装着したヘッドライトを着けて鈴谷に光線を向ける。血が流れ出しているのは彼女の胸からだった。

 絶望的な気持ちになりながらも、言われたことはその通りにしなければならず、最早動くことのない航巡の身体に触れる。昨日会ったばかりだが、一度は会話した相手が変わり果てた姿になっているのは、正直に言って直視に堪えなかった。半ば諦めながら顎の付け根を圧迫して脈を確認する。左側と右側、どちらを確認しても良かったのだが、右側は口から溢れ出た血でべったりと汚れていたので、左側を抑える。案の定、脈はなかった。

 見れば分かることだ。ミニガンで追い払われる直前、倒れ込んだ鈴谷の上に立っていた人物は、その胸から何かを引き抜く動作を見せていた。今更、それが何だったか考える必要はないだろう。

 

「嵐、どうした? 報告しろ」

 

 無線から嚮導艦の声が飛び込んで来て我に返る。

 

「あ、いや。鈴谷さんですけど、脈がありません……」

 

 こういう場合、どう言っていいか分からなかった。自分の知っている人が目の前で死に、それを誰かに報告しなければならないという経験は初めてだったのだ。嵐は戦場に出ていたが、艦娘は滅多なことでは死なないし、仮に死んだとしても死体が残る死に方はしない。頭を吹き飛ばされても艤装が生きている限り死にはしないというのはよく言われることだが、嵐は実際にそのような場面に遭遇したことはない。萩風が深海棲艦に堕ちる瞬間は見たことがあったが。

 

「し、死んでます」

 

 自分で言って後悔した。その言葉を発したが故に、本当に鈴谷が死んでしまったような気がしたからだ。

 

「そンなわけあるかよ!」

 

 だが、江風に一蹴される。

 間もなく主機の音が近付いてきた。探照灯を切り、周囲の警戒を終えた嚮導艦だった。脅威は去ったと判断したのだろう。

 

「見せろ」

 

 鈴谷の傍にしゃがむと、血で汚れるのも厭わず、江風は脈を計る。そして、嵐と同じことを知ったのだろう。だが、そこからの反応は真逆のものだった。

 

「おい、起きろ!」

 

 昨日の一件があったためか、江風には容赦がなかった。軽く、ではなくそこそこ力を込めて鈴谷の頬をはたく。それでも、力のない航巡は当然何の反応も示さなかったし、虚ろな目が動くこともなかった。

 鈴谷は本当に死んでしまったのだと思った。

 

「艦娘はこの程度じゃ死なねえ。だが、血を流しすぎてンな」

 

 嚮導艦はそう呟いてから無線でヘリを呼ぶ。大至急、基地に搬送するように指示を出していた。シンガポール基地には、最近流行りの緊急修復材が置いておらず、当然嵐たちも持ち合わせていないので、この場で鈴谷を回復させることが出来ない。それがあれば、注射のように打つことで彼女の体内に薬材を流し込み、損傷を修復させることが出来ただろう。

 最後に萩風もやって来て、彼女は鈴谷を見るなり小さな悲鳴を上げたので、嵐は立ち上がった。親友にあまりショッキングな光景を見せないよう視界を遮るのと、ショックを受けたであろう彼女を慰める必要があった。

 

「大丈夫なの?」

 

 萩風もなるべく鈴谷を視界に収めないようにしているのか、嵐に目を向けて尋ねた。

 

「江風さんは死んでないって言うけど」

 

 訊かれたところで、嵐にも答えようがない。どう見ても鈴谷は死んでいたが、艦娘は沈まない限り死なないというのが定説だ。それどころか、沈んだからと言って必ず死ぬわけでもないのは嵐たちが身をもって証明している。

 

「大丈夫、よね?」

 

 答える代わりに、震える萩風の手を握ってやる。ヘリのローター音が近付いて来たので、振り返ると背後で江風が誘導棒を振りながらマーシャリングを始めていた。

 それを見ながら、嵐はもうこりごりだと思った。

 

 昨日の晩から、異常なことが続いている。ブラニ島での出来事は消化出来そうにないし、今晩だっておかしなことの連続だ。そもそも、鈴谷はどうしてあの不審人物と戦っていたのだろうか。深海棲艦でもない、昨日の“恐ろしい存在”でもない何かと、彼女はマリーナ湾で戦闘になった。夕食後にそれを知らされ、慌てて艤装を装着してヘリに飛び乗ったのが十分ほど前のことだ。

 いい加減、嵐は疲れてしまった。これなら、海賊を追い払うだけの変わり映えのない毎日を過ごしている方が余程ましである。深海棲艦と戦いたいわけではないが、自分の理解の範疇を越える出来事に翻弄される一方なのはもうたくさんだ。

 これで終わってほしいと、切に願う。ヘリのサーチライトが三人の居る場所を照らし出す。光が目に入らないように顔を背けた嵐の足に、何かが触れた。

 

 ぞっとするほど冷たかった。

 

 一瞬、海の底に居た頃を思い出す。その時も常に隣に居てくれた萩風。今の彼女の手は血の通った温かさを持っているが、当時の彼女は氷のように冷たかった。嵐も同じようなものだっただろう。

 足から伝わってきた冷たさは、その頃のことを思い出させた。あまりにも突然のことで、抑止する間もなく驚きが口から飛び出す。

 直後、嵐は僚艦に引っ張られ、バランスを崩して彼女の身体にもたれ掛かる格好になってしまった。萩風は友人を庇うように一歩踏み出して身体を前に出すと、主砲を構える。同じように、ヘリの誘導をしていた江風もそれを中断して主砲を下方に向けた。

 

 

 その砲口の先、嵐に向かって手を伸ばしていたのは、「死んでいた」はずの艦娘だった。未だ海面に横たわったままだが、彼女は血に濡れた口を開き、嵐の方を向いて手を伸ばしている。その手が、足に触れたのだ。

 かすれた声で彼女が何事かを呟く。だが、吐き出した血がまだ喉に残っていたのか、それは声にならない声だった。言葉の代わりに湿った音がして、伸ばされていた手が海面に落ちる。

 死体に対して耐性はなかったが、相手が生きているなら話は別なのだろう。主砲を向けるべき脅威が何もないことを理解した萩風の行動は迅速で、すぐに鈴谷の傍によってその身を助け起こした。

 

「俯せにして血を吐き出させろ」

 

 ヘリの誘導に戻った江風が指示を飛ばす。萩風は鈴谷をひっくり返し、背中を擦った。嵐はその様子を呆けて見ているだけだった。

 江風の言った通り、鈴谷は死んでいなかった。だが、それは重要ではない。

 

 彼女はさっき、何と言ったのだろうか。言葉をはっきり聞き取ることは出来なかった。自分の血で溺れ掛けていた鈴谷は、まともに言葉を発せられる状態ではなかったからだ。

 しかし、音を聞き取れなかったものの、嵐には鈴谷が何を“言った”のかが分かった。分かってしまった。これが嵐の脳が生み出した妄想などではないとしたら、彼女は確かにこう言ったのだ。

 

 ――熊野、と。

 

 

 聞いたことのある名前だった。

 勘違いでないのだとしたら、その名は横須賀鎮守府の秘書艦になるはずだった艦娘のものではないか? 嵐が正式に艦娘として着任した年の春、悪天候下での訓練中に消息不明になり、そのまま殉職扱いになった艦娘が、確か「熊野」と言った。

 

 どんな艦娘も、初めて艤装を背負う場所は横須賀鎮守府だ。艦娘の候補生たちは教育隊でまず基礎課程を修め、その後横須賀鎮守府に異動して訓練生となる。嵐たちが艦娘訓練生だった頃に、次期秘書艦に内定していたのが熊野だった。彼女はしばしば訓練生の演習の相手になり、戦闘訓練の手ほどきをしてくれた。

 熊野は教官ではなかったが、訓練生時代に演習で先輩艦娘の部隊を破ったという伝説の持ち主で、その勇ましい武勇伝とは裏腹に落ち着いて優雅な振る舞いをする人だったから、嵐はよく覚えていた。教え方も上手だったし、秘書艦に内定するくらいなのだから実際優秀だったのだろう。そんな人が、悪天候の中で行方不明になり、そのまま帰って来なかったという出来事は、嵐の心に影を落とした。

 嵐には萩風や舞風、野分という大事な「姉妹艦」が居るように、熊野にも大切な人が居たのだろう。それは相手にとってもそうだった。熊野の場合、その相手というのが鈴谷だった。

 

 

 萩風に掴まり、顔を少し起こしてこちらを見上げる彼女の目から涙が流れ落ちるのを見る。

 それは、紅い月の夜、深海棲艦になった自分たちを助けに来てくれた舞風が、野分が、流した涙と同じものだ。大切な人を喪い、長い間その傷に苦しみ続けてきた者の流す涙だ。嵐はその苦痛を誰よりも理解している。

 舞風と野分には、最後の最後で救いが与えられた。離れ離れになったとは言え、彼女たちが助けたかった姉妹艦は戻って来れたのだ。

 けれど、鈴谷にはそんな僥倖は、なかったのだろう。それが分かったところで、嵐にはどうしようもなかった。嵐には、沈んでしまった誰かを、大切な人を喪ってしまった人を、救うことなど出来ないのだから。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督48 The only neat way to slay a "vampire"

「考えたんだが、お前が黒檜大尉と行動を共にするっていうのはどうだ?」

 

 胸を刺されてシンガポール基地の入渠施設に放り込まれ、大量の修復材を浴びせかけられた数時間後。医務室でベッドに横たわっている鈴谷に向かって、見舞いに来ていた村井がそう告げたのは、翌日の、朝と呼ぶには少し遅い時間だった。

 マリーナ湾での戦いの結果は、鈴谷がメイドに撃破されて逃走を許すという戦術的敗北になったものの、当初の予定通り最重要人物のウォースパイトを無事に捕縛出来たので、情保隊としては戦略的勝利と言っても差し支えないだろう。夜が明けた頃には鈴谷もすっかり回復しきっていたが、基地の医官はベッドから出ることを許さず、暇を持て余して話し相手を求めていたところに村井がやって来たのである

 もっとも、彼が鈴谷を訪ねた本題は昨晩の出来事について事実を確認するためだった。好き放題暴れ回った後では言い訳も出来ないわけで、鈴谷は言葉を選びながら村井に事の次第を説明した。ウォースパイトと話していた内容、レミリア・スカーレットの正体、彼女を助けに現れたスカーレットの手先、メイドの能力、戦いの経過と結果。荒唐無稽な話にもかかわらず、村井はいくつか質問を挟むだけで最後まで真剣に耳を傾けていた。そして、鈴谷が話し終わると「信じられんが」と前置きしつつ、「信じるしかないんだろうな」と呟いた。

 もちろん、鈴谷とてすべてを打ち明けたわけではない。特に、情報提供者である博麗と東風谷の存在については黙っていたし、メイドの能力も本人が暴露したから知ったという体にしてある。

 それに、メイドが鈴谷の秘密、BMIについて何らかの情報を得ている可能性があるのも黙っていた。彼女が何をどこまで知ったか分からないが、情報源は間違いなく六ケ所の研究所を襲った時にそこに保管されていた鈴谷に関する実験のデータであろう。電子媒体でも紙媒体でも存在していたはずだ。彼女はそれを見て、海軍の技術者たちが何を求め、何を行い、その結果どうなったのかを知ったのかもしれない。そして、それらの情報の中には決して世には出せない類のものも含まれていたはずである。スカーレット一味がこの情報をどう扱うかは分からないが、自分を追跡してくる情保隊を黙らせるのに、鈴谷の情報を公開すると脅しを掛けて来ることは十分予見出来る。すると、どうだろう。村井は「弱みを握られた」ことでスカーレットを追うことに躊躇するかもしれない。あるいは彼より上の立場の人間が手の平を返すかもしれない。そうなってはまだまだスカーレットを追いたい鈴谷には都合が悪い。だから、黙っておいた。沈黙は金なり、だ。

 村井も馬鹿ではないから鈴谷がまだ隠し事をしていることに気づいたであろうが、あえてそれを追求するようなことはしなかった。こういうところが、鈴谷なりに彼を信頼している理由である。

 とは言え、追い掛けている相手が人知を超越した存在であることに、村井はいささか憂鬱を抱え込んでしまったようだ。それはそうだろう。まさか、伝承の中にしか存在しなかったはずの吸血鬼が目の前で動き回っているのだから。

 

「吸血鬼と言えば日光に弱いが、そう言えば六ヶ所が襲われた時も、クリスティーナ・リー――レミリア・スカーレットだっけか――は日傘を差していたな。やはり、日光が弱点なのか」

「銀も効くらしいですよ。あいつを倒すのなら、銀製の武器を用意した方が手っ取り早いでしょ」

「銀の弾丸を、か?」

「そうです」

「まあ、何とかなりそうな気もするが」

 

 一度は頭を抱え込んだ村井だったが、一方で彼は切り替えの早い人間だった。レミリア・スカーレットへの対処法を考えることは後回しにして、目下鈴谷や情保隊が対応しなければならない事柄について伝えることにしたようだ。本題は何も鈴谷からの事情聴取だけではなかった。

 そのもう一つの本題というのが、情保隊付の艦娘がシンガポールに未来永劫入国出来ないことを告げることだった。中心街に至近で、それ自体が観光資源でもあるマリーナ湾において、深海棲艦が相手でもないのに艦娘が艤装を使って戦闘行為を行ったという事実は、シンガポールの首相を激怒させるのに十分な理由となったらしい。猛烈に怒り狂う彼を前にして、さすがの海軍も鈴谷を庇うことを諦めたようだ。

 医官は彼の職責において鈴谷に安静を与えることを決めたが、シンガポール政府は不届きな艦娘が一刻も早く自国から出て行くことを強く望んだ。彼らの意志は揺るぎないものだったため、鈴谷は急遽軍が手配したチャーター機で帰国しなければならなくなったのである。

 ここまでは予想通りと言えば予想通りである。マリーナ湾で戦えばどうなるかは分かっていたし、それは村井だって同じだ。鈴谷は別にシンガポールに興味があったわけではないからもう一度来ようとは思っていなかったし、スカーレット一味がこの国を立ち去っている以上滞在する意味もなくなってしまっている。鈴谷を含め、シンガポールに展開していた情保隊の要員はすべて一両日中にシンガポールから撤収することが決められ、村井はその決定を告げに来たのだった。だが、驚いたことに早々日本へ帰国することになったのは何も情保隊のメンバーだけではなかった。

 

 そこで、先程の村井のひと言である。

 渦中の人物、元第一航空戦隊「赤城」にして、現シンガポール基地艦娘担当の黒檜大尉もまた、日本に帰ることが決まった。元々、彼女の担当する駆逐艦の改装が呉鎮守府で予定されており、そのために近々日本に向かうことになっていたそうだが、事情が事情だけに黒檜だけ予定を繰り上げてひと足早く日本の土を踏めることになったようだ。仕事の引継ぎなどの残務処理があるため、鈴谷たちと同時にシンガポールを発つことは出来ないようだが、それでも二日遅く帰国するだけである。

 問題はそんな決定を誰が下したのかということだが、答えは目の前の村井が持っていた。彼は明けらかんとして、それは自分だと言ってのけた。

 

「しばらく、泳がせてみようと思うんだ」

 

 村井は自分の考えを述べた。

 

「現状、クリスティーナ・リー、もといレミリア・スカーレットの居場所を突き止める術はない。こちらから奴らに働き掛けるための取引材料もない。さりとて、奴らの邪魔をすれば不意打ちを食らう可能性がある。スカーレットが、黒檜に『加賀を回復させるために記憶を取り戻せ』と言ったのが本当なら、その方法も分からない以上、ひと先ずその通りにさせてみようと考えたんだ。どうせ、加賀の身体は奴らが持っているしな。何かしらの方法で黒檜が記憶の回収を終えた段階で、向こうからコンタクトを図るだろう。その時がチャンスだ」

 

 情報保全隊として最も悩ましかったのは、黒檜の扱いだった。柳本中将は村井に対して、黒檜とスカーレットの話した内容を概ね打ち明けたらしい。だが、当然彼は黒檜が深海棲艦になっていたことは伏せた。だから情保隊の中では、黒檜はあくまでスカーレットに目を付けられた被害者的立場という見方をされている。彼女を守るのか、それともスカーレットをおびき寄せる釣り餌として活かすのか。村井が選んだのは後者であった。

 

「柳本中将は、案の定、呉鎮の榛名に協力を打診したそうだ。榛名の性格なら拒否はしないだろう。うち(情保隊)の司令に話を通して、黒檜が動けるように手を回すに違いない。それならそれで、先手を打っておこうと思ってな」

 

 その先手というのが、鈴谷を黒檜の監視役として同行させるというものだった。村井がそうしろと言うなら、鈴谷に拒否権はない。

 今の情報保全隊の司令は情報畑叩き上げの人物として、軍や政府の中では有名である。一時、榛名は彼の下で働いていたことがあり、上司と部下として以上に、諜報における師弟関係と言ってしまえるくらいに親密な仲であったようだ。この司令以外にも榛名は情保隊の中に幾人もの“仲良し”が居るようで、彼女の情保隊に対する影響力というのは無視出来ないくらいに大きい。

 かの呉鎮の女王は情保隊のみならず軍の内外に幅広い人脈を持っており、彼女が艦娘の身にして鎮守府の部隊を預かる地位にまで上り詰めたのは、この人脈とそれによって生み出される強い政治力によるものだった。柳本中将のような往年の軍人でさえこうして頼っているのだから、榛名の持つ影響力が如何ほどであるかが伺い知れるというものである。

 

 さて、こうした経緯で鈴谷は帰国することになったが、その方法というのも捕まえたウォースパイトを護送することもあって特殊なものになった。プライベートジェットがチャーターされ、そこに武装した鈴谷と兵士、さらにスカーレットがウォースパイトの奪還を図った場合に備えるため、那覇の空軍基地から護衛の戦闘機まで飛来するという大袈裟っぷりである。だが、これほどの大仕事になったにもかかわらず、ウォースパイトの正式な出国手続きは“省略”された。というのも、シンガポール政府がその手続きを拒否したからだ。

   王立海軍の旗艦は空港の出国ゲートを潜れなくなってしまったのだが、“日本へ帰国する音楽隊”に扮した兵士が彼女を「楽器」として音響機材用の大きなケースに隠して保安検査を突破するという強硬手段が取られ、無事に出国することが出来た。もちろん、「搭乗」後はちゃんとした座席が用意され、鈴谷たちと日本への旅路を共にしている。これは一般的には「拉致」と呼ばれる不法行為であったが、端からシンガポールの法律など守る気のない村井は躊躇なく実行した。彼はこの後に起こるであろうシンガポールと日本との深刻な外交問題などまったく気にしていなかったのだろう。彼が警戒していたのはスカーレットや英国政府、あるいはその両方からによる妨害だけであった。

 護送されている間、ウォースパイトは取り立てて騒ぐようなことはせず、終始大人しく従順な様子を見せていた。ただ、彼女は誰の目にも明らかなように心理的な障壁を自身の周囲に張り巡らせており、機上のたった数時間ではそれを打ち破ることは不可能だったし、それが分かっていて村井も無理に尋問するようなことはなかった。

 

 備えに備えただけあったのか、帰国の途は特段問題が起きることもなく、チャーター機は無事に厚木基地に降り立った。最早、捕虜同然となったウォースパイトはそのまま都内のホテルに送られ、そこで軟禁されて尋問を受けることになる(入国に際してはケースに押し込まれることがなかったのは彼女にとってせめてもの幸いだったのかもしれない)。一応、彼女は六ケ所村の海軍施設襲撃事件の重要参考人という扱いになるので、尋問の主は青森県警になるらしいが、村井たちが実際にはイニシアチブを確保するのは目に見えていた。

 彼曰く、ウォースパイトの旧友でもある呉の女王には「青森県警に人脈がないのは確認済みだ」とのことである。続けて、警察官僚出身の与党政治家の名前を出し、「そちら(警察庁)も分かっている」と得意気に言っていたが、興味のない鈴谷はあまり真剣に聞いていなかった。その所為で、彼が横須賀鎮守府の手術室に予約を入れていることまでうっかり聞き逃しそうになってしまった。

 

 ここで言う「手術」とは、すなわち外科手術のことである。どうして鈴谷がこのような医療を受けなければならないかと言うと、どうやらメイドに刺された時にナイフの刃先が体内で折れたらしく、腰元に破片が残っているからだった。その破片はうずくような痛みを引き起こして自らの存在を主張しており、身体の持ち主からすれば鬱陶しいことこの上なかった。メイドの意図せぬ置き土産はひどく鈴谷を苛立たせたが、残念ながらシンガポールではこれを取り出す術はなく、帰国早々に横鎮の医官の世話にならなければならなかったのである。実は、シンガポール基地の医官が鈴谷に安静を命じたのもこれが理由なのだが、休んでいたところで破片は取れないので、さっさと日本に戻って来られたのは良いことだった。

 

 驚異的な回復力を体質として獲得している鈴谷はまともに手術を受けることが出来ない。メスを入れた傍から傷が塞がっていってしまうからだ。このようなことが起きるのは恐らく世界でも鈴谷くらいしか該当者は存在しないだろうが、横鎮は元々鈴谷が所属していた鎮守府であり、情保隊付となった今も拠点を構えている場所である。横鎮の医官の中には過去に鈴谷に対して手術を行ったことがある者も居るため、傷が塞がらないようにして手術を行うノウハウがあった。回復力が高いのは実に有益なことなのだが、その数少ないデメリットの一つが、戦闘中に敵の砲弾の破片などが身体に入ると、それを取り出す前に傷が完全に塞がってしまい、取り残されて不愉快な症状の原因になるというものだ。今回はナイフの刃先だったが、似たような経験は過去にも幾度かしているのである。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 ひと晩も寝れば手術痕など跡形もなく消えてしまうわけで、手術の翌日には鈴谷は新横浜駅から新幹線に乗り、広島に向かっていた。目的地は岩国基地。そこは海軍が使用している滑走路があり、午後一番に海軍が手配したチャーター機が到着する予定となっている。鈴谷が新幹線に乗車した頃にはもうとっくにシンガポールを離陸しただろう。日本へは約六時間の旅程だ。乗っているのは、シンガポール基地の黒檜大尉である。

 スカーレットの動向が完全には読み切れない以上、またぞろ黒檜が誘拐されるリスクも考慮しなければならない海軍は、対策として自軍のパイロットが操縦するチャーター機(軍用の輸送機ではなく、機材は民間の物である)を用意し、それによって岩国基地まで黒檜を運んで来るという方法を選んだ。地上に降りてからは鈴谷が常に監視に張り付く。彼女に対してスカーレット側から何らかのアクションがあった際に対応しようという理由だ。これは、黒檜本人も了承済みである。

 紆余曲折があったとは言え、「赤城」としての記憶を取り戻すことが海軍より許可されたことに黒檜は相当驚いている様子だった。嫌味のない謙虚な彼女には少なからず好感を抱いたが、同時にこれがかつて勇名を馳せた第一航空戦隊の旗艦なのかと思わずにもいられない。なるほど、黒檜は確かに人格者のようではあるが、何か飛び抜けているところがあるようには感じられなかった。

 

 

 チャック付きのナイロン袋に入れられたナイフの破片を眺めながら、西へひた走る列車の中で、鈴谷は思索の海を泳ぐ。メイドが残したこの小さな置き土産が何で出来ているかの解析は、日本に帰って来てからの日程がタイトすぎたのもあって手を着けられていない。そもそもこれは昨日、ようやく鈴谷の身体から摘出された物だ。この後の予定を考えれば横須賀に戻れるのは少し先になりそうなので、滞在先で郵便を使うのがいいだろう。横鎮には海軍の研究施設もあり、そこにこの破片を送れば少なくとも構成する物質の種類は特定出来る。メイドはこれが銀で出来ていると言っていたが、その裏付けは取らねばならない。

 何よりも、彼女が言ったことの真偽を知りたいのだ。

 十六夜咲夜は、吸血鬼「レミリア・スカーレット」の腹心は、艦娘の身体の中にその血が流れていると言った。振る舞いはともかくとして、それまで抑制された表情を維持していた彼女が、血走った眼を見開き、端正な顔を歪めてまでただ荒れ狂う感情のままに怒鳴り散らした言葉。思い出すだけでも胸の奥底からどす黒いヘドロのような怒りが込み上げてくる。

 妄言などと切って捨ててしまうことは容易いのかもしれないけれど、少なくとも鈴谷にはそう思えないだけの理由があった。

 艦娘には、吸血鬼の血が流れている。鈴谷の回復力の高さも、吸血鬼の力の一部であるという。メイドの言った通り、本当に回復力がスカーレットの力に由来するものなのだとしたら、その特性もまた由来してもおかしくはない。例えば、人の生き血を欲してしまう、とかだ。人血を啜るという行為こそ、吸血鬼が「吸血鬼」と呼ばれる所以である。

 

 翻って、熊野の引き起こした連続暴行傷害事件。紙面ではその犯行様態から「吸血鬼の仕業」などと、面白おかしく書き立てられた。当然、そんなことを真に受ける人間は居ないだろう。当時の鈴谷だってそうだった。

 けれど、そんな比喩表現を使った記者が、実は図らずも真実を言い当ててしまっていたとしたら? 本当に“吸血鬼の仕業”だったとしたら?

 熊野が人を襲ったのは、血を吸うためだった。何らかの精神疾患が原因ではなく、艦娘になったことそれ自体、つまりメイドが言ったように、吸血鬼の血をその身に入れたことが原因で“吸血鬼化”してしまったことだとしたらどうだろう。

 あり得ないことではないかもしれない。何しろ、艦娘が人間ではない異形に変化してしまうという事例は過去に存在しているのだ。シンガポールに居た二人の駆逐艦や、元一航戦の「赤城」と「加賀」がそうである。そう、「深海棲艦化」と呼ばれる現象だ。もちろん、艦娘になったことで血を吸うようになったなどという話は聞いたことがないが、メイドの発言と事実の間にいくつか符合する点が存在するのも確かなことだ。

 

 そう言えば、と考えている内に思い出したことがある。鈴谷は一度だけ、熊野に「噛まれた」ことがあった。人に言えないようなことをしている最中での出来事で、その時はついつい気持ちが昂ってしまっただけと軽く考えていたのだが、今思えばその直後の熊野の様子もおかしかった。ひょっとしたら、その頃にはすでに彼女は血を欲するようになってしまっていたのかもしれない。ただ、そうすると熊野は事を起こすよりずっと前からそうした“血への欲求”を抱えていたことになる。

 無論、矛盾する点もある。いわゆる吸血鬼の弱点と言えば日光や大蒜が挙げられるが、熊野は平然と直射日光の下で活動していたし、大蒜も臭いの好みは別として、特別嫌っていた様子はなかったように思う。もっとも、吸血鬼そのものになったと言われたわけではなく、あくまでその血が身体に込められたというだけのことだから、矛盾というほどのことではないのかもしれない。

 いずれにしろ、熊野が実際に人血に対する欲求を持ってしまったと考えるとひとつの辻褄の合ったストーリーが見えてくるのも確かだ。熊野というのは、とにかくプライドの高い女だった。それでいて嫌味なところが少なく、真面目で要領も良く、人と親交を深める方法も弁えていた。鈴谷は、彼女に対する評価には「高潔」という表現が相応しいと考えている。

 

 さて、そんな「高潔」な熊野が、人の血を吸わずにいられなくなったら?

 

 彼女は自分自身を許しはしないだろう。絶対に、許さない。

 だが、頭のいい熊野はまず解決方法を模索したはずだ。ところが、抜本的な方法は見付からない。当時、少なくとも鈴谷の目からは彼女が何ら問題を抱えているようには見えなかったから、かなり巧妙に隠せていたのだろう。何らかの対処療法が見付かったのか、単に小手先の隠蔽に終始していたのか。その後の経過を考えるに、後者であった可能性が高い。

 結局、何ら有効な手立てを打てないまま限界が来てしまった。追い詰められた熊野が選んだのは自らを海に沈めることだった。そうすることで、「吸血鬼」と化した己を永遠に封じ込めようと考えたのかもしれない。いかにも熊野らしい、非情なまでに合理的な選択である。それを、他でもない自分自身に適用するところが特にそうだ。

 すると、彼女が逃げた先の意味も分かる。演習からの帰路、わざと隊列から落伍した熊野は、一路東に向かった。そこは房総半島の沖合。海溝に向かって急激に水深が深くなる場所だ。想像を絶する巨大な水圧が全てを海底に押し込めてしまう。

 

 信じがたい決断。意志が強固な熊野だからこそ選び得た方法。そこに至るまでに彼女が味わった苦痛と絶望はきっと誰にも分からない。助けが欲しかっただろう。だが、彼女は誰にも助けを求めなかった。己の苦悩をおくびにも出さなかった。もっと「器用」にすることも出来ただろうに生来の高潔さがそれを許さず、さりとて下劣な欲求を抱いた自分自身を遂に容認することもなく、情け容赦なく自決を選んだ。それが、「吸血鬼」を封じるたったひとつの冴えたやり方だと信じたのかもしれない。

 

 

 本当に熊野らしい。憎らしいほどに熊野らしい選択。

 彼女は、不器用と言えるほど高潔で、他者の痛みを慮ることの出来る優しい心の持ち主だった。そうでなければ、鈴谷は彼女に惹かれることなどなかっただろう。肩を並べて戦う戦友として、公私分けず時間を共にする相手として、心の底から信頼することなどなかっただろう。

 

 ――ああ、でも。

 

 思わずにはいられない。熊野はどうしてそこまで苦しまなければならなかったのだろう? 一体、彼女が何をしたというのだ?

 

 

 

 ただ、自分の知らないところで艦娘になることが決められただけだ。最終的に了承したのは熊野自身だが、深海棲艦が跋扈している現実を前にして、元々適性者が極端に少ない艦娘になることを拒否するなど、出来ようはずもない。艦娘になる前から彼女は真っ当な人生を歩んでいたし、艦娘になった後も真っ当に生きようとしていた。

 それの、何が悪いのか。罪を犯してもいない。身勝手に振舞っていたわけでもない。むしろ、善良で優しい人だった。そんな熊野が、どうして苦しめられなければならなかったのだろう。

 本当に悪たるは、何の理由があったにせよ、自らの血で艦娘という存在を生み出したレミリア・スカーレットだ。その忌まわしい血が熊野を苦しめ、自ら死を選ぶに至らしめたのだ。

 だから、鈴谷はかの吸血鬼を決して許さない。幻想郷に追い返すだけでは満たされない。熊野を苦しめたツケは必ず払わさなければならない。その細胞の一片さえも残すことなくこの世から消し去ってやらなければ気が済まない。

 

 手に力が入り、ナイロン袋が握った拳の中で潰れる。列車がトンネルに入り、外の光を透過させることがなくなった窓ガラスは鏡のように車内からの光を反射する。そこに剣呑な眼付きの女の顔が写っていた。

 少なくとも見た目の年齢が変わらないという触れ込みなので、顔は十年前、鈴谷が艦娘になった17歳の時と変わっていないはずである。少女と大人の女の中間。肌は瑞々しく、豊かな弾力と張りがある。

 だが、眼だけは誤魔化しが利かないのだろう。十年という歳月、そしてその間に起きた出来事を反映した眼付きになるようだった。

 

 新幹線の自動アナウンスがもうすぐ広島駅に到着することを案内する。同じ車両内の他の乗客たちが何人かそのアナウンスを聞いてごそごそと下車の準備をし始めた。トンネルを抜けた列車は減速し始め、急に建物が密集するようになった景色の中を進む。再び外の光が車内に入り込んで、自分の顔が景色に紛れたのを機に、ナイロン袋を懐に仕舞って鈴谷は下車に備えた。

 

 必ず、殺してやる。

 

 吸血鬼に対する憎悪を鋭くまとめ上げながら、鈴谷はそう誓った。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 久しぶりとなる日本への帰国。厳重な警護の下、岩国基地に降り立った黒檜を出迎えたのは、情報保全隊付の最上型三番艦だった。また誘拐されてはいけないということで、護衛として派遣されたらしい。広島駅からレンタカーを借りて岩国までやって来たという彼女は、黒檜と再会すると挨拶もそこそこにすぐに呉鎮守府に向かうと告げて運転席に収まった。

 恐らくは艦娘になった17歳の時から見た目が変わっていないであろう鈴谷が、大柄なセダンを乗り回しているのは不釣り合いに思えた。だが、存外鈴谷の運転技術は高いらしく、ハンドルを回す手にぎこちなさはなく、非常にこなれた様子である。大きめのシートが黒檜の身体をしっかりと支えていたのと、鈴谷の落ち着いた運転のお陰で乗り心地は悪くなく、道中昼食を共にしつつ、二時間少々で呉に到着した。

 紆余曲折を経たとは言え、これからしばらく行動を共にすることになる相手である。少しでも打ち解けられたらと、車中で黒檜はいくらか話を振ってみたが、鈴谷は短い返事を繰り返すばかりで全く会話が弾まなかった。どうやら、親しくない相手とは積極的に話をするタイプではないようだ。お陰で、呉に着く頃にはすっかり気疲れしてしまった。

 

 さて、呉鎮守府の正門を訪れた黒檜と鈴谷だが、目的の人物はどうやらすぐに会える状態ではないようで、警衛所の衛兵に待ち合わせ場所を予め託けていたらしい。真面目そうな若い衛兵の述べた伝言に従い、二人は十分後、鎮守府近傍の住宅街の一画にある喫茶店にやって来た。

 閑静な住宅街の中であり、年配の夫婦が半ば趣味でやっているような店で、四角い四人がけのテーブルが黒檜たちの座っている物も含めて三セットと、後はカウンター席が四つあるだけの小ぢんまりとした店内だった。店員も夫婦二人だけのようで、キッチンとホールを出入りするオーナーらしき男性とカウンターの向こうで雑誌をめくって暇そうにしているその妻らしき女性。

 立地が幹線道路から離れていることもあって店内の雰囲気は静謐としており、うるさすぎないボリュームで流れている軽やかなジャズが耳に心地良い。全体的に木目調の内装もあって、とても落ち着いた空気に包まれている。道路に面した側はガラス張りとなっており、外の光を柔らかく取り込んでいるので、店内は思いの外明るい。ガラス窓の内側には大きな格子状の木製棚があり、小さな観葉植物や玩具のバス、赤い郵便ポストの形をした小銭入れ、そして木で出来た戦艦の模型が飾られている。一見統一性のないような物ばかりだが、店主夫婦の遊び心が垣間見れた。

 メニューも嗜好飲料と軽食だけの非常に簡素なもので、どうやらこの店はその中でも紅茶をメインにしているらしい。メニューに書かれていたのは紅茶の品目が一番多く、文字のフォントも一回り大きかった。待っている間、黒檜と鈴谷は同じストレートティーを注文した。

 窓際の席を陣取って待ち人が現れるまで時間を潰す。窓の外は時折車が通り過ぎるだけの生活道路で、特に見ていて面白いものでもないが、何とはなしに黒檜は外へ視線を投げていた。テーブルの対面では鈴谷が若者らしくスマートフォンを抱え込むようにしていじっている。聞けば官給品なのだという答えが帰って来たが、様子を見る限り完全に私物化されているようだ。いろいろと問題があるんじゃないかと思ったが、鈴谷は当然のようにスマートフォンをいじっているので、ひょっとしたら仕事をしているのかもしれないと思い直して、結局それ以上踏み込んだことは訊けなかった。

 そもそも、まだまだ折り畳み式の携帯電話が多数を占める中にあって、普及し始めたばかりのスマートフォンを支給されているのだから、肩書通り余程特殊な立場にあるらしい。「情報保全隊付特務艦娘」という、見たことも聞いたこともない肩書を持つ鈴谷は、その本来の職務は“艦娘及び深海棲艦に関する重要情報の秘密保全と漏洩の阻止”だという。そのような職務に対して一般の軍人が宛がわれず艦娘が任命されたのは、時に艦娘に対して実力行使を行うことが考えられたからである。艦娘の秘密を最も漏洩させ得るのは、他でもない艦娘たち自身だからだ。

 元より、かなり独特な経緯で選抜される艦娘と言うのは、どちらかというと徴兵されてなるものであり、全員が全員軍人として高い矜持を持っているわけではないし、国家への忠誠を誓っているわけでもない。取り分け、機密保持という点に関してはお世辞にも意識が高いとは言えない者もおり、そうした者たちが軽率に重大な機密事項を外部に漏らしてしまう危険性は、艦娘を運用するあらゆる国の軍隊について回っているものだった。この問題に対する対策は限られており、ソフト面のもので言えば入念な教育を行い、意識を高めていくことである。一方、ハード面での対策は難しい。人の口に戸は立てられないからだ。そこで、鈴谷のような人材が必要になる。彼女はいわば、情報という水を押し留めておくための最後のダムといったところだろう。

 このような役割は、本来艦娘に課せられるものではない。それが、わざわざ「情報保全隊付」などという肩書まで付けているのだから、余程特殊な事情があるのだろう。黒檜には与り知らぬことだし、知って良いこととも思わなかったので、踏み込んだことは訊いていないし、訊くつもりもない。

 

 

 ところで、特殊と言えば、これから会うことになる人物も、鈴谷並みかあるいはより以上に特殊な立ち位置の艦娘だ。彼女の名は「榛名」。海軍の四大拠点の一つ、呉鎮守府で実働部隊の指揮権を握る現役の司令官であり、呉鎮守府の女王とも呼ばれる。その仰々しい異名は伊達ではないようで、権力者らしく彼女は非常に多忙であるようだ。警衛所で聞いたところによると、呉鎮の女王は会議中でしばらく手が離れないらしく、だからこのカフェで待つようにという伝言を残していたらしい。彼女の段取りの良さは素晴らしく、二人が喫茶店を訪れた時、店員の女性はここで待ち合わせがあることを知っていた。わざわざ指定した上、話を予め通しておくくらいなのだから、店主夫婦と榛名はそれなりに親しい間柄のようだ。

 この喫茶店は地元密着の店らしく、どう見ても近くの住人と思しき有閑な婦人たちが何人か入っている他は訪れる客も少なく、静かでゆったりとした時間が流れている。喧騒を離れて落ち着ける場所があるのは素晴らしいことだと黒檜は再確認した。かつて、「赤城」だった頃の記憶がない黒檜には、艦娘としての現役時代に同僚だった榛名のことを“覚えていない”。彼女がどういう人となりをしているのかは分からない。ただ、このような上品で静かな喫茶店を見出せる眼の持ち主なのだとは思った。

 

 ただ、呉の女王は黒檜の想像以上に多忙な人物であるらしい。店に到着してから既に一時間以上が経過し、元々あまり早い時間に来たわけではなかったので、もうそろそろ夕方と呼べる時間帯に突入する。地上を干上がらせようと頑張っていた夏の太陽も疲れて西へ帰り始める頃合いだ。

 そもそも、二人が呉に来たのはシンガポールの柳本中将が榛名と話をした結果、彼女が一旦は黒檜のことを呉鎮守府で預かると言い出したからだった。そこで、中将は黒檜を呉に出張させるという体裁をとった。もちろん、護衛を担う情保隊にもそのことは通知済みで、だから鈴谷がわざわざ岩国まで迎えに来てくれたのだ。大よその到着時間も予め呉鎮守府には伝えられていたようだが、肝心の榛名の手が空かないのでこうして長い待ち時間が生じてしまったようである。

 しかし、それにしては待ち合わせ場所を鎮守府外部の喫茶店に指定するのは一体どういう訳だろうか。榛名の指示にはどうにも腑に落ちないものがある。

 もちろんそれは本人が来たら訊けばいいだけのこと。目下黒檜にとって問題となっているのは、完全に空き時間となった今現在の暇の潰し方である。呉に来るまでの道中で鈴谷がさほど社交的な人物ではないことと、お互いの性格がそれほど相性が良いわけでもないことが分かっていたので、喫茶店の中では世間話さえすることがなかった。店に着くなり鈴谷は自分のスマホを取り出してそれに没頭し始めてしまったので、黒檜は手持ち無沙汰になった。艦娘だった頃に携帯端末の所持は認められていなかったからか、今でも黒檜はその手の物を持ってはいない。恐らく艦娘「赤城」ではなく、ただの海軍大尉である今の黒檜ならそうした制限には引っ掛からないだろうが、そもそも携帯端末を意識するような考えは持っていないのである。

 だから、鈴谷が自分の世界に入り込んでしまうと本当にすることがない。こんなことなら小説の一つでも持ってくれば良かったと臍を噬むが、生憎日本まで持って来た物はキャリーバッグの中。そしてキャリーバッグは呉鎮の駐車場に留め置いてあるレンタカーの荷室の中だ。

 プライベートの時間は大概小説を読んで過ごす黒檜は、いくつか読み進めている本があった。読書は唯一と言っていい黒檜の趣味だ。他に何か日常的にするようなことがあった気がするのだが、気のせいだろう。

 かくして暇を持て余していた黒檜は店内を観察していたがすぐに飽きてしまい、何となく窓から外にぼんやりと視線を投げているだけになった。正面の航巡娘は彫刻にでもなったかのように微動だにしない。寝ているのかと思って覗き込んでみると、画面をフリックする指だけはせわしなく動いていた。

 一体、この何にもならない時間はいつ終わるのだろう。左の手首に巻いている腕時計を見ても時間が早く進むこともなければ待ち人の気配を感じることもない。この動作自体、喫茶店に入ってからすでに十回以上は繰り返していて、時計の針は前回見た時からほとんど動いていなかった。

 待てど暮らせど来ない榛名によって暇潰しも会話もない退屈な時間を強要されているというこの状況に、次第に黒檜の中で苛立ちが募っていく。心がカサつくと目に見える全てが苛立ちを助長するように思えてくるもので、変化のない窓の外も、固まったまま自分の世界に没入して黒檜を無視している鈴谷も、すっかり冷めきってしまった紅茶も、何もかもにも腹が立った。

 こんな感情に支配されてはいけないと、自制のために小さく溜息を吐く。すると、不意に鈴谷が顔を上げた。

 まるで息の音で我に返ったかのような反応。

 そして一言、

 

「来そうですか?」

 

 黒檜は首を振る。鈴谷はスマホを懐に仕舞い、両手を突き上げて椅子に座ったまま大きく伸びをする。白いワイシャツのボタンが豊かに実った胸部に下から圧迫されて弾け飛びそうだ。彼女は艦娘としての制服姿で、ワイシャツに焦げ茶色のプリーツスカートという出で立ち。別にそれが何か問題なわけではない。真夏の呉はシンガポールに負けず劣らず暑いし、クールビズの一環でアウターを脱ぐのは規制されていないしモラルにも反しない。ただ、ワイシャツから透けて見えた紫色のブラジャーというのはいささか扇情的すぎるのではないだろうか。

 

「うーん。来ないなぁ」

 

 伸びをしてから今度は頭を上げて窓の外を見つつ、鈴谷はぼやくように呟いた。下着が透けていることに気づいていないのか、はたまた眼の前に居るのが同性の黒檜だから気に留めていないのか。

 少し大雑把にすぎるかもしれない。鈴谷は中々に成熟した身体の持ち主だし、顔はアイドルよろしく非常に整っている。それなのに派手な下着が透けるのを厭わないのはちょっと無防備じゃないかと心配になってきた。

 それでなくとも艦娘というのは美形ばかりだし、制服も動きやすいように丈を短く切ってあったりして露出が多い。男の軍人との“そういう類”の噂が流れることも偶にあるし、変な目で見られることも少なくない。軍の風紀が乱れてはいけないと、艦娘に手を出すことを禁じる軍規があるくらいで、軍人たちはもちろんのこと、艦娘自身にも清潔で慎ましく、正しい貞操観念を持つように指導される。

 しかし、何かにつけてとにかく型破りな鈴谷は、清楚さなどどこ吹く風である。男の情欲をくすぐることにまったく頓着していないようだった。

 この店に男性はオーナーしかいないし、彼も厨房に入ったきり出て来る気配がなく、他の客も女性ばかりなので異性の目を気にする必要はないのかもしれないが、例えば新たに男性客が入って来たりする可能性もあるわけだし、そもそも国家の艦娘が下着を透けさせているというのはいかがなものかと思う。

 

「鈴谷さん。寒くない?」

 

 直接口にするのも憚られるので、それとなく黒檜は注意を促した。運転中は薄手のアウターを羽織っていて、鎮守府に到着した時に暑いからと脱いでいた。店内はちょうど良く冷房が効いていて熱くもなく寒すぎもせず、快適な温度に保たれていたからわざわざ一枚羽織るほどのものではないが、目的は鈴谷に自覚させることである。

 ところが、当の鈴谷は黒檜の言った意味を理解しなかったのか、愛想笑いを浮かべて「ダイジョーブですよ」と答える。

 大丈夫じゃないから言ってるの! と突っ込みたかったが我慢した。多分、彼女は言っても聞かない性分だろう。

 それでも、言うべきことは言わなければならない。海軍軍人として。スマートさを維持するために。

 

「そうじゃなくて……」

 

 ――カランコロン。

 

 

 軽やかにベルが鳴り、不意に涼しい店内にじっとりとした熱気が侵入する。ドアが勢い良く開かれたせいでベルが盛大に揺れてあまり美しくない音色を奏でる。

 半ば飛び込むように店に入って来たのは、待ちわびていた榛名だった。夏服である。眩しいくらいの白い衣装に身を包み、灰色がかった黒髪を振り乱しながら彼女は現れた。この暑い中走って来たのか、息は切れ切れ、額には汗が浮いている。

 

「すみません、お待たせしました」

 

 榛名は迷わず黒檜たちの待つテーブルまでやって来た。その途中、オーナーの妻に軽く会釈する。ぎこちなさのないその仕草に、やはり二人が以前からの知り合いなのは間違いない。

 一応礼儀として立ち上がった格下二人に、榛名は恐縮した様子で「座っていて構いません」と言って自分もさっさと椅子に座る。鈴谷の隣だ。

 

「ごめんなさい。昼一からの会議がすごく延びちゃって。随分お待たせしてしまいました」

 

 ぺこりと頭を下げる榛名。

 鎮守府司令官であり、金剛、比叡に次ぐ最古参の艦娘の一人である榛名は、黒檜にとっても鈴谷にとっても大先輩であり上官でもあるのだが、目下の二人に対して彼女はまったく偉そうに振る舞う素振りがない。その丁寧な仕草には却って黒檜の方が恐縮する。

 

「もう夕方になっちゃいましたね。何かおやつでも注文しますか?」

 

 懐から取り出したハンカチで顔の汗を拭きながら言う。黒檜は鈴谷と顔を見合わせた。紅茶を頼む時に見たメニュー表にはあまり大した軽食がなかったように思う。

 

「飲み物も新しいものを頼みましょうか」

「いえ、お気になさらずに」

 

 二人を代表して黒檜が辞退すると、榛名はハンカチを仕舞いながら、

 

「何だか疲れてしまって……。甘いものが食べたいんです」

 

 と、はにかんだ。黒檜は鈴谷と顔を見合わせた。腹が減ってないと言えば嘘になる。運動したわけでもないのに、不思議と空腹感があった。

 鈴谷も同じ気持ちなのだろう。小さく頷く。そして、榛名は二人の静かなやり取りを見て鋭く悟ったようだ。

 

「すみませーん」

 

 と声を上げて店員を呼ぶ。オーナーの妻が伝票を片手に現れた。

 

「いつものを三つお願いします」

「かしこまりました」

 

 人の良さそうな彼女はニッコリ笑うと、伝票に書き込んだ。

 大雑把な注文の仕方とそれで正しく店に伝わったと思われる様子が、榛名がそれなりの回数、ここに通い詰めていることを強く示唆していた。すっかり常連客の風体になっている呉の女王は椅子に体重を預けて肩から力を抜いた。

 

「ここのおススメはホットケーキなんです。味は保証しますよ。なんたってここのご主人、艦娘母艦『沖縄』の元給養員長だった方ですから」

「マジ?」

「あら!」

 

 黒檜と鈴谷は声を揃えて驚いた。

 何しろ「沖縄」と言えば、“飯が美味い”ことでは海軍随一と名高い軍艦である。その給養員長、すなわち艦で作られる料理の味において最終的な責任を負っていた人物とあれば、その腕前が如何ほどのものであるかと想像した時、無意識に唾液が分泌されるも致し方のないことだ。ぶっちゃけて言えば、制服組のトップである海軍幕僚長なんかより余程偉大な人物である(と思える)。

 がぜん、二人は沸き立った。もちろん静かな店の雰囲気をぶち壊すような騒ぎを起こしたりはしないが、精神は非常に高揚した。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 食事中は仕事の話は止めましょう。

 

 という榛名の提案の下、三人は間食に舌鼓を打った。榛名イチ押しの裏メニューは、きつね色に焼かれたホットケーキだ。焼き立てなのか、乗せられた白いバターがどんどん溶け出している。メープルシロップを掛けるようにという榛名の助言に従ってバターの上に琥珀色の液体を落とすと、ゆっくりと広がって甘い匂いが鼻をくすぐった。小さく切り分けようとナイフを入れてみると、初め弾力で刃が押し返されるが、力を少し加えるとずっぷりと生地の中に沈み込み、奇麗に切り分けられた。

 二枚重ねられた内の上の一枚を一口サイズに分け、さっそくひとつを口に入れてみる。よく焼けているのか表面はさっくりしているが、絶妙な膨らませ方のおかげで中はふわふわだった。さらに、バターの塩気とシロップの甘さが絡み合い、黒檜は思わず「美味しい」と零してしまった。奇をてらわずシンプルに焼き上げている分、このホットケーキを作った人物の腕の良さが伺い知れる。元給養員長という主人の経歴は伊達ではない。

 食が進めば自然と会話も弾み、海軍の昔話から、榛名がやたらと推す間宮製菓のお菓子、海兵が飛ばした小粋なジョークなど、色々と話題が飛んだ。気が付けば時間が過ぎるのも忘れ、美味しい昼食に待たされた恨みも霞と消え、ふと窓の外を見るとすっかり日が暮れてしまっている。いつのまにか他の客も居なくなり、店内はオーナー夫婦と黒檜たちだけになってしまっていた。

 

「あら、もうこんな時間。長居し過ぎてしまいましたね」

 

 黒檜は退出の頃合いだと思って声に出したのだが、意外なことに榛名は動こうとしなかった。それどころか、「追加のレモンティーを頼みます」と言い出す始末。仕事はいいのかと気になって尋ねると、

 

「これからその話をするんじゃありませんか。基地では出来ないお話もあるでしょう?」

 

 と事も無げな回答。

 

「基地で、出来ないお話?」

「榛名のことを快く思わない方々も多いですから」

 

 榛名はそう言って、注文を取りに来ていたオーナーの妻に向かって微笑んだ。彼女は注文を取り終わると何故かテレビを着け、不自然に大きな音量を出す。黒檜は抗議を上げなかったが不可解極まりなかった。

 

「あの、これは何をなさっているのでしょう?」

「テレビですか? 話が聞こえづらくなるように着けてもらいました。盗聴の防止です」

「あ、そういうことですか」

「そういうことです。榛名は鎮守府司令官になりましたけど、残念ながらそれを妬んでいる方が呉鎮の内外にいます。出る杭は打たれる、……ではありませんが、榛名の足を引っ張って引きずり降ろそうという企みもちらほら。そういうのには日々気を付けていないといけないんです」

「それは、大変ですね」

「大変なんです。もう、ドロドロしたものばかりで嫌になっちゃいますよ」

 

 そう言って榛名は困ったように笑う。その様子からあしらい方は心得ているようで、まったく危なげなさそうである。

 手元ではテーブルから食器が下げられ、妻が湯気の立つティーカップを一つ持って来た。榛名はさっそくカップを持ち上げ、少しだけ口に含んでから顔を顰める。どうやら、熱かったようだ。店内は空調が適切に効いていて心地良い温度だが、真夏の今はホットティーを飲むにはいささか熱すぎる季節ではないだろうか。その上、榛名は猫舌らしい。どうして、ホットティーなど頼んだのだろう。

 

「ところで」再度、紅茶を啜ってから、再び榛名は口を開いた。

 

「シンガポールでは大変だったようですね」

 

 明確な榛名からの合図に、黒檜は鈴谷と視線を交わした。先程から航巡は借りてきた猫のように大人しい。そこが榛名の真横だという位置関係を差し引いても、明らかに鈴谷には静かにこの場をやり過ごそうという意図が見えた。元々彼女と榛名は部下と上官という関係だったからだろうか。

 どの道、この場で榛名と話をするのは黒檜の役目だ。そもそも呉に来たのも、榛名が「赤城」の仲間たちの居場所を知っていて且つコネクションがあるからである。榛名と会えるように手配してくれた柳本中将の厚意を無碍にすることは出来ない。

 鈴谷はあくまで護衛として派遣されたわけだが、それが建前であるのは黒檜だって承知していたし、実際のところ、黒檜に対する監視という役目も負っているのだろう。海軍に入隊してからの記憶がほとんどない黒檜には組織の中の力関係や派閥というものが分からないから、かつて情保隊にも関わっていたと聞く榛名と今の情保隊がどういう関係になっているのかを知る由はない。が、察するに微妙な関係なようなので、迂闊なことを口にすれば墓穴を掘ることになり、中将にも榛名にも迷惑が掛かってしまう。となれば、黒檜としては鈴谷の前で出来る話しかしてはならないことになる。慎重に言葉を選びながら、黒檜は話し始めた。

 

「榛名さんは、私がかつて空母『赤城』だったことをご存知ですよね」

 

 すると、榛名は意味深な笑みを浮かべた。

 

「知っているも何も、あんなに頻繁にやり取りしていた仲じゃないですか。よく、間宮の話題で盛り上がりましたよね? 何回も飲みに行きましたし」

「……え、あ、そうなんですか!?」

 

 まさかの情報に黒檜は素で驚く。よもや、それほど「赤城」と親しい間柄だったとは。

 だがそれもさもありなんかもしれない。元々同じ部隊に配属された僚艦同士で、所属が分かれた後もそれぞれ別の拠点で秘書艦を務めていたという。秘書艦同士には横の繋がりがあることが多い。それは各鎮守府・泊地・基地での非公式な情報交換のためであると言われているが、一番の要因は秘書艦が特権的にパソコンやその他の情報端末をある程度自分の裁量で使えるということにあった。つまるところ、仕事と称して私的なやり取りに用いているのである。

 秘書艦的立場であっても艦娘ではない(と思っていた)黒檜は、他の秘書艦たちとそうしたやり取りを交わすことはなかったが、これはよく聞いた話であるし、秘書艦たちとの会話の中で、よく別の拠点の秘書艦の名前が出て来ることがあったので、そういう繋がりが強いんだろうというのは想像出来たことだった。

 

「そうなんですよ。って、今は黒檜大尉でしたよね。ごめんなさい」

「いえ。構いません。私の目的は、その『赤城』としての記憶を戻すことなんです」

 

 すると、テーブルで手を組んでいた榛名はその両の手を解いて黒檜の前まで伸ばした。顔を喜色に染め上げている。

 そうしなければいけないような気がして、黒檜が榛名のほっそりした手を取ると彼女は嬉しそうに握った。何だかよく分からないが、多分歓迎の意味が込められた握手なのだろう。

 

「素晴らしいご決断をされたのですね! 榛名は大感激です」

 

 と、わざわざ言葉にしなくても分かることを口走り、随分と機嫌良さそうにニコニコ笑う。榛名の反応の理由が分からなくて黒檜は目を白黒させた。榛名が協力的であることは柳本から知らされていたが、さすがにここまで喜ばれるのは予想外である。

 

「貴女が記憶を戻したいと願うなら、榛名、尽力するのを厭いません!」

「えっと、どういうことですか?」

「どうもこうも、言葉の通りですよ」

「それは助かりますけど、正直ちょっと意外だと言うか。榛名さんがそんなにお喜びされている理由に見当つかないと言うか」

「理由ですか? うーん。話せば長くなるんだけど」

 

 そう言って榛名は悩むような振りをして見せるが、その仕草と喜色ばんだ表情からは明らかに話す気満々である。

 

「そうですね。榛名が赤城さんと仲良くさせてもらってたのはさっき言いましたよね。でも、赤城さんは加賀さんを失い、ご自身も酷い怪我をされてしまいました。

あの鎮守府が壊滅し、瓦礫の山から赤城さんは意識不明の状態で救出されたんです。最初それを聞いた時、榛名は赤城さんのことを諦めてしまいました。『ああ、また一人喪ったんだ』って。今だから言えますけどね」

 

 照れたように笑い、榛名は握っていた黒檜の手を放してティーカップの持ち手を摘まむ。だが、中身を飲む素振りは見せずに、ただ少しばかりソーサーから浮かせて軽く中の液体を揺すっただけで、彼女は話を続けた。

 

「正直、その時榛名は結構感情的に動いてしまったんですね。六ケ所の海軍病院に収容された赤城さんのことがやっぱり心配になって、仕事をほっぽり出して青森まで飛びました。何をやっても手に付きそうになかったし、呉は人も多いので榛名が少し抜けても大丈夫でしたから。

それで、ちょうど六ヶ所に着いた日です。救出されてからは三日経っていました。榛名が病室に入った眼の前で、まるで待ちかねていたかのように赤城さんは目を覚ましたんです。

びっくりしましたよ。本当にただの偶然なんでしょうけど。そして次にはその場で小躍りしたくなって仕方がありませんでした。お医者さんも看護師さんもいらっしゃった場だから辛うじて自制しましたけど、赤城さんと二人だけだったら本当に踊っていたでしょうね。

あの時のことはよく覚えています。主治医の先生も看護師さんも大わらわになってね。最初、寝起きだったのか赤城さんはぼーっとしていて、何も喋りませんでした。榛名も声を掛けてみましたけどあんまりはっきりした反応が返って来ません。

その日はそれだけでしたが、次の日にはちゃんと喋れるようになっていましたよ。榛名は次の日も赤城さんを訪ねて行って、ちょうどお昼時にお邪魔しました。午前中は会議が入っていましたから。

で、赤城さんに挨拶したんです。赤城さんも返してくれました。前の日よりずっと意識がはっきりしていて、本当に怪我人なのかって思ったくらいしっかりした反応でした。

その次に榛名は『お久しぶりですね』って言いました。すると赤城さんは『どこかでお会いしましたでしょうか?』と答えたんです。

……ええ、そうです。目が覚めた時、貴女は何も覚えていませんでした。

もちろん人としての記憶はありましたけど、『赤城』としての記憶が、まるで誰かに抜き取られてしまったかのようにごっそりとなくなっていたんです」

 

 その言い回しに、少し黒檜は引っ掛かりを覚える。抜き取られてしまったというのは、「赤城」としての記憶に対しては言い得て妙ではないかという気がする。確かに、黒檜は自分が「赤城」だったころの記憶がまったくない。それこそ、そこだけ切って抜き取られてしまったかのように。

 

「多分、その時のことも黒檜大尉は覚えていないでしょう。酷く混乱されていたようでしたし」

 

 確かに彼女の言う通り、黒檜はその時のことを覚えていない。病院に居た記憶はあるのだが、とても曖昧ではっきり思い出せないのだ。それが戦傷の後遺症よるものなのかどうかは分からないが、とにかくその後はっきりとした記憶があるのは病院を退院する場面である。医者と看護師に見送られ、強面の海軍軍人のエスコートで車に乗せられ、大湊の警備府まで行った記憶がある。

 

「その後、榛名は呉に戻らなければならなくなったので、直接顔を合わせることは今日までありませんでした。

ただ、貴女には時間が必要だと思ったので、余計なお世話だったかもしれませんけど、榛名から貴女を受け入れてくれるところを探させてもらったんです。それでオーケーをもらえたのが、柳本中将の所、シンガポール基地でした」

「え? ということは、私がシンガポールに行ったのは榛名さんのお陰だったんですか?」

「中将から聞かれませんでした? ええ、そうです。榛名が手配したんです。後方で、それほど忙しくないシンガポールなら、療養には悪くないと思いましたので」

 

 榛名はまた一口だけ紅茶を啜った。もうすっかり冷めてしまっているだろうに、口に含んだ量はわずかだけのように見えた。

 それにしても、そんなところで榛名が関わっていたとは驚きだ。やはり「赤城」と榛名は相当親密な仲であったらしい。なるほど、柳本中将が真っ先に頼る先として榛名を選んだのは当然だ。彼でなくとも、二人の関係を知っている者なら、黒檜のことを榛名に預けようと考えるだろう。

 

「だから、榛名としては黒檜大尉のお力になりたいと思います。万能ではありませんから何でも出来るわけではないですけど、最大限のお力添えはしたい。あの時は無力だったからこそ、今日こうして訪ねて来られたのは榛名にとって望外の喜びでありました」

「そう仰っていただけるなんて恐縮です」

「とんでもない。恐縮だなんて思わなくていいですよ。榛名は自分がやりたくてやっているだけです」

 

 それこそ、望外な榛名の好意に、彼女からどこまで協力を得られるだろうかと心配していた黒檜は、取り敢えずのところ安堵することが出来た。終始ニコニコとしていて、上機嫌な様子を隠し切れていない呉の女王を見るに、手厚く助けてもらえるのは間違いなさそうだ。

 そうした榛名の好意というのは、黒檜から申し出る前に本題を尋ねてきたところからも容易に読み取れた。

 

「それで、榛名にしてほしいことは何ですか?」

「かつての、仲間の居場所を教えてほしいんです。彼女たちに会う必要がありますから」

 

 黒檜が即答したところで、喜色一面だった榛名がふと真顔になった。目元から笑い皺を消して真剣な眼差しで、黒檜の手元を見詰める。彼女は一、二秒ほどそうしていたが、やがて視線を上げてかつての戦友と目を合わせた。

 

「彼女たちの居場所をお伝えすることはやぶさかではありません。ただ、その前にどうしてそうする必要があるのか、教えていただけますか?」

 

 その言葉で、黒檜は自分の言葉選びが少々誤っていたことに気付いた。それは鈴谷も同感だったようで、彫像のように固まっていた彼女も少しだけ顔を隣の戦艦の方に向けた。

 柳本が何をどれだけ榛名に伝えていたかは知らない。だが、今の榛名の様子を見るに、「記憶を取り戻す」ことについては言っていなかったのだろう。「記憶を思い出すのにかつての仲間と会いたい」くらいの言い方に留めておけば良かったのかもしれないが、「必要」とまで言い切ってしまっては、榛名がそこに食い付いてくるのも当然だった。

 取り繕ってこの場をやり過ごせるほどの腹芸など黒檜には出来るはずもなく、観念して白状するしかない。鈴谷も知っていることである。

 

「おっしゃる通り、今の私には、『赤城』だったころの記憶がありません。ごっそりなくなっているんです。ただ、その記憶を取り戻すにはかつての仲間に会いに行かなければならないと言われたんです。レミリア・スカーレットさんに」

「それではまるで、会えば記憶が戻ることが保証されているようではありませんか。しかし、記憶喪失になってしまった人の記憶というものがそう簡単に戻って来るものなのでしょうか?」

 

 この問いに、黒檜は答えられなかった。

 レミリア・スカーレットは確かにかつての仲間に会えば、記憶を取り戻せると言っていた。けれど、それが具体的にどういうことなのかを彼女は説明しなかったし、今も不明なままだ。彼女との再接触が図れない以上、その言に従って仲間に会うしかない。そうすれば、何が起こるのかが分かるだろう。

 答えに窮する黒檜に対し、榛名はあえてそれ以上待つことはしなかった。代わりに彼女が再び口を開き、

 

「シンガポールで起こったことの粗筋は把握しています。分かっていることより、分からないことの方がずっと多いってことも、承知しています。レミリア・スカーレットという人物が何者で、何をしていたのかも、もちろん知っています。

信じて欲しいのは、榛名はただ貴女の力になりたいと純粋に思っているということです。そのためなら出来ることは何でもするつもりですし、労を惜しみはしません」

 

 どうして、柳本や江風が榛名の名前を出したのか、その理由を理解出来た気がした。

 彼らは榛名の人柄をよく知っていたのだろう。こういう言葉を素直に出せる人物だからこそ、頼るように言ったのだと思う。

 

「ありがとうございます」

 

 丁重に頭を下げる。榛名は再び笑顔になった。

 

「皆さんと再会されるというのは口で言うほど簡単ではありません。大変ですよ。なにせ全員バラバラなところにいらっしゃいますし、中には行方知らずになった子も」

「ええ。知っています。川内さんのことですよね?」

「ご存知で。なら話は早い。他の方々の所属ですが、まず第七駆逐隊の曙さん、漣さん、潮さんは佐世保鎮守府です。木曾さんは古巣の大湊警備府所属ですが、実際には室蘭駐在になっています。こちらはもっと遠いですね。それから金剛お姉様ですが、舞鶴鎮守府にいらっしゃいます。ただ、一番厄介なのは舞風さんと野分さんかもしれません。二人はドバイの駐屯地、海外に居ます」

「ドバイですか!」

 

 あっけに取られてしまう。海軍がいくつか海外に持っている駐屯地の一つがドバイだ。シンガポール基地も同じく海外駐屯地の一つで所属している艦娘の数は少ないが、ドバイ駐屯地はさらにこじんまりとした拠点だったはずだ。

 海軍がそんなところに拠点を構えているのは、ドバイがペルシャ湾岸で最も重要な港湾を持っていること、沿岸の産油国(特に日本にとって重要なサウジアラビアとアラブ首長国連邦)が艦娘の駐在を求めたからだった。シンガポールにはまだ海賊退治という仕事があったが、ペルシャ湾には海賊は居ないし、深海棲艦も今まで一度も現れたことがない。だから、「ドバイ勤務」は艦娘の間では閑職の代名詞のような認識を持たれているようだった。

 寄りにも寄って、そんな遠い場所に二人の駆逐艦は飛ばされてしまっていたのである。そこに何か作為的なものがあると考えるのは邪推だろうか。それでも、居場所の分からない他の川内よりは余程ましなのだろう。

 

「ええ。さすがに遠すぎるので、この二人は呉に呼び寄せておきます」

「そんなことが出来るのですか?」

「出来ますよ。呉の管轄になりましたから」

「え? 佐世保じゃないんですか?」

 

 驚いて頓狂な声を出すと、呉の女王は小首を傾げた。

 日本海軍は海外に複数の駐屯地などの拠点を設けているが、それら海外拠点をすべて統括しているのは佐世保鎮守府だったはずだ。外海に向いた佐世保は地理的にも南方方面と近いのでこのような役割を得ることになった……はずだった。

 

「昨年の五月まではそうでしたよ。でも、六月になって一部の海外拠点の管轄が呉に移管になったんです。南方方面、南西方面は相変わらず佐世保のままなのでシンガポールには影響はなかったでしょうが、ドバイや欧州の拠点は今や呉の管轄です」

「そ、そうだったんですか……。知らなかった」

「無理もありません。ちょうどその時、大尉は入院されていましたからね」

 

 言われて初めて頭の中でカレンダーを過去の方向にめくってみる。確かに、黒檜、もとい「赤城」が負傷して入院していたのはそのころのはずだ。ならば、知らなくても不思議ではないということか。

 

「ですので、舞風さんも野分さんも間接的には榛名の部下ということになりますから、呉に呼び出すのは難しいことではありません」

「すごい、偶然ですね。でも、助かります」

「いえ。これしきの事、何でもありません。後は、他の方へも話を通しておきましょう。まずは木曾さんにお会いされてはいかがですか」

「遠いところから、ですね」

「ええ、そうです。……と言いたいところですけど、黒檜大尉は運がいいようで」

「と、言うと?」

「実は、新型甲標的の試験のため、現在のところ木曾さんは横須賀鎮守府に滞在しています。ですから、先に横須賀に行ってお会いされた方が良いかと」

「あら! それはまた、偶然……」

 

 驚いた黒檜に榛名は小さく微笑んでティーカップを口元に運ぶ。相変わらず飲むというより啜ると言うにふさわしい行為で、降ろされたカップの中身をちらりと伺うと案の定半分も減っていなかった。

 ホットケーキ合わせて注文したストレートティーを飲み終えて以来黒檜は何も飲んではいなかったが、話をしている内に喉が渇いてしまったので、店員を呼んで再度紅茶を頼んだ。同じく、鈴谷の手元にも今は何の飲み物もないので顔を向けて注文の意志を確認すると、彼女は小さく首を振った。

 仕事とはいえ、これから鈴谷をあちこちに連れ回すことになるのに黒檜は少なからず後ろめたさを抱いていたし、同情心もある。あまり、良い過去を持っているわけではなさそうだ。でなければ、「情保隊付」になるようなことはなかっただろう。

 食事中の雑談の間、一人で喋り続けていた榛名は時折鈴谷にも話を振っていた。その度に鈴谷は短く答えるか、つまらなそうに相槌を打つかしていた。少なくとも、鈴谷が榛名に対して友好的な感情を抱いているとは言えない様子だった。それでも、榛名は黒檜が注文した紅茶が来るまでの間、性懲りもなく鈴谷に話し掛けては素っ気ない反応を返され、しかしそれで気を悪くした様子を見せないでいる。榛名の方はどうやら鈴谷に対してはかなり好意的であるらしい。

 二人の関係性がどういうものであるかを、この短時間で見出すのは難しかった。ただ、ひとつ言えるのは、黒檜に味方する榛名が、情保隊の鈴谷を牽制しているわけではない、ということだ。榛名はどうやら、単純に鈴谷と会えたことに喜んでいるだけらしい。

 

 シンガポールから日本へ出発する直前、江風がひとつの警告をしてくれた。「鈴谷には気を付けろ」と。それが彼女なりに黒檜を想っての行動であることは理解しているが、今のところ江風が警戒するほど鈴谷は注意するべき人物ではないように思えている。まだどういう相手なのか、黒檜の中で鈴谷に対する評価はまったく固まっていなかったが、少なくとも拒絶する必要はないだろう。いずれにせよ、今後の黒檜の身の振り方に彼女は深くかかわるのだ。だったら、仲良くしていても損ではない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア提督49 Recollection

 横須賀鎮守府は日本海軍最大の基地にして、世界屈指の規模を持つ軍港でもある。その立地は三浦半島中ほどの東側、東京湾に繋がる浦賀水道を面前にした場所にあり、リアス式海岸を切り開いて築かれた天然の要害は首都を守るまさしく「鎮守」の府に相応しい場所だ。ここは海軍の中枢でもあり、連合艦隊司令部が設置されている。現在のところ、日本海軍の主な作戦行動は連合艦隊司令部がその指揮を執っており、事実上ここは海軍の頭脳に当たると言えよう。

 同時に、横須賀鎮守府は目下、世界で最も対深海棲艦戦争が激しく行われている中部太平洋戦線への出撃拠点でもある。かつては敵味方入り乱れる激戦が幾度となく繰り返された南方戦線はここしばらくは落ち着いており、それに反比例するように太平洋の中央部に広く戦線が展開されていき、深海棲艦との戦いもそちらに比重が置かれるようになっていた。

 かつて「赤城」が所属していた小さな鎮守府が設置されたのもそうしたいきさつによるもので、彼女が南方戦線から引き抜かれ、新しく置かれた鎮守府より中部太平洋方面へ出撃することになったのは、まさしく海軍の視線が向かう先が南から東へと変わったことを象徴する出来事だった。この鎮守府は横鎮の負担を軽減するために設置されたのだが、昨年に破壊されて使用不能になってしまったため、今は中部太平洋戦線へ向かう拠点は横須賀のみとなっている。

 規模が大きく、しかも首都に近いというのもあって、横鎮は常に人が多い場所であるようだ。そんな中から、特定の人を探し回っていては無駄に時間を浪費するばかりであるから、予め榛名はアポイントメントを取っておいてくれた。ただし、目的の人物は朝から任務に赴いているようで、予定では鎮守府に帰港するのは二時ごろになるとのこと。昨晩、新幹線で神奈川まで移動してきて、朝から横鎮に入った二人に守衛はそう告げた。しばらく手隙になった黒檜は、先に別の用事を済ませたいという鈴谷について回ることにして、彼女も特に拒否しなかったので、二人並んで鎮守府内を移動していたのだが。

 

 

「ああー! 赤城さんじゃないですかーッ!」

 

 唐突に甲高い声が聞こえた時、黒檜はしばし考え事をしていた。これから会うことになる人物、木曾にはどういう挨拶をしたらいいのだろうかと。何しろ、黒檜としては彼女とは初めて会うのだが、木曾の方は「赤城」のことをよく知っているし、どうやら客観的に見て黒檜は「赤城」と同一人物であるようだから、自分は相手を知らないが、相手からすれば自分はよく知った元同僚という奇妙な関係になっている。この関係性において、黒檜がすべき適切な挨拶は何かと考えていたのだ。そうやって自分の思考に没入していたため、「赤城」と呼ばれることに慣れていない黒檜は、初めその声が自分を呼ぶものだということに気付かなかった。その点ではむしろ敏感な鈴谷の方が先に反応したくらいだ。

 

「赤城さーん!」

「大尉、呼ばれてますよ」

 

 音声は耳に入っていたが、状況を正しく認識出来ていなかった黒檜は鈴谷に言われてからようやく振り返り、後ろから駆け寄って来た緑の着物姿を目に留める。

 

「やっぱり赤城さんだ! お久しぶりです! 蒼龍です!!」

 

 蒼龍と名乗った彼女は微かに頬を上気させながら黒檜の前に立つ。その輝いている瞳が頭一つ分下の位置から見上げていた。女性の中では上背のある黒檜から見下ろすと、小柄な彼女は童顔ということもあって年頃の少女のように見えた。

 名前には聞き覚えがある。確か彼女は極めて練度の高いエース級の飛行隊を操ることで有名な第二航空戦隊の所属だったはずだ。一航戦と同じく長らく戦場を渡り歩いてきた古強者の艦娘であり、一航戦が没した今は空母たちを率いる立場に在ると聞く。

 だが、そんな大層な情報の割にどうやら二航戦の実物であるらしいこの艦娘は、年若い少女のように興奮気味な様子で、本当に歴戦の艦娘かと疑うぐらいにその仕草もどこか子供っぽい。

 戸惑う黒檜に気を払う様子もなく、蒼龍は一方的に捲し立てた。

 

「すごーい! え、何年振りだろ? 何かすごい久しぶりですよね? やばいよ、ちょっと感動してきちゃった」

 

 木曾に対してどのような挨拶をしようかという答えはまだ出ていない。それを考えているところで声を掛けられたからだ。そして、黒檜にとっては知らない相手でも、相手にとって黒檜、もとい「赤城」はよく知る相手というこの関係性は、蒼龍に対しても成立するようだ。さて、黒檜は彼女とどんな言葉を交わせば良いのだろう。

 興奮して喋っている彼女は、きっと何も知らない。二航戦の空母は「赤城」の後任のはずだが、先輩後輩の関係をあまり感じさせない距離感の近さは、二人がそれなりに親密だったことの証だろう。そうであるならば安易に真実を告白するのは機嫌良さそうにしている蒼龍を傷付けてしまうような気がして、黒檜は答えに詰まってしまう。ここで「ごめんなさい。私、あなたのことを覚えていないの」などと白状したら蒼龍がどういう感情を抱くのかは想像するまでもない。そして、黒檜は“知らない相手”をいきなり傷付けるような冷酷な性格ではない。記憶がないことを打ち明けるべきか否か逡巡した挙句、取り合えず当たり障りのない返事をしておくことにした。

 

「ひ、久しぶり、ね」

「ホントですよー! みんな寂しがってたんですよ。赤城さんと中々会えないから。あ、そうだ。飛龍も呼びましょうよ。多分近くに居ると思うんで」

 

 と言うなり、蒼龍は早速本人の了解を得ることなく黒檜の手を取った。振り払うわけにもいかず、鈴谷を振り返って助けを求めてみるが、彼女は素っ気なく首を振ってそっぽを向いてしまう。どうも気分を害してしまったようだ。

 

 本来であればここは蒼龍に断りを言うべきなのだろうが、生憎、我ながら情けないことに自分はこういう時、意外と優柔不断になってしまう。押しに弱いと言われればそれまでなのだが、どうにも喜色満面の蒼龍を無碍に扱うのも気が引けてはっきりした態度が出せない。そうこうする内に、蒼龍は鈴谷を無視してどんどん黒檜を引っ張って行く。結局、何も言い出せなかった黒檜もなすがままについて行った。

 

「あ、飛龍? 今どこ? うん。あ、近いね。実はさ、会わせたい人が居るんだけど来れる? うん。そう。じゃあ、司令庁舎の自販機のところでね。先行ってるからね」

 

 この忙しない艦娘は黒檜を引っ張りながら誰かに電話を掛け、手短に用件を伝えるとあっという間に電話を切る。彼女は首からPHSといくつかのIDカードをストラップに繋げてぶら下げていた。鈴谷や榛名のような特殊な艦娘でなければ、誰しも基地内の連絡用にPHSを持っている。だが、IDカードはセキュリティレベルの異なるあらゆる施設に入門するにあたって秘書艦のみに支給される備品だ。つまり、蒼龍は横鎮の秘書艦なのだ。

 二航戦の経歴を鑑みればその地位に居てもおかしくはない。子供っぽい仕草やものすごい勢いで相手を自分のペースに巻き込む強引さを含めても、彼女が横鎮の秘書艦であることに疑いの余地はないだろう。

 

 

 閑話休題。

 他愛もないおしゃべりに付き合わされながら、黒檜は蒼龍の言っていた「自販機のところ」に連れて来られた。先程彼女が電話で呼んでいた相手――聞こえた名前では二航戦の相方のようだ――との待ち合わせ場所らしい。横鎮司令部庁舎の一階にあるそこは、蒼龍の表現した通り自動販売機の並ぶ休憩所のようで、彼女は早速財布を取り出して「何か飲みます?」と尋ねた。「悪いわよ」と遠慮してしても、「ぜひ、奢らせて下さい」と押し切られてしまったので、渋々黒檜は一番安いコーヒーを指さす。

 

「じゃあ、その微糖で」

「はーい」

 

 後輩に奢ってもらう黒檜。しかし、終始嬉しそうな蒼龍を見ているとそんなに悪い気分にはならなかった。鈴谷には、後でちゃんと謝っておこう。

 

「あ、赤城さん」

 

 黒檜がまだ“今の名前”を名乗っていないので、蒼龍はまだ「黒檜」という名前を知らない。未だに黒檜は蒼龍に対して記憶喪失のことを打ち明けるべきか決めあぐねていた。蒼龍は記憶喪失のことを遅かれ早かれ知ることになるのだから、さっさと打ち明けてしまった方がいいに決まっている。ただ、そうしたくないというのが偽らざる本音だった。

 

「何かしら?」

「ついに戻って来られたんですか? しばらく前線に出られてなかったって聞きましたけど、いよいよ復帰されるんですよね。まあ、ここも最前線に向いているのに、常に戦力が逼迫してますからね。最近は特に深海棲艦の活動も活発になってきてますし」

 

 多分に期待の込められた目で詰め寄られて、また黒檜は答えに窮してしまう。そうだ。普通に考えればそういうことになる。何しろ、“元”一航戦だ。慢性的に戦力不足の海軍がこんな貴重な戦力をいつまでも遊ばせておこうとは考えないだろう。どうして深海棲艦になり掛けた自分が、記憶を取り戻すために帰国することを許されたのか、その理由が腑に落ちなかったのだが、案外裏事情はそんなところかもしれない。

 とは言え、いつまでも蒼龍に対して誤魔化しが続けられるわけもなかった。表面的に話を合わせるくらいは出来るが、このまま蒼龍ともう一人に捕まり続けて突っ込んだ話をされるとボロが出るだろう。いい加減鈴谷の下に戻りたかったが、どう見ても蒼龍は黒檜を解放してはくれなさそうだ。

 

 

「あ、お待たせー……って」

 

 そろそろ潮時かと考えていたが、幸運にも気の重い事実を告げる必要は新たな登場人物によって有耶無耶になった。息を切らして休憩所に入って来た人物、驚いて足を止めた彼女に振り返ると、今度は橙の着物姿がそこに立っている。

 

「え!? うそ……」

 

 目も口も丸くさせて絶句する彼女に、取り合えず黒檜は会釈した。多分、こちらも「赤城」だった頃から親しい間柄だった。彼女が蒼龍の相方、第二航空戦隊の飛龍であろう。

 

「いや、あ、赤城さん? うそ、どうして? めっちゃ久しぶりじゃないですか!?」

「ええ、そうね」

 

 同じような反応は二度目なので黒檜も落ち着いて相手することが出来た。蒼龍ほどでないにしろ、新しくやって来た彼女の顔もあっという間に彩られていく。

 

「うわー! 赤城さんだぁ。本物だぁ。え、すごいよ。ねえ、蒼龍! すごい、また赤城さんと会えたよ!!」

「でしょ? ホント偶然なんだけど、さっき見掛けてさ。すっごいびっくりしちゃった」

 

 甲高い声で相方が言うと、蒼龍も同じような声で答える。女三人寄れば姦しいと言うが、彼女たちの場合二人だけでも十分騒がしかった。元からこんな性格なのか、旧知の相手と出会えて歓喜のあまり感情の抑えが効かなくなっているのかは判別しかねる。

 ただ、そのままにしておくといつまでも静かになりそうにないので、少しばかり苦言を呈することにした。

 

「ねえ、二人とも。働いている人もいるし、少し静かにね」

「え? あ、ごめんなさい。私ったらつい興奮しちゃって」

「すみません、蒼龍の奴がうるさくて」

「いや、飛龍も人のこと言えないじゃん」

「私は良いの。ってかほら、赤城さん困っちゃってるじゃん」

「わ、ごめんなさい!」

 

 第二航空戦隊の二人は仲良さそうに言い争いながら、徐々にクールダウンしたようだ。ようやく落ち着き、蒼龍と飛龍は黒檜の左右に並んでベンチに腰掛ける。どちらが示し合わせたでもないごく自然な動作で黒檜は挟まれてしまった。二人とも顔つきは似ていないから実の姉妹ということはなさそうだが、仕草は似通っているし、動きもピッタリそろっている。余程息が合っているのだろう。

 

「いやでもホントにさ、こうしてまたお会い出来るなんて感動ですよ」

 

 と、未だ興奮が完全に冷めやらぬ飛龍が熱っぽく語り掛ける。

 

「一時は引退されたっていう噂まで流れてたから心配してたんです。お元気かなって」

「え、まあ、そうね」

 

 引退されたかと言われれば、認めていいのかどうなのか困るところだ。ただ、確かにこの一年ばかりは「赤城」ではなく黒檜として過ごしてきたし、それは今後も続くだろう。それがいつまでかは分からないが、引退したというのもあながち間違いではないと言える状況ではある。

 

「赤城さんは覚えてないかもしれないけど、あの鎮守府が壊滅した時、私たち二航戦は真っ先に現場に向かったんです。そういう命令だったし、何より私たち自身がすぐにでも向かいたかったから」

 

 とつとつと飛龍は語り出す。

 

「でも、到着した時には何もかもが終わってました。赤城さんたちは自力で襲って来た深海棲艦を撃退してましたけど、鎮守府は完全に破壊されて死傷者多数。鎮守府の司令官まで戦死されて、当の赤城さんも全身血まみれで……」

「あの時の飛龍の取り乱しようは酷かったよね。どこから出てんの? って言うくらい凄い声で泣いてた」

「もう! 言わないでよ。本当に、あの時赤城さんが死んじゃったんじゃないかって思ったんです。金剛さんに抱えられて全身が真っ赤になった赤城さんを見て、『加賀さんに続いて赤城さんまで』って。けど、慌てて駆け寄ったら、赤城さんはまだ辛うじて息をしてたんです。金剛さんが『ダイジョーブ、赤城は死んでない』って言ってくれたのもあって、その場に泣き崩れちゃいました」

「私は旗艦だったし、飛龍がありったけ泣いてくれてたからまだ落ち着いてたんですけど。でも、結構やばかったな。飛龍が居なかったら、私が訳分かんなくなって取り乱してたかも」

「うん。でもその後のことが全然分からなくなっちゃったんですよね。呉の榛名さんが、赤城さんの目が覚めたってことは知らせてくれたんですけど、その後は全然。どうも南方へ転属になったっぽいし、ずっと心配していたんですよ」

 

 潤んだ瞳でほっとしたように笑う飛龍を見ると、胸が締め付けられるようだった。

 

 彼女も蒼龍も、どちらも「赤城」を心の底から案じていたのだろう。だからこそ、今日黒檜を、「赤城」を見付けて、二人の感情のタガは吹き飛んでしまった。溢れ返る喜びを抑えきれなくなった。

 如何に「赤城」という存在が蒼龍と飛龍の中で大きいものかを知る。「赤城」と二人の間にかつてどんなことがあったのかを、残念ながら黒檜は“覚えていない”。だが、それでも二人にとって「赤城」が憧憬の対象以上の存在であったと察するのはさほど難しいことではなかった。そして、それが分かるゆえに黒檜はきちんと事実を二人に告げなければならない。逃げている場合ではないのだ。時に、悪役にならねばならないこともあるだろう。例え相手を傷付けることになっても、伝えなければならない事実というのは存在する。

 

「心配、掛けてしまったのね。ごめんなさい」

「いいんですよ。今日、元気な赤城さんを見れたので全部チャラです」

 

 蒼龍は朗らかに笑う。その笑顔に翳りを与えなければならないことに喉が萎んだ気がする。

 

「そこまで言ってもらえるの、本当に嬉しいわ。だけど、もう一つあなたたちに謝らないといけないことがあるの」

「え? 何ですか」

 

 不穏な黒檜の言葉を察して、蒼龍の顔が引き攣る。残酷な事実を告げられることを酷く恐れているような表情。ああ、まさにその通りだ。

 

 

「ごめんなさい。私、『赤城』だった頃の記憶がないの……」

 

 刹那、蒼龍の視線が黒檜から飛龍に移される。蒼龍の方に顔を向けていた黒檜には視野外の飛龍の表情は分からなかったが、二人は何がしかのアイコンタクトを図ったようだ。一つ小さく頷いた蒼龍がまた黒檜に目を戻して、今度は柔らかく微笑んだ。そして、意外な一言を告げる。

 

「知ってますよ」

「え……?」

「実は、榛名さんから聞いていたんです。赤城さんは『記憶をなくしてるかもしれない』って」

「そ、そうなの?」

「はい。私たちとしては否定したかったんだけど、やっぱり事実なんですよね」

「……ええ。ごめんなさい。『赤城』だった頃のこと、何も覚えていないの」

「いえ。赤城さんが謝ることじゃないですよ。ただ、私たちらしく元気に振舞えば何か思い出せることもあるんじゃないかって思ってちょっとテンション高めにしてみたんですけど……。すみません、無神経でしたよね」

 

 悲しそうに首を振る蒼龍に、黒檜の胸が痛んだ。

 なるほど、あの騒がしさは彼女たちなりに考えてのことだったようだ。騒がしいだけだと思っていた自分が恥ずかしい。同時に、二人の思い遣りがじんわりと染み込んできて、不覚にも目元が熱くなってしまった。

 

「加賀さんのことも、思い出せないんですか?」

 

 今度は反対側から、飛龍に尋ねられた。振り向くと、悲しみとほんの少しの刺すような光を湛えた黒目がちの瞳がそこにある。

 

「一心同体って言っても言い過ぎじゃない。あれだけ仲が良くて、息が合っていて、強い信頼で結ばれていた加賀さんのことも、忘れちゃったんですか?」

「ちょっと飛龍! 失礼だよ」

 

 表情と共に言葉を厳しくする飛龍に、蒼龍は止めに入った。同僚に非難されると、飛龍は黒檜から目を外して床を睨む。その仕草に、彼女がどれ程加賀を慕っていたのかが垣間見れた。

 

 一航戦というのが空母たちにとって如何に大きい存在だったか、蒼龍の空元気や飛龍の苦悩した表情を見るだけで十分実感出来る。もちろん、その名声と実績は黒檜とて“知識”の上で頭の中に情報として仕舞い込まれているし、壊滅してからまだ一年程度しかたっていないからか、噂はそこここで耳にしていた。だから、一航戦が数多の畏怖と敬意、そして憧憬の対象となっていたかというのは理解しているつもりだ。

 黒檜は、かつてその内の、海軍中の艦娘の尊敬を集めていた一航戦の一人だったのだ。だが、どうしても自分が過去に「赤城」という偉大な艦娘だった実感が湧かない。どちらかと言えば、そんな「赤城」に対して一人の軍人として敬意の念を抱いてしまうくらいだ。「赤城」は確かに凄かったのだろう。加賀もそうだったのだろう。「凄い人たちだったんだ」という、とても他人事じみた感想ばかりが浮かび、自分がかつてそうだったなんてちっとも実感出来ない。

 故に、今の黒檜は「赤城」とは違う。

 

「ええ」

 

 白いシーツに包まれ、やたらと“小さく”なってしまった加賀の容貌を思い出しながら頷いた。

 

「思い出はおろか、顔すらも思い出せません」

 

 加賀のことを覚えているかと言われれば、黒檜として一度対面した時の記憶はあるのだから、その時見た眠る彼女の顔は覚えている。しかし「赤城」として、共に戦っていた気の置けない戦友のことを覚えているかと言われれば、それは否である。彼女がどんなふうに話し、どんなふうに表情を変えたのか。よく笑う人だったのか、はたまた感情を表に出さないタイプだったのか。「赤城」はよく知っていたであろうことを、黒檜はただ一つも覚えていない。そしてこのことは目の前の二人にははっきりと告げてやらねばならないことなのだ。

 

 

「そんなの、あんまりじゃないですか」

 

 床を睨んでいた飛龍は声を震わせながらまた黒檜を見る。

 蛍光灯の光を反射する双眸は、きっとコンテナの中で加賀に縋りついていた誰かと同じもの。

 

「毎日命がけで戦って! なのに深海棲艦に殺されて! その上、一番深く繋がっていた人からも忘れられて! そんなの、加賀さんが可哀想過ぎます!!」

 

 飛龍は今度は声を張り上げた。感情のコントロールがつかなくなっているのだろう。

 黒檜は彼女の肩に手を伸ばし、熱をもって小刻みに震える身体を抱き寄せる。このやり方が正しいのかは分からないし、そもそも“黒檜”にとっては初対面の相手で、そんな相手の肩を抱くのは不躾じゃないかという気もしたのだが、幸いにして飛龍は体重を預けてくれた。そこに、彼女と「赤城」との間に結ばれていた強い信頼関係を垣間見る。

 

「待っていて欲しいの」

 

 右肩に頭を押し付けて鼻を啜る飛龍に囁き掛ける。

 

「いつか必ず、全部思い出すから。それまで、待っていて欲しいの」

「……待ちますよ。赤城さんの頼みなんだから」

 

 約束ですからね。と、飛龍は付け加えた。もちろん、黒檜も拒んだりしない。抱き寄せていた彼女の肩を離すと、飛龍は身を起こした。それと、成り行きを見守っていた相方が立ち上がって目の前に移動するのは同時だった。見上げると、妙に蒼龍の顔が緩んでいる。

 

「何、笑ってんの? 気持ち悪い」

 

 目元を腫らしたまま飛龍が刺々しい言葉を投げ付ける。しかし、蒼龍は意にも介さない様子で、「いいこと思い付いちゃったんだぁ」と嘯いた。

 

「この後、弓道場に行きましょうよ。弓に触れば何か思い出すかもしれませんよ。だって、あんなに打ち込んでいたんだもん。きっと得るものがあるはずです」

「弓道場……?」

「お! 蒼龍、たまにはいいこと言うじゃん」

 

 飛龍の表情が一転して明るくなる。相方の賛同を得られたからか、蒼龍はますます表情を弛緩させた。

 

「でしょでしょ。ね? いいよね。赤城さん」

 

 と言われては、黒檜も頷くしかなかった。

 知識の上では、「赤城」が弓矢を持って戦うタイプの空母娘であったことは知っている。それ故に、人生の時間の少なくない割合を弓道に打ち込むために費やしていたことも、その実力が抜きん出ていたことも。

 今のところ、“記憶を取り戻す”方法が不明である以上、やれることはやっておくべきだろう。蒼龍の提案は的外れなようには思えなかったし、二人を何度も落胆させるのも気が引けた。時間を確認しつつ、「少しだけなら」と答えた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 ひと口に空母娘と言っても、砲艦と違って種類に違いがある。砲艦の艦娘ならば、戦艦であろうと駆逐艦であろうと、大小の艦砲を持ってそれを放つのが基本的な戦い方になり、大きさの違いがあれど主砲・副砲で機構や操作に極端な違いがあるわけではない。威力は異なれど、砲弾という運動エネルギー兵器が彼女たちの矛という事実に差異はないのである。

 だが空母の場合、その艦娘自体に直接的な打撃力があるわけではなく、あくまで攻撃の主体を担うのは艦載機だ。艦上戦闘機が制空を、艦上攻撃機が雷撃を、艦上爆撃機が急降下爆撃を、それぞれ役目に従って遂行することで、航空優勢の奪取と敵への遠距離攻撃を実現する。これはどんな空母も同じであるが、種類分けされるのはそれら艦載機を如何に母艦から送り出すか、その方法の区分けである。

 艦載機の発艦方式は大きく分けて二つ。一部の軽空母や正規空母の雲竜型が採用している陰陽式と、祥鳳型軽空母や雲竜型を除く正規空母が採用している弓術式である。

 前者は艦娘の中でも最も神秘的な御業と称される式神を用いた艦載機運用法であり、多くの艦娘研究者が「原理不明・解明不能」と匙を投げる摩訶不思議な方法だ。他方、後者は弓矢を用いるという、まだ常人にも理解しやすい方式だから、空母娘と言えば弓を引いているイメージが強く持たれている。また、空母娘として露出が多かった一航戦が、同時に弓術式空母の代表格だったのもその理由の一つに挙げられるかもしれない。

 そして、このような弓術式空母が所属するのは海軍基地の中でも一定以上の格式と規模を求められる「鎮守府」という場所であり、それら空母娘の所属する鎮守府には必ず弓道場が設置されている。というのも、弓術式の空母が己の練度を高め、維持するのに弓の鍛錬を必要とするからだ。

 とりわけ、日本最大の海軍基地である横須賀鎮守府にある弓道場は民間のそれを含めてもトップクラスの規模を誇る施設だった。28メートルの12人立ち近的場と60メートルの10人立ち遠的場が併設されている。ここでは日々二航戦を始めとした空母娘が己の技に磨きをかけるため鍛錬を行い、またすべての弓術式空母が育っていった場所でもある。

 無論、言うまでもなく空母娘のパイオニアであり、その戦術と運用法を確立した一航戦こそがこの弓道場の設置者だった。まだ方式の分類はおろか空母の運用法すら定まっておらず、すべてが手探りで回されていた時代、活躍と戦果からようやく発言権を獲得するに至った一航戦の二人が軍上層部と折衝し、建設されることになった弓道場こそ、横須賀鎮守府射的場なのである。

 つまり、「赤城」にとっては因縁が深いどころか、自らが建てたような弓道場と言って差支えがない。今はその主たる利用者が二航戦の二人のみとなっているようだが、かつてこの横鎮に所属していた一航戦の影は至る所に垣間見られた。

 

「あの額に入っているの」

 

 と、飛龍は上座の天井近く、射場を見下ろすように掛けられている「一矢入魂」の書が入った扁額を指す。書家に依頼して書いてもらったものなのか、墨痕淋漓として大変立派である。随分と格式高い書だ、と感心していると、隣で説明する飛龍の口から思わぬ名前が飛び出て我が耳を疑うことになった。

 

「あれ、加賀さんが書いたんですよ」

「え? そうなの?」

「そうそう! 加賀さん、ものすっごく字が綺麗なんですよね。筆握らせたら、ああいうのをさっさっさって書いちゃうんです。書道家になっても食べていけたんじゃないかな」

 

 今度は蒼龍が興奮気味に頷いた。

 これ以上吃驚を率直に口に出すのはどうかと思って黒檜は言葉を飲み込んだが、加賀の意外な特技を知って驚愕したのは事実だ。もちろんこのことは「赤城」はよく知っていただろうから、あまり驚きを表に出すのもおかしいような気がしたのである。

 

「懐かしいなあ。結構署名とかお願いしてたよね」

「飛龍は字が下手だからね。まあ、加賀さんが上手すぎたんだけど」

 

 二人は扁額を見上げながら懐かしむように言い、それから蒼龍の方が「弓、取って来るね」と告げて射場の隣にある部屋に入って行った。

 

 近的場というのは文字通り的が近い弓道場のことだ。二航戦の二人も普段は近的場を使うのだという。というのも、実戦において空母娘に求められるのは矢で敵を射掛けることではなく、矢を艦載機に変化させて、あるいは矢を艦載機に“戻して”、その艦載機で敵を撃沈することである。必然的に、矢それ自体の飛距離というのはあまり要求されるものではなく、せいぜいが風に乗せて空に打ち上げ、少しでも艦載機の高度を確保するために用いられる程度だ。

 つまり、身も蓋もないことを言えば、空母娘はそこまで熱心に弓道の鍛錬に打ち込む必要性はないのである。何しろ、空に矢を打ち上げられる程度に弓が扱えれば事足りるのだから。それでも、一航戦が自己の鍛錬のためにと弓道場の設置に熱意を捧げたのは、単なる弓道の鍛錬以上に、その行為によって艦娘自身の精神力を高めるためなのだと、飛龍は説明した。加賀が書いた「一矢入魂」の四文字にその心髄が込められている。この書を加賀に依頼したのは、弓道を精神鍛錬の過程と捉えていた、他ならぬ「赤城」だった。

 

「ごめーん。奥に仕舞っちゃってたから取り出すのに苦労したよ」

 

 と言いながら戻って来た蒼龍の手には、小柄な彼女の身長を超す長弓と矢筒。

 

「それ、やっぱり?」

「うん。赤城さんの」

 

 二人の会話を聞きながら黒檜は首を傾げた。「赤城」が横鎮に在籍していたのは随分と前のことであったはず。それが、どうしてここに弓が残っているのだろうか。

 その答えは飛龍が教えてくれた。

 

「赤城さん、ここを去る時にこの弓を残していったんですよ。『皆さんの鍛錬に使ってくださいね』って。でも、畏れ多くて誰も使うことなんて出来なかったんですけど」

 

 黒檜は、かつての自分の弓だというそれを蒼龍から受け取る。

 竹で出来ているからか、長弓は大きさの割に軽かった。相当使い込まれたと思しき弓で、そこかしこに擦り傷や擦れた跡があって、手触りはつるつると滑らかだ。大きく反った成りの端っこに小さく墨で「ア」と書かれている。

 不思議なもので、弓を握ると思った以上に手に馴染んだ。あたかもこの両の手は弓を握るために存在するように思える。

 記憶をなくしても知識はなくならない。同様に、頭の中から記憶が消えたとしても、何万回と同じ動作を繰り返した身体はやはり同じように覚えているものだ。試しに軽く弦を引いてみると、違和感やぎこちなさが感じられなかった。平仮名の書き方や箸の持ち方を忘れなかったように、弓の引き方も忘れてはいないようだった。

 

「やってみますか」

 

 その様子を見て、同じ感想を抱いたであろう飛龍が提案する。黒檜は無言で頷いた。

 

「射法八節は覚えていますか?」

 

 今度は首を振る。「それじゃあ」と二人して射に至る所作を教えてくれたが、黒檜の身体は教え直されるまでもなくやはり覚えていたようで、射法八節も頭で考えずに身体の動くままに任せると、二航戦はその内に沈黙するようになった。

 どの道、思い出そうとしても記憶がないのだからそれに意味がない。ならばと思い、黒檜は目を閉じる。そうした方が精神が研ぎ澄まされる気がしたし、目を開いたままにしていると脳が余計なことを考えて集中が乱れそうだったからだ。的と身体の位置関係だけしっかりと覚えて目を閉じ、弓を引く。

 

 タンッ、と小気味良い音が射場に響いた。背後で、二航戦の内のどちらかが息を呑む音が聞こえ、黒檜は目を開いて矢の場所を確認する。見るまでもなく的に当たったのは分かったが、それでも中心に命中していたことには少なからず驚いた。やはり、この身体は数えきれないほど打ち込んだことをちゃんと記憶していたのだ。

 

 

「今……目、つぶってたよね」

「うん。見てなかった……」

 

 相当な熟練者と思われる蒼龍と飛龍が絶句する。確かに、これは自分でも出来すぎだと思わないこともない。

 

「いや、凄すぎですよ!!」

 

 いやいやいや! と、今まで以上に興奮して蒼龍が騒ぎ立てる。その隣では飛龍が目を瞬かせて的に突き刺さっている矢を凝視していた。

 

「も、もう一回! もう一回やってみてください!!」

「え? ええ……」

 

 蒼龍の勢いに押される形で黒檜は再び矢を番えた。

 感覚というのは非常に繊細なものだ。特に、弓で矢を射掛けて的に当てるような作業は、殊更の緻密さや丁寧さを要求される。だから集中だってひと際保たなければならないし、ちょっとした狂いで結果がまるで変ってくるだろう。少なくとも、今の黒檜にとってこの「射」という行為あるいは技を為すのに視覚は邪魔なものでしかなく、なので第二射においても目を閉じて弓を引いた。

 何となく、的を見ない方が当たる気がしたのだ。頭に記憶はないのだから、「射」を完成させるに至る一つひとつの動作を覚えている肉体に主導権を委ねた方が上手くいくのだろう。案の定、また小気味良い音がして矢は過たず的を貫いたようである。

 

「やばっ。ちょ、飛龍、赤城さんヤバイよ。神掛かってるよ」

「何で? 何で目を閉じて当てられるんですか?」

 

 二人とも弓の道に居るからこそその凄さというのが分かるのだろうが、いくらなんでも持ち上げ過ぎである。「神掛かってる」とまで言われれば、さすがに嬉しさより気恥ずかしさが優るというもの。「そんなことないわよ」とやんわりと否定するが、蒼龍はぶんぶんと首を振った。頭の両横で結んだ房が動きに合わせて振り回される。

 

「そんなことありますって。素晴らしすぎますよ。こんなの見たことないです」

「卓越してますよね。見てて思いましたけど、弓を極めた人の技です。射法も綺麗だし、姿勢が美しいって言うんですか。ケチの付けようがない、まさしくお手本です」

 

 溢れ返る賛辞。二人は手放しでそれを容赦なく浴びせかけてきた。

 それ自体は嬉しいような気恥しいような、むず痒い感覚にさせるものだ。ただ、どうにもこうして褒め称えられたことに、そしてそれを受けて随分と照れた覚えがある。もちろん、覚えがあるというのは脳裏のどこかで記憶に引っ掛かったものがあるということで、黒檜はふと意識を頭の中に向けた。

 

 

 賞賛の言葉。

 

 ―― Brilliant!! 素晴らしいわ!

 

 手を叩く誰かの声。

 

 

 

「あ……」

 

 間違いない。覚えていた。黒檜としてではない、「赤城」の記憶。

 いや、あるいは取り戻したというべきか。

 

「え? 赤城さん?」

「あ、まさか。何か思い出したんですか?」

 

 蒼龍と飛龍が詰め寄って来る。

 女性にしては上背のある黒檜に対して、二人は比較的小柄だ。必然、黒檜から見ると二人を見下ろす格好になる。

 ただ、記憶の中で「赤城」を褒め称えた誰かはもっと小さかった。

 

「えっと、うん。ちょっとだけ」

 

 はぁぁ、と蒼龍は口で息を吸い込みながら両手を当てた。心なしかその目が潤んでいる気がする。彼女は感極まっていよいよ発すべき言葉を失ってしまったようだ。

 もちろん、相方の飛龍も喜びをこらえきれないように顔を綻ばせ、今度はこちらが目を輝かせる。

 

「良かった。何を思い出したんです? どんなことを思い出したんですか?」

「えっと、昔、同じように褒められたことかしら?」

「誰にですか?」

「それは……」

 

 記憶の中の誰かの顔がはっきりしない。

 場所は思い出せる。夕暮れの静かな弓道場。矢道に差し込む夕日がわずかに舞う誇りを反射していた。よく磨かれたニス塗の木板の床を二人でモップ掛けしたはず。「赤城」は二人で掃除することに驚いたのだ。まさかその相手が掃除を手伝ってくれるなんて思いも寄らなかったから。

 誰かは、小さくて、柔らかくて、温かかった。

 そうだ。まるで、彼女は姉のようだった。姉のように、優しく、抱擁してくれたのだ。

 赤城もまた彼女を抱き締め、その時に彼女の柔らかさ、温かさを知った。あんなに小さく華奢な体付きなのに、とても大きな存在に手を回して縋りついていたような気がした。

 

 あの、月明かりしかない部屋の中で。

 

 

 

「赤城さん?」

「ご、ごめんなさい。私、不躾なこと訊いちゃいましたよね!?」

 

 突然慌てふためき始めた二航戦の声で我に返る。酷く心配げな顔が二つそこにあって、しかし黒檜には彼女たちがどうしてそんな様子なのかまるで見当つかなかった。

 どうしたの? と言おうとして、懐からハンカチを引っ張り出した飛龍にようやく察する。目元を拭ってみると、思った通り指が水分を拭き取った。

 

「嫌なことだったんですか? すみません、思い出させちゃって」

「……いえ、そうじゃないわ。そうじゃないの」

 

 これ以上二人を不安にさせないように黒檜は微笑みを作った。

 この涙は自分のものではない。「赤城」のものだ。何しろこの思い出は彼女の記憶なのだから。

 

「気にしないで。ちょっと、不安定になっているだけだから」

 

 黒檜がそう言うと、蒼龍はほっとしたような表情を見せ、飛龍はまだ少し怪訝そうにして何か口にしようとした。だが、彼女より先に発言をした者が居て、飛龍は結局言い損ねてしまった。

 

 

 

「虚空を見つめながらいきなり泣き出したら、そりゃ誰だって心配するだろうよ」

 

 声は黒檜の背後から聞こえた。この場に自分たち三人以外の人物が居たことに驚きながら振り返ると、弓道場の入り口横で腕を組みながら壁に背を預けている姿が一つと、開きっ放しになっている入り口を塞ぐようにして立っている鈴谷が見えた。

 刹那、驚くべき速度で剣呑な雰囲気が弓道場を満たしていく。その発生源は蒼龍と飛龍の二人。彼女たちは入り口に立つ二人と黒檜の間にさっと身を滑り込ませた。まるで、この突然の乱入者から黒檜を庇おうと言わんばかりに。

 

「あんたら、自分らの世界に入り込み過ぎだぜ」

 

 入り口横で腕組みしていた何者かは少しばかり揶揄を含んだ言葉を放つ。仮にも横須賀鎮守府の第二秘書艦を前にしてこの言い草である。ふてぶてしい言動にふさわしく、その見た目も男女の判別を難しくさせるくらいに厳つい。寝ぐせだらけのぼさぼさの髪に、幅の広い両肩。何より一目見て忘れ得ぬくらい強烈な印象を持たせているのが、右目を覆う黒い眼帯と、荒々しい外見の中でひと際光を放っている勝気な瞳だ。雄々しささえ感じられる風貌だが、折り目の正しく付けられたプリーツスカートの下からすらりと伸びる美脚は、彼女が女性であることを主張してくれていた。

 

「ちょっと、勝手に入らないで。ここは空母以外立ち入り禁止だから」

 

 一歩前に出た蒼龍が、棘も毒も含んだ言葉で二人を威嚇する。さっきまで黒檜に向けていた声色とはまるで違う。恐ろしくなるような態度の変貌ぶりだ。

 

「それを言うなら、その人だって厳密には空母じゃないだろう。シンガポール基地所属、黒檜大尉。そうだろ?」

 

 白いセーラー服の艦娘は蒼龍に構うことなく壁から背を離して歩み寄って来る。反論を受けて背中越しでもはっきりと苛立ちを見せた蒼龍の肩に手を置いて諫める。

 考えるまでもなく、彼女こそが黒檜が横須賀に来た目的。まだ午前中なので、彼女の仕事は聞いていたよりずっと早く終わったらしい。鈴谷がわざわざ連れて来てくれたようだが、どうして黒檜がここに居ると分かったのだろうか。

 そんな小さな疑問を抱きつつ、とはいえ目的の人物と早々に出会えたようなので、黒檜はひとつ胸を撫で下ろした。

 

「そうです。あなたが木曾さんですね?」

 

 木曾は黒檜の前に立ち、そして顔を背けて吹き出す。面を食らった黒檜が反応する前に、飛龍が怒りを爆発させて怒鳴った。

 

「あんた! 赤城さんをバカにしてるの!?」

「ハハッ。悪い悪い。ちょっと可笑しくてな」

「何が可笑しいのッ!」

「いや、こっちは相手のことをよく知ってるのに、相手からは強張った顔で見られるのなんて、初めてだったからさ。何もそんな顔しなくたって、こっちは取って食おうなんて考えちゃいないのにな、って思って」

 

 歴戦の二航戦の怒声にもまるで怯むことなく(飛龍の剣幕は黒檜から見ても相当なものだった)、木曾は釈明を述べた。その様子に嫌味なところはなく、したがって黒檜も不愉快な気分にはならなかったので、この小さな粗相については目をつぶることにする。

 

「ごめんなさい。“私”としては初対面になるから。変な顔になってましたよね」

 

 剣呑な雰囲気で木曾に威嚇している後輩二人を諫めつつ、黒檜は穏やかに答えた。北海道から来た艦娘は肩をすくめ、スカートのポケットに片手を突っ込んで中に仕舞い込んでいた物を引っ張り出す。

 

「じゃあ、改めて自己紹介しよう。球磨型軽巡洋艦五番艦の『木曾』だ。かつて、あんたと同じ鎮守府に所属していた」

 

 彼女が掲げた右手の人差し指から紐付きの小さなビロード袋が垂らされた。

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 「誰にも話を聞かれない所に行く」と告げた鈴谷は黒檜と分かれている間に車を用意していたらしい。弓道場の前には古びた軍用ナンバーのセダンが停めており、鈴谷が運転すると言うので木曾と共に後部座席に乗り込んだ。

 運転中も鈴谷は口数が少なかった。元々そんなに話す仲でもないが、どう見てもこれは機嫌を損ねているからだろう。蒼龍に流されて置いて行ってしまったことを陳謝したが、彼女は言葉短く気にしていない旨を告げただけだった。

 さりとて、隣に座る木曾とも会話が弾まない。名を名乗りながら意味深に取り出して見せたビロード袋について尋ねても、「後で説明するよ」とはぐらかされてしまって、それ以上やり取りが続かなかった。目的地までは五分程度かかったので、なかなかに居心地の悪い車内を味わうことになってしまった。

 

 さて、黙ったままの鈴谷に連れて来られたのは、広大な横須賀鎮守府の敷地の中でも端っこにある白い平屋建ての建物だ。一旦鎮守府の正門から出て、市街地を通りらなければたどり着けないような辺鄙な場所である。そこは水際まで飛び出している小高い丘の影になっているような場所で、鎮守府の中心部からは山陰になって見えないようになっていた。小さな川が流れ込む河口の脇で、陸地に切り込みを入れたような入り江に面している。こんなところまでが鎮守府の敷地だと言われれば驚くような立地で、実際建物の周囲には敷地と外部を遮断する二重の有刺鉄線付きの高い柵が周囲を囲っている。柵の向こうには民間企業の造船所が見えた。

 ただ、場所の割に建物は新築らしくピカピカで、大きなステンレス製の自動ドアが三人を出迎えてくれる。ドアの脇にはプレートが付けられており、そこに「先進技術センター 追浜支所」という聞き慣れぬ名前があった。さらにそのプレートの横にカードリーダーが据え付けられており、鈴谷が懐から取り出したカードを読み込ませると電子音が鳴ってドアが滑るように開く。

 外観と同じく中も新品ばかりで、出来たばかりの企業のオフィスのような内装だが、観葉植物のひとつも飾られていないので酷く殺風景だ。あまり大きな建物ではないので中もそこまで広くはなく、片側に部屋が並んだ廊下が奥へと続いている。鈴谷は廊下を進み、突き当りから一つ手前の部屋の前で立ち止まった。その部屋の入口の横にもプレートが掛かっており、「保管室」という味気ない文字が刻まれている。

 セキュリティはこちらの方が厳重だった。ドア横の認証端末にはテンキーと生体認証用のセンサーがあり、鈴谷は暗証番号を入力してからセンサーに右目を近付ける。認証端末が小さく鳴って緑色のランプを点灯させ、ロックが解除されたことを示した。鈴谷はスライド式のドアを開ける。

 

「どうぞ」

 

 久しぶりに口を開いた鈴谷が言ったのは、そんな素っ気ないひと言だった。促されるままに入室すると、そこは保管室の名に違わぬ部屋であった。

 黒檜たちがくぐった入り口とは別に左手の壁に大きな自動ドアがある他、四方の壁には黒塗りの棚が据え付けられており、棚には見慣れぬ様々な機械部品のようなものが所狭しと並べられている。部屋の中央には作業台があり、その真上からランプが一つ吊るされている。作業台の上にはいくつかの部品が散らかっていて、前回部屋を出るまでに部屋の主は何かの作業をしていたようだ。

 

 

「ここは?」

 

 興味深げに部屋の中を見回している木曾に代わり、黒檜は尋ねた。

 

「見ての通り、私の作業場です。置いてある物には触らないでください」

 

 鈴谷は淡々と答えた。黒檜も棚に置かれている物を観察してみるが、艦娘が扱うようなものとは思えない、使用用途すら思い浮かばないような謎の機械品ばかりである。「私の」と言うくらいだから、この部屋の主は鈴谷で間違いないのだろうが、黒檜が見慣れた艦娘の艤装やそれに関わるような物は一切見当たらない。肩書から普通の艦娘ではないことは分かっていたが、この特殊な部屋に入ってみて改めて鈴谷の異質さというものを実感する。

 具体的なことは何も知らないし、知りようもないが、鈴谷が海軍という組織が持つ暗部の一部を背負っているのは察している。鎮守府の片隅で人目を憚る様に建てられたこの建物の、さらに奥で厳重に守られているこの部屋はまさにそれを証明していると言えよう。

 

 鈴谷が作業台の上を片付けている間、黒檜と木曾は部屋の中をしげしげと観察していた。見る分には鈴谷は特に止めたりはしなかった。棚に置かれている物はほとんどすべて怪しい機械やその部品ばかりだったが、ある一画にだけ他とは趣の違う物がある。

 それは小さな写真立てと花の絵柄があしらわれた木の小箱だ。この、武骨で物々しい部屋の中でただ一つ、主人の女性的感性を示す物体だった。写真立ては本のように開く二面式で、左右それぞれに写真が収められており、右の写真には腕を組んで仲睦まじい様子の二人の少女が写っている。どこかの遊園地での一幕のようで、二人とも私服で背後にはジェットコースターが写り込んでいた。一人は屈託なく笑いながらピースサインを作り、もう一人は淑やかな笑みを浮かべている。二人とも随分と楽しそうだ。ピースしている方は、双子の姉妹などでなければ、この部屋の主であろう。一方、左の写真には、右の写真で鈴谷と腕を組んでいる少女が一人だけで写っている。こちらではその少女は今の鈴谷と同じ制服を着て、艤装を装着し、凛と澄ました表情だ。

 亜麻色の髪を後頭部の高い位置でひと纏めにした彼女には見覚えがない。鈴谷と同じ制服を着ているのなら、彼女と同じ最上型の艦娘なのだろう。最上型は一・二番艦と三・四番艦で艤装の型が少し違うと聞いたことがある。鈴谷は三番艦なので、彼女と一緒に居るとしたら四番艦ということになる。だが、いつにどこで耳にしたかは忘れたが、最上型は三番艦までしか居ないとも聞いたことがあった。

 不意に背後から伸びてきた手が写真立てを閉じてその場に寝かせる。振り返ると笑い方を忘れたような冷ややかな目をした艦娘が立っていた。

 

「ブラックでいいですか?」

 

 感情のこもっていない平らな声で鈴谷は尋ねた。気圧されて黒檜は無言で頷く。苦いのはあまり好きではないのだが、何も言えなかった。コーヒーを淹れに行くのか、鈴谷は部屋を出ていく。

 彼女の事情に踏み込んではならない。そう思えど、姉妹艦のことが気になってしまう。写真の中で年相応に明るく笑えていた鈴谷に何があったのか。「最上型四番艦」はどこに行ってしまったのか。脳裏をよぎるのは嵐と萩風の顔だった。

 

 

「おお、こいつはスゲェな」

 

 そんな黒檜の内心を知らぬもう一人の艦娘が棚から何かを取り出して歓声を上げた。木曾の目の前の棚にはファイルや本が並べられていて、彼女が手に取ったのはその中の一冊のファイルのようだ。

 

「手を触れないように言われてるでしょ」

「ちょっとだけさ」

 

 黒檜が咎めても木曾は聞く素振りを見せない。それどころか、広げたファイルを見せてきた。

 

「見ろよ、こいつを」

 

 彼女が開いた場所に閉じられていたのは、何かの機械の設計図のようだ。内部構造を詳細に記しているために書き込みが多い。一見すればそれは艦砲の設計図に見える。

 

「これは?」

 

 自制心より好奇心が上回って、思わず木曾に尋ねてしまった。気付いた時にはもう遅い。木曾は嬉々としてこの設計図の説明を始めた。

 

「レールガンだよ。艦艇搭載用の対深海棲艦兵器さ」

「何ですか、それ」

「何年か前にそういう話を聞いたことがあるんだよ。艦娘に頼らず、深海棲艦を撃沈出来る兵器を開発しようっていう計画が立ち上がったらしくて、そこで白羽の矢が立ったのがレールガンって代物だったらしい。その後は何も聞かなくなってたから、終わった話だと思ってたんだが、ここに設計図があるってことは実は開発が進んでいたのかもな」

 

 さらに木曾はページを捲る。もうそろそろ鈴谷が戻って来そうだが、彼女はお構いなしだ。

 

「これは何だ?」

 

 木曾がページを捲る手を止めて呟いた。黒檜ものぞき込むと、そこにもやはり何かの図が書かれていたのが、今度は何なのか察しがつかなかった。

 図というより、ラフスケッチのような線画である。人型とその背中から生える翼の全体図。全体図の下には、翼部分を拡大した別の線画が描かれている。ページには文字が書かれておらず、すべて線画だけであり、これが何を表しているのかは分からない。何かの装置のスケッチのようだ。人型が描かれているところから、艦娘に関わるものなのだろうか。

 

「木曾さん、もう止めましょう。鈴谷さんが帰って来ますよ」

 

 黒檜の忠告は残念ながら間に合わなかった。ドアが開き、部屋の主が戻って来る。彼女はすぐにファイルを盗み見している二人を見つけると、眉間に深い皺を刻んで、殺意が籠っていると言っても差し支えないほど剣呑な眼で睨み付けた。

 

「触らないでって言ってるでしょ? 機密漏洩で捕まりたいの?」

「ああ、悪い悪い」

 

 だが、木曾は気にした風もなく、軽い調子でそう答えてファイルを戻すだけだった。鈴谷はわざとらしく大きなため息を吐くと、手に持っていたトレーを作業台に置く。そして、トレーに乗せていた湯気の立つ紙コップ三つを作業台に移した。

 

「次やったら承知しないから」

 

 空いたトレーを脇に挟み、手近な棚に背を預ける。木曾も黒檜も、それを呆けて見ていた。すると、鈴谷は少し首をかしげて、「椅子、あるでしょ? 早く始めたらどうですか?」と言った。

 確かに鈴谷の言う通り、椅子がある。ホームセンターで安く売っているような小さなものが二つ。三つはないから、鈴谷は立っていることにしたらしい。

 言葉に甘えて木曾と共に腰を下ろす。鈴谷のことはいろいろと気になるが、木曾から聞かなければらなないこともたくさんあって、今はそちらの方がずっと優先順位が高い。

 

 

「さてと、どこから話したものかな」

 

 木曾はそんな言葉と共に長い話を始めた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。