ARIA The Extension (Yuki_Mar12)
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Page.1 「憧れ」

 盛夏のある日、入道雲がそびえ立つ旱天の下には、一軒のカフェテラスが、汀に二艘のゴンドラが浮かぶ海のすぐそばに開店していた。

 広大な海原は緩やかに波打っていて、そこでは、大小の船が緩慢な速度で行き交っていた。店舗が手入れしている花壇には、真紅色のハイビスカスが、自分の季節を謳歌するように鮮麗に咲いていた。

 ビニールの屋根が夏の猛烈な日射を遮っているテラス席のまるいテーブルに、二人の女が、向い合わせで付いている。両方ともロングヘアーだが、一人は黒色に近い褐色でストレートであり、もう一人は薄緑色で、前髪を除く毛先がくるんとカールしている。それぞれが着ているセーラー服に似た制服は、彼女等がここネオ・ヴェネツィアで花形とされる水先案内人であることを示している。

 晃とアリスのいるテーブルには、カフェのメニューと彼女等が脱いだ制帽の他に何もない。周りには、二人分の空席がある。

 晃が半ば驚いたように、半ば呆れたように目を瞠って言った。

 

「何、灯里が流されたぁ?」

 

 その反応に、アリスは困ったように眉を下げ、「はい」と答えた。

 

「それで藍華先輩は、灯里先輩を助けるために追いかけていって、わたしは、事故のことを晃先輩に伝えるよう言付けられました」

 

 そして俯いた。

 

「まぁ、こういう事故が起きるのは、わたし達の合同練習ではそんな珍しいことじゃないんです」

 

 晃は不機嫌そうに眉をひそめると、目を瞑り、「なるほど」、と納得した。

 

 アリスは頷いた。

 

「お二人が遅刻してるのは、そういうわけなんです」

 

 そして晃を見つめた。

 

「どうしましょう、四人で軽食を取る予定だったんですが」

 

 ――今日晃は、時間に余裕があるため、途中よりアリス達の合同練習――その練習で彼女等は、水先案内人に必須なゴンドラ漕ぎの技術を磨く――に参加することになっていた。

 晃は瞑っている目を開いた。

 

「アイツ等の来るまで、じっと待ってなどいられんだろう――暑いし、それにわたしはそんなに辛抱強いタチではないんだ。構わず先に食ってよう」

 

 アリスは、上目遣いで晃を見上げた。

 

「いいんですか」

 

「あぁ。アイツ等を仲間外れにするつもりはないしな」

 

 不慮の事故で合流が遅れている彼女等より先に、予定を行うことにし、晃とアリスはテーブル上のメニューを手に取って開いた。メニューには色々な品物が記されていたが、その中で主立っているのはデザート類だった。

 いくらか吟味した後、それぞれは好きな品物を決め、注文した。発生するお代は、アリスのみならず、後に来ることになっている二人の遅刻者の分も加え、晃持ちだった。晃は四人の内で最年長の水先案内人であり、また、最長のキャリアとそれ相応の実績、実力を持っていた。

 ウェイトレスにオーダーを伝えてしばらくした後、円筒形が下の方で細くくびれており、底が円形であるグラスの乗ったプレートが運ばれてきた。グラスの中には、アイスクリームや生クリームやフルーツなどが盛られている。パフェだった。

 アリスは目の前に置かれた甘く冷たそうなお菓子を見つめ、きっと彼女の好物なのだろう、嬉しそうに目を輝かせた。晃も同じなのか、妙齢の女らしからぬ普段の、雄のライオンのようにきりっとした顔を、目の前のスイーツに向かってほころばせた。

 だが、晃はすぐに自分の表情が柔らかになっていることを自覚したようで、拳を口元に持っていくと、間が悪そうに、目を瞑って咳ばらいした。

 その後彼女は目を開いて言った。

 

「さぁ、食べよう」

 

 晃の発言を切っ掛けに、二人は手元の小さいスプーンを持つと、それで程よく固いアイスを削り、賞味し始めた。冷たく甘いアイスの味は、暑さにばてそうだった二人の華奢な体に染み渡り、彼女等は大いに気分がくつろいだ。

 ふと、アリスはパフェに近付けようとしているスプーンを止め、首を曲げて顔を上げ、屋根越しに青空を見た。そこに太陽の姿は見えなかったが、遠くの石で成る白っぽい街路が照り返す日射の眩しさを見ると、太陽が燦々と照っていることがおのずと察された。

 アリスはいくぶん茫然とすると、正面に向き直った。

 

「今日は本当、暑いですね」

 

 その時、晃はちょうどパフェの一部をスプーンで口に運び入れた直後で、アリスの言葉に対しては、「うん」と喉で答えることしか出来なかった。

 

 だがすぐに晃は、口の中のものを飲み込み、スプーンを口より出すと、人差し指を立てるようにそれを立てて見せ、微笑んだ。

 

「だから、こういうのが飛びっ切りうまいんだろう?」

 

 アリスは、目を瞑って微笑み返した。

 

「そうですね」

 

 夏日は中々沈もうとせず、暑気が猛威を振るう中、時間は刻々と過ぎていった。グラス一杯に詰まっていたパフェは、やがてスイーツに目のない者等においしく食べつくされ、今グラスの底あたりには、ごく微かに残っている液状のアイスが溜まっていた。

 テーブルで、晃は腕組みし、不機嫌そうに眉をひそめて俯き気味に、そしてアリスは、両手を腿の辺りにそろえて置いて、暑がっているような無表情で、黙然と座っていた。

 突然、晃が腕組みを解き、片方の手で拳を作ってテーブルを軽く叩いた。

 

「遅い」

 

 アリスは思わずびくっとした。

 

「アイツ等、一体いつまでわたし達を待たせるつもりだ?」

 

 晃は、不機嫌を露骨に表した。彼女は待つことがあまり得意ではないらしい。が、人見知りをする小動物のようにすくんでいる目前のアリスを目にすると、はっとし、申し訳なさそうに眉を下げ、目だけで俯いた。

 

「すまん」

 

 取りあえず謝りはしたものの、晃はまだ不機嫌そうに見える。彼女は俯いている目を上げて細めると、そっぽを向き、テーブルを叩いた手で、そばにあるお冷を、目を瞑り、ぐびっと飲んだ。そしてため息して目を開け、海を眺めた。少し気分が和らいだようだ。結露がびっしり付いた、平凡な形のグラスのお冷には、溶けかけの角の丸い氷が浮かんでいる。

 熱風が吹き、晃の深い褐色の髪をなびかせた。彼女は、宙に浮く髪に手櫛を通した。中ほどに挿れられたその手は、サラサラと滑らかな手触りを思わせる髪の間を、少しの抵抗もなく先端までスムーズに通った。

 アリスは、半ばぼんやり、半ばうっとりし、その様に見惚れた。待つことに飽き飽きして少し眠たくなっている彼女の目には、晃の風に泳ぐ髪と、テーブルより突き出ているしなやかな、色白で、長細いが肉付きのよい脚と、その先のハイヒールが映っていた。

 晃は身の回りに漂う妙な気配に感付いてはっとした。そして彼女は、ぼうっと何かに心を奪われている様子の正面の少女を、きょとんと見た。

 

「ん。どうした、アリス?」

 

 問われた彼女は、焦ったようにさっと俯いた。

 

「いえ、別に……」

 

 俯いているその顔は、陰に隠れてよく見えないが、少し赤くなっているようだった。

 晃は腑に落ちないという様子で、小首を傾げた。

 

「晃さん」、とアリスは呼びかけた。

 

「あぁ」

 

「晃さんって――」

 

 その後を言おうとした瞬間だった。

 

「――ごめんなさぁい!」

 

 突如声が飛び込んでき、彼女は晃と共にはっとした。

 晃は、流し目でそばに走ってくる者の方を見た。

 

「やれやれ、ようやく来たか」

 

 藍華と灯里が、テーブルまでやって来た。晃は、ぎろりと不穏に光る目で、よっぽど急いで来たのだろう、汗だくの藍華を見上げた。

 

「事情はアリスより聞いたが、ずいぶん遅かったじゃないか」

 

 言われた藍華は手をお腹の辺りで組み、しゅんと項垂れ、「すいません」と謝った。

 

「灯里はすぐ助かったんですが、ゴンドラとオールが急流に乗って流されちゃって、それで……」

 

 藍華は悪意のない遅刻のわけを、晃の不機嫌を治めるために色々述べ立てたが、彼女の小言を避けることは叶わなかった。

 アリスは、じっとその様子に――腕組みした晃の凛とした顔に、遠くより見入っていた。晃の両の耳たぶに付けている球形のピアスが、ピカピカと綺麗に輝いている。

 小言のはたで、事故に遭った不注意者が――灯里が、首をそっとアリスの耳元まで伸ばし、困ったように眉を下げ、内緒話するように手を口元に立てて言った。

 

「遅れてごめんね、アリスちゃん」

 

 しかし、アリスは依然ぼんやりとしていて、詫びの言葉をかけられたことに気付かず、まったく反応しなかった。灯里はいぶかしく思ったようにきょとんとした。

 茫然と正面の方だけ見ているアリスは、ぼそっと、うわ言のように呟いた。

 

「……やっぱり、綺麗だなぁ」

 

 それは、灯里にはほとんど聞き取れないくらい微かな声量だった。

 

「――灯里!」

 

 不意にどぎつい声で呼ばれ、彼女はびくっとし、背筋を緊張したように伸ばすと、声の方を向いた。そこでは、晃がいかめしい目付きでおり、その横には、同じような表情で、腕を曲げて手を腰に置いている藍華がいた。二人共、制服が同じな上、互いによく似ていた――二人は、同じ水先案内人の会社に務める、先輩と後輩の間柄なのだ。

 後輩が言った。

 

「何ぼうっと突っ立ってんのよ。遅刻したのは大体、あんたがどじったせいなんだからね!」

 

 その後先輩が、半ばささやくように言った。

 

「灯里。お前は後でわたしが個人的にみっちり訓練してやる。わたしの訓練はアリシアのように生っちょろいものではないからな。覚悟しておけ」

 

 そのいやに優しく抑えられた声には、妙な迫力が響いていた。

 こわもての二人に責められ、脅され、茫然と畏縮している灯里に、アリスは愉快そうに微笑んだ。

 

「でっかい大変ですね。灯里先輩」

 

 厳しい訓練という事故に続く不運をこの後課されることになった水先案内人は、「エ~」と、悲鳴に近い声を上げた。その声は、澄んだ青空中によく響き渡った。

 しかしアリスは、そんな不運な灯里のことを、内心ひっそり羨ましく感じているのだった。



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Page.2 「永別」

 とある高地の山間にある山小屋(シャレー)のデッキで、金色のロングヘアーと色白な肌、そして眼鏡が特徴的なアリシア・フローレンスは、彼女が持っている円いお盆の上の、カップやソーサーなどのティーセットを、木のテーブルの上に用意していた。水先案内人として普段セーラー服を着ることの多い彼女は、今はカジュアルな普段着姿だった。

 お盆の上のものを全てテーブル上に置き終えると、彼女は前かがみの姿勢をやめ、背筋を伸ばしてお腹の辺りにお盆を付けるように持ち、デッキの向こうの景色を眺めた。風が吹き、アリシアのそばを通った。初夏の息吹だった。彼女は髪が乱れないように片手で、風がめくり上げようとするサイドの部分をやんわり抑え付けた。アリシアの先には、青々と茂る鬱蒼たる針葉樹の森と、連綿と続く山脈とが、青空の下にある。

 その風景は、アリシアの気に入ったらしく、彼女は穏やかに微笑すると、デッキに繋がる部屋の大きな窓を開け、中に頭を入れた。

 

 丸太の風合いが自然の心地よさを感じさせる部屋の中では、銀の光沢を放つ薄紫色の髪と、薄い褐色の肌とが個性的であり、また、すでに引退してしまったが、先日までアリシアと同じ水先案内人で、彼女と同僚だったアテナ・グローリィが、隅のベッドに、真っ白な寝衣姿で横たわっていた。憂鬱そうにぼんやり天井を見ている彼女のそばには、車いすがあった。

 アテナは突如目をぎゅっと瞑ると、拳を口の前に持ってき、ごほごほと、喉に痰でも絡んでいそうな音を立て、辛そうに咳き込んだ。

 

「アテナちゃん?」

 

 呼ばれた彼女は、はっとして目を開けると、まだ出そうになる咳を噛み殺し、声の方に向いた。

 

「アリシアちゃん」

 

 そして上半身を起こした。

 窓より顔をのぞかせているアリシアは、彼女に対し、目を瞑って微笑むと、「体の具合はどう」、と尋ねた。

 

 アテナは「大丈夫よ」、と平静そうに答えた。

 不調を隠蔽したのだ。しかしその隠蔽は完璧でなく、彼女が答えるまでに空いた微妙な間に、狼狽が微かに潜んでいた。また顔色が優れていなかった。

 アリシアは、アテナの具合の悪いことには明敏に感付いていた。だが、元同僚の気遣いをおもんぱかり、あえて感付いていない振りを装い、「そう、よかった」、と安心したように言った。

 

「お茶の準備が出来たわよ」、と彼女は目を開いて教えた。

 

 アテナは、小首を傾げて微笑むと、「いつも手間をかけてごめんね。ありがとう」、と詫びと礼を述べた。

 そしてアリシアの手を借りてベッドより起き上がり、車いすに乗り、彼女にデッキの、テーブルのそばまで連れ出して貰った。

 病床を離れ、アリシアが気に入った風景のすぐそばに来たアテナは、彼女と同じ視点より、それに見入った。

 眼前に開豁にある、豊潤で雄大な自然の風景は、彼女の心を奪い、その口を半開きにした。そのいくぶん間抜けな表情を見下ろしたアリシアは、アテナがまさに自分が気に入ったのと同じ美景を見渡し、それに感じ入っていることを直感し、目を細めて微笑した。

 

「綺麗よね。初夏の景色は鮮やかで」、と彼女は言った。

 

 その言葉を受け、アテナは同じ表情になると、「本当」と答えた。「気分が自然と華やいでいく気がするわ」

 

 正直な感懐だった。咳を出していたさっきまでの苦しみは、消えてしまったかのように見える。

 が、アテナは突然顔をしかめて俯き、苦しそうな呻き声を上げ、両腿の上の拳を、苦痛を我慢するように握り締めた。不穏な雰囲気がにわかに辺りに広がった。

 アリシアはその異状にぎょっとし、アテナの不具合を察すると、隣まで回り込んでかがみ、その渋面を上目遣いで窺った。悪い事象が懸念された。アリシアはせめて気分だけでも和らげようとし、彼女の肩に手を置いた。

 

「どうしたのアテナちゃん? 具合悪くなった?」

 

 問われたアテナは、答えず、依然として呻き声を上げるばかりだった。アリシアは当惑したが、取りあえず救急の連絡をしようと思い付いた。が、その直後、アテナが口を開いて言った。

 

「お、おトイレ……」

 

 アリシアはきょとんとし、自分の耳を疑った。しばらく呆然としたが、やがて合点が行った。アテナの体調が悪くなったというのは、杞憂だったのだ。彼女は何だか拍子抜けする気がし、ほっとすると同時に呆れ、苦笑をこぼし、「あらあら」と、普段の、何となく優雅さを感じさせる口癖を放った。

 体調の急変は勘違いで、アテナの顔をしかめさせ、呻き声を上げさせたのは、便意という日常的で些細な衝動に過ぎなかった。

 しばらくしてトイレより戻ってきたアテナは、アリシアと共にテーブルに付いていた。アテナは車いすに、アリシアは椅子に座って、互いに向い合わせでいる。

 カップを手に持っているアテナは、アリシアが淹れてくれた彼女お手製の紅茶より立ち上る香りを、目を瞑って嗅ぐと、軽くうっとりした。その表情を温かい目で見守っている、紅茶に造詣のあるらしい、机上に腕を組んでいる水先案内人は、嬉しく感じるように微笑んだ。

 アテナは紅茶に口を付け、そして「うん」と納得するように頷くと、「おいしい。流石アリシアちゃんね」、と味の感想を率直に述べた。

 元同僚の彼女は目を瞑って微笑し、「お粗末様」と、謙虚な態度でその感想に返礼すると、自分も紅茶に口を付けた。

 その後彼女は、急に懐古的な、しみじみとした心地になり、カップをソーサーに戻してアテナに尋ねた。

 

「こんな風に二人きりでお茶を飲むのって、一緒に暮らしだしてすっかり当たり前になっちゃったけれど、やっぱり新鮮に感じるものね」

 

 アテナは「そうねぇ」、と答えた。

 

 そしてカップを元の場所に戻し、その白い陶器の面をじっと、アリシアの感懐について考えるように見下ろした。

 

「こんな時間、ずいぶんなかったなぁ」

 

「灯里ちゃん達が来てからは、そうよね」

 

 アリシアは空を見上げた。

 

「後輩を持つことでわたし達は、晃ちゃんを含め、自分の仕事に携わるだけじゃなく、先輩として指導する義務が出来て、多忙になっちゃったものね」

 

 アテナは目を瞑って「フフ」、と笑むと、「本当」と答え、同意した。

 アリシアは、顔を正面に戻した。

 

「アリスちゃんは、センスが抜群だったから、そんなに手はかからなかったでしょう?」

 

 そよ風がアテナの短めの髪を揺らした。

「あの子は」、と彼女は答えた。「オレンジ・ぷらねっとに来た時にもう、大きな可能性を持ってたから」

 

 そしてソーサーの上のカップを取り、口元の高さまで持ち上げた。

 

「わたしは、その可能性が一日でも早く開花するのを手助けするだけで、それ以上のことは何も出来なかったわ」

 

 彼女は、憂わしそうに目を細めた。

 

「あの子は、わたしがいなかったとしても、きっと……」

 

 最後までは、言わなかった。

 アテナは紅茶に口を付けた。少し冷めていた。

 謙虚というよりはむしろ自蔑的と言うべき態度の元同僚を、アリシアはじっと見つめ、その後「ううん」と首を左右に振った。「アテナちゃんは、立派に先輩の役目を果たして、アリスちゃんを、生まれつきの才能だけではきっと到達出来なかったところまで成長させたわ」

 

「そうかな」、とアテナは疑り深そうにいぶかしんだ。

 

「うん」、とアリシアは率直な仕方で頷いた。「それは、プリマになった今のアリスちゃんを見れば、おのずと分かる」

 

 アテナは、カップをソーサーの上に戻した。

 アリシアは続けた。

 

「本当のことよ? 舟歌(カンツォーネ)だって、まだ発展途上のレベルだけど、日に日に上達していってるし」

 

 アテナは、カップを見下ろし、アリスのことを考えた。アテナは彼女が、水路に浮かぶゴンドラの上で、喉に手を当て、発声の良し悪しに気を配りつつ、小柄なその体付きに相応しいか細い声を、目一杯出して歌っている、健気さに満ちた光景を、心に思い描いた。そしてそんな彼女の姿に、自身の影の反映をうっすらと認めた。

 舟歌は、アテナの特技だった。彼女の声は、聴く者を魅惑し、うっとりさせる霊妙な力を持っており、ネオ・ヴェネツィア随一の美声と言われ、絶大な人気があった──それは、最早過去のこととなってしまったが。

 アテナはアリスに、彼女の才能がカバーしていない舟歌を教え込んだ。そしてアテナは、ある日悲運に見舞われ、体を壊し、歌を歌えなくなった。そのため、彼女の直接の後輩であるアリスは、彼女に代わる新たな舟歌の歌い手として、期待を担うことになり、それは重い負担だったが、アリスは真摯に受け止め、それに精一杯応えられるよう精進するようになった。

 

「アリスちゃんには」、とアテナが言った。「どれだけ感謝してもし足りないわ」

 

 そして顔を上げ、デッキの果ての風景をしんみり眺めた。

 

「あの子は、わたしが失ってしまった力を、華奢な体で受け継いでくれたんだもの――まるで彼女が、思いやりのある子どもであるかのようにね」

 

 アテナは、にこりと笑んだ。

 

「お陰でわたしは、未練なく旅立つことが出来る」

 

 その人生を達観したような円満な表情を、アリシアは悲しげに眉を下げて見つめた。

 

「アテナちゃん……」

 

 その名を呟いたアリシアは、目前にいる彼女の未来の悲痛な宿命を、改めて悟った。そして残された時間の少ないことを思い、ほとんど絶望に似た悲しみに襲われた。

 仲のすこぶるよい元同僚の二人がお茶を飲み交わす席の果てには、若々しい生命の色を帯びた森と山脈が、晴天より差す麗らかな陽光を浴び、みずみずしく輝いている。

 

 

 ◇

 

 

 季節が移ろった――青く生命の息吹を呼吸する森と山脈は、装いを一変させた。針葉樹は枯れて黄色くなり、山脈は、その頂きが冠雪して白くなった。初夏が過ぎ、冬が訪れたのだ。空はどんより曇っていた。

 山小屋のデッキの手すりのそばには、それぞれ水先案内人である、水無灯里と、アリス・キャロルが立って、寒々しく物悲しい果ての風景を一緒に眺めていた。灯里は、桃色の髪の内、耳の脇の長い部分が、アリスは、ライトグリーンの少しカールしている長髪が、特徴的だった。普段着姿の彼女等は、温かそうなマフラーに首を包んでいる。

 

「そろそろ大晦日だねぇ」、と灯里がしみじみとして言った。

 

「時間が過ぎるのって、でっかい早いです」、とアリスが、灯里とは反対に、淡泊に答えた。

 

 冷たい風が吹いて寒い外と違い、暖房で暖かい山小屋の室内では、アリシアが、前の時と同じように、テーブルにティーセットを並べている。

 しばらくし、三人分用意したカップを並べ終え、それに淹れたての紅茶をポットより注ぐと、彼女はテーブルの面に向かって前かがみ気味の上半身を立て、窓の外にいる後輩達の後ろ姿を見た。

 

 デッキの手すりのそばにいる灯里は、首を曲げてアリスを見つめた。アリスは、悲しそうに眉を下げて項垂れるような姿勢でいる。

 灯里はそんな彼女に微笑みかけると、正面に向き、独り言をするように尋ねた。

 

「新しい年には、一体何があるんだろうね?」

 

 そしてアリスの方を向き、続けた。

 

「もしかすると、アリスちゃんに後輩が出来るかも知れないよ?」

 

 期待を込めてそう言われた彼女は、同じ姿勢のまま、いくぶん嘲笑に近い苦笑をこぼした。

「わたしに後輩ですか」、とアリスは答えた。「それは、考えにくいですね。わたしはアテナさんみたいに優しくないですし、相変わらず愛想がありませんし」

 

「そんなことないよ」、と灯里が否定した。それは、優しさのある否定だった。アリスは沈黙した。

 

「だってアリスちゃん、頑張って腕を磨いて、プリマまで昇進したし、それに舟歌を歌ってる時は、アテナさんそっくりに見える気がするもん」 

 

 アリスはおもむろに顔を上げ、灯里を見た。

 

「アテナ先輩と、そっくりに?」

 

 その顔はぼうっとしていて、目は虚ろだった。灯里の言葉に、感慨を起こされたようだった。

 冷たい風が起こり、それはデッキを通ると同時に、そこにいる灯里とアリスの長い髪とマフラーをなびかせていった。

 

 温暖な室内の窓辺では、アリシアが、お盆をお腹に付けるように持ち、壁にぴったり背を張り付けていた。じっと息を殺し、外で交わされている二人の話に、耳を澄ませているようだった。アリスにかけられた、灯里の励ましに似た言葉を耳にし、彼女は、俯き気味に微笑むと、壁より背を離して窓を開け、顔を出し、元気そうな張りのある声で、彼女等に呼びかけた。

 

「二人とも、お茶の準備が出来たわよ」

 

 デッキの灯里とアリスは、呼び声を聞くと、部屋の窓を首だけで振り返った。

 

「わぁい、ありがとうございます」、と灯里は嬉しそうに答えた。

 

 そして隣で俯いて沈んでいる同僚の腕を、やんわり握り、「行こう、アリスちゃん」、と持ち前の陽気で誘いかけた。

 アリスは湿り気を帯びた目元を手で拭うと、「はい」、と答えた。その声は、若干震えているようだった。

 灯里がアリスの腕より手を離すと、二人は部屋の方へ向かった。

 

 間もなく窓辺のアリシアの近くまで、彼女等は近付いてきた。

 

「外の空気は冷たかったでしょう」と、アリシアは尋ねた。

 

 部屋に入った頬の赤い灯里は、彼女に向かって苦笑すると、「体の芯まで冷えちゃいました」と、自身を両手で抱き、大げさに寒がって見せて答えた。

 その愛郷のあるわざとらしさに、アリシアは思わず微笑した。

 

「あらあら、それじゃ冷めない内に、お茶を召し上がれ」

 

 彼女の誘いかけを受け、灯里は喜んで頷くと、アリスと共にテーブルの方に移動した。

 アリシアは、無人の寂しげなデッキと、その向こうの冬の景色を、無表情で少し眺め、漠然とした悲しみを覚えると、窓を閉めた。

 そのすぐ後、彼女は何かに気付いたようにはっとした。視覚が何ものかに反応した。

 窓ガラスに片手を置き、アリシアは外を眺めた。その目には、空中をしんしんと降りていく白い細かい粒が──今降り出した雪が、映っていた。

 

「まぁ」、とアリシアは呟くように言った。

 そして微笑し、顔を上げて無数の雪が舞う寒天を見上げると、元同僚に向かい、小声でそっと、後輩達に聞こえないよう、ささやきかけた。

 

 ──ねぇアテナちゃん。そっちの方でも、雪は降っているのかしら?──

 

 小さなカップを両手で包みこむように持ち、甘く温かい飲み物に冷えた体を癒している灯里とアリスより離れ、アリシアは目を瞑り、彼女の生前の姿を心に思い浮かべた。

 

 ──空は、青く晴れ渡っていた。

 初夏の麗しい風景がよく見えるデッキの上では、その端の手すりのそばで、車いすに乗ったアテナが一人でおり、よく眠っている時のように、快さそうに目を瞑っている。

 そよ風がふわりと吹き、近くの木々が揺れ、静かにさんざめいた。風は、俯き気味の姿勢でじっとしている彼女のそばに来ると、その永遠の安らぎを慈しみ、また守るように包み込み、そして、綺麗な薄紫色の彼女の短めの髪を、優しい手付きで撫でていった。



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Page.3 「山登り」

 そんなに楽な道のりではなかった。

 

 大きな石が、辺りに転がっていた。幅広く浅い小川が、砂利道の間に、涼しげなせせらぎを奏でつつ流れている。砂利道の脇には薄緑の、ところどころ緩やかに隆起している草地が広がっており、そこには細く鋭い葉を付けた針葉樹が点々と屹立し、小規模な木立を成している。小川が流れてくる源の方角には、高い岩の山々が重なるようにして並んでいる。

 

 川辺にある、花軸と花柄より拡散するように枝分かれして咲く、白く小さなキクの花は、ぎらぎら照り付ける夏の日射を浴び、温かい風に可憐に揺れていた。

 

 円盤型の帽子を被った晃と藍華が、リュックを背負い、前後に並んで歩いている。彼女等は半袖のシャツを着ており、その袖からは、体に密着するタイプの、防寒機能を備えた肌着が、シャツが覆い切れない腕の先まで覆っていた。

 

「一種の気晴らしだ」、と歩きながら、晃は言った。

 

「この山登りがですか」、といくぶんうんざりしたように、藍華は答えた。

 

 そして立ち止まると、深く項垂れて肩で息をした。彼女の額には汗の粒が浮かんでおり、また目を瞑っているその顔は、眉をひそめ、険しかった。

 晃も立ち止まり、余裕を思わせる涼しげな顔で、藍華を振り返った。

 

「水の上で舟を漕ぐのがわたし達の日課だが」、と晃は言った。「それが毎日繰り返されれば、いずれ嫌気が差してくるし、そうなると腕が鈍り、差し障りが生じる」

 

「人間って、単調さに耐えられない生き物ですもんね」、と藍華は答えた。

 

 彼女は目を開いて顔を上げ、「でも」、と続けた。「せっかくの休みに、こんな疲れること、わざわざしなくていいじゃないですか?」

 

 晃は、彼女を静かに見つめていた。その凛然とした佇まいは、彼女が決して藍華の言葉に然りと答えるつもりのないことを表していた。

 

 山登りという労苦を伴うイベントに対して懐疑的になっている彼女に、晃はにやりとすると、「藍華」と呼び掛けた。「お前は、山登りが疲れるだけで終わるものだと思ってるんだな」

 

「違うんですか」、と藍華は返した。

 

 彼女のその問いへの返答を怠った、いくぶんぶしつけで挑発的な返事は、晃の問いについて彼女がその通りだと確信していることを、はっきり示していた。

 

 晃は目を瞑り、不敵に微笑むと、「もし実際そうなら、山登りしになんて来るか」、とため息交じりに、俯き気味に答えた。そして顔を上げ、「疲れてまで行く値打ちがあるから、わざわざ来てるんじゃないか」、と続けた。

 

 藍華は「値打ちが」、と不信そうに呟くと、先輩の言葉の真偽を考えるように俯いた。

 

 そんな様子の彼女に、「本当のことだ」と、その値打ちを信じさせるように答え、前に向き直ると、晃は首だけで後ろを振り返った。「さ、行くぞ。もたもたしていたら日が暮れてしまう」

 

 促しを受けた後輩は、しかし依然俯いていた。足取りが重いのか、中々動こうとしない彼女は、すでに山登りへの関心が失せ、興醒めしているようだった。

 その様子を見ると、彼女を誘った晃は何だか罪悪感を覚え、顔を伏せた。藍華にとって山登りは、自分と違い、単調に感じるものだったのだろうかと、彼女は悲しく憶測し、自分の強引だったり高圧的だったりする性情による、きっと悪癖と呼ぶべきだろう押しつけがましさを、ぼんやり、自責の念と共に感じた。

 

「わたしの趣味に付き合って貰って、悪かったな」、と彼女は、小さめの声で呟いた。

 

 元来強気で剛直であり、反省や謝罪とは縁遠い性格だが、晃には、時にはこんな風に目下の者に気兼ねすることがあるようだ。実力とキャリアのある指導者として厳しさを重んじる彼女は今、後輩に対してしゅんとなり、負い目を感じていた。

 晃は、どうすれば彼女が元気を出して山登りに励んでくれるか案じた。まだ麓に近い道中にいて、先へ進まないといけないのに、こんなに疲労と気構えにおいて差があっては、二人の足並みは決して揃うことはないだろう。晃にとって今回の山登りは、自分が誘いかけることで主体的に計画した後輩とのイベントなので、ぜひ成功させたいし、楽しみたいと思っていた。

 だが、慣れないことをするため、ネオ・ヴェネツィアよりはるか遠方へと引っ張り出された後輩は、疲れのせいか、消極的な雰囲気を帯びていた。

 晃には、彼女が最早前に進んでくれる見込みがないと思われたが、それは杞憂のようだった。

 

「いいんです、別に」、と藍華は、嫌味のないさっぱりした調子で言った。

 

 晃ははっとし、顔を上げた。目の前の藍華は、ぴんと背筋を伸ばし、両手でリュックのストラップを握り、目を瞑って柔和な表情でいる。

 

「元々、わたしは好きで先輩に付いてきたんです。最後までお供しますよ」

 

「だが山頂までは、まだずいぶん距離があるぞ」

 

「大丈夫です」、と藍華はにっこりして答えると、目を開いた。「伊達に水先案内人をやってません。舟の上で姿勢を固定するため、毎日のように踏ん張ってるんです。それに」

 

 そう言い掛けて彼女は目を伏せたが、瞬時に戻して晃を直視した。

 

「先輩の言う山登りの値打ちっていうの、確かめてみたいです」

 

 憂わしそうだった後輩が翻然と溌剌とした様子に変わったのを見、晃は安堵を覚えると、半ば嬉しそうに、半ば呆れるように苦笑し、「せいぜい期待しておけ」、と答えた。

 そして先輩と後輩は、仲睦まじそうに微笑み交わし、山登りを再開したのだった。

 

 

 

 

 

 

 時間が流れた。

 日が、晃と藍華より先にてっぺんまで昇り詰めた。

 

 彼女等は、山道の途中にいた。とはいえ、ずいぶん高いところ――標高千メートルは下らないところまで来ていた。人跡の稀な山道は険難で、スムーズに進むことは叶わなかった。

 険難なため、近くに柵の立てられていない崖が、恐るべき景色を剥き出しに広げていることが珍しくなかった。

 

 藍華は、怖いもの見たさに促され、背筋が凍るような恐怖に口角を引きつらせつつ、崖の方へとそろそろ近付いていった。寄り道をするつもりのない晃は、きょとんとし、彼女が一体何に関心を持ったのか訝しむと、順路を逸れだした藍華の背中を目で追った。

 

 やがて崖の端のそばまで来た藍華は、ゆっくり慎重に首を伸ばし、恐る恐る下を覗いてみた。すると、それまで地面しか映っていなかった彼女の目に、はるか下を流れる、光があまり差さないせいか濁った緑色の、急な渓流が現れた。渓流は白く泡立ち、激しく逆巻き、轟々と響いていた。

 藍華はぎょっとし、片腕を孫の手のような恰好にして首元に上げると、微かに後ろに退き、「た、高ぁ」と叫んだ。

 

 晃は呆れたように眉を下げた。

 

「当たり前だろう。わたし達はどれだけ登ってきたんだ?」

 

「それは、そうですけど」

 

「あんまり端のほうに行くな。危ない」

 

 晃が警告したが、藍華はまだ下を見ていた。怖いのに、あるいは怖いのがぎりぎり快い程度に刺激的なのか、千メートルの高さをじっくり味わっていた。

 

 ふと、藍華は肩を手で触れられた。彼女は肝を潰し、「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。首をねじって振り返ると、藍華の目先すぐに、不機嫌そうに眉をひそめた晃の、迫力に満ちた顔があった。

 

「高いところが怖いんだったら、下を見るなよ」、と彼女は言った。「大体、下を見て山登りするやつがどこにいるんだ?」

 

 そして片手の人差し指を顔のすぐそばに、空に向けて立てて見せ、「上を見ろ、上を」と続けた。

 

「そ、そうですよね」と言って、藍華は首元の腕を下ろした。「でも、すごい高さですよ。先輩も、ちょっと見てみてください」

 

 勧められた晃は、人差し指を下ろし、首を藍華の肩の先へと伸ばすと、崖の下を窺った。渓流に、足元の小石がいくつか転がり落ち、それは宙を急降下すると、多量の水流に呑み込まれて消えた。

 石が着水するまでの長い時間は、晃に自分のいる地点の高さを直感的に計測させた。

 彼女は「ウッ」と、男のように低い、短い呻き声を上げると、すぐさま伸ばした首をすくめ、両手で後輩の肩をしっかり、すがるように握った。その顔は普段のいかめしい威光が消えており、今は怖気付いたようにすっかりあおざめていた。

 

「せ、先輩、痛いです」、と、かなり力強く肩を握られているのか、藍華がいくぶん辛そうに言った。

 

 晃ははっとし、手を藍華の肩より外すと、後退した。その一連の動作は驚くほど素早かった。

 藍華は全身で振り返り、晃の顔を窺った。彼女はそっぽを向き、指で頬をぽりぽり掻いている。

 

「すまなかった」、と、晃は呟くように言った。

 

 すると藍華は、晃にゆっくり歩み寄っていき、上目遣いで、彼女の、いくぶん臆病になっているが、あくまで自分の沽券を守るべく、強がり通そうとしている、複雑な様相の瞳を覗き込んだ。

 

 じっと観察され、晃は間が悪くなったのか、頬を掻いている指を止めると、「ど、どうした」、と、動揺したように尋ねた。

 

 藍華は満足げににんまり顔を緩めた。普段強気な先輩の弱みを知れたことに、喜んでいるようだった。

 

 晃は、「先輩の威厳を損ねやがって」と、不機嫌そうに言うと、俯き気味になってため息を吐いた。

 

「お前はまったく、素敵な後輩だよ」、と彼女は続けた。

 

「ありがとうございます」、と後輩は率直に礼を述べた。

 

 皮肉を込めた言葉を額面通りに受け取ったとんちんかんに、先輩は、愛着を含んだむかつきを覚え、据わった目付きの顔を上げた。

 

「褒めてないっつーの」

 

 そして片手で、後輩の頬をつねった。

 程々に痛い仕打ちに音を上げている藍華は、晃に順路に連れ戻され、それで二人はようやく、半端なところで中断している山登りを再開したのだった。

 

 

 

 

 

 

 その後二人は順調に山路を進んでいき、途中足場が不安定だったりする難関があったが、経験値の高い先輩の磨かれたセンスと、ガッツのある後輩の頑張りのお陰で、やがて山頂まで上り詰めた。

 

 おおむね草地に覆われている山頂は狭く、ところどころでゴツゴツし、線状の傷がいくつも付いた大小の石が、その灰色の表面を露わにしている。

 

 晃と藍華は、開けた眺望を、穏やかな笑みをたたえ、並んで眺めていた。先輩は腕組みし、利き足を足元の大きめの石に載せているが、その隣の後輩は、両手を腰の後ろで組んでいた。それぞれ大体強情っぱりなところが共通しているが、個々の眺望の見方を比べると、彼女等の性格のくっきり異なっていることがよく分かった。

 

 二人の目には、連綿と続く山脈と、その表面の針葉樹の並び、剥き出しの灰色の地面、切り立った崖、そして草地が映っていた。山脈の上の青空では、巨大な綿雲が、うねるような動きをしてその形を徐々に変えつつ、悠然と風に流れていた。

 

「これだな」、と晃が言った。「わたしがちょくちょく山登りしにくるわけというのは」

 

 その声はしんみりとした調子で、彼女はとうとう山頂に達したことに感じ入っているようだった。

 

 藍華は、まだ眺望にじっくり見入っているようで、返事はしなかった。

 

 その様子に目を向け、晃は、「来た値打ちはあったろう」、と、いくぶん誇らしげな表情で尋ねた。

 

 藍華は彼女を見ると、柔らかな笑みを浮かべ、その高慢な態度には反感を抱かず、「はい」と、素直に肯定した。

 

 山頂まで上っている間にかいた二人の汗は、今は高所を渡る新鮮な空気に乾いており、露出している首や、顔や、リュックと密接して蒸れがちだった背中の肌は、今は汗のベタつく感じと無縁になり、風の清爽な感触とその涼しさを、快く感じていた。

 

「水というのは」、と晃は、はるかな連峰に目を向け、説明的な口調で言った。「下へ下へと流れていくもので、つまり水先案内人は、いつも低いところにばかりいることになる」

 

 風が、帽子よりはみ出ている彼女の長い濃褐色の髪をなびかせた。

 

「そのせいか知らんが」、と晃は、風のそばで続けた。「時たまこうして高いところまで登ってくると、妙に開放的な気持ちになってしまうんだ……」

 

 眼福を味わってしみじみ感慨に浸っている晃の視界では、葉の細く鋭い木々や、カエルの肌のように鮮やかな薄緑の草地が配置された不動の山脈と、常に流動し、現れたり消えたりする綿雲の群れが、著しい対照を成していた。

 

 ふと、晃は違和感にはっとし、左右をきょろきょろ見回しだした。というのは、それまで眺望に集中していたその視界は、藍華の不在に気付き、彼女の姿を探しだしたのだ。また崖の近くにいた時のように、何かに関心を奪われ、勝手にその方へ離れていったのだろうと彼女は推断した。

 

 藍華はしかし、晃のそばにちゃんといた。単に足元の草地に低くしゃがみ、休んでいるだけだった。両手で頬を持っている彼女は、まだ山頂の眺望を眺めていた。

 

 晃は、不機嫌そうに眉をひそめ、彼女を見下ろすと、「お前、先輩より先に座りやがって」、と、少しばかり嫌味を含めて言った。

 

「毎日のように舟の上で踏ん張ってるんじゃないのか?」

 

「今日は休みですよ」、と、藍華は苦笑して答えた。正当過ぎる返事に、晃は呆然とした。

 

「歩き通しで、どっと疲れちゃいました」

 

「それはわたしだって同じだ」

 

 へたっている後輩を見、その直接の指導を担当している先輩がため息を吐くのは、仕方ないことだった。

 

「けど、先輩の言ってた、山登りが疲れるだけじゃないっていうのは、本当でしたね」

 

 藍華はそう言うと、晃に目を向けた。

 

「こんな絶景を見れて、先輩に付いてきた甲斐がありましたよ」

 

 後輩の目線は先輩を貫いて奈辺まで続いており、その表情は、やはり疲れているせいか、ぼんやりしていた。が、彼女の笑みは、その言葉が真実のものであり、また彼女が今満ち足りた気分でいることを明示していた。

 晃はその様子に、片目をウインクするように閉じると、小首を傾げて微笑し、「だろう」と、その気分を確認するように言った。

 

 その後、先輩と後輩は再び遠くの眺望に見入った。豁然としたその眺望は、観賞し尽くすためには、どれだけ時間があっても足りないように思えた。

 そして彼女等は、一緒に目を瞑り、静謐な環境に鳴る風の音を聞いた。その音に集中していると、不思議と現実感覚が薄まり、地に足を付けた体が忘れられ、自分が風に翼を広げて飛んでいる鳥になった空想が、おのずと暗い視界に、豊かな彩りと共に、愉快に満ち渡っていくのだった。



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Page.4「So, you're in love, aren't you. ~あぁ、麗しき人よ~」

文字数:約9000


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 あるマンションの小奇麗な一室。そこに絶えず漂っているのは、部屋の、また建物の外に満ち、街と都市を覆うばかりでなく、更に世の中に、またその時代の全体にまであまねく充満し、特徴付けている、一つの大いなる影響力を持つ、物悲しい香りのする気体であった。景気の衰微により段々お金の流通が滞っていくという漠然とした不安、節約と貯金に対して急速に高まった意識、お祭りのように陽気だった時代が過去となってしまったという失望的な気分、等々、そんなのが、その気体を成り立たせている要素だった。

 

 部屋の隅に置かれたセミダブルのベッド、その小高いヘッドボードには、小さく質素な置時計と、まだ花の咲いていない、とげとげしいサボテンと共に、何体かの人形が置かれている。ウサギやクマやネコなどの大きめのそれは、一人きりで夜寝ている寂しい独り身の、恋愛よりは仕事の方に対して情熱的な、二八歳の女の、半ば愛しく、半ばこっけいな連れ合いだ。

 

 部屋の別の部分には、アウトドア用の椅子くらいのサイズのミニテーブルがあり、高級な生地のハンカチが敷かれたその上には、恐らくこの部屋に客として訪れた人の大半が関心を惹かれ、目を留めるだろう──まぁ、あまり客は訪れないのだが──小品が、整然と展示されている。

 

 ベネチアン・ガラス。密集した花が咲き乱れたようなデザインのそのゴブレットを、かつて──しかしそれは、一体どれくらい前のことだろう──イタリアのベネチアで、船員関係の仕事をしていたわたしは、ここに帰ってくる時お土産として、当地で買ったのだ。

 

 テレビが明々と付いていた。画面では賑やかなバラエティー番組がやっており、たけしが饒舌な口調で漫談を打っていた。テレビの観客席に、どっと笑いが沸き起こった。馬鹿馬鹿しい話だったが、どうしてだかわたしまで笑ってしまう。たぶん、一人きりでいる上沈黙しているというのが、本能的に嫌なんだと思う。

 

 部屋の長い姿見には、肩まである青いロングヘアの、ラフな部屋着に身を包んだわたしが映っている。ロングヘアは、サイドにボリュームがあるが、前にはほとんどない。が、決して変な髪型などではないと注意して置く。これが最新の流行りなのだ!(と、駅の売店にある女性雑誌で読んだり、一緒に仕事する同僚より聞いたりした。)

 

 夜の七時だった。

 仕事より帰宅したわたしは今、ささやかな家事にいそしんでいて、洗い立ての洗濯物を、四角いテーブルのそばに座って折り畳んでいる。ハンガーに下がっていた服の何着かは、すでにわたしのそばに重なって小山を成している。テレビはなお付きっ放しであったが、そんなにしっかりとは目を向けなかった。わたしはぼんやりして、ただ目の前に溜まっている洗濯物の処理に没頭していた。

 

 ふと、あることが閃いた。

 

 ──そういえば、留守電

 

 わたしは、たいがい軽視しているその存在を思い出すと、毎日のようにあるわけではないその有無を確かめるべく、今畳んでいる洗濯物を片付け、立ち上がった。

 

 据え置きの固定電話は近くにあったが、痺れかけの足を動かすのは、狭い部屋を移動するだけでも苦痛なことだった。

 

 出来るだけ足を刺激しないよう慎重に運び、電話の手前まで歩み寄ったわたしは、隣にあるカセットテープレコーダーの再生ボタンを押した後、洗濯物の処理を再開するため、元の位置に戻った。

 

 受信音か発信音か知らないが、プルルルという電話をかける時のあの音がしばらく鳴り続けると、留守電用に吹き込まれた声が再生され始めた。

 

『はい、アイカです』

 

 ──わたしの声

 

 思わず微苦笑が漏れた。それはしかし、いつものことだった。わたしは、録音された本来とは違う調子の自分がおかしいのだ。くだけたカジュアルな感じを好む彼女は、留守電においては、その好みとは裏腹に、形式張った話し方をする。

 

『ごめんなさい。ただ今わたしは仕事で外出しております』

 

 が、声に張りがあって溌剌としているため、一種の不調和が堅苦しい話し方との間に出来ており、聞いていると、やはり笑いが込み上げてくるように感じた。

 

 テレビでは女優のM・Nが口紅のコマーシャルに出演し、やたらと微笑んでいる。恐らく幸せな雰囲気を醸し出すよう意図して制作されたのだろう。成るほど美人だと思うが、何だか気に食わなかった。留守録に集中しようとするわたしの意識を、そのコマーシャルはいくぶん奪い、そして微かに、ほんのさざなみ程度であるが、苛立たせた。

 

 ──だけど、口紅か

 

「そういえば」

 

 わたしは部屋の隅の化粧台に目を向けた。その上には、蓋をされた口紅が置かれている。

 

 ──だいぶん擦り減ってきてたなぁ。新しく買って置かないと

 

 留守録の再生は続いていた。

 

『御用のある方は、お名前とお電話番号を残して下されば、帰宅後ただちにこちらより掛け直させて頂きます』

 

 吹き込みが終わると、レコーダーはプーと鳴り、今度は発信人の声を再生し始めた。

 

 その声を聞いてすぐ、わたしは近所にまばゆい稲妻が閃いたかのように、はっとした。

 

「この声」

 

 知っている人だった。

 

「懐かしいなぁ。何年ぶりに聞いただろう」

 

 わたしは、首を捻って壁に掛けてあるカレンダーを見た。一九九〇年のそのカレンダーは、九月のページが表面だった。

 世紀末のすでに近いその年、わたしは経済大国Nの大都市Tの高層マンションで、生活を送っていた。

 

 ──留守電にメッセージを入れていたのは、一人の女性だった。

 

 彼女のメッセージとその声にしみじみした心境で聞き入った後、わたしは家事を中断し、ベランダに出た。

 

 外履き用のスリッパを履いたわたしは、柵の上に腕を組み、ぼんやりした気分で、また若干前屈みの姿勢で夜空を見上げた。空は円満な明月が浮かんでいて、明るかった。

 

 ──彼女は、ずっと昔、友達だった子だ

 

 その声を聞くことで生じた郷愁と懐旧の情に切なくなり、わたしは眉を下げて俯いた。長い髪が手すりのところで折れ、余った部分がその下にさらりと垂れ下がった。

 

「今は……」

 

 ボリュームのあるサイドの髪の微かにある隙間より、一筋の極めて細い光が流れ落ちるのが見えた気がした。それは流れ星だったのだろうと、わたしは直感的に推断した。しかし、そんな神秘的な現象を目の当たりにすることは、ビルの森であり空の濁りがちなこの都会では、滅多にない。実際わたしは、一度として見たことがないし、見たという話を聞いたこともない。だが、その時のわたしは、かつて友達だった子より留守番メッセージの便りを不意に受け取った、その嬉しい衝撃に打ちのめされ、すっかり熱に浮かされていた。

 

 

 

 

 

 

 空は青く晴れていた。快晴だった。

 

 前夜折り畳んでいた洗濯物は、全て箪笥の引き出しの中に仕舞われてあった。部屋はすっきり整っていた。

 

 わたしは手持ちの中で特にお気に入りの、すなわち一張羅──とはいえそれは、そんなに高値でもなければ、おしゃれでもないのだが──を着、四角いテーブルのそばに正座していた。両手は腿の上に置き、まるで禅寺で修行している小僧のような、微笑ましい威厳のある恰好だった。

 

 わたしは、首をゆっくり捻って例の長い姿見を見た。そこには、やはり色を正し、ぴしっと背筋を伸ばした、所定の威儀に適った姿勢の女が映っている。

 

 思わずプッと吹き出してしまった。わたしは目を瞑って苦笑し、緩い拳を口元に持っていくと、「馬っ鹿みたい」、と、自嘲的に呟いた。

 

「あんなに緊張しちゃって」

 

 だが、そんな精神状態は、当然と言えば当然だった。

 

 ──まぁ、そうよね

 

 わたしはしみじみ目を半分閉じ、伏せた。

 

 ──緊張、するわよね

 

 腿の上にきちんと置いている手を持ち上げ、開いてみた。手は、べたべたした汗で光っていた。

 

「手汗まで」

 

 自分は、本当に動揺しているのだと知って呆れた。別に、今待っているのは、わたしをおびやかすような存在ではなく、むしろわたしに対して好意を持ち、かつて親しく接してくれていた仲間なのに。

 

 ──なんで、こんなにも落ち着かないのだろう

 

 理由をぼんやり考えていると、ピンポンとインターホンの音が鳴った。わたしは不毛な考えより我に返り、ほとんどびっくりして、縮んだばねが急激に弾けるように立ち上がると、インターホンまで行ってその受話器を取り、耳にあてがった。

 

「はい、アイカです」

 

 わたしの呼びかけに即座に答えたその人は、果たして、わたしが緊張感と共に待ち構えていた彼女だった。

 

「あぁ、久しぶり……

 

 ずいぶん長い空白の後に彼女を身近に感じると、感激が鋭く胸に突き刺さり、わたしの感覚はほとんど乱されてしまった。

 

 わたしは、うまく話せなくなった。頭の中にある、話そうとしている言葉は、頭の中にある時はまだ、その意味と共に、有意義な、心を交換する道具として確かにあるのだが、いざ口より声にして出してしまうと、なぜだか呼気のように無意味な何かに変質してしまい、すでに動揺しているわたしを、更に揺さぶって不安定にしてしまうのだった。発する全ての語が、半狂乱の人間のうわ言になった。言葉はなぜか焦ったように先走り、意識に統括された領域より暴発的に飛び出していき、わたしの動かしている口は、ほとんど無声の口パク同然だった。

 

 ──今、扉を開けに行くね

 

 わたしは、軽い、だけれどたぎるような興奮と感激の内に激流的に流れる、受話器越しの挨拶の会話を、苦労して交わし終えると、受話器を元に戻し、部屋を小走りで出ていった。

 

 廊下を玄関まで急いだわたしは、綺麗なお気に入りの靴だけ置いておいた土間の手前で停止しようとしたが、成功せず、勢い余って、ほとんど踏鞴(たたら)を踏む恰好でノブに手を伸ばし、扉を開けた。

 

 光が暗い玄関に差し込んでくる。外には、その姿が……

 

 最初の一瞬は、驚くほど緩やかに流れた。再会の感激が、鮮烈な印象が、時間の流れをせき止め、わたしの意識をその一瞬の間に、束の間釘付けにしてしまったのだ。

 

 彼女はそこに、あの懐かしい、かつてわたしがよく見ていて好きだった、優しさに溢れた微笑みの顔で、慎ましく立っていた。

 

 ──いらっしゃい

 

 長い不通の期間に、彼女はすっかり変貌していた。金色のリングにまとまった、耳の側部が特段長かった桃色の髪は、今は全体的に、ボーイッシュと言えるほど短くなっていた。いやむしろ、その中性的な雰囲気とあいまって、彼女はほとんど少年に見える。その印象は、すでに疎遠になっているわたしと彼女の関係を、更に開けてしまった気がした。

 

 わたしは目を瞑って微笑みかけた。

 

 ──ずいぶん、変わったのね

 

 だが、わたし達は、そんな隔たりを間に挟んでいてなお、互いに好意をまじえる友情を失ってはいなかった──とはいえそれは最早、往時の単なる残余に過ぎず、失われた大部分は、そこはかとない哀愁に変わってしまっていた。

 

 ──また会えて、嬉しい

 

 わたしは目を開けた。

 

 ──わたし達、会うのはどれくらいぶりになるんだろう

 

 尋ねると、彼女は可憐な仕方で小首を傾げ、考えこむように目を上に向けた。わたしはじっとその様子を見つめていた。その様子にかつての面影を探し、記憶にくっきり刻まれている、よく見知った彼女の姿を、今目の前にいる、成熟し、いくぶん老けてしまった彼女に重ねようとした。

 

 しばらくして彼女は、首を元に戻し、困惑するように苦笑した。

 

 ──そうね

 

 おんなじだ。わたしにだって分からない。わたし達は本当に長い間、それぞれ違う、自分ではどうしようもない事情により、引き裂かれていた。

 

 ──数え切れないくらい、会っていなかったわ

 

 結び付きは、緩くなっていた。わたし達の関係は、短くない期間放置され、閑却され、そのため今ではいくらか冷え、わたし達それぞれに不自然さや間の悪さを感じさせる、鬱陶しいしこりが生じてしまっていた。

 

 そのことに物悲しい感じを覚えたわたしは、しゅんと俯いた。すると、微かにはっとした。目の前にある彼女のお腹が、立派に張っていたのだ。

 

 同性として、どういう成り行きを経て彼女のお腹がそうなったのかは、聞かなくたってすぐ分かる。彼女は、大きめのジャンパースカートを含むマタニティドレスを着ていた。

 

 わたしはしっとりした、慈しみに似た感情を覚え、目を半分閉じた。

 

 ──あなたは、いい人と出会って

 

 彼女は、わたしの目線とわたしの微小な羨望を感じ取ると、自分のお腹の上で手を何度か往復させた。

 

 ──恋をして、そして

 

 あぁ、彼女の旦那さんは、一体どんな人なのだろう。たくましいのか、ほっそりしているのか。陽気なのか、落ち着いているのか。その想像は無際限で、とめどがなかった。 

 

 ──赤ちゃんを、恵まれたのね

 

 わたしが目を上げると、彼女はこくりと頷いた。わたし達は互いに微笑み合い、それぞれの立場や環境が、今はすっかり劇変してしまったことを、無言の内に伝え合った。

 

 わたしは些少の劣等感と共に、悲しく自覚した。わたしがまだ自由の身であり、軽快に、気ままに動けるが、徐々に大きくなる焦りや葛藤、寂しさを抱えていること、

 

 わたしは半ば喜ばしく、半ば悔しく知った。彼女が、時には重苦しいくびきとなり得るが、おおむね幸福を約束してくれる温かな、次世代まで長持ちする新規の家庭の一本の柱となり、いずれ生誕する自分の生命の反映を期待して待っていること。

 

 彼女の吉事について悔しいと、わたしは確かに思った。だが、再会の嬉しさと懐かしさは、その卑しい感情を打ち消して浄化し、わたしに素直な気持ちで、一つの決定的な幸福に達した旧友を祝わせてくれた。

 

 ──さぁ、こんな狭苦しいところで話すのはなんだし

 

 わたしは背を壁に付け、彼女のためにスペースを開けた。

 

 ──どうぞ、中に上がって

 

 すると、彼女はお邪魔しますと述べ、玄関に入った。わたしは歓迎し、扉を閉じた。

 

 こうして、わたし達はくつろいだ環境で、ゆっくりと話に打ち込めるようになった。

 

 恐らくお世辞だろう、わたしの寝起きする窮屈な部屋を、彼女は素敵だと褒めてくれ、そしてやはりあの展示品に──ベネチアン・ガラスにすぐ目を留め、綺麗でまた懐かしいと述懐してくれた。

 

 わたしははにかんで礼を述べると、遠慮せずゆったりリラックスするよう勧めた。

 

 急な呼びかけを寄越して訪れてくれた、お腹の張った、命の萌芽をいだいて守ると同時に、素敵な誰かに大切に愛護されている彼女は、幸運な知らせと共に、何か贈り物を持ってきてくれたようで、その話を切り出されたわたしは、何だろうと訝しんできょとんとした。

 

 彼女は、大学ノートサイズの冊子を一冊見せ、わたしの目前に、いくぶんおごそかな振る舞いで差し出した。

 

 手に取って調べてみると、わたしはすぐにそれが何か合点が行った。アルバムだったのだ。そして開いて中身を見てすぐ、再び感激し、思わず嘆息を漏らしてしまった。

 

 アルバムのページには、それぞれ今と反対に、髪の短いわたしと長い彼女の映った写真が、ところせましと並んでいた。ベネチアにいた頃の写真だ。セピアがかったかつての、若々しいわたし達は、大体白いセーラー服を着、櫂を携えていたり、華美な造りの舟のある桟橋にいたりした。ライトグリーンのロングヘアの、確か後輩ちゃんというあだ名を付けていたはずの同僚が一緒に映っている写真も、何枚かあった。

 

 アルバムの中には色々なシーンが、豊かな情緒を帯びて収まっていた。わたしは、彼女は、後輩ちゃんは──一人は、二人は、三人は、カメラのレンズより遠かったり近かったり、目を瞑っていたり開いていたり、笑っていたり無表情だったりし、多様な映り方をしていた。

 

 写真の一枚一枚は、追憶の糸口となった。

 わたしは、興奮した子供のように目を輝かせ、保存された思い出が、次々と目の前で花火のように鮮やかに弾け、また儚く消えていく美しい刹那の光景の連続に、無我夢中で見入った。

 

 ──アルバムには、温かな光が溢れていた

 

 セピアカラーの記憶を見下ろしている目が、勝手にせわしなくしばたいたかと思うと、ぽたぽた涙がこぼれ始めた。

 

 ──それは、直視出来なくなるほど温かで

 

 わたしは、目を閉じざるを得なかった。いい年して人前で泣いている自分が恥ずかしいと思ったが、恥ずかしさよりは、悲しさと懐かしさの入り混じった複雑な感情の方が、ずっと強く、まさっていた。涙は出るに任せようと思った。彼女はあざ笑ったりせず、優しい顔でじっとわたしを見守ってくれていた。

 

 

 

 ……わたしは、過去のわたし自身の内にある声の響きを聞いた。写真に記録されたわたしは、「戻っておいでよ」と、アルバムを見下ろすわたしに対し、その時代の方へと勧めいざなった。あぁ、彼女と懇意にしているその時のわたしは、何と無邪気で楽天的なのだろう! その無邪気さは、悲しくなるほどの残酷さを含んでいた。過去の誘惑し差し招く手は、遠く、余りにも遠く、自分の手をどれだけ伸ばしたところで、決して届くことはないのだ。

 

 西暦は程なく千の位が更新する。新たな時代はすぐそこまで近付いていた。科学技術はずいぶん発達し、わたし達の生活は飛躍的に豊かになった。しかし、まだ実現されていない人間の望みは山と残っている。あぁ、じれったい。いつになれば、わたし達はタイム・トラベルが出来るようになるのか? いつになれば、わたしは失われた彼女の友情を全部取り戻せるのか?

 

 むなしい問いだった。

 

 決して越えることの出来ない壁に阻まれたわたしの懇願は、悲嘆に苛まれた意志は、くよくよ引き下がるよりほかなかった。

 

 

 

 

 

 

 ──まだ、信じることが出来ない

 

 彼女の去った部屋は真っ暗だった。わたしはベッドの上で壁に背を付け、いじけたように膝を抱いて座っていた。目を伏せ、目元は、泣いた後だったのでたぶん、赤くなっていると思う。

 

 ──わたし達が、お互いに友達だったかつてのようでは、すっかりなくなってしまったこと

 

 ゆっくり首を捻り、そばのラックの引き出しを開け、その中に手を突っ込んだ。そこには、昔の写真が詰まっている。今はどんな人だったか忘れてしまった、ほとんど他人に過ぎない恋人や同僚の写真である。だがそこには、彼女の写真が紛れ込んでいるはずだった。わたしは結構長い時間をかけて一枚一枚確かめていった後、ようやく発見して取り出し、よく見えるよう目の前に持ってきた。

 

 ──そして

 

 部屋に差し込む青白い月明りで、写真の表面を照らした。

 線状の傷だらけのそこには二人が、全く幸せそうな、まるで悩みなんて一切ないかのような円満な表情で、密着して映っている。

 

 淡い夜の微光の中に、あの頃の記憶が、忘失の陰影にその半分くらいを覆われて、ぼんやり流れた。

 

 ──わたし達が、もうあの頃には戻れないこと

 

 部屋中、ひっそりとしていた。

 

 ──そういえば、最近めっきり夜が涼しくなった

 

 部屋の壁にある一九九〇年のカレンダーは、一〇月のページが表になっていた。

 

 ──秋が、深まってきたんだと思う

 

 わたしは、真っ暗な部屋のベッド上でずっと、膝を抱いた三角座りの姿勢で、懐古的な感情と、今日改めて気付かされた、時は移ろうという酷薄としか思えない自明の理に、陰陰滅滅としていた。

 

 ──けど、あの子がいなくなった部屋には、温かな、陽だまりのような光が残っていた

 

 テーブルの上には、あの贈り物があった。

 

 ──その中ではかつての、少女だった頃のわたし達が、悠久の春と夏の間に、幸せに憩っているのだ

 

 高い闇には、無数の星とたった一つの満月が、煌びやかに輝いていた。

 

 ──ずっと

 

 やがてわたしは、とうとう気分を持ち直し、寝衣に着替えた後、ベッドに横たわり、掛け布団で体を覆った。

 深い眠りは、わたしの抱えている憂いと悲しみを、翌日わたしがそれに押し潰されないよう、いくらか和らげてくれたようだった。

 

 その途中、夢を見た気がする。

 

 深夜、無人のはずのベランダに、白いセーラー服を着た二人が、互いに寄り添い合い、柵に手を置き、夜空を眺めている。満月はなくなっていた。

 

 そんな光景が、窓の外の真っ暗闇に見えた。和やかに何かしゃべっているのだが、声が小さくて内容は聞き取れなかった。

 

 ──時は、過ぎ去っていく

 

 夢の中にあの二人の後ろ姿を見つめていたわたしの目は、目覚ましの音に開くと、部屋に差し込む明るい朝日に気が付いた。

 

 

 

 

 

 

 玄関の方角を向き、スカートを履き、シャツのボタンを閉じ終えたわたしは、出勤の支度を終えかけていた。足元にはビジネスバッグが、テーブルの上には、細かいパンくずの散らばった円い皿と、乾いたコーヒーが底に汚い模様を描いているカップがあった。

 

 ハンガーにかかっているジャケットを取って羽織ると、支度は終わりだった。

 

 背後に微かな気配があった。わたしは気になって振り返り、窓を見た。外は澄んだ秋晴れだった。奇異の念に打たれたわたしは、何となく目下を見、そして納得する気がした。

 

 テーブルには、皿とカップの他に、アルバムがあった。全てのページに懐かしい思い出の羅列があるその一冊は、温かな陽だまりの中に、ゆったり横たわっていた。

 昨日のことだ。それが身籠った体の不自由さを厭わず、わざわざ部屋を訪問してくれた彼女の手より渡されたのは。

 

 その時のことを思い返すと、嬉しさで自然と頬が緩んだ。さて、あの子は温かな家庭に昨夜帰り、今は、あの不自由な身だ、あるいはまだ、ベッドの中でお休み中だろうか?

 

 視界のぼんやりした部分に、化粧台があった。

 

 ──そうだ

 

 わたしははっとし、その上に焦点を定めた。ほとんど使い切りかけの小さな化粧道具が、転がっていた。

 

 ──帰りに口紅、買いに行かないと

 

 わたしは足元のバッグの持ち手を握り、軽々と宙に投げ上げると、キャッチするように携えた。ちょっとした、上機嫌の時特有の遊びだった。

 

 ──それじゃ、行ってきます

 

 その成功に更に機嫌をよくしたわたしは、軽快な足取りで部屋を出、新たな一日に会いに行くため、すでに過ぎ去った過去に、愛惜して別れを告げた。昨日、彼女に対してした時と同じように……

 

 

 

 ──元気な子を産むのよ、アカリ

 

 

 うん。ありがとう、アイカちゃん──

 

 

 

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Page.5 「New Stage」

文字数:約11000


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 水の都ネオ・ヴェネツィアの中央より外れた、潮風の入り口である海辺の静閑なエリアには、一軒のこぢんまりした酒場、いわゆるバーがあった。

 

 夜だった。薄明るいランプで闇の中にぼんやり浮かび上がる、そのいくぶん怪しげな店の入り口の上部の看板には、『SALTY BREEZES』という店名を示す横文字が照り、黙々と客寄せしていた。

 

 晴れた夜空に並ぶ星は、その店の看板よりずっと質素な仕方で照り、高い空気の海をゆっくり漂っていた。

 

 『SALTY BREEZES』の中は、シャンデリアの照明が控えめで、薄暗いくらいだった。円形のトレーを手のひらに載せた給仕が、料理やドリンクを運ぶため、鮮やかな花が花器に活けてある、四人ほどが付けるテーブルの並びの間をせかせか動き回っている。テーブルはほとんど満員だった。

 

 内装は、普通のバーと違うようだった。部屋の端にあるくぼみのような部分は、白っぽい石で出来、浅い洞穴のような見た目であり、そこにはステージの台が小高くせり上がっている。奥の壁には、歌っていたり金管楽器を吹いていたりする、偉人的な威光を放つスマートな黒人の大きな写真が貼ってあり、要するにここは、ジャズ・バーなのだ。

 

 ステージには巨大で黒光りする高価そうなグランドピアノ、メタリックな光を放つドラムセット、シックなイメージのするウッドベース、等々の楽器が豪華にセットされており、他にはまた、マイクスタンドがあった。それぞれの楽器にはちゃんと演奏者がいて、しっとり大人びて粋な、即興的な音楽を奏でていたが、マイクのところだけは、歌手の出番がまだなのか、無人だった。

 

 そういえば給仕の中に、本来は給仕でない水先案内人が一人違和感なく入り混じり、他と同様せわしなく働いていたことに言及せねばなるまい。姫屋の藍華だった。

 

 黒い半袖のワンピースを着、頭には白い三角巾を、腰には同じく白い腰巻を付けている彼女は、片手のトレーに料理を載せ、あるテーブルの方に、給仕としての優秀さを偲ばせる端正な足取りで向かっていた。彼女に対して初見の人は、ほとんど確実に、彼女が実は水先案内人であるとは思い及ばないだろう。

 

「お待たせしました」

 

 妻と思しき人とテーブルに付き、和やかに話している禿頭の老人は、その声にはっとすると話を中断し、そばを向いた。そこには藍華が立っていた。

 

 彼女の運んできてくれた料理が、丁寧な所作でトレーより卓上へと移される過程に、老人は、まるで腹を空かせた家猫のように集中した。

 

「おぉ、ありがとう」

 

 提供された料理は、フライドポテトを伴う、網目状の黒い焼き跡が付いた厚いステーキだった。甘酸っぱいようなソースの香ばしい香りは、老人の食欲を大いにそそった。

 時に、藍華はひっそり、老人の歯にこんな分厚い肉は噛み切れるのと訝ったが、結構かくしゃくとした様子なので、恐らく大丈夫なのだろうと推測した。

 

 湯気の立つ出来立てのその料理に感心すると、老人はその横にある空のワイングラスを指でとんとん小突いた。

 

「これ、上等なやつをお願いするよ」

 

 そして彼は、嫌に色っぽい、老人特有の人懐っこさのある秋波を、しわくちゃの顔より彼女に送った。藍華はその意思を明敏に汲み取るとにっこりし、「かしこまりました」と一礼と共に言い残し、テーブルを去った。

 

 トレーを小脇に挟んで藍華は、空席ばかりのカウンターまで戻った。カウンターには長袖のシャツの首元に蝶ネクタイを付けた、普段は水先案内人だが、今は一時的にウェイターになっている晃がおり、グラスを布巾で磨いていた。

 

 藍華はカウンターの空席の内の、まだ中身の残っているドリンクのある一つを見下ろし、きょとんとした。

 

「あれ、あの子は」

 

 彼女の様子は、そこにいるべき者がいないことを示していた。が、彼女はそのことに固執せず、淡泊に「まぁ、いっか」と呟くと、顔を上げた。

 

 藍華はカウンターの奥の人に目を向け、「晃さん」と呼びかけた。「ワイン通っぽいお客様が、上等な一本ご所望です」

 

 晃はグラス磨きの手を止め、「上等ね」、と独り言のように聞き返した。

 

 磨かれたグラスは、照明を反射し、宝石のような清純な輝きを帯びていた。彼女はそれを、高く重なったそばのグラスの小塔に重ねると、藍華が伝えた客の注文に応えるため、後ろを振り返った。

 カウンター裏にはワインがずらりと並んでおり、選択肢は数多あった。が、晃は眼識があるようで、片手で顎を持ってじっくり吟味した後、一本抜き出した。

 

「これだな」 その銘柄を確かめた晃は呟いた。

 

 すると彼女は、藍華の方に向き直り、カウンターの彼女の目前の部分にボトルを置いた。

 

 藍華は首を伸ばし、穴を覗き込む時のように目を凝らしてその表面を見、「何だか地味ですね」、と素人臭い口調で言った。実際、ボトルに貼付されているラベルは派手ではなかった。

 

「ホントに上等なんですか」 彼女は疑り深そうに尋ねた。

 

 が、晃は自分のチョイスが間違っていないと確信しているように、少しの惑いも見せなかった。

 

「中身で勝負してるんだろう」 彼女はさらりと答えた。

 

 その一言で藍華はすっと納得が行き、「成るほどね」、と呟いて頬を緩めた。

 

「トレー」 晃は片手を差し出し、淡々と要求した。

 

「はい」 小脇に挟んでいる一枚を、藍華はその片手にジャストフィットさせるように彼女に渡した。

 

 藍華は上等と知ったボトルを大事そうに両手で持ち、その表面を改めて丹念に見た後、晃に目を向けた。

 

「それじゃ、奉仕して参ります」

 

 トレーを布巾で拭いている晃は、「頼む」と答えた。

 

 その後藍華は、老人の要望に応えに行くため、カウンターを去った。

 

 晃は、トレーを綺麗にする一方で、彼女の背中を目で追っていた。薄明るい照明で少しぼんやりおぼろに見える藍華は、老人のテーブルで、彼のワイングラスに器用にワインを注いでいる。

 

「あいつ」 晃はしみじみした様子で目を細めると瞑り、微笑した。「水先案内人のくせに、中々どうして、ウェイトレスの作法が板に付いてるんだ?」

 

 しばらく経って、藍華はカウンターに戻って来ていた。晃は藍華の器用さに、些少の嘲りと共に感心したまま、放心状態だった。

 

「晃先輩」 

 

 その呼びかけで、晃ははっとしてトレー磨きをやめ、目を開いた。すぐ目の前では、藍華が晃を上目遣いで見つめていた。

 

 藍華は心配するように少し眉を下げ、内緒話するように片手を口の脇に添え、晃に耳打ちした。

 

「(歌手の登場は、まだなんですか?)」

 

「あぁ」

 

 黒いベストを着用している晃は、その下の白いシャツの長袖を少しまくると、手首の腕時計を露出させ、時間を確かめた。

 

「そろそろ……

 

「ゲッ」

 

 自分の言葉を遮ったその呻きに似た声に、晃はきょとんと顔を上げ、藍華の様子を確かめた。藍華は、晃の磨き終えたトレーをさっと奪い、誰か顔を合わせたくない知り合いを見つけたかのように、それで顔の下半分を覆い隠した。トレーのない片手でカウンターの出っ張りを握っている彼女は、少ししり込みするような姿勢である。

 

 藍華は知り合いを目撃したのだった。それは水先案内人として同業者である、ARIAカンパニーのアリシアと灯里だった。普段は白いセーラー服姿の彼女等は、今夜は晴れ着姿だった。

 

 藍華は、晃のいる方に目を流した。

 

「(アリシアさん、今回のディナーショーのこと知ってたんですか?)」

 

「でっかい当たり前です」 

 

 第三者の声だった。

 

 藍華ははっとし、斜め下を見下ろした。空席のはずのところに、黒いワンピースを着、その色のせいか、いくぶん小悪魔的な魅力のあるアリスが、藍華を見上げ、着席していた。

 

 アリスは目線を藍華より逸らすと、正面を向いた。

 

「二人は仲良しさんなんですから」 

 

 藍華は腑に落ちないという様子だった。

 

「後輩ちゃん、いつの間に」

 

「お手洗いと、あの人の調子を見に行ってました」

 

「あぁ、そうだったの」

 

 藍華は、もう隠す必要がなくなったのか、トレーを顔より下ろし、再び遠くを見た。遠くではアリシアと灯里がテーブルに付き、和やかな時間を過ごしている。

 

「調子はどうだった」、と藍華が尋ねた。

 

アリスは「緊張しちゃってますね」、と答え、目を憂わしげに伏せた。「まぁ先輩の性格上、仕方ないことなんでしょうけど」

 

 ──真相を明かすと、このバーで現下行われているディナーショーには、実はアリスと同じ水先案内人で、彼女の先輩のアテナが出演することになっている。

 

 バーの入り口のそばに立つ黒板の看板には、『あの舟歌(カンツォーネ)の名手が、ジャズシンガーデビュー!!』、と、溌剌とした筆致で書かれ、「!!」の部分には、今夜のディナーショーが素敵になるに違いないというほとんど確信的な推定が叫ばれていた。

 

 アリスは悄然と先輩の緊張を憂え、ぼうっとしていたが、中身の残っている目前のドリンクが誰かに取り上げられることで我に返り、「あっ」と発して顔を上げた。

 

 ドリンクは藍華が持っていた。横取りしたことに関し、恐らく良心の呵責があまりないのだろう、彼女はしれっとした表情でアリスを見下ろしている。

 

「これ、ちょっと貰うわよ。慣れない仕事して、喉渇いちゃった」

 

 が、アリスはすぐさま手を伸ばし、藍華の持つドリンクを、断固渡すまいとするように持ち、引き留めた。

 

 一つのドリンクを引っ張り合い、二人はそれぞれ険悪そうに目線で火花を散らした。

 

「何よ。ちょっとくらいいいじゃないの。ケチ臭いわね」

 

「そう言う先輩は、でっかいお行儀が悪いです」

 

 火花は治まる気配がなかったが、ドリンクを巡る争いの結着は、年長者の介入により瞬く間に付いた。

 不機嫌そうに目を瞑っている晃が、トレーで藍華の頭をゴンと打ったのである。

 

「イデッ」 

 

 呻いた藍華は、打たれたショックでドリンクを手離し、お陰でアリスは、幸いと言うべきか、ドリンクを無傷の状態で取り戻した。

 

 藍華は半べその顔で年長者を見、片手で頭をさすった。

 

「ひどいじゃないですかぁ、先輩」

 

 晃はトレーを小脇に挟んで腕組みすると、目を開いた。

 

「お前は勤務中のウェイトレスだろう」

 

「本来は違います。今日はアテナさんのサポートで、例外的に……

 

「くわっ」 晃は威喝して顔を歪めた。「御託を垂れるんじゃない!」

 

 指導を受けた藍華は、やれやれといった様子で頭の手を下ろし、観念すると、目を瞑ってハァ、とため息した。

 

「相変わらず横暴だなぁ」

 

「一応これも、水先案内業の一環だ」 

 

 はたで知らん顔でドリンクを飲んでいるアリスは、眉をひそめ、晃の発言に密かに疑念を抱いた。

 

(それは無理があるんじゃ……)

 

 トンと、カウンターにグラスの置かれる音がし、アリスは顔を上げた。彼女はすぐそばに、二人分のドリンクの載ったトレーを見た。

 

 一体誰の注文か分からない様子でいる藍華は、「これは」、と独り言のように呟いた。

 

 晃の脇にはトレーがなくなっていた。目を瞑って俯き気味の彼女は、何か言いたげである。

 

「アテナに、持っていってやれ」

 

「はい」 藍華は訝しい思いと共に、トレーを持ち上げた。「でも、一つ余分にありますよ」

 

「それは」

 

 晃は細目を開け、束の間考え込むと、再び目を瞑り、「わたしの手違いだ」、と素っ気ない調子で答えた。「が、用意してしまった以上、元に戻すわけには行くまい。お前の好きにしていい」

 

「ということは、わたしが……」

 

 訝しい思いは晴れた。藍華はその手違いが晃の自分への気遣いだと察し、嬉しさで目を輝かせた。

 

 その快い感情はだが、アリスが服をちょんちょん引っ張ることで覚めてしまった。

 藍華は、彼女に何か物申すことがあるのだろうと思い、その口元まで首を伸ばした。

 

 アリスは、藍華に耳打ちした。

 

「じゃあその余分なドリンク、わたしに下さい」

 

 その要望に、藍華は反射的に不機嫌そうに眉をひそめた。アリスのグラスは、さっき飲み切ったのだろう、空っぽになっていた。

 

 彼女はアリスの厚かましい目をまじまじ睨むと、「後輩ちゃん」、と不穏な雰囲気をまとってすごんだ。

 

 その雰囲気に気圧されたわけではないが、アリスは藍華よりプイと目を逸らすと、正面を向いた。

 

「でっかい冗談です」

 

 そして再び藍華を見上げた。

 

「アテナ先輩は、楽屋にいますので」

 

 藍華は伸ばしている首を元に戻すと、目を瞑って微笑し、「了解」と答えた。そして全身で振り返り、首をねじって後ろを見た。

 

「それじゃ、行ってきますね」

 

「頼む」

「行ってらっしゃい」

 

 晃とアリスは同時に答えた。

 

 藍華が去った後、遠くのテーブルにいたアリシアと灯里がカウンターにやって来た。

 

「お疲れ様、晃ちゃん」

 

「あぁ」

 

 目を瞑っている晃は開けた。目の前には盛装した、まさに美女と言うべき人の艶姿があった。

 眼鏡をかけているアリシアは、ワンピースの上にジャケットを羽織り、首周りは煌びやかなネックレスで飾っていた。また、香水のフローラルな香りが彼女の色香を補強し、アリシアは、咲き誇る花のような麗しい存在感を見る者に与えた。

 

「見事なものだな」 晃は褒めた。

 

 アリシアは目を瞑って微笑み、「ありがとう」と礼を述べた。そして目を開け、前屈みの姿勢になると、空席越しにカウンター上に両腕を組み、上目遣いでウェイターに臨んだ。

 

「ショーの進捗状況はどう?」

 

 ウェイターはカウンターの下方よりグラスを手に取ると、高く持ち上げ、室内灯に透かし、細目で見つめた。

 

「状況か」

 

 グラスの面には灯火を遮る濁りがあった。そのことに気付くと、晃は即座に布巾を用意してグラスを磨き出した。

 

「ぼちぼち、と言ったところだ」

 

 そして何か不都合なことを言う時のように、流し目でそっぽを向いた。

 

「主役の緊張を除けば」

 

 アリシアは若干呆れたように、小首を傾げた。

 

「あらあら、アテナちゃんったら、そうなのね」

 

「まぁ今回のことは」、と晃はため息まじりに答えた。「あいつ自らが望んだことだ。あいつなりに、うまくやるんだろう」

 

 

 

 ──二人のそばでは、灯里とアリスが和やかに目線を結んでいた。

 

 灯里の衣装について言うと、彼女はアリシアより華やかさに欠けていたが、ノースリーブのワンピースを可憐に着こなし、透き通るような清潔な肌の腕を剥き出しにしていた。

 

「こんばんは、アリスちゃん」

 

「こんばんは、灯里先輩」

 

 灯里は目を瞑って微笑んだ顔でアリスの方に少しかがむと、その隣の空席に手で触れた。

 

「隣、いいかな?」

 

「どうぞ」

 

 快諾され、灯里はアリスの隣に座った。灯里はアリスを見ているが、アリスは、晃にそっぽを向かせた要因を心配しているせいか、灯里の方ではなく正面を向き、俯き気味だった。

 

「藍華ちゃんは?」

 

「先輩を落ち着かせに行ってます」

 

 灯里は目を瞑って苦笑した。

 

「緊張してるんだよね」

 

「はい。ステージでばったり倒れたりしないか、でっかい心配です」

 

 そう危惧されたステージ上では、客をリラックスさせ、また酔い痴れさせるジャズの、甘美であると同時に粋な、ウイスキー的な味わいのある演奏が続いていた。その軽妙な音色を聞いているアリスは、アテナが舟上で伴奏なしで歌声を響かせる、慣れ親しんだその光景を思い浮かべた。アテナの天与の歌声は、それだけで聞きごたえがあり、楽器は不必要どころか、むしろ余計とさえ思われた。そのためアリスは、彼女が程なくジャズ・バーのステージに立って歌を歌うことに、違和感を拭えないのだった。

 

「舟歌とジャズは、全く別物なんですよね」 アリスは懸念した。

 

 灯里は眉を下げて目を開け、「大丈夫だよ」、と励ました。「だってアテナさんは、立派な歌い手さんだもん」

 

「そうですね」、とアリスは、依然懐疑的に答えた。「首尾よく、ことが運んでくれればいいんですが」

 

 

 

 

 

 

 ステージの近くに、ぽつんと佇むように扉が閉まっていた。その奥には、衣装や靴が豊富に集まっており、要するに楽屋の扉だった。

 

 楽屋の中の隅っこに、まるで追い詰められた逃亡者のような恰好で縮こまっている女性がいた。スカートの長いノースリーブのワンピースとシルバーの耳飾りで盛装しているが、そのゴージャスな趣きが三角座りという姿勢で台無しにされている彼女は、ディナーショーの真打である、アテナだった。

 

 ドリンクを両手で包むように持ち、雪山の遭難者のごとく青ざめた顔でぶるぶるしている彼女のそばには、困惑したような顔で藍華がかがんで、その背中を優しくさすっていた。

 

「しっかりしてください、アテナさん」

 

「あぁ……」 

 

 すっかり怯えているアテナは、嘆かわしそうに呻き声を上げた。

 

「ダメダメ……体が岩みたいにガッシリ重くて動かないの……お家に帰りたい……ねぇ藍華ちゃん……帰っていいかしら……」

 

「何を仰るんですか。無理ですよ。今夜の主役はアテナさんなんですから」

 

「わたしが主役だなんて……そんな……わたしみたいな小心者が……」

 

「緊張し過ぎです。アテナさんは舟歌の名手なんです。立派に最後まで務め切れますよ。自信、持ってください」

 

 藍華は、アテナのドリンクに手を添え、口元まで運ばせようとした。

 

「ほら、飲み物飲んで、落ち着いて……」

 

 緊張に痙攣する手のドリンクを口に持っていったアテナは、はっきりしない意識で中身に口を付け、ぐびっと勢いよく行った。が、急激に喉に流れ込んで来たドリンクは、意識に異物と認識されたため、アレルギー反応的な現象が生じ、彼女は首を突き出して豪勢に噴き出してしまった。

 

「あぁっ! 呷っちゃダメですよ」

 

 楽屋の一角は小規模な洪水に見舞われた。

 

 藍華はぎょっとして目を瞠り、ドリンクより咄嗟に手を離すと、「大丈夫ですか」、とアテナに尋ねた。ほとんどその反対の状態を確信しての問いだった。

 

 ところがアテナは、なぜか嫌に冷静になっていた。

 

 別人のように「うん」と明瞭に答えたアテナの様子に、藍華は間抜けな調子で「え」、と聞き返さざるを得なかった。

 

 俯き気味のアテナは、拳で口元を拭った。

 

「何だか、安心出来た気がする」

 

 そして唖然としている人に目を瞑って微笑みかけ、「ありがとう、藍華ちゃん」、と謝した。

 

 彼女は目を開いてドリンクを藍華に返し、すっくと立ち上がると、ぽかんとしているその目を見下ろした。

 

「主役が怯えて登場しないんじゃ、ショーが前に進まないわよね。うん。反省して、自分の果たすべき役目を務めに行ってくるわ」

 

 ぽかんとした目は、扉を開けて外に出ていく、ある意味むら気と言うべき奇人の姿を、奇異の念と共に追った。

 

 かがんだ姿勢で両手にドリンクを持っている藍華は、まさに茫然自失の状態だった。

 

「急に正気に戻って、よく分かんないわね」

 

 考えるように、彼女は目を上向きにした。

 

「あんな動揺してたのに、どうして……」

 

 そして目を元に戻し、今バタンと閉じた、奇人の雰囲気の残る扉を見つめ、鼻でフンとため息した。

 

「たぶん、アテナさんみたいな人を、天才って言うんでしょうねぇ」

 

 藍華はそのように結論付けることで、ほとんど無理矢理納得し、奇異の念と当惑を抑え、激しい事態の変化を受け入れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 客席の活況はまだ治まっていなかったが、そろそろ最盛の時は終わりかけていた。客の腹は満たされ、子供の喉は爽やかな果汁で、大人の喉はアルコールで、各自潤っていた。

 

 カウンターの状況は相変わらずだった。晃は内側に腕組みして立ち、アリシアは外側で、その上に腕を組んで前屈み気味の姿勢でおり、灯里とアリスは並んで席に付いていた。

 

 四人はステージの方を心配するように見ていた。ステージ上の演奏者達は演奏をやめていた。内一人は袖をまくり、待ち合わせに遅れる相手をじれったく待つ人そっくりの様子で、腕時計を確かめていた。

 

「アテナ先輩の出番なのに」

 

「全然出てこないね」

 

「やっぱり、緊張し過ぎて……」

 

 残念そうな余韻を残すアリシアの言葉の後、晃が何者かに気付き、はっとした。藍華が楽屋より戻って来たのだ。彼女はカウンターに向かって後ろ向きの恰好で、その上にくつろいだ感じで両肘を置いた。

 

「主役の不具合は解きほぐしてこれたか」

 

 藍華は目を瞑って俯き、「えぇ」と答えた。「じき、登場してくれると思いますよ」

 

 その報告を耳にし、四人の心配は解消され、灯里とアリスは共々にっこりし、アリシアは微笑んだ。

 

「アテナさんって」 藍華は目を開いて顔を上げた。「神秘的な人、なんですね」

 

 ステージ上の演奏者達が、そっぽを向いた。その方の物陰より、満を持してアテナが現れたのだ。彼女は、最初は微かだが、段々と盛大になっていく拍手の音に包まれてステージに上がり、マイクの前にスタンバイすると、演奏者達と目配せし合い、適当なタイミングを探った。

 

 そしてアテナ達は、たっぷり沈黙を置いてその歌を楽しみにする客を焦らした後、ささやき声のような極小のボリュームで、念入りに演奏を始めた。歌手は、それまで堅く閉じていた口を開け、絶佳の声を響かせ始めた。その清純であると同時に色っぽさのある声は、芳香のように屋内にあまねく、豊潤に満ち渡り、男には憧れを、女には羨ましさを誘起した。

 

 心に沁みるソウルフルな歌声に、客は魅了され、しみじみ目を瞑り、水先案内人を引退してなお健在である天使の歌声(エンジェル・ボイス)に、陶然と聞き入った。

 

 そして彼女のショーは、大勢の心をすっかり満足させた末、上首尾に終わった。主役の遅刻は意に介されず、幕引きは完璧だった。期待は応えられ、傷付いた心は慰められ、疲れは癒され、退屈は軽減された。

 

 明々と夜の海辺に照るジャズ・バーは、照明を消して閉店した。

 

 店内の客は、すでに引き払っていた。

 

 大きめのまるテーブルに、それぞれ手にドリンクを持った、晃、藍華、アリシア、灯里、アテナ、アリスの六人が、囲むように付いていた。全員集合だった。晃は首元の蝶ネクタイを外し、シャツの襟を少し開いており、藍華は頭の三角巾を外し、いくぶん癖の付いた青い髪が露わだった。

 

「それじゃ、ショーの成功を祝して」

 

 アリシアが音頭を取って言うと、全員はドリンクのグラスをカチンとかち合わせ、祝杯の声を合わせた。

 

 ──乾杯!

 

 卓上の中空に集合した六人のグラスは、互いに触れることで各々の喜びを分かち合い、その中身は、かち合った時の勢いで波打ち、少し飛び散った。

 

 陽気な歓楽の雰囲気の中で、しばらく時間が過ぎた。

 

 中身の減ったドリンクは、お菓子の用意された卓上に置かれていた。アリシアと灯里とアリスは、和やかに会話中で、アテナは、主役を精一杯務め切ったその疲れのせいか、ぼうっとしている。

 

 一人座席に深く座って黙々としている晃は、スラックスのポケットより小箱を取りだし、その内より長細い、片方が白で他方が薄褐色の一本を抜き出すと、薄褐色の方を口に咥えた。

 

 藍華ははっとして彼女のその所作に気付くと、呆れるように目を見開いた。

 

「晃先輩、また煙草ですか?」

 

 晃は藍華を静かな、だが物言う目で見据えた。

 

「務めは終わったんだ。わたしの自由だろう」

 

 一服しようとする晃にいち早く気付いていたアリシアは、苦笑いした。

 

「あらあら」

 

 晃は箱をポケットに仕舞うと、ライターで煙草に火を付け、しばらく煙を吸った後、吐き出した。

 

 藍華は嫌がるように左手で鼻をつまみ、右手を振って濛々と拡散する煙を払うと、「んーもう」、と忌々しそうに呟いた。

 

 藍華のそんな態度は、しかし晃にとってはどうだってよかった。彼女は疲れている人に目を向け、「おいアテナ」、と呼び掛けた。「支配人から、報酬はきちんと受け取ったか?」

 

 アテナは、上目遣いで晃を見返した後、自信なさそうに俯き気味になり、「うん」と小声で答えた。

 

 彼女の手には、金一封の入っているだろう封筒があった。晃はその薄いことを細目で見て取ると、煙を吹いて煙草を持ち、燃焼部の直前を、指でとんとん叩くようにして、灰を卓上の灰皿に落とした。その間彼女は、今夜バーに入店した客数を記憶の中に数えていた。

 

「あれだけの客を招いた割には、少ない」

 

 アテナは依然俯いていた。

 

 晃はムカッとし、「お前なぁ」、と呆れ返った調子で言った。「せっかく無二の歌声を披露したのに、それに正当な見返りを貰えないんじゃ、宝の持ち腐れだぞ」

 

「だって……」

 

 及び腰のアテナを責めようとする晃の態度を、アリスはいくぶん威圧的に感じ、そのため彼女に対して少し反抗的な目付きになった。

 

「あんまり言わないで上げてください。先輩は不器用なんです」

 

 晃は煙草を再び咥えた。

 

「何が不器用だ。アテナはわたし達の内で最年長だってのに」

 

 そして首をそらして天井を見上げ、フウと煙を、煙突のように真上に向けて排出した。

 彼女は、アテナを弁護しようとするアリスの気持ちに暗いわけでは決してなかった。忠実だと思ったし、健気だと感心しもした。

 

「まぁ、だが──

 

 晃は言いかけた。

 

 しかし彼女が最後まで言い切る前に、アリシアはその言葉を鋭敏に悟り、微笑みの顔で「うん、そうね」、と同意した。

 

 ──不器用でこそ、アテナ・グローリィなんだろうなぁ」

 

 本人はびくっとして「ウッ」と低く呻くと、手を胸に当てた。

 

「何かその言い方、心に突き刺さるような感じが……」

 

 晃はそらしている首を元に戻すと、目を瞑って微笑し、煙草を持って灰皿に灰を落とした。

 

「褒め言葉だぞ」

 

 そして目を開いて煙草をまた咥えると、「まぁ安心しろ」、と言った。「足りない分は、後でわたしが徴収しておく」

 

 両手で持ったドリンクに口を付けている藍華は、横目をじろりと晃の方に向け、「うわぁ、恐喝する気だ」、とこっそり呟き、グラスの内側を曇らせた。

 

 その途端、彼女は背中をしばかれた。当然晃の仕業だった。藍華は飲み込みかけたドリンクを吹き出し、灯里とアリスはびっくりして目を丸くし、テーブルと彼女の口元は汚れた。

 

 藍華は顔をしかめて激しく咳した後、拳で口元を拭い、責めるように晃を見た。

 

「ちょっと、先輩!」

 

「人聞きが悪い」 先輩はさらりと答えた。

 

 アリシアは、両腕で頬杖を突いて晃を見た。

 

「晃ちゃんは、平和的にことを成してくれるわよね」

 

 期待された彼女は、不敵ににやりと笑み、「無論」、と、なぜか尋ねる時のように語尾を上げて答えた。

 

 が、結局、ことは乱暴な技を必要とはせず、平和的に、円滑に済まされたのだった。

 

 

 

 

 

 

 夜が更けていて真っ暗なため、水路の辺りにひと気は絶えてなかった。

 

 そこを、一艘のゴンドラがゆっくり進んでいた。漕ぎ手は灯里で、乗客はその他の五人だった。帰る途中だった。

 二列向い合わせである客席の一方では、藍華とアリスが仲良さそうに寄り添い合って寝ており、晃とアリシアはその反対側に並んで座っていた。藍華と晃はラフな服装に変わっていた。

 アテナはと言うと、藍華達の隣で俯き気味に、藍華達が起きないよう注意して、窮屈そうに座っていた。そんな彼女とは対照的に、晃は、くつろいだ感じで脚を組み、片腕を席の上部に載せていた。隣のアリシアに対してその姿勢は、彼女の恋人であるかのように見えた。

 

 平和的に成されたことの結果として、厚い封筒が、アテナの手にあった。

 

「よかったわね、アテナちゃん」

 

「うん」、と彼女はしおらしく頷いた。「水先案内人を引退して、その後どうしようか迷ってたけど」

 

「歌手としてそれだけ定期的に確保出来れば、当面は安泰だろう」

 

 晃は真面目な無表情で言った。

 

「今日はありがとう。晃ちゃん」

 

 アテナは顔を上げて述べた。

 

「適切な報酬は、次は自分で交渉するんだぞ。わたしの手助けは今回限定だ」

 

 

 

 ──会話している三人を、ゴンドラの漕ぎ手は柔和に微笑んで、その打ち解けた仲間の感じを、傍観者的な眼差しで見守っていた。

 

「灯里」

 

 突然呼びかけられ、傍観者はほとんどびくっとした。

 

 晃は首を捻って振り返り、灯里を見上げた。灯里の目に、徴収をきっちり済ませたやり手の目付きは、鷹のように鋭く見えた。

 

「お前も、早い内に後のことは考えておけよ。水先案内人は、盛りの時が短い」

 

「は、はい。気を付けます」

 

 晃は正面に向き直り、お休み中の藍華とアリスをしんみり見つめた。

 

「まぁ、こいつ等の安心し切った顔を見てると、しばらくはアテナと同じで、安泰だと思うがな」

 

 そして再度灯里を振り返り、微笑んだ。

 

 灯里は晃に微笑み返した。アリシアとアテナも、同じ表情だった。

 

 緩やかに流れるゴンドラのはるか上方の夜空は、冴えて明るく、星々はまるで、新たなステージへ一歩踏み出すことに成功した歌い手を、褒称して慰労し、喜ばしい気持ちで祝福してくれているかのようだった。

 

 

 

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Page.6 「進路」

文字数:約12000


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 夕焼けになろうとする青空に、学校のチャイムが鳴り響く。その音色は、朝から長々と続いて来たおおむね退屈な授業の終わりを知らせる、劇的に響く解放の麗らかな音色であり、それゆえ真面目と集中と勉学とに飽き飽きした、活気に溢れた若い十代後半の生徒達が、心から待ち望んでいたものであった。チャイムが余韻を残して鳴り止むと、彼等は着せられていた生徒という殻を脱ぎ捨て、凝り固まった心身を柔軟にほぐし、自由を謳歌する特権と自分のほしいままに出来る時間とを、義務と時に高圧的になる学校の教師達より取り戻し、幼かったかつてとは違い落ち着いてはいるが、相変わらず素晴らしいままの子供に戻るのだった。

 

 広い学校の昇降口には、帰り支度を済ませて教室を後にして来た彼等の影がぞろぞろ入り乱れていた。ロッカー式の下駄箱が重畳としてあるそこで、ある者は黙々と下駄箱に上履きを脱いで入れるか下履きを出して履くかし、ある者は仲のいい友達と陽気にしゃべっていた。昇降口の明るい外側には、土汚れが付いていたり清潔だったりするユニフォームを着た運動部員のせかせかと小用で駆ける姿が見え、またその薄暗い内側の廊下には、ユニフォームがなく制服姿で活動する文化部員の落ち着いて歩く姿や、不愛想で冷血そうな教師が巨人のようにのっそりとどこかに向かういくぶん恐ろしげな姿が見えた。

 

 昇降口には、毛先が少しカールした黒い長髪が綺麗なアリス・キャロルがいた。彼女はもう学校に用がないので、昇降口の端、出入り口の手前に、手提げバッグを脇に置いてかがんで、下履きのローファーを指で調整しながら履いている途中だった。

 まるいローファーの口は、アリスのねじ込んだ足を頬張ったが、もごもごと悶絶し、すぐには奥まで飲み込むことが出来なかった。

 だが指でその口を引っ張って広げてやると、ローファーはどうにか持ち主の足を足首まで飲み込んだ。下履きはフィットした。

 

 その後、アリスが立ち上がろうとする時だった。

 

「アリスちゃん」

 

 ある女の子の呼び声が聞こえ、同時に、すぐ横に二足のローファーが置かれた。

 

 呼ばれた小柄な彼女は、はっとして後ろの方を振り返り、斜め前にあるソックスに包まれた足を見た。そして顔を上げ、バッグをお腹の辺りに両手で持って立ち、柔らかに微笑しているスリムな、アリスより少し背の高い、黒いおさげ髪の人影を見た。

 目の前にいるのは、上級生の灯里だった。灯里は高校二年生であり、アリスは一年生だった。二人は親しい間柄だった。

 

「灯里先輩」、とアリスは呼びかけた。

 

「今、帰り?」 

 

 灯里が首を下に伸ばして、彼女の顔を覗き込むようにして聞いた。

 

「えぇ」 アリスは頷いた。

 

「じゃあ、一緒に帰ろう」 灯里は、目を瞑って微笑んで誘いかけた。

 

 そして年が離れていて学級も年次も違うため、別々に帰ることがしばしばである二人の友達は、今日は運よく出会えたことで、一緒に帰ることを決めると共に、互いに今日の帰路が普段と違い、愉快なものになるだろうという期待を抱いたのだった。

 

 アリスは立ち上がり、脇のバッグを携えると、同じくローファーを履き終えた灯里と共に、昇降口を出た。

 

 

 

 

 

 

 涼しい空気が、流れていた。

 

 カンカンと鳴って、踏切の赤い信号が点滅し出す。その後程なくして、黄と黒のバーの下りた踏切の間の線路を、信号の矢印が示す方向に電車がガタンゴトンと轟音を立てて通って行く。

 

 踏切のバーが上がり、その前で待っていた自動車と、学校の生徒を含む人々が踏切を渡り出した。自動車は用心深く徐行して進んだ。

 信号の消えた踏切の向こう側には、踏切のところで途絶えていた道路がT字に伸びており、その内左右に伸びる一本は、人家の並びの正面を通っており、他方向こう側へと伸びる一本は、その中央に、貫くように深く突っ込んでいた。上には、夕方の寂しげな空の広がりがあった。

 

 アリスと灯里は、その踏切を渡らず、手前の線路に沿った、人家を含む色々な建物が面する細い、通学路のためか車の通りがそんなにない、電車が通過する時を除いて閑静な道路を歩いていた。道路は、線路との間の地面に枯れた雑草がはびこっていたり、白い標示が擦り減っていたり、軽いひび割れがあったりし、薄汚かった。だが、そんな道路にも、近隣の高級ではないだろう庶民の家にも、道路を通る平凡そうな人々にも、どこかひなびた、気分を落ち着かせる味わい深い趣があった。停滞していて変化に乏しいが安定して平穏に続いて行く日常の快さが、辺りにはうっすらと漂っていた。

 

 それぞれ歩いているアリスは無表情で俯き気味であり、灯里は先と同じような微笑をたたえて正面を向いている。

 辺りには、彼女等の他の学校の生徒や、大きかったり小さかったりする犬を散歩させている野球帽をかぶった老人や、サングラスをかけてランニングする汗ばんだ若者の姿が見える。様々な人達が、夕方手前の時間を思い思いに過ごしていた。

 

 首元にリボンを付けた二人が長袖のシャツを着ていること、ある人家の軒先の鉢に、濃いピンク色のコスモスが風に揺れていること、また空にいわし雲が群がっていることは、気温の高くないことと、現在が夏と冬の間の季節であることを如実に示していた。

 

 正面を向いている灯里が、アリスの方に顔を向けて話した。

 

「今日ね、進路相談があったの」

 

 アリスは「そうですか」、と淡泊に答えた。

 

 灯里は再び正面を向いた。

 

「将来何がしたいのかって、先生に聞かれたんだけどね──」

 

 そして目を瞑って苦笑いし、その後を続けた。

 

「──よく分かんなくて、答えらんなかったなぁ……」

 

 そう言った彼女は、将来の展望を明確に出来ない自分に失望しているようだった。

 

 そんな友達の様子を見、アリスはバッグを持っている両手の片方を離し、顔の脇に持ち上げて人差し指を立てると、つんとした感じで目を瞑り、「つまり」、と結論付けるように言った。

 

「灯里先輩は、でっかいお先真っ暗ってことですね」

 

 率直なその指摘は、進路に悩む少女の胸にぐさりと突き刺さって、ショックを与えた。灯里は大口を開け、呆然と「エ~」と嘆いた。自分への親しい誰かの率直な意見に彼女は、決まってそういういくぶん滑稽で可愛らしい反応をするのである。

 

 恒例の反応を見て彼女に異常のないことを知ると、アリスは立てている人差し指をバッグに下ろし、灯里に励ますように微笑みかけた。

 

「でも、大丈夫ですよ」

 

 灯里ははっとして嘆くのをやめ、アリスを見た。アリスは灯里に向けている目を正面に向けた。

 

「まだ考える時間は残ってるんですから」

 

「それは、そうだけど」

 

 そう答えると、灯里はまた苦笑いして俯いた。アリスほどには、残された猶予について楽観していないようだった。

 

 その後二人は陰気な雰囲気を帯び、しばらくのあいだ口を噤んで黙々と歩いた。アリスは励ましがうまく行かなかったことを内心で不服に感じており、灯里は自分の悩みについて楽観的な意見を述べた彼女を、いささか投げ槍と感じていた。

 

 だが、だからと言って、彼女等がこのままお互いに無言のまま別れて、今の短いやり取りがその後の関係に暗い影を落とすというようなことはなかった。

 

 その内歩いている灯里は、あるものを見つけて顔を上げ、斜め前を見、立ち止まった。灯里が隣にいなくなったことに間もなく気付いたアリスも、同じようにはっとすると、少し後ろにいる灯里を首だけで振り返り、やや怪訝そうに見た。

 

 灯里の目線の先には、大きく赤い、コーヒーミルのオブジェがそばに置かれた、入り口の脇に品物のサンプルが並ぶショーケースのある、こぢんまりとした喫茶店が佇んでいた。オブジェは大きいと言っても大体一メートルくらいのものであった。

 

「ねぇ、アリスちゃん」

 

 そう呼びかけて、灯里は店を指差すと同時に、彼女の方に顔を向けた。

 

「ちょっと喫茶店に寄っていかない?」

 

 誘われたアリスは、喫茶店に目を向け、その外観を見物してみた。その店は彼女が、灯里を含む親しい校内の生徒とたまに行くところであった。だがちょくちょくは行かず、財布の中身と時間に余裕があり、愉快な話の種がストックされている場合に一服しに行くのだった。

 

 格子扉のガラスには、入店しようと誘った者と誘われた者の二人の少女の姿が格子に遮られ、途切れ途切れに映っている。無表情のアリスは、ガラスの中の友達の微笑みを見て、何となく誘いを断れなかった。

 

「別に、いいですけど」、と彼女は答えた。

 

 だが、そのすぐ後彼女は、怖いのかおかしいのかよく分からない独特な感じの表情で灯里を見据え、口を三角形にし、注意した。

 

「お代は先輩が持ってくださいね」

 

 その厚かましくも図々しい言葉を受け、灯里は呆れたように目を瞑って苦笑いし、頬を人差し指でぽりぽり掻いた。

 

「アリスちゃんって、結構したたかなんだね……」

 

 彼女の最近の財布事情は、どうやら寒々しいようだった。

 

 

 

 

 

 

 レトロな雰囲気の店内に、客はそんなに多くなかった。

 

 開いた扉のベルがカランコロンと鳴り、外の雑音が、しっとりした落ち着ける音楽の流れる店内に流れて来る。「いらっしゃいませえ」という、鼻の下にひげを蓄えた初老の店主と、若々しいウェイターの声が、新しく来店した客に応じた。

 

 入店したその客、アリスと灯里は、入り口とは反対の奥のテーブルに付いていた。四人掛けのテーブルに彼女等は向い合わせで対面しており、隣の空席にバッグを置いていた。混んでいれば違うが、なにぶん今は客が疎らなので、空席を荷物で占領することは咎められなかった。

 

 二人はすでに注文を終えていた。テーブルの上のアリスの側にも灯里の側にも、それぞれ、スプーンの添えられたソーサーに載った、取っ手付きのコーヒーカップがあり、そのそばには、非常に小さなミルクピッチャーと、小さなスプーンの入ったシルバーの砂糖入れがあった。

 

 アリスは運ばれて来たばかりの熱いコーヒーを早速飲もうとしているが、灯里は両腕を卓上に組んで憂鬱そうに俯き気味であった。

 

 実を言うと、コーヒーを注文し運ばれて来るまでに、灯里はさっき話した進路について、どうすればいいのかという相談を打ち明けていたのだった。それは真剣な相談であり、アリスは、それに同じように色を正して、とはいえそんなに緊張せずに聞いた。

 その相談が終わって、コーヒーが運ばれて来、ウェイターに軽く礼を言った後、アリスはコーヒーを美味しく飲むための準備をしながら、彼女に返事していた。

 

 彼女は、砂糖入れの蓋をパカッと開けると、その中のスプーンを取り、砂糖をすくい上げ、黒々としていかにも苦そうなコーヒーの中にさらさらと入れた。

 

「──そりゃ、早く決めるに越したことはありませんけど」

 

 そして砂糖入れの蓋をスプーンを戻して閉じ、今度はミニチュアサイズのミルクピッチャーをつまむように取った。

 

「──焦って無理に決めちゃうよりは」

 

 そしてミルクを熱いコーヒーの中に注ぎ入れ、ピッチャーを卓上に戻した。

 

「──時間をかけて、自分の納得出来る進路が分かるまでじっくり考える方がいいと思います」

 

 そしてソーサーのスプーンを持って、コーヒーを掻き混ぜた。金属のスプーンが陶器のカップの内側を打つカツカツという音が鳴る。最初は黒だったその飲み物は、白いミルクが混ざることで薄褐色に変わって行った。

 

「うん」、と灯里が頷いた。それは彼女が友達のアドバイスを肯定したことのしるしだった。

 

 アリスはカップを持ち上げ、目を細めてカップより立ち上がる湯気を、ふうふうと何度か息を吹いて飛ばし、熱気を冷まそうとした。

 

「そうですよ」、と彼女はその肯定を強めるように言い添えた。

 

 その後、彼女ははっとして細い目をすっかり開け、向かいの灯里を見た。灯里はまだコーヒーに手を付けず、眉を下げた悩みを偲ばせる暗い表情で憂鬱に沈んでいるのだった。

 

 アリスは自分のコーヒーをソーサーに戻すと、忠言した。

 

「せっかくの出来立てが、冷めちゃいますよ」

 

 すると彼女は立ち上がって少し前かがみになり、自分が味を甘くしまた色を薄褐色にしたコーヒーをソーサーごと、灯里の目前へと滑らして寄越した。

 

 俯いていてほとんど放心状態である灯里は、目前に滑って来たそれを見ると、我に返った。

 

「わたしの好みでよければ」、とアリスは慎ましく勧めた。

 

 灯里は顔を上げると、眉を下げて微笑し、気を遣わせてしまったことについて「ごめんね」と詫びた。また、目を瞑って「ありがとう」と礼を述べもした。

 そういうわけで、二人のコーヒーは交換された。

 元は灯里のものだった分を、自分の前へこぼさないよう慎重に引き寄せると、アリスは、前かがみになっている体を元に戻して、一度だけ瞬きし、灯里をじいっと、その心情を推し測るように見つめた。微笑している灯里の表情は、いかにも間が悪そうな、何事に対しても億劫に消極的になっている自信に乏しい人のそれであった。

 アリスは、やれやれとでも言うように困った風に目と眉を下げ、フンと鼻でため息した。

 

 それからアリスが同じやり方でもう一度コーヒーの味と色とを整えると、二人はカップを持ち上げ、目を瞑って口を付けた。

 

 アリスの好みで変色され調味されたその飲み物は、別段灯里の好みと大きく異なることはなく、彼女の口によく合った。

 

 カップを傾けて、一定量中身を飲んでしまうと、灯里はカップを口より離し、薄目を開けフゥ、と暖かい湯気の混じった息を吐いた。

 

 その後、彼女の耳が、遠くで鳴っているピコピコという楽しげな電子音を捉えた。音は前からずっと鳴っていたが、そんなに騒々しくないため、彼女はぼんやりとしか聞いていず、今になって初めてはっきり聞いたのだった。

 

 ちょっと気になって、灯里はその電子音のする方に目を遣った。

 

 窓際に三人の、彼女と同じ学校の制服を着た男子生徒が座っていた。彼等は、アリスと同じ一年生だった。しかしアリスのクラスメイトではなく、彼等について彼女は全然知らなかった。

 食べ掛けの軽食が人数分ある四人掛けのテーブルに付いたその内一人は、窓際で荷物と向かい合って、決まって毎週月曜日に二二〇円で売られることになっている、週刊の漫画雑誌を読んでいた。その表紙には、その頃連載され始めた海賊漫画の、麦わら帽子を被った赤い袖無しの服を着た主人公が描かれている。

 一方他二人は、向かい合わせで座って、縦長で灰色の携帯ゲーム機で遊んでいる。ピコピコという電子音は、それが発しているのだった。

 

「あれですよ。ピッピカチュ~っていうあれで有名な」

 

 鳴き声めいた声を発すると共に、アリスが言った。

 

 灯里は彼女に目を向けた。アリスは、両手で頬杖を突いて気だるそうな様子で下級生達を見やっている。

 

「今、流行りだそうです」

 

 そう説くと、アリスは目を灯里に向けた。

 

「やったことありますか?」

 

 灯里は目を瞑って苦笑いし、「ない」と端的に答えた。そして薄目を開け、俯き気味になった。

 

「わたしはゲーム苦手だし、それに……」

 

 アリスは灯里の様子をじっと見つめている。彼女はまだ悩みの周りをぐるぐるさまよって、憂鬱そうにしているのだった。

 

「今のわたしには──」

 

 そう半端なところで言葉を切ると、灯里は顔を上げ、「ね」、と、あなたはもう知っているだろうと諭すように、達観した感じで言った。

 彼女は目を瞑ってまた苦笑いし、前の言葉の続きを言った。

 

「──他にやらなきゃいけないことがあるから」

 

 それは、彼女が自分の進むべき将来の道について思案して、適切な一つを選択することであった。

 

 灯里を見ているアリスは、目を彼女より逸らし、再び下級生達の方に向けた。そして灯里の陰気臭さに当てられたように、しゅんとして目を瞑り、慨然と「成るほど」、と言った。

 

「今は、でっかい難しい時期なんですね」

 

 灯里は薄目を開け、また俯き気味になると、「うん」と頷いて同意した。

 

「その難しい時期は、だけどひょっとすると、今だけじゃなくて、これからもしょっちゅうあるのかも──ううん、ずっと続くのかも知れない」

 

 そう灯里は悲観した。それは、いつまでも自分が進路について五里霧中で、途方に暮れ続ける可能性を案じてのことだった。

 

 アリスは、終業のチャイムで解放されなかった哀れな上級生を、『……せねばならない』の精神に捕われた従僕を、少し見下すように見つめている。

 

 アリスにとって、今の灯里の沈んだ様子は、内心で少し不快だった。彼女は、基本的に好感を惹きにくい仏頂面であり、不愛想という社交に関する欠点があるものの、立派な優等生であり、勉強の成績が優秀で、のみならず運動がまあまあ得意であり、そのため取りあえず将来何をするかという選択肢に迷うことは、少なくとも当面はなかった。

 

 だが、灯里は違った。柔らかな微笑みと、そのじょうずに結わえられたおさげやきめこまかな肌から分かる、自身の魅力を磨くささやかな努力を怠らない彼女は、底抜けの優しさと人懐っこさ、また健気さがあるものの、勉強の成績がそんなによくなく、平均か、それより少し下であり、また運動に関して言うと、生来のちょっとした不器用さのせいで、得意ではなかった。

 

 勉強にせよ運動にせよ、何かがよく出来るということは、個性が鍛錬され得る道場であり、自恃の助けであり、まだ見えない自身に固有の将来への展望に差す光となってくれるものである。しかし反対に何もよく出来ないということは、あるべき個性がありふれた凡庸さに埋没しているということであり、すなわちその不能は、固有の将来への展望に光となって差して、理想の自分像を照らすことが出来ないのである。

 

 成績が優秀でない灯里は、進学は積極的に考えなかった。就職は、目処が立たず、自信がなかった。かと言って、永久就職と言われる結婚について言えば、彼女は、乙女じみた淡い憧れはあるものの、実際に付き合っている異性がいないので、その就職は永久どころか、かりそめにすら出来ないむなしい夢に過ぎなかった。

 

 もっと詳しく話して灯里の狭く閉じた展望を開き、暗いそれに採光してやる手伝いをすることは出来たろうが、彼女の将来について、進路について、さっき述べた、進路を決定して自身の定めを確認しようとする時の基本的な姿勢以上のことを、結局他人に過ぎないアリスが言うわけには行かなかった。それは僭越なことであると思い、彼女は用心し控えていた。

 

 沈黙が重々しく二人の上に腰を下ろした。アリスにも灯里にも、だんだんと、空気の流れが滞るのが感じられ、店内の音楽が冗長に、退屈に聞こえて来た。間の悪さと失望と遠慮と沈鬱が、テーブルの周りを取り囲み、陰湿で不快な声で冷笑した。

 

 だが、突然ある電撃がアリスの背筋に走り、全身の神経が張り詰め、どよめいた。あるイメージが閃いたのだった。そのイメージは、彼女の瞳の前にあまねく広がって、それまであった現実を覆い隠した。彼女は薄目をすっかり開け、驚いたように大きく見開き、そのイメージを眺めた。

 

 彼女の目先に、彼女が見ていた下級生達の姿はもうなかった。また、彼女のいる場所は喫茶店ではなくなっていた。店主もウェイターも他の客もいなかった。しっとりした音楽の代わりに、穏やかに波立つ水の音が聞こえるようになった。

 

 アリスは、別のお店の、ビニールの屋根が上にある、舟の行き交いが盛んな川に面したテラス席に、相変わらず両手で頬杖を突いて座っていた。そこは、異国情緒の濃く漂う場所で、背後には、窓がアーチ型だったり縦に長い長方形だったりする建物の並びがあった。その建物は、造りが独特で、伝統的な趣を醸し出しており、また石で出来ているため堅固さと冷たさを感じさせ、彼女が現在住んでいる経済大国Nの建物とは似ても似つかない、まったく遠い異国のものだった。

 

 変わったのはいる場所だけでなく、衣服もだった。アリスはずっと、白いリボン付きの長袖のシャツを着、チェックのスカートを履いていたはずなのに、今は、肩掛け(ショール)と一体化した暖かいセーラー服を着て、ブーツを履いて、頭にちっちゃな帽子を載せているのだった。また、髪色も激変していて、アリスの長髪はライトグリーンになっていた。

 

 喫茶店は店主達と共にどこかに消え去ったが、唯一灯里だけは残っていた。彼女は突発的なイメージに弾き出されることなく、その中に残り、生き続けていた。

 灯里も、アリスと同じようにセーラー服に着替えていて、髪色が変わっていて、元々黒だったのが、今は桃色になって、耳の脇の部分が長く伸びていた。

 二人のセーラー服はどちらも白く、帽子とブーツとセットのようだが、微妙にデザインがそれぞれ異なっていた。アリスのセーラー服にはオレンジ色のラインが入っているのだが、灯里のセーラー服のラインは、青いのだった。

 

 アリスは、灯里が、テラス席が面している川の上を、他の舟とすれ違いながら、舳先と船尾がそり上がったおしゃれな趣のある舟に乗っているのを見た。彼女はオールを水に差して、その独特な舟を前に進めていた。向かい風が吹いており、灯里の耳の脇の長い髪を、しなやかに背後になびかせている。

 

 全体的な雰囲気は優雅であり、また灯里に似つかわしく、しっくりしていて、舟も、制服も、その柔軟な物腰も、横顔の普段の微笑みも、まるまる全てが、彼女にジャストフィットしていた。違和感は皆無だった。今見えている舟漕ぎの灯里には、全ての必要なものが揃っていて、足りないものはないようだった。あらゆるものが、あるべきところに、あるべき姿で存在しているように思えた。

 

 がしかし、足りないものが、二つだけあった。それは、時間の流れと真実性だった。優雅な灯里とそれをうっとり眺めるアリスにも、また二人の周りにいくらか広がっているが、広大ではないその局限された狭い世界にも、時間は流れておらず、またその全ては、人間が内に宿す摩訶不思議な霊妙さがたまさか披露した、現実とある程度通じているが、現実からふわふわと遊離して画然と隔たったイリュージョンなのだった。水の妖精と称し得るような水上に映える灯里の麗しい様も、局限された異国情緒に溢れた夢のような世界全体も、あくまで一過性のイメージに過ぎず、美しい映像の虚構は、一定の時間が経った後儚く消え、アリスの目の前には地味な喫茶店と、漫画雑誌を読んだり携帯ゲームに興じたりする平凡な下級生達の姿が蘇って来、耳には店内に流れる、ゲームの電子音が微かに干渉しているが、おおむねしっとりして聞き心地のいい音楽が聞こえるようになった。ライトグリーンの髪と桃色の髪はそれぞれ黒に戻り、おさげの耳の脇の部分は、元の長さに戻っていた。

 

 イメージは、やがて完全に消失した。

 アリスは見開いている目を正常に戻し、頬杖を解いて両腕を卓上に組んだ。

 イメージは消えたが、その印象は鮮烈に残っていた。

 

「でも」、と彼女は言った。灯里ははっとして俯けている顔を上げた。

 

「わたしには、先輩が進路のことでそんなに悩む必要なんて、ない気がするんです」

 

 そう言ってアリスは俯くと、「何となくですけど」、と、自信なさげに補足した。

 

 灯里は彼女の言う意味が汲み取れず、きょとんとして、「それは、どういうこと」、と尋ねた。

 

「知りませんか?」 アリスは尋ね返した。

 

 そして顔を上げ、おごそかさを含ました真剣な口調で告げた。

 

「ウンディーネ、って」

 

 だが、灯里はてんでその意が汲み取れず、ますます惑った。彼女は困ったように眉を下げて苦笑いし、いかにも無知な様子で聞き返した。

 

「ウンディーネ?」

 

 彼女は目を瞑って苦笑いを続けると、窓際の下級生達の方に目を向け、言った。

 

「もしかしてそれって、あの子達のやってるのと同じ──」

 

 そこまで言うと、再び目前の友達に目を戻した。

 

「──流行りのゲームの名前?」

 

 その問いは、微かにからかいの調子を帯びていた。

 

 アリスは「いえ」、と、灯里のその調子に対抗するように、真面目な顔で首を左右に振った。「職業の一つです。おしゃれな舟にお客さんを乗せて、街をガイドするんです」

 

「ふうん」、と灯里は、しんみりした様子で感心した。

 

「素敵だねえ」

 

 目を瞑り、そらぞらしい愛想を込めて冷笑した。

 

「でも、実在しないんでしょ?」

 

 その冷笑は、石像のそれのようにかたく、不動だった。

 灯里は、普段はとぼけたような言動をして周りの人を微笑ませるような人好きのする、警戒する必要のない、気の許せる野暮な少女だが、どうやら潜在的に、冷徹な洞察力と現実への感覚を持っているようだった。

 

「……そうですね」 

 

 アリスは沈んだ様子で鈍重に答えると、俯き、ことの成り行きを告白した。

 

「ただぱっと、そんな職業のイメージが閃いただけでした」

 

 本来符合すべきもの同士が不運のために符合しないというような気持の悪さが、二人を包む空気にまじっていた。

 

 目を低く伏せているアリスには、反省と懺悔の雰囲気があった。実際彼女は反省も懺悔もしていたのだが、加えてまた、失望もしていた。それはアリスが、灯里が彼女の言った『ウンディーネ』という職業をきっと知っているに違いないという確信を持っていたせいだった。確信はあえなく裏切られ、彼女の予測は外れ、アリスのまぼろしの話は、出し抜けであるゆえに灯里をきょとんとさせただけで、彼女から有意義な反応を得ることが出来ず、彼女の脇を甲斐なく通り過ぎて行った。

 今までの一連のことは何の意味もなかったどころか、滑稽だったと、アリスには悔まれた。個人的なものに過ぎなかったイメージは口外せずに自分の胸の中に秘めて、出来ればそのまま忘れてしまえばよかったと思った。

 だが、灯里にとってアリスの内容の不可解な表白は、まったくの無意味ではないようだった。

 

 暗い雰囲気を纏って落ち込んでいる様子の友達を、目を瞑って微笑んでいる灯里は、目を薄く開けて見た。

 

 その目には、特にアリスを責める意も、彼女に対する呆れも見えなかった。その悔やみに相応しい傷心を負っているようには見えなかった。彼女はただ、しみじみと物思いに耽るような静かな遠い眼差しで、しゅんと俯いている友達を見つめているのだった。

 

 

 

 

 

 

 外に向かって喫茶店の扉が開き、ベルがカランコロンと鳴った。「ありがとうございましたあ」という店主とウェイターの歓送の声が聞こえた。

 

 アリスと灯里は、店のそばに向かい合わせで立っている。店内ではそんなに長くくつろがず、時間はあまり経ってはいなかった。

 

 ぺこりとアリスは人形のように可愛らしく頭を下げてお辞儀した。

 

「でっかいご馳走様でした」

 

「どういたしまして」

 

 灯里は目を瞑ってにっこりして答えた。

 

 その後アリスは頭を上げ、間が悪そうに目を伏せた。店内での自分の突飛な話を思い出して、友達との接し方にまごついているようだった。

 

 が、また前のように二人が沈黙し合うようなことにはならなかった。

 

「何か、ありがとう」 

 

 灯里が述べた。

 

 アリスははっとし、目を上げた。アリスの目前にいる灯里は、柔らかに微笑んでいた。

 

「わたしに相応しい進路を、教えてくれて」

 

 その表情を意外と思ったアリスは、「いえ」、と返して、再び目を伏せた。

 

「架空の職業のことなんて言い出して、迷惑をかけたと思ってます」

 

 その謝罪めいた言葉を、灯里は「ううん」と首を左右に振ることで否定した。そしてアリスのように目を伏せ、微笑みをしめやかにすると、「いいの」と言った。

 

「勉強も運動もよく出来ないわたしなんかに──」

 

 彼女は目を上げ、続けた。

 

「──お伽話みたいなお仕事を、アリスちゃんは閃いてくれたんだもん」

 

 友達にまつわる着想は、突拍子もなく奇怪で困惑させるものだったが、それを彼女に告げて悪いことはないようだった。反省も懺悔も、する必要はなかった。そのことを知ると、アリスも目を上げた。友達は嬉しそうにしていた。彼女は目を瞑って、微笑み続けていた。

 

 彼女は、片手を胸の中ほどに添えた。

 

「お陰で、そんなわたしでも何かになれるかも、何かを出来るかもって、自信を持って思えるようになったよ」

 

 今の灯里は、もう悩みのために欝々としてはいなかった。華やかな夢の話を伝聞され、その中で自分が生き生きと固有の地点に立脚し、人生を前向きに過ごしていると知ったことで、またその様子をまざまざと思い描いて眺め耽ったことで、灯里は深く感化され、励まされ、屈託のない、朗らかで陽気な微笑みの花を咲かせられるようになったのだった。

 

 彼女の気丈な、活気と積極性を偲ばせる言葉で、アリスの気の塞ぎはどこかへと吹き飛んで行った。曇ってじめじめした心は、すっきり晴れ渡った。居心地を悪くする間の悪さもなくなり、親しい仲の者同士が持つあの打ち解けた感じが生き返った。

 

 アリスは、灯里と同じように、目を瞑ってにっこりし、彼女と和やかに微笑み交わした。それぞれはもう、悩みに沈むこともなく、それを不快に感じることもなかった。

 

 灯里は目を開け、胸に添えた手を下ろしてバッグの持ち手を握ると、「それじゃ、帰ろっか」と言った。するとアリスも目を開け、「はい」と答えた。

 

 そして親しい二人は、もう青ではなくなり、たそがれの色に染まった美しい夕空の下、少し肌寒い中を、それぞれとても安らいだ気分で、並んで帰り道に付いたのだった。

 

 

 

 **



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Page.7「冬来たる 」

古都に冬が訪れる。こごえる季節のはじまり。


***

 

 

 

 しんと静まり返った夜。すやすやと寝息が聞こえる頃。濃紺を湛えた海の上、水先案内を営む会社が浮かぶようにある。ARIAカンパニーである。

 

 今はずいぶんと遅い。そのため、会社の窓に照明は見えなかった。

 

 海と同じように、広大な空。夜の空。無数の星が瞬き、そして大きく膨張した雲が流れていた。雲はたくさんの水分を含んでいるようだった。そして雲、そのもやもやとしたスモークに、星によく似た光が、それも微かな光が、キラキラと光っているように見える……

 

 

 

 

 

 

 消灯された室内。微弱な光明がARIAカンパニーの屋根裏部屋を、寒気立つような青白さで、夢のように染めていた。星の薄明りだった。

 真っ白な寝衣が、星々が落とすその妖しい青白さの中で、美しい輝きを帯びていた。

 彼女はベッドの上にいた。新米の水先案内人だ。灯里は、布団をコートのようにまとって、ベッドのそばのまるい窓に向かって、外を眺めていたのだ。

 

 窓はよく磨かれていた。ガラスは、新品のような光沢を持っており、そしてあまりにも清いので、その面は、鏡と同様の性質を有していた。

 

 窓を境にして、二人の灯里が対面している。ある方はくっきりとした実像。他方は儚げな透明さを帯びた虚像である。

 

《すっかり、寒くなりました》

 

 灯里は、ハァ、と窓ガラスに息を吐いた。すると、凍り付いたガラスの一部が、淡い結露で白く曇り、灯里の虚像はその分掻き消えた。しかし、程なく結露は失せ、消えていた灯里の一部が元に戻ってくる。面白いような、また面白くないような、自然現象を用いたあどけない戯れだった。

 

《冬になった、ということです》

 

 灯里は憂わしげに目を細め、物思うように俯けた。

 

 ――そんな様子が、ARIAカンパニーの窓より窺われる。目を瞑って、俯いている灯里の姿。寂寞とした闇夜の風景を映し、その物悲しい風情を帯びた小窓の奥で、じっとしている少女の姿は、哀れな囚人のように、見えなくもない。

 

 水中に頑丈な脚によって立っている社屋。海は盛んに波立ったが、揺動する気配は微塵もしなかった。

 

 屋根裏部屋のベッドの上で、果然灯里は、目を閉じている。まるで、眠ってしまったかのように。 

 

 ふと、シャンシャンと、複数重なった鈴の音が、響いてきた。

 

「……!」

 

 その音に、はっとして灯里は顔を上げ、目を開いた。

 

 星空の青白さの中で、寝ずにじっと外を眺めている、布団をまとった灯里。

 

 その瞳には、細かい煌めきが映っていた。目を凝らさなければ見えないほど、その煌めきは細かかった。そして天使の衣のように、純白だった。

 

「雪」

 

 ぽつりと呟く灯里。彼女は、青白さの滲む薄暗い部屋で、ベッドの上で、何かの存在を予期するように、外へと、ぼんやりした視線を投げている。

 

 

 

******************

 

 

 

 こざっぱりとしたダイニング。調理台のところでは、新米ではない熟練の水先案内人が、エプロン姿でいる。アリシアだ。

 

 彼女は、機嫌よさそうに、鼻歌を歌って、前かがみの姿勢でティーポットを傾け、ふたつのカップに茶を淹れているところだった。

 

「さて」

 

 茶を淹れ終わり、ポットを調理台に置くと、アリシアは上半身を立て、窓の方に首をひねって目を向けた。彼女は、青白い朝方の空と、海と、雪の降っている様を見た。

 

「寒そうね」

 

 空に太陽はあるに違いないが、何となく、ないように、その時は思えた。

 

 アリシアは、感慨深げに目を細めた。

 

「とても、寒そう」

 

 その言い様は、べつだん寒いのが嫌というわけではない、というように聞こえた。

 

 シャンシャンと、多重の鈴の音。耳ざわりのよい、可憐な音。

 

 アリシアは、思い人の腕に抱かれる時のように、うっとりした風に目を淑やかに閉じ、「まぁ」、と、感嘆するように言った。

 

「冬の音が――」

 

 

 

 

 

 

 テーブルの上にあるカップの茶が、白い湯気を立てている。カップはふたつ。

 

 アリシアは、灯里と向かい合ってテーブルに着いていた。それぞれ異なる姿勢でおり、アリシアは、両肘を机上に突いて、手を組み合わせているが、灯里は、小心翼々とした感じで、両腕を突っ張ったようにして、手を腿に置いて、目線を落としているのだった。

 

 

 机上には、カップだけでなく、先ほどのティーポットと、シュガーポットと、菓子の詰まった小さなバスケットがあった。用意は万端整っていた。

 

「冬が来ましたね」、と話題を持ち掛ける灯里。

 

「えぇ」 アリシアは無難に応じる。

 

「今年はどれくらい、雪、積もるんでしょうね」

 

 問われたアリシアは、考えるように目を上にやり、「そうねぇ」と言った。

 

「あんまり多く積もると、雪掻きが大変になるわね」

 

 上にやっていた目を戻し、苦笑して見せるアリシア。

 

 その答えと表情に、灯里は顔を上げ、穏やかな微笑みで応じた。

 

「そうですね」

 

 アリシアと灯里が対面して着くテーブルの彼方にある広い窓には、その窓には決して収まることのない無限大の冬の景色が、窓に切り取られて、いわば編集された形で映っている。寒々とする青白い空。絶えず降り続く白の結晶。ひんやりとした風のささやき。

 

 ダイニングの壁に、カレンダーが掛かっている。そしてそのカレンダーは、現在が冬季の真っ只中であることを示しているのだった。

 

 

 

***

 

 

 

 すっかり積雪して白くなった、水路に沿う道。

水路の反対側には石造りの建物が所狭しと立ち並んでいる。道には人通りがあり、みんな傘を差していて、時折、傘のビニールより、雪の塊が滑り落ちていた。

 

 灯里も例外ではなく、傘を持ってきて、差していた。雨よりはマシだが、それでも雪に塗れて濡れたり、服を汚したりするのは嫌だった。

   

 テクテクと歩いている灯里は、ふと立ち止まると、気分を害したように眉をひそめた。

 

 手を鼻に当て、ぎゅっと目を瞑る。

 

「――ッ!」

 

 くしゃみが出た。あまりひどいものではなく、済んでしまうと、灯里は目を開き、鼻より手を離した。

 

《ホント、すっかり寒くなりました》

 

 くしゃみの後間もなく、突風が一陣吹き荒ぶ。鋭い音と共に、吹雪が巻き起こる。

 

 すると、灯里は再びぎゅっと瞑目し、縮こまるようにして、傘を胸に抱え、冬の轟きを切り抜けようと試みた。そして冬の轟きはあっという間にしずまった。

 

 本当に止んだのか疑るような仕方で、ゆっくりと、灯里は目を開き、辺りを見回した。人通りのあった道。あったはずの道。ところが、今や無人と変わっていた。

 

 シャンシャンという鈴の音。

 

 灯里はきょとんとする。

 

《また……》

 

 謎の音に心当たりでもあるのか、彼女は水路の方に目を向けると、アーチ型の小橋のそばにある細い階段を降り、水路の際まで行った。

 

 水路の水は澄んでいた。

 

 灯里はかがんで俯き、その水を覗き込んだ。

 

《アクアの、冬》

 

 雪の降り込む水路の水面に、灯里が映り込んでいる。夜のしじま、あの部屋で窓ガラスに向かっていた時と同一の感じがした。強い既視感が彼女に萌した。

 

 灯里は、ハァ、と、息を吐いてみた。だが、息は水路に向かうどころか、白く凍った途端、瞬く間に上昇して消え失せた。

 

 何となく面白くない感じを覚えた灯里。だが、彼女は再び、反射的に片手で鼻を抑え、目を瞑った。

 

「――ッ!」

 

 何の変哲もないくしゃみだった。寒さの悪戯だった。灯里は鼻より手を下ろし――鼻が少し赤くなっていた――目を開き、空を仰いだ。

 

 傘のビニールと骨、建物の最上部が見える。そしてその彼方には雪雲が流れているのだった。雪雲は白く発光する微小な粒を無数にはらんでいた。全ては大小様々だった。ある粒は大きく光り、他のある粒は小さく光っている。

 

 灯里は口元を緩ませ、感慨深げに、目を瞑った。

 

《ネオ・ヴェネツィアの、冬》

 

 そして目を開き、雪のじぶんに向かって舞い降りてくる神秘的な様に、拝むような心地で見入った。

 

 ――ダイニング。調理台のそばで、丁寧な手付きで食器を磨くアリシア。

 

 ふと、はっとして首を捻り、窓の方を向くと、驚いたような表情を見せ、そして喜ばしそうに微笑んだ。

 

「まぁ」

 

 窓の外では、青空より、無数の煌めきが、光の欠片が、降っているのが見えた。

 

 ――灯里は歩いていた。辺りには人通り。そしてみんな、傘を差して歩いていた。

 

 

 

(終)



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Page.8「大人になった幼馴染と」

晃とアリシア。その友情はよわいを重ねても変わらない。


***

 

 

 

 小箱より一本、ヒュッと、手首をスナップさせて取り出す。

 

 クッションの柔らかい椅子にゆったりと腰掛けるわたしは、しみじみその、指に挟んで持つ一本に見入る。おいしく、かぐわしい一本。白いその一本は、そう、他でもない、タバコだ。

 

 今は亡くなったが昔名を馳せたロックスターが好んで吸っていたという銘柄のタバコ。わたしはそのロックスターが好きだった。ファンだったのだ。

 

「あらあら、あんまり吸うとよくないわよ、晃ちゃん」

 

 ……やれやれ、かいがいしい奴だ。

 

 こいつとは幼馴染で、ずいぶん長い付き合いだが、ずっと変わらない。芯があるという感じ。

槌で打っても折れない恐ろしく堅い芯が。

 

 思うにこいつには、人生を生きていく上で、頑強な意志があるのだろう。きっと、そうだ。人間というのは、多くいい加減なもので、風見鶏だ。こいつはだが、風見鶏ではなく、風に左右されない確固とした視野を持っている。そしてその視野で、自分にしか見いだせないものを見出したのだ。

 

「あぁ、分かってるよ」

 

 しかし、わたしとて、事情はおんなじだ。わたしも、しっかりとした意志でもって、今この時、一服しようとするのだ。その意志は誰にも阻ませたくない。わたしの二つの眼は、白いうっとりとさせる一本を凝視しているのだ。

 

 わたしは、ポケットより安っぽいライターを取り出し、ギザギザのやすりを指で勢いよく回す。

 

 奴が笑顔に呆れを滲ませるのが分かる。まぁ、どう思われようが別に構うことはない。

 

 やすりが発火石と摩擦して、ボッと火が立ち、火影が揺れ動く。何とも麗しいひと時だ。タバコを吸う時より、ひょっとするとライターで火を灯す方が、味わい深いかも知れない。愛煙家にとって、火を灯す瞬間というのは、ひとつの儀式なのだ。

 

 手で火を囲い、すでに口に咥えているタバコの先端を焙る。

 

 火が付く。煙が立って、香ばしい香りが広がる。

 

 フゥゥゥ……

 

 ひとくち分の煙を吸い、吹く。煙は薄暗い照明の店内に薄まって広がっていく。ネオ・ヴェネツィアのとある隠れ家的バー。元々、店内は喫煙者が結構いて、入店した時点ですでにもうもうとしていた。禁煙などというものとは、この店は無縁だった。

 

「なぁアリシア」

 

 頭がスーッと冴える快感を覚えて、わたしはほとんど無意識に、頭上の薄暗いシャンデリアをぼんやり見上げ、呼びかける。アリシアは小首を傾げてわたしの語りを待ち受ける。

 

「お前は、人生何歳まで生きたい?」

 

「人生?」

 

 アリシアは目を大きくして耳を疑う様子だ。

 

「さぁねぇ……」

 

 こいつが答えを考え込んでいる間、わたしは手元の旨い煙を吸い、吐き出し、都度、先端に溜まった灰を灰皿に落とす。

 

 目下に燃えるタバコの火。じんわりと赤く、まるで火山で煮えたぎる溶岩のようだ。触れればやけどするに違いない。だが、麗しい色だ。とても麗しい色。どうも火の色というのは、魅力的でしょうがない。

 

「やっぱり、ゴンドラに乗れなくなった時かしら」

 

「そうか」

 

 答えた時は、ちょうど灰を灰皿に落とすタイミングだった。

 

 タバコを咥え直すと同時に、アリシアをじっと見つめる。すると、あることが気付かれる。

 

「お前」とわたし。「顔、赤いぞ」

 

「あらあら」

 

 指摘されて、気色悪いくらいにっこりとして両手で頬を持つ。こいつのそばにあるのは、アルコール。それも結構キツイのだ。

 

 わたしは失笑する。

 

「お前も、よくないぞ」

 

「え?」

 

 わざとらしいきょとんとした反応。本当は聞こえたくせに。

 

「酒」

 

「あぁ」

 

「自分のことを棚に上げるんじゃない」

 

「まぁ」

 

 また、わざとらしい反応。驚いた様子だが、しょせんフリに過ぎない。

 

「でも、タバコよりは害が少ないと思うわよ」

 

 昔とおんなじだ。こいつは変わらない。したたかなところも、あの頃とおんなじ。

 

 まだ分別の付かないガキの頃、意地の悪い年長の連中に、恐喝まがいの蛮行を受けたことが度々あった。わたしはその頃は今では考えられないほど大人しく、ひよわで、引っ込み思案だった。そのため、自分より上背のある相手に凄まれると、ほとんど泣き出してしまいそうになるほど、当時のわたしは怯みがちだった。

 

 だが、その時、幼馴染は相手を退散させた。それもにこやかに。戦わずして勝つというのは兵法の究極の奥義と聞くが、奴はその奥義を知っていたのだろうか。わたしが後方に退いて恐る恐る見守る先で、幼馴染が二三、口を交わすと、相手は興覚めしたように、わたし達の前より去った。

 

 一体どういう手段を用いたのだろうかと不思議に思うと同時に、ひどく感謝したものだ。今では同等、伯仲の間柄だが、昔はわたしにとって、アリシアはわたしのきょうだいとか、保護者じみたところがあった。わたしより優等で、どこか、憧れさせるところがあった。今となっては、微笑ましい思い出だ。

 

 時間が過ぎ、ウエイターが慇懃にわたし達のテーブルをほとんど片付け、残ったのは茶だけ。周りにいる客達は、あたかも印象派の絵のように不明瞭だ。

 

 タバコは燃え尽きた。短くなったタバコが灰皿で山と折れ曲がっている。小箱の中はすっかり空だ。ライターも冷たくなった。

 

 甘い混迷がわたしの頭をめぐりめぐる。程度は違うがアリシアも、陶酔境にいることだろう。

 

「ねぇ晃ちゃん」

 

「うん」

 

「さっきの質問だけど」

 

「うん」

 

「やっぱり、答え、変えるわ。訂正」

 

 やれやれ、あんな質問。わたしの酔狂だったというのに。

 

 わたしは、聞くともなしに耳を傾ける。

 

「人生、晃ちゃんが死ぬまで」

 

「……」

 

「晃ちゃんが、死ぬまで、生きたいわ」

 

 ……思わず、口元が緩む。

 

 わたしは言葉を返さない。ただ俯いて、感慨に浸るだけ。

 

 ハァ、とシャンデリアに向かってため息を吐く。今度は煙ではない。

 

 ある日の夜のことだった。料理も酒も味がよく、サービスも行き届いたとあるバーでの夜。気心の知れた幼馴染とのくつろげる夜。

 

 その夜は、わたしの吸うタバコのように、とても素敵なものだった。

 

 

 

(終)



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Page.9「なくなった帽子」

帽子を不意になくしたアテナ。その行方はいずこに。


***

 

 

 

 今日はどうも、風が強い日のようで、わたしの漕ぐゴンドラは、追い波の煽りを受けて、不安定な仕方で前に進まされた。オールで制御しようにも、困難だった。

 

 幸い今日は、ゴンドラにはお客様を乗せていなかった。もし乗せていれば、不快に思われたに違いない。本来着用しないといけない制帽も、ちょくちょく吹き飛ばされそうになるので、脱がざるを得なかった。

 

 何とも、ゴンドラの漕ぎ手達にとって不利な一日だったように思える。休業する店も、何店舗かあるようだった。晃ちゃんの姫屋も、オーナーの一存で、急きょ営業を休止することになったという知らせを、今朝、晃ちゃんよりメールで受けた。

 

「でっかいウィンディでしたね」

 

「……ウンディーネ?」

 

「風が強いっていう意味の言葉ですよ、アテナ先輩」

 

「あぁ、そうだったの」

 

 本当にその言葉に無知だったので、蒙が開かれた。アリスちゃんは賢いのだなぁ、と素直に感心した。

 

 しかし、まぁ、当たり前と言えば当たり前なのかも知れない。なぜというに、アリスちゃんは水先案内人の研修生であると同時に、学生なのだ。今わたし達のいるオレンジ・ぷらねっとの居室には、彼女の机があるが、その自在棚には、アカデミックな書籍が詰まっている。

 

「ウンディーネと響きが似てて、勘違いしちゃったわ」

 

「……」

 

 机に付いているアリスちゃんは、呆れた眼差しで、わたしを振り返っている。

 

 わたしはぼんやりとして、窓辺の椅子に座り、夕方のネオ・ヴェネツィアに目をやる。窓には、海に向かって開けたビューが、彼方の水平線まで望遠される。

 

「そういえば、アテナ先輩」

 

 アリスちゃんが、何か思い出したように、呼びかけてくる。

 

「うん」

 

わたしは、何を言うのか気になって答える。

 

「帽子」

 

「……」

 

「ウンディーネのお帽子、脱いだって言ってましたけど、結局ちゃんと、持って帰ってきたんですか」

 

 わたしはハッとする。そういえば、そうだ。風が強くて脱いだあの、白いリボン付きの制帽が、ない。部屋のどこにも見えない。忘れてきたのだろうか。

 

 ハァ、とため息を吐くのはわたしでなく、アリスちゃん。

 

「でっかい忘れん坊さんですね」

 

「探してくるわ」

 

 わたしは椅子より立ち上がる。

 

「もう日が暮れちゃいますよ。秋の日暮れはでっかい早いですよ」

 

「でも、あの帽子がないと」

 

「分かってますよ。わたしも手伝います」

 

「きっと、わたしが乗ったゴンドラに置き去りになってると思うわ」

 

「そうですね。じゃ、船着き場まで行きましょう」

 

 そういうわけで、わたしとアリスちゃんは、足並みを揃えて探し物に繰り出していった。

 

 無知を拓かれ、遺失を悟され、今日は、アリスちゃんに負い目を感じてしまう日になりそうだ。風の強い、そう、ウィンディ、な日――大丈夫、合ってる?

 

 帽子、遠くに飛ばされていなければ、いいのだけど。

 

 

 

***

 

 

 

 結局、船着き場に行ったけど、わたしの乗ったゴンドラに、帽子のないことが分かった。浅瀬を示す棒の並ぶ船着き場では、何艘かのゴンドラが、気だるそうに波にユラユラしている。

 

 わたしは悄然として棒立ちし、アリスちゃんは、推理でもするように指で顎をさすった。

 

「風で飛ばされちゃったのかしら」

 

「可能性は高いですね」

 

「どうしよう。海に落ちて、沖まで流れていったのかも知れない」

 

 ムゥ、とアリスちゃんは困るように小さく唸った。

 

 風は強く吹き続ける。

 

 わたし達は戸惑い果てた後、手分けして探すことにし、わたしはゴンドラに乗って水上へ、アリスちゃんは、内地の方へ飛ばされたことを考慮してその方へ、それぞれ向かった。

 

 アリスちゃんはたぶん、ビルの物陰とか探して、時には通行人に尋ねるかも知れない。彼女のことだ、最善を尽くしてくれるに違いない。

 

 他方わたしは、愚昧なわたしは、ただ闇雲に水上を行き、波にざわめく水面を見下ろすばかりだった。探し物するにしては、何とも不毛なやり方のように思えた。しかし、他に方法がなかった。他に方法を知らなかった。

 

 風は依然吹く。吹き続ける風は、夜を運んでくる。

 

 辺りが暗くなる。あらゆる物が秋の夜寒に陰を纏う。わたしは何の成果さえ得ず、船着き場に戻り、アリスちゃんと合流する。聞けば、アリスちゃんも、成果はないようだった。

 

 帽子、一体どこに行ってしまったのだろう。

 

 悔やむ気持ちを抱えて、わたしはアリスちゃんと共に、オレンジ・ぷらねっとまで帰った。

 

 

 

***

 

 

 

 すっかり消灯した、静けさに充ちた居室。

 

 アテナがすやすやと寝息を立てている。帽子をなくして狼狽していた割に、安眠している。きっと、動じない性格なのだろう。そう、同居している彼女は、やはり呆れと共に思った。

 

 ズラリと書籍の並ぶ机。その机では、アリスが寝ないでいた。彼女は一冊開き、ノートに向かっていた。勉強にいそしんでいるのだ。

 

 学生と言えど、ウンディーネを兼ねているため、勉強に割ける時間は、同級生と比べて多くない。

 

 確かに地頭のいい彼女だが、その地頭は、このような深夜まで及ぶ勉強によって維持されているのだ。恐らくその事実は、同級生達は知らないことだろう。彼等は、アリスが天才であるという噂を鵜呑みにして、誤認して、その才が天与の完成されたものだという風に思い込んでいた。

 

 そんな同級生しかいないわけでは、実際なかったけれど、多くいることは否定出来なかった。

 

 風はやんでいた。ずっとやまずにいたあのやんちゃな風達も、夜が更ければ大人しい眠り子となるわけだ。

 

 ペンを握り、書籍が示す重要なポイントを記していくアリス。

 

 やがて集中力が切れ、インターバルの時が訪れる。ノートより顔を上げ、ペンを下ろし、一息吐く。

 

 アリスは、目がしょぼしょぼする感じを覚えた。どうも眠たいようだ。そろそろ切り上げて眠ろう、とそう考えた。

 

 彼女は、窓の方に目をやった。暗さに染まったガラス。そこには、スタンドの明かりがある机付近の模様が反映している。アリスの小柄な姿と、机と、その他諸々。他は闇だった。

 

 そんなガラスの面に、急に光が広がり、ある人影が、ぼんやりと浮かんできた。

 

 不思議に思って、アリスは目を見張った。

 

 人影はアテナだった。彼女は多数の制服を着た、ウンディーネと思しき者達の中におり、前に進み出て、威厳のある一人と向かい合う。アテナは丁寧に頭を下げ、ある物を受け取る。よく見ると、帽子だった。ウンディーネの、あの、アテナがなくした制帽だった。

 

 そのビジョンは、アリスは、アテナの遠い過去の記憶だと感じた。昔、じぶんのようにウンディーネになる時、アテナは儀式に参加したのだ。彼女は決心し、夢を定め、制服を貰い、そして制帽も貰ったのだ。そうして彼女は、ウンディーネになる用意を万端、整えたのだ。

 

 アリスは何だか感慨深い気分になった。

 

 が、ある異変がガラスに起こり、アリスは注意を起こされた。

 

 アテナに手渡された帽子が、宙を舞い、落ちていったのだ。帽子は、ガラスの範囲でくるりと舞うと、枯れ葉のような軌道でふわふわと、その範囲外へと落下して行った。

 

ビジョンはピタリと停止して、動かない。アテナは手を差し出して、向かいの人物は微笑んでいる。だが、アテナの手には何もない。

 

 アリスは勘が働いて、机より立つと、居室を出、深夜のネオ・ヴェネツィアへと向かっていった。

 

 

 

***

 

 

 

 目を開けると、明るい居室の天井が見えた。よく晴れた日であることがすぐ察知される。快い冴えた空気が居室に溢れている。

 

 わたしは、さっぱりとした気分で体を起こした。頭に触れると、寝癖の付いていることが分かった。襟足の辺が、ぴょんと跳ねている。後で、直さないと。

 

 寝癖を執拗にいじって、ある方に目をやる。アリスちゃんが寝ている。時計は毎朝わたしの起きる時間を示している。特別遅いわけでも、早いわけでもない。だが、何となく、アリスちゃんは当分目が覚めないという気がした。ゆうべ彼女は机に向かっていたし、寝付く時間が遅かった。

 

「今日も、ウィンディなのかしら」

 

 そう呟いて、窓辺を見る。ガラスは光の色に染まっていた。秋の日の光はとても澄んでいて、うっとりするほどだった。

 

 何となく、夢見ていた気がする。どんな夢だったかは、定かでない。夢というのは覚めた瞬間急速におぼろげになっていく。夢が残す痕跡は、本当に微かなものだ。

 

 わたしは、誰かの前に立って、何か待ち受けていた。こう、手を差し出して――

 

 目を瞑って夢を再現しようとした途端、わたしは手の上に何かの存在を感じた。感触がする。そっぽを向いていて気付かなかったけど、今ようやく気付いた。

 

 ――帽子だ。昨日なくした、ウンディーネの制帽。リボン付きの。

 

 どうして、と疑問に思う。そしてひょっとして、とも思い、アリスちゃんを見遣る。

 

「まさかね」

 

 思わず苦笑する。何というファンタジーを考えるのだろう。よもやアリスちゃんが、わざわざ探しに行ってくれたとは思えない。彼女は勉強していたし、その他ににすることなどなく、そもそも、そんな余裕はなかったはずだ。わたしだって、彼女に無理させることは全く望まなかった。

 

 が、彼女の机では、ノートが開きっぱなしだ。普段きちんと片付けるというのに、ゆうべはどうしたのだろう。

 

 考えたところで、仕方がない。大体、考える必要などない。今、手にはあの求めていた、失われていたものが戻っており、万事欠けているところ、変わっているところはないのだ。アリスちゃんが、いやに長寝することを除いて。

 

 きのうは風が強かった。嵐でもやってきていたのだろうか? 晃ちゃんのメールでも、ニュースでも、そんな話はなかった。

 

 わたしを困らせ、わたしの元にトラブルを運んだあの風は、今日は鳴りをひそめている。

 

 帽子は、きっとアリスちゃんが見つけてくれたのだろう。横着なわたしのことだ、なくしたと思い込んでいたけど、実際は近くにあって、だけどすっかり覚えがなくて、勘違いしたのだ。

 

 アリスちゃんには迷惑をかけた。後でごめんと言わないと。

 

 ふと、あるイメージが浮かんでくる。わたしは、オレンジ・ぷらねっとの入社式に参列している。周りにはウンディーネを目指す乙女達が、パリッとした白衣に身を包んで、整列している。

 

 わたしは名を呼ばれ、前に進み出る。向かいにいるのはアリスちゃん。

 

「アテナさん、帽子、ありましたよ」

 

 彼女は微笑んで差し出す。

 

「あぁ、本当、どうもありがとう」

 

 わたしは頭を下げ、帽子を受け取る。

 

 わたしが見たと思う夢は、ひょっとすると、そんな風な夢だったのかも知れない。何とも麗しい夢だ。

 

 

 

 冴えわたる空。点々と浮かぶ雲。

 

 わたしは、微かに、なくしていた帽子に、潮風の香りを嗅ぐ気がした。

 

 

 

 

(終) 



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Page.10「大寺院」

藍華の遠いおぼろげな記憶。その記憶は、真実か、捏造か。


***

 

 

 

 小舟を漕ぎ付けた先は、大きな寺院だった。途中、森を抜けないといけなかった。

 

 水の都に、森! 驚く思うが、実際あるのだ。ただし、恐ろしく入り組んだ順路を経た後に。

 

 ネオ・ヴェネツィアとその森の間には、境界があって、両者を隔てている。その境界は、誰もが超えることの出来るものではない。許された者だけが超えることの出来る、特別な境界だった。

 

 その境界を、幼い藍華がぐうぜん通ったことがある。今となっては、最早思い出されることのない、忘却されたファンタジーとなってしまったが。

 

「もう、やめてよ!」

 

 まだ足し算引き算さえ覚束ない年ごろの、ウンディーネになるより遥か以前の藍華は、ある日、不良少年達が一匹の黒いきゃしゃな野良猫をいじめているところに遭遇した。

 

 野良猫はまだ子猫で、弱弱しく、しかし、彼等は獰猛で、狩猟者の本能を宿し、まるで容赦しなかった。子猫は血を流し、ぐったりとし、もう助けを呼ぶ声さえ絞り出せないほど衰弱していた。

 

 猫という動物を愛好する藍華は遅かったと思い、自分を責めた。

 

 少年達は不敵に笑んだ。

 

 義憤に燃える藍華は激しく彼等へと突っ込んでいき、体当たりし、子猫を逃がした。傷付いた子猫はよろよろとした足取りでいずこかへと消えた。

 

 子猫は救われた。が、非行は続いた。

 

 ターゲットが変わったのだ。子猫より、藍華へと。

 

 藍華は少年達にさんざん暴行を受け、くずおれるまで打ちのめされた。運動神経はよかったが、喧嘩では役に立たないようだった。加えて、男児達の獰猛さにもショックを受けた。男と女はぜんぜん違う生き物だということを、彼女はその時初めて、加えて時期尚早に、痛感した。

 

 満足した少年達は醜悪な笑い声を上げて退散した。

 

 敗れた藍華は、ずたずたではあったものの、依然余力があり、地に横たわって、涙を流した。悔し涙だ。

 

 彼女はしばらくした後、満身創痍の体で立ち上がり、子猫の様子が気になって、その後を追おうとした。

 

 が、足取りは掴めなかった。子猫は痕跡を残さずに去ったのである。

 

 しかし、藍華はほとんど憑かれたように、子猫の居所を求め、彷徨した。ネオ・ヴェネツィアの街は迷路のように入り組んでいて、幼い彼女を余計に苦しめた。

 

 昼下がり。夏の太陽は眩しく照っていた。

 

 一体どれくらい歩いたのだろう。

 

 そう自問した時、藍華はあるアーチの正面に立っていた。

 

 彼女は俯けている顔を上げ、目前の空洞に目をやった。

 

 空洞より、涼しい風が吹いてくる――いや、涼しいというより、むしろ冷たい風である。

 

 血の混じった汗を流す藍華は、その冷風に快さを感じた。癒しを感じた。もっと浴びたい。もっと涼しくなりたい。そんな風に、幼い藍華は欲求した。

 

 そうして、彼女はアーチへと入っていった。アーチの入口に淀む闇は、あっという間に彼女を飲み込んでしまった。辺りに人気はなかった。

 

 アーチの先はトンネルになっていて、途轍もなく長かった。

 

 やっとの思いで抜け出た藍華は、光を浴びた。ネオ・ヴェネツィアの光とは違う光だった。何と言うか、光の色が違う気がした。見えるのは湿潤な森。木々が鬱蒼と茂る下は、清流になっていて、そして、トンネルの出口は、すぐ先で水際となって途絶えていた。

 

 その水際に、一艘の小舟が、櫂と共にあった。

 

 風はまだ吹き続ける。不安だった藍華は何だか安心する気がした。森の奥より、風は来るように思えた。

 

 小舟に乗ることは必然だった。藍華は、ネオ・ヴェネツィアで見るウンディーネのやり方を賢明に思い出して、物真似して、小舟を進めた。まずいやり方ではあったものの、いい見本を知っていたお陰で、小舟は先へと進んだ。

 

 そうしてたどり着いたのは、サン・マルコ広場の大聖堂のように大きな寺院だった。しかし、サン・マルコの聖堂とはずいぶん異なった趣きを帯びていて、藍華は不思議に思ったが、思い当たる節がある気がした。

 

 束の間記憶を紐解くと、その或るページに、該当するものを発見した。

 

 そうだ。昔、テレビか本で目にしたことがある。オリエンタルな建築。色使い。石ではなく木で出来ている。濃緑の瓦を埋め込んだ破風屋根。梁で繋がった支える朱の円柱。

 

 ネオ・ヴェネツィアより東方遥か彼方、その異境にある寺院だと、幼い藍華は悟った。

 

 寺院の辺りの水面には足場のようなまるい石のプレートが浮かんでいて、乗れそうである。

 

 藍華は櫂を下ろすとぴょんと、足場の一つに飛び移った。蹴とばされた小舟は藍華より離れた。

 

 そして藍華は、等間隔で浮かぶ石の足場を器用に渡って、寺院へと至った。

 

 もう日が暮れていた。夏の暑さも和らいでいた。明るいのは、寺院の床に数多火の灯る蝋燭のお陰だった。

 

 寺院の中は、何ということはなかった。壁のないその寺院は風が自由に吹き抜けて、とても涼しかった。藍華の汗はすっかり引き、血も止まっていた。荒れていた心も治まったように思える。

 

 ぼんやりとして、寺院の中を歩き回る藍華は、足に何かが触れるのを感じた。ヒッと肝を潰したが、足元を見下ろして、ホッと胸を撫で下ろした。

 

 子猫。あの子猫と思われる一匹が、足元にちょこんと座り、長いしっぽを振っているのである。

 

「まぁ、こんなところにいたのね」

 

 しゃがんで頭を撫でる藍華。猫は気持ちよさそうに目を瞑って藍華の成すに任せる。

 

 怪訝に思ったのは、子猫の傷がずいぶんと浅いことだ。異常な早さで回復したのか、虫の息だった子猫が、今ではもうすっかり元気一杯であった。

 

 嬉しさを抑え切れない藍華は、えんえん、子猫の頭をさするように撫でてやっていた。その時流した涙は、嬉しさの横溢であった。

 

 

 

 その夜は、とても涼しく、恋人との夢のように甘く、長かった。

 

 そしてその夜は、やっぱり夢のように、終わりの曖昧なものであった。

 

 

 

***

 

 

 

 一枚の絵葉書を、仰向けの姿勢で、手で持って見上げる藍華。彼女は居室のベッドにいた。

 

「ハァ」

 

 ため息を一つ。憂鬱のため息か、疲労のため息か、今一釈然としない。

 

 藍華はその絵葉書を、ぐうぜん見つけたのだった。

 

 夏の蒸し暑いある日。非番の彼女は、雑多に物の散乱する自室に鬱陶しさを感じ、電撃的に大掃除を決心して着手した。

 

 その途中、あるタンスの引き出しを整理している時だった。引き出しは物で詰まっていた。錆びたキーホルダー。紙のふやけたメモ帳。不要なものが盛りだくさんだった。

 

 そんな物をほとんどやけくそになってひっくり返した最後。引き出しの奥の方に、見つけたのだ。

 

 一軒の大寺院の絵の描かれた葉書。だいぶん年数を経ているようで、本来は白いはずの紙が、黄ばんでいたし、また油のような染みが付いてもいた。

 

 最初こんなものはゴミだと、藍華は他の似たようなものと同様、即座に決め付け、ゴミ袋に突っ込もうと思った。

 

 しかし、ゴミ袋へと葉書を持つ手を突っ込んだ瞬間、彼女を拘束する魔力が働いて、彼女は手を戻さざるを得なかった。

 

 小さな灯影が無数に並ぶ壁のない寺院の絵。何となく蘇ってくるのは、複雑な感情。憎悪とか敵意が蘇ってくるかと思えば、優しさとか和やかさが蘇ってくる。

 

 不思議な絵葉書だと思った。と同時に、不気味だとも思った。

 

 藍華は顔をしかめた。

 

 そうして再び、手をゴミ袋の口へと伸ばした。その時にはもう、あの魔力は消えていた。

 

 不思議な、また不気味な絵葉書は、不要なものとしてゴミ袋の中のたくさんのゴミに混じり込み、そうして後程、焼却された。

 

 

 

 その夜、藍華は何か忘れ物でもしたような感覚に襲われて、しばらく眠れなかった。

 

 窓の星影を眺めていると、涙が流れた気がした。

 

 だが、指で拭おうとしても、指が触れるのは、乾いた肌ばかりなのであった。

 

 

 

(終)



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Page.11「冬の夜光石」

暮れも押し迫るおおみそかの夜。灯里が大掃除でたまたま見つけたのは、夏の風物詩であった。


***

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの特産品に、こういうものがあることをご存知だろうか。

 

 夜光鈴という名前で、夜光石を内に宿し、夜になると、その名の通り、光を発するのである。

 

 夜光鈴は、とても人気のある品物で、その季節である夏になると、市場が開かれ、買い求めようとする人々でごった返す。

 

 さて、その夜光鈴の、夜光石であるが、ARIAカンパニーの一室に、鈴の外れた状態で、一個だけあった。残っていたと言うべきかも知れない。灯里の暮らすギャレットである。本来季節が過ぎれば海に還されるのだが、どういうわけか、残っていた。冬の、それも、年を越そうという時期になるまで。

 

「あれっ」

 

 引き出しを開け、整理していた灯里がきょとんとして見つける。頭に布を巻き、エプロンを付け、暮れの大掃除中だった。

 

 アリシアはすでに帰宅していて、ARIAカンパニーには灯里一人だった。ウンディーネの仕事も既にすっかり片付いており、後は年始の事始めを待つばかりであった。ゴンドラはカバーをかけてあり、オールも所定の場所に仕舞われている。制服はアイロンがけをして畳んで、綺麗に衣装棚に収まっている。

 

 手を伸ばし、小さな石ころを掴み取る。ちょうど夜になろうとする頃で、照明を付けていた部屋では、その幻想的な光はよく見えなかった。灯里も、最初その石が夜光石だと気が付かなかったほどである。

 

「あぁ、そういえば」

 

 灯里は思い出す。その夏、彼女は例年のように友達である藍華とアリスと連れ立って、夜光鈴の市場へと出かけた。そして一個気に入ったものを買い、その光で毎夜茶会を開き、存分に楽しんだ後、寿命の尽きようとする夜光石を海へと投げたのだった。

 

 その帰り道のことだった。

 

「ばいばぁい」

 

 藍華とアリスに大振りに手を振る灯里。二人はやや呆れたように挨拶を返す。

 

 岐路に来ていた。藍華は姫屋へ、アリスはオレンジ・ぷらねっとへ、それぞれ帰るため、灯里と別れた。

 

 そして一人になった灯里。

 

 帰り道の続き、足元に光を発する、丸みを帯びたものを発見した。

 

 手に取ってみると、夜光石であることが分かった。

 

 いささか困惑した灯里。どうして落ちているのだろう。誰かが置いていったのだろうか、それとも落としていったのだろうか。考えた。

 

 置いていったとは考えにくかった。地面に、無造作にあったのだ。持ち主が意図して置くのであれば、他にもっと適当な場所がある。従って、落としていったに違いない。灯里はそう推断した。

 

 夜光石は妙なくらい強く発光し続けていて、海に還すのは勿体ないと、灯里は思った。

 

「まぁ、珍しいわね」

 

 ARIAカンパニーへと帰着した灯里。テーブルに付いてアリシアに事情を話した。アリシアはキッチンで食器をピカピカに磨いていた。

 

「いちばん最後の夜光石だったのかも知れないわね」

 

「それで、今でもこんなに強く発光しているんでしょうか」

 

「うん。そう思うわ」

 

 アリシアの答えの後、テーブルの、ハンカチを敷いた上に置いた夜光石を見つめる灯里。石はターコイズの色で光っている。美しいと思った。

 

 灯里は、ぐうぜん拾った夜光石を、しばらくの間自室の、テーブルの隅に置いて、夜消灯した後その光を楽しんだ。

 

 夏が過ぎ、秋になり、灯里は、掃除しようと思って部屋を巡った。その時、テーブルの上の石に注意が行く。灯里は、別に必要ないと思った。依然発光し続けるその寿命に驚嘆することはなかった。毎夜毎夜見続けて、結局飽きが来てしまったのである。

 

 灯里は夜光石を手に取ると、適当なスペースに突っ込んだ。そのスペースが、引き出しだったというわけである。

 

 その後、月日が経ち、お月見が、ハロウィンが、クリスマスが、続々と終わった。コスモスが咲き、そして枯れ、窓に冷たい結露が出、雪がどっさりと降るようになった。人々は薄着ったのが厚着に変わり、白い息を吐くようになった。

 

 藍華やアリスとは、もう十分楽しんだ。後はその年最後の夜を超すだけであった。新しいカレンダーは用意した。新年を祝うご馳走は翌日アリシアが万端整えてくれる予定だ。

 

 大掃除がんばろうと、灯里は意気込んで臨んだ――

 

 

 

***

 

 

 

 とけない雪がしんしんと降っていた。

 

 夜の海辺は途轍もなく冷える。手袋をはめ、マフラーを巻いてきたが、それでも足りないほどだった。目がしょぼ付き、骨身を切るほどの寒気。緯度が高いネオ・ヴェネツィアでは仕方のないことだった。

 

 持ってきた夜光石は、とうとうその光を弱めていた。まるでこの一年と寿命を共にしてきたようだった。

 

 手のひらにちょこんと載る、ターコイズの淡い光。美しい微光。

 

 自然と、あの夏が思い返される。子供じみて何度も無節操に繰り返した夜の茶会。藍華も、アリスも、よく付き合ってくれた。アリシアが淹れてくれた茶は美味しかった。時にはアリシアや、晃や、アテナも参加してくれた。暁も、ウッディも。更に言えば、グランマが参加してくれたこともあった。わいわいとした賑やかな喧騒が、響き渡ったものだ。

 

 灯里は、何だか不思議な心持ちになってくる。今は一年の最果て冬の真っ只中。その冬の真っ只中で、じぶんは、夏を回顧し、そしてリアルに感じている。降雪に燦々と照る太陽の照射を見、雪雲が垂れ込める夜空に入道雲のそびえる蒼天を見る。

 

 今じぶんは、ゴンドラでちょっと離れたところに来ている。積雪したカバーを外して、眠っていたゴンドラで。

 

 厳しい寒さ。夜の、恐ろしい極寒の海で、灯里はすっかり参ってしまいそうだった。

 

 が、たった一つのともしびが、打ち萎れることのないよう支えてくれていた――あの夜光石だ。

 

 しかし、その夜光石も、最早夜陰に溶け込んでほとんど見えなくなっている。温かい光の感触を感じていた手のひらは、味気ない石の質素な感触しか感じないようになっている。

 

 その時が来たのだ。

 

 灯里は手のひらの夜光石を、そっと、お供えでもするように、海へと下ろした。

 

 穏やかな飛沫を上げ、波紋を広げ、夜光石は、大いなる海への帰路へと付いた。その落ちていく軌跡を、灯里はずっと、いつまでも、ゴンドラのへりより首を伸ばして見下ろしていた。何だか、夏の思い出も、夜光石と共に落ち込んでいき、遠ざかっていくように思った。

 

「ばいばい」

 

 藍華とアリスにしたのよりは、ずいぶんとしんみりした、憂いを帯びた別れの挨拶。手は振らなかった。

 

 

 

 ――ギャレットの大掃除はもう完了していた。ギャレット以外のスペースも抜かりはなかった。

 

 静かな年越し。確かに寒いけど、寒いばかりじゃない。人間は、温もりを持っているし、求めてもいる。もし人間が冬、寒さしか感じることの出来ない憂鬱なだけの生き物であれば、我々は決して厳しい季節を乗り越えることが出来ないであろう。

 

 夜光石の光の温もり、そして夜光石にまつわる思い出の温もり。

 

 それ等の温もりが、凍える寒さに晒される灯里を、やさしく守ってくれていた。

 

 

 

(終)



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Page.12「暁の憂鬱」

サラマンダーの暁。彼にはまだ、友情と恋情の違いが分からないようだ。


***

 

 

 

 何となく寝付けず、フラッとこの店へと来てしまった。夜はすっかり更けている。

 

 店には、特に来たいわけでなかった。足が自然と動いた、と言う感じだった。成り行きだったのだ。不可抗力とも言える。

 

 浪漫房という。浮島の人目に付きにくい一隅にある、こぢんまりとしたバーだ。俺は気に入っていて、ちょくちょく訪れる。

 

 ロックで頼んだ酒。グラスに詰まったそのゴツゴツした氷が解けて、カランと音を立てる。そんなにキツイ酒ではない。眠り薬にと思って飲んでいるだけで、泥酔したくはない。

 

「はぁ」、とひと口舐めるように飲んで、ため息する。

 

 店の時計を見ると、すでに日付が変わっていることが分かる。客数は、多くもなければ、少なくもなかった。

 

 何となく、後ろ暗い気持ちになってくる。

 

 明日は休みなので、こうして夜更かしするのは別に非難されることではないが、酒がどうも美味しくない。

 

「何か悩みでもあるんですか」

 

 グラスを磨くマスターが尋ねる。そのちょびヒゲが昔テレビのバラエティに出ていたある演者を思わせる。

 

「悩み? さぁ、どうだろう」

 

「成るほど、別にそういうのではないんですね」

 

「……」

 

 カウンターに腕組みする俺。

 

 俯いてグラスをじっと見下ろす。飴色のアルコールとキラリと透明な氷。細かいグラスの結露はいかにも冷たそうだ。

 

「泣く子も黙る暁さんだ。悩みに打ちしおれるなんてことは、ないですよね」

 

「……あぁ」

 

 ちょっと考えて、肯定する。

 

 実際泣く子がいたとして、俺がどうやって黙らせることが出来るだろう。むしろ余計に泣かせることになりそうだ。

 

「マスター」

 

「はい」

 

「俺の顔って、怖いか?」

 

「はぁ、暁さんのお顔……」

 

 マスターはきょとんとして、グラスを磨く手を止めると、しげしげと俺の顔を見る。

 

 そのくりくりした覗き込むような目を見返すと、何かむずがゆいような、あまり快くない感じを覚える。

 

「……魅力的ですよ」

 

「……」

 

 一品頼まざるを得なかった。マスターのリップサービス。別に褒めて貰うことで、気持ちよくなったなどということはない。しょせん、お追従だと見抜いている。

 

 文句を垂れる筋合いなどない。元はと言えば、俺の質問が悪いのだ。

 

 

 

***

 

 

 

 時間が過ぎた。浪漫房もとうとう寂しくなった。

 

 汚れた皿がマスターの手に渡り、シンクで水でサッと洗われる。

 

「モミ子っていう奴が、ダチにいるんだが」

 

 と、俺は出し抜けに話を持ち掛ける。

 

「あぁ、あの……」

 

マスターは思い出す。

 

「恋人じゃ、ないんですか? 暁さん、何度もモミ子さんの話をしてくださいますけれど」

 

「恋人!?」

 

 俺は眉をひそめてブルブルと首を振る。

 

「単なるダチだって」

 

 俺はもんもんとして腕組みし、俯く。

 

 グラスには氷がまだ、すっかり小さくなってしまったものの、残っている。

 

 俺って、そんなにしょっちゅう、あいつの話、してるんだろうか――

 

 

 

***

 

 

 

「明日は雨だよ」

 

「エェー」

 

 がっかりしたように、モミ子が叫ぶ。

 

 そのあんぐりと口を開けた様を、俺はゆったりとした羽織の袖を合わせ、ぼんやり見る。

 

「今日の天気予報を見りゃ分かる」

 

「せっかく藍華ちゃんと約束してたのに」

 

 ハァとため息して、モミ子は話し出す。よっぽど残念がっているようだ。

 

「何の約束だ?」

 

「最近新しく出来た洋菓子のお店に行く予定だったんです」

 

「ほぉほぉ」

 

 テキトーに頷いて応えてやる。

 

 モミ子の着るウンディーネの制服。純白のセーラー服。とても可憐だ。

 

 そう思う俺だが、俺の目は絶えずモミ子の小さな横顔に注がれている。可憐なのは、制服のはずなのに。

 

 加えて、こうやってその意気消沈している様を見ると、もやもやとした、どういうのか、自分まで、モミ子と一緒にがっかりするような、そんな気分になってくる。ガチャペンと約束したわけでもないのに。

 

 思うに、モミ子がガチャペンと行くことになっているその洋菓子屋では、ケーキか何か売っているのだろう。モミ子は、下調べして、人気の品を目当てに、毎夜ケーキのように甘い夢で抱いて眠ったのだろう。

 

 同情が頭をもたげる。

 

「今は夏だが」、と俺。「ずっと、カンカン照りだっただろ?」

 

「はひ」、とモミ子。どうにも変わった返事の仕方だ。毎回思うが。

 

「しかし、ずっとそうじゃ、アクアの水が干上がっちまう」

 

 そういうわけで、気候制御ユニット、いわゆる浮島を操作して、降雨させる手はずになったのだと、説明してやった。

 

 そんなに大層ではなかったが、モミ子が落ち込んでいたのは間違いのないことだった。

 

 何となくその肩を叩いて励ましてやろうという気になったが、結局何もせず、俺とモミ子は別れた。

 

 別れ際。モミ子はさっぱりした笑顔で見送ってくれた。

 

 照れ臭くて、俺はその笑顔に頷いて返すことしか出来なかった……

 

 

 

***

 

 

 

 扉を開き、退店する。

 

 また来てくださいと、マスターはいんぎんに言った。何ということはない、通り一遍の挨拶だ。

 

 何とも蒸し暑い。真夜中だというのに、やっぱり夏の夜は、過ごしにくいものだ。

 

 ゆったりした袖を合わせ、その中で腕組みし、とろとろと歩く。程よくアルコールが回って、いい気持ちだ。眠たくもあり、枕が恋しい。

 

 ハァ、とため息。疲れ、憂い、眠気。

 

 島端に来ていた。手すりのすぐ先は切り立った崖だ。

 

 端まで来ると、風のお陰で蒸し暑さは和らいで快適だ。

 

 夜空を見上げると、星。満天の星。

 

 とても静かだ。聞こえるのは風のさざめきと、浮島の機関が動く音だけだった。

 

「恋人、か」

 

 マスターとの話が、モミ子のイメージと共にフッと思い出される。すると、頭の重みがズンと増し、物思いに誘われる。自然と、目が下方にARIAカンパニーを探す。しかし、眠りに付くネオ・ヴェネツィアは、すっかり陰に包まれている。モミ子も眠っていることだろう。

 

「悩み」

 

 と、呟く。

 

「悩みなんて、ねぇよ」

 

 ――本当は、嘘だ。

 

 しかし、眠たかった。心の底より眠たかった。

 

 水平線をみやると、日の出が予感される。

 

 俺はきびすを返し、帰路に付く。寄り道をやめる。

 

 残された夜は短い。だが、昼まで寝てやる。もう、うんざりするほど寝てやる。明日は非番なんだ。

 

 

 

 俺は、何だかもんもんとしていた。

 

 

 

(終)



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Page.13「4月13日.晴」

小春日和の陽気の中、大妖精の三人は憩いに出かける。のんびり穏やかな時間が、流れる。


***

 

 

 

 快晴のある日。空に雨を思わせる雲は一つとしてなかった。ぽかぽかと暖かい、とても過ごしやすい日柄であった。

 

 世界一美しい広場と称されるサン・マルコ広場は、物見遊山に来た人々でたいへん混雑していた。大聖堂は大勢の人々を飲み込み、そして排出している。

 

 広場には人々だけではない。鳩もたくさんいる。そう、人々が餌をやるためだ。白色の広場に灰色の円を成して、鳩達は地面の餌を貪欲についばんでいる。

 

 そういうわけで、広場は何とも騒々しい。

 

「一羽、二羽、三羽……」

 

 広場の一隅にあるベンチ。そのベンチには、三人が座っている。白いセーラー服を着る、ウンディーネ達だ。

 

「数え切れるのか? あんなたくさんいるというのに」

 

「四羽、五羽、六羽……あぁ……」

 

 鳩を勘定する指が止まる。バサバサと翼を振る音。鳩が飛び去る。飛んで来る。更には、通行人が視界を遮る。

 

 ――という風に、もはや収拾が付かない感じだ。

 

「あらあら、たいへんね」

 

「バカバカしい」

 

 おっとりとした微笑のそばでは、呆れを滲ませた険のある目付き。

 

「アテナちゃんの素敵なところじゃない」

 

「素敵? どういうところが?」

 

「えぇ?」

 

 アリシアは誤魔化すように笑む。晃は特別追求はしない。

 

 ハァ、とアテナは疲れたようにため息。

 

「鳩、何羽いるんだろうね」

 

「知るか」

 

 晃はそっけない。

 

「みんな、家族なのかなぁ」

 

「かも知れないわね」

 

 アリシアは、結構付き合いがいいようだ。

 

「とっても、大家族ねぇ」

 

「うん」

 

 三人はベンチに仲良さげに座っている。アテナとアリシアは、べつだん注意に値する生き物でもないのに、鳩の動向に好奇の目を注いでおり、他方、晃は、黙然と目を瞑り、腕組みし、何とも気難しい雰囲気だ。

 

 青空を見ると、まるで不動のように見える。しかし、実際は動いているのだ。太陽は目には見えないルートを進んでいる。

 

「あっ」

 

 アテナは何か発見したように、空に指差す。他の二人はその先を見ようとする。

 

 そうして三人は、白いヴェールの奥に、小さな物影を見つける。

 

 宇宙船が飛んでいるのだった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 ランタンを載せたような形状の街路灯のある、石造りのシーサイド・ストリート。

 

 まっすぐ伸びるそのちょうど中央のスペースには、等間隔を置いて木が植えてある。とても小さく細い木だった。

 

 鳩はもういない。いるのはウミネコだ。さっきとは違う鳴き声が響いている。

 

 人通りは決して少なくなかったが、喧騒はもう遠いものであった。

 

 三人は、建物が並ぶ反対側の、海のそばを歩いている。

 

 水際のため風がしたたか吹いており、三人はそれぞれ制帽を脱いで、手に持っていた。

 

 アテナがささやくような声で舟歌を歌っている脇で、アリシアと晃はおしゃべりに興じていた。

 

 話題は各々の後輩のことであった。アリシアの口振りでは、灯里は優秀なように聞こえる。アリシアが優しいためだ。ところが晃の口振りでは、藍華はずいぶん不良に聞こえる。

 

 実際は灯里も藍華も、年数に大差がなく備える実力は五分五分なのだが、結局のところ、論う者が違えば、その評も違ってくるというわけだ。

 

 舟歌は二人の話をよそに、しずしずと続いている。

 

 一見関心がないようだが、アテナも実は、後輩に、アリスに思いを馳せていた。そして、自分であればどういう風に評価するか、密かに考えているのだった。

 

 風がブワッと吹く。アテナは顔を俯けてやり過ごし、風がやむと、手でその薄紫のショートヘアをサッと直す。ロングヘアの二人に比べると、手直しは簡単なようだった。

 

 三人はやがて、あるこぢんまりとした教会のそばにやってくる。

 

 足を止めたのは、その中よりある音色が聞こえてくるためだった。ピアノの音色だ。

 

 アテナの舟歌も中途で終わった。

 

 教会では、よく知っている音楽家の曲が弾かれているようだ。今はもう亡くなった音楽家だ。

 

 三人は海辺を離れ、教会のそばまで寄り、アリシアは、その壁に耳を付けてよく聴こうとする。

 

 厳かで、それでいてほのかに安心を感じるピアノの音色が、壁伝いに、伝わってくる。

 

 満足して、壁より耳を離すと、アリシアは問いかける。

 

「アテナちゃん、入ってみる?」

 

 その顔のそばで指差して見せて、何とも可憐な仕草だ。

 

「……」

 

 アテナはこくりと頷いた。興味しんしんの様子である。

 

 アリシアは「フフン」と目を瞑ってにっこりすると、指を下ろす。

 

 そして目を開くと、残りの一人に投げかける。

 

「晃ちゃんも、いいわよね?」

 

「あぁ」

 

 気難しいウンディーネはあっさりと答えた。

 

 合意が済んで、三人は、アリシアを先頭に扉を開き、中へと入っていった。

 

 ギシギシと、扉はずいぶん古くなっているのか、重々しい軋みと共に開いた。

 

 

 

***

 

 

 

 夕暮れのサン・マルコ広場。

 

 人々の喧騒はもうなかった。鳩も、今では指折り勘定出来るくらいしかいない。

 

 日はほとんど落ちて、空は夕焼けに染まっている。

 

 三人は広場の真ん中に並んで、大聖堂の巨影を見上げている。

 

 それぞれにこやかで、すっかり満足したようだ。

 

「アリスちゃんは、どう?」、とアリシア。

 

「え」、とアテナは驚いたように目を見開いたが、程なく落ち着くと、少し考え込んで、夢見るように答えた。

 

「いい子よ。とても、うん、いい子」

 

「そう」

 

 アリシアは、喜ばしげに、にっこりして返す。

 

 しかし、晃は険相を変えず、腕組みして言う。

 

「おのれの才能に溺れないよう、注意しておけよ」

 

「才能?」

 

「アリスは天才肌で、あんまり努力しなくても、何事もじょうずに出来る、出来てしまう」

 

 アテナは俯いて、聞き入る様子だ。

 

「だが、その点が――才能があるということが、かえってデメリットになるということもある」

 

「そうね。そうかも知れない」

 

 神妙に、アテナは頷く。

 

「もう、晃ちゃん、アリスちゃんのことは、アテナちゃんに任せればいいのよ。他社のわたし達が余計なアドバイスするのは」

 

「あぁ、分かってるよ」

 

 と晃は、低く挙げた手を倒すようにして、アリシアの批判をはねのける。

 

「別に、お前のやり方が気に食わないとか、そういうんじゃないんだ。ただ、アリスのような奴を見ると、どうしても」

 

 晃が話す途中、アリシアはこっそりアテナに耳打ちする。アテナは首を傾げるようにして、耳を貸す。

 

(晃ちゃん、ちょっとアリスちゃんに、嫉妬してるのよ)

 

(あぁ)

 

 アテナは、合点が行って笑む。

 

 目を瞑って講釈を垂れ続ける晃は、きょとんとして、クエスチョンマークを頭上に浮かべる。

 

 アリシアは空に指差す。

 

 晃は仰向いて、星を見出す。そして夜の訪れを知る。

 

 また、下りようとする夜の帳に、信号灯の点滅する宇宙船も見る。昼の宇宙船が、帰還してきたのだろうか。

 

 アテナの見上げる視界に、小さな物影が通る。微かに、翼の音がした。

 

 遅れた鳩が、ようやく巣への帰途に付いたのかも知れない。

 

 ――と、そんな風に、アテナは考えた。

 

 

 

(終)



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Page.14「惑いの音色」

ある日の夕暮れ、水無灯里は、夢想めいたところに迷い込んだ。長い一本道の先で遭遇したのは、もう一人の"わたし"だった。


***

 

 

 

 ピアノの音色がふと聞こえてきたかと思えば、わたしは、じぶんが橋の上に立っていることに気付いた。

 

 忘れていたのだろうか。ぼんやりしていたのだろう。

 

 大きな、途轍もなく大きな橋だった。夕暮れのネオ・ヴェネツィアの街並みが、遠く背後、彼方に遠望される。

 

 前を見遣ると、橋がずうっと水平線まで伸びているのが見えるばかり。

 

 この橋は、いったいどこへ続いているのだろうか。またわたしは、どうしてこんな長大な橋を、こんなところまで、ネオ・ヴェネツィアが小さく見えるところまで、来てしまったのだろう。

 

 ピアノは今も続いている。心地よい、甘いメロディーが、どこからともなく響いてくる。まるでわたしを誘うように。呼び寄せるように。

 

 広漠としたアクアの大海のその上、暮れなずむ太陽が燃えている。目を刺す光がさんさんと照り付ける。だが、淡く、冷たく、そして美しい。

 

 振り返ればわたしの暮らす街。懐かしい故郷の眺望。

 

 帰りたいという思いが募る。だけど、きびすを返したところで、うんざりする距離を引き返すことになるし、何よりそもそも、わたしは、じぶんの立脚するこの橋が、何だか現実味がない感じがする。

 

 手すりまで行って下を見下ろすと、アーチが水面に映っている。橋のアーチだ。石造りの橋。頑丈そうな、それでいて、今にも崩れてしまいそうな、儚い、白っぽい橋。

 

 ――。

 

 歩き続けると、ピアノの音が次第に近付いてくる。

 

 ドキドキする感じを覚える。

 

 わたしは歩を進める。

 

 すると、真っ黒なグランドピアノが現れる。橋の中央に。先はまだある。ピアノはまるでわたしを足止めするようにある。

 

 弾いているのは、誰だろう。逆光で見えない。

 

 相手はわたしの到着を知ると、演奏を中断し、深く頭を下げる。

 

「こんばんは。ようこそお出でくださいました」

 

 わたしははっとする。

 

「水無、灯里さん」

 

 同じ名だ。わたしと、同じ名。

 

「あなたは」

 

 名前が同じ。そして、姿も――

 

 桃色の髪。耳のそばを下りる長いまとめ髪。その金色のリング。ほっそりした体。そんなに高くないけど、低くもない身長。

 

 椅子より立ち上がり、水無灯里が、逆光の成す陰より、明るみへと現れ出る。

 

 ――ドッペルゲンガーという現象がある。自分と瓜二つの、生き写しの相手が存在して、その者と遭遇すると、絶命してしまうという、一種の都市伝説である。

 

 夢幻にいる彼女は、わたしに挨拶し、握手を交わし、そして言葉を交わす。

 

 沈まずにある夕日の光が灯里を掻き消そうとする。

 

 彼女は笑み、真顔になり、再び笑み、ある時は問い、ある時は答え、またある時は、沈黙する。

 

 閉じた唇は不気味なほど長い曲線を描いている。その瞳は、寒々とするほど冷色に染まっている。からかうような微笑。

 

 

 あなたは、誰?

 

 あなたも、誰?

 

 わたしは、水無灯里

 

 わたしも、水無灯里

 

 ウンディーネをやってるの

 

 ぐうぜんね、わたしもそうなのよ

 

 嘘。あなたはピアノを弾いてる

 

 アハハ

 

 わたしはピアノ、弾けないもの

 

 じゃ、あなたの方が劣ってるってわけね

 

 ……。

 

 

 夕日が、信じられないくらい大きく、わたしの方に迫っている。

 

 静かになったピアノはその光を帯びて、一緒になって燃えているようだ。

 

 手すりまで行って、下を見下ろしてみる。水面には、穏やかに波の立つ水面に、わたしの反映。いくぶん乱れた反映。

 

 ここにいるのは、本物のわたし。本物の水無灯里。あそこにいるのは偽物のわたし。誰か悪い人が扮装したわたし。

 

 だけど、そっくりだ。それに、あの人の奏でる音色はとても耳ざわりがいい。甘く、切なく、そして、あの夕日のように美しい。

 

 何だか眠たくなってきた。じんじん頭痛もする。

 

 わたしは目を瞑った。5分くらいの間。そうして時間を過ごした。

 

 すると、知らぬ間に気絶してしまったようだ。

 

 我に返ると、わたしはネオ・ヴェネツィアの水路に、ゴンドラの客席にぐったりと半ば横たわるように座っていて、ゴンドラは、壁の方に流されていた。

 

 オールが無造作に置かれている。

 

 わたしはその柄を握った。どうにも握力が出なくて、オールがやけに重く厄介に感じた。

 

 頭痛はまだする。

 

 夕暮れのネオ・ヴェネツィア。空はオレンジ色。だけど辺りには夜の陰が下りている。薄暗い。

 

 ゴンドラより身を乗り出して、水面を窺う。水面には、わたしの反映。

 

 ピアノの音色はもう聞こえない。

 

 近くには、既視感のする石製のアーチ橋。でも、あれほど長くない。住宅街を隔てる水路の上に架かる、それだけの橋。

 

 まだ眠たい目をこすると、だんだん覚めてくる。

 

 やっぱり、そうだ。わたしは、ピアノを弾いたことなどないのだ。

 

 胸にそっと手を当てて目を閉じ、意識を集中する。

 

 すると、心臓の鼓動の代わりに、聞こえなくなったあの甘い楽器の音色が、不思議な響きを伴ってわたしの体中に広がるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.15「ぼやけた眼の見るもの」

***

 

 

 

 冬の中頃のとある一日。北風のよく吹く寒い、さっぱりと晴れた日。

 

 わたしは、海辺のベンチにひとり、ぼんやり座っていた。周りには誰もいなかった。夕暮れ時だった。

 

 今日は寒い。全身が微かにふるえているのが分かる。息を吐くと、喉までふるえているのが分かる。

 

 だが、帰ろうとは思わなかった。もうちょっと、こうしてここに座っていようと思った。

 

 見上げると、小さなあかりの点滅しているのが見えた。宇宙船の信号灯だ。サン・マルコ広場のドックより出て、マン・ホームに向かうのだろう。

 

 信号灯の点滅としてのみ見えるその旅の船を、わたしはずうっと目で追った。切れ切れの雲が浮かぶ夕空を、そのあかりはゆっくりと飛行していく。

 

 そしてやがて、雲の濃いところにまぎれて、見えなくなる。

 

「藍華、こんなところで、一体何してるんだ?」

 

 ふと声がして、首を曲げてわきを見ると、あぁ、と納得する。

 

「晃さん」

 

 姫屋の先輩だ。腕組みして、何だか気難しそうな雰囲気だが、まぁ、いつものことだ。

 

「たまには、こういうのもいいかなぁって」

 

「こういうの?」

 

 晃さんは小首を傾げ、怪訝そうにする。

 

 わたしは「えへへ」と晃さんに向かって照れくさそうに笑むと、また空に目をやる。

 

「こうしてぼうっと空を見るのも、何かね、気がまぎれるというか、自分を忘れられるというか……」

 

「要するに、何かすっきりしないことがあるというわけか」

 

「え?」

 

「そうだろう?」

 

 すっきりしないこと――何だろう。自分でもよく分からない。

 

 海の水音が聞こえる。じゃぶじゃぶと。海には満々と水が漲っている。

 

 しかしこの時期に海水浴というのは、恐ろしいことだろう。凍える寒気。心臓が止まるほどの冷水。そうだ。冬の海は、余りにも厳しいのだ。

 

 すっきりしないこと――わたしは、自分でも把握出来ないような深いところに、わだかまりを負っているのだろうか。

 

「まぁいろいろあるだろう、生きてりゃ」

 

 両肩にポンと手がのる。晃さんだ。晃さんは、わたしの背後にいつの間にかいて、わたしとほとんど密着する距離にいる。それが、何だかわたしを安心させる。

 

「かんたんに始末出来ることがあれば、反対に、始末の悪いこともある。そういうものだ」

 

「そうですね」

 

 紫っぽい夕空にある雲の内、ある断片的な雲が、輪郭がぼやけていて、まるで乱雑な絵筆の跡のようだ。

 

 日の暮れていく空。とても名残惜しい思いにさせる空。待ってと懇願しても、甲斐のない、寂しい空。

 

 晃さんの手は、とても温かい。その温もりが、手の重みと共に、肩より伝わってくる。

 

 だが、その温もりも消える。空は暗くなる。

 

 晃さんはもういない。わたしはまだベンチに座って、ぼんやりしている。

 

 気ままに随想を、指で夜空に描き出す。すると、白いもやもやが軌跡となって現れる。鳥を描けば鳥が現れ、翼を開いて羽ばたき、飛んだり、餌をついばんだりする。そして消失する。

 

 わたしは晃さんを描いてみる。すると、晃さんはわたしに、風邪を引くぞ、とか、明日朝起きられないぞ、とか、甲斐甲斐しい注意を言ってくれる。

 

『要するに、何かすっきりしないことがあるというわけか』

 

「――と、思います」

 

 耳鳴りのように響くまぼろしの声に、わたしはうなずいて返す。

 

「選択肢がいくつかあって、ううん、いくつも、数え切れないくらいあって、わたしは、選択肢は、たったひとつでいいのに、そんなにあるから、選べなくって、迷って、それで……」

 

 どうすればいいんだろう、わたしはそう、自問するように、晃さんに問いかけた。ひしと切ない思いを抱いて、頼れる先輩を頼った。

 

 ――だが、晃さんはもう跡形もなかった。

 

 きっと姫屋に帰ったのだろう。そうに違いない。

 

 わたしは自身をぎゅっと抱く。寂しいという気持ちで。寒いというつらさで。

 

 わたしの肩にもうあの手はない。あの温もりはない。そしてわたしの指は、もう何も描くことは出来ない。

 

 夜空には星がいくつもあった。いくつも瞬いていた。ひとつでいいのに。たったひとつで……。

 

 わたしはフラフラとめまいがする感じを覚えた。

 

 そしてその、空に星がいくつもあるということが、わたしにとって、苦しい重圧であった。

 

 

 

(終)



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Page.16「舟歌の思い出」

故きよき思い出。大人になったアリスに、ある日、よく親しんでもういなくなった先輩の思い出が訪れる。


***

 

 

 

 夢を見ていた──かどうかは定かではないけれど、わたしは眠っていた。

 

 夜が明け、朝がやってくる。閉じたカーテンの細い隙間より、淡い朝日が差して来、床に一筋の線を描く。

 

 目をゆっくりと開く。わたしはひとりだった。そう、ひとりきりで、部屋にいて、割に広いベッドに、やっぱりひとりで寝ていた。オレンジ・ぷらねっとの部屋だ。

 

 眠りは健やかなものだった。ただ、何となく中断したという気が止まずにある。トイレに行くために起きたのだろうか。考えるが、どうも違う感じがする。夢を見たのだと思う。それも、快い夢だ。本当に見たかどうかというのは、やっぱり定かではないのだけど。

 

 だが──あぁ。

 

 そうだった。あぁ、そうだったのだ。年というのは余り取り過ぎるとよくないものだ。だんだんと、頭の働きが鈍くなってくる。

 

 わたしはようやく思い出した。

 

 音色が聞こえている。いや、音色ではない。音色ではなく、声だ。歌声。

 

 古いプレーヤーがベッドのそばのナイトテーブルに置いてある。カセットプレーヤーだ。ボタンを押すと、蓋が開く。

 

 そのプレーヤーが、ずっと作動していたのだった。ゆうべ就寝の際に聴こうと思って付けて、だけど消さず眠り込んでしまって。

 

 おぼろげな夢が、今蘇ってくる……

 

 

 

 

 

 

 季節は夏だった。夏だったと思う。定かではないけれど。

 

 周りには、季節を判断するものがほとんどなかった。わたしは海辺の道路にいた。後ろにはネオ・ヴェネツィアを走る鉄道の線路と、踏切とがあった。その先には何があったのだろう。夢のわたしは、よく見なかったので、分からない。

 

 見上げると、抜けるような青空。もくもくとどこまでも膨らんでいこうとする綿雲が美しくまた壮大で目を奪う。入道雲なのだろうか。ということは、やっぱり季節は夏なのだと思う。

 

 海辺を吹き抜ける風はしかし涼しい。わたしはいくぶん当惑する。

 

「わたしにも、歌えるでしょうか」

 

 と、わたしは自信もなく、隣人に問いかける。悄然として、答えなど必要としていなかった。

 

「カンツォーネ?」

 

 淡いライラックの髪。短めの髪。わたしと彼女は並んで歩いていた。

 

「はい」

 

 ウミネコの鳴き声が響く。彼等の声は可憐だ。とても可憐で、まるで歌でも歌っているようだ。

 

「そうねぇ」

 

 彼女は考え込むように、目を上向きにして、腕を腰の後ろに組む。

 

 わたしはそんな彼女の様子を窺うようにして見ていた。そして内心、励ましを欲していた。後押しとか、鼓舞とか、動機付けとか、そういったものを、求めていた。自分で得ようとしないところが、どうも情けないと思った。しかし、そういうのがわたしなのだった。

 

「自信さえあれば、歌えると思うわ」

 

「自信」

 

 彼女は頷く。

 

「アリスちゃん、いつも声が小さいからね。その声だと、カンツォーネを歌うにはちょっと足りないかなぁって思うけど──

 

 

 

 

 

 

 夢の船が残していった消え消えの航跡を、覚束ない足取りで辿っていく。カーテンより来る朝日の線が、徐々にベッドの方に伸びてくる。

 

 わたしは、何か込み上げてくるものを感じる。胸にある温かいような、熱いようなものがじんじんと、その熱を喉の方に伝える。

 

 嗚咽が出てきそうになる、そんな感覚がする。

 

 心なしか、目頭までも熱くなっている。

 

 

 

 

 

 

 ──自信を持って、声を張れば、アリスちゃん、元々可愛い声をしているんだもの、きっと、わたしよりいいカンツォーネの歌い手になれるわ」

 

 隣人はもういなかった。その声は長い余韻を残すと消えた。

 

 わたしはひとりだった。やっぱりひとりだった。

 

 ひとひらの羽が宙を舞って落ちてくる。わたしは目の前に落ちたその羽を見下ろす。白い羽。きっと、ウミネコの羽だろう。ウミネコ達はもういなかった。入道雲はまだ空に堂々とそびえたっていた。どこまでも青い空。見ていると胸がきゅんと切なく痛むような、綺麗な夏の空。思い出が浮かび、流れ、そして消えていく。

 

 あの頃わたしはまだ十代だった。ところが今ではもう二十を超えて、いい年頃である。

 

 年というのは、余り取りたくないものだ。

 

 だが、そんな思いは虚しい。時間は止まることなく過ぎていき、有為転変は世の習いだ。新しい命が芽吹く一方では、古い命が枯れ落ちるのだ。

 

 隣人はもういなかった。

 

 わたしはふと気が付く。腕時計を忘れたつもりが、実は腕にあったということがあるが、そんな風に、わたしは失念していた。

 

 手に、カセットテープのプレーヤーを持っていた。そしてそのプレーヤーは動いており、ある歌声を再生していた。ザラザラとした雑音が入り混じっているものの、その歌声は耳なじみのものであり、雑音があったところで、クリアーに聞こえた。

 

 カンツォーネだ。彼女が好んで歌っていた、みんなに愛され、聴かれ、それぞれの心の琴線に触れた、あの歌だ。

 

 

 

 

 

 

 洟をすすり、目元をさっと拭う。陽光を反射するシーツの白が眩しい。

 

 わたしはもう若くなかった。女として、その事実を悟るのは厳しいことだった。

 

 プリマになって、かれこれ何年も経つ。そろそろ、引き際を考えないといけない頃合いだ。

 

 そう思ったところで、憂鬱ではなかった。憂鬱ではなく、むしろ欣快だった。

 

 半身を起こし、長い髪を手でさっと撫でると、ナイトテーブルの方に目をやった。

 

 カセットプレーヤーの蓋の透明なところより、カセットに貼ってあるシールに書かれた文字が、小さく見える。録音の内容だ。

 

 シールには、こう書いてあった。

 

『アテナ先輩』

 

 

 

(終)



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Page.17「麗しきまぼろし」

天気雨に見舞われた冬の一日。ARIAカンパニーの水無灯里は、不思議なビジョンにいざなわれる。


***

 

 

 

 いつもの合同練習――姫屋の藍華ちゃんと、オレンジ・ぷらねっとのアリスちゃんの二人とちょくちょくしている、水先案内人としての精進を志す和気藹々とした練習が、今日約束されていたのだが、突然の雨降りによって中止となった。

 

 その連絡は、藍華ちゃんがしてくれた。彼女はわたしに電話をくれたのだ。わたしは準備していた。合同練習に行く用意は万端だった。しかし、窓の外に、パラパラと雨が降ってきたのを見ると、ちょっと呆然とした。ひょっとして、合同練習がおじゃんになるかも知れないと憶測した。

 

 アリシアさんはARIAカンパニーにいなかった。わたし

には日が暮れるまでは外出しているので、来客があっても断って欲しいと言い付けた。

 

「うん、そんなに強くはないけど」

 

 と、電話の子機を耳にあてがって話すわたしは、窓辺に背を持たせていた。

 

「やっぱり、やめにする?」

 

 電話の向こうの相手は、そうね、とどこかそっけなく答える。

 

 わたしは窓の外を見遣る。雨は降っている。確かに降っている。そんなに雨脚は強くない。それに、空は晴れている。天気雨というやつだ。晴れているのに、雨粒が落ちる。不思議な現象だと思う。一体どこから、その雨粒はやってくるのだろう。

 

 わたしは空を見上げた。太陽が眩しい。真冬の太陽はチクチクする光を投げるものだ。わたしは思わず目が眩んだ。

 

 室内は暖房が効いていて、とても暖かい。ホッとする心地だ。外は、きっと厳寒だろう。厳寒に違いない。

 

 そう考えると、合同練習が中止になるのは、都合のいいことだと感じた。

 

 だが、余った時間が出来ることは、どうだろうか。わたしは、無為に過ごし、その余った時間を浪費するのだろうか。

 

 子機を持たない方の手が落ち着かず自然と遊ぶ。近くにあるカーテンをきゅっと優しく抱く。やわらかい感触がし、花の香りがふんわりと微かに香ってくる。

 

 その後、しばらくわたしは藍華ちゃんと話し込んで、通話は終わった。取り立てて印象に残るところのない通話だった。

 

 子機を元に戻す。そして窓辺に再び寄り、ガラスに片手で触れ、海を眺める。カーテンはいくぶんくしゃっと崩れている。

 

 空はやはり晴れている。すっかり晴れている。だが、窓ガラスには細かい、目を凝らさなければ見えないほど細かい雨粒の点々がある。

 

 凍えるほどの寒気を遮断する窓ガラス。室内は暖房が効いている。とても暖かく、じっとしているとだんだん眠たくなってくるようで、わたしは目を瞑る。すると、どうしてか涙が出てくる。たった一筋だけ、ツーッと頬を伝う。悲しみなどまったくない。眠気は些少ある。

 

 わたしは指でさっと涙を拭うと、ちょっと散歩に出かけようと決めた。夕暮れだった。アリシアさんはもうすぐ戻るのだろうか。わたしは防寒具を用意すると、出かけた。入口の施錠がちゃんと出来ているか、何度も確認した。

 

 

 

 

 

 

 外は思いのほか風が強かった。突風の行き来が激しく、わたしは歩いていて揺さぶられる気分だった。

 

 ネオ・ヴェネツィアの水路にも、海にも、舟は少ない。ゴンドラは見かけない。道行く人々はわたしと同様、寒さを防ぐ万全の恰好でいる。よそよそしく、寒さの中、寒さより逃げるように、そそくさと、影の如く歩いている。

 

 どことなく白々しい感じのする真冬の夕陽。夏であれば陽炎の立つ地面には、今は橙色が明々と滲むばかりだ。

 

 わたしは海に向かって立った。すると特別強い突風が立ってわたしに向かって真正面より来る。わたしは目を瞑って、首に巻いたマフラーが引っ張られる感覚を覚え、反射的に首元を両手で抑える。心なしか息苦しい感じがする。

 

 空気がブルブルと震えるほどの突風が止むとわたしは目を開け、空を見上げる。

 

 鮮やかに輝く夕空。太陽は遠くに浮かんでいる。その麗しいビジョンに、わたしは息を呑む。

 

 たなびく雲は、幾重にも重なり合って、滑るように動いて、強い風に運ばれている。

 

 ふと、微かに冷たい感触がする。肌の露出した部分に、水がかかったようだ。そうだ。雨が降っているのだ。しかし、傘を差す必要のないほどの微雨だ。

 

 わたしは振り返った。すると、ネオ・ヴェネツィアの上に、虹がかかっているのが見えた。この微雨の成せる虹だろう。綺麗に曲線を描いて、虹は古都を跨ぎ、その上には、宇宙船が、浮島の下を、信号灯を点滅させて飛行している。

 

 目を再び瞑る。するとあるイメージがぼんやりと現れる。青空には無数の雲、空の青を隠さないほどの雲。たなびいていて、流れている。強風が絶えず吹いている。しかしある瞬間、雲の隙間より、光の束が通って来、世界に輝く柱を打ち立てる。美しい白い鳥がその柱の周りを巡って飛ぶ。

 

 光の柱はどんどんと広がっていき、やがてあまねく世界を白く染める。

 

 

 

 

 

 

 灯里ちゃん

 

 怪訝そうに呼ぶ声。

 

 わたしは目を開ける。

 

 辺りは真っ暗だった。夜になっていたのだ。

 

 呼んだのはアリシアさんだった。何という偶然だろう。

 

「アリシアさん」

 

 と、わたしは呆然として鼻声で呟いた。寒い中ずっと突っ立っていたのだ。鼻がやられてもおかしくはない。

 

「こんな遅くまで、合同練習?」

 

「ううん」とわたしは首を左右に振る。「合同練習は、雨で中止になったんです」

 

「まぁ、そう」

 

 空を仰いでも、もうあの虹はない。消えた。代わりに、街路灯のぼんやりとした濁った光の広がりがあるばかりだった。

 

「変わった雨だったわね」、とアリシアさん。

 

「はひ。天気雨でした」

 

 わたしとアリシアさんは一緒になって歩き出す。行く先は勿論、ARIAカンパニーだ。

 

「虹がかかってたんですよ。ご覧になりましたか?」

 

「えぇ、見たわ」、とアリシアさん。「わたしは、建物の高いところにいてね、目線が虹のてっぺんに近くて、ちょっぴり感動しちゃった」

 

 微雨はやんでいた。地面はすっかり乾き切っている。風もやんでいた。

 

「フフッ、そうだったんですね」

 

 最早、雨が降っていたことを確かめることの出来ないほど、その痕跡は絶えてなかった。まぼろしの如き雨だった。

 

 道中、アリシアさんは色々と話をしてくれた。その話のどれも、聞いていて楽しかったはずなのだけれど、わたしはコクリコクリと寝ぼけたように頷いて返すことしか出来なかった。

 

 

 

 夜、寝る時、アリシアさんは自宅に帰っていていなかった。

 

 真っ暗の部屋。ベッドの中で、わたしは悶々として、今日のことを思い返した。そして直近のアリシアさんとの会話を回想して微笑し、その次には、中止になった合同練習、そして、藍華ちゃんとの電話を思い返した。

 

 そして、明日はちゃんと晴れて、一滴の雨も降らず、首尾よく合同練習が出来ることを願った。

 

 目元より流れる涙。思うにあくびのせいだろう。

 

 わたしは目を瞑る。すると、細かい雨粒に濡れた窓や、美しい夕暮れや、光の柱を目蓋の裏側に見る。虹が、ネオ・ヴェネツィアを包むようにかかっている。

 

 灯里ちゃん、と呼ぶ声。やさしい、まぼろしの声。

 

 わたしはあえて応じない。

 

 おやすみなさい。

 

 アリシアさんの声だった。

 

 

 

(終)



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Page.18「紅色の耳飾り」

非番の一日。姫屋の二人は自室でそれぞれ自由にくつろいでいた。カーペットにぼんやりする藍華。彼女はふと、晃との、過去にあった出来事を思い出す。


***

 

 

 

 泣きべそをかいた顔を見せると、あの人はにっこりと笑い、わたしの頭をやさしく撫でてくれた。昔の話だ。

 

「晃さん」

 

 わたしはそう呼びかける。

 

 すると、「うん」、と短く発して、椅子に座っている彼女はわたしを見る。眼鏡をかけている。普段はかけていないのに。どうも目がよくないみたいで、ああして視力を補強しないと、読み物の文字がよく読めないみたいだ。

 

 昔わたしはよく泣いたものだ。本当に、簡単に、あっという間に泣く子供だった。そういう風に、親は、いくぶんの嘲りを込めて語る。わたしはそのことを聞く度にしっくりしない気分になる。というのも、よく覚えていないのだ。確かにひんぱんに激情と落涙とで頬を赤くしていたとは思うが、実際はどうだったのだろう。

 

 わたし達は部屋に一緒だった。わたしは四角いテーブルにカーペットにべったりと座ってぼんやり無為に過ごしており、他方彼女は――晃さんは、デスクに向かっていた。だが、課業に従事しているというわけではなく、雑誌を読んでいるのだった。今日は仕事が休みだった。

 

 短く切った髪の毛に触れ、指で弄ぶ。だが、短いがゆえ、弄びがいがあんまりない。

 

「何だ呼びかけておいて、何か言うことがあるんじゃないのか」

 

「……」

 

 わたしはあえて応答しなかった。

 

 すると、彼女はいささか憮然としたように、また呆れたように、スゥと鼻でため息すると、目を再び雑誌に移す。

 

「悪いが、お前の無聊を慰めることは出来ないぞ。わたしはわたしで、やりたいことがあるんだ」

 

「そうですか」

 

「あぁ」

 

 艶やかな褐色の髪が部屋の照明を受けて麗しい光沢を放っている。耳には紅色の飾り。ジュエリーのようで、とても綺麗と思う。多分、あの色にはこだわりがあるんだろう。詳しく聞いたことはないけど。

 

 では、今聞いてみよう。どうせ暇を持て余しているのだ。

 

「耳飾り」

 

「うん」

 

「その赤い耳飾りって、どこで買ったんですか」

 

「この耳飾りか?」

 

 晃さんは首を傾げて、わたしに見せ付ける恰好になる。紅玉がきらりと煌めく。その煌めきは魔性を帯びているようで、わたしは心なしか胸が高鳴る。

 

「ずっと綺麗だなぁって、思ってたんですけど」

 

 そう言うと、晃さんは手の雑誌をデスクに置いて腕組みし、天井を仰いでううんと唸り始める。

 

「忘れた」

 

「えっ 忘れちゃったんですか」

 

「あぁ、たびたび買っているんだ。どれがどの店で買ったものなのか、一々覚えてなんていられないよ」

 

「まぁ、そうですよね」

 

「何だか釈然としていないようだが」

 

「別に……」

 

「この赤は」

 

 、と言って晃さんは耳飾りを指さす。

 

「薔薇の赤そっくりで、綺麗だろう?」

 

 何とも嬉しそうに、自慢げにそう言う晃さん。

 

「えぇ」、とわたしは答える。

 

 すると、突然、わたしの瞳の中で、何かが砕け散る。粉々になって、ダメになる。わたしはハッとする。幻(ビジョン)だった。

 

 親はわたしに、昔はよく泣く子だったと言う。老舗姫屋の跡取りが、泣き虫では頼りないと憂慮していたようだ。

 

 砕け散ったのは赤い、丸い玉だった。晃さんの耳飾りにそっくりの、否、最早、その耳飾り自身であったかのように思えるほどの、紅玉だった。

 

 珍しいガラス玉を拾ったと、わたしは友達の皆に見せびらかして回った。わたしがとても、とても幼少だった頃のエピソードだ。

 

 今日のように面白みのない一日のことだった。わたしは散歩するでもなく外に出ると、刺激を求めてブラブラ歩いた。泣き虫でもあれば、活発で快活な子供でもあったらしい。親の語るところだ。わたしはよく覚えていない。

 

 わたしは途中、物陰に、美的感覚に訴える煌めきを発見した。その煌めきが、例のガラス玉だったというわけだ。実際は安いガラス玉であったが、わたしには、宝玉同然の代物であった。無知だったわたしにとってはそうだった。

 

 わたしは本当に凄いものを拾ったと思って有頂天だった。薔薇と同じ色をした宝玉。わたしはポケットのハンカチで丹念にその玉を磨くと、近いところにある友達の家を訪ねて見せびらかした。

 

 皆、異口同音に「すごぉい」と感嘆してくれた。わたしは嬉しかった。とても嬉しくて手の舞い足の踏む所を知らずといった感じだった。殺伐とした一日に鮮やかな彩りを加える一事だった。

 

 太陽の光を透かして眺めると、その玉の光は一層美しく見えた。わたしは一通り見せびらかしてしまうと、今度はより綺麗に見える場所を探して彷徨した。さんざん歩き回ったが、疲れ知らずだった。

 

 ある建物、公に開放されている一軒の、その屋上に上がったわたしに、悲運はやって来た。いいロケーション。いい時分だった。目前に太陽があり、それも夕方で、赤々と照る夕日だった。

 

 わたしは何かの儀式でもやるように、しかつめらしい仕方で、小さなガラス玉を両の手で持ち上げ、夕日に捧げるようにかざした。

 

 その時だった。強風が吹いてわたしは気が逸れ、そして、ガラス玉が落ちた。

 

 愕然として地階まで急いで下りていき、わたしは地に両手を突いてボロボロと涙をこぼした。ガラス玉の破片がその辺に散らばっていた。見るも無残に散らばっていた。

 

 ガラス玉と一緒に、わたしの心までが砕け散ってしまったようにその時思えた。胸が痛かった。後悔が大波のように押し寄せてきた。自責の念もあった。

 

「大丈夫か」

 

 と、ふと、声がかかった。わたしはべそをかいた顔を上げた。すると、長い褐色の髪の、すらりと背の高い女性が見えた。彼女が誰なのかは、その当時あんまり知らなかった。親から素晴らしい水先案内人がいるとは聞いていたが、所詮その限りで、疎かった。晃という名前は、ちゃんと知っていたけど。

 

「やれやれ」

 

 彼女の隣には、ブロンドの女性がいた。今となっては、よく知っている人物である。

 

 晃さんは薄暗い中地道にガラスの破片を拾い集めると、両手に乗せてわたしに見せてくれた。

 

「悲しいなぁ、こんなになってしまったなぁ」

 

 わたしはちょっと治まっていた悲しみが、晃さんのその言葉でまた込み上げてきて、涙が噴出した。

 

「あらあらまぁまぁ」

 

 あやしてくれたのはアリシアさんだった。彼女は小さなわたしの隣にしゃがんで、背中を撫でてくれた。そのお陰で、ずいぶんと落ち着いたものだ。

 

 他方晃さんは、細片となったガラス玉を宙に繰り返し投げて遊んでいた。その細かい破片の、夕日を受けて放たれる光が、綺麗に見えたものだ。

 

「――わたしは、覚えてますよ」

 

「?」

 

 晃さんはきょとんとする。

 

「覚えてる? 何をだ」

 

 わたしはあえて応答しない。

 

 すると晃さんは、やはり憮然として、鼻でため息して雑誌に耽る。

 

 わたしは、じっと、耳飾りの紅色の玉に見入る。そして彼女の横顔を見る。

 

 あの時悲しかった思い出も、今となっては、微笑ましくも懐かしい、いい思い出となったものだ。

 

 

 

(終)



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Page.19「混迷の果てにある光」

世は混沌に満ちていた。病魔に憑かれた灯里は、長い夜を過ごす。その中で、憂苦を抱えた彼女は、希求して、光を見出す。


***

 

 

 

 平和というのは、どれだけ長続きしても、やがて終わりを迎えるものだ。そういうことを、今しみじみと痛感する。平和の限界が訪れたのだ。

 

 ネオ・ヴェネツィアは混迷の闇に覆われていた。辺りは静まり返っていた。しかしその静けさは、よいものではなく、悪いものだった。皆、押し黙り、瞑目し、じっとしていた。そうして、心の中で、平和の復活を希求した。誰かの叫び声、呻き声ではなく、小鳥のさえずりを求めた。薬ではなく、頬が落ちるご馳走を求めた。明けない夜ではなく、日輪がまばゆい光彩を放つ明るい朝を求めた。

 

 ――だが、虚しかった。そう、虚しかった。人間の営みなど、しょせん、知れたものだった。にんげんの、古都の、文化の、危急存亡の時にあって、何か意義のあることが出来る者は誰もいなかった。

 

 医者も、教員も、シェフも、郵便配達人も、暗鬱の日々を熱にうなされたように苦悶の内に過ごすばかりで、ウンディーネも同じだった。

 

 春を迎えてほどないある日の夜。深い深い、明けることのなさそうに思える憂悶と悲嘆の夜。

 

 こんな時、逃げ込むことの出来る場所があるというのは、世の中にはそうでなくとも、少なくとも自分には、意義のあることであるように、思う。

 

 わたし、水無灯里は、そう思う。

 

 ARIAカンパニーのギャレットの窓辺にあるベッドに、膝を抱いて座って、外を眺めていた。

 

 ARIAカンパニーにはわたししかいなかった。町が未曽有の静寂に包まれている中で、一人きりの建物は、恐ろしいくらい、空気が冴え、ひんやりとしていて、自分の吐息さえ、かしましく感じるほどだ。

 

 寝間着を着替えもせず、わたしはこうして、ぼうっと、無為に過ごしている。

 

 額に手をやると、じとっとした汗を感じる。それに、熱も。

 

 風邪でも引いたのだろう。体がぎしぎしとかたくこわばっていて、倦怠感はうんざりするほどだ。

 

 病苦はなかなかのものだった。わたしは指先さえ動かすのが億劫だった。

 

 憂わしい世情より、また、苦しい病魔より、逃げ去り、その中に駆け込める何かがあるというのは、すばらしいことだ。まったく、そうだ。

 

 クリスマスの歌が聞こえる。空耳か、あるいは、わたしの心の中で、記憶に刻まれたそのメロディーが、響いているのだろう。冬の凍て付いた空が、雪の妖精が、回顧される。

 

 甘いケーキの味が、絢爛に装飾された麗しい青緑のモミの木が、白髭の赤い装束を着た男が、まざまざと蘇ってくる。

 

 アリシアさんと共に過ごした。聖人の誕生日の、前夜。和やかさの充溢する一夜だった。今でもよく覚えている。毎年、クリスマスは祝うけれど、直近のクリスマスは、何だか特別だったように思う。

 

 ご馳走を用意しているアリシアさんは、普段より倍くらい美しかった。その金色の長い、美しい髪は、輝きが増していた。そして常に絶やすことのないスマイルも、普段より柔和だった。アリシアさんは、そう、とても幸せそうだった。クリスマスを過ごすことだけでなく、全てが、彼女にとって祝福すべき事柄であるかのように、彼女は、喜びの色を帯びて、煌めいていた。

 

『このケーキ、とっても美味しいですぅ』

 

 そう子供のようにはきはきと感想を吐くわたし。アリシアさんは、テーブルの向かいで、いくぶん紅潮した顔で見ていた。

 

 彼女のところには、満たされたワイングラスがある。赤紫色のワインだ。聖人の血と書物で書かれる飲み物だ。紅潮していたわけは、その血を口にしたためだった。アリシアさんはその香りも味も、じっくりと愉しんでいた。

 

 気付くと、アリシアさんは眠っていた。テーブルに突っ伏して、スゥスゥとかわいい寝息を立てて。

 

 わたしは何となくかいがいしい気持ちになって、手を伸ばし、アリシアさんの肩に触れようとする。テーブルに並ぶお皿は全部、空だった。

 

 わたしも何となく眠たかった。

 

『ベッドに行きましょう。こんなところで寝ると、お体に障りますよ』

 

 そう諫言して、起こして、ダイニングより、肩を貸して、二階のギャレットまで運ぶつもりだった。

 

『ありがとう』

 

 酩酊したアリシアさんは、眠たいまなこでわたしにそう、呟くように言ってくれるだろう。そしてわたしははにかみ、わたしが普段横になるベッドに、わたしの代わりに横になるアリシアさんの姿を見て、何か胸温まるものを感じるだろう。そのイメージは、確信的なものだった。

 

 だが、記憶はそこでぷっつりとあえなく途切れた。思い出の晴れやかさは現実のブラックホールに吸い込まれて消失した。わたしは気付かない内に閉じていた目を開けた。だが、そこに明るさはなかった。

 

 伸ばしたわたしの手は、腕が伸び切る前に、障壁に触れた。そう、窓ガラスだ。アリシアさんの像は遠のき、ふっと消えた。

 

 ガラスはとても冷たかった。だが、その冷たさが、心なしか快適に思えた。

 

 しばらくガラスで手を冷やして、その後、改めて、額を触る。すると、汗は以前より増したようだ。また、熱も……

 

 クリスマスの、甘く美しい音色はまだ鳴っている。逃げ場所は、依然ある。

 

 わたしは無窮に思える暗夜の檻より脱そうと、かたく目を瞑り、祈る気持ちで、心神をまた、思い出へと馳せた。

 

 だが、逃げようと、癒しを求めようとするわたしは、最早しるべを見失っていた。五里霧中だったのだ。

 

 ヒトという生き物の儚さとか、愚かさとか、脆さとか、そんなものについて、わたしはもう、考えたくなかった。感じたくなかった。無力を自覚したくなかった。全世界を巻き込む大いなる悲運の到来を認めたくなかった。全て、ぜんぶ、もううんざりだった。

 

 眠ろう、と、わたしは思った。覚めた、いわばわたし自身が望んで主体的に成す想像による楽園ではなく、盲目の、受動の、夢想による楽園へと移ろう。

 

 何だか熱が高まってきたように感じる。ずっと何もしていないのに、息が上がる。ぜえぜえと辛そうで、自分でも嫌になる。

 

 花が咲いても誰も愛でない春が来ると事前に知ることが出来ていれば、わたしは絶対、冬が終わらないように、神様に祈ったに違いない。

 

 だが、無駄なのだ。分かっている。分かり切っている。そうして、本当にうんざりなのだ。

 

 ヒトの祈りなど、しょせん、水面に浮かぶ泡沫に過ぎない。結局、波が立てば、全て流され、潰され、消える。儚いものだ。

 

 汗を握る手でオールを握っても、きっと滑り落ちるだろう。ゴンドラは漕げない。

 

『あらあら』、と、アリシアさんの口癖が聞こえる。『ダメじゃないの灯里ちゃん。ちゃんと横になっていないと』

 

「はひ、ごめんなさい、アリシアさん」

 

 苦笑気味に答え、わたしはおもむろに横になると、掛布団を首までかける。

 

 横たわるわたしのかたわらに、彼女の鎮座する姿が見える。何とも神々しい姿だ。彼女は純白のセーラー服を身にまとい、わたしを天使の笑みを湛えて見下ろしている。

 

 

 

 あぁ やっぱりアリシアさんのそばにいると 安心が出来る すっかりリラックスした 体も 心も

 

 もう眠ろう 疲れた 病を癒して そして 健やかに 明るい朝を迎えるのだ

 

 

 

 わたしは、ゆっくりと目を閉じた。閉じた目は、トンネルを見た。夢のシーンだったのかも知れない。そのトンネルは長く、百年かけても出ることが出来そうにないほど長かった。

 

 しかし、彼方に光明が見えた。正しく言えば、見える【気がした】。

 

 ひょっとすると、その光明は、わたしが希求したために、見えたのかも知れない。

 

 幻か、本物か。

 

 いずれにせよ、光明は光明だった。

 

 わたしは、やっぱり安心して、そうして、永い眠りに就いた。

 

 

 

(終)



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Page.20「怯える自由」

ある日藍華は列車で離島まで用事に出かけている。その途上、彼女は一人の幼い男の子と出会う。その出会いは、藍華に自身を振り返るきっかけとなった。


***

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの駅を発する列車がある。その列車は、ネオ・ヴェネツィアを発着点として、周辺にある離島と、水上に敷かれた線路で繋がっている。ネオ・ヴェネツィアが都市として管轄するその列車は、ありふれたもので、観光は勿論、通勤にも利用され、客数は多い。夏休みや冬休みなど、特定のシーズンになると、たくさんの荷物を携えた子供が増える。そう、彼等は帰郷するのである。

 

 ぽかぽかと程よく暖かい小春日和だった。わたしは切符を手にしていた。切符には出発した駅とわたしが選んだ目的の駅の呼称が印字されている。

 

 列車は、だだっぴろい海原を快走している。彼方には水平線。上方には薄く棚引く雲。空には淡く照る太陽が浮かんでいる。何ともゆったりした日柄だった。

 

「ふるさとねぇ」

 

 通路を挟んで両側にそれぞれある二人掛けの座席の片方に、一人で陣取るわたしは、窓枠に肘を突いて一人呟く。

 

 ふるさとというワードには、特別何を感じるということもない。なぜというに、わたしの故郷はネオ・ヴェネツィアなのだ。

 

 溢れんばかりのオーシャンビューが見える窓には、微かに自身の反映がある。上はロングTシャツで、下はジーンズ。両方ともタイトだ。そして首には細い金属のネックレス。日光を受けて円状の輝きが窓に見える。

 

 藍色の髪は、ずいぶん前に或るトラブルがあって、もともと長かったものを短くした髪は、以後数か月経っていて、既にけっこう伸びてきて、最初は剥き出しだったうなじが、今では隠れている。ピンで小細工している髪だが、そろそろ外して、流してみるのも、いいかも知れない。

 

 憧れのアリシアさんの模倣であり、参照であり、またゲン担ぎでもあったわたしのロングヘア―が、そろそろ戻るのだ。

 

 そう考えると、何だかうきうきした気分がもたげて、口元が緩み、自然と髪をイジる回数が増える。自分でもバカバカしくなるほど、無邪気だと呆れる。

 

 指先で髪をクリクリやっている途中、はっと我に返る。見上げると、前方に座っている子供と目が合う。男の子だ。年は、ずいぶん小さい、ということしか言えない。

 

 彼は、座席の背もたれの上端より、顔の上半分を覗かせている。どうにも、そこそこ前よりわたしの動向を見ていたようだ。それも、面白がって。

 

 しまった、と自戒してさっと色を正すが、そのせかせかした変わり様と、うろたえ様がおかしいのだろう、男の子はにやっと笑う。

 

 心の中でハァ、とため息を吐く。

 

 今は長期休暇のシーズンではない。

 

 あの男の子は、今はもう隣にいる親に注意されたのか、後ろ向きになってわたしを窺うことはせず、ちゃんと座っているようだ。

 

 ――と思ったが、違った。彼は移動していたのだ。わたしの、すぐそばに。

 

 通路に、彼は立っていた。座ったわたしと目線が合うくらい、彼は小さかった。

 

「ねぇお姉ちゃん」

 

 わたしは反応する。

 

「お姉ちゃんは、お家に帰るの?」

 

 わたしは首を左右に振る。

 

「ちょっと、用事があってさ」

 

 身空についてざっくり話すと、男の子はふうんと納得したように返した。彼はそもそもわたしのことになんか興味がなくて、たまたま目が合ったわたしに何となく親近感を持って、ほくほくし、語りたがっていたようだ。

 

「あぁ、そう。お引越しするの」

 

「うん」

 

 そう頷く彼はしゅんと俯いていて、どことなく、寂しさをにおわせる雰囲気を帯びていた。

 

「また夏休みとかに帰ってくればいいじゃない。ネオ・ヴェネツィアに」

 

 わたしは、自分が水先案内人であることは伝えなかった。あえて、ゴンドラに乗っていること、お客さんにガイドすること、ネオ・ヴェネツィアの見どころのある各所に導くこと、など、教えなかった。理由は特になかった。ひょっとすると、わたしと男の子の交わす会話の主役が、男の子であり、わたしはあくまで聞き手に過ぎないという気兼ねがあったためかも知れない。

 

 いずれにせよ、男の子は、わたしの励ましを受け、多少は自信を回復したようで、柔らかい笑みを浮かべて別れの挨拶をしてくれた。ある島の駅に到着すると、降車した彼は、わたしの見える窓のそばまで来、わたしに手を振ってくれた。そのそばにいる彼の両親は、うやうやしく頭を下げてくれた。わたしは何となく気後れしてしまい、はにかんで頭を下げ返すばかりだった。やれやれ。

 

「ふるさとねぇ」

 

 と、二度目の呟き。わたしは再び景色が流れ出した車窓を、前とおんなじ恰好で眺めていた。

 

 あの男の子のふるさとは、わたしと共通であり、水の都、ネオ・ヴェネツィアなのだ。ところが彼は、親の仕事の事情により、ふるさとを後にしないといけないという、強制力に遭遇したのだ。

 

 未だ自立していない子供は、その庇護を必要とする親と一蓮托生の関係を結ばないといけない。振り回される子供というのは、大変だ。

 

 わたしも、そういえば、似た経験をした身だった。藍華は姫屋の水先案内人だ。そして姫屋を切り盛りするオーナーは、わたしの親だ。親は熱心だった。わたしは生まれた時点で、水先案内人になることを約束され、他の道は閉ざされていたのだ。わたしは赤ちゃんだった時点ですでに、姫屋を引き継いで維持する役目を担わされていたのだ。

 

 ――さっとまばゆい日光が顔をかすめる。物思いに沈んでいたわたしは、閉じていた目を開ける。

 

「別に、わたしは」

 

 後悔など、なかった。親に対して憤懣も、怨恨も、なかった。誓って言うことが出来る。

 

 ただ、敷かれたレールの上を歩いている自分が、何となく、ふと、ちっぽけに思えた。そうして、今こうして列車に乗って、予定された用事を済ませに行く自分が、その想念の内に見えるわたしとダブって見える気がした。

 

 すると、それまで繰り返した呟きの意味が、急に霧が立ち込めるようにして掴めなくなった。

 

 ふるさと。

 

 わたしのふるさとは、一体どこなのだろう。

 

 ぐずぐず考えている内に、列車は遠くの駅へと至った。わたしの切符はそこまで有効だった。

 

 列車を降り、空気の、いくぶん冷めてしまったことを感知する。

 

 列車が去る。さびれたプラットホームで、海原を眺める。日光に鮮やかに輝く水面。風が渡っている。冷たい風だった。わたしは思わず、身震いした。

 

 男の子の笑顔が蘇る。哀感を帯びた笑顔。冷ややかな風に揺れる花。怯懦に震える自由と、倨傲の運命。

 

 わたしのふるさとは、ネオ・ヴェネツィアだ。彼と一緒。そして、わたしが担う役目を決定する親の膝元だ。

 

 短かった髪が伸びてきた。そろそろ、細工を解いてもいい頃かも知れない。

 

 そうしたら、アリシアさんに見てもらおう。褒めてくれたら、きっと舞い上がってしまうに違いない。

 

 アリシアさんは、わたしの憧憬する第一級の水先案内人であり、また第一級の、美人だ。

 

 そしてわたしも、まだ半人前だけど、水先案内人だ。ネオ・ヴェネツィアの、水先案内人だ。美人ではないけど、美人になりたいと思って努力なり工夫なり、している。

 

 全ては、わたしが望み、納得したことだ。

 

 全ては、わたしが引き受け、受容した必然、すなわち、運命だ。

 

 

 

(終)



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Page.21「闇の詩」

***

 

 

 

 薪のはぜる音は、暖炉のものだ。暖炉では今、火炎が赤々と燃え、室内に暖気を送っている

 

 

 

 古い家の暖炉だが、機能は失われてはいなかった。或る老いた未亡人が過ごしたその家は、山林の開けた広場に、ポツンと取り残されたように立っている

 

 

 

 外に出ると、ひんやりとした風が迎える。眠る森の木々を渡る風は、ザワザワとささやき声を上げ、わたしの長い髪は、なびく

 

 

 

 町は、喧騒は、彼方にある。本当に、家は、取り残されたようだった。文明より、社会より、時代より

 

 

 

 ゴンドラを漕ぐことは終わりにした。わたしは長年従事してきた水先案内人という、やりがいと価値の十分ある役目にピリオドを打って、その後しばらく悩んだ後、隠遁生活に潜り込むことにした

 

 

 

 きっかけは、何でもないことだった。今思い返すと、天啓とか、虫の知らせとかいうものだったのだと思う

 

 

 

 風がやんで、辺りが静まり返る。わたしは意味もなくため息すると、玄関口の前にある階段の一段に腰を下ろし、目先に広がる濃紺の暗闇にぼんやりした目を注いだ

 

 

 

 或る日わたしは、客人を乗せてゴンドラを操っていた。その途中、ふと近傍にいる女の子と目が合った。ちょうど、古都の名所のそばを通りかかった頃で、わたしはペラペラとこなれた口吻でガイドをぶっていた。何の変哲もない、平常のことだった

 

 

 

 だが、その女の子、思うに、十にも満たなかった女の子だろうが、わたしとぶつかった彼女の目に、何か冷えたものを認めたのだった

 

 

 

 彼女は指をくわえてわたしを見ていた。他の手は――その手は年相応にずいぶん小さく、一片のモミジの葉のようだった――随行する母の掌中にあった

 

 

 

 女の子の目に宿るその何か冷えた、何かわたしを諭すもの、霊妙なる何ものかは、わたしの水先案内人としての、また、一人の人間、自立心と、尊厳と、一定程度の能力の自覚のある、わたしという一個の人間の、自信とか、自負とかいったものを射貫いて、風穴を開けてしまった

 

 

 

 わたしは、その時暖かかったはずなのに、胸中を吹き抜ける風を感じ、そして、その風は、冷たかった

 

 

 

 ――夜のとばりの下りた森は、心なしか、日中よりも鬱蒼として見える。一度迷い込めば二度と抜け出すことの出来ない、迷いの森のようだった。わたしは、そして、迷い子だったのだ

 

 

 

 ガイドを続け、区切りのところまでくると、わたしはさっと振り返り、今通り過ぎた女の子を窺った。だが、女の子は、親共々消えて、いなくなっていた

 

 

 

 その日その時、わたしは力を喪失した。そしてその力を復活させようとする意志も、新しい力を求めて獲得しようとする意志も、失ってしまったのだった

 

 

 

 わたしは最早抜け殻だった。仲間の皆はそれぞれ心配の言葉をかけてくれた。だが、わたしの胸には響かず、ただ意味のない音声として虚しく散っていくばかりだった

 

 

 

 最小限の荷を用意して古都を発ったわたしは、或る小島に船で至ると、風の向くまま気の向くまま、歩いた

 

 

 

 そうして辿り着いたのが、この屋敷だった。デッキの上の、木の家

 

 

 

 出迎えてくれたのは、真っ白の髪の老女だった

 

 

 

 その皺くちゃの顔を見ると、わたしは自分が、古い童話の世界にでもいる気分になった。わたしはお菓子の家への道を偶然進んで、そうして出会った老女は、実は魔女で、訪れた若い女をそのおどろおどろしい魔術で呪うのだ

 

 

 

 という想像は、馬鹿げたものだった。老女はとても慇懃で、親切で、思いやりに富んでおり、わたしは暖かく招き入れられ、積もる話を聞いて貰った

 

 

 

 とうとうと話をしていくと、何だかすっきりして、まるでわたしの口を通して、わたしの中に溜まった澱(おり)が流れ出ていくようだった

 

 

 

 わたしの目には、わたしの話に微笑みをもって傾聴する老女の顔が焼き付いている

 

 

 

 階段に座るわたしは、些少のお尻の痛みとか、足の痺れとかを覚えて、その面影を目前に見る気がした

 

 

 

 だが、ガラスのように透き通るその顔のビジョンはやがて消え、見えるのは濃紺の広がりに黒い淀みを揺り動かす空恐ろしい影ばかりになった

 

 

 

 外に出てきたのは、徐々に弱まっていく暖炉の火炎が、とうとう燃え尽きようとしていたためだった

 

 

 

 掌ほどの弱火になった火炎をさげすむように見下ろすわたしは、もう放っておいても火事など起こるまいと確信的に思って、暖炉を後にした

 

 

 

 風が再び立って、吹き抜ける。冷たい空気の中に、冷たい風が通る。辺りはますます冷ややかさを増していく

 

 

 

 手をゆっくりと握るが、力を失ったわたしには最早持ち得るものはなかった。皆無だった。抜け殻は抜け殻。空っぽなのは当然だ

 

 

 

 意義のある人生より、仲間達の輪より、細かく刻まれた義務と休息と遊戯のある時間の連続より、わたしは、はみ出してきた。逸脱してきた

 

 

 

 冷え切ったわたしの魂は、もう消えているに違いない家の暖炉の火炎と、ほとんど同一だった

 

 

 

 希望もなければ、絶望もなかった。夜は滞り、まるで凍て付いてしまったようだ。振り返り見る過去の日と、真正面に見る未来の日は、段々と遠のき、目覚めようとする眼は、まぼろしに誘惑され、開くことがなかった

 

 

 

 燃え尽きた暖炉に残る温もり、長久の夜を通る風、顧みる記憶

 

 

 

 鬱蒼と茂る木々は、静けさの中にあって、ひそひそと小声でささやき合っていた

 

 

 

 温もりは消え、暗闇は太陽を監獄に押し込め、記憶は映像だけを流し、サイレントだった

 

 

 

 わたしは力をなくした。だが、別の力を、わたしは有していた

 

 

 

 力を打ち消す、力だった

 

 

 

(終)



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Page.22「動揺」

和風の情緒ある家屋でぼうっと暑さに耐えていたアリスは、訪問してきたアテナと共にぶらぶら歩きに出かける。その途中和やかだった二人の会話に、アテナのある告白が、亀裂を生む。


***夏の日の午後***

 

 

 

「……」

 

 うだるような暑さの中、彼女は窓を開け放した縁側に、足を伸ばして、外に出して座っていた。足はむき身のはだしだった。ゆったりめのワンピースを着て、衣服も姿勢も、ずいぶんと楽そうな恰好である。

 

「でっかい暑いです……」

 

 俯いて吐かれたため息と共に、そう呟かれる。【です】まで付けて、やけに丁寧な独り言である。

 

 名は亜理子と書いて、ありすと呼ぶ。彼女の名だ。どうにもバタ臭い名だが、親共々、生粋の日本人である。日本人であるから、こうしてありふれた平屋の、木造の、母屋と離れとに分かれた野暮ったいぎしぎしと床の鳴る家屋に住んでいるのである。

 

 夏の日の午後だった。暑さはちょうどピークであり、あちこちの木にたくさんいる蝉の鳴き声が、けたたましい和を成して入道雲のそびえる高い空の涯まで響き渡っていた。

 

「……」

 

 日がな一日、ずっとこうして暑さにぼけた頭でにごった物思いを転がしているというのは実に不毛な過ごし方であった。しかしいかんせんすさまじい暑さだったので、どうしようもなかった。不可抗力だった。土の中にまで及んでミミズさえ青息吐息ではい出てくるほどの季節の暑熱においては、誰も何も、快活に過ごすことは叶わなかった。ひょっとすると、元気そうにわめいている蝉さえ、実は苦しみを叫んでいるのかも知れない。旺盛なる太陽と季節の暴力、暴威を嘆くか、あるいはそれに対して懸命に難癖を叫んでいるかしているのかもしれない。

 

 家には飼い猫が、白黒の中国熊にそっくりの猫がいたが、今は物陰で酩酊の人間よろしく、床にべったりと引っ付いたように伸びている。

 

 半泣きに似た顔。眉をひそめて、汗で額と髪を湿らせて、うんざりした気持ちでいる亜理子。

 

 ぼやけたまなこで空をうつらうつらと見上げると、青い、青すぎる、そしてまた広く、また高すぎるあけすけの夏空が、風船が破裂する勢いで一気に視界の隅々まで開けた。てっぺんを目指せば切りのない雲の城からは、夏の軍勢が蝉の鬨を伴って多勢に無勢、この地上へ進出してくるようだった。蝉というのは結局のところ、夏のしもべだったのだ。

 

 松のごとく傾いで立つ庭木の柿が、その葉をぴかぴかに陽光に輝かせている。エメラルドのような光が無数、明るい陽射しの中でゆらゆらと揺らめいている。

 

 ふと、そよ風がふわっと吹いたかと思うと、亜理子は来客の訪れを知った。目前に人影。

 

「亜理子ちゃんっ」

 

 にっこりと微笑む顔。ライラックのショートヘアに小麦色の肌。頭には麦わら帽子。亜理子と同じようなワンピース。

 

 彼女は亜理子の友達の、阿弖奈という。読みは、あてなだ。こちらもずいぶんとバタ臭い名である。

 

 小柄な亜理子と違ってすらっと背の高い阿弖奈は、だいぶん涼しそうだ。まるでこの季節の威力、威勢、威光とは無縁であるかのように。肝試しの季節だが、幽霊じみた冷静さと沈着さを彼女は持っているようだった。

 

 だが、そんな様子は、亜理子にはなじのものであり、べつだん不気味に思ったり怪訝に思ったりする必要はなかった。彼女はただ、「阿弖奈ちゃん」と呟いて手近のタオルでさっと余計な汗を拭って、しゃんと立って、来訪した年長の友達に随伴するだけでよかった。

 

 縁側の陰の中国熊そっくりの猫は、じとっとした細い目で彼女の動向を探るように見ていた。

だが、亜理子が姿を消すと、そのインキ臭い目を閉じて、また灼熱の沸騰する泥沼じみた憂苦の眠りへと落ちていくのだった。

 

 

 さて、友達同士が連れ合えば、もう無聊を託つという不幸とはお別れが出来る。うだるような暑さと静かに戦っていた亜理子は、勝ち逃げの恰好で相手と別れ、やさしい友達と一緒になることで、苦痛と所在なさより離反し、愉楽と安寧へと移行したのである。

 

 

 

***散歩道***

 

 

 

 溜息橋のある小川の別の橋を渡って、二人はねんごろぶらぶら歩いていた。

 

 溜息橋というのは、その小川を挟んである旅館を繋ぐ渡り廊下になっており、勤めに従事する労働者の嘆きより付与された呼称だと言われている。詳しいことは亜理子も阿弖奈も知らなかったが、二人とも、親からはそういう風に教わった。

 

 彼女等は色々学校の話や家の話、テレビの話や本の話を交わした。時にはそれぞれの聞き知る健全だったり禁断だったりする情事の話もして、胸をどきどきさせ、じりじりとした臨場感と豊かな想像力をもって語り手と聞き手の両方の役を代わる代わる担った。

 

 乃葉街道という街道を二人は進んでいた。この街道は入口から出口までずっととても緩やかで閑静な細い道となっており、両脇にはひっそりとした平穏で質素な家屋、あるいはこぢんまりとした神社仏閣しかなく、また時間が進んで日が傾いたお陰で、陽射しが程よくさえぎられていて、居心地がよかった。加えて、ところどころに外出に自由に解放された飼い猫が首輪の鈴を鳴らしており、猫等は人懐っこく、甘え上手で、亜理子も阿弖奈も、猫好きのため、ずいぶんと可愛げのある動物と遊び、心行くまで楽しんだ。

 

「……」

 

 猫等の影がすっかり絶えてしまった頃、街道も、残りわずかとなっていた。やがて出口がくれば、友達同士は分かれることとなっていた。

 

 ところで結局二人の間で最も盛り上がったのは男女の、余り公にはされない、というよりはむしろ出来ない、あるいはしにくい、内密の話だった。

 

 阿弖奈は、話をある男子ーーその男子は、亜理子もよく知る、また親しい、更に言えば、彼女が好意を寄せる男子だったーーに移すと、突如歩みを緩め、ほとんど立ち止まる勢いまで落とし、亜理子はとまどって、友達を振り返る格好になった。

 

「えっ……」

 

 言われたのは、ある告白だった。阿弖奈はその男子が気になっていると漏らした。照れて、その年頃の子女に相応しいやり方で、もじもじして、だけどはちきれんばかりの嬉しさに耐えかねて、思わずといった形で、彼女は告白、否、激白したのだった。

 

 亜理子も同じ者に好意を寄せているというのは既述のことだ。

 

 亜理子の胸を瞬時に七色の風が吹き抜けた。その風は冷たく、彼女にショックを与えた。亜理子は首を戻し、俯いて、不意の一撃の痛みを感じた。その痛みはうっかり転倒した時に付いた膝などの擦り傷の痛みと似ており、亜理子はずきずきと疼痛を覚えて憤りや悲しみなどをこもごも感じた。

 

 阿弖奈は、ショックに打ちひしがれる友達の様子を見、その背中に真相を洞察し、覚めた(冷めた)気分になると、口を一文字にしてそのそばを通り過ぎ、一人街道を出ていった。

 

 亜理子はというと、日が暮れるまで突っ立ってい続け、通行人に不審に思われて声をかけられるまで、苦悶の物思いに苛まれていたのだった。

 

 

 

 恋というのは、常に波紋を広げる水面であった。そして亜理子の穏やかだった水面に、新たに、また大きい、余りに大きい波紋を投げたのは、友達である、阿弖奈だったのである。

 

 

 

(終)



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Page.23「嘆きの詩」

***

 

 

 

 ランプのある先端が三又に分かれたしゃれた街路灯。ただし今は、照ってはいない。その向こうには運河が通っており、更に向こうには低い街並みが疲れて横たわっていた。

 

 白濁のもやが重たげに辺り全域に渡って漂い、流れていた。

 

 という風景を、がらんとした通りに一人きりでいる彼女は茫然と眺めていた。

 

 ずいぶん前に雨が降り出し、その雨が今も小止みなく続いているのだった。

 

 ぱらぱらと傘のビニールを打つしずくの音を彼女は聞いた。桃色の髪の少女は聞いた。そうして、彼女はどことなく物憂い気分になり、手足はずっしりと鈍くなってしまったようだった。

 

 街はひっそり閑としており、様々の商店を集める商店街は軒並みシャッターを下ろして閑古鳥だった。

 

 そぼ降る雨にしっとりと濡れる石造りの路面。

薄い水膜の張ったその路面には、凝然と立っている少女の影が細切れの形で映り込んでいる、そして絶えず落ちてくる雨粒の波紋によって歪んでいるのだった。

 

 少女より遠く離れ、その横顔を窺うと、全てが速度をにわかに失ってスローモーションになって見えた。雨粒は星辰の如くほとんど眠気を誘うほど緩慢に地表までの直線を降り、その一粒一粒は、叢雲に遮られた弱弱しい光をガラスの如く反射して煌めきを放った。

 

 スゥと鼻で軽く深呼吸すると、少女はゆっくりと、まばたきだろうか、目を瞑る。長い睫毛はピンとして鋭く尖り、また優美だった。

 

 すると、一瞬は一分に延び、一時間に延び、最後には永遠と思えるほどの長さを得、雨粒はぴたりと停止して、動くものはフラフラと彷徨する悪賢い流浪の風ばかりであった。

 

 慨嘆と悲哀の物思いが、少女の心胸にあった。その物思いというのは、不幸を告げる宵闇の花であった。その花は、種子として少女の胸中に宿り、やがて開花したのだ。

 

 その種子が運ばれてきたのは、ネオ・ヴェネツィアの街が呪わしい困苦と貧窮の時代に突入した頃のことだった。悪魔の使いが盗人として隠密にいずこかより現れ、幸福と平和を街より奪い去っていってしまったのだ。その後あらゆる聖なる神々は意気消沈して虚弱になり、信徒の心を冷めさせ、この世に祝祭と祈りはなくなった。

 

 その苦難は、不運は、予定され、実行されたものなのだろうか。

 

 その疑問に、少女は頭を悩ませた。知り合いが、家族が、友人が、病苦のハズレくじを引いて衰弱していく中、悶々として考えた。

 

 だが、答えは出なかった。少女は悄然とし、、無力を悟り、最早気力を失ってしまった。

 

 水の都。満々たる水資源に恵まれた由緒ある古都は、長雨の災難に見舞われ、沈没しそうであった。

 

 蒼然と構える鐘楼の鐘がなる。だがその音は水中で聞くようにひずんでおり、まるで鐘が壊れてしまったかのようだ。救世の英雄は決して現れなかった。何者さえその存在を信ぜず、また望まず、ただ絶望に専心するばかりだったためだ。

 

 長い暗黒の時代。季節はしかし移ろう。だが、冷たかった雨がなまぬるい雨に変わる程度のことなどに過ぎない。

 

 少女は閉じた目を開いた。

 

 すると動きを封じられていた全てが動き出した。雲は雑然と変容し、雨粒は砕け、路面に張る水は流れた。

 

 少女はぐっと傘の柄を持つ手に力を込めた。すると何となく熱を帯びていくように感じた。ビニールの雨音が絶えず鳴る。

 

 彼女は思った。以前じぶんは健全とした世界にいたのだと。その世界では、明るい天界と暗い冥界を信じていた。じぶんが生まれ、存在し、やがて死去する世界は、中間に位置し、天国も地獄も、仕切りを隔ててあり、その間を行き来するためには善悪の判定を司る神の指示が必要なのだと。

 

 だが、実際は違った。じぶんがいる世界というのは、悪魔や死神などの力で、どうにでも変化してしまうのだと。じぶんが天国と地獄に移動するのではなく、世界そのものが変動し、世界に生きる人々は、その変動に無力に巻き込まれてしまうのだ。

 

 桃色の髪の少女は頬に一筋の流跡を描いた。雨は小止みなく降りしきる。日は差さず闇のうねりが広がり、また鳥のさえずりもなく、聞こえるのは陰鬱なる眠りを誘う雨音ばかりだった。彼女は俯き、そして嘆きの呟きを吐いた。

 

 ふと、それまで消えていたあの三叉の街路灯に明かりが灯った。

 

 通りには、最早少女の姿はなかった。ただ、打ち捨てられた傘が無残に転がっているばかりだった。

 

 

 

(終)



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Page.24「災いの根」

***

 

 

 

 夕暮れの海辺に来ていた。空はまだ明るい青さを保っていたが、先は長くないことは明白だった。濃紺の夜がやってくる。忍び足で、そろそろとやってくる。落陽の時。

 

 わたしは何か落とし物でもしてしまった気がして、今も留まっているのだった。探し物だ。だが、何を落としたのか、よく分からないのだった。制服のポケットに手を入れて、奥までまさぐってみた。空っぽだった。そもそも、わたしはひょっとして、はじめから何も持っていなかったのかも知れない。だとすれば、今こうして探し物のために海辺を離れずにいるのは愚にも付かないことだ。無益だ。無明だ。

 

 だが、わたしの感覚、勘が、わたしに不足を知らせていた。わたしには何かが欠けていた。足りなかった。そしてその何かは、前にはわたしにあって、またわたしに大切に守られていたものだった。わたしはその何かを愛好し、常用し、管理し、保護していた。要は、わたしにとって必須の、欠けるべきではないものだったのだ。

 

 乗り捨てたゴンドラがそばに浮かんで、漂っていた。ザブザブと押し寄せる波の動きに合わせて上下していた。

 

 わたしの目はゴンドラは見ていなかった。海を見ていたのだ。海の中。その深い淵にあるかも知れない、わたしにとってかけがいのない、わたしの忘却し、遺失された或るものを透視しようとしていた。

 

 立っていたわたしは波打ち際の間近まで進むと、しゃがんで、水面に目を注いだ。じゅわっと白く泡立って波が絶えずやってくる。あるいは、この波がわたしの失ったものを運んできてくれるかも知れない。とそんな風に、わたしは楽観的に考えた。だが、待ってなどいられなかった。何となれば、日が暮れ切る寸前なのだ。この明るさを失えば、わたしは断念し、また失望し、途方に暮れ、意気阻喪して、しょう然と立ち尽くすことになるだろう。

 

 古都の喧噪は遥か遠く。わたしは一体ここで、何をやっているのだろう。わたしはここで、何をしなければいけないのだろう。

 

 どうすればいいのだろう?

 

 街路灯の明かりがジリジリという音の後にぱっと付く。夜を知らせる明かり。わたしの名前は水無――

 

 実感がなかった。落とし物、探し物以前に、わたしがここに来た理由。わたしはARIAカンパニーのギャレットで寝泊まりしている。きっと今日も、いつものように、部屋で起きて、先輩のアリシアさんにあいさつして、制服に着替え、細々したことを済ませ、カンパニーを出てきたのだと思う。

 

 そして、そして……?

 

 以後の記憶は途絶していた。わたしが歩んでいた道、わたしがその空気の温かさを感じ、湿り気を感じ、ブーツが石造りの道路を踏む感触を感じたその道のある場所は、あるところでその広がりを遮られ、その外の領域は、最早未だ開拓の手の入っていない宇宙の領域同然の暗がりだった。星茫さえなく、太陽は彼方に小さく浮かんでいるばかりだった。

 

 無重力と無音と低温の茫漠たる空間の中、前後不覚で、いわば自身を失くしてしまったわたしは、怪力乱神に操られた足で、馴染みの道を逸れ、獣道じみたところを進み、そうしてやってきたのだ。この場所へとやってきたのだ。

 

 震える瞳は、波のさざめく水面とよく似ていた。動揺し、ひるみ、悲嘆し、同情と救いを乞うた。

 

 失われたものを求めて知り、理解しなければ、わたしは帰ることが出来なかった。

 

 全ては、偶然か必然か、いずれにせよ、わたしに仕掛けられた罠であり、また犯行であった。あるいは通俗的に言えば、運命の悪戯だったのかも知れない。

 

 わたしにあったもの、わたしに必要だったもの、記憶にせよ、四肢にせよ、わたしの正気、健康、幸運にせよ、何者かは、わたしのそういったものをすっかり奪ってしまったのだ。そしてこつ然と消えた。その痕跡を残さずに。

 

 漂っていたゴンドラは流れ、沖の方へと向かっていた。だがわたしには関心がなかった…… しょせん、外側の事柄に過ぎなかった。

 

 仮にこの今の状況、わたしが遭遇した不知の出来事、わたしがうっかり進入してしまった迷路が、偶然だとすれば、わたしは、失笑せざるを得なかった。

 

 偶然だとすれば、わたしの遺失したものは、結局のところ、不意の突風に吹き飛ばされた一片の羽同然だった。

 

 誰の悪意もなく、企図もなく、わたしはわたしにとって必須のものを奪われてしまったのだ。断じておのれの過失でなくしたのではなく、自然の現象、不測の暴威、いわば、神の気まぐれ、

神の躓きが、たまたま災いしただけのことだったのだ。

 

 そういう風に考えがまとまった途端、わたしは苦笑が漏れ、同時に力が抜けた。肘が地面に付き、両手を浅瀬に突っ込んだ。はねた水が、顔にかかった。

 

 わたしを陥れた犯行の主はいなかった。探求したところで発見するものなどなく、また究明したとことで得られる手掛かりは一つとしてなかった。

 

 わたしの不幸は、そうだったのだ。

 

 わたしは自身の不幸を憂い、嘆き、呪い、その不幸という自生の醜い花を力いっぱい引っこ抜いた。

 

 だが結局、その根はなく、わたしはやはり、失望し、落胆するばかりなのだった。

 

 

 

(終)



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Page.25「オールド・ペアレンツ」

***

 

 

 

 幼少だった頃のじぶんを優しい微笑みで見守っていてくれた両親がいた。

 

 ずいぶん昔のことで、彼等の顔を回想に求め、まじまじ眺めようとすると、常に伸び続け、すでにかなり長く伸びている記憶の、水族館の通路じみたトンネルの中、その奥の方まで行かないといけない。

 

 幼児を養育するまだ若い、またそれゆえ養育に苦難や迷誤などを抱える彼等の、青年と少女の、それぞれの相貌は、じぶんにとっては、少なくとも、今のじぶんにとっては、縁遠い人物めいて見える。そのすべすべの肌や、さらさらの髪や、依然無邪気さを宿した夜空の星に似た眼光の煌めきは、あたかも彼等が友達か、きょうだいであるかのように思わせ、時々、わたしを困惑させる。

 

 だが、彼等は間違いなくわたしの肉親であった。食卓に食べかすをまき散らすわたしも、公園でブランコに乗ってのびのびと興じるじぶんも、道路でうっかりこけて軽い擦り傷に号泣するじぶんも、彼等はやっぱり、例の尽きることのない温情の表情で、見守ってくれ、時には手を差し伸べて、涙をぬぐったり、ぎすぎすと刺々しく乱れた心を鎮めたりしてくれた。

 

 幼少のわたしは、ほとんど野獣同然で、活発さだけが取り柄で、知性のかけらさえ有しなかったが、彼等は見捨てることはせず、決して優秀でも裕福でもなかったけれど、若い世代の者にしては強い我慢と忍耐をもって、わたしを物心が付くまで育て挙げてくれた。

 

 ……海のさざ波を超えた果ての水平線を望むと、決まってわたしは、ふるさとを感じ、そして、両親の姿を思い返すのだった。

 

 両親はすでに壮年になっていて、昔ほどの物柔らかい感じはなくなっていた。

 

 わたしが家を出るとよわよわしい口吻で切り出した日、両親の顔は、わたしがそれまで一度として見なかったものになった。彼等は驚倒し、呆気に取られた。わたしは自分の企図を改めて口に出した。今度はきっぱりとだった。

 

 その時のわたしの言動、わたしの告白、出し抜けの、一個の個人としてき然としたわたしの告白は、最早若くなくなった両親に対して、幼少のわたしが繰り返し犯した愚行、例えば、失禁や、暴言や、暴力などより、遥かに強いショックを与え、ろうばいさせた。

 

 彼等は箱入り娘に甘んじず、ふるさとを出、異郷の地でなじみのない仕事に挑もうとするわたしに失望したに違いない。わたしは裏切り者であったのだ。

 

 その時ひさびさに、両親の顔をしっかりと眺めた気がした。父は黒だったが、母の髪は、マスカットと同じ色だった。わたしのロングヘア―は、母ゆずりのもので、母はよく、小さいわたしの髪を洗った後、ていねいにくしで梳かし、よく乾かして手入れをしてくれた。

 

 両親だって、わたしがとっくに幼くなくなっていることは熟知していたはずで、ということは、彼等は、わたしが、じぶんの意思を持ち、その意思を固有のものとして堅持する成人だと--まだ十代半ばに過ぎないが--内心ではわかっていたと思う。あくまで子供ではあっても、親の人形ではなく、親の願い、望みを拒絶する冷徹さを得た、成長した知性の生き物であることが理解出来ていたと思う。

 

 両親はこの街まで、ネオ・ヴェネツィアという水の都まで、見送りに随行してきた。彼等は迎えにきていたアテナさんに引き連れられ、たくさんの荷物を背中や手に持って去っていく後ろ姿をずっと見ていた。その時の表情は、わたしはその時振り返らなかったので分からないのだけど、きっと、思うに、しょんぼりとしていただろうと思う。

 

 ……はぁ。

 

 何となく、ため息。俯いて打ち寄せる波の様を見下ろす。春の終わりの日。海辺の風はまだ冷たさをはらんでいて、時々わたしを身震いさせる。制服はまだ冬用のものだったが、程なくして、季節の急転と、気候の激変と共に、衣替えとなることだろう。

 

 夏になれば、長い休みがある。

 

 今度の休みは、家に帰ろうかなぁ……と、俯いた顔を上げて、いくぶん褪せた青空を仰ぎ考える。すると、そこはかとない憂鬱が胸を微かに締め付ける。

 

 ごめんなさい、と謝るわたしの目は、当然、両親に向いている。だが、その両親は、現在の両親でなく、過去の、あの友達かきょうだいじみた、快く打ち解けられそうに思える、若い、親なのに親っぽさがてんでない、二人の青年と少女なのであった。

 

 

 

***



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Page.26「怪舟」

***

 

 

 

 雨粒が小躍りする夜が明けると、そぼ濡れのじめっとしたネオ・ヴェネツィアの街は、その様相をすっかり変え、おしろいをふんだんに塗りたくっていた。強い寒波の訪れで、透明の雨は純白の雪に変わったのだった。ネオ・ヴェネツィアは凍て付いて仮死状態にあり、通りを往く人々は稀少だった。

 

 

 

 船着き場に整列して浮かぶ複数のゴンドラは、同色のカバーに覆われて季節の眠りに付いており、ゴンドラを降りた乗り手達、ウンディーネと呼称される妙齢の女性の乗り手達は、半ばくつろいで、半ば憂鬱に沈んで、寒風を凌ぐ屋根の下、温かい火の気のそばで、無為で閑暇の日々を過ごしていた。

 

 

 

 雪は結晶度の高い粉雪で、あらゆるものに降り注ぎまとわり付いたその雪は、当分とけることがないように見える。惑星をずしんずしんと進行する季節という巨怪の獣の尾は、彼方にまで伸びて、地上に水上に、ウネウネと這っていた。

 

 

 

 雪は未だに小止みなく続いており、空は灰色の叢雲に満ちてどんよりとしており、そして、その雪の勢いはしたたかで、大風の煽りを借りてふぶいていた。ブリザートじみた天気であった。あるいは、ブリザートそのものだったかも知れない。

 

 

 

 こうなっては外出のしようがないということで、果然、曠日弥久(※)していた灯里は水上のARIAカンパニーの二階、居間にいて、広いテーブルのそばにゆったりと座って漫然としていた。机上に肘を付いて、何となくお腹の締め付けられるようないくぶん憂わしい感覚を覚えて、座っていた。

 

 

 

(アリシアさん、まだかなぁ……)

 

 

 

 ゆうべ外出して不在の彼女に思いを馳せる灯里は、ふと、机上の肘よりはね返ってくる力で頬のくしゃっとした顔を、居間にある円形の大きい窓に向けた。

 

 

 

 すると、灯里は注意を惹く物体を見とめた気がした。

 

 

 

 輪っかに縁どられたその透明のガラスの、ちょうど中心に、白帆を上げた小舟が浮かんでいたのだ。

 

 

 

 この厳寒の時季、それも、特に荒れた天気の下、沖に近い海洋に、出帆する舟が果たしてありうるのだろうか。

 

 

 

 自身の経験、良識、知見に照らし合わせて深々と考えると、灯里は、何だか身震いしてくる心地になった。その原因が寒さでなく、怖気だったことは言を俟たない。

 

 

 

 退屈に倦んで疲労しているのだろうかと、灯里は机の肘を上げて、手で額に触れた。すると汗でじわっとして、熱くなっているようだ。

 

 

 

 はぁ、と目をつぶってため息すると、灯里は束の間深呼吸し、頭を休めた。そして目を開くと、おもむろに立ち上がり、怪奇のビジョンを投じる窓辺に恐る恐る寄っていった。

 

 

 

 まぼろしであればよかった。まぼろしであれば、この違和感や底知れない恐れ、また困惑や怯えた憶測などと無縁でいて、ずっと、多少のお腹の痛みはあれ、休んでいることが出来た。

 

 

 

 だが、ビジョンは見間違いではなかった。あの怪奇の物体、洋上の小舟は、今もなお浮かんで渡航しており、その様は、まったく、まるで、この荒天に相応しい挙動ではない非常に、また異常に、落ち着いた挙動で、粉雪の充満する真冬の空と海の間を進んでいた。

 

 

 

 灯里はくらっと来る気がした。足元が揺れ動いたかのようだった。微かに地震でもしたのかも知れない。あるいはめまい。詳しくは分からなかった。

 

 

 

 突如のことに目を再びつぶった灯里は、目蓋の裏側に数多の閃光が目まぐるしい速度で瞬くのを見た。大きい閃光があったり小さい閃光があったりし、また、カラフルであった。ただし綺麗ではなかった。その閃光の数々は目くらましであり、有害であり、灯里の額に、汗の粒が膨らんで、そして流れ落ちた。

 

 

 

 灯里ははっと目を開くと、部屋の暖房を切り、窓辺にきびすを返すと窓を開け放った。すると寒風が瞬く間にヒュウという音を伴って窓の内外を行き来し、同時に、雪が部屋に入った。

 

 

 

 雪は、灯里の顔、体に付着するとあっという間にとけ、彼女の火照りを冷ました。

 

 

 

 灯里は沖合に目を注いだ。あの小舟は、最早なくなっていた。遠くへ行ったのかも知れないし、あるいは、元々なくて、退屈が成した空目だったのかも知れない。灯里にとっては、後者が望ましかった。だが、事実は不明だった。小舟を見たというのは確かだった。しかしその痕跡は絶えてなかった。

 

 

 

 灯里は再び目をつぶる。幾つかの雪の粒が、彼女の長い睫毛に降りかかり、そこで中々とけずに残る。

 

 

 

 そうして灯里は、降り積もったその重みで雪が睫毛より自然落下してびっくりするまで、ずっと悶々とした感覚に戸惑いを覚えていたのだった。

 

 

 

(終)




(※)曠日弥久=むなしく日を費やして、長びきひまどること(広辞苑より)


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Page.27「その日だけの太陽-悦びと、哀しみと-」

***

 

 

 

 長雨の続く時節、折に触れて、天気を司る神様は、持ち前のその気前のよさより、自然にとって長雨が必要のあることを知ってはいるものの、組み尽くせないほどの慈愛に満ちた晴天の一日を恵与してくださるものだ。

 

 

 

 夏を目前に控えて、その日の感じは、それまでの陰気臭い日々とは一転、すでに過ぎ去ったものとなった小春日和の復活のようだった。

 

 

 

 朝起きて見てみると、室内に転がして干していた傘はすっかり乾いていた。朝目覚めて、カーテンより漏れる陽射しにはっとすると、わたしは眠気などさっぱり忘れ、恋煩いの時に酷似した胸のきゅんとした締め付けを覚えて、カーテンを開いた。

 

 

 

 お日様は誰かのためだけの存在ではない。誰かが占有出来る存在ではない。わたしは熟知している。じめじめした長雨と重々しく垂れ込める暗雲。その中でわたしは恋焦がれていた。そう、太陽にだ。だが、そういう慕情にしおしおとしていた者は、結局のところ、わたしだけではなかったに違いない。何となれば、人情というのは普遍のものなのだ。太陽は、あまねく地上に向けてその光を注いだ。そして地上の者全員は、雨に気が差していた憂慮者達は、太陽に恩を感じ、愛情を注ぎ返した。

 

 

 

 その日はカレンダーでは黒字の日だった。要するに平日だったのだ。だが、日柄は平凡で並一通りのそれではなく、祝日そのもののようだった。誰か偉い人が生まれた日より、なくなった日より、ずっとその日は、尊ぶべき、喜ぶべき、ことほぐべき、美しさ、すばらしさに溢れていた。

 

 

 

 寝衣を着替えると、わたしは年甲斐もなくそわそわした心持ちで、仕事に出かける時間より前に、さっさと外に出ていってしまった。わたしは姫屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 ……晴れた朝の清涼感に清められた海辺の道を歩いた。海は凪いで、周りでは幾人かが、それぞれの仕事の準備をしていた。ある家からは朝ごはんの空腹を催すにおいが漂って来、ほかの家からは、朗々たるラジオ番組の声が漏れ聞こえてきた。ただ、あらゆる音は、耳触りのよいもので、決して喧噪ではなかった。誰かが生活している気配、また誰かがいた、存在した証跡を方々に見るのは、悦びを伴うことだった。

 

 

 

 空を見上げると、それまでの陰鬱の日々が嘘だったかのように、過去とすっかり切り離されて、断片の雲が浮かび、がらんと空いた空路を流れていた。雨雲などまったくなかった。雨の降る兆しはなかった。

 

 

 

 雨の多い時節の、気まぐれの晴れの日。数多の人々が雨空に夢見、また希求した太陽が、雲間より下りてきて、その麗しき愛恵の光をぞんぶんに放射した日。祝日に思える平日。祝日を祝日として容易に理解し、享受し、鮮明に記憶することの出来る稀少の日。

 

 

 

 

 

 

 ……海辺の開けたところに来ると、わたしは手すりのところに立って、海を眺めた。そばには緩やかに浜辺に降りる階段があった。目をやると、朝の早い時間なのに、若いカップルが寄り添って渚を歩いていた。二人の後ろ姿が見えた。すると、脳裏に或る人の姿が蘇り、よぎった。眼鏡をかけた背の低い、少年じみた男性の姿。わたしはまた胸の締め付けを覚え、胸部に手をやり、セーラー服をぎゅっと握り締める。唾の味が苦く感じる。頬が温かく、熱くなり、紅潮する。わたしには太陽以外に、好きな相手がいたのだ。その相手はしかし言えない……

 

 

 

 

 

 

 時間が経った。夕方になったが空は晴れていた。風がカーテンを煽る。カーテンが風を孕んで暴れる音をわきに、わたしはベッドに膝を組んで座っていた。仕事はすでに終わっていた。濃い夕焼けの紅色が部屋に注いでいた。

 

 

 

 憂鬱のわたしはしっとりと静かに涙の粒を落とし、シーツに点状のシミを作った。

 

 悲しい気がした。

 

 朝、あれほど喜ばしい気持ちでウキウキ早朝の海辺を歩いたのに、なぜ?

 

 決して悲しがりたいわけではなかった。ただただ、心がどうしようもなくずっしりと重かった。

 

 

 

 藍華、とわたしの憂状を察して先輩が来室し、呼びかける。だが、わたしは否定し、断り、拒絶する。

 

 一人になりたい、そう頑なに訴えると、先輩は呆れた様子で断念し、去った。

 

 

 

 しかし、先輩はたぶん、察知していたと思う。わたしの悩みというのは……

 

 

 

 薄暗がりの中、カレンダーに目をやる。今日の日付は黒字だ。素晴らしかったし、また悲しくもある一日だった。

 

 明日よりまた雨が降り、長く続くだろうということを、今朝道々聞こえたラジオの予報で知った。

 

 

 

  長々と続く陰雨。幾重に重なり合う雨雲。とぼしい陽射し。鬱陶しいじめじめの湿気。

 

 

 

 晴れ空に雨と雨雲を予見するわたしは、だが、何となく安堵する気がした。

 

 

 

(終)



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Page.28「大都会」

***

 

 

 

 信号が青になる。皓々とした白っぽい青だ。歩き出すシルエットがレンズに描かれている。

 

 わたしは、交差点の歩道を渡ろうとする。車道には何台か車が止まっている。それぞれの車には何人が乗っているのだろうか。何人にせよ、歩道を渡るわたしが誰かの目に入るというのは、そこはかとなく気味の悪いことだった。

 

 今は夜で、辺りはすっかり暗くなっていた。涼しい風の吹く過ごしよい夜だった。だが、わたしの全身はじとっと汗ばんでいた。

 

 結局、わたしは、そそくさと人目を憚って歩道を渡った。黒い舗装の上に白の長方形の塗装。ありふれた横断歩道だ。むずがゆいような、また気恥ずかしいような、何か居心地のよくない感覚で、渡った。体調が悪かったか、あるいは落胆していたのかも知れない。事情は自分でさえあまり釈然としない。

 

 歩道を渡り切って程なく、わたしは自然と後ろを振り返った。あのわたしを不安にさせる車達はどうしたのだろう、とでも思ったのだった。てっきり車が続々――というのはあの車道は、立派で広く、走りやすいのだ――駆け抜けているだろうと思った。否、むしろ駆け抜けているに違いないと確信さえした。

 

 ところが、意外と、車道は静かで、まったく静かで、車の姿はなかった。わたしには、本当に意外だった。喧噪を予覚した。ヘッドライトの照明が夜陰を切り裂く光景を幻視した。ところが実際のところ、あの車道にはひと気は絶えてなく、夜がまとう闇の衣は裂けず、完璧だった。

 

 わたしはほっと胸を撫で下ろした。やっぱり、わたしはどこかすっきりしない、人目を避けたくなる何かを抱えているみたいだ。だが、その何かは、別段大したものではなく、要するに、わたしは、ちょっとした病弊を、たまたま患っていただけなのだ。

 

 

 

 

 

 

 先進の国の都会は、わたしを圧倒させた。

 

 その街は、わたしの故郷であるネオ・ヴェネツィアとはまるで異なり、ゴンドラの代わりに自動車が走り、ウンディーネはおらず、その代わり、種々様々の職業があって、たくさんの人がその職業をシェアしていた。

 

 にぎわいに溢れ、お金の流動が活発で、時間の流れは目まいを催すほど早かった。わたしにはとてもではないが追行していくことが出来そうにないと思えるほど、都会の物事の発生と終息のリズムは激しかった。

 

 あのわたしにあった明瞭でも明確でもない不安の鼓動は、この街の、わたしが宿泊することになっているホテルの一室に来て、どすんと広いベッドに腰を下ろすとすっと鎮まった。わたしは安定し、安心し、頭の働きも、からだの働きも、柔軟になった。

 

 だが、来た当初はまだ不安で、ホテルのフロントの者はわたしと目を合わせ、会話する時、当惑していた。その様は、まるでわたしの不安が伝染したかのようだった。

 

 わたしは、道端で気に入った一人の男を、手練手管を用いて誘惑し、(その時のわたしは、なぜか異様に調子付いていた)、意気投合を演出し、わたしの部屋に連れ込んだ。一名で泊まる予定だったが、ホテルの者と相談して承諾して貰った。

 

 わたしは、じぶんの悶々とさせ、わたしの内部で密かにバタバタと不穏に暴れるものを解放し、発散した。あまり積極的に話せることでないことは言を俟たない。

 

 やがて終局を迎えると、一抹の悦楽を享受したわたしは、汗ばんで汚れたからだをシャワーで軽くさっぱりさせ、くつろぎやすい軽装になって、先述のようにベッドに腰を下ろした。男はどこか後ろ暗い様子で帰っていった。だが、わたしには最早どうでもよい存在だった。

 

 備え付けの鏡台の鏡を見ると、わたしの赤茶けた髪がしっとりした水気を帯びているのが見える。また真紅の耳飾りが、照明を反射して微かに光っている。何とはなしに、微笑ましい気持ちになる。

 

 目を広々とした窓の、開けた景色に向ける。この一室はホテルの上階のもので、景色は抜群によかった。都会の摩天楼は勿論ビッグスケールで大いに愉しいものだったが、その間に伸びる自動車道の曲線だって、その上を走る無数の車の流れだっておんなじだった。

 

 アルコールを手近に用意して永久に眠りそうにない夜の大都会をほろ酔い気分で満足して眺めていると、プルルという音が鳴り響いた。電話だ。わたしはきょとんとして受話器を取ると、「はい」、と答えた。相手は……

 

 後輩だった。直接指導している、ウンディーネの後輩だった。

 

 彼女の声を耳にした途端、わたしはいたたまれなくなり、窮屈さを覚え、テキトーに話を切り上げて電話を切ってしまった。

 

 ひょっとすると、わたしも、あの男と同様、後ろ暗い、すっきりしない何かを抱えていたのかも知れない。『藍華』は最初嬉しそうだったが、最後は釈然としない声色だった。すべてわたしだ。わたしのせいなのだ。

 

 小さくしょんぼりしたわたしは、再び摩天楼に目を向けた。色とりどりのライトが車道を高速で流れていく。その光景は、まるで流れ星のようだった。摩天楼は高く、天の果てまで伸びていきそうだった。だが、大都会の中にいて、わたしは、ちっぽけだった。本当の本当に、ちっぽけだった。出来ればすっかり縮んで、消えてしまいたい気分でさえあった。

 

 

 

 

 

 

 車道を渡る。雨が降っていた。じめっとして、湿り気をたっぷり含んだ空気は不快だった。わたしは傘を差していた。また、何となくそわそわしていた。

 

 小走りで、歩道を逃げるように渡る。信号が変わり、待っていた車達がこぞって走り出す。そして程なく、辺りが静まり返る。わたしは深呼吸する。スー、ハー。

 

 空を見上げると、宇宙船の信号灯の明滅が見える。雨雲で、星が見えない今、あの信号灯は、星そっくりに見えた。

 

 わたしの故郷は、この大都会でなく、ネオ・ヴェネツィアだった。わたしは、時に寂しさをまぎらすために路傍の者にしなを作ってねんごろにする品のない孤立した女性ではなく、仲間がいて、後輩がいる、満ち足りた一個の人間であった。そうであったはずだった。

 

 だが、今は自信がなかった。自分の存在がいぶかしく、疑わしかった。

 

 故郷に帰る時日を焦がれて思い浮かべた。だが、故郷の景色は遠く彼方に離れ、小さく見え、何となく、よそよそしかった。

 

 わたしは、帰るのがおっくうになっていた。雨に濡れ、雨粒が繰り返し弾け散る地面を見下ろすと、水に溶けて消えてしまいそうな情けない気分に駆られた。

 

 大都会は、そしてわたしは、哀しかった。

 

 

 

(終)



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Page.29「ふるさとよりはるか遠く離れて」

***

 

 

 

「いかがでしたか?」

 

「……はぁ」

 

 思いがけず、間抜けな返事をしてしまった。

 

 ゆったりしたソファに腰掛けて、すっかりうとうとしていたわたしは、その問いかけの声にはっと我に返った。

 

「ぼくの演奏」

 

 あるそれほど老いてはいない、しかし若くない男性が、わたしの目の前に、わたし同様、ソファに座っていた。

 

 彼は、目が悪いのだろう、眼鏡をかけていて、その面立ちは、何とはなしにやさしげだった。彼と一緒になる女性は、きっと幸せに違いない、と根拠がないのに確信さえした。

 

「演奏?」

 

「はい、ちょうど今一曲弾き終わりましたよ」

 

「あぁ」

 

 わたしは彼の手元を見る。すると大きいギターが目を奪う。木製の、クラシックギターだ。

 

 ふと思い出す。

 

 わたしは眠気にほとんど気絶して、夢見心地の状態で失念してしまっていたが、彼はわたしに得意のギターで演奏してくれていたのだ。

 

「何か」

 と彼は言いかけると、正面の小さいテーブルにあるコーヒーカップを取り、一口飲んだ。

「腑に落ちない、といった感じですね」

 

「腑に落ちない……わたしがですか?」

 

「えぇ、そうです」

 彼はカップを下ろすと、こくりと頷いた。その素振りは、自信満々で、いかにもその通りですとでも言うようだった。

「灯里さんが、ね」

 

 男性は目を瞑ってにっこりとした。

 

 わたしはいぶかしく思わざるを得なかった。わたしには、すべてがいぶかしかった。心地よかったという感想がまずあって、わたしの意識はそのぬくぬくした感じにすっかりふやけて機能不全にされていた。

 

 わたしがいるこの家は何なのか。誰の家なのか。わたしの目の前にいて、わたしにギターの弾き語りをする彼は誰なのか。わたしは彼とどういう関係なのか。なぜ彼はギターを弾くのか。なぜわたしはその演奏に陶然と聴き入ってほとんど眠ってしまっていたのか。

 

 度重なる自問の末、違う、違う、と断固として思った。否、そう頑なに意識した。

 

 わたしのいるべきところは、ここではないはずだ。わたしのいるべきところは、ネオ・ヴェネツィアのはずだ。藍華ちゃんの隣とか、ARIAカンパニーのダイニングのはずだ。

 

 と、激情に駆られて思考したところだった。

 

 わたしの頭の中の全ては刹那、ひっくり返った。真実はわたしの内なる眼によって虚偽と見破られた。わたしが違うと断じたものは、違ってなどいなくて、正当性を持っていて、否定すべき箇所などまるでなかった。

 

 わたしがネオ・ヴェネツィア、そしてARIAカンパニーという単語、加えて、藍華ちゃんだとか、アリスちゃんだとか、わたしにとってとても親しい名前を思い浮かべた瞬間、わたしは何だか白ける気がした。白ける気がして、わたしはこの誰のものか知らない家にいることが正しくて、ネオ・ヴェネツィアという街、及び、そこでの生活、そこでの友人、知人、あらゆる存在が、架空のものであることを思い出し、また悟った。

 

 迷路の如き水の都の街並みも、藍色の髪の、溌剌としていて、だけど人一倍傷付きやすい少女も、ライムグリーンのロングヘアの、才能に溢れて将来を嘱望される、ちょっと変わった少女も、全てわたしが想像力を働かせることで生まれた空想だった。ちょうど今、空想だと思い出したのだった。

 

「アルコバレーノさん」

 という名前がわたしの口を衝いて出た。わたしはますます白けた。わたしは男性の名前を知っていたのだ。知らないふりをしていただけだったのだ。あるいは暫時忘れていたのだ。

 

「はい」

 アルコバレーノさんは、にっこりした顔で答えた。

 

「あの」

 と、わたしはいくぶん俯いて、考え込むように呼びかけると、顔を上げた。

「わたし、どれくらいの間、うとうとしていましたか?」

 

「ほんのちょっとだけですよ」

 彼は絶えずにっこりしている。

「ほんのちょっとの間だけ」

 

「そうですか」

 

「仕方ありませんよ。何せこの小春日和の陽気です。音楽がなくったって、気持ちよくなっちゃいますよ」

 

 わたしはそばの窓より外を眺めた。庭木の草が、青々とした美しい光彩を胸のすく晴天の下、思うさま放っていた。心なしか、燃え上がる炎に似た形状で、コニファーの類と思う。白味がかった緑色に可愛げがあった。

 

 部屋にはカレンダーがかかっていた。そのカレンダーは、わたしのよく知る二十四ヶ月のものではなく、十二ヶ月のもので、五月のページだった。明るさに恵まれた新緑の季節だ。

 

 わたしはアルコバレーノさんににっこりして返した。

 

「虹というのは美しいものですが」

 と彼は言った。

「結局のところ、幻影に過ぎません。あれは、人間の視覚と空気中の水分と太陽の光が織りなす魔法なのです」

 

 わたしは肯定して頷いた。

 

「実体のないものを尊ぶのは馬鹿げたことなのかも知れません。ですが、ぼくはそうは思いません。美しいというのは、結構なことです。そしてわたしは、美しいもの惚れ、自分の所有物にしたいと欲した」

 

 彼は話している間、まじまじと目を開け、笑顔の度を弱めていた。真面目な話をしているという風だった。わたしは知らない間に真剣に傾聴していた。

 

「その結果が、これというわけです」

 

 彼は再び目を瞑ってにっこりすると、手のギターをよく見えるように持って見せた。わたしは成るほどと納得した。

 

「すいません。アルコバレーノさん」

 

「はい」

 

 わたしは丁寧に、頼んでみた。強い希望だった。

 

「アンコール、お願いしてもよろしいでしょうか?」

 

 その要望の後、しばし間を置いた後、アルコバレーノさんは深々と頷いて返してくれた。

 

「分かりました。灯里さん、好きですね」

 

 わたしは含羞と共に目を瞑って微笑んだ。彼はギターを構えた。

 

 その様子を細目を開けて眺めると、そこはかとなく、アルコバレーノさんというのは、わたしの、友人か知人であるという気がしてきた。そしてこの家は彼の自宅だったのだ。

 

 安心感がもたげ、わたしはくつろいだ気分になる。警戒の鎖がほどけ、わたしは窮屈さや不安などより解放される。

 

 ……演奏が始まる。甘い音色が柔らかに響き渡る。

 

 すると、わたしはまた、眠気に襲われ、うとうとしだす。目を閉じる。そしてなぜかあの幻、空想であるビジョンが脳裡をよぎる。続々とよぎっていく。藍色の髪の少女。ライムグリーンの髪の少女。水上にある、過ごしやすい妖精の住処。

 

 わたしは否定するように首を振る。

 

 藍華ちゃん……アリスちゃん……

 

 まどろみの道を進んでいく内、何だか体温が上がってくる。

 

 アリシアさん……晃さん……

 

 グスッ。洟をすする音が鳴る。

 

 目頭が熱い。わたしは泣いているようだ。

 

 帰りたい。切に帰りたい。だが、帰れない。虹を渡ることは決して出来ないのだ。

 

 悲しんでしまうと分かっているビジョンは、見ないようにするのがいいに決まっている。しかしわたしは、弱いわたしは、就寝の際、枕を抱かなければ寝られないのと同じように、たとえ悲しむことを知っていようと、この甘い美しい音色と、その音色が見せる幻想がないと、人生を生きていけないのだった。

 

 わたしはその幻想を、『ARIA』と名付けた。

 

 

 

(終)



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Page.30「ひぐらしの鳴き声に」

***

 

 

 

 日暮れでもないのに、カナカナという鳴き声がする。ヒグラシの鳴く声だった。騒々しい声を上げる種類とは違って、ヒグラシの鳴く声はとてもしっとりとして、穏やかで、そしてやはり、たぶんに哀愁を含んでいる。

 

 哀調を帯びた声に、灯里は耳をすました。カナカナ……

 

 真夏の木陰に汗ばんだ身を休め、彼女は目を瞑り、いくぶんぬるいものの、ちゃんと涼感を持った風を浴びて癒しを覚えた。

 

 

 

 

 

 

 その日彼女は遠出していた。特に予定がないため、小旅行を企画したのだった。一人では心細かったり、楽しさに欠けたりするので、誰か誘おうと考え、姫屋の藍華と、オレンジぷらねっとのアリスに声をかけ、同伴してくれないか尋ねた。誘えるとすればその二人しかいなかった。しかし、両人とも灯里の休日には予定があったので、行きたいのは山々であったが、断った。

 

 何となく索然としてしまった灯里は、とにかく乗りかかった船ということで、一人でも小旅行を決行することにした。

 

 彼女の休日は好天に恵まれた。太陽がさんさんと照り、入道雲はもくもくと成長してほとんど天涯にまで到達しそうであった。

 

 ネオ・ヴェネツィアは小旅行のロケーションではなかった。灯里は事前に船を予約し、当日港まで向かった。

 

 

 

 ご旅行ですか、と船中問いかけてくる女性がいた。たまたま客席が隣同士だったのだった。その女性は高齢で、白髪で、眼鏡をかけ、何となく、雰囲気は上品だった。

 

 灯里がはいと答えると、女性との雑談が始まった。どこから来たのか、どこに行くのか、どういう生活をしているのか、若いが夢はあるのか、付き合っている異性はいるのか、等々、他愛のない話が交わされた。

 

 灯里は適当に相槌を打って話すことと聞くことを繰り返したが、その内、相手の女性のやさしさとか、くつろいだ振る舞いとかのせいか、だんだんと親しみを感じだして、最後には懐かしささえ感じるようになった。ふるさとの母やグランマなどの、満ち足りた幸福な女性だけが帯びるあの組み尽くせぬ厚情が、相手にはあった。打ち解けて、心を許し、その厚情を、乾いた花が水を浴びて艶めく時のように、喜んで浴びた。

 

 何だか愉快さを覚え、灯里はその時はっとし、自分が、あるいは一人でいたためか、寂しさを感じていたことを悟った。

 

 

 

 

 

 

 結局、あの女性とは別れ、灯里は再び一人になった。

 

 自然豊かな里山を訪れ、山麓にある、昔風の仰々しい建築の家が立ち並ぶ集落の細い道を歩いた。

 

 遠くには、山の稜線があり、空との間に境界を成していた。その山の頂上の遥か上方には昊天の灼熱の太陽があった。人の生活の気配はあれ、往来はなく、賑わいに溢れたネオ・ヴェネツィアとは違って、聞こえるのはクマゼミなどの蝉の鳴き声ばかりで、後は静けさに満ちていて、灯里は半ばリラックスするような、半ば不安になるような、複雑な心持ちになった。

 

 蝉たちの鳴き声は昊天を満たし、こんもり青々と茂った草木は陽光に煌めき、じとっとして熱い空気は重々しく滞留して、夏の感じが、明白だった。すっかり成長して収穫の時期を待つばかりの稲穂が、風に揺れている。

 

 夏が見せつけてくる景色はまばゆいほどだった。だが、目をしょぼつかせてでも眺めるかいのある景色だった。ふわふわに膨らんだ綿雲。ひんやりとして冷たい川水。汗ばんだ喉を流れ落ちる甘い飲み物。

 

 灯里はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 彼女は何となく、嬉しくも切ない、妙な気持ちになって、目まいを覚え、近くにゆったり出来るところを求めた。彼女はしばらくさまよい歩き、ある山林に入ると、巨大な木のそばを見つけ、その陰に入り、腰を下ろして休んだ。

 

 その木は杉の木で、また、やしろにある、鎮守の森の一本だった。ずいぶん苔むして、ところどころ樹皮がカビており、特に樹木の知識を持ち合わせていなくても、樹齢が長いことは容易に察せられた。

 

 木陰にいると、すっかりくつろいで、灯里は眠気を覚えた。目を瞑ると、感覚が研ぎ澄まされるのか、ミンミンと鳴く蝉の声に混じって、こずえを渡る伊吹と、川のせせらぎとが聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 額に触れるとヌルっとしていた。汗だった。暑かった。だが、時折吹き寄せる風が、草木の涼気を集めてきて、快かった。

 

 カナカナ……

 

 哀調を帯びた声。聞こえるのはヒグラシの声ばかりになっていた。

 

 どれくらい寝ていたのか、また、重たい目蓋は暑気に眠って余計に疲れたせいなのか、よく分からないが、その目蓋を強いて上げ、ぼんやりとかかすんだ視界を鮮明にした。

 

 まだ日暮れではなかった。陽射しは落ち着いているものの、空を満たす青は依然干上がっておらず、雲が流れていた。

 

 夏模様を観賞して、灯里は感じ、また考えた。ヒグラシの声に哀しみを覚えるのは、ヒグラシのせいではなく、自分のせいだった。

 

 人間というのは、押しつけがましいものだ。人間ではない何かに対してまで、人間にしたがる。ヒグラシは、泣いているのでも、嘆いているのでもない。ただ鳴き声、決まった生まれつきの鳴き声を上げているだけなのだ。

 

 こうして、たとえ一人であれ、里山で涼み、花鳥風月に目を楽しませるのは、とても充実したことで、リフレッシングで、悔やみどころのない、首尾よく成功した、休日のイベントだった。

 

 だが、結局灯里は、一人であるということが気がかりで、また悩みだったのだ。あの船中出会った女性との談笑で、薄々気付いていた。だが、強情に黙殺していたのだ。強情さというのは、単独行動する者の特性だ。

 

 ヒグラシは鳴いている。悲哀を響かせているのではない。ただ鳴いているだけなのだ。

 

 だが、灯里はどうしても、その悲哀を否定し切ることが出来なかった。彼女はヒグラシと共に、ヒグラシの音を借りて悲しみたがった。

 

 灯里は立ち上がって彼方を望遠した。やしろのあるところは、階段の上で、高かった。

 

 綿雲に、眩しい太陽。引かない汗に、人情の滲む虫たちの鳴き声。思い出の箱には、すでにぜんぶ詰まっているようだった。

 

 こずえを渡る風は爽やかだった。爽やかだったが、その風には、悔恨か憂いか、ほんの少しばかり、苦味があった。 

 

 

 

(終)



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Page.31「星流」

                    『星流(せいりゅう)

 

 

 

***

 

 

 

 涼しい風の吹く夜だった。その仕事を終え、他の細々とした雑事も終え、後は床に就くだけという段になって、わたしは、寝衣に着替え、ARIAカンパニーのバルコニーにスリッパを履いて出、夜空を眺めていた。

 

 夏の盛りだというのに、とても過ごしやすい一夜だった。たまたまなのだと思う。また近く、もう明日からでも、猛々しい暑さが威力を振るい、わたし達は、消耗し、夏という季節の過激さに改めて感心することになるだろう。

 

 だとすれば、今夜、この涼しい夜というのは、かなり貴重だ。汗のないすべすべの額。寝苦しい夜には汗でべたべたになる。

 

 星の流れは非常に遅々として、眺めているにはややもすれば退屈になりがちだった。だが、星辰の光を涼感に落ち着いたまなこで見つめていると、センチメンタルにでもなるのか、何とはなしにうっとりとして、時間を忘れて見入ってしまうのである。

 

 アリシアさんは帰ってしまった。社にはわたしを除き、誰もいない。静まり返った街は乱されることのない眠りに入っているようだった。穏やかにさざめく海は聞く者の耳に何かささやきかけているようだ。濃紺の海原と宝石のような青の夜空の対照は美しい。

 

 この夜が、海も、空も、星も、ぜんぶ込み込みで、わたしは好きだった。どういう形の好き、だったのか、うまく言えないけど、恋人や友達と一緒になりたいという欲求と特に変わらず、相手と同一化したいという気持ちが漠然としてあった。

 

 わたしはこの夜と添い遂げたかった。この夜と抱擁し合いたかった。この夜そのものになりたかった。

 

 それは、わたしの心の中に渦巻いていた思念たちの、比較的分かりやすい断片であった。他には眠りたいとか、小腹が空いたから冷蔵庫のスイーツを一口でも食べたいとか、そういう思念もあったと思う。

 

 センチメンタルになりがちな人間の心は、とかく様々な思念のめぐる渦があるものだ。わたしもその一人だった。幸せを喜び、諧謔や滑稽や皮肉に笑うよりは、悲哀に嘆き、切なさに涙する方が得意だった。少なくとも自分にはそういう自覚があった。

 

 イメージの中に、わたしはこの闇、濃紺、星辰の夜という存在と合一する様を思い描いた。わたしは海川に落ちる雨しずくや、火山の溶岩に転がっていく石ころのように、わたしは夜という広大な面にどっぷりと浸かり、夜と同様に闇を抱き、彼方に遠のいた太陽の光を借りて濃紺に染まって、星々をもてあそぶのだった。

 

 陶然とした気分で、目をつむって果てしのない空想をしていると、次第と現実感覚が薄れて足元さえ覚束なくなるのはわたしのような性状の人間にはよくあることだった。

 

 目をつむりながら睡眠欲が高じていたわたしは突如ぐらッとからだの傾くのを感じてびっくりし、目を開いた。現実が空想へと離れた人間を自身へと引き戻すその力は圧倒的で、また暴力的だ。わたしはいくぶん息を乱してしまった。わたしは愛しい夜と物別れになった。だが哀しくはなかった。空しかったし、バカバカしいと悟りさえした。

 

 ぐらっとして驚きに目をぎょっと開けたその刹那、わたしはわたしの視界で、星辰の残影がびゅうっと伸びて尾を引くのを見た。白い線のうねりが夜空に流れた。

 

 もう寝てしまおうと思った。頭が重かった。決して不快だったり、愁訴があるわけではなかった。我に返った、ただそれだけだった。

 

 バルコニーより屋内に戻り、ガラス戸を閉め、施錠し、カーテンをかける。

 

 自室に行き、ベッドに潜る。寝たと思ったら、起きて、わたしは目前に何匹かの白うさぎを見て不思議に思う。どうしてわたしの部屋にうさぎがいるのだろう。だが、白うさぎたちはわたしのきょとんとした顔をそのルビーのような瞳で見ると、そっぽを向いてぴょんと跳ね飛び、円窓を通り抜けて空に向かい、そしてその軌跡は、あのわたしが目まいした時とそっくりそのままの、白光りする残影の流れとして、刹那、残ったのだった。

 

 

 

(終)



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Page.32「スローガン」

***

 

 

 

 わたしがウンディーネの道を諦めて、書物を扱う仕事へと移ったのは、かれこれずいぶん昔のことだ。天才肌のルーキーのアリスとして、ARIAカンパニーの灯里先輩や、姫屋の藍華先輩と共に、日々つたないやり方で、半ば遊びめいてはいたものの、ちょっとずつ研鑽を積んで、いずれはそれぞれの目指す大妖精と呼ばれるウンディーネの最上階級になることに憧れ、夢見、精進した。

 

 人の生の道というのは決してまっすぐではないし、レールが敷かれているわけでもない。そういうことを、わたしは感じる。当時はそうは感じなかった。人生はまっすぐで、それこそレールが敷かれるがごときものだと思っていた。

 

 ある日――今思えば、それは天命とか天啓と呼ばれるものだったのだろう――転機が訪れ、わたしは呆然とし、懊悩し、自分の立脚する位置の不安定さを思い知った。

 

 簡単に言えば、人間関係だった。もともと、人付き合いは得意でない方だった。自覚はあった。声は小さく、表情は仏頂面で、他人に対して、交流に対して、意欲的でなかった。別に、意識的にそういう態度を取っていたわけではなかった。そういう態度が、わたしのナチュラルであっただけのことだった。

 

 だが、わたしのそういう性状では、ウンディーネをやっていくのは、往々にして困難をきたすのは異とするに足りないことだった。わたしは次第に周囲と軋轢を生じ、同僚、先輩に後輩、更には客人とまで、不和を伴った。

 

 わたしは自身を賢明だという手前味噌の主張をするつもりはない。ただ、昔も今も、愚鈍でも蒙昧でもありたくないという気持ちが強かった。わたしは自身のウンディーネとしての適否をやや遅れて悟り、今もなお盛況であるオレンジ・ぷらねっとの重役に相談し、退職することになった。

 

 

 

 ……にんげんという生き物の愚かしさを忌々しそうに語るにんげんをある日テレビで見た。にんげんは惑星の環境に負担をかけすぎている。にんげんは手前勝手に生きることで環境を汚染し、ひいては、じぶん達の生活する範囲にまでその影響が及ぶことになるだろう。

 

 ネオ・ヴェネツィアは水位がここ数年急激に上昇しているという話だ。わたしはもうオールを握らなくなって多年なので、実際どうなのかは分からない。

 

 わたしは毎日書物の山に埋もれ、評論やエッセイを新聞や雑誌に投稿して暮していた。すっかり目が悪くなり、一日を過ごす間のほとんど眼鏡が外せなくなった。

 

 そのシーンを見たわたしは、眼鏡を外し、小声で唸った。

 

 にんげんという数多の過誤を重ねてきた生き物に欠陥を認め、断罪する。にんげんを悪として認識し、そうすることで、その生存を否定し、滅ぼそうとする。

 

 その程度の生き物なのかとわたしは思った。なるほど、にんげんは悪なのだ。であれば、滅びるしかない。

 

 だが、にんげんが重ねてきた歴史は、必ずしもネガティブなものばかりではないはずだ。数々の新旧の書物を紐解くことで、わたしは勉強した。爆弾を落として山野を荒れ地にするにんげんは、しかし花を植えることが出来る。

 

 これは、果たして綺麗ごとなのだろうか。にんげんは結局、わたしの思想、わたしの意見を受け付けないほど、完璧に悪なのだろうか。

 

 わたしが最初仲良くし、協力し、切磋琢磨した灯里先輩や藍華先輩、優しいアリシアさん、怖い晃さん、いつもうっとりして上の空のアテナさん……

 

 テレビが訴える醜悪なにんげんと、身近にいたにんげんとを並べ、比較する。そうすると、まるでオセロのようにはっきりとしたコントラストが出来る。

 

 わたしは混乱し、首をかしげ、重たい頭を抱える。

 

 ――失敗した。悪さを犯した、その時は、過誤を認め、反省し、ごめんなさいと言う。

 

 わたしははっとする。

 

 昔、わたしがウンディーネをしていた時、教えてもらった、そっくりそのままではないが、訓戒だ。オレンジ・ぷらねっとの社訓だったのか、例の合同練習のメンバーの間で出来たスローガンだったのか覚えていない。だが、そのわたしのテレビの訴えへの苦悩に対するヒントは、書物の中のものではなく、わたしの記憶の中の、ぽかぽか暖かく楽しい時期に、何気なくあったものだった。

 

 断罪されれば、処分されるのはことわりだ。罪を根拠に、可能性が減殺される。

 

 省察し、更生し、人生の岐路で新しい方向を目指すことが出来るというのは、自由であるということだ。道を誤った者から行き先を奪うということは、果たしていいことなのだろうか。そうすれば、すべては万全なのだろうか。

 

 わたしはテレビを切り、読んでいた書物にしおりを挟むと、デスクを離れ、ベッドにごろんと横たわった。

 

 考えすぎだなぁ、とわたしは自分に呆れた。目を瞑った。

 

 眠たかったのは否定出来ない。だが、寝ていたのか、起きていたのか、自分でも今一釈然としない。

 

 ただ、目蓋の裏に、過去の映像が流れていて、わたしは見入っていた。よく見知った映像だ。わたしが白いセーラー服をまとっておしゃれに装飾された小舟に乗っている。時には一人で、時には仲間達と。

 

 その映像を見ていると、どうして自分はあれほどすてきな人たちとの間に不和を生んで、仕事と、彼女等との関係を断念し、離れて、望まないところに来てしまったのだろうかと、悔やまれてくるのだった。

 

 今の書生としてのほそぼそとした生活に特に不満があるわけではなかった。だが、目蓋の裏のビジョンを見ていると、何とはなしに、その生活、わたしの思い、わたしの考えが、翳りを帯びて、疑わしいものになってくるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.33「老いの始まり」

***

 

 

 

 誰かがこう言っていた。懐古は脳の老化が始まった証拠であると。

 

 空調のよく効いた冷涼な室内、ゆったりとした安楽椅子に背を預けて、わたしは広い窓より外の豁然たる風景に目を注いでいた。たいへん蒸し暑い季節、真夏だった。海原の向こうの水平線と接する空は、すがすがしいほど青く、もくもくと成長した入道雲の城が立派にそびえている。あらゆるものは夏日のまばゆい光輝をたっぷりと受けて煌めき、美しかった。

 

 夏というのは、どうしてか、昔を思い出させる趣きがあるように感じる。わたしだけなのだろうか。安楽椅子を前後に穏やかに揺らしながら、ぼんやりと物思いに耽る。

 

「名前はどうするの?」

 

 ある日、友人がそう尋ねた。わたしははにかんで、まだ考えている途中だと答えた。

 

「可愛い名前がいいわよね」

 

「そうだね」

 

「灯里の二文字を使うつもりはあるの?」

 

「ううん、別に」

 

 わたしは首を振った。

 

 ネオ・ヴェネツィアのある喫茶店での会話だった。相手は藍華ちゃんだった。わたしが身ごもったという話を聞くと、まるでじぶんのことのように両手を上げたり拍手したりして、わたしがいくぶん戸惑ってしまうほど喜んで、手の舞い足の踏む所を知らずといった感じだった。

 

 彼女は確かに、喜んでくれていた。わたしが誰かと添い遂げ、子を授かるという経過を経る一方で、わたしがそうなるより遥か前より恋愛相談をよく持ち掛けていたが、その表情には、少しの陰りもなかったように見える。

 

 だが、ひょっとすると、わたしはいくらか楽観的過ぎたのかも知れない。彼女の内心には、何かわたしに対するポジティブでない感情があったのかも知れない。でなければ、わたしと彼女の間に今あるすっきりしないもやもやとした互いを疎遠にする隔たりの感じが出来ることなどなかったはずだ。

 

 いずれにせよ、わたしと彼女は、灯里と藍華は、すれ違うようになった。寂しく、哀しいことだった。

 

 わたしは膨らんできたお腹を撫でてみる。温かいのは体温だ。お腹の中にいる新しい命は、特に反応を示す様子はなかった。わたしは何となく安堵する気がし、目を瞑ってフゥとため息した。今は何となく、一人で、沈思に徹していたい気分だった。

 

 目を開いて考えた。わたしのパートナーはわたしにとても優しくしてくれる。日頃は仕事に精を出しているが、かといって家事を全て押し付けるとか、そういうことはない。お互いに協力して、円滑でまた健全なる共同生活を維持しようと心掛けている。

 

 確かにわたしは友人より遠く離れてしまったかも知れないが、その友人以外に、慕い、親しめる気の置けない相手と一緒にいて、孤独に悩むということはないはずだった。

 

 だが、何か、満たされない『隙間』がわたしの内にはあった。そしてその隙間に、その裂け目、その風穴に向かって、とめどなく流れ込んでくるのが、過去の記憶なのだった。麗しく、懐かしく、そこに回帰したいと希求させる、思い出たちだった。

 

 ちょっとお腹が空いたせいか、胃腸の具合があまりよくなく、口の中がまずかった。だがわたしは食べ物を食べようとは思わず、手近にある紅茶で潤すだけで済ませた。

 

 部屋にあるラジオからは快い南国の音楽が流れていた。ギターのチロチロという音色が温かみを帯びている。

 

 わたしは再び目を瞑った。すると一帖の思い出のシーンが目蓋の裏に映し出された。

 

 ――わたしは車に乗っていた。車内は空調がよく効いていて涼しかった。わたしは後部座席に座っていた。運転席では母がハンドルを握っていて、隣には優しげに微笑む祖母がいた。わたしは手に何か持っていた。何だろうかと確かめようとすると、祖母がわたしの肩を叩いて注意を引いた。わたしははっとした。

 

「ねぇ灯里ちゃん、暑いでしょ」

 

 祖母が言った。

 

「うん」 わたしは頷く。

 

 車のカーステレオは南国の音楽を流している……

 

「アイスでも食べる?」

 

「アイス!」

 

「あそこにお店があるの」

 

 母が指さして示す。わたしはその方に目をやる。

 

 うんざりするような暑さの昼下がりだった。空はカンカン照りで、近傍にある田んぼに突っ立っているかかしさえ、何だか疲弊しているように見えた。だが、わたしは--当時のわたしは、特別、暑さに愚痴をこぼすとか、千鳥足で歩くとかいうことはなく、ただ汗に濡れた前髪を額にべったりと付けて、買って貰ったアイスを、軒先の日陰で舌先でチョロチョロと舐めているのだった。

 

 アイスは味がしなかった。ただ氷のように冷たいばかりだった。だが、忘れてしまっただけなのだと思う。わたしは嬉々としてアイスを味わい、その涼感を思う様、堪能した。

 

 猛暑の中、車を放置していると、車内は高温サウナ並みの状況になっているものだ。それほど間は経っていないはずなのに、果然車内はもわっとした蒸し暑さがすでに陣取っていた。ホカホカの後部座席に座ると、せっかくのアイスによる暑気払いの効果があっという間になくなってしまう。母が空調を付け、涼しくなるまで、しばし時間が必要だ……

 

 みずみずしく輝く青い夏空の下、わたしと母と祖母の三人を乗せた車は快走する。土手の道は、すいすいと交通はスムーズだった。

 

 車の中で、わたしは、心なしか車に乗っている時間が長いように感じだした。実際長いのか、大して長くないのか、わたしには分からなかった。またどこかに行く途中なのか、家に帰るのか、そのことさえ不明だった。母も、祖母も、同じように疑問に思っている表情ではなかった。尋ねようと思って口を開こうとしたが、直前で委縮したようになって断念してしまうのだった。

 

 わたしは俯いて深くシートに座った。落ち込んだような恰好だった。そして不安に思うや否や、アイスが中りでもしたのか、お腹がしくしくと痛み始め、子供らしい薄っぺらいお腹を手で押さえると、どくんどくんと脈打つように動いた。

 

 カーステレオの音楽はいぜん南国風で、温かみがあって……わたしは、知らない内に自室に帰っており、手で膨らんだお腹を押さえていた。どくんどくんという動きはしばらく続いたが、やがて止んだ。胎動だった。何か嬉しいことでもあったのか、ちょっと元気に動いたようだった。胎児の喜怒哀楽の表現を理解するのは実の母でも難しかった。

 

 わたしは微笑むと、目を瞑ってフゥとため息し、窓より空を眺めた。

 

 当時わたしが経た経験は、時間という風雨に晒されることですっかり古くなり、今となっては、金属の劣化に似て、錆びたり、欠けたり、へこんだりして、当初の形状とは変わって、完全に同一のものではなくなってしまったように思える。あの友人の、藍華ちゃんとの思い出も、その最初の方のものは、今では色褪せて、見返すと自分が年を食ったということを嫌ほど実感させられ、苦笑いがこぼれる。彼女は今どうしているだろう?

 

 青空に、白雲に、海原に、わたしは昔の思い出を眺めるようになってしまった。わたしの目が切り取った風景は、すべて、そっくりおんなじではなく、追憶の哀愁と慎ましい喜びの色に染まっていた。

 

 懐古するのは老化の始まりだと耳にしたことがある。

 

 あなたは最早子供ではなく大人なのだと、教え諭す声がする。わたしのお腹の方だ。わたしはまた微笑み、手で優しく愛撫する。微かにする脈動。愛おしい温もり。

 

 わたしの内側には確かに『隙間』があるようだった。だが、その隙間には、今は流れ込んでくるものはなかった。

 

『ねぇ灯里ちゃん、暑いでしょ』

 

『名前はどうするの?』

 

 昔耳にした声、言葉がこだまして響きを起こす。

 

 わたし安楽椅子を揺らして、ラジオの音楽に傾聴して考え込む。

 

 しばらくして、わたしは口を開き、ぽつりと呟く。

 

「アイス、なんてどうだろう」

 

 苦笑いの声がした。母の、祖母の、藍華ちゃんの、あるいはアリスちゃんの、あるいはアリシアさんの、苦笑いだった。

 

「いいと思うけどなぁ」

 

 わたしは呟く。独り言だった。

 

 夏空は、果てしなく青かった。

 

 

 

(終)



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Page.34「ドッペルのお化け」

***

 

 

 

 『ドッペルのお化け』という古い都市伝説がある。簡単に言えば、もう一人の自分と遭遇してしまうという現象で、もしも遭遇すると、近い内に死んでしまうと言われている。遭遇せずとも、目にするだけでもダメらしい。

 

 その日のネオ・ヴェネツィアの夜は、夏の盛りが過ぎて、涼しい風が吹いていて快かった。昼間汗ばんだ身体は冷まされ、汗は引き、じっとりと張り付いていた衣服は剥がれ、サラサラに乾いた。盛夏の頃には、しょっちゅう飲み物と清涼感を求めてわがままになっていた者は、慎ましさを得、あるいは取り戻し、小銭を節約出来るようになった。

 

 皓々と照る街路灯に夏の虫が突っ込んでいって弾かれ、バチバチという音を騒々しく立てていた。

 

 オレンジ・ぷらねっとで働くベテラン水先案内人のアテナ・グローリィは、早めに終わった仕事の後、一人、夜の散歩に出ていた。後輩のアリスを誘おうかと考えたが、デスクに向かってテキストを開くその姿を見ると、遠慮されて、結局誘わず、また散歩に出かけるという言い置きを預けることもなく、単身、フラッと外に出ていった。

 

 単身ではあったが、心なしか気が軽く、足取りも軽やかだった。自分はひんぱんに単独でこうして気晴らしに出かけるが、やはり一人でいるというのは、気遣うことも、気遣われることもないし、よいものだと、アテナは改めて感じた。

 

 辺りにはぼちぼち人影があり、彼等もアテナ同様、涼しくなった夜に憩いを求めて出歩いているようだった。 昼日中にはアツアツでフライパンのようになっていた石の道路は、今は、ぬるくなっていた。

 

 大運河(カナル・グランデ)に架かるリアルト橋を渡る途中、最上で立ち止まると、アテナはそこでネオ・ヴェネツィアの街の開けた景色に目をやった。種々の船が航行する運河の両端には、温かみのある電灯がポッと灯った建物が並んでいて、またレストランの運河に張り出した、大勢の客で賑わっているテラス席などがあって、見ていると楽しかった。また、高所というほど高所ではないものの、橋の最上には、下と比べて風の通りがよく、加えてその風は、水を渡ってくる冷涼な風なので、じっとしていると心地がよかった。

 

 耳を澄ませると、いろんな音が入ってくる。まず風の音、そして他の、周りを往来する人々の足音、話声、装飾品がチャラチャラ鳴る音、遠くの酒酔いのバカ騒ぎ……

 

 目を瞑ったアテナは、瞑想の中で、風の通り道を通り、その、かしましかったり穏やかだったりする音の群れ、音の混雑を抜け出ると、デスクに向かうアリスのところへと至った。そして目を開けた。

 

 その時だった。眺望に満足して再度歩み出そうとしたその刹那、アテナはある一人が、背後を通り過ぎようとしていることを知った。その一人は、どうしてか、見知らぬ赤の他人とは思えず、妙に注意を引き寄せた。

 

 アテナは目の端っこを使うようにして、相手を瞥見した。すると相手はもう立ち去ろうとしていた。――白いセーラー服を着ているが、ひょっとして……

 

 ショックを受けたのは、その容姿だった。アテナは愕然として、息を呑んだ。

 

 ライラック色のショートヘア―、褐色の肌。セーラー服には、ダメ押しするかのようにオレンジ色のライン。オレンジ・ぷらねっとの所属であることの証。

 

 アテナは思い当たる節があった。昔、聞いたことがあった。アリスが話してくれたのだ。『ドッペルのお化け』という、数々の逸話の題材となっているお化けがいる。そのお化けというのは自分と瓜二つで、双子どころか、同一人物のようで、万一目撃すると、恐ろしいことになってしまう。――アリスは怪談好きの性分だったが、アテナはそのことを知らなかったし、意識もしなかった。

 

 その時、その瞬間、空目とするには余りにも仕掛けが周到過ぎると思われる、鏡に映るのとは異なる自分とそっくりの姿の相手に遭遇した瞬間、アテナはふっとその都市伝説の話を回顧した。

 

 闇に溶けていこうとするコピー、クローン、生き写しの後ろ姿を唖然として見つめていると、その姿が、振り返ろうとした。アテナは瞬時、見てはいけないと電撃的に察し、逃げようとした。何となれば

、その姿は『死』そのものなのだ。がしかし、彼女は追いかけてきた。物凄い速さで追いかけてきて、逃げ惑うアテナに抱き付いた。

 

『助けて』、と戦慄にかすれ切ってほとんど聞こえない叫び声を上げ、アテナは懸命にもがいた。

 

 ――肩を揺さぶられ、アテナは悪心を覚えた。

 

「アテナさん」

 

 どうして自分の名を知っているのか。あなたも同じ名前の、お化けではないのか。ドッペルのお化け。アテナは恐怖心と共に困惑した。

 

「アテナさん」

 

 びくっとして顔を上げると、見慣れた部屋の内装が目に入った。

 

「夢見でも悪かったんですか? でっかいうなされてましたけど……」

 

 肩に手で触れているのは、後輩だった。アリスだ。彼女はきょとんとした目でアテナの目を覗き込んでいる。

 

 アリスのその目を見ると、机に突っ伏しているアテナは気が緩み、こわばっていた身体が急速に弛緩していくのを感じて、「はぁ~」と長いため息を吐いた。

 

 アリスはお化けではなかった。だが、お化けを教えた者ではあった。恐怖そのものではなかったが、恐怖の源ではあった。

 

 アテナはだが、気にかけなかった。今はあの恐怖現象が一時の幻でしかなかったことを知って安堵するばかりだった。

 

「アリスちゃん」

 

「はい」

 

 アテナは乱れた髪を手直しして話す。

 

「散歩に行かない?」

 

「散歩ですか」

 アリスは一瞬怪訝に思う風に首を傾げたが、すぐに戻した。

「別に、いいですけど」

 

「そう」

 

 しぶしぶではあれ承諾を得、アテナはにっこりと微笑んだ。アリスのデスクはすっかり片付いている。

 

 一人でいるのは気楽だ、確かに気楽だ。だが、怖いことがあった時、どうしようもなく不安になる。

 

 アリスはまた怪談を得意げにぶっていた。ずいぶん詳しいものだと、アテナは半ば感心し、半ば呆れた。

 

 アテナは話半分でアリスの語りを聞き、夜空を眺めた。満点の星だった。指で星座をなぞってささやかに興じた。

 

 大運河のリアルト橋、アテナとアリスは並んで一緒に夜景を眺めた。

 

 散歩中、時々足取りの差より互いに離れ、アリスを遠くに見ることがあると、アテナはその影に、あのお化けの姿を投影して微かに寒気を覚えた。

 

「どうしたんですか、アテナさん」

 

 くるりと振り返り、問いかけるアリス。

 

「ううん」

 

 アテナは首を振り、微笑んで何でもないと答える。

 

 互いに距離を置いて歩く二人。その差は足取りの違いだ。

 

 アテナは仰向き、星空に、自分の後ろより来て追い越していくお化けの後ろ姿を見る。『死』の象徴。だが、鏡なしで自分の姿を目の当たりにするというのは、恐ろしいことというよりは、むしろ感慨深いことのように思えてくるのだった。

 

 

 

(終)

 



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Page.35「雨と霧」

***

 

 

 

 バルコニー席は閑散としていて、わたしの他は誰もいなかった。というのは、雨が降っているのだ。バルコニーにはちゃんと屋根があって、雨ざらしではない。

 

 人目をはばかる必要がなかったので、わたしは目覚めた時のように腕をうんと伸ばした。やや虚しい解放感が後に残った。

 

 ログキャビンの喫茶店のバルコニー席は、大運河に面している。雨はさっき降り出したばかりで、不測の悪天候に見舞われた船乗り達は、せかせかと雨に濡れて、出来るだけ早く屋根の下に潜り込みたいと、帰り道を飛ばしていた。小さい舟は、石橋の下の隅っこに、交通の妨げにならないように停まって、漕ぎ手はやれやれといった風に舟のへりに座って煙草をふかしていた。

 

 いろいろある船の中に、ゴンドラがあった。わたしにはよく覚えのある、馴染みのある舟だ。

 

 わたしは一艘に目を留めると、席に腰を下ろした。テーブルには湯気の上がる飲み物のカップがある。わたしは取っ手を持って一口味わう。甘く芳香馥郁たる飲み物だった。

 

 ゴンドラの主は、例に漏れず、不意の雨に襲われて帰る途中のようだった。ゴンドラはあっという間に視界より消えた。

 

 わたしは遠くに注がれる目を戻し、テーブルの上に置いた、新聞のコラムの参考にと図書館で借りてきた本を手に持った。

 

 何だか気分がくさくさしてくるようだった。わたしは本をテーブルに置き、出来れば置いて帰りたいくらいだった。

 

 書生として従事するということは、特別嫌いではなかった。かといって好いてもいなかった。ただ仕事として選択したから義務でやっている、というだけのことだった。

 

『アリス』は今は書生だが、昔はウンディーネだった。

 

 そしてわたしは、その仕事に、仲間に、未練があった……

 

 めくるめく回想が、風の煽りを受ける本のページのごとく現れては消えていく。

 

 あの時正しいと当時のわたしは決め付けた。ウンディーネっが間違いで、書生が正しいのだとわたしは信じた。ゴンドラの上での仕事はそつなく出来たし、学校での勉強はまずまずだった。とりわけ言語の類が得意だった。

 

 だが、仕事は技術と理論だけで成り立つものではなかった。仕事は人と人との関係、関連があり、相互に手分けしたり分担したりしてやることで成り立つものだった。少なくとも、ウンディーネはそうだった。

 

 わたしはだんだん、人の和の中で、その和を崩さないように動くことに苦手意識を持つようになった。オレンジ・ぷらねっとの折に触れてある、会食に誘うメッセージ・レターには、何時の頃からか、見て見ぬ振りをするようになった。

 

 わたしは苦心し、頭を抱えた。先輩のアテナさんや同輩の灯里先輩、藍華先輩に相談した。しかし、自分の中に立ち込め、濃さを増していく霧は晴れなかった。

 

 ゴンドラに乗り、櫂を握ると、常に、振りきれない胸苦しさ、違和感が付いて回った。

 

 わたしの駆るゴンドラは次第に綺麗に進まず、観光に喋る口は軽やかさを損なっていった。

 

 上司の警告が入るのと、編集者だという知り合いの知り合いが口を掛けてくる時が偶然合致した。わたしはちょっと前に、懸賞のエッセイに拙作を出して当選していたのだった。

 

 雨は小止みなく降り続ける。

 

 あの時わたしの心は、確かにウンディーネに反発し、抵抗していた。だが、その心は、また不満を持つようになり、わたしを困惑させている。わたしに問題を投げかけ、是正するよう訴えかけている。

 

 この『我欲』を抑え付けるのは、一見簡単のようでその実、難しかった。最近ボーッと上の空になることが多いのだが、思うに内面の葛藤に疲れているせいだろう。

 

 自己の問題より逃げるように、わたしの目は、視界にある全てのものに次々と移る。

 

 あの時、わたしが転職を決断した時、わたしは自分が道を逸するのだと自覚していた。だが、決して目的地を見失ってはいなかったはずだ。それまで進んできた道のりが、よしんば誤りではなくとも、迂遠というべきものだったと悟ったのだ。わたしはそれまでとは異なる方角へと伸びる道に足を踏み出し、古い道とは別れ、新しい可能性を掴みに行こうとしたのだった。

 

 ウンディーネを疑いだした時の、心の霧、転機を得ることで一時晴れていた霧が、また現れ、わたしの行く先を隠し、不安に陥れた。わたしの足場はあざ笑うかのように揺れ動いた。

 

 だが、ウンディーネに帰りたいとは思わなかった。今更回帰したところで、何かに付けてぎごちない結果になるだけだと分かっていた。

 

 元々、満足しない、あるいは我慢の利かないタチだったのだろうかと、わたしは参考書を開き、茫然たる眼を彼方へと向けて、考える。わたしの生活が転変した時や、ウンディーネとしての充実した時期や、ウンディーネになったばかりの初々しく甘酸っぱい時期などを超え、幼年時代にまで遡及する。

 

 わたしの性格形成の過程を辿ろうと試みる。しかし、捗々しく行かなかった。

 

 目が悪くなったのは、文書に常日頃かじり付いているせいだ。お陰様で、眼鏡は必需品だ。そう、わたしは眼鏡をするようになったのだ……わたしはハッとする。であれば、ひょっとすると、仮に再び船乗りに戻るにしろ、視力の点で、わたしは適格と認められないかも知れない。

 

 灯里先輩、藍華先輩、今はばりばりと働いていることだろう。わたしは変わってしまった。わたしは最早彼女等のもとに戻れないのだ。

 

 そう理解すると、わたしは頭を掻きむしり、苦笑をこぼした。その苦笑いは、しぼんだ風船みたいで、あまりにもしおしおとして、憂鬱を吹き飛ばすことなどまるで出来ず、情けない限りだった。憫笑だったのだ。

 

 確かに情けなかったが、人目を憚る必要はなかった。わたしは慨然とため息すると、俯いた。頼んだ飲み物はすっかり冷めたようだ。表面には雨降りの様子が映り込んでいた。

 

 苦しみに渇く心は、涙を欲した。だが、わたしは泣かなかった。強いて泣こうとしなかった。

 

 機運が満ちれば、わたしはどうにだって変化する気概でいた。あの時、ウンディーネとしての自分が疑わしくなった時のように。

 

 晴れない霧はない。またたとえ晴れることがないとしても、わたしは霧の中をおのれを信じ、頼って進んでいくだけだった。

 

 

 

(終)



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Page.36「アリシアのロマンティシズム」

***

 

 

 

《また》

 

 彼女は既視感を覚え、心中呟いた。

 

《また、わたしは……》

 

 エアバイクのスロットルグリップを戻すと、車体は減速し、また高度がどんどん下がっていった。

 

 夏とはいえ、雲を間近に見上げるほどの高度まで上がると、気温は地表と比べ、ずいぶんと控えめになるものだ。地表だと猛暑に疲弊するところだが、がらんとした空路は、よく冷えた風が天然のクーラーのようになっていて、エアバイクを駆っていると、ほとんど肌寒さを感じるくらいだった。

 

 アリシアは――エアバイクの乗り手は、勿論日焼け防止を兼ねて、防寒用に長そでの上着を羽織って、細いマフラーを首に巻いていた。手にはグローブ。大気中を突っ切っていくことで全身に浴びる風に、その細いマフラーは激しくなびいた。

 

 彼方には怪獣のように大きい、魚の胸ビレに似たウイングを付けた星間連絡船が、いびつに伸びる万里の入道雲が囲う大空を、ゆっくりと飛んでいる。さっき国際宇宙港を発って、アクアを離れ、異星へと向かうのだ。

 

 アリシアは戻したエアバイクのグリップを再びひねり、加速したが、次第に宇宙船に接近していくのを知ると、また減速し、近傍に見える高層ビルの屋上ポート――その屋上ポートは、たとえば複合商業施設にあるのとよく似ていて、一種の広場になっていた――に、ゆっくりと慎重に下りていった。

 

 詰まるところ、スカイガーデンというもので、その広場は、高いところであるため非常に見晴らしがよく、しかしその割には、人影はあまりなかった。思うに多くはクーラーのよく効いた室内にいて避暑しているのだろう。

 

 辺りにいるのは、じっとしていることが得意でない外での運動を好む元気いっぱいのわんぱく小僧と、そのややくたびれた親くらいのものだった。

 

 アリシアは、エアバイクの各所を軽くチェックして、上着を脱いでマフラーを外し、半そでになると、絶景を望むことの出来るベンチのひとつを占め、腰を下ろした。

 

 水筒に入れてきたお茶を呑むと、乾いた喉に浸み込むようだった。

 

 夏の日は激しかった。確かに激しかったが、今はすでに夕方に差し掛かっており、その光は、依然目まいを催すほど強烈ではあるものの、淡かった。

 

 制帽を脱いで脇に置いた。アリシアは制服だった。むき出しになったブロンドのロングヘア―が、高所によくある強い風にいいように弄ばれた。

 

 輪郭のくっきりした入道雲……アリシアは乱れ髪を直すと、さっき目にし、陶然と見入った光景を回想した。

 

 夏空に必ず存在する夏の象徴。夏という季節を象徴し、謳歌し、照明するシンボルの雲。

 

 うっすらと額にかいた汗をハンカチで拭き取る。そしてまたお茶に口を付ける。

 

《昔は、こういうところによく来たなぁ》

 

 アリシアは目を閉じ、束の間の回想に耽った。思い出されるのは……

 

 

 

 

 

 

「うりゃああああああ」

 

 呆れるほど子供っぽい叫び声と共に、エンジンの高鳴りが空中に響き渡る。

 

 アリシアは《あらあら》と呆れて、広い夏空を爆走するエアバイクの後方で、ゆっくりと、節度ある速度で、遅れて走っていた。

 

 二台はやがて、エアポートに下りる。

 

 片方が盛大に、あけすけに速度違反をしでかしたことは、幸い公安に知られることはなく、互いに馴染みである彼女等、二人の記憶の隅っこの方に、悪運のお陰で咎められなかった罪として、そっと隠されることになった。

 

「晃ちゃん」とアリシアは呼びかけた。「エアバイクを買って嬉しいのは分かるけど、あんなに飛ばしちゃ、危ないわよ」

 

 という小言、注意に対して、凍った鼻水を鼻の下に張り付けた彼女は、その氷の鼻水を痛そうに剥がそうと骨折りに夢中で、聞く耳なしという感じだった。

 

 鼻水が凍ったのは、その無謀運転により、エアバイクが入道雲の頂点を目指さんばかりに上昇していったためだ。頂点に至る前に、晃は目の玉が固まり、目蓋がカチカチに動かなくなったので、身震いして急いで下りていった。

 

 アリシアは再び呆れた。

 

 ポロっとようやく、鼻水ではなしに、『鼻氷』が取れた晃は、アリシアより借りた手鏡を返すと、その氷を地面に落として靴で踏み砕いた。

 

「あんまりオイタが過ぎると、せっかく苦労して取った免許と免許代が無駄になっちゃうわよ」

 

「だいじょうぶだって」

 

 と、鼻の下の一部が赤く腫れている晃は、あまりの寒さに堪えたせいか、目に涙を浮かべて言い放った。その痛々しい表情と、あっけらかんとした言い様とが対比されて、何だかおかしかった。

 

「お巡りに見つかったところで、逃げるだけさ」

 

「まぁまぁ」

 

 アリシアはおっとりと微笑んだ。今度は呆れるのではなく、感心したようだった。彼女はポーチをまさぐると、あるものを取り出して……

 

 晃ははっとする。首に何かが、アリシアの手によって巻き付けられたのだ。見下ろすと、マフラーだと分かった。すっかり凍えた晃は、そのマフラーに、夏の陽気に勝る温もりを感じた。

 

「お前」

 と晃は驚いてすでにほぐれた目を見開くと、小声で言った。

「夏だっていうのに、マフラーなんて持ってきたのか」

 

「うん」とアリシアは頷く。「自分用にね。でも、晃ちゃん寒いでしょ?」

 

 晃は呆然とすると、見開いた目を戻し、「あぁ……」、とはっきりしない返事で答え、アリシアをじっと見つめた。

 

「わたしは全然、平気。寒くない」

 

「そうか」

 

 アリシアは「フフッ」と笑った。すると晃も、釣られて笑った。

 

 二人は夏空を見上げた。夏空には、季節を実感させる入道雲がそびえていた。その輪郭のくっきりとしたどこまでも膨らみ、伸びていく巨怪の雲は、見ごたえがあって、彼女等はずっと、眺めているのだった。

 

 

 

 

 

 

 ――結局あの後、帰り道、晃が反省せずまた無謀運転したが、今度はたまたまいた公安の目にとまり、取り締まりを受け、そこそこの額のお金を失うこととなった。不幸中の幸いだったのは、免許まで取り上げられずに済んだことだった。アリシアは巻き込まれる形で注意され、警告された。今となっては、ただの笑い話だ。

 

 キャッキャと、いとけない男児が、興奮した様子でアリシアのそばを駆けていった。その後ろを、おたおたした若々しい、アリシアと同年代ほどの母親が遅れて追いかけていく。

 

 脇目も振らずに走る男児のその姿は、当時の晃を彷彿とさせた。

 

 今は姫屋という老舗の水先案内店で、責任ある立場となって、ずいぶん品行方正になったものだ。

 

 アリシアはおかしさを含んだ感慨に浸ると、偶然、男児を捕まえて抱っこする母親と目が合った。二人は微かに苦笑いを浮かべ合った。

 

 その後、アリシアは回想に時間を費やしたため、重くかたくなった腰を上げると、ポートに戻り、上着を羽織ってマフラーを巻き、エアバイクに乗った。

スカイガーデンを後にした。

 

 エンジンが始動し、ブウンと鳴る。スロットルを捻り、車体を浮上させ、姿勢を定めることで舵角を入力すると、エアバイクは飛行を始める。

 

 星間連絡船はすでに見えなくなっている。見えるのは、配達に従事する他のエアバイクくらいだった。空路はがらんとしていた。

 

 帰路、アリシアは何となく、あの時の晃のように、スロットルを目いっぱい搾りたくなったが、やっぱりと言うべきか、良心の呵責があって、断念した。

 

 折り目正しい運転でエアバイクを駆るアリシアは、彼方にある入道雲の頂きを仰いだ。

 

《また》

 

 アリシアはデジャヴュを覚え、心中に発した。

 

《また、わたしはこうして、入道雲を眺めている》

 

 グリップを戻すと、エアバイクは段々と遅くなり、低い方へと下りていく。

 

 たっぷりの水分と高温にどこまでも膨張していく、ネオ・ヴェネツィアの上空に聳え立つその雲は、まるでいざなうかのように、微笑んでいる。

 

 アリシアはグリップを再び捻り、加速した。エンジンが唸ってドライブとブーストが掛かり、エアバイクが上向きに傾いて走っていく。

 

《仮に――》、とアリシアは考えた。《仮に、あの雲の向こう側に行けるとすれば》

 

 彼方にあるのは、麗しい思い出の国なのだろう。

 

 アリシアは、ぼんやりと、暴走に近い走り方でエアバイクを駆る晃の後ろ姿を、目前に思い描いた。

 

 晃のまぼろしは、今度は恐ろしい高度にも、その寒さにも負けることなく、その危うい勢いに乗って、目の届かない天涯まで突っ込んでいって小さくなった。

 

 その跡には、微光の煌めきが、砕けた星のかけらのように、チラチラと美しく舞って残っていた。

 

 

 

(終)



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Page.37「A Dreaming Girl~星くずの記憶~」

***

 

 

 暮れようとする太陽が歌う歌は、物悲しい調子を帯びていて、眺めていると、気持ちが寒々としてくるようだった。光が沈む。夜が目覚め、空を真っ黒に染める。

 

『今日という一日は終わりです。ではさようなら』

 

 太陽はそう、たっぷり余韻を残して、冷めた笑顔で歌った。虚空のドームにまで拡散して反響するその歌声は、世界のあまねく隅々まで響いて届き、人々は、また、他の動物たちは、その響きに日没を悟り、それぞれの心境に立ち戻って、その日を回顧し、そうして結末を付ける準備に入っていくのだった。

 

 開け放した窓より入ってくる風は冷たい。秋の風だった。

 

 わたしは車に乗っていた。車の助手席。運転しているのは藍華ちゃんだった。

 

 ハンドルのそばにあるスイッチを付ける。すると、ポッと前の路面が明るく照らし出される。どんどん過ぎていく夜空と同色のコンクリートで出来た道路。

 

 藍華ちゃんは最近免許を取ったのだと言って、意気揚々とわたしにドライブへと誘ったのだった。わたしはびっくりしたが、付き添うことにした。

 

「綺麗ねぇ」

 

「そうだねぇ」

 

 車が走るのは、海景と街並みをいっぺんに楽しみたいという度重なる人々の希求を根拠に例外的に設けられた、ネオ・ヴェネツィアをぐるりと囲むように、海に沿って伸びる湾岸線。造設後、街の美しい景観を損ねているという意見が噴出した。しかし結局、希望され、計画された、すでに出来上がってしまったもの、また、すでに利用されているものであり、今更なかったことにするのは、少なくとも当面は無理だった。

 

 道中、藍華ちゃんは、免許を取る時てこずった話を、憮然として話した。

 

 聞けば、免許を取れる学校は――街の環境を考えれば理の当然だが――ネオ・ヴェネツィアの辺境にあり、通学するのが大変だったようだ。近所にあれば、姫屋のゴンドラを借用して行けばよかったところ、距離があり、加えて道程が簡単でなかったため、水上バス(ヴァポレット)を用いなければいけなかった。学校は、連絡橋を超えてある、街が海を埋め立てて造った四角形の人工島に、少数の車と共にあった。自動車の需要がほとんどないに等しい街の学校なので、先生は全員、その道のプロではなく、ネオ・ヴェネツィアでの操船の仕事との兼業でやっているため、卓越した運転技術はなかった。

 

「ふぅん、大変だったんだね」

 

 わたしが共感するように言うと、藍華ちゃんは「ホントに」と返した。あまり関心はなかったが、その労苦は、推して知るべし、という感じだった。

 

 小さい車のエンジンが唸って走る。他の大きい車はより快速でどんどんわたしたちを追い越していく。わたしは自分たちの乗る車が鈍行であることに関して、別に不安でもなければ、不満でもなかったし、藍華ちゃんも、事情は同じようだった。

 

 ローマの神殿にあるものと似た柱の上に敷設されたハイウェイより眺める夕日は、ちょうど、わたしの目線と同じ位置にあった。まばゆい光輝を見つめると、目がチクチク刺激され、自然とまばたきした。だが、薄目を開けてでも、わたしは夕日を中心とした憂愁の濃く滲む風景に魅惑され、その雰囲気に耽っていたかった。生来、わたしには感傷的気質があって、こういう風景が往々にして呼び起す感情の甘く切ない味わいが、どうしてか好みだった。今の状況では、海原の彼方にある、水平線の向こうに沈もうとする夕日の表情が、何だか物悲しく見えるのだった。

 

 わたしは夕日の哀歌にしっとりと耳を澄ました。その歌声は、開け放した車の窓より冷たい秋風と共に流れて来た。カーラジオからは、女性の歌が聞かれた。明るくもなければ、激しくもなかった。落ち着いたパーカッション、ポロンポロンというエレキギターの、また、ゆっくりと弾くクラシック弦楽器の音色をバックに、その女性の透き通った、芯のある力強い天然のボリュームを伴った歌声が響く。

 

 藍華ちゃんは口を閉じ、ハンドルを握る手に集中した。わたしは目を瞑り、想念の描き出すビジョンに心眼を向けた。ラジオの歌は続く。絢爛としてまた淑やかでもあるゆったりとしたロングドレス。着ている歌唱の才媛はすらりとして背が高く、またほっそりとしてスレンダーだ。

 

 晃さんによく車に乗って連れていって貰って、その影響で自分で運転して走りたくなったのだと、藍華ちゃんは教えた。わたしは「そうだったんだ」、と簡単に返した。

 

 不意に蘇ってくる、映画か何かのワンシーン。崩壊した建物の壁に背を持たせて、若い男性が眼を瞑っている。男性は満身創痍。彼の本能は絶命を確信している。目を瞑る彼は、ぐったりと落ちた片手をおもむろに持ち上げ、前へと伸ばす。彼の見えない目は一人の女性を虚無に見つける。彼女は彼の愛する、生涯唯一の相手だった。彼は微笑み、涙を浮かべ、伸ばした手を再び落とす。

 

 高空より俯瞰するビジョンが、突如わたしに襲い掛かり、戸惑わせる。海と街の狭間に伸びる緩やかな曲線。その上には往来する機械の箱。螺旋を描いてわたしたちの乗る一台へと迫る。

 

 わたしははっと目を開く。音声が途切れたと思ったが、藍華ちゃんがラジオを切ったのだった。ビジョンは消失した。

 

「ちょっと、寄っていこう」

 

 きょとんとするわたしは、辺りを見回す。駐車場に、ちょっとしたマーケットに、トイレ。車がレストエリアへと着いたことを知るまで、それほど時間は要しなかった。

 

 わたしが下りた後、藍華ちゃんは車のカギのしまったことを確認すると、トイレの方に向かった。

 

 わたしは車の走る音を後ろに、海の方へと近づいていった。展望台だった。空では夜の紺色と夕の朱色がせめぎ合っている。が、優勢は圧倒的に紺色の方だった。

 

『今日という一日は終わりです。ではさようなら』

 

 ――最早あの歌声は聞こえない。ただ辛うじて、余韻だけは、今なお聞こえ続けている。その余韻は、あのすでに沈んで残光だけを残す太陽と、わたし、そして藍華ちゃん、そして他のみんなの、今日という一日の中で経た全ての音色だった。やがてしじまに包まれ、やがて忘失される、かりそめの、儚い、命の断片だった。

 

 あの弱弱しい、水平線の向こうに飲み込まれかけている残光が、心なしか、あの心当たりのない回想に見た若い男性の、生気のないボロボロの片手と重なる気がした。彼は臨終の間際、かけがえのない相手に焦がれ、求めた。ひょっとして、あの末期に至ろうとする太陽にも、悲しみや、(うら)みや、未練があるのだろうか。

 

 そういう風に考え込んでいると、ふと、聞き覚えのある歌が聞こえた。わたしはすぐに合点が行き、その歌がラジオで聴いた歌だと分かった。忘れるにはその歌は、わたしにとって味わいがあり過ぎたし、また忘れてしまえるほどの時間が経っていなかった。

 

 振り返ると、用を済ませた藍華ちゃんが近付いてくるのが見えた。彼女が口ずさんでいるのだった。

 

「どうしたの」

 

 わたしはクスっと笑って尋ねた。

 

 すると彼女も同じように笑って、わたしのすぐ隣に来た。

 

「いい歌だったなぁ、と思って」

 

 彼女は展望台の手すりに腕組みし空を見上げた。空には星々が照っている。

 

 

 

 別離の訪れ。そして悲哀。虚無との邂逅。

 

 夜の星々は、朝昇り昼君臨し、夕沈んだ太陽の光を借りて照っている。

 

 あのまばゆいほどの光が、星くずにあっては何とも淡く頼りなくなってしまうものだ。

 

 風が立つと、あの歌声が微かに耳元をかすめる。

 

 今度は、藍華ちゃんの悪ふざけではなかった。

 

 

 

(終)



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Page.38「沈下」

***

 

 

 

 わたしがウンディーネというネオ・ヴェネツィアで花形とされる仕事より、一身上の都合で退き、しばらく暗澹として不毛と不如意と懊悩にまみれた苦渋の隠遁生活を、彷徨する者として続け、ぎごちない形で再び社会生活に参与するまで、数カ月という歳月を要した。その期間は、すなわち、ブランクというわけだ。

 

 どうしてウンディーネを中途で引退したのかと訊かれたら、正直、口が重くなる。飽きたというわけではなかった。嫌になったということもなかった。ただ、何となく、虚しくなった。体と心が、ある時から、まるで悪霊のような鈍重さに憑かれ、疲労の出方がそれまでと打って変わって、ネバネバしたものがしつこく粘着して離れないように、取れなくなった。ゆっくり眠っても、お風呂のお湯に浸かっても、温かく甘い飲み物を飲んでも、全快することはなかった。安静にしようとアリシアさんの提案で、数週間の休暇を貰ったが、結局重ったるい心身を持て余すばかりで、有益でなく、さんざん悩んで、相談に夜を明かしたりした末、退職することに決めたのだった。アリシアさんは勿論のこと、姫屋の藍華ちゃんや、おれんじ・プラネットのアリスちゃんが心底気にかけてくれたが、わたしの心に変わりはなかった。自分の思案も努力も、友人・知人の援助も、わたしの『メランコリー』に対して効力を発揮することはなく、わたしはわたし自身を飲み込もうとする渦に、親しい人等の差し伸べる手を悔恨の念と共に見上げながら、飲み込まれていくしかなかった。ARIAカンパニーには一艘のゴンドラが余ることになり、そしてその後しばらくして、後任が雇われたと聞いた。わたしはカンパニーを後にすると、適当に住処を探しそこに住まった。

 

 わたしの過ごしたブランクは、その渦の中でのものだった。数か月間は、わたしは、その渦の中の住人だった。光の届かない深い淵に沈み、物思いと憂鬱と慨嘆をボソボソと呟いていた。

 

 なぜか、わたしは、自分の身の持ち方、処し方に、疑惑を持ったのだった。本当に理由は分からなかったし、今でもよく分かっていない。

 

 生き方、生き様。そういう言葉が、混沌としてある言葉の巡りの深奥より浮かび上がって来、わたしの心に飛び付いた。

 

 幼い頃に夢見、憧憬し、一念発起して親元を離れ、単身来た異星の、華やかで矜持を持てる仕事に、好ましい人々と共に従事することに、果たして難点があったのだろうか。引退せざるを得なくなる事情があったのだろうか。

 

 今は、ネオ・ヴェネツィアのある宿泊施設でメイドをやっている。時折、客室の窓より街の水路に目を落とし、探す。ウンディーネを探すのだ。そして、白いセーラー服をまとった女性たちをしげしげと眺め、懐かしい思いに目頭を熱くすると同時に、何となく白ける感じを覚えるのだった。

 

 迷ったわたし、逸れたわたしは、あるいは物欲しさでも催したのだろうか。それと意識しない邪念が湧いて、お金をより多く稼ぎたいとでも思ったのだろうか。それとも、元々素質も適性も欠失していて、向いていないのにそうだと気付かないウンディーネの仕事を続けることで、疲労を限界以上まで蓄積させていったのか……。汚れた食器や寝具を搔き集めながら、時々そんな風に、考えるのだった。

 

 メイドの長は、いつも疲れているとか、ちゃんと休んでいるのかとか、わたしに心配と憐憫の言葉をかける。だが、それ等はまるで感謝に値しない、ただの軽蔑であり、嘲罵だった。

 

 わたしは、失敗したのだろうか。間違えたのだろうか。そういう悔やみを帯びた自問が、たびたび思い浮かんで来ては、わたしを苦しめ、悩ませる。

 

 では、誰かがわたしに生き方を教えてくれたのか。わたしに生き方を教えられる誰かが、存在したのか。生き様の模範があったのか。

 

 否、誰もいなかった。まずウンディーネに導いたのはわたし自身だった。そのきっかけを掴んだのもわたしだった。他の誰でもなかった。そして、あの暗い渦の中に沈んでいったのは、わたしだった。ただ、わたし一人だった。誰かを道連れにすることもなく、淵にあって誰かを乞い求めることもなく、ただわたしだけだった。

 

 孤独と辛苦の淵より連れ出してくれる教導者がいれば、わたしの人生は、一本道を歩むように単純で、また明るかったのかも知れない。しかし実際は違った。理想は理想として留まり、現実はこうだった。現実は複雑怪奇で、数多の可能性、事故、迷誤、執念が交錯していた。現実は、自助と自決と自負を前提とし、避けられない宿命が各々の人生の道のりを歪めていた。理想は甘美だった。現実は……

 

 遠くを航行するウンディーネを見下ろすと、懐かしく羨ましいと思うと同時に、ひょっとすると、彼女等も、かつて自分が抱えたものと同じ悩みを、ある者はすでに持っており、またある者は将来に持つことになっているのかも知れない、等と考えた。

 

 ひきこもりをやったのだと打ち明けた人は誰もいない。ブランクはわたしだけのもので、門外不出で、出来れば知られたくない事柄だった。

 

 時代が悪いのではなかった。誰かがわたしを陥れたのでもなかった。誰を恨む必要もなかった。

 

 独り立ちする必要は当然だった。その事情は、誰でも、男でも、女でも、同じだった。迷えば誰かが必ず助けてくれるわけではない。親だってずっと頼れるわけではない。いずれ自分でやらなければいけなくなる時が、必ずやってくる。わたしはわたしの力を頼りに生きている。わたしの力のみを頼りに。最早アリシアさんのように甘えられる相手も、藍華ちゃんやアリスちゃんのように打ち明け話を晒せる相手もいない。

 

 確かにわたしは、静まったり荒れ狂ったりする人生という海原を十数年、最初は温かい仲間と共に、後は単独で渡り、必然と偶然の絡み合いの中をくぐり抜けて来た。

 

 その果てが、ここで、今のわたしが、全人生、全経験、全思想の総体なのだった。

 

 満足できるわけなど、なかった。出来れば渦に飲み込まれるより、逃避したかった。救難されたかった。

 

 黒い制服を引き裂きたくなった。

 

 彼女等のセーラー服は、陽光を浴びて、その輝きは光彩陸離たるものだった。

 

 

 

(終)



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Page.39「雲たちの行く末~A Mysterious Trip~」

***

 

 

 

 吹いてくる風は、ぬるい風だった。季節の息吹は、たっぷり湿気を含んで、涼感ではなく、熱気を運んでいた。

 

 じっとりと濡れた額をハンカチで拭う。地面に照り付ける陽光は眩しくまた熱く、ほとんど地面を焦がしてしまうのではないかとさえ思われるほどだった。

 

「ふぅ」、とうんざりしたようにため息。

 

 日傘を差していなければ、自分はこんがり焼けていることだろう、と、そんな風に、アリスは考えた。おれんじ・プラネット所属の、新米ウンディーネだった。素行は悪くなく、むしろよく、じゃっかん社交性に欠けるところがあるものの、能力と素養を恵まれており、ウンディーネ関連の雑誌に特集を企画されるほど、将来を嘱望されていた。

 

 汗を拭ったハンカチで、パタパタと顔の方を扇ぎ、空へと目線を上げる。アリスの目は、果てしなく青い空と、入道雲の山々を見、暑熱の時季、盛夏を実感した。生気に満ち溢れた美しい風情と体力をごっそり奪う熱気と湿度。また天気が悪くなれば、雷鳴と、バケツをひっくり返したような降水と、海の凶暴化。アクアアルタではない洪水が起こることがある。

 

《さて、どうしよう》、とアリスは考えた。

 

 彼女は制服姿だったが、セーラー服ではなく、学生服だった。下校途中だったのだ。時分は昼だった。その日は午前中だけの授業だった。

 

 迷う足は、炎天下のネオ・ヴェネツィアの、帰り道を大きく逸れないゾーンにおいて、フラフラとさまよった。

 

 まっすぐ帰るには、喉の渇きを癒したいという思いが強かったし、また、何となく、物足りなかった。何となればまだあの激しい太陽はてっぺんにほど近い位置にあって燦然と輝いているのだ。ウンディーネの仕事だって、学校のある日は、学業と仕事の兼ね合いを考慮して、それほど過密にならないよう、先輩のアテナさんや、おれんじ・プラネットの人たちと相談して、スケジュールを設定していた。

 

 風の向くまま気の向くまま、足を運ぶと、アリスは日傘をたたんで下ろし、道路を挟んで水路に面したヴェネツィアン・ゴシックの陰に、アーチより入った。ちょうど座れるところがあり、また近くに自動販売機があったので、彼女はテキトーに缶のジュースを選んで買うと、そこに座って飲んだ。自販機のそばの空き缶用ボックスは、中々詰まっていて、やっぱりこの暑い時節、喉を潤す人が多くいるのだろうか、などと考えた。

 

 ひんやり冷たい飲み物を飲み込むと、喉から胃袋にかけて、一直線に冷感が貫いた。爽快だったが、体にはあまりよくない気がした。

 

 休憩しながら、その日受けた授業や、同級生とのやり取りや、帰宅した後のウンディーネの仕事の予定などをぼんやり思い返した。すると彼女は、その日のある授業で取り扱った物語を回想した。言語の授業で、アリスは教員に指示されて、その物語を音読したのだった。一人の迷い人がおり、その者は森をさまよっていた。結末まで、教材は掲載していなかったので、アリスは何だかすっきりしない気分だった。その物語の終結が知りたかった。

 

 想像力を働かせて、自分のイメージの中でその物語の主人公を動かしていたアリスだが、気付くことがあった。通りの人々の内、何人かが、こぞって水路に目を注いでいるのだ。何だろうかと関心を持って、彼等と一緒に目線をやると、拍子抜けしてしまった。

 

《灯里先輩だ》

 

 彼女はゴンドラに乗っていた。

 

 アリスははっとすると、空き缶を捨ててゴシックの陰より抜け出、水路へと小走りで向かい、物見高い衆人環視があまり好きではなかったので、公衆の視線が外れたところで、呼びかけた。

 

 ARIAカンパニーの水無灯里。彼女は後輩であるアリスに振り返ると、にっこりしてゴンドラを道路との際に停め、アリスに乗るよう誘った。アリスは同意して乗り、客席に座った。ゴンドラの上で、アリスと灯里は、対面する格好だった。

 

「学校の帰りだよね」

 

「はい」

 

「どこか寄っていくところはある?」

 

「ないですけど……」

 

 何か躊躇するような、ぎごちない間と余韻。

 

 元々アリスは、送って貰うつもりで乗ったのではなかったので、何だか決まりが悪くなってくるようだったのだ。

 

「あの、灯里先輩、別にわたし……」

 

「ううん」、と灯里は首を左右に振った。「いいよ。気にしないで。ちょうどおれんじ・プラネットにお使いに行く途中だったし」

 

「おれんじ・プラネットに?」

 

 アリスは怪訝に思って首を傾げる、と同時に、たたんでいた日傘を再び差す。舟上は日光に晒されているのだ。

 

「うん、アリシアさんの用事でね、アテナさんに借り物があったみたいで」

 

「あぁ、成るほど」

 

 説明と納得があって、会話はひとまず終わった。その後しばらくは、沈黙が続いた。灯里は黙々とゴンドラを漕ぎ、アリスは茫然として、、周りを緩やかに流れる景色に耽っていた。

 

 ところが、やがてアリスは、ゴンドラが入り組んだよく分からない道を進んでいることに疑惑を持つようになった。

 

 視線を前にやると、灯里が立っていたが、見慣れたARIAカンパニーの、青いラインの入った白いセーラー服と、その服を纏う人物が、合致しないように見えた。違和感だった。信用が萎え、疑義が芽生えた。親しい人物が、必ずしも常に親しいわけではないということを、アリスは本能的に知ってはいたが、いざ実際に、その印象の変転、心の動揺、疑うという行為が催す息苦しさを経験すると、何だか胸が悪くなってくるようだった。

 

 灯里先輩、と、イヤにたどたどしい仕方で呼びかけたが、あまりにたどたどしかったせいか、あるいは声量が乏しかったせいか、返事はなかった。

 

 夏日の逆行に隠れた(おもて)。陰翳の濃い表情。

 

 不安に怯え、戸惑い、窺うように見つめていると、アリスの視線は小さい一点に集中し過ぎて、周りまで注意することを忘れていた。しばらくすると、彼女は疲れて眠くなり、眠りに落ちた。

 

 ゴンドラは、まるで機械のように延々とまっすぐ進み続け、やがて明るい真昼より、深い暗闇へと進入した。トンネルだった。

 

 暗闇では、ただでさえ見えなかった顔が、更に見えなくなった。

 

 長いトンネルを出、陽光を受けて目を細めた時、アリスは、自分がいつの間にか眠ってしまったのだと気付いた。

 

 ゴンドラの漕ぎ手はオールを置いて消えていた。アリスはオールを持ち上げて辺りを見渡したが、人っ子一人見なかった。

 

 戻ろうと思って後ろを向くと、トンネルはないのだった。

 

 ゴンドラはやがて地に弱くぶつかって弾き返される。薄緑に輝く光明。辺りは一面、樹海だった。

 

 最早、地に上がらざるを得ない気がした。

 

 アリスのそばに、日傘が開いた状態で転がっており、彼女は取ろうと手を伸ばしたが、結局やめた。開いた手を握りしめ、歯がゆい思いだった。

 

 暑熱と疑惑と混乱の疲弊で重くなった体に力を込め、大儀そうにアリスは立ち上がると、苔むした樹海に足を移した。苔の感触は、石の地面とは打って変わって柔く、またローファが滑りやすかった。

 

 見ず知らずの土地で当惑と共に立ちすくんでいると、笑い声がした。そよ風のように、すぐに掻き消えてしまいそうな弱弱しい声だった。灯里の声と思われた。

 

 ふんわりと純白のシルエットがそばに現れて、アリスはぎょっと驚いたが、確かに白い衣服であり、声はよく聞きなれたウンディーネの先輩によく似た声ではあるものの、その衣服はセーラー服ではなく、ドレスであり、灯里と思しき女性は、目元まであるヴェールで顔を隠して、切れ長の閉じた口は笑っているのだった。

 

 クスクス嘲るように、彼女は笑い続ける。自身の姿を変幻自在に見せたり隠したりし、アリスをからかうように、また圧倒し追い詰めるように、現出と消失を繰り返した。

 

 アリスは幻惑しようとする霊声より逃げようと走り出したが、途端に苔で滑って転倒してしまった。膝がじんじんと疼き、彼女は擦り傷でも負ったのだと思った。

 

 目の前に一冊の本があった。表紙は白紙だった。

 

 横たわるアリスは手を地に突いて起き上がると、その一冊を取り、開いた――あの幻の姿と声は失せていた。

 

 本はあの物語だった。学校で扱ったあれだった。主人公は悲運に見舞われ、昇る日光に消える朝露の如き少女だった。彼女はある日森に迷い込み、困惑し、思い悩んだ。

 

 ページを繰ると、白紙だった。アリスはがっかりし、意気阻喪し、本を放り投げた。

 

 

 

 

 

 

 吹いてくるのはぬるい風だった。季節は夏。じりじりと熱を帯びた地面はほとんど焼けていた。

 

 日傘で覆われたかと思うと、アリスは、自分がゴンドラに座っていることに気付く。戻っていたのだ。そばには灯里がいて、彼女が日傘を持って、アリスに寄り添っているのだった。

 

「よっぽど眠かったんだね」

 

 それほど学校は退屈だったのかと、灯里はおかしそうに尋ねた。

 

「いえ、そういうわけでは」

 

「突然こてんって倒れるんだもん。わたしびっくりしちゃった」

 

「すいません。でっかい悪かったです」

 

 アリスは、自分が体調不良でも、寝不足でもないことを教えた。すると灯里は不審そうに眉をひそめ、病院に行くことを提案した。アリスは拒絶した。

 

「それより」とアリスは露骨に話題を転換しようとして言った。「おれんじ・プラネットに用事って何です?」

 

「あぁ」、と灯里はにっこりした。「全然、大した用事じゃないの。わたしも詳しくは知らないんだけどね、ウンディーネの組合で何か取り決めがあったみたいで、その回覧の書類を届けるように、アリシアさんに言われて」

 

 アリスは納得すると、また同時に安堵してくるようだった。

 

 入道雲を見上げ、ハンカチで額の汗を拭い、一息吐くと、彼女は小さく呟いた。

 

「あの」

 

 灯里はアリスを見、小首をかしげる。

 

「一度断っておいて何なんですが、気が変わって、寄って欲しいところが出来たんです」

 

 アリスは俯いたまま、灯里がそのハンドルを持っているところ、日傘の中棒を持って、暗々裏に、もう気遣ってくれる必要はないと主張した。灯里は察して手を離した。

 

「うん、いいよ。全然、いい」

 

「本屋……本屋さんに、行きたいんです。ちょっと、探したい本があって」

 

 いいですか、と潤んだ目で間近に直視されると、大した申し出ではないのに、灯里は、何だか奇異に思われてくるようだった。

 

「分かった」

 

 灯里はにっこりし、立ち上がると、置いてあるオールを取った。アリスは礼を述べた。

 

 水路を行く途中、不意にあのクスクス笑う霊声が、耳元を掠めた。即座に思い返される、目元までヴェールで覆われた色白の顔。美しいだろうと予想させる顔。

 

 はっとして背後を振り返ったが、アリスは何者さえ見なかった。

 

 彼方には、入道雲。太陽はまだ高いところにあったが、傾き出したのは確かだった。

 

 アリスは、何となく察知していた。自分をあの異境へといざなったのは、他でもない自分自身なのだと。眠りに落ちたのは、夢を見ようとしたのだと。 

 

 あの嘲りは、あの笑い声は、あのヴェールの下の少女は、皆、反映、具現化した心情だったのだ。

 

 物事に関心を抱くこと、続きを希求すること、結末を予感し、想像すること。まだ見ぬ先。

 

 アリスは、やがて沈むことになる夏日の軌道を空に指で描いた。容易だった。だが、あの入道雲の変容を描こうとすると、指が止まるのだった。

 

 アリスは、あの悲運の少女の行く末を想像し、そして案じた。

 

 

 

(終)



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Page.40「Caffè Del Mare」

***

 

 

 

〈長年の憧れが、ようやく……〉

 

 アリシアはそう心の中で呟くと、作業の締めくくりである店舗のビニール屋根が、業者の男たちの手で取り付けられていく様を感慨深そうに、お腹の辺りで手を組んで眺めた。

 

 ビニール屋根には『Caffè del Mare』の文字が並ぶ。海上のカフェという意味だ。

 

 時分は夕暮れ。水平線の上にはまるい燃え盛る日輪が転がっており、波立つ海原には太い光の帯がまっすぐ長く伸びていた。

 

「いよいよですね」

 

 そう当人と同じく、あるいは当人以上に嬉しそうに言うのは、灯里だった。

 

 やがて作業が全て終わる。アリシアは灯里と共に相応にくたびれている筋骨隆々の男たちをいんぎんにねぎらって謝礼し、見送った。

 

 深々と頭を下げた後、二人は互いに微笑み合い、出来上がったばかりの店内へと、いわば初めての客として入り、その内装と、雰囲気と、営業されていない店独特の寂しさとをしみじみ味わった。むき出しの木の四角いテーブルは、営業が始まれば、クロスをかけて、その上には、ソーサーとカップが載っていることだろう。一輪の花を中央に添えるなんていうのは、ぜひやりたいと思っているアイデアである。

 

 厨房を含め、隅々まできょろきょろ感心して見て回ると、アリシアが窓の方を指さしてこう提案した。

 

「テラス席へ行きましょう。きっと素敵よ」

 

 灯里も、同じ気持ちだった。

 

「はひ」

 

 元気のいい返事。アリシアのさす指の先には沈む低い夕陽と、ぼんやりと広がる温かい夕焼けと、それとは打って変わって冷たい褪せた夕空の青の広がりがあった。

 

 二人は窓を開けると外に出た。テーブルの上には二人分のエプロン。埃が付着したそれは、水先案内店だった『ARIAカンパニー』の改装で汚れたのだった。

 

 元ウンディーネの彼女等を迎えたのは、向かい風だった。二人の長い、それぞれブロンドとピンクである髪は、風に軽やかになびいた。

 

「わぁっ、強い風」と灯里。

 

「日没の大移動ね」

 

「フフッ、鳥さんたちが巣に帰るみたいですね」

 

「えぇ、ホントに」

 

 パラソルのあるテラス席。天気のよい日にはこぞって選ばれるだろう。アリシアは自然とそう確信された。その心象風景――新しく出来た、自分の宿願であったお店に、たくさんの人が来店し、また、友人である晃やアテナまで祝いに来てくれたりなんかして、てんやわんやの盛況になる――そういう半ば愉快で、半ば騒々しい風景を心中に思い描くと、アリシアは、それまでの明るい達成感を凌ぐ、しおらしい、ほとんど切ないほどの気分がもたげて、目頭が熱くなってくるのだった。彼女は俯いて、唇をかみしめた。

 

「ッ! アリシアさん?」

 

 だが、アリシアは強いて涙を堪え、スゥと息を吸うと、面を上げた。

 

 きめ細かい肌に潤いのある淡い、また、涙の気配の微かにある、ブルーの瞳。

 

 灯里は夕日に煌めくアリシアの相貌にほれぼれし、もし彼女の熱烈なファンでありまた信奉者である姫屋の藍華がこの顔を目にすれば、きっと同じように胸ときめかせるに違いないと思った。

 

 夕日は最早残光を放つのみだった。暗い濃紺の空には綺羅星の瞬きがチラチラ明滅している。

 

 

 

 

 

 

 静まり帰った店内。すでに外は真っ暗で、照明といえば、テーブル上のキャンドルの灯影くらいのものだった。灯里が屋根裏部屋にパジャマ姿でおやすみなさいと言って階段を上っていった後、アリシアは寝ずに、そのキャンドルの火影のそばで、開いたノートに向かっているのだった。ノートにはびっしりとメモらしき言葉がずらずらと端正に書かれた文字で並んでいる。

 

 だが、ペンは置いており、アリシアは、時間帯のせいか、眠そうにして、腕をノートの手前で組んで、こくりこくりと、頭を揺らしている。

 

 アリシアがカフェを開きたいという願望を最初に告白した相手は、晃だった。

 

「はぁ? カフェ~?」

 

 片目だけ大きく見開いて、受け入れがたい事実ででもあるように、彼女は大仰に反応した。海辺を散歩している時のことだった。夕暮れ時分だった。それぞれ、ウンディーネのユニフォームであるセーラー服を、制帽と共に着ていた。

 

「ありふれた願望だっていうことは知ってるつもりよ」

 

「あらあらまぁまぁ」

 

 晃は茶化すように、アリシアの口癖を真似、両手を肩ほどまで上げて呆れて見せた。

 

 するとアリシアはむっとして膨れ、「もう、晃ちゃんったら」、と返した。

 

「別に、反対はしないけど」、と晃は上げた両手を腰にぱんっと音を立てて下ろすと言った。「むしろ、お前が本気で叶えたいっていうんなら、応援するぜ」

 

「晃ちゃん……」

 

 アリシアは意表を突かれて驚いた様子になった。二人は歩みを止め、海に向かって並び立っていた。

 

「ウンディーネは、もう、いいってか」

 

 さらりとした、嫌味のない間合い。晃はこういう、誰かの心の中に隠された真意を洞察して明るみに引き出すのが得意だった。だからこそ、アリシアは最初の打ち明け相手として、晃を、無意識の内に選んだのだろう。

 

「うん」、とアリシアは、寂しそうに、俯き気味に頷くと、制帽を取って、胸の辺りに持った。「プリマとして、十分やってきたつもり、自分ではね」

 

 晃は、納得する素振りも、否定する素振りも見せなかった。

 

「灯里は、どうするんだ」

 

「あの子は、相談したら、わたしもやりたいって言って、意気投合しちゃった。ホントは、わたしは、カンパニーとは別に店舗を借りて、カンパニーは灯里ちゃんに預けてやろうと思ったんだけど――彼女、もう立派に成長したからね――灯里ちゃんも、手伝ってくれるって言ってくれたから」

 

「成るほど」

 

 晃は微笑する。

 

「あいつは――灯里はあくまで、お前の後輩というわけだな」

 

「そうね」

 

 アリシアは苦笑しながら、自責の念を覚える気がした。ひょっとして自分が、灯里の夢に水を差し、台無しにしてしまうのではないかと案じたのだ。

 

 ポン、と肩に手が載せられる。

 

「お前がちゃんと面倒見てやるんだぞ」

 

「わたしが……」

 

 アリシアは晃に目をやる。

 

「ウンディーネでうまく行ったんだ。今度だってきっとうまく行くさ」

 

「うん……ありがとう」

 

 アリシアは何だか、胸のわだかまりが解けるようで、にっこりして返した。

 

 

 

 

 

 

 眠気で暗いまなこで、ノートをぼんやりと見る。おもむろに手を動かし、ペンを取ると、ノートの隅に落書きする。

 

「何が、いいかしら」

 

 書かれるのはお店でやるメニューの候補だった。ちょうど厨房があるカウンターには、空白のブラックボードが立てかけてある。あそこにメニューを書き出して、入口に置くわけだ。しかし楽しみに考案したり夢想したりするよりは、むしろアリシアは、寝たかった。

 

 しばらく船を漕いで、ゆっくり浅くお辞儀するような恰好になることと、びくっとして我に返り持ち直すこととを繰り返すと、とうとう睡魔に負け、その場で突っ伏して寝てしまった。ブロンドの髪がバラバラに散り、それぞれが、キャンドルの火影を浴びて淡く輝く。

 

 やがてキャンドルは自然に消え、店内は暗転した。

 

〈長年の憧れが、ようやく……〉

 

 意識が昏くなる前、アリシアは心中、そう呟いた。

 

〈カッフェ・デル・マーレ〉

 

 海の上に浮かぶ出来立ての新規の喫茶店は、疲れたアリシアと、温順な灯里とを抱いて、穏やかな夜闇の中、安らかな眠りに付いたのだった。

 

 

 

(終)



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Page.41「凱旋」

***

 

 

 

 海という巨大なる生き物の鳴き声に耳を澄ませていると、何となく、人間に須要である時間という必然の概念が、まるで必然でなどないかのように、すっと消えていく感じがした。その時間を忘れていくという感覚は、まず自意識の揺らぎを覚えて不気味だったが、しかし反面、妙に心地よいところがあった。その感覚は、お酒に酩酊した時の感覚にたしょう似通っていて、その作用にかまけていると、フラフラしてくるようだった。

 

 瞑っていた目を開くと、まばゆい陽光を受け、酩酊のせいではない、軽い立ち眩みがした。思わず手でひさしを設け、彼方に目を注ぐ。初夏の太陽は、まばゆさに加え、すでに真夏のそれに近い熱を含んだ光線を放っていた。

 

 わたしは甲板の広場に立って、手摺のところで景色を眺めていた。船に乗っているのだ。普通の客船で、それ程の規模ではない船だった。船内にはこぢんまりとした売店と横になってくつろげる休憩室がある。わたしはそこで横たわって寝息を立てていたのだが、広い窓よりじりじりと照り付ける熱線に目を覚まされ、暑さに疲弊し、甲板で涼もうと思ったのだった。

 

 アクアの海は……マン・ホームのそれと、ほとんど区別が付かないほど、似ていた。否むしろ、同一であると言って差し支えないほどだった。

 

 元はその表面の大半が氷塊や氷河に覆われていて、生き物の気配など極少だった荒涼と不毛の、凍えさせる冷気と無人の閑寂が統べていた惑星が、これだけの――人類、否、生命のふるさとである地球と同等の環境を備え、明るい光や温かい熱や、水分と空気の循環などの、あらゆる命を支える基盤を持つまでになるとは、一体全体、昔の誰が構想し得ただろう? 実際、大胆不敵に構想し、だけでなく、着手し、実現させた偉人がいるのだ。もちろん、たった一人の力で実現したわけではなく、複数、それも、たくさんの人たち――わたしたちのご先祖を含めて――の総力を結合してようやく実現したのだ。

 

 人類の営為は凄まじいものだなぁ、という感慨と共に浴びる風は、一段と涼しい感触をもってわたしを撫でた。

 

 風は追い風で、その軌道に乗って、海鳥が、興味でもあるのか、客船の近くで、客船の航路に沿って飛行している。鳥たちは時には身近に寄ってきて、手を伸ばせばほとんど届きそうに思える時があった。わたしは、周りの子供たちがそうするのと同様、むじゃきに手を伸ばして、鳥に触れたいと欲したが、断念した――格好悪いと思ったのだ。年のせいだろうか。十代も半ばに差し掛かれば、発展した自我のなせる、見得とか自意識とかが現れ、雲霞のごとく湧きおこる欲求をせきとめる。

 

 子供のそばまで滑空して下りては離れる海鳥のその様は、子供をからかっているようだ、あるいはまた、子供と遊んでいるようでもあった。

 

 その様子に微笑ましさを覚えて淡い笑顔を向けていると、視界の下の方に、歩み寄ってくる小さい影を見た。

 

「灯里さん」

 

「はひ」

 

 見覚えのない女の子だった。髪は桃色で、わたしと、髪色だけはそっくりだった。彼女は結わえてはいなかった。一体誰だろう。親は――。

 

「帰るんだよね、ネオ・ヴェネツィアに」

 

「うん」

 

 女の子は、わたしの事情を知悉しているようだった。

 

「どうだった? 楽しかった、旅行は?」

 

「そうだね……」

 

 旅の感想を訊かれ、わたしは考えた。思い出そうとしたのだ。するとまずよい思い出、楽しい思い出がよみがえってきた。おいしい食べ物。美しい山紫水明。そして胸がきゅんとする出会い。だが、一方で、わるい――憂鬱にする思い出も合わせてよみがえって来、わたしは、答に窮した。

 

「楽しく……なかった?」

 

 女の子は不安そうに、わたしを窺うにして尋ねた。

 

「ううん」わたしは首を左右に振って否定した。「お土産だって、買ったんだよ」

 

 わたしが差し出した紙袋を見ると、女の子は嬉しそうに笑った。その顔を見ると、ほっと胸の閊えが消えた。 

 

 わたしは紙袋を下ろし、「元々悩み――考えたいなぁ、と思うことがあって、出てきたんだけどね」、と言った。「こうしてしばらく旅行したお陰で、ふっきれたかも知れない。ううん、ふっきれたに違いない」

 

 女の子は、じっとわたしの目を見つめて、傾聴していた。

 

「じゃなきゃ、わたしはネオ・ヴェネツィアに帰らないで、ずっと、これからどうしようって、思い詰めてフラフラしてたよ」

 

「そう」、と女の子はにっこりして答えた。わたしもにっこりし、返した。

 

 目を瞑って開けると、その女の子の姿はなく、

一羽の海鳥がたたずんでいるのだった。その海鳥は、わたしを見上げると、手摺までさっと上がり、そうして飛び立っていった。わたしは心の中で、惜別の辞を述べた。

 

 わたしが旅としてさまよっていたのは、いわば荒野だった。おいしい食べ物や、思わず見とれる美景が確かにあったが、わたしの立ち寄ったいずこであれ、わたしの居場所ではなかった。しょせん仮寓で、時がくれば去らないといけない経過点でしかなかった。そしてその時がくるのは早かった。わたしはめくるめく各所を移ろい、迷い、悲哀と慨嘆を胸に彷徨した。ある日どこかの悪魔に悩みの種を植え付けられたわたしは、その答を求め、探し当てなければ、一生囚われの身だった。夜を徹して思案するなど繰り返して、だんだんと時間を忘れ、じぶんがおかしくなっていく想像が浮かんだ。あの時は、今感じる酩酊に似た快さなど皆無で、立脚点の確定しない自分を苛む罪悪の意識のせいで、ずいぶんと不安定で不快だった。

 

 だが、またある日、迷路の旅を続けた末のある日、わたしは、ずっと見つけられずにいた落とし物を見つける時のように、偶然、渇望していた答を拾い上げたのだった。

 

 わたしは、手に携えるお土産の紙袋を見ろした――まるで、その答が紙袋に入ってでもいるように。

 

 ネオ・ヴェネツィアの小さい影が見えてきた。初夏の日は暮れなずむ。まだ明るく、遠くまで空気は冴え渡っている。海鳥たちは客船の航路を離れ、子供たちは遊びに飽きて、親共々ほとんど中へ帰ってしまったようだ。人影はまばらになっている。

 

 少し解放された気持ちになって、わたしは仰向いて深呼吸し、海原のすがすがしい空気を吸い込むと、内面に向かって、おのれの行く道を見据えた。公衆に怯えていた未だ幼い自我の一部が首を持ち上げる。さっき話した女の子そっくりの彼女が……

 

 確かに迷っていた。迷妄に悩んでいた。荒野に迷い込んだ小心の小動物で、途方に暮れていた。

 

 だが、答を見つけて、こうやって帰り道に付けた。不幸より、幸せへと帰り道。風は、海は、祝うように朗々と声を上げる。

 

 人類の営為――人類が創造し確立し、保持する文化・文明は、すさまじいまでのものだ。荒れた惑星を改良し、すみよいものに作り変え、整える。

 

 そのすべは――その神がかった究めがたいすべは、決して自分とは縁のないものだと決め込んでいた。劣った自分では決して獲得し得ない、超出した偉人だけの専有物だと思っていた。だが、今、わたしは自身の内に、荒野を花園に変えるもの、しおれた花に潤いを与えるものの存在をほのかに感じた。すると、高揚感で、ふわっと自分の体が宙に浮く感じがした。今まで常に身近に感じ、遠ざけたい、遠ざかりたいと欲しながら決して離れ得なかったあの、夜の長い殺伐とした荒野の迷路は、その褪せた色彩を一気に失っていった。

 

 

 

 

 知らぬ間に俯いて考え込んでいたわたしは、顔を上げた。

 

 ネオ・ヴェネツィアは、もうすぐ先だった。

 

 

 

(終)



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Page.42「失われたユーフォリア」

***

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアは観光の街だ。ほとんど常に、訪問客が途絶えることがない。雨の日も、雪の日も。日々異国から、または遠路はるばる異星から、あるいは客船に、あるいは星間連絡船に乗って、古き良き時代の雰囲気と文化を色濃く残すこの古都へとやってくる。

 

 従って喧噪は当たり前で、たとえ今、雑踏に立って呼びかけられたとしても、気付かずに無視することになるか、よしんば気付いたとしても、てんで違う人の方を見て怪訝に思ったり、途方に暮れたりすることだろう。

 

 だが、その音――その澄んだ、教会かどこかの鐘の音は、妙にわたしの耳に響いた。何かはっとさせる音色で響いた。そして海鳥の高い鳴き声が余韻として残った。すると雑踏のひしめきはわたしよりさっと退いて、そのざわめきは静かになったようだった。

 

 鐘の音はわたしを誘った。わたしははっと閃いたように踵を返すと、人込みの中を縫うようにして抜け出た。途中、「灯里」と、わたしの名を呼ぶ声がしたように聞こえた。友達の声だった気がする。しかし振り向いたわたしの目に入ったのは、見たことのないそっぽを向いた他人だった。聞こえたのは、恐らく空耳だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 晴れた、細い筋雲くらいしかないよく晴れ渡った空が、わたしを見下ろしている。薄暗い路地裏。初夏なのにひんやりとした空気。ポケットに入れたハンカチで額の汗を拭って一息。

 

 眼下に子猫がいる。背を向けていた。しっぽが気持ち、垂れさがっていて、精彩を欠いている。白い光をまとって発光して見える、被毛の子猫だった。その姿態は神秘的だった。その白光の被毛は霊気にさえ見えた。霊妙さに、わたしは息を呑んだ。

 

 子猫は、わたしを首だけで振り返って見ていたが、前を向くと、おもむろに歩き出した。わたしに付いてくるよう求めているようだった。幾度か、子猫は垂れたしっぽを左右に振ったが、その時、纏った白光の煌めきが、突風にたんぽぽの綿毛がそうなるように、儚さを帯びて散った。

 

 

 

 波の音が遠い。人々の騒ぎは失せた。辺りは静まり帰り、周囲に並ぶ住宅の生活音さえ聞こえない。快晴の空の青色が、路地裏の陰に覆われた石造りの地面に滲んでいる。

 

 歩く途中、わたしは色々と考え込んだ。もちろん、目の前をわたしを導いて歩く子猫のことについて考えたのだった。白い被毛の光がくっきりとした輪郭をその小さい体に与えている。被毛そのものは真っ黒だったので、そのコントラストは鮮やかだった。薄目にして見れば、わたしを導くその子猫は、輪郭だけしか持たないシルエットになるのだった。

 

 一声さえ、子供の小動物は発しなかった。うんともすんとも言わず、次第に生気を失っていくようにまで感じられた。その後を追って歩くわたしは、一方では関心を持っていたが、他方では不気味に思えて小心翼々とたじろいでいた。

 

 

 

 考えて考えて考え尽くして、何か自分に言い聞かせる解答を案出する前に、わたしは広場に出た。路地裏を抜け出たのだ。まるい広場で、四方に道が均等に伸びていて、わたしはその内の一本よりここへと来たのだった。

 

 子猫がいないことに違和感を覚えることはなかった。わたしは広場の中央にある階段を見上げ、その頂上に何があるか見定めようとして、しかしちょうど目線の先にある正午を告げる高い太陽に目くらましされたのだった。手でひさしを作ったところで、その激しさはまるで防げなかった。

 

 わたしは諦め、ひさしの手を下ろした。階段は一つしかなく、こぢんまりとしたモニュメントか何かへと上っていた。狭い範囲で階段とその何かをまとめて造ろうとした為、階段の上りがずいぶんと急で険しいものになっていた。従って足を運ぶのにいささかの苦労を要した。

 

 その階段を上り終えて、さて高所の、周りの住宅街よりやや上の位置より見える景色を拝んで、さっきまで導いてくれた子猫でも探そうかと思ったその時、わたしは意気阻喪して膝を地に付いた。頂上にあったのは本当に小さい教会だった。十字架を乗せた屋根の下に聖人の像を祀っており、そして鐘が備わっていた。その聖人の微笑みと、わたしの視線が交差するところに、あの子がいた。

 

 子猫は、横たわっていた。ぐったりと力なく横たわっていた。真っ黒の被毛。しかしあの白光は纏っておらず、本当に真っ黒で、見えない闇へと沈んでしまいそうに思えるほどだった。赤い液体を流して、目を瞑っており、痛苦を経験してその命脈を絶ち、そして今はすでに、安眠に憩っているようだった。わたしは悲しみや憤り、無力感などを覚えてさめざめと合掌し、子猫の冥福を祈った。幼い、生前は壮健に走り回ったりしていたであろう姿を思い浮かべて、哀悼した。

 

 落涙と共に震える声で、そっと、「ごめんね」と呟いた。自然に、口を突いて出た言葉だった。本来謝罪する必要などないのだろうが、わたしには、この憐れむべき子猫に罪滅ぼしの言葉をかける義務への意識があった。そういう行為や振る舞いがなければ、何か絶対的に大切であることがゆるがせにされるという切迫した恐れ、そして怠慢と不敬による大いなる悔恨と悲嘆への強い抵抗感があった。

 

 わたしをこのこぢんまりとした聖地とその『そば』へと導いたあの子猫は、まぼろしだったのだ。わたしがその不思議さ、いささかの怪奇さに頭を悩ませていたのは、ある意味で無駄だった。結局、その神妙なる導きに疑義を挟んで従わず、独り合点してそのあのまぼろしの案内を裏切り、追い越してしまっていれば、ひょっとすると、来るべきこの場所に辿り着けなかったのではないかと思う。

 

 

 

 ちょっとした高所でしかなかったが、そこにいて見上げると、空が近く迫っている風に感じた。何物にも遮られずに通る風は厚みがあり、その風は、わたしの結った長い髪の毛と、絶命した子猫の気を微かに揺らした。

 

 わたしは立ち上がり、教会の前の短い石畳を流れる赤い生臭い液体を眺め、寒々とした気持ちになったが、やがて降るだろう雨が洗ってくれると思うと、幾分か楽になった。

 

 教会の内で優しげに微笑む聖人には、慈悲と慈愛を乞い、そして頭上に浮かぶ太陽には、慈雨を求めた。

 

 

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの墓所は、各所にある観光地の賑わいとは無縁だった。墓所は森厳なる冷気に包まれて、辺りはひっそり閑としていた。あの教会に鎮座していた聖人とそっくりの像が、やはり静かに微笑んでいた。

 

 四角い墓石の前に、わたしは、花を供えた。瞑目して手を合わせ、親猫とはぐれた不幸と、夭逝してその芽吹いたばかりの無邪気さや、好奇心などを摘み取られた初々しい命の災いが、幾分か癒されてくれるよう切に祈り、黙祷した。

 

 目を開けてわたしは、あの時雑踏にあって聞こえた呼び声が、ひょっとすると、この猫の声なき声――生命が、その肉体と霊魂とで成り立つという言説を信用すれば、その霊魂が放出する波動じみたものの訪れだったのかも知れない、などと考えた。「灯里」と聞こえたその音声は、成るほど実際は「灯里」ではなかったが、聞こえたことに、あるいは『感付いた』ことに、違いはないのだ。

 

 今回のことはロマンチックというよりは、むしろミステリアスだった。人に語り聞かせても、怪訝に聞こえて信じず、拒否したりすることだろう。打ち解けない会話などしたくない。この出来事は、永遠に胸にしまっておくのが正解に違いない。

 

 ぱっと、足元で光の粒が砕けた。あの白光だった。しかしあの子猫は、もはや常世に渡っていない。わたしのもとにそのまぼろしを差し向けることはない。

 

 雨だった。しとしとと、じめっとした初夏の暑気と、ぬるい雨。わたしは持ってきていた傘を持ち上げて曇天に向け、どんよりとした空を見つめると、開き、そして微笑んだ。

 

 

 

(終)



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Page.43「震える手」

***

 

 

 

 強い願望を持っていて、しかし実現しないでいると、眠っている時に、夢の中にその映像が深層心理などの手により演出されることがある。抑圧された欲求、満たされない焦燥の感情、えんえん叶えられることのない望みが伸ばすトゲによる痛みへの癒し。慰安。安心立命と自足への希求。

 

 アリシアさんがARIAカンパニーをわたしに託して去って、早数年。光陰矢の如しで、わたしはすっかり年を食ってしまった。成るほどプリマという第一級の水先案内人に、及第困難とされる試験をどうにかパスしてこうしてアリシアさんの後継として、日々店の運営に客人のガイドにいそしんではいるが、自分があの憧れていたアリシアさんと同じポジションに立っているということが、今一歩ピンと来なかった。まだまだ不器用に、無邪気に、本能と興味に追従して放恣に生きているように思っていた。垢抜けない世間知らずの、マン・ホームの生娘という自覚があり、とにかくがんばってネオ・ヴェネツィアの文化と生活に慣れて、マン・ホーム人としての気質という殻を脱ぎ捨てて、現地の人に認めて貰おうという気負いが強かった。

 

 けれど、その気負いは、ひょっとすると、無用のものだったのかも知れない。別にわたしは、アクアを訪れて人付き合いに不自由したことはなかったし、また周りの誰も彼も、わたしに対して異邦人と接するように接する人はいなかった。絶えていなかった。わたしはマン・ホームにいた時も、アクアに越してきた後も、大きく変化することはなかったと思う。『水無灯里』は、ほとんど一直線の道を歩いてきた。

 

 最近どうしてか、頭痛が断続的に起こって、クラクラする。痛み止めを飲んでも余り効き目がないので、本来するべき仕事をアシスタントの子に任せてしまうことが数度あった。お店のリーダーとして情けないことである。

 

 アシスタントの子は、わたしの不調を察知したようで、ある時わたしに、ゆっくり寝た方がいいと忠言してくれた。

 

 そう言われて困惑と謝意の入り混じった苦笑いをこぼしたが、よくよく思い起こしてみると、わたしはずっと、熟睡した覚えがなかった。否、実際は熟睡したのだろう。熟睡したに違いない。ただ、わたしが辿った幾夜の眠りの連なりは、どれもこれも空白であった。全ての眠りは、仕事と仕事の間のインターバルでしかなく、わたしはそこで、昏睡の深淵に沈んでいるだけであった。

 

 夢――淡い恋の、起きて落胆するけど、見てよかったと思える夢、また、わけの分からない思い出すのが苦難である荒唐無稽の夢、また、目覚めの後にずんと重々しく残る悲劇の夢。あらゆる夢は、心理心情の表出である。夢は、自身に見せつける千変万化する鏡であり、自身から出で、自身へと返る木霊(こだま)である。人間は夢というステージにおいて自身と、対面し、対話することが出来るのである。

 

 わたしは気付いた。わたしには、そういったまぼろしの経験が、ある時点よりすっかり欠落していたのだ。必要と特別思わなかったので、積極的に疑義を抱くことがなかった。

 

 彼女が夢の意義を理解した上で、わたしに忠言したとは思えない。しかし、その忠言は決定的にわたしに天啓を与え、わたしの悟性を活性化させた。

 

 わたしはその日の夜、屋根裏部屋のベッドの枕に自分のずきずき痛む頭を乗せると、両手をお腹の上で祈るように握り合わせて目を瞑った。

 

 サラサラ――聞こえているのは、ただ波の音ばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 風は穏やかで、海は凪いで静かだった。波の音に耳を澄ましていると、重たい頭がグラッと揺れて、その勢いで倒れそうになる。何度かそういうことがあって、わたしは、ゴンドラを漕いでいるので、ずいぶんヒヤリとした。

 

 頭をポリポリと軽く掻き毟る。爪を立てて、痛みで頭が冴え渡るように。しかし無駄だった。わたしは手のオールを船上に置くと、客席にべったりと座り込むと、空を見上げた。満点の星が瞬き、じっと見つめていると、光源へと本能的に惹かれる羽虫のように、吸い込まれそうになって、またクラっと平衡感覚を瞬間的に失うのだった。

 

 海上は寒く、初夏でも身震いするほどの冷気が漂っていた。灰色のゆったりしたローブが頼りだが、冷気は繊維の隙間を自在に透き通っていくのだった。

 

 夜だった。目を遠くにやると、真っ黒の水平線と真っ黒の夜空とが、渾然と融合してその境界線がほとんど消えようとしていた。星々の微光が、かろうじて海の表面を浮かび上がらせている。

 

 オールを操作していた手のひらを見る。さほど苦労を思わせない無垢の手のひらだった。だが、微かに震えていて、その手首を別の手で握ると、やはり小刻みに震えるのだった。

  

 どうしたのだろうと不安に思ったが、結局放り出して、座席に上端より首を主点に仰向いて、星空を見上げた。

 

 無言に、無為に、時と風の流れに任せてしばらくその姿勢で無数の煌めきに見入っていたが、脳裡にふるさとの影がうっすらとよぎった。マン・ホームでのこと。学校のこと。両親のこと。

 

 わたしが初めてアクア行きの星間連絡船に乗ったのは、まだ算数さえロクに出来ない幼齢の頃だった。シャトルバスに乗って空港へと行く道中はわくわくしていたが、だんだん遥か彼方へ旅立つこと――実際は一週間程度しか滞在しなかったのだけど――日常より非日常へと飛び移るというそのアクションに、恐怖心を抱いた。両親との旅行だったが、シャトルバスを下りて空港に着き、連絡船に乗って下りて、アクアのホテルで眠るまで、わたしはずっと先導する父親の手をしがみつくように握っていたのだと、後で教えられた時、何となくすっきりしない気持ちになったことを覚えているが、思うにプライドが反発したのだろう。アクアに着いた後は堰を切ったようにはしゃぎ回って、帰りの連絡船では打って変わって疲れて眠っていたのに。

 

 だが、あの頃よりずいぶんと星霜を経、両親は年寄りに、わたしは壮年になったのに、本質的には変化していなかった。

 

 この震える手は、父親の手を求めて震えているのだ。わたしは不安だったのだ。何より、わたしは旅路にいるのだ!

 

 知覚、驚倒に、まるで共鳴するように、凪いでいた海で波が立つ。風がさんざめく。ゴンドラが揺れる。

 

 わたしはだらしなく仰向いた顔を元に戻し、立ち上がる。重い腰を上げ、置いていたオールを持ち上げる。不安に負けたくなかった。怯える自分に打ち克ちたかった。自身の力だけで、行くべきところに行かなければいけなかった。

 

 アリシアさんのまぼろしが、わたしを支える。わたしの手にこもった力。案内のすべ、操船のすべは、全部アリシアさん譲りのものだ。自信を持ってよい。否、持たないといけないのだった。何となれば、わたしは第一級(プリマ)なのだった――。

 

 

 

 

 

 

 軽く化粧を済ませて、鏡台の鏡を見る。にこっと笑って、美人だと言い聞かせる。はにかみではない笑顔。物怖じしない誇負。万端ばっちりだった。まぼろしの記憶、その余韻はまだ新しかったが、ずっと浸ってはいられなかった。

 

 鏡台を離れ、ベッドのそばの窓を開放する。すると晴天の朝のすがすがしい空気が一挙に流れ込んでくる。わたしはその爽快さを胸いっぱいに吸い込むと、階下に下りていく。アシスタントの子が来るまでに、朝ごはんを作らないと!

 

 リビングに下りてすぐ、日めくりをめくる。テレビを付け、天気予報をチェックする。今日は真夏日になるそうだ。

 

 しゃかりきになって家事にいそしんでいるわたしだったが、そういえばと思って額に手をやった。

 

 

 

 頭痛は、すっかり治まっていた。

 

 

 

(終)



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Page.44「或るオフショット~鐘楼の上で」

***

 

 

 

 涼しい風の吹く一日だった。

 

 

 サン・マルコ広場はネオ・ヴェネツィア随一の広場で、星間連絡船の出入する空港があることより、人流が絶えず盛んである。

 

 

 日は高く、薄曇りであったが、青天井があっちこっちの雲間よりのぞいている。

 

 

 店の用事を一通り済ませて、ちょっと間が空いたわたしは、手持無沙汰だったので、姫屋を出て、騒々しい広場を抜け、自分が熟知した道順を辿っていった。

 

 

 本当はちゃんと店にいて、後輩たちの面倒を見たりしなければいけないのだが、用事の目鼻が付いた時に周りを見渡すと、特に誰か補助してやらないといけない者は見えなかった。

 

 

 結局こっそり人目をしのんでツッカケで外出することになった。セーラー服にツッカケとは、何とも不格好である。キャップを制帽と変えていなければ、物議を醸しかねないいでたちだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 顔に被せたキャップのつばを持って、のける。すると、目の前に混沌と流れる雲が、その奥には、青い虚空が見える。

 

 

 サン・マルコ広場の少し外れにある鐘楼に、わたしはいる。

 

 

 サン・マルコ広場にはネオ・ヴェネツィアの象徴である立派にそびえる鐘楼があるが、街にある鐘楼はそれだけではない。

 

 

 わたしが忍び込むように入り、四角い建築の中の螺旋階段をツッカケの音を響かせて上ったこの鐘楼は、サン・マルコ広場のものよりずいぶんと小規模だった。

 

 

 その昔餓鬼だった頃に初めて知って、アリシアとよく遊んで疲れた後に来て、疲れを癒しに来た、なじみの鐘楼だった――とはいえ、、鐘楼はだいたい休憩所ではないのだけど。

 

 

 用務員と思しき人がたまにいて、その時ゆったりくつろいでいるわたしは、ちょっと後ろ暗い気持ちになるのだが、別に絡まれることはなかった。

 

 

 日が差しているが、暑いというほどではない。剥き出しの腕や首などには日焼け止めを塗っておいたが、それほど気にかける必要はないだろう。

 

 

 鐘楼のてっぺんは、ずいぶんとこった造りになっていいて、円柱に囲われて鐘が吊り下がっている上は、三角錐の尖った屋根だ。上端には十字架が付いている。

 

 

 わたしが寝ているのは、空洞のアーチ窓のすぐ外だった。そこは窓より少し下りた足場で、まるで広くはないが、かろうじて成人が横になれる程度の面積が確保されていた。しかしへりには壁などないので、うっかり足を滑らせれば真っ逆さまに落ちてしまう。――一度だけ、アテナを連れてきたことがあったが、アーチ窓の下の足場まで来て、その下をへりより見下ろした時、卒倒しそうになってアリシアと共に肝を冷やしたことがある。

 

 

 空と雲のたわむれが綺麗で目を奪った。時折、鳥が視界を飛んでいく。

 

 

 目の前で、雲がうねり、流れ、変形し、湧き起こり、消える。まるで波のように、迫って、退いて、また迫って、退いて――。

 

 

 だんだんと、気持ちよくなって来、目蓋が重くなってくる。うたた寝てしまうと、自分が潰そうと企んでいるより多くの時間が流れてしまう。そうなっては大目玉だ。後輩たちへのメンツも潰れる。

 

 

 色々とぼんやり考えている内に、わたしはほとんど意識の暗がりへと沈下していきそうになったが、その時、突然物凄い引力がわたしを引っ張ってびくっとした。

 

 

 わたしは自分が落ちるのだと思って驚愕し、絶望した。大けがをして、ひどい目に遭うのだと観念した。

 

 

 ところが、我に返れば、わたしはまだ足場に横になっていて、激しい動悸に息を荒くしているのだった。

 

 

 やれやれ――。

 

 

 額には脂汗。こうしてこの鐘楼で肝を冷やすのは、アテナの時ぶりだろうか。アリシアに話せば嘲笑されるに違いない。

 

 

 腕時計を見る。すると、ちょうどよい時間が経過したことを知る。

 

 

 体を起こして、アーチ窓をくぐり、階段を下りていく。ふと気付いたが、わたしは履いてきたツッカケを片方なくしていた。元いたところに戻って探したが、ない。

 

 

 ――涼しい風の吹く一日だった。

 

 

 はだしで触れる階段は冷たかった。下り切って出入口を出ると、一足ひっくり返ったツッカケを見つける。わたしのものだ。

 

 

 空の曇りの程度は少し弱まり、青い面が広がっている。日は少し傾いて、時間の流れを偲ばせる。

 

 

 わたしはツッカケを履き直し、キャップを目深に被り、姫屋への帰途に付いた。

 

 

 

 

(終)



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Page.45「洗艇~ゴンドラのケア」

***

 

 

 

 濡れたクロスをきゅっと絞ると、濁った水がバケツの中へと滴り落ちた。

 

 水先案内人にとって、客人を乗せたゴンドラを操ってネオ・ヴェネツィアを巡るのは日課だ。

 

 桃色のロングヘア―の彼女――水無灯里は、水先案内人の、まだ駆け出しだった。

 

 うだるほどの暑気が人々を疲弊させる季節――夏。

 

 その午後の、やがて長い日が暮れようとする、遠くの空が紅色に染まりだす頃、灯里は、ゴンドラのそばにいて、エプロン姿で、その手入れをしていた。

 

 水先案内人の仕事がまずゴンドラを操ることだとすれば、その手入れをマメにすることだって又、その内のひとつだった。

 

 灯里はARIAカンパニーの船着場に留まる一艘に乗り込んでせっせと動いていた。

 

 革製のソファ席には専用の洗剤をスプレーで噴射して拭き、船体はクロスで磨いた。

 

 日暮れ時とはいえ暑い中でのことだったので、灯里はすっかり汗だくになり、最後の一拭きをようやく終えた時、勢いよくため息して天を仰いだ。ARIAカンパニーの社屋の白壁に、夕日が注いでいる。

 

「精が出ますなぁ」

 

「はひ?」

 

 首だけで声のした方を振り返ると、灯里はよく見知った者の訪れを知った。

 

 ARIAカンパニーの船着場は、二階建ての社屋の階段が下りていく先の海にある。

 

 灯里をちょっと驚かせた訪問者は、その一階の船着場のそばでしゃがんで、両手で頬を持って彼女を見下ろしていた。藍色のショートヘア。

 

「藍華ちゃん」

 

 灯里の友人だった。近所に来たので、様子を見に立ち寄ったそうだった。

 

 

 

 

 

 

「今日も暑かったわねぇ」

 

「うん。カンカン照りだったもんね」

 

 灯里と藍華は一緒になり、今はARIAカンパニーの社屋の物陰に並んで座り、それぞれ背中を壁に持たせていた。灯里の首にはタオルが巻かれており、しっかり働いた証としての汗が浸み込んでいた。

 

 灯里は、藍華がすぐARIAカンパニーのキッチンで淹れて冷やしてくれたお茶をコップに入れて貰って、彼女と一緒に飲んだ。くたびれて火照った体にその冷たさはずいぶん爽快だった。

 

「ふうん」と灯里。「藍華ちゃん、今日は外じゃなかったんだ」

 

「うん。今日は中で仕事。晃さんのお手伝いばっかりだったのよね」

 

 その後は、藍華の愚痴が続いた。

 

 姫屋の主席であり藍華の先輩である晃は、灯里にとってのアリシアのように物柔らかではなく、むしろ男勝りで気の強いところがあるので、互いに接する中で折に触れて齟齬をきたしてしまうことがあるようだ。

 

 だが、所詮はしょっちゅうある話題に過ぎず、すでに繰り返し聞いてきた灯里は、特に深い関心を持たず、適度に相槌を打って共感する一方では、無用のものとして聞き流した。

 

 その間、灯里は目の前に広がる風景に見入り、ゆっくりと流れて変形する綿雲を追い、すぐそばの海の波が岸壁に当たって砕ける音に涼しい快さを感じた。

 

 藍華の話は、その必然の帰結であるが、晃の愚痴を満足するまでし終えると、アリシアへの羨望に繋がった。藍華は、厳しい晃ではなくアリシアがよいと愁訴し、儚くむなしい懇願を灯里にするのだった。

 

「あたし、ARIAカンパニーに入ればよかったなぁ」

 

 空を仰いでため息を吐く藍華。

 

 灯里は苦笑いをこぼし、「藍華ちゃん、晃さんに悪いよ」

 

「交代してよ、灯里。姫屋とARIAカンパニー」

 

「エェー」

 

 大胆なるその提案に、大口をあんぐり開けて呆然。

 

 だが、その言が本心のものでないことは、二人共よくよく分かっていた。藍華は晃のところにいるべきだし、灯里はアリシアのところにいるべきだった。現況に疑問を差しはさむ余地はなかった。

 

 暮れなずむ夏空を鈍足でのっそりと行く雲を見つめていると、あらゆる今あるわだかまり、悩み、憂い――そういった心中に停滞する負担までが、離れていくようだった。

 

「冗談はまぁ措いて」、と藍華は晃への不満を撤回すると言った。「綺麗になったわね」

 

「ゴンドラ?」

 

「うん。よく洗えてる」

 

 二人は、眼下に留まる灯里が洗ったばかりの舟を見た。そばには汚水の入ったバケツがあり、そのバケツの縁には、クロスがかかっている。

 

「自分ではあんまり自信ないけど……すみずみまでやったわけじゃないし」

 

「それじゃ、洗剤のお陰か!」

 

「エェー」

 

「フフッ、冗談よ」

 

 二人の間に慎ましい笑い声が上がった。夕日は、その笑いのように明るい光を放った。

 

 やがて笑い声は止んだ。

 

「明日」と藍華。「雨、降らないといいわね。せっかく綺麗にしたゴンドラが汚れちゃうもん――でも、その心配する必要はなさそうね」

 

「うん。だいじょうぶだよ」

 

「この分だと、カバーはかけなくてよさそうね」

 

「そうだね」

 

 そう答えると、灯里は額に手でひさしを作って夕日を見つめた。夕日の光は最早直視出来るほど弱まっており、別れを告げているようだった。

 

 

 

 

 

 

「お茶、ありがとう。おいしかった」

 

「あぁ、ハイハイ」

 

 灯里と藍華はARIAカンパニーのそばの道路にいた。離別の時だった。辺りは薄暗く、空には星のまたたきが散らばっていた。

 

「晃さんによろしく」

 

「うん」

 

「晃さんにやさしくしてあげるんだよ」

 

「ノーノ―」

 藍華は片手で払うようにして否定する。

「こっちがやさしくして貰いたいくらいよ」

 

 灯里は微笑み、「それじゃ」、と手を振って見送る。藍華はきびすを返し、首だけで振り返ると、「それじゃ」、と同じ調子で返す。

 

 ありきたりの、定型の別れ。慇懃ではないけれど、心のこもった別れ。その別れは同時に、再会の誓いであった。

 

 友人が見えなくなるまで見送った灯里は、清々しい気持ちになると、用事で出かけて近く戻ってくるだろうアリシアのために夕飯の支度をしようとARIAカンパニーのキッチンへ向かおうとした。

 

 中に入る前に、そういえばと灯里は、船着場の方へ戻ると、バケツの汚水を処分してクロスを清水で絞って干し、そして、結露でいっぱいのお茶のポットと二人分のコップを回収した。

 

 灯里は海へと目を注いだ。

 

 よく見える水平線には夕日の残光があった。彼方の真っ黒に染まった海の向こうに、オレンジ色の淡い光の帯が広がっていて、その上には褪せた青色の空があった。

 

 明日もまた暑くなるだろう。

 

 船着場を後にした灯里。

 

 暗かったARIAカンパニーの窓に、ポッと、照明の色が付いた。

 

 

 

(終)



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Page.46「うるわしのサニー・ブルー」

***

 

 

 

 何とも言えない快い淀み――午睡の淀みより、現実の呼び声に応じてゆっくり目を開くと、そのブロンドヘアーの水先案内人――アリシアは、ようやく自分が知らない内に寝ていたことを知った。

 

 彼女はロッキングチェアに座っていた。そのロッキングチェアは、クッションが厚く快適そうだった。

 

 頭を俯けることでずれて落ちかかっていた眼鏡をさっと上げると、アリシアは窓の方へ、まだ眠りの陰影の残る目を向けた。

 

 広々とした窓より、明るい陽射しが部屋へと差し込んでいて、壁に傾いて変形した窓のシルエットを映している。照明の付いていないほの暗い部屋。窓枠は陽光を帯びてくっきりと鮮明だ。

 

 空調で涼しい室内。季節は夏で、昼過ぎだった。

 

 半そでの服にゆったりとした、シルエットがスカートに似ているパンツ──くつろいだ格好のアリシアは、自分の手に一冊の本があることを知った。最近書店で買った小説で、読んでいる途中に、ウトウトして寝てしまったのだ。

 

 栞の代用に親指を挟んで目を瞑ったはずだったが、寝ている途中に親指が抜けて本はすっかり閉じている。開いて流し読みし、記憶と照合し、最後に読んだ箇所を特定しようとしてみるが、ピンと来るところはなかった。

 

 仕方なくテキトーに栞を挟むと、アリシアはその本をそばの窓枠の下のスペースに置いた。

 

 ――とても青かった。

 

 窓一面を染める、空の色のことだ。

 

 雲はひとつとして浮かんでおらず、せいぜい薄く生白い広がりとしてぼんやり流れているばかりだった。

 

 眠ることで口の渇きを覚えたアリシアは、ロッキングチェアより立ち上がって軽く伸びをすると、キッチンへと移動してコップ一杯の水を一気に飲んだ。

 

《……。》

 

 非番のため自宅で気楽に過ごしていた水先案内人は、じっと、窓一杯に移る空を見つめた。果てしなく青い夏空は、彼女をいざなうようにその瞳を見つめ返した。

 

 

 

 

 

 

 上は(カラー)の付いた腰下まであるオーバーサイズのシャツ。下はそのシャツに相応しい、同様にゆったりとしたパンツ。足にはサンダル。そういった出で立ちで、アリシアは、ネオ・ヴェネツィアの通りを歩いていた。

 

 手首には閉じた日傘をさげている。周りの建物が夏日を遮って涼しい陰を作ってくれているのだった。

 

 ひと気がなくひっそりとした細い通り。水路に沿っていた。通りの各所には水路のそばのこぢんまりとした乗降場(プラットホーム)へと下りる階段がある。

 

 アリシアは、特に目的地を決めずブラブラ歩きしていた。ネオ・ヴェネツィアは服飾品が有名で、あっちこっちにアパレルショップがあるので、通りに面してあるそのショーウィンドウの品を眺めるだけでも楽しかった。

 

 アリシアちゃん……?

 

 ふと声がしたかと思うと、アリシアははっとして振り向いた。

 

「アリシアちゃんよね。よかった」

 

 すぐ横に――水路に――白い帽子を頭にのせ、同色のセーラー服を纏った、アリシアと同じ水先案内人が、ゴンドラに乗って、一方では怪訝そうに、また他方では、視力が悪く確認するように、アリシアの顔をまじまじと見ている。

 

 彼女はしかし、その後ろ姿に知己だと見当を付けた相手が無事、その通りだったと分かって安堵し、ほっとする様子だった。

 

 ライラックのショートヘア。きめ細かい褐色の肌――オレンジ・ぷらねっとのアテナだった。

 

 このひと気のない中で不意の巡り合いに、アリシアはちょっと驚くと同時に、嬉しい気持ちになった。

 

 アリシアは通りのへりの縁石まで近付いて挨拶を交わし、軽く話をすると、すっかり意気投合し、アテナの操るゴンドラに乗せて貰うことになった。

 

 ――そよ風が低く、地を滑るように吹き通る。どこまでも青い夏空には、雲の粒子が広がってぼんやり滲んでいる。

 

「今日ってホントは」アテナが話す。「雨だったはずよね」

 

「うん。南の雨雲が近付いてるって、天気予報で言ってたわ。けど……」

 

「外れたね」

 

「そうね」

 

 二人はフフッと微笑み合って、天気予報がすっかり嘘であるかのように晴れ渡る青空を見上げた。

 

 二人は暫時ゴンドラで水路を進んだ後、ある広場の乗降場で下りて、すでに閉館した美術館の扉の前の、半円形の階段に並んで腰を下ろした。その扉がある側は、太陽と反対にあったので涼しい日陰になっていた。

 

「こういう晴れ空を見ると、家に閉じこもってるのが勿体なく思っちゃうわね」

 

 太腿に肘で両腕を立て、手で包み込むように頬を持ってアリシアが、悔やみを帯びた調子で言う。

 

 白いセーラー帽を脱いでお腹の辺りで持つアテナは、「あれ?」と、きょとんとして、その横顔を見る。

 

「アリシアちゃんって、アウトドア派だったっけ?」

 

「……」

 

 答えあぐねるアリシア。彼女自身、自分が外で活発に遊び回るタイプなのか、室内で静かに読書などして過ごすタイプなのか、釈然としなかった。

 

 考え込むアリシアの瞳を、アテナはじっと、恬淡として見つめた。

 

「昔――小さかった頃は」、とアリシア。「お家で過ごすことが多かった気がする。記憶を紐解いてみても、空とか雲とか、外のイメージが浮かんでこないの。浮かんでこなくて、その代わりに、本とか、絵とか、音楽とか、そういったものが蘇ってくるのよね」

 

「そうね」、とアテナ。「わたしが知ってるアリシアちゃんは、そういうイメージ」

 

「けど、あの子と知り合って、変わった気がするわ」

 

「あの子?」 アテナが小首を傾げる。

 

「あの子よ。こういう風に、眉毛を吊り上げて……」

 

 アリシアは、キリリとした表情を模倣して見せる。

 

 するとアテナは笑って、「あぁ」、と合点が行ったように笑う。

 

「晃ちゃんね」

 

 アリシアも笑って返す。ご明察とでも言うようだった。

 

「晃ちゃんが遊ぼうって誘いに来たりした時の、お母さんの、わたしを見送る困った顔を見るとね。気重で、ちょっと出かけにくい気持ちになることがよくあったわ。お母さんは、わたしが感化されて、晃ちゃんみたくなっちゃうことを不安に思ったんでしょうね」

 

「少し分かる気がする」

 

 アリシアとアテナは、揃って苦笑した。

 

「晃ちゃんって、ちょっと男勝りで、目付きとか、ちょっとキツいところがあるでしょ? 床しいお母さんにしてみれば、大なり小なり抵抗があったんだと思う」

 

「けど、杞憂だったね」

 

 アテナが同意を求めるように言う。

 

「えぇ」、とアリシアは即座に頷く。「わたしはお母さんの思いに沿わない形で、晃ちゃんと仲良しになっちゃったけど、感化はされなかったわ。もちろん、まったく感化されなかったわけじゃなく、とつぜん晃ちゃんに遊びに誘われた時みたいに――」

 

 アリシアは空を仰ぎ見た。

 

「――こうやって、青空に惹かれてフラッと外に出てくることは、多くなった気がするけどね」

 

 ふうん、としみじみ納得するアテナの隣で、アリシアはすっと立ち上がり、広場全体を見渡した――ひと気はまばらだった。

 

 アテナはその動きを追って見上げる形になる。

 

 アリシアはさっとお尻に付いた塵埃を払うと、「悪いわね」、と詫びた。「与太話に付き合って貰っちゃって」

 

 そしてアテナを見下ろし、続けた。

 

「アテナちゃん、オレンジ・ぷらねっとに帰る途中だったのよね」

 

「ううん」

 アテナは首を左右に振り、遅れて立ち上がる。

「与太話なんて……楽しかったわ。あんまりこうして二人きりで話すことはないもんね」

 

 二人はにっこりし合うと、ゴンドラに戻った。

 

 今度ゴンドラを漕ぐのは、アリシアだった。アテナは客席に座ってくつろいでいた。二人はそれぞれ口を開かず沈黙していたが、空気はぜんぜん重くなかった。

 

 ――やがてオレンジ・ぷらねっとにゴンドラが着き、降りると、二人は海の方へ向いて真っ赤に燃える夕焼けを眺めた。アリシアが関心を持って物色したアパレルショップを始めとして、あらゆる店は閉める準備に取り掛かっていた。

 

「雨雲は、どこへ行ったんだろうね?」

 

 アリシアが言う。

 

「さぁ?」

 

 アテナは首を傾げて返す。

 

「家に、読みかけの小説があるのよね。今日、うたた寝して中断しちゃったんだけど……」

 

 

 

 ――。

 

 

 

 照明が付いて明るいさっぱりした部屋。

 

 くつろいだ部屋着に着替えたアリシアが、飲み物の入ったカップを手に持って来、そばの窓枠に置くと、小説を取る。そして栞の挟まっているページを開き、栞を外す。

 

 数十ページほど読み進めた時、彼女は目を小説より窓へと移した。夜空には無数の星のまたたき。雨の気配は、絶えてない。

 

 明日は仕事だ。

 

 アリシアは晴れの予覚と共に本を閉じると、窓の両脇のカーテンをさっと閉めた。

 

 

 

(終)



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Page.47「夏を見つめて~セイとシの間で」

***

 

 

 

 空を見上げようとすると、思わずまばゆさに目が眩んだので、わたしは歩みを止め、とっさに手でひさしを作った。

 

 ギラギラと照り付ける灼熱の太陽は、夏を謳歌しているようだ。強い光を浴びて、空に浮かぶモコモコと大きく膨張したわた雲は、大気の流れに乗って青色の海を泳いでいる。

 

《あれは――》

 

 わたしは一本の長い筋雲を見つける。ゴーッという音。

 

 飛行機が飛んでいた。

 

《いったいどこへ行くんだろう――》

 

 わたしはしばらくの間、高所にあって粒のように小さい飛行機の後を目で追ったが、やがて雲の群れにまぎれて見えなくなった。そのエンジン音もやがて聞こえなくなった。

 

《……。》

 

 ジリジリと焼けるように暑い。日陰のない地面より、仮借ない夏日の照り返しがわたしに暑熱を浴びせる。

 

 わたしは目を細める。そして《そうだ》、と心中で呟く。《今は夏なんだ――》

 

 見上げる燦然たる太陽は高い位置にかかっている。昼だった。通りにボーッと立ち尽くすわたし。

 

 柄の入ったワンピース。ツバの広い麦わら帽子。剥き出しの二の腕より手にかけて、すでに軽く日焼けしている。

 

 額には汗の粒が浮かび、一定集まって重くなると、頬を伝ってしたたり落ちていく。

 

 ハンカチで繰り返し拭うが、きりがなかった。

 

 わたしは再び歩き出す。

 

 

 

 ――時間というのは有限だ。限られたその中で――起点より限界までの間で――わたし達は生きている――

 

 

 

 古都、ネオ・ヴェネツィアの一隅に、わたしが夏、好んで訪れる場所がある。

 

 足元に流れる水は澄明だ。すくって口にしてもよいほど清く澄んでいる。流れに反映するわたしの像は流れに従って揺れている。桃色のロングヘア―。

 

 サンダルの足を流水が冷やす。わたしがやって来たこの場所は歩いて通れる浅い細流(おがわ)――いわゆる洗い越しになっていて、行きどまりの水路と海へと注ぐ水路の間に挟まれている。アクア・アルタで水嵩が増えると通れなくなったりする。

 

 辺りにはわたしの他には誰もいなかった。わたしは水に浸した片足をバッと勢いよく、蹴るように上げた。すると砕けた川水がキラキラと光る粒子となって、ザブンという音と共に無数に散った。

 

 水面は少しの間波紋に乱れたが、やがて再び整った流れへと戻った。

 

 わたしは片手で、麦わら帽子の上端を押さえるようにして被り直す。

 

 帽子のツバを(つま)んで見上げた夏空は、雲ひとつなくなっており、なぜか普通より、はるかに遠く高く見えた。その様相は、まるで魚眼レンズで覗くように、だだっぴろく、そして果てしなかった。

 

 温かい季節の風が吹き抜ける。着ているワンピースの裾が、その煽りを受けてパタパタと脚部を優しく叩き、胸元には涼感が通り抜けていく。

 

 

 

 ――この時間が、この命が、そしてこの『季節』が、有限であるということが、疑わしくなってくるほど、わたしが今見つめる澄んだ碧落(あおぞら)は無限に広く、また高かった――

 

 

 

 まるで磨かれたようにツヤツヤとした光沢を帯びたたくさんの大きい果物が、木製の台車の堆く積み上げられている。全部同じ果物だった。緑色で丸く、黒いストライプの入った果物――スイカだった。

 

 或る男性が、行商で街中を売り歩いているようだった。

 

 わたしは一切れ彼に切って貰って、近くの日陰で壁に背を持たせて食べた。

 

 赤い実。黒い種。

 

 かじるとシャリッという音がし、甘い果汁が溢れてくる。

 

 目の前を幼い男の子が通りかかる。ちょうど、わたしが最後の一口を食べてしまおうというタイミングだった。

 

 汗だくの、お母さんに手を取って連れられていく男の子。指をくわえるようにして、わたしをずっと凝視して通り過ぎていく。お母さんの方は、わたしのことは特に意に介さない様子だった。

 

 彼がようやく目線を逸らして離れる頃、わたしは最後の一口を食べた――ぬるく、また、味が薄かった。

 

 

 

 ――『季節』の永遠を感じ、また願うことは、至福だった。しかしまた同時に、わたしは、悲嘆に胸を痛めていた。生と死の間に、わたし達はいる。わたしは『季節』の永遠を願う中で、その終焉を覚知していた――

 

 

 

 あの飛行機が残していった航跡の筋雲は、最早なくなっていた。

 

 時間が経ち、涼風が吹いていて、汗はひいていた。疲れた子供が、その背中で目を瞑って親に負ぶさっている。灼熱を放って燃えていた太陽は傾き、また雲に覆われてその勢力を弱め、辺りは薄暗くなっていた。日暮れだった。

 

 すっかり乾いた足とサンダル。

 

 波止場にいたわたしは、やがてやって来た水上バス(ヴァポレット)に乗り込んだ。

 

 ――風景が流れていく。風を切って走っていく水上バスは涼しかった。波に揺さぶられ、わたしは、だんだん眠たくなってくるようだった。目蓋が重い。

 

 

 

 ――夏日に煌めいていたあらゆるもの――海、空、雲、草花――その数々は、今すでに、迫りくる宵闇に溶け込んでいこうとしていた――

 

 

 

 始まりの希望。隆盛の喜悦。そして最期の悲哀。

 

 

 

 わたし達は、『狭間』に生きている。

 

 

 

(終)



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Page.48「しおれた花」

***

 

 

 

 日常が不運に陥ってしまったようだった

 

 

 少女は悲しんだ

 

 

 数日来、雨が小止みなく、降り続いている

 

 

 石畳の道路は濡れてツヤを帯びている

 

 

 バタバタとビニール傘を打つ雨音、近くの水路を走るモーターボートのエンジン音――水路の流れは濁り、また荒れていた

 

 

 こういう具合では、人力で操る舟――たとえば水先案内人のゴンドラや、メールをたくさん積み込んだ郵便屋の小舟は、走れなかった

 

 

 天候は人智を越えたものだ

 

 

 水先案内人はゴンドラにカバーをかけ、郵便屋はカッパを来て足で郵便物を届けるしかなかった

 

 

 寝る時――部屋を暗くして布団に入り、耳朶を打つ雨音

 

 

 どれくらい降るのだろうか、早く止んでくれると嬉しい、などと思ってまどろむ

 

 

 朝目覚めて――依然暗い意識で体を起こし、いくぶん遅れて、淡く生白い窓の光で、雨の継続を知る

 

 

 ギャレットを寝間着で出、階段を降り、傘を差してベランダへ出る。じめっとした湿気。低い外気温

 

 

 眼下に船着場がある。ゴンドラを覆うカバーが水を弾いて流している

 

 

 背後の上方にはやや下を向いて看板がかかっている――《Welcome to ARIA COMPANY》

 

 

 濡れたベランダの手すりに指で触れ、ツーッと一文字になぞる

 

 

 冷たい手触り――その手触りは、心まで冷たくするようだった

 

 

 あぁ、ダメだ、と少女(アカリ)は不安に思う――今のわたしは冷淡。ひとに対して優しく出来ない

 

 

 今日の仕事がどうなるのか知れなかったが、アカリはとりあえず制服に着替えようと考える

 

 

 灰色の空、灰色の雲、灰色の海

 

 

 彩りをなくした風景は、見ていると気分が寒々としてくるようだった

 

 

 

 

 

 

 世界で最も美しいとされるサン・マルコ広場。ネオ・ヴェネツィアの中心だ

 

 

 広場はけれど殺風景だ。開けて見える空はしけた面持ちで太陽を隠している

 

 

 ひとびとは広場の周りの回廊に散らばっていて、時おり上がる話し声や呼び声は、低い天井と壁に反響してよく聞こえる

 

 

 だが、次第に静けさが立ち勝っていく。辺りの喧噪は止む。雨だけが、鳴っている

 

 

 雨の中歩くのが嫌になって、近場の建物のアーチをくぐってボーッとする

 

 

 胸苦しさを感じるのは、疲労のせいだろうか。ないしは、連日の雨への倦厭のせいだろうか

 

 

 古びた建物。アーチの中は暗い。壁に背を持たせ、顔を俯け、閉じた傘を足元に突く

 

 

 ひとに対して冷淡になったアカリは、自己に対しても同じだった

 

 

 疲れた、あるいはだるかったが、てんで自分をいたわろうと出来なかった

 

 

 ――むしろ呵責していた。ただ無意識に、静かに追い込んでいた

 

 

 ひょっとすると、悪天の退屈さが昂じたのだろうか

 

 

 いずれにせよ、みずから『追』い、そして『逐』われたのが、このアーチの暗がり――袋小路(デッド・エンド)だった

 

 

 ただでさえ明るさの乏しい空の下の物陰は、本当に暗かった。不気味さ、寂しさ、心細さが、息苦しいほど充満していた

 

 

 不意に激しい眠気に襲われ、アカリはウトウトしだす

 

 

 彼女はやがて、壁に持たせている背をズルズルと擦って地面にくずおれる

 

 

 傘はパタリと倒れ、乾かず付いていた雨粒が飛び散る

 

 

 ひと気の絶えてない雨の都の一隅 

 

 

 気絶するように昏睡したアカリ。その眠りは、しかし癒しの眠りだった

 

 

 その眠りを抱くのは、雨雲の下にそびえる一軒の古色蒼然たるボロい尖塔

 

 

 すでに使われなくなった廃墟の、あっちこっち欠けているその尖塔――細い水路に架かる短い橋の先に、ひっそりポツンとたっている

 

 

 彼女が雨宿りし、また寝入るその尖塔のアーチは、降りしきる雨粒を地面に落としている

 

 

 悪天への怨嗟、好天への欣慕――鬱屈と希求――いさかいと恋

 

 

 眠りが全てをおさめ、そしてしずめる

 

 

 アカリの心を満たす水面に浮かぶ、無数の波紋が、だんだんと弱まって、数を少なくしていく

 

 

 最後の一滴が、極小の波紋を投じてしまうと、後はすっかり静穏になった

 

 

 閉じたまなこ、安らぎの寝息、だらりと伸びた腕、その先の半分開いた無垢の手

 

 

 ――天候は人智を越えたものだ

 

 

 だが、雨はいずれ止む。止んでしまえば、雨雲が去り、晴天が現れ、慈光を恵む

 

 

 不運もまた然り。開けない運などなかった

 

 

 世界は流れる――悲しみ、望み、困苦、全ての感情を巻き込んで、時々刻々と流れる

 

 

 

(終)



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Page.49「ダイブ・イントゥ・ザ・ダークネス」

***

 

 

 

 ボーッとしていた。

 

 ARIAカンパニーのバルコニー。わたしは日陰で壁に背をもたせて座っていた。

 

 空はスカッと晴れ渡っている。

 

 夏が過ぎ、豪雨と災害をもたらす嵐の訪れもそれほど頻繁でなくなってくる頃。

 

 昼下がり。やがて日が暮れる。

 

 初秋の海辺を渡る風は爽快だ。まだ暑さを帯びる陽光に汗ばむからだを、その風は冷ましてくれる。

 

 ――ここ最近、何かと憂鬱だった。否、今もなお憂鬱だ。微かに胸が悪い。

 

 わたしは悩んでいるのかも知れない。

 

 しかし思い当たる節がなかった。仕事は順調で、人間関係も円満で、生活は健やかだった。

 

 心に何か悪いものが巣食っている感じだった。それはまるで、病のようにわたしに違和感を覚えさせた。

 

 だが、その悪いものは、例えばわたしのからだを切り開いて摘出したり出来るたぐいのものではなかった。

 

 皮膚を越え、毛穴から肉に浸み込み、血脈に沿って全身に広がり、細胞の最奥まで到達してそこで毒気を放出していた。

 

 わたしの変化は緩やかで、周りにいる親しい人たち――たとえばアリシアさんとか、藍華ちゃんとか、気心の通じ合った仲の人たちでさえ、覚知しないものだった。

 

 一体このわたしの胸を悪くするものは何なのだろう?

 

 考えてみたところで、答えは出なかった。

 

 よっこらしょ、と、わたしは重たい腰で立ち上がると、軽い立ち眩みを覚え、いささか強く背中を壁に打ち付けるようにして再び持たせた。

 

 風は穏やかで、従って海の水面も特に荒れた様子ではなかった。風の感触が本当に気持ちよかった。

 

 わたしはまた考え込む。

 

 うっすらと、わたしは自分の不調に目測を付けていた。

 

 たぶん、『邪念』なのだろう。

 

 強い情欲や、突拍子もない妄執や、健やかなるからだに宿る狂気など、そういったたぐいの、内面にあって目に見えず、しかし確実に存在してわたしたち人間の動機となるもの――人間を突き動かす因子たちの、その混沌たる流れが、体内を激しく巡っているのだ。

 

 わたしを揺さぶりそして悪しきビジョンへの強行を誘惑するこの内なる魔力に、わたしは悩まされている。

 

 誰も見ていないところで歯を食いしばったり、腕の肉をつねるなどして制御しようとしてみても、束の間の気休めにしかならなかった。

 

 スゥ、と、わたしは目を瞑って深呼吸する。吸って、吐いて。吸って、吐いて。一回、二回……。

 

 開眼し、見下ろされる広大なる水面。

 

 わたしは、慎重に、下に落下しないようバルコニーの手摺の向こう側に、バルコニーの端に、靴と靴下を脱いだ足のかかとで、手摺を後ろ手に持って立つと、最後の深呼吸をした。

 

 そして制服のまま、海へ飛び込んだ。

 

 頭からザブンと勢いよく行くと、水の反発を感じた。しぶきが上がる。

 

 すでに海水浴のシーズンは過ぎようとしている。海は冷たかった。

 

 3メートルほどの高さよりダイブし、惰性だけでもずいぶん深みまで沈んだが、わたしは息の続く限りより深いところへと潜り続けた。水先案内人の制服で、ゴーグルも何も装着せずに、ただがむしゃらに手足を動かした。

 

 そして我慢出来ないほど苦しくなったところで浮上し、大気へと顔を出す。胸いっぱいに空気を吸い込む。手で長い髪を搔き上げ、顔をさっと拭い、目を開く――空は依然青い。小さい雲がゆっくりと流れている。

 

 毒気が薄らいだのだろうか。とてもさっぱりした気分だった。ひょっとしたら――と、わたしは何となく閃いて、身軽になった気がした。

 

「おーい、灯里ぃ」

 

 呼び声がして、はっと振り返る。落ち着いたブルーの髪。ゴールドの煌めく瞳。

 

 姫屋の藍華ちゃんだった。

 

 ――。

 

「ごめんね」

 

 わたしは軽く謝ると、ズブ濡れの制服を脱ぎ、タオルで水気を拭いて、屋内から彼女に取ってきてもらったTシャツと半パンツというラフな恰好に素早く着替える。

 

「制服のまま、どうしたのよ一体?」

 

 藍華ちゃんは目を丸くして、驚いている様子だった。

 

「うーん」、とわたしは困ったように眉を下げて唸る。「うまく説明するのは難しいんだけどね――」

 

 傾いた日が、正面の遥か彼方で光っている。

 

 手摺にはしっとりと濡れた白いセーラー服。

 

 わたしと藍華ちゃんは並んでバルコニーに座る。

 

「ふーん」、と藍華ちゃん。「お腹が空いたから、何か食べればいい、っていう問題じゃないのね」

 

「うん」わたしは俯き気味に答える。「それくらい単純だったなら、よかったんだけど」

 

「だから、ダイビングしてさっぱりしようっと思ったのね」

 

 わたしは苦笑いして返す。

 

「あんまりよくないんだろうけどね、こういう風に、訳も分からないで強引に解決しようとするのは」

 

「うーん」

 

 藍華ちゃんは同意するかしないかで迷うように唸る。

 

「いいんじゃない? 別に」

 

 しばらくして、彼女が言う。

 

 わたしは小首を傾げる。

 

「わたしにだってあるもの。何か鬱陶しい感情にまとわりつかれて悩む時が。だけど、相談出来ないのよね。晃先輩にも。誰にも。こっぱずかしいことだから。灯里が悩んでた悩みだって、きっとそうでしょ?」

 

 その問いに、わたしは首肯しなかった。しかし藍華ちゃんは分かっているようだった。

 

「髪、パッサパサよ」

 

「え? あっ」

 

 指摘された気付く。海水が乾いた髪は、ゴワゴワして触り心地が悪かった。髪型は間違いなく乱れているだろう。

 

「それも、人生のひとつの側面なんでしょうね」

 

 藍華ちゃんが立ち上がって言う。もう帰るのだろう。空が橙色になりだした。

 

「たまにはいいのかもね。何か悩みを抱えて、自分自身と格闘するっていうのは」

 

「いいのかな……」

 

 わたしは藍華ちゃんを見上げてポツリ、独り言めかして呟く。

 

「じゃないと、簡単すぎて人生つまんないじゃん。スパイスよスパイス。わたしは辛口が好き」

 

「わたしは、甘口がいいなぁ」

 

「何、情けないこと言ってんのよ。ほら」

 

 そう言って、藍華ちゃんは海に向かって両腕を広げて見せる。

 

「わたしたちのこれからは、こんなにあるんだから」

 

 橙色の夕日。明日もきっと快晴だろう。風の音が波の音と混ざって心地よく、適度に涼しい。

 

 悩み。邪念。格闘。人生のスパイス――。

 

 次また懊悩することになった時、その時は、わたしは、そのからい味を噛みしめ、積極的におのれの中の暗黒と対峙しようと思えるのだろうか。

 

 不安だったわたしは、藍華ちゃんにずっとそばにいてもらいたという、半ばいとしく、半ば哀しい、複雑な気持ちになった。

 

 

 

(終)



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Page.50「片隅から」

***

 

 

 

 オレンジ・ぷらねっとの一隅に階段がある。一階と最上階までの間を昇降する螺旋階段だ。ところがエレベーターがあるので、オレンジ・ぷらねっとの人たちのほとんどは、わざわざ階段を使おうとせず、エレベーターを使う。

 

 エレベーターがエントランスより入ってすぐ向こうに堂々とあるのに対して、その螺旋階段はホールの一隅にひっそりとある。エレベーターの定期点検の時には仕方なく使われるが、その他ではまるで所在なく、不気味にさえ見えるほどだ。

 

 オレンジ・ぷらねっとのルーキーの水先案内人、アリスは、一風変わった人柄で知られていた。口数が少なく、また表情のバリエーションが乏しく人付き合いに積極的でないので、彼女とは反対におしゃべりで穿鑿好きな連中から、あらぬ噂を立てられて当惑したりした。

 

 そういう風にして同僚や先輩と互いに分かり合うどころかすれ違うことの多かったアリスは、オレンジ・ぷらねっとに入って程ない頃は、すっかり孤立して、ふさぎ込んで、公衆より抜けてしまうことがしばしばだった。

 

 それは彼女にとって一種の隠遁であり、そうすることでしか心の安寧を保てなかった。食事は一人で済ませ、相部屋で起臥を共にする先輩であるアテナとも、特にコミュニケーションは取らなかった。

 

 ふたつ並んだベッドの片方で、そっぽを向いて寝息を立てている後輩の後ろ姿を見て、アテナはため息をよく吐いたものだ。どうすればアリスが心を開いてくれるだろう、プライベートの話を口にしてくれるだろう、笑顔を見せてくれるだろう――などと思い悩んだ。――ぜんぶ過去の話だ。

 

 そういう、『はぐれ者』として陰々滅々たる日々を過ごしていた、まだオレンジ・ぷらねっとに入社して間もない時期、アリスは階段を好んで使用した。文明の利器におくれを取り、無用の長物となっている例の螺旋階段である。

 

 この螺旋階段は、確かに、長い、狭いなどの点でのぼりおりするのが面倒であったが、実は展望塔に通じており、この展望室は、エレベーターを用いては行けないようになっていた。展望塔へのアクセスは、アリスを含むごく少数の階段の使用者だけが知り、そして享受出来る特権だった。

 

 海に面してあるオレンジ・ぷらねっとの高みより見晴らされる景色はすぐれてよく、晴天には陽光を浴びて煌めく水面が、荒天には厚い雨雲の下の海で砕け散る白波が拝めた。

 

 

 

 ――その日は幸い、晴天だった。アリス――すでに厭人癖を克服し、仲間と打ち解けたアリスは、階段を使って展望室へと向かった。一人だった。

 

 手摺を持ってのぼりながら、残りちょっとというところで、アリスは上を見上げた。薄暗い階段からは、展望室に差す陽光がはっきりと見えた。心なしかわくわくしてくるようだった。

 

 展望室には非常口がある。他に人がいなかったので、アリスはこっそり、その非常口より外に出、展望室に沿ってある小さい階段をのぼった。

 

 高所に吹く風はきつかった。秋の風。陽光は暖かかったが、未だに夏服のアリスは、微かに身震いした。

 

 昼下がりの明るい空には細かく千切ったような片雲がところせましと並んでいた。海の波は穏やかで彼方にかかる秋陽は柔和に笑っていた。

 

 その空を、ひとつの機影が飛行していく。アクアとマン・ホームを行き来する宇宙船だ。まだ明るい時分だったがアンチ・コリジョン・ライトが明滅している。その航跡の飛行機雲の筋が、片雲の群がりに上書きされる。

 

 アリスはじっとその跡を目で追った。遠くを飛んでいた宇宙船が、やがて近くに迫り、ゴーッというエンジン音を響かせて、やがて静まる――と思えば、今度は宇宙船が飛んでいく方角から、ウミドリの編隊が飛来して視界を横切っていったりする。

 

 そういった色々なものに目を奪われることに、アリスは時の経過を忘れて興じた。誰かと一緒では出来ない遊びだった。自身の目が捉えたものに、集中し、観察し、考究したり、あるいは想像したりする。

 

 ――再び秋風の冷たさに身震いすると、アリスは下に戻ろうと思った。秋の日の暮れるのは早い。

 

 

 

 ――夜。食事を追え、入浴し、寝支度を済ませて床に入ろうという頃。

 

「何か見えたと思ったら、アリスちゃんだったのね」

 

 アテナが、鏡台に向かってブラシでショートヘアを()きながら言う。

 

「でっかい視力いいんですね、アテナ先輩」

 

 綺麗な髪だなぁ、と感心して、アリスが返す。彼女はベッドに座っていた。二人とも、パジャマ姿だった。

 

「言われなきゃ、分からなかったわ。あんなところに、人がいるとは考えないもの」

 

 アリスは微笑む。

 

「だけど、ダメよ、アリスちゃん。あそこは非常時に使うところなんだからね」

 

「マン・ホームは――」と、アリスはアテナの注意を聞き流して言う。「アクアと比べてどうでした? 古いお客さんのところへ出かけてたんですよね」

 

 アテナはブラシを下ろし、ううん、と考え込むように唸ると、苦笑し、「やっぱり」と言う。「わたしには、アクアがいいかなぁ。マン・ホーム(むこう)は、色々と発展してて、すごいなぁとは思うんだけどね……」

 

 よもやま話はやがて終わった。

 

 

 

 深更。

 

 時差ボケで中々寝付けず、ナイトテーブルの弱いライトで読書するアテナは、ふと、本より目を上げ、自分の方を向いて眠るアリスを見た。ライトグリーンのロングヘアが美しい彼女は、安らかに寝息を立てている。

 

 思い出と照らし合わせて、かつては必ず向こうを向いて、何者をも寄せ付けないオーラをまとっていた少女が、よくも変わるものだなぁ、と感激する一方で、その変化を可能にする若さを、羨ましいと思ったりもした。

 

 

 

(終)



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Page.51「思慕~切なさとわずらわしさと」

***

 

 

 

 ハァ。

 

 息を吐くと白む。

 

 秋が別れを告げ、冬が挨拶に訪れようとする頃。すでにかなり寒くなっていた。

 

 朝、うっすらと曙光が辺りをゴールドに染める時、家々の鎧窓にあるプランターの草花や、水路にかかってひっそりと獲物を待ち受けている蜘蛛の巣などは、露をまとって輝いていた。

 

 

 

 不思議だ――と少女(アリス)は思った。

 

 

 まだ早い朝だ。普段起きない時刻に起きて、一体どうしたのだろう。自問した。

 

 マフラーまで首に巻いて通りをブラブラ歩きし、明るみだした空を見上げ、どこか現実感の乏しい地面を、空を渡る雲のようにフワフワと歩き、湿っぽい晩秋の空気のにおいを鼻に感じている。

 

 理由は明白である気がした。

 

 しかしアリスは内心で――違う、そうじゃない――と否定していた。

 

 これは、この感情は、『恋』ではないはずだ。なぜなら、わたしが最近意識するようになり、暇さえあれば思いを馳せるその人は、年を取っており、更に言えば、わたしの父より、ひょっとすると上なのではないか……?

 

 

 

 発端は、その男性がオレンジ・ぷらねっとに来て、街のガイドを頼んだことだった。

 

 彼の担当はアリスがすることになり――ただし、まだ一人前ではないので――第一級(プリマ)のアテナに同伴することになった。

 

 その仕事そのものは、成るほど、一人前でないゆえの拙さがあったものの、アテナの補助が効いてか、すっかりダメというほど拙劣ではなく、ビジネスとしてかろうじて成り立っていた。アリスは緊張し、アテナもちょっぴり後輩の仕事ぶりに肝を冷やしたが、男性の客は満足して帰った。

 

 

 

 アリスは、初めは彼のことを何とも思ってはいなかった。何となれば遥かに年上で、既婚で、家庭を築いていたのだ。

 

 

 

 ところが、事情はちょっとした変化を見せた。

 

 

 

 男性の客は、その後何度かオレンジ・ぷらねっとに来店し、またアリスに仕事を頼んだ。毎回アリスに仕事を頼むので、アリスが慣れてしまって、はじめは添乗していたアテナは、やがて添乗しなくなって、アリス単独でガイドすることになった。

 

 

 

 どうしてこの人は、決まってわたしに仕事を頼むのだろう――と、その内アリスが疑問に思いはじめるのは、無理のないことだった。

 

 

 

 男性との時間は楽しく、欣快だった。緊張がだんだんと、彼に慣れてしまうことでほぐれ、一緒になってくつろぐようになった。他愛のない話で時間を潰し、ガイドそのものは二の次になった。

 

 彼と知り合ったのは、かれこれ半年ほど前のことで、当時は、生来人見知りの性質のあるアリスのことなので、あまり積極的に話そうとしたりせず、敬して遠ざけていた。

 

 それが今では、互いに近しくなり、とうとうアリスが、男性の来店を期待するようになった。

 

 

 

 アリスは、仮にその感情が『恋』だとするなら、それ以前にはなかった。すなわち、その男性が、彼女にとっての初恋だったのだ。

 

 しかし、親より年上かも知れない相手に対して抱くその感情について、彼女は思い悩んだ。『恋』では決してないと、彼女は半ば強制的に断じた。年齢の隔たりが大きすぎるし、接点がないし、深い情事を求めなかった。ただ一緒にいるだけで楽しかった。

 

 要するに好感だったのだ。しかし好感というには、彼への期待の感情に、妙にもやもやとした霧がかかって、その正体を謎めいたものにしていた。

 

 

 

 好感以上のものが、何かある?――アリスはじっくりと考えた。

 

 

 

 思いわずらいだして以後、男性を案内する機会は何度かあった。その時、彼女が探るように彼の顔を眺めるたびに、ありえない、と、内心で失笑が起こるのだった。かっこいいと思わなかったし、彼への『恋』は、完全に非現実的だった。

 

 だが、アリスの内では、戦いがあって、『恋』を肯定するものと、否定するものとが絶えずぶつかり合っていた。そして心の内においては、外で非現実的である『恋』が、なぜか現実味を帯びているのだった。

 

 男性の客は来店しなくなった。暖かい季節が終わって久しい。すっかり寒くなったのだ。

 

 アリスは彼を思う。ゆうべ彼女の夢に彼が出た。夢では何気ない日常が夢特有のぼんやりしたフレームの中に描かれていた。本当に、何気ない日常だった。アリスがゴンドラを漕いでネオ・ヴェネツィアを巡った。そして男性と和気藹々と談笑しているのだった。

 

 

 

 その夢が醒めると、朝だった。目覚ましが鳴るより遥かに前だった。

 

 

 

 わたしは彼に、何を期待している? 好感を越える何かが、わたしをして彼を希求させている。

 

 

 

 アリスに恋愛の経験はない。ウンディーネの素養が高いということで若年にして親元を離れたことが、懇意にする年長者への思慕に繋がっているのだろうか。そういう風に考えて、結論付けたところで、胸を軽く締め付ける切なさ、憂鬱、物思いは、解決しなかった。

 

 ブラブラ歩きして、アリスはリアルト橋へと来ていた。

 

 橋からは、大運河(カナル・グランデ)がうねる彼方までくっきりと見える。朝日が昇り、街を明るく照らしている。

 

 息は吐いても白く見えなくなった。首元が群れて、アリスはマフラーを外した。草花に下りた露は、乾いたに違いない。

 

 

 

 風に混じって、秋の湿っぽいにおいがする。

 

 そしてそのにおいは、アリスの内なる感情を刺激し、ムズムズさせる。

 

 ――違う、そうじゃない――彼女は否定する。断固、否定する。

 

 秋が過ぎようとする。

 

 しかし、アリスの『恋』に似て非なるものは、依然、移ろいも、変わりもせず、はじめにあった時のままで、冬を迎えようとするのだった。

 

 

 

(終)



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Page.52「明るい夕日と長い影」

***

 

 

 

 先般の嵐が去って、夜気が涼しさを帯び始めた頃。

 

 晩夏。

 

 連休中のわたしは一人、かねてより企てていた旅のため、ネオ・ヴェネツィアを離れ、ある島へと来ていた。小さい孤島だ。

 

 浜辺にあるホテルにシングルの部屋を取った。

 

 印象のいい部屋だった。壁はベージュ。木製の家具調度に、ネイビーのやわらかい椅子。小型のテレビ。純白のシーツのベッドにはオールドブルーのフットスローがくっきりとしたコントラストを成している。

 

 枕はそのコントラストに合わせて白とブルーの両方が用意されている。

 

 ARIAカンパニーのことは灯里ちゃんに任せてある。一応、晃ちゃんに援助を頼んだので、万が一何かトラブルがあれば、どうにかしてくれるだろう。

 

「ほぉ」、と晃ちゃんは納得するように言う。「一人旅か」

 

「たまにはね、自分の時間、あんまり持てないから、最近」

 

 ――夕べの回想。空は暗く、雨が強く降りしきる。嵐の日だった。勢いのある風が雨を煽り、濡れた地面は白っぽく煙っている。

 

「何か考え事があるのか?」

 

 わたしと晃ちゃんはある建物の廊下にいた。ゴシックの建物のそこは、悪天のために薄暗く。そして雨のために湿っぽかった。

 

 わたしはお腹の辺りで手を組んで、晃ちゃんは腕組みして、柱に背を持たせて、それぞれ外を眺めて立っていた。

 

「そういうわけじゃないわ。たまには身軽になって、羽を伸ばしたいのよ」

 

「成るほど。その気持ちは、分からんではない」

 

「それでね、晃ちゃん」わたしは彼女の方を向いて言う。「わたしの留守中、灯里ちゃんのことを見て欲しいんだけど」

 

「あぁ、構わないぞ」

 

「一応ね、言わなきゃいけないことはぜんぶ言ってあるんだけど、何かあると困るから」

 

 わたしは、「これ」、と言って一片のメモ用紙を差し出す。そこには電話番号が書いてある。

 

「わたしが泊まるホテルの――」

 

 晃ちゃんはメモ用紙を受け取って瞥見すると、ポケットにしまい込んだ。

 

「まぁ、リフレッシュしてこい」

 

「ありがとう。恩に着るわ」

 

 ――予定の日、わたしは灯里ちゃんにARIAカンパニーの番を託し、彼女に快く見送られて旅立った。

 

 ネオ・ヴェネツィア港よりフェリーで揺られること数時間。やがて孤島に至る。嵐がやんで程ない頃で、雨は上がっていたが、空はまだ厚い雲に覆われて、空気はムッとしていた。

 

 浜辺のホテルに到着し、チェックインを済まして部屋に入ると、わたしは引いてきたキャリーバッグを置いてすぐにシャワーを浴びた――蒸し暑さで汗ばんで気持ち悪かったのだ。

 

 汗を流してさっぱりすると、わたしはネイビーの椅子の座り、鏡台に向かってドライヤーで髪を乾かして整えた。そしてベッドにバタンと仰向けになると、疲れに負けて目を閉じた。

 

 ぐっすり深いうたた寝より目覚めると、時はすでに夕暮れで、きしむ体を強いて起こし、窓辺よりカーテンを開け、備え付けのサンダルを履いてベランダに出た。

 

 外に出ると、まず目が眩んだが、刺激にだんだんと目が慣れてくると、美しい夕景に陶然と心が奪われた。

 

 ――ヤシの木が風に揺れている。涼しい風だ。さっき乾かした髪に触れると、滑らかで落ち着いた手触りがする。広い砂浜には絶えず波が打ち寄せる。雲間より漏れる夕陽が水面にまっすぐ線を描いている。雲を照らし陰影をっくっきりとさせるオレンジ色の夕陽は、優しく、まじまじと見つめることが出来るほどだった。

 

 少し肌寒いくらいだった。夏の嵐が過ぎ去ってその後、秋の気配がした。

 

 ディナーを食べた後、わたしはお風呂に入る前、持ってきた折り畳みの端末で晃ちゃんにメールをしたためた。ネオ・ヴェネツィアの天気と、ARIAカンパニーの様子をたずねた。返事がすぐに返ってこなかったので、わたしはお風呂に入りに行った。

 

 ――すっかりくつろいで、濡れた髪を乾かした後、お酒を用意したテーブルに向かって、端末を開いた。――返事が来ていた。文章が晃ちゃんらしくぶっきらぼうで、絵文字がなく、よくいえばシンプル、悪く言えば無骨といった感じで読んだわたしは思わず苦笑してしまった。

 

 わたしが心配しなければいけないことは何もなかった。ネオ・ヴェネツィアも、ARIAカンパニーも平穏無事のようだった。わたしは端末を閉じ、開放した窓より吹いてくる風とお菓子を肴に、お酒を飲んだ。

 

 すっかりいい気分になってその夜を過ごした。眠りは深く、起きた時はすでに暑かった。晩夏とはいえ、日中はまだまだ汗ばむ陽気だった。

 

 一人旅の最後の夕。翌日チェックアウトし、フェリーでネオ・ヴェネツィアへと帰る。

 

 わたしはワンピースにサンダルという軽装で部屋を出、すぐ近くの浜辺に向かった。

 

 情緒たっぷりの美しい砂浜を夕陽を横目に歩いた。浜辺には幾つか人影があって、みんなこの夕べをゆったり過ごしているようだった。

 

 サラサラとした砂を踏んでしばらく行くと、一本の桟橋を見つけた。その桟橋は海に向かって伸びていた。

 

 ちょうどカップルが桟橋を去るところで、わたしは彼等の後に、桟橋に上って先まで進んだ。

 

 波は穏やかで、ほとんど凪いでいた。風は吹くものの微弱で、海の表面をかすめていくばかりだった。

 

 わたしはその場に膝を抱いて座り込み、彼方に沈んでいく夕陽を眺めた。わたしの瞳には今、あのまるい美しい輝きが映り込んでいることだろう。

 

 ――何か考え事があるのか?

 

 あの嵐の日、晃ちゃんはわたしにそうたずねた。

 

 その時わたしは否定したが、実際には、考え事はあった。幾らでも、数え切れないくらいあった。

 

 不安にすること、おぼつかないこと、助けを借りたいこと――しかしその全ては、胸に秘めておくべきことだった。わたしがしょい込んで、最後まで運ばねばいけないことだった。

 

 今回のこの一人旅は、いわば逃避行だった。

 

 するどい晃ちゃんはわたしの心情を察し、汲んでくれたのだろう。

 

 わたしはわたしの抱え込む義務をひとまず足元に下ろして脱した。

 

 夕陽がどんどん沈んでいく――わたしの背後の影が長く伸びる。苦慮や、悩みや、迷いが滲むその影が、わたしをじっと凝視ている。

 

 目の前に広がり感嘆させてくれる美しい夕景、そして背後にひっそりと潜む渾沌とした無明。わたしを境にある対照(コントラスト)

 

 辺りは薄暗くなる。押し寄せてくる夜気に微かに身震いする。

 

 わたしは立ち上がり、お尻に着いた塵埃をサッと手で払い落とす。

 

 帰ろう。灯里ちゃんが不安に待っているだろうし、それに、晃ちゃんにありがとうと言わないといけない。

 

 振り返ると、足元の影を見下ろした。長い影だった。

 

 風が背後より吹き寄せて、海に細かい波が立ち、わたしの長い髪が煽られてなびく。

 

 灯影の灯るホテルの窓。揺れてさんざめくヤシの木。

 

 見上げると、無数の星の瞬きが散らばっている。

 

 嵐はまだ来るのだろうか?

 

 夜気は涼しさを帯び、ほとんど寒いくらいだった。

 

 

 

(終)



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Page.53「季節の潮目」

***

 

 

 

 寒い日。

 

 季節を分ける雨が降るとテレビかラジオで聞いた。

 

 実際、朝目覚めると、わたしは布団の中に深く潜っていた。

 

 身震いするほどではなかったが、床を出ると、確かに空気の温度が違った。何というかサラッとした感じだ。夏の暑い湿った空気がベタッとしているのに対して、秋冬の空気は乾いている。

 

 少しだけ開けていた屋根裏部屋の円窓からは、冷気が入ってきている。涼を取るにはいささか冷たすぎるようだ。

 

 円窓から見える空模様は満面一様ではなかった。

 

 おおむね厚い雲に覆われてくさくさとした色合いだったが、雲間が少しばかりあいていてそこには清々しい空青(セレスト)が覗いている。

 

 今日はアリシアさんにお使いを頼まれているのだった。アリシアさんは仕事で留守だ。

 

 わたしはサッと洗顔やら着替えやら、諸々の朝の支度を済ませてしまうと、簡便にごはんを食べてしまった。

 

 今日は寒い。セーラー服の上にグレーのパーカーを重ねよう。 

 

 バスケットを携え、ARIAカンパニーの戸締りをして外に出ると、ポツポツと断続的に首筋や手を打つ冷感に気付く。

 

 雨。

 

 傘を差そうと束の間考えたが、迷った。

 

 ――とりあえず、折り畳みの簡易の傘をバスケットに入れて、しばらく様子を見ようと思った。

 

 通りを行く。幾人もの人々とすれ違う。見知った顔。赤の他人。子供。老人。

 

 前日とは皆、装いを変えていた。すっかり厚着して、防寒対策はばっちりだ。

 

 ふと、流れる人通りの中に紛れ込む一人の男性に、わたしは注意がいった。

 

 キリッとした目鼻立ちに、人懐っこいおずおずとした顎。厳格そうで、だけど優しそうだった。笑えば、どういう顔になるのだろう。大声を上げて笑うのだろうか。控えめに笑うのだろうか。

 

 若い男性だった。わたしはしばらく足取りを緩めて、目を奪われた。パリッとした上質のスーツを着こなしていることも、好印象だった。

 

 ――一目惚れなのだろうか。

 

「灯里」

 

 人通りを離れ、ひとり、ひっそりとした住宅街の水路にかかる橋上で、欄干に腕を組んで物思いに耽っていると、声をかけられた。

 

「藍華ちゃん」

 

 わたしは振り向いた。友達がそばに立って、わたしの目を覗き込むように凝視している。偶然にも、彼女もわたしと同じく、セーラー服の上にパーカーという恰好だった。

 

「何、ボーッと突っ立ってんのよ」

 

「うん……」

 

 歯切れの悪い返事。心ここにあらず、という感じだ。茫然としていた。

 

「誰かかっこいい人でも見つけて、目を奪われたりしてたんじゃないの?」

 

「えっ、どうして分かっちゃうんだろう」

 

 わたしは驚いて尋ねた。

 

「ひょっとして、当たり? アハハ」

 

 口から出任せに言ったのだろうか。彼女自身、意外というようで、驚いて笑っていた。

 

 釣られて、わたしまで笑ってしまった。それまでボーッとしていたのが、シャキッとしてくるようだ。

 

 ――最初寒かったが、歩いていると、だんだんとポカポカとしてくる。また明るい日差しが出てきたので、その影響があるのだろう。

 

 わたしは藍華ちゃんとしばらく一緒に歩くことにした。細かくは知らないが、彼女は彼女で晃さんに用事を頼まれているということだった。

 

「ちょっとうっとりした感じだったんだもん。それでまぁ、ね。しょせん直感だけど」

 

「何か恥ずかしい。わたしって、分かりやすいのかなぁ」

 

「結構、分かりやすいわね」

 

 藍華ちゃんは腕組みして、しみじみとした風に言う。

 

「エェー」

 

 秘めるべき感情が筒抜けになっていることに、わたしは情けない気持ちになる。

 

「けど、そういうところが、灯里のいいところじゃん……って言うと、怒る?」

 

「別に、怒りはしないけど、ハァ」

 

 思わず、ため息。

 

 関心を持っている人、好きと思う人が近くにいると、自然と目で追いかけてしまう。監視するのだ、誰にも取られたくないから、奪われたくないから。また、その人を見ることそれ自体が、法悦(よろこび)であるから。

 

 藍華ちゃんは、よく共感出来るのだろう。彼女には彼女で、思い人がいるから。小柄で、物知りで、おとなしい眼鏡の男性だ。

 

 ――小雨だった雨が、本降りになった。あったはずの雲間が閉じて空が一面曇りになり、落とす雨粒を大きくした。

 

 わたしは傘を持ってきていたが、藍華ちゃんは持ってきていなかったので、わたしは中に入れて上げた。

 

 狭い傘の中、わたしと藍華ちゃんは肩を擦れさせて歩いた。通りの中には傘を忘れて雨宿りする人や、急ごうと走り出す人や、悠々と抜かりなく持ってきた傘を差す人など、色々だった。

 

「悪いわね」

 

 姫屋のすぐ前まで随行すると、藍華ちゃんが簡便に謝礼してくれた。

 

 姫屋の表玄関のガラスの向こうにふと人影が見えた気がしたが早いか、わたしはその人影がすぐ晃さんだと気付いたので、ペコッと会釈した。晃さんは薄く微笑んで返してくれた。

 

 わたしは藍華ちゃんと別れた。

 

 閉じた傘には雨粒がびっしりと付いている。

 

 しかし、雨はまた小止みになり、また降り出すのか、すっかり上がって晴れるのか、イマイチはっきりしない。

 

 寒かった。季節を分ける雨。ネオ・ヴェネツィアの住宅がこぞって鎧戸の窓辺に飾る小鉢には、薄桃色や白色のコスモスが秋風に揺れている。夜は空気が冴えて星影が明るい。

 

 だが、やがてコスモスがシクラメンになり、雨粒は冷たさを増して凝固し、雪となってしんしんと降り積もり、辺りを白く染める。

 

 誰かへの好感、慕情が――形而上のものであるにも関わらず――手に取るように分かってしまうのは、やはりよいことではないだろう。

 

 だけど、そういうものを惜しげなくあけすけにすることは、かえってアピールになって、隠すよりむしろよい方にことが進むのではないか――

 

 夕方になった。ARIAカンパニーに帰って事務仕事をし、区切りが付いたところでうたた寝してしまったわたしは、目を覚まして室内に差し込むオレンジ色の夕陽に、軽く目を眩ませた。

 

 うたた寝の間、夢を見た。夢の中で、わたしは羨望していた。藍華ちゃんに羨望したのだ。彼女は幸せそうに意中の男の子と両想いの恋愛をしていた。わたしはひとりぼっちだった。

 

 仕事で使用したパソコンをシャットダウンして閉じると、ギシギシとこわばった体を運んで外に出た。

 

 すると、珍しいものが見えて、わたしは魅了された。

 

 日暮れがたのかげりを帯びた空に、七色のアーチがかかっていたのだ。虹だ。途中で途切れていない、フルアーチだった。

 

 ARIAカンパニーの日陰から、その長い虹は全体が見えた。

 

 わたしはより大きいスケールで眺めたいと思い、ARIAカンパニーの中に戻ると、屋根裏部屋よりベランダに出、はしごを上って屋上より改めて虹へ目を向けた。

 

 冷たい風が髪を煽り、剥き出しの肌に鳥肌を立てた。わたしは両腕で自身を抱いた。

 

 ネオ・ヴェネツィアの端から端へ、サン・マルコ広場の大聖堂の円蓋(ドーム)を跨いで架かる大虹は美しかった。刹那、今朝見かけた男性の面影がチラッと脳裡をよぎったが、あまり考えないようにした。

 

 虹はだんだんと、夕日が沈み、夜が近くなるごとに薄まり、やがて目を凝らさなければ見えないほどになった。

 

 雨は上がった。雲は大方しりぞいて残ったものは夕焼けにちょっとした情緒を添えていた。

 

 アリシアさんが、程なく帰社するだろう。

 

 寒い日和だった。季節の潮目の日だった。雨は季節を進めた。秋が帰り支度を始めたのだ。

 

 アリシアさんは、あの虹を見ただろうか。

 

 少しばかり掃除しておきたいところがある。アリシアさんが帰ってくる前に、済ませてしまいたい。

 

 わたしは用心してはしごを下りると、屋根裏部屋より下におり、照明を付けると、微かに身震いして、こう思った。

 

 ――そうだ、ストーブを出そう。

 

 

 

(終)



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Page.54「片思い―甘く、疑わしく」

***

 

 

 分かってしまうのが怖いから、わたしは敢えて、あの人の目を見なかった。

 

 だけど、何が分かってしまうから?

 

 わたしがあの人のことを好きだということが? あるいは、その感情がわたしの思い違いであるということが?

 

 あの人の目を見るためには、わたしは見下ろさないといけない。たった140センチというとても小さい体の彼は、地重管理人(ノーム)として、自然の状態では弱すぎるアクアの重力を管理し、わたし達の生活を快適にしてくれている。

 

 アルバート・ピット――アルくんのことだ。

 

 彼は道端で出くわしたりした時、わたしによく話しかけてくれる。話すのは他愛のないことばかりだ。天気のこと、食べ物のこと、休日のこと。

 

 最初は何とも思っていなかった。ただ何となく、気が合ってくつろげて楽しい相手だという風に思ってカジュアルに接していただけだった。常に敬語で博識の彼の話は勉強になるし、途中、突っ込んだりして遊ぶのは、わたしに喜びを与えた。友達だと思っていた。

 

 彼との会話ではよく笑い、よく感心した。

 

 会って数ヶ月経った頃、わたしはわたしの心に、ある感情が芽生えていることを知った。

 

 その感情は知らない内に、わたしの内に根付いていた。

 

 何だか楽しいようで、苦しかった。躁状態と鬱状態が代わる代わるあらわれて、わたしは自身の気分の乱高下に悩んだ。ある時は羽が生えたように身軽に愉快だが、一方では理由のない憂慮に沈んでしまうのだった。食欲はだが一定して乏しく、それまで一日三食食べていたところが、二食で十分になってしまった。それ以上はお腹に入らなかった。体重は目に見えて減り、痩せたが、スレンダーになったというよりは、むしろやつれたのだった。

 

 以後、わたしは道を歩いていて、あの人、ないしは彼によく似た人影を見かけると、緊張し、目を伏せてしまうようになった。その人影が彼であれば、緊張を悟られないように意識して応じ、彼でなければ、言いようのない安堵に胸を撫で下ろすのだった。

 

「藍華ちゃん、疲れてない?」

 

「えっ」

 

 ある日、合同練習でARIAカンパニーの灯里と一緒になった時だった。夕方で、撤収しようというところで、おれんじ・プラネットのアリス――後輩ちゃんはいなかった。

 

「眠たいのかも知れない」

 

 動揺してしまったわたしは、咄嗟に言い繕った。

 

「寝てないの?」

 

 灯里が首をかしげる。

 

「うん。ちょっとね」、とわたしは、誤魔化しを続ける。「面白い小説があって、夜寝る前に読むんだけど、夢中になっちゃって、夜更かししちゃうのよ」

 

 ふうん、と灯里が納得したのかしていないのか釈然としない表情で言う。

 

 灯里はだが、特に拘泥せず、わたしの不調に対してあまり穿鑿してはこなかった。

 

 灯里に相談してみようか、などと考えたことがあった。しかし、垢抜けない彼女に相談したところで、あまり有益になりそうには思えなかったし、何より自分の感情を吐露してしまうことが、恥ずかしく思われた。

 

 幾夜、わたしは胸の中に重たい鉛玉を抱いている気分で、取れない疲労感と、晴れない疑雲と、延々と続く問いに悶々と過ごした。美味しいはずのご飯はまずくなり、残してしまうことが多かった。

 

 その間、わたしは彼と何度か会い、話を交わした。彼はその博識より色々と話題を振ってくれた。わたしはしかし、ぎごちなく生真面目に返すばかりで、別れて後で後悔することが多かった。あの時ああ言えばよかったのにとか、あの時笑ってあげればよかったとか、小さい悔恨を長々と引きずることがよくあった。

 

 基本的には目を合わせない、合わせられなかったが、不意に束の間だけ合わせられる時があって、そういう時にアイコンタクトを取ると、わたしは彼の瞳をまじまじと見るばかりで、意識が吹っ飛んで、話が途切れてしまうのだった。彼がきょとんとするほど、わたしは彼の目を見ていた。

 

 まだ、分からなかった。――だが、やがて分かってしまう気がした。そういう未来が見えたし確信されさえした。彼の瞳が、語りかけてくるのだ。わたしはその言葉に耳を傾けるのが怖かった。

 

 だから――分かってしまうことが、明らかになってしまうことが、怖かったから――わたしは敢えて、彼の目を見ないようになった。

 

 すると、自然と距離が離れ、会う機会、話す機会が減っていった。

 

『藍華ちゃん、疲れてない?』

 

 そう聞かれることが多くなった。灯里に限らず、晃さんにも、後輩ちゃんにも、同様に聞かれた。皆、気の毒がるようにわたしを見た。

 

 休みの日、ゴンドラを漕がなくてもよい日、わたしはぼんやり、地重管理人のいるアクアの地下にフラッと行こうかなどと考えて、だけど断念して、後悔して――という遅逡逡巡と呵責を繰り返した。わたしはすっかり不安定になり、惑乱していた。

 

 わたしはわたしのこの恋、この片思いにおいて、アルくんと平行線を辿っている。

 

 わたしと彼の合わせて二本の線が、それぞれの行く先で交わるのかどうかは、まるで読めなかった。

 

 ――というのは、わたし自身の問題である気がした。わたしが思い切りさえすれば、全ては終結するのだ。そして終結は、新しい始まりとなる。

 

 だが、怖かった。わたしは依然、敢えて彼の目を見る試みに挑戦しなかった。

 

 今のこの片思いが楽しいのだろうか? あるいは、破局を恐れているのだろうか?

 

 未来なんて永遠に来なければいい――今さえよければ。

 

 色々と思いわずらっている内に、わたしにおいて、躁と鬱のバランスが崩れていった。躁が減り、鬱が増えた。動悸が激しくなり、体温が上がった。

 

 彼を抱きしめれば、抱きしめさえ出来れば――

 

 わたしは完全に、病んでしまっていた。

 

 

 

(終)



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Page.55「真っ青の1ページ」

***

 

 

 

 少し前、風邪を引いて仕事を休んだことがあった。風邪は長引き、連日欠勤せざるを得なかった。こじらせたのだ。晃さんには呆れられた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

「藍華ちゃん、きっと暑さにやられたんだよ」

 

「最近、でっかいカンカン照りですからね」

 

 季節は真夏だった。姫屋のわたしの部屋に、ARIAカンパニーの灯里と、オレンジ・ぷらねっとのアリス――後輩ちゃんが来ていた。二人とも水先案内人の見習いで、わたしは彼女等と一緒によくゴンドラ漕ぎなどの練習をした。その実は、おしゃべりで中断して結局何もせず終わるということが多かったが、とにかくわたし達は、合同練習と称して集まることが日常的にあった。

 

 二人はわたしが風邪を引いたと知って、わざわざ看病に来てくれたのだった。わたしは嬉しかった。

 

「ううん、それほどヤワじゃないと思ってたのになぁ」

 

 そう氷嚢を額に乗せて寝込むわたしは、ゴホゴホと咳混じりに言う。わたしは灯里にぬるくなった氷嚢を取り替えて貰い、後輩ちゃんがくれた喉飴に一抹の清涼感を味わった。

 

 ちゃんと薬を飲んで、食事を摂って、十分に睡眠すれば、あっという間によくなって完治するだろう。そうに違いない。そして完治したら、晃さんに元気になった姿を見せ付けて、また灯里と後輩ちゃんと共に、ゴンドラでネオ・ヴェネツィアの街を巡ろう――そう思い、また願った。

 

 ところが、症状はわたしの都合を考慮しないで、治癒されずに残った。

 

 わたしはあらかじめ電話をかけ、灯里と後輩ちゃんに看病に来てくれなくてよいと伝えた。うつるとよくないと危ぶんでそうしたのだった。二人はねんごろに心配してくれて、早く治るよう、祈ってくれた。

 

 一人で風邪の症状に苦しんで、部屋のベッドに横になっていた。時おり晃さんが様子を見に来てくれて、食事を運んで、片付けてくれた。

 

 特にすることがなく、ずっと横になって、目覚めと眠りを、途中そばに置いているミネラル・ウォーターをイガイガの喉で飲んで交互に繰り返している内、段々とわたしは、惨めになっていくようだった。

 

 夏の長い日がようやく暮れて、冷房の効いた涼しい室内で、ゼエゼエと息を荒げて寝込んでいるわたしは、寝すぎたせいで冴えた、暗闇に慣れた目で、真っ暗だが、何となくぼんやり見渡せる、狭い部屋の視界の広がる限りの範囲を眺めた。わたしは孤独だった。晃さんの持ってきてくれた食事を半分以上残して、水ばかり飲んで、歯を磨きさえしなかった。ぜんぶうんざりだった。

 

 過度の眠りで目ヤニの溜まった目が、長いインターバルを経て、夜中にようやく再び閉じようとすると、わたしは小さい穴に這って潜っていくように、眠りの中へと進んでいった。

 

 

 

*

 

 ――白砂の浜辺。

 

 波打ち際に打ち寄せ、引いていく波の音。

 

 わたしは白いワンピースを着て、パラソルの陰に膝を抱いて座っていた。履いていたサンダルは脱いでわきに置いていた。

 

 おおい、とよく聞こえる声で呼ばれる。ハッとして目をやると、浮き輪にしがみ付いてプカプカ浮いているビキニ姿のピンクの髪の女の子が、満面の笑みでわたしに手を大きく振っているのが見える――灯里だ。おおい、とわたしは手を小振りに振り返す。しかし、反応は見えなかった。わたしに手を振ってくれたのでは……

 

 代わりに、そばで人影がスッと横切って、一散に海へ溌剌と駆けていく。ライムグリーンのロングヘア――後輩ちゃんだ。

 

 スイムウェア姿の彼女は、勢いよく灯里の近くへ水しぶきを上げながら海を走っていくと、二人で沖の方へ泳いでいってしまった。

 

 わたしは手を下ろし、小首を傾げ、釈然としない、怪訝に思う気持ちで、膝を抱く両腕に頬を埋める。

 

 水天一碧の海と空。空は雲が一片もなく不気味に感じるほど晴れていた。海は水平線まで澄み渡って、ただただ綺麗だった。

 

 だが、わたしは目線を落とした。憂いに沈んで。物思いの殻にこもって。

 

「ワンピースじゃ、泳げないなぁ……」

 

 わたしを尻目に、灯里と後輩ちゃんはどんどん遠ざかっていく。

 

 ふさぎ込むわたしと、陽気に興じる二人。互いはくっきりと対照的だった。

 

 悲哀と愉悦――その対立が成す境界線の手前にあって、友達に見捨てられる形で、友情を断念してその後ろ姿を見送ろうとするわたしは、切ない、けれどどうしようもないという無力感でいっぱいだった。

 

*

 

 

 

 ――目が開く。さえて明るかった。姫屋の部屋だ。夢だったのだ。イライラするか怯えるかしていたのだろう。わたしは歯を食いしばっていた。

 

 からだは依然重く、かたく、融通が利かない。頭はボーッとする。熱っぽい。だが、お腹が減っていた。回復のきざしだ。

 

 電話が鳴る。わたしは急いで受話器を取る。灯里の声。わたしの容体を尋ねる。

 

 トレーに残るゆうべの食事。汚らしいが、わたしは口を付ける。胃袋が欲していたのだ。喉のイガイガは若干和らいだようだ。食事がスムーズに出来る。

 

 その日は灯里と後輩ちゃんに来て貰うことにした。

 

 待ち焦がれて二人が来てくれた時、わたしは本当に嬉しく、満幅の喜びと安らぎにしあわせを感じた。

 

「明日は大丈夫だと思う」

 

「無理しないでいいよ。藍華ちゃん、まだ熱っぽそうに見えるから」

 

「でっかい病人さんです。絶対安静です」

 

「大丈夫ったら大丈夫!」

 

 自信過剰――というよりはむしろ、駄々っ子のわめきに、二人は目を丸くして、呆気に取られた様子だった。

 

 その声が大きかったのか、近くを通りかかったらしい晃さんが部屋に顔をのぞかせた。すっかり元気になったようだと勘違いしたが、わたしはあえて訂正しなかった。

 

 

 

 窓より見える、よく晴れた夏天。じりじりと照り付ける太陽。雲は絶えてなかった。空も海も、合わせて真っ青だった

 

 遠ざかっていく影が見える。友達の影――まぼろしだ。

 

 白い鳥だ。

 

 カモメたちが、高い鳴き声を上げて、彼方まで飛んでいく。

 

 

 

(終)



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Page.56「すれ違い」

***

 

 

 

 靴の地面を踏む音がさやかに響いてこだまする。一歩がためらわれさえするほど、足音が必要以上にはっきりしている。

 

 夜のネオ・ヴェネツィアは静かだった。辺りはすっかり静寂に包まれている。唾を飲み込む音さえよく聞こえる。真夜中だった。

 

 真っ暗の空の下で、ただ街路灯だけが明るく光っている。住宅の壁に付いた短いアームに吊り下がる街路灯の光は皓々として白っぽい。住宅のたくさんある窓はぜんぶ闇一色だ。皆、眠っているに違いない。

 

 わたしが目がさえて眠れないために今、そぞろ歩きしている街の一隅の、いたって何気ない風景が、細い水路の水面に映じている。細長く切り取られた街は、細かい波に震えている。

 

 目を閉じれば、ほとんど空恐ろしく感じてしまうほど、わたしを取り巻く環境は『無』だった。ただ明かりだけがあって、それ意外は皆無だと言ってよかった。

 

 眠った街は、生活の気配がなく、その中に目覚めた状態でいるというのは、無人の孤島に漂着してしまったかのように、心細くさせることだった。小橋の陰に浮かぶカバーで覆われたゴンドラさえ、眠っているようだ。

 

 ふと、自分の足音に混じって、ある音が聞こえる気がした。歩きながら、感覚を研ぎ澄ますと、その音が足音であると分かった。

 

 だんだんと、その足音は近くなっている。最初微かだったのがはっきりと聞こえるようになって、やがてわたしは正面の夜闇に、ぼんやりとした人影を見る。

 

 はじめ警戒して、身を隠そうかと考えたが、何となく見知った服装だったので、歩みは止めなかった。

 

「あっ」と、わたしは声を上げる。内心怯えていたので、出逢った瞬間、ほとんど息を呑んだ。

 

藍華(ガチャペン)じゃないか」

 

 ピッタリとした黒いインナーの上に、白い羽織。下は同じく白いゆったりとしたヤッケズボン。地下足袋。

 

 火炎之万人(サラマンダー))の暁だ。長い黒髪を後ろで結んでポニーテールのように下げている。

 

「アンタ……」

 

「夜もすっかり更けたっていうのに、ブラブラ出歩くとは、お前も隅に置けねぇなぁ」

 

 暁は真顔でそう言った。からかってやろうという声色ではまるでなかった。

 

「どういう意味よ」

 

 とがめられているという感じがして、わたしはちょっと居心地が悪かった。一方で、わたしが自由にしてよいはずの散歩にケチを付けられて、ムッとした。

 

「お前が気持ちよく出歩けるように、オレたちは気候制御装置を操ってるんじゃないんだぞ」

 

「言われなくなって分かってるわよ」

 

「他人の足音にビクビクするくらいなら、家でおとなしく寝てろ」

 

 痛いところを突かれ、わたしは眉をひそめた。

 

「放っといてよ。わたしの勝手でしょ」

 

 泣き言のように情けない調子で、わたしは言い張った。

 

「あぁ、そうかよ」

 

「アンタだって、仕事ほっぽって油なんか売ってていいの?」

 

「バぁカ。今戻るところだっての」

 

 見下す風の眼差しでそう言い捨てて、暁はわたしのすぐわきを通り過ぎる。180センチはあるだろう彼の背の高さは、威圧感があった。わたしは自分で気が付かない程度に怖がって、首の辺りで片方の手首を、別の手で握り、そうして顔をいくぶん伏せた。

 

 わたしは少しのあいだ硬直した後、顔を上げ、窺うように首だけで振り返った。たぶん、遠くへ行っているだろうと思った。そうして消えていく後ろ姿を見て安堵しようと思った。

 

 ところが、わたしの期待とは裏腹に、暁は数メートル先で立ち止まって――わたしと同様に――首だけでわたしを振り返っている。

 

 心臓がドキンと跳ねるようだった。

 

 何よ、と言おうとしたが、ゴクリと吞み込んだ。

 

 沈黙。対立。気後れ。距離感。

 

 出逢わなければよかったと思った。暁の言った通り、家で寝ていればよかった。確かに眠れなかったが、漫画を読むなり音楽を聴くなりして過ごしていれば、おのずと眠気はやってくるのだ。

 

 それまでの時間を我慢できなかったこと、こうして暁と出くわし、非行をなじられ、納得させられたこと。

 

 悔しくて涙がにじんでくるようだった。

 

 暁はまだわたしを振り返り、見ている――見下している。早く消えればいいのに、と思った。

 

 その矢先のことだった。

 

 気を付けて帰れよ、と聞こえた気がした。暁の口の動きと共に。わたしは意外の念に打たれる。

 

 (アイツ)が言った――まさか?

 

 暁は正面に向き直り、歩き出し、去っていく。わたしが望んだ形で、消えていく。

 

 アンタこそ、という返し文句が口を突いて出ようとした頃には、すでに遅かった。

 

 呆気に取られて、ポカンとしてしばらく突っ立っていた。

 

 スゥ、ハァ――お腹に手を置いて、深呼吸する。お腹が膨らみ、そしてしぼむ。

 

 呼吸の音がさやかに聞こえる。静寂の深厚。水路に映る街の風景は綺麗だった。街路灯が白っぽく照っている。

 

 わたしは再び『無』へと戻った。だが、今度は心細くはならなかった。姫屋へ帰ろうと思った。夜更かしはよくない。

 

 帰路。歩きながら、わたしは暁のことを考えた。彼が、灯里とくつろいだ間柄で、たがいに漫才じみた掛け合いを時折やって笑わせてくれること。彼が、わたしと同じくアリシアさんに憧れを持って、彼女を敬い、慕っていること、等々。

 

 今度会った時は、とわたしは思った。

 

 その時は、ちゃんと仲良く出来ればいいなぁ――。

 

 

 

(終)



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Page.57「秋のいろどり、春のいぶき」

***

 

 

 

 冴えた日差しを末枯れの木々が浴びている。紅、黄の葉がとても鮮やかだ。

 

 すっかり寒くなったものだ。季節の進行を痛感する。

 

 足元を見れば、道の両脇にすっかり退色した落ち葉が降り積もっている。

 

 草木に乏しいネオ・ヴェネツィアでは見ない風景だ。

 

 わたしはとある島へと小旅行に訪れていた。ひとりだった。

 

 その背中を見られれば、哀愁を帯びていると、友達――例えば藍華ちゃんなら、(わら)うだろう。哀愁などとは無縁でいたいものだ。女子に対して哀愁は、ミスマッチに感じる。

 

 島はオリエンタルの風情があるところで、まずネオ・ヴェネツィアと違って水路は交通の主たるものではなく、単に水源より必要とされるところへ水を通すためだけのものだった。人が行き来するのは地面の道だった、家の造りも違い、ネオ・ヴェネツィアではレンガ造りであるところが、こちらでは木造なのだった。瓦葺の切妻屋根が何となくいかめしく見えたりする。

 

 ――ざっと相違点を述べれば、そういう感じで、他にも色々とあるが、全部列挙しようとすると骨なので、これくらいで割愛させて貰おうと思う。

 

 わたしはその島の内陸部に宿を取り――源泉かけ流しの温泉が気持ちよいところだ――今は、お昼ご飯を食べた後で、少し足をのばして小池の周りをブラブラ歩きしているところだ。ちょっとした丘陵で、木々が多く、紅葉狩りのしがいがあるところだ。

 

 快いひと時だった。深まっていよいよ過ぎ去るとする晩秋の空気は確かに冷たかったが、日差しにはまだほのかに温もりが残っており、叢雲のない空はスカッと青く澄み渡っている。誰かと一緒に旅に来てあっちこっち巡って感想を言い合ったりするのはもちろん愉快だが、こうして一人でしみじみとするのだって、わたしは好きだ。

 

 ふと立ち止まって、落ち葉の山をブーツのかかとでかき回してみると、秋のしっとりとした香りが立ち上がってくる。何となく微笑が漏れる。

 

 タートルネックの白いニットに、ベージュのカーディガン。下は長いキュロットスカート。暖かい格好だ。髪は普段まとめているが、今日はほどいて流している。時には別の自分を楽しみたいから。小さい黒革のバッグにはカメラをしのばせてある。すでに何枚か撮って、後で宿に帰ったらパソコンでネオ・ヴェネツィアの人たちに送ろうと思っている。

 

 アッと思う。わたしはよいと思う視点を見つけると、バッグよりカメラを取り出し、水平に構え、ファインダーを覗き込む。開けた視界の先に陽光に煌めく池の水面と、色付いた木々の葉。青空とのバランスは良好だった。わたしは撮影のボタンをおす。パシャリ。

 

 

 

 しばらく歩いて、わたしはベンチに座り込む。見渡せば池の全容が一望出来るところだった。少し暑かったので、ちょっと涼むつもりで座った。

 

 

 確かに、ひとりでする旅は気楽で、身軽で、しみじみ出来るものだった。が、わたしには抱え込む問題があった。その問題は、常にわたしに付きまとっているわけではなく、一時離れてわたしが忘れてしまっている時がある。

 

 暁さんのことだ。わたしが普段金のリングで両サイドに束ねている髪をもみあげと勘違いして、更には『もみ子』というあだ名さえ付けた火炎之番人(サラマンダー)の男性だ。

 

 彼とはさほど頻繁に会うわけではない。例えば互いに日取りを決めて待ち合わせしたりするということは全くない。ただ、同じネオ・ヴェネツィアという街に住んでいて、小さい街なので、ばったり出くわすことがあって、その時に軽く談笑する程度だ。藍華ちゃんとは、アリシアさんへの憧れで対立することがあって、犬猿の仲というわけではないけれど、何となく、ライバル同士だ。

 

 わたしと暁さんは、決まって正面から会うわけではない。向こうが後ろから歩いていて、わたしを偶然見つけて、声をかけてきたりする。そういう時、彼はわたしの背中をポンと叩いたり、肩に手を置いたりする。

 

 ――おもむろにバッグに手を伸ばし、カメラを取り、目の前にファインダーを持ってくる。遠目に覗き込むと、小さい箱の中に、風景が映り込んでいるのが分かる。

 

 わたしは目を細める。すると、暁さんに触れられた回想に、微かに胸がドキドキしていることに気付く。

 

 この感覚――昂進してくる喜びに対して、不安と苛立ちが立ち上がり、その喜びを否定しようとして、一方的に攻撃し、呵責し、揉み合いを始める。

 

 わたしは混乱し、当惑し、動揺する。この感覚が、よいものなのか、わるいものなのか、はっきりしない。その〝はっきりしなさ〟が気持ち悪く感じもする。

 

 ――という問題が、わたしが抱え込んでいるものだ。

 

 わたしはカメラを下ろし、バッグに戻す。ハァ、とため息する。冴え渡る空気の中に、シュンと青ざめた憂鬱が消えていくのが目に見えるようだった。

 

 今回の旅は、その問題についてひとりでじっくり考え、取り組みたいと思ったから、企てたのだった。

 

 この感覚は、『恋』なのだろうか?

 

 そよ風がひとつ、吹き抜ける。わたしの髪を弱弱しく煽り、わたしはやや汗ばんだタートルネックの首元に、涼感を感じる。

 

 よしんば『恋』だとすれば、どうすればよいのだろうか。その先が分からなかった。わたしは暁さんと今以上に仲良くなろうとは思わなかった――わたし自身の感想はそうだ。それに、その先へ行くのが、何となく怖い気がした。だから、わたしは現状がよかった。現状で満足したいと思った。それ以上を望まないし、それ以下にスポイルしたくなかった。

 

 だが、折に触れて猛烈に込み上げてくる嫉妬や熱情はどうすれば――どう対処すればよいのだろうか?

 

 暁さんへの『何か』はわたしに揺さぶりをかける。「やめて!」、というわたしの叫びは虚無にこだまする。

 

 秋の日差しが眩しい。冴えてほのかに温かい。わたしに宿る熱っぽいソレは、しかし秋の日差しのようにやさしいものではないようだった。

 

 わたしはわたしの中に――自分の中に――人間の中に――こういう激しくて残忍なるものがあるということが、すごく怖かった。

 

 また風が立ち、今度は多少勢いがあって、落ち葉を舞い上げた。落ち葉は翻って飛んだ。

 

 あの落ち葉のように――とわたしは思った。あの落ち葉のように身軽に、ずっと身軽になれればいいのになぁ。

 

 胸のドキドキは、依然止まなかった。

 

 

 

(終)



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Page.58「或るオフショット~アーリー・コールド・モーニング」

***

 

 

 

 辺りはしんと静まり返っていた。風の流れにさらわれていく波の()が、澄んでさやかに聞こえる。サー、と波のうねりが立っては消え、そして水の中で空気が弾け、ザブザブと鳴る。

 

 薄暗い屋根裏部屋の天井や壁が、ぼんやりと滲んで見える。静寂にあって、何者の気配さえない。

 

 わたしは暗い意識で、寝返りを打ち、片頬をやわらかい枕に押し付ける。よく通る鼻でスゥ、と呼吸する。

 

 布団の中で、わたしは猫のように丸く縮こまる――何となれば寒いのだ。季節は晩秋、程なく厳寒の季節が来る。

 

 暖房の準備と衣替えはばっちり完了していた。最近、街で家々の煙突から煙が立ち上るところが見られるようになった。思うに皆、ストーブを焚くようになったのだろう。

 

 どうも目が冴えてしまったようだ。休みの朝なのに早起きすると、何となく勿体ないように思ってしまうのは、あまりよくない癖なのだろうか――惰弱、無気力、懈怠。

 

 否定したくなって、思い切り、布団を蹴り上げる。勢いが必要だった。すると、部屋に満ちる冷気が一挙にわたしに取り付く。わたしは肩をすくめて上着を羽織ると、そばの円窓より外を窺った。オレンジ色の朝ぼらけの太陽。空模様は概ね晴れ。点々と浮かぶ雲は陰影が濃く、全体として見れば夕暮れと見紛うほどだった。

 

 裸足にスリッパを履くと、わたしは階下のリビングへと下りていき、ストーブに薪をくべ、炭の着火剤にマッチ棒で火を付けた。最初に燃え出すのは弱弱しい火――暖かくなるまでしばらく時間が必要だ。その間に、洗面所で顔を洗う。水道の水が冷え切っていて、手がキンと痛む。

 

 洗顔を済ますと、鏡台をまじまじと見る。さっぱりした顔には、寝起きでくぼみ気味の目。

老けて見える。

 

 髪に寝ぐせは付いていなかった。サラサラした桃色のロングヘア。手で撫でつけてその手触りのよさを確かめると、気持ちがちょっと安らいでくる。ちょっとおかしいところがあれば、不機嫌になってしまうものだ。

 

 わたしはリビングに帰ると、いくぶん火力の強まった薪ストーブのすぐ前に膝を抱いて座る。火の気の温もりを浴びるとホッとする。寒さに固まっていた体がほどけていくようだった。

 

 薄暗い部屋で、ただストーブのそばだけがポッと明るい。両手を火に近付け、暖を取る。そして頬に触れる――まだ冷たい。

 

 そういえばと思い、わたしは一端ストーブを離れ、幾つかの物を持ってくる。水を入れたやかんと、コップと、ティーバッグだった。ティーバッグはコップに入れて置いておき、やかんはストーブの上にのせた。二十分ほどで沸くだろう。

 

 諸々、済ませてしまうと、わたしは見るともなしに、ストーブの扉越しに中で燃える火を眺めた。パチパチと薪のはぜる音。

 

 ――アリシアさんが来るまで、まだずいぶん時間がある。

 

 リビングの窓まで重たいお尻を引きずって向かい――足が火の気から遠ざからないように――カーテンをめくって外を覗いてみる。依然低いところにある朝日。空はベールに覆われたようにおぼろげで、オールドブルーに染まっていた。

 

 ――朝ごはんは何にしよう。冷蔵庫に、何があっただろう……

 

 手を伸ばし、リビングのテーブルにあるポケットラジオを取る。電源を付けると、ザー、というノイズ。アンテナを伸ばしてダイヤルを回し、くっきりと聞こえる周波数を探る。

 

 

「……ネオ・ヴェネツィアは」、女性の声だった。「寒気の影響により、曇るところがありますが、高気圧に覆われておおむね晴れるでしょう。最高気温は……」

 

 ふうん、と、半ば聞き流して耳を傾ける。雨でさえなければよいという気分だった。晩秋の冷雨は気が滅入ってしまうものだ。じめじめ陰鬱である上に冷たい雨は、心まで凍えさせる。

 

 ――サンドイッチにしようか。冷蔵庫に、レタス、チーズ、ハムがあったはず。パンは長細いパニーニで。

 

 あるいは、普段より時間に余裕があるから、ちょっと凝ったものに挑戦してみようか、などと考えた。端末を開け、レシピの載ったサイトを巡り、ネットサーフィンする。

 

 

 

 不測の早起きには、必ず反動があるものだ。早寝した結果ではない、企図されなかった起床時間のズレを修正するための反応が、からだに現れる。

 

 

 

 火の気のそばで端末を眺めていると、わたしは、だんだん目がしょぼつくようになってきた。目をこすってみても、やはりしょぼつく。あくびまで出る始末だ。色々と凝ったレシピを見て回り、ちょうどよいと思えるものがあったが、すっかり億劫になってしまった。

 

 ――今さら眠たくなるなんて……

 

 ネットサーフィンをやめ、端末を閉じる。

 

 一貫性のない体質に嫌気が差してくるようだった。ベッドには戻りたくなかった。かといってこの眠気を放置するわけにはいかなかった。

 

 自分に呆れるが、わたしは睡魔のささやきに負けて、その場で横になった。テーブルの椅子にあるクッションを枕替わりにした。

 

 ハァ、とため息して片手の甲を額にのせ、天井を見やる。すでに部屋は薄暗さを取っ払って明るい。カーテン越しには燦々と輝く太陽が透けて見える。

 

 やれやれ、と思って目を閉じる。すると、あっという間に意識の(ともしび)が小さくなり、消え、暗闇になる。

 

 

 灯里(・・)がスヤスヤと寝息を立て始める。ほとんど真っ黒になった薪で火勢の安定したストーブのそばに、鍋敷きをかましてやかんが置いてある。一度は沸きかけたが、結局飲まずじまいで冷めてしまったやかんだった。

 

 

 ラジオが依然付いている。流れているのはDJのチョイスした音楽だ。

 

 高い空に陰影のない真っ白の雲。キラキラと煌めく海。

 

 灯里の浅い眠りが覚めて再び目覚めるまで、さほど時間はかからなかった。

 

 

 

(終)



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Page.59「フローズン・ハート」

***

 

 

 

 音がする――カサカサ、という乾いた音。

 

 振り返ると、落ち葉がこちら側にヒラヒラと翻って舞い、そして落ちるのを見下ろした。

 

 まるで落ち葉に追いかけられているかのように錯覚させる音だった。

 

 追い風が落ち葉を舞い上げてわたしの背に向かって飛ばしたのだ。

 

 弱弱しい追い風だが、落ち葉は軽い――ずいぶん軽い。

 

 その軽さ、軽やかさに、わたしは憧れじみた思いを抱いた。

 

 前に向き直り、俯き気味になって、物思いに浸る。

 

 ああいう風になれたら――風に流されて飛び、その力でどこまでも行けたら、どれだけ気楽だろう。

 

 わたしはだが人間だった。飛ぶことは出来なかった。突風に煽られても飛翔することは不可能だ。二本足で直立し、そして歩みを運んでいかねばならない。

 

「寒いね」

 

 かたわらで誰かが言う。

 

 その言葉に対し、わたしは上の空で反応しなかった。

 

「……。」

 

 なしの礫で黙然とするわたしは、自身をじっと射貫くように見つめる目線に、やがて我に返り、ハッとする。

 

「あっ、ごめん。ボーッとしてた」

 

 苦笑いして簡単に詫びる。

 

「考え事?」

 

「ううん」わたしは首を左右に振る。「本当に、ボーッとしてただけ。スイッチが切れちゃったみたいに」

 

 ハァ、と彼女は、呆れたようにため息する。

 

 その様に、わたしはちょっぴり申し訳ないシュンとした心持ちになる。

 

「寒いね」

 

 わたしがそう言うと、彼女は睨むようにわたしを見返した。

 

灯里(アンタ)ねぇ……」

 

 彼女がすでに言った言葉をまたそっくり同じものを言ったのだと気付かないわたしは、間違いなくその時の彼女には、見下げ果てた愚か者に思われたことだろう。

 

「まぁ、いいや」

 

 だが、彼女はあまりこだわらないようだった。

 

 わたしはいくぶんホッとした。

 

 ――わたしたちは並木道を並んで歩いていた。隣に随伴してくれているのは藍華ちゃんだ。わたしの水先案内人仲間の一人。ネイビーの髪とゴールドの瞳が麗しい女の子だ。

 

『ネオ・ローマ』――わたしたちが旅に訪れた街の名前だ。ネオ・ヴェネツィアより船便を利用してやってきた。マン・ホームにかつてあった帝国の首都を模して造成されたところで、コロセウムという闘技場や大聖堂などの主要観光地所があちらこちらにある。

 

 わたしたちがいるのは、その大きい街の一隅の、アーチが空いた石橋を彼方に臨む川辺の小道だった。

 

 空は晴れていたが、初冬にしては低い気温と、気圧の高低間を渡る空っ風に、震えるほどの寒さを感じていた。空に浮かぶ雲の陰影が濃く、黒々としていて、その黒さが冴えたセレスト・ブルーとくっきりとした対照(コントラスト)をなしていた。

 

 冬用の装いで厚着してきたが、寒さを完全に防ぎ切ることは出来なかった。

 

「かわいいマフラーだね」

 

 ――と、わたしは藍華ちゃんのマフラーを眺め、褒賞する。紅い――真紅のマフラーだった。大人っぽい色だった。

 

 すると藍華ちゃんは、ふふんと得意げに笑みを浮かべてふんぞりかえるように背筋をピンと反り返るくらい伸ばし、「わたしが自分で編んだのよ」、と自賛した。

 

 わたしが首に巻いているのはありふれたカシミヤの、陰気臭い色のマフラーだったから、バラのように艶っぽい彼女のその色合いが羨ましかった。

 

「藍華ちゃんって、編み物がじょうずなんだね」

 

「どんどん褒めてくれていいのよ。じゃないと苦労したかいがないからね」

 

「編むの、大変だったの?」

 

「まぁね、編むこと自体はそれほどでもなかったけど、時間かかったし、それに……こだわって作ろうと思ったから」

 

 ふうん、とわたしは相槌を打つ。羨ましいなぁ、わたしも欲しいなぁ、と思ったのが最後の感情の波だった。

 

 以後わたしの心中に漲る水面は凪いで静かになった。言葉が発信されるとか、呼びかけられるとかして、わたしの心中に誰かの思いや働きかけが投ぜられても、わたしの中を満たす水はそれ等を呑み込んで、あっという間に波紋をしずめてしまうのだった。

 

 やがて大きい石橋のアーチをくぐる。暗い陰。やや湿り気を帯びた空気。積み重なる落ち葉から立ち上る甘い臭気。

 

 かたわらを穏やかに流れる川面は澄明で、空模様をくっきりと映していた。

 

 ゴー、という重低音が頭上に聞こえたので、見上げてみると、飛行船が目に入った。

 

 陰影の濃い雲より遥か上をゆく空の船。

 

 ネオ・ヴェネツィアへ帰ったら、わたしも道具と材料を用意して編み物にチャレンジしてみようか、などとぼんやり考えた。

 

 とても寒い日だった。日照はあるにはあったが、明るさだけで、温もりは乏しかった。

 

 追い風が吹く。カサカサと背後の下方で音がする。聞き耳を立てる。本当に微かで小さい音だ。

 

 わたしは今度は振り返らない。落ち葉が翻り、舞っているのだ。

 

 ――こういう風に他者の存在をなおざりにして、心を空っぽにしても、わたしの体は動じず、二本の足は地の上にあり、歩みを運んでいる。

 

 強めの風が立つ――旋風だった。

 

 落ち葉が高々と吹き飛ばされ、背後よりわたしを越え、正面に舞い上がる。ヒラヒラと翻り、吹雪のように宙を踊る。

 

 紅色だった――わたしがたまたま見入ったひとひらの落ち葉の色だ。真紅の、藍華ちゃんのマフラーと同じ色。

 

『寒いね』、と再び口にしたら、藍華ちゃんは今度は怒るだろうか、あるいは、また呆れるだろうか。

 

 晴れた寒い日和だった。そしてネオ・ローマの街は、気が遠くなるほど広大で果てしなかった。

 

 

 

(終)



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Page.60「初雪」

***

 

 

 

 ピタッと肌に張り付いてくる感触がする冷気――冬の冷気。

 

 今日の湿度は高いようだ。乾いていればさらりとしている空気が今日は何とはなしにねばっこい。

 

 年の暮れが迫る時期。

 

 冷たく湿った空気の中で、夕日が淡く明るい。

 

 ハァ、と息を吐けば、たちまち白く立ち昇って、空気中に透明になって消える。

 

 夕日のオレンジ色と押し寄せる夜の暗い灰色と、晴れた空の青がそれぞれに滲んで深い情緒を醸し出している。

 

 ネオ・ヴェネツィアは惑星の赤道より上にある。北半球の都市なのだ。したがって冬の寒さは南と比べてひとしおである。太陽がよそよそしく、まるでネオ・ヴェネツィアを避けようとしているかのようだ。

 

「今日は冷える」

 

 と、わたしは言うともなしに呟いた。そして、長い髪に指で触れ、くるくると指に絡ませるようにすると、続けた。

 

「それに、じめじめしてる」

 

「降るかも知れないわね、雪」

 

 ――かたわらにいる女の答。ブロンドのロングヘア。幼馴染の女だ。

 

「あぁ」

 

 わたしは簡易に返す。

 

「晃ちゃん、嬉しくないの?」

 

「あのなぁ」わたしは呆れて言う。「子供じゃないんだから、今さら雪くらいで嬉しがるかよ」

 

 ――わたしとアリシア(・・・・)は、展望台の手摺の前に並んで立って、高所から望める海の開けた佳景と、曇りがちの冬の夕暮れの物寂しい情緒とに浸っていた。

 

 気の利いた展望台で、石造りの建物の最上部に設けられたそこは、屋根のない吹き曝しで、寒風に吹かれ放題ではあったが、鉄パイプの手摺の上端に小鉢が飾られていて、その中にはシクラメンの花がこぢんまりと可愛らしく笑っていた。手摺より振り返れば、展望台の中央に向かってそこかしこに、枯れ枝が寒そうに見える喬木が植わっている。

 

「雪に嬉しがるどころか、鬱陶しいと思うようになったよ。毎年どっかり降って、いっぱい積もりやがる。昔は年長者にやって貰ってた雪掻きの仕事が、今じゃわたしたちのものになってしまった」

 

「そうねぇ」、とアリシアはしんみりした調子で言う。「雪で遊ぶことはめっきりしなくなったわね。まぁ、たまに灯里ちゃんと、ARIAカンパニーの前に雪だるまを作ったりはするんだけど……あっ」

 

 アリシアが何かに気付き、指さす。

 

「ん?」

 

 アリシアが指さしているのは極小の白い物体だ。宙を浮遊している。

 

 わたしは何とはなしに受け取ろうと思い、掌を仰向けに、目の前へと差し出す。

 

 すると、その白い物体は、わたしの動きに応じるように、掌に下りてきた。

 

 半透明の薄い(はね)。ウサギのように白くふさふさとした被毛。

 

「まぁ、雪虫ね」

 

「あぁ。だが、たった一匹だけだ」

 

「この子、仲間たちとはぐれちゃったのかしら」

 

 アリシアが心配するように言う。

 

 わたしは眉をひそめ、雪虫の後先のことを考える。

 

 ――が、考えるや否や、雪虫はその翅を震わせ、瞬く間に飛び上がり、彼方へと()ってしまった。その小さい姿は、一片の雪が舞うように見えた。

 

「心配は無用だってよ」

 

「あらあら」

 

 わたしは開いた掌を握り、下ろした――心なしか暗い。日が沈むと同時に、雲が密度を増したようだ。

 

 

 

 ――やがて夜になる。明かりが失せ、闇がしみ渡る。

 

 

 

 アリシアと別れて姫屋に帰り、一通りの用事を済ませ、後は寝るだけという段になった。

 

 照明の明るい暖房の付いた暖かい部屋で、わたしは机に向かっていた。読み物をしていたのだ。最近推理小説に入れ込んでいて、読み出すと中々栞を挟んで閉じることが出来なかった。最初は眠り薬にと始めたことが、かえって逆効果になってしまった。

 

 雪が降るかも知れないというわたしの予測は、外れたようだ。

 

 湿った空気は雪ではなく雨を呼び寄せた。雨音がシトシトと鳴り、わたしの部屋の鎧戸を付けた窓には、雨粒が流れている。

 

 あの一匹だけはぐれた雪虫は、果たして仲間たちのもとにちゃんと辿り着けただろうか、などと読書中、考えた。

 

 頬杖を突いていよいよ舟を漕ぎ出した頃、わたしはガクンと勢いよく崩れそうになって、その勢いに驚いて我に返った。

 

 辺りが静かになっていることに気付く。シトシトという雨音は鳴りやんだ。

 

 不思議に思ったわたしは、小説に栞を挟んで閉じると、窓辺に向かった。

 

 ――窓に残る雨の流れた跡が、消え消えになっている。

 

 窓から見える、姫屋の前のストリート。街路灯が照っている。

 

 雨は確かにやんでいる。――が、その代わりに、ぼんやりとした白い粒子が、夜の闇にチラチラしている。初雪だ。

 

 眠気がコンコンと背中を叩く。わたしはあくびをし、目に涙を溜める。

 

 明日は雪は、積もっているだろうか。

 

 アリシアへの発言とは裏腹に、わたしは内心嬉しがっていた。

 

 ベッドに横になり、冷たい布団の中でうずくまるようにして体を温め、わたしは記憶を探り、昨冬雪掻きで使ったスコップの場所を回顧した。なくしてはいないはずだ。姫屋の倉庫に保管してあると思う。明日探そう……。

 

 雨が雪に変わった夜は静かで、また、どこかおごそかだった。

 

 

 

(終)



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Page.61「窓辺にて~スター・ブライト・ナイト」

***

 

 

 

 目が覚めた時、辺りは真っ暗だった。

 

 わたしは部屋に――わたし専用の居住スペースとなっているARIAカンパニーの屋根裏部屋にいて、うたた寝していたのだった。

 

 お昼ご飯を少し食べ過ぎたことで苦しくなり、ちょっとの間だけ横たわろうとしたら、すっかり寝入ってしまった。

 

 涼しい風が開け放した部屋の円窓より流れ込んでくる。夜気だ。その涼感はとても爽やかだ。

 

 季節は初夏。日中はすでに汗ばむ陽気で、日差しが強烈だ。

 

 横になった状態で、うたた寝にだらしなくたるんだ体をうんと伸ばすと、軽くため息した。

 

 本当にやわらかい、やさしい感触のする風だった。涼しく、乾いて、程よい流速。

 

 ベッドに上がり、円窓より首を外へ出してみると、思った通り、夜空は晴れていて、星影が冴えていた。淡すぎて半分透明になっている雲の白っぽいもやもやに、光の粒子が点々と瞬いている。

 

 窓枠に肘を突き、手で頬を持ってしばらくその美景に耽る。

 

「贅沢だなぁ……」

 

 思わず口を突いて出た言葉だった。これほど快い環境で星空を眺められることに感嘆したのだった。

 

 ふと、コンコンという音がした。ドアの方だ。誰かがノックしているのだ。

 

「灯里ちゃん?」

 

 アリシアさんの声だ!

 

「はひ」

 

 わたしは頬の手を窓枠に下ろして、気持ち大きめに返事する。

 

 すると、古びた木のドアがギィ、という軋みと共に開かれて、長いブロンドヘアーの人影が見える。その人影は小さいランプを携えていて、そのランプの周りは明々としている。

 

「あらあら、真っ暗ね。電気も付けないでどうしたの、灯里ちゃん?」

 

「星空を眺めてるんです。電気を付けると、よく見えなくなっちゃうから。アリシアさんも見てみてください。きれいですよ」

 

「まぁ、本当? ずっと帳面に向かってたから、気付かなかったわ」

 

 アリシアさんは、ドアをパタンと上品に閉めると、持っているランプをテーブルの上に置いて、「失礼するわね」、と一言添えてベッドに上がって来た。

 

「はひ」、と返して程なく「わっ」と驚いたが、アリシアさんがわたしの肩に手を乗せて、半ばわたしの上に乗る格好になったのだ。

 

 肩にかんじるやわらかい指先、ほんのりした温もり。

 

「アリシアさん?」

 

「こうしないとよく見えないのよ、ごめんね」

 

 別に気にしなかった。わたしは気を揉んで少し窓の際の方まで体を寄せ、先輩ウンディーネのために隙間をあけて上げた。

 

 暗く、また近すぎてよく見えないけど、アリシアさんは美人だった。ブロンドがゴージャスだとか、長い髪がサラサラして風になびいた時に光っているとか、そういう細々とした根拠からではない、漠然とした、それでいて強い確信を伴った印象だった。

 

 眼鏡をかけているアリシアさんは、割に貴重だ。その姿を目にすることが出来る時は、限られている。プライベートでは眼鏡で、そうでない時はコンタクトにしているのではないかという噂があるが、わたしにはよく分からない。

 

「何だか楽しそうね、灯里ちゃん」

 

「――寝覚めがよかったんです」

 

「まぁまぁ、やけに静かと思ったら、そうだったのね」

 

「はひ。お昼ご飯の食べ過ぎで、お腹が苦しくなっちゃって。ハハ、太っちゃうかなぁ」

 

 わたしは苦笑いと共に、お腹をさする。

 

 するとアリシアさんも、よく見えないが、同じように、苦笑してくれているようだった。

 

「ねぇ、贅沢だと思いませんか?」

 

「……。」

 

 アリシアさんは答えなかった。風声に被って聞こえなかったのだろうか。だが、その様子はわたしには、無言ではあったものの、肯定してくれているように思えた。場の空気のせいだろうか。

 

「マン・ホームにいた時は見なかったんですよ」

 

「星空?」

 

「はひ。正確には見たことがあるんですけど、ニセモノでした」

 

「?」

 

 アリシアさんの釈然としない様を何となく感じ取って、少し訂正する。

 

「ニセモノという言い方はよくないかも知れませんね。正確に言えば……ビジョン、ですかね」

 

 フフ、とアリシアさんがいたずらっぽく笑う。

 

「ビジョンは、まぼろしって意味よ」

 

「エェー……じゃあ、ニセモノと変わりませんね」

 

 わたし達は和やかに笑い合う。そして満足し、お互いに振り返って星空に背を向け、円窓の下の壁に並んで座る。

 

 二人で見るともなしに、テーブルの上に照るランプの灯影を見つめる。オイルが浸み込んだ綿芯の先端に火が小躍りするように燃えている。

 

「電気、付けましょうか?」

 

「ううん」

 わたしの提案に、アリシアさんは首を左右に振る。

「わたしはいいわ。たまにはこうしてランプの火をじっくり見つめるのも、悪くないわね」

 

「はひ」

 

 わたしは短く返す。

 

 ――風が部屋に流れてくる。涼しい夜気。初夏のやや汗ばむくらいの気温にあって、快い清涼感を恵んでくれる。

 

「プラネタリウムに似た感じかしら?」

 

「え?」

 

 唐突の話しかけに、わたしは戸惑う。

 

「灯里ちゃんがさっき話してくれた、マン・ホームの……」

 

「あぁ」わたしは合点が行く。「そうですね。プラネタリウムの、おっきいバージョンですね。七夕には、アルタイルとベガが見えるんです。デネブと合わせて、三角形なんですよね」

 

 円窓から流れ込んでくる風が、わたし達の髪を煽る。それぞれロングヘアーだ。風に弄ばれてなびく髪の肌ざわりを、首や頬に感じる。

 

「味わい尽くしてしまえばいいのよ」

 

「味わい尽くす……?」

 

 わたしは聞き返す。風に乱れた髪を手直ししようと、耳元の髪を後ろへとやる仕草が、灯影に照らされた落ち着きのある顔と相まって、妙に大人っぽかった。

 

「えぇ、星空はあなたに見返りを要求しなんかしないわ。だから、贅沢だなんて思わないで、その風情、その雰囲気を、思う様、ね?」

 

 アリシアさんは、小首を傾げ、ウインクを交えてにっこりして見せる。

 

 その表情が可愛くて、わたしは釣られて微笑んでしまう。

 

 フッと、ランプの火が消える。オイルが切れたようだ。

 

「あらあら、本当に真っ暗ね」

 

 暗中、アリシアさんが泰然として動じずにいるのに対して、わたしは見えない目であっちこっちに体をぶつけて、電気のスイッチを探す。

 

 ――何だか照れくさかった。すぐそばにいるアリシアさんが、愛おしかったのだ。

 

 わたしは、今夜寝る時、その時まだ空が晴れているようであれば、また星空の感慨に浸ろうと考え、予期した。

 

 

 

(終)



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Page.62「クリスマスの星は笑む」

***

 

 

 

 ガヤガヤと話し声が絶えない昇降口。わたしが通う学校の昇降口。

 

 

 自分のシューズボックスからローファを取り出して、上履きのシューズを中に収める。

 

 

 ローファを地べたに置き、しゃがんで、指をかかとの後ろに入れて履く。

 

 

 放課後の掃除を終えて空調の効いた教室を出たら、あっという間に体が冷えてしまうようだった。

 

 

 授業中、頬杖を突いて、見るともなしに窓に見ていた雪――。じっと見ていると、空調の快さと相まってほとんど眠ってしまいそうだった。

 

 

 昇降口を出ると、雪は小止みなく降っていた。しんしんと、静かに。そして気付かない内に、その嵩を増していく。

 

 

 マフラーと同じタータンチェックの傘を差し、騒がしい昇降口を後にする。

 

 

 ――わたしは一人で帰るのが好きだ。友達はいるにはいるが、みんなわたしの意を察して下校時はあまり構わないでくれる。

 

 

 ヘンに思われてたりしないだろうか、などと心配になることは、時たまある。

 

 

 ――アリスちゃんは、冬休み、どこかに行ったりするの?

 

 

「えっ、冬休み?」

 

 

 教室での、友達からの問いかけ。不意打ちだったのでわたしは聞き返す。

 

 

 わたし達は今日、終業式で、普段より多い連絡事項の刷られたプリントを配られ、また、手ごわい割と量のある宿題を与えられた。

 

 

「だいたい、二週間くらいあるよね」

 

 

「予定は……クリスマスの他には、特に」

 

 

 わたしは書類をしまい込んだバッグの口を閉じる。周りでは、同級生たちがそれぞれ思い思いに親しい者と談笑している。

 

 

 話している内容はわたし達とさほど変わらない。他愛のないものだ。互いに永別するわけではないが、しばらく毎日のように顔を突き合わさなくなるので、取りあえず友諠を惜しんで普段より気持ち長めに話すのだ。そうして半ば満足し、半ば惜別するように、それぞれの家に帰っていく。

 

 

「ケーキは頼んだ」と、友達が訊く。

 

 

「うん。お母さんが」と、わたしは返す。

 

 

「そう。わたしの家はね、ママが手作りしてくれるんだよ」

 

 

「そうなんだ。でっかいパティシエさんだね」

 

 

「ぜんぜん大したことないんだよ。去年は砂糖の量が多すぎて、まともに食べられなかったの」

 

 

 フフッ、とわたしは微笑して返す。洋菓子が作れる自慢の母親のようだ。嬉しげに友達は話した。去年彼女の母はケーキ作りに失敗したようだが、今年はどうだろうか? 休みが明けたら、結果を聞かせてくれるだろうか。あるいは、その頃には年が明けて、クリスマスがすっかり過去になっているので、忘却して、ぜんぜん関係のない話をしているだろうか。

 

 

 雪は泡雪だった。勢いこそあったが、傘に残ることはなく、シャーベットになって、露先より水滴となって滴り落ちた。

 

 

 辺りにはうっすらと積もっているが、しっかりした結晶ではなく、粒が粗いので、雪の堆積が堆くなる前にとけて、道路を濡らすばかりだ。

 

 

 帰路、わたしはネオ・ヴェネツィアの水路に沿った住宅の並びが面する細い通りを歩いていた。

 

 

 道にはうっすらと積もった雪に、無数の足跡。踏み固められて氷同然になっている箇所があり、その上はひどく滑る。

 

 

 通りの少し向こうには、アーチ型の小橋が、水路を挟んである住宅の出入口と、通路の間に架かっている。住宅の壁に付いた湾曲したアームと、その先の街路灯のランプの上にも、雪。

 

 

 見上げられる空は、全面真っ白で、絶えず雪を降らせてわたしの顔にひんやりとした感触を与え、また濡らす。

 

 

 クリスマス――偉大なる聖人の誕生日である祝祭日は近々である。そのため街の各所は装飾され、普段とは異なる華やかで荘厳なる趣きを帯びている。サン・マルコ広場には大きい樅の木が飾られ、その頂点ではベツレヘムの星が青白い光輝を放ち、水路の上には住宅と住宅の間に渡されたワイヤーに電飾が吊り下がっている。ケーキ屋さんがお菓子作りに大忙しで、花屋の軒先には真紅の〝stella di natale(ポインセチア)〟が豊満に笑っている。

 

 

 お母さんがやはり買ってきて、ポインセチアは、家に飾ってある――わたしは花屋の前に差し掛かって、立ち止まってじっと店頭に並ぶ花々を見下ろしていた。ポインセチアがあり、ケイトウがあり、シクラメンがあった。

 

 

 ――みんなが予期し、待ち侘び、入念に準備して迎える祝祭日の前の日々は、全てが調和的で、平和で、充実感に満ち溢れていて、学期末を終えて学業よりひとまず解放されたその解放感とあいまって、わたしにとっては、魔法にかけられたように、うっとりとさせてくれるものだった。おいしいお菓子があり、靴下の中のプレゼントがあり、厳しい寒さに凍える体を温めてくれる暖炉の炎があり、荒涼とした冬にあって青々とみずみずしい常緑樹がある。満ち足りて、不足などまるでなかった。

 

 

 その時の幸福を目いっぱい享受するために、わたし達は、彼方に輝く八角形(オクタグラム)の星に向かって邁進するのだ。

 

 

 わたしは花屋を後にする。

 

 

 

 ――ガヤガヤと騒々しい昇降口。次に登校する時は、今度は、冬休みの思い出話に盛り上がっていることだろう。

 

 

 その時に気後れして口を塞いだりしないように、何か、楽しい予定でも組むのがいい気がする。

 

 

 寒さにふるえる喉で息を吐く。かじかんだ手に吹きかける。

 

 

 無数の雪の粒越しに見上げる空は、どこまでも白かった。

 

 

 

(終)



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Page.63「アフター・ザ・レイン~風のないある日のこと」

***

 

 

 雨上がりの晴れた空にほんのわずかばかり残っている雨粒が、雲の気まぐれで落ちて来、道路の浅いくぼみに張った凪いだ水たまりに、小さい波紋を投じる。

 

 

 無風の日。薄気味悪いほど無風で静かなる、まだ肌寒い春先の、防寒具を手放すには早すぎる日の、昼下がり。

 

 

 小鳥が数羽、羽ばたいていき、その影が水たまりの鏡面をさっと走る。

 

 

 濡れた地面。じめじめした空気。雨が上がってまだそれほど経っていない。

 

 

 ネオ・ヴェネツィアのある水路に面する、ある古い建物。アーチのあいた車止めがあり、すぐそばの水路にはゴンドラが一艘とまっている。オールが寝かせてあり、かりそめに休眠している様子だ。

 

 

 ゴンドラのふちには、一本の傘がかかっており、水滴をたくさん付着けたその傘は、けっこう近い時間まで雨を防いでいたことを示している。

 

 

 車止めの陰には、ひとが一人佇んでいる。アーチの柱に寄りかかり、腕を曲げた右手でだらりと伸ばした左腕を持って、ぼんやり空を仰ぎ見ている。

 

 

 ライラックのショートヘア。薄褐色の肌。白いセーラー服――長そでの白い、橙色のラインの刺繍があるセーラー服。その上には同じ地色と模様のポンチョコート。

 

 

 水先案内人の、アテナ・グローリィだった。雨後の空を遠い目で見上げる彼女は、まるで今なお雨宿りをしているかのようだ。

 

 

 雨で幾分か水量の豊潤になった水路は、心なしか流れを早めている――サラサラと、水音がさやかに、また穏やかに鳴る。

 

 

 太陽が照らす日向とは対蹠的に、車止めの屋根の下の薄暗い日陰にあって、アテナの姿は、半ば日陰の闇と融合して、やがて溶けて消えてしまいそうだった。

 

 

 寒いのか、微かにアテナは身震いし、両手を合わせて揉むと、口元に持っていき、俯き気味に、フゥ、と、ため息なのか、疲れなのか、はっきりしない息を吹きかける。

 

 

 車止めの端っこにたまった、今なお残る雨粒が、その重みで落ち、彼女の頭上に落下する。彼女はいささかハッとしただけでその他の反応はせず、落ちてきた雨粒は、彼女の短めの髪の流れを伝い、先端まで至ると、地面ではかなく砕けた。

 

 

 アテナが佇むその背後の古い建物は、同じく古い両開きの木の扉で、開閉すればギシギシ軋みそうだ。

 

 

 茶色い陶器の鉢には、観葉植物と思しきものが植わっているが、すでに枯れ切っていて、葉は萎えており、幹や枝は精彩を欠いて年老いた風に白っぽく、ひどく寒々しい。

 

 

 ちょこんと置いてある椅子は、ほこりを被っていて、誰かが使っている形跡がほとんどない。

 

 

 ――廃屋なのだろうか。

 

 

 辺りにひと気はなかった。まるで忘れ去られたようだった。気持ち悪いほど、静粛だった。

 

 

 寒そうにしていたアテナは、揉んでいた両手を解くと、短い髪をさっと後ろへ搔き上げると、ようやく自分の髪が一部、濡れていることに気付く。

 

 

 怪訝に思い、指先をじっと観察したり、そのにおいを嗅いだりして、確かめる。

 

 

 ――ただの水だ。

 

 

 安堵したアテナは、目線を上に向ける。

 

 

 青い空。陽光を浴びて輪郭の煌めく、鈍足の雲。

 

 

 碧落一洗。雨上がりの空は磨いたようにきれいだった。

 

 

 凪いだ水たまりが微かに揺れる。風の起こり。冷たい息吹き。ライラックの髪が弱弱しくなびく。

 

 

 ギィィ……扉の開く音がした。重苦しい音だった。心なしかかび臭いにおいさえする気がした。

 

 

 上の空のアテナは何かと思い、振り返った。

 

 

 扉は開いていなかった。しっかり閉じていた。

 

 

 音がしたのは僻耳だったのだ。アテナは、じぶんのお腹が鳴る音が車止めに響いて変に聞こえたのだろう、と考え、納得した。

 

 

 誰か住んでいるのだろうか?――と、アテナは、振り返った時に思った。

 

 

 しばらくアテナは建物を凝視した。射貫くように目を注いだ。

 

 

 カーテンの閉じた窓。おおむね綺麗だが、一部(ひび)が入っている。

 

 

 ――遠くで、凪いだ水たまりがまた揺れる。また風。

 

 

 すると、建物の窓ガラスがカタカタと震動し、音を立てる。

 

 

 さっと水たまりを影がよぎる。小鳥だろうか。一羽、二羽……。

 

 

 アテナは見定めようとする。注視し、推測し、想像する。

 

 

 しかし、何かが現れるとか、起きるとかすることはなかった。

 

 

 アテナが見ているのは、ただ振り返っている自分の反映ばかりだった。

 

 

 白いカーテンを下地に、ほとんど輪郭しか見えない暗い自分の現身(うつしみ)だった。

 

 

 アテナは、ゴンドラにかけた傘を手に取る。そして手首をひねって傘を左右に交互に回し、傘の面に付いた雨粒を払う。雨粒があっちこっちに飛び散る。

 

 

 空は快晴だ。雨は最早降らないだろう。アテナは傘をネームバンドで締める。

 

 

 春先の、まだ肌寒い日。風の乏しい、静穏なる日。

 

 

 ゴンドラに乗り込み、帰ろうとするアテナは、また異音を耳にする。建物の方だ。

 

 

 だが、気配ばかりで、実体が現れなかった。気付きがなく、推測と、想像と、思い過ごしばかりだった。

 

 

 ゴンドラの去ったネオ・ヴェネツィアの一隅。そこは、まるで忘れられたように、ひっそりと静まり返っていた。

 

 

 

(終)



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Page.64「或るオフショット~雪、煙る夜」

***

 

 

「ウゥッ、寒……」

 

 扉を開けて出た瞬間、白い吐息と共に、彼女の口を突いて出た言葉だ。

 

 晃は自身を抱いて背中を丸め、前腕をさする。

 

 上はマフラーとチェスターコート、下はスエードのハイカット・ブーツというじゅうぶん暖かい出で立ち。しかし寒さは厳しいようだった。

 

 最低気温は零下であるその日のネオ・ヴェネツィア。天気は雪。前日より降り出した雪はいぜん止まず、むしろ量を増して街を銀世界にしてしまう勢いだ。

 

「すっかり暗くなっちゃいましたね」

 

 そう、先に外に出ていた少女が、晃に背を向けて、空を目だけで仰いで言う。彼女の後輩である藍華だ。

 

 藍華の出で立ちは、上は帽子(フード)付きの中綿コートに、下はスキニーのジーンズとシューズ。

 

 晃とは反対に、彼女は白い息を吐いて、両手をコートのポケットに突っ込んではいるが、さほど寒がる様子は見えない。

 

 時間は夜。暗幕の下りたネオ・ヴェネツィア。しかし夜の闇の上を白煙が吹く――脚の強い雪に風が組み合わさって、軽いブリザートになっているようだ。

 

「藍華、お前、寒くないのか?」

 

「寒いですよ」

 

 首だけで振り返って藍華が言う。

 

 大きい雪だるまが彼女等のそばに佇んでいる。シルクハットにマフラーまで巻いて、雪だるまは紳士のようだ。彼は丸いボタンの目で二人のやり取りをじっと見るともなしに見守っている。

 

「晃先輩って、寒がりでしたっけ」

 

「寒がりでなくったって、今日の寒さはこたえるだろう」

 

「まぁ、そうですね」

 

「暖かいのか? お前の――」

 

 晃は物欲しそうに藍華のコートを見て問いかける。晃と比べて藍華の着ているのは気持ち暑いように見える。

 

「ぜんぜん変わんないですよ」

 

 照明の明るい建物。甘く香ばしいかおりがその中より漏れて漂って来、寒さにツンとする鼻を魅惑する。

 

 二人はカフェに行って、今ちょうど退店したところだった。お会計は晃が済ませ、藍華はさいしょ遠慮する素振りを見せたが、最終的にへりくだって先輩に甘えた。

 

「おいしかったです」

 

 帰路に付き、並んで歩く二人。――辺りは白っぽく煙たい。風がささやき、雪が乱舞する。ポッと照る街路灯だけが明るい。

 

「あぁ――だが、わざわざ外に出てくる必要はなかった。今日は寒すぎる」

 

「……ですかね」

 

 藍華はポケットに手を入れたまんまだ。晃は背中が猫のよう。

 

 それぞれ目を合わさず前を見て歩いている。

 

 二人は、視界いっぱいに風の流れに浮遊して入り乱れる雪を見て、寒さを実感する一方で、童心に返っていくばくかの(たの)しさを感じていた――藍華はまだ童心に帰る年齢ではなかったけど。

 

「何だか行きたくなったんだよ」

 

「あのお店に?」

 

「あぁ。思い立ったら、体がむずむずしてなすすべがなかった」

 

「そういう時、たまにありますね。衝動的に、何かしたくなる時」

 

 藍華は共感すると、上を見上げた。相変わらず白っぽい夜空。そのずっと手前に、彼女が歩いている通りの住宅よりアームで吊り下がる街路灯がある。

 

 ゆるやかに湾曲した鉄のアームには漏れなくその線形に重なって雪が細く積もっており、まるで綱渡りのようだ。街路灯の明かりを浴びて白雪はまばゆい光輝を放っている。

 

 ――程なく水先案内人たちは姫屋に至る。創業百年の老舗。その年月に恥じない業績の結果として、姫屋は立派で大きい。

 

 その広いホールで、藍華はおやすみなさいと言って、いんぎんに頭を下げると、じぶんの部屋へと去っていった。そして晃は晃で、おやすみと返し、彼女の部屋へと、遅れて向かった。

 

 階段には、清掃係の少女――藍華を含む姫屋の従業員が代わりばんこで担当している――がほうきで掃き掃除をしていた。後片付けと次の日への用意――遅い時刻だった。

 

 彼女は晃を目にすると――晃は第一級(プリマ)で、姫屋の一枚看板なのだ――かしこまった風にお疲れ様ですと言葉をかける。晃は頷いて簡単に返す。

 

 真っ暗の室内。ポッと照明が付く。晃が付けたのだ。こざっぱりした部屋。フローリングには絨毯。壁には、スタンプのように外縁を円くした『姫』の字でいっぱいのタペストリー。そして金襴模様の掛け軸。

 

 まずブーツを脱いでスリッパに履き替え、次にチェスターコートを脱ぎ、ハンガーラックにかける。コートには何個か、雪がとけて出来た水滴が付いている。

 

 窓辺の背もたれとひじ掛けのある椅子に座り、デスクに無造作にコートに閉まっていた財布を置くと、晃はお尻で椅子を後退させ、スリッパを脱いだ両の裸足をデスクの端に組んで乗せた。そしてうんと椅子の背もたれに背中を押し付け、見るともなしに天井を見る。

 

 ――暖房はオンにしてあるが、部屋が暖かくなるまではまだ待たないといけない。

 

 吐く息は白くない。満足して膨れたお腹をさする。手が冷たい――晃は合掌して擦り合わせる。

 

 そして合わせた両手の間に、上下にいびつにに伸びた三角形を作り、お風呂に入ろうと考えるが、まだ洗っておらず、水仕事に億劫になる。

 

 しばらく待っていようと晃は考えを改める。そしてデスクの上にあるしおりを挟んだ文庫本を取って、そばに置き直す――時間を潰すのだ。BGMにラジオを付ける。なるべくうるさくないチャンネルを選ぶ。

 

 さていよいよ読もうという寸前、晃はふと腰を上げて前のめりになって、デスクの向こうの窓に手を伸ばす。閉じたカーテンの裾をめくる。隙間より覗かれるのは、やはり白っぽい筋が流れる夜の闇。

 

 ――ウゥッ、寒……

 

 ――晃さんって、寒がりでしたっけ

 

 自然とよみがえるカフェの外での場面。

 

 そして晃は、寒空の下、イヤに堂々と平気そうだった後輩に対して、今になって気後れする感じを覚えるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.65「悔悛」

***

 

 

 

 今日のネオ・ヴェネツィアは雨模様だ。

 

 ARIAカンパニーの部屋の窓越しに見上げる空は、一面灰色で、雲の大陸が盛り上がったりくぼんだりして、とにかく雨なのだ。じめっとして陰気臭い。外に出たいという思いが、層の厚い雲に弾き返され、行き場を失って途方に暮れるようだ。

 

 ――後悔していた。とても、後悔していた。

 

 窓の向こうに果てしなく広がる海原は、荒天にご機嫌ななめの様子だ。雨粒と空気をかみ砕いて、不気味なほど白い牙を剥き出しにしている。

 

 ――あの人はわたしに対して、よしんば好意を持っていなかったとしても、わたしに対して、よくしてくれていた。親切だった。多少、なれなれしいところがあったけれど、本質は善意であって、それ以外ではなかった。決してなかった……

 

 

 

 人の好意を無碍にする。その人の思いをないがしろにし、踏みにじる。そうすることで傷付け、遠ざけてしまった好意を、引き戻すために、どうすればいいのか、わたしは分からないわけではない。

 

 罪悪を感じているなら、謝り、懺悔するだけだ。単純なことだ。

 

 

 

 ――男の人だったから、ヘンに緊張して、過敏になったのだろうか。暁さんではない。いい人だった。やさしくて、ちょっとばかり年上で。

 

 好意を踏みにじったつもりはない。ただ、最初は快かったが、次第にその快さがむずむずした感情に変わり、持て余すようになった。まるで、飼っている愛猫の甘噛みに痛みばかり感じるようになった感じだ。猫は愛情表現で噛んでいるのに、噛まれている方は苦痛ばかり覚える。飼い主は困惑し、嫌になり、離れて欲しいと求めるようになる。

 

 わたしは、カレに背を向けただけのつもりだった。ところが、それだけのはずだったことが、思いがけず軋轢を生んだ。わたしの躊躇と戸惑いの念が作りだした軋轢だ。

 

 ――わたしだけなのだろうか。いったい人生にあって、一度でも誰かの純粋な好意を撥ねつけてしまったことのある人は、他にいないのだろうか。あるいは皆、品行方正に、義理と人情の錯綜する間をじょうずにくぐり抜けているのだろうか。

 

 

 

 ちょっとしたことなら、謝ることはたやすい。だけれど、後悔や憐憫や困惑の念が大きければ大きいほど、それだけ思考と反省がいよいよ深まって、謝罪することを難しくする。

 

 

 

 あの人との間に生じた軋轢。ぽっかりと出来た距離感。隔絶。疎遠。気後れ。

 

 

 

 何となく、穢れてしまったという気分に落ち込む。ヨゴレではない。ケガレだ。罪悪、困苦、自嘲のケガレ。お風呂でこすったりしても、決して落ちることのない、烙印。

 

 愛情や好意というのは、形のないものだ。目に見えたり、手に取ったり出来ないものだ。そういうものは、決まって失った時に初めてその存在と重みを思い知らされるものだ。

 

 短いこれまでの人生で、何度かしてきた失意の時が再び巡ってきた。わたしは堂々巡りをしているのだろうか。

 

 

 

 ――しとしと。降り続く雨のやさしい音。その中に、遠くのサン・マルコ寺院のベルの響きが混じって聞こえる。ゴーン、ゴーン……と、森厳かで透き通った音色の震えを感じる。

 

 

 

 わたしの戸惑いがさまたげるのか、謝りの言葉を告げるのは骨のようだ。だからといって、しれっと何事もなかったかのように接するのは人として守るべき徳義をゆるがせにすることだ。

 

 ならば――とわたしは考える。

 

 また初めからやり直そう。ほつれてしまった関係の糸を縫い直そう。こころみよう。最早戸惑ったりまごついたりする必要はない。彼との間柄は新規蒔き直しだ。

 

 慈しみの言葉をかけ、やさしく接するのだ。彼がわたしにしてくれたみたいに。そうすれば、全てはだんだんと、元に戻ってくれるはずだ。軋轢や、わだかまりや、気詰まりな感じは消える。そうして修復した頃合いを見て、謝りの言葉を告げるのだ、そっと。だけど、ちゃんと相手の目を見て。

 

 

 

 ――今日のネオ・ヴェネツィアは雨模様だ。

 

 雲の層は厚い。長雨になるだろう。わたしの心は塞ぎがちだった。

 

 だが、遠目に光明が見える気がした。

 

 その光明は、もちろん晴天のものであり、同時にまた、和解のものでもあった。

 

 

 

 予感であり、そして、覚悟だった。

 

 

 

(終)



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Page.66「ベニスのゴンドラ」

***

 

 

 

 冬の朝。ヌクヌクとみずからの体で温めた布団の中は、ずいぶん居心地がよかった。寝覚めの悪い猫が、日向に憩って延々と丸まっているように、ずっとまどろんでいたいと思うほどに……

 

 

 

 けたたましい目覚まし時計の音が響き渡る。その音はわたしの脳みそを荒々しい手付きで粗野にゆさぶり、うっとりと閉じた目蓋をこじ開ける。

 

 朝だ――朝かぁ……

 

 ムカつく目覚まし時計を黙らせ、ハァ、と思わずため息を吐きそうになる。

 

 が、毎日のことだ。やることのある日の朝の憂鬱さは知りたくないほどに知り尽くしている。重たい頭。体。怏々として抵抗しようとする子供じみた心。

 

 しかしわたしは、子供ではなかった。やることがあった。わたしは――?

 

 

 

「藍華ァ」

 

 わたしへの呼び声。それほど近くないようだ。階下から聞こえる。階下?

 

 エンジンの低い唸り声が接近し、遠ざかっていく。車が通り過ぎる。自転車の車輪がチェーンの回転に伴って転がるカラカラという微かな音。

 

「藍華ァ、朝よォ」

 

 ウン、とわたしは返事をせかす母に、語尾にびっくりマークを付けてプリプリ返すと、ちょっと(りき)んでから、惜別の念と共に温かい布団をまくり上げ、体をよじって冬用にと用意したモコモコの毛のスリッパを履く――温もりを脱した体に、夜の間に滞留した冷気がまとわり付く。

 

 

 

 ハァァ、寒い。寒いんだ――ブルブルと(ふる)える。

 

 

 

 テレビで歌合戦を見、紅と白のどっちかのチームを応援するでもなく、ただ自分の好いている歌手の登場を待ちわび、そして見終えたら、満足して後はどうでもよくなってしまった年末は、数週間前のこと。

 

 年明けは、御餅の食べ過ぎで気持ち悪くなったんだっけ……

 

 

 

 わたしは立ち上がると、軽くベッドメイクして、布団を(なら)し、枕の位置を整える。

 

 

 

 乗り物の通り過ぎた後は、ある規則的に続く音が、その中に紛れて、今はなくなった騒音の跡に浮上する。

 

 

 

 わたしの家は、沢の近くにある。だから、いつもわたしの部屋には、しずしずとしたせせらぎの音が流れてくる。その音が快い時があれば、何も感じない時があり――その時が大半だ――また、不快に、うるさいと感じる時が、稀ではあるけど、ある。(機嫌が悪い時や、夜なぜか寝付かれなくてムズムズする時)

 

 

 

『ベニスのゴンドラ』

 

 

 

 そういう名称だったと記憶している。買ったのは、いつだろう?

 

 目覚まし時計といっしょに、ベッドのわきのナイトテーブルに置かれている、小さな模型だ。

 

 長細い模型。奥行は掌の半分、全長は、指先から手首まで、高さは、奥行と同じ……寸法はそれくらいだ。

 

 ネームプレートみたいなものがあって、そこに名称が刻まれたりしているわけではない。わたしの記憶が、その模型の名をそうだと告げるのだ。

 

「いつ買ったのか、覚えてないんだけどね」

 

 わたしは前かがみになって、覗き込むように模型に目を近付ける。

 

 可愛らしく、品があって、成るほど既製品で、量産品であり、事細かに観察すると可笑しいところがあるけど、そこそこ所有感を満たしてくれる代物ではあった。

 

「ベニス――イタリアよね。水の都」

 

 一般常識の範囲のことだろう。アメリカの首都がワシントンだということや、北方四島を日本とロシアが領有権において争っていることと同じくらい、知っていて当たり前のことだろう。

 

 ゴンドラとは小舟のことだ。細い舟で、客船で、座席用にソファが備わっている。オールの台。ギザギザした舳先の飾り。諸々の装飾具。

 

 

 

「オールの台はフォルコラ。舳先のギザギザはペッティーニ、装飾具はフェッロ」

 

 

 

 特に言い淀んだり、噛んだりせずに、固有名詞を口にする。

 

 

 

「だけどこれは、一般常識じゃあ、ないんじゃないかなぁ」

 

 

 

 どうして知っているんだろうかと、自分自身、怪訝に感じる。

 

 

 

「まぁ、いいや」

 

 

 

 ――観察の続き。

 

 ゴンドラには、カップルだろうか、男女が乗り合わせている。男は丈の長いコートを纏い、海賊と似た三角帽を被っている。女といえば、髪を結わえてドレスを着ている。漕ぎ手は仮面で目を覆っていて、赤いリボンの結ばれた舳先(ペッティーニ)の辺には、オレンジがかったバラで一杯のブーケが祝福するように飾られている。

 

 ――模型の特徴は、ざっとそういう風だ。

 

 突然、コンコン、と扉をノックする音がする。「ワッ」とわたしはびっくりする。

 

 

 

「藍華、これ――」

 

 お母さんだ。

 

 扉を開けて姿を見せたお母さんは、わたしにあるものを見せた。ハンガーにかかったそれは、衣服だった。

 

「アンタ、昨日飲み物こぼして汚しちゃったって言ってたでしょ」

 

「あぁ、うん」

 

 ――うろ覚えだった。

 

「替えの制服よ。終末に洗ったヤツ。これ着ていきなさい」

 

「あぁ、サンキュ」

 

 わたしは受け取り、軽くお礼する。親しき仲にも礼儀あり、ということだ。(礼儀というには軽薄だったけど)

 

「それじゃ、わたし行くからね。ちゃんと遅刻しないようにするのよ」

 

 お母さんは扉のノブを手に、閉めようとして言う。

 

「分かってるよ」

 

「コーヒーのしみは、クリーニングに任せることにしたからね」

 

「うん」

 

 扉が閉じられようとする。

 

「アッ」とわたしは咄嗟に叫んで制止する。

 

 お母さんは、何?急いでるんだけどと言わんばかりの表情。

 

「ごめん」

 

「何?」

 

「あのさ、あそこにある、模型なんだけどさ」

 

 わたしはナイトテーブルを指さす。お母さんはその方を細目で見遣り、あれがどうかしたのかという感じだ。

 

「いつ買ったっけ?」

 

「さぁ? アンタが小さい頃、海外旅行か何かで買ったお土産でしょ」

 

 お母さんはそう答えると、強制的に問答をおしまいにして去る。パタンと扉が閉じる。お母さんは働くママなのだ。あんまり引き留めては悪い。

 

 お母さんの答えは、まるで腑に落ちなかった。違うという気がした。しかし諦めるほかなかった。

 

 わたしは制服をハンガーで持って悄然と立ち尽くす。

 

 制服とか、パジャマとか、汚さない方がいい恰好で飲み食いはしない方がいいよなぁと、わたしは心の中でそっと呟いた。

 

 それより、制服だ。制服なんだけど……

 

 しげしげと眺める。暗色の、襟の広い服と、プリーツの付いた同色のスカート。胸元にリボンを巻くタイプの制服。

 

 成るほど、これが学校の指定した制服であることに間違いはない。

 

 だが、しっくりこないこの妙な感覚は何だろう?

 

 朝から何だかヘンだ。飾りの模型にわけの分からない、だけどよく知っている用語を口にしたり、その呼び声にお母さんの存在を半信半疑に思ったり。

 

 わたし、いったいどうしちゃったんだろう?

 

 昨日の夜が遠い。まるで毒を盛られた棺の中の白雪姫のように、久遠の間、現実をお留守にしていたかのようだ。

 

 今は、目の前の制服が注意を引く。わたしの制服は黒ではなかったはずだ。白だった。そう、白だった。それも雪のように清い白。上下一体型で、ラインの入った制服。制帽もあって、手袋もあった。だけど手袋は片手だけで……。

 

 疑雲の中にあって尚、自分が時間に、それも、平日の朝のせわしない時間にせっつかれていることは忘れずにいた。

 

 わたしは手早くタイツを履くと、そのしっくりこない制服に着替えた。

 

 姿見に映して、やはりヘンだと思う。似合う、似合わない依然に、違うという否定の感じ。

 

 思いがけず焦がしてしまったロングヘア―をバッサリ切った時に買ったあの、お気に入りの花飾りの付いたヘアピンは?

 

 ――なかった。わたしは失望させられる気分だった。

 

 

 

 ダイニングでテーブルに着き、トーストを齧る。コーヒーは飲まない。制服に着替えたから。テレビでモーニング・ショーを見るともなしに見る。星座占いはあまりよくなかったが、天気予報は晴れを伝えた。

 

 

 

 ――全ては、用意されていた。わたしに用意されていた。頑張り屋のお母さんがいて、家と部屋があって、近くを沢が流れ、車の通りは少なく、基本的に静かだ。わたしは学校に通い、紺色の制服をリボンを付けて着る。部屋の本棚のもとには、鞄があった。黒い革製の、(まち)付きの手提げ鞄だ。

 

 わたしがそこに存在し、またわたしが所有していたはずのものは、勘違いだったのだろう。大きな、余りに大きな勘違い。ベニスはイタリアの街で、日本のわたしには関係がなく、ゴンドラは、よく分からない、舟のヘンテコバージョン。(人力で動かす!)

 

 昨夜は雨が降ったのだろう。そして夜中に雪に変わったのだ。

 

 外に出ると、辺りは一面真っ白だった。

 

 制服の上に、ダッフルコートとマフラー。それでも寒い。

 

 沢を流れる水の音がする。雪はやんでいた。晴れ空から差す陽光にとかされて、木のこずえの雪が、パラパラと落ちてきたりする。

 

「ベニスの、ゴンドラ」

 

 わたしは呟く。

 

 世界史のテストに出てくれればラッキーだけど、ベニスもゴンドラも、きっと出ないだろうなぁ。美術史や建築史だったら、可能性はあるんだろうけど、そういった科目はわたしのレベルではないわけで。

 

 ハァ。

 

 吐く息が、白かった。

 

 海外旅行なんて行ったっけ? わたしが小さい頃? ひょっとして、親たちだけで行ったのかも。(わたしは?)

 

 

 

 人間にとって記憶は全てだ。記憶がその人をその人たらしめる。たとえどれだけいぶかしい思いを持とうが、記憶を否定しようとすることは、自分を巻き込む。しかし自分を否定することは出来ない。記憶に準ずることは必定だ。

 

 全ては、用意されている。人生とは、そういうものだ。わたしの思いが、夢に、理想に、まぼろしにあっても、生きるのは現実だ。そして現実はここだった。今わたしの立脚している、ここにしかなかった。

 

 

 

 だけど、それはひょっとすると、時として――あるいは恒常的に――馴染まないものを無理にあてがわれるように、悲しいことなのかも知れない。

 

 

 

(終)



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Page.67「オークの木の下で」

 

 

 

 スゥ、と、息を吸う。目を瞑って。

 

 顔を上げ、目を開いて帽子のつば越しに空を見上げる。

 

 どこまでも青く、広い、夏空だ。カンカン照りの夏空。ほとんど透明の淡い雲が、優しい幽霊のようにゆっくりと流れている。

 

 首に巻いたタオルで汗びっしょりの顔周りを拭う。額や、首元。いくら拭いても、汗は止まりそうにない。

 

 ――サッとわたしのすぐそばを、影が駆け抜けていく。ひとつ、ふたつ。風を切るその颯爽とした様に、わたしはちょっと驚く。

 

 まず、ワンピースを着た少女――わたしより小さいが、小学生くらいだろうか――が行った。そしてすぐ後を、一匹の犬が追いかけた。毛の長い図体の大きい犬だった。

 

 あっという間に、少女と犬は彼方へ向かって小さくなってしまった。

 

 映画のワンシーンじみた、ずいぶん麗しく微笑ましい場面に出くわしたものだ。

 

 しんみり感慨に浸っていると、後ろの方から、亡者の呻きに似た声がうっすらと聞こえてきた。わたしに呼びかけているようだ。

 

「アリスちゃ~ん……」

 

 今にも消え入りそうなほど弱弱しい声。

 

 振り返ると、ちょっと離れたところに、先輩がいて、ぜえぜえと肩で息をして、膝に手を突いてうなだれている。ボーダーの半袖シャツに、短いパンツ。その下はレギンス。トレッキングに来ているのだ。

 

「アテナ先輩、でっかいバテバテですね」

 

 おおむね同じ格好のわたしの優越を込めた言葉に、しかし先輩は特に反応を示さず、少し顔を上げて、ハァ、とよく分からないため息を吐くだけだった――たいそうお疲れのようだ。

 

「無理もないですね、かれこれ小一時間は歩きどおしですから」

 

「そうね。ちょっと休憩したいわ」

 

「そうしましょうか」

 

「賛成~」

 

 ちょうどそれほど遠くないところにオークの巨木があったので、わたしたちは合致してその陰で一休みすることにした。

 

「飲み物はありますか?」

 

「うん。持ってきてるわ」

 

 わたしはちょこんと下草の上に座ったが、アテナ先輩はぐったりと背を樹幹に持たせている。

 

 普段ウンディーネであるわたし達は、今日お休みで、また天気がよいということで、泊まりの予定で遠出に来ていた。暑いからと仕事の他はすっかり冷房の効いた部屋に引きこもっていたわたし達は、何となく意気投合して、運動がてら徒歩旅行に出かけようと話し合った。

 

 ところが、このザマである。

 

 暑さを避けて家居にナマったわたしでさえ疲れを否めないのに、もともと虚弱体質気味で、汗をあまりかかないアテナ先輩は、萎靡沈滞してしまっている。

 

 盛夏の大自然に迂闊に飛び込んで、もはや干からびてしまいそうだった。

 

 喉を潤してホッと息を吐いてまったりしているその様は、家でホットコーヒーなどに口を付ける時とてんで変わるところがない――ただの小休止だというのに、完全にリラックスし切ってしまっているのだ!

 

 やれやれ、とこの先の道のりを予想していささかの憂慮を抱くと同時に、木漏れ日の揺れ動くこのオークの木陰の居心地のよさに、わたしはすっかりくつろいでいた。縦に裂けた灰色の樹皮。鋸歯が丸みのある波形の葉。夏なのでまだ青いが、やがて色付いて落ちるドングリ。

 

 激しかった夏日の暑熱は、今は巨木の群葉に遮られて、汗は、だんだんと引いていった。

 

 木の枝に、汚れて濡れたタオルを掛けた。ちょっとの間では完全に乾くことはないだろうが、多少は汗の水気を飛ばすことが出来るだろう。

 

 それまでの忍耐と苦行の時間の後で、今は、とても落ち着ける時間だった。休息であり、恢復であった。そよ風のささやきや小鳥のさえずりが聞こえ、雲の足取りが目に見え、時間の歩みを忘れそうだった。

 

 わたしは無意識の内にウトウト舟を漕ぎだしたが、即座にリカバリーした。

 

「――ッ! アテナせ……」

 

 時すでに遅し。

 

 アテナ先輩を確かめたが、案の定、旅立ってしまっていた。

 

 眠りこけているのである。

 

 先輩は、すやすやと静かに寝息を立て、背を木に預け、やや俯き気味に、そういう風に造られた像のように、優しいしじまに安んじている。

 

 よっぽど疲れて、またよっぽどリラックスしていたのだろう。わたしは揺り起こしたりせず、そっとしておこうと思った。

 

 ――そよ風にサワサワと揺れるライラックの前髪を見ていると、起こすのが不謹慎に思えさえした。

 

 先輩の隣で一人取り残された気分のわたしは、幾分か当惑して、ひざを抱いた。

 

「はぁ~あ」

 

 先輩が聞いていないからと、あえて大げさにため息を吐いてみる。

 

 だが、特に意味はない。深呼吸と同じものだった。いわば心のストレッチだ。

 

 初めわたしも寝てしまおうかと考えたが、やめにした。起きていないとという、そこはかとない義務感があった。その義務感は、例えば親が外出してしまった家で留守番している時と全くそっくりのものだった。頼まれたわけではないのに、一人で勝手にやる気になって、やっている。

 

 ――そういう感じだった。

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、驚くほど体が重かった。体重がましたというか、機械に錆びが回ったように、動きがかたく、ギシギシ軋むようだった。

 

「起きましたか?」

 

 滲んだようにぼやけてはっきりしない視界が、だんだんと鮮明さを取り戻していく。辺りはまだ明るかった。明るかったが、空に浮かぶ雲の陰影が濃く、また太陽がやけに黄色く、淡かった。夕方……?

 

「おはよう――っていうには、ちょっと遅すぎるかしら?」

 

「でっかいお寝坊さんですね、アテナ先輩」

 

 薄暗い木陰で、アリスちゃんが隣に座っている。イタタタ、とわたしは痛む肩を持って姿勢を直す。

 

「どれくらい、寝ちゃってたんだろう」

 

 アリスちゃんが言うには、わたしは二時間も座った状態で寝ていたとのことだ。わたしは仰天して、そして恥じた。

 

「その間、ずっと起きてたの?」

 

「二人揃って寝るのは、でっかい不安だったので、ハイ、起きてました。足が痺れてピリピリします」

 

 アリスちゃんは、警察官よろしく敬礼して見せる。うんざりしていないのだろうか……?

 

「異常ナシ、です」

 

 わたしは嬉しかったが、何だかいたたまれない気分だった。

 

 わたしはアリスちゃんの敬礼をやめて下ろした手を掴み、握り締めた。そうすることでわたしの思いが伝わってくれればいいと願ったが、きょとんとしてしばらく後、にっこり笑ってくれたその顔を見て、胸を撫で下ろすことが出来た。

 

「さぁ、行きましょう」

 

「はい。でっかい日が暮れちゃいます」

 

「涼しくなって、歩きやすくなったんじゃない?」

 

「そうですね」

 

「宿までは後どれくらいだっけ?」

 

「後三十分くらいですね」

 

「三十分……結構タフね」

 

「途中で郵便馬車があれば、乗せて貰いましょう。なければ、でっかいファイトです」

 

「ハハ……まぁ、こういうところでは、致し方ないわね」

 

 

 郵便馬車は、あまり心当てにしなかった。夜が近いので、アリスちゃんが持ってきた携帯ランタンに火を灯してくれた。わたしは方位磁石と地図を持って、ちょくちょく位置と方角を確かめた。(アリスちゃんは、わたしのナビをそれほど頼りにしてくれなかった)

 

 普段ゴンドラに乗ってばかりで、歩くことを疎かにしていたツケが返ってきたようで、何となく反省させられる気分だった。

 

 道中、一人の少女と一匹の犬を見つける。ワンピース姿の、小学生と思しき少女。毛の長い大型の、行儀のよい犬。家に帰るのだろうか。

 

 旅行に来ていることが見え見えのしっかりした装備のわたしたちと違って、ラフで清楚で、また微かに儚さを帯びた少女のその雰囲気は、ロマンティックで思わず見とれてしまった。

 

 おっと、今度はアリスちゃんに遅れないようにしないと!

 

 

 

 暮れなずむ夏の日が、褪せたオールド・ブルーの夕空に、赤々と輝いていた。

 

 

 

(終)



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Page.68「新しい日々よ、来たれ」

***

 

 

 

 ある風景――今、わたしが眺めている、手摺のある海岸線の道路からの、海の彼方までずっと続く一帖の風景

 

 

 広い風景だ。凪いだ水面に、港湾の街並み。晴れた空には綿雲。そして、星間連絡船と、浮島。

 

 

 何となく、その風景ははっとさせる色合いだった。全てが調和して、そしてそれぞれ際立っていた

 

 

 日光を受けてまばゆいほど皓々と光る白壁の建物。グラデーションを帯びた海原と空

 

 

 沖合には風力発電の風車が、無風の今はただ佇んでいるばかり

 

 

 秋の深まりに葉の色付いた草木を所々に茂らせている岩塊の浮島。その様は、いわば墜落しない隕石が――墜落しない隕石などないけど――低い空で惑星になって、アクアと仲良しになったみたいだ。

 

 

 サラマンダーの居場所。天候を制御する巨大炉の冷却のための水が、排出され、滝となって、浮島より流れ落ちている

 

 

 ふと、それまで凪いでいたところに、風が立つ。フワッと、強めに

 

 

 風車のはねが、目覚めたように、ゆっくり回り出す

 

 

 すると、わたしが今見ている風景が、風の手によって起き上がってくる。にわかに立体感を帯びてくる

 

 

 浮島のそばをかすめるように飛行する連絡船。それぞれ左右に付いている、空力を意識した魚の腹ひれに似た大きいフィンと、ラジエターファンを覗かせるエンジン。まるで連絡船は、空を泳ぐ機械の魚のようだ

 

 

 浮島の滝の、流水の帯が、風に煽られてうねる。静かだった海原に、波が細かく立ってざわめき、浮島の『しぐれ』に波紋がポツポツと浮かぶ

 

 

 冬服のセーラー服――ウンディーネの制服のポンチョ・コートと、スカートの裾が、風にフワッと捲られそうになり、わたしは慌ててサッとスカートの裾を手で押さえる。制帽は――そばに置いてある

 

 

 だが、風がやめば、元通りになる。風景は奥へと退き、平面的になる

 

 

 頭上を厚い雲が、「どうしたの」、と、わたしの顔色を窺うように覆い、辺りの陰翳が濃くなる

 

 

 心にポッカリと空いた穴。木のうろみたいに、誰にえぐり取られたのかてんで分からない、災禍と不幸の穴

 

 

 風が吹き込めば、寒いし、また痛い。亡者の声かと思ってしまうほど空恐ろしい音が、責め付けるように、また慨嘆するように鳴る

 

 

 一片の紅色のカエデの葉が、わたしのもとまで漂ってくる。浮島の木より落葉したのが波に乗って漂着したようだ

 

 

 わたしは前かがみになって、手を伸ばして拾う。真紅に色付いたカエデ……綺麗と思い、そばの制帽に飾り付けるようにして添えてみると、しっくり納得が行くようだった

 

 

 純白の制帽に、アクセントとなる紅い飾り……大人びた紅。わたしがまた付けたことのない、いずれ付けたいと願っているルージュと同じ色

 

 

 大人になったら――プリマになったら――アリシアさんと同じところまで行けたら、その時に、ルージュを付けようと思っている

 

 

 思い返せば、長いブロンドの髪の、そのかぐわしい薫香が香ってくる。アリシアさんの香りだ

 

 

 それまでは、子どもとして、子どもらしく、ナチュラルに

 

 

 パッと指を離すと、カエデはヒラヒラと翻って舞い、落ちていった

 

 

 陰を差していた頭上の雲が遠のき、日の光が復活する。海原の照り返しで、わたしは思わず目がチカチカする

 

 

 アリシアさんのところまでは、いったいどれだけの試練と苦難があるのだろう? 考えて、わたしは気が遠くなりそうだった

 

 

 いつまでわたしは子どもで、未熟なのだろう。半人前(ペア)の手袋はいつ外せるのだろう。

 

 

 心に空いたうろが闇を抱いて冷え込む。憂いが起き上がる。恐れ、不安。気後れと自罵、自嘲。尻込みし、後退しようとする意志

 

 

 風車のはねが、今は止まっている。やんでしまった風。次はいつだろう?

 

 

 連絡船は彼方へ飛び去り、浮島より四方へ張り巡らされた空中のロープ・ウェーの鋼索は、まるで傷付いた空のひび割れのようだ

 

 

 だが、この風景。わたしが今眺める、この海岸線から水平線までの、冴えた色合いの風景が、わたしを支えてくれていた

 

 

 薄いヴェールがかかったように、朧気にかすんだこの風景が恵んでくれる目の喜びが、わたしを完全に落ち込んでしまうことから守ってくれていた

 

 

 失ってしまったものを惜しむのは、決して悪いことではない。だが、固執するのはよくない。失ったということは、古くなってしまったからなのだ

 

 

 幼虫が蛹となってやがて羽化した時、蛹は、ただの殻に過ぎない

 

 

 何かが古くなること、失うことは、新しい日々へ向かうことへの啓示なのだ。重力に這っていた幼虫は、やがてはねを得て宙に羽ばたいていく

 

 

 風が立つ

 

 

 風景が起き上がる

 

 

 白壁の街並み。雲の流れ。鳥たちが群れて飛んでいく

 

 

 風車が再び回り出す。さざ波がざわめく。落差の大きい浮島の滝が、直線から弧線に変形する

 

 

 わたしの目は喜びを味わう。ポッカリと空いた心の穴は鳴りを潜め、今はポカポカ温かい幸福感に満たされる

 

 

 こういう具合でいいのだ。わたしは安んじて肯定する

 

 

 悩んでもいい。憂えてもいい

 

 

 新しい日々への啓示が、わたしを導いていってくれる

 

 

 

(終)



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Page.69「髪とヘアピンと私~失くしてしまった思い出の呼び声」

***

 

 

 

 ――最近どうにも調子がかんばしくない。どう言えばいいのかよく分からないけど、何か重りをのせられたように、体も心も働きがニブい。

 

 理由は分かっている。自分でそう意識したことはないし……ひょっとすると、敢えて意識しないように、遠ざけているのかも知れないけど、とにかく、失くしものをしたのだ。

 

 かれこれ、一カ月ほど前の話だけど、わたしは、毎日欠かさず付ける、ヘアピンがあった。淡いピンク色の可愛いミニバラの装飾がされたゴールドのヘアピンで、サン・マルコ広場である日開かれた市場で偶然見つけて買ったのだ。

 

 量産品ではなかったと思う。そのお店に――アリシアさんみたいに美しい人が一人で切り盛りしていた――たった一つしかなかった。手書きの値札を見て、目が飛び出るほど高いと思わなかったし、むしろその品質にしてみれば安いくらいと思った。

 

 その時灯里を随伴していて、わたしが気に入ってどう思うか尋ねると、灯里もわたしと同じように、魅入られた様子で、わたしがモタモタしていたら、あるいは灯里のものになっていたかも知れない。

 

 わたしは機先を制されることを恐れ、財布を手に買うことにした。そもそも買うことをためらうほどの値段ではなかったのだ。わたしがシブチンで、ちょっと考えてしまった。

 

 ――長い髪がお気に入りだった。自慢だった。アリシアさんに褒めてもらった髪だ。毎日欠かさず手入れした。ブラシは動物の毛で出来たいいものを使ったし、ツバキ油を付けたら、天使の輪が光明を映して出来た。鏡や透明度の高いショーウィンドウがあれば、そこに映じる自分のプロポーションと合わせて髪を眺め、我ながらうっとりとしたものだ。

 

 その髪をバッサリ断つことになった。ある日のことだ。バーベキューをしようという話になった。灯里、後輩ちゃん、アリシアさん、晃さん、アテナさんのみんなで企画して、当日、天気に恵まれて、おいしい食べ物でお腹を満たそうと、わたし自身も楽しみにして参加した。

 

 そこでうっかり熱々のグリルに長い髪が触れた。チリチリと異臭がし、わたしはすぐさま察知したが、ほとんど気絶寸前だった。焼けた毛先は見るに忍びない惨状で、その日の熱気と相まって、かなりの量が焼けてしまった。

 

 みんなのいる状況で、その珍事が起こり、その時空気がカチンと凍り付いた。わたしは我慢出来ず、わけの分からないジョークで場を濁し、帰ろうとした。

 

 だが、優しい灯里と後輩ちゃんが付いてきてくれて、姫屋のわたしの部屋で、どうしたものかと鳩首合議した。わたしは確かに友達の優しさに謝意を感じていたが、内心で一人ぼっちになって泣き叫びたい気持ちを抑えないといけなくなり、ストレスを感じたし、また、彼女らがわたしと違って無傷の髪でいることに、やりきれない不公平さを覚えた。

 

 結局、元々の状態に近い形で治めようと、焼けたところの長さで揃えて切ってみた。すると、ロングヘア―がミドルヘアーになった。灯里と後輩ちゃんはとてもいいと絶賛してくれたが、わたしは白々しく思う気持ちでいっぱいだった。堪えている涙は今にも溢れそうになった。わたしは強いて満足し、全然落ち込んでいないことをアピールすると、二人を帰した。

 

 その後、延々と泣きまくって、体の水分を涙だけで排出し切ってしまうほどだったことは言うまでもない。

 

 ある程度すっきりすると、わたしは、未練がましい自分の間に合わせに過ぎないミドルヘアーに別れを告げることを心に決めた。翌日美容室に行き、短くして欲しいと頼んだ。ためらいは毫末もなかった。

 

 ――最初付けていたのは、大したヘアピンではなかった。量産品の、取るに足らないものだった。

 

 短い髪にしたのはいいが、中々しっくりこなかったので、自分なりに、結わうとか、束ねるとか、いろいろ試行錯誤した結果、辿り着いたのが、ヘアピンだった。ショートヘアーに金属を付けると、何となくいい気がした。気に入ったとはいいがたいけど、それまでの不満がひとまず軽くなり、落ち着いたという具合だった。

 

 その仕方なく受け入れていたショートヘアーをこの上なく好ましいと思えるようになるアイテムが、ミニバラのヘアピンだった。

 

 ある朝、いつも片付けているところにないことに気付いた。大事にしているものなので、そうでないもののように雑多に置いたりはせず、かといってわざわざ金庫に入れるなんてこともバカバカしくて出来ないので、机の引き出しのスペースに安置していた。

 

 休日は別だが、朝はいつもせわしない。その日は休日ではなかった。お気に入りのヘアピンをなくしたことに動揺したけど、ずっとオロオロしているわけにはいかないので、他のどうでもいいヘアピンを付けて出かけた。灯里や後輩ちゃんに会ったが、異口同音にわたしのヘアピンのことを尋ねた。――わたしが訊きたいくらいだった。

 

 仕事を終えて帰ったら、やにわに部屋のあちこちをひっくり返して探した。ヘアピンは……なかった。

 

 取りあえず見つかるまでの間、代用になるものはないかと探して、何となく関心を惹くヘアピンを見つけたので、買った。桜の花と枝葉を(かたど)ったヘアピンだ。ゴールドじゃないのが、面白くなかった。なにより嫌だったのは、量産品であることだった。わたしはたくさんある中から買ったのだ。オンリーワンではないということが、これほど不服に思わせるとは、わたし自身、驚いた。

 

 ――わたしの日常に起きた、波のうねりと、凪。成るほど、波が静まった日常は一見、平穏に見えるかも知れない。しかし、水面下では蠢きがあった。諦念出来ずくすぶるわだかまり。未練と悔恨を断ち切れないイライラ。

 

 例えて言うなら、消化しにくい、あるいは消化出来ない異物が、胃袋の中でずっと残留し続け、胃袋がその処分に困っている感じだ。逆流させて口から吐き出してしまえば、楽になれるが、あいにくその異物は、重たく――余りにも重たく、胃袋より上へは返せない。しかし消化管を通らず、排出もまた出来ない。まるでそれ自身に意志があるかのように、その異物は、生きているようにヒトの器官の作用に抵抗し、解消されなければ、流出もせず、ただ胃酸のたまりの中で泳ぎ続け、毒素を放出する。

 

 自分で、分かる気がする。多分、一種のメランコリー……ウツなのだと思う。時間が経てば、よくなって、最後には気にならなくなって、完治するのだと思う。

 

 わたしの中の異物は、長い時間をかけて風化していくのだろう。光の粒子のように細かい欠片になって散っていき、やがて消える。

 

 調子は実際、かんばしくないし、晃さんや灯里から具合を心配されることが多くなった。わたしはだけど、苦笑いと共に「大丈夫」とそらぞらしい空元気で返すだけだ。本当は苦しいのだ。

 

 わたしはわだかまりを抱えている。胃袋に始末の悪い異物を持っている。そして今もまだ、過去に縛られて、失くしてしまったお気に入りのヘアピンの行方に思いを馳せている。思いを馳せて、哀しい気持ちになる。

 

 わたしがわたしの内側に負うこの病じみたものは、だけど、決して悪いものではないという認識があった。確信さえしていた。

 

 わたしは、自分の思い出の影を探し続け、さまよっているのだ。

 

 ――そういう風に考えることが、時々ある。

 

 

 

(終)



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Page.70「その涙は風に乗って」

***

 

 

 

 ツーッと、頬に一筋の涙が流れた。目を瞑って、その流れていく感覚にじっと集中した。慰めと励ましを偲ばせる温かい涙が、乾いた頬の上を緩やかに滑っていく。

 

 ――しかし、いったい何の涙だったのだろう?

 

 目をゆっくりと開き、空を見上げる。晴れ空。海岸線より望む。

 

 晩夏と初秋をちょうど区切る、ぽかぽかして凄しよい一日。半袖のセーラー服でちょうどよいと思える気温と湿度。やや汗ばむ熱気と、涼しい、落ち着かせる秋風。太陽の光は最早、地面から照り返してこず、ただ地面の上でたゆたうばかり。

 

 グスンと洟をすする。涙の跡を指の背で拭う。

そして濡れた指を見て、やはりいぶかしい思いに駆られる。

 

 空――盛夏にはあれほど近かった入道雲で一杯の空が、今では高くなってしまったものだ。しみじみと、季節の移ろいを感じる。空青の海を、雲の群れが悠然と泳いでいく。

 

 あぁ――

 

 わたしは追い風を背に受ける。それほど強さのない、柔らかい追い風。しかし髪はその流れにのってなびき、頭に被っている制帽は危うく飛んでいってしまいそうになる。

 

 ズキズキと痛む感じがする。胸の中だ。息が苦しくなるほどではないが、確かに痛いと感じる。

 

 目を瞑り、片手でセーラー服の胸のところを握り締める。

 

 ――痛みの手触りがない。痛みは胸の奥にあるようだ。

 

「大丈夫か」

 

 ――そう尋ねる声がする。ぼんやりと、回想の遠いところから。

 

 晃ちゃんの声だ。

 

「アリシア、アリシア」

 

 粘り強く呼びかけ続ける晃ちゃんは、わたしの肩に手を置き、軽く揺さぶる。

 

 わたしは小さくしゃがんで、嗚咽を漏らして泣いている。どこだろう? たぶん、公園かどこかの、隅っこだ。人目の届きにくい。木か何かの物陰。じめじめしてまた冷やかで、わたしは出来ればいたくなかった。だが、そこにいないといけなかった。

 

「アイツ等はいなくなったよ」

 

 ――自分では釈然としないが、なぜか目立つらしいわたしは、いじめっ子のターゲットに度々なり、毎度心身共に傷付けられていた。わたしが気に入っている自慢の長い髪が気に障るのか、よく引っ張ったりして、いたずらされた。

 

「……ウッ、ウッ」

 

「わたしがやっつけてやった」

 

「……ごめんね、晃ちゃん」

 

「お安い御用だって。謝る必要なんかないよ」

 

 肩を掴むその手が優しい。顔を殴ったり髪を引っ張ったりすることのない手だ。温情に満ち溢れた愛おしい感触がした。

 

 ニカッと笑いかける、キャップを斜めに被った晃ちゃんの笑顔が、涙が滲んでよく見えない。

 

 だが、ぼんやりとは見える。へっちゃらだと彼女は意地を張って見せるが、わたしと同じように、体のあちこちに痛々しい青アザを付けている。激しく格闘したのだ。

 

 彼女だってわたしと同様、痛いだろう.

悲しいだろう。ヒトの中に潜む悪魔に怯えただろう。だが、彼女はわたしの肩にある手を引き、今度は乱れた髪に触れる。直してくれるみたいだ。

 

 その健気さに、目の前がより一層、ぼやけて不明瞭になる。

 

 ――目を開くと、わたしは、茫漠たる空間の広がりを感じた。波の音が失せ、耳には風のささやきが微かに聞こえるばかりだった。わたしを囲む全体は清々しいライト・ブルーに染まり、白いもやもやがゆっくりと大きい円を描いて廻っている。足踏みをすれば、強い反発と弾力を感じ、歩こうとすると、ぎこちない恰好になる。

 

 不思議だったが、なぜか安らぎを感じる空間だった。ひょっとすると、空を飛んでいるのかも知れない。ふと、気付いたら、頭の制帽がなくなっている。

 

「アリシア?」

 

 幼い声がした。わたしに呼びかけている。声のあるじは一片の雲の向こうにいるようだ。だが、その影にまぎれて見えない。だが、雲は段々と薄くなっていき、遮っている展望を開く。

 

 彼女(・・)は、キャップをわざと斜めに被っている。そう被ることが好きみたいだ。わたしは思わず微笑をこぼす。するとプライドに障ったのか、彼女はムッとして見せる――今と少しも変わらないキリッとした眉間が、とても彼女らしい。

 

「この帽子は、お前のものだろう?」

 

 幼い頃の姿なのに、まるでずっと馴染みだったようにフランクにしゃべりかける彼女は、白い帽子を差し出す――わたしの失くした制帽だ。

 

 歩くのは危ないと制止する前に、制帽はふわりと宙に舞い上がってクルクルと翻り、風の流れに乗って飛んできて、わたしは即座に構えなければ、うっかり取りこぼしてしまうところだった。

 

「ありがとう、晃ちゃん」

 

 そう礼を述べた時、彼女はさっきより遠くに退いたように見えた。ただでさえ小さい彼女が、更に見えにくくなった。

 

――どうして苦しい時、決まって彼女はそばにいてくれるんだろう。

 

 問いかけてみたい気がしたが、反面そうするべきではないと制止する自分がいた。

 

 わたしは沈黙した。

 

 すると、晃ちゃんは踵を返して、手を上げ、別れの言葉を告げた。

 

 わたしも手を上げて、返した。晃ちゃんは、見えなくなった。

 

 ふと、周りを巡る雲が、動きを止めたかと思うと、ストンと落下し、そして跳ねた。

 

 わたしはびっくりしたが、その短い間に、最初にいた海岸線に戻っていた。

 

 日の光が弱くなって、また影法師が引っ張られたように伸びていた。

 

 手に制帽を持っていた。わたしは空いている方の手で、胸をポンと叩いてみる。すると、その衝撃が表から裏へ――胸から背中へ、スッと貫通した。その間に違和感はなかった。前まであったはずの痛みは、取りあえず治まったようだ。

 

 ――回想と、そして空想じみた境域で出会った幼馴染であり、親友である彼女の昔の姿を見て、懐かしい思いに駆られるのは自然のことだった。

 

 そういえば、あの頃の話――わたしが惨めで、たくさんこっぴどい目に遭った頃の話は、彼女としたことがない。いい思い出ではないので、意識して封印していた。

 

 だが、やっぱり口にしない方がいいのかも知れない。あの頃のことは、いわば古傷に似通っていて、わざわざ見せないといけないものではない。折に触れて、ズキンと痛むものだ。しかし古傷には、彼女の優しさが癒してくれた跡がじんわりとまだ命脈を保っている。

 

 その嬉しさ、愛しさが、わたしの口を軽くしようとするが、わたしは努めて自制する。

 

 ――また涙が流れる。一筋だけ。頬を温かさを伴って伝っていく。

 

 安心させるが、同時に、微かに悲しくもさせる涙だった。

 

 わたしは今度は、拭わなかった。涙は頬をずっと伝うと、顎に移り、喉を下りていく。

 

 ――初秋の風が吹き抜ける。涼しい、心地よい物寂しい風。

 

 その風が、涙を乾かしてくれるだろう。

 

 

 

 ――わたしの、安らぎであり、望みだった。

 

 

 

(終)



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Page.71「もしもし」

***

 

 

 

 拝啓、――様。

 

 厳しい冬の寒さがやっと和らぎ始め、鳥のさえずりがさやかに聞こえ、萌え出る草木の色が目に見えるようになりました。褪めていた日の光が煌めきを帯び、その恵みを浴びる全てがキラキラ、ピカピカと輝いています。

 

 そちらでも同じく、新しい季節があちこちでほころび始めていることでしょう。

 

 この度は、ご結婚おめでとうございます。

 

 お美しい方を連れ添われて、わたしのように冴えない女は、ただただ恥じ入り、かしこまるばかりです。

 

 何年にも及ぶ恋愛の末のゴールインということで、末永くお幸せにお過ごしください。心より祝福の拍手をお送り致します。

 

 またお会い出来たら嬉しいと存じます。ぜひゴンドラに乗りにARIAカンパニーにおいでください。心待ちにしております。

 

 よく通うお店から心ばかりの品を別途送らせていただきます。粗品ですが、どうぞお使いください。

 

 書面にて、お祝い申し上げます。

 

 敬具

 

 火星(アクア)歴一五〇年三月五日

 

 水無灯里

 

 ――様

 

 

 

(可愛らしいデザインの二つ折りの手紙(メッセージ・カード)は、大きい封筒に入って、或るダブルベッドがある寝室の、小さいテーブルに置かれている。そばには箱が開いた状態であり、その箱にはワレモノ注意のシール。

 

 中身は、食器だった。新婚夫婦が使う、ペアの食器だ)

 

 

 

 

 

 

 ――えっ?

 

 いえ アハハ ちょっと鼻の具合がよくないんでしょうね 最近すごく寒いから

 

 泣いてるように 聞こえますか? ――そう言われると たしかにわたし 悲しんでいるかも知れません

 

 ――なんて 冗談ですよ フフッ 黙らないでください 本気にしないでください わたしは 大丈夫だから

 

 ――もしもし? もしもし?

 

 聞こえますか? わたしの声が聞こえていますか?

 

 あぁ よかった 安心しました すごく 安心しました

 

 ……さんの声 とても好きです 耳にすると 気持ちよく響きます 

 

 どういう風にかって くわしく言おうとすると難しいんですけど たぶん 答はシンプルで 要するに好きだから 気持ちいいんでしょうね

 

 ずっとこうして電話で話していたいって 思うくらいです

 

 あっ 照れくさいですか? そうですか エヘヘ 照れる……さん すごく魅力的です 

 

 すみません また鼻の具合が――

 

 ごめんなさい まだ切らないでください もう少し はひ あと五分でもいいから 話させてください じっと黙っていてくれてもいいですから 

 

 あっ いや ひとつだけ 訊かせてください

 

 また ARIAカンパニーに来てくれますか?

 

 ――来てくれる あぁ よかった

 

 本当は 分かってたんです ……さんが結婚するということ 最初は 知らなかったんですよ? ……さんに恋人がいるってことも 知らなかった だから 好きになったわたしは 喜んであなたにどんどん近付いていった

 

 ――こういう話 つらいですか?

 

 わたし まだ十四なんです そしてあなたが わたしの初恋なんだと思います だから出会って親しくなったことが とびきり嬉しかったし あなたが別の誰かと一緒になると知って 夜 寝られなくなるほど しょんぼりした 

 

 あなたの隣をわたしの居場所にしたかった でも わたしより早くあなたの隣を占有した人がいるなんて すごくすごく ショックだった

 

 いえ 謝らないでください 謝られたら わたしはますます惨めになってしまう 涙が 止まらなくなってしまう――はひ ホントは泣いているんです 悲しいのは 冗談じゃなかったんです

 

 奥さんのことは ぜんぜん恨んでなんかいません むしろすごく綺麗だから ……さんが羨ましいと思うくらいです 奥さんは アリシアさんみたいに綺麗です

 

 振られて終わった恋じゃないのが ちょっと悔しいところですけど アハハ いいんです わたし へっちゃらです 次の恋に向けて レッツゴーです

 

 ごめんなさい そして ありがとうございます ……さんと話せてよかったです 本当によかった 胸に溜まった(おり)が すべて吐き出せた感覚です

 

 はひ またARIAカンパニーでお会い出来たら と思います わたし 待ってますから

 

 奥さんによろしくお伝えください この度はご結婚おめでとうございます 近い内に お祝いのお手紙をお送りします

 

 では また今度

 

 はひ さようなら―― 

 

 

 

(終)



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Page.72「ザ・ダークネス」

***

 

 

 

 大したことじゃないはずなのに、何かに執着してしまうことが、最近多くなった気がする――

 

 

 

「悪い波が来ているわね」

 

 二人でゴンドラをARIAカンパニーの停泊所に係留しようとしている時、ふとアリシアさんが呟いた言葉だった。彼女は水平線の方を望んでそう呟いた。停泊所は社屋の最下にあり、受付がある一階を外に出て、その端のU字型の階段を下りたところにある。

 

 わたしは小首を傾げてその呟きを耳にしたけど、アリシアさんの顔を見ると――或る夕方のことだった――まるで独り言を言った風の表情で、従って、せっせと作業に従事して、そばにいるわたしに呼びかけるでもなく、言葉がみずから付帯している、応答を促す働きかけがまるでなかった。その呟きは、完全なる独り言で、わたしは、一方的に受容するしかなかった。

 

 アリシアさんがどういう思いで呟いたのか分からないが、わたしの内に、彼女の呟きは何とも言えない印象を刻み付け、そして以後尾を曳くこととなった。

 

 

 

 ――仕事や日常で、どれだけ小さいことであっても、不運があると、どうしてか、無用に長々と引きずるようになった。例えば、お気に入りのシャーペンをうっかり落として折るとか、髪の毛のセットがうまく行かないとか、親しいはずの男の人にしかつめらしい敬語を使われるとか、そういうことがあると、くよくよ思い悩んでしまい、ちょっと落ち込むなどで済めばまだいいのだが、胸が悪くなったり、食欲が減退したり、目がカサカサに乾くほど表情がこわばって制御できなくなったりすることがあって、そうなってしまえば病的で、端的には、ウツと言わざるを得ない。

 

 悪い波が来ている。わたしのところに来たのだ。アリシアさんは決してわたしの変化を示唆したわけではないと思うが、結果としてリンクしてしまうことになった。

 

 萎えてしまっても、動いてしまえば平気で、仕事は出来るし、会話のキャッチボールだって平滑で、友達を冗談で笑わせることが出来る。

 

 ――だが、一度引いても、悪い波はまた押し寄せてくる。

 

 不運、沈滞、恢復――というサイクルを繰り返している。恢復が含まれていても、結局また元に戻るのだから、ひょっとすると、恢復は省いてしまうのがいいのかも知れない。正解は、不運と沈滞の連続だ。ウツとはそういうものだ。

 

 或る夜――意気阻喪して眉間に皺を寄せて雑魚寝するようにその辺の床に寝転がって、起きた夜。デスクランプのナイトランプがぼんやりと浮かび上がらせる屋根裏部屋の空間で、わたしは半睡の状態で目線を泳がせる。その時のわたしは、時間を逸れたところにいて、意識はかき混ぜたようにはっきりしなくて、鏡を見たら、あまりの醜悪さにうんざりするだろうと思えるほど、クサっていた。

 

 息苦しさを感じる体に力を入れると、のっそりと鈍重に動き、その時息をするのに、歯を食いしばってしまうし、肺がキリキリと変にりきんでしまう。

 

 

 

「――アリシアさん、悪い波って何ですか?」

 

「そうね。言うなれば、世界に渦巻く悲しみや嘆きや怒りの、無作為の断片の集まり、かしら? ――世界では、常にそういうものが湧きおこっているのよ」

 

「――そうかも知れません。いえ、そうです。確信出来ます」

 

「わたしたちの感情は生きている。生きているから感情がある。そしてわたしたちは、流れの中にいる。時間の流れ。時代の流れ。歴史。ヒトの進歩と退歩」

 

 じっくり聞いていると、胸が苦しくなって、わたしはキュッと制服のリボンのところを握り締めた。

 

「流れの中には、あらゆる感情が貫いている。喜怒哀楽。わたしたちが笑ったり泣いたり、喜んだり悲しんだりするのは、その流れの中にいるから」

 

 アリシアさんは美しかった――本当に美しかった。海岸線より彼方を望むその横顔は、長い髪に隠れてほとんど見えないけど、優美で、高雅で、気品に満ちていた。

 

「感じなければ、その時は、外れてしまっているの、外側に」

 

「外側」

 

 ――そう聞き返したが、わたしには思い当たるイメージがあった。はっきりとしたイメージだ。すなわち、あの夜の目覚め――鈍く、苦しい、砂を噛むように味のしない、死人同然の目覚めだ。

 

「えぇ、流れの外側よ。灯里ちゃんには、信じにくいことかも知れないけど、実際にあって、時々、誰かが迷い込んでしまうの」

 

 

 

 ――クラクラと立ち眩みがする。わたしは、そうだ。迷い込んでしまったのだ。その、感情の流れないという、外側に。

 

 癒されない悩める魂の呻きが、わたしの頭の中に亡者のように不気味に響く。

 

 頭痛がする。だが、慣れてしまった。いつものことだ。

 

 幸福と充実を忘れ、苦痛と慨嘆を覚え、苦過ぎるほど苦いその杯を口いっぱいに嘗め尽くし、灰色の達成感と共にため息を吐く。

 

 わたしは、だが、その杯の底を凝視する。キラリと光る飲み残し。そこにかつての明るさと温もりが儚く消え消えに映っている。

 

 

 

 ――わたしの手は、何か探している。この苦境と決別するための何かだ。

 

 

 

(終)



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Page.73「夕日の恋人」

*** 

 

 

 

 ――ねぇ、今から海に行かない?

 

 ――えっ?

 

 昼間の海水浴でたっぷり羽目をはずしてクタクタだというのに、彼女はまだ遊び足りないのだろうか。

 

「いいけど」、とわたしは答える。「もうすぐ日暮れだよ?」

 

「大丈夫だって、真夏の日脚は長いんだから」

 

 空調のよく効いた室内は冷涼だ。シーリング・ファンがそれほど速くない回り方で周り、エアコンから送り出される冷気を室内にうまく循環させている。日暮れとはいえ、外は依然、湿気を帯びた熱気で充満していて、ただ立っているだけでも汗が出てくる。

 

 ――わたしたちは、海辺のホテルの上階の部屋にいた。それぞれ個別のベッドにあられもない恰好で寝そべっている。ARIAカンパニーのギャレットのベッドよりうんと質のよい柔らかいベッドで、なんというか、最早埋もれてしまいたくなるほどだ。

 

「藍華ちゃん、元気だね」

 

「灯里が大人しすぎるのよ」

 

「そうかなぁ」

 

 うつ伏せのわたしは、枕に頬を押し付ける。そして今頃ネオ・ヴェネツィアのみんなはどうしているだろうかと思いを馳せる。

 

「ほら、夕日がおいでって呼んでる」

 

 広い窓から見える、彼方のオレンジ色の光を指さして、彼女が嬉しそうに言う。

 

「藍華ちゃんって、意外とロマンチストだよね」

 

「恥ずかしいセリフ禁止!」

 

 室内灯はまだ付けていなかった。薄暗くなってきたから付けようと思いかけていたところだった。――帰ったら付けよう。これから出かける。

 

 鏡台がひとつしかなかったので、わたしは、まず藍華ちゃんに譲り、その後に簡単に髪を整えた。海水浴の後に軽くシャワーで流して、乾かしただけなので、あまり綺麗ではなかったが、ちょっとの間の散歩に行くだけなので、特に気にする必要はなさそうだった。

 

「ひょっとしたら、いい人に出会うかも知れないよ」

 

 藍華ちゃんがニヤニヤして言う。

 

「からかわないでよ。きっと、いないよ」

 

「何でそう思うのよ」

 

「さぁ、根拠はないけど……」

 

「ないんでしょ」

 

「ないよ」

 

 藍華ちゃんが自分のベッドに座り、鏡越しにわたしを見ているように思う。視線を感じる。

 

「ただ――」とわたし。「今こういう風に、ラフだから、期待しないのがいいと思って。相手があんまりステキだと、自分がみすぼらしいのが申し訳なく感じちゃうから」

 

「勝てない博打はしないってわけね」

 

「よく分かんないけど、そういう感じだと思う」

 

 行きたいなら一人で行けばいいのに、と冷やかに思う自分がいたが、そういう利己心は決して表に出さないようにしていた。確かにフカフカのベッドで、甘やかされたネコのように過ごしていたいという気持ちはあったが、かといって、友情をなおざりにするわけには行かなかった。

 

 わたしたちは同僚で、友達なのだ。

 

 ブラシでといた髪を手でそっと撫でる。うん。変に跳ねたりするところはない。すごく地味にまとめたけど、恋人とデートするわけじゃないし、取りあえずはこういう具合でオーケー。

 

 わたしは振り返り、藍華ちゃんとアイコンタクトを取った。わたしたちは互いに頷き合った。

 

 部屋を出、施錠し、フロントで鍵を預ける。

 

 

 

 ホテルのエントランスを出ると、客待ちのタクシーの乗務員とフロントガラス越しにたまたま目が合い、何となく会釈した。

 

 舗道とは別にある、緩い勾配の、シュロの木が点々と植わる芝生の坂道を下る。

 

 外は思いのほか、蒸し暑さは和らいでいた。汗が出ないことはないが、鬱陶しいほどではなく、じっと我慢出来ないことはなかった。

 

 車の通る道路を、隙を見て渡る。

 

 向こうに、風に葉の揺れるヤシの並木が、白い防波堤に隠れて見える。

 

 階段を下りると、砂浜だ。踏み始めはフワッとしてヤワいが、あっという間に踏み固められてカチッとした感触をサンダル越しに伝える。

 

 夕日の方へ段々と近付くに従って、藍華ちゃんの気分が高くなっていくのを、そばでうっすらとわたしは感じ取っていた。

 

 それまで他愛のない話に花を咲かせていたわたしたちは、砂浜に下りると、夕暮れの海辺の風情に圧倒されて、無駄話をやめた。

 

 藍華ちゃんは欣喜雀躍した風に、身軽に波打ち際まで駆けていった。わたしはその後を追うでもなく、ただゆっくりと歩き続け、彼女の遠ざかっていく後ろ姿と、その長く伸びる影法師の彼方に、優しい夕日の眼差しを、手でひさしを作って見つめるのだった。――スキニーの七分丈のジーンズと、ボーダーのTシャツ。かわいいと思う一方で、わたしと言えば、ノースリーブのだぶついた子供じみたワンピースだ。小さい劣等感に、苦笑いがこぼれる。

 

 ――やがて藍華ちゃんに追いつく、振り返る彼女は、やっぱり嬉しそうに、満面の笑みで、何か饒舌に語るでもなく、その陰翳が濃いが、明るさに満ちた表情で、万感を表現し、伝えた。わたしは受け止め、彼女と同じくらい、嬉しい気分になった。

 

「今何時くらいだろう?」とわたし。

 

 ――わたしたちは、波打ち際に沿って並んで歩いていた。波打ち際は緩いカーブを描いて遠くまで続いている。

 

「さぁ、腕時計は?」

 

「部屋に置いてきちゃった」

 

「ホテルを出て、十分も経ってないんじゃない? ――何? 用事でもあるの?」

 

 藍華ちゃんが、気遣う素振りを見せる。

 

「ううん」とわたしは首を左右に振る。「夕暮れなのに、夕暮れじゃないくらい明るいから、時計と見比べたくてね」

 

「まぁ、そうね。日陰にいたら時間相応と思うけど、こういう風に脚の長い夏日に照らされていたら、ほとんど夜なのにおかしい、明るすぎるって、思うわね」

 

「散歩って、意外といいものだね」

 

「でしょ? 気晴らしになるし、運動になるし、いいことずくめよ」

 

「また、こうして歩きたいなぁ」

 

「歩けるよ」

 

「本当?」

 

「うん。だけど、今度は、灯里とじゃないかも知れない」

 

「えっ――」

 

 わたしは立ち止まる。

 

 少し先に行った藍華ちゃんが、振り返る。風が断つ。彼女の着るボーダーのTシャツと短い髪が、微かに揺れ、またなびく。

 

「わたしたちは女の子なのよ。本当は、こういうところは、恋人と歩くのがいいのよ」

 

「恋人……」

 

「勿論、友達だって大切だけどね」

 

「……」

 

 わたしは、ドキドキして、はにかむことがせいぜいだった。

 

 手を伸ばし、藍華ちゃんの手を握る。

 

 彼女は何を言うでもなく、小首を傾げるだけ。その仕草が、何とも言えず可愛く、そしてなぜか、泣きたくなった。

 

「藍華ちゃんって――」

 

「うん」

 

「藍華ちゃんって、ロマンチストだよね」

 

 今度は、『恥ずかしいセリフ、禁止』、というお決まりの文句は出なかった。

 

 

 

 夕日が――長く続いた一日の光が、ようやく消えようとしている。明るい空全体が、今や陰に覆われている。

 

 永遠と思われた空の青が、沈んでいく。

 

 

 

(終)



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Page.74「或るオフショット~サンドイッチ・メモリー」

***

 

 

 

 海原に架かる鉄の長く低い吊橋が遠く向こうにあって、わたしはその堂々たる様を、灰色の防波堤のこっち側から、重畳と連なって(なら)ぶテトラポッドの上方に、ただぼんやりと見ているだけだった。

 

 長袖のTシャツと綿パンという恰好で、自転車を漕いで風を切る。初夏にあって、涼しく気持ちいい感触を肌に感じる。道路には、わたしの他にサイクリングや散歩に来ている人の姿が見える。家族だったり、カップルだったり、色々だ。

 

 わたしは、ちょっと止まって、片足を地べたに着いて自転車を支え、手をすぐそばの防波堤にのせる。じっとしていても、風の流れがあり、暑く感じることはなかった。

 

 ――あの吊橋の上には、線路があり、電車が走っている。小さい電車だ。わたしはその電車に乗って、ネオ・ヴェネツィアよりこの島までやってきたのだ。ネオ・ヴェネツィアとこの島は、あの吊橋で繋がっているのだ。

 

 休みの日には、しばしば来るようにしている。特にこれといった予定のない場合は、街の一隅にある、こぢんまりとした駅で切符を買って、イヤに空いている電車の座席に座る。儲けなどないに違いない。この路線は、たぶん、ほとんどボランティア同然の運営で成り立っているのだと思う。あるいは、篤志家がいて、その寄付で持っているのかも知れない、などと想像する。

 

 一本道の高架線を行き来するだけなので、電車は無人で、しかも利用する人数が少ないので、その閑散として、ちょっと寂れた風情が、わたしはけっこう好きだったりする。

 

 島に来たら、まぁ、散歩したり、レストランでご飯を食べたり、色々とする。藍華ちゃんかアリスちゃん、あるいは二人と一緒に来た時には、また違った予定を立てることがある。今回は、レンタサイクルを借りて、軽いツーリングをすることにした。

 

 ――今日は本当に風勢がちょうどいい。わたしはちょっと疲れたのもあって、自転車を下りると、サイドスタンドを立て、暫時、休憩することにした。

 

 すぐ下でさざ波がコンクリートを舐める音がし、遮るもののない空間を吹き抜ける大風が、狭い耳のトンネルに反響してボーッと鳴り、長い髪が煽られ、細かい汗の浮かんだ額や首筋や腕に、涼感をくれる。

 

 吊橋の向こう側には、この島がカーブして伸びる先端の影。初夏の陽光にあって、白っぽくぼやけて見える。

 

 ――グゥ、とお腹が時を知らせる。そろそろいい時間だ。お昼ご飯は何にしよう。和食、洋食、中華。今、お財布がさみしいから、あんまりいいものは食べられない。飲み物は水。食べ物は……。

 

 わたしはしばらく悩んだけど、なかなかいいのが浮かばなかったので、取りあえず立てかけた自転車を起こすと、跨って漕ぎ出し、走るのと同時進行で考えることにした。

 

 ――海岸線を少し離れ、商店街じみた通りを走る。

 

 すると、わたしは一軒のお店に注意が行き、その前で止まった。

 

「チャオ」

 

 と、エプロンを付けて、長い髪を全部後ろでまとめている、額の凛々しい女の子が、ハキハキと挨拶する――わたしより年上だろうが、それほど差はないだろう。親近感を感じる。

 

 わたしはお店のガラスケースを見る。中には、何種類ものサンドイッチが収まっている。

 

「チャオ」

 

 と、わたしは負けじと同じくらい明瞭に返すと、自転車を下り、サイドスタンドを立てた。

 

 彼女は満足げにニッコリし、わたしの自転車をチラッと見た。

 

「いいお天気ね。サイクリング?」

 

「はひ。今日はとっても風が気持ちよくて、漕いでいて楽しいです」

 

「そうね。わたしも休みだったら、きっと外で過ごしてるわ。サイクリングかどうかは、分からないけど」

 

 彼女は、斜め上に瞳をやって、まるで想像する風に、そう言い、そして瞳をわたしへと戻した。

 

「さぁ、ご注文は?」

 

「サンドイッチをひとつ、ください。フツーので」

 

「ふたつじゃなくて?」

 

「……?」

 

 わたしがきょとんとすると、彼女はわたしの鼻先に指さした。

 

「顔に、お腹ペコペコですって書いてあるわよ」

 

「エェー」

 

「フフッ。ふたつにしなさい」

 

「でも――」

 

 自分の懐事情を晒すのは、あまり気が進まなかった。

 

「いいのよ。おまけにしておくわ」

 

「いいんですか? 悪いです」

 

「気にしないで。こういう風に、お互いに初めてなのに、合い口がいいことって、そうあることじゃないんだから」

 

 ――確かにそうだと思った。わたしたちは、初対面のわりに、やけに流暢に会話していた。

 

「はい」

 

 と、サンドイッチの入った紙袋が手渡される。わたしはお金を払う。

 

「また来ます」

 

「えぇ、待ってるわ」

 

 ハンドルに紙袋を吊り下げて、わたしは自転車を漕ぎ出し、そして女の子は清々しい笑顔で手を振って見送ってくれた。

 

 ――御愛想ではなかった。本心からまた来ようと祈念した。何となれば、あの女の子に借りを作ってしまったのだ。今度来た時は、たっぷり予算を財布に詰めて、いっぱい買って上げようと思った。

 

 しばらく走り、ちょうどよいシマサルスベリの木陰を発見し、そこに腰かける。飲み物はペットボトルのミネラルウォーター。

 

 空腹が高じて、口の中がまずかった。あの時わたしの顔面には食欲がくっきりとあらわれていたと思う。

 

 サンドイッチを見つめる。いわゆるフツーの、この辺のスタンダートのサンドイッチ。紫のオニオン、ピクルス、オリーブ、トマト、ハム、サラミ、チーズ、それ等の具材が、真っ二つに切られた長く丸いパンの白い断面の間に挟まれている。

 

 一口食べてみると、やっぱり中身が溢れんばかりにパンよりはみ出し、わたしは周りを汚さないように、嚙み切った後、仰向いて、口の周りの細かい具材を指で搔き集め、口内に滑り込ませる。

 

 後でずいぶん汚らしい食べ方だとオロオロし、辺りを見回して、誰もいないことに安堵する。

 

 全部食べ終わり、ミネラルウォーターで口の中を清め、満腹と幸福と感謝を感じると、わたしは、その場でくつろいで、眼前に広がる海原と空を見つめた。

 

 そして、ここである程度時間を潰したら、自転車を返却して、駅で電車に乗って帰ろうと、そう考えた。

 

 

 

 ――日が傾き、空にかげりが見え、空気がひんやりとし出した頃、わたしはすでに、無人の電車に乗って、窓際の座席から、夕空をぼんやり眺めていた。乗客は相変わらずまばらだった。

 

 褪めた青空に浮かぶ雲は、心なしかしゅんとしているように見える。まるで日暮れを惜しむように。

 

 吊橋を走る小さい電車。

 

 わたしが自転車で走った海岸線が見下ろされる。わたしがサービスして貰ったパン屋さんは、車窓との角度と距離の関係で見えない。

 

 また来よう――その日眺めた風景や、パン屋でお世話になった女の子の容姿を思い浮かべて、心中でそう呟くと、わたしはじっと、またずっと、しょんぼりしたように浮かぶ暮れかけの空の雲を、飽きもせずに、魅入られて、見つめ続けるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.75「秋に歌えば」

***

 

 

 

 フラッとゴンドラを漕いで出かけたら――

 

「すっかり秋ですね。先輩」

 

「えぇ」

 

 色付いた葉が、木の枝から外れ、ヒラヒラと舞って落ちる。

 

 並木道に挟まれたわたしたち――わたしとアテナ先輩がゴンドラに乗ってゆっくり進んでいる水路は、お陰でほとんど一面が赤と黄に埋め尽くされ、一種のランダムパターンを描いている。

 

「やっぱり人気ね」

 

 と、客席に座っているアテナ先輩が、辺りの活況を見て言う。

 

「大賑わいです」

 

 と、わたしは――オールを持ってゴンドラを漕いでいるわたしは、同様に辺りを見回して答える。

 

 ゴンドラを駆る水先案内人ばかりではない。水上タクシーに水上バス。カモなどの鳥までいる始末だ。

 

 それほど狭い水路ではなく、むしろ太いくらいで、ズラリと並ぶ木々に挟まれて、ネオ・ヴェネツィアではけっこう知られた水路だ。

 

 この水路のエリアにだけ集中して木々があるので、『森』という通称で呼ばれている。植生の貧しい古都にあって、園丁たちによって栽培された木々の風景はやはり物珍しく、『森』は年中、人を呼んで活気付いている。

 

「アテナ先輩、寒くはないですか?」

 

 ――わたしたちは、揃って冬用のセーラー服を着ていた。ハイネックで、長袖で、ポンチョコ―トを上に纏う。

 

「ちょっと寒い」

 

 と、アテナ先輩は自身を寒がるように抱いて見せる。

 

「最近、風がでっかい冷たくなりましたね」

 

「うん。水辺にいると身震いしちゃうわ」

 

「今日は、歌いますか?」

 

「そうねぇ」

 

 そう言って、アテナ先輩は片手を口元に添え、そっぽを向いて考え込む。

 

 ……。

 

 そしてウン、と頷くと、わたしを見上げた。

 

「アリスちゃん」

 

「はい」

 

「ちょっと、端っこに寄ってくれる?」

 

「端っこ?」

 

「どこだっていいの。とりあえず、ゴンドラを停めて欲しくて」

 

 わたしは諒解し、オールを使って舟の向きを変えると、水路の際の壁まで行き、そこで停止した。

 

「ちょっと休憩~」

 

 そう言って、アテナ先輩はにっこりする。

 

 ――笑って応じるのがいいのだろうか。

 

 あまりピンと来ないわたしは、「ハァ」、とはっきりしない返事で返す。

 

 ゴンドラを停めたわたしは、オールをオール留めに引っかけて、波に動かされたりしないよう、出来るだけ水路の深くまで沈めると、漕ぐ時に乗る舟端のステップのへりから足を下ろし、客席のアテナ先輩と対面する形で座った。

 

 風が絶えず吹いていて、それほど強勢ではないけれど、その力はしっかりと、秋の木に対して働きかけ、木の葉を一枚一枚、無情に、また放恣に、摘み取った。

 

 その木の葉の中には、並木のすぐそばにいるわたしたちのそばに散ってくるものがあって、真っ赤に染まったモミジがゴンドラの底板に落ちてくると、さまよう子猫が目の前に現れたように、思わず笑みがこぼれてしまうのだった。

 

「こうしていると、落ち着くわね」

 

「ちょっと寒いですけどね」

 

「まだ日差しがある内は、大丈夫よ。日差しがなくなってくると、本格的に厳しくなる」

 

「そうですね」

 

 わたしがそう答えて、しばらくすると、遠くの方より、誰かの歌声が聞こえてくる気がした。

 

 わたしはハッとして探そうとすると、無意識の内にアテナ先輩の方を見るのだった。そしてやっぱりと、合点が行くのだった。

 

 先輩は、ブーツを脱いだ両足を客席にのせ、脚部を折り曲げて倒し、両腕をソファの上部に伸ばして、その上に首を寝かせて――そういう、猫が丸くなって眠るのに似た、すっかりくつろいだ恰好で、声を細めて、ささやくように歌っていた。

 

 目を閉じて妖艶なる表情で歌うその美声に、わたしの目の前の世界は瞬く間にその広がりを失い、彼女の身辺まで狭まった。奏でられる旋律が何であれ、その音色が洗練されていれば、そのよさを味解し、享受する受容力のある者には、麗しく響く。時間と共に旋律は流れ、ある終端へと、一本道を進んで向かい、そして到達したところで、ひとつの運命が成就する。

 

 音楽とは、ひょっとすると、そういうものなのかも知れない。

 

「――そろそろ行こう。アリスちゃん。日が暮れてきたわ」

 

 そう呼びかけられて、わたしは我に返った。ちょうど今、歌が終わったのだろうか。秋空の青は褪めて、その上をうっすらとかげりが覆っていた。

 

 周りの人は、見渡してみると、特に変わった様子はなかった。多分、小声だったから、アテナ先輩の歌が聞こえなかったのだろう。

 

 アテナ先輩は、脱いでいたブーツを履いて、今は崩した姿勢を正している。

 

「そうしましょう」

 

 そう答え、立ち眩みでもしたようにヨロヨロと立ち上がると、わたしは、ステップに乗って、下のオールを引っ張り上げ、ゴンドラを漕ぎ出した。

 

『森』を離れる。

 

「――すっかり夕暮れですね。先輩」

 

「えぇ」

 

 家路を急がせる風情のある空模様と、寒さだった。心細くさせる薄暗さ――息の長い闇。じっとしていると微かに震えてしまう寒気――体が縛られる感覚。

 

「今日は喉の具合がよかったみたい」

 

 アテナ先輩は喉に片手を当てて言う。

 

「でっかいマーベラスでした。歌」

 

「そう?」

 

「はい。聴いていて、気持ちよかったです」

 

「よかった。嬉しいわ」

 

 アテナ先輩は、安心したように、胸の辺りで両手を合わせると、目を細めて感謝してくれた。

 

 アテナ先輩が嬉しそうにしていると、わたしまで、何だか嬉しくなってくる。彼女の喜びに呼応し、共鳴しているのだろう。

 

 こういう感情は、すごくいいものだと思う。なぜかと言うと、今みたいに秋の日暮れの、空気のひんやりした中にあって、何とはなしに、体がポカポカしてくるから――。

 

 

 

(終)



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Page.76「或るオフショット~虚空のブロークン・ハート」

***

 

 

 

 ――某月某日

 

 暑い日だった。桜が花びらを落として青葉を茂らせる春も終わりという頃の一日。

 

 水無灯里(わたし)は前日、台所仕事でのちょっとした不注意で親指に切り傷を作ってしまい、その傷が割合深かったので、数日間の休養を取ることになった。

 

 ARIAカンパニーの屋根裏部屋でベッドでじっと横になっていると、階下に聞こえる物音に、アリシアさんがせっせと動いている様子を思い浮かべたり、一方で静けさが勝つと、アリシアさんが出かけたか、ないしは事務仕事に切り替えたか、などと推測したりした。そして自分がいたずらに時間を潰し、惰眠をむさぼっているという感じがして、良心の呵責に、気が滅入ることがあった。

 

 傷の具合は、ネオ・ヴェネツィアの古い医者に診て貰った。傷口を入念に消毒されたが、特に麻酔などの処置がなかったので、ずいぶん痛かった。未だに思い出すと、背筋が凍るほどだ。

後に残るズキズキとした痛みで、堪えるだけで相当の体力が消耗する。

 

 さて、親指そのものは確かにダメージを負って不自由だったが、それ以外はまったく健康だったので、ある程度休養してしまうと、所在なく感じるようになりだした。元気さを持て余していたのだった。

 

 ある日わたしは、病院へ行くという通例のルーチンに出かけ、診察と治療を済ませ――何せ、毎日のことなので、あっという間に終わってしまう――真新しいガーゼを親指に巻いて貰うと、ネオ・ヴェネツィアの一隅にあるロープウェイ乗り場へと向かった。

 

 乗り場は海辺にあって、二台の搬器(ゴンドラ)――舟ではないゴンドラ――が、緩い斜線を描いて、上方に向かって上り、また上方から下りている。

 

 ゴンドラが吊り下がる索道をずっと目で追っていくと、ある巨大なる影にぶつかる。その影は宙に浮いていて、その様はまるで、山がまるごとプカプカしているみたいで――要するに、火星(アクア)の気候制御装置の、浮島だ。

 

 わたしは窓口でチケットを買うと、ゴンドラの手前に立つ係の人に渡して切って貰い、箱型のその中に乗り込んだ。平日の真昼間なので、客数は少なく、のびのび出来た。

 

 発進のアナウンスがされると、扉が閉まり、ゴンドラが動き出す。特に揺れたりはしないが、風の強い日はちょっと危うそうに思える。初夏の晴れ空を上に向かって、ゴンドラは鈍足で安全に進む。

 

 車掌などはいなくて、警備を兼ねた乗組員が一人いるだけで、初老に見える彼は、専用の椅子に座って、退屈なのか、気怠そうにボーッとしている。

 

 わたしは、ロープウェイの駅が、周りの街並みと共に下へ遠ざかっていくのを見下ろすと、より彼方まで遠大に見えるようになった海原と、低くなって近付いた空とを見た。そしてこの空を自由に飛び回る鳥が羨ましいと思った。わたしは不自由だった。親指をガーゼでくるみ、生活の大半を片手で過ごさなければいけないので、その不自由さは顕著だった。

 

 やがてロープウェイが果てまで到着する。浮島の駅に下りる。駅からは高所からの絶景が望めるが、高所恐怖症を患う人にはずいぶんと辛いと思われる眺めだった。風が強く、見下ろせば地面まで吸い込まれそうになる。

 

 今頃アリシアさんは、どうしているだろう? 手でひさしを作り、目を細めてARIAカンパニーのある方にじっと目を凝らす。海上にあるので、見つけることはたやすい。が、余りに遠く、その位置以上のことを肉眼で窺うのは到底無理だった。

 

 最初、暁さんが浮島で働いているので、会いに行こうか、などと思ったが、気乗りしなかった。特に目的はなかった。ただ屋根裏部屋でじっとしているのが嫌だったので、ちょっと足を伸ばしたに過ぎなかった。

 

 見晴らしのよい島端に来ると、その場にしゃがみ込んで、ため息と共に両手で頬を持った。あずまやではないが、似た感じで、屋根だけある休憩所といったところだった。

 

 所在なさは変わらなかった。ただ場所が変わっただけだった。

 

 ガーゼの親指をサムズアップの恰好で目の前に突き立てる。空の青に、白いガーゼ。触れるとまだかすかにジンジンする。治るまで後どのくらいだろう?

 

 わたしは親指を下ろす。

 

 何だか寂しかった。

 

 誰かにそばにいて貰いたかった。

 

 ――自分で進んで一人になっておいて、筋の通らないことを言う、と自分に呆れた。

 

 だが、本意だった。

 

 藍華ちゃん? アリスちゃん?

 

 違う気がした。

 

 わたしが寄り添いたいと欲する影は、影だけで、実像を持っていなかった。

 

 その影は、わたしの切望するものの漠然としたイメージ未満の、文字通りのシャドウであって、ちょっと年上で、背がずっと高くて、手が筋張っていて、出来れば短髪でっていう……要するに、わたしが憧れとする男性なのだった。

 

 その手に触れたい、楽しく話がしたい、ぎゅっとハグされたい、怪我した時にはいたわって貰って、その安らぎに幸せを感じたい、などと願う相手なのだった。

 

 そばでは浮島から排出される水が滝となって、ずっと下の海まで流れ落ちている。

 

 わたしは茫漠たるイメージの内に、憧れの影をじっと見つめる。だが、見えるのはせいぜい後ろ姿だけだった。

 

 ――仮に、そのイメージに適う人が存在したとしても、きっとわたしは、生来のシャイというか、物怖じしやすい傾向が災いして、結局その後ろ姿を眺めるだけでドキドキして、それ以上の発展は望めないという気がする。否、確信さえする。

 

 すると、わたしは無性に悲しくなり、苦笑いをこぼした。

 

 ダメだ、わたし。考えすぎ。悲観しすぎ。

 

 ――浮島で縮こまってくよくよ物思いに耽るわたしは、さっき浮島のロープウェイの駅より見下ろした下の家々などより、ずっと小さいに違いない。

 

 ――暑い日だった。しかし、高所は涼しいどころか、むしろ肌寒いくらいだった。

 

 まだ痛む親指。

 

 早く治ってくれるといいなぁ。

 

 

 

(終)



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Page.77「きっと、だいじょうぶ]

***

 

 

 

 ──快い日和だった。

 

 日差しはそこそこ強く、照らされれば暑かったが、同時に風がよく吹いていたので、暑さと涼しさが程よく混ざり合い、外にいると、思わず気持ちよさに、笑顔になるのだった。

 

 昼下がりだった。

 

 わたしは、狭い水路を一人、ゴンドラで進んでいた。

 

 片手に手袋をはめた半人前のわたしには、まだ操船のすべに習熟してはいなかった。細長い舟の舳先の辺に立って、オールで漕ぐのだ。水を掻く力加減を誤ると、水圧に負けて姿勢が崩れる。最悪、落っこちて水路にドボンと行ってしまう危険性がある。たまにそういう事故の話を小耳に挟むことがあるが、船乗りとしては、決して誇らしいことでないのは当然で、恥ずべきこととされている。初め、まったくの素人だった頃はよくひっくり返って晃さんに呆れられたものだが、今はある程度慣れて、ちょっと傾いたとしても、リカバリーさせる作法を心得ている。──とはいえ、お客さんを乗せて舟の重みが変わると、動きも変わってしまうので、その辺りがまた難しかったりする。

 

「あの時は水着だったんだよねぇ」

 

 凪いだ水面に映る、重畳たる住宅街の影に挟まれて細長くなっている空模様を見下ろして、懐かしさと共に呟く。

 

「絶対ひっくり返って濡れるから」

 

 わたしは、漕ぐのをやめて、水路のわきの日陰にゴンドラをとめ、ステップに腰を下ろしていた。太腿に肘を突き、両手で頬を支えるという恰好だった。

 

「懐かしいんだか、おかしいんだか」

 

 はにかむべきか嘲笑うべきか、よく分からずに悩む。

 

 水面を雲が流れる。住宅の屋根から屋根へ──反映の中で──飛行していく。

 

「まぁ、慣れちゃうもんだよね。やっていく内に」

 

 ハァ、と、わけもなくため息を吐くと、前髪を指先で摘まんで向こう側に引っ張り、毛流れを、何となく気になって確かめる。

 

 ──よくない癖で、やめるように晃さんに言われた。自分で意識しない内に、前髪をいじくる癖があるようで、仕事中でも、やってしまう。だけど、強風で乱れたりしたらどうするのか、乱れた髪は身だしなみの点でよくないだろう、と聞くと、髪を整えるのといじくるのとはてんで違うと、快刀乱麻を断つが如く、断じられた。わたしは納得せざるを得なかった。

 

「何でもそう」

 

 ──やらなければ、何でも無理だと諦めてしまいがちだが、いざやってみると、最初は確かに拙劣だが、継続すると、じょじょに巧くなっていく。

 

 わたしは、どうだろう? 水先案内人として。

 

 さっきまでガイドの説明をそらんじて、とりあえず初めから最後まで、自分でがんばって組み上げたセリフを言い淀まずに行けたし、ゴンドラの操縦だって、これといった課題はないはずだった。後は実地でやっていって、慣れていくだけだった。

 

 だけど、何となく不安にさせる何かがある気がした。ひょっとすると、その何かは、その真相を暴いてしまえば、わたしを絶望させたり、悄然と達観させたりするものかも知れない。

 

 ──水面に細長く横たわる空は明るいが、太陽は見えない。建物の壁などに差す影の傾き方で推測出来はするが、それまでだった。

 

 灯里と後輩ちゃんを思い起こす。彼女等二人とは、互いに属するところを異にするが、友達で、同僚で、そして切磋琢磨し合うライバルだった。

 

「灯里はいいけど、後輩ちゃんは……」

 

 オレンジ・ぷらねっとの彼女は、将来を嘱望される水先案内人見習いで、わたしは一目置いていた。

 

 わたしの暗いイメージの中にあって、わたしが展望を見いだせずオロオロしている一方で、後輩ちゃんは泰然自若としていた。才能に恵まれた彼女は、両手共、手袋だが、すでにわたしたちの目標とする高みの地点まで、道を用意されているように思えた。

 

 ──ひっそり侮ってはいるが、ゴンドラを逆走させる灯里だって、いずれ一皮剥けて進化する可能性を持っていた。

 

 わたしは、どうだろう……。

 

 水のしっとりとしたにおいが、鼻腔を満たす。

 

 わたしはかぶりを振って、自分に言い聞かせる。

 

「やめよう。不毛だ」

 

 わたしは立ち上がったが、その時ゴンドラが、水路の波動と共にやけにグラついて、わたしをイライラさせた。

 

 だが、目を瞑って深呼吸し、苛立ちでザワつく心を研ぎ澄ます。心臓の音が聞こえ、胸の内にドクンドクンと縮んだり膨らんだりするその拍動を感じる。

 

 目を開け、向かう先──住宅街の間の細い数ロの出口を望む。

 

 オールを取り、水に差し、掻く。ゴンドラがゆっくりと進み出し、最初不安定だった動きが安定し、軌道に乗る。

 

 ちょっと肌寒かった。日の温もりを求める気持ちが、わたしに先を急がせた。

 

 ──水着で水遊び同然だった頃とはもう違うのだ。

 

 頭の内では種々の不安要素がぐるぐると巡ってわたしを攪乱したが、こうしてゴンドラに乗っていると、不思議とその不安の渦は消え、すっきりとするのだった。

 

 ──きっと、だいじょうぶ。

 

 わたしの内にそっと届いた声。もちろん、自分の呟きではあったんだけど、なぜかその呟きは、多声的で、自分からのものであると同時に、誰かからのものであり、誰かがわたしの声に重ねて励ましてくれているように響いた。

 

 灯里に、後輩ちゃん。晃さんに、アリシアさんに、アテナさん。

 

 わたしのよく知る、みんなの声だった。

 

 

 

(終)



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Page.78「紫の空~過去からの、そして過去への展望」

***

 

 

 

 ――何だか、不思議だった。

 

 空の色が、紫だ。夕方だから、夕焼けなんだろうけど、ぼんやりぼやけた感じの、赤っぽい紫。

 

 春も進んで、昼日中は暑くなった。ずっと冬用の制服を着ていたが、そろそろ衣替えしようかと考えるほどだった。長袖から、半袖へ。水先案内人の仕事は水辺のものだから、晩秋から冬にかけては凍える辛さがあったが、この辺りの時期から、快適になってくるし、お客さんの数が増えてくる。書き入れ時だ。

 

 気合いを入れなくちゃ、と、みずからを奮い立たせようとしてみるが、イマイチ、力が入らない。

 

 ――とにかく、不思議だった。

 

 わたしは、ARIAカンパニーの屋根裏部屋にいて、クローゼットに、その日乾かした衣類をしまい込んでいるところだった。よく晴れたので、衣類はよく乾き、サラサラのその表面から立ち上ってくる洗剤の香りを嗅ぐと、ほのかにうっとりとする。クローゼットには夏用の制服が吊り下がっていて、一瞥して、その場所を確認する。

 

 部屋の円窓を通る夕日が、壁にぼんやりとその影を投じ、ユラユラと揺れている。赤っぽい紫の淡い光が、気付かないほど微かに、より明るくなったり、より暗くなったりする。時々その上を、小鳥の小さい影がよぎる。

 

 わたしは、カゴの中の洗濯物を全てクローゼットに収めると、円窓のそばにあるベッドまで向かい、その上にのり、窓辺に背中をぴたりと付けて三角座りした。

 

 そしてはすかいの壁に映るまるい夕日の影をじっと見つめる。

 

 ――あれ? わたし、そういえば……

 

 記憶の片隅に何かその存在を主張して光るものがあった。今わたしが凝視している情景と、その記憶の内に潜む断片とが、互いに呼応し合っているようだ。

 

 ――この感じは、初めてじゃない。前に一度……?

 

 わたしはしばらく目を閉じて瞑想し、そしてゆっくりと開けた。

 

 紫の空には、三日月が浮かんでいる。

 

 そしてわたしの目は、あるはずのない箱型のテレビの、消えた暗い画面が反射する夕日にまぶしさを覚える。

 

 ――幼い頃のわたし。あの時、いくつだったろう……。

 

 

 

 

 

 

 お母さんとお父さんは出かけてしまった。お母さんは買い物へ、お父さんは、朝からの仕事で、帰ってくるのは、夜だ。早い夜だったり、遅い夜だったりする。

 

 買い物に随行しようと思ったが、やめた。お母さんに付いていったところで、特別何をするわけではないし、お菓子をゲットしさえしてしまえば、後は無用だった。

 

 それに、今日は――春と夏の間のある日なんだけど――とても過ごしよい日和だったので、何となく、家にいて、開放した窓からの風を浴びて、うっとりとしていたかった。

 

 夕焼けの色が、紫だった。余り見たことのない空の色に、わたしは魅了され、目を奪われた。

 

 わたしの家は丘の上の方にある。街との間を往来するのに、坂道の上り下りがあって、その点が大変だと、お母さんがぼやいていた。だが、見晴らしがいいので、わたしは気に入っていた。

 

 四角い縦長の窓の向こうに、照明を灯した数多の家々の並びがあり、その粒のように小さい照明が、無作為に散らばっていて、一見すると、蒸し暑い夏の夜、川辺で眺めたホタルの群れを思い起こさせ、わたしの気持ちをロマンチックにする。

 

 窓のすぐ外に植木があって、その木に茂る群葉が、わたしの部屋の壁に、夕日を背後に影絵を映して、風が吹いたりすると、ユラユラと揺れる。

 

 わたしは視線を落とし、箱型のテレビを見た。そのわきには、ゲーム機とそのコントローラがある。――ゲームはそれほど好きじゃなかった。何だか、やっているとせっつかれる感じがして、疲れるから。

 

 ――窓から、空を彼方まで見晴るかす。夕空の紫の上に、陰翳の濃い雲の灰色が点々としている。紫の空は、下は太陽で赤っぽいが、上の方は、夜の闇に覆われて、濃紺だ。

 

 その遠くまでの景色が、その遠望が、わたしに、何か希求するよう、促してくる気がした。

 

 男の子じみていて、最初は抵抗を感じたが、その希求が(しん)からのものであると覚知すると、わたしははっきりと、自身が発信し、要請するその中身を直視した。

 

 ――旅だった。どこかへ行きたいと思った。

 

 だが、ちょっとした旅ではダメだった。行ってすぐ帰ってくる旅では満たされなかった。何か自分を抜本的に変えてくれるものを、彼方に認めたのだった。別に今の自分が腐っているわけではないし、今いる環境が悪いということは決してない。だが、これから成長し、大人になっていく過程を考えると、今という地点から堅実に歩んでいける地続きの将来ではなく、ずっと遥かに遠くまで跳躍して渡る、そういう将来が望ましかった。

 

 ――性根が、そういうものだったのだと思う。ひとと一緒じゃイヤだという、天邪鬼的気質があったんだろう。――それに、そもそもわたしは、ちょっとひととは違うところがあって、馴染まない関係に苦労することがしばしばあったし、かといって迎合しようと努力したところで、疲れてしまうのだった。

 

 玄関の開く音がした。

 

 お母さんが帰ってきたみたいだ。

 

 すると、まだまだ幼稚だったわたしの意識は、遠い将来と異境から、目先のおやつへとせっせと移行してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 夕空は依然、紫だった。上の方は夜の紺色で、下の方は夕日の赤。

 

 ――最早、不思議ではなかった。

 

 今のわたしは、あの頃、ふるさとにいて、将来への展望に目を注いでいたわたしと、ほとんどぴったり重なっていたのだ。

 

 わたしをして不思議に思わせたのは、ムズムズとさせる既視感のある印象で、紫の夕焼けを目の前に、今と過去が期せずしてオーバーラップしたのだった。

 

 ――わたしは、旅をした。遥かなる旅。

 

 そこに溶け込めないことの多い環境にある自分をみずからの意志で引き上げ、異境に転じさせる。

 

 その試みは、たぶん、うまくいったのだと思う。マン・ホームからアクアへ、子どもから成人へ。遊びから仕事へ。

 

 だんだんと空が暗さを増していく。空の紫の赤みが、その程度に比例して薄まっていき、最初は青く、そして、次第に黒っぽくなっていく。

 

 記憶が、水平線の彼方へ沈んでいく。

 

 だが、なくなるのではない。

 

 ひとまず、眠りに就くだけだ。

 

 甘い混沌の中で……。

 

 

 

(終)



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Page.79「恢復~雨が降って、上がって」

***

 

 

 

「雨、すっかり上がりましたね」

 

 と、雲間から覗く青空を見上げ、ライムグリーンの髪の少女が言う。その手にたずさえる閉じた傘には雨粒がポツポツと付いている。

 

「虹、出るかなぁ」

 

 桃色の髪の少女が――彼女も雨粒に濡れた傘を携えている――手でひさしを作って空をざっと見回す。

 

「見たところ、出てなさそうです」

 

「残念」

 

 ――ネオ・ヴェネツィアの街の一隅。二人が並んで歩く道のくぼみの水たまりに、去りゆく雨雲の影がゆっくりと流れる。

 

「太陽が強く照ってくれれば、見えるかも知れないですけど」

 

「夕暮れ時だもんね」

 

「灯里先輩」

 と、ライムグリーンの髪の少女が呼びかける。

「海まで行きませんか?」

 

「海まで?」

 

「ひょっとしたら、虹は見えないでしょうけど、夕焼けが見えるかも知れません。きっと綺麗ですよ」

 

 アリス(・・・)の提案に、灯里は快諾した。それぞれ雨で当初の予定を潰され、日中のほとんどの時間を所在ない思いで過ごしたのだ。

 

 何本か路地を抜け、橋を渡って広場を抜ければ、豁然と海を望める地点まで来る。ネオ・アドリア海だ。

 

「しけは、治まったみたいだね」

 

 波の穏やかさを見て灯里が言う。

 

 ――二人は海岸の道路から海の方を望んでいた。

 

「風は、まだありますけど」

 

「これじゃ、ゴンドラは乗れないね」

 

「足元がでっかい危ういですからね」

 

 二人の会話で、夕焼けのことは、発言されなかったが、それぞれしっかりと眺めていた。

 

 海の遥か彼方、水平線の上には、まだ厚い雨雲が重々しく残っているが、そのそばの晴れているところに、オレンジ色の夕日が浮かんでいる。

 

 風が立って、やや強く吹く。揃って長く伸ばしている彼女等の髪が、煽られ、なびく。

 

 髪が崩れないように手でおさえて、灯里が言う。

 

「ちょっと寒いけど、風が清々しい」

 

 しかし、アリスは、風に散らばる髪に攪乱され、その言が耳に入らなかったようだ。

 

 しばらくして風が治まると、二人共、髪から手を離し、互いに頷き合って、海辺を離れた。

 

「おかしい言い方だけど、よかったかも知れない」

 

「……?」

 

 ――道中、灯里の発言に、アリスはその意を汲めず、当惑した。

 

「よかった?」

 

「最近ね、何だか、仕事に自信が持てなくて、落ち込んでたんだ。モチベーションが上がらなくて、出来れば休みたいなぁって、ハハ、怠け者だね」

 

「でっかいスランプだったり……」

 

「ううん」灯里はかぶりを振る。「スランプっていう感じじゃないんだ。ただ、うまく行かないことが連続しちゃってね」

 

 アリスは、肯定して同意するか、否定して慰めるか、どうしたらいいか悩んだが、うまい言葉が見つからなかった。

 

「よかったっていうのは、たまたまこういう風に、オフの日が出来たからということですか」

 

「ハハ、まぁね」

 

 悄然と笑うそのいささかしおれた感じの笑顔に、アリスは万感を読み取れる気がした。

 

 ――日が沈んで薄暗くなっていく中、ポッと街路灯が灯る。

 

「わたしが落ち込んでるって、分かった?」

 

 アリスはかぶりを振って応じる。

 

「海まで行きましょう、と誘ったのは、別に、励ましのためでも、慰めのためでもないです。単純に、わたしが見たいと思ったからです。それにわたしは、元々それほど、ひとの感情に明るいわけではないですから……」

 

「謙遜しないで」、と灯里が、意固地に返す。「アリスちゃんに誘って貰って、嬉しかったんだよ。何か胸の閊えが下りて、すっきりした感じ」

 

「灯里先輩……」

 

 アリスが立ち止まり、灯里が先行し、遅れて立ち止まる。

 

 ちょうど二人の間に街路灯があり、その照明が照らす範囲の両端に、彼女等はそれぞれ離れて立っている。アリスは正面を向いて、そして灯里は首だけでアリスを振り返るという恰好で。

 

 アリスは、空を仰ぎ見た。雨雲はどんどん去っていき、晴れ空の面が広がっている。

 

「また、何か見に行きましょう。海でも、夕焼けでも、虹でも」

 

 そう言って、アリスは目線を元に戻した。

 

「今度は、藍華先輩も一緒に」

 

「そうだね」

 

「元気だしてください。よくない時があれば、いい時もあります」

 

「そうだね」

 

「空が晴れたり、曇ったり、雨を降らせたりするのとおんなじで」

 

「うん」

 

 ――その後再び歩きだして、灯里はひたすらしめやかに「うん」や「そうだね」といった軽い肯定の応答を繰り返すばかりだった。

 

 だが、その応答の仕方や調子が、灯里のくじけそうになっている意気を暗示しているかと言うと、決してそうではなく、段々と、彼女の口数が増えていって、帰り道は賑やかだった。

 

 しゃべることで気分がほぐれたのだろうと、知らない内に、自分が応答するばかりになっていたアリスはそう推量した。そして、相好がどんどん柔らかに、また明るくなっていくその感じが、ずいぶん好ましく見えた。

 

 灯里だってひとの子だ。のほほんとしているのが常だが、落ち込むことだって当然ある。そういう時に、決して無理矢理、元気にさせようと矯正しないで、木の枝が力でたわんだ後、自然に元に戻るというのと同じ仕方で、それ自身が持つ回復力を信じ、干渉したり無理強いしたりしないことが大切だと、自分の振る舞いが予期しない形で奏功したアリスは、感じたのだった。

 

 

 

 二人のたずさえる傘の雨粒は、ほとんど蒸発するか落ちるかして、なくなっていた。

 

 

 

(終)



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Page.80「遠いこの街で」

***

 

 

 

 朝起きると――たいていの場合は何とも思わないんだけど――時々、奇異の念に打たれることがある。そして今朝は、たいていの場合の朝ではなく、時々ある方の朝だったのだ。

 

 水無灯里(わたし)の住む、このARIAカンパニーの屋根裏部屋のことだ。

 

 今のところ仮寓で、取りあえず置いて貰っているだけで、永続的にいられるわけではない。

 

 ただ、はっきりした期限があるということもないので、ひょっとすると、わたしが出ていくなどと宣言しない限りは、ずっと居座ってもいいという気がする。あくまで気がする、という手前勝手の楽観に過ぎないけど。

 

 窓から見える明るい青空は、初夏に相応しいものだった。流れる雲は、かき混ぜたようにぼんやりと淡い。

 

 ――わたしがアクアを訪れた時も、こういう空だった。

 

 胸がすくほど明るくて、爽やかだけど、わたしの心は、途方もない不安にドキドキしていた。

 

 星間連絡船での長旅を終えて、大きいリュックサックを背負い、同じく大きいキャリーケースを引いて、エアポートを出たわたしは、マン・ホームから持ってきた地図を頼りに、ひとの出入りが激しく活況のサン・マルコ広場を通り抜け、取りあえず宿泊する予定のホテルへと向かった。

 

 下調べした通りに船着場の案内板を見、ホテルの最寄りの停留所の名があることを確かめると、水上バスに乗り込んだ。――荷物が大きくまた多いので、乗船中、座席には遠慮して座らず、端っこに立っていた。

 

 ――ホテルに着きさえすれば、ひとまず人心地付くと踏んでいたが、あいにくそうは行かなかった。すっかり安んじるには、まだやらないといけないことがあった。何よりまずは、勤め先を確保することが須要だった。

 

『水先案内人』

 

 わたしの心はすでに決まっていた。

 

 しかし、勤め先を得ると同時に、自分の生活拠点を築かないといけなかった。屋根があり、台所、トイレ、お風呂があり……要するに家か集合住宅の部屋だった。

 

 八百屋さんだの郵便局だのは行ったことのある十代そこそこのわたしだったが、不動産屋を訪問したことはなく、当惑した。

 

 通りすがりのひとを捕まえて、店舗の場所を教えて貰い、来店したが、わたしの若すぎる年齢や仕事の有無を理由に商談を断られた。

 

 

 

「――そうだったのね」

 

「はひ」

 

 朝食の並んだ食卓を挟んで、わたしとアリシアさんは昔話に花を咲かせていた。朝食はハムとチーズとレタスを挟んだサンドイッチと、アイスティーだった。

 

「まぁ、無理もないわね。向こうも商売だから」

 

「そうですね。わたしにしたって、一方的に部屋を貸して欲しいなんて申し出たのは無謀でした」

 

「わたしは、その時の灯里ちゃんは、割に賢明だったと思うけどね」

 

「ハハ、確かに《懸命》ではありました。けど、知識がなければ、お金もありませんでしたからね。ホントに向こう見ずだったと思います。はひ」

 

 ――しおしおと微笑んで、わたしはサンドイッチを齧った。口の中に含んで、また、回想に耽った。

 

 

 

 不動産屋にほとんど門前払いを食らった後、わたしは、ショックの余り、茫然自失といった状態だったが、勤め口を探そうと少ない気力で行動した。

 

 調べてみると、ネオ・ヴェネツィアに水先案内人を抱えるゴンドラの運航会社は三社あるようだった。

 

 ARIAカンパニー、姫屋、オレンジ・ぷらねっと。

 

 事業規模で言えば、オレンジ・ぷらねっとが最大で、継続期間の長さで言えば老舗の姫屋が最長だった。

 

 ARIAカンパニーには、これといった特徴がなかったが、リーフレットの写真を見て、一番関心を持った。

 

 

 

「へぇ、どうしてかしら?」

 

 アリシアさんがキラキラと好奇の目を向ける。わたしは何だか照れ臭いのか、間が悪い気持ちになる。

 

「わけは単純です。会社の建物が、海の上に建っているのが、ステキだったんです」

 

 

 

 ここにしよう――そう意を決すると、動くのは早かった。ショックからすっかり立ち直った感じだった。

 

 地図を調べ、ARIAカンパニーの住所を探す。ネオ・アドリア海のそば。分かりよい位置だった。 

 

店まで来て、心の準備を整えている内、目の前にフラッと、女性が現れた。高齢で、小柄の、ふんわりした雰囲気の女性だった。

 

 彼女はわたしを見ると、ニコッと笑い、わたしは、相手の素性がよく分からなかったが、取りあえず愛想よくしておこうと、同じく、ちょっとぎこちなかっただろうけど、笑って返した。

 

 

 

「あらあら」

 アリシアさんが、瞠目して、まさかという表情になる。

「その女のひとって、ひょっとして……」

 

「ご明察です」

 

「まぁ、グランマだったのね」

 

 アリシアさんは、納得したように一人、頷いた。

 

「だんだん思い出してきたわ。灯里ちゃんが初めてARIAカンパニーに来た時のこと」

 

「何か恥ずかしいですね」

 

「その時わたしは多分、船着場で色々とやってて、他のことにはあんまり注意が行かなかったけど、可愛らしい女の子が来たのは、確かに見たのよね」

 

「人違いですよ」

 

「あらあら」

 

 アリシアさんはウフフと笑う。

 

 わたしはアイスティーの残りを飲み干す。そして窓から青空を見、過去を思い起こす。

 

 グランマと出会い、後でその正体を明かされ、あたふたしてかしこまって挨拶し、ARIAカンパニーの応接室で面談して、わたしの意気を買って貰い、採用される――

 

 

 

 屋根裏部屋を軽く掃除して、ベッドの上に腰かける。お尻が高反発のクッションを打ち、軽く上下に(ゆら)ぐ。

 

 フゥ、と上向きにため息し、リラックスした気分になる。

 

 あの時は、本当に不安でどうしようもなかったけど――

 

 視界いっぱいの部屋を見渡す。わたしの部屋。わたしの物がたくさん置いてあるし、収納してあるし、飾ってある。

 

 すると、そこはかとない嬉しさが込み上げて来、思わず笑みがこぼれてしまうのだった。

 

 

 

(終)



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Page.81「デイ・トゥ・ナイト~屋根裏部屋の或る一日」

***

 

 

 

 板張りの部屋は、無人で、静けさに満ちていた。

 

 広い天窓があり、陽気に照る晴天の午前の日が、その窓枠を通って差し込むことで、部屋の中に同じ形の影を成している。

 

 天井の面が斜めになっているその部屋は、見たところ、屋根裏部屋のようだ。

 

 隅には、上に座ることが出来るほど大きいクッションと、今は消えているデスクランプの置かれた簡易の書棚がある。

 

 書棚にあるのは、ネオ・ヴェネツィアの年表や、占星術の入門書や、地誌や、雑誌など、様々だ。日記と思しき大学ノートがあったりして、この部屋の住人のマメさが窺い知れる。

 

 ベッドのシーツはよく整えられて、カバーはきちんと折りたたまれている。可愛らしい動物のぬいぐるみがあるのは、寝る時の寂しさ・心細さを紛らすためなのだろうか。

 

 

 

 階段を上ってくる足音の後、扉が開く。

 

 白い制服を来た、桃色のロングヘア――耳の辺で金のリングで束ねている――の少女が入って来、書棚のところまで向かうと、クッションの上に座り、被っている白い制帽を脱いで机上に置いた。そしてデスクランプを付け、書棚より一冊――占星術の本などではなく、真面目くさった本のようだ――取り出すと、読み始めた。

 

 

 

 少女はしばらく黙然と読書に集中し、必要に応じて、日記用ではないノートにメモを記入したりした。

 

 その間、部屋は果然、おおむね静かで、聞こえる音と言えば、せいぜい彼女が姿勢を調整する時の服とクッションが擦れる音や、ページをめくる紙の音だけであった。後は、海の波や、小鳥の鳴き声などの環境音だった。

 

 

 

 ――また、階段を上って、屋根裏部屋まで近付いてくる足音。

 

 コンコンと、ノックの音。

 

「入っていいかしら」

 

「はひ。どうぞ、アリシアさん」

 

 返事がすると、扉が開く。

 

 姿を見せたのは、ブロンドのロングヘアの少女。桃色の少女より、年上のようだ。

 

 彼女は――勿論、家政婦などには見えない――トレーを運んで来、その上には、芳香のする熱い飲み物と、軽食がのっている。

 

「精が出るわね。灯里ちゃん」

 

 アリシアは、灯里のもとへ行くと、そう言った。

 

「座学はあんまり得意じゃないんですけどね。物覚えが悪いですから」

 

「あらあら」

 

 二人は和気藹々と談じた。

 

「灯里ちゃん、これ」アリシアはトレーを灯里のそばに置く。「食べてくれるかしら? お店で買ってきたんだけど」

 

「わぁ、菓子パン(マリトッツォ)ですか?」

 

 灯里は嬉しそうに目を輝かせる。

 

「えぇ、中身はイチゴと生クリームなの。おいしいわよ。わたしはさっき食べちゃった」

 

「すごく嬉しいです。ありがとうございます」

 

 アリシアはにこやかに返すと、「じゃ、置いとくわね」、と言い、部屋を出ていった。

 

 灯里は書籍とノートをひとまず閉じてしまうと、トレーを正面に、軽くお腹を満たすことにした。

 

 味わおうとする前に、彼女は端末を持って来、カメラ付きのそれでトレーの上の写真を一枚撮ると、簡単にメッセージをしたため、筆まめに文通する親しい遠くの知人に送信した。

 

 幸せそうに甘いものを口にする灯里は、わきの窓の方を向いて、そこより見える海と空を眺めた。快晴の初夏の一日で、空は澄んで明るく、海はキラキラと美しい煌めきを帯びていた。

 

 甘いマリトッツォに、ストレート・ティーはよく合った。アリシアの気遣いに灯里は謝意を感じた。

 

 

 

 全部食べ終わると、灯里は少しだけ勉学の続きに手を付け、その後、デスクランプを消灯し、制帽をかぶり、空の食器ののったトレーを持って、屋根裏部屋を出た。

 

 部屋はしばらくの間、再び無人の静寂となった。聞こえるのは海鳴りと鳥の声ばかり。時々飛行する小鳥のシルエットがよぎる天窓の影は、時間の経過と共に、ゆっくりと傾いたり、歪んだりし、空は長い間青かったが、やがて、とうとう褪色し、翳りを帯び、橙色になってきた。

 

 

 

 ――扉が開くと、笑顔がなくくたびれた様子の灯里が戻って来、脱いだ制帽を片手に、ベッドの上に、背中から大の字になった。

 

「ふぅ」と天井に向かってため息。

 

 ノックの音がし、「灯里ちゃん」、という呼び声がし、アリシアが半開きの扉から顔を覗かせると、中に入ってきた。

 

 灯里は半身を起こして姿勢を正し、アリシアに応じる恰好になった。

 

「お疲れさまね」

 

「たくさん練習してきました。藍華ちゃんと、アリスちゃんと」

 

「合同練習ね」

 

「はひ。いい天気だからはりきっちゃいましたけど、とっても暑かったです」

 

「今日はカンカン照りだったものね」

 

 灯里は、横目で書棚の、しまわずにおいた書籍とノートをチラッと見た。そしてまだ頑張ってやろうと目論んでいた勉学に対して、億劫がる思いがした。

 

「今夜は、どうする? 夕食、自分で作れそう?」

 

「あぁ……」

 

 訊かれた灯里は、困惑した苦笑いを浮かべる。疲れた彼女は、余力はそれほどないようだった。

 

「よかったら、わたしが作るけど」

 

「お願いしても、よろしいですか?」

 

 へりくだった態度で、灯里がこわごわ尋ねると、アリシアはにっこりと笑った。OKのようだった。

 

「すみません」

 

 灯里は感謝を述べるつもりで謝り、アリシアに夕食を頼むことにした。

 

 灯里は、しかしアリシアが、恩着せがましいことをしたりする者ではなく、本当の善意で、夕食の支度を申し出てくれたことが分かっていた。だから、気に病んだり、悔んだりすることは全然なかった。

 

 ベッドの灯里は立ち上がり、書棚を片付けると、暗くなってきた部屋の照明を付け、そして少し迷った後、再びベッドに戻り、背中から大の字になった。

 

 日が差し込んでいた天窓は、今は星影が映り込んでいわば小さいプラネタリウムになっていた。

 

 書棚のわきの窓から見える空と海は、揃って濃紺で、至極、平静だ。

 

 だんだんと下の階からお腹のすくにおいが上がってくる。耳をすませば、お鍋の湯が沸き立つ音や、包丁がまな板を打つ音が聞こえる。灯里は、アリシアが料理しているシーンを想像する。

 

 そしてうんと伸びをすると、手伝おうと思い立ち、ベッドから勢いよく跳ね起きると、階下へ下りていった。

 

 

 

 ――板張りの部屋はまた、無人の静寂に包まれる。

 

 屋根裏部屋。水無灯里――まだ見習いの水先案内人が下宿するこぢんまりとした部屋。

 

 

 

 灯里が脱いだ白い制帽は、今はベッドの上のぬいぐるみが、被っていた。

 

 

 

(終) 



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Page.82「覆水は盆に……」

***

 

 

 

 初夏に入ってからけっこう長い。朝晩はまだしつこく肌寒くて、防寒しないといけないくらいだけど、昼間は打って変わって暑い。じっとしていても汗が出るほどで、この時期は本当、体温調節が難しいと感じる。

 

 朝、出かける時は、冬用の長袖で外出し、暑くなったら、夏用の半袖に着替えるというやり方で対処しているが、わずらわしい。

 

 それより何より、今日、いつもの灯里と後輩ちゃんとの合同練習の後、ちょっとしたことがあった。

 

 合同練習は、灯里のドジや、後輩ちゃんの当てこすりなどがあって、平常通りに運び、それなりの面白味と充実感と共に終わった。

 

 二人と和やかに別れた夕方、あるいは夕方になる少し前、例の如く気温が高く、暑かったので、わたしは住宅街の間の、ひと気がなくひっそりした水路に入り、壁際にゴンドラを付けて一休みしていた。

 

 事前に自販機で買ったペットボトルの飲み物で涼感を得、油照りの曇り空をつまらないと思う気持ちで、ボーッと見上げていた。

 

 目線を下ろし、凪いだ水路の面を見つめると、やはり曇っており、清水の煌めきこそあれど、彩りがなく、やっぱり、思わずため息を吐き捨てたくなるほど、退屈に感じてしまうのだった。

 

 ――まさか、声をかけられるとは思わなかった。

 

「すみません」

 

 何となれば、一人だったのだ。水路にひと気はなかった。少なくとも、わたしはひと気を感じなかった。静かに、涼しく、束の間の孤独を満喫していた。

 

「――。」

 

 ペットボトルの残りが少ないのを見て、一気に飲み干そうか、チビチビ惜しんで飲むか、(いたず)らに考える。

 

「失礼ですが」

 

 ――何か聞こえるなぁ、とはぼんやり思っていた。

 

「わっ」

 

 意表を衝く形だった。

 

 声は背後にした。振り返ると、わたしはレンガの壁の白い鎧戸の開いた窓の方に、首だけ出してわたしを窺うひとの姿を見た。

 

 男のひとだった。そして一目で、わたしは――わたしの悪い癖なんだけど――うっとりして、しばらく応答が出来なかった。

 

 長くはないが、サラッと流れる髪。キリッとした眉に、明るい、真面目と言うべきか、ひたむきっぽい瞳。

 

 好感の持てる男性だった。年齢はわたしよりやや上だろうか。

 

 惚れっぽいわたしは、しかし品を作るなどといった手管に長けているわけではなく、ただ胸をときめかせて、驚いた風のギョッとした目付きで、相手を見返すばかりだった。

 

「はい」

 

 思い出したように、慌てて髪を触って整える。

 

「突然で悪いのですが、乗せて貰いたいと思いまして」

 

「はぁ――って、わたしのゴンドラに?」

 

「えぇ、そうです」

 

 わたしは首を左右に目が回るくらい振って、また両手もダメだという風に振った。

 

「ダメですか?」

 

 相手は怪訝そうに眉をひそめる。

 

「申し訳ないですけど、わたしは――」

 

 ――水先案内人で、道半ばの見習いで、まだ実際にひとを乗せる許可がないことを、懇切に説明した。好ましい男性の要望に応じられないという遺憾の意があったので、わたしはしゅんと沈んだ。

 

 彼はひょっとすると、わたしが彼のリクエストに沿えなかったことに対して、怒るか、不機嫌になるかして、わたしは心底辛い思いを嘗めることになるかも知れないと危ぶんだ。

 

 ところが、彼は困ったようにはにかんで、「そうですか」、とあっさり諦めた。

 

「ごめんなさい。本当に」

 

「いいえ、いいんですよ。急にお願いしたぼくに非があるんです」

 

「だいじょうぶですか? 何か外出のご用事があるんじゃ……」

 

「えぇ、まぁね。けど、いいです。歩くなり、何なりして行きます」

 

 わたしの心では、水先案内人の決まりごとを破って乗せてあげようかという悪い誘惑が、甘い香りでわたしを引き付けたが、わたしは強いて、あくまで決まりごとを守るという意志を堅く貫いた。

 

 話が長くなってくると、彼は窓から身を乗り出し、両腕を窓枠に組む恰好になった。すると、彼がTシャツを着ているのが見えるのだった。

 

 途中、ちょっとした沈黙が下り、何となく気まずい雰囲気になった。わたしは、自分だけでなく、相手まで同じ風に感じているのが分かって、ムズムズした気持ちになり、我慢出来ず、こう言った。

 

「「暑いですね」」

 

 期せずして、発言がハモった。

 

 わたしは、意外の念に打たれたが、彼もまた、同じようだった。

 

 気まずい雰囲気が打って変わって和やかに転じたが、わたしはうまく笑えず、にやけた顔になった。彼はじょうずにスマイルして見せた。アリシアさんのように柔らかいスマイルだった。

 

 わたしは、彼がそこに住んでいるのかと訊き、彼はそうだと答えた。建物は、アパートメントのように見えた。

 

 雑談はしばらく続いた。特に言葉を言い淀むことはなく、スムーズだった。

 

 わたしはしかし、自分の顔がだんだん――暑さとは別の要因で――赤く火照ってくるのが分かり、居心地の悪さを感じ始め、自分の好意とは裏腹に、そそくさと暇乞いを告げ、その場を後にした。

 

 幸せというか、満足感というか、とにかくそういった喜ばしい、ウキウキさせる感情は、ある程度持続したが、その後一転して、喜びが後悔の念に厳しく糾弾され、せっかくの出会いに、名前さえ聞かず、自分で一方的にピリオドを打ってしまったことに、沈んでしまうのだった。

 

 そういう素直になれない自分や、恋に焦って空回りしてしまう自分が、あまのじゃくで、不器用で、垢抜けなくて、嫌だった。

 

 わたしは、帰り道の水路で、自責と改悛の念に悲しくなり、急にわきにゴンドラを止めたりして、甘酸っぱい哀感に、あの好ましい男性の相貌を思い返して浸った。

 

 だが、空を仰いで、曇り空の雲が割れて澄んだ青色が微かに見えた時、何となく救われる気がした。

 

 明日、灯里と後輩ちゃんに話そう。聞いて貰て、スッキリしよう。

 

 そう意気込むと、わたしを沈ませる重々しい感情は、その重みが削がれ、わたしはちょっとだけ、楽になれるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.83「はじめてのセーラー服の日」

***

 

 

 

「灯里ちゃん」

 

 屋根裏部屋で額に汗を浮かべ、せっせと荷ほどきをしている、Tシャツと短パンという軽装の灯里のもとに、アリシアは顔を出した。――彼女はパリッとしたセーラー服姿のようだった。

 

「はひ」

 

 返事をし、アリシアの方を首だけで振り返る灯里。部屋のあちこちには、夥しい段ボール箱があり、開いているものがあれば、閉じているものがあり、とどのつまり、灯里がこの水先案内のお店であるARIAカンパニーを訪れ、間借りすることになってから、まだ程ない頃のことだった。

 

 ベッドやシェルフなど、大きい家具はすでに、業者の手を借りて、設置が完了しているが、全体として見れば、まだ半分も、引っ越しの作業は進んでいないのだった。

 

 灯里にしてみれば、生まれて初めてのことなので、要領が悪く、あっちに手を付けたと思えば、気が変わってこっちに手を付けるなどして、部屋には物が散乱して、足の踏み場がないという感じだった。

 

「あらあら」

 

 と、部屋の様相を目にして、アリシアは呆然とした風に言う。

 

「何と言うか、すごく……カオスね」

 

「ハハ、ずばりそうですね」

 

 二人は苦笑し合う。

 

「今、お邪魔かしら?」

 

「いえ、大丈夫ですよ」

 

「そう。これ、灯里ちゃんに渡して置こうと思ってね」

 

 アリシアはそう言って、すっかり部屋に入ってくると、ある物を灯里に見せた。

 

「わぁ」

 

 それは、きちんと折りたたまれていた。衣服のようだった。白い、アリシアが着用しているのと同じ色。

 

「セーラー服ですか?」

 

 アリシアはにこっと笑い、首肯する。

 

「夏用と冬用の両方ね」

 

 駆けよってきた灯里に、アリシアは手渡す。

 

「綺麗だし、かわいい……」

 

 清浄さを思わせる青いラインが入ったARIAカンパニーの制服は気に入り、彼女は陶然と魅入った。

 

 万感の思いが込み上げてくるようだった。はるばるマン・ホームからやって来、あこがれの職業である水先案内人の仕事に携われる――そういう回想と未来への展望が、健気に夢見る一人の少女に、じんと胸温まるものを感じさせるのだった。

 

「上にあるのは、グローブね」

 

 灯里は、示されたものを見た。グローブはハーフフィンガーだった。

 

「いちばん最初は、両方付けるの。水先案内人には階級があって……」

 

 ペア、シングル、プリマ、と、灯里は平易にグローブによる階級識別の説明を受け、理解した。

 

「ごめんね」、とアリシアが謝る。「本当は、手伝ってあげたいんだけど」

 

「いえ、いいんです。アリシアさん、お忙しいですから」

 

「帰ってきたら、手伝うわね。さすがにこう散らかってちゃ、過ごしにくいでしょう」

 

「ハハ。そうですね。過ごしにくさは、否めないですね」

 

 やがて、話が終わり、アリシアは仕事があると、部屋を出ていった。

 

 灯里は、小さくため息を吐くと、受け取った制服を、クローゼットにハンガーでかけた。心なしか制服は、いい香りがした。また、ハンガーにかけることで、元々は折り畳まれていたその全容が見え、姿見の鏡で自分の体に重ねて眺めて、ニヤニヤしたりした。

 

 クローゼットに制服を仕舞い、閉じると、彼女は窓の外を眺めた。

 

 午前だった。汗ばむほどの陽気の、春のある日。

 

 海は青く、空は澄んでいた。

 

 ――マン・ホームの皆は、どうしているだろうか。

 

 灯里は思いを馳せた。家族、友達、よく通っていたお店の店員や、公園で見かけた人々。

 

 すると、胸がキリキリと縮むように痛んだ。

 

「ダメだ」、と彼女は呟く。「大事なのは、未来。今までじゃなくて、これから」

 

 ホームシックになりそうだった自分を励ますと、また荷ほどきと整理整頓の続きを始めた。

 

 

 

 

 

 

 たそがれ時。空がだんだんと暗くなって、春の陽気が失せ、朝にあった、ひんやりした空気が戻ってくる時間。

 

 屋根裏部屋の扉をノックする、コンコンという音。

 

 灯里ちゃん、と呼びかけがあるが、返事がない。

 

 やってきたのはアリシアだった。ちょうど仕事を終えて帰ってきたところだった。

 

 ひょっとしていないのだろうか、と怪訝に思ったアリシアは、「入るわね」、と言って扉を開けた。

 

 薄暗い部屋は、まだ雑然としているように見えたが、午前に見た時と比べれば、ずっとよくて、インテリアが充実度が増し、まだどこに置くか迷うなどして梱包を解いていない段ボール箱は、隅のスペースにまとめてあった。

 

 レースのカーテンが、風に煽られて、広がったり、落ち着いたりしている。

 

 おおむねひっそりしているが、耳を澄ますと、聞こえる音があった。しかし、その音は微かだった。

 

 ベッドの上に、横たわる人影があった。

 

 アリシアは照明のスイッチを付けた。薄暗い部屋はパッと明るくなった。

 

 ベッドにいるのは、灯里だった。掛け布団をかけず、寂しいのか、ぬいぐるみをひしと胸に抱いて、安眠していた。

 

 荷ほどきを頑張って、よっぽど疲れたのだろう。そうアリシアは思い、灯里の胸にあるぬいぐるみを眺め、ほっこりした気持ちになって微笑んだ。

 

 開いている窓とカーテンを閉め、アリシアは、灯里にそっと掛け布団をかけてやった。昼日中は暑いにしろ、夜はまだ寒いのだ。油断すると、体を壊してしまう。

 

 照明が消され、部屋が真っ暗になる。

 

 屋根裏部屋から階段を下りていく間、アリシアは、自宅に帰る前に、ARIAカンパニーで休憩がてら、何か灯里と分けて食べて行こうと考えた。

 

 何がいいかしら――。

 

 灯里はスヤスヤ寝ていた。

 

 考える時間は、たっぷりありそうだった。

 

 

 

(終)



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Page.84「或るオフショット~初夏の、真夏の、暑い一日」

***

 

 

 

 飲もうと思って、朝、グラスにピッチャーの水を注いだら、テーブルの上に、七色の弧線がさっと短いカーブを描いた。

 

 勉強の途中で、テーブルで教科書や問題集などと取り組んでいたわたしは、その不意に現れた可愛らしい鮮やかさに目を奪われ、しばらく恍惚としていた。

 

 天涯付きのベッドがあって華美なるオレンジ・ぷらねっとのわたしの部屋。あるいは、アテナさんの部屋と言うべきか。相部屋なのだが、見習いの水先案内人であるわたしは、ただの貸借人に過ぎない。

 

「――?」

 

 使い古されたカセットプレーヤーに接続されたヘッドフォンを付け、お気に入りの音楽を聴きながら、窓辺で外の風景をぼんやり眺めていたアテナさんが、ふと、わたしの様子を奇異に思ったように振り返る。

 

 窓枠に腕組みして、首だけでわたしを振り返るアテナさんは、しかし、半ば怪訝そうに、半ば困ったように、眉をさげて見つめるだけだ。

 

 その瞳にムズムズと居心地の悪さを感じたわたしは、こう告げる。

 

「でっかいレインボーです。ミニチュアサイズですが……」

 

 アテナさんは、ヘッドフォンを外してそばに置き、わたしのもとへと近付いてくると、わたしが示すところに目を近付け、「まぁ」、と驚いた風に言った。

 

「綺麗ね」

 

 にっこりと笑むアテナさんの表情は、慈しみに満ちて、穏やかだった。

 

 

 

 ――その日は、とても暑かった。

 

 

 

 通りを歩く人たちは、誰も彼もうんざりして、あるいは手でひさしを作って空を憎々しげに睨み付け、あるいは汗を拭いたハンカチで、ため息と共に、パタパタと首の辺りを扇いでいた。

 

 今日はお買い物の日だった。とはいえ、自分の買い物ではなく、新たにオレンジ・ぷらねっとへとやってくる新人さんのお手伝いだった。

 

 ちょうどゴンドラが空いているところに、希望する者が志願してきたという話だ。

 

 異郷からはるばる訪れて、ネオ・ヴェネツィアに不案内である上に、生活用品のほとんどをまだ揃えていないというので、手助けするよう頼まれたのだった。

 

 わたしより少し年上の女の子だった。名はエリーザという。けっこうありふれた、よく聞く名前だった。

 

 髪は短く、藍華先輩くらいだった。色はしかし、アリシアさんに近く、光沢のある薄褐色だった。

 

 わたしとエリーザさんは、あっちこっち奔走して購入した品物でだんだん一杯になっていく買い物袋を携えて歩いていた。

 

「えっと……」

 

 感心したが、彼女は、クリアファイルに収まった用紙をまじまじと見つめながら、人込みの間を器用に縫って歩いた。

 

「そのファイルは何ですか?」

 

 わたしは訊く。

 

「買わなきゃいけない物の一覧です。事前にまとめておきました。で、買った物には、チェックマークを付けていきます」

 

 そう言ってわたしに見せてくれる。

 

「でっかい周到ですね」

 

 用紙には、やっぱり色々とある。だが、冷蔵庫や洗濯機などの家具を目にして、おや、と思う。

 

「この辺は、部屋に備え付けですよ。冷蔵庫とか、洗濯機とか」

 

「エッ!」

 

 と、エリーザさんは、灯里先輩ばりに口をあんぐり開けてびっくりして見せる。

 

「――聞いてなかったですか?」

 

 そう尋ねると、彼女は肯定した。

 

 エリーザさんへの助力は、アテナさんの頼みがあってのことだった。要するに、エリーザさんにオレンジ・ぷらねっとに入社するに当たってのことは、アテナさんがきっと説明したに違いない。

 

 やれやれ、と呆れるが、幸い、冷蔵庫にも洗濯機にも、まだチェックマークは付いていなかった。聞けば、安い物から買い揃えていくつもりだったという。

 

 今までの決して楽ではなかったショッピング・ツアーが徒労という悲しい結果とならずに済み、ホッとした。

 

 ちょっと冷静に落ち着いて、また涼むのを目的に、わたしとエリーザさんは、近くのカフェに入り、軽食とドリンクをとった。店内は冷房が効いており、暑さにほとんどバテていたわたしたちはずいぶん癒され、回復した。

 

 その席で、わたしたちはよもやま話に花を咲かせ、多弁に時間を過ごした。

 

 わたしは笑うのが生来なぜか苦手で、決まって表情が堅く、折に触れて感情を誤解されることがあったが、エリーザさんとの間には、そういう解かないといけない誤解は生まれなかった。

 

 ――そういう時は、打ち解けてしまうもので、わたしは興が乗って、結果、話が長引き、気が付けば、日が暮れる頃になっていた。

 

 初夏を過ぎようとする時節の、真夏同然の暑熱は和らぎ、抜けるように青かった空はうっすらと翳り、時間のたった飛行機雲が、元は細長くくっきりとしたストレートだったのが、今ではルーズに崩れていた。

 

 

 

 ――ピッチャーの水をテーブルのグラスに注ぐ。朝、うっとり見惚れた虹は、だが、出なかった。

 

 

 

 喉を通る清涼感。ゴクゴク一気に飲み干すと、わたしはハァ、とその反動で勢いよく息を吐く。

 

「でっかいくたびれました」

 

 ――オレンジ・ぷらねっとの部屋。日が暮れて、照明が付いている。

 

「お疲れさま」

 

 そう幾分かそっけなく返すアテナさんは、わたしと同じくテーブルに付いて、読書中だ。小説だろうか。ハンディサイズの文庫本を両手で持って、じっくり耽読している。

 

 エリーザさんのこと、追及しようかと思ったが、気が乗らなかった。実害はなかったわけで、結果オーライということで、済ませようと思った。何より、本当にくたびれていた。急激に到来した暑さと、ショッピングの外回りとで。天涯付きのベッドで大の字になりたかった。

 

 和らいだとはいえ、否定出来ない暑さがまだ残っていた。しかし、日差しがなくなったところに、ちょうどよい勢いの風が吹くようになったので、過ごしやすかった。

 

 窓は開け放してある。朝、アテナさんがそのそばで音楽を聴いていたあの窓だ。

 

 夜だから、カーテンを閉めているが、止まない風に煽られて、裾がふんわりと持ちあがっては、またふんわりと落ち着くという動きをリプレイしている。

 

 

 

 視界を広く取り、ぼんやり見渡す。

 

 ――風が吹く。カーテンがなびく。アテナさんのライラックの短い髪が、サラサラと揺れる。

 

 

 

 断続的に繰り返される、一帖の風景。そしてその短いプロセス。それ等を合わせて眺めていると、あの虹を発見した時と似た、やさしい気持ちが頭をもたげてくるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.85「長い夜明け」

***

 

 

 

 ――あまりぐっすりとは寝られなかった。

 

 鈍く、重い目覚めだった。

 

 からだを横たえた状態ですぐそばのカーテンのすそに指をかけ、少しめくり上げ、窓を通して空模様を窺う。

 

 昨日は雨だった。だが、すでに上がったようだ。

 

 まだ深夜といっていい時分だったが、雨雲の去った空は白みだしていて、薄暗いその青さを目にすると、二度寝しようという気が起きなかった。

 

 だいたい、最早眠たくなかった。睡眠時間はたったの三、四時間程度ばかりだったけど。

 

 

 

 未明のARIAカンパニーは、ひっそりと静かだった。カーテンのすっかり閉じた屋根裏部屋は、だが今も深夜の暗さだ。

 

 

 

 決して悩んでいるとか、落ち込んでいるとか、そういう事情があるがために、眠れなかったのではない。むしろ今のわたしは、前向きで、楽天的で、眠ることに関しては――胸を張って言えることではないかも知れないけど――特別自信があった。

 

 一度布団に入れば、すぐに安心して、落ち着いて、知らない内に昏々と寝息を立てているのだけど、ゆうべは何だか、違った。

 

 

 

 ――いったい何だったのだろう?

 

 

 

 夜ごはんを自分で作った。ボロネーゼのパスタと、生ハムと豆苗とトマトのサラダと、白身魚のソテー。

 

 じょうずに作れて、我ながら楽しみに口を付けたのだけど、なぜか食べきれなくて、でもお腹はいっぱいだから、残飯はラップをかけて冷蔵庫にしまった。

 

 歯を磨いて、就床して明かりを消す。

 

 

 

 ――思い返して、寝返りを打つ。ARIAカンパニーの浮かぶ海の声が絶えず響く。夢の世界へいざなうように、やさしく、神秘的に、耳元へささやきかけてくる。

 

 だが、わたしはそのいざないに応えられない。そのことが、なぜか、ちょっぴり残念に感じられてくる。

 

 

 

 目を瞑ったが、なかなか寝付けなかった。三十分ほどの間、姿勢を変えるなどしてみたが、効果は出ず、妙に覚醒していたわたしは、床を出、机に向かい、デスクランプを付けると、読みかけの本を開いた。

 

 眠り薬にと文字の羅列を目でゆっくりと追った。だが、内容が入ってこず、だんだんイライラしてくるのだった。

 

 ひとつのチャプターだけ済ませてしまうと、わたしはさっさと本は閉じて、屋根裏部屋を出て、階段を下りていった。

 

 二階のリビングで、ダイニングのキッチンだけ明かりを付けると、一杯の水道水をグビッと勢いよく飲んだ。

 

 雨の夜だった。雨脚は穏やかで、雨だれの音はそれほどうるさくなかった。耳をすませばかろうじて聞こえる程度で、だが、冷たい雨で、初夏だというのに、防寒具が必要だった。わたしは夜ごはんの時、グレーのパーカーを上に着ていた。

 

 そのパーカーは今は、床の上にクシャッとなっている。寝る時はさすがに不要だからと脱いで放ったのだった、

 

 

 

 ボーッと無為に過ごす内に、時間は過ぎる。夜が終わり、朝が訪れ、着々と進行する。

 

 陰気だった昨日とは打って変わって明るい澄んだ空を、カーテンの隙間より見上げると、なぜか、おはよう、と、独り言を言いたい気分になるのだった。

 

 

 

 

 

 

「おはよう、灯里ちゃん」

 

「おはようございます、アリシアさん」

 

 朝の挨拶を交わす。

 

 ダイニングでテーブルに付いているところに、自宅から来たアリシアさんが顔を出したのだ。

 

 すっかり朝だった。

 

 目蓋が重かった。顔は洗ったが、さっぱり感はあまりなかった。

 

 寝覚めが悪そうに見えたのだろう、アリシアさんが言う。

 

「あらあら、何だかまだ夢見心地って感じね」

 

「ハハ、やっぱりそうですか」

 

 わたしは苦笑いをこぼす。

 

「眠れなかったの?」

 

「はひ。夜更かししちゃいました」

 

「そう」

 

 アリシアさんはわたしとのやりとりを続け、同時に、ダイニングのカーテンレールにかけておいたエプロン――わたしが洗濯したエプロンを付け、朝の支度を始めた。

 

「何か興奮しなきゃいけないわけがあったのかしら」

 

「エェー! ないですよ、全然」

 

 アリシアさんのジョーク(か本気か分からないが)に、すかさず突っ込みを入れる。

 

 わたしは、朝食を作ってくれているその後ろ姿に――ブロンドのサラサラのロングヘア―や、均整の取れたプロポーションに、何となく見惚れてしまう。

 

「フフッ」

 アリシアさんはいたずらっぽく笑う。

「否定しなくたっていいのよ。わたしにだってあったもの。何か想像しちゃってね。何とは明言しないけど」

 

「そう言われると、すごい意味深です。アリシアさん」

 

「あらあら、悪いわね。興が乗っちゃって」

 

 こういう風に、アリシアさんには時々、変にサディスティックというか、意地悪――といっても、可愛げのあるものなのだけど――になることがある。

 

「さぁ、そろそろ出来るわよ」

 

 ――朝なので、それほど凝ったものは作らない。今朝作ってくれたのは、切ったパンに、ほんのり甘いドライトマトと、酸味のある羊乳チーズを乗せ、その上にバジルを添えたもの。

 

 わたしはかすみのように、わたしの内に隠れる睡魔をぼんやりと感じて、アリシアさんといっしょに朝食を食べた。

 

 たしかに、幾分か短すぎる健康によくない睡眠時間に、再び寝るべきだという強迫的気分が、あるにはあった。しかし、明るい空と海の景色を、海鳴りと海鳥の鳴き声と共に、レースのカーテン越しに、開け放った窓の向こうに眺めていると、何となく、すでに対面しているその日一日に対して、顔を背けたくないという義務感じみた感情が頭をもたげ、ずっと起きていよう、起きていなきゃという、強いられた律義さが、その小さい胸を気丈に張るのだった。

 

 

 

(終)



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Page.86「或るオフショット~五月晴れのある日、その夕べ」

***

 

 

 

 洗濯物をぜんぶ干し終えて、藍華(わたし)は、部屋の机に付き、何をするでもなく、ぼんやりしていた。

 

「……。」

 

 椅子の背もたれに思い切り背中を押し付け、両腕を後頭部の辺で組み、うんと伸びをする。

 

 蒸し暑い日和だった。ジワッと滲み出すように出てくる汗がてんで引かない。

 

 ホントは、今のネオ・ヴェネツィアは雨季で、しつこいくらい雨が降っているはずで、そうでなくったって、空がどんよりしているはずなのに、なぜか晴れている。

 

 そういうわけで、わたしは今日急きょ洗濯機を動かし、溜まっていた汚れ物をまとめて洗濯して、そしてちょっとくたびれてしまい、今こうしてぼんやりしているのだった。

 

 天気というのは()に気まぐれだ。天気予報にしたってコロコロ不安定に変わり、こちらとしては、こまめにニュースをチェックして、都度、予定を天気の転変に合わせないといけないから、ちょっとしたストレスになる。

 

 気象予報士のひとは大変だろう。

 

 チラッとすぐそばのベランダに通じる窓から、空模様を窺ってみる。だが、さっき干したばかりの、風になびいている、うっすらと洗濯洗剤の香りをふわっと漂わせる洗濯物の隙間から見えるのは、青空だ。――テレビを付けて見てみれば、天気予報も、しばらく晴れが続くと伝えている。

 

 信頼するに足るとは思えないが、まぁ予報は予報であって、予知などではないわけで、外れたとしても、仕方のないことだ。

 

 そばで首をゆっくりと振る扇風機の風が涼しい。

 

 光の色がくすんでいる。もう夕方だ。

 

 夜ごはんの買い物に行こうか、と考える。あるいは、少し汗でべたついた体をさっとシャワーで流してしまってからにするか――

 

「どうしようかなぁ」

 

 思い切り仰け反って、天井を見るともなしに見上げる。

 

 献立を考えるのはけっこう面倒くさいものだ。かといって億劫がって買い物に行かないと、食べるものがなくなってしまう。灯里や晃さんに物乞いするわけには行かないし。

 

「やれやれ」

 

 そう呟くわたしは、何だか眠たい気がした。ベッドの方に意識が向かい、フカフカのお布団に体を横たえて、蒸し暑い感じを扇風機の強風で癒して、夢見心地でウトウトする……あぁ、何と甘い誘惑だろう!

 

「だけど」

 力を込めてそう呟き、椅子より立ち上がる。

「夕方になっちゃったのよね。お日様といっしょに寝るわけには行かない。お昼寝禁止!」

 

 そう自身をピシッと戒め、腰の両側に手を置き、目を瞑って、またうんと伸びをする。

 

 ハァ、と深呼吸。目を開く。

 

 散歩がてら、ARIAカンパニーでも行こうかなぁ。灯里に会いに。

 

 心中で、これからの筋道を固める。

 

 

 

 さっきちょっと考えたけど、シャワーは、結局浴びないことにした。

 

 

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの街路は盛況だった。気まぐれに恵与された貴い晴れ間に、今がチャンスと皆、思う様、羽目を外しているのだろう。

 

 子連れの家族などはまだしも、大っぴらにイチャイチャするカップルがいて、視線のやり場に困ったりしたけど、泰然自若に努めて、気晴らしとしての、また目覚ましとしての散歩を、財布とメモ用紙の入った買い物袋を携えて楽しんだ。

 

 水の都は、どこもかしこも、ひとの賑わいや、日と水の煌めきや、草花の彩りなどに満たされ、華やいでいた。

 

 道中、わたしはアリシアさんのことを考えた。

 

 アリシアさんは、わたしの憧憬の的だ。ARIAカンパニーのプリマ、要するに第一級の水先案内人で、灯里の先輩である。

 

 以前まだ今より若かった頃、親か晃さんか忘れてしまったけど、連れられてARIAカンパニーのお世話になったことがあって、その時にアリシアさんの人間性に触れて、何と言うか、その淑やかさとか、目を奪うほど美人であるところとか、深すぎるくらい深い慈愛とか、そういったひととしての高貴さやピュアさなどに、虜になってしまったのだった。

 

 だから、アリシアさんに会うこと、接することは、わたしにとって飛び切り嬉しいことなのだ。灯里と親しくしているのは、実を言うとアリシアさんと間接的に仲良くするためであるというのは、本人には伝えていない内緒の話だ。(決して灯里を恣意的に利用しているつもりはないのだけど。)

 

 

 

「――あっ、藍華ちゃん」

 

 表戸に〝CLOSED〟の吊り下げ看板が掛かっていたので、社屋の底部にある船着場の方に足を伸ばしてみると、何か作業している彼女がいて、訪れたわたしを見つけたのだった。

 

「よっ、元気?」

 

 ひょうきんに挨拶する。

 

「うん。元気だよ」

 

 灯里はにっこりと笑ってみせるが、大粒の汗が滴っている。

 

「何してるの?」

 

「磨いてるの。ゴンドラ。ほら、連日雨だったでしょ? 水垢とかいっぱい付いて汚れちゃってるから、こうやって綺麗にしてるの」

 

 灯里のそばには、バケツと、スポンジと、拭き取り用のクロスと、ワックスだかコーティング剤だかがある。関心を持ってバケツの中を覗いてみると、思わず顔をしかめるほど濁った汚水で満たされているのが見えた。

 

 実際に自分がやったことのある作業なので、そのキツさは、よく分かっていた。ゴンドラ磨き。服がドロドロになるから余り好んでやりたくはないが、定期的にやらないといけないメンテナンスなので、時機を見定めてやるようにしている。

 

「ゴンドラ磨きって、大変よねぇ」

 

「けど、たまにはこうして洗ってあげないとね。ゴンドラさんもきっと、綺麗になりたいだろうから」

 

「恥ずかしいセリフ、禁止ッ」

 

「エェー」

 

 お決まりのコミュニケーションだった。

 

 茶化してしまったが、心では、熱心に気持ちを込めてゴンドラを綺麗にしている灯里のことを称揚していた。

 

 また、夕暮れ時で、にっこりと笑む灯里の向こう側に、細かく波立つ海と、紅色の夕焼けとが鮮やかに輝いているのが目に入って、思わず見入ってしまった。

 

「――藍華ちゃん?」

 

 灯里がきょとんとする。

 

「アンタじゃなくって、後ろの夕焼けを見ているのよ」

 

 そう意地悪っぽく敢えて言ったが、灯里は膨れたりせず、素直に首だけで振り返って、しばらくこっちを見なかった。彼女も同じように見入ったようだった。わたしはその仕草がおかしくって思わずこっそり噴き出してしまった。

 

 アリシアさんは、留守のようだった。わたしはがっかりするようで、その実、がっかりはしなかった。アリシアさんがいなきゃいけないとは思わなかった。灯里としか会えなかったから、落ち込むなどということはありえなかった。灯里で十分だった。灯里で足りないということはなかった。

 

 

 

 汗が出てくるほどの日中の暑さは和らぎ、代わって、海辺の潮風が快い涼感を運んでくれていた。

 

 わたしは灯里と共にうっとりし、しばらくよもやま話に花を咲かせて、そして別れた。

 

 灯里に見送って貰ってすぐ、わたしは、明日ゴンドラ磨きしようと考えた。しかし、天気予報はどうだろう? 何となれば雨季なのだ。晴れ間は少なく、雨がちである。

 

 

 

 天気の気まぐれが、続いてくれればいいなぁ……。

 

 

 

 真っ赤に燃える暮れかけの初夏の空を見上げ、ぼんやりと、わたしは思うのだった。

 

 

 

(終)



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Page.87「流れる風を切って」

***

 

 

 

 上を見上げれば、どこまでも広がる冴えたブルー。雲は空のドームのへりでうっすらと生白く滲むばかり。

 

 天候に恵まれた過ごしよい日和だった――いささか紫外線がキツいけど。

 

 流れる風がすこぶる気持ちいい。髪が暴れるからと、今日はキャップを被っている。

 

 普段はセーラー服に身を包んでいるが、今日はロンティーにジーンズといった出で立ちだ。

 

 サングラスまでかけて、要するにわたしはちょっとしたバカンスで、ネオ・ヴェネツィアを離れて遠出というわけだ。同伴者はおらず、一人で来た。たまには一人が気楽でいい。気を使わなくていい。自由だ。

 

 

 

《晃ちゃん、旅行に行くの?》

 

 休みの前、アリシアと話す機会があって、休みはどうするのかと訊かれたので、応じたのだった。

 

「あぁ。ちょっと遠くまで」

 

「あらあら。遠くって、どこかしら?」

 

「……。」

 

 何となく、黙ってしまう。発作的に生じた意地悪したさから、まじめに答えるか、茶化すか、少し考えてしまったのだ。

 

 夕時で、いっしょに帰社する途中の、ゴンドラの上での会話だった。わたしが漕いで、アリシアは客席に座っていた。

 

「まぁ、とにかく遠くまでだ」

 

「ずいぶん漠然としてるわね。目的地は決まってないの?」

 

「決まってるよ」

 

「――?」

 

 アリシアが首を傾げ、わたしを窺うように、怪訝がる顔をする。

 

 無理もない。

 

 わざわざはぐらかすなんて、反抗期で生意気盛りのガキじゃあるまいし、わたし自身、幼稚だと思った。

 

 だが、ひとりでにそういう態度を取ってしまったのだった。意図してではなかった。ひょっとして、わたしはアリシアに甘えていたのだろうか?

 

 

 

 ――結局、回りくどい恰好で、目的地を告げた。

 

 アリシアは興味を持っていろいろと聞いてきた。わたしの態度には頓着しない様子だった。アリシアは大人だった。わたしは、子供じみていた。何だか、くさくさしてくるようだった。

 

 

 

 車で行くとは、告げなかった。

 

 きっと、飛行機だか電車だかで行くのだと、アリシアは決め込んでいることだろう。終始、目的地の話ばかりで、移動手段までは及ばなかったのだ。そこに及ぶ前に、ゴンドラがARIAカンパニーの近くへと至り、話にピリオドを打たせようとするいとまごいのムードになったのだ。

 

《気を付けて行ってくるのよ》

 

 アリシアが相変わらず大人びた、甲斐甲斐しい感じで見送ろうとする。

 

「あぁ」

 

 わたしは簡単に答える。

 

「お土産は何がいいかしらね?」

 

 人差し指をあごに添え、アリシアがウキウキと考える素振りを見せる。

 

 やれやれ、とわたしは思う。

 

「お酒でいいか?」

 

「まぁ、嬉しいわね。出来れば辛口がいいわ」

 

「ハイハイ、分かったよ」

 

 アリシアは、わたしなんかが歯が立たないほど、上戸だった。

 

 

 

 ――ネオ・ヴェネツィア北西部にあるサンタ・ルチアの駅で電車に乗り、リベルタ橋を渡った先で、予約していたレンタカーを借り、出発する。

 

 ネオ・ヴェネツィアではわたしは車にまったく乗らず、いわゆるペーパードライバーなので、最初はその辺をグルグル回り、車幅や、ステアリングの機敏さを確認して、にぶった感覚を慣らす。

 

 車で行くとは告げなかった。それも、オープン・カーだ。古き良き、と言うべきか迷うが、排気音がやたらうるさく、ヘッドライトが丸目二眼で、メッキの装飾がこれ見よがしにピカピカ輝いている。

 

 ゴンドラに乗っている時もそうだが、セーリングなり、ドライブなりしていると、集中力が高まり、感覚が研ぎ澄まされていく感じがして、昂揚感がある。

 

 あまりじっくりと考えたことはないが、そういう理由から、わたしは水先案内人になったし、わりと早い段階で車の免許も、ネオ・ヴェネツィアに住まう以上必要のないものだったが、取得したのだと思う。

 

 アリシアとのやり取りでの時分の子供じみた態度への回顧が、いくばくかの悔やみという冷や水をわたしに浴びせたが、運転していると、気分は安定した。

 

 低い丘陵が群がるエリアの、勾配の緩い坂道の続くハイウェイを数時間走ると、アッコーナの標識が見える。今回の旅の目的地だ。

 

 空はまだ青く、雲の密度は変わらないか、むしろずっと薄く淡くなったくらいだ。初夏の日差しはややキツいけど、風の流れが涼しく、車で走っている限りは、快適だ。

 

 サングラスをさっと手で直し、アクセルペダルを強めに踏む。車がエンジンを唸らせ、制限速度を越えようとするところまで加速する。

 

 

 

 ――アッコーナは砂漠地帯だ。アクアの砂嵐(ダスト・ストーム)で出来た砂漠で、あちこちに半ば干からびたユッカの木が見える。

 

 だだっぴろいだけの砂の広がり。水気などなく、荒涼としていて、不毛で、生気にも、彩りにも乏しい辺境でしかなかった。

 

 だが、解放感があった。見渡す限り、砂と枯草の色。触れればサラサラとしていて、粒の細かい砂。無臭に近い風のにおい。

 

 この解放感、この飾り気のない剥き出しの自然に会うために、わたしはネオ・ヴェネツィアくんだりから遠路はるばるやってきたのだった。

 

 車は埋もれないくらい地盤のしっかりしたところに止めてきた。サングラスは外し、ロンティーの首元にかけている。

 

 ドサッと砂地に腰を豪勢に下ろし、足をガバッとあられもなく広げる――満足だった。

 

 

 

 酒が欲しいとアリシアは言ったが、酒なんか売っている気の利いた土産屋はなかった。何となれば、トイレさえないところなのだ!

 

 しかし、その期待を裏切りたくはなかった。あの時の子供じみた真似を詫びるつもりで、何かしらは必ずプレゼントしたかった。

 

 埃っぽい風を浴びて、抜けるほど澄んだ青空を見上げ、考える。

 

 宿は別のところに取ってある。そこにはきっと、土産屋があるだろう。そこで買うのがいい。多分、アリシアの口に合う、辛口の酒があるだろう――だが、後の話だ。

 

 フゥ、と気持ち長めに深呼吸する。

 

 この砂漠に満ち溢れる、朗らかで明るい虚しさを胸いっぱいに吸い込んだのだった。

 

 

 

 視界全面に広がる空は、遮るものがないせいか、ずいぶん間近に見え、何とはなしに、体がフワッと、鳥の翼を得て軽くなったように、錯覚されてくるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.88「雪かき」

***

 

 

 

 朝、起きた時の感覚で、何となく分かる。

 

 雪だ。

 

 今日は、雪の日。

 

 それも、大雪。どっさり降って、山と積もる。

 

 カーテンが閉じた薄暗い屋根裏部屋のベッドに横になって、わたしは目を瞑り、じっと耳を澄ます。

 

 音もなく降りしきる雪の気配に――その降り方、その粒の大きさ、小ささに――想像力を働かす。

 

 すると、ドサッと鈍い音がし、そのすぐ後に、バシャッという水の跳ねる音が、規則的に繰り返す海の波の音に、無作法に割り込む。

 

 わたしは想像する。

 

 きっと、こういうことだ。

 

 ARIAカンパニーの破風屋根に積み重なった雪が、その重みに耐えかねて、滑り落ち、一階のテラスで砕け、一部はテラスに残り、後はぜんぶ海へ散ったのだ。

 

 さて……

 

 わたしは、凍て付く寒さにグズる体を強いて起こし、すぐそばの外に張り出した円窓から、下を窺う。

 

「やっぱり」

 

 わたしは、目下に、自然と成った雪の堆積の、石のようにカッチリとした形状を一部残した、崩れた雪塊を見た。そしてARIAカンパニーがその上に建つ海の水面には、砕けた雪片が、この低気温に溶けず、漂っていた。

 

 ハァ、とため息を吐く。憂鬱のため息。目の前の窓がフッと白む。

 

「雪かきしなきゃ」

 

 極寒と重労働を忌避したいという気持ちと、けどやらなきゃいけないという気持ちのせめぎ合い。

 

 だが、誰かがやらなければ、ARIAカンパニーが、雪に埋もれることはないにしろ、出入口を塞がれるなり、後の陽気で溶けかけの雪が氷と化してその上で転倒するなりしてしまう。

 

 ゆうべ見た天気予報では、この真冬の寒天、しばらく雪続きで、雪かきを怠けては、あっという間に雪に覆われてしまい、途轍もない不便と不利益を被ることになる。

 

 ――自然ではひとが住むことの出来ないアクアの天候を人智で制御しようと導入された浮島という気候制御装置のお陰で、わたしたちは日々、天気の移ろいと共に過ごすことが出来ている。 

 

 マン・ホームでは科学技術による合理化が極まって、旱魃や豪雨などの悪天候がなくされた一方、このアクアでは、昔の自然の状態を再現しようという人々の思いから、ある程度の天気の、安定しては崩れるなどのブレが許容されており、最近のように、雪続きで雪の処理に四苦八苦するということが折に触れて起こる。

 

 いいんだか、悪いんだか、イマイチ釈然としない思いに首を傾げて、わたしはベッドを出、羊毛(ムートン)のスリッパを履いて朝の支度に取り掛かる。

 

 顔を洗い、歯を磨き、寝衣から冬用のセーラー服に着替え、軽食を摂る。

 

 雪は小止みなく降り続く。

 

 その半ば寒々として、半ば美しい様を、わたしは窓に眺める。

 

 上にコートを羽織り、マフラーを巻き、手袋を着ける。防寒はばっちり。そしてスノースコップを手に、ゴム長靴を履いて、表に出る。

 

 

 

 ――ジメッとした空気。空は満面、重々しい灰色の雪雲が垂れ込めている。

 

 わたしは雪を防ぐべく、コートのフードを被りかけた時、ふと屋根の方を、フードの端を指で摘まんだ状態で振り返って見上げ、ウェルカム・トゥ・ARIAカンパニーの看板の上に、うずたかく積もった雪を仰ぎ見た。

 

 まず上からやった方がいいのでは、と考える。下を最初に綺麗にしても、後でまた上から落ちてきては、意味がないのでは……

 

 しかし、そうするのは危ういと直感が告げた。ARIAカンパニーは三角の破風屋根で、雪が自然落下する構造だし、わざわざ屋上の積雪の面倒まで見る必要はない。ただ、斜面は、さっきのように、雪が滑り落ちるので、付近で雪かきする時は、頭上は常に気を付けておかないといけない。

 

 わたしはフードですっぽり頭を覆うと、スコップをエイと雪に力強く差し込み、なるべく底からひっくり返してすくい上げるようにして、海の方へと捨てる。

 

 幸いARIAカンパニーのテラスの面積はそれほど広くないので、一度で費やす雪かきの労力は限られている。

 

 近くを通る顔なじみのひとが、わたしがせっせと雪かきに励む姿を見て、「おはよう」とか「寒いね」とか、「がんばれ」などと、声をかけてくれたりする。わたしは逐一にこやかに応じた。

 

 通りの方は、ネオ・ヴェネツィアから委託された業者のひとが早朝にやってくれたみたいで、すでにきれいさっぱりといった感じだ。

 

 集中して雪かきに従事し、体が段々と火照ってきた。

 

 雪かきし終えたのは、全面のだいたい7割程度というあんばいだ。

 

 スコップを杖のように地面に突き、さてどうしようかと考える。ある程度やってしまえば、雪の害はなくなるので、全部除雪するのは、ちょっと悩んでしまう。

 

 ボーッとしているわたしの頭上に、ドサッと何かが落ちてくる。柔らかい感触が、頭の皮膚まで衝撃を伝えると、刹那、途絶えた。わたしはびっくりするが早いか、落ちてきたのが雪だと知る。

 

 細かく砕けた雪が、足元に散らばっている。

 

「……」

 

 危ぶんでいた割には、意外と平気だ。かといって呑気に構えていては、事故になりそうだけど。ひょっとすると、小さい雪塊だったから平気だったのかも知れない。

 

 ――気を付けよう。

 

 絶海の遥か上にある浮島に、目線を向ける。

 

 内燃機関を有する浮島の端より絶えず流れ続ける滝を、無数の雪越しに、また、灰色一色の空を背後に見る。耳を澄ませば、ザーッという滝の音が聞こえてきそうだ……と思えば、また雪が屋根よりドサッと落ちてくる。

 

 わたしは恨めしい目付きで油断の出来ない屋根を見上げ、そろそろアリシアさんが来る頃だろうか、と、彼女の到来を予測する。時間は分からない。時計は屋内にある。

 

 あるいは、アリシアさんが来るまで、こうして外で待っていて、アリシアさんが落ちてくる雪を避けられるように、エスコートしてあげるのがいいかも知れない。

 

 そういう風に考えると、わたしは、雪の残った方に向かい、手で握って作った雪玉を転がし始めた。

 

 わたしは雪だるまを作ろうと思ったのだ。

 

 アリシアさんが来るまでの時間潰し、遊びだ。

 

 雪はいつまで降るのだろう。わたしは今冬、何個の雪だるまを作るのだろう。

 

 長く続けば、雪だるまの大家族を作れる。

 

 そう思うと、何だか愉快だった。

 

 

 

(終)



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Page.89「走ることについてわたしの語ること」

***

 

 

 

 あとちょっと――

 

 眉間に皺を寄せる。苦しい表情。

 

 わたしは走っていた。後ろでくくった髪を揺らして。

 

 半袖のスポーツTシャツに、フィット感のあるスキニーのパンツ。目には日射しに眩まないよう、サングラス。

 

 朝のネオ・ヴェネツィアの海沿いの長い道。ランニングするには好適で、わたし以外にも、走っている人がいる。

 

 片道1キロ半という距離の直線を、二往復すると、合計で6キロになる。

 

 毎週、休みの日には、走るようにしている。

 

 何のためにかって、要は、シェイプアップとか、ダイエットとか、そういう理由で。

 

 アリシアさんっていう憧れのひとがいて、わたしは常々アリシアさんに一歩でも近付けるよう、努力してるんだけど、この毎週するランニングも、そのひとつっていうわけ。

 

 今、一往復と片道を終えて、ラストスパート。残り1キロ半。精神を研ぎ澄まし、指ををピシッと揃え、両手を前後に振る。顎は引いて、なるべく遠くを見遣る。

 

 今、真夏だ。気温は30度オーバーで、湿度は70パーセントくらい。

 

 そういうコンディションでランニングすると、とても消耗する。太陽はカンカン照りで、立っているだけで滝の汗が噴き出てくるわけで、そういう中で走るというのは、あまり勧められるものではない。消耗が著しく、走り終えた後の疲労感と虚脱感が凄まじい。口で荒く呼吸して、俯いて見下ろす地面には、大玉の汗粒が次々に落ちていく。

 

 毎シーズン欠かさずやっているが、やっぱりこの時期になると、走るひとの数がめっきり減る。みんな、程々がよくて、くたびれたくないのだろう。

 

 だけど、わたしは、暑いからとやめてしまうのが、どうしてか納得出来なくて、無茶だと内心で分かってはいても、習慣を中断するということが受け入れられず、執念を燃やして走りに行ってしまうのだった。

 

 スタートラインにしている建物の横までくると、そこがゴールラインなので、わたしは走ることをやめ、からだのストレスにならないよう、ゆっくりと、走行から歩行へと切り替え、サングラスを外し、しばらくクールダウンで歩くことにした。

 

 海岸線の手摺のワイヤーロープにかけておいたタオルを取り、止まらないダクダクの汗を拭いては、水筒に入れてきたスポーツドリンクを口にし、ランニングで費やした水分を補給する。

 

 風が吹く。

 

 海沿いだから、風の通りがいい。

 

 だけど、真夏だから、風が吹いたところで、熱風で、涼感に乏しく、有難みがあまりないのが悲しいところだ。

 

 

 

 ――藍華ちゃん、細いね。

 

 そう、灯里に言われた。

 

 ちゃんとご飯、食べてる?

 

 心配がる様子で、わたしをじっと見つめる。――わたしって、それほど細いんだろうか。

 

 だいじょうぶ、ちゃんと食べてるよ。

 

 わたしは安心させようと答える。

 

 お腹いっぱい?

 

 うん、お腹いっぱい。

 

 だったら、いいんだけど――。

 

 

 

 ランニングしてるんだ、とは、その時言わなかった。

 

 タイミングがたまたまなかっただけで、隠そうという意図はなかった。

 

 ひょっとして、わたしは走る必要などないのだろうか? 灯里が言ってくれるように、すでに細いのであれば、わざわざそれ以上を目指す意味などないのでは?

 

 だけど、こうして長く継続してしまうと、やめてしまう気持ち悪さがある。確かにしんどいし、全身汗だくになっちゃうけど、健康にいいし、体型維持に繋がるし……

 

 わたしは歩いて、とっくり考える。ギラギラと照る太陽が、広い海いっぱいに射し、その光輝はまばゆいほどだ。

 

 ひょっとして――

 

 わたしはアリシアさんを思い浮かべる。その麗しい容姿、麗しい人柄、麗しい所作をまざまざと、いくぶん美化しがちになっているわたしの記憶に見る。

 

 すると、劣等感とは違うんだろうけど、いかに自分がアリシアさんに対して、あるいはアリシアさんと比較して、不足しているかということを思い知るのだった。

 

 よしんばプロポーションが同等であるにしろ、他のところがまるきり届いていない。

 

 どうして走ることに固執するんだか……

 

 恒例の習慣になっているから? 健康にいいから?

 

 何にせよ、わたしは改めて、アリシアさんとの歴然たる格差を悟り、更に努力しなきゃと気を引き締め、拳を握って青空に黙然と宣誓するのであった。

 

 

 

 帰り道。ショーウィンドウのあるお店の前を通りかかると、わたしは、ガラスに映る自分を見て、コンパクトでは確かめ切れなかった髪の乱れを直した。

 

 その時、自分のほっそりした腕や脚を見、確かに細いけど、何か違う気がした。スレンダーだし、スリムなんだろうけど、美容っていう分類の細さとは違うようで……

 

 アッ、と、わたしは気付く。

 

 この細さは、スポーツ選手の細さなんだ。脂肪が削げて、とにかく直線的で。

 

 プッ、とわたしは、自身に噴き出す。

 

 やれやれ、まだまだだなぁ。

 

 真夏の空には、綿菓子そっくりの雲がどっかりと、美味しそうに浮かんでいるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.90「オルトレマーレ・ベイ~白いヨットを巡って~」

***

 

 

 

 オルトレマーレ・ベイは、ネオ・ヴェネツィアの南東に位置する。

 

 特に漁業に適していることはなく、また割と街より離れたところにあり、交通の便が悪いので、足を運ぶひとは少ない。

 

 そういうわけで、大小の魚を巡って生態系が激しく循環することや、土地開発によって元々の自然が損壊され、改造されることがなく、いわばバージンの状態で存在しているわけで、オルトレマーレ・ベイは、ある意味では稀有のロケーションとなっている。

 

 透明度の高いターコイズの海水。湾の両脇に腕をゆるやかに伸ばす陸地に青々と生い茂る南国の樹木。その中を優美に吹き抜けるやわらかい潮風。

 

 それ等すべては、幸いなる哉、にんげんの干渉をほとんど受けず、活力に満ち溢れ、みずみずしいきらめきを思う様放って、折に触れては、旅に疲れて迷い込むようにやってきた者をやさしく抱擁し、そして帰してやるのだった。

 

 

 

*

 

 

 

 オレンジ・ぷらねっとの見習い水先案内人、アリス・キャロルは、文房具店を訪れていた。

 

 蒸し暑い真夏日、その夕方だった。

 

 ショートスリーブの白いシャツ。首元には蝶々結びの赤いリボン。斜め格子縞のスカート。

 

 褐色の革鞄(サッチェル・バッグ)を背負った彼女は、持っていた油性ペンのインクが切れたので、学校の帰りに、買いに寄ったのだった。

 

 立っているだけで汗が出てくる熱気より、エアコンの効いた涼しい屋内に入ると、何かホッとしてくるようだった。

 

 求めているものが、全然めずらしい品ではないので、アリスはすぐに油性ペンを陳列ケースに見つけ、夥しくあるその内の一本を手に取った。両端ともペン先になっており、片方は太く、片方は細いのだった。

 

 財布から小銭を要る分だけ取り出し、レジ・カウンターに向かう。

 

 コレください、と、ペンを渡し、お会計。

 

 アリスはその時、伏し目がちだったが、ふと何となく目線を上げ、レジを担当する店員の向こう側に目を遣った。

 

 なんてことはない。ただの壁だった。

 

 ところが、その壁に、額縁に入った景色が飾ってあるのだった。絵ではなく、写真のようだった。

 

 アリスは、ぼんやりとその写真に焦点を合わせた。

 

 店員が金額を告げる。

 

 アリスが金銭を渡す。

 

 ……。

 

 彼女の制服のように白い額縁に入った、タテ・ヨコ、二十センチほどの写真。向かって右の窓ガラスより差し込む日射しが反射して、少し目がくらむようだった。

 

 豁然と開けた海。それも、飛び切り明るく澄んだ、さざ波を境に光と陰が鱗のように綾を織りなす海。空より水面に向かって濃淡(グラデーション)を変化させていく群青(ウルトラマリン)

 

 写真の右端の方には、彼方に向かってカーブして伸びる、ヤシやトベラの木が鬱然と茂った陸地。

 

 ――そして、それぞれ同じように白い、セイルを張った一艘のヨット。湾を離れようとしているのだろうか、ヨットは遠くを(はし)っており、小さく見える。

 

 アリスは写真の全容を眺め、胸が締め付けられる思いだった。

 

 その写真を眺めることは、強い印象が伴った。その写真には、夏という季節のエッセンスが詰まっているようだった。夏という季節の、味の強いひとしずくが、したたっているようだった。

 

 

 

*

 

 

 

 オルトレマーレ・ベイは、静粛に佇み、まるで何かを待ってでもいるかのようだった。

 

 日照りに乾けば雨が、荒天に水が(あふ)れれば日差しが恋しい。

 

 影法師の傾きが、だんだんとズレていき、またその長さを増していく。

 

 時間がゆうべに移ろっていく。

 

 だいだい色の夕日がオルトレマーレ・ベイの砂浜に差し、もぬけの殻の小さい灯台が翳りを帯びて、いくぶん不気味に見え始めた頃。

 

 一層の小舟が、ちょうど湾の入口に差し掛かった。高々とセイルを張ったヨットだった――白いヨットだった。

 

 ヨットは、入口の真ん中辺に来る前にセイルの張りを弱め、推力を失って減速し、やがて停止に近い状態となって、陸の方をどういうものかと窺うようだった。

 

 張りのなくなったセイルは最早風を孕むことがなくなり、風にバタバタと弄ばれ、はためいた。

 

 夜が近くなり、深い闇に染まった海の上を、夕日の光線が一直線に走り、そしてその先には、ヨットがあった。その光景は、まるでヨットが、湾の内側へ、陸の方へ、夕日が差す方へ、導かれているようだった。

 

 しかし、ヨットはプイとそっぽを向いた。

 

 再びセイルをパンと張ると、舵を切って、湾を去っていった。

 

 後には、ただ夕日が差し伸べた光の道だけが残っていた――。

 

 

 

*

 

 

 

 新しいノートの名前欄に、名前を記入しようとして、インクが出なかった。

 

『アリス・キャロル』

 

 クラスメイトに貸して貰おうと思ってはみたが、何となく、気重だった。

 

 名前欄にペンを走らせたが、空白を埋められず、半ば滑稽に、半ば空しく思い、机のノートを見下ろしていた。

 

 授業の終わりだった。先生が教材をしまい、周りの子たちはひと時の解放感に浮かれ、快活にしゃべっていた。

 

 帰りに文房具屋さんへ寄っていこう……。

 

 アリスはそっと寿命の尽きたペンと、無記名のノートを片付けると、心のメモ帳にそう予定を書き込んだ。

 

 学校が終わるまで、まだ数教科、耐え抜かないといけなかった。

 

 

 

*

 

 

 

 オルトレマーレ・ベイは眠りに就いたようだった。

 

 辺りはほとんど真っ暗闇で、海も空も、群青色ではなくなった。灯台は空恐ろしく立っており、幽霊でも住んでいるようで、また、絶えず押し寄せる波の音は、眠りに就いた湾の深い呼吸のようだった。

 

 そしてオルトレマーレ・ベイは、夢を見ていた。あの静かに去っていった白いヨットの夢だ。

 

 

 

*

 

 

 

 ありがとうございました、またお越しください。

 

 機械的に言われたその挨拶の余韻が終わらない内に、釣銭と真新しいペンを手に店を出たアリスは、再び暑さへと戻り、ゆうべになって尚したたかに照る太陽を手でひさしを設けて見上げた。

 

 ほとんど閉じた目に見える夕日は、周囲いっぱいに光を放射している。

 

 いよいよ目が刺激にショボショボしだして、閉じてしまったアリスは、目蓋の裏に、あるビジョンが浮かび上がってくるのが見えた。さっき、ぼんやりと文房具店のレジの向こうに眺めていた風景のビジョンだ。

 

 澄んだ海。明るい空。木々。さざ波の文様。そして、白いヨット。

 

 あの白いヨットは――

 

 ひさしの手を下ろし、歩きだしてすぐ、アリスは思った。

 

 あのヨットは、遠くにあった。遠くにあって、何だか、夢見るようだった。まるで、あそこに浮かんでいて、だけど、ホントウは、存在していないっていう風に。

 

 

 

 美しい一帖の夏の景色の中に、さっきの店員の挨拶のように、空々しい一艘のまぼろしめいたヨット。

 

 不思議に、神秘的に思う気持ち。不可解で解けない印象。一抹の疑懼。

 

 

 

 アリスは、立ち止まり、後ろを振り返った。まだ店よりさほど遠くへは離れていない。

 

 と、思ったが早いか、文房具店の前に店員が現れ、ひっかけ棒でショーウィンドウのシャッターをガラガラと閉めた。文房具店だけではなかった。近傍に軒を争っているその他の店も、同様に店じまいをし始めた。何となれば、夕方なのだ。

 

 アリスは索然とするようだった。

 

 彼女のポケットには、ジュースも買えないくらい少額のお釣りと、インキがたっぷりで字が濃く書けるペン、そのふたつに加えて、ほつれてほどけない、曖昧模糊とした感情が、余分に入っているのだった。

 

 

 

(終)



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Page.91「カシオペヤノツミ」

***

 

 

 

 さて、まずは何から話せばいいだろう?

 

 姫屋の自室のバルコニーに出ていたわたしは、ガラス窓に背を持たせ、ラフに地べたに胡坐を組んで空を見上げていた。

 

 風が涼しく、またサラサラと適度に空気の乾いた過ごしよい晴れた秋の夜だった。それまで夏のベタベタ蒸し暑い気候が続いていたので、大いに気が安らぐようだった。

 

 事情は、ちょっと複雑だ。

 

 姫屋の前の通りを挟んである海は、波の音を繰り返し響かせている。

 

「星がきれい」

 

 そう呟くと、わたしは下ろしていた手の片方をおもむろに上げ、広い空に浮かぶ五個の星を指で繋いだ。カシオペヤ座。秋の星座だ。その昔、みずからの美貌に思い上がり、他者をけなしたことで、後でひどい目に合ったという伝説がある。

 

 そう、思い上がっていた。わたしも、思い上がって、そして――

 

 友達を傷付けた。

 

「ハァ……」

 

 しおしおと俯いてため息を吐くと、わたしは星座をなぞった指を、まるで力を失ったように落下させた。手の甲をアスファルトに打ち付け、少々痛かった。

 

「だけど、あの子はわたしよりずっと痛かった。辛かった。」

 

 泣きだしたい気分だった。だが、自分なんかが泣いたところで、何になるだろう。自分は『加害者』であって、被害者ではないのだ。加害者はただ、謝罪し、報償し、反省するだけだ。涙を流す余地などありはしない。罪を贖うということは、とても峻厳なのだ。

 

 わたしはまた空を見上げた。優しい空だった。深いネイビーに染まって、淡い光芒が無数に散らばっていて……。

 

 あの中に溶けて沈んでしまいたい気分だった。消えたかった。いなくなりたかった。それくらい、自分のことが、疎ましかった。

 

 今はすっかり夜更けだ。辺りは静まり返って、海の音を除けば他は何も聞こえない。姫屋の人たちは就寝して、晃さんも、きっと眠っているに違いない。

 

 誰もが寝ている夜中に独り起きているというのは、なかなか心細くさせるものだ。

 

 ガラス窓を隔ててある背後の部屋は、真っ暗だ。結局、わたしは寝付けず、こうして外に出て、夜気を浴びて、ちょっとリラックスしようと思ったのだ。

 

「あ~ぁ」

 

 こういう風に、慨然と嘆く独り言を呟くことが多くなった。

 

 

 

 ――まさか、自分が友達を裏切るなどとは思いも寄らなかった。

 

 裏切ったのは、その子の好意に対してだった。

ARIAカンパニーの、灯里(・・)の。

 

 ある日を境に、わたしは「おはよう」などの挨拶を彼女にされても、返さなくなった。無視するようになったのだ。

 

 細かいことがあった。わたしは悪意で灯里を無視したのではない。少なくとも、わたしはそう自身に対して思っている。何も意地悪をしたくて、そういう振る舞いをしだしたのではない。灯里と何度も接する中で、こまごまとした、違和感、不快感――いわゆるストレスに直結するものがあった。

 

 そのストレスは、わたしの中に、わたしが覚知しないところで累積し、徐々にその嵩を高くし、そしてある日、風船が破裂するように、パッと弾けてしまったのだ。

 

 その後、挨拶を無視するようになり、灯里はやはり、不審がり、お互いの関係は疎遠になりだした。

 

 ひょっとすると、その累積していたストレスを、雪かきにおいてスコップで雪をすくってやるように、取り除けばよかったのだろうか。だとすれば、どうやって? ストレスの軽減と、雪かきとは、まるで違う。

 

 

 

 ――実は、だけど、既にぜんぶ解決しているのだ。解決してしまったのだ。

 

 わたしは執拗に灯里を避け続けたのだけど、あるきっかけがあって、わたしが築いていた離反の壁が粉々に砕けた。わたしは我に返ったように、あっけなく罪悪感を持ち始め、その胸苦しさに耐えきれずに、頭を下げた。

 

 すると灯里は、それまでわたしのよそよそしい挙止に対して、何となく不審がるように、また対抗するように、反応していたのに、存外気にしていなかったらしく、むしろわたしの吐露と謝罪にびっくりして、当惑していた。わたしは泣きたいほどの申し訳なさを抱えて勇気を出して「ごめんなさい」と言いに行ったのに、その手応えを得るどころか、かえって当惑させて、何だか、滑稽だった。

 

「ぜんぜん笑えなかったけどね」

 

 わたしは口元を微かに緩め、カシオペヤ座を眺めた。

 

「あ~ぁ」

 

 ――まただ。

 

 解決したというのに、この納得しない、満足がいっていない感じはいったい何なんだろう。

 

 わたしは気を張っていた。灯里への敵意か何かが生じて、彼女に近付かないように、また近寄らせないようにという、命令か、警告か、指示を下した。

 

 わたしはその自身が発するシグナルに従い、みずからの周りに防壁を設けた。もちろん、形而上の話だ。

 

 だが、先述の通り、あるきっかけがあって、その防壁は、まるで書き割りのように、脆く崩れ去った。

 

 そのきっかけというのは、こういうものだった。

 

 やはり灯里からの逃避という行動を続けている最中、わたしは忘れ物をした。うんざりするほど暑い夏の話だ。ほんの数週間前のことだ。ゴンドラを操る練習で水路に単独で出ていたわたしは、その日のメニューをすっかり終えると、姫屋へ帰った。帰り道は、なるべくARIAカンパニーのそばを通らないで済むように頭を使った。たとえ遠回りになるとしても、灯里がいるであろうと思われるゾーンには足を踏み入れなかった。その点にわたしは全神経を集中させ、油断のないよう、入念に自分の動きを練った。(しかし、ずいぶん疲れさせることだった。)

 

 姫屋に帰り、今日も灯里の顔を見ずに済んだとホッと一息付いたところで、来客があった。姫屋の他の従業員の女の子が、わたしの部屋を訪れ、知らせた。彼女は灯里が来ていると言った。わたしは顔をしかめた。一体何の用だと、半ば憤慨して、自室のカーテンの隙間よりこっそり覗いてみると、桃色の彼女が見下ろされた。

 

 わたしはハッとした。灯里は、何かを携えていた。わたしは見覚えがあった。しまったと、わたしは自分の不覚を思い知り、後悔した。

 

 夕暮れ時だった。夏の、暑い夕べだった。

 

「これ、藍華ちゃんのじゃない?」

 

 しぶしぶ出迎えると、いつもの微笑みを浮かべたのとは違う、随分冷ややかに――というよりは、冷静に?――真面目くさった表情の灯里がそう言って、携えているものを差し出す。

 

「あぁ」

 

 水筒だった。暑いからと毎日お茶を入れて携行していたのだった。たまたま忘れてしまったのだった。

 

「はい、渡しておくね」

 

「あぁ」

 

 わたしは水筒を受け取る。

 

 灯里は手短に要件を澄ますと、プイときびすを返して帰っていった。

 

 すぐさま「ごめん」と、忘れ物を届けに来てくれたことへの詫びの言葉を述べたが、むなしく散ったようだった。

 

 ――わたしに気を遣っているのだろうか?

 

 そう、不安と共に推測した瞬間、わたしの中にそびえていたものが倒れた。わたしが尊大に作り上げた自衛と訴求の拠点が崩壊した。自分を守るものを失ったわたしは一気に心細くなり、ほとんど憔悴して、灯里のもとへと戻り、友情の復活への渇望から、謝罪した。ところが、灯里は、やっぱり、思い当たるところがなくて、怪訝がる風なのであった。

 

 

 

 ――さて、どう説明すればいいだろう?

 

 分からない。

 

 事情は、複雑なのだ。

 

 そろそろ、ベッドに戻ろうか。

 

 日付は、すでに代わっている。

 

 カシオペヤが居座る位置が、じゃっかん移動したようだ。

 

 わたしは重い腰を上げ、立ち上がる。

 

 

 

 明日は、灯里とまた、仲良く出来るだろうか? 彼女は、別に何ともないと言ってはくれたけど。

 

 わたしは、途方もない脆弱さをはらんでいる自分の胸に、そっと優しく手を添えて、考えた。

 

 

 

 星が、ほんとうにきれいだった。

 

 

 

(終)



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Page.92「或るオフショット~夏のレイニー・モーニング

***

 

 

 

 ピピピ……

 

 何かの電子音が聞こえた。最初その音は小さく、節度があり、何か伝えようとするようで、だけど主張が激しくなく、余り気にはならなかった。

 

 ところが、その電子音は、だんだんと音波を強くし、やがてけたたましく、鬱陶しくなり、ベッドに横たわるアリシア(・・・・)は、とうとう耐えきれず、まどろみより目覚め、クオーツの目覚まし時計のスイッチに手を伸ばし、カチッと、スイッチを押すことで、騒々しいベルを止めた。

 

 6時30分。朝だ。

 

 目覚ましを止めた手で、額に触れる。いささかヌルヌルする。洗顔したい気分だった。

 

 真夏だというのに、部屋に差し込む光の色が鈍い。

 

 アリシアは眠たい眼でそばのカーテンをめくり、外を窺った。

 

 やっぱり、空が曇っていて、地面がしっとり濡れている。

 

 雨だ。

 

 ベッドを出、バルコニーに通じる窓辺に寄る。ドレープ・カーテンを開き、レースをめくると、バルコニーの低い手摺に引っかけたプランターの花々を見下ろす。それぞれ心なしかしゅんとしている。雨が憂鬱なのだろうか。いくら夏とはいえ、ずっと雨ざらしにすると腐ってしまう。後で屋内に入れておこう。そうアリシアは考えた。

 

 ヘアバンドでアップにした髪を固定し、洗面台で、顔を洗う。洗顔せっけんをよく泡立て、全体的にやさしく撫でるように洗う。そして流し、タオルで水気を拭き取り、改めて額に触れる。ヌルヌルした感触は、なくなっていた。

 

 アリシアはその流れで、バルコニーに出、息が詰まるほどモワッとした生ぬるい湿気の中、プランターを部屋の中に移した。バルコニーには一応、屋根はあるのだが、完全に雨水を防いでくれるわけではないし、また夏の雨の日は、湿度が高いので、図々しい雑草とは違って細やかに配慮される必要のある草花にとっては決していい環境ではない。放置してもひとりでにすくすく育ってくれるのであれば、わざわざ気を回したりしない。

 

 屋内に避難させた、湿気で乾いていない黒々とした土と、雨露の付いた花を見、アリシアは、よいことをしたと、一抹の満足感を覚えたのだった。

 

 

 

*

 

 

 

「おはよう」

 

 自宅より職場であるARIAカンパニーを訪れたアリシアは、迎え入れてくれた後輩に挨拶した。

 

「おはようございます。アリシアさん」

 

 名は水無灯里という。桃色の髪の女の子で、まだ半人前(ペア)だ。

 

「蒸し暑いわね」

 

 湿気と汗で髪を濡らしたアリシアは、閉じた傘を傘立てに収めて言う。

 

「はひ。今日は特に」

 

「雨だものね」

 

「アリシアさん、これ」

 

 灯里は、タオルを差し出す。気を遣って用意してくれたようだ。

 

「あらあら。ありがとう」

 

 アリシアはタオルを受け取ると、その白く清い繊維を見下ろし、少しの間考えた。

 

「――?」

 

 後輩は、釈然としない風に、その間、きょとんとしていた。

 

「灯里ちゃん」

 

 アリシアは顔を上げる。

 

「はひ」

 

「ちょっと、シャワーを浴びたいわ。さすがにベタベタして気持ち悪いから。お風呂、使えるかしら?」

 

「お風呂――あっ」

 

 灯里はハッとする。

 

「使えることは使えますけど、ちょっと自分のものが置きっぱなしになってるんで」

 

「構わないわ」

 

「分かりました。すぐに沸かしますね」

 

「ううん。シャワーだけでいい」

 

「シャワーだけ」

 

「うん。このタオル、使わせて貰うわね。ありがとう」

 

 一通りのやり取りを終えると、アリシアは浴室に向かい、灯里はまだ残っている雑務に取り掛かった。

 

 

 

 洗面所をかねた更衣室で、服を脱ぐ。汗ばんで汚れた服。ARIAカンパニーで洗濯しようかと思ったが、乾かすだけにしておこうとアリシアは諦めた。

 

 シャワーはバスタブと共に壁際にあるので、バスタブに入る。水が湯に変わるまでしばらく待ち、数秒経って温かくなりだすと、頭のてっぺんより浴びた。

 

 ベタベタした汗が流されていく感覚がすこぶる気持ちよ、アリシアは思いがけず「ハァ」、ととリラックスした様子で発した。

 

「アリシアさぁん!」

 

 と、外より呼び声がする。

 

「はぁい!」

 

 シャワーを止める。

 

「何か要るものはありますかぁ!」

 

「ううん、特に――」

 

 そう、言いかけたところで、アリシアは言い淀んだ。

 

 シャワーのノブを締めきれなかったせいで、水滴がポツポツ雨だれのように足元に滴っている。

 

「アリシアさぁん」

 

「灯里ちゃぁん」

 

「はひぃ」

 

「何か冷たい飲み物を用意してくれると嬉しいわねぇ。後、着替えと。ラフでいいから」

 

「分かりましたぁ」

 

 声を張って少し疲れた一方で、甲斐甲斐しい子だなぁ、と、灯里に対してアリシアは胸温まるものを感じると、再びシャワーを浴び、残りの汚れを流し、さっぱり爽快感を得るまで続けた。

 

 シャワーを止め、サッと体と髪の水気を手でぬぐい落としたり絞ったりすると、タオルを取り、《さて》、と考えた。

 

《今日は雨。ゴンドラは漕げない。何して過ごそうか? いろいろとやることはあるけど》

 

 タオルより漂ってくる洗濯洗剤の香りが心地よい。花の芳香がし、何となく自宅で雨宿りさせているプランターのことが思い出される。

 

《取りあえず、上がってから考えよう。冷たい飲み物を飲んで》

 

 アリシアは、上がることを灯里に伝えると、バスタオルで体を拭いて下着を身に付け、Tシャツを着、ホットパンツを履いた。両方とも、灯里が用意してくれたものだ。

 

 蒸し暑い真夏の雨のネオ・ヴェネツィア。

 

 その一日は、まだ始まったばかり。

 

 

 

(終)



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Page.93「入道雲を眺めて」

***

 

 

 

 行ってきます――

 

 籐のバスケットを携えたわたしは、勝手口の扉を開け、そうアリシアさんのいる方に首だけで振り返り、気持ち大きめに声をかけた。

 

 行ってらっしゃい、と、アリシアさんは溌剌とした声できちんと返してくれた。

 

 安堵し、扉を閉めると、外に満ちるムッとした空気を全身で感じた。

 

 その日は天気が安定しなかった。もともと予報になかった雨が、そこそこ強い勢いで降ったものの、その後一転してすぐに上がり、それまでの雨が嘘だったかのように晴れ、真夏の暑気が火天の光輝と共に地面の雨を急速に蒸発させ、辺りは蒸し風呂のようになった。全身から汗が噴き出して来、空気がべたべたしてひどく居心地が悪かった。

 

 だけど、こうでなきゃ、とわたしは思う。

 

 何せ、夏なのだ。涼しかったり乾燥したりしていては、らしくない。どれだけ疲弊させる気候であっても、夏にはその苛烈さを思う存分、解き放って貰いたい。(と思う一方で、農家の人たちの困った顔が何となく目に浮かぶのだった。)

 

 勝手口を出れば、テラスである。岸辺に浮かぶARIAカンパニーの社屋を囲っている。

 

 オレンジ色の夕日が照っている。

 

 わたしは手摺まで近付くと、その眩しさを手でひさしを作って弱め、海原を望んだ。

 

 その風景はわたしの目を奪った。

 

 まず入道雲が目に入った。普段あまり見ないくらい発達した入道雲で、ずば抜けて雄大で、空恐ろしくさえあった。夕日の光輝を受けて、向こう側は紅色に染まり、そしてこちら側は、陰になっているのだった。その入道雲は、大木があまねく枝に葉を茂らせるように、みずからをもくもくと複雑に肥大化させ、その存在感は圧倒的だった。

 

 そしてオールド・ブルーの海。暮れかけの空の下で水平線の辺はすっかり暗くなっているものの、手前の方はまだ明るさを保っており、壮観の空模様をその水面に、ざらついた反映として映しているのだった。

 

 額に浮かぶ汗を指で拭って、わたしは、その風景を眺めることで、何だか優しい気持ちになってくるのだった。

 

 ガラガラという騒がしい音がして、わたしは陶酔境より我に返った。

 

 シャッターの開く音だ。ARIAカンパニーの受付になっている。すぐそばにある。わたしは振り向いた。

 

「アリシアさん」

 

 彼女は、カウンターになっているその受付に前のめりになって、片肘を突いて微笑んでいる。

 

「あらあら。今日の夕焼けはすごいわね」

 

「はひ。きれいというか、雄大というか、とにかく見ごたえがあります」

 

「何となくそういう気配がしてね。見てみようって思って」

 

「そうだったんですね」

 

「グランマは絶好のロケーションにARIAカンパニーをつくってくれたわ」

 

「そうですね。ただ、海が荒れた時とかはちょっぴり怖いですけど。大波が打ち寄せてきたりして」

 

離岸堤(リーフ)があるから、だいじょうぶよ。その点は、グランマはちゃんと下調べしてる」

 

 ――風が吹く。そよ風だ。アリシアさんの微笑みのようにやさしい風。サッと流れて、彼女の髪を優美になびかせる。

 

 そうだ。

 

 わたしは思い出す。

 

 アリシアさんに、用事を頼まれたのだ。

 

 鮮やかに輝く、怖いほど圧巻の入道雲を抱く夕焼けがきっかけの話を切り上げ、わたしは改めて行ってきますと告げ、遅れて出かける。

 

 グランマが起業しようと決めた、絶好のロケーション。

 

 わたしは少し歩き出して、振り返る。翳りを帯びたARIAカンパニー。寂しげに佇んでいる。

 

 夏の遅い日没の寂寞とした哀感、そのしみじみした味わいを、口いっぱいに味わう。

 

 まるで、感動した映画が幕を下ろしてしまう時に似た――

 

 水路に沿って歩く。細い道。流水の音色はとても静謐だ。傾いた日の光は家並に遮られて届かない。空とその模様を反映する水路の水面だけが辛うじて明るく、建物の壁や地面はすっかり陰に覆われている。

 

 暗がりに不安・心細さが募ると、ポッとこぞって点灯する壁掛けの街路灯。心まで押し寄せる暗がりをパッと退けて、安らげる温もりをくれる。

 

 屋根に阻まれて見えないが、あの雲――あの大樹めいた巨怪の入道雲は、どうなっただろう。大気の流れの中で、変形して、小さくおとなしくなっただろうか。あるいは更に大きくなって、沖合で雷雨を激甚に散らせたりしているだろうか。

 

 あの入道雲の姿は、わたしの記憶にまだ鮮明に残っている。何となれば、さっき見たばかりなのだ。だが、いずれ消えるか、消えないにしろ、次第におぼろげに、不確かに、曖昧になっていくだろう。印象的だったのなら、写真に撮るなりして保存するのがよかったかも知れない。

 

 夏の、気まぐれに雨が降って上がった、蒸し暑いある日の夕べに見た、大きい、とても大きい入道雲。夕日の方は赤くて、そうでない方は深い灰色で。オールド・ブルーの海原を、わたしたちが生きるのより遥かに遅く、緩やかで、じっくりとした足取りで、風の導きに従って進んでいく。

 

 わたしは記憶を通して、その様をまだしんみり眺めている。いずれ薄らぎ、消失することを予覚して。

 

 そしてわたしは、未来、あの雲が残していった、中が空白の《(フレーム)》に、以後自分が同じ季節に見て印象に残った雲をあてはめていくことになるだろう。

 

 壁掛けの街路灯の明かり越しに見上げる空は、まだ何となく、青く、くすんでいた。

 

 

 

(終)



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Page.94「残光」

***

 

 

 

 夏が訪れ、過ぎていく。

 

 

 

 涼しく過ごしよかった気候が、高気温と多湿と熾烈なる日照で激しいものとなり、人々がダルさや鬱陶しさと共に、それ等に拮抗する一抹の興奮を覚え、始まりや活気などの象徴である太陽が思うさま、その光輝を放ってしまうと、季節は、何となくしゅんとし、衰えのきざしを示し始める。

 

 夏恒例の夜光鈴市がネオ・ヴェネツィアで開かれ、多くの客をその幻想的で美しい淡い光で呼び寄せ、盛況の内に終わると、その後数日間に、夜気が涼しさを帯び始める。要するに、イベントと夏の終わりは、時期がおおよそ被っているのだ。だから、夜光鈴市に来る人々は、たいていの者が、心の内で、季節の終焉を予覚し、ようやく過ごしよくなるのだという期待と共に、ちょっとした名残惜しさを抱く。

 

 仮に夏が永遠に続けば、世界は干からびて砂漠と化してしまうだろう。もっとも、季節が永続しないことなど、ヒトが空を飛行できないのと同じくらい、誰でも明晰に分かっているわけで、そういう風に実際に願うことはしない。――ただ、名残惜しく感じさせるものがある夏の背中に、悠久に続く、夏から夏へと一直線に貫く変わらない愛着を見て取るのだ。

 

 

 

 

 

 

 ゴンドラの清掃を終えて、汗だくになると思いきや、案外それほどでもないことにARIAカンパニーの水無灯里は驚いた。

 

 涼しい風が吹く。その風は、すっかり熱気も湿気もなく、今日明るい間ずっとあったはずの夏の気配を完全に排しており、少なくとも今日あった分の夏は完全に運び去られてしまったようだ。

 

 風に揺られて、テラスに吊るした夜光鈴がチロチロと寂しげになる。

 

 日脚の短くなった晩夏の薄暗い夕暮れに、夜光鈴は弱弱しい光を放ち、その儚い寿命を偲ばせる。

 

 灯里はその微光に追い打ちをされたように、何か切ないものを胸中に感じ、嫉妬や失恋の時にある、キュッと締め付ける痛みじみたものを覚えた。日脚が短くなり、秋が自分の出番だと夏を追い出そうとし、夜光鈴の命脈が尽きようとしている。

 

 晴れた夕空には、口が思わず開くほど見上げた山のごとき高い入道雲はなく、せいぜい丘ほどの低い雲が群れて並んでいるばかりだった。

 

 拭くまでもない軽い汗を額や胸などに浮かべ、灯里は茫然と、桟橋の突端に立ち尽くし、虚ろなる瞳で、季節の潮目をじっと見つめていた。

 

 

 

「今日は涼しいわね」

 

 ふと声がしたと思うと、灯里は後ろを振り返り、見上げた。

 

 ARIAカンパニーのカウンターより、灯里の先輩であるアリシアが、前のめりの姿勢で、両腕を組んでいた。カウンターは桟橋のちょうど一階分ほど上にあるのだった。

 

「はひ」

 

 灯里は返事すると、桟橋よりスロープを上がって、おもむろにアリシアのそばまで向かい、憂いに満ちた苦笑いを浮かべた。

 

「そろそろ夏とはお別れみたいです」

 

 その面持ちは、何か大切にしていたものを失くしてしまって、そして諦めた時のように、悲哀と憐憫を誘うものだった。 

 

「あらあら」

 

 アリシアは同情と共にそう短く答えた。

 

 灯里は彼女のそばの壁に背を持たせ、両手を軽くお腹の下の辺で握り合わせた。しゅんと俯き気味で、何か言いたいけれど、敢えて封じているようだった。

 

「灯里ちゃん」、とアリシア。

 

「はひ」

 

「春って、出会いと別れの季節ってよく言うじゃない?」

 

「そうですね」

 

「でも、考えてみれば、あらゆる季節がそうなのかもね」

 

「あらゆる季節が……」

 

「確かにひとの移動は春がいちばん多いかも知れないけど、季節だって移ろうんだもの。こうやって夏とお別れして、そして、秋によろしくって挨拶する。その後は、冬にも、春にも。で、また夏がやってくれば、久しぶり、なんて言うのね」

 

「ハハ」

 

 アリシアと灯里は、和やかに笑い合った。

 

 暮れなずむ淡い夕日は、二人を、水平線の上からやさしく見守っていた。その様はまるで、彼女等の会話が終わるまで待ってくれているようだった。

 

「灯里ちゃんは、夏が好きなのね」

 

「さぁ、どうでしょう?」

 

「まぁ、ずいぶん寂しそうにしてるのに」

 

「ハハ。何だか照れくさいですね」

 

「今夏はたっぷり満喫できた?」

 

 ――そう問われ、灯里はしばらく考えた。

 

「満喫、できたと思います」

 

「自分の思い出には、自信を持ちなさいね」

 

「はひ」

 

 風がまた吹く。揺れて透き通った音を鳴らす夜光鈴が、陰の中でぼんやりと頼りなさげに光る。

 

 アリシアは愛おしそうにその様を眺めると、「そろそろ寿命ね」、と言った。

 

「今晩、海へ(かえ)しましょうか」

 

「そうね」

 

 終わりを迎えようとするその光は、人知れず流れる涙の一滴のように、本当に淡かった。

 

 二人は暗くなるまで尚、夕焼けを眺めると、完全に店じまいした。

 

 

 

 水平線の下にすっかり沈んだ太陽は、まだ空に残光を投げていた。だが、夜光鈴は、すっかり暗くなっていた。

 

 大勢の思い出を飲み込んで、夏は、また長い旅路へと出る。

 

 輝ける時期が再び巡ってくるまで。

 

 

 

(終)



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Page.95「迷い風」

***

 

 

 

 歌を口ずさんでいた。

 

 何かそういうのって、時々ある。

 

 何かっていうのは、その時なぜか知らないけど、妙に頭に付いて離れない――分かりよく言えば、マイブームになっている歌があって、気が付けば、歌ってしまっているのだ。

 

 新しい流行歌とは限らない。むしろ、大昔の、わたしが幼かった頃の歌だったりするし、下手すれば、よりずっと古い、おばあちゃんが若かった頃の歌だったりする。そのチョイスには、一貫する性質はない。毎回バラバラ。

 

 けど、ある原則だけあって、誰かといっしょにいる時は、恥ずかしいからか、わたしは絶対歌うことはなくて、決まってひとりぼっちでいる時に歌う。

 

 最近わたしの気に入ったのは、昔――わたしがまだアクアでなく、マン・ホームにいた頃、家のテレビで、その放映時間になれば必ず齧り付いて視ていたあるアニメの主題歌だった。

 

 話数の多いアニメで、主題歌はいろいろあって、そのどれもがわたしは好きで、やはり時期が来れば、そうと知らずに口ずさんでいるけど、

今わたしが好きになっているのは、その内のひとつ。

 

 ラー、ラー、ラー……

 

 ベランダに出ると、乾いて涼しい風が横向きに柔らかく吹く。

 

 手には濡れた衣類でいっぱいのカゴ。

 

 わたしは洗濯物を干そうとしていた。

 

 アリシアさんは外出中。

 

 ちょうど洗濯機がピーという音で、脱水まですべて終えたことを知らせたところだった。

 

 小一時間ほど電気洗濯機は動きっぱなしだったので、その間わたしは、帳簿に向かって電卓をポチポチやろうかと思って取り掛かったけど、すぐに嫌になって、放り出してしまった。

 

 別にその時必ずやらないといけないことではなかったし、まず第一に気乗りしなかった。

 

 洗濯に対してはまだ真摯に向き合えたけど、それ以上の家事、仕事の責務に対しては、億劫だったし、投げ槍だった。

 

 ラー、ラー、ラー……

 

 わたしは洗濯機が、実に機械らしい誠実さでせっせと洗濯している音がする中、嫌気より机上に事務仕事の道具を放置して、ARIAカンパニーの最上階にある自部屋にあがっていった。

 

 空調がいらないほど落ち着いた空気の充満する、秋陽の差し込む明るい屋根裏部屋。

 

 小さい本棚より、テキトーに本を一冊取り出し、ベッドに大胆に仰向けになって、読む。

 

 その時、自覚がなかったが、何かわたしの心に、まるで穴があいたように、冷え冷えとした流れが吹き込んでいた。

 

 わたしはその流れを避けようとしたい一心で、行動を逐次変えていた。あれも違う、これも違う、そういう風に、恐らく洗濯機を回す以前よりあったであろうその虚しさを拒みたくて、迷走していた。

 

 何かそれだけに集中出来るものがあればよかったのだが、あいにくなく、わたしの意識は、対象がないところでフワフワと千切れ雲のように漂っていた。

 

 一念発起してマン・ホームの実家よりARIAカンパニーの屋根裏部屋に移り、借りぐらしを始めて、かれこれ三カ月ほど経った頃のことだった。

 

 わたしは、故郷を偲んで枕を濡らすといったホームシックの症状などなく、何となく新しい生活に順応しているようだった。父母を極端に懐かしむことはなかったし、自分で作る料理に不足はなかった。

 

 少なくとも、自分では新生活に順応出来ているのだと思ったし、周りの人たちの内、親との距離が比較的近く、定期的に甘えに行ける人たちからは、ちょっとして敬意を表明されたりした。

 

 だが、実際は問題があったのだ。

 

 自分では気が付かなかったけど、新天地に吹く導きの風に便乗していける自分がいる一方で、その風にうまく乗り切れず引きずられたり、置いてきぼりにされている自分がいて、その乖離が、心理・心情に影響を及ぼしていたのだ。

 

 順応出来る水無灯里がまずいたとして、その他にまた、順応出来ないわたしが、あるいは、順応したくないわたしが、分身として存在したのだ。

 

 その関係は、牽引していこうとする大人と、未熟さないしは心細さよりそれまでの位置に留まろうとする子どもの対立だった。

 

 革新と保守の、展望と回想の、未来と現実の、厳しい対峙だった。

 

 ラー、ラー、ラー……

 

 また、歌を口ずさんでいた。

 

 異郷を訪れた少女の歌だった。彼女は、遠い未来を夢見ると同時に、暖かかった過去を顧みる。

 

 昔視ていたアニメの主題歌。

 

 頭に付いて離れず、無意識の内に歌っている。

 

 ひょっとするとわたしは、その歌詞の主人公に、今の自分をオーバーラップさせているのかも知れない。甘いメロディーに乗せて、センチメンタルに、気持ちよくなっているのかも知れない。

 

 洗濯物でいっぱいのカゴを足元に置き、物干し竿に、ハンガーで一着、一着と干していく。

 

 鼻を近付けると、洗剤の香りがする。

 

 しわしわの衣類をパン!と波打たせて伸ばし、秋の陽気と乾いた風に晒す。すばらしい天気だった。

 

 手でひさしを作り、ほとんどてっぺんにある太陽を見上げようとし、クラクラと眩暈を覚える。

 

 初秋の太陽は、まだ夏の勢力を維持しており、ギラギラと照り付けるように照っている。大きかった雲が小さくなっていく中で、太陽だけは依然、大きい。

 

 ――今は、そういう時期なんだろう。過ぎてしまえば、落ち着くのだと思う。

 

 成長して大人になろうとするわたしと、子どもで留まりたいと望むわたしと、ちょっと仲違いしているのだ。

 

 お互い近いところにずっといれば、背を向けてしまうことはある。自然のことだ。空が晴れたり、雨が降ったりするのと同じ。

 

 ラー、ラー、ラー……。

 

 干し終えた洗濯物が揃って秋風になびくのを眺め、わたしは快い調和を感じて、昔の歌を口ずさんでいる。

 

 

 

(終)



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Page.96「夜闇の果てに」

***

 

 

 

 雨だった。

 

 したたかに長々と降る陰雨だった。

 

 わたしは傘を差して通りを歩いていた。

 

 オレンジ・ぷらねっとへの帰り道。

 

 陰気臭い雨に、人々は誰も彼も、しけた面持だった。

 

 冷たい雨だった。

 

 凍えるほど、冷たい雨だった。

 

 傘を後ろへと傾けて、空を見上げると、雨雲の広がりの中に、抜けているところが見えた。

 

 すでに暗かったが、空の天井ははっきり見えた。

 

 雨はじき止むのかなぁ、とぼんやり予期してみたり。

 

 でも、雨傘を踏む雨の足音は未だにしとしとと続く。

 

 朝は薄曇りだったが、昼に近くなって降り出した。

 

 乾いていた地面はあっという間に濡れ、水路を往く舟の姿はだんだんと少なくなっていった。

 

 雨が砕けたしぶきをひつこく浴びているから、ブーツに水が浸み込んできて、靴下まで濡れて気持ち悪い。

 

 早く帰りたい。

 

 オレンジ・ぷらねっとの部屋に帰って、濡れた靴下を脱ぎ捨てて、着替えて、さっぱりした部屋着で、ふかふかのベッドに大の字になりたい。

 

 あったかいココアが飲みたい。

 

 お気に入りの少女漫画を読んで、束の間の妄想を楽しみたい。

 

 そしてウトウトして、すっかりくつろいだ気分でうたた寝したい。

 

 ――そういう展望を思い描いて、すっかり夢現(ゆめうつつ)だったわたしは、我に返り、目の前を見渡す。

 

 ひとりだった。

 

 わたしはひとり、ぽつんと街路に佇んでいた。

 

 週末で、しかも遅い時分で、あまつさえこの悪天候だ。

 

 人足は自然、少なくなる。

 

 たとえ用事があるにしても、今日やっつける必要がないのなら、別の日に繰り延べるだろうと思えるくらいには、今日の天気はひどいものだった。

 

 スゥ、と息を飲む。

 

 何だろう。何だろう。

 

 わたしは頓にそわそわしだした。

 

 何かわたしを不安にさせるものがそばに、あるいはわたし自身の内にあるようだった。

 

 視野を広く目前に広げる。

 

 見渡す限りの夜闇。

 

 点灯する街路灯が照らす範囲には、雨の降り落ちる細かい無数の軌跡と、人気のないビルの空恐ろしい壁。

 

 千客万来の観光都市、ネオ・ヴェネツィアにも、こういう一面があるのだ。

 

 冷え切った空気。喜びもなく終わっていく一日。全てを拒絶する闇。

 

 わたしは、心細いが気丈に照る明かりを伝うようにして歩いた。

 

 そうしてサン・マルコ広場に辿り着く。

 

 天気がよい日中は、夥しい観光客でごった返す広場は、雨夜の今は辺りを払って物寂しく、水を打ったように静かだ。

 

 そびえ立つ鐘楼の影が、雨の中にぼんやりと滲んでいる。

 

 星間連絡船の離発着を管理する管制塔がかろうじて明るく、微かにひと気を知らせる。

 

 凍えるくらい寒かった。

 

 わたしは思わず身震いした。

 

 季節は秋もいよいよ深まろうとする頃だった。

 

 太陽が遠ざかって夜が早くなり、薄着では過ごしにくくなった。

 

 ぽかぽか暖かく、くつろいで安らげるマイ・ホームを想像する。

 

 柔らかいベッドや、おいしい食べ物や、アテナさんのちょっと間の抜けた顔を思い起こす。

 

 わたしの帰る場所。帰るべき場所。帰ってよい場所。

 

 アテナさんは、待っているだろう。

 

 わたしは今、そのそばを目指して足を運んでいる。

 

 オレンジ・ぷらねっとへ。

 

 用事をすませてびしょ濡れで帰ったわたしを、アテナさんはきっと、やれやれと呆れて迎え入れてくれ、濡れた体を拭くのにタオルを持ってきてくれたり、温かい飲み物を用意してくれたり、気遣いの言葉をかけてくれたりするだろう。 

 そういうイメージが、容易に思い描かれた。

 

 ところが、何か反発するものを感じた。

 

 抵抗だった。

 

 急激に――あるいは以前より――自信がなくなり、自分に対するあらゆる善意や配慮に対して、気後れを感じるようになった。

 

 そういう温かく優しいものは、卑しいわたしなんかには似つかわしくないのでは、という疑雲が、尻込みする自意識を源にして、もくもくと湧いて起こった。

 

 胸が苦しい。

 

 当たり前だったはずのマイ・ホームが、にわかに疑わしく、よそよそしい無関係のものに感じられてくる。

 

 わたしのものだったものが、わたしには相応しくないものに思えてくる。

 

 どうして。どうして。

 

 誰もいない広場にたった一人ぼっちで佇んで、みずからを苛み、行き先を失って、途方に暮れる。

 

 わたしなんて、いない方がいいのかも知れな――しまいには、いよいよそういう疑念まで生じてくる。

 

 だが、分かっている。

 

 よく分かっている。

 

 わたしは、弱い。

 

 だから、拠り所が欲しい。

 

 アテナさんが恋しい。灯里先輩が、藍華先輩が恋しい。

 

 目の前は見渡す限りの夜闇。

 

 だが、その限りない虚無に溶け込んでいくには、わたしはまだ弱かった。甚だしく弱かった。弱く、若く、希望にすがっていたかった。

 

 目前の闇の先に、わたしは明るみを見出す。

 

 アテナさんの明るみ。ふるさとの、友達の、家族の、生活の明るみ。生きることの悦び。

 

 雨はじき止む。

 

 そういう希望に、わたしは新たに一歩を踏み出す。

 

 

 

(終)



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Page.97「無為の時間」

***

 

 

 

 何ともリラックスした時間だった。

 

 ギラギラと照り付ける夏の太陽。その光をいっぱい浴びる。

 

「藍華ちゃ~ん」

 

 凄まじい暑さではあったが、平気だった。

 

 なぜかと言うと……

 

「藍華ちゃ~ん」

 

「ん~?」

 

「起きてる~?」

 

「起きてる~」

 

「寝ちゃダメだよ~」

 

「は~い」

 

 やれやれ。

 

 灯里が心配して呼びかけてくれたようだ。

 

 話の続き。

 

 わたしは、海にプカプカと、ラッコ然と浮かんで漂っていた。水着姿で、浮き輪はナシで。

 

 全身の力を抜いて、ただひたすら、波に身を任せる。 

 

 成るほど、確かに傍目には奇異に映ることだろう。

 

 見る人が見れば水死体である。

 

 のんびり遊泳しているようには見えないと思う。

 

「眩しい……」

 

 目をくらませる激しい夏日を、わたしは眉をひそめ、手でひさしを作って見つめる。

 

 あぁ、夏だ。夏なのだ。夏、真っ盛り。

 

 その光輝にやがて目がしょぼしょぼと沁み始め、わたしはギュッと目を瞑ると、その勢いで、ザブンと潜水する。

 

 海の浅瀬なので、簡単に底まで潜れてしまう。

 

 厳しい暑さにあって、快い海水の冷たさ。

 

 爽快感に、快哉を叫びたくなる。

 

 プハァ。

 

 水面まで上がって、息継ぎをし、手で目元を拭う。

 

 水が塩辛い。

 

 波の音が、耳のすぐそばに聞こえる。

 

 ビーチには、『お~い』と呼び寄せるように、手を大きく降る少女の姿。

 

 灯里だ。

 

 大きいパラソルの下で、水着の上にラッシュガードのパーカを重ねている。頭には麦わら帽子。

 

 わたしも手を振り返す。

 

 泳がないのかと訊いたら、見てるだけでいいと答えた。

 

 せっかく海まで来て、もったいないと思うけど、人それぞれだ。

 

 泳がないと気が済まない人がいれば、海を眺めるだけで満足だという人がいる。

 

 思うにわたしは前者で、灯里は後者なのだろう。

 

 潮風が立ち、ビーチに並ぶヤシの木々がいっせいに揺れる。

 

 パラソルの陰で長いデッキ・チェアにゆったりと優雅に腰かけ、夢現(ゆめうつつ)の遠い目で、どこか詩情に浸る様子の灯里。

 

 そのしっとりした雰囲気を、見るともなしに、わたしは波間より窺う。

 

 ちょっと水分補給にでも行こうかと考えたけど、遠慮されてくる。

 

 邪魔しないでおこう。

 

 灯里は灯里で、わたしとは違う波に身を投じて、プカプカと浮かんで、愉悦を享受しているのだ。

 

 わたしはもう一度、息をたっぷり吸い込み、肺にため込むと、ザブンと潜水し、水中をスイスイと遊泳する。

 

 バタ足で水を蹴り、両腕を大きく使って水を掻いて進む。

 

 息がしんどくなって、水面まで上がる。

 

 深呼吸。

 

 しょっぱい海を軽く舐め、ベタベタの顔の目元を拭って視界を確保する。

 

 海水に冷やされた体に照り付ける灼熱の夏日。

 

 眩しい夏日……。

 

 わたしは目を瞑る。

 

 すると、やさしい疲れが体を覆う。

 

 眠気が頭をもたげる。

 

 水面に漂流しているにも関わらず、ウトウトしてくる。

 

『寝ちゃダメだよ~』

 

 さっき聞いた灯里の注意が蘇る。

 

 大丈夫。

 

 寝やしないよ。

 

 ただちょっと、ゆっくり休むだけ。

 

 本当に、ちょっとだけ……。

 

 

 

 夏の日脚は長い。

 

 

 

 また、ヤシの木が潮風にさんざめく。

 

 わたしはハッと目覚める。

 

 そしてすぐさま決まりの悪い気分になる。

 

 寝てしまった。

 

 寝てはダメだと言われたのに。

 

 知らない内に、波打ち際まで流されたようだ。

 

 うつ伏せになって、わたしは波が寄せて引く水際に横たわっている。

 

 顔の半分は砂まみれで、背中はヒリヒリと日焼けして痛い。やれやれ。今夜のお風呂は拷問だ。

 

 あくびを嚙み殺してゆっくりと立ち上がる。

 

 脱げてしまったサンダルを拾い上げ、パラソルがある彼女のもとへと歩いていく。

 

 何だか疲れた。体が重い。遊び過ぎたみたいだ。

 

 一歩進むたびに砂に沈む足を引き上げるのが骨だった。

 

 やがて少女のそばへと至る。

 

 灯里……?

 

 見れば、彼女は、デッキ・チェアの背もたれ一杯に体を預けて、スヤスヤと寝息を立てていた。

 

 無防備に目を瞑り、被っていた麦わら帽子を抱いて。

 

 そのすっかりくつろぎ切った様を目にすると、自然と、微笑とも苦笑とも付かない笑みが口元に浮かんだ。

 

「寝ちゃったのね」

 

 気が付けば、辺りはうっすらと翳っており、太陽は水平線まで沈もうとしている。

 

「アンタが見ててくれないから、わたし、海で寝ちゃったじゃないの」

 

 そうぼやいてみるが、彼女は依然、夢の中だ。

 

 わたしはサンダルを置いて、彼女のそばに座る。

 

 日暮れまでは、まだある。

 

 それまでは、こうしていよう。

 

 タオルを取って、首に巻く。

 

 柔らかい潮風の声に、陶然と耳を傾ける。濡れた髪が煽られ、微かに寒い気がしてくる。

 

 ヤシの木がざわめき、海の波は繰り返し、ビーチに打ち寄せては引いていく。

 

 日脚の長い、夏の午後。

 

 日暮れの手前。

 

 無為の時間。

 

 

 

(終)



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Page.98「或るオフショット~朝焼けを見つめて」

***

 

 

 

 朝日の色に、季節の移ろいを感じるようになった。

 

 暑さは和らぎ、今は依然よりずっと気温が低くなり、寒いくらいで、出歩く人々の服装が変わった。はっきりした色よりは、ややくすんだ色の方が似合う、そういう季節だった。

 

 秋。

 

 ちょっとだけ早く起きてしまった朝のことだった。

 

 (わたし)は、目覚ましをかけずに寝た。休みだったのだ。

 

 ぱっちりと目蓋が開いた。辺りはすでに明るかった。疲れは取れていたし、意識は冴えていたし、眠気はすっかりないようだった。

 

 ただ、休みの割には、勿体ないと思うくらいには、早い目覚めだった。何となれば、仕事のある日より早いのだ。

 

 二度寝しようかとはじめは思ったが、すっかり覚醒してしまった以上、うまく行くはずはなかった。

 

 澄んで明るく、また色合いの強い朝日が、カーテンを通って部屋に差し込んでいる。青空を確信させる吉兆の陽光だった。

 

 わたしは寝床を出、顔を洗って歯を磨く。そしておつまみ程度の軽食を摂ると、寝間着を着替えてさっと身綺麗にし、部屋を出る。

 

 姫屋には、早朝なので当たり前といえば当たり前だが、人影はまばらで、半ば怖いくらいひっそりと静まり返っていて、自然と忍び足になる。無音の部屋の住人は、不在か睡眠中だろう。中には、火にかけたやかんの笛がピューと鳴る音が聞こえたり、着替えの時の衣擦れの音が聞こえたりした。

 

 少ないけれど出くわすのは、基本的にはその日に仕事のある、実直で働き者の従業員(ウンディーネ)で、わたしを見かけると、普段このように早起きしないので、いくぶん不審がる奇異の眼差しで、おはようございますと挨拶してくれる。

 

 

 

「今日はお出かけですか?」

 

 ある者が、気になったに違いない。わたしと呼び止めて尋ねてくる。

 

「まぁ、そういう感じだ」

 と、わたしは、いささか決まりの悪い気分で返す。 

 

「フフッ」、と彼女は微笑む。「あまり遠くヘはお出でにならなそうですね」

 

「そりゃ、この恰好じゃ……」

 

 だぶだぶのトレーナーに、ベージュの綿パン。靴はスニーカー。長い髪は、ほとんど起き抜けの状態で、整髪料さえ付けていない。これで遠出など出来ようものか。

 

「お気を付けて」

 

「あぁ、ありがとう。でも、気を付けるほど、出歩きはしないよ」

 

 ただの気晴らしの散歩だと、彼女にはわざわざ言わなくたって、よく分かっていることだろう。

 

 階段を下りる途中、窓より外を窺ってみた。縦に二連、横に三連の上げ下げ窓だ。光をよく取り入れ、加えて朝日が昇る方角に向いているので、これだけ晴れた朝では目に沁みるくらいだ。

 

 まばゆい光の反射にまぎれて、わたしの反映がうっすらと窓ガラスに見える。顔はほとんど見えないが、胴体より下はかろうじて見え、服装のラフさが際立つ。仮にこの恰好で酔いの覚め切っていない二日酔い(モーニング・アフター)に苦しんでフラフラ歩いていれば、きっと皆、気味悪がって近付かないことだろう。

 

 そうでなくたって、わたしのまとっている雰囲気というのは、人好きがしにくいものなのだ。目付きがまずキツく、実際物言いもキツい時がある。

 

 その辺のことが原因で、藍華とうまく行かない時がある。しかし、自分ではそれほど厳しいことを言っているつもりがないので、どう応じればいいのかと途方に暮れて、お互いにいい落としどころを見いだせず、口を利かずに一週間……なんていうことがあったり。

 

 そういう風に関係が冷え込んで、手の入れようがなくなると、よそが羨ましく思えてきたりする。アリシアと灯里。アテナとアリス。彼女等はうまくやっている。円満で、晴れやかで、和気あいあいとして。

 

 ――気が付けば、わたしは外に出て、海辺の通りを歩いていた。

 

 今は、アイツ(・・・)とは気兼ねせずやっている。だが、いずれまた……。

 

 潮風が寒いくらいに冷えている。秋なのだ。

 

 日の光はまだ色合いが強く、夕日と比べて見分けが付かないくらいだ。

 

 姫屋のある方を首だけで振り返る。朝日に照らされた社屋。

 

 アイツは、まだ寝ているだろうか。

 

 風がいたずらに髪を乱す。片手をポケットに突っ込んでいるわたしは、別の方の手で髪をさっと直す。

 

 正面に向き直り、海に対面し、ニコッと笑ってみる。ゴンドラの上で乗客にも見せない破顔だ。

 

 すると、慣れない部分の筋肉が動くのか、ぎごちない感覚がする。よく磨かれたガラスが正面にあれば、プッと噴き出してバカバカしく思ってしまうくらいには、わたしの今こころみた笑顔はひどい有様だろう。

 

 襟足の辺をポリポリと掻く。

 

 ハァ、とため息。

 

 瞑想するつもりで、目を瞑り、ゆっくりと開く。両の瞳を、鮮明なる光に晒す。

 

 風が吹き、波が岸に打ち寄せる。

 

 冴えた青空に、夕日と瓜二つの朝日。

 

 季節が、また変わる。

 

 その転変への予感が、わたしを前へ向かって突き動かそうとする。

 

 そろそろ皆、起きだす頃だろうか。

 

 アイツの部屋に、顔を出してみよう。そうして、さっきやったのと同じ笑顔で、おはようと言ってやるのだ。

 

 きっと、ギョッとするに違いない。

 

 その想像に、わたしは一人、愉快がってケラケラと笑うのだった。

 

 

 

(終)



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Page.99「やさしい眠気」

***

 

 

 

 ふんわりとした肌ざわりのやさしい風に起こされて、アテナ(わたし)は自分がうたた寝してしまったことを知った。

 

 やさしいけれど、深まっていく秋の冷たい風で、わたしは思わず身震いし、開け放っている窓を少しだけ閉じ、体にかけている羽毛布団を鼻の辺まで上げるのだった。

 

 最近どうも疲れ気味のようで、仕事から帰ってくると、どうしようもないダルさに崩れるようにベッドに倒れ込み、あっという間に昏々と夢の中へと迷い込んでしまう。

 

 眠たいからと目を閉じて、だけど食事をしなければ、お風呂に入らなければ、という家事への義務意識で目をこじ開けるものの、眼前に見える物体全てが、現実味を失っており、わたしは何だか絶望する気分で、再び目を閉じて、眠りへと逃亡するのだった。

 

 

 

 後、少しだけ――。

 

 

 

 わたしはまた、眠りに就く。羽毛布団のぬくもりと、頭を撫でるそよ風のさわやかさを愛おしく抱いて。

 

 

 

 

 

 

「でっかいお寝坊さんですね」

 

 食卓に付いて、アリスちゃんが呆れて言う。わたし達は向かい合って座っていた。わたしは部屋着で、アリスちゃんは制服だ。学校はすでに終わったようだ。

 

 チラッと時計を見れば、すでに午後である。長々と朝寝してしまった。疲れは取れたが、寝すぎた体が硬く軋むようだ。

 

「お昼、過ぎてますよ」

 

「うん」

 

 淹れたての熱い紅茶をチビチビ飲む。

 

「最近、夜以外にお休みになることが多いですが」

 

「うん」

 

「でっかいお疲れなんですね」

 

「まぁね」

 

 コップの半分ほど、紅茶を飲み、ホッとため息とも取れる息を吐くと、首を左右に傾けてストレッチする。

 

 (いつもそうなのだけど、)いささかムスッとした表情のアリスちゃんは、わたしのやや過剰の嫌いのある眠りに懈怠を認めて呆れるか、ないしはわたしの疲労に同情して憐れんでいるようだった。

 

 しばしの沈黙。

 

 わたしはお皿のクッキーを一枚、やはりチビチビと齧るように食べて、快い風の入ってくる窓に清々しい青空を眺め、アリスちゃんは、小動物のように小さく俯いて、物思うように、同じくクッキーを食べているのだった、

 

「いい天気ねぇ。雲も少なくて」

 

「歩きますか?」

 

「え?」

 

「お散歩。今日はアテナさん、休日ですよね」

 

「えぇ、そうだけど」

 

「じゃあ、決まりです」

 

「決まりって……」

 

「部屋でじっとしていると、体がナマっちゃいますよ」

 

 ――というわけで、半ば強制的に、散歩させられることになった。

 

 アリスちゃんはなぜかウキウキした様子で、いち早く間食を済ませ、今はおめかしにご執心である。そういうお年頃だから、至ってナチュラルなんだけど。

 

 十分くらいして、アリスちゃんが、「アテナさんは、これなんかどうですか」、と服装を提案してきた。

 

 ベージュのキャミソールワンピースを勧めてきたのだが、生地が薄い。

 

「ちょっと寒そうだけど」

 

「でっかい大丈夫です」

 

 そう言って、カーディガンを加えてくれる。明るめの褐色で、成るほど、この一枚を重ねれば何となく温かくなりそうだ。

 

 わたしは彼女の勧めに従って、着替えることにした。

 

 アリスちゃんはといえば、下は長いオールド・ブルーのフレアスカートに、上はわたしと同じくカーディガン。だけど色は違って、アリスちゃんのはクリーム色っぽい白。清純っぽくて可愛いと思った。

 

 さて、サッと着替えて姿見で自分の姿を見てみると、わたしは、似合う似合わないは判断できないけど、とにかくしっくり来る気がした。

 

「どうですか」、とアリスちゃんが後ろから覗き込む。

 

「うん。ばっちり」

 

「よかった」

 

 アリスちゃんは、さっきのムスッとした表情が嘘だったかのように、ニッコリと笑った。

 

 

 

 

 

 

 眠りに慣れた体を運ぶのは骨だった。足取りが重く、まるでアリスちゃんの付き人のように、わたしは彼女より半歩ほど遅れて歩いた。

 

 だが、日和がよく、ネオ・ヴェネツィアの街路を歩いていると、とても爽快だった。

 

 気分がよくなって、にこやかにこの秋晴れの一日を賞賛しようかと思ったが、途端に悪いものをハッと思い出し、見えない暗雲が一挙に垂れ込め、憂鬱に目蓋が下がってきそうになった。

 

 唐突に立ち止まったわたしを、先を行くアリスちゃんは怪訝そうに振り返る。

 

「どうかしましたか?」

 

「仕事がね――」

 

 歩いては話が出来ないと思ったわたしは、言いかけて、周囲にどこか落ち着いて話せるところがないか見回した。

 

 すると、小さい教会の前に、車止めがあり、その下に階段があったので、わたしはアリスちゃんと一緒に、その階段に座ることにした。

 

 最初はためらいがあったが、アリスちゃんの顔を見ていると、矢も楯もたまらず、聞いて貰いたくなって、思い切って、胸中のわだかまりを吐露した。

 

 

 

「――そういうわけだったんですね」

 

 仕事がうまく行かないと打ち明けたのだった。そして仕事上の課題をうまく解決出来ずに延々とくすぶっていて、ずっと思い悩んでいるのだった。

 

「道理でここ最近、様子がおかしかったんですね」

 

「うん。ごめんね」

 

「別に、謝らなくったって……」

 

「何か、自信喪失しちゃってさ、まだ、発作的に眠くなることがあるんだ。目の前が真っ白になるみたいに」

 

 わたしは目を瞑る。その刹那、考える。思い起こす。憂鬱。不安。無力感。真っ暗闇。

 

「けど――」

 

 わたしは目を開く。彼方にある美しい夕日が瞳に差し込んでくる。腰を上げて、その光を、ウンと伸びをして全身で浴びる。

 

「アリスちゃんに今日こうして連れ出して貰って、何か気分転換になったと思うわ」

 

 ありがとう、とわたしは首だけで振り返ってアリスちゃんに言う。

 

 すると、アリスちゃんは、出かける前に見せてくれたあの笑顔でどういたしまして、と返してくれる。

 

「誰にだって、伸び悩むことはあるでしょう」、と彼女は落ち着いた調子で言う。「でも、時間は常に前に進むわけです。希望、解決、進展を望めば、神様はいいように導いてくださるはずです」 

 

 わたしは正面に向き直る。

 

 彼方に浮かんでいた夕日は、すでに頂点を過ぎ、低くなり、いよいよ水平線を目指して、建物の陰に隠れようとしている。  

 

 また、わたしは眠気を覚える。だが、今度のは憂わしさより逃避しようとする眠りの眠気ではなく、うっとりとした、遊び疲れた子供が感じるのに似た、そういう温かい、やさしい眠気なのだった。

 

 

 

(終)



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Page.100「或るオフショット~駆け足の秋の日」

***

 

 

 

 やさしい日が射していた。

 

 夕暮れ時だった。

 

 日没が早くなったなぁ、と、アリシアは、机に肘を突き、両手で頬を支えて、外を眺めているのだった。

 

 帳簿と睨めっこしているには勿体ないと思うくらいには、よい天気だった。

 

 晩秋の割にぽかぽか陽気で、透明度の高い空は夕日の煌めきに満ち、会社がその上に浮かぶ海原はどこまでも凪いでいるのだった。

 

 真夏には汗と湿気でベタつきがちだった彼女自慢のブロンドのロングヘアが、秋が深まった今では、フワフワのサラサラに変わり、ヘアゴムで束ねたりしなくても、扱いよくなった。夏と比べて崩れにくいから、アレンジもしやすい。そういう変化だけで、けっこう気分というのはよくなってしまうものだ。

 

 落ち着いたまとまりのあるしっとりしたアリシアの紙は、頭頂の分け目を起点に耳元、ほっぺた、うなじ、肩の上を、背中まで、少しの乱れさえなく、緩い美しい線を描いて下りているのだった。

 

 普段は後ろで三つ編みにしている髪だが、今は対人仕事ではないので、すっかり下ろしている。ナチュラルが楽でよかった。風がひどい時などは、結わえた髪が煽られて、鞭ほどではないが背中を打つので、いささか鬱陶しく感じるのだった。

 

 アリシアは少し顔を傾けて、より高い空を覗いた。すると、消え消えの鱗雲の跡が微かに見え、思わずにこやかになるのだった。

 

 ――しかし、時の流れというのは()に早いものだ。

 

 アリシアはふと痛感する。物思うでもなく、心中でそうしんみりと呟く。

 

 彼女の後輩である灯里はというと、朝方出かけて、まだ外出中。アリシアは一応、合同練習だと聞いている。姫屋とオレンジ・ぷらねっとの友達と三人で寄り集まってやっているというゴンドラ漕ぎなどの自主練だ。

 

 アリシアも、同じことを昔よくやったものだと過ぎ去りし日のことがまざまざと思い返される。――この旻天(あきぞら)のしっとりした煌めきに冴えるブルーを見ていると、不思議とノスタルジックにさせられるのだった。

 

 さて、雨が降っていたり風の強かったりする日は早々と帰ってくる灯里だが、今日の帰りはきっと遅いことだろう。そうアリシアは予測した。春日遅遅というが、季節は秋、ましてや晩秋だ。日脚が早く、晴天を愛でるには日照時間が短すぎ、あっという間に夕と夜が来る。遅いといえど、懸念されるほどの時間には帰宅すまい。

 

 ――今の内に、夕食の買い物がてら散歩に出ようか、事務仕事も一段落付いたことだし……

 

 アリシアはパタンと帳簿を閉じると、そばのグラスに少しばかり残っているミネラルウォーターを飲み干した。

 

 

 

*

 

 

 

 外に出ると、空には半分欠けた夕月がかすんでいて、空が夜に向かって翳っていくにつれ、その様相を明瞭にさせていくのだった。

 

 海辺の街路を行くアリシアは、段々とくっきりしてくる半月の下で、風のない、ぽかぽかした湿り気のないさっぱりした空気に、快さを感じた。

 

 足取りが軽く、気分は何だかウキウキして、うっかりすると、思わず目的とは関係のないところへ足を伸ばしそうになってしまうのだった。

 

 まぁ、散歩なので、どこへ行こうといいのだけど、最終的には買い物に行くという目標があるし、あんまり遅くなると、八百屋さんや肉屋さんが閉まったり、灯里がお腹の虫を鳴かせて待ちぼうけを食うことになったりと、好ましからざる状況になりかねないしということで、あんまり浮かれてそぞろ歩きしないように、アリシアは注意しないといけないのだった。

 

 キラキラと夕焼けの色に染まる凪ぎの海の眺めを満喫すると、アリシアは海辺の大通りを折れ、細い薄暗い路地に入った。

 

 その路地は、海へ通じる水路と並行する通路で、ふと見ると、軒を争う住宅の木庭に植えられた、葉をたくさん茂らせた闊葉樹の木が、すでに色付き、落葉し、その木の葉が、水路の水面にユラユラと風雅にたゆたっているのだった。

 

「すっかり秋ねぇ」

 

 アリシアはそう一人呟くと、家々の屋根越しに空を見上げ、季節の変転を実感し、そして、やがて来る冬の厳しい寒さを、半ば楽しみに、半ば心細く、予感するのだった。

 

 アリシアは自慢の髪を手で撫でつけ、そのサラリとした手触りに、安らぎを覚えるようだった。

 

 ふと、水路を往く一艘の小舟があった。

 

 ゴンドラだった。水先案内人(ウンディーネ)だけが乗ることを許された舟だ。

 

 誰が乗っているのだろうか。まさか灯里だろうか。あるいは晃。あるいはアテナ――。

 

 徐々に近付いて来、制服がよく見えるようになると、アリシアは、ニコリと微笑んで頷くのだった。

 

 赤いラインの入った制服で、姫屋の水先案内人だった。彼女はアリシアをよく知っていて、藍華ほどのファンではないにしろ、そこそこ慕わしく思っているらしく、アリシアの姿を認めると、何か可愛い小動物でも発見したように目を輝かせ、ペコリと会釈したのだった。

 

 ――姫屋の子。この先を曲がって、姫屋に帰るのね。ということは……。

 

 灯里がじきARIAカンパニーへ帰ってくる。

 

 アリシアは、早足で駆ける時のせわしさ、儚さを改めて感じるようだった。

 

 ――そういえば。

 

 と、アリシアはハッと思い出す。

 

 ――さっき飲み干したミネラルウォーター、ボトルごとぜんぶ飲み切っちゃったのよね。また買わなくっちゃ。

 

 

  

 夕暮れのARIAカンパニー。

 

 灯里はまだ帰ってきていない。

 

 机の上に、アリシアが水を飲んだグラスが残っている。

 

 その中の、飲み残しの水滴に、沈む夕日が、海側の窓の、カーテンの少し開いた隙間を通って届く。

 

 つぶらでまるい水滴が、オレンジ色に輝く。

 

 その輝きは、純度が高く、まるで琥珀のように、見えるのだった。

 

 

 

(終)



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Page.101「目覚めの一杯~アイ・オープナー」

***

 

 

 

 『ホ』と発音するように口を開けて、呼気のかたまりを吐き出す。

 

 すると、凍て付く早朝の冷気に、わたしの息はあっという間に白くなって、宙に消えるのだった。

 

 やれやれ、寒くなったものだ。

 

 寒天の下、ゴンドラを漕いで、冬季の到来を実感する。

 

 首にはマフラーを巻いて、両手には手袋。しかし、水先案内人の手袋とは違うもので、詰まるところ、防寒具だ。水先案内人の手袋はハーフ・フィンガーなので、防寒具としては不足している。

 

 これだけ寒くもなれば、指先まで覆える手袋がないと、手がかじかんでしまって、思うように櫂を漕ぐことが出来ない。

 

 合同練習に向かうというのに、寒さ対策が万全でなければ、足並みを乱してしまう。

 

 ARIAカンパニーを出たわたしは、待ち合わせの場所――リアルト橋のたもと――まで、ゴンドラを漕ぎ進めるのだった。

 

 

 

*

 

 

 

「遅~い、何してたのよ?」

 

 リアルト橋に到着して、先に着いている他の二人が寄り集まっているところに顔を出すと、藍華ちゃんが、眉間に皺を寄せて、責めるように言うのだった。

 

 実を言うと、わたしは、待ち合わせの時間に間に合うと余裕しゃくしゃくでいたんだけど、初冬の朝の爽やかさや、しつこく残る眠気に、いつしか漫然とした手捌きになり、うっかり道順を間違えて、遠回りになってしまい、ちょっと遅刻してしまったのだった。

 

「ごめん。寝坊したわけじゃないんだけど」

 

「おはようございます、灯里先輩」

 

 時間通りに着いたらしいオレンジ・ぷらねっとのルーキーは、特に不満そうにすることもなく、挨拶してくれる。

 

「おはよう、アリスちゃん」

 

「ハイハイ、おはよう」

 

 藍華ちゃんが、呆れたように最後に挨拶してくれる。

 

 わたし達三人の中で、誰がリーダーだとか、そういう堅苦しいことは特に決まってはいないんだけど、やっぱり仲良しごっこで済ますわけにはいかないので、何となく、最年長の藍華ちゃんがいつも先頭に立って、合同練習のあれやこれやを、ただのお遊びにならないように、取り仕切ってくれている。

 

 リアルト橋には、わたし達の他に、水先案内人の子や、水上タクシーの乗り手が、或いは待ち合わせのためか、或いは休憩のためか、あちこちに散らばって見える。

 

「あの」、とアリスちゃんが言いかける。「皆さん、眠たくはありませんか?」

 

「わたしは平気だけど」

 

 藍華ちゃんがまず答える。その取り澄ました感じは、彼女の頭がシャキッと冴えていることを分かりやしく示していた。

 

 一方でぼんやりしたわたしは、しばらく考えて「ちょっと、眠たいかなぁ」、と答えるが、刹那、目の前に何かサッと飛んでくるようでびっくりして思わず目を閉じると、ピリッとした痛みが両頬に走ったのだった。

 

「イダッ!」

 

「どう、スッキリするでしょう?」

 

「藍華先輩!」

 

 どうにもビンタされたようだ。頬っぺたがヒリヒリする。

 

「ハァ~」

 

 わたしは何だか力が抜けるようで、ため息が出た。その息も白く凍った。

 

 頬を張られ、眠気は取り除かれたように思えたが、一瞬だけのことで、すぐに戻って来、わたしはまた、ぼんやりとするのだった。

 

 アリスちゃんが、プッと噴き出す。藍華ちゃんもその後に続く。

 

 そして哄笑が沸き起こる。

 

 わたしの両頬が、まるで赤ちゃんのように真っ赤に染まっているのだった。

 

 周りの人の中にもわたしをクスクス笑う人がおり、わたしはその時、藍華ちゃんのことを、少しだけ恨めしく思うのだった。

 

 

 

*

 

 

 

「ごめん、ごめん。悪かった」

 

 藍華ちゃんが陳謝する。だが、顔が半分にやけている。罪悪感がある一方で、実際楽しかったようだ。

 

 わたしは、さっきのことでムスッと膨れていた。

 

「今日はご馳走するからさ、許してよ」

 

 ――わたし達は、レストランに入っていた。アリスちゃんが何か目覚めの一杯でも飲みに行かないかと誘ったのだった。

 

 ゴンドラはそれぞれリアルト橋の近くにある船着場に停めてきた。

 

「ハイ、灯里先輩」

 

 アリスちゃんがメニューを渡してくれる。

 

 決して根深いものではないが、確かに体温を上げる怒気のために、わたしは、目覚めの一杯がいらないくらいには、覚醒していた。

 

 ただ藍華ちゃんに一矢報いてやろうという気概で、一品、二品、多くオーダーした。

 

「藍華ちゃん、ご馳走様!」

 

 満面の笑みで、藍華ちゃんに言う。(いささか嫌味っぽく)

 

 その笑顔が挑戦的に見えたのか、藍華ちゃんは、同じく笑って返すが、じゃっかん引き攣っているのだった。

 

 レストランは、すばらしいところだった。豪華絢爛たる照明(シャンデリア)が、個々のテーブルの上に吊り下げられ、壁に取り付けられた燭台には燈火が明々と揺れており、そして大運河(カナル・グランデ)に向いている窓には、運河を挟んだ対岸の建物の連なりが、青空と共に広く見渡せるのだった。

 

 苦味の強いエスプレッソを飲み切る頃には、わたしの目はずいぶん冴えていた。二人より多く注文し、食べたわたしは、ひょっとするとまた眠たくなる(おそれ)があったが、気分は高まって、青空をじっと見つめて、合同練習に積極的になっていた。

 

 朝日は高く昇り、気温が上がり、最早、息を吐いても白く凍り付きはしなさそうだ。防寒のためにと着けてきた手袋も、マフラーも、あるいはいらなくなるかも知れない。

 

 絶好の練習日和。

 

 さぁ、やる気を出して、今日も一日、がんばろう。

 

 

 

(終)

 



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Page.102「繋いだ手」

***

 

 

 

「藍華」

 

 と、わたしを呼ぶ声がした。

 

 お母さんの声だ。

 

 わたしとお母さんはぴったり隣り合わせになって手を繋いでいた。お母さん方が背が高いので、わたしは面を上げた。

 

「この駅ね」

 

 そう言って、目先のこぢんまりとしたあずまやっぽい建物を指さして見せる。

 

「ここで、電車に乗るのよ」

 

 ふうん、そうなんだ。

 

 大した感慨もなく、取りあえずわたしは駅舎をじっと眺めて頷いて応えた。

 

 春の日が麗らかだった。生白い春霞が、どこまでもぼんやりとして、夢見るようだった。

 

 また、日差しが強く、いくぶん暑いとさえ感じられるほどだった。

 

「後、どれくらい?」、と、早朝より始まり続くこの長旅(・・)にいい加減、疲れてきたわたしが訊く。

 

「そうね」、と言ってお母さんは、今指さしていた手を頬にやり、考える恰好になる。「ここで電車に乗って、ひとつ、ふたつ、」

 

 お母さんは、頬の辺りで指折り数える。

 

「みっつ……みっつ目の駅ね!」

 

 ――ところで、わたしが連れられて来たこの駅は、実に奇勝であった。

 

 海に面して駅舎があり、駅舎はそれほど大きくなく、むしろ小さくて、ただの一軒家のようにコンパクトであった。赤いポストが入口のわきに立っており、緑化のために植えられた草花が春の日にすくすくと伸びて、鼻をくすぐるようにやさしい潮風に揺れている。

 

 空を見上げると電柱と電柱の間を渡る高圧線が視界を横切る。

 

「さぁ、行こう。藍華」

 

「うん」

 

 そう言ってお母さんに手を引かれ、わたしは、やはりこぢんまりとした駅の窓口へ赴き、切符を買い求める。おとな一枚、こども一枚。

 

 改札に立っている駅員は、二十代くらいの若い男で、上着までパリッと着て、日差しのもとでは暑くても、しょせん時節は春先に過ぎず、日陰ではむしろ寒いくらいなのだった。

 

「可愛いお子さんですね」、と、改札を通る時、駅員が笑顔で話しかけてきた。

 

「ありがとうございます」、とお母さん。

 

「男の子ですか?」

 

「いえ、女の子なんです」

 

「あぁ、そうでしたか、失礼しました。御髪が短いものですから、てっきり」

 

 そこまで言うと、駅員は首を伸ばし、わたしに向かって、「気を付けてね」、と手を小振りに振った。

 

 わたしは人見知りが出てしまい、お母さんの陰に逃げ込んで、オロオロと駅員を見上げるばかりだった。

 

 お母さんと駅員は、それぞれ苦笑いを浮かべていた。

 

 ――お詫びのしるし(?)に、わたしは缶ジュースを一缶貰った。

 

 

 

 

 

 

 駅のベンチに座ってゆっくりと電車を待つ。

 

 飲み干したジュースの空き缶を、わたしはちゃんと舎内のゴミ箱に捨てた。

 

 お母さんはと言うと、隣で、手紙を睨んでいるのだった。その手紙は、友達に貰ったもので、友達は、レストランを開業したので、ぜひ来て欲しいと書いてよこしたのだった。お母さんはある休日をその訪問の日にし、わたしを随伴させた。

 

 緩いパーマのかかったロング・ヘアに、ネイビーのアウター。グレーの膝まであるロングTシャツに、下はネイビーのレギンス。たまにする、髪を耳元にかける仕草が女性っぽいと好ましく思う。

 

 わたしはと言えば、白いTシャツの上に、ネイビーのパーカー。下はグレーの短パン。カラー・コーディネートはすっかりお母さんと一緒だ。

 

「藍華」

 

「うん」

 

「お腹、空かせておくのよ。向こうに行って食べるんだからね」

 

「はぁい」

 

 時間帯は、昼の少し前といったところだろう。そろそろお腹の虫が鳴き出す頃だ。

 

 わたしはお腹を手で撫でてみる。うん。ぺたんこだ。

 

 手を髪に移す。サラサラで触っていて気持ちがいいけど、短い、男の子だと思われるショート・ヘア。

 

 ロング・ヘアまで伸ばしたい、と思うことは何度もあるんだけど、一定以上伸びると、始末が悪く、手に負えず無様になるので、長くなる前に切ってしまうのだった。

 

 ネオ・ヴェネツィアにアリシアっていう水先案内人がいて、その人のロング・ヘアが(人柄と相俟って)物凄く綺麗で、何度も真似しようと試みるんだけど、あまりの対照的っぷりにイヤになって恨めしい思いでバッサリ、リセットしてしまうのだった。

 

 ――あぁ、一体何歳の時だったろう。十にも満たなかった時だろうか。お母さんに連れられて、ネオ・ヴェネツィアを離れ、船と電車を乗り継いで数時間。あの時、わたしの髪の毛はずいぶん短かった。バーベキューの災難で思い切って短くなった今よりも、更にまだ短かった。

 

 あの時と比べ、今はだいぶん垢抜けて、お母さんの支援があり、勿論、自助と努力だって欠かさず、とうとうロングヘアの手入れだってお手の物となり、加えてアリシアさんに賛辞を貰いまでしたあのロングヘア……ハァ、あのハプニングを思い出すと、まだため息が漏れ、げんなりさせられる。

 

 とにもかくにも、わたしは、じっとあの駅で、お母さんと、電車の来るのを待っていた。

 

 キラキラと煌めく海原が一望出来る駅。遮るものは何もない。

 

 明るい日が照り付ける海原が反射する青い光が、駅舎まで届き、黒いはずの陰をじんわりと、青っぽく染める。

 

 落ち着いた春の空気が朧気にまどろむ中に、快足の風が駆け抜け、ある者には涼しさを、ある者には寒さを運ぶのだった。

 

 割とけっこう長い待ち時間だったけど、不思議と、ぜんぜん退屈することはなかった。

 

 その内、お母さんはうたた寝を始め、わたしはこっそりその手にある手紙を抜き取って読んでみようとして、漢字に戸惑ったり、さっきの駅員と目くばせして微笑み合ったり、お母さんのロングヘアを撫でてみて、羨ましく思ったりした。

 

 風がまた、吹き抜ける。音もなく、颯爽と。熱を帯びた体が冷まされ、やがて肌寒く覚えてくる。

 

 グゥ。

 

 お腹が鳴った気がする。

 

 空腹感が頭をもたげ、わたしを食事へと微かに急き立てる。

 

 すると、何だか駆けていきたい気分に襲われる。子供の衝動がそうするのだろうか。

 

 だが、わたしはあくまでじっと、線路の上をガタゴトと走って来、キーッとブレーキを鳴かせて止まる列車の音を待ち侘びている。

 

 ふと、離していた手をまたお母さんと繋ぐ。静かに寝ているお母さんと。

 

「ん……」

 

 お母さんが、ぼんやりと目を覚ましかける。

 

「電車、来た?」

 

「ううん、まだだよ」

 

「そう」

 

 

 

 春の日が、麗らかだった。

 

 

 

(終)



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Page.103「冬の目覚め」

***

 

 

 

 とても寒い日和だった。

 

 空は青く澄み渡り、朝のよく冷えた空気はピリッと張り詰め、ひっそりとした水路の水面は、所々、落ち葉が浮いて漂っているが、他は磨いたように凪いで、空模様を鏡のようにクリアーに反映していた。

 

 オレンジ・ぷらねっとの手袋無し(プリマ)、アテナ・グローリィは、自主練を目的に、ゴンドラを漕いでいた。ポンチョ付きの冬のセーラー服に身を包み、首には山羊毛(モヘア)で灰色のマフラー。あまりの寒さに、マフラーはマスクのように鼻先まで覆っている。

 

 住宅街の水路。朝。ほんとうに静かで、無言でオールを捌くアテナに聞こえるのは、せいぜい自分の息遣いとオールが水を掻く音くらいだった。

 

 冬が深まり、人々がこぞって待望し、祝福する聖人の誕生日まで残り一カ月を切ったところだった。

 

 木枯らしはとっくに吹き荒れ、各所の草木は、すっかり枯れて萎れるなり、色褪せた葉をたくさん散らせるなりしたが、この水路では、まだ秋の風情が気まぐれに残っており、ある住宅の裏庭に生えた楓などは、まだ燃えるように赤い木の葉を豊かに茂らせていたりする。

 

 ゴンドラは、アーチになっている短い石橋に行きかかる。

 

 アテナの吐く温かい息が、マフラーの繊維の隙間より漏れ、白く凍り付いて立ち上り、消える。

 

 雪はまだ降らない。だが、初雪までそう待たないだろう。白い雪は綺麗で待ち遠しいが、あまり多く降り積もれば雪害を招く。嬉しいようで、違うようで。雪を予感するこの時期は、期待と倦厭の入り混じった気分になる。

 

 ズズズ、と洟をすする。マフラーが防ぎ切れない寒気に刺激を感じて、洟が出てしまうのだ。

 

 束の間、暗い陰を潜ると、また明るいばかりで温度のない日差しのもとに戻る。

 

 見れば、あっちこっちの住宅の窓に、それぞれ同じだったり似ていたりするオブジェが目にされる。

 

 赤い装いと白い髭の微笑みを湛えた老人。そして橇を曳くおとなしい動物。

 

 皆、その日を心待ちにしているのだ。

 

 あるベランダのプランターに、ポインセチアが真っ赤に燃えている。老人の服とそっくりの色。角の生えた動物の丸い鼻もまた同じ色だ。

 

 備え付けの暖炉には、暖かい炎が薪の爆ぜる音をバックに踊り、わざと暗くされた部屋を、キャンドルの灯火と共に、やさしく照らす。

 

 ――ハックシュン!

 

 くしゃみが出た。

 

 甘い想像に(うつつ)を抜かしていたアテナは、ハッと我に返る。上の空だったので、心なしかゴンドラが行くべき航路を外れて斜めを向いている。

 

 窓辺に寝ている家猫が、片目を薄く開け、アテナをじっと見ている。

 

 その目付きが、何となく責め付けるか、嘲るかするようだったので、アテナは居心地が悪くなり、ゴンドラの向きをオールでさっと整出ると、そそくさとその場を去っていった。

 

 

 

 恥ずかしそうに去るゴンドラの残したV字形の航跡波が、徐々に小さくなって、やがて消える。

 

 水面がまた、静かになる。

 

 

 

 

 

 

 学校より、両手袋(ペア)のアリス・キャロルが、オレンジ・ぷらねっとの部屋へと帰ってきた。上は灰色のブレザー、真紅のリボンが結ばれた白いシャツ。下はベージュのチェック柄のスカート、ネイビーのロング・ソックス。学校の制服だ。

 

 時間はまだ夕方だが、日はとっぷりと暮れ、辛うじて残照があるといった程度だった。

 

 従業員が起臥する部屋が集中する棟は、日中明るい時は消灯されているが、今くらいの季節になって日暮れが早くなると、その分点灯の時機が早められる。

 

 入室して電灯を点けた途端、エアコンが効いているので妙に思ったアリスは、辺りを見回すと、ベッドに注意が行った。

 

 天蓋付きのベッドが、膨らんでいる。人の気配。

 

「てっきり今日はお仕事かと思ってましたが、アテナ先輩」

 

 部屋は相部屋だった。だが、家具調度は個人が尊重され、一人ずつに用意されており、ベッドがふたつあれば、机や椅子などもそれぞれ個人で使えるように分かれてあるのだった。

 

「うん」

 と、アテナがベッドの中より、こもった声で応じる。

「その予定だったんだけどね、ちょっと体調を悪くしちゃって」

 

 アリスは、背負っている手提げにもなるレザー・バッグを椅子の背もたれに掛けると、中身を整理しだす。

 

「でっかい鼻声ですね。熱は?」

 

「熱は、微熱。さっき測ってみた」

 

 数学の教科書。国語の教科書。ノートブック。ペンケース。

 

「朝駆けは結構ですが、秋はもう終わったんですから」

 

「けど、楓がまだ散ってなかったよ」

 

「暦の上では完全に冬なのに、お花の狂い咲きとおんなじ感じなんでしょうか」

 

「かもね」

 

 学校で課された宿題があって、アリスは、早速取り掛かろうとしているのだった。

 

「ハックシュン!」

 

「うわっ」

 

 突然のくしゃみに、アリスはビクッと驚く。

 

 アテナのベッドの方を見、彼女が訊く。

 

「病院へは行かれましたか?」

 

「うん、行ったよ」

 

 掛け布団から、眉をひそめて困った感じのアテナの顔が、上半分だけ覗いている。

 

 宿題に要る分の教科書、問題集、ノートを取り出すと、アリスは机に並べた。

 

 語学の文法。抜粋された小説の人物の意思の推理。図形、関数、計算。社会問題をテーマにした論文。宿題は色々だ。

 

 さて、とアリスは考える。

 

「今日の夕食ですけど」

 

「うん」

 

「食堂に行きます?」

 

「あんまり食欲ないし、動きたくないんだけど……」

 

「安静にするのはいいですけど、食事をしないのはよくないですよ。医食同源です」

 

 アリスの言葉に、アテナはあまりピンと来ないようで、返事に窮してモゴモゴと口籠った。

 

 アリスは、財布と空っぽの手提げバッグを携えて扉まで行くと、アテナを振り返り、「わたしが買ってきます」、と言った。

 

 アテナは最初遠慮しようかと考えたが、体のダルいことなど、諸々考慮して、頷いた。

 

「ありがとう」

 

 

 

 アリスが外出し、一人になったアテナは、物思うでもなく、朝ゴンドラで通った水路の情景を思い返した。静まり返った水路。散り残る秋の木。凪いだ水面。冷たすぎるほど冷たい身を切る空風。

 

 目を瞑れば、そのビジョンがまざまざと見え、厳しい寒さをまた肌身にヒリヒリと感じるようで、アテナは一層暖かい布団をギュッと抱いて、しばしの安眠へと憩いに沈むのだった。

 

 

 

(終)



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Page.104「願い」

***灯里***

 

 

 

 初夏と晩春の間の、ある日のことだった。

 

 特に言うべきところがなく、可もなく不可もなし、といった仕事の出来具合だったその日、アリシアさんはすでに自宅へと帰り、ARIAカンパニーにいるのは、わたしひとりだけだった。

 

 日はとっぷりと暮れ、だけど、まだ夕方の余韻が濃く残る時間帯。水平線の彼方に、多くの人々を活気付けた明るい太陽は消え、素晴らしく晴れ渡った一日の温かい、否、ほとんど暑いほどだった空気が、まだ冷め切っていない頃合い。

 

 パチンと、屋根裏部屋の照明のスイッチを付けると、蛍光灯の光が目に沁みるようだ。

 

 ひっそりと静まり返る中に、穏やかに聞こえる(わだつみ)の声。やわらかい波が波止場に押し寄せ、そして、引いていく。その音に、微風(そよかぜ)の気配を感じる。

 

 窓を開けようと思った。

 

 宵闇に安らかに横たわり、眠りに付こうとする初夏のやさしい息吹を、どうして遮り、閉ざす必要があろうか。

 

 鎧戸を備える両開きの窓を開放する。

 

 すると、辺りを漂い、流れる風がこぞって流入して来、その勢い、肌触り、温度を全身で受け止め、その風情に感じ入る。涼しく、芳しく、やわらかで、あまりの快感に、わたしはうっとりとし、刹那、天にも昇る心地に、我を忘れる。

 

 仕事を終えて、日が暮れて、程よくくたびれており、だけど、まだご飯は済ませておらず、自由に過ごしながら、何を食べようか、などと考えるこの時間が、けっこう好きだったりする。

 

 窓枠に片腕を寝かせ、その手の甲の上に肘を突き、頬を持って、目を瞑る。何を想像するでもなく、ポカポカ陽気の日なたに丸くなる猫のように、ただただ、雑然とした頭の中を空っぽにし、全てを束の間だけ忘れ去り、風雅に、無為に、純粋に、時間の流れに身を任せ、漂うのだ。

 

 

 

***藍華***

 

 

 

「すっかり夏ですねぇ」

 

 買い物した品の入った紙袋を胸に抱えて通りを歩く、わたしが言う。何となく暑いし、道行く人の中には、薄着の人がチラホラ見受けられる。

 

「まだ気が早いんじゃないか」、とそう答えるのは、隣を歩く晃先輩だ。「昼日中はまだしも、朝と夜は寒さが残ってる。衣替えしたくもなる気温の日は多いが、振れ幅がでかい」

 

「そうですかねぇ」

 

 フワッと思い付いた感想を、てっきり同意してくれるものと踏んで口にしたわたしは、噛み合いが悪く、案外同意してもらえなかったことに、幾ばくかの不興を感じ、やんわりと対決しようとする。

 

「だって、上を見てみろ」

 

 そう言って、晃先輩は夕空を指さす。

 

「春の星座がまだ真上にある。天体の現れ方が春で、暦の上でも春なんだ。ちょっと気温が高いくらいで夏が来たと思い込むのはいいが、うっかり薄着で寝て、風邪なんか引いたりするなよ」

 

「ハイハイ、分かりましたよ」

 

 真面目に答えるの禁止、とでも叫びたかったが、相手が相手なので無理だった。

 

 だが、別に、この程度のことで、不貞腐れる必要などなかった。

 

 何となれば、過ごしよい空気が全体に満ちており、気分がよかったのだ。

 

「重いか?」

 

 手ぶらの晃先輩が、気遣って、顔を覗き込んでくる。

 

 しめたと思ったわたしは何とズルいのだろう。

 

 とても疲れた振りをして、眉間にしわを寄せ、渋面を呈する。

 

「ちょっと……」

 

 すると、晃先輩は、わたしが手渡そうとする前に、わたしの荷物を奪い取って、代わりに持ってくれる。

 

「けっこう重たいなぁ。いったい何を買ったんだ」

 

 プリプリした様子の晃先輩に、心の中で、フフッと笑う。嘲笑いであると同時に、親愛を寄せる意味での笑いでもある。

 

 疲労を偽ってだますのはちょっと気の引けることではあったが、構わない。

 

 ちょっとした、仕返しだ。

 

 

 

***アリス***

 

 

 

 オレンジ・ぷらねっとの個室で、学校の宿題に取り組んで、後ちょっとというところ。

 

 制服の上着を暑いからと脱いで、今は白シャツ姿だ。

 

 教科書や問題集が開かれた机に向かっているわたしは、宿題を中断すると、椅子に深く座り、力を抜いた腕を伸ばして、天井をぼんやり見上げる。

 

 蛍光灯の光が眩しく、目が眩む。

 

 二つあるベッドが両方とも空いており、同居人のアテナさんは、お腹がすいたと早めの夕食を食べに食堂に行っている。

 

 ベッドメイクは朝起きた時に、サッとやることにしている。

 

 わたしのベッドも、アテナさんのベッドも、掛布団が折り畳まれており、その上に枕がのっている。

 

 わたしは別にお腹はすいていないが、眠たい感じはうっすらとあり、ぼんやりした目でベッドを眺めていると、お腹をすかせてご馳走を前にしている時と、だいたい同じ気分になってくる。

 

 ずいぶんいい気持ちだ。ほんのり涼しく、夜風の愛撫がやさしい。

 

 やれやれと思って、わたしは頬をパチンと張る。

 

 悪魔の誘惑というのは、実に甘く、強いものだ。

 

 今寝てしまうと、いつものルーティンが崩れてしまう。

 

 普段わたしは、ウンディーネの仕事がある日は仕事を済まして、学校のある日は毎日欠かさず課される宿題を済まして、その後、ご飯、お風呂、という順番にしている。

 

「よしっ」

 

 みずからに気合いを入れ直したわたしは、姿勢を正して、再び机に向かう。集中する。

 

 ……。

 

 しばらくして、個室の扉が開く。アテナ先輩が帰ってきたのだ。

 

「アリスちゃん、精が出るわねぇ」

 

「もう終わりますよ」

 

「そう」

 

 アテナ先輩は、どっかりとベッドに腰を下ろすと、程なく、あくびをする。その様が、のんびりした草食動物よろしく、あまりにも呑気で、わたしは思わず笑ってしまう。だが、共感出来るのだった。

 

「でっかい、いい日和ですね」

 

「えぇ、本当に」

 

 アテナ先輩はそう言って、あくびで出た涙を指で拭い、開け放した窓を見遣る。

 

「もうお休みになるんですか?」

 

「ううん、まだ」

 

「お風呂に入らなきゃ、ですもんね」

 

「そうね」

 

 わたしはやがて宿題を終え、机の上を片付ける。

 

 

 

 春の末端の、夏のようで、だけど、まだ夏ではない、暑い、涼しい一日。

 

 こういう天気が続いてくれるといいなぁ、と、三人は切に、また、儚く、星影の明るい空に願うのだった。

 

 

 

(終)



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Page.105「memories of summer」

***

 

 

 

 フゥ。

 

 手の甲で額を拭うと、思わずため息が出た。

 

汗でベタベタの額。季節はすっかり夏という感じだ。

 

 日が暮れかかってもまだ熱気は衰えず、暑い状態を維持して、夜に突っ込もうとしている。

 

 汗を拭わなかった方の手には、ビニール袋。野菜を八百屋さんで、肉を肉屋さんで買った。一応保冷のため、袋の氷が何袋か入っているが、あくまで気休めであり、そう長くは、食材の鮮度を保ってくれることはないだろう。

 

 だけど、足取りを早めることはせず、わたしは、往来に立ち止まり、空を見上げた。

 

 片側一車線のあまり交通量の多くない車道の脇には、歩道があり、そして歩道に沿って、色々と建物が軒を連ねている。一階が店舗で、その上がアパートメントというのが目立つ。わたしの住んでいるアパートも大体似た感じだ。

 

 空はまだ青かったが、日没に差し掛かり、その青の上に、じんわりと微かに夕焼けの紅色を滲ませている。

 

 複雑に交差して伸びる高圧線越しに、もくもくと雄大に育った入道雲が見え、その純白の偉容は、とても堂々としてはいるけど、日没のためか、どこか翳りを帯びて、心なしか寂しそうに思えるのだった。

 

 フゥ。

 

 もう一度、ため息を空に向かって吐くと、わたしは目線を正面に戻し、アパートへの帰路を改めて歩きだした。

 

 往来にはひと気がそこそこあり、ジャケットを脱いで白シャツ姿になっている男の人を見れば、今から帰宅するのだろうか、とか、まだ会社に戻って残業するのだろうか、などと、無縁なりに想像力を働かせた。

 

 わたしと同じように、手に袋を提げているひとを見れば、買い物なのだと確信したし、駆けていく子どもを見れば、迫っている、恐らくあるだろう門限を守るべく急いでいるのかも知れない、などと憶測した。

 

 そういう風に、何とはなしに、じぶんのそばのひとだったり、ものだったりに目をやっていく内、ある後ろ姿が注意を引いた。

 

 よく見覚えのある後ろ姿だった。

 

 短いネイビーの髪に、ヘアピン。昔は髪は長かったのだけど、あるアクシデントがあって、短くしたのだ。

 

 彼女は、ありふれた喫茶店の、オムライスや、ハンバーグ定食のように、特に目立つということもないメニューの食品サンプルが並ぶショーウィンドウを、まじまじ見るというのではなしに、どこかぼんやりと、見るともなしに見て、前髪を手で整えているのだった。

 

 声をかけようかと初め思ったが、集中している様子に何となく憚られ、わたしはその場で少しばかり当惑した。

 

「ん?」

 

 やがて、そばにいる誰かの気配に気付き、前髪に手を触れた状態で振り向く。

 

 ワッ、と彼女がびっくりして目を見開き、言う。

 

「灯里! どうしたのよ?」

 

「アハハ。こんばんは。藍華ちゃん」

 

 決して驚かせるつもりはなかったが、彼女のびっくりした様子がおかしくて、わたしは自然と笑みが零れた。

 

「こんばんは、じゃないわよ」

 

 彼女は、前髪に触れていた方の手の甲を腰の脇にやり、不服そうに、また責め付けるように、言う。別の手には、中身の入った籐のバスケットが下がっており、彼女もまた買い物をしたその帰りのようだった。

 

「びっくりするじゃないの、もう。声くらいかけてよね。幽霊じゃないんだから、そばにピタッと付いて黙ってるだけなんて、気持ち悪いじゃないの」

 

「ごめん、ごめん」

 

「黙ってそばに立つの、禁止っ」

 

 と、藍華ちゃんは、ビシッと指差して厳しく注意する。

 

「エェーッ」

 

 と、わたしは、狼狽したように、返す。

 

 ……という一連のやり取りは、日頃のもの。

 

 こういう風に、言葉を通して、視線を通して、わたしたちは、いつも、お互いを確かめ合うのだ。そして、いつものわたしたちだと知って、快くなり、安心する。

 

 

 

 日常が日常としてあるのは、わたしたちがそう望んで、求めているからだ。そうしなければ、日常は、段々と変わったものになっていく。わたしが友情や温情を求めなければ、藍華ちゃんはきっと、縁遠い存在になっていくだろう。

 

 わたしは、だけど、藍華ちゃんにずっと友達でいて欲しいと思うから、彼女を求めるし、親愛の情を注いでいる。

 

 藍華ちゃんも、多分、わたしに対して、同じように、望んでくれているから、わたしたちの間を結ぶ朗らかで明るい友愛の関係は、続いているのだと思う。

 

 

 

 まるい夕月が、まだ青い空に霞んでいる。アクアでは見えず、マン・ホームでは見える衛星だ。

 

「藍華ちゃんは、帰り?」

 

「うん。買い物して、アパートに帰るところ」

 

「そっか。じゃあ、おんなじだね」

 

「あぁ、灯里もそうだったの」

 

「うん。前髪は? もうだいじょうぶ?」

 

「まぁね」

と彼女は、上目遣いになり、サッと前髪に指先で触れる。

「といっても、この暑さじゃ、汗でどうしようもないけどね」

 

「そうだね」

 

 わたしたちは苦笑し合う。

 

そういえば、わたしたちは二人共、同じ装いだ。暑い時季に相応しい薄手の、足元まであるゆったりした袖なしのワンピース。

 

 じゃ、帰ろう、と足を運ぼうとした途端、違和感がわたしを襲った。彼女のアパートはどっちだっただろう?

 

「藍華ちゃん」

 

「うん」

 

 友達の住まいの場所を忘れるなんて、と、わたしは途方もない自責の念に囚われた。

 

「藍華ちゃんのアパートって、どっちだっけ?」

 

「アパート? あっちだよ」

 

 彼女は別にこだわる素振りもなく答えてくれ、この比較的静かで落ち着いた往来より逸れたところを指差して示してくれた。

 

「あっ……」

 

 だが、わたしはその方を見て、何とも言えない気分になった。理由はよく分からない。強いて言えば、イメージがしづらかったせいだ。だが、友達といっしょに帰ることに、なぜ事前にイメージが必要なのか?

 

 額に浮かんでいた汗はある程度引いた。夜に向かって、高かった気温が段々と落ち着いてきているのだろう。

 

 入道雲は変形して遠くなり、青かった空は、滲んでいた紅色がやや強くなって、夕焼けっぽくなっている。

 

 店舗を備えたアパートが多い通りを、路地に折れる。

 

 すると、灰毛の猫がいるのが見えた。後ろ足を折って、前足は伸ばしてという姿勢だ。

 

 その猫は、わたしたちを見ると、サッと消えた。

 

 特に構わずわたしたちは歩を進めたが、内心わたしは、不安だった。すぐ身近にあるものすら、把握出来ていないのではないかという疑懼より来る不安だった。わたしが求めているはずなのに、藍華ちゃんは、どこかよそよそしかった。

 

 その心理状態が、わたしの歩みを遅らせ、もともと並んで歩いていたわたしたちは、いつの間にか、藍華ちゃんが少し先を行き、わたしがその後ろを付いていくという恰好になった。

 

 路地が、その細い道幅に対して並ぶ建物の投げる陰で薄暗いことも、わたしを不安にする要因のひとつだった。

 

 藍華ちゃんに半ば先導してもらう形で帰路を行き、わたしは、うっすらとした焦燥感に苛まれる中、脳裡をよぎるビジョンがあった。

 

 大海原にある街。真っ赤に燃える夕空を、夕陽に向かって、宇宙船が飛行している。その後ろ姿をわたしは眺めている。陰影の濃い、宇宙船の後部。明滅する信号灯だけがはっきりと見える。そばには、海上に浮かぶようにたっている建物。大きい看板がかかっていて、そこには、〝ARIA COMPANY〟と刻まれている。そよ風が吹き、制帽を脱いだわたしの髪はやわらかくなびく。わたしは、青いラインの入った半袖のセーラー服の夏服を着て、その外廊下に海に向かって立って、宇宙船の飛んでいく、かげろうの如く揺らめく夏の夕焼けを眺めているのだ。

 

 ――鈴の音がチリンと鳴った気がする。さっき見かけた猫が付けていたのだろうか?

 

 わたしたちは、歩いていく。

 

 

 

 藍華ちゃんとの距離が、ちょっとだけ、開いた気がする。

 

 

 

(終)



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Page.106「夏のにおい」

***

 

 

 

 汗ばむほどムッとした暑気に、どこまでも青く広がる空を眺めると、あぁ、夏だなぁ、としみじみ感じる。

 

 夏のにおいというのがある。そのにおいはひょっとすると、わたしにだけのものなのかも知れないけど。

 

 コンクリートが夏日に焼けるにおいなのか、湿った空気が加熱することで発生するにおいなのか、よく分からない。

 

 でも、雨が降り出す前の、しっとりしたにおいと同様に、夏には夏の特有のにおいがある。

 

 

 

*

 

 

 

「ハァ~」

 

 そう、脱力感に満ち溢れた何とも情けないため息を漏らして、わたしは団扇でパタパタと自身を扇ぐ。シャッターをすっかり上げて開放したカウンターの、屋内側の椅子に座っている。汗が止まらない。

 

「灯里」、とわたしは呼ぶ。「何か飲み物ない?」

 

「あるよ」、と答える灯里は、今、この炎天下にも関わらず、大掃除に精を出している。

 

「何がいい?」、と訊く、セーラー服にエプロンを重ねた格好の彼女も、わたしと変わりなく、汗だくだ。

 

「冷たかったら何でも」

 

「藍華ちゃん、いくら暑い季節だといっても、冷たい飲み物はお腹によくないよ」

 

「アンタねぇ、この状況でホットは流石にキツいでしょ」

 

「それも、そうだね」

 

 灯里はニコッと笑う。汗に濡れたその顔が、海より照り返す波模様の光の反映を受けて煌めく。

 

 髪は汗でまとまって束になっており、あんまり精を出し過ぎると、熱中症にでもなってしまうのでは、と、いささか心配になってしまうのだった。

 

「灯里も、ちょっと休憩すれば?」

 

「そうだね。そうしようかな」

 

 彼女は、首元に巻いた水玉柄で涼しげなスカイブルーのタオルで、汗をゴシゴシ拭い、「フゥ」、と一息吐く。

 

「暑いねぇ」

 

 ……わたし達、二人共、気が付けば暑いと口にしているのだった。

 

 

 

 ARIAカンパニーは、海辺の、どころではなく、海の上にある水先案内店だ。こぢんまりとしているが、歴史と信用があり、今は外出中だが、アリシアさんという女性が切り盛りしている。

 

 水先案内人としてのみならず、一人の女性としても、アリシアさんはわたしの憧れの的であり、灯里と仲良くしているのは、アリシアさんと仲良くするためだと言っても、過言ではない。

 

 

 

 波音がよく聞こえ、目を閉じて耳を澄ますと、何かリラックス出来、そうするだけで、一定の涼感が得られる。

 

 氷といっしょにグラスに入れてもらった白濁色のライチのジュースはよく冷えていて、グラスの外側はびっしりと結露している。

 

 大体半分くらいわたしは飲んで、今は、何となくボーッとしている。気が向けば口を付け、すると、氷がとけて薄まったジュースの味が、わたしにはちょうどよい塩梅なのだった。

 

「何で」、とわたしは、隣に同じように、海を向いてカウンターの内側の椅子に座る友人に、言いかける。

 

「何で、わざわざシャッターなんか開けて掃除するの?」

 

 彼女はちょうどグラスに口を付けている最中で、目だけでわたしを見、話を聞く様子だ。

 

「閉めてエアコンを効かしてする方が、涼しくて快適じゃない? 涼しい方が、より捗るだろうし」

 

「そうだね。藍華ちゃんの言う通りだね」

 

 灯里は、口元をタオルでサッと拭って答える。

 

「だけど、シャッターのところも拭き掃除したいから」

 

「後回しにすればいいじゃない」

 

「うぅん……」

 

 灯里は、考え込む様子だ。その感じを見ると、何か意図がありそうだという気配がした。

 

「今までずっと雨季だったでしょう。ずっと曇りがちで、すっきりしない空模様で……」

 

 ネオ・ヴェネツィアは、一カ月以上もの間、毎年決まってある雨季で、水先案内店は、わたしの姫屋も、このARIAカンパニーも、オレンジ・ぷらねっとも、不振だった。毎年の恒例ではあるけど、雨季に入ると、張り合いが抜けて、何とも面白くない気分になるものだ。

 

「で、青空を見て、雨季の明けたことを実感して、喜びたいっていう、そういう感じ?」

 

「うん。そういう感じ。お日様に久しぶりって言って、愛でてあげたいんだよね」

 

「恥ずかしいセリフ、禁止ッ」

 

「エェー」

 

 あんぐり口を開ける灯里を見て、わたしは大笑いする。

 

 一階のテラスの、ARIAカンパニーの壁の一面には、ランドリーホルダーがあり、今、この快晴の空の下、物干し竿がかかっており、そこには、今朝洗濯したという洗濯物の数々が、制服だったり、Tシャツだったりが、風になびいて、洗濯石鹸の香りをうっすらと漂わせている。暑い時季の薄着であり、この気温にあっては、あっという間に乾くだろう。

 

「藍華ちゃんは、いいの? 姫屋に戻ったりしないで」

 

「あぁ、大丈夫、大丈夫。今日はのんびりした日だから。晃さんはきっと、この暑さに嫌気が差して、部屋に引き籠ってるに違いない」

 

「ふぅん」

 

 そう興味なさそうに答えた灯里は、グラスを飲み干してしまうと、洗濯物を取りに行くと言ってカウンターを離れた。

 

 わたしのまだ中身が残っているグラスは、相変わらず結露でいっぱいで、中に漂う氷は、もう溶けきってなくなろうとしている。

 

 灯里が去って無人になった椅子を、見るともなしに見るわたしに、シャッターを上げた口を通って、海の風が吹き付ける。短く切った髪が煽られ、わたしは何となく、手で触り、あぁ、暑い時季は短いのが手軽でいい、などとまず思うのだったが、一方で、やっぱりアリシアさんのように丁寧に大事に手入れして、長く伸ばしたいという風にも、思うのだった。

 

 

 

*

 

 

 

 テラスに顔を出すと、灯里は洗濯物を取り込んでいる最中だった。籠に、衣類がいっぱい入っている。

 

「グラス、片付けておいたよ」

 

「ありがとう」

 

「ねぇ、灯里。わたし、ARIAカンパニーに転職しちゃおうかなぁ」

 

「えっ」

 

 灯里が真に受けてギョッとする。肝を潰すといった具合だ。

 

 わたしはアハハと笑い、「冗談に決まってるじゃない」、と言う。

 

「何だ。びっくりした。アリシアさん好きの藍華ちゃんが言うと、冗談に聞こえないよ」

 

「まぁ、そうかもね」

 

 わたし達は和やかに笑い合う。

 

「何か手伝おうか? 灯里」

 

「ううん。もうこの洗濯物だけで掃除はほとんど終わりだから。気持ちだけで嬉しいよ」

 

「そう」

 

「シャワーでも浴びて帰る? 藍華ちゃんも汗だくでしょう」

 

「そうね。出来ればお言葉に甘えたいなぁ、なんて思うけど」

 

 わたしは、何となく、決まりの悪い気分になる。

 

「どうしたの? 藍華ちゃん」

 

「何か、至れり尽くせりって感じで、申し訳ないわね」

 

「気にしないでよ。藍華ちゃんは、お客様なんだもの。水先案内人は、気配り目配りが大切でしょう」

 

 ごめん、と言いかけて、わたしは口を噤み、ありがとう、と言い直した。

 

 わたしは灯里の勧めに従ってシャワーを軽く浴び、汗を流した。

 

 その間、灯里はシャッターの辺を掃除してくれ、終わった後はシャッターを閉め、エアコンを付けて、室内を冷涼にしてくれていた。

 

 わたしの後に灯里もシャワーを浴び、その間にわたしは折り畳みの鏡を借りて身繕いした。

 

 灯里を待っている間、窓より夏空を窺っていた。大きい雲が流れていた。飛行機が大気を突っ切っていく轟音が聞こえた。時間はもう夕方に差し掛かろうとしているが、日脚はまだまだ衰えそうになかった。

 

 

 

「藍華ちゃん。じっと見られてると、恥ずかしいんだけど」

 

 わたしは、机上に両肘を突いて両手で頬を持ち、髪を整えている灯里を観察していた。

 

「いいわね、灯里は。髪が長くって」

 

 ことの経緯を知っている灯里は、苦笑いをこぼす。わたしの髪は元々長かったのが、ある日バーベキューの網にうっかり触れて焼けてしまったのだ。

 

「ごめん、ごめん。無礼だったわね」

 

 そう謝って、わたしは窓辺に行き、壁に寄りかかる。エアコンの効いた室内でも、窓辺は、日射があるせいでそこだけ気温が高い。

 

「暑いねぇ……」

 

 そう呟くわたしを、灯里は多分、きょとんとして見ていただろう。

 

 大体乾かしたが、毛先に微かに残っている湿り気を指で弄ぶ。

 

 

 

 夏のにおいがする。

 

 今は、クーラーの冷気のにおいと、シャワーで流した髪の毛先の、生乾きのにおい。

 

 

 

 しんみりと、わたしは、そのにおいを鼻に吸い込む。

 

 

 

***



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Page.107「薄光」

***

 

 

 

「じゃあ、お留守番、頼むわね。灯里ちゃん」

 

 と、わたしは、後輩の女の子へ向けて言う。

 

 玄関で、足首まである雪靴を履いて、もう準備万端といった具合だ。

 

「はひ」、と元気のよい返事が、リビングの方で上がる。「道中、お気を付けて」

 

 ドアノブを握り、扉を開け、外に出る。大した用事ではない。ちょっとした、買い物に出かけるのだ。

 

 今日は、雪靴でないと外に出られない。上着だって、ちゃんと防寒仕様のものを着ないと、ブルブル凍えて、後で風邪などひくかも知れない。なぜかと言うと――。

 

 一面の、銀世界。

 

 また、今年も、この季節がやって来たのだ。

 

 厳しい寒気と、ドカ雪。

 

 冬――。

 

 後ろ手に扉を閉めて、その場に立って、空を見上げる。

 

 白む呼気がのぼっていく空には、雪雲がみっちりと密に広がっており、雲のグレーと晴天のブルーが混ざり合った空模様は、決して夏には見られない色合いだった。

 

 舞い散る無数の雪は、水気が少なく、結晶度が高いのか、細かく、降り方が、とても穏やかで、確かに寒いし、足元が悪いけど、こういう風情は、全然、嫌いではない。

 

 だが、ひょっとすると、地球(マン・ホ-ム)にあった自然の風情を再現するという浮島の細工が、かえってアダとなって、クレームを生んだりすることになるかも知れない。

 

 誰もが自然を愛するとは限らない。夏の暑気も、冬の寒気も、我々、にんげんにとっては、季節の情趣を感じるものであるより以前に、刺激である。程度によっては、しみじみ出来るものであるとしても、行き過ぎれば、不快であり、脅威でもある。

 

 だから、そういう自然の趣に対するセンスが、人々からこの先失われていくとすれば、火星(アクア)は、将来、便利で住みよい性質だけを合理的に高めていき、季節の移ろいや、太陽の暑熱や、凍て付く空っ風などは、非合理的ということで、気候制御装置の力で完全になくなるかも知れない。

 

 いずれにせよ、永遠など、ないのだ。

 

 この雪が、いつの日か絶えて、降らなくなるにしても、それは、ひとつの運命であり、変えたりいじくったりすることの出来ないものなのだ。

 

「――アリシアさん?」

 

 ふと、背後より呼び声がする。

 

 振り返ると、少しだけ開けた扉の隙間より、後輩――灯里ちゃんが、顔を覗かせている。桃色の髪の彼女は、半ばきょとんとして、半ば心配する様子だ。

 

「どうしました?」、と彼女。「具合でも、よくないですか?」

 

「ううん」、とわたしは、首を左右に振る。「ちょっとね、考えごとしてた」

 

「考え事?」

 

「うん。何を買いに行くのか、ド忘れしちゃって」

 

「あぁ」、と灯里ちゃんは、にっこり笑う。「とっても分かります。わたしは、物覚えが悪いから、そういう時、よくあります」

 

 わたし達は、和やかに微笑み合う。

 

「あっ」、とわたしは、思い出したように発する。「何か買って帰ろうかしら? 灯里ちゃん、何か食べたいものとかある?」

 

「食べたいものですか? そうですね――」

 

 彼女は、ピンと指を伸ばして閉じた手で、顎から口にかけて覆い、考え込む様子だ。

 

「やっぱり、何か温かいものが食べたいかも」

 

「賛成」、とわたしは、満幅の賛意を笑顔で示す。

 

「今日は、お鍋でもしようかしら?」

 

 そう、わたしが提案すると、灯里ちゃんは、「わぁ」、と瞳を輝かせて、喜色満面という感じだ。「いいですね」

 

 彼女は、とても素直だ。嬉しい時は顔をクシャッと綻ばせて笑うし、悲しい時は目を伏せてしょんぼりしているし、感情表現が真っ直ぐで、何というか、にんげんに、『濁り』がない。

 

 だから、灯里ちゃんは、よく慕われているのだと思う。姫屋の藍華ちゃんも、おれんじ・プラネットのアリスちゃんも、彼女と親密に接しているし、晃ちゃんとアテナちゃんも、灯里ちゃんに関して、よく言ってくれる。

 

 ゴンドラで水路を漕いでいる途中、見かける灯里ちゃんは、わたしの知らない誰かと、笑顔で話しているし、多分、わたしが把握していない関係が、彼女には一杯あるに違いない。老若男女の別なく、灯里ちゃんは親しくなれるのだ。

 

「では、行ってらっしゃい。お気を付けて」

 

「うん。ありがとう。行ってくるわ」

 

 そう互いに挨拶し合い、わたしは着ているコートの帽子(フード)をすっぽりと被り、ARIA COMPANYの小橋へと踏み出す。

 

 灯里ちゃんはしばらく扉の隙間より顔を出した状態で、手を振って見送ってくれ、やがて扉を閉める。

 

 雪の積もる通りを、ザクザクと雪を踏みしめて歩く。新雪ではなく、すでに何個もの足跡が付いている。

 

 時は夕方に程近い。まだ、街灯はともっていないが、やがてともるだろう。

 

 息を白くして歩きながら、また、空想する。

 

 寒くない、雪のない冬。あるかも知れない、未来の風景。

 

 ふと、前からこちらへ歩いてくるひとに気付いて、ぶつからないように、前もって避ける。

 

 地球は、もうそういう風になっているらしい。灯里ちゃんから以前、聞いたことがある。あちらの惑星では、合理化が極度に進み、インフラが超高度に発展し、全てはもう人為的に操作出来るそうだ。自動化や省略化が多方面で済んでおり、その恩恵で生まれた時間と空間の余裕に人々はどっぷりと浴し、だから、地球の住民は、裕福だし、教養に富んでいる。

 

 我々の火星は、古い昔の地球への郷愁への思いから、まだ、往年の風情をたっぷりと残しているし、住んでいる人々も、そういう懐旧の情念があるゆえに、あえて好んでこの惑星に住んでいるのであって、あるいは、わたしが想像している地球並みの合理化は、ずっとないのかも知れない。

 

 ――今歩いている通りを、橋の手前で折れて、細い路地に入る。

 

 わたしは、火星が、ずっとそういう、利便性と永続性が支配する今の地球ではもう失われてしまったあらゆる合理化し過ぎていない、血の通った自然や、文明や、文化の風合いを長く保持していってくれることを願ってやまない。なぜなら、わたしも、他の火星の多くの住民と違わず、春夏秋冬を愛し、その季節にしか出来ないファッションで楽しみたいし、春には桜を愛で、夏には海水浴に繰り出し、秋には葉の色付いた木の下で読書し、冬には暖炉のそばで燃える火を見つめていたい。コンクリートで滑らかに固められた道路も、速く走る車も、欲しいとは思わない。

 

 贅沢は言わない。だから、せめて、この時代が、新しい時代に変わらないで、ずっと、古き良きかつての時代の延長線上に続いてくれれば、わたしは他に望むことはない。

 

 ふと、空を見上げる。すると、軒を争う建物の屋根の向こうに、浮島が、周囲に伸びるロープウェイの索道の中央に見える。

 

 雪が、知らない間に降り方を弱めており、わたしは、被っているコートの帽子を外す。

 

 

 

 永遠など、ないのだ。

 

 

 

 宇宙船が、空を横切り、わたしは、その跡を、じっと見上げ、目で追っていく。

 

 ――確かに、そうかも知れない。

 

 ハァと、息を吐き出すと、浮島が浮かび、宇宙船が飛ぶオールドブルーの寒空へと、白く凍って昇っていく。

 

 あらゆるものには、終点がある。始まりがあれば、終わりがある。生まれれば、やがて死んで去る。

 

 永遠は、ない。

 

 わたしは、瞑想し、思い起こしてみる。わたしが、他の火星の人々と共に、好み、愛する、温かみのある生活や、味わい深いネオ・ヴェネツィアの風景や、観光のためにゴンドラに乗りにくる客人の、うっとりした表情や、水先案内人を誇らしいと思う気持ちなど……。

 

 わたしはその先など知らない。わたしが愛するこの時代に、仮に終点があるとして、その先は、わたしにしてみれば、真っ暗の虚無だった。凍える寒気に、わたしは惨めにふるえた。

 

『アリシアさん――?』

 

 ふと、呼び声がして、わたしはハッとし、目を開いた。よく耳にした、灯里ちゃんの声だった。

 

わたしは振り向いたり、キョロキョロ見回したりして探したが、細い、薄暗い路地に、彼女の姿はなかった。

 

「灯里ちゃん……」

 

 わたしはポツリと呟く。すると、お鍋をしようかと提案した時の、ARIA COMPANYでの、彼女の見せた、満面の笑みがくっきりと蘇ってくる。そのそばには、藍華ちゃんや、アリスちゃんや、晃ちゃんや、アテナちゃんがおり、ネオ・ヴェネツィアの、わたしの知らない人たちも、連なる。

 

 ふるえる冷気が和らぎ、彼女の陽だまりのように可憐で優しいイメージが、寒がるわたしを温めてくれる。

 

 

 

 また、この季節がやって来た。

 

 冬。

 

 空の宇宙船は飛び去り、浮島は微動だにせずに浮かんでいる。

 

 雪が、弱めていた降り方を強め、再び、チラチラと降り出す。

 

 また、わたしはコートの帽子を被り、止めていた足を踏み出す。

 

 

 

 灯里ちゃんが、待っている。

 

 

 

***



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