真・恋姫†無双 袁術さん家の天の御遣い (ねぷねぷ)
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プロローグ

 大学三年生の仲川昴(なかがわすばる)は、就職活動の真っ最中で、今もまさに面接室への扉を開いたところだった。ノックを三回、部屋に入るように促されたら扉を開き、部屋に入ったら扉の方を向いて扉を閉める。最初にやるべきこの一連の動作で頭の中は一杯になっていたが、部屋に入った瞬間それらは頭の中から全て吹き飛んだ。

 

「え……?」

 

 思わず間抜けな声が出る。面接ならばどう考えてもマイナス点だが、そんなことにかまう余裕がない事態が昴を襲っていた。

 本来面接官が複数いるはずの部屋は、ただ何もない暗闇だったのだ。

 

「すみません、これって……」

 

 まさか窓を閉め切って電気を消しているのではと思い、面接官がいるであろう方向へと声をかけるが返事は何も返ってこない。

 いや、そもそも窓を閉め切っていても多少なりとも机や人の輪郭は分かるだろうが、それすら何も見えない。そのくせ、自分の姿は真昼のようにはっきりと分かるから気持ち悪さすら感じる。

 怖くなった昴は廊下に戻ろうと思って振り返ったが、どこまでも闇は広がるばかりであり、あろうことか手を伸ばしても目の前にあるはずの扉に手は触れることはなく、ただパントマイムのように両手で空気をかきわけるだけだ。

 

「一体何がどうなってるんだよ……」

 

 ともすればパニックになりそうな中、突如として目の前に椅子が現れた。飾り気のないパイプ椅子だが、暗闇の中それだけが浮き上がっているかのようにはっきりと見える。

 昴は吸い寄せられるように、無意識でそのパイプ椅子に腰掛けた。

 その瞬間、目の前に人影が現れた。

 

「わっ!?」

 

 突然のことで昴は思わず声を出す。

 だが、驚きはそれだけではなかった。

 それは確かに人影であり、何者かがいるという存在感を強く感じるのだが、ただ輪郭がぼんやりと分かるだけでどんな服を着ているのかはもちろん、性別すら分からない。

 

『久しぶりにケース※□△×△の外史へ迷いこむ子が来ましたね』

 

 それは男とも女とも取れる鈴を転がしたような綺麗な声だった。その響きに一瞬安心感を覚えてしまうが、聞きたいことがたくさんある。まず「あなたは一体誰ですか?」と聞きたかったが、なぜか口を開いても言葉が出ることはなく、椅子から立ち上がろうとしても体が動かない。

 

『はじめまして、仲川昴。たくさん質問したいことはあるでしょうが、あなたの発言はすでに制限させてもらっています。突然のことで心を落ち着けるのは難しいでしょうが、これから大事な話をするので聞き逃さないようにしてくださいね』

 

 その人影は一方的にそれだけ言うと沈黙する。昴は色々なことが頭の中をよぎるが、数回深呼吸をすると、ゆっくりと頷いた。

 

『大変結構です。それでは、単刀直入に言いますが、今からあなたはいわゆる三国志の世界へと降り立つことになります。……はい、あなたが今心の中で思った三国志と似た世界ですね。ただし、あなたの住んでいた世界の過去ではありませんし、読み物として親しまれている三国志演義とも違います。詳しくは話せませんが、有名な武将の多くが男ではなく女であると言えば、その特異性を理解していただけるでしょう』

 

 昴は目を見開き、言葉が出ないことを頭で理解していても色々な質問をぶつけようと口を動かす。だが、その口から言葉が発せられることはない。発言に制限がかけられているとはこういうことかと気づくと、一つため息をついて再び話に集中する。そのため息も言葉が出ないあたりは徹底していると妙なことで感心をしてしまう。

 

『かつてはこのような説明はなく、対象者は外史へとすぐに転送されていました。しかし、短い日数で死ぬことがあまりにも多かったので、このような説明の場を設けるようになりました』

 

 死ぬという言葉に昴はまた目を見開く。だが、それ以上何もすることはできない。

 

『そうそう、真名という特異な風習についてもあらかじめ教えておくことになりました。たとえば趙子龍という武将は名を趙雲、字を子龍といい、これはあなたもよく知っているはずです。ただし、それ以外に家族や親しい人間にしか呼ばせない真の名前があり、その名前のことを真名といいます。その名前は真名を呼ぶこと許した相手しか呼んではいけないもので、もし相手が真名を呼ぶことを許していないのに真名を呼んでしまったら、最悪殺される可能性すらあります。それで早々に死んだ者があまりにも多かったですねえ。いいですか、真名をうっかり呼ばないように注意しましょうね』

 

 人影の言っていることは昴にはよく分からなかったが、人影の話す言葉の一つ一つを必死で暗記しようとしていた。今自分の身で起こっていることが一体何なのか理解できないし、これは夢ではないかとも思っていたが、それでも人影の淡々とした口調が妙にリアリティーを感じさせるのであった。

 

『また、それだけではありません。ここ最近では、会話だけではなく読み書きも最初からできるようにしています。それと、少しだけ精神を強くしておきます』

 

 その意味が分からず、昴は困惑の表情を浮かべる。

 

『人によっては、たとえ自分が殺されるという時でも相手を殺すことができないんですよね。それは今からあなたが向かう世界においては致命的なものです。それであえなく殺された者は少なくありません。正直言いまして、相手を殺すことに対する葛藤や殺した後に青い顔をしながら嘔吐するとか、もう飽き飽きなんですよ。それ以外にも、環境の変化に対するストレスで心が壊れるほど精神が弱くても困ります。もっとも、今のあなたを見ていたら、それらの心配をしなくてもいいとは思いますけどね』

 

『そして、次が大事なのですが、正史で生きていたあなたが持ち得ない特殊な力を二つ授けることに最近決まったんですよね。五つの選択肢から二つを選んでください。どれか一つだけでも十分身を立てていける能力を二つですから、これはかなりのサービスです。もっとも、この形式になってからの六人……いや、七人でしたっけ、詳しくは話せませんが全員早々に脱落してしまったようですがね。分不相応な力を身につけてもろくなことはないということでしょうか。もちろん、あなたが同じ轍を踏むとは限りませんからご安心ください』

 

 昴は思わず唾を飲み込む。

 

『最初の候補は武力ですね。あなたが行く世界において、名のある武将の中でも戦うことを得意とする者は人間離れした強さを持ちます。……さすがにあなたが今想像した三国志をモチーフとしたゲームほどではありませんが。……はい、強さの程度ですか? 中の上程度とだけ言っておきましょう。それと同時に、武器も一通り扱うことができるようになります』

 

 話を聞きながら疑問に思うことがあると、時々人影は答えを返す。ただ、「あなたは一体何者ですか」「自分以外にも自分と同じ目にあっている人はどれぐらいいるんですか」「その人たちは今どこで何をしていますか」など今起こっている事態について何度心の中で問いかけても人影は何も答えない。

 

『二つ目は内丹術の中の一つである行気です。気を体に巡らせることによって身体能力を一時的に向上させたり、怪我の回復を早めたり、疲労を回復できたりします。戦いが得意な武将は、この力を大なり小なり使っていることが多いですね。中には気の塊を放出させて攻撃する武将もいたりします。……いえ、今あなたが想像しているほど強力なものではありません。月はもちろん、山を砕くことも無理です。岩ぐらいなら大きさ次第で壊せるでしょう』

 

『三つ目は内丹術の中の一つである房中です。男女の性の営みを通じて行う、いわゆる房中術ですね。自分や相手の体と心の調子を整える術としては最高峰になります。病気の治療なら次に話す錬丹術が一番優れていますが、新陳代謝や基礎代謝を上げることに関しては房中術が上でしょう。若さを保つ呪法などはその最たるものです。ただし、性の営みをもちかけて相手が了承するかどうかはあなた自身の魅力や交渉などに依存しますのであしからず』

 

『四つ目は外丹術、いわゆる錬丹術です。医療や薬草のエキスパートになれます。ただし、昇仙と不老不死をもたらす金丹の製作法の知識は削除します。それでも、投薬という分野に限ればあなたが生きていた現代における医術と比べて十分通用するばかりか、一部においては軽々と上回るでしょう。……ああ、水銀などを使って死期を早めるというのは知識のない人間がやるからですよ』

 

『五つ目は易と風水です。易はいわゆる占いですね。今あなたが想像した胡散臭いものではなく、占力を与えられて行われるものであり、大局の流れだけを占うならかなりの確率で当たるでしょう。もちろん、細部まで占おうとするほど難易度は高くなりますけどね。風水も占いの要素がありますが、運気をコントロールする方に重点が置かれています。奇門遁甲が有名ですね』

 

 五つ目までの説明が終わり、人影は言葉をとめる。それが、昴の決断を促しているものだとは分かった。

 幸いにも選択について時間制限はないようで、昴はじっくりと考える。いまだにこれは夢ではないかという疑いが強いが、万が一のことを考えると後悔をしないようにしたいと考える。

 そして、昴は決断を下す。その瞬間、周囲の空間がぼやけ始めた。

 

『ここでの記憶は全て失います。注意事項と能力については記憶だけは残るのでご安心を。では仲川昴、外史に歴史に名を刻むような活躍を期待していますよ。そうでないと……』

 

 もはや人影の姿も見えず、昴の意識は徐々に消えていく。

 

『面白くない』

 

 最後の言葉に意識が覚醒しかけるが、やがて空間が溶けていくように昴の意識も闇へと溶けていった。

 

 

 

「流星はあちらに落ちたと思うのじゃ!」

「お嬢さま、先ほどのお話は本当なんですか?」

 

 荒野を二人の女性と数十人の武装した兵が歩いていた。

 少女のうち一人は、金色の長い髪と紫色の大きなリボン、そしてあどけなさの残る顔が印象的な美少女だ。そしてもう一人は首のあたりで切り揃えられた青色の髪と、どこかうさんくさげな笑顔が印象的な美人だ。

 

「本当じゃ! 今朝現れる流星が、妾を幸せにしてくれる天の御遣いじゃと夢の中でお告げがあったのじゃ! きっと食べきれないぐらいの蜂蜜を妾にくれるに違いないのじゃ!」

「ああ、全て蜂蜜を基準に考えるお嬢さまは何て可愛いんでしょう!」

「七乃、妾は可愛いのか?」

「ええ、それはもう、お嬢さまはとっても可愛いですよ!!

「そうかそうか、もっと褒めるのじゃー!」

「いよっ! 三国一の蜂蜜姫!」

「うははー!」

 

 そんな二人のやり取りを、付き従う兵たちはうんうんと頷きながら暖かい眼差しで見守っていた。

 一通りじゃれると、七乃と呼ばれた青色の髪の女性はふと真剣な表情になる。

 

(確か、巷で管輅とかいう胡散臭い易者の予言が流行っていたっけ。流星と共に現れる者こそ、この乱世を鎮める天の御遣いとか。お嬢さまがそのような市井の者たちが騒いでいるようなことを知っているはずないし、知っていたとしても覚えているわけないし……。お嬢さまが見た夢との合致が気になるなあ。しかも、本当に大きな流星が流れたのは一体……)

 

 女性がさらに思考の海に沈もうとしていたとき、少し先を歩いていた兵から報告があがる。

 

「袁術様! 張勲様! 人が……男が倒れています!」

 

 

 

 かくして、新たなる外史の幕が開かれた。

 



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1話 天の御遣い

 昴はゆっくりと目を覚ました。

 長い夢を見ていたような気がしたのも一瞬で、自分が三国志もどきの世界に行かされるというとんでもない内容が断片的に頭の中に蘇り、その情報量に頭がずきりと痛む。

 

「あ痛たたたた……」

 

 そこそこの広さのある部屋のベッドで横たわる昴の呻き声に、部屋の入口で直立不動でいた兵士が気づく。

 

「おお、目を覚まされましたか!」

「……あなたは?」

「あなたの護衛を任じられた者です!」

 

 それから、その兵士は外で同じく護衛の任にあった兵士に声をかける。その兵士は慌てて主君へと報告へ向かう。彼らは、昴については袁術の賓客と伝えられている。

 昴は自分に起こったことを思い出す。あの人影の存在は記憶からすっかり抜け落ちているため、自分の置かれている状況などについて理解が追いつかない。異世界への転移を最初から信じられるわけはない。自分が見知らぬ部屋で横たわっていることは、どこかで倒れたのを親切な人が介抱してくれたと強引に解釈することはできる。随分と時代錯誤の完全武装した兵士が目の前にいることは映画のエキストラであろうか。

 

「あの、ここは一体どこでしょうか?」

「荊州にある袁術様の居城です」

 

 その言葉に昴は衝撃を受ける。三国志のような世界ということだが、本当に異世界なのではないかという荒唐無稽な考えが浮かんでしまう。

 

「日本じゃないんですか?」

「ニホン? 申し訳ありません、私は聞いたことがありません」

「……ちなみに、今この国を治めている人は誰でしょうか?」

「天子様ですか? ええと、劉宏様ですね」

 

 兵士は「こいつ何言ってるんだ?」という表情になったが、倒れていた状態から目覚めたことで色々混乱しているのだろうと好意的に解釈をする。

 そんな兵士の心の内は知らず、兵士の言葉に昴は目を見開く。劉宏は三国志の時代の後漢皇帝だ。死後つけられた孝霊皇帝から霊帝と呼んだ方が分かりやすいが、劉宏という名で呼ばれているということはまだ霊帝が生存している時代ということが分かる。

 

(いやいやいや! まさか……本当に? TVか何かの企画で俺をだましているとか? いや、芸人とかならともかく、一般人の俺をここまで大掛かりにだます意味がない)

 

 とにかく、この部屋にいるだけでは何も状況が分からない。一刻も早く自分の置かれた状況を把握しなければいけないと考えたところでようやく心が落ち着いてきた。自分がリクルートスーツのまま横たわっていることに気づき、ポリエステルの割合が多い安物だけどしわになるのは嫌だなあと、現状と比べて危機感のない心配が浮かび苦笑するのであった。

 

 その時、昴を発見するときにいた青髪の女性が部屋に入ってきた。

 

「張勲様、お疲れ様です!」

「ご苦労様です。悪いけど、この方と話すことがあるから、部屋から出て行ってくれませんか? 外では扉の前ではなく、扉の近くに控えておいて下さい。すでに数人配置しています」

「は!」

 

 張勲と呼ばれた女性に命令されて兵士は出て行く。

 昴は張勲と兵士の会話は耳に入っておらず、張勲と呼ばれた女性を凝視する。昴の三国志知識では、張勲は袁術に仕えていた武将で後の大将軍だ。有名なシミュレーションゲームでは、袁術配下の武将の中ではマシな能力値のため、袁術でプレイするときはよく使っていたものだ。もっとも、有力な武将を配下にしたらその他大勢枠になってしまうのだが。

 

(張勲が女性……しかも美人……本当に武将が女性になっている世界なのか? いや、そんな馬鹿な……)

 

 そして、その張勲は二人きりになった部屋で、昴のことをじろじろと観察する。

 

「あの……張勲さん?」

 

 昴が声をかけると、張勲は少し驚いたような表情を浮かべた。

 

「あ、言葉は通じるんですね。私は張勲と申します。よろしければあなたのお名前を教えていただけませんか?」

 

 そう言ってにっこりと微笑む張勲を見て昴はほっとした。自分の置かれた状況がまるで分からない中で、相手の態度が柔和ということは想像以上に安心するものだ。

 

「俺……いや、私は仲川昴といいます」

「仲川昴……変わった響きのお名前ですね。失礼ですが、出身はどちらでしょうか」

「日本の東京です」

「……日本?」

 

 また日本という国名で不思議な表情を浮かべるのを見て、昴は嫌な予感がひしひしと高まる。言葉が通じているのに日本を知らないということは、自分をからかっているかだましている以外まずありえない。

 この時点で、昴は自分が本当に三国志っぽい異世界に送られたと仮定して行動することを決めた。

 

「この大陸出身ではありません。東の海を越えた……ええと、この時代ならどう言えば……って、そうだ、徐福はご存知ですか?」

「はい、始皇帝の命令で不老不死の仙薬を求めて三神山を目指した人物ですよね」

「私はその蓬莱の出身です」

 

 三神山のうち日本を指すのは蓬莱ではなく瀛州(えいしゅう)だが、昴は蓬莱しか知らなかったのでそう答えた。それでも、張勲は昴の言葉に目を見張る。

 

「蓬莱ですか! ひょっとして仙人様だったりします?」

「いえ、違いますが」

「不老不死の仙薬とか持ってたり作れたりします?」

「いえ、持っていませんし作れもしませんが」

 

 目をきらきらさせて質問をした張勲だが、昴の答えに目に見えてがっかりとした顔になる。

 

「……本当に蓬莱の方なんですか? 確かに身につけている服は見たことのない変わったものですが」

 

 不審げな表情になる張勲を見て昴は慌てる。なし崩し的に自分が蓬莱出身ということになってしまった以上、そのことを証明しなければ自分の身が危うい。ものの数分で随分と状況が変わってしまったが、ここでうまく立ち回らないとおそらく不幸な結末になると想像できる。

 そのとき、スーツのポケットにまだスマホが入っていることに気づいた。取り出してみて、圏外であるもののまだ電池容量が残っていることに感謝する。

 

「それは何ですか?」

 

 張勲がかたい声で問いかける。気づけば、その右手は左腰に差している剣の柄へと伸びている。昴が懐から取り出した見慣れない物体を警戒してのことだ。

 

「これは……えっと、そうだ、仙術。そう、仙術! 仙術のために使う道具です!」

「先ほど仙人様でないとおっしゃっていましたが?」

「仙人とは違いますが、一部の仙術は使えるんです。見ていて下さいね!」

 

 昴はスマホを張勲に向けると、カメラでかしゃりと張勲を映す。その動作音に、張勲は小さな悲鳴をあげる。

 

「え!? な、何なんですか!?」

「相手の姿を写す仙術です。これを見て下さい」

 

 昴は張勲が映った液晶画面を見せる。そこには口を大きく開けた驚いた表情の張勲がばっちりと写っている。

 

「こ、これは……私!?」

「これがカメラという仙術です。相手の姿をこのように写し取るもので、絵と同じく鑑賞を目的とします」

「絵と同じ? こんな精緻な絵を私は今まで見たことがありません……。これは人の所業では無理ですよね……まさに仙術。まさか本当に天の御使い……?」

 

 張勲は驚きのあまりぶつぶつと独り言を呟く。その最後の言葉に昴は突破口を見出した。

 

「私は天から蓬莱に降り、そして蓬莱からこの地にやって来ました。その際に予期せぬ事態が発生したようで、この地に行き倒れることになったようです」

 

 それは昴にとって賭けだった。

 天の御使いの「御」の部分で、天から来た存在ならば丁重に扱われるであろうということが判断できる。そして、仙人の存在を信じて写真を仙術を思うような時代ならば、天からの遣いというハッタリが通用する可能性が高い。どうやら自分が天の御遣いであるかもしれないと思われているようならば、相手のその誤解に乗っかるのが一番だ。

 

(この人、本当に天の御遣いなのかなあ。神秘的な雰囲気も威厳も感じられないんだよねえ。でも、今のは仙術としか思えない……少なくともただの人間ではなさそう。それに、今のところ敵意がまったくないように見える。お嬢さまを狙う刺客なら、あんな場所で行き倒れるようなことをするはずないし……)

 

 張勲は昴をもう一度よく観察した後、昴に対して頭を下げた。

 

「失礼しました、仲川昴様。天の御遣いとは知らず、ご無礼の数々をお許し下さい」

「い、いえ、張勲さん、頭を上げて下さい、私にも色々至らないことがありましたし。あと、仲川昴様って呼び方はちょっと……。仲川か、呼び捨てが嫌なら仲川さんで」

「では仲川様、これからお嬢さまにお会いしていただけないでしょうか?」

「お嬢さま?」

「我が主、袁術様です」

 

 

 

 それから、すぐに袁術がいる玉座の間へと案内された。

 目の前の豪華な椅子に座る小さな少女を見て、昴は目をぱちくりとさせる。昴にとって袁術とは、三国志におけるネタ武将の一人という認識でしかなかった。一時期は袁紹をもしのぎ天下に最も近い位置にいたにもかかわらず、内政も戦争も致命的に下手な上に、自らの力を省みず皇帝を僭称したことで諸侯の反感を買って自滅した間抜けという印象が強い。

 だが、目の前の袁術を名乗る武将は、ただのいたいけな少女にしか見えない。

 

「おお、天の御遣い殿、目を覚ましたのじゃな、よきかなよきかな。妾は名を袁術、字を公路、名家袁家の姫なのじゃ!」

「ちなみに、お嬢さまは荊州の太守です。楊州の多くも実質的に支配下に置いてますけどね」

「そうなのじゃ! 妾はすごいのじゃ!」

 

 えっへんと胸を張るその姿は太守というよりも、ただの子供にしか見えず昴は困惑する。

 

「ええっと、私は仲川昴といいます。天の国出身で字などはないので、呼ぶ場合は仲川または昴でかまいません」

「そうであるか。それでは、昴殿は本当に天の御遣いなのであるか? それなら蜂蜜をたくさん欲しいのじゃ!」

「そ、それは無理です」

「なんと!? それはとても残念なのじゃ……」

「お嬢さま、昴様の仙術すごいですよ! 昴様、先ほどの絵をお嬢さまに見せていただけないでしょうか」

 

 がっくりとうなだれている袁術に、昴はおそるおそる近づいていって、張勲が写っている液晶画面を見せる。

 

「おお! 七乃じゃ! 七乃がいる! どうしてそんなに小さくなったのじゃ!?」

「お嬢さま、私はここにいますよ」

「なんと! 七乃が二人いるのじゃ!」

 

 興奮する袁術に、これは仙術による絵だと適当な説明をする。それを聞いた袁術は上機嫌になる。

 一方で、昴は袁術が口にした七乃という名前が気になった。なぜか頭の中にあるこの世界の一部の知識で真名というものがあるらしいが、これがそうではないかと。

 

「ふぅむ、さすがは天の御遣い殿、なんともすごい仙術なのじゃ!」

「あの、袁術様、さっき張勲殿のことを別の名前で呼びましたか?」

「うむ。七乃は張勲の真名なのじゃ」

「真名……」

 

 その昴の様子に張勲はピンとくる。

 

「ひょっとして、天の国では真名がないのですか?」

「はい。ただ、真名を呼んでいいのは真名を呼ぶことを許した者だけという知識はあります」

「なんと! 真名がないとは、天の国はやはり大陸とは違うのじゃな……」

 

 袁術はしばらく考えこんだかと思うと、花のような笑顔をパッと浮かべた。

 

「天の御遣い殿は、妾のことを真名で呼んでいいのじゃ! 妾の真名は美羽という」

「お嬢さま!」

 

 張勲だけでなく、周囲の兵たちもざわつく。子供のように天真爛漫な袁術だが、真名を許しているのは張勲と従姉の袁紹だけで、その張勲もお嬢さまとしか呼んでない。

 

「何を驚くことがあるのじゃ? 天の御遣い殿は乱世をおさめ、この袁家に繁栄をもたらすと予言が出ていたではないか。それならば妾が真名を預けるのは当然のことなのじゃ」

「巷に広がっている予言は乱世をおさめるとありますが、袁家に繁栄をというのはお嬢さまが見た夢ですよね」

「うむ! 夢で見たとおり、流星と共に天の御遣い、昴殿が現れたのじゃ。ならば、これから袁家は妾と共に昴殿が動かしていくのがいいということじゃろう。もう袁家の繁栄は約束されたも同然! 妾は安心して蜂蜜水を飲んでいられるのじゃ、うははー!」

 

 とんでもないことを口走る袁術に昴は青ざめるが、周囲の反応は「またか……」のようなどこか暖かい反応だった。

 

「天の御遣い殿が国を動かしているとなれば、妾の評判もきっとものすごく高くなるのじゃ! 麗羽姉さまがうらやましがるのが目に浮かぶようで痛快なのじゃ!」

「さすがお嬢さま、こんな重要なことを見栄で決めるなんてさすがすぎます!」

「そうじゃろ、そうじゃろ、妾はさすがなのじゃ!」

 

 盛り上がる二人をぽかーんと見守るしかない昴に張勲は向き直る。

 

「お嬢さまが真名を預けたからには、私も真名を預けなければなりませんね。昴様、私の真名は七乃です、これからは七乃とお呼び下さいね」

「あの、張勲さん……?」

「七乃です」

「はい、七乃さん……、あの、いいんですか? なんか重要なことをさらっと決めてしまったような……

「お嬢さまの即断即決で動くのが私たちなので、いいのではないでしょうか」

「えー……」

 

 こうしてなし崩し的に、昴は袁術こと美羽がおさめる荊州で、太守補佐というあやしげな役職に就くことになったのであった。

 



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2話 最初の目標

 美羽の一言で美羽の補佐をなし崩し的にすることになってしまった昴がまず最初にしたことは自分の権限の確認だ。

 

「ええと、袁……美羽殿」

「妾のことは美羽でいいのじゃ。昴殿は袁家を栄えさせてくれるために天から遣わされたのであろ?」

「お嬢さま、乱世を平定するのも昴様のお役目ですよ」

「おお、そうじゃそうじゃ! さすがは天の御遣い殿、何でもできるのじゃな」

 

 キラキラとした瞳で自分を見る美羽の期待値の高さに昴は冷や汗をかく。

 

「そういえば、この大陸を治めることを天からの使命とされているのが天子様なのだから、きっと昴殿はお忙しい天子様のためにも頑張るということなのじゃな。その昴殿がいる妾のことを、きっと天子様は褒めてくださるのじゃ!」

「そうですね、お嬢さま! きっと何かご褒美をくれますよ!」

「三公や大将軍にしてくれるかの?」

 

 三公とは司徒、司空、大尉という三つの官職を指し、大陸の政治の実権を握る最高職だ。袁術と袁紹の一族である汝南袁氏は二人の直前の四世代が連続で三公となり、四世三公と称される名族となった。

 なお、大将軍はその大尉の上に位置し、袁紹が本来は念願であったはずの大尉を任じられたとき曹操が大将軍であったために大尉の任を受け入れず、曹操が大将軍の地位をゆずるというエピソードがある。

 

「さすがお嬢さま、そのずうずうしさは余人には考えもつきません!」

「うははー! もっと褒めるのじゃ!」

 

 その後、美羽が蜂蜜水を飲んで昼寝のために自室へと下がったため、七乃と二人で話し合いをする。

 

「それで七乃殿」

「お嬢さまを呼び捨てなのですから、私のことも七乃と呼び捨てでお願いします」

「……七乃、結局私は何をすれば……いや、何をやっていいのですか?」

 

 その問いに七乃はしばらく思考すると、にこっと微笑みかける。

 

「大体のことはできると思いますよ。うちの頂点はお嬢さまですが、お嬢さまはあの通りの方なので政治や軍事について口を挟むことはありません。現状は、そのどちらも過去のやり方に従っているだけです。そのせいもあって、今の世の中に対応できているとは思えませんから、昴殿がそこらへんを変えてくれたらありがたいかもしれませんね」

 

 その発言は昴にとって信じられないものだった。

 

「え、そのことを理解していて、これまで何か変えようとは思わなかったんですか?」

「思いませんよ」

 

 即座に返す七乃に昴は絶句する。

 

「何か変えて失敗したら責任を取らないといけませんからね。幸い、うちは他の諸侯と比べると資金的にかなりの余裕がありますし、汝南袁家という名族の名は強いですから、何だかんだでやっていけています。それなら、今のままでいいじゃないですか。そういう感じですので、お嬢さまに献策するような気概のある方はいないでしょうねえ」

「七乃なら多少失敗しても大丈夫だったりしませんか?」

「私はお嬢さまのお傍にいて、お嬢さまのお世話をしたり、お嬢さまで遊んだりすることが生きがいですから。それ以外のことをするつもりはないですね」

 

 そうまで断言されて何も言い返せないでいる昴に、七乃は変わらない笑顔を向けたまま話を続ける。

 

「とまあ、今まではそうだったんですけど、昴様が何かなさるおつもりでしたら、私もある程度協力はしますよ。天の方が何をなさるか興味がありますし、それがお嬢さまのためになるのであれば言うことありませんし。ただ、私はお嬢さまのお世話で忙しいので、他の文官や武官に投げることが多いと思いますけど」

 

 七乃がまったくやる気がなしというわけではなさそうなことに昴は安心した。そして、七乃の案内で美羽の重臣に挨拶回りをしながら色々なことを確認することに忙殺されるのであった。

 

 

 

 まずは今が三国志で言うとどのぐらいの時代かの確認をする。時期によっては美羽の命運がすでに尽きているかもしれず、その場合急いで脱出する必要があると考えていたからだ。幸いにも、まだ黄巾の乱も起きていない時期であり、これならいくらでもやりようがあるとひとまず昴は胸をなでおろす。

 

 次に、美羽が大陸でどんな立ち位置にいるかの確認だ。

 七乃は美羽のことを荊州の太守と呼んでいたが、昴の知識では太守は荊州全体のトップというわけではない。この時代、大陸はまず十三の州に分けられ、日本で言えば関東地方や近畿地方などといった区分にあたる。そして、州はいくつかの郡に分けられ、日本で言えば神奈川県や千葉県といった区分にあたる。

 太守は郡のトップであり、県知事のようなものだ。もっとも、行政権だけでなく警察権や裁判権も持っているので県知事よりもずっと大きな権力を持っている。だが、州のトップは太守ではなく州牧(しゅうぼく)という役職だ。後漢の時代は似たような役割に州刺史(しゅうしし)という役職があり混乱しやすいが、この世界では州牧で統一されているようだ。

 美羽は荊州にある七つの郡の中で最も豊かな南陽の太守であるが、荊州の名目上のトップは南郡を治める州牧の劉表だ。

 

 このことを聞いたとき、昴は考え込むことになる。

 昴の知識では、袁術が正史において南陽太守になるのは反董卓連合が結成される直前ぐらいだったはずだ。何進の宦官粛清計画に袁紹と共に乗っかり、何進が暗殺されると袁紹と共に宮中で数千人の宦官を粛清。その後董卓を恐れて南陽に逃れたところで、長沙太守孫堅が南陽太守を殺害したのをこれ幸いと南陽を支配し、ついでに孫堅を配下に加えた。この後孫堅は華雄を討ち取りもしている。演技では華雄を討ち取ったのは関羽であるが。

 しかし、話を聞くと、すでに孫堅はこの世におらず、孫策が孫家のトップであるという。この時点で昴は、自分の三国志の知識があまり意味をなさないかもしれないと考える。すでに昴の知っているそれと大きく異なっているからだ。もっとも、まったく役に立たないと断じる根拠もないので、自分の知識を妄信しないことを肝に銘じる。そもそも、三国志の英雄たちが女性である時点で何もかもが違うのだ。

 

 特筆すべきことは、現時点で美羽が支配する地域の広大さだ。太守として支配する南陽だけでなく、荊州の多くの郡の太守は美羽の影響下にある。軍資金の提供や、何より官職の斡旋をしたことで恩を売っているのだ。

 豫州(よしゅう)の汝南袁氏という名族出身の美羽は当然のごとく宮仕えの経験もある。役人としては何も仕事をしなかったものの、七乃の根回しで賄賂を気前よくばらまいていたことから順調に出世をし、その際にできたコネクションが色々と役立っている。

 さらに、荊州だけでなく、揚州の呉、丹楊(たんよう)廬江(ろこう)の三郡にも強い影響力を持ち、この時点で昴が知っている袁術よりも随分有利な状況にあると驚くほどだ。もっとも、そう甘いものではないということは後にすぐ判明するのだが。

 

 内政については、昴が危惧していた通りひどいものだった。主に美羽と七乃が派手に散財していて、せっかく南陽という人口が多く豊かな郡を預かっているにもかかわらず、本来期待されるほどの利益がない。そして、支出の多さを補うために文官によると税が相当高いらしい。農地を整備するつもりも現状ないようで、人口に比して田畑の数は少なく、食料の供給量が心もとなく感じる。さらに、ろくに領内を巡察していないため賊がはびこり、治安は悪く、商人がなかなか寄り付かない。

 これではせっかくの南陽といういい土地のポテンシャルもまったく生かすことができず、民の心もすでに美羽から離れている始末。実際、小規模な反乱はたびたび起きているようだ。

 

 

 

 ここまで分かって時点で昴は頭を抱える。

 

「どうしよう、これ……」

 

 この世界が三国志の世界をどうなぞるかは未知数だが、この地に限らず、多くの地域で人心は荒み、賊が跳梁跋扈し、怒りと哀しみの声が高まっているらしい。このままでは黄巾の乱か、それに類した大規模な反乱が起きるのは時間の問題と思われる。おそらくこの流れは止められないだろうと渋い顔になる。

 黄巾の乱によって後漢の力の衰えぶりが明らかになり、その後の朝廷内の権力闘争の結果、董卓を呼び寄せて専横を許し漢室の権威が完膚なきまでに失墜する。それによって群雄が割拠し、時代は乱世へと急速に突き進むことになる。

 

 それでは困るのだ。

 

 漢室の権威が落ちていることは事実だが、いまだにその影響力は健在であり、美羽を含めた諸侯も朝廷から任じられた役割を大きく逸脱することはなく、表面上は天子を頂点とした政治体制が機能している。これを維持することができれば、名族である美羽の下にいる限り安定した生活を営むことができるだろう。群雄割拠の時代になりいつ追い落とされるか分からない緊張感を常に感じるより安定した生活の方がずっといいに決まっている。

 そのために、黄巾の乱やそれに類するものが起きたとき、それらを迅速に鎮圧して漢室の権威への傷をできるだけ少なくするための軍事力が必要となる。

 また、董卓が皇帝を確保するような状況になるときは、董卓の前に自分たちが皇帝を確保すればいい。皇帝を利用せずに速やかに南陽に戻れば諸侯の妬みを買うこともないし、反袁術連合軍みたいなものを組まれることはないだろう。そのためには皇帝確保の時に董卓を倒す必要が出るかもしれず、やはり軍事力が必要になる。

 だが、現状自分たちが治める領内でこれだけの反乱を許している状況で、一体どれだけの軍事力を持てるだろうか。人口が多いためおそらく数だけは揃えられるが、十分な糧食を確保できるとは限らない。また、兵として徴発する民の美羽への忠誠心が低ければ士気も低くなるのは避けがたく、そんな軍隊がどれだけ活躍できるだろうか。

 

 精強な軍隊が必要だ。事が起こったときに徴発するようでは士気も練度も低い。

 こういう時は、歴史の勝利者を参考にすればいい。今の時代ならばとりあえず曹操だ。結局魏も滅んで晋が全部持っていくが、それは置いておく。

 魏の兵士は、やはり常備兵という考え方があるのが強みだろう。屯田兵もそうだが、それ以上に兵戸制(へいこせい)だ。流民に住むところを与えて生活を保障するかわりに一族代々兵役を義務とする制度だ。青洲黄巾族の多くを兵戸制によって常備兵に組み込むことに成功したのが魏の強さにつながる。

 

 そこまで考えて昴は首を振る。いくらなんでも考えを進めすぎだと反省する。内政について考えていたら、いつの間にか軍事力を考えている。今の南陽の惨状を考えると、軍事力を拡大する余裕など微塵もない。

 まずは内政を何とかしなくてはいけない。田畑を整備し収入を増やす必要があるが、田畑の整備をきちんと行える人間が必要であるし、そもそも整備をするためには金がかかる。さらに、田畑が整備されてもそれらを利用する農民を確保しなければならない。食い詰めて別の仕事に就く者、どこかに逃げる者、果ては賊へと身を落とす者が少なくないのだ。

 そうして者たちが安心して農民に戻れるように、そしてこの南陽の地にもっと人を集めるために、さらにこれから治めていくために必要な人材を呼び寄せるために何が必要かを考えると、当面やるべきことが見えてくる。

 

「まずは治安の向上だな、それに尽きる」

 

 だが、治安の向上と口で言うのは簡単だが、それを実現させることは困難を伴うのは間違いない。

 日本がなぜ治安がいいかを考えると、いくつも理由があげられるが、最大の要因は極端な貧困層が少ないということだろう。また、義務教育で「他人に迷惑をかけてはいけない」としつこいほど教えることでそれが強く規範となっていること、今や世界中に輸出している交番システムも大きく影響している。

 もっとも、それらをすぐ実行することは不可能だ。かろうじて交番システムは実行できるかもしれないが、それでも人員の確保と制度の普及を考えると時間がかかるだろう。交番システムについては文官と相談することにして、今すぐにできる対策も考えなければならない。

 

「賊退治しかないよな……」

 

 今は賊が跳梁跋扈しているのを許している状況だが、一つ一つ確実に潰していくことが今すぐできる治安対策だ。ろくに取締りをしないと賊をつけあがらせてますます賊が増えることになり、それに伴って民心は離れていくだろう。

 これからは賊を許さないということを大々的にアピールする必要がある。

 いや、ただ治安を維持するというだけではない。これから南陽は大きく変わっていくということを民に広く知らせる最初の一歩であるべきだ。

 そう決めると、昴は美羽と七乃に今後の方針を伝えに行くのであった。

 



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3話 賊討伐の前に

 今後の方針を決めた昴は執務室に美羽と七乃を呼んだ。本来は太守である美羽のための仕事部屋なのだが、今となっては仕事をしない美羽のおやつ部屋と化している。通常廊下の扉の前に兵がいるだけのため、密談をするための部屋としてちょうどよかったのだ。本来は朝議で切り出すべきだが、天の御遣いとして最初に失敗をするわけにはいかず、この二人への根回しが大切と考えたのだ。

 昴がこの世界に降り立ってまだ三日。朝議はこれまでどおり実質的に七乃が取り仕切っている。しかし、朝議の流れを覚えたら、昴が七乃のかわりに朝議を取り仕切ることになっている。それによって名実と共に昴はナンバー2になるのだ。

 

「しばらくは、南陽にはびこる賊の討伐に注力します」

 

 昴はキリッとした表情で言ったが、二人の反応は微妙なものだった。

 

「賊と言っても都を襲っているわけではないのじゃろ?」

「ええ、お嬢さま。この都は防備をかためてあるので、賊が襲ってくることはありません」

「それなら問題ないのじゃ!」

「それに兵を雇うのにお金がかかりますから……」

 

 ぼそっと七乃が本音を呟く。報告にある限り賊の規模は小さいので大人数を雇う必要はないが、それでも少なからぬ支出が必要になる。

 

「いや、正規軍を使うつもりですから、新たに兵を雇う必要はありません」

 

 この時代は戸籍に登録された一般市民から徴兵をするか、金で兵士を雇うのが兵を集める一般的な手段だ。ただ、各地の豪族は私兵を抱えていて規模は小さいものの軍閥となっている。その中でも袁術軍の規模は相当大きなものであり、各地を荒らしている小規模な賊程度なら難なく討伐できるはずだ。

 

「たかが賊を相手にするのに、正規軍を動かすのは恥なのじゃ! そんな名誉のない戦いに妾の軍を動かすのは嫌なのじゃ!」

「それならお嬢さま、孫策さんを使うのはどうでしょうか? あの人はそこそこの数の兵を抱えていますし」

「おお、それはいい考えなのじゃ! 戦うのが孫策なら、妾の兵に損害が出ないしの! せいぜい使い潰してやるのじゃ!」

「さすがお嬢さま! そういう小ずるい計算はすぐできるんですね!」

「うははー! 七乃、もっと褒めるのじゃー!」

 

 その会話に聞き捨てならないものが複数あって昴は頭を抱える。

 

「ま、待って下さい! 色々聞きたいことがありますが、孫策さんは今どこにいるんですか?」

「長沙ですね。孫策さんと、孫策さんの仲間の数人が長沙の客将として住んでいます。あそこの太守は私たちの息がかかっているので監視も兼ねています」

「……監視ってどういうことですか?」

「孫呉の方たちは孫策さんを筆頭にとても優秀なんですよね。もうお亡くなりになっていますが、孫策さんのお母上の孫堅さんは江東の虎と呼ばれるほど武勇の誉れ高き人で、孫策さんもその血を多分に引いているのか相当強いと聞きます」

 

 それだけで監視するというのは話のつながりが分からないと言うと、七乃は小さく頷く。

 

「はい、それだけなら確かに監視する理由としては弱いですよね。監視するにはそれなりの理由があるんですよ。孫堅さんを亡くして混乱している孫策さんたちを私たちが吸収したとき、孫策さんがお嬢さまに仕える条件として揚州の呉郡の太守にしてほしいと言ってきまして……」

 

 孫策は呉郡出身であり、彼女を中心とする孫呉と呼ばれる軍閥は呉郡をはじめとする揚州出身者が多い。孫策が呉郡の太守を欲するのも当然と言える。そして、美羽の力があれば、この時代においては重要視されていない呉郡の太守の首をすげかえることは決して難しくはない。

 

「少し強いからと言って田舎者風情が生意気なのじゃ! あんな田舎のことなぞどうでもよいが、それでも漢王朝の土地。田舎者に統治させるわけにはいかないと昴殿も思うじゃろ?」

「えーと、でも、孫策さんを配下にしているということは、その条件を受け入れたんですよね?」

「考えておくとは言ったのじゃ。ただ、あくまでも妾は考えておくと言っただけで、本当に太守にするとは一言も言っておらん」

「お嬢さま、そういうところは頭が回りますよねー」

 

 昴は再び頭を抱える。袁術が悲惨な最期を遂げたのも、孫策に独立されたことが大きいと思っている。袁術は少なくとも孫堅とはうまくやっていたし、扱い方さえ間違えなければ孫策ともうまくやっていけたはずだというのが昴の考えだ。戦上手の孫策と精強な孫呉の兵、そして優秀な文官。それらの統制を取ることが、これから先うまくやっていくために絶対に必要だ。

 そのためにはすぐ孫策と連絡を取って関係を改善していく必要があるが、まず自分に一定の実績が必要だ。ただ天の御遣いという名前だけで面会しても、実績が伴わなければ侮られる可能性が高いと踏んでいるのだ。

 賊討伐は、治安の改善も大きな目的の一つであるが、城内での自分の立場の補強と他の諸侯に向けてのデビューという目的も同じくらい大きなものとなっている。

 

(孫策に対する扱いをすぐに改めるように言っておいた方がいいかな……、いや、ここに来て三日しか経っていないのに、孫策に会ったこともない俺がそんなことを言い出すのはおかしいか)

 

 少し悩んだあと、孫呉については今は置いておくことにする。もちろん、早急に何とかしなければいけない案件であるのだが。

 

「いや、正規軍を動かすことに意味があります」

「というと?」

「我々が賊の掃討に対して本気であると示すことができます。それに、名誉のない戦いではありません。民を守ることで仁の……」

 

 そこまで言って昴は口をつぐむ。この時代なら儒教の影響が大きく、儒教の中でも大きな徳とされる仁に訴えかければいいのではと思ったのだが、美羽がはたして儒教の徳について知っているか、知っていたとしても民に対しての仁にどのぐらいの意味を感じてくれるか心もとないと思ったのだ。

 

「……こほん。ええとですね、賊を討伐することで南陽の治安を向上させます。それによって人が多く南陽に来るようになることが期待されます。もちろん、ただ流民として来られるだけではよくありません。農地を整備して農民として働いてもらうなどがいいですかね。商人が多く来るようになれば経済が活性化しますし、何らかの才能を持つ人が集まるようになれば取り立てることによってますます南陽を豊かにできるでしょう」

「んー……つまり、どういうことなのじゃ?」

「南陽が豊かになれば、税収が増えて美羽が蜂蜜水を飲める回数が多くなったり、名君として敬われるということです。……まあ、そうなるまで時間がかかりますけど」

「蜂蜜水がたくさん飲めると! さすが天の御遣い殿なのじゃ!」

 

 美羽は花のような笑顔を浮かべてきゃいきゃいと喜ぶ。

 あくまで皮算用がうまくいった場合であり、そこにたどり着くまでにどれだけの労力と時間がかかるか分からないため、昴としては気まずい表情にならざるをえない。

 

「昴様は、もうお嬢さまのお扱いに慣れたようで」

 

 対して、七乃はややジト目で昴を見る。

 

「私としては正規兵は貴重なので賊退治ぐらいで軽々に動かしたくはないのですが……、昴様がおっしゃるなら手配しましょう」

「手配する前に、二つ確認したいことがあります」

「何でしょう?」

「ここの正規兵……袁術軍と呼称するとして、美羽をのぞけば指揮する人間は誰ですか?」

 

 当然組織のトップである美羽が指揮権を持っているのだが、美羽が現場に出て指揮するようなタイプではないことは一目瞭然だ。もちろん大掛かりな作戦行動では現場に出るかもしれないが、その場合でも彼女に指揮権を委ねることはできないだろう。

 

「基本的に私ですね」

 

 七乃がそう答える。正史、演義共に袁術軍の大将軍である張勲が軍の指揮をとるのは至極当然のことなので、昴は自分の知識に対する確認と共に小さく頷く。

 だが、昴の興味は別の人物だ。

 その名は紀霊。袁術配下の武将の中では、演義において関羽と30合渡り合ったという華々しいエピソードがある。結局自分から休戦を申し込んだ上に再戦の申し出を拒否したため事実上の敗北とも言えるのだが。それでも、有名な三国志シミュレーションゲームなどでは武力が高く設定されることが多く、袁術陣営でプレイするときは間違いなくエースだ。

 

「ただ、私はお嬢さまのお世話が仕事ですので、一定以上の規模で軍を動かすようなことがない限りは紀霊さんが指揮をとります」

「……なるほど」

 

 今考えていた人物の名前が出てきたので、昴は思わず顔を上げそうになるのを必死で自制した。

 

「現状報告されている規模の賊討伐であれば紀霊さんに指揮を任せることになると思います」

「そうですか。では、紀霊さんに面会したいのですが、どこに行けばよろしいでしょうか」

「今の時間なら調練を行っているはずです。兵舎に行けば会えると思いますけど」

「それではこれから私は兵舎に行きます。お二人とも、お忙しい中時間を割いていただきありがとうございます」

 

 そう言って席を立とうとする昴を七乃は慌てて止める。

 

「あの、二つ確認したいことがあると言っていましたけど、まだ一つしか確認していないようですが」

「ああ、二つ目は紀霊さんに確認してもらいます」

「紀霊さんにですか?」

「はい。私の武術の腕がどのぐらいのものなのか確認したいんです」

 

 その昴の言葉に七乃は意外そうな表情になる。

 

「昴様は武術の心得があるのですか?」

「はい。ただ、自分の腕前がここではどのぐらいの位置にあるのか、どこまで通用するのか、そこらへんが分からないのです」

 

 本当は武術の腕前はからっきしのはずだった。中高生の頃に体育の授業で柔剣道をやったが、あくまで体育でやるレベルであり、今でも柔道着や剣道の防具を身につける手順は覚えているという程度だ。いや、剣道の防具の付け方はもう自信がない。

 この世界に来たとき、なぜ現代日本からこの世界に来ることになったのかの理由はさっぱり分からず、現代日本での最後の記憶は就職の面接のために棒社を訪問していたということだ。そこで何が起こり今こうして三国志まがいの世界に自分がいるのかはまったくの謎だ。

 ただ、自分になぜか特別な能力が二つ備わったことだけは覚えている。

 そのうちの一つが武力であり、一通りの武器の扱い方、体術のこなし方、馬の操り方などがまるで自分が長年かけて身に着けたかのように分かる。そして、この世界では一部の武将が抜きん出て強いこと、そうした武将の中で自分の強さがおそらく中の上ぐらいということもなぜか頭の中に残っている。

 この不自然な能力と記憶から、昴は自分が何者かの意思でこの世界に転移させられたのではという可能性を考えたが、色々な可能性を考えてもどれも荒唐無稽であり考えるだけ無駄だと結論を出した。

 今は、自分にそういう力があるという事実が重要だ。

 

「自分の武術が十分通用すると感じたら、私が兵を率いたいのです」

 

 そう言った昴に、美羽と七乃は目を見開く。

 

「昴殿の身に万が一が起きたら困るのじゃ! わざわざ戦いに行く必要はないと思うがの」

「後方から指揮をするのはかまいませんが、前線に立たれる気ならさすがに止めたいのですが……」

 

 昴は、自分に指揮権を預けることを却下されるかもしれないとはと考えていたが、前線に立つことを止められることは想像していなかった。

 

「もちろん、無闇に前線に立つことはしません。ただ、兵を率いて戦場に立つことは必須だと考えています」

 

 昴が考えている絵図では、美羽か自分が兵を率いて賊を討伐することが必須だ。美羽にそれができない以上、自分がやるしかない。ただ、自分が戦場に立てるだけの武力が本当にあるかどうかを確認することが先決だ。

 

「それは本当に必要なことですか?」

「はい。私の考えについては後ほど説明します。今は、紀霊さんに取り次いでいただければ……」

 

 昴の意思が固いと分かると、七乃は小さくため息をついた。

 

「分かりました。私も付き添いますので、すぐに兵舎の方に向かいましょう」

「妾も! 妾も行くのじゃ!」

 

 こうして、三人は兵舎へと向かうのであった。

 



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4話 紀霊と橋蕤

 この時代の中国の主要都市はいわゆる城郭都市だ。都市をぐるりと囲んでいる壁のことを外城、または郭という。そして、都市の中心部には領主が住み政務を執り行う内城があり、通常城と言う場合にはこの内城を指すことが多い。この内城にも城壁は存在し、外の郭と合わせて二重に守られている。

 美羽が治める荊州の南陽は郡の中では一番人口が多く、当然美羽が住む都市も人口が多い。それだけに城郭都市としての規模も大きく、兵舎がいくつも存在する。

 調練が行われる兵舎は規模が最も大きいもので、内城の支配者を守るために宮殿の近くに配置されている。そのため、昴たちはさほど歩くことなく目的地である兵舎へとたどり着いた。そこでは袁術軍の中でも内城勤務となる最精鋭たちが気合と共に叫びながらそれぞれに課せられた訓練を行っていた。

 その中でも一際目立つのが、周囲の男の兵士たちの肩ほどの身長でありながら、その兵士たちの身長よりも長い武器を持つ少女だ。緋色の長い髪をうなじの辺りで左右二箇所結んでいて、長い二つの髪の尻尾が腰のあたりまで届いている。大きな瞳には強い意思の光が宿り、周囲の兵士たちに次々と大声で指示を飛ばしている。

 

「いたいた、あそこにいる赤毛の子が紀霊さんですよ」

 

 七乃の言葉に昴は一瞬愕然とするが、この世界では三国志の武将の多くが女性であるという知識がなぜかすでにあり、そして袁術と張勲がまさに女性であったのだから、紀霊が女性である可能性も考えていたわけですぐに立ち直る。そして、少女が持つ長い武器を見て、なるほどあれが三尖刀(さんせんとう)かと呟く。

 三尖刀とは、三国志演義で紀霊が使う武器で、刀身が長い両刃の槍だ。最大の特徴は、穂先が三つに分かれていることで、分かれた穂先の左右はそれぞれ左右の外側へと湾曲している。

 三人が近づいていくと、袁術の姿に気づいた兵士がざわつき始める。周囲の兵の様子に、指導に集中していた紀霊もやがて三人の姿に気づいて三人に駆け寄る。

 

「袁術様、兵舎に自らいらっしゃるとは何事かありましたか?」

 

 紀霊は美羽に臣下の礼をとると、緊張した表情になる。

 それもそのはずで、美羽が兵舎に来たことなど紀霊の記憶になく、しかも事前の連絡もなしとなれば一体どれほどの不測の事態が起こったのかと紀霊でなくても考えてしまうだろう。

 

「妾は面白そうだから来たのじゃ!」

「……は?」

 

 美羽の能天気な答えに思わず紀霊は間抜けな声を出す。

 

「あー、紀霊さん、事情がありまして。昴様が紀霊さんに用事があるんですよ。昴様のことはご存知ですよね?」

 

 出るタイミングを計りかねていた昴の背中を七乃がぐいと押して紀霊の前に立たせる。

 紀霊は昴を見てすぐに、昨日の朝議で紹介されていた昴のことを思い出す。顔は間近で見てはないが、上下共に黒の衣服は見たことのないデザインで記憶に残っていた。

 

「天の御遣い様……でしたっけ」

 

 紀霊はやや不審げな表情になってしまう。目の前の男は衣服こそ見たことのないもので、顔の造詣も大陸の男たちとは若干違うようだが、見た目に威厳や風格といったものが存在せず、兵士と同じ格好になればすぐにその存在を忘れてしまうだろう。

 とはいえ、自分の主君である美羽が直々に昴のことを天の御遣いと認め、しかも自らとほぼ同じ権限を渡しているのだから、臣下である自分はそれに従うだけと、昴に対しても臣下の礼をとる。

 

「私は紀霊と申します。天の御使い様、私にどのようなご用件でしょうか」

「とりあえず、天の御遣い様ではなく、仲川か昴、どちらかで呼んで下さい」

「では、仲川様とお呼びすることにします。そして仲川様、私に対しては敬語は不要です」

「了解した。早速だけど、誰でもいいから手合わせをしたいんだ」

 

 その唐突な申し出に紀霊は目を丸くする。続けて昴がその理由を話すと納得し、自分たちを遠巻きに眺めている兵士たちの中から、周囲の男の兵たちと比べても頭一つ背が高くて目立っている少女を呼ぶ。

 

紫乃(しの)! こっちに来てください!」

「うん! お姉さま!」

 

 紀霊の呼び出しに、紫乃と呼ばれたその少女は満面の笑みを浮かべて走り寄ってきた。紀霊の前まで近づくと、服を盛り上げるほどの大きな胸が紀霊の頭の上に載りそうだ。背こそ高いがその顔はどこかあどけなさが残り、肩の辺りで切り揃えられている髪は綺麗な黒だ。

 

「その子は、紀霊の妹?」

「いえ、違います。私のことを勝手にお姉さまと呼んでいるだけで……」

「えへへー、お姉さま!」

 

 紫乃はにへらと笑うと紀霊の後ろから抱きつく。背の違いから上からのしかかるような感じで、大きな胸が完全に頭の上に載っかっている。

 

「こら、重いですよ! 紫乃、はーなーれーなーさーい!」

「えー、いいじゃん」

「袁術様の御前ですよ!」

 

 その言葉に初めて袁術の存在に気づいた紫乃は、さすがに慌てて紀霊から離れる。一方の美羽は、紫乃の胸をじっと眺めて、自分の平坦な胸をぺたぺた触り、複雑な表情を浮かべる。

 

「のう、七乃……」

「好き嫌いなく食べないと、大きくなりませんよ、お嬢さま」

「なんと……!」

 

 そんな二人のやり取りを聞こえない振りでスルーして、紀霊は軽く咳払いをして仕切りなおす。

 

「紫乃、こちらの仲川様にご挨拶しなさい。あなたも噂では聞いていると思うけど、この方が天の御遣い様です」

 

 紀霊の言葉に目を丸くした紫乃は、好奇心を隠さない表情で昴をじろじろと見る。

 

「ボクは橋蕤(きょうずい)! はじめまして、天の御遣い様! ボクのことは真名の紫乃で呼んでね!」

 

 大きな声で名乗ると、紫乃は昴の両手をギュッと握ってぶんぶんと上下に振る。

 

「あ、ああ……。私は仲川昴、仲川でも昴でも好きな方で呼んでくれ」

「じゃあ……昴様! うん、昴様って呼ぶ!」

 

 ひとしきり昴の両手を振った後、食べ物の好き嫌いについてあれこれ話し合う美羽と七乃のもとにとてとてと走り寄る。

 

「袁術様! 張勲様! こんにちは!」

「うむ!」

「はい、こんにちは」

 

 紀霊はその紫乃の態度に気まずそうな表情を浮かべながら、紫乃を呼んだ理由を説明する。

 

「それでは仲川様、手合わせならばこの紫乃が最適です。こう見えてそこそこ腕は立ちますし、器用なので対戦相手に怪我を負わせるようなことはないでしょう」

「分かった。で、武器はどこにあるかな」

「試合用に刃をつぶした武器があそこの倉庫の中にあります」

 

 

 

 それから、昴は紫乃に案内されて、壁に立てかけられている様々な武器の前に立つ。

 選ぶ武器は候補を二つに絞っている。どうせ使うなら、三国志の中でも有名な武器、呂布の方天画戟か関羽の青龍偃月刀だ。方天画戟は方天戟の亜種で、青龍偃月刀は青龍の意匠が施されている偃月刀であるため、ここに置かれているのは普通の方天戟であり普通の偃月刀だ。本来この時代にはどちらの武器も存在しないのだが、こうして存在するということは三国志演義準拠の世界なのだろうかと昴は思考を巡らせる。

 昴は少し悩んだが、刀身が大きい偃月刀の方が使いやすいだろうと踏んで偃月刀を手に取る。

 それを見て紫乃は少し意外そうな表情になった。

 

「偃月刀は重いから、うちの兵たちは誰も使わないんだけど、昴様は平気なの?」

「……いや、特に重くは感じないかな」

「すっごーい! 見た目と違って力持ちなんだね!」

 

 紫乃は感心することしきりだが、昴は言われて初めて気づいたという感じで偃月刀を握る右手をじっと見た。重さをほとんど意識しないほど軽々と持ち上げられたことに今更ながら驚く。日本にいた頃は、平均的な体躯で力も男として平均的だと思っている。戦乱の時代に生きる兵士でも持て余すような代物をこうやって持ち上げられるのに、自分の腕の太さは日本にいた頃と変わらない。それどころか、ここの兵士たちの誰よりも腕が細いかもしれない。

 

(こういう筋力も武力に含まれるってことだろうか。……いや、筋肉が実際についてないから何と言えばいいんだろう)

 

 深く考えても仕方ないと昴は割り切ると、偃月刀の扱い方を確かめるために外に出る。

 二、三度片手で大きく振った後、体が自然と動くまま偃月刀を自在に振るう。初めて手にするはずなのに、何年、何十年とその武器を振り続けてきて、何をどうすればいいか分かるような不思議な感覚に戸惑いながらも無心で偃月刀を振るう。それはすでに一つの演舞であり、周囲で見ていた兵たちから歓声が上がる。

 

「これは……かなりのものじゃないですか、紀霊さん」

 

 七乃は驚きを隠せない表情で紀霊に声をかける。

 

「……演舞では実戦の腕前を測りきることはできませんが、偃月刀を軽々と降りぬく膂力だけ見ても大したものです。これは、紫乃では相手にならないかもしれません」

 

 袁術軍の中で武の順位付けをするなら、紀霊が頭二つ三つ抜けて一番であり、二番目に一応七乃がくる。とはいえ、七乃は剣しか扱えず、様々な武器を器用に扱いこなす紫乃の方が総合的には上であると言える。その紫乃が相手にならないかもしれないという紀霊の言葉を聞いて七乃は安心する。

 もしここで兵士たちが見守る中、昴が手合わせで簡単に負けてしまったら、天の御遣いというイメージが崩れるのではないかという不安を抱いていたのだ。もちろん、天の御遣いが武力に秀でていなければならないわけではないが、無様な負けぶりを見せてしまったらどうしてもその印象が兵士に付きまとってしまう。そして、手合わせの噂はたとえかん口令をしいたところで瞬く間に袁術軍の中で広がってしまうだろう。

 そうならないようにするために、兵士たちの来ない場で手合わせができる場所を脳内でいくつか挙げていたのだが、どうやらその必要はなさそうだ。

 

 やがて、やる気満々の紫乃が、刃をつぶしてある試合用の三尖刀を持って昴の前に立つ。偃月刀ほど重くはないが、それでも他の兵士たちが敬遠するほどには重く扱いづらい代物だ。紫乃が三尖刀を普段の武器にしているのは当然紀霊の影響である。

 

「さあ! 昴様、お相手になるよ!」

 

 その言葉に、さすがに緊張した表情になりながら昴も偃月刀を構える。いくら刃をつぶしているとはいえ、これだけの重さの武器が当たればただの怪我ではすまないだろう。運が悪ければ死ぬことがあるかもしれない。

 一方で、兵士たちはどちらが勝つかで賭けをして盛り上がっている。

 紀霊は兵士たちが試合の邪魔にならないようにある程度距離を取らせると、一番見やすい位置に美羽と七乃を案内した。すでに他の兵士に椅子を用意させており、美羽は当然のようにその椅子に腰掛ける。

 

「昴殿、頑張るのじゃ!」

 

 美羽のよく通る声が昴に届くと、昴は小さく笑ってふっと肩の力を抜いた。

 そして、紀霊の「はじめ!」の声と共に試合が始まる。

 

「それじゃ、いっくよー!」

 

 まずは挨拶がわりと紫乃は三尖刀を真正面から振り下ろす。狙いは偃月刀で、万が一昴が何もできなくても致命的な怪我になる心配はない。この一撃にどう昴が対処するかを見てから、その腕前に応じて攻撃の仕方を変えていく腹づもりだ。

 その紫乃の武器狙いの一撃に対し、昴も同じく武器狙いで下段から思い切り振り上げる。その際の衝撃が想定以上に強く、紫乃はその一撃で手が軽く痺れてしまう。

 

「うわわわ!? 思ったより一撃が重い!?」

 

 その後十合ほど打ち合った末に、紫乃は武器を叩き落されて敗北を認めた。その圧倒的な勝利に一瞬場が静寂に包まれるが、次の瞬間兵士たちが歓声をあげる。「さすが天の御遣い様!」「袁術軍万歳!」「お、俺とも手合わせしてほしいっス!」「橋蕤殿も頑張った!」「橋蕤ちゃん可愛いよ!」など様々な声が沸き起こる。

 

「おお、昴殿! かっこいいのじゃ!」

 

 早速蜂蜜水を飲んでいた美羽は、昴の圧勝に満面の笑みで叫んでいた。

 

「あっちゃあ、想像以上に強いなあ。ボクじゃ相手にするのは無理だー」

 

 完敗となった紫乃が残念そうに言うと、その紫乃が持つ試合用の三尖刀を手に、紀霊がわくわくした表情で昴の前に立つ。

 

「紫乃が相手では失礼だったようです。次は私が相手をします!」

「え? 紀霊さんが?」

「袁術軍『一」の武の使い手たる私は、紫乃のように簡単にはいきませんよ!」

 

 その紀霊の発言に周囲のボルテージは上がり、昴はその申し出を断るわけにはいかなくなった。昴としても、強い相手と戦って自分の力を計ることは必要だったので問題はない。

 

 紫乃との戦いを見て昴の強さを知った紀霊は、これなら遠慮することないと最初から本気を出した。その一撃は紫乃のものとは比べ物にはならず、昴はすぐに顔を引きつらせながら応戦することになる。まだ頭の中に浮かんでくる戦いのイメージと体の動きとが完全に重ならず、紀霊の猛攻に対して防戦一方となってしまうが、攻撃する手がかりがなかなかつかめなくても、ただ攻撃を防ぐだけなら今の状態でも十分にできることが自信となる。

 

「てぇあぁっ! とぅぅりゃぁっ!」

 

 気合の声と共に三尖刀が何度も突き出されるが、目が慣れてきた昴は体を小さく動かすだけでよける。だが、その突きに混ぜられて振るわれる薙ぎ払いは強力なので、昴から攻撃するきっかけもなかなかつかめないでいる。

 何十合と打ち合ったところで、二人は後ろに下がって距離を取るも、そのまま武器で体を支えるようにして動きを止める。

 

「な、なあ、紀霊、このへんでもう終わりにしないか?」

「ハァ……ハァ……、そ、そうですね! 引き分け! はい……そうです、引き分けってことに……しますですよ! 引き分っ……ハァ……ハァ……」

 

 防御に徹したことで多少体力に余裕のある昴に対して、終始攻撃していた紀霊は肩で大きく息をするほど消耗していた。

 二人の戦いぶりに周囲が惜しみない拍手をする中、昴はふと思いつくことがあった。

 

「紀霊は孫策が戦ってるのを見たことある?」

「ハァ……ハァ……はい、あります……ハァ……ハァ……ありますよ」

「孫策と私だと、どっちの方が強いと思う? あと、先に呼吸を整えようか」

 

 まだ息を整えることに必死になっていた紀霊は、その昴の言葉に微妙な表情を浮かべる。

 

「あ、本当のことを言っていいよ。そっちの方がありがたい」

 

 紀霊は呼吸が整うと、真面目な表情で昴に向かい合う。

 

「……孫策さんですね。あの人の戦いぶりは、それはもう鬼神もかくやという凄まじさです。正直、夢に出るかと思いました」

「あともう一つ。うちの兵士たちと、孫呉の兵士たち、どっちが強い?」

「……意地悪なことを質問しないでください」

 

 その言葉と頬を軽く膨らませた顔が答えを雄弁に物語っていた。

 昴は自分のところに駆け寄ってきて興奮ぎみに感想を言う美羽の相手をしながら、これからやるべきことを考えていた。

 



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5話 お金が足りない

 自分が武官として十分に戦えることを確認した昴は、美羽と七乃を執務室に呼んでこれからやるべきことについて話し合いをすることにした。

 

「とにかく、賊をしらみつぶしに壊滅させていきます。この方針は以前話した通りですが、前もって美羽と私についての宣伝もすることにします」

「お嬢さまと昴様についての宣伝ですか? 昴様が天の御遣いであるということについての宣伝活動はすでに始めていますし、お嬢さまについては太守として名前が知られているわけですから特に宣伝するようなことはないと思いますけど」

 

 昴は首を横に振ると、しっかりと二人の顔を見ながら話をしていく。

 

「今の南陽は賊が跳梁跋扈することで治安がものすごく悪くなっています。そのことを憂えた美羽が、領民のために賊を駆逐すると一念発起したことで、その美羽を助けるために天から私が遣わされた。そういう話にしましょう」

 

 美羽の目は「?」となっているが、七乃は納得したかのように小さく何度か頷いていた。

 

「お嬢さまの評判を上げることが目的の一つなのですね」

「そうです。天の御遣いと言っても、何か理由がなければ天から遣わされませんよね。その理由に、美羽が領民のことを真剣に考えるようになったからということにします」

 

 その言葉は、これまでは真剣に考えていなかったと暗に示しているわけだが、そのことは七乃も理解しているので責めるようなことはしなかった。

 

「そんな露骨な人気取りはお嬢さまに合わないと思うんですけどねえ」

「合う合わないは問題ではありません。太守である美羽の評判を上げることによって人を南陽に呼び、本気で賊を取り締まることを示して賊をこの地から追いやる。そのために必要なことです」

「……なるほど、そのために御自身の力を確かめたわけですね。昴様自らが兵を率いる姿を見せて、宣伝で言われていることが本当だと民に思わせると」

 

 七乃の理解の早さに昴は大きく頷く。

 

「その通りです。そして、これから南陽は大きく変わっていくと思ってもらうことが重要なのです」

「ただ、宣伝の規模を大きくすればするほど、失敗は許されませんよ? もちろん、小規模の賊ごときに負けるとは思いませんが、損害のすくない大勝利という形でないと、民が期待するであろう勝利と異なるでしょう」

 

 その指摘に昴は腕組みをして難しげな表情を浮かべる。

 

「……確かにそうですが」

「初陣をこなしてからにしましょう。その結果を見て判断するということでいかがでしょうか」

「分かりました、それがいいですね。それにしても……」

 

 そこまで言って、昴は七乃をまじまじと見る。

 

「何でしょう?」

「さすがに美羽の片腕なだけありますね。正直、今の私には慎重さが足りていなかったようです」

「ふふ、お嬢さまのためなら私は色々考えを巡らせますからね」

 

 二人で分かり合っている感じに頷きあっているのを見て、美羽が頬を膨らませて話に割り込んでくる。

 

「むぅ! 妾にも分かる話をしてほしいのじゃ!」

「つまり、お嬢さまのために私と昴様が頑張るということですよ」

「おおー! それはとても頼もしいのじゃ!」

 

 

 

 次に、七乃、紀霊、紫乃の三人で、軍事的な話をする。

 

「馬が……騎兵が少ない……」

 

 その昴の嘆きの声に三人は肩をすくめる。

 

「ただの馬と違って軍馬は高いですから」

「高いってどれぐらい?」

 

 七乃が言った値段に昴は驚く。現代日本で言えば、新車一台を買うようなものだ。

 

「個人で買うのは難しいかもしれませんが、袁術軍として買うならもう少し数を揃えられるんじゃあ……」

「軍馬以上に、馬上戦闘をこなせる人を育てるのが大変なんです」

 

 今度は紀霊が説明をする。

 

「馬に乗りながら武器をふるうのはもちろん、馬に乗りながら弓を射る騎射の技術も必須です。どちらもコツをつかむまで時間がかかりますし、日々の訓練を怠ると技術が衰えます」

 

 昴は手合わせのあとに馬上戦闘を試してみたが、想像以上に難しかったことを思い出してうむむと唸る。騎射も武器の扱いも普通にこなしてみせて感心されたのだが、馬上での踏ん張りがしづらいために、弓は小さめで射程の短いものでなければいけないし、武器での一撃も紀霊のような一定の武を誇る強敵には通用しないだろう。

 この時代にはない鐙を使えばまた違った結果になるかもしれないと一瞬考えはしたが、模倣しやすいにかかわらず効果が高いものを安易に使うわけにはいかない。仮に鐙を教えて量産したら、必ず他国に漏れるだろう。その技術が、騎兵を大量に有する国に流れたら一大事となるので、鐙に関してはとりあえず封印することを決める。

 

「騎兵が多い国はあるんですよね?」

「涼州の馬騰さんや幽州の公孫瓚さんみたいに五胡と戦っている国は、馬の産地であるだけでなく敵の馬を奪えますからね。特に西涼は幼い頃から馬に乗っていて馬の扱いに長けていますから。私たちと事情が大きく異なります」

 

 言われることがいちいちもっともなので何も言い返せない。

 だが、昴としては騎兵の充実が大切だと強く考えている。銃が戦場に出てくるまでは、騎兵こそが最強と言って過言ではない。地形の影響を受けやすい弱点はあるが、大陸のように戦場が広い平原になることが多い場合は、騎兵の機動力に対抗することは難しい。

 また、紀元前のパルティア王国が使用したことで有名な戦術にパルティアンショットというものがある。軽装騎兵で突撃し矢を放つと即座に離脱する戦術だ。一定の距離を保ちつつ矢で攻撃するため損耗率が低く、当時のローマ軍は散々苦しめられることになる。最終的にパルティアは滅亡するのだが、騎兵の有効な戦術の一つであることは間違いない。

 

「……すぐに実現できないのは分かります。ですが、軍馬の調達と騎兵の訓練をすぐにでも開始する必要はあると思います」

 

 昴はさらに考えを巡らす。

 昴の知識は、漫画やゲーム、小説、映画などのものだ。三国志のシミュレーションゲームや文明を発展させるシミュレーションゲームを愛好していたために、ゲームに出てくるものはネットで調べるなどした結果、歴史が証明した有効な戦術などをある程度は知っている。

 ただし、それはあくまで机上のものであり、馬のことでいきなり現実的な問題につまづくという甚だ頼りないものである。

 それでも、記憶を揺り起こし、今の袁術軍で何かできることはないかと必死で考える。

 

「ファランクス……金床戦術……いや、騎兵がある程度ないと包囲殲滅にもっていくのが難しいか」

「ふぁらんくす?」

 

 聞きなれない響きに紫乃が興味を示す。

 

「長い槍を持った歩兵を横と縦にずらりと、つまり方陣に並べるんだ。左手には盾を持って、ゆっくり前進していく。矢を射掛けられたら、後ろで槍が林のようになっているから、その槍で大体は防ぐことができる。もちろん、盾も使える。槍は長いから、前面の攻撃にはすこぶる強い。たとえ前列がやられても、後列がすぐに前進して穴を塞ぐ」

 

 古代マケドニアで猛威を振るった密集陣形を昴は説明する。

 

「ファランクスが敵部隊を真正面から抑えこむ。このファランクスを金床とみたて、その隙に別働隊が敵の背後について金床を叩く槌のように襲いかかる。これが金床戦術と言うもので、当然背後に回るだけでなく、左右も抑えて包囲殲滅するのが最上だ」

「なるほど、すっごーい!」

 

 紫乃が目をきらきらと輝かせて興奮するが、昴は肩をすくめる。

 

「ただ、側面攻撃に脆いのがが弱点なんだ。そのために、左右に騎兵などを配置して、側面から回り込もうとする部隊がいたら即座に対応しなければならないわけで……」

 

 敵に騎兵がいて側面に回り込もうとしたらそれに対応しなければならない。騎兵の機動力に対応するために、一定の数の騎兵が必要となるだろう。また、敵を背後から強襲する部隊も機動力が求められるため、できれば騎兵部隊が望ましい。そう考えると、先ほどの騎兵不足がネックとなる。

 馬が足りないとまた嘆きの声をあげる昴に、紀霊が意見を述べる。

 

「そのふぁらんくすを担当する部隊は、相等士気が高くないといけませんよね。敵部隊を長時間抑えこむというのはしんどいですよ。心が折れたら一気に崩壊する危険性があります」

 

 こういった戦術には高い士気と練度が不可欠だ。これもまた一朝一夕で身に着くものではない。

 

「でも、その戦術自体は面白いですね。一考の余地はあると思います」

「ねえねえ、他にない? 昴様の言うことって面白いのが多いから気になる!」

 

 昴はまた考えを巡らす。その中で、文明を発展させるシミュレーションゲームの特徴的なユニットを色々思い出す。

 

「ペルシアの不死隊……いや、あれは単に数が多いだけだし、ローマのプラエトリアンは……精鋭ってだけだよなあ、特別な戦術があるわけじゃなかったと思うし……。神聖ローマ帝国のランツクネヒトは職業軍人の強さってわけだし……ええと、ええと……あ、そうだ、ビザンティン。ビザンティンのカタフラクトはいけるか?」

 

 カタフラクトは、人は鎧を纏い馬の前面には装甲を取り付け、人馬共に重装甲となり突撃で敵を蹴散らす重装騎兵だ。これなら数が少なくても突破力はかなりのものになるのではと期待できる。

 

「馬の前面に鉄を鱗みたいに組み合わせた鎧をつけて、乗り手も鉄製の鎧を……」

「それ、ものすごくお金がかかりますよね」

 

 昴が意気揚々と語り出すのを、七乃の冷たい声が遮る。

 

「……鉄はお高い?」

「はい。馬の前面を覆うといっても、馬に合わせてうまく加工しなければならないでしょう。おそらく矢から馬を守るためと考えれば一定以上の厚みが必要ですし、たとえお金があっても大量生産が難しいでしょう」

「うーん、確かにそうですよね、そりゃそうだ……」

 

 またしても現実的な問題が立ちふさがり昴は天を仰ぐ。

 

「もし騎兵がある程度増えたら、その中でも精鋭の部隊にそういう装備を与えてもいいかもしれないと思わなくもないですね」

 

 その意気消沈ぶりを見かねた紀霊がそう慰める。

 

「それにしても、仲川様の意見を聞いていると、どれにも騎兵が必要となりますね。そんなに馬がお好きですか」

「そりゃ騎兵は強いからねえ。騎兵以外で考えると弓だけど……」

 

 そこで、三国志のシミュレーションゲームでは弩兵と呼ばれていたことを思い出す。弩は弓ではなくクロスボウだ。

 

「あ、そうか、弩があるじゃないか。弩だけでも十分強い」

 

 弩と聞いて、昴はあるマイナーなエピソードを思い出した。

 袁術・袁紹は汝南袁氏で、その汝南は荊州の北東に隣接する豫州(よしゅう)にある郡だ。そして、汝南郡の北に陳という小国がある。国というのは、治めているのがかつての皇帝の血を引く王族だからであり、その陳国の王が劉寵(りゅうちょう)だ。

 劉寵は弩の扱いに優れ、弩をたくさん揃えて弩兵の精鋭部隊も作った。そのため、黄巾の乱が起きたときも、黄巾賊はこの弩兵部隊の存在を恐れて陳国には手を出さなかった。各地を荒らしまわった黄巾賊ですら恐れるほどの存在だったということだ。

 そんな劉寵も、袁術が放った暗殺者にあっさり討ち取られるのが世の無常である。

 

「弩なら数を揃えられ……ますよね?」

 

 おそるおそる話しかける昴に、七乃はくすっと笑う。

 

「はい、少なくとも軍馬よりは揃えやすいですね」

「やった! なら、まずは弩の数を揃えることを優先して下さい。もちろん、軍馬の調達と騎兵の訓練も合わせて行ってほしいのですが……」

「では、軍事に予算を回しやすい説得力のある材料がほしいですね」

 

 それが何を指すかは明らかだ。

 この地に降り立ちようやく最初の一歩を踏み出すところまできた。そのためには、天の御遣いとしての実績を作っていかなければならない。

 



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6話 初陣

 賊に対して積極的に攻勢を仕掛けるために軍事力の増強が必要であり、その増強のためには資金が必要である。袁術陣営は他の勢力と比べて資金はかなり潤沢であるが、軍事に割り当てられている予算は多くない。

 軍事部門に金を多く回すように音頭を取る役目は、これからのことを考えると昴自身がやらなくてはならず、主張するためには昴に実績が必要となる。

 そのために、昴は連日紀霊の指導を受けて指揮の仕方を学びつつ、自分が直接指揮をとることになる部隊と訓練を重ねる。

 

「騎兵の初撃は衝撃力が一番大事だ! お前たちは槍による突撃を外すなよ! そしてその後はすぐ離脱! 忘れるな!」

 

 昴は敵兵に見立てた藁人形への騎兵による突撃を何度も練習させる。昴自身は槍ではなく偃月刀を振るうのだが、それは昴の技量があってこそできるものであって、袁術軍の騎兵は長刀と短弓が標準装備だ。そこに昴は槍も装備品として加えた。

 最初の突撃、そして可能ならば駆け抜けてから再度の突撃までは槍を使い、その後は重荷となる槍を捨て、短弓による騎射で敵をかき乱すのが役割だ。本来はコンポジットボウ、いわゆる複合弓の方が威力と射程が増して騎射に向いているのだが、残念ながら袁術軍に複合弓はない。本音を言えば複合弓を大量に欲しいのだが、弩や軍馬などを優先したため、しばらくは短弓を使い続けるしかないだろう。

 なお、戦場では言葉遣いを自然体に戻している。美羽や七乃などの重鎮相手の場合は一人称を「私」として口調も丁寧なものにしているが、戦場でそのような上品な言葉遣いではやりづらい。今では紀霊と紫乃相手にもこうしたくだけた言葉遣いで対応するようになっている。

 

 肝心の指揮については、昴が天の御遣いであるということと、何よりその武力を皆の前で示しているため、袁術軍の正規兵たちは昴に直接指揮されることを不服とせず、むしろ嬉々として受け入れている。そのため、昴のまだつたない指揮もとりあえず形にはなっている。

 

「一番数が多いのは歩兵だ! 敵の攻撃を真正面から受け止めるお前たちの粘り強さこそが、そのまま袁術軍の強さになる! 自分たちが袁術軍を支える大きな力であることに誇りを持て!」

 

 多くの勢力と変わらず、袁術軍のほとんどは歩兵で構成されている。弓兵や弩兵にしろ、現状においては敵に肉薄されたら白兵戦に切り替えるしかない。そのため、歩兵の強さがそのまま軍の強さと言っても過言ではない。

 残念ながら、袁術軍の正規兵は質だけを見るなら並程度である。今の時点では、雌伏している群雄たちの精兵と比べるとどうしても見劣りしてしまう。

 だが、数だけなら群雄の中でも一、二を争うだろう。戦いにおいて数で勝ることの優位性は言わずもがなであり、昴はその数の優位性を最大限に生かせばいいのだ。

 

「弓兵と弩兵は限られた時間で一矢でも多く放ち、一矢でも多く対象に命中させるために日々鍛錬せよ!」

 

 弓兵は昴が考えていた以上に特殊技能としての一面が大きかった。戦場で使う弓は引くために大きな力が必要で、弓兵と名乗れるぐらいに弓の扱いに長じるようになるためにはどうしても長い年月が必要だ。

 弓兵部隊としてイギリスの長弓兵のようなものを作ってはどうだろうかと考えたこともあった。しかし、長弓兵は弓で使う筋肉ばかりが発達して体格が左右で非対称になるほどだったという。それだけ長期間の訓練を経なければならないことの証左であり、保留せざるをえなかった。

 

 弩兵は、弩の構造上どうしても弓のように連射することができない。短時間に複数の矢を放つことを可能とする連弩が春秋・戦国時代にはすでに使われていた記録があり、また三国時代においては諸葛孔明が連弩を改良したとされる諸葛連弩なるものがあるが、射程と貫通力を犠牲としているため実戦においては使いづらい。その二点を改善するために大型の連弩を用いたら今度は連射性能を犠牲にすることになり、普通の弩の利便性と比べるとどうしても見劣りしてしまう。だから、弩については現状あるものを運用するのが一番だと昴は考えている。

 大切なのは、今後訪れるであろう戦乱に備えて弩を大量に確保するための生産ラインを整えることだ。普通の弓と違い、弩は短期間の訓練で使いこなせるようになる。民間から徴兵するときには、歩兵だけでなく弩兵に多く配置することで全体の戦力を向上させることができるようになるはずだ。

 

 

 

 昴は騎兵、歩兵、弓兵、弩兵、それぞれの部隊を一通り練兵し、演習で指揮もこなした。

 その頃合を見計らって、七乃は紀霊に尋ねる。

 

「紀霊さん、昴様はどうですか?」

「……規模が少数でも全軍の指揮はまだ任せられないですね。ただ、天の御遣いであるということ、何より仲川様の武により兵たちの士気は高いです。直接指揮をとる直属部隊ならば今の仲川様でも十分に動かせますし、盗賊相手に負けることはないでしょう」

「……間違いないですか?」

「仲川様の部隊に同数で相手すれば、私でもおそらく負けます」

 

 その言葉に七乃は複雑な表情を浮かべる。

 

「そこは、勝敗が分かりませんぐらいにしてほしかったですね。あなたは我が軍第一の武将なのですから」

「数千人規模以上の戦いになれば、まだまだ負けるつもりはありません。ただ、張勲様もご存知の通り、武将一人の存在が戦の趨勢を変えてしまいますからね……」

 

 その紀霊の言葉は、兵を率いる将の質が戦の勝敗を決めるという意味では正史の世界、つまり昴が元々住んでいた地球でも変わらない。だが、この世界においては、一人の武将の単純な武の力は誇張なく一騎当千とすら言える。その一騎当千の将が正しく兵を率いれば、その力がどれだけ凄まじいものになるか七乃もよく知っている。

 

「もう一度確認しますが、今の昴様なら大丈夫ですね」

「はい。総大将の仲川様の補佐は私がしっかりやりますから。今のところは、実質的に全体を指揮するのは私になるでしょうね」

「よろしくお願いしますね」

 

 いつもの通りにこやかな笑みを崩さない七乃を、紀霊はじっと見つめた。

 七乃の話では、将来的には昴が軍の総指揮権を得ることになる。これまでは、美羽が戦場に出ることがほとんどなく、出たとしても指揮は七乃に任せていたことから、実質的に七乃が袁術軍における総司令であり、他勢力もそうみなしている。

 だが、その七乃の席に昴が座ることとなり、武官として何か思うところがあるのではという心配を紀霊はしてしまうのだ。

 そんな紀霊の視線に気づいた七乃は小さく肩をすくめる。

 

「ご存知の通り、私はお嬢さまのお世話ができればそれだけでいいですからね。余計な仕事はしたくないんですよ。もちろん、大きな戦のときは私も出ますし、攻城戦をやるときは積極的に参加しますけど」

 

 それから七乃は珍しく真面目な表情になると、紀霊の肩に手を置いた。

 

「それでは予定通り、三日後になります。昴様を、よろしく頼みましたからね」

 

 

 

 それから三日後。

 正規兵の中でも忠誠心が高く、質の高い500名が選抜され、そのうちの100名はすでに昴の直属部隊となっている。彼らは演習という名目で外城から出て街道沿いを進んでいる。通常の演習ならば少し進んだ先の平原で行うのだが、今日は歩みを止めない。

 ここにいる昴、紀霊、紫乃、付き従う500名の兵、数日分の兵糧と武器等を運ぶ輸送隊、そしてこの場にいない七乃だけが目的を知っている。

 城塞都市から十分に離れてから、紀霊は一度歩みをとめて一同を整列させる。整列する一同の前に立つのは昴と紀霊だ。

 そして、まず紀霊が馬上から声をあげる。

 

「皆には一度話しているが、我らの目的は演習ではなく、荊州の地を荒らす賊の討伐だ。相手は100にも満たぬ烏合の衆であり、本来なら精鋭である我らが出るような戦いではない。しかし、此度の戦いはただの賊討伐ではない。そのことについて、総大将仲川昴様から一言ある」

 

 総大将が紀霊ではなく昴であることも前もって知らされていたため驚きの声はあがらない。

 昴は馬上からゆっくりと全員を見渡すと、右手を前に突き出して高らかに宣言した。

 

「これより、俺たちは俺たちの責務を果たす! 俺たちはこの荊州の太守の軍として、荊州の民を守らなければならない! 此度の戦いは、そのことを天下に示すためのものである! これから俺たちは賊をことごとく潰していくだろう! 今日以降、この荊州の地で賊どもに安寧の日々はないということを広く知らしめる! 真っ当に生きる民が苦しむことなく日々を暮らす、人としての正しきあり方を守るための戦いだ! 皆の奮闘を期待する!」

 

 それは袁術軍の行動指針の変化を告げるものだった。荊州においての袁術軍は美羽が住む城塞都市の警護が唯一の任務であり、賊の討伐を正規兵がやることはなかった。一度だけ城塞都市の近くを荒らしていた賊の討伐がされたことはあったが、それは美羽の命令で孫策がやらされ、袁術軍の正規兵は一兵たりとも動くことがなかった。

 袁術軍の正規兵に荊州出身は少なく、故郷を守るという方向でのモチベーションは沸きづらい。だが、どんな組織においても目標やモチベーションは必要だ。そして、これまでの袁術軍にはそれらが欠けていたため組織としてのまとまりがどこか薄かった。

 ここで昴が皆に示したものは明確な目標であり、呼び起こしたものは使命感だ。

 実のところ、昴はそこまで考えていたわけでなく、皆の奮起を促すための檄というぐらいの位置づけだった。意図せずして、昴の檄は皆の心に大なり小なり存在する正義感や使命感をくすぐるものであった。

 昴が檄を終えると同時に、漫画の記憶を頼りにして胸の前で左手で右手を包み込む武官の挨拶の仕草を行うと、兵たちからは大きな雄叫びが上がった。

 

「うおおおおおお!」

「仲川様! 俺は貴方様についていきます!」

「賊に報いを与えるぞ!」

「天の御遣い様の意思! まさしく天誅だ!」

 

 その反応の大きさに、昴は思わず紀霊を見る。昴の困惑の表情に小さく苦笑すると、紀霊は昴の肩を軽く叩いた。

 

「まったく、十分すぎますよ。皆の士気はこれ以上なく高くなりました。今のうちにやっておいてよかったです。敵地だったらこの歓声で私たちの存在に気づかれていたでしょうね」

 

 武力、兵たちの士気を高める能力の二点において、昴の力を紀霊は疑っていなかった。これからの賊との戦いは負けようがなく、戦いとも言えない一方的な虐殺になるだろうということも確信していた。

 唯一心配だったのは、実戦を経験したことがないという昴が戦場においてどういう反応を示すかということだけだ。自分の命が危険に晒されても戦うことができない人間が一定数いることを、戦場の最前線で戦ってきた紀霊はよく知っている。もし昴がそうであったなら、その武力は意味をなさなくなり、隊を率いて戦うことは無理になるだろう。その場合、昴が目論んでいる袁術軍の改革の方向性も変わらざるをえなくなる。

 今回の賊討伐の最大の目的は、戦場における昴を試すことだ。戦場で昴が使い物にならなかった場合を想定して、賊討伐は極秘裏に行われ、率いる兵たちも厳選されていた。

 

「紀霊さん、しっかり昴様を見定めて下さいね。わりと真面目に私たちの今後を左右することになりますから」

 

 七乃がいつになく真面目な表情をしていたことを紀霊は思い出す。

 紀霊は七乃ことをよく知っている。今でこそ美羽にべったりでやる気を起こすことはなくなっているが、七乃がいまの地位を確立するために権力闘争を勝ち上がったこと、その権力闘争においては冷徹に謀略を振るうことを躊躇しなかったことを。七乃の表情に、あの頃の牙がまだ完全に抜けていないことを感じたのだ。

 これから袁術軍がどうなっていくかは分からないが、紀霊は自分がやるべきことをやるだけだと気合を入れなおす。

 

 

 

 結論を言うと、七乃と紀霊が抱いていたわずかな不安はまったくの杞憂だった。

 

「いくぞ! 騎馬隊は俺に続け! 先陣をきった紀霊が賊どもを十分にかき乱している今が好機!」

 

 小さな廃村を根城にしていた賊たちは、紀霊が率いる先陣の奇襲に対応することができず、早々に瓦解する。そこを少数の騎馬隊で回り込んでいた昴が襲いかかり、あっという間に賊の死体が量産されていく。昴は弓を手に取った賊を最優先に狙わせると同時に、一人も逃がさないように周囲に目を光らせる。一部の賊は最初から戦うことをあきらめて全力で逃げることを選択したが、昴が伏せていた兵たちになすすべもなく討ち取られる。

 

 昴は初の実戦を内心では不安に思っていたのだが、いざ戦うとなった途端に心が冷静になるのを感じた。自分が振るった偃月刀が目の前の賊を肉塊へと変える感触は気持ち悪いと思えるもののはずであるのに、それについて心が動かされることはなかった。こうした精神の強さを能力として与えられたことを朧げに記憶していたため、自分が殺人を厭わない異常者なのではと不安に思うことこそなかったが、思うところが何一つないわけではなかった。

 だが、初陣の身に余計なことを考えている余裕があるはずもなく、昴は指揮をとることに専念する。

 

 そして、戦いはほどなくして終結する。

 終わってみれば、百人近くの賊は全員討ち取られ、対する袁術軍は重傷者一名、軽傷者八名だった。重傷者にしろ二、三ヶ月で完治する怪我という程度だ。

 それからさらに賊討伐を続け、四つの小さな賊集団を討伐したところで帰還をするのであった。

 最初の戦いの華々しい勝利は怪我人の護送と同時に伝えられていて、帰還した昴たちを都市の住民たちは大きな歓声で迎え入れるのであった。

 

「さすが昴殿! まさしく天の御遣いなのじゃ!」

 

 報告のために謁見の間に入った昴を待っていたのは、勢いよく飛びついてくる美羽であった。

 そんな美羽を微笑ましそうに眺めながら、七乃は紀霊に視線を向けた。それに気づいた紀霊は力強く頷いた。

 こうして、昴はその力の証明を自ら果たす。もちろん、賊相手の一方的な戦いで計れる力には限界があるが、少数ながらも隊を率いて最前線で戦いをこなせる武官でるという証は大きなものであった。

 

 

 

 昴の初陣から二ヶ月が経ち、昴はその間に何度も自ら軍を率いて賊討伐をこなしていた。

 南陽の地に舞い降りた天の御遣いが袁術と共に民のために賊を誅してまわっている。その噂は長沙で客将に甘んじている孫策も何度か耳にするようになる。

 

「あの袁術が民のためぇ? ないない、それはない」

 

 褐色の肌が健康的な女性が顎に手をあてて考え事をする。ハッとするような美人だが、その瞳に燃えるものは非常に荒々しく、どこか近づきがたさも感じさせる。

 この女性こそが、孫呉を率いる孫策だ。

 

「でも、天の御遣いってのは面白い……いや、面白くない。あの管輅とかいう易者の予言に言う天の御遣いがよりにもよって袁術の所に……。これは、早いうちにその天の御遣いとやらを見定めておく必要があるみたいね」

 

 孫策が昴の情報を得るために動き始めて数日後にその機会が訪れることになる。



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