まちがいさがし (中島何某)
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Chapter1
1話


 

 

 俺は今の状況にもの凄く辟易していた。

 なにこれ。

 なにこれ。

 大事なことなので二回言うくらいわけわからん。

 

 日頃は冷静沈着とか厨二病とか言われたい放題の頭が、許容量を超えてパニック状態になる。だって、こんな前例がないことに落ち着いていられる方が、変だ。

 

 

 俺は今抱きかかえられている。落とさないようにかしっかりと。俺の意識は25歳の大学院生のつもりだ。故に、可笑しい。逆に、どこが間違っていないか当てる方が簡単そうだ。

 嬉しそうな雰囲気を惜しげもなく醸し出した、ゆるっゆるの顔の男が俺を腕に抱いている。近くでは赤毛の女性が笑っている。Arthur、Arthurと俺を抱いてゆらゆら動いている男に言いながら。

 英語はイギリスに留学経験があるから日常会話は理解できる。難点は、ホームステイ先の家族がクイーンズイングリッシュを使っていたから、初めてネイティブにふれて耳で覚えてしまい、自分も自然とクイーンズイングリッシュを使うようになってしまったことだろう。イギリス人は英語の発音が異なり、大まかに上流階級、中流階級、労働者階級で異なるソレは聞けばすぐにどの階級か判別つくものだ。つまり日本人の俺が使うとどう考えても気取っているように見えて鼻につく。

 

 

 

 ……そうではなくて。今の状況についてだ。ゆっくりと、思いだしてみよう。何故こうなったか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺、佐伯暢は普通の大学生だった。多少他人と違うことといえば大学卒業が自分の生まれた国の学校ではないところであろう。通っている大学と提携しているイギリスの大学に二年のとき留学し、色々な面倒な手続きを踏んで編入、その後もそのイギリスの大学に通い、卒業した。圧倒的に惹かれたのだ。今を逃せばこの教授にいつ教わるのだと思った。だから、親に頼みこみ、苦労して書類を書きあげて大学を移ったのだ。

 ホームステイは一年だけだったが大学の近くで一人暮らしをする都合上、ホームステイ先の家族とは頻繁に交流があった。

 たかが数年海外に居ただけで、と思われるかもしれないが、学べたことは多かったと思う。一人っ子だったのもあり、親の強い希望があって大学卒業後は日本に戻ってきて自分が一年間いた元の学校の院に入り、大学院生として今を過ごしていた。

 日本でも院に入ったのは、まだまだ足りなかった。そう痛感しただけの話だ。(そうして若い時にありがちな過信から、たった数年ぽっちの経験をこれからの人生に流用しながら研究職に就き更に成長出来ると思っていた)

 

 友人も彼女も人並みに居た。けれど重大な秘密を交換するイベントも、燃え上がるような恋愛をした記憶もない。リンゴを盗んだと嘘の武勇伝を語ったところを付け込まれて脅されたのを助けられたことも、有力者の娘と恋をし苦難を味わいながら荒れ狂う海に飛び込んで認められたこともないというわけだ。

 流され、世間に乗せられ、そんな自分に呆れながら生きてきた。だけどそんな毎日が楽しかった。

 

 交際相手は、よほど醜悪でも端正でもない顔と性格が幸いしてか気付けばだれかが隣に居てくれた。

 趣味は読書。別段特別な話ではないけれど、小学校入学前からそれを趣味としている分には、周りの大人達にとって少々奇怪だったろうか。純文学から児童学書、SFにライトノベルだって読んだ。

 でも、本当にたったそれだけだ。俺に似た奴なんてきっと、日本中どこにでもいた。

 

 

 いつものように友人たちで、みんなが次の日午前を空けている日に飲みにいった。次の日彼女とデートだという輩が居て、今日は二軒目までにしておこうとみんなで決めていた。俺は今日連れてくればよかったのに、と自分の彼女の肩を引きよせて笑ったのを覚えている。そのときカラの枝豆が飛んできたことさえ記憶している。顔に当たって気持ち悪かった。

 ――そうだ。一件目を出て、もう一軒行こう、と会計を済ませてみんなで居酒屋を出たとき、失恋してふらふらになるまで飲んだ友人が千鳥足で車道側に歩み寄っていったんだ。

 何してんだよアイツ、という笑い声の中、俺の目を4tトラックのライトが焼いた。トラックは、まっすぐ友人の方へ、引き込まれていくように――

 

 誰も、気付いて、ない?

 

 

 

「――ッ!!」

 

 

 

 

 手を伸ばした。

 無我夢中で、昨日一緒に笑った人間の腕を掴んだ。

 今日胸元を涙で汚された相手を引き起こした。

 さっき、店先で目尻に皺をつくってふにゃふにゃ笑った奴を、自分の後ろへ弾き飛ばした。

 

 

 

 

 うわっ、という酷く緩慢な声。

 

 

 声にならない叫び声をあげる友人の顔。

 

 

 一瞬前まで閉じられていた目を見開いて、クラクション音を鳴らすガラス越しのおっさん。多分、もう撥ねられて、体が宙に浮いているんだろうと思った。そうじゃなきゃ4tトラックの運転席なんか見えやしない。

 

 

 

 

「とおる、くん――ッ」

 

 

 

 

 絶望の表情で、俺と目を合わせた彼女。そういえば、誕生日に指輪をあげる約束だったのに渡せなかった。ごめん。俺は小さく謝った。バイトで溜めた資金で、買ったには買ったのになあ。

 勿体ない。あー、損した。だったらその金でさっき、もっと美味いもの食わせてやりゃよかった。

 嬉しそうな顔が見たかった。なんでもおいしそうに食べてほころぶ顔が見たかった。大好きだと言ってくれるあの声が聞きたかった。

 環境に付随する交友関係、交際関係は物語で散見される硬い絆と比べれば滑稽だろう。でも今一番好きなのは彼女だった。

 ああ、そうだったさ。ああ、ああ――

 

 

 

 

 

 

 じゃあ、つまり俺は。

 

 

 

 

 

 死んだんだ。

 

 

 

 

 

 

 それにしたって、生まれ変わりとかそういうのはなしにしてくれよ。せめて記憶を消しておいて欲しかったと、見えもしない神様を怨んだ俺はきっと悪くない。

 別に俺、特別善人じゃなかったけど悪人でもなかったと思う。酷い仕打ちだ。ああ、小さな体が頭を軋める。かなしい。

 

 

 

 





5、6年前に書いたものなのでちょっと色々修正してあげたい。
昔の方が今より少しは読みやすい気もしたが別にそんなことはなかった。

20話くらいしかないんですが、原作読み直せたら続きを書きたいなあと思っています。ただ今年小説漫画ゲーム類を引っ越しの折に全部実家側に送ったのですぐには難しいかと。駅やら空港間で片道2万て海外か実家は。
無編集版はpixivにも上げています。


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2話

 

 だからって、ほんとなんだと思う? この状況。世界は俺に、優しく出来てない。

 

 

「Arthur , Have you decided yet?」

 

 

 もう決めたの? と彼女、アーサーがモリーと呼んだ女性はそう言った。アーサーがその言葉に俺を見て、後ろを見る。その視線につられて後ろを見れば赤毛の赤ん坊が一人眠っていた。

 赤ん坊をきちんと視界に収めるため身を捩じって振り向き、それと一緒に伸ばされた手は、もみじのおてて。つまり肉付きのいい大変ちっさい手だった。一気に気分が重くなった。

 

 アーサーと呼ばれた男は、勿論だよ。と頷いた。オフコースと言われるとオロナミンシーを飲みたくなる。昔のCMってどうしてこうふと思い出すんだ。嗚呼、なんだか無性に恋しい。全てが。

 これ、夢だったりしないかなあ。夢であるのと、夢でないの、どちらが非現実的かなんて今の俺には分からない。

 ぼんやりと思考に浸っていると、アーサーは俺を指さして叫んだ。

 

「Lotus・Bakkhos・Weasley!!」

 

 ロータス・バッコス・ウィーズリー。

 ロータスというファーストネーム。バッコスのミドルネームは近親者にそういう名前の人物がいるのだろう。ウィーズリーは、……は? ウィーズリー? ウェスレーとかじゃなく、ウィーズリー?

 混乱していると(なに、イタチ? ウィーズリーなんて名字はイギリスで会った人や新聞を読んだ中で一度たりとも見た記憶がない。ただ一つ児童学書を除いて)、今度は後ろの赤ん坊を指さした。

 

「Ronald・Bilius・Weasley!!」

 

 アーサーがそう叫んだ瞬間、赤ん坊も叫んだ。アーサーに負けず劣らずデカイ声で。耳が劈かれるというのはこういうことだろう。

 しかし、まあ眠りを妨げられるのは赤ん坊にしてみればたまったものではないだろう。

 アーサーは慌てて俺を赤ん坊と同じベッドに置き、赤毛の赤ん坊を抱きかかえて体を揺さぶった。何分かしてようやく静かになった赤ん坊は、モリーの元に預けられた。そっちの方がずっと赤ん坊の表情が安らかだ。

 

『どっちも男の子だったから、今度は女の子がいいね』

 

『もう、アーサーったら。まだ産んだばかりよ?』

 

 おいそこの夫婦自重しろ。子供の前で言うとかホントやめろ。こういうところで情操教育ってのの大切さが浮き出てくるんだけど。

 ああモリー顔を赤く染めてくれるな。生まれたばかりでまだ上手く機能してない目のくせに嫌なもんばっか見えやがる。

 ……いや、ほんとにわりとよく見えてるな? 待って色も形も見えてるって脳も体もどうなってるんだコレ意味が分かると怖い話だぞこれ。思考まで出来るんだからシナプスとニューロンの状態も気になる。脳波はかりたすぎる。逆に顔認知の実験とか協力しないからな。アンパンマンとか絶対視線で追わないからな。

 そうやって俺が戦慄してる間も夫妻はいちゃいちゃしている。それにしてもほんと教育に悪いぞお前らの会話。いつまでも子供が分かんないと思ってると痛い目見るからな。……って、ああ、俺は誰だ。漸く自分が混乱の境地に陥っていることを認識した。

 

「アーサー、ビルとチャーリーにパースとフレッドとジョージを呼んできてちょうだい」

 

「ああ、また双子だなんて驚くぞ!」

 

「しかも黒髪と赤毛だもの。黒髪は家では珍しいけど、見分けやすくていいわ」

 

 既に眠っている赤毛の赤ん坊、ロナルドを撫でてアーサーはモリーに背を向けた。

 ……あの、ちょっと待って。ファミリーネームがウィーズリーで、ビルにチャーリー、パーシーにフレッドとジョージ、それにロナルドにアーサー、モリー?

 待て。なにこの偶然。ていうか偶然? この夫婦は児童学書の熱狂的なファンで、海外でMacとかAppleみたいなキラキラネームをつける親が増えているのと同じ原理で、自分の子供にキャラクターの名前をつけたとかじゃなく? え、俺 \二次元産/ とかそういう状況じゃないよね。ここあの有名な児童学書の世界じゃないよね。ね?ね?

 これ誰に問えばいいの? ちょっと状況説明をくれ。誰でもいい、今すぐだ! They want to name their babies after a famous person.Don't you think!?!?

 また混乱し始めた頭に、俺はもう打つ手など残されていなかった。

 

 ああ、でもこの周りで浮いてる本とか、時計が時刻じゃなくて文字であったり(恐らく餌やりの時間とか書いてあるんだろう)だとか、そういうのはまったくもって原作と同じだ。

 これドッキリとかじゃない? ねえ、ドッキリじゃないわけ?

 ……。

 考えることを放棄した俺は、腰を捻ってその弾みで下半身ごとごろりと転がって夫婦から目を背けた。

 

 

「モリー見てくれ!この子はもう寝返りしているよ!」

 

「まあ、成長の早い子ね!」

 

 

 

 ……お宅のお子さん、成長早すぎてすいません。溜息をつこうと思ったけれど、息だけが小さな口から出た。今やすべてが怠惰だった。

 

 



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3話


たぶんこれノルウェイの森読んだ後に書いた気がする。うんまあそういうことなんだ。
今後のお話に関係する可能性がありますが、ノルウェイの森の男女関係に忌避感を覚えた方は3話と8話を避けるのが無難かと思われます。



 

まちがいだらけ:誰かのはなし

 

 

 

 嘘だ嘘だ嘘だ! こんなこと私は信じないし、現実なわけがない。嘘だ、こんなの夢だ。そうだ、夢だったんだ。だって彼は昨日、私と彼の友達と一緒にお酒飲んで、彼女にふられた人を慰めてた。私を隣に置いて楽しそうにふられた人を慰めていた彼は「リア充爆発しろ」と枝豆の殻を投げられていた。それでも可笑しそうに笑っていた。少し酔っていたし、男子特有の付き合い方ある中でも、友達とのメンツのために私に暴言を吐かない優しい人だった。時々見せる冷たい感じも、実はドキドキして好きだった。

 

 彼は現実味を帯びている。そうだ、そんな人間くさい彼が急に居なくなるなんて現実あるわけがない。彼の存在が夢なはずがない。

 彼は大学生二年生のときにその大学と提携してる海外の大学に留学して、それで日本の大学を一度やめて海外で大学卒業をしたらしい。そのときに友達や元カノ、ご両親とすれ違ったりで色々あったらしくて、なんでも教えてくれる彼が曖昧にはぐらかすくらいだ。ここまでは、ほら、とても現実味を帯びてる。

 彼は大学で心理系を専攻していた。カウンセリングとかじゃなくて、知覚とか視覚とかの作用を調べたり、他にも心理学なのにパソコンを使ったりするらしい。難しいことは私にはよく分からない。彼との出会いだって、私が通っている偏差値もそんなに高くない私立大と彼が通っている大学院生たちとの合コンだったし。ほら、なんて現実的。こんなの夢なはずがない。

 

 彼は海外の大学を卒業して、日本に戻ってきて院生になった。彼は謙遜するけど頭がとてもいいんだろう。それに彼はとても綺麗な英語を話す。ニュースキャスターみたいなクイーンズイングリッシュらしくて、不思議な発音の綺麗な言葉。スラスラと淀みなく発せられる単語のひとつひとつにときめいた。時々外国人さんに道を聞かれることがあるけど、友達と一緒とかひとりのときは外国人さんが早口で聞き取れなくてすっごく嫌だけど、彼と一緒にいるときは内心嬉しかった。綺麗なあの言葉を聞けるから。それに彼はフランス語とドイツ語を話せる。彼が留学したのはアメリカとかじゃなくてイギリスで、他の語源を操る人達が近くに居たから勉強したらしい。勿論、アメリカに留学したってカナダの公用語のひとつはフランス語でもあるんだけど。

 これだけ詳しく説明出来るくらい彼は現実的で、なんでも出来るスーパーマンみたいだったけど優しい笑顔をしていて、時々失敗して、時々怒って。すごく、現実味のある人なんだ。

 だから、彼が、

 

「死んだなんて……」

 

 違う違う違う違う違う違うちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう!! 彼は死んでなんていないし居なくなってもない! 旅行が趣味だって言ってたからきっと一人旅に行ったんだ。そうだそうなんだ。彼が私に何も言わずに居なくなるなんてそんなはずがない。そうだそうだ彼が死ぬ間際に私と目があって申し訳なさそうな顔をしたなんてあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! してない彼は死んでないねえなんで私がこんなに悲しんで興奮して心が彷徨ってるのにこの場にアナタはいないの! だって泣いてたらすぐ来てくれるって言ったじゃない。「はるかは子供みたいだな」って苦笑して頭を撫でてくれたじゃない。指切りしたでしょその絡めた小指に指輪買ってくれるって言ったじゃない。あと少しで私の誕生日だからピンクのハートの指輪を買ってくれるって、少し高いけどバイト頑張るって…あ、ああ、あああああ! 知らない知らない知らない。違うよなんで彼がいないみたいに私話してるの違うよ彼は私にこの後すぐ来て息をきらして近寄ってきて「遅れてごめん」って言って柔らかいあの大好きな笑顔を見せてくれるんだ。

 

「……はるかちゃん、骨揚げに行こう」

 

「いかない」

 

 彼の友達で、私の友達の彼氏が近寄ってきて、とても悲しそうな顔で私を見た。やだな泣いて化粧が崩れた顔を見ないでよ。昨日上手く寝られなくて化粧のノリだって悪いし、それが可哀想なんだよね。そうでしょだって目の前の彼にとって悲しいことなんてなにひとつないはずで、そうだ、なにひとつないはずで。骨揚げってなあにそんなの私聞いたことない。やだ、やだ、なんて冗談を言うの。

 

「はるかちゃん」

 

「ちがう、ちがうちがうちがう」

 

「骨揚げに行こう。あと5分くらいだって言うから」

 

「ちがうちがうちがうなにがなにそれ、なにいってるの」

 

「箸を持って、四角い箱に骨を入れるんだ」

 

「なにそれきもちわるいさかなのほねでもいれるの、それともきのうたべたぶたとかのほね? しかくいはこにほねなんていれてどうするの」

 

「まず君は、箸を持つんだ」

 

「はしなんてもちたくないやめて、ちかづかないで。ちがうちがうちがう」

 

 呻く私に彼は呆然と立っていて、梃子でも動かなかった。どっかいってよ私に構わないでなによ見ないでどうしてそんな冗談言うの私冗談なんて嫌いよ。嘘はもっと嫌い。だって彼が嫌いだったんだもの。冗談も嘘も彼はよく言ったけど、どっちも嫌いだったんだもん。都合いいよなって笑ったんだもん。やだ、私なにを言ってるの『言った』って『笑った』ってなになんで過去形なの違う違う違うちがうちがうちがうちがう!! しらない、わたしなんにもしらない。ちがうの。ちがうんだってば。やだ、ちがうのほんとにちがうの。

 

「やだ、やだやだやだやだやだやだやだ」

 

「君はそろそろ、現実を見なきゃいけない」

 

「げんじつなんていらない彼がいた彼だけでいいげんじつなんていらないこのまえのはたちのわるいゆめで、そうだみんなおなじゆめでもみてたの? だからこんなことを……」

 

「はるかちゃん」

 

 彼の友人はガラス玉みたいな目で私を見た。そして、ゆっくりと口を動かした。聞きたくない、やめて、聞きたくない。

 

「暢は死んだんだ」

 

「ひッ……」

 

 顔を覆った手が湿り気をおび、頬が震えた。肺は縮小し、心臓は誰かに握りしめられたみたいに痛かった。ちがう、ちがうよ、今日はとってもあっついから。汗なんだ。こんなに汗っかきだったかな、やだなあ。

 

「はるかちゃん」

 

「はるか」

 

「……え?」

 

「はるかって呼んで」

 

 その名前はお父さんとお母さんとお兄ちゃんと彼だけに許した呼び方だった。友達にも前の彼氏にも駄目って言った。みんな、私が大好きな人以外にはあだ名とかちゃん付け以外は許さなかった。彼の友人も、それを知っている。

 私は誰にも、「はるか」を許さなかった。

 

「……はるか」

 

「手、にぎって」

 

 ぎゅ、と彼の友人は握ってくれた。彼より大きくて厚みがあって、男の子らしい手。彼は細くて白くて、実は私より綺麗だったんじゃないかなって時々思った。

 この手は、彼の手より、暖かくない。

 

「だきしめて」

 

 彼の友達は私を可哀想な物を見る目で見つめた。それでも私をぎゅうっと抱きしめた。しゃがむ私を抱きしめる彼は変な姿勢で、横を見ると彼の顔があって、彼も私の方を向いて、唇があたる数ミリ前で止まった。微かな息は私の肌にあたった。彼は、やっぱり可哀想な物を見る目で私を見ていた。

 私は彼の友達で私の友達の彼氏をじいっと見つめた。瞬きもせずに彼の友達を見つめていると、ふと顔が近づいて来て、私の唇にあたった。

 その唇はよく彼に似ていて、優しくて、心地よかった。

 私は彼を追い求めるみたいに唇をひらき、目の前の唇に舌を這わせた。反対の舌も私の口の中を這って、私は絡みついた舌に恍惚を覚えた。

 水音を最後にたてて離れた口元は光を反射していて、妙になまめかしかった。その人物はやっぱり私を可哀想な物を見る目で見ていて、私は震えて腰に抱きついた。

 背中をぽんぽんと叩かれて、その人の首元でしゃくりあげると、喪服から露出した首筋が外の空気と生温い風を私に浴びせた。ひっくひっくとしゃくりあげ続ければ、またぽんぽんと背中を叩かれる。

 きっと目の前の人は、この悲嘆にくれた生き物の上手な慰め方を知らないのだ。

 そして、私は自分がどう慰められればうまくいくのか、まったくもって知らないのだ。

 真昼の日差しのもとで、彼の一部が空に散布していた原因となる煙は煙突からもう出ていなくて、私たちは彼が煙突からのぼって、それから降り積もった中で壊れたように体温を確かめた。

 

 



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Chapter2
4話


 

 

 生まれてからそう何年もたっていない、言葉だってまだ柔らかな英語しか喋れない子供が、最近よく我儘を言う。いつもは我儘を言わない子なので叶えてやりたいと思う気持ちは山々だが、それがとても現実的に考えて難しいのだ。

 これはきっと夫のアーサーのマグル好きの所為だと、私は知らず知らずの内に溜息をついた。

 

「まぐるの、学校にいきたい。ぷらいまりスクールに」

 

 ふにゃ、と幼子特有のまろみを見せるロータスに癒されながらも、私はお金やこの子が住む所を考えて、ああ駄目だと首をふる。その動作を見せると、子供は少し悲しそうな顔をしてから、よくわからないとでもいうふうに首を傾げて微笑むのだ。積もりに積もるのは罪悪感だけだ。

 

「でもね、ロータス。ロータスは魔法使いの学校に行くのよ」

 

「ホグワーツ!」

 

 きゃっきゃと笑う子供に頷くと、子供はひとまず笑い終えた後に首を傾げた。

 

「でも、ホグワーツにいけるまえに、いけるよ!」

 

 年齢的なことを言っているのだろう、この子はビルが学校に通っているのでホグワーツに憧れ、魔法使いになることを当たり前として捉えているが、どちらかというとアーサーの持ってきたマグル用品の方に興味を示す。

 やっぱり親子だ、と私は溜息をついた。子供は首を傾げたが、遠くでロンが泣きだしたのが聞こえたのでこの子を抱えてそのこともおざなりにロンのもとへ走った。

 もう、言われ続けて数年めのことなのだが、この子が4、5歳に、つまりホグワーツに入る前に入学したいというなら本気で一度考えてみたほうがよいだろうか。

 ロンに聞いても別段マグルのプライマリスクールに通いたいとは言わなかったし、双子でも個人差があるのかと私は唸った。フレッドとジョージが似すぎていたのかしら、と私は小さく呟いた。

 子供が、まるで分かったように首を縦にふっていた。この子は、子供のうちから大人すぎると一度も夜泣きをしたことのない子供を撫でて私は悲観にくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マグルの学校は、ホグワーツや他の魔法学校とは違い、5歳から義務教育という形で始まる。無償の就学前教育、ナースリースクールやインファントスクールも存在するが、今回ロットが行きたい行きたいと駄々をこねて数年目の学校は、プライマリスクールらしい。

 ホグワーツにも11歳になったら行きたいらしい彼は、けしてGCSEを受けるまで行きたいというわけではなく、キーステージ2まで通いたいらしい。賢いあの子は我が家の金銭事情を心得てか、インデペンデントスクール、ましてやパブリックスクールではなく公立学校に行きたいと言う始末。賢いことはいいことだが、そういった俗世間的なところまで察するあの子は、生みの親の私でさえ一抹の恐怖を覚える時がある。ぞっと冷たくなるような冷たさ、あの子にはそれがあるのだ。

 ビルやパーシーは小さい内は賢くともそういったところまで察しなかったからかもしれない。チャーリーはいい子だが、ビルやパーシーと違って運動に重きを置いている節がある。フレッドとジョージは論外、まだ遊びたい盛りだ。いつになったら落ち着くやら。

 

「ロン、ロット。ちょっとおいでなさい」

 

「なに? ママ」

 

 チェスの真似をしていた二人が(年齢が年齢なのでまだルールをきちんと覚えていない)とことこ歩いてきた。この前まで泣きはらす赤ん坊だったのに、今では時に生意気を言うくらい成長した。……はて、今頭に浮かんだ赤ん坊はビルだったかチャーリーだったか、それともパーシーかフレッドかジョージかロンか。頭の中の子供は赤毛だったので、ロットであることはないだろう。それに私は終ぞあの子の泣く姿を見たことがない。それが私を慄かせるひとつの原因だろう。

 私の前で話を待つ第二の双子に、こほん。と隣の男が咳払いをした。アーサーだ。アーサーと昨日話し合ってロットの我儘をどうするか決着をつけたのだ。

 

「ロン、お前はマグルの学校に行きたいか?」

 

「マグルの学校って、だってパパ、後で役に立たない勉強をするんでしょ? ボクやだよ」

 

 ぴくり、とロットの眉が痙攣を起こした気がしして、私は慌ててロンに声をかけた。

 

「将来役に立つかどうかはアナタ次第よ、ロン」

 

「ふーん」

 

 物臭に、きちんと理解していないで頷くのはこの子の悪い癖だ。失敗して後でへそを曲げるのに、ちゃんと理解しようとしない。まだ他人のせいにしようとする。それを直すのが私の仕事だ。

 

「話ってそれだけ? なら、ボク遊びに行ってもいい?」

 

「ええ、かまわないわ」

 

 頷くとロンは駆けだした。遠くなる彼と交換に、視線を感じて私は微笑んだ。役者は此方と言えば此方だ。

 

「ママ、話ってなに?」

 

 我が子は可愛らしく小首を傾げた。赤毛の我が家では黒髪はぽつりと目立つが、どこかビルに、つまり昔のアーサーに似ているこの子はやはり我が子だ。

 

「ロット、お前はマグルの学校に本当に行きたいか?」

 

 ロットはイエスと頷いてもう一度小首を傾げた。

 

「本当にか? この家とも離れることになるし、勿論私たちともだぞ? それでも行きたいか?」

 

「イエス、ダッド」

 

 アーサーは私と顔を合わせ、やれやれと肩を竦めた。しかし、少し喜びが混じっていることは長年連れ添ってきた私には分かる。アーサーは無類のマグル、マグル用品好きで最近なんて公衆電話という物に夢中だ。息子がマグルとの関係を繋いでくれるのが嬉しいのだろう。私は溜息を押し隠して頭をふった。

 

「ロット、よく聞いて。お父さんの知り合いにアンバディという男の人が居るの。ルパート・アンバディ。その人が、住む所と食事を提供してくれるって言うの、ただし、貴方が本気ならね」

 

「奴は魔法使いのことを知っている。父親がスクイブで、そのあと彼の息子達、つまりルパートは魔法学校には行っていないらしい。ルパートは一応、魔法を使えるが」

 

 ロットは黙って話を聞いていた。喜びも見えず、これからの未来への楽しみも見えない。ただじっと聞いている。もしかして、感情を表情として臆面もなく出すのが恥ずかしいのかもしれない。

 

「だが、もう一度聞くぞ。行きたいのなら、それはお前が本気のときだ。ルパートはマグルの世界に遊び気分で来たお子様なんてほっぽり出すぞ」

 

 ロットは頷いた。私は畳みかけるように質問をした。子供の我儘だと思っていたが、本人が本気なら私たち親も真摯に受け止める。

 

「でもロット、どうしてマグルの学校に行きたいの? それだけは教えてちょうだい」

 

 この子は随分と、大人である私たちでさえ煙に巻くくらい口達者なので、私は率直に聞いた。今思えば、親として一番に聞くべき質問だった。この歳でもまだ至らぬところがある事実に赤面しそうになった。

 

「魔法を使わない人達と、魔法使いを、結ぶ人間になりたいんだ」

 

 恥ずかしげに、ゆっくり笑うロットの頭を撫でて、私もにっこりと笑った。

 

「いいわよ、行っても」

 

「本当? 今度の秋から入学できる?」

 

「勿論。ねえ、アーサー」

 

 夫はしたり顔で「勿論」と頷いた。ロットははにかんで、照れを隠すように「ありがとう。ロンと遊んでくる」と立ち上がった。貴重な息子の笑顔というのも、悪くないものである。私は隣のアーサーと微笑みあった。

 



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5話

 

 

 どうもこんにちは、佐伯暢です。アジア系宗教でよく見かける単語、『生まれ代わり』をしてから約五年が経ちました。唯一神系宗教の方は今の一文を読み飛ばしてください。ともかく幾ばくの羞恥プレイを乗り越えて、ようやっと大きくなりました。

 魔法の世界ということで、最も感謝したのがおむつを替えるときに魔法を使うということだ。流石にあの歳で下の世話なんてされたくはない。25歳のいい大人が、未だ意識的には他人に、しかも異性の方に世話されるなんて羞恥以外の何物もわいてこない。

 最初の数週間は赤ん坊であることに悩んだし、夢ではないだろうかと期待もしたけれど、物事はいい方にも悪い方にも転がらず現状維持を続けたので、諦めた。苦慮したり悶えたりする代わりに思慮した方が良いだろうと、諦めました。

 

 性質より本質を紐解けば、俺は元来興味も好奇心も薄い。本に齧りつくのは知識欲ではなく浮き世からトリップできるその特異点的快楽からで、普遍的知識は一度読めば大抵覚えるそこそこの出来の頭に対する評価でしかない。

 努力せずともそこそこの評価が貰えたので自堕落で、情緒もナニもない、端から他者と深く同調する努力をしない人間としてのクズだ。オルポート先生も匙を投げるだろう。

 それがつまり何をされてもなんとも思わない、と評価されるのはどこか不適切な気がする。驚きもするし悲しくも思うが、他人より自分はソレらが十二分に不十分らしいのだ。その上、他人にあまり自分の驚きや悲しみが伝わらない。コミュニケーションをとるための伝達力、つまり感情を表情に映す能力が極端に乏しいのだ。要するに他人からすれば笑顔と真顔の二択ぽっきり。最初からいつでも最悪の事態を予想し、最善や未来への希望を見出そうとしない、言わば閉じこもり。引きこもり。

 いつ自分を見直しても溜息しか出ないので、あまり考えないようにしている。そうやって逃げ続けて生きてきた。そうして苦痛を昇華する術を覚えられないまま不完全に社会と同化した。出来たのはこんなんだ。他人の猿真似で深慮を試みようとする、摩擦を避ける近代生活に根を張る生き物。ひとたび個人的問題に取り憑かれれば恐らく豆腐のようにやわく崩れることだろう。

 

 けれど、就学前の子供というのはやることが少ない。やっぱりよしなしごとや自分について、周りの状況を考えるようになる。起きてから寝るまでにすることは食事、生理現象の処理(いや、まだ髭の手入れはしなくてもいいが。トイレとか風呂とか)、双子の兄ロナルドにチェスの仕方を教えたり、外で駆けずり回ったり(三歳までの運動量で運動神経というのは決まるという。それに体づくりと体力の資本は幼少期が最も重要だ)。

 それらを終えたら一日に余る時間は案外多い。苦悩を重ねることを避けるとなれば出来ることは限られているにも関わらず。

 

 いくつも上の兄達が読んだ本を黙々と読みあさり、泣くこともせず笑うことも少ない、ひねた腐ったガキを笑顔で、他と変わりなく育ててくれたウィーズリー夫妻にどれだけ感謝したことか。しかも俺自身は赤毛の一家に生まれた黒髪なので、性格以外にもなにか嫌悪や懸念をしたことがあったろう。祖父が黒髪らしいので隔世遺伝だと考えているようなことは言っていたが、赤毛はフェオメラニン、黒髪はユーメラニンたっぷりの正反対の性質だ。赤毛はmc1r(メラニンをつくる皮膚などの細胞に存在するタンパク)の突然変異、しかも劣性遺伝なので、深く考えれば深く考えるほど、俺という存在は恐ろしい。あのオシドリかかあ天下の夫婦が浮気をするとも考えにくいが。

 というかあなぐらにこもって次々と子供を産む才能に恵まれすぎていて、モリー夫人は子育てで過密スケジュールが組まれていて浮気どころじゃない。

 

 まあ二人共、人間、こちらで言うところのマグルの生物学(一応魔法使いも体の基本的構造は同じらしいが)には詳しくないので、深く考えることもなかったかもしれない。これは予想ではなく俺の希望だが。

 つまり、空恐ろしいのは俺のみで、この家で押し潰されそうなのも、周りが俺を押し潰そうとしているのではと妄想を働かせるのも、俺の被害妄想の成れの果てだ。けれど苦しいものは苦しい。だから(精神的には)『他人』に我儘を言うのは常時気がひけていた俺も、ひとつ奇策に出てみた。

 

『マグルの学校に行きたい』だ。

 

 理由はマグルと魔法使いの橋渡しをしたいと言えば充分ないい子だろう。(本質はモズが気付かないのをいいことに好き勝手するおんぶにだっこのカッコウの子だが。しかしカッコウの子も生まれがどうあれ大きくなるまで自分だけでは生きていけないし、さらに人間は安寧の環境を望んでしまうものだ。)

 ウィーズリー夫妻は純血だがマグルに偏見はない。むしろアーサーなんてマグル厨だ。

 クリスマスが近づくと「欲しい物は?」「マグルの学校に行きたい」という子供に夫人は困った顔をしていた。けっして年齢的問題だけではなく、金銭的問題もある。ウィーズリー家は収入が多いわけではないのに、大家族で、子供たちの学校で使う物を買うのにだって結構な金がいる。ひもじくはないが貧しい。そんな生活をしているのに、果たして5歳から子供を学校に通わせられるかということだ。

 勿論公立学校は金もそうかからないが、居住先・食事代その他諸々生活用品(マグルの服も買わなきゃいけないし、日常生活だって魔法で事足りる物をわざわざ買わなければいけない)。そう簡単に叶う筈もないと思っていが、充分に考え、俺の本気を試し、信用し、行かせてくれるらしい。

 嬉しくて顔が紅潮した。その時、今なら庭小人にキス出来ると思った。多分その後奴らに唇を引っ剥がされるだろうけど。

 嬉しさに一瞬微笑を銜え、二番目の兄チャーリーの持ち物である本を捲る。今年の秋で2年生になるチャーリーは、既にクディッチとドラゴンにお熱だ。クリスマス休暇で帰ってきて、物憂げにしているからなんだと思ったら「ドラゴンの仕事をしながら、クディッチを出来ないかなあ」なんて、頬を染めていた。

 ハリー・ポッターは全巻読んだし映画もテレビ放送をさらっと見たけれど、未来の彼はクディッチを捨てたようだった。取捨選択、ドラゴンの研究をしていると、2巻でロンが言っていた。

 

「ロット! ロンはどこ!?」

 

 夫人が喚きながら汚れた洗濯物を抱えていた。魔法で綺麗に出来るが、その前にオイタをしたロンを叱るらしい。

 「見ていないよ」と言えば、「そう」と憤慨しながら歩いて行く。自分の口が英語を重ねるたびに、日本語が恋しくなる。それと同時に、自分が使う英語は、酷くこの家では浮く。

 『生まれ変わる』前、というか。ホストファミリーがクイーンズイングリッシュを使っていので、初めてネイティブにふれたことで彼らに合わせて喋ろうと、自分も自然とクイーンズイングリッシュを使うようになってしまった。かなり意識しないと発音が変わらないレベルまで。

 豪邸というわけではないし、そこの旦那さんが貴族階級も持っていないので普通の家だと思っていた。hotの発音やtomatoの発音よろしく、イギリス英語とアメリカ英語の違いだろうとばかり最初は思っていたが、帰国後妙な顔をされるので調べてみたら、自分が発するようになった音は貴族階級の使うクイーンズイングリッシュだった。

 クイーンズイングリッシュ、王室や貴族階級の使う発音である。それを話すのは夫人の方だった。旦那さんの方は後に調べて分かったが労働階級の発音だった。5つ年下のそこの息子は夫人と同じ発音で話した。

 クイーンズイングリッシュ=イギリス英語ではない。国内でも数%しかしない発音だ。貴族階級や王族が多く用いる、悪く言えば気取った喋り方。気付いたときには時既に遅し、慣れたものを直すのはとても難しい。イギリスに20年住んだアメリカ人だってイギリス英語を常日頃から話すのは難儀だ。

 つまり俺はもう、そのときに慣れてしまっていたのだ。

 辟易したし、大学や院の留学生には少し煙たがられた。イギリス嫌いのアメリカ人には鼻つまみ者にされた。道を聞かれたときだって答えれば一瞬眉をしかめられた。

 後でよくよく考えれば、ホストファミリーの夫人はその時の貴族院の政治家と目元がよく似ていたし、マナーも完璧だった。

 

(……駆け落ち?)

 

 考えもしたが、聞いたところでたかだかホームステイの留学生に教えてくれたりはしないだろう、そう思って聞かなかったのを悔やんだことは鮮烈に脳内に記憶されている。帰国してからの手紙には『僕の発音を不思議そうにする人がいます』なんて書いてみたい欲求に刈られなかったといったら嘘になる。

 それに。それに、今だったらもっと特別悪辣な嫌味を書いて手紙を送れる。ウィーズリー家に、例え純血といえどもウィーズリー家にクイーンズイングリッシュを話す人間が存在するだろうか。いや、誰しも答えを知っている。

 ノーだ。

 大きくなって物事を考えられるようになった双子の兄達にもカッコつけとからかわれたし、どうしてだろうと夫妻が話すのも知っている。ロンは自分と俺が違う発音をするたびに首を傾げている。

 耐えがたい。耐えがたい現実だ。

 けれども、今では約束された事実が待っている。俺はマグルの世界へ! 魔法族という出生は秘匿されながら! これで冗談だったと言われた日にはウィーズリー家のいい子ちゃんは荒ぶれた凶悪な息子に変貌することだろう。今までクイーンズイングリッシュを話していたいい子ちゃんは突然コックニーを喋りはじめ、家の中の物を引っ繰り返す。なんて夫人が慌てふためきそうな内容だろうか。

 

「ロット、なによんでるんだ?」

「面白いか? なあ」

 

 本に影が落ち、顔を上げればまだ学校に通っていないフレッドとジョージがにやにやしていた。俺はぱたんと本を閉じた。

 

「なんだ、よまないのか?」

 

「今丁度読み終わったところ。チャーリーのだから棚に戻しに行く」

 

 就学中の兄の名前を出せば、双子はふーんと言って俺の手から本を取り上げた。

 

「ドラゴン全集!」

「そりゃチャーリーが好きそうな本だ!」

 

 けらけら笑う双子に肩を竦めれば、「つまんないの」とフレッドが唇を尖らせた。俺は見えないふりをして「バイザウェイ」と言った。目の前で二人揃って同一に首を傾げる動作が少し怖い。

 

「どっかでロン、見た?」

 

「ママに怒られてたぜ!」

 

 こりゃ傑作と笑う双子に俺はもう一度肩を竦め、屋根裏お化けがどしどしギャーギャー頭上で言っているチャーリーの部屋に足を向けた。

 双子がムッとして「Rubbish!」と言ったので、俺はひとつ「sorry」とだけ言っておいた。

 



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6話

 

 喉が渇いたから、水を飲もうと思って部屋から出た。多分フレッドと夜中まで馬鹿騒ぎしていたせいだ。もう喉がカラカラ! フレッドは寝る前に水を飲んでたけど。さっきまで屋根裏お化けまで巻き添えで騒いでて、それ以上大きな声でママに怒られた。「もう寝なさい!」って。ただでさえ僕たちの昼のイタズラを許したパパとケンカしたせいで機嫌が悪いから、明日の朝は卵もソーセージを出して貰えないかもしれない。わお、パンだけの朝食なんて考えられないね!

 外は暗く、古い窓枠がカタカタと風で揺れる。みんな寝静まっていて、パパのいびきが微かに聞こえてくるくらいだ。

 階段を降りると、小さな明かりがついていた。誰だろうと思って体を少し緊張させたが、別に悪いことをしているわけでもない。気負わず近づくと、それには黒髪がしゃがんで息を乱していた。

 この家で黒髪と言えば、我が家の末弟のロータスしかいない。昔はおじいちゃん(生きてる方じゃなくて死んでる方。確かバッコスおじいちゃん)が黒髪だったらしいけど、今家に居るのはロット一人だ。

 ロットは目つきが鋭くて体がガリガリだ。口数も少ないしいつ見ても無表情。からかってもロンみたいに騒がないしつまんない奴だ。

 

「どうした、ロット?」

 

 首を傾げて顔を覗き込むと、まるで僕なんて一切気付いてないみたいに息をきらしていた。シンクに手をかけていて、目には今にも零れそうなほどの液体がはっている。シンクにはコップがあるからロットも水を飲みに来たのだろう。

 何度声をかけても気づかないから、むっとして肩をゆすった。その瞬間体を強張らせて小さく悲鳴をこぼした。だけどゆっくりと此方を向いて「ジョージ?」と零したから会話は出来る。

 

「そうだよ」

 

 間違えてもフレッドではない。そう言うとロットは何度か短く息を吐いてから、不格好に笑った。誤魔化すみたいな笑いは随分下手くそだ。彼はずるずるノロマな様子で手を掛けていたシンクに背を預けた。

 

「怖い夢でも見たのか?」

 

 これがロンだったらからかってやるんだけど、いつも冷静で驚きも慄きもしないロットのことだったのでちょっと心配になってきた。もしかしてビルより頭がいいんじゃないかって僕は時々思う。

 

「そんなところ」

 

 じっとり僕の顔を見てからそう言って俯いた。それから少しも動かないもんだから僕は心配になってべちべち俯いたロットの頬をうった。ロットはやめろともなんとも言わずに顔をあげた。

 ぼんやりした目にだらりと垂れた腕、赤毛より青い顔。(赤毛は色素がどうのこうので顔が青白くなるってこの前ロットが言ってた。それってどこで手に入れてきた情報?)僕はまるで弟の幽霊でも見ている気分だった。目が死んでいる。眼球を動かすのさえだるいという様子で視点も一切動かない。ママが毎日掃除しているけど傷んで汚い床をじっと見据えてる。

 

「ところで僕も水が飲みたいからどいてくれな……」

 

「なんだ、ジョージも起きてたのか」

 

 言い掛けた言葉をそのままにして振り向く。そこにはフレッドが立っていた。さっき上の方からバタンって音が聞こえてきたからフレッドはトイレに行っていたのだろう。

 適当に返事をしてもう一度言い掛けた言葉をロットに言おうとしたら、彼は真っ青になっていた。インクよりも青いんじゃないかと思うくらい。裸電球の下、ぼんやりとした明かりだったにも関わらずそう思った。

 

「おい、ロットどうした」

 

 肩を揺さぶるとロットは口元を覆って呻いた。そして僕の手を振り払ってほど近い玄関に駆け出した。多分外に行ったんだと思う。僕とフレッドは顔を見合わせて首を傾げた。

 

「どうしたんだ、ジョージ?」

 

「さあ、フレッド」

 

 僕たちは取り敢えず、肩を竦めてみることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見た。昔だったらただの架空の人物が死ぬ夢を。今では架空の人物どころか実の兄である人物が、死ぬ様を。物語では数多くの登場人物が登場した。それでもはっきりと覚えている。あの話で死にゆく人物を。セドリック・ディゴリーから始まり、最終巻まで続く死の連鎖を。それでも自分は決めたのだ。死にゆく予定の人物を生かしたりなどしないと。そんなことは、しないと。

 それは、他の文章の世界に生まれ変わってする行為とはわけが違うのだ。全然、まったく。三島だとか、太宰だとか、川端だとかそういうのとは全然。児童学書のファンタジーは笑えるくらいどれもこれもスケールが尋常じゃない。世界が掛かっているのだ。ヴォルデモート卿、トム・マールヴォロ・リドルは間違いなく世界を変革するのに人殺しを厭わない。純血主義で世界を完結するために良識を見向きもしない。

 自分には、誰を生かせばどれだけの人が生き残るか、どれだけの人が死ぬのか分からない。普通、誰にも分からないのだ。誰にも。これから死ぬ人間だって、普通は分からないのだ。

 それを自分は、可能性の一部として知っている。これは、忌むべき事実だ。どうしようもなく、恐れるべき事実だ。倫理的に考えても、現実的に考えても生かしても殺してもならないと思った。だって、人が死ぬのだ。それは文面のように軽い出来ごとではない。日本語でならたったの一文字、英語でなら五文字のローマ字で、その言葉が適用される人間の数え切れない時間が失われる。死。

 ひとつひとつが合わさって、世界は構築していくのだ。言動だったり、発明だったり。そのひとつが、自分の言動で崩れる?

 とんでもない。とんでもないことだ。

 けれど、自分は恐れている。生死の行方を知り得ながら、人が死んでしまうことを。そんなの間接的な人殺しじゃないか。あまりに主人公から近い人物になる予定の人間の、すぐ横に立つ自分は、もしかしたら必死になれば生かすことが出来るかも知れないのだ。死人になる予定の人物を。だからこそ、罪悪感を咎で固めたような感情が心臓を食い破る。

 自分の努力次第で。人の生死が変わる。その後の未来が、笑顔が、絶望が。嗚呼、それが、どれだけ恐ろしいことか。アパルトヘイトやカーストを知ってるか? 公共車両、住居、職業、生きてる間に毎日生まれで差別される。階級が下の女の子にラブレターを送れば女の子と同じ階級の見知らぬ少年達に市中引き回しの後殺される。歴史の流れとしては噛み締めるべきものだろう。だが、果たして、一個人が偶然ステージに引っ立てられて無辜の民の慟哭を受け入れきれるだろうか。

 ガタガタとみっともなく震える体をさすり、目の前の口から出た汚物を見た。その結果がこれだ。気持ち悪い。恐ろしい。兄弟が、死んでしまう。それでも自分は、その兄弟を見殺す気でいる。薄情者と罵られようがそれでいい。否定も言い訳もしない。

 だけれど、もう、耐えられそうにない。毎夜毎夜魘されるなんて、馬鹿馬鹿しい。なんて馬鹿馬鹿しい。耐えられないから見殺しにするのに、見殺しにするのが耐えられないなんて。毎日兄弟や会ったこともない人物に「お前が殺したんだ」と糾弾される。けれど、そんなものたかが夢だ。体は未だ片手で足りる年齢でも、頭に刻まれる記憶はもう三十年に近い。なんて弱いんだ。なんてさかしいんだ。なんて、なんて――

 

「サヨナラだけが、人生だと?」

 

 人生別離足る。確かにそうだ、けれど、そんなに早く別れなくてもいいじゃないかと思う自分は、やっぱり明日も魘されるのだろう。

 頭上では、星々が煌めいていて、なんだか泣きそうになった。

 

 



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7話

 

 

 ボクと全く似てないボクの双子の弟は、周りと違う。

 まず、黒髪。ボクの家はみんな赤毛なのに、アイツだけ黒髪だ。あ、アイツの名前はロット。ロータスっていう。ちなみにボクはロン。ロナルドっていうんだ。

 でも目の色はボクと同じ青で、笑うときは口元はあんまり動かないで目だけ細まる。そんなにジェスチャーをしたり動いたりしないから、その姿はひとつの絵みたいに見える。ロットはガリガリだし目つきも悪いから、絵としてはお粗末なんだろうけど。

 でも顔はビルみたいに、ああ、ボクたちの一番上の兄でウィリアムっていうんだけど、そのビルとちょっとだけ似ててかっこいいんだ。そばかすもないし。なんでか、赤毛や金髪にそばかすって多いらしい。パーシーは皮膚が弱いからだって言ってたけど、よくわかんない。

 

 もうひとつ違う。これはビルとも違うんだ。ロットはボクたちと違って偉い人たちが喋るみたいな喋り方をする。単語ひとつとっても発音が違うんだ! それに、時々変なマークをいっぱい羊皮紙に書いたり、変な言葉を言ったりする。そのときはちょっと、えーっと、なんていうんだろう。……そう、ディア! 懐かしそうだけど、その後すごくいやーな顔をする。顔をぐしゃぐしゃにして、「shit」って小さくつぶやく。

 あと、最後にもういっこだけ。ロットはとにかく本を読む。ママに読んでもらうんじゃなくて、ビルやチャーリーの本を部屋から持ってきて、読んでるんだ。ビルが学校に行くからって買ってきた教科書じゃない本とか、ビルが1年だったり2年だったときの教科書とか。それをぜーんぶ、わかった。みたいな顔をして本棚に返すんだ。よくチャーリーのドラゴン全集とか図鑑、百科事典も読んでるけど。一回のぞいて見たら、魔法昆虫図鑑で、蜘蛛が紙の向こうで動いてて気持ち悪かったから、もうのぞかないって決めてるんだ! ロットが蜘蛛は昆虫じゃないって教えてくれたのに! 嘘つき!!(その時は6本とか8本とかニーズがどうとか節足動物?だし昆虫の方に乗せないとほぼ専門誌だけになっちゃうとか言ってたけど蜘蛛のこととか詳しく考えたくないってば! 教えなくていいよ!)

 そのロットのことで、なんでかボクたちは呼ばれた。夏休みで返ってきたビルとチャーリーもいて、朝ごはんのときみたいにみんな椅子に座ってる。こほん、ってパパが咳をした。

 

「みんな、聞いてくれ。ロットは、今度の秋からマグルのところに行くことになった」

 

「マグルだって!?」

「なんでさ!?」

 

 興奮した様子でフレッドとジョージが立ちあがった。パパは「勉強しに行くんだ」と答えた。朝ごはんのときと違ってパパとママの席の間に座ってるロットの顔はいつもとかわりない。

 

「パパ、ロットはその……何故?」

 

 ビルが首を傾げた。すごくびみょうな顔で、チャーリーも同じ顔をしてる。パーシーなんてぽかんとしてる。

 

「パパがマグル好きだからってわけじゃ、」

 

「ないわよ、チャーリー」

 

 ママがちょっとツンとして言った。チャーリーは「そっか」と安心した顔をした。隣のビルも。

 

「ロットは将来マグルと魔法使いを繋ぐ仕事につきたいそうなんだ。そのためにまずマグルの義務教育に、11歳まで行く」

 

「えー!? ボクたちには聞かなかったじゃないか、パパ!」

「そうだよ! 不公平だよ!」

 

「お前達がマグルのところに行って大人しくしてられるかい!」

 

 フレッドとジョージにママがぷりぷり怒っていった。そしたら二人は顔を見合わせて、「それもそうか」と笑った。チャーリーがあきれて「分かってるならおさえろよ」と言った。

 

「ロットは自分で言ったの……?」

 

 パーシーが悩みながら言うと、パパはうんと頷いた。

 

「クリスマスプレゼントに『マグルの学校に行かせて下さい』ってファーザー・クリスマスにお願いしてたり、よく言ってたのはお前たちだって聞いていたろ? 本気なら私だって行かせるさ」

 

 うんうんと頷くパパに、パーシーはまだ眉を少しよせて言った。

 

「勉強って、なにを勉強するの? マグル学っていうのと違うの?」

 

「えーっと、それは……」

 

 パパがどこか違うところを見ながら頭をがりがりした。ママもちょっと困ってる。そこで、急にロットが口をひらいた。

 

「マグルの歴史とか、ママに教わる計算よりもっと難しいのを勉強するんだ。日常では使わない計算も。あと、本や詩を読んでどうしてこういうふうに作者が書いたのかとか、登場人物は何を思っているのか考察したり。それに、自然現象や自然科学。つまり、水を凍らすとどうして量が増えるのか、とか。そういうのを勉強するんだ」

 

「……ロット、なんだかお前にはもう必要なさそうじゃないか?」

 

 ロットがすらすらっと言った難しい言葉をぜんぶ分かったのか、ビルは笑ってロットの頭をぐしゃぐしゃなでた。赤毛のボクたちはかみのけの量がすくないけど、ロットはかみがほそいからボクがなでられるのより頭がぐしゃぐしゃになった。

 ロットが、すぐにすとんともどるかみのけを手で直して首をふった。

 

「ううん、魔法を使わない人たちは、どういうふうに思考して、行動するのかも、知りたいんだ。自分本位になってしまうと、相互理解とか助け合いは成り立たないから。慈善事業がしたいわけじゃないんだ」

 

 ロットが言い終わると、ビルはびっくりした顔をしてからもう一度頭をなでた。チャーリーもびっくりした顔をしてからロットの頭をなでた。でも、チャーリーは力がつよいから、ロットの頭がぐらぐらした。ボクはそういえば、とおもいだした。この前のはなしって、もしかしてそれだったのかなあ。でもやっぱりボクはいいや。マグルの学校。難しそうだし。

 見ると、パパとママはビルが学校で一位をとってきたのを見るのと同じくらいうれしそうだった。

 

「でもママ、住むところはどうするの?」

 

 フレッドが首をかしげた。ジョージも「そりゃそうだ」と頷いた。

 

「「で、どうするの?」」

 

「パパの知り合いにアンバディって人がいるのを覚えてるか? お前たちも昔会ったことがあったろう」

 

「アンバディって、おい、ジョージ!」

「それってルパートだよ、フレッド、きっと!」

 

 二人がさわぎだしたけど、パパは気にしないで「そうだ」って言った。

 

「ルパートにお願いすることにした。奴なら魔法も魔法使いも知っているし、安心できる」

 

 ボクはそのルパートさんに会ったことはないけど、ビルとチャーリーとパーシーもないのか、「ふうん」って言うだけだった。

 

「さて、話はこれだけだ。異議のある人は!」

 

 パパが大声を出したけど、誰も手をあげなかった。そしたら、ママは「解散!」って言った。フレッドとジョージは興味がないのかすぐにどっかに走ってっちゃった。チャーリーは宿題のことをママに言われて慌てて立ち上がった。パーシーはロットを見た後、ふいってして自分の部屋に戻っていった。そういえば気付かなかったけど、いないと思ったらジニーは部屋のはじっこで本を積み上げてあそんでいた。

 

「ビル、三年の教科書、貸して」

 

「ロット、復習する時間くらい与えてくれよ」

 

 ビルはロットに引っ張られていた。ロットは「No revise. Yes assignment.(復習より課題をやらなきゃ)」とこぼした。ビルは苦笑して「宿題も復習みたいなもんなんだけどなあ」とパパみたいに頭をかいた。

 

Ah…I'll work it.(あー、まあなんとかするよ)

 

I am deeply grateful to you for your kindness.(あなたのご親切に深く感謝いたします。) I apologize.(大変申し訳ございません)

 

 すごく難しいあやまりかたと長いありがとうを茶目っ気をふくんで言ったロットに、ビルはムッと顔をぐしゃぐしゃにした。きっとビルがロットをにらむと、すごく怖い顔なのにロットはめずらしく笑った。お腹からおり曲げて「くっくっく」って笑ってる。すごくおもしろいのか肩までふるえてる。

 それにビルはもっとむっとして、ロットの足をげしっと踏んだ。

 

Excuse me.(ごめん/どいて)

 

 一番軽いあやまりかたをしたビルは(意味はわかるけど、なんかアメリカ人みたい)つんとして自分の部屋にもどるために階段のてすりに手をかけた。そうすると、痛がっていたロットがおもいっきりビルの膝裏をけって、ビルが階段でひっくりかえった。

 

「Wow. You got sweet bacons!」

 

 いつもは白いほっぺを赤くしたロットが、早口で叫んだ。ビルのベーコンがかっこいいなんて、よくわからなくて頭をかたむけると、ビルも不思議そうにロットをにらんでた。そして分かったように「ああっ」て叫んだ。

 

「コックニーなんてどこで覚えてきたんだ、ロータス!」

 

「どこだっていいだろウィリアム!」

 

 今日は、めずらしく声を出して笑ったロットに、めずらしく兄弟ゲンカをするビル。しかも相手がロットだなんて、すごく珍しい。ビルはいつも優しいし、ちょっとぬけてる。ロットはいつも静かだし怒らない。そんな二人のケンカに、パパとママはびっくりしてバタバタ近よってきた。パーシーも部屋からでてきて、なにか怒ろうとしたけど、それがビルとロットだってわかるとまた部屋にもどっていった。

 

「やめなさい! ふたりとも!」

 

 ママがお玉とフライパンを持ってガンガンたたいた。それでも二人とも蹴りあってる。二人共、なんだか喧嘩っぽくない。この前のパーシーとフレッドが喧嘩したときなんて、なぐって蹴ってばたばたしてたのに、ビルとロットは全然動かない。まるで相手に一番ダメージを与えられて、自分が痛くならない隙をねらってるみたいだ。。

 

「やめなさい! ロット、学校に行かせませんよ! ビル、ホグズミート行きを禁止にしますよ!」

 

 ママが叫ぶと、二人はぴたっと止まってにっこりと笑ってごめんと言い合ってあくしゅをした。ぐうぜん見たフレッドが顔を青くさせてもと来た道をひきかえした。

 

Trouble is a great person(母は偉大なり)……」

 

 収まった喧嘩にもう一回新聞をよみだしたパパに、ママは「アーサーアナタまで! やめてちょうだいッ」ときりきり叫んだ。パパは肩を小さくして新聞に体をかくして、ビルとロットもこそこそと部屋にもどっていった。

 でも、やっぱり二人ともおなじ部屋にいって宿題と読書をするみたい。

 ロットってやっぱり、変だ。

 

 

 

 





コックニーでベーコン(Bacon and Eggs)は脚のこと、トラブル(Trouble and Strife)は妻のこと。
謝罪の仕方は「Excuse me」→「Sorry」→「Apologize」の順に軽度。

と補足してあったのですが現在コックニーの正誤の確認できません。当時どの文献を参考にして書いたのか思い出せないためちょっと修正できない。あと最近英語が不自由すぎる。

9/5英文に翻訳をつけました。意訳も含みます。


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8話

 

 

さよなら:誰かのはなし

 

 

 

「ねえねえ、はるかちゃん! 私プロポーズすることにしたの!」

 

「そう。誠実な人?」

 

「ちょっと! 五年も前から付き合ってるんだから知ってるでしょ!」

 

「ん、あれ、……うん、ごめん。がんばってね」

 

 

 

 

 

「はるかちゃん! 私結婚するわ」

 

「おめでとう。御祝儀、あんまり出せないよ?」

 

「新聞紙で割り増ししといたって構わないわよ。ここ数年大変だったでしょ? 披露宴来てほしいの。あーもう、お色直し何着よう! ウエディングドレスはレンタルなんかじゃなくて、きちんとしたものを買うことにしたの」

 

「へえ、じゃあじっくり見ようっと」

 

「やめてよー! 最近太ってきたんだから」

 

「幸せ太りだねぇ」

 

「えへへ」

 

 

 

 

 

 やった、やったわ。子供が出来た! 妊娠検査薬は陽性で、私のお腹の中には子供がいる。きっと、いいえ絶対暢君の子よ! 嬉しい、嗚呼、嬉しいな!

 

 

 

 

「はるか、俺、結婚するんだ。もう、不毛な関係に終止符をつけよう」

 

「ああ、そう」

 

 そうよ、だって私のお腹の中には暢君の子供が居るんだから! うふふ、なんて名前をつけようかしら、女の子? 男の子? うふふ、ああ、私幸せ!

 

「また後日、マンションに荷物を取りに来る。いいよね?」

 

「どうぞ」

 

「うん。……ごめん、ちょっと飲み物貰ってもいいかな」

 

「勝手にして」

 

「有難う。……なんでグレープフルーツ? それにジュースも。嫌いじゃなかったっけ」

 

「別に」

 

 

 

 

 

「んっ、ぐ、うぇっ。……は、はぁ、んぶっ」

 

 つわりってホントにツラいのね。ごはんの匂いも駄目だった。でも大丈夫、私は耐えられる。だってお腹の中には暢君の子供が居るんだから。うふふ、大丈夫。ちょっと我慢すれば暢君似のカッコいい男の子が産まれてくるんだから。だから後ちょっとの辛抱よ。大丈夫、大丈夫。

 

「……はるか?」

 

 ちょっとやめてよ。もうちょっと遅くか早く来てくれればよかったのに。人の家のトイレを覗くなんて最低。しかも私、女の子よ。もう帰ってよ。

 

「……子供か? 子供が、出来たの? 俺の」

 

「暢君の子よ。帰って、貴方には関係ないわ」

 

「はる、か」

 

 なにその顔どっか行ってよ私たちの問題に口を出さないで。貴方になんて暢君の子供の顔、見せてあげない。私の友達と結婚するんでしょうけど、貴方が居ないときにあの子に暢君との子供みせてあげなきゃ。ああそうだわ、彼女にも教えてあげなきゃ。そうよ、彼女は確か暢君のこと知ってたわよね。目の前の男が暢君の友達なんだから、そうよね。きっとよく似てるって言ってくれるんだわ。私より彼に似てほしいなあ。ううん、どんな顔でも暢君との子なんだからきっと愛せるわ。

 

「はるか、落ち着け。はるか、違うだろ」

 

「何が違うっているの、どうして顔が引き攣ってるの? 暢君の子よ」

 

「聞け! はるか、暢は!」

 

「聞きたくないわ喋らないでなによ言わないで聞きたくないききたくないききたくないきき、ッ」

 

「暢は、アイツは五年も前に! 一週間前にセックスをしたのは、俺とだ! 暢じゃない!」

 

「ちがっ、違う! 暢君の子よ!」

 

「はるか、君は五年も前の相手の子が出来ると思ってるのか!! 出来るはずがないだろ! 子供が出来たんだったら結婚はしない、責任も取る。彼女にも絶対近づけさせない」

 

「いらない、いらないいらないいらない! 暢君の子が出来たのよ! どうして邪魔するの嘘つくの大嫌い、貴方なんて大嫌い!」

 

「はるか、よく聞け! アイツは!」

 

「やめてっ――」

 

「五年も前に、死んだんだ!」

 

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! 暢君が死んだわけないどうしてこの人はこんなに酷いことを言うの! 彼の友達じゃないの!? それなのにこの人は私と不貞を……! あれ、不貞、を? どうして、私はこの人と不貞を働いたんだっけ? 私には暢君が居て、この人にも私の友達っていう彼女が居た。なのに、あれ……? どう、して?

 

「あ……あ、ああ……」

 

「はるか、口にしよう。もう五年も前だ。認めてあげるんだ。暢は死んだ」

 

「暢君は……!」

 

 私は泣き崩れてこの人にしな垂れた。この人は私の背をぽん、ぽんとリズムよく叩いた。

 

「暢君は、貴方より優しかった」

 

「うん」

 

「手があったかかった」

 

「うん」

 

「頭だって良かったし、運動神経もよかった」

 

「うん」

 

「私のことはなんだって知っててくれたし、覚えててくれた」

 

「うん」

 

「キスも貴方より上手だった」

 

「うん」

 

「セックスだって貴方よりずっと上手だった」

 

「うん」

 

「でも、でも……暢君は一度だってゴムをつけなかったことはなかったわ」

 

 滲む視界に我慢が出来ず、泣き始めると彼は背中をさすってくれた。手は暢君ほどあたたかくはなかったけど、それでもとても心地よかった。

 そんなことを考えるのは、私の心が暢君から離れていっている、証拠?

 

「暢は、あのとき25歳で俺達はもう30歳だ。それにあのときは学生だった、責任なんてとれるはずもなかったんだ」

 

 私は返事もせずに立ち上がった。ふらりと体が揺れて、栄養が足りてないのかもしれないと思いあたった。でも、取り敢えず今はどうでもいい。

 

「お、おいっ、はるか? なんで外に……!」

 

 ふら、ふらと体の軸が決まらないまま歩いて、私はマンションの階段をゆっくりと上がった。

 

 

 

 

 カツン

 カツン

 

 

 

 カツン

 

 

 ヒールに階段が余韻を残したけれど、それを楽しむこともせずに私は錆びついた屋上の扉をあけた。

 

「はるか!? どうして急に、」

 

 私はフェンスに手を添えて、遅れて来た彼に笑い掛けた。彼は顔を真っ青にして戦慄いた。

 

「結婚、おめでとう」

 

「はる……」

 

「『はるか』なんて呼ばせたの、他人では貴方が二人目よ」

 

「馬鹿なことは止めるんだ! なあ、大丈夫だから! 俺は、お前のことを愛してる。どっち付かずの俺が全部悪かったんだ! アイツを騙してお前を傷付け続けた! でも、でも俺、お前たちのことはこれから一生守るから! だから……!」

 

「突然愛する人が死んだ喪失、不条理が整理できずに年々ごちゃごちゃして、頭がおかしくなった人間のことを、貴方は理解出来るかしら。理解出来なくっていいの。その言い訳、その態度、開き直り、後悔……どうしようも出来なくてもがく貴方、普通の人だわ。貴方のこと、好きよ。優しくて、精一杯。この五年は貴方にとって、悪い夢だったのよ。私はきっとサナトリウムなんかしなきゃいけなかったのね。誰にも迷惑をかけず、喪失を埋めなきゃいけなかった。貴方は悪くないわ。優しい貴方が不幸によって嵌った気の迷い。幸の薄い女を見ると手を出したくなる男のさが。貴方は愚かで、私が悪女だったの。たったそれだけよ」

 

 私は空の下に掌を掲げた。小指に嵌めたピンクダイヤのリングは、大学生の女の子がつけるようなデザインで今の私には少し浮いてしまう。でも、五年前の私の笑顔にならきっと似合った。自画自賛? ううん、彼がそう言ってくれたのだから間違いないわ。

 

「ねえ、誕生日に買ってくれるって言ったピンクダイヤ、一か月前だったのにもう買ってあったのよ? 彼の部屋で見つかったって、渡されたわ」

 

 ウェーブを描くリングに天使の涙のように繊細にきらめく宝石。昔はぴったりだったのに、今は少しゆるくなってしまった。

 

「わたし、取り残されてしまったわ。不条理で欠けた喪失を埋めるなんて不可能よ。私も彼も弱い人間だった。気を使ってくれる友人たちのように、貴方にも五年前の私たちは全てが満たされた人間に見えたかしら? 偶然惹かれて、お互いで足りないところを埋めていたのに、神様が私たちを乱暴に引き剥がした。天国で彼も泣いているわ。ゆるやかに結合部分がくずれて、離れたころにはすっかり繋がっていた部分が癒されて、不用意に傷付かずに別れた後も生きていけるはずだったのに、突然出来た喪失は大きくて惨すぎる。天国だって人間社会でしょ? 彼もこの五年きっと大変だったのでしょうね」

 

 私は向こうで呆然としている男性が愛らしく思えた。遊園地でお母さんとはぐれてしまった男の子みたい。

 

「ね、なにを言っているのか分からないでしょ。分からなくていいわ。アナタにとって死は、生から始まった尺度の終わりなんだから」

 

 私は微笑み、フェンスを乗り越えた。彼は手を伸ばしたけれど、馬鹿だなあ、そこからじゃ届くはずもないのに。

 

「欠けた喪失を癒す方法なんてないわ。欠けたものは埋めなきゃいけないんだもの。埋めてくれる彼が世界中から欠けたまま、私は彼を求め続けた。これって、彼を神様に祭り上げて、彼以外を偶像崇拝したのよ。私の脳が神様を錯乱したんだわ。彼の死によって私と彼で収まっていた世界は風船の空気みたいに解放された。なら、これってきっと冒涜ね。彼は神様じゃないもの。彼が弱い人間であったことを知っていた私が、彼を全能に押し上げてしまったんだから」

 

 人々の鋭利な面ですられ、剥き出しの断面のでこぼこを切り落として平静を装い、あんなに必死に生きていた彼を、不均一な紛い物にしてしまった。私が彼を信仰してしまった。信仰してしまったら彼は私の個を無辜の民として忘れざるを得ない。彼と手を繋いでいたのに、私の中の彼が私を忘れなければいけなくなる。この五年は、私の優しい夢だった。

 

「ね、そんな顔しないで。ありがとう。お幸せにね」

 

 でも、気付いたの。この愚かで優しい人が私に生きることの意味を注ぎ込み続けたお陰で、気付いてしまったの。

 精神でのセックスと、肉体でのセックス。快楽と苦痛の互換性。肉体の唯一性と、精神の永遠性なんて説く気はないけれど。

 

 かこっ、とコンクリートのヘリとヒールが擦れる音。男の叫び。空気を切るが耳を劈く。

 

 いちばん見せてあげなきゃいけない相手を忘れていたの。彼に、お腹の子を見せてあげなきゃ。彼の子供ではないし、彼の友人の子供だからちょっと複雑な顔で笑うと思うけど。でも、間違いなく私の子供なんだから。彼にこの子の手を握ってもらいたいの。夢の続きに身を投じれば彼と出会うことが出来て当然なんだもの。死は生から始まる尺度の終わりでは無いのだから。

 

 

 このお話に、続きなんていらない。これでお終いにして。どっとはらい。

 

 



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Chapter3
9話


 

 

 我が家にガキが来た。

 仕事で知り合ったアーサー・ウィーズリーのガキを、約6年間家に置く約束をしてしまったからだ。アーサーはマグル製品不正使用取締局の人間で、俺も当局の人間だが課が異なり、不祥事が起きた際マグル側でいざこざを処理する仕事をしている。マグル製品の正確な使い方や意味を教えたりしているのでそこでアーサーと付き合いがあった。

 いつもビルという長男の自慢かロットという七男の自慢、もしくはマグルの生活用品についての質問から話が始まる男が、考え込んだ顔で相談してきたので、つい、そうつい、話を聞いてなんの得にもならない貢献をしてしまった。過去が悔やまれる、条件は殆ど無償奉公もいいところだ。

 そもそも、俺は8人いるウィーズリー兄弟の二人としか会ったことがないが、あの双子のうるせえことうるせえこと。寡黙なガキなんてのはいないことくらい分かっているが、騒がしい存在が家の中でキャッキャする光景を思い浮かべるだけで頭が痛い。まあ、あれは一人ではなく二人だったから余計五月蠅かったのだろうが。それでも同じ家で同じように教育された子供だ。

 アーサーは「静かで賢い子だ!」と言い張るが、子供の静かなんてどこまでか。賢いなんてどこまでか、たかが知れている。

 

 それが、箱を開けてみたらどうだ。俺は一瞬の悪寒を覚えたことに嫌悪した。たかだか、5歳のガキに、いい歳の大人が、だ。

 

How do you do?(はじめまして)

 

 口元は動かさず、目を細めて笑う少年に俺は口元が引き攣るのを感じた。あまりに他人行儀でフォーマルな挨拶の仕方だ。俺はこれを、女王陛下にお目にかかるときか貴族を家に招待したときしか使うつもりがなかった。これからそういう予定もない。

 少年の隣に立つアーサーを見れば、いつも通りの、むしろ少し胸をはった様子を見せた。これは、平素と同じなのだろう、この少年の。なにか違えばすぐにアーサーの顔色も変わる。(まったく顔色がわかり易い男だ)

 

How do you do?(はじめまして。) I’m pleased to meet you.(お会いできて嬉しいです。)

 

 少年の食えない態度が気に食わなかったので、俺はいたってフォーマル、或いはカビの生えた言語で他人行儀に挨拶を返した。少年はきょとんとしたが、今度は口元を動かしてにっこり笑った。嘘くさい。たかだか5歳の少年がこうも嘘くさい世の中になったのか、と俺は溜息をつきたくなった。

 

「ロットもきっと緊張しているんだ、よろしくやってくれ」

 

 アーサーがけろりとした顔で言ったので、俺はこいつの目を疑いたくなった。これが、緊張してるというなら、世の中の大抵の人間は緊張してるね! これだからうだつが上がらないんだ! 本当にいたちのように純粋な男だ!

 俺は引き攣る顔をなんとか戻して仕切り直した。待ち合わせは玄関だったので、俺は「どうぞ」と短く言い切り家の中に招待する。今では俺が手入れをしているバラのアーチを潜り、きょろきょろしているアーサーと俺の背中ばかりを追う少年の対照的な様子に眉を顰めた。アーサーを自宅に入れたのは二度目だが、まだマグル製品やマグルの住宅構造が気になるらしい。それに引き換え少年はマグルの世界に来ることも滅多にないだろうに顔色に変わりがない。

 ばちりと少年と目が合う。

 

「どうした」

 

「随分大きな家だと思いまして」

 

「大昔はここらへんを納める領主だったからな。今じゃ没落貴族だ」

 

 落ちぶれて屋敷を博物館にして何の変哲もない家に住む元貴族の方がマグルにとっては珍しくないことだろうか。まあ確かに、金喰い虫だ。文化財に指定された城ほどではないが特定の修繕の仕方も国から指導を受けている。そう考えながら返事をすると、少年はひとつ瞬きをして俺を見返した。5歳じゃまだ同情という感情を覚えていないか、とも思ったが、先程格式ばった挨拶で距離を置いた少年だ。どうだろう、とも俺は考えた。

 

「領内の不作で抵当として土地を手放す。残ったのは家だけ、それでもマシだな。ここは母方の実家だ」

 

 気にしていない様子で「あの部屋が君の部屋だ」と続けると、少年はさも気にしない様子で「ありがとう」と答えた。後ろのアーサーは気まずげに背筋をしならせた。

 

「桜の園はありますか?」

 

「すまないがロシア人の話はやめてくれ。アレルギーなんだ」

 

 肩を竦めて少年から荷物を奪い、俺は先程言った少年の部屋に向かった。荷物を持った少年はぎょっとした顔をしたが、親切だと分かるとまた「ありがとうございます」と言った。機械のように画一的に、均等なイングリッシュが紡がれる様は不可思議だ。アーサーが押収品からデッキでも持ち帰り、偏ったビデオテープで学習でもなされたのだろうか。

 

「ここだ」

 

 扉をあけてやると、彼はひょっこりと覗き込んだ。その上からアーサーも部屋を覗く。だだっ広い部屋にあるのはベットと本棚くらいだ。本棚にはなにも入っていない。5歳の少年が来ると聞いていたので本は全て書庫か俺の部屋に移動した。この少年の早熟さを見ると骨折り損だったかもしれない。

 

「……精神と時の部屋かよ」

 

「……セイシンと、なんだって?」

 

 少年がぽつりと零した言葉に聞き返す。It's likeの後の名詞が音節が多すぎて聞きとれなかった。けれど少年は首を振るだけだった。アーサーの方も理解していないようなので、少年の造語かもしれない。俺は首を傾げながらベッドの近くに少年の荷物を置いた。

 

「これから、よろしくお願いします」

 

 少年がそう言って握手を求めてきたので、自己紹介がまだだったことを思い出した。俺は久方ぶりににっこりと笑った。

 

「ルパート・ヘクター・アンバディだ。よろしく」

 

「ロータス・バッコス・ウィーズリーです、Mr.アンバディ。失礼でなければ、お歳をお聞かせ願っても?」

 

「今度の冬で29歳だ。ロータス、君は?」

 

「春に6歳になります」

 

 予想通りの返答に、俺は冗談めかして笑った。

 

「おいおい、嘘だろ?」

 

「おや、気付かれました? 実は今度の春に31歳になります」

 

 此方も冗談を言ったので、俺はひとつ「年上でしたか」と肩を竦めた。少年も肩を竦めて、アーサーだけは取り残されたようにぽつんとしていた。

 これだから彼は仲間には好かれて上司に好かれないんだ。

 

 



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10話

 

 

「ロータス、部屋で荷物を広げたらどうだ?」

 

 俺がにっこり笑ってそう言うと、少年もにっこり笑って「そうしてきます」と頷いた。

 それから俺はアーサーに向き直る。コイツが何か話したそうにしていたから気を使ったが、気を使った人間の数が二人だったりしないだろうな。

 

「それで? アーサー、何か話したそうだったが」

 

 俺は首を傾げてそわそわしている赤毛の男に声をかけた。思えば初めてアーサーの息子に会ったときもこの男はそわそわして忙しなかった。

 確かアーサーの妻が風邪で寝込んでいる際に双子を連れて来たのだ。上の兄弟は学校に行っていて、下の兄弟は外に出すには幼すぎる。そして当局が横領品を大量に送られてきてきりきり舞、俺は当日休みだったがアーサーの部署では出勤から逃れられない時分だった。親族の殆どが都合が悪く、身重の親戚で一人だけ融通がきいたらしい。さすがに全員は見きれないという事情で、俺は半日あの双子を引き取った。奴らはマグルの世界に来たことについて「行きたかったからついて行ったまでさ!」と豪語しているらしいが。

 

「あ、ああ。ロットのことなんだが……」

 

「オーケー。取り敢えずリビングに移動しよう」

 

 そう促して歩き出すとアーサーは曖昧な返事を返し俺についてきた。リビングに入りソファに座ることをすすめ、俺はコーヒーの用意をする。

 

「ロットは、ああ見えて繊細な子なんだ。夜によくうなされている。だが、人に見せたがらない性質だ、出来ればそっとしておいてほしい」

 

「そうか」

 

 奴の目の前にもコーヒーを置き、俺はひとつ頷いた。元から住ませて飯を出すだけで後は関わるつもりなど一切ない。アーサーから受け取る彼の生活費に色はついていないが自分で頷いた慈善事業だ。餓死をさせる気も虐待をする気もないが、俺自身が子供……それ以上に人間を愛す性質にないから情操教育にはかなり不安がある。(いや5歳であの性格だったらもはや矯正にシフトした方がいい気もするが)

 けれどアーサーは安心したように、ほっと息をついた。……コイツ、熱血漢の善人だとは思っていたが、本当に大丈夫か? 協力してくれた俺のことも善人だと思っているのだろうか。いい人というのは、人がいいという悪口と表裏一体だ。

 普通児童の情操や犯罪などの危険性を考えると子供が1~2人いる夫妻に預けるのがいいと思うのだが――あの子供のことを思い出せば、もしや縮こまらず日常生活を送れるよう、わざと俺のような独身のつまらなそうな男を選んだのだろうか。

 そういえば兄弟がたびたびこの実家に訪れることも話してはいるが――

 

「荷物、広げて来ましたが、あの本棚使ってもいいんですか?」

 

 背後から現れた少年は首を傾げた。あまりの早さに驚きながらも、そう大きな荷物でもなかったなと思い出す。

 

「ああ、ここにある物は好きに使ってくれ」

 

「有難うございます」

 

 言った後、少年の頭が少しだけ動いた。まるで日本人が頭を下げるように。俺は不審に思いながらも「気にするな」と言う。少年は曖昧に右目を眇め、口元を一切動かさない苦笑を体現した。

 

「本はよく読むのか?」

 

「ええ、まあ」

 

 五歳にして大層な御趣味だ、と思いながらも俺は無表情に努めた。こんな性格をした少年がまさかディック・ブルーナを愛読している筈もあるまい。勿論それが普通ではあるのだが。

 

「最近は何を読んだ?」

 

「時計じかけのオレンジを」

 

 俺は聞いたことを酷く悔やんだ。そんな本を読むようだったら大人に気を使える精神年齢になっていろ、グズ、と内心少年に罵声の嵐を浴びせ始めた。口外出来ないような罵声やスラングを俺はよく好んで頭の中で使うが、少年はタイトルになんてことはないという顔をしているので更にそれは激化した。

 しかし、好きなだけ脳内で罵声を浴びせた後には、読んだものを正直に答える誠実で純粋な性格になろうという努力があるのかもしれない、と少しだけ気使いの気持ちを持った。

 

「……他には?」

 

「サリンジャーの僕は狂ってる(、、、、、、)、を偶然兄の友人から頂いて読みました」

 

ライ麦畑でつかまえて(、、、、、、、、、、)、だ。次からはそのタイトルを一番に口にした方が賢明だよ」

 

 顔を手で覆い頭をふると、少年は「そうですね」とやや申し訳なさそうに答えた。ああ、そうだ。とは流石に俺も返せなかった。

 一人アーサーだけがきょとんとしているのを見て、この男はマグルが好きなくせにマグルについて何も知らないとぼんやり思った。確かに、魔法使いからすればつまらない小説かもしれないが。

 俺はアーサーに苦笑いを寄こし、少年に自身が持っている本を貸すことを少しだけ算段に入れた。

 

 

 

「ロータス、グレート・ギャツビーとユリシーズ、どっちを読みたい?」

 

「ユリシーズは、少年に薦める本ではないような気がしますが……」

 

 内容を知っているなら、結局同じじゃないかとは、優しい俺は言わないことにした。そして俺は、そんな少年の父親にも何も言わないことにした。(そういやユリシーズの妻の名前は“モリー”だったか)

 

 



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Chapter4
11話


 

 何年か一緒にいて、奴のことが分かってきた。最初こそ俺はあの子供のことを、ある特定の我々では理解しえない所に立つ他者から遮断された人間だと思っていたが、彼は知れば知るほど人間らしく、加えて憐れだ。

 彼はリアリズムでシニシズムをわざわざ自分の意思で選択している。方法的懐疑に近い方法をとり得るそれに、物事を批判的に見ているばかりではないと感心したのは最近だ。昨今に溢れる浅薄な考えを用いる人間とは違うようだ。俺は特別な何者でもないが、批判するだけで実のない人間というのが得意ではない。自分がもしそうなっているのだとしても、他人は客観的に判断するよりないのでそう思うのだ。

 そして彼は自称エゴイストだ。傲慢で行動には必ず利益を求める。自らとまったく関係のないところで善行を詰んだとして、それは信じてもいない天国へ近づくためだと言う。間違ってもキリシタンではないと笑う。

 レイシストでもある。彼は魔法使いとマグルが同等の肉体器官と才能を持つことは認めているが、生育環境と排他的文化によって可能と不可能の差異が浮き彫りになっていると述べる。どちらかと言うと、差別と言うより区別。discriminationよりclassification。馬鹿にすることはない、ただ「違う」と事実を並べる。

 オプチミズムに憧れるペシミストだと豪語する。ショーペンハウエルにはかねがね同意すべきところも多いが、頷くにはいまいちだと唸る。ニーチェは天才だと言うがやはり同意は出来ないと言う。

 こんなところだろうか、ロータスという少年の人間性は。こんなに醜く酷いのに、彼は未だ少年だ。

 彼は長く時間を共にすればするほど、イメージが外見から離れていく。彼のことを思い出そうとすれば存在もしない青年がぼんやりと浮かぶ。笑わないし、怒りもしない青年。無表情に近い諦観を此方に向ける青年。瞳だけははっきりとしていて、想像の青年と目が合うと居もしないのに時折ぞっとする。蜃気楼のように現れ、存在はしないのに見えるのだ。

 しかし目の前の少年は、時々おかしそうに声をあげて笑う。その時俺はほっと安堵を覚えるのだ。悲しいかな、俺はそのとき罪悪感に見舞われる。謙虚な嘔吐感と尊大な倦怠感。これもあの、少年のせいだ。

 だが、誤解のないように言っておく。俺はあの少年のことが嫌いではない。彼と討論していると学問を志す青少年のようになってしまう青臭い気恥ずかしさは置いておく。好きという実直な感想も持ちはしないが、間違っても目の敵にしているわけではない。もしそうだったとしたら、俺は奴をこの家に何年も住まわせない。奴は呼吸さえも物静かにこの家に住みつき、本のページを捲る音だけを部屋に轟かす。静かなのに、存在が浮き彫りになるのだ。嫌いだったら、同じ空間にいることすら無理だ。

 食事はマナー通り、寝る時間は深夜帯、起きる時間は老人のよう、喋る言葉はクイーンズイングリッシュ。変な人間だ。矛盾の土台の上に存在を置くような、露骨でいて尚靄がかかっている。

 

 そして奴は、嘘つきだ。

 

 当初アーサーから聞いたような理由でこの場にいるのではないことぐらい、数か月で分かった。あの少年は、マグルなんかより魔法を欲している。マグルの社会的活動を当たり前に消費し、魔法について研究しがいがあると息巻く学者のように紐解いていく。それでも「魔法を使えない人間と魔法使いの橋渡しを~」なんて嘯く。

 笑顔で。整った顔立ちで。毒を吐くように。これこそ謙虚な嘔吐感を甚大にする。

 だから俺は、教えてやった。笑顔で、親切に。憐れみかけるように。

 

「なあロータス、マグルの世界にある魔法使いが使う酒場について、知っているか?」

 

「……なんですか? それ」

 

 ソファに腰掛け、読んでいた本から顔をあげた奴は首を傾げた。俺は薄く笑った。

 

「マグルの世界にあるからこそ、魔法を探知出来ないようにしてある空間がばれないっていう、そういう空間だよ。魔法が満ち溢れる空間で、一切魔法がないのはおかしいが、マグルの世界だったら話は違う。元々臭いの類が曖昧になる呪われた土地でもある。政府に隠れて魔法で連絡を取りたい奴やら、禁断の魔法やらが使われている格安スペースだ。合言葉と金があったら誰でも使うことが出来る」

 

「はあ」

 

 だからなんだとでも言いたげに奴は頷いた。俺はそれでも薄く笑う。魔法界側の政府と繋がっている俺だが、マグル界が侵されている現状を口外しないケースもある。公然の秘密、というわけだ。まるで死喰い人の罪のよう。

 まあ、誰でも使えると言っても前科があると入れない魔法もかかっている点から言えば死喰い人より狡猾、かつ小物だ。

 

「オールドトムを頼んで、店主に「コイツはまだ女の尻を追ってるのか?」そう言えば秘密の部屋への入り口だ」

 

 俺がそう言うと、奴は胡乱げな顔つきで溜息をついた。

 

「よくそんな恥ずかしい台詞が言えるな」

 

「数回だけの我慢だ。あとは店主が顔を覚えてくれる。ロータス、行ってみたくないか?」

 

 にこり、笑うと奴は肩を竦めた。

 

「十歳に満たない俺が酒場に行けるわけがない。俺はバタービールもまだ外で飲めないんだ」

 

 イギリスでは家庭内だと5歳で飲酒が認められている。しかし16歳でやっと親同伴でパブでビールを飲むことが出来、完璧に飲酒が認められるのは18歳になってからだ。

 やれやれと言ったふうな奴に俺は「そうでもないさ」と言った。奴は再び本に視線を戻し「なにが?」と言った。奴は『長いお別れ』を読んでいて、魔法使いにとっては随分皮肉的な本だと俺は思った。マイオラノスは言う、人間の瞳の色は変えられないと。

 マグルだったら、な。

 

「俺が店主に紹介してやろう。何より、他のガキより自我の目覚めが早いお前だ、魔法省に秘密で魔法を使ってみたいだろう?」

 

「役人の台詞じゃないな」

 

 喉でくくっと笑う奴に俺は肩を竦めてポケットの煙草に手を伸ばした。そのままソファの奴の隣に座り足を組む、すると奴は嫌な顔をした。

 その本は俺が所有する本なので、ヤニ臭くなると批難はしないのだろうが。

 

「第一、俺は杖を持っていない」

 

「それくらい買ってやるさ」

 

 6から10ガリオン程度、安いもんだ。杖はそう高価なものではない。確かに学生からしたら結構な値段だろうが、社会人からしたら少し大きな買い物程度だ。電化製品を選ぶ方がよっぽど高い。

 

「お言葉には甘えさせて貰います、が……ルパート、無駄遣いは、」

 

「無駄遣いじゃないさ。未来の才能の芽に水をやってると思えばな」

 

 奴は肩を竦めて「出世払いでお願いします」と言った。俺は「勿論だ」と言い返しくつくつと笑った。ロータスは本を読み終えたのかさっさと本棚に仕舞い、今度は『詠唱魔法全集』を取り出していた。辞書より分厚いそれを読みながら口で詠唱魔法の言葉を転がす奴に、俺はもう全て中身を覚えているくせにと気味の悪い、小学生の年齢ながら飛び級を繰り返している少年を見て、煙草をくわえた。

 奴はもうすぐキーステージ4を終了しようとしている。

 

 

 





リアリズム:現実主義・シニシズム:冷笑主義・エゴイスト:利己主義・レイシスト:人種差別主義者・オプチミズム:楽天主義・ペシミスト:厭世主義

オールド・トムは甘いジンで、トムはトム・キャットのトムのこと。トム・キャットは雄猫の愛称で、女の尻を追いかけまわす男・女たらしの意味を持つ。


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12話

 

 

 学校は、面白いわけでもつまらないわけでもなかった。それはただ自分が安寧の地として選んだだけの場所だったからかもしれない。

 見た目だけは自分と同じ少年少女たちが駆け回る姿は、年月を経るごとに大人びていった。イギリスには飛び級制度がある。お前はギフテッドだタレンテッドだと喚く教師に曖昧に笑い、そんな教師が家に押し掛けて「優れた子供には優れた教育を」と強く主張する姿を嫌そうに眺める保護者を見て、それから適当に授業を受けていればいつのまにか自分と外見が離れてゆくのだ。学校に来てから二年で、既に同級生の年齢は10を超えていた。

 少年少女たちに驚かされ、過去を思い出すことはあったけれど得られるものはそうなかった。彼らと笑いあうことはあったけれど、一緒に体を使って遊ぶということはなかった。嫌われてはいなかったと思うが(そう願いたいだけだ)、そっと距離をおかれていたのだ。考えるより早く、脳で拒絶を覚えているような雰囲気だった。俺もそれを理解出来たから、無駄に彼らの領域を踏み荒らすことをしなかったつもりだ。

 つまり、自分から一定の線引きを引いていたのだ。ウィーズリー夫妻へ向けた説得がモラトリアウムによって精神の安寧を図るための虚偽であったように、俺は彼ら、子供たちを必要としていなかった。だから得られるものがなかったのだ。無関心は過去に装うより先に食い破ってしまった。だからこそ、得られるものなどなかったのだ。得ようとしなかったから。

 

 さて、学校に行き、家では保護者をしてくれているルパートという青年の本を読み、そこそこに勉強をして体を動かして、ゆっくり眠る。そんな生活を繰り返している内に自分は日本で言う高校課程を修了してしまった。天才というわけではない、事前に蓄えた知識と効率的な勉強の仕方というものを最初から知っていればまあこんなものだろう。精神は、体が子供だったので、決して大人になったというわけではないけれど。子供には大人である必要のある機会が用意されないからだ。時折、完璧に“大人”になったルパートを見ると自分が不甲斐なくなる。なんてみすぼらしい不完全な存在なのだ、と。

 

 まあそんな色々が過ぎて、数年自由の時間が出来た。魔法学校の方の入学届けが来るのは一応は定まったことだろうし(魔力の暴走というのだろうか、物体の浮遊や破損が幼少期に普通何回か起こるらしいものが、自分にも起きた。勿論ロナルドにも)なにをしようかとぼんやり考えているところだ。

 ルパートの本はすっかり読んでしまった。ルパートの父親、ヘクターはスクイブらしいが彼自身はスクイブではなく、詠唱呪文や魔法薬学の本も本棚を埋めつくさんばかりに持っていた。それも残らず読んでしまってから、ふと俺は気がついた。

 これでは異端児だ、と。

 幼少のときにあまりに膨大な知識を詰め込んだ存在は悪――周囲を歪ませる原因だ、と。

 ただの異端児であるならばいい。俺程度の人間など20も半ばになれば世間に埋もれて行くだけだろう。だが、俺は10代を魔法学校で過ごす。この気味悪く成長した少年は学校の中でも全寮制という閉鎖空間に赴かねばならない。加えてそこはロナルドやフレッドとジョージ、パーシーという家族の目がある空間だ。

 これは魔法を安全に制したいという俺の意思でもあるが、それ以上にウィーズリー家の人間がスクイブでなしに魔法学校に通わないなど許されない。それは彼らからすれば不登校と同じなのだ。例えマグルの学校に行って博士課程までとったとしても。義務の履行放棄を良しとする親が居てよいものか、そういう感覚だ。魔法学校は行くべくして行くもの。ウィーズリー一家は親マグルで純血主義ではないというが、魔法使いであろうと、特定の文化圏で特定の思考に偏るのは至極当然のことだ。既存の理論と生活環境に意思を左右される。キリスト教圏と儒教圏の基礎的な思想が異なるのと変わらない。まさかここでレヴィストロースをあげるほど魔法使いを憎んでいないし、安寧に停滞した文化は普遍からの改革を嫌うという解釈が可能だ。

 

 それから俺は、幼いときから魔法を覚えているという点で原作のセブルス・スネイプを思い出した。彼は一年のとき既に七年生より多くの魔法を覚えていたと記されていたのを記憶している。だが、大人になった彼は確かに物語の中心人物で世界の均衡を渡り歩き揺らがすキャラクターたちの一員にこそ成れども、異端にはならなかった。無意味にその能力を畏怖されることはなかった。学生のときからグリフィンドール寮の生徒に幼稚なイジメを受けていたように、恐れられはしなかった。少なくとも恐れない人間がいた。つまり、11歳のときにどれだけ優れていようと、この世界はその手の人間が10年に一度と溢れている可能性もあるし、危惧するべきことでもないと考え得るのも可能ではないだろうか。

 なにをしても特別で終わり、異端にはならない。優劣はつけども跳び抜けない。これほど素敵な事態があるだろうか。

 

 ぱらり、と俺は古書の独特の感触を指に馴染ませページを捲った。過去の、じとりと滲む汗を思い出した。あの湿気の籠った夏。偏西風の影響を受けて冷夏なイギリスは俺にとって哀愁を呼び起こしそうな道具で、俺は無視するようにそれを抑えつけた。いらない。もう郷愁にもなりはしない思いなど無駄なだけだ。記憶に縋りつくことさえ許されてはならないと知っていながらも尚もあの東の島国を思うなど、馬鹿げている。望みは俺の意思であろうと、望郷はもうロータス・ウィーズリーに許されていないのだ。

 俺は別のことを必死に考えた。

 そういえば、と閃いたように思い出した。ルパートの他の兄弟も魔法使いになろうと思えばなれたらしい。ふとそう聞いたことが頭の中で再生される。けれど、マグルの世界で育ち魔法使いの教養を持つ父親を持つ彼らは魔法使いの政治形態や人種差別・隔離政策に疑念を抱いた、と。まだ、こちらでもアパルトヘイトが法で完璧に撤廃されていないような時期ではあるが。

 彼らはそれぞれ役所の受付や銀行員、教師などになってマグルの世界にちりぢりになったらしい。ただ、末っ子のルパートだけは損な役回りを母親の実家と共に押し付けられた、という話だった。魔法は好きだと、だけれど魔法使いはあまり好きではないと言う。同意したい意見ではある。

 

「ロータス、買い物に行くぞ。ロンドンだ」

 

 永遠にロットと呼ぶ気のないらしい彼に俺は本を棚に戻して是と返事をした。

 

「ダイアゴン横町に?」

 

「ああ、お前に杖を買ってやる。初めてのプレゼントだ」

 

「クリスマスの朝、枕元にバカ高い羽ペンがあった覚えがある、ルパート」

 

「あれは必要備品をファザークリスマスがくれたまでだ」

 

 肩を竦めた彼は小さく「ファザークリスマス万歳」と言ったので、俺も小さく「万歳」と返した。恥ずかしがる様子が分かりにくい男だ、と俺は思いながら薄く笑った。ここに来てから、あまり笑っていない気がする。

 この空間がつまらないというわけではなく、俺自体がそうそう笑わないからだ。同じような歳で同じように時を過ごしてきた連中とツルんでいるときならばまだしも、俺は肉体と精神の年齢が噛み合っていない。肉体だけでも、精神だけでも感情の共有と共鳴は難しい。だから、ロータス・ウィーズリーはあまり笑わない存在なのだ。

 悲しくはない。この人生が羞恥と懺悔と絶望だけに染まっているわけではないからだ。ただ、大声で笑う回数が少ないというだけなのだ。笑いは寿命に密接な関係があるが、今更寿命をどうこう言うつもりはない。死ぬときは死ぬんだ。マグルだって、魔法使いだって。そもそも魔法使いはマグルとの存在を区別しようとしすぎている。肉体の細胞は六十兆個だし、DNAも47本目があるわけでもないのに。

 

「オリバンダーの老舗は使わない」

 

「何故?」

 

 魔法使いという主張をしない服を羽織った彼の隣で俺はトレーナーを履いた。

 

「あそこでは杖の芯にユニコーンの毛、ドラゴンの心臓の琴線、不死鳥の尾羽のどれかが使われている」

 

「……ああ。ドラゴンの心臓の琴線、嫌いなんでしたっけ?」

 

「どうしても欲しいなら入学祝いにまた買ってもらえ」

 

 ドラゴンの杖は非常に強力だが老練した魔女など強い者に殊更忠誠を誓う。つまり主人が殺されても、殺した本人にさえ忠誠を誓い得るということだ。その上気まぐれで事故が多い。そういう性質がルパートの過去にひとつの影を落としたらしいことは彼の兄姉達の口ぶりから察し得た。

 しかし言い放った彼にの言葉に俺は目もとだけで苦笑をした。一度決めた杖が変わることはそうない。俺は確かにそのときまでそう思っていた。

 事実は小説より奇なり、その言葉をこれほどまでに実感する世界もそうないだろうと思うのは、もう少し後の話になる。

 

 



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13話

 

 

 デイジー・ドッダリッジ創業のマグルのロンドンとダイアゴン横町を繋ぐパブ・漏れ鍋を潜り抜けると、そこは一種異様な格好ともとれる男女がひしめいていた。黒いロングコートや赤か緑のドレスに三角帽子だらけ。ルパートはまるでマグルを体現した服装を隠すためにコートを羽織った。俺は事前に黒い服を着ていた。しかし、それでも目立つ。いいや、嗅ぎつけるといった方が的確だろうか。どうやら純血らしい魔法使いたちはじろじろと俺を見てはルパートを見て、興味がないとでもいいたげに視線を逸らしていった。

 後味の悪い視線の残滓が肌をうろつく。

 非魔法族(マグル)と魔法族を別種族と捉えている魔法使いは少なくない。人種も魔法族も唯一性がDNA検査等の科学という暴力でお伽噺になった現代において、それは過去貴族や政党が用いたプロパガンダが修正・更新されていない名残に過ぎない。

 WASP信仰や純粋なるドイツ人然り、人種的優位を主張する活動は絶えない。その主張は高等でなく、細部が曖昧で、繰り返し聞くことによって、抽象的思考の訓練を受けていない層から世論として固定化される。これを打ち倒す最大の味方が科学であり、例えば21世紀では統計学などを証拠として民間人が比較的容易にプロパガンダを打ち破れる。しかし基本的に魔法族にとって科学は味方ではない。非魔法族の最大宗教における本尊に過ぎないのが現状だ。

 ウミイグアナとリクイグアナを比べる行為によってなにが見えてくるかを意地でも教えない宗教学校も無いことはないが、まあ佐伯暢が死ぬ数年前に英国国教会も種の起源が発行されて149年もしてから謝罪をしたことだし、21世紀前後は世界的に非魔法族が科学を生活に取り入れる流れが強いことに間違いはないだろう。……まあ俺個人の意見としては人生を豊かにするという有効性をもつ宗教は真理であるというジェームズの意見は一見に値する、とだけ。

 

 ナチが独裁した時のドイツ人然り、魔法族しかり、虐げられてきた民族が迫害の記憶から他民族を嫌悪するのは当然だ。加えてそういう過去が無くとも、今度はエスノセントリズム(自民族中心主義)が発生し得る。異なる文化に触れた時の違和感が差別や偏見を生みがちなのは、育った環境に付随する文化で常識や道徳を培うからで、例えばアフリカの部族の習慣が意味不明で無法状態に感じられる状態に他ならない。

 その時に沸き起こる感情が問題なのではない。エスノセントリズムの非寛容さは行き過ぎると受容者以外を排除する同化主義に移行することが問題なのだ。人権の土台で生きているのならば。

 

 魔法を使うマグルに反感を覚える魔法使いが少なくないことを、財産――あらゆる魔法――の侵害として憤慨しているのだと記した書籍を読んだことがあるが、これを秘匿知識の流出と認識すれば、会社や国家の研究が外に持ち出されたという怒りを覚える層は確かに居るだろう。あんなに苦労して追及・発明したのに、と。

 しかしそういった層よりも、魔法族の大衆が覚えているのは恐怖心だろう。マグルの文化的背景を理解しない者が大衆を占めるのだから、マグルという正体不明の民族が魔法を覚えたらどうなるか分からないという思想は実に想像に容易い。

 それにマグルの文化をよく知る人物でも、「一人の非魔法族の友人と魔法を学べるのは喜ばしいことだ。しかし十億人の非魔法族の他人が魔法を知るのは非常に恐ろしいことだ」と言う人物も居る。この発言の意図は母数が増えれば増えるほど、魔法を用いた犯罪や事故の多様化・残酷化が進むのだから、無理に増やす必要はなくまだ管理がきく人数である現状を維持すべきだ、というものだ。身近な例で例えると旬ジャンルや巨大ジャンルで散見される○○にはキチガイが多い、みたいなアレだ。特例が魔法を悪用するの避けたいよね、を主張した人物の書籍で見た発言だが、こういった書籍は魔法族と非魔法族を同等に扱うことを避ける世論もあってわりと稀だ。

 

 まあ、そういうものが周囲からの嫌悪の視線の正体だ。漏れ鍋の存在を知らないとマグルは確かに存在するパブを見つけることも出来ない、つまりマグルなのに魔法の存在を知っているという時点で彼らにとって充分不快なのである。

 俺は視線にうんざりしながらルパートの顔を窺った。ルパートはいつものように眉ひとつ動かさずただ前を見据えていた。数年で、この男は元々無表情だった顔の状況を更に深刻化させた。笑みを形作ることは出来るのに、楽しい時に破顔出来なくなってしまったのだ。HSBCに勤める銀行員の長男もそう言うのだから間違いない。

 教師である彼の姉はひっそりと俺に「ロータス、あなたたち兄弟みたいね」と笑った。皮肉的だと肩を竦めれば彼女は真面目な顔をして「あら、ほんとよ?」と言う。「アナタたちは数年前よりずっと似ているわ。ルパートは昔心を閉ざしてしまったのだけど、その時より顔がカチコチなのよ」と。

 どういうことかしら? というブラックジョークに久しぶりで少し笑ってしまうと、彼女は笑顔の方が可愛いわと頭を撫でてくれた。彼女はこの前二人目の子供がお腹に出来たばかりだという。

 役所の受付をしている二男が言う、「一人暮らしをしていたときより無表情になってるなんてどういうことだ!?」彼はいつもケラケラ笑って土産に安いワインとハムやチーズ、夕食の材料を買ってくるので夕食後は口が軽い。(彼はここから100キロも離れた所に住んでいるので来たときは泊まりが確定している。そして彼は兄弟の中で特別魔法を好かない)

 自立し、もう三十路に足どころか腰まで突っ込んでいる彼の兄姉たちがこの家に来る頻度は、少し異常だ。俺がこの家に居候する前から頻度を崩していないというのだから更に。長男はHSBCに勤めていて暇なわけがないし、教師だって休みがそうないのは自明の理で、彼女には家族まで居る(長女だけは移動に関する魔法を使用してはいるが)。それから100キロ離れたところから三カ月に一回は来るというのも骨が折れる作業だ。それでも誰も、文句は言わない。ルパートが切望するから訪れるのではないのは見ていてすぐ分かる。彼らが望んでいるのだ。

 多分、罪滅ぼしなのだ。自分のやりたいことを見つけてそれぞれ方々に散った自分たちが末の弟に“魔法”という厄介な存在を押しつけてしまったという過去についての。現在についての。

 

 しかしまあ、第三者としては取り越し苦労だと思わないでもない。二男のもってきたワインで口が軽くなっているルパートがこぼした「別に、魔法が嫌いなわけじゃないけどな」という言葉を覚えている。「やりたいこともなかった。元々何かに真剣になれるタイプじゃない。漠然とした目標を支えに生きるより、決まった道の方が断然楽だったさ」安酒が回ったのか穏やかに目を細めるルパートの言葉に知らないふりをして、俺は吐息も頬も赤ワインの彼をベッドへと急かしたてた。兄貴たちは馬鹿だよな、目頭に皺をつくる彼に俺は言ってやった。「それを言ってやらないお前も馬鹿さ」と。

 

 ぼんやり過去のことを思い出していると、彼の知り得るオリバンダー杖店以外の杖店に辿りついたようだ。大きくも小さくもない木看板に『Wand Wanda』と彫られていた。ワンド・ワンダ。日本語に訳するならワンダの杖、といったところだろうか。その場合英訳するとWanda's Wandになるわけだが。

 俺は作中では出てきた杖店を思い出して、皆あそこで買っているようだから(キャラクターは全てあそこで買っていたような気がする)杖専門店では食っていけないだろうと考えた。それはまったく寡占だが、魔法使いには寡占という概念が基本的にない。そもそも資本主義でもない気がする。資本家が労働者の労働力という商品を買い、労働者がそれを上回る商品を作り、余剰価値を利潤をとするのが資本主義であるとすれば、基本的に魔法族の市場は伝統か職人が多くの割合を占めている。しかしマグルの価値観や商品も輸入されているのは間違いないので、そればかりではないのだが多数派には属さない。しかし大衆が結果主義より動機主義の経済は、まあ、資本主義ではないだろう。

 

「ロータス」

 

 行きかう人々を視界の端に収めながら歩いているとルパートが腰をかがめて手で壁をつくってひそりと声をあげた。

 ルパートは店に入る前に小声でこの店の情報をくれた。Wandとあるが今は杖専門店ではないこと、Wandaというのは店主の初恋の人であり妻である女の名前であること、その夫人は十数年前に亡くなったこと。

 俺が適当に頷くとルパートは本当に分かっているのか、というように左目を眇めた。俺は左肩だけを竦めてみせた。

 店に入ると、ベルの音がからんとなった。それに伴って店内の人間が此方を見る。それは文房具を眺める兄弟らしい少年少女と、窪んだ淵に青色の目を嵌めた骸骨のように細く白い老成した男だけだった。ぎょろぎょろした目が此方を捉えた。

 

「ルパート。ヘクターのところの末息子だな」

 

 随分しわがれた声だった。しかし小さなわけではなく、この店全体に円満に響いていた。

 

「ああ、そうだ。スクイブでありながら魔法大臣までしたバカの末息子だ」

 

 俺は初めて聞いた事実に驚きながらも外面的にはまたたきを幾度かするだけだった。どこかでルパートという精神的にはそう年の離れていない存在にみっともないところを見られるのは嫌だという幼稚な考えが、少なからずあった。俺そこで、俺が安心してルパートの家に自分が住んでいることを自覚した。俺自身は“大人しい”とは言われるが“大人”ではないのだ。

 そう考えると少し肩の荷が――それが具体的になんなのか分からないが――下りた気がした。

 勿論、ウィーズリー家が悪だとか、気分が悪くなるとかは言わない。第二の故郷のような心情であるし、あそこに夏休みや冬休みに帰るとほっとするのも確かだ。俺はウィーズリー家の血縁者には深く感謝している。

 ただ、フレッドを見ると時折吐き気がする。彼にではなく、自分にだ。人非人だと指差されてもいい、俺は彼を助ける気はないのだ。今から詫びる方法を考えている俺にはきっと救えやしない。彼を救ったときに他の誰かが換わりに死んだら、どうやって詫びればいいのかなんて言い訳している自分には。

 俺は、フレッドの方にはあまり辛辣な口を利かないことにジョージが不満に思っていることを知っているけれど。

 だって、もし、フレッドを助けたとする。それでもしネビルが死んだら、お前はどうする?

 それ以前の話で、シリウス・ブラックを助けて“最も忌むべき魔法”に対抗する精神が出来あがらなかったハリー・ポッターをつくってしまったら、お前はどうする?

 嗚呼、なんて世迷いごと。繰り言ばかりを吐いて、読者はきっとうんざりしているだろう。最も、俺が主人公なんかの小説があったら俺はきっとツマラナイと言ってその本を捨ててしまうだろうけれど。ああ、もっと、自虐に辿りつかない生き方をしていた、考え方をしていた頃があったはずだ。前は、前はもっと――

 どうして俺はこうなったのだろう。

 

「ルパート、知り合いか?」

 

 こきり、首を傾げて世間話をしていた2人に声を掛けた。ルパートは頷いた。

 

「父親の友人だ」

 

「アイツと友人なんて冗談じゃない」

 

「だ、そうだ。父親の友人改め知人で、俺の持っている杖もここで買った」

 

 一年に数回しか使われない杖を思い出してへえ、というふうに頷くと「興味がないなら聞くな」と言われた。俺が苦笑すると彼も苦笑した。そんな俺たちをしげしげと観察していた店主はカウンターから出て来て「杖を見るなら別室だ」と歩きだした。

 俺はその背を追いながらハリー・ポッターが杖を選ぶシーンを思い出した。確かに、破壊されるなら一振りで直せるとは言っても物が少ない部屋の方がいいだろう。

 ついて行った部屋は、先程の雑貨と見本の杖が飾られていた所とは異世界のように薄暗かった。カビの匂いはしないが妙なシミがあり、遠くの喧騒を聞いているだけでここはノクターン横町ではないかとさえ思った。

 

「ユグドラシルにユニコーンのたてがみ、30センチ」

 

 言われて手を差し出すと、しっかりと持たされた。「振るんだ」ルパートに耳打ちされ振ると、その杖が入っていた箱にヒビが入るだけだった。店主はさも当たり前のように杖をヒビの入った箱に納め別の杖を取り出した。

 

「ユグドラシルは、トネリコ?」

 

 他の杖をふりながらルパートにそう聞くと店主の方が「そうだ。だが違う」と言った。(ちなみにこの杖は杖自身が勝手に一回転した)

 

「ユグドラシルは希少な世界樹として認められているが、トネリコは確かにその形をとっていても普遍的だ。あれはただの落葉樹。名前が違えば力も違う。呼ばれ方が違えば持つ力も違う。日本で言うところの“コトダマ”だ」

 

 店主は一回転した杖(箱に柳と書いてあった)をしまうと「ふむ、日本か」と呟いて再び他の箱を取り出した。

 

「ユグドラシルは好きか?」

 

「人並みに」

 

「ふん、お前はワシが見た中で一番つまらんガキだ。ユグドラシルに白鯨の髭、27センチ」

 

 肩を竦めながら杖を振ると先程の箱にはいったヒビが直った。その箱の周りには半透明のオーブのようなものが浮いていたが、いつの間にか消えた。しかし店主は「中途半端」と言って箱にしまった。それから何本も変えたが杖が決まることはなかった。ルパートは「難儀な性格だな、ロータス」と言って壁に凭れかかった。店主も時間が経つにつれて顔を顰める。

 何十本も試している内に、店主が幾つか同じ杖を差し出していることに気付いた。痴呆か、という言葉は口にしないでおいた。余計なことは言わないに限る。それに大なり小なり先程とは違う反応を見せるものばかりだ。柳の一回転した杖は、今度は部屋の窓を叩き割った。ユグドラシルに白鯨の髭も今度はオーブではなく人型に近い気がした。

 その内店主が大きな溜息をついてルパートに言った。

 

「お前のガキは難儀な性格どころか難儀な体質だぞ、ルパート」

 

「俺の子じゃない。それで、なんだって?」

 

「体の中の魔力が変動する体質だ。魔力の量は一定だが質が変わっとる。時間による変化は微弱だが、柳は振り易いからこそソレが顕著だ」

 

 ルパートは眉を顰めて「つまり?」と言った。

 

「もし自分にピッタリあった杖を御所望なら、数年に一度杖の買い替えが必要だ」

 

「それは、魔法の習い始めの内は上手くいかなくてもそこそこ上達すればどの杖でも適当にふれると、いうこと?」

 

 二人の間に割って入れば店主は嫌な顔はせず小さく頷いた。だが多分、習い始めの内は自分が思った効果と発揮される効果に差があるから上手くはいかないだろう。

 どの杖でもそこそこ使えるというのはそう珍しいことではない。そんな内容が以前読んだ文献にもあったし、作中でも他人の杖を使うシーンは七巻でよくあった。ロナルドだって7年でよく杖を変えていた。

 

「学校に入る前に買っておくのは進めんが。どうせ入学してから習うんだ。その時には杖に魔力が合わなくなっとる。つまり最初の授業で物を浮かせるのにクラスで最も苦労するだろう」

 

 「どの学校でも最初はウィンガーディアムレビオーサから始めるんだ」説明したルパートに頷くとルパートはまた聞いているのかとでも言いたげに左目を眇め、それから店主と向き直った。

 感情表現はしているつもりだが、やはり人に伝わりにくい。元来の自分の性質を憎むばかりだ。

 

「今使うんだ、今あう杖をくれ」

 

 イタズラっぽく笑ったルパートに店主は一瞬驚いたが独り言のように「あそこか」と言って溜息とも鼻で笑っているともとれる息をついた。

 

「入学前にまた買え。これだけは譲らん。ガキのときに買った靴は、成人してからも踵を潰せば履けるだろうがそんなものは醜くてかなわん。それから、そのとき柳は買わんほうがいい」

 

 そう言った店主は箱を重ねて元の場所に戻していった。最後に残った箱にはユグドラシルと書かれていた。

 

「ユグドラシルに白鯨の髭、27センチ。これが今一番あっとる」

 

 中身を渡されルパートを見ると、彼はバッグから取り出した杖を入れる皮の袋を俺に渡した。それに杖をいれてから「ありがとう」と店主に言うと、「杖選びに時間を食ったのは久しぶりだ」と少々嬉しそうに言った。

 

「15ガリオン」

 

「割高だな」

 

「ふん、適正価格だ」

 

 笑ってジャラリとなる袋を手渡したルパートに、中身を確認した店主は「結構」と言ってポケットにそれをいれた。ルパートは「買ったことをアーサーに伝えようと思ったが、この際入学前にまた買ってやる。これの分は黙っとけ」と言って、我々はその薄暗い部屋を出た。

 部屋を出るとやはりそこはダイアゴン横町の明るさを持っていた。店の棚に並ぶ商品を目で追っていると背後でルパートがインク瓶に長い羊皮紙(パーチメント)とベラムを買っていた。ベラムを見て本でも書くのか? と言えばいい笑顔で頭を鷲掴みにされた。

 店を出るときに店主に声をかけられる。

 

「お前らはここからどこに行く?」

 

「酒場、オールドトムだ」

 

 もう分かっているような顔で聞いた店主に、にっとルパートは笑った(彼も笑顔の表情は出来るんだけどもなあ)。店主は鼻で笑って「お前は公務員をやめちまえ」と言って我々に背を向けた。ルパートは「なに、やましいことがないか調査だよ」と喉を鳴らし、我々はその場を後にした。ポケットに入った杖が、少しだけ邪魔で歩きにくかった。

 

 

 



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14話

 

 ルパートと街中を移動中、杖の話をした。もし俺がこれから行くところで杖をふるのに慣れてしまえば、別に新しい杖は要らないんじゃないかと問えば、魔力が変質するとなれば、使っていくうちに杖の魔力に自分の魔力を同調させることが出来ないから、買ってから暫くすれば振るたびに違和感が生まれてストレスだろうと返される。何も知らない今ならまだいいが、魔法を使うことに慣れてくると、数か月ごとにどんどん杖が自分から離れていくのは恐ろしいだろう、と。

 かの有名なロウェナ・レイブンクローもその体質の一人だったという。だからこそ、知っているらしい。

 そんなことをルパートの家にある文献で読んだことはなく、その旨を伝えればそれらの情報は確かな人からの口伝えで、魔法使いたちの間で語り継がれることらしい。イギリス経験論とはよく言ったものだ、確かに彼らは先人の教えを大切にしているらしい。

 だが、レシピのように舌で味わって確認するならまだしも、正確性に欠けると思わないのだろうか。

 

「ホグワーツの創始者たちは自分たちが文字として残されることを嫌ったからな。時代的に古いのもあるが、特定の伝承・発見は本にされずに血族なんかに言葉で継がれている。それにペンより杖の方が強い」

 

 エドワードの『The pen is mightier than the sword』にかけた彼は一人で小さく笑った。別にそんなに面白くない。

 

「我々には正確性に欠ける事実を残されているわけか」

 

「それでいいと思っているのさ。いざとなればゴーストが居る。加えて正確すぎるのは逆に危険だという思想の持ち主も大勢居る。だからマルクス主義を持ちこんできそうなマグルはダイキライなのさ」

 

「ふうん、プロレタリア革命を嫌いながらもヨーロッパ諸国のように労働体系を改善する気持ちが見られないならそれも仕方がない。ベルンシュタインが泣いてるな」

 

「必要がないとも言えるけどな。全魔法使いがこの状況に満足しているなら変革の必要はない。俺はそう思う。誰も困っていないのだから。……そうだロータス、お前が書けばいいんじゃないか? 魔法使いの常識を本に」

 

「もしなにかの偶然でマグルに渡ったら暗殺されまいか」

 

「どうだろう」

 

 声を小さく、周りを憚りながらする会話の距離は近かったが中々スリリングで楽しいとも言えた。大衆のただなかで大衆を否定する、それは一歩間違えれば恐ろしく踏み外さなければスリルという娯楽になるし、息巻く青少年のように偏った熱情が馬鹿馬鹿しい。スリルに高揚するのは知恵の実の弊害か。怖いけど、やってみたい。人間はバカだと思う。俺も、大統領も、ソクラテスも。無知の知とはよく言ったものだ。或いは前生に重ねた悪の報いを覚えた悪人正機か。

 

「そういえば、言ってなかったな。オールドトムの店主はトムというんだ」

 

「英国はトムだらけだな」

 

 肩を竦めればルパートはペンで直線でも引いたような薄い笑みを見せた。

 

「そうかもな。俺の祖父はどちらもトムだし」

 

「本気で言ってるか?」

 

「まさか。爺さんの名前はジョンとデイビットだ」

 

「ありきたりだ」

 

「登場人物がトムだらけだと困るだろ」

 

 口端を持ち上げて笑うとルパートは「名前なんてありきたりでいいんだ。特殊である必要はない」と言った。成程、21世紀を日本で10年ばかし過ごしたが新たな子供たちの親が討論しそうな話だ。この手の物議然り、通信の快適性による情報の速度は、民衆を異様な猜疑に陥れる。便利は人類を変化させ、それは成長とも堕落とも称される。あるべき人間の姿など誰も知らないというのに。

 まあどうせ、少なくとも佐伯暢の祖国はいつかプレートに引っ張られて無くなってしまう。人も星も、いつかは必ず燃え尽きる。消滅するのは悲しいことではないし、この地球に生まれたならばことわりに従うべきだ。

 もし恐怖を感じるなら、先人の言葉を借りてこう伝えたい「死を恐れる必要はない。なぜなら死によって感覚を失い無になるからだ」エピクロス。納得できないと言うのならば価値観の相違だ、俺と議論するより時間が解決するのを待ってみるといいだろう。その内タイムオーバーだ。

 しかしまあ、感情において片鱗は見せてもまだ起こってもいないことを問題に取り上げるのは徒労ばかりが嵩むことだ。俺は面倒な思考に区切りをつけた。(俺自身が面倒だということはあまり考えないでおこう。そもそもそれは昔からだ)

 俺たちはポートキーを使って移動をし、マグルの路地に出ながらも与太話を挟みつつ暗い路地裏をひたすらに歩いた。

 

「ロータス、ここだ」

 

 立ち止ったそこは人通りが少ない。薄暗く、乾いた風が嫌に薄気味悪かった。趣味の悪い木看板に掠れてきた字で『オールドトム』と彫られていた。扉の近くには猫の置物があり、やけに精巧で気味が悪い。

 

「今度もルパートの父親の知り合いか?」

 

「まあ、そうだな。ちなみにここのトムは漏れ鍋のトムと友人だが、どっちも否定してる」

 

 歳をとると友人はどんどん減っていくらしいな、先程のワンド・ワンダの店主も含めるようにルパートは言ってまた歩き始めた。俺もその背を追う。

 扉を開けるとふたつのベルが重苦しく音を立てた。それにしては小さな音だった。店内は薄暗い。コンセプトが明るくハッピーなパブでは無いので当たり前の話なのだが。(大衆居酒屋に友人とよく行っていた身としては少し息苦しい雰囲気だ。それもまあ、何年前の話か)

 俺は自分が、少しだけ途方に暮れていることに気付いた。

 

「トム、まだ生きてるか?」

 

「……ルパートか? 親父より傲慢な面構えになってきたじゃないか」

 

 ふん、と鼻で笑った店主の顔はいかにも、といった感じだった。小悪をこまごまと働いていそうな、黄色い歯を出してにやにや笑う年寄り。ルパートの知り合いには世間的な意味でのいい奴はいないのか、と俺は呆れた顔で彼を見た。

 

「トム、オールドトムを一杯ひっかけたい」

 

 ルパートの言葉に、先程まで再開を喜んでいたふうだった店主はじろりと睨むように、疑うようにルパートを眺めた。それから俺の姿を見ると、奇妙な生き物でも見るような顔をしてからルパートに向けたような視線をくれた。

 

「ルパート、お前がか?」

 

「いや、こいつがだ。ロータス、預かってるガキだ。出された酒は俺が飲む。おっと、定番の文句は言った方がいいか?」

 

「いや、お前なら必要ないが…………そのガキがか?」

 

「杖でも見せた方がいいか?」

 

 小さく笑ったルパートに店主は目を細め、その視線を俺にやった。「お前が使うのか?」明らかに俺に向けて言った言葉に俺もルパートのように小さく笑って頷いた。

 

「That is right.」

 

 店主は卵を飲み込んだ顔をして、渋々といったふうにカウンターに居たもう一人の男性を此方に向かわせた。その男も訝しげな顔つきをしていたので、にっこりと笑ってやればもっと訝しげな顔をした。ルパートは呆れたような顔をした。

 

「ルパート、アナタが魔法をあまり使わないのは有名?」

 

「別にそうでもない。そもそも俺自体が有名じゃないし、知っているのは知人くらいだ。魔法界にいるが魔法を使わないのは目立つんだろう、勝手に相手が覚えている」

 

 あい すぃ、と英語を平仮名にしたようにぼんやり返すと再び呆れた顔をされた。この男は呆れた顔をするのが趣味なのではないだろうかと時々思うが、言ったところできっと否定されて「お前がそうさせているんだ」と言われるのは目に見えている。俺はもう一度「I see」と零した。

 

「ここだ。あとは勝手にやってくれ」

 

 扉を前にして案内役をかってくれた男はさっさと踵を返した。俺がルパートを見るとルパートは目を合わせてから直線をひいたような笑いをした。

 

「杖の振り方から教えてやろうか? ロータス。どれだけ呪文を知っていようと、知っているだけじゃ使えない」

 

「ご指導よろしくお願いします、先生」

 

 プロフェッサー、ハリー・ポッターが校長等を呼んでいたように呼び、恭しく頭を下げると「まかせたまえ」とルパートも調子に乗った。俺たちは小さく下手くそに笑う顔をして扉に足を踏み入れた。

 そういえば、なんだか気付かないうちにルパートとは仲がよくなっているらしい。俺はその事実にようやく気付いた。これではあまりにも魯鈍だと笑われてしまうかもしれない、と薄ぼけた過去の友人たちをぼんやり思いだした。

 過去はすこし、かなしい。

 

 



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15話

 

 

 オールドトムに幾度も通うようになってから、一度目の夏休みが過ぎた。長期休暇でウィーズリー家に帰るのは恒例だが、就学を終えているのに此方に居る意味があるのかと金の問題だのをあげて心中の誰かが責め立てた。必要はないだろう、だが俺自身本を読み魔法についての意義や構想を練るのは楽しいという意味だったら存在した。あと数年、心の平穏のためにモラトリアム人間の名称に縋るウィーズリー家の白アリになる逃避を選択したのである。

 

 ウィーズリー家から直接ルパートの家へは行けないため(防壁魔法云々が関係してくるしい)、居住を共にし始めた年にルパートから貰ったポートキーであるアンバディ家の鍵でロンドンの某所に出、ルパートに公衆電話で帰る旨を伝えたのは昼過ぎの話だ。バスで家の近くまで揺られる途中で見る繁雑とした人の流れにどこかほっとする。魔法界は陰気で人気がない。総人口が少ないのもあるが、市場や施設以外は魔法で移動してしまうので外を歩きまわる人々を見る機会は殆どないのだ。

 だが、彼らのあの瞳。ふと霧雨に落ちる十年前の災禍による不幸が落とされた色が、嫌でも目に入る。

 魔法界の暗く湿った雰囲気は胸の内まで染み込んでどこか自分が沈殿していくように感じられる。ずぶずぶと、ぬかるんだ泥に。口腔に耳孔に鼻孔に眼窩に泥が入り込んでいくイメージに耳の奥がキーンとする。そのまま体中の穴から泥が入り込み、脳が粘着質な泥に押し潰されようというとき、はっとした。目を見開くと斜陽が眼球に飛び込んできて網膜が視界に妙なシミを滲ませる。人々が揺れるバスの中で話す姿は、なんの暗さも見えずやや楽観的な空気に苛立ちを覚えるほどだ。

 自責の念にかられるのは被害妄想と同じであまり好きではない。しかもまだ起こり得ていない話を持ち出すのは安易な徒労だ。丁度止まったバスの停留所が目的地だったために慌てて降りて、ウィーズリー家に向かう際に通った道を逆流した。人々の顔は太陽の光を受けてか溌剌としている。俺はそれを真似るように一人笑って見せた。隣で笑う人間は一人としていなかった。

 

 

 

 

 

「ルパート」

 

 いつ見ても気味の悪いほど巨大な家のその門をくぐり、リビングに足を踏み入れるとソファにうつ伏せになってリストのマゼッパを聞くルパートが目に入った。よくこれを聞きながら寝る気になれるなと俺はそっと彼に呆れた。(しかも魔法でなんの変哲もない懐中時計に音楽を鳴らさせていることに更に呆れた)

 

「ん……ロータス、お前か」

 

 遅かったな、などと洩らしながら目頭を押さえて起き上がった彼に俺は肩を竦めた。

 

「少し寄り道していた」

 

 眠る前まで楽しんでいたのか、とっくに冷めた紅茶をたたえたウエッジウッドのティーカップの乗ったテーブルを一瞥してから俺は紙袋を彼に差しだした。土産のつもりで買ったがそういえばイギリスには日本のようなばらまき土産の習慣が無いのを失念していた。

 

「……ベノアか?」

 

「ああ、ダージリンだ。やるよ」

 

 お前の趣味だろこれはとでも言いたげな視線を受け取って肩を竦めたまま首を傾げおどけて見せた。すると彼は鼻で笑って肩を竦めた。皮肉めいた表情は年月を重ねるごとに特有の悲壮と重厚さが皺になり彼の魂に刻まれていく。そのくせ隣で同じ年月を過ごしているはずの自分はなんの変化もない。それどころか“ロータス・ウィーズリーという人格”に年々近付く自分に恐怖さえ覚えた。自分に、それが良いか悪いか判断できるはずもないのだ。佐伯暢の意識がある限り。

 冷たく血走った瞳を瞼に隠し、震える手を握り込むと、遠くでこんこんとノックのような音が聞こえて微かに瞳を開けた。音の正体をたぐれば、窓辺にフクロウが一匹居た。見覚えのあるフクロウに一瞬眉を顰めたが、それがすぐアーサー・ウィーズリーのものだと気付いて小さく「あっ」と声を零した。そんなときには懐中時計の音楽はバッハのトッカータとフーガに変わっていた。

 

「ルパート」

 

 窓辺のフクロウを指差すと彼は俺の指を追い、その先のフクロウを見つけて一瞬眉を顰めた。彼の家にフクロウが来ることは少ない。魔法使いはマグルの居住区にフクロウ便を送ることに慎重だ。魔法で家そのものを廃墟に見せている輩は兎も角、この家は代々土地に堂々と根差している。フクロウ便は魔法の秘匿に関するし、マグルの居住区に手紙を送る際、郵便局を介することが通常だ。今までアーサーは郵便局を介した手紙や電話、或いは職場でルパートと連絡をとっていた。

 となれば、形式を重んじた冠婚葬祭の報告や謝罪、感謝の手紙の類だろうかと判断をつける。

 

「アーサーのフクロウじゃないか?」

 

「おそらく」

 

 頷くと彼は立ち上がって懐中時計を閉じ音楽を止めた。それからフクロウを入れてやり、足に銜えた手紙を受け取った。フクロウを返した彼は手紙をペーパーナイフで開け立ったまま読み始めた。中身が気になるわけでもないので、俺はそのまま自分に託された部屋に戻り手荷物を整理した。

 部屋はいやに小奇麗で週一で来る家政婦がここまで掃除をしてくれたのだと知って少しだけ眉根に皺を寄せた。人にプライベートを見せるのはあまり好ましく思わない。やましいものなどありはしないがどうも日常生活が滲み出る私室を見られるのは羞恥心を覚えるからだ。だからいつも家政婦には俺とルパートの部屋以外の掃除をお願いしているのだが(彼の部屋には魔法に関する物が多すぎる)、長期で部屋を空けた時ばかりは仕方がないと小さな溜息をついた。

 

 リビングに戻ると懐中時計は未だ閉じたままであり、ルパートがソファに座って愉快そうに笑みを含んでいた。俺を心待ちにしていたように立ち上がり、「ロータス」と俺の名前を呼んだ。いささか不気味で睨むように彼を見詰めると彼はまた「ロータス」と俺の名前を呼んだ。俺はそれでやっと返事をした。

 まるで母親に自分の功績を早く話したくてうずうずしている子供のような彼に、俺はウィーズリー家の兄弟を思い出した。奔放で、無邪気で、熱心に独断の善を帯びた人格。子供。子供なのだ。

 だが、正反対の模範的で冷静で謙遜し得る人格というのが好ましいわけではない。俺を見ていれば分かるだろう。日本人の典型的な非積極性、その上被害妄想と加害妄想を一緒くたにして生きている付和随行じみた人間をはたして誰が賛同するか。

 誰もしない。誰も、しない。だから俺は俺だけに賛同し、少しずつ少しずつ大衆的な“正しさ”に近づいていかなければいけないのだと既に学んでいた。その結果を成長と呼ばなければ“いけない”のだ。俺の中の正義ではない。誰も彼もがキルケゴールになれるわけではない、特に儒教の教えが根付く地の人間は。

 

「ロータス、これを読んでみてくれないか」

 

 間違いなくアーサー・ウィーズリーからの手紙で、俺はわけが分からないとばかりにむっと唇を尖らせた。しかし彼はぐいぐいと手紙を押し付けて俺の意見など汲み取ろうとしない。よっぽどこれを俺に見てほしいのだろう。彼を軽蔑の視線で一瞥してからそれを受け取り、少し急いだような文体の文字を追った。

 

22 August, 1989

Dear Rupert

How are you getting along?

Thank you for all your kindness during my son stays in your house.

......

 

 読み進めていくうちに理解した内容はこうだ、『僕の息子が元気に笑えるようになりました、どうもありがとう』。なるほど、と俺は皮肉めいた笑みを自然と零した。確かに“ここ”に来なければ独りでになんの憚りもなく笑えるようにはならなかったかもしれない。確かに体と心の緊張の一部がほぐれたのは全ての権限を俺に放任してくれたルパートのおかげだろう。けれど、感謝の手紙を彼に送るまで彼らを悩ませていたのかと反省にも似た口惜しさが心臓を軋めた。

 気付かなかったわけではない。しかし、気付いたところでなんの足しにもならないと割り切ったつもりでいた。けれど目の当たりにすると慙愧を含む戸惑いで思考がままならなくなる。“生まれた”ときは未だ人間らしく、幼少期は表情を削ぎ落した人形くさい、では現在は? 人間らしいとでもいうのだろうか。佐伯暢でさえ優しい偽りが人間らしくないという評価に甘んじていたというのに、果たして俺が俺以外の人間に変われるのか。そんな問いさえ誰にも分からない。ドラマや小説のように「なろうと思わなければなれない」などという未来に希望を託す楽観的な意図を容易に行使出来るタイプではないのだ。或いはそれは陽光を浴びて脳内物質を生み出さなければいけない脳の物理的な病である。俺は俺という人間性を誰よりもよく知っていた。かなしいくらいに。

 

「ロータス、感想は?」

 

「……考えさせられる。不甲斐ないな」

 

 皮肉めいた顔で笑うと彼は笑みを深めて俺から手紙を取り上げた。

 

「冗談の通じないガキだな」

 

 今ぐらいガキでありたいと願ったことは過去に一度としてなかった。数秒前までのロータス・ウィーズリーとしての厚顔無恥が佐伯暢という年齢不詳の慚愧によって踏みつぶされてしまった。俺は素っ気なく「うるさい」と言った。しかし表情はなんだかおかしく笑ってしまったので奇妙な沈黙に包まれた。

 

「……そういえばロータス、お前家に帰る前に“あの部屋”で姿くらましは成功したのか?」

 

 沈黙を破るためにこしらえられたような台詞に俺は一瞬戸惑い、それから嘲笑を頬に含んだ。俺は左手を眼前に掲げてルパートに手の甲を見せつけた。

 

「……おい、小指の爪」

 

「“ばらけ”た」

 

 生々しく剥け肉を見せる爪を包帯で隠した個所を見せながら、肩を竦めて言うと彼は歪んだ笑みを隠すように手で口を覆い吐くような姿勢で体を震わせた。俺は極めて冷たい声を出した。

 

「…ルパート」

 

「いや、いやいや。笑ってなんかいないさ」

 

 震える体で言われても説得力がないとは思いつつ、俺は溜息だけにすることにした。その上で土産で買ってきた袋を手繰りよせ食器棚のティーカップの場所を思い出した。

 

「俺に買ってきたものを自分で飲むのか?」

 

「いけないか?」

 

「いや……好きにするといいさ。いつものジノリのカップでも使って」

 

「そうさせてもらう」

 

 頭の中でゴールデンルールを反芻し、俺は静かに笑みを乗せた。手紙の返事を書き始めたルパートを尻目に先程フクロウが叩いた窓を眺める。日差しが入り込んで柔らかな窓辺に、俺は小さく笑みをたたえながら影を伸ばすキッチンの奥に足を向けた。

 

 

「ロータス。左の小指、治してやろうか?」

 

「いいさ、戒めにするから。ありがとうルパート」

 





How are you getting along?
Thank you for all your kindness during my son stays in your house.
ご機嫌いかがですか。息子を滞在させてくれてありがとう。

くらいのニュアンスかと。原文が長いとルビにならないので後書きで。


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16話

 

 

 暇だ。イヤに暇だ。俺はもう十回は読んだ気もするブロンテの『嵐が丘』を熱心に読むふりをしていた。思い返せば学業も仕事もない長期の休みというのは初めてで、どう過ごせばいいのか途方にくれているのだ。体さえ自由に動かせないゼロ才児のときであれば耐えるだけだった、耐える以外選択肢がないからだ。しかし今は目論む通りに体が動く。中途半端な自由は頻繁に俺をさいなめた。一通りの娯楽は試したクチだが熱中する時間もそこそこの自分が不甲斐ない。

 ルパートとアーサーが話し合って短期の語学留学を組んでくれたりもしているのだが時期でないし、合間に挟んだボランティアもコンスタントに週2以上で予定を組むのは正直年齢・場所・内容からいって難しい。

 ――ふ、と突然。そのときに。頭の中を奇妙な着想が駆けた。俺は立ち上がって『高慢と偏見』の隣に本を戻し(Aの隣はBと相場は決まっている)、三ヶ月に一度程度送られてくる小遣いの入った財布をズボンのポケットに突っ込んだ。窓を見遣れば冷たい風がガラス板をギシギシと押していた。

 

 足早に文具店に駆け込み、買ってきたレポート用紙とボールペンを机の上に広げた。脳味噌は貯蔵量が、紙は物事の整理が勝る。覚えきれないことは文章にしてまとめておきたい。ゲームにしてもそうだった、攻略法を全て事細かにまとめて、それからもう一周。完璧に理解し記憶出来たところで最後に最速プレイを目指す。(まあネットが普及して攻略サイトが充実してからは機会も少ないが)

 これだって同じだ。魔法も、理解しようとするのであれば理論化してしまえばいい。俺個人としての型に嵌めるのは昔から得意だ。他人の理解など元より求めていない、俺が俺のためだけに論理を組み立てればいいのだ。こんな楽しいことはない。――ただ、やはり事実無根じゃ楽しくないだろう?

 俺は隠しきれない笑いに頬肉を歪めて愉快げにボールペンを滑らせた。

 

 

 

 やれ熱中すると周りが見えなくなる性質で、気がつけばとうに日は暮れていた。好きなことだからだろう。興味がある分野において知識を吟味し蓄えることは欲にさえ似ている。加えてゲームやレポートはタスクとタスクの消化が目に見えて快楽を満たしやすい。

 食事も排泄も忘れていたことに自分でも呆れて溜息をつき、リビングに向かうと自分よりももっと呆れた顔をしたルパートがいた。仕事から帰って夕飯も済ませたという風体だ。もしかして声など掛けられたのかもしれない。

 

「死んだのかと思った。何をしていたんだ?」

 

「いや、少し――暇を潰していた」

 

 潰し過ぎだ、と彼は出来の悪い子供を見下げ果てたような視線で俺を射ぬいた。言い返そうかとも思ったが口から出るのはどうせ詭弁であろうし、結局のところ彼に口で勝てたからといって得られるものなど何もないので面目なさそうに表情をかためるだけにした。

 

「腹はすいてるか? コテージパイとスープは残してある。温めれば食えないこともない」

 

「なんだってお前の作ったローストビーフよりはウマいだろうさ」

 

「文句があるなら食うな。自分でもあのパサパサ加減には呆れるがな」

 

 日曜日の1、2時に出るいつだって焼き過ぎのローストビーフを思い出しながら俺は小さく笑った。食事は十前後のガキが円滑に作れるはずもなく、基本的にルパートが作る。通年のサイクルで魔法省が立て込んでいる時期ならば、踏み台をキッチンに持ち込んで俺が朝食に豆を煮てキッパーを出し昼食にオムレツを焼き夕食にシェパーズパイを作るような生活を送るときがあるが、あまり家事をし過ぎると虐待に成りかねないと彼は言うし、まあ折り合いが合わない時はデリが普通だ。それらについて金の問題をしようにも元領主の母方の物的資産、元魔法大臣らしい父親の遺産がすべて懐に入った彼には無用な話題らしかった(兄姉たちは家を出たこともあり、魔法で稼がれた金を受け取りたくなかったらしい)。まったくもってウィーズリー姓としては羨ましい話だ。

 ――それにしても。ルパートの作るローストビーフは本当にマズイ。珍しくもティータイムをとって貧しくなった舌を慰める真似さえ二人してするのだから。

 

「それにしたって本当に何をしていたんだ? お前が時間を潰せる趣味なんて珍しい」

 

 趣味もない身分な上、本に没頭するにしても今まで時間を忘れた経験はないだろう。そう含まれた言葉に返事を考えあぐねた。冷蔵庫から彼の兄のお土産のハギスをちょろまかし、皿にパイもよそってテーブルに置く。それから冷めたスープを器に満たした。

 

「……少し、レポートというか。いや、考察と在り方をだな。あーむ、その、」

 

「落ち着け、まるでガキみたいだ。内容をまとめてから言葉にしてくれないか」

 

「まるでじゃない、俺はガキだ。――いやなに、あの“酒場の奥の部屋”でしたことについて色々書きまとめてみたんだ」

 

「それはいい。学校に行くのと同じペースで足繁く通ったんだ、収穫はあったろう?」

 

 なにを隠そうウィーズリー家からの小遣い以外にも俺に金を与えているのはこの男で、しかも使用頻度が確認できるロンドンとここらを結ぶポートキーを俺に預けたのもこの男だ。このポートキーは犯罪等を避けるため認識阻害の魔法も施されている。傲岸なパトロンのような井手達にさえ見えて来た男に俺は左右に引っ張った線のような笑みを見せ肩を竦めた。

 別に成果と言えるほどのものはない。ただ当然の事物を纏め推してはかったまでだ。

 

「まあ今はゆっくり食え。食い終わったらそのレポートを見せてくれ」

 

「楽しんでもらえればいいがな」

 

「お前自体が愉快なんだ、そこそこ楽しめるだろうさ」

 

 皮肉めいた笑みを見るたびに俺は彼が二十代であるような錯覚を起こし、呆然と絶望するのだ。もう修復は不可能なまでに彼は完璧な“大人”になり、俺もまた修復不可能なまでにやっと“子供”になった。わざわざ自分で埋めた道を眺めては、恨みがましいと思うのだから卑小な存在だ。

 俺は無理やり“むかし”みたいに笑って彼と目を合わせた。

 

「お前の存在だって愉快さ、ルパート」

 

 絡み合った瞳はまるで友人に向けるような同等のもので、俺は少しだけほっとした。涙が出るほど嬉しくてかなしい事実だった。だからこそ俺は、正負どちらも抱かせる男がいたからこそ“この世界”で矛盾と羞恥、自己嫌悪、他者からの評価をすべて胸に抱えて生きていくことが出来るような気がした。

 ロータス・バッコス・ウィーズリーの誕生だ。

 

 

 

 

「Here you are. This is it.」

 

「ユアウェルカム……………………おい」

 

「なんだ」

 

「今すぐ羊皮紙に羽根ペンで清書しろ。出版社に持っていく」

 

「落ち着けルパート。突拍子もなさ過ぎて理解できない」

 

「大発見なんかひとつもないが、これだけは認めてやる。お前の観点は天才だ。お前本当にギフテッドだったんだな」

 

「……そんなわけがあるか」

 

「いいや。魔法の概念を理解している上でこの観点だ、お前は正真正銘の天才であることを誇るべきだ。なるほど、大衆は価値観に支配されてきたし、俺もその大衆でしかなかったか。これは本当に20世紀の文章なのか? というかお前ほんとに生まれながらの魔法族か? ……それにしても、魔法薬学の調合までやってやがったのか、このガキ」

 

「は、ははっ」

 



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17話

 

 

 休日に馴染みの薬屋に向かうと、老店主が黄ばんだショーケースの向こうで本を読んでいた。然程の読書家でもなければ仕事に出ているときに熱心に本を読む人間でもないことは長年の付き合いで知っていたので怪訝に主人を見ると、男は視線とその意図に気付いたようでニヤァと黄色い歯を剥き出しにした。犬歯と犬歯が唾液を引く、その光景が薄暗いこの薬屋で見るに不衛生を醸し出して、私は眉を顰めた。

 

「そんな嫌な顔をしなさんな、スネイプの旦那よぉ」

 

 厭味ったらしい喋り方に私は顎を持ちあげ高圧的に鼻を鳴らした。すると男は何が面白いのか愉快そうに肩を揺らして笑った。くだらん、私はさっさとアスフォデルの粉末とニガヨモギを買って帰ろうとショーケースの中のソレの選別を始めた。ふむ、悪くはない。

 

「気になるかい、これが」

 

 シワだらけの骨の太さだけを残す黄ばんだ指が本に乱雑に折り目をつけ、表紙をこれ見よがしに見せつける。自慢げに振る舞う店主に私は目を細めてその本を眺めた。葡萄の海にロバ……いや、ヤギか? が溺れた表紙には『あらゆる魔法における考察・前』と書かれ、そのタイトルの下にはひっそりと『エレウテリオス・リベル』と彫られていた。

 

「エレウテリオス……ギリシャ人か?」

 

 聞いたことのない作者の名にそう聞けば店主は肩を竦めた。

 

「さあな、作者の情報なんざ書いていやがらねえ。顔も歳も性別もな」

 

 店主が本をパラパラと読む気もなく捲る。裏表紙にはニンフが見えた。成程名前からも表紙からもディオニュソス――バッコスに縁深い人物なのだろうと推察出来た。

 

「だがセンセイさんにはオススメだぜ。俺も人に勧められたがこりゃあいい、魔法族の価値観の裏切り者だ。堅苦しいのが玉に瑕だが。マグルはエンドウをかぞえたり、見えないもんを数字にするのが大好きだが、これもそうだ。だが、いやぁ、俺はコレが好きだ」

 

 ダイアゴン横町で用を潰すんなら本屋で買ってきな、と下品に笑う男に、大した厚さではないし丁度考察モノも最近読んではいないしいい機会か、とアスフォデルの粉末を匙で計りながら考えた。しかし店主に同調してやる義理もなく表面上は冷たく笑うだけに努めた。

 

「俺はフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店で買ったぞ、旦那」

 

「――――ふん」

 

 笑みを銜えた男は本を置き、さも下品に笑いながら薬草の勘定を始めた。私は目を瞑ってゆっくりと書店の、その本があるだろう一角を思い浮かべた。

 

 

 

 フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店に足を向ければその本は確かにあった。前後両方を同時に引き抜いて繁々とソレを見ていると後ろで店員らしき男が「その本はそれで最後ですよ」と言った。振り向いて人気があるのかと尋ねると「初版なんで出版部数が少ないですが、はけはいいです。出版社在庫も無いですし、追加注文出してますけど、次の重版はいつになるか分からないです」と答えてさっさと足りない本の補充に戻ってしまった。

 じっと前・後の本を見る。前編には先程見た通りヤギが葡萄に溺れており、後編ではにグラスにそそがれたワインが描かれていた。一貫して裏表紙にはニンフが居たし、よく見ると絵の一部の線がシレノスという文字を描いていた。一冊1ガリオンという良心的な値段の本を、私は試しに買うことにした。

 

 

 

 結果から言って、その本は素晴らしかった。

 観点、視点が魔法界の人間から逸しているにも関わらず、作者がマグルのような印象は受けない。魔法の基礎――と言うべきか。作者の魂における土台にしっかりと魔法というものが根付いているように思えた。魔法使いの家系に生まれなければこの境地には至れないのではないかとさえ感じた。

 先人が求めてやまないものがその本にはあり、誰もが見落としていたものを上手く拾い上げ、まとめ、完結にまで一筋の糸のように真っ直ぐ伸びていた。その裏付けは魔法族としては珍しく数学的な見地からなされている。――誰が判断しようか、『魔法は精神に大きく起因する』、『同じ薬草であっても土地による魔力の堆積量の違いから配合には慎重な判断が必要である』などと。

 考えて試せば分かりそうなものだろうか? いいや、この本の評価すべき点とはその思考の展開ではなく、魔法の純系の確立方法こそを世に打ち出した点だ。似たようなことは“偉大な”先祖達が既に試し、関係無しなどと嘯いている。

 己が魔法や薬草に関して、検査対象に魔力の増減や変質の影響を与える能が無かったことが悔やまれる。その点で言えば己を含んだ殆どの魔法使いは能無しだ。そもそも、強大さを競うならば普遍的なことだが、己の魔法の質が他者と異なるかどうかを試す者が圧倒的に足りない。この点は産めよ増やせよで地上に溢れかえるマグルが勝る点だ。魔法族は研究者も研究対象も足りなすぎる。

 

 例えば幼少から魔法を習い始めた者はありふれているが、成長してから魔法を習い始めた者は非常に僅かだ。そこに個体差を加味すると、特殊な魔法を創造しない限り前提条件が崩壊し実験の有意差が証明できない。呪文の創造自体は学生時代の私が行っていたことからも、向き不向きはあるが比較的容易だ。しかしこの魔力の質の平均化をわざわざ立案した著者は、もしやロウェナ・レイブンクローと似たような体質の持ち主かもしれない。読み進めるとこの魔力の質の平均化に最も苦労したようである。

 並びに薬草は、店ごとに一種の薬草に効力に差が出ることに気付く機会にそうそう恵まれない。薬を扱う店はそれぞれ限定的な薬草を除いては詰み取り先が違う。一番新しい薬草店でも数百年の歴史があり、競合店との血の争いを避けるため新たな摘み取り先の確保が創設に最も重要であった。鮮度、個体値以外にも違いがあると思いつくことを求めるのは望みすぎだ。――それが魔法使い独特の落とし穴である。

 そう、我々は店ごとに効力が違うことをおさえるためには、その店の薬草の効力を長年煎じ続け覚えなければならない。しかし、覚えた頃にはわざわざ他店を利用する手間を踏もうとは思わない。マグルでいう中世的(旧時代的)な買い物の制度が敷かれた市場では、基本的に巨大な市場でなければディスプレイや看板、値段札などはおかれず、店側の提示通り払う。あまりに相応の値段から遠ければ値引きの交渉も必要だが、値段が一律の学生を対象にした店でなければ一見には譲らない姿勢もまま見る。地元に根付く店では未だに年四回の分割払いが行われている店舗も存在する。このような現状では、民間人が受ける苦痛は然程のものではないが、研究職の家系以外での疑問を追求する新たな学者は生まれづらいだろう。

 魔法使いの家系に生まれた者はその事実に頓着せず(マグルで言えば天動説か。権力――教会――がそう唱えるものだから地動説の可能性さえ多くは考えない)、またマグルに生まれた者は知らぬままにしておく。血統主義の魔法使いにおいて“薬草”、“魔法そのもの”においては殆どが伝統的な家々に研究と維持を占拠されておりマグルは成長しても薬草や魔法の研究には専属的に身をおけない。つまり研究に研究を重ねその結果に辿りつく、ということが極めて難しい。魔法族がマグルのようにごった返しておらず、学校そのものが少なく研究職につくのが容易でないということもある。

 この本は革命だ。コペルニクス的転回だ。体制的革命を嫌う我々魔法使いも、この唯物的革命は認めざるを得ない。生き方ではなく真実を提示されては結局首を縦に振るほかない。

 問題は裏付けが抽象的かつ数学的で能無し共が理解出来るか怪しいところだ。

 

 私は溜息をついて本をテーブルに置き、冷めかけの紅茶を含んだ。紅茶さえ気候、時期、畑によって違うのだ。魔法的効力を持った薬草が違うのは“当たり前”だろうか。

 テーブルに本を置きながら空いている左手で一から捲ると、見開きのページによくありそうな書体で「ホグワーツ生徒にこの本を」とこれまたよくある個人への思いが書かれていた。はたして生徒が理解できるだろうか、この内容を。私であればすべからくこの本の内容を理解できるが、成人もしていない学生たちが読むには難解すぎるのではないだろうか。あまり多くをマグルの立場に立ちかえって述べたくはないが、幼少のみぎりの者がマルクスの資本論を理解出来るのか、という話だ。

 作者は読んだ印象によるとここ千年の魔法、また薬草学・魔法薬学の専門書に従順だ。つまり使用される専門用語があまりに多く、場合によっては古く、その専門用語を調べたところで専門用語自体が難解なものだから途方に暮れるだろうと推測できるのだ。これは一般書ではなく専門書に普通付随する問題だ。

 勿論、学生時であっても私であればこの本の内容は理解できたろう。そう、この本が私が在学していたときに出版されていればどんなに……!

 悔しさで震える手に紅茶のカップを置き、ひとつ深呼吸をした。やれもう大人であるからには精神の統一くらい簡単に出来なくては困る。そう、この本が学生時代に存在せずとも大人になることは容易であったのだ。私はまたひとつ溜息をついた。

 

 さて、ウスノロな生徒のレポートをそろそろ採点しなければいけないなと時計を見て立ち上がる。レポートは穴埋めの宿題ではない、どれだけ個人が文献を調べ自分の頭で噛み砕き理解できているかが鍵だ。私は気に入りの本棚に二冊を入れ、この本の意見に批判的なものも後で探さねばなるまいと考えながらレポートの束を取りに部屋を出た。考察というのは批判的に見るものだと考えながらも、私室に新たな本が入ったことで私は瑣末ながら何かが満たされた気がした。

 

 

 



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18話

 

 

 教室に空白の席がひとつ。最近流行りの風邪にかかったクラスメイトが昨日から休んでいる証拠だった。ぼんやりと頬杖をつきながらその席を見て、五年も前のクラスメイトを思い出した。五年前のクラスメイト、ロータス・ウィーズリー。マグルのくせに裏切り者のウィーズリーと同じ名字だ、なんて悠長に思っていたら次の年には既に同学年ではなくなっていた奴だ。

 紹介に遅れたが俺はサロメ・テイラーグラスゴー。言っておくがサロメなんて名前だけど女じゃない。れっきとしたウェールズ人で両親共々純血の魔法使いだ。両親共に家に誇りをもっているからDouble-barrelled Name、つまり二重姓だ。魔法使いだけど母方の家が機械化するマグル社会の将来性に目をつけてるから、家の習慣として幼少期にマグルと共に育つのが教育の一環だ。

 勿論、ちゃんと父さんと母さんから魔法使いのことも聞いて育ってる。来年、このプライマリスクールを卒業したらホグワーツに入学するんだ!

 

「サロメ、サッカーしに行こうぜ!」

 

 クラスメイトに声をかけられて中途半端な返事をする。彼はボールを持ったまま不満そうな顔をしたが俺が見ているものに気付いて首を傾げた。

 

「どうしたんだよ、アイツ昨日から休みだろ?」

 

「いや、一年のときにクラスメイトだった奴をちょっと思い出した」

 

「ああ、ロータスだろ」

 

 奇跡的にコイツとは学校の半分以上を一緒のクラスで過ごしているから分かったのだろう。コイツとはいつも休み時間にサッカーをしてきた。魔法使いはクディッチをするものだけど、俺はサッカーが大好きだ。まさかホグワーツに入学したら誰とも一緒に出来ないんだろうかと少しだけ不安を感じているが。俺はそんなことを考えながら頷いた。

 

「兄貴が言ってた、もうとっくに高校卒業したらしいぜ」

 

「What!?」

 

 ぶはっ、と息を吐いて少し噎せた。鈍い目をした肖像画みたいな顔の奴で、アホには見えなかったがそんなに利発そうにも見えなかった。ちょっと賢いだけ、という認識だったのに。俺は半信半疑で「マジで?」と聞いたが目の前の友人は「大マジ」としか答えなかった。

 

「兄貴が中学受験してる時に高校受験してたんだってよ」

 

「うわスゲェ」

 

 ただの元クラスメイトだと思っていたのがそれを聞くとなんだか遠くに行ってしまった気がして、それが無性に腹立たしかった。何故一年だけの、しかもそう話したこともなかった奴に感情的になるのか自分でも理解出来ない。もしかしてウィーズリーという純血の間では見下されている家族と同じ名字だったからかもしれない。――そういう偏見は、あんまりしないはずなのだが。

 マグルと一緒に居ればマグルに対する偏見も殆どなくなる。未開の分野を求める時の凶暴性も知っているから魔法使いとの関係性は擁護できないけど。マグルと魔法使い、みんなシャッフルして身元を隠して能力を比べたら有能って判を押されるマグルは沢山いる。

 だから一辺倒にマグルを馬鹿にする大人を見て、偏見を持つのは思考の放棄だと知った。それから偏見というものにはあまりよくない印象がある。だって、能力が勿体ないだろう。世間の純血のウィーズリー家に対する軽視だって、多分いいとこどりされたらムカつくとか、自分を高い位置にもっていきたいから他を低くしたい気持ちなんだと思ってる。決めつけもよくないんだけど。

 まあ、だから、腹立つ自分が少し奇妙なのだ。どうしてロータス・ウィーズリーがムカつくのか。幾ら考えても思いつかない。自分の中にしかない答えを他人に聞いても分からないし、周りと同じように扱われて適当な答えをそれらしく言われるのも嫌だった。

 

「おい、どうしたんだよサロメ」

 

「……いや、なんでもない。それよりサッカーだ、サッカー!」

 

 ボールを引っ手繰って廊下を駆けだすと、背後から怒号が聞こえて大声で笑った。もう会うこともないような奴のことを考えるより、残り時間少ない友人と遊ぶとかサッカーするほうがよっぽどいい。俺はあの彫刻のような白と黒をさっさと忘れて、目の前の白と黒のボールを一心に追い続けることにした。

 

 



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19話

 

 

 魔法界唯一の銀行、グリンゴッツには支店が幾つかある。ついこの間ウィーズリーの実兄ウィリアムがエジプト支部で働き始めたように。小鬼という集団は差別よりも利益を優先する正真正銘の近代資本主義者なので(小鬼個々人はまた別だが)、マグル側にもその支部は幾つかある。ちなみにマグル側にある支部はポンドからガリオンの交換は出来ず、また本部の金庫にあるガリオンをポンドに交換したものの引き出しのみになる。

 そもそもキリスト教が蔓延するイギリスで、幾らカルヴァン派が広まっていたとしても銀行という金を動かすだけで利益をあげる職業はしばしば倦厭・揶揄・差別される。非魔法族と魔法族の結婚が現実的な現在、マグル文化に疎い世論では正体不明の差別にもなり得ている。最低な話、ユダヤ人の代わりに小鬼が働いてくれて万々歳というところだろう。北アイルランド人の半分はカトリックなのが現実なのだから。

 

 ついでながら先程述べたように小鬼は正真正銘の近代資本主義のため、本部があるイギリスの通貨のみならず第二次世界大戦後ブレトンウッズ体制の下中央銀行に対して米ドルの金兌換を約束し名実ともにキーカレンシー、つまり基軸通貨になった米ドルとガリオンの交換も行っている。第一次世界大戦後、アメリカが特需によって経済が急成長したときから狙いはつけていたらしいが。

 まあ、そのアメリカもベトナム戦争によって約10年も軍事に国家予算を回した所為で三分の二もしくは二分の一以上金が銀行の金庫からなくなりニクソン・ショックが起きたが。ドルからオンス、オンスからドル交換はストップ、事後承諾でキングストン体制に。そうして双子の赤字を抱えたアメリカは日本、欧州と五カ国でプラザ合意を結び円高ドル安で輸出産業を伸ばそうとしたのが佐伯暢の生まれる一年前の話だ。

 

 久しぶりに思い出した名前に俺はくっと唇の右端をあげた。佐伯暢という名前を、俺はいつまで覚えているのだろう。生まれて数年、まだウィーズリー家にいるときは紙に日本語で単語やその名前を書き、懐かしみながらも無力感を覚えて書いた紙に罵声を浴びせつけていた。しかしその行為が心の安寧と情動の揺らぎを一緒くたに鳴らすものだからいつの間にかやめてしまった。

 キツく目を瞑り、思い切りよく開く。精神が不安定なのはひどく生きづらい。いくら非生産的でも愚かでも、生き方としての忘却はもがき苦しむのよりはいいと俺は思っている。それが究極に愚劣な行いであってもだ。……問題は俺の記憶能力が他人より優れているらしい点にあるのだが。

 

「Mr.Weasley」

 

 背後に立たれて名前を呼ばれ、立ち上がる。そこにいるのはいつものようにパンツタイプのスーツを着た眼鏡の女だった。俺が今座っていた待合室の銀行は、イギリスに幾つかあるグリンゴッツ銀行のマグル支部のひとつだ。

 以前、俺は本を出版した。一度書いた乱雑な魔法や魔法薬学の考察をルパートに細やかに書き直しさせられ、出版社に持ち込まれたからだ。俺は無駄だろうと言ったが挑戦したと息巻いたのは彼だった。一体誰の挑戦だと呆れながら、俺はそのとき肩を竦めることで妥協を表してみせた。ことは上手く進まないだろうと思ったからだ。誰だって手持無沙汰で書いたものが生産性ありと評価されるとは思うまい。

 しかし実際は出版までこぎ着けた。ルパートの熱気と手腕、それから編集者の提示した改善点が明確な上容易だったことが完遂の理由に思える。加えて、研究に対する非魔法族の構造と魔法族の体制の違いだ。研究施設も学者も足りない上非魔法族ではあちこち立ち上がって星の数ほどある学会がそもそも殆どないので、特殊環境下でのみ達成し得る成果だ。

 論文は本来、稚拙であろうと優れていようと構わないのだ。兎にも角にも出れば出るほど他者のヒントになる。その内人類を一歩進める理論が日の目を見る。

 いや俺が以前基礎研究の学徒だったから言ってるのではない。ほんとほんと。

 

 ともかく、俺は内容の手直しをボランティアの間に行い、休日に編集者と打ち合わせしては文の構成を指図するルパートの監督の下、最後のページまできっちりでかし無事本は世に出ることとなった。

 そのあと、ルパートが上梓を理由に銀行に口座を新たにつくって通帳を俺に渡した。印税その他諸々の利益など六年間も住ませたガキの出費と等価交換にもなりはしないと全て持っていけばいいものを、「俺は金には困っていない」の一言でバッサリ切り捨てた。途方に暮れつつも、彼には俺が子供であるという意識があるのだと判断し、俺は懇切に礼を言いその銀行と資金を用いることにした。杖の分や小遣いとして貰っていた金もルパートは「俺を貧乏人扱いするな」と受け取りを拒否した。

 ここまでくれば狂気の沙汰だとは思いながらも、俺はその金を本やマグルの世界にある魔法使いの酒場“オールドトム”に行く時の代金とした。ウィーズリー家には学校を卒業してから仕送りとして渡していくのが最もスムーズだろうか。

 

 パンツスーツを着た眼鏡の女性にいつものように魔法使い専用のスペース(柱の中)に招き入れられ、いつものように書類を書いてガリオンとポンドを両替した。本部では必要ないのだが、如何せんマグル側ではそうはいかないらしい。俺はポケットに札束を突っ込んで能面みたいな顔の女を後にした。

 

 

 

 いつものようにオールドトムに入ると数人の客がいた。カウンター席にそのまま真っ直ぐ進むとカウンター越しの店主は「ロータス」と俺の名前を呼んだ。

 

「いつものか?」

 

「いや、暫くこないからそれを伝えに来た。もう俺のためにあそこを空けておいてくれなくてもいいよ」

 

 俺は「お前が来ると思ってあけておいた」と店主のトムがよく厭味ったらしい笑顔をするのを思い出しながら言った。すると彼は「律義だな、クソガキ」と言って黒ビールを差し出した。口に含むとぬるい上にあまりうまくない。バドワイザーは軽くてあまり好きではないし、ダークカラーのエールは香ばしくて苦手だ。第三のビール(金麦)を死ぬほど冷やして出してくれ。俺はそれで充分だ。

 正直に顔に出すこともなく無表情で飲み進めるも、周りは「まだ16じゃないだろ」と止めることはない。俺は昼から夕方までにここに来たいし、ルパートは平日の昼は仕事なので目の前の老爺、トムの親族ということになっている。昼のパブはファミレス的立ち位置にあるので周りは託児所代わりと判断しているらしい。殆どGPSのポートキーを持っていることもあるだろう。

 忠告のかわりに隣の出来あがった男に「Hi Mate!」と肩を組まれた。甘ったるい酒の匂いが纏わりついて俺は眉を顰めた。

 

「リンゴ酒の方がいいんじゃないかぁ? チビスケ」

 

「……黙れホモ」

 

 Mateは親しい男性同士の呼びかけに使われ、訳するなら「相棒」といったところだろう。ところが正式な使い方は「配偶者」や「つがいの片方」という意味合いだったりする。絡んできたのはよくこの酒場にいる男だし、もはや俺の名前も思い出せないくらい出来あがっているからそう呼んだんだろうが、酔っ払いに絡まれるのは誰もが好きじゃないので俺は冷たく切り捨てた。

 しかしブラックジョークが大好きな国民は腹を抱えて笑い始めた。

 

「ぶあっはっは! ロータスから離れてやれカイン」

 

「げほっ、ぶっ、ハハハ! 離れてやれカイン、娘がホグワーツに入学したばっかりだってのに、ホモでカミさんに捨てられたくねえだろ?」

 

「く、ぐふぅッ! ロットに手ぇだしたらホモっつうよりペドだぞ!」

 

 笑いころげるオッサンたちに乗って俺もグラスに口を付けながら「まったくだ」と言いながらポケットからビールの分の金を出した。今までの分も兼ねて色を付けて出すと、正規の値段と色の半分だけ回収された。

 にわかにホモとペド疑惑の浮上した酔っ払いは両手を振りまわして暴れるように言った。

 

「ホグワーツに入学した娘はもう就職したわぁあ! 決まったのは甥っ子のサロメだあ!」

 

「サロメは女の名前だぞ、酔って頭が回らなくなったか。昼間っから出来あがってお前はよォ」

 

「いいや、甥で間違いねえ! サッカー好きのアイツは姉さんの子だあっ…! それに休みに何したって俺の自由だろぉがあ」

 

 ずる、と掲げていた手を降ろし、うーうー言いながらカウンターに頬を擦り付けた男はそのままデカいいびきをかいて寝こけた。さっきまで男をからかっていた連中は肩を竦め、店主は舌打ちをひとつした。俺は隣の男にひとつ訊ねた。

 

「彼の名字はなんていった?」

 

「名字? 確かグラスゴーだ。どうした?」

 

「いや、その甥と小学校が同じかもしれないんだが……姉の夫の名字まで分かるか?」

 

 最初に質問した男は首を振ったが背後のテーブル席に座っていた男が急に「俺は知ってるぞ」と言った。

 

「テイラーだ、いいとこの息子で確かハッフルパフだよ。俺の同窓だ。どうだ、同じ小学校か?」

 

「二重姓だとすればおそらくな」

 

 偶然ってあるもんだなあなどと零す男に俺も頷く。まさか同じ小学校に魔法使いがいるとは思いもしなかった。小学校一年生のときに同級になったサロメという少年は、そういえば確かに“ウィーズリー”という名字を聞いたとき驚いていた気がしなくもない。だが確か、そのときは適当な理由を考えて問いはしなかったはずだ。

 そういうことか、と一人勝手に頷きながら残りのビールを煽る。カウンターにそれを突き返して立ち上がり、ポケットの中にポートキーがあるかどうかを確かめた。ルパートの家の鍵がポートキーになったそれは札の塊の奥でチリ、と掠れた金属音をたてた。

 

「もう帰るのか。どこでもいいが魔法学校に入るんだろ? 休みには来るのか?」

 

「そうだな、長期休暇にマグルの方にこれたらルパートを連れて来るかもな」

 

 そうかそうかと頷いた客の一人である男は乱雑に俺の頭を撫で上げた。「お前は俺たちの息子みてえなもんだ、顔出せよ」と言われて曖昧に頷く。店主の老爺はグラスを片付けながら「ルパートにもたまには一人でも顔出せって言っておけよ」と言って、更に続ける。

 

「ああ、そうだ。お前にゃ興味がないかもしれないが、高名な占い師が今日来てるんだ」

 

 酒場の奥を親指で指差した店主は「元気でやれよ」と言って俺がいつも行く扉を杖でぱたりと閉めた。彼の指差した方を見るとニカブを纏った女がいた。目があって「こんにちは」と挨拶される。その小さくも厭味ったらしく、それでいて慈愛に溢れるような声に俺は一瞬固まったあと「こんにちは」と挨拶した。

 

「ムスリムの方ですか?」

 

「そうよ」

 

 占い師染みた格好をしたいわけじゃないの、といった彼女に俺は手持無沙汰に困ってついといった感じで頷いた。正真正銘の教徒であるならば昼間っから酒場にいるのは如何なものか。ムスリムに飲酒は大罪だ。イスラームの女は俺の想像の中だとあまりににも厳粛だった。(飲酒は実際、国や状況によって限定的解除もよく聞く話だが。売る側は纏まった金になるし、買う側に至っては、個人ならいざ知らず人類で酒という魔性を一度手に入れてから完全に手を切れた存在を見知ったこともない)

 そもそもこの女、魔法族である店主が存在を公に見知った者として認識するくらい非絶対神の領域である“魔法”の領地に足を踏み入れておきながら、なにがムスリムだ。冗談も通じやしない。占いに至っては酒と同じく地域差があるが、店主のような魔法族の言う割合に緻密な未来の予測である占いは唯一神の掌中であるはずで、それを信じ行使することは悪魔への接近という大罪に等しい。もはや存在そのものが怪しい限りだ。

 

「みんながみんな、そうじゃないの。私は学校にだって通った」

 

 にこり、と口許が見えずとも笑ったのが分かった。内心を読まれたような感覚にぞっと身の毛弥立ちながらもメンタリズムを思い出して俺は黙り込むことにした。開心術を使われた感覚は今のところないが、そういう魔法を独自で開発したという可能性も考えられなくはない。

 疑うのも信じるのも面倒だと小さく思っていると、彼女は笑みを崩して瞬きを繰り返し「アナタってとても珍しいわ」と言った。俺は眉を顰めた。

 

「少し、見たいわ」

 

「いや、いい。冗談じゃない」

 

 嘘でもホントでも冗談じゃなかった。それらしいことを言われるのも、本当に中身を覗かれるのも冗談じゃない。プライバシーの侵害だ。魔法界にはそういった法律がないことを改めて恨んだ。個人の内面を粗雑に扱い過ぎる傾向は、いつだってエスノセントリズムの中で健在だ。魔法使いなんてエスノセントリズムの最大手みたいなもんだ。

 

「そう言わないで、ボウヤ。……お互い外見と年齢の齟齬は言いっこなしよ」

 

 掴まれた腕の力に、俺は背筋を撓らせた。この細腕とホワイトアフリカの白い肌のどこにこんな腕力が隠されているんだ。内心の動揺を隠すように、俺は全く別の着眼点を見つけるのに忙しかった。外見と年齢の齟齬だとか。こんなにつまらないことも珍しいからだ。

 

「アナタ、記憶力がいいのね……」

 

「そう、ですかね?」

 

 俺は冷や汗を垂らしながら小さく笑った。

 

「ええ、よかったわね。アナタ、それがなかったら死んでたわよ」

 

「それは、」

 

 「未来の話? それとも過去の話?」そう聞こうとして押し黙った。結局未来の死亡確率は100%だし、過去に死んでいるのも事実だ。しかし女は無遠慮に自分が崇高だと信じて疑わない様で笑った。

 

「未来の話よ、ロット」

 

 ねっとりと甘い声に聞こえたのは、俺がこの女のことを恐ろしがっているからだろうか。得体の知れないものはかく恐ろしい。俺が俯くと彼女はすっと腕から手を離した。

 

「ごめんなさい、でも警告したかったの」

 

 苦笑しながら彼女は緩やかに目を瞑った。

 

「アナタの人生はこれからツラいものになるでしょう。でも、アナタが希望を捨てなければどんなふうにでも変わるわ」

 

 クソッタレ。その言葉が口から出るのをどう抑えたのか、俺の努力を語るに一日では足りない。その言葉は誰にでも適用され、さも俺を気遣っているように苦笑してみせた女は性悪だ。ツラくない人生なんてあるものか。だとしたら佐伯暢のように25歳やそこらで死んじまったような人生だけだろう。しかしそれさえも些細な絶望や悲哀に濡れたものだった。歓喜や興奮がそれらより大きかっただけで。

 俺は彼女を見据えた。だからなんだというのだと。怒りでも恨みでもなく理性的に(故に阿呆らしく)見据えた。震える拳を固め、深く息を吐く。本当に彼女が俺のことを“見え”たとしても、そんなことはどうだっていい。彼女になにが出来る。こんな小さなガキを興奮させただけで、未来ひとつを変えることさえ出来やしまい。

 

「精々豚でも食って自殺しろ、性悪女」

 

「あら、いやだわ性悪だなんて」

 

 初対面の人に見抜かれたのは初めてよなどと笑った女に俺はもう興味がなかった。彼女の方もそうらしかった。自分が性悪であることを肯定する奴は大概成熟しきれていない青臭さが鼻を突く。俺は疾うに彼女に落第点をつけ、オールドトムを後にした。もしルパートと会わずじまいで、“ロータス・ウィーズリー”として生きていくことを決めていなかったら彼女の言葉に傾倒していたかもしれないなと思いつつ。

 

 



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20話


「――忘れられないって、不便なのね。トールとロットはおんなじになることも、別人になることもできないんだわ。悪夢に終わりはあるのかしら」




 

 

 

 

「はじめまして人殺し。これで会うのは2037回目だね。僕の名前はセドリック」

 

 朗々と語る声の主はにっこりと笑った。

 その目に宿るのは憎悪、嫌悪、怨念、嫉妬、仇視、軽蔑、側僻、恐怖、欲望、吐瀉感、殺意、鬱憤、畏怖、絶望、忌諱、遺恨、僻心、邪僻、拗戻、寂寥、瞋恚、悪意、無慈悲、怨恨、呪詛。

 

「のろわれろ」

 

 彼ははっきりとその白皙の肌から、青い唇から、五文字の日本語を吐きだした。正に呪詛。You should die.You must die. He cursed me.

 思考回路の怪物だ。呪いとはただの情報だ。自意識過剰にすぎない。

 

「のろわれろ」

 

 ここは暗い。

 

「のろわれろ」

 

 あたりにはなにも見えない。

 

「ノろワレロ…のろわれ呪われろ引き裂かれろ切り刻まれろ嫌われろ暴かれろ……君が助けてくれれば僕が死ぬことなんてないのに。なあ、そうだろう? なあ、なあなあなあ。一言、たったひとつ助言をくれるだけで僕は死なない。僕は勇猛果敢にアレと戦った英傑になってもし戦わずともこれからは17年で人生を終えることもなく多くの人を笑顔にして多くの人と幸福を築くことが出来るのにそれなのにお前のせいで誰をも幸福に出来ない人殺しのせいで…………死ね。死ねよ。頼むから死んでくれ。むしろ何故生き続ける。理解できない。お前は死んでいるべき存在だ。肺呼吸以外死人でい続ける醜悪さを以てして僕まで殺すな。お前が僕を殺すんだお前が僕を2036回殺したんだ。お前が僕を殺すんだ! サバイバーズギルトとか、運命とか、そんなもので片付けるな……! お前がお前らしく生きるために人を殺すな。僕は死にたくない、それでもお前は僕を殺すんだ。僕たちを生かすことを、慈善事業かなにかだと思っていないか? お前は死んでいたべきだ。お前なんかが生きているのは間違いだ。なぜお前が存在する? お前はなんだ? なんのためにいる? 何故息をする? よくも抜け抜けと恥ずかしげもなく息をしていられるな。お前は存在そのものが間違いであることを生まれたときから知ってたじゃないか。なのにどうして生きているんだい」

 

 今夜は然程も辛くない方だ。それでも心臓が統御を越えて大きく拍動する。

 

 

 どっ   と。

 

 

 ひとつ心臓がはねた次の瞬間に、俺が何もしなくとも目の前でセドリック・ディゴリーは死んだ。まるで傍観者がページを捲るようにいとも容易く。

 ここは懸念が暴力を奮う。惜し気もなく憤悶が哄笑し平時のように小賢しい理由を論理的と称して身を守れずにひたすら打ち砕かれるためだけのところだ。

 

 

 片手で頭を覆い、石のように硬く目を瞑る。

 ここはくらい。だからきっとおそろしい。

 こつり、と背後から靴の音が聞こえた。

 ここはひろい。だからきっとさむい。

 

「こんばんはロット、こんばんは我が家のコッペリア、こんばんは兄弟殺しのカイン。僕達の役割は反対だね、僕が弟のアベルで君が兄のカインだ。こんなことを言うのはもう2556回目だ」

 

 ふれっどがわらった。

 頭に直接言葉をふきこまれる。だからむしできない。だからおそろしい。

 

「いつもそうやって見下してるよな、僕達のこと。お前は部外者だ、ただの部外者だ。なのに超越者のつもりなのかい、全部知ってるからって? 傍観者気取りのメアリー・スー。いや、男だからマーティー・ストゥーかな? お前が知ってるのはただかの主役が送る未来の一端に過ぎない。だというのにお前はカミサマにでもなったつもりで僕達を見下しているんだな。お前の意思や言動で僕達の全てが変わると断言して紙上のキャラクターに仕立て上げて悲劇に涙を流して憐れんでるだけだろクズ。おお!その御顔から流れ出る清らかな涙はなんとウツクシイのです! って? なにもしないで口先動かして自分はこんなに悲しんで辛いから許されるって思ってるだけだろ」

 

 ちがう。と。

 そうさけんだのはいつだったろうか。

 ぼくはただのおくびょうものだから。ぼくはただのきべんかだから。

 死にたくないのに生きたくない。ゆるして。ぼくわるくないよ。

 あたまが変になりそうなのに、気付いたらきちんと思考出来るようになって。贖罪でもなんでもして生きていこうとしたらのうみそがぐちゃぐちゃにかきまぜられて。

 バナナとね、チーズとね、たまごをたべてね、おひさまをあびればげんきになるんだよ。

 ああ、クソ。クソが。気付いたら主体を保てない。忘れてしまえばいいのにどれ一つ忘れられない。読んだ本を一から十まで諳んじれるのなんて才能じゃなくて病気に違いない。この十年、俺が一体何者なのか分からないのはこのイカレタ脳味噌のせいだ。

 こんなに雁字搦めになったら、俺なんかではどうにも出来やしないよ。ほんとうさ。毎日嘔吐感を知らないフリして過ごしていたら可笑しくなっちゃったんだ。もうそうやってしか生きていけない。俺なんかきらいだ。佐伯暢なんてきらいだ。ロータス・バッコス・ウィーズリーなんてきらいだ。

 だから。だから、だからねえだから。ぼくのおねがいごときいてよ。

 

「ころしてください」

 

「嫌だよ。自分で死ね。お前なんかが他人に殺されるほど許されるものか。ウィーズリー一家の中で黒髪で顔も似てなくて、そのくせクイーンズイングリッシュなんか話して寡黙を気取ってて、体質も希少で11歳前に高校を卒業して、魔法なんてなんだって覚えてて、本まで出しちゃうような天才なんかにはオソレオオクテさわれないね。そのサイノウを肥溜めに捨てたので許して下さいって言いたいなら自分でやれよ」

 

「Please pl eeeee ea s e ki l lllllllllll」

 

「……You could die.」

 

「If I could do it, I would.」

 

「You could if you would.」

 

「No.no no nononononono」

 

「fibber!」

 

 だれかがさけんだ。そうしたらほかもさけんだ。

 

「You are not fibber.」

「Yes! You big liar!」

「You big liar!」

「You big liar!」

「You big liar!」

「You big liar!」

 

 セドリック・ディゴリーが。フレッド・ウィーズリーが。ルーナ・ラブグッドの母親が。クィリナス・クィレルが。バーサ・ジョーキンズが。フランク・ブライズが。バーテミウス・クラウス・ジュニアが。ブロデリック・ボードが。シリウス・ブラックが。アメリア・ボーンズが。エメリーン・バンズが。イゴール・カルカロフが。ハンナ・アボットの母親が。アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアが。チャリティ・バーベッジが。アラスター・ムーディが。ルーファス・スクリムジョールが。バチルダ・バグショットが。ゲラート・グリンデルバルドが。ダーク・クレスウェルが。テッド・トンクスが。ピーター・ペティグリューが。ビンセント・クラッブが。リーマス・ルーピンが。ニンファドーラ・トンクスが。セブルス・スネイプが。コリン・クリービーが。ベラトリック・レストレンジが。トム・マールヴォロ・リドルが。

 全員が、足踏みを揃えて俺を糾弾した。俺を囲んで声高に叫んだ。日本語英語ドイツ語フランス語スペイン語、知っている限りの言語が踊り狂う。蹴られる、殴られる、唾を吐きかけられる。痛い。痛い痛い。でも、ここまでくればもう頭がすっきりしてきた。今までの醜態が暴力で掻き消される気がした。拍動が唸るだけで、いかにもすっと爽やかな気分にさえなれた。俺は口許に下手くそな微笑みを湛えた。そうすればこの悪夢が、いつか過ぎ去ってくれる気がした。

 けれどいつだって、その思惑は上手く運ばれない。いつだって俺が責任転嫁でも逃亡でも塞ぎこむでもなく糾弾に耐えようと心構えすると、底抜けに明るい笑い声がこの暗くて広くて寒い空間に響きわたるのだ。

 アハハハハ、と高らかな若い男の笑い声がした。やっぱりきたよ、と俺は産毛立つ全身を抑えて声の発信源を辿った。

 

「被害妄想乙!」

 

 黒髪の、日本人だ。佐伯暢によく似ている。違うところと言えば佐伯暢はこんな大衆の前で大口を開けて笑わないところだろうか。奴の目元がにんまりと細まる。口許が裂けるように広がる。そしてもう一度「ご立派な自己犠牲精神の被害妄想でステキな自己陶酔だ!」と俺を責め立てた。

 じわり、と涙が滲む。更には今まで耐えきっていた堤防が土砂降りによって決壊し、大きな氾濫を秒読みにしたような恐怖が俺を襲った。駄目だ。今は泣けない。泣いたら全てが台無しだ。悪寒がした。生まれたばかりの小鹿のような、震えるばかりの存在に成り下がる気がした。

 涙を抑えると今度は脂汗が滲み、体が震え、胃をひっぺがすような嘔吐感に見舞われた。

 

「ホントすげえ、毎日よく飽きないよな」

 

 「コンプレックスでもあんの?」耳元で、舐めるように喜悦を孕んだ仄暗い声がした。声と一緒に吐息さえも感じて身の毛が弥立つ。震えが止まらない。

 

「あーあー、男のくせにまた泣いてる。泣きゃ済むと思ってんの? 女の腐ったような夢で毎日つまんねえの」

 

 優しい声で頬を伝う液体を指先で払われ、目と鼻の先でにんまりと笑われた。

 

「適応しようとしても合理的解決どころか近道反応も出来ず、防衛機制を働かせようとしてる最中に我に返るとかドマゾかよ。夢の中で他人妄想して自慰みたいなリスカすんなよ変態」

 

 がち、と歯の根の合わない音がした。がちがちがち、とまるで幼稚な音楽のように歯が鳴り合った。腹から揺れる体は体験したこともないような大地震にあったようだった。視界がぐらぐらと揺れた気がした。

 おそろしい。

 目の前のコイツがいると平生の理性的さをなんとか取り戻しながらも、それさえ非難される意図にぐずぐずと根元から腐っていくような恐怖を感じる。いやだ。ごめんなさい。ごめんなさい俺が悪かった全部俺が悪いんです。殺人が起こるのも盗難が起こるのも強姦が起こるのも詐欺が起こるのも全部俺のせいですごめんなさい。悔い改めます。贖罪します。だから、だから――

 

「ゆるして」

 

 目前のソイツはにっこり笑った。あたかも交際相手にやるような、安堵と愛情を示すソレに見えた。

 

 

 

「佐伯暢を捨てるのに、どうして許してもらえると思ってるんだ?」

 

 

 

 あたかも友人に見せるような、嗜虐に満ちた親近感をソレに聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 深夜も深夜、ファザー・クリスマスからプレゼントを貰えるようなガキはもうとっくに寝てる時間。よい子ではない我が家の居候は寝てるだろうか、それとも毎度のように本を読んでいるだろうか。

 我が家の居候、ロータス・ウィーズリーは六年をも過ごした俺の家を出てもうすぐホグワーツ魔法学校に行く。俺達の奇妙でいて微妙な距離を移ろいだ23歳も年の離れた友好関係はもうすぐ終焉を迎えようとしていた。そんなことに少し感慨深く思っていたら、唐突に『Wand Wanda』の主人が言っていたことを思い出したのだ。『入学前にまた買え。これだけは譲らん』という台詞を。

 彼の体質から考えれば、もはや柳以外だったらどんな杖だって構いやしないだろう。トムの酒場で魔法を積み重ねた彼にしてみれば柳の杖も使えるのだろう。しかし、ワンダの旦那の言い分は、体にピッタリ合うものを使えという専門家らしい台詞だった。

 まあ、色々言葉を並べてもいいが、俺があの小さな友人にはなむけとして形に残るものを送りたい、ただそれだけなのだ。

 

 多少照れくさくなりながらも俺はイスから立ちあがって読んでいた本をテーブルの上に置いた。それからテーブルの上で音楽を流していた懐中時計をポケットになんとなしに仕舞い込む。スペインの短期留学も終え、ボランティア活動も7月末から縮小し始めた彼に明日の予定はないのは知っている。本を読んで起きていれば僥倖だが叩き起こして杖を買いに行く日を決めたって誰も困りはしまい。

 立ちあがって彼に宛てがっている部屋に行こうとしたとき、テーブルに置いた本の表紙が目に映り込んだ。――ロータスの本だ。処女作の前・後巻の本の他に、俺が激しく薦めて彼が書き連ねた魔法についてのもうひとつの本。作者の名前はEleutherios・Liber、エレウテリオス・リベルという。

 俺の友人は才のある人間なんだ。そう思って少し誇らしげに、口許に自然と微笑みを刻んだ。その才は自惚れこそ許されても羞恥をいだくようなものでは決してないのだ。俺は弛んだ口許に少しだけ気恥かしさを覚えてきゅっと結び、彼の部屋に足を向けた。

 

「ロータス、起きてるか? 入学前に新しい杖を合わせに……」

 

 部屋の中は真っ暗だった。少ない家具の中、枕元に置かれたスタンドは光を灯していない。少しの罪悪感を持ちながらドアからすぐの電灯のスイッチを付ける。ロータスは部屋の隅で身を縮こめて眠っていた。

 

「うう、ぐ、ぅえ、ギ」

 

 寝ている姿に安堵を覚えたのも束の間、突如として獣のような唸り声が聞こえた。痛切に響く声にぎょっとして彼に近寄れば、彼は瞑られた目から涙を流していた。もがくようにシーツを掴み、恨むように震えていた。体の芯から響くような唸り声は俺をもってしても憐憫を抱かせるに十分だった。その小さな矮躯に詰め込まれた痛々しさを日常で見ることがなかったというのもあるだろう。

 最初の数年は見せなかった、彼の知識を披露する厚顔無恥な態度こそが少年らしく家族愛を向ける対象だったのだ。

 俺は彼が成人した姿であったらはたしてここまで憐憫を向け力になりたいと思わなかったであろう。――俺はもしや彼のその小さな体に含まれた特異性、生産性だけを気にしていたのかもしれないと初めて危惧を覚えた。……いや、少年の成長を夢見るのの何が悪いのだ?

 

「ロータス、大丈夫か? ロータス」

 

 あまりに苦しそうなのでその丸く小さな肩を揺さぶると、彼は唸るのを止めおぼつかない視線で俺を捉えた。小さく白い手が俺の服を弱弱しく、凭れかかるように掴んだ。

 

「ゆる、し……こ…、て……さい」

 

 その小さく瑞々しい紅唇で喚くようにそう言った。ふぉおぎぶ、と零れる声に、俺は彼と初めて会った時アーサーが言った繊細で、夜にうなされるという言葉を引っ張り出した。しかしこの六年、気付かなかったのは妙だ。もしや入学の不安から数年前のものが再発したのかもしれない。

 

「ロータス」

 

 静かに呼べばぴくりと衣服を掴む手が動いた気がした。

 

「誰もお前を責めてなんかいない。お前は許されざる過失なんて起こしてない、そうだろう?」

 

 俺の家に来たのが5歳。アーサーの言葉に従えば、うなされ始めたのは5歳より前の出来事の所為だ。俺の家に来てからはそんな過失は起こっていない。聡明な彼が皿を割っただのという瑣末なことで気に病みはしないだろうし、大きな問題であれば保護者を買う俺の耳に届くはずだ。そして5歳より前のことなど、思考の確立がされていないのだから一々罪悪感を覚える必要はない。

 だから、これがただの偶然の悪夢でないとすれば、明らかに彼は必要のないことに悩んでいるはずだ。俺は彼の頭を慣れないながらも震えるように撫でた。

 

「You big liar.」

 

 意識がおぼつかないのならここまではっきりとした声は出せないであろう、そんな音で彼が言った。まるでディメンターに生気を吸いつくされた者のようだ。しかし彼の目はぞろぞろと彷徨い寝ぼけているように見えた。俺は嘘吐き呼ばわりされていることなど二の次に、その矮躯に胸を痛めた。たれぞ彼をここまでさせるのかと。

 暫くの沈黙が流れる。彼は再び寝入る動作も見せずに壁をただじっと見詰めていた。俺は眉を顰めて俯き、ポケットの中から懐中時計を取り出した。ぱかりと開けるとマザー・グースのCock Robinが飛び出してきた。それを窓枠の縁に乗せる。すると彼は壁に向けていたような視線を懐中時計に向けた。

 

「これは元々父親のものでな」

 

 秒針が昇りつめ、もうすぐ降下する時計を眺めながら溜息をつくように言った。

 

「古来から人を幸せにするアンティークだそうだ」

 

 

Who'll make the shroud?

誰が作るか。死装束を作るか。

 

I, said the Beetle,

それは私よ。カブトムシがそう言った。

 

with my thread and needle,

私の糸で。私の針で。

 

I'll make the shroud

私が作ろう。死装束を作ろう。

 

 

「しあわせ?」

 

 寝ぼけた思想から一気に覚醒したのか、ロータスが皮肉げな声で笑った。

 

「こんなお歌が幸せか。素敵な世界だな」

 

 俺の服を掴んでいた手をすると離し、寝ぼけ眼の顔を髪ごと手の平で掻きあげて彼は目を細めた。そのまま懐中時計をパチリと閉じながら口ずさんだ。

 

Who'll dig his grave?

誰が掘るか。お墓の穴を。

 

I, said the Owl,

それは私よ。フクロウがそう言った。

 

with my pick and shovel,

私のシャベルで。小さなシャベルで。

 

I'll dig his grave.

私が掘ろうよ。お墓の穴を。

 

「……俺は、鳥みたいにお前のために泣かないからな」

 

「それで充分だ。俺だって今どき弓で死んだりしない」

 

 皮肉げな嘲笑を苦笑に変え、ロータスは「それで、わざわざ叩き起こした本懐はなんだ?」と言った。俺は首を振って「また明日にする。明日は早く起きてくれ」と返した。彼は眉根にくっきりと皺をつくったが俺は素知らぬ顔でこの先の話題を払いのけた。

 

「寝ろ、今度こそよい夢を」

 

「多少夢見が悪かっただけだ」

 

 バツの悪そうな顔をする彼に俺は苦笑し、それを隠すように部屋の電気を消した。

 

「おやすみルパート。今度の夢ではツグミのようにお前が歌ってくれたら、きっと愉快に眠れるんだがな」

 

「俺よりそこら辺からサムを見つけてきて歌って貰うといいぞ」

 

「…………どうして? って聞いてほしいか?」

 

「ああ。讃美歌(psalm・サーム)はサム(sam)に歌って貰うといいんだ」

 

「つまんねえダジャレ言ってる暇があったらお前もとっとと寝ろ!」

 

 吼えるような怒号に俺は酷く愉快になって声帯をも震わせて腹を抱えて笑った。すると耐えきれなくなったようにひとつ遅れてベッドの上の彼も大声で笑った。頭を抱えるほどに愉快な出来事に、俺はやはり父親の形見が幸せを運んでくれるものだと深く頷いた。そんな幸せを分け合う人間がもうすぐいなくなる哀惜が、彼の六年間での成長を懐かしむようで、俺は随分まるくなったものだとまた只管に愉快になって狂ったように笑い転げた。

 

 





「悪夢は見るけどぼくはそれなりに元気です。
記憶を持って生まれ変わるとは狂気に侵されることなのかもしれません。
どちらかを忘れてしまえば問題は解決するのですが、ロータスもぼくも忘れる才能がありません。
だけど最近ロータスが元気になってきたし、もう少し辛抱してみます。

P.S.認知行動療法を受けるに吝かでないのですが、心理療法は流行りものですし、この時代EBMが台頭してないので怖すぎます。取り敢えず日光浴しながらバナナ食べておきます。
では、お元気で」



マザーグース/日本語訳者死亡から50年


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21話

 

 

 前日に中途半端な時間に起きてしまったためどうにも寝入れず、枕元のライトスタンドをつけて読書に耽った後遺症で重たい頭を抱えながら、俺は宛がわれた部屋を出てリビングに向かった。覚醒と休息の間にある、このざらりとした感覚は未だに慣れない。誰かに脳を舐められたような生理的な不快感が最たる理由だ。

 

「――ロータス、起きてるか」

 

「実は寝ているんだ、ルパート」

 

 手をひらりと翳されて、冗談を無表情で言いきると彼は凄くつまらなそうな顔をして「かわいそうに」と呟いた。俺はそれが彼なりの冗談だと知っていたので肩を竦めて反応を返してやった。それから脳に神経がないので誰かに舐められたとしても痛みさえ感じない事実をどう屁理屈に理屈にしてやろうかと馬鹿らしい思想に陥った。

 

「ロータス、今日ワンド・ワンダにお前の杖を買いに行こうかと思ってるんだが」

 

「ああ、そうか。いや、だが、以前買ってくれたものでもいいんだが」

 

 ユグドラシルに白鯨の髭、27センチ。そう言った老人の声を思い出しながら俺は首を傾げた。確かに年々杖の感覚は遠くなっているが、車の操縦からラジコン操作の変化に近い。いつか急にピタリと動かなくなるのではないかという恐怖はあるが、それがいつかも分からない。杖が振れていることに変わりはないのだ。

 

「新しいのを買ってやる、と言っただろう。魔法使いが魔法を使うのに怯えると事故が起こるぞ」

 

 不機嫌そうな顔に俺は曖昧に頷いた。彼はそんな俺を見て片方の口端と頬だけを上げる表情を見せて少し憐れっぽく言った。

 

「おそらくアレがお前の杖を用意してくれているだろうしな」

 

「……あんな顔して好々爺か」

 

 そこらのゴーストより恐ろしい顔をした生々しい骸骨の爺が孫を可愛がるようなシーンを思い浮かべて頭を抱えそうになりながらも、一度しか会っていないのに何故特別視をしていると判断するのかと首を傾げた。

 そしてふと思い当たる。恐らくルパート自身が孫のように可愛がられてきた延長なのだろう。だからこそ彼は憐れっぽく俺に語りかけた、そう考えるのが至って安直だった。

 

「今日でいいな?」

 

「ああ、予定はない」

 

「そうか。なら食事を済ませたらすぐに準備をしてこい」

 

 短く肯定して頷くと彼は俺の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。呆然としていればまるで羞恥でも感じたようにそっと離れた彼に、そういえば俺がもうすぐここを出ていく事実を思い出した。気抜けした意識からはっと戻った瞬間にこみ上げてきた笑いを上手く抑えきれずくつくつ笑うと、「ロータス、早くメシを済ませろ!」という怒号が聞こえた。

 俺が上手いこと返事も出来ず長らく腹を抱えていると彼は不機嫌そうにして撫でた頭を今朝の朝刊で殴り付けた。頬の笑いはそれでも引かなかった。

 

「いや、ルパート。やっぱり自分で出したい。先にグリンゴッツに寄ろう」

 

「俺が出してやると言ったろ。いいから気にするな」

 

「“お前が”本を出させてくれたお陰で有難くも自分で払えるんだ。頼むよ」

 

 Youを強調しまくった文法で頼むと、ルパートは呆れた顔で俺を見た。もう1度朝刊で殴られたが、今度は少しも痛くなかった。

 

 

 

 

 

 

「招いた客がきちんとやってきたな」

 

 店に入ってベルの音が鳴った途端、骸骨が歯をカチカチいわせて笑った。

 

「そろそろ死んでないかと心配になってな」

 

 ルパートがそう言うと骸骨じみた老人はふん、と鼻で笑った。数年会っていなかった老人は更に骨と皮だけになり、立っているのもやっとに見えた。カウンターについた手は今にも折れそうなほど細い。しかし眼窩に埋まった青い目だけがその肉体の印象を裏切ってぎらぎら生に執着するように生きていた。

 

「要件はその小僧の新しい杖か?」

 

「まさか羊皮紙を買いにここまでこないさ」

 

 肩を竦めたルパートに店主は柳が風に吹かれたようにざわざわ笑いカウンターからゆっくりと出た。足腰に弱りは見えず案外にしっかりとした足付きに感心したのも束の間、俺はすぐに別のことに興味を奪われた。

 

「……なあ、あれは?」

 

「アレ?」

 

 指差すとルパートは俺が指した方に意識を向けた。それにつられて店主も其方を見て、ああ、と掠れた声を漏らした。その一瞬後に店主は些か驚いた顔を見せた。まるで自分の声の掠れが想像を超えていたような顔つきだった。

 

「以前来た際にはなかったはずだ、あの杖」

 

 誰かが老いに感慨を浮かべる前に言葉を挟み、俺はカウンターの奥の額縁に飾られた黒い杖を見詰めた。店主は一度笑いじっくりとその杖を眺め、隣のルパートはそっと眉を顰めた後に視線を逸らした。如何ほどかの秘密が隠されているならば無理に答える必要はない、俺がそう断りをいれようと思った瞬間、店主がしわがれた声を噛みしめるように発した。

 

「あれはワンダの杖だ」

 

 ――ワンダ、それはこの店『Wand Wanda』の由来にもなった奥方の名前ではなかったか。俺が思考を切り変えて店主に何か言う前に、店主は「よく覚えてるな」と目を細めた。店の内装の話だろう。馬鹿にしたような響きに彼が彼自身たる性質を再び持ち抱えたような印象を覚え、俺は「アナタが死んだ時にせめて全部覚えていられるようにな」と冗談を返した。

 

「余計な世話焼きだ」

 

 顔を背けたその体から発せられた声はあまりにも愉快そうで、堪え切れない笑いについ俺も小さく笑ってしまった。そんな俺たちを呆れたような目で見下ろすルパートに昂った神経のまま笑いかけるとわざとらしく重々しい溜息を返された。

 

「それで、杖の方は?」

 

「親父みたいに食えない奴だな、ルパート」

 

 骨と皮の翁より食えんよ、と言われルパートは更に頭を痛そうに抱えた。俺はそんな遣り取りに馬鹿笑いをやめて薄く笑った。店主はインクが積んである棚の下に設けられている引き出しを引いて大量の箱を俺たちに見せ、その中から殊更汚れのない箱をひとつ取りだした。

 

「サイプレスにウロボロスの尾、22センチ」

 

「以前の部屋には行かなくてもいいのか?」

 

「その必要はない、まず合う」

 

 半信半疑のまま俺はその杖を握った。サイプレスは英名で、日本語ではイトスギという。非常に公園でよく見る気だ。しかしウロボロスの尾というのは――

 

「珍しいな、ウロボロスの尾ときたか」

 

 俺が疑問に思ったことをルパートが口にした。ウロボロスとはつまり己の尾を飲み込んだ蛇のことで、古来より蛇は生と死、不老不死の象徴とされてきた。それが尾を飲みこんで円を描くことで終わりも始まりもない完全なものを意味する。循環性(悪循環、永劫回帰)、完全性(全知全能)、永続性(死と再生、破壊と創造)、始原性(宇宙の根源)をも意味し、太古の昔に錬金術師に切り刻まれたとルパートの家にあった本に書かれていた。(切り刻まれて尚欠けなかったという話だが)

 

「寄贈品だ。先代が譲りうけた物だがまさか本当に使う奴がいるとは思わんかった。お陰で漸く日を見たわ」

 

「ああ、あそこは普遍性の低い杖の墓場か」

 

 先程店主が開けた引き出しを見ながら、道理で箱が古い上にキレイなわけだ、というルパートの声を聞きながら、俺は指先で杖を摘まんで腕ごと振った。特定の魔法を意識しなかったそれは杖先から小さな光を幾つも舞い上がらせた。如何にも儚いその光は小さな粒となり地面にばらばらと転がった。しゃがんで粒を持ち上げるとそれは種だった。指の腹に乗る程度の種はどんな種類なのかも知り得なかったが店主が杖を一振りすると小さな白い花弁を覗かせ、すぐに枯れ果てて再び光を灯した。それがまた、床に種をこぼした。

 なんとも後味の悪い出来に店主は満足げに頷き俺は白けた顔をした。

 

「納得できない顔だな。キュパリッソスの神話は知っているか?」

 

「ギリシア神話の美少年のことだとしたら」

 

「そうだ。誤って仲の良かった雄鹿を射ったことに嘆き、神に永遠に悲しんでいられるように頼んでサイプレスに姿を変えた。その逸話がある限り、少なくともここイギリスでは再生と死、喪の象徴だ」

 

「そんな大層なものだったのか、ウチのドアの材料だぞ」

 

 笑い話に変えたルパートの顔はいつものように無表情に近い。それでも店主は老人特有の声で笑った。

 

「サイプレスは再生と死、喪の象徴。ウロボロスの、特に尾は悪循環――つまり柳とは反対で振り難い。このふたつから出来ていればお前みたいな魔力の変質の循環にも耐えられるだろうよ」

 

 そう言った店主に俺は訝しんだ表情を見せた。

 

「何故そこまで詳しい」

 

「……なんだと?」

 

「まさか数年間俺のことをずっと考えていたということもないだろう。振り難い杖――特に箱さえ特別に奇麗だった保存状態なら、長らく取り出していないな? この杖がどんなタイプに合うかを長年知らなかったはずだ。知っていたら前回来た時に渡していただろう?」

 

 睨みあった、というわけでもなかった。ただ目を合わせたまま俺たちは沈黙した。俺はそう言ったあと別段何かを考えていたわけでもなかったが、店主の方は何かを考えていたのかもしれない。たゆたう瞳の中に哀愁を見た気がした。この店にその他の証拠は山ほどあったし、アプローチを変えれば謎解きを並び立てることも出来るがこれ以上は必要ないようだった。

 

「お手上げだクソガキ」

 

 眼窩に嵌る青い瞳が純度高く燃えたかと錯覚したその瞬間、柔和に彼の皺の全てが笑んだ。

 

「別に教えるつもりはなかったんだがな。――先日ある高名な占い師が来てな、キュパリッソスに見紛う美少年がロウェナ・レイブンクローともし同じ体質だとしたらそれにピッタリの杖がここにあると言い残していった。それであの棚をひっくり返してみたのよ」

 

 俺は容姿のことは一先ずおいて『高名な占い師』の言葉に聞き覚えがあり眉を顰めて頭を押さえた。恐らくあの酒場、オールド・トムで会った性悪女で間違いない。

 

「知り合いか?」

 

「一度話した程度のな」

 

 ルパートの言葉にそう答えると店主はにたりと笑ってこう言った。「そういえば自分を知っているようなら伝えてくれと言っとった、『先日の態度から見て、以前の分も合わせれば人間的経験は自分の方が年上だろう』とな」と。それはつまり――

 

「さて、勘定の時間だ。65ガリオン」

 

 ……。

 ぼったくりだ、と俺とルパートは顔を見合わせた。希少な材料を使った杖がオリバンダー杖店以外では暗黙の了解のもと高価になる話は聞いたことがあるが、杖でその値段はあんまりだ。いや、本来は希少な材料こそが杖になっているのがあんまりなのだろうが。金に頓着しない間抜けな性格であるため憤りより呆れを覚え、もう思わずといったふうに笑ってしまった。

 

「ここはそんなに財政が厳しいのか?」

 

「はん、余計なお世話だ。むしろウロボロスの尾を使った杖が100ガリオンしないことに感謝して貰いたいな」

 

「普遍性が低すぎて売れない上に高価なわけか。そりゃあ先代から持て余すわけだ」

 

 ルパートと店主の話を聞き流しながら財布に65ガリオンあっただろうかと思案し、ぎりぎり足り得ることを思い出した。多めの金額を銀行から引き出していることが幸いした。

 

「――ほら、65ガリオンぴったりだ」

 

 カウンターに金を降ろして再度確認して、店主にそう言った。返事が返ってこないのを不審に思ってカウンターにおいた金から視線を店主に戻すと、彼は幾らか驚きで硬直していた。

 

「お前が払うのか」

 

 それに噴き出したのはルパートだった。

 

「そういえば、言ってなかったな」

 

「なにを」

 

 憮然とした様子で店主は言った。ルパートは愉悦を唇に含んで答えた。

 

「『あらゆる魔法における考察』という考察本と『成長と達成における上手な魔法の使い方』という啓蒙本を知らないか? 後者の方がよく売れたことには苦笑を禁じ得ないがな」

 

「エレウテリオス・リベルか? その本ならどちらも……」

 

 言い掛けて彼は不機嫌そうに、驚いたように「おい、まさかルパート」と言った。

 

「ああ。ロータスはロータス・“バッコス”・ウィーズリーと言うんだ」

 

 店主は体を感情によってぶるぶると戦慄かせ、それから長いこと震えていたかと思うと諦めるように長い溜息をついた。それからはっとしたような顔をして、よたよたカウンターの中に戻った。そうしてガタガタ音を立たせて目に見えて焦って杖の入った額縁を外した。

 

「お、おい。気でも触れたか!」

 

 ルパートが上ずった声で言ったが店主は聞き入れもせずに額縁を外し、そこからそっと黒い杖を抜きとった。そしてそれを俺の胸に押し付けるように与えた。異常に細い指は存外に温かみがあって彼が人間であることを俺に再度認識させた。

 

「お前にやる、ロータス」

 

「だが、これはアナタの奥方の物だと先程、」

 

「あの占い師は最もワンダに理解のある男にコレを渡してやれと言った。ワンダは昔からこと薬草にかけては採取場所に意義があると言っていた。これはお前が持つべきだ!」

 

 何がなんでも受け取れというふうに、彼は俺の手にしっかりと杖を持たせた。ざらりとした感触のその杖は何の木なのだか分からず、俺は呆然としたまま無意識に首を振った。もうやけっぱちだった。

 

「何故そこまで、その占い師を、信じる」

 

 漠然と湧いて出た言葉は掠れていた。

 

「彼女はワンダの死を予期していた。それだけで私には充分だ!」

 

 語気荒い老人は今にも熱情で倒れそうで、俺たちは呆然としたまま店を追いやられた。急な展開についていけず二人して立ちつくしているとルパートがもたつく口許で何かいった。

 

「アレの婦人はホグワーツの教師だったんだ」

 

 その言葉に俺は「そうか」とだけ返した。そうしてどちらが先ともつかず足を踏み出し、逃げるようにそこから家への帰路を追った。ポケットの中の二本の杖がその途中どうも気になってならなかった。

 

 





本編の既存のものはここまでになります。
番外編があと二つ。


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番外編
Boredom can kill you.


乳幼児編。まだテンション高かった時代。


 

 

 暇は人を殺すという言葉がある。今なら頷ける、確かにそうだ。

 昔、その言葉を知っている時点で俺は既に制約がありながらもどこへでも行けたし、何もすることが無いなら無いなりに暇つぶしの道具を持っていた。

 しかし、俺は本物の“暇”と“退屈”をこの歳(見た目年齢0歳)になって初めて知った。こんなに暇なら出来れば知りたくなかったというのが本音だ。凄いぞ本物の暇。ミミズの電気走性について思いを馳せて一日を終えるくらいだからな。

 乳児にはすることがない。生後五カ月ほどの俺ははいはいや腹這いくらいしか出来やしないし、それは移動するのにも大変な体力を労する。しかも一度ベッドに入れられると柵付きで出られない。というか、いくらイギリスに留学していてもイギリス人の喃語が分からないので双子の兄がいてくれてとても助かった。

 今はあんまり暇すぎて、テセウスの船にスワンプマンを乗せてシュレディンガーの猫をサリーとアンとマリーにやらせる思考に没頭している。もう一度はっきり言おう、暇だ。世界で一番暇な人間を選ぶコンテストがあったら一位になれる自信がある。

 季節は夏、それでもイギリスは快適だ。世界一過ごしやすいと言われるCfbなだけある、だからヨーロッパにはずっと昔から人々が移り住んで産業を発展させていったのだ。

 

「ただいま!」

 

「ただいまー」

 

「おかえりなさい。ビル、チャーリー」

 

 ウィリアムとチャールズが外に遊びに出掛けていて、モリーが返す。汚れた手を洗う彼らを見ていると(うがいは欧州の方では習慣に無いのがおもしろい。ホームステイ中は奇異の視線で『ソレってなんなの?』と聞かれた)バチリ、とビルと目があう。

 

「ママ、ロンとロットと遊んでもいい?」

 

「怪我させないようにね」

 

「もちろん」

 

 掃除に洗濯と忙しい彼女はそう言ってまた自分の仕事を始めた。ぼんやりしている俺達がかまってもらえないのはそういうわけだ。家族は大人数、しなければいけない家事は沢山。だから0歳の子供は暇になる。(乳児としてかまってもらっても微妙な気分になるだけだけれど。それにしてもロナルドは俺と違ってまっさらな赤ん坊だから、人と接触しないことによる人格形成の歪みは気になるが。ネグレクトというよりモリー夫人が労働の拘束時間が長すぎる現状が問題だ。)

 

「ロン、ロット」

 

 柵付きのベッドに手をかけ笑顔で俺の頬を人差し指でちょんちょんと押すビルの腕を、喃語を口にしてぱしぱし叩いた。その手を人差し指でちょいちょい構うので握ってやった。俺の行動というより体の本能だ。勝手に力が入るのだ。あと、気付いたら背後にいるロンのように物を口にくわえている。今、ロンが口にしているのはオモチャだ。ばっちい。気付いた瞬間にはっとするが、まあ小児の本能だ。俺はそうそうに諦めてそんな羞恥プレイを続行することにした。

 いやだって仕方がないだろ!

 

「ロン、どうした? 眠いか?」

 

 うるりと涙目(小児はみな涙目だ)でチャーリーを見るロンは動こうとしない。視線では追っているが反応は極薄い。この年頃の子供には時として反応をあまり返さない者も多い。気が乗れば動くが、気が乗らないときは微動だにしないのだ。

 それは年齢相応の反応だし正直ありがたい。二つ上の双子のベッドを共有でおさがりとして使っている身としては、乗りかかられると避けられないのであまり動いて欲しくないのが本音だ。

 それにしても、少しだけ暇から解放されて気分が楽になる。遊びは子供の資本という通り彼らが外へ繰り出し遊んできて、時々気付いたように構ってくれるだけでなんとか一日を終えた気分になる。

 

「うー、あー……」

 

 オモチャを口から離したロンは喃語を口にして、それから赤ん坊独特の締まりのない笑みを見せてからあぶあぶ言いった後に寝こけ始めた。

 子供が可愛いのは生物として生まれつきだ。加護してもらうために動物の赤ん坊は可愛いのだ。お伽噺ではなくほんとのことで、犬だって猫だってみんな、加護してもらえるために可愛くなる。

 今の俺が可愛いかは鏡がないのでさておき、ロナルドも将来こにくたらしい直情型ひねくれ者とかいうクソガキになるとは考えられない可愛らしさをもっている。まあ直情型ひねくれ者も子供らしくて可愛いといえば可愛いんだろうが。

 

「あ、ロンが寝た」

 

 完全に目を閉じてこてんと転がったロナルドを見てチャーリーが笑った。

 

「ロットをロンから離すか。泣くかも」

 

「泣いたことないだろ、ロット」

 

「いつもはね。でもフレッドとジョージみたいに同時爆発したら今日の夕食は囚人食かも」

 

 ビルが言った言葉にチャーリーが笑いながら同意した。それはあれか。海藻を馬鹿にしているのか。日本人にはなじみ深い海藻だが欧州では囚人食として出るくらい地位が低い。あとゴボウが雑草とか。ていうか今の俺って生の海苔消化できなかったりするんだろうか。

 

「ロット、おいで」

 

 チャーリーが柵の向こうから手を差し出した。追視するとにこやかに笑んでいた。その隣でビルが奇を衒ったように「ロット」と俺の名前を呼んでにっこり笑った。彼の腕は隣のチャーリーのように俺に向かって伸ばされている。

 

「あぁ、ぶー」

 

 日本語にも英語にもならない羅列を並べ、二人の手を交互に見比べる。チャーリーは唇を尖らせて怒っているようで、ビルはそんな彼を知らんぷりしている。

 俺はよたよたと腹這いのはいはいの中間のようなもので移動し、二人の前に来た。肉付きのいい小さな手を、俺は、ビルに伸ばした。

 

「僕の方が最初に伸ばしてたのに!」

 

「僕の愛情を感じたんだろ? なあロット」

 

 フランス人のようなことを言うビルに俺はじっと彼を見詰めた。彼は「まだ分かんないか」と苦笑し俺の額をくるくる指の腹で撫でた。

 隣で恨みがましそうな目でチャーリーがビルを睨んでいる。だって、チャーリーの方が加減を分かっていないというか、危なっかしい。どうせだったら安全な方に身を任せたいのが全赤ん坊の願いだろう。

 

「ビルばっかり……!」

 

「起きたらロンを抱っこすればいいだろ。な? ロット」

 

 俺の顔を覗きこんで9歳児ながらイケメンを披露する兄は俺をゆっくりと左右に揺さぶった。うん、ヌガーのように甘い愛を注いでくれる恋人が出来そうなイケメンだ。

 

「ぅうー、あぁ」

 

「だってさ、ロットも」

 

「ロットはそんなこと言ってないよ!!」

 

 叫んだチャーリーにビルは驚いて揺らすのを止めた。しかし、それ以上に驚いた人物がいた。俺じゃない。ロンだ。彼はチャーリーの大声に目を覚まし、起きぬけに大絶叫を始めた。おお、元気。元気すぎてちょっと耳が痛い。

 眉を顰めているとまたビルが顔を覗きこんだ。しかし、俺の顔を見てから「図太いな、お前」と笑った。あ、泣くところだったかも。

 泣くのに羞恥もなにもない。泣くのは赤ん坊の仕事だ。夜泣きはロンがしてくれるのでしないけれど。というより夜泣きするために起きれないのだ。同じようにたかだか9つや7つ、5つばかりの子供に抱き上げられるのも別に羞恥心を感じない。要は、慣れだ。年月が過ぎればなくなる行為なのだし。

 

「どうしたの! 泣いてるのはロン!?」

 

「ママ、ロンが泣いちゃって!」

 

「チャーリー、寝ているときに大声を出さないの!」

 

 夫人の方がよっぽど声が大きい、とは口にしようともしないし英語にも日本語にも出来ない。ていうか泣いてからの大声だから後の祭りでは。俺は不思議そうにチャーリーを見詰めて、目があって苦笑した彼に赤ん坊独特の締まりのない笑みを見せてやった。

 チャーリーはやっぱり苦笑していて、俺を抱いているビルは状況を楽しんでいるかのように笑って再び俺を揺さぶり始めた。

 それでもやっぱり、明日も退屈が待っているので俺も久々に泣いてみようか、なんて思ってみたり。

 

 

 



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The sickness unto death.

 

 

「ジョン、この前の本は大ヒットだったな! 次の新作はサヴァンなんてどうだい?」

 

「うーん、そうだなあ」

 

「俺、レインマンが大好きでさあ。キミがサヴァンを題材にしてくれたらきっと興奮するよ!」

 

 はは、と俺は頬を赤らめて今だって充分興奮している友人の一人に笑い掛けた。カシャ、と無意味にキーボードを触りながらワープロを眺める。点滅するバーに、白紙。創造の一欠片もない状態がただただ繰り広げられていた。

 俺はジョン、大学を卒業してから物書きとして生きて来たイギリス人だ。ロンドンの下町っ子として育ち、ずっとコックニーと標準英語を使い分けて生きて来た。

 

「……ジョン? どうしたんだ」

 

「ああ、いや」

 

 ふ、と。大学時代のことを思い出した。大学で出来た友人のことだ。

 その友人は日本人で、留学生だった。彼は佐伯暢といった。最初、俺は大して興味も抱かず存在さえきちんと認識していなかった。それもそのはず、彼は当初一年間だけいるはずの日本の提携を結んでいる学校との交換生だったからだ。しかし同じ学科の友人が急に「日本人の留学生がウチの学校に編入してくるらしい」と言ったので遂に存在を俺の中で明瞭に確立させたのだ。

 彼と初めて会ったのは――いや、見かけたことは幾度かあったのかもしれない。ただ彼を佐伯暢として初めて認識して会話をしたのはということだ――学校の中庭でのことだった。昼下がり、黄色人種が中庭のベンチに腰掛けて本を読んでいたので俺は気さくに声をかけた。

 「やあ、何の本を読んでるんだい?」と。もしかして本はその黄色人種の国の本で、面白いものかもしれない、翻訳されているかもしれないと思ったのだ。同世代は本を読まない奴が多くて、真面目に読んでいると逆に馬鹿にする奴までいる。それに黄色人種が日本人だったら、特に勤勉で本をよく読むのではないかとも思ったのだ。――後で彼に聞いた話、日本人の殆どは本を読まないらしい。イギリス人の40%だって本を読む習慣はないけどな!――

 俺が話しかけると、その黄色人種はゆっくりと此方に振り向いた。その瞬間、俺は息が止まるかと思った。その黄色人種は人種の壁を越えたところで異様に白く、まるでミケランジェロの彫刻のように美しかった。ただ只管に統一のとれた顔に冴えた理知的な瞳が芸術性を兼ね備えさせたのだと思う。

 ここまで芸術的な外見の存在がいるものかと俺が言葉を失っていると、その黄色人種は怪訝な面をしてから手元の本に目を配った。そして「グレート・ギャツビーだ」と言った。

 俺は彼の声に意識を取り戻し、その素晴らしい響きのタイトルに感激して「グレート・ギャツビー!」と叫んだ。偉大なその本を読んだこともない白痴が俺の周りに溢れているものだから俺は凄く嬉しくなったのだ。そして黄色人種が読んでいたのは原書であった。――なんて素晴らしいんだ!

 それから俺は彼と顔を合わせるたびに文豪の話をした。彼は俺が話す文豪、小説、その小説の一節まですべてを知っていた。俺は素晴らしい本において共感できる人間というのがいて凄く嬉しくて、身の内に激しく流れる熱狂に任せて彼と語り明かした。

 しかし、突然。彼が自分と違う存在なのではないかという思考に駆られた。異常ではないか――本の一節まで覚えているのはと。興味もそうない本であっても彼は一度読んだという本の登場人物の名前は全て覚えていたし、構成・会話・細かな設定などすべてを忘れることなくその頭に密やかに息づかせていた。

 そして彼と会って一年が経った頃。俺は確信した。彼は他者と違う、非常に才に抜きん出た存在だと。しかし彼はその事実について顧みるどころか気付いてさえもいなかった。自身のそのあまりにも鮮烈でいて均整のとれた容貌、美しきクイーンイングリッシュ(時折俺の真似をしてコックニーさえしゃべるが)、読んだことは忘れのしない頭脳。彼はどれひとつとして自分のものであると思っていないようであった。まさしく彼は誰もが幼年期に夢見た一種恐ろしい“個性”を持ち得ていた。

 だから彼は悩むのだと俺は思った。

 彼は客観的に見た自分という存在を知らないからこそそのズレに苛まれて悩み苦しむのだ。その苦悩はあまりに長ったらしい。彼は人生の大半を苦悩に費やしているのではないかと俺は思った。他者を気にかけ、自身を知らず、多くのことを知り覚えている。おまけに知性的だ。その結果、彼はあらゆる可能性に怯えていた。幸福と不幸のすべての確率を順番に並び立てて、最もよい幸福を選び、その幸福までの道のりに落胆して再び黙り込み悩むのだ。

 俺は一切彼のことを馬鹿だと思った。彼は愚かではないにしろ馬鹿であることはかわりなかった。

 

『ジョン=ブル』

 

 いつだったか彼が自国の本――外装はすべてが緑だった――を読みながら俺を呼んだ。俺はいつでもジョンでありヨハンでありジャンでありジョヴァンニでありフアンでありイワンだった。母国語を人に合わせて使うように、惜し気もなく他の人間になろうとした。時として国境も関係なく。だから彼は俺のことを皮肉的にそう呼んだ。だから俺は彼のことを『ドリアン=グレイ』と呼んだ。日本人の名前は音節が特殊で発音しにくいということもあった。それが俺達の間での小さな秘密の共有だったのだ。余談だが、俺達が『アンクル=サム』と呼ぶ友人もいた。

 

『お前は失われた時間についてどう思う?』

 

 怏々とした声色で美しきクイーンイングリッシュを操って彼はそう言った。なにか鬱屈とした思想の中に溺れてうぬぼれたいようにも聞こえた。彼は時としてナルシシストを選択したがるときがあった。今回もそういうことなのだろうかと俺は思った。

 

『それは、死のことか?』

 

 彼は過去にゆっくりと首を振った。それは肯定でも否定でもなかった。まっすぐに俺を見据えて微笑み、愉快そうに『どう思う』とまた聞いた。

 

『……失われた時間は、自分より他人の方が尊いにしても儚いだろうな』

 

『残酷だと?』

 

『それ以外の何物でもない。エピクロスじゃないが、死んだ者はもう“死んだ”んだ。つまらないがな』

 

『まったくだ、つまらない』

 

『つまり、失われた時間というのは“失った本人”からすればただの過失だし過去だ。ただ他人の場合それは“失った本人”からの干渉だ。自分の喪失と他人の喪失では意味が、影響が違う。人間は自分より他人の言動に突き動かされる生き物だと俺は思うし、自分の喪失は絶望――死に至る病ではあるが、他人の喪失は傷であるし痛みだ。傷も痛みも自分の意思ではどうにも出来ない。度合いによっては時間でも解決しない。結局のところ遅かれ早かれ大きな喪失は死だろうな』

 

 俺はそう思う、そう仕舞うと彼は先程よりもっと穏やかに、優しげに微笑んだ。安心させる笑みだった、しかし同時に意味の分からない緊張と混乱も孕んでいた。過去に祖父の死体を見たときのようだった。穏やかに眠る顔は安堵と恐怖が表裏一体だった。申し訳ないが祖父が死んだという事実ではなく、“死”という事実そのものが。

 

『どうした、大地震にでもあったか?』

 

 死に至る病――キェルケゴールからその言葉を導いて彼に笑い掛けると彼は快活に笑って『まさか。まだ恋人を離すつもりはないね』と言った。日本人はどうだか知らないが、彼の彫刻のような美しさとアジアン(インド人でもパキスタン人でもなく、極東の資本主義国のことだ)の肌、髪のきめ細かさに、彼を求めるイギリス女はいつだって知性的ででしゃばりだった。彼女達は彼を手に入れるとエルンスト・バルラハの彫刻を評価出来る自分に満足したような顔をするのだ。

 まあ確かに、友人を見ればソイツのことがなんとなく分かるように彼氏を見ればその彼女のこともなんとなく分かってくるのと同じ思考だろう。故に、彼は友人の俺からしてみても彼の彼女からしてみても自慢の存在だった。

 

『いや、少し本を読んでいたら考えさせられただけなんだ』

 

『本? 本って今持っているそれか?』

 

『ああ』

 

『なんていう本なんだ?』

 

『ノルウェイの森。そういうんだ』

 

 それで会話はビートルズで盛り上がり、暗く理性的な会話は終わりだった。今でも鮮烈に浮かんでくる彼の顔を思い出して、俺は過去の彼のようにゆったりと微笑んだ。――ダメだ、上手く出来ている気がしない。どう考えたってあの男が特別だったのだ。

 

「……オイ、本当にどうしたんだ? ジョン」

 

 はっと俺は友人に声をかけられて過去の追想から現在へ舞い戻った。目の前には真っ白な原稿が広がっている。俺はなんとなしに首を振った。

 

「少し次の話が浮かんだんだ。すまないが出ていってくれるか?」

 

「ああ、そうか。次の新作も楽しみにしてるよ」

 

「ありがとう、それじゃ」

 

「じゃあな」

 

 俺は友人が出ていってパタンと閉じた扉に、ひとつ息を吐いた。真っ白なワープロは仕舞い込み、引き出しから便箋とペンを取り出す。久しぶりに彼に連絡をとってみることにした。携帯もパソコンもメールアドレスは知っているが手紙を書いてみたい気分だった。

 意気揚々と筆をとり、住所と名前だけは慎重に日本語で書いて締めくくる。俺はよし、と会心の出来の絵のような文字に胸を張った。返りが来るのが楽しみだ。

 

 それから数カ月後のことだ。俺は彼が他人に失われた時間を与えたこと知った。それは平等に、勿論俺にも与えられた時間だった。

 

 





過去作品修正終了です。
番外編に新たに書いたジニー視点を明日あげて、それ以降の更新日時を1話に書いた通り未定とさせていただきます。


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I'm dying to know.

1991年以前 ウィーズリー家ジニー視点


 

 

 

 私には七人の兄さんが居る。

 そう言うときっとどこでも驚かれるのだろう。しかも双子が二組も居るんだから! 夏休みなんて家がぎゅうぎゅうになっちゃうし、家のどこかで誰かが話してて静まり返る時間なんて一瞬もない。騒がしい我が家だけど、私が一番生まれるのが遅かったし、もう慣れちゃったわ。

 一番上の兄は今年ホグワーツを卒業して、一番下の兄も学校を卒業したらしい。一番下の兄は双子で、ロンとロット。ロットだけマグルの学校に通っていて、歳は私とひとつしか離れていないのに、ビルやチャーリーやパーシーと同じように我が家に帰ってくるのは夏休みと冬休みだけ。

 学校に通っていないし、近所にお友達もいないから胸を張っては言えないけど、ロットは不思議な男の子だと思うの、私。

 我が家で唯一の黒髪だから、とかじゃなくて。不思議なふんいきがあるの、彼。

 ビルみたいに、最後まで話を聞いてくれて、優しくて、信頼できるお兄ちゃんだと思う。でも、ビルみたいにロマンティックじゃないし。ビルって結構冒険家っていうか、ちいさい男の子みたいなのよね。でもロットは違う。シニカル? ううん、pes…pesso……pesi、えんせい的? うーん、なんて言うんだろう。ジェントルマン、でいいかしら。

 ロンはロットのことつまんない奴って言うけど、わたし、そんなことないと思う。彼って、神様が特別丹精につくったんじゃないかって考えるの。彫刻みたいな顔も、みんなが不平を言わないようにって気遣いも、たくさんの知識を自分から求める性格も、家族のだれかが傷付いた時に自分の出来ることはなんでもしちゃう優しさも。

 カンペキなひとだとは私も思わないけど。フレッドとの仲はよくギクシャクするし、家に帰ってきても本ばかり読んでるし、ちょっと痩せすぎだし、我が家のお金事情をタイトにしてる要因のひとつだし、フレッドとジョージがパースと喧嘩してもほっとくし、ちょっと根暗入ってるし……あれ? 文句の方が多くなっちゃった。

 でもなにを聞いても教えてくれる。例えば空の色、雨の降る理由、ママの作った料理の材料、1+1が2の理由。パパやママに聞いてもはぐらかされることを、ロットはなんでも教えてくれる。でも、赤ちゃんはどうやって生まれるの? って聞いたときの、ママとビルと一瞬目配せしたあと、穏やかに「キャベツ畑からだよ」って答えたのだけは納得してないんだからね! うそよぜったい! だってキャベツに混じって赤ちゃんがスーパーに並んだなんてニュース新聞でも見たことないんだから! チシャでもレタスでもキャベツでもなんでもいいけど、ラプンツェルなんて耳タコ!

 

「ねえ、ロット」

 

「なんだいジニー」

 

「動かない写真が見たいわ。ロットと友達が写ってるの」

 

「いいよ。ちょっと待ってな」

 

 ロットは学校に通ってる時、パパとママを心配させないようにって手紙と一緒に写真を送ってくる。マグルの写真は動かないものばかりだけど、ロットが学校の友達や居候先の近所の子と写ってる写真は不思議なものが写っててわたし結構好きなの。まあ、私よりパパの方が興奮しちゃうときも結構あるんだけど。

 

「どうぞ」

 

 アルバムを持ってきて、新しいところからぱらぱら広げる。マグルの学校は2~7年制と色々ある上、飛び級っていうのもあるらしくて、最近の写真はロットの周りはみんなビルやチャーリーくらい大きい人ばっかりでなんだか不思議な光景だ。

 

「卒業しちゃったけど、この人たちとは今も仲がいいの?」

 

 ロットは今年の5月に卒業したんだけど、どうせだったらホグワーツに入るまでもう一年マグルで勉強してみたらどうだっておうちを貸してくれてるアンバディさんがパパに言ってくれたらしくて、パパも随分悩んでたけど、シックススフォーム? はやめておいて、短期の語学留学とか、ボランティアに取り組むことにしたらしくて、最後の一年も家には帰ってこないみたい。まあ、パパ的にはアンバディさんが資金提供してくれたのが一番大きな理由の気もするけど。

 変なの。魔法使いなんだからホグワーツに行くまでうちに居ればいいのに。離れてる期間はビルたちと同じなのに、容姿からか、性格からか、時々なんだかロットだけ兄弟じゃない気がしてこわくなっちゃうの、わたし。

 

「どうだろう。授業で班になったり、ランチを一緒にしたり仲良くはしてたけど、うーん」

 

「なあに?」

 

「右端の女の子が左の男の子二人を同じ時期にボーイフレンドにしちゃって」

 

「ええ!?」

 

「グループは解散気味だなあ」

 

「そうなの……」

 

 右端の女の子は肌が黒くてスタイルがよくて、確かに人気がありそうだ。ビルも女の子に人気だし、学校ってやっぱり勉強以外にも楽しみのある場所だとは思うけど、スキャンダラスな日常を送る子も居るんだ。なんだか怖い気もする。それを普通のことのように受け止めるロットも。

 

「そうだ、ロットにガールフレンドは居なかったの?」

 

「居ないよ」

 

「どうして?」

 

 優しいし、顔もよさげだし、子供っぽくないし、真面目だし、人気ありそうだと思ったのに。おかしいなあ。私が趣味悪いみたいじゃない。

 

「どうしてって、周りはみんなビルくらいの年齢なんだから当たり前だろう」

 

「10個差くらい大したことないわ」

 

「おませなジニー、大人になってからの10個差と子供のうちの10個差は色々違うんだよ」

 

「あっ、まだ見てるのよチャーリー!」

 

 後ろからにゅっとチャーリーが現れて、大人ぶった台詞を口にして勝手にアルバムを捲ってしまう。もう! 順番で見ればいいのに!

 

「この人がアンバディさんだっけ?」

 

 パパよりもうちょっと若そうな、難しい顔をしたおじさんを差してチャーリーが言った。うーん、細くてふさふさ。「ああ、そうだよ」って答えるロットの返事を聞きながら私もアルバムをパラパラ捲ると、立派なアーチの前にロットとこのおじさんが……

 

「あっ、これいつ撮ったの!? パパとアンバディさんとロット、三人で写真撮ってる! パパったら私たちに内緒でロットに会ってたのね!」

 

 ロットは苦笑して「偶然この近くで仕事が一緒になったらしいよ」と私を嗜める。でも、パパったら秘密でロットに会いに行ってたのよ。家族の中で一人だけ。学校に行った兄弟に会いたくてもみんなが長期休暇まで我慢してるのに!

 ふくれっ面の私の頭をチャーリーがわしわし撫でて、ロットが手櫛でぱらぱら直す。もう、二人して、私お人形じゃないんだから。

 

「そういえば、チャーリー」

 

「なんだい? ロット」

 

「OWLどうだった?」

 

「……お前までママみたいなこと言わないでくれ!」

 

 ロットがふくろうについて聞くと、チャーリーは一瞬耳を疑ったっていう感じで固まって、すぐ絶望の表情になった。顔を手で覆って項垂れる。あんまり可哀想なんで私はチャーリーの頭をぽんぽんと撫でてあげた。

 

「ふくろうってなあに?」

 

「Ordinary Wizarding Levelsっていう、チャーリーの歳に受ける大事なテストだよ。まだ結果がきてないんだ」

 

「オーディナリー、ウィザ……ア、ウ…ル……OWL!」

 

「そうとも、ジニーは賢いな。チャールズ、ビルも自分でNEWTがあったのにお前のこと気にしてたぞ」

 

「うう……」

 

「おい、チャーリー、監督生、チャック、チャップリン。……そんなに悪かったのか?」

 

 かわいそうな声でロットが尋ねる。チャーリーは項垂れてた顔をあげて、捨てられた子猫みたいな顔でロットを見詰めた。

 

「ビルは12ふくろうだったし、パースも兄貴同様逆転時計を使って12科目授業を受けてるのに、俺はトロールがあるかもしれないんだ……」

 

「なんだ、そんなことか」

 

「は?」

 

 二人は学校のことについて話してるけど、知らないことばっかりでついていけない。ちょっと寂しくかんじながら、頭上でされる会話をなんとなく聞ききつつ私はアルバムを捲った。……あ、この時期の写真、ブルネットの女の子がいつもロットの隣に居る。気があるんじゃないかしら。

 

「就職に関わるNEWTじゃあるまいし、六年次にとりたい科目じゃなかったら不合格はPだろうとDだろうとTだろうと大した変わりないさ」

 

「ほんとにそう思うか? ほんとに?」

 

「ドラゴンの研究がしたいんだろ。魔法生物飼育学の手ごたえは?」

 

「それはたぶん、良・E以上はとれたと思うけど」

 

「なら間違いなく六年で魔法生物飼育学の授業は選択できるし、七年までに苦手科目の底上げを念頭において勉強すればいいだけだよ」

 

「ええ、うーん。あーむ、…………うん、なんだか落ち着いてきた。なるほど。すごいなあ、ロット! 先輩みたいだ!」

 

 ロットも私みたいにチャーリーにわしわし頭を撫でられて、座っている椅子ががたがた揺れる。……あ、この男の子ちょっとかっこいい。でも私、ハリー・ポッターみたいに勇敢だったり、ロットみたいに賢かったり、ビルみたいに優しい男の子がいいし、この男の子はちょっとおバカっぽいかも。

 

「わっと、と。Oレベルは丁度無かったけど、GCSEとかマグルのナショナルテストは何度か受けてるから。Aレベルも視野に入れてたし」

 

「へえ、そうなのか。前にロットが言ってたけど、マグルって学校に入試テストもあったりするんだろ?」

 

「ああ、パブリックスクールとか。あそこはラテン語とかフランス語も入試に含まれるからちょっと難しいよ」

 

「学校に入れなかったら大変だわ……!」

 

 聞き流していた会話にちょっと恐ろしいことを聞いて、私は青くなってしまった。マグルじゃなくってよかった。テストで落ちて学校に入学できないなんて震えあがりそう。

 

「準備校とかもあるから大丈夫だよ、ジニー」

 

「知らない人のことも心配するなんて、ジニーは優しいな」

 

 二人に微笑まれて、私はばくばくしてる心臓をぎゅっと抑える。そうよね、私は入学のための試験は受けないんだものね。ふーっと深呼吸して自分を落ち着かせると、ロットが穏やかに私に言った。

 

「そうだ。アルバムもいいけど、ジニーに似合うブレスレットがあったから買ってきたんだ。マグルのものだから面白味はないかもしれないけど」

 

「ほんと!? うれしい!」

 

 ロットは帰省のたびにちょっとしたものをプレゼントしてくれる。それが子供っぽくなくて、でも気取って浮いちゃわないアクセサリーが多くてどれも大切にしてるの。ロンにはマグルのお菓子が多いかも。人形とかついてるのが嬉しいみたい。フレッドとジョージにこの前化石をあげてたのを見た時は私ビックリしちゃった! しかも喜んでるんだもん、男の子って変だわ。ソレどうするの?

 上の三人にはあんまりプレゼントしないのはロットなりの気遣いなのかもしれないし、お小遣いが足りないだけかもしれないけど、気付いたらチャーリーが「俺には?」って顔してる。なんだかんだマグル製品がうちの家族は好きなのね。

 

「チャーチルくんにはこの前Tシャツあげたろ」

 

「そうだった、ありがとう! ドラゴンが小鳥を追いかけてる柄なんて、凄い偶然だよなあ。スニジェットみたいだ」

 

 変な名前で呼ばれてるのに気にしてないのかチャーリーはにこにこだ。私はこの夏は殆どみんなが集まってるところに居たのにプレゼントされてる姿を見てないのを考えると、もしかして上の兄弟にもこっそりプレゼントしてるのかもしれない。

 去年はママにも刺繍入りのショールをプレゼントしてたし、お小遣い足りるのかしら。パパの話を聞いてるとアンバディさんってロットのことがパパ並みに好きみたいだし、アンバディさんもお小遣いあげてるのかも。

 パラパラアルバムを捲ってもう一度アンバディさんとロットが写ってる写真を見る。えーっと、なんだかこの二人、難しい顔が似てる。ロットは最近楽しそうに笑ってくれるようになったけど、アンバディさんも年々ふんいきが柔らかくなってるし、でも二人ともどちらかというと青白くて冷たい顔してるし。親子……っていうより、兄弟とか友達みたい。

 

「あら、学校からフクロウ便が来ましたよ!」

 

 お洗濯してたママがそう叫ぶと、チャーリーが肩をびくって揺らした。上の階からもバターンって扉を開ける音がして、見上げればビルが部屋から出てきたところだった。

 

「ママ! どっち宛てなの!?」

 

 ばたばた走っていく二人をぼんやり眺める。テストって大変そう。それを何回も受けてるんだからみんなすごいのね。私もホグワーツに入学したらそうなるのかあ。

 

「そうだ、ロット。私もロットと写真撮りたい。動かないやつ」

 

「マグルのカメラが無いよ、ジニー」

 

 肩を竦めて笑われて、パタンとアルバムを閉じられる。

 

「代わりにブレスレットを持ってくるからちょっと待ってな」

 

「はぁい」

 

 アルバムを棚に戻して自分の部屋に向かうロットの背中を眺めながら、やっぱりマグルのとこなんかに戻らずに家に居ればいいのになあ、と思った。

 





欧米では生まれた時から才能に差があるのは当然の価値観を基に。


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Perish the thought.

10話以後11話以前


 

 

 ここいらで定員割れしているそれなりの条件の公立学校をなんとか見つけ、通学・居候の生活も体に馴染んできた頃合い、日々は惰眠を貪るように、或いはあっと言う間もなく流れていく。ウィーズリー家を出て、未だにオイルショックや不満の冬の脛を噛んでは顔を顰める非魔法族の大衆に身を寄せると、未来に死んだ筈の奇妙な生い立ちの自身までもが肉体と精神の感覚を狂わされ、ジャネの法則が加速したり足踏みをしたりと忙しない。

 

「What's the time Mr. Wolf?」

 

「It's dinner time!」

 

 間延びした声が響いていた庭に、キャアと高い声が聞こえてふと読んでいた本から顔を上げる。どうやら『What's the time Mr. Wolf?(オオカミさん今何時?)』のだるまさんが転んだパートから鬼ごっこパートに移行したらしい。俺を挟んで同じくらい歳の離れた少年たちが子犬のように駆け回って、鬼役が追い付いた先でじゃれ合っている。

 ここはルパート・アンバディ氏の家のはす向かいのウィルソン家で、その家のナンシー婦人に同じ学校に通う彼女の一番上の息子のついでに放課後迎えに来てもらい、そのままアンバディ氏が仕事から帰ってくるまでおいでなさいなと誘われて現在庭先に本を持って腰を据えているのだ。今朝学校に行く時は雨が降っていたが、午後も過ぎると晴天になり、婦人は丹念に手入れをしているペチュニアやバラ、マーガレット、駆け回る自分の子供たちを横目に芝刈りをしている。

 再び本に視線を落とすが、一瞬見られていたのに気付いたのかこの家の少年たちは俺に駆け寄ってきて疲れを知らない笑顔をくれた。

 

Lot! Let's play together!(ロットも遊ぼうよ!)

 

Thank you for the invitation.(お誘いありがとう。) But, I'm in the middle of something.(でも今ちょっと取り込み中なんだ。)

 

How come!?(なんつった!?)

「pardon?」

 

 今日は一緒に遊びたくない、と顔にだしてだらだらと長文を返せば、兄の方にしょうがない奴めとでも言いたげに服を上下に引っ張られたり頭を小突かれたりしたので、持っていた本で小突き返す。婦人は芝刈りを終えて微笑ましそうに自分の子供たちを眺めてから、ふと引き締まった母親の表情をした。

 

「もう四時よ、オリバーは宿題をして頂戴。トニーも中に入って御本を読んで。さ、ロットも入って。ルパートがそろそろ来るかもしれないわ」

 

 イギリスの家庭では5時や6時の夕食はままあることで、その前後に子供たちは宿題を済ます。下の弟のトニーは未就学児だが、絵本でトリンガル教育をされているので四時になれば兄と同じように机に齧りつくことになる。

 子供たちをまず手を洗わせるために洗面台に追いやった彼女は、俺の持っている本を覗き込んで尋ねた。

 

「アナタは本が好きね。今度は何を読んでいたの?」

 

「オーウェルの動物農場を」

 

「ああ、反ソ連の時のね。たまにはシェイクスピアやジェーン・オースティンを読んでみたら?」

 

「女性はロミオとジュリエットや高慢と偏見がお好きなものですか?」

 

 聞くと、彼女はちょっと唇を尖らせた。「デニス()みたいなことを言うのね」と。高慢と偏見の次女エリザベスのように大衆の価値観で括られるのをよしとしないのか、最近デニス・ウィルソン氏との仲があまりうまくいっていないのかは判別つきづらい。ウィルソン氏は会うたび英国病が抜けきらないような顔をしていたり、サッチャーに激しく批判的であったり、ロンドンの雨模様のような情緒不安定さを思わせるも、婦人をよく愛し子供たちのよき将来のために手を尽くしたりと、深い交友が無ければシーソーのように掴みづらい人物だ。俺と氏では子供と大人という関係性もあり、あまり詳しくないのが現状だ。

 逆に俺も家の中のことをべらべらとは喋らず、アンバディ氏も非魔法族の周囲に俺のことを他人か自分の子供か、はたまた親戚の子かはっきりさせないので、ウィルソン氏は子供の生育環境としてよくないとアンバディ氏を責めつつ出来ることがあれば手伝うと親密そうでいて曖昧な立場を選択している。

 俺としてもはす向かいの家の内実に興味を持つのは下世話かと思い、婦人には「すみません、クラスメイトの女の子にそれらを好む子が居て」とはぐらかした。

 

「まあ、その子が好きなの? それともアプローチをかけられて?」

 

 それに困ったように首をふる。

 

「いいえ、彼女は僕が高慢と偏見を読んでいるのを見つけて、今度はエマや分別と多感をいつ読むのかしきりに声を掛けてくるんです」

 

「なるほど、同世代のファンを増やしたくてしょうがない子が居るのね。アナタのファンなんじゃなくて、オースティンのファンなの」

 

「ええ、とても熱狂的な」

 

 クスクス婦人は笑いだし、「きっとその子のお母さまがオースティンファンなのね」と愉快そうに言う。「とても、熱狂的な」と付け足して。

 

「ロットの本好きもルパートから?」

 

「どちらかというと彼のは収集癖かな」

 

「まあ、将来あの大きな家を図書館にする予定かしら」

 

「その時はオリバーとトニーの好みの本も仕入れるように頼んでみるよ」

 

 軽口を叩きながら彼女はキッチンへ、自分は外で遊んでいないがこの家の習慣に則って手を洗っておかねばと洗面台へと別れ、いつものようにリビングのソファをひとつ借りた。

 

 さてあんな冗談を口にしたが、自分がアンバディ氏の邸宅に長居する可能性をあるというには些か懐疑的な姿勢にならざるを得ない。アーサーやアンバディ氏は子供に気を使ってか直接口にしないが、実際氏の家にお邪魔する約束は半年ごとに更新されるものだ。これ以上引き取るのが無理そうだと思えば氏は一か月半前にはアーサーに連絡し、その間に彼は新しい非魔法族での息子のお邪魔先を探す。見つからなければウィーズリー家に回収という流れになるだろう。

 モリーとアーサーの会話を偶然ウィーズリー家で聞き及び、初見まるで試すような真似でアンバディ氏の反応を窺ったが、その時は割合無関心寄りの評価を得たにも関わらず、受け入れの体勢は深々とあるように感じられた。

 

 実際、ルパート・へクター・アンバディという男は物事を切り捨てる側面と押しに弱い側面を持ち合わせている。そして他者に注目されるのを嫌い、同調主義をも嫌う。

 押しに弱いとは言ったものの、頼まれごとは舌先三寸で躱す印象も持つ。どちらかと言えば困っている人が居れば、己でどうにか出来るならば、と思ってしまう(、、、)タイプの人間だ。自罰的且つ厭世的という評価を下すのは、この短い期間でも難しくない。

 自分以外の他者をけだるげに嫌い、どこか地に足をつけず見下しているのに、他者からの悪評を恐れる矛盾を抱えている。悪評を避けるため、自分の健全な自尊心のために他者を助けるのに、そのために自分の資産や時間を犠牲にすることを厭わないという無意識の思考回路は破滅的だ。

 その不安定な青少年的熱情と俯瞰的で冷めた失望の様子は、果たして1年もここに居られるだろうかという不審さと、望めば幾らでも居られるだろうという狡猾さを脳裏に過らせる。彼はまるで死んでもいいと思いつつ、他者に迷惑を掛けないためにルールを守ってアクセルをいっぱいに踏むイカれたドライバーだ。その思い切りの良さと暗黙のルールの順守、形骸化したルールの無視が技術的評価を下されるだけで、鉄の塊(不注意)でいつ死んでも構わないペシミスティックな観念は時代的なものか、はたまた人生の過程で徐々に捻くれたものか、そうでなければある一点で悲劇的にねじれた運命によるものか。

 

 さてはす向かいの家の内情については下世話と忌避したが、居候先の家長についてはどこまで踏み込むべきか。踏み込まないにしても無知を装うか、口を出さずに寛容さを見せるか。30歳に差し掛かるかという年若い家長の人生・家庭環境・仕事が絡んだアンバランスさを、如何にして就学児が出しゃばらず生活様式の安定を図るかという命題は、果てしなく無謀に近い試みにも思える。

 などと埒も明かないことを茫洋と考えていると、幼児特有の明るい声が耳を打った。

 

「ロット、ルパートが迎えに来たよ」

 

 下の兄弟のトニーに声を掛けられ、はっとする。彼の声に導かれ婦人と上の兄のオリバーもリビングにやってきてアンバディ氏と世間話をしている。

 

「ナンシー、知人から貰ったワインなんだが、今年はうまく出来たそうだ。貰ってくれ。それから子供たち用にチョコレートも入れてある。いつもロータスを迎えに行ってくれて助かってる」

 

「あら、嬉しいわ。ありがとう」

 

「やったー! ルパートありがとう!」

 

 ナンシー(婦人)に袋を預け、彼は俺を見て手招きした。見慣れた硬い表情にひとつ頷いて開いていた本を閉じ、足の長いソファからずり落ちるように降りて彼の近くに寄る。30歳ばかしと10歳以下、年齢的基準は通過するものの、果たして我々が親子に見えるものだろうか。同じ年頃のナンシーとオリバー・トニーは見間違いようもなく親子なのが当たり前なのに奇妙なほど愉快だった。

 アンバディ氏も自分を家に置く上で、手を貸してくれる隣家への細やかなプレゼントであったり、様々な工夫をしてくれているという点では感謝の念に耐えない話ではあるけれど。後でこの件をアーサーへ伝えておかねばなるまい。自分からもウィルソン家を出てから感謝の意を伝えておくべきだろう。

 

「ルパート、デニス()もそろそろ帰ってくるし、一緒に夕飯はどうかしら」

 

 婦人の誘いに彼はにべもなく首を振った。

 

「いや、フィッシュパイを作ろうと生のタラとサーモンを買ってある。遠慮しておくよ」

 

「そう? ロット、好き嫌いせず食べるのよ」

 

「ええ、豚肉以外だったらね」

 

 頭を撫でて語る夫人にそう返せば、ぱちりと瞬いた後に「夕食前の『動物農場』はこれから禁止ね」と笑い、アンバディ氏は俺の持っている本の表紙に視線をやってから頭を軽く小突いた。

 

「デニスによろしく。帰るぞロータス」

 

「はいルパート。それじゃあまた、オリバー。トニー」

 

「また明日、ロット」

「チアーズ!」

 

 一家に別れを告げ、すぐそこのアンバディ家に帰る際、バラのアーチをくぐりながら彼はポツポツ俺に尋ねた。

 

「ロータス、ギフテッドのプログラムを推薦する話が学校から来ていたが、どう考えている?」

 

「放課後の課外活動か促進方式(飛び級)は有りだと思っています」

 

「クラスを別けて授業を受けるのと、サマースクールには否定的か?」

 

「そうですね。サマースクールとなると場所によっては家族にも負担が増えるでしょうし、GATE(Gifted and Talented Education・ギフテッドタレンテッド教育)は非魔法族の中でも一部に対する特別手段ですから、当初の目的の非魔法族の思想への根本的理解を考えると、僕がプログラム参加する必要があるのか少々懐疑的です。アンバディ氏はどうお考えですか?」

 

 つらつらと纏めた内容の返事をすると、氏は苦虫を噛み潰したような顔をして俺を見詰めていた。必然我々は立ち止まった。

 

 

「――――外でルパートと呼ぶように、家でもルパートでいい」

 

 

 辟易、同情、軽蔑、物珍しさ、それら全部を混ぜ合わせた魔女のスープみたいな顔だ。ちょっと笑いそうになる。

 少なくとも外でルパートと呼ぶのは、Mr.アンバディと呼ぶのよりかは家族、親戚、他人、そのいずれの印象も与えやすいようにという配慮だったのだが、思ったより彼との心の距離は近いようだ。彼は再び歩きはじめ、自分も短い足でそれを追う。

 

「それから、GATE自体が明確な選出基準を持たない点から、プログラムに参加しないという選択を持つことは禁止しない。ひとまず今お前が挙げたものは断っておく」

 

「ありがとう、ルパート」

 

 右の眉と頬をあげて、ふむ、とでも表現されそうな顔をした彼は、家のイトスギ――サイプレスの扉の鍵を内側に開けながらまたポツと言葉をこぼした。

 

「そういえば、『恐るべき子供たち』をまた映像化するとかで、キャスティングチームが各学校を回っているそうだ」

 

「はあ、それはまた」

 

 話題の変化に首を傾げながら、内鍵を閉めるルパートの背を見る。彼は此方を見ずに続けた。

 

「GATEの話のついでに、ダルジュロスとアガートの子供時代の一人二役のオーディションを受けてみたらどうかって話が出ていた」

 

「……誰に?」

 

「お前に」

 

「…………そっちも断っておいてください」

 

 今度は俺が煮詰めた魔女のスープのような苦虫を噛み潰した顔をして言う。顔は見えなかったが、小さくルパートが笑ったような気配がした。

 

 

 






色々あって実家に帰っておらず原作を買い直しても手元に置いておきづらい環境のままなので連載再開ではないのですが、書けそうな所を一先ず補足。
同僚の息子を6年も預かる変なオジサンに対する観察と所感。
あと日常の家族以外とする進路の会話と、当初の居候生活におけるギクシャク。


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