ぼくがかんがえたさいきょうのゼスティリア (ほーこ)
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改変点とあらすじ捏造チャート 


小説形式での作品がある場合は【】でタイトル標記


本編として上げている小説は全てこの設定に準じます。
ベルセリアは執筆者が未プレイ、設定組んだのがそもそもB発表前ということもあり、ベルセリアで登場するキャラ(アイゼン、マオテラス等)の設定がまったく異なる、性格がまったく違うなどの差異が発生します。
そもそも大元のバックグラウンドを改変しているので、ベルセリアとはまったく別の世界線であると思って読んで頂ければいいと思います。
下記の改変点を確認したうえで大丈夫そうだな、と思った方のみ本編をお読みくださるようにお願いします。

チャート風にあらすじ全部上げてますので、ネタバレが嫌な方は下の方まで飛ばすか、改変ポイントのみに目をお通しください


ストーリーの主な改変ポイント

 

* 穢れの設定→後述

* アリーシャのPT入り存続と従士の重要性を強化、併せてロゼの導師化とPT離脱(イベントキャラとして継続的に出演&ラスボス化。救済有り)。スレイとの対比描写を強化。

* 憑魔=天族を取り込むことによってパワーアップの図式を強化。変異憑魔は多くの天族を取り込んで変質してしまったもの。これを浄化するには導師のパワーアップが必要。

* ミクリオ、アリーシャ、スレイの三人の関係性を強化。加えてアリーシャ、エドナの女の友情も強化。

* ロゼの過去、周辺の設定全般【この手に遺るは】

* 風の骨関係全般

* デゼル過去。それに伴ってザビーダの過去も改変。二人の関係性の強化

* ゲーム中で死亡するキャラクターの生存(デゼル、マルトラン、ボリス、アイゼン、ジイジ)、また生存キャラの死亡(エギーユ)

* マオテラス関係全般(マオテラスの生まれた時代、能力その他)

* スレイとミケルの関係性(前世)

* ジークフリート関係の設定を追加。神器と天族、導師の設定を色々追加

* オリジナルキャラとしてハイランド王とその従者、ローランス皇帝登場

* 導師の試練の中身を天族それぞれの過去やトラウマに関連付けたものに変更(イメージとしてはRの試練)。スレイ、アリーシャと協力して試練を乗り越えることでキャラの掘り下げとスレイ達との信頼強化を図る

* 併せて試練の順番を変更&固定。地→水→風→火の順でライラをラストに。力の試練として戦う憑魔は基本的にゲームと同じ。また風の試練の際には一時的にアリーシャ離脱、ロゼ加入

* 時代背景の掘り下げ、バックグラウンドの設定の改変

 

他多数

 

 

 

改変ストーリーあらすじ 攻略チャート風(サブイベはカット)

 

 

 

 

戦争までは本編に準じる

ディンタジェル遺跡郡にて目を覚ましたスレイ。ドラゴンパピー戦でロゼが導師としての能力に目覚め、デゼルとの神依が可能に。

風の骨の情報力を借り、レディレイクに戻りアリーシャ救出へ。【もう一つの選択肢】

牢に忍び込んで囚われのアリーシャを奪還。

お尋ね者になったスレイ達は、戦争を仕掛けてきた理由を探るべく皇都ペンドラゴへ。

この時は行き先を同じくする風の骨が同行(教皇暗殺依頼の調査のため)。茶番はスレイとアリーシャとロゼの三人で行う。

その後、ロゼとは一旦別れる。

枢機卿と対面、逃亡。この流れはゲームに準じる。

教皇の行方を捜すべく凱旋草海を彷徨う一行だが、途中でスレイが枢機卿の穢れと従士反動でダウン。

責任を感じたアリーシャはスレイの負担にならないよう強くなりたいと強く願い、従士の力に関係するという遺跡に単独乗り込むことに。

アリーシャの無茶に気付いたミクリオが後を追う。ここでアリーシャ、ミクリオとスレイ、エドナ、ライラが一時分かれる。

ペンドラゴ近辺にあるガフェリス遺跡に辿りついたアリーシャにミクリオが追いつく。そこにザビーダ登場。

従士パワーアップイベント。アリーシャの窮地にはスレイも駆けつけ、見事クリア。【次の一歩を今ここから】

天族を特別なものとしてではなく、自然体で受け入れることによって、天族と呼応するための能力である霊応力が上がり、アリーシャは新たな力を手に入れる。(天族との協力技を使えるようになる)

ザビーダは普通の人間であるにも関わらず、天族を受け入れたアリーシャに興味を示し、同道を申し出る。しかしこの時点では正式な仲間では無い。

なお、パワーアップ後の従士は導師のブースターとしての役目を果たす。これで導師の試練を越える準備が整う。

一行はラストンベルでエリクシール売買をする男から噂を聞き、ゴドジンへ。ここでロゼとかち合う。

エリクシールの事実を知ったアリーシャは教皇に、この薬は必ずや国の基を揺るがす脅威になると説得。村人達を無用な恨みに晒さないためにも、薬の製造を辞めてくれるように頼む。代わりに遺跡の保守を名目に、セルゲイに村の保護を依頼する約束をする。

こうして教皇は薬の製造を辞めることを決意。帝国に自主し、刑に服する代わりに治療を受けることになる。

尚、ロゼ達は村長を殺すのは「割に合わない」と依頼の破棄を決定する。

ゴドジンで地の試練。【悠久なるは】

この試練でエドナの人間嫌いの理由が明らかになる。

兄と、彼の愛した人間の女性に似たスレイとアリーシャを好きになるまいとするも、この試練で己の心と向き合い、認識を変える。

失いたくないのならば、今度こそ己の手で守れば良い。

そう決意したエドナは新たな力を手にする。(神依時秘奥義、アリーシャとの協力秘奥義会得)

ペンドラゴに戻って枢機卿戦。

ここでは枢機卿の過去と心情の掘り下げを追加。何故彼女が狂ってまで国を守りたかったのか、その苦悩をスレイ達は目の当たりにする。

やはり石化に苦しむスレイ達だが、ここにゲームと同じくロゼとデゼルが登場。助力の末に勝利する。

何とか浄化したいと願うも、石化した兵士達の命は風前の灯。彼らと枢機卿の命を天秤にかけざるを得ない状況になったスレイは兵士達の命を救うためにフォートン枢機卿の殺害を決意。

ここでロゼが間に入って枢機卿を殺すのはゲーム通りの流れ。

枢機卿によって政敵から匿われていた幼帝登場。何故フォートンを殺したと詰る彼には、天族に対する激しい憎しみゆえに天族が見えていた。

そこに駆けつけるセルゲイ達。ここは収めるという彼の言葉に従って、スレイ達は教会神殿を後にする。

生まれて初めて憎悪の言葉をぶつけられて落ち込むスレイだったが、アリーシャ達の励ましと、弟を助けてくれたことを心から感謝するセルゲイの言葉でやや浮上。

もう二度と誰も殺さないで済むように強くなりたいと、ミクリオ、アリーシャと共に誓い合う。【暁の先にあるものは】

残りの秘力を手に入れるためにハイランドへ。ここはゲームと同じ。

レディレイクではお尋ね者扱いなので、直接水の試練へ。その途中でジイジにキセルを返しに行く。

力の試練はゲームと同じくアシュラ。なので剣も現存。

ここでスレイは己の過去を知り、己の魂の前身がミクリオを殺したこと。そしてミクリオは己の魂が災禍の顕主を生み出したことを知る。

今まで育んで来た友情とはなんだったのか。悩む二人を仲間が叱咤激励。

過去に何があろうとも、自分達が築いてきたものは決して嘘じゃないし無駄でも無いということを悟り、二人は試練を乗り越える。水の試練クリア。ミクリオ、スレイの秘奥義、アリーシャ、ミクリオの秘奥義会得。

ゲーム通りにマルトラン登場。ショックを受けるアリーシャ。ここでゲームの「もう知らないよ」イベント。

スレイの励ましを受け、マルトランの真意を探り、また城の内部にマルトランの動きを警戒するように報せるため、アリーシャは単独でレディレイクへ。

次なる秘力を求めて風の試練に向かうスレイ達。ここでデゼルのために秘力を求めて来ていたロゼとかち合う。

遺跡の入り口でザビーダが一時PTから抜けるため、ロゼとデゼルがPTイン。

ここで明らかになるのは風の傭兵団壊滅の時のデゼルの過去と、デゼルすら知らなかったザビーダとデゼルの因縁。

ジークフリード入手エピソード、サイモン初登場(回想)もここで。真実に耐えかねて、デゼルとロゼは途中で試練を辞す。

友のために手を汚したザビーダの決意の重さを知ったスレイが、それでも精一杯足掻くのを辞めてはいけないと力説し、ザビーダがそれに応えたことで試練クリア。ザビーダ正式加入。風の秘奥義会得。

ロゼ達のことを気にしながらも、アリーシャから最後の秘力の神殿の場所の手がかりを得たため、とにかく先へ。

アリーシャ合流。

城で唯一信頼出来る方から情報を貰ってきたという彼女は、火の試練の場所についての情報を得ていた。

そこで最後に火の試練。

そこでスレイの見たものは、ライラがずっと良心の呵責に耐えながら必死で隠していた真実。

導師が世界の穢れを一時的に祓うための生贄同然の存在であり、打ち捨てられて絶望に駆られた導師こそが災禍の顕主になるのだと。

導師を意図的に「作り出す」ために孤児を攫い、育てる施設こそがイズチを初めとする天族の里。

ヘルダルフはライラがその真実を伝えてしまったがために暴走したミケルが作り出した、最初の導師以外の災禍の顕主であること。

自分を形作っていた全てが粉々に砕けるも、泣き崩れるライラが真に何を望んでいたのか、何故ミケルに真実を伝えたのかを知ったスレイは、最終的にライラを受け入れる。

心に傷を残しながら火の試練クリア。火の秘奥義会得。

打ちひしがれるスレイとミクリオ。自分は導師にするために育てられたただの生贄だったのか。

苦悩するスレイ達に、イズチに帰ろうと提案するアリーシャ。もう一度、きちんと故郷を見つめ直した方が良いと。

帰ったスレイの顔を見て、ジイジを初めイズチの住人はスレイが真実を知ったこと知り、冷たい態度を取る。

ショックを受けたスレイは家に閉じこもってしまい、ミクリオの言葉にも耳を貸さない。

以前訪れた時とは明らかに違うジイジ達の態度を奇妙に思ったアリーシャは、ジイジ達を問い詰めて彼らの心情を聞く。

ジイジ達の答えは、スレイへの情愛に溢れたものだった。

これが、スレイが天族から解放される最後の機会になる。導師の辛い宿命を捨てるための、最後の分かれ道だと。

一方、スレイはアリーシャがジイジ達と話している間にイズチを出る。彷徨っていたスレイに接触を図るサイモン。幻術と言葉でスレイを惑わす彼女に、食ってかかったのはミクリオだった。彼の決死の説得と、サイモンの幻の前に揺れ動くスレイ。そこにやってきたアリーシャが、スレイにジイジ達の本当の心情を話す。君の故郷はどこなのか、君の家族は誰なのか。君が自分で決めるべきだと。

スレイは彼女の言葉に心を決める。天族と共に歩み、人との橋渡しを続けると。この決意を聞いてサイモンは撤退。

(スレイ、第二奥義習得。雷属性なのはジイジの影響)

イズチを出たスレイ達の耳に飛び込んできた開戦の噂。

一行はすぐにレディレイクへ。橋の袂で謎の女性に出会い、先導されるままに都の中に入ると、そこには謎の少年(13,4歳)が待っていた。

謎の少年がハイランド王だと判明。アリーシャとは遠縁に当たり、幼い頃からアリーシャに惚れている。

周りに敵しかいなかったアリーシャにとって、マルトラン以外に信頼できる唯一の人物。

幼いが、頭の回転の速さと豪胆な気質は紛れも無く王者の資質。

ここ数年はバルトロの妨害があって殆ど会うことが出来なかったが、アリーシャ投獄を切欠に何とかバルトロを失脚させたいと望み、従者である女性(元風の骨所属のメンバー)の助力を得て、危険を顧みず暗躍している。

彼は父をバルトロに暗殺され、バルトロに後見人として権力を好き放題にされていたことを明かし、最近ではマルトランとバルトロの接触が増えていることをスレイ達に話す。どうやらマルトランがバルトロに開戦を唆しているらしい。

実権を殆ど奪われているが故に無力に等しい王だが、出来る限りの協力をしようと約束して、少年は明日の明朝、マルトランが開戦を勅命を携えてグレイブガント盆地に向かうことをスレイ達に教える。

グレイブガント盆地。

開戦の勅命を奪うためにマルトランとの戦闘。戦闘後マルトランは自害を図るも、スレイに妨害される。この時、導師のグローブに傷がつく。

アリーシャはマルトランを追って森の中へ。彼女の葛藤、自身の憧憬。互いに抱いていた思いをぶつけ合い、派手な喧嘩に。

取っ組み合いの末、マルトランに抵抗の意思が無くなる。ここでスレイがライラと神依してマルトランを浄化するも、

この神依に耐えかねて、傷ついたグローブが壊れてしまう。

サイモン再登場。戦場で面白いことが起こるよ、的な発言をして撤退。

一時的に神依が使えない状態のまま、グレイブガントドラゴン戦へ

開戦を待つ二国の軍。そこに現れるドラゴン(アイゼン)。サイモンの幻で誘導されて戦場へ。

スレイ達は神依が使えない。とここにロゼ達が登場。ハイランド王の側近である女性からの要請であるらしい。

ロゼと天族達、アリーシャも力を合わせて戦うも、やはり大苦戦。秘力を得ているスレイが神依出来ない状態では、とても浄化は出来ない。

この時、裏ではハイランド王がローランス皇帝と接触を図っている。今こそ二国が力を合わせる時、長きに渡って続いた戦で国も民も疲弊している。

ここで力を合わせれば、必ずや後に講和する時の布石になるだろうと。

導師憎しで最初は拒んだ皇帝だったが、ハイランド王に諭されて最終的には了承。二国軍、ドラゴン戦に援護射撃。

軍の攻撃に怯んでいる隙に何とかアイゼンを浄化しなければ。焦るスレイに、ロゼはスレイが嫌ならあたしがやると提案。

しかしスレイはこれを拒否。そこで登場するのがジークフリード。

ジークフリードはアヴァロスト調律時代後期の神器であり、人の器に無理やり天族を憑依させることを可能としている。

これを使って、アイゼンの中にエドナを送り込めば、アイゼンの精神に直接語りかけることが出来るんじゃないか。

危険を伴う選択に、エドナは迷わずやると即答。導師との絆が切れなければ、必ず外への出口は見つかる。スレイを信じていると。

しかし、アイゼンが沈静化したとしても神依出来なくては浄化は出来ない。ジークフリートでの憑依は完全ではなく、浄化の力を100%引き出すことが出来ず、ドラゴンを浄化するには至らない。

兵士達が何とかドラゴンを抑えている間に、スレイ達は治療のために一時下がる。

悩むスレイ達に解決の糸口を示したのはハイランド王だった。

彼は初代の王が導師の助力を得て、レディレイクの湖を清め、王都を建立したという神話の裏側を話してくれる。

曰く、「当時の導師は王の妹であり、彼女は炎の聖剣、水の神弓を使って戦い、戦いの後は政から身を引いて遺跡の守として生きた」

当時人間は既に天族が見えなかった。だからレディレイクの「レディ」は天族のことではなく、建国の英雄である導師のことなのだと。

何を隠そうディフダ家の人間こそが彼女の末裔であり、だから遺跡の鍵の管理は代々ディフダ家がしていること。

傍流なのにも関わらず、王位継承権があるのもそのため。優先順位が低いのは、初代自らが政権から身を引いたから。

そして王家だけに伝わる秘伝の書には、天族が力を振るうための神器の記述はあったが、導師側のそれは記されておらず、天族、導師の双方の絆と、天族の心からの願いが力となる、という記述があるという事実をスレイ達に告げる。

彼の言葉を聞いて、ライラも語る。天族は穢れに弱い性質と、長きを生きなければならない宿命故に、強い願いを抱くことを本能的に避けるのだと。

陪神の願いの力を集約させてライラが神依することは不可能ではないかもしれないが、願いが叶わずアイゼンが倒れればライラ達がドラゴン化する恐れはある。どうするか、という問いにやろうと言ったのはミクリオ。アイゼンの友人であるザビーダもこれに同意し、一同はリスクを冒してもアイゼンを救う決意をする。

ロゼ達はこの判断を聞き、隙は自分達が作るとスレイ達に告げる。

兵の一斉射撃とロゼの援護によってエドナをアイゼンの中へ。

スレイとアリーシャはエドナが戻ってこられるように、力を高めてエドナに呼びかけ続ける。

エドナの決死の呼びかけによって、一時正気を取り戻したアイゼン。エドナを呼び戻し、スレイ達は神依化。アリーシャのブースト能力をフルに使って一行は初めてドラゴンの浄化に成功する。

アイゼンの腕に縋って泣くエドナ。アイゼンは長い間エドナに苦労をかけたことを詫び、スレイ達に礼を言う。

そこに現れたサイモン。まさかドラゴンを浄化するとは恐れ入った、と笑う。

「しかし、この世の闇は深い。お前の行動など焼け石に水だ。こうしている間にもどんどん穢れは増える。絶望は生まれ続ける。

お前にに全ての人間の不幸を取り払う力が果たしてあるか?それが出来ないなら、救世主は気取らないが良かろう。

救いを求める声に限りは無い。いずれお前も思い知ることになるだろうよ」

と不安を煽るだけ煽り、食ってかかるデゼルにラファーガの幻影を残して退散。

ロゼに手を上げようとするラファーガ、庇うデゼル。あの日の再現のような光景に、ロゼの記憶が蘇る。

ちょっと心の整理をしたいというロゼ達と別れ、スレイ達はラストンベルへ。講和条約に出席して欲しいというアリーシャの願いに応えて、スレイ達はラストンベルに数日留まることに。(サブイベ消化期間的な)

一方ハイランド王は戦争扇動に際して偽の勅命を出したこと、先王暗殺の証拠を世間に公表し、バルトロを失脚させる。

講和条約の締結のため、国境の町ラストンベルにハイランド王、ローランス皇帝と戦の功労者アリーシャ、スレイ、セルゲイが集まり、ラストンベルの鐘が鳴り響く中、講和条約締結。ここでスレイは両国主に自分の夢を伝え、彼らから最大限の助力をするという確約を得る。

その夢の実現のためにも、一刻も早く災禍の顕主を倒すと誓いも新たにするスレイ。

アリーシャは国に残るか迷うが、マルトランとハイランド王から背中を押されてスレイに同道することに。

ロゼ達の身を案じながらスレイ達は全ての始まりであるカムランを探すことに(ライラは村を作る前にミケルと別れたので場所を知らない)

導師信仰の濃い町ということでまずはローグリンを目指すことに。

メーヴィンと遭遇。彼は心の試練を仕掛けたのは自分だということをスレイ達に明かし、スレイ達を信じて、己の守ってきた真実の全てを継承しようと告げるが、そこにサイモンの横槍が入る。

サイモン戦。戦のどさくさに紛れてサイモンはメーヴィンを殺そうとするも、制約のためにそれも出来ず、失意の撤退。

戦闘の後メーヴィンはライラすら知らなかった彼ら語り部の成り立ちを明かし、神代の時代に一体何があったのか、

天族と人とは一体どういう関係なのか、時と共に二つの種族はどう道を違えたのか、マオテラスはどういう状況にあるのかを語り、寿命で息を引き取る。彼の死ぬ間際の問いに対し、スレイは「ヘルダルフをも救いたい」と改めて決意を語る。

彼ら語り部は人と天族の前身とも言って良い種族で、肉体を持ちながら制約の力を行使出来る唯一の一族である。

ミケルとミューズは彼らと人とが交わった混血であり、ミューズは特に語り部の血を強く引いていたために制約が行使できた。

メーヴィンに感謝しながら彼を葬り、スレイ達は一路カムランを目指す。

ジイジの拉致は無し。

カムランに踏み込み、一行は災禍の顕主であるヘルダルフとの最終決戦。

アリーシャの能力と秘力のお陰で穢れの影響を受けない一行に対し、サイモンは穢れの影響を受けて能力ダウン。

しかし彼女は対抗策としてルナールを連れており、彼にはスレイを倒したあかつきには、陪神の天族を全て食らわせてやると約束している。

ルナールには力を手に入れたい事情があり、利害関係から彼女に手を貸している模様。

サイモン&ルナール戦。ルナールは旗色が悪くなるとサイモンを置いて逃亡。

泣き縋るサイモンに対して、心配するなと言葉をかけるスレイ達は、彼女の穢れを浄化した後ヘルダルフの元へ。

ヘルダルフ戦。

勝利の後もダンジョン崩壊はせず、スレイは剣を投げ捨ててヘルダルフ浄化の道を選ぶ。

ヘルダルフを浄化するには、魂と同化しているマオテラスを引き離す必要がある。

元々この呪いはスレイの前世であるミケルがかけたものであり、故に解けるのは同じ魂を持ったスレイだけ。

「長い間苦しめてごめん」とヘルダルフに詫び、スレイはジークフリートを使って天族四人をヘルダルフの中に送り込んでマオテラスを魂から切り離す。(ミケルがやったのと逆のことをする)

マオテラスの切り離しは成功。スレイは四人を呼び戻し、ヘルダルフの浄化を行う。

しかし浄化しようとした正にその時、ルナールにジークフリートを奪われ、彼にマオテラスを奪取されてしまう。

一刻も早く後を追わねばならないが、ヘルダルフは放っておけない。全身全霊で彼を浄化するスレイ達だったが、浄化し終わった後、ヘルダルフには肉体の限界が訪れ、彼はその場で死亡する。

しかし、最期に立ち会ったサイモンに礼を言い、目を閉じる彼の顔は安らかだった。

彼の命を救えなかったことを詫びるスレイ達に、サイモンは静かにヘルダルフの魂を救ってくれた礼を言うのだった。

一方その頃、ルナールの策によってロゼ以外の風の骨の団員が、ハイランド憲兵隊によって検挙される。

ロゼと昔馴染みである双子は直前で逃がされロゼに危急を告げ、報せを受けたロゼはスレイ達に助けてくれるように頼む。

アリーシャはここで初めてロゼ達が暗殺組織の一員であったことを知り、激しく悩む。

とりあえずレディレイクに向かう一行。そこでスレイ達は、王が風の骨の成り立ちも抱えた過去も全て側近から知らされた上で、エギーユが団員を脅して無理やり暗殺させていたものとして彼を処刑する決意をしたこと聞かされる。

自身も風の骨出身である王の側近は、一連の決定はエギーユの仲間を守るための選択と、彼の意思を汲んだ王の苦渋の決断からくるものであることを涙ながらに語り、どうかロゼ達だけでも新しい人生を生きて欲しいと風の骨のメンバーの伝言を伝える。

話を聞いてロゼは荒れる。過去風の傭兵団が壊滅した時も、自分が人質に取られた経緯があり、記憶にないながらも彼女は無意識の内にそのことをずっと悔いてきた。記憶を取り戻し、仲間のために本格的に償いたいと思っていた矢先の出来事だっただけに、今回の騒動はロゼの精神を抉る。

一方、権威を持っているからこそ法を遵守すべき王族という立場と、散々力を貸してもらったロゼ達への恩義との間で揺れ動くアリーシャ。

王族が法を軽視すれば必ず国は荒れる。そうでなくとも風の骨に命を奪われた人間の無念と、遺族の悲しみは無視できるものではない。

罪は償わなければならないし、法に照らせば風の骨は全員死刑になってしまう。王の選択は最大限の温情を与えたに匹敵するもので、それをわかっているからこそ、アリーシャにはどうすることも出来ない。

現実の厳しさに泣くアリーシャに、スレイもまた自分の無力を強く悔やむ。

全ての人間を幸せにすることなど出来ないのだと、サイモンの言葉が今更ながらに心に染みるのだった。

エギーユ処刑当日。

処刑前にやり取りする王とエギーユ。王は仲間を守るために己に不利な嘘を貫き通したエギーユに敬意を表し、残ったメンバーは悪いようにはしない。必ずや更正させると約束する。

そして死刑執行の時。見るなと言われて追い出されたロゼと双子だったが、やはり見ないわけにはいかず、広場の隅でこれを見守る。

家族を守ると豪語しながら、自分は何をやってきたのか。自問するロゼの前に現れたのはルナールだった。

死刑執行。悲鳴を上げるロゼ。彼女の心が乱れたのを見計らって、ルナールはジークフリートに込めていたマオテラスを彼女に打ち込んだ。

ロゼ、災禍の顕主化。直前にデゼルに離れるように言うがデゼルは聞かず、彼女に取り込まれる形で共に憑魔化。

突然の力の爆発に広場は大混乱。多くの人間が闇を纏った少女が北に飛び去っていくのを目撃。

事態は深刻と判断した王は、双子から事情を聞くなり残った風の骨のメンバーを各地に散らせ、その情報網を使ってロゼの情報を集める。

スレイ達はルナールを追跡するが、彼は目的は果たしたとして自ら死を選ぶ。ここでジークフリート奪還。

後に残った遺品と、風の骨のメンバーの情報から、スレイ達は捨て子だった彼が自分の母親を依頼の際に誤って殺害してしまったことを知る。

そして後に自身が捨て子だったのではなく、生まれのせいで母親と無理やり引き離されたことが発覚してから、ルナールは人が変わってしまったらしい。

彼を救えなかったことを悔やむも、スレイ達はロゼの行方を追って、彼女が向かったらしい北の大国跡地へ向かうことに。

火山の噴火によって失われた大国。しかし人々は死に絶えたわけではなく、各地で小さな集落を作りながら生き延びていた。

しかし、火山灰は止まらず、日もささない。戦中であったハイランドやローランスにも逃げられず、人々はぎりぎりの生活を送っていた。

絶望で犇く死の大国。そこは憑魔の巣に等しかった。

サイモンの言葉、自身の無力さに押しつぶされそうになりながらスレイは進む。そして一行はとある集落で、ロゼらしき怪物が火山に住み着いたことを聞かされる。

火山の動きが活発化していることに怯える住民。彼らにハイランド、ローランスに逃げるように促して、スレイ達は火山を目指す。

ラスボス戦。

元々導師であるロゼとマオテラスの癒着は深く、簡単に切り離すことは出来ない。しかもこの国は憑魔の坩堝。ロゼだけに構っていられる状況では無いが、他にかまけていられるほどロゼは弱くない。

ロゼの穢れに当てられて、火山は大規模な噴火の兆しが見られる。このままではローランスとハイランドにも被害が及びかねない。

迷っている暇は無い。かかっているのは数十、数百万の人々の命。

殺すしかないのか、迷うスレイとアリーシャに救いの手を差し伸べたのは、ジイジを初めとしたイズチ、地の主の天族。そしてローランス、ハイランド両軍、彼らを率いるセルゲイとボリス、そしてマルトランだった。

人々の避難を両軍が、そして彼らの加護を地の主が。そしてイズチの天族はスレイ達を守る結界を張ることに。

ラスボス戦2

殺してくれ、と願うロゼと、ロゼを助けたいと願うデゼルと。

スレイ達はロゼに語りかける。まだまだ生きてやることがあるだろう、君の帰りを待っている人を悲しませる気か、と。

本格的にマオテラスの浄化が必要だと判断したスレイ達は、いちかばちか、ジークフリートを使ってスレイに天族四人全員を同時に憑依させ、浄化の力を最大限に発揮させるという荒業を取る。

下手をすればスレイの精神は破壊され、天族四人も確実にドラゴン化するだろう。

アリーシャが傍にいるなら出来る、そう言うスレイに全てを託し、天族四人はジークフリートの中へ。

アリーシャの従者の力と、天族四人の願いの力に支えられ、四人憑依に成功したスレイ。

ジイジ達の結界に支えられ、浄化を試みるも後一歩が足りない。

そこに現れたのはサイモン。彼女は自分がロゼの中に潜り、マオテラスを分離すると言い出す。

幻を見せる自分の力ならきっと、ロゼの精神を一時安らげることが出来るはず。

彼女の言葉を受け入れたスレイはジークフリートで彼女をロゼの中に送り込み、ロゼとマオテラスの魂を分離したところで

一気にマオテラスを浄化する。

浄化成功。

切り離されたマオテラスの浄化の力でロゼとデゼルも浄化される。

ロゼはサイモンに見せられた幻の中で、エギーユと最後の言葉を交わしたと言うが、サイモンが見せた幻は、

彼女が家族と共にあるという幸せな光景だけのはずだった。

彼の言葉はきっと真実だ、そう語るサイモンにロゼは堪え切れない涙を流す。

デゼルもロゼを救ってくれたことに感謝し、ザビーダと和解。

火山の噴火は収まり、住民の避難も順調に進んでいた。

王の協力もあり、各地で天族の本当の姿、そして彼らと生きていく方法を説いて歩くスレイ。

途中遺跡に出会えば探検し、古き知恵を掘り起こしては新たな真実を知っていく。

アリーシャは国に残り、たまに帰ってくるスレイの報告を楽しみにしながら、日々政務に務めている。

 

そして世界は新たな調律時代へと歩を進めていく。

 

大団円でエンド

 

 

[newpage]

 

 

 

[chapter:設定1]

 

 

 

■穢れの定義

 

負の感情そのものでは無く、それから生まれた絶望が濃くなったもの。元々天族と同じく力を使えた人間は、体内にその名残の力を持っており、己や己を取り巻く呪詛として力が発動すると、力が穢れに変異して発現する。増えれば増えるほど運が遠のき、悲劇が起こりやすくなる。

人間の力がそもそも微弱なので、少量である内は大きな問題にはならないが、力が高まり呪詛が完成すると己の力に蝕まれて憑魔になってしまう。

基本的に強い望みや目標を持っている人、周りに理解者や心の支えになる人間がたくさんいる人は穢れを生み難い。

が、そういう人程支えを失った時に一気に憑魔になる可能性は高い。

 

 

■霊応力とは

 

生まれ持った才能ではなく、育った環境や経験で培われる。

平たく言えば「どれだけ天族の存在を当たり前に捉えることが出来るか」という感覚。ちなみにあくまで天族を見るための能力であって、霊感とはまた別物。スレイは恐らく両方ある。

また天族自身は自然を操る能力故か感覚が鋭く、霊感がある個体が圧倒的に多い。

また天族とは穢れと切っても切り離せない関係にあるためか、霊応力を得ると穢れの感知能力も上がる。

 

 

■天遺見聞録執筆

 

200年前。何が何でも200年前。カムラン崩壊も200年前。ライオン丸が生まれたのも200年前。

ライラと先代同士の旅も200年前であり、サイモンとライラの剣の乙女交代はそれよりも後。

ミクリオは呪いの媒体として使われた魂を200年かけて清め、その後天族として転生した形。

その際に水の力で魂を清めたため、水の天族となった。

尚、カムラン付近は近年でも小競り合いが頻発しており、最近起きた小競り合いは風の傭兵団壊滅と関わっている。

 

 

■八天竜

 

暗黒時代、人と天族が分かれて戦った際に人間側についた天族のうち、愛する人を戦で失ってドラゴンになった者。

アイゼンもこの一人であり、彼は恋人と一緒に再び人間と天族が共存し合う道を探していた。

サブイベとかで全員浄化すると良いことありそうな感じの響きではある。

 

 

       

 

■ロゼの過去

 

色々変更。特に風の傭兵団壊滅時期、壊滅時の状況など。

        

   

以下詳細

 

壊滅は多分十年くらい前。ロゼは天才的な剣の才能を持った傭兵団のアイドル(ちびっ子的な意味で)

双子は傭兵同士の子供で、後方支援の手伝いをしていた。

カムラン跡地の小競り合いで傭兵団に出動依頼がかかるが、相手の様子がおかしい(憑魔が混じってる)ため、傭兵団が拒否。しかしどうしても勝利したいローランス貴族の一人がロゼを攫って人質にするという暴挙に出る。デゼル達がロゼを救出に向かうも間に合わず傭兵団は壊滅。デゼルの親友は憑魔化。

目の前でその変化を見たロゼは、恐怖の余りデゼル達の記憶を封印。天族も見えなくなる。

壊滅後子供とエギーユだけが生き残り、ロゼの剣の才能に目をつけた暗殺ギルドに拾われる。エギーユは怪我のために戦えなくなるが頭脳担当として無理やりついていき、可能な限り子供達のサポートをしていた。

ロゼと双子はお互いの命を盾に取られ、望まぬ暗殺に手を染めることになるが、互いの無事だけを心の支えにして今日まで憑魔化せずにいる。

現在の風の骨のメンバーは、殆どがロゼのように攫われてきたり拾われたりで暗殺者に育て上げられた子供。

あと多分この設定だとロゼとデゼルは多分救済有りのラスボス。

 

 

■デゼルの過去

 

ロゼの過去変更に従って色々変更。更にザビーダ関連で設定の追加有り。

ロゼの体を操って暗殺ギルドを立ち上げた設定は改変。ひたすらロゼのことを心配して守るストーカー。

 

 以下詳細

風の傭兵団の団長が霊応力を持っていた関係で、ロゼも幼い頃からごく自然に天族の存在を受け入れていた。

意外に父性本能強かったのか、チビのロゼに結構メロメロ。ロゼもデゼルに懐いていた。

ロゼが攫われた際には親友と二人でロゼの救出に向かい、風の傭兵団の元に送り届けようとするも、間に合わず。

団長が目の前で亡くなったことを切欠に親友が憑魔化。止めようとするも力及ばず、ロゼと双子だけを何とか逃がす。

目はその際に親友にやられた模様。

サイモンはその際、風の傭兵団を壊滅に追い遣った憑魔に関わりがあったらしい。

 

 

■ザビーダ

 

ジークフリート入手関連で、デゼルの友人関係の絡み追加。またロゼ、デゼルの早期離脱に伴ってパーティー入りが早くなる。

 

以下詳細

      

デゼルの親友の兄貴分的な存在で、銃は元はデゼルの親友の物だった。器にする神器。

傭兵団が不穏な依頼を受けてザビーダに相談していたものの、ザビーダ本人は人間と関わることに積極になれず、結果傭兵団壊滅。

様子を見に行って壊滅の瞬間に立ち会い、親友が憑魔化した瞬間を目撃。デゼルが襲われているのを見て咄嗟に止めようとするが、すぐに振り切られてしまう。

そこで足元に彼の銃が落ちていることに気付き、発砲。弟分をその手にかけることとなる。

デゼルはその時点で既に視力を失っていたため、ザビーダが親友を殺した事は知らない。

       

 

■風の骨

 

原作と異なり、完全に職業暗殺ギルド。こいつらは暗殺で飯食ってる。

セキレイの羽は存在するが、完全にダミー。稼ぎは余り無いし、そもそも別の「表の顔」をいくつも持っている。

エギーユは非戦闘員で頭脳労働担当、双子は実務担当。

風の傭兵団の後身では無く、元々別の組織だった暗殺ギルドに壊滅後の風の傭兵団員が吸収された形。

先代頭領のやり方が酷すぎて家族に危害が及びそうだったため、五年前にロゼが先代を殺害。頭領となる。

 

 

[newpage]

 

 

 

[chapter:設定2]

 

 

 

 

■人間と天族

 

神世の時代までは同じ種族だった。具体的に言うと天響術使える人間。力の強い者は浄化の力も持っており、そのために大きな権力を持っていた。五大神はその筆頭。

しかし神世の時代の末期に大きな争いが起こり、呪詛の気(後の穢れ)が世界を覆い尽くし、世界は滅亡寸前まで追い込まれる。そこで人びとは結託し、ある者は自然と通じる「力」を、ある者は物質として存在するための「体」を誓約のために差し出して、世界の浄化を行う。力を差し出した者は人間に、体を差し出した者は天族にそれぞれ分化した。

しかし、単独で穢れを浄化する術を失った人はこのままでは滅んでしまう。

そこでマオテラスは自己の存在の喪失を誓約にして加護の力を天族に、残り四人は永遠に眠り続ける事を代償にして霊応力を人間にそれぞれ与える。

五大神はこの時代の人間のトップ的な立ち位置であり、争いの原因でもあった。その事を悔いて責任を取った形。

彼らの犠牲の結果、己だけでは穢れを浄化することが出来なくなった両種族が手を取り合い、支え合う形で存続することが出来るようになった。

 

 

■天族の特性

 

思念体に近く物体ではない。

電波に例えるなら発信力が極端に弱く、受信力が強い。そのため周囲の環境に影響を受けやすく、穢れに非常に弱い。

穢れに触れただけでは憑魔化はしないが、弱い個体はそのまま消えるか病んでしまう。長期間病むと魂が変質して憑魔化するが、ドラゴン化までは行くことは殆どなく幼生に留まる場合が多い。また病んだ魂は転生できず、そのまま穢れの無い場所で魂を清める必要がある。

己の情報を発信する力が弱く、天族以外から認識されることが非常に難しい。特に人間は鈍感なため、当たり前に天族の人間を受け入れ、その存在を感じようとする意思を持つ人間で無いと姿も見えないし声も聞こえない。

肉体的な縛りが無いため、意思の力によってその力が大きく左右されるが、一般の天族は特定の欲求を持たないのが普通。自然に寄り添い、あるがままを受け入れるスタンスのため、微弱な天響術が使える程度に留まる場合が多い。運命を否定しないが故に絶望の余り己を呪うことは殆ど無く、外部から穢れの影響を受けない限り憑魔化することはほぼない。

例外は人間と深い関わりを持つ個体で、彼らの多くは人間の影響を受け、個性を大きく伸ばす傾向にある。意思が強くなる分力は増すが、特定の欲求を持つようになるが故にそれが折れた時にドラゴン化する危険性は高くなる。

 

 

■人間の特性

 

発信力が強く受信力が弱い。天族の逆。

天族と比べると非常に我が強く、意思が強固。自然と通じる力を失ったため、天響術は使えない。しかし僅かに力は残しており、絶望に駈られて己自身を呪うことことで軽度の呪詛の気を発生させてしまう。これが穢れ。穢れが堆積し、呪詛が完成すると魂が変質して憑魔になってしまう。自分では認識出来ないし、浄化も出来ない。完全に憑魔と化してしまうと、戻るのは並大抵のことでは無理。

感受性が低いので少しでも天族の存在を疑う気持ちがある限り、天族の姿を認識出来ない。天族を信じたいでも駄目、いるべきだ、でも駄目。居て当たり前という認識でなければ見ることは出来ない。稀に心のまっさらな子供が天族の姿を見ることがあるが、社会の常識や大人の教えに感化されて普通は大人になるにつれ見えなくなる。子供がお化けを本気で信じるのと同じ心理。

スレイのような特殊な環境に無い限りは天族を見ることは出来ないが、代わりに天族と意思を通じ合えればその力を引き出すことが出来る。天族自身は他者に影響を与える力が殆ど無い故に、大規模な力は人間の仲介がないと行使出来ない。その最たる例が導師であるが、導師は滅多なことでは現れないので、信仰によって加護領域を引き出すことを代替手段としている。加護領域は新たな穢れを蓄積させないこと、軽微な穢れを祓うことは出来るが、憑魔や大規模な穢れを浄化することは出来ない。

 

 

■時代背景

 

○神代の時代 期間:千年くらい

 

人間と天族がまだ分化していなかった時代。

現代のように自然発生的に生ずる穢れは自分達で浄化出来ていたので無問題。問題となるのは誰かが意図的に他者の魂を捻じ曲げようとする時に発する「呪詛の気」。これは職業的に浄化の力を振るう神官にしか浄化出来ない。また、自己の魂の否定によって意図せぬままに己を呪い、行き過ぎて憑魔になった者の対処も神官の管轄。そのために神官は大きな敬意と畏れの対象だった。

この時代の末期、後に五大神と呼ばれる五人の神官の下、人々はそれぞれの派閥に分かれて大きな争いを起こすことになる。呪詛の気が世界に蔓延し、自然物が影響を受けて憑魔化、世界が滅亡に向かおうとしていることに気付いた人々は、自分達の未来と引き換えに世界を浄化。争いの原因となった五人の神官は、その身を以って彼等を救うべく誓約を立て、人類は天族と人間とに分化した。人々はその献身を讃え、世界のあちこちに神殿を作ってこれを祀ることになる。

 

○アヴァロスト調律時代 期間:八百年くらい

 

スレイが目指す人間と天族の共存時代。

人々は天族と人とが元々一つであった時代を記憶しており、五大神の恩恵である霊能力で天族と協力し合って穢れを祓い、また加護で以って集落を守って暮らしていた。天族は信仰の対象では無く共存者であり、生きていくためのパートナー。特に天族と理解し合い、彼等の力を引き出す者は「導師」と呼ばれ、その力を持って憑魔を祓う者として、大きな尊敬を集めた。

また天響術と人間の技術を融合させた特殊技術が見られるのもこの時代の特徴。遺跡に見られる仕掛けもそうだが、特にこの時代の技術の粋を結集させたのは「神器」と呼ばれる道具で、人間が天族の力を最も効率的に引き出すために作られた。人間が天族の力を振るう際の媒体となる。天族用と導師用の二種があり、天族用の物は直接力を振るうための武器としての役割も果たす。対して人間用の神器は、霊能力を増幅させるための装置で、受信効率を高めることが出来る。本来ならば導師になる(神依が出来る)レベルに達するには、誓約によって浄化の力を得た高位天族と特定の個人がもの凄く強い信頼関係を結ぶ必要があったが(恐らく最低でもミクリオとスレイレベル)、神器の発明によりハードルが下がり、互いに悪感情を持っていなければ契約出来るようになった。しかしリスクは当然ある。

神器はスレイ達の時代でも現存しており、あちこちに祀られたり埋もれたりしている。レディレイクの地下に祀られていたのはその一つで、ジークフリートは最も後期に作られた神器。

ライラはこの時代の末期の生まれ。暗黒時代の前の良い時代を若干知っている程度。

 

○クローズドダーク(暗黒時代) 期間:五百年くらい

 

現代とアヴァロストを隔てる闇の時代。この時代に何があったのか、後世には詳しく語られていない。

しかし、確実に天族と人間の関係性が変化した時代であり、この時代以降天族と人間が当たり前に共存する光景は見られなくなる。

八天竜が生まれたのもこの時代で、恐らくザビーダ、エドナはこの時代の生まれ。ザビーダは中期、エドナは後期か。アイゼンはザビーダと同年代。

恐らく人間と天族とが二分される何らかの戦いが起こり、人間の多くは憑魔化し自滅の道を辿り、争いを避けて生き残った人間は次第に天族の存在を忘れていった。

八天竜は人間を愛し、天族を裏切って人間の側についたものの、愛する人は争いの中で死亡。絶望に駆られてドラゴンに身を落としてしまう。この事が原因でエドナは人間に良い感情を抱いていない。この頃には辛うじて自我を保ち、周囲に危害を加えないために殆どの時代を眠って過ごしていた八天竜だが、後に災厄の時代を迎え、穢れに当てられて段々自我すらも失っていくことになる。

人間と天族が仲違いし、 人間が天族を認識出来なくなって世界がまたもや穢れに冒され始め、焦った天族の有力者五人が、天族信仰によって加護領域を広げる方法を思いつく。この五人が初代五大神側近。輿入れ契約必須の強い憑魔の浄化は出来ないが、世界を清浄に保つくらいの働きは期待できるのではないかと、最善の方法を模索した。

そこで天族達が考えだしたのが、アヴァロスト時代の「導師」への畏敬を利用する方法。導師を明確に「神」である天族と人間の仲介者に仕立て上げ、人間の信仰心を煽るというもの。天族を認識する子供を育てるため、五大神を祀る神殿の近くにいくつかの場所が用意される。そのうちの一つがイズチ。当時の長はジイジでは無い。

こうして世界を浄化する駒として人間を利用する現行の「導師」制度が確立し、天族と人間の心の距離は逆に隔たっていくようになる。

 

○アスガード時代 期間:五百年くらい

 

天族信仰が確立した後の時代。

天族は「神」の代替物となり、導師は信仰を広める存在となる。信仰を広める一環として能力を使い、穢れを祓い、人々の前で数々の「奇跡」を体現してみせたため、導師についての文献が最も多く残ることとなる。また、遺跡の様式などはアヴァロスト調律時代のものを模倣したものが多く見られるが、当然天響術を使った仕掛け等は無いのが特徴。

導師制度が確立したのもこの時期で、定期的に新たな導師が誕生しては世界を浄化し加護を守り、そして歴史の闇へと消えていった。その多くが天族とも人とも本当の意味で交われず、苦悩の内に天族から見放され、憑魔と化したり孤独に死んだりしていったのが真相。また導師が契約を結んだまま憑魔化すると、天族を取り込んだ状態で憑魔化し、災渦の顕主となる。そうならないために主神の多くは憑魔化する前に人間を見捨てる選択肢を取ったが、導師との絆を捨てきれない天族が皮肉にも災渦の顕主を生んでしまう結果となった。また災渦の顕主が生まれず災厄の時代が来ずとも、単に信仰心が弱まっても加護の力は弱まるため、信仰心を鼓舞するために導師は途切れることなく生まれ続けることになる。

この時代の末期に先代導師ミケルが誕生する。他ならぬ導師が新たな災渦の顕主を誕生させてしまったため、この災渦の顕主を鎮めるに足る魂の持ち主が現れるまで、新たな導師は生まれず、スレイの誕生まで導師伝承は沈黙することになる。この間実に二百年。

 

 

■先代導師ミケル

 

先代導師であり、当捏造設定ではスレイの前世。

妹と共に天族の村で生まれ育ち(イズチ出身ではない)、導師としての宿命を得て世界の浄化のために旅立つ。

旅の道中で遺跡に触れ、アヴァロスト調律時代の存在を知り、やがて天族と人間の共存を強く夢見るようになるも、ライラの言葉などから導師制度の真の姿を知るに従ってその夢は絶望に変わっていく。

歴代の災渦の顕主の多くが先代以前の導師が憑魔化したものであり、彼等の絶望の元は天族に見放されたことにあるという事実。導師は世界を浄化するために天族が考え出したシステムの一部であり、体の良い駒であることなど。

真実を知った彼は当時の主神と絆を断ち切り、人と天族の真の共存の夢に賛同してくれたライラだけを供に、その方法を探して世界を旅することになるが、ライラは浄化の力を持たず、多くの憑魔を殺さなくてはならない境遇におちいる。まずは世界の穢れをどうにかしなくては、と考えたミケルは、多くの穢れの根源である戦争を何とかしたいと考えるようになり、そのためには大陸全土を加護する力を持つマオテラスの存在が重要だと考えた。そこでローランスの神殿に侵入してマオテラスを奪取、北の大国とローランスハイランド三国の要衝の地にマオテラスを安置する計画を立てる。

マオテラスの加護が三国平等に行き渡れば争いを生む格差は無くなり、結果として戦争は無くなるはず。ミケルの考えはそういうものだったが、誓約のために意思の疎通がほぼ不可能なマオテラスと契約を結ぶことは出来ず、結局信仰の力に頼るべく導師を信じる人々を集めて村を作った。これがカムランの始まり。

しかし、人間というものをわかっていなかったミケルの甘い願望はすぐに打ち砕かれることになる。ライラはマオテラス奪取の時点で反対していたが、村を作る段になって完全に袂を分かち、一人になったミケルは己の願いをかなえようと暴走することになる。ライラは本来ならばミケルの知りえなかった導師制度について彼に伝えたことを猛烈に悔い、後にどんなに心が痛んでもそれを口にしてはならないと己に誓約を立てて浄化の力を得ることになる。

こうして三国要衝の地に作られた村は、戦に飢えた権力者の格好の餌食となり、ミケルはカムラン破滅の原因を作ったヘルダルフを呪うに到る。

呪いを解く方法は二種類。呪った当人がそれを解くか、呪った人間の魂を消滅させるか。

どちらにしても呪った当人の魂を持った人間が転生しなければ災渦の顕主になったヘルダルフは倒せない。よって二百年新たな導師は生まれずに、歴史は導師スレイの誕生を待つことになる。

 

 

■災渦の顕主ヘルダルフ

 

霊応力が無いのに災渦の顕主になった稀有な例。

周囲の人々を残酷な運命に叩き込むという己の宿命を呪い、孤独に苛まれて二百年を過ごす。己と同じ闇を抱えたサイモンを側近として抱えるも、彼女をも悲惨な運命に陥れないために心の距離を取り続けていた可哀想な人間。

呪いの正体は穢れたマオテラスをヘルダルフの魂に同化させるというもので、己の意思というものが極端に薄いマオテラスだからこそ可能だった技。己とミクリオの魂を変質させ、その穢れでマオテラスを憑魔化、呪いの力でヘルダルフの魂に送り込むという荒業で、恐らく神器の力を利用した模様。ミケルがアヴァロスト時代の技術を研究していたからこそ可能だったと思われる。

ヘルダルフは天族の存在を信じておらず、したがって導師としての資質は無い。故にマオテラスの力を完全に発現させるには到っていないが、ヘルダルフはこの穢れた力を完全に発現させるための器と、マオテラスを魂から切り離す方法をずっと探している。

導師という存在と、それを生み出したこの世のシステムを心の底から呪っており、元々導師であった災渦の顕主によって世界を混沌におとしいれ、導師信仰の芽を完全に摘むことを強く望んでいる。

人々の希望たる導師を奪ってしまえば、人々は無駄な希望を抱かなくなる。多くの天族のようにあるがままを受け入れ、欲を抱くことなく生きれば穢れない世界が実現でき、導師も要らない。世界を憎んでいるようにも思える彼の願いだが、根底にあるのは己と同じ命運を辿る人間、そして導師という過酷な宿命を背負う人間が二度と生まれないで欲しいという純粋なる思いである。

 

 

■サイモン

 

元々導師に試練を与えるために誓約を行った天族で、生物を殺せない誓約を背負った代わりにありとあらゆる幻を見せられる力を得た。

剣の乙女として導師の選定を行うのが役目であり、第一の導師の試練を担っていた。導師として過酷な宿命に耐え得るかどうかを幻を使って試すのが役目だったが、レディレイクの祭壇で人々の願いに触れる内に人を愛する心に目覚め、自分の力で人々の幸福を得たいと望むようになる。

加護の力は誓約に関係無く行えるが、サイモンのそれの力は弱く、憑魔の力が強まるに連れて穢れを除去できなくなっていく。そこでサイモンは穢れを生む人々の心を支えようと、己の幻を使って悩める人々を救おうと奮起するも、所詮は幻であり、仮初の幸福を味わった人々の心は却って荒む一方だった。

自分の力は人々に何も与えることは出来ない。与えられるのは破滅だけ。サイモンは己の力の限界を悟り、剣の乙女の役割を放棄してレディレイクを出奔。旅をするうちに災厄の時代の根本となるヘルダルフに出会うが、彼もまた他者を不幸に陥れる孤独な運命を歩む者と知り、共感を抱く。また、サイモン自身人々の欲に際限が無いことを良く知っており、そんな状態で聞いたヘルダルフの理想「穢れない世界」はこの上ない魅力に思えた。

人々の欲がある限り、穢れは祓っても祓っても消えはしない。やがて祓いきれない穢れを浄化するために生贄である導師が生まれ、運が悪ければ導師は新たなる災渦の顕主となって穢れを振りまく。

不の連鎖は終わらせなければいけない。そう考えたサイモンは、自らヘルダルフの下で働くことを決意。スレイの前に立ちはだかることになる。

 

 

■ジークフリートと浄化

 

ジークフリートは人間と天族の関係が悪化し始めたアヴァロスト調律時代後期に製作された神器であり、力を行使するために必要な肉体を持たない天族が、無理やり人間に憑依するために発明されたもの。

そもそも神依とは人間と天族の間に深い絆が必要であるため、ジークフリートで神依した場合、天族の持つ力の中でも特に意思の強い天族しか使えない浄化の力は、殆ど使えないか或いは威力が半減する。

天族は思念体に近いため、その力の強さは意思の強さに依存する。そのため、人間と天族の絆が強く、尚且つ願いの形を一致させた時に最も強い力を発揮できる。願いが一致していないと、人間と天族の願いの齟齬が、天族の意思を弱める壁となってしまうから。逆に言えばこの二つの条件を完璧に満たしていれば、浄化の力を使うのに制約をかけることも不要。

終幕の四人同時憑依は、試練を越えて天族四人の精神力が強くなり、尚且つスレイと彼の力の増幅をするアリーシャとの信頼度が最高、更に「ロゼとデゼルを助けたい」という強い願いが完全な形で一致していたため、四人全員が浄化の力を持ったのと同等の効果が得られた。故にジークフリートでの憑依にも関わらず、マオテラスを浄化するほどの力を得られた…とか。

 

 

■アイゼン

 

天族と人間の戦の折に、人間の女性に惚れ、彼女と共に再び天族と人間が共に生きられる道が無いか模索していた。

彼が所要で出払っている隙に彼女は人間に見つかり、天族と絆を結ぶ裏切り者という形で、人間に処刑されてしまう。

エドナは彼女に隠されていたため、人間の手にかかることなく無事だった。

アイゼンはかねてより、戦場の穢れを祓うため、そして彼女が自分の身を守れるようにするために、自分が制約をかけて浄化の力を得、彼女と契約することを望んでいたが、アイゼンの中の何かを縛ることを嫌がって彼女が拒否。

アイゼンは古の人間が持っていたという、制約を用いないで浄化の力を得る方法を探すために遠出をしていて、その隙に彼女が襲われた。

なので上記の四人同時憑依浄化の真相については、アイゼンのサブイベントとかで仄めかすような形で伏線を張れたら…素敵だな。

エドナは兄のことも、兄の彼女のことも慕っていたが、夢を語って邁進し、その結果あっさり自分と兄を置いて逝かれたことがトラウマとなって、それが人間嫌いへと繋がっている。

「期待したって無駄。どうせすぐに消えるんでしょ?人間なんて所詮その程度」

それが序盤エドナの人間への認識。スレイの言葉に山を出たのは、夢みたいなこと言って笑うスレイがどこか兄に似ていたから。期待しないようにしていたが、それでも少しだけ信じてみずにはいられなかった。

 



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アリーシャ救出編
もう一つの選択肢 1


ピクシブで連載していたものです。
非常に長いので分割で投稿します。

アリーシャと一緒に旅がしたかったなぁ、という気持ちを詰め込みました。



 

「ロゼさんを私達の旅に誘いませんか?」

唐突なライラの言葉にスレイは思わず彼女の方を振り返る。

「え?何、突然」

「僕も同意だ」

いつもと変わらぬおっとりとした笑みを浮かべたライラの言葉を、ミクリオが継ぐ。冷静で明快、はしゃぐスレイを嗜める時と同じ調子で彼は言う。

「スレイの良い仲間になると思う」

「ミクリオまで…」

振り返った親友の顔にふざけた様子はまったく無い。寧ろその表情は酷く真剣で、別段スレイでなくたって彼が本気であることを察するのは容易いだろう。

その真剣な表情がふと緩む。微かに浮かんだ笑みは、その奥底にほんの少し寂しげな色を抱えていた。

「ジイジが言ってた、『同じものを見て、聞くことが出来る真の仲間』だよ」

「それに、ロゼさんの霊応力はスレイさんに比肩するほどのものです。アリーシャさんの時のように従士の代償でお互い苦しむことも無いと思いますわ」

「なっ…?!」

普段と変わらぬ笑みを浮かべたライラの真意は窺えない。しかし真の仲間、そう言うミクリオの笑みは、最早はっきりと自嘲の様相を呈していた。

彼の意図するところを悟ったスレイは、ただ呆然と親友の顔を見遣る。

眉目秀麗な幼馴染は、黙って立っていればクールな二枚目だが、普段はその表情をクルクルと良く変える。歳の割に冷静に見えるのは彼がそうしようと努めているからであって、内面はスレイ以上に激情家だし、人情に厚く義理堅い。そのミクリオがまるでアリーシャを切り捨てるような意見を肯定してまでロゼを推す理由がわからないほど、スレイは彼と浅い付き合いはしていない。

「そんな言い方…それじゃあ…」

続けるべき言葉を見失って、結局スレイは口ごもる。否、続けるのが怖かった。

ロゼに霊応力があることは、ロゼと会った時にライラが言及していたから知っている。彼女に何故か風の天族がくっついていることも知っているし、ならば協力してもらえれば心強いだろうとは思う。しかし、それと彼女を仲間として受け入れられるかどうかは別問題だ。

スレイはロゼを知らない。彼女が何を思って暗殺ギルドの頭領でいるのか、どんな気持ちで「仕事」をこなしているのか。何故穢れを生まないのか、どうして天族を見ることを拒絶しているのか。ロゼという人間を何も理解していないのだ。

その彼女が真の仲間だというならば、幼い頃から隣に居て、遺跡を探検しては議論を戦わせ、自分の危険を顧みずにライラの陪神になることを買って出たミクリオは一体何だというのか。初めて出会った人間で、スレイの不振そのものだっただろう行動を嗤わず、見えないにも関わらずスレイの家族も同然である天族の存在を肯定してくれたアリーシャは――。

「俺は…」

搾り出すように顔を上げた、その瞬間だった。

スレイの視界の端に移った壁。遥か昔に作られたはずのそれには、継ぎ目も無ければ溶接した跡も無い。まるで巨大な岩石から削りだした一枚岩のように強固なそれから、不意に白い煙が噴出する。勢いを増したそれは瞬く間に狭い空間を侵食し、視界を白く染め始めた。

「とにかくこれ、何とかしないとヤバいんじゃない?」

そう言うエドナの声は言葉とは裏腹に酷く淡々としていたが、それでも内容に間違いは無い。このままじっとしていれば、人間であるスレイは確実に煙に巻かれて死んでしまう。

「とにかく煙を止めよう!仕掛けを探すんだ!!」

ミクリオはそう言うと弾かれたように走り出す。

視界はみるみる翳っていく。議論している時間は無い。それだけは確実だったから、スレイも胸中にもやもやした物を抱えながら、仕掛けを解除すべく走り出した。

 

 

「スレイさん!!ロゼさんに真名を!!」

悲鳴じみたライラの声が、古代の遺跡に響き渡った。

握った剣の柄が汗で滑る。何とか振るわれる爪を掻い潜って剣を振るったが、元々刃の無い儀礼剣ではその硬い鱗の欠片すら切り取ることは適わなかった。

ドラゴニュート。天族が穢れに染まり、憑魔と成り果てたその姿は、いつか出会ったドラゴンよりも遥かに小さいが、それでも遺跡の天井に頭がつきそうな程度には大きい。体を覆う鱗は硬く、刃はおろか天響術ですら殆どダメージを与えられない。既に幾度も剣を振るっているが、それでも相手が堪えた様子はまったく無く、スレイの息が上がるばかりだ。

決定打が無いと勝てない。

ちらりと声のした方を見ると、どこか呆然とした表情でロゼが戦況を見つめているのが見えた。ついさっきまでは憑魔はおろか、すぐ傍に張り付いていたデゼルの存在にすら気付いていなかったというのに、今の彼女は確かにスレイ達の戦いを捉えている。

彼女の実力は知っている。この状況でロゼの助力があればこれ以上無い程ありがたいし、彼女が動くとなればデゼルも動くだろう。陪神契約しなければ浄化の力は得られないが、彼の風の力は唯一ドラゴニュートが耐性を持っていない属性である。完全に浄化することは出来なくとも、動きを制限することは出来るだろうし、そうなれば今のメンバーでも何とかやりようはあるだろう。

そこまでわかっていて、それでもスレイは躊躇った。

デゼルを動かすのならばロゼの助力を得なければならない。しかしただの人間である彼女が生身で憑魔に対抗できるわけも無い以上、彼女の力を借りるならば従士契約は必要不可欠だ。

真名を与え、天族との共闘を可能にする契約。以前スレイは考え無しにアリーシャと契約を結び、結果彼女を傷つけた。だから安易に契約したくはなかったし、何よりも今ロゼと契約してしまったら、あの時のミクリオの言葉を肯定するようで嫌だった。

―――霊応力が高く、同じものを見て同じものを聞く真の仲間。

その言葉の裏を返せば、スレイの契約が無ければ天族を見ることが出来ないアリーシャや、そもそも種族の違うミクリオやライラ、エドナが真の仲間では無いと言っているも同然で。

スレイが旅立ったのはそもそもアリーシャがイズチに来たから。そしてここまで来れたのはライラやエドナの助力があったから、そしてミクリオが隣で支えてくれたからだ。

我がままなのはわかっている。状況を理解しているのならば、現実的な利を取るべきだ。理性ではそう理解しているのに、心の奥底の何かがそれは違うと喚きたてる。

頭の中をアリーシャの笑顔がちらついた。イズチに来た時に彼女が見せた穏やかな微笑み。そして天族の声を聞いた時の、彼女の花が咲いたような笑顔。

マオクス=アメッカ―――笑顔のアリーシャ。

伊達や酔狂でそんな名前をつけた訳ではない。彼女の笑顔は印象的だったし、それこそが彼女を表すに相応しい名前だと思ったからつけた名前だ。それなのに、記憶に残った彼女の笑顔を、スレイは一体いつから見ていないのだろう。従士契約のせいでスレイの視力に支障が出たことに気付き、彼女は自ら別離を切り出した。隠し通すことも出来ずに仲間を危険に晒したスレイに彼女を引き止める言葉があるはずもなく、結果彼女の笑顔を見ることなくマーリンドを離れ、そしてアリーシャは捕まった。偽導師を使って民を扇動した、という無実の罪で。

従士の契約は軽率だった。余計に彼女を傷つけただけで、スレイは彼女の願いを叶えるために、何の手助けもしてやれなかった。

それでも、従士の契約とスレイがつけた真名は、現状ではアリーシャとスレイを繋ぐ唯一の絆だ。例えそれが今のスレイに御しきれないものだとしても、もっと力をつけてアリーシャと肩を並べられる日がきっと来る、そう思ったからこそマーリンドで別れを切り出した彼女を止めなかったのだ。いつか笑顔で再会出来る日が来ると、そう信じていたから。

「…ごめん、ライラ、ミクリオ。オレのために言ってくれてるってわかってるけど…それでもっ…!!」

襲ってきた爪を渾身の力で弾き飛ばす。僅かにバランスを崩して出来た隙を突き、間髪入れずに剣を振るった。

「おおおぉぉぉおっ!!!」

「スレイ!!突っ込みすぎだ、間合いを取れ!!」

「スレイさん!!」

切羽詰ったミクリオとライラの声に、心の中でごめんと詫びる。

ライラとミクリオがスレイを心配してロゼとの契約を薦めたことはわかっていた。従士の代償で苦しんだのは事実、危険の多い旅をしている身にとって、それはいつ致命傷に成り代わるかわからない。旅の相棒として頼れる仲間が必要なのは痛いほど理解していた。

それでも、今断ち切ることだけは出来ない。せめてもう一度、アリーシャの無事を確認して、その笑顔を見るまでは。

だからごめん、ともう一度胸の内で呟いて、休まず剣を振り続ける。ロゼと契約しないのはスレイの身勝手で、だからロゼとデゼルを傷つけるわけには断じて行かない。勝手を通すのならば、せめて二人が逃げる隙だけでも作らなければならなかった。

「ロゼ!デゼル!!遺跡の外へ、早く!!」

「あ、あたしも戦う!!契約すれば戦えるんでしょ?!」

「契約は出来ない、ごめん!!」

だから逃げて、と叫んだ自分の声が悲鳴じみていることにスレイは気付いていた。もう長くは持たない。早くも息は上がりきっているし、剣を握った手は硬いものを無理に斬り付けることを繰り返したせいで、鈍い痛みを訴えている。剣自体もどれだけ持つか。元々刃はついていない分強度はそれなりにあるが、それにしたってこうも無理をさせればいつかは折れる。それだけドラゴニュートの鱗は強固だ。

「スレイ!!」

ミクリオの叫び声と同時に、意識がそれていた右側から尻尾の一撃が襲い掛かる。ミクリオが叫んでくれたおかげで直撃だけは免れたが、体勢を崩した所を強靭な尻尾が掠めて、抵抗できずに弾き飛ばされる。満足に受身も取れずに石畳を転がったダメージは大きい。息を詰まって視界が一瞬白く染まった、その隙を見逃す敵では無く、杖を振りかぶって突進を止めようとしたミクリオがいとも簡単に吹っ飛ばされるのが見えた。

「ごめん、みんな…」

視界に映る爪はいかにも鋭利で、その爪を支える腕は丸太のように太い。直撃を食らえばまず無事で済まないことは確実だった。

振り上げられた爪は、今にも振り下ろされようとしている。スレイが衝撃の予感に目を瞑った、その瞬間だった。

頭の中でいかにも呆れた様子の溜息が聞こえたのは。

「…本当、変な奴」

両腕が持ち上がったのと、凄まじい衝撃を感じたのがほぼ同時。しかし予想していた痛みは無く、自分も確実に生きている。それに気付いたスレイが恐る恐る目を開けると、ドラゴニュートに負けず劣らずの強靭な腕が、鋼を研いだような爪を止めている光景が飛び込んできた。

「た、助かったよ、エドナ…」

「さっさと従士契約しちゃえばこんな事にならずに済んだのに。何?あのお姫様に義理立て?」

「義理立てなんかじゃないよ。オレが手放したくなかったんだ。…勝手言ってごめん」

「本当にね。…でも、良いんじゃない?従士に誰を選ぶのかなんて導師の自由だもの。寧ろ主神の言うことに一々ぺこぺこしてる情けない導師だったら、こっちから陪神契約切ってやるところだったわ」

「エドナ…」

「ぼけっとしないの。…来るわよ」

「術で援護します!持ち堪えてください!」

ぐっと両足に力を込めて、エドナとスレイは石畳を踏みしめる。腰を落として頭を守る、その腕に猛り狂ったドラゴニュートが牙を立てようと突進してきた。流石にまともに噛まれたのでは一たまりも無い。腕を振って顎を弾き、牙をいなしながら壁際に下がる。ドラゴニュートは力は強いが頭は余り良くない。何とか引き付けてからステップで回り込み、壁際に追い詰めればロゼ達の逃げる時間を稼げる。それがスレイに今取れる最善の手だ。

「デゼル!!ロゼを連れて逃げろ!!」

エドナの力を借りた豪腕で牙をいなしながら、声だけでデゼルに呼びかける。恐らくロゼが自分から逃げることは無い。ならば常にロゼに寄り添い、影ながらその身を守ってきたデゼルに彼女の身を任せるのが一番早い。ロゼの意思を無視するようだが、彼女には愛する家族がいる。何が何でも無事にこの遺跡を出なければならない筈だった。

「デゼル!!」

「あたしは逃げないよ!逃げたりなんかするもんか、絶対に!」

渾身の力を込めてドラゴニュートを柱の影に追いやってスレイは声を張り上げる。抑えるのはもう限界だった。猛り狂ったドラゴニュートは、めちゃくちゃに腕と尻尾を振り回し、その場から脱出しようとする。力で適わない以上、真正面から攻撃を受けるのは無謀でしか無い。

好機は一瞬。ロゼならばその一瞬で抜けられると踏んでの賭けだったが、それでも彼女は頑なに逃げることを拒んだ。

「ロゼ!!」

「しつこい!逃げないったら!」

デゼルの静止を振り払い、止めようとしたミクリオを振り切ってロゼが走る。彼女はスレイがドラゴニュートを追い詰めた柱の影から回り込み、ドラゴニュートがスレイに向かって腕を振り上げた瞬間を狙って飛び上がる。狙うは首筋、暗殺者を生業とする彼女らしい身の軽さを生かした一撃だった。

カツン、と鱗と鱗の間に刃が噛む音がする。同時にライラの術が炸裂し、ドラゴニュートは始めて悲鳴らしい悲鳴を上げた。

「やった!」

「馬鹿、逃げろ!!」

空中で体勢を整えながらロゼが嬉しそうに声を上げるのとほぼ同時に、デゼルが引き攣った声で叫びながらロゼの服に向かって手を伸ばす。風の天族らしい見事な跳躍を見せたデゼルだったが、しかしその手は一瞬遅い。彼の手がロゼの上着に届くよりも一瞬早く、苦悶の咆哮を上げたドラゴニュートの尻尾が無造作に宙を薙いだ。

小山のような憑魔に対して、ロゼの体は余りに軽い。尻尾に薙ぎ払われたロゼの体はいとも簡単に跳ね飛ばされ、遺跡の底の奈落に向かって落ちていく。

「ロゼ!!」

ドラゴニュートの攻撃を掻い潜りながら彼女を助けることなど不可能だ。スレイが絶望的な気分で叫んだ瞬間、ぶわりと周囲を風が舞う。ドラゴニュートすら一瞬たじろいで動きを止めるほどの突風は、永く遺跡に堆積していた塵や芥を舞い上げて、まるで煙幕のようにスレイ達の視界を遮った。

「なっ?!」

「とりあえず距離を!スレイ!」

見えなくては動けない。しかしそれは相手も同じで、ドラゴニュートの影が戸惑うように右往左往するのが微かに見える。ドラゴニュートよりも遥かに小さいスレイ達ならば、とても気配を追うことは出来ないだろう。

今の内に距離を。そう言うミクリオの声に従って、とにかくスレイとエドナが一歩退いた、その時だった。

「呼べ!!ロゼ!!」

吼えるようなデゼルの声。そして遺跡中に響き渡るその声の余韻が消えぬ内。

「ルヴィーユ=ユクム」

ぴたりと重なる二人の声、そしてそれに続く眩いばかりの閃光が何を意味するのか。そんなことは知りすぎるくらいに知っている。

「そんな…まさか…」

呆然としたライラの声。しかし声を出せたのは彼女だけだった。

ぴたり、と突然風が凪ぐ。あまりにも唐突な変化にドラゴニュートすらも警戒するようなうめき声をあげる中、それは殆ど無音でスレイ達の目の前に舞い降りた。

「…神依」

殆ど吐息に近い音量で呟いて、それきりスレイは口を噤む。

荘厳とも言える輝きを身にまとい、金に変化した長い髪を靡かせる。風が吹いているはずなのに彼女の周りは酷く静かで、それが却って異様な雰囲気をかもし出していた。

 

 

それからの戦闘は短かった。

風に耐性を持たないドラゴニュートは、遠距離からのミクリオとスレイの神依の援護を受けたロゼとデゼルにあっさりと沈黙し、今は本来の犬型の天族の姿を晒して気持ちよさそうに眠っている。そのすべすべした毛皮を撫でながら、ロゼは複雑そうな顔で沈黙していた。壁に背中を預けて立っているデゼルもそれは同様で、どうやら本人達にも何が何だかよくわかっていないらしい。

口火を切ったのはミクリオだった。

「どういうことだ?神依は導師だけが持つ力じゃなかったのか?しかも主神のライラと陪神契約を結ばずに神依するなんて…」

彼が問うたのはライラに対してだ。他ならぬロゼとデゼルですら事態を飲み込めてはいないのだから、答えを知っているとしたらライラしかいない。冷静な彼の判断は今回も正しかったようだ。

ライラは暫く思案するように視線を泳がせ、やがて納得したように小さく頷いた。制約が許す範囲、それを確認しているのだろうと大体は予想はつくが、今回はどうやら誤魔化さずにすんだらしい。真面目な顔で口を開く彼女に、スレイはほっと胸を撫で下ろした。

「…そもそも、導師とは必ずしも一人とは限りません。導師とは天族と心を通わせ、その力を振るう者。逆に言えばその条件を満たしてさえいれば、誰でも導師になれるということです」

それには天族の側にも条件が要求されますが、と言い置いてライラは意味有り気な視線をデゼルに送る。

「デゼルさん。貴方もしかして、目が…」

「…よく気付いたな。初対面で気付く奴はまずいないが」

言ってデゼルは帽子を取る。そのまま無造作に長い前髪をあげて見せた彼に、ライラ以外のその場にいた全員が息を呑んだ。

天族は自然の力を振るう特性を持つ故か、その瞳は概ね鮮やかな色をしている。色の種類も人間に比べれば遥かに多彩で、まるで宝石のようだとスレイなどはいつも思う。

その目が。

若草色の髪に隠されたデゼルの両の目。外から見てわかる外傷こそ特に無いものの、彼の瞳には天族特有の鮮やかな色は無かった。灰色に濁った瞳、髪を上げて光が入っても中心の瞳孔の大きさは一向に変化しなかった。

盲いているのだ、とすぐにわかった。

彼の瞳を数秒見詰めて、ライラはすぐに視線を落とす。痛ましげに視線を伏せたまま、彼女は静かに呟いた。

「そうですか。…それが、貴方の誓約なのですね」

「これは過去にたまたま見えなくなっただけだ。何か大層な意味があるわけじゃない」

「ええ、それでも。視力という大きな力を制限したことが、浄化の力を得るのに必要な誓約の役目を果たしているのでしょう。ロゼさんが天族を知覚するようになって、ロゼさんとデゼルさん、双方の条件が整った…。だから神依が発動したのでしょう」

「ていうか、わかってて呼べって言ったんじゃないの?俺はてっきり神依するつもりで言ったんだと思ってたんだけど」

あのまま神依しなければ、ロゼは確実に奈落に飲まれて死んでいた。それを阻止するため、デゼルは神依しようとしたのだと思っていたのだが、彼の口ぶりからするに、自分とロゼが神依出来るかどうか殆ど確信は持っていなかったようだ。いくら風を操るとは言え、自由に空を飛べる訳ではない。上手くいけば奈落を脱出することは可能だろうが、それでも伴う危険はかなりの物だ。

その危険を押してもデゼルはロゼを助けた。ロゼ本人は今の今までデゼルを認識すらしていなかったのに、それでも彼は彼女を助けることに命を懸けたのだ。

「…別に、確信があったわけじゃない。出来れば今後役に立つ、そう思ったからやってみただけだ」

「下手な言い訳ね」

「何とでも言え。俺は復讐が出来ればそれで良い。それ以上のことは何も無い」

吐き捨てるように言い捨てて、デゼルはそれきり口を噤む。エドナの挑発めいた視線に応えることもなく、帽子を被り直して再び壁に背中を預ける姿を見るに、これ以上問答を続ける気は更々無いようだった。

答えを期待していたようにデゼルに視線を向けていたロゼの瞳がそっと伏せられる。いつも天真爛漫な彼女が、こんな風に言葉を飲み込むのは珍しいが、どうやら何か思うところがあるのだろう。自分に関わることなのに今の彼女は矢鱈と静かだ。

「…何か、複雑そうだな」

「ああ。…どうやら、ロゼとデゼルの間に何か事情があることは確かみたいだね。どうやらロゼの方には心当たりは無いようだけど」

周りに気付かれない程度のごくごく小さな声で話しながら、スレイとミクリオは遺跡の遺構を見る振りで距離を取る。ドラゴン化しかけていた彼が目を覚ますまではここにいなければならないが、どうにもこうにも空気が重い。第三者が入れる空気ではとても無いし、デゼルに何かを聞いたところで教えてくれるわけも無いのは明らかだ。そもそも、誰にだって聞かれたくない秘密というのはある訳で、それがスレイ達に特に関係しない以上くちばしを突っ込むのは迷惑にしかならない。人付き合いの経験が浅いスレイだって、そのくらいのことは理解出来る。

しかし、わかっていても導師という自分と同じ境遇に立ったロゼのことはどうしたって気にかかる。彼女とデゼルに何があったのかはわからないが、彼らの関係の中に人間と天族の共存という未来の可能性が開けるヒントがあるのではないかと、どうしたって期待してしまうのだ。

「そういえば、何でロゼってデゼルの真名を知ってたんだろう?」

竜の石像を指でなぞりながら、ミクリオが小さな声で疑問を投げる。

「え?そりゃまあ、教えたんじゃないの?」

最初からくっついていたくらいだ。ロゼからの印象はともかく、デゼルからロゼの印象は良いのだろう。ならばどこかで教えても不思議じゃないと、その程度にしか思っていなかったのだが、スレイの返事は余程的外れだったらしい。ミクリオが呆れた様子を隠そうともせず嘆息した。

「何時だ?ロゼが天族を見えるようになったのはついさっきだし、大体真名なんてそう簡単に他人に教えるものじゃない」

「…確かに」

スレイは幼少時からミクリオと育った関係上彼の真名を知っているが、これは本来異例のことなのだ。天族の真名は余程のことが無い限り他者に明かされることは無い。本来ならば伴侶か親兄弟の縁を結んだ者くらいにしか明かすことは無いし、知っていても他者がいる前では口に出さないのが最低限の礼儀だ。事実イズチの天族でスレイが真名を知っているのはミクリオのみ。幼い頃から面倒を見てもらった彼らでさえ、スレイには真名を明かしてはいない。

その真名を、ロゼは知っていた。それだけで、デゼルとロゼの関係がただならぬものであると証明しているようなものだ。

「…やめよう。きりが無い」

どうしたって答えが出ない疑問に裂く時間は不毛でしかない。暫く額を合わせてやり取りしていたスレイ達だったが、ミクリオの言葉で打ち切りになる。

もしデゼルが教える気になったら聞かせてくれるだろうし、どうしても知る必要があれば教えてくれるように頼み込めば良い。スレイと同じく導師となったロゼの身の振り方は気になったが、正直ロゼ自身まだそれどころでは無いだろう。ゆっくり考える時間こそ、今の彼女には必要だ。

そう結論付けて、スレイはとにかく胸の内に浮かんだ様々な疑問を横に置く。

折角遺跡に来ているのだ、不毛な議論で時間を潰すのは勿体無いし、そう思って見れば目の前の遺構は実に魅力的でもある。少なくとも、犬型の天族の彼が目を覚ますまで、退屈しないでいられそうだった。

 

 

「とりあえず、今日はここで寝るとして。…んで、これからあんたらどうすんの?」

遺跡深部から出たロゼが、実に自然にスレイに尋ねる。その調子はいつもと変わらず暢気そうで、先ほどまで浮かべていた複雑な表情はどこにも無い。清々しいまでに「いつものロゼ」だ。

吹っ切れたわけでは無いだろう。それでもここでのロゼは風の骨の頭領で、これがロゼの頭領としての顔なのだろう。ロゼが頭領として皆を立派に引っ張って行こうとしているのは、彼女の姿を見ればわかる。今はその活動の是非を問うつもりはスレイには無いが、彼女がこのギルドを何よりも大切にしているその気持ちだけは何となく理解出来る。

―――だって、仲間は大切だ。例え自分に危険が及ぼうとも、助けたいと願う程。

「オレはハイランドに…レディレイクに戻るよ」

「スレイ!」

淡々と答えた途端、咎めるようにミクリオが眉をしかめる。否、ミクリオがこういう顔をする時は大体スレイを心配している時だ。それも、看過出来ない程スレイが無謀な行動を起こそうとしている時。遺跡の未知の部分に一人で分け入ろうとした時、足を怪我したミクリオを庇おうとして獣に飛び掛ろうとした時、ミクリオはいつもこんな顔でスレイを止めたものだった。

「駄目だ、危険過ぎる。戦場でのことをもう忘れたのか?!」

「勿論、あの時と同じ失敗をする気は無いけど。でも、アリーシャのことは放っておけないよ」

「確かにそれはそうだが…しかし…!」

アリーシャの名を出されて怯んだのか、彼にしては珍しく歯切れが悪い。アリーシャの心配をしているのはきっとミクリオも同じ、しかしそれでも意見を変えないのは一重にスレイの身を案じているからだ。

霊応力を封じられ、一人で穢れ坩堝と化した戦場で命を落としかけた、その事はスレイ以上にミクリオのトラウマになっているらしい。確かに、共にいたのに力を振るえず、スレイが死に掛けているの見ていることしか出来なかった経験は、ミクリオの性格を考えれば耐え難いものだっただろう。逆の立場なら、スレイだって確実に止めている。

しかし。

「ねえ、ミクリオ。アリーシャってさ、ちょっと変わってるよな。天族を見えない人間からしたら、オレなんてどっかおかしい奴にしか見えないだろうに、それでもアリーシャはオレのこと馬鹿にしたりしなかった。声も聞こえない時から天族のこと信じるって言ってくれて、本当に声が聞こえたら喜んでくれて…」

もし最初に出会った人間がアリーシャで無ければ、スレイの旅は随分変わっていたように思う。少なくとも、臆面なく人前でミクリオやライラと言葉を交わすことはなかっただろうし、どこへ行くにも人目を気にしてこそこそ隠れるように歩いていただろう。

「オレ、ずっとミクリオ達と暮らしてたからさ。人間より天族の方が身近なんだよな。ミクリオだって家族みたいなもんだし、ライラやエドナだって傍にいて何の違和感も無いしさ。でもそれって、所謂「普通」とはちょっと違うよな?」

「…そうだろうな。だから…」

「真の仲間がオレには必要?」

「ああ」

言葉少なに頷く親友の顔はいかにも悔しげで。力になれない自分が歯痒いとわかりやすく顔に書いているその様に、スレイの頬は思わず緩む。

「な、何笑ってるんだ!」

「い、いや。意外にナイーブだよな、ミクリオって」

「スレイ!僕は真面目に…!」

「オレだって真面目だよ」

怒りに頬を染める彼の言葉を遮ってスレイは続ける。言葉の通り、今度は真面目だ。

「大体さぁ、こんなにオレのこと真剣に考えてくれてる奴がいて、何でオレに仲間がいないなんて思うんだよ。ライラだって、アリーシャだってそうだった。導師の使命とかそれよりも先に、喧嘩したオレ達のことをまず気遣ってくれただろ?エドナだってそう。さっきドラゴニュートと戦ってた時言ってたの、オレの背中を押してくれたんだよな?オレの選択が間違ってないって」

「…何の話かしら」

そっぽを向くエドナの耳がやや赤い。それを見たスレイは微かに微笑んで、未だ迷いの隠せないミクリオに向き合った。

「ミクリオだってそうだ。今もこんなにオレのこと心配してくれてるし、オレの無謀な夢を自分の夢だって言ってくれた。アリーシャだって穢れの無い故郷を見たいって、それってきっとオレの目指す世界と繋がってるよね。…それってさ、すごいことだと思うんだ。天族が見えるとか、声が聞こえるとか、そんなことよりもずっと。だって、見える物が違うのに、違う物を見て今まで育ってきたのに、同じ目標を目指せるんだ。お互いを理解し合って、夢を語り合って。それってさ…ジイジが言ってた『同じ物を見て、聞くことの出来る真の仲間』そのものだと思わないか?」

種族、育った環境、生まれ持った能力。差が大きい物ほど理解し合うことは難しい。しかし、だからこそ壁を乗り越えて手を取り合えた時の喜びは大きい。

アリーシャが伸ばしてくれた手は、スレイにその喜びを教えてくれた最初のものだった。だからスレイは見る世界の違う人間の中で、胸を張って歩いていられたのだ。

恥じることなど何も無い。理解してくれる人は必ずいる。そんなことよりも、己の友を恥じる自分を恥じろ。

何時だって、スレイの支えてくれたのは、アリーシャの屈託無い笑顔と傍にいる仲間達だった。単純に霊応力が高いという理由でロゼを仲間にする選択は、今まで共に戦ってきた仲間達にも、ロゼ自身にも失礼だ。

「大丈夫。ミクリオもライラもエドナも勿論アリーシャも。ちゃんとオレの『真の仲間』だよ」

折角満面の笑みを湛えて言った言葉なのに、何故かミクリオは答えない。

青春ですわね、とエドナ、ロゼの両名と楽しそうに囁く声はライラのものだろう。楽しげな彼女達とは対照的に、デゼルは既にスレイ達に興味を失ったように隅の壁に背中を預けて座り込んでいた。

この状況は微妙に居たたまれない。とにかく早くリアクションが欲しくて、親友の顔を覗き込む。

「…ミクリオ?」

「こっちを見るな」

その声が僅かに震えていたことにはとりあえず気付かない振りをする。どうせ今回のことでらしくなくうじうじと一人で悩んでいたのだろう。最初からストレートにスレイに言えば、きっぱり否定したものを、頭が良い分余計なことに気を回しがちなのがこの親友の難儀なところだ。

ぐいっと首を押されて筋を違えそうになる。慌てて体ごと背を向けると、妙に上擦った早口で、ミクリオが捲くし立てるのが聞こえた。

「本当、そういう甘いところは変わらないね!ま、まあスレイがそこまで言うんなら、僕も付き合ってやらなくも無いよ。だって…」

一旦そこで言葉を切ると、そこで初めて女性人が異様に楽しそうな笑みで自分を見守っているのに気付いたのだろう。白い頬に真っ赤にして、やけくそのように声を張り上げた。

「アリーシャは僕達の大事な仲間だからね!!」

大音声で放った台詞が、石造りの遺構に木霊する。

逃げるようにその場を去ったミクリオに苦笑してから、スレイは助けるべき彼女のことを思った。

「…待ってて、アリーシャ」

 

―――必ず、助けるから。

 

 



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もう一つの選択肢 2

 

頼みがある、そうスレイがロゼに切り出したのは、メンバーが再び揃った夕飯の席でのことだった。

広間に集まってがやがやと食事を取る中、ロゼとスレイ達だけが他の人間と少し距離を置いている。一応天族のことは他のメンバーにも説明したものの、空中に消えていく食事を見れば誰だって物珍しくもなる。だから他の人間と距離を取ったのは、スレイ達がゆっくり食事出来るようにとのロゼの計らいだろう。

野菜のスープにパン、肉のソテーにマッシュポテト。豪華では無いがまずまずの食事に、自然と皆の匙も進んだ。何しろ戦場を出てから緊張続きで碌に食事も取っていなかったから、皆空腹だったのだ。

スレイが話を切り出したのはその最中のことだった。ロゼはスープに突っ込んでいた匙を止め、興味深そうにスレイを見る。

「頼み…?それはあたしに?それとも風の骨に?」

「スレイが風の骨に用があるわけないだろう」

「えっと…風の骨に、ってことになるのかな」

「スレイ?!」

「へえ」

驚くミクリオを尻目にロゼは顔に浮かべた笑みを深くして匙を置いた。机に肘をつく彼女の笑みには今までとは一変、どこか冷たい雰囲気が漂っている。

「依頼なら料金はこっちの言い値でよろしく。正確な金額は事前調査後になるけどね。で、標的は?アリーシャ姫捕まえてるあの大臣?」

挑戦的なロゼの視線。ロゼだけでは無い、ライラもエドナもミクリオも、強張った表情でスレイの返事を待っている。

風の骨は暗殺ギルドだ。彼らに依頼というならば、誰かの暗殺しかあり得ない。その認識は実に正しいものだから、彼らの反応は間違ってはいない。

しかし、スレイにはロゼ達に暗殺を頼むつもりは毛頭無いし、そもそもそんな手段を取る気も無い。

「そうじゃない。ねえ、ロゼ。暗殺で色々な場所に侵入してるんだったら、当然色んな抜け道知ってるよな?こないだの城みたいに」

「…なんだ。そういうことか」

拍子抜けしたように肩を竦めるのに対して、天族一同が安堵したように胸を撫で下ろす。

自分はそんなに信用が無かったのだろうか。少しばかり切なくなりながら、スレイは肝心要の部分をロゼに伝えた。

「うん。アリーシャを助けるのはオレ達がやる。だから、何とかレディレイクまで連れて行って欲しいんだ。…出来れば城の中まで。駄目かな?」

以前王城に招かれた時も、スレイ達は彼らに抜け道を教えてもらったお陰でなきを得た。王族が住まう城なのだから、きっと抜け道もあれ一つだけでは無いのだろう。ロゼ達ならばきっと知っている筈だと期待込めてロゼを見遣ると、彼女は困ったような苦笑を浮かべて頬をかいた。

「そりゃあ知ってるけどさ。一応企業秘密っていうかさ、調べるのに労力だって使ってるわけで。ほいほい人に教えるわけにはいかないんだよね。こっちがどこまで情報掴んでるか、って結構致命的な情報だし。まあ姫さんの命かかってるわけだから拒否はしないけど…それなりの代償は要求させてもらう。それで良い?」

「随分甘いわね。暗殺ギルドのクセに」

「アリーシャ姫に関しては以前に手違いで暗殺しかけてるし、今日はスレイに危険な目にも合わせちゃったし、まあお詫びだね。普通なら絶対受けないよ、こんな仕事。あたしらは暗殺ギルドであって、護衛ギルドでもナビゲーターでもないんだから」

「それでもタダにはならないんですね」

「そらそうよ。大体、スレイなんてもうハイランド上層部に顔割れてるんだよ?札付きのあたしらが顔の知れてる指名手配犯連れて国境越えだなんて、どう考えても危険でしょ。それでもやってあげるって言ってるんだから、寧ろ感謝して欲しいくらいだよ」

ロゼの言い分はいちいち尤もだったから、スレイとしてはぐうの音も出ない。指名手配されているかどうかはわからないが、指揮官の命令を無視して戦場でさんざんっぱら大暴れした挙句、指揮官とも大乱闘しているのだから、可能性は非常に高い。憑魔が見えない普通の人間にしてみれば、突然上層部が突っ込んてきた導師を名乗る怪しい人間が、指揮官と揉め事を起こして大暴れしたようにしか見えないだろう。穢れの影響で正気を保っていた人間が少なかったとはいえ、まさか全員が錯乱していた訳ではないだろうし、どういう報告がハイランド上層部に届けられたのかわかったものではない。

「…代償か」

言われて思い浮かぶのは、旅の道中で買い戻したジイジの煙管だ。レディレイクで商人に扮して潜入中のロゼ達に、やはりアリーシャを助けるために支払った代償。買い戻す時には売った額より遥かに高い値がついていたから、物としては相当良いのだろう。

本来ならば一度イズチに戻ってジイジに返そうと思っていたものだ。勿論、ジイジのお陰でスレイが生まれて初めて出会った人間の暗殺を阻止出来た、そう一言礼を添えて。

しかし、惜しくは無い。

一度はアリーシャのために手放した物だ。もう一度アリーシャのために差し出すのなら、それはそれで運命的にも思える。

「これで足りるかな?」

懐から取り出した煙管を机に置く。見覚えのある品に、ロゼが驚きに目を見開く。

「あんた、これ前に…」

「うん。途中の街で売ってたから買い戻したんだ。どうせならくれた人に返したいと思って…。でも、またアリーシャのために使うんだったら、きっと喜んでくれると思うから」

磨きこまれた金の金具、木製部分は煙に燻されて深みのある茶色になっている。少なくともスレイの物心がついた頃にはこの煙管は既にジイジと共にあったし、その頃には既に古びていたように見えたから、きっとスレイ達よりも年長なのだろう。

ロゼは暫く机の上の煙管とスレイの顔とを矯めつ眇めつしていたが、暫く考えた後、やや不機嫌そうな表情で首を振った。

「駄目。足りない」

「ええ?駄目なの?」

「確かに品物としては良いものだし、実際前回売った時にはそこそこ良い値段で売れたけど、あくまで一回手放したものでしょ?人に命がけの仕事やらせるのに、一回売っ払ったもの差し出してお願いします、はちょっと無いんじゃない?」

思い入れがあるのは確かみたいだけどね、と付け足して、ロゼはスレイの顔を見る。

「そんな…。オレ、もうこれ以上は…」

さあどうする。そう問うような彼女の表情に、応える術がスレイには無い。

金も多少はあるがとても依頼に見合う金額には足りないし、後は戦いに備えて装備品のストックが少しばかり。どれも暗殺を専門としているギルドには今更すぎる品で、とても代償になるとは思えない。アクセサリーや宝石の類は最初から持っていないし、他にスレイに打つ手は無い。

困り果てたスレイが黙り込んだ時だった。

「…一晩、時間をくれないか?」

「ミクリオ?」

切り出したのはミクリオで、思ってもみなかった援護射撃にスレイは思わずまじまじと親友の顔を見る。

秀麗なミクリオの顔は酷く真剣で、見ようによっては緊張で強張っているようにも見えた。

「何とかなるかはわからないけど…心当たりがあるんだ。一晩待ってくれ」

「ふーん。ハッタリじゃなさそうだね。まあこっちとしては別に待つのは良いけど、値引きはしないよ」

「それで良い」

頷いてミクリオは徐に席を立つ。続いて腰を上げようとしたスレイに「ついて来るな」と言い置いて、そのまま広間を後にした。

「何なんだ、一体?」

「ミクリオさんのことでもの、きっと考えがあるんですわ」

「…危険なことしなきゃ良いけど」

天族のミクリオが高価な品を持っているわけもないし、持っていたところで普通の人の目には触れない。それでは当然意味が無いから、ミクリオに出来ることといえば、どこかに眠ったお宝を探すくらいのもので。しかし、そうなればスレイについて来るなという理由が無い。

「あら?一人で無謀なことはしないって、前に仰ってたのはスレイさんですわよ?」

「ま、確かにそういうタイプじゃないわよね、あの坊やは」

「親友なんでしょ?信頼してやんなって」

「うん…」

それより早く食べちゃいなよ、とロゼに促されて、納得いかないままに匙を握る。視線を遣れば、ミクリオの座っていた場所には、まだ半分程料理が残されていた。

食欲旺盛な訳ではないが、ミクリオが無闇に食事を残すことなど普段は無い。余程気が急いていたのだろうと思うものの、その理由がまったくわからない。確かにミクリオの性格上、危険なことに一人で首を突っ込んだりはしないと思うが、それでもやはり心配にはなる。

結局、スレイが椀を空ににしても、食べ終わった皆がぞろぞろと席を立つ頃になっても、ミクリオがその場に戻ってくることは無かった。

 

 

食事を終えて二刻ばかり。既に遺跡の中の人の気配は、殆どが眠りの様相を見せていた。

丘にめり込むようにして建つ遺跡の中腹、石造りの建物の上に立って空を見上げると、目映いばかりの星空がライラの視界一面に広がる。

星は好きだった。太陽のように目を灼くこともなく、かといって月のように白々ともしていない。ただ瞬きだけを繰り返す小さな光。

先代導師と旅を続けた時もこんな風に幾度となく星空を見上げては、物思いに沈んだものだ。あの頃の自分は浄化の炎も得ておらず、出来ることはいくらも無かったけれど、今のように真実を胸に秘めながら、それを口に出せない苦しみに悶えることは無かった。

ライラは記憶にあるのと同じ星座を目で追いながら、スレイと出会ってからの日々を思い返す。

実直で素直、そして明るい気質の少年。幼少期から天族と共に過ごし、俗世を知らず、故に真っ直ぐな視線で世界を見詰める。

彼の目に映る世界が平和であれば良いと望む反面、それが不可能なことはライラが一番良く知っている。世が乱れる時だからこそ、導師はこの世に現れる。それが、天族と人とが分かたれてからの世界の理なのだから。

スレイを待ち受けている試練は多い。ライラはそれを知っているのに、教えてやることも出来なければ、手を引いて導いてやることも出来ない。ライラに出来るのはただ一つ、スレイが正しい道を選んでくれるよう、祈り続けることだけだ。

「…こんな所にいたのね」

「エドナさん」

背後から不意に聞こえた高い声。振り返るとそこにいたのは、幼い外見をした同胞だった。

彼女は風に吹かれて舞うスカートを抑えながらライラの傍まで歩み寄り、隣に位置する場所ではたと止まる。人間嫌いだが天族と群れることが好きな訳でも無い彼女にしては珍しい行動に、ライラは目を丸くして彼女の黄色い頭を見下ろした。

「何か御用でも?」

「別に。特に用は無いけど、一応同族の誼で労いにきてやったのよ」

「…労い?私にですか?」

エドナの意図がいまいち読めない。労いも何も、今日はドラゴニュートと戦った以外に特にこれといったことはしていないし、強敵と戦ったのは皆同じだ。特にエドナがライラを労う理由にはならないはずだった。

ライラが内心で首を傾げていると、エドナがライラの顔を見上げてくる。その視線にどこか気遣わしげなものを感じて、ライラはエドナの言葉が決して虚偽で無いことを悟った。

「あの、エドナさん?」

「損な役回りね、主神っていうのも」

「!!」

エドナが言外に何を指して言っているのか、ようやく気付いて言葉を失う。

「…気付かれて、いたんですね」

「心配しなくても、多分ワタシだけよ。未熟者のミボは間違い無く本気だったわ、安心しなさい」

「それはまあ、ミクリオさんですもの。あれが演技だったらびっくりですわ」

言ってライラは少し笑う。天族としては途方も無く若い彼の、若いが故にひたすら実直なところは微笑ましいと同時に少々うらやましくもある。

今日、ライラは敢えてスレイにアリーシャを切り捨てろと提言した。

アリーシャの誠実さ、そして何より人間の世の醜さを知りながら、世界を愛し、故郷を愛する心の強さにスレイが惹かれているのを承知していながら。

ライラの声を初めて聞いた時のアリーシャの嬉しそうな顔は、今も記憶に残っている。天族は多くの人間にとっては得体の知れない「何か」であって、あんな風に最初から受け入れてもらえるのは稀なことだった。受け入れたとしてもその多くは熱心な神職者であったりするから、あんな風に屈託無く喜んでもらえるのは本当に珍しい。

嬉しかったのはスレイだけでは無い。ライラだって嬉しかった。それでも、ライラは彼女の能力不足がスレイの足枷になると暗に非難し、彼女を切り捨てるようにスレイに言ったのだ。力の未熟な彼女を捨てて、能力のあるロゼを仲間にしろと。

「…本当に、導師がスレイさんのような方で良かったですわ」

「随分ほっとしてたもんね?」

「ええ。あそこで私の意見を容れるようなら導師として大したことは出来ないと、正直覚悟していました。でも、スレイさんは私の言うことにただ従うだけの導師では無かった。自分の目で物事を見、何が本当に必要なのかを見極める力を持っている…人としても導師としても、本当に強い方なんですわ」

導師の道は険しい。だから人生経験で圧倒的に人間に勝る主神の意見を重用したがる導師は多いし、それで失敗した導師もまた多い。

人間と天族の橋渡しをしながら、世界の穢れを浄化して、加護領域を正常に保つ。これが導師の役割である。人と天族両方に関わらなければならないが故に、人間から奇異な目で見られたり、人間を嫌う天族から煙たがられたりすることも多く、その道は酷く険しいものになる。

「導師の道は険しい。だからこそ、自分の意思で自分の道を選べる人間でないといけないのですわ。私達の意見を聞くだけの人間では、導師は到底勤まらない…。振るう力が大きいからこそ、その結果の責任は負わなければなりません。いざという時に私に頼るようでは、重圧に耐え切れない日が必ず来ます」

例え契約を解消しても、導師がただの人間に戻れる保障は無い。スレイのように人前で力を振るってしまっていれば、今更ただの人です、では通らないのだ。結果、導師の人生は破綻し、破滅の道を辿ることになる。

だから導師には必要なのだ。隣で歩んでくれる信頼の置ける人間、己の選択を支えてくれる仲間が。

「だから、スレイに選ばせるために背中を押したのね」

「ええ。アリーシャさんがスレイさんに必要な方であるのは、今までの旅でわかっていました。けれど従士の代償の件もありますし、スレイさんはアリーシャさんを傷つけてしまったことで迷っていらしたようですので」

だから敢えてアリーシャを切り捨てるようにスレイに提言して、逆にアリーシャの必要性をスレイに訴えたのだ。ロゼが導師の資格を得たのは流石に予想外だったが、結果的にスレイはアリーシャを選んだ。ライラに言われたからでは無く、自分の頭で考え、自分の意思で『真の仲間』を見極めた。

その上でアリーシャを切り捨てようとしたライラやミクリオを責めることもしなかった。「心配してくれたのにごめん」と、そう言えるだけの心の強さ。自分の想いと他者の想い、それぞれを汲めるだけの度量がスレイにはある。

「本当に、スレイさんには驚かされますわ」

「…まあ、確かに変な奴よね」

顔を見合わせて少し笑う。

二百年前のあの日、憂い顔で眺めた星空。その同じ星空の下で、こんなにも穏やかでいられる自分が、信じられない程幸運なのだと心の底からそう思う。そう感じると同時に、願わずにはいられなかった。

―――どうか。

頭上で瞬く星々に、無駄と知りながらも願いをかける。

心優しい導師の歩む旅路が、少しでも彼に優しくありますようにと。

 

 

翌日、スレイが目を覚ましたのは早朝だった。

元々天族と共に暮らしていたスレイは、自然の流れに従って生活する習慣が身についているから比較的朝は早い方だが、この遺跡で寝起きする人間は大体が夜型らしい。見張りの数人を除いては殆どベッドの中で、広間は閑散としていた。もっとも、暗殺を生業としているギルドの人間が早寝早起きのはずがないから、無理からぬことといえるかもしれない。

見張りの人間から聞くところによると、どうやら朝食は二時間程後らしい。もう一度寝直す気にはなれなかったから、スレイはそのまま遺跡の中をうろつくことにした。

昨夜、結局ミクリオはスレイの前に顔を出さなかった。ライラとエドナもいつの間にやら姿を消していて、今朝はまだ天族の誰とも顔を合わせていない。途中、ロゼの部屋の前でデゼルが立っているのには出会ったが、挨拶もそこそこそっぽを向かれてしまったので、会話らしい会話はしていない。

「おーい、ミクリオー。ライラーエドナー?」

住人を起こさないように小声で呼ばわりながら、遺跡の中をうろうろ歩く。ふと思いついて外に続く梯子も上ってみたが、今朝は咎められたりしなかった。

梯子を上って外に出る。日光を浴びたのは随分久しぶりのような気がしたが、実際遺跡に閉じ込められていたのは一日かそこらだ。

スレイは朝露であちこちキラキラして見える草原と森とを見回した。

そういえば、一人でぼんやりとする時間は随分久しぶりである。最近ではいつも天族の誰かと一緒だったから、一人で物思いにふけることなど殆どなかった。それが悪いわけでは勿論無い。彼らが賑やかにしてくれていたから、この波乱万丈な旅路も楽しく歩んでこれたのだ。ただ、大勢で賑やかにしていることに慣れてしまうと、どうにも一人が落ち着かない。今まで喧騒で誤魔化されていた様々なことが、一気に頭の中に流れ込んでくるのだ。

戦争は結局どうなったのだろう。アリーシャはまだ無事でいてくれているだろうか。昨日見た導師の試練とやらは、一体何が待ち受けているのだろう。

「…考えても仕方ないって、わかってるんだけどなぁ」

「何が?」

溜息まじりに一人ごちると、返ってくるはずの無い返事があってぎょっとする。

「ミ、ミクリオ?!今までどこにいたんだよ。ちゃんと連絡…、っていうか顔色悪いぞ?どうしたんだよ?」

文句を言いかけて途中で止める。朝日の下で見るミクリオの目の下には黒々と隈が浮いていて、顔色もまるで死人のように青かった。昨日ドラゴニュートを倒した後ですらここまで消耗はしていなかった筈なのに、一体隠れて何をしてきたのか。

問い詰めようと口を開こうとしたスレイを、ミクリオが制す。

「ちょっと寝不足なだけだよ。今日はスレイの中でゆっくりさせてもらうから大丈夫。…それよりロゼは?」

「え、あ…多分まだ寝てたと思うけど…」

「あたしはここだよ」

欠伸交じりの声と共に、梯子に足をかける金属音。寝癖のついた赤い髪もそのままに、ロゼが遺跡の入り口からひょっこり顔を出す。嫌にタイミングが良いのをいぶかしんで良く見ると、ロゼに続いてライラとエドナも上がってきたから、どうやら彼女達がスレイの居場所を知らせたのだろう。契約している以上、彼女達にはスレイの居場所は筒抜けなのだ。

「おはようございます」

「…おはよ」

「お、おはよう。ロゼ、ライラ、エドナ」

今朝のライラはやけに機嫌が良いようで、にこにこと特上の笑顔で挨拶してくる。対するエドナはいつも通りの仏頂面、ロゼの方は寝起きだからか明らかに機嫌が悪そうに見える。

寝起きの人間には触らないのが身のためだ。気付かれないようにそっと半歩退いたスレイに対して、しかし進み出る影がある。

「ロゼ、昨日の代償の件だが…」

「んー?それ、今じゃないと駄目?」

「駄目だ」

不機嫌そうな声音をものともせず、ミクリオはロゼに歩み寄る。その気迫もさることながら、青白くやつれた顔も相当効いたらしい。促されるままにロゼは手を差し出し、ミクリオはその手にじゃらりと金属製の何かを落とし込む。

「…多分、問題は無いと思う」

「へー。これも珍しい細工だね。初めて見た」

感心したように声を上げたロゼが、手に持ったそれを太陽にかざす様に掲げてみせる。鈍い銀色に光るサークレット。銀は経年によって黒ずみ易いから磨かなければ価値は出にくいだろうが、それでも施された彫刻や細工は確かに普通に市場に出回るそれとは一味違う。有名な細工師が手がけたものでは無いにしても、好事家が高値をつける可能性は十分ありそうだった。

「ま、鑑定してもらわないとわかんないけど。あたしの勘では結構良いものっぽいね」

「綺麗ですねー」

ライラやエドナも感嘆の声を上げる。しかし、スレイは彼女達と同じ反応は出来なかった。

「…スレイ?どしたの?」

「それ…」

スレイが指差すサークレットを見て、ロゼが不思議そうな顔で首を傾げる。ライラやエドナも同様で、ミクリオだけがバツの悪そうな顔で目をそらす。

「それ…そのサークレット…。ミクリオが生まれた時から持ってる宝物じゃないか!!」

「へ?そうなの?!」

「まあ!」

天族はあまり物に執着しない。ミクリオもその例に漏れず、物品に拘ることは殆どなかったが、それでもこのサークレットだけはずっと大事にしてきたことをスレイは知っている。どういう経緯で持っていたのかは知らないが、出自の不確かなミクリオにとって、それは己のルーツを示す大切なものだった筈だった。

「ずっと大事にしてたじゃないか。大体、天族の装飾品は普通の人には見えないはずなのに…」

天族の身につけるものは、特殊な術を施さなければ普通の人間の目には触れない。ジイジの煙管だって、ジイジ自身が術を施してくれたから見えるようになった筈で、ミクリオがそんな術を使えたなんて、今まで一度も聞いたことが無い。

問うように視線を向けると、ミクリオは暫くの逡巡の後、ゆっくりと口を開いた。

「…ジイジが煙管に術をかけた時、教えてもらったんだ。下界に下りるスレイの役に立つかもしれないって。でも、使うのは初めてだからね。一晩中試して、成功したのはついさっきだよ」

「だからそんなに消耗してたのか…」

天響術を使うのにはそれなりの体力が必要で、連続して使うのは限度がある。一睡もしないで術を使い続ければ、それはもう心身共に疲れ果てて当たり前だ。

大切な物だった筈なのに、それでもミクリオはスレイの言い出した依頼の代償を払うため、夜を徹して術を使い続けた。本来ならその苦労は、スレイがして然るべきものの筈だったのだ。

「ごめん…オレ…」

「そんな顔するなよ、スレイ。確かに大切にはしてたけど、所詮は物だよ。…少なくとも、仲間のために手放すことを惜しむようなものじゃない」

「ミクリオ…!!」

仲間を思い遣る親友の心根の感動して声を上げると、ミクリオがしかめっ面でそっぽを向く。ツンデレ乙、とエドナがぼそっと呟いた言葉はどうやら的を射ているようで、髪から覗く耳が僅かに赤かった。

その様子を見て、片手で弄んでいたサークレットを軽く掲げたロゼが、満足げに一つ頷いた。

「…よっしゃ、合格」

「それじゃあ…」

「うん。連れて行ってあげるよ、レディレイクまで。ま、あたし達に危険が及ばない範囲まで、だけどね」

「それで良い!ありがとう、ロゼ!」

「良かったですわね、スレイさん。これでアリーシャさんを助けに行けますわ。微力ながら私もお手伝いさせていただきます」

「うん、ありがとう!ライラ」

我が事のように嬉しそうにするライラに礼を言って、スレイは隣でふらつく友人の肩に手を回し、細首をぐいっと自分のように引き寄せる。

間違いなく、今回一番の功労者はこの親友だ。仲間のためなら労力を惜しまない彼の心根が嬉しく、ただただ誇らしかった。

「ありがとうな、ミクリオ!ほんっとにありがとう!」

「はいはい、それはもうわかったから」

はしゃぐスレイをいつものように冷静にいなす。昔からこんなことは日常茶飯事、彼の対応は慣れたものだ。

そこで一つ大欠伸。どうやらそろそろ限界のようで、ミクリオは一言「寝る」とだけ呟いて、スレイの中に入ってしまう。相当疲れていたのだろう。ミクリオの気配はすぐに寝ている時特有の、静かで穏やかなそれに変わった。

「子供は寝つきが良いわね」

「本当に疲れてたみたいだからね。でも、お陰で助かったよ」

「ミクリオさんには感謝しないといけませんわね」

「話まとまった?じゃ、とりあえずご飯食べよっか。腹ごしらえしらいよいよ…」

そこで一旦言葉を切って、ロゼが不敵な笑みを形作る。

「アリーシャ姫奪還作戦といきますか!」



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もう一つの選択肢 3

風の骨の情報網は大したものだった。

ハイランドとローラントの国境であるグレイブガント盆地は未だ封鎖されたままだったが、彼らはヴァーグラン大森林にあるラモラック洞穴からハイランド側に抜けられるという情報を既に得ていた。大きく迂回することになるから時間こそかかるが、それでも封鎖された国境を越えるよりも遥かに穏便に事を運ぶことが出来るし、何より穢れの坩堝となった戦場の影響を受ける必要が無いのはスレイには大きい。正規の国境越えよりも増える移動距離はエギーユが森林まで馬車を出すことでカバーしてくれることになったから、当然体力もその分温存できる。

「本当にありがとう、ロゼ」

準備が整ったのは昼食の準備が始まった頃。馬車の中身を見てスレイは何度目かの礼を口にする。

援助してもらったのは馬車だけでは無い。戦場での酷使とドラゴニュートとの戦いですっかりガタガタになってしまったスレイの剣も、セキレイの羽の商品ストックの中から新調してもらったし、持ち運びしやすい食料もまとめて馬車に積まれている。勿論代金は支払ったが、要求された額が相場よりかなり安いものであることはスレイにもわかった。本当に至れり尽くせりというやつだ。

荷台に最後の荷物を積みながら、スレイの礼にロゼは軽く手を振って応える。

「いいのいいの。原価は割ってないし、あたしらは商人じゃないから損さえしなきゃそれで良いしね」

「そ、そう。良かった…」

セキレイの羽はあくまでダミー。風の骨の儲けは暗殺業が作っている。

ロゼの態度はどこまでもあっけらかんとしているが、彼女の言葉の裏を返せばそういうことだ。その癖ロゼの態度に気負ったところがまるで無いから、却ってどういう態度を取ればいいのかわからない。結局スレイに返せるのは、当たり障りの無い相槌だけだ。

彼女が暗殺者であることは重々承知しているが、それでもいざ本人の口からそれを聞かされると複雑な気分を抱かざるを得なかった。助けてもらっている身だから到底文句は言えないが、風の骨の皆の人柄を知れば知るほど、彼らが人を殺めることを生業としているのがどうにも納得出来なくなる。

たった一日半、それだけの時間しか共に過ごしていないが、ディンタジェルで出会った風の骨のメンバー達は皆人の好い人物に見えた。スレイは世事に疎いから当然人柄を読みきれていない部分も多いとは思うのだが、それでも彼らが悪人だとはどうしても思えない。否、思いたくなかった。

「オッケー。さ、早く乗った乗った」

複雑な心境のスレイとは裏腹に、ロゼの態度は軽やかだ。幌の紐が外れていないか最後の点検も済ませ、スレイを奥に追い遣って自分も軽い身のこなしで荷台に乗り込んでくる。

馬車はセキレイの羽で使っていたよりもかなり小型のタイプだった。馬にかかる負担が少なくスピードが出やすい。元々積んだ荷はたかが知れているし、天族を入れても人数は六人。全員が出てきても狭すぎるということは無い。

スレイの中で寝ているミクリオ以外の全員が納まったのを確認して、ロゼがエギーユに合図を送る。

「良いよ、出して!」

「おう!」

手綱を鳴らす小気味良い音と共に、ガタガタと荷台が揺れだした。幌のせいで風景は殆ど見えないが、後方の丸い窓からディンタジェル遺跡郡が遠ざかっていくのが確認出来た。

「…出来ることなら、もう二度と敵として会いたくないな」

「そうですわね。皆、良い方達でした。雰囲気も暖かくて…そう、まるで本当の家族のようでしたわ」

御者席の方で何かエギーユと話しているロゼに聞こえないように呟くと、ライラが首肯でそれに応えた。

彼女の言う通り、風の骨のアジトは暗殺ギルドという言葉からは想像もつかないくらい、明るく暖かい空気に満ちていた。それはスレイの故郷ともいえるイズチのそれと比べても何ら遜色無いもので、ロゼが何故暗殺ギルドのメンバーを「家族」と称して憚らないのか、その理由がはっきりとわかった。

ロゼが皆を気遣うようにアジトの皆もロゼを気遣い、それが全体に行き届いているから暖かい。そこから生まれる他愛無いやり取り、そこここで見られる笑顔が、遺跡の薄暗さなどものともせず、あの場所を暖かい「家」にしているのだ。

同じ「家」で暮らしているのだから、ロゼの「家族」という言葉は決して間違いなどでは無い。血が繋がっていなくても人は家族になれるのだ。自身も孤児であったスレイは、それを良く知っている。

「…何で、暗殺ギルドなんだろう?」

ロゼの背中を見遣りながら、スレイは呟く。

確かに風の骨の面々の技量は凄まじいし、これだけ連携が取れていれば官憲に捕まることもそう心配しなくて良いのかもしれない。それでも人を殺すことを生業にしている以上、どうやったって恨みはついて回る。敵は増える一方、顔が割れていないにしても、堂々と日の下を歩く事は難しくなるし、己を偽り嘘を吐いて成り立つ生活は緊張も多いに違いない。身分の高いターゲットを狙えば護衛に返り討ちにされる可能性だって決して無いわけではない。

人を殺した数だけ業を背負い、恨みに追われて生きていく。暗殺者とはそういう道だ。

「確かにね。僕なら絶対ごめんだ。スレイやジイジにそんな真似させるなんて」

独り言でしかなかった言葉に答えたのはミクリオだった。返事の後馬車に姿を現した彼の顔色は全快というには程遠いが、先ほどの死人のような色と比べればかなり人間味のある色に戻っている。

「ミクリオ、起きたのか?まだ顔色悪いけど…」

「流石にもう昼だしね」

今日は早めに寝るよ、と短く言ってミクリオは御者席に頭を出しているロゼを見遣った。

「さっきのスレイじゃないけど、何でロゼは家族が暗殺なんて危険なことをやらせているんだろう」

元は傭兵団出身なのだと聞いていたから、武術の心得はあったのだろう。ならば暗殺でなくとも、隊商の護衛やボディガード、街の護衛団、稼げる道はいくらでもある。

―――その理由を知っているとしたら。

自然とその場の人間の目が、馬車の隅で荷に体を預けているデゼルに向けられた。ロゼが傭兵団に居た頃から彼女の傍にいた男。ロゼの歩んでいた経緯を余すことなく知る男は、スレイ達の疑問を聞いても沈黙を守ったまま、一言も言葉を発さない。

面と向かって何かあったのかとはとても聞けない雰囲気に、スレイ達は自然と声を潜めて囁き合う。

「やっぱり、何か言いにくいことがあるんでしょうね」

「まあ、でなきゃ普通暗殺者なんてやってないわよね」

「まあそりゃあね。好きでやってるわけじゃないけどさ」

「やっぱりのっぴきならない事情があるのか…」

「オレ達に出来ること、無いのかな」

「気持ちはありがたいけどねえ」

「ってロゼ?!」

いつの間にか一人人数が増えている。それに気付いたスレイが声を上げるのと同時に、一斉に視線はスレイの背後に向けられる。

しれっとした顔で会話に混ざっていたロゼは、面白そうにその様を見て笑う。自分自身の話をされていたというのに、相も変わらずその態度はあっけらかんとしていた。

「いやぁ。シリアスな雰囲気で何を話してるかと思いきや。思わず混ざっちゃったじゃない」

「混ざるなよ!」

ミクリオの全力の突っ込みも何のその、笑ってそれを受け流し、ロゼは至極軽い調子で切り出した。

「そんなに気になる?あたしらが暗殺ギルドやってる理由」

「え、そりゃあまあ。好きでやってる訳じゃないって言ってたし、もしオレ達に出来ることがあるなら…」

「悪いんだけどさ」

手伝いたい、と続けようとした矢先。意味有り気に微笑んだロゼに言葉の先を遮られる。

「もう他に道なんて無いんだよね、あたしらには。ちょっとやりすぎちゃったから。まともな道はもう歩けないし、今更歩く気も無いよ」

いつも通りの笑顔に見えて、その実その目は笑ってなどいなかった。

その事実に気付いたスレイの胸中に去来したものが果たして何だったのか、人生経験の浅いスレイにはわからない。少なくとも恐怖と一言で表すには余りにも複雑で、憐憫と称するには余りにも冷たい何か。強いて言うなら敗北感だろうか。ロゼの抱える闇は、俄か導師のスレイなどにはとても掃えそうに無い代物であることだけは思い知らされた。

「後悔はしてない。手を差し伸べてくれる誰かも、縋るべき何かも、あたしらは持ってなかったから、生きるために出来ることを精一杯やってきた。その結果が今だから。気付いたらこんな感じだったけど、家族皆でいられる今が大切だから、あたしはこれで良いんだと思ってる」

言って彼女はにっと笑う。恐ろしい程屈託の無い顔で。

「だから、邪魔になるなら誰であろうと殺すよ。例えそれが皇帝でも導師でも。覚えといて」

「ロゼ…」

「大丈夫、逆に考えれば邪魔にならなきゃ殺さないってことだから。ここにいるのも何かの縁だし、あんたを殺したいって依頼が来ても断ってあげるよ」

言い置いて彼女は再びエギーユと何かを話すべく、地図を片手に御者席によじ登る。誰も何も言えずに、スレイ達はただ黙ったまま彼女の背中を見送った。

「何で…あれで穢れずにいられるんだ。あんなに、重い物を背負って…」

呆然と呟いたミクリオに、スレイは言葉も無く頷いた。そのミクリオの隣で、ライラが悲しそうな表情で顔を伏せる。

「穢れとは単純に負の感情だけで生まれるものではありません。穢れはいわば叶わず散った希望の残滓が凝ったもの…そう、絶望の澱とでもいえばいいでしょうか。ロゼさんが穢れていないということは、彼女が未だ希望を捨てずに生きている証拠です。…例えそれが我が身の破滅になり得るとわかっていても、それがロゼさんの救いなのでしょう」

「…家族。それがあの子の持ってる希望の全てなのね」

複雑そうな表情でエドナが言う。彼女とて余りにも細い希望を求めて旅をする身である。ただ兄のために危険な旅路に身を投じる決意をしたエドナにとって、ロゼの境遇は何か感じるものがあるのだろう。

「チッ」

忌々しげな舌打ちはデゼルのものだ。彼はずっとロゼの傍に居た。彼女が今に到るまでの過程を全て見て知っている。

「あいつには、絶望に打ちひしがれてる余裕なんか無いんだよ。昔も、今もな」

苦々しい口調の中に混じる怒りは、何も出来ない己の無力に向けられたものだろうか。帽子で隠れて彼の表情は窺えないが、ロゼの過去に隠された悲劇がどれ程のものだったのかを察するには、その声だけで十分だった。

「ロゼ…」

無力なのは自分も同じ。人を導く導師。伝承で語られた偉大な彼らだったら、彼女を救うことも出来るのだろうか。

気遣わしげに天族達が自分の方を見るのを感じながら、スレイは己の無力にぎゅっと拳を握り締めた。

 

 

ヴァーグラン大森林の入り口についたのは、日が沈む間際になってからだった。深夜に森に入るのは危険、旅慣れたロゼ達がそう決断を下すのは早く、馬車から降りるなり野営の準備が始まった。

戸惑ったのはスレイだ。アリーシャの身柄は拘束されたまま、一刻の猶予も無い。何とかして進めないのかと問えば、エギーユ達に森をなめるなと諭されて、食い下がればミクリオ達に叱られた。自然に慣れているつもりでいても、場所が違えば自然の顔はいとも簡単に変わる。救出に行く側がへたばれば、それこそアリーシャの救出など不可能だ。延々とそう説教されて、ようやくスレイが了承した頃には、既に日は沈みかかっていた。

薪を拾い、火を熾す。ライラがいれば湿った生木だろうが火をつけるのは簡単で、ミクリオがいれば水には困らない。だからギリギリ日が沈みきる前に野営の準備は終わって、夕食を摂った後は束の間の自由時間となった。

パチパチと音を立てて穏やかに燃えるその灯りを眺めながら、スレイは抱えた膝に爪を立てる。

馬車に乗っていた時は良かった。実際に距離が縮まっている、という思いがあれば少しは気も紛れた。でもこうやって立ち止まり、安穏と焚き火を眺められるような状況にあると、一人牢で不安な思いをしているだろうアリーシャの身が案じられてならなかった。

結局、天族の力が借りられても、自分自身は無力な子供でしか無い。こうやって誰かに連れて行ってもらわねば、仲間の一人も救いに行くことが出来ない。それがどうしようもなく悔しかったし、探しても出来ることが一つも無いという状況は、どうしようも無くスレイを焦らせる。そんなスレイの性格を知っているから、あの時ディンタジェルでミクリオはスレイを遺跡探検に誘ったのだろう。放っておけば一人で風の骨の監視を突破しようと無茶をしかねないスレイを案じて。

「…オレ、本当駄目だなぁ」

ミクリオにもライラにもエドナにも気遣われるばかり。彼らに返せるものも無く、導師の使命である災渦の顕主には今のスレイでは歯が立たない。挙句に自分の浅慮で捕らえられてしまったアリーシャを助けることも、自分一人では出来ないのだ。

あの時、マーリンドで残るという彼女を引き止めていれば。大臣達に疎まれていることは知っていたし、あからさまに嫌がらせばかりされていたアリーシャの状況を知っていたというのに、スレイは彼女を止めなかった。みすみす罠の中に飛び込ませてしまったのだ。

「…アリーシャ」

小さく呟いて、膝に顔を埋めた時だった。

「スレイさん」

不意に後ろから響いた声に振り返る。

鬱蒼と茂る森林の、幹の太い大きな木。その木の影からスラリとした長身の影が歩いてくる。

「ライラ」

スレイが呼ばうが返事は無い。

暗がりの草地だというに、踵の高い靴で歩く彼女の足取りに危なげは無い。殆ど音すらさせずにライラはスレイのすぐ傍らに立ち、座ったままのスレイを見下ろして一言、静かにスレイに問うた。

「気になるのですね、アリーシャさんのことが」

ライラの口調は穏やかだったが、それでもその表情は明るいとは言い難い。何もしていない己の現状に後ろめたさを感じていることもあり、何故か咎められたような気分になって、スレイは僅かに俯いた。

「そりゃあ、そうだよ。大臣達はアリーシャのことを邪魔者だと思ってる。本当なら、こんな所で休んでる暇なんか無いはずなのに。…いや、違うな」

未だに言い訳しようとしている自分の言葉に気付いて、スレイは苦笑しながら首を振る。

「結局オレ、弱虫なんだよ。こうやってじっとしてると、悪い結果のこと考えちゃうからさ。だからとりあえず何かしたくて」

何が導師だ。世界を救うどころか女の子の一人も救えない無力な自分。立ち止まっているとそういうことばかり考えておかしくなりそうで、走り出したくてたまらなくなる。

―――困っている人を放っておくなんで出来ない。

何度も言った言葉で、聞こえは良い言葉ではあるが、突き詰めればそれはスレイ自身が他人の悲惨な末路を見たくない、というただそれだけの意味しかない。イズチでの時間は極めて穏やかで平和だったから、あの里にいる時は下界もそんな風なのだと漠然とそう思っていたし、実際に下界の現状を理解した今になっても現実の悲惨さを目の当たりにするのは怖かった。

どうにも出来ないことがあると頭ではわかっている。しかし、少しでも見ないで済む可能性があるのならそれが良い。現実を呑んでかかることの出来ない子供の惨めな悪足掻きである。

「もしもそれで自分の思うような結果にならなかったとしても、何かしてたら自分に言い訳出来るから。自分は精一杯やったんだ、だからオレは悪くないって。呆れちゃうよね、こんなの」

「いいえ」

スレイの自嘲を咎めるように、ライラは小さく首を振る。

「人の辿る悲惨な末路を見たくない、自分が立ち止まっている間にそういう結末が来ることが怖い、それはスレイさんの優しさですわ。でも、いくら優しくても人のために全力で動ける人間は少ないものです。例え多少夢見が悪くなっても、人は自分の身が可愛い、それが普通なのですわ」

天族も人間も関係無く、とライラは続ける。

「どんなに絶望的な状況でも、貴方はきっと諦めない。最悪の結果を防ぐために全力を尽くす…。人のためにそういう行いが出来る人を、世間一般には弱虫とは呼びませんわ。寧ろ、勇者、英雄…そんな伝承に名を馳せる方にこそ、多い気質だと思いますけれど」

「ライラ…」

背の高い彼女を見上げるスレイに気付いたのだろう、ライラは服が汚れるのも構わずに草地に膝を付き、目線の位置を合わせて座る。焚き火の色が反射して、まるで燃えているように彼女の瞳の翠が躍った。

「でもスレイさん。焦ってはいけません。冷静に状況を見極めてこそ、最善の選択肢は見えてくるものですわ。アリーシャさんと貴方の間には、導師と従者の契約がありますし、アリーシャさんの身に何かがあれば、必ずスレイさんにはわかります。今はまだ最悪の状況に陥ってはいない。だから、冷静になって下さい。アリーシャさんを助けるためにも」

痛い程真っ直ぐにスレイを見据える真摯な目線。彼女のその目はいつに無く必死で、まるで懇願されているようだとスレイは思う。誓約のせいでいつも多くは語れないライラだが、長い年月の間に多くの人間を見てきた彼女には、今のスレイに何か思うところがあるのだろう。

以前共に旅をしてた導師の末路がどうなったのか、結局スレイは聞かされていない。良くない結果で終わったのだろうか、と勘繰ってしまうのは大体ライラがこういう態度を見せた時だ。災厄の時代が終わっていないことも勿論だが、ライラが時折見せる不安に揺らぐ表情が、スレイの予想を確信に近づける。

先のわからないスレイも勿論不安だが、数多くの人間の破滅を見てきているライラだって同じくらい不安のはずで。

心配をかけてしまったのだなと、ライラの顔を見てつくづく思う。不安を抱え、誓約という枷に悩みながらもスレイの意見を尊重し、いつでも最大限の助力をくれる。そんな彼女がついていてくれるのに、ほんの少し立ち止まるのが不安だなどと、どの面下げて言えようか。

真っ直ぐに自分を見詰めるライラの目を見返す。丸まった背筋が伸びたような、そんな気分だった。

「わかった。オレだけだったら無理だけど、オレには皆がいてくれる。だからきっと大丈夫だよね」

「スレイさん…」

表情を和らげるライラに笑いかけると、今度こそ彼女の表情に笑みが戻る。

向き合わなければならないことはたくさんある。アリーシャのこともそうだが、ロゼのことも放ってはおけない。災渦の顕主に立ち向かうための力も手に入れなければならないし、世界を覆う穢れを何とかするために加護してくれる天族も探さねばならない。

―――焦るな。冷静になれ。

ライラの言う通りだ。全部が一度に出来るわけも無い以上、焦れば必ず好機を逃す。ならば一つずつ、確実にこなせば良い。そのために力を貸してくれる仲間が、スレイにはたくさんいるのだから。

「ロゼのことも心配だけど、まずはアリーシャだ。また力を貸してくれる?」

「ええ、もちろ…」

「あら、結局暗殺ギルドも何とかするつもり?」

ふらりと木の陰から姿を現したシルエット。焚き火の灯りに浮かぶそれは傘の形に円を描き、その持ち主を一瞬で悟らせる。

「エ、エドナ?!いつから?」

「大臣達はアリーシャのことを…辺りからね」

「ほぼ最初から?!」

思い返してみれば、ライラに語った内容はその殆どが益体も無い愚痴の類で、自分の未熟さを吐露したようなものだから、人に聞かれていると知られれば恥ずかしい。しかも相手はあのエドナだ。思う様からかわれるだろうと覚悟して身構えたスレイだったが、予想に反してエドナは何も言わない。座ったスレイを見下ろしたまま、何を言うでもじっと見下ろしてくる。

「え~っと、エドナ…?」

戸惑ったスレイが首を傾げると、エドナは特に面白くもなさそうな顔で一言ぼそりと呟いた。

「あんまり悩み多いと禿げるわよ」

「禿げっ…?!」

リアルに想像したくない未来を持ち出されて、スレイは言葉を失った。禿げは遺伝だと聞くが、スレイには生憎両親どちらの頭も記憶にないから、毛髪が豊かだったかどうかなど知る由も無い。完全に博打だ。

エドナはそれ以上何も言わなかった。こういう場面では意外に口数の多い彼女にしては珍しいな、と不躾なのを承知で顔を見ると、その表情はどこか寂しげな色を抱えているようにも見える。

もしかして。原因に思い当たったスレイは、彼女のデリケートな部分に触れる台詞を恐る恐る口に出す。

「お兄さんのことなら忘れてないよ。ちゃんと覚えてるから。…絶対、元に戻す方法探そう?」

「っ!!」

「痛っ?!エドナ?!」

てっきりアリーシャやロゼにかまけて自分の兄を忘れられていると感じたのだろうと思ったのだが、どうもそのスレイの見立ては見当違いだったらしい。無言で繰り出された傘の一撃が、言葉よりも雄弁にエドナの不満を語っていた。

何度か無言の内にそうやって傘を突き立てた後、憤然とした様子で去っていくエドナの背を、スレイは呆然として見送った。そのスレイを見かねたように、ライラが苦笑しながら口を開く。

「あ、あの…。多分エドナさんは、『何でもかんでも自分一人で背負い込むな』、と言いたかったのだと思いますけど…」

「へ?」

言われてみれば彼女の言葉は「あまり悩むな」と言っている風に取れなくも無い。エドナは言葉こそ素直で無いものの、人を気遣う優しさは捨てきれない。そもそもエドナはディンタジェルでもアリーシャを助けたいと願ったスレイの背を押してくれているのだ。今このタイミングで兄を優先して欲しいと言うことは考え辛い。にも関わらず、スレイは折角の彼女の気遣いを曲解してしまったことになる。

明日になったら謝らないと、と考えながら頭を掻くスレイに、ライラが励ます調子で声をかけてくれる。

「スレイさん。必ず、アリーシャさんを助け出しましょうね」

「うん!…ありがとう、ライラ」

ライラの言葉に大きく頷いて、スレイは頭上の月を見上げる。

――――待ってて、もうすぐ助けに行くから。

胸中で月に語りかける。

もしどこかでアリーシャがこの月を見ているのなら、少しは気持ちが届くと良いのに。

夢見がちだと理解しつつも心のどこかでほんの少し、そんなことを思った。

 

 

「じゃ、あたしはここまでね。ちょっと用事もあるし。気をつけてねー」

城の地下の倉庫に抜けるという隠し通路の入り口までスレイ達を案内したロゼは、軽い調子でそう言った。

「うん。本当にありがとう、ロゼ」

言ってスレイは頭を下げる。「用事」の中身は気にはかかるが、何せ今は時間が無い。アリーシャの安全の確保が最優先だった。

城内に侵入する前に、物陰に隠れて見回りの兵士をやり過ごした、その時に聞いた噂がスレイの脳内から離れない。

曰く、バルトロは遂に長年邪魔者扱いしてきたアリーシャを始末しようとしている。マーリンドの住人の声を何とか封殺し、病気に見せかけてアリーシャを暗殺するつもりなのだと。

元々アリーシャは王族というには余りにも傍流の家の出で、本来ならば政に口を出せるような身分では無い。国の英雄であるマルトランの弟子という立場もあり、その影響力はやや大きくはなったものの、本来ならば発言を笑い飛ばされる以上の存在感は無かったのだ。

その状況が変えたのがマーリンドでの一件である。絶対に解決不可能と思われていた疫病の街を、アリーシャが救った。他の誰を頼ってもどうにもならなかった危機を、導師と共に変えてしまったアリーシャを慕う声が上がり始め、城内にも彼女を特別視する者が現れる。導師と共に国に取り込んでしまおうという声も上がり始めたが、アリーシャが権力を持ってしまえば、長年彼女を虐げてきたバルトロの地位は確実に危うくなる。だからその声が大きくなり、幼い王の耳に入る前に消してしまおうと、要はそういう事らしかった。

早ければ数日の内にも結果が出るだろうと話し合う兵士の声に、スレイの背筋は凍った。本当にギリギリだったのだ。もしロゼ達がいなければ、そう考えるとぞっとする。

「そうそう、後はこれね」

スレイの心情を知ってか知らずか、ロゼは常の明るい様子を崩さずにスレイの手をむんずと掴み、空いた手で懐を探って目的の物を見つけ出すと、それをスレイの手に押し付ける。

「これ…。ロゼ…?」

艶々とした木の感触に、金属の冷たい重み。経年の色も露わな煙管と、銀で出来たサークレット。それはスレイ達が道案内の代償としてロゼに渡したもので、役目を全うしたロゼが今更返す必要は無い筈だった。

困惑したスレイが問うようにロゼの顔を見返すと、彼女は悪戯の成功した子供のような顔で笑う。

「思った程のことはなかったしね。スレイも結局指名手配はされてなかったし。それ、どっちも大切なものなんでしょ?」

「でも…」

「大丈夫。それに、あたしは単にスレイ達の覚悟が見たかっただけ。囚われのお姫様のために、どれだけの物が差し出せるかっていう覚悟をね」

スレイもミクリオも、ばっちり見せてくれたでしょ。

そう言う彼女の表情は軽い調子の割には至極真面目なものだった。どうやら煙管やサークレットを返すための方便ではなく、事実スレイ達の覚悟を試していたらしい。そうとわかれば無理に彼女に煙管を渡す必要性も無い。戸惑いながらも品物を納め、礼を言おうと顔を上げれば、ロゼは何時に無く真剣な眼差しをスレイ達に向けていた。

「あたしは仲間を大事にしない奴を信用しない。例え仲間を守るために何かを犠牲にしなきゃいけなくたって、それを惜しむような奴をあたしは絶対に認めない。逆にそれが出来る奴らなら、窮地に立たされてもあたし等を売らない。だから今回は手を貸したし、今後もあんた等が変わらないなら助力はするよ。でも覚えといて」

一端そこで言葉を切って、ロゼはスッと目を細める。暗所の中で燃える蝋燭の光を弾いた青色が酷く暗い光を放つ。

チリ、と痛い程の殺気にスレイの肌が粟立った。いっそ目で見えないのが不思議な程、濃厚な殺意に呼吸すら止まる。

「あたしの仲間を傷つけることがあったら、あたしは絶対にあんたを許さない。例え世界を救っても、あたしの家族を傷つける奴はあたしの敵。何が起こってもそれは絶対に変わらないから。もしあんたが風の骨の情報を安易に漏らしたりしたら…」

殺すよ、と唇の動きと首を掻き切る動作で伝えた彼女は、一転してその表情を変える。明るくサバサバした、拘りの無い笑顔。「いつものロゼ」の顔をして、彼女は言葉を失うスレイ達に背を向ける。ひらひらと肩越しに手を振る彼女の動作は軽やかで、先ほどの氷のような殺気は嘘のように消えていた。

「…暗殺者、なんだな。本当に」

「うん。オレも時々忘れそうになるけど」

ミクリオの言葉に頷いて、スレイは闇の中に消えるロゼの背中を見送った。

そう、彼女は暗殺者なのだ。頭でわかっていただけの事実が、リアルな形を持ってスレイの脳裏に刻まれる。

ロゼはあの明るい笑顔の仮面の下に、一体どれだけの闇を飼っているのだろう。出来ることならば救いたい。そう願うのはスレイの傲慢なのだろうか。

そんなことを考えながらロゼの消えた闇を見詰めてたスレイの背中に、エドナの傘が突き刺さる。

「とにかく、今はあのお姫様が先でしょ」

鋭い痛みにスレイが悲鳴を上げれば、静かにしなさい、と理不尽なお叱りが返ってくる。流石に抗議しようと振り向くが、予想外に緊張したエドナの表情にスレイの顔もまた引き締まる。

「本当に…時間ないわよ」

「スレイさん…」

通路の奥を見遣るエドナとライラ、その方向に目を転じれば闇に閉ざされた空気の奥から、確かに見知った気配が流れてくる。

肌に突き刺さる感触、胸が悪くなるようなどんやり凝ったそれは、この街から一掃された筈のもの。それだけならまだしも、漂ってくるそれにはどこか懐かしいような奇妙な気配も混じっている。

「これは、穢れ…?しかもこの気配。まさか…」

スレイと同時にそれを認識したミクリオが、その続きを言うことを拒むように口を噤む。しかし穢れに懐かしい気を感じるのは確かなことで、それは天族のみならずスレイにすらもはっきりと感じられる。このハイランド城内でスレイがそんな感情を抱く相手はただ一人。

「アリーシャ…!!」

この穢れ、そしてこの気配に何の意味があるのか。悟った瞬間スレイは弾かれたように走り出す。

タイムリミットはもう目前に迫っていた。



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もう一つの選択肢 終

 

 

 

投獄されてから明日で一週間になる。

アリーシャは格子の隙間から差し込む月の光を目で追いながら、床につけた印を数えて深い溜息をついた。

壁の漆喰が剥がれたもので線を引き、それで日にちを数えてはいたが、状況は一向に良くならない。戦場は両国共に壊滅状態、導師はそのまま姿を消したようだと兵が噂しているのを聞いたのを最後に、スレイ達の名を聞くことはぱったりと絶えた。

「…無事で、いてくれるだろうか」

牢に入ってから独り言が増えた。答えてくれる者の無い言葉空しく、かび臭い空気に溶けて消えていく。

スレイ達の身が案じられてならなかった。バルトロに目をつけられたのも、元はといえば自分がスレイ達にくっついていたせいだし、本格的に彼等の力が人目に触れてしまったのはアリーシャがマーリンドへ送られた際にスレイ達がついてきてくれた事が切欠だ。

そもそもスレイはアリーシャの身を案じてイズチの里を出たのだと言っていた。自分がイズチに行かなければ、聖剣祭に来いなどと余計なことを言わなければ、スレイはこんな余計な苦労を背負い込むことはなかったのだ。

「ふっ……うっ…」

自分はスレイにとって疫病神でしか無かった。それを思うと悔しいやら憤ろしいやら、言葉に出来ない感情が涙と一緒に込み上げてきて、アリーシャはその場に膝を付く。

「すま、ない…」

最初にあった時は何と無垢な青年なのだろうと思った。屈託無い笑顔というものを見たのは久しぶりだったし、下心も悪意も無い対応も酷く物珍しかった。イズチの空気も故郷のそれとは違って酷く清涼で、そこで出会った彼もものすごく特別な人間のように思えた。だからあんなに簡単に導師に相応しい、などと言えたのだ。

否、事実スレイは導師に相応しい人間だった。それは間違いないことだったのだが、それでも導師になることが彼の幸せに繋がったのかと思うとそれは甚だ疑わしかった。

人里離れた場所で天族に囲まれて育った彼は、最初の印象どおり驚く程無垢で、しかし驚く程強い意志を秘めていた。正しいことを正しいと言うことがどれほど困難か、アリーシャは知っている。それは、王族の血を引いて生まれて十六年、その短い人生の中でアリーシャ自身が周りから言われ続けてきたことだった。

正しいことを貫き通すのは辛い。正しいと思ったことを折られるのはもっと辛い。そしてその辛苦は、本来イズチに居ればスレイは味わわずに済んだもので、そのイズチを出るように仕向けたのはアリーシャの存在なのだと思うと堪らなかった。

戦場になど出たくなかっただろう。それは本来導師の役目などでは無いし、スレイ自身の人柄を考えても到底相応しい場所などではない。人が当たり前のように死んでいく空間、命が一人ではなく一つ二つと数えられる場所。上の判断次第で、最前線の兵士達はまるで人に踏まれる蟻のようにあっさりと死んでいく、そんな地獄へなど。

アリーシャの命を盾に取ったら簡単に戦場に出て行った。

そんなことを嬉しそうにわざわざ牢に言いに来たバルトロの言葉を、どれ程絶望的な気分で聞いたことだろう。それでも、天族の加護があるスレイならば簡単に死ぬことだけは無いだろうと、そう思っていたのに。

―――消息不明。そう聞かされてもう四日が経つ。

どうか無事で。

アリーシャのそんな願いも空しく、日は確実に過ぎていく。既に両国の兵士は撤収したと聞いた。遺体も回収も終わったが、それでも導師が見つかったという噂は聞こえてこない。

状況は余りに絶望的だった。

「…わ、私の…せいだ…」

導師を探しに出たのも、スレイを聖剣祭に誘ったのも良かれと思ってやったことだった。彼の従士になったのだって、導師を支えることは世界を支えること、引いては故郷のためになると、そう思ったからこそ。無力に喘いできた自分にもやっと何か出来るのだと、そう思えば喜びに胸が打ち震えた。

それだけではない。スレイ達との旅は楽しかった。恐らく、人生で生きてきた中で一番、アリーシャが「アリーシャ」として楽しめた時間だった。

今まで周囲から馬鹿にされてきた遺跡の話、自然の成した芸術の数々。彼等とでなければ出来ない話、出会えなかった景色。アリーシャが笑えば誰かが笑い、他愛の無い話で盛り上がり、朝起きた時も夜眠る前にも皆が互いに挨拶を交し合う。それだけのことがアリーシャにとってどれだけ大きな驚きで、どれだけ鮮烈な喜びだったか。

アリーシャの身を案じ、疫病に冒された街に着いて来てくれた。国のためにと無力を承知で走り回るアリーシャと共に戦ってくれた。マルトランと家人以外に信用の出来る人間がいなかったアリーシャにとって、それは全部が全部新鮮な体験で。

―――それなのに。

知り合って一月も経っていない。そんなスレイがこれだけのものをアリーシャにくれたというのに、アリーシャは彼に何ていうものを返してしまったのだろう。

従士の代償でスレイの目が見えなくなり、彼を危険に晒してしまったことを皮切りに、衆目の前で彼に力を振るわせ、挙句に人質に取られてスレイを望まぬ戦場へと引き出した。本当に、とんだ疫病神である。

それなのに相も変わらず自分は無力なままで。そんなスレイを助けることも出来なければ、今ここを脱出して探しに行くことすら出来ない。

導師を支えるのが従士の役目だというのに、支えるどころか支えられるばかりで。重要な使命を背負うスレイを助けるどころか、始終足を引っ張っている。

それだけではない。

恐らく、アリーシャ自身の命も後数日。それは先日ここに様子を見に来たバルトロの態度を見れば明らかだった。今はマーリンドの住人が抗議してくれているようだが、元々疫病のせいで傷の深い街だ。少しでも圧力をかけられれば声を上げることも出来なくなるだろうし、表向き処刑の形を取れなくても殺された王族など吐いて捨てるほどいる。そもそもバルトロは最初からアリーシャを暗殺するつもりだったのだ。アリーシャが掌中にある今、邪魔者を処分することに今更躊躇いなどあろうはずがない。

そして、それに抵抗する術はアリーシャには無い。自分の身すら守れない癖に、粋がって国を守るの何だのと言ってはスレイを振り回していた自分が酷く滑稽で、どうしもなく惨めだった。

ボロボロと、堰を切ったように涙が流れて止まらない。

「すまない、すまないっ…スレイ…」

こんな自分が巻き込んでしまった。本来なら歴史に語られることなく、もがいて消えていくだけだったはずの自分が、導師という大きな存在に関わったことでその導師の運命を狂わせてしまった。

「……わ、わたしは……わたし、は…何の、ために…っ」

十六年、その年月を生きてきて、自分の望みが叶ったことが一体何度あるだろう。

王族の末端に生まれ、故郷のために尽くし、しかし無力が故に全てが無駄に終わった。それだけの生に、一体何の意味があったのだろうか。

ただ故国のために尽くしたかった。湖を臨む美しい街、明るく陽気な人々の笑顔。それらを取り戻したかった、ただそれだけだったのに。

「こんな、ことなら…」

咽び泣きながら月を見上げる。涙で輪郭のぼやけた月に、呪詛のように語り掛ける。

どろどろと、足元から何かに沈んでいくような気分だった。

自分がこんな境遇に陥ったのは誰のせいでも無い。それが運命だというのならば運命を呪う。その行為を一体誰が責められるというのだろう。

ドス黒い感情のまま、込み上げてきた言葉をそのまま舌に乗せる。

「いっそ……生まれてっ来なければ…」

願っても願っても届かない。足掻いても足掻いてもどうにもならない。そんな理不尽な現実に翻弄され、惨めに潰されるだけの生などいっそ要らなかった。

生まれて初めて出来た、大切な友達。彼一人すら守れない無力な自分なんて。

「生まれて来なければ…良かっ…」

胸の内から生まれる何かを吐き出すように、涙に濡れた声を吐き出そうとした。

―――その時だった。

 

 

「駄目だ!アリーシャ!!」

「えっ…?!」

叫び声と共に、牢の堅牢な壁が揺れた。何かが壁にぶち当たっているような大きな音と共に二度目が続き、それで壁に亀裂が入る。

そして三度目。

地割れのような音が響き、礫が周囲に飛び散る。アリーシャの右斜め手前に空いた穴は人が二人は並んで通れそうな大穴で、もうもうと砂煙が舞う中、その穴の外に数人分の影が浮かび上がった。

「…う、そ」

「嘘じゃないよ、アリーシャ」

呆然と呟いた声には、幻聴にしてはやけにはっきりした返答があった。

顔を覆っていた手をのければ、アリーシャの目の前に歩み寄ってきたのは確かに無事を祈っていたその相手。エドナと神依をしているところを見ると、牢の穴は彼女の力のようで、その穴からは続々と見慣れた面々が、砂煙に噎せながら牢の中に入ってくるところだった。

―――無事だった。無事でいてくれた。

嘘のような幸せな現実に、アリーシャは夢を見ているような気分で自分を見下ろすスレイの顔を見上げる。

「スレ、イ…?」

歩み寄ってきたスレイは何も言わない。酷く痛ましげな顔でアリーシャを見詰めたかと思うと、きっと唇を引き結ぶ。その唇が震えていることに気付いて、アリーシャは少し眉を寄せた。一体何が彼を悲しませているのか、それを問う前に彼は右手を上げ、突然大声で後ろに立っていたライラの真名を呼んだ。

「フォエス=メイマ!!」

エドナとの神依を解いて、炎を纏う。赤と白の装束に金色の光を帯びた彼は、突然の事に目を瞬かせるアリーシャの前に膝を付くと、徐にアリーシャの肩を引き寄せて、痛い程の力でその体を抱きすくめた。

「ス、スレイ…?!」

「ごめん…。辛い時に一人にして…本当に、ごめんっ!!」

もう大丈夫、大丈夫だから。

そう耳元で子供をあやすような声で宥められ、やはり幼な子にするように背中を叩かれる。同時にスレイとアリーシャの周囲を赤い炎が取り巻いたが、不思議とアリーシャがそれを熱いと感じることは無かった。

「暖かい…」

顔すらおぼろげな母の記憶。病弱な人だったというから、その腕に抱かれたことはそうたくさんは無かっただろうが、それでもこの炎は母の腕を思い起こさせる、そんな温度で。

胸の内に巣食っていたドス黒い何かが、スウっと消えていくような気がした。

思わずスレイの腕に体重を預けて目を閉じる。スレイは暫くそんなアリーシャを抱いたまま、あやすような仕草で背中を叩いていてくれた。

―――良かった。間に合った。

微かに聞こえた呟きは現のものだろうか。そんな事を思いながらぼんやりアリーシャがスレイを見上げると、何故か酷く安堵した風に微笑んでくれるばかりで、詳しい事情は何も語らない。とにかくその表情にもう憂いの色が見えない事に、ほっと胸を撫で下ろす。

炎は数分も経たないうちに姿を消した。母の腕の温度も消え去り、代わりにアリーシャのふわふわした頭の中に、水が沁みこむようにじわじわと疑問が浮かんでくる。

「スレ、イ…?」

「ん?どうかした?」

見上げると優しく微笑み返してくれる。その笑顔に一瞬安堵しかけて、ふとアリーシャは異変に気付く。

何かおかしい。何が―――?

「どうかした…って…」

そう、近いのだ。距離が。

その事実に気付いた瞬間、アリーシャの頭は真っ白になった。

「ええええ?!ちょ、あの…こ、これは…!!」

スレイから少しでも距離を置こうと反射的にのけぞり、そのせいでバランスを崩して更にスレイに支えられる。男性に抱きすくめられた経験など姫であるアリーシャにあるわけもなく、間近に感じる体温がスレイのものだと気付くけば混乱に更に拍車がかかる。

「ちょ、これは…その、ち、違うんだ!!」

「…何が違うんだ?」

「さあ?」

「あらあらあらあら!良いですわ~、初々しいですわ~!」

いつの間に神依を解いたのか、外野―特ににライラ―は非常に楽しげだが、アリーシャ本人はそれどころでは無い。牢に突然スレイが現れただけで衝撃的なのに、更に抱きすくめられたとあってはパニックも頂点だ。

そのまま牢の外で警笛が鳴り響かなければ、アリーシャのパニックはいよいよ本格化したかもしれない。しかし、そこは姫だろうが女だろうが訓練を受けた武人で、異変を察知した脳が無理やり体勢を切り替える。

思えばこれだけ大騒ぎをして、衛兵がかけつけてこない訳がないのだ。何せ場所は王宮地下牢、常時複数の衛兵が詰めていることを考えると、かけつけてくるのが遅いくらいである。

「スレイ!!」

「ああ、わかってる」

スレイはアリーシャから離れて儀礼剣を引き抜き、武器が無くて戸惑っているアリーシャに向かって空いた方の手を差し出した。

「道はオレ達が空ける!アリーシャ、行こう!」

スレイならば当然そう言うだろうと予想していた台詞だ。そもそもここに来てくれたのだって、アリーシャのために決まっているのだ。そう、彼は困っている人を放っておけない性格で、だから囚われの身であるアリーシャを放って使命を全うする旅になど出られる筈が無いのだから。

わかっているからこそ、アリーシャはその手を取るのを躊躇わずにはいられなかった。

「わ、私は…」

疫病神。

先ほど己で押した烙印が、肩に重くのしかかる。

恐らく、スレイの領域内にアリーシャが戻ったことでスレイの目はまた影響を受けていることだろう。その証拠にスレイの右側は油断なく杖を構えたミクリオが固めている。見えない分を誰よりも付き合いの長い彼が埋めようというのだろう。しかし、それではミクリオが自由に動けない。

これではあの時の二の舞だ。スレイを庇ってミクリオが傷ついたあの時と。

「…私、は行けない。折角来てくれて悪いが、どうか皆だけで逃げてくれ」

本当は行きたい。もうこんな所には居たくないし、こんなちっぽけな命でも理不尽に奪われるのは耐え難い。

それでも。

たくさんの物を与えてくれたスレイ達、そして世界を負う使命を背負っている彼等を危険に晒すくらいならば、ここでバルトロに殺された方が遥かにましだ。

「本当は、後数日で解放されることになっていたんだ。もう私に利用価値は無いし。腐っても王族の端くれだから、殺すのも面倒だと…」

無理やり作った明るい声。どうか震えてくれるなと、願うような気持ちで紡ぐ言葉は、辛うじて平静に聞こえる程度の響きは保っていたが、どこか上滑りしている感は否めない。そしてそんな付け焼刃の演技で、何百年も生きている天族達の目を誤魔化せるはずもなかった。

「嘘ね。これ、さっき厨房で見つけたんだけど。わざわざ毒で暗殺しなきゃならない要人、今のところあんた以外居ないみたいだけど?」

言ったエドナの片手に握られていたのは、毒々しい紫色をした液体の入った小瓶。毒蔓花の根を煮詰めて作るそれは、心臓に著しい負担をかけて人為的に心臓発作を起こすもので、病死に見せかけた暗殺によく用いられる薬だった。主に貴族や王族の暗殺に使われてきたものである。

「アリーシャ。本当は知ってるんだよね?自分が、殺されようとしてること」

そう問うスレイの目はどこまでも真剣で真っ直ぐで。嘘を重ねようとしたアリーシャの意思は、たちまち萎えて消えてしまった。

嘘などつけない。こんな目を見てしまっては。

観念して首を縦に振ると、途端にスレイの顔が怒りに強張る。快活な彼にしては珍しい怒りを露わにした表情でアリーシャの手を掴むと、スレイは儀礼剣を持つ手にあからさまに力を込めた。

「オレ、アリーシャを従士にしたの、間違ったと思ってたんだ。そのせいでアリーシャを傷つけたんだって…」

「ちがっ…!」

「でも!」

否定しようとしたアリーシャの言葉を更に遮って、スレイは強い瞳でアリーシャを見据える。

「もう謝らないし、後悔もしない。契約解除も絶対にしない。…それが、アリーシャをここじゃないどこかに連れて行ける言い訳になるなら、オレは絶対に譲らない!」

強引だが、この上なく優しい言葉。伝わってくるのは、何が何でもアリーシャを助けるのだという強い決意。

「スレイ…」

「ごめん、アリーシャ。でもオレは、アリーシャは笑顔で居て欲しいんだ。それが、アリーシャに一番似合う顔だと思うから」

スレイの言葉に、以前彼から聞いた言葉がアリーシャの脳裏に浮かぶ。

マオクス=アメッカ。

従士の契約を結んだ時に、スレイがアリーシャにくれた真名。その意味を問うたアリーシャに、彼は少しはにかみながらこう答えた。

―――笑顔のアリーシャ。

「ねえ、アリーシャ。オレと一緒に世界を見よう。世界は広くて、オレ達の知らない現実がたくさんあって…中にはどうしようもない程悲しいこともいっぱいあると思うけど。でも、オレ達の遣りたいことのためにはそれも必要だと思うんだ。少なくとも、ここで殺されることがアリーシャに出来る最善のことじゃない。そうだよね?」

真摯なスレイの声が心に刺さる。

何時からだろう。己の無力を嘆きながら、心のどこかで仕方の無いことだと諦めていたのは。

自分には何も変えられない。事あるごとにそう囁きかける己の声を無視する事に苦労するようになった。聞かぬ振りで目を逸らし、逸らしながらも失敗する度に心のどこかで納得していた。これが己の限界なのだと。

「オレ達はもっと強くなれるよ。少なくともオレは、アリーシャが居てくれれば心強い。だからアリーシャ」

真摯な眼差しのスレイの顔が、じわりと滲んで見えなくなる。悔しさでもない、悲しさでもない、暖かい感情が流させる涙など、本当に何時ぶりだろうか。

「一緒に行こう!」

握った腕を放し、スレイが再び手を差し出す。

己の意思で手を取れと、彼は言外にそう語っていた。

ここに居ても死ぬだけだ。ならば最後にもう一度、彼の言葉に甘えて足掻いてみても許されるだろうか。

故郷のため、そして己の夢のため、出来ることを精一杯やってみても良いだろうか。

胸の内で問いかけて途中でやめる。そんなことは誰に許しを求めるものでも無い、自分自身で決めることだ。自ら進んで困難な道を志し、夢に向かって進むスレイの隣に立つならば、せめてこれくらいの決断は己で下せるようにならねばなるまい。

―――歩き出す。自分自身の足で、自分自身の夢のために。

アリーシャは顔を上げて、己を鼓舞するように一つ頷く。

差し出されたスレイの手に右手を伸ばし、彼の手をしっかりと握り締めた。

「ありがとう、スレイ…。皆様も…」

周りを見回せば、アリーシャの決意を後押しするように、暖かな笑みが返ってくる。大切な導師を危険に晒しているというのに、彼等の笑顔に嘘は無い。

「まあ、スレイのフォローなんていつものことだしね。大丈夫、慣れてるよ」

「ミクリオ様…」

「はいはい、感動的なお話はそこまで。お客さんよ」

「あらあら。またたくさんいらっしゃいましたわね~」

鎧を着けた者に特有の金属音。近づいてくる足音に、エドナが面倒臭そうに傘を畳む。それが合図だったかのように、鉄扉が開いて、狭い通路に兵士が雪崩れだしてきた。

それからの展開は実に一方的だった。

ライラと神依をしたスレイを、ミクリオとエドナがサポートし、途中で兵士から失敬した槍で途中からアリーシャも加わった。元々導師一人でも言葉通り一騎当千の力があるのだから、牢屋の衛兵ごとき蹴散らすのは容易いことだった。

抜け道を探すように面倒な真似はしなかった。邪魔になる壁があればエドナがぶち壊し、兵が壁になれば打ち払う。そうやって城の裏側に外に通じる大穴を空ける頃には、既に夜が明けていたらしい。穴から白々と差し込む朝日に、ずっと暗い牢屋にいたアリーシャが思わず目を眇めると、スレイが笑って手を差し出す。

「さ、行こう。アリーシャ」

もう兵の足音は聞こえない。アリーシャ一人のために向かってくる気は最早無いのだろう。

清々しい早朝の気配。イズチで別れた時と似た朝日は、あの日と同じ、何かの始まりを告げているかのようだった。

―――否、これは確かな始まりだ。

スレイの差し出した手に、今度は躊躇い無く手を伸ばす。

夢に向かい、世界を変えるための確かな一歩。

小さいけれど確実な一歩は、やがて世界を変えるための大きな波を引き起こす。その事をこの日のアリーシャはまだ知らない。

 

 

導師スレイの従士アリーシャ。その真名をマオクス=アメッカ。

後に第二の調律時代を築いたとして歴史書に名を残す彼等の長い旅路の、これはその始まりの日となった。

 

 

End




最終的にはスレイの憧れていたアヴァロスト調律時代の謎が明かされ、第二の調律時代へ向けて歩を進める。そんなラストだと最初は信じてたので…

「大丈夫。ミクリオもライラもエドナも勿論アリーシャも。ちゃんとオレの『真の仲間』だよ」

これがスレイに求めたかったものの全てと言っても過言ではないです。
多少ご都合主義だっていい。種族の縛りの厳しさを目の当たりにしながらも、仲間だと迷いなく言ってくれる主人公であって欲しかった。


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従士パワーアップイベント編
次の一歩を今ここから 1


従士パワーアップイベント捏造です。
従士は導師の助けとなるもの。この前提でアリーシャが仲間になったパターンを模索してみました。


見渡す限りの草原。稀に見える木々や岩、そしてこの草原の所々に点在する謎の歴史建造物はとりあえず今の所は視界に入らず、地平線の彼方まで続くかと錯覚させるような草の緑と空の青のコントラストが目に痛い程だ。

凱旋草海。

草の海と書くだけのことはある。なるほど、この草原はいかにも広大だ。

アリーシャは半ばうんざりした気分でそんな事を考えながら、手にした槍を斜に構える。奇声を上げて飛びかかってきた鳥の憑魔の鋭い爪を受け止める。掌に食い込む重い一撃を押し返し、一端離れた所をすかさず薙ぎ払った。

教皇を探すため、ペンドラゴを出て二日。広大な草原の海を渡るには憑魔との戦いは避けられない。今日もこれが五度目の戦闘だ。

「アリーシャ!」

「私は大丈夫です!ミクリオ様はスレイの援護を!」

「了解!」

地に落ちた憑魔には目もくれず、次の標的に視線を移す。憑魔は全部で五体。それらは全て鳥型だった。斧に似た嘴を持つ地を駆ける鳥が三体と、図体のでかい鳥が二体。その内図体のでかい方の一羽は今落とし、今一羽はミクリオの術で悲鳴を上げている。その隙に間合いを詰めるスレイの位置を確認して、アリーシャは彼の背後を守るように移動する。

スレイの右目は今殆ど機能していない。一番息の合うミクリオが付きっ切りで援護してはいるが、そもそもスレイの不調の原因はアリーシャの存在にあるのだから、戦闘中の隙くらいカバーしたかった。レディレイクの牢から救い出されて以来、そうやって常にスレイの状況を確認しながら戦っているから、既に彼の動きを目で追うのは癖になっている。

だから気付いてしまった。

本人は必死に隠そうとしているらしいのだが、どうにも今日のスレイは動きが鈍い。目のせいだけではない。右目が見えなくなってからスレイの音や気配に対する感覚は鋭敏になっていて、敵の気配を読み違えることは寧ろ減ったといってもいい。元々山育ちのせいか目も耳も常人より良いし、身体能力だって悪くない。右目が見えない状況に慣れたのか、最近では動きも随分良くなっているとアリーシャがミクリオと話したのはつい先日のことだというのに。

体調でも悪いのだろうか。

そう懸念するアリーシャの視線の先で、止めを刺そうと振りかぶったスレイの剣が不意にぶれた。まるで剣の重みに振り回されたかのように体勢を崩すスレイを庇ってすかさずミクリオが前に出る。しかしそのミクリオの右側、暴れるスケイルバードの影になっていた死角から不意をつく形でピーコックが躍り出た。ピーコックは鳥の形はしているものの長時間飛べない憑魔だが、短い滑空には何とか耐える。その滑空での勢いと、鋭い斧のような嘴を使った攻撃の威力はなかなかどうして侮れない。

アリーシャは咄嗟に地面を蹴り、ミクリオとピーコックの間に割って入って、その斧のような嘴の一撃を辛くも止めた。アリーシャの対応を確認したミクリオもまた、スレイが止めを刺し損ねた一羽に最後の術をお見舞いする。悲痛な叫び声をあげて地に落ちた鳥は、そのままバタバタと何度か羽で宙を撃ち、そのまま白い光になって消えていった。

「こっちも終わったわ」

「お怪我はありませんか?」

残りを片付け終わったのだろう、半ば駆け足でエドナとライラがスレイ達に近づいてくる。彼女達の背後、そして自分達の周囲に敵の影が無いことを再度確認して、アリーシャはようやく槍を下ろした。

「スレイ…」

「こんだけ広いと流石に疲れるなぁ。フォローしてくれてありがとう、アリーシャ」

体調が悪いのではないか、そう尋ねようとしたアリーシャの言葉を遮るように、スレイが片手を挙げて礼を言う。それがこれ以上聞くなという拒絶のようで、アリーシャは続ける言葉を見つけられずに結局口を噤んだ。

「…とにかく、結構連戦だったしね。こういうミスも出てくるとシャレにならない。今日はここまでだね」

ミクリオとてスレイの異変に気付いていない筈は無い。彼はアリーシャなどより余程良くスレイを理解している。何せ生まれた時からの付き合いだ。

しかし彼はスレイの異変に言及しないまま、野宿の準備を進言した。彼ならばアリーシャと違って、問答無用でスレイの体温を見るくらいのことは出来るだろうに。

何故ミクリオがそれをしないのか。そんなことはわかっている。

アリーシャは野宿するのに丁度良い場所を探す二人の背を見ながら、胸の内に湧いた感情を噛み殺すように俯いた。

もしスレイの異変が従士反動の所為だとしたら、スレイはきっと必死に隠すし、ミクリオだって悪戯にそれを騒ぎ立てることはしないだろう。

この旅の仲間は皆暖かい。とりわけ歳の若いスレイとミクリオは実直な性質で、アリーシャが気に病むだろうと思われる従士反動の件については、話題に出そうともしなかった。戦闘に関しては上手くミクリオがフォローしてくれてはいるが、片目の視力が失われればそれだけ体力の消耗も激しい筈だ。それなのにスレイはそれを表に出さず、アリーシャに優しい笑顔を向けてくれる。

気遣われている。それがわかるから、酷く辛かった。

「…これじゃあ、同じじゃないか」

無力故に何も出来ない無意味な自分。そんな状況から脱したくてレディレイクを出たはずなのに、結局何も変わっていない。寧ろ、あの頃はアリーシャのせいで辛い思いをする人がいない分、マシだったとすら思える。

「アリーシャ?」

心配げな声に顔を上げると、やはり心配そうな顔をしたスレイが、肩越しにこちらを振り返っている。

「大丈夫、何でもないよ」

この上スレイに心配させるのは余りにも筋が違うというものだろう。胸中に抱えた思いを押し隠してアリーシャは何とか笑顔を作ってみせる。

何とかしなければならない。焦りが炭火のようにちりちりと炎を上げるが、どうすればいいのかわからない。

半ば駆け足でスレイの背を追いながら、アリーシャは誰にも見られないように一瞬だけ俯いて、ぎゅっと唇をかみ締めた。

 

 

「アリーシャ、人参はもう少し小さい方が火が通りやすいよ」

「そ、そうですか?ではこのくらい…」

「小さすぎるよ!それじゃみじん切りだ」

何かの遺跡の残骸。その大きな石を風除けに、野営の準備は始まった。幸いにして枝ぶりの良い木もあり、万が一雨が降っても雨避けには困らない。もっとも、水の天族であるミクリオが、今晩は雨の心配は無いと言ってはいたが。

野営の手順は大体決まっている。エドナが整地している間にスレイやアリーシャが薪を探し、ライラが火の番をしてミクリオが食事の支度をする。水が必要な場面が多い料理では彼の能力がとにかく活きたし、人間であるスレイと生活していたせいで、彼は他の天族よりも料理が得意だ。火加減の調整だけは苦手なようだったが、それはライラが気をつけていたし、切ったり皮を剥いたりの細かな作業は断然ミクリオの天下だったのだ。

ミクリオが切ってくれたお手本を眺めながら、ふとアリーシャはイズチでの夜を思い出す。

スレイだって料理は出来る。初めて会った時手料理を振舞ってくれたのだからそれは確かな話で、しかしアリーシャと再会してから彼は一度も包丁を握っていない。オレは大雑把だから、とスレイは笑っていたが、本当は片目が見えないため刃物を使った細かい作業を避けているだけだとアリーシャは知っている。自分が傷つけば必ずアリーシャが気に病む。だからミクリオは何も言わずに包丁を握るし、スレイは彼の手伝いをするに留まるのだ。

「アリーシャ?どうかした?」

手の止まっていたアリーシャに、怪訝そうな表情でミクリオが問いかける。

「…いいえ、少したまねぎが目に沁みて」

「そう?ならいいけど」

無難な答えでお茶を濁して、アリーシャは胸に兆した思いを汲み取られない内に作業に戻った。尚も訝し気なミクリオの目線を避けるように顔を伏せ、目の前のたまねぎとの格闘を再開する。

スレイが包丁を握れないのならば、代わりに出来るようになろう。使用人に囲まれる生活を送っていたから、台所に入る機会すらろくになく、今は満足に野菜を切ることも出来ないけれど、それでも何とかしたかった。

―――少しでも、例えたった一つでも。

「…君から奪ってしまったものの、代わりになりたいんだ」

焚き火の傍らに座って背中を丸めるスレイを身ながら、彼に聞こえない声量で小さく呟く。

アリーシャがスレイと過ごした時間は決して長くない。ミクリオのように彼の目になることは出来ないし、ライラのように事あるごとに的確な助言を与えることも、エドナのように自信を持って背中を押してやることも出来ない。精々戦闘でミクリオとスレイ二人のフォローをすることと、日常での雑務を請け負うことくらいしか出来ないが、それでも出来ることがあるならば、一つも余すところなくそれをやっていたかった。

たったそれだけのことが、スレイがアリーシャにしてくれた事への恩返しになるとは思わないけれど。それでも非力なアリーシャに出来ることは他にない。

心に浮かんだ思いを再確認するように、胸元で拳をぎゅっと握って、そこでアリーシャは異変に気付く。

「…スレイ?」

焚き火の傍に座ったスレイは、立てた膝に額を預けるような体勢のまま、じっと動かない。包丁を握らなくなったとはいえ、食事前のスレイは食器の準備をしたり保存食を配ったりと忙しく立ち働くのが常で、こんな風にじっとしていることは殆どなかったから、それが酷く珍しかった。

「スレイ?どうかしたのか?」

不審に思ったのだろう、少し離れた場所で野菜を洗っていたミクリオも顔を上げ、怪訝そうな声でスレイを呼ぶが、やはりスレイは顔を上げない。

スレイが仲間の声を無視するなど、それこそ完全なる異常事態である。それぞれ野営の支度をしていたライラとエドナも異変に気付いて顔を上げ、本格的にミクリオが腰を上げた。

「スレイ?」

全員がスレイを囲むようにして駆け寄ってきたが、手を伸ばしたのはアリーシャが一番早かった。

恐る恐る肩に手をかける。もしかしたら疲れて眠っているのかもしれない。そう思ったのも束の間、アリーシャは指先に感じた体温の異常さに気付いて息を呑んだ。

「スレイ?!」

熱い。まるで風呂の湯でも触っているかのような温度だった。

思わず軽く揺すると何の抵抗も無くぐらりとスレイの体が傾ぐ。どさりと鈍い音を立てて地面に転がったスレイに、ライラが小さく悲鳴を上げた。

「スレイさん!」

「おい、スレイ?!」

どうやら辛うじて意識はあるらしい。呼ぶ声に応じようとして緩慢な動作で顔を上げるが、最早上半身を起こす力も無いのか、半ばで再び地面に沈んだ。それだけで酷く呼吸を荒げるスレイに、そのまま寝ていろとミクリオが言うと酷く大儀そうに頷く。

やはり体調が悪かったのか。

そう思いながらアリーシャが急いで額に手をやると、掌に酷く熱かった。湿った感触は汗だろう。既に襟元は変色するほど濡れていて、しかもこんなに熱が高いのに体が僅かに震えている。まだ熱が上がる証拠だ。

「誰か、急いで毛布を!ミクリオ様、清潔な布を濡らして…」

一刻も早く街に連れて行き、医者に見せねばならないが、この状態のまま連れまわす訳にはいかない。一先ず処置を、とスレイを抱き起こしながらアリーシャが慌てる頭で何とか必要な事項をまとめていた時だった。

やはり緩慢な動きで上げられた手が顔に触れる。食事時だったせいでグローブは外され、汗ばんだ指は酷く火照っている。その指が、まるで顔を確認するようにアリーシャの輪郭を撫で、髪に指を滑らせた後、肩の甲冑に触れた。

「…アリー、シャ?」

一通り調べ終わると、スレイはまるで問いかけるように掠れた声で名前を呼んだ。

「スレイ…?まさか…」

疑問符のついた彼の言葉の意味に気付いて、声が震える。

スレイには意識があり、しかも目に外傷があるわけも無い。普通ならば自分を抱き起こしているのが誰か、指で触って確認する必要などない。スレイを抱き起こしているアリーシャと彼の顔の位置はまさに目と鼻の先、掌二枚分も離れてはいないのだから。

「まさか…見えないの…?」

恐怖に震える声で問う。どうか違っていてくれと胸の内で願いながら、しかし頭では既に彼の答えを予期していた。

「…ご、めん」

不要な謝罪を口にしながら、彼は困ったような顔で笑う。

こんな時まで笑うのか、とアリーシャは絶望感に打ちひしがれた頭でそんな事を考えた。

 

 

その夜は徹夜になった。

手持ちの薬草を煎じて飲ませ、ミクリオが手伝って汗に濡れた衣服を替えた。その間にアリーシャはマントや上着、布の類を目一杯使って寝床を作り、スレイを寝かせて様子を見守る。

本当ならばすぐにでも医者を引っ張ってきたかったが、身動きの取れないスレイの周りから人員を割くのは愚作でしかない。天族の皆にスレイを任せて自分一人で街に戻ることも考えたが、夜の凱旋草海を単独で渡るのは自殺行為だと、ミクリオ達から強く止められてしまった。

朝になったら自分が背負う、とミクリオは軽く言ったが、レディレイクの時と今では街までの距離がまるで違う。そもそもミクリオよりもスレイの方が体格が良いのだから長距離を背負って歩くのは難しいだろうし、膂力の点では頼りになるエドナではどう担いでもスレイを引きずってしまう。何か方法は無いか、そう考えながらまんじりともせずに夜を明かしたアリーシャは、明け方ごろにある物音を聞いて立ち上がった。

車輪の回る音、そして馬の蹄の音―――馬車の音である。

野営をしていた岩陰を出て周囲を見回す。夜明けが近いとはいっても、灯りに乏しい草の海は当然暗い。その暗がりに仄かに浮かぶように、白い幌をかけた馬車が近づいてくるのが見えた。

「おーい!!」

槍を放り出して音の方へと走り、こちらに向かってくる影に向かって呼ばわるも、馬車は一向に止まる様子を見せない。このところ治安が悪化して野党も増えているから、それを警戒しているのかもしれない。

このままでは行ってしまう。アリーシャは焦った。

スレイを運ぶためにどうしても乗り物は要りようだ。担いで歩いたのではいつ街につくかわかったものではないし、スレイにかかる負担も大きい。何よりもい憑魔に襲われるかわかったものではないのだ。弱った人間を担いでのろのろ歩いていれば、彼等の格好の的になってしまう。

ここで馬車に巡りあえたのは一つの奇跡だ。この機を逃すわけにはいかない。

幸いにも馬車のスピードはそう速くない。それを見て取ったアリーシャは思い切って地面を蹴り、馬車の前に飛び出した。

「頼む、止まってくれ!!」

鍛錬で鍛えた声を腹の底から張り上げる。両手を広げて大きく振り、武器を持っていないこともアピールした。

「うわっ!」

御者席の男は突然目の前に飛び出してきたアリーシャの姿に目を見開き、咄嗟に手綱を引いて馬を止める。前足を上げた馬の蹄に危うく蹴られそうにはなったものの、アリーシャの一歩前の距離で何とか馬車は止まった。

「何してるんだ、危ないだろ!」

「飛び出してすまない。しかし頼む、近くの町まで馬車に乗せてはもらえないか?病人がいるんだ」

「病人?」

訝しげに瞳を眇めた男はまだ若い。二十代の前半か半ば、そのくらいに見えるのにそうやって辺りを見回す視線は酷く鋭い。馬車を止め、身軽に御者席から飛び降りてくる動きもさることながら、単純に周囲を確認する動作一つ取っても驚く程に隙が無い。

一体何をしている男なのだろう、そう思った矢先だった。

「トル?」

御者席の後ろ、幌の隙間から一人の人物がひょっこりと顔を覗かせる。寝起きなのだろう、赤に近い茶色の髪はあちこちが跳ねていたが、それでも涼やかなブルーの瞳は異変を察知して警戒の色を見せている。

アリーシャは彼女を知っている。何を隠そう、牢を出てお尋ね者になったアリーシャとスレイを国境越えさせてくれた恩人だ。その時馬車を御していたのはエギーユという三十過ぎの男だったはずだが、今日はその姿は見えなかった。

「…ロゼ?」

「アリーシャ姫?何してんの、こんな時間にこんな所で。スレイ達は?」

アリーシャが呼ぶと、ロゼはきょとんと首を傾げ、アリーシャと共にいるはずのもう一人を探して、ブルーの瞳で周囲を探る。自身も導師としての資格を備える彼女は、当然ミクリオ達の存在も認知していて、その上でアリーシャの傍に彼等の姿が無いことをいぶかしんでいるのだろう。

「スレイは、そこの岩陰に…」

「なんか病人だってさ。どうする、頭領?」

「病気って…スレイが?」

トル、と呼ばれた男の言葉に、ロゼの表情が俄かに真剣なものに変わる。彼女の問いにアリーシャが深刻な顔で頷くと、ロゼはそれだけで全て了解したような表情で頷いた。運ぶのを手伝ってくれるつもりなのだろう、軽い身のこなしで馬車を下りて幌の後ろを開き、荷物を寄せて場所を作ってくれる。

「スレイは?」

「こっちに」

短いやり取りを交わしながらスレイを寝かせた岩陰に案内すると、スレイを守るように囲んでいた天族の三人が、予想外の人物の来訪に目を見開いた。

「ロゼ?!」

「ロゼさん!どうしてここに?」

「たまたま通りかかっただけ。とにかく細かいことは後。今はこっちが優先でしょ」

言いながらスレイを抱え起こすロゼを手伝って、アリーシャは反対側の肩に自分の肩をもぐりこませる。その場の後始末はライラ達に任せて、トルが準備してくれていた簡易の寝床にスレイを寝かせると、トルが水で濡らした手ぬぐいをスレイの額に乗せてくれた。

アリーシャが軽く頭を下げて謝意を伝えると、彼は茶目っ気たっぷりのウインクでそれに応えて、殆ど馬車を揺らさない身軽な動きで再び御者席に飛び乗った。

「頭領、出して良い?」

「ちょっと待って。…はい、オッケー」

遅れてやってきたライラ達が馬車に乗り込むのを確認して、ロゼが出発の合図を出す。馬車の中にデゼルの姿は見えなかったから、きっと気を使ってロゼの中に入ってくれているのだろう。スレイを寝かせれば後は全員が座るだけでいっぱいの小さな馬車。スレイの負担にならないようにライラ達はスレイの外に出たまま、小さくなって肩を寄せ合う。

ラストンベルへ、と告げるロゼの声が遠い。思えば昨晩は徹夜、昼間も戦い通しで体は疲れきっている。

がらがらと響く車輪の音を聞きながら、アリーシャはいつしか浅い眠りに落ちていった。

 

 

ラストンベルに着いたのは夕方だった。

宿の手配を終えてスレイを部屋に運ぶところまで手伝ってくれたロゼとトルは、スレイが落ち着いたのを見届けて宿を去った。雑踏に消えていく二人の背が見えなくなるまで頭を下げ続けたアリーシャは、そのままミクリオ達と別れ、必要なものの買出しと医者を呼ぶために街に出る。

日の落ちようとしているこの時刻でも、商人の呼び声で賑やかな市街。軒先で客を呼んでいる商人の何人かに医者の居所を尋ねて回り、ついでに薬や滋養のある食べ物を買い足しながら、教えられた通りの裏側に足を向けた。

気になる言葉が聞こえたのはその時だった。

「ガフェリス遺跡?…ってあのバルバレイ牧草地の?」

「ああ。また盗掘に入った連中がいたらしいんだ。まあ今更大したお宝は見つからなかったらしいが、崩れてた通路の奥から謎の石版が見つかったらしいぜ。それがお宝の隠し場所を示してるんじゃないかって、連中必死だよ。あちこちに声かけて、心当たりは無いかって尋ねて回ってる」

「で、何だよその…えーっと、従者の…?」

「『従者の秘儀』だろ。他にも小難しいことが色々書いてあったらしいぜ。それが暗号なんじゃないかって、今連中必死になって考えてるよ」

「はっ。あんなゴロツキ共がどんなに考えたって、暗号なんか解けるもんかい。まだ俺の方がマシな頭の作りしてらぁ。どうせ宝なんてありゃしねえ。真面目に働きゃいいのに、一攫千金狙うから無駄な労力使う羽目になるんだよ」

話していたのは商人風の男と職人風の男。どちらも四十絡みで、片手に酒のグラスを持っている。

仕事を終えて一杯やっている最中の他愛無い噂話。しかしその内容は、今のアリーシャにはとても聞き流すことは出来ないものだった。

従者。どんな言語で書かれていたのかはわからないが、その単語は従士とほぼ同義だ。それが遺跡から発掘されたとするならば、導師の従士である自分と何らかの関わりを持っていても不思議ではない。何しろこのローランスには、導師の試練と関わりのある遺跡が他にもあるのだから。

「団欒中にすまない!その話、もう少し詳しく聞かせてもらえないだろうか!」

「何だい姉ちゃん。姉ちゃんも一攫千金狙ってるクチかい?」

「やめとけやめとけ。石版持ってるのはこの辺の若いゴロツキ共だが、碌な奴らじゃない。姉ちゃんみたいな若いベッピンが関わるもんじゃないよ。何されるかわかったもんじゃない」

「お気遣いには感謝します。それでも…どうしても、知らなければならないのです」

言ってアリーシャは再度頭を下げる。若い娘にそうまでされて嫌という男はいないだろうし、彼等は強かに酔ってもいた。そうまで言うならばと、ゴロツキがたまり場にしている酒場を教えてくれた彼等にアリーシャは再び頭を下げる。礼として買った荷物の中から酒のあてになりそうなものを幾つか渡すと、彼等は目じりを下げて喜んだ。

情報は得た。とりあえず今は医者だ。

ただでさえ予定よりも時間が押している。通りを抜けた場所にある小さな医療院、半ば走るようにして訪ねたその場所で老齢の医者に事情を話し、宿に連れ帰る頃にはすっかり日も沈んでしまっていた。

「…流行り病の兆候は無いね。旅暮らしということでしたが、疲れが出たんでしょうな。目の方は…ちょっとわからんね。高熱のせいで見えなくなることもあるが、そこまで大事じゃないでしょう。多分精神的な疲れからくる一時的なものだとは思うが、まあ時間を置いても良くならないようなら、一度都の大きな医療院で見てもらう他ないね」

胸の音を聞いたり脈を取ったり触診したりと、一通り診察を終えてからそう言った医師は、殆ど禿げ上がった頭を掻いて一つ息をついた。マーリンドの噂は医療関係者には有名だったようで、そこにいたことがあるというアリーシャの話を聞いた時にはかなり表情を険しくしていたが、今はそれも和らいでいる。大したことはないだろう、という見立てをアリーシャに告げて幾つかの薬を処方し、後は安静にして休息を取れと言い置いてあっさり医療院に帰ってしまった。

とりあえず流行り病では無いという結果を宿の店主に告げると、こちらも大いに胸を撫で下ろしたようで、消化に良さそうな料理を差し入れてくれる。もしも流行り病ならば、宿を閉めねばならないかもしれない大問題だ。それでも部屋を貸してくれたのだから、人心の荒んでいる今のご時勢にしては、随分善良な人間だといっていいだろう。

ミクリオに手伝ってもらって食事を終え、スレイはすっかり落ち着いて眠っている。熱は未だに高いが、昨晩のように苦しんでいる様子は無く、その眠りは穏やかだ。

時刻は既に夜半を過ぎている。昼間付きっ切りで面倒を見ていたミクリオとエドナはくたびれきって眠っている。

ベッドの傍らに椅子を寄せ、アリーシャはそこに座って眠るスレイの顔を見下ろす。赤い顔に浮かぶ汗、ぬるくなった布でそれを拭って、もう一度布を絞りなおす。それくらいしか出来ることが無いのがもどかしい。

きっとこの状態だって、従士反動と無関係ではないのに―――。

ギリ、とかみ締めた歯の隙間から、知らず小さなうめき声が漏れる。焦燥感で頭がおかしくなりそうだった。

その声を聞きつけたのだろう、向かい側に座っていたライラが顔を上げた。

「アリーシャさん。気を落とさないでください。スレイさんが倒れたのは、アリーシャさんのせいではありませんわ」

「でも…」

「確かに従士反動は導師に負担がかかるもの。でも、今回スレイさんが倒れる程消耗してしまったのは、きっと枢機卿の穢れに当てられたからだと思います。あれ程の穢れを受け流せるほど、スレイさんの領域は強固なものでは無かった。それに、旅に出てから色んなことがありましたし、きっと疲れも溜まっていたはずです。穢れに当てられて、それが一気に出ただけですわ」

宥めるような優しい声。しかし、彼女の言葉を聴いてそれで誤魔化されるほどアリーシャは子供では無い。育った環境のせいだろう。大丈夫、その言葉の裏側に隠された本当の意味に、アリーシャは酷く敏感だった。

「ありがとうございます、ライラ様。でも…慰めは不要です。スレイが穢れに当てられて私に何の影響も無いのは、私が受けたダメージもスレイが一身に負っているから。そうでは無いのですか?」

「それは…」

言い淀むライラの言葉が全てだった。

従士契約についてライラが詳しく語ったことは無い。それが彼女の誓約に触れるからなのか、それとも単純にアリーシャのことを慮ってのことなのか、それはアリーシャにはわからない。しかし、今までの経験を踏まえると、その契約の内容は何となくだが想像できる。

「導師は従士の負うリスクをも背負う。…従士に己を守るだけの力が無ければ、そのダメージは導師が背負う。そうなのですね?」

「アリーシャさん…」

「何故ですか…?!」

スレイを起こしてはいけない。その一心で叫びたい衝動は堪えたが、それでも口から出た言葉は酷く切実な響きを持っていた。

「従士は導師を支える者。なのに何故、スレイの負担になるのです?私はこんなつもりで、スレイについてきた訳では無かったのにっ…!」

平和な故郷が見たかった。自分の夢はきっとスレイの夢に繋がっている、そう思ったから、スレイの力になるためにアリーシャは差し出された手を取った。

庇ってもらいたかったわけでも、苦境から連れ出してもらいたかったわけでもなかった。自分の夢のため、そしてスレイの夢のために、彼の力になりたかった。彼の支えになりたかったのだ。

だが実際はどうだ。アリーシャが傍にいるために、スレイの負担は増すばかり。僅かに槍を扱えるとはいっても、そんなものは大した役にも立たない。そもそも天族の力があればスレイにはアリーシャの助力など殆ど必要無いに等しい。唯一メリットらしいメリットといえば、他の仲間と違って人間の目に映ることだが、一度レディレイクから出てしまえば、貴族暮らしで世間知らずなアリーシャに出来ることなど幾らも無い。ずっと天族とともに暮らしてきたスレイよりはマシだが、アリーシャがいたからといって事態が好転したことなど殆どない。ロゼ達セキレイの羽の方が余程スレイの旅に貢献できている。

「私に力が足りないのですか?ならばどうすれば良いのです?!このままなら、スレイと別れた方がよほど…!!」

「アリーシャさん」

いつの間に立ち上がったのだろう。気付かぬ内にアリーシャの背後に回ったライラが、アリーシャの頭を抱くようにしながら、激昂を抑えるように耳元で低く囁く。穏やかながらも反論を許さないその強さに、アリーシャも思わず言葉の続きを飲み込んだ。

「貴方の存在は、この先旅が続けば続くほど、スレイさんにとって大きくなるでしょう。別れた方が良いなんて、そんなことは絶対にありません。反動の件にしてもそうです。スレイさんの力が成長しているように、アリーシャさんの力も成長しています。貴方が手を伸ばすことをやめなければ、願いに届く日が必ず来ます。…それに、貴方がそう思っていないだけで、貴方がスレイさんのためにしていること、私達のためにやって下さっていることはたくさんあります。どうか、貴方自身の存在を見誤らないでください」

「ライラ様…」

ライラの腕の温度はまるでいつか感じた炎のそれ、記憶にも遠い母の腕の温度のようで。

アリーシャが落ち着いたと判じたのかライラがするりと腕を解く、それがほんの少し寂しい気がした。これではまるで幼子のようだ。

否、とアリーシャは己の思考を否定する。

幼子の時ですら、誰かの腕の温度を愛しいと、そんなことを思ったことは殆ど無かった。誰かの腕に抱かれた記憶など殆どなく、ただひたすら家の恥にならぬよう、姿勢正しく己の足で歩くことに力を注いで生きてきたのだから。

思えば自分の行動が正しいか正しくないか、常にそんなことで気を揉んでいた気がする。家の恥にならないか、王女の振る舞いとして正しいか、騎士として誇れるか。そんなことばかり考えて生きてきたけれど、果たしてその行動の中の何割がアリーシャの「やりたいこと」だったのだろう。

自分は何がしたいのか。そんな今更すぎる疑問の答えをアリーシャは持っていない。それに気付いて途方に暮れる。

「少し、外の風に当たってきますね。何かあったら呼んでください」

そう声をかけてライラが部屋を後にしたのは、アリーシャが気持ちの整理をつけるための気遣いだろう。ドアの向こうに消えていくライラの背中を見送って、アリーシャはひとつため息をついた。

「私自身の存在、か…」

見誤るも何も、アリーシャは自分の存在すらも正しく把握していない。属する場所が無いことが心許なくて、だから余計に従士としての使命に固執しているのだと、アリーシャはこの時ようやく自覚した。

こんな自分が、何をスレイ達にしているというのだろう。自分のやりたいこともわからない、姫という、そして騎士という立場を失ってしまえばこれ程に脆くて弱い自分が、彼等に何か出来ているとはとても思えない。

眠るスレイの顔を見下ろしながら、アリーシャは彼と出会ってからの日々をつらつらと思い返してみる。最初は少しずれた青年だと思ったが、彼の語る言葉には王宮の人間の言葉から常に感じていた欺瞞や軽蔑の色は無く、何もかもが真っ直ぐでそれが酷く気持ち良かった。人とはこんな風にもあれるのだと、妙に感動したのを覚えている。

「…やっぱり、私がもらってばかりだ」

一人ごちて、スレイの手ぬぐいに手を伸ばす。その手が触れる前に、スレイが小さく呻いて軽く身じろぎした。

「スレイ?」

「う…ん…」

苦痛で呻いているのではない、表情からそう判断してアリーシャはそっと胸を撫で下ろす。

どうやら覚醒したらしいスレイは重そうに瞼を上げ、見えていないはずの目を必死に眇めて周囲の状況を知ろうとする。見えないのだ、という事実に慣れていないのだろう。何度か首を傾げてから、ようやく自分の状態を思い出したらしい。アリーシャの気配を辿って手を伸ばし、布団についたアリーシャの手を取って暫く考える風にしていたが、やがてぱっと表情を輝かせながら口を開いた。

「アリーシャでしょ?」

「あ、ああ。よくわかったな」

「ミクリオより柔らかい手だけどタコがあるから、アリーシャかなって。当たりだった」

無邪気にそう言ってスレイは笑う。しかし苦境に反して笑顔の彼に、アリーシャは笑顔では返せなかった。

もやもやと、胸の中でわだかまる思い。今の今まで飲み込んでいたそれが、スレイの笑顔を見た途端に急速に膨れ上がり、唐突に弾ける。

「…どうして」

「え?」

まるで責めるような場違いなアリーシャの言葉。向けられたスレイも咄嗟に反応できず、短い声は明らかに困惑の色に染まっていた。

「どうして君は責めないんだ。ライラ様は枢機卿の穢れの影響だって言っていたけれど、それでも私のせいでスレイが要らぬ苦労を背負いこんでいることに変わりは無いだろう。なのに何で誰も私を責めようとしない?ミクリオ様も、君も、ただ黙って私を受け入れようとする。何故だ?」

「どうしてって…」

掠れた声、呟くような声音。スレイが辛いのはわかりきっているのに、こんなことで無駄な体力を使わせることこそ迷惑だ。わかっているのに止まらなかった。

「目が…見えないんだぞ。怖くないの?辛くないの?そんなわけ無い!」

「アリーシャ…」

そろそろと、探るように頬に伸びてきた手が、はっきりと慰める動きに変わる。その掌の熱さに、改めてスレイの状態を思い知り、身勝手に喚き散らしている自分がほとほと嫌になるが、それでも一度吐き出したものは最早止めようがなかった。

「私は平気だから…だから、頼むから…無理して笑うだけは止めてくれ…」

何て身勝手な理屈なのだろう。優しくされるのは嫌だなどと一体どの口がそう言うのか。その癖スレイに冷たく当たられればきっと傷つくだろう自分をアリーシャは知っている。知っているのに、それでも慰めのように笑いかけられるのは辛かった。

視界が奪われる恐怖。それが一体どれ程のものなのか、アリーシャは知らない。未だかつて経験したことの無い恐怖、想像しただけで背筋が凍る思いがするのに、スレイは実際にその恐怖に耐え、アリーシャの前で笑っている。そう思うと堪らなかった。

結局のところ、罪悪感に耐えかねて、スレイに当たっているだけなのだ。そう思えば更にに情けなさが募ったが、それでもこのまま今の状況に甘んじるのは余りに辛い。いっそ一人で凱旋草海に放り出された方がまだましだ。

さあ、どうかぶつけてくれ。

甘んじて受けることしか出来ないけれど、せめてどれだけ罵られても涙だけは零すまい。そう覚悟してぎゅっと唇をかみ締める。

「…と言われてもなぁ」

ぶつぶつ言いながら、スレイの指がアリーシャの頬の線をなぞるように動く。鼻の位置、耳の位置、と確認するように動くそれに、もしかして叩かれるのか、と思わず目を閉じた時だった。

むぎゅ。

唐突に口元の横が左右に引かれる。大して力は入っていないから痛くは無いが、随分と間抜けな顔になっているだろうことは予測がついた。

「ふ、ふれぃ…?」

「オレが今アリーシャに不満があるとすれば、アリーシャが笑ってないっていうことくらいだよ。これじゃ折角ハイランドからさらって来た意味が無いじゃないか」

「ふぁ、ふぁらってひたって…」

「確かに目が見えないことは怖いよ。すごく怖い。でも、ライラも一時的な物だって言ってたし、そんなに心配はしてないんだ。それに、もしずっと見えないままだとしても、オレには一生懸命目になってくれようとする仲間がいっぱいいるから、きっと耐えられる」

言ってスレイは仄かに笑う。笑うその目と視線は合わないけれど、彼の言葉が嘘や虚勢でないことくらいはアリーシャにもわかる。

「いざとなったらデゼルに弟子入りでもしようかな。オレは天族じゃないし、時間はかかるかもしれないけど、コツがわかれば案外何とかなるんじゃないかな」

「なっ?!」

冗談めかしてスレイは笑うが、それこそアリーシャにとっては冗談では済まない。

世界中の遺跡を冒険し過去の知恵を学んで、天族と人が手を携えられる世界を築く。彼の夢であり、導師の使命でもあるその目標は、アリーシャごときのために犠牲にしていい物では絶対に無い。

「何を言うんだ!それでは君の夢が…!」

「大丈夫」

スレイの手を引き剥がし、思わず声を大きくしかけた。そのアリーシャの口を人差し指で塞いで、スレイは笑みを深くする。

「オレが諦めない限り、オレの夢は終わらない」

「スレイ…」

「だから、アリーシャには笑っていて欲しいんだ。無理言ってるのはわかってる。でも、守るものが傍にあれば…オレはきっと頑張れる、から」

そう言うスレイの声が段々細くなり、徐々に途切れがちになっていく。熱も下がっていないのだ。体が限界を訴えているのは明らかだった。それでも必死に瞼を上げようとするスレイの額に、絞りなおした布を置き、アリーシャはスレイの耳元にそっとささやきかける。

「ありがとう、スレイ。勇気が出た。…今日はもう休んで」

「ん…」

アリーシャの言葉に微かに頷いて、スレイの瞼が完全に落ちる。程なく聞こえてきた寝息を確認して、アリーシャは座っていた椅子から腰を上げた。

「…守る物が傍にあれば、か。君も同じなんだな」

騎士は守るもののために強くあれ。

それは師がアリーシャに与えた教えであり、アリーシャの行動の支えになっていた軸でもある。師匠以外殆ど味方を持たなかったアリーシャは、挫けそうになる度にこの言葉を思い出し、笑顔で暮らす民の姿を夢想して、着いた膝を再び上げてきたのだ。

そして今、国を離れ、姫でもなく騎士でもない丸裸の「アリーシャ」が守るべきもの、守りたいと思うものはただ一つ。

「…君の夢は終わらせない。私が守ってみせるよ」

そのために必要なのがアリーシャの笑顔であるというのなら、何が何でも笑ってみせる。

そしてスレイの隣で笑うために、今アリーシャに必要なのは―――

アリーシャは部屋の隅に立て掛けていた槍を手に取り、柄の感触を馴染ませるように手を滑らせる。ひやりと冷たい柄の感触に、背筋の伸びる思いがした。

「師匠…どうか、力を貸してください」

ぐっと柄を握り締めて小声で故国の師に願う。

スレイは夢のためにアリーシャの笑顔が必要だと言ってくれた。しかし今のアリーシャを形作っているのは、騎士であり姫であった頃の経験と、騎士の心得を説いてきた師の教え。国を離れても心までは変わらない。守られてばかりでは、弱いままではアリーシャはきっと笑えない。

手を伸ばすことをやめなければきっと届くとライラは言った。ならば必死で手を伸ばそう。全身全霊で、やれることの全てをやろう。

手持ちの道具の中から必要そうなものをまとめて袋に移し、宿の店主あてにスレイの食事を部屋に差し入れて欲しい旨を手紙にしたためる。それらと槍だけを持ってアリーシャはそっと部屋を出た。ドアを施錠し、鍵はドアの下の隙間から室内に押し込み、手紙は隙間から頭半分出す程度に挟んでおく。これなら朝、空いた部屋を掃除しに来た時に宿の人間が気づいてくれるだろう。

宿の玄関を出て、深夜を回った町に出る。目指すは夕方に聞いたごろつきの溜り場。裏通りに面した小汚い酒場は、深夜を回ったこの時刻にも煌々と明かりが点り、下卑た笑い声に溢れていた。

末端とはいえ王族の生まれ。勿論こんな時間にこんな場所に来るのは初めてだ。しかし、怖くはない。

―――強くなりたい。

その思いが、アリーシャの恐怖を消し飛ばす。

「失礼する!!」

喧騒にかき消されないよう、腹から声を張り上げて、アリーシャは塗装の剥げた両開きの扉を押し開けた。



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次の一歩を今ここから 2

怒涛の一日が過ぎ去ってようやく眠りについた。それからどれくらい経ったのだろうか。

親友と二人で遺跡探検をしては他愛無い発見に大騒ぎしていたあの頃。平和そのものだった幼い日々を夢で追っていたミクリオは、唐突にわが身を襲った衝撃に目を覚ました。

「起きなさい」

短くそう言うのは旅の仲間である地の天族、エドナ。

彼女が傘を構えていること、自分が床の上にいることから察するに、どうやら彼女に寝ていた長椅子から叩き落とされたらしい。エドナがミクリオに当たりが厳しいのはいつものことだが、流石に理不尽な安眠妨害は無視できない。文句を言おうと口を開いたが、言葉を発する前に鋭い一瞥が彼に「黙れ」と告げてくる。

「あの子がいないわ。槍も無い」

「…アリーシャが?!」

見渡せば、確かにスレイのベッドの脇の椅子に鎮座していた彼女の姿は見当たらない。スレイの様子に変わった様子は無く、今は落ち着いた様子で眠っているが、傍についていたはずのアリーシャもライラも、その姿が見えない。代わりに出入り口近くに立て掛けられていたアリーシャ愛用の槍が無くなっていて、更に見回せば荷物を開いた形跡もある。

寝ぼけた頭が急速に覚醒する。

ミクリオが荷物を手繰り寄せて確認すると、手持ちの薬のいくつかと、携帯食料の類が半分程無くなっている。アリーシャが遠出の準備をして行ったことはまず間違いない。

「ついでにこれね」

脇から差し出された手紙を引っ手繰り、綺麗に畳まれたそれを開けば、アリーシャらしい綺麗な文字で、宿の者に宛ててだろう、スレイの食事の世話をしてくれるよう綴られている。更に文末には自分が数日経っても戻らなければスレイには気にせず旅を続けるように伝えてくれ、と簡潔に書かれていた。その頃にはきっとスレイの容態も回復しているだろうから、と意味深な一文を添えて。

「これは…」

「どうやらあの子、スレイが倒れたのは従士反動のせいだと思ってるみたいね。まあ、あながち間違ってもいないだろうけど」

「でも、大部分は枢機卿の穢れに当てられたせいだってライラが…」

「それだけなら、何であの子の体調に異変が無いの?スレイ以上に力の無いあの子に影響が出てないってことは、スレイがそれを肩代わりしてるから。あんたも本当はわかってる筈よ」

「しかし、それは別にアリーシャのせいじゃ…」

従士反動はアリーシャの意思でもなんでもない。反動が出ることを承知して契約を続行したのはスレイなのだし、ならば負担を甘んじて受けるのは当たり前だとそう二人で話して、出来る限りアリーシャが気に病むことが無いよう、反動の件に関しては隠し通そうと決めた。国を出た彼女には今更帰る場所など無い。スレイの傍にしか居場所の無い彼女に、居心地の悪い思いをさせたくなかったのだ。

「なんで…アリーシャ」

「馬鹿ね」

「何?!」

人を小ばかにするようなエドナの物言いはいつものことだが、今の言葉は殊更冷たい。冷笑を含んだ声には、いつものおふざけでは無く、本気の侮蔑が込められている。

それを感じ取ったミクリオが思わず声を荒げるが、エドナ自身はどこ吹く風、気にした様子は見せなかった。

「だって馬鹿でしょ。二人で頑張って隠し通して、それでいつまで誤魔化せると思ってたの?あの子はあんた達のために誤魔化された振りをしてただけよ。あんた達がか弱い女の子を守ってあげたいって思うのは勝手だけど、あの子がいつまでもそれに付き合う義理は無いわ。わかってるでしょ。あの子の性格」

「それは…」

アリーシャの性格を考えると、自分の無力に甘んじてスレイに負担をかけたままのうのうとしていられるとは思えない。スレイが倒れるような事態になった以上、状況を改善するために動こうとするのは目に見えていた。全ての原因が従士反動――つまり自分にあると考えていれば尚更だ。

「本当、男ってのはいつの時代も馬鹿ばっかり。そんなに女に良い格好してみせたいのかしら」

「別にそういうわけでは…」

否定しかけて口ごもる。

国のために健気に頑張る女の子。スレイとミクリオがはじめて出会った人間で、彼女は故国のために過酷な道を全力でひた走っていた。理不尽に痛めつけられ、傷つけられた彼女に優しくしてあげたいと、そう思ったことは否定出来ない。

イズチにいた天族は外見が同年代に見えても実際はミクリオ達より遥かに年長だったし、何かにつけてスレイやミクリオを子供扱いしてくるから、感覚的には姉のようなもので、飽くまで家族の域は出なかった。対してアリーシャは正真正銘、スレイとミクリオが初めて出会った同年代の異性の少女だ。彼女が頑張っているのだから、自分達も少しばかり良い所を見せたい、少しはそんな欲もあって当然ではないだろうか。

「…まったく無い、とは言えないかもしれないけど…」

「付き合わされる方は良い迷惑よ。でも…」

言ってエドナは言葉を切る。膝をついたままの体勢のミクリオの襟首を突如引っ掴み、ずるずると扉の前まで引きずっていくと、その外見からはとても想像できない膂力でもってミクリオの体を片手で持ち上げ、扉から廊下へと放り出した。

「一回やるって決めたなら、最後までやり通すだけの根性見せなさい。そんな成りでも一応男でしょ」

それはエゴだと切り捨てた口でまったく違うことを言い放ち、ミクリオの目の前でピシャリと扉を閉める。ご丁寧に施錠する音まで聞こえたから、入れる気は更々無いのだろう。もっとも、入る気は端から無い。だから扉の外から、聞き捨てならない言葉に反論だけを投げ返す。

「一応は余計だ!」

アリーシャを探しに行け。

エドナの言葉はわかりにくいが、要約するとそういうことだ。それに異論はまったく無いし、言われなくともアリーシャを危険な目に合わせるつもりはない。スレイは安全な宿にいるし、エドナも傍についている。ライラも遠くには行っていないだろうから、とりあえずもしもの時の守りに不安は無い。

「…スレイを頼む」

「誰に言ってるの?当然でしょ?」

ドア越しに声をかけると、返ってくるのはまるで愛想の無い言葉。その愛想の無さに却って安心してしまうのは、エドナのペースに毒されている証拠だろうか。

「アリーシャは必ず連れて戻ってくるから」

「何言ってるの?それも当然でしょ」

「…そうだね」

相変わらずのエドナの言葉に小さく笑って、同意の言葉を返す。彼女の素っ気無い言葉に背中を押された気がして、ミクリオは足早に夜の街へと歩を進めた。

 

 

********

 

 

「失礼する!!」

勢いこんで扉を開けると、唐突な乱入者に、酒場にたむろしていた人間の目は残らずアリーシャに集まった。

「なんだぁ?姉ちゃん、酌でもしてくれんのかぁ?」

途端に飛んだ下品な野次は、アリーシャの立っている場所のすぐ脇のテーブル客のものだった。賞金稼ぎでもやっているのだろう、体格の良い武装した中年の男が数人、酔った赤い顔をにやつかせて、アリーシャの体を嘗め回すように眺めている。

「へへ、なかなか別嬪じゃねえか。気がきいてんなぁ、誰が呼んだんだぁ、おい」

「わ、私は酌をするために来たのでは無い!遺跡から石版を見つけた人を探して…きゃ!」

「固いこと言うなってぇ。姉ちゃんも俺らと飲もうぜぇ」

突然横合いから脂ぎった手に腰を引かれて思わずバランスを崩す。流石に槍を持ったまま酒場に入るのは余りに物騒だと、入り口脇に立て掛けてしまったから今のアリーシャには身を守る武器が無い。否、あったところで生身の人間に振るうわけにはいかないから、せめて両手が空いている分マシだったのだろうか。

そんな埒もないことをぐるぐる考えている間にも、右から左から不躾な手が伸びてくる。太腿や腰を無遠慮に撫で回そうとする手を何とか退けようと身を捩じらせるが、酔っ払いには嫌がるその様子すらも余興か何かに見えるのだろう。辞めろ、と声を荒げても、下卑た笑みを深くするだけで、一向に効果が無い。

「姉ちゃん、こっちも酌だぁ!」

「お前らだけずるいぞ、こっちもだ」

酔っ払っているから、腕を掴む手に込めた力に遠慮は無い。アリーシャの二の腕など、無頼漢同然の男達の太い手には一握りで、その歴然とした差に悔しさが募る。本気で技を振るえばきっとこんな酔っ払い一捻りなのに、もしも命に関わる傷でも負わせたら、と思えばそれも出来ない。良い様にされる自分が腹立たしく、品性の欠片も無い男達が憎らしくて仕方なかった。

「嫌だ、触らないで!!」

「冷たいこと言うなよ、おら、その無粋なモンはさっさと脱いじまいな!嬢ちゃんには似合わねえよ!」

ヤニで歯を黄色く汚した男がそんなことを喚きながらアリーシャの鎧に手をかけた、その時だった。

「はい、そこまで」

鞘に入ったままのナイフ。大振りのそれが何の前触れもなく、アリーシャの鎧に手をかけていた男の首元に食い込んでいる。鞘に入ったままとはいえ、命の危機を感じざるを得ない状況に、男の両手はいとも簡単に頭の上へと上げられた。

「いくら可愛いとはいっても、無理やりっていうのは感心しないなぁ。おじさん、酒場は女の子と遊ぶ所じゃなくて、楽しくお酒を飲むところ。だよね?」

そう問う彼女が抜き身のナイフを突きつけているのは、アリーシャの腕をしつこく引いていた男で、男は声も無く頷きながらアリーシャの手を離し、よろめきながら後ずさる。殆ど同時に蜘蛛の子を散らすように周りの人間が引いていき、自然と出来た空隙に佇む人間はアリーシャともう一人、助けてくれた彼女だけになった。

「…ロゼ」

赤に近い茶色の髪に、神業に近い二刀の扱い。彼女の腕はローランスの国境越えを果たすまで何度も目にしたが、未だに見る度に驚きを覚える。

ロゼは鞘をつけたままだった一刀を腰に戻し、抜き身の一刀を鞘に戻して、まるで何事も無かったような朗らかな表情でアリーシャの方へ向き直る。

「こんな時間にこんな場所で何してんの。女の子一人じゃ危ないよ?」

「そういうロゼだって」

「あたしは良いの。今の見てたでしょ?」

ひらひらと手を振って、今は手に無いナイフの存在をアピールする。なるほど、彼女程の腕の持ち主ならばこの程度の無頼漢共に危険を感じることはないだろう。デゼル辺りは心配してガミガミ言いそうだが、それをロゼが気にするとは思えない。

「ありがとう、助かったよ」

「いえいえ。どういたしまして。そんで、本当に何してんの?お姫様がこんな場所で。スレイ達は?」

そう彼女が小首を傾げるのは当然のこと。アリーシャ一人でこんな物騒な所に来るなどと、スレイが元気でいれば許すはずが無い。アリーシャは庇護されて当然の存在だと、そうロゼには認識されているのだろう。

無理からぬことだ。頭ではそうわかっているのに、自然と視線が下を向く。

「スレイは、まだ体調が…」

「ふーん。それもあれ?従士反動ってやつ?」

「ロゼ」

何気ないロゼの言葉を咎めるように姿を現したのはデゼルだった。ぶっきらぼうな物言いの反面、彼は優しい。事実を包み隠さないロゼの率直さが、アリーシャを傷つけるだろうと気を遣って出てきてくれたのだろう。

アリーシャは感謝の気持ちを込めて彼に一礼し、しかし構わないのだと首を振ってみせた。

「良いんです、デゼル様。その通りですから。…私のせいでスレイは今苦しんでいる。それを何とかしたくて。夕方、ここに従士の秘儀について書かれた石盤を持っている人がいると聞いてここへ」

「ふんふん。なるほど、従士としてパワーアップ出来ればスレイの負担も軽くなるかも、と。まあそういうこと?」

「ええ」

無謀だと笑われるか、それとも無茶だと怒られるか。思わず身構えていたアリーシャだったが、しかし予想に反してロゼの反応は実に軽かった。

彼女はふんふん、と頭の中で事情を整理するように何度か頷くと、ぽん、と手を叩いてアリーシャに言った。

「わかった、石版ね。確かのその辺の若いのがそんな話してたから、ちょっと捕まえてきてあげるよ。それでいい?」

「ロゼ!!」

酒場の一角を指差してそう言うロゼに、焦った様子を見せたのはデゼルだった。今にも若者がたむろす席に突進しそうなロゼの襟首を引っ掴み、苦虫を噛み潰したような表情で苦言を呈す。

「良いのか。情報を与えれば、この姫さん一人で行っちまうぞ?」

「別に良いんじゃない?行きたいなら行かせてあげれば。いつまで経っても足手まといっていうのもキツイだろうし、やれることはやらせてあげた方が良いっしょ」

「またお前はそういう言い方を…」

「だって本当のことでしょ?ねえ?」

「へ?え、ええ…」

唐突に水を向けられて、返す言葉に詰まってどもる。ロゼの言葉はどれも直球で、真っ直ぐにアリーシャの痛い所を突いてきてはいたものの、言った本人がけろりとしているものだから、不思議と嫌な感じはしない。寧ろ今まで誰もがアリーシャを気遣って言わなかったことを、直裁に言葉にしてくれたことで、どこか救われたような気さえする。

「ロゼの言う通りです。このままズルズル足手まといになるくらいなら、ここでスレイ達と別れた方がマシです。私は彼の役に立ちたくてここにいる。私の無力が彼を傷つけるのはもう…嫌なんです。だからデゼル様、どうかここは目を瞑って頂けませんか?」

「デゼル」

アリーシャとロゼ、双方から見据えられて、さしものデゼルも少々怯んだ様子だった。彼がアウトローな外見に反して面倒見の良い兄貴気質だということは知っているし、その彼の性格を考えるとこのままアリーシャの無謀な行動を見過ごすことは良心が咎めるだろうことも何となくわかる。彼に心苦しい思いをさせるのは気が引けるが、それでもアリーシャはここで引き下がる訳にはいかないのだ。

「お願いします、デゼル様。例え何があっても恨み言は決して言いません。ですからどうか…!」

「…わかった。というより、俺が許可を出すような問題じゃない。ロゼが手を貸したいっていうなら、それはコイツの勝手だ」

だから俺は知らない。

その一言を残し、彼は緑の光になってロゼの体に戻っていく。このままアリーシャに何かあれば、きっと彼は今ここでアリーシャを止めなかったことを悔いるだろうに、それでもアリーシャの意思を尊重してくれたのだ。

「ありがとうございます、デゼル様。…それにロゼも」

「あたし?止してよ、大したことしてないんだから。っていうかまだ石版の話聞いてきてないしね」

ちょっと行ってくる、とロゼはまるでアリーシャの礼から逃げるように、柄の悪い若者がたむろすテーブルに突進していく。よく見れば、若者連中の中には先程の騒動の際に囃し立てていた顔が幾つかあって、ロゼが近づいただけで明らかに年若い彼らの腰は引けていた。

「ねえ、遺跡から出てきた石版持ってるって言ってたの、あんたらだよね?」

「ひ、ヒィ!」

「悪いんだけどさ、ちょっと話を…」

「お、オレ達は何も知らない!!入り口で変な爺さんにもらっただけだ!持ってたら良いことがあるって!石版も何が書いてあるのかは知らねえ!!」

欲しいならやる、そう言って彼らは荷物を引っ掻き回し、大人の手を三つ連ねた程度の大きさの石版を取り出した。厚みは少し厚い本程度。丁度辞典くらいの大きさである。それをロゼに押し付け、自分達が出会った老人に教えられたであろうことだけを口早に伝えて、彼らは逃げるように酒場を去っていった。

 

 

「変な爺さん、ねえ…」

心当たりがあるのだろう。意味有りげに呟きながら、ロゼは渡された石版をランプの灯にかざす。

ロゼの肩越しにそれを覗きこみ、アリーシャが刻まれた文字に目をやると、やはりと言うべきか、そこにあったのは旅の間にすっかり馴染みになった文字だった。

「…古代語だ」

天遺見聞録の原書で綴られた文字。スレイとミクリオがこよなく愛し、旅の間に遭遇する度に目を輝かせていた古代の言語。

「アリーシャ姫、読めるの?」

「天遺見聞録の原書が読みたくて勉強はしたけれど…スレイやミクリオ様のようにはとても…」

「少しだけでも凄いよ。まああの二人は…ちょっと異常だしねえ。あたしには何喋ってるのかさっぱりわかんないよ。まさしくさぱらん、って感じ」

「威張ることじゃないだろう」

胸を張るロゼの姿が可笑しくて少し笑う。そこでようやく、アリーシャは自分が随分緊張していたことに気がついた。

槍を握る手に、張った肩に、いつの間にこんなに力を込めていたのだろう。いざ力を抜いてみると、まるで反動のように手が震える。それを誤魔化すようにぐっと握り締めて、アリーシャは己の臆病を内心で哂った。

スレイ達と出会っていくらも経っていない。それなのに、独りで何かをするのが随分と久々のことに思えてならなかった。独りは怖い。支えてくれる者の無い恐怖、孤独の痛みをアリーシャは嫌というほど知っている。

『従者は試練を越え、秘儀を修めよ』

細部はかなり怪しかったものの、どうやらこれが若者達が老人に聞いた石版の内容であるらしかった。

試練とはどんなものだろう。果たしてアリーシャ程度の霊応力で何とかできるものなのか。出来たとして、本当にスレイの視力が戻るのか。何もかも未知数で、しかし危険であることだけははっきりしている。そしてその危険の中、隣で戦ってくれる人はいないのだ。

―――それでも、アリーシャはやらなければならない。否、自分のためにやると決めたのだ。

スレイの隣で顔を上げ、心置きなく笑っていられるように。苦難の道を歩む、支えの一つとなれるよう。

そのためならば、どんな危険を冒しても、アリーシャは力を求めよう。手を伸ばすことは決して辞めない。それだけが、弱い自分に許された最後の足掻きなのだから。

まずはガフェリス遺跡へ。石版が出たというその地は、必ず試練と何らかの関係がある筈だ。

酒場を出たアリーシャは、夜の市街を歩きながら、隣を歩くロゼにもう一度頭を下げた。

「本当にありがとう、ロゼ。助かったよ」

「別に大したことはしてないから良いんだけど。何、これから一人で行く気?」

「ああ、そのつもりだ」

「ふーん。ガフェリスっていったら、ペンドラゴの近くでしょ。歩いていったんじゃそこそこかかるし…」

ロゼはぶつぶつ独り言を言いながら何やら考える風にしていたが、突然何かを思いついたような顔をして、アリーシャの手を掴む。

「こっち」

「へ?」

とにかく引かれるがままに市街を走り、町の門に近い位置で止まると、ロゼはそこで何度か口笛を吹く。何事かとアリーシャは周囲を見回したが、特に変わった様子は無い。一体何なのだ、とロゼに聞こうとした瞬間、背後から突然声が湧いて出た。

「何時間待たせる気?これじゃあフィルも待ちくたびれてるだろうし、しかも今時分出発したんじゃ却って目立つよ。それにこの子、どうする気?」

「えっ?!」

振り返れば、すぐ顔が触れそうな位置に男が一人立っている。白いキャスケット帽を斜に被った童顔の青年。間違いなく今朝方馬車を御してくれた男だが、息の音さえ聞こえそうな場所に立っているというのに、気配の一つも感じなかった。姫として育てられたとはいえ、アリーシャも一応は武人。他者の気配を読むことに関しては長けているというのに。

硬直するアリーシャに対して、ロゼは驚いた様子も無い。そもそも合図を出したのはロゼなのだから、彼の出現は予測の範疇だったのだろう。ロゼに技量は知っているが、この青年も只者ではない。彼らが集うセキレイの羽というギルドは一体どんな組織なのか。それを考えるとそら恐ろしい気分になる。

アリーシャの驚きを他所に、気心の知れた仲間の間で交わされる会話はひたすら暢気だ。

「ごっめーん、トル。予定変更。フィルは別便でエギーユに拾ってもらうから」

「俺らはどうすんの?」

「ちょっとアリーシャ姫に馬貸すからさ。二、三日逗留。良いでしょ?別に仕事立て込んでるわけでもないし」

「は?」

予想外のロゼの言葉に、アリーシャとトルの声が見事にぴったり重なった。今ばかりはロゼよりもアリーシャの方がトルの心情を理解できるだろう。

馬を貸してくれなどと一言も言った覚えは無い。確かに足があるのはありがたいが、隊商にとっても馬は命の次に大事なものだ。無事に帰れるかどうかもわからない旅路に、そんな大事なものを貸してもらえるわけがないし、いきなりそんな提案を聞かされたトルにとっては、まさしく寝耳に水だろう。殆ど見も知らずの人間に大事な馬車馬を貸すというのだから、いくら頭領の言うことであろうと簡単に頷けないのは当然だ。

「ロ、ロゼ?!そんなにしてもらうわけにはいかない!ロゼにもトル殿にも、十分お世話になった。だからもう、これ以上は…!」

「…ま、しょうがないね。頭領が決めたならそれで良いよ」

「トル殿?!」

一度は驚いて声を上げたものの、あっさりとロゼの提案を呑んでみせたトルに、アリーシャは驚きを隠せなかった。

頭領とはいえロゼはまだ若い。トルといくらも年齢は変わらないように見えるし、腕だってアリーシャが見る限りそうロゼに劣ったものでは無いだろう。仲間同士仲の良い、気の置けない関係にも見えた。少なくとも、頭領相手ならば理不尽も飲み込まねばならないような環境にはとても見えない。にも関わらず、説明も何も無い一種乱暴なロゼの案をあっさりと受け入れるのは何故だ。

驚くほどあっさりロゼの意見を肯定したトルは、素早い身のこなしで一旦暗がりに消え、すぐに黒い馬の手綱を引いて戻ってくる。確かに今朝ロゼ達の馬車を引いていた馬のうちの一頭である。黒い毛並みに黒い鬣、額に一つ星のような模様のある綺麗な牝馬だった。

「急いでるのはわかるけど、なるべく優しく乗ってやって」

トルの言葉に頷いて手綱を受け取る。大きくは無いが、足も腰もしっかりしている。見ている限り性格もおとなしい、良い馬だ。市に出せば高値がつくだろう。

「こんな…大事なものを…何で…?」

ロゼとの付き合いはスレイ以上に短い。しかも大抵はアリーシャが世話になってばかりで、アリーシャが何か彼らにしたことなど殆ど無いのに。

アリーシャの問いに、ロゼは笑う。

「んー、まあ、お詫びかな。あと、アリーシャ姫って何かもう一生懸命だからさ」

「お詫びされるようなことは何も…。それに一生懸命って、それだけ…?」

「お詫び云々はまあ、こっちの話。気にしないで。…一生懸命ってか、必死かな。ごんなご時勢だしさ。生きてる人間ってまあ大概どっか一生懸命な部分ってあるんだけど、アリーシャ姫の場合はさ、なんかこう、違うんだよね」

「違う…?」

うん、と軽く頷いて、ロゼはふと星の輝く夜空に視線を転じた。遠くを見る彼女の横顔に、いつものあっけらかんとした明るさは無い。

寂しい、悲しい、苦しい、そのどれでも無くてどれでもあるような表情。一体何をどれだけ抱えたらこんな表情になるのか、アリーシャには到底想像もつかない。

その青い瞳に映っているのは何なのだろう。少なくとも単に夜空を見上げているだけではあるまい。胸の内に秘めた何かを思い起こしている、そんな風に見えた。

「なんかこうさ、猪突猛進っていうの?自分が生き延びたい、とかじゃなくてさ。守るべき何かのためにこうありたいっていうのが凄く見えるんだよね。痛いくらい」

心なしか、ロゼの横顔を見守るトルの表情が切ないような気がした。

もしかしたら彼らの間にあるのは、同じギルドに所属しているという程度の絆では無いのかもしれない。先程の、アリーシャからしてみれば不可解な成り行きも、彼らの間に特殊な関係性があるならばまだ納得できる。セキレイの羽全体がそうなのか、それともこのトルという青年だけがそうなのかはわからないけれど、それでも彼らの間にある繋がりはギルドの仲間の一言で説明出来ない何かであるような気がした。

トルの視線に気付いているのかいないのか、彼には視線を向けないまま、アリーシャに向き直ってロゼは問う。

「なんか、放っておけないんだよね。これはあたしのお節介だからさ、嫌だったら勿論断ってもらってもいいけど?」

「いや」

ロゼの言葉に、躊躇無く首を振る。

ここで彼女の善意を拒否してはならない。そんな気がしてならなかった。

「ありがとう、ロゼ。好意は有難く頂戴するよ。馬は必ず返しに来る」

「あいよ、待ってる」

頷くロゼにもう一度頭を下げる。同じくロゼの後ろで佇むトルにも頭を下げて、アリーシャは鞍の置かれた馬に跨った。

乗馬の訓練は勿論受けている。腹に軽く一蹴り入れるだけで滑らかに走り出す馬の首を褒めるように叩いて、アリーシャはラストンベルの門から凱旋草海へと乗り出した。

 

 

「随分と辛気臭い顔してるな」

「デゼル煩い」

深夜。どちらかというともう早朝に近い時刻だが、朝日が昇るにはまだ遠い。

ロゼは町の土手に腰を下ろし、夜空に瞬く星を見上げていた。

星を見るのが好きなわけでは別に無い。ロゼにとって星は時刻と方角を教えてくれればそれで用が足りる程度のもので、だから星を見上げた所で星座の名前もまつわる恋物語も特に浮かんでは来ない。

ロゼにとって夜は大抵仕事の時間で、だから星は馴染みが深い。それ以上でもそれ以下でもないのだけれど、確かに今日はやけにしんみりした気分で、暗い空に瞬くそれらを眺めていたことは否定出来ない。

緑の光が隣で瞬く。

姿を現したデゼルにそっぽを向いて、ロゼはあぐらを組んだ膝の上に頬杖をついた。

「行儀が悪い」

「オカンか!」

思わず突っ込んだところでアホらしくなる。どう足掻いたところで、契約している以上この男がロゼから離れることは無いのだから、一人でセンチメンタルな自分に浸っていても格好がつかない。

「あーもう、やめやめ!あたしらしくない!」

「…確かに、お前らしくは無いな」

「あんたとあたしが始めて会ったのはつい数週間前だと思うんですけどー?」

「そういえばそうだったな」

「あーもう、何なの、その態度!」

どうやらロゼに対して腹に一物抱えているらしいこの男だが、何を隠しているかは絶対に言わない。気持ち悪くて仕方が無いが、喋らないと決めたら梃子でも喋らない性質の男なのだ。どう足掻いたところで仕方ない。仕方ないが、何かを知っている風な態度が妙に鼻につくから、それがどうにも煩わしかった。

「…時々、正直すっごく嫌いだと思うこともあるんだよね」

「アリーシャのことか?」

「うん。でも嫌味言ってもへこたれないし、そもそもあんな馬鹿みたいに悲劇的な状況でもやっぱり必死だし。結局なーんか手を出さずにはいられないんだよねー。何でかなー?」

彼女の身の上を詳しく知れば知るほど、悲劇の姫君という言葉がこれほど似合う人間もいないと思う。両親には早くに死なれ、師以外の人間には見向きもされず、権力の外から故郷のために必死に尽くすも、力が無いがゆえにその努力は全て踏みにじられる。挙句の果てに、権力に肥え太った輩に暗殺者まで雇われ、それでもその豚に縋らずには国を治めるのもままならない。

権力の構図がひっくり返ることはそうそう無い。あの男はとんでもないろくでなしだったが、強大な抑えが無くなれば下の連中が好き勝手し出すだけ。結局事態は悪くなりこそすれ、良くなることは無いだろう。

その現実を彼女は良くわかっていた。わかっていてなおその現実を受け止め、その上で愚かにも足掻こうとしていたのだ。師匠がいるとはいっても、軍人である彼女には政に口を出す権利など殆ど無い。結局スレイ達が来るまで、彼女はその清く正しい行いを周囲に哂われながら、それでも顔を上げて必死に現実に食らいつき続けた。

何故頑張るのか。

最初に彼女のことを調べた時はそう思った。膝を屈してしまえば、彼女は末端とはいえ王族。一生食うに困ることもなければ、下手に政権争い巻き込まれることもなく、一生平穏に暮らせるだろうに。無駄に足掻くから暗殺依頼など出されるのだ。まあ、結局依頼の際に虚偽の報告を混ぜたことが発覚し、依頼は遂行されなかったのだが、それでも心に負った傷は相当のものだろう。良かれと思って行動しているのに、死んでしまえと言われれば、どんなに心の強い人間でも折れたくなるというものだ。

結局、彼女は強いのだ。弱いと己を卑下しながら、誰よりも強い心を持っている。哂われても、殺されかけても、己の選んだ正道に全力でしがみ付いてきた。

自分とは逆だ。

正道など生きるために早々に放り投げた。正義も無い、道義も立たないとわかっていて、それでも抱えていた物を離したくなくて、他者の命を踏みつけにして生きてきた。しかもその事を今に至るも後悔していない。そんな無意味な感傷を抱く者から、この世界では真っ先に消えていくとわかっているから。

「多分、羨ましいんだ。うん、嫉妬?だから嫌いだと思うんだよね、あの娘のこと。なのに何で手ぇ出しちゃうかなぁ~」

「それは…」

「ロゼ!!」

デゼルが言いかけた言葉の続きを掻き消す大音声。時間帯には相応しくないが、彼の声で起きる者は限られている。だから特にその事を咎めることはせず、ロゼはただ声のした方を振り向いた。

「アリーシャ、を…知らないかっ?!姿が、見えないんだ…!!」

「ミクリオ」

繊細な造りの顔を汗にまみれさせ、乱れた息の下切れ切れに問いかける。普段は努めてクールでいようとしている節がある彼が、これほどなりふり構わずに行動するのは、親友であるスレイが絡んだ時くらいだと思っていたが、どうやらロゼの推測は間違っていたらしい。

「…どうやら、簡単に独りになんてしてくれないみたいだよ」

アリーシャは己のことを、スレイのお荷物としか思っていない節があるが、どうやら仲間には別の意見があるらしい。今のミクリオの様子を見ればそれは明らかだ。

「何の話だ?」

「いや、こっちの話。で、アリーシャ姫ならバルバレイ牧草地にあるガフェリス遺跡に向かったよ。従者の秘儀?とかいうのに関係あるらしいからってさ」

「一人でか?!何で止めないんだ!」

「いや、まあだって、必死だったしねえ。勢いに押されて馬まで貸しちゃった」

「馬?!」

ごめんねー、と軽い調子で言ってのけると、ミクリオの表情が変わる。

「余計なことを…っ!追いつけないじゃないか!」

「もう一頭いるし貸したげても良いけど…あんた馬乗れる?」

「乗ったことない!」

予想通りの答えに「だよねー」と適当な答えを返して、ふむ、とロゼは考え込んだ。

話に聞いた限りでは、スレイとミクリオは人里離れた秘境の生まれ。農作も行わなければ、遠距離の移動もしない天族の村で、馬に乗る機会があるとは思えない。一頭立てで馬車が走れないわけでは無いし、送ってやることも不可能ではないが、単騎で行くアリーシャにはとても追いつけまい。

「チッ」

ミクリオは一人で顔を青くしたり赤くしたりと忙しい。その彼の様子を見ながら、苛立たしげに舌打ちしたのはデゼルだった。

「お前、俺が教えてやったことをもう忘れたのか?」

ロゼ達はレディレイクからラストンベルに至るまでスレイ達と旅を共にし、身元の不確かな彼らが国境越えするのを助けた。その道中でミクリオは自分の力を磨きたいと自ら修行したり、他の天族に教えを請うたりして、必死に己を鍛えていた。

そしてデゼルは請われるがまま、彼に技を一つ伝授しているのだ。

デゼルの言葉にミクリオははっとしたように顔を上げる。

「そうか、早駆け!」

「姫さんは生身の人間だ。食事も取れば睡眠も要るし、馬もずっと走らせられる訳じゃない。馬を預けに一度ペンドラゴに寄るだろうしな。なら死ぬ気でやれば追いつける」

死ぬ気でやればな、と繰り返して、デゼルがミクリオの方を見やる。

早駆けは空気中に散らばる属性因子の力を借りて、爆発的な瞬発力を持続的に発揮する技だ。元々風天族が得意とする技術だから、水天族のミクリオがやれば風天族がやるよりも負担は大きいし、そもそもデゼルですら連続では使わない。それだけ疲れる技なのだ。

早いとはいってもやはり馬と比べれば僅差でしかない。途中でアリーシャが馬のために速度を落としたり休憩したりすることを考慮にいれても、ミクリオが休憩を取れるのは精々二度か三度、それもごく短い間しか止まれない。

それでもやるか、とデゼルが盲いた目で彼に問いかける。

至極短い間、ミクリオは考える素振りを見せる。逡巡するように一度視線を脇にやり、そして再び前を見据えた時にはもう、覚悟を決めた顔をしていた。

「…なら、死ぬ気で走るさ。スレイが動けないんだ。僕がやるしかないだろう」

「何故だ?あの姫さんがどうしても導師に必要な訳じゃないだろう」

デゼルの問いにどう答えるか。ロゼは無言のまま、意表を突かれた様子のミクリオを見遣った。

現状、アリーシャの能力がどうしても導師に必要な訳ではない。彼女自身が自覚するように、寧ろ彼女の非力さはスレイの枷になっている。導師に従う天族から見ても、この現状は看過出来るものではないだろうに。なのに何故それほど彼女の身を案じるのか。

「…確かに、今のアリーシャに力が足りないのは事実だと思う。けど、それでも必要なんだ。アリーシャは僕らの旅に。上手く言えないけど…従士がどうとか能力がどうとか、そういうんじゃなくて。アリーシャっていう人間が、もう無くてはならないものになってるんだ。スレイだけじゃない。多分、僕らにとっても」

今まで深く考えてみたことは無いのだろう。考えながら話すミクリオの言葉はつっかえがちだったが、それでもそれが彼の本心だとわかる。

スレイのためにアリーシャを切り捨てよう、そうディンタジェルで提案した時の彼はもういない。

「すまん。下らんことを聞いた。…さっさと行け、時間が無いぞ」

「うん、行くよ。…ありがとう。ロゼ、デゼル」

それだけ行って、ミクリオはスゥっと息を吸う。

眉を寄せながら空気中に散らばる水の因子を探り当て、流れをつけて背中を押す。地を蹴ると共に目を見張る程のスピードで門を走り抜けていったミクリオの背に手を振って、ロゼは時間を無視して大声を上げた。

「頑張りなよー!」

アリーシャのことは好きではない。それは確かにロゼの気持ちの一部ではあるのだが、アリーシャを助けようとするミクリオを応援したいと思う気持ちも本心で、相反し合う心の動きには自分でも困惑を隠せない。こんなことは初めてだ。

今までは、家族以外の人間はどうでも良かった。否、どうでも良いといえば語弊があるが、それでも積極的に手を貸したいと思うほど、ロゼの心を動かす人間は今まで家族以外にはいなかったのだ。興味が無かったのだから、嫌いになることも無論無い。スレイに関していえば、自分と同じ導師という立場を生きる人間で、だから他人とは違う興味はあったが、しかしそれは飽くまで自分と立場を同じくする者への興味にすぎない。

アリーシャはどちらの意味でもロゼにとって異端ともいえる存在だった。家族でも無ければ立場もまるで違う、赤の他人なのに放っておけない。それなのに時折どうしようもなくロゼを苛立たせるのだ。

「…何?」

「いや。間に合うといいな、あいつ」

「そだね」

意味ありげな態度でロゼを見下ろすデゼルを睨めつける。どうせ何を考えているのか尋ねても、デゼルは言いはしないのだ。その癖いつだって何か言いたげな態度ばかり取るのだから、まったくもって性質が悪い。

ロゼはミクリオの去っていた方角を見遣って、心の内でそっと願う。

どうか、アリーシャが彼の手を取ってくれるよう。そして彼らの思いに気付くよう。

まったく同じことを、隣の男が自分に対して思っているとは想像もせずに、守るべきもののために独りで我武者羅に走り続ける彼女に思いを馳せる。

らしくないな、などとまた言い出されると癪だから、あくまで胸の内だけで。

そうやってロゼはデゼルと二人、暫く月明かりの下で揺れる草の海を見つめていた。

 

 

************

 

 

深夜、草の海を渡る風はまだ冷たい。

月光を弾く銀の髪、長いそれにまとわりつく風を撫でながら、感じた異変に顔を上げる。

「…随分風が乱れると思ったら」

にや、と口の端を上げる。

草の海を揺るがして、静かに吹き行く草原の風。乱すものが少ない分、素直で真っ直ぐなその流れに、普段は感じない歪な波が混じっている。

その波の中心にいる人物を確認して、彼は面白そうな予感に胸を弾ませた。

「しかし…へったくそな早駆けだな。気力だけで頑張るねえ」

波紋を生んでいるのは水の気だ。力任せで無駄にかき回すものだから、大気の流れが乱れている。そんなやり方で長く保つものでは無いだろうに、とにかく前に進もうと、年若い彼はただもう必死だ。

ここは少し助けてやるか。

そんな気を起こしたのはただの気まぐれだった。長い生を生きていると、そんなお遊びがたまにしてみたくなるものだ。

彼の前の風に働きかけて、道を空けてやる。それだけで随分長く術が保つようになるはずだった。

「ま、青少年を導くのは大人の役目だからなぁ」

言いながら彼の後を尾けるのは、単に結末が気になるからだ。以前に出会った真っ直ぐなだけのお子様導師。彼の辿る道がどうなるか、気にならないといえば嘘になる。

地を蹴り、風の流れに働きかける。

風を乱さぬ見事な早駆けで、彼は前を行く若い天族の後を追いかけて走り始めた。

 



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次の一歩を今ここから 3

「行ったわよ。あなたの目論見通り」

扉を開けたライラを出迎えたのはその一言だった。

小さな同胞は片手で傘を弄びながら、眠っているスレイの横に置いた椅子の上に鎮座して、視線さえ寄越さずにどこか棘のある声でそれだけを告げる。それ以降は何も喋らない。

怒っているわけではない。ただ純粋に何を問うても無駄だと思っているのだろう。彼女は無駄な期待をすることをとことん避けている節があって、それはこんな日常の場面でもしばしば発揮された。

珍しいことではない。寿命の長い天族は、諦めることに慣れている。何百年、何千年という長きを生きていれば、不可能と可能を線引きする能力は自然と身に付くものだ。エドナのそれは少々過敏な気もするが、それでも彼女の反応が天族として珍しいものかというとそうでもないし、今回の件に関しては彼女の予測は実に正しい。今回の件でライラが何を考えて行動しているのか、そんなことは問われても話せない。

エドナは喋らない。ライラもまた何も語らない。だから自然と会話は絶えて、重い沈黙が部屋の中に充満する。

ライラは無言でエドナの座っている椅子の反対側、スレイの隣のベッドに腰を下ろし、穏やかに寝息を立てるスレイの顔に視線を落とす。

ライラが何を知っていて、アリーシャを独りで行かせたのか。それを知ったら彼は何を言うだろう。ライラが全て知っていながら、アリーシャを追うミクリオをただ見送ったのだとわかったら。

いくらなんでも怒るだろうか。普段は滅多なことで声を荒げたりしない穏やかな性格だが、友達思いで思い遣りの深い青年だ。怒ってライラを詰るだろうか。

汗で張り付いた前髪を払ってやりながら、ライラは思う。

―――怒っても良い。詰っても良い。自分と向き合うことをやめないでいてくれるなら、どんな仕打ちも甘んじて受ける。

背中を向けて去っていくスレイの姿を想像すると背筋が寒くなる。そうされても仕方ないことをしているのだと自覚していながら、それでもスレイに見限られることだけは心底恐ろしかった。

ライラは正面に座りながら暇を持て余したように、傘についたマスコットをいじるエドナの顔をちらりと見遣る。

エドナはまだ良い。人嫌いを公言し、事実愚かな人間をこき下ろすことに少しの躊躇も無いけれど、それでも彼女は人に誠実だ。不要な嘘は吐かず、スレイという人間と旅をしていてさえも取り繕うことをしない。

自分はどうだ。

スレイの人生を大きく変え、多くの人の命運を変えることになる導師という道を歩ませながら、肝心なことは何も伝えていない。何も伝えていない癖に、その重責だけはきっちりと背負わせるのだ。ミクリオやアリーシャに対してもそう、自分には出来ないと線引きしたその線の向こう側に積み上げた重みを、何も知らない彼らに押し付けて、自分はのうのうとこんな所で座っている。

わかっている。それが卑怯で愚かな振る舞いだということは。自分の限界を勝手に決めて、それでもその限界の向こうに行きたくて。彼らならば出来ると、無責任な期待でその願いを押し付ける。それがわがままでなくて何なのか。

それでも―――。

「…熱、下がりましたわね」

随分と平常に近づいたスレイの額に指を当てて、ぽつりとそう呟く。

彼の体調が戻ったということは、従士反動が消えたということ。即ちアリーシャがスレイの領域から出たということだ。

「そうね。随分寝てるし、もうすぐ起きるんじゃない?」

そのことに気付いているのかいないのか、気の無さそうなエドナの返事に、ええ、とやはり気の入らない相槌を打って、ライラは詫びるように項垂れる。エドナに聞こえないよう、口の中だけで小さく謝罪の言葉を呟いた。

 

―――愚かなのは百も承知。それでも、託さずにはいられないのだ。若さ故に足掻く勇気を持つ彼らに、長きを生きて臆病になった己の願いを。

 

 

 

************

 

 

 

一度ペンドラゴまで行って宿に馬を預け、やはり二日以上経って自分が帰ってこなければ、馬をラストンベルまで返しに行ってくれと幾ばくかの金と共に言い置いて、アリーシャは一人バルバレイ牧草地の只中はガフェリス遺跡に向かった。

ガフェリスからペンドラゴまではそう遠くない。歩いたところで精々三時間もあれば辿りつく。

だからアリーシャがガフェリス遺跡に足を踏み入れたのは、ラストンベルを出てから二日目の、昼を幾らか過ぎた頃だった。

石で組まれた遺構はほぼ原型を留めている。通路の所々が崩れているものの、殆どの部分が作られた当時の機能を果たしているように見えた。盗掘が繰り返されているだけあって通路のあちこちに火を焚いた跡が残り、土ぼこりにも人の踏み跡が無数についている。

「…こんな所に、本当に何かあるのか?」

歩きながらアリーシャは独りごちて、遺跡というには酷く人の匂いの残るその場所を見渡した。

導師と従士、その関係性が導師の負担を招くだけのものなら、そもそも従士など必要ない。ならばアリーシャに何かが足りていないのか、それとも何か他の秘密があるのか。その答えがあると思ってここに来たのだが、盗掘人に踏み荒らされた遺跡の内部には、とてもそんな神秘の気配は感じない。

石版を譲ってくれた若者達は、それを謎の老人からもらったと言っていた。もしかしたら、盗掘に手を染めようとしている若者に一杯食わせるために、老人がまるで出鱈目な情報を渡したのかもしれない。

担がれたか、そうアリーシャが落胆しかけた時だった。

ぞわり、と首筋が粟立つ。咄嗟に前に一歩踏み出し、半身を引きながら槍を立てると、一瞬前までアリーシャの首があったまさにその場所に、錆びた剣が打ち付けられる。槍に弾き返されて鈍い音を立てたそれを握るのは、うっすらと黄色味を帯びた人骨。筋肉など欠片も無いはずの腕で剣を振り上げるその姿は悪夢のようで、アリーシャは小さく悲鳴を上げて咄嗟に後ろに跳び退いた。

「ひょ、憑魔…?!何で…?!」

アリーシャの驚愕に、無論目の前の骨は答えない。うっすらと仄暗い穢れの光を纏わりつかせながら、穴しかない両目でアリーシャをじっと見据えている。

「何故…?見えるわけ、無いのに…」

天族を見るのと同じく、憑魔を見るのにも能力が要る。通常の人間から見ると憑魔が起こした災いは自然の産物にしか見えず、姿を捉えることも叶わない。先天的な才能の無いアリーシャは、スレイの領域にいなければ天族と同じく見ることすら出来ないはずなのに。

狼狽するアリーシャは、それでも槍を構えて骸骨に対峙する。戦い中に気を散じればやられる。そう必死に自分に言い聞かせて、眼前の骸骨の動きに視線を集中したその時だった。

「ひっ?!」

足首に這うぞろりとした感触。視線を転じれば鎧の上から蛇のように巻きつく茶色の触手、それを更に視線で辿ると巨大な切り株のような化け物に行き当たる。

「トレント…?!」

その姿は御伽噺に出てくる木の化け物そのもの。人体を遥かに凌ぐ巨体の膂力は図体に見合った怪力で、咄嗟に槍を突き立てようとしたアリーシャは足首を浚われて無様に床に倒れこみ、強かに体を打ちつける。その上打ちつけられた拍子に槍を放してしまい、愛用の武器は音を立てて骸骨の足元に転がった。取ろうと手を伸ばせば、そのまま足首を取られた状態で吊り上げられる。

―――万事休す。

ここまでか、観念してアリーシャが目を瞑った時だった。

「鋭き氷、拡散せよ!」

閉じられた空間に反響する鋭い響き。直後、アリーシャの体すれすれの場所を鋭利な氷柱が幾本も通り過ぎ、後ろのトレントに突き刺さる。トレントは人型の憑魔と比べると痛みを感じる感覚は鈍いが、流石にこれは無視できなかったらしい。鈍い咆哮を上げて触手を振り上げ、自分に向けて術を放った憎い相手を串刺しにしようと、鋭い一撃を繰り出した。

本体の動きは緩慢だが、触手の速度は人の動きより遥かに速い。アリーシャに気を取られて彼の動きは一瞬遅れ、何とか転がりながら一撃を避けたものの、その体勢では次の攻撃が避けられない。数歩先にはアリーシャから標的を切り替えたスケルトンが、剣を振り上げながら迫っているというのに。

このままではやられてしまう。

焦ったアリーシャは自分の体の痛みは無視して跳ねるように起き上がり、無造作に転がった自分の槍を掴んで走りながら声の限りに彼の名を呼んだ。

「ミクリオ様!!」

青い着衣に天族特有の銀の髪。今のアリーシャの目には映らない筈の彼が、何故いる筈のないこんな場所で転がっているのかはわからないが、今は詮索している時間などない。

間に合え、間に合え――!!

一心に念じながら床を蹴る。石畳が欠けようが、傷がつこうが、そんなことは知ったことか。今はただ、間に合えばそれで良い。

振り上げられた錆びた剣、観念したように目を閉じるミクリオの表情、その全てがスローモーションのようにゆっくりと流れていく。スケルトンまでの距離はあと七、八歩もあれば足りるのに、その僅かな距離が今は遠い。

ミクリオはスレイの無二の親友であり、幼い頃から傍で生きてきた家族だ。なりそこないの従士なぞである自分よりも余程彼の傍に必要な人なのだ。その彼が何故こんなところにいるのかはわからないが、とにかく自分のために彼をここで死なせるわけには断じていかない。

走ったのでは間に合わない、そう判断したアリーシャは手に持った槍を振りかぶる。

手が届かないのならば、手から離せばいいのだ。

―――届け!!

踏み出した一歩を踏みしめて、走った勢いのまま手に持った槍をスケルトン目掛けて投げつける。長さで優に人間の身長を凌ぐ槍は重い。大した距離は飛ばないが、その代わり当たれば骨など簡単に砕ける。唸りを上げて飛んだ槍はミクリオを狙っていたスケルトンの腰骨の上辺りに命中し、背骨を真っ二つに叩き折って諸共その場に転がった。

骨と鋼、重さの異なるものが落ちる響きの違う音が、遺跡の内部に反響する。

その余韻が消えないうちだった。

「アリーシャ!!」

余裕の無いミクリオの叫びに背後を振り返ると、視界に広がるのはすっかり意識の外に消えていたトレントの触手。人間の首程もあるそれは、一度巻きつけば容易なことでは振りほどけないし、ましてや今のアリーシャは武器を失って丸腰である。

槍を投げた際に思い切り前に傾けた体重は、未だに中心に戻っていない。アリーシャが動き出すのが早いか、トレントの触手がアリーシャを捕らえるのが早いか。どう考えても前者の望みは薄そうだ。

咄嗟に何の動きも取れず、棒のように突っ立つアリーシャの視界の隅で、ミクリオが杖を掴んで跳ね起きるのが見える。

そうだ、起きてそのまま自分に構わず逃げれば良い。ここに一人で来たのはアリーシャの勝手なのだから、ミクリオが巻き込まれる謂れは無いし、そんなことは望みもしない。ただ無事で彼がスレイの元に帰ってくれればそれでいい。

国のために役立てない王女、そして導師の役に立たない従士。結局自分はその程度だったのだと、微かに胸の内で嗤った時だった。

「双流放て!!ツインフロウ!!」

背後から宙を飛んだ水流が、激しい勢いでアリーシャの傍に迫った触手にぶち当たる。トレントは水に強いが、それでも勢いに怯んだのだろう、アリーシャに迫っていた触手が僅かに退いた隙だった。

「こっちだ、早く!!」

「ミクリオ様?!」

いつの間に回収したのか右手にはアリーシャの槍を持ち、空いた左手でアリーシャの手をとって、ミクリオは狭い通路に走り込む。図体のでかいトレントには入りにくい場所で、しかも元が木であるが故に知能が低い。ミクリオの狙い通り、水流で目を眩ませている間に消えた獲物を案の定見失ったらしかった。怒りの咆哮を上げて辺りを暫く探し回っている気配がしたが、暫くするとそれも無くなる。アリーシャとミクリオは目配せでそれを確認しあい、まるで計ったように同時に石畳に座り込んだ。

「…心臓に、悪い」

ぼそり、と呟いたミクリオの顔は蒼白で、白い額に銀の髪が張り付いてる。繊細な見た目に反して彼は意外と体は丈夫で、普段は少々動き回ったくらいのことでここまで息を荒げたりはしない。どうやら相当の緊張を強いてしまったらしかった。

「すいません。助けて頂いて、ありがとうございました。…しかし、どうしてミクリオ様がここに?」

彼はスレイについてラストンベルにいるはずで、アリーシャがここに来ることはロゼ達以外は知らない筈だ。ミクリオ達はそもそもロゼがラストンベルに留まっていたことを知らない筈だし、偶然会ったにしてもスレイを放って町をぶらぶらしていたのは解せない。

アリーシャにとっては至極当然の問いだったのだが、問われたミクリオは何故か驚いたような表情でアリーシャを見返す。

「追いかけてきたんだよ、当たり前だろう?」

「当たり前、ですか…?」

「ああ。仲間なんだから当然だ。…なに?僕何かおかしなこと言ったかい?」

「え、いえ…」

心底不思議そうにそう問われて、思わず言葉に詰まる。

今までアリーシャが危機に陥った時、身の危険を顧みずに助けにきてくれた人などいなかった。アリーシャの近しい人には皆立場があり、易々と己の都合で動けなかったのだからそれも当たり前の話で、スレイにしたってそれは同様のはずだった。そしてミクリオはスレイの主神ライラの陪神である以上、本来スレイの傍を離れてはいけない身である。

自分が、その責任と同等以上の価値があるなどと、今まで考えてもみなかった。アリーシャは導師を支える従士であり、優先順位は言うまでもなくスレイが上位だ。彼に言うことなくここに来たのは完全にアリーシャの身勝手で、だから誰かが追ってくるなどという事態は想定していなかったのだ。

―――それなのに。

「やっぱり…お優しいのですね」

スレイもミクリオも優しい。それはこの旅の道中でとっくにわかっていたことで、その優しさが嬉しいと同時に少し心に痛かった。

自分はちゃんと笑えているだろうか。気にかけてもらっているのに、沈んだ顔など見せるわけにはいかない。だから表情を隠すように俯いて、アリーシャは必死で唇の端を引き上げる。そのアリーシャの顔を数秒の間無言で見つめてから、ミクリオはどこか気まずそうな表情で瞼を伏せる。

「…僕は、優しくなんて無いよ」

スレイと違ってね、と呟く声はどこか暗い。まるで後ろめたい何かを隠しているような物言いに、アリーシャは思わず顔を上げたが、視線を落とした彼とは目が合わない。状況的に問い詰めるのもおかしな話だから、結局二人とも黙り込んだまま、気まずい沈黙だけがその場に影を落とす。

先にその重みに音をあげたのはミクリオの方だった。

「憑魔もいないみたいだし、ちょっと寝るよ。悪いけど、一時間経ったら起こしてくれないか?」

「え?あ、ええ、はい」

「ごめん。頼むよ」

言ってミクリオは背後の壁にもたれて目を閉じる。程なくして聞こえてきた寝息は、不自然さを感じさせない本物の寝息だったから、別段空気が気まずくなったことを取り繕いたかったわけではないらしい。本当に疲れていたのだろう。

そう思ってみれば、今の彼は遺跡が薄暗いことを差し引いても酷く顔色が悪いように見えた。

スレイが倒れてから、彼の周りはバタバタし通しで、しかもミクリオは枢機卿に会う以前から睡眠時間を削って修行に励んでいた。きっとその疲れが出たのだろうと納得して、アリーシャは自分が着けていた旅装用のマントを外してミクリオにかける。そうしてやりながら、自分が今後どう動くべきなのか、己自身に問いかけた。

本来ならば誰の迷惑にもならぬよう、一人で辿るつもりの道だった。力足りずにここで果てるのならば、それも一つの終わりだとそう思っていた。スレイはきっと怒ってくれるのだろうが、それでも彼の旅路は過酷なものだ。このまま足手まといにしかならないのならば、別れた方がよほどいい。

しかし、ミクリオがここまで来てしまった以上、無謀なことは出来ない。今後も自分の無力がスレイの足かせになるとわかっていても、彼だけは何としてもスレイの元に返さなければ。それを思えばここで戻るのも一つの道だ。

―――進むべきか、戻るべきか。

「私は…」

答えが出ないから動けない。

アリーシャは暫く棒を飲んだように立ち尽くしたまま、薄暗がりの中で眠るミクリオの寝顔をただ見下ろしていた。

 

 

一時間、そう言った彼はアリーシャが起こすまでもなく、過たず一時間後に目を開けた。

「これ、かけてくれたのか。ありがとう、アリーシャ」

「い、いえ。随分お疲れのご様子でしたが大丈夫ですか?」

「まあちょっと寝不足だったのは確かだけどね。でも熟睡できたし、問題ないよ」

「でもお顔の色がまだ…」

「ここで一晩明かす訳にもいかないし、進みながら随時休憩を挟めば何とかなるよ。問題は…」

未だ青白い顔の彼を心配するアリーシャの言葉を軽く流して、ミクリオは思案顔で道を閉ざす鉄格子に目をやった。

「どうやって進むのか、だね」

「ミクリオ様…」

先へ進む。ごくごく自然にそう言ったミクリオに、アリーシャは思わず目を見開く。

アリーシャの身を案じて追いかけてきただけならば、ここからすぐに引き返せばそれで用は済む。危険を最小限にするならば、スレイの体調が整ってから全員で来れば済む話で、それをしないのは自分の力で事を成したいというアリーシャのただの我が侭に過ぎない。何事も冷静に、確実な道を選ぼうとするミクリオならば、当然戻ろうと提案されるものだと思っていたから、当然のように二人で先に進む選択肢を呈示されて、アリーシャは咄嗟の戸惑いを隠せなかった。

「戻ろうって言われると思った?」

声も無く頷くと、ミクリオは少し苦笑して見せる。

「僕も最初はそのつもりだった。どう考えても危険だしね。でも、エドナに言われたんだ。それはただのエゴだってね」

「エゴだなんて…」

言ってアリーシャは続ける言葉を見失う。そのアリーシャの様子に苦笑を更に深めてミクリオは笑った。

「格好悪い話だけどね。僕もスレイも、同年代の女の子と旅するなんて始めてだから、変に張り切ってたんだ。僕らが守らなくちゃ、なんて。今思えば失礼な話だと思うよ。君はちゃんと自分で戦って自分を守るだけの力がある。それどころか、戦闘でもそれ以外のところででも、僕らの力になるために頑張ってくれていたのに、それを全部見ない振りしてた。…本当に、ごめん」

「あ、謝らないで下さい!私は…」

情け無さそうに眉を下げるミクリオに、思わず声が高くなる。

優しさが心に痛かったのは確かだが、しかし彼らの好意が嬉しくなかったわけでは決して無い。

「私は、嬉しかったのです。何も出来ない我が身が歯がゆいと感じることは確かにありましたが、それ以上にこんな我が身を気にかけて下さる皆様のお心が嬉しかった…。ミクリオ様に料理を教わる時間は楽しかったし、皆で囲む食事は美味しかった。…どれも、城では得られなかった経験です。一人では無いという事の暖かさを、皆様には教えていただきました。だからこそ…」

ぐっと一度唇を噛んで、アリーシャは続ける。

「だからこそ、もっと皆様のお役に立ちたいと思ったのです。力になりたいと思えばこそ、私は一人ここに来ました。何の引け目も感じることなく、皆様の、スレイの隣に立ちたかったから…!」

「アリーシャ…」

自分は無力だ。

そう叫ぶアリーシャに、物言いたげなミクリオが手を伸ばしかけたその時だった。

「青春してるねぇ、青少年!」

遺跡に堆積した砂塵を巻き上げるように風が吹く。狭い通路には低いが楽しげな男の笑い声が木霊した。

アリーシャは砂塵から目を守るように背けた顔を、声の方へと動かした。声の主を確認しようとしたのだが、動いたのはミクリオの方が早かった。

「お前は…!!」

刺々しい声と共に、素早く立ち上がってアリーシャを庇うように前に出る。杖を構えるその姿勢から、相手を警戒していることは明白で、アリーシャは訳もわからないままに彼に倣って槍を構えた。

土煙は徐々に晴れ、晴れた視界に見えたのはやたらと体格の良い男が一人。白銀の髪は天族特有のもので、しかし半裸に黒いズボンのみという野趣に富みすぎた格好がアリーシャの知る天族にそぐわない。荒々しい雰囲気と相まって、まるで盗賊の類のようにも見えた。

「天、族様…?」

「そうそう。その天族様って奴だから、敬ってくれると嬉しいねえ。確か…アリーシャちゃん、だっけか?」

「ふざけるな!お前のどこに敬うところがあるんだ!」

「つれないねえ、ミク坊。お前さんが無事ここに来れたのは誰のお陰だと思ってるんだ?オレ様が助けてやらなかったら、確実に途中でへばってただろうによぉ」

「どういう…ことだ?」

「あんなヘッタクソな早駆けが一晩もつと思ってる辺り、まだまだ経験不足ってことだな。ま、風の天族でも相当熟達しなきゃ一晩保たないから、ハンデもらったとはいえお前さんは頑張った方ではあるけどな」

「なっ?!」

二ヒヒ、と品の無い笑いを浮かべる男の言葉に、ミクリオが言葉を失った。彼の言葉の意味を理解したアリーシャもそれは同じことだった。

ミクリオが早駆けの技を会得したのは知っている。道中何度か練習に付き合ったこともあるし、デゼルに請うて教えを受けている場面も見たことがある。しかし、それは精々数十分もてば良い方。長い時間は保たない技のはずだった。ミクリオよりも熟練度の高いデゼルですら、二時間程度が精々で、続けて使おうとはしなかったから、効果相応に消耗のある技なのだろうと納得していたのだ。

「それを…一晩中…?」

確かに馬で来たアリーシャに後から追いつくには、同じく馬を駆るか、極端な近道をするしか方法は無いが、平野部を通り抜けるだけの道程に近道があろうはずもない。だからてっきりどこからか馬を調達してきたのだと勝手に思っていたのだが、そもそもスレイやミクリオが馬に乗っているところなど、アリーシャは見たことがなかった。

馬に乗るにはそれなりの経験が必要だ。そして馬は高価な動物である。ほいほい調達することは叶わないし、そもそもアリーシャがイズチを訪ねた際には、野生の山羊以外の動物は見ていない。

つまり、ミクリオは馬に乗れない。こんな簡単なことに今まで気付かなかったとは。アリーシャはどことなく青白いミクリオの顔に視線を遣り、自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。

「そんな話はどうでもいい!何故お前がこんな所にいるんだ、ザビーダ!」

「オレ様か?そりゃあ年若い青少年が頑張ってるとくりゃあ、手助けしてやんのは大人の義務ってもんだろうよ。折角手ぇ出したんだ、最後まで付き合ってやろうかと思ってよ」

「別に誰も頼んでない。僕らだけで十分だ」

「ふーん」

顔を背けたミクリオをにやにやと人の悪い笑みで見下ろしながら、ザビーダは更にその笑みを深くする。酷く狡猾そうなところを除けば、その顔は悪戯を思いついた悪童のそれにそっくりだ。もっとも、彼の場合は子供どころか何年生きているのか、それすら定かでは無い。天族の寿命は人間のそれを遥かに凌ぐ。彼が若年でないことは、言葉の端々から窺い知れた。

「オレ様がその鉄格子を何とか出来る、と言ってもか?」

「本当ですか?!」

「アリーシャ!!」

ザビーダの言葉に反応して顔を上げるアリーシャを、鋭い声でミクリオが制す。彼はアリーシャを庇う姿勢を崩さず、ザビーダへの警戒も解いていない。杖を構えたまま、威嚇するように己より長身の男を睨めつけた。

「こいつの言葉は聴かない方が良い。こんなふざけた事ばかり言ってるけど、何を企んでるのかわかったもんじゃない。何しろ、初対面のスレイにいきなり襲い掛かった奴なんだから」

「スレイに…?!」

アリーシャの言葉にミクリオは無言で頷く。

スレイに危害を加えた相手ならば、アリーシャとて易々と信用するわけにはいかない。ただでさえ危険の多い身なのだ。余計な敵は近づけないに限る。

アリーシャと比べると、男は頭一つ分ほども背が高い。その高い視点からにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら、ザビーダは何を言うでもなくアリーシャ達を見下ろしている。自分でついて行きたいと申し出たくせに、その様はアリーシャ達がどういう結論を出すのか、足掻く様を面白がっているようにも見える。それが酷く腹立たしかった。

下手をすれば何千年という時を生きる天族にとってみれば、人間の自分など所詮その程度。長き生に僅かな潤いを与えるための暇つぶしにしか過ぎないのだろう。それを思うとどうしようも無く憤ろしい。

「…帰りましょう、ミクリオ様」

思惑になど乗ってやるものか。

槍を担いで踵を返す。そのアリーシャの背中にザビーダが声をかけた。

「おいおい、良いのか?従士の力のこと、知りたいんだろう?多分ここ、本当に何かあるぜ?」

「お気遣い痛み入りますが、自分のことは自分で何とかします。どうかお気になさらず」

自分だけならば話の一つも聞いたかもしれないが、ミクリオまで危険に晒す可能性があるならば、真実である保障が何一つない与太話など全く聞くに値しない。その気持ちは嘘偽りの無い真実だったし、ミクリオも当然そう思っているのだと思っていた。だから後ろをついてくる足音が止まったこに気付いて、アリーシャは驚愕した。

「ミクリオ様?!」

「…従士の力に関係する何かがこの遺跡にあるって、本当なのか?」

疑いは隠さないが、期待も捨て切れない。ミクリオの態度はそんな風で、しかし疑いの眼差しを向けられてもザビーダは面白そうに笑うだけだった。

「ああ。オレ様が嘘を吐く必要がどこにある?オレの目的は導師じゃない。確かにムカつくことに変わりは無いが、ただの人間を追うほどオレ様は暇じゃないんでね」

「なのに僕達を助けるのか?何のために?」

「なぁに、単なる暇潰しさ」

数秒前に自分が言ったことを軽やかに無視して男は悪びれなくそう答える。

ミクリオの足は最早完全に止まっている。出口を向いていた体は再びザビーダの方に、即ち鉄格子が閉ざす遺跡の奥に向いていた。

「…スレイの居場所は教えない。それでも僕等に協力するか?」

「最初から興味ねえな、そんなもん。言っただろ、オレは健全なる青少年の青春を応援してやるだけだってな」

「ミクリオ様!!」

男の応答は一から十までふざけている。にも関わらず、ミクリオの気持ちが遺跡の奥に傾きかけているのは明らかで、アリーシャは堪らず声を上げた。

遺跡の奥にあるという、従士の力に関する何か。それを喉から手が出るほど欲しているのは、自分であってミクリオではない。なのに何故、危険とわかっている道に敢えて踏み込もうというのか。

アリーシャの言葉に、ミクリオは首を回してアリーシャを見る。彼はアリーシャの顔を見て微かに微笑むばかりで、しかしその微笑が何よりも雄弁に語っていた。彼の意思は既に決まっているのだと。

「ミクリオ、様…」

「連れて行ってくれ。奥に」

短く言って、あれほど毛嫌いしていた様子だったザビーダに小さく頭を下げる。その様を見て、ザビーダの笑んだ口元が、一層楽しそうに端を上げた。

「よしきた。このザビーダ様に任せな」

芝居がかった大げさな仕草でそう言って、ザビーダはくるりと背を向ける。鉄格子に向かいあう彼の背を追いながら、ミクリオはアリーシャの方を振り返って短く言った。

「行こう、アリーシャ」

その言葉と共に手を伸ばす。

伸べられた手、それを掴んだ方が良いのか拒んだ方が良いのか迷ううちに、焦れたようにあちらから手が掴まれる。

どうしてそこまで必死になってくれるのか。

その疑問をミクリオに投げる暇も無く、アリーシャは再び遺跡の奥に向かって足を踏み出したのだった。



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次の一歩を今ここから 4

 

 

 

ぱかりと目を開けて、視界に飛び込んできた見慣れない天井に二、三度目を瞬かせる。

―――何かが変だ。

酷い違和感の正体を突き詰めるように暫く考え込んで、違和感の正体を掴むと同時に飛び起きた。

「アリーシャ!!」

―――だって、見える筈が無いのだ。天井なんて。

今のスレイは枢機卿の強烈な穢れと、その穢れからアリーシャを守った反動で視力すら失っている状態の筈である。それなのに今は信じられない程身体が軽い。今まではこんなに急激に体調が戻ることは無かった。それこそ風邪と同じだ。起き上がれる程度に回復した後、ある程度段階を踏んで治っていく。しかし今は、身体の重さどころか、アリーシャと合流してから常に付きまとっていた右目の闇すらどこかに行っていた。ならば、単純に回復したのではなく、原因の方――つまり従士のアリーシャがスレイの領域を離れたと考えるのが普通だ。

「起きたんですね、スレイさん」

「おはよう。…もうとっくにお昼過ぎてるけど」

「ライラ、エドナ。アリーシャは?!」

ほっとしたような表情でベッド脇の椅子から腰を上げたライラに詰め寄ると、彼女はどこかばつが悪そうな表情で目を逸らす。

「アリーシャさんは…」

言葉を濁すライラに焦れてエドナを見遣れば、彼女も黙って首を振る。恐らく知らない、という意味だろう。

「これ」

代わりとばかりに差し出された紙を開けば、そこには女性らしい流麗な文字で、アリーシャの決意が綴られていた。

「なっ…」

どこに行く、とも、何をする、とも書かれていない。ただ戻らなければ先に行けと、それだけの内容だった。思わず絶句したスレイは、助けを求めるように見慣れた親友の顔を捜したが、見れば彼の姿も無い。よくよく気配を辿っても、感じるのはライラの火と、エドナの大地の気だけ、幼い頃から身近に感じ続けてきた清冽な水の気配はどこにも感じない。

「まさか…ミクリオまで…?」

「必ず連れ戻すって夜明け前に外に出てってそれっきりよ。どこに行ったのかはワタシ達も知らないわ」

「そんな…」

スレイがいなければ天族であるミクリオは本来の力を発揮しきれないし、そもそも浄化の力を振るえない。アリーシャもミクリオも武術には長けているから、相手が人間ならば余程のことが無い限り心配は無いが、もし強力な憑魔と行き逢うことになれば。

「っ、オレも探しに行く!!」

酷く胸騒ぎがする。

スレイは布団を跳ね除け、脇に置いていた着替えとマントを掴んで立ち上がった。

暢気に寝ている場合では無い。じっとしてなどいられない。急げ、とスレイの頭の中で何かが警鐘を鳴らしていた。

「でもスレイさん。闇雲に探し回って入れ違いになっては…」

「それでもここで待ってるなんて出来ないよ!」

汗で湿ったシャツを脱ぎ捨て、旅の支度を整える。そうしながら頭の中でアリーシャ達が行きそうな場所を並べ、探す順序を組み立てる。

扉がノックされたのはその時だった。

「スレイ、起きてるー?」

スレイがドアを開けると、隙間から赤い頭が顔を出す。彼女は顔の前で指を金の形に丸く形作りながら、お困りの様子みたいだね、と言ってにっと笑う。

「今ならガフェリス遺跡まで馬のレンタル、お安くしとくよー。騎手付きで二千でどう?」

「ロゼ?!」

突然の登場に目を白黒させるスレイを無視して、「ちなみに」とロゼは続ける。

「アリーシャ姫とミクリオもそこにいるよ」

彼女の言葉を聞くなりスレイは鞄を漁って財布を捜す。掴んだ皮の質感を丸ごとごとロゼに押し付けた。

彼女は財布の中からきっちり二千ガルドを数えて抜き出して懐にしまう。財布をスレイに投げ返しながら、まいど、と言って明るく笑った。

 

 

 

**********

 

 

 

「そろそろ休憩にしましょう」 

アリーシャは肩に担いだ槍を下ろしながらそう言って、返事を聞かずに荷物を開けた。

鉄格子を何とか出来るというザビーダの言葉に嘘はなかった。ミクリオとアリーシャに自分に掴まるように言った彼はほんの少し身構えて、まるで幅跳びでもするような格好で地面を蹴り、そうして気づいた時にはアリーシャ達は鉄格子を越えていた。覚悟していた反動や痛みは無い。ただ一瞬羽で頬を撫でるような風を切る感覚があって、それで魔法のような瞬間移動は終わりだった。そこにあった地下に向かう階段を降り、もう二時間も歩いただろうか。

スレイがいない今、アリーシャ達に憑魔を浄化する術はない。ホーリーボトルで憑魔を遠ざけ、それでも行き会えば身を隠す。常に周囲を警戒しながらの歩みは遅く、二時間歩いた割にはいっかな進んだ気がしない。

進んだ気がしない分、先を急ぎたい気はあるのだが、神経を尖らせているせいで体力の消耗が激しい。ミクリオは特に顕著で、顔には出さないようにしているものの、明らかに先程から歩く足に力が無い。普段はそれなりに無駄話もするというのに、いつからか返事以外に彼の声を聞かなくなった。

先程から何か急いている様子の彼は、それでも休もうとは決して言わない。今も、殆ど無理矢理荷物を降ろして火の準備を始めるアリーシャに、不満げな様子を見せている。

「アリーシャ、僕ならまだ大丈夫だ。先に…」

「私が休みたいのです。申し訳ありませんがお付きあい頂けますか?」

こう言ってしまえばミクリオは何も言えない。案の定、「なら構わないが…」とどこか不満そうながらも引き下がる。本来ならば急いているのは力を求めているアリーシャのはずなのに、これではあべこべだ。

何故、ここまで必死になってくれるのだろう。

問いたい気持ちは勿論あるが、今はミクリオの休息が優先だった。

相当消耗していたのだろう、壁にもたれてうずくまったミクリオは、程なく寝息をたて始める。起こさないように注意しながらアリーシャは携帯用の金属の茶器で湯を沸かし、やはり携帯用の茶の包みを放り込んで、二つに注ぎ分けた片方をザビーダに渡す。

「お、悪いねー」

「お力添え頂いたお礼です。それより、ザビーダ様にお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「可愛い女の子の頼みとあらば、と言いたいところだが…内容によるな」

「何故私にザビーダ様のお姿が見えるのか、理由をご存知でしょうか?」

言動、行動から察するに、恐らく彼は天族の中でも年長の方だろう。ライラは誓約のせいで話せないことも多いから、あてにするのはリスクが大きい。今、彼に質問する機会を逃せば、真実を知る機会は無くなってしまうかもしれない。

従者反動についてアリーシャに知らせなかったのは、純粋にスレイの優しさが故だろう。しかし、知っていればもっとスレイの負担にならないように振る舞えたかもしれないと思えば悔いが残った。アリーシャは二度と己の無知故に後悔したくない。

すがる思いでザビーダの顔を見上げると、彼はいつものふざけたような笑みでも、嫌味な薄笑いでもない表情でまじまじとアリーシャを見返した。暫くそうやってアリーシャの顔を見つめると、何故か不機嫌そうに眉をしかめ、ぼそりと口の中で呟く。

「そんなことまで黙ってるのか、あいつは」

「え?」

「いや、こっちの話だ。――何で普通の人間に天族が見えるのかって?」

「ええ。私にはスレイ程の霊応力はありません。スレイの領域から離れれば、天族様のお姿は見えないはずなのに…」

「なのにアリーシャちゃんには俺達が見える、と。まあ、別に不思議なことじゃない。天族が見えないのが“普通の”人間だとしたら、アリーシャちゃんは既に普通の人間じゃなくなった。それだけの話だ」

「それはどういう…?」

要領を得ない話に思わずアリーシャは眉をひそめる。教えを請うにしては余りに礼を失した態度だったが、それを咎めるでもなくザビーダは続ける。

「そもそも、俺達天族が見えること自体は何も特別なことじゃない。持って生まれた才能なんてものはいらないし、途中で見えるようになっても何も可笑しくない。じゃあ何で大半の人間が俺達のことが見えないかっていうと…」

「いうと…?」

一旦言葉を切ったザビーダに、アリーシャは固唾を飲んで続きを待つ。その様子にザビーダは少し笑った。何の含みもない笑みを浮かべた彼には、意外なほど邪気がない。風体のせいで無頼漢のように見えるが、表情だけ見れば気さくで頼れる人柄のようにも見える。

こんな顔も出来るのか、と内心で驚くアリーシャを他所にザビーダは続ける。

「まあ、簡単に言えば俺達の存在が弱いからだな。それこそ人間にしてみりゃ幽霊みたいなもんだ。いないと思って見れば、それだけで見えなくなっちまう。逆に居ると思って見れば誰でも見えるが、これがなかなか難しいみたいだな」

「しかし、私は幼い頃より天族様の存在を信じていました。私たけじゃありません、数こそ減りましたが、教会にだって信心深い神職者はまだまだ残っています」

「そりゃそうだ。いいか?教会で奉ってる天族ってのは、叡知に富み慈悲深く、更には自然を意のままに操り、人を見守り導く…まあなんだ、とにかく凄い存在なわけだろ?残念なことに実際の天族はそんなにご立派なもんじゃない。つまり、教会や信者が信じてるのは天族って名前の『何か』であって、俺達じゃない」

「そんな…」

レディレイクで地の主の器を祀ることに協力してくれた神官の顔を思い出す。彼の性質はこの荒れた時代の聖職者としては得難いもので、なのにその信仰心故にあれだけ慕っている天族が見えないのだとしたら、それは何と不幸な話なのだろう。

肩を落とすアリーシャに、ザビーダは苦笑しながらカップを傾ける。

「まあ、天族と人間の関係は変わっちまって長いからなぁ。神として崇めるのが当たり前になった世の中じゃ、殆どの人間に俺達が見えないのは無理も無い話だ。一度根付いちまった文化は簡単には消えねえ。…胸糞悪いことにな」

「ザビーダ様…?」

明らかな嫌悪の表情で吐き捨てるザビーダに、理由を問うように彼を呼ぶ。ザビーダははっとしたように目を見開き、暫く間を置いた後に短く「何でもない」とだけ言ってカップを置いた。

「ごちそーさん。そろそろミク坊起こそうや。夜が明けちまうぜ?」

「…そう、ですね」

彼は何かを隠している。

アリーシャは半ばそう確信していたが、飄々としながらもどこか拒絶するような冷たさを見せるザビーダの態度が、言葉よりも雄弁に聞いてくれるなと語っていた。

正確な年齢はわからないが、ザビーダは恐らくかなりの年月を生きている。ならば人に聞かれたくことの一つや二つもあるだろうし、そもそも彼は気まぐれでアリーシャ達に協力してくれているだけなのだ。腹を割って心情を語り合う程気の置ける中では無い。

アリーシャはそれ以上問うことは諦めて、体を丸めて眠るミクリオを不憫に思いながらも、彼を起こすためにその肩に手をかけた。

 

 

「…やはり殆ど盗掘済みか。開けられたのは最近じゃなさそうだが…」

「通路が崩れる前でしょうか?」

「そうだろうな。あの崩れ方では普通の人間は入ってこられないだろうし、物に対する執着が薄い天族が盗掘するとは思えない。第一、盗掘したところでメリットが無い。盗掘品を持ってたところで売り飛ばす先が無い」

「ま、キラキラしたのが好きな天族もいないわけじゃないが…わざわざ人間の作った物を盗む物好きは少数派だろうな」

中身が空っぽの石棺を開けては首を振り、従士の力に関するヒントを探して早二時間程経っただろうか。

ここまで来ると最近人の出入りがあった様子は無く、通路にも石棺にも厚く埃が堆積している。その癖石棺を覗いても、出てくるのはガラクタばかりで、重い蓋を開ける度に疲労感が増すばかりだ。

ミクリオは部屋に並んだ最後の石棺を開けて溜息をつき、ザビーダはその様子を石棺の上に座って眺めながら欠伸をかみ殺している。どうやら積極的に探すのを手伝う気は無いらしく、部屋の探索をするのは専らミクリオとアリーシャのみだった。

「残るはあちらだけ、ですね」

言いながらアリーシャは緊張で表情が強張るのを感じた。

部屋から伸びた一筋の通路、その向こうからは明らかに異質な気配が漂っている。アリーシャが見てもわかる濃い穢れ、そして肌を刺す敵意と恨みの気配。

「ああ…」

アリーシャと同じくミクリオも警戒しているのだろう。答える声が低かった。

スレイを欠く今、天族であるミクリオは全力を発揮するのが難しい。天族の力は本来導師が居てこそ十全に発揮出来るもので、単体で使う術は本来の力とは程遠いのだ。おまけに浄化の力も使えないから、憑魔と行き会えば逃げるか殺すしか無いが、殺してしまえばその憑魔の発した穢れはその場にそのまま滞留する。そうなれば導師の領域から出てしまっているミクリオの身が危ない。闇雲に突っ込むことだけは避けなければならなかった。

「この気配は…多分変異憑魔だな。一筋縄で行く相手じゃねえ。辞めるか?」

奥の気配を探るようにじっと視線を注いでいたザビーダが、真面目な顔でアリーシャに問う。その表情を見る限り、彼の言葉に嘘は無い。

変異憑魔。それは長きに渡って天族を食らって取り込み、力を増して肥大化した憑魔のことである。行き会う人々の気を狂わせ、または穢れを移してばら撒く、天災に近い存在。

この二百年の間にそういう個体は徐々に数を増やし、ますますこの災厄の時代の闇に拍車をかけている。スレイとライラですら今のところ浄化は出来ず、ただ避けて通るしか術の無い強大な敵である。

近くに行けば逃げるだけでも相当な危険を伴う。まともにやり合うなど以ての外だ。

一人ならば散る覚悟も出来る。しかし今はミクリオが一緒だ。アリーシャは躊躇いを隠せなかったが、当の本人には迷いの色は見えなかった。

「ここで辞めるなら最初から来ないさ。…行けるか?アリーシャ」

「ミクリオ様、ここはやはり戻った方が…」

「強敵がいるってことは、多分求めてる物が近いってことだ。ここで諦めるのか?」

「しかし…。余り強い穢れはミクリオ様のお体に障ります」

「僕なら心配ない。まだ元気だし、霊霧の衣である程度防げる。…従士の力、手に入れたいかい?正直に答えてくれ」

真っ直ぐに見据えられて言葉に詰まる。

正直、スレイの負担にならなくて良くなるというなら、我が身の危険などどうでも良い。是非とも挑戦してみたかった。

しかし、それで死んでしまっては元も子もない。アリーシャは死にたいのではない、強くなりたいのだ。伴う危険は厭いはしないが、勝てないとわかっている敵相手に玉砕するほど馬鹿でも無い。

変異憑魔が相手ならば、それは今のアリーシャにとって勝てない敵に挑むも同義。しかし、従士の力は彼の憑魔を倒さねば手に入らぬと決まった話でもない。

悩んだ末にアリーシャは口を開いた。

「…敵の目を盗んで、室内の様子を見ることは出来ますか?」

ミクリオが修行の末に手に入れた霊霧の衣。穢れを避け、憑魔の視線を逸らすその技は、枢機卿の配下の監視の網を見事潜ってみせた。

アリーシャの言葉にミクリオが頷く。

「短時間なら問題無いよ。穢れが強くても弱くても、耐久時間にそう差は無い。枢機卿の穢れにもある程度は耐えたんだ。変異憑魔にも通用するはずだ」

「もし手がかりを掴めないようなら、今回の噂はきっと真実では無かった、そう思って諦めます。…お付き合い願えますか?」

「よし、やろう」

「ミクリオ様!」

もし見破られたら命は無い。その危険な賭けにあっさりと了承の意を示した彼の腕を思わず掴む。

「何故、そこまでしてくれるのですか?下手をすれば命すら危ういのですよ?」

「言っただろ?仲間なんだから当然だ」

「当然な筈がありません!この危険はスレイの―導師の旅に不可欠なものでは無い。避けて通れる道なのです。その道を敢えて行くのは私の我がまま、それをどうして…」

「それは…」

言い募るアリーシャに、ミクリオは一瞬表情を曇らせた。

痛みを堪えるような顔。或いは叱責を恐れる子供の顔。余りにもこの場にそぐわない彼の表情に、アリーシャは更に重ねようとした言葉を思わず飲み込む。

「ミクリオ様…?」

「…ごめん、アリーシャ。でも、僕がやりたいんだ。アリーシャのためじゃない、僕のために」

「それは…どういう…?」

問いかけてアリーシャは言葉を止めた。まるで痛みを堪えるようなミクリオの表情に気付いたからだ。

思えば彼はこの遺跡で再会してから、しばしばそんな表情を見せていた。特に、アリーシャが彼女について来てくれるミクリオの真意を尋ねると、必ずと言って良いほど表情を歪める。

アリーシャは暫くの逡巡の末、掴んでいた腕を放し、指三本分ほど高いミクリオの目を僅かに見上げる。夕焼けの色を反射する水面のような瞳に、漣のように何かの感情が揺らいでいるのがよく見えた。

「…わかりました。無事に戻って、話せると思う時がきたら話して下さい。それまでは、好意に甘えさせて頂きます」

「アリーシャ…」

「ほい、決定だな。いやぁ、若いって良いねえ。大人は置いてけぼりだわ」

パン、と一つ大きく手を鳴らして、ザビーダが会話の流れを無理やり断ち切る。恐らく状況に飽きたのだろう。風の天族の特性なのか彼自身の気質なのか、まるで秋の風のように気まぐれで、まるで捕らえどころが無い。

まさか、一緒に来るつもりなのだろうか。

危険性を考えれば正気の沙汰ではない。しかしアリーシャが見る限り、彼はついて来る気満々なようで、何かを待っているような目をミクリオに向けている。

ミクリオもザビーダの意図を悟ったのだろう。何も言わず呆れたように深々と息を吐き出してから、自分の傍を離れるな、とどこか疲れた声でそう言った。

 

 

その憑魔は蜘蛛とザリガニを足して二で割ったような格好をしていた。勿論、大きさは比較にならない。相当の数の天族を喰って育ったのだろう、その全長は三メートル程もあるだろうか。反り返った節の多い尾の先は鋭利で、刺されば単なる怪我では済まないことは遠目に見ても明らかだった。

「ありゃ蠍だな」

霊霧の衣の内側から穢れを振りまくその生物の姿を確認してそう呟いたのはザビーダだ。

「さそり、ですか?」

聞き慣れない名前に首を傾げるアリーシャに、ザビーダは一つ頷く。

「ああ。そういやハイランドにはいなかったか。砂漠や乾燥地帯によく住む生き物だ。尾の先に毒がある。種類にもよるが、ただの蠍でも一撃で人間を殺すような毒を持ってる奴もいる。あいつも当然持ってると思って良いだろうな」

「憑魔の毒か…。恐らく僕等にも有効だろうな」

「まあ、あいつの存在が俺達に対する毒みたいなもんだからなぁ。当然効くだろうさ」

「…絶対に見つかるわけにはいきませんね。早く確認を済ませましょう」

年月を経た変異憑魔。今のアリーシャ達では逆立ちしても勝てない相手である。

霊霧の衣を張っている間は、ミクリオに急激な動きは難しい。だから歩く速度で精一杯憑魔から遠ざかり、三人は目を細めてそう広くは無い部屋を見渡した。

部屋の中はまるで黒い霧が立ち込めているのようだった。漂う穢れがそれだけ濃い。視界の利かない中、時間だけが一秒、また一秒と過ぎていく。隣に感じるミクリオの息が徐々に上がっていく。ただでさえ夜を徹しての早駆けで体力を使い、スレイの領域外で穢れに晒され続けているのだ。長時間は耐えられまい。

―――早く。早く。

焦るアリーシャは唇を噛みながら部屋を見渡した。そうしながらも変異憑魔への警戒は怠らない。もし入り口を塞がれそうになったら、その時は何が何でもミクリオ達を逃がさねばならない。神経を精一杯尖らせてかの憑魔の動きを探り、そしてアリーシャは気がついた。

「あれは…」

穢れの中にあって、何かが鈍い輝きを放っている。変異憑魔のすぐ傍、床の割れ目に引っかかるようにして転がるそれは、どうやら両の手で握り込めるほどの大きさの玉であるようだった。

以前マーリンドでアリーシャは、その玉によく似た玉を見た。現実とは異なる世界の記憶を見せる玉だった。

「大地の、記憶…?」

「本当だ。あれは確かに大地の記憶だ。…もっと近づかないと」

まるで変異憑魔は大地の記憶を守っているかのように、傍について離れない。一定の軌道を描きながら玉の周辺を回る憑魔に気付かれないよう、アリーシャ達は細心の注意を払って大地の記憶を回収しなければならなかった。

「…行くよ」

一度深く息を吐き、ミクリオがゆっくりと歩を進める。変異憑魔が一番遠ざかる時を狙って大地の記憶に近寄り、アリーシャがそれに手を伸ばす。

指先に触れる滑らかな感触。それはガラスに似ていたが冷たくは無い。温い水に触れた時のような奇妙な温度があって、その温度を認識すると同時に耳元で声が弾けた。

 

―――『もうたくさん!!天族なんかと関わったせいで!!』

 

―――『何故だ?!何故裏切った?!何故だ!!』

 

―――『何で誰もわかってくれない?!俺は、俺は世界のために――!!』

 

―――『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!頼む!!もう解放してくれ!!』

 

次々と映像と声とがフラッシュバックしては消えていく。

男もいれば女もいた。壮年の者もいれば、年端の行かない少年少女もいた。共通しているのは皆が皆絶望の底にいること、そして絶望の声を上げる彼らの傍には彼らを支える人の姿が一人として見えないことだった。

そして―――

「これは…何だ…?」

震える声でアリーシャが呟く。他の二人は声も出ない様子で、恨み言を吐く彼らの様子を見つめている。

 

―――『関わらなければ良かった。天族なんて!!』

 

―――『天族のせいだ、何もかも…!!』

 

―――『見えなければ良かった。声が聞こえなければ、こんな目には…』

 

次々と紡がれる天族への恨み言。血を吐くような叫びは、天族と関わった己の人生への呪詛に等しい。

絶望で濁った目であらぬ方向を見つめながら、彼らはただこの場にいない天族へ、恨みの言葉を投げ続けた。

「これ、は…」

「…多分、かつての導師連中だ。何人か見た顔がある」

名前も碌に覚えちゃいないがな、と吐き捨てたのはザビーダだ。

「契約してた天族と仲違いして見捨てられたんだろうさ。そういう例は腐るほどある。使命に潰されて天族に見捨てられ、人間とも交われず、歴史に残らず埋もれていった導師なんてのはな」

「天族が人間を…?!」

「所詮、天族にとっちゃ人間なんて数十年生きれば死んじまう儚い生き物だ。穢れを生むだけ有害だ、殺しちまおうだなんて真面目に言う連中だっているくらいだしな。ついてこられねえと判断すれば、人間を捨てる主神だって少なくない。ま、皆がお前さん達みたいに仲良しこよしって訳じゃないってことだ」

「そんな…馬鹿な…」

呆然と呟くミクリオの言葉を、嫌悪に表情を歪ませたザビーダが笑い飛ばす。

「人間と天族は決定的に違う生き物なんだよ。分かり合えるなんて幻想だ。だから今に至るも災厄の時代なんてものがのさばってる。顕主を倒せる導師なんてそうそういない。ましてや共存なんて夢のまた夢、ってもんだな。…幻滅したか?」

最後の言葉はアリーシャに向けられたものだろう。呆然とするアリーシャに向けられた彼の視線は、どこか哀れんでいるようにも見えた。

「天族なんてもんは所詮この程度だ。導師もな。災厄の時代は簡単には終わらねえ。穢れに堕ちた奴は救えねえ。そういう風に世界はなってる。…あの坊ちゃんにも言っとけ。叶わない夢は早々に諦めて、人間は人間らしく、地に足つけて生きろってな。じゃねえと、あの坊やもお前さんも、人の群れにも戻れなくなるぜ」

「スレイ…」

膝をつき、恨み言を吐く彼らの姿にスレイが重なる。

導師の力は絶大だ。人前で力を振るえば、ザビーダの言うように一般人の生活に戻るのは殆ど不可能になるだろう。どこに行っても救いを求める声はついて回り、それこそ導師を神のように崇める人々もきっと出てくる。スレイの人柄が誠実であればあるほど、彼は人の願いに押しつぶされることになる。

アリーシャは玉が見せる導師の姿に目をやった。何故、と何度も繰り返す彼の顔に浮かぶ絶望。空を掴む指は何を求めてのことだろうか。

彼の年齢は精々二十代前半といったところか。若い顔はやつれ、見開いた瞳には狂気すら浮かんでいるが、元はきっと快活な若者だったのだろう。顔立ちも秀麗で、良く見ればどこかミクリオに似ているようにも見えた。

「見捨てた…。天族が、導師を…人間を…」

呻くように呟くミクリオの表情が酷く暗い。

ライラ達がスレイを見捨てるなどとは俄かに信じられる話では無い。誓約に縛られ、重要なことが語れなくとも、彼女は今出来る精一杯の力でスレイを助けているようにアリーシャには思えた。

しかし、もしザビーダの言うように、天族と人間の価値観が根底から異なっているとするならば―――。

頭を過ぎった考えに、ぞくりと肌が粟立つ。不吉な考えを振り払うように勢い良く頭を上げると、見上げた視界がゆらりと揺れて、端からゆっくりと消えていく。幻が終わるのだ、と気付いたアリーシャが慌ててミクリオの袖を掴む。それに気付いて、俯いてたミクリオがはっと顔を上げた。

幻を見ている間、変異憑魔の行方は追えない。気付けばすぐ目の前に変異憑魔が待ち構えている可能性すらあるのだ。

揺らぐ景色を見守りながら、アリーシャは片手で槍を強く握り締める。一瞬でも感じた天族に対する疑念を、握り潰してしまいたかった。

 

 

幻がゆっくりと融けて行く。その様をアリーシャは息を詰めたまま見守っていた。

後に現れたのは日の差さない暗い石造りの遺構、あちらこちらに設置された大振りの石棺。そしてその石棺の前に蹲るようにして、人間の大人を優に超える大きさの、強大な憑魔が何かを待っていた。

気付かれているのだろうか。そう思ったアリーシャは思わず身を固くしたが、幻が完全に融けて消えても憑魔が動く気配は無い。恐らく何かがいることには気付いたのだろうが、場所の特定までは出来ていないのだろう。ミクリオの霊霧の衣は、まだその効力を失っていない。

「とにかく、早く出ましょう」

「っ、ああ…」

頷いたミクリオの息が荒い。完全に上がった息、一歩歩くごとに表情が歪む。霊霧の衣も早駆けと同じく体力を削る技だ。この部屋に入ってから今までの時間を思えば、いつミクリオの限界が訪れてもおかしくは無かった。

「頑張れよ、ミク坊」

「だい、じょうぶ、だ…」

途切れ途切れに言葉を返すミクリオに、良いから喋るなとザビーダが釘を刺す。どうやらこの男、意外に面倒見の良い性分なのは間違いないようで、既に足元の怪しいミクリオの体重を殆ど一人で支えていた。

「もう少しで出口です」

別段広いわけでは無い部屋だ。細い通路は既に目の前で、そこを抜ければ憑魔の目は届かない。この手の生き物は余り視力が良くないのだ。抜けてしまいさえすれば、ミクリオに休憩を取らせることも可能だろう。

頑張れ、と励ますことしか出来ない己の身が歯痒い。ここまで付き合わせたというのに、結局導師の苦難を再確認させられただけで、益のある何かを見つけることは出来なかった。過去に天族に見捨てられた導師がいるという情報は得ることが出来たが、それが何になるというのだろう。

―――少なくとも、スレイには関係の無い話だ。その筈だ。

脳裏に過ぎった映像を、頭を振って追い払う。よしんばライラ達が裏切ったとしても、スレイにはミクリオがいるし自分もいる。完全に孤立することだけは在り得ない。

だから大丈夫、とアリーシャが自分に言い聞かせ、通路に至る最後の一歩を踏み出した時だった。

「くっ…」

短い呻きと共に、霊霧の衣が一瞬揺らぎを見せた。完全に解けたわけではない。体力はほぼ限界だろうに、ミクリオは持ち堪えて見せた。

しかし、その一瞬、その僅かな揺らぎが決定打となった。

「危ねえ!!」

反対側でミクリオの体重を支えていたザビーダが、ミクリオごとアリーシャの体重を下に引き落とす。肩を強く掴まれてつんのめるように地に伏せたアリーシャの頭上を、憑魔の尾が勢いよく通り過ぎた。憑魔の尾は先端に人の頭程もある瘤をつけ、そこに短剣のような鋭い刺を具えている。その先端を固い石壁に食い込ませ、憑魔は蛇の威嚇音のような声で黴臭い空気を揺るがせた。

「気付かれた!!走れ!!」

仕損じたことを怒っているのだろう。闇雲に尾を振って石壁から刺を抜こうとする憑魔は、何度も威嚇音に近い鳴き声を上げる。否、恐らく鳴いているので無く、身体のどこかを震わせているのだろう。金物を擦り合わせるような音が神経に障って酷く不快だった。憑魔は更に四対ある足を踏み鳴らし、頭に程近いところにある鋏を振り回しながら、狭い所に逃げ込もうとする獲物を捕らえようと躍起になっている。

自力で立てないミクリオを担ぎ上げ、ザビーダが走り出す。彼の後を追う様にアリーシャも走った。追いつかれればそれがアリーシャ達の最期の時だ。尾を抜くのに手間取っている内に、何とか通路の崩れた奈落の向こうに抜けてしまえば憑魔とはいえ追ってはこられない。天族と同じで、特殊な術が無ければ壁や格子をすり抜けることは敵わないし、あの形態では空も飛べない。しかもあれだけの巨躯だ。通路が狭ければ自由に動き回ることは出来ない。身体の構造を見る限り、狭い所に出入りすること自体は不可能でなさそうだが、それでもスピードは落ちるだろう。節足動物の足は速い。少しでも速度を落としてくれるならそれだけでも有難かった。

「おい、ミク坊。生きてるか」

階段を上がりきったところでザビーダが肩のミクリオを下ろす。いくら細身とはいえ、やや小柄であるという程度の十代後半の男子を抱えて走るのは、いかにザビーダが体格に恵まれているといっても少々厳しい。その上、遠距離から天響術を使えるザビーダは、この中では唯一変異憑魔に対抗出来る戦力である。今のミクリオではとても攻撃術は使えないし、接近せねば戦えないアリーシャではたちまち憑魔に叩き殺されてしまう。ザビーダの両手が空いているに越したことは無いのだ。

「ミクリオ様は私が。ザビーダ様は後ろの警戒を」

「よっしゃ。任せたぜ、アリーシャちゃん」

当然抱え上げることは出来ないが、肩を貸すことくらいは出来る。

幸いなことに、ミクリオ自身も僅かだが足に力を取り戻していた。それでも普通に走ることは出来ないから、アリーシャの肩に体重を預けて、走るというには遅いペースで進むのが精一杯。この遺跡の最奥部の通路が狭いのが幸いして、それでも憑魔が追いついてくる気配は無かった。

「…振り切った、のでしょうか?」

更に上層に繋がる階段に足をかけ、アリーシャは再び後ろを確認する。あの濃い穢れの気配は、今のところ漂い出てくる様子は無かった。

「わからん。が、用心するに越したことはない。さっさとこんな遺跡からはおさらばと行こうや」

「はい」

結局従士の力は手に入らなかった。それを残念に思う気持ちはあれど、今この場で口に出さないだけの分別は持ち合わせている。

アリーシャはザビーダの言葉に頷いて、ミクリオの体重を支えながら階段を上がった。ところどころザビーダに助けてもらいながら上りきり、再び広い通路に出た辺りでほんの少し胸を撫で下ろす。

ここまで来れば、目指す奈落はすぐそこだ。

遠目に見えるそれに向かって、アリーシャが更に一歩を踏み出した時だった。

「っ、上!!」

悲鳴じみたザビーダの声に、アリーシャは咄嗟にミクリオを抱え込んで横に跳んだ。そのアリーシャが居たまさにその場所に、天井から落下する勢いで降りてきた憑魔の尾が突き立つ。今度は深く突き刺すへまはせず、地面から引き抜いたそれを振り回しながら、蠍型の憑魔は鼓膜を揺さぶる警戒音を撒き散らした。

「…まさか、通路の外の割れ目を通って?この巨体で?!」

「蠍ってのは元々蜘蛛の仲間…。胴体分の隙間があればそれで十分ってか。冗談きついぜ、まったく」

言いながら苦りきった笑みを浮かべるザビーダは、既に詠唱の姿勢に入っていた。尾の届かないギリギリの位置、そこに下がって構えた彼の背後には、アリーシャ達が目指している奈落が見えている。そのザビーダとアリーシャ達の間を、巨大な蠍が遮る形だ。アリーシャ達が助かるためには、走るのも覚束ないミクリオを抱えて、何とか憑魔の横をすり抜けなければならない。

チャンスは一度。ザビーダの術に憑魔が怯んだその瞬間しかない。

「…ミクリオ様。ザビーダ様の術が発動した瞬間、奴の横を走り抜けます。身体が辛いかとは思いますが、どうかご辛抱ください」

言いながらミクリオの様子を確かめる。顔色は酷く悪いが、息は随分平常に戻った。元々霊霧の衣の反動は、従士反動とは種類が異なる。休めば治る程度のもので、決定的なダメージを受けるわけではないのだ。強いて言うなら走って疲れた状態と似ている。

大丈夫。ほんの短い距離ならばミクリオは耐える。

それを確認して、アリーシャはザビーダの様子を窺った。不穏な気配を察知したのだろう。今は憑魔の注意も専らザビーダに向いていて、その尾の攻撃を器用に避けながら、ザビーダはぶつぶつと詠唱を続けている。

ミクリオの腕を自分の肩にしっかりと回し、体重を支える。そうしながらアリーシャはザビーダの術が完成する瞬間を、息を詰めて待った。

「アベンジャーバイト!!」

ザビーダの雄叫びと共に現れた風の獣。その鋭い牙が過たずに蠍の背に食い込む。憑魔が衝撃に耐えかねてべたりと腹を地面に着いたその隙を、アリーシャは見逃さなかった。

「行きます!!」

肩に回したミクリオの腕を握り、片手の槍でいつでも尾の一撃を払えるように警戒しながら、アリーシャは精一杯の速度で走り出す。人の腕程もある太さの節が連なって出来た肢の傍を抜け、いつでも奈落を越えられるように身構えるザビーダの元を目指そうと、更に足に力を込める。

何とかアリーシャについて走っていたミクリオの膝が、突然力を失ったように折れたのはその時だった。

「ミクリオ様?!」

「ごめ…、アリーシャ、逃げ…」

「そんなこと…!!」

完全に地に膝を着いたミクリオに気を取られてアリーシャは足を止めた。置いて行くことは出来ない。慌てて腕を取って立ち上がらせようとしてみるが、まるで力の入っていない身体は重く、アリーシャは踏鞴を踏んでつんのめる。

「アリーシャ!!」

ザビーダの切羽詰った叫び声。もう術の効力が切れる。見たところ大したダメージは食らっていないようだから、すぐにも憑魔は立ち上がるだろう。今の自分達など尾の一薙ぎ、それで終わってしまう。

「行って、アリーシャ…」

「出来ません!!」

無意味な応酬のすぐ後に、ギチ、と鎧が鳴るような音がして、憑魔が肢を踏みしめる気配がした。まともに立ってしまえば横を抜けることは叶わない。これが本当に最後の機会だ。

「アリーシャ!!僕は良い、逃げろ!!」

君だけでも、と苦しい息の下で叫ぶミクリオの声は切実で、しかしだからこそアリーシャの腹はそこで据わった。

―――何か無いか。

見渡した視界に引っかかったのは、先程の部屋に続く通路とは別の細い通路。探索した時に通ったが、袋小路の小部屋に続いているだけの道で、だから今までのどの通路よりも格段に狭い。二人も並んで歩けば窮屈に感じる程だった。

「…少々失礼をしてしまうかもしれませんが」

二人で逃げるには両手が要る。武器は必要だが今は邪魔だ。

アリーシャはまず右手の槍を振りかぶり、今しがた自分達が走って来た方角――奥の方へと思い切り放り投げる。刃が欠ける恐れはあったが、最悪折れなければそれで良い。ガシャン、と透明感の無い音を立てて、遥か後方に槍が落ちたのを見届けると、アリーシャはすぐにうずくまって苦しげな息を吐くミクリオの傍で膝を折った。青い顔で見上げてくるミクリオに首だけで礼をして、アリーシャはそのまま一気に彼の身体を肩に担ぎ上げる。

「ア、アリーシャ?!」

「ご容赦を、ミクリオ様!ザビーダ様!援護をお願いします!!」

「任せろ!!」

言いながらザビーダが、アリーシャを狙って振り上げられた尾目掛けてペンデュラムを放つ。巻きつけてしまったら引きずられるのはザビーダの方なので、弾いて注意を逸らすだけ。しかしその僅かな間がアリーシャ達を救った。

細身とはいえ、十代後半の男子だ。アリーシャが抱えるには些か重い。しかし今はそんなことで足を止めている暇は無いから、とにかく必死にアリーシャは走った。とにかく憑魔の間合いの外へ。動けないミクリオを抱えたままでは、受けた一撃が確実に致命傷になってしまう。

地面に足を着く度に突き抜けるような衝撃が走ったが今は無視する。僅か二十歩程の距離が十倍にも感じたが、実際のところは十秒も時間はかかっていない。ミクリオを下ろして転がった槍を掴み、無礼を承知で半ばミクリオを引きずるようにして遺跡の奥へと向かってひた走った。

「何とか生きて待ってろ!!」

時間稼ぎをしてくれていたザビーダの声を背中に聞く。閉じた遺跡には在り得ない風の走る音を聞いて、アリーシャはザビーダがこの場を離脱したことを悟った。

助勢に心の中で感謝しながら、アリーシャの視線は目指す場所を確かに捉える。

―――早く、早く。

「アベンジャーバイト!!」

渡った奈落の向こうから、ザビーダが再び術を放つ。これ以上離れては術が届かない。だからこれが最後の援護だ。

憑魔が再び地面に沈んだの背後から響く音で知り、アリーシャは不自由な姿勢のミクリオに肩を貸し、ようやく目当ての通路に走りこむ。振り向くことなく通路を抜け、ザビーダの身長でギリギリだった入り口を抜けてようやく、ミクリオ諸共床に倒れ込み、破れそうな肺に必死に空気を取り込んだ。



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次の一歩を今ここから 5

凱旋草海の丈高い草を掻き分けて馬が駆ける。その背に跨がって手綱を取るのはロゼ、後ろに乗るスレイは彼女の腰にすがり付いて落ちないでいるのがやっとだったが、今は乗り心地に文句をつける気は無い。例え二、三度振り落とされようが、速度こそが最重要事項だ。

「ロ、ロゼ!!」

「喋ると舌噛むよ!慣れてないんだから!」

「あ、あと、どれくらいっ?!」

「半日かかるかかからないくらい!はい、口閉じた閉じた!」

遊びで山羊に乗った経験ならあるが、正式に乗馬を学んだことなど勿論ない。出来ることといえば、言われた通りに口をつぐむことくらいで、喋れない分気ばかりが急いた。

アリーシャが一人で出て行ったのは、街で聞いた従士の力の手がかりを得るため。そうロゼから聞いた時、スレイは頭を殴りつけられたような衝撃を覚えた。

従士の力を得る。それは畢竟、スレイの負担を軽くするためで、アリーシャはスレイのために無謀な一人旅に挑んだことになる。そしてそれに気付いたミクリオは、スレイが起きるのを待たず、やはり一人で彼女の後を追ったのだ。

何故報せてくれなかった。恨む気持ちはあるものの、それだってやはりスレイの身体を気遣ってのことだと痛い程にわかっている。昔からスレイより遥かに慎重に事を運ぶミクリオが、無謀を承知でアリーシャの後を追ったのだ。考えられる理由はそれしかない。

――― わかっている。焦ってもどうにもならない。

以前レディレイクにアリーシャを助けに行った時も同じことをライラに言われたばかりだというのに、成長の無い己に嫌気が差す。

ロゼが手綱を引いて馬の足を緩めた。首筋を叩いて馬を労い、励ますように声をかけている。

馬だって生き物なのだから、ずっと全速力で走れる訳もない。そんなことはわかっているのに、後ろに流れる風景の遅さに歯噛みしたくなる。

暫くそのまま歩み足で進み、馬の息が整ったのを見計らってロゼが再び拍車をかけようとした時だった。

視界に広がる草の海。大人の膝を越える丈の草が突然風に煽られ、まるで波のように一斉にスレイ達に向かって打ち寄せる。弱った草なら引きちぎれそうな勢いに、思わずスレイは目を瞑り、ロゼは咄嗟に手綱を引いて馬を止めた。

そのまま数秒、まるで突発的な嵐のように突風は吹き付け、そして始まった時と同様唐突に止んだ。

突然ぴたりと凪いだ風に、安堵よりも先に警戒心が先に立つ。周囲の様子を窺うようにそろそろとスレイが瞼を開けるのと同時。

「お、丁度良いところに居たもんだ」

乱れた呼吸の合間に紡がれた声。すぐ近くで不意に響いたそれにスレイは息を飲み、ロゼは腰のナイフに手をやった。同時に異変に気付いたライラとエドナ、デゼルが姿を顕して、警戒するように身構える。

「何か御用ですか?」

いつもと同じ丁寧な言葉使い、しかしライラのその声音は酷く固い。スレイを庇うように前に出た彼女の後ろで、スレイもまた剣を抜いた。

馬の鼻先に触れるほど近くに立つ彼が、油断ならない相手であることはもう知っている。

風に靡く銀の髪は一体いつ鋏を入れたのか酷く不揃いで、その髪がかかる上半身はほぼ裸。惜し気もなく晒す逞しい胸板には、刺青のように白い紋様が走り、それがますます彼の無頼漢ぶりに拍車をかけている。

「ザビーダ…」

以前会った時には突然襲いかかってきた。そして今日もその時と同じ不思議な武器を右手に持ったままだ。ただ一つあの時と違うのは、彼がスレイを酷く真剣な眼差しで見ていることだけだった。

「一体何の…」

用だ、とライラと同じ質問を投げようとしたスレイの言葉を遮って、ザビーダがやや早口でスレイに尋ねる。

「ガフェリスにお前さんの仲間が二人ほど居るのは知ってるか?」

「え?うん。知ってる、けど…」

何故それをザビーダが知っているのか、そして何故スレイに知らせてくれようとするのか、ザビーダの意図がまるで読めない。

歯切れの悪いスレイ苛立ったように一つ舌打ちして、ザビーダは鬱陶しげに長い髪を払う。

「ちんたらしてたら死ぬぜ?あいつら」

「なっ?!」

「どういうこと?」

言葉を失ったスレイに代わって尋ねたのはエドナだった。

触れれば切れそうな鋭利な視線。敵意を隠そうともせず、彼女は片手で持っていた傘に両手を添え、己よりも遥かに高い位置にあるザビーダの目を睨めつける。

いつでも戦える。言外に彼女はそう言っていた。

「喧嘩っ早いねぇ、相変わらず。別に俺がどうこうしたわけじゃねえ。あいつらは見つかったらヤバイもんに見つかっちまった。それだけだ。寧ろ、わざわざ知らせに駆けつけた俺様に感謝して欲しいくらいだぜ」

エドナの視線にたじろぎもしない男の目は、しかし少しも笑ってはいない。それはザビーダの言葉に嘘偽りがない証拠で、アリーシャ達の身に真実危険が迫っていることを示していた。

「…見つかっちゃヤバイものって?」

「変異憑魔だ。しかもあれは相当天族を喰って味を占めてる。水の坊主が領域内にいる限り、諦めることは無いだろうよ。間の悪いことに当の坊主は術の使いすぎでへばってて使い物にならねえしな」

「変異憑魔?!」

「それが本当だとして…。どうしてアナタがワタシ達にそれを教えてくれるのかしら?」

安易に武器を下ろしたスレイを責めるように横目で見ながら、エドナがスレイとザビーダの間に割って入る。以前からの知り合いらしい彼らだが、どうやらその仲は良好とは言いかねるようだ。

真っ向からエドナに見据えられても、ザビーダは動じない。にやりと人の悪い笑みを浮かべて、エドナの敵意を茶化すように軽い調子で言ってのける。

「そりゃ可愛い女の子が困ってたら、助けてやるのが男の務めってもんだろうよ。へばった天族を放っておけずに、変異憑魔の居る遺跡に残っちゃうようなお優しいお姫様なら尚のこと、な」

「正直に言ったら?馬鹿の行く末に興味があるって」

「健気な女の子に対して馬鹿呼ばわりは酷いんじゃないのか?仮にも仲間なんだろ?」

わかりやすく揶揄を含んだ声音、挑発しているのは明らかだったが、エドナはそれ以上反論しなかった。受け流したわけではない、言葉に詰まったのだ。

人間嫌いを公言して憚らないエドナだが、アリーシャに対しては決して悪い感情は抱いていないように見えた。道中でも他愛ない会話をしているのを良く見かけたし、生真面目なアリーシャをからかって楽しげにしている光景を見たのも一度や二度のことではない。

にも関わらず、彼女がスレイやミクリオのように、アリーシャを大っぴらに仲間だと認める発言をしたことはない。それがエドナが人間を嫌いな理由と関わりがあるのかどうかはスレイにはわからないが、一つだけ確かなことはある。

「…で、どうするの?」

数秒の沈黙の末、エドナはスレイに向き直る。ザビーダにやりこまれた形になる彼女の声はいかにも不機嫌そうではあったが、微かに心配そうな気配も窺える。

「どうするって…勿論助けに行くけど?」

「そんなことは聞いてないわ。どうやって助けるのかっていう話よ」

ぶっきらぼうな言葉に、思わず頬が緩んだ。

―――エドナは決して、情をかけた相手を見捨てるような真似はしない。例え口で何を言ってもだ。

エドナの言葉に頷いて、スレイはザビーダに向き直る。恐らく、現状で二人の情報を最も持っているのはこの男だ。

「二人に残された時間は?」

「…半日は多分保たねえな。あいつの穢れは半端じゃねえ。一先ず安全圏に逃げたとはいえ、付きまとわれたら、ただでさえへばってる水の坊主じゃ耐えきれねえだろうな。あいつが穢れに当てられて憑魔化すれば、一緒にいるアリーシャちゃんも当然無事では済まないだろうしな」

「そんな…だって、ガフェリス遺跡までは…」

死刑宣告を受けた罪人の心境でロゼを見やると、彼女は厳しい表情で答える。

「馬で約半日。二人乗りじゃそれ以上はちょっと厳しいね」

「そんな、じゃあ…」

さあっと血の気が引く音が聞こえた気がした。傾きかけた重心を、咄嗟に前のロゼがマントを掴んで支えてくれるが、礼を言う余裕はスレイにはない。

幼い頃から共に居て、誰よりも近しい友達だったミクリオ。

初めて出会った同じ人間。命を狙われるような立場にあっても決して臆さず、凛と背中を伸ばす姿で覚悟というものをスレイに示したアリーシャ。

彼らが、いなくなる。

共に目指そうと言った夢の半ば、否、夢に向かって歩き始めたばかりだというのに。

「スレイ…」

ロゼが気遣うようにスレイの名を呼ぶ。その声音に含まれた憐憫の色が、二人はもう助からないのだと、非情な事実を突き付けられているようで辛かった。

重い沈黙が支配する一瞬。誰もが口を開くのを恐れるように黙りこくったその時間を、断ち切ったのはライラだった。

ライラは怯むことなくザビーダに歩み寄り、彼女にしては珍しい、挑むような視線を剥ける。

「それで、貴方は何をしにいらしたんですか?まさか、二人はもう助からないと、そんな埒もないことを報せに来たわけではありませんよね?」

「おーおー、必死だねぇ。流石のあんたでも、あそこに変異憑魔がいることまでは知らなかったか」

「何のことでしょうか?それより、私は何のためにあなたがわざわざ私達をお訪ねになったのか、それを伺ったのですけれど」

「そう怖い顔しなさんな。俺様は別にあんたらがやってることに首を突っ込む気はねぇよ。しかし、今回はちっと興味が湧いてな」

言ってザビーダはライラの横をすり抜けて、呆けているスレイの傍らに立った。緩慢な仕草で顔を上げるスレイを見て嘲るような笑みを浮かべる。

「随分と腑抜けた導師様だ。アリーシャちゃんの方がよっぽど勇ましいな。ミク坊だってもっと根性あったぞ」

「ミクリオ…アリーシャ…」

「そう、お前さんの大事なお仲間だ。…さて、導師サマ?お前のお仲間を助けるために、お前はどこまで賭けられる?」

「助ける方法があるの?!」

思わず前のめりになったスレイの頭をザビーダが抑える。背中で急激な動きをされた馬が不満そうに嘶いたが、それはロゼが宥めてくれた。

「訊いてるのは俺だ。お前、あいつらのために何が出来る?」

「何でも」

殆んど反射的に出た答えだったが、嘘でもなければ虚勢でもない。

導師として振るった力はライラの力であり、ミクリオやエドナの力で、スレイ自身の力ではない。レディレイクでも、マーリンドでも、スレイ一人だけだったら足手まといにこそなれ、決してアリーシャの助けになどならなかっただろう。自分自身のことだ。己の身の程は知っている。

彼等の力があったからここまで来られた。スレイの道は仲間と共に往く道だ。彼等を見捨てる選択肢だけは在り得ない。

「導師なんて言われても、オレは一人じゃきっとオレの望むどこにも行けない。だから、オレも仲間のために出来ることなら何でもする」

「それが、命を賭けなきゃならんことでもか?」

「やる。それであの二人が助かるんなら」

言って真っ直ぐにザビーダの目を見据える。

ザビーダが示す方法が真実彼らのためになるかどうか、そもそも彼が持ってきた情報に偽りがないか、それすら判断する方法は無い。ただ、今見上げたザビーダの目は、嘘をついている者のそれとは違う気がした。そして今スレイに出来るのは、自分の直感を信じることだけだ。

暫く何かを確認するようにスレイの顔をまじまじと見ていたザビーダだったが、スレイが一歩も引かないと知るやその顔に品の無い笑みを浮かべ、右手に握っていた武器をスレイに向かって放った。

「っと?!」

初めて手に取った未知の武器は意外と重い。手に取った拍子にバランスを崩したスレイは、そのまま馬の背から転がり落ちる。何とか武器を落とさずに受身を取ったスレイは、ザビーダの意図が掴めずに、ただ呆然と彼の顔を見上げるしかなかった。

「ジークフリート。アヴァロストの後期に作られた、最も新しいタイプの神器、だそうだ。俺達天族の力を封じ込めることが出来るっていう稀有な力を持ってるが、実はそれは本来の使い方じゃない」

「神器…ライラの剣と、同じ…?」

導師と天族の間を繋ぐ媒介となり、同時に天族の力を振るうための武具となるもの。導師が力を振るうためには必要不可欠なものだが、そもそもどうやって作られるのかは定かでは無い。以前からミクリオと話し合って、恐らく天族と人間の力と技術の融合が特徴として見られる、アヴァロスト調律時代のものなのではないか、という推察はしていたが、ザビーダの言葉からするとどうやら当たっていたらしい。

その神器を、どうして人間と共に歩む気の無いザビーダが持っているのか。

一旦言葉を切ったザビーダは、スレイの手元にある無骨な武器を見下ろしながら、一瞬表情を歪ませた。まるで汚いものでも見るような目つきだった。

「俺達天族そのものを弾として体内に撃ち出すことによって、強制的に神依を発動させる。それが本来この神器の正しい使い方だそうだ。契約も要らない、それどころか人間の同意すら必要ない。ただ頭に一発ぶちこみゃそれでいい。…まあ、人間に器としての素質が無ければ精神が破壊されて、ただの人形になっちまうみたいだがな」

「なっ?!」

ザビーダの言葉の余りの内容に、思わずスレイは絶句する。手のひらに収まるサイズではないものの、槍や剣よりは随分小さなその武器が、急に重みを増したように感じた。

「…それを渡して、スレイさんにどうしろと?」

「わかってんだろ?馬を凌ぐスピードが要るとなりゃ、風の神依くらいしか選択肢は無い。しかもそこそこ熟練の天族の力が必要だってな。このザビーダ様なら条件にぴったりだが、生憎俺にはお前さんと陪神契約してまでお前さん達の仲間を助ける義理は無い」

「そんなこと…!!」

「じゃあ言ってやれ。アリーシャとミク坊のことは、きっぱりすっぱり諦めろってな」

ライラの異議を切り捨てたザビーダに、彼女はぐっと黙り込む。ここで取れるのはスレイの安全か、二人の救助か、どちらかの選択肢しか無い。

そしてスレイには、前者を選ぶ気は最初から無かった。

「ごめん、ライラ。心配してくれてるのに」

立ち上がってジークフリートを手に取り、スレイはライラに一言そう詫びた。スレイさん、と一言呟いたきり沈黙したライラは、複雑そうな表情ではあったが、スレイの意見を尊重してくれるようだ。そしてそれは彼女の隣に立つエドナも同じで、彼女は翡翠のような碧い目でじっとスレイの選択を見守っている。

「ロゼ」

馬上を振り仰いでここまで連れて来てくれた少女に声をかける。スレイが何を言いたいのか悟ったのか、彼女はいかにも嫌そうな表情でスレイを見下ろした。

「もしオレが…」

「はいはい、そっから先は言わなくていいよ。何となくわかったから。…ま、知らない仲でもなし、別に構わないけどね。でも、なるべくやめといた方が良いよ。あたし高いし」

ビタ一文たりともまけないからね、というロゼの言葉に、スレイは少しだけ肩の力が抜けた気がした。

「…ありがとう」

もしもスレイが失敗して廃人になってしまったら、アリーシャ達を助けられるのはデゼルと神依が出来るロゼしかいない。本来ならばそんな頼みを引き受ける義理はロゼには無いが、それでも彼女は了承してくれた。やめておいた方が良い、との言葉は恐らくスレイへの激励だ。

―――生きて、自分でアリーシャとミクリオを助けろと。彼女は言外にそう言っている。

「…ザビーダ。ジークフリートの使い方、教えて欲しい」

「良い覚悟だ。気に入った」

スレイの申し出に、ザビーダは愉快そうににっと笑う。

同じ地面に立つと、頭一つ分は大きい男の顔を見上げて、スレイは手にした銃をぎゅっと握り締めた。

 

 

―――俺が姿を消したら、脳天にそいつを突きつけて引き金を引け。それだけで良い。

それだけ言ってザビーダはスレイの前から姿を消した。同時に手に持ったジークフリートが熱を持った。熱いわけではない。人肌程度の温度に温まったそれは、まるで鼓動を打っているかのように、一定のリズムで力の波を放出している。

肌で感じるその力は、清浄でありながら力強さにも満ちていた。その気配に命を育む大地のような暖かさは無く、燃え盛る炎のように熱くも無く、湧き上がる水の冷たさも無い。掴み処の無さは確かにザビーダから感じる気配と同じで、本当にあの男が今この太古に作られた武器の中にいるのだと、そう思うと不思議な気がした。

手にした銃を、右のこめかみに押し当てる。引き金に指をかけると、すこし力を込めただけで重い抵抗があって、もう少し指に力を入れればスレイの命運が決まるのだと、そう考えると流石に緊張は隠せない。

「スレイさん…」

「大丈夫…かはわからないけど、でもオレ、頑張るから」

不安げなライラに笑いかける。しかし、ライラの視線から怯えの色は消えなかった。

「でも、もしザビーダさんの言うことが嘘だったら…スレイさんの身体を乗っ取るための罠だとしたら…」

「それも大丈夫だと思う。ザビーダは嘘はついてない。多分、だけど…、でもそう思うんだ」

「ワタシもそう思うわ」

銃身に目線をやりながら、そう言ったのはエドナだった。

「あれは、人の身体になんて興味は無いもの。…それに、不意打ちは好きだけど、騙まし討ちは好きじゃない。そういう奴よ。だから…」

スレイの言葉を補強して、エドナはじっとスレイを見つめる。その目の色が深かった。

「あとはあんた次第。わかってるわね?あんたにはまだやるべきことが残ってる」

「うん。ミクリオとアリーシャを助けるまで、死んでられないもんな」

だから大丈夫、ともう一度笑う。そしてそのまま、引き金にかけた指に力を込めた。

 

 

音はしなかった。あったのはただ衝撃だけで、しかしそれすらもどこか夢のように遠かった。

そして衝撃と同時にスレイの視界は闇で閉ざされる。ああ、これは死んだな、と我ながら思ったものだったが、実際に耐えなければならない苦難はそこからが始まりだった。

――― 一拍。

手を一つ叩くだけの間を置いて流れ込んできたのは途方もない力の奔流。それが全身、頭の中にまで渦を巻き、苦痛の余りスレイは思わず叫び声を上げる。

まるで脳髄が熱した火掻き棒でぐちゃぐちゃに掻き回されているようだった。何かの声が、映像が、意味を成さないままに駆け回り、スレイの精神を押し潰そうとしている。その流れの前ではスレイの意思など、渦に揉まれる小石も同然で、ただただ押し流される以外に出来ることなど何もない。

まるで漬け物石に潰される野菜のように、スレイの自我が縮んでいこうとした時だった。頭の中の無数の声、その中に聞き慣れた声が紛れているのに気付いて、スレイは半ばすがるようにそれらの声を引き寄せようとした。

 

―――『放っといて!!お兄ちゃんは死んでない、まだ生きてる!』

 

―――『何で、何でこんなことに…!!ラファーガ!!』

 

―――『人との繋がりを捨てることは出来ません。…それが、どんなに非情な決断だったとしても、私は諦めません。絶対に』

 

聞き慣れた仲間達の声は、しかしどれもスレイが聞いたことがない、悲壮な色を帯びていた。

不思議なもので、一つの声の集中すると他の雑音は遠ざかる。同時に周囲に蟠る闇がざわめいたような気がした。勿論、暗闇の中で何を見ようとしても、意味ある像など浮かぶわけがない。暫く無意味に視線を走らせていたスレイは、ふと思い付いて目を瞑った。

視界を閉ざした途端に明確になる、周囲を取り巻く闇から感じる気配。どこから、というのでは無い。闇そのものが気配の塊といっても良かった。

そして気付く。

これは記憶だ。何年、否、何百年にも渡って蓄積され、堆積した誰かの記憶。胸に抱き、そして諦め手放した願いの残滓、その残り香。闇に融けたそれらは、スレイの肌を通して生々しい感情を伝えては消えていく。中には激しい感情を伴うこともあったが、その多くは諦観の念だった。怒り、悲しむことすら辞めて、全てを受け入れる諦めの境地。

それはスレイの知る彼とは印象を異にするものだったが、しかし今この状況において記憶の持ち主は一人を除いては有り得ない。

「ザビーダ…」

何百年の長きを生きながら、穢れを産む絶望を遠ざけ続けること。それはきっとスレイが思うよりずっと大変なことなのだろう。

天族にだって意思はある。しかし長い生のうち、いつかは望みが断たれる時が訪れる。その時に願いに固執し過ぎればどうなるのか、火を見るよりも明らかだ。

だから天族の多くは願いが折れて絶望の中に崩れ落ちる前に、望みを捨てて結末を受け入れる。万事がそういう風に運ぶから、イズチは始終穏やかだった。マイセンのように不意に誰かが欠けることがあっても、それを受け入れて静かに弔う。人とは違って彼等の時間は長い。悲しみは必ず癒える時がやってくる。だから彼等は絶望に打ちひしがれて嘆くことはせず、ただ静かにその時を待つのだ。

目を開いて闇を見回す。

改めて見ると、スレイを取り囲む闇はいかにも混沌とした色合いをしていた。ただ昏いだけではなく、さまざまなものがどうしようもなく交じりあって、それで闇の形を取っている、そんな風に見える。

その雑多なものをを掻き分けてスレイは歩く。ここから出るために何が必要なのか、スレイは何となく悟っていた。

そして、ザビーダがスレイの思っている通りの人物なら、「それ」は必ずこの闇のどこかに存在する。

 

―――『』

 

ふと呼ばれたような気がして、スレイはその方向を振り向いた。声が聞こえた訳ではない。強いて言うならば、軽く誰かに袖を引かれた、そんな感覚に近い。

引かれる感覚に逆らわずに振り返り、そうしてスレイは遥か前方が仄かに白いことに気がついた。

明るい方、明るい方へと無言で歩く。歩くにつれて白い色彩は濃くなっていった。どうやら意外に近いらしい、と気付いたスレイは足を早める。やがて夜の水面のようにうねる闇の中に、星のように明滅する光が見えた。

その大きさは拳ほど。周囲に蟠る闇に比べて、余りにもそれは微かだが、それでも白い光が陰ることはない。

目の前に迫ったそれに、スレイは黙って手を伸ばす。

 

―――『逃げろ、アリーシャ。君だけでも』

―――『出来ません!!』

 

引き攣った親友の声に応えるアリーシャの声。彼女の声もまた硬い。窮地に落ちる彼らに向かって、誰かが余裕の無い声で叫ぶのが聞こえた。

 

「なんとか生きて待ってろ!!」

 

間違いない、ザビーダの声だった。

「―――見つけた!」

思わず声を上げる。手の中の光を強く握り締めた。

これはザビーダの願いだ。

勿論、その願いはスレイのそれと比べて余りにも小さく弱い。例え叶わなくとも、ザビーダにとっては多少残念だったと、それで終わってしまうようなものだろう。しかし、スレイにとってはザビーダが二人を助けたいと確かにそう願った事実こそが重要で、それが強いか弱いかは大した問題ではなかった。

そう、それが「困っている子どもを放っておけない」程度の気持ちでも、それさえあれば。

「信じるには充分だ。―…ザビーダ!!」

呼ばわると、まるで応えるかのように手の中の光が強くなる。きっとこの声は届いている、その確信に背を押されて、スレイは光を掴んだ手を伸ばす。

「一緒に行こう!!」

叫ぶと同時に閃光が弾けた。

 

「―――スレイさん!!」

 

耳朶を叩くライラの悲鳴に、スレイはゆっくりと目を開ける。

薄ぼんやりと紗がかかったような視界の中、凱旋草海の緑と空の青のコントラストを背景に、スレイの顔を見て泣きそうな顔をしているライラが見える。

「…あれ?」

何度か目を瞬かせると、スレイはぐるりと周囲を見渡した。口の端をどこか満足そうに引き上げてスレイを見上げるエドナ、いつもの余裕そうな笑みに少し安堵の色を滲ませるロゼ、更には目を潤ませたライラ。ザビーダ以外の全員が、それぞれに嬉しそうな表情でスレイを見上げている。

そう、見上げているのだ。スレイより長身のライラや、馬に跨がった状態のロゼも含めて。

「―うわぁっ?!」

事態に気付いたスレイは思わず悲鳴を上げる。その様を笑うかのように、くつくつと頭の中で笑い声がした。

「笑うこと無いだろ!」

「いやぁ、あんまり情けない声だったもんで、思わずな。…とりあえず、生還おめでとう、とでも言えばいいか?導師様?」

頭の中で響くザビーダの声、そして宙に浮く体。絶えず頬を撫でる風はスレイを中心に緩く渦を巻き、草原の草を巻き上げる。

「神衣成功ね」

スレイを見上げながら淡々とした調子でそう言ったエドナの言葉で成功したのだ、とようやく得心がいった。

ライラ達との神衣とは違い、どこかふわふわと足元の定まらない感覚はあるが、手も足も自分の思う通りに動く。少なくともザビーダに無理矢理動かされている感覚はない。

それを確認して、スレイは下で自分を見上げているライラ達に視線を投げた。それだけで彼女達は了承したように一つ頷いて、スレイの中へと戻ってくる。

「ロゼ、ここまでありがとう」

「あいよ。帰りの足がいるでしょ。あたしはこのまま馬で追っかけるよ。…いってらっしゃい」

ひらひらと肩の辺りで手を振るロゼにもう一度頭を下げる。アリーシャ達を助けられるかもしれない、その希望を掴むことが出来たのは、間違いなくここまで馬を走らせてくれた彼女のおかげだった。

「ザビーダ!」

「わかってるって。…速過ぎて目ぇ回すんじゃねえぞ!!」

ぐっと背中を押されたような感覚。渦を巻くようにスレイを囲んでいた風が、突然意思を持ったかのように一つの方向を指して猛烈な勢いで流れ出す。

ザビーダが促すままに足を踏み出す。流れに逆らわず、押されるがままに宙を駆け、気付いた時にはスレイの速度は馬を遥かに凌駕していた。

 

 

馬より速い風の神依に、ガフェリスまでの距離は短かった。

時間でいえば三時間と少し、それだけだった。つまりは馬の三倍近い速度で道程を走破したというのに、スレイの身体には何の異変も無い。神依は通常体力を多く消耗するものだが、憑魔と戦わず、ただ走るだけに徹していればその消耗も最低限で済むらしい。

石を組んだ遺構、地上から僅かに頭を出したその遺跡は、普段ならば耐え難い魅力を持ってスレイの好奇心を擽ったはずだった。しかし、その腹の中に友人の命を飲み込んでいるとなれば、さしものスレイも暢気に喜んでいる暇は無い。地上に降り、半分転がるように階段を降りながら、ただひたすらに二人の無事を祈った。

「スレイさん、落ち着いて」

何度かライラに窘められるが、流石に無理な注文だった。変異憑魔と戦う術が無いのは百も承知、しかし二人の無事な姿を確認しないことには、その憑魔を出し抜く方法を考える余裕も無い。とにかく二人の無事の確認が最優先である。

異変を感じたのは階段を降りた直後のことだった。

慣れた気配を感じると共に突然視界が閉ざされて、スレイは思わず踏鞴を踏んでつんのめる。

「おい、どうした?!」

感覚的にスレイの視界が閉ざされた事がわかったのだろう、ザビーダが焦った声を上げるが、スレイ自身は極めて冷静だった。

「大丈夫。ちょっと見えないだけだから」

「大丈夫じゃねえだろ、それ」

「そんなことより…従士反動があるってことは、アリーシャはまだ生きてるってことだ。そうだよね、ライラ」

「え、ええ」

「良かったぁ…」

ライラの肯定を耳にた途端、膝が崩れる。それ程までに安堵した。

もしも間に合わなかったら。着いた時に二人が死んでしまっていたら。スレイの懸念は専らそのことで、従士反動など二の次だ。もっとも、視力が無ければ戦えないからそれはどうにかせねばならないが、お陰でアリーシャが生きていることがわかったのだから、スレイとしては感謝したいくらいだった。そしてアリーシャが生きているというからには、恐らくミクリオも無事だろう。事実、気配を探ってみればうっすらとだが水の気配が混じっている。弱っているのは確かなようだが、スレイの領域に戻ってしまえばこれ以上穢れに侵食されることは無い。助けるまで持ち堪えてくれるはずだ。

「ザビーダ。デゼルがやってたあれ、オレにも出来る?」

「デゼル坊の…?ああ、風を使って障害物を察知するあれか?まあ出来んことは無いが。…ってお前その状態で戦う気か?!」

「正面からやり合ったら勝てないかも知れないけど、二人を逃がすにしたってまったく戦わないわけにはいかないだろうし。相手が天族を狙ってるっていうなら、オレ達が囮になるのが一番早いと思うんだよね」

何せスレイの身体に宿る天族は今現在で三人。しかもその誰もが、ミクリオよりも年月を経た力の強い天族だ。ならばスレイが姿を見せれば必ず憑魔は追ってくる。

「慣れない技だ。いくら俺様でも万全にサポートしてやれる保障は無い。それでもやるか?」

「やる。つき合わせて悪いけど」

スレイ一人では囮にならない。やるからには皆の協力は必須だ。

「付き合わせるなんて…。二人は私にとっても大事な仲間なんですから、当然のことですわ」

「大丈夫、見返りはミボに払わせるから」

真摯なライラの優しい声と、しれっと辛辣な言葉を吐くエドナの声。そのどちらもスレイにとっては既に馴染みになったもので、視力を失ったスレイの背中を支えてくれる。

―――大丈夫。皆が傍に居てくれる限り。

「ザビーダ、お願い」

「しょうがねぇな。まったく、面倒な奴と関わっちまったぜ」

口ではそんなことを言いながら、ザビーダの声はどこか笑みを含んでいるように聞こえた。楽しくて堪らないような、もしくは嬉しくて仕方ないような、そんな弾んだ調子が、言葉の端々に漏れている。

ザビーダが口を閉じて数秒、皮膚を何かが撫でるような感覚がした。冷たくも無いが熱くもない、刷毛で擽られたような感覚。何かを確認するようにそれは全身を走り抜け、消えたと思った瞬間に、スレイの頭の中に遺跡の中の光景が詳細に浮かび上がってきた。

色は無い。黒と白、或いは闇と光で構成された図が反転したような、そんな印象だった。

「凄い…」

今まで見てきた世界とまるで違う光景に、思わずスレイは息を呑んだ。

鮮やかさは無いけれど、どこがへこんでいるだとか、どこに隙間があるだとか、一見しただけはわからないような事も今は手に取るようにわかる。わかってみればこの遺跡は非常に隙間が多かった。恐らくは隠し通路の類が多いのだろう。不自然に壁に隙間が開いている箇所が幾つもあって、そこから埃の匂いのする空気が流れてくる。

風を使って空気を振動させ、それを皮膚で感じ取って頭の中で図として構成しているのだとはザビーダの言だ。蝙蝠など、暗闇で生活する一部の動物と根源は同じ理屈であるが、風天族の技は精度が並外れている。風の感知能力の高さと、操れる風の範囲の広さでより多くの情報を受け取って処理出来るが故に、下手に目で見るより正確な情報が手に入る。

「長くは保たねえ。普段視覚で取ってる情報を聴覚と触覚で無理やり埋めるんだ。やりすぎるとお前さんの脳みそがパンクする。それまでに見つけろよ」

「わかった」

ザビーダの言葉に頷いて、スレイは改めて遺跡の構造を確認する。脇道に逸れる隠し通路は幾つもあるが、メインの通路は恐らく更なる地下に向かっている。アリーシャとミクリオのぼんやりとした気配を探れば、二人はその地下にいるらしいことが何となくわかった。

スレイはそれだけ確認してから足を踏み出す。向かう先に色は無い。視覚で捉えるのでは無い世界は、それだけで今までとはまったく違って見えるが、今は恐れて足を止めている暇は無い。

ただ前へ。一刻も早く先へ。

それだけを胸の内で唱えながら、スレイは一歩また一歩と足を速めながら、地下に向かう遺跡の奥へと進んでいった。

 

 

 

**************

 

 

 

 

息が整うのを待たずに立ち上がり、石棺の蓋を引き摺って入り口の前に立て掛け、簡易のバリケードを作る。狭い部屋をぐるりと見て回り、あの化け物が通れるような隙間や割れ目が無いことを確認して、ようやくアリーシャは床にへたりこんでいるミクリオの様子を見るべく彼に駆け寄った。

「ミクリオ様!大丈夫ですか?」

ぐったりと石棺にもたれたまま、アリーシャの呼び掛けにも答えない。緩慢な仕草でようやく顔だけは上げたものの、彼の元々白い顔は更に血の気を失い、まるで紙のような色になっていた。

ただ消耗しただけではあるまい。例え今も部屋に色濃く穢れが漂っているにしても、ここまで急激に弱る理由にはならない。事実、あの化け物の横をすり抜けようとした際によろめくまで、アリーシャの肩を借りればなんとか走ることだって出来ていた。

ならば考えられる理由は一つ。

「どこか怪我を?!」

ミクリオの傍らで膝をつき、彼が抵抗する余力のないことを良いことにあちこちを検分する。そうする内に、アリーシャはミクリオの右肘が脇腹を庇うようにぴたりと寄せられていることに気が付いた。退かしてみると彼の右脇腹から腰にかけて、ごく浅い切り傷があるのが目に入る。長さは精々7、8センチといったところだが、問題は服の破れ目から覗く傷口の周りが蚯蚓腫れのように盛り上がり、更にそこがどす黒く変色していることだった。

「毒が…!」

蠍の尾には毒がある、そう言っていたのはザビーダだった。流石というべきか、人生経験が長いだけあって、彼の知識に間違いはなかったらしい。

「失礼します!」

アリーシャは傷の周りの衣服を裂き、水筒の水を使って傷を洗う。痛まないわけは無いが、ミクリオは微かな呻き声を上げただけで身じろぎもしない。我慢強いだけならば良いが、身動きする体力すら残っていないのだとしたら、ぐずぐずしてはいられない。解毒は時間との勝負だ。

手持ちの荷物を確認し、幾つかの薬草を掴み出す。全て旅の道中に採取したものだが、これだって立派な薬草だ。

茶器を使って湯を沸かし、数種類の薬草と、街で求めた生薬の根を放り込む。薬を煎じている間に薬草と数種類の生薬を皿の上で潰して混ぜ、作った薬を傷口に塗り、布を当ててマントの端を裂いた布を使ってきつく固定した。

「っ…」

「沁みるのはご容赦下さい。効き目は確かです」

「だい、丈夫…だ」

解毒作用のあるこの薬草は傷口には猛烈に染みる。咄嗟に悲鳴を噛み殺したミクリオの顔には脂汗が浮いていたが、それでも彼は気丈な表情を見せる。

出来る限りの早さで処置を終え、煎じ終わった薬をカップに移してミクリオに渡す。如何にも薬品です、という匂いを漂わせるそれは飲みやすいとはお世辞にも言えないが、ミクリオは文句の一つも言わずに噎せながらカップの中身を飲み干した。

「私に出来るのはここまでです。とりあえず後は安静にしていて下さい。ここに付いていますから」

出来れば眠っていてくれるのが一番良いのだが、それは望み薄だろう。周囲を靄のように漂う穢れに目を遣って、アリーシャは緊張に顔を強張らせた。

あの化け物は決してミクリオを諦めたわけではない。天族を喰う事に味を占めた変異憑魔は、一度天族を見つけたら生半可なことでは諦めないという。実際に今もこの部屋の様子を伺っているのだろう、辺りを漂う靄はいっかな薄くなった気はしない。幸いにもこの部屋は誰か偉人の見につける宝物を納めていた部屋のようで、壁の造りも堅牢で、侵入者を警戒するような狭い廊下は憑魔の巨躯を阻んでくれる。その狭い廊下に分厚い石棺の蓋を互い違いに斜に立て掛け、簡易のバリゲードも作った。立て掛けただけではあるが、人間のような手足を持たないあの憑魔に、あれを器用に退かすことなど不可能だ。

しかし、そうやって分厚い壁の中にいる今も、時折思い出したようにに壁の向こうからあの威嚇音が聞こえる。中に目当ての食料が居るのにも関わらず手も足も出ない。その状況に苛立っているように聞こえた。

時間を計る術は無い。しかし、随分と長い間そうやって居たような気がした。

いくら入ってくる心配が無いとはいえ、化け物の威嚇音が響く中で暢気に昼寝が出来る者はそうはいない。威嚇音を聞く度に緊張した様子で耳を澄ませるミクリオに嘆息しながらもアリーシャは彼の身体が冷えないように、自分の旅装のマントを石棺の脇の石畳の上に敷き、そこにミクリオが横になる。傷口を見る限り解毒には成功しているようだったが、しかし紙のようになったミクリオの顔色はなかなか元に戻らない。寧ろ衰弱は酷くなる一方だった。恐らくは疲労と穢れの所為だろう。

「ミクリオ様。眠る気にならないのはわかりますが、とにかく今は身体を休めないと」

「…ザビーダは、助けを呼ぶと言った。スレイを呼ぶとしたら…最悪だ…」

アリーシャの声が聞こえていないかのように、ミクリオが吐き捨てる。そしてその危惧はアリーシャも抱いていたものだったから、彼を安心させてやれるような言葉は何一つとして出てこなかった。

ザビーダが助けを呼ぶと言ったからには、選択肢は同じ天族か、もしくは天族の姿が見える人間――近場で言うならばスレイかロゼしかいない。ザビーダがミクリオ達のことで助けを求めるならば、当然アリーシャ達の仲間であるスレイを選ぶだろう。それでは折角スレイに負担をかけないよう、行き先を伏せて出てきた意味が無くなってしまうばかりか、変異憑魔という強大な危険にスレイを晒してしまうことになる。

スレイは決してザビーダの言葉を疑わないだろう。ミクリオとアリーシャ、両名が断りなく姿を消してしまった現状、彼は少しの可能性があれば必ずそれに賭ける。スレイとアリーシャの付き合いはたかだか数ヶ月にしかならないが、その自分ですら彼がそういう人間であることを痛いくらいに知っていた。

「すみません…。結局、巻き込んでしまった。私の身勝手なわがままのために。本当に、何てお詫びすれば良いのか…」

ここでアリーシャが囮になれるのならば、躊躇いなくそうしただろう。どうせ国のために何一つ有益なことの出来ない役立たず、消えたところで何の問題もありはしない。少なくとも、世界を救う責任を担う導師の重要な仲間を失うよりは余程良い。

しかし、実際に化け物が狙っているのは天族であるミクリオで、アリーシャが単身出て行ったところで片手間に潰されるのが関の山だ。ミクリオの逃げる時間を稼げるのならば何としてでもやってみるが、それすら出来ないことは明白で、無力な自分がただただ悔しい。

申し訳ありません、そう言って頭を下げ、唇を噛んだ。ここまでミクリオは一言たりともアリーシャを責めたりしなかったが、それも限度があるだろう。どんな罵声でも受ける覚悟は出来ていた。

しかし、アリーシャの予想に反して、返ってきたミクリオの声に怒りの色は欠片も無かった。

「何で、謝るんだ?僕は、自分から君に、ついてきたのに」

苦しい息の下、途切れがちになる声は細い。しかしその言葉に含まれるのは明らかに純粋な疑問で、アリーシャは思わず下げた頭を勢い良く上げた。

「何故って…ここに来たのは私の勝手です!相談すれば止められると思ったから、誰にも言わずにここに来ました。全部、弱いままで居たく無いという私のわがままから!」

相手は病人だ、激昂するべきでは無いとわかっているのに止まらない。

優しさもここまで来ると残酷だ。いっそ断罪してくれれば、この罪悪感も少しは和らいだかもしれない。そんな身勝手なことを思う自分の心に更に嫌気が差した。

しかし、ミクリオも譲らない。秀麗な顔を苦痛と自己嫌悪で歪めながら、彼もまた感情のままに声を張り上げる。

「その我がままに付き合ったのは、僕の意思だ!言っただろう、君のためじゃない、僕のためだって!君の言う通り、あの化け物と出会う前に、引き返しておけば、こんなことにはならなかった。それを通したのは寧ろ僕のわがままだろう!君がっ、責任を感じるような、ことじゃない!」

吼えるように言い放った後、身体を二つに折るようにして激しく咳き込む。アリーシャは慌ててミクリオの背中を摩りにかかりながらも、頑なにアリーシャの責任を認めようとしないミクリオに違和感を抱いた。

頑なに自己の罪を主張する。それは今のアリーシャ自身の態度と酷く似てはいないだろうか。

元々自罰的なところが無いでもないが、本来ミクリオは冷静に自分と周囲を見つめることが出来る人だ。その彼がここまで感情的になる理由。そんなことは、今のアリーシャ自身の胸の内と照らし合わせてみれば大体わかる。

「ミクリオ様」

薄い身体を支え、背中を摩りながらアリーシャは落ち着きを取り戻した声で彼に問う。

頑なに己の責任の重さを叫ぶミクリオに、いつもの冷静さは欠片も無い。それは何故か。

「何を、そんなに悔いていらっしゃるのですか?」

―――アリーシャと同じだ。彼は己の罪を他者に弾劾してもらいたがっている。

ひゅ、と小さくミクリオの喉が鳴る。

呼吸すら止めたミクリオが呆然とアリーシャを見上げたその顔は、まるで迷子になった幼子のそれのように頼りなかった。

 

 

触れてはいけなかっただろうか。

顔を蒼褪めさせて固まったミクリオを身ながら、アリーシャは少しばかり自分の言動を悔いたが、しかしすぐに思い直す。

このままミクリオが自分を責め続けて良いはずが無い。体力が落ちた今だからこそ、気持ちだけは上向きでいてもらわねばならない。暗いものを抱えたままでは、穢れの干渉も受けやすくなり、その分回復も遅れてしまう。

そう、責任だとか罪だとか今はどうでも良いのだ。生きてさえいれば後悔も反省もいつだって出来る。大切なのは今この窮地を生きて抜けること、それも出来ればスレイを危険に晒す前に。

自身の軽挙をあげつらうのはもう辞める。そしてミクリオにも辞めてもらう。その決意を固めたアリーシャは、じっと根気強くミクリオの答えを待った。もう逃げ道は与えない。話すまでいつまでだって待ち続ける。

それをミクリオも察したのだろう、唇を噛み、躊躇うように視線をあちこちに彷徨わせる。

「僕は…」

そう言ってまたすぐに口を噤んだミクリオが、覚悟を決めたように再び顔を上げた時だった。

「何だ?!」

部屋が揺れた。

何かが壁にぶち当たる激しい音と共に、何度も何度も地震のように部屋が揺れる。パラパラと天井から埃や石くれが落ちてきて、視界が白く煙るほどだった。

咄嗟に槍を手繰り寄せるも、目に見える範囲に敵はいない。咄嗟にミクリオを背に庇い、周囲を見回したアリーシャの後ろで、ミクリオが忌々しげに呟いた。

「…強硬手段に出たか」

彼の視線を追いかければ、通路側に面した壁面の上方に微かに亀裂が入っているのが確認出来た。その亀裂はアリーシャの見守る中、再びの轟音と同時に更に大きく育っていく。

「まさか…無理やり、壁を…?」

痺れを切らせた憑魔が、広い通路の側から壁に体当たりしているのだと気付いて、血の気が一気に下がった。

丈夫な石組みとはいえ、人の手によるものである。経年によって劣化している部分も多いし、一部に亀裂が入ればどんなに丈夫な壁も崩すのは不可能ではないだろう。何せあれだけの図体と膂力を持つ憑魔だ。普通の動物とはわけが違う。

今突破されればとても持ち堪えることは不可能だ。こっちには禄に立てもしない病人がいる上、ザビーダの援護ももう無い。アリーシャ一人の力では、ごく短い距離を引き摺るのが精一杯。ミクリオを背負って走るなどという芸当はとても出来ない。

入る時に使った通路はどうだ、と考えて、次の瞬間にそれも不可能だと気付く。アリーシャやミクリオの体躯ならば、バリゲードの隙間を潜って通路を抜けることは不可能ではないが、そこを通って部屋の外を出たところで、続いているのは憑魔が待ち構えているメインストリートだ。何も状況は変わらない。

「どうすれば…」

槍を握った手に力を込めて、生存の道を必死で模索する。何かここに罠のようなものを仕掛ければ、足止めしている間に通ってきた通路を抜けて外へ出るのも不可能ではないだろう。しかし、ここにあるのは出てきた時に持ってきた道具類が少しと、空になった石棺ばかり。石棺本体は重すぎてとてもアリーシャの力で動かせるものではないし、動かせたところで何をどうすればそれで憑魔を足止め出来るというのだろう。

―――万事休す。

助かる方法など無い。それを悟ったアリーシャが唇を痛い程に噛み締めたその時、出現させた武器を杖に、ミクリオがよろめきながら立ち上がった。

「…君は来る時に使った通路へ。憑魔が僕に気を取られてる間に抜ければ、すり抜けられる」

「ミクリオ様、何を?!」

上がった息の下でアリーシャに指示を出しながら、ミクリオは亀裂の入った壁を厳しい目で見遣った。

「早く、時間が無い」

既に亀裂は中ほどまでに達し、小石というには大きい石材の欠片が幾つも剥落している。破られるのは時間の問題だった。

「出来るわけないでしょう!そんなこと!!」

「ここで仲良く二人で死ぬか、一人でも生き残るか。どっちかマシか、考えるまでも無いだろう!」

「ならば私が残ります!助けが来るまでここであいつの足止めを…」

「あいつの狙いは天族である僕だ!君は隠れてさえいれば無視される可能性が高いが、僕のことは草の根を分けても探し出そうとする。ならどっちが隠れた方が助かる可能性が高いのか、そんなことは考えるまでもなくわかるだろう」

「ここで貴方を見捨てて、私にどんな顔でスレイ達のところへ戻れと仰るのです?!出来ません、そんなこと!!」

アリーシャの叫びに、ミクリオの表情が歪んだ。まるで痛いのを堪えるかのような顔だった。

「…君はそんなこと気にする必要は無いよ。僕に惜しむような価値なんか無い」

秀麗な顔に浮かぶ自嘲の笑み。暗い笑いを含んだ言葉は、いつもの明朗快活な彼の言葉とは比べ物にならないほど、鬱屈した色を抱えていた。

「ミクリオ様…?」

「僕は君が捕らえられている間に一度、君じゃなくてロゼを従士にすべきだとスレイに言った。…自分とスレイの身の安全を買う代わりに、窮地に落ちた君を見捨てるべきだってね!」

苦渋に満ちた表情、吐き捨てるような声音。彼がそのことをどんなに悔いているかを如実に報せるそれらは、彼の言葉が真実であるという何よりの証拠でもある。

ミクリオの言葉を、アリーシャは黙って聞いていた。

話には聞いていた。ロゼは自力でデゼルと契約し、導師の資格を得たのだと。ならば彼女の才能はアリーシャなど遥かに凌駕するはずで、単純に導師の利を取るならば彼女を仲間にしようという選択肢は決して間違いでは無いはずである。

ショックで無かったかといわれると嘘にはなるが、それでも彼の言葉を冷静に受け止められる程度には、アリーシャは自分の分際を知っていた。だから怒りは感じなかったし、寧ろ彼のここまでの不自然な態度が何に由来しているのか、それが理解出来た分なんだかすっきりした心持ちだった。

「…今の言葉の中に、ミクリオ様を見捨てても良い理由は見当たりませんが?」

ミクリオは悔いていたのだ。一度でもアリーシャを見捨てようとスレイに提案したことを。あの時の状況では彼等はアリーシャがどんな立場に置かれているのか、正確に知り得なかったはずで、彼等が来なければアリーシャは殺されていたなどとミクリオが知る術は無かった。だからこそ衝撃を受けたのだろう。スレイ達が来ていなければ、確実にアリーシャはあの牢の中で死んでいた、その事実に。

だから彼は今回の無謀な旅に同行し、アリーシャ以上に従士の力に固執した。二度とアリーシャが己の無力を理由に、スレイ達の元を去らなくても済むように。

杖に縋るように立つミクリオを見下ろす。真っ青な顔で唇を噛み締めるミクリオの顔を見れば、己が見捨てられるかもしれなかった事実に対する衝撃など、いとも簡単に消えていった。

「僕が何を言ったのか、わかってるのか?僕は…」

「だって、ミクリオ様は来てくれました。あの暗い牢まで、スレイと共に、私を迎えに」

アリーシャの存在が大切な親友であり、家族であるスレイの身を危険に晒すとわかっていながら、フォローなら任せろと笑って言ってくれた。

「あれは、スレイがそうしたいって言ったから…」

「でもミクリオ様は最後にはスレイの言葉を受け入れた。だからあそこに居たのでしょう?私をスレイから引き離すこともせず、私が気負うことが無いように、道中でもずっと気遣って下さった。…私に野菜の切り方を教えてくださったのは、スレイではなく貴方です」

岩が割れる音と共に、濃い穢れの気配が流れ込んでくる。壁の上部の一角に、遂に人の頭程の穴が開いたのが見えた。

「…僕はあの導師を見捨てた天族と同じだ。人間を認めた振りで、きっと心のどこかで軽んじてた。だから…」

「同じなわけ無い!!」

ミクリオの前、彼を庇うように進み出て、アリーシャは槍を構えた。背後に視線はもう遣らない。代わりに自分と自分の大切な仲間であり、友人である少年を傷つけようとする敵の居る方をきっと見据えて、声だけで彼に語りかける。

「私だってきっと迷う!師匠と、スレイ達を天秤にかけてどちらか選べと言われるような、そんな事があったらきっとどうしようも無く迷うと思う。でも、それでも貴方は来てくれた!スレイと共に、私に手を差し伸べてくれた!導師を絶望に追い込む天族と同じなんてこと、ある訳が無い!」

騎士は守るもののために強くあれ。

その教えと共に、槍の技術を叩き込んでくれた大切な師。女だてら軍人を気取るのだったら、何か危険があっても対処出来るようにしろと、薬の扱いも教えてくれた。

もしもスレイ達といることで、師を危険に晒してしまうとしたら。アリーシャはきっと悩むだろう。どちらを取るか死ぬほど悩んで、それでも最後には師の教えを貫く生き方を選ぶのだ。

「天族だとか人間だとか、そんなことは関係ない!!今私に逃げろと言う、そんな貴方だから私は大切な仲間だと思うし、仲間を守ろうとするのは当たり前のことです!」

頭の中で響くのは、この遺跡に入ったばかりの頃、他ならぬ彼自身が言ったその言葉だ。

「…私は何かおかしなことを言っていますか?ミクリオ様」

ガラガラと、石が崩れる音がする。あちこちで響くそれは縒り合わさって既にただの騒音となり果て、互いの声も拾うのがやっとの有様だった。

ミクリオの声は聞こえない。果たして彼はわかってくれたのか、気にかかったアリーシャはほんの一瞬のつもりで背後に目を遣った。

ミクリオは一瞬ぽかんとした顔でこちらを見つめていたが、自分の言葉を盗られたのだと気付くと、その表情は笑みに変わった。先ほどの暗い笑みとは明らかに違う、楽しげな笑みと苦笑が半々の複雑な顔。スレイと居る時に彼がよく見せる表情だった。

「そうだね、言ってないよ。強いて言うなら…様と敬語は要らないかな」

「えっ?」

「関係ないんだろ?天族も人間も」

ならば自分達の関係は歳の近い気心の知れた仲間、それだけだ。ミクリオの言葉は至極尤もであり、アリーシャは今更ながら天族である彼に、一歩引いた態度で接していたことに気付いた。敬意といえば聞こえは良いが、根拠の無い形だけのそれは、人間関係の距離を広げこそすれ縮める要素にはなり得ない。

「うん!」

「なら…頑張って生き残ろうか。二人で」

よろめきながらも一歩進み出て杖を構えるミクリオの背を支えながら、アリーシャも再び槍を構える。

「ああ。やろう、ミクリオ!」

頷いたアリーシャが言った瞬間だった。

 

 

後ろに置いた荷物の中で、突然何かが眩い光を放つ。直接見ずとも視界を白く染める程のそれは、穴を通して壁向こうの憑魔にも届いたのだろう。苦悶のうめき声を上げながら、憑魔が遠ざかる気配がした。

「何だ?!」

閃光は一瞬だけだったが、アリーシャ達が振り返った後もそれは鈍い光を放ち続けている。荷物に駆け寄ったアリーシャが中を探ると、光の元はすぐにわかった。

「石版が…光ってる…?」

小さめの辞典程の大きさの石版。この遺跡で発掘されたというそれは、怪しげな老人の手から街の若者の手に渡り、最終的にアリーシャの手の中にある。極めて短い一文が古代語で記されていただけの、何の変哲も無い石の板だった筈だが、鈍い光を放つ今は手に持っているだけで何やら只ならぬ雰囲気を放っている。何より、その石版の近くにいると、呼吸が楽になったような奇妙な爽快感があった。天族のミクリオがそれがもっと顕著なようで、先程よりも明らかに顔色が良い。

「もしかして、穢れを祓ってる…?」

「!アリーシャ!」

呆然としてたアリーシャは、ミクリオの鋭い声に視線を戻す。そして絶句した。

硬い灰色の表面、何も掘られていなかったつるりとしたそこに、今まさに誰かが彫り付けているかのように文字が刻まれていく。微かな光の軌跡を残しながら次々に現れる文字列を、ミクリオが呆然とした調子で読み上げた。

「…従者は試練を越え、秘儀を修めよ。呼べ、汝が得し真を。応えを以って証とせむ。従者が証を立つる時、導師は枷より解き放たれ、従者は真の力を得む」

流石にこの程度の文章でミクリオが詰まることは無い。最終的に最初の倍以上になった文字列は、そこでようやく沈黙し、同時に石版の光も急速に薄れていく。遠ざかっていた穢れの気が再び蔓延し始めたが、息苦しさは戻ってこなかった。

「これは…まさか、スレイが?!」

「ああ、領域に入ってる。近くまでスレイが来てる!!」

幾分か元気を取り戻したミクリオが、焦ったように言う。当然だ。今スレイが来てしまえば、二人をこの小部屋から逃がすために憑魔と戦うことになってしまう。しかし、今のライラの力では、変異憑魔を浄化することは不可能なのだ

このままではいけない。

アリーシャは救いを求めるように手元の石版を凝視した。今このタイミングで変化があったのだから、必ず何か意味がある筈だ。もしかしたら従者の力とやらで、スレイの助けになれるかもしれない。

「真…私が得た、真…」

この遺跡でアリーシャが得たものなど何も無い。まさか端から試練とやらには失敗していたのだろうか、そんな推測が頭を過ぎるのを必死で振り払う。

ここで諦めたら終わってしまう。アリーシャだけではない。ミクリオも、下手をすればスレイも。

追い討ちをかけるように、また部屋が大きく揺れる。光が途絶えたことで憑魔が活動を再開したのだろう。がつんがつんと、休む気配すら見せず壁に体当たりを続けていた。

こんなところで終わりたくない。だって、折角わかり合えたのに。天族と人間と、その双方が生きる道にほんの少し近づけた気がしたのに。

「…真…呼ぶ…。呼ぶ…?」

同じように石版を睨んでいたミクリオが不意に顔を上げる。自分の推測を確かめるように何度か口の中で繰り返して、確信したように頷いた。

「そうか!…アリーシャ!」

「な、何?」

「呼ぶ…名前だよ!!僕の真名を呼ぶんだ!」

「ミ、ミクリオの…?」

天族の真名は本来伴侶か兄弟の縁を結んだ者にしか教えない、大切なものなのだとスレイから聞いた事がある。スレイが戦闘中に呼ぶからアリーシャも皆の真名は把握しているが、だから一度も口にしたことは無かった。

がつん、と一際大きく部屋が揺れた。亀裂が音を立てて広がって、ミクリオが焦れたように声を上げる。

「早く!!」

今はミクリオを信じるしかない。悲鳴のような声に頷いて、アリーシャは喉も裂けよとばかりに大声を上げた。

「ルズローシヴ=レレイ!!」

間髪入れずにミクリオも叫ぶ。

「マオクス=アメッカ!!」

二つの声が交じり合った瞬間だった。

突如としてアリーシャの胸元から光が溢れる。閃光というには柔らかく、燐光というには強い光は、仄かな温度を持ってアリーシャを包んだ。手探りで光の元を探し当てると、光っていたのはアリーシャが普段から持っている短剣。王家の紋が刻まれたディフダの家に代々伝わる短剣で、イズチの近くの遺跡に落としてきたのを、スレイがレディレイクまで持って来てくれた思い出の品だ。

最初は白かった光だが、空中で漂う内にまるで何かを吸収しているかのように薄青い色味を帯び、みるみる内に青く染まって、そのままアリーシャの持っている槍に向かって収束を始める。まるで蛇か何かのようにうねりながら槍を取り巻き、鋼のそれに染みこむように消えていく。

「こ、これは…?!」

掌に伝わるのは、清流に手を浸した時のような清涼感。刃の周囲をまるで輪郭をなぞるように水の流れが取り巻いて、まるで川の傍にいるようにせせらぎの音が耳に届いた。軽く振ってみると、尾を引くように細かい水滴が軌跡を描く。

変わったのは武器だけでは無い。アリーシャ自身の身の内にも、今まで無かった何かを感じる。その感覚は、初めて師から身の内の闘気を形にする技を教わったあの時と酷く似ていた。

 

『よく辿り着いた』

 

轟音が轟いて石の壁が崩れ落ちるその瞬間、アリーシャは耳元でそう言う老人の声を聞いたような気がした。



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次の一歩を今ここから 6

耳元で風を切る音がする。

密閉されていたせいで黴臭い匂いの充満する空間。明暗の反転した景色を見回しながら、スレイはその見慣れない景色の中に見知った姿を探し続ける。

「ミクリオ!アリーシャ!!」

寂れた遺跡の中で大声で呼ばわるも、返ってくるのは反響した自分の声だけだ。

変異憑魔に見つかるかもしれない、そんな心配は既に頭から抜け落ちていた。否、アリーシャ達から注意が逸れるなら、自分達を見つけてくれる方がまだ良い。ザビーダと神依をしている分、スレイの機動能力は格段に上がっている。宙を駆けることすら可能になった現状ならば、変異憑魔に付け狙われたところでかわす手段はいくらでもある。

今のところ、アリーシャの気配もミクリオの気配も途絶えてはいない。寧ろ近づいたせいか気配は先程よりも鮮明に感じ取れるようになっていて、だからこそ彼等の無事は確信できた。しかし、生命に別状無いことは確かでも、それがずっと続くとは限らない。もしも彼等が変異憑魔と交戦中であるのなら、たった一撃が致命傷になる可能性も十分あった。

「ちったぁ落ち着け!変異憑魔に突っ込む気か?!」

「もう近いんだ!!細かいことは後で考える!」

ザビーダの言葉に叫び返して、スレイは我武者羅に宙を蹴る。形振り構ってはいられない。とにかく懐かしい気配を少しでも強く感じる方向へと、ただもう夢中で突き進んだ。

―――もうすぐだ。もうすぐ手が届く。

「どうか、無事でいてくれ。二人とも…!」

穢れの気配が濃くなっていくと共に、二人の気配もはっきりとその存在感を顕わにしていく。それは、穢れの元となる変異憑魔の傍に二人がいることの証左に他ならない。

致命的な一撃が彼等に届く前に、早く。

少しでもスピードを上げようと風を手繰るスレイの耳元で響く音。風を切る音に混じって、金属を引っ掻くような不快な音が混ざり始めた。

 

 

 

************

 

 

 

弾けた壁の欠片が頬を掠めて、ちりりと熱感が走る。次いで流れる血の感触を手の甲で乱暴に拭って、アリーシャは大きく一歩飛びずさった。

途端に足元に刺さる憑魔の尾。鋭い刺を備えたそれは縦横無尽に動き回り、アリーシャ達の動きを阻害する。狭い室内で不利になるのは身体の大きい向こうの筈なのに、この尾の一撃があるからアリーシャ達の方も迂闊には動けない。何せこの刺の毒の効果は実証済みであり、悠長に解毒などしている時間は無い以上、掠っただけで致命傷になる。

「ミクリオ!!左へ!」

自分の動きを尻尾が追ってきているのを確認しながら、アリーシャは叫ぶ。叫びながら右側に回りこみ、足元を執拗に狙ってくる尾を跳んでかわして、振り向き様に関節部分を狙って握った槍を突き込んだ。

節足動物は硬い表皮を持つ分、その継ぎ目は脆い。勿論、この憑魔を当たり前の動物と同じように考えるわけにはいかないだろうが、実在の生き物の形を借りているならば、形状的な弱点も一致しているはずだ。その可能性に賭けた。

「やぁっ!!」

一歩を大きく踏み出し、正確に継ぎ目を狙う。どうやら継ぎ目はゴムのように弾力を持った筋繊維で出来ているらしく、初撃は跳ね返されたが一撃で終わらせるつもりは端から無い。

「蛇垂華!」

突き出した槍を引く動作で、相手を引き寄せる。そこから更に切り払うまでの動きは、師の指導の元何度も何度も繰り返したものだ。

一歩を大きく踏み出して、その何百回、何千回と繰り返した動きの通りに間接の継ぎ目を狙う。アリーシャの操る槍の先を取り巻く水流が、アリーシャの予測を遥かに上回る動きを見せたのはその時だった。

アリーシャの槍が憑魔の尾を捉えた瞬間、穂先を取り巻いていた水流が俄かに形を変え、水の鎖となって太い尾を雁字搦めに縛り付ける。驚きに目を見開きながらもアリーシャが体に染み付いた動作で槍を切り上げる動きに持っていくと、槍の穂先に留まった水が動きを早め、まるで回転する刃のように憑魔の筋繊維の何本かを抉り取った。

明らかに今までとは違う。水流を伴う今の技は、アリーシャが今まで使っていたそれとはまったく別物であり、更によく見ればまるで鎧のように憑魔の体に纏わりついていた穢れの黒い闇が、アリーシャの槍が触れた部分だけ、ほんの僅か削り取られているようにも見えた。スレイの領域に戻ったことで、ミクリオの浄化の力も戻っているのだろう。

―――今ならば。ミクリオの力を借りている今ならば戦える。

「ミクリオ!!」

「氷刃断ち切れ…アイスシアーズ!!」

憑魔が悲鳴を上げるのと同時に地面を蹴ってその場を逃れ、苦し紛れに振り回される尾と足の一撃を辛くもかわす。地面に倒れ込みながらミクリオを呼べば、アリーシャが尾の動きをひきつけている間に反対側に回っていた彼は、間髪入れずに天響術の一撃を叩き込んでくれた。

大気中の水蒸気が一瞬にして凍結して二枚の鋭い刃を形作り、ミクリオの詠唱と同時に憑魔の尾を挟んで断ち切る。アリーシャが手傷を負わせたまさにその位置を狙って放たれた一撃には、いかに変異憑魔といえども耐えられず、毒の刺がついた尾の瘤が、ごとりと鈍い音を立てて遺跡の床に転がった。

「やった!」

「ミクリオ!気を抜くな!!」

大きな脅威が一つ減った。その結果に思わず声をあげたミクリオに、アリーシャはひやりとした危機感を覚えた。

この憑魔の毒には一度痛い目を見ている。毒の尾の無力化は何よりも優先すべきだと、特に話し合うまでも無くそう二人とも思っていたから、思ったよりもあっさりとそれが敵ったことに、まだ戦い自体に馴染みの浅いミクリオが僅かばかりに気を抜いたとしても、それは無理からぬことといえるだろう。

しかし、幼い頃から歴戦の戦士であるマルトランに修練をつけられてきたアリーシャは知っている。戦場ではその一瞬の油断が、いとも簡単に死を招いてしまうのだと。勝利の予感に快哉を叫んだ格好のまま死んで行った戦友の話を、アリーシャは幾度と無く師から聞かされていた。

アリーシャの言葉にミクリオは慌てて杖を構えなおしたが、その時にはもう遅かった。

尾の先が切り取られたからといって、この怪物自身を無力化したわけでは決して無い。寧ろ、己にとって餌でしか無い存在にその身を傷つけられたことに激しく怒り、一刻も早くその虫けらにも等しいちっぽけな生命を押しつぶし、頭から貪り喰おうと巨大な鋏を振り下ろした。

「ミクリオ!!」

駆け寄ろうとしたアリーシャの動きは足元を狙って繰り出された、先の無い尾で阻害される。毒の脅威は無くなったとはいえ、丸太のような太さの尾の一振りは、それだけで当たれば脅威だ。鋏に足、毒を失っても尚強靭な尾。全方位に攻撃出来る憑魔と相対する今、一瞬の隙も決して見せてはならなかった。

アリーシャは焦れる己を宥めながら、視界の一角を埋める灰白色の砂塵に意識を凝らす。これ以上憑魔がそちらに行かないよう、牽制のように小さな攻撃を繰り返しながら、必死で砂煙の中に彼の纏う青を探した。

もし直撃していれば、一撃で命を刈り取られてもおかしくない。最悪の可能性が頭をよぎり、じわじわと背筋を這い上がってくる。

まるでレースの襞のように連なる砂煙の隙間から、ミクリオがよろめきながら転がり出てきた時、アリーシャは心の底から安堵した。しかし、その安堵も長くは続かない。依然として状況は厳しいことは、まともに歩けていないミクリオの様子を見れば明らかだったからだ。

吹き飛ばされて半身を打ちつけたのだろう。右の脇腹を庇うように手を当て、右足を引きずっている。一応杖は顕現させたまま、脇腹を庇った左手に握っていたが、あれではまともに振るえまい。ミクリオは回復術も得手ではあったが、今の状況で詠唱のために無防備になるのは余りに無謀すぎる。あと一撃でもまともに食らえば、例え命を繋げたとしても戦闘の続行は不可能、アリーシャ一人でミクリオを庇って戦える訳も無い以上、ミクリオが倒れるのは敗北と同義。そして敗北は即ちミクリオの死を意味した。当然だ。そもそも変異憑魔は天族であるミクリオを喰らうためにここにいるのだから。

陽動のために分かれたのが仇になってしまった。憑魔の体で分断された形の今の陣形では、迂闊にミクリオに近づくことも出来ない。

「どうすれば…」

傷を癒すための薬類はアリーシャの荷物の中にある。人間の荷物を天族が持てば周囲の人間に奇異な目で見られてしまうから、ミクリオは己の武器以外の一切の荷物を持っていなかった。

投げるか。しかし遠い上に舞い上がる粉塵で視界が悪い。更に間に憑魔を挟んでいるのだから、叩き落とされてしまえばそれまでだ。アリーシャとて薬の類は多くは持ってきていない。ミクリオの解毒と傷の治療で使ってしまったから、残りは僅かだ。無駄には出来ない。

どうする。どうする。

焦りばかりが先に立って、思考がぐるぐると音を立てて空回りする。幸いなことに憑魔の攻撃は怒りの余り単調になっていたから、そんな状態でも防ぐことは出来たが、それだけでは何も解決しない。いずれアリーシャが疲れて、それで終わりだ。

ミクリオと同じ、清涼な水の気配を纏う槍を握り締めて、アリーシャはままならぬ状況に歯噛みした。

どうすればいい。どうすれば二人、五体満足でスレイの元へ帰りつける。どうすれば彼の大切な親友を失わせずに済む。

のこのこと勝手にこの遺跡にやってきたアリーシャのせいで、大事な親友を死なせることになっては、スレイに申し訳が立たない。

そこまで考えてアリーシャは気付く。

―――違う。

故郷を追われた今のアリーシャに、大義名分をわざわざ掲げる必要など無い。それなのに自分はまた騎士が槍を振るうに相応しい立派な理由を探している。

旅の道中、包丁の持ち方から仕込んでくれた。彼が楽しそうに語るスレイとの少年時代は、こちらが聞いているだけで微笑ましかったし、天遺見聞録の解釈を巡っては議論を戦わせ、旅先で遺構を見つける度に三人で悠久の時に思いを馳せた。

己の言動を悔いてアリーシャのために命すら危ういこの場所へやってきた誠実さも勿論尊敬すべき点ではあるが、それ以上に彼とスレイと三人で共に過ごす時間は単純に楽しかった。同じ年頃の友人などまったくいなかったアリーシャにとっては、初めて同年代の友人と、同じ趣味を分け合ってはしゃぐ貴重な時間だった。

アリーシャにとって、ミクリオは疾うに「スレイの親友」というだけの存在ではなくなっていた。天族と人間、無意識に自分が引いていた線を取り払って考えれば、今自分が真に何をしたいと欲しているのか、答えは実に単純明快だった。

その欲を、願いの全てを込めて槍を振り切る。

「魔神剣!!」

ミクリオのいる方向に伸ばそうとした肢の一つを狙って闘気の波を放ち、怒りの声を上げる憑魔の間合い、そのギリギリ外へと跳びずさる。

「…死なせない。絶対に」

―――帰るのだ。

生きて帰って、またミクリオとスレイとライラとエドナ、皆揃って旅をする。歳の近い者同士、新しい場所に行っては新しい驚きを見つけ、意見を戦わせて些細なことで笑い合う、そんな宝物のような時間を、これからもアリーシャは送るのだ。そうやって新しい発見を糧に旅を進め、いずれはスレイが立派な導師になって世界の闇を打ち払う、その日をミクリオと共に彼の一番近くで迎え、光の戻った祖国に皆を再び連れて行く。そして良い所を一つ残らず紹介して胸を張り、これがこの国の、ハイランドの本当の姿だと、誇らしげ言って笑うのだ。

「お前なんかに、私の友達はやらない!!」

アリーシャの夢に最早ミクリオは必要不可欠で、だからここで失うのは絶対に嫌だ。未来を共に生きたいと願った友人を、こんな所でみすみす死なせてなるものか。どうにもならない現実に絶望するのはもう飽きた。もう無様に膝を着き、諦観を噛み締めることはしない。あの時は出来なかったことも、今ならきっと出来る。

―――だって、今は独りじゃない。

握る槍に感じる清涼な水の香。それと同じものを、アリーシャは自分の身の内にも感じていた。ミクリオを助けたいと願えば願うほど、胸の中に渦巻くそれが血管を奔り、身体中に駆け巡る。

「優しき流れ、癒しの力よ…」

闘気を形にして発する奥義。要領はそれと同じだということは感覚で理解出来た。今アリーシャの身の内に宿るのは、心優しい友の清浄なる水の力。敵を押し流す程の激しい力では無いけれど、代わりに乾きを潤して命を繋ぐ優しさで溢れている。だからどんな形で開放すべきかはすぐにわかった。

目を閉じて詠唱するアリーシャのすぐ近くで、憑魔が咆哮をあげる。どうやらミクリオよりも先に、食事を邪魔をする目障りな虫けらの始末をつけることにしたらしい。アリーシャが目を開けると、眼前に方向転換した憑魔の巨大な鋏が迫っていた。

「ツインフロウ!!」

鋏が振り下ろされようとした正にその時、ミクリオの術が憑魔の背後から襲い掛かる。威力は然程でも無いが、一番詠唱の短い天響術。何とか攻撃を避けられる遮蔽物の陰に隠れようといたミクリオが、憑魔が標的を変えたことに気づいて咄嗟に放ったのだろう。この程度の術でダメージを受ける相手ではないが、それでも動きを邪魔されたことに対して冷静でいられるほど賢い相手でも無い。案の定奇声を発して尾を振り回し、再び標的となったミクリオは片足を引き摺りながら攻撃範囲から逃れようと走り出す。

それだけの時間があれば十分だった。

「ファーストエイド!」

声高らかに叫んで、意識をミクリオに集中する。薄青い光の粒子がミクリオを取り巻き、それが消えるとミクリオの体のあちこちについていた細かい傷は見えなくなっていた。

「アリーシャ、君…」

「前を!また来るぞ!!」

突然の光に一瞬憑魔は警戒したように鋏を引いたが、それが己に害を加えるものではないと気づいた瞬間に再び動き出していた。ミクリオは寸でのところで憑魔の鋏を掻い潜り、その懐から転がるようにして逃れる。考えての動きではなかったが、それで運良く分断された形だった陣形を変えることが出来た。その代償に憑魔の鋏が砕いた石畳の欠片が、再び白い頬に赤い線を引いたが、怪我はそれだけのようだった。

どうやら体の痛みももう無いようだ。

ミクリオの動きを見てそう判断したアリーシャは、援護のために走り出す。どういう仕組みかはわからないが、ミクリオの力を借りて天響術を使うことには成功したようだが、術の行使に不慣れな状況で乱発するのはどう考えても愚作だった。一度使ってみてわかったが、詠唱している途中はまるで無防備になってしまう。よくもまあ、天族の皆はいつもこんな危なっかしい戦い方をしているものだと、尊敬に近い念すら覚えた程だ。

術を行使するならば前線を支える前衛が必要。この場合、どちらがその役目を担うのに適当か、そんなことは決まっている。

「私が食い止める!ミクリオは術で攻撃を」

敵の背後、死角になる位置に素早く回り込みながらアリーシャはミクリオを背後に庇う形を取る。ミクリオよりも自分が犠牲になるべきだと思ってのことでは無い。単純に戦闘時の利を考えてのことで、それをわかっているのだろう、ミクリオも不満気な様子は見せずに冷静にアリーシャの言葉に答えた。

「なるべく長く引き止められる術を使いたい。どれくらい保たせられる?」

「…三十秒。間合いを取らずに渡り合えるのは、多分それが限界だ」

「上等。術が発動したらすぐに走るんだ。横をすり抜けて通路に出よう。スレイが近くに居るってことは、ザビーダも来ているはずだ。足場は良くないけど、少し持ち堪えればスレイ達を巻き込まずに向こうに渡れるかもしれない。どうせもう安全な隠れ場所なんて無いんだ。少しだけ粘ってみよう」

「わかった。私もその案に賛成だ。…私の背中、君に預けた」

「任されたよ。僕の命も君にかかってる。危なくなったらすぐ言ってくれ」

「了解した」

一つ頷いて、アリーシャはようやく背後に自分達を探し当てた憑魔と向かい合う。久々の獲物を前にしているという邪魔され続けている憑魔は猛烈に怒っているようで、絶えず威嚇音と怒りの咆哮を上げながら、尾や鋏を振り回してとにかく邪魔者を排除しようと躍起になっていた。

毒の棘の無い尾を払い、鋏を避ける。大きく払うと懐が空いてしまうから動きは最小限、かといって正面で受ければ潰されてしまうから体を捌きながらの受け流しを余儀無くされる。更に攻撃と攻撃の間隔が短いから、必然的に常に全力で動かなければ攻撃をいなせない。幸いなことに、穂先の不思議な水流は多少の衝撃を和らげてはくれたが、それとて圧倒的な質量が相手では、そう大きな慰めにはならない。保って三十秒という言葉は謙遜でも何でも無く、寧ろ多少の見栄すら含んでいた。

背後ではミクリオが天響術の詠唱を行う際の陣を敷いている気配がする。憑魔を見据えながら、精神を集中する見慣れた姿が脳裏に浮かんだ。

どうやら天族は元々身の内に持つ力―恐らくはアリーシャ達人間が闘気と呼ぶそれと同じ位置づけのもの―を集中させ、呪文によってイメージを喚起することで術を発動させるらしいことは、自分も使ってみてわかった。原理自体はアリーシャ達が「奥義」と呼ぶそれとかなり似ているが、人間と天族の最も異なる点は、恐らくは空気中、あるいは周囲を取り巻く自然が発する何かを取り込む能力が高いことだろう。持っている力それ自体大きいようにも思えるが、アリーシャが使った術は明らかに自分の力以外の何らかの力に後押しされて発動していた。状況から察するに、十中八九あれは水の気だ。

自分以外の力を取り込んで発動するから天響術の威力は高い。しかし自分以外の力を使うが故だろう、使うためには多大な集中力を必要とした。

「知に溺れし者よ…」

ミクリオの詠唱が始まる。この時点で既に憑魔を抑えるアリーシャの槍は震えていたが、今はその肢の一本でさえもミクリオに触れさせるわけにはいかない。集中力を切らせば詠唱は陣を展開させるところから始めなければならない。そうなれば絶対に術が完成するまで持ち堪えることはアリーシャには出来ない。

「くっ…ミク、リオ…!」

鋏をいなそうとした穂先が弾かれ、上半身が大きくぶれる。重心が傾いてしまっては次の動作に移れない。

もう無理だ。その意を込めて後ろを振り向いた瞬間、ミクリオの詠唱が完了した。

「在るべき姿に戻れ!マインドスレイヴ!!」

杖を振り上げたミクリオが高らかに叫ぶと、赤い光が弾けて憑魔を襲う。光と衝撃で一時的に相手を麻痺させる効果のある術で、ミクリオも最近使えるようになったばかりの術だった。それ故に詠唱には多少時間がかかるが、時間をかけるだけのことはある。例え僅かな時間でも、憑魔の動きを封じる瞬間はアリーシャ達にとって最大の好機だった。

「今だ!!」

ミクリオが叫ぶと同時に走り出し、アリーシャも間を置かずに彼を追う。地面にへたばった憑魔の横を走り抜け、崩落した壁を乗り越えて遺跡の出口のある方角へ全速力でひた走る。

スレイの領域に入っているということは、必ず近くにスレイがいる。自分達は途中の格子や奈落を自力で越えることは出来ないが、ザビーダが一緒ならば一瞬だ。ならばなるべく近くでスレイが来るまで粘れば、スレイを危険に晒すことなく憑魔から逃れることが出来る。

崩れた石材を蹴飛ばしながら、石畳の通路を駆ける。通路の幅は先程の部屋から伸びるそれよりは広いとは言っても三メートルに届かない。この通路の突き当たりは崩落し、どこに続いているとも知れない奈落がぽっかり口空けているのだ。

不意にちり、と頬の産毛が逆立つような妙な感覚を覚えて、アリーシャは速度を僅かに緩めて背後の様子を窺った。麻痺が解けたのだろう、憑魔が壁の穴から通路に出てくる姿が見えたが、僅かにタイムラグを稼げたおかげで尾も鋏もまだ届かない。その上まだ完全に麻痺が抜けたわけでもないのか、憑魔は通路に出た辺りで止まったまま、アリーシャ達を追ってくる様子も無い。

にも関わらず、何故か酷く胸が騒いだ。

距離を空けたくとも奈落は既に間近に迫っている。ここに留まって戦うしかない。アリーシャが腹を括って足を止めた時だった。

「アリーシャ!!」

突然ミクリオが立ち止まり、弾かれたように振り返る。その鬼気迫る表情を驚いて見返したアリーシャに、ミクリオの表情がますます険しくなる。

「伏せろ!!アリーシャ!!」

「え?」

駆け寄ってくるミクリオがアリーシャに向かって手を伸ばす。形振り構わない必死の形相に驚いたアリーシャは、咄嗟に反応できずに僅かの間棒立ちになった。

知っていた筈だった。その僅かな隙が、一瞬の空白が、あっさりと命を奪うのが戦場であることを。

凄まじい勢いと質量。次いで襲い来る浮遊感。

「アリーシャ!!!」

背後から襲ってきたそれの正体が水の塊であることにアリーシャが気付いた時には、アリーシャの身体は通路の縁から奈落へと投げ出されていた。不思議なことにそんな状況であるにも関わらず、アリーシャの服の裾を捕まえようとしたミクリオが、こちらを見下ろしている表情はよく見えた。秀麗な面差しを絶望の色に染めて、彼は縁から身を乗り出し、届かぬ指をアリーシャに向かって伸ばし続けていた。

―――ああ。

掴みたかった。彼がこの後どんな無力感に襲われるのか、アリーシャは良く知っていたから。

望み叶わず絶望するしかない境地にずっと立たされていたアリーシャは、その胸の痛みを嫌というほど良く知っている。

「すまない…」

届かぬと知りながらも手を伸ばす。生き抜きたいとのその思いを、せめて最期まで切らさぬこと。それが、今アリーシャに出来ること唯一のことだった。

 

 

***********************

 

 

転がるように階段を降り、降りた先で角を折れる。悲鳴のようなミクリオの声が聞こえたのはその時だった。

「アリーシャ!!!」

長年一緒に過ごした友人だ。その声を聞けば、起こった出来事が只事では無いのだと、そう理解するのに時間は要らなかった。

「ザビーダ、急いで!」

「人使い荒いねえ」

色の無い感覚野。視界よりも遥かに広い範囲を補足するそれは、通路が崩落して出来た奈落に落下するものがあることを教えてくれる。今のミクリオの悲鳴を考えれば、それがアリーシャであることは余りにも明白だった。

スレイは一旦空中を降り、降りた床を再び蹴って猛スピードで宙を駆ける。異変を察知したミクリオが顔を上げた気配がしたが、彼に言葉をかけている余裕は今は無い。ただ迫り来る憑魔に気付いたのだろう。ライラとエドナが素早く身体から離れてミクリオの元に向かう気配がした。

今まで経験したことの無い速度。轟々と音を立てて頭の中を流れいく景色。それだけで胃の中のものが全て引っくり返りそうだったが、歯を食い縛ってそれを堪えた。

余りにも早く空気が流れるものだから、まともに呼吸も出来ない。体中の酸素は容赦なく消費されていくというのに、補給することもままならない。酸素不足に脳が悲鳴を上げているのか、反転した風景がちかちかと星のように白く明滅し始める。

「と、どけぇえええええ!!!!」

一秒が一分に感じる間延びした感覚。今の今まで猛スピードで流れていた風景が唐突にゆっくり流れ出し、重力の中に無防備に投げ出されたアリーシャの姿がはっきりと見えた。視覚は使えないから彼女がどんな表情でいるのかはわからない。それでも、アリーシャの腕が何かに向かって伸ばされているのは確かに感じた。

「アリーシャ!!」

呼べば、アリーシャの腕は今度はスレイに向かって伸ばされる。槍を持たない左腕。右手は今も槍を握り締めたまま離さない。それはアリーシャが未だに生きて戦うことを諦めていない確かな証左であり、伸ばされた腕はスレイへの信頼の証だ。

「スレイ!」

声が近い。スレイは無我夢中で伸ばされた腕に手を伸ばし、危うく失われるところだった大切な人の名前を呼んだ。

「アリーシャ!!」

手の感触を感じると同時に風の力でアリーシャを捕らえる重力の腕を切り離し、身体ごと自分の傍に引き寄せて、その手を両手でしっかりと握り締める。鍛えられているというのに女性のしなやかさを失わない手が、応えるようにぎゅっとスレイの手を握り返した。

変化が起きたのはその瞬間だった。

「え?!な、何だ?!」

頭の中で何かがぱちんと弾けたようだった。アリーシャに触れた所から熱に似た何かが溢れ出し、体中を駆け巡って脳に届く、そんな感覚だった。

驚きに目を瞬かせると、同じように目をぱちぱちさせているアリーシャの顔が視界に映る。彼女の顔がいつもより白く見えるのは、アリーシャの手を掴んだ左手、導師の手袋の文様が白く光っているからだろう。そしてよくよく見れば、彼女の胸元も同じように白い燐光を帯びている。

そう、確かに今のスレイの目には、白い光に照らされるアリーシャの顔が見えている。

「…見え、る?」

泣きそうに表情を歪めるアリーシャの顔を見つめながら呟いた言葉に、アリーシャの翠の瞳が見開かれた。

「本当か?!」

「え?う、うん」

「本当に?!無理して言ってくれているわけではないのか?!」

「だ、大丈夫。本当に見えてるよ」

「そうか。…良かったぁ」

震える声でそう言って、アリーシャは目尻に涙を浮かべながら安堵の息をつく。その様子にスレイは思わず微笑んだ。

「ねえアリーシャ」

「何だ、スレイ」

心底安堵したのだろう。こんなに穏やかなアリーシャの声は久々に聞くような気がする。思い返せばスレイの片目が見えないと気付いた時から、何時だってアリーシャの声にはぴんと糸を張ったような緊張が見え隠れしていた。

一体どれだけ自分を責め、そしてどれだけスレイの身を案じてくれていたのか。戦闘中は常にスレイと敵の立ち居地に注意しながら、精一杯のフォローをしてくれた。戦っていない時もそれは同じで、彼女が自分の挙動に注意を払っていなかったことなど無かったように思う。

己のせいで従士反動を負ってしまったスレイへの責任感もあるだろう。しかし、それだけでも無いことは、アリーシャを見ていれば馬鹿でもわかる。

「人ってさ、不思議と自分よりも怖がったり焦ったりしてる人を見ると落ち着くんだよね」

「え?」

突然振られた前後関係の見えない話にアリーシャは不思議そうに首を傾げる。その様子にスレイはまた少し笑った。

「目が見えなくなってからアリーシャがオレ以上にうろたえてたから、逆に落ち着いちゃってさ。今もそう。何か突然見えるようになって意味わからないけど、アリーシャの顔が見れたしそれで良いかなって、そんな気分になってきた」

突然奪われ、そしてやはり唐突に戻った視界。今まで当たり前に出来ていたことが突然出来たり出来なくなったりすることに、困惑を覚えないわけでは勿論無い。しかし、それを我が事のように嘆いたり喜んだり、黙って傍で支えてくれたり。そんな人がいるだけでこんなにも心が軽くなる。普段何気なく享受してきたそれがどれだけ得難いもので、自分はどれだけ恵まれた人間なのか。それに気付かせてくれた従士反動には感謝したいくらいだ。

自分でも余りにも暢気な言い草だとはわかっている。何せそのせいで死に掛けたことすらあるのだし、アリーシャが一度スレイと別れる決意をしたのだって従士反動があったからこそだ。そのせいもあってか従士反動についてはスレイ以上に胸を痛め、思い悩んでいたアリーシャは、その暢気さが信じられないのだろう。形の良い眉が吊り上がり、能天気なスレイに不満を示した。

「なっ?!わ、笑い事じゃないんだぞ?!わかっているのか、君は!!」

「わかってるよ。でも今はそれどころじゃないし。後で原因はゆっくり調べればいいかなって。アリーシャとミクリオに言いたいことは山ほどあるけど、今はこれだけ。…オレのために必死になってくれてありがとう、アリーシャ」

勿論、勝手に出て行って危険に飛び込んだことは許していない。スレイに黙って勝手について行ったミクリオも含めて、後で言ってやらなければいけないことはたくさんあるが、当面それは後回しだ。

今はただ、自分がどれだけ彼女達に色々なものを貰って、どれだけそれに支えられているのか、少しでも伝えられればそれで良かった。

「スレイ…。私は…」

「今は後。ミクリオ達を助けに行かなきゃ」

「そうだ!変異憑魔は?!」

「大丈夫。ライラ達が行ってるよ」

アリーシャの言葉を遮って、スレイは視線で上を指した。遠くなった通路の縁。その石材が崩れ落ちた場所から、光と共に遠く爆音や火炎のものと思しき閃光が漏れ出している。ライラの天響術の光だ。

アリーシャにもミクリオにもそれぞれ言い分はある。それはわかっているし、聞くつもりもある。しかしそれは全て後のこと。

あの化け物を何とか撒き、全員揃って遺跡から出た後で十分だ。

 

 

「とりあえず前言は撤回するぜ、色男さんよ」

「何?突然」

宙を駆けながら突然頭の中で響いた声に、スレイは困惑しながら返答する。

今の今まで空気を読んで黙っていてくれたのだろうから、その心遣いには感謝したいが、突然喋っていつのことかもわからない前言がどうのと言われても、困惑する以外にやりようが無い。

「凱旋草海で情けねえ導師様って言っただろ?あれ、取り消すわ。ひょろひょろのお坊ちゃんかと思ったら、なかなか面白いじゃねえの、お前」

「はあ。ありがとう、って言うべきなのかな?これ」

「知らねえよ。オレ様に褒められることが自分に取って価値があると思うんだったら言ったら良いさ。どっちにしろ、男からの礼なんてビタ一文の価値も無いしな」

「そ、そう…。じゃあ一応…ありがとう?」

「結局言うのかよ」

クツクツと喉の奥で笑う男の声は、成るほど確かに楽しそうではあった。

出会った時からザビーダは理解し難い男だった。

穢れてしまった命を救うには殺すしかないという彼の持論は到底スレイには許容し難いものだったし、初対面で襲い掛かられた時には困惑もした。その癖エドナのように人間嫌いを公言することは無く、寧ろ好んでいるような言動もしばしば――主に女性に関することで――見られた。導師に対して無意味だとか無駄だとか、偽善だとか、その手の罵詈雑言は頻繁に吐いていたから、導師が嫌いのなのかとも思ったが、それにしては今の発言は妙だ。否、そもそも導師の従士であるアリーシャと、親友であり陪神であるミクリオのために手を貸してくれる辺り、芯から導師が嫌いなわけではないのかもしれないとも思う。とにかく考えが読めない男なのだ。

「見えた!」

抱えたままのアリーシャが、上を指して声を上げる。

彼女の指した先には、通路の崩落した裂け目がある。上を見上げるスレイ達の視界には、その裂け目から紅い炎の欠片が飛び散るのがはっきりと見えた。

「ライラ!!」

とにかく、考えるのは後だ。

スレイは宙を駆ける足に力を込めて、残りの距離を一気に駆け上がりながら己の主神の名前を呼んだ。スレイの仲間に炎を操る術を使うのは彼女だけだ。

裂け目の縁から飛び上がり、再び詠唱を始めた彼女の後ろに着地する。着地すると同時に抱えていたアリーシャが飛び降り、次いでザビーダが神依を解いた。

「もう目は見えるんだから良いだろう。この後はオレ様の好きにやらせてもらう」

「うん。ありがとう、ザビーダ。助かった」

感謝の意を込めて頷くと、何故か彼はバツが悪そうに目を逸らす。もっと恩着せがましいことを言い出すかと思っていたら、案外正面きってこられると強くは出られない性質であるらしい。外見はこれだけ野性味に溢れているくせに、はやり一筋縄では読めない男だ。

「アリーシャ!無事で良かった」

「ミクリオ!!大丈夫か?!」

前線で戦っていたミクリオに駆け寄って、アリーシャが敵の鋏を槍で払う。アリーシャの無事な姿に思わず声を上げたミクリオと、彼を案じるアリーシャのやり取りは、遺跡に来る以前よりも遥かに砕けた印象だった。

どんなに時が経とうが、アリーシャの言葉や仕草から天族への敬意が抜けることはなかった。それをミクリオ達がもどかしく思っているのも知ってはいたが、普通の暮らしをしてきた人間にとって天族は信仰の対象である。長年の習慣はそう簡単に抜けるものでは無い。事実、もっと肩の力を抜くようにライラが言ったこともあったが、彼女は恐縮するばかりでいっかな事態は改善しなかった。これ以上言ってもアリーシャが気負うだけ、どうにかなるものではあるまいと諦めていたのだ。

その壁を、越えたのか。この短時間で。

驚くスレイの耳に、ライラの凛とした詠唱の声が響く。

「我が火は灼火、フォトンブレイズ!!」

踊る真紅の炎、轟く爆音に鼓膜が震える。心なしかいつもより爆発に勢いがある気がしてライラの様子を窺うと、憑魔が怯んだ隙に一斉に打ちかかろうとする前衛の方を――否、正しくはアリーシャを、怖い程真剣な眼差しで見つめている。

「ライラ?」

「…スレイさん。目はもう見えているんですね?」

「え、ああ、うん。見えてるよ。それより今は早く逃げないと…」

「従士反動が消えた…。ならばきっと大丈夫です。…スレイさん、私と神依を」

「え?」

突然の提案に、内心でスレイは首を傾げる。

ライラの神依は小回りが利かない。一刻も早く憑魔の追跡を振り切らねばならない今の状況には明らかに不向きなはずで、それはライラ自身も重々承知しているはずだった。狭い遺跡の内部、自身の置かれた環境を理解出来ないライラではないし、そもそも彼女がスレイの言葉を遮って己の意見を通そうとすること自体が珍しい。

―――何かある。

問うように視線を向ければ、ライラは彼女にしては珍しい不敵な笑みを閃かせる。

「浄化の炎。穢れすらも焼き尽くすその炎の真髄を、今こそお目にかけて見せますわ」

「でも、変異憑魔は浄化出来ないって前に…」

「今ならばきっと浄化が敵います。今のアリーシャさんならば、必ず」

確信を秘めた強い言葉。碧の瞳は未だアリーシャを捉えて離さない。

彼女の目線を追うようにスレイもまた前線を支える彼らに視線を向ける。何かを見届けるように一歩下がったところから戦況を眺めていたザビーダもまた、つぶさに彼らの動きを見つめていた。

エドナが間合いを取った瞬間を狙って、先端を失った尾がアリーシャを襲う。その動きを見越していた彼女が槍でそれを受け止めると、まるでそれを待っていたかのように、右の鋏がアリーシャの槍に向かって振り下ろされる。気付いたエドナが傘を向けるが、その動きはもう一方の鋏に阻まれてしまった。

敵の狙いは明らかだ。

「武器を…!!」

折る気か。

槍が無ければアリーシャは戦えない。

気付いたスレイが声を上げるよりも早く。

「マオクス=アメッカ!!」

「ユズローシヴ=レレイ!!」

響く二人の声と、弾ける青い光。青い光はアリーシャの槍を覆うように集まると、流れる清水に変じる。水は集まって盾を形成し、真ん中からアリーシャの槍を折るはずだった憑魔の鋏の衝撃を見事に吸収してみせた。

「なっ?!」

「お見事ですわ、お二人とも」

驚きに言葉を失うスレイを他所に、ライラは言って満足げに頷く。共に前線で戦うエドナも明らかに驚愕した様子を見せてはいたが、戦闘の第一線を支える彼女に阿呆面を晒している暇など無い。結果、状況に置いていかれてあたふたしているのはスレイ一人という、何とも情けない図式になる。

「さあ、スレイさん。私達もお二人に加勢しましょう」

説明は後でいたします、と言われれば、頷く以外の選択肢など無い。

どこか弾んだ様子すらあるライラの言葉に、スレイは半ばヤケクソで彼女の真の名を叫んだ。

 

 

セルケト、その憑魔がそういう種であるということはライラに聞いた。蠍という生き物の形をした憑魔で、速度と耐久力に優れ、その甲羅は天響術ですらも簡単には通さない。四属性の中で耐久を持たないのは火が唯一であり、尾には強い毒を持つ。

そんなことをいつも通り教えてくれたライラの声は、先程までとは打って変わってどこか沈んだ色を帯びていた。神依している最中は、普段よりも相手の心の動きがよくわかる。セルケトについて語る時、確かに彼女の心は揺れていた。

「ねえ、ライラ」

「…何でしょう?」

スレイの呼びかけに応える声は硬い。何を聞かれるのか警戒しているような響きがあって、ライラを悩ませる何かが彼女の誓約に触れているのだと悟らせる。

「今で無くても良いからさ。もしも話せる時が来たらさ、そんでもってオレに話して楽になれることがあったら話してよ。オレ、ライラには聞いてもらってばっかりだから。ライラが良ければ、オレにもちょっとで良いから背負わせて欲しいんだ。ライラの抱えてるものを」

「スレイさん…」

たった一言、スレイの名を呼ぶ彼女の声には、言葉に出来ない様々な感情が内包されていた。

誰よりも導師について識っている彼女は、しかしそれを口に出す事は出来ない。どういう経緯でライラが沈黙の対価を浄化の力を得る代償として差し出すことを選んだのかスレイは知らないが、それでもそれがどれだけ重荷であるのか、今のライラを見ていればわかる。

どこまでならば誓約に障らないのか、スレイにはわからない。でも、せめて忘れないでいて欲しかった。ここに、彼女の重荷を分けて背負うつもりでいる酔狂な人間が一人、確かに居るのだということを。

頭の中でライラが逡巡する気配がする。それはほんの数秒の間だったが、その葛藤は確かに彼女の苦悩の深さを物語っていた。

「…今はセルケトを倒すことが先決ですわ。スレイさん、構えてください」

スレイの誘いを振り切るような、迷いの無い声。それが今のライラの答えなのだろうと思うとほんの少し寂しかったが、ここで駄々をこねても仕方が無い。

ライラの神器である炎の聖剣。レディレイクの歴史に何やら深い関係を持つらしいそれは、立派な見た目相応に重い。ライラと神依して力を合わせていなければ、到底振り回すことなど出来ないだろう。それだけに当たれば巨大な憑魔でさえも両断出来る切れ味を誇る。炎を纏った分厚く重い刃は、確実に穢れを断ち切る力を持っていた。

ライラに言葉に従って剣を構えたスレイは、そこで不意に違和感を覚える。

「…軽い?」

神依していてさえ重いその剣が、何故か急に軽く感じた。ものは試しとばかりに頭上に振り上げてみれば、呆気ないほどあっさりと持ち上がる。いつもならば切っ先を下げるように腰で溜め、膝と腰の動きで振らなければまともに振るえないのに、両の手の力だけで容易く上段に構えることが出来た。

「行きます!」

質問している暇など無い。ライラの声を聞くと同時に、スレイは走り出していた。

前衛でセルケトを食い止める三人は、先程のミクリオとアリーシャの協力以降、明らかに優勢に回っていたが、それでもセルケトは水に耐性がある。徐々に後退はさせているものの、決定打には至らない。彼らは奥へ奥へとセルケトの巨体を押しやりながら、安全に離脱するタイミングを計っているように見えた。

その三人を押し退けるように躍り出たスレイは、勢いのまま上に跳び、その長大な刃を振り上げる。

「スレイ?!」

「ちょっと、あんたまでこっちに来たらやり難いでしょ!!」

スレイを呼ぶアリーシャとミクリオの声が綺麗に揃う。二人の前で傘をかざし、セルケトの尾をいなしながら非難の声を上げたのはエドナだ。

彼らの驚きは当然だ。敵を何とか怯ませ、その隙に離脱する。それが当面の目標だったはずなのに、小回りの効かない火の神依でスレイが突っ込んできたのだから。

「皆は下がって!!オレ達がやる!」

言いながら刃を振り下ろす。セルケトが警戒して後退したから直撃はしなかったものの、硬い甲羅に亀裂が入ったのが見える。スレイは振り下ろした剣を再び構え直して、床を蹴り、踏み込みで間合いを詰めながら、警戒音を立てる口元に真っ直ぐ剣を突き込んだ。

―――やはり軽い。

軽いだけではない。切れ味も明らかに増していた。間近に迫ってきた敵を叩き潰そうと振り上げた鋏、人の頭を越える大きさのそれが、突き込んだ剣を返す動作で切断され、石畳に落ちる。その余りの呆気なさに、アリーシャが小さく声を上げた。

怯んだように後退したセルケトの懐に更に踏み込み、スレイは頭の中に流れてくるライラの声に己の声を揃えた。

「原始、灼熱…」

かつて無い程に炎の力が身の内で渦を巻いていた。剣を振り上げながら唱えると、それはまるで出口を探していたかのようにスレイの両の手に流れ込み、刃に奔って顕現する。

「エンシェントノヴァ!!」

声に誘われるように中空に躍り出た炎は、そのままスレイが振りぬいた刃からセルケトの身体に侵食し、数瞬の後に弾けて大爆発を呼んだ。今まで使ったどの術よりも威力のある術は、今までの苦戦が嘘のようにセルケトの硬い殻を弾けさせ、その巨体を焼き尽くす。断末魔の悲鳴ですら炎に飲まれたかのように余韻を残さず消え去って、炎が収まった後には、セルケトの痕跡は肢の一本すら残されていなかった。

「終わった…のか…?」

呆然として呟くアリーシャに応えるかのように、ライラがスレイの身体から離れる。彼女はその場を確認するように二、三度周囲を見回してから、確信を得た様子で頷いた。

「もうこの場所に穢れは残っていません。…浄化成功です。変異憑魔はもういませんわ」

「しかし…変異憑魔の浄化は不可能なんじゃなかったのか?何で今になって突然…?」

「まあまあ。とりあえずこんな湿っぽいところは出て、お日様に当たろうじゃねえの。いい加減、こっちまでかび臭くなっちまう」

今の今まで傍観していたザビーダは、ミクリオの言葉を遮るようにそう言って意味有り気な視線をライラに投げる。

「ま、外に出たらお前等の主神様が、色々教えてくれるだろうさ。誓約に引っかからなきゃ、の話だけどな」

まるで見下すような言い方だったが、ライラは俯き加減の暗い表情のまま何も言わない。そんな彼女にミクリオとアリーシャが物言いたげに視線を向け、エドナは何かを了解しているかのような様子で嘆息したが、彼らに対してライラは何の反応も示さなかった。

「確かに、ここに居ても始まりません。外に出ましょう。…ザビーダさん」

「へいへい」

「アリーシャさんを先に」

何も無かったかのようにそう言って、ライラはてきぱきとその場を離れる段取りを組み始める。意味深な態度を取っていた割にはザビーダは彼女の言葉に素直に従って、アリーシャの手を取って奈落を越え、すぐに取って返してスレイ達の元へ戻ってくる。

「ほれ」

男の手なんて握りたくない。

態度でそう言うザビーダに苦笑しながらその手を取って、スレイは何となく背後を振り返った。

自分の中にライラがいないことそれ自体に違和感を持ったわけでは無かった。ある程度の距離が開いていても、契約を交わした天族は導師の存在を察知して戻ってくることが出来るし、実際道中ライラやエドナがふらふらとその辺りを見て歩いていることは良くある。ただ、他の二人がスレイの中に居る時に一人だけ外に出ているのは珍しい。それで気になったのかもしれなかったし、直前のライラ本人や周りの反応が気になったからかもしれなかったが、振り返った理由となると「何となく」としかやはり答えようがない。明確にライラを探そうと思って振り返ったわけではなかったのだ。

だからスレイは、意図せず見てしまった光景に思わず息を呑んだ。

ライラは跪き、何かに祈るように頭を垂れていた。真紅のスカート、そしてその上に広がる銀糸の髪が土埃にまみれるのにも構わずに。

「…行くぞ」

ぽかんとライラを見守るスレイの手を取って、ザビーダが言葉短かにそう告げる。馬鹿のようにただ頷いて、スレイは一足早くザビーダとその場を後にした。

程なくしてライラは追いついてきたが、スレイの脳裏には一心不乱に祈るライラの姿が焼き付いて離れなかった。

頭を垂れ、両の手を組んで祈るその姿は、まるで誰かの許しを乞うているかのようだった。

 

 

外に出ると既に夕刻を過ぎて、辺りには夜の気配が忍び寄っていた。

薄闇の中、各々草むらにへたりこんだ一行は、黴臭くない空気を胸一杯に吸い込んで、掴み取った生を謳歌する。

何の澱みも無い清浄な空気を久々に味わう時間は酷く愛しかったが、スレイはいち早くそれに見切りをつけて立ち上がり、仲良く並んで座り込んでいたアリーシャとミクリオに歩み寄って短く告げた。

「二人とも、正座」

「スレイ…?」

「いいから、正座」

我ながら、これほど凪いだ声は聞いたことがない。ミクリオも同様だったのだろう、顔色を変えて即座にスレイの言に従い、事態を把握出来ていないアリーシャだけが首を傾げながらも、とりあえず槍を置いてミクリオの隣に並んで座った。

「まず二人とも。オレに言うことあるよね?」

にこりと笑ってそう言うと、ミクリオの顔がますます白くなる。ここに来てアリーシャも異常に気付いたらしい。酷く硬い表情で口を開いた。

「わ、私の勝手で君に迷惑をかけてしまった。すまない」

至極真面目な表情でそう告げる彼女に、スレイはぎゅっと唇を噛んだ。

「…いつ、オレが迷惑だって言った?」

「え…?」

「迷惑だなんてオレ、一言も言った覚え無いけど。従士反動だって最初からそうなるってわかってて、その上でオレはアリーシャを迎えに行った。迷惑だなんて思うなら、一緒に来いなんて言わない」

「それは…」

「オレの言葉は信じられなかった?目のことだって、あんまり心配はしてないってオレ言ったよね?」

酷い言い方をしている自覚はあった。どんどん肩を縮めて萎れていくアリーシャの姿には心痛まないでは無かったが、それでも言わずにはおれなかった。

「スレイ!アリーシャは君の事を思えばこそ…」

「ミクリオだって一緒だよ!今回はたまたま助かったから良かったけど、そうじゃなかったら今頃二人とも…!!」

―――死んでいたかもしれない。

続けようとした言葉に耐えられず、言葉を止める。異変を察知したアリーシャが、恐る恐るといった風にスレイを見上げてくる、その顔を見てしまったらもう駄目だった。

「頼むから…あんまり心配させないでよ」

毅然とした態度で臨むつもりだったのに、結局最後に口から出るのはそんな情け無い嘆願で。

ミクリオとアリーシャ、正座して並んだ二人の肩に額を当てるようにへたりこんで、スレイは深く深く息を吐き出した。じわりと感じる二人の体温に涙が出そうだ。

「…二人を助けるんだって、形振り構わず突っ走ってたのよ、スレイ」

「そりゃもうすげえ形相だったぜ?」

援護射撃のつもりだろうが、二人の言葉はスレイの格好悪さを上塗りする効果しか無いが、今は文句を言う気力も無い。ただただ二人が無事で今目の前に居てくれることが有難かった。特にアリーシャは、あと数瞬遅れていたら命は無かったかもしれないのだ。

ひやりと項をくすぐる様な恐怖に肩が震える。その肩を、宥めるように誰かの手が叩く。

右と左。別々の方向から伸びる、硬さも大きさも違う二人分の掌。

「スレイ」

優しく低い声音は、昔から泣いているスレイを宥めるときのそれ。

「スレイ」

柔らかで真摯な声は、初めて会ったあの日、スレイを「気持ちの良い人だ」と褒めてくれたあの日のまま。

―――彼らは変わらずここに在る。

顔を上げたスレイを覗き込むような二人の顔は、どこか申し訳なさそうにも、そのくせ嬉しくて堪らないようにも見えた。

彼らは目線で頷きあい、息を吸って一拍。

「心配かけてごめんなさい!!」

二つの声が綺麗に揃う。

正座したまま下げられた頭。それはこの短い旅路の間に彼等が得た何かの証明のようにも思えた。

いつの間にか使われなくなった敬語、消えた敬称、縮まった距離。それらを見れば、この旅が決して無駄なものでは無かったことだけはわかる。スレイだって、彼等が黙っていなくなったからこそ、確認出来たことがある。

―――しかし、二度は御免だ。

「…今回は許すけど、次からはオレも一緒に行くから。絶対に」

「ああ。大丈夫」

「二度と君を置いて行くものか。約束しよう」

「勿論、私達もお供しますわ」

「私を除け者にするつもり?」

スレイの言葉にミクリオとアリーシャが頷けば、便乗するようにライラとエドナも割り込んでくる。終いには物珍しげなザビーダが「若者は良いねえ。おっと若くない奴もいるな」などと茶化しては、エドナとライラに総攻撃を浴びる羽目になり、スレイとアリーシャとミクリオはまるで子供のような彼等のやり取りに、顔を見合わせて笑い合った。

夜の静寂を破って馬の蹄の音が聞こえたのは、丁度その頃だった。

「おーい!皆生きてるー?」

「ロゼだ!!」

地平線の仄かな赤みすら消えかけた時刻、黒いシルエットは徐々に近づいて馬に乗った人の姿だと判別できるまでになった。

後から行く、という言葉通り、彼女は帰りのスレイ達の足を確保するために馬を連れて追いついて来てくれたのだ。

「ロゼ!!ここだよ!!」

言いながらスレイは立ちあがり、ぶんぶんと思い切り良く手を振った。

帰れるのだ。皆揃って。

その実感に、ロゼに向かって振る手にも力が篭る。

―――何があっても、自分は彼等と共に行く。

その決意を胸に抱きながら、スレイは徐々に近づいてくる赤い髪に向かって、力強く手を振り続けた。



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次の一歩を今ここから 終

 

 

次の一歩を今ここから 完

 

 

 

 

 

遺跡から脱出し、無事に従者の試練を乗り越えたスレイ達は、迎えにやってきたロゼと共にペンドラゴの程近くで野宿することにした。

ローランスの首都、皇都ペンドラゴまでは目と鼻の先だが、枢機卿の存在を考えると宿を取るのは危険過ぎる、満場一致でそう結論が出た。彼女はスレイが導師であることを知っている。敵わないとわかっている敵の膝元に赴くのは余りに危険だし、何よりもペンドラゴは夜間は門が閉まってしまう。袋の鼠になれば如何にミクリオが霊霧の衣を使おうと、脱出する前に力尽きてしまうだろう。アリーシャが預けた馬は明日になってからロゼが自分で引き取りに行くと申し出てくれた。

軽く整地をして焚き火を起こし、その辺りの野草や携帯食を駆使して食事を作る。日が暮れきってしまえば手元が見えない。大急ぎで進めた作業は何とか間に合って、最後の夕陽の欠片が消え去る頃には、食事の器を片手に全員で焚き火を囲むことが出来た。

その食事の席でようやくスレイとアリーシャは此度の試練で起きた一連の出来事、酷く不可解な部分が多く残る様々な事象について、ライラに尋ねる時間を得たのだった。

質問を受けたライラは、暫く逡巡するように言葉を止めた。彼女は大きな緑の瞳を彷徨わせると、覚悟を決めたように小さく一つ頷いて、ゆっくりと話し始めた。

「まずは試練修了、おめでとうございます。アリーシャさん」

ライラの説明は、この言葉から始まった。

通常であればこの試練は従士と導師が共に臨むものであること。変異憑魔の存在は完全なるイレギュラーであり、加えて従士と陪神だけで試練に臨むことは過去に例の無いことであったこと。不確定要素が数多く存在した今回の試練、それを成し遂げたアリーシャは、従士として非常に秀でていると言えること。

何時になく饒舌にそこまで語ったライラは、そこでアリーシャに胸元に仕舞っているものを出してみるように促した。戸惑いながらもその言葉に従ったアリーシャは、鎧の下、服の合わせ目に忍ばせてあった短剣を手探りで取り出し、ライラに差し出す。

「これが、何か…?」

その短剣にスレイは見覚えがあった。アリーシャとスレイが始めて出会ったあの日に、イズチに程近い遺跡でアリーシャが落としていったものだった。

「それ…あの日の…?」

確認するスレイにアリーシャが頷く。

「ああ。スレイ達が届けてくれた、我が家に伝わる家宝の短剣だ。もっとも、スレイの剣と同じく儀礼用だから、武器としては役に立たないけれど」

「失礼しますね」

断わってからライラはアリーシャの短剣を取り上げ、焚き火の炎にかざしながら隅々まで検分し、やがて得心したように頷いた。

「やはり…。これがアリーシャさんの『従士の神器』ですわ」

「従士の神器?従士にも神器があるの?」

「従士の…というと少し語弊があります。元々神器には二つ種類があるのです。一つは私達天族と導師が神依をした際、天族の力を現実で振るうための媒介となるもの、つまり天族のためのもの。もう一つは人間のためのものですわ。私達の武器は前者。そしてスレイさんの手袋や、アリーシャさんの短剣が後者です」

「ってことはあたしにもあるわけ?」

はいはーい、と片手を上げながら訊いたのはロゼだ。彼女とて決して無関係では無いから質問自体は真っ当なのだが、如何せん口に干し肉を銜えたままなのでどうにも緊張感は欠いていた。

「ええ。私が契約しているわけでは無いのではっきりとはわかりかねますが…。恐らくはその髪飾りかと…」

そうなの?とロゼが傍らのデゼルを見やると、彼は鬱陶しそうにしながらも頷いた。

ふんふん、とロゼは実に軽い調子で頷くが、スレイには到底彼女の真似は出来そうにも無い。すっかり食べる気を失くした食事を地面に置いて、スレイは己の右手に目を落とす。

天族と神依するためには、力を振るうための媒介が必要。その説明は以前ミクリオと仲違いした際にライラから聞いた。だからスレイは神器とは天族と神依した時の武器のことだと了解していたのだが、どうも今のライラの口ぶりだとそれだけでは無いらしい。

「オレの手袋が…神器?人間用の…?」

金色で形作られたその紋様は、焚き火の炎を弾いてまるで不思議な光を放っているかのようにも見えたが、実際には光ってなどいない。何の変哲も無いただの手袋である。

呆然とするスレイを前に、ライラもどこか戸惑ったようにスレイの手袋に視線を投げながら頷いた。

「間違いありませんわ。スレイさんがいくら私達と感応する能力が高いとはいえ、何の媒介も無しにいきなり神依するのは不可能です。人間の神器は私達天族と人間の間にある力の繋がり…私達は縁えんと呼んでいるんですが、それを構築するためのものなんです。見る、聞くだけの状態から、神依が可能になるように。…私と出会う前から着けていらっしゃったので、てっきり知ってらっしゃるものと思っていましたわ」

「まさか。スレイのそれはアリーシャと出会ったその日に、たまたま遺跡で見つけたんだ。導師の紋が入っているからただの装備品じゃないとは思ってたけど、まさかそんな特別なものだったなんて」

ミクリオの言葉に、スレイはあの日の記憶を呼び起こす。

長年の探索を経てようやく辿り着いた遺跡の深部。天遺見聞録の記述に憧れて、幼い頃から追い続けていた導師の痕跡、その一端に触れたのだと思うとどうしようもなく嬉しかった。

――― 一体いつから運命の歯車は回り始めていたのだろう。

あと一日、壁画を見つけるのが遅ければ。或いはアリーシャが来るのが一日早ければ。少しでもタイミングがずれていたならば、スレイが神器を得ることはなかった。聖剣祭でライラが目覚めることも無く、スレイは導師の資格を得ないままにただ見聞を広げるためだけの旅をして、その旅路のどこかで人としての生を終えただろう。

アリーシャを助ける力も持たず、ただ己の無力を噛み締めたまま、一人で足掻く彼女にに背を向けて。

それを思うと天に感謝したい気分にもなるが、同時にそら恐ろしくもなる。

一体いつから、自分の運命は決まっていたのだろう。それが何か知らないままに神器を手にし、その責任の重さを知らないままに聖剣を抜いた。きっと知っていたとて同じ道を選んだだろうとも思う反面、知っていたならばあそこまで思い切り良く決められただろうかと疑問に思う自分もいる。

そう、決めたのは自分。誰に強制されたわけでもなく、それはスレイの意思だった。

疑いようもない。そうわかっているのに怖くなる。

「…スレイ?」

「どうかしたのか?」

左手でぎゅっと手袋をはめた右手を握りしめる。関節が浮くほど力の籠ったその手に気づいたアリーシャとミクリオが怪訝そうに声をかけてきたが、彼らに己の胸の内を伝えるには、スレイの抱いた不安は漠然とした形の無いものでありすぎた。

「…大丈夫、何でもないよ」

大丈夫だ。不安なことなど何もない。自分にはミクリオもいればアリーシャもいる。頼もしい仲間達がいる。導師の旅路がどんなに困難であるとしても、きっと乗り越えられる。

不安に揺れる心を仲間に見せてはならない。ただ仲間に力を借りることしか出来ない自分は、その意思で以てのみ彼らに応えられるのだから。

怪訝そうな顔をする二人に笑顔を向けて、スレイは己の心に浮かんだ暗い予感を、再び心の奥底に押し込んだ。

 

 

「それでは、肝心の試練で得た力のことですが…。まず了解しておいて頂きたいのは、何故導師に従士が必要なのか、ということです」

再び話を切り出したライラは、アリーシャに短剣を返しながらそう言った。

「何故って…?」

「導師は天族の力を振るう者。戦場でもご覧になった通り、その力は絶大です。普通の人間の助力は、通常であれば必要ありませんわ」

「それはそうかもしれないが。でも、僕等に出来ないことだって色々あるだろう?現にスレイが倒れた時だって、僕等じゃ助けも呼びに行けなかった」

「それは勿論ですわ。日常生活においての助力、精神面においての支え。そういう意味でも従士の意義は大きい。でも、今私が言っているのは、飽くまで導師の役目を果たすために必要な、端的に言えば穢れを祓うために必要な力についてです」

「穢れを祓うために…?」

「ええ」

呆然と呟いたアリーシャの言葉にライラは頷く。

浄化の力は天族だけのもの。それも、力ある上位天族が更に誓約を立てて己の力を増幅した場合にのみ得られるものだ。少なくともアリーシャもスレイもそのように了解していて、だから従士が浄化の助けになるとは思ってもいなかった。単純に戦闘での助力と捉えるならば、アリーシャは最初から決して無力では無かった。彼女が努力で以て研鑽し続けた武術の腕は、確かにスレイを助けてくれた。

しかし、ライラが言っているのは、恐らくそういう意味では無い。

「僕にはわかない」

「私も、さっぱりだ。ミクリオの力を借りて何とか穢れを祓う力を得ることは出来たが、とてもスレイと肩を並べられるものでは無いし。足を引っ張らなくなった、という印象しか無い」

首を振ったミクリオの隣で、そう言いながらアリーシャが表情を曇らせる。浄化という導師に最も重要な役目に手を貸せるようになったは良いが、アリーシャのそれはまだまだ効力が限定的なのは事実。彼女がそれを歯痒く思う気持ちはわからなくはないが、そもそもスレイの反動が無くなったことが既に大進歩なのだ。焦る必要は無い筈だった。

「アリ…」

「いちいち卑屈ね。そういうの、気分悪いからやめてくれない?ワタシ達は変異憑魔に勝った。その事実があれば十分でしょ」

そんなことは無いのだと、そう言おうとしたスレイの言葉は、エドナの棘のある声にあっさりと潰される。手厳しい物言いいきり立ったのはミクリオだ。

「エドナ!!」

「本当のことでしょ?一朝一夕で全て身に着いたら苦労はしないわ。出来ないことばっかりあげつらって、暗い顔されても迷惑よ」

「しかし、そんな言い方は無いだろう!」

「何?ミボの癖にワタシに意見するわけ?大体、誰かさんが絶対に連れて帰って来る、とか息巻いてたのに全然帰ってこないから、病み上がりのスレイまで担ぎ出す羽目になったのよ。寧ろあんたが反省しなさい」

「ぐっ!!」

「ま、まあまあ。ミクリオがアリーシャと一緒に居てくれたおかげで、今回の試練も無事に乗り越えられた面もあったんだし…。そうだよね?ライラ」

エドナの舌鋒に叩き伏せられたミクリオは言葉も出ない。スレイだってミクリオ達が勝手に試練に臨んだこと自体には一言も二言もあるのだが、こうなってしまえばフォローに回らざるを得なかった。何とか話題を元に戻したくてライラに話を振れば、察したのだろうライラが苦笑しながら話を継いでくれる。

「ええ、そうですわ。アリーシャさんが従士の試練を乗り越えることが出来たのは、まさしくミクリオさんのお陰です。何故なら従士の試練で従士に求められるのは、従士が真に天族の存在を受け入れられるようにすること、その一点に尽きるのですから」

「天族の存在を…?しかしザビーダ様が仰るには私はもう天族の存在を知っているから、特に見るのに能力は必要無いのだと…」

言いながらアリーシャは困惑したように、隅で遺跡の遺構に背中を預けているザビーダに視線を投げる。彼は黙ったまま一瞬アリーシャの方を見たものの、興味無さげにまた明後日の方角を向いてしまった。聞いている様子はあるものの、どうやら彼はこの話題に関しては口を挟む気は無いらしい。関係無い雑談の時は嘴を突っ込んでくるくせに、つくづく何を考えているかわからない男だ。

そのザビーダにほんの少し咎めるような視線を投げて、ライラはすぐに話を戻す。ライラは出会ってからこっち、ずっとザビーダに対して警戒心を持ち続けている。試練を終えた今もそれは変わりないところを見ると、どうやらライラとザビーダの過去には、スレイに言えない何らかの確執があるのは確実なようだった。

「ザビーダさんが嘘をついていた訳ではありません。そもそも、天族の存在を真に受け入れていない人間が私達の存在を知っている、この状況こそが既に異常なのです。私達は神ではありません。勿論、「加護」は人間が天族を信仰することで成り立っているシステムではありますが、それは導師が現れるまでの一時的な代替手段に過ぎません。穢れを寄せ付けないようには出来ますが、憑魔化してしまった者を元に戻す浄化は出来ない。不完全な物です。私達の力を完全に引き出すには、私達のことを神として崇めるのではなく、同じ大地に立つ友として受け入れる人間――即ち導師が必要なのですわ。そして、従士はその導師の契約によって、天族の姿を視認出来るようになるわけですが…本来私達の存在を正しく認識していない人間ならば、そもそも私達天族を視認することは出来ません。その齟齬を埋めているのは従士の契約の力――つまりは導師の力なのですわ」

「成程ね。本来見えない人間を無理やり見えるようにしてるから、それに力を裂かなくちゃいけない導師に反動が出るってことね」

「その通りですわ。しかし、正しい認識は別に後追いでも良いのです。肉体を持たない我々を、自分と同じ世界に立つ者として認識出来れば、従士も導師と同じく自力で天族を見る力を得ることになります。そうすれば導師反動は無くなり、更に従士は今まで機能していなかった契約の真の力を行使出来る…」

「契約の…力…?」

アリーシャの言葉にライラは頷く。

「ええ。導師が導師たるためには、主神足り得る力を持った天族との契約が必要です。導師と主神の間には契約による縁が結ばれ、更に主神と契約で繋がった陪神の力をも行使出来る。つまり、言い方を変えればミクリオさん達陪神は、私を中継点としてスレイさんに力を提供しているのです。縁で繋がっているのは私とスレイさん、そして私と陪神の間のみで、陪神と導師は直接契約を結んでいるわけではないのですわ。…これがどういう結果を招くか、お分かりになりますか?」

ライラの言葉にスレイは素直に首を振る。

「考えたことも無かったよ。今までミクリオやエドナと神依するのに、特に不都合は無かったし」

「そうでしょうね。でも、今まで感じられなかっただけで、実は私一人で支えられる力にはやはり限界があったのです。何故今まで変異憑魔を浄化出来なかったのか、それが答えですわ。神依をしても一本の縁で伝えられる力には限度があって、だから完全に浄化の力を発揮できなかったのです」

「でも、さっきは…」

言いかけてスレイは先程の情景を思い出す。セルケトを制したライラの炎。彼女はセルケトの浄化が完了したと確かに言った。

問うようにライラを見やったスレイの視線に応えてライラが微笑む。

「ええ。その疑問の答えに繋がるのが、先ほどの問いですわ」

「…何故、従士が導師に必要なのか?」

最初のライラの言葉をなぞるようにアリーシャが繰り返すと、良く出来ました、とばかりにライラが笑みを深くする。

「従士の契約は、従士に個々の天族と一時的に縁を結ぶ力を与えます。神依程の力はありませんが、その力は確かに浄化の助けになってくれます。アリーシャさんも先ほど体験なさったでしょう?」

「え、ええ。確かにミクリオの力を借りているというはっきりした感覚はありましたが…」

「それが「神威」です。従士の能力は神器と契約の力で天族と縁を結んで神威を振るうことと、導師の領域内で浄化の力を振るうこと。そしてその最大の存在意義は…」

一端言葉を切って、アリーシャとスレイ双方に視線を投げながらライラは続ける。

「導師と天族の間を結ぶ「縁」の増設ですわ」

 

 

「つまり話を纏めると…」

鞘に納めたままのナイフの先で、ロゼがガリガリと土に線を引く。辛うじて人だとわかる程度の画力で書かれたのは、恐らくスレイとライラ、そしてアリーシャの三人の顔だ。

等分に空けられた三つの顔の間、その内スレイとライラ、アリーシャとスレイの間に矢印が引かれる。

「普段はスレイはライラとしか繋がってないから、神依も全力出せないけど、アリーシャが従士の力を発動している間は…」

ガリ、とロゼはライラとアリーシャの間に線を足す。これで三つの顔を結ぶ線は、空隙の無い円状になる。

「こうってこと?アリーシャと天族の誰かが繋がってるから、スレイにもお零れが行ってるー的な?」

「お、お零れということはありませんけど、大体は合ってますわ。アリーシャさんが天族の誰と縁を結んでも、そもそも私達は全員陪神契約で繋がっているわけですから、アリーシャさんを経由してスレイさんに繋がる縁が一本増えることになるんです。だからスレイさんはこれまで以上に浄化の力を行使出来る、と。勿論、従士契約で導師の浄化の力を得るというアリーシャさんの条件も変わっていませんから、スレイさんの領域が強まれば強まる程、浄化の力は強化されます。契約による縁で結ばれた接点が多い程、力が無駄なく使えるという仕組みですわね」

「なるほどね」

「そういう訳だったんだな」

焚き火の灯りで浮かびがるロゼの個性的なイラストを覗き込みながら、各々が納得したように頷きあう。スレイも遺跡で起こった不思議な現象を思い返しながら、先程のライラの説明を頭の中で反芻した。

関係の変わったミクリオとアリーシャ。そしてその二人を見て態度を変えたライラ。軽くなった剣は力の伝達が関係しているのだろう。きっと力の伝達が不十分な状態のスレイにとって、ライラの聖剣は強すぎる神器だったのだ。

「セルケトを浄化出来たのは、アリーシャのお陰だったんだね」

無力どころの話では無い。従士は文字通り、導師の傍らに従って導師を支える存在だったのだ。力の増幅、それ無しに浄化の強化があり得ないのならば、従士を得られない導師は永遠に不完全の浄化の力しか得られない。そんな状態で災禍の顕主を倒そうなどと、きっと夢のまた夢だ。

「ありがとう、アリーシャ」

「そ、そんな!」

たった一言の感謝の言葉。ただそれだけのことに、アリーシャはあからさまに狼狽える。

きっと彼女は今まで努力が報われたことも、誠意を感謝されたことも無かったのだ。たった一人で踏ん張ってきた彼女が、今までどれだけの善意を無碍にされてきたのか、それを思うだけでスレイの心中は穏やかではいられなくなる。

隣に座ったアリーシャに体ごと向き直る。

アリーシャの緑の瞳は向けられた感情をどう受け止めていいかわからずに、おろおろとただ中空を彷徨っていた。どんな憑魔にも怯えず、どんな不当な嘲りを前にしても凛と前を見据える瞳が、ただ一言の感謝でこんなにも揺れる。その事実が胸に刺さった。

―――変えたいと、痛切にそう思った。

「アリーシャはもっと感謝されることに慣れるべきだ。アリーシャがオレのことを思って強くなろうって思ってくれたこと、命をかけてもその思いを果たそうとしてくれたこと。そりゃ、勝手に危険の中に飛び込んだことは許せないけど…でも、アリーシャが思ってくれなかったら、オレは多分この先ずっと変異憑魔を浄化出来ないままだったんだから」

「スレイ…」

「オレは何度でも言うよ。頑張ってくれてありがとう。それから、これから先もオレと一緒に戦って下さいって」

無力などでは無い。不必要などとんでもない。アリーシャはスレイにとって、大切な仲間で大事な友達だ。

「オレの言葉は信用ならない?」

小首を傾げて見せれば、アリーシャは物凄い勢いで首を横に振った。バサバサと髪が顔に当たって痛そうに見える程。

「いいや!!そんな訳は無い!必要としてくれてとても嬉しい。…でも、今回は本当に私の功績などでは無くて。ミクリオが、頑張ってくれたんだ。私は…」

「いいえ」

語尾の萎んでいくアリーシャの言葉を、きっぱりした口調で割って入ったのはライラだった。

「いいえ、確かにアリーシャさんのお陰です。そもそも導師は従士が居て初めて天族の力を十全に発揮でき、従士は導師が居て初めて従士たり得る。どちらかでは駄目なのです。勿論、その辺の弱い憑魔を倒すだけならば、スレイさんだけで十分です。しかしそれより先へ…スレイさんの目指す道のためには、アリーシャさん、あなたは欠かせない存在なのですわ」

ライラは徐に立ち上がり、アリーシャの前に来ると再び膝を折る。まるで跪くようなその仕草にアリーシャが慌てて立ち上がろうとするのを制して、ライラは甲冑を外したアリーシャの細い手を取った。

「申し上げたはずです。アリーシャさん、貴方自身の存在を見誤らないで下さいと。貴方は私達天族の誰にも不可能な役目を負っている。従士の力のことも勿論ですが、それだけではありません。人間だから…人間社会で悲鳴を上げながら必死で前を見てきた貴方だから、支えられる重みがきっとある…」

「ライラ様…」

「『様』は要りませんわ。貴方は私達にとってもう掛け替えの無い仲間、そしてきっと貴方もそう思って下さった筈です。私達は天族と呼ばれてはいるけれど、天上を闊歩する神ではありません。共に同じ道を行く者同士、気軽に名前を呼んで頂けると嬉しいのですけれど」

言ってライラは微笑んだ。含むところの無い優しい笑顔は、きっとライラの言葉が本心から出ていることの現れだろうが、それを素直に受け入れるには、アリーシャは人間社会の常識が身に染み着きすぎていたらしい。ライラの真摯な態度に心揺れた様子ではあったが、なかなか首を縦に振ろうとはしなかった。

「し、しかし、ライラ様達はミクリオと違って私よりもずっと年長の方で…」

同年代と年長者。礼儀作法を厳しく躾けられて育ったアリーシャにとって、その壁決して易々と無視できるようなものでは無い。

ドス、と鈍い音がしたのはその時だった。音の出所はエドナの傘。ライラの言葉と己の常識の間で揺れるアリーシャの迷いを断ち切るかのように地面に突き立てられたそれを、エドナはいかにも苛々した挙動で引き抜いて、ミシミシと不穏な音が立つ程に柄を握りしめながらアリーシャを睨む。

「ほんっとうに苛々させる子ね」

「エドナ、またそういう…」

「ミボは黙ってなさいって言ったでしょう?」

咎めたミクリオを一瞥しただけで黙らせて、エドナはそのまま足音も荒くアリーシャに歩み寄り、ライラを半ば押しのけるようにして仁王立つ。

「良い?ワタシ達天族には一部の例外を除いて年長者に敬語を使う習慣は無い。だからライラもワタシも、道行を共にする人間に過度な礼節を求める気は無い。貴方が本当にワタシ達を尊ぶ気持ちがあるのなら、重要視すべきは貴方の常識?それともワタシ達の意思?どっちかしら?」

「それは…」

「どうしても貴方がワタシ達に敬語を使わなくてはならないという理由があるのだったら別だけれど。貴方のいう『仲間』の意思を無視してまで、我を通す理由が。…どうなの?」

身長差のある二人ではあるが、アリーシャが座っていれば立っているエドナの方が視点は高い。アリーシャを見下ろしながら、エドナはただ彼女の答えを待っていた。

「いや…」

ややあって口を開いたアリーシャがゆっくりとエドナを見上げ、新緑の瞳で真っすぐにエドナを見返した。最早その瞳は揺れない。ほんの少し表情を和ませながら、アリーシャはゆっくりと立ち上がって、凛とした声を響かせた。

「形だけの儀礼に意味は無い…。すまない、エドナ。また私は同じ過ちを繰り返すところだった。こんな私で良かったら、これからもどうかよろしく頼む。エドナ、ライラ」

「…今度様つけたら、罰としてリスリスダンスへにゃへにゃバージョンよ」

「そ、それはどんな踊りだろうか」

「ぶっ」

生真面目に返すアリーシャに、固唾を飲んで状況を見守っていたスレイは、思わずミクリオと顔を見合わせて噴き出した。エドナの傍らに立ったライラも、堪え切れずに肩を震わせている。ロゼだけは興味津々に「リスリスダンス」の披露を待ちわびていたようだったが、誰も踊らないと知るとほんの少しがっかりしたように肩を竦めて、目の前に食事を片付ける作業に取り掛かる。デゼルは疾うに話題に飽きていたのだろう。宿主であるロゼの体の中に引っ込んでしまったらしい。

「あれ…?そういえばザビーダは…?」

先程までは隅で興味無さそうに船を漕いでいた男がいつの間にかいなくなっている。まさかまたどこかにふらっと行ってしまったのだろうか。まだきちんと協力の礼すら言っていないのに。

そう思ってスレイが視線で周囲を探すのと、アリーシャの小さな悲鳴が聞こえたのはほぼ同時。

「ザビーダ!!!」

「俺様のことは呼んでくれないのかい?冷たいねえ、アリーシャちゃん。まあ様付けってのも来るもんあるけどよぉ、そこはやっぱり親しみ込めて呼んで欲しいところじゃないの」

アリーシャの肩に手を回すようにして耳元で囁くザビーダと、引き離そうとするミクリオと。勿論、他の女性衆が彼を見る目は氷よりも冷たい。

「ザビーダ様は、スレイと一緒に行く気は無いので、しょう?この度の助力は感謝いたしますが、ならば尚更、気安く御名前を呼び捨てになど…!!」

「アリーシャ!!こんな奴に真面目に答えなくていい!ザビーダもいい加減アリーシャを離せ!」

ザビーダの腕から逃れようと身を捩りながら、アリーシャはそれでも生真面目に返事を寄越す。どうやらその答えはザビーダのお気に召したようで、彼は浮かべた笑みを更に深くした。とりあえず、自身の腕を離そうと躍起になっているミクリオのことは眼中にも無いらしい。

「なら、オレがスレイと一緒に行けば問題無い、と。丁度風の天族はそっちの嬢ちゃんの家来らしいからなぁ」

「ザビーダ?!」

驚くミクリオやアリーシャの反応を愉快そうに見下ろして、ザビーダはどこか挑発的な視線をライラに投げる。

「そこのお姉さまの陪神になる気はさらさらねえけどな。良いぜ、行ってやっても。オレもアリーシャちゃんのこと気に入っちまったしな。スレイのことも嫌いじゃねえ」

「別に一緒に来てくれとか頼んでないんですけど」

「言うねえ、エドナちゃん。でも、オレの助力がなきゃ今頃アリーシャちゃんとミク坊はお陀仏だぜえ?なぁ、主神どの?」

「っ!そう、ですわね」

あからさまに悔し気な色を見せるライラに、満足気にザビーダが笑う。本当にこの二人はどういう関係なのだろうか。ここまでライラが感情の動きを見せることは珍しい。

「…どうするんだ、スレイ」

「うん。確かに、今回はザビーダの協力が無かったらミクリオもアリーシャも危なかったわけだし、オレとしても感謝してるよ」

天族の中でも経験豊富で、あちこちを放浪していただけであって知識の幅も広いし、戦闘能力だって大したものだ。仲間になってくれれば心強いだろうと思う反面、しかしどうしても気にかかることもある。

「ザビーダ」

「ん?」

「オレ達と来てくれるなら心強いけど…。でも、オレはザビーダの憑魔は絶対に殺すべきだっていう主張はどうしても受け入れられない。オレと一緒に来るなら、ザビーダの戦いは憑魔を殺すためじゃなくて浄化するためのものになる。それでも良いの?」

憑魔は全て殺すのだと出会った時のザビーダはそう言った。その志を邪魔するのならば排除する、彼の眼はそう語っていたし、実際に襲い掛かってきたくらいだからザビーダの決意は相当固いのに違いない。

しかし、スレイにもここだけは譲れない。出会った憑魔を全て殺して歩くのならば、スレイの道はきっと閉ざされる。穢れを浄化し憑魔を救う、その行為こそがきっと人と天族の共存、その険しい道を照らす光になる。それは予感では無く確信で、だからスレイはどんな憑魔だって浄化することを諦めたくはない。例えそれが、あの枢機卿のようにとてつもなく強大な憑魔なのだとしても。

じっとザビーダを見据えると、彼もまたスレイの意を測るかのように視線を合わせてくる。その琥珀色の眼には先程までの剽軽ひょうきんながら底の読めないふざけた色は既に無い。

「…良いぜ。ただし、お前が浄化出来ない憑魔は別だ。オレ様は憑魔を生かして野に放つような真似は我慢出来ねえ。お前が浄化しようとして出来なかったらその時は…」

指を鉄砲の形に組み、無言で撃つ真似をして見せる。スレイがしくじればザビーダが仕留める。彼はそう言っているのだ。

「わかった。ただ、オレは諦めないよ。絶対に」

「ボウズ。世の中にはどうしようも無いことってもんがあるんだよ。ま、その内嫌でも知ることになると思うけどな。それはともかく…」

「うん。交渉成立、だね。…ごめんね、ライラ。勝手に決めちゃって」

「…いいえ、スレイさんの決めたことですから」

「ありがとう。…よろしく、ザビーダ」

ザビーダが伸ばした手を取りながら、何とも言えない表情をしているライラに己を勝手を詫びたスレイに、ライラがどこかぎこちない笑顔で首を振る。ザビーダと彼女に何か確執があるのは何となく察しているけれど、ザビーダの協力はきっとこの先必要になるし、何より彼が自分から行きたいと言い出したことに何がしかの意味を感じざるを得なかった。

導師を嫌う趣旨の発言しかしてこなかったザビーダの心変わり。きっと何か、彼には目的がある。それがスレイにとって良いものなのか悪いものなのか、それを確信できるだけの材料はスレイには無いけれど。それでも一つだけ確信できることがある。

―――ザビーダはきっと、悪い奴じゃない。

「というわけで、改めてよろしくな。アリーシャちゃん、エドナちゃん」

「あ、ああ。よろしく、ザビーダ」

「足引っ張ったら置いて行くわよ」

「厳しいねえ」

「…僕等は無視なのか?」

「誰が野郎に今更よろしくするかよ」

スレイの手を振り払うようにして女子の方へ寄っていくザビーダに向けられる視線は相変わらず冷たい。しかし本人はどこ吹く風、いつものふざけた態度で無理なく輪に溶け込んでいく。この辺は年の功といったところだろうか。

「すっかり冷めちゃったな」

「ああ。すっかり食べるのを忘れてた」

ザビーダをいなす女性陣を横目に、疲れた様子で腰を下ろすミクリオの隣に座り、スレイは殆ど減っていない椀を抱える。二人で仲良く冷えたスープをすすりながら、スレイは今後の旅路に思いを馳せた。

一体何が待っているだろう。一体どこへ行くのだろう。

考えても答えは出ないのは当然で。しかし傍らの体温や、賑やかに騒ぐ声を聴けば答えの出ない不安は薄くなる。

考えたって明日のことはわからない。ただ確実なことは一つだけ。

「明日から、ますます賑やかになりそうだな」

「うるさいっていうんだ、ああいうのは」

「とか言いつつ、意外に仲良くやってる癖に」

「仲良くない!!」

何か物思う風のライラが気になるところではあるけれど、きっと今は聞いても彼女を悩ませるだけだ。

だから今は目の前のことを、出来る分だけ。そう、差し当たってはこの椀だ。

親友との軽口を挟みながら、スレイは今日使った力を取り戻すべく、冷えたスープを掻き込むのだった。




従士で導師がパワーアップ出来たら素敵だな、と思った結果です。
あと敬語卒業はどうしてもやりたかったので満足です。
この話で一番最初に思い付いた部分はミクリオとアリーシャの「私は何か間違ったことを言ってますか」「いいや」の辺りでした。


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ボリス救済編
黄昏の先にあるものは


きっと綺麗な星空…だと良いな。というお話。


本編の順番は前後しますが、枢機卿戦後の話です。
オリキャラのローランス皇帝(九才くらい)が回想の台詞のみで登場します。
以下の前提でお読みください


*石化した人間は穢れの元、つまり枢機卿を何とかすれば戻せる
*ただし石化している間徐々に弱っていくので、放っておけば死ぬ
*アリーシャが戦闘開始前にスレイを庇って石化
*その後苦戦するスレイ達の前にロゼ達が登場
*アリーシャはロゼによる枢機卿殺害のシーンは目撃しない


「眠りよ、康寧たれ」

酷く静かな声で紡がれた言葉、その余韻が消え去ると共に枢機卿の体がぐらりと傾ぐ。人が倒れる鈍い音を聞きながら、スレイは呆然と自分の前に立ち塞がる赤い頭を見遣った。

「ロゼ…」

「ぼけっとしない。あんたの仕事は生かすことでしょ。あたしと違ってね。…姫様は?」

「そうだ、アリーシャ…!」

「無事よ。石化は解除されてるわ、息もしてる」

背後から聞こえた声に、スレイは後ろを振り返る。座った膝にアリーシャの上半身を抱えるエドナに駆け寄り、まだ幾分血の気の下がった彼女の頬に手を触れた。

滑らかな肌、確かな温もり。

それらは確かにアリーシャの命がまだここにあることを告げている。

「良かった、アリーシャ…」

「だから生きてるって言ってるでしょ」

「こっちもだ!!スレイ、手伝ってくれ!!」

ほっとしたのも束の間、ミクリオの悲鳴じみた声が響いる。

ミクリオとライラは倒れ臥した十数人の男達を前に悪戦苦闘していた。

セルゲイと同じ白い鎧は、白凰騎士団の証。教皇と皇帝の行方を探すため、枢機卿の懐に潜り込んだ彼等は、石にされて既に半月程が経っている。枢機卿自身が言っていたように、相当衰弱していることは間違いなかった。

「何人かは、もう…」

ぐったりしたままぴくりとも動かない男の首筋に手を当てて、ライラが悲しげに首を振る。ライラの傍には手を組んだ体勢に整えられた者の姿が数人分。彼らの心臓はもう脈打ってはいないのだろうと思うと背筋が冷えた。

しかし呆けている暇などない。時間は流れ続けている。何の処置もしなければ、越えてはいけない線を越えてしまう人が増えるだけだ。

やるべきことをやろうとスレイが踵を浮かせた時だった。

「しっかりしろ!!」

「ミクリオ、その人…!!」

突然ミクリオが一人の男に飛び付いて大声をあげる。その男の顔を見たスレイは思わず息を飲んだ。

他の者より凝った装飾の鎧に、意思の強そうな眉。いかにも実直そうなその面立ちは、セルゲイのものに良く似ている。

―――仲の良い兄弟だったと、騎士団の誰もが口を揃えた。顔は似ていても性格はかなり違ったようだが、それでも常に切磋琢磨し合い、技も心も磨いていたと。

肉親のいないスレイにはそれがどういうことなのか本当の意味でわかってはいなかったのだろうが、それでも彼の無事を願うセルゲイの顔を見れば、胸の内が軋むような気分になったものだった。

蝋人形のような顔色をした彼こそが、白凰騎士団副団長であり、セルゲイの弟、ボリスであることは間違いない。

ミクリオはボリスの胸当てを剥ぎ取り、膝立ちになって胸の辺りを押している。それが何を意味しているのか、そんなことはすぐわかる。

「ボリスさん…まさか…!!」

「今まで動いてた!まだ間に合う!!スレイ、君は他の人を!」

叫ぶミクリオの額から動きに合わせて汗が散る。ぶつぶつと口を動かしているのを見れば、彼が天響術を施しながら処置をするつもりであることは容易に知れる。

「わかった、まかせる。ライラ、アリーシャをお願い。エドナ!!」

「いつでも良いわ」

ライラの腕にアリーシャを預けて駆け寄ってきたエドナと視線を合わせて息を吸う。

「ハクディム=ユーバ!!」

「スレイ殿!!」

青年の柔らかい声と、少女の幼く高い声。

二つが重なった余韻が消えるよりも早く、堂の扉が開け放たれる。

駆け込んできたセルゲイ率いる白鴎騎士団の面々は、折り重なるように倒れる男達と、中央で事切れている枢機卿、異常としか言い様のないそれらの光景に、つんのめるように足を止めた。

彼らの気配を察してか、いつの間にかロゼ達の姿は消えていた。

一瞬の沈黙の後に爆発する喧騒。誰もが状況を判じかねているようだったが、説明してる余裕はスレイにはない。

「セルゲイさん!!」

枢機卿のすぐ傍に刻まれたメッセージを見つけて騒ぐ者、仲間の窮地を察して手当てしようと駆け寄る者、或いはもう二度と動かぬ友の傍らで項垂れる者。混乱を極める状況の中にあって、唯一ある程度の冷静さを保っていたセルゲイはスレイの声に気付いて振り返る。

「スレイ殿、これは…」

「説明は後!!今は生きてる人をオレの周りに集めて!!」

「う、うむ。わかった!」

わからないままに、部下に指示を飛ばして生死を確認させ、息のある者をスレイの傍に寝かせる。助からなかった者達は仲間の手で瞼を閉じられ、剣を胸に抱かされて、入り口近くに寝かされた。

視線を転じれば、堂の中央近くに倒れた枢機卿の遺体に布がかけられようとしている。床に広がった血糊に端を赤く染める布を見ながら、スレイはぐっと唇を噛んだ。

―――もう、たくさんだ。

「エドナ!!」

声の限りに叫んで、身の内に感じるエドナの気配に集中する。

アリーシャのサポートは受けられない。従士の縁が無い以上、十分な威力は出ないだろうが、それなら効果が出るまでやるだけだ。

「地精浄撃、フェアリーサークル!!」

光が渦を巻き、倒れた騎士達の体に吸い込まれるように消えていく。

「もう一回!!」

何度でも、何度でも。

もう十分失った。何よりも、ここで彼等の命を諦めたら、スレイは何のために枢機卿を手にかけたのか。実際に手を汚したのはロゼだが、選択したのはスレイ自身。彼女の死はスレイが選んだことなのだ。

「もう一回!!」

光の名残が消えるのも待たず、スレイは吠えるように叫ぶ。

騎士達とアリーシャの命、枢機卿の命。

選んだものと切り捨てたもの。

その押し潰されそうな重みに抗うように、スレイは騎士達が目を覚ますまで叫び続けた。

 



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黄昏の先にあるものは 2

 

 

 

ふらつく足を何とか踏ん張って、スレイは周囲を見回した。

あちこちで響くのは歓声。目を開けた仲間達に取りすがり、男泣きする姿にほんの少し肩の荷が降りたような気がした。

しかし、体はもう限界に近い。

膝が笑い、油断すると意識が持っていかれそうになる。顎から汗が滴り落ちるのを拭うことすら億劫で、襟元は冷たく湿って色が変わっている。隣でスレイの体から解放されたエドナが大儀そうにへたりこむのが気配でわかった。

「あり、がと…エドナ」

「無茶苦茶する、わね。まあ、別に良い、けど」

共に荒い息をつきながらの途切れがちな会話は、それでもどこか明るい。スレイの周りに運ばれた騎士達は皆起き上がり、或いは目を開いたからだ。

―――彼等はもう大丈夫だ。

そう思うだけでどんな苦労も報われる気がした。

膝に手をついて息を整える。そのスレイの傍らで、呆然とした調子で呟いたのはセルゲイだった。

「これが…導師の奇跡の御技か…」

すごい、と殆んど吐息のような言葉を漏らす。そうしながら彼がスレイを見る視線は、今までのものとは明らかに違っていて、チクリと何かが胸に刺さったような気がした。

「奇跡じゃないよ」

奇跡なんてものが使えるなら、枢機卿を殺す選択などしなかった。何かを狂おしいほど求める彼女の未来を閉ざし、望みを絶つことなどせずとも済んだはずだ。

どこか距離が出来たように感じるセルゲイに、祈るような気持ちで言葉を投げる。

「オレ一人じゃ何もできなかった。仲間が頑張ってくれたんだ。エドナっていって、ちょっと口は悪いけど、人を見捨てられない優しい、地の天族の…女の子」

自分より遥かに年長のエドナをどう称していいか

一瞬迷ったが、ここは見た目に従っておく。

「それに…まだ終わってない」

ちらと視線を向けたその先で輝く弱々しい光に、スレイはともすれば笑いそうになる膝に力を入れる。

スレイの視線を追って、そこに横たわる弟がいまだに意識を取り戻していないことに気付いたのだろう。セルゲイの表情が俄に厳しくなった。

「スレイ殿」

痛いものを堪える表情で彼は言う。

「此度の貴公の温情、どう感謝すれば良いか…。しかし、もう十分だ。もうフラフラではないか。これ以上やって貴公に障りがあれば…」

「大事な弟なんでしょ」

「あれも騎士の端くれ。覚悟は出来ていよう」

言いながら無意識にだろう、剣の柄に置いたセルゲイの手は微かに震えている。カタカタと金属の鳴るほんの小さなその音が、セルゲイの心中を語っているようだった。

セルゲイは強い。公の利益のために個を殺す強さを持っている。そしてセルゲイが言う通り、ボリスもそういう人間なのだろう。それは国という人間の群れ、その上位に属する者の強さ。かつてアリーシャがスレイに覚悟というものを教えた折にも見せたものだ。

その強さ自体はきっと大切なのだろう。人の上に立つ者として必要なものなのだと思う。

―――しかし、今はその覚悟は受け取れない。他の誰でもない、スレイ自身のために。

スレイは己を心配そうに見下ろすセルゲイの、ボリスに良く似た顔を見上げ、荒い息を抑えて微笑んだ。

「やっぱり駄目だよ。ボリスさんとセルゲイさんには出来てるかもしれないけど、オレにはそんな覚悟出来てないから。それにここでやめたらミクリオの頑張りが無駄になっちゃうし」

「ミクリオ殿とは…確か…」

「そう、オレの幼馴染みで水の天族。回復の天響術が得意なんだ。多分ミクリオが頑張ってくれなかったら、ボリスさんは手遅れになってたと思う」

今も頑張ってる、そう言い残してスレイはセルゲイの元を離れてボリスの傍らに駆け寄った。

ミクリオは未だにボリスの傍らで呪文を唱え続けている。汗で額に髪がはりつき、顔は血の気を失っているし、回数を重ねるにつれて術の光は弱くなっている。それでも彼は術の行使をやめようとはしなかった。

「ミクリオ」

声をかけると緩慢な仕草で顔をあげる。額から流れる汗を袖で拭うと、ミクリオはようやく呪文を紡ぎ続けていた唇を止めた。

「脈は何とか戻ったけど衰弱が酷すぎる。このままじゃ長くは保たない」

掠れた声でそう言って、ミクリオはロッドを杖に立ち上がる。

「スレイ」

汗で濡れた髪、震える足。体の限界を告げるそれらに反して、スレイを見据える彼の視線だけは力を失わずにいる。

ミクリオの言いたいことを察して、スレイは思わず口角を上げた。

「まだやれる?ミクリオ。随分息が上がってるけど」

「当たり前。君こそ膝が笑ってるけど?」

「武者震いかな」

「なら僕はただの深呼吸だ」

軽口叩いて笑いあう。

―――ミクリオが親友で本当に良かった。

心の底からそう思う。

無言で拳を差し出せば、ミクリオが馴れた様子で己の拳で軽く叩く。お互いに拳を打ち合わせるリズムは、子供の頃から慣れ親しんだそれ。例え目を瞑っていたても、今更合わせ損ねることはない。

物心ついた時からスレイの側にはミクリオがいた。スレイの無謀を嗜めこそすれ、決して笑うことのないこの親友がいてくれたから、スレイは己の境遇を嘆くことはせずに済んだ。

――――そして、今は彼だけでなく。

二人の背後で、かつんと金属が石畳を叩く音がする。聞き慣れたその音に、二人は揃って音の方を振り向いた。

「私も協力させてもらえるだろうか?」

「アリーシャ!」

槍を支えに立つアリーシャは、力無い足取りでスレイ達の側に歩み寄る。彼女がすがる槍の穂先に絡むのは炎。渦を巻いて突撃槍の円錐の穂先を形成するそれは、アリーシャがライラと縁を結んだ状態であることを示している。

「もう大丈夫なの?」

「ライラが回復術をかけてくれた。万全ではないが、それは二人も同じだろう?今回は何の役にも立てなかったんだ、今くらいは少々無茶をさせて欲しい」

「協力はありがたいけど、役に立てなかったっていうのは取り消しておきなよ。庇われたスレイの立つ瀬がない」

「…反省は後でするよ。」

下手をすればアリーシャの命は無かったかもしれない。それを思うと肝が冷えるが、今は己の行動を振り返っている時ではない。

スレイは倒れたボリスの傍らに立ち、青ざめた面を見下ろした。

その場の誰もが固唾を飲んでスレイ達の様を見守っている。水を打ったように静まり返ったその場所で、スレは大きく息を吸う。

「ユズローシヴ=レレイ!!」

声が重なる。

瞬間全身をとりまく水の気配。幼い頃から慣れ親しんだそれは、僅かの違和感もなく瞬時にスレイの身に馴染む。

「アリーシャ」

「ああ」

促すスレイに頷いて、アリーシャがまるで祈るように膝を折る。槍を立て、片膝をついたアリーシャは、さながら物語の騎士が君主にしてみせるような格好で恭しくスレイの手を取り、取ったその手を己の額に当てる。

「我、マオクス=アメッカ。従士の契約に従い、その名を以て導師に新たな縁を与えん」

凛とした声で紡がれた誓いが完成するなり、アリーシャの体が仄かに紅い光に包まれる。脈打つようなそれは、アリーシャの触れた部分を伝ってスレイの体に吸い込まれ、徐々に燐光を弱めていった。

「つっ…!」

苦痛を報せる小さな呻きと、アリーシャの細い顎を伝う汗。彼女の持つ槍の穂先を取り巻く炎は、光同様少しずつ弱くなっていく。

従士の真名の力を使って、アリーシャが一時的にスレイの力を底上げ出来る事がわかったのはつい先日のこと。彼女が天族の誰かと縁を繋いでいるだけでスレイの浄化の力は増すが、それでもどうにもならない時は、アリーシャが己の精神力で以て力を増幅しスレイに渡すことで、更に大幅に導師の力を上げることが出来る。勿論、一時だけの効果ではあるし、従士にかかる負担も大きい。

事実、完全に光が消えると同時にアリーシャの膝は砕けた。冷たい石畳の上に倒れ込みそうになって、その上体を駆けつけてきたエドナとライラが支える。

「ス、レイ…」

スレイを呼んだ彼女は、消え入りそうな声で続ける。

「あとは…たの、む」

「任せて。ありがとう、アリーシャ」

アリーシャの力のお陰で、先程まであれだけ重かった体が嘘のようだった。一時的な効果故にここで無理をすれば後が辛い。そうわかっていても、手加減するつもりは欠片もなかった。

「ミクリオ!!」

「いつでもいける!」

応える声に頷いて、スレイは軽く息を吐く。一拍置いて息を吸い、床に倒れたボリスを見据えて渦巻く力を一点に集約させた。

 



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黄昏の先にあるものは 終

 

 

 

―――何故フォートンを殺した?!

―――何が導師じゃ、天族じゃ!!やっていることはただの人殺しではないか!!

怒りにうち震えた幼い声が、頭の中で木霊する。もうその声は余韻すら残さず消えているはずなのに、まるで鼓膜の内側に貼り付いているかのように、スレイの耳から離れない。

ローランス教会神殿、その前の広場に据えられた噴水の影で、まるで隠れるようにスレイはずるずると座り込んだ。

神殿内はいまだに後処理に走り回る騎士達の声で騒がしい半面、恐らく通路を封鎖されているのだろう、広場には人っ子一人見当たらない。久々の晴れ間にはしゃいでいるのだろう人々の声が届いてはいたが、遠くの喧騒は却って物寂しさを誘っていた。

スレイは脳裏に高く響く声に耳を傾けながら、右手で弄んでいた剣の柄を握りしめる。

いつも使っている刃の無い儀礼剣ではない。フォートンを討つと決めた時に振り上げた短刀である。

「人殺し、か…」

覚悟を決めたつもりでいた。

ボリスや白凰騎士団の騎士達、そしてアリーシャの命を救うためならば、枢機卿の命を奪うことも已む無しと、その重さの全てを背負うつもりで刃を振り上げた筈だった。実際に彼女に刃を突き立てたのはロゼだが、彼女が敢えて己の手を汚すことを選んでいなければ、枢機卿の胸元にはスレイの剣が突き立っていたのだから、そんなことは言い訳にするつもりはない。

それがどうだろう。

言われて当然のことを言われただけなのに、こんなにも胸がざわつく。よるべ無い子供のように不安がって、理不尽な喪失に憤る子供から逃れるように神殿を後にした。

「何が…覚悟…っ」

フォートンが幼い皇帝を政敵の―正確に言えば義母の―手から匿っていたことは今や明白。憑魔と化してまで彼女が守りたかったものは責任にすくむ幼い子供で、彼の未来から曇りを消すために彼女は皇都ペンドラゴに雨を降らせ続けていた。

飢饉が起きれば現在の政権は必ず弱体化する。そこに自分が出ていって民衆を救済することで、権力基盤を磐石なものにする。そしていずれはその強固な地盤を彼に継がせるつもりだったのだ。

圧倒的な民衆の支持を受けた玉座。

それこそが枢機卿の欲していたものだった。

それが正しい手段だとは思わない。多くの民が飢えに喘ぎ、病に倒れる。そんな結果を招く手段を選択した彼女は、為政者としての道を疾うに見失っていた。

彼女は退かねばならなかった。それは確かだったが、死なねばならなかったのかと問われると、スレイに返せる答えはない。

そう、だって本当は―――。

「スレイ」

響いた声に顔を上げる。咄嗟に短刀をしまったのは、後ろ暗い思いの現れだろう。

「気配はするのに姿は見えないと思ったら、こんなところにいたのか」

具足の鳴る音を石畳に響かせながら歩み寄ってきたのはアリーシャだった。まだ顔色は良くないが、それでも足取りはかなりしっかりしていて、その事にほんの少しほっとする。

「ライラ達は…?」

「まだ休んでいる。一人になりたいかとも思ったんだが、スレイは一人にしておくと要らないことばかり考えそうだと思って」

「要らないこと?」

「…全部自分のせいだとか、枢機卿を助ける道はなかったのかとか。そういうどうにもならない類のこと」

言ってアリーシャは言葉を切る。自嘲するように少し笑った。

「私と同じだ」

「アリーシャ…」

右手の槍を握り締める手が何かに耐えるように微かに震えている。

「私がドジを踏まなければ。もっと従者としての能力を使いこなせていれば。こんな時はそんなことばかり考える。昔からそうだった。思う通りになったことの方が少なかったかったから」

でも、と彼女は続ける。

「間違えてはいけない。スレイは間違ったわけじゃない。私が石にならなくても、あの場では騎士達の命、枢機卿の命を天秤にかけるしかなかったんだ。両方は取れなかった。どちらかしか駄目だったんだ」

「でも…!!」

アリーシャの言葉を遮って声を上げる。彼女の言うことは間違っていないとわかってはいたが、それでも抑えられなかった。

「それでも…オレは、助けたかった…!」

殺す選択をしておいて余りにも都合の良い台詞を吐く自分に嫌気がさすが、それでもそれが紛れもないスレイの本音だった。

「スレイ…」

「殺すしか無いなんて、そんなの嫌だ。確かに最終的に殺したのはオレじゃない。でも、殺すと決めたのはオレだ!」

ロゼはきっとスレイが剣を取らなければ殺さなかった。彼女の暗殺稼業は慈善事業ではない。騎士達を助けるために危険な橋を渡る必要はどこにもなかったのに。

―――導師の仕事は生かすこと。

そう言ったロゼの表情をスレイは見ていない。それでも、彼女がスレイの手を汚させないために、自ら血を被る道を選んだことだけはわかった。

自分のせいでロゼの手が汚れてしまった。確かに彼女は暗殺者だが、それがなんだというのか。背負わなくていい重責を一つ、スレイがロゼに背負わせたことに何ら変わりはない。

「導師なんて言ったって、オレは何も…何も出来なかった」

「それはちが…」

「だったら、強くなるしかないね」

スレイの言葉を否定しようとしたアリーシャの言葉を、ロッドが地面を叩く音が打ち消す。その硬質の音と共に響いたのは、今さらどうしたって聞き間違いようがない聞き慣れた声。

「ミクリオ…」

石段の上に立った彼は、ゆっくりした歩調で階段を降りると、スレイの前に仁王立ちになる。物心ついた頃から喧嘩するにも遊ぶにもお互い唯一の存在だったミクリオの視線には、清々しいまでに遠慮がない。

「どんな憑魔も殺さずに済ませたいなら、君が強くなるしかない。どんな憑魔も浄化出来れば、取りたくない選択肢を取る必要はなくなる」

「それは…わかってるけど。でもそんなに簡単に出来ることじゃ…」

「簡単じゃないのは最初からわかってたことじゃないか。なに?それとも君は簡単に人と天族の共存が叶うと思って導師になったのかい?」

「あ…」

ミクリオの言葉にはっとする。

簡単だと思ってたいたわけではない。しかし、真摯な気持ちで立ち向かえば何とかなる、そうなるべきだ、そうせねばならないという意識はどこかにあったかもしれない。

そのスレイの心を見透かしたようなミクリオの言葉は鋭く優しい。

「導師なら救えて当然だなんて思い上がりだ。君が言ったんだろう、奇跡なんかじゃないって。力が足りなくて結果が出ないことだって当然あるさ。君はその度に立ち止まって自分を責めるのかい?その間に出来ることがあるだろう。そのために僕達がいるんじゃないか」

「ミクリオの言う通りだ。それに、出来なかったことだけに拘るのもどうだろう。今回だって何も出来なかったなどということはないと思う」

言いながら彼女が視線で何かを示す。翠の瞳が指す方向を仰ぎ見れば、どこか急ぎ足のセルゲイが神殿の階段を下りてくるのがはっきりと見えた。

 

セルゲイは石段を降りた先で何かを探すように周囲を見渡し、噴水の影にいるスレイ達に目を止めて、そのままやはり急ぎ足で駆け寄ってきた。

「スレイ殿。ここにいらっしゃったか」

「セルゲイさん…」

セルゲイはどことなく沈んだ様子のスレイを見て、何かを察したようだった。痛ましいものを見る目でスレイを見やり、次いで勢い良く頭を下げる。

「我が主の言動、どうか許して頂きたい。幼いとて聡明な方だ。フォートン枢機卿への想いもあって今はなかなか現実を直視出来ずにいらっしゃるが、それでも心の底では枢機卿の過ちを理解されている風だった」

ローランスの皇帝ライトは僅かに九歳。母とも慕う人間を殺されて、その彼女こそが悪いのだと言われてもなかなか飲み込めるものではあるまい。それこそ幼いライトに非などない。

「無理もないよ。それに、オレが枢機卿を浄化できていれば何も問題なかったんだ。こっちこそ…ごめん。役に立てなくて」

こんな選択しか出来なかった。枢機卿本人にも捧げた、何の意味もない謝罪の言葉。意味などないとわかっているのに、そう言うことしか出来ない自分が悔しく、情けない。

肩を落とすスレイを前にして、セルゲイが困ったように眉を下げた。

「スレイ殿」

呼ぶ声は優しい。

「何を勘違いをされてはいまいか?自分は礼を言いに来たのだ。長く民を苦しめてきた長雨を止めてくれたこと、部下達を救ってくれたこと。本来なら自分達騎士団がやらねばならなかったことを、貴殿達は苦労を厭わずやり遂げてくれた。何故謝る必要があるのだ」

「でも、オレは…」

「アリーシャ殿と部下達を助けるため、一度はその手を汚す決断をされたことは聞いている。しかし、それを恥じる必要はない。枢機卿の意思は強固だった。例え自分達が向き合ったとて、誅殺するしか無かっただろう。こんなお役目に就いているから、そういう場面には何度か出くわしたことがある。絶対に意思を曲げない相手には、時に言葉は無力なこともあるのだ。多数の命を取るために、やむを得ず命を奪ったこともある」

淡々と語るセルゲイをスレイは見上げる。

彼のような人間が、人の命を取ることを何とも思わないわけがない。

それでも彼は武力を以て国の秩序を守る騎士団の長なのだ。当たり前のことに今更気付く。

「どうすれば救えたのか、そう自問したことは数知れない。だからスレイ殿の気持ちもわかる。しかし、すべては過ぎたことなのだ。どう後悔しても死人は帰らない」

「うん…」

「だからスレイ殿。スレイ殿の決断が救った人間を見て欲しい。部下達が泣いて仲間にすがる姿を見ただろう。待ち望んでいた晴れ間に、快哉を叫んだ民衆の声を聞いただろう。あれらは全て、スレイ殿の決断の末にある結果なのだ。…騎士団長として、この国の政の一端を担う人間として、そしてこの国の民の一人として感謝したい」

「そんな…頭を上げて、セルゲイさん。オレは本当に何も…」

「いいや」

深く頭を下げるセルゲイに狼狽したスレイの動きを、セルゲイが制す。

スレイの手を取り、痛いほどの力で握り締める。右手にはまった導師の手袋、それを握る手が微かに震えているのに気付いたスレイは顔を上げた。

「セルゲイさん…?」

「…先ほど、ボリスが目を覚ました」

「本当?!」

「ああ。あの暢気者め。目が覚めた早々に、腹が…腹が、減った、などと…っ」

震える声に隠しきれない嗚咽が混じる。手袋に落ちた水滴の暖かさに、スレイは返す言葉を見失う。

大の男が、騎士団長という立場のある男が、肩を震わせて泣いている。どうしていいかわからなくて狼狽するスレイの手を握りしめながら、セルゲイはなお深く頭を下げた。

「これは、団長としてではなく、セルゲイ・ストレルカ個人としての言葉だ。弟を…ボリスを助けてくれて…ありがとう」

鼻をすすりながらの言葉にスレイは答えなかった。否、答えられなかった。今答えたら泣いてしまいそうだった。

―――良いのだろうか。

胸の内から込み上げるものを噛み締めながら、スレイは思う。

スレイにもっと力があれば、フォートンの穢れも浄化できたかもしれない。それが叶わないために殺さざるを得なかった。スレイの無力がフォートンを殺したというのに。

―――それなのに、セルゲイのたった一言でこんなにも肩が軽くなる。

「スレイ」

込み上げるものを必死で堪えるスレイの肩をアリーシャが叩く。

「確かに責任ある者は己の行動を振り返り、過ちを正すことも忘れてはならない。しかし、悔いを噛み締めるばかりで成し得たことを見ないままでは、必ず道を見失ってしまう。万人が満足する選択など誰にも出来ないんだ。批判を真正面から受け止める姿勢は君の長所だが、それだけでは片手落ちだ。それは救われた人々の心を些末なものと切り捨てるのと同義。君は君の選択に救われた人々の声を聞く義務があると私は思う」

「別にお金を受け取れとかそういう話じゃないんだ。もっと単純に考えれば良いんだよ。まったく君ときたら、人を助ける時は少しも躊躇しないくせに。せめて半分の時間でも良いから、飛び出す前にも悩んでくれないか?」

「はは…」

ミクリオが息をつきながら苦笑し、それを受けてアリーシャも微かに笑う。日頃の行いが行いだからそれはぐうの音も出ない正論で、スレイは風向きが怪しくなってきた話題を笑ってかわす。

そうしながら、スレイは今だ頭を下げたままのセルゲイに再び向き直る。

「頭を上げて、セルゲイさん」

涙を見せないようにだろう、袖で乱暴に目元を拭ってからスレイの言葉に従ったセルゲイは、まじまじとスレイの顔を見て喜ばしいものを見たように表情を緩める。

「…良い朋友を持たれた」

「うん。オレもそう思う。…正直後悔が無いとは言えないけど…それでもセルゲイさんがそうやって言ってくれて、オレのやったことは全部間違ってたわけじゃないってことはわかった。だから、その気持ちは受けとるよ。…ありがとう」

セルゲイはこのためにわざわざスレイを探しに来てくれたのだ。事後処理で目が回るほど忙しいはずなのに。

スレイの気持ちを悟ってか、セルゲイは一つ頷いて笑う。

「なに、恩人に礼も言えぬとなればローランス騎士の恥。部下と家族の命、国の危機まで救ってもらって知らんぷりでは民草に示しがつかぬ」

「でも、それはオレの一人の力じゃ…」

「承知している。それもあってここまで赴いたのだ。特に我が弟が助かったのは、ここにおられるお三方全員の助力あってこそ。姿が見えないので探していたら、ここにいるだろうと聞いてな」

「え?」

セルゲイの言葉に驚いたのはスレイだけではない。後ろの二人も彼の言う意味を悟って目を見開いている。

お三方、確かにセルゲイはそう言った。スレイもアリーシャも、セルゲイが姿を見せてから明確にミクリオの名を出していないにも関わらず。

そもそもスレイはここに来ることを誰にも告げてこなかった。人間の兵士達にスレイの場所を知る者はいない。いるとするなら―――

「オレがここにいるって…誰に聞いたの?」

答えはわかっていたが、それでも信じられなかった。

思わず上擦るスレイの問いに、セルゲイはあっさりと彼女の名を告げる。

「ライラ殿だ。なんでも契約のおかげて離れていても居場所が知れるのだろう?ミクリオ殿とアリーシャ殿もここだとエドナ殿も仰っていたから、急ぎ参上した次第。一刻も早く弟が目を覚ましたことを伝えて礼を言いたかったのでな」

言ってセルゲイはスレイの後ろに目を向ける。向き直った彼の視線は、確かにアリーシャとミクリオ、双方を捉えていた。

「お二方とも、本当に感謝する。こんな時に個人的なことを言うのも不謹慎かも知れぬが、あれとはずっと支え合ってきた。両親に早くに死なれた自分にとって、唯一の家族なのだ」

再び深く一礼するセルゲイの姿を、スレイはただただ呆然と眺めていた。

アリーシャの一件で、それまで天族を見ることが出来なかった者が、それを可能にする方法があることは知っていた。しかし、それには今まで人生の中で培ってきた常識を捨てねばならない。人間の社会で生きる者にとってそれがどんなに困難であるのか、スレイは今までの旅で知っていた。

人は理解を超えた存在を受け入れることを拒む。戦場で導師の能力を目の当たりにした木立の傭兵団は、だからスレイを化け物と呼んだのだ。

「どう、して…」

決して問うたわけではなかったスレイの呟きに、それでもセルゲイは律儀に応える。

「自分にもわからん。しかし、ボリスのために力を振るおうとしたスレイ殿とミクリオ殿を見ていたら、急にミクリオ殿の姿が浮かび上がってきたのだ」

そこまで言って、セルゲイはふと何かに気付いたようにああ、と言って顔を上げた。

「こんなことを言っては不遜かもしれぬが、似ているな、と思ったのだ」

「似ている?誰に?」

尋ねたのはミクリオだったが、最早セルゲイがその声を聞き逃すことはない。

「自分とボリスに。先ほども言ったが、自分達が成人する前に両親は他界した。既に見習いとして騎士団に入団していたから食うに困ることはなかったが、心細かったのは事実だ。だから何かある度に、互いに励まし合って色々なことを越えてきた。今でも困難な任務に当たる前には、二人で檄を飛ばし合うこともある。もっとも、自分達が合わせるのは拳ではなく剣だが」

中空に拳を打ち合わせるスレイの顔があまりにも無邪気で、拳を受け止めるのはよほど心許せる相手なのだろうと思った。同時にこの導師がこんなにも幼かったことに今更ながら気付いたのだとセルゲイは言った。

異能の剣を振るう奇跡の英雄。いつの間にか心中に描いていたイメージは、導師に救いを求める者の勝手な願望でしかなかった。

実際スレイは困難を前に怯んだりはしなかったが、それは彼が伝説の英雄だからではない。心許せる友が傍で支えてくれているからなのだ。

「自分と何ら変わらない、同じなのだと思った。ならばきっとスレイ殿と拳を突き合わせている相手は、スレイ殿と同じ顔で笑っているのだろうと、そんなことを考えた瞬間に、まるでガラスに色がついていくようにミクリオ殿の姿が現れたのだ」

ミクリオが現れ、そこにアリーシャが加わった。セルゲイの目の前で繰り広げられたのは、伝説のような奇跡ではなかった。若い彼等ががむしゃらに一人の男を救おうと必死で足掻き、力を尽くした、その事実があっただけだ。

伝説はやはり伝説なのだ。導師は確かにいた。しかし伝説が語るような奇跡の英雄などではなかった。

「スレイ殿」

セルゲイが呼ぶ声が遠い。夢の中にいるように、現実感が希薄だった。

「スレイ殿。きっと明日からの自分の人生は、今までとはまるで違うものになるだろう。今まで知り得なかった世界の真実と向き合いながら生きていくのは難しかろうと思う。しかし、知らぬ方が良かったとは思わない」

呆けたように見上げるスレイを真っ直ぐ見据えて、セルゲイは微笑む。

「ありがとう、スレイ殿。貴殿の姿が自分をここまで導いた。貴殿が無力だなどということは決して無い。そもそもいくら天族の力を借りようとも、貴殿一人で世界を丸ごと引き受けるのは不可能だろう。伝承通り導師が世界を救うのだとしたら、それはきっと民衆が世界の理を知り、受け入れた結果なのではないだろうか」

「セルゲイさん…」

目の前の霧が晴れたようだった。

スレイはセルゲイの顔を見上げて、胸の内に湧いた衝撃を噛み締める。

―――導師とは何のためにいるのか。

穢れを浄化し、災禍の顕主を倒せば本当に世界は救えるのか。絶望に嘆く人々はいなくなるのか。

それはずっとスレイが心の中で持ち続けていた疑問だった。災禍の顕主がいなければ人々が穢れなくなるのならば、そもそも災禍の顕主が生まれる道理がない。ならばただ災禍の顕主を除くだけでは、世界は救われないのではないか。

そのスレイの迷いに、図らずも先ほどまで天族も穢れも感知できなかったセルゲイが答えをくれるとは。

胸にしまった短剣を服の上から握りしめる。触れた固い感触は、否が応でもそれを振り上げた瞬間を思い起こさせたが、その短剣の下には歓喜に高鳴る心臓がある。

悔やむ気持ちも喜ぶ心も、どちらも決して嘘ではない。人間はそもそもそういう生き物なのだ。

「セルゲイさん。ありがとう。セルゲイさんのお陰で、何か大切なものが掴めた気がする」

導師は人と天族を繋ぐ者。しかし自身は人以外の何者でもない。否、人に語りかけ、訴える存在だからこそ、導師は誰よりも人として生きなくてはいけないのだ。

セルゲイはスレイの言葉に頷いて応え、少しでも役に立てて嬉しいと、彼らしい飾らない言葉を返してくる。

「貴殿ならば自分などが何か言わなくとも自分で答えが見つかっただろうが。しかしスレイ殿は少々己を責めすぎるきらいがありそうだったのでな。年長者故の節介程度に思って欲しい」

ついでに、とセルゲイは言葉を続ける。

「あんなに力を使った後だ。静かに休む場所が必要だろう。雨が上がって町はお祭り騒ぎだ。今夜は是非我が屋敷を使っていただきたい」

家人に用意させる、今夜はご馳走だ。

そう言ってスレイの返事もろくろく聞かず、セルゲイは再び神殿に戻っていった。枢機卿が殺害され、皇帝の身柄が戻った。本来ならばスレイ達にかまけている暇などないほど忙しい立場であるのだから当然の話だ。

しかし、去っていくセルゲイの後ろ姿に疲労の色は見られない。寧ろ颯爽とした足取りは、彼の抱いた喜びのせいだろうか。

「アリーシャ、ミクリオ」

彼の後ろ姿を目に焼き付けながら、スレイはすぐ側にいる友達の名を呼ぶ。

「オレ、強くなるよ。試練を越えて、秘力を手にして…どんな憑魔も浄化出来るようになってみせる。フォートン枢機卿みたいな犠牲をもう出さなくて良いように、セルゲイさんみたいな人の心に少しでも何か残せるように」

どんな壁にぶち当たっても、手を伸ばすことはやめない。最後の最後まで諦めない。そうすれば誰かに届くものがきっとある。

災禍の顕主を倒すだけではない、世界の穢れを祓うだけでもない。絶望に喘ぎ、穢れに飲み込まれそうな人々に寄り添い、手を取ること。そのために全力を尽くすことこそ導師の使命であり、スレイの夢への近道なのだ。

「手伝うよ、勿論」

「私もお供させてくれ」

既に日は傾き始め、足元の影が伸びている。その影に、格好の違う影が二人分寄り添う姿を見れば、自然と勇気が湧いてくる。

影の数は三つ。しかし多ければ多いほど、湧き出る勇気は大きくなるのは道理だ。

アリーシャの隣に一つ、ミクリオの隣にもう一つ。

スレイは四つ、五つと並んでいく影を目で追って、影の足元から地上に視線を移す。

「みんな…」

「青春してるねぇ、青少年?」

「どうでもいいけど、こういうのは全員揃ってる時にやってもらえないかしら?」

ミクリオの隣にはいつも通り腹の内が読めない笑みを浮かべたザビーダ、彼の反対側に憮然とした表情のエドナ。そしてザビーダの隣に立ったライラが一歩踏み出し、真剣な表情でスレイに向き合う。

「スレイさんの決めた道を進むために力を尽くすのが私の役目です。だからどうか、今日のことを忘れないでいてください」

「ライラ…」

どこかすがるような視線、言い募る言葉はまるで何かに祈るかのような響きを持つ。

「強くなると、そうなりたいと願った理由を忘れないで下さい。この先どんな困難が待ち受けていても、それさえ忘れなければ、きっと希望は拓けます。スレイさんなら」

ライラの過去に何があったのかスレイは知らないが、何も尋ねることなく頷いた。過去を話せない彼女を安心させる方法はきっと、自分が迷わず前を向くことだと、何となくだがそんな気がしたからだ。

「とりあえず、今日はセルゲイさんの家にお世話になろう。明日になったら、次の試練の遺跡を探しに行くよ」

スレイの言葉にアリーシャがやや緊張した面持ちで頷いた。ディンタジェルで見た遺跡の場所に関しては彼女にも伝えている。次なる試練の遺跡は彼女の故郷、ハイランド領にあるはずだった。

大丈夫か、とは問わない。それはアリーシャの覚悟に対する侮辱だ。

だからスレイはアリーシャに頷きで応えて、広場を抜ける通路へと歩き出す。

歓声に沸く町は、久方ぶりの夕日で赤く染まっていた。



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ロゼ改変過去編
この手に遺るは


この話におけるロゼの過去です。
物凄く改変激しいので、原作のままのロゼが好きなんだ!という方には向いていないと思います。

仲間になるキャラクターが敢えて暗殺者という道を選ぶ。それがどういう経験を下敷きにすれば違和感がなくなるかな、と考えて書きました。


 

―――いいか、団の人間は皆家族だ。こんなご時世だ。他人は誰も助けちゃくれねえ。だからこそ俺は家族を絶対見捨てない。だからお前も、自分の出来る精一杯で家族を守れ。それが出来るなら、風の傭兵団員として不足はねえよ。

 

 

今でも時折思い出す彼の声を、頭の中で反芻する。

ロゼを拾った男はこの荒んだ時代にあって、家族の情を振り撒く一風変わった男だった。

家族といっても彼と血縁関係にある者など誰もいない。殆どが流れ者の男達だったが、中にはロゼくらいの子供を連れて、災害で滅びた村から逃げ出してきた家族もいた。足手まといになりこそすれ戦力にはなり得ない彼らやロゼを、それでも彼は受け入れた。そうやって出来た団は大きく、絆は縒り合わされて固かったが、決して裕福ではなかった。

弱かったわけではない。寧ろ強かった。ただ食わせてやらねばならない人数が多すぎた。しかし粗末な食事に文句を言う人間はおらず、団の連中は荒っぽいながらも暖かかった。

辺境から流れてきた男達は、団長である彼の人柄に惚れ込み、朝夕欠かさず稽古をつけてもらいに群がった。かくいうロゼもその一人で、他の皆に笑われながらも幼い細腕にナイフを握っては稽古に励んだ。一年もすると周囲はロゼの非凡な才能に気付き一目置くようになったが、団長である彼はどんなにロゼが強くなろうが、大人になるまで後方支援を外す気はないと明言していた。

―――その頃には戦などなくなっていれば良い。

酒の席でぽつりと彼がそう言ったのを、ロゼは聞いたことがある。

戦場を駆け回り、命のやり取りで糧を得る今の暮らしを子供達にさせる前に辞めたいのだと、珍しく酔った口調で話していた。

そう、まさしく風の傭兵団は彼の家だった。

血縁は皆死んでしまったのだと、それだけは何かの折りに聞いていた。だから彼は手に入れた新しい家族を守ったし、子供達を慈しんだ。特に戦場から己が連れてきたロゼのことは、自分の娘だと称して憚らなかった。戦場になど出ず、幸せな生活を送ってくれたらと、そんなことを考えていることは何となくわかっていた。

―――その彼が、この様を見たら何と言うだろう。

ロゼは水瓶の中の己の手を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

瓦礫と化した遺跡の残骸、その地下の遺構に手をいれて作られたアジトには外が見える場所がない。代わりに瓦礫のど真ん中に隠されるように、訓練用の狭いスペースが設けてあって、汗を流す水瓶が据えられていた。周囲はうず高く積まれた瓦礫が視界を遮っているが、真上を見れば星と月が見える。閉塞した地下にいるのが嫌で、ロゼは仕事帰りにはいつもここに足を運ぶ。

光の屈折で歪んで見える手は夜目にも白い。昔から色白だと褒めてもらった手はしかし、つい先程までは真っ赤に染まっていた。

風の傭兵団が陥れられ、ロゼと数人を残して壊滅して三年。それは即ちロゼ達が暗殺ギルド「骨喰いの竜」に身柄を引き取られて三年が経ったということで、同時にロゼが初めて人を殺すために剣を振るってからそれだけの時が経ったことを意味していた。

骨喰いの竜はどこかの王家お抱えの暗殺者集団に端を発するらしく、その歴史は意外と古いらしい。もっとも、成してきた功績の殆どは文字にして残しておける類いのものではないから、ロゼが知っているのはギルドの大人連中が語る胡散臭い噂から得た情報だけだったが。 

王家の変遷と共に暗殺者集団はいつの頃か解体され、人殺ししか能のない溢れ者だけが残った。彼らが作ったのが、金銭と引き換えに人を殺すことを生業とする骨喰いの竜である。

それが何年前のことなのかロゼは知らない。しかし十年や二十年のことではないことは確実で、それだけの歳月をただ人殺しの技を伝えるためだけに費やしたのだと思うと目眩がしそうだった。

きっと王家から見放された彼らには、本当にそれしか無かったのだ。生きていく場所が変わっても、生き方を変えることが出来なかった。そういう己を認めたくなくて、人生に価値があったことを証明したくて、技を後世に伝えるために子供達の手を血に染めてきた。危険を伴う仕事だから、当然子供はどんどん欠けていく。団員の子供だけではとても足りないから、戦場や災害のあった場所を巡っては、孤児を拐って人殺しに育て上げてきたのだ。

そう、まさしくロゼのように。

風の傭兵団が壊滅し、残ったのはフィルとトルメのアン兄妹と、直前の任務で傷を負って下がっていたエギーユのみ。子供三人を連れ去られそうになって抵抗したエギーユは片足の健を切られてなお、協力するから自分も連れていけと食い下がり、今もその経験と頭脳を使ってロゼ達を支え続けてくれている。

アン兄妹は傭兵団では専ら炊き出しや荷物の管理を手伝ったいたから、武芸の心得は殆どない。彼等が連れてこられたのはロゼに対する保険、有り体に言えば人質にするためだった。

彼等を生かしたければ従えと頭領は言った。ロゼはその言葉に頷いた。

以来、ロゼの技は人殺しのために更に研ぎ澄まされることになった。己の手で命を絶った人間の数を数えるのは疾うに辞めた。そんなことは些末なことだ。

トルメ達風の傭兵団の生き残りはロゼに遺された最後のもので、守り抜くべき希望だ。例えこの手がどれだけ血にまみれようが、彼らが健やかに生きていけるなら構わない。

所詮人間などちっぽけな存在で、世界はどこまでも優しくない。ロゼが守れるのは小さな手の中にあるほんの少しのものだけ。他人の命など踏み台が精々、それ以上でもそれ以下でもない。

「これで…良いんだよね」

今はいない男に向けてそう呟く。

例えば彼が生きていたとして、今のロゼの姿を見られても責められることは無いだろうと思う。ただ確実に嘆くだろうとは想像がついた。彼はどんなにロゼが剣の才能に優れていても、最後まで戦場に立たせることを嫌がった男だ。

―――それでも。

「これが、あたしに出来る精一杯なんだよ。父さん」

トルメとフィルの居場所は知らされていない。エギーユは健を切られて以来戦うことはおろか、走ることもままならない。三人を連れて逃げることなど夢のまた夢だったし、安穏とした生活を望むにはロゼは手を汚しすぎた。

洗いすぎて水を含んだ両手を、水瓶から引き上げて眺める。既に元の白い色を取り戻した皮膚には、何の汚れもついていなかったが、それでも鉄錆の匂いがまとわりついているような気がする。日々の標的の顔などいちいち覚えてはいないが、誰を殺しても鮮血の色は変わらない。鮮やかな赤からどんどん黒く変わっていくその色こそが、ロゼにとっての殺人の記憶だ。

―――それでも、彼等がどこかで笑っていてくれるなら。

ふやけた両手を握り締めた時だった。

耳に届いた夜の静寂が乱れる気配と、このアジトでは滅多に聴くことのない足音の群れ。次いで乱暴に正面の仕掛け扉を開ける音がして、殆ど忍べていない気配が複数人分雪崩れ込んでくる。

暗殺者のアジトにはふさわしくない喧噪を聞きながら、ロゼはぽつりとつぶやいた。

「そういえば、今日か…」

別の場所にある訓練所で鍛えられた新たな暗殺者達。その殆どが十五に満たない子供達で、彼等はある程度の技を叩き込まれると問答無用で「任務」に送り出される。行かなければ勿論、相手を仕留められないまま戻っても殺される。勿論、下手を打って捕まっても放置されるだけ。彼等が生き残るために採れる選択肢は一つしかない。

そうやって己の手を血で染めて、もう戻れない道に踏み込んで初めて彼等はアジトに迎え入れられる。初仕事を成功させるまで、彼等にはアジトの場所も幹部の顔も教えられない。例え捕まっても話すことが出来ないように。

その初任務が今日だったのだ。そういえばそんなことを朝誰かが言っていたような気がしていたが、すっかり失念していた。

裏庭代わりの瓦礫の隙間、その隅に隠された扉から地下に降り、仕掛け錠を開けて中に入ると、アジトの中は騒然としていた。

ランプに使う油の燃える匂いが鼻をつく。月明かりに慣れた目には、質の悪い濁ったオレンジ色の灯ですら明るく、狭い部屋の一角に群れる子供達の姿は薄ぼんやりとした固まりに見えた。目が慣れるにつれてそれらの輪郭がはっきりし、剥がれかけた石のタイルを背景に、ひしめきあう子供達の姿が見えてくる。

ロゼは何となく彼等の顔を見回して、見つけた顔に息を呑んだ。

子供達は皆初めて人を殺したことに動揺しきっていた。意味のない喚き声を上げる者、呆然自失としている者、或いは狂ったように笑う者すらいる中で、ロゼが目にした二人は比較的平静を保っているように見えた。

「うそ…」

呟いた声は震えていた。

無意識に一歩進んだ足音は、最近では自分でも滅多に聞かないほど大きなもので、怯えた子供の何人かの目が一斉にロゼに向いた。

ロゼを認めた何人か、その中には例の二人も混じっている。彼等はどこか虚ろだった垂れ目を和ませて、二人同じタイミングで口を開いた。

「ロゼ」

「フィル、トル…なん、で…」

行方の知れなかった家族との再会。普通ならば感涙を以て迎えるべき情景だろう。―――彼等の手や顔が返り血に汚れていなければ。

駆け寄ってきた二人の手を掴んで、ロゼは元来た道を早足で戻る。通路を抜け、狭い階段を後ろ手でフィルの手を引っ張りながら登り、仕掛け扉を蹴り開ける。そうして出た中庭の、たった今まで自分が傍らの立っていた水瓶の傍らに二人を押しやり、ロゼはフィルの右手とトルメの左手を握って水瓶に突っ込んだ。

「なんで…なんで?!」

水に溶け出す赤色は、ロゼにとっての殺人の色だ。この二人とは金輪際無縁である筈だった色で、そのためにロゼが染まることを選んだ色だ。

―――それなのに何故。

手首まで散った飛沫を擦って落とす。二人の片手が元の色を取り戻したのを確認して、もう片方に手を伸ばす。

「ロゼ」

呼んだのはどちらだったか。それはわからなかったが、ロゼの手を制したのはトルメだった。

「もう良いから」

「良いって何?何が良いの?!」

「ロゼ」

所々ひっくり返ったロゼの声を遮って呼んだのはフィルだ。

ロゼが呆然と彼女を見上げると、フィルは複雑な感情を詰め込んだ笑みを浮かべながら、ロゼの襟元を指差して一言。

「お揃い」

血にまみれた指で指された場所に目を落とせば、今日の仕事の時に跳んだのだろう、白いシャツに小さなシミがついていた。

既に黒に変じた液体は、確かに二人の手を染めているそれと同じものだ。

「私たちもおんなじだから。だから一緒にいるよ」

「一人じゃない。家族だろ、僕達」

彼等はロゼの傍にあるために、此方側に堕ちてきてしまったのだ。

笑っていて欲しかった。他には何も要らなかった。

例え二度と会えなくとも、どこかで彼等が元気にやっていると信じていれば、どんな酷い事にだって耐えられた。

それなのに、彼等の言葉に微かに安堵している自分も確かにいて、その事実にロゼは愕然とした。

だって、独りは怖かった。

エギーユは任務に駆り出されるロゼをよく助けてくれたし、労ってもくれたけれど、もう早くは走れない足を持つ彼は共に任務に出ることは無い。他の子供はロゼの足手纏いにこそなれ助けにはならなかったし、既に長い時を暗殺組織で過ごした大人は信頼するに値しない。だから闇に立つロゼはいつだって孤独だった。そんなものは平気だと、ずっと自分に言い聞かせてきたけれど、悲しみは自分でも見えない心の底に澱のように溜まってはロゼを苦しめた。

その孤独が、今日で終わる。

もう独りで血を被らなくていいのだという昏い歓び。そして何よりも、三年も離れていた彼等がまだこんなにもロゼのことを気にかけていてくれたという事実が、ロゼの心を慰める。彼等の置かれた状況を思えばどうしようもない罪悪感が圧し掛かるが、それと同じくらい喜びも大きい。

結果、ロゼの胸中を支配したのは、悲しみだとか苦しみだとか喜びだとか、そういう単純な一言では表せない、よくわからない複雑なものだった。

「…ばーか」

顔は笑っていたが、吐き出した言葉は震えていた。

トルメとフィルはロゼの冷え切った手を取って、体温を移すようにぎゅっと握り締めてくれた。

 

 

「眠りよ、康寧たれ」

幾度となく標的の傍に刻んだ文言を唱えて、ロゼは短刀の柄を持つ手に力を入れた。

肋の間を通って確実に心臓に突き通った刃を捻れば、頭上で男が奇妙な声を上げる。彼は信じられないものを見る目でロゼを見下ろしていたが、それも寸の間のことで、みるみる内にその目は力を失って、ただの濁ったガラス玉のようになっていった。

ロゼは返り血を浴びないよう、完全に心臓が停止したのを確認してから、男の正面から体を退かして短刀を抜く。背後ではフィルとトルメが同じように獲物から短刀を引き抜き、飛沫を払っている気配が伺えた。

返り血を浴びない刀の抜き方も、一撃で獲物をしとめる方法も、この男から叩き込まれた。後ろの二人だって、それぞれ手厳しく仕込まれたのだろう。あの頃はあんなに大きくて絶望的な存在に見えたのに、今となってはこんなにも呆気ないのかと、地面に木偶のように転がった躯にある種の衝撃を受けた。

「さ、もう大丈夫。怪我は?」

振り向いたロゼの言葉に、肩を震わせたのはロゼよりも幾つか年下の少女だった。長い黒髪を乱れさせ、涙と埃で顔をぐちゃぐちゃにした彼女は、縋るようにロゼの顔を見上げてただ首を振る。

彼女はフィル達よりも半年程遅れてギルドに連れてこられた。他の子供と違うのは、医者の両親を持っていたせいで薬剤の知識に長けており、調剤や治療のための人材として連れてこられた点で、このアジトで唯一己の手を人の血で汚したことが無い人間だった。歳は十四。幼いながらも薬剤の知識は大したもので、彼女の両親がいかに熱心に彼女に自分達の技を伝えたのかが窺い知れる。ロゼやフィル達も幾度となく彼女の薬の世話になった。

その彼女に突然暗殺の命令が下ったのが今朝のこと。勿論、彼女の作った薬はもう何度も標的の息の根を止めていたが、それを相手に盛るのは別の人間の仕事であり、今まで彼女自身が手を下したことは無かった。一通り実技の訓練も受けたようだが、現場に行かせるよりもアジトで裏方に徹していた方が効率が良かったせいである。

突然の命令に彼女は戸惑った。統領の命令に咄嗟に首を横に振ってしまった。そこが運命の分かれ目だった。

ロゼがアジトに来て既に六年。フィル達がやってきてから数えても三年。任務で死ぬ者はいても、任務を拒否して殺される者はいなかった。任務を拒否すればどうなるか、訓練場で彼等は既に学んでいたからだ。

同じ場所で暮らし、同じ苦しみを分かち、同じ罪を背負って生きてきた。このアジトの子供たちはロゼにとって既に他人ではなくなっていた。そして彼等もまた、幹部達から一目置かれているロゼが、幹部の大人とは違って自分達を単なる駒として見ていないことに気付いていた。だから多くの年下の少年少女達はロゼを慕って頼ってきたし、同年代の子供達はロゼを信頼して背中を任せ、悩みを打ち明けた。目の前の少女も、本来は人を救うはずの技が他人を殺している苦悩を、包み隠さずロゼに打ち明けては涙にくれた過去がある。

今やロゼはこのギルドの若手のリーダーといっても良い存在で、だから彼等を簡単に手にかけようとする統領の行動を黙って見過ごすことは出来なかった。

彼女に向かって武器が振り上げられた瞬間、ロゼの体は勝手に動いていた。そしてロゼに呼応してフィル達も動いた。既に人として盛りを終えたギルドの幹部達と、幼い頃から殺人の基礎の基礎を叩き込まれて育ち、今まさにギルドの仕事の大部分を担っている年長の子供達。幼い頃から与えられていた恐怖の記憶に縛られさえしなければ、既にロゼ達若手の腕は彼等を凌いでいたのだ。相手を排除してからその事実に気付くとは、何とも間抜けな結末ではあるが。

「…何してたんだろ、あたし」

「ロゼ…」

「こんなに、簡単だったのに」

もっと早くに解放してやれた。連綿と続く殺人ギルドの頸木から彼等を解き放ってやることがロゼにはできた。それなのに今の今まで手を拱いて、現状を諦観と共に受け入れているだけだったとは。

ロゼは騒ぎを聞きつけて集まっていた仲間達を見回した。人垣の中にいた何人かが、ロゼの意を汲んで三々五々に散っていく。アジトの見張りや金勘定でこの場にいない幹部も、これで間もなく全て排除されることになる。

ロゼは呆然と死体を眺めている少女の傍に膝をつき、乱れた髪を撫でつけてやりながら微笑んだ。

「もうこれで、あんたは自由よ。その知識と腕を、本来の目的のために使いな」

「ロゼ…でも、私は…ひ、人を殺すために…」

「それはあんたのせいじゃない、忘れな。罪は全部、この男が地獄に持って行ってくれるよ。それが統領の役目だからね」

ふっ、と少女の口から堪えきれない嗚咽が漏れる。両手で顔を覆って泣き崩れる少女の肩を一つ叩いてから、ロゼは周囲を囲んだ少年少女達に向けて声を張り上げた。

「聞いての通りよ!今日を以てギルド『骨喰いの竜』は解散する!あたし達みたいな根無し草に真っ当な生き方は今更難しいと思うけど、それでも暗殺者よりはマシな生き方がきっと出来る!困った事があるならあたし達が…」

そこでロゼは言葉を止めた。否、続ける言葉を見失ったという方が正しい。

人垣からロゼを見上げる多くの視線。それは良い。そのためにロゼは言葉を発しているのだから。

しかし、希望と不安が綯い交ぜになった複雑な視線の他に、明らかに落胆の視線が混じっているのはどうしたことか。

決して多くはない。しかし僅かと言うにはその数は多い。

部屋の隅に固まって、ひそひそと言葉を交わし合う子供の数は十人足らず。彼等の傍に歩み寄って、ロゼは震えそうになる声を抑えて問うた。

「あんた達…何を…?」

「つまんねえって言ってたんだよ。だってもう人殺せないんだろ?」

そう無邪気な声で言ったのは、ギルドの中でも最低年齢層の子供の一人。一年程前に初仕事を終えてアジトにやってきた少年だった。

アジトの土を踏んだ時、彼はわあわあ泣いていた。人殺しなんかしたくない、これはダメなことだと。幼いなりに持っていた道徳観を踏みにじられた事に、これ以上無い程打ちのめされていた。

「楽しいのにね?何でみんな辞めたがるの?煩い大人が静かになるの、楽しいよね?」

鈴を振るような声で言ったのは、フィルやトルメと一緒にやってきた少女。彼女とて初仕事の後は、呆然自失の体で血にまみれた両手を見下ろしていた。

くすくすと含み笑いながら漏らす彼等は誰もかれも、人を殺した事実に傷つき、打ちのめされていた子供達の筈だった。ロゼが覚えている限り、人一倍心優しく、己の所業に絶望していた子供達だったのに。

―――嗚呼、全部遅かったのだ。

昏く笑う子供達を見下ろして、ロゼは絶望的な気分で悟った。

人の命を当たり前のように奪う暮らしの中で、彼等は血の匂いに酔い、疾うに壊れてしまっていたのだ。優しく弱い彼等は、壊れなければ生きていけなかったのだ。

―――本当に、何をやっていたのだろう。

唇を噛んで俯いた。

もっと早くに解放していれば、彼等は彼等のまま、残酷ながらも自由な世界に飛び立てたかもしれない。しかし、こうなってはもう遅い。

彼等は既に自由に世界を駆け巡ってはいけない者になってしまった。

「ロゼ…」

ロゼに寄り添うように並んだフィルとトルメが気遣わし気な声をかけてくる。両腕に感じる彼等の体温だけが、足元から絶望の穴に沈み込んでしまいそうなロゼを地上に繋ぎ止めてくれた。

「ねえ、フィル、トルメ…ごめん」

「大丈夫、わかってるよ」

「一緒って言ったでしょ」

詫びる言葉に帰ってくるのは笑みを含んだ温かい声。申し訳なく思いながらも、それでも今はその声が涙が出るほど頼もしかった。

ロゼは決意と共に顔を上げる。

「『骨喰いの竜』は今日を以て解散する!暗殺者の道を望まない人間はここを出ていきな!幸運を祈ってる!そうでない者は…」

一旦言葉を切る。震えそうになる声を気合いで抑え込んで、腹の底から声を張り上げた。

「暗殺ギルド『風の骨』のメンバーとして迎え入れる!!統領はあたしだ!文句は無いね?!」

家族を守ると決めた。そしてこのギルドの子供達は既にロゼの家族だった。普通の道を歩けない家族を、見捨てることはロゼにはできない。

無理やり止めた所で早晩彼等は殺しに走る。それも欲望に駆られた、無差別な殺しに。理性を失った殺しの足跡を辿るのは容易い。やらかせば彼等はあっさりお縄になり、法の名の下に命を奪われることになるだろう。こんな世の中だ。そんな光景は嫌と言うほど見てきた。

ロゼは彼等が壊れるのを止められなかった。だからせめて、彼等が生きていける場所を守る。それが他人を殺す道であっても、他に方法が無いのなら迷わずにロゼはその道を採る。

―――ごめん、父さん。でも、これがあたしの精一杯。

統領として、全ての罪はロゼが背負おう。血に酔った彼等が何かの折に正気に戻っても、己を殺すことが無いように。ロゼの出来る精一杯で家族を守ろう。

喜びに声を上げる者、不安を漏らす者、ロゼ達の身を案じる者。

ざわめきの海の中、ロゼは静かに目を閉じる。脳裏に浮かぶのはただただ大きい男の背中。

背を向けた彼がどんな顔をするのかはわからない。それでも彼はどんな状況になっても家族の手を離すことだけはしなかった。

どうか力を貸してください。

傍らの双子の手を握り締めながら、ロゼは彼の意に反しているだろうことを承知で、理不尽な願いを記憶の中の男に投げかけた。

 

 

**********

 

 

「へえ、今度の標的は王族の姫様…って大丈夫なの、これ?」

依頼書に目を通しながら、ロゼは依頼処理全般を請け負っているエギーユにロゼは疑問を投げかける。標的を決めるまではエギーユの管轄だから、実際に動き出すまではロゼの仕事は余りない。最終的に依頼を遂行するか否かの判断はロゼが下すものの、エギーユの選別に文句があることの方が少ないので、今も長椅子に寝転がりながらの脱力モードだ。

「政権争いになんか巻き込まれるとかごめんだよ?」

「ああ、それな。今から詳細調査に回すが、ざっと調べた感じは大丈夫そうだ。その依頼書にも書いてある通り、孤立無援の姫様らしくてな。両親は既に死亡、一人武術の師匠がいるそうだが、そいつも依頼人が押さえつけておける程度の地位だそうだ。報酬は破格だし、何より後腐れが無い。…どうする?」

「…正義感に厚く、民衆への施しや被災地域の救済策を熱心に推し進める姫様ね。…可哀相にねえ、日陰者らしくしてりゃ、あたしらみたいなの雇われなくても済んだのに」

エギーユがざっと拾った情報に目を通しながら、ロゼは胸に巣食う不快感に目を細めた。

調査と呼べるほどのものではなく、手持ちの記事や記憶の中から列挙しただけの情報の切れ端。それらのいい加減の情報ですら、彼女がいかに虐げられ虐げられして、それでも健気に公への利益を追求するために立ち上がってきたのか語っている。

悪い噂は無い。しかし期待しているような物言いも確認できなかった。つまり志は清廉だが、本当に実権が無いのだ。王族という名前しか持っていない彼女は、主流とは異なる血筋故に私兵すら碌に持っていないらしかった。これなら警備も薄いし、さぞかし仕事もやりやすかろう。

「…自分の手に負えないことに首突っ込むからこんな事になるのよ」

「何か言ったか?お嬢」

「ううん?別に?良いんじゃない、この依頼」

未だにエギーユの中ではロゼは「お嬢」だ。彼の中ではロゼは風の傭兵団の小さなロゼのまま。そんな彼の態度は嫌では無いが、それでも過度に心配性気味なところは承知しているから、ロゼは殊更何でもない風を装った。

知られたくなかった。アリーシャという名の彼女の眩しい程の潔白さに、ロゼが抱いた思いを。

ロゼと双子を守り切れずに暗殺ギルドに連れ去られたことを、未だに彼が気にしていることを知っていたから。

ロゼは依頼書を折りたたんでエギーユに放り投げ、彼に詳細調査を申し付けて長椅子を下りた。

「お嬢、どこ行くんだ?」

「散歩。昼までには戻るよ」

短く言って後ろ手に手を振る。

アジト代わりにしている遺跡の薄暗い廊下を速足で歩きながら、外へ通じる出口を目指した。

何だか無性に空が見たい。何故だかそんな気分だった。



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地の試練改変編
悠久なるは 1


地の試練編。
イメージとしてはRの試練みたいな感じですかね。
各々の過去やトラウマと向き合う形で乗り越え、更にボスを倒すとクリア、みたいなイメージです。
この話ではアイゼンが登場しますので、ベルセリアプレイ済の方は、Bの彼とはまったくの別人だと思ってお読みください。
特に以下の点にご注意願います。

*アイゼンにかつて人間の恋人がいた
*ドラゴン化には彼女の死が大きくかかわっている
*恋人がオリキャラとして登場


 

―――『だめよ。それでは結局誰も幸せになれないもの』

 

凛とした声、伸びた背中。

彼女が語る理想はいつも眩しく、追い続ける姿は憧れだった。

あんな女性になりたいと、それがささやかな夢だった。

 

しかし、今となっては語るのも虚しい。

彼女の理想も、自分の夢も、もう叶うことは無いのだから。

 

 

***********

 

 

「駄目です。それでは誰も幸福になどなれない」

凛とした声でそう言った彼女は、項垂れる老人を真っ直ぐ見据える。その目はただただ真摯なだけで、過ちを知りながらもその道を行った愚かな男を、決して責めてはいなかった。

「その薬で一時危機は乗りきれても、それは長くは続きません。貴方程の方ならおわかりでしょう。今はまだ一部の貴族の間で流行するに止まっているその薬は、やかて必ず国の基もといを揺るがす脅威になる…。万能を謳うたった効能を信じて、藁にもすがる思いで薬を得る者もいるでしょう。そうやって中毒になった者が増えればどうなるか。貴族にとってすら、決して安いとは言えない薬です。依存した貴族が薬のために租税をあげようとすれば、民草は貧困に喘ぐことになります。浅い考えで手を出した者は必ず後悔する。教会の名で売っているとはいえ、教会は巨大過ぎて歯向かえない。ならば民の、そして貴族達の恨みはどこに向かうか…」

言いながら彼女が視線を投げたのは、無邪気に遊ぶ子供達。小さな校舎の前で、鬼ごとをする彼らは心底楽しそうに見えた。

アリーシャの視線を追った老人は、彼等の笑顔を見て表情を歪める。

彼とてわかっているのだ。今この時を凌ぐために、薬の生産を続ければ、あの子達がいずれ恨みと欲にまみれた暗い道を歩まねばらならなくなる。生産地を伏せたとしても、流通には人を介すのだ。永遠にばれないでいられるわけがない。

貧困と飢えで徐々に首を絞められるか、人の運命を狂わせる薬に食い潰されるか。彼の目の前に提示された道はその二つで、彼は後者を選んだ。例えその選択肢が顔も知らぬ誰かの運命を狂気の底に叩き落とし、やがては愛する子供達を破滅に追い込むとしても、今目の前で痩せ細っていく子供達を見過ごすことが出来なかった。

その情を愚かと笑うのは容易い。本来ならば教会から背を向けた教皇に、彼らにしてやれることなど何もなかったのだと、したり顔で語ることは誰にでも出来る。

しかし、彼等はそうしなかった。

「セルゲイさんに頼めないかな…?」

考える風な様子でそう言ったのはスレイだった。

「セルゲイ殿に…?確かにここはローランス領ではあるが、国全体が天候不良で収穫量が芳かんばしくない。このような人口の少ない村の保護をお願いしても、聞いて下さるかどうか…。第一、セルゲイ殿は騎士団長。政の権は現在教会が…」

言葉を途切らせたアリーシャが悔しそうに俯く。

セルゲイははっきりとは語らなかったが、教会が皇帝の身柄を押さえているのは、ほぼ間違いないだろう。だからこそ、セルゲイの弟のボリスは、危険を承知で枢機卿の懐に忍び込んだのだ。

そう言うアリーシャに、尚もスレイは食い下がる。

「教皇様を探してくれって言ってたのはセルゲイさんだし、戻るとなったら協力してくれるんじゃないかな?それにここ、重要な遺跡だってあるんだし!」

「しかし帝国ににおいて皇帝は絶対だ。不当に皇帝を拘束している証拠でもあれば別だが、今の段階では騎士団よりも教会が圧倒的に有、り…」

そこまで言ってミクリオは不意に何かに気付いたように目を見開いた。そして彼の勘づいた何かにはアリーシャも気づいたようだ。両の手を打ち合わせて大声を上げる。

「そうか!それで良いんだ!」

「スレイ!君のアイデアは突破口かもしれない!!」

「へ?」

ほぼ同時に叫んだ二人は、音を立てそうな勢いで老人の方を振り返る。

元教皇だった男―――即ち、この間まで教会のトップだった男の顔を。

「この村の保護するとしたら、その名目は遺跡の保全!導師に所縁のある遺跡を守るためならば、動くのは皇帝ではなく教会の側であるはず。導師を憎む枢機卿ならば、遺跡の存在を知ったとて帝国に保護の要請は出さないでしょうが、貴方ならば…!」

そこで一旦言葉を切って、アリーシャは老人の目を見つめた。

「スランジ村長…いえ、マシドラ教皇様。民のために、今の全てを棄てる覚悟はおありですか?」

教会に戻っても、今更元の椅子には座れない。彼には己を慕う派閥があるから、要請自体を通すことは可能だろうが、一度権に背を向けた者がそのまま何事もなく過ごせる程、あの場所はきっと甘くない。

しかし、アリーシャを見返す老人の目は、今までにない力強い輝きを秘めていた。それは権力闘争に疲れ、家族の愛に見放された哀れな老人の目では最早無い。

「無論ですとも。ここで再び家族を見捨てるくらいならば、この老いぼれ、潔く死を選びましょう」

「死って…そんな…」

「…決して大袈裟ではありませんわ。偽エリクシールは既に多くの貴族が手を染めている。元々教会の名を騙って売っていた薬です。生産ラインさえ押さえてしまえば、これからの教会にとって貴重な収入源になり得ます。この村を守るつもりなら、薬の生産は辞めねばならない…となれば、必ず邪魔をしようとする人間はいるでしょう」

「利権ってもんが絡むと、人間はいくらでも汚いことをやるもんだ。昔っからちっとも変わらねえ」

ザビーダが吐き出すように言った言葉に、アリーシャが唇を噛む。彼女はザビーダの言ったことが真実であることを、誰よりも身に染みて知っている。

「薬の精製法を聞き出すためならば、拷問すら辞さない輩もいるだろう…。もし教皇様が敵の手に落ちて材料の赤精鉱の鉱脈がこの地にあると知れれば、強行手段に出ても可笑しくない。接収されるか、最悪村人に精製をやらせるかもしれない。そうなればこの方が必死で守ってきた人々は…」

言い淀んで、アリーシャはちらとその視線を老人に向ける。この病んで痩せた老人に、この村の住人の命を賭けるしかやりようが無いこと、自分が彼の何の助けにもなれないことを、酷く憤ろしく思っているようだった。

彼女はよく知っている。権力を握るものの傲慢さ、冷酷さを。そしてそういう人間と戦うことの難しさを。

そして、純朴故にそこまで想像していなかったであろうスレイは、狼狽した風に首を振る。己の命を賭けることには躊躇いの無い彼も、ことが他人のこととなると途端に慎重になる。

「そんな…。ごめん、オレそんなつもりで言ったんじゃ…」

「良いのですよ。いえ、寧ろ感謝したいくらいです」

過酷な運命を突きつけられながら、しかし微笑む老人の顔は穏やかだった。

「その手段を思い付かなかったわけではなかった。しかし、最早何の後ろ楯も無い私が、一人でペンドラゴに帰りつけるわけも無いと諦めていました。あの町は彼女の膝元、邪魔者が戻ってこようというのをみすみす見逃すはずがない。勿論、セルゲイは信頼するに足りる男ですが、私が内密に連絡を取ったと万が一にでも知られれば、背徳者として処罰されるでしょう。だからあの街には戻れないと、そう思っていた…しかし」

縮んだ老人の、ほんのわずかスレイを見上げる目は強い。

「貴殿方と共になら、私はきっとあの街に帰ることが出来る。そこから先は私の責任、私の戦いです。ご迷惑をおかけしますが、どうかそこまでお付き合い頂けますかな?」

「そんな!オレ達も一緒に…!」

「導師スレイ、お気持ちはありがたい。しかし、あの薬はそもそも私の罪なのです。彼女が言ったことは事実、それは私にもわかっていた。そもそも私が教会から逃げ出さなければ、もっと違った方法で彼等を救えた。己の責任を放り出し、重圧から逃げ出し、喪失を拒んで重ねた私の罪、どうか雪そそぐ機会を頂きたい」

「村長さん…」

「命に代えてもこの村は守ります。それがこの老いぼれに残された最後の役目です」

言い募るスレイの言葉を制して老人は笑う。諦めた風ではない、自棄になった風でもない、穏やかながら強い意思を秘めた笑みだった。

「どうか、道中の守りはお願い致します。代わりと言ってはなんですが、碑文の内容はお教えします。それ以外私が出来ることなどなにもありませんが、あの石板の言葉が導師の旅路を照らす希望となることを祈ります」

「…必ず、送り届けます」

最早何を言っても彼の決意は揺らがない。それを悟ったスレイはスランジの言葉に頷いて、真摯な言葉と瞳で彼に応える。導師の傍に付き従う少女もまた、槍の石突を地面に立てて敬礼した。

「私も出来うる限りの助力を致します。…騎士の名にかけて」

真っ直ぐな視線を真正面から受け止めたスランジは、暫しアリーシャの顔をじっと見つめた後、得心したように頷いた。

「…良い目だ。曇りの無い、真っ直ぐな。この時代に貴方のような方がいることは、貴方の故郷に取っては幸運でしょうな。――ハイランドが往時の姿を取り戻すことも、不可能では無いとそう信じられる」

「え…?」

教会神殿はローランスの組織ではあるが、その教えはハイランドにでも広く愛されている。アリーシャもその一人であることは、導師に関連した聖剣祭を復活させようとしていたことからも明らかだ。

恐らく、スランジは過去に何らかの祭事に参加していたアリーシャを見る機会があったのだろう。教皇だった彼ならば、それは不自然なことではない。

現在アリーシャは故郷から追放された身、易々と正体を明かして良い立場ではない。

しかし、それを知ってか知らずか、スランジはそれ以上を語らなかった。ただスレイに向かって付いてくるようにだけ促して歩き出した彼の背中を見つめるアリーシャが何を思うのか、それは知らない。

飾らない言葉で、直向きな態度で、スレイとアリーシャは一人の男の心を動かした。とりわけ国を想い、民を案ずるアリーシャの言葉は、彼を動かしたように見えた。

「…弱い癖に」

一言も発することなく状況を見ていたエドナは、スランジの後に続くアリーシャの背中に向けて、ぼそりと小さく罵声を吐く。

弱い癖に。一人ではただ押し付けられた運命を享受することしか出来ない癖に。そしてそれを嫌というほど知っている癖に。

無力を嘆く姿を知っている。与えられようとした死に、ただただ運命を呪った姿も。

エドナがアリーシャと知り合ってたかだか数ヶ月。エドナと出会う以前にも、アリーシャは何度も何度もそうやって泣いたに違いない。

―――それなのに。

「素直に諦めれば良いのよ」

無駄に抗うから傷つくのだ。夢を見ることなく、身分相応の行動を取っていたら、そもそも命を狙われることなどなかったし、国を追放されることもなかった。

「本当、バカみたい」

聞こえないのは知っている。

アリーシャだけではなく、仲間は皆スランジとスレイの後を追って、岩穴に入ってしまった。こんなところでぐずぐずしているのはエドナだけだ。底抜けにお人好しな連中だ。このままここで佇んでいれば、程なくエドナを心配して戻ってくるだろう。

しかし、それでも今は追いたくなかった。

―――『人は弱いわ。だからこそ足掻くの。短い生だからこそ、やり直せないからこそ、全力で生きるの、夢を見るのよ』

スランジを説得するアリーシャの背中は、そう言った彼女と余りにも似ていた。

「…だから嫌いなのよ、人間なんて」

俯いて足元の小石を蹴る。

蹴られた小石は無造作に転がり、緩やかな坂に沿って速度を上げたかと思うと、終いには崖から転がり落ちていく。その様を、エドナは黙ってじっと見つめていた。

 

 

その夜は村の宿に部屋を取った。 そう伝えられる遺跡では、導師の秘力を得るための試練が待っているらしい。スランジはスレイ達が戻ってくるまで待つと言った。再び教会に戻りマシドラを名乗れば、二度とこの村の長には戻れない。殊更事を荒立てる必要は無いけれど、引き継いでおかねばならないことはある。村長として最後の仕事をしながら、スレイ達の帰りを待っていると。

スレイは一人宿の外に出て、荒涼とした景色を見渡した。

深夜、月と星明りしか光源の無い闇の中、ごつごつした岩山の稜線が黒く浮き上がるように見えている。

同じ山でもイズチとは大違いだ。麓を緑滴る森に囲まれ、風にそよぐ草の寝が絶えず聞こえていたあの山には、命の気配が溢れていた。

対して、ゴドジンを取り巻く岩山は、固い岩石を剥き出しにし、生命を拒んでいるようにも見える。

―――ここで、彼らは生きてきたのだ。

その道のりの険しさを思うと目眩がしそうだった。

草木も生えない、勿論作物も育たない。山に住み着くのは憑魔の他は、精々岩穴に巣を構えるアナウサギくらいのもの。ウサギとしても小型な彼らは、例え捕らえたとしてもまともに肉などついていない。

貧しさに蝕まれながら懸命に生き、そんな状況にありながら傷ついて倒れた老人を受け入れた。

スランジが罪を承知で村のために薬を作った理由を、理解できないと言えば嘘になる。

もしもその窮状がイズチのものであったなら。スレイならば愚かな過ちを犯さないと言えるのか。そもそも貧富の差など生活に関係無い天族と人間とを単純に比べるわけにはいかないにしても、そう考えずにはいられない。目の前でジイジやミクリオが飢えに喘ぎ、貧困故の病に苦しんでいたなら。それが他人を絶望に突き落とすとわかっていても、目の前の薬に手を伸ばしてしまうのではないだろうか。

だって、イズチはスレイにとって唯一の場所だった。戦災孤児で親の顔も知らないスレイを受け入れ、育ててくれた温かい故郷。家族の愛を失った老人にとって、ゴドジンはスレイにとってのイズチと同じ、無二の居場所だったのだろう。

だから薬の製造を見逃してくれとスランジが言ったあの時、スレイには何も言えなかった。故郷を失いたくないと足掻く彼の気持ちが、痛い程によくわかったから。

しかし、アリーシャは違った。

「…王族、なんだもんな」

凛とした眼差しを思い出しながら、独りごちる。

故郷を想う心は彼女も同じ。それはスレイが誰よりも良く知っている。しかし、アリーシャは故郷を想うスランジの行為を正しくないことだと諭した。今が良ければ良いのか、未来が欲しいのならば命を賭しても動くべきではないのかという彼女の問いは、己が暗殺の危機に晒されても揺るがない、王族として国を導く覚悟があるからこそ出たものなのだろう。

戦争は避けたいのだと言ったアリーシャの横顔を思い出す。その願いの先にあるのは、何百、何千という人の命。それはイズチという閉じた空間で、殆ど死というものに触れてこなかったスレイにとっては想像も出来ない重みだった。

スレイが知る限り、イズチで死者が出たのはマイセンが唯一。あの時の足元が沈むような感覚は今でも鮮明に覚えている。目の前で食われるマイセンのために何もできなかった自分が悔しく、あの日を思い出す度にミクリオと訓練する剣に力が入る。

たった一人ですらそうなのに、民の命が無為に失われ続ける災厄の時代を生きてきたアリーシャは、国での日々をどんな思いで過ごしたのだろうか。周囲に嗤わらわれながらも、未来のために伝説の細い糸を手繰って導師を求めた彼女の想いはどんなものだったのだろう。

「凄いな…アリーシャも、スランジさんも…」

それほどに重いものを背負っていながら、尚も前を向ける。重圧の中で戦ってきたからこその強さは、きっと今のスレイには無いものだ。

感嘆の念さえ込めて呟いた時だった。

「凄くなんて無いわ。他の生き方を知らないだけよ」

「エドナ?」

どこか冷ややかにすら聞こえる声に相応しく、突然表れた彼女の表情は硬い。金の髪を夜風に靡かせながら、エドナはスレイの隣に立って剥き出しの岩山を一瞥する。

「こんな場所にしがみつかなければ、そもそもあんな薬を作る必要はなかったのよ。維持出来ないなら捨てれば良い。それが嫌なら飢えるしかないわ。だって人間はこんな痩せた土地で生きるには貧弱過ぎるもの」

「そう簡単にはいかないよ。皆ここで産まれてここで育ったんだ。故郷を簡単には捨てられない。それに、都に出たって成功する保証もないし」 

「ここで生きる能力も無いくせに、無いものねだりする方が悪いわ。自分で叶えられない望みなんて、所詮身分不相応なの。飢えるというなら、それが当然の結末だわ。なのに勝手に全員の命背負ってる気になって、夢物語のために命を賭けるなんて、馬鹿げた話」

「エドナ…?」

吐き捨てるようなエドナの声にいつになく頑なな響きを聞いて、その珍しい事態に、スレイは思わず岩山を睨むエドナの顔を凝視する。

基本的にエドナは相手に対して言葉を選ぶということをしない。舌鋒鋭く相手を叩き伏せる言葉は、いつも容赦は無いものの、極めて現実的だ。エドナが人間というものに何か複雑な感情を抱いていることは確かなようだったが、それでも殊更人間に厳しいということはなく、彼女の言葉は理性的で、誰にでも平等に厳しかった。

しかし、今のエドナは理性的とはほど遠い、苛立ちも露な表情で、夜闇の向こうを睨み付けている。彼女の目線の先には裸の岩山。しかし、スレイには、彼女が闇の彼方に何か別のものを見ているような気がしてならなかった。

「なあ、エドナはどうして人間が嫌いなんだ?」

ずっと気になっていて、それでも今まで訊けなかった疑問を口に出す。

その問いの答えこそが、彼女が見つめる闇の正体であるような気がしてならない。そしてそれはきっと、彼女が愛してやまない兄がドラゴンと化してしまった事と無関係ではないのだろう。

今まで触れないようにしてきたエドナの傷に触れる問い。意を決して発したスレイの質問に、しかしエドナは答えなかった。彼女はただ夜風に吹かれる髪を鬱陶しそうに払いのけながら、目線を合わさずにただこう言っただけだった。

「目を離さないことね、あの子から。でないときっと、後悔することになるわ」

「それってアリーシャの…」

アリーシャのことか、と問おうとしたものの、エドナの姿は既に無い。小さな光点となった彼女は、星の瞬く夜空に溶けるように闇の中を揺蕩い、やがてスレイの視界から消えて行った。

 

 

湯を使って髪を洗い、身体を拭ってからアリーシャは何となく宿の外に出た。

穢れの漂う村は、澄んだ空気とは言い難い。しかし、一時のレディレイクやマーリンド程ではなく、夜空を見上げれば星の瞬きもよく見えた。

湯を使った後なので鎧はつけていない。槍も宿に置いてきた。何となく素の自分のままで、この村を歩いてみたかった。

石畳の舗装の無いむき出しの地面。あちこちに申し訳程度に作られた畑は明らかに育ちが悪く、しかし丁寧に手入れがされているのが見て取れた。

手で地面に触れてみる。岩石と然程変わらない感触。掘り起こせる場所は一握りだろうし、この土を砕いて作物の土壌にするためには、長い時間と努力が必要なことは素人であるアリーシャにもわかる。郊外の畑地を視察に行った折には、農夫達から苦労話をたくさん聞いた。この土地はそのどの地域よりも格段に痩せている。

「…ここまでするのは大変だったろうに」

忘れられた小さな村。何の援助も無く、これまで必死で生きてきたのだろう。加護の無い土地はそれだけで土地の恵みが激減していくし、災害も多い。今まで幾多の苦難を乗り越えてここまで来たのだろうと思うと、何としてでも守り通したいというスランジの想いも痛い程に理解出来た。

それでも、越えてはいけない一線がある。人という生き物が群れて生きる囲いの中で、決して犯してはならない罪はあるのだ。

本人も言っていた。わかっていなかった筈はない。それでもスランジは線を踏み越えてしまった。ただこの小さな村を守りたい、そのためだけに。

項垂れた老人の姿を思い返しながら畑の土を掻いていたその時だった。

「姉ちゃん、騎士なんだろ?!」

パタパタという軽い足音、次いで甲高い子供の声が夜闇に響く。

視線をやれば十歳程の少年が一人、息を弾ませてアリーシャに近づいてくるところだった。

「さっき聞いたんだ!村長さん、本当は都の偉い人なんだって。役目があるから帰っちゃうって!!でも悪い奴等が狙ってるって言ってた!!オレ知ってるんだ、騎士って都で偉い人を守る人なんだろ?だったらオレ騎士になって村長さん守るからさ!なり方教えてよ!」

恐らくスランジと大人の会話を聞いて、彼がこの村を去ることを知ってしまったのだろう。目に涙を一杯に貯めながら、彼は必死の形相でアリーシャの服の裾を引っ張ってくる。

「学校建つ前にさ、オレ、村長さんに字を教えてもらったんだ。もっと勉強したいって言ったら、きっとどうにかするって言ってくれたんだ。爺ちゃんが村長さんになってから、学校が建って、本もいっぱい読めるようになった。今までそんなの、この村のどこにも無かったのに」

ぐいぐいと服を引っ張りながら、スランジにもらったものを一つ一つ挙げていく。

学校、本、薬、食べ物。甘い菓子を初めて食べた話、冬の寒さに凍えていた時に村のためにたくさん石炭を買ってくれたおかげで、身体の弱い幼い妹が死なずに済んだ話や、都で子供が歌う歌や流行っていた遊びを教えてくれた話。次々に話しながら、少年の声は徐々に涙にぬれていく。

「村のみんな知ってるんだ。村長さん、最近身体の具合が良くないって。食べる物はあるのご飯あんまり食べられなくて、ヒョロヒョロになっちゃって、たまに咳もしてる…。それでも皆のために頑張ってくれてるんだって、母ちゃん言ってた。だからいつか「おんがえし」しなくちゃいけないって。…なあ、騎士のなり方、教えてよ。今度はオレが村長さんのこと守るよ!!今度はオレ達が「おんがえし」する番だからさ!!」

「君…」

必死な目で裾に縋りつく少年を、アリーシャは月明りの下でまじまじと見つめた。

着ている物は質素であちこちに継ぎがあたっているが、服から伸びた手足は健康そうで、やんちゃの証の擦り傷があちこちについている。勝気な瞳はきらきらと輝き、泥で汚れているものの垢じみたところは無い。都の裏通りで盗みを働く少年たちよりは余程健康的に見えた。

「…スランジ様が、ずっと守ってこられたのだな」

「姉ちゃん…?」

「名前を聞いても良いかな?」

「オレの?テッドだけど…」

名前を聞いたアリーシャに、少年が不可解そうに首を傾げる。その少年の両肩に手を置いて、アリーシャは真っすぐに彼の両目を見つめた。

「ではテッド。聞いて欲しい。確かにスランジ様は全身全霊を賭けて、この村のために尽くしてこられた。そして今回村を離れるのも、君達のため。だから君の恩返しをしたいという気持ちは決して間違っていないし、尊いものだ。だけどね…」

言ってアリーシャは言葉を切る。アリーシャの言葉を真剣に聞いているテッドは、ごくりと喉を鳴らしてアリーシャの次の言葉を待っている。

「テッド。君は勉強がしたいと言っていたね。何かなりたいものでもあるの?」

「オレ…たくさん勉強して、お医者様になりたいんだ…。妹がずっと病気ばっかりしてるから」

言ってテッドが少し俯く。きっと、冬を乗り切るのが大変だったといっていた妹のことだろう。

「では、その夢を叶えるためにたくさん勉強して、夢を掴むんだ。それがきっと、あの方の恩に報いる一番の方法だから」

「なんで…?悪い奴等に狙われてるんだろ?村長さん、足だってオレよりずっと遅いんだよ?守ってあげなくちゃ!」

「都には君のようにあの方を慕う騎士がたくさんいる。彼等が必ずスランジ様を守ってくださる。だからね、君達は君達の望む生き方をするのが一番良い。厳しいこの地で生きながら、それでも絶やさなかった君達の笑顔。それが、あの方が命を懸けても守りたいと思ったものだから」

「本当に…?オレ達が笑ってれば、村長さんは嬉しいのかな?」

「ああ、本当だとも」

力を込めて頷いた。

スランジが守りたかったものはきっとアリーシャと同じだ。民の笑顔、明るい故郷。思い描いたそれらを得るためならば、何度だって突いた膝を上げられた。

それに、スランジにはセルゲイ達がついている。誠実な彼等ならば、きっとスランジの気持ちをわかってくれるに違いない。彼等とて、民を守るために剣を取る騎士なのだから。

アリーシャの言葉に安心したように頷いて、少年はパタパタと元来た道を戻っていく。その背を温かい気持ちで見送って踵を返しかけたその時、初めて間近ともいえる距離に立っていた人影に気が付いた。

「…ロゼ?!」

「驚いた?ごめんごめん、何か取り込み中だったからさぁ」

ひらひらと片手を振る軽い仕草と気楽な調子は紛れも無くロゼ。しかし商人である彼女が人気のないこんな寂れた村に居る理由が無い。

―――あるとすればただ一つ。

「…もしかして、あの薬を?」

「そ、噂聞いてさ。この村でべらぼうに高値で売れる薬を作ってるって」

「だ、駄目だ!!」

ロゼの語尾を噛むように声を上げる。

確かに商人であるロゼ達にとって、またとない話だろう。マーリンドの時に薬を持ってきてくれたところを見るに、薬の扱いに長けた人間が内部にいるのだろうし、高値で売れると聞けば飛びつくのが商人の性だ。

しかし、あの薬だけは売らせるわけにはいかない。

そう思うが、訳を話すことも出来ない。それはスランジの罪を告発するのと同じことだ。彼の処分はいずれローランスの内部で決められること。容易く民間に下ろしていい話では無かったし、万が一広まればゴドウィンが薬の中毒者の関係者から狙われることになりかねない。

「プッ」

「ロゼ…?」

小さく噴き出したのはロゼだった。

訳は話せないが薬のことは諦めて欲しい。それをどう説明したものかわからずに、金魚のように口をはくはくと開閉させていたアリーシャを見て、彼女は肩を震わせている。

「ご、ごめん。でもその顔可笑しくって。…適当に嘘ついちゃえば良いのにさ。しないんだよね、そういう事」

「え?」

目を白黒させるアリーシャを見て、ロゼがまた少しだけ笑う。

「見てたんだよ、昼間の。だから大体事情もわかってる。あたしらだって無駄な恨みは買いたくないし、こんなこと関わる気も端はなから無いよ。安心して」

「見て…た?」

「うん。アリーシャ姫が格好良く村長説教するとこらへんから。甘いばっかのお姫様かと思ってたけど違うんだねー。言う事は言うじゃん」

「あ…あれは…!!」

偉そうなことを言うつもりは無かった。しかし、あの薬はいずれ国を蝕む脅威になりうる。そう思ったら止まらなかった。

スランジが私欲のために薬を作っていたわけでは無いことは、彼がその身を削ってたった一人で製薬を続けていたことからも明らかだった。この村を思う気持ちはアリーシャにだってよくわかる。しかし、だからこそどうしても今ここで踏みとどまって欲しかった。

「とにかく…夢中で…」

「見てたらわかるよ。でも、流石は王族って感じの説教だったね。…恨みを凝らせるのが一番怖い。それをわかってる」

「ロゼ…?」

「力が無くてたって、執念で這い上がる人間ってのはいるんだよ。無力だと思って侮ってたら、明日はこっちが寝首を掻かれることになる。だから怖いんだ、人間って」

月光を弾く青い瞳がいつになく昏い。いつもの朗らかな彼女が嘘のようだった。

「ロ…ロゼ…」

「ごめんごめん。何かそれっぽいこと言ってみたかっただけだよ。…あたしらは天候見てすぐ帰るから。安心して」

じゃお休み。

そう言ってまたひらひらと手を振って背を向ける彼女に、アリーシャは挨拶を返すことすら出来なかった。

踵を返す直前のロゼの瞳は、形だけは細められていたものの、その実少しも笑ってなどいなかった。そしてその事実に気付いた瞬間、自分の胸の内に沸いた感情の正体に気付いて、アリーシャは愕然とする。

闇に消えていくロゼを見送るアリーシャの胸の内に芽生えた感情――――。

それは、紛れもなく恐怖だった。

 



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悠久なるは 2

『俺達天族は長きを生きる。しかし、全てを記憶に止めることは出来ん。だから探すのさ。遺跡ってのは過去の記憶と知恵が眠る場所だからな』

そう言って頭を撫でる大きな手。そして増えるばかりのガラクタの群れ。帰って来る度に持ち帰って来るから、すっかり量が増えてしまった。

使い方もわからないそれらを、それでも喜んで受け取った。それは、兄の帰って来る場所が自分のところであると証明する、何よりの証拠だったから。

未来に何かを求め、世界を旅する兄が、帰って羽を休める場所。それが自分の傍だとそう思ってくれている。それが何より嬉しかった。

しかし、それも過去のこと。

今は彼が持ち帰ったガラクタの多くは朽ち果て、壊れてしまった。

もう、二度と彼が世界に旅立つことは無い。自分の願いが、彼を捕らえて離さない。

やがて自分達も朽ち果てる時が来るのだろう。

―――その時が来れば。

エドナは思う。何かを訴えるように吠える兄の声を聞く度に考える。

―――「その時」こそが、彼の救いになるのだろうか。

**********

 

モルゴース。

ゴドジンに隠された遺跡の名はそう伝わっているらしい。

洞窟の中にぽっかりと口を開けた遺跡の入口を前に、スレイは緊張した身体を解すように一つ大きく深呼吸する。その様子に少しだけ目を細めてから、スランジは徐に口を開いた。

「導師に四つの秘力あり。すなわち地水火風。其は災禍の顕主に対する剣なり。世界に試しの祠あり。同じく地水火風。其は力と心の試練なり」

「秘力の碑文…?!」

澱みなく唱えあげられる文言は、かつてスレイ達が僅かばかり目にした碑文のそれと同じもの。まさか諳んじることが出来るとは思っていなかったスレイ達は、すらすらと出てくる古めかしい言葉にただ目を見開いて聞き入った。

「力は心に発し、力は心を収める。心力合せば穢れを祓い、心、力に溺るれば己が身を焦がさん。試せや導師、その威を振るいて。応えよ導師、その意を賭して」

「…つまり、世界には四つの祠があり、それぞれに導師の試練が用意されていると、そういうことですね」

「そして、その一つがこのモルゴースってわけだ」

どこか硬いアリーシャの言葉を受けて、ミクリオが扉で閉ざされた遺跡に目をやった。いつものごとく平静を装ってはいるものの、やはり彼等の声にはスレイと同じく緊張と興奮が滲んでいる。

扉は分厚い石で作られ、そこに精緻な彫り物が施されている。スレイ達が幼い頃に遊んだ遺跡の文様とどことなく似通った意匠は、この遺跡が作られた時代がアヴァロスト調律時代、もしくはその時代の模倣の跡が数多く見られるアスガード時代の産物であることを示していた。これが導師の試練に関係する遺跡ならば、間違いなく前者だろう。

アヴァロスト調律時代。

かつて天族と人とが手を取り合って暮らしてきたというその時代は、スレイの夢そのものだ。過去に学び未来に繋ぐ、そのためにスレイはずっと世界中の遺跡を旅することを夢見てきたのだ。

そしてその夢は、今やミクリオも共に抱くもので、アリーシャの夢に繋がる道。

その夢に続く架け橋と成り得る一つが、目の前にある。緊張しないでいられるわけが無い。

「私に出来るのはこの言葉を伝えることのみ。余りにも微力ではありますが、せめて武運をお祈りしております。…お帰りをお待ちしておりますぞ」

「必ず帰って、貴方をペンドラゴに連れて行きます」

「ええ。信じていますとも」

頷いて微笑んだスランジは、そのまま深く頭を下げる。

頭を上げて村に戻る彼に一礼を返して、スレイは改めて目の前に鎮座する古代の扉に視線を注いだ。

見上げると首が痛くなるほどの全長、一面に刻まれた古代の文様は一体何を意味するものなのか。今は無理でも、いつかはその意味も知りたいと思う。天族と生を共にしてきた人々が何を考え、どう意思を表現してきたのか。考え出すと興味は尽きない。

しかし今は悠長に意匠の分析をしている暇はなかった。スレイが一歩踏み出すと、スレイと同じように扉を穴が開くほど見つめていたアリーシャもまた、はっとしたように床から槍の石突を離す。

そうして歩き出そうとして、そこで彼女はふとその足を止めた。

「エドナ」

彼女が気遣う声音で呼んだのは、スレイ達よりも五、六歩離れた位置でやはり遺跡の入り口を睨んでいた地の天族。常ならば決して臆したりしない彼女が、どうしたことか黙ったまま、皆から離れたその位置から動かない。まるで遺跡を忌避しているかのような態度に、不審に思ったのだろうミクリオが再びエドナを呼ぶも、やはり彼女は動かなかった。

「…エドナ?どうし…」

「邪魔だから帰れって言っても、どうせ聞かないんでしょうね。アナタのことだから」

心配そうに駆け寄ったアリーシャに、エドナが向けた一瞥は冷たい。

彼女の言葉の内容に、アリーシャは伸ばした手を凍りつかせ、仲間は一様に驚きに目を見開いた。

「エドナ!!何を言うんだ!」

「うるさいわよ、ミボの分際でワタシに意見する気?」

「意見がどうとか以前の問題だ!」

真っ先に噛みついたのはミクリオ。彼がエドナに噛みつく光景自体は珍しいものではないが、それは一種のじゃれあいのようなもので、こんなに声を尖らせることは滅多にない。

その滅多にない光景を見るスレイの胸に浮かんだのは、憤りではなく疑問だった。

「エドナ、どうして…?」

人間嫌いを公言して憚らない彼女だが、アリーシャに邪険にあたっているところは見ないし、何かと己を卑下しがちなアリーシャに苛立っている節さえ見せていた。嫌いな人間相手に取る態度にはとても見えなかったし、事実、昨夜の彼女の言葉は間違いなくアリーシャの身を案じてのものだった。

スレイの疑問を受けて、エドナが居心地悪そうに身動ぎする。明らかに傷ついた様子のアリーシャを見る視線も、とても情の無いそれとは思えない。

「…着いてくるなとは言ってないでしょ」

言い訳めいたその言葉に、ミクリオの眉が跳ね上がるのを何とか制す。今この状況で仲間割れしている時間は無いし、本心では無いだろう言葉を咎めても意味はない。

実際、年長の天族達はその事実に気づいているのだろう。どちらかというと気遣わしげな視線を投げる彼らは、さっさと歩き出したエドナが遺跡の中に踏み込むのを黙ったまま見守っている。

「行こう、アリーシャ」

「あ、ああ…」

スレイは言って呆然とした様子のアリーシャに手を伸べる。憤然とした様子のミクリオの背を追う形で、スレイは遺跡の入り口を潜った。

 

地の神殿は自然の洞窟を利用した地下迷宮だった。

地上に広がる広大な洞窟には見上げるような柱が林立し、脇に伸びる細い道は地下に向かって続いている。その道が更に枝分かれして別の通路に合流し、或いは更に地下に潜る。どこもかしこもそんな風だったから、ミクリオとスレイが協力して地図を作りながら進んではいても、道行きは遅々として進まなかった。

「随分静かじゃねえか」

「何?突然」

何度目かに取った休憩の途中。にやにやと品の無い笑みを浮かべながら、ザビーダがわざわざ腰を屈めてエドナの顔を覗きこむ。その揶揄するような笑みに、エドナは露骨に嫌そうな表情を浮かべるが、そんなことを気にするザビーダではない。そのまま距離を空けるでもなく、尚も言葉を重ねる。

「地の試練ってことはお前さんにも無関係じゃない。なのにいつになく静かだねぇ、エドナちゃん?」

「別に。疲れただけよ。ワタシは繊細なの」

「この場所で地の天族のエドナちゃんが疲れる?じゃあオレ様は今頃死んでないといけねぇな」

「…何が言いたいの?」

「ちょっと二人とも!!」

狭い隧道の内部に険悪な空気が膨れ上がる。慌ててスレイは立ち上がり、二人の間に割って入る。幸い、ザビーダもそれ以上エドナに突っかかることはしなかったが、険悪な空気は薄れることの無いまま、出発を決めた一行の上にのし掛かっていた。

「何なんだ、ザビーダの奴。突然」

囁くような声音で話しながら、ミクリオが最後尾をだらだらと歩くザビーダを窺い見る。

細い道だ、並んで通れるのは精々二人。その先頭を巨塊の腕で道を開かねばならないエドナが歩き、彼女と並んでライラが炎を灯しながら続く。その後ろにアリーシャ、スレイ、ミクリオが固まり、少し距離を開けてザビーダが殿を務める形だ。

スレイはライラから借りた火で作った松明を掲げ、光の届くぎりぎりの範囲を固持するザビーダを見やる。

ザビーダが面白半分で人の言葉を茶化すのは珍しい事ではない。しかし、離れた位置をキープしながらも時折鋭い視線を先頭のエドナに投げる様子を見れば、先程の言葉が単なるおふざけなどでは無いことは明らかだった。

「随分とらしくない。いつもならとっくに冗談の振りで誤魔化しているだろうに」

「アリーシャもそう思う?」

自分が何を気にかけているのか悟らせるような真似は、普段のザビーダならば決してしない。仲間になるとは言ったものの、彼は決してスレイ達に心を開いているわけでも無ければ、信頼を寄せてくれているわけでも無い。だから今日のザビーダの、単なるおふざけの域を過ぎた挑発は、非常に珍しい行動だった。

スレイの問いにアリーシャは真剣な表情で頷く。

「ああ。それに、エドナの様子もおかしいと思う」

「おかしいなんてもんじゃない。何なんだ、さっきのあれは!君ももっと怒ったらどうなんだ」

「私の分もミクリオが怒ってくれているから気にならない。ありがとう。…それに、私の力が足りないというのなら、エドナはそれをはっきりと言うと思う」

エドナの舌鋒は苛烈と言ってもいいもので、事実ならばどんなに言い難いことであっても言い淀んだり決してしない。

自分に優しい嘘を彼女はつかない。どんなに言い辛いことであっても、言うべきことを言うべき時に言うのがエドナの作法だ。アリーシャの言う通り、アリーシャが力不足だとエドナが判断していたとしたら、彼女は迷わずにそう言っただろう。そうしなかったということは、きっと何か別の理由があるのだ。

ミクリオ以外の天族達が抱えた過去や事情を、スレイは殆ど知らされていない。誰だって知られたくないことや言いたくないことの一つや二つあるもので、だから無理に聞き出そうと思ったことは無いが、それでもそれぞれが背負った何かが垣間見える瞬間はある。

―――例えば、昨日の夜のように。

エドナは何かと戦っている。もしかしたら、スレイと出会うずっと以前から。それがドラゴンと化した彼女の兄と関係していることは確かなのだろうが、彼がどうしてドラゴンに身を落としたのか、エドナがそれをどう感じているのか、聞いたことは一度も無い。

「何が待ってるんだろうな、この先に…」

自分と、そして恐らくはエドナを待ち受ける試練。それがどんな物かはわからないが、生半可なものでないことは確かだろう。

緊張が背筋を走り抜ける。冷たい汗をかいた背を、そっと宥めるようにアリーシャが叩いた。

「何があっても君とエドナならきっと大丈夫だ。及ばずながら、私達も精一杯助力するよ」

「必要以上に身構えないことだね。能天気すぎるのも考えものだけど、起きてもいないことで悩むのも馬鹿馬鹿しいよ」

いつも通りで。そう励ましてくれる友人達の声に、俄に勇気が湧いてくる。現金なものだとは思うが仕方ない。

「だよな。ありがとう、二人とも」

自分には頼もしい友がいる。だからきっと、何が待ち受けていようと乗り越えて行ける。

―――だから。

スレイは先頭を行く小さな背中に視線を遣って、その後ろ姿に声に出さずに言葉を投げる。

たかだか十数年しか生きていないスレイが言うには、余りにも尊大な言葉かもしれないが、それでも願わずにはいられなかった。

何かあったら必ず、全力で助けに行くから。

―――だから、辞めないで欲しい。希望に踏み出すための、その一歩を。

 

 

スレイ達が番人を名乗るその天族に出会ったのは、遺跡をさ迷いだして一刻ほど経った頃だった。

唐突に開けた場所に出たと思ったら、行く手を人体獣面の憑魔に塞がれていた。どうしたものかとスレイ達が立ち止まったところに、パワントと名乗るその天族は地から湧いて出たかのように突然話しかけてきたのだ。

どうやら神殿の祭壇に祈りを捧げろともっともらしいことを言いながら、巨大な憑魔に行く道を遮られて、自身も本来の居場所であるそこに戻れないらしい。エドナを見て相好を崩し、何かと甘い言動をする姿はまるで孫を相手にする老翁のようで、威厳の欠片もありはしない。普段は初対面の相手には敬意を忘れないアリーシャでさえも呆れ顔だ。

「…要はあの牛が邪魔で祭壇に戻れない、あの牛を何とかしてほしい。そうなのね?」

猫なで声に辟易とした様子のエドナは、頭を撫でようとする天族の手を振り払いながらそう言う。彼女の性格を考えれば当然の結果ではあるが、そもそも今日のエドナは機嫌が悪い。彼女は徐に半獣半人のその憑魔に歩み寄ると、その緑色の双眸から並々ならぬ眼光を迸らせ、ドスの利いた声で一言。

「消・え・ろ」

見た目は幼女のようであっても、生まれてから生きてきた年月はその外見を大きく裏切る。エドナの本気の迫力たるや、直接言葉を向けられたわけでも無いスレイが思わず姿勢を正してしまう程のものだった。そしてその迫力に恐れを成したのは憑魔も同じことのようで、巨躯を大きく震わせたかと思うと、脱兎の勢いで逃げていく。その様は、穢れをまき散らすおどろおどろしさとは裏腹に、どこか小さな子供のようで憐れみを誘うほどだった。

憑魔の背中を見送って、エドナはぽかんと立ち尽くすパワントの方を、これで良いだろうとばかりの表情で振り返る。どうやら彼女は一刻も早く試練とやらを済ませて、この場所を後にしたいらしかった。

「あとは祭壇に行けば良いのね」

「…や、あいつを鎮めろっていう試練なんだわ」

ぼそりと呟かれた言葉に、エドナが驚きに目を見開いてパワントを見つめる。先に言わなかった己に非があるのはわかっているのだろう、バツの悪そうな様子で視線を逸らす彼の様子はいかにも情けなく、元は偉大な導師であったという経歴が嘘のようだ。

「どうしてそれを先に言わないの?馬鹿なの?」

身を竦めるパワントに冷たい一瞥を投げ、エドナは無言でスレイの中に戻る。彼女はスレイの外にいることを好むから、その行動だけでエドナが自分のした事に責任を感じていることが見て取れる。

「出発進行、探索開始」

不貞腐れたようなエドナの言葉に押されて、スレイ達は遺跡の深部に足を踏み入れる。何千年と生きているというのに、まるで子供のようなエドナの物言いがおかしかったから、皆それぞれに笑いながら。

だから気付かなかった。風に融けて消えてしまいそうな、その老人の言葉には。

「力の試練は憑魔の浄化。しかし、心の試練はまた別にある。越えられるかの、あの若者達は…」

かつてスレイと同じく導師と呼ばれたその天族は、物憂げな視線を若き導師の背中に投げたきり、いずこへかと姿を消した。

 



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悠久なるは 3

「スレイ!!エドナ!!」

突然崩れ落ちた二人は、そのまま何度呼んでも揺すっても目を開けない。もしやあの仕掛けが罠で、致死性の毒でも仕掛けられていたのかと一瞬危惧したが、呼吸も体温も正常、まるで眠っているようにしか見えなかった。

とりあえず命に別状が無さそうなことに安堵して、アリーシャは二人に駆け寄った際に放り投げた自身の槍に手を伸ばす。

「…ミクリオ、二人を頼む」

「ああ」

短いやり取りで立ち位置を入れ換え、アリーシャはミクリオを含めた三人を守れる場所で槍を構えた。

姿は見えないが、どこかで雑多なものが蠢く気配が充満している。気配だけではない。アリーシャ達を観察し、距離を探るその数多の存在が発しているのは明らかに殺気である。

ミクリオの気配が急激に揺らぐ。彼が霊霧の衣を使ったのだと理解した瞬間に、ライラが緊張に強張った表情で声を上げた。

「来ます!!」

彼女の声と同時に風が疾る。突如周囲に現れた蝙蝠のような憑魔を叩き落とし、体勢を崩したそれらを容赦なく切り裂いた。

「土だ!!奴等土の中から湧いてでてやがる!」

ザビーダの言うとおり、それらは土が剥き出しになった壁面や石畳の剥がれた地面から、滲み出すように形を作り、アリーシャ達に飛びかかって来る。

ライラの符が、ザビーダのペンデュラムが宙を飛び、憑魔の悲鳴が洞窟の中に木霊する。

アリーシャは全員の動きを気配で追いながら、傍らをすり抜けようとする一匹を切り捨て、次いで空いた脇腹を狙おうとした一匹を石突きで打ち据えた。

「ここは通さない、絶対に!!」

ミクリオは霊霧の衣発動中は他の術を使えない。彼等に憑魔の牙は決して触れさせるわけにはいかないのだ。

「ライラ!!」

「はい!」

返事を聞くと同時に腹の底から彼女の真名を呼ぶ。

「フォエス=メイマ!」

「マオクス=アメッカ!」

ザビーダの詠唱と混じる二人分の高い声。槍をとります炎の気配を感じながら、アリーシャは突撃槍の形を取ったその槍の柄をぎゅっと握り締めた。

 

 

**********

 

 

 

目を覚ました時視界を埋めたのは、丸くて大きい黒の瞳だった。エドナの顔を穴が開くほど見つめるその瞳は、エドナが目を開けたことに気づくとぱちぱちと何度か瞬きして、やがてほっとしたように輪郭を和ませる。

「良かった。気がついたのね」

「アナタ…」

しゃがみこんでいたせいで汚れたスカートの裾を払いながら立ち上がったのは、幼い少女だった。肩までの黒髪を左右に分けて三つ編みにし、茶色のリボンを結んでいる。胸に飾り紐を備えたワンピースに茶色い革の短いベスト、色糸で刺繍された靴も革そのままの素朴な茶色。一目で農村部の娘だということがわかる、どこか古めかしい素朴な格好である。

そう、娘の外見はどこでも見られる普通の人間の衣装だ。武人階級でもなければ神職でもなく。

「アナタ…ワタシが見えるの?」

立ち上がりながら少女に問う。答えのわかりきった質問だったが、違和感が大きすぎて問わずにはおれなかった。

人と天族が道を分かって数百年。二つの種族の争いは、互いに甚大な被害と消えない傷を刻んで、ようやく鎮火しつつある。

和解したのでは決してない。決定的に袂を分かったのだ。

肉体を持たない天族の存在は、他の生物に比べて圧倒的に希薄だ。そのために、真実の姿をありのままに受け止める気概を持つ者以外は姿を捉えることすら敵わない。動物は希望的観測を以て事実を歪めることはないから、天族の姿を見失うのは殆んどの場合人間だった。 

昔はそうでなかったのだと聞いている。天族と手を取り合いながら生きていた頃は、多くの人間が天族の姿を見、声を聞いていたと。長い時間の内に道を分かち、それぞれ傷つけあう関係になって長く時が経ち、人間は天族の真の姿を忘れてしまったのだと。

戦いの中で数を減らした彼等は、自然を操る力を持つ天族を怖れた。悪鬼のように忌み嫌い、或いは神のように祀り上げることで災禍を逃れようとした。

天族は悪鬼でもなければ神でもない。人と同じくこの大地で生きる生き物の一種、そんな事実すら殆んどの人間は忘れ去り、忘れなかった人間は天族の力を借りて人の世を安寧に導こうと、或いは私欲のために搾取しようと躍起になって天族を探した。

そしてまた、その思いが強ければ強いほど、人は天族を見失う。結果として、地上から天族を見ることのできる人間は殆ど姿を消してしまったのだった。

いまや天族の真実を知るのは、一部の神職や政を行う階級の人間のみ。一般市民に知らされているのは畏れによって歪められた歴史と神話だけで、彼等はどれだけエドナが傍に行こうが話しかけようが、なんの反応も示さなかった。

それなのに、この少女には見えている。彼女の黒い双眸は興味深げな光を湛えて、エドナに視線を注いでいる。

少女はエドナの言葉にパチパチと目を瞬かせると、にこりと微笑んで頷いた。

「変なの。だって見えなかったら覗きこんだりしないし、怪我の心配もしないわ。――ねえ、あなた天族でしょ?」

「だったら何?」

エドナの兄は人間が好きで、事あるごとにこのレイフォルクを出て人間の観察を続けている。その間エドナはここで一人になるものだから、声には少々険が混じった。

棘のある声に、しかし少女は挫けない。

「ずっと会ってみたかったの。おじいちゃんはずっと、昔は色んな場所に天族がいて、人間と一緒に遊んだりお仕事をしてたって言ってたし、村の皆は麦の育ちが悪いのも、悪い虫がでるのも天族が人間を虐めているせいだって。ねえ、どっちが本当なの?」

無邪気な声が耳に刺さる。人間の責任転嫁は今に始まったことではないが、人と天族はわかりあえるのだと目を輝かせる兄を思えばどうしたって憂鬱になった。

「災害が重なるのは穢れのせいよ。ワタシ達は何もしてないわ。生憎とそこまで暇じゃないの。アナタ達人間がどうかは知らないけど」

ただ兄の帰りを待つだけの毎日は死ぬほど退屈ではあるが、自分のことを見えもしない相手に嫌がらせするほど根性は曲がっていない。見えも感じもしないくせに、世の不条理を天族のせいに出来る人間の方が余程不可解だ。

不思議そうにエドナを見上げる少女は、エドナの背丈と変わらない。人間の標準でいうなら精々十歳というところだろう。エドナはその少女の黒い瞳を無感動に見返した。

―――どうせすぐに見えなくなる。

心の柔らかい子供は、稀に天族の姿を捉えることがある。暗闇にお化けがいるのも本当なら、他の人には見えない天族という何かがいたっておかしくない。大人が語る偽りの神話の大部分は彼等にとっては難しく、畏れを抱くには世界というものをまだ知らない。だから大人のような偏見を持たないのだ。

だが、長じるにつれて彼等は知る。お化けなんていないのだと。そんな子供じみた存在はおらず、しかし世界には人間の御するに及ばない理不尽が星の数ほど存在するのだと。

何かがいるのだ、と彼等はいつか考える。かつての親や祖父母達と同じように。

人智を越えた存在が、世界の理を操って人に苦難を与えている。それが一部の人間が言うように、人が未熟で至らない存在だからなのか、他の人間が言うように過去の意趣返しなのか、そのどちらの理由を採るのかはわからないが、何れにしても同じことだ。

―――彼等は天族の真実を見失う。

だから純粋な好奇心で瞳を輝かせる少女に、エドナはエドナは何の期待もしなかったし、興味も関心も持たなかった。ただ通り過ぎていくだけのものに構うつもりはない。踵を返してその場を立ち去ろうとした時だった。

「嫌なこと言ってごめんなさい。でも、やってないならもっと堂々としていても良いと思うわ。逃げたって何も解決しないっておじいちゃんいつも言ってたもの」

「は…?」

背中からかけられた言葉が余りにも想定外で、思わずエドナは足を止めた。

「…誰が、いつ、誰から逃げたのよ?」

振り向いた先には年端もいかない小さな少女。外見だけならばエドナも同じ年頃に見えるのだろうが、実際は一回りどころか桁が違う。こんな小娘を恐れて逃げたなどと甚だ心外だ。

「ワタシはただ人間と関わる気が無かったから別な場所に行こうとしただけ。たかが人間が何様のつもり?」

「アリム」

「え…?」

エドナの言葉を遮って、少女が短い言葉を押し付ける。

「わたしは『人間』なんて名前じゃないわ。アリムっていうの。おじいちゃんがつけたくれたのよ」

「それで?」

子供特有の唐突な主張にげんなりしながらエドナが続きを促せば、その冷たい声音に怯むことなく笑みで応える。左手に持つ濡れたハンカチをひらひらさせながら。

「心配したって言ったでしょ?少なくとも汚れた顔を拭いてあげたお礼くらいはして欲しいわ。…ね、天族さん。お名前は?」

どうやら礼の代わりに名前を教えろということらしい。歳の割には強かで口も回るらしい彼女に対し、無視を決め込む方が骨を折りそうだ。百年近く歳を重ねているエドナも、地の天族である以上、空を飛んでは逃げられない。

「…エドナ」

ため息と共に音を吐き出すと、少女は輝かんばかりの笑顔を浮かべてよろしくね、と言った。

実際に今後十年以上を彼女と共に過ごすことになろうとは、この時のエドナは想像もしていなかった。

 

 

「今更…何なの…?!」

どことも知れぬ白い空間。天も地もなく果ても見えないその場所で展開された光景に、エドナは思わず歯噛みした。

まるでその場にいるかのように鮮やかな映像は、確かに過去実際に起こった事だった。

一体何時のことだったか、数えるのも辞めてしまった遠い過去。今もエドナの心の底でじくじくと血を流す傷の、これが全ての始まりだった。

「エドナ…?」

背後からかかった声に肩を震わせる。

振り向かずともわかる。困惑したような、スレイの声。

「エドナ…今のは…」

「関係ないわ」

硬い声で言葉の続きを拒絶した。

「スレイには関係ない」

「エドナ…」

関係ない筈がない。こんな大掛かりな仕掛けを用意している以上、これは恐らく試練とやらの一環に違いない。そもそもスレイ達は導師の秘力を手に入れるためにここに来たのだ。関係ないどころの騒ぎではない。

わかってはいたが、それでも触れられたくなかった。

スレイとてこの幻に意味があることくらいわかっているだろう。それでも、彼は頑ななエドナを咎めることなく、穏やかな笑みを浮かべただけだった。

「わかった。エドナが話せると思ったら話して」

優しい声が今は痛い。

エドナは彼の言葉には答えず、俯いたまま足元の白がじわじわと色を変えていくのを見つめていた。

 



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悠久なるは 5

頬に冷たい何かが触れたのを感じて瞼を開ける。最初に飛び込んできたのは、ドラゴンを象った例の装飾と濁った灯りが灯った燭台で、大して明るくも無い筈なのに目が焼かれそうほど眩く感じた。

どうやら洞窟内の湧水か結露が天井から滴り落ちてきたらしい、と見当をつけたエドナは周囲の様子を窺った。

隣では道具袋を枕にスレイが眠っていて、そこここに仲間達が座り込んで休んでいるのが見えた。見張りなのだろう、ザビーダだけが柱の残骸の一つに腰掛けて、鋭い目付きで周囲を見渡している。

エドナは立ち上がって歩き出す。とにかく状況を確認しなければならない。壊れた柱の前を通ると、その影に槍を抱くようにしたアリーシャが眠っていた。彼女の足や腕に明らかに戦闘の跡らしき傷を認めたエドナは、眉をしかめて歩み寄ったザビーダに問う。

「何があったの?」

「ようやくお目覚めか、エドナ姫」

「ワタシは何があったかって聞いてるんだけど?」

見ればザビーダの様子もどこか草臥れている。頬には浅い切り傷がついているし、銃を弄ぶ右手にも擦れたような傷が見えた。

間違いない、この場で戦闘があったのだ。

確信したエドナがキッとザビーダを睨めつけると、彼は観念した風に両手をあげた。

「お前らが倒れた直後、急に憑魔が湧き出したんだよ。とにかくそこらじゅうから出てくるもんだから大変だったぜ?お前さん達は無防備だし、ミク坊が例の結界で防いで、アリーシャちゃんは結界に向かってくる敵を片っ端から潰して…獅子奮迅の戦いぶりってのはああいうのを言うんだろうな」

「罠だったってこと?」

「さあな。これも試練ってやつの一環なのかも知れねえし、罠だったのかもしれん。俺様にはわかんねえな。その答えを知ってるとしたら…エドナ、お前なんじゃねえのか?」

「…そうね。罠じゃなかったわ、多分」

単なる罠ならエドナの記憶を掘り起こすような真似には意味がない。ならばこれは試練とやらの一環なのだろう。こんな茶番劇に付き合ってやらねばならないのは忌々しいが、スレイに手を貸すと約束したのはエドナ自身だ。何よりここで逃げ帰るなど、エドナのプライドが許さない。

「アリーシャちゃんに礼言っとけよー」

これ以上ザビーダに引っ掻き回されるのはごめんだ。背を向けるエドナにザビーダがかける言葉は酷く愉しそうで、にやけた横面を張り飛ばしてやりたくなった。

「礼なんて…」

言ってやるものか。絶対に。

細かい無数の傷跡と、目に見えるそれらよりは明らかに多い出血の跡。恐らく深い傷は天族の誰かが治したか、ミクリオと縁を繋いで自分で治療したのだろう。

眠る横顔についた痛ましい血の跡に唇を噛んで、エドナは小さく呟いた。

「本当、嫌いよ。人間なんて」

 

 

全員が起きたのはそれから四半刻経った頃だった。

「エドナ!スレイも、大丈夫だったのか?」

珍しく一番最後になったアリーシャは、携帯食の準備をしているスレイ達を認めて声を上げる。パタパタと小走りに駈けてくる彼女にミクリオが乾燥させて砂糖をまぶした果物を砕いて湯で戻した飲み物を手渡すと、丁寧に礼を言って口をつけた。そうやって飲み物をすする傍ら、配膳の手伝いをしようとするアリーシャをミクリオが制する。

「まったく、君も疲れてるんだから休んでなよ」

「そんなのミクリオだって一緒だろう」

「僕は前線で戦ってたわけじゃないから怪我もない。準備くらいやるさ」

「そんな事言うならこれは没収だな」

そう言いながら干し肉を切り分けるミクリオの手から今度はスレイがナイフを取り上げる。

「オレは守ってもらってただけだからね」

「あら、それはワタシも働けってことかしら」

「いや、ちょっとは働きなよ」

飲み物を啜りながらスレイの言葉を混ぜっ返すエドナにミクリオがぼそりと突っ込む。そのミクリオにエドナが冷たい一瞥をくれて、ミクリオがやれやれ、と言いたげな溜息をつく見慣れた光景。

いつの間にかいつもの調子だ。

アリーシャがほっと安堵の息をついたのも束の間、すぐに向けられる視線の刺々しさに気付いてどきりとする。

「エドナ…?」

足音を立てずに静かに近づいてきたエドナは、座るアリーシャを見下ろした。宝石のような彼女の瞳はまるで本物の石のように無感動で、しかし伝わる空気は酷く不穏なものだった。

「それ…ワタシとスレイを守ろうとしたんですってね」

彼女が指すのはアリーシャの頬に引かれた朱色の線。敵の爪が僅かに掠ったそれごく浅く、疾うに出血も止まっている。それなのにアリーシャの傷を見下ろすエドナの表情はまるで無機物のように硬かった。何も感じていないわけではない。寧ろ感情が沸騰しそうなのを無理やり抑えている、そんな風にアリーシャには見えた。

火を起こしていたライラとザビーダも異変に気付いてゆっくりとこちらの方へと移動してくる。

「エドナ…」

声をかけようとしたのザビーダだ。彼女の兄と友人関係にあったらしいザビーダは、エドナのことも昔から知っているのだというが、この遺跡に入ってから特にエドナにちょっかいをかける回数が増えた。揶揄うわけでは無い。エドナを案じていたのだと、その表情を見て確信する。

しかしエドナがザビーダの声に耳を傾けることはなかった。

「余計なことしないでくれるかしら?」

「エドナ!!アリーシャの援護が無かったら君達は…!」

冷え冷えとした声に負けじと立ち向かったのはミクリオ。肩を掴んだ彼の言葉でが最後の切っ掛けだった。

「うるさい!!わかってるわよ!そんなこと!!」

悲痛と言えるほど切羽詰まった叫びは高い。いつもの彼女ならば決して見せない動揺に、 シン、と周囲が水を打ったように静かになる。

はっとしたエドナは、まるで叩かれた子供のように無防備な驚きの表情を晒したままアリーシャを見ている。

―――ああ、違う。

彼女の表情を見て、アリーシャは悟る。

エドナがこの神殿に来てからずっとアリーシャに向けていたのは敵意などではなかった。

怒りでもない、勿論憎しみでもない。ただ彼女は怖れていたのだ。この試練で仲間内でも一番非力なアリーシャの身に害が及びはしないかと、ずっと。

「エドナ…」

「何…?」

「確かに私は天族の皆と比べたら非力だし、スレイのように自由に貸してもらった力も使えない。でも、それでも私は騎士だ」

傍らに置いた槍に手をやって、その柄に手を触れる。

扱うのに熟練の技が要ると言われる槍を武器に選んだのは、男性と比べて足りないリーチとりょりょくを補うためだ。この槍の届く範囲には一歩たりとも敵を入れない。必ず背後にある大事なものを守って見せる。そのためならばと、マルトランに師事したその日から必死に修行を積んできた。

「私の槍は守るための槍。この槍が折れれば私の後ろにある物も失われる。だから私の後ろに守るべきものがある限り、私は負けない」

盾は割れれば何も守れない。自身を守れる力があって初めて自分の仕事を成し遂げることが出来る。

エドナから見れば生まれたても同然なアリーシャの言葉にどれ程説得力があるかはわからない。それでも自分の持てる精一杯の誠意を込めてエドナの瞳を見つめた。

己の非力は百も承知、しかし今は頼りになる仲間が傍に居る。アリーシャの大事な彼等は、アリーシャが無茶をして命を落とすようなことがあれば、きっと嘆くのだ。嘆いて、悪くも無い己の非力を責めるのだ。

国を守りたい、仲間を守りたい。

矮小な己には過ぎた願いかもしれないが、それがどうしようもない程切実だから、生き残るために全力を尽くそうとそう思える。

どんな屈辱にも耐えて見せよう。どんな試練も越えて見せよう。最期の最後まで足掻いて見せる、手を伸ばし続ける。それでアリーシャの大事なものが、大切な仲間の心が守れるのであれば。

暫時の沈黙。エドナはまるで呆けたような様子でアリーシャを見つめていたが、その視線に耐えかねたかのように視線を逸らす。

「……くせに」

「え?」

ぽつりと呟いたエドナの声は小さすぎて細部が聞き取れない。思わず聞き返したアリーシャには応えず、エドナはアリーシャに背を向ける。まるで怖いものを見た子供のような反応に、アリーシャは何も言う事も出来ず、ただ距離を取るエドナの背を見つめていた。

 

 

碌に言葉を発しないまま食事を終えて、一行は探索を再開した。

行けども行けども暗い洞窟。枝分かれした道は狭く、必然的に一列にならざるを得ない。明かりを灯すライラが先頭なのは相変わらずだが、他はその時々で一列になったり二列になったり、隊列を組み替えての前進になる。そんな中でスレイはアリーシャを気遣うように常に傍に寄り添い、ザビーダは的になりやすいライラを警戒して隣に、そしてどういうわけかエドナの隣には先刻からミクリオが張り付いている。

ミクリオはスレイの隣が定位置だ。アリーシャがスレイと行動を共にしていてもそれは変わらず、器用に二人をフォローしながら旅路を歩んできた。基本的に細やかなこの男は、己が先陣気って突っ込むよりも誰かの背中を守るが得意で、その対象は専ら生まれたときからの親友だったのだ。

「スレイについてなくて良いのかしら?」

「君は僕を何だと思ってるんだ?」

「スレイの腰巾着」

わざと気分を害す言葉を選ぶ。

ミクリオがスレイを守るのは、困難な旅路を往かねばならないスレイこそがミクリオの旅の理由だからだ。ミクリオがスレイの傍にいるのは己の目的のためにそれが不可欠だからであり、その意思は出会ったから頃から一貫して変わっていない。最近はスレイのサポートの傍らアリーシャのことも気にかけているのだから、世話焼きもここまでくれば才能だろうと思う。ただ、その世話焼きの鉾先をこちらに向けられるのは迷惑だ。一体幾つ歳が離れていると思っているのか。問うた所でエドナ自身把握していない事柄をミクリオがわかっている訳もないので聞かないが、それでも言いたくはなる。

いつもならキャンキャン吠えて怒る癖に、こんな時は妙に大人しいのも本当に面倒だ。今だって理不尽に貶められたというのに、表情一つ変えやしない。

―――ああ、本当に面倒だ。

エドナの過去の片鱗を見ながら何も問わずにエドナが覚悟を決める瞬間を待っているスレイも、感情を御しきれずに当たり散らすエドナを真っ当に受け入れた上で諭そうとするミクリオも、そしてその理不尽極まりない感情に真正面から応えようとするアリーシャも。

ザビーダのように距離を保ちつつも嫌な時につついてくる輩も面倒だが、逃げることも誤魔化すことも許してくれない子供の純真さはそれ以上に厄介だった。

「…言いたいことがあるなら言ったら?」

「別に無いよ。少なくとも今の君にはね」

「ミボの癖に」

「何とでもどうぞ」

皮肉な物言いの割には、エドナの傍を離れない。

油断なく周囲に気を配るその姿は、かつて片目の視力を失ったスレイの視界を埋めるかのように傍らに居続けた、あの時の姿と重なった。

ミクリオは自ら突っ込むよりも背中を守ることが得意な男で、他人の弱い部分をごく自然に支えるのが特技と言ってもいい。そして今の今までその対象は彼の幼馴染兼親友であったはずなのだが、どうしたことかいつの間にか自分もその対象に含まれるようになっていたらしい。

そこまで思考を進めて、エドナは隣を歩くミクリオ見上げながら考える。

視野は万全、力は五分か年の功分自分の利がある。自分に欠けているものは一体何なのか。彼がエドナは弱者と判ずる理由は何なのか。

―――『貴方達の記憶の中では、貴方達が好いてくれていた私でありたいから』

脳裏に過るのは穏やかな声と、風に揺れる長い髪。

「エドナ…?」

怪訝そうなミクリオの声に顔を上げる。

見れば前を行くスレイ達の背中が先ほどよりも遠い。いつの間にか速度が落ちていたことに気付いて、エドナは舌打ちしたい気分で歩く速度を上げた。

一瞬胸を刺した痛みには気付かない振りをして、エドナは前に歩を進める。待ち受ける試練とやらがどんなものかは知らないが、悪趣味なことだけは間違いないのだから、その内容など想像したくもなかった。

 



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悠久なるは 6

オリキャラめっちゃ喋ります。
やや残酷な描写あり。
アイゼンめっちゃ偽物です。作者B未プレイです。


憑魔の足跡を追って遺跡を奔走し、その途中何度か同様のレリーフを見つけた。

崇められるもの、逃げ惑わせるもの、人と相対するもの。構図は全て違っていたが、モチーフがドラゴンであることは共通していて、そのいずれも何らかの形で例のオーブが象嵌されていた。

エドナが触ると発光し、過去が再現されるところも最初と同じ。ただ再生されるシーンだけが違っていた。

いずれもエドナと人間の少女―アリムが共にいる光景。エドナの長い人生の中のほんの十数年間の内の記憶を基にして作られた映像は、触れられる訳でも無ければ声をかけられる訳でもなく、ただただ目の前を過ぎ去っていくだけ。結末がどこに向かうのか、嫌という程知っているだけにその時間はエドナにとっては苦痛でしかなかった。

映像の中のエドナ自身には当然大した変化は見られないが、アリムは明らかに成長していた。

彼女は結局毎日のように山にやってくるようになり、エドナにまとわりついて来るようになった。そんなことをして村の人間に怪しまれないのかと尋ねたことはあったが、彼女は曖昧な笑みで言葉を濁すだけだった。

当時のエドナは長く返ってこない兄を待つだけの生活に飽いていて、だからアリムが付きまとってくるのにもそこまで強く拒否はしなかった。。

後でそれを死ぬほど悔やむことになるとは知らずに、退屈な時間を紛らわす程度の役には立つと、そんなことを考えていた自分が腹立たしくてならなかった。

アリムは元々神職にあった祖父の影響を受けてか、天族に関わる事象、とりわけ遥か昔に人間と天族が共存していたという話に非常に興味を持っているようだった。アイゼンの送ってくるガラクタには目を輝かせ、アイゼンの手紙にある遺跡の話を嬉しそうに聞いていた。彼女は生まれた村から出たことは殆ど無く、レイフォルクは彼女にとって唯一の外の世界だったから、更に外の世界を綴るアイゼンの手紙を、エドナに負けない程心待ちするようになった。

だから必然だったのかもしれない。

それはアリムが十五になった年だった。

五年以上音沙汰なかったアイゼンが、世界の散策に一区切りつけてレイフォルクに帰省したのだ。

 

―――『エドナ、こいつは誰だ』

―――『初めましてアイゼンさん。私はアリム。エドナの友達で貴方のファンです。ねえ、外の話を聞かてくださいな』

 

元々通じるところがあったのだろう、アイゼンとアリムは傍目でもわかる程に惹かれ合い、やがては恋仲になった。その間もアイゼンはちょくちょく遠出を繰り返してはいたが、一年と経たない内にレイフォルクに戻ってきた。以前ならば三年や五年、下手をすれば十年も山に帰らなかった人が、である。

その理由を理解した時、エドナは戦慄した。

―――彼女は、アリムは人間なのだ。

最初は「そういえば髪が伸びたな」と思ったのだ。

子供の頃は二つに分けてお下げにしていた髪を、彼女はいつの間にか頭の上でまとめるようになっていた。三つ編みにした髪をくるくると巻いてリボンで留める。だから気付かなかったが、何かの折にそれを解いたアリムを見て背筋が寒くなったのを覚えている。

エドナの髪の長さは出会った頃と殆ど変わっていない。それなのに彼女の髪は肩甲骨にかかるくらいに伸びて、風にさらわれて揺れていた。

気付いていないだけでもっともっとあったのだ。身長はいつの間にか頭一つ以上抜かれていたし、声は僅かに低く落ち着いたものになった。胸が膨らみ腰が括れた大人の女性に近い体型、スカートもいつの間にか成人女性のそれと同じく長いものに変わっていた。

エドナは変わらない。最初に会った時と比べれば、ほんの僅か髪と身長も伸びたがそれだけだ。明らかに変わったという程の変化では到底ない。それでも、天族にとってはそれは可笑しなことでも何でもなかったから、今まで気にしたことは殆どなかった。

人の時間は天族のそれと比べて遥かに短い。人間と交わることが多かったアイゼンはそれを知っていて、アリムが生きている内にたくさん彼女との時間を作るために、今まで十年や二十年が当たり前だった旅を早く切り上げて帰ってきていたのだ。

それでもアイゼンが旅を辞めなかったのは何故なのか。

エドナはこの頃まだ知らなかった。彼が予期し、避けようとしていた最低最悪の幕引きを予想もせず、ただ山での日々を安穏と過ごしていたのだ。

 

 

目覚めてすぐは状況の把握は出来ない。それは仕方のないことで、仕方のないことではあるがすぐ目の前での流血沙汰は、とても気持ちの良いものではない。

顔のすぐ脇を掠めた憑魔の爪、そしてそれを寸でのところで弾いて軌道を変えたのはアリーシャの槍だった。

エドナに迫った憑魔は二体。アリーシャは一体の爪の軌道を辛うじて変えながら、もう一体の憑魔の牙を槍を返した手の篭手を使って受け止めた。相手の憑魔がそこまで大型の種で無いのが幸いだっただろう。顎の力の強い憑魔なら、腕が折れていても可笑しくはなかったのだから。

「大丈夫か、エドナ?!」

牙が掠めたのだろう、アリーシャの左腕の衣服に朱色がじわじわと広がっていく。当の本人にそれを気にした様子は無いし、それほど深い傷ではなさそうだったが、それを目の当たりにしたエドナの背筋には冷たいものが駆け抜けていった。

たった今見た光景。その続きは他ならぬエドナ自身の頭の中にある。

―――『ごめんね、エドナ。でも私は…』

忘れたことは無い。忘れられる筈が無い。長い髪を風に揺らして、凛と前を見据える彼女の姿は。

「っ…!!!」

アリーシャは彼女とは違う。そもそも状況がまるで違う。それを頭では理解しているというのに、こんなにも胸がざわついて止まらない。

心配そうなアリーシャの視線を振り払うように立ち上がり、エドナは全力で床を蹴る。アリーシャの槍を避けて後退した獣型の憑魔に突進し、最後の一歩を詰めるその足で全力を以て地面を踏みつけた。

途端に音を立てて隆起する岩の棘。激しい憤りのせいか詠唱も無しに出現したそれは石畳を割り、破片を撒き散らしながら、容赦なく憑魔の身体を四方八方から貫いていく。苦悶の声を上げて憑魔が消えるその様を、その場にいる全員が息を飲んで見つめているのがよくわかった。

「エドナ…?」

恐る恐る、という風で声を上げたのは、スレイに支えられたミクリオである。激しく体力を削る霊霧の衣を連発している彼はもう限界に近く、スレイの肩を借りてようやく立っている有様で、こちらに近づいて来る足元は当然覚束ない。情けない有様を笑ってやりたくともその余裕は今のエドナにはない。

エドナと同じ幻を見ているスレイは、何かを量るようにエドナの方をじっと見ているだけで、直接的な言葉はかけてこない。しかし、幻を見せられて意識を失っている間、ずっと傍でエドナとスレイの身体を守っているミクリオには、何か違った意見があるのだろう。エドナとアリーシャ、双方を見る彼の瞳は何かを酷く案じている風だった。

ライラはいつもと同じ深い瞳でこちらを見つめているだけで、その心の奥底を読み解くことは不可能だ。長く生きる彼女は、決して他者に己の内を晒すような真似はしないし、細かな傷を無数に負った彼女を支えるザビーダもまた、物言いたげな視線を寄越しながらも特に何も言葉は発さない。

明らかに遠巻きにされている空気。そしてそれ程までに余裕を欠いているのだろう自分。試練を用意したのがどんな人物かは知らないが、落ち着きを失えばそいつの思う壺だということはわかっている。わかってはいるが、それでも御しきれない何かが胸の内で沸騰寸前の状態になっているのは確かで、エドナはやり場の無いそれを押し込めるように歯を食い縛って俯いた。

俯いた頬に、金の髪がはらりとかかる。

いつか大人の姿になったら彼女のように結い上げたいと、そんなことを願った日もあったけれど、それも全て泡沫の夢。叶わぬ願いだ。

だって、彼女はもういない。そしてその現実に打ちのめされたアイゼンを止めることが叶わなかったあの日から、エドナの時は止まっているのだ。

唇を噛みしめたその時、チャリンと軽い音がした。

「あ…」

くすんだ灰色の石畳。所々にひび割れが走るその上に落ちたのは、エドナがかつて旅先の兄から受け取ったペンダントだった。

見ればチョーカー代わりにしていたリボンの右側が少し短い。恐らくさっき憑魔の爪が掠めた時に切れてしまったのだろう。端が解れて糸が出てしまっていた。

拾おうと伸ばした手が咄嗟に止まる。

このペンダントをくれたのはアイゼンだが、チョーカーのリボンは一度取り換えている。かつては人間の持ち物だったそれを、通りすがりの年配の天族に頼んで、天族のエドナが身に着けられるように術をかけてもらった。

常に共にあれるよう。

そして愚かな自分への戒めに。

「…エドナ?大丈夫か?どこか痛めたのか?」

ペンダントに手を伸ばしたまま動かないエドナを心配したのだろう、アリーシャが横合いから手を出してエドナのペンダントを拾い上げた。

心配そうに覗き込んでくる彼女の顔には、確かにエドナを酷く案じている風で、それがざわざわとエドナの心の深い部分を撫でていく。

―――このままでは駄目だ。

ペンダントを差し出すアリーシャの姿を見ながら、そんな思いが沸き起こる。訳が分からない焦燥感に、その場を走り去りたい衝動に駆られた。

いつまでも動かないエドナに、アリーシャの顔が更に心配そうな色を深める。彼女の背後で様子を窺っていた仲間達も、怪訝そうにこちらを見つめているから、何かリアクションを起こさなければいけないのはわかっていたが、恐怖で竦んだ手足は容易には動かない。

「…ありがとう」

ようやく絞り出した声は細く、情けないことに微かに震えていた。

ペンダントを差し出すアリーシャの手は、記憶の中の彼女とは違う。女性らしさを残しながらも指のしっかりした武人の手は、きっと己自身を守る力を持っている。アリーシャ自身が宣言するまでもなく、そんなことはエドナも先刻承知の事柄だった。

しかし、手だとか髪だとか言葉遣いだとか、そんな事よりももっと根本的なところで彼女たちは似ている。それがエドナの恐怖を煽って仕方ないのだ。

ペンダントを受け取って、心配そうなアリーシャの視線を断ち切るように背を向ける。片端の解れたリボンは結べそうになかったから、ワンピースのポケットに乱暴に突っ込んだ。

 

 

少しの休憩を挟んで再び遺跡の奥に立ち入る。戦闘を重ねた皆の足取りは疲労で重く、いつしか口数も減っていた。閉じた遺跡のこと、時間の感覚は疾うにない。こんな地下に水の湧いている場所は無いから水は貴重品で、飲食を必要としない天族達はともかく人間二人の足取りは疲労に重くなっていく。

エドナはちらりと横目でアリーシャの様子を窺った。

汗の滴る顎を袖で拭う彼女の顔は、誰が見ても疲労の色が濃い。日の光が差さないこの場所で歩き詰めの上に、度重なる戦闘。背後にエドナ達を庇いながらのそれは、さぞかし負担の大きいことだろう。

ミクリオは霊霧の衣の連発でやはりふらついているし、ライラとザビーダもアリーシャ程では無いにしてもどことなく動きがぎこちない。道中の憑魔はなるべくスレイとエドナが相手をするようにしてはいるが、彼等とて参加しないわけにもいかない。結果疲労と細かな負傷が積み重なり、一行の足を鈍らせていた。

この先にはあの巨体の憑魔が待っている。だというのに既に限界が近いことは誰の目にも明らかで、だから開けた空間に柱が立ち並ぶ場所、その林立した一本に新たなレリーフを発見した時、その場の全員が落胆した様子を隠せなかった。

どこかに明かり取りでもあるのだろうか。ほんの微かに差し込んだ日の光が帯のように石畳に落ち、埃がちらちらと光って見える。今までと違って天井もやけに高いから、上の方は地上まで抜けていて、どこかに穴でも開いているのかもしれない。

その日の光の帯が落ちる丁度その場所に、そのレリーフはあった。

やはりドラゴンの瞳に象嵌された金の宝玉。そしてそのドラゴンに手を伸ばしている女性を象ったレリーフだった。

その彫刻はやはり古く、苔むした石にはあちこちにヒビが入っている。経年の劣化によるものか、女性がどんな顔でドラゴンに手を伸べているのかは潰れてしまって殆どわからない。だがきっと絶望の色を浮かべているに違いない、とエドナはそう思う。

あの日、ドラゴンとなって空に飛び立つアイゼンに手を伸ばした自分のように。

「……もう、やめましょう」

すっと一歩前に出たスレイの背中に、エドナは言った。

「もう限界よ。アナタもわかっているでしょう。次の襲撃を凌げるだけの体力はそこのミボにも、そのお姫様にも残ってない。あの間抜けが言ってた試練の内容は、奥に逃げ込んだデカブツを鎮めること。…この悪趣味な仕掛けが必要だとは、一言も言ってないわ」

言いながらも自嘲する。

わかっている。地、水、火、風と四つの試練を用意して導師に与える秘力。わざわざ複数の試練を用意しているのは、導師と契約している天族の属性に合わせるため。即ち、これは導師の試練というよりは導師と契約を結んだ天族への試練なのだ。

そしてエドナがわかっているのだから、当然エドナよりも年長の二人だってそんなことは端から承知の事なのだろう。言い訳がましいエドナの言葉に、ザビーダはあからさまに眉を寄せ、ライラはどこか痛ましいものでも見るような目でエドナを見返す。

「俺は見ちゃいないからどう悪趣味なのかわからんがね。これが必要だと思ってるから、お前さんだって二回も三回も黙って受けてたんだろうが。今更違うと言うには無理があると思うけどな」

「私達天族の力を引き出す導師の性質を考えれば、契約した天族に試練を与える方法は合理的と言えます。これが無関係であると言い切ることは、私には出来ません。勿論、最終的に決めるのは試練を受けるエドナさんではありますが…」

「ま、エドナちゃんが怖いっていうなら仕方ないな」

「…ワタシが逃げてるって言いたいの?」

「おや?違うのか?」

睨みつければ返ってくるのは挑発的な台詞。ライラさえも彼の言葉を否定しない。そしてエドナ自身もそれが事実であるとわかっていたから、それ以上何も言わなかった。

「エドナ…」

アリーシャの気遣わし気な視線が鬱陶しい。ここでエドナが試練を受けるといえば、一番負荷がかかるのはその間憑魔の襲撃を防がなければならないアリーシャ達であるにも関わらず、そういうことはまったく念頭に無いようだった。この上戦闘になれば一番辛いのは、肉体的なダメージを蓄積しやすい人間のアリーシャだというのに。

槍の石突を地面に着く彼女の足元は、常と比べると重心の安定を欠いているように見える。疲れが出ているせいで重心の位置が高いのだ。これでは戦闘にも影響が出る。そうと指摘すれば彼女は改善するだろうが、普段息をするのと同じくしていることが出来なくなっている状態の人間に、この上無理をさせたところで良い結果など出るわけがない。

ただ痛い目を見るだけならばいい。しかし、戦って進むこの旅路においては、一瞬の油断が、疲労による隙が命取りになってしまう。

「…やっぱりワタシは」

「駄目だ、エドナ」

やめておく、そう喉まで出かかった言葉遮ったのは、ここまで殆ど口を挟まなかったスレイだった。

彼はレリーフの傍に歩み寄り、そのドラゴンの彫刻に片手を置いて真っすぐにエドナを見つめる。驚く程深い瞳だった。

「スレイ…」

「ここでやめちゃ駄目だ。多分、オレの思っている通りなら、きっとこの試練が見せる光景はエドナにとって辛いもので…もう、どうしようもないことなんだと思う。でも、ここでやめてしまったら、エドナがあの時から動けない。何となく、そんな気がするんだ」

「動けない、なんて…」

過去に囚われてどうしようもなくて、ただただ静かな終わりだけを望んでいたことは否めない。嘆くことにも飽いた頃にスレイが来て、ほんの気まぐれでその手を取ってはみたけれど、世界に出た所で今の所エドナを取り巻く状況には何の変化も無い。

きっと戻す方法があると言ったスレイの言葉を信じたい反面、もうそんな望みはどこにも無いのだと囁く自分もいる。覚悟しておかなければならないのだ、と言い訳をしながら、希望を望む自分を否定してきた。

だって、希望のある未来を夢見て、それさえ叶わなかったらきっとエドナも穢れてしまう。アイゼンの最期を見届けることなく、自我を穢れに喰われてドラゴンになるのだ。

それでは駄目だ。それだけは。

「…だって、約束したもの」

「エドナ」

重ねて言うスレイに首を振る。振って、そのままアリーシャを見た。

あちこちに擦り傷をつけ砂塵に汚れた彼女は、同じく薄汚れたミクリオと並んで立ちながら、如何にも心配そうに事の顛末を見守っている。少し離れた場所にいるザビーダ、ライラと比べて、彼女とスレイ、ミクリオは普段から何かと近くにいることが多かった。

彼等はエドナやザビーダ、ライラ達と比べて圧倒的に若い。子供特有の真っすぐさと無邪気さ。エドナ達が疾うに捨ててしまったそれらを後生大事に抱えて、寄り添い合ってこの旅路を歩んでいる。

眩しかった。

苦労知らずだなどと言う気はない。エドナ達に比べれば圧倒的に短い人生経験の中でさえ、彼等の行く道は険しい。手を取り合って日々歩んでいる彼等は称賛に値する。

しかし、彼等はまだ知らない。傍らの誰かが欠ける恐怖を、絶望を。特にミクリオと他の二人の間には、絶対に越えられない定めがある。彼もいつかそれを思い知る日が来るだろうが、その日まで彼の傍らにいるどちらかが欠けない保障はどこにも無い。

人は脆い。脆いくせに恐れを知らない。特に、天族と共に生きたいなどと途方もないことを言い出す人間は必ずと言って良いほどそうだ。

彼等は目指した道を決して引き返さない。諦めない。どんなに懇願しても、己がただ命を長らえるためだけに道を戻ってはくれないのだ。

「エドナ」

尚も手を差し伸べるスレイに、エドナは諦観の念を以て見つめる。この手を下ろすことをきっとスレイはしてくれない。否、エドナがここで座り込んで泣き喚きでもしたら話は別なのかもしれないが、涙など疾うの昔に枯れ果ててしまっている。

エドナは緩慢な仕草でスレイの手に己の手を重ねながら、反対の手でポケットの中のペンダントをぎゅっと握り締めた。

 

 

その話がアイゼンの口から出たのは、アリムが成人を間近に控えたある日のことだった。

三か月程の短い旅路から帰った彼は、丁度来ていたアリムに詰め寄って彼には珍しい大声を上げた。

「見つけたぞ!!」

彼は抱えた古い本を無造作に地面に置き、開き癖のついたページを開く。片方のページは挿絵で、神々しい炎を纏って巨大な剣を持った人間の姿が描かれていた。

「アイゼン…これ…」

「神依。伝説の導師の力の秘密だ。これは王家と繋がりのある神官が裏で編纂させた代物らしいから、まず間違いはない。…これなら俺も戦える」

「アイゼン…、何を…?」

戸惑うような視線を向けるアリムを、アイゼンは真剣そのものの表情で見つめる。

「…天族討伐軍が結成される。天候を操り、地の気を乱す邪悪な精霊を退治すると。首都では志願者が山のように訪れて大した賑わいだ」

「どういうこと、お兄ちゃん?!」

アイゼンに報告にエドナは思わず声を荒げる。

人間と天族が大昔のように手を取り合えなくなったことは知っていた。エドナ自身はその頃まだ生まれてはいなかったが、ある程度年のいった天族は、人間と共に暮らしていた時代のことを未だに記憶に残している。彼等が言う通りならば、昔は人間の誰もが天族を見ることが出来たし、天族と力を合わせることで穢れを祓い、災厄を退ける方法だってあったのだそうだ。

一体何が原因だったのだろう。

いつの頃からか人間は天族の力を恐れるようになり、天族の存在を忌避するようになった。それでも二、三百年前ならば大部分の人間が天族のことを見る事が出来たものだが、ここ最近は見える人間はほんの一握りになってしまった。

見えないことが加速度的に天族への恐怖を高め、やがてそれは憎悪に変わった。ここ最近、人間が天族のことをあることないこと好き放題に言っては、災厄の責任を押し付けていたのは知っている。本当の原因は穢れをまき散らす彼らにこそあるというのに。

「ワタシ達はただ静かに暮らしてるだけじゃない!!」

「落ち着いて、エドナ。大丈夫、こんな辺境の山に軍隊なんか寄越すわけないわ」

宥めるアリムの声が微かに上擦る。いつも落ち着いた通る声が揺れているのを聞けば、彼女の言葉が単なる気休め以上のもので無いことは簡単にわかった。それでもエドナのように彼女が取り乱さない理由は一つ。

「…あなた、知ってたのね?」

エドナの言葉にアリムはまるで叱られた子供のように肩を竦めた。

志願者が殺到しているということは、それだけ広く触れが出ているということ。アリムが暮らすのは山間の小さな村に過ぎないが、首都からさして距離は無い。国の隅々まで触れが回っているのだとしたら、彼女が知らない筈はないのだ。

「どうして黙ってたの?」

「…ごめんなさい。エドナに、怖い思いはさせたくなかったの」

「それでこの山に軍が押し寄せてくるまで、何も知らずにいれば良かったかのかしら?」

「いいえ。だって、この山に軍なんて来ないもの」

冷ややかな言葉に、しかし今度は彼女は俯かなかった。

膝をついて本を覗いていた彼女は立ち上がり、エドナとアイゼンにどこまでも真っすぐな視線を投げる。

「この霊峰レイフォルクは古より天族の住まう山。貴方達のことを何も知らない人間が踏み荒らして良い道理はないわ。だから、絶対にこの山の土は踏ませない。何があっても」

「アリム!!それではお前が!」

「大丈夫よ、アイゼン。私の祖父は神殿に長く務めた神官。お父様たちが亡くなってからは、私はおじい様の教えを受けて育ってきた。…神職者が天族の姿を見るとは最早限らないけれど、それでも他にあてが無いから、軍は神職にある者、神職として教育を受けた者を集めてる。ここに軍を寄越さないように誘導することは十分可能だわ」

笑うアリムの表情が硬い。

彼女の祖父は天族に好意的だった。狭い村のことだ。それくらいのことは皆知っているし、アリムが村を空けて足繁くこの山に通っていたことにも気付いている。王の寄越した軍に対して知らぬ存ぜぬを貫き通せば、必ず疑われることになるだろう。天族を庇っていると判断されれば、待っているのは死だけだ。多くの人間が天族が災いの源であると信じるこの時代、天族に与する者は即ち人間への反逆者だ。どう言い繕っても処刑は免れないだろう。

勿論、そんなアリムの無謀を、彼女の恋人が許すわけがない。

「馬鹿か!!そんなこと許せるわけが無いだろう!!俺が誓約を立てて神依を使えるようになれば…!!」

「そうやって進軍してくる人間達を力で蹴散らすの?天族が人の手には負えない悪魔だと、そう確信した人々が諦めるまで?」

激高するアイゼンを諭す声は、聴いているエドナが不思議になる程冷静だった。

「だめよ。それでは結局誰も幸せになれないもの」

静かに微笑みを湛えたまま彼女は言う。肩を掴んだ恋人の手に己の手を重ねながら、幼子を諭す母親のように穏やかな調子で。

「私の夢を覚えてる?あなたも願うと言ってくれた夢」

「…いつの日か、天族と人間が再び手を取り合う世界を作ること」

「そう。私達人間の寿命は短いし、弱い心は強い者に怯え、簡単に真実を見失う。それでも真実を見ようとする人は必ずいる。今のこの時代に私達の夢が叶わなくても、それを継いでくれる人は必ずいるわ。だから私達は、出来る限りの真実を誤りないように未来に渡さなきゃいけない。…ここで我が身可愛さに人間を殺してしまえば、真実は更に歪んでしまう。今まで人間の仕打ちに耐え、光りある未来を夢見て生きてきた天族達の想いの全てを台無しにしてしまう。それにね、アイゼン。私、見たくないの。貴方が人間達の恨みに飲まれて穢れに堕ちてしまう姿なんて」

「…お前が死ねば一緒だ。俺は正気ではいられない」

「人間はいつか必ず死ぬわ。貴方達から見たらきっと一瞬の間に老いて死んでしまう。今ここで無事でも、死ぬのが少し遅くなるだけ。でもね、ここで貴方の中の何かを縛る誓約を基に契約して人を殺して生き延びれば、私の中のもっと大事なところが死んでしまう。貴方達の心に残る私の姿はきっと死んだように生きる私の姿になる。私はそれが一番怖い」

「アリム…」

「大丈夫よアイゼン。貴方を世界に繋ぎ留めるものは私だけなんかじゃない」

言ってアリムはエドナを見遣る。いつか見た子供のような煌きが残る眼差しは、しかしあの頃とは違う深みをもってエドナに刺さった。

「エドナ、ごめんね。でも私は…」

身を翻し、膝をついてエドナの肩に顔を埋める。ほんの数年前までは同じ背丈だった少女。今は頭一つ以上エドナを置き去りにして成長した彼女は、そうしながら髪を上げていたリボンを片手で解いた。

「わがままばっかり言ってごめん、エドナ。これが最後のわがままよ。私のこと、覚えていて。貴方達が好きでいてくれた私のままで、私のことを覚えていてね」

しゅる、と耳元で布の擦れる音がする。一房つまみ上げたエドナの金糸に、アリムがリボンを結んだ音だった。

「わがままにも程があるわ。ほんっとうに馬鹿な子。アナタなみたいなわがまま娘、忘れられるわけないじゃない…!」

たかだか数年。天族から見れば瞬きのような時間。それでもアリムと過ごした時間は特別だった。

ただ山の上で兄を待ち、空を眺めながら暇を持て余していたエドナにとって、今まで生きてきた年月全てよりも特別な時間だった。

声を聞くことが、話をすることが、笑い合うことがこんなにも大切のだと、有限の時を生きる彼女の変化がこんなにも尊いものなのだと、それを悟るには十分な時間だった。きっと兄がずっと言ってきたように、そして彼女が望んだように、本来は人間と天族とは共に生きるべき種なのだと、素直に信じられた時間だった。悠久の時を生きる自分達には無いものを人間は持っている。そしてきっと彼女達人間にとっても、変わらずに在り続ける自分達の存在は掛け替えのない何かなのだろう。

その掛け替えのない存在が、今永遠に去ろうとしている。

アリムの肩に手を回し、背中に落ちた長い髪に手を触れながら、エドナは声を張り上げた。

「馬鹿…バカ、バカ!!大嫌いよ!!アナタなんて、人間なんて大嫌いよ…!!」

「エドナ、ごめん。でも大好きよ、エドナ」

「何が大好きよ。止めたって聞かないクセに。…お兄ちゃんのことは、ワタシがずっと見てるわ。何が起きても傍にいる。この身の果てまで。だから、安心しなさい」

「…ありがとう」

涙に滲む細い声。彼女の声に、喉元から突き上がる物がある。

「っ、バカ…!」

快く送り出す気などない。行って欲しいわけがない。それでもエドナにはわかってしまった。

このまま彼女をここに引き留め、エドナ達の力で人間を蹴散らしても何の解決にもならない。生まれ育った山を捨ててどこかに逃げるとしても、王命に逆らったアリムが生き延びる道は無い。アリムが生き残る道はたった二つ。

アイゼンと契約してその強大な力で人間が諦めるまで殺し続けるか、エドナ達を売ってエドナ達の命と引き換えに生きるか。

そのどちらの道も、アリムの心を殺すだろうことは間違いない。彼女は他人を踏みつけにして生きていける人間では到底無かった。

「俺は…諦めねえぞ」

「アイゼン」

抱き合って別れを惜しむエドナ達二人共をその広い胸に抱えて、アイゼンが絞り出すような声を出す。

その声を聞いてエドナは悟る。

―――嗚呼。彼も本当はわかっているのだ。

「お兄ちゃん…」

「何か、何かある筈だ。何か。…その時まで俺は諦めねえ。必ず方法を探して見せる。…エドナ、留守の間アリムを頼む」

低い声でそう言ったアイゼンは身を翻し、一目散に山を下っていく。その背を見送るエドナは、湧き上がってくる暗い予感に喉を引き攣らせた。

天族は本来諦めることに長けた種族だ。そうでなければ、飽きる程に長い生の中、穢れることなく生きていくことなど不可能だから。

―――彼は人間と関わりすぎたのかもしれない。諦められない夢に焦がれて、身を削ってでもひた走る。そんな生き方に触れすぎたのかもしれない。

「アイゼン…」

隣で佇むアリムもまた、エドナと同様の不安に苛まれているのだろう。恋人の名を呼ぶ彼女の声はどうしようもなく不安げで。

きっとアリムには余り時間は残されていない。首都からそう遠くないこの場所のこと。兵が辿り着くのはそう遠いことでは無いだろう。

そう感じたエドナの予想は正しかった。否、現実はもっと非情だった。

アリムはいつも通り山を下り、村に帰ったその時に、行軍の知らせを受けた村人から拘束され、十日間の監禁の後にやってきた兵の前に引き出された。

兵士の問いに、アリムは一言も答えなかった。幼い頃から共に暮らした村人から罵倒と投石を受け、兵士達から拷問めいた暴力に晒されながらも、エドナ達の場所へ兵士を案内することは決してなかった。

そしてアリムが最後にレイフォルクを訪れた日から二週間後。

人類を裏切った魔女として、彼女は村の中央広場に引き出され、柱に括り付けられた後に火刑に処されたのだった。

 

 

『貴方達が天族の本当の姿から目を背ける限り、真実は貴方達に背を向ける。この世界は歪んだ憎しみに食い潰され、やがて人は滅びるでしょう。その日が来る前に、貴方達が真実にもう一度目を向ける日が来ることを私は願います』

目の前で流れる光景に、エドナはただ唇を噛んで俯いていた。あの運命の日、やはり自分がそうしていたように。

あちこちに暴行の跡を残したアリムの顔は酷く腫れ上がり、少女らしい溌剌とした美しさは鳴りを潜めていたが、それでも彼女が持つ凛とした誇り高さは少しも失われてはいなかった。

村の中央に引き出され、根本に薪を積み上げられた柱の前に引きずり出されても、彼女はまるで抵抗しなかった。複数の男の手で柱に括り付けられ、その間もひっきりなしに罵声が飛ぶその様を、あの日のエドナはただ見ていた。

何て滑稽な連中だろうか。探している天族は、エドナは目の前にいるというのに、自分の信じたいものしか信じない曇った瞳のせいでそれを認識することも叶わない。人類の敵だ、村の恥さらしだと喚く連中こそが、世界を蝕む穢れを撒き散らしているというのに、そんなことにも気付かないで。

こんな連中の命などどうでも良い。アリムを攫って逃げてしまおう。大丈夫、一人二人死んだところで、この穢れだ。結果としてはそう変わらないだろう。

思わず片足を上げかけたエドナだったが、それに気付いた者がいた。

アリムだった。

―――だめよ、エドナ。

ほんの僅か微笑んだ彼女の目はそう語っていて、その証拠に彼女は本当に微かに首を振った。視線の先に誰かがいることを気付かせないように、風に揺らいだかのような動きで。

足元の薪に油が注がれ、松明を手にした男達によって火がつけられる。アリムは足先から火に舐められる苦痛に顔を歪ませながらも、悲鳴の一つも上げることは無かった。息耐えるまで、アリムはアリムのままだった。

「…アリムは同族の人間の手によって殺された。お兄ちゃんが帰ったのは、丁度その後のことだったわ」

背後に感じた気配に向かって、エドナは聞かれてもいない顛末を口にする。

「お兄ちゃんは神器を持ち帰ってきた。アリムはお兄ちゃんが何かを引き換えに誓約を立てるのを嫌がってたけど、お兄ちゃんは誓約を立てずに神依する方法はきっとある筈だって言ってた。遺跡がそれを教えてくれるって。結局その答えをお兄ちゃんが見つけたかどうかはわからないけど。でも、ワタシの神器はその時お兄ちゃんが持って帰ってきたものよ。…お兄ちゃんは物みたいに放り出されたアリムの死体を目にして、そのまま…ドラゴン化してしまった」

ぎゅっと拳を握り締める。

アリムを頼む、とアイゼンに言われた。アイゼンを繋ぎ留めて欲しいとアリムは願った。しかし、エドナはどちらも成し遂げることが出来なかった。

アリムの死体を抱えて慟哭するアイゼンが穢れに飲まれていく様を見ていることしか出来なかった。どんなに呼んでも、アイゼンにはエドナの声は届かなかったのだ。ただ一声、村人に襲い掛かろうとしたアイゼンを制止した一言だけを除いて。

「ドラゴンの領域になった村はそのまま滅びたわ。でも、お兄ちゃんはアリムの最期の願いを忘れてはいなかった。お兄ちゃん自身の手では誰一人殺さなかった。殆どの村人や兵士は、枯れて疫病の蔓延する村を逃れて去って行ったわ。お兄ちゃんとワタシはアリムを連れてレイフォルクに戻った。ワタシはお兄ちゃんと一生そこで過ごすつもりで誓約を立てて結界を張ったの」

「じゃあ、あの祠は…」

「ワタシが作った、アリムのお墓よ」

映像が終わったその空間は、果てもなく白い。上も下も右も左もわからない中、スレイがエドナの背後に立っていることだけは確かだった。

「人間なんて嫌いよ。関わらなければ良かった。あの時関わらずにいればお兄ちゃんはドラゴンになることはなかったし、あの子だって…死なずに済んだ」

悔恨は果てることは無い。でもそれに身を任せることはエドナには出来ない。

災厄の時代。穢れに完全に理性を飲まれたアイゼンは、エドナの結界が亡くなれば無作為に人を殺すだろう。

それは、それだけは。

「エドナ…」

スレイが歩み寄ってくる気配がする。今はどんな顔で彼の顔を見れば良いのかわからない。長い時の中、もう二度と人間と関わるまいとそう思っていたのに、数百年、数千年の孤独の時間はその決意を揺らがせた。希望を示すスレイの言葉に、差し出された手に、思わず縋りついてしまった。

それが過ちだったのではないか。エドナは今この瞬間、その迷いを振り切れずにいる。

すぐ傍で、スレイが膝をつく気配がした。エドナの身長が、あの時から一ミリたりとも伸びていないからだ。

「…オレは、多分みんなを置いて行っちゃう側だから、彼女の気持ちがちょっとだけわかる気がする。あの人は、本当にエドナとエドナのお兄さんのことが好きだったんだ」

「何を…」

「好きだから、自分のために人なんか殺してほしくなかったし、自分が死んだ後もずっと生きていくってことを知ってたから、二人の前では自分が一番好きでいられる自分で居たかったんだと思う。何十年、何百年経った後も、誇らしく思ってもらえるように」

「そんなの…自分勝手よ…」

「そうだね。でもオレも…多分アリーシャもそう思ってる。恥ずかしくない自分で居たいって。だからこそ、大変な時でも力が出る。こんな途方もない旅をしてるのに、何とかやっていこうって気持ちになれるんだ。大事に人に誇れる自分であることが、ただ生きるために生きる時間よりずっと大事だって」

スレイの言葉に脳裏に浮かんだのは、最期にアリムが見せた微笑み。エドナの意思を断ち切って、ただ一人で逝ってしまった彼女の顔だ。

何かが胸の内で弾けたような気がした。

「誰が…そんなこと頼んだのよ…。人間はだから嫌いなのよ!ただでさえ百年足らずの時間しか生きられないクセに、何で簡単に投げ出すの?!本当にワタシ達が好きなら、もっと必死に足掻きなさいよ!!精一杯、生きようとしなさいよ!!」

格好悪くても良い。汚くても良い。ただ共に生きるために足掻いてくれればそれで良かった。どんな苦労をしようが手が汚れようが、そんなことは構わなかったのに。多少恨みの念がまとわりつこうが、そんなものはいつかは消える。それだけの時間がエドナ達にはあるのだ。心が引き裂かれて、己の内から出た穢れに飲み込まれるよりも余程マシな筈だったのに。

エドナは勢いよく顔を上げ、間近にあるスレイの目を睨みつける。その光が妙に穏やかなところまで腹立たしくて、引っ叩いてやりたい気分になった。

「アナタ達も、許さないから!!ワタシの前で簡単に命を投げ出すような真似、絶対に許さないわ!」

「うん」

叩きつけるようなエドナの怒声に、頷くスレイの目はやはり穏やかで、しかしアリムとは圧倒的に違う強い輝きを放っている。

毒気を抜かれて思わず言葉に詰まったエドナに、彼は深く頷いてみせる。

「許さなくていいよ。みんなの前で誇れる自分でありたいっていうのはオレ達の気持ちだから。エドナはエドナの気持ちを大事にしてもいいんだ」

「ワタシの…気持ち…?」

「うん。オレは導師で、オレの夢を叶えるために天族のみんなやアリーシャの力を借りてるけど、それだけじゃない。みんなの夢のために、オレの力を使ったって良いと思うんだ。…見てるだけが辛いなら、オレに言って欲しい。オレは出来る限り力になるから」

「ワタシの…夢…」

その時だった。

白い部屋に再び光と影が像を結び、聞き慣れた声が反響するように響き渡る。

―――『ごめん、もう…っ!!!』

―――『ミクリオ!!今援護に…きゃっ?!』

―――『アリーシャちゃん無茶するな!オレが行く!!ライラ!!』

―――『ここは任せてください!!』

憑魔で溢れかえる空間に、ミクリオとエドナとスレイ、三人を庇いながら立ち回る三人の姿。誰一人として無傷ではいないが、まだ誰も膝をついてもいない。ミクリオとて、荒い息をつきながらも、回復の術で仲間を支援し続けていた。

しかし、今のままでは長くは保たないことは明白。憑魔は倒しても倒しても湧いて来る。今は力の均衡が辛うじて保たれてはいるものの、誰か一人が崩れれば、一気に相手の優勢に傾くであろうことは明らかだった。

そして今一番危ういのは―――。

映像を見てエドナは殆ど悲鳴のような声で叫んだ。

「アリーシャ!!!」

ついた足の膝が一瞬折れる。辛うじて踏みとどまったものの、彼女の振るう槍に最早力は無くなってきていた。迫りくる爪を捌ききれず、瞬く間に頬や腕に浅い傷が増えていく。ライラと縁を結んだ状態である彼女ではあるが、前線で槍を振るう彼女に距離を取って詠唱をする暇はない。ライラの援護を受けながら、必死で背後に敵を行かせぬように槍を振るって耐え続ける。ミクリオの霊霧の衣が解けた今となっては、中距離で敵を捌けるザビーダはそちらから動けない。満足に切先も上がらないような状況にありながら、それでもアリーシャは下がらなかった。

―――『こいつらを連れて一旦下がる!!アリーシャちゃんも下がれ!!』

―――『駄目だ!今隙を見せれば抜かれる!!食い止めている間に二人を!!』

切羽詰まった声の応酬。蝙蝠に似た憑魔の一体を切り捨てながら、アリーシャが叫ぶ。

彼女は退かない。背後に守るものがある限り、その槍が折れるまで戦い続けるのだろう。

それが彼女の選んだ、己の姿。

それならば―――。

「スレイ」

スレイに向かって手を差し出す。この手を取れと無言で告げる。

「手伝って」

「喜んで」

不思議と心は凪いでいる。凪いではいるが、今までのように諦めて心を閉ざしたわけでは決してない。寧ろ今までになく、視界が開けた気分がした。

スレイの体温を掌に感じる。呼吸を一つ、そうして己の真名を唱える声が、スレイのエドナを呼ぶ声と、寸分の違いなくぴたりと重なった。

 

 

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悠久なるは 7

 

ザビーダが二人を小脇に抱えて交代するのを横目で確認しながら槍を振るう。使い慣れたはずのそれは、疲労の溜まった腕には酷く重いが、体を入れて必死で切っ先を持ち上げる。ザビーダが意識のない二人を守り、ライラがそのを助け、ミクリオは術の行使で疲労困憊。アリーシャが前線を支えなければ、彼らの後退を守る壁が無くなってしまう。

 

「っ!!」

 

頬や腕を熱が掠めるが、怯んでいる暇はない。足元の小型憑魔を蹴り飛ばし、脇を抜けようとする四足の憑魔の顔面を石突で強かに殴りつける。そうしながらアリーシャ自身もじりじり後退することを余儀なくされていた。

 

「くっ」

 

振るう度に槍の切れ味が落ちていく。数を斬れば切れ味が鈍るのは当然だが、それ以上に槍を支える己の動きが鈍っていることは理解していた。

 

―――戦い続けてどれだけになる。スレイとエドナは何時目が覚める。

 

もう長くは保たない。その事実は火を見るより明らかで、焦りがアリーシャの思考の動きを鈍らせる。

 

今すべきは動けない二人の安全を確保すること。少なくとも四方から囲まれなければ、今守りについているライラかザビーダのどちらか一人は動けるようになる。例えそうなっても現在の状況が続けばいずれはジリ貧だが、時間稼ぎは格段に楽になるだろう。

 

アリーシャの考えていることは当然ザビーダ達も考えていて、敵をいなしながら彼らの進行方向を確認すると、遮蔽物になりそうな遺構が見えた。恐らくは何らかの儀式に使う祭壇なのだろうが、今まで見てきた設備と比べると格段に荘厳な造りだ。恐らくはここが遺跡の最深部なのだろう。白い柱が林立するこの場所も、元は祭壇に祈りを捧げる人々が集う集会場だったのかもしれない。

 

そこまで考えて、ふとアリーシャは引っ掛かりを覚えた。何か重要なことを忘れているような気がする。

 

そう、ここは明らかに遺跡の最深部であり、終点でもある。そして自分達は怯えて逃げる憑魔を追ってきた。遺跡のあちこちを破壊しながら進む憑魔の足取りを追うのは簡単で、相手は偽装工作を施すような知恵のある相手ではなさそうだった。つまり、アリーシャ達の行きつく場所に、かの憑魔はいる筈なのだ。

 

「…ザビーダ!!!戻って!!」

 

耳の奥で血の気が引く音がした。

 

手近な憑魔を斬り飛ばしながら、先頭を行くザビーダの背中を追って全力で駆ける。ぐったりとした二人を抱えたザビーダの走りは、当然アリーシャの全力疾走と比べると速度が遅い。彼が怪訝そうに速度を緩めたこともあり、辛うじて祭壇にザビーダが辿り着く前にザビーダの前に滑り込んだアリーシャは、槍を構えながら大声を上げた。

 

「ライラ!後ろは頼む!!」

 

「アリーシャさん?何を…」

 

彼女の言葉はそれ以上続かなかった。響いた咆哮に掻き消されてしまったのだ。

 

ミノタウロス。投げ捨てられ、閉じ込められた哀れな鬼子。

 

今まで巨体を縮めて必死で隠れていたのだろうが、ザビーダが近づいたことで遂に恐怖の堰が切れてしまったらしい。重量級の武器を振り回し、突進してくる半人半獣の憑魔は、完全に恐怖に飲まれて我を忘れてしまっているようだった。ザビーダを庇うように前に出たアリーシャの姿を認めるや、雄叫びを上げながら武器を大きく振りかぶる。

 

「アリーシャ!!!」

 

悲鳴のようにミクリオが叫ぶのと、憑魔の武器が振り下ろされたのがほぼ同時。両足を踏ん張って槍を前に構え、何とか一撃を受け止めようとするが、巨体から繰り出される一撃は疲弊したアリーシャが受け止めるには重すぎた。

 

「アリーシャさん!!堪えて!!」

 

ライラの声と、ザビーダの早口の詠唱が重なる。しかしどれだけ急ごうとも既にアリーシャには、その一撃をそれまで止められる力はどこにも残っていなかった。

 

踏ん張りが利かなくなった足が滑る。止め切れなかった憑魔の武器が振り切られ、質量に押されてそのまま体が跳ね飛ばされるのを感じた。無造作ともいえる動きであっさりと宙を舞った体は、受け身を取ることもままならない。背中から石畳に叩きつけられて息が詰まった。

 

「アリーシャ!!!」

 

怒号のように叫んだのはザビーダか。しかし首を上げて声の主を確認することは出来なかった。酷く体が重かった。

 

―――これが最期か。

 

地響きのような憑魔の足音を間近に聞きながら、アリーシャはぼんやりとそう思う。重い瞼をなんとか上げると、迫りくる憑魔のその後ろ、ぼやりとした輪郭で描かれる視界の隅に、攻撃の余波が届かない場所でスレイと寄り添うように座る金髪の少女が映る。

 

―――きっと彼女は怒るだろう。

 

アリーシャが分不相応に無茶をする度に、悲痛な表情を浮かべていた彼女はきっと。人は嫌いだと公言して憚らないエドナがそんな顔をする理由をアリーシャは知らない。しかし、きっと数千年を生きる彼女の長い生のどこかに、彼女の表情に影を落とす何かがあったことは想像に難くない。

 

激痛に耐えながら上半身を起こし、落とした槍を必死で手繰る。慣れたその感触を手に握り、間近に迫ったいかつい憑魔の武器が振り上げられたのを感じながら、槍に縋って立ち上がる。

 

脳裏に浮かぶのは、ペンダントを受け取ろうとした時の、エドナの寄る辺ない子供のような表情だった。天族は外見年齢と実際の年齢に大きな開きがある。外見の成長速度も一定ではないようだという話も聞いたことがあった。詳しくは知らないが、今まで聞いた話を統合するとエドナの実年齢は数百、或いは千歳以上であることは確実だろう。その彼女があの時見せた表情は、親の姿が見えないと気付いた時の迷い子のそれのようだった。

 

―――『どうせ先にいっちゃうくせに』

 

激昂した彼女がその怒りを抑えた後、諦観を滲ませて呟いた言葉が何だったのか、今ならわかる。

 

数千年。言葉にするのは簡単でも、実際に背負う重みはいかほどか。

 

彼女の過去に何があったのかは知らないが、エドナが人間と共にいることに消極的な理由があるのだ。その原因が天族と比べると遥かに短い人間の寿命にあるのなら、アリーシャに出来ることは余りない。どんなに頑張ったところでいつかアリーシャとスレイは年を取り、天族の彼らをおいて死出の旅路に向かうのだから。

 

「…だが、今じゃ…ないっ」

 

よろよろと立ち上がり、酷く捻ったらしい右足を引き摺りながら何とか前へと足を踏み出す。これでは到底避けられないだろうが、最後の最後まで足掻くことしか今のアリーシャに出来ることは無い。諦める選択肢だけはあり得なかった。

 

守るべきもののために強くなれ。

 

尊敬して止まない師匠はアリーシャにそう教えた。その教えは最早アリーシャの一部だ。

 

「アリーシャさん!!!」

 

ライラの悲鳴が響き渡る。現実は無情だ。振り下ろされる武器は確実にアリーシャを捉えている。

 

せめて急所を外せれば。

 

アリーシャが尚もその動かない足を叱咤したその時だった。

 

旋風がアリーシャのすぐ傍を駆け抜けた。堆積した砂塵を舞い上げたそれは、アリーシャに殆ど触れそうになっていた憑魔の武器を弾き飛ばし、更にはその巨体の足をすくって地面に転がした。地震のような震えに耐えられず思わず膝をついたアリーシャは、目の前に立ちはだかる姿に息を飲む。

 

「…スレイ?」

 

砂塵の舞い踊る金色の髪。憑魔を押さえつける巨大な籠手。

 

アリーシャと憑魔の間に割って入ったのは、エドナと神依をしたスレイに相違ない。しかし受ける圧は今までのそれとは明らかに異なっていて、アリーシャは無意識に息を飲んだ。

 

 

 

「守る守るって言っておいて大したザマね。アナタが何をしようと構わないけど、ワタシの前で死なれるのは御免よ。目覚めが悪いったらありゃしない」

 

「エドナ?!」

 

口を開いたのはスレイの筈なのに、その声は間違いなくエドナのもの。丁度スレイが少女の声で話しているような塩梅で、受ける違和感は凄まじいが一先ずそれは置いておく。重要なのは、神依中の天族が導師以外の人間に直接声を届けること出来ているという事実だ。

 

「エドナ、なんだな…?」

 

「ワタシ以外に誰かいるかしら?」

 

スレイは倒れてもがいている憑魔に油断なく視線を送っているが、エドナは間違いなくアリーシャを見ている。彼女は声は少し怒っていて、しかし少し前までの悲痛さは和らいでいる。それがスレイとの神依が強まっていることと無関係で無いのはすぐにわかった。

 

スレイが彼女の何かを変えたのだ。

 

「やっぱりスレイは凄いな」

 

槍を杖に立ち上がると、慌てたようにライラが駆け寄ってくる。いつの間にか湧き出ていた憑魔はいなくなっていて、際限なく湧いて出る憑魔の噴出は止まったのだと知れた。

 

ライラの癒しの光に包まれて、体中に満ちていた重苦しい痛みが薄れていく。

 

天族の力を持ってすれば、体の傷は簡単に癒せる。しかし長く生きる彼らの、心の傷を癒してくれるものが一体この世界にどれくらいあるのか。

 

アリーシャは傷を癒すどころかエドナの不安の種になるばかり。騎士として人として、選んだ生き方をただ歩くだけで己の命すら危うくする生き方しかできない。

 

「…すまない、エドナ。大きなことを言ったくせに、私は弱い。君の言った通りだ。でも、私は私以外には決してなれない」

 

それが例えエドナの傷を抉るのだとわかっていても、何度だってアリーシャは槍を手に立ち上がる。何度だって敵の前に立ち塞がる。その槍と、大切なものを守るために強くなれという師の教え。それだけが、無力で惨めな自分を誇るための武器なのだ。

 

「アリーシャさん…」

 

唇を噛んだアリーシャの肩にライラが白い手を乗せる。彼女はいつだってアリーシャの価値を認め、その力が必要なのだと説いてくれていたが、それでもアリーシャの力がまだまだ微弱なのだ紛れようもない事実だ。

 

倒れ伏した憑魔を警戒するスレイの表情は伺えない。しかし、エドナがため息をついた気配ははっきりとわかった。思わずアリーシャが肩を竦めるも、エドナの辛辣な言葉は聞こえてこない。代わりに聞こえてきたのは地鳴りのような低い籠もった音だった。

 

「何だ…?!」

 

「声、のようですわ」

 

ライラが言う通り、地鳴りにも似たその音は人の声だった。混然となっていたその低い唸りは、いくらも経たない内に一つ一つがばらばらになり、音としての輪郭を明確にする。それがはっきりとした言葉に聞こえるようになる頃には、響きは高く尖ったものになり、すぐに幾重にも重なった子供の声だとエドナ達が気付くに至る。

 

 

――たすけて

 

――こわいよ

 

――おなかがへったよ

 

――のどがかわいたよ。おみずがほしい

 

――だれか、だれか…パパ、ママ…

 

――こわいよ、くらいよ

 

 

「くそっ、これがこの憑魔の正体か…!」

 

「この地に捨てられた子供たちの無念、その集合体だったのですね」

 

ザビーダが怒りとも悲しみともつかない表情で舌打ちし、ライラが痛ましそうに目を閉じる。アリーシャもまた起き上がろうと手足をばたばたさせるその憑魔に視線をやり、その仕草がどことなく拙いことに気が付いた。

 

否、思い返せば最初からそうだった。エドナの迫力に押し負けて巨体を縮めながら逃げ去り、癇癪を起こしたように柱をなぎ倒して、追いつかれたと知るやパニックに陥ってがむしゃらに襲い掛かってきた。単に知能が低いのではない。彼―と言っていいものかわからないが―の精神が幼かったのだ。

 

「っ…」

 

この枯れた大地に根付いたゴドジンの民。一度天災に襲われれば、その年は酷い不作となるだろう。無論、ただ食べるだけの子供を養うだけの余裕はそこには無い。順調に行ったとて食べるだけでかつかつなのだ。体が弱い子供や、不作の年にまだ働けない年齢の子供は容赦なく間引かれる。

 

昨夜会った少年は言ってはいなかったか。村長がお金を工面して村を豊かにしてくれたおかげで、妹が死なずに済んだのだと。

 

マシドラがスランジとして変えたかったのはこういう現実だったのだろう。村を生かすために無力な子供太達を地の底に捨てざるを得ない貧しさ。遺跡を開ける手段が失われていたことからして、現代もここが子供を捨てる場所だったわけではないだろうが、この土地が貧しかったのは遥か昔から変わらない。目の前の憑魔は、何十、何百年という間に捨てられ、孤独のうちに飢えと渇きで死んでいった幼い子供たちなのだ。

 

この悲劇をずっとローランスは許してきた。そしてこの災厄の時代、ハイランドの中でもこういう子供たちはきっといる。

 

オン、オン、と子供たちの無念の声が洞窟の中に木霊する。巨体を危なっかしくふらふらさせながら立ち上げる憑魔の前には、神依したエドナとスレイ。アリーシャに背を向ける形で立ちはだかる彼らの表情は窺えない。しかし、突き付けられた現実に立ちすくんだアリーシャを叱咤するかのように、彼らは動いた。

 

「エドナ、スレイ?!」

 

巨大な籠手を振りかぶり、悲鳴を上げる憑魔を打つ。牛頭人身の憑魔は体を丸めてそれに耐えながら大きく啼いた。それは残酷な現実に与えられた理不尽な仕打ちに打ちのめされる子供の声そのもので。

 

容赦なく憑魔を打ち据えるエドナ達の後ろ姿を、アリーシャは信じられない思いで眺めた。どんな時でも人への気遣いを忘れないスレイ、そして口では冷たいことを言いながらも、最後まで人を見限ることは決して出来ないエドナ。

 

孤独に怯える憑魔に向かって籠手を振り上げる彼らを瞳に映しながら、アリーシャは手に持った槍をどうすることも出来ずに、ただ茫然と成り行きを見守っていた。



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悠久なるは 8

目の前で広がった傘は、まるで花のようだった。

 

枯れた過酷な環境の中、気高く強く咲き誇る一輪の花。風雨に晒されても、それでも茎を伸ばし、太陽を見つめる―――

 

「させ、ないわ…」

 

敵の攻撃を防ぐ傘を支えながら、エドナがぐっと前を見据える。

 

「ワタシはもう、迷わない。今のワタシは、無力なままの…子供じゃないっ!」

 

スレイとの神依を解いた今、憑魔の一撃は重い。容易く支えられるはずもないが、それでもエドナは尚も一歩を踏み出す。

 

「ワタシは…ワタシは、今度こそ大事なものを守ってみせる!!」

 

ぐっと膝が撓む。惜し負けたわけではない。勢いをつけるためだ。

 

「っぁああああああ!!!」

 

ぐぐっと傘の柄を押し出しながら、エドナが叫ぶ。全力で踏み込む。

 

その様を見て、アリーシャは悟った。

 

彼女は、諦めることを辞めたのだ。願いを掴むために手を伸ばそうと、必死になって足掻いている。

 

 

―――罰が当たるだろうだろうか。その切っ掛けが、自分であることが嬉しいだなどと思ったら。

 

 

 

悠久なるは 8

 

 

 

たすけて。

 

こわいよ。

 

さみしいよ。

 

どこにいるの?おとうさん、おかあさん

 

 

「っ…!!」

 

鼓膜を打つそれらの声に歯を食い縛って拳を振るう。殴る度に上がる悲鳴に、胸が張り裂けるように痛んだが、それでも手を止める気はなかった。

 

「エドナ…」

 

「大丈夫よ。自分で決めたことだもの。それに…この子達のためにワタシ達が出来ることは、きっとこれしかないわ」

 

気遣わし気なスレイの声に答えながら、一旦床を蹴って間合いを取った。怒りと悲しみに咆哮を上げ、武器を振り上げる憑魔の姿から目を逸らさないよう、きっと睨みつける。

 

かつてこの地の底に捨てられた子供達。その魂が穢れに飲まれた姿。

 

飢えと渇きに苦しみながら、彼等は絶望の底で待ち続けた。迎えに来てくれる大切な誰かの姿を。

 

独りは寂しい。その辛さは誰よりエドナが知っている。

 

「…ここで待っていたって、あの子達を迎えに来る人なんて誰もいない。ずっと辛くて苦しくて…寂しいまま。そんなこと絶対許さないわ」

 

それに、今の自分には守るべきものがある。今度こそ、この手で守ると決めたものが。

 

「浄化するわよ、スレイ」

 

「ああ。もうこの子達は十分に苦しんだ。解放してあげよう」

 

エドナに応えてスレイが頷く。その動きの一つ一つが、そしてスレイの感情の動きが、以前よりも遥かに明瞭にエドナに伝わってくる。

 

ぐっと拳を深く握り、エドナは不器用な動きで起き上がろうとする憑魔の巨体を、深い決心を込めた眼差しでしかと睨みつけた。

 

起き上がる前に勝負を決めたい。ミクリオは殆ど意識を保っていないし、常に意識の無い人間を庇いながら戦わねばならなかった三人はもう既に体力の限界を迎えている。特にエドナとスレイを守るため、自由に動けない後衛に敵を近づけさせないよう前線で踏ん張り続けたアリーシャは、体力も精神力ももうボロボロだろう。

 

人間は脆い。肉体を持たない天族は傷を負っても疲労はし辛い。その代わり術の酷使や極度の緊張による精神的なダメージは色濃く反映してしまうが、ライラやザビーダはそもそもの経験値がアリーシャやミクリオとはまるで違う。百年、千年単位の歳月を生きてきた彼等は、生半可なことでは潰れない。だから間違いなく、今この場で最も危険なのは殆ど意識の無いミクリオ、次いで槍を杖にようやく立っているような有様のアリーシャだ。

 

「長引かせたくない。…エドナ、行くよ」

 

「ええ、良いわ。時間に余裕はないみたいだしね。…新手が集まって来てるわ」

 

子供達だけではない。不作のために子を捨てなければならなかった親の悔いや憤り。長年積もったそれらの思念が穢れに変わり、その穢れに当てられて憑魔と化した雑多な生き物たちでこの地下遺跡は溢れている。そういう憑魔達もまたミノタウロスの感情に同調しているのだろう。ミノタウロスの叫びに呼ばれたように集まった猪型の憑魔達は、とりあえず距離を置いてこちらの様子を窺う風だったが、その均衡もいつまで保つだろうか。彼等にとっても天族はまたとないご馳走であり、力を増すための糧となる。疲弊した様子の導師一行が強大な憑魔と戦い、崩れた所に襲い掛かってくるつもりに違いなかった。

 

ミノタウロスが起き上がろうとした瞬間に地面に拳を振り下ろせば、石畳の下から隆起した岩がミノタウロスの脇腹を掠った。身を捩って直撃を避けたミノタウロスは、身の危険を感じたのだろう。俊敏な動きで跳ね起き、一旦距離を置くように後ろに跳んだ。

 

長くはかけられない。ミクリオを守るように陣形を組んだライラ達の位置はやや遠い。ぼろぼろのアリーシャをフォローしようにも、ライラやザビーダはそもそもミクリオほど回復が得手ではない。ミクリオの次に回復が得意なのは外ならぬエドナであるが、スレイと共に最前線を支える今、回復に割く余力はない。

 

早めにけりをつけなくては。その気持ちに逸りそうになる度に、スレイの意識がやんわりとエドナを窘める。一歩間違えば総崩れとなる今、スレイが冷静さを保っていることが何とも頼もしい。

 

すぐに距離を詰めることはせず、次の動きを見極めて確実に封じにかかる。武器に伸びた手を狙って拳を振るって動きを制し、足払いをかけて次の動きを潰す。そうやって崩れた隙を見逃さず、動きの小さな攻撃を繰り出す度に、ミノタウロスは苦悶の表情を浮かべながら咆哮を上げた。

 

―――このまま倒せるか。

 

一撃を叩き込み、術での一撃を入れようとエドナ達が足を振り上げた時だった。

 

 

どうして。

 

どうしていじめるの?

こわいよ。

 

どうして?

どうして?

再び周囲の空気が震え、憤りと怯えとを含んだ声が反響する。その声は重なり合い、重量すら感じさせる圧をもってエドナ達の動きを一瞬止めた。

 

戦いではいつも一瞬が命取りになる。そんなことはわかっていたはずだった。

 

「…アリーシャ!」

 

叫んだのはスレイだった。

 

子供の声と共に雄叫びをあげたミノタウロスは、その巨体で駄々をこねるように腕を振り回し、周囲の柱をなぎ倒す。柱は林立する周囲の柱を巻き込みながら悲鳴のような音をたてて傾いで倒れ、舞い上がった砂塵は著しく視界を遮った。その隙を狙って突進してきたのはミノタウロスではなく、息を潜めて成り行きを見守っていた周囲の憑魔の方だった。標的は一つ。視界が遮られたが故にエドナ達が注意をそらしてしまったアリーシャだ。

 

アリーシャはもう限界だ。傷ついた体に槍を振るう力はもう残っていない。ザビーダもライラも集まった憑魔からミクリオを守るので精一杯で、とても駆け付けては来られない。

 

「ア――…」

 

咄嗟に手を伸ばすも届かない。絶望の気配が背筋を駆け上がろうとしたその時だった。

 

「レリーフ、ヒールっ…!!」

 

絞り出すような声と共に放たれる光。アリーシャを包んだそれは傷を癒し、彼女の槍を握る手に力を注ぎこむ。足に力を取り戻したアリーシャは、憑魔達の攻撃をすんでのところで飛び退いて躱し、槍を振るって地に落とす。勿論、蓄積された疲労までは回復していないから動きに多少の鈍りは出ていたが、集ったのが雑魚だったことも幸いして、何とか凌ぐことは出来ていた。

 

危機は脱した。しかし、その代償は大きい。

 

「ミクリオさん!!なんて無茶を!!」

 

ライラが悲鳴のような声を上げて、傾ぐミクリオの体を支える。レリーフヒールは中級天響術。消費する力はそれなりに大きく、今のミクリオの状態では負荷に耐えられない。そんなことは一番本人がわかっていたはずだ。

 

最早ミクリオは意識を保つ力すら無い。庇って戦うにしても、完全に意識の無い状態では先程までとはライラ達の負担も段違いだ。何しろ、万が一攻撃を後ろに通してしまえば、ミクリオは防御することもままならない。かといってライラがこのままミクリオにはりついてしまえば、ザビーダは一人で集まり続ける憑魔達を捌かなければならないのだ。

 

癇癪を起こしたように暴れ続けるミノタウロスから一旦距離を取りながら、エドナは今にも意識を閉ざそうとしているミクリオを見やる。

 

自分の取った行動で事態がどう動くか、そんなことが推し量れない男ではない。逼迫した状況においての冷静さはミクリオの長所だ。

 

「…っ!?」

 

今にも落ちそうなミクリオの瞼。その瞼が完全に閉じるまでのほんの一瞬、最早意識は殆ど止めていないだろうに、しかし彼は自分を見遣ったエドナを――正しくはスレイの瞳の中に存在するのであろうエドナの意識を―――認めて、仄かに笑ってみせたのだ。

 

アリムが最期にエドナに向けた儚げで優しい笑みとはまるで違う、朦朧としているにも関わらず瞳の奥に宿った光は酷く挑発的だった。

 

彼が本格的に潰れてしまえば、エドナに取れる行動は二つ。

 

一つはスレイと神依したまま迅速にミノタウロスを倒して浄化し、他の雑魚憑魔も全て浄化する選択肢。一斉攻撃を仕掛けられればそういくらもザビーダが持ち堪えられない現状において、この選択の先に希望は無い。

 

そしてもう一つ。

 

―――出来るだろう?君達なら。

 

挑戦的なミクリオの笑みは、そう語っている気がした。

 

エドナはちらりと背後のアリーシャを振り返る。その視線に気付いて目線で応える彼女を、そしてその真っ直ぐな瞳を受けても揺らがない自分を確認する。

 

――大丈夫だ。腹は括った。

 

「スレイ。今すぐミボを回収に行きなさい」

 

「え、でも…」

 

「良いから、早くしなさい。ここであの子を失ったら、アナタ一生後悔するわ」

 

「…エドナ。――わかった」

 

エドナの声から何かを感じ取ったのだろう。意識をエドナと分離したスレイは、そのまま砂塵の舞い踊る中を、猪型の憑魔の間をすり抜けながら脇目も振らずに駆けていく。背中越しに一言だけ残して。

 

「ここは頼むよ!二人とも!!」

 

不意に駆け出したスレイの動きに釣られるように、周囲の憑魔達も動きだす。本能的に動くものを追おうとしたミノタウロスの前に回り込み、地表を隆起させてその行く手を遮る。その隙を狙って猪型の憑魔が牙を振りたてながら突進してくるのが横目に見えたが、エドナは動かなかった。

 

エドナの頬から僅か数センチの距離で鋼の煌めきが軌跡を描く。今にもエドナの頭に牙を突き通そうとした猪は、四肢をばたつかせ、悶絶するように消えていったが、エドナの方は髪が剣圧の風に僅かに揺れただけだ。

 

「聞いたわね?」

 

「ああ」

 

カツン、と硬い軍用ブーツが石畳を踏む音がして、慣れた気配が隣に並ぶ。

 

「食い止めるわよ。アナタと、ワタシで」

 

「心強い相棒だ」

 

チャキ、とアリーシャの籠手と槍とが擦り合う微かな音がする。

 

変異憑魔、ミノタウロス。長きにわたる孤独の中で募らせた痛みや苦しみ。そうやって力を蓄えたかの憑魔は酷く手強い。本来ならば導師しか浄化の叶わない強敵ではあるが、エドナの心に迷いはない。

 

今や完全にエドナ達を標的に定めた様子のミノタウロスは、憤怒の表情で武器を振り上げる。応えるように槍を構える少女の姿は、どうしようもなくかつて手折られた親友の姿を思い起こさせたが、今やそれはエドナの心を奮わせる要素にしかなり得なかった。

 

今度こそ。

 

その思いを噛みしめてエドナは石畳を蹴る。傘を振り上げて、今にもアリーシャに殴りかかろうとしているミノタウロスの懐に飛び込んだ。

 

 

 

ミノタウロスの巨躯から繰り出される一撃は重い。既に相当なダメージを与えているはずだが、武器を振りあげるその丸太のような腕が巻き起こす風圧には未だ揺らぎは見られない。

 

人の身ではまともに受けられまい。ミノタウロスも本能的にそれを察知しているのだろう。知能の足りない筈の憑魔の矛先は、明らかにアリーシャを狙っていた。

 

その間に飛び込んだエドナは、武器でもある傘を開いて重い一撃を受け止める。まるで鉄の塊でもぶつけられたような衝撃は、歯を食い縛って堪えた。

 

「させ、ないわ…」

 

切れ切れになる言葉は、エドナの決意だ。

 

そう、もう黙って見ている気などない。炎に舐められる友人をただ見送ったあの時とは違うのだから。

 

「ワタシはもう、迷わない。今のワタシは、無力なままの…子供じゃないっ!」

 

あれから随分と時が経った。墓を荒そうとする憑魔を退けた長い歳月の間に戦いの腕は随分と上がった。それだけではなく、今は穢れに怯える必要すらない。主神と契約したエドナは導師の契約で守られ、エドナの振るう力は浄化の力でもって打ち倒した敵の魂を穢れに変えることなく安らげてくれる。

 

――そう。だから今度こそ。

 

「ワタシは…ワタシは、今度こそ大事なものを守ってみせる!!」

 

自分の力で、自分の意思で。

 

願いを追いかけて駆け抜けるか弱い命。その命の眩いばかりの輝きを、今度こそこの手で守ってみせよう。

 

彼等はただ生き延びるためだけに生きてはくれない。己の望む世界のために、全力を尽くして現実に抗い続ける。例えそれが己の命を縮めることになろうとも。

 

ならば。

 

ならばエドナは彼等の往くその道ごと、彼等の命を守って見せよう。限りある命を燃やして走る彼等が、その道の終わりまで走り続けられるように。

 

種が根を出し、芽吹き、花を咲かせ、やがて次の世代へ種を託して枯れるその日まで命を慈しむ大地のように、彼等が夢を叶えて一生を終えるその日まで命を守り、生き様を記憶に刻み付けるのだ。

 

その選択こそが、エドナの生きる道なのだ。

 

「っぁああああああ!!!」

 

受けた勢いを膝で殺し、沈んだ膝にぐっと力を込めて一歩を踏み出す。

 

ぐぐっと傘を押し出すと、怖じけたようにミノタウロスが半歩下がった。重心が僅かに後ろに傾いた所を狙って全身でぶつかると耐えかねたように後ろに倒れる。

 

怖いくらいに感覚が研ぎ澄まされていた。ミノタウロスの動きは勿論、背後で槍を構えて次の動きに備えているアリーシャの動きまで一挙手一投足が手に取るようにわかる。

 

次に何をすべきなのかも。

 

「アリーシャ!!!」

 

「っ!!!!」

 

エドナの叫びに息を呑む気配がする。当然だろう。今までエドナが直接彼女に向かって名前を呼んだことなど、一度としてなかったのだから。

 

「ワタシの真名を!!」

 

「…!…ああ!!」

 

ミノタウロスが起き上がるまでに決めなくてはならない。これ以上雑魚を呼び集められては、処理しきれなくなってしまう。

 

「マオクス=アメッカ!!!」

 

「ハクディム=ユーバ!!!」

 

二つの真名が重なる。次の瞬間、エドナの中の力の流れがはっきりと変わっていった。

 

枝が分かれ、二方向に伸びるように。エドナの力の流れは力強さを増しながら、ライラとの縁とは別の縁を形作る。エドナの体から満ち溢れた光の流れは、アリーシャが持つ神器の輝きに吸い込まれるように消えていき、次の瞬間アリーシャを取り巻くように枝葉を伸ばし、彼女の槍や手足を守るように巻き付いて、葉の緑で瑞々しい彩を添えた。同時にエドナの力に呼応するように周囲の壁や地面から舞い上がった砂礫や石が、槍の穂先の周囲に集まる。槍の刃を中心に左右にぐっと盛り上がり、柄の先に円柱を形作るその姿は戦槌のそれだった。

 

普段は突く動作を主体とする槍を扱うアリーシャには不慣れな武器だろう。しかし馴染ませるように柄に手を滑らせ、縦に斜めに軸を回転させるアリーシャの手つきは、まるで熟練した手練のようだった。

 

「凄い…。これなら…――エドナ!!」

 

アリーシャに呼び声にエドナは頷く。エドナもまた、アリーシャが初めて手にした武器を持て余すどころか、自分の手足のように軽々と扱えていることが感覚で感じ取っていた。

 

これが縁を繋ぐということか。感心しながらエドナは足元の地面を音高く踏みしめる。

 

「…反撃の時間よ。起きなさい」

 

石畳の下の土へそう語り掛ける。目の前ではミノタウロスが今にも起き上がろうとしていたが、焦る気持ちは湧かなかった。

 

今までに無い力が体中に満ちている。それこそが、願う者の力なのだと今ならはっきりそうわかる。

 

エドナの言葉に応えて、地中の精霊達が俄かに騒ぎ出す。踏んだ足元の地面が石畳を割って大きく隆起し、すぐに巨大な岩石へと成長した。

 

時を同じくして、ミノタウロスもまた体勢を整えようとしていた。その体躯の巨大さ故に動きは遅いが、地面を踏む足はまだまだ力強い。危険を察知したのか、大地と交信するエドナ目掛けて武器を振り下ろそうとするも、その動きはエドナの横をすり抜けてきたアリーシャによって止められる。

 

戦槌の先端に覗く槍の穂先で鋭く突きを繰り出し、アリーシャが素早く飛び退く。一歩後ろに跳んだ彼女の真上に、エドナは子供の身長ほども直系があるその岩石を思いっきり蹴り上げた。

 

「アリーシャ!!思い切り!!」

 

「任せてくれ!!」

 

言葉を介さなくても伝わる意思は、繋がった縁のおかげだろうか。

 

エドナの意を受けたアリーシャは高く飛び上がり、振りかぶった戦槌でその巨石を思い切り打ち降ろす。

 

「食らいなさい!!」

 

「これが私達の――!!」

 

自然と声が重なった。

 

「秘奥義!!迅雷天翔撃!!」

 

戦槌に宿った土の力、そして導師との契約で得た浄化の力を纏った巨石は、凄まじい勢いでミノタウロスに向かって落下する。着地したアリーシャですら余波でよろめくほどで、エドナは咄嗟に張った傘で彼女を庇う姿勢を取った。

 

「ありがとう」

 

「…そっちもね」

 

何に対する言葉なのか、それを承知しているのだろう。素直とは程遠い態度にも関わらず、アリーシャはエドナの言葉に嬉しそうに微笑んでみせた。

 

アリーシャとエドナの秘奥義の前にミノタウロスは完全に沈黙し、ミノタウロスが招集した憑魔はスレイとザビーダ、ライラ達が片をつけた。ミクリオは無事にスレイに回収され、一先ず危機は去ったとみて良いだろう。

 

「二人とも!無事で良かった」

 

急ぎ足でこちらに駆けてきたスレイは、アリーシャと縁を結んだ状態のエドナを見て破顔する。彼だけは試練でエドナが突き付けられたエドナの過去を共有している。エドナがアリーシャを避けていた理由も承知していて、だからこそ壁を乗り越えたことを理解したのだろう。スレイが浮かべた笑みは、安堵したような色を帯びていた。

 

「とりあえず…最後の仕上げだね」

 

スレイの言葉にエドナは頷く。

 

ミノタウロスは戦闘する意思を失った状態ではあったが、流石は変異憑魔というべきか、姿を保ったまま床に転がっていた。死ねば憑魔の形を保てなくなり、辺りに穢れが拡散されるはずだから殺してはいない。気を失っているだけなのだろう。

 

スレイの目的を悟ったライラが一歩進み出たが、スレイが首を振ってその動きを制した。彼はそのままエドナの傍に歩み寄り、手袋をしたその手を伸ばす。

 

「ここはエドナにお願いしようかな」

 

「ワタシでは変異憑魔の浄化は…」

 

浄化の炎はライラの力である。勿論契約を通じてエドナ達が振るう技にも浄化の力は分け与えられているが、主神のそれと比べると圧倒的に弱い。だからこれまで強力な憑魔は全て、ライラとの火の神依で行ってきたのだ。

 

「憑魔を大人しくさせたのはエドナ達なんだし。ここは試しでやってみようよ」

 

ね?と促されれば強く断るだけの理由は無い。駄目だったらライラに変わってもらえばそれで済む話だ。

 

アリーシャとの縁を解き、スレイと神依する。以前よりもクリアになった視界の中に横たわるミノタウロスを見下ろして、小さく呟いた。

 

「…寂しいのも、もう終わるわ」

 

浄化されて魂が輪廻に還り、新しい生命として生まれ変われば。そうなればきっと彼等も手を取ってくれる誰かと、そして並んで立って歩いてくれる誰かと出会うことが出来る。こんな遺跡の奥底で蹲っているよりもずっと良い。

 

「おやすみ」

 

振り上げた拳を地面に振り下ろす。途端に溢れた眩い光は、穢れが浄化されていることの証拠だった。



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悠久なるは 9 終

「試練は成功じゃな」

ミノタウロスを無事浄化し、奥の祭壇に近づくと、どこからともなく現れたパワントがそう言って称えるように手を叩いた。

「良いから。早く秘力とやらを寄越しなさいよ」

「おや?気付いとらんかったのか。秘力はもうとっくにお前さんのものじゃよ」

「は?」

怪訝な反応を示すとほけほけと笑う。この好々爺然とした天族が実はただの情けない耄碌爺では全く無いことに気付くも既に遅い。

全てはこの老人の掌の上だったのだ。

それに気付いたエドナが思わず拳を握ると、慌てたように抑えにかかる。本当はちっとも慌ててなどいないくせに、腹立たしい限りだ。

「ミノタウロスを浄化したじゃろう。通常、従神との神依では変異憑魔を浄化することは出来ん。それが敵ったということは、お前さんの中の秘めたる力が解放されたということじゃ。元々秘力は外から得るものではなく内から湧いて出るもの。しかし、我々天族は穢れに弱いその特性故、力を発揮するために必要な感情や願いを抑制してしまう傾向にある。独力でこの抑えを外すのは極めて困難…。そのために用意されたのがこの試練、というわけじゃ」

「要はワタシが本気になればそれで良かったということ?」

「言うは易し行うは難しという奴じゃな。実際ギリギリまで追い詰められんと、お前さんはそっちのお嬢さんと向き合うことは出来んかったじゃろう。天族が抑え込むのは己の心の内にある真なる願いじゃからの。しかしこれは諸刃の剣。…意味は、わかるな?」

「…もしもワタシの願いが叶わなければ、ドラゴン化するということね」

「その可能性が非常に高いのう。志半ばで仲間を失う、力足りずに大切な人を死なせる。常に諦めの気持ちを持っていれば準備も出来るが…心の底から希望を願ってしまえばそうもいくまい。折れた時の反動は大きいぞ」

老人の言葉に、エドナは神妙な様子で彼の言葉を聞いている仲間たちの顔を見た。

今回守ると誓ったアリーシャは勿論、過去に怯えるエドナに寄り添い導いたスレイ。彼等を共に守る仲間達。そして…――

「アイゼン…」

まるでエドナの心を読んだようなタイミングで、ザビーダが呟く。

そう。ずっと見ないようにしてきたアイゼンの未来。死んでいない、生きている、いつか戻ると口では言いながらも、心のどこかでは常に諦めろと自分に言い聞かせていた。いつか兄を手にかけなければならない日が来るかもしれない。その可能性をずっと見ないようにしてきた。

しかし。

「…諦めたわ」

「エドナ?!」

声を上げたのはアリーシャだ。

彼女はこの遺跡に到着してからもずっと、アイゼンのことを気にかけ続けていた。そしてそもそもアイゼンを元に戻す方法を探そうと言ってエドナの手を取ったスレイは、怖いくらいに真剣な表情でエドナの方を見つめている。

彼等の姿に背を押された気分で、エドナはパワントに向き直った。

「諦めることを諦めたの。とりあえずスレイ達には相手が誰だろうと手を出させる気はないし。それに、ワタシはどうやったってお兄ちゃんの命を諦めることは出来ないもの。例え本人が殺してくれって言ってもね。だから…探すわよ。ワタシのこの命が続く限り、ずっと。手伝ってくれるっていう物好きもいることだし?」

ずっとずっと探し続ける。それが例えどんなに困難な道でも。

「エドナ…」

「約束通り、付き合ってもらうからね、スレイ。それにアリーシャも」

「え?」

「何?嫌なのかしら?」

「そんなことはない!!私の手伝えることなら何でも!!」

「手伝うって言ったのはオレの方だからね。ミクリオも手伝ってくれると思うよ」

「私達も勿論ですわ。ね?ザビーダさん?」

皆一様に頷く中、ライラの意味深な視線を受けながら、ザビーダは少々複雑そうな笑みを浮かべる。

「憑魔を野放しにしとくのはオレ様のやり方からは外れるんだが。…ま、結界が生きてるうちはとりあえずそれでいいんじゃないか」

仲間達の返答に、どうだ、とばかりパワントを見返すと、予想に反して彼は実に嬉しそうな顔をしていた。

うんうん、と何度も頷きながら満足気にエドナ達を視線でなぞった彼は、祭壇に歩み寄ってエドナを手招きする。少々警戒しながらも促されるまま近づき、彼が手慣れた様子で祭壇の鍵を外して扉を開くのを見つめていた。

開け放たれた観音扉は今までのどの祭壇よりも格段に重厚な造りで、扉の中の劣化は最小限に抑えられているようだった。どうやら漆喰に顔料を使って壁画が描かれているようで、隅の方に中空に手を伸べる女の図柄が描かれているようだった。そして壁面の中央辺りに壁に埋め込まれるようにして設けられた台には小ぶりのドラゴンの置物が一つ置かれていて、その目にはこれまでと同じく黄色い宝玉が象嵌されていた。

祭壇の中身としてはシンプルで、後は手前に燭台が二つと鏡、そして壁面の上部にも飾りのように金属を磨いた鏡が取り付けられているだけで、後は目立った彫り物もなければ小物もない。

「これが何?」

「良いから見ていなさい」

パワントはどこから取り出したものか火打石を使って手前の燭台の蝋燭に火を灯し、松明の明かりを指先の動き一つで消してみせる。途端に周囲は祭壇の小さな明かりを残して真っ暗になり、視線は自然と光源に向かう。

そして映し出された光景に、思わずエドナは息を呑んだ。

「これ…まさか…」

「どうしたんだ…って、これ…!」

肩越しに覗き込んだスレイもまた驚きの表情で、蝋燭の僅かな明かりが照らし出すその光景を見つめた。

小さく揺らめく炎の光。それを鏡が反射して、その反射光をまた鏡が跳ね返して、小さな祭壇の中には幾つかの光の筋が出来ている。それらは最終的に中央のドラゴンの彫像へと集まり、様々な角度から光を当てられた彫像は、漆喰の壁に複雑な影を落としていた。

その影の形が。

反射の角度と彫像の凹凸を利用しての仕掛けだろう。ドラゴンの影の輪郭線が途中で揺らぎ、そこからまったく別の形の影が伸びている。その形はどう見ても人間のシルエットで、男性のように見えた。ドラゴンの半身から上半身は人へ。そしてそのシルエットが伸ばした腕、何かを求めるように伸ばされた指の先は、漆喰に描かれた女性の指を今にも掴もうとしている風に見えた。

そう、あたかもドラゴンから人の形に戻ろうとしている。そんな風に。

「これは…なに…?」

震える声でパワントに問うも、彼は苦笑しながら首を振る。

「わしにも詳しいことはわからん。この遺跡が出来たのは、わしが天族になる前のことじゃからの。ローランスにもハイランドにもドラゴン退治の伝説は幾つも存在するが、恐らくこれもその内の一つじゃろう。当時といえどもドラゴンに対抗できるのは今でいう導師しかおらんから、この女性が導師ということになろうかな。しかし、ドラゴンがそもそも天族が憑魔化した姿であることを人間が知っていたのは相当昔の話じゃ。少なくとも、クローズドダーク以前でないとな。だからこの壁画の真実をワシは知らんが…少しばかり希望を持っても良いと、そう思える根拠にはなるじゃろうて」

パワントの言葉に、エドナはただ頷く。

胸がいっぱいで、発すべき言葉が見つからなかった。

――『遺跡っていうのは過去の記憶と知恵が眠る場所だからな』

脳裏に蘇るのは常々兄が繰り返していた言葉。人間を愛し、人間の営みへの探求を趣味としていた彼は、そう言っては世界各地の遺跡を回ってはエドナには理解不能な土産物や土産話を持ち帰ってきては、その来歴や由来について何時間も語って見せた。

そんなことを知ってどうするのか、と何度も尋ねた。過ぎ去った時を覗き見るより、ずっと一緒にいて欲しかったから。

――『遺跡に残っている歴史は、俺達が未来に繋ぐべき何かを伝えてくれる。俺達が目を凝らしさえすれば必ずな』

「本当にっ、そうね…」

ようやく絞り出した声は震えていた。

その記憶と現代の努力が実を結ぶのは、十年後かもしれない。百年後かもしれない。それでも。

エドナの願いがいつか花を咲かせ実を結ぶ時がきっとくる。そうこの遺跡は教えてくれた。

この遺跡を作ったのは人間である。人間の時などエドナ達天族からしてみればほんの一瞬で、彼等との時間は眩いばかりの光を放って一瞬で消えてしまうのだと、そう思っていた。

でも違うのだ。

確かに彼等の寿命は短い。それでも彼等は時にこうやって後世に残る何かに記憶を刻み付け、時には共に過ごした者の記憶に存在を刻み、そうやって後世に語りかける。己の願いを未来に託す。

――嗚呼、そうやって彼等は悠久の時を生きるのだ。

滲む視界で、炎が踊る度に揺らめくその影を見つめながら、エドナは胸の内でそう思う。

壁画の中の女性の顔は煤で薄汚れていて、鮮明な表情までは読み取れない。それでも絵の中の彼女は喜びに打ち震えている、そんな風にエドナには見えた。

 

 

「そうでしたか。この遺跡はそんなに貴重な…」

「はい。間違いなくアヴァロスト期のものです。中の壁画には導師によるドラゴン退治の伝説についてと思しき構図が描かれていました」

アリーシャの報告に何度か頷きながら、スランジ―否、マシドラは要点をメモにまとめていく。この村を守るためには、マシドラが何とか教皇として復帰した後に、遺跡保護の一環として村の補助を申請しなくてはならない。教会の依頼として遺跡の保全を村を挙げて行えば、当然報酬として安定した額の金銭を入れることが出来る。

勿論、申請のためには遺跡の重要さを教会にアピールしなければいけない訳で、そのために直接遺跡を回ってきたスレイ達の証言は非常に重要だった。

今回の戦闘で遺構がいくらか損なわれてしまったのは、遺跡好きのスレイとしては不本意だろうが、帰りに軽く調べたところ倒壊する危険性は無さそうだった。守り人としてパワントも常駐しているのだから、いざとなれば任せればある程度は何とかしてくれるだろう。

またミノタウロスという大きな穢れの源を浄化したことで、ゴドジン周辺の環境も少しは良くなるかもしれないというのがライラの見解だった。

元々地の遺跡があるくらいだから、地の恵みがここまで薄いはずがない。この辺りの気脈の要であった遺跡に、強大な憑魔が長く封印されていたことで、少しずつ大地が枯れていったのではないかという彼女の予測にはエドナも太鼓判を押しておいた。

そもそも赤精鉱は地の気脈の傍でしか生成されない鉱石である。恐らく何千年も前に気が凝結したものが今でも残っていたのだろうが、赤精鉱を産む程の気脈がそうそう枯れる筈がない。憑魔が浄化され、きちんと地の主が見つかれば、徐々に作物も取れるようになっていくだろう。高地故にそもそも気候は厳しい土地だが、大地の恵みが得られれば十分人が生きていける環境になる。

エドナの言葉を聞いたスレイがそうマシドラに説明すると、彼は「そうですか」と皺の刻まれた目元をほころばせた。

「恐らくこの目で見ることは叶いますまいが…この地が緑に覆われるようになれば、それは美しい光景になるのでしょうな」

「ええ、きっと」

マシドラの言葉にアリーシャが頷く。

起伏の激しい大地に緑が芽生えれば、稜線が波のように重なりあい、さぞかし見事な眺めになるだろう。

「今とはまるで違う光景になるわね」

エドナが言えば、つい先ほどスレイの中から出てきたばかりのミクリオが楽し気にそれに続く。

「きっと田畑も増えるし、木が増えれば民芸品の類も増えるだろうね」

「冬の間の手仕事になるね」

「皆で集まってやればきっと楽しいですわね」

木々が茂った山間の村。生活は楽では無いだろうが、日々の糧を生み出すようになった大地を耕し、木を削って人は生きるだろう。閉塞する冬には肩を寄せ合い、火で暖を取りながら、老人は昔語りをし、子供達は読み書きや手仕事を習いながら春を待つ。

―――厳しくも温かい、今のゴドジンには望むべくもなかった未来。

「…百年くらいはかかるかしら。また覗きに来るのも悪くないわね」

「まあ、素敵ですわ」

エドナの呟きに、ライラが嬉しそうに両手を打った。その隣ではザビーダが意味深な目線をエドナに向けていたが、もうエドナは怯まない。彼を真っ直ぐ見返して、次いでマシドラの隣を歩くアリーシャ達に目を向ける。

最早マシドラはスレイとアリーシャが己の目に映らない存在と話すことに慣れてしまったのだろう。連れが何もない空間に話しかけても驚く様子は特になかった。

エドナの視線に気付いたのだろう。アリーシャは仄かに微笑んで、彼女らしい闊達な口調で言った。

「それは良い提案だ。ゴドジンの行く末を是非見届けて欲しい。…私とスレイの分まで」

そう、乱れた地の気は一朝一夕には戻らない。百年後か二百年後か。いずれにせよ、彼女とスレイはこの世にいないだろう。

わかっている。それがこの世の摂理だ。そしてその摂理にエドナはもう怯えない。

この世からアリーシャやスレイが消えても、この村がマシドラの想いの末に滅びから免れ、アリーシャやスレイと共にエドナが戦った事で未来を繋いだことに変わりはない。その事実は、この村と共にエドナの心の中にずっと残り続けるのだ。

「任されたわ。安心しなさい」

「任せた」

「オレからも頼むよ。よろしく、エドナ」

信頼に満ちた二人の言葉。それを受け取ってエドナは頷く。

限りある時を精一杯。エドナはエドナが選んだ人と共に生き、その時間を胸に刻み付けよう。そして彼等が戦って勝ち得た未来を見守りながら、記憶と共に自分の時を生きるのだ。勿論、その時は大切な家族も一緒に。

岩肌のむき出しになった地面を踏んで、エドナは大きく一歩踏み出す。まず目指すはペンドラゴ。この村の未来を確実にするため、そして枢機卿の野望を阻止し、ハイランドとの衝突を何とか回避しなくては。

「やるべき事は山積みね。…さっさと行きましょ。フラフラのミボは置いて行こうかしら」

「なっ、誰が!」

「おうミク坊、なんならエドナちゃんに担いでもらったらどうだ?ちなみにオレ様の背中は美女専用なのでそこんとこよろしく」

「必要ない!!」

すっかり馴染んだ生真面目なミクリオの怒鳴り声。それを聞きながらエドナは西の空を見上げる。

高い山の稜線に切り取られた空。その向こうに広がる大地、ハイランドにはレイフォルクがある。

エドナの兄をその身に閉じ込めたまま、悠然と聳える霊峰。エドナの親友、アリムの眠る山が。

「…待ってて、お兄ちゃん」

――アリムとの約束通り、必ず解き放つ。仲間達が一緒ならきっと出来る。

決意も新たにもう一瞥を空に投げて歩き出す。老齢のマシドラを置いて行かないように、しかし許される精一杯の速さで歩くエドナの足元には、好条件が重なったのだろう、劣悪な環境にも関わらず白い花をつけた植物が一塊群れていた。

天を目指して立つその花が、微かな風に茎をゆらゆらと揺らすその姿は、まるでエドナの背に手を振っているかのようだった。




今回をもちましてこのシリーズは一旦終了です。
お付き合い頂きましてありがとうございました。


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