MSV. 弾劾のハンニバル《完結》 (suz.)
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第一章 復讐は何も生まないなんて
序幕


[ Prologue ]


P.D.333----------------

 

 

 

 

 平原に点在する林に隠れるように、その小さな要塞はある。

 上空から見渡せば広大に過ぎる草原の中には、背の高いポプラが濃い緑を寄せ合っている斑点がポツリポツリと数えられるのだ。その約半数ほどに、かつてSAU軍の〈ジルダ〉が隠してあった。

 国境紛争時に使われた古い補給拠点である。建造からはもう十年近くが経つ。前線にほど近く、急ごしらえの基地群であっただけに、老朽化したコンクリートからは赤錆びた鉄骨が突き出している。重砲をもらってしまった不運な森もいくつかあり、その豪快な吹き飛び具合はアーブラウとの国境はどちら側かが一目で見て取れるほど。

 戦後ハリケーンにでも見舞われたのか、朽ち果てようはまさに廃墟だ。最寄りの街からざっと一二〇マイルは離れているせいで、無秩序なギャングの落書きもない。

 残されているのは洗い流されなかった血痕と、そして風雨によって抉られ、拡げられた弾痕くらいのものだろう。

 カナディアンロッキーを臨むこのバルフォー平原のただなか、ポプラの林に潜みながら、無力な兵隊たちは死神の足音に怯えていた。

 いくら前線に近くとも補給拠点には整備士がおり技術者がおり、炊き出しをする給養員たちがおり、兵站を運んでくる需品部隊が行き来するものだ。戦うばかりが戦争ではない。医師や看護師といった非武装の救護スタッフも帯同している。

 戦闘員も非戦闘員もみな配置に従ってそれぞれの仕事をした。訓練と違っていつ終わるとも知れない過酷な環境に、なすすべもなく命を刈りとられていった。

 

 国境線を幅広く接したアーブラウとの戦争には、SAU政府もただ北へ北へと兵を送り続けるほかなかった。

 外交のチャンネルが何者かによって封鎖されていたせいだ。やむをえずギャラルホルンに要請し、地球外縁軌道統制統合艦隊が調停を持ちかけようと試みたが、情報が届くことはなかった。

 

 あとになって判明したことだが、アーブラウ防衛軍は人材不足から採用時の経歴チェックがザルで、とある傭兵の介入を受けたらしい。

 ガラン・モッサという偽名の男だ。傭兵部隊を率いてふらりと現れ、至極すんなりとアーブラウ防衛軍の実質的な指揮官として居座った。

 彼に雇われていた民間の傭兵たちは、リーダーこそ紛争で失ったが、もともと各地を転々としていた好戦的な戦争屋である。貸与されていた〈ゲイレール・シャルフリヒター〉を持ち逃げする格好で戦線を離脱し、今も次なる戦端をいまかいまかと待っている。

 SAUの古い基地に身を隠し、今日もバーボンの瓶を掲げる。彼らにとっては痛々しい戦火の爪痕さえも生きる世界を構成しているパーツのひとつだ。珊瑚礁に生きる魚のように、彼ら傭兵は戦場跡地を自由に泳ぐ。法規に縛られず、MSの無登録所有も見咎められることはない。

 戦争を稼業として生きる彼らに特定の敵はいない。戦乱のない場所では酒をたしなみ、色を好む。仕込みをしたら、あとは小競り合いが起きるのを待つばかりだ。

 まだ日も沈まない初夏の午後九時、夕食後の余暇を楽しむ傭兵たちは聡いスポッターに見つめられていることなど気付きもしない。

 

『……こちらベンジャミン。ターゲット確認。人数、武装ともに情報通り』

 

 黒人の男が報告する。まだ十代の少年とは思えないほど落ち着いた声音だ。スポッターを担う機体のカラーリングは、夜闇にこそ紛れられる漆黒(ブラック)

 この季節、平原は午後十時すぎごろまで明るいため、黒は保護色にならない。狙撃手は目標から北に三キロばかり離れた古要塞に身を隠し、その千里眼で戦場予定地を見つめている。

 

『アルフレッド、了解』と隊長機が軽い調子で返答した。一際鮮やかな鮮紅色(スカーレット)の装甲には隠密性のかけらもない。琥珀色のバイザーで覆われたアイ・センサーが獰猛に光を散らし、『チャーリー、いけるか?』と笑う。

 

『いつでも!』

 

 東洋人の男が威勢良く応答する。同じく十代後半の少年だ。ポプラの森に伏せた機体は大空のように青く、こちらも保護色とはほど遠い。

 しかし実によく隠れている。MSの頭部を探して見上げればまず間違いなく見逃す地面すれすれの位置で、モノアイがぎらり剣呑にきらめいた。

 うつ伏せに倒れたかと見紛う姿勢でも、双肩のヘビーマシンガンは標的となる廃屋をとらえている。獣の両耳のようなブレードアンテナ、鋭い金目はまさにワーウルフだ。

 右肩には〈狼〉のシンボル、左肩には稲妻がそれぞれ描かれている。

 三機に共通する両肩のノーズアートが、彼らの所属を物語る。

 

『――二〇五七。〈ハーティ小隊〉、攻撃行動に移る』

 

 隊長機がミッションレコーダーに宣言する。

〈ハーティ小隊〉——厄祭戦末期に九機のみロールアウトしたというヴァルキュリアフレームをかき集め、その改修機のひとつであった〈グリムゲルデ〉に似せて作った〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉三機を中心とする実動部隊だ。

 1号機にエンビ、2号機にヒルメ、3号機にはトロウが搭乗している。

 鉄華団の魂が息づく狼たちが牙を剥く。

 

撃ち込め(オープンファイア)!』

 

 エンビの鋭い号令を合図に重砲が鳴り渡る。轟く咆哮とともに()()()()たのは3号機だ。ポプラの森を焼き尽くすように、両手足から青い炎がほとばしる。軽量ゆえの機動性を誇った本来のヴァルキュリアフレームにはなかった四脚可変機構を実現させ、四ツ足のホバーだけではない、野獣の駆動が大地を蹴って加速する。側頭部のバルカンが牽制の銃火を放つ。

 これから野営だという傭兵のキャンプは、一息にして色めき立った。

 騒然とする廃墟を狙って撃ち込まれた砲弾が爆ぜる。爆音、悲鳴。炎の海からは戦場慣れした傭兵たちがぽろぽろ駆けでてくる。

 

「くそっ……何だ、ここがばれたのか!?」

 

「散開、散開だ!! どこの誰が襲ってきたのか知らんが――!」

 

「了解だ、合流ポイントで落ち合おう。死ぬなよ!」

 

 手際よく散っていく機影を、スポッターは見逃さない。コクピットのヒルメはヴァルキュリアライフルの狙いをさだめて、友軍機へ報告する。

 

『――ターゲット、(こっち)側へ退避してくる。〈ゲイレール・シャルフリヒター〉が五機だ』

 

『こちらチャールズ! 基地の投棄を確認した。生存者はゼロ!』

 

 置き去りの残骸たちを踏みつぶしながら3号機のトロウが吠えた。足許では砕けて潰れたスイカがじりじりと焼けこげていく。

 

『オーライ、こっちも予定通り二機を目視』

 

 挟撃にする、とエンビは続ける。北では狙撃手タイプの2号機が罠を張って待ち構え、南東からは高火力タイプの3号機が追いすがる。三機連隊の隊長機である1号機のコクピットで、エンビは好戦的にくちびるを舐めた。

 右腕にヴァルキュリアブレードを展開する。

『ヒルメ』と呼ぶ。黒の2号機は頭部装甲を展開し、高精度センサーを露出させている。千里眼形態(ガンカメラモード)の視界は既に〈ゲイレール・シャルフリヒター〉のコクピットを正確に捉えている。

 

『いつでもいける』

 

『トロウ』と低く笑う。蒼の3号機は消し炭へと変貌していく炎の森からのそりと現れると、スタートダッシュに姿勢をぐっと低くした。

 

『待ちくたびれた』

 

 あとはエンビの号令がひとつ響けばいいだけだ。

 

 

『殲滅しろ』

 

 

 野放しの処刑人どもをひとり残らず喰い殺せ――と。

 

 狼が猛る。




【登場メカニック】

■V04vm-0191 グリムゲルデ・ヴァンプ1号機
搭乗者: エンビ
コールサイン: A(アルフレッド)
動力源: エイハブ・リアクター
使用フレーム: ヴァルキュリアフレーム
武装:
 ヴァルキュリアブレード
 ハンドガンx2
 ガントレットシールド
備考:
 高機動型、近〜中距離戦仕様。リアアーマーがグライダー状に展開し、滑空が可能。三機連隊の中核を担う隊長機だが、戦術的役割は主にアタッカー。機体配色は『鮮紅』で最もグリムゲルデ(マクギリス機)に近い外観。背部補助翼のみ『藍』色で、宇宙戦や野戦においてはほぼ保護色にあたる。
 左肩に稲妻、右肩には『ブラインドフェンリル(Blinded Fenrir)』のノーズアートが藍色で描かれている。


■V09vm-0192 グリムゲルデ・ヴァンプ2号機
搭乗者: ヒルメ
コールサイン: B(ベンジャミン)
動力源: エイハブ・リアクター
使用フレーム: ヴァルキュリアフレーム
武装:
 ヴァルキュリアライフル
 スナイパーライフル
 90mmマシンガン
 アンカークロー
備考:
 後方支援型。中〜遠距離戦仕様。背部に大型ブースターユニットを装備しており、飛行が可能。頭部センサーを開いてモノアイを露出させた『千里眼(ガンカメラ)モード』に変形し、遠距離からでも不安定な上空からでも獲物を正確に捕捉できる。機体配色は『漆黒』、宇宙戦や野戦においては保護色に近いが、両肩のノーズアートは白い。


■V06vm-0193 グリムゲルデ・ヴァンプ3号機
搭乗者: トロウ
コールサイン: C(チャールズ)
動力源: エイハブ・リアクター
使用フレーム: ヴァルキュリアフレーム
武装:
 ヴァルキュリアシールドx2
 ヘビーマシンガンx2
 頭部バルカンx2
 ロングバレルレールガン
備考:
 近距離戦特化、四脚可変機。『突撃(ビースト)モード』に変形すれば重戦車のごとく、MSのホバーの倍近いスピードで疾走する。飛行ポテンシャルがないため離脱時はブースターユニットを持つヒルメ機との連携が不可欠。機体配色は『蒼』、ノーズアートはヒルメ機と同じ『白』。宇宙戦では最も目立つ、囮に適した配色。


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001 仮面の女

 我がモンターク商会は、武器や弾薬だけでなく人材も自信を持ってお届けしております。戦闘員はもちろんのこと、女性でも少年でも、お望みの()()にふさわしい人材をご提供する用意がございますわ。

 さて、本日お客様がお探しでいらっしゃるのは、阿頼耶識使いの少年兵でお間違いございませんね?

 さすがはバーンスタイン議長閣下のご関係者ですのね、お目が高くていらっしゃるわ! 二年前のヒューマンデブリ廃止条約を受けて、旧時代のマン・マシーン・インターフェースを持つ戦士たちはすっかり稀少になってしまいましたもの。

 でも、ご心配なさらないで。我が社にはとびっきりの青少年が集っておりますから。

 

 

「ご利用期間はお決まりでいらっしゃいますか?」

 

 

 にっこりと、仮面の貴婦人はあくまでも朗らかに微笑んだ。鈴を転がすような声は耳に心地よく、彼女の育ちの良さを物語る。遮りたくなるような長台詞でさえ最後まで聞いてしまったほどだ。

 タイミングを見計らったようにメイドが現れ、上等そうな紙の契約書をローテーブルにセットしていく。

「そうじゃねえ」とうなったのは、ユージン・セブンスタークだ。

 今日はお嬢の使いで来たわけじゃない、と言うに言えず、肺腑の底からため息をついた。

 

 目の前に並ぶ飾り物のようなペンと、インクの壷。かつてのユージンならば、それが何なのか、何のために運ばれてきたのかもわからなかっただろう。

 火星連合発足以前のクリュセには『紙媒体の契約書』なんぞ存在もしていなかったのだ。クーデリア・藍那・バーンスタイン火星連合議長様のSPだなんて仕事に就かなければ、紙とペンなんてものを見ても、それが数ヶ月分の生活費に化ける高級品だなんて想像もできなかったに違いない。

 地球圏から持ち込まれた貴族的文化を目の当たりにして、我知らず眉間に皺がよった。ソファは座り心地が良すぎて、逆に尻の座りが悪い。

 

 ユージンがこのオフィスを訪ねたのは商談のためではないのだ。契約のためでも、まして人身売買のためでもない。

 契約書を一瞥してから「単刀直入に言わせてもらいます」とレディ・モンタークに向き直った。

 

「ライド・マッスっつう赤毛の傭兵が、ここにいるでしょう。あいつを返してもらいたいんです」

 

 睨み据えても、うら若い女社長は歯牙にもかけない。奇怪な仮面ごしにもわかるくらいに柔和な笑みを浮かべたままだ。

 年のころは十七、八といったところだろうか。面差しはあどけない。このほど大学生になったクッキーやクラッカと同世代のように見える。

 

 創業二百云年の歴史を持つ老舗、モンターク商会。

 七年ばかり前まではマクギリス・ファリドが別名義で代表を務めていた、おそらくは武器問屋だ。鉄華団とも業務提携し、武器や弾薬、情報を提供する対価として火星ハーフメタルの利権を一部手に入れていた。

 あのころのモンターク商会に大した知名度はなかった。火星を活動拠点にしてもなかったはずだ。

 それが二年前にノブリス・ゴルドンが()()()によって暗殺されてから、目覚ましい台頭を見せはじめた。

 

 ノブリスが座っていたフィクサーの椅子をいともあっさりかっさらい、火星から全宇宙に影響力を持つやり手の武器商といえば、今ではモンターク商会が代名詞となった。

 表舞台に現れたきっかけですらキナ臭いというに、いち民間企業でありながらギャラルホルン製のMS(モビルスーツ)を直接買い付けているだなんて、どう見積もっても怪しすぎるだろう。

 ギャラルホルンと取引のある巨大コングロマリッドであるあのテイワズでさえエイハブ・リアクターはサルベージ品だというのに、モンターク商会は〈ゲイレール〉や〈グレイズ〉といった旧型機をそのまま仕入れているのである。

 一体どういうルートで、どういうパイプを持っているのか。ギャラルホルンと懇意にしているような様子もなく、その実態は杳として知れない。

 

 ヒューマンデブリの取り扱いにしてもそうだ。

 かつて鉄華団が大暴れしたおかげで子供が有用な戦力と見なされ、少年兵は一時爆発的な増加を見せた。

 といっても、ただのガキを戦場に放り込んでも小さすぎる肉の壁だ。俊敏なだけで体重は軽く、MSを主戦力とする昨今の戦いではそうやすやす役に立つものでもない。パイロットとして育てるコストを惜しんで阿頼耶識の適合手術を強要されるのはどことも同じだった。

 そうして急増したはずの児童傭兵たちは、二年前に〈ヒューマンデブリ廃止条約〉が締結されたことによってきれいさっぱり姿を消した。

〈マクギリス・ファリド事件〉を受けて有機デバイスシステムの危険性、少年兵の凶暴性が改めて喧伝されたとはいえ、圏外圏における安価な労働力としてあれほどの数がいた宇宙ネズミが一体どこへ行ってしまったのか、疑問を抱かないほうがおかしい。

 めっきり現れなくなった宇宙海賊どもはどこへ行った? どこかに潜んでいるのか、ギャラルホルンに取り締まられたのか。そこで使われていたであろうヒューマンデブリたちは一体どこへ消えた?

 航路を荒らす宇宙海賊どもが現れなくなったと思ったら、先日にはドルトカンパニーの重役が何者かによって殺害されるという事件があった。

 コロニー内部に所属不明MSが押し入り、建物から出てきた会社重役らを見たこともない炎で焼き殺したというのだ。

 ドルト一件のみに留まらず、今度はSAUで傭兵の集団死が見つかった。現場はアーブラウとの国境近く。隠れ家にしていたSAU正規軍のキャンプ跡地ごと踏みつぶされ、連れ込まれていた女らしき遺体ごと焼き尽くされていたらしい。

 ドルトコロニー群から地球までの距離を考えれば別働隊だろう。

 

 しかしアリアドネが捕捉した監視カメラの映像から、凶行に及んだMSの肩には狼を象ったノーズアートがあった――という共通点が浮かび上がった。

 

 背筋が凍る思いだった。二年前に姿を消した、あいつらが乗っているのではないかと、雷のような衝撃がユージンを襲った。

 ニュース配信を漁って目撃情報をかき集め、旧タービンズの伝手をたどってどんな情報でも欲しいと望んで断片をつなぎあわせて、やっとそれらしくなったシルエットから照合できた機体は()()()()()()()()()()()。焦燥が胸を掻きむしって、夜もまともに眠れなかった。

 

 だからユージンはここまで来たのだ。街中で偶然トドを見つけて衝動的にとっちめて、モンターク商会のオフィスまでタクってきた。

 ライドたちはここにいるのだろう。危険な仕事をしているのだろう。俺が連れて帰るとは言わないから、どうか家族のもとへ返してほしいのだ。

 

「恐れ入ります、お客様。個人情報の開示には相応の対価をお支払いいただかなくては」

 

「金か? いくら必要だ」

 

「金銭でなくとも構いませんわ。個人情報を売り渡すにふさわしいものでさえあれば」

 

「ソレが金じゃないってんなら何なんだ……。あんたは商人なんだろう」

 

 相応の対価がいくらになるか、提示するのは商人(あんた)の側じゃあないのか。ユージンの声は苛立ちのまま低くなり、双眸は凄むように眇められる。

 それにも女社長はそよ風に吹かれたように涼しい顔で、あどけないくちびるを笑みのかたちにしてみせた。

「そうですね、」と白魚の指先を顎に添える。

 仮面の奥のひとみは、微塵も笑ってなどいない。

 

「お話によれば、火星連合は一部の市民に限って職業選択の自由を認めていらっしゃらない……とか」

 

 冷静な指摘。それは事実だ。ユージンの眉が胡乱に歪む。

 一部の市民――鉄華団の残党に限り、学校に通うにしても仕事をするにしても戦闘にだけは関与できないよう、クーデリアが配慮している。

 戦いの中で多くを失い、傷ついてきた少年たちがふたたび戦場に舞い戻るなどあってはならないという、彼女なりの救済措置だ。

 学びによって選択肢を増やせるようにと、火星連合は学校教育の充実を推し進めている。

 子供が戦わなくていい世界を目指しているのだ、もしも「戦いたい」と子供が言うなら「戦う必要はない」と大人が諭す。保護者が守ってやりさえすれば、ガキどもが自衛のために、自活のためにと武器を手に取り物騒な仕事に従事することはないのだ。

 戦いには何の意味もない。復讐は何も生まない。オルガ・イツカは仇討ちなど望まない。だから鉄華団の残党に限り、弔い合戦を封じるために『戦闘職に就かない』という制約がもうけられた。

 そのことを知っているのは当事者のみのはず。

 ライドが打ち明けたのか、それとも。

 

「……あんた、何モンだ?」

 

「しがない武器商人でございます」

 

「違うな。あんたがやってるのは武器の卸売りだけじゃない。――人殺しだ」

 

 喉奥から絞り出した糾弾は、しかし応接室の静寂の中に飽和した。

 ノブリス・ゴルドンを暗殺したのはお前たちだろうと言外に糾弾しようとも、鉄仮面の前にはどこ吹く風。ミルクティーでも冷ますような少女のため息がユージンをいなす。

 

「あなたがただって、業務上の殺害は経験なさっているでしょう」

 

「……一緒にするんじゃねえ」

 

 ユージンがうなれば、「まあ」とさも驚いたような芝居をする。

 

 

「殺人に貴賎があるとおっしゃるの?」

 

 

 仮面の奥でぱちくりと、青いひとみがまたたく気配があった。

 ……おそらくそういうパフォーマンスだろう。あの仮面には、目を隠す可変機構があることをユージンは知っている。

 

 確かに鉄華団は、ギャラルホルンや宇宙海賊と交戦し、数多の犠牲者を出してきた。

 CGS一軍のハエダ・グンネル、ササイ・ヤンカスをはじめ、海賊をけしかけてきた〈テラ・リベリオニス〉のアリウム・ギョウジャン、地球支部をテロリストに売り払った監査員ラディーチェ・リロトのような裏切り者に責任を問い、()()()をつけたこともある。

 ギャラルホルンとの交戦以外にも、国境紛争に巻き込まれた地球支部はSAU正規軍を相手取って戦った。

 だが、あれらは仕事だ。

 

「依頼を受けて、任務遂行のためにやったまでだ」

 

 殺さなければこっちがやられる。目的地までたどり着くには、障害物の排除はつきものだ。

 

「我々とて同じです。依頼に基づき、頂戴した対価に不足のないようお役目を果たしているのです」

 

「同じだと? あんたらのやってることは自分勝手な復讐じゃねえか!」

 

「まあ、そうなのですか? わたしには依頼主のお心までは拝察いたしかねます」

 

 いけしゃあしゃあとかわしてみせた女社長は、憎たらしいほど動じない。

 最近の事件だけでもドルトカンパニーの重役暗殺に、SAU国境付近での傭兵殲滅。ちょっと考えればわかることだろうに。

 

 もう十年近く昔の話になるが、ドルトコロニーでは労働者たちの大規模な武装デモがあった。

 求めたのは労働への〈対価〉だ。コロニーは文字通りの宇宙植民地であり、そこに生まれ、そこで暮らし、そこで死んでいく労働者たちの就労環境は劣悪きわまりないものだった。職種業種によっては命の危険もついてまわる。怪我や病気で働けなくなったときの保障がほしい、不慮の事故で命を落としたとき家族に財産を遺してやれるシステムがほしい――など、相応の対価を支払ってくれと声をあげるためのデモだった。

 

 日々を生きるだけで精一杯の家畜のような生活から、人間として尊厳のある生き方へ。

 

 望みは叶えられることなく焼き払われた。

 

 ノブリス・ゴルドンが〈革命の乙女〉からの支援と偽って武器を大量に提供し、名ばかりの旗頭クーデリア・藍那・バーンスタインと彼女を守る〈若き騎士団〉こと鉄華団に届けさせたせいだ。

 間者であったというフミタン・アドモスは狙撃手の凶弾に斃れ、ビスケットの長兄サヴァラン・カヌーレはデモの()()を苦に首を括った。

 

 当時、ドルト3の労働組合を仕切っていたナボナ・ミンゴ氏の自宅を訪ねたユージンは、社宅だという集合住宅で子供らに会った。

 ドルトの争乱はクーデリアの呼びかけによって収束し、その後アフリカンユニオン政府が労働環境改善を約束したと聞いたが、あのときシノが遊んでやっていた()()子供たちはヒューマンデブリになったのだろう。

 半年もしないうちに鉄華団が名をあげ、各地で少年兵の起用が活発化したのだ。業腹だがタイミングはおそろしいほどよく噛み合っている。

 

 阿頼耶識システムが適合する年齢の――成長期を迎える前の――ガキの誘拐など、大人の手にかかれば子犬を捕まえて箱に放り込むより容易だ。元手はタダ同然、適合手術に失敗したら廃棄すればいい。生き残っても行き場がないから命の限り戦い続ける。これほど都合のいい肉の壁は他にない。

 ドルトカンパニーの労働者寮にはアフリカンユニオン政府が補充した人員が新たに住み着いたろうし、親を失った子供たちの面倒を見きれるほどの大人も生き残っていなかった。小学校や保育所だってまともになかったのだ、孤児院など整備されているわけがない。

 

 すべてはノブリス・ゴルドンの手のひらの上で、武器と兵士の需要を作り出すために仕組まれたことだった。

 

〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタインの名前は火種になる。争いが起これば武器が使用され、弾薬が消費される。コロニーならばこそ遺体袋は飛ぶように売れる。(大地のないコロニーには埋葬という習慣がなく、閉鎖空間での衛生環境の悪化は集団死につながる。死体を早急に片付けられなければ『伝染病の原因』とでもレッテルを貼られ、コロニーごと処分されるはめになる)

 

 独立運動を敢えて支援し、労働者と支配者の間に摩擦を生み、ギャラルホルンによる掃討作戦を誘発させては巨万の富を手にしていた大富豪がノブリス・ゴルドンだ。

 紛争の自作自演により利益を得ていたフィクサーの椅子は、今ではこのモンターク商会のもの。

 商会が関与していると見て間違いない件の()()の数々に、ユージンは違和感を抱いていた。

 

 暗殺者(ヒットマン)を差し向けてくれと依頼しそうな相手が思いつかないのだ。

 コロニーで殺害されたドルト公社の重役も、SAUで踏みつぶされた傭兵どもも、殺したところで誰も得をしない。

 

 だが〈相応の対価〉とやらが金銭ではないという言葉で、ユージンの疑念は確信に変わった。

 

「復讐を斡旋してるスポンサーはあんた自身なんじゃないのか」

 

 元少年兵の眼光が仮面の少女を鋭く射抜く。

 目的は経済の利ではない、政治の益でもない、誰かの溜飲を下げるためだけの私刑ではないのか。

 

 モンターク商会と鉄華団の取り引きは七年前、〈マクギリス・ファリド事件〉のただなかで断たれたが、仮面男の羽振りの良さは莫大な資産を否が応でもちらつかせた。二年前にあのノブリスに取って代わったなら、経済基盤はさらに安定しているはずだ。なんたって、阿頼耶識使いの少年兵には元手も保険も必要ない。

 戦闘経験豊富なガキに武器を持たせ、さあ報復を果たしていらっしゃいと、あんたがけしかけているんじゃないのか? ――ユージンは女社長の仮面をじっと睨み据える。

 少女は目を逸らさない。仮面のまぶたを閉ざすこともしない。

 

「どうなのでしょう? 先ほど申し上げました通り、対価をご呈示いただかないことには我々も情報をご提供するわけにはまいりません」

 

 何を言っても脅しをかけても暖簾に腕押し、ふわりふわりとかわされる堂々巡りに、ユージンは「もういいです」と嘆息した。

 座り心地のよすぎるソファから立ち上がる。設計と素材がいいのだろう豪奢なソファは、きっと何時間座っていても腰を痛めたりしないのだろう。

 だが仮面少女とこれ以上会話していたら、頭のほうがおかしくなってしまいそうだ。

「また来ます」と捨て台詞を吐く。ドアノブに手をかけるまでもなくメイドが扉を開けたので、あまりのタイミングの良さにぎょっと目を剥いた。

 

 メイドは会釈のようなしぐさだけで「こちらへどうぞ」と伝える。

 ……実に洗練された所作だ。おそらく自動ドアとなるべき一瞬を見計らうために、応接中の一字一句、一挙一動を漏らすことなく見張っていたのだろう。それでいて息苦しさを感じさせない。

 

 見送りのメイドにいざなわれ、玄関口へと出ればちょび髭の運転手が悠長に煙草をふかしていた。

「終わったかあ?」と手を振るので、ユージンは露骨に嫌な顔をした。

 

 

 

 

 思わぬ客人を送り出して、仮面をとる。ふうと疲れた息を吐く。薄すみれ色の髪をあらわにしたアルミリアの背後で、本棚が音もなくスライドした。隠し扉を後ろ手に閉めてから、自己紹介のように靴音をたてて()()()()()が歩み寄る。

 ライド・マッス――先ほど話題の渦中にあった阿頼耶識使いの少年兵だ。

 二十一歳と既に『少年』の年齢ではないながら、モンターク商会の()()()()()()()()()たちこと、少年傭兵部隊〈マーナガルム隊〉のリーダーとして雇われている。

 

「お姫さんにしては物騒な言葉が聞こえてきましたけど」

 

「そんなことないわ。すべて、わたしの本当の言葉よ」

 

「……似合わないことは言わなくていいっすよ」

 

 皮肉のようだが響きは何とも気遣わしい。ソファの背にもたれかかると、ライドはとすんと腰を下ろした。

 かつてオルガ・イツカが依頼主を『お嬢さん』と呼んでいたように、雇い主を『お姫さん』と呼んでいる。

 セブンスターズの一家門たるボードウィンの名を持つ純血の令嬢では、その()というのもあながち間違ってはいないだろう。

 

「心配してくださるのね」

 

「あんたに折れてもらっちゃ困るだけです」

 

 あぐらをかく暗殺者の気配をソファごしに感じながら、アルミリアは鏡と向き合うように仮面を見つめる。

 この仮面がないと言えなかったけれど、それでもアルミリアは噓偽りなくユージンにこたえた。

 うまく笑顔を作れなくなったくちびるが、心細くふるえる。

 

「お気遣いに感謝します。あなたの言葉はいつもやさしいわ」

 

「やめてくださいよ。旦那に祟られちまいそうだ」

 

「……夫に?」

 

「ええ」

 

「彼は、わたしを責めてくれると思う?」

 

「さあ」とライドは肩をすくめた。「……あの世で怒ってりゃいいなって思ってますけどね。俺は」

 

「ありがとう」

 

 ユージンの指摘の通り、暗殺者を派遣しているスポンサーはアルミリア自身だ。

 依頼主は暗殺者本人。モンターク商会は武器商として利益を得ながら、私刑執行を斡旋している。

 

 創立者クライゼン・モンタークによる起業以来、モンターク商会は人々の生活の質の向上を掲げ、多種多様な商品を取り扱ってきた。

 その二百年の歴史の中には人身売買を行なってきた記録もある。

 少年少女を調()()し、見目によって振り分けて、売りさばいた過去がある。

 マクギリス・ファリドも被害者のひとりだ。

 彼に、親から与えられた名前はなかったという。火星の片隅に生まれ、誘拐され、このモンターク商会で高級男娼として客をとり、やがて売られた名もなき孤児。

 それが彼の真実だった。

 

 イズナリオ・ファリドに目をかけられ、寵愛のもと〈ヴィーンゴールヴ〉に連れ帰られたのちにファリド家の正式な養子――次期当主となったマクギリスは、モンターク商会を乗っ取った。従業員を全員解雇し、豪奢な家具も売り払い、このモンターク邸を建築様式ばかりがうつくしいがらんどうのオフィスに変えたという。

 きっと彼なりの復讐だったのだろう。火星のスラムで彼をかどわかし、おぞましい手段で支配した奴隷商人たちへの。

 

 表向きは武器問屋、その実は、人身売買に通じる老舗。二百年来のノウハウがあればこそ、〈ヒューマンデブリ廃止条約〉締結にともなって行き場を失った少年たちを買い取り、五十名あまりを邸内に保有していようとも足がつくようなことはない。

 条約に背いていようとアルミリア・ボードウィンが社長の椅子に座っている限り、ギャラルホルンの監査が入ることもないだろう。セブンスターズの血統でありさえすれば罪はすべて赦される。免罪される。そういう〈法〉と〈秩序〉がギャラルホルンにはある。

 その法が、その秩序が、マクギリス・ファリドを殺した。

 

 ならばアルミリアは、セブンスターズの一家門たるボードウィン家の名を利用して悪逆の限りを尽くしてみせようと誓ったのだ。

 紛争を起こし、それを武力で制圧することでギャラルホルンの存在意義を自作してきたギャラルホルンの子女として、先人に勝るとも劣らない戦乱の時代を招いてみせる。

 

「戦いは何も生まないだなんて、詭弁だもの。ギャラルホルンはずっとそうして栄えてきたわ。このモンターク商会だって、そうだったのよ」

 

 小さな火種もいつかは戦禍となり、武器の需要を生む。護衛が必要とされ、雇用が生まれる。

 暗殺にせよ復讐にせよ〈需要〉がある限り、そこには流通業の仕事があるのだ。みずから燃料をぶちまけて戦禍を呼べば、いともたやすく経済はまわる。

 ギャラルホルンから武器を買い付けているだけでモンターク商会の懐は潤っていく。

 

 憎しみは連鎖し、復讐者は無限に現れる。

 たとえばドルトコロニーで両親を失い住処を追われ、ヒューマンデブリに身を落とした少年少女。

 たとえば国境紛争で無駄な損耗を強いられ、仲間を無惨に使い捨てられた鉄華団地球支部の少年兵。

 報復を望む同志たちが生まれ続ける限り、アルミリアは助力を惜しまない。

 己が持つ牙の使い方も知らず、ただうずくまるしかできなかった獣たちに武器を与え、仇敵を教え、作戦とともに野に放つ。ノブリス・ゴルドンのやり方と同じだ。ラスタル・エリオン公だって、こうやって戦禍と需要を(つく)り出してきた。

 

(だったらその利益、わたしがいただいたって構わないはずだわ)

 

 いつかラスタルが邪魔だと判断する日が来れば、強制査察なり何なりの手段でモンターク商会は制圧され、廃業ではなく全滅という形で潰えるのだろう。

 逆賊に仕立て上げたいならそうすればいい。殺したいなら殺せばいい。報復でしか生きられない、他の選択肢が遺されなかった孤児(オルフェン)たちのシェルターは、戦場にしかもうないのだ。

 

 仇討ちよりも生産的な道を見出すなら、いつでも出ていけばいい――アルミリアは幼い傭兵たちにそのように言う。

 鉄華団はそうだったという、ライド・マッスの言葉を信じた。

 マクギリスは鉄華団を高く評価していたというトド・ミルコネンの言葉を信じた。

 信じられるものが他になかった。

 

 さいわい邸内にはゲストルームが潤沢にあり、ベッドの数もあり余っている。ここを去るなら行き先は学校か路上かの二択になってしまうけれど、新たなIDを偽造し、少年兵だった過去はすべて伏せてみせる。ギャラルホルンという巨大なバックアップを持つ今のアルミリア・ボードウィンにはそれだけの権力がある。

 恣意によってノブリス・ゴルドンを殺害し、武器・弾薬の流通ルート、報道機関にも手を回して、モンターク商会は今や、アルミリアとライドの共通の仇敵であるラスタル・エリオン公と手を結んでいる。

 このアリアンロッドの職域で、可能な限りすべての復讐を遂げるつもりだ。

 

 武器の需要を生み、軍需産業に利をもたらす。雇用を生み、圏外圏の経済に寄与する。アルミリア・ボードウィンは、そうやって必要性を自作自演してきたセブンスターズの一家門、ボードウィン家の息女なのだから。

 

「ライドさんこそ、よろしいの? あの方……」

 

()副団長がなにか?」

 

「あの方も、あなたの仇のおひとりなのでしょう」

 

 アルミリアが言いよどめば、ライドは「ええ」と無感動に同意する。音もなく立ち上がると「でも、まだ先の話です」とむすんだ。

 鋭くとがったまなじりは、笑みのかたちだ。口角がつりあがる。

 

 ライドは、いつかユージンにも制裁を加えてやりたいと思っている。

〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタインの悲願であった脱植民地化を果たした火星は、テイワズとアリアンロッドによって支配された傀儡政権に他ならない。

 ギャラルホルン火星支部の実質的撤退により治安は急激に悪化し、クリュセ市警なる治安維持組織が濫造されたおかげで、CGSの一軍みたいな連中が幅を利かせるようになった。

 権力者には媚びへつらって、気弱そうな市民からは駐車違反だの公務執行妨害だのと因縁をつけて小金をむしりとっていく。一見すれば平穏そうな街にはなったが、後ろ盾のない女子供にとっては危険極まりない。

 あのユージン・セブンスタークみたいに()()()()()()()()()()()()男だけが、他者に害されることなく至極真っ当に暮らしていける世の中だ。

 

 クーデリアは初等教育の義務化によって貧困をなくそうとしているらしいが、教師の頭数を揃えるためにと教員資格保持者を招致したせいで大量の木星系移民を抱え込み、おかげで無学な火星地元民はひどい就職難に見舞われている。

 職場を追われた市民はクリュセ市警のせいで路上生活もままならず、スラムに逃げ込むしかない。

 

 木星からは医師や看護師も招かれ、医療保険制度が整備されたおかげで新生児死亡率は激減。五歳未満の子供が下へ下へと足を引っ張っていた火星の平均死亡年齢は劇的につり上がった。

 だが、それも娼婦が出産よりも中絶を選べるようになっただけだ。今の火星の就労状況では、五十云歳だった平均寿命まで食いつなぐのも難しい。

 地球経済圏の植民地の次は、テイワズの属領になる日も遠くないかもしれない。

 

 そうした現状に、勘のいいユージンならとっくに気付いているはずだ。

 ただ、人形師の思惑通りにしか動けない傀儡政権のいち職員には何もできないだけで。

 自分自身に実害が及ばないせいで被害者の視点に立てないだけで。

 

 ライドはさきほどユージンが出て行ったドアに手をかけると、靴音もなく部屋を出た。

 

「せいぜい泳がせておきますよ」

 

 すべてはラスタル様の手のひらの上ですから。――シニカルに微笑する。

 共犯者が笑う。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 廊下を横切り、赤いカーペットが埋め込まれた裏玄関までてくてくと歩いたライドだったが、たどり着いたロータリーにはトドだけがいた。

 ユージンが送迎を断ったのだろう。この裏玄関は宮殿のように豪奢なつくりで、派手好きなトドのお気に入りだが、シャンデリアもランプもすべて高級娼館だったころの名残だ。無駄に長いリムジンでもゆったり停車できるロータリーから黒塗りの高級車に乗り、クーデリアのオフィスに帰るのはなかなか気まずいものがある。

 きっと露骨に嫌な顔をして踵を返し、質素な正面玄関のほうから出て行ったに違いない。あちらはごく一般的なオフィスの姿をしているから。

 

 ガラスの自動扉を出れば、かわいた火星のにおいが濃くなる。

 優雅に紫煙をくゆらせる運転手の向こうずねを、ライドはつま先で軽く蹴った。

 

「おい、トド」

 

「いってえな! なんだ、ライドおめぇ帰ってたのかよ」

 

「さっき戻ってきたとこだよ」とライドは気怠くため息をつく。

 

 昨夜の暗殺任務を無事に済ませ、共同宇宙港〈方舟〉の隠し格納庫でひと眠りして、近所のジャンクフード店で昼飯を食ってからモンターク邸に戻ってきた。

 いや、今はそんなことはいい。

 

「あんた、どんだけ上前はねてやがんだ?」

 

「ああん? 浪費癖の奥方様のために、この俺様が貯金してやってんじゃねぇか」

 

「……あの人、まだ金銭感覚どうにかなんねーのかよ」

 

 人身売買にも相場というものがある。適切な対価を支払えばそれでいいところを、レディ・モンタークことアルミリア・ボードウィンは、その『適切』がわからないらしい。

 トド・ミルコネンが仲介に入って相手に渡る額面を操作し、相場よりちょっと上くらいを保っていたら、人生三周は豪遊できそうな成金になってしまった。

 

「奥方は住んでる次元が違うんでな。俺にヤキがまわるほうが早かったぜ」

 

 昔はふっかけてはちょろまかして小金を溜め込んでいたが、もはやそういう次元(レベル)ではなくなってきた。

 まだ十八歳とお若い奥方様の将来のためにと八割がた貯金にまわしてもなお手に余るほどだ。

「あーあ」とトドは大口を開けて煙を吐き出す。

 小洒落たスリーピースを仕立てたところで、誰に見せるわけでもない。自己満足にもいい加減飽きてきた。

 はじめは葉巻も吸ってみたが、うっかり潰すとひどい悪臭がするので慣れた煙草に落ち着いた。

 とくべつ安いわけではなく、かといって高級な部類でもない、ごく一般的な銘柄だ。贅沢をする目的で吸っていたころとは打って変わって、うまいと思う煙を吸いたくなった。

 

 短くなった煙草を灰皿に押し付け、新しい一本をくわえると、ふと隣のライドが眉根を寄せた。

 

「……そのヤニ、火星のじゃねえな。木星圏(テイワズ)……いや、(タントテンポ)のもんか?」

 

「火星のなんざ吸ってられっかよ。あんなもん三箱も吸や廃人になっちまう」

 

 お前も吸うなよ、ともごもご釘を刺して、ライターで火をつける。

 吸い込んで、ふうと吐き出す。やはりこいつが一番悪くない味わいだ。

 

「ご忠告どーも。ってことで、あんたが一本くれるんだよな?」

 

 にこりと快活に笑んで両手を差し出したライドは子供のようだが、すっかり狡猾な振る舞いを身につけた。

 煙草とライター。

 言外に貸してくれよと要求されて、トドは箱から出した一本きりの煙草を投げ寄越してやる。すると手品師のように指先二本でキャッチするから、気障ったらしいのはどちらだかわからない。ライドは昔から手先が器用だった。

 

「てンめえ、ほんっとかわいくねえなあ」

 

「宇宙ネズミがかわいかったことなんてなかったろ」

 

「それもそうだけどよう」

 

 借り物の火を点すと、ライドは振り向きもせずライターを突っ返す。

 肺腑に紫煙を吸い込んで、そしてふうと緩慢に吐き出した。

 

 今夜こそはベッドで眠ろうと思ってわざわざ戻ってきたのに、副団長の顔など見てしまって気が立っているのかもしれない。帰る場所など用意してくれないくせに返せだなんて、まったく無責任なことを言ってくれる。

 明日になればまた仕事だ。少年兵たちを束ねる立場であるからライドが参加するのは短期任務ばかりで、地球まで出向くような長期の作戦はエンビの隊に任せてある。

 ヴァルキュリアフレームの発展型機〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉三機を中心に、整備班や医療班を帯同させた実働1番組〈ハーティ小隊〉は目下、ラスタル・エリオン公の〈ゲイレール・シャルフリヒター〉を持ち逃げした傭兵どもを殲滅するためSAUまで出張中で、戻ってくるまであと二週間ほどかかるだろう。

 寝て起きたらライドは、海賊船から鹵獲したヒューマンデブリたちで構成された実働2番組〈ガルム小隊〉を引き連れ、アバランチコロニー周辺まで作戦に出る。

 今は月と火星が最も近づく時期であるから往復十日あまり、ごく短期の作戦だ。

 

 マクギリス・ファリドが遺したモンターク邸で寝起きし、ファリド家のガンダムフレームだったという〈ガンダム・アウナス〉がライドの搭乗機になった。

〈マクギリス・ファリド事件〉を受けてファリド家がお取り潰しになったため、バラして売却されたところをモンターク商会が買い取ったのだという。

〈ガンダム・アウナスブランカ〉として改修された白いMSに乗っている。

 その装甲が七年前に見た〈ガンダム・バエル〉に似ているような気がするのは、ライドの思い過ごしではないだろう。まず間違いなくあのお姫様の趣味だ。

 彼女にバエルを買ってやりたくて、トドは貯金をはじめたという。

 

 鉄華団のなくなった日常を漫然と永らえながら、ライドは見てくればかり大人になり、阿頼耶識使いたちを率いて復讐稼業で飯を食っている。

 煙草はじりじりと短くなって、消すべきタイミングを目視で判断できる。

 命もそういうものなら簡単だったろうにと、アスファルトに落とした火種を踏みにじる。

 

 誰が掃除すると思ってんだ、と横から文句が飛んできたが、どうせトドではないだろう。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 残念なニュースが左から右へと流れていく。

 道中で拾ったタクシーに揺られながら、ユージンは本日何度目になるかわからないため息を落とした。車内に垂れ流しのカーラジオによれば、どこぞの活動家が変わり果てた姿で発見されたらしいのだ。

 監視カメラは何者かによってすり替えられており、犯人はいまだ捕まっていないという。

 

 目撃されたMSは白く、肩には例の〈狼〉のシンボル。

 

 焼き殺されたというその男も、ユージンの与り知らぬところで誰かの恨みを買っていたのだろう。




【次回予告】

 復讐は何も生まないなんて、そんなの第三者の詭弁でしょう?
 打ちのめされた痛みを、失った悲しみを、わたしたちは忘れません。それらすべてを背負い、わたしはギャラルホルンの法と秩序を全否定してみせます!
 次回、弾劾のハンニバル。
 第2章『勝てば官軍、負ければ生け贄』

 わたしは狂っているのかしら……ねえ、マッキー?


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第二章 勝てば官軍、負ければ生け贄
002 ブランカ


【前回までのあらすじ】
 二年前のノブリス・ゴルドン暗殺以来、〈モンターク商会〉は目覚ましい躍進を遂げていた。
 仮面の少女が代表をつとめる火星随一の武器商。しかしその実体は、ギャラルホルンの権威の足許でうごめく脆弱な獣の群れにすぎないのだった。


 ランドメイスを振り上げる。そして鋭く振り抜くさまは、まるで死神の鎌だ。

 かつては〈ゲイレール〉の主兵装のひとつとしてギャラルホルンに正式配備されていたという巨大ピッケルは、何とも悪趣味な姿をしている。ひと薙ぎで新たな首を刈り取ると、ライドはモニタにざっと視線を走らせた。

 

 戦闘はひとまずここまでか。

 人質にとった輸送用ランチ一機を除き、宙域に動けそうな敵影はもうない。迎撃に出てきた〈ジルダ〉のまがい物はみな頭部を潰され、あるいは吹き飛ばされて漂流している。

 残骸の海からは、ランチのブリッジで怯えるコロニー労働者数名の声が頼りなく寄せて返すのみだ。

 

 スパークが弱々しく痙攣するばかりのMS(モビルスーツ)はいずれもヘキサフレームの粗悪品で、乗っていたのも明らかに兵士ではなかった。引き金に手をかけるのも初めてだったのだろう素人パイロットの射撃は何ともお粗末なもので、ちょっと避けてやるだけで破れかぶれになって突進してきた。

 

 勝手に焦ってくれたおかげで、呆気なく全滅。ライドたちの姿を捉えているのは、もはやアバランチコロニー群の非常用センサーくらいのものだろう。

 タントテンポの警戒網だけあって精度は折り紙付きだろうが、どうせ(ブランカ)に目を奪われて、引き連れている四機の番犬たちまでは見えていない。

 

 ASW−G−58〈ガンダム・アウナス()()()()〉――右肩には盲目の狼、左肩には稲妻のシンボルをそれぞれ描いた白い悪魔。

 

 その名が示す通りのカラーリングはカメラの露出計を狂わせ、暗色の輪郭をより曖昧にさせる。

 釘付けにされたセンサーでは、ライドが従えている黒褐色の〈ガルム・ロディ〉四機を正しく捕捉することは不可能だろう。アリアドネのコクーンがエイハブ・ウェーブを観測していても、スペースデブリに遮られて不明瞭なまま見失う(ロスト)

 厄祭戦中に砕けたという月の破片が飽和する〈ルーナ・ドロップ〉では、LCSによる通信も不確かだ。

 

「よくやった、ギリアム! お前ら〈ガルム小隊〉は撤収の準備をしろ。予定ポイントで合流する」

 

『はいっ!』

 

 ヘルメットの内蔵スピーカーごし、実に景気のいい返事(イエス・サー)が跳ね返ってきたと思えば、間髪開けずに〈ガルム・ロディ〉3番機が人質にしていたランチをブーストハンマーでぶん殴った。

 爆ぜるように飛散した破片の中には人影も混じっていて、……あの速度で吹っ飛べば、まず生きてはいないだろう。ノーマルスーツを着用していなかった脇の甘さが命取りになった。

 コロニーで運用されている主要なランチは短距離輸送用のためかナノラミネートアーマーがなく、MSの戦いに巻き込まれた時点で生存率はゼロに等しい。

 無惨に粉砕された小舟は、衝突防止灯を心細げにまたたかせると完全に沈黙した。

 すると四機の〈ガルム・ロディ〉がわっと獲物に群がり、ひしゃげた外装をひきはがしにかかる。今回のターゲットであるコンテナをもぎとると手早くワイヤーフックをひっかけ、視界の悪い岩場をすいすいくぐって撤収していく。

 さすが元宇宙海賊のヒューマンデブリというべきか、実に手際がいい。

 遠い目をして〈ガルム小隊〉を見送るライドは、いつも苦しいような悲しいような、やりきれない気持ちなった。

 

「お前らが全員十代()()のガキだって割れても、どうせ誰も信じねぇんだろうな……」

 

 いや、教育熱心な学校では、少年兵とは残虐で凶暴で、人を殺して生きる害獣と教えているくらいだ。ヒューマンデブリとはそういう生き物なのかと、ただ納得されるだけかもしれない。

 鉄華団も、きっとそうだった。何も知らない第三者の目には、物騒で野蛮な人食いネズミ、破壊と殺戮を繰り返すテロリストでしかなかったのだろう。

 働き者の〈ガルム小隊〉だって、ただ与えられた仕事をこなしているだけで海賊と見紛う。

 

 ブリッジを破壊するのは、通信管制が生きている限りアリアドネからの半強制的な交信を受け、位置情報を提供し続けるせいだ。行き先を知られたくないなら航行機能そのものを物理的に停止させるしかない。

 そうやって発信器を無効化すればアリアドネが睨みを利かせる正規航路に近づいても探知されずに済む。

 同時に疑似重力発生装置も制御不能になるため、無重力に支配された船は弛緩しきった人体同様、慣性のまま漂流するしかなくなる。

 システムの機能停止を皮切りに酸素はみるみる減っていき、あとは乗組員が全員窒息するまでの短くも長いカウントダウンだ。

 周囲に外装作業用のMSが明らかに戦闘破壊された様相で転がっていれば、ギャラルホルンも警戒する。初期対応の遅れは致命傷となり、救助隊員の安全を守るため救いの手を差し伸べられない救助マニュアルによって死人の口は封じられる。

 

 そうした対応の遅さを逆手に宇宙海賊がのさばり、正規航路をちょっと逸れただけでそこはもう無法地帯である。

 ブリッジに銃口を突きつけて脅し、操縦士が不要になったらあっさり殺す……、海賊育ちの〈ガルム小隊〉は掠奪のやり口をごく自然に身につけており、統率もよくとれている。任務遂行に迷いはなく、ミスもない。今回もうまく撤収してくれるだろう。

 

 本作戦の目的は、とある積み荷の回収、そして運び屋の殲滅だ。

 アバランチコロニーの農業プラントから輸送されるコンテナを強奪し、乗組員のIDを確認・焼却処分した上で、積み荷は火星のモンターク邸まで持ち帰る。

 事前に提供された情報によれば労働者による『不当な持ち出し』という話だったから、コンテナの中身はどうせ武器か何かだろう。タントテンポもまたテイワズ同様マフィアに近い実体を持っている。

 送り先の手に渡っては都合の悪いものを壊したり、奪ったり――今のライドはそういう仕事をしている。ラスタル・エリオン公にとって不都合な存在を排除して回る、ある種の掃除夫だ。

 戦闘を一通り終えれば沈黙したMSのコクピットを検分し、あるいはランチから跳ねとんだ死体の身元確認を行なう。生き残りがいれば殺害する。

 

 IDの照合を終えたら()()だ。

 ビームによる焼却処分を行なうのである。

 

 このガンダムフレーム〈アウナス〉は初代ファリドが厄祭戦を戦った機体で、元来ビーム兵器など搭載していなかった。七年前まではギャラルホルン本部〈ヴィーンゴールヴ〉の地下祭壇に奉られていたという骨董品だ。

〈マクギリス・ファリド事件〉を受けてファリド家はお取り潰しとなり、ガンダムフレームは売却。パーツごとに競売にかけられたところをモンターク商会が買い集めて改修、そこにマクギリスが独自に保管していたMA(モビルアーマー)〈ハシュマル〉のビーム放射器を移植した。(伝説の英雄が乗っていたという三百年来のアンティークをバラして売る、という行為がいまいちライドには理解できなかったが、ギャラルホルンにはそういう慣習があるらしい)

 

 骨も残さず葬ることのできる熱線は生も死も等しく焼き尽くし、痕跡を残さない。今日ここで絶命した労働者たちも、行方不明扱いになるのだろう。

 さすがにヘキサフレームも厄祭戦当時の機体なので、コクピットブロックはビームを通さず、イオフレーム〈獅電〉のように電気系統をやられるといった醜態も晒さない。

 おかげでハッチをこじあけて、パイロットを直接焼かなければならない。

 せめて殺した相手への憎しみでもあれば、こんな胸の悪くなる仕事も呑み込めたろうに……、こういうときほど強く思う。

 

 曲がりなりにもライドは少年兵育ちであるし、死体など見慣れている。折れ曲がっていても、臓物をぶちまけていても、今さら動じることはない。

 とはいえ処理する遺体はいつも戦士だったのだ。

 遺体が家族のものであれば、仇は必ずとると誓って遺体袋のファスナーを閉じた。交戦した相手であれば、ギャラルホルンであれ海賊であれ、ヒューマンデブリであっても敵対した以上仕方がないと思えた。

 だが、この任務中ライドたちが打ち砕いてきたコクピットの中身はすべて解放を求めただけの労働者で、機体はヘキサフレームの粗悪品。SAU正規軍が配備している〈ジルダ〉からフードを剥ぎ取ったような機体は、オセアニア連邦のコロニーあたりから流れてきたシロモノだろう。

 

 メインモニタの真正面、アバランチコロニーを一瞥する。眉根が歪むのは、あのコロニーにはテイワズフレーム〈百里〉〈百練〉、ロディフレーム〈ラブルス〉のような堅牢な機体が複数存在することを知っているからだ。

 ヘキサフレームは頭部にコクピットを持ち、手足はひょろりとしている。頭をかばえるような長物でも持っていない限り急所はガラ空きである。

 だから〈ジルダ〉にはフードのようなコクピット防衛装甲が足されたのだろう。

 

 もしもバケツ頭の〈ラブルス〉で出撃していたなら、こんなにもあっさりと刈り尽くされることはなかった。

 

(そこまで織り込み済みで、つかまされたのかよ)

 

 不要になったヘキサフレームを、乗りこなせもしないMSを。

 いつか弓を引きそうだから、(やじり)を丸め、弦をゆるめて、希望に見立てて差し出したのか。

 

 胸糞悪い思考を打ち払うように、ライドは頭を振った。

 今はとっとと仕事を済ませて撤退するのが先決だ。月が近いだけに、いつアリアンロッドの本隊と鉢合わせるとも限らない。

 監視カメラの前で機影を少なく見せかけたところで、ギャラルホルンは金持ちよろしくハーフビーク級戦艦を差し向け、物量で攻めてくる。

 

 清濁併せ呑む賢君ラスタル・エリオン公のため、八年ばかり前に没した密偵ガラン・モッサの代わりを担ってやっているというのに。ギャラルホルンは味方ではないのだから、まったく嫌になる。

 

 汚れ仕事を引き受けるライドら別働隊の存在がアリアンロッド本隊に知らされることはなく、新司令ジュリエッタ・ジュリス准将とは一切の連携を行なわない。

 見つかれば当然のごとく武力介入を受け、問答無用で殲滅されるのだろう。〈レギンレイズ〉によるド派手な物量戦はギャラルホルン最強最大の艦隊〈月外縁軌道統合艦隊〉の真骨頂だ。

 

 諜報、暗殺、いらなくなった艦船や人材の廃棄、――そういうギャラルホルンが表立ってこなせない仕事が『依頼』の顔をしてモンターク商会に降ってくる。

 数ある任務に私怨による復讐を紛れ込ませてやれば、あのラスタル様の思惑だなんて誰も考えやしない。

 

(……結局おれたち宇宙ネズミは、弾避けとして便利に使われるだけだ)

 

 需要と供給の天秤がつりあう限り、そこには善も悪もない。

 コクーンの前に敢えて姿を見せると、ライドはため息のようにバーニアをふかした。カメラの視線が集まる気配を感じて、これみよがしに踵を返す。

〈ガンダム・アウナスブランカ〉が阿頼耶識システムに対応していないのは、パイロットが宇宙ネズミではないというアピールのためだ。警戒用カメラの管理者たちは、学もないガキがまさかMSを操縦できるだなんて思っちゃいない。

 火葬される死体を直視して嘔吐できたころが懐かしい。

 あのころはまだ今よりマシな()()だった気がする。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 モンターク商会が保有する少年傭兵部隊〈マーナガルム隊〉。それがライドの今の居場所だ。

 総指揮官のライドを頂点に、エンビを中心とした実働1番組〈ハーティ小隊〉。ギリアムを隊長とする実働2番組〈ガルム小隊〉。彼ら二隊を作戦の要に据え、5番組までの連隊となっている。

 構成員は、そのほとんどが海賊船や民兵の組織から保護した幼いヒューマンデブリたちだ。

 

 二年前、ギャラルホルンと火星連合の間で取り交わされた〈ヒューマンデブリ廃止条約〉は、彼らの居場所を根こそぎ奪い取っていった。

 条約の制限を直接受ける各民間企業――警備会社、傭兵斡旋所――はしらみつぶしにアリアンロッドの抜き打ち監査を受けた。差し押さえられたヒューマンデブリたちは、その場で銃殺刑に処されたという。

 逃げ出そうとしたヒューマンデブリばかりか、ここを処刑場にされては困ると願い出た社員まで()()され、デブリ狩りがはじまったという噂はまたたく間に全宇宙を駆け巡った。

 

 社員の生活を守るため、関連企業はこぞって生け贄を差し出した。

 このまま殺されるのは可哀想だ、どうか生き延びてくれと願いをこめて宇宙へ放流した会社もあったという。そんなことをすれば限られた酸素を奪い合い、蠱毒のように殺し合って窒息、全滅……という最悪の結末にたどり着くことは目に見えていたろうに。

 

 一連の争乱の渦中で、放り出されたIDは本人に還元されることなく宙に浮いた。

 

 奴隷のレッテルを貼られた子供たちは、人間に戻る機会を永遠に失ってしまったのだ。

 

 とはいえギャラルホルンだって、正規航路の外は海賊が跋扈する危険区域でなくては都合が悪い。でなくば輸送船や客船がみかじめ料を支払わなくなってしまうからだ。逆らうことなくヒューマンデブリを差し出した宇宙海賊は必要悪として看過され、今後とも圏外圏の治安を()()するため、非正規航路に迷い込む艦船を襲う。

 

 鉄華団残党が戦闘職に就けなくなったのも、民兵の弱体化――ひいては海賊の保護――を狙った政策の一環だろう。

 ギャラルホルンに通行料を払って安全な正規航路を行くか。護衛を雇って危険な非正規航路を抜けるか。惑星間航行を行ないたいなら選択はふたつにひとつ。どちらにせよまとまった金がいるが、安全は金で買える。

 吝嗇(ケチ)な貧乏人が消息を絶っても「自業自得」だという風潮は、実にあっさりと完成した。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 作戦開始から十二日目。

 予定通りのランデブーポイントで〈ガルム小隊〉のランチと落ちあい、無事に共同宇宙港〈方舟〉まで戻ってきた。

 民間輸送船がまばらに停泊する桟橋のそばに古い格納庫があって、そこがライドたちの()()()だ。

 軍民とりまぜて発着する船着き場からはちょうど死角になっており、実は上下水道が生きていることすら誰にも知られていないという。

 従業員にも認知されていない格納庫はしんと静かで、いつも薄暗い。

 

 着艦を確認するとライドはコクピットを出て、おもむろにヘルメットを取った。癖の強い赤毛がやっと開放されて、汗の粒がきらきらと重たいグレーの闇に散る。

 ギャラルホルンの一般兵と同じ仕様のパイロットスーツは、背中が少し窮屈だ。

 喉元のファスナーに手をかけたところでドリンクボトルが飛んできて、片手でキャッチした。

 

「よう」と一言、整備士のカズマがふわりと飛んでくる。

 

 チョコレートドリンクを投げて寄越した張本人・カズマは、このモンターク商会の少年傭兵部隊〈マーナガルム隊〉で二十代に達しているふたりのうちの片割れだ。

 ゆるくカールのかかった黒髪が特徴的で、無重力にふわふわ揺れる天然パーマのせいで緊張感のない風体ではあるが、整備の腕は抜群にいい。

 背中に阿頼耶識がなくとも今のライドには気のおけない戦友である。

 

「任務お疲れさん。ブランカのご機嫌はどうだった?」

 

「今回のセッティングは特によかったぜ。ビームの出力も安定してる」

 

「だろ? やっぱ話のわかるパイロットはいいよなァ」

 

 整備のし甲斐がある、と白い歯を覗かせたカズマは、鉄華団壊滅後にカッサパファクトリーに就職し、三ヶ月と持たずに離職した前歴がある。

 おやっさんの愛称で親しまれるナディ・雪之丞・カッサパが興した工場ではMW(モビルワーカー)だけでなくMS(モビルスーツ)の修理・整備も請け負うが、仕事はすべて依頼された通りにしか行えない決まりだ。

 不完全な整備のせいでパイロットに死なれるのは後味が悪いからといって支払われた対価以上の便宜を図ってはいけない。整備費用をケチるのならばしょうがない。

 経理のスペシャリストである才媛メリビット・ステープルトンが会社経営の中心にいる限り、ただの便利屋に成り下がるような真似は厳しく取り締まられる。

 見積もりを出し、リスクやデメリットも説明して、双方が合意した上で発注された仕事だ。親切心による契約外労働は、後の禍根となりかねない。

 

 機械いじりが趣味で生き甲斐、余暇は食事と睡眠その他生理的欲求ぶんだけあればいい――というカズマには馴染みかねる職場だった。

 鉄華団の同期でもあるザックとも折り合いが悪くて退職、今は〈マーナガルム隊〉専属のメカニックとして、この格納庫に常駐している。

 

「おれがいない間、何か変わったことは?」

 

「なーんにも! いつも通り平和だよ、宇宙(うえ)地上(した)もね」

 

 カズマは肩をすくめて、ため息をついてみせた。

 本当に何もないのだ。クリュセ市警が組織されて以来、たいていのことが金銭授受でもみ消せるようになってしまったので、事件も事故も起こりようがない。

 

 昔はテレビもラジオも〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタイン嬢の話題で持ちきりで、地球経済圏の圧制に苦しむ火星植民地域がいかに独立を求めているかを十五分単位で繰り返し繰り返し報じていたものだったというのに。

 火星連合が発足してからはテイワズ系企業のCMが増え、ニュース番組は縮小。教育系のバラエティ番組が読み書きくらいできて当たり前、テストの出来が悪いと親や先生に見捨てられてしまうかも――といった新常識をふりまいている。

 連合政府は発足当初から識字率の底上げ、および就学率の向上によって惑星規模の貧困から脱却したいという方針であったから、方向性そのものに変更はない。バーンスタイン議長閣下の念願かなってクリュセにおける退学率は限りなくゼロになった。

 毎朝の『きょうの天気』のバックグラウンドには、うきうきと登校する学童たちの姿がリアルタイムで使われている。

 

「相変わらずか……」

 

 ライドは独り言ち、眼下に臨む愛機の白さに目を細めつつ甘いドリンクを飲み干した。

 ダストシュートに向かって投げ放つと、センサーが察知して蓋を開ける。空になったボトルは狙い澄ましたようにゴミ箱に吸い込まれていった。

 

「このあとギリアムを連れて地上に降りようと思ってる。荷物の段取りは、カズマ、お前に任せてもいいか?」

 

「よしきた任せろ。〈GNトレーディング〉名義、〈モンターク商会〉宛てでいいんだよな」

 

「そう聞いてる。……悪いな、ブランカの整備を急がせちまう」

 

 いくつかあるダミー名義のひとつを使って、強奪してきた貨物を地上に降ろすのだ。同時に〈ガンダム・アウナスブランカ〉もコンテナごとモンターク邸に届けなくてはならない。

 こんな辺鄙な場所でファリド家のガンダムフレームがほぼ完全体で見つかれば、ギャラルホルンから疑いの目が向いてしまう。強制査察などされたらヒューマンデブリの全滅は免れないので、帰還のたびアルミリアの膝元まで持ち帰る必要がある。

 いつもはカズマが整備を終えるまでここで待ち、貨物コンテナとしてモンターク邸まで戻るのだが、今日は一般のシャトルを使って先に降りるつもりだ。

 

「いーよいーよ。夕方の便でベンとチャーリーが帰ってくるからついでだ」

 

「助かる。そういや〈ハーティ小隊〉も今日帰還か」

 

 SAUでの作戦は無事に完遂したのかと、無意識が安堵のため息を漏らす。〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機、コールサインはベンジャミン。同じく3号機、コールサインはチャールズ。

 1号機を駆るエンビは引き続き諜報任務のためアーブラウへ渡っておりしばらく戻らないが、ヒルメとトロウ、帯同していた整備班・医療班は〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉二機とともに火星に帰ってくる。夕方の便ということは、五〜六時間もすれば到着するだろう。

 ヴァルキュリアフレームもまた一般企業が所有していること自体が不自然なシロモノなので、カズマのチェックが済み次第モンターク邸に送られる。

 ここに残るのは〈ガルム・ロディ〉をはじめとする汎用機だけだ。

 

「ってか、なんでまたギリアムを? 取り巻きひっぺがすの面倒だろう」

 

 特にあの3番機の……とカズマが口角をひきつらせる。

 宇宙海賊から買い取られてきたヒューマンデブリで構成されたマーナガルム実働2番組〈ガルム小隊〉はギリアム、フェイ、エヴァン、ハルという四人のMSパイロットを中心とした編成で、子供ながら腕が立つ。メンバーはみなライドによく懐いているし、カズマにも敬意を払ってくれるのだが、何とも言えない近寄りがたさがあった。

 中でも〈ガルム・ロディ〉3番機を駆るエヴァンは隊長ギリアムと一卵性双生児にあたり、どこへいくときもべったりなのだ。

 いつもなら苦笑を浮かべるところだが、今のライドにはそうできない理由があった。

 

「……なんだか嫌な予感がするんだ」




【登場メカニック】

【挿絵表示】

■ASW-G-58 ガンダム・アウナスブランカ
通称: ブランカ
搭乗者: ライド
動力源: エイハブ・リアクターx2
使用フレーム: ガンダムフレーム
武装:
 ランドメイス
 90mmサブマシンガン
 ビーム放射器
 アンカークロー
 ガントレットシールド
備考:
 ファリド家のガンダムフレームだったもの。M.F.事件後にファリド家が取り潰しになり、売り払われたところをモンターク商会が買い取った。機体カラーは『ブランカ』の名の通り、バエルに似たホワイト系に塗り直されている。ビーム兵器を搭載し、主に暗殺作戦で運用。監視カメラには残らずとも宇宙において白いMSは非常に視認性が高く、言わずもがな目撃させることを目的としたMSである。
 右肩にはマーナガルム隊のシンボルとして目隠しをされた狼『ブラインドフェンリル(Blinded Fenrir)』を描き、左肩に雷電号と同じ稲妻のノーズアートを描いている。
 アウナスは別名を『アミー』といい、「友人」を意味する。ガエリオ・ボードウィンを殺害したマクギリス・ファリドに、もう友人はいなかった。


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003 地獄の番犬

(そうさ、ここはイエスマンだけの楽園)


 整備士のカズマに雑事を任せ、ライドが向かったのは〈ガルム小隊〉の面々が暮らす格納庫だった。

 元ヒューマンデブリという境遇もあってか、みなMS(モビルスーツ)デッキ付近を根城にし、地上のモンターク邸には降りようとしない。

 脚の不自由な仲間がいるのも無重力環境に依存する理由のひとつだろう。MSパイロット四人を中心に構成された〈ガルム小隊〉には十歳から十四歳までの隊員があわせて二十名ほど属しているが、オペレーターやメカニックたちもこのネバーランドを存外気に入ってしまっているらしい。

 

 しんと静まり、非常灯が頼りなく点るばかりの暗がりに踏み込めば、白いノーマルスーツの子犬たちが見つめている息づかいがそこかしこから感じられる。

 警戒心が強いので、きっかけを作ってやらないと姿を見せない。

 

「お手柄だったな! お前らみんな、よくやってくれたよ」

 

 ライドは肩に提げていた鞄を掲げてみせて、なるたけ全員に向けて呼びかけた。

 がま口バッグの中身は弁当だ。機体やキャットウォークの陰に隠れた闇の中で子供たちの表情がパアッと輝いたのが伝わり、笑いさざめく声も聞こえてきたが、食べ物よりも褒められたことが嬉しいのだろう。

 

 応じるように奥から隊長のギリアムが現れ、ふわりとライドの前に着地した。靴裏の磁石が器用に床をつかまえる。

 左右に半歩遅れるように、そっくり同じ顔をした弟のエヴァン、腹心のフェイ。両翼同士はあまり仲がよくないようなのだが、ギリアムの前ではそんなそぶりなど微塵も見せないのだから、統率力は見事なものだ。

 

 弱冠十三歳のリーダーは大きな緑色の目でじいっとライドを見上げ、指示を待つ。

 人種のせいか生育環境のせいなのか、小柄で実年齢より幼く見える。

 

「よう、ギリアム。お前らもみんなお疲れさん。弁当を持ってきたから、あったかいうちに配ってやってくれ」

 

「はいっ!」

 

「スープは熱いから火傷に気をつけてな」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 いつもは食事などレーションバーが一本ずつあれば充分だという顔をしているくせに、手渡されるのは誇らしいらしい。薄暗闇でもグリーンアイズが心なしかきらきら輝いているのがよくわかる。

 ギリアムは小隊を代表してバッグを授与されると、そばに控えていたフェイへと受け渡した。

 

「全員に行き渡ってるか確認するの忘れるなよ」と釘を刺す横顔はリーダーのそれだ。

 

 糸目のフェイはひとつうなずき返すと、機敏に踵を返す。最年長かつ最長身、強面の少年が隊長の右腕として従っているのがギリアムの(ハク)になっているのだろう。

 左腕——エヴァンほうは隊長に追従するというより、兄貴のあとをちょろちょろ追いかけているドッペルゲンガーだ。こいつこそがカズマが示唆した『取り巻き』の最たる例で、MSを降りた瞬間からギリアムのそばを離れない。

 ぺしょりと垂れ下がる黒髪をふたつ両手でかきまぜて、ライドは苦く微笑した。

 責任感の強い兄貴と甘えん坊の弟。性格はまったく正反対なのに、首をすくめるしぐさはやはり双子だ。

 

「悪ィけど、ちょっと兄貴を貸してくれな」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

“宇宙で生まれて、宇宙で散ることを畏れない、誇り高き選ばれたやつら。”

 

 鉄華団団長オルガ・イツカはかつてヒューマンデブリをそのように表現したのだと語ったのは、酒に酔ったダンテだった。

 デルマもそのことを懐かしんでいたから、おそらく真実なのだろう。その場に居合わせなかったライドには、それ以上の仔細はわからない。

 

 IDを握られ、ヒューマンデブリに身を落としたとき、人間(ヒト)としては一度死んだことになるのかもしれない。それも新たな誕生として、団長は鉄華団に受け入れた。

 過酷な環境を生き延びるため、海賊に命じられるまま略奪に加担してきたことも。オルガ・イツカは何ひとつ否定しなかった。同情もしなかった。過去は変わらない、それでも。

 ただ「よく頑張ったな」と尊重してみせた。

 

 ライドがやったのは彼の真似事で、ライド自身、ただ上辺をなぞっただけだと実感している。

 それなのにヒューマンデブリたちはまっすぐな目でライドを慕い、ついてきてくれる。希望者全員に偽造IDと学校への編入を斡旋するという道も示されたが、八割近くが〈マーナガルム隊〉への所属を選んだ。

 仕事がしたい。おれは戦える。戦力として、おれたちは役に立つ。——汚泥の中に生きることに慣れきった彼らは、自身の安全よりも、澱の中でも泳げることを武器に戦おうとした。

 

 それは今も変わらない。彼らには、経験豊富な殺人人形としての矜持があるようなのだ。いっそ清々しいほど自然に、ヒューマンデブリという運命を受け入れている。

〈マーナガルム隊〉が暮らす格納庫に迷い込んでくるような輩がいれば速やかに射殺し、証拠を隠滅する——という、警備体制を自主的に築き上げたのも彼らだった。海賊船で生きてきた子供たちの秩序に基づき、侵入者は水際で排斥される。

 何とも物騒な警戒網ではあるが、おかげでモンターク商会の安寧は細々と守られている。

 

 

 MS(モビルスーツ)デッキに引きこもりの番犬たちは、もう食事を終えたころだろうか。

 共同宇宙港〈方舟〉から地上まで一時間弱。優先的にシャトルのタラップに導かれたライドは、瀟洒なスリーピースのスーツ姿で伸びをした。

 茹だったアスファルトに落ちるシルエットはまだ昼間だろうにスラリとタイトで、……いくら見栄えがよくとも着用感はひたすら窮屈だ。日ごろからこんな気障ったらしい衣装を好むトド・ミルコネンの気が知れない。

 

 クリュセ郊外にある発着場を行き交うのは大半が移民か労働者で、地球圏の空港と違って観光客や留学生のたぐいは滅多にいない。

 こういう土地柄だからこそスーツが何かと便利なのはライドとて承知だ。

 ライドに続いてアスファルトを踏むギリアムも、良家の子女風のいでたちにしてきた。サスペンダーで吊った膝上丈の半ズボン、ソックスガーター。童顔もあいまって十歳いくばくのお坊ちゃんに見える。(風呂に入れてヒューマンデブリ共通のノーマルスーツから着替えさせただけで、印象はがらりと変えられるものらしい)

 

 おかげでタクシーはすぐに捕まった。

 いかにも金持ちそうな格好は、支払い能力があるかどうかの指標になる。クリュセ市警も絡んだら面倒なことになりそうだと見ればまず絡んでこないし、タクシー運転手だって首は惜しい。

 財力と権力をちらつかせて歩くほど安全だなんて、まったく嫌な世の中になった。

 

「付き合わせちまって悪いな」とライドはかたわらの少年に短く詫びを入れる。

 

 ギリアムは「いえ、」と首を振った。

 

「仲間がどうしてるかは、おれも気になってたし。選んでもらえてうれしいです」

 

 礼儀正しい口調ではにかむ、ギリアムがこうして年長者に敬意を払うから〈マーナガルム隊〉のヒューマンデブリたちがうまくまとまっている部分もあるのだろう。

 

 隊長の振る舞いは、そのまま各小隊の性質として反映される。

 主に暗殺任務を先導する〈ハーティ小隊〉は元鉄華団年少組の中でも頭のまわるエンビを隊長に据えており、餓狼めいた性質を持っているが、〈ガルム小隊〉はその名の通り番犬(ガルム)らしい。

 仲間の前ではリーダー然と指揮を執るギリアムも根っこのところは人懐こい子供で、正反対な双子も案外よく似ているのかもしれない。

 

 

 やがてタクシーの車窓から見えてきた目的地は、小高い丘の上に立つ寄宿学校だ。戦い続けることを選ばなかった元ヒューマンデブリの少年たち十名あまりが学んでいる。

 火星連合発足以来アドモス商会は公営企業となり、運営されていた孤児院や小学校は公立校ともども生徒や保護者の個人情報が連合政府に筒抜けになった。連合立、クリュセ市立などなど学校が乱立、ストリートチルドレンや児童労働者が一掃されるレベルで就学率は劇的な向上を見せている。

 結果、これまでならスラムでのたれ死んでいた子供が生き残るようになり、さらなる教室が入り用になり、木星圏から教師が招致され、彼ら木星移民の子女らが通う学校も必要になり――、クリュセは数十もの小中学校がひしめきあう学問の街になった。

 教育と移民が切り離せないこともあり、連合政府は個人情報の厳密な管理を強いられている。

 おかげで、行政機関に対して一定の秘密が保持できる学校は片手の数ほどしかなく、各学校同士のつながりから情報が漏れないとも限らず、背後にライドたちの存在があると察知されないための編入先選びは骨が折れた。(クーデリアたちに見つかればエンビたち元年少組も、ギリアムたち元ヒューマンデブリも十把一絡げに学校へ押し込められ、()()()()()になるよう矯正されてしまう)

 

 保護した少年たちの身の安全、個人情報の管理体制、施設の充実など多方面から絞り込み、ようやく白羽の矢が立ったのが、この寄宿制私立校だ。

 ライドがここを訪れるのは三ヶ月ぶりほどで、ギリアムは戦友の見送りから数えて二度目になる。

 

 タクシーは豪奢なゲートの前で減速すると、うやうやしく停車した。

 天に突き上げるような格子扉はいかにも高い授業料をとっていそうな凝った建築様式で、この向こう側には学校関係者しか入れない。

 脇のインターフォンから呼びかければ、警備員ではなくカソック姿の事務員がいそいそ出てくる。

 

「ようこそ、いらっしゃいました。我が校の見学をご希望でございますか?」

 

 丁寧な歓迎はアットホームな印象を与える。柔和な笑みを浮かべる彼女はしかし、何度訪問してもなぜだかライドのことを覚えていない。

 

「ええ。弟の編入先にと考えてまして」と、いつもの受け答えをしたライドの言葉は、前回までは真実だった。

 

 戦いをやめて学校に行くと決めた弟分たちを連れ、ライドは何度もここへ来た。いつも同じ職員が出迎えた。十回近く同じことを繰り返したはずだが、職員はいつも、まるで初対面かのように学校について説明しはじめる。

 はじめは()()について言及もしたが、勘違い呼ばわりされるのが腑に落ちなくて五度目の訪問あたりでやめてしまった。

 この女が盲目なのか、あるいは相貌失認かとも疑ったが、教職員同士がすれ違って挨拶をかわすさまを見るに、そういうわけでもなさそうだ。

 マニュアルを読み上げるような解説を聞き流しながら、絵画やオブジェの飾られた廊下を進む。

 どのクラスも扉は開けっ放しで、授業中でもないのに廊下に出てくる児童の姿はない。いつも不思議に思うが、私服校なのになぜだかみんなアンティークめいた制服姿だ。

 

 教室をきょろりと一瞥したとき、ふと見覚えのある顔を見つけた。やはり色褪せた制服を着て、大人しく席についている。

 ギリアムの視線も同じ面影に注がれているようだ。間違いないだろう。

 

「ちょっとすみません」と職員を呼び止める。

 

「はい、なにか?」

 

「ここには弟の友達が通ってるんですが……ほら、あの子です。挨拶しても?」

 

「ええ、もちろん!」

 

「よかったな()()()。感動の再会だ」

 

「ありがとう、()()()! すぐ戻るから」

 

「いいさ。ゆっくりおしゃべりしてこいよ」

 

 臨機応変な義弟がぱたぱた駆けていき、……事務員は微笑ましそうに見守っている。

 にこにこと穏やかな笑みには、何の含みも感じられない。

 

 やんちゃ盛りの年ごろだろうに校内は喧騒とはほど遠い。富裕層の令嬢令息というのはこうも礼儀正しく物静かなものなのだろうか。鉄華団年少組の騒がしさとは似ても似つかない様相で、エンビたちが過去通っていた公立校ともえらい違いだ。

 館内の気温は暑くもなく寒くもない適温、本棚には貴重な紙の本までずらり。こうも整備された教育環境ならば、金銭感覚のトチ狂ったアルミリアでなくとも、馬鹿高い学費を払って通わせたい親はいるだろう。

 

(しかし、どこも教室あたりの人数がやけに多いな……なのに空席ひとつ見あたらねえ)

 

 アドモス商会の学校では一クラスあたり二〜三十人程度のはずだが、ざっと六十人は詰め込まれている。さすがに過密すぎやしないか。

 ギリアムが駆け寄った長机だって、ぎっしり横並びに座る想定で設計されたものではないだろう。教室という場所では本来どれくらいの間隔をあけて着席するものなのか、ライドは知らないが、書き物をさせるつもりがあるなら肩と肩がぶつかるほど詰めさせたりはしないはずだ。

 教室前方には指導用スクリーンがあり、かたわらの掲示板らしきパネルには時間割が示されている:Language Arts(こくご)Basic Algebra(さんすう)Social Studies(しゃかい)

 その下には宿題らしき作文のトピックが書かれていて……、やはりここも同じだったかと無表情の仮面をかぶる。

 

(……嫌な予感が当たったか)

 

 内心で苛烈に舌打ちする。先の任務で強奪したコンテナの中身は、やはり武器ではなかったのだろう。

 

「カマル!」と偽名で呼び寄せた弟の顔が取り繕うこともできないほどの寂寞に歪んでいて、すべてが確信に変わった。

 

 

 

 帰りのタクシーの中でもギリアムは終始浮かない顔をしていた。

 隠しきれない落胆を連れ、トドの運転するリムジンに乗り換えてからモンターク邸へと戻る。

 窮屈なネクタイをようやくゆるめたライドは、借りてきた猫のように神妙にしているギリアムに「どうだった」と、つとめて事務的に問うた。

 

 半ズボンの上で拳がぎゅううと白くなる。悔しそうにくちびるが歪む。

 

「別人みたいに落ち着いてた。変わっちまったどころじゃなかった」

 

 ぎりりと奥歯が噛みしめられて、ずっとまとっていた寂しそうな空気がざわりと変質した。

 運転席のトドがバックミラーごしにぎょっと目を剥く。

 ずっと抑えていたのだろう『怒り』の発露だ。

 

 

「……あなたの予想通りだった……!!」

 

 

 かすれた慟哭、いまだ甲高いままの声が苛烈にふるえる。

 ライドは痛ましげに「そうか」とだけ、静かに応じた。

 

 海賊船からモンターク商会に買い取られた子供たちは、うち二割ほどがヒューマンデブリであることをやめ、偽造された新IDで学校に通うと決断した。

 彼らの選択を尊重し、アルミリアは筆記用具を買いそろえ、衣服を仕立ててボストンバッグいっぱいに持たせてやった。

 新たな人生に踏み出していく仲間たちの門出に幸あれと、みんなで見送った。

 

 なのに、いざ再会してみれば色褪せた制服を着せられていた。制服校ではないのに、アルミリアが用意した私服が着られないほど成長したわけでもないのに。それだけじゃない。

 

 ギリアムのことを誰も覚えていなかったのだ。

 

 よくない予感は見事的中し、職員は盲目でも相貌失認でもなかった。やけに物静かな生徒がぎちぎちに詰め込まれた教室、異様な出席率の高さ、不自然な忘却。

 すべて辻褄が合う。

 

「あいつら、おれの仲間を薬漬けにしていやがったんだっ」

 

 ライドが口をつぐんだ真相を吐き出して、八つ当たりの拳が白い膝小僧を打ち付ける。

 ほんの数ヶ月前までともに戦っていた仲間たちが、みんなニコニコ笑って虚ろな目をして、()()()()()()()()()()()()を見つめていたのだ。

 偽名だ、気付いてくれ、思い出してくれ――なんて、責任感の強いギリアムにはとても言えなかったのだろう。堅牢な理性は、こういうとき足枷になる。

 

「ちくしょうっ……おれがひきとめてれば、こんなことには――!」

 

「よせ、ギリアム。あいつらは戦わない道を選んだんだ」

 

 人間の屑(ヒューマンデブリ)より薬物中毒になったほうがマシだなんて、彼らが思ったわけではないだろうが、それでも。

 

「……嫌なことを頼んで悪かった」

 

「いいんです。おれじゃなきゃ、もっとだめだった」

 

「できることならお前にもやらせたくなかったんだよ」

 

 海賊船から保護されてたった数日の付き合いしかないライドのことなど覚えていなくて当然で、だからこそ彼らの状態を確認するには顔なじみを連れてくる必要があった。だから人望の厚いギリアムを同伴した。

 もしも他に確認手段があったなら、呂律の回らなくなった仲間との再会などさせたくはなかった。

 

 戦うことも死ぬこともなく平穏に生きていくはずだった同胞は、あずかり知らぬ場所で薬物に侵され、大人に都合良く作り替えられて、教室という名の収容所で『子供』という名の人形に成り下がっていた。

 ギリアムのことも本当にわからなかったのだろう。いっそ不自然なほどにさっぱり忘れて「はじめまして」と舌足らずに握手を求めてきたという。

 変わり果てた仲間を目の当たりにして、ギリアムは『学校』という空間に嫌悪を覚えたに違いない。

 かつてのエンビたちがたどった地獄の下り坂だ。

 

 アイデンティティの屠殺場から逃げ出したところで、行く宛てなんてどこにもない。

 同じ道を歩ませてしまった罪悪感を、ライドは今後も抱えていくのだろう。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 トドの運転でモンターク邸へと戻ればロータリーにメイドが待ち受けていた。

 リムジンが車寄せに滑り込むや否や、絶妙なタイミングでドアを開ける。丁寧な手つきにうながされるまま降り立つ裏玄関は、相も変わらず掃除が行き届いて輝かしい。

 

 そしてライドが顔をあげれば、ロビーの奥から現れたのは館の女主人・アルミリア・ボードウィンだ。

 いつ来客があっても迅速に対応できるようにか、それとも愛する夫のためか、いつ見ても実に身綺麗な女である。

 

「おかえりなさい!」

 

 どこかほっとした顔で出迎えられ、そういえば任務で十二日ばかり火星を離れていたことをライドはずいぶんと遅馳せに思い出した。終始能動的に動いているので、待っていた側の時間感覚には疎い。

 

「どうも。作戦はどれもうまくいってますよ」

 

「何よりです。あの子たちも、今日はここへ帰ってきてくれるかしら?」

 

 ちらりとアルミリアがうかがったのは、番犬よろしくライドのそばに控えるギリアムだ。

 邸内にも保護した少年たちを匿っているアルミリアは迂闊にここを離れるわけにはいかないし、共同宇宙港〈方舟〉の格納庫まで出向けるのもガンダムフレームとヴァルキュリアフレームあわせて四機が揃うタイミングに限られる。

〈マーナガルム隊〉全員にあたたかい食事とふかふかのベッドを提供したいというアルミリアの申し出は、いまだ通ったためしがない。

 

 やはりギリアムはくちびるを引き結んだまま何もこたえようとしない。……今日の一件でアルミリアに疑念を抱いてしまったかと懸念したが、そういうわけではなさそうだ。

 ライドは見守るように眦を下げると「どうでしょうね」と前置きした。

〈ガルム小隊〉の仲間の中には重力に適応できないメンバーがいるから、上陸要請を受けてもギリアムは決して首を縦には振れないのだろう。

 2番機のパイロットを含め、戦闘や手術の後遺症を抱えるヒューマンデブリは少なくない。彼らは地上どころか重力ブロックに出るだけでたちまちバランスを崩して起き上がれなくなってしまう。非力な子供同士で支え合って生きていくには、1Gの鎖は重すぎる。

 

「今日の夕方には〈ハーティ小隊〉が帰還する予定です。――ギリアム、お前の仲間を連れてこいっておれから伝えてもいいか?」

 

 呼びかけてやれば、緑色の目がぱちくりとライドをふりあおぐ。

 

「ヒルメとトロウが戻ってくるんだ。あいつらなら車いすも手配できるし、子供(ガキ)の十人や二十人連れてたって不自然じゃねえよ」

 

 ギリアムの仲間は東洋系の混血児が多く、赤毛のライドがひとりで引率すれば一体どういうつながりかと勘ぐられてしまうが、あのふたりならその心配もいらないだろう。人種が共通していれば無用な衆目を集めることもない。

〈ハーティ小隊〉も元鉄華団年少組だけあって弟分には基本的に親切だ。同じ少年兵同士、家族のようなものだと思っている。

 エンビ、ヒルメ、トロウの三人は文字や戦術を教える練兵教官の役目も担っており、〈ガルム小隊〉のメンバーにとっては〈ハーティ小隊〉の全員がそれぞれ見知った兄貴分にあたる。

 

 ほっとしたようにギリアムの表情が明るくなり、ライドとアルミリアを交互に見上げるとミッションレコーダーにするように宣言した。

 

「〈ガルム小隊〉は上陸要請に応じます」

 

「ほんとう? では、みんなで夕食を」

 

「いや、まだ全員降りてくるって決まったわけじゃねぇっすよ」

 

〈ハーティ小隊〉からはあちらで休みたがる隊員が出るだろう。〈ガルム小隊〉だって、どうしても動けそうにない仲間がいれば腹心のフェイが護衛となる戦力とともに格納庫に残る。

 ギリアムが小隊という単位で上の要請に応じる体裁をとったのは、作戦に必要な人数だけ見繕って連れてくる、という意味だ。

 

「今はそれで構わないわ。いつかみんなで一緒に降りてきてくれる、きっかけを作れたら」

 

 朗らかに微笑したアルミリアは胸の前で両の手のひらを合わせ、指をぎゅうと組み合わせた。

 彼女が感謝や感動を抱きしめるときのしぐさであるらしい。

 

 モンターク商会のうら若き女社長は弱冠十八歳とまだ若く、きっと家族と囲む食卓が恋しいのだろう。

 七年前――いや、それよりも前に失われてしまった団欒を取り戻したくて、保護した少年たちみんなに何不自由ない暮らしを与えようとする。食事もベッドもすべて自分と同じ質まで引き上げてしまおうとする。

 

 ただ、アルミリアは自身と同じ年ごろの少年兵には接しかねているところがあり、複雑そうに青く澄んだひとみを伏せた。

 SAUでの傭兵殲滅作戦を終えて火星に戻ってくるヒルメやトロウに、何か思うところがあるのだろう。

 白磁のような頬に、長い睫毛の陰影が落ちる。

 

「……彼らは、憎んでいるでしょうか? 命を切り売りするような仕事ばかり斡旋するわたしを」

 

「まさか。切って売れるものがあるのっては、しあわせなことですよ」

 

 危険な任務に従事するのが嫌だなんて文句を今さら言い出す連中ではない。みな物心ついたころから生きるか死ぬかの日常を生き残ってきたサバイバーだ。

 アルミリアに打ち明けるのは気が引けるが、ギリアムだって薬漬けにされるより戦い続けるほうがずっといいと暗に吐露した。

 ライドたちも同じように思ったから、傭兵業を続けている。

 

 たとえラスタル・エリオンの道具として便利に使われようとMS(モビルスーツ)を手放さずにいられるのはありがたい。

 戦場の勘を失うことはおそろしいし、無力化されたあとのことなど想像したくもない。

 

「おれらの意思を尊重した仕事をくれる。対価まで支払ってくれる。これ以上何を望むっていうんです?」

 

「命を懸けてくれたあなたたちに報いるには、少なすぎるわ」

 

「ガキを雇って、給料まで払いたがる変わり者なんて、今の火星じゃあんたくらいですけどね」

 

 トドが大幅に上前をはねて中抜きをしてなお有り余る報酬を払っておいてこの態度とは。

 世間知らずもここまでくると清々しい。

 

 地球圏ではどうだか知らないが、現状の火星における『子供』とは無邪気で愛くるしく、学校と勉強が大好きで、大人の言うことをよく聞くべき存在だ。

 戦いたいなんて物騒なことを考えてはいけない。だって少年兵とは残忍で凶暴で、破壊と殺戮を繰り返すテロリストなのだから――そのように教えられる。

 薬物で侵してまで刷り込まれ、信じさせられる。

 

 

 今から七年前、戦いを生業にした名もなき犯罪者集団が〈マクギリス・ファリド事件〉の陰で滅んだ。

 鉄華団はいたって普通の民間警備会社で、特筆すべきは平均年齢の低さ、運営のクリーンさくらいのものだった。急成長企業は反感を買いやすいからと地元の雇用には積極的に貢献し、孤児院への寄付も惜しまなかった。近場でテロが起これば自発的に消火活動・避難誘導・交通整理に駆けつけ、実質上の治安維持につとめた。

 火星の英雄とまで謳われた社会的信頼を食いつぶさないように、尽力していた。

 

 ところがニュース番組で『マクギリス・ファリド元准将の指示のもと、破壊と虐殺を繰り返す犯罪集団』と報じられたら、誰も彼もがあっさりと手のひらを返した。

 アナウンサーの言葉というのはそれほどまでに信頼できるものらしい。逆賊マクギリス・ファリドはひどい悪人で、それに従う鉄華団も悪者なので、アリアンロッドが治安維持活動を行い、ラスタル・エリオンの威光のもとに粛正した――というプロパガンダがそのまま世界の『真実』になった。

 

 もう誰も、オルガ・イツカの名を覚えてはいないだろう。

〈悪魔を討ち取った凛々しき女騎士〉ジュリエッタ・ジュリスが一体何を討ち取ったのかも、誰も気にとめていやしない。

 民衆はみんな、過去をちょっと通り過ぎた名前なんてきれいさっぱり忘れてしまう。

 

 かつて貧困の連鎖の中でしか生きられない火星の少年兵問題を憂いた〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタインも、全市民を守らねばならない立場になって迂闊なことは言えなくなった。

 幸福を願うためには金がいるのだ。経済基盤をテイワズに、軍事力をギャラルホルンに頼っている現状において、クーデリアが『火星の人々をしあわせにする』ための手段は傀儡政権に甘んじることだろう。ギャラルホルン火星支部撤退以降、アリアンロッドに頭を下げ続けなければ火星圏の安全は保証されなくなってしまった。

 

 幸か不幸か生き延びた鉄華団残党は二度と戦闘職に就くことなく、少年兵であったという過去の汚点をひた隠し、阿頼耶識システムなど知らぬ存ぜぬを貫き通して、偽造された新IDに感謝と自責を抱きながら慎ましやかに生きていくことを推奨される。

 圏外圏の海賊を野放しにするために、腕の立つ傭兵は都合が悪いからだ。非正規航路を抜けようとすれば海賊に襲われる、でも正規航路の通行料は高すぎて支払えない――そんな世界を今後百年、二百年と維持し続けることで火星人は生きていくことを特赦される。

 モンターク商会がアルミリアによって引き継がれ、女社長が鉄華団残党やヒューマンデブリを積極的に雇用しようだなんて考えなければ、居場所を失ったライドたちは今もまだ、火星のスラムを失意のままさまよっていただろう。

 故郷を人質にとられたクーデリアのために。どこにもたどり着けないまま。

 

「おれたちが魂まで売り渡さなくて済んだのは、全部お姫さんのおかげです。ネズミもデブリも同じ人間みたいに扱うことの難しさは、おれたちみんな身にしみてる。憎むだなんてとんでもない」

 

「特別なことは、何もしていないはずなのよ」

 

「いいじゃないですか。人徳があるってことで」

 

 苦笑して、ライドは会話を打ち切るように一歩を踏み出す。

 緩慢な足取りで私室のある棟へ歩を進めれば、ギリアムが従うように後を追った。

 

 アルミリアはただ、戦士たちの背中を見送るしかできない。祈りのかたちに握った両手が無力にふるえる。

 いつもそうだ、こわばるアルミリアの指先はいつも、無事に帰ってきてほしい願うだけで精一杯だった。父ガルスも兄ガエリオも、マクギリスも、ライドたちも。みんな戦いの仔細をアルミリアには明かしたがらない。

 手を伸ばせば届く距離が、気が遠くなるほど遠いのだ。

 

 ライドは多くを語らず、邸内に招いた〈マーナガルム隊〉のメンバーから不満の声があがったことは一度もない。

 復讐に手を貸すと約束しておいて、諜報や暗殺といった汚れ仕事を斡旋し、それどころか、大切な家族の仇であるラスタル・エリオン公の手先として働かせているというのに。

 恨まれたほうがずっとよかった。

 こんな仕事をさせられるなんて理不尽だと弾劾してほしかった。

 

 愛した人を殺した組織の〈法〉と〈秩序〉をアルミリアが敢えてなぞってみせるのは、間違っていると否定してほしいからだ。

 圧倒的軍事力で世界を恐怖させ、屈服させて支配するエリオン公のやり方は悲しみの連鎖を生み続けるだけだと。

 ともに叫び、ともに抗ってほしかった。

 

 なのに、どうして受け入れてしまうの。――アルミリアはいつも、その問いを投げかけられずに繊細(かぼそ)い声を震わせる。

 

 

「あなたたちを人間(ひと)として対等に扱おうとしない、この世界は、あなたたちにとって憎むべき敵ではないの……?」

 

 

 背中にぶつかった少女の嘆きは正気ゆえの矛盾をいくつも内包していて、ライドが歩みを止める理由に足りない。




【オリキャラ設定】

□カズマ(23)
 元鉄華団の整備士。技術者だった父親と死別後、火星のスラムで『何でも修理屋』として生計をたてていた機械オタク。鉄華団が一躍有名になった折りに整備士志望で入団。ストリートチルドレン時代にハッシュとも面識がある。鉄華団壊滅後はカッサパファクトリーに就職したが、ザックやメリビットとの折り合いが悪くて離職。現在はライド率いる〈マーナガルム隊〉の専属メカニック。阿頼耶識はついていない。
 黒髪天然パーマの東洋人。二十代に達しているのはライドとふたりだけだが、年齢のことは気にしていない。

□ギリアム(13)
 ヒューマンデブリの少年兵。宇宙海賊に使役されていたところをモンターク商会によって買い取られ、ライド指揮下マーナガルム実働2番組〈ガルム小隊〉を率いる。発育が悪いせいで実年齢より幼く見えるが、仲間からの信頼は厚い。鮮やかな緑色の目が特徴。搭乗機はガルム・ロディ1番機。
 偽名『カマル』でお察しの通り、ガンダム00でいうアザディスタン人の民族的特徴が強い外見。

□エヴァン(13)
 ギリアムの双子の弟。外見はギリアムそっくりでも、性格は正反対に甘えん坊。戦闘中は腕が立つが、MSを降りると怖がりで頼りない。搭乗機はガルム・ロディ3番機。

□フェイ(14)
 ガルム小隊の最年長、最長身、目つきが悪い。隊長ギリアムの腹心だが、エヴァンとは折り合いが悪い。搭乗機はガルム・ロディ4番機。

□ハル(12)
 ガルム小隊のブレイン。こめかみにチップを埋め込んだ傷跡があり、後遺症により重力環境下では歩けない。搭乗機はガルム・ロディ2番機。


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P.D.331: 作られ(なかっ)た子供たち

[ Interlude ]


P.D.331----------------

 

 

 

 

 人を殺してはいけないなんて、そんなの知らなかった。

 

 だってそうだろう、物心つくより前からエンビの周囲では人死にが耐えなかった。

 花街で働く母親たちは赤ん坊の世話にかまける暇などないし、泣けば仕事の邪魔だと口を封じられる。

 生まれた子供は半数ほどが一年以内に死んだ。五歳まで生き残るのは一握りだ。

 

 双子の弟・エルガーとともにCGSに出稼ぎに出されたときだって、部屋の隅にはヒゲをつける()()に失敗した残りかすが山と積まれていた。

 さあおれも適合手術に臨むというとき、いきなり「同じ顔しやがって紛らわしい」と頰を張られた。

 吹っ飛ばされたエンビは側頭部を派手に擦りむき、エルガーが血を怖がってわんわん泣くものだから、参番組の年長者が絆創膏と帽子をくれたのだ。

 地味な赤色のニット帽は今さっき死んだ誰かがかぶってきたものらしく、エンビには少し大きかった。

 

 背中に阿頼耶識のピアスを植えつけ、参番組に配属されても宇宙ネズミの仕事は弾避けだ。マシンガンを持たされ前線に整列する。

 荒事のたび、仲間はあっさり減っていった。参番組には麻酔も消毒液もまともに与えられず、遺体袋がもったいないからいっぱいになるまで詰め込むように指示された。

 何もなくても一軍の大人たちは気晴らしに子供を殴って、気まぐれに死なせた。

 

 そんな育ち方をしたから、学校で「人を殺すのは犯罪です!」と声高に叫ぶ担任教師への不信感ばかり募ってしまう。

 

(誰だって大なり小なり、誰かを犠牲にして暮らしてるってのにな)

 

 ふうと細くため息をつく。スラムで一等陽当たりのいい広場で煙草をくわえて、エンビはぼんやりと空をあおいだ。

 屋根や(ひさし)でいびつな四角形に切り取られたスカイブルー、天気がいい。昼下がりの陽気がぽかぽかと降り注ぐ、平穏。風はなく、砂嵐の気配もない。

 

 クリュセは相も変わらず平和なのに、エンビは学校を抜け出しては蜘蛛の巣状の迷路をくぐってスラムに逃げ込み、風通しの悪い貧民街でただじっと夜を待った。

 火事でもないのに煙を吸いこむ趣味はないので、煙草に火をつけたことはない。

 

 というのに、ズカズカ近づいてきたヒルメに取り上げられて、砂埃の溜まった軒下のバケツに放り込まれてしまった。

 

「なんだよ」と恨みがましく睨みつけると、ヒルメは仕方なさそうにため息を落とした。

 

「あんまりサボると中学卒業できなくなるぞ。お前、出席ギリギリなんだって?」

 

「担任がうざすぎて不登校なんだよ」

 

「宿題は?」

 

「全部出したし中間期末もA+。これなら副団長たちも文句はねーだろ」

 

「……優等生(インテリ)め」

 

「だって、今期のテーマまた『少年兵』だぜ? 自分が食ってくために人殺すヤツはクソ、飢えて死んどけって書いたらあの女、大喜びで満点つけやがった」

 

 エンビのクラスを担当している若い女教師は、例によって木星からの移民で、正義感が強く、ギャラルホルン様が大好きなのだ。

 なんでも少女時代にテロに巻き込まれてとっても怖い思いをしたから、少年兵のいない優しい世界を作りたいらしい。

 

 火星連合政府は発足後五年以内の識字率九〇%達成を公約に掲げ、学校施設の新規建造を急ぎ、教職員の募集を行った。教員免許所持者を惑星外から大量に誘致した結果、教育現場は意識の高い移民による啓蒙の場となっている。

 ことあるごと戦争をトピックとして扱い、少年兵とは残忍で凶暴で、人々のしあわせを壊す害獣なのだと繰り返し言い聞かせてくるのだ。

 貧困は自業自得。少年兵はテロリスト。生きるために人を殺すなんて人間のやることではない――、そんな因果関係をまるっと無視した与太話を延々と聞かされ続けるのだから、現役少年兵も学んでいる公立校の退学率(ドロップアウト・レート)は当然高い。(夜間部に限らず、父親の借金や病気の弟妹を抱えて警備会社で働く学生は決して少数ではない)

 

 教室から逃げ出したって行く場所はなく、市街地へ出ればクリュセ市警に目をつけられる。CGSの一軍で見たような警官どもは警棒で武装しているし、学生寮にも同様の警備員が常駐していて問答無用で強制送還。

 職場側も十六歳未満を学校に通わせていない現場を押さえられたら罰金、営業停止といった制裁が下る。

 

 耐えかねた学生がIDを売り払う『ヒューマンデブリ堕ち』は後を絶たない。

 

 就学率は思うようにあがらないまま、裕福な移民が通う私立校と貧乏な火星人が通う公立校の格差ばかり開いていく。

 ついにヒューマンデブリ制度そのものの撤廃が連合議会にて賛成多数で可決され、四大経済圏もそれを支持。火星連合とギャラルホルンの間で〈ヒューマンデブリ廃止条約〉が締結されることが決定し、調印式が来週にまで迫った今、学生の『駆け込みデブリ』が相次ぐ始末だ。本格的に禁止される前に稼ぎきりたい売人たちも便乗しているのだろう。

 

 教師は出席率回復に躍起になって、少年兵の危険性をよりさらに強く訴える。

 ヒューマンデブリになんかなるんじゃないと学生を引き止めたい言葉は上滑り、自己否定に疲れきった現役少年兵たちは、そんなに危険なら出てってやるよと虚ろな目をして消えていく。

 今の公立校は、小中高問わずそんな感じだ。

 スラムに身をひそめているのも、おそらくエンビたちだけではない。

 地元底辺公立校の制服姿、成長期も半ばを過ぎた体格では換金できるリソースも内臓くらいのもので、予防接種の習慣がなかった火星人は健康体である確率が低い。

 変な病気を持っているかもしれない男子学生など襲撃してもリスクばかりでうまみが少ないため、今はスラムが一番安全なのだ。

 

「なあ、おれ、すげー頑張ってるだろ」と落ち込んだ声は頼りない。色濃い疲労がにじむ横顔には、ヒルメも心が痛む。

 

「……悪いけど、その担任からお前を連れ戻してほしいって頼まれて来た」

 

「ご苦労さん。ワタシの教室に空席ができちゃうーって泣きつかれたんだろ? 今期に入ってもう四人も『デブリ堕ち』したからな」

 

「せっかく成績いいんだから出席日数不足で留年させたくないって言ってたよ」

 

「ははっ。モノは言いようだ」

 

 吐き捨てるように笑い飛ばして、エンビは両手のひらで顔を覆った。

 ニット帽を目許まで引き下げて、握る。くちびるを噛む。ヒルメ相手に毒を吐きたいわけではないのに、煙草でもくわえていないと余計なことばかり言ってしまう。

 

 学校でのエンビは快活で文武両道に秀で、宿題もちゃんとやってくる貴重な優等生だ。制服を着崩すこともないし、煙草を吸うなんてありえない。騒ぎを起こしたことだってない。

 少年兵は生まれながらのテロリストだと被害者面する担任の望む通りに作文だって書いてみせた。

 

「おれは、いつまで――どこまでおれでいられるかな」

 

「エンビ……」

 

「名前が変わって、エルガーとも兄弟じゃなくなって、もうおれに家族はいない」

 

 鉄華団が失われて早五年。

 基地を爆破し、団員は全滅したと見せかけてアーブラウへ亡命、生まれ変わったIDには疑似の家族が紐づけられた。

 人種や民族、性別に見合ったフルネーム、出身地、家族構成が人数ぶん捏造されたのだ。迂闊に目立たないためには『普通』になる必要があり、両親とは死別したことになっている。

 独立した火星に、地球圏や木星圏から移住してきた。

 

 白紙に戻ったIDで、みんな新しい人生をやり直している。

 命だけでも助かってよかったという声は少なくなかったし、やっとまともな経歴が手に入ったと安堵する声も聞かれる。反応はそれぞれだ。

 

 ただ、鉄華団は家族なのだと本気で信じていたエンビたちは、そんなもの単なる比喩表現だったと承知していた幹部世代の価値観についていけない。

 

『本当の居場所』だって実在すると思っていた。いつかはたどりつけると信じていた。だけどそんなものはどこにもなくて、鉄華団残党は『家族』だと言い聞かされながらも、血のつながった家族とは明らかに違う扱いを受ける。

 幼いころはあんなに憧れた『学校』も『勉強』も、蓋を開けてみれば胸糞悪い自己否定の連続でしかない。

 それだって、勝手に見ていた夢から覚めて、自分勝手に絶望しているだけだ。

 

「結局おれは誰なんだ? 別人なのか、それともおれ自身の亡霊か」

 

「もうよせ、エンビ」

 

 あまり思い詰めるな――と、空虚な慰めを呑み込んだヒルメの沈黙を通り越して、次の瞬間、飛来した物体がエンビの横っ面をぶん殴った。

 勢いよくすっ飛んできたボールのような何かが直撃し、頭蓋が揺れる。わずかな弾力、跳ね返った丸い包みをとっさに受け止めれば、どうやらオニギリらしい。

 地面に落とさなくてよかった――ではない。

 

「……ッ トロウてめぇ!」

 

「腹減ってるとよくないほうに考えちまうだろ。授業はともかく、給食までサボるなよな」

 

 メシにしようぜ、と言い聞かせるように笑ってみせる。

 昼休みのヒルメがなぜかエンビのクラスの担任から呼び出されていたことからいろいろ察し、配給所で昼食を分けてもらって追いかけてきたのだ。

 トロウだって学校に閉じ込められているより、同じ世界を生きてきた同胞と一緒にいるほうが落ち着く。(東洋系ならソウルフードだろうとオニギリを渡されたが、火星人にコメを食べる習慣なんかない)

 

 構わず包みを剥ぎ、率先してかじりついたオニギリの具はライムだ。人気のアボカドは競うように売り切れるので、先着順で勝ち取らないとまず食べられない。

 配給所で出されるオニギリの具はライム、アボカド、塩(という名の具なし)、それから合成肉で四択だ。

 エンビに投げつけたオニギリにだけ合成肉が入っている。

 仕方なさそうに開封されるのはなかなか不本意だが、喧嘩がしたくて追ってきたわけじゃない。

 

「来週のデブリ廃止条約、あれも教科書に載んのかな」と独り言ちる。

 

「載るだろうな。そんで社会科のテストに出る」

 

「だよなー……連合もルール増やすペース配分考えてくれりゃいいのに。締結とか改正とか施工とか一年に何回やりゃ気が済むんだよ」

 

 公立校は文字が読めても文章までは理解できない生徒が多い。識字能力も覚束ないのにあれもこれもとルールが増えるわ変わるわで、これでは暗記が追いつかない。

 成績は低迷し、移民の子女らが通う私立校との学力差はどんどん開いていく。

 こんなことも知らないのかと叱責する熱心な教師はだいたい移民で、火星人に対して『木星圏では常識だ!』『地球圏では通用しないぞ!』と憤る無意味さにも気付いていないらしい。

 一般常識とやらが全宇宙の全人類に周知済みとでも思っていそうな勢いだ。

 

「例の『人を殺すのは犯罪』ってルールはテストに出さねえくせにさ」

 

 もぐもぐと行儀悪く取り落としたトロウの愚痴に、ヒルメも「そうだな」と目を伏せた。

 過去さんざん仲間を使い捨てられてきたので、殺人は『罪』にあたる、というルールは地球圏特有のものだと思っていたが、歴史を紐解けば厄祭戦勃発以前どころかもっとずっと昔、火星人一世が地球から移住してきたころにはもうあったというのだからばかばかしい。

 嘆息をひとつ吐き出したエンビがシニカルに笑い飛ばす。

 

「ネズミ駆除は今でも適用外(ノーカン)だろ? 獣を殺しても殺()にはならないからな」

 

 なんたって宇宙ネズミは人ではない。獣だ。だからCGSで一軍が参番組のガキを殴り殺しても『殺人』にはあたらないし、犯罪ではない。ギャラルホルンがやってきて民兵をさんざん殺しまくっても『治安維持』なので罪には問われない。

 殺人には貴賎があるのだ。

 この世界の法と秩序は『正しい虐殺』なら取り締まらない。

 

 エンビたちが生まれて生きてきた世界は、物心つくよりずっと前からそういうルールでできていた。

 

 鉄華団が発足したおかげで生身の拳に殴りつけられることはなくなったものの、ギャラルホルンやら海賊やら、営業妨害がしたくてたまらない大人たちが次から次へとよってたかって襲ってきた。

 民間のいち警備会社として、鉄華団は依頼もない戦闘は極力避ける方針だったのだが、襲撃を受けては基地防衛戦を強いられた。

 いつか『真っ当な仕事だけでやっていく』未来にたどり着けてたとしても自衛的戦力が必要になることは明白で、それならおれにも戦う力が欲しい、みんなを守りたいんだと、団員は次々MS(モビルスーツ)パイロットに志願した。

 

 最終的に、鉄華団はギャラルホルンの情報統制で『破壊と虐殺を繰り返した悪者』だったことにされ、いつの間にか降服勧告に応じなかったことにされて一方的に殲滅、やっぱり『名もなき犯罪集団』だったことにされて終わった。

 どうせ〈ハシュマル〉とかいうMA(モビルアーマー)の罪状を丸ごとおっかぶせられたか何かだろう。

 多少時系列は前後するが、確かにあの巨鳥は採掘場を襲ったし、農業プラントを焼いたし、鉄華団がテイワズに管理を任されていたハーフメタル採掘現場で発見された。

 

 正義のギャラルホルン様はまさか民間企業の私有地に勝手に入ったりしないし、厄災を目覚めさせたりなんか当然しない。MAの起動因子にあたるMSで近付くなんてありえない。(実際に起動させたのはアリアンロッド所属のMS部隊、指揮官機はパーソナルカラーの〈レギンレイズ〉だったというが、行動が馬鹿すぎて無学な火星人になすりつけたほうが辻褄が合ってしまう)

 しかも当該戦闘地域はクリュセ郊外。アーブラウ領だ。

 

 ギャラルホルンは当時、経済圏なり地元政府なりから要請がなければ部隊を動員することはできないルールのもと運営されていたが、MA騒動のときにはクリュセ行政府、アーブラウ代表、テイワズからも事後承諾を得た。

 そのときの認可をスライドしたのだろう。

 それでもアーブラウが首を縦に振らなかった違法兵器〈ダインスレイヴ〉の使用だけは報道規制がかかった。

 冤罪。陰謀。情報操作。遠い世界のニュースなんてどうとでも創作できるのだから、何をどうしたってギャラルホルンの大義は揺らがない。

 

 当時のアリアンロッド艦隊総司令ラスタル・エリオン公は前々からギャラルホルンの腐敗を憂いていて、組織を浄化して世界を平和にしたかった超有能な政治家なのだ。

 そんな素晴らしい人格者が密偵を使ってアーブラウの元首を暗殺させただなんて言いがかりで、証拠もないのに濡れ衣を着せようとした青年将校どもは嘘つきな逆賊として断罪された。

 アーブラウとSAUが戦争をしたのは、両経済圏が軍隊を持ったからだということになっていた。(なんでも、自衛的戦力を保有したら自動的に戦争が起こるらしい)

 

 逆賊マクギリス・ファリドは死んだ。

 ギャラルホルンの膿は除かれた。

 

 名もなき犯罪集団は滅んだ。

 平和を乱す宇宙ネズミは駆除された。

 

 

 そしてラスタル・エリオン公が改革を行なった今の世界は、こんなにも平和でうつくしい。

 

 

「ギャラルホルンが正しくて、おれたちは間違ってた。少年兵(おれら)は生まれついてのテロリストで、存在が迷惑で、死ぬべきなのに死なずに生きてる邪魔な獣だ。どんな殺し方されたって自業自得なんだよ。抗ったら『治安を乱した』罪が上乗せされる。生きれば生きるほど罪が重くなる。無抵抗で死ぬべきなんだ。生まれる前に殺されるはずだったのに、勝手に生まれて、まだ生きて、 」

 

「やめろ、エンビ。もういいだろ」

 

「なんでだよ? だって、そう書いた作文にA+がついたんだぜ。少年兵問題に心を痛めておられるバーンスタイン議長様もさぞお喜びになるでしょうってな!」

 

「昔のクーデリア先生が読んだらむしろ落ち込みそうな内容なのに、変わっちまったよなぁ」

 

「トロウ!! お前も煽るな」

 

「べつに煽ってねーよ! 前にライドが似たようなこと言って、副団長に殴られたのを見ちまったんだ」

 

 とつとつと吐露したトロウは、いやトロウだけでなく年少組の多くは『鉄華団は家族だ』なんて寝言を今なお本気で信じているのだ。ライドを筆頭に、エンビもヒルメもそのひとりだ。

 ところが学校では、少年兵は生まれついてのテロリストで、罪を償って駆除されねばならない害獣なのだと教えられる。

 それなら最期まで居場所を作ろうとしてくれた鉄華団団長オルガ・イツカは、彼が見せてくれた夢も希望もすべて、無駄なあがきだったってことなのか。

『本当の居場所』なんて、やっぱり実在しないのか。

 

 大人に使い捨てられない生活を目指して仕事を続け、実績を積み、社会的信用と経済的基盤を作っていくはずだった。

 金と立場が手に入ったら、血なまぐさい依頼は受けないという選択肢も手に入る。いつか真っ当な仕事だけでやっていく未来を夢見て仕事をこなし、営業妨害は撃退し、敵味方に多くの犠牲者を出した。

 それはそんなに悪いことだったのか。

 無抵抗で殺されなかったことは、そんなにも重い罪だったのか? ――そうした不安を、エンビたちはみな心の傷として抱えている。

 

 数ある疑念をユージン相手にぶつけたライドが、右のグーでブン殴られた。

 

 

 

 ――お嬢だって一生懸命やってんだ!! 終わったことをいつまでも引きずってねぇで、立場ってモンを弁えやがれ!

 

 

 

「クーデリア先生が一生懸命やってるとか、んなことわかってるし。ライドだってべつに人柄まで疑ったわけじゃねーだろうに、副団長がすげー勢いで怒ったんだよ」

 

 トロウが語った事のあらましはざっくりとしていたが、要はユージンがクーデリアを慮ってライドを殴った、ということだ。

 鉄華団残党はクーデリアのもとで平穏に暮らすユージン・セブンスタークら『穏健派』、ライドを筆頭にオルガ・イツカを信奉する『強硬派』に分裂しており、その溝は埋めようもなく深い。

 今は三日月・オーガスの実子である暁の存在によって膠着状態が保たれているが、均衡はわずかなきっかけで崩れ去るだろう。

 ただでさえ現状に辟易しているエンビは露骨に嫌な顔をした。

 

「マジかよ…………なに、あのふたりってデキてんの?」

 

 連合議長と側近の立場だろう、ユージンがなぜそうも感情的に擁護したのか理解に苦しむ。

 実はいい仲でした、なんて噂を立てられ〈革命の乙女〉が守り続けてきた処女性に傷でもついたら事ではないか。

 

「それはさすがに勘繰りすぎじゃないか。クーデリア先生はアトラと結婚したはずだろ」

 

「でも、それって暁を引き取るためだよな? 副団長をキープするくらい好きにすればいいんじゃねぇの?」

 

「木星圏ならな。火星はハーレム認めてないから、二股かけたら不倫ってことになるんだよ」

 

「あー、そういやそんなルールもできてたんだっけか……」

 

 木星圏は男ひとりが複数の女を囲う婚姻制度だが、火星では一対一(モノガミー)のみ。両親が揃っていて実子がいない家庭に限り、収入に応じて最大五人まで里子を迎えることが可能だ。結婚はあくまで子供を育てるためのシステムとして再整備された。

 親が二名いれば同性同士でも構わないが、血のつながった子供がいる場合、規定の経済水準を満たしていない場合、犯罪歴がある場合などなどいくつかのケースで里親としての資格は無効となる。

 配偶者以外と関係を結んだことも失効条件のひとつだ。(……というところまではとりあえず暗記しておかないとテストに出る)

 

 社会科の成績について言い合うヒルメとトロウを横目に、エンビは手元のオニギリをもてあそぶ。

 指先がぎりりと食い込む。

 

 

「暁は三日月さんが()()()子供だ。それを捨てて副団長をとったらいよいよ強硬派(おれら)を抑えておけなくなることくらい、あの人にわからないわけがない」

 

 

 暁・オーガス・ミクスタ・バーンスタインは、その名の通り三日月・オーガスとアトラ・ミクスタの間で作られた子で、ID上は戦災遺児ということになっている。

 五年前に両親と死別してアドモス商会の乳児院に保護され、のちにバーンスタイン連合議長が里親として預かった――という筋書きである。

 名実共に三日月の実子である暁を手元に置くことでクーデリアはエリオン公を牽制し、鉄華団残党の象徴的立場に収まった。

 

 万が一にもクーデリアに実子が生まれたら、里子(アカツキ)の養育権は剥奪。

 不適格と認定された里親からは離され、孤児院に戻される運びになる。

 鉄華団を引き継いだつもりでいるらしいクーデリアには、どうあっても避けたい事態だろう。彼女なら〈錦の御旗〉を手放すリスク、年少組が抱える疑念や復讐心についても重々承知しているはず。

 

 叶う限り多くの市民の安全を保障し、幸福を実現しようとしている。クーデリアだって連合議長の立場でできる仕事はやっているのだ。

 エンビたちが運悪く『最大多数をしあわせにする方法』からあぶれて、割りを食ってしまっているだけで。

 

(……それじゃあ、副団長は?)

 

 もしもユージン・セブンスタークが『残党の解放』を企てているなら。クーデリアを孕ませることで里親の資格を奪うことも、あるいは。

 

(いや、副団長は穏健派(あっち)側だ。強硬派(こっち)の側には手を焼いてる、だからライドを殴った)

 

 諦めて、エンビは頭を振った。ため息が重たく落ちる。

 教師とともに医師や看護師が大量に移民してきた今のクリュセでは、中絶手術に医療保険が利く。両者合意で作った子供以外はとっとと堕ろしてしまえるようになったのだ、解放の手段として現実的ではない。

 そもそも、IDを改竄してしあわせになる権利を得たというのに、まだ済んだ過去をひきずってじたばたしている強硬派は、火星連合にとっても鉄華団残党にとっても目障りな存在なのだ。

 

 大人と肩を並べて働こうなんて考えず、従順で聞き分けのいい子供に撤していれば仲間を失うこともなかった。散り散りになってでも武器を捨て、魂を売り払って、食事と寝床を安定的に提供してくれる大人の靴を舐めればよかった。

 それこそが正しい道だったのだと、元副団長ユージン・セブンスタークはその身をもって証明している。

 穏健派の父である副団長様が、汚い手段を使ってでも主人を裏切り、胸糞悪い日常から解放してくれるかも……なんて下水を煮詰めたような期待を寄せてしまうほど、エンビは疲弊していたらしい。

 

 クーデリアが学校教育の充実なんか掲げたせいで教室という檻に押し込められ、自己否定に晒されているのだ。

 なのに鉄華団壊滅時にそれなりの年齢に達していた団員はアドモス商会やらカッサパファクトリーやらに就職して旧名で呼び合っている。

 タイミングよく『大人』側に逃げ切った幹部組が、『子供』の年齢を脱しきれない年少組を切り捨てやがった格好だ。

 

 たとえそんなつもりはなかったとしても、これからの火星で生きていくには学歴が必要不可欠なのだとしても。副団長は憎まれ役を買っているだけなのだとしても。

 理性でわかっていたってやりきれない。少年兵は無抵抗で死んでこそ大義と教える学校教育(笑)に叩きのめされて、みんな疲れきっている。

 

 アトラが無事出産したときだって、あかちゃんってどうやって()()んだ――? という疑問でしばらくざわついた。

 手段だけならガキでも知っているが、赤ん坊なんて、やらかしたらデキてしまう、腫れ物のようなものだと思っていた。

 欲しい、作る、産む、といったアトラの発想とは、まるで結びつかない。

 

 ほどなくクリュセに医療保険制度が整備され、()()()()()()しか生まれてこないようになった。

 

 望まれて生まれてきて、愛されて育てられていく子供たちはしあわせになれる。運悪く親と死別してしまっても里親制度のおかげで軌道修正が利く。

 作られなかった同胞たちは、生まれてくる前に無抵抗のまま殺されていく。

 生来のテロリストは水際で排除され、世界は平和になる。

 

 いっそ、反乱を起こすのも悪くないかもしれない。

 そうしたら今度こそアリアンロッドが残党狩りに乗り出してくるだろう。ユージンがライド以下強硬派を売るか、クーデリアが残党全員まとめて切り捨てるか、火星もろとも滅ぶか、移民はどうするのか――という、テイワズも巻き込んだ泥沼の大戦争ができるかもしれない。

 少年兵が生まれついての犯罪者なら、そのくらい、望んだって。

 

 

「――いっそ、 」

 

 

「エンビ。……だめだ、もうそれ以上言うな」

 

 ついにヒルメの静止が鋭く刺さって、エンビは口をつぐんだ。

 ヒルメだって同じことを考えていたから物騒なことを口走る寸前で止めることができたのだろうに。

 

 背にしていた路地の奥からも、同意のため息が追加される。

 

「そうだぞ、エンビ。そのへんにしとけよ」

 

 赤いストールの人影がひだまりに踏み出して、特徴的な赤毛が揺れる。

 明らかになった髪色は、火星では珍しい色合いだ。宥めるように「お疲れさん」と眉尻を落とし、同胞をねぎらう。

 

「ライド…………」

 

「頭のまわるガキは嫌われるぜ」

 

「学校ではちゃんとバカのふりしてる」

 

「そうやってバカを見下してたらそのうちボロが出んだよ優等生。無理すんな」

 

 緑色の双眸を気遣うように細める。

 オレンジがかった髪色も、主に日照時間が短い環境で発現する色彩だそうで、改竄されたライドのIDは火星出身ですらない。

 

 地球に比べて大気の層が薄い火星においても、惑星間巡航船、あるいは高級娼館といった、窓がなく赤毛が生まれやすい環境は存在する。

 いずれも芳しい経歴ではないし、希少であるということは足がつきやすいということだ。

 ライドの身体的特徴がありふれている場所としてアーブラウ北部、アンカレッジよりさらに北の片田舎の出身ということにされてしまった。

 亡命していたアーブラウから火星に戻るより先に『故郷』を下見に行ったせいでライドは学校に入るタイミングを逃し、アドモス商会関連企業でインターン生扱いになっている。

 人生の辻褄合わせのために定期的な()()を強いられることもあり、学校への収監を免れた唯一の例外だった。

 

 うまく『大人』の側につけたのだから就職組と一緒に逃げ切って、しあわせに暮らしたってよかったろうに。

 ライドはみずから強硬派のリーダーとして、大人になれない子供の側に残っている。

 エンビはようやく舌鋒をおさめ、口実としてオニギリをかじった。

 

「いい子だ」とライドは碧眼を眇める。

 

 そして、背後の路地に向かって声を張った。

 

 

「――誰が聞いてるかわからねぇからな?」

 

 

 四対の眼光が鋭く研がれ、警戒心が一斉に、近づく気配に向けられる。

 いくばくかの膠着。

 呼びかけに応じるように路地から現れたのは、わずかな護衛を引き連れた白髪の少女だった。

 頭髪とは異なる質感の長い髪は、仮面とひとつづきの()()()だろう。

 

「女……?」とトロウが取りこぼす。

 

 護衛は両脇にメイドがたったのふたり。

 女三人だけでスラムに入ってくるだなんて危険すぎる。ここは身ぎれいな女なら若くなくとも襲撃されるような掃き溜めだ。裕福な移民と見るや問答無用で引き裂いてやりたくなるやつだって潜んでいる。

 臆することなく華奢なヒールが進み出て、少女の声で微笑んだ。

 

「ごきげんよう、鉄華団のみなさん」

 

 さらりと風が凪ぐように、清涼な声音を空間すべてが受け入れる。

 スラムの濁った空気が遠慮して去っていったかの錯覚に、ライドは思わず面喰らった。

 

「わたしは〈モンターク〉――と名乗れば伝わると、()()()から聞いております。あなたがたはこの仮面に見覚えがあるはずだとも」

 

「……悪いがさっぱり心当たりがねえ」

 

「それも結構。それはそうと、わたし、ここから抜け出したいと思っているの。護衛を探しているのだけど――」

 

 ごく自然なしぐさで指先が持ち上がり、右手の手袋が引き抜かれる。細い手首、白魚の手と桜貝の爪があらわになり、握手を求めるかたちで差し出された。

 

 

「引き受けてくださらない?」

 

 

 晒された白い手指と、視線を釘付けにする高貴な魅力。ライドの背後でも、警戒とは異なる緊張感に、三者三様に息を呑む気配がある。

 ここからわたしが帰る場所まで、わたしを守って、連れていって。

 額面通りの言葉の裏には闘志が見え隠れして、野心とは似て非なる、何か鮮烈な光を感じさせる。小柄な少女を見下ろしているはずが、まるでショーケースの中の宝石でも鑑賞させられているような心地だ。

 ともに戦ってほしい。――雄弁な双眸はスカイブルー、言葉もなしに訴えてくる。

 しかし握手に応じることなく、ライドはひらり、両手のひらを開いて見せた。

 

「いいんですか? 変な伝染病(ビョーキ)を持ってるかもしれないですよ」

 

「まあ。そのご病気をいただいて、〈ヴィーンゴールヴ〉に差し上げるのもすてきだわ」

 

 にっこりと微笑んだ少女に、ぎょっと目を剥いたのは背後のエンビだ。

 

「……バイオテロでもやるつもりかよ……」

 

 絶句するヒルメと、想像してしまったのかトロウが腕の鳥肌をさする。

 レディ・モンタークはただ穏やかに、柔和に、笑みを絶やさない。

 ……覚悟は充分伝わった。

 

「いいぜ、おれらはあんたの話に乗ってやる」

 

「交渉成立ですわね、()()()さん」

 

「そこまで知ってるんなら話は早ぇや」

 

 奪いとるように手を握っても、繊細な指先は怖じることなく丁寧な握手にしてしまう。見かけによらず、なかなか肝の据わったお姫様だ。メイドだけ連れて治安の悪いスラムに出向き、護衛を現地調達してみせる度胸も。

 取り交わした握手に白い両手をそっと添え、仮面の奥から宝石のような双眸でライドを見上げる。

 

「わたしは旧セブンスターズの一員ガルス・ボードウィンの娘、アルミリア・ボードウィン」

 

 少女の微笑はケースの中にしまわれて、復讐者がついに仮面を取り払う。

 

 

「逆賊マクギリス・ファリドの妻です」

 

 

 その日、ライドたちの前に姿を現した(フェンリル)の花嫁は、やっと帰り道を見つけた迷子のようだった。

 

 復讐者らの結託から五日後、アーブラウの蒔苗記念講堂にて〈ヒューマンデブリ廃止条約〉が締結。

 さらに数日後、クリュセのとあるホテルにてノブリス・ゴルドン氏が遺体で発見されたというニュースが世間をわずかばかり騒がせたが、世界は滞りなく平和である。




【次回予告】

 生きられるのは大人が作った子供だけ。それじゃあ、おれたちの居場所なんか存在しないっていうのか? オルガ団長が、今はライドだけが、作られなかったおれたちだって生きてていいって言ってくれる。おれたちはお姫さんの話に乗るよ。
 次回、弾劾のハンニバル!
 第3章『猿でもできる聖者の行進』。

 どっちを向いたら前なのか、それを決めるのはあんたじゃない!


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第三章 猿でもできる聖者の行進
004 レプリゼンタティブ


【前回までのあらすじ】
 すべての子供たちに教育を与えたかった〈革命の乙女〉の思想は利用され、洗脳を目論む移民教師、就学率をあげたい学校、薬物取り引きで潤う商人、航路を維持する海賊――鎖状のディストピアに、誰も彼もがなすすべもなく取り込まれていく。
 力なき子供たちが搾取される世の中は、いまだ続く――。


No More Soldiers!(軍備撤廃)

 

 プラカードを掲げた人々が寄り集まり、声を上げている。拡声器から主張が響く。

 そして、エドモントン市街を埋め尽くすほどの民衆が賛同する。

 

Get Rid of the Defence Forces!(防衛軍を撤廃せよ)

 

 行進する人々は口々に叫ぶ。

 アーブラウには軍事力など不要であると。

 

『守るための軍隊など欺瞞です! 防衛軍さえ発足しなければ、八年前の悲劇はなかった!!』

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 ひきたてのコーヒー豆はとてもいい香りがする。

 コーヒーミルで渦を巻く芳香を「果物みたい」と評したタカキに、その豆は果実を加工したものなのだと教えてくれたのは蒔苗前代表だった。

 もう五年ほど昔の話だ。

 

 任期を円満に終えた蒔苗・東護ノ介前アーブラウ代表は、その晩年、ヒューマンデブリ問題の周知につとめた。

 地球経済圏には、遠く離れた異星についての情報に乏しい。テイワズの鉄道が走り、火星ハーフメタルの輸入が当たり前になった今でさえ、圏外圏では好戦的な野蛮人たちが旧石器時代のような暮らしをしている――といった偏見は根強いままだ。人身売買や奴隷制度もさもありなんと思われている。

 市民には、植民地として支配していた自覚もない。

 

 宇宙の広さ、それによる情報伝達の遅さを憂い、蒔苗氏は残された人生を諸国漫遊に宛てた。

 こんなことはドサ回り以来だと笑いながらタカキを同伴し、ブロンドとは違った風合いの金髪、柔和な風貌の彼は火星人であり元少年兵なのだと語ってまわった。

 いまだ無学だけれど人当たりのいいこの少年が、アーブラウ防衛軍とともに戦ったひとりだと。

 火星からやって来た少年たちがアーブラウのため最前線で体を張り、命をかけて国境紛争の尖兵となったこと。

 発足式典では身を呈して守ってくれた恩人、チャド・チャダーンは〈マクギリス・ファリド事件〉に巻き込まれ、十代という若さで亡くなったこと。

 タカキもまた紛争の中で家族同然だった戦友を両手では数えられないほど失ってきたのだとも。

 

 情報の断たれたあの戦場では脱走を図った正規兵も少なくなかった。

 終わりの見えない戦火から逃げたかった彼らの弱さを責めることはできずとも、アーブラウのため献身的に戦い続けた少年兵の勇気は称えられてしかるべきものだろう。

 最前線を守り続けた軍事顧問、鉄華団地球支部の奮闘の甲斐あって、後衛に詰めていた整備士や技術者、給養員から死傷者は出ていない。

 その事実が、今日(こんにち)の火星連合との友好につながっている。

 

 鉄華団の少年兵たちはみな快活で、地元のマーケットでは孫のように可愛がられていたが、アーブラウは広い。北アメリカ大陸北部からユーラシア北部へと伸びる雪国は東西に長く、SAUとの国境紛争すらシベリアの冷たい海を渡れば他人事だ。

 アフリカンユニオンともオセアニア連邦ともボーダーラインを共有する西側にとってみれば、SAUでさえ野蛮な田舎者でしかない。

 

 八年前の紛争以来、南米を産地とするコーヒーは主に東アーブラウでしか消費されなくなった。

 蒔苗老の影響力もそこまでだったということなのだろう。

 

 

「アレジさん、コーヒーが入りましたよ」

 

「ええ、ありがとうタカキ。とてもいい香りです」

 

 首都エドモントン、アーブラウ代表執務室である。

 本棚には書籍がずらりと並び、シンプルながら上質の木製インテリアでまとめられている。

 コーヒーメーカーのたぐいが置いてあるのは、応接室を兼ねているためだ。隠すものは何もないというアピールでもある。

 

 ラスカー・アレジ現アーブラウ代表はこの二年でさらに広くなった額をハンカチでぬぐうと、プレジデントチェアを立った。

 

「そろそろ、一息いれるとしましょうか」

 

 穏やかな呼びかけに、他の秘書たちも振り返る。タカキもトレーを抱いてはにかんだ。

 

 地元アラスカから選出され、六年前に蒔苗前代表の支持母体を引き継いだアレジ代表は、国境紛争後の復興に長く尽力した。

 支援は八年近く経過した今も続いている。火星ハーフメタルの積極的輸入による医療機器の保護、市街地にMS(モビルスーツ)が現れたときの対策マニュアルの周知。エイハブ・ウェーブの干渉に起因する事故の犠牲者、遺族に歩み寄った社会福祉の構築。義肢や車いすの開発促進、流通支援など、これまでなら未来を奪われたままだった人々の未来に希望を点すため奔走し、退役兵や戦災遺族からは特に厚い支持を得ている。

 

 むろん中には、火星連合やテイワズとの友好的関係による事態の平和的解決は『日和見だ』と責める声もある。

 傷ついた人々を慮る戦後処理も『戦災被害者を食い物にして選挙を有利にした』と批判された。

 蒔苗が火をつけ、アレジが消すマッチポンプではないかという陰謀論も絶えない。

 

 第一秘書のタカキ・ウノの来歴にも、賛否の両論がある。

 実際のところ、タカキの存在は火星への偏見、インプラントへの忌避感といった障害を緩和するためのアイコンにすぎない。アーブラウのために戦った少年兵の一員であり、国境紛争の生き証人として、大人しく微笑んでいればいいだけの人形だ。

 そのことはタカキ本人も承知の上で、みずから世界じゅうの子供たちが安心して暮らせる環境作りを訴えている。

 通信教育でもうすぐ準学士課程を終え、AA(リベラルアーツ)修了後に学士課程へ、修士課程まで修めて政治家としての立候補も考えてはいるが――、そのときには『火星人の侵略』とでも非難されるのだろう。

 インプラントへの差別撤廃も、火星との関係性も、火星ハーフメタルの普及もすべてタカキ・ウノにアーブラウを乗っ取らせるための謀略だったとでも。

 

 今のタカキはコーヒーを上手に淹れるくらいしか役に立たない使い走りで、だからこそ明るく朗らかな人柄がエドモントンの預かり息子として愛されている。

 職員たちに分け隔てなくコーヒーを差し出す手付きには彼の気遣わしい人となりが表れており、同時に、タカキの身分がこの中の誰より低いのだと物語る。

 前代表も本意ではないだろうが、火星人への積極的な差別がなくなった今も、対等であるとは思われていないのだ。

 タカキはあくまでも火星からの『お客さん』にすぎない。仕事内容も掃除や書類整理、演説の同伴が中心で、見かけによらず力が強いから荷物持ちに重宝される。

 むしろ番犬として有能だ。外科的に埋め込んだ阿頼耶識――いわゆる()()――による空間認識能力か、それとも少年兵としての経験則か。警戒心が強そうには見えないのにSP顔負けに鼻が利く。

 

 すべて承知でいるタカキと、その手からコーヒーを受け取る職員たち。

 アーブラウ代表として火星と地球の距離を眺めて、複雑な面持ちで目を細める。

 

「今日は、外がやけににぎやかですね」と独り言ちれば、すぐさまタカキが振り向いた。

 

「テレビをつけますか?」と気を利かせる。「今日はエドモントンで集会があるそうですよ! 市街地のあちこちで民放各社のカメラがスタンバイしていました」

 

「ええ……では、お願いします」

 

「はい、すぐに!」

 

 快諾したタカキがマホガニーのチェストを開けば、液晶スクリーンが隠されている。

 黒い画面を明るくすれば、チャンネルは東アーブラウの民放に合わせられていた。

 

 中継されるエドモントン市街、石畳の街並みを埋め尽くさんばかりの人、人、人。

 

「わ、ずいぶん大規模なデモですね……!」

 

 日ごろそれなりの交通量があるはずの表通りが行進するデモ隊に乗っ取られ、信号機の点滅もどこか困惑げに見える。立ち往生する乗用車が迷惑そうにクラクションを鳴らす。

 軍備撤廃。我らの地球に戦争は不要。――掲げられたプラカード、バナーの中には『アーブラウ防衛軍は解体すべし』と太い文字で書かれている。

 びっくり顔だったタカキは、そして物憂げに目を伏せた。

 

「多いですね、最近…………」

 

 先週SAU郊外で傭兵の集団死事件があったというニュースを受けて、反戦デモはその規模を拡大し続けている。行動も過激になる一方だ。地元市民はみな扉を閉ざし、雨戸を閉じて、生卵の飛来を自衛するようになった。

 物々しい空気は、東アーブラウ全土へと広がりつつある。

〈ゲイレール・シャルフリヒター〉の残骸が発見されたのは、アーブラウとSAUの国境線を抱く広大な草原地帯。バルフォー平原だ。

 八年前の爪痕が今なお残る戦場跡地である。

 

 ガラン・モッサが率いていた傭兵団の機体だと、タカキは一目で思い出した。

 

 当時の国境紛争には〈フレック・グレイズ〉のほかに鉄華団地球支部の〈ランドマン・ロディ〉、外人傭兵部隊の〈ゲイレール〉などが参加したが、名簿にあったはずの〈ゲイレール・シャルフリヒター〉とそのパイロット八名が行方不明のままになっていた。

 

 失踪していたMSの数と、先日見つかった〈ゲイレール・シャルフリヒター〉の数は完全に一致。

 アーブラウが秘密裏にMSを動員し、密偵としてSAUに送っていたのではと疑う声が出てくるのもしょうがない。

 組織である以上、下っ端が勝手にやりましたというわけにはいかないのだ。

 

 ガラン・モッサの存在だって、一握りの生存者の不確かな記憶の中にのみ残された集団幻覚の後遺症のようなものである。まぼろしのように消えた男が確かに実在し、前線で指揮をとった証拠は何もない。

 アーブラウ政府によるでっちあげ説のほうが有力視される始末だ。

 

 事件現場となったSAUの前線補給拠点跡地からは、現場から二〇〇キロばかり離れた街の高校・大学に通う女子生徒らの遺体も見つかっているという。

 体内に残されていた体液などから暴行後に死亡したものとみられ、誘拐殺人事件としても捜査を進めていくと発表があった。

 

 陰惨な事件が引き金になり、デモは激化。

 アーブラウは軍を捨てよ、八年前に奪われた平和を取り戻せ――という市井の演説もそこかしこで聞かれるようになった。

 テレビの中で行進するデモ隊の中にも、拡声器を肩に掛けた青年が流暢な演説を行なっている。

 

 ……いや、演説ではなく煽動か。

 物言いが理知的だとそれだけで説得力があるが、アーブラウ防衛軍など不必要とただただ繰り返しているにすぎない。

 アカデミックな言葉選び、落ち着いた声音に秘めた豊かな情緒。実によく訓練された演説家だ。口許はマイクに隠されているが、ずいぶん若い。デモ隊は学生スピーチコンテストの受賞者でも味方につけたのだろうか。

 

「あ、れ ――?」

 

「どうかしましたか?」

 

「あの青年が、古い知り合いにとてもよく似てるって……」と、独り言のようにこぼれおちたが、そんなわけがないとタカキは頭を振った。

 タカキの知人で大学生になったのなんてクッキーとクラッカくらいだ。鉄華団壊滅後の仲間たちはみな一日でも早く就職したがっていたし、技術はともかく文化的教養とは縁遠い。

 大学教授(プロフェッサー)に提出する論文で使うようなタームを自在に使いこなす知識階級(インテリ)とは、住む世界が違うのだ。

 

「――思っただけです。地球(ここ)にいるわけがないってこと、忘れてて」

 

「世の中には、同じ顔が三人いるといいますからね」

 

「そうなんですか? なら、きっと彼は三人目なんです」

 

「は……?」

 

 困ったように苦笑したタカキは頓珍漢な言葉でその場をかき回したが、そうとは気付かずにテレビ画面を見つめた。演説に聴き入る。

 こんな反戦スピーチができる青年は、タカキの知り合いにはいない。

 

(……でも、どうしてだろう。聞き覚えがある気がする……)

 

 内容は似ても似つかないのに。力強い声の張り方には、不思議な既視感があった。

 淡く褪せたウォルナット色の短髪、双眸は青みのグレー。白人で、十八歳くらいだろうか。

 灰色の目は一等鋭くて、腕利きのスナイパーのひとみはみなグレーなのだと何かの本に書いてあったな――と、曖昧な記憶がよぎる。

 

 

『武器を持ちたがる人間を、どうして信用できますか。凶器を持った隣人と、ともに暮らせと言うのですか! この世界に必要な力は角笛(ギャラルホルン)ひとつと、人類は三百年も昔に誓ったはずだ!!』

 

 

 賛同の歓声に後押しされながら、演説は続く。

 彼が『アーブラウが軍事力を持つことに対する他の三経済圏の反応』について語っているのか、それとも『市民が個々に武器を携えることに対する隣人の反応』について述べているのか、タカキには図りかねた。

 

 アーブラウ防衛軍は、あくまでもギャラルホルンの言いなりにはならないとアピールするための切り札だ。抑止力として存在し続けることに意義がある。

 イズナリオ・ファリド公によるアンリ・フリュウ議員擁立、ラスタル・エリオン公による紛争幇助、広域な情報封鎖、植民地への〈ダインスレイヴ〉猛射など、アーブラウは看過しかねる実害をこうむってきた。

 それらの凶行に対し、抵抗し、弾劾する用意があるという覚悟を示すためにも自衛的軍事力は今後とも維持せねばならない。

 

 この八年間、アーブラウもギャラルホルンの監視のもとで安心して暮らすべきだ――と代表交代を呼びかける対立候補が絶えず現れた。

 だが議会はギャラルホルンの干渉を固辞する方針を曲げず、政権はいまだ旧蒔苗派にある。

 支配と自由とを天秤にかけ、民衆の過半数はラスカー・アレジ代表を支持し続けているはず。

 

(なのにどうして、アーブラウの人たちが防衛軍の撤廃なんか……)

 

 確かに、軍備を持つことは経済圏同士の関係をより緊迫したものに変えるだろう。

 お互い丸腰でないとわかっていれば、交渉を有利に進めるために軍備の増強を重ね、力を誇示する過当競争(ゼロサムゲーム)にも発展しかねない。

 

「タカキ。今、わたしたちが軍の有用性を議論して、最も得をするのは誰だと思いますか?」

 

「え……?」と飴色の目がぱちくりまたたく。防衛軍の撤廃ではなく、「有用性についての()()()、ですか」と首をひねった。

 

「そうです。アーブラウをどうしたい勢力が、それを望むと思いますか?」

 

「どうしたい……」とタカキは復唱する。

 

 厄祭戦後三百年、この世界で軍事力を保有する勢力はギャラルホルンのみだった。四大経済圏は軍事力を持たず、小競り合いは主に民間で勃発した。

 どんな諍いも直接戦闘を行なうのはPMC同士だ。傭兵は雇用主次第で殺し合うし、共同戦線を張る場合もある。

 信用が第一なので雇用主を裏切ることは原則としてありえない。契約満了を待たず払いのいいほうへ乗り換えるようでは、そのうち仕事をなくして路頭に迷う。

 一度貼り付いた『裏切り者』のイメージを剥がしきることは難しく、それゆえ、スパイじみた依頼を請け負う傭兵はまずいない。(密偵ガラン・モッサが非実在と断定されてしまったのは、そうした背景あってのことだ)

 

 経済圏が正規の軍事力を持っても、民兵の仕事はこれといって減らない。

 

 常に訓練された兵士と整備された兵器を有するPMCは、正規軍よりよほど実戦的、かつ身軽な戦闘集団だ。

 圏外圏においては海賊をはじめとする略奪者から自身や財産を守るための警備員として一般に普及している職種・業種でもある……が、いかんせん軍備には莫大な維持費がかかる。

 エイハブ・リアクターの製造技術はギャラルホルンが独占しており、新兵器の開発も民間では難しい。海賊などの襲撃が危惧され、非戦闘員でさえ安全は保証されないのでは、医師も研究者も寄り付かないのである。

 結果、兵隊のほうが戦闘以外の仕事――たとえば整備、ハッキング、営業、果ては外科手術など――を身につけ、副業をはじめるケースは案外多い。

 売り物にできるのが戦闘力ただひとつでは出撃可能な戦闘員を常備しておくだけの資産が賄えないのだから、それもひとつのサバイバルスキルだろう。

 民間警備会社である鉄華団が農業の手伝いをやっていたように、またタービンズが運送業であったように、自前のMSを運用する民兵にとっては戦闘以外で得られる安定した収入源が生命線となる。

 

 専業である正規軍は、兼業を前提とする民間軍事会社と競合しない。

 

 アーブラウ防衛軍は確かにギャラルホルンの有用性をいくらか損なうかもしれないが、火星連合だってギャラルホルンに頼らない治安維持のために各市警を組織した。

 

 地元に治安維持部隊を配備しても、世界を守護するギャラルホルンとは競合しない。

 

 ギャラルホルンは地球上、いや、この宇宙で唯一にして最大の軍閥なのだ。

 三百年前、地球という惑星を取り巻く環境そのものを壊し尽くした未曾有の惑星間戦争が〈ヴィーンゴールヴ宣言〉によって終結を迎えてから、ずっと。

 

〈厄祭戦〉。

 詳細は語り継がれることなく、当時のMS(モビルスーツ)がぽつぽつと断片的な記憶を今に残すのみだが、歴史の教科書には『人工知能の暴走が発端』と記されている。

 誰が、何のために、何を求めて行なったのかはわからない。

 確かなのは、独立思考型大量破壊兵器MA(モビルアーマー)が地球上の人口を二十五%も失わせた、とんでもなく大きな戦争だったことだけだ。

 

 そして戦後、ギャラルホルンの支援によって地球圏は四つの経済圏に分割。人類は瓦礫の中から立ち上がった。

 アフリカンユニオン、オセアニア連邦、SAU、そしてアーブラウとして新たに国境線が引かれたのが、PD(ポスト・ディザスター)元年のことだという。

 翌PD〇〇二年、四大経済圏は〈マルタ会談〉にて火星の分割統治条約をまとめあげた。経済圏からの要請を受けたギャラルホルンは、火星に大軍を派遣。まったく新たな火星政府を再建した。

 さらに翌年、ギャラルホルンは火星の国境線を定め、各都市を四大経済圏の支配下においた。火星の植民地支配は、このPD〇〇三年からはじまった。

 

 とんでPD二〇五年。いち早く火星植民地域の暫定自治権を与えたのがこのアーブラウである。

 のちのPD三一四年に弱冠六歳の才媛クーデリア・藍那・バーンスタインが〈ノアキスの七月会議〉で演説し、独立の機運は火星全土から、やがてコロニーへと広まった。

 PD三二三年のドルトコロニー事変、翌年明けのアーブラウ代表指名選挙での演説を経て〈革命の乙女〉の名声はついに全宇宙へと轟いた。

 

 ところが彼女は、故郷の貧困を改善し、経済的独立へ導くための一歩を政治家ではなく慈善活動家として踏み出すと決めた。

 鉄華団やテイワズといった、戦闘と切り離せない組織との提携を残して自身は非武装という、何とも危うい船出だった。

 

 非暴力を選んだ〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタイン。

 対照的に、戦力増強に邁進する新進気鋭のPMC鉄華団はPD三二四年、軍事顧問団を構成してアーブラウへ派遣。地球支部が設立された。

 

 PD三二五年、アーブラウ防衛軍が正式に発足。

 

 そして一ヶ月と待たずに全滅。

 

 自衛的軍事力など保有したせいで戦争になったのだと責める声もある。戦力があったから戦えてしまったのだと。

 確かに、正規兵がいなければ民間から徴兵してまで前線へ送ることはしなかったろうが、志願した兵士だって『死んでいい人間』などではない。

 ひとりでも多く、叶う限り全員が無事に家族のもとへ帰れるように戦っていた。

 

 しかし善戦むなしく、散発的な戦闘が繰り返されるうちに兵士は疲弊し、兵站もやがて底をつき、アーブラウ防衛軍は約四千名もの犠牲者を数えた。

 地球外縁軌道統制統合艦隊の斡旋で買い入れたはずの〈フレック・グレイズ〉六十機も、うち四十機が大破。修繕不能と判定されてギャラルホルンに接収されてしまった。

 発足式典中の爆発による被害を含めれば、死傷者は軍民あわせて五万人あまり。

 当時、蒔苗氏の第一秘書をつとめていた青年も、あの爆発に巻き込まれて亡くなった。

 蒔苗氏をかばって重傷を負ったチャド・チャダーンは見事回復を遂げたが、それも彼自身の反射神経と打たれ強さあっての奇跡だ。

 適切に床に伏せた少年兵と、爆風の衝撃をもろに受けた政治家秘書。生き残れたのはチャドだけだった。

 

 あの日、あのとき、館内にいたのは蒔苗氏だけではない。議員、警備兵、清掃員、お茶を淹れた職員、弁当を仕分ける給養員もいた。建物の外には見物客もいた。遠巻きでも初めて垣間見るMSの姿に目を輝かせた子供の姿もあった。割れたガラスは飛散し、民間人の犠牲者も――。

 

 ところが当時、MSのそばでも稼働しうる医療ポッドの配備数はわずか。

 エイハブ・リアクターの影響下でも動作する、いわゆる〈宇宙式メディカルナノマシン〉は短期的な治療しか行なえない『簡易型』といった扱いだ。宇宙船や宇宙港の医務室には当たり前に備え付けられているそれも、地上配備数には限りがあった。

〈地球式メディカルナノマシン〉ならば、時間こそかかるが身体機能を元通り回復させることが可能である。吹っ飛んだ四肢や眼球、臓器も、心肺停止前にすべてかき集めればナノマシンによる自己回復機能の活性化で、文字通り()()()()ことができる。

 配備数が多いのは後者だ。

 だがMSの居並ぶ会場付近では機能しない。地球の建造物ではエイハブ・ウェーブを遮断できず、微細なナノマシンを無線で稼働させる医療機器は動かないのだ。

 

 初期対応の遅れは、被害者たちの多くに後遺症を抱えさせた。

 高精度な地球式治療は義手や義足に対して『まだ欠損させたままでいる』という生理的嫌悪感を催させる原因の一端でもある。

 救助が間に合わなかった人々は絶望の底へたたき落とされた。

 

 アレジ政権は戦争の爪痕に苦しむ人々のため、火星ハーフメタルを政策によって普及させ、エイハブ・ウェーブ影響下でも地球式メディカルナノマシンの稼働を可能にするよう対策を推し進めた。

 市民を医療事故の不安から解き放ち、より多くの命を守るために必要不可欠な対応だ。

 というのに、市街地で戦争をするつもりだろう、民間人の被害を軽視している――と揚げ足をとるような非難が絶えずあがってくる。

 四肢を失った人々への能動的支援にも、自業自得だ、救済の余地はないというネガティブな標榜がつきまとう。

 

 アーブラウ・SAU間の通信一切が遮断されていた弊害についてもそうだ。

 開戦の影響で国境を渡ることができなくなり、旅行、出張、留学中の帰宅難民は敵国のただ中でふるえていた。

 家族や友人、恋人との連絡がつかない。交通規制がかかり、いつ家に帰れるのか、本当に帰れるのかもわからない。

 飛ばなくなった飛行機や動けないバスのチケットは無駄になり、返金もない。ホテルは交戦国の市民をいつまでも宿泊させてはくれないのに、アーブラウの夜は凍えるように寒いのだ。

 否応なく戦時下に置かれ、心身に傷を負った人々にも補償が必要だろう。

 

 紛争がもたらした民間への被害ははかりしれない。

 ひと月近く続いた大規模な断絶によって流通は滞り、経済までも錆びついた。

 

 当時タカキは兄妹ふたりが楚々と生きていけるだけの額を給料としてもらっていたが、物価が高騰すればその限りではない。銀行が機能しなくなっては意味がない。フウカが思慮深い倹約家でなかったらどうなっていたかと、あとになってぞっとした。

 よく考えずに買い物をしてしまって……なんて、まとまった給料を手に入れはじめた鉄華団では頻出した失敗談だからだ。

 

「タカキ。どうか、これだけは覚えておいてください。わたしたちは、戦争がしたくて防衛軍を発足させたわけではないと……たとえ詭弁だと言われようとも」

 

「はい、アレジさん」

 

「背中に銃を突きつけられれば、人は『従って生きる』ことと『抗って殺される』ことを両天秤にかけなければならなくなります。一方的に銃を突きつけられ、生殺与奪を握られては、まともな交渉などかないません。我々に必要だったのは『対話を行う』という第三の選択肢です」

 

 問題はいざというとき戦争というカードを切れるかどうかであって、戦争そのものではない。

 民衆の生活を守り、傷つけさせないためならば強権にも抗う決意を表明する必要がアーブラウにはあった。実質的な軍事独裁からの脱却。人的・経済的損失をともなう『戦争』という最悪の選択を()()()()()()()()()()ための抑止力を早急に手配しなければならなかった。

 

「それが、アーブラウ防衛軍発足の目的でした」

 

 ところが戦争をも辞さない姿勢では意味がなかった。

 ギャラルホルンという最強最大の軍閥が機能する限り経済圏同士の戦争は起こりえない――という大前提は、いともたやすく覆された。

 

 

「戦争などしたがるはずがない……そう考えてしまった我々の認識が甘かったと、言わざるをえません」

 

 

 ギャラルホルンは内外の犠牲を厭わない。味方の犠牲を最小限にとどめようとするはずだという倫理がギャラルホルンには通用しない。

 そのことに気付かないまま自衛的軍事力保有を決定してしまったのは、失敗だっただろう。誤算だった。

 

 経済圏同士の戦争が、いかにギャラルホルンが世界にとって必要な存在であるかを示してしまったのだ。

 

 発足式典中に要人控え室で起きた爆発、犯行声明もないのに即座に『テロだ』と断定され、軍備がSAUとの国境へ送られる決定が下るまで、わずかに数時間。

 内部の犯行でなければできない芸当だろう。

 タカキら鉄華団は『爆発』という事実に対して『テロの可能性』という動機部分、『何者かによって爆弾が持ち込まれた可能性』という原因部分とを切り離して考えることができたが、余所からきた子供が「誰が」「どうして」「何のために」と叫んだところで誰ひとり、振り向きすらしなかった。

 

 正規兵と軍事顧問団のすれ違いごと、軍備は国境へ。

 

 なし崩しに、戦争がはじまった。

 

 あの爆発が爆弾テロだったと断定された理由も不明のまま。誰が、何のために、誰を狙って、何がしたくて爆弾を持ち込んだのかも、誰も、何も知らないまま。

 

 そうした開戦理由のずさんさは、アーブラウ政府の首を締めた。

 問題を『ガラン・モッサというまぼろし』に押し付けて戦争責任を逃れようとしたのではないかと、ギャラルホルンから糾弾を受けたのだ。

 調停のためSAUについていた〈地球外縁軌道統制統合艦隊〉がアーブラウ側の主張にも耳を傾け、なるべく双方に不利のない落としどころを見つけるべく奔走してくれたことが完全に裏目に出た。

〈地球外縁軌道統制統合艦隊〉所属にして革命軍の青年将校ライザ・エンザ三佐が〈月外縁軌道統合艦隊〉総司令ラスタル・エリオン公による紛争幇助を指摘、密偵ガラン・モッサの介入を指摘したためである。

 組織改革を掲げた軍事クーデターは失敗に終わり、逆賊の演説はすべて虚偽と断定。革命軍の決起からわずか半月で、アーブラウ政府は厳しい立場に立たされた。

 マクギリス・ファリド准将、ライザ・エンザ三佐が逆賊とされた以上、恩義ある鉄華団への加勢もかなわない。

 

 きっとまた火種は自作自演され、ギャラルホルンの信用を補強するための生け贄を要求されるのだろう。

 第二第三のアンリ・フリュウが現れては政権を乗っ取ろうと画策し、アーブラウはそれを『不支持』という形で退けてきたが、ギャラルホルンはついに内政不干渉前提を撤回。ラスタル・エリオン公を初代代表として、()()として独立してしまった。

 蒔苗氏の没後、火星連合を傀儡として〈ヒューマンデブリ廃止条約〉の締結を実現し、あろうことか蒔苗記念講堂で調印式を執り行うまでの権力を得ている。

 新生ギャラルホルン代表ラスタル・エリオン公と火星連合議長クーデリア・藍那・バーンスタイン両氏が手に手を取り合うようすは大々的に中継され、ギャラルホルン・火星連合・アーブラウの友好を全宇宙にアピールしたのが二年前のことだ。

 

 クリュセ郊外での違法兵器〈ダインスレイヴ〉解禁に対して強硬姿勢で応じた蒔苗前代表への、痛烈な意趣返しだった。

 

 当時アーブラウ領であったクリュセ独立自治区に、アーブラウ元首の承認なく〈ダインスレイヴ〉を使用するなど免責されていい事態ではない。アーブラウの民を切り捨てる選択を『大義』と呼ぶことは、断じて宥恕できない。

 蒔苗氏は最期までギャラルホルンの権威に臆さず、鉄華団を売り渡すこともしなかった。

 ところがギャラルホルンは〈ダインスレイヴ〉の使用を隠蔽。鉄華団殲滅は〈レギンレイズ・ジュリア〉の活躍によるものと情報を操作した。

 条約で保有・運用が制限されている禁断の弓矢は、解禁されてなどいなかったと歴史を書き換えたのである。

 当時の火星の状況については各メディアも一切報じていない。

 

 以来、東アーブラウは反ギャラルホルンを叫び、西アーブラウに反SAUが根付くというねじれた状況にある。

 シベリアの海を隔てた向こう側にとっては他人事であれ、アーブラウは密偵を送り込まれて国家元首の爆殺を画策され、防衛軍発足式典を妨害され、SAUとの紛争を幇助されたばかりか、情報封鎖によって戦線を長期化させられた当事者――被害者である。

 これほどまでに踏みにじられてなお、首都エドモントンの蒔苗記念講堂で〈ヒューマンデブリ廃止条約〉調印式を執り行われてしまったのだ。

 革命軍の演説によって首謀者――加害者であったと知らされたラスタル・エリオン公が泰然と手を振る姿に、戦災遺族の心の傷は一体どれほど手酷く抉られたか。

 

「どうか覚えていてください、タカキ。すべてを、見たままに」

 

 報道されたいつわりの『真実』ではなく、ただそこにあった『現実』を。

 教養をうかがわせる流暢な演説に流されることなく。

 

 ニュース番組や新聞記事は、人の手によって書かれたものだ。そこには必ず何らかの意図がある。何を伝えたいのか、誰のために書いているのか。

 原稿に対して、対価を支払うのは誰なのか。

 

 誰が、何のために、何を求めて綴った歴史なのか。

 

「忘れないでいてください」と、元少年兵に語りかける。

 

 今、この執務室で戦うべきは外敵ではない。無知で流されやすい民衆たちと、彼らを利用して世論を動かし、議員たちの信念に揺さぶりをかけようとする演説だ。

 扇動者は民主主義社会を内側から破壊するすべを知っている。自壊へと誘導した彼らには、何の責任もふりかからないことも。

 行進するデモ隊の中で演説しているグレーの目をしたあの少年も、きっと充分に理解しているだろう。

 

「……大人のために子供が犠牲になる時代は、もうおしまいにしたいものです」



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005 回帰

「なあ、エンビが帰ってくるってよ!」

 

 後部座席でトロウが声をはずませる。

 手許のタブレットをかざし、運転席のヒルメに見えるように受信画面をうつしてみせた。

 

 ルームミラーにちらりと意識を投げ遣って、ヒルメも「ようやくか」と表情を和やかにした。

 SAUでの〈ゲイレール・シャルフリヒター〉排除作戦を終えたあとエンビは単身〈ハーティ小隊〉から離れ、諜報のためアーブラウへ渡っていたから、約二週間越しの再会だ。

 任務は無事成功し、今日の夕方にはモンターク邸まで降りてくるという。

 

 火星を離れている間は連絡がとれないので、メッセージは共同宇宙港〈方舟〉の格納庫に常駐するカズマがQCCSで届けてくれたものである。

 今ごろエンビの搭乗機〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機がカズマのメンテナンスを受けているはずだ。

 

「メールには何て?」

 

「『めっちゃ眠い。がっつり寝たい三時間くらい』」

 

「仮眠下手クソかよ……。明日から〈ハーティ小隊〉は休暇だ、朝まで寝かせてやるって返信しとけ」

 

「りょーかい」と応じて、肩を揺らして笑う。

 メールを送信すれば、仕事中毒のカズマから不眠症気味のエンビへのバトンタッチはあっという間だろう。

 

 今日の夕方、エンビがコンテナごと地上に戻ってきたら、〈ハーティ小隊〉は三日間の休暇をとる。

 メンバーの多くは時間を持て余すだろうが、小隊長であるエンビの体力回復を見込んでライドが休みをねじ込んだのだ。

 同じ白人系でもライドのような赤毛は印象に残りやすいし、黒人系のヒルメや東洋人のトロウは混血でもありコミュニティに紛れ込むには適さない。

 異人種の面影というのは、人を疑心暗鬼にするようなのだ。

〈マーナガルム隊〉から諜報に出せる人材は、当たり障りのない白人(ホワイト・アングロサクソン)で外ヅラもいいエンビしか残らなかった。

 

 もともと頭の回るタイプだったし、他者から望まれる姿を演じるのが得意だ。要領がよく、暗記力もいい。鉄華団団長を思わせる力強いスピーチもたちどころに習得してみせた。

 花街に繰り出しても可愛がられるのはいつもエンビで、「あいつばっかモテんだよなぁ」と愚痴るトロウもなかなかどうして満更でもない。

 

「負けねーように、俺らも仕事頑張らねえとな!」

 

 意気込むトロウにああと相槌をうって、ヒルメは後部座席で大人しくしている少年を各部バックミラーで確認した。

 今回の任務へ向かう車内にはもうひとり乗っているのだが、隣のトロウとは対照的に静かすぎて、停車のたび姿を見ないと落としてきたかと不安になるのだ。

 

「……『リタ』だっけか。いい名前だな」

 

 何かしゃべらせて存在確認しようと適当な話題を振る。

 すると、ぱっちりと大きなライト・グリーンが鏡ごしにヒルメをとらえた。

 まばゆいばかりのプラチナブロンド、同じ色の睫毛は朝焼けに差し込む光のようだ。二重まぶたがまたたけば、バサバサと音がしそうなほどまつげが長い。控えめな鼻、血色のいいくちびるの配置は精巧な人形のように完璧で、……なんというか、直視するのがためらわれる。

 ここまで文句のつけようもない美少年は人生でふたりとお目にかかれないだろう。ダブルジャケットのボタン並びから男なのだろうと察するものの、性別も判然としない。

 

 無頓着なトロウは短くて呼びやすいと同調し、他意なく笑んだ。

 

「ここらじゃあんまし聞かねえ名前だよな」

 

「そうでもないだろ。俺だって似たようなもんだ」

 

「『ヒルメ』?」

 

 トロウが首を傾げ、リタも無言のままことんと右に倣った。

 ああと首肯する。自嘲が混じって、「似てるっつってもだいぶ違うけど」と補足する。

 

「どっかじゃ婆さんの名前なんだってよ」

 

 木星圏の文字で『日女(ヒルメ)』。

 IDが書き換えられるとき、ヒルメははじめて自身に女の名前がつけられていた事実を知った。

 

 改竄後のIDは性別相応、人種相応、なるべく印象に残らないようにと年代も考慮して再命名されたもので、黒人男性らしくないという理由でヒルメは本名を引き継ぐことができなかった。

 花街で働く女が子供に一律女の名前をつけるのは案外よくあることのようで、Embi(エンビ)にしても男の名前として一般的ではない。Elgar(エルガー)と男性名風のアクセントをつけて呼んでいた片割れだって、エンビが手ずから墓碑に刻んだ本当の名前はEluga(エルーガ)。やはり男につける名前ではない。

 

 娼婦が我が子に女性名をつける理由は愛情であったり、損得勘定であったり、背景はそれぞれだろう。

 手許に置くため、女児と偽って売り払うため。あるいは仕事中よその男の名を呼んだあばずれと値切られないため。五歳まで生き延びる確率だって五分なのだ、幼いうちは女の格好で育てたって傍目に違いはわからない。

 

 ヒルメ自身、今でも『ヒルメ』が男の名前で何が悪いのかわからない。

 ただ一般的ではないから、そのままでは都合が悪かった。

 

 由来と照らせばRita(リタ)も同じ境遇だとわかる。

 今はすわ美少女と見紛う姿でも、いつかは変声期が訪れ、身長も伸びる。そう遠くない将来、少年はマクギリス・ファリドのような美男子に成長するだろう。

 そのときがくるまでに、一回でも多く『いい名前だ』と言ってやりたかった。

 普通の人生と引き換えに名前を奪われることがあっても、過去を呪わないでいられるように。

 

 

 

 ヒルメの運転するセダンはほどなく目的地であった高級ホテルに到着し、ロータリーに横付けした。

 現れたドアマンには窓だけを開けて応じ、バレーパーキングサービスを断ると地下駐車場につながるゲートへすべりこむ。

 滞りなく停車した黒いセダンから降り立ったのは、無個性なダークスーツ姿のヒルメ、対照的にラフな格好のトロウ。

 それからトロウの手をとってしゃなりと車を降りるリタだ。

 差し伸べられた手にエスコートされるさまは淑女(レディ)のようで、はにかみ笑顔が何とも愛くるしい。

 

 駐車場の最奥には、厳重なセキュリティチェックのついた扉がある。一見すると倉庫の入り口のようだが、それはカムフラージュだ。黒服のヒルメは念のためサングラスをかけてからカードキーをかざすと、ひとつめのゲートが重々しく道を開けた。

 開かれた扉を抜け、さらに奥へ、もうひとつの扉をくぐる。

 すると姿を現したのは鏡のように磨かれた大理石(マーブル)の床と、プライベート・エレベーターへといざなうきらびやかなロビーだった。

 上層のスイート・ルーム直通のエレベーターだけあって、監視カメラの類いは一切存在しない。

 

 ヒルメがパネルを操作し、インターフォンを呼び出すとリタがぴょこんと飛び跳ねた。

 来客用のカメラがリタの顔の高さまでスライドする。

 背伸びをしたリタがぎこちなく、どこかこわばった笑顔をつくってみせた。

 

「あの、ご指名、ありがとうございますっ。リタ・モンタークです……」

 

 頑張ってカメラに近づこうとふらつくリタの顔がモニタに映し出され、背後に控えるヒルメは黒服の腰あたりしか映らない。

 先ほどまでの落ち着いた振る舞いとは打って変わって視線をさまよわせるリタ。まばたきのたび、長いまつげがホールの光をきらきら散らす。

 

 インターフォンの向こう側で中年の男がおお、と低く唸った。

 

『――入りたまえ』

 

 当該フロアにしか止まらないエレベーターが両腕を広げる。どうやら受け入れられたようだった。

 トロウが目配せをして、ヒルメが静かに首肯する。

 リタの金髪をポンポンと撫でたトロウは、兄貴ぶってにかりと笑んだ。

 

「お疲れさん、お前はここで撤退だ。あとは俺に任せときな」

 

「えっ、おれ……まだなにも」

 

「車で待ってろ。すぐ戻る」

 

 運転手のヒルメにひとつうなずいてみせ、パーカーのフードをかぶる。カーキは返り血が目立ちにくい色だ。ラフなワークパンツの内側にはナイフや弾倉が仕込んである。

 懐に銃を呑んだトロウがひとりで乗り込むと、エレベーターはつつがなく上昇をはじめた。

 

 

 

 モンターク商会には少年傭兵だけでなく、高級男娼も匿われている。

 今のクリュセでは十六歳未満の売春は禁止されており、リタのような少年を買うことは赦されない。

 しかし、たとえ法が禁じようとも需要は根強く、クリュセ市警やホテル従業員をチップで抱き込んでは少年少女を買いたがる男は減らない。

 違法性というリスクがスパイスになるようなのだ。法の網をすり抜けてやったという達成感が犯罪者を増長させる。未成年の売買が以前よりぐっと慎重になったせいでレアリティが増し、最も希有な『金髪碧眼の美少年』を買うことは金持ちのステータスになってしまった。

 

 そこでモンターク商会がはじめたのが、指名された高級男娼の派遣をよそおって暗殺者をお届けするという私刑の執行である。

 絹糸のようなブロンドも透明度の高いグリーンのひとみも、またとない高級品だ。思惑通りリタへの指名は殺到し、今日だけで四件も回らなければならない。

 エグゼクティブクラスを減らしすぎないようにと予約の一時停止がかからなければ、一体何人始末することになったのやら。

 

 選ばれた者のみが足を踏み入れることができるスイート・ルームのドアの前に降り立つと、トロウは子供の高さに身を屈めて銃を構える。スライドを引く。

 コンコンと控えめなノックを鳴らせばドアはすんなり解錠され、トロフィーを出迎えようとした好色な代議士がひとり、銃殺死体で転がるのだ。

 

 白いバスローブに鮮血が染みていく。大理石のフロアを汚す蜂の巣を見下ろしても、トロウは何の同情も覚えない。

 

「……ざまあみろ」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 車に戻る黒服に手を引かれ、リタはしきりにエレベーターホールを振り返っては名残惜しそうにヒルメを見上げた。

 

「ねえ、もうおしまい? ボクのお仕事は?」

 

 つないだ手をぐいぐいひっぱられてはしょうがない。ヒルメは開いた手でサングラスを取り払った。

 

「お前は囮役だ。ガキを買おうとする犯罪者をうまくおびき出してくれたろ?」

 

「まだなにもしてない……」

 

「いいんだよ。九つのガキに売春させたら犯罪だ」

 

「でも、人殺しだってそうでしょ? それなら、ぼくがしたって……」

 

 うつむくリタの言葉は、殺人か売春かどっちつかずのまま途切れてしまう。

 自分で殺すと言いたいのか、体を売っても構わないと言いたいのか。ヒルメは返答に窮して眉根を寄せた。

 

 押し黙るヒルメに、リタはさっきまでの静けさが噓のように言い募る。

 

「俺だってお仕事、できるのに。どうしてだめなの? ねぇ、ボク、役に立てない?」

 

 甘えるように足にまとわりつかれて思わずよろめく。密着されてはさすがに邪魔だ。蹴つまずいて共倒れよりはと、仕方なく抱き上げた。

 すんなりと目線が同じになって、リタの両腕がまきついてくる。

 ぎゅうとしがみつかれ、――ああ、こいつは()()()のプロだったと腑に落ちた。

 

(……そーゆうアレか……)

 

 内心でため息をつく。

 ヒューマンデブリたちと違って決して痩せてはいないのに、抱き心地は羽のように軽い。

 重心の位置を熟知し、抱かれ方を心得ているのだろう。九歳の子供と侮っていたが、さすが高級男娼だけあって熟練の業だ。

 

 車から降りるとき、気の利かないはずのトロウが自然にエスコートしていたのも、おそらくリタがそうさせていた。エレベーターホールでの緊張した面持ちも、不安定な一人称でヒルメに抱き上げさせたのも。

 知らず手玉に取られていたのかと頭が痛くなってくる。

 

「お前は充分すぎるほど仕事してるし、役に立ってるよ。売りがやりたきゃ十六になってからな」

 

 十六歳の誕生日さえ迎えればひとまず合法だ。クリュセでは取り締まり対象を外れる。

 できれば違う職業を選んでほしいが、本人がやりたいと言うならヒルメに止める権利はない。アルミリアに志願すればやらせてくれるだろう。傭兵はよくて男娼はだめ、というのは筋が通らない。

 

「じゅうろく……」とリタがつぶやく。

 

「七年後か。過ぎてみれば案外すぐかもな」

 

「……そんなに経ったら、きっともうかわいくない……」

 

「リタ、」

 

 薄い肩がふるえて、ぎゅうと強くしがみついてくる。

 

「いやだ」と繊細(かぼそ)い嘆きとともに、体重がかかってきた。

 

 いきなり重くなったように感じるのは取り繕うのをやめたからか、それともこれも同情を誘うための演技なのか。支えてやるだけのヒルメにはわからない。

 ただ子供特有の体温はあたたかく、九歳の少年の重みがそこにあった。

 

 静かすぎる地下駐車場の片隅で、ヒルメはただコンクリートの天井を見上げて、時間が過ぎるのを待つことしかできない。

 

 七年先の未来は果たして、十六歳になったリタが円満に売春できる世の中だろうか。

 過去七年間の激動を思えば、ヒルメには何とも言えない。リタ自身もあどけない美少年ではなくなっているだろう。背も伸びて、声は低くなって、引く手数多のクールビューティに育っているに違いない。

 二十代に達するころには、あのマクギリス・ファリドのような絶世の美男子が再臨する。

 

 ヒルメが記憶するマクギリスはMS(モビルスーツ)乗りであったし、火星出身とはいえセブンスターズに拾われた知識階級だった。

 きっと、リタとは似ても似つかぬ幼少期を過ごしたのだろう。

 養父とやらが彼をどう扱ったかペラペラと自慢げに暴露していたが、語られた過去はパイロットとしてのマクギリスとはまるで重ならない。

 阿頼耶識システムの恩恵なしに〈ガンダム・バルバトス〉と肩を並べた鮮紅色の〈グリムゲルデ〉、その腕前はあの三日月にも劣らなかった。

 

 鉄華団は民間警備会社だったから、ヒルメも例外なく強いパイロットに憧れた。三日月・オーガスのような。昭弘・アルトランドのような。

 子供時代は早く大きくなりたかった。オルガ・イツカのように。ノルバ・シノのように。だって、手足が短いとハンドルやペダルに届かないし、体重が軽ければ撃てる銃も限られる。体が小さいぶん一度に運べる荷物も少ない。

 もっと仕事を任せてほしい年少組はみんな、一日もはやく長い手足と強靭な筋肉がほしくて成長期を待ち遠しく思ったものだ。

 大人になりたいと考えたことこそなくても、子供のままいたいと願ったことはなかったから、ヒルメはうまく言葉を返せない。

 しがみついてくる指先が背中のヒゲをさぐるので「おい」と咎める。

 

「どうしてアルミリア様は俺もアラヤシキにしてくれないの?」

 

「そりゃあ、危険だからだろ。火星でできる適合手術は生存率が低いんだ」

 

「客もとらせてくれない」

 

「違法だからな。売春させたら捕まっちまう」

 

「…………っ」

 

 泣き出しそうな一拍の間があって、抱きつく手から力が抜ける。

 

「仕事がしたい、」と心細く揺らいだ声は、まるで帰り道をさがす迷子だ。

 

 なんだお前、母ちゃんが恋しいのかよ――と言いかけて、ヒルメは口をつぐんだ。

 

 母親に会いたい気持ちは、なんとなく不名誉なことだと思ったからだ。

 何がどう不名誉なのかはヒルメにもうまく説明できない。だが幼いころからヒルメはそういう空気の中で生きてきたし、顔も知らないよその女が何かしてくれるとも思えない。

 

 CGSの参番組は親と死に別れたり、捨てられたり売られたりした孤児の集まりだったが、幼年組の中には母親を探して泣くやつもいた。

 寂しがる姿を見て、同情を覚えることもあった。指差して笑うやつもいた。

一 緒になって笑ったことこそなかったが、ヒルメもそれが『格好悪い』ことだという認識は共有している。

 生きているかもわからない女に何を願うのかわからなかったから、ただ無駄な寂しさだと傍観していた。

 

 だが今なら、鉄華団が壊滅してすべて失った今だから、二度と戻れないあたたかな居場所を懐かしむ郷愁がわかる。

 

「お前にはお前の仕事があるんだ、リタ。客に指名されて、囮になってここまで来たろ? これ以上をやらせたら俺らが捕まっちまうから、十六になるまでは言うこと聞いててくれよ」

 

 な、とあやすように抱き直す。リタは頷かない。当然だろう、よくわかる。ヒルメだって、ユージンたち穏健派に反発してここにいるのだ。

 忌まわしい過去は捨てて前向きに生きろと諭されたとき、腹の底から湧き上がるような嫌悪感があった。戦闘職になんか就くな、家族のためにならない――と再三説教されるのが、死にたいくらい苦痛だった。

 あんたたちにとって、これまで生きてきた人生は『終わったこと』なのかと。鉄華団の栄光も忘れたい過去なのかと。オルガ・イツカが目指した『本当の居場所』にたどり着くより、打ちのめされた昨日を捨て、強権の家畜に成り下がって生きる明日が幸福だなんて思えない。

 居場所を守って全滅したってよかった。一度死んだことにして、普遍的なIDに偽装してやっと生存を赦免される世界に残されるより、ずっと満足に死ねただろう。

 CGSのころから、まともな死に方ができるなんて誰も思っていなかったはずだ。

 

『本当の居場所』にたどり着けば、家族みんなが飢えることのない食事があるはずだった。みんな交代でゆっくり眠れるはずだった。

 寝ている間に死ぬことも、殺されることもない。夜が明ければ全員が生きて朝を迎えられるような、平穏な日々があると信じていた。

 威張り散らした大人に殴られたりしない、海賊やギャラルホルンの営業妨害もない。

 そんなあたたかい場所が世界のどこかにあるのだと、夢を見て、夢敗れた。

 

 生まれ変わって手に入れた新しいIDなら命の危険はともなわないし、学校にも通える。

 少年兵とは生まれてくる前に殺されておくべき悪なのだと認めて、思考を捨て、魂を売り払って傭兵業などやめてしまえばよかったのだろう。

 それがしあわせだと『大人』は言うのだろう。

 

 受け入れろ、お前のために言ってるんだと気遣いの顔をされる不条理を身にしみているヒルメは、ただ、リタに不自由を強いているのは俺たちのせいだと責任を背負ってみせることしかできない。

 俺たちのために過去を捨ててくれと言っているのだ。

 単なるエゴの押し付けだ。

 だって、自信を持ってやり遂げられる仕事を奪われたら、自分自身の価値が揺らぐ。無価値になる。何ひとつ成し遂げられないような、無力感という悪夢が迫ってくる。

 

 何もしなくても生存してていいだなんて、そんな理不尽なルールは知らない。

 

 働いて、よくやったと褒めてもらうのなら納得できる。だが、何の見返りもなしに衣食住を保証されるのは座りが悪い。

 下心のない愛情なんて注がれたことがないから、上手に飲み込むことができない。

 

〈マーナガルム隊〉の少年兵たちはだから、みなアルミリアの愛情にひどく懐疑的だ。

 アルミリアを慕っているリタでさえ、無償の愛ではなく、仕事を成功させた対価としてアルミリアに認めてほしいと思っている。

 

 だが思慮深いお姫様は、多感な年ごろの少年を抱きしめるような不用意な真似はしないのだろう。

 母親か父親か、誰か大人の腕に抱きしめてほしいという欲求を売春で満たしてきたリタを、アルミリアでは救ってやれない。

 ペド野郎の性欲のほうがその場しのぎの救済になるだけマシだという現状は何とも胸糞悪いが、この世界でリタは『稀少な金髪碧眼の美少年』という商品でしかない。長らくモノ扱いされてきたせいで、使えなくなったら捨てられてしまうと怯えている。

 

 人間扱いされて育つ()()()()()()だったら、こんなふうに泣かずに済んだのだろうか。

 

 ヒルメだって誰かに抱きしめてもらった記憶はないし、それが必要だとも思わない。

 だが、いつか、もしも父親になるようなことがあったなら、寂しくないように抱きしめてやりたい。

 そう考えたとき、リタの体温が腕に馴染んだ気がした。

 

「おやすみ、リタ」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

「そうしてると親子みたいだな」

 

 吞気にのたまいやがったのは、ひと仕事終えて戻ってきたトロウである。

 泣き疲れたのかヒルメの腕の中で寝入ってしまったリタは、起きているときよりよほど子供らしく見えた。

 人形めいた美貌より、こっちのほうがよほど少年らしい、が。

 

「せめて『兄弟』だろ……」

 

 さすがに親子はない。

 東洋人のトロウに比べればヒルメは長身で体格もよく、年長に見える。にしてもまだ十七だ。九歳のガキをこさえる甲斐性はない。(エンビを加えてもヒルメが一番長身でフケ顔、トロウが一番小柄で童顔なのは事実である)

 

 悪態をさっくりスルーし、運転を代わってやると申し出たトロウは、後部座席のドアを開け放ってから運転席に乗り込んだ。

 返り血を浴びたパーカーは丸めて助手席の足許へ放り込む。

 

「やっぱ緊張してたんだよな。あのクソペド野郎、もう一発ぶちこんどきゃよかったぜ」

 

「……いや、」

 

 そうじゃない、と否定しかけた言葉が途切れる。

 上手く説明できないが、トロウの義憤は的を外れている。

 

 

(リタは、こいつは俺らと同類だ)

 

 

 無償の愛より『対価』がほしい、〈マーナガルム隊〉の少年兵と同種の子供だ。

 自分自身にできることを熟知し、仕事を必要としている。ヒューマンデブリの少年兵たちと同じだ。

 

 戦闘技術があるから、戦って役に立ちたい。役に立てば、報酬として食事は与えられる。役に立つから睡眠をとってもいいし、服を着替えてもいい。

 だって、役立たずは始末されるものだから。

 役に立っていない以上、殺されたってしょうがないから。

 新しい仕事を覚えることに消極的なのも()()を恐れているせいだ。失敗は殺される正当な理由になる。間違えることは、自業自得の死を意味する。

 戦う力があるのだから、戦って役に立ちたい。――ヒューマンデブリたちに共通する闘志は、ヒルメにも共感できるものだった。

 

 少年兵にとっての戦いが、リタにとっては売りなのだろう。

 仕事内容に対して一定の矜持を持ち、嫌だなんて思っちゃいない。

 

 たとえ痛みをともなっても、役立つ技能を手放せない。

 阿頼耶識と同じだ。体に異物を埋め込む行為は危険で、死亡リスクも高い。手荒にされて失敗されて死ぬかもしれない。生ゴミとして捨てられても、何の保証もしてもらえない。絶対安全圏からふるわれる暴力から生還できる確率は高くない。

 それでも、それで働ける。生きていく糧を得られる。

 必要とされていると実感できる。

 

 阿頼耶識の適合手術がなくなればいいと思う一方で、生きる術を失うのはおそろしかった。

 背中のヒゲのせいで『宇宙ネズミ』と蔑まれても、心身に根を張った恩恵なしに生きる方法がもうわからない。

 MS(モビルスーツ)を自在に駆って戦える力のためなら、過去の激痛もリスクも恐怖も、もはや瑣末ごとなのだ。

 死んだっていい。未来ではなく『今』を戦い抜くための自信が欲しい。

 

 リタも、同じ思いなのだろう。

 

 黒塗りのセダンは次なる目的地へと走り出し、予定時刻になればリタを起こさなくてはならない。

 そのとき何を言うべきか、ヒルメは考えあぐねていた。

 トロウは汚い大人の支配から弟分を庇護したいが、リタは変態野郎だろうが何だろうが抱きしめてくれるなら何でもいいのだ。

 大人など信じていない少年兵と、愛情を求める無力な子供。帰れる場所を持たないという共通点だけで行動をともにしているものの、埋めようもない溝がそこにはある。

 

(俺は、……俺はただ)

 

 自分自身を見失いそうな家族をほうっておけなかった。鉄華団という居場所を失い、戦う生き方を全否定され、未来を奪われた同胞が心配だっただけだ。

 何を言えばいいのだろうと自問する。誰に話せば救えるのだろう。

 窓の外にも鏡の中にも、正しい答えは見当たらない。




【オリキャラ設定】

□リタ(9)
 モンターク商会に買い取られた金髪碧眼の美少年。外見は幼少期のマクギリスそっくりだが、中身は似ても似つかない。

(慰霊碑の『ELUGA』を回収したかった話)


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006 家族の肖像

 メリディアニの道は今もガタついている。

 かつて〈ガンダム・フラウロス〉のキャノンが突き崩したティウ峡谷を左手に見つつ、ヤマギ・ギルマトンはクリュセへの帰路を走っていた。

 開け放った窓を吹き抜けていくかわいた風が、肩口まで伸びたブロンドをなぶる。

 裸足でアクセルペダルを踏むなんて、同乗者がいたら遠慮したところだが、さいわい車内にはヤマギひとりである。

 

 クリュセから南へ約二時間半、隣都市ノアキスとの中間ほどにあるメリディアニ採掘場からの帰り道だ。作業用MW(モビルワーカー)の定期メンテナンスのため、カッサパファクトリーから技術者五名と営業マン一名が派遣されていた。

 日帰り出張ということで、往路はこのジープめいた()()の小型トラックに全員で乗り合わせたのだが……、道中は舗装が行き届いておらず、時おり飛び跳ねるような揺れが突き上げてくる。

 帰りは飛行機がいい! とザックが言い出し、俺も俺もと乗っかって、ヤマギひとりになったのだ。

 社用車もコンテナに積んでしまえば――という提案に、ヤマギは迷わず首を横に振った。

 

 あのころシムド峡谷、ティウ峡谷、アレス峡谷が連なっていたここは、七年前にMA(モビルアーマー)ハシュマルが侵攻した地である。

 ヤマギが愛した四代目〈流星号〉が初陣を飾った場所だ。

 今は亡きノルバ・シノを偲んでひとりで走るのも悪くないと思い、ザックたちとは一旦別れてごついタイヤのトラックを駆っている。

 車高が高いせいか揺れもなかなか派手で、二人乗りしたコクピットを思い出す。

 

 淡い、初恋の記憶だった。

 生還したらふたりで飲みにいくという約束が果たされることはなかったが、うつくしい思い出が今のヤマギを支えている。

 彼を吹っ切るのは諦めて、生涯独り身を貫こうと決めてからは存外すんなりと今の生活に馴染むことができた。

 いつまでも引きずっていられない。仕事に熱中していたほうが自分らしく生きられる気がした。

 

(……あ、昼飯)

 

 時計を見れば十三時半をまわっている。

 すっかり忘れていたが、もともと昼近くまでかかる予定で、あちらでランチを食べてくるよう言いつけられていたのだった。

 ザックたち一行は空港でどこかの店に入っただろう。

 それじゃあ俺はどうしようかと思考する。健康管理を怠ると、我らがカッサパファクトリーのCEOメリビット・ステープルトン女史からお小言を食らってしまうのだ。

 

(まずったな……このあたりで領収書切ってくれそうな飲食店っていったら、)

 

 助手席に放置していたタブレットを拾い、地図を確認するが、まだしばらく走らないとクリュセの影すら見えてこない。

 

「ハロ、ナビ出してくれる?」

 

『ヨッシャマカセロ! ヨッシャマカセロ!』

 

 ダッシュボードでボール状のAIがぴょこんと飛び跳ね、カーナビゲーションシステムが起動する。

 モニタに拡大された地図によれば、ここから北東へいくばくの距離に燃料(バイオエタノール)補給スタンドと小さな商店街があるという。

 

「サイドニア・ショッピングセンター……ここから二十分ちょいか」

 

 クリュセ到着には遠回りでも、なかなか悪くない距離だ。

 名前だけご立派な平屋の商店街だが、(タントテンポ)傘下のファストフード店も入っているという。大型チェーンなら経理に提出しても大丈夫そうな領収書が手に入るだろう。

 経路を表示させると、ヤマギは踏み固められただけの獣道へとハンドルを切った。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 落書きだらけのシャッター商店街の中、目当ての店はすぐに見つかった。

 ショッピングセンターというよりはバラック小屋の集合体で、営業している店自体がわずかだったのだ。

 がらがらの駐車場はまるで難民キャンプで、都市部から流れてきたのだろう浮浪者がそこかしこでブランケットにくるまっている。

 クリュセから徒歩でここまで来たのなら、早くて一昼夜はかかっただろう。みな砂まみれの頭をしている。

 

 ヤマギは念のため窓をロックしてから駐車し、車上警備をハロに任せて車を降りた。

 テイクアウトにしよう、と誓う。

 このようすでは治安も衛生状態もあまりよくなさそうだ。目当ては『昼食抜いていません』と上司に申請するためのデジタルスタンプひとつなので、食べられそうになければ捨ててしまったっていい。

 

 入店したファストフード・チェーンは、地球圏から圏外圏のさまざまなコロニーに出店するだけあって、さすがにまともな雰囲気だった。

 奥から店員のシュプレヒコールが「いらっしゃいませ」と響いてくる。

 しかし、ヤマギの視線はひとつのテーブルに釘付けになって動かない。

 青年がひとりでホットドッグをかじっているそばには、ナゲットの箱がふたつ。

 

「……ナゲットが好きだったなんて初めて知った」

 

 歩み寄れば、じろりと鮮やかなグリーンのひとみが見上げる。

 ライド。呼びたい名前は喉で錆びついて閊えてしまった。

 鉤爪のような赤いまつげが無感動にまたたいて、ヤマギの呼吸をぎりぎりひっかく。

 

「いや、別に好きじゃねえけど」

 

「二年も連絡寄越さないで、何してたのさ……」

 

「さあね」

 

 ライドは表情を変えないまま、残ったホットドッグを口に押し込むとボトルの水で流し込んでしまう。

 ナゲットの箱は袋に詰めて立ち上がった。

 ここから去るつもりなのだと即座に察して、ヤマギはとっさにライドの袖をつかんだ。

 

「待って!」

 

 いつの間にかずいぶん高くなった目線に見下ろされても、ヤマギにとってライドは弟のようなものだ。

 両の目で見据える。我知らず脅すような声が出た。

 

「今何してるのか、洗いざらい聞かせて。この二年間のこと全部だ」

 

 俺たちが一体どれだけ探しまわったと思っているんだ――と、言外に圧力をかけたが、ライドは冷めたひとみで動じない。

 持ち上がった親指が出口を指し示す。

 

「……歩きながらでよければ?」

 

 ファストフード店にいたのは、逃走経路を確保しておくためだったのだろう。

 先に会計を済ませておけば、いつでも店を出て行ける。

 

「わかった」とヤマギは諦めて、ライドに続いて店を出た。

 

 

 

 

 ふたり、連れ立ってシャッター商店街を歩く。

 バラック小屋にも、駐車場や公衆トイレにまで人が住みついているようだった。

 ヤマギが淡いピンクのつなぎ姿だからか下世話な視線も集まったが、男二人組だとわかれば過半数が興味を失っていった。

 車中のハロを連れてきていればライドが見つかったと密告もできたろうに、何を血迷ったか今のヤマギは通信端末すら持っていない。

 

 ライドは無言のまま角を曲がると、路地にいた物乞い風の少年に手にしていた袋を渡してしまった。

 ナゲットはそのために購入していたのかと腑に落ちる。昔からライドは、年下の子供たちのためにお菓子をとっておいていた。

 変わってないんだなと懐かしさが押し寄せるが、今は昔の火星ではない。

 

「よくないよ、そうゆうの」と、口先だけだがたしなめる。

 

 その場しのぎの施しは、彼らが福祉の恩恵を受けにくくなるだけだ。

 小規模な商店、飲食店がつらつら並ぶばかりのサイドニアで子供が就ける仕事はないだろうし、ここには学校もない。

 もとより峡谷と砂漠の合間、燃料の補給にのみ立ち寄るような寂れたエリアである。採掘場のあるメリディアニまで行けば小学校がある――が、さっき見てきたあそこは労働者の子供たちが時間をつぶす学童保育所のような雰囲気だった。

 ちゃんと勉強するなら親許を離れてノアキスにある寄宿学校へ入るのが主流らしい。

 

 ノアキスといえば〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタインが演説した〈ノアキスの七月会議〉が行なわれた伝説の都市でもあり、連合議長ゆかりの地だ。

 クリュセと同様に社会福祉が行き届いている。

 

 ここ、サイドニアまで来ればノアキスよりクリュセのほうが近いだろう。近年では実家から通わせる家庭が増えているクリュセでも、小学校から高校まで学生寮が完備されている。

 公立校なら制服、給食、宿舎はすべて税金で賄われるし、学費も無料だ。卒業後も就労支援も受けられる。

 

「それじゃ、ヤマギがクリュセまで連れてってやれば?」

 

「え―― 」

 

「食い物やるのがよくないってんなら、相応の場所まで連れてきゃいいじゃん。どうせ車で来てんだろ?」

 

 こんな辺鄙な場所で路上生活を送るストリートチルドレンにまで行政の保護が行き届くのは明日か、明後日か。それまで生きているためには食糧が必要だろう。

 飢えないための窃盗や略奪に手を染めさせないために、食べ物を渡してやって何が悪い?

 

 緑色の眼光に見据えられて、ヤマギは口をつぐんだ。

 ……確かに正論だ。やらない善より、やる偽善のほうがその場をしのげるだけマシだろう。

 自分で救わないなら、救済の手を見咎めるのは筋が通らない。

 

「それもそうだな……。でも、俺はライドを連れて帰りたいんだ」

 

 立ち止まる。鋭くとがったライドのひとみをまっすぐ見返し、ヤマギは拳を握った。

 

「いい加減こたえてよ。この二年間、ライドは何をしてたの?」

 

「フツーに仕事してたよ」

 

「どんな仕事?」

 

「守秘義務がある仕事だ。それ以上は言わない」

 

 沈黙が降りる。重たい空気を砂混じりのつむじ風がかき乱し、ライドの赤毛を揺らした。

 ヤマギは舞い上がる自身のブロンドをかきあげてひとつに束ねた。視界が開ける。

 

 

「もしかしてユージンのこと、怒ってるの」

 

 

 何故そんなことを聞いてしまったのかはヤマギ自身にもわからない。

 だが過去、ライドとユージンがひどい喧嘩をしたことは変えようもない事実なのだ。

 鉄華団がなくなり、残党はクーデリアのもとで平穏に暮らすユージン・セブンスタークら『穏健派』、そしてライドを筆頭にオルガ・イツカを信奉する『強硬派』に分裂した。

 なぜそうなったのかは、……誰にもわからない。

 ヤマギの中では『就職組』と『学校組』という枠組みのほうがわかりやすかったし、そのうちの誰がユージンにつき、誰がライドについていたのかも把握していない。

 カッサパファクトリーの面々はどちらの味方でもなかったし、できればみんな前向きに生きてほしいと思っていた。

 それでも穏健派と強硬派の亀裂は胸にわだかまり、ずっと影を落としていた。

 

 そんなときだ、ライドたちが忽然と消えてしまったのは。

 おそらくノブリス・ゴルドンが火星を訪れるという情報が入ってきたことが引き金だった。強硬派(ライド)側だった年少組が神隠しのように失踪、ノブリスの銃殺死体が見つかったときにはもう足取りひとつつかめなかった。

 

 何故そうなる前に言葉を交わしておかなかったのかとヤマギはひどく後悔した。

 ライドとユージンだって膝をつき合わせて話し合えば、何か他の道を模索できたろうにと。

 先月だったか、ユージンが街中でトドを発見し、モンターク商会のオフィスを訪れてライドについて尋ねたと噂に聞いた。きっとライドたちを探し続けていたのだろう。副団長としてよりも、家族として。

 弟分たちの身をずっと案じていた。

 

「ユージンを責めないでやってよ。団長に代わって手本を示さなきゃ、みんなが安心してしあわせになれないんだからさ」

 

「誰も責めちゃいねえよ。あの人はそういう役回りなんだろ」

 

 むしろ諦めている。ライドのため息は重く、双眸が鋭さを増す。「けど、」とつないだ声は、獣が唸るように低い。

 

「しあわせになんかもうなれねぇやつらだっている。失いすぎて、もう何も残ってなくて苦しんでるやつらがいる。そいつらにだって味方が必要だ。誰かが居場所になってやらなくちゃいけねえんだ」

 

 独白のように、慟哭のように、ライドの言葉が突き刺さる。第二のオルガ・イツカになろうとするような力強さに、ヤマギは懐かしく目を細めた。

 

「そうだね」と肯定する。「……まだ難しいのかもしれないけど。いつかはみんな、前を向いて生きていけたらいいよね」

 

 こぼれたのは、笑うに笑えないような、曖昧な嘆息だけだった。

 だって、目的を持って動いているならヤマギが何を言ったってライドは聞かない。

 

「ヤマギには、俺が前を向いてないように見えるのか?」

 

「俺にはそう見えるよ。あのころから変われずに、立ち止まってるように見える。……でも、いつかは一緒に前に進めるはずだから。俺たちはずっと信じて待ってる。帰ってもいいと思えるようになったらでいいからさ」

 

 帰っておいでよ。――差し伸べた手は、パンとかわいた音をたてて弾かれた。

 

 

「お断りだ!」

 

 

 手ひどく振り払われた手が跳ね返ってきて、ヤマギはアイスブルーのひとみを大きく見開いた。

 ひゅっと喉が勝手に息を呑む。

 

「なんだよ変われてないって、進んでないって!! あんたらだって()なんか向いてねえじゃねえか。済んだ過去だったって諦めて、失ったものから目を背けて、()を向いて生きるなんて俺はごめんだ!」

 

「ライド、 」

 

「いっぺん死ななきゃまともな仕事にも就けなかった、学校にも行けなかった。だけど別人になったから働ける、学校に行ける? しあわせになれる? それのどこが前向きなんだよ……!!」

 

 泣き出しそうに歪んで揺らぐ双眸が、迷子のようにさまよう。グリーンの眼光に突き放され、足許が揺らぐ感覚がヤマギを襲った。

 どこを見ているのか、指摘されてわからなくなる。

『前』はどっちで、『下』はどっちで、そこが『過去』の先にある『未来』かどうか、――敢えて考えないようにしていた。

 だって。過去にはシノがいて、鉄華団があった。でも未来にシノはいない。鉄華団もなくなった。IDを改竄して名前が変わり、苗字も変わり、ヤマギもギルマトンもノルバもシノもない人生に放り出された。

 

 カッサパファクトリーのチーフメカニックで、ブロンドなのにどうして『ヤマギ』と東洋風のあだ名で呼ばれているのかと、出張先では意外そうな顔をされることもある。

 ライドだってそうだ。ライド・マッスは死んで、仲間内で『ライド』と呼称されるだけの別人に生まれ変わった。

 

「死にきれなかったやつらだって大勢いる。別人になんかなれない連中が行き場を失って苦しんでる。だから俺はそいつらの側につく。……オルガ団長なら、きっとそうする」

 

「わかった。でも、ライド、もっと俺たちを頼ってよ。何の相談もなしに突然いなくなって、みんなほんとに心配してる。俺たちは、家族だろ」

 

「相談すれば復讐は何も生まない、終わったことは忘れろって諭された。帰れる場所も、逃げる場所も、生きる場所もどこにもなかった!」

 

 学習しただけだ。無駄だったから、見切りをつけた。

 

「……ヤマギは副団長の側なんだろ? 俺らが何言ったって『大人の都合に合わせろ』って説教されるんじゃやってられねーって伝えといてくれよ」

 

 おどけたふうに肩をすくめたライドは、そのまま歩を早めた。

 

「待てよライド!」と路地に消えそうになる背中を呼び止め、ヤマギは絞り出すように問う。「……それじゃあ、復讐は何か生みだせると思う?」

 

 ライドの返答はシンプルだ。

 

 

「雇用を生んでるよ」

 

 

 皮肉げに笑んで、復讐者はひらりと手を振る。

 

「シノさんの仇も俺らでとってくるからさ。そっちはそっちでしあわせになってなよ」

 

「ライド!! 待っ――」

 

 追いかけて駆け込もうとした路地に、しかし、ライドの姿はもうなかった。

 まぼろしのように消えた弟分は、きっと土地勘があったのだろう。もう二度と会えないような予感とともに、喪失感が押し寄せてくる。

 

 ああ、と嘆きが重たくこぼれた。

 

「……領収書、もらって帰らないと」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 黄昏のころ、モンターク邸に灯りがともる。

 館の女主人から「夕食はみんなで」と言い含められていたので、ライドも薄暗くなるころにはロータリーまで帰り着いていた。

 駐車場のトドに煙草をせびってとりあえず一本吸ってから、豪奢な正面玄関をくぐる。

 

 カズマのメールによれば、アルフレッド——〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機は夕方着の貨物便で降下するとあった。もちろんエンビも一緒だ。地上へ降下する貨物ブロックは必ずしも気密エリアとは限らないので、基本的にパイロットスーツのまま、コクピットを閉じてモンターク邸までじっとしているのが常である。

 この時間ならトロウとヒルメも暗殺任務を終えて戻ってきているだろう。

 

 大型貨物が発着する搬入口までてくてく歩けば、MS(モビルスーツ)用コンテナの入り口で立ち尽くしているアルミリアの背中を見つけた。

 

「……お姫さん?」

 

 おろおろと不安げなようすで、内部をうかがっては何事か迷っている。

「どうしました」と声をかけ、ひょいとアルミリアの肩ごしにコンテナをのぞき込むと、――機体の膝許で団子状になって眠っている三人組の姿があった。

 

「ライドさん!」とアルミリアがほっとした声を出す。「おかえりなさい」と帰還を歓迎してから、両手の指先をくみあわせた。

 

 床にごっちゃりと折り重なって眠っているエンビたちの姿に、驚いたのだろう。

 

「ベッドルームを用意しておいたはずなのだけど……わたし、何か間違えたかしら」

 

「いや、エンビが生きて帰ってきたからじゃないっすかね」

 

 今朝QCCSで届いたエンビのメールに『眠い』とあったから、寝落ちただけだろう。

 MSのそばは年中あたたかいので、格納庫といえば昔から絶好の昼寝スポットだった。

 さすがにモンターク邸は空調設備が整っているし、まさか三人まとめてコンテナの床で寝こけるとは思わなかったにしても、警戒心や責任感の強さゆえ不眠症がちのエンビが再会と同時に眠ってしまったのなら、それはそれでいいことだ。

 

〈ハーティ小隊〉を率いるエンビは頭が回るが、そのぶん精神的に追い詰められることも多い。諜報は気を遣うし、単独任務ではおちおち眠ってもいられなかったに違いない。

 身を寄せ合う姿は、子供のころから何も変わっていない。十七になってもまだまだガキだ。

 せめて安心して眠れる場所があってよかったと、ライドは目を細めた。

 

「……すいませんね、男同士でベタベタと。気持ち悪いでしょう」

 

「どうして? あなたたちは家族なのでしょう?」

 

「は――?」

 

 きょとんと目をまたたかせたアルミリアに、ライドのほうが面喰らった。

 齢一桁の子供ならまだしも、図体のでかい男同士で肩を寄せ合って眠るのは『普通じゃない』にあたるはずではなかったか。

 

 しかしアルミリアの生きてきた世界もまた、火星とも地球とも異なる独自の文化でできていたらしい。

 

「眠るときには、お父様とお母様から『おやすみ』のキスをいただくの。もちろんお兄様からも。お父様やお兄様が任務から帰っていらしたときにも『おかえりなさい』のハグをさしあげるわ。家族同士ならとても自然なことよ」

 

 祈るように記憶を手繰るアルミリアのまなうらには、あたたかな家族の抱擁がある。

 母から子へ、父から子へ。兄弟同士でも姉妹同士でも、親愛の情を示すスキンシップは何も珍しいことではない。

 アルミリアにはガエリオ以外の兄はいないし、弟もいないが、兄弟姉妹が何人いても同じようにハグをしたし、同じようにキスをしただろう。

 

 父ガルスは軍人であったし、兄ガエリオもまた軍人だった。どんな任務でも在宅の家族が出迎え、無事の帰還を喜んだ。兄の友人であったマクギリスには誰もハグしないから、アルミリアが率先して家族のぬくもりを分けようとした。

 お仕事から帰宅した家族を笑顔で出迎え、再会を喜び合うのは当たり前の日常のはず。それなら、なぜ誰もマクギリスに『無事で帰ってきてくれてうれしい』と伝えないのだろうと、幼心に疑問に思ったのだ。

 それが政略結婚の引き金になったのだとしても、それでよかった。

 

「感謝します、神様。彼らをふたたび会わせてくれて」

 

 しあわせだったころのボードウィン家の記憶は、あたたかな疼痛となってアルミリアの胸を締めつける。

〈ハーティ小隊〉の束の間の休息は、たったの三日。四日後には月へ向かうアルミリアの護衛のため、MSに乗り込むだろう。

 隊長のエンビは諜報任務をこなすためにアーブラウの訛りを覚え、言葉の響きを変えて、自分自身を変質させていく。ただ諜報向きの人種であっただけなのに、単独で遠方に送り出す仕事を任せ続けた。

 

 どんな家族ももう二度とばらばらにしたくないと心から願うのに、肌の色の異なる三人組は、一緒にいるだけで誰かの記憶に残ってしまう。ライドの赤毛もそうだ。物珍しさはおのずと人の目を集めてしまう。

 彼らを引き離した世界は、何度でも彼らをずたずたにして今ある平和を保とうとする。

 

「カミサマ――ね」

 

 ライドが独り言ちるそばで、アルミリアは祈る。

 どうか夢見る今だけでも、彼らがしあわせであるように。

 

 格納庫の床に、影が長く伸びている。アルミリアはみずからの影を踏んで、彼らの領域に踏み込むことはできないだろう。あたたかな眠りから彼らを呼び覚ましてしまう。

 フロアは硬く冷たいだろうに、狼の群れは静かに寝息をたてる。

 家族の肖像の瓦礫のように、ただ安らかに。




【NGシーン】

「ここへブランケットを持ってきたらいいのかしら?」
「いや、近づいたら3人同時にカッ! って開眼するんでやめたほうがいいですよ」


軽くホラー。


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P.D.329: クレイジー・ティー・パーティ

[ Interlude ]


P.D.329----------------

 

 

 

 

 常春の〈ヴィーンゴールヴ〉は、いつも緑にあふれている。

 地下祭壇には英雄たちのガンダムフレームが眠り、下層階にはエイハブ・リアクターの製造施設があるのだ。過不足ない熱を発生させる装置が周辺一帯を適温に保っている。外海に浮かぶギャラルホルン地球本部、メガフロート〈ヴィーンゴールヴ〉は夏の暑さを知らず、冬の寒さも知らない。

 とはいえ遠洋のただなかだけあって潮風とは切っても切れない関係にある。髪を乱す強風は嫌われもので、外を出歩く人影は稀であった。太陽光を独占する表層階にはセブンスターズ各家の邸宅があるため、不用意に出歩くのは不敬にあたるという説もあるにはある。

 セブンスターズの子女で温室の外を好んだのは、イシュー家最後の娘カルタくらいのものだろう。

 カルタ・イシュー嬢は、幼少のころよりたいそうお転婆で、自由に外を駆け回るのが大好きだった。

 父上イシュー公は困り果てた顔をしながらも、庭木を枝の太い樹木に植え替えさせた。執事や庭師が気を利かせて薔薇という薔薇から棘を削ぎ、芝生は厚くやわらかに整えた。イシュー家の大切な跡取りは女の子、お怪我をされてはたいへんだと、みなでお転婆娘を見守ったのだ。

 

 その芝生は、今はふたたび短く刈りそろえられ、スプリンクラーの惜しみない恩恵をきらきらと注がれている。

 もう誰も踏むことのなくなった青さが、イシュー家の滅亡を物語るようだった。

 合議制が廃止されたことで、セブンスターズが集まる会議室につながるこの庭園もまた、惰性で維持される飾りものにすぎない。

 

 露に濡れる緑の中に、今日は珍しく一対の溝が刻まれていた。肩幅ほどの轍である。目線で追いかければ、たどり着いたその先には幾何学的なモニュメント。一体何を象ったのかもわからない無機質な鉄塊に腰掛けて、ドレスの裾を重たく濡らしたアルミリア・ボードウィンがひとりで紅茶を楽しんでいる。

 緑を踏みにじってワゴンを押したのだろう。スプリンクラーに構わず庭園に分け入る彼女の姿は、〈マクギリス・ファリド事件〉収束後からときおり見かけるようになった。

 あるときは各家のメイドを募り、あるときはたったひとりで、アルミリアは孤独なティータイムを謳歌する。あるときは格納庫で、またあるときは滑走路で。

 

 神出鬼没のティーパーティは()を招こうと待ち構えていた。

 

 ギャラルホルン()()代表、ラスタル・エリオン公。逆賊を討伐した月外縁軌道統合艦隊アリアンロッドの総司令官で、イズナリオ・ファリド公の汚職、逆賊マクギリス・ファリドの反乱のせいで失墜しかけたギャラルホルンの権威を見事回復してみせた時の指導者。

 必然に招かれ、鷹揚な声が降る。

 

「これは酔狂なお嬢さんだ」

 

「ようこそ、ラスタル様。お待ちしていましたわ」

 

 お茶会には絶好のお日和でしょう? ――アルミリアはにっこり微笑して、砂時計を手に取った。そっと寝かせてからティーセットを並べる。

 

「方々も、どうかゆっくりしていらして。今お茶をお淹れしますから」

 

 カップとソーサー、ティースプーンを部下のぶんもあわせて三つ。ワゴン下部ではヒーターがポットをあたためながら、廃棄熱で芝生までも痛めつけている。

 マクギリスとの結婚生活のために、アルミリアはお茶を淹れる練習を重ねた。おいしいと褒めてくれる彼の気遣いだって嬉しかったけれど、ふたりでおいしいと笑い合えるくらい上手になりたかったのだ。

 朝起きて楽しみたい紅茶の香り。朝食に合う風味。十時のお茶にはミルク・ファーストのやさしい甘みを。きっと帰ってくるマクギリスを待つ間も、不安を消し去れるように練習を続けた。

 しかし夢見た生活は戻らず、おいしいよと喜んでくれるはずだった夫は戦場で亡くなった。

 もしも生きて帰ってきてくれたなら、ともに罪を償う覚悟があったのに。いつかふたりでティータイムを楽しめる日がくるまで寄り添うつもりで待っていたのに。

 逆賊にお茶を振る舞うことなどできるはずもない。

 ミトンでポットをつかみ、赤々と夕焼けを溶かしたような水色(すいしょく)をカップに注ぐ。煎じられた芳醇な香りは、しかし潮風によって霧散させられる。

 温室で楽しめばいいものを、もったいないことをするものだ――と集まった憐れみの視線は、アルミリアにも紅茶にも向けられていた。

 

「紅茶だけとは、ずいぶん質素な茶会だな。何か持ってこさせよう。甘い菓子(スイーツ)でも甘くない菓子(セイボリー)でも、欲しいものはないか?」

 

 その言葉を境に、柔和に笑んでいたアルミリアの中から人形のような無表情が顔をだした。

 三つのまるい水面が完成してから、無感動な青いひとみが仇敵を見上げる。

 

 

 

「バエルを」

 

 

 

「……失礼。聞き違いがあったようだ」

 

「〈ガンダム・バエル〉と〈ヴァナルガンド〉をお返しいただきたいのです」

 

 尖れない双眸でラスタルを見つめて、アルミリアは両手を胸の前で組み合わせた。祈りではなく強がりだ。

 ギャラルホルンの創設者アグニカ・カイエルの搭乗機であったガンダムフレーム一号機〈ガンダム・バエル〉を。それからファリド家のハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉を返してほしい。

 いとけない乙女の面差しにマクギリス・ファリドの影を見出し、ラスタルの背後では部下ふたりが息を呑む。

 幼妻は強く強い意志を秘めてラスタルを見つめ、逸らさない。

 

「アルミリア嬢。申し訳ないが、あれらはギャラルホルンのものだ」

 

「〈ガンダム・アウナス〉は競売にかけられたではないですか」

 

「あれは『取り潰し』の伝統に則ったまで。今後そのような風習はなくしていきたいものだがな」

 

「では、わたくしが買い取ることは?」

 

「買う?」

 

 ラスタルが片眉をつりあげる。臆することなくアルミリアは、白くなる指先をほどいてみせた。いっそう落ち着いた声音で微笑する。

 

「我々〈革命軍〉の内部偵察によれば、ガラン・モッサなる傭兵が永らくラスタル様をお支えしていたのだとか。彼は士官学校時代から御家ぐるみの親交のあった、あなたの旧友なのでしょう? 大切なご友人を亡くされたこと、後れ馳せながらお悔やみ申し上げますわ」

 

「これはよくご存じだ」

 

「メイドたちはおしゃべりですもの」

 

 セブンスターズの家々のメイドたちとも紅茶を囲んだ。ファリド家のメイドとも、もちろんエリオン家のメイドとも。整備士や研究者もティー・パーティに巻き込んだ。

 みなアルミリアには同情的で、逆賊マクギリス・ファリドに振り回された被害者だと思っていた。十八歳も年上の、しかもファリド家の血筋でもない元男娼に嫁がされた哀れな少女として接してきた。生まれの卑しい男に嫁いだせいで頭がおかしくなってしまったのだと思い込んで、誰も彼も実にあっさり口をすべらせてくれた。

 本当に、本当におかしくなりそうだった。

 マクギリスのせいではなく、()()()()()わかるはずがない、()()()()()向き合う必要はないと軽んじる人々の冷たさのせいで。無自覚な悪意で満ちた世界に、心が殺されていくようだった。

 

〈マクギリス・ファリド事件〉と名付けられたクーデターのあと、結婚はなかったことにされ、離婚もしないままアルミリアはボードウィン姓に出戻った。とりまく環境は大きくは変わらない。アルミリアに仕えるメイドは、ずっとともにあるからだ。

 兄ガエリオが生還し、ファリド家に嫁ぐ以前の生活が戻ってきた。

 大好きだった兄が生きていたころの生活に戻ったというのに、ちっとも嬉しくなかった。

 

 お役目を果たし、生きて帰ってきた兄を、父はもう抱きしめなかった。

 

 いつもなら『おかえりなさい』のハグをするのに、それができなかった。ガエリオのうなじに、忌避すべきインプラントが埋め込まれていたせいだ。

 ガエリオは〈疑似阿頼耶識〉というマン・マシーン・インターフェースで、ボードウィン家に代々伝わるガンダムフレームにつながっていたという。〈ガンダム・キマリス〉はエドモントンの戦いでコクピットブロックを貫かれて機能停止していたはずで、回収されて地下祭壇に戻されていた。

 というのに、本物のキマリスは月外縁軌道統合艦隊に接収され、エリオン公のもとで火星人の脳を搭載されていたというのである。

 あまりの冒涜に、ガルス・ボードウィンはおののいた。

 圏外圏に生まれたスペースノイドが地球の大地を踏みしめるだけでも罪深いというのに、その臓器が英雄の搭乗機であった〈ガンダム・キマリス〉のシステムを侵していたのだ。

 アイン・ダルトン三尉といえば、()()〈グレイズ・アイン〉のパイロットである。復讐心に駆られて禁断の有機デバイスシステムに手を染め、エドモントンで暴走したギャラルホルンの恥部。あろうことかギャラルホルンの機体で野蛮な本性を剥き出しにした火星人。そんな男が嫡男ガエリオ直属の部下だったというのだから、セブンスターズの一家門として一日も早く消し去ってしまいたい過去であった。

 息子が生きて帰ってきてくれて喜ばしいと心から思うのに、埋め込まれた異物への生理的嫌悪感がこみあげ、愛しい我が子を抱きしめたい手はふるえてしまう。迫り上がる嘔吐感を抑えきれない。

 家族の抱擁は消え、父と兄は目を合わせることさえ躊躇する。

 

 あたたかかったボードウィン家は壊れてしまった。

 

 家族の復讐を決意したアルミリアにとって、ラスタルこそが憎い仇だ。ガエリオと親しくしていようと、兄との婚約も噂されるジュリエッタ・ジュリス准将の養父であろうと、ラスタル・エリオン初代代表による歴史の上書きは黙過しがたい。

 このギャラルホルンは英雄アグニカ・カイエルが創設したものであるはず。しかし現状はアグニカが作ろうとした誰もが等しく競いあい、望むべきものを手に入れられる世界とはほど遠い。

 

「要求はなにかな、アルミリア嬢」

 

「ご友人の身代わりとなる密偵をわたくしがご用意します。モンターク商会には、ゴルドン氏に成り代わる力がありますの」

 

「なるほど」とラスタルはあご髭を撫でた。口角をつりあげ、笑う。「――やってみたまえ」

 

「ありがとうございます。戦果を期待していてくださいませ」

 

 アルミリアは曇りなくほほえみ返して、淑女らしくスカートをつまんでお辞儀をした。慎ましやかなしぐさはまさに貞淑な妻のそれだ。

 

「失礼するとしよう」と踵を返したラスタルの背中をにらみつけるような不躾な真似もしない。

 

 時の支配者を見送るドレスの裾は、しかしスプリンクラーが撒き散らす水滴に濡れそぼり、緞帳のように重く垂れ下がる。控えめなヒールは芝生の緑を踏みにじる。

 いつか必ず〈ガンダム・バエル〉とファリド家のハーフビーク級〈ヴァナルガンド〉を取り戻し、愛した人を殺した組織の〈法〉と〈秩序〉を全否定してみせると、アルミリアは過去と心に誓ったのだ。

 圧倒的軍事力で世界を恐怖させ、屈服させて支配するエリオン公のやり方は悲しみの連鎖を生み続けるだけだと。世界に向けて叫んでみせる。

 子供だから、純血ではないから、地球人ではないから――何かしらの理由をつけて蔑んで、人間(ひと)として対等に扱おうとしない貴族社会から去る算段もつけた。だって。アルミリアの手の中には、もう何も残っていないのだ。家族のぬくもりも、夫の罪も。マクギリスの遺体は戻らず、弔うこともできなかった。

 しあわせになんてもうなれない。

 だから残された選択肢はただひとつ。

 

(わたしは復讐の道を往きます)

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

「……よろしいのですか、ラスタル様」と部下がそっと耳打ちする。

 

 背にした少女は十四歳と幼く、気が触れてしまったのだともっぱらの噂だが、腐ってもボードウィン家の令嬢だ。セブンスターズによる合議制が廃止された今なお、行動を起こすだけの財力と権力は持っているはず。

 ラスタルは歯牙にもかけず、剛胆な彼らしく笑んだ。

 

「彼女は『我々』と言ったな。立派な革命の徒ということだ」

 

 兄には似なかったらしい妹は、マクギリスの影響を強く受けたのだろう。純朴ながら不思議なカリスマ性を持ち、思想や理想といった明確なビジョンも持っているらしい。

 実に将来有望だ。成長すればふたたび革命軍を率いるだけの人望も勝ち得るに違いない。いまだ清廉な彼女がこれから外の世界を見、一体どんな味方を連れて決起するのか。

 組織の膿として排除するのはアルミリア・ボードウィンの行く末を見届けてからでも遅くない。

 

 角笛とは異なる神を信じる乙女の未来は、はてさて。

 

 

バエルの恩寵(ハンニバル)――、その戦いを見せてもらおうじゃないか」




【次回予告】
 誰かに『間違ってない』って言ってほしいんだ、俺たちみんな。誰かの正義にすがりたいんだ、悩むことは苦しいから。責任を負うのが怖いから。
 ……それにしても、あの青年、ほんとに誰だったんだろう? 火星のエンビたちも、大きくなってるんだろうな。ライド、元気かな。
 次回、弾劾のハンニバル!
 第4章『ディープ・スロート』。

 内通者は、どこにでも潜んでる。


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番外編
マーナガルムの整備長


息抜き番外編。


 さて、ここは共同宇宙港〈方舟〉にある格納庫だ。火星圏には港がふたつあって、うちひとつが今おれがいるここ〈方舟〉。もうひとつはギャラルホルン火星支部の本部基地〈アーレス〉の軍港。

 今日はこのおれ、カズマが共同宇宙港〈方舟〉の一角を、こっそりご案内しようと思う。

 

 え、誰に向かって喋ってるのかって? メタいことは言いっこナシでいこうぜ、TVでよくあるだろ? 仕事人密着のドキュメンタリーとか。最近クリュセでもそういうの増えててさあ。

『クリュセ大学コミュニティカレッジ、MS(モビルスーツ)整備課(夜間部)卒AS(アソシエート・オブ・サイエンス)——職業、メカニック(キリッ』みたいなやつ。

 ……まあ、学歴主義のプロパガンダ番組なんだけどさ。制作サイドの思惑はともあれ、整備士の日常をカメラが追ってるって設定で脳内会話すんのが最近のマイブームなわけ。

 おれ、実質一人暮らしだから独り言も多くなるのよ。許してください。

 

 んじゃ、こっからはマーナガルムの整備長ことカズマが案内人(ナビゲーター)だ。

 新苗字はなんか馴染まないから『カズマ』でいいよ。よしなに!

 

 ちなみに今はおれの日課、弁当配りの真っ最中。

 なんで整備長がランチ配ってんだよ、レンチ持っとけよ……ってツッコミは勘弁な。パイロットのメンテも整備士の仕事のうちなの。このだだっ広い格納庫を1日3回、規則正しく一周することでおれの運動不足も解消されて一石二鳥ってわけ。裏方だっていざってときは体力勝負だからな。

 

 それに〈マーナガルム隊〉じゃおれが最年長だからさ。やんちゃ盛りの弟分どもの面倒見るのは年上の役目だろ? 隊長のライドはおれより2コ下だし。今じゃあすっかりやさぐれっちまってるけど、ガキのころはおれらん中でも一等明るくて、一生懸命なやつだったんだ。絵が上手くてさ。

 ……なんかしんみりしちゃうな、この話題はやめだやめ!

 やっぱこう、自分が兄貴分だって実感すると、意味もなく年下の世話焼いてやりたくなるんだよな。この現象、名前あんのかなー。

 

 閑話休題。

 

 おれたち〈マーナガルム隊〉は、ここの桟橋と、ここから枝分かれしてるドックのいずれかを寝ぐらにしている。

 この区画は建造物そのものの死角になってる開かずの間で、アルミリア姫の権限でごっそり拝借してるんだ。空気も水も重力もあるし、火星(した)に降りるも宇宙(そら)へ出るも自在な立地条件なので、おれたちの任務にはもってこいだろう。

 もともとはギャラルホルンで使わなくなった戦艦なんかが繋留されてた場所らしいんだが、その当時は管理費などなどの諸経費がまるごと自治政府持ちだったとか。それで、脱植民地化後に連合政府が「ここの予算なに?」って突っ込むと厄介だ……ってなって、区画(ブロック)ごとモンターク商会に下賜された。

〈マクギリス・ファリド事件〉の前までは『統制局』の下にあった火星支部は、組織再編の中で『月外縁軌道統合艦隊』に吸収されたそうで、為政者様が表立ってやれない仕事を任せるにあたって、非公式の実働部隊にここを下げ渡した……ってとこだろうか。

 

 ああ、おれたちは「姫さん」「姫さん」って呼んでるアルミリア姫だけど、リアルにプリンセスってわけではないよ。

 ギャラルホルンが七星貴族(セブンスターズ)七家の合議制を取ってたころ、その一家門だったボードウィン家のご息女、アルミリア・ボードウィン嬢。まさに世界最上級のお嬢様だ。

 といってもアーブラウ領クリュセ独立自治政府首相の愛娘……って肩書きだった当時のクーデリアさんがホンモノの『お嬢さん』なのも動かぬ事実だから、それならアルミリア様は『お姫さん』ってわけ。

 たまーにこの格納庫にもやってくるんだけど、そういうときはブランカとアル・ベン・チャーリーが勢揃いしてるので、おれはそっちにかかりっきりで生身の姫君とはほぼほぼ交流がない。

 おれとしても、リアルタイムで会話するよりは、資料を添付したり参照したりできる通信のほうが何かと都合よかったりする。

 

 さぁて、一番近いハンガーが見えてきたぞ!

 

 やってきたのは、実働3〜5番組が共同で使ってるMSデッキだ。3番組の〈マン・ロディ〉が四機、4番組の〈スピナ・ロディ〉五機、5番組の〈ガルム・ロディ〉六機がずらり。

 いつもはガラガラな格納庫だが、次の任務に備えて一ヶ所にまとめて置いてある。

 

 モンターク商会の少年傭兵部隊〈マーナガルム隊〉のメンバーは、総勢にして一二〇人ってところだろうか。うち六〇人前後がこの桟橋を住処にしてて、四十数人が姫さんのお膝元、残りは(ここ)地上(した)を行ったり来たり出張したり動きっぱなし。

 おれみたいなメカニックはどの隊にでも同行するし、どこの所属っていうのはない。

〈マーナガルム隊〉自体、ガンダムフレーム1機、ヴァルキュリアフレーム3機、残りは全部ロディフレームっつう妙ちきりんなラインナップだから、特殊な4機以外は潰しがきくんだ。

 おれはどの機体の整備にも携わるから、ここの連中にも結構懐かれてるんだぜ。今ここに滞在してるメンバーはざっと四十人。

 

 呼んでみよう。おーい!

 

「弁当、持ってきたぞーっ?」

 

 ……つい疑問形になった。いや、不本意だが。鉄華団の古参メンバーみたいな、こなれた喋り方は向いていない。うっかり見栄を張ってしまったが、おれはインドアだ。内弁慶なんだ。ちくしょう。

 

「ほい、弁当。あっため……スープがまだ熱いから、気をつけて持ってくれな。ほい、お前も。お前も、はい、はい。ほいよっと」

 

「ありがとございます」

 

「うまそうっ」

 

「やった、ありがとー!」

 

「今日のべんとーなに?」

 

「うん? ああ、こっちがスープで、こっちがおかず。中にパンが入ってるから落とさないようにな。お前も、ほい。こっち側は熱くなってるから火傷に気をつけてな。……っと、みんな、弁当もらってくれたかーっ?」

 

 あ、ここ『全員』って言うとこだよな。しくった。

 

「みんな行き渡ったって」

 

「ああっ、うん。ありがとうな」

 

「カズマ火傷した?」

 

「いや、してないしてない。まっすぐにして開ければ大丈夫だから」

 

 小さいのにフォローされてしまった……。ここで「おう、ありがとな!」ってハキハキ言えるようになるのが、ひそかなおれの目標だったりする。

 整備では頼られてても、それ以外では敬われてないんだ。それどころか支えられる側。一人仕事向きのおれはいまだに、小さな凄腕パイロットたちを前につまらない人見知りをしてしまう。

 

 明日こそっ。……なんて決意を新たに、約四十個の弁当をさばいたおれはあとふたつ、格納庫をまわる。

 ここでは実働1番組から5番組まである各小隊がそれぞれのMSデッキで生活してるからだ。

 今おれが会ったのが3、4、5番組のメンバー。

 これから向かうのが2番組、通称〈ガルム小隊〉の格納庫だ。

 

 どの小隊もパイロットを中心にオペレーターやらメカニックやらが集まる感じで構成されてて、〈ガルム小隊〉が一番の大所帯。なんと元宇宙海賊、元ヒューマンデブリの面々が二十人強も集っている。

 兼任や帯同を除く固定メンバーだけで二十人オーバーというと、この〈マーナガルム隊〉では最大規模だ。

 一番隊の〈ハーティ小隊〉なんかは隠密行動が多いこともあって、専属なのはパイロット三人だけなんじゃないかってくらいまで絞り、他のメンバーは別の隊のサポートにまわってる。ここまでバラけてるのも特殊っちゃ特殊なんだけど、準メンバー陣ももれなく専門性の高い技能を持ってるせいで、任務のたびに引っ張りだこになってしまう。

 

 おっ、そうするうちに目的地が見えてきたぞ。

 

 ……ここへくるのは、実はすごく、勇気がいる。人見知りとは別の意味で。変に警戒してたほうが怪しまれる……って思うほど挙動不審になってしまう。万が一侵入者と見間違われて射殺されたらシャレにならないどころの話じゃない。

 なんせここだけ低重力だし、しかもいつも暗いんだよここ! 電気つけろよ誰か!! ……って思いながら照明をつける勇気はない。明かりがついた瞬間マシンガン構えてズラッと並んたらマジで漏らすだろう。おれは想像力が豊かなんだ。勘弁してくれ。

 格納庫内部には踏み込まず、どうにかこうにか重力のあるところで踏みとどまって、肩に提げていたガマバッグをひとつおろすと「とったどー」的な感じで掲げる。

 

「べんとうだっ! 昼メシの時間だぞーっ!」

 

 今日はわりと噛まないで言えた気がする。ほっとしたのもつかの間、向こう側から三人組が姿を現した。

 重力があるといえばあるしないといえばない中途半端な環境だってのに阿頼耶識使いは手すりもない空間をスーっときてカチッと着地。靴裏の磁石が接地する音が軽いのなんの。白いノーマルスーツが音もなくすぅーっと近づいてくるんだから、慣れてなきゃホラーだ。

 幹部三人組は器用におれの正面までくると、リーダーがでっかいどんぐり目でじいっと見上げてくる。13歳、約147cmというサイズ感にそぐわぬ存在感。

 こいつが〈ガルム小隊〉の司令塔、〈ガルム・ロディ〉1番機のパイロット『ギリアム』だ。

 隣のドッペ……そっくりさんが3番機の『エヴァン』、隊長くんの双子の弟。それからキツネ目のほうが4番機の『フェイ』だ。常にこの三人はまとまって行動していて、実はもうひとり2番機のパイロットで『ハル』ってのがいるんだが、参謀役なので裏方よろしく表には出てこない。

 

 このハンガーには〈ガルム・ロディ〉4機しか置いてないのに下手すると迷子になるくらい広いから、おれも深入りしないようにしている。

 

「ほい、これ、弁当な」

 

「ありがとうございます」

 

「えっと今日のスープ、熱くなってるから」

 

「はい。気をつけます」

 

 さすがリーダー、余裕の対応だ。ギリアムくんはどこで教わったのか敬語が使える。

 小さな司令塔のそばからはキツネっ子ことフェイくんが両手をだして、荷物持ちを申し出る。メンバーはこの広い格納庫のあちこちで息をひそめてるから、弁当は幹部三人組が手ずから配りにいってやるらしいのだ。隊長のギリアムくんが両手で手渡ししてやれるように、隊員の中で一番大きくて力持ちのフェイくんがカバンを持つんだろう。

 鉄華団でも、団長が荷物を持つなんてだめだって副団長が奪い取って荷物持ちに徹してたりした、多分、あーゆうイメージ。

 といってもおれの目の前ではあんまり会話してくれないので、ギリアムくん以外はあんまり声を聞いたことがなかったりする。

 しかもその司令塔くんがペコリと丁寧にお辞儀するもんだから、おれはそそくさと格納庫をあとにしましたとさ。

 ……まあ、あー、そうだ、気を取り直して、だ!

 

 この弁当配りの旅も終盤にさしかかって、おれが向かうのはラスト格納庫。今は休暇中の〈ハーティ小隊〉のところだ。

 3日間の休暇をねじこまれた〈ハーティ小隊〉のパイロット三人組は、はじめの2日はモンターク邸のベッドでがっつり睡眠とって、外食したり花街いったりして経済まわして、最終日の今日この〈方舟〉まであがってきた。

 一度は地上に降りた〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉三機も次の任務に備えて待機している。

 

 おれは技術屋だし、機械いじりが趣味で特技で仕事なマニア気質だから、休暇をもらったところで格納庫から離れることはないんだけど……連中はそうはいかない。

 ライドもそうだが〈ハーティ小隊〉は専属メンバー・準メンバーを含め、それぞれ生身でも武器を持つ。暗殺、諜報、護衛、送迎、それから潜入のためには掃除夫やらベルボーイやらにも擬態するのだ。ノブリス・ゴルドン暗殺がスムーズにいったのは、こいつらが三ヶ月以上前から黒服やらホテル従業員やらに扮して手引きしていたおかげだった。

 ちょっと前にはエドモントンの街頭デモで演説(スピーチ)までしてきたくらい、連中の仕事は多岐にわたる。

 といっても筋書きを決めるのはエリオン公だし、原稿を書いたのはアルミリア姫。校閲も入ったあとのものを読み上げただけなのだが、スピーチに必要なのは内容だけじゃない。暗記力、演技力、求心力こそ評価すべきポイントだろう。

 見栄えだってもちろん大事だ。画面ごしの弟分がなかなか男前に撮ってもらっていて、おれも誇らしかった。

 

 アーブラウの番組は基本的に反ギャラルホルン寄りなので、安心して見ていられる。

 やっぱり、国境紛争の遺恨があるんだと思う。それと、旧蒔苗派の底力。アレジ代表が就任して間もなく亡くなった蒔苗老の葬儀も、前代表を弔う儀式としては地味なものだったが、生前の偉業を称える報道は何日も続いた。

 アフリカンユニオンなんて親ギャラルホルン派だから、ドルトコロニーの社長を暗殺してやってもメディアの反応はあっさりしたものだった。お隣のアーブラウのほうが詳しい状況まで発表してたくらいだ。

 

 コロニー内部へのMS侵入、骨も残さず焼き尽くした謎の炎。コロニーの安全神話を覆す武力行使。

 ギャラルホルン様は人民を庇護してはくれないぞという、動かぬ事実。

 

 安全の守り方、権威の守り方はそれぞれだから、アーブラウだって「いたずらに市民の不安を煽っている」という世論の誹りを受けている。反対に、アフリカンユニオンの報道関係者はギャラルホルンがドルト公社の役員という重要人物すら守ってくれなかった事件に苦言ひとつ呈さず、とっとと切り上げることを選択した。

 

 危ない真実には近寄らず、遠ざかること、黙って耐えることで守れる平和もある。

 ……確かにその通りなんだと思う。

 おれだって、いつの間にか、どんな番組を見ていても聞いていても、制作会社が誰から金をもらってるかが透けて見えるようになってしまって、裏事情なんか知らないほうが楽しく見てられたよなあって不満を覚えることはある。

 昔のクリュセで〈革命の乙女〉だの独立運動だのが持ちあげられっぱなしだったのも、メディアがノブリス・ゴルドンとズブズブだったせいだった。

 今のような立場にならなきゃ、知らないままいたことばかりだ。

 

 ノブリスを暗殺して以来、報道関係はテイワズが影響力を持つようになった。流通関係はモンターク商会がまるっといただいて、……そのへんはエリオン公とマクマードさんとアルミリア姫と三人の間で、何か密約的なものが交わされたんだろう。

 スクリーンの外からニュースを眺めるおれたちは、「現実ってそんなものだよなー」って諦めて、遠い目をして笑い飛ばすべきなのかもしれない。それが正しいかどうかはわからないけど。それが『普通』なのは確かだろう。

 少なくとも、プロパガンダを垂れ流すメディアに洗脳されないように、テイワズが求めてる『模範的な火星人』は、この情報を丸呑みにした姿なんだなあ……なんて一歩下がって俯瞰しようとするおれは、模範的な火星人像にはあてはまらない。

 今こうして妄想してる脳内ドキュメンタリー番組だって、いざ放映(スクリーン)ってなれば校閲と編集で99.99%別のものになっちまうんだろう。

 そんで、仕事人(おれ)自身には『反社会性』とか『適応障害』とか曖昧な病名(ラベル)がつけられて、テイワズ系の病院に放り込まれて毒でも盛られて突発的な多臓器不全で()()()()()ジ・エンド。

 ああ、やっぱ独り言は最高だな。

 

 

 さてと、やってきましたラスト格納庫!

 かなり厳重な鍵がついてるが、おれは〈マーナガルム隊〉のメカニックなので問題ない。指紋認証クリア。網膜パターン認証クリア。

 オープン・セサミで声紋認証も解錠(クリア)だ。

 扉が開く。

 

「カズマ!」

 

 真っ先に顔をあげたのは四脚可変機構を持つ3号機(チャールズ)のパイロット、トロウだった。トレードマークの青い帽子を前後ろ逆にかぶっていて、ひょうきんな少年……だと思う。明るく元気で人懐っこい。ぱっと筋トレを打ち切ると、転がるように駆け寄ってきてカバンを持ってくれる。

 

「腹減ったぁー!」

 

 って言いながら、取り出した弁当はまず隊長に差し出す。自分のぶんを確保するのは常に三番目だ。猪突猛進に見えて順列をきっちり守っている。

 搭乗機(チャーリー)は四ツ足の猛獣みたいな動きをするけど、それでなくとも最近のトロウは(けもの)っぽいなと思うことがある。

 続いて寄ってきたのは、有翼変形の1号機(アルフレッド)のパイロット。〈ハーティ小隊〉の隊長でもあるエンビだ。余暇は読書ばかりしてるくせに身長をすくすく伸ばしやがって、ひょいっと上から覗き込んでくる。

 重量の偏りから、カバンの底でもうひとつ余っているのに気づいたらしい。

 

「カズマ、昼飯まだなのか? ここで一緒に食ってけよ」

 

「いや、お誘いは嬉しいけど仕事があるから。おれは向こうで食べるよ」

 

「メカニックは休暇じゃないのか……悪いな、おれらだけ休んで。何か手伝えることは?」

 

「ないって。優良スケジュールのおかげで疲れるほど動いてないしさ。エンビたちは休暇でもなきゃまともに寝れない任務ばかりだろ? 今のうちにちゃんと休んでてよ」

 

 苦笑すると、納得いかないって顔をする。あからさまに表情に出すから、ああ、背は伸びてもまだまだガキなんだなって感じだ。

 いかに優秀なパイロットといえど生意気盛りの17歳。鉄華団発足以前からの古参団員、当時の『幼年組』、その後の『年少組』、現在の〈ハーティ小隊〉はみんな、何気ない仕草がちょっぴり幼いときがあって、それが野性味と紙一重で、少年期から青年期に至る過渡期特有の空気感を持っている。

 こういう面を見せてるのは、リラックスしているってことだろう。

 懐かしくなって思わず笑ってしまい、白眼で刺されるかと思ったが助け舟到着が早かった。さすが千里眼の2号機(ベンジャミン)、視野が広い。一番でかくて黒くて、死角からの援護射撃は実に的確だ。

 

「カズマは頭脳労働専門なんだから、出張で飛び回ってるお前とは体力ゲージの減り方が違って当然だろ」

 

「まあ、そうゆうこと。ヒルメの言う通りだよ。休養期間中のエンビを働かせたらライドの気遣いが無駄になる」

 

「そーそー。大人しく休んでな、隊長サン!」

 

 トロウが弁当の蓋を開けながら笑う。おれも自分のぶんのランチを確保して、「それじゃあ」と片手をあげた。

 本当は仕事なんてとっくに終わってるんだけど、試してみたいセッティングがまだまだ山のようにあるんだ。ブランカもグリムも、パイロットがもっと自由に、自分自身の特技を活かせる機体に仕上げたい。

 

「夕飯時になったらまたくるよ」

 

「ああ、よろしく頼む」

 

 コミュニケーション能力の高い弟分たちに見送られて、格納庫を辞す。扉が閉じる前にちらっと振り向くと、弁当を食べていても気づいてくれる。……いや、三人とも気配に敏感すぎて()()()()()()()だけなんだ。閉まる扉の向こうで、トロウがにかっと笑って拳を突き出すのが見えた。

 いいやつらだなと、ほっこりする。

 連中は警戒心が強すぎるからずっと一緒にいると息が詰まってしまうけど、疎外感はなく、おれも含めて会話がテンポよく進む。まるで頭の中の歯車に適度な潤滑油を注がれたみたいに、仕事もよく頑張れる。今ので最高速度だと思ってたシステムが実はもっとサクサク動くことがわかれば、おれの足取りも軽くなる。各機体の改良案(インスピレーション)が次から次へと湧いてくる。

 

 こういう生活が、おれはすごく気に入っているのだ。

 

 MSが並んでる格納庫に『アットホーム』なんて言葉は不釣り合いだとしても、食事をしたり眠ったり、読書をしたり筋トレしたり、気まぐれに腕相撲大会が勃発したりする生活拠点は、(ホーム)以外に言い表しようがないじゃないか。

 だから家に帰ってきたような感じがするのも、きっと変じゃない。

 

 おれが入団する前まで鉄華団は家族だったらしいから、あながち間違いでもないはずなんだ。

 死んじまった仲間が流した血と、これから戦って流すおれたちの血が混ざって、鉄みたいに固まって——いびつだけど確かな『血の縁』になる。それが鉄華団だったと聞いた。

 おれが入団したときにはもう急成長企業として『会社』の形されてたし、『家族』を継続してたメンバーとも現役当時あまり親しくなかったから、伝聞でしか知らないんだけど。

 

 民間警備会社といったって、いわば『代理戦争屋』。誰かが戦争をしたいとき、戦力を外注する組織だ。

 真面目に仕事してるだけで恨みを買って、目立てば同業者から妬みを買って、喧嘩を売られて……実際、割のいい業種じゃあない。家族を人質にとられる危険もついてまわるから、CGSのマルバ・アーケイとかいう社長さんも孤児を兵隊にしようと考えたんだろう。

 

 おれは8つのときに技術屋だった親父に先立たれて、以来、スラムで拾った電子機器を修理しては転売したり、食い物と交換したりしながら生活していた。いわゆるストリートチルドレンってやつだった。

 目覚まし時計、TVスクリーン、ランプにドローン……なんでも分解しては組み上げてた。ガラクタひとつで寝食忘れて、三日三晩はワクワクし続けられる安上がりなガキだった。

 

 あのころはTVに限らずラジオも電話も通信回線に繋がなきゃ単なる飾りで、電力供給も危ういスラムではクソの役にも立たないなんて知りもしなかった。鉄華団に入って、整備班の一員になって、ラジオが鳴らなかったのはおれの不手際じゃなく、本体が壊れてたせいでもなく、エイハブ・ウェーブによる電波妨害の影響だと教えてもらった。

 おれの住んでた人気のない貧民街は、住人が市街地に移り住んでいった残り物だったことを雪之丞さんから聞いた。親父が仕事を失うのも必然だったわけだ。

 

 理由もわからないまま、誰もいなくなってく廃屋の町で、おれは鉄くずを拾い集めていた。

 おれにとっては夢のカケラだった。

 二束三文の価値もない残骸の向こう側に、想像力豊かなおれは『日常』を夢見ていたんだ。

 

 あったかい飯があって、雨風をしのげる寝床があって。おれが機械を直せば、それが誰かの役に立って。外の世界の情報がじゃんじゃん入ってきて、そこにどんなアイテムがあればもっと便利になるか空想する。ああでもない、こうでもないって考えて、作ってみて、失敗して、もう一度作って、試行錯誤して。

 完成したら一緒に喜んでくれる家族がいて。

 おれが夢見る日常風景が、鉄華団の中にあった。残念ながらカッサパ・ファクトリーにはなかったけど、ライドに引っ張ってもらっておれはここへたどりついた。

 戦えないおれにできることは多分、ものすごく少ない。けどおれは、どうすれば今の生活を守れるのか考え続けなきゃならないと思う。

 

 人様には知ったこっちゃないこの日常を、今度こそ守り抜きたい。

 おれは、家族(ここ)が好きだ。



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第四章 ディープ・スロート
007 月へ


【前回までのあらすじ】
 モンターク商会が保有する傭兵部隊、〈マーナガルム隊〉。ライドのもとに集った少年たちは、みな『本当の居場所』を求めてさまよっている。双子の弟を失ったエンビ、名前を奪われたヒルメ、今度こそ家族を守り抜きたいトロウ。ヒューマンデブリの少年兵たち、幼い高級男娼たちも。
 どこへ行けば、どこまで行けば、過去を呪わず生きられる場所までたどり着くことができるのか。


 ビスコー級クルーザー〈セイズ〉は、月に向かって共同宇宙港〈方舟〉を出立した。

 

 公転周期の都合により、火星から十日いくばくの旅になる。

 最短であれば二週間で行って戻れる距離なのだが、いくらか離れた今は片道で十三日ほど。復路はさらに数日かかるにしても、地球の向こう側まで一年近く旅をせよと言われなかっただけマシだと思うべきだろう。

 

 到着まで残り三日。

 行き先はギャラルホルン月面基地。

 

 アリアンロッドの本丸だ。

 

「さあ、鬼が出るか蛇が出るか――」

 

 艦長席のライドは気だるく頬杖をついて、パイロットスーツ姿でため息を吐く。苛立つつま先がコツコツと床を蹴りつけ、足癖の悪さをごまかすように組み替えた。

 各操舵席についているのは〈ハーティ小隊〉のオペレーターで、鉄華団年少組が成長したままの顔ぶれである。

 操舵士ウタ、砲撃手イーサン、そのほか管制室の面々まで〈イサリビ〉を動かしていた主要クルーだ。

 

 かつて鉄華団には火星本部、地球支部にくわえて『戦艦当直』という実質上の第三支部があり、ウタやイーサンたち当直組は日常の大部分を強襲装甲艦〈イサリビ〉艦内で過ごしていた。

 用命とあればいつでも宇宙に出られるようにとほとんど常駐状態にあった彼らは今でも地上のモンターク邸より共同宇宙港〈方舟〉を拠点とする艦上生活のほうが肌に合うらしい。

 前線を駆けた〈イサリビ〉の戦術的特性上、〈ホタルビ〉のクルーに比べて血の気が多い傾向もある。

 今では唯一の兄貴分となったライドの心中を慮って、右舷操舵席のウタが気遣うように眉尻を下げた。

 

「今さら何が出てきたって驚かないよ」

 

 トド・ミルコネンによる『ピンハネ貯金』が、まさか〈ガンダム・バエル〉とハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉を買い取れる金額に達していたことのほうがよほどびっくりだ。

 あの小悪党野郎が、保管中の管理費もろもろまとめて支払える額を一括、耳を揃えて用意するだなんて一体誰が想像したろう。

 

「そうだよなぁ」とライドも嘆息する。

 

 眇められた緑色にうつるのは、どこか冷たい諦観だった。

 

(いい加減に腹決めて『世界』を敵にする覚悟を決めたほうがいいのかもな)

 

 あなたたちを人間(ひと)として対等に扱おうとしない、この世界は、あなたたちにとって憎むべき敵ではないの――? アルミリアに問われた言葉が今も耳に残っている。

 

 別に、世界を敵だと思ったことはない。打倒すべきだと叫ぶほどでもない。

 支配者を挿げ替えたくらいで何が変わるとも思えない。

 

 ところがアルミリア・ボードウィン嬢はみずからの足で〈ヴィーンゴールヴ〉という箱庭を出て、法と秩序の破壊を目論み火星くんだりまでやってきた。

 ライドたち鉄華団残党を雇い、ノブリス・ゴルドンを殺害して火星随一の武器商人となり、手の届く範囲のヒューマンデブリを買い漁った。

 

 そしてガンダムフレーム一号機〈ガンダム・バエル〉とファリド家のハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉を買い戻したその先は、おそらくマクギリス・ファリドが目指した『変革』。

 ギャラルホルンは本来主要な役職には就けないはずだった地球外出身者にも出世の機会を与えはじめたというが、そこに自由平等は存在しないとアルミリアは考えているらしい。

 たったひとりでも、〈マクギリス・ファリド事件〉で全滅させられた革命思想を継ぐつもりでいる。

 深窓の令嬢だろうに、まったく凄まじい行動力だ。

 

 ここまできたら地獄の果てまで付き合うほかないだろう。

 表向きこそモンターク商会所有の傭兵部隊でも、〈マーナガルム隊〉の実状はアルミリア個人のお抱え私兵団だ。金銭感覚が狂いに狂った大口スポンサーの権力に庇護され、養われてきた恩義がある。悲願とあらば叶えてやりたい。

 ようやく夫の形見を取り戻す女主人を無事に月まで送り届けるため、総力をあげてバックアップについている。

 実働1番組〈ハーティ小隊〉、3・4・5番組をまとめた〈ウルヴヘズナル混成小隊〉を動員し、〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉三機、〈マン・ロディ〉四機、〈スピナ・ロディ〉五機、〈ガルム・ロディ〉六機が出番を待つ。

 ライドの〈ガンダム・アウナスブランカ〉を含めて総勢十九機。

 実働2番組〈ガルム小隊〉は拠点防衛のため〈方舟〉に残してきたが、それでも火星支部(アーレス)からのスクランブルを退(しりぞ)けたり、非正規航路のそこここでたむろする海賊を撃退するくらいなら充分すぎる戦力だろう。

 

「ライド、一時の方角に所属不明の機影がいる。強襲装甲艦が2、輸送船が1だ」

 

 左舷火器管制席につくイーサンの報告に続けてメインモニタに拡大された強襲装甲艦、輸送船。規模は宇宙海賊〈ブルワーズ〉ほど、MS(モビルスーツ)らしきエイハブ・ウェーブの反応はないらしい。

 

「また海賊か……」

 

 道中、一日二日進むたびにこうやって海賊船を発見する。

〈ヒューマンデブリ廃止条約〉締結の折り、飼っていたヒューマンデブリを生け贄に差し出して生き延びた連中だ。ギャラルホルンにみかじめ料を支払わず惑星間航行を行なう不届きな艦船のみを襲撃することを条件に、必要悪として野放しにされている。

 ボードウィン家の紋章である八本足の軍馬スレイプニールを戴くクルーザーにみずから仕掛けてくる命知らずはまだいないが、もしもこちらがMSを出したら口実を得たとばかりに襲いかかってくるだろう。

 

「ウタ、今回も戦闘なしで通過できそうか?」

 

「あちらさんが見逃してくれるかどうかだ、今回も」

 

「イーサン、あっちの射程に入るまでは?」

 

「最短で一〇分。だいぶ余裕がある」

 

 MSデッキでは各隊が交代で待機し、出撃に備えている。ビスコー級クルーザーは全長五〇メートル程度と比較的小柄で、相応に小回りも利く。阿頼耶識がなくとも操舵士、砲撃手ともユージン・セブンスタークの曲芸航行を間近で見て育った〈イサリビ〉のブリッジクルーだ。

 頼もしく育ったイーサンが無感動に嘆息した。

 

「どうせ、こっちの戦力を探ろうって腹だろ?」

 

「だろうな。逸って飛び出さないようMS隊に釘を刺しておいてくれ」

 

了解(ラジャー)

 

 月面基地まで三日の距離ともなれば、近辺を航行していたアリアンロッドの部隊がいつすっ飛んでくるともしれない。海賊同士がドンパチやっていたので治安維持のためにまとめて始末しときました、とでも言えばアルミリアお嬢様ごと葬り去ってしまえる。

 歴史を綴るのはギャラルホルンだ。

 

(……海賊だって、俺らと戦うメリットはない)

 

〈ヒューマンデブリ廃止条約〉は、海賊連中の戦力までも大幅に削いでいる。いくらでも替えの利いた戦闘用奴隷を根こそぎ生け贄に差し出したせいで、戦闘におけるアドバンテージは完全に失われた。

 たとえギャラルホルンの恩赦を得ても海賊は海賊だ。略奪者であることに変わりはない。軍港で補給をさせてもらえるわけではないし、民間宇宙港に立ち寄れば通報を受ける。

 むろん、通行料をケチった貧乏人を野放しにしてはならないので、PMCや整備工場の段階でMSの弱体化がはかられ、『海賊>傭兵』の構図は守られている。それでも鉄砲玉を失い、自分自身の命を懸けねばならなくなったのは大きすぎる痛手だろう。水も食糧も弾薬もすべて客船や商船を襲って調達しなければならない宇宙海賊にとって、ヒューマンデブリはなくてはならない剣と楯だった。

 海賊にせよ、傭兵団にせよ、いたずらに兵隊と兵站を消耗させるのは避けたいはずだ。

 ……いや、連中の事情なんか知ったことじゃあない。慮ってやる必要などないだろうにと、ライドは自傷のように目を伏せる。

 生活必需品を現物で調達しなければならない海賊。

 生活費を得るために戦い続けなければならない傭兵団。

 全部どうだっていいはずなのに、過去の鉄華団に重なるせいか、理性を差し置いて記憶が懐かしんでしまう。

 いくらか前にユージンと袂を分かった口論の意味も、今ならわかる。

 

 ――あのときのことはもう忘れろ。復讐なんてオルガは望まねえよ。戦いは終わった。終わったんだ。

 

 ――何が終わったってんだよ!? 団長が目指してたのは、俺たちの『本当の居場所』だろ。俺たちがひとりだって使い捨ての道具にされないような、ここじゃない、どっか――!

 

 ――んなもんはオルガの方便だ。鉄華団が進み続けるために、そう言ってただけだ。

 

 ――団長の言葉を噓にしないために、俺たちは戦ってたんじゃんか!

 

 ――とっくにハッタリだって割れちまったろ。今さら遅ぇよ。

 

 オルガ・イツカはもういない。三日月も昭弘もシノも、主だった戦力はみんな。MSも、MW(モビルワーカー)も武器はすべて基地ごと爆破し、戦う力は削がれてしまった。怪我人を運ぶのに精一杯で、荷物さえまともに持ち出せやしなかったのだ。手許には何も残らなかった。

 戦意も、もうない。

 

 ――……戦っても、得るものはもうねえ。失うだけだ。

 

 戦えば生活費が手に入るから傭兵業を続けていた。好き好んで戦いを選ばなくていいのなら、もう戦わない。

 俺たちはもう戦えないとユージンは言った。

 戦う理由も、力もない。これまで傭兵業をやってきたのは生活のためだ。人数分の水と食糧を合法的に買いそろえ、人数分の寝床を維持し、営業妨害がしたい勢力の襲撃に備えるだけの金が必要だった。新たにMSを買いそろえる費用がいくらになると思う? 到底捻出できやしない。

 IDを書き換えて別人になった今、危険な仕事はしなくてよくなった。連合議長様になったクーデリアが斡旋してくれる『真っ当な仕事』に就くことも可能になった。

 

 

 ――俺たちはよくやった。もう全部終わったことだ。過去は過去だって割り切って、やっと前に進める。……そうしたいやつは大勢いる。

 

 

 そうだろ、とユージンは同意を求めた。自分自身に言い聞かせているような声音だった。

 鉄華団は解散、団長オルガ・イツカは殺害され、象徴であった〈ガンダム・バルバトス〉は晒し首に処された。ギャラルホルンの権威と軍事力があれば、鉄華団なんて零細PMCは任意のタイミングで犯罪者に仕立て上げて殲滅してしまえるのだと、ラスタル・エリオン公が行動でもって示してみせた。

 静止軌道上から〈ダインスレイヴ〉を撃ち込む高次元の射撃能力を有している。宇宙にいても地上にいても逃げ場はない。

 惨憺たる終焉を、ライドたち強硬派は『居場所を奪われた』と感じている。鉄華団が鉄華団である限り、大人による上から目線の暴力から逃れることは叶わなかった。

 だが、いつかたどり着く『本当の居場所』など幻想だと、幹部組は知っていた。わかっていた。だからこそオルガは全員が死ぬまで殴られ続けるより逃げるが勝ちだと判断し、鉄華団の基地を爆破、団員は全滅したことにして、タービンズや蒔苗老の伝手を使って地球へ逃がしてくれた。

 

 オルガのおかげで『真っ当な仕事だけでやっていく』ところまで()()()()()()のだ――というのがユージンたち穏健派の解釈だ。

 

 確かに、武器の維持、人員の管理、兵站の調達だけでも経営はずいぶん圧迫される。戦艦やMSの維持費だけでも馬鹿にならない額だ。優れたパイロットを育てるには時間も金もかかる。整備士や船医にいたっては、内々で育てるのはまず不可能である。

 専門的な知識、洗練された技術をその腕に宿すには時間と経験だけでは到底足りない。外から好待遇で雇い入れたら不平等が生じないよう身内の給金も上げねばならず、戦い続けなければ生活できない自転車操業。

 自前のMSを持つことは、リスクばかりでメリットがないのだ。

 戦うことをやめたその瞬間から、水も、食糧も、ただ減っていくだけになる。資産も、社会的信用も、漸進的に尽きていく。命の残量がなくなっていくだけになる。

 だから選ばなければならない。

 

 武器を売り払い、権力の傘の下で生きるか。

 武器を握りしめ、仲間の屍の上で戦い続けるか。

 

 死に到るカウントダウンに抗いたいライドは、止まれない。止まってはいけないから、窮屈なギャラルホルンのパイロットスーツなんか着て、ボードウィン家の紋章(スレイプニール)を戴くクルーザーの艦長席に座している。

 適応(そう)しなければ、生きたいと願うことすらままならない。

 

(ここはそういう世界だ)

 

 変革を実現できない限り、ずっと。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 大容量の冷蔵庫、オーブンのたぐいも充実している。冷凍庫の中身も、乗組員数・客室数と照らしてこんなに必要かと首を傾げたくなるレベルだ。

 豪勢なキッチン設備は、さすがギャラルホルンの艦船と言うべきだろう。

 エンビは鼻歌混じりに『FOOD ONLY(調理用)』と太く書きつけられたサバイバルナイフを戸棚に片付けていく。鍋の火を止めると、転倒防止ベルトで固定した。鉄華団が発足したばかりのころ、まだ戦力にならなかった年少組は厨房でアトラを手伝っていたので、仕込みから皿洗いまでばっちりだ。

 ランチボックスに小分けにして、配達用がま口バッグを肩から提げる。

 するとそこへ、ちょうどよく交代の報せが舞い込んできた。

 

「おつかれ、エンビ。仮眠いってこい」

 

 調理場のカウンターに現れたヒルメに、エンビは実に機嫌良く笑んだ。

 

「ナイスタイミング。出来立て食っていけよ」

 

 うまくできたんだと誇らしく、パチンと蓋のロックを解く。大鍋の口からほわりと持ち上がった湯気は、さして空腹でなくとも食欲をそそった。

 のぞき込めば、おおざっぱな調理ではあるものの子供の一口大まで細かく刻んだ肉と野菜がちょうどいい塩梅に煮詰まっている。全員にあたたかい食事が行き渡るようにというクライアントの要望通り、この船には食糧・食材が潤沢に積んであるのだ。

 いたずらっぽく笑んだエンビは、「味見」と称してふたかけら取り分けると毒味するように片方みずから口に放り込んでみせた。

 

「羊とかいう動物の肉なんだってさ。結構いけるぜ」

 

「ヒツジ? 初めて聞くな」

 

「鳥とそう変わんねえかな。翼はなくて、四本足で蹄がある」

 

「ふうん」とヒルメは応じて、寄越された肉を味わう。

 

 悪くない……と思うのは肉なのか、それともエンビの味付けなのか、いまいちわからない。トロウも含めて味覚がよく似ているせいで、うまいだろうと言われたものはだいたいうまいのだ。(おかげで買い出しは楽だが取り合いになると血を見る)

 本作戦中は〈ハーティ小隊〉の誰かが持ち回りで調理場を担当しているため、先日ヒルメが豆のシチューを作ってライドに微妙な顔をされた以外には何の文句も出ていない。

 アルミリアに出した食事が残っていた、捨てられていたという話も聞かない。

 今回の作戦はさすがに危険がともなうとして、メイドたちはモンターク邸で留守を預かり、シェフやセクレタリにも順を追って暇が出された。トドも地上残留組だ。このビスコー級クルーザー〈セイズ〉には護衛任務に就く〈マーナガルム隊〉実働1・3・4・5番組、守られる側としてアルミリア、そしてモンターク邸内に匿われていた少年男娼たちだけが乗艦している。

 何の戦闘訓練も受けていない子供はどこで何をしでかすかまるで予想がつかないし、逃げ足もたかが知れている。拠点防衛組として〈方舟〉で待機する2番組の足手まといにさせるのもはばかられて、全員まとめて連れてきたのだ。

 アルミリアごと艦内の最も安全なエリアに閉じ込め、念のため隔壁まで締め切って隔離してある。

 

「ってわけで、俺はMS(モビルスーツ)隊に弁当届けて仮眠とってくる。あとは頼んだぜ!」

 

 ひらりと敏捷に踵を返したエンビに、「ああ」と頷きかけたヒルメはさっと青ざめた。

 

「……って、待てエンビ! ってことは――」

 

 作った食事を鍋ごとワゴンに乗せてアルミリア()()のところまで持っていき、皿に盛りつけ、取り分ける作業はヒルメに任せるということか。

 ひと仕事終えたと言わんばかりに伸びをしたエンビは、それがどうしたとヒルメを振り返った。

 

「だって、あそこのガキどもに一番懐かれてんのヒルメだろ?」

 

「トロウ以外は全員そこそこ懐いてるだろ……イーサンあたりに行かせろよ」

 

 同じブロンドのイーサンなら、それなりに親近感もあるはずだ。昔こそ野暮ったい感じだったイサリビの砲撃手は成長期で凄まじく垢抜けた。それに、次の交代で食堂に訪れる。

 ヒルメが言い募っても、取り合う気すらないのかエンビは「なんで」と目をまたたかせる。

 

「あの一等はんぱない金髪美少年(ハニーブロンド)がヒルメのこと待ってるぜ」

 

「リタか……!」

 

 思い当たるふしがありすぎて、ヒルメは思わず頭を抱えた。

 エンビが諜報任務で火星を離れていたとき、少年売春の現行犯を暗殺してまわったあの仕事以来だ。囮役として同行していたリタにばっちり名前を覚えられてしまったらしい。

 淡い金髪に碧眼で、マクギリス・ファリドの面影があるからかお姫様にもずいぶん可愛がられているはずなのに、なぜだかべったりと懐かれてしまった。

 同任務を担当したトロウは気が利かず、全員一律『弟』扱いするせいで、あの美少年たちには人気がない。むしろ暑苦しがられて避けられている。(みな小綺麗にしているので、頭を撫でる手つきひとつとってもお上品にしてやらないと嫌がるのだ)

 

「一回くらい寝てやれば」

 

「冗談でもやめろ。九つの子供(ガキ)だぞ」

 

「なら、ちゃんと距離とって接してやれよ」

 

 トロウのように少年兵も男娼も関係なく弟分扱いできないのなら。エンビのように『脈なし』を態度で表してやらないのなら。

 

「優しいのは、ヒルメのいいとこだけどさ。中途半端に構うのって逆に残酷だろ」

 

 個々を尊重して接するヒルメの気遣いは、やすやす真似できることではない。誰だってブロンドはブロンド、ブルネットはブルネットと十把一絡げにしてしまいたくなるものだ。東洋人は東洋人、黒人は黒人で一律に接するほうが楽だろう。

 ヒルメの目にはイーサンとリタが同じ『金髪の白人』に見えるように、エンビだってアジア系の人種は見分けがつかない。トロウとフェイが同じ『黒髪の東洋人』に見えるし、ウタとギリアムのような褐色肌のグリーンアイズたちにどんな民族的差異があるのかさっぱりわからない。自身と同じ白人同士のときだけ、人種や顔立ちの細かな個性が見えてくる。

 そうした垣根を一切作らないトロウの接し方は、少年兵たちによく好かれる。〈ハーティ小隊〉は日ごろ練兵教官じみたこともやっているが、長所を伸ばして強化してくれる兄貴分として、最も広く慕われているのはトロウだ。

 俺たちは他に行く場所なんてない、だからここでともに生きようと先導できるのは一種の才能だろう。みんな弟みたいなもんだと一旦平等に均してから、ひとりひとり贔屓目なしに大事にしてやれる、そういう天然の魅力とは無縁の育ち方をしてしまったエンビには、トロウのまっすぐな気質がなおさらまぶしくうつる。

 個々に居場所を作ってやろうとするヒルメも、弟分たちから慕われる性分には違いない。一歩引いて全体を見通し、短所をカバーする知恵を授けてくれる。孤立しそうなとき、どうしていいかわからないとき必ず気付いて助けてくれるヒルメには、すべからく敬愛が集まってくる。

 だが、十名足らずの美少年たちから向けられる思慕は、少年兵の共同体の中で兄貴分に対して寄せる憧憬や信頼とは質も量も違う。

 物心つく前から容姿によって選別され、()()に必要な言葉だけを覚え、必要なしぐさだけを仕込まれ、最高の商品として育てられてきた高嶺の花。たった二時間の予約で云千万ギャラーもの()()をポンと支払われるような高級男娼で、一晩ともなれば億単位の金が動くという。

 鉄華団全盛期の月収をはたいても到底手が届かない一夜の夢だろう。

 だが、ヒルメの袖を引く動機が金目当てでないのは明らかだ。

 

「最後まで責任持つか、その気がないならちゃんと突き放してやれ」

 

 一晩に何人もの相手をして生計をたてる花街の娼婦たちとは違う。

 二度と来ない父親の迎えを待つ幼子のように、健気にヒルメを待ち続けるだろう。

 

「なんだよ、責任って。俺は何にもする気はねえよ」

 

 だが、エンビの指摘ももっともだ。総勢にして一二〇名ほどいるマーナガルムの少年兵とは打って変わって、十人もいない美少年たちはみなあまり仲がよくない。航行の邪魔だからとまとめて居住区画に押し込んで十日あまり、無事に往復できて一ヶ月かかるこの旅は、彼らにとっては永遠にも等しい孤独かもしれない。

 モンターク商会に買い取られ、アルミリアの意向によって身の安全を保障されていることすら、彼らにとって『平穏』なのかどうか。

 わざわざ連れてきたのも、ヒューマンデブリ育ちの少年兵との折り合いが悪いからだ。火星に残してきた実働2番組〈ガルム小隊〉の足手まといになりそうだとライドが懸念し、少年男娼たちはアルミリアのそばに置くように、3・4・5番組の〈ウルヴヘズナル混成小隊〉はエンビたち年長者が監督するように決定した。(2番組は隊長ギリアム、右腕のフェイ、左腕のエヴァン、参謀のハル――というMSパイロット四名を中心によくまとまった有能な番犬だが、同時にひどく排他的である)

 同じ孤児でも、少年兵と高級男娼ではバックグラウンドが違いすぎる。思考回路もあまりに違う。幼いころから傭兵として育ってきたエンビやヒルメには想像もつかない世界の生き物だ。

 九つの子供だったころ――、ちょうど鉄華団が発足して地球に降りたころだ。年少組と呼ばれていた。一日も早く成長期を迎えて、もっと多様な仕事を覚えたいといつも思っていた。強いパイロットに憧れた。

 CGSでも鉄華団でも、人を撃てないやつは早世した。仲間の死に耐えられないやつは生き残らなかった。

 傭兵業でやっていける心身の持ち主だけが生き残った。

 金属アレルギーもなく阿頼耶識システムに適合し、食べ物に(あた)ることもなく成長し、今もMSに乗っている。もう戦いたくないと残党の多くが戦場を去った中で、ヒルメは武器を手放さなかった。

 だって。一方的に支配されるなんて鼻持ちならない。変態の玩具になるなんて死んでもごめんだ。娼婦の腹から生まれても、売られた先は警備会社でよかったと安堵できるくらいには。

 そんなだから、優しさが優しさになるのか、慰めが慰めになるのか、何をしたらリタ(あの子)のためになるのか、考えるほどわからなくなる。

 居場所を失って苦しむ兄弟を見捨てることができかねてヒルメはここにいるのだ。

 父性を求めて対価に体を差し出してくる子供との接し方なんて、わかるものか。

 

「下手に会わないほうがいい。何を期待されても、俺にしてやれることは何もない」

 

「逃げるのか?」

 

 間髪入れず、エンビが声を尖らせた。

 

「それとも怖いのか。九つのガキが」

 

「別にそういうわけじゃ、」

 

「俺らだってまだ十七の子供だ。けど、あいつらの目には大人に見えてる。わかるだろ?」

 

 体格的には大人と相違ないのだ。少し低いエンビの視線に睨み上げられて自覚する。青年期に達した体躯は、自身が子供だったころ思い描いた将来像と重なりつつある。鉄華団発足時の幹部組、当時のオルガとユージンがちょうど十七歳だった。あのころはあんなにも大人に見えたのに、そうではなかったのだと追いついてみて初めてわかった。

 拳でトンとヒルメの左胸を殴りつけ、苦く微笑する。痛ましげに歪んだ笑みは、激励であり諌言でもあった。

 

「現状維持を選んでいいのはお前じゃないんだぜ、ヒルメ」

 

 それがリタのためになるかはわからない。ヒルメのためにもならないかもしれない。だが、ヒルメは現状を打開する力がある。何も持たないリタとは違うのだ。戦闘職に従事するヒルメが戦場に遺恨を持ち込むのなら、仲間の誰かが死ぬことになる。

 背中を預けられるのも、厨房を任せられるのも、裏切り者ではないと知れているからだろう。

 

 家族の無事を願うなら、ちゃんとケジメをつけてこい。

 

 鉄華団残党で構成された〈ハーティ小隊〉も、ライド率いる少年兵集団〈マーナガルム隊〉も、みな兄弟のように思っている。エンビもそうだ。ヒルメだってもちろんそうだ。

 ともに戦う仲間なのだから『喧嘩はとことん』は鉄則である。気に入らないことがあったときには腹を割るなり拳で語るなり、わだかまりを残さないよう当人同士で解決しなければならない。仲間同士のコミュニケーションは「俺はお前の背中を撃たない」という意思表示になるが、逆も然りである。

 結束力と戦闘力だけが取り柄だ。以心伝心の連携こそが武器だ。鉄華団は、〈マーナガルム隊〉もまた、そうして戦ってきた。

 だけど高級男娼(あいつ)らは同胞じゃあないんだとエンビは突き放してみせる。

 俺のせいにしていいからお前はこっちへ戻ってこい、と。

 暗に圧力をかけて、エンビは踵を返した。

 

「……冷めないうちに弁当配ってくるわ」

 

「ああ、心配かけて悪かった」

 

 背中にぶつかる謝罪にもエンビは振り返らなかった。

 見送ったまま立ち尽くして、ヒルメは静かに瞑目する。鉛のような疲労感があった。

 あんな言葉をエンビに吐かせたくはなかった。学校で諜報任務で繰り返された自己否定に疲れきった兄弟に。

 

 みな居場所を奪われ、生き方を否定され、未来を失った同胞だ。それでも、復讐よりも仲間の安否が心配でここにいるヒルメにとって、優先順位は『エンビ>リタ』で揺らがない。

 家族を守りたくてここにいる。

 そのために、捨てなければならないものもある。



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008 代償

 アルミリア・ボードウィンは、明日にも月面基地(こちら)へ到着するという。

 

 海賊討伐作戦を無事に終え、しばらくぶりに帰還したジュリエッタが耳にしたのが件の噂話である。

 ボードウィン卿の妹君は火星へ留学していると聞いていたが、なぜ彼女が月へ……? ――疑問を抱いても、一体どういうことだと部下に問いただすわけにもいかない。ここ月面基地はギャラルホルン最大最強の艦隊アリアンロッドの本拠地。ジュリエッタ・ジュリス准将はその司令官だ。というのに、要人が訪れてラスタル・エリオンと会談するという重要事項を偶然、しかも部下の噂で耳にしただなんて。それでも統率者かと笑われてしまう。

 凛々しき女騎士と持ち上げられても、やはりそんなものかと諦観が胸に押し寄せる。

 

「まったく……、一体どれほど民間出身者を信用しない組織なんでしょうね!」

 

 心の中にはしまいきれない毒を独り言で吐き出して、ジュリエッタは孤独にくちびるを噛んだ。地位に見合った情報が与えられない悔しさが消化不良をおこして、愚痴を吐いたくらいでは胃のあたりのむかむかがおさまらない。

 桟橋に停泊しているエリオン家のスキップジャック級戦艦〈フリズスキャルヴ〉をガラスごしに眺めながら、ジュリエッタは貴族院との距離感を何度でも実感させられるのだ。

 

 威風堂々と赤いヨルムンガンドの紋章を見せつける巨躯は、ジュリエッタが指揮官をつとめる月外縁軌道統合艦隊〈アリアンロッド〉の旗艦である。

 だが、いかにアリアンロッドの船といえど、艦長席に座るのは代々エリオン家にお仕えしてきた家臣のみと決まっている。ボードウィン家の専用艦〈スレイプニル〉にも同様に、セブンスターズの当主や嫡男が座乗する艦船には定められたクルーがいる。艦長だけでなくオペレーターにメカニック、執事、メイド、シェフ、仕立て屋にいたるまで、みな生まれたときからそのように教育されるのだという。

 主人の戦艦を預かるためだけに産まれて生きる専従者がいる以上、ぽっと出のジュリエッタなどが横取りするわけにはいかない。

 マクギリス・ファリドが目指した『誰もが等しく競い合う世界』を本当の意味で実現されてしまっては、彼らはたちまち路頭に迷ってしまう。

 エリオン家とは無関係にラスタル個人の私兵であったジュリエッタは〈マクギリス・ファリド事件〉を受けて正式に『准将』という階級を得たが、それだってギャラルホルンという組織は公平、平等に改革されたのだから文句を言うなと地球外出身者を黙らせるためのプロパガンダにすぎないのだ。

 ジュリエッタが〈ガンダム・バルバトス〉の首級をあげた一幕は、ギャラルホルン・ドリームとして喧伝された。

 

“地球経済圏、コロニー、圏外圏の出身者でも()()()()()()()ことができれば出世がかなう。”

 

 それが新しい〈秩序〉だ。あの戦場で殺されまいと抗い続けたチンピラどもの存在などきれいさっぱり消し去って、ラスタル・エリオン公の威光のもと再編されたギャラルホルンは『悪魔の首さえ手に入れれば』という条件つきで、誰もが等しく競い合う新体制を実現してみせた。

 金品の贈答による口利きを排除し、ベッド・テクニックで成り上がった淫売を決して赦さない。

 新たな方針が示されたおかげで兵士の士気はより向上し、各部隊は対ガンダム戦を視野に入れた対策をはじめた。

 旧来の作戦にしがみついていたこれまでの部隊が、新しい作戦を立案し、我こそは出世の引き金に手をかけようと奮い立つ。ガンダム狩りという椅子取りゲームはギャラルホルンをより強く、より豊かに作り替えていく。

 みな向上心が強く、限られた上役のポストを求めてよく働くので尖兵として有用ではあるが……、これが『民主的』だというなら、おそろしいことだ。

 地球経済圏からの出資で成り立っている以上、ギャラルホルンにも予算というものがある。生活レベルを一定に保つためには、兵士が増えすぎては困るのだ。必然的に、人数を調整する必要が出てくる。ゆえに不運なパイロットたちに()()()戦死してもらうことで現状を維持する。

 さいわい、戦場では死因が何であれ戦没者として処理してしまえる。整備不良の〈グレイズ〉を割り当てられた兵士たちは、思惑通り戻らなかった。

 ずっとそうだった。昔からそうらしいのだ。

 生け贄たちには使えもしない武器を与える。これから鎮圧するコロニー労働者でも、膿であると断罪されたギャラルホルンの兵隊たちでも。削減されるときは必ず兵器がそばにある。ジュリエッタが初陣を飾ったときには既に慣習化していた。

 味方からも多少の被害が出ないと角が立つから――という理由で散らされていった数多の命。足の動かない〈グレイズシルト〉が、燃料不足の〈レギンレイズ〉が、〈ガンダム・バルバトス〉の前に差し出されては狩られていくさまを、同じ戦場で見届けた。不要になった機体ごと〈ダインスレイヴ〉の餌食になったパイロットたちは、そういえば火星の出身だった。

 あのときジュリエッタが〈ガンダム・バルバトス〉の首を預かったのは、イオク・クジャン公が討ち死にしてしまったからだと思っていた。代役をつとめたつもりだった。

 だが、違ったのだ。シナリオは最初からジュリエッタの勝利と決まっていた。

 悪魔討伐であるべき鉄華団殲滅作戦に〈ガンダム・キマリスヴィダール〉は姿も見せず、作戦は火星支部の〈グレイズ〉と月外縁軌道統合艦隊の〈グレイズシルト〉を動員して行なわれた。

 そして〈レギンレイズ・ジュリア〉が悪魔(ガンダム)を討って、前代未聞の大出世を果たした。

 出身地がどうあれ実力によって成り上がることは可能なのだと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()たちの鼻先にエサとしてぶら下げられた格好である。ジュリエッタ・ジュリスはMS(モビルスーツ)操縦の腕()()でここまで成り上がれた。だから、戦闘技能さえあれば出世はかなう。ゆえに、出世ができないのはお前の努力が足りないだけだ。……という、自己責任論に転嫁してしまったのだ。

 根強いカースト意識によって〈ヴィーンゴールヴ〉外出身者がおざなりな待遇に甘んじねばならない現状は、何も変わらないまま。

 

 明日にもここへたどり着いてしまう彼女は、知っているのだろうか。

 ファリド家のガンダムフレームである〈ガンダム・アウナス〉を別名義で買い取ったのは妹のアルミリアだ――という情報はガエリオとの雑談の中から得ているが、軍部の内情を詳しく知る術をアルミリアは持っていないはず。

 アリアンロッドの職域で暗躍する『白いガンダムフレーム』の噂はジュリエッタのもとにも届いている。(フェンリル)をかたどったノーズアートも。エイハブ・ウェーブの固有周波数がアウナスと一致することも。

 

(ラスタル様は、また新しい生け贄を用意されたのか……)

 

 もしもアルミリアが護衛にガンダムを連れてくるなら、格好の的になる。ガンダムフレームと聞けば目の色を変えて前線配備を願い出てくる部下は数知れないだろう。今や『悪魔の首』は出世の夢を叶えてくれるアイテムだ。

 海賊討伐作戦とあれば、ガンダムを秘蔵しているかもしれないと志願者が集まるようになった。密輸の取り締まりと聞けば、ガンダムの首があるかもしれないと兵士が出撃許可をあおいでくる。

 マクギリスが蜂起し、革命を鎮圧すれば()()なるとラスタルはあらかじめ読んでいたのだろう。

 どうやら十年以上も前から両者は互いを利用しあっていたらしい。

 厄祭戦後三百年が経過し、英雄たちは老いていき、ギャラルホルンは年月とともにそのありようを変えていった。その漸進的変化は権力の()()だとして、原点回帰を叫んだのがマクギリス・ファリドのもとに集った革命軍だった。

 しかし体制とはシステムであり、時代に適した形に変化していくものだ。そうすべからくして、常に()()()されていく。現体制を刷新するという意図こそ『革命』かもしれないが、旧時代の価値観へ押し戻そうとするならば、それは退化をうながす『保守』の悪例である。

 革命を騙る強硬保守派を組織の膿として殲滅すれば、ギャラルホルンは真の革新を得るだろうと預言したのが賢君ラスタル・エリオンだった。

 

 

“生まれや身分に頓着せず、身の丈にあった立場で生きることが人類の幸福につながる。”

 

 

 マクギリスとラスタルの革命思想は、言葉にすればぞっとするほど似通っていて、言葉を綴ることの恐怖をジュリエッタに見せ付ける。ギャラルホルンが守護している『世界』とは一体何なのかを、改めて実感させられるようだった。

 人々の心の安寧を、世界の法と秩序によって守るのがギャラルホルンのつとめだ。

 欲をかけば天罰が下り、献身が報われる〈法〉のもと、努力は必ず実を結び、怠惰であれば失墜する〈秩序〉を守る。公正なる世界において、被害者は必ず悪人でなければならない。何の落ち度もない犠牲者が出てしまうようでは、善良な市民が安心して暮らせないからだ。

 罪なき者には幸福を。

 罪ある者には断罪を。

 すべての犠牲に罪状を――そして非のない民に火の粉が降り掛かることは決してないという約束を。

 

 そういう法と秩序を、ジュリエッタは守っている。

 

 だから祈る。どうか悪魔を(ここ)へ連れてきてくれるなと。

 英雄ガエリオ・ボードウィンの妹としてではなく、逆賊マクギリス・ファリドの妻として生きたかった乙女の志が手折られてしまうさまを、せめてこの目で見たくはない。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 旗を振るマーシャラーの誘導に従い、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉はつつがなくドックに侵入する。左右から伸びてきたアームが船体側面をつかまえて、穏便に停止した。

 さすがギャラルホルン月面基地の軍港だけあって規模、設備ともに〈方舟〉の比ではない。

 エアロックが順繰りに閉じていき、エリア内が大気で満たされたことを示すグリーンランプが点灯する。誘導灯を振っていたマーシャラーたちもヘルメットをとって敬礼してみせると、低重力をふわりと泳いでそれぞれの持ち場へ戻っていく。

 重力は、そして1Gへ。

〈セイズ〉からフロアへとタラップが差し伸べられる。

 ライドのエスコートでアルミリアが姿を見せれば、月外縁軌道統合艦隊〈アリアンロッド〉の兵士たちが最敬礼で出迎えた。やはりボードウィン家の名のせいだろうか。兵士たちのうやうやしい歓迎に左胸に手を当て返礼しつつも、アルミリアは複雑な気持ちになって目を伏せる。

 

 かつて『エドモントンで亡くなった』と知らされた兄は――ガエリオ・ボードウィンは、音信を絶っていた二年間、このアリアンロッドに身を寄せていたという。

 ファリド家に続いてボードウィン家をも乗っ取らんと画策していた逆賊マクギリスを摘発し、ギャラルホルンを守ったと語り継がれる、新時代の英雄。もう戦わないと決意をかため、今も〈ヴィーンゴールヴ〉で静養しているのだろう兄は、アリアンロッドの指揮官であるジュリエッタ・ジュリス准将との結婚も噂されている。

 司令官の未来の夫の妹にあたるアルミリアにも最大の礼を尽くす必要があるのだろう。七家の合議制が廃止された新体制のギャラルホルンにおいてもセブンスターズの権力は揺るぎない。

 だがアルミリアにとって、アリアンロッドは仇にも等しい存在だ。

 エドモントンで兄は亡くなった、そう伝えられたとき、アルミリアは偽物の遺体を前に目が溶けるほど泣き続けた。

 実は生きていたことを、どうして教えてくれなかったのか。アルミリアにはわからない。どうして地球本部〈ヴィーンゴールヴ〉の地下祭壇に偽物の〈ガンダム・キマリス〉を格納させ、家族の目を欺いてまで隠す必要があったのか。わからない。今でもわからない。エリオン公がそのように取りはからったのだと父に兄に言い聞かされて、納得したふりこそしたけれど。

 知らなくていい、わからなくていいと突き放された心は、どこへも行けないまま冷たく凍りついて、この世界を支配する〈法〉と〈秩序〉への復讐心になった。

 

「長旅ご足労だったな、アルミリア嬢」

 

 そして人垣を割るようにして現れた仇敵を前に、アルミリアは淑女然と一礼してみせる。

 かたわらで秘書に扮するライドを興味深げに一瞥したラスタルは、事務的な直立姿勢を崩さない若き傭兵に向けて「道中いかがだったかな」と投げかけた。

 瀟洒なスーツ姿のライドは黙礼に撤して応じない。ここで会談を行なうのはアルミリアだ。

 

「今しばらく楽しんでいたい旅でしたわ」

 

「ずいぶん財を(なげう)たれたのではないかな?」

 

「実り多い投資をさせていただきました。ラスタル様のお慈悲に感謝します」

 

 にこりと屈託なく笑んでみせ、ラスタルとともに桟橋を見遣る。ファリド家のハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉。消さずに残されていたフェンリルの紋章を見て、アルミリアは両手を胸に組み合わせた。ああ、無事だったのだと思えただけで胸に郷愁が押し寄せてくる。

 セブンスターズの合議制が廃止とされた折り、ギャラルホルンには『統制局』『監査局』『警察局』『総務局』にくわえて『貴族院』という部署が新設された。エリオン、ボードウィン、バクラザン、ファルク四家とその使用人たちのための所属局だ。(ボードウィン家の〈スレイプニル〉の乗組員たちは艦長からオペレーター、給養員に至るまで、統制局から貴族院へ異動になったという)

 取り潰しになった家々の艦船はナノラミネート塗料を上塗りされ、一般の部隊へ下賜される運命にあった。

 叶うのならばフェンリル・ブルーの紋章を戴く艦船はすべて引き取りたかったし、贅沢を言うのならイシュー家のガンダムフレームとカルタの座乗艦〈ヴァナディース〉も丁重に保護したかったのだが、間に合わずクジャン家の戦艦もろとも改修を施され、エイハブ・ウェーブの固有周波数という、アルミリアには知り得ようもない数字でしか見分けのつかない遠方へ遣られてしまった。

 せめて夫の形見だけは、彼の最期の足跡をたどるものだけでも手に入れることができて、よかった。

 みんなのおかげで、取り戻せたのだ。アルミリアひとりではどうにもならなかった願いを、みんなが力を合わせて叶えてくれた。

 どうしようもなく胸がいっぱいになって、祈るように組み合わせた指先で感慨をぎゅうと抱きしめる。

 

「ご所望のバエルは〈ヴァナルガンド〉のMS(モビルスーツ)デッキだ。確認を?」

 

「確認なら、手前の整備士に行なわせます。つきましては、火星の共同宇宙港〈方舟〉へ運ばせていただきたいのですけれど」

 

「それはできんな」

 

 ばさり、ロングコートが翻る。

 ラスタルの片腕が持ち上がれば、銃を持った兵士がずらりとアルミリアを取り囲んだ。ライドがさっとアルミリアを背後にかばうが、……ご丁寧に退路は残されており、アルミリアの殺害ではなくラスタルの護衛という体裁をとっている。

 

 銃口の数は十二。

 

 この状況でライドが銃を抜くのはまずい。秘書ではなく護衛の傭兵であることは現段階でラスタルにしか気付かれていない。うかつに武装を明らかにすれば、射殺の口実を与えるだけだ。

 

「これは一体どういうことですか、ラスタル様!」

 

 アルミリアが気丈を装って声を張る。怯えをおくびにも出さないのは、さすがボードウィン家の御息女というべきだろう。

 確かにこのタイミングで警戒するのは商人としておかしい。仮面をかぶっていなくとも、今のアルミリアはプライベートで管理・運営している武器商〈モンターク商会〉の代表であり、今は取引先との会談中だ。

 かたや火星随一の武器商人、かたや法と秩序の番人。モンターク商会側は提示された金額通り、約束通りに支払いを済ませたのだから、ここで交戦の構えを見せることはラスタル・エリオン公の遵法精神を疑っていることになる。

 渡すつもりのない商品を取り引きに出し、金銭を騙し取るなど、あってはならない蛮行だ。商人にとっては一生ぶんの信用をも失いかねない不義理である。

 ……それとも善も悪も行なうラスタル様なら詐欺行為もやるのか。

 

 今のギャラルホルンの『英雄』はガルス・ボードウィンの息子ガエリオ・ボードウィンが取って代わり、三百年前に群雄の長であったアグニカ・カイエルなど創世神話の登場人物にすぎない。ガンダムフレームもまた過去に葬られた骨董品に成り下がり、もはや維持費ばかりかかる無用の長物のはずだろう。蔵の中にあるだけでよかった一点モノのアンティークは、持っていてもメリットのない金属塊になった。

 ラスタル・エリオン公の主導により生まれ変わった新生ギャラルホルンにおいて、三百年前の伝説など何の意味も持たないはず。

 

「〈ガンダム・バエル〉――、その新たな持ち主は不運な最期を遂げるだろう」

 

「……ど ういう、意味です……?」

 

 わたしを殺して、接収しようというわけですか。ふるえそうになる声を叱咤して、アルミリアは細い脚を踏ん張る。トドやライド、子供たち。火星で雇い入れた仲間が働いて、稼いで、用意してくれたチャンスだったのだ。

 アルミリアのために、トドが貯金をしていてくれた。マクギリスの最期はハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉による特攻だったと伝えてくれたのも彼だった。

 この月面基地まで無事に送り届けてくれた年若い傭兵たち。戦闘もそれ以外の仕事も、みな嫌な顔ひとつせず、ふたつ返事でこなしてくれた。鉄華団という、生前のマクギリスが高く評価していた少年兵集団の生き残りだ。彼らの献身を、無碍にするわけにはいかない。

 万事休すかとくちびるを噛みしめた、そのときだった。

 凛と甲高い声が降る。

 

「アルミリア様!」

 

 はっとふりあおげば、タラップを転がるように駆け降りてくる少年の姿が目に飛び込んできた。淡い金髪はふわりと場違いなほどやわらかく、光源の少ないドックでさえきらきらとまばゆい。

 リタだ。

 

「こちらへきてはだめ!」

 

 制止も聞かず、銃口には目もくれず、アルミリアめがけて一目散に走ってくる。飛び込んできた小さな体をとっさに抱きとめると、ああと一度強く抱きしめた。

 アルミリアが外へ出るとき、非常用シャッターの点検を兼ねて隔壁を一度デフォルト(もと)に戻したから、そのとき逃げ出してしまっていたのだろう。部屋で待っているように言い含めておいたけれど、もう十日も窮屈な思いをしてきたのだ。言うことを聞けなくてもしょうがない。

 膝をついて、言い聞かせるように頬を撫でる。ライトグリーンのおおきなひとみが、心細くうるんで揺れている。

 

「リタ、ここは危険なの。みなさんと一緒に待っていて」

 

「危険ならなおさらアルミリア様を置いていけない。一緒に帰りましょう? ねえ、帰ろうよ」

 

 アルミリアとライドの手をひとつずつつかみ、ぐいぐいと引っ張る姿は両親に甘える幼子のようだ。――が、不意にびくりと肩を跳ね上げた。

 彫像ように固まってしまったリタの視線を追って見上げれば、ラスタルと目が合う。

 

「ほう?」と検分するように、ラスタルがあご髭を撫でた。「これは驚いた。マクギリスのクローン……ではないようだが、実によくできた代替品(みがわり)だな」

 

「いいえ、この子はこの子です! 誰の代わりでもありません。いたずらに信頼関係を損なう発言はお控えになってください」

 

「言葉を返すようだが、その程度で壊れる関係しか築けなかったあなたの至らなさを転嫁されても困る」

 

「詭弁を……っ」

 

「図星を突かれ、詭弁だとレッテルを貼るしかできない――、まったく子供の屁理屈だな」

 

 アルミリアはただ押し黙って、畏怖に身を硬くするリタを抱きしめる。

 その姿に、ラスタルは失望を禁じえない。

 

(……マクギリスに似ていると思ったが、……)

 

 少なくともマクギリスは、人前で弱さを見せるようなことはなかった。幼い子供のころからだ。ひとりでいれば孤高に、親友ガエリオとふたりでいれば親しげに、他者に囲まれていればまるで崇拝を集めているかのように見えた。

 イズナリオ・ファリドに見初められて〈ヴィーンゴールヴ〉に持ち込まれ、愛玩動物(ペット)から養子へ、後継者へと大出世を果たした元男娼。幼少より目をみはる美貌の持ち主だったが、容姿のうつくしさに反発するかのように媚びず、飾らず、みずから粗野な印象を与えようとするかのような立ち振る舞いが実に特徴的だった。

 七星会議におもむく養父が見せびらかすように同伴していたときでさえ、片手には必ず本を携えていた。

 法を学び、秩序を糧とし、その明晰な頭脳をもってギャラルホルンの現状を打破しようとした。イズナリオ・ファリドのような搾取者が二度と現れないよう、世界そのものを変えてしまいたかったのだろう。二十年にも渡る略取の日々を耐え抜き、アグニカ・カイエルの提唱した本来のギャラルホルンを取り戻そうとあがいてみせたのだから、見上げた反骨精神である。

 手段さえ見誤らなければ、もう少し野放しにしてやっても構わないとラスタルは常々思っていた。

 

(これではマクギリスも鉄華団も浮かばれんな)

 

 同じく光彩脱目の美少年だろうに、リタは自身の魅力が通用しないラスタルを本能的に震えおののき、その恐怖を隠そうともしない。

 怖がってみせれば甘やかしてもらえるとでも学習したのかもしれない。みずからの容姿がいかに愛くるしいかを自覚し、より可愛らしく見えるよう計算ずくで振る舞っている。ラスタルではなくイズナリオの前であれば、喜んで尻尾を振ったのだろう。

 嫌悪をあらわにこそしないが侮蔑を含んだラスタルの眼光に戦慄し、子鹿のようにふるえている。

 何とも情けない姿だ。かたわらで虎視眈々と反撃の機会をうかがっている鉄華団残党のほうがよほど気概ある青年ではないか。

 旧友に代わって取り立ててやった赤毛の傭兵は、今も脱出か報復かを天秤にかけ、知恵をめぐらせている。雇用主もろとも全滅してよしと判断すれば迷わずラスタルの喉笛を噛み切るのだろう。

 アルミリアの秘書らしく殊勝にスーツをまとい、必要とあればギャラルホルンのパイロットスーツに袖を通してMSを駆る宇宙ネズミ。阿頼耶識システムの恩恵もなくガンダムフレームを操る技能まで備えている。

 平静をよそおうグリーンアイズが、奥底では復讐心に爛々と煮えているのがラスタルにはありありと伝わってくる。

 だがお荷物がふたりに増えた今、彼は報復を断念せざるをえない。

 大人になれなかった愚かな子供らにはじめて覚える感慨。それは同情だった。

 撃ち方、構えよと合図する。

 

「哀れな逆賊の妻よ。せめてファリドの名ともに送ってやろう」

 

「あなたはっ……ボードウィンの名に傷がつくのがお嫌なのでしょう! イエスマンだけの軍隊に『個』はいらない、そうお考えなのでしょうっ」

 

「組織は個性を主張する場ではないのだよ、アルミリア嬢。作戦に個人の情を持ち込む兵士は障害になる。『個』は集団の和を乱す。肥大した個はやがて、世界を蝕む膿となる」

 

 火星支部の汚職も、地球経済圏との癒着もすべて、自分だけが甘い汁をすすろうとする『個』が引き起こしたものだ。ギャラルホルンの威信を傷つけ、恥部とまで呼ばれたアイン・ダルトン三尉の動機も私怨だったという。

 自分ひとりだけでも目的を遂げようとし、その手段を選ばぬような兵隊は、ギャラルホルンに必要ない。何事も定められた手順を踏み、組織や上官、恩人の名誉を傷つけぬよう配慮すべきだ。上位者から許諾を得、周囲から認められた上で行なわれなければ反発が生まれる。ラスタルではない、ギャラルホルンの法と秩序が黙っていないだろう。

 絶対であるべき組織の瑕疵を、守られるべき人々に晒すのは悪手である。

 軍閥と言えどギャラルホルンは所属する個人の集合体であり、ひとりの罪を摘発すれば、外部から『罪の集合体』と見なされてしまう。

 すべての罪を暴かずとも、隠しておいたほうが穏便に済むものは隠せばいい。誰もみな安心したいのだ。ギャラルホルンという圧倒的軍事力の庇護のもと、世界は平和であり続けると。安寧を夢見ていたいのだ。ひとりが黙って耐えれば済んだものを、わざわざ露呈させようなど、まったく馬鹿げている。

 これから刷新する組織の汚職を公にし、ただでさえ失墜していた経済圏からの信用を完全に失わせようとしたマクギリスのやり方は、ラスタルに言わせれば稚拙でしかない。「俺を搾取した大人はこんなに汚いやつらだった」と被害者ぶって泣き叫んで、自分に酔っている子供のヒロイズムだろう。実に滑稽だ。

 力のない犠牲者にはせいぜい我慢させておけばいい。

 やがて不満が爆発するころ武器を卸し、見せしめに一掃してやれば世界は『ふたたび安寧を手に入れた』と実感できる。テロリストの反乱と、鉄槌を下すギャラルホルン。ここは公正な世界であるというイメージこそ、民衆が求める安らぎの姿だろう。

 ノブリス・ゴルドンに取って代わってやると息巻き、マクギリス・ファリドの革命思想を引き継いでなお、モンターク商会の仕事はどちらの真似事も中途半端なまま。

 だから子供だというのだ。

 ふたたびギャラルホルンの信用に傷をつけるならばアルミリア・ファリドもまた膿として断罪せねばならない。

 

「……賢明な兄には似れば長生きできたものを。こうまでマクギリスに似合いの娘だったとはな」

 

「本望ですわッ!」

 

 知らずリタを抱きしめる腕に力がこもる。どんな言葉を綴ろうともラスタルまでは届かない。叫びはことごとく打ち消され、否定になって打ち返されてくる。

 ついにあふれそうになった涙を隠すように、リタが腕の中でみじろいだ。

 もがくように抜け出して、アルミリアの前で両手を広げる。

 

「やめろ! アルミリア様をいじめるなっ……」

 

 立ちはだかって壁になるにも、小さな子供ではあまりに頼りない。だが、図らずも細く短い両腕をめいっぱい伸ばし、両手のひらを見せていれば、非武装であることは明らかだ。傭兵が同じことをやれば問答無用で射殺されていた。

 この子供も、そこまで計算ずくではなかったろうが。

 

「よく躾けられた騎士(ナイト)だな」とラスタルは鷹揚に笑うと、痛ましげに目を眇めた。「だが、可哀想に。洗脳を受けているようだ」

 

「え…………?」

 

「彼女は君に本を与えなかったか? アグニカ・カイエルの伝説――いや、鳥の図鑑だ」

 

「……っ ――?」

 

 明らかに動揺する幼子は、金髪碧眼の容姿ばかりうつくしく、努力もすべて胡麻擂りに使い果たして頭の中は空洞らしい。希有な美貌に甘えた、なんとも愚かな子供だ。

 憐憫に目を細め、ラスタルはゆるやかにとどめをさす。

 

「やめてください、ラスタル様! どうか!」

 

「哀れなマクギリス・ファリドの代替品、きみは、きみ自身の役割をよくわかっているのではないかな?」

 

「リタ! 耳を貸してはだめ!」

 

 アルミリアの呼び声も虚しく、白い頬はみるみる青ざめ、あどけないひとみが絶望に染まる。広げていた両手がぱたり、力を失って落ちた。

 

「あ……ぁああ………っ」

 

 男娼としての生き方を、アルミリアによって否定されたことは事実なのだ。

 仕事を失ったら生きていけないのに、仕事をさせてくれないアルミリア。あたたかい食事を振る舞ってくれるし、清潔なベッドを用意してくれるし、絵本を読み聞かせてくれる。

 でも、九人いる金髪の子供みんなに、アルミリアはいつも平等だった。

 客をとれば、みんなリタを特別だと言ってくれたのに。透明感のある金髪も、くすみひとつない白い肌も、これは稀少な品物だと珍しがった。緑色の双眸をのぞき込み、こうも明るいライトグリーンが人間に現れるのは希有なことだと称賛した。なのに。

 モンターク商会では誰もリタを可愛いと言ってくれない。特別きれいだと誰も言ってくれない。アルミリアも、ライドも、エンビもヒルメもトロウもみんな、リタを他の子供と同じに扱う。

 以前、夕食を囲むためにと宇宙から降りてきたという少年兵たちは、リタよりも年上なのにヒルメやトロウに抱っこしてもらっていて、仲間同士でも車いすを押しあっていて、――うらやましかった。仕事をして、アルミリアやライドに褒められ労われているあの椅子に座っているのが、どうしてリタではないのだろうと泣きたくなった。

 あんなふうになれたらいいと思う。でもわからない。仲間なんていない。同世代の友達なんて知らない。リタの仕事はひとりで呼ばれていくものだ。みんなでやる仕事じゃない。

 リタだって、リタだってああやって頭を撫でて褒めてほしいのに。彼らと同じ戦う仕事ができる体(アラヤシキ)にもしてもらえない。

 

「愛しているわ、リタ。あなたはあなたよ。聞いて、怖いことは何もないの、リタ」

 

 上滑りする言葉は涙に歪む。アルミリアが捧げようとする無償の愛は、リタだけのものではない。

 アルミリアの好きな人はリタじゃない。一番大切なのも、特別に愛しているのも、リタじゃなくて『マクギリス』だ。

 

 リタは高級男娼だが、火星では十六歳未満、地球では十八歳未満の売春が禁じられている。(木星圏なら制限はないが、あちらでは店主が女を貸与する商売だ)

 幸か不幸か火星では、法と秩序の目をかいくぐり、偶然見目うるわしく生まれただけの子供たちが略取され続けていた。

 そうした現状を憂いて、モンターク商会は少年男娼たちの身柄を売春宿ごと買い取った。もしも違法な売春が発覚すれば、売ったほうも買ったほうも有罪になり、食い物にされただけの子供たちまで未来を奪われてしまうからだ。

 幼い日のマクギリスを救いたい代償行為だったかもしれない。それでもどうか幼い子供たちが罪に汚されてしまう前にと、傭兵を使って私刑を執行もした。

 

 しかし、リタはいつだって現実を受け入れてきた。未来など望まない。明日よりも今日、今、誰かに抱きしめてほしいのだ。

 だって、いつまで愛してもらえる容姿のままいられるかわからない。

 愛してくれるなら誰でもよかった。褒めてもらえるのならどんな仕事だってやる。稀少な金髪碧眼だけが取り柄で、成長してしまうまでというタイムリミットがリタにはある。美少年でいられる今のうちに体を売って、一生ぶんの愛を買わなくてはならない。

 リタはだから、とても従順で、いつも人形のように大人しい。絶えず現実を憎み、疎み、怒りの中で変革を望み続けたマクギリスのような強靭な野心は持っていない。思想など持ったこともない。何をされても嫌がって泣いたりしない。逃げたりなんか絶対しない。血を流しても痛くないふりでにっこり笑って、ありがとうございますと温情に感謝してみせる、大人に都合のいい子供であり続けた。

 この世界に適応し、順応して平穏に、生きることが赦されているはずだった。

 

「みずからの罪を暴かれるのが怖いか?」

 

 支配者はすべてを見通して、憐れむように眦の皺を深くした。




長くなったので分割します。

【一方その頃(?)】
「なぁ聞いてくれジュリエッタ。妹がな、ポリティカルコレクトネスとか、フェミニズムとか、ポストコロニアリズムとか、何やら難しいことを言いだすんだ。アルミリアは女の子なんだから、もっとこう、一歩下がって男を立てるような……そうすれば再婚相手だってすぐに見つかる。いや、十八で再婚は気が早いか。あいつには今度こそ恋愛結婚をしてほしいしな」
「はぁ」
「それはそうと、次の任務は? 食事をしていく時間はあるんだろ?」
「肉を所望します」
「君はいつもそれだな!」


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009 リタ・モンターク

「みずからの罪を暴かれるのが怖いか?」

 

 世界すべてを見下ろすように、ラスタルは憐れみの目でもってアルミリアを睥睨した。

 

「わたしの罪など……、すべてはあなたの思うままになるのでしょう! 旧態依然とした組織を守るため、セブンスターズの豊かさを維持するためなら、あなたはどんな罪をもでっちあげてしまわれる……!!」

 

 アルミリアが忘れるはずもない、〈マクギリス・ファリド事件〉なんて、ひどいものだった。今だって思い返すたび悔し涙があふれてくる。

 調べてみれば、証拠はひとつだって出てこない。鉄華団はマクギリス・ファリド()准将の指示のもと、破壊や虐殺を繰り返した犯罪集団である――という報道は、ギャラルホルンによる創作だったのだ。

 マクギリスはセブンスターズの当主たちを人質にとったが、ひとりだって手にかけていない。〈ガンダム・バエル〉が持ち出されたとき各家々のガンダムフレームを格納していた地下祭壇が一部破損したというが、格納庫はすべて電子ロックで、守り手はいなかった。現場からいくらも離れていないファリド邸に音も振動も響いてこなかった。革命軍のクーデターは、ギャラルホルンの〈法〉と〈秩序〉に則って行なわれていた。

 それでもマクギリスのやり方は間違っていたのか? 組織の膿だとして排除されなければならないくらい、間違っていたのか。

 

 被害者不在の濡れ衣を着せられ、世界から弾劾されなければならなかったのか。

 

 アリアンロッドがアーブラウ植民地域であるクリュセ郊外に〈ダインスレイヴ〉を撃ち込み、それを隠匿したのは、それが罪だという自覚があったせいだろう。当時アーブラウ代表をつとめていた蒔苗東護ノ介氏は領内への違法兵器解禁に難色を示したことは、東アーブラウの教養層が当たり前に記憶している。

 なおも革命の徒は『悪者』なのだと喧伝を続けた結果、地球圏では騙しきれなかった東アーブラウのみが反ギャラルホルンを叫び、対立は外から中へ。誘導されるがまま、民衆が抱いていたギャラルホルンへの不満は噴出しなくなった。

 鉄華団残党を今もそばにおいているラスカー・アレジ現代表は、ギャラルホルンが恣意的に創作した東西アーブラウの溝の板挟みになりながら、それでもアーブラウの民衆を守る政策をとり続けている。

 そして変わらない安寧を取り戻したのは、表向きの『合議制の解体』によって糾弾を逃れたセブンスターズだ。

 

アリアンロッド(あなたがた)のほうがよほど、罪もない人々を犠牲にしてきたっ……子供たちまで! あなたこそ、その罪を暴かれ、弾劾されるべきではないのですか!!」

 

「あなただって肉を喰うだろう。何の罪もない動植物を殺め、糧としてきたはずだが?」

 

 鳥の肉を、羊の肉を。食らって生きてきたはずだと。牛の肉はとても美味しい。そうしたすべての食肉に、命があり、親があり、子がある個体もいただろう。

 きっと、死にたくはなかった。

 しかし肉食は罪とされない。何故だ? それが『食用』であると免罪されているからだ。罪もない動物を殺めたのではないと、罪悪感を除く教育が行き届いている。

 皿の上のその肉は『食べ物』であるという文明の庇護下に生きているからこそ、食肉を調理し、切り分け、咀嚼し嚥下できる。食卓に並んだ皿を見て、いちいち罪なき命を奪ってしまった……などと自責に囚われてしまっては健全な精神が育たない。だから狩りのときには『獲物』と呼び、食卓では『肉』と呼ぶのだろう。

 生命倫理に縛られることなく、円滑に殺害できるように。

 

 戦場でも同じだ。あれは『敵』だと贖宥状を与えてやれば、兵士は迷わないで済む。火星は『出がらしの惑星』で、そこに生きるのは『労働力』だと教えてやればいい。あるいは大義のために排除すべき『悪』であると命令してやればいい。あるいは『獣』を狩れと宥免してやれば、赦された兵士たちは躊躇も罪悪もあっさり消し去り、意気揚々と『戦果』に手を伸ばすだろう。そこには負うべき罪も、責任も後悔もありはしない。

 

 死すべき運命の害獣が、運命に従って死んだだけだ。

 

 人はなぜ何の罪もない他者を殺めるのか、彼らを食い物にする権利があるのか――、そんな余計な疑念を抱き、思考にとらわれた者の人生に楽しみはない。肉を喰う隣人までもおそろしい加害者のように見えてくるだろう。

 嗜好品を見て、これも労働者の血と汗と涙の上にあるのだ……と悲嘆に暮れてどうなる? 食卓の肉を見て、この獣にも家族があり、事切れる寸前まで殺されまいと抗ったのだろう……などと想像してどうなる。

 罪悪感という足枷を引きずって進む未来は、閉塞感ばかりの暗闇だ。

 

 

「知らないほうがしあわせだということもある。みずから考えず、定められた規範に従うことで人類は安寧を手に入れられる」

 

 

 あなたもそうだろう。ここにいるみなが罪人であろうと、支配者は双眸を眇める。

 

「……お姫さん」

 

 脱出を。――ライドが静かに耳打ちする。

 ここで足止めされていたらアリアンロッド艦隊に囲まれてしまう。指揮権はジュリエッタ・ジュリス准将に委譲されており、ラスタルからの討伐命令が通っている可能性もある。モンターク商会ごとここで切るつもりなら充分ありえる話だろう。もとより長居は危険だ。

 逃げるなら今しかない。外にはヒルメの〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機が待ち構えており、ナノラミネート塗料が劣化しやすいカタパルトデッキを遠距離から狙撃できる。MS(モビルスーツ)での追撃を防ぐだけの時間稼ぎだが、ヒルメ機のガンカメラモード、ウタの操舵テクニックを合わせれば〈ルーナ・ドロップ〉側へ加速し、デブリ帯へ逃げ込める。

 背にしたタラップの向こう側ではエンビとトロウが待機している。アルミリアのアクセサリーに仕込んだ盗聴器のレシーバーごしに、今ごろ出てくる機会をうかがっているはずだ。ラスタルによる発砲命令にはエンビが射撃で返すだろう。エンビは〈マーナガルム隊〉の中で最もシューティングテクニックに優れている。

 打てる限りの手は打ってある。

 複雑な面持ちでうなずいたアルミリアのスカートにとりすがるように、リタが背伸びをする。小声で交わされる何事かから仲間はずれにされて不満なのか、アルミリアとライドを交互に見上げる。

 リタは、――想定外の荷物だが、ライドが小脇に抱えるしかないだろう。居住ブロックに閉じ込め、大人しくしているようヒルメが重ねて説得してくれたと聞いていたが、一体なぜ出てきてしまったのか……。

 アルミリアのロングスカートの中には発煙筒が仕込んであり、足払いのように蹴り上げて抱きかかえればスモークの中へ逃げることが可能だった。(ライドがジャケットの中に仕込んだ拳銃を抜くよりよほど安全だ)

 宇宙ネズミの空間認識能力をもってすれば視野の悪さなど大した問題ではない。だが、想定通りにアルミリアを抱えればリタを置き去りにすることになる。リタを抱えればアルミリアを誘導するために両手がふさがり、ライド自身が丸腰になる。

 せめて阿頼耶識使いをもうひとり連れていれば何とかなったのだが……、エンビはアーブラウ街頭のデモで演説したときテレビに顔が映ってしまっているし、トロウはトロウで秘書や黒服に擬態する芝居が下手だ。貴重な戦力であるMSパイロットをわざわざスーツに着替えさせて護衛につけるのは非合理的だからと、連れてこない選択をした。

 仲間は今、ライドの荷物を半分持ってくれる距離にはいない。

 

 横目にちらり、タラップを振り返る。アルミリアがライドの手をぎゅうと握った。

 このままアルミリアに足払いをかけてリタをひっつかんで、駆け上がって逃げ込むまで――うまくいって約十秒。スモークに乗じたエンビの援護射撃、トロウの誘導でタラップを引き上げて〈セイズ〉が発進するまで、……あわせて二〇〇秒あまりか、あるいは。

 つかまえた小動物でも観察するように見下ろしてくるラスタルと睨み合う膠着を、破ったのは銃声だった。

 

 ぱん、とかわいた音が一発、静寂を割る。

 

 息を呑む暇もなかった。スローモーションのように翻ったアリアンロッドグリーンのマント、まるでライドの心を先回りしたかのように、ばっと赤く弾けた鮮血。

 火を噴いた銃口は十二のうちのどれでもない。拳銃はラスタルの手の中で、細い煙をまとって揺れる。油断していた。

 眼前で紙のように吹き飛ぶ小さな体。荷物になると疎んじてしまったせいなのか、アルミリアの手は届かない。

 絹を裂く悲鳴が反響する。

 

 

「リタ――――!!」

 

 

 とっさに駆けすがった白いジャケットは、既に泉のような赤である。凶弾は薄い腹を貫通し、ライドの背後でフロアに跳ね返って赤い爪痕をひとすじ残す。

 

「リタ! しっかりしてっ……だれか、誰かお医者様を!! すぐに医務室を手配してください!」

 

 ひざまずいて抱き寄せれば、スカートは重たく濡れ、端から赤く黒ずんでいく。薄い下腹の風穴はどく、どくと断続的に血を吐き出させているのに、あどけない面影は、自身に何が起こったのかもわかっていないようすだ。

 弱まっていく脈動とともに赤は流出し、体温、血圧の低下とともに顔色は青白く褪せていく。真っ赤な口紅が、ごぼりと口内からあふれた。

 

「ァ…… ミ、ア さま、 」

 

 血の気を失ったいとけない両腕が、弱々しくも精一杯、アルミリアに向かって伸びる。今にも失われそうな命をつなぎとめようと、アルミリアはただ抱きしめることしかできない。どうか出血が止まるように、どうか。

 しかし血だまりは無機質なフロアにまるく広がり、十三の銃口に見守られたまま、リタはほうと安心したように微笑んだ。

 アルミリアにしっかりと抱きしめられた腕の中、静かな呼吸をふうと終える。

 息を引き取るそのさまは、まるで幸福の中で眠るように安らかだった。

 

「リタ…………?」

 

 どうして。これ以上なく満足そうに短い一生をしめくくった少年の頬に、あつい涙の雨が降る。アルミリアの悲しみだけが、蝋人形のような頬を滑り落ちていく。

 銃口の細い煙が絶えたころ、静かに口火を切ったのはラスタルだった。

 

「人間が真に奴隷となるのは、奴隷の鎖を外されたときだ」

 

 奴隷であったのだと教えられ、憐れまれて鎖から解き放たれ、さあ自由になれ――と命じられたとき、足枷以外の何も持たない自分自身に愕然とする。

 それこそ、人間が本当の意味で奴隷に成り下がる瞬間だ。

 少年男娼も、少年兵も。セブンスターズの子女も、その使用人も、みなそうだろう。選択肢という存在を知らない限り、いかなる人生もひとつの運命として成立する。高級男娼も、場末の売春婦も、傭兵も、ヒューマンデブリも。食い物にされているとは知らず、役目を全うしているという心意気で穏やかに永らえ、往生することが可能である。

 人には生きるべき世界がある。

 その世界を治める法と秩序に迎合し、適応しさえすれば、従順で聞き分けのいい『いい子』であり続けたならば()()()()()()幸福に果てることができる。

 火星のメディアでも教えていただろう。子供とは無邪気で愛くるしく、学校と勉強が大好きで、大人の言うことをよく聞くべき存在だ――と、すべての子供がしあわせになれる方法を。

 アルミリアの腕の中、赤い血に彩られたくちびるは満足そうにほほえんでいる。

 

「あんたは――っ」

 

 糾弾ではなく戸惑いを装って、ライドが身構えた。ここでラスタルを責め、詰るならば言葉による反撃とみなされ、撃ち殺す口実を与えてしまうというとっさの機転である。

 フロアに広がる血の海にひざまずいたまま、細く嗚咽をこぼすアルミリアを、いつでも引きずって逃げられる姿勢だ。抱えきれない荷物は捨てていける。傭兵として、ライドにはその覚悟がある。

 

「お前たちが望む世界では、()()だけではない犠牲が生まれるぞ?」

 

 お前にならばわかるだろうとライドを巻き込むように、ラスタルは眼光を剣呑に尖らせた。

 ……そうだ、ライドにはわかる。大人の道具として育ってきた少年兵、男娼たちは、いざ『普通の少年』であることを求められたとき、自身の生い立ちの異常さを知ってしまう。

 かつて火星では、男児は警備会社へ少年兵として、女児は花街へ娼婦として売られるのが常だった。誰も彼もそうであったから、それが『普通』だった。

 だが、両親のもとで作られた子供たちという比較対象を目の当たりにして、ライドたち少年兵は普通ではなくなった。誰からも望まれない『作られなかった子供』なのだと思い知った。学校を抜け出し、街に背を向け、スラムに逃げ込んで耳を塞いでいなければ、少年兵は害獣なのだと誹り、罵る声がやまない。

〈ヒューマンデブリ廃止条約〉調印以来、宇宙ネズミどころか少年兵すら少数派になった。

 ライドたちは生まれながらのテロリストだと誰もが()()()()()環境。居場所なんてどこにもない。これまで生きてきた人生とは、何の価値もない時間と資源の無駄だったのだと突きつけられて、同情され、憐憫を浴び続ければ、正気を保っていられる期間は長くない。魂を削り落とされ、砕かれて、過去はがらがらと音を立て崩壊していく。

 火星の孤児に限った話ではない。

 たとえばアルミリアつきのメイドたちは、ボードウィンに仕える家系の生まれである。男は執事になり、女はメイドになる。軍人にはならない。のちにエリオン家の艦長となる男も同じだ。のちにボードウィン家のメイドとなる女も。みな家々同士で血を交わし、先祖代々そのための教育を受けて育つ。主君と命運をともにすることが生まれる前から決まっている。

 父も母も、生まれたときから()()なのだから、疑問を覚えることもない。

 知りたいと願ったわけでもない奴隷に、現実の悲惨さなど教えてやる必要などないだろう。そのように生まれ、そのように生き、そうして生きていくのだから。

 

「そうやってっ……わ たしたちが……奪い続けた、からっ、リタはお父様お母様に抱きしめていただくことすら知らないまま……!! 幼いころから命を切り売りして明日を買ってっ、そうしなければ生きられない世界にしてしまったのは、()()()()()ギャラルホルンではないですか!」

 

 犠牲を生んだのがアルミリアだと言うなら、それは間違っていない。だってアルミリアはセブンスターズの一家門ボードウィン家の息女だ。

 子供だとか、獣だとか、膿だとか。火星人だとか、コロニー出身者だとか。都合よく理由をつけては無実の罪で処刑してきたギャラルホルンに生まれ、何不自由なく育ったアルミリアは確かに加害者のひとりだと、ふるえる声がみずからの罪を肯定する。

 火星など出がらしの惑星だと教えられれば、考えもせずそれを信じた。真偽など確かめようともせず、圏外圏に生きる人々を差別する言葉を鵜呑みにした。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()生きれば、幸福に生きて死ねるのだ――そんな価値観を上から目線で押し付けて、銃を突きつけ脅してきた組織に迎合してきた。

 ギャラルホルンは今もなお、自分自身が責任を負わない方向へと論点をずらしては安全圏に逃げ、みずからを正当化し続けている。身の丈とは何なのか、誰が何のために創り出したカーストなのか、そこにある『現実』を見つめようともしないで。

 罪のある存在だったから断罪されただけだと、自分の中の差別意識を相手の持つ属性のせいにして。都合のいい『真実』を創作し、運よく持って生まれてきた免罪符を後生大事に抱きしめて。

 そんな卑怯な〈法〉と〈秩序〉に守られて生きるのは、もうたくさんだ。

 

「どうしてギャラルホルン(わたしたち)はみずからの罪を隠し、偽りの罪で民間人(ひとびと)を罰しようとするのですかっ? 革命を『膿』と笑い、子供たちを『獣』と蔑んで、わたしたちが歩む未来に幸福は残るのですか……!?」

 

「それはあなた次第だな」

 

「指一本で子供の命さえ奪えるあなたが『あなた次第』だなんて、無責任だわ!」

 

「その子供は、あなたの監督不行き届きで死んだのだが?」

 

「あなたが撃たなければ失われなかった命です! あなたの兵士たちが、おひとりでもお医者様を呼んでくださればこの子は助かったはずでしょう!!」

 

「兵士というのは、あなたを接待する職務ではないのでな。それに、その体格で下腹を銃弾が貫通していては、救命は不可能ではないかな」

 

「お仕事じゃないから見殺しにされるだなんて、そんなのおかしいわ……! わたしにこの子を守りきれなかった罪があるから、あなたがこの子を撃った罪がなくなるなんてっ……」

 

「では……その少年のおかげで、火星の要人が四名も殺害された。彼らの仇だとでも言えばいいか?」

 

「それは…………っ」

 

 例の私刑のことだと、アルミリアは乱れた呼吸を詰まらせた。くちびるが引き攣る。モンターク商会は独自に少年売春を取り締まり、確かに民間人をも手にかけた。『現行犯』として見せしめにしたのだ。

 リタを囮として使い、ヒルメとトロウふたりの実動部隊が手にかけた政治家や医者、弁護士といったクリュセの要人たち――火星人だった。

 ギャラルホルンの高官を手にかけてしまわないようにと予約を締め切ったのはアルミリアの采配だ。

 もしも民間企業の男娼がギャラルホルン所属の将校を殺害したと公になれば、モンターク商会は強制査察を受け、廃業に追い込まれるだろう。そうなればライドたち鉄華団残党は処刑され、ギリアムたちヒューマンデブリは全員射殺され、リタたち高級男娼は逮捕される。

 現行法において、クリュセの十六歳未満の売春は売ったほうも買ったほうも等しく有罪とされてしまう。ヒューマンデブリもまた、所持していた罪を問われる。

 万が一にもモンターク商会が摘発を受ければ、子供を商品として売買・消費する加害者は野放しのまま、被害に遭った子供たちだけが一方的に未来を奪われてしまう。

 そうならないための選択は、おのずと『殺していい相手』か『殺してはいけない相手』かの振り分けになっていた。

 

「殺害現場は凄惨を極めたそうだ。従業員や警官が何人も離職している」

 

 むろん、執行人をつとめた傭兵が血液や臓物をぶちまけたまま現場を去ったせいで、だ。

 よく訓練された暗殺者(ヒットマン)が、微塵の躊躇もなく、積年の恨みを晴らすかのように蜂の巣に変えた肉の塊。

 銃弾一発を腹に食らって眠るように旅立った少年(リタ)の最期とは比べ物にならない、それはひどい死に様だったろう。ホテルの従業員やクリュセ市警のような、遺体を見慣れていない善良な民間人にとっては正視に耐えない惨劇だった。

 私刑を執行するとき、傭兵はなぜ迷わなかった? 被害者を庇護し、加害者を断罪するという大義名分があったからだろう。手慣れてもいた。傭兵たちは『仕事』でさえあればいくらでも殺すことができる。これから銃殺する相手にも家族があり、悲しむ者がいる――と踏みとどまることはない。

 死体など見慣れているから、血の海に沈められた男の遺体というものがどれほどのショックを与えるのかも知らなかった。人肉ミンチなど見飽きてしまった少年兵には、想像することができなかったのだ。

 第一発見者になるだろう従業員、捜査に携わる市警といった『普通の人間』にとって、それが人生を狂わせるほどの恐怖であると。

 

「『人間(かれら)』を殺めたのが『人間(ひと)』と思えばこそ、復讐者は生まれ続けるだろう」

 

 憎しみの矛先がそこにあるから人は憎む。命があるなら命を奪うことも可能であるはずと、生命体であることを希望に殺害という報復を目論む。害すれば殺せるのだと、復讐者たちは武器を取る。

 

「ならば『獣』を殺したのが『秩序』であったなら?」

 

 憎しみの矛先に『人』がいなければ。奪えるものが何もないなら。人は諦め、過去に見切りをつけて、前に進むことができるはずだ。

 三百年の昔、人類は瓦礫の中から立ち上がった。文明を滅ぼし、全人類の二十五%を死に至らしめた自立思考型兵器MA(モビルアーマー)には()()()()()()()()()()()からそれが可能だった。

 人類がその存亡をかけて戦うとき、背後には家族や友人、恋人の存在があるだろう。だからこそ一致団結し、危険を顧みず戦った。

 敵はMAという、人ならざるもの。

 暴走し、破壊と虐殺を繰り返す『敵』に立ち向かうため、人類はようやくひとつになれた。

 そうして終戦に漕ぎ着けた三百年前、天使に蹂躙され、傷ついた人類は学んだ。学習したのだ。大規模な戦乱は文明を滅ぼすが、小規模な戦争を散発的に繰り返していけば、人々は団結し、戦い、その果てに何度でも平和を取り戻した喜びに涙するのだと!

 

 

「かつての厄災が『天使』であったから、世界はこうも復興した。今度は『悪魔』を討つことで、世界は何度でも安寧を取り戻す」

 

 

 支配者はあくまでも淡々と、両手を広げてみせた。これからは悪魔(ガンダム)の首級をあげることが安寧の象徴となるだろう。

『平和を勝ち取った英雄』という名の椅子を欲し、兵士たちは免罪符を握りしめて戦乱を望む。

 そして何度でも人々は歓喜するのだ。

 

「あなたは、神にでもなるおつもりなの…………?」

 

「あなたにはおれがそう見えるのか」

 

 剛胆に笑んでみせたラスタルの言葉に、アルミリアは戦慄する。

 殺害から罪悪感を除くことで人々は健全な精神を構築できるとラスタルは言う。生命倫理など不要と笑う。……すぐさま否定できないのは、すぐそばにライドがいるからだ。

 傭兵として数多の死にその手を汚してきた。〈マーナガルム隊〉の中には、罪の意識を持たない少年兵だっているだろう。そうしなければ生きられなかったからだ。地球圏による搾取、ギャラルホルンによる圧制が創り出した貧困の中、生きる糧を得るために戦場を駆け、身を寄せ合って生き残ってきた尊い命だ。否定したくない。不用意に傷つけたくない。

 多くは動物の肉を食す習慣のなかった少年兵たちに、栄養をつけてほしいとエゴの赴くまま与えてきたのはアルミリア自身である。

 

「それでもっ、犠牲者の声を封じることが健全な秩序だなんてわたしは――――きゃっ ぁう!」

 

 銃声はサイレンサーの向こう側から割り込むように響き、重たく濡れたスカートの裾がぶわりと重たく舞いあがる。声を遮られたアルミリアがよろめき、細い腕はライドがつかんで引き寄せる。

 ころりと転がり落ちた金属の筒。わずか一拍ののちに、発煙筒が勢いよく白煙を噴き上げた。

 

 撃ったのは十四番目の銃口。

 

 エンビだ。

 

 威嚇ではなくアルミリアの脚を狙い、スカートの中に仕込まれた発煙筒を正確に撃ち抜いた。

 煙に巻かれるただ中で、エンビの銃口はラスタル・エリオンの心臓を正確にとらえている。ヘルメットのバイザーが双眸を黒く覆い隠してはいるが、うかつに発砲すれば上官の命はないぞという、兵士たちへの脅しは充分な効果をもたらしているらしかった。

 敢えてアルミリアの言葉を遮り、敢えてアルミリアを狙い、しかしアルミリアを傷つけることはなかった腕利きの射手。

 高精度の射撃能力は背中に直接銃口をめり込ませるほどの()()能力になる。

 射撃の腕も確かとは、楽しませてくれる――ラスタルがうっそりと笑う。

 今だとライドがアルミリアの手を引いたが、アルミリアは両手でその手を握り返して首を強く横に振った。

 

「待って、リタが……っ!」

 

「悪いがおれはひとりしか抱えられない!」

 

「だめ! あの子を置いてはいけないわ……!」

 

 踏ん張るアルミリアは、リタを抱きしめようと膝をつくが、抱き上げるには力が足りない。九歳の少年を抱き上げるにはアルミリアの腕は細く頼りない。

 荷物を下ろせなかったライドは、内心で苛烈に舌打ちした。

 こんなことならエンビが脚を撃って動けなくしてくれていればとさえ思ってしまう。〈セイズ〉の医療ポッドは高性能で、脚の銃創ひとつくらい数時間で治してしまえるだろう。

 逡巡している間にもエンビとトロウは撹乱のため白煙の中を駆けていく。内側から風穴を開け、外に待たせたMSにたどりついて宇宙へ出る手筈だ。エンビが〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機にたどり着けば、合図でヒルメが外から射撃を行ない、エアロックをぶちぬくだろう。

 騒乱が聞こえてくる。今にこのドックは、気密エリアではなくなる。

 

「……見たくないなら目をつぶって、聞きたくないなら耳も塞いで。今は死なないことだけ考えてください。三十秒で済ませるんで」

 

 

 じっとしてろ。

 

 

 脅すように低くなった声に、アルミリアがひゅっと細く息を呑む。ライドが半ば力ずくで抱き上げようとしたそのとき、爆発音が断続的に鳴り渡った。




\にく! わたしも大好物です!/


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P.D.332: 愛していると言ってくれ

 景気よく飲み干したアルコールが心地よく喉を焼き、ごくごくと食道を通っていく。酒がうまい季節になった。

 いや、季節の問題ではないか。雇用主であるクーデリアの公務は繁忙期を過ぎ、仕事は忙しいものの翌日は休み。休日出勤もない。宿舎までは徒歩で帰れる。

 連合議長様のいちSPでしかないユージン・セブンスタークの仕事に、ご大層な中身はない。

 ぷはあ、と心地よいため息を吐き出して、空になったグラスの底がテーブルを打つ。ほどよい酒気で店内はすっかりあたたまり、ユージンもネクタイをゆるめた。

 さっき脱いだジャケットはメリビットに回収されて壁際でハンガーにかけられている。

 カッサパファクトリーの敏腕営業部長ことザック・ロウのイチオシだという居酒屋は、原則禁煙。ということなので、臭いがつく心配もいらないだろう。(大口のお取引先様は特別に吸っても構わないので頭に『原則』とついている)

 アルコール度数4〜7%程度のビールをサイダーやら何やらで割ったカクテルは、歳星で楽しんだものと同じだ。

 近年、クリュセでも爆発的に普及しはじめた。

 

 何かにつけて顔が利くビジネスマンの仲介もあって、店内はカッサパファクトリー起ち上げメンバー――という名目の鉄華団残党――によって貸し切られ、みな思い思いの酒を楽しんでいる。

「まるで同窓会みたいね」と微笑むメリビットを除き、参加者はみんな男だ。

 どぎついピンク色のカクテルを見つめてうっとりしているヤマギがなんとも言えない雰囲気を醸し出しているが、それもアトラやクーデリアといった女性陣の目がないからできることだろう。(こうなるとヤマギは「流れ星がおれめがけて落ちてこないかなあ」なんて言い出す)

 ユージンたちは二十代の前半〜半ば、メリビットは四十すぎ。余裕で母親の年齢である。人妻、さらに二児の母ともなれば、なおさら母親みたいな存在に思えてくる。

 小さな子供がいるというのにベビーシッターに任せて夫婦で飲み会にやってくるあたりは、さすが元バリキャリといったところか。

 地元の雇用に貢献しつつ、対費用効果を重視して、自分たちが楽しむことも忘れない。

 こういうメリビット・ステープルトンのようなしたたかさこそ、時代を生き残るために必要な素養なのだろう。

 

 昔からクソ真面目なクーデリアは、子供がいるから……と、帰れる日は必ず家に帰っていく。

 アトラもまた、家族団欒用の料理を作って待っている。暁には父親がいないから、そのぶん母親ふたりの愛情をめいっぱい注いで育てていくのだそうだ。

 

 仕事を優先しがちだったクーデリアが最近になって帰宅を最優先にしはじめたのは、小学生になった暁が『少年兵(しょうねんへい)をやっつけろ!』という絵本データを配布されたのがきっかけだった。

 なんでも学校からの配布物で、男の子を中心に人気があるらしい。

 

 

 主人公が『少年兵』をやっつけて、世界が安寧を取り戻す物語。

 

 

 クーデリアが神経質になるのも、わからないではない。

 絵本の中の『少年兵』とやらは頭の上にとがった耳をふたつはやし、口許からは大きな牙を覗かせた、野獣のような姿に描かれていた。

 主人公は暁と同じやわらかな茶髪だ。男の子の活躍によってやっつけられていく黄色くてすばしっこい狼に、大きな灰色の狼。大ボスは一等でっかい黒狼で、そいつには真っ白い毛並みの嫁さんがいる。

 嫁さんは家族の命乞いをするのだが、主人公は『うそつき!』と白狼の汚い思惑を看破する。

 最後のページでは、嫁を()()()()られて弱った親玉を踏んづけ、英雄のように勝利を掲げてハッピーエンド。

 悪い少年兵はいなくなりました、めでたしめでたし!

 

 ……そんな話のどこが面白いのかユージンにはさっぱりわからないが、暁にとっては『自分に重なる男の子が悪いやつを倒し、世界を守る』物語なのだ。

 ヒーローに憧れる少年期は、ユージンにもいくらか覚えがあった。

 子供特有の自信。正義感。あの絵本は、自分自身には『お母さん』を守れる力が宿っているのだ――という、何の根拠もない誇らしさを後押ししてくれるのだろう。

 幼い日の記憶が蘇るようだ。

 今では顔も覚えていないが、幼かったユージンにとって母親とは『愛する女』だった。父親のいない環境で育ち、女手ひとつで小学校まで入れてくれた母親は英雄であり、ユージンの世界で唯一無二のヒロインだったのだ。

 というのは過去の話で、新しい男を見つけて妊娠したらユージンを置いて行方をくらましたあばずれに未練はもうない。あの男に捨てられていればいいと恨む気持ちと、どんな男と一緒でもいいから無事でいてほしいという願う気持ちが半分半分、ギザギザの境界でせめぎあっている。

 ユージンが沈みゆく思考を遮るように、ドン! とグラスの底がテーブルを打ち付けた。

 珍しく出来上がってしまったらしいザックが、これまた珍しく目元を赤くしている。

 

「今だから言えることですけどォ」

 

 時間経過とアルコールの勢いに任せて、ザックはああとため息をついた。

 

「おれ、鉄華団って苦手だったんすよね」

 

「どうして?」とヤマギが続きを促してやる。

 

「だってさァーみんな気のいいやつで、すげー頑張って仕事するし? 責任感とかァ、おれがちゃんとやんなきゃって気ィ張って、でもピリピリしてないっつう」

 

「なぁんだ、大好きじゃないか」

 

 あはは、とヤマギが機嫌よく笑う。ふたりとも口調がもはや酔っぱらいだ。

 酔っていないと言えないのだろう愛憎を、ザックはだって、とか、そりゃあ、とか言い訳しながらつらつら吐き出していく。

 

 ザックが就職したとき、鉄華団は火星の英雄だった。

 アーブラウ領クリュセ自治区首相の愛娘、クーデリア・藍那・バーンスタインお嬢様を地球までエスコートして、あのギャラルホルンに一泡吹かせたというのだ。最高だ。

 地球経済圏による植民地支配、ギャラルホルンによる間接統治という二重の締め付けが、クーデリア姫の交渉によってぱあっと緩んだ。痛快だ。

 今まで『アーブラウの取り分』と『ギャラルホルンの取り分』で100%だったところに『火星の取り分』をねじこんで、火星ハーフメタル採掘事業がどんどん就労のきっかけになっていく。孤児院が建てられ、小学校が増え、クリュセは見違えるほど豊かになった。

 ギャラルホルンが信用をなくし、同時に火星の独立運動も活発化したせいでテロも増えたが、以前に比べればめちゃくちゃマシになったのだから、情勢不安など些末な問題だ。

 

 そうした栄光の中心であった鉄華団は、高校中退だって雇ってくれるという。給料もいい。学校でMS(モビルスーツ)システム関連の勉強をしていたザックは、退屈な授業から飛び出すように、鉄華団の門を叩いた。

 死ぬ危険がある、というのを甘く見ていたので、はじめは戦闘部隊への配属を希望した。

 いざ初陣に望んだときの、あの心臓にナイフを突きつけられたような焦燥は忘れない。

 同期だったメイルがMSの砲撃を食らって、MW(モビルワーカー)ごと爆散させられた断末魔は今も耳に残っている。あのとき、ザックが操舵士として搭乗していた複座式MWの砲撃手はハッシュだった。

 ハッシュももういない。

 予備役を終え、正式な配属は戦闘部隊にと希望したハッシュと、やっぱり整備部隊を選んだザック。

 十歳やそこらのチビが旧式のMWを乗り回し、最前線に躍り出ていく狂った環境。

 

「頭おかしいんすよ、みんな、仲間の命と自分の命を天秤にかけて、迷わず仲間のほうとっちゃうんですもん。……気持ち悪いっすよ、ほんと」

 

 グスン、とザックは独白の合間合間に鼻水をすする。

 阿頼耶識搭載型MWを駆る、年少組だか呼ばれている子供が、負傷者を救助する仲間の盾になろうと走り出てくる。馬鹿かと思った。頭がおかしい。狂っている。今ここで仲間数人が生き残るためなら、自分ひとり死んでも悔いなんかないと言わんばかりの行動が、ぞっとするくらい怖くて、気持ち悪くて、――最高に格好良かった。

 

「あんなふうになりたいって、おれ、実はすっげー思ってたんすよ……」

 

 海賊の巨大艦隊を前にしても朗々と響く団長の声。オルガ・イツカというカリスマ。彼の鼓舞に賛同する、男臭い歓声の中には、まだ声変わりもしていない子供も多数混じっていた。

 やがてアリアンロッドとの徹底抗戦の前に「ボーナスも出してやれないが」と申し訳なさそうに沈んだ声。

 金よりも名誉よりも、最後まで戦うことを望んだ過半数の団員たち。

 ザックには理解できなかった。馬鹿かと思った。もちろん言った。馬鹿かと。頭ついてんなら使えよと。最後までってなんなんだよと。

 だって、働くのは給料のためだろう。金を稼ぐのは生活を豊かにするためだろう。買い食いしたり、ちょっと贅沢したり、パーッと遊んだり。いつもの弁当を1ランクいいやつにしたりとか、そういう自由のためだろう。

 仕事なのだからザックだって努力はした。我慢もした。だが、身体を壊したら元も子もない。死んだら、それこそ割に合わない。

 プライドよりも命だろう。仲間よりも自分自身がまず生きたいだろう、そうだろう? みんなそのはずだと信じていたのに、鉄華団団員は仲間の未来のためなら命を投げ出してもいい覚悟で戦っている。

 死ぬつもりなど毛頭ないと口では言うくせに。死ぬのは怖いとうそぶくクセに、戦場ではこれっぽっちも死を恐れやしない。

 基地を爆破して逃げるときも、ハッシュは遊撃隊の一員として基地防衛戦に残った。副団長らとともに戦ったパイロットは、やっぱり年少組というくくりのガキどもだ。

 

 ――おれたちは他に行く場所なんてねーんだからな!

 

 あの青い野球帽の少年――トロウ――は獅電に乗り、戦って、降りて走って追いついてきた。

 四人組が三人組になっていて、ザックは言葉を失った。

 補給部隊にいた双子が、片方だけになっていたのだ、気付かないわけがない。いつもセットだったものが単品になっていたのだ。

 ぞっと背筋が寒くなった。

 

 それから、地球へ逃げて。火星に戻ってきて。なんやかんやあって。カッサパファクトリーを興すから働かないかと元整備士全員に声がかかった。

 IDが変わってしまい、ザック・ロウは死んでいる。もう実家には帰れない。鉄華団に入団するために学校も中退してしまっていた。再就職の宛ても他にないと腹をくくって、カッサパファクトリーで営業職についている。

 ナディ・雪之丞・カッサパとメリビット・ステープルトンが結婚し、子供をもうけて、しあわせになる方法の『お手本』を遺憾なく実践してみせてくれる。ザックだってそろそろ彼女のひとりくらいほしいが、ID改竄という負い目があってなかなか踏み切れないでいる。

 実家という後ろ盾を失い、頼れるものがないので、結婚も考えられそうにない。

 生活水準のギャップからくる、遅蒔きな不安だった。

 鉄華団に入ったころのザックは、制服は新品がいいとか、食堂のメニューに選択肢がないとか、個室がないとか、……いろいろと文句をつけた。

 そのたび、周りからは首を傾げられた。

「はぁ?」と呆れてみせたオレンジ頭のチビ、もとい実働二番隊(筋肉隊)副隊長ライド・マッスの生意気さといったらなかった。

 そんなものは『当たり前』だという価値観で育ったザックの持つ『最低限』のラインは高すぎたらしい。

 しかしメリビット・ステープルトンCEOがバリバリ手腕をふるうカッサパファクトリーでは当然、ビジネススーツは新品を経費で落とせるし(むろん上限はあるが)、食事は弁当のデリバリー、ケータリング。社員用アパートは単身者用のワンルームをひとり一部屋。

 ああ、これぞ普通!! ――と、普通を謳歌するほどにザックは鉄華団時代に置いてきた戦友を振り返って虚しくなる。

 なあハッシュ、知ってるか、これが普通の人間の、人間らしい生活なんだぞ。そう虚空に向かって語りかけたくてしょうがなくなる。

 

「生きるとか死ぬとか、最後までとか。そういうのもういいっすわ。生きてればなんとかなるのに、死ぬなんて、馬鹿じゃないっすか」

 

「……そうだよな」とユージンは同意する。嘆きである。「お前みたいなのがいてくれてよかったよ」

 

 ため息をついて、緑色のたれ目には涙の膜がはっている。案外泣き上戸なのかもしれない。

 おれたちは精一杯やった、頑張った! ……と、叫びたくってたまらない。オルガのようによく通る声をドーンと張って、野郎どもを鼓舞できればどんなによかったろうか。

 殿(しんがり)をつとめた三日月や昭弘、エルガーの尊い犠牲があったから、残党は逃げおおせた。宇宙で散ったシノも、タービンズと蒔苗のじいさんも、みんなの協力があったおかげで、団員はだいたい無事だ。

 

 あいつらの死は無駄になんかなってない。そう信じたい。

 おれたちは仲間を生け贄にして逃げたんじゃない。そう信じたい。

 

 基地を爆破して、全員死んだことにしたから追撃もやんだ。クーデリアの悲願だった火星独立も実現できたし、三日月の忘れ形見である暁も元気に生まれてきた。〈ヒューマンデブリ廃止条約〉が締結して、もう宇宙ネズミがギャラルホルンを脅かすようなことはない。

 だから、死んでいったやつらの犠牲は無駄じゃなかった。

 

 そう思わせてほしいのに、――ライドがそうさせてくれない。

 ユージンにつきまとうオルガ・イツカという理想像の亡霊が現れては『おれみたいになりたかったんだろ?』と無邪気に笑ったりする。

『オルガの真似はもうしないの?』と青い目の狂犬が余計なことを言う。

 

 別に、圧倒的な戦力差にビビっているわけじゃない。

 別に、致命的な敗北に絶望して隷従しているわけじゃない。

 

 MSの購入・維持費用だって、どうしても捻出できないわけじゃない。世界が平和になったから、必要なくなっただけだ。

 違法兵器だったはずの〈ダインスレイヴ〉で基地ごとずたずたにされて滅んだ過去を追想するたび、引き裂かれるような痛みがある。今もうなされる夜がある。

 喪失はすべて『昨日』に置いていく。それは『明日』に持っていく必要のない荷物だと、もう決めたのだ。

 平和になった。過去は過去だ。

 

「おれたちは、前に進むんだ」

 

 潔すぎて生き残れなかったあいつらのかわりに、しぶとく生きるおれたちが。

 ユージンの宣言はアルコールにふやけて頼りなかったが、傷を舐め合うにはちょうどいい塩梅だった。

 ザックやヤマギが口々にああと同意し、鉄華団残党の夜はゆるやかに更けていく。

 

 この世界はこんなにも平和になった。

 

 頼む、そうだと言ってくれ。



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第五章 獣の肯定
010 反撃開始


【前回までのあらすじ】
 ファリド家のハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉、そして〈ガンダム・バエル〉を買い取るためにギャラルホルン月面基地を訪れたアルミリアたち。しかし、ラスタルはそれらを引き渡すつもりはないという。
 支配者は預言する。
『罪』を知れば、心の安寧は妨げられてしまうと。
 何も知らず、考えず、ただ与えられた役目に準じて生きてこそ人は『幸福』に終われるのだ――と。


 俊足がフロアを蹴る。

 敏捷な宇宙ネズミがふたり、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉のタラップから飛び出し、駆ける。

 武装は両手で構えた拳銃ひとつ、あとは直感と肉体が武器だ。発煙筒が作り出した白い闇を迷うことなく突っ切って、エンビ、トロウは一直線にそれぞれの愛機を目指す。

 身を低くしてマシンガンの雨をくぐる。闇雲に掃射するだけでは当たるはずもない。フロアを蹴るふたつの足音は実に身軽で、侵入者を見失って慌てだす兵士の靴音にばたばたと紛れて行方不明だ。視界の悪い戦場、撹乱ならば阿頼耶識使いにこそ分があるというもの。

 すばしっこい宇宙ネズミに傷をつけるなら混戦ではまず不可能である。狙っても狙わなくても、凶弾の犠牲になるのは空間認識能力に乏しい側だ。

 よし、これで――とライドがタラップを駆け上がろうとした、そのときだった。

 ぐわんと空間ごと振り回されるかのように、足許が揺れる。揺れ、というにはあまりに凶悪な鳴動をともなって、ドックが傾いていることが体感できた。床下で巨大な獣が大口を開けているかの地鳴り、そして断続的に基地を殴りつけるかのような爆発が起こる。足の下から迫り上がってくる不穏な気配。

 重力が解放されたのかと思ったが、違う。

 ドックどころの話ではない、月面基地そのものが崩壊しているのだ。

 ……おかしい、ヒルメの狙撃はまだのはずだ。エンビたち実動部隊は生身だし、携帯している手榴弾に要塞そのものを破壊できるレベルの威力はない。

 

(自作自演か!? まさか老朽化部分を爆破して、基地ごと放棄するつもりじゃ――)

 

 はっと気付けばラスタルの姿は消えている。いや、これはチャンスと思うべきだと駆け出そうとしたとき、アルミリアが腕の中で身じろいだ。

 

「いやっ、待って!!」

 

 悲鳴はしかし、ライドに向けたものではない。

 突き上げるような震動によってひび割れ、不安定に傾いていくフロアの上で、ごろり、ずるりと強制的な寝返りを打たされた金髪。わずかに閉ざし損ねたまぶたの奥から濁ったライトグリーンがのぞく。白くなくなったジャケット、半ズボンから突き出る棒きれのような脚が置き去りになってねじれる。

 ずる、ずる、とすべり落ちていく痩身が、緩慢に遠ざかっていく。

 次の瞬間には、煙に隠れて見えなくなった。

 

「リタ!!」

 

「お姫さん――!」

 

 薄すみれ色の髪が舞い上がる。ライドの手を振りほどき駆け出した残像のように、散った涙の粒。宙に浮いたまるい水滴が物語るのは、今度こそ重力が解放されたということだった。

 心なしか酸素も薄く感じる空間を、ライドの舌打ちが鋭く鞭打った。地響きは増している。ピシピシピシと砕ける音も四方八方から聞こえてくる。天井が崩れるのも時間の問題だろう。

 そしてついに壁を走った稲妻模様。

 

「戻れ! お姫さん、そっちは危ねぇ!」

 

 幼い遺体をようやく抱きしめたアルミリアへ、叫ぶ声は届かない。

 ガクンと嫌な振動があった。突き上げるような衝撃とともに、一際巨大な稲妻がフロアを駆け抜けてくる。迫る。速い。あっと声をあげる猶予もなく亀裂はライドとアルミリアの間を分断した。

 裂け目を飛び越えようにも重力は1G未満、……だが体感するに、六分の一というわけでもなさそうだ。一歩間違えば着地点を見失う。少なくともこの重力場はエイハブ・リアクターの制御によって発生させられている。

 

(慣性制御システムはまだ生きてる……投棄はされないのか? 一体どういう――!)

 

 一瞬の思考、生身で飛ぶには既に遠い。爆発とともに流入した風の影響でまだら模様に薄れる白煙の向こう側にはノーマルスーツを着用したアリアンロッド兵士の気配がある。リタを抱きしめるアルミリアを追って近付けば、ライドだけ射殺されかねない。そうなればアルミリアが巻き込まれる可能性も出てくる。

 ラスタル・エリオン公本人ならまだしも、一般兵はアルミリア・ボードウィン嬢を襲撃するわけにはいかないはずだ。

 ライドはふたたび苛烈に舌打ちすると、背にしたタラップへ駆け戻ることを選んだ。俊足が不安定な足場を蹴る。すぐさま、革靴の足音を察知した銃口が撃ってきた。

『撃て撃て!』と好戦的な号令が響いてくる。マシンガンの咆哮に背を向けるなど、屈辱以外の何ものでもない。苛立ち任せにスーツの合わせに手を突っ込めば、とめていた窮屈なボタンが勢い余って弾け飛んだ。

 ハーネスに仕込んだ拳銃を引き抜く。セーフティを解除するまでコンマ数秒、振り向きざまに三発お見舞いすれば着弾の手応えが聞こえてきた。

 

「当たんじゃねーか……ッ!」

 

 まるで、三日月・オーガスが導いたみたいに。鉄華団の節目節目に立ち会ってきた拳銃は、今回もまたライドを守ってくれた。

 かすめた程度に銃弾を浴びつつも、悪魔の加護を実感できれば怖いものなど何もない。あるのは背筋が伸びるような緊張感だけだ。何発か牽制を放ちながら金属質のスロープを全速力で駆け上がる。カンカンカンと高鳴るライドの足音を回収するかのように、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉のタラップが繰り上がっていく。

 飛び込みの要領でハッチの中へと転がって、跳ね起きて最後にもう一発お見舞いし――、わずか一八〇秒で〈セイズ〉は動き出した。

 予定よりも早い。ブリッジのウタも相当焦れていたのだろう。このままデブリ帯に逃げ込めば、ライドも MS(ブランカ)で出撃できる。今はこうするのが最善だ。

 ライドは壁の通信パネルを殴りつけた。

 

「ブリッジ!!」

 

 大至急、姫君の救出作戦を練らなければならない。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 せっかちな 警報(アラート)が四方八方からエンビを責めたてる。赤いランプが白煙を警告色に染めている。スピーカーが捕まえろとがなりたてる侵入者――エンビは、ダークシェードのバイザーに隠れて獰猛に笑んだ。

 俊足を駆り立てて月面基地の廊下を抜ければ、()には愛機〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機を待たせてある。途中の分岐点で別れたトロウも、3号機に乗り込むころだろう。

 この月面基地は厄祭戦以前から存在するそうで、しかも今回の取り引きで乗り付けたドックは老朽化が進んでいる。脆そうな壁を手榴弾でぶち抜いて突破できるのは都合がよかった。

 兵士との交戦を避け、施設の脆弱さを突く。

 宇宙ネズミにもそれくらいの頭はあるのだと、奴らも思い知ればいい。

 

 エンビはヘルメットの奥で好戦的にくちびるを舐めるとバイザーを開いた。そして手榴弾をひとつ取り出すと、剥き出した犬歯でピンを引き抜く。壁に向かってブン投げる。入れ違いにバイザーを閉ざし、的確な射撃によって射抜けば、エンビの目の前に立ちふさがっていた壁に直径二〇インチほどの風穴が開いた。

 空気が流出する渦の中へ、臆することなく身を投げる。

 吸い込まれ、放り出された向こう側にはエンビの搭乗機、鮮紅色の 戦乙女(グリムゲルデ)が待っている。

 

 V04vm–0191 〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機。

 

 厄祭戦末期に九機のみ製造されたというヴァルキュリアフレーム、その断片をかき集めた継ぎ接ぎの発展機だ。

 ぐるんと滑りでたエンビが曲芸のように一回転し、つかみとったのはコクピットの緊急解放レバーである。手首でコックをひねれば、ガコンと音をたてハッチが開放された。

 すかさずシートまで滑り込むとコクピットハッチを閉ざす。もう一方の手で起動をかける。背中をぶつけるように、阿頼耶識システムに接続――起動完了。

 

『こちらアルフレッド!』

 

 吠える。呼応するように、トロウの搭乗が確認できた。3号機(チャールズ)が目を覚ます。そして肉眼ではとらえきれない距離で、2号機(ベンジャミン)が待っている。

 隊長機(アルフレッド)が弾丸に命を吹き込む瞬間を。

 

 

撃て(ファイア)!!』

 

 

 刹那、一撃の閃光が飛来する。ヴァルキュリアライフルの狙撃が返事のように狙い澄ました一点を撃ち貫いた。

〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機、ヒルメ機は頭部センサーを開いてモノアイを露出させた『 千里眼形態(ガンカメラモード)』に変形し、遠距離からでも獲物を正確に捕捉できる。闇に紛れるような漆黒の機体ゆえ、日ごろはスポッターに撤してくれる縁の下の力持ちだが、射撃の腕もあがってきた。

 操舵士ウタ、砲撃手イーサンほかブリッジオペレーターも含めて〈ハーティ小隊〉は全員それぞれの持ち場についたようだ。

 そして戦闘準備もできた。

 バーニアをふかして飛び立つエンビの機体は、目が覚めるような鮮紅に彩られている。一瞬にして監視カメラの視線が集まるのが肌で感じられた。びりびりと伝わる緊張感と敵意。害意。戦意、あるいは純粋な闘志。

 かつてマクギリス・ファリドが駆ったオリジナルの〈グリムゲルデ〉を記憶する者の目には、この姿がどのように映るのか。

 両腕のマニピュレーターでハンドガンをつかむ。主武装は二挺拳銃、右腕の延長線上にはヴァルキュリアブレードを展開。

 そして腕装甲がスライドし、――リアアーマーと合体する。

 変形によって現れたのは、グライダー状の両翼だ。蝙蝠を思わせる鋭角なフライトユニットは、重力と大気の中を滑空するだけが能ではない。

 紅い身体、藍の翼。翼と同色で染め抜かれた左肩の稲妻、右肩の(フェンリル)

 

 狼とは群れるものだという。 Hati(ハーティ)とは、憎しみを意味するという。クリュセの共通語であるアーブラウの言葉にも似たような語彙が存在する。

 ハーティという名の狼は、今もどこかで月を喰おうと猛っている。

 だからエンビたちは、憎悪の名のもとに集ったのだ。

 

MS(モビルスーツ)隊は散開、おれたちの道を塞がせるな!』

 

 餓狼の号令が鋭く響く。トロウの3号機が《 突撃形態(ビーストモード)》に変形して、重砲の遠吠えが地鳴りを大きくする。

 

 力を手放さなければ進み続けることができる。抗い続けていれば、いつかは手が届くはずだ。そう信じている。だからエンビは手を伸ばすことをやめない。

 この手で勝ち取ってやるのだ、必ず。

 

 おれたちの『本当の居場所』を。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

「こっちへ!」

 

 呼び声が聞こえる。びくりと細い肩を跳ねさせたアルミリアは、恐怖で錆びついた首をブリキ人形のようにまわして、あたりを確かめる。予定外に混乱したドックで、アルミリアはライドとはぐれてしまったのだ。

 視界を遮っていた濃霧が晴れ、足場がなくなっていたことを知ってしまった。

 アルミリアは今、ひとりぶんだけ残されたトレーのようなフロアの破片の上にいる。少しでも動けばバランスを崩してしまうだろう。この流氷がひっくり返ったら、どんな暗い海の底へ落ちていってしまうのだろう。

 抱きしめているはずの愛し子はぐんにゃりと脱力していて、冷たい。恐怖が背中を這い回るようで、脚がすくんで動けなくなってしまった。

 怖いけれど、死神の足音が聞こえるようでとてもおそろしいけれど、アルミリアがつなぎとめていなければリタの遺体が無重力に流されてどこかへいってしまいそうで、抱きしめる腕をゆるめられない。なのに、これ以上の力をこめたら、何かおぞましいことが起こりそうで――。

 流れ出る場所もわからない涙でおおきなひとみをいっぱいにして、ようやくふりあおいだ先には、金髪。

 

(マッ キー……?)

 

 いや、違うとすぐにわかった。

 まとめ髪の女性は、マクギリスともリタとも違う、青灰色の双眸でアルミリアを見つめている。アルミリアひとりが漂流するための足場しかなくなってしまったドックの床に、靴裏の磁石で着地する。

 スカートの端を踏んづけてしまい、「失礼」と短く詫びた。

 

「ご無事ですか、アルミリア様」

 

「ジュ リエッタさん…………?」

 

「安全な場所まで誘導します。早くこっちへ」

 

「あ の……わたし、この子を置いてはいけません」

 

「構いません。わたしはあなたを運びますので、あなたはそれを落とさないでください」

 

 ジュリエッタの両手が伸びて、アルミリアのええ――とも、いえ――ともつかない声はそのまま途切れた。

 さっきライドはひとりしか抱えられないと言ったが、重力さえなくなってしまえばジュリエッタの細腕でもアルミリアひとりくらい運べるのだろう。両腕に抱きかかえられば、アルミリアはすんなりとフロアから浮いた。

 かつてマクギリスがよくしてくれた、お姫様抱っこだ。

 

(ライドさんは、いつもお()様抱っこだから)――と、少しだけ気分が落ち着く。

 

 元鉄華団の面々は、誰を運ぶときもたいてい肩に抱えあげるお米様抱っこなのだ。兄弟みたいで微笑ましい。

 ふふ、と不思議な笑みがこぼれた。極限の緊張状態から解放されると思いがけず笑ってしまうのは、こういう心理なのかもしれない。

 ジュリエッタの華奢な腕はノーマルスーツの冷たさで覆われており、だからこそ付着した血液が滞りなく跳ね返されていく。

 兄ガエリオとの結婚も噂される、民間出身の女騎士。長く伸ばしたブロンドをきりりと束ねあげ、凛とシャープな横顔は軍人のそれである。アルミリアを支える腕は、一見折れそうに細いのに、薄くとも柔軟な筋肉で覆われていることが伝わってくる。低重力だから運べる重量とはいえ、力強い戦士の腕だ。

 

 身を委ねるように、アルミリアはそっと目を閉じる。

 戦う体躯かそうでないかを、見分けられるようになったのはいつからだろう。




【来世使える! 弾ハンde外国語講座】

■Hati(古ノルド語) Hate(英語) ヘイト(日本語) ...憎しみ

■Vamp(英語) ...つぎはぎ、焼き直し、吸血鬼、靴のつま先部分 他
(※ヘルムヴィーゲ・リンカーが"Reincarnation"からということで、グリムゲルデ・ヴァンプは"Vampire"からとりました)

■Almira(女性名) ...姫、誠実な、先に生まれた、貴族の淑女 他
(※おそらくアルミリアの原形。名付けデータベースによって梵語由来、刺語由来、西語由来など諸説あり、"アルメリア"が由来とする説もありましたが地名か植物名かはわかりませんでした語学力が来い)


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011 マーメイド・ラグーン

 誰もいない廊下は、どうやら居住ブロックのようだった。

 なのに、重力区画ではないらしい。女騎士の腕の中、アルミリアは覗き見るようにあたりをうかがう。この月面基地とは一体どういう作りなのだろう。

 誘導用のバーが手すりの位置で行き来しているのが見えたが、ジュリエッタは何につかまることもなくすいすいと無重力を泳いでいく。

 

(まるでお魚だわ……)

 

 柔軟な挙動にすっかり感心しきって、アルミリアはほうとため息をついた。

 そういえば〈方舟〉の格納庫で同じような感慨を覚えたことがあった。ヒューマンデブリだった少年兵たちが暮らしているところへ、連れていってもらったときだ。

 扉をひとつ越えたらそこから先は重力がなくて、アルミリアはふわふわ、ふわふわ浮いてしまうばかりで歩くこともままならなかった。

 でも、ライドの手を取って顔をあげればそこは、高い高い天井にまで続く、どんな水族館よりも大きな水槽が広がっていた。まるで、透明な海の底へ来たようだった。

 ヒューマンデブリのお仕着せであるという白と赤のノーマルスーツで、子供たちが錦鯉のように悠然と泳いでいたのだ。怪我をして脚がうまく動かせない子供も、脚の発達が阻害されて地上では体重を支えきれなかった子供も、みんな一緒に。

 ああ、重力の枷さえなければ彼らはこうも自由なのだと、胸がいっぱいになった。

 あの言葉を失うほどの感動を、アルミリアはひどく印象深く記憶している。それでもなおモンターク邸に呼び寄せて一緒に食事をと望んでしまうのは、アルミリアのエゴだ。

 無重力では食べ物だって冷たいレーションしかないし、ベッドもふわふわ浮いてしまわないようくくりつけるような作りになる。重力がないとすべてが宙に浮いてしまうから、そういう構造になるのは合理的かもしれない。でも、1Gではない環境においても快適に暮らせる衣食住がいまだに開発されないのはどうしてだろうと、アルミリアは残念に思う。

 人々はどうしてエイハブ・リアクターで重力を発生させ、地球と同じ重力場に作り変えて、地球の文化をそのまま持ち込もうとするのだろうと。

 地球生まれの人類は、1G環境に適応できるのかもしれない。だが、地球とは異なる重力環境でこそ真価を発揮する人々は、不自由を受け入れなければならないのか? 宇宙開発コロニーでも、たとえば海の底であっても、栄養価が高くておいしいものを用意できる料理人という職業が、確立されていいはずだ。重力がなくても安全であたたかな眠りを保証してくれるベッドも。

 重力を発生させることも大事かもしれない。エイハブ・リアクターがそれを可能にしてくれているけれど、それでも、無重力用の安寧があってほしいとアルミリアは思う。

 無重力でこそ自由にあれる子供たちが望んでくれるかは、まだわからないけれど。でも、せっかく重力の枷から解き放たれた彼らが食事を制限されたり、冷たく硬い寝具しか選べないなんて。そんなの、不平等だ。

 どこにいても自分自身に合った生き方を選べるような『選択肢』に存在していてほしい。

 二本の脚で歩く生活でも、無重力を泳ぐ生活でも。あるいは車椅子でも。どんな暮らしを選んでも、足りないものなど何もない世界であればいい。どこへでも行けて、どこにいても人が人らしく、幸福を追い求められる世の中になればいいのにと、願ってやまない。

 

(でも、それっていつ選べばいいのかしら。後になって変わることは、きっととても難しいわ……)

 

 思案に沈んでいると、不意に、とある部屋の前でジュリエッタがしなやかに旋回した。人魚が人間へと変化するような挙動を経て、靴裏の磁石を器用に使って立ち止まる。

 小さなドア、個別にロックがついている。インターフォンはないらしかった。

 

「両手が塞がっているので……」と、ジュリエッタが端切れ悪く解錠コードを耳打ちする。

 

 どうやら、アルミリアがロックを解除しろということらしい。鍵開けの役目をもらって、ちょっぴり嬉しくなったアルミリアは、内心でごめんねとことわって、リタを抱きなおした。

 指先でパスコードを入力すると、空気が擦れるパシュ、という音とともに扉がスライドする。

 中は暗く、一歩踏み込むことで灯りが点った。やはり重力はない。見渡すまでもない一室は、単身者用のワンルームのようだった。誰の部屋だろう……というアルミリアの心中を察知するかのように、ジュリエッタがこたえる。

 

「わたしの部屋です」

 

 アルミリアをベッドに腰掛けさせるようにおろしてから、ため息混じりにジュリエッタはヘルメットを取り払った。ついでに窮屈なまとめ髪もざっくりと解いてしまう。

 麗しきブロンドの女騎士、ジュリエッタ・ジュリス。ギャラルホルン最大最強の艦隊、音に聞こえた月外縁軌道統合艦隊〈アリアンロッド〉の総司令官だというのに、彼女は一般兵と同じ間取りで寝起きしているらしい。

 

「気を遣わないでください、どうせ寝るだけの部屋です」

 

「ありがとう……ございます。でも、どうしてわたしをここへ?」

 

「あなたの身に何かあったら、きっとあの方が悲しみますから」

 

 無感動な返答は、まるで独り言のようだった。()()()。どこか他人行儀にそう呼んだジュリエッタの表情は読めない。

 

「お兄様は、わたしの死を悲しまれるかしら?」

 

「わかりません。わからないけれど、もし――……何であれ、わたしは、あなたを死なせるわけにはいかないのです」

 

 マクギリス・ファリドの戦死直後、あの男は実にすっきりとした顔をしていた。まるで憑き物が落ちたみたいに。戦闘後はアイン・ダルトン三尉の脳を焼き切って動かなくなった愛機〈ガンダム・キマリスヴィダール〉をいたわり、ヤマジン・トーカに礼を述べたと聞いた。もう MS(モビルスーツ)に乗ることはないだろうと告げたとも。

 そんな彼が――英雄ガエリオ・ボードウィンが――実の妹の死体を目にしてどんな顔をするのか、ジュリエッタにも想像つきかねる。悲しむか、悲しまないか。泣くか、泣かないかも。兄妹の情や家族愛といったものが、彼の中でどのようなかたちをしているのかも。

 予測不可能だからおそろしいのだ。

 

「正直、あなたが〈ヴィーンゴールヴ〉を離れてくれてよかったと思っています。『死んだ男のことは忘れろ』なんて、誰の口からだって聞きたくはない」

 

 後半は、どこか八つ当たりめいた投げやりさでジュリエッタは吐き捨てた。

 死んだ男。――ジュリエッタにとっては、ガラン・モッサをも意味する。ジュリエッタが師と仰ぐ傭兵は〈ヴィーンゴールヴ〉の生まれで、ラスタルとは士官学校時代の同期であったことを話には聞いたものの、ジュリエッタが出会ったときには既にIDも何もかも捨て、ラスタル・エリオン公を影から支える密偵だった。

 ギャラルホルン内での立場のことは、ジュリエッタにはわからない。ギャラルホルン特有のルールもすべて理解しているわけではない。

 だが、ジュリエッタにとって『ひげのおじさま』は育ての親だ。血のつながった両親よりも思い入れのある男である。父親よりも父親らしく、 小さなジュリア(ジュリエッタ)を養育してくれた恩人だ。

 

 アルミリアならば()()()()の存在くらい知っているだろう。革命軍の内偵は、彼が間者として暗躍しているところまでつかんでいた。

 心の底から慕ってきた傭兵は、死んだ。

 鉄華団に殺された。今から八年ばかり昔のことだ。彼の落命は任務中の出来事だったし、存在すら捨てて旧友に尽くすことを決めていた男を偲ぶ資格など、ジュリエッタにはありはしない。

 まぼろしはまぼろしとして消え、無に還った。もう戻らない彼を悼み、嘆き、もう一度おじさまに会いたいと泣き叫びたいジュリエッタの悲嘆も、同じ無に帰さなければならない。

 そんな複雑な胸のうちに追い打ちをかけるように『忘れろ』だなんて。絶対に言われたくないとジュリエッタは思う。彼は命の恩人なのだ。家族を亡くしたジュリエッタを拾い、食べ物を与え、教育を受けさせてくれた。何もしてくれなかった善人よりも、救ってくれた悪人にこそ恩義を感じる。当然の心理だろう。

 思い出という心の砦を守るのはジュリエッタ自身だ。こればかりはラスタルにだって踏み荒らされたくない。

 だからアルミリアにとっての『マクギリス・ファリド』もそうなのだろうと、気を回すことくらいできる。

 

「ジュリエッタさん……」

 

 これまで抱いていたあなたの印象とずいぶん違うわ――と、喉まで出かかった言葉を、アルミリアはこくりと嚥下した。

 誰にだって、故人を偲び、懐かしむことくらいある。

 

「あなたは、お兄様とご結婚なさるの?」

 

「さあ。ラスタル様が望まれるなら、わたしに異論はありません」

 

 うっそりと笑んだジュリエッタの横顔は、傭兵を慈しんだ乙女の悲しみよりも、よほど冷たく冴え渡っていた。

 ラスタル・エリオン個人の私兵という立場にあるジュリエッタは『准将』という椅子に座るほどの栄誉栄達を叶えてなお、後ろ盾を持っていない。

 なぜって、ラスタル・エリオンという男が、あくまでも個人的に()()する私兵なのだ。エリオン()の従者ならば所属は『貴族院』だという秩序の膝元でさえ、ジュリエッタの身許は『月外縁軌道統合艦隊』にある。

 新体制となったギャラルホルンは代表一名をトップに、『 月外縁軌統合艦隊(アリアンロッド)』『統制局』『監査局』『警察局』『総務局』『貴族院』がそれぞれ連なる構成になっている。(地球外縁軌道統制統合艦隊は『統制局』の下部組織だが、月外縁軌統合艦隊〈アリアンロッド〉は独立した組織であり規模・任務内容は大きく異なる)

〈マクギリス・ファリド事件〉後は『統制局』管轄下の戦闘部隊に限り――それもMSパイロットのみ――民間、および圏外圏、またコロニー出身者の志願・登用が認められるようになった。

 尖兵となるならば出世の道は開かれるが、それは出自の()()兵士を前線に出し、出自の()()()()兵士のための壁を作ることでもある。

 コネがなければ出世どころか、生活さえ覚束ない。一方で『監査局』や『貴族院』といった部署はより身内主義を顕著にし、右手では賄賂を断りながら左手できっちり受け取っている。(昔はまったくの野放しだったのだから、表の顔を取り繕うようになっただけマシなのかもしれないが……)

 

 ともあれ、ジュリエッタは民間の出身。所属はアリアンロッド。万が一にもラスタルがいなくなるようなことがあれば、ジュリエッタはすべてを失ってしまうのだ。地位も名誉も仕事も居場所も、何もかもすべて。

 そして今日、衝動的にこう感じた。

 

 復讐者は、いつラスタル・エリオンの喉笛を喰い破るかわからない――と。

 

 体じゅうの血液が温度を下げたような、ぞわりと這い上がるような、それは恐怖だった。焦燥かもしれない。未知の暗闇にひとり置き去りにされたような、得体の知れない不安感が襲ってきた。

 後ろ盾のないジュリエッタは、従者として主君よりも先に死ななければならない。でなくば生きたまま何もかも奪われるだろう。ジュリエッタはだから、恩人であり養父であり、時の支配者であるラスタル・エリオン公より先に死に損なってしまった場合――思いがけず生き残ってしまった場合――の手を打っておく必要がある。その緊急性を肌で感じさせられた。

 もしガエリオ・ボードウィンと結婚できれば、ジュリエッタの所属は自動的に『貴族院』に異動となる。他部署とは違って貴族院は、当主が亡くなっても後継者に仕えることができるシステムだ。やがて次なる主君となる嫡男は、ジュリエッタみずから産めばいい。

 セブンスターズ各家門の使用人らは先祖代々お仕えしてきたというルーツが信頼に直結するため、一世代で成り上がれるポストは『妻』一択。

 民間出身の正妻はこれまでいなかったようだが、ガエリオが望んでいるというなら問題ない。英雄ガエリオ・ボードウィンの発言に異を唱えられるのは、現体制のギャラルホルンではラスタル・エリオン公とガルス・ボードウィン公たったふたりだけだ。

 もしもジュリエッタがガエリオによって娶られ、子供でも産めれば、ボードウィン家が新たに後ろ盾になってくれるだろう。男の子が生まれれば跡継ぎとなり、女の子が生まれればセブンスターズの内々で嫁に出される。どちらにせよ貴族院が生活を保障してくれる。それがただ問題を先延ばしにするだけの浅知恵であっても。

 どうにか生きていける。女であることを利用し、子供を道具にすれば何とか生き延びることができる。

 アルミリアを助けたのも、同じ理由だ。

 

「何にせよ、わたし自身の保身のためです。できれば戦いの中で死にたいですが、それはわたしが決めることではないので」

 

 とつとつと吐露された打算が、まるで自傷のような苦笑で締めくくられる。

〈レギンレイズ〉の高機動発展型に搭乗するジュリエッタは、もう MA(モビルアーマー)でも暴れだしてくれない限り戦場では死ねないだろう。海賊は弱体化され、傭兵は無力化され、ギャラルホルンのMSパイロットばかりが増加傾向にある。ジュリエッタの仕事は座乗艦のブリッジに座し、尻で艦長席を磨くのみ。

 MSでの出撃が許可される作戦は、決して多くない。兵隊として対等に戦えそうな相手も、この世界には鉄華団残党くらいのものだ。ヒューマンデブリという尖兵を奪われた海賊は保身のため欲をかかなくなり、弱体化させられた海賊が返り討ちに遭わないように、それでも非正規航路をくぐり抜けようとする船団を襲撃するようにと民兵への締め付けが日に日に強くなっていく。

 テイワズやタントテンポ、モンターク商会などの流通網から旧型量産機が数多市場へ流れているというのに、腕のいいパイロットは戦闘職に就けないよう規制が敷かれ、粗悪品も見分けられない非力な労働者が小さな反乱を起こしては鎮圧される繰り返し。

 三日月・オーガスのように自在にガンダムを駆るパイロットはいなくなった。

 アミダ・アルカのような判断力と射撃精度に優れたパイロットももういない。

 悪魔を討った女騎士ジュリエッタ・ジュリスが一番強くないと都合が悪いからと、他を弱体化させて、仮初めの最強に祭り上げられているのが現状である。

 生きる場所も、死に場所も、何も見えない暗闇をさまようような日々を送っている。今回アルミリアが鉄華団の生き残りを護衛として同伴していて、ああ、わたしはまだ戦場で戦士として終われるのだ——と、ほっとしたくらいだ。

 ジュリエッタの胸中を慮って、アルミリアの心は悲しみに似た痛みでいっぱいになった。

 お兄様をよろしくお願いします、なんて。とても言えない。MS操縦の腕ひとつで成り上がった凛々しき女騎士とギャラルホルンじゅうが彼女を持ち上げているのに。当のジュリエッタは居場所を得るため、ただ生きていくためだけに、こうも多くの苦悩を抱えているのだ。

 白く血色の褪せたアルミリアのくちびるが 繊細(かぼそ)くふるえる。

 

「すべての人々が愛され、笑っていられる世界は、作れないものでしょうか……。大切な人を愛して、手の届く子供たちを慈しんで……そういう世の中にはできないのでしょうか」

 

「どうでしょうね。ギャラルホルンにとってどうでもいいものは、愛されてはいけないルールですから」

 

 まるで組織を見限ったかのようにジュリエッタが微笑した。けれど、目は少しも笑っていない。リタを見つめて、そして痛ましげに目を伏せる。

 金色のまつげは剣先のように鋭く、化粧をしない目許が無感動にまたたいた。

 生きる場所は、すべてギャラルホルンが決めるものだ。鉄華団の居場所は戦場のみと決められ、閉じ込めるように殲滅された。残党たちも、ジュリエッタでさえ、支配者によって定められた場所でしか生きることはできない。

 希有な美少年に生まれたことを利用し、待遇に不満を抱かない 子供(リタ)こそ、この世界が望む『いい子』だろう。見目うるわしく生まれ、容姿によって選別されて男娼となり、欲望を受けとめ、受け入れて儚い天寿を全うした。イズナリオ・ファリドが飼っていたペットはみなそうであったという。飼い主に尻尾を振り、その幼い身が持てるすべてを使って可愛がってもらおうとした。

 ところが、マクギリスだけが夜ごと性的に搾取されていたという()()()()()にこだわり、拾い育ててもらった恩を蔑ろにした。せっかく人身売買業者から館に引き取り、服を着せてやり、食べ物も与えてやった。教育だって受けさせた。イズナリオ・ファリドは、すべての子供たちに尊い愛情を注いでいた。

 中でも破格の寵愛を得ていたのがあのマクギリス・ファリドだ。ただ金髪碧眼がうつくしいだけの男娼を、正式な養子へ、そして後継者の椅子さえ与えるという好待遇に、()()()不満を抱き、養父を失脚させた恩知らず。

 

 あいつは裏切り者だ。

 それが七年前、醜悪なるこの世界が出した答えだ。

 

 あれは卑しい男娼で、火星生まれの孤児だった――と養父が得意げに暴露したとき、誰もがイズナリオ・ファリド公の肩を持った。

 血もつながらない孤児に名前をつけてやり、生まれの悪さ、身分の低さにもかかわらず教育を与えてやり、養子にまで迎えてやったというのに、立場を弁えず暴力革命に踏み切った逆賊。親不孝という重罪を暴かれ、マクギリス・ファリドは准将という階級を剥奪され、世界から弾劾された。

 怒りの中に生き、そして破滅した男の死に顔は、穏やかさとは程遠かった。この世界に失望し、諦観しきった碧眼を陰鬱に伏せていた。

 最期の最後まで抗いたかったのだろうブロンドの美男子は、かつての親友の腕の中で息を引き取ったという。

 その亡骸は、尊厳を奪い尽くされた残骸だった。荼毘に付されたとはいうが、それもどういう経緯で行なわれたのやら。

 

「その遺体は、わたしが責任を持って葬ります。ファリド公のクローン体ではと疑われるのは、あなたの望むところではないでしょう」

 

「ありがとうございます、ジュリエッタさん……!」

 

 金髪、ライトグリーンのひとみ、火星生まれの孤児――という条件で九歳まで生き続けることは限りなく不可能に近い困難だ。アルミリアが連れていたという情報だけでも、マクギリス・ファリドのクローン説は容易に成立する。

 受け取ろうとノーマルスーツの両腕を伸ばせば、白魚の腕がびくりとこわばる。緊張に身を硬くしていることには、アルミリア当人が誰より無自覚だろう。無意識の奥底で、理性よりも直感的にジュリエッタを拒否しているのだ。よく見れば頬は青白く、くちびるは色を失っている。この状況でアリアンロッドの指揮官が信用できないのは仕方のないことだと、まつげの剣先をそっとおさめた。

 

「その子供は、ファリド公の聖遺骸として担がれる可能性があります」

 

 はっとアルミリアが瞠目する。逆賊として断罪された彼を聖遺骸とする者が――革命の徒が、この世界のどこかにまだ残っている。そのことを、ジュリエッタは言外に告げたのだ。

 革命思想は潰えていなかったのかと、アルミリアの双眸にあつい涙が集まっていく。

「ええ」とジュリエッタは微笑する。一方で、頭の中の冷静さを司る理性は、そうまでして勝ち馬に乗りたいかと浅ましい民間出身者をあざ笑っている。

 血に汚れ、屍肉を抱きしめてなお高潔なアルミリアを直視しかねて、踵を返す。ジュリエッタはそして、おもむろにクローゼットを開いた。

 

「わたしの予備のノーマルスーツをお貸しします。これに着替えてください」

 

 そうしたら、小さな遺体はアルミリアのドレスにくるんで、骨のかけらひとつ残さないように焼き尽くす。どうか幼い魂が、生前の痛みや苦しみを忘れ、あるべき場所へ還れるように。

 どこへいっても信用のないジュリエッタでも、司令官としてそれくらいの権限はある。

 状況が飲み込めないのかパイロット用のノーマルスーツを見つめるばかりのアルミリアに、ジュリエッタは不思議とすっきりした気持ちで笑いかけることができた。

 

「あなたには帰りたい場所がまだあるのでしょう?」

 

 そしてそれは、ここではない。

 今のギャラルホルンにはないどこかへ、アルミリアは帰ることができる。

 ならばジュリエッタにできるのは、この心やさしいお姫様を然るべき場所まで送り届けることだけだ。



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012 狩り場

〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機の狙撃は確実に着弾。

 しかし堅牢なナノラミネートアーマーで守られた宇宙基地にとっては三〇〇ミリ程度のライフル弾など、道ばたの小石を蹴った程度の衝撃にすぎない。なにせ、ギャラルホルン月面基地は厄祭戦さえ生き残った要塞だ。三百年以上昔から過酷な宇宙空間を耐えてきた。

 というのに、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉を取り逃がしてしまったドックが大口を開けたまま痙攣するさまは、まるで俎上の鯉である。

 はじめから自爆(こう)するつもりで、取り引きの場所に選んだに違いない。

〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機のコクピットから、エンビは胡乱げに月面基地を見つめる。メインモニタの向こう側では身に覚えのない時限爆弾が続々と爆ぜては基地を揺るがしている。

 センサーで追えば、老朽化した部分ばかりだ。爆破して、新しくするつもりだったのだろう。いらないものはテロリストに破壊させ、ついでに死人の口も封じて、賠償金という名の改修費用を自作自演で引っ張ってくる――何とも吝嗇(ケチ)なシナリオだ。

 

 そうでもしなければ必要とされない組織なのかと思うと、なんだか寂しくも思えてくる。

 

 月の重力に引きずられて崩れ落ちるドックを一瞥し、スペースデブリの岩場を蹴って飛翔する。反動で蹴り落とされた岩石はカタパルトデッキめがけて落ちていく。

 右腕のヴァルキュリアブレードを高くかざした。

 燦然ときらめく抜き身の刃が、宙域の光という光を集めたように存在を主張する。カメラというカメラ、警戒という警戒の視線が鮮紅色の機体に集中する。これ以上ないパフォーマンスだろう。

 かつて〈ガンダム・バエル〉はこうやって、革命軍の士気を高めた。

 しかし今回エンビたちがいるのはデブリ帯〈ルーナ・ドロップ〉のはずれである。エリオン公が放棄する心算の基地だとしても、この状況で〈ダインスレイヴ〉は使えないだろう。禁断の弓矢を違法に所持し、アリアンロッドの拠点たる月面基地に撃ち込むようなテロリストが存在しただなんて事実は、ギャラルホルンの威光を曇らせてしまう。

 追っ手を差し向けるならば、――ああ、さすがはギャラルホルン最強最大の艦隊アリアンロッドの本拠地、もう月の裏側からMS(モビルスーツ)隊が現れた。

 スクランブルの要領で駆けつけたのだろう。宇宙戦仕様の〈グレイズ〉が六機だ。

 

 EB−06g 〈グレイズエルンテ〉。

 

 モニタが示した名称は、エンビも初めて見るものだった。緑と赤に塗装されたカラーリングが〈グレイズシルト〉に似ているが、よくよく見れば腰部のみならず脚部でもブースターが追加されており、膝下が肥大化して見える。

 主武装は巨大斧――にしては、刃が大部分を占める、ハンマーチョッパーとハルバードの中間を取ったような姿だ。バトルアックスよりよほど凶悪な斧鉞(ブロード・アックス)を携えている。左腕のシールドは丸く、厚い。球体から削ぎ取ってきたようなバックラーは、強いて言えば〈ガンダム・グシオンリベイク〉の手持ち楯に似ている。〈グレイズシルト〉や〈獅電〉の大型シールドと違い、(カド)のない楯は混戦になっても取り回せるのが強みだろう。

 大型の凶器と丸い楯。かつてタービンズのエースパイロットたちに教えを受けた通りなら、接近戦に適した設計(デザイン)のはず。

 楯に仕込まれたバルカンが火を噴く。やはり包囲制圧を主な任務とする〈グレイズシルト〉隊とは違った目的の部隊らしい。

 近接戦闘を想定しているにしろ、混戦ならば阿頼耶識使いにとっても得意分野である。ハンドガンで迎撃しつつエンビは友軍を振り返った。

 

『おれと3号機(チャーリー)で引きつける! 2号機(ベンジャミン)は援護、離脱ルートに近づけさせるな!』

 

 MS隊が囮になって母艦〈セイズ〉を射程外まで逃がす。それまでに。

 

 

『今ここで六機すべて叩き潰せ!!』

 

 

了解(ラジャー)!』

 

 各機から跳ね返ってくる返答がスピーカーの中で集約されてひとつに響く。〈セイズ〉のブリッジも久々の艦隊戦にうずうずしているらしい。負けるものかとトロウがひと吠え、双肩の大型砲塔を迸らせた。

 向かってくる〈グレイズエルンテ〉隊の行く手を阻む軌道である。

 だが届かない。どう加速しても追いつけない距離だ、どうせ鼻先を通過するだけだろう――と高をくくって目もくれない、その油断を殴りつけるようにエンビが二挺拳銃をぶっ放す。

 ハンドガンなどナノラミネートアーマー相手には豆鉄砲だが、撹乱にはこれが一番役に立つのだ。

 このために3号機の重砲に炸薬弾を装填してきた。

 的確な射撃によって撃ち貫かれたHEAT弾が暴発する。爆ぜる、爆ぜる弾薬の火花が〈グレイズエルンテ〉隊の視界を遮り、反射的に足を止められるパイロットもいれば、取り乱して吶喊するパイロットもいるようだった。

 とっさに減速し、回避行動に移ろうとした判断力ある〈グレイズエルンテ〉はライフル弾の直撃を喰らう。あたりを確認しようと剥き出したアイセンサーを砕かれて、視界を失ってもがく。

 メインカメラをやられて動きの鈍った〈グレイズエルンテ〉の目前へ、戦乙女(ヴァルキュリア)の剣が迫る。

 一閃――斬撃一刀のもと両断された金属が断面を晒す。上半身と下半身がずるり、スローモーションのように()()た。

 特殊金属のヴァルキュリアブレードが、フレームごと斬り裂いたのだ。オイルが散り、〈グレイズエルンテ〉隊が息を呑む気配が緊張感とともにびりびり伝わってくる。〈ガンダム・バエル〉の剣を模して強化された刃がこうまで鋭利とは、エンビも間近で見て驚くほど。

 一機目を鮮やかに撃破してみせたエンビの背後に、さらに迫る〈グレイズエルンテ〉。すかさずトロウが喰らいつき、至近距離で重砲をお見舞いした。大口径の炸薬弾によってコクピットブロックは完膚なきまでに粉砕され、パイロットは跡形もないだろう。

 さらに追いすがってくる僚機を()()()のドロップキックが突き離す。突き飛ばされた〈グレイズエルンテ〉は、待ち構えたようなエンビのヴァルキュリアブレードに受け止められた。

 切っ先に向かって強制的に落下させられ、避ける余裕もなかったパイロットは機体ごと串刺しにされて絶命する。断末魔が響く一瞬すらなかった。胴部に深々と突き立てられ、突き抜けたブレードを引き抜くため、〈グレイズエルンテ〉を足蹴にする姿はさながら悪魔である。蝙蝠じみた翼に、獣の耳にも似たブレードアンテナ。漏れ出たオイルを払うさまは、ヴァルキュリアフレームの洗練されたシルエットに相反して禍々しい。

 異形のMSが猛り狂うさまにも、しかしアリアンロッドの兵士たちは怯まない。

 我こそ餓狼を仕留めようと巨大斧を振りかざすが――、狙い澄ましたようにヴァルキュリアライフルの一撃がマニピュレーターを貫いた。手首、手のひらを断続的に撃ち砕かれて武器を取り落とし、左腕ラウンドシールドのバルカンで牽制・撤退を図るも、やはり炸薬弾で楯もろとも砕け散る。

 四機もの僚機がまたたく間に撃破され、どうにか連携をとりたいアイコンタクトを、すかさず阻むライフルの一撃。矢継ぎ早に繰り出される攻撃が反撃の隙ひとつ与えない。

 しかし、〈グレイズエルンテ〉もやられっぱなしではない。

 シールドでコクピットブロックを守り、バルカンが火を噴く。メインカメラが無事だったのはヒルメの狙撃の不備ではなく、パイロットの機転だろう。さすがはギャラルホルン最強最大の艦隊アリアンロッドのMS隊だ。

〈グレイズエルンテ〉は増強されたブースターで〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機に突進する。

 加速、疾走、振り上げた斧。突き出すシールドは、動きを止めようというのだろう。エンビはヴァルキュリアブレードを構えて応戦を試みる。だが、どれほど頑丈な剣とはいえ〈グレイズエルンテ〉の斧鉞に比べれば針のように頼りない。

 しかし得物のサイズなど歯牙にもかけず、エンビが繰り出したのは強烈な蹴りであった。

 蹴り飛ばした勢いのままぐるんと宙返りをひとつ、鮮紅色の機体は身軽に滑空する。横転し、吹っ飛んでいく〈グレイズエルンテ〉は大岩に叩き付けられて痙攣する。パイロットは気絶したかもしれない。いくらナノラミネートアーマーで衝撃が吸収されるとはいえ、あの速度で落下させられた人間が意識を保っていられるとも思えない。

 宇宙での接近戦を想定してブースターにすげ替えられた足裏では着地がかなわず、推進力に特化した構造があだになった。

 小惑星に着地すると、ぐったりと動かなくなった〈グレイズエルンテ〉に止めを刺す。飛び立つ。すると最後の一機が〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機の重砲をもらって爆散するところだった。

 ふりあおげば〈セイズ〉は順調に離脱ルートに乗っている。

 追撃が来る前に撤退だ。次のスクランブルは、六機連隊どころではないだろう。

 

『ブリッジ!』

 

 呼ぶ。叫びに応答するより早く、デブリ帯へと加速していた〈セイズ〉が、おもむろに艦首を下げた。そのままぐるり、でんぐり返しに回転する。

 そして天地を逆にしたまま主砲が火を噴いた。エンビ、ヒルメ、トロウの連携によってすべて撃ち落とされれば、ナノミラーチャフが弾ける。

〈セイズ〉はミサイル発射を推力に加え、加速とともに半回転して元の起動に戻っていく。――操艦、火器管制の見事な連携だ。

 

曲芸射撃(サーカス・ショット)が阿頼耶識の特権だと思うなよなッ!』

 

 離脱していく〈セイズ〉のブリッジから吠えたのはイーサンである。

『負けず嫌いか』とエンビが苦笑し、気安いハンドサインで母艦を見送る。ビスコー級巡航船(クルーザー)である〈セイズ〉に阿頼耶識はついていないが、だからといって戦力にならないわけではない。

 だがMS隊ほど自由に動けるわけでもない。ナノミラーチャフでLCSは遮断されているといっても、アリアンロッドならばチャフなど歯牙にもかけない高精度のセンサーを持っているはずだ。

 焼き払われる前に散開して合流ポイントへ向かう。

 四本脚で小惑星を蹴った〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機を2号機がつかまえ、そのまま〈セイズ〉とは逆のデブリ帯へと加速した。大型ブースターを持つヒルメの2号機は、飛行ポテンシャルのない3号機のキャリアとしての役割がある。青白い炎を噴き上げ、宙域を離れていく。

 援軍を警戒しつつヒルメがトロウを拾って離脱するまで見届けると、エンビはナノミラーチャフの中に一機だけ残って、ゆるやかにバーニアをふかした。

 ため息のような挙動に相反して、コクピットの中で獰猛にくちびるを舐める。

 

 さて、もう一仕事。

 次なる作戦へと、〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機が飛翔する。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

〈ルーナ・ドロップ〉にまで逃げ込んで、追っ手は撒いたようだった。

 ブリッジにはやりきった感が満ちていたが、まさかビスコー級クルーザーで宙返りをするだなんて聞いていなかったライドには、まったくいい迷惑である。〈ハーティ小隊〉が好戦的な性質であることは知っていたにしても、〈セイズ〉は強襲装甲艦ではないのだ。

 廊下であちこちぶつけながら、ようやくたどり着いたブリッジで、疲れ切ったため息をつく。

「おかえりライド!」と誇らしげに振り向くウタの毒気のなさが憎たらしい。

 この船にはアルミリア姫のお小姓たちも乗っているのだから、今の揺れで確実に何人か酔っただろう。『逸って飛び出さないように』と釘を刺しておくべきだったのは、MS(モビルスーツ)隊だけではなかったらしい。

 阿頼耶識もついていないクルーザーが〈イサリビ〉基準で跳ね回るとはさすがのライドも想定外だったにしろ、〈セイズ〉は予定通りの航路を進んでいる。

 

 イレギュラーは、リタを失ったことと、アルミリアとはぐれてしまったことだ。

 

 ひとまず予定ポイントでヒルメとトロウ、それからエンビを拾うとして、アルミリア救出作戦の立案を急がねばならない。このまま非正規航路を縫って火星方面へ向かい、拠点防衛組にもこちらへ向かわせる必要がありそうだ。エリオン公がモンターク商会ごと切り捨てるつもりなら、〈方舟〉で待つギリアムたちが危ない。

 総戦力が合流すれば、こちらも打てる手は増える。

 実働1番組〈ハーティ小隊〉の隊長兼頭脳であるエンビ、実働2番組〈ガルム小隊〉のみならずヒューマンデブリをまとめるギリアムが揃えば、実働3・4・5組の〈ウルヴヘズナル混成小隊〉も動きやすくなるはずだ。

 そのときだった。

 ビィ――!! と突然、ウタの手許で緊急暗号通信のアラートが叫びだした。

 

「えっ……通信って、どこからっ?」

 

 ウタが慌てるのも無理はない。アリアドネの監視網にはひっかかっていないはずの非正規航路のはずれだ。宙域に機影は見当たらない。エイハブ・ウェーブも検知できない。

 しかし、QCCSで投げ込まれたメッセージの発信元は。

 

「MSから……?」

 

「レギン――って、アリアンロッドの女騎士様の機体じゃねえか!」

 

 月外縁軌道統合艦隊の指揮官機〈レギンレイズ・ジュリア〉。敵の大将からの連絡など、物騒極まりない。一体どこに潜んでいるのかと、クルーたちが暗礁に目を凝らす。

 ライドだけが神妙な面持ちで操舵席まで歩み寄ると、ウタの肩を通り越してパネルに触れた。暗号によって(シール)されたメッセージを開く。

 

 

 

「『アルミリア・ボードウィンの身柄を引き渡したい。ガンダムのパイロットがひとりで指定ポイントへ来るように』――か」

 

 

 

 身柄の引き渡しとは、一体どういうつもりなのか。意図は読めない。……試されているのか? わかるのはただ、発信元が暗号化されておらず、確実に〈レギンレイズ・ジュリア〉からの通信だということだけだ。

 火器管制席から身を乗り出したイーサンが露骨に眉根を寄せた。

 

「……罠にしか見えねえよ、ライド」

 

「でも、腹芸のできそうな女にも見えなくない?」

 

「そう作ってるだけかもしれないだろ。バカじゃない頭は叩かれる」

 

 学校がそうだったろ、とイーサンが吐き捨てる。同じ学校に収監されていたウタは形のいい眉を困ったように落とした。

 モグラ叩き場のような言いざまは、ウタにも覚えのあるものだ。鉄華団がなくなり、地球へ亡命してIDを書き換え、文字が読めるからと十把一絡げに中学校へ入れられたからよくわかる。たった半年の年齢差で小学校へ入れられていたエンビたちに比べればいくぶんマシな環境ではあったにしても、『学校』という名の檻には嫌悪感しか抱けない。

 あそこでは、子供とは大人の言うことをよく聞くべき存在で、口答えをしてはならないと決まっていた。思想を持ってはならず、思考力も歓迎されない。将来的には安価な労働力になるべく育てられているのだから、言われたまま、教えられたまま復唱するのが『正しさ』なのだろう。反知性(アンチ・インテリジェンス)を演じなければ()()される日々にはどれほど閉口させられたか知れない。

 IDの次は思考まで白紙に戻して、支配者どもに都合のいい木偶に作りなおされるなんてごめんだ――と、アイデンティティの屠殺場から逃げ出し、ライド率いる『強硬派』についた。

 唯一の故郷であった鉄華団がなくなってもなお『本当の居場所』の実在を信じ、オルガ・イツカを信奉する強硬派の一団こそ、この〈ハーティ小隊〉である。

 たどり着く場所など幻想だ、方便にすぎなかったのだとクーデリア・藍那・バーンスタインによる救済を受け入れた『穏健派』の軍門に下るくらいなら、戦死したほうがマシだという過激思想の塊でもある。

 だってそうだろう、連れ戻されたらまたギャラルホルンの権力の下におさまるように説得される。YESと言うまで解放されない。

 平和になったとか、戦っても何も変わらないとか、前向きに生きろとか。復讐は何も生まないとか。過去に囚われるなとか。要約すれば「お前は間違っていて俺は正しい、だから俺に従え」で済む内容を、手を替え品を替え聞かされ続けるのである。鉄華団が潰えて七年という時間が経過し、年齢相応に成長だってしているのだから、いつまでも無知蒙昧な『子供』のままではないのに。

 何もかも捨てるしか生きる術はないのかと打ち拉がれていた餓狼(ハーティ)に、希望を与えてくれたのがアルミリア・ボードウィンだった。彼女を失っては兵站どころか生活資金もいずれ底をつく。

 

「……お姫さんの身柄がかかってるなら行くしかねえ」

 

 アルミリアを救出することは、元少年兵や元少年男娼の生活(シェルター)を守ることでもある。たとえ作戦の中で誰かが死んでしまっても、ひとりでも多くが生き残るには彼女の力が必要だ。

 スーツのジャケットを翻して肩にかけるとライドは鋭く踵を返す。

 

「ブランカを出してくれ」

 

 指定ポイントへ、ひとりで向かう。……居場所を守るにはそれしかない。どんな罠が待っていても、罠ごと噛み砕いてやれなければ、生きる道は残っていない。

 

(それでいいんだろう、ラスタル・エリオン!)




【登場メカニック】

■EB-06g グレイズエルンテ
所属: 月外縁軌道統合艦隊アリアンロッド
動力源: エイハブ・リアクター
使用フレーム: グレイズフレーム
武装:
 ブロードアックス
 ラウンドシールド(+バルカン)
 ナイトブレード
備考: エルンテはドイツ語で『収穫』。対ガンダム戦を想定し、首狩り用として発案。


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013 恣意

 アルミリア・ボードウィンの身柄を引き取りに来るようにと悪魔(ガンダム)を呼びつけたポイントは、月面基地からほど近い〈ルーナ・ドロップ〉の一角だ。

 月の破片が大小浮遊し、最大で全長1キロ近い大岩まである。月の引力と月面基地を維持するエイハブ・リアクターによって集められた岩石群は絶妙なバランスで成り立っており、常に微細な移動を繰り返すことで三百年の均衡を保ってきたらしい。

 この蜘蛛の巣状の迷路を形づくるスペースデブリの密集地に、戦艦での侵入は不可能だろう。火器によって吹き飛ばせば月面基地の存続が危うく、MS(モビルスーツ)のサイズで何とか迷い込めるような隘路である。それでも少し気を抜けば岩石と正面衝突して命に関わる。

 ジュリエッタはここで自主的な特訓を重ねてきたから、勝手ならばわかっている。ここがちょうどアリアドネの監視網から影になっていることも。

 何度も迷い、何度も抜け出そうと試行錯誤した、馴染みの迷宮なのだ。帰路を見失う恐怖と向き合い、冷たい汗を流し、奥歯を食いしばってジュリエッタは、この孤独の岩場で純粋な強さを求めた。

 

『大丈夫です』とアルミリアを安心させようと眦を下げる。

 

 愛機〈レギンレイズ・ジュリア〉は細身のジュリエッタにあわせて改良が重ねられ、コクピットブロックが小型化されたため二人乗りには窮屈だが、無事に引き渡すには他に方法がなかった。

 対ガンダム戦を視野に入れ、〈グレイズ〉の発展型や〈レギンレイズ〉はみなブースターを強化している。量産機にもガンダムフレームのようにエイハブ・リアクターを二基以上搭載する研究は進められたようだが、どのフレームも過負荷に耐えきれず四肢が弾け飛んでしまうらしいのだ。他の方法でツインリアクターに匹敵する機動力を求めれば、結果は自然とスラスターの増強へ結びついてしまう。

〈レギンレイズ・ジュリア〉もまたブースターまみれの高機動仕様だが、動きが単調になりがちなジュリエッタは、阿頼耶識使いのような敏捷性をどうにか手に入れようと出口の見えない暗礁を泳ぎ続けた。管制官はみな民間出身のジュリエッタをよく思っていないし、指揮官ゆえどこで何をしていても干渉してこないのだ。

 無関心という名の自由のおかげで、アルミリアを無事に脱出させることができるのだから、皮肉な因果である。

 

 この迷宮を泳ぎきるために、ジュリエッタは二年近い年月を――いや、三年はゆうに費やしたか。だけど鉄華団のMS乗りならこの程度の局面、たやすくくぐり抜けてしまうのだろう。

 認めるのは業腹だが、この七年で『現実』を見る目くらい身につけた。

 

『ここには誰も来ません。わたしだって、ここでアルミリア嬢に死なれては困る。出てきなさい、ガンダムのパイロット!』

 

 LCSによる無差別な通信は、〈ガンダム・アウナスブランカ〉のコクピットにもきぃんと威勢よく響く。

 やはり腹芸はできないか――とライドは疑り深いグリーンアイズを剣呑に眇めた。デブリ帯に誘い出し、事故を装って岩石に圧し潰させることだってアリアンロッドなら可能なはずと読んだのだが、どうやら考えすぎであったらしい。

 ラスタル・エリオンの差し金とばかり思っていたが、それも違ったようだった。こんな狭苦しい岩場に誘い出して一体どんな罠を仕掛けているのかと警戒を重ねてここまで来たのに、まさか本当に何もないとは。

 岩陰から姿を現せば〈レギンレイズ・ジュリア〉のセンサーと目が合う。

 

『ライドさんっ!』

 

『お姫さん……?』

 

『よかったっライドさん……無事だったんですね!』

 

 ……出会い頭に他人の心配をするあたり、アルミリアらしい。本当に本物なのだろう。コクピットに同乗していることは伝わった。

〈ガンダム・アウナスブランカ〉が姿をさらし、剣も楯も持たない丸腰の〈レギンレイズ・ジュリア〉と向き合う。――こんなブースターだらけの機体で、女騎士は暗礁を泳ぐのか。()りあうならそれなりに厳しい相手に、彼女もまた成長しているのだろう。

 

『コクピットを開きなさい!』

 

 女騎士が高圧的に声を張ったが、ふと沈黙して『わたしから開くのが筋というものでしょうか?』と自問自答が続いた。ジュリエッタの独り言にライドは答えなかったが、ほどなくコクピットハッチがガコンと開き、シートが上昇する。

 あらわになったパイロットの膝には、揃いのノーマルスーツ姿のアルミリアが抱かれていた。ずいぶんと狭い構造らしいコクピットブロックに詰め込むには、一般のノーマルスーツではかさばるせいだろう。パイロット用のノーマルスーツは細身で、軽量化がなされている。

 身軽なしぐさで〈レギンレイズ・ジュリア〉の手のひらへと貴人の手を引いたジュリエッタは、アルミリアをかばうように支えると〈ガンダム・アウナスブランカ〉に向かって声を張り上げた。

 

『この方を安全な場所まで送り届けなさい! それがわたしがあなたを見逃す理由です』

 

 ライドは無言でハッチを開くと、愛機の手のひらに飛び降りた。

 まさか本当にアルミリアを返すつもりだとは思わず、肩すかしを食らった心地だ。何とも言えない居心地悪さを押し込めて、胡乱に首を傾げる。

 

『……あんたは、ラスタル・エリオンに心酔してるわけじゃないのか?』

 

『ラスタル様はわたしの誇り。ラスタル様の剣となり盾となって戦うことがわたしの望みです。いつかそのときが来るのなら、あの方とともに滅ぶ覚悟もある』

 

 主君のために戦い、そして恩義の果てに戦死すること。それ以外にジュリエッタが望むことはない。死を恐れてしまう己の弱さを受け入れて、命あるものとして強くなろうと決意した。

 人とは、死ぬものだ。永遠のものではない。

 ジュリエッタが自問の果てにたどり着いた人間らしさとは『死』そのものだった。命には必ず終わりがあり、奪うこともできる。傷つけば血は流れる。あんなにも強かった〈ガンダム・バルバトス〉のパイロットでさえ、殺せば死んでしまったように。

 ならばジュリエッタにできることは、主君のために戦って戦って死ぬことだけだ。どんなに恨みを買っていようとラスタルは恩人なのだ。身寄りのないジュリエッタには教育を与え、戦う力を与えてくれた。ジュリエッタが慕う傭兵のように、最期の最後までついていく。

 わたしはラスタル様さえいればいい。――それがジュリエッタに出せる唯一の答えだった。

 叶うならばラスタル・エリオンの『剣』としての一生を全うしたいが、剣になれないのなら『楯』でも構わない。実子のいない彼が『娘』にと望むならばそれでもいい。

『女』としてボードウィン家との婚姻を望むのならば、それでも。

 民間出身のジュリエッタが恩人の役に立てる方法は限られているし、血統主義のギャラルホルンにおいて、ジュリエッタは『私兵』以上の地位は得られない。階級が何であれ、後継者とは認められない。なにしろ〈ヴィーンゴールヴ〉外に生まれた以上は出自が()()のだ。地球の片田舎に生まれ、どこの馬の骨かもわからないジュリエッタは『身分に問題あり』のレッテルを剥がすことができない。

 でも、――もしも生まれも身分も関係ない〈法〉と〈秩序〉が実現された未来なら、きっとその限りではない。

 

『アルミリア・ファリド――わたしはあなたこそ、ギャラルホルンの次期代表として適任だと思っています』

 

『ジュリエッタさん…………』

 

 正統なる血筋に生まれ、理想と思想を持っている。セブンスターズという既得権益の中、生まれながらボードウィンの名を持っていてなお、アルミリアはみずからの持つ力に自覚的だ。地位、財力、雇用関係、性別といった『力』の天秤が、支配と抑圧の構造を生み出していることを知っている。

 階級の高い者に逆らえない構造は、戦場では指揮系統として連携を有利にするかもしれない。だが上官は往々にして無自覚だ。銀のスプーンをくわえて生まれてきたギャラルホルンの将校は、みな非対称な力関係に無頓着なのである。みずからの言動がいかに部下を萎縮させ、どのように影響するのか、考えたこともない。

 兵隊を使い捨てる作戦など立案されないような、花嫁が結婚という市場で売買される政治の道具にされないような――そんな生まれも身分も関係なく幸福を求められる『ここではないどこか』を作りたいと願えるのは、アルミリア・ボードウィンしかいない。

 罪の意識を抱きしめて生きる彼女なら、いつか被害者を生まないような法と秩序にもたどり着くだろう。加害者であるという苦しみから目を逸らさない強さがアルミリアにはある。

 

 世の中に深く根を張ったカースト意識をなくすことはできなくとも、せめて誰も泣かずに済むようなシステムを。

 あなたならきっと実現できる。

 

 ジュリエッタは同じパイロットスーツ姿のアルミリアの背中を突き放すようにそっと押した。慌てそうになる耳元に『そのまま』とアドバイスすれば、まっすぐに進んだその先でライドの両腕に抱きとめられた。

 見届けるが早いか女騎士はコクピットへと戻り、まるで捨て台詞のように『アルミリア嬢の安全は、このわたしが保証すると約束します』と事務的に告げた。鋭いまつげの剣先が、どこでもない虚空を見つめる。

 

『あとを頼みます。鉄華団のパイロット』

 

 祈るように残された言葉を胸に抱きしめ、アルミリアは暗い暗礁へと去っていく女騎士の背中を見送る。

 ライドに手を引かれ、そして宙域を離脱する〈ガンダム・アウナスブランカ〉のコクピットで同志たちの未来を願うことしか今はできない。

 

『……あなたも、どうか』

 

 どうか。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 視界の悪い暗礁を、鮮紅色の機体が泳ぐ。

〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機は月面基地の一角へと高度を下げると、隠れるように膝を折った。センサーにかからないよう建物の陰に伏せると、コクピットハッチを開く。

 エンビが〈セイズ〉に合流するのはヒルメとトロウよりも後だ。飛行変形機構を有する1号機が機動力に優れ、敢えて2・3号機と別のルートで退却したのだから、ランデブーまでの猶予期間に、打てる手は打っておきたい。

 携帯端末の電源を切ってシートに放り捨ててから、バックパックの小さな翼を展開する。

 辺りを警戒しながら、基地施設の中でも人気のないブロックへ。

 

 目的は、単独での〈ヴァナルガンド〉奪還。

 

 不可能ではないはずだ。月面基地の設計図は頭に入れているし、足音の響き方も覚えた。今度はもっと深くまで潜入できる。

 やられっぱなしではいられない。だって、アルミリアは対価を支払ったのだ。〈ヴァナルガンド〉と〈ガンダム・バエル〉を買い取るために全額耳を揃えて払ったのに、金だけ騙し取られて黙っていては舐められるだけだろう。また同じことを繰り返される引き金にもなる。いかにラスタル・エリオン公といえど随意に踏みにじっていい消耗品ではないのだと、銃口を突きつけてやらなければ。

 ふうとヘルメットの中でため息をつく。深呼吸をひとつ、エンビは無重力を蹴った。

 

 世界平和の礎のため、使うだけ便利に使って用済みになれば廃棄する――エンビたちは確かにそういう生まれなのかもしれない。()()()()()()()()()のくせに役割をもらえて、害獣にもかかわらず生かしてもらえて、しあわせなのかもしれない。

 だけど。欲しかったのは『本当の居場所』だ。誰に害されることもなく生きられる日常だ。学校でテロリスト呼ばわりされない、ガキは黙っていろと抑圧されない、そういう未来にたどり着くために戦ってきた。

 一度死んだから平和に生きられるとか、平穏な日常に帰ってこいとか、そうやって善意100%で魂を砕きにかかってくる()()()()を取って、量産型の奴隷に成り下がるなんてごめんだ。

 エンビにはエルガーとともに生まれ、ヒルメやトロウとともに育ち、ライドとともに戦ってきた過去がある。それを偽造した真実で上書きして、死ぬまで我慢しなければいけないなんて、いっそ一思いに殺してくれとさえ思う。

 ギャラルホルンが提唱する幸福の規範をなぞってしまったら、そんなの虐殺への加担じゃないか。労働者を使い捨てる凶行に見て見ぬ振りして、銃殺されるヒューマンデブリを助けてやろうともしない、そんな卑怯な生き方はできない。

 学校では少年兵はテロリストだと繰り返し繰り返し教えられ、作文まで書かされて、耐えかねて『デブリ堕ち』したクラスメートが何人もいた。俺も同じ少年兵だと名乗り出られない悔しさで、腸が煮えくり返って死にそうだった。

 生まれを呪え、過去を憎めと言い聞かせられる平穏な日常を耐え抜きながら、エンビはただ、力があればと強く願った。

 理不尽な現状を打開するための力が――殺されないために抗う力が欲しかった。火の粉がかからない安全圏に逃げ切って、この世界は平和だなんて言っていられるお花畑どもを焼き払ってやりたかった。

 

 何も知らないでいることが一番の幸福だというラスタル・エリオンの言葉は、確かに真実なのだろう。

 なんたって軸のないやつはブレないし、芯がないやつは折れない。道がないやつは迷わない。通す筋がないなら、手段なんか選ぶ必要もないだろう。何も持たないなら、捨てるものだって何もない。意志を捨てさせられる絶望も知らず、魂を砕かれる痛みも知らず、強者の思い通り誘導されるまま、支配者のための円滑なる歯車となれるのだろう。

 踏み台にされていることから目を背けて楚々と生きる家畜たちの幸福を、ライドは非難しないけど。

 

(俺はそんなに甘くなれない)

 

 筋を通す生き方を、鉄華団が教えてくれた。変えられない未来なんてないんだと信じる力を与えてくれた。――だから。

 アイデンティティの屠殺場で白紙に戻されてしまった過去を、名前を、居場所を、俺がこの手で取り戻す。

 

 その向こう側へたどり着いたとき、ようやく前に進めるんだ。



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014 レトログレード

 ――本当にこれでいいのかしら……本当に、これで……っ

 

 部屋に閉じこもって泣いていた、女の声を覚えている。母の嘆きだ。正しくエリオン家当主の座にあった父にはふたりの妻がいた。

 ひとりは政略結婚の正妻、もうひとりは士官学校時代から連れ添った内縁だった。

 正統な血筋に生まれたラスタルと、妾の子ジュリアス。奇しくも数日違いで生まれた腹違いの兄は、母親譲りのブロンドにブルーグレーのひとみが野暮ったく、姿かたちのどこをとってもエリオン家の表札そのものであったラスタルとは似たところがひとつもなかった。

 異母兄はおっとりとして素直で、少し鈍臭いところがあったが、思慮深く、読書家であったと記憶している。紙のあたたかみ、ページをめくるときの音が好きなのだと照れたように笑っていた。そんなところまで、こちらのほうが合理的だとタブレットで読書をするラスタルとは正反対だった。

 同じ母のもと、乳兄弟として成長した幼少の日々。あのころは、どこにでもいる『似ていない兄弟』にすぎなかった。

 しかし、いつのころからだったろうか。ジュリアスはなぜだか、彼とは血のつながらないはずの、ラスタルの母のようなことを言い出したのだ。

 

 ――ねえ、ラスタル。僕たちは本当にこれでいいのかな?

 

 世界のあり方への、素朴な問いかけだった。

 

 ――ぬるま湯の合議制をとりながら、軍事力で世界を管理する……そんな二律背反に、誰ひとり問題意識を持っていない。セブンスターズは、ギャラルホルンは、本当にこのままでいいのかな?

 

 異母兄は問う。厳しいお父様の前じゃ言えないけれど、きみならばわかってくれると思って……と、懇願のような目を向けられるたびに、ラスタルは母の嘆きを思い出した。

 正統なる妻としてエリオン家に嫁いできた、ボードウィン家の息女だった。世継ぎを作って生むだけ生んで、息子は父親のもとで内縁の妻が育てているのだから、忸怩たる思いもあっただろう。ラスタルよりもジュリアスのほうが誕生日が十日ばかり早いのだ。エリオン家の長男であるジュリアスは妾の子ゆえ、正統な血筋のラスタルは次男坊ゆえ、エリオン家の『嫡男』とは一体誰なのかと陰からひそひそ笑う声は絶えなかった。

 彼女は、エリオン家のお荷物だった。表舞台に立つときにだけ正妻として求められ、でなくば部屋を出てくる権利もない。お嬢様育ちのせいで子育てどころか紅茶ひとつ自分では淹れられないのだ。深窓の令嬢として育ち、若くして『花嫁』という政略結婚の道具になり、夫の帰りを待つ家具であったはずが、『妻』の役目も『母』の仕事も別の女がすべてひとりでこなしてしまう。

 今のままでいいのかと、本当にこれでいいのかと、ただ泣いてばかりいた母。純粋無垢でうつくしい淑女という商品であったがために、ひとりでは生きていくことさえままならない。現状を悲観し嘆くばかりで、行動の起こしかたひとつ知らない無力な女だった。

 円満とは言いがたかった家庭で、ふたりの母親とも異母兄とも距離を測りかね、いつもどこかで『飢え』に苦しんだ子供のころ。

 誰からも愛されるクジャン公が父であればと何度も思った。

 

 ――おお、お父上の少年時代そっくりじゃあないかエリオンのぼうずよ! このヨーク・クジャンに、お名前を教えてくれないかな!?

 

 初対面の子供をひょいと抱き上げてみせたクジャン公は細身で、よろめきそうになったら部下たちが押し寄せるようにして支えていた。

 

 ――はっはっは! 近ごろは足腰が弱くていかんなァ! みなの支えがあってこそのわたしだ、うむ、ありがとうな!

 

 朗々とした声はやかましくもあるのに、景気がよくて不快さがない。深く刻まれた目尻の皺が垂れ下がる笑顔は太陽のようで、不思議な愛嬌のある御仁だった。ヨーク・クジャン公はよく笑う方だった。周りにはいつもキラキラと希望を目に宿した家臣たちがプライベートを潰してまで付き従っていた。

 厳しかった父に忠臣はおらず、いつも閑散としていたエリオン家にも太陽があればとため息をついたこともある。

 まだ言葉も覚束ない一人息子を置いてクジャン公が亡くなられたとき、ラスタルは初めて彼が幼少よりずっと病弱であったのだという、秘められていた事実を知った。ずっと剛胆で、声の大きな御仁とばかり思っていたのに。明朗快活であった姿はすべて空元気であったらしい。病は気からと言うのなら、気から病をはね除けてやろうぞと、抗いながら生きたことを葬儀の場で聞かされた。

 なかなか世継ぎができないことを気に病み続けていたことも。晩年ようやく子供ができたことを、それは喜んでおられたのだとも。

 

 どうか、どうかイオクをよろしく頼むぞ――と、今際の病床で流された一滴の涙が、長い長い闘病の果てにはじめて見せた彼の弱さだったことも。

 

 嫡男イオク・クジャンは顔立ちこそ母親似であったが、生き生きと朗らかな物言いや、大げさなしぐさが年を経るごと父親に似てくる。それが()というものなのだろう。健康優良児として産まれてきてくれたクジャン家の新たな太陽は、ただ笑っているだけで家臣たちをしあわせにする。まるで晴天の使者かのような血族だ。

 先代クジャン公のためにも立派なご当主に育てあげねばと、クジャン家ゆかりの臣だけでなく、ギャラルホルンの誰も彼もが奮起した。

 

 それからいくばくもしないうちに、ジュリアス・エリオンが死んだ。

 事故死だった。

〈ゲイレール〉の整備中、誤ってキャットウォークから転落したのだという。エリオン家の長男だというのに葬式に先んじて遺体は火葬され、弔いの花を手向けた棺桶の中に遺体はなかった。

 妾の子ジュリアスではなく、正統な血筋のラスタルこそ次期エリオン家当主にふさわしいと誰もがしゃべりたて、半分だけ血を分けた兄の死は、風のように忘れ去られていった。

 純血でなければ嫡男とは呼べない。ギャラルホルンはそういう組織だったらしい。

 士官学校で一緒だった旧友だけで集まって、自棄酒をあおった。

 

 

 それから(ジュリアス)のことは忘れたように生きていたが、あるとき、思いがけない出会いがあった。

 立場に縛られて動けないラスタルのため、傭兵として〈ヴィーンゴールヴ〉の外へ出ていた旧友――当時は『ブレア・ジュリス』と名乗り、やがて『ガラン・モッサ』として散った男――が、懐かしい面影をともなっていたのだ。

 ラスタルは折りを見て、肉と酒を手にお忍びで傭兵たちの野営地を訪ねていたのだが、あるときバーベキューグリルの上で珍しいものが焼かれていた。

 マシュマロである。

 野営地の一角、むさ苦しい傭兵団の誰かが持ち込んだにしては不釣り合いに可愛らしい甘味(スイーツ)だ。

 どうしてこんなものを……とラスタルが首を傾げれば、ブレアは「おうよ」と笑んだ。

 大柄な肩をひょいと逸らせば、隣にはキトンブルーの双眸が愛くるしい少女がひとり。八歳くらいだろうか。ホットココアのマグを両手で包んで、「こどもあつかいしないでください」と不服そうにくちびるを尖らせる。舌足らずだが、何とも小憎らしい物言いの子供だった。

 

 ――驚いたか、ラスタル! こいつは『ジュリエッタ』だ。

 

 きのこのようなブロンドをぐしゃぐしゃかき回して、友は鷹揚に笑った。この娘も傭兵団の一員として立派に仕事をしており、もう銃もナイフも爆弾だって自在に扱える戦士に育っているという。

 MS(モビルスーツ)の操縦も見込み充分、実に将来有望な女戦士(アマゾネス)の卵なのだと、自慢げに笑う。

 

 ――ジュリアスに娘が生まれたら、こんな感じだったかもなあ!

 

 

 

 

 

「―― さま、 ……ラスタル様?」

 

 呼び声に、ふっと意識が浮上する。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。重たいまぶたをこじあければ、あのときの少女がラスタルをのぞき込んでいる。

 

「ジュリエッタか 」

 

「ラスタル様、どうかなさいましたか」

 

「いや……」

 

 ただ、懐かしい夢を見ただけだ。ラスタルがまだ、月外縁軌道()()統合艦隊のいち兵士であったころ、事故死させられた異母兄のことを思い出していた。そして窮屈な〈ヴィーンゴールヴ〉を抜け出し、傭兵のキャンプで夕食を囲んだときのことを。

 ブロンドにブルーグレーのひとみ、拾い子の名はジュリエッタ。

 実に不思議な巡り合わせだと今でも思う。『ひげのおじさま』と傭兵を慕うのでジュリエッタ・ジュリスと名乗らせたが、やっぱり『モッサ』にしておけば……などと、傭兵の偽名が変わるたびにむぐむぐと文句を言っていた。

 異母兄の娘のつもりで養育し、いずれは後継者の椅子に座らせるつもりだ。はじめはガランの後釜に据えるつもりだったのに、十五年の月日の中で、いつしか情が湧いてしまったらしい。

 傭兵の後任として使える駒は他にいる。

 

「少し、居眠りをしてしまったようだ」

 

「お疲れなのではありませんか」

 

「そんなことも言っておれん。月面基地の修復に取りかからねば」

 

「わたしはラスタル様の剣となり、楯となりたいのです。どうか何なりと――」

 

「ジュリエッタ」

 

 呼べばすんなり押し黙り、遮ったつもりもないのに命令を待つ忠犬のように、ジュリエッタは眉尻を下げた。拾ったころはほんの小さな子供だったのに、すっかり美人になった。養父としてのひいき目もむろんあるだろう、成長を見守ってきた娘のような存在が、可愛く見えないわけがないのだ。

 アルミリア・ボードウィンがモンターク商会を引き継ぎ、鉄華団の生き残りを雇って密偵の役目を請け負ってくれたおかげで、ジュリエッタは手許に置くことができた。

 自身の後釜に据え、この子にはどうか安寧に生きてほしい。民衆からは相当な恨みを買っているだろうラスタルがいなくなっても生きていけるように、ガエリオ・ボードウィンに嫁がせるつもりだ。母をボードウィン家にお返しするという、意趣返しでもある。

 ファリド家のハーフビーク級〈ヴァナルガンド〉、そして〈ガンダム・バエル〉は()()()()()()()

 

 三百年前、厄祭戦を終わらせた英雄の搭乗機――〈ガンダムバエル〉。

 かつては錦の御旗として崇められもした。しかし支配者が変われば、旧時代の神も、新時代の悪魔になりうる。逆もまた然りだ。

 近日、アウナスともどもその首級をもって出自不問の栄誉栄達をもたらすだろう。英雄の時代は終わり、旧時代の信仰はかたちを変える。三百年前に人類を守った悪魔(ガンダム)は、今度は万人に奇跡を呼ぶ、出世の引き金となる。

 それこそが最適化されていく世界の正しいあり方だろう。

 指導者は七人もいらない。七十二柱もの英雄に守られていた時代は終わったのだ。旧時代の遺物など崇める愚者どもは、そして歴史の闇に葬られる。

 みなが単一の神を信じるようになれば。争いをなくすことが可能だろう。そのためには敵が必要だ。無辜の民を傷つけることのない、思慮と思想あるパイロットを乗せた()()が、新たなる神話を作る。

 

「ジュリエッタ。お前は、『人らしく生きたい』と考えたことはあるか?」

 

「ラスタルさま……?」

 

 当惑にキトンブルーの双眸がまたたく。重いまぶたは野暮ったくも見えるが、目の大きな顔立ちのジュリエッタにはちょうどいい塩梅だ。

 これが()()()というやつかと、いまだ独身のラスタルは自嘲気味に笑んだ。

 

「人であるのだから、人でなく生きることなどできん。獣ならば人のように生きたいと願うやもしれんが――」

 

「……獣の考えることは、わたしにはわかりません」

 

「そうか。『獣』だからこそ奴らは『人』に焦がれるのだろう」

 

 幸運な女騎士は、従順に目を伏せた。ああ、とラスタルは頷く。

 家畜を御すのはこうも容易で、獣を狩るのもひどくたやすい。退屈だが、退屈であるほどいいのだ。平穏とはそういうものだと、ジュリエッタも大人になればわかるだろう。何も起こらないことが、兵士の仕事など存在しない世界が、何よりの平和なのだと。

 思考を摘み取り、思想を削ぎ落とし、人はみな『普通』の範疇の中に収まるように育てばいい。そうすれば争う必要性はなくなるだろう。その世界には復讐も報復もない。役目を理解し、力の及ぶ限りで精一杯生きていればしあわせに生きられるのだから。

 

 みな、美味い肉を食いたいのだ。動植物、魚、労働力、女子供を食い物にできなくなるとあれば、当然反発が起こる。これまで当たり前に使い捨ててきたものに好き好んで対価を支払いたい者はいない。

 肉には肉の、ただ黙って喰われているという重要な役割がある。

 ものを考える子供など可愛くない、物言う女など生意気だと思っているのはテイワズも同じだ。従順であればこそ幸福を享受できるのだとレールを敷いて物心つくよりも前から刷り込んでやれば、女子供を円満に懐柔できる。

 子供とは無邪気で愛くるしく、学校と勉強が大好きで、大人の言うことをよく聞くものだというプロパガンダも、圏外圏じゅうに行き渡ったころだ。やがては内々で『常識』という名のルールから逸脱しそうな杭を打ちあうようになるだろう。『このままでいいのか』と体制に疑問を抱く不穏分子は、自然と淘汰されていく。

 もしも反乱に発展するならばギャラルホルンが出動し、治安維持を行使してやればいいが、――それはまだ先のことだ。

 

「釘を刺しておかねばならんな」

 

 先ほど、基地内に侵入していた諜報員をひとり捕らえてしまった。尋問は兵士に一任してある。汚れ仕事にジュリエッタを関与させたくないと、わざわざ執務室まで呼びつけたのだった。

 目尻の皺を深くし、ラスタルはふうとため息をついた。

 

「心が痛むよ」

 

 言葉に反して、くちびるは愉快げに歪む。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 作戦開始から十九日目――月面基地を離れて六日目。

〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機を回収するはずだったランデブーポイントに、エンビの姿はなかった。

 肩すかしを喰らったような安易さでアルミリアが救出できた矢先の事態に、艦内には動揺が広がりつつある。連絡を取ろうにもビスコー級クルーザー〈セイズ〉がいるのは非正規航路の真っ只中。こんなデブリ帯でMS(モビルスーツ)を見つけるなんて、砂漠で米粒を探すようなものだ。

 いくら鮮紅色の機体が目立つ色彩とはいえ船体各部カメラの映像は岩石で遮られて虫喰い状態である。これではお互いが双方向から探していたって合流は容易ではない。

 

「エンビからの連絡は?」

 

「まだ、何も……」

 

 ウタが力なく首を振る。この任務中、火星から月までの道中はMSのコクピットで待機することも視野に入れていたから、みな保存食はひと月分ほど積んであった。にしても、コクピット内の酸素は十日もしないうちに尽きるだろう。

 カウントダウンは残り四日。〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉三機の中でも1号機(アルフレッド)は高機動型だし、エンビはよく動き回るから推進材の残量も心配だ。スラスターのガスが尽きたらMSは動けない。

 そろそろ連絡があってもおかしくないころなのだが……。

 

「どこかで入れ違ってしまった、とかかな……」

 

「ありえねえよ」

 

「でも俺、もしかしたら見落としちまってたかも……っ」

 

「エンビと俺たちに限って、ありえねーって言ってんだよ!」

 

 イーサンが間髪入れず噛み付いて、ライドもああと首肯した。そうだ、ウタが弱音を吐く必要はない。鉄華団残党で構成された〈ハーティ小隊〉は、同じ戦術で育ってきたのだ。鉄華団時代に培った知識や、学校で覚えた憤り。共有する過去あってこそ、戦略的に思考したとき限りなく同一の『最善』をはじき出す。以心伝心の連携は、餓狼の群れの中で構築された価値観のもとで算出される『最も合理的な選択』を取り続けるからこそだ。

 ウタがポイントを再計算するとき、エンビもまた同じデータと数式を用いて計算を行なっているだろう。

 もとより〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2・3号機は二機セットで、1号機は単騎で、それぞれ動ける機体性能である。隊長が別行動をとることくらい、〈ハーティ小隊〉にはよくあることだった。

 しかし、エンビが六日も()()()()()()となると、……さすがに初めてだ。

 前例がないだけに、捜索・哨戒に撤することしかできない。ヒルメとトロウも疲れているだろうし、またそのうち駆り出さなければならないことを思えば、一分でも長く休息をとらせてやりたい。

 代わりの実働部隊が必要だろう。

 

「イーサン、〈ガルム小隊〉を呼んでくれ」

 

 

 

 

 

 艦内放送をかければ、ほどなくブリッジの扉が開いた。

 番犬たちのリーダーは右腕と左腕を従えて、グリーンのひとみでライドを見上げる。

 

「任務ですか」

 

「そうだ。昨日ついたばかりだってのに悪いな、ギリアム」

 

「いえ。呼んでもらえて、うれしいです」

 

 ギリアムの言葉に、噓はないのだろう。ライドも「そうか」と中身のない通過儀礼を返す。

 拠点防衛組として火星の共同宇宙港〈方舟〉に残っていたメンバーを呼び寄せたのだ。これまでモンターク商会を手足に使っていたラスタル・エリオン公に切り捨てられたのであれば、火星の拠点も安全ではない。

 マーナガルム実働2番組〈ガルム小隊〉は元宇宙海賊の勘をもってデブリ帯を最短距離でくぐり抜け、昨日ビスコー級クルーザー〈セイズ〉に合流した。アルミリアの歓迎を受け、相変わらず格納庫で寝起きしている。……まったく、相変わらず頼りになる子供たちだ。

 

「早々だが、哨戒をお前ら〈ガルム小隊〉に任せたい。戦闘にならないように周囲を見張っててくれるか」

 

「はい!」

 

 相変わらず景気のいい返事(イエス・サー)である。両翼も即座にこくりと頷く。糸目のフェイとどんぐり目のエヴァンは、ギリアムがいなければ口もきかない犬猿だろうにタイミングばっちりだ。むしろ一卵性双生児であるはずのギリアムとエヴァンのほうが感情の発露に差異がある。そっくり同じ顔をしているせいか、見せる表情の違いがよくわかるのだろう。

 三人揃ってブリッジを出て行き、センサーが自動的にドアを閉める。

 そして――、知らず知らず息を詰めていたのか、イーサンが長々とため息を落とした。

 

「……ちっこくても元デブリは迫力あるぜ……」

 

「弟くんのほうは天然っぽいけど。戦闘になったら結構やるもんね」

 

「そうじゃねえよ……」

 

 ぐしゃりとブロンドを乱して、イーサンは頬杖ごと火器管制席に沈んだ。何とも言えない顔をするのは、ブリッジクルーという非戦闘員ゆえの葛藤だった。

 あの双子にはアストン・アルトランドの面影がある。……というのは、ああいった褐色肌かつグリーンアイズの相違点が認知できない白人特有のイメージなのだろう。宇宙海賊〈ブルワーズ〉から鹵獲されてきたヒューマンデブリ特有のガツガツした戦闘員のイメージを、人種という大雑把な共通点を持つ子供に重ねてしまうのは、ただの偏見でしかない。

 同じオリーブ色の肌を持つウタは、『褐色』といえばヒルメのようなチョコレート色を連想する。

 双子の年齢を「十三歳くらい」とぴたり言い当ててみせたのもウタだけで(アルミリアが回収したIDに十三歳とあった)、イーサンにとって異人種の年齢は謎そのものである。トロウもいつまでたっても幼いままいるように見えるし、ヒルメの表情がいまだにうまく読みとれない。〈ハーティ小隊〉でもことさら色素の薄いイーサンに見えている世界は、微妙に色が違うらしい。

 そんなもの今に始まったことではないかと、ため息をつく。

 

「まあ、あの連携は脅威だよな。〈イサリビ〉ならまだしも〈セイズ〉の兵装じゃ防ぎきれねえ」

 

 個々の力は強くなくとも、四機まとめて相手するなら相当な腕が要る。強襲装甲艦であればMSを振り払うこともできるだろうが、ビスコー級クルーザーの装甲に戦闘に耐えうる厚みはない。

 かたや厄祭戦を戦った〈ガルム・ロディ〉四機、かたや厄祭戦後に製造された〈セイズ〉一機。

 死ぬのはどっちか、火を見るよりも明らかだ。

 ああも鋭い牙を持つ番犬の群れを艦内に飼って、思うさま虐待できる海賊連中の気が知れない。飼い主もろとも全滅してやる覚悟さえ決めれば、強襲装甲艦二隻くらいサクッと沈めてしまえる戦力だろうに。

 

(エヴァン)が甘ったれなぶん兄貴らしくなったんだろ」とライドがたしなめ、そしてブリッジは沈黙した。

 

 ライドやイーサンの目に映るギリアムの姿が十歳そこそこの子供(ガキ)だとしても、中身は子供でいられなかったヒューマンデブリのリーダーなのは周知の事実である。

 

 

 いつまでも子供のままいたかったリタとは違って。

 

 

 

「……それに、ギリアムの隊にはチップ持ちの参謀がいる」

 

 知識を外科的に埋め込まれ、整備や戦術、厄祭戦当時の兵器のことまで知っているメンバーが〈ガルム小隊〉に属している。〈ガルム・ロディ〉2番機のパイロットをつとめるハルは後遺症により下肢が不自由なため、無重力環境でなくばギリアムたちと行動をともにすることができないが。

 責任感が強くカリスマ性のあるリーダー、混戦に強い戦力と、知識によってサポートする参謀、そして以心伝心の連携――まるで鉄華団のミニチュアだ。命令には必ず最短でもって答える。

 マーナガルム実働1番組〈ハーティ小隊〉同様、2番組〈ガルム小隊〉もまたライドの指示を待たずとも戦略的に判断できるのが強みである。隊長を中心に動く共同体、いわゆる『群れ』として、ひとつの動きをするのが得意だ。

 

「あいつらほど優秀な番犬(ガルム)はいねえよ」

 

 目を伏せるライドは隊長として、この苦しいような悲しいような、やりきれない気持ちをどうしていいかわからない。

 あいつらは信頼できる兵隊だ。

 不条理なほどに。



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015 瑕

「哨戒中の〈ガルム小隊〉から通信! 漂流船を見つけたって」

 

 どうする、と操舵席からウタがライドを振り返った。

 隊長であるエンビが戻らず動くに動けない実働1番組〈ハーティ小隊〉に代わり、2番組〈ガルム小隊〉が警戒にあたって()()()。連絡によれば、九時の方角へ一八〇〇いくばくの距離で戦艦を発見したとのことだった。

 月面基地からここまで慣性に従って流れてきたようで、どうにも人の手で操縦されている雰囲気ではないという。(ブリッジを破砕したときと同じ挙動だ——という元宇宙海賊の報告には、ぞっとしないが何とも説得力がある)

 船体に(フェンリル)の絵を見つけたが、どうすればいいかと指示を仰いできた。

 モニタに拡大して照合をかければファリド家の紋章と一致する。

 

「エイハブ・ウェーブの固有周波数も〈ヴァナルガンド〉で間違いないよ」

 

 今しがた解析も済んだ。偽装の可能性は限りなくゼロである。

 だが、ウタの表情は冴えない。ハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉が漂流できる宙域ということは、この〈ルーナ・ドロップ〉の中でもある程度デブリが晴れているということだ。迂闊に接近すればアリアドネの監視網に捕捉され、ギャラルホルンに〈セイズ〉の位置が割れてしまう。

 

「……今度こそ罠かな」と不安そうにライドを振り返った。

 

「まだ何とも言えねえな」

 

 二度あることは三度あると言うが、ジュリエッタ・ジュリスはあのまま帰投したようだし、発信器のたぐいを仕込んだようすもなかった。腹芸の苦手そうな印象通り、実直な女であるらしい。

 だが、そういった性質は汚い大人に利用されやすい。

 罠かもしれない。……となれば、罠かどうかが判明するまで、アルミリアに〈ヴァナルガンド〉を発見したことを知られてはならない。場合によっては撃墜も視野にいれなければならないからだ。

 

「ヒルメとトロウを調査に行かせる。〈ガルム小隊〉を迎えによこしてくれ」

 

了解(ラジャー)」と、押し殺すようにウタが答えた。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

〈ガルム・ロディ〉が差し伸べた手のひらから、甲板へとトロウが降り立つ。宙域を漂うハーフビーク級戦艦は、静かに慣性に流されているようだった。

 船体にファリド家の紋章を戴く〈ヴァナルガンド〉。マクギリス・ファリドの形見として、依頼主アルミリア・ボードウィンがずっと欲しがっていたものだ。契約書面上は既にモンターク商会が買い取っているはずの代物でもある。未亡人として夫の面影を追う女主人のためにも、できれば無傷で確保したい。

 ヒルメも続いて飛び降りると、非常用のエアロックをこじあけ艦内へと侵入する。MS(モビルスーツ)が四機が周囲の警戒にあたり、ヒルメとトロウが生身で潜入・調査にあたる手筈だ。

 長い廊下をふたつのライトが這い回ったが——、人の気配はないようだった。

 

『このまま内部の確認にあたる』とヒルメがインカムごしに〈ガルム小隊〉へ伝える。

 

 日ごろスポッターをつとめるヒルメのヘルメットには小型カメラをマウントできる機構があり、今回は命綱代わりにケーブルを取り付けた。さすがに映像はざらざらと劣化するものの〈ガルム・ロディ〉のシステムを中継すればLCSで〈セイズ〉のブリッジまで届けることが可能だ。

 

「頼んだ」と、ブリッジからライドが応答した。

 

 モニタごしにトロウが頷く。目配せをすると低重力が頼りなく発生させられているばかりの暗闇へ、銃を構えて踏み出した。

 慎重に気配を探りつつ、しんと静まり返る廊下を抜ける。誰もいない居住ブロック、談話室のバーカウンターは空。酒瓶どころかグラスひとつ見当たらない。荒らされたような痕跡もない。闇の中に沈むビリヤード台も、ずいぶん長い間使われていないようだった。食堂、管制室、倉庫、それからハンガーをのぞき込み、医務室を見渡して、たどりついたのは広すぎるブリッジだ。

 やはり誰もいないことを確認すると、ヒルメはおもむろにコンソールパネルに触れる。眠りについていただけらしい管制システムが起動し、〈ガルム・ロディ〉から〈セイズ〉につながる。

 およそクリアな通信が可能になった。

 

『メーデー、聞こえるか。とりあえずドアは全部開けてきたけど誰もいなかった。念のためメカニックよこして艦内に生体反応がないか点検してほしい』

 

『それとMSデッキに〈ガンダム・バエル〉があった。ざっと見た限り異常はなさそうだ』

 

 推進剤も装填されており、双剣も添えられていた。だがコクピットブロックがごっそり取り除かれているので、このままでは起動もままならないだろう。両翼の電磁砲が撃てる状態にあるかどうかも判然としない。

 

『それから——、』とトロウが珍しく言いよどむ。

 

 ちらりとヒルメを見遣って、頷く。

 

『カーゴブロックに「アルフレッド」のコンテナが積まれてる』

 

 通信ごしに全員が息を呑んだ。エンビの機体(グリムゲルデ)がなぜ〈ヴァナルガンド〉の貨物として積まれているのか、因果関係がつかめない。

 

「……縁起でもねえな」

 

 どうにか絞り出したライドの声も、喉で掠れてうわずっている。

 唯一未確認のそれを、これから調査に行くと宣言したヒルメの声も緊張に尖っていた。

 

 

 

 

 ふたたび銃を構え、大型貨物を積載するカーゴブロックまでたどり着くと、MS用コンテナの扉を入念に点検する。頷き合って、入り口から侵入。

 すると、——機体の膝許に遺体袋(ボディ・バッグ)がひとつ置いてあった。

 不穏な予感に背中を冷たい汗が這う。

 

『……おれらで確認する』

 

「ああ、気をつけろよ」

 

 精神的な攻撃だろうが、ここで焦って駆けすがって、爆発物や毒ガスにやられることも考えられる。……とにかく、何が仕込まれているかわからない。慎重に近づいたトロウが、黒々と不透明な遺体袋のファスナーに手をかける。

 ゆっくりと引き下ろせば、そこには。

 

『——っ! う そだろ ……ッ!』

 

 鋭く息を呑んだのは、そこにある面影が見知った茶髪だったせいだ。もともと短かった髪はさらにざんばらに刈り取られ、頭皮にはナイフの刃がかすめた切り傷が、凝固した血液のかたちで残されている。頬には殴られた痣。乾いてこびりついた血液、体液。あちこちに残って黒ずむ注射針の痕。

 暴力の痕跡も明らかに、静かに目を閉じている。

 エンビ。——動揺でふるえそうになる手をぐっと握り、冷静さをかき集めるようにファスナーを下げれば、着衣はなく、胸元には血文字のメッセージがナイフで刻み入れられていた。

 

 

 

The body tells no tales.(死体は語らない)

 

 

 

 その文字列を目にした瞬間に、トロウはみずからの識字能力を呪った。ああ、と、ヒルメが取りこぼす。かつりと一歩後ずさる足音、取り落とされたハンディライトが転がり落ちて、明後日の方角を照らす。

 おそらくアリアンロッドに捕らえられ、尋問を受けたのだろう。何があったかは想像に難くない。

 それでも、エンビは何も白状しなかったのだろう。使われた薬剤は自白剤か、覚醒剤か、どんな劇物だったのかはわからない。わかるのはただ、長時間かけて痛めつけられた傷の深さだけだ。

 肋骨は折られ、脚には三発もの銃創がある。うちひとつは刃物によって抉られ、広げられている。

 何も語らないなら死んでも同じだとばかりに、殺されたのだろう。

 全身傷だらけになって、こんな形で帰ってきた。

 

『うぁああああぁああああああ あああ ぁああ あああああああ————!!』

 

 トロウの慟哭がスピーカーをびりびりと割る。〈ガルム・ロディ〉のコクピットも、〈セイズ〉のブリッジも、血を吐くように悲痛な叫びに耳を塞ぐことはできなかった。

 ヒルメが崩れるように膝をつく。がくりとくずおれて、ヘルメットのバイザーの内側に涙が落ちた。

 おれのせいだ、と嘆く言葉も出てこない。

 諜報任務に就くとき、エンビはいつも毒と酸を持ち歩いていた。捕まるようなヘマはしないが、万が一のことがあったときには仲間の居場所を吐いてしまう前に死ねるようにと。いつも即効性の致死毒を持ち歩いていた。足がつかないよう顔面を焼けるだけの強い酸も。

 エンビが常に携帯していたはずのふたつの小瓶は、今はヒルメの私室に置きっぱなしだ。

 

 ——現状維持を選んでいいのはお前じゃないんだぜ、ヒルメ。

 

 月面基地に到着する二、三日前のことだった。厨房を担当し、羊の肉を調理したエンビは、少年男娼(リタ)との接し方に迷うヒルメの眼前に、その小瓶を置いていった。

 

 ——家族の無事を願うなら、ちゃんとケジメをつけてこい。

 

 あのとき、エンビがみずから汚れ役を買って出たのに。なのにヒルメは毒物をキッチンに置いていくのは物騒だからとリスクヘッジを言い訳に小瓶を回収して、そのままにしていた。

 ヒルメが致死毒の小瓶をエンビに返していれば、拷問が長引くようなことはなかっただろう。

 鉄華団という居場所を失い、戦う生き方を全否定され、未来を奪われた同胞が心配だった、だからヒルメは『強硬派』につき、ライドのもとへ集って〈マーナガルム隊〉で仕事をすると決めたのに。

 それなのに、ヒルメの優柔不断が兄弟をこうまで苦しめた。

 エンビを殺したのはおれだという後悔が、臓腑の底から迫り上がってくる。

 

 いつか『本当の居場所』にたどり着けたなら、家族みんなが飢えることのない食事があるはずだった。みんな交代でゆっくり眠れるはずだった。寝ている間に死ぬことも、殺されることもない。夜が明ければ全員が生きて朝を迎えられるような、平穏な日々があると信じていた。

 威張り散らした大人に殴られたりしない、海賊やギャラルホルンの営業妨害もない。そんなあたたかい場所が世界のどこかにあるのだという、見果てぬ夢をどうか捨てずにいたかったのに。

 イーサンの拳がコンソールパネルを打ち付ける。ウタが茫然と涙を落とし、そんな……とくちびるをふるわせた。

 遺体袋に取りすがって号泣するトロウの叫び、ハウリングの残響が、鼓膜も心臓も鋭く突き刺してくる。

 

 

「何かあったのですかっ?」

 

〈セイズ〉のブリッジの扉が開く。駆け込もうとするアルミリアは、無作法な手によってはね除けられた。

 

「入ってくるな!!」

 

 唐突な怒鳴り声に怯む。思わず廊下に尻餅をついてしまったアルミリアが見上げても、ライドの手によって遮られたブリッジの中は見えない。

 

「 ライド、さん……?」

 

 ふりあおいでも、ライドの目線はメインモニタに釘付けのまま、アルミリアを振り返ろうとはしない。赤毛に隠された目許は見えず、表情は読めない。ただブリッジじゅうのスピーカーが音割れを起こして嘆き悲しんでいる。響いてくるトロウの慟哭から、心臓が止まりそうな焦燥が迫ってくるばかりだ。

 おろおろと顔色をなくすアルミリアを、ようやくライドが省みた。しかし、どうにか「すいません」と詫びたひとみは焦点が定まっていない。

 何かを振り切るように、首をふる。

 ひとすじの涙が蒼白な頬を伝い落ちた。

 

「……あいつも男だ。多分、あんたには見られたくない」

 

 ふるえる声をぐっと飲み込み、ライドはああと嘆息する。何かを振り払うようにふたたび、首を振った。

 察しのいいアルミリアは立ち上がることを諦めて、両手を祈りの形に握った。でも祈ったところでもう遅い。罪悪感が涙をあふれさせ、青く大きなひとみに溜まった熱いしずくは、目を伏せただけでまつげに砕かれて頬を濡らす。

 

 アルミリアのまなうらに蘇るのは、赤いMSの膝許で団子状になって眠っていた三人組の姿だ。警戒心が強く、不眠症がちだったエンビ。無事の帰還を喜び合った兄弟三人で、落ちるように眠ってしまった格納庫。あたたかな眠りから彼らを呼び覚ましてしまいたくなくて、踏み込めなかった領域だった。

 彼なら任せても大丈夫だからと頼ってきた、これが結果だ。ただ諜報向きの外見であっただけなのに、たったひとりで地球へ月へ、危険な場所へと送り出す仕事を任せ続けた。

 エンビ単独の作戦が当たり前になっていなければ、こんな悲劇は起きなかった。

 ああ、どうして、どうしてひとりで行かせてしまったのだろう。

 

 瓦礫になった家族の肖像は、なおも手ひどく砕かれていく。



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P.D.333: 補食動物の牙

P.D.333----------------

 

 

 

 

 薄すみれ色の短髪がガラスに写り込んでいる。青いひとみの男は退屈そうに眦を落とし、そして目を伏せた。

 窓の向こうは暗礁である。壁一面のガラス窓とアーチ型の天井が展望台らしさを演出してはいるものの、気の利いたBGMひとつかかっていない。

 

「何もないところだな、宇宙というのは」

 

 憂鬱な独り言が、静寂にほどける。今のガエリオには答えてくれる部下もいない。ジュリエッタは任務中だろう。ちょうどアルミリアが訪ねてくると聞き、会談に立ち会おうと提案したところ、ラスタルには丁重に遠慮されてしまった。

 ひとりの時間を持て余し、月面基地の一角にある展望台まで足を伸ばしたのだが、見えるのはただ岩石ばかり。車いすでは身を乗り出すこともできないが、のぞき込んだところでどうせ三六〇度同じ景色だ。

 本当に何もない。当基地で最もうつくしい展望台だとアリアンロッド兵士から口々に勧められ、不便を押してこんな辺鄙な区画までやってきたのに、時間の無駄だったらしい。

 ああ、と無為なため息がこぼれた。

 外を眺めるために作られた大窓だろうに、そこにあるのは〈ルーナ・ドロップ〉と呼ばれるスペースデブリの密集地だ。目を楽しませるものひとつなくて何が展望か。木々の緑も、空の青も、海の紺碧も、ガエリオにとって当たり前の光景が宇宙(ここ)にはない。

 いつも夜中の曇り空のような黒で、大岩小岩がひしめいていて。

 内装の装飾も黒ずんでいるし、これでは体を悪くしてしまいそうだ。

 話のわかる側近でもいればよかったのだが、あいにく部下はみな軍人気質。暇つぶしの種にと面白い話ひとつできない連中と余暇を共にしては気が休まらない。

 ガエリオの所属は『貴族院』であり、月外縁軌道統合艦隊の管轄下にあるこの月面基地では部下を連れ歩くことができないのだ。ガエリオをここまで送り届けた戦艦〈スレイプニル〉のクルーたちは上陸はせず、艦内でいつも通りの生活をしている。

 基地内を自由に動くことができるのは、かつてアリアンロッドに身を置いていたガエリオただひとりである。

 といっても、ただラスタルに気分転換を打診されただけの旅なので、これといって目的もない。病院と自宅を往復するだけの生活からの逃避も、これではただ問題を先送りにしただけだ。

 しかもこの月面基地、増改築を繰り返しているため段差が多く、車いすでは不便が多い。間取りもあれやこれやと不便で、ガエリオは前々からあまり好きではなかったのだった。

 ラスタルのスキップジャック級戦艦〈フリズスキャルヴ〉内のほうがよほど過ごしやすかったなと、いつしか遠ざかっていた過去を振り返る。

 アリアンロッド艦隊に身を寄せ、ラスタル・エリオンの側近として戦っていたヴィダールの時代。

 あのころになってガエリオはようやく、マクギリスの語る『腐敗』が間違っていたことに気付いたのだ。

 

 勉強も訓練でも子供のころから常に一番だったマクギリス。憧れていたのに、隣に並びたいと思ったのに、ガエリオに隠れて()()をしていた。

 学生時代は父上たちに隠れてギャラルホルンの詭弁を嘆き、監査局時代はこれ見よがしに賄賂を断っておいて、自分はベッド・テクニックで成り上がっていたのだ。そんな淫売が今さら実力主義だなんて、みずからの罪を隠蔽したいだけではないか――とガエリオは憤りを覚えた。本当に本当の実力でなりあがったわけではないくせに。

 袖の下を受け取って、うまくいくのならそれが一番だろう。マクギリスだってイズナリオ様に対価を差し出していたのだ。選り好みはよくない。問うべきは手段ではなく結果であったはず。

 

(……いや、七年も前に死んだ男だ。今さら思い出すのもおかしな話だな)

 

 自嘲がちに、窓に映るガエリオはくちびるを歪める。友でも何でもなかった男を、思い出すたび胸の奥が痛んでしょうがないのだ。だから忘れようとした。思い出さないように箱にしまって鍵をかけ、痛みごと忘れてしまいたかった。

 ラスタル・エリオンの統治のもと、世界は安寧を取り戻したのだから。

 あんな反乱が起こることも、もうないだろう。治安を乱すような腐敗を二度と赦さないために、ギャラルホルンは再編された。

 ガエリオは、面倒だがやはりセブンスターズの一員である以上は相手を見つけなければならないし、早く結婚を、世継ぎをと急かされる不自由は甘んじて受けている。(不本意だが実にローテクな車いすに乗せられており逃げるに逃げられないのだ)

 何度見合いをしても心にぽっかりと開いた風穴を埋めることはできず、気に入った女がいないと嘆いていたら、ラスタルから「ジュリエッタはどうか」と提案を受けた。

 彼女なら気心も知れているし、憎まれ口を叩きながらも受けてくれるだろう。可愛げがないし出自も悪いが、根は素直だし、もっと肉がつけばガエリオ好みの女になる。もともと婚約の噂も結婚の噂もまことしやかに流されていた。

 一回りほどの年齢差があるのであまり実感が湧かないにしても、あのジュリエッタも花嫁になるのかと思うと感慨深い。アリアンロッドの総司令官を『寿解任』という形で降り、兵士たちから祝福される姿を思い描けば、存外悪くないと思えた。

 こんな陰気な宇宙要塞より、地球本部〈ヴィーンゴールヴ〉のほうがよほど居心地がいい。ジュリエッタだって、宇宙なんかより地球にいたいに違いない。月面基地はあちこち改修した名残の段差ばかりで何かと不便だし、老朽化も深刻だとラスタルがこぼしていた。

 

「……ん?」

 

 ふとガエリオの目に留まったのは、ちいさな光の粒だった。砕けた月の破片に埋もれるようにして、きらり輝く青い惑星(ほし)

 岩石ばかりの暗礁で、ひとつだけ尊い青の光。

 

 ああ、ここにいたのか。――ガエリオはごく自然に微笑んでいた。

 

 道ゆく兵士たちがしきりにこの展望台を自慢してきたのは、地球の姿を見ることができるからだったのだろう。

 かつての英雄たちもこうして地球を眺めたのかもしれない。厄祭戦よりも過去のことなど記録にないし、ガエリオは当然認知していないが、三百年以上前にも世界は存在したことくらい理解できる。

 月が欠けるほどの戦禍であったという未曾有の大災害、厄祭戦。人類の二十五%を死滅させたという惑星間戦争を生き残った遺物として、月面基地は一種の縁起物であるらしい。

 戦中甚大な打撃をこうむった月に残る唯一の施設だ。頑丈さこそが取り柄なのだとしても、外観は野暮ったいし、内装もつぎはぎだらけで、もう少しどうにかしてほしいものだ。

 そんなことを考えた矢先だった。

 

 不意に、何か不穏な音がした――ような気がした。

 ずいぶん遠いが、ドォンと打ち下ろすような轟音だ。ガラスはびりびりと余韻にふるえている。体感できるほどの揺れはなかったものの、ここまで伝わってきているのだから相当な規模の爆発があったのだろう。

 耳を澄ませば、何かが滑り落ちる摩擦のような音が続いて聞こえてくる。

 すると、突如。

 

「う、 ぉおおっ?」

 

 ふわん、と車いすがフロアを離れた。持ち上げられたついでに、ガエリオ自身も宙に浮いてしまう。飛んでいきそうになった膝掛けをたぐりよせるが、車いすをつかみ損ねてしまった。

 腕を伸ばしても、ふわふわ、ふわふわと浮遊するばかりで届かない。ついにはその場でくるんと一回転してしまった。

 ああもう、これだから宇宙は――! 苛立ちをどうにかおさめる。

 

「おいっ、誰か! 誰かいないか!」

 

 冷静ぶって声を張りあげても、反応はない。展望台に続く廊下はどれもガエリオを無視してしんと静まり返っている。

 そこへ、かつりと響いた靴音がひとつ。

 どうにか顔をあげれば、くすんだオレンジ色をまとった男が立っていた。ギャラルホルンの兵士ではない。

 

「誰だ、お前っ…… そのノーマルスーツは!」

 

 見覚えがある。野暮ったいシルエット、インナースーツが剥き出しのデザインは衝撃を吸収しそうになく、非文明的な火星人の野蛮さを物語るようだと思っていた。

 マクギリスと結託していたテロリストグループが着用していたパイロット用のノーマルスーツ。確か、背中に特殊なアダプタがついている――吐き気をもよおすが、今のガエリオはそんな醜態は晒さない。

 

「薄汚いネズミめ、どうやって入ってきた!」

 

 気丈に糾弾すれば、不敬なオレンジ色はようやくヘルメットのバイザーを開いた。ダークシェードの向こうから現れたのは、白人系の少年だった。

 男かと思ったら、子供だ。体格はそれなりのくせに、顔立ちにはまだあどけなさが残っている。生意気そうなグレーの双眸が、ぱちくりとまたたく。

 なぜお前がここにいるのかと問いたげだが、それはガエリオの台詞である。

 

「……あんた、もしかして『新時代の英雄』ガエリオ・ボードウィンか?」

 

 もしかしてとはご挨拶だが、無様に空中浮遊中なので格好がつきかねる。ガエリオは「ああ」と短く肯定してみせた。英雄、というのはあくまでプロパガンダでも、今のガエリオが担っているのは確かにそういう役割だ。『女騎士』だけでは締まらないから、つがいとなる『英雄』が隣に立っている。おかげでジュリエッタとの仲はずいぶん前から噂されていた。

 すると宇宙ネズミは勝ち気そうな双眸を嫌悪感たっぷりに眇めて、ガエリオを睨めつける。目つきの悪さからして荒くれた育ちなのだろう、こんな旧式の車いすで健気に静養しているガエリオに何の配慮も見せはしない。

 磁石の仕込まれたタイヤのせいで横転している車いすを一瞥して、忌々しげに吐き捨てた。

 

「……あんたみたいなやつがいるから、俺たちはいつまでたっても自由になれないんだ」

 

「なんだと?」

 

「あんたの妹が何を背負ってて、どんな目に遭ってきたのかも、どうせあんたは知らないんだろう」

 

「貴様……妹を知ってるのか? アルミリアに何をした!」

 

 まさか彼氏だとでも言うんじゃなかろうな——と、嫌な予感がガエリオの脳裏をよぎる。月面基地を訪れるアルミリアの用件とは再婚の話だったのか。妹には今度こそ身の丈にあった男をと考えなくはなかったが、同世代とはいえ火星のネズミなど論外だ。そんなことのために火星への留学を許可したわけではない。

 マクギリスで一度失敗しているのだから、どうか今度は地球人から、まともな男を選んでほしいのだ。火星にもアインのような誇り高い男はいるとはいえ、上官への忠義忠節のために命を捨てるような男は結婚に不向きだ。火星人はアルミリアをしあわせにはしてくれない。

 そんなガエリオの心中など推し量ることもなく、身の程知らずな小僧は「連絡くらい自分でとれよ」と嘆息した。

 家族なら、と続ける。

 そして手の中の拳銃をガエリオに向けた。

 

「ギャラルホルンにとって火星は『出がらしの惑星』らしいな。そこに住んでるのは『労働力』で、阿頼耶識がついてたら『宇宙ネズミ』。……なんでそう呼ばれてるか、あんたは疑問に思ったりしないのか?」

 

「何を……言っている……?」

 

「あんたの妹が自分の頭で悩んで、考えたことだ」

 

「貴様、やはりアルミリアをっ!」

 

「……ずいぶん似てない兄妹なんだな」と不遜なネズミは胡乱げに目を眇めた。

 そして言葉がクリアなアーブラウ訛りに切り替わる。どうやらこの少年は、年齢相応に落ち着いた話し方もできるらしい。

 

 

「運よく安全圏に生まれた人間が、運悪く屠殺場に生まれた人間を消費する……、そんな軍事独裁のもとで安逸と暮らせる人間性が俺には理解できない」

 

 

 目を逸らして語る姿が学生時代のマクギリスに重なって――、ガエリオは秘めた記憶にカッと火が点るのがわかった。教養を感じさせる物言いで、小難しい理屈を捏ねて、騙そうったって無駄だ。流暢な演説にたぶらかされたりはしない。

 

「善き支配者が、無垢なる民を治めるのが正しい秩序のあり方だろう!」

 

「労働者を消耗品として使い捨てるのが『善き支配者』なのか? 俺を『ネズミ』と蔑むのが、正しい秩序?」

 

「言わせてもらうがな! お前たち火星人が地球に侵攻したせいで、どれほどの被害が出たと思う!? 俺は部下を失い、友を失いっ――友だった男に殺されたんだぞ! 親友だと、ともに腐敗を正す同志だと俺はずっと信じていたのにっ……裏切られたんだ!」

 

「……えっと。逆賊マクギリス・ファリドのことなら、討ったのはあんただよな? 本当か噓か知らないけど、養父に虐待されてた過去を全世界に暴露して袋叩きにしたくせに、どの口が言うんだ」

 

「な にを……ッ」

 

「俺たち『獣』の志が、あんたたち『肉食者』と同じなわけないだろう。喰い物にされるのが嫌で武器を取ったんだから、――」

 

 

 搾取者(あんた)を殺さずにはいられない。

 

 

 餓狼が唸るように低く、少年は静かに吐き捨てた。落ち着いた言葉の裏に剥き出された鋭い牙がありありと感じ取れる。記憶の底から蘇ってくるマクギリスとの思い出が、泡のように脆く崩れていくようだった。

 ガエリオのくちびるが戸惑いながらわななく。ああ。マクギリス、お前は。

 生まれが悪くて、でも努力家で。なのにベッド・テクニックで成り上がった腐敗の象徴で。勉強ができて、強くて、人気者で格好よくて。

 何をやらせても一番だったお前の隣に、並び立つ男になりたかった。

 

 

「 マ クギリ ス……ッ!」

 

 

 ――政治抗争に腐心し、民間人を虐殺してなお権力の座にあり続けようとするアリアンロッド(かれら)こそ! 腐敗したギャラルホルンの象徴である!

 

 耳の奥に蘇る、青年将校の演説。

 

 ――平和と秩序の番人であるギャラルホルン。それはセブンスターズの面々が特権を享受するための、都合のいい戯れ言にすぎなかった!

 

 マクギリスが暴力革命に踏み切ったとき、ラスタルには何の相談もなかった。エリオン家の当主へ一言あって然るべきだろうに。何事も定められた手順を踏み、組織や上官、恩人の名誉を傷つけぬよう配慮すべきだ。

 ギャラルホルンを刷新したいから協力してくれと願い出てくれたなら、ガエリオは率先して協力した。カルタだって。七星会議を賛成多数で可決させるくらい、ラスタルとカルタに相談すれば造作もなかったはずだ。イシュー、ボードウィン、ファリド、エリオン、クジャンの賛成によって、残る二家の老人たちを追い詰めることができた。

 なのに、マクギリスはそうしなかった。あいつは目に見える『力』に変換できるものに固執したのだ。権力、気力、威力、実力、活力、勢力、そして――暴力。

 あいつは愛情や信頼、この世のすべての尊い感情を蔑ろにした。

 そう思っていた。

 そう思いたかった。

 ついにガエリオの青いひとみから涙がこぼれおちる。我が身を抱きしめて孤独の痛みに耐えるガエリオに追い打ちをかけるように少年は銃口をつきつけた。

 ゴリ、と背中に硬い金属がめりこむ。

 

「この状況で、俺に協力を求めて『ともに戦おう』なんて言わないよな? 誰と戦うのか理解できてるから言えない。ともに戦っても、俺に抗っても、結果的にあんたは死ぬ」

 

「マクギリスは協力なんか求めなかったッ……だから、」

 

「“だから、俺は悪くない?” それとも“だから、俺も命乞いはしない?” ――あんた何喰って生活したらそんな平和ボケできんの?」

 

 さっきは英知すら感じさせた口調が復讐に煮えたち、最後は乱暴に締めくくられる。激情と、暴力的な闘志と害意。その変化が、ガエリオには手に取るようにわかった。

 銃口がガエリオの背中をぐいと押し、無作法な左手がガエリオの前髪をわしづかむ。

 力任せに向き合わされる現実。火星からやってきた、いまだ幼い復讐鬼。殺伐としたグレーの双眸に、宙に浮いたままのガエリオがうつっている。青いひとみは涙で不安定に揺れている。ああ、カルタならば仁王立ちして、この万年みそっかすとでも嘲笑してくれただろう。

 ガエリオたちセブンスターズの面々が特権を享受し、安全に暮らせる世界を、ギャラルホルンは守っている。そこはガエリオにとって少しばかり窮屈だが、愛おしい日常だった。カルタがいて、マクギリスがいて。アインと出会って。

 奪われたくなかった。壊されたくなかった。

 だから楽園を踏み潰したマクギリスを憎んだ。

 あいつは貧しく野蛮な火星人による地球侵攻を黙認し、手引きすらした。そのせいでガエリオはあまりに多くを失った。

 ところがガエリオが生きる日常の裏側で、マクギリスは何もかも奪われ続けていたという。

 火星人の血を『人間ではない』と蔑むギャラルホルンのルールに、苦しんだのはアインも同じだ。弱冠九歳で婚約させられ『子供のくせに』と陰口を叩かれ、アルミリアから笑顔が消えた。コロニー出身者は明日の夢も見られないと嘆いたマクギリスの部下がいた。

 地球圏の豊かさは、各植民地を組み敷いた上に成り立っている。その頂点に君臨するギャラルホルンは、四大経済圏からの出資によって運営されている。

 搾取してきたことを認めたくないあまりにギャラルホルンはマクギリス・ファリドを『裏切り者』と呼んだのだ。ただ安逸と生きていただけで『加害』であった現実を直視できかねた。だって。出された食事は残さないボードウィン家の美徳と、植民地の労働者から絞り出した甘い汁を啜る豊かさとは、同時に呑み込むことができない。ガエリオは何もしていないのに、悪いことなんて何もしていないのに。

 友に寄り添いたい思いに噓はなかった。なのにガエリオの友愛も、カルタの愛情も、マクギリスにとっては狼が兎に舌舐めずりするような捕食者の欲望としか映っていなかったなんて。認めたくない。信じたくない。だって、知らなかったのだ。

 ガエリオは所詮、ギャラルホルンの〈法〉と〈秩序〉に基づき、マクギリスたちを食い物にしてきた『罪の集合体』のひとかけらでしかなかっただなんて。

 それでも唯一の友人であったと言ってくれたのは、マクギリスのほうだった。

 

「あ……ぁああ………っ 」

 

 慟哭するガエリオを冷めたひとみで見つめ、トリガーに指をかけた獣はシニカルにくちびるを歪めた。嘲笑のかたちだ。なのにグレーのひとみは笑っていない。空調が異常をきたしたかのような寒気がガエリオを襲う。冷たい狂気が展望台を支配し、気温が一度も二度も下がったように錯覚する。

 まさか撃つというのか。無抵抗の人間を。武官でありながらパイロットであることをやめ、二度と戦わないと覚悟を決めたギャラルホルンの英雄(シンボル)ガエリオ・ボードウィンを。

 あのとき仮面を外したマクギリスのように、また。

 

「なあ、あんたも考えてみろよ? あんたたちの秩序がただの肉としか扱わない女子供(ドーブツ)にだって、あんたを喰い殺せる牙はあるんだぜ」

 

 獰猛にトーンが落ちる。――そして。

 

 

復讐(くいころ)される気分はどうだ?」

 

 

 銃声が響いた。




【次回予告】

 目を開けてくれ……いや、もう少しだけ眠っててくれ。ボロボロになってでも帰ってきてくれたお前に、おれたちのために折れないでいてくれなんて言えるわけないのに。目を覚ましたお前が変わってしまってたら、おれはどうしていいかわからない。
 次回、弾劾のハンニバル。

 第6章『喪主は七年前に死んだ』。

 おやすみ、エンビ。あとでゆっくり話をしよう。


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第六章 喪主は七年前に死んだ
016 スケープ・ゴート


【前回までのあらすじ】

 どうにか月面基地から離脱したライドたち。アルミリアの身柄はジュリエッタによって保護され、無事に返還されたが、今度はエンビが戻らない。火星で待機していた〈ガルム小隊〉を呼び寄せ、捜索・哨戒にあたったところ漂流する〈ヴァナルガンド〉を発見。取り引きを拒否されたはずのハーフビーク級戦艦の中には〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機と、遺体袋がひとつ積み込まれていた。
 ファスナーを開ければ、そこには――。


 きらきらと青白い光線が駆ける。スペースデブリの迷宮を縫うようにして〈レギンレイズ・ジュリア〉は奔っていた。

 サブモニタをちらりと見やり、ジュリエッタは牽引している(ひつぎ)の状況を確認する。凍結率八十七%――あと少しだ。この〈ルーナ・ドロップ〉には恒星の光も届かない日陰が多いためか、予定よりもずいぶん順調らしい。

 大地のない宇宙において、葬送はこのようにして行なうのが常である。

 遺体袋を船尾などに取り付け、引き回せば、何らかの作用によってやがて芯まで凍り付く。真空か低温か、具体的な要因までジュリエッタは関知しないが、そのまま高速で牽引を続ければやがて微塵に砕け散ることと、そうした葬送の手順だけはギャラルホルンの兵士として承知している。

 小さな柩はぽろぽろと氷の涙を散らすように砕け、やがて宙域にはジュリエッタひとりが残された。

 最後の最後にバーニアをふかし、死の気配を断ち切るように加速する。アルミリア・ボードウィンとの約束通り、責任を持って葬送を成し遂げたのだ。これでリタ・モンタークの魂はあるべき場所へと還っただろう。

 幼き日のマクギリスに瓜二つだったという金髪碧眼の少年は、血染めのドレスに(くる)んで永遠の眠りに送り出した。

 

(……どうか安らかに。もうひとりのマクギリス・ファリド――)

 

 目を閉じて、なけなしの祈りを捧げる。魂の在り処などわからないけれど、それでもどうか、彼女との約束を果たせたと信じたい。

 モヤモヤとどうしようもない感傷を噛みしめるように目を閉じて、ジュリエッタは操縦桿を握りしめたまま、コクピットの低い天井をふりあおいだ。軽量化のたび各モニタが迫ってくるせいで、今やちょっと首を傾けるだけで壁に触れられる。ヘルメットがこつりとモニタに触れ、ブルーグレーの双眸は無感動にまたたく。

 

 ああ、ここも棺桶のようだ。

 

 いち個人としてアルミリアに肩入れしても、ジュリエッタはラスタル・エリオンの私兵に過ぎない。フェンリルの花嫁が無事であることを願いながら、今後もギャラルホルンの女騎士(アイコン)として、使い道がある限り担がれ続けていくのだろう。

 地球経済圏、コロニー、圏外圏の出身者でも『悪魔の首を取る』ことができれば出世がかなう――というギャラルホルンの新体制において、ジュリエッタ・ジュリスという前例は必要不可欠である。

 悪魔の首を取った凛々しき女騎士の立身出世は、裏を返せば危険な任務から生還した武官でなくば認められることはないという意味でもある。栄誉栄達を望むならば最前線へ志願せよと、地球外出身者を死地へと駆り立てるだろう。

 そのようにしてラスタルは、保守派にも中間層にも支持される『改革』を成し遂げた。

 

 合議制が解体され、セブンスターズに繰り上がれるはずだった第八席以下の貴族たちからの反発も、ガンダムの頭部に破格の価値を与えたことで至極あっさりといなした。

 イシュー家、クジャン家、ファリド家のガンダム・フレーム売却を契機に『お取り潰し』という悪習を撤廃したことが大きかったらしい。決して転落することのない永遠の地位を約束された貴族たちは、いらなくなったガンダムを次々スクラップにしだした。

 

 栄えある地下祭壇には、悪魔(ガンダム)の首がずらり。

 

 ……つくづく主君の政治力には感服させられる。

 

 ひげのおじさまと慕った傭兵も天性の戦術家であったが、ラスタルは真の支配者だ。

 かつてマクギリス・ファリドが目指したものは、生まれも身分も関係なく競い合う権利だった。アルミリア・ボードウィンが彼の思想を引き継ぎ、人が人らしく生きられる〈法〉と〈秩序〉を模索している。

 ファリド夫妻が描く未来に、生まれが()()だなんて発想はない。階級はあくまで指揮系統としての順列であり、支配と隷属の関係ではない、というのが彼らの描く『平等』だ。出身地、性別、年齢によって周縁化されるシステムを是としない。

 

 しかしそれでは、貴族からの賛同は得られない。貧民が同じスタートラインに立つようになれば、マクギリスやジュリエッタのようなガツガツした下等民が出世レースを勝ちあがってくる可能性があるからだ。

 誰も競争などしたくない。戦わず、争わず、平和的に豊かな生活を享受したい。

 

 ラスタル・エリオンはだから、巧妙に矛先を逸らしてみせた。

 

 青年将校らの蜂起に〈マクギリス・ファリド事件〉と名前をつけ、マクギリス・ファリド本人の死をもって幕引きとしたのは、社会的信用を失いかけていたギャラルホルンの『自浄作用』を印象づけるためだ。

 抗争を早期に解決したことで改めて綱紀粛正を世界に示し、マクギリスが解消しようとしていた『出身地による待遇の差別』をうやむやにさせた。

 

 火星独立運動の旗頭であったクーデリア・藍那・バーンスタインが望んでいたのも、力なき子供たちが搾取されない世の中であったという。それを、これまで野放しだった圏外圏の奴隷を〈ヒューマンデブリ廃止条約〉によって制限したことで、解決されたと世界を安心させた。

 といっても圏外圏は角笛の音も届かぬ無法地帯。もとより非合法であったはずのマン・マシーン・インターフェイス——阿頼耶識システム——の適合手術が横行していたこともあり、条約の効力などあってないようなものである。

 

 ならば、取り締まりの必要性が浮上する。ギャラルホルン火星支部の縮小は、そのために行なわれた。〈マクギリス・ファリド事件〉の中で、当時の火星支部本部長をつとめていた新江・プロトが革命軍らに便宜を図ったことも(キー)になった。

 これまで火星植民地域はギャラルホルンによる間接統治が行なわれていたが、火星支部が衛星基地(アーレス)にまで撤退すれば、地球経済圏はたちまち植民地の運営に行き詰まる。唯一の通信回線であるアリアドネはギャラルホルンが管理しているのだから、情報の封鎖など容易だ。

 思惑通り、各地球経済圏は火星植民地域の統治を断念。火星は、宗主国から見捨てられる形で脱植民地化を果たした。

 

 そして発足した火星連合政府は、ラスタル・エリオンとマクマード・バリストンによる傀儡になる。

 

 さらに、初代連合議長をつとめるにふさわしい知名度を持つ〈革命の乙女〉は、火星の人々すべてに教育を与えたいという。

 

 すかさず木星圏や地球圏から大量の教員免許保持者が送り込まれ、宣教師たちは少年兵(テロリスト)の残忍さ、凶暴さを切々と説く。人々のしあわせを壊す害獣のいない、優しい世界を作ることこそ、願われた火星の姿なのだと。

 マクギリス・ファリドやクーデリア・藍那・バーンスタインの目指した理想の()()を、敢えて実現することによって弱者という弱者の口を塞いでしまった。

 出自が悪くとも出世の機会が得られることに感謝しろと、平等を望む声は遮られる。少年兵たちは害獣として迫害され、ヒューマンデブリに身を落とせば銃殺刑に処される。

 世界は平和になったのだから、平和な世の中に生かしてやっているのだから文句を言うなと出る杭を打ち合うさまを、はるか高みから睥睨する独裁者ラスタル・エリオン。

 

 これでもう、第二第三の鉄華団が現れてギャラルホルンの威信と繁栄を脅かすことはないだろう。第二第三のマクギリス・ファリドが現れて、周縁化された弱者たちを鼓舞することもない。

 

 永劫の平和が訪れようとしている。

 希望も絶望もない、役割だけがそこにある家畜の安寧が実現される日は、もうすぐそこだ。

 

(それでも、わたしは――)

 

 恩人への忠義忠節のため、人として強くなりたい。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 まったく、何が幸いするかわからないものだ。

〈ヴァナルガンド〉の医療ポッドが稼働してよかった、と言うこともできる。さすがギャラルホルンの戦艦だけあって、医務室には実に高性能なメディカルナノマシンが備え付けられていた。

 ヒルメがメカニックによる生体反応の確認を要請した判断も吉と出た。あのタイミングでメカニックを寄越してくれと母艦〈セイズ〉に連絡していたから、火星から合流していたカズマが〈ヴァナルガンド〉に向かっていた。小型ランチにドクターを同伴させたライドの人選も正しかった。

 尋問の痕跡も明らかなエンビにすがって号泣するトロウは正常な精神状態とは言いがたく、アルミリアが雇った医師は、錯乱するトロウの対応のためすぐに〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機のコンテナへ誘導された。カズマはブリッジへ直行し、艦内にスパイが息を潜めていないか再確認(ダブル・チェック)にあたった。

 結果、思わぬ場所から生体反応を検出した。

 

 

 ――脈拍がまだっ……エンビは生きてる! 待って今すぐ医務室の電源入れる!!

 

 

 上擦った叫びがきぃんと響き渡ったのは、ちょうどヒルメがトロウを押さえつけ、ドクターによって鎮静剤が投与されようとする寸前だった。

 すぐにエンビの容態が確認され、投薬による仮死状態と診断された。

 格納庫に備え付けのストレッチャーをむしり取って担ぎ込み、医療ポッドに漬け込んで、――今に至る。

 

 

 漂流していたハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉を回収して、四日あまり。静謐な医務室では、電子音が規則正しい脈拍を刻んでいる。外傷の回復は順調らしく、バイタルの値は驚かされるほど正常だ。

 ヒルメはこの数日間で何回ついたかもわからないため息を重く落とすと、手許のタブレットをデスクに伏せた。

 

(……俺たちはあと何日生きられるんだ)

 

 自問する。答えは出せない。火星にも戻れずさまよって、このまま海賊にでもなって、アリアンロッドの強襲を受けるまでの命なのか。

 瀕死のエンビを〈セイズ〉まで連れ帰るのは難しい状況だったとはいえ〈ヴァナルガンド〉の船体規模では、逃げ隠れしていられる時間も長くはない。火器管制にトリガーロックがかけられていることをイーサンが発見し、今はメカニックによって解除と再装填作業が進められてはいるが、艦隊戦となると不安が多い。

 いつでも乗り捨てられるよう艦尾のウェルドックに〈セイズ〉を収容し、MS(モビルスーツ)も全機こちらへ移してきた。

 戦力は〈ガンダム・アウナスブランカ〉、〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉三機、〈マン・ロディ〉四機、〈スピナ・ロディ〉五機、〈ガルム・ロディ〉十機。それから〈ガンダム・バエル〉を含めて、総勢二十四機。

 動けるパイロットは二十二人。〈ガルム小隊〉や〈ウルヴヘズナル混成小隊〉から予備パイロットを動員することになるだろう。もしもアリアンロッドの攻撃を受ければ、守ってやりたかった未熟な弟分たちまで戦場に駆り立てねばならなくなる。

 

 これで本当によかったのかと自問して、自答できずにまたため息だけ吐き出す。繰り返しだ。いくらか前にトロウが寝落ちてしまったので、話し相手もいない。

 医療ポッドに突っ伏して寝息をたてるトロウと、生理食塩水に横たわってこんこんと眠り続けるエンビを見下ろす。

 その胸元で癒えつつある血文字に、危うく騙されるところだった。

 

The body tells no tales(肉体は何も語らない)

 

 死人に口無し(Dead man tells no tales)とは、書いていなかったのだ。

 中途半端な知識を嘲笑われているようで、なおさら気が滅入る。

 

 尋問中に死亡したと早合点したが、その実、コールドスリープ、あるいはハイバネーションのような状態であったらしい。傷口から出血がなかったこと、体温や血圧が極端に低下していたことから、ドクターやメカニックの慧眼がなければ見落としてしまうところだった。

 みな疲れていたし、動転していた。遺体袋(ボディ・バッグ)に入れられていたこと、死んでいても不思議ではない重傷を負っていたこと、予定外の長い不在にエンビの生存を疑いはじめていたこと――他にも死体と早合点しそうな条件は揃っていた。

 あのまま遺体として処分してしまっていたらと考えると、生きた心地がしない。

 

 また新たなため息をついたところで、医務室の扉が開かれた。

 姿を現したのはライドだ。アルミリアが続く。見舞い客がふたりも現れたことでヒルメは疲れた顔をあげた。

 ライドは気遣うように眉尻を落として、同胞が眠る医療ポッドを見下ろす。

 

「エンビの調子は?」

 

「よく眠ってる。命があっただけでも奇跡みたいなもんだから、当分はゆっくり寝かせとけってさ」

 

「そっか。……死ぬなって、エルガーが励ましてんのかもな」

 

「それ、さっきトロウも言ってたよ。エルガーが憑いてんじゃないかって」

 

 肩をすくめてみせたヒルメはデスクに伏せたタブレットを回収すると、座っていた椅子を譲ろうと腰を浮かした。

 アルミリアはすぐに察して「わたしはここで」と首を振る。ドアのそばで立ち止まり、両腕に抱えていたカラフルな紙の束をライドに手渡した。これ以上立ち入らないという意思表示だろう。開いた両手は祈りのかたちで落ち着いた。

 ライドの手によって医療ポッドのそばに置かれた花瓶の中では、不器用な折り目のついた色紙たちが花を象って咲いている。(アルミリアによれば『オリガミ』というらしいが、紙だなんて高級品を折り畳むなど火星では考えられない暴挙である)

 

 アルミリアが連れている金髪の美少年たちに作らせたものだと、一目でわかった。

 

 結局何もしてやれないままリタを月面基地に置き去りにしてしまったことを謝罪しようとして、ヒルメはしかし、口を噤む。

 最期を看取ったアルミリアに、現場に居合わせなかったヒルメが詫びを入れてどうなるというのだろう。

 後方支援のため〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機で待機していたヒルメは、モンターク商会社長とラスタル・エリオン公の間でどんな取り引きがあったのか、伝聞でしか知らない。アリアンロッド兵士らの前に飛び出したリタは、凶弾に倒れ、アルミリアの腕の中で息を引き取った――という情報を遅馳せに共有しただけだ。

 一部始終を見ていたライドとトロウから断片的に得たデータだけで理解した気になれるほど、ヒルメは自己完結が得意ではなかった。

 

 目覚めないエンビの身に何が起こったのかも、いまだ想像の域を出ない。アルフレッドこと〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機は単騎で動ける性能を持っているし、エンビの性格上、単独で〈ヴァナルガンド〉奪還作戦に踏み切ることも予想はできた。独断で月面基地に潜入し、兵士と遭遇して銃弾を脚に受け、足止めされて捕らえられたのだろう。

 

 ――家族の無事を願うなら、ちゃんとケジメをつけてこい。

 

 忠告通りにリタを毒殺しておいたなら、エンビは無事だったろうか。そんな考えが数秒ごとに脳裏をよぎる。そのたび、ため息がこぼれた。致死毒を返さなかったおかげでエンビは生きて戻ってきてくれたのだと喜ぶべきなのか。……わからない。

 家族を守りたくてライドのもとに集い、家族の無事を願うために支払わなければならない犠牲があることも、承知していたつもりだった。なのに二兎を追おうとして、結果がこのざまだ。

 

「副団長が言ってたのは、こういうことだよな。戦ったって家族が酷い目に遭うだけだって。だから武器なんか捨てちまえって。もともとまともな死に方できるなんて思っちゃいなかったけど……、さすがにキツいな」

 

「……ヒルメ」

 

 このところ心休まる暇のないヒルメを慮って、ライドもまた沈鬱に目を伏せた。ヒルメが頭を振る。その姿はまるで、死神の足音に耳を塞ごうとしているかのようだった。

 

「ドクターが、このまま意識が戻らないこともありえるって……」

 

 医師の話では、薬の作用以外にも精神的なショックから覚醒を拒否している可能性もあるという。

 拷問の記憶から心を守るために、眠りの中へ逃避する症例は決して珍しくないらしいのだ。銃創や骨折といった外傷の回復は見込めても、まだ安心はできない。

 

「まだ目覚めないと決まったわけじゃない。悪いほうにばかり考えるな」

 

 事実、エンビはまるで双子ふたりぶんの生命力を集約したかのような回復を見せている。深い睡眠状態にあることが自然治癒力を高めているのだろう。傷が癒えれば自然に目覚めるかもしれない。

 アルミリア嬢が連れてきた老医師は、こんな任務にまで同行するだけあって、宇宙ネズミについても差別感情を持たない奇特な人物でもある。偏見を持たない――先入観やプロパガンダを『事実』とは受け取っていない――人物ゆえ、知らないことは知らない、わからないことはわからないとはっきり言ってくれる。(ついでに「地球ではこう信じられている」という情報も付け加えてくれ、それを『偏見』や『誤認』だと訂正すれば取り合ってくれるという、なんというか、地球人にも会話の成立する人間はいたのかと驚くような御仁だ)

 

 そんな医師の見識をもってしても、一体どんな薬剤を使われたのかは判然としないという。

 予防接種などの習慣がなかった火星人は独特の免疫力を持っており、地球で製造されたワクチンやドラッグがどのように作用するかわからないのだ。それがエンビの目覚めを阻害している理由かもしれない。でも違うかもしれない。前例がない。不可知だ。

 かといって、メディカルナノマシンによる細胞の活性化に頼るしかない現状がヒルメを悩ませていることもまた事実である。

 答えのない問いはただ抱えているだけで精神を疲弊させる。ヒルメは複雑な思いを吐き出すすべもなく、チェアに沈み込んだ。ため息にもなれない嘆息に、口角がいびつに釣り上がる。まるで自傷のようだ。

 

「信じて待つしかないのはわかってる。けど、そしたら次は、エンビが起きたとき、生きててくれてよかったって言っていいのかって考えるんだ」

 

 心配かけてごめん、もう大丈夫だ――と言ってほしいのは目覚めを待っている側のエゴで、エンビはなぜ助けたと憤るかもしれない。

 もちろんそんなふうに責めてほしいわけじゃない。だが医療ポッドに横たわるエンビの姿は痛々しく、命があってよかったなんて無責任に喜べる状態ではない。歯や爪はすべて無事だったにしろ、肩と肘を脱臼させられ、手首の骨には罅が入っていた。射撃を得意とするエンビが、自慢の命中率を取り上げられてしまったのだ。

 脚に三発受けた銃創も、ひとつは執拗に抉られており、傷痕は消えずに残るだろう。主要な骨や筋は逸れているとしても、回復に時間がかかるほど筋力は低下し、俊足を鈍らせる。

 一体どんな薬を使われ、どんな自白を迫られたのか――、ヒルメは兄弟の身に降り掛かった暴力を思う。即死の毒薬が手許にあればと願ったかもしれない。ヒルメを恨み『裏切り者』と詰ったかもしれない。

 

「エンビがどう言うにしたってお前の気持ちはお前のものだ、ヒルメ。優しさで自分をすり減らすな」

 

「でもさ。生きててほしいのも、死なせたくないのも、俺たちの都合(エゴ)だろ? 死んだほうがマシな目に遭ってきたなら、生きろなんて追い打ちはかけたくない、かけられない」

 

 首を振る。正直、混乱している。ヒルメの本音はその一言に尽きた。

 もし、もしも目覚めたエンビがもう戦えない、戦いたくないと言ったとき、受け入れられる自信がない。

 いっそ殺してくれと乞われたとき、どうすべきかも。

 

 だって、CGSの参番組では重傷者は()()()()()()のが常だったのだ。

 

 戦士の生命線とも言うべき、Life()Limb(四肢)Eyesight(眼球)。そのいずれかが失われたら、生きていくのは難しい。

 生活のために傭兵として働いている。ならばこそ五体満足であることは必須条件だった。片腕でマシンガンは抱えられない。片足では走れない。盲目では狙えない。仲間の楯になって死ぬのがせいぜいだろうに、仲間の手を患わせなければ戦場にたどりつくことすらできない。

 仕事にならないのに、生活コストは倍増する。すなわち終わりだ。今ある呼吸を続けるために必要な金を工面できなくなった戦友を、楽に眠らせてやるのがせめてもの慈悲だった。

 銃口を向けるとき、トリガーを引くとき、罪悪感はともなわない。お前が苦しむ時間がどうか一秒でも短くあるようにと、喉奥で願うだけで精一杯だ。嘆きの声を噛み潰し、揺らぐ視界で最期を看取る。ただ胸をえぐるような悲しみだけが横たわる。

 

 医療の恩恵を受けられない少年兵に、延命治療という観念はない。

 殺すことは、生きることだった。

 

 かつての火星ではみなそうだった。花街の女たちだって食い扶持のために我が子を殺す。傭兵だって報酬のためにターゲットを手にかける。受けた仕事をやり遂げるため、行く手の障害を排除し、生き残る。それ以外の選択肢はない。

 

 人を殺してはいけない、なんてルールを知ったのだって学校に収監されてからのことで、それまでは殺さなければ殺される環境で生きてきた。CGSに志願して無麻酔の適合手術を受け、ずさんな手際、金属アレルギー、感染症、阿頼耶識システムの不適合などの理由で仲間は次々死んでいくのが『普通』だった。

 仲間を使い捨てられる日常のせいで、殺人は『罪』にあたる、なんてルールは地球圏特有のものと思い込んでいたくらいである。

 

 齢一桁だった子供のころから、誰かの命を糧に生きてきた。

 肉食獣が肉を喰うように。

 

 生命倫理をかなぐり捨てた生存者(サバイバー)は、捕食動物と変わりない。

 

 

 そもそも、人を殺してもこうして正気でいられること自体、異常なのだ。

 

 

 だから無抵抗で殺されるべきだと、学校で教えているのだろう。

 倫理観の破綻した異常者たちは戦闘経験豊富で、鋭い爪と牙を持っている。合理的に思考するため懐柔もきわめて困難である。

 ならばどう駆除してくれようかと考えたどこぞの誰かが、『教育』を手段に使った。

 少年兵は生まれついてのテロリストで、存在が迷惑で、死ぬべきなのに死なずに生きている邪魔な獣だ――と学校で繰り返し刷り込んでいれば、誰もが少年兵を忌避するようになる。どんな殺し方をされても自業自得だと喧伝する教師の言葉を鵜呑みにして、植え付けられた差別感情のまま人々は『害獣』に石を投げるだろう。

 

 だって少年兵とは残忍で凶暴で、破壊と殺戮を繰り返すテロリストなのだから。

 

 傭兵にせよ暗殺者にせよ依頼がなければ人殺しなどしない、領域を侵されなければ自衛の必要だってない。殺されないために抗い、死にたくないと願ってきただけだ。――というのはヒルメたち少年兵側の言い分で、そんなことより民衆は、公正なる世界のために『悪者』どもは報いを受けて死んでほしい。

 因果関係がどうあれ貧困は自業自得で、少年兵はテロリストだと学校で教えている。生きるために人を殺すなんて人間のやることではないという『規範』がある。

 自己否定に苦しみ抜いた少年兵たちは、治安維持という大義名分のもと振り翳される暴力に耐えかね、やがて死という最後の安息に手を伸ばす。

 生きたいと願うことさえ、治安を乱した罪なのだ。これまで家族や兄弟を食わせるため、借金を返すため、自分が食っていくために体を張って働いてしまった『罰』を受けなければならない。

 親の借金や病気の弟妹を抱え、今も警備会社で働かざるをえない現役少年兵たちも、みな等しく『罪人』として。

 

 一方、両親に望まれて生まれてきて、愛されて育てられていく子供たちは断罪者(ヒーロー)になる機会を得る。

 悪い獣をやっつけて『平和を勝ち取った英雄』気分を味わいながら、のびのびと育つのだ。

 

 そうやって少年兵――死を喰らって生きてきた忌むべき獣は、大義のもとに粛正されていく。

 

 実際、いなくなってやったほうがいいのだろう。このまま全滅したほうが世界のためなのかもしれない。こうも無抵抗の死を望まれて、どうやって生きていけばいい?

 ヒルメはああと長く長いため息を落として、両手で顔を覆った。生きてほしいと望むことがどんな破滅を呼び込むのか、考えるだけで悪い未来ばかり浮かんで消える。

 

「……知りたくなかったことばっかりだ」

 

 ()殺しがのうのうと生き延びる世界に、善良な市民の安寧はない。

 だから人々のしあわせを壊す害獣(おまえ)たちは無抵抗で死ぬべきなのだと、〈法〉と〈秩序〉がそう決めた。




※Respectability Politics... 特定の功績などを条件に人権を認める方針により、差別体制を維持しながら人権派を気取ることができる政治のテクニック。差別者・中間層・無欲および無知な被差別者からの幅広い支持を集めることができる。世間体政治。


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017 花と祈り

「……知りたくなかったことばっかりだ」

 

 ヒルメの嘆きが医務室の静寂に落ちて、そして沈黙に喰われた。

 ギャラルホルンが守る絶対安全圏に生まれて生きた民衆にとっては、あのラスタル・エリオン公こそが善なる平和の指導者なのだ。

 貧困を自業自得だと罵らせてくれる、待遇に不満を持つ強欲な労働者は圧倒的軍事力で一掃してくれる。経済圏が軍隊なんて物騒なものを持とうとしたときには、戦争を起こして警告してくれた。〈マクギリス・ファリド事件〉では卑しい男娼あがりの裏切り者を罰してくれたし、犯罪者集団も殲滅してくれた。〈ヒューマンデブリ廃止条約〉を締結し、少年兵(テロリスト)を根こそぎ駆除してくれたのだ。

 ギャラルホルン様おかげで平和を脅かすものはなくなった! ――と、諸手をあげて喜ぶのが正しい民衆のあり方らしい。

 まったく、やっていられない。

 

「あの……わたしがこんなことを言うのは、筋違いかもしれないのだけど」

 

 壁の華がわずかに声をうわずらせれば、ライドとヒルメが振り向いた。二対の眼光が鋭くて、アルミリアは思わず祈る両手を握りしめる。

 まるで狼のようだと、無意識のうちに指先は畏怖にふるえていた。

 狼。――厄祭戦よりもはるか昔に絶滅してしまった、群れなして生きる獣。賢く勇敢で、家族とともに暮らすイヌ科の肉食動物であったという。糧を奪われ、住む場所を追われ、やがて姿を消したと本で読んだ。マクギリスが遺してくれた紙の本だ。彼の蔵書がなければ、アルミリアは今も無知なままだったろう。

 歴史を記した本を読むほど、この世界にはさまざまな心があることを知った。

 

 確かに狼の牙は鋭く、爪は人の肉をやすやす切り裂く。異なる摂理で生きる人と獣が言葉を交わし、手に手を取り合うことは不可能に等しかったかもしれない。

 それでも。生き抜くために、家族を兄弟を住処を守るために抗って、そして散っていった彼らを省みる責任が人間にはあるはずだ。侵略者の向ける冷たい鉄の銃口にも果敢に立ち向かった彼らを忘れ、安逸と生きるなんて、卑劣だ。

 覚えていなくてはならない。居場所を守りたかっただけの戦士たちを、害獣と呼んで駆除しようとした『罪』の記憶を。

 アルミリアは青いひとみで現実を見据える。乙女のくちびるは理想を語る。

 

「しあわせを望む権利は、誰にでもあるはずなの。犠牲を踏みつけにする世界のほうが間違ってるのよ。罪から目を逸らしながら、しあわせになんて……なれないわ」

 

「いや、なれるんじゃないですか? 俺らを使い捨ての道具としか見てない連中は」

 

「ヒルメ、」

 

「何も知らないほうがしあわせだなんて、問題意識を持たないほうが正しいなんて、絶対におかしいわ。そんなの、偽りのしあわせよ……!」

 

「あなたがそういう考え方だから、俺たちはあんたを利用してるんですけど、わかってます? あんただって、少年兵(おれたち)を使ってギャラルホルンのやり方は『間違ってる』って証明しようとしてる。同じじゃないか。ギャラルホルンも、あんたも、俺たちも。『間違ってない』って言ってほしい、そのために都合の悪いものを否定したいだけだ」

 

「ヒルメ! 抑えろ」

 

「現状、俺ら『少年兵』は生まれたことも生きてることも全部ぜんぶ間違ってるんです。治安を乱す、悪者(テロリスト)なんですよ! 宇宙ネズミがあがいたところで正しいのは法と秩序(ギャラルホルン)で、作られなかった俺たちだって、上から目線の同情で生かして欲しいわけじゃない……!!」

 

 激昂のまま椅子を蹴飛ばし、ヒルメの長い腕がもがくように薙ぎ払う。ライドを押しのけたその手がバッと作り物の花を散らして、――ヒルメはようやく我に返った。

 医務室のフロアに散った、オリガミの花束。

 エンビを見舞うために、ひとつひとつ手で折られたものだ。ひざまずいてひとつ拾い上げると、いびつな折り目を丁寧に正した部分が目に留まった。赤い花、青い花。白や緑、オレンジ色。子供たちに教えながら、アルミリアが折ったのだろう。

 

「……ごめんなさい。俺、言い過ぎました」

 

「いいえ。あなたの言葉に傷ついたのは、あなた自身ではないかしら……。それに、あなたがたの力を借りてギャラルホルンを全否定しようとしたのは、本当のことです」

 

「俺からも、すいませんでした。俺らはお姫さんに雇われてる傭兵で、あなたの理想の賛同者ってわけじゃない。エンビは……頭のまわるやつなんで、俺らの中じゃ現状に反感持ってたんですけど。その結果がこんなじゃ、さすがに……その」

 

「ええ、わかっています」

 

 薄すみれ色の長い睫毛をそっと伏せて、アルミリアは祈る。弟分を思いやるライドの言葉は、雇用主(アルミリア)にかける言葉以上にやさしくあたたかく響く。

 どうして彼らは、生きることが罪科であるという冷たい棘を飲み下そうとするのだろうと、悲しくてならなかった。

 家族みんなに行き渡るだけの食事を、夜の眠りを、戦わなければ得られないものと彼らに教えたのは世界だ。圏外圏に生まれた少年たちを蔑み、搾取し、生きたいと願う自由さえも奪ってきた。

 無関心によって踏み躙られ続けた彼らは、夢見る未来でさえ『飢え』を想定する。家族みんなで囲むあたたかい食事を、餓死からの回避としか思っていない。眠るときには交代で見張りを立てるのが当たり前だと思っている。害されることが当たり前すぎて、哨戒のいらない夜を想像することもない。

 飢えないための食事と、夜警の合間に得る眠り。彼らが求めているのはそれだけだ。

 誰からも攻撃されないことを『平穏』と呼んでいる。

 奪う権利と奪われない自由を天秤にかけている異常性に気付くこともできない。

 

 彼らを――マクギリス・ファリドを――そんなふうにした世界を変えなければと思った。

 だからアルミリアはここにいるのに。

 

 当事者たちは泣きたくなるくらいに無欲だ。

 

 過ちを認めるとき、ともなう胸の痛みを思い出す。確かに自分自身を肯定してくれる人は、優しく、あたたかくうつるものだ。厳しい人よりも、赦してくれる人を信じたくなる。犯した過ちを責める人よりも、看過してくれる人こそが『正しい』のだと。

 誰しもそうだ、都合良く甘やかしてくれる言葉を求めてしまう。

 だからアルミリアは、子供だと嘲笑する者を赦さないと言ってくれたマクギリスを信じた。子供の婚約者がいると後ろ指を差される夫への申し訳なさごと受け止めてくれる彼への愛は深まっていった。

 免罪符を欲する弱い心を理解することはアルミリアにもできる。

 

 しかしこうも考えるのだ。

 アルミリアが子供であることは、恩赦を乞うべき『罪』だったろうかと。

 

 結婚はファリド家とボードウィン家の間で取り交わされた契約だった。なのに責められるのはいつもマクギリスとアルミリアで、年齢差があることなど百も承知で嫁がせたはずの父は娘を守ってくれない。おしめの取れたばかりの子供と、中身のないお人形だとひそひそ笑み交わす人々は、アルミリアの耳に触れないよう隠れるだけの罪悪感を持ちながらも、今もどこかで逆賊に利用された未亡人を憐み笑っているのだろう。

 ジュリエッタだって、生まれが()()と誰かが決めたルールのせいで自由に未来を選べない。女性ならばいつかは花嫁になるものと、敷かれたレールの上を葬列のように歩んでいる。

 出生地という非選択的要因によって地域的に継承させられた貧困でさえ自業自得だと人は上からものを言う。養父による虐待など()()()問題、略取された過去は()で、変革を望んだのは不当な暴力だと。阿頼耶識システムは禁断の力であり、()()()()()とまで。

 そうした支配的な『常識』のもと、社会秩序に根を張ったカースト意識が積極的に差別を肯定し続けている。

 

「生きたいと、しあわせになりたいと願う権利をあなたたちから奪ってきたのは、わたしたちギャラルホルンです。恥ずかしいわ。だって、わたしたちは三百年もの長い歳月をかけて、ひとを殺めなければ生きられない世界を作り上げ、守り続けてしまったのだもの……その罪をあなたたちに押し付け、弾圧している〈法〉と〈秩序〉こそ、糾されなければならない『腐敗』です」

 

 保護者を失った子供たちには然るべき保護が必要だろうに、そうさせなかった罪を、今こそ問わなければならない。身ひとつでスラムをさまよう子供たちが生きていけないことなど自明だろうに、救済の必要性から目を背けてきた人々が、彼らを傭兵にしたのだろう。少年少女が今日食べるパンのために働かざるを得ない惨状を創造してしまった責任が果たされない限り、世界は前には進めない。

 

 かつて鉄華団が隆盛し、イズナリオ・ファリド公によるアーブラウへの内政干渉が暴かれたとき、人々はギャラルホルンの腐敗を目にしたはずだ。当時、地球経済圏はギャラルホルンを重荷に感じていたという。アフリカンユニオンが、アーブラウが政治の力でギャラルホルンを止めたことはどれほどの希望になっただろう。

 鉄華団の活躍は、少年兵の有用性を世界に示し、ヒューマンデブリの増加を呼び込んだかもしれない。それは同時に、飢えに苦しみ寒さに震え、死を待つだけだった少年たちが武器をとる機会を得たことでもある。

 孤児院の整備、里親制度、行政による保護と支援――この世界に足りないものは何か、いくらでも目に入ってくる社会へと変わっていったはずだ。

 

 現に〈革命の乙女〉と謳われたクーデリア・藍那・バーンスタインは孤児院や小学校を整備し、人身売買の未然防止に努めた。火星連合政府発足後五年以内の識字率九〇%達成を掲げ、学校施設の建造や教員の招致といった具体的な対策を打ち出し、実現にまで漕ぎ着けている。

 具体的な目標を設定すれば努力は必ず実を結ぶ。

 それでも火星にはまだ、両親の遺産が尽きたからと保護施設を追い出され、路地裏をさまようストリートチルドレンが数多くいる。

 リタたちのような幼い子供たちが商品として売買されるだけでなく、孤児院や公立小中学校すらいまだ略取の温床だ。教育機関の乏しかった火星には発達や知能レベルに応じた教室編成が必要で、教師が何人いても足りない。需要と供給のバランス、モラルの低さが、悪質な虐待者をも「先生」と呼ばせてしまう。中絶手術に医療保険が利き、ほぼ無償での堕胎が可能になったことが裏目に出てしまったらしい。

 

 クリュセ市警は賄賂(チップ)を多く払ってくれる側の味方につく。ホテルの従業員だけでなく飲食店、医療現場でさえ謝礼が待遇に直結する。

 みな決して高級取りではないから、少しでも安定した生活を求めている。独立以前は無法地帯だった圏外圏の情勢はいまだ不安定で、今日ある仕事が明日も同じように続いているとは限らないのだ。騙し合い、奪い合い、法の目をかいくぐって命をつなごうとする。

 

 そんな世界でさえ、傭兵たちは裏切らない。ライドたちはみな信用を勝ち得ることに重きを置き、勤勉で、真面目だ。家族を大切に思えばこそ、支払われた額面を理由に約束を違えることはない。

 そんな少年兵たちと接するたびに、アルミリアは『違い』を思い知ってきた。ヒルメやトロウ、エンビは自身と同じ年ごろなのに、齢一桁のころから兵士として育ち、傭兵として完成した体躯と戦闘技能、戦略的思考力を持っているのだ。

 

 ギャラルホルンには、MSパイロットになるための学校がある。地上で戦う兵士、宇宙で艦隊を指揮する司令官、整備士に技術者――それぞれ別々の教練を受ける。

 優秀な演説家をMSに乗せて前線で戦わせたりはしない。機体を調整する整備士がおり技術者がおり、炊き出しをする給養員たちがおり、補給物資を運んでくる需品部隊が行き来するのが軍という組織だ。作戦の立案者も、現場の指揮官も、みなそれぞれの仕事をする。

 

 ところが〈ハーティ小隊〉の面々は、生身での諜報・暗殺任務、保護したヒューマンデブリたちの教練、果ては食事の支度まで二つ返事で快く買って出る。十代半ばのMSパイロットがそんな万能性を持っていること自体が異常だ。

 それだけの力を宿していなければ生き残れなかった世界のせいで、彼らはこうも強く成長したのだろう。長く続いた地球圏による搾取が育ててしまった問題を、少年兵たちは体現している。

 

「生きとし生けるものすべて、誰もが等しく生きる自由を持っているものよ。それを『命』と呼ぶの。なのに、わたしたちギャラルホルンが――」

 

「あの。その『わたしたちギャラルホルン』っていうの、やめませんか。あなたは何も悪くないでしょう?」

 

 ヒルメが眉根を寄せ、アルミリアが青い目をわずかに見開く。そしてそっと、薄すみれいろの睫毛がまたたいた。

 ゆっくりと、噛みしめるように首を横に振る。

 

「いいえ。直接的な加害者だけを責める時代は、一日も早く終わりにしなければならないわ。わたしはセブンスターズの一員ガルス・ボードウィンの娘で、英雄ガエリオ・ボードウィンの妹。そしてマクギリス・ファリドの妻です。血も、罪も、理想もすべてわたしのものよ」

 

 アルミリアだって、犠牲者を喰らってきた罪のひとかけらだ。手放すことはできない。

 だから今、少しだけ安心している。

 雇用主と傭兵の関係はいつだって非対称だ。もしもアルミリアが「解雇(ファイア)」と言い渡せば一言で収入源を失う。異論反論を述べる権利を奪われた労働者たちは、劣悪な労働環境にも耐え忍ぶほうを選んでしまう。不条理な現状か、死か――どちらがマシかと上から突きつけられてきた。

 生きた声を聞くことができたのはアルミリアにとって意味ある実りの一歩だ。

 

 アルミリアが行動を起こす力をマクギリスが遺してくれたから、今、ここにアルミリアを子供だと笑う者はいない。十八歳も年の離れたマクギリスとの結婚を『身の丈に合わない』なんて誰も言わない。

 そんな世界に生きたかった。連れていってあげると、彼は約束してくれた。蔵書を読みふけり、モンターク商会を引き継いで得た現在は、目指していた世界に昨日より確実に一歩、近づいている。

 

(今ならわかるわ、マッキー。わたしには世界が見える。あなたの理解者には……なれないかもしれないけれど)

 

 青い理想があふれさせた透明な涙が一筋、アルミリアの頬を伝って落ちた。泣いてしまってはだめだという自制心は、いつの間にか解けている。視界はクリアだ。くちびるは微笑んで、どこか晴れやかですらあった。

 医務室に張り詰めていた緊張の糸が緩んでいく。ライドが肩をすくめた。

 

「なるほど、あの女騎士がお姫さんをギャラルホルンの後継者に推すわけだ」

 

「女騎士……?」とヒルメが胡乱げに眉根を寄せる。バルバトスの首級を想起したのだろう。

 

「あの女もお姫さんの味方らしいぜ。俺たちにとっちゃアリアンロッドの総大将に違いねえけどな」

 

 この世界の行く末をアルミリア・ファリド嬢に託したいという一点においては同志だとしても、件の女騎士は主君ラスタル・エリオン公のために戦って死ぬ覚悟だ。オルガ・イツカのために武器を手放さずいるライドたち鉄華団残党『強硬派』とは相容れない。

 理想の賛同者ジュリエッタ・ジュリスは、世界に抵抗するための手段たる〈マーナガルム隊〉とは異なる足場の上に立っている。

 

「わたしにはギャラルホルンの『罪』を暴く責任があります。いつか遠い未来に……いろいろなことがあったけれど、それでもしあわせだったと笑える世界であるために」

 

 染み付いた罪が赦される日など来ない。免罪符などどこにもない。ギャラルホルンが法と秩序の番人であるなら、労働者を使い捨ての道具のように扱う現状を打破し、公正なる平和を実現する義務がある。過去から目を逸らして進んだ未来は、きっと噓だ。

 忘れることで自分だけ責任を逃れようとするなら、子供たちに目隠しをして無知蒙昧な人形に仕立てようとするなら。

 こちらにだって考えがある。

 

「罪を知らない人々が罪を知る人々を虐げて本物のしあわせが得られるのならそんな世界、いっそ壊れてしまえばいいのだわ」

 

 白い指先を組み合わせ、乙女のくちびるはあくまでも穏やかに平和を祈る。

 セブンスターズの一家門たるボードウィンの家の名の許に生まれ、三百年間で腐敗しきった楽園に育まれたアルミリアには、愛する男の理解者にはきっとなれないだろうけれど。理想の体現者にならばなれるだろう。

 怒りの中に生きたというマクギリスの人生を思う。ああ、今なら彼と同じ憎しみを抱ける。

 

 

 自作自演の断罪者(ギャラルホルン)を死刑台に送らなければ、(フェンリル)の安息はどこにもないのだと。

 

 

 それなら、わたしは――。

 青く青く澄んだひとみが見据える未来はただひとつ。武器商人の仮面はアルミリアにはもういらない。決意を閉じ込めた手のひらは、もういかなる神にも祈ることはないだろう。



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018 モンターク邸炎上

 PD三三三年、十一月二日。

 夜空まで焦がすかのように、館は炎に包まれた。

 

 違法なドラッグを火星に流入させているとの通報を受け、クリュセ市警による勧告にも応じないので、ギャラルホルンが強制査察に踏み込んだ――という情報ならばヤマギも先日ラジオニュースで耳にしたが、〈モンターク商会〉の自社ビルが()()()()()()()()()という報せは、ごく内密にもたらされた。

 メールの発信元はユージン・セブンスターク。

 ライドがそっちへ行くかもしれないから、気をつけておいてくれとのことだった。

 

「……なにこれ、一体どういうこと」

 

 三日早朝、カッサパファクトリーの事務室である。いつも通り出勤してきたヤマギの手許にあるのは、今日の業務内容ではなく物騒なニュースだった。

 思わず手から滑り落ちたタブレットをデインが受け止める。

 

「ごめん、ありがと」と短く例を述べると、ヤマギは縛り上げていたブロンドを一度ほどいた。(頭が痛い理由がきつく結んだ髪でないことくらいむろん承知だ)

 

 顔を隠すように俯く。昨晩――いや、今朝方か――寝ている間にモンターク商会の事務所が焼け落ちていたというのだ。まだ公にはなっていない情報だというならなおさら、動揺しないわけがない。

 MW(モビルワーカー)だけでなくMS(モビルスーツ)の整備も請け負うカッサパファクトリーにとって、〈グレイズ〉や〈ゲイレール〉などの卸売りをやっているモンターク商会は耳にたこができるほど馴染みある社名だった。

 

 ギャラルホルン製の旧型フレームは初心者にも扱いやすい設計で、民間警備会社では重宝されている。MS乗りが慢性的に不足している今の火星では訓練期間が短く済み、かつ整備費用が安くあがる機体ほどありがたがられるのだ。

 特に〈グレイズ〉はコンソールパネルの配置もわかりやすく作られており、高性能マスバランサー、姿勢制御プログラムによる自動危機回避機能などパイロットの負担を最小限に抑えた安定感が特色である。マスプロダクトモデルだけあって他に流通している武器との互換性も高い。カッサパファクトリーのお得意様の間でも人気を博していた。

 

 火星圏随一の武器商人を失い、これから経済的な打撃が津波のように押し寄せるのか……と考えれば背筋が薄ら寒くなる。

 モンターク商会のオフィスといえば、かなり大きな建造物だ。市街地側から坂を登っていけばいかにも大企業らしくストイックな玄関口があり、山側から回り込めば『お屋敷』っぽい豪奢なロビーにたどりつく設計であることは(ザック情報だが)ヤマギも知っている。高級娼館だった裏の顔は、十数年前に突如廃業してそれきりだと聞いた。

 裏表はともかく認知度が低いとは言いがたい建物だし、原因不明の火災で焼け落ちたとあれば遅かれ早かれ報道されるだろう。

 それが実はギャラルホルンによる焼き討ちとはぞっとしない。

 しかも夜襲だなんて。

 

(悪いけどライドは工場(ここ)へは逃げて来ないよ、ユージン)

 

 ライドがそっちに行くかもしれない、という文面を指先でなぞる。何をどう気をつけたって、燻り出された彼がヤマギを頼ることはないだろう。

 あいつがカッサパファクトリーに救援を求めるようなことは、天地がひっくり返ったってありえない。

 半月ばかり前に手酷く振り払われた手を、ヤマギはぎゅうと拳に握った。

 

 出張からの帰り道、赤毛の弟分と出会ったのは偶然だった。隣市メリディアニに出張してクリュセに帰ってくる道中、燃料(バイオエタノール)の補給のため訪れたシャッター商店街でのことだ。

 サイドニア・ショッピングセンターなんて名前ばかりがご立派な小都市に立ち寄ったのも、昼食を摂らなければという責任感からだった。経理に提出する領収書をもらわなければならなかったから、大型チェーンのファストフード店に足を踏み入れ、そこでライドに遭遇した。二年ごしの再会だった。

 家族のもとへ帰ってこいと説得を試みて、……失敗した。

 

 

 ――あんたらだって『前』なんか向いてねえじゃねえか。済んだ過去だったって諦めて、失ったものから目を背けて、『下』を向いて生きるなんて俺はごめんだ!

 

 

 毛を逆立てたライドに全力で拒絶されてから、ヤマギは『前を向く』とは一体どういうことかと悩み苦しむ日々にさいなまれ続けている。わずかでも思い出せば瘡蓋(かさぶた)に爪を立てられたような痛みが蘇って、呼吸を忘れそうになる。

 だってそうだろう、戦う力を持たないヤマギは、ある程度の妥協を覚えなければ生活していけない。

 昔からトロくて鈍臭くて、女みたいだと蔑まれてきた。阿頼耶識のヒゲがついていたって生身でドジならMWでもMSでも同じ轍を踏んでしまう。ライドのような敏捷性があれば、MSに乗ることで手足の長さをカバーできるのだろうけど。ユージンだって走ることが得意だから操艦には長けたがMS戦はてんでだめだった。シノは、もともと白兵戦が得意だった。歴代流星号は彼の長い手足の延長線上として動けるようにヤマギが整備・調整を重ねていた。

 戦力にならないヤマギでも生きていけるようにと、ノルバ・シノが整備担当に移してくれた。生きる希望をくれた恩人を亡くし、やっぱり俺も同じ地獄に堕ちたいと頑是なく泣き喚いたって、何も変えることはできない。

 鉄華団のためにおれも何かできるはずと決意した矢先に、すべて失ってしまった。

 だから仕事に打ち込んだ。前を向くために。今度こそ家族のために何かしてやるんだと、淡い恋心は吹っ切らず、生涯独り身を貫くと決めた。過去には『思い出』と名前をつけて鍵をかけた。

 それがヤマギなりに顔をあげ、しあわせをつかむ手段だった。

 仕事に生きると決めたのだから業務に支障をきたしたくないし、社長(おやっさん)に心配をかけたくない。専務(メリビット)のお小言もできれば聞きたくはない。

 ライドのことも、今は思い出したくなかったのが正直なところだった。

 

 だが、ライドがあのとき「守秘義務のある仕事だ」とだけ答えたことを思い起こせば、すべての辻褄は合う。ライドはモンターク商会に雇われていたのだろう。

 そして件の仕事とやらは、傭兵業だけじゃなかった。

 

「……()()袋の中身はクスリだったってわけか。やってくれるよ……!」

 

 嘆息する。憤りとともに、言葉にならない脱力感がヤマギを襲った。もう『反抗期』では済まされない。あのファストフード店で再会したとき既に、ライドは薬物の売人をやっていたのだ。

 足がつかないよう、現地の子供に売買させていたのだろう。上部組織(タントテンポ)の手前どうにか営業しているファストフードチェーンが備蓄庫となり、ナゲットの箱なり袋なりにドラッグを忍ばせて、運び屋(ライド)を仲介して地元の浮浪児へ受け渡されていた。そして、砂塗れになって逃れてくる失業者たちへと売りさばかせていた。

 現場を見ているから疑いようもない。年少のチビたちのためにお菓子をとりおいていた昔のライドと重ねてしまったあの日のヤマギには思い至らなかっただけで。

 カラクリがあったのだ。でなくば、あんなサービスエリアに毛が生えた程度の、行政の手も届かない田舎町でファストフード店が商売を続けていくのは難しい。

〈モンターク商会〉といえば、今や火星では名を知らぬ者のない超有名企業である。死の商人ノブリス・ゴルドンに取って代わった大富豪。流通業界を牽引し、その分野は多岐にわたるという。ドラッグの輸出入に手を広げていたとしても不思議はない。

 手のひらで顔を覆って、ヤマギは真実を見破れなかったあの日の浅慮を嘆く。活発でよく笑う少年だったライド・マッスは死んだ。もういないのだ。

 

「あいつはもう俺たちの家族じゃないんだ……。薬物の売買に子供を関らせるなんて、信じられない」

 

「それが、そーゆう単純な話でもないっぽいんっすよねえ」

 

「ザック……?」

 

 疲れたため息をつき、事務所に現れたのはカッサパファクトリーの営業マンだった。

 

「はよっす」とザックは首だけで器用にお辞儀をする。

 

 ヤマギとデインも口々に、手身近な朝の挨拶を交わした。いつにも増して気怠げなザックは壁掛け型タブレットに『出勤』を入力すると、片手でわしづかみにした黄緑色のAIをひょいと掲げ、デスクに置いた。(読み書きのできない子供や目の不自由な方に音声による誘導を、というコンセプトでカッサパファクトリーが開発した癒し系ペットロボットなのだが、いまだ量産にすら漕ぎ着けていない)

 

「そんでこの、いかにもキナ臭い炎上事件っすけど……ここだけの話、内部告発がらみらしいんですよ」

 

「内部告発? 誰がどこに密告したら会社が燃やされるわけ?」

 

 文字通りの『内部告発』だとしたら、構成員や従業員が所属組織の不正を外部に漏らすものではないのか? ヤマギは腑に落ちなくて小首を傾げる。モンターク商会の悪事が内部から外部へ告発されたとして、なぜクリュセ市警が勧告し、ギャラルホルンが査察に踏み込み、秘密裏に夜襲をかけるのか。

 きっかり十年前にはクーデリア・藍那・バーンスタインひとり暗殺するためにCGSごと攻撃してきた組織なのだから、民間企業殲滅くらいで今さら驚くことでもないが――。

 

「詳しく話すとややこしいんすけど。えーっと……」とザックはきょろりと周囲を気にして、内緒話モードにトーンを下げる。「ホントここだけの話っすからね」と前置きした。

 

「なに。もったいぶらないでよ」

 

「いやね、モンターク商会が……とある顧客名簿をそこらじゅうの報道機関に送りつけたらしいんすよ。クリュセとか火星とかそういうレベルじゃなく、地球とかコロニーにまで。しかもそのリストがまたヤベェっていう」

 

「確かに情報漏洩はマズいけど。何の顧客リストだったの?」

 

「買春っす、未成年の。ああいう業者は豪邸の地下とかに子供囲って薬漬けにして商品化するんで、強制査察でもしないと発見できないんですよね。現場おさえようにも黒服がガッチリ警護についてるし、市警は賄賂(カネ)で買収できちゃうし。あと、紙幣使ってやりとりしてるから証拠つかむのマジで無理ってチャドさんが嘆いてました」

 

 あ、昨晩チャドさんと飲んでたんですけど、とザックは付け加える。仕事の愚痴を言い合えるのでチャドとは懇意にしているのだ。(お互い、不平不満は適度にこぼして発散しないとストレスでどうにかなってしまう職種である)

 

 紙だなんて高級品が持ち込まれたのは独立以降で、ザックのような一般的な火星人は紙幣なんて見たこともない。だって、デジタル決済が『普通』だったのである。紙も印刷技術もまともになかったせいで、現金という概念ですら鉄華団入団まで知らなかった。

 それが最近では『紙幣』の価値が高騰し、額面をはるかに上回る金額で取引されるケースも少なくないという。

 現金といえば『金持ちのステータス』であるというパラダイムシフトが起こったらしいのだ。

 高級ホテルやブティック、レストランといった一見さんお断りのエグゼクティブ専用店が現金での支払いに対応しはじめ、上流階級では紙幣や紙媒体のサインが大流行。地球かぶれの見栄っ張りどもはこぞって輸送費用を上乗せされた現金を買い求めた。

〈革命の乙女〉として火星連合初代議長にまで祭り上げられたクーデリア・藍那・バーンスタインの生家が地球と縁深いことも、地球というブランド性を強固なものにした原因のひとつだろう。モンターク商会もまた地球と火星とを往復する独自航路を持っていた。

 政治とカネの流れからは、火星生まれ火星育ちの名士たちがこぞって『地球性』を手に入れようとしていた動きが汲み取れる。

 

「つってもクーデリアさんはああいう立場だし、議会で発言力持ってる代議士(センセー)とかの不祥事はつっつきにくかったみたいで……あ、今回ので美少年趣味が発覚したのが議員さんに社長さん、ギャラルホルンのお偉いさんとかなんですけど」

 

「なるほど、それは公開処刑だ」

 

「社会的に死にましたね。あっちこっちに口止め料ガン積みして違法ショタデリで遊んでたとか、信用ガン落ち間違いなしですよ」

 

 支持率低下だけでなく、情勢不安も避けられないだろう。『金>法』という人治主義のもと金持ちが買いあさってきた免罪符の数々を白日の元にぶちまけやがったのだ。ギャラルホルンによる焼き討ちだけで済むとは思えない。

 それにモンターク商会だって、これで切り札を出し切ったわけではないだろう。

 くわばらくわばら……とザックは両腕の鳥肌をさする。

 

 火星連合傘下の全都市において十六歳未満を動員した風俗営業は一切禁止、買ったほうにも売ったほうにも等しく厳しい罰を科す。()()()たちは逮捕前にモンターク邸ごと焼き殺されたのだとしても、買った側――買春当事者は、これから説明責任を果たさねばならない。

 どういう言い訳を述べるにせよ、違法行為を金銭授受によって帳消しにするという危ない遊びに興じてきた変態のリストはもう、偽名と実名に顔写真、ご希望のオプションまで添えてすべての報道機関に投書された後だ。これであっさり放免されれば、また賄賂で裁きを逃れたのかと疑惑の目が向く。

 

 昨晩チャドから得てきた情報によれば、名簿の約六割がギャラルホルンの将校だったというが、火星連合政府機関はギャラルホルン関係者を裁く権限を持たない。地球圏から赴任してきた各要人も、既に火星圏を出てしまっている場合、違法性を追求することは不可能だ。

 妻子を地球に置いて娯楽のない辺境へ単身赴任していた彼らには、むしろ同情が集まるかもしれない。

 遊びらしい遊びも花街くらいしかないのに、火星人は変な病気を持っているかもしれない……となると、温室で育てた子供に手が伸びるのは正当なリスクヘッジだとでも主張されたら、またややこしいことになる。(感染症や伝染病を地球に持ち込まないために、圏外圏の子供が生け贄に捧げられることは是か非か――という議論になったら、不利なのは火星だ。今度こそ火星人奴隷化協定が成立しかねない)

 

 売春()()に関してもグレーゾーンで、現行法では罪には問えない。金銭授受(チップ)による見逃しも、今のところ取り締まりの対象にはなっていない。お得意様の接待はどんな企業だって大なり小なりやるもので、多少の口利きは営業努力の範疇だろう。このカッサパファクトリーだって馴染みの弁当屋、居酒屋、工務店キャバクラ雑貨屋マフィア孤児院PMCに政治家事務所までさまざまなコネを持っている。狭い世間ゆえ個人の付き合いとの線引きは非常に難しい。

 

 見分けがつかないからとグレーゾーンを放置していた結果が、先日の連続惨殺事件だ。

 

 先ごろ政治家、医師、弁護士、私立学校連盟長の計四名が相次いで殺害された血なまぐさいあの事件、あれもモンターク商会による見せしめだったらしい。『リタ・モンターク』なる金髪碧眼の美少年を買おうとした現行犯を摘発するため、暗殺者(ヒットマン)を雇ったと声明文を出してきたという。

 事件はすべて高級ホテルのスイートルームで起こり、第一発見者となったホテル従業員は精神的ショックから次々に発狂、自殺。捜査にあたったクリュセ市警からも離職者が相次いだ。

 わずかに原形をとどめただけの蜂の巣を直視し、腐臭を放つ肉塊を検分しなければなからなかったのだから、正気を失うのもしょうがない。

 

〈法〉と〈秩序〉が裁かないのなら我々が()刑を執行します――と、自浄作用のなさを突かれた結果が、このざまだ。

 

 今回の情報流出は、これまで必死に蓋をしてきた数々の問題を白日の元に晒してしまった。既得権を濫用していた政治家ばかりか、ただでさえ殺人事件があったと噂され客足の途絶えたホテル、志願者が目に見えて減ったクリュセ市警、今度は政治家にギャラルホルンの将校にまで打撃を上乗せしてきた。

 これだけの不祥事が明らかになれば天下のギャラルホルンもすぐには動けないはずだが、事態が収束したときがおそろしい。

 子供たちの教育の充実を謳い、高い就学率を誇ってきた火星連合政府の評判もどうなるか……。

 

「流出したデータによればギャラルホルンに旧姓『モンターク』揃いの金髪イケメン部隊があるとかないとか、あのファリド公も娼館(あそこ)の出身だったとか……まったくもー、何がなんだか」

 

 ペットロボットと情報端末を兼ねるHAROの頭をぐりぐり撫でて心を落ち着けるザックは、はーっと遣る瀬ないため息をつく。ハロは慰めるようにころころ左右に揺れながら赤目を明滅させた。

『ザック、ゲンキナイ! ザック、ゲンキナイ!』とさえずるのは、指紋認証によるものだ。手のひらの温度を感知して表情と照合し、感情を推し量ってくれる。

 学校に通えない子供たちにも学習を支援しようとAIなんか開発したところで、空回りするわけだ。

 

 搾取される子供たちを救いたくとも、現行法は売春に携わった()()()()()()罪を問うようになっている。違法に買われた十六歳未満の少年少女が摘発を行おうにも、加害者と心中する覚悟が必要になるシステムだ。同胞を裏切ることにもなり、――結果、絶対安全圏にいる富裕層はのうのうと野放しになってきた。

 上客を逃したくないホテルも、口止め料で潤うクリュセ市警も、少年売春を斡旋する業者もみな連鎖的に口を噤んだ。

 クーデリアもまた、『表』の志のために『裏』の顔を見て見ぬふりするという妥協を余儀なくされる。

 かつて貧困の中でしか生きられない火星の少年兵問題を憂いた〈革命の乙女〉でさえも、全市民を守らねばならない立場になって迂闊なことは言えなくなった。最大多数をしあわせにするために目をつぶらなければならない問題が増えてしまい、正義感の強い彼女は憤りを抱えているだろう。

 

 今の連合政府が最優先すべきは火星の経済発展だ。ただでさえギャラルホルンとテイワズの傀儡である火星が、地球圏や木星圏に内政を明け渡してしまわないために。親火星派政治家を議席にキープしておく必要がある。

 不正を黙認し続けることになっても、社会的弱者の蹂躙など矮小な問題だと議会が一笑に付そうとも。故郷がふたたび一方的な支配を受けるよりはずっとずっとマシなのだと、耐えねばならない。地球圏の植民地に戻ればどうなるか、木星圏の属領になればどうなるか、想像に難くない。

 誰も彼もが腐敗を暴けない連鎖の中、しがらみに縛り付けられ、がんじがらめになっていた。

 

「それで、今の話のどこが『内部告発』だったわけ?」

 

「あ、モンターク商会の女社長っていうのがマクギリス・ファリド公の元奥さんで、あのガエリオ・ボードウィン卿の妹君だっていう……――、俺も言ってて思いましたけど、これって内部告発っつーよりアレですね」

 

 ギャラルホルン内部の人間が素性を隠し、ギャラルホルン製MSの流通に携わりながら薬物売買や少年売春をみずから斡旋。それらに積極的に関与にした要人を一斉に摘発し、権力の腐敗をギャラルホルンの罪科もろとも暴いたのだ。一連の暴露は『内部告発』とも『囮捜査』とも呼べなくはないのだろうが、……もっと相応しい言葉がある。

 ここでザックが口をつぐんだとしても、きっと誰かがそう呼ぶだろう。

 

『ジサクジエン! ジサクジエン!』



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019 過去の清算

“武器の卸売りから人材派遣、輸送の仲介役まで、金さえ出せばどんなものでも手に入る。”

 

 モンターク商会の謳い文句といえばそんなところだろう。ユージン・セブンスタークが仮面の女社長と会談してから二ヶ月が経とうとしている。あと一歩でライドの足取りがつかめるか――と思っていたのに、モンターク邸は焼け落ちてしまった。

 しかもギャラルホルンの夜襲で、だ。

 あれから明日で一週間が経つ。坂の上にある大きな屋敷が黒焦げになったのに、六日経ってもまだ何の報道もないなんて、クリュセは一体どうなってしまったのだろう。

 苛立ち任せにブロンドをがしがし乱して、ユージンは肺腑の底からため息をつく。

 

 地元の名士たちの不正が次々暴露され、職場であるバーンスタイン議長閣下のオフィスも大わらわである。未成年買春をやっていたという顧客データをモンターク商会が全宇宙の報道局に流出させたせいで、各政府関係者も事務所に詰めかけるレポーターのせいで、この一週間窓すら開けられないでいると聞く。

 一連の事件には一切無関係なクーデリアのもとにも問い合わせの電話がガンガンかかってきて、通信回線がパンクしている。

 

 ……いや、まったく関係がないとも言い切れないのか。

 モンターク商会がアリアンロッドの強制査察に遭った理由は、違法なドラッグの輸入だ。持ち込まれた薬物を使用していたのは、ほとんどが出席率を底上げしたい教育機関だった。

 火星連合政府が就学率の向上を掲げ、生徒総数と出席率に応じて補助金を出していたせいだろう。子供たちはドラッグ入りの給食を求めてうきうきと登校するし、学校の評判があがればあがるほど新入生も集まりやすくなる。学校も薬の売人も、子供たちも誰ひとりデメリットを体感しないwin-winどころかwin-win-winの関係だった。

 薬漬けになっていたのは学童だけではない。違法な風俗営業の疑いで暴かれたのは、見目麗しい少年少女を地下室に囲い、前後不覚のドラッグ中毒にさせていた売人どもの存在だった。〈ヒューマンデブリ廃止条約〉で失職した連中が、矛先を変えて再起したのだろう。

 

 結局、火星は無法地帯のまま、何も変わっていなかったのだ。

 

 職場ではチャドにククビータ、デクスターといった人当たりのいい頭脳要員を総動員し、受話器片手にペコペコ頭を下げ続けて、今日も午前は潰れてしまった。何だかもうずいぶん仕事らしい仕事をしていない気がする。

 あっちこっちで記者会見が開かれては、みな頓珍漢な言い訳をしている。記者の質問に首を斜めに振っては傾げ、要領を得ない。連合政府どころか、クリュセはしばらく停滞状態だ。元気なのは命知らずなジャーナリストくらいだろう。

 短気なお前に電話対応は無理だと事務室を追い出され、ユージンは窓のない応接室に追いやられるようにしてSPらしい(?)仕事を押し付けられた。

 ソファでは今朝方クーデリアのオフィスビルに現れたちょび髭の男が優雅に紫煙をくゆらせている。

 

「オイオイ灰皿はねえのかよ、ユージン元副団長ー?」

 

「あ゙!? お嬢のビルは全館禁煙だっつったろうがオッサン!」

 

(かて)ぇこと言うなって。この俺様が確たる証拠を持ち込みにきてやったんだぜ?」

 

 トド・ミルコネンはぺらぺらり紙束を揺らしてみせ、本物の契約書だと不敵に笑んだ。上から目線で脚を組み替えるしぐさが癇に障って、ユージンは「そうかよ」と吐き捨てる。

 だがしばらく見ないうちに白髪が増えたトドは、ユージンの記憶の中よりずいぶんと人相が明るくなったように感じられた。

 瀟洒なスリーピースのスーツ姿に、こなれた煙草とアタッシュケース。狸親父が、妙に馴染んでいて小憎らしい。目尻の皺は陰険そうだった印象を上書きするように、どこか茶目っ気のある笑い皺を深くしている。

 

「そいつが流出した顧客リストの原本ってわけか」

 

「おうよ」

 

 トドが胸を張ってみせる。その『確たる証拠』とやらは、ユージンにも見覚えがあった。要するに紙媒体の契約書そのものだろう。それも直筆の。

 

「だからあのときわざわざ紙とペンを……」

 

 モンターク商会のオフィスで、ローテーブルにセットされた上等そうな紙の契約書と飾り物のようなペン、インクの壷が脳裏に蘇る。直に見たときは地球圏から持ち込まれた貴族的文化くらいにしか認識していなかったが、確かにギャラルホルンの情報統制が行き届いた現在、()()()()()()()媒体としてこれ以上なく有効な証拠品だ。

 

 紙が貴重であるがゆえ、火星ではデータというデータが電子化されるのが常である。

 おかげで、銀行口座を開設できない子供や貧乏人は貧困から抜け出すこともできない情勢が長く続いた。

 現金で支払える店なんてスラム限定で、市街地にいけば『現金』なんて概念すらなかったという。クーデリアのような特権階級、ザックのような富裕層の生まれなら目にする機会もなかったと後から聞いた。

 当時、現金といえば貧乏人のものだったのだ。

 こんなもの焼けてしまえばおしまいだと目の前でなけなしの給料に火をつけられたことだってある。汚水のタンクにバラまかれ、欲しけりゃ泳いで拾ってこいやとゲラゲラ笑う一軍の大人どもの罵声は今も耳に残っている。

 路地裏で立ちんぼする少年少女の姿が絶えなかったのは、ほとんど物々交換のように生活していかねばならない金融システムのせいだ。食べものをおごってもらうため、屋根のある部屋に招き入れてもらうため、大人の靴を舐めて命をつなぐ。それが当たり前だった。

 

 CGSは男限定、かつ阿頼耶識システムの適合手術成功を条件に子供も雇っていたから、ユージンは生き残ることができた。IDを洗い出し、フルネームで銀行口座を作り、給金を振り込んでくれるという優良企業だったのだ、当時は。

 今にして思えば、月給は一軍の三〜五%程度しかなく、それも死ねば全額マルバ・アーケイ社長の懐に戻っていくのだからブラック極まりない。参番組は非正規雇用で社会保障もないし、産業医による治療も診察も受けられなかった。現金で給料を受け取っていた三日月は賢かったということだろう。

 それでも、あのころのユージンには破格の厚遇に思えたのだ。成長をうながすサプリメントが盛り込まれた冷たいポレンタだろうと食事があるだけありがたかったし、汗臭い蛸部屋であれ屋根の下で眠れるなら僥倖だった。

 給与から衣食住の天引きがあって月収二万ギャラー程度の手取りではあったが、大人の『ガス抜き』をほどほどに抑えるなり、一軍に頭のついた作戦参謀を置くなり対策をとってくれていたなら、オルガとて社長の椅子まで奪うつもりはなかっただろう。(社員も基地もすべて放り出して逃げ出したことは、もはや擁護のしようもないが)

 

 ないよりマシなものをかき集め、ユージンたちは大人になった。

 

 だから薬まみれの食事の何が悪いのか、今ひとつ理解できかねるのだ。

 学校では読み書きや計算を教えてもらえるのだろう。学費はタダ、制服は無償で配布、給食費もいらない。宿舎も無償で提供される。そこでは消灯時間から起床定刻までゆっくり眠っていてもいいのだろう。教師に因縁をつけられ叩き起こされて、サンドバッグとして便利に弄ばれたりはしないのだろう。

 仕事をしなくても食事があって寝床もあって、弾避けに使われて死ぬことも殺めることもない。上等ではないか。

 

 連合政府がラスタル・エリオンによる傀儡でも、命がないよりずっとマシだ。ギャラルホルンの軍事力に頼りきりの平和でも、テイワズにおんぶに抱っこの学校教育も、ないよりずっとマシだったはずだ。

 クーデリアが願った経済的独立が一〇〇%叶ったわけではなくとも、ひとまず脱植民地化は果たした。鉄華団残党も皆殺しは免れた。学校施設も充実し、すべての子供に教育が行き渡ることを是とする政府を作り上げた。

 当然、それだけでいいなんて思っちゃいない。ないよりマシ、それだけだ。

 鉄華団の復興よりも現状維持のほうがマシ。たとえいつ殺されてもしょうがない束の間の平和でも、帰る場所がある。真っ当な仕事だけでやっていけるようにもなった。血縁もない男所帯を家族と呼んで、守るためだの何だの喚いて命を賭けるだなんて馬鹿馬鹿しいことは、もうやめるべきだ。

 暁は健やかに育っているし、アドモス商会もカッサパファクトリーも経営は軌道に乗っている。

 もしもトドが持ち込んだ()()とやらが、この安寧を破壊しかねない災いの種であれば。遠慮なくギャラルホルンに売り渡す。状況の悪化を回避することこそが責務だ。そのためなら手段は選ばない。

 国家元首SPとして、今のユージン・セブンスタークにはその覚悟がある。

 

「俺が聞きたいのは、なんであんたが事務所(ここ)に来たかだ」

 

「証拠をおさえたんなら、やるこたァ決まってんだろ? 警察があんなザマじゃあ、クーデリア先生の事務所が一番確かな(スジ)じゃねえか」

 

 アタッシュケースをたぐり寄せると、パチンと見せつけるようにロックを解く。トドが手許から僅かに覗かせた中身は、ぎっしりと詰め込まれた――、ハッとするどく息を呑む。

 

「あんたの言いたいことはよぉくわかったぜ……。それじゃ、もうひとつ質問に答えてもらおうじゃねえか」

 

「おうおう、何でも聞いてくれ? 今の俺様は心が広いからな」

 

「……いちいち腹立つオッサンだなこの野郎……」と口角を苛立ちに引き攣らせたユージンだったが、そんなことはどうでもいい。「あいつはどこへ逃げた」

 

「あいつゥ?」

 

「ライドだよ。赤毛のガキだ。あいつは今どこにいやがる!」

 

「あぁん? モンターク商会は倒産しちまったから知らねえなァ」

 

「おい、知ってんだろオッサン! ライドはっ……他のガキどもは無事なんだろうな!?」

 

「俺はなーんにも知らねえ。あいつらはもう火星にゃいねーからな」

 

「なんだって……?」

 

 返す言葉を見失ったユージンに、優位に立ってやったとばかり、トドはにんまりと口角を釣り上げた。ジャケットの裡ポケットから携帯灰皿を出して煙草を押し付け、新たな一本に火をつける。

 ふうと優越の紫煙を吐き出した。

 

「七年もありゃガキはどうにでも育つってモンよ。おめぇもあいつらもみんなクソガキばっかだが、いつまでもガキのままじゃあねーだろう?」

 

 ぐっと二の句を喉に詰まらせながら、ユージンはどうにか「うるせえ」とうなった。あいつらがもう小さな子供じゃないなんて、そんなことは百も承知だ。

 だが、ユージンにとってライドは弟分のままだ。快活で、絵が得意で、チビどもにお菓子を配っていた赤毛のガキなのだ。年齢差が埋まらない限り一生変わらないだろう。だって、あいつは鉄華団の兄弟だった。兄貴が弟を心配して何が悪い? あいつらは守ってやらなきゃならないほど弱くないかもしれないけど、それでも。

 大事な弟分を庇護してやりたくて、何が悪い。

 二年も前からずっと、あいつらが目の届くところにいないことが不安でしょうがない。一日も忘れたことなんかなかった。

 

「ちくしょう……」と悪態がこぼれる。拳を握る。ライドたちは火星を離れて、ここじゃないどこかへ逃げたってのか。

 目の届くところで元気に生きていてくれれば他には何も望まないのに。せっかく真っ当な仕事だけでやっていけるようになったってのに。またユージンの気持ちを踏みにじって。

 

「なんで俺の言うことは聞いてくれねえんだ……ッ! オルガは復讐なんか望まねえ、もう戦う必要なんかねえんだって何回言っても聞きやしねえ!! お嬢がどんな気持ちで、俺らのためにっ……クソッ!」

 

 苛立ち紛れにソファを蹴る。頑丈な木枠を力任せに蹴りつけたせいで、革靴のつま先が派手に傷んだ。ああ。苛立ちに金髪を掻きむしり、グリーンの双眸には悔し涙が浮かぶ。情けなくなって拳で拭った。

 ふるえる指先を閉じ込めるように握りこんで、壁を殴りつける。

 

(俺たちはもう戦えねえッ……みんながみんなお前らみたいにタフじゃねえんだ……!!)

 

 頼むからもうやめてくれ。止まってくれ。懇願に等しい嘆きを、トドの前でぶちまけるわけにもいかずに嚥下する。咽喉は焼けつくようにひりついて痛む。

 家族の死を、もうこれ以上見送りたくないのだ。どう自己暗示をかけて諦めようと目を逸らしても、仲間が死んでいくことに、もう、心が耐えられそうにない。

 まなうらに焼き付いた戦場の情景に、ユージンは今も苦しめられている。指標(オルガ)を失い、理解者(シノ)を失い、手の中にはもう何もない。あるのは胸にぽっかり開いた大穴と、目には見えない心の傷だけだ。

 せり上がってくる嘔吐感を両手で塞いで封じ込め、ユージンは膝をついた。

 

 ぽたり、絨毯に涙が染みる。ひとりぶんの陰の中へ、ぱたぱたと雫が後を追うように雨が降る。フラッシュバックに喉が引き攣るが、慟哭はなけなしの意地でどうにか噛み潰した。

 オルガが見下ろしている。どうしたんだ、大丈夫か? 疲れてるなら休むか? ――だなんて、無邪気に。シノがけらけら笑っている。骨は拾ってやるからよと。たしなめるようにビスケットが苦笑する。

 無様にうずくまるユージンをのぞき込んだ三日月の青いひとみは、笑っていない。

 その隣から、いっそう冷たいグリーンアイズが、見限るように背を向ける。手の中の拳銃をユージンに向けてくれさえしない。

 

( ラ イド…………!)

 

 助けてくれ。もう赦してくれ――解放してくれ。幻覚の中、孤独な戦いを強いられ続けるユージンに救いの手は伸ばされない。

 嗚咽はトドが吐き出す紫煙よりも細く頼りなく、ふうと吹かれて霧散する。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 嫉妬、憎悪、汚辱に恥辱――消えない過去に縛られて、輝かしいはずの未来はすべて愚かしい過去の清算のみに消費される。

 

 俺たちの踏み出す足は、前に進んでいるだろうか。

 

 心を殺して、魂を売り払って生きるのが『家族の幸福』なら、()のしあわせは一体誰が願ってくれるんだ? 無抵抗で死ななきゃ罪がかさむのが『社会の秩序』なら、大人しく殺されてやるのが『世界の平和』なら、俺たち宇宙ネズミが生きててもいい場所なんて、どこにも存在しないのか。

 なあ、ライド。喰い物にされるばっかりの生活はもうやめにしようって、団長は鉄華団を作ってくれたんだよな。俺たちは居場所を守りたくて戦ってた。胸張って帰れる場所はもうないけど、俺たちは……俺はまだ、生きていいんだよな。

 だったら、俺は――。

 

 

 

 

  ▼

 

 

 

 

〈ヴァナルガンド〉の医務室にはふたたび沈黙が降りていた。

 何のために戦うのかを再考する、これは猶予なのだろう。ライドは壁にもたれかかって白い天井を見上げた。

 こうして目を覚まさないエンビのもとに集うのが日課になりつつある。耳に痛いほどの静寂に、規則正しく響くデジタルの心拍音。医療ポッドに頬杖をつくトロウも、一昨日くらいからもう一言も発しなくなった。医務室に来て眠り、当番の時間になったらふらっと起きだして、仕事を過不足なくこなしたら戻ってくる。

 束の間の平穏はどんよりと、鉛で満たした澱を泳ぐように重苦しい。

 一度はフロアに散ったオリガミの花を一輪とりあげたヒルメが、またため息をつく。

 エンビが目覚めたときのためにと日々の出来事をタブレットに書き付けていても、二行も進まないうちに、この文面をエンビが読んだらどう思うだろう――と立ち止まって、書いて消してを繰り返してしまう。

 

「なあ、ライド。俺らはこれからどうするべきなんだ?」

 

 無感動に目を伏せ、ヒルメが口火を切る。視線は花瓶に落とされたままだ。肩をすくめるライドも、敢えて目を合わせることはしない。

 

「さあな……俺らはお姫さんに雇われの傭兵だ。生き残ってから考えるさ」

 

「俺は、誰かに『間違ってない』って言ってほしかっただけだったんだ。戦うことを選んだんじゃなく、ただ認めてほしかった。だからエンビに、ライドに、お姫さんについてここまできた」

 

 自己正当化のためだ。醜い承認欲求だ。そのためにリタを死なせた。エンビまで殺してしまうかもしれなかった。

 

「それがどうした。俺だってギャラルホルンやら副団長たちが『間違ってる』って言われたらスカッとする」

 

「本当は向こうが正しかったとしても?」

 

「認められないものはある。赦したくないヤツはいる。全否定されたら腹が立つ。そういうもんだろ。間違ってたのは自分かもしれないって悩んで答えまでたどり着けたんだ、お前は強いと思うぜ」

 

 そうだろ、と、自分に言い聞かせるようにライドは細く嘆息した。

 誰も皆、誰かの正義にすがりたいのだ。悩むことは苦しい。責任を負うのは恐ろしい。それなら失敗しないように、誰かが敷いたレールの上を歩く従順な奴隷になってしまえば――と逃げだしてしまう弱さを、責めることはできない。

 潔癖なエンビは、そんな生き方は卑怯だと毛嫌いしていたが、だから正論のナイフを振り回したしっぺ返しを喰らってきたのだろう。

 

 罪に染まったこの手を未来に向けて伸ばしていいのか、誰もみな自問自答できずにいる。

 ここから何処へ行けばいいのかも。わからない。

 

 今までは生活のために戦っていたが、だから世界の波に流されたり振り回されたり、受動的な立場だったのだろう。欲しかったのは家族全員のあたたかい食事と、安全な寝床、それから家族の命が使い捨てにされない仕事。……見果てぬ夢だ。たとえアルミリアが『人として当たり前の権利』だと主張しようが、効力はすぐには望めない。

 同じ世界に生きるためには、価値観を統一する必要がある。だからこそ火星市民には『子供』と『少年兵』を別のものと認識させ、子供を愛し、害獣は殺すようにと刷り込みを行なっている。

 それが自然の摂理だとして、人間が動物の肉を『糧』と見なしてきたように。

 

 生来の悪者(テロリスト)であれ作られなかった命を捨て、ありとあらゆる屍から目を背ければ安寧は手に入るが、偽造IDで買った日常でさえ無抵抗の死を望まれ続ける。

 死に切れなかった孤児にとっては、生き続ける未来そのものが夢物語に等しい。

 

 元副団長ユージン・セブンスタークの判断も、ある意味では正しいのだ。

 眼前の敵は〈法〉や〈秩序〉ではなく創作された『民意』である以上、迎合するのが手っ取り早く平穏を得られる手段だろう。何もかも忘れて、責任転嫁してしまえばいい。諦めてしまったら楽になれる。鉄華団は反体制組織で、残忍で凶暴で、人々のしあわせを壊す害獣だったから殲滅された。それが世界のためだったんだ、粛正されるべき犯罪者集団だったんだ……とでも自己暗示をかけてしまえばいい。

 ギャラルホルンと一戦交えるには力が足りなかったのは紛れもない事実である。できないことをやろうとして殺された、愚かな子供にすぎなかった。

 武器一切を手放し、クーデリアの斡旋してくれる真っ当な仕事に就けば、成長して大人になれる。ギャラルホルンが統べる平和の片隅で、弁えた暮らしをするだけなら取り締まられることはない。

 そこでささやかな幸福を手に入れたいと願う気持ちもわからなくはない。

 

 ただ、それもひとつの人生だと思えるかどうかが『穏健派』と『強硬派』の溝になった。

 

 断絶の正体に気付くまでに余計な軋轢も生んだが、ユージンだってヤマギだって、もちろんライドたちだって、家族だった連中の不幸を望んでいるわけじゃない。

 ただ安心したい、それだけだろう。

 生存や笑顔という目に見えるしあわせの雛形に押し込んでしまえば、不安や焦燥に胸を掻きむしられることはない。

 

「……打って出よう」

 

 トロウの声が不意に、静寂を割る。童顔の中にあって一際鋭いダークブラウンの虹彩が、何らかの強い感情を押し込めようと煮えているのがわかった。

 気持ちは察せるが……、ライドはつとめて冷静に釘を刺す。

 

「だめだ、トロウ。エンビの目が覚めるまではこっちから動く気はない。当座は大人しくしてろ」

 

「逃げるのか? 諦めるのかよ!?」

 

「そうじゃない。今は勝負に出る時じゃないんだ」

 

「それじゃあ俺らはいつ戦うんだよ……? こんな真似されて、黙ってろっていうのか!? ずっと馬鹿にされて、足蹴にされて、消耗品みたいに扱われて、挙げ句にこんな……ッ!」

 

 眠ったままのエンビを見下ろして、耐えかねて目を逸らす。仮死状態と診断されたとはいえ目覚めない理由は判然としない。投与された薬剤のせいか、それとも受けた精神的苦痛のせいか。傷だらけの兄弟が痛々しくて拳を握る。たぐり寄せた両手の中には何もない。

 

「……やられっぱなしじゃ、いられねえよぉ……!!」

 

 殺してやりたい。殺してやりたい。思いつく限り酷い目に遭わせて、殺してくれと懇願されるまで家族の苦しみを思い知らせて地獄に突き落としてやりたい。――沈黙を守ってきたトロウがぶちまけた激情にも、ライドは静かに首を振る。

 エンビは仲間内では頭の切れるやつで、射撃の腕も確かだった。諜報活動にも長けていたし、頼りすぎていたのは事実だ。だからトロウも自責に駆られ、弔い合戦だと憤りを露わにできなかったのだろう。

 一等家族思いのトロウが今の今まで黙っていただけでもリーダーとして褒めてやるべきかもしれない。これまでよく堪えた、とでも。

 

 アルミリアについていってどうなるのか、いくばくかの疑念もある。世界に対して変わってほしいと願うことしかできない彼女に何ができるのかも不透明だ。手は打ってあるとのことだが、深窓のご令嬢の奇策が何をどのように変えるか、予想がつかない。

 それに〈マーナガルム隊〉は、アルミリア・ボードウィン嬢の権力と財力、ご意向なしには動かせないのだ。お姫様が大金持ちで、なおかつ人道主義者だからエンビは医療の恩恵を受けられている。処置が間に合わなければ間違いなく落命していただろう兄弟に対し『救命』という選択が公使できたのだって、結局は金の力だった。

 この〈ヴァナルガンド〉の医療ポッドでなければ生還できたかもわからない。たとえば〈イサリビ〉のような三百年前に開発されたモデルで、大したアップデートもされていないメディカルナノマシンでも救えたかは五分である。

 アルミリアにとって従業員に充分な医療を保障することが当然の義務でも、傭兵が使い捨ての肉盾にすぎない火星では破格の厚遇だ。それが現実であり、この醜悪な世界の『常識』だ。

 

「ここで動いても無駄に潰されるだけだ。俺らの仕事はお姫さんの護衛なんだぞ? この〈ヴァナルガンド〉を墜とさせるわけにはいかない。命令は『待機』だ」

 

「団長だったらっ……こういうとき意味のある仕事にしてくれただろ! なあ、くれよ、意味を! 作ってくれよライド!!」

 

 つかみかかる手も、すがるような目にもライドは取り合わない。

 トロウの剣幕に圧されることもなく、ただまっすぐに見つめ返して宣告する。

 

 

「俺はオルガ団長じゃない」

 

 

 宣言に続いて、空白。時間が止まったような静寂が降りた。

 見開かれた目がやがてぱちくりと瞬く。しぐさはいつにも増してあどけなく、トロウを幼い少年のころの面影に押し戻したようだった。

 そっか、と、嘆息する。

 

「……俺ずっと、ライドは団長になるんだと思ってた」

 

 どこかすっきりした顔で、トロウは大きく息を吐きだす。久しぶりの深呼吸、視界が澄み渡って行くような感覚。何度も握った手のひらに、突き刺さり続けた爪の痕。憑き物が落ちたような心地だった。

 

「でもライドはライドだ」

 

 俺が間違ってた。――そう穏やかにむすんだ言葉に重ねるように、アラートが鳴り渡る。艦内のランプが弾けるように赤く染まる。

 警告音の大合唱に身構えたそのとき、ブリッジからアナウンスが響いた。

 

『艦隊規模のエイハブ・ウェーブを捕捉! 総員、ノーマルスーツを着用してください――!』

 

 ウタの声が尻窄みに遠のいたのは、イーサンがマイクを奪い取ったからだろう。

 

『パイロットは全員MSで待機だ!! いいか、逸って飛び出すんじゃねえぞ!』

 

 

『警戒レベル最大! アリアンロッドの、おそらく本隊です……!』

 

 

「なんだって……!?」

 

 待ち受ける敵は、アリアンロッドの艦隊が第一、第二――、うごめく機影の最奥にはスキップジャックが泰然と構えている。いつの間に接近していたのか、この〈ルーナ・ドロップ〉を丸ごと吹き飛ばせるほどの戦力だ。

 三十分以内に開戦可能な距離で、支配者の銃口は狼の群れを殲滅しようと待ち伏せている。



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020 インプリント

 医務室に緊張が走る。動揺が〈ヴァナルガンド〉艦内をすみずみまで揺さぶり、駆け巡るアラートと心音の境界が曖昧になる。

 ウタが冷静さを振り絞ったような声で読み上げるには、敵艦は十一隻。

 威力偵察から戻った実働4番組の〈スピナ・ロディ〉隊は、うち八隻のハーフビーク級戦艦がブリッジを格納し、好戦的な艦首をこちらに向けている状況を確かめてきたという。

 指揮官を持たない4番組は、今回こそ〈ウルヴヘズナル混成小隊〉に組み込まれているが、もともとはドルトコロニーの貧民街に生まれた元ヒューマンデブリたちだ。鉄華団のことも、両親の仇である月外縁軌道統合艦隊のこともはっきりと記憶している。ライドが先導して住処を奪った連中への報復も果たした。彼らが憎き仇の姿を見紛うことはないだろう。

 ……囲まれている。月面基地からの距離を鑑みれば決して展開不能な作戦ではない。資金力にものを言わせた物量戦はギャラルホルン特有のお家芸である。

 

 しかし、どういうことだ? 補給用らしき巡航船が後ろに四隻控えていて、その中央では赤いヨルムンガンドを戴くスキップジャック級戦艦〈フリズスギャルヴ〉の威風堂々と蛇睨みを利かせているとは。

 

「アリアンロッドの旗艦が、なんでこんな作戦に……」

 

 ラスタル・エリオン公の座乗艦がわざわざ出てきたのは、正直に言って想定外だった。

 この船がギャラルホルンという組織の中でどのような位置づけになっているのかはライドの知るところではないながら、〈ヴァナルガンド〉自体は既にアルミリア・ボードウィン嬢に売り渡したはずの品物だろう。現品を渡さず踏み倒し、漂流させた経緯がどう改竄されたにせよ、敢えて本丸を差し向けてくるほどの価値があるとは思えない。

 警告が赤々と照らしだす医務室の中で、ヒルメがライドを振り返る。

 

「なあライド、やっぱり〈ヴァナルガンド〉の索敵システムに細工がされて——」

 

「その話は後だ。火器(トリガー)のロック解除だけでも間に合ってよかった」

 

 言い聞かせるように首を振る。火器管制に何らかの問題が発生していることは〈ヴァナルガンド〉を回収してすぐにイーサンが発見し、メカニックが解除・再装填を行なった。カズマの報告によれば主砲を含む全ミサイルが昨日までに修繕されている。

 レーダー、通信システムその他――まだどこかに時限爆弾が潜んでいる可能性はなきにしもあらずだとしても、再確認に宛てる猶予はない。少なくともこの船はハーフビーク級戦艦として艦隊戦に臨めるスペックにまで蘇っている。

 

 ただ、補給の宛てがないのは痛い。互換性のある弾薬を〈セイズ〉から運び込むこともできなくはないが、それなら〈セイズ〉を戦闘に出したほうがよほど有用だ。ウタとイーサンの腕があれば砲弾の雨さえくぐり抜けられる。

 とはいえ、ビスコー級クルーザーでは防御面があまりに心もとない。

 

(どうすればいい……!)

 

 一体どうすれば、この場を最小限の犠牲で切り抜けられるのか。焦りを拳で握りつぶし、ライドは思考を駆り立てる。正直なところ、作戦立案はあまり得意ではないのだ。〈マーナガルム隊〉でも知略に秀でるのはエンビくらいで、彼の助言も今は頼れない。目を覚ます気配のないエンビを戦闘に巻き込んでいいものか、答えが出せない。

 そのときだった。

 医務室の扉が開き、白い子犬が弾丸のように駆け込んでくる。

 

「俺たちが出ます! 船の護衛は〈ガルム小隊〉の仕事だ!」

 

「ギリアム……?」

 

 MS(モビルスーツ)デッキから走ってきたのだろう。怪我人をすぐに収容するためか、医務室は搬入口から一本道になっている。ヒューマンデブリたちの生活拠点は宇宙港〈方舟〉から戦艦にやってきてもやはりMSのすぐそばだ。

 マーナガルム実働2番組こと〈ガルム小隊〉はギリアム、フェイ、エヴァン、ハルという四人のMSパイロットを中心とした編成で、子供ながら相当に腕が立つ。

 かつては奴隷のお仕着せであった錦鯉色のノーマルスーツ姿で、小さなリーダーは勇猛果敢に胸を張る。

 

「出撃の許可を! 相手は〈ダインスレイヴ〉って武器を持ってるんでしょう? 宇宙ではいつ使われてもおかしくないって、……エンビさんに教えてもらった。ハルの知識(チップ)によれば、あれはリアクターに吸い寄せられてくるから、ちょっと避けたくらいじゃ意味がない」

 

「……何が言いたい」

 

 色の異なるグリーンアイズが睨み合う。赤く染め変えられた空間にあって、二対の緑色だけは昏く鋭く、光を飲み込む闇のようにある。

 

「俺たちが囮になります。ひとかたまりになってれば、被弾するのは前衛だけだ。俺たちデブリであなたたちの道を作る」

 

「仲間を盾にしようってのか?」

 

「そうです」

 

「死ぬぞ」

 

「覚悟の上です!」

 

「……死にたくないやつもいるはずだ」

 

 ライドがうめく。しかしギリアムは動じない。

 

「いました。戦わない道を選んだやつは、最前衛に出します」

 

「なんだって――?」

 

 物騒な物言いに、ざっと血の気が引くようだった。()()()()()()()()()()()、その言葉に覚えがあったからだ。

 いつだったかギリアムを連れて地上へ降りたとき、学校に通う古い仲間を訪ねたときのことだ。小高い丘の上に厳然と建つ寄宿制の私立校にライドはギリアムを同伴させた。

 あのとき車中で交わしたやり取りが脳裏を()ぎる。おぞましい予想が背筋を這い上がる。

 

「もしかして、おまえ、……」

 

「銃弾を解体して、中身を食わせるんです。そうしたらみんな言うことを聞く」

 

「おまえは……っ、」

 

 衝動的に一歩踏み出せば、白いノーマルスーツで覆われた両肩がびくりと跳ね上がる。

 ふと、嫌なことに気付いた。冷たい汗が伝う。

 ギリアムが、()()()()()()()()のだ。いつも半歩遅れて付き従っている両翼が見当たらない。両脇はいつもいつでも腹心と片割れのふたりで固められていたはずだ。そっくり同じ顔をした双子の弟は、MSを降りた瞬間から兄貴のそばを離れなかったはずだろう。

 

「……なあおい、エヴァンはどうした? いつも後ろをちょろちょろついてくる、お前の――」

 

 

 命令よりも早く実行に移す、3番機のパイロットは。

 

 

 ぐっと呼吸が詰まり、悪寒に指先がわななく。ああ。こいつらは不条理なくらい有能な番犬だ。片腕(エヴァン)はどこにいて、何をしているのか。雄弁な緑色はもう語っている。

 腰抜けどもを薬漬けにしているころだと。

 

「 な んてことを…………ッ!!」

 

 激昂をギリアムにぶつけてしまうまいと堪える両手が御しきれない感情にわなわなとふるえ、ライドは幼い両肩を掴んだ手をほどくことができない。

 目と鼻の先でどんぐり目がキョトンとまたたく。ライドとは異なるグリーンアイズがおろおろと迷う。怯えそうになりながらもリーダー然と両足を踏ん張って立っている。

 なのに、口が達者なギリアムが並べ立てるのは今日に限って見当はずれな言い訳だ。

 

「ど うして、な……で、怒るんですか? 俺、なにか間違えましたか? あれがMSめがけて飛んでくるならっ、MSを一ヶ所に集中させて狙わせればいい! 俺たちで、守ります。何が、どこが、間違って、……っ」

 

 こぼれ落ちそうな双眸に涙の膜がふくれあがる。すぐに涙目になる(エヴァン)と見紛うが、間違いなく(ギリアム)のほうだ。

 人望のある小さなリーダー。幼い日のオルガ・イツカとはこんなふうだったろうかと思わしめた統率力、ヒューマンデブリとして生き残ってきた経験に裏打ちされた戦闘力と、臨機応変かつ緻密な連携。その要。そんなギリアムだからこそ、今このタイミングであっても気付くことができたのだろう。

 全員を生かしたかったライドの意図を読み取り、己の犯した過ちを自覚することができてしまった。頼りなく垂れ下がる黒髪を振り乱して、しかしギリアムは現実を拒絶する。

 

「でもっ俺は、俺たちは間違ってない! お れたちのっ命も、魂も、全部あなたがくれたものだ! だからひとつ残らずあなたのために使って何が悪いんだ!!」

 

 泣き叫ぶ姿は頑是無い子供がだだをこねるさまそのものだ。こんなときでもなければ、こんな内容でさえなければ、ようやくみずからの確固たる意志でワガママを言ってくれたと微笑ましく喜ぶこともできたろうに。

 

 ——あいつらは戦わない道を選んだんだ。

 

 戦場を去って学校へ行く選択をした子供たちのことをライドはそのように評してしまった。

 言葉を多く知らないギリアムの前で、だ。礼儀正しい口調に騙されて気付けなかった。この子は学校に通ったこともない、〈ハーティ小隊〉の兄貴分に教わるまで文字のひとつも読めなかった、たった十三歳の子供(ガキ)なのだと。

 ライドが何か他の表現を選んでいたなら、ギリアムが『不戦』と『薬物』を結びつけてしまう悲劇は起きなかったかもしれない。就学率向上のためにドラッグを与えられていた仲間たちのことを、薬物中毒にされて然るべき生け贄の羊なのだと受け取らせてしまったのは、あの日、あのとき水面下で起こっていたディスコミュニケーションに気付けなかったライドの責任だ。

 だからアリアンロッドという巨大艦隊を前に恐れをなした仲間を最前衛に出して『楯』にし、戦う選択をした残りが『剣』となってダインスレイヴ隊と直接交戦するだなんて非人道的な作戦を立案させてしまった。

 

 目端の利くギリアムは、アリアンロッドとの戦力差をよくわかっている。もともと生きて帰ってくるつもりはないのだろう。幼くとも〈ガルム小隊〉を率いるために兄貴分の教えを乞い、戦術家として成長してきたからこそ、こんな捨て身の特攻にも希望を見出せると考えてしまったのだ。認めるのは業腹だが、練度の高い〈ガルム・ロディ〉四機ならば、あるいは、〈ダインスレイヴ〉の射線上を遡って砲台を直接叩くことだって可能である。

 命を捨てれば目的は達成できる。確かにそうだ。その通りだ。

 だからって、こんな仲間を使い捨ての道具にするような決断をしてほしくはなかった。

 不甲斐なさで潰れそうなライドの背中に、トロウの声が投げかけられる。

 

「……団長だったら、そう指示するんじゃねえかな」

 

「トロウ……お前まで何言い出すんだよ」

 

「オルガ団長だったら、きっとバルバトスが進む道を開けって命令する。それが一番成功率が高いからな。でもライドは、団長でもあるし三日月さんでもある」

 

 鉄華団という群れの父であり母であり、居場所であったオルガ・イツカ。彼の剣となり、エースパイロットとして先陣を切った三日月・オーガス。

 今のライドは〈マーナガルム隊〉のリーダーであり、唯一ガンダムフレームを駆るパイロットだ。統率者として長期間火星を離れることはなかったが、潜在的な戦闘力において〈ガンダム・アウナスブランカ〉は、〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉をはじめとする全MSを上回るだろう。

 一拍の間があって、ヒルメがため息めいて首肯する。トロウの諌言を引き継ぐようにタブレットを伏せて立ち上がった。

 

「ライドは『俺のために犠牲になれ』って言えないんだろ」

 

「団長だってそんなことは言いたくなかったはずだ!」

 

「でも団長は言いたくないことも言ってきた。鉄華団のために、ひとりでも多く生き残ってでっかい未来をつかむために。俺たちの居場所を守るために。オルガ団長は命令をくれた」

 

「だから俺にもそうしろっていうのか……!?」

 

「できないのか?」とトロウが剣呑に双眸を眇める。

 

「逃げも隠れもできない状況だ。腹決めるしかない、そうだろ?」とヒルメが追い打ちをかける。

 

「俺たちを使ってください! あなたがいたから、俺たちデブリは今日まで生きてこれたんだ……!」

 

 涙を拭うことも忘れたまっすぐな目が、総大将を――ハリボテの恩人を――見上げてくる。失念していた。潔くヒューマンデブリとしての運命を受け入れ、待遇に不満を抱かないギリアムもまた、この世界が望んだ『いい子』だったのだ。

 文字を覚えて本を読むことを覚えても、なぜか戦術ばっかり学ぼうとする。拾ったときから暗算の速い連中だったが、武器や弾薬、生き残りと遺体袋を数えることに長けていただけだ。めまいがした。

 年長者には敬意を払い、どんな不条理な仕事も喜んで引き受け、愚痴ひとつこぼさずキッチリやり遂げる。判断力に長け、戦闘力に優れ、その幼い身が持てるすべてを使って役に立とうとする、あまりにも都合のいい子供たち。

 これまではヒューマンデブリだったかもしれない、でも俺たちはこれから未来を作っていく戦友なんだと説いたつもりでいた。ただ、鉄華団残党『強硬派』にはアイデンティティの上書きに対して強い抵抗感があったせいで、もうヒューマンデブリじゃないんだとは言えなかった。それが使い勝手のいい消耗品だという歪んだ自認であっても、お前は間違ってるだなんて口が裂けても言えなかったのだ。

 そして、これがその報いなのだろう。

 これまで立っていた足場がガラガラと崩れていくようだ。いや、ライドははじめから、血塗れた瓦礫の上に立っていた。

 

「俺たちはデブリだ。他に何の役にも立たないゴミクズだけど、戦うことはできる。戦わせてください! 宇宙(ここ)は俺たちの持ち場です!」

 

「そんなことをさせるために、俺はおまえらを呼んだわけじゃねえ……ッ」

 

「俺は、頭悪いから……あなたの目的をわかれなかったけど。でもあなたは、ヒューマンデブリは宇宙で生まれて、宇宙で散ることを恐れないって、言ってくれた! あなたのために戦えることが、今、こんなに誇らしいんです」

 

 つたなく健気に、ギリアムは戦死を覚悟している。違う、それは俺の言葉じゃないんだ――と懺悔を述べようにも、今さら遅い。

 エンビが与えてくれた戦術を生かしたいと真面目な小隊長は果敢に殊死を願い出る。トロウが伸ばしてくれた連携の業を、ヒルメが掬い上げてくれるまで弱かった仲間たちも、今ここで力にしてみせたいと奮起している。

 

 同時に、小さなリーダーの表情には物悲しい翳りもあった。

 ギリアムたちは物心つくより前に一山いくらで海賊に買われ、使い捨てられてきたヒューマンデブリだ。遡る限り古い記憶の中では既に戦場という水槽にいた。麻酔もなしに阿頼耶識のピアスを植え付けられ、MSのコクピットで無理やり接続されて急ごしらえのパイロットになっていた。

 生きるだけで精一杯の日々を過ごしていたら、どこか遠く遠い世界の真ん中のほうでは、偉い人が〈ヒューマンデブリ廃止条約〉なんてものを作っていたらしい。唐突にデブリ狩りがはじまった。当事者たちは何が起こったのかもわからないまま戦場を追われ、干上がった水底でもがいていた。

 

 そこへ水を注いでくれた、酸素を与えてくれた恩人がライドだ。見出されてモンターク商会に匿われなければ遅かれ早かれアリアンロッドの強制査察に暴かれて、正義の銃口の前にゴミのように散っていたに違いない。

〈マーナガルム隊〉に迎えられ、戦闘経験を買われて実働2番組というシェルターを与えられ、世界のことをたくさん学んだ。あたたかい食事、静かな寝床、穏やかな日々を満喫した。

 その中で失ったものもある。

 ここには、いつ何時(なんどき)殴られるかわからない緊張感がない。失敗すれば宇宙に投げ捨てられる不安がない。息を殺していなければならない焦燥も、閉塞感もない。誰にも害されないどころか、定時になれば弁当を配ってもらえる。相変わらず人殺しを生業にしている兵隊なのに、与えられる作戦はいつもぬるま湯のように易い。

 任務の中で対峙するパイロットなんていつもへなちょこで、ギリアムたち〈ガルム小隊〉の敵ではなかった。

 なのに帰還すれば大げさなくらいの歓迎を受ける。ライドやアルミリアに過剰なくらいに労われる。

 それが申し訳なくて、くすぐったくて、嬉しくて、意味がわからなくて苦しかった。

 

〈マーナガルム隊〉を率いるライドには感謝することばかりだ。〈ハーティ小隊〉の兄貴分たちから教練を受け、戦術は驚くほど多彩になった。読めない文字は教えてもらえる。得意なことは褒めてもらえるし、弱くても死なないように鍛えてもらえる。混乱する仲間もいたが、その困惑ごと抱きしめてもらえる。

 日常は様変わりし、やさしさに飼い慣らされた番犬たちは徐々に士気を下げていった。

 次また頑張ればいいと赦してくれるヒルメに甘えてしまう。歩けないときは抱き上げて運んでくれるトロウに頼ろうとしてしまう。

 みんな子供なのだ。〈ガルム小隊〉の平均年齢はいまだ十二歳に満たず、誰も彼もがギリアムのように責任感が強いわけじゃない。二十名ほどいる隊員の中では十四歳のフェイが最も年長で、その次がギリアムとエヴァンの双子である。やっと齢二桁に足を乗せた弟分たちもいる。みなライドが大好きだ。〈ハーティ小隊〉の兄貴分を心の底から慕っている。

 

 ギリアムを頂点とする指揮系統がまともに機能する時間はもう長くないだろう。

 時限爆弾が爆ぜるように戦場で犠牲が出はじめたら、ギリアムの信用はがらがらと音を立てて崩れ去る。

 タイムリミットを前にして、これが最後だと決意した。

 

 今こそ全滅の時だ。

 

 穴だらけだった欠陥品はあたたかな手で修繕されて、すっかり自由にはしゃぎ回れるようになった。餓死を想定することさえ忘れそうなくらいに食事を与えられ、毎晩のように穏やかな眠りを得た。思考はすっきりと晴れ渡り、驚くほどの万能感がある。

 だけどライドたちが求める居場所にたどり着いたとき、きっともう〈ガルム小隊〉は生きていない。仕事をするにもギリアムたち戦場育ちの子供には、理想や志は大きすぎてつかめないのだ。この両手で握れるのは、トリガーという名の暴力のみ。汚泥の中を泳いで生きてきた(デブリ)には、夢や希望なんてまぶしすぎて直視できない。

 だからすべてを託して死んでいく役目が欲しい。道を切り開くという大役を全うし、未来に続く礎になれるなら本望だ。ライドたちなら骨を拾ってくれると確信できる。葬式をあげ、死を悼み、魂があるべき場所へ還れるようにと祈りを捧げてくれるのだろう。たとえここで死んでしまっても、屍は決して無駄にはならない。

 もう何も怖くないのだとギリアムがはにかむ。不器用な笑顔だった。

 涙の名残に揺れる緑のひとみは、すっきりと晴れている。

 

 

「あなたのいない世界に、俺たちは生きられない」

 

 

 幼い番犬(ガルム)が吐露したはじめての弱音は、あの夕焼けの中でライドが抱きしめたかった情動そのものだ。

 七年前、鉄華団が壊滅した記憶が蘇る。フラッシュバックする。あのときライドは、団長(あなた)の描く未来のために命ごとすべて捨てる覚悟があるのだと、喉を振り絞って叫びたかった。オルガ・イツカの弔い合戦に何もかも擲つことが望みだった。

 

 ずっと違う色合いだと思っていたグリーンアイズは、かつてのライドと鏡写しのようによく似ている。時間の流れに押し上げられるようにライドは成長し、見下ろす立場になった今、類似性が痛いほどよくわかる。

 無力と武力だけを併せ持つ孤児(オルフェン)たちは戦場を出て生きる術を知らず、無垢なる期待はひたむきに、名誉の戦死を望んでしまう。

 

 これが鉄華団団長オルガ・イツカが背負ったプレッシャーか。

 

 双肩を押しつぶしそうな重圧に、ライドは我知らずぐらりと一歩後ずさる。他に行く場所を持たない子供たちの『世界』のすべてになるということが、その恐ろしさが、七年ごしにようやくわかった。



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P.D.326: 祈る言葉も知らないけもの

[ Interlude ]


P.D.326----------------

 

 

 

 

 俺の仇を取ってくれと言ってほしい。

 地下通路を越えてたどり着いてくる仲間を待つ間じゅう、ライドの脳裏をよぎるのはそんな血なまぐさい願望だった。

 団長が目の前で撃たれ、ほどなく死亡が確認された。遺体は奥の一室に安置されている。チャドは右肩を負傷し、ククビータによる手当を受けているところだ。応急処置しかできないから、できる限り早く医者に診せるようにとのことだった。

 無傷で済んだライドは伝令として、鉄華団本部基地からクリュセの発電施設へ続く地下通路のほとりで仲間の合流を待っている。

 トンネルの向こう側では今も開通作業が進められている最中だという。こちら側から確認した行き止まり地点の座標を知らせれば、何時間もしないうちに風穴を開けられるとの返事があった。歩いて二時間ほどの距離だというが、――二時間は、長い。

 

 待っている時間は、ただでさえ長く感じられるのだ。胸郭に鉄球を詰め込まれたような重みを感じ、ライドは血に汚れたジャケットの合わせをつかんで、握る。

 一刻も早い合流を待つライドの胸に傷はなく、残されたものは何もないのだと実感させられてしまう。

 

 鉄華団が大きくなって外回りの仕事が増えたオルガは、団員からの説得を受けて防弾インナーを着るようになってくれた。当初は筋が通らないだの、家族が頑張ってる中で俺だけ着るわけにいかないだの言って拒んでいたオルガも再三の要請を呑んで、スーツの下には防弾インナーを着用していた。

 ところが弾丸は無慈悲にもオルガを貫き、守られたのはライドだけだった。

 団長を失えば鉄華団は総崩れになるからと説得して説得してやっと着せた団員の願いの結果だというのに。オルガは防弾インナーを着ている自分自身を楯として使ってしまった。

 CGSでそうだった癖が今になって現れたのかもしれない。全身に根を張った自己犠牲精神がそうさせたのかもしれない。広い背中に浴びせられた銃弾は内臓を手ひどく傷つけ、いくら止血したところで体内での出血までは止められなかった。メディカルナノマシンのあてもない。とうに人払いが済んでいたという市街地のど真ん中、また撃ってくるやつらがいないとも限らない。本部基地はギャラルホルンに包囲されていて救援など呼べる状況ではない。マクギリスの協力があってどうにか包囲網を突破してきたのだ。

 

 メリビットを同伴していればオルガは助かったかもしれない、と願ってしまう心を、握りつぶすようにジャケットの胸許を握りしめる。

 医者は全員とっくに辞職していて、唯一医療行為ができるメリビットは本部にいる。先日の戦いで多くの怪我人が出たから、そいつらを基地から運び出す態勢を整える役目があるからだ。担架にも人員にも限りがある中で、全員どうにか担ぎ出して地球まで連れて行けるようにギプスをあて、包帯をまいて、ライドたちの待つクリュセ側まで逃げ出してきてもらわねばならない。全員で生き残るというオルガ・イツカの遺志を継ぐためには、まずメリビットに無事でいてもらう必要があった。

 今ごろは傷に適切な処置を施し、怪我の具合によって移送の役目を割り振るという最後の仕事をこなしているはずだ。

 

 意識が戻らない団員もいる。脚を失って動けない団員もいる。眼球が傷つき、目が見えなくなった団員もいる。

 担架が必要か、無事なやつが背負っても大丈夫か――といった繊細な判断は、医療に通じているメリビットにしかできない。

 もしも彼女をこっちに連れてきていれば、怪我人たちは助からないだろう。動けないやつらは爆破する本部基地に置き去りだなんてCGSの一軍みたいな判断を、鉄華団が許すわけがない。

 だけどオルガ・イツカが死んでしまったら、団員が何人生き残れたって一緒じゃないかと、思ってしまう。

 胸郭の中身をごっそり抜かれたように呼吸ひとつが重苦しい。喉が閊える。知らず涙があふれてくる。顔ごと袖でぐいぐい拭って、息を吐く。鼻水をすすった。

 

(……もしも団長が弔い合戦を望んでくれたら、俺たちは戦うのに)

 

 最後のひとりになるまで、ギャラルホルンの喉笛を食い破ろうとあがいてやれるのに。

 なのに、記憶の中のオルガ・イツカの声をどのようにつぎはぎしても、自身の仇討ちなど命じてくれそうにないから感情の置き場がなくて、憎しみのやり場がなくて、苦しい。

 あの声が命令してくれるなら多くの団員が命を捨てる覚悟で、最後まで戦う用意があるだろう。報復を許してくれるなら全員で討って出て、全滅したって本望だ。あの黒服の連中がギャラルホルンの手先だったかどうかはわからないが、違ったっていい。みんなで戦ってみんなで死ねば、そんなことはどうでもよくなる。オルガ・イツカの手の中には、恩義ある団長のためなら命など惜しくない兵隊たちがこんなにも多くあふれている。

 

 戦って戦って、やれるだけのことはやったと胸を張って鉄華団が潰えるなら、それはそれで悪くないはずだ――と、ライドはそう思うのに。

 あの人が戦え、仇を討てとけしかけるビジョンが浮かばなくて、余計に泣きたくなってくる。

 危険な仕事をしているという自覚のもとでも、団員が生き伸び、生き残る未来しか願ってくれない。そんな団長のもとだから命をかけて戦えるという矛盾が、彼をひとりで死なせてしまった。

 団長。――ライドは目を閉じて呼びかける。

 

(あんたがいなくなった世界で、俺たちは何のために生きていけばいいんですか)




【次回予告】

 団長は死んだ。もういない。もう何も、語ってくれない。……そうだよな、その通りだ。俺さ、ライドは団長になるんだってずっと勘違いしてたんだ。
 でもそうじゃなかった。何のために戦うのか、ようやくハッキリした気がするよ。

 次回、弾劾のハンニバル。
 第7章『死すべき運命の戦乙女(ヴァルキュリア)』。

 これは弔い合戦だからな。


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第七章 死すべき運命の戦乙女
021 リブート


【前回までのあらすじ】

 アルミリア・ボードウィンは願う。贖罪によってのみ自由と平等は実現されると。ラスタル・エリオンによって守られた『罪を罪と知らない人々』の前に、暴露された数多の罪科。支配者たちが主義主張を戦わせる足許では、言葉を持たない犠牲者たちがもがいている。
 満を持して〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタインは立ち上がった。


 一体誰が、何の目的でこのような事態を招いたのでしょうか。わたしは、その答えを持っていません。我々火星連合政府にも責任の一端はあるでしょう。すべての人々に等しく教育の機会を与えようと尽力したはずの行政の……いいえ、学びによって力なき子供たちを救えると妄信してきたわたし自身の見通しの甘さに、忸怩たる思いです。

 わたしは昔、こんな演説をしました。長く続いた厄祭戦のあと、火星では四つの経済圏による分割統治が始まったこと。その結果、火星に貧困が蔓延し、子供たちが犠牲になり続けていること。〈ノアキスの七月会議〉に登壇したときのことです。あれからもう二十年近く経つなんて、信じられません。

 PD(ポスト・ディザスター)三十四年、七月……あの日、火星は冷たい冬に閉ざされていました。

 

 この赤い惑星に生まれ育ったわたしは、幼い正義感のままに行動していました。その結果、多くの犠牲を呼び込みました。それでもわたしは『希望』になりたかった。当時地球圏の植民地であった故郷の経済的独立を夢見、不平等条約の改正を求め、〈革命の乙女〉と呼ばれました。ギャラルホルンから武力による警告を受けてもなお、子供たちが、すべての人々が、不当に搾取されない世界を望みました。

 やがて火星ハーフメタルの公正取引は実現しました。

 そして革命の狼煙が空へと昇ったあの日のことを、わたしは今も昨日のことのように思い出します。

 何かを成し遂げようとするとき、必ずどこかで、理想を異にする他者とぶつかります。

 その中で、傷つく人々がいる。けれど衝突を回避することばかりが平和的解決ではないと、わたしは学んだはずでした。

 

 幸福とは、黙って従うことを対価に与えられるものでしょうか?

 ……いいえ、違います。しあわせに生きるために他の誰かに負担や忍耐を強いる時代は、もう終わりにしましょう。

 

 我々の足許には、無数の血と汗と涙、そして犠牲があります。それを『歴史』と呼ぶのです。あなたの足許にも、わたしの足許にも、先人たちが作り上げた尊い大地があります。その足が踏みしめているものは、ただの(フロア)ではないのです。

 どうか世界を知ってください。今を生きる人々の声に耳を傾けてください。生きるうちに犠牲者たちを踏み躙ってしまうその足を、今からでも、どけることができます。

 ひとりひとりの勇気が、あなたがた自身や、子供たちの未来を守るのです。

 

 今回の一件では多くの方が深く傷つきました。しかしわたしは今一度問いたい……! 誰もみな、罪を抱えて生きています。罪とは、赦されるものではありません。責められるものでも、罰されるものでもありません。償うものです。

 ともに考えましょう。生きるために罪を重ねてきた過去を、その責任を。どんなに時間がかかっても、真実を見つめたその先にこそ、誇れる未来があるはずです。

 

 わたしはクーデリア・藍那・バーンスタインです。

 もし、このわたしが火星連合議会の長にふさわしくないと思うなら……、構いません。

 

 みずからの手で武器を取り、みずからの責任によってわたしを殺しにおいでなさい!

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 全宇宙に向けた高らかなる演説は〈セイズ〉のブリッジにも届いていた。モンターク商会のオフィスが炎上した事件が地球や各コロニーで報じられたらしい。

 落ち延びた従業員の男女数名(人数未公表)は火星連合政府機関で保護されたらしく、トド・ミルコネンの動向がうかがい知れる。留守を預けてきたアルミリアつきのメイドたちの無事も連合側で保障してくれるだろう。

 ギャラルホルンの強制査察でもドラッグの類いは一切発見されなかった事実を知る証人が、クーデリアの手許に揃った。タントテンポからも、アバランチコロニーの農業プラントにドラッグの原料を栽培する余裕などないと発表。もとよりアリアンロッドの職域を拠点とする組織だ、タントテンポは〈アリアドネ〉の監視網を欺く手段を持っていない。

 

 一週間の沈黙を守ってきたクーデリア・藍那・バーンスタインは、議長の椅子を蹴飛ばしてでも立ち上がることを選んだ。

 

「〈革命の乙女〉、完ッ全復活だ!」

 

 イーサンが拳を握る。高揚である。クーデリアはこれからまた『子供たちが不当に搾取されない世界』のために動き出すだろう。政治家として不可能なら活動家として行動を起こす。

 彼女の掲げる旗の下には、各植民地で今なお不条理に晒されている労働者たちが集う。

 

 あのモンターク邸は元来ギャラルホルン高官御用達の高級娼館であり、火星圏に赴任する将校のため子供たちが搾取されてきた生け贄の館だ。二十年ばかり前に突如社長が交代し、実質的な廃業状態にあった理由も〈マクギリス・ファリド事件〉でイズナリオ・ファリドが嬉々として語った過去から推し量れる。

 火星の路地裏で金髪碧眼の美少年を見繕って誘拐し、商品として〈ヴィーンゴールヴ〉に輸出してきた過去は、これまでなら被害者側にだけ刻み付けられた古傷だった。

 

 それをアルミリアは、加害者側の罪科として弾劾しようとしている。

 

 (マクギリス)の仇討ちと言えばそれまでの報復行動だろう。しかし自由平等を目指すアルミリア・ファリドの志は、構造的搾取解消を願う〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタインと利害の上で一致する。

 報道に踏み切った各放送局にどういう皮算用があるにせよ、賽は振られ、一大スキャンダルは全世界にぶちまけられた。これまでギャラルホルンとは『正義』であると疑いもせず信じてきた民衆の鼻先でオブラートを剥ぎ取ってやった格好である。

 犠牲を犠牲ともわからないまま屍肉を喰ってきた民衆は、この世界のおぞましさに恐れおののくだろう。

 ギャラルホルンによって守られてきた平和とは、肉食者のための楽園だ。

 食卓の肉にも命があることを想像しなくていい世界。植民地に生きる人型の家畜から削いだ肉を喰らって生きている『現実』が目に入らないようプロパガンダを操り、ラスタル・エリオン公は無知と忘却に基づく平穏を維持してきた。

 

 足許を見れば無数の死体が転がっている。それが現実だ。それを歴史と呼ぶ。それらを踏み躙って生活しているつもりなど、誰にもない。ほどなく()()()()()()()()()()罪人呼ばわりされた可哀想な連中が不平不満を爆発させることだろう。

 クーデリアに物知らず呼ばわりされた彼らは、人間を殺害したことなどないし、女子供を差別したことだってない。劣悪な環境で使い潰されて死んでいく労働者たちは宇宙植民地(コロニー)に隔離されて目に入らないし、『女』とはいずれ花嫁になり妻になり母になることを運命づけられた生物なのだと信じて疑っていない。『子供』とは無邪気で愛くるしく、学校と勉強が大好きで、大人の言うことをよく聞くべき存在であるというプロパガンダを、いつの間にか()()として刷り込まれていることに気付いてもいない。

 害獣に石を投げることは善意の駆除なのだ。加害ではない。そう信じたいから濡れ衣を着せようとする小娘の非常識に憤る。

 怒り、激昂することで、自身を守ろうとしているのだ。この手の中のペンは労働者たちが折った骨、このインクは彼らが流してきた血なのだ――と認めてしまったら、まともな神経の持ち主から順に気が狂ってもしょうがない。

 今朝の朝食は労働者から搾り取った血と汗と涙でできていたと知って、さて幾人(いくたり)が嘔吐したのか。

 

 楽園を踏み潰された罪なき人々。哀れな民を、エリオン公ならば庇護するだろう。それは差別ではない、区別だと。あなたがたは無知ではない、それが正しい秩序なのだと。これまで通りに肉を喰っていられるよう取り計らうはずだ。

 ギャラルホルンが支配する絶対安全圏(せかい)を守ると約束すれば、現状に不満を持たない市民は免罪符欲しさにギャラルホルンを支持する。

 

 鉄華団残党『穏健派』もまた、今の生活を守るために見て見ぬ振りをするのだろう。非戦闘員を数多く抱え込んでいる今の彼らには、加害者に紛れ、迎合することでしか身を守る術がない。

 

 一方で、アーブラウ政府は既にクーデリアを支持すると表明しており、……場合によっては東西アーブラウの分裂もありえる。アラスカ・シベリアを分かつベーリング海峡が第五の国境になるかもしれない。

 情勢不安は全宇宙へと広がっていく。

 それこそアルミリア・ボードウィンの描いた地獄絵図だ。

 

「最ッ高じゃねーか! イカレてやがるぜ」

 

「だね。お嬢様って本当、何しでかすかわからない」

 

 ブリッジの双璧が拳をぶつけ合ったところで、開け放してあった扉の前で靴音がふわりと足を止めた。振り向けば、女騎士から借り受けてきたギャラルホルンのパイロットスーツ姿。薄すみれ色の長い髪が慣性に流されて揺れる。

 

「正気ゆえです。ノアキスの七月会議のクーデリア……、彼女の志を信じていました」

 

 青く澄んだひとみが、メインモニタの中でフラッシュを浴びる〈革命の乙女〉を見上げる。

 地球圏はこれまで植民地の献身――いや、蹂躙を大前提とした豊かさを享受してきた。十年前のドルトコロニー事変ですら、アフリカンユニオン側が労働者の待遇改善を提示したことには反発があった。

 人々は変化を嫌う。地球出身者とコロニー労働者が平等に評価されることに難色を示す声は少なくなく、現状維持のために不穏分子を武力で一掃することは正しいのだと、アリアンロッドは支持を集めた。

 

 労働者が黙って我慢していれば物価の上昇はなかった。工場の稼働時間が短縮され、ドルトコロニーの生産量が激減したせいで流通業は大きな打撃をこうむった。経済は停滞し、これまでなら無償で手に入ったようなシロモノにまで対価を要求されるようになったのである。収入は変わらないのに物価だけが上昇し、市民は植民地への反感を強めた。

 待遇改善を求めるよりも波風立てぬよう耐え忍ぶことが『平和』と結論づけたのだ。

 そんな狂ったスタンダードを、今こそ覆さなければならない。

 罪悪感という病理が世界を侵し、やがて内側から腐り落ちてしまえばいいのだ。『無知』という麻酔を取り除かれて、みんなみんな、喉を掻きむしって苦しめばいい。

 

(わたしはセブンスターズの一家門、ボードウィン家の女。だからこんなにひどいことだってできるのよ)

 

 アルミリアのまっすぐなひとみに相反して、その指先はふるえている。血色をなくした少女の横顔を見とめて、イーサンが目を丸くする。ふうと肩をすくめた。

 人類はみな罪人であると知らしめた奇策のおぞましさを彼女は知っていたのだろう。承知の上で、この地獄の選択を背負って立つ気でいるのだ。

 

「すいません。褒め言葉には、聞こえなかったですよね」

 

 いかれている、という言葉はアルミリアの耳に入れるには少々不適切だった。足場が崩れ、揺らぐ恐怖のただなかにいる彼女にはなおさら、非難めいて聞こえてしまったに違いない。

 苦笑したイーサンは鉄華団育ちゆえ、怜悧な顔かたちに反して物言いは何とも粗暴である。〈ハーティ小隊〉の面々はみな丁寧語も使えるが、兄貴分譲りの荒くれた語調は、ある種の合言葉であり、仲間内に残された数少ないアイデンティティだ。思い出、とでも評するのがきっとふさわしい。

 意図を察したのかアルミリアがぱちくりと大きな目を瞬かせて、そして「いいえ」と首を振った。

 文化の壁の向こう側で、ようやく賛辞を受け止める。

 

「でも、そうね。言葉だけではわからなかったかもしれないわ」

 

「次から気をつけます」

 

「わたしも、早とちりしてごめんなさい」

 

 穏やかなやりとりは、やはりガラスを挟んだように近くて遠いままだ。傍目には良家のお嬢様がチンピラに絡まれているような絵面だというのに、和やかさが奇妙に絵画じみている。ブリッジの扉は開いたまま、内側と外側とを隔てる透明なガラスなどない。ただ、お互い立ち入ることのない境界線(ボーダーライン)が厳然と横たわる。

〈セイズ〉はこれから戦闘に出るのだ。

 接敵まで残り十五分を切っている。雇用主に歩み寄ったウタがことんと首を傾げた。

 

「で、お姫様はどうしてここへ? この艦はもうすぐ出撃しますよ」

 

「これを持ってきたんです。――あの、どうかご武運を」

 

 白魚の手が差し出したのはオリガミの花だ。エンビの病室に持ち込まれた『お見舞い』と同じ、色とりどりの造花の一輪。花を支えるようにチョコレートが添えてある。

 紫色だったのは偶然なのか、弁当配り用のがま口バッグの中にはあふれんばかりの花々が赤白黄色と咲き乱れている。

 

「これは?」とウタは無遠慮に指を差す。

 

「お守りです。気持ちだけでも応援できればと、みんなで作りました」

 

 母艦〈ヴァナルガンド〉の中枢ブロックで退屈している美少年たちの気を紛らわせるためにもと、オリガミを教えたり、みんなで勉強をしてみたり、アルミリアも手を尽くしている。

 薬漬けにはされていない彼らの存在は〈モンターク商会〉の営業状態のクリーンさを証明する証拠になるだろう。利用することに心苦しさもあるが、どちらにせよ死なせるわけにはいかない。

 不注意のせいで失ってしまったリタのような犠牲は、もう二度と繰り返したりしない。

〈マーナガルム隊〉の面々も同じだ。戦いの中で血が流れることは必然かもしれないけれど、もう一滴の血も無駄にならないように。

 願うことしかできないなら、伝える手段は惜しまない。

 

「どうも。でも、俺たちは実だけで充分ですよ」

 

 一輪の花をウタがついと受け取って、そのまま薄すみれ色の髪に差した。取り上げたチョコレートの包みだけ指先でかかげてもてあそぶ。〈セイズ〉に積載されていた食糧はすべて〈ヴァナルガンド〉に移したが、生き残った場合のことを考えて各ブロックのコンテナにレーションが備蓄してある。本来は不要な気遣いだ。

 それよりアルミリアのほうこそ少しくらい着飾っていたほうがいい。いつでも身綺麗にしていただろう。

 商談のためか、愛する夫のためかは当人のみぞ知るところだとしても、モンターク邸にいても、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉で火星を発ってからもアルミリアはいつでも清潔なワンピースをまとい、髪を梳かし、穏やかに笑顔を湛えていた。

 そのようにありたいと願う姿だったのだろう。

 月面基地でリタを亡くしてからは顔色が優れず、つややかな髪にも翳りが見える。

 正気ゆえに耐えきれない事態に見舞われた今だって、アルミリアにはアルミリア自身の人生があるはずだ。保護した子供たちのためを思い、雇用した少年兵たちの未来を憂い、気遣いで自分自身まですり減らしていたら本末転倒ではないか。

 目標まで見失うほどの献身など求めていない。

 ああとイーサンが苦笑する。オリガミの花は髪飾りにしては頼りなく、パイロットスーツにも不似合いだが、少しでも顔色が戻ったなら上々である。

 

「今の俺らに花は似合わないんでね」

 

「俺たちだったら、花より(ルプス)……いや、エビかな?」

 

「ははっ、違いねえな。茹でたエビだろ?」

 

「えび……?」

 

「七年前、でかくて硬い、エビみたいな船があったんです。トンカチ頭のサメみたいな船も」

 

「どっちも喰われちまいましたけど。華はあっちで現役なんで、あなたがとっといてください」

 

 あっちで、とイーサンが親指で指し示したメインモニタでは、クーデリアが記者の質問に答えている。よりいっそう華やかなブロンドを額縁にした白皙の美貌、その耳元で、紫水晶があしらわれたピアスがきらめく。

 ライドがデザインした耳飾りだ。

 鉄華団がテロリストの汚名を着せられ、そして風化していく流れの中で、ライドはシクラメンを象った鉄の華を彼女に託した。きっと皮肉でもあったのだろう。学校教育によって識字率の向上を目指すクーデリアは、かつて〈イサリビ〉で学のない子供に文字を教えはじめた『先生』だった。

 呼ぶためだけにあった名前にスペルをあて、文字として書き残せるようにしてくれた。宿題を与え、本や手紙を読めるように知恵のハシゴを架けてくれた。

 少年兵に読み書きを教えたのは学校ではない、クーデリア・藍那・バーンスタインなのだ。

 十六歳以下だった残党はみな学校に収監されて反知性主義(アンチ・インテリジェンス)に苦しめられたが、そんな現状は認めがたくとも、クーデリアの志まで否定したいわけではない。

 旗として掲げたはずの赤い華は錆びつき、朽ちて形をなくしてしまったけれど、アメジストの種が彼女のもとに残っている。いつか〈革命の乙女〉が教育現場で起きている数々の問題に気付き、対策を芽吹かせれば。火星連合統治下の子供たちの未来だけでも救うことができるはずだ。今ならまだ間に合う。信じている。

 

「だから俺らに花はもう必要ないんです。お戻りを、お姫様」

 

 アルミリア・ボードウィンは貴族の娘であり、英雄の妹であり、逆賊の妻でもあるのだろう。そのどれかを選ぶのではなく、すべて受け入れて生きるのなら。

 

 狼の群れの行く末を見届ける仕事を、あなたに託していく。

 

 

 

 廊下へ、そして母艦中枢へと去っていくアルミリアを静かに見送る。サブモニタで依頼主の退艦を確認して、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉はハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉船尾のドックから進み出る。

 出撃する船体にはボードウィン家の紋章スレイプニール。乗組員はわずかに残った元〈イサリビ〉クルーたちだ。舵をとるのはユージン・セブンスタークの技巧を体感して育った二名である。

 多感な時期に〈イサリビ〉のブリッジオペレーターに抜擢され、背中を見て育ったのは団長オルガ・イツカよりもむしろ艦長ユージン・セブンスタークだった。副団長としてではなく操舵士として、鉄華団の征く道を幾度となく切り開いてきた彼には憧憬だけでは語り尽くせない思いがある。

 

 鉄華団残党『穏健派』の父として戦場を退いてしまった今のユージンに会えば、また傭兵なんて物騒な仕事はやめろと諭されるのだろう。生きるための仕事で命を落とすなんて馬鹿げているとでも。

 ギャラルホルンとの戦力差を鑑みれば、どう戦っても勝てやしない。生殺与奪を握られているなら置かれた状況を受け入れて耐え忍ぶことも、ひとつの人生なのかもしれない。

 だが殺されないためだけに権力におもねった生き方は命に値しない。

 ノルバ・シノを見送ったあの日の悔しさを糧に、この七年間を生きてきたのだ。今度こそスキップジャック級に肉薄し、〈ガンダム・フラウロス〉に代わって一矢報いてやらなければこのまま生きていたって苦しいだけだ。

 

 MS(モビルスーツ)に取り付かれないようベンジャミン——ヒルメの〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機を直援につけ、艦隊の中へ飛び込む。

 ……こんな捨て身の作戦にライドが頷いてくれたのは〈ガルム小隊〉の気迫があったからだろう。つくづく、小さくとも元ヒューマンデブリの戦士たちには迫力がある。

 齢一桁のころから尖兵として過酷な環境を生き残ってきた生存者たち。戦術に秀でるのは、そうでない命が生き残らなかったからだ。連携できないパイロットは死んだ。判断力で劣るパイロットはみな死んだ。

 少年男娼たちがいやに魅力にあふれているのも、そのように育てられ、それでこそ生き残れたせいだろう。

 大人たちが勝手に作った運命(ルール)に翻弄されて、死というかたちで淘汰されてきた。

 

「見せてやろうぜ、俺らの力を」

 

 胸を張って、イーサンが拳を突き出す。ああと穏やかにウタが応じる。〈イサリビ〉のころが懐かしい。どんなに月日が流れようとも褪せない記憶だ。

 

「頼むよ、相棒」

 

 オリーブグリーンの双眸を細める。正気でいるはずなのに、死ぬのが怖いとか、そんな感覚はとうに麻痺してしまった。死を厭わないわけじゃない。だが、家族を殺されるほうがずっとずっとおそろしい。

 未来を奪われ、生きたまま踏み躙られるのはもうたくさんだ。

 

 生かすために前に進む。屍を踏みつけられないために、尊厳ある終焉を。

 勝ち取りに行く。



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022 ヒューマンデブリの意地

 とうもろこし畑が揺れる。

 黄金色の穂が午前の陽射しに照らされ、桜農園に収穫の季節が近付いているとささやきあっている。二年かけてようやく四季がめぐる火星において、子供たちが最も豊穣に期待を寄せる季節だ。昼夜に寒暖差のある時期ほどとうもろこしは甘く育つ。

 かつて鉄華団と提携してアドモス商会が建てたこの孤児院は、今は公営化されている。食料自給力を高めるため連合政府は農家を手厚く支援しており、ビスケット・グリフォンの給与なしには賄えなかった農場は見違えるほど豊かになった。

 常であれば子供たちの遊び場になっているはずのとうもろこしの迷路も、今日に限って人影はわずかだった。

 

「デルマせんせぇ、いかないで……」

 

 幼子が服の裾を掴む。エプロンをとったデルマは、言い聞かせるように首を振った。

 膝をついてなだめてやることもしない。そのさまが別れを予感させ、ダンテが苦渋に顔を歪める。

 

「本当に行くのか? それが本当に正しいことなのか?」

 

「……火星は、ブルワーズよりマシだけど、やっぱりいいところじゃなかったから」

 

 デルマの苦笑は虚ろで、どこか物寂しい。ここだっていつ〈ダインスレイヴ〉が降ってきてもおかしくないのだ。鉄華団の基地跡地みたいに、ギャラルホルンの貴族が買い上げて畑にしてしまったら違法兵器を解禁した証拠は残らない。

 遠い目をして見上げる火星の空は今日も青く、ただ遠い。

 児童養護施設職員となったデルマはもう、あの空の向こうへあがることもないだろう。基地を放棄して地球へ逃げて、IDを書き換え表向きは別人のふりをすることを条件に、鉄華団の残党は平穏な日常を手に入れた。

 

 ――火星はいいところでもないが、海賊船(ここ)よりはマシだぜ。本部の経営も安定してきたしな。メシにもスープがつく。

 

 思い返せばオルガ・イツカが亡くなってもう七年が経つのだ。この左腕を失ってから七年。昭弘・アルトランドを戦場に置き去りにして七年。宇宙海賊〈ブルワーズ〉から賠償金という扱いで鉄華団が身柄を買ってくれたときのことが昨日のことのようにはっきりと思い出せるのに、時間の流れは何もかも過去へと押し流してしまう。

 おっかなびっくり〈イサリビ〉に乗船したあのころ、見るもの触れるものすべてがブルワーズよりマシだった。食事も寝床も仕事もすべて、それはもう『マシ』だなんて言葉では失礼すぎるくらいにあたたかかった。

 だが、違う。一人ひとりが頑張って、今日より明日をもっとマシにしようと手を尽くしていたおかげで、不条理の再生産が食い止められていただけだ。

 どっちが『前』かもわからない世界なら、一番マシな未来へ進めと旗を振ったのがオルガ・イツカだった。

 

「……デルマ、もう一度考え直さないか。お前はこいつらを守っただけだ。そうだろう」

 

「おれだってそのつもりだよ。人手不足もわかってる」

 

「だったら……!」

 

「だからおれは行くんだ、ダンテ」

 

 首を振る。今ここに残っても現状が維持されるだけだ。それでは『今よりマシ』にはならない。

 火星は独立して、学校ができて、この孤児院は子供たちであふれている。……何だかおかしくはないか。ここに入所している幼子たちみんな親がいない。死別したり、経済的な理由で手放されたり、面倒を見きれなくなって捨てられたり……、背景に差異はあれど育ててやれる大人がいない。だからここも人手が足りない。

 この手の施設で働いているのは『教員免許を持たない者』だ。最近では政府が『保育士』なんて公的資格を発行するようになったが、採用のハードルを上げればたちまち職員の頭数が足りなくなってしまう。

 朝食の支度をして日中は遊び相手をしながら掃除と洗濯、買い物、夕食を終えたら順番に風呂に入れて寝かしつけ、夜泣きをあやして記録をつけ――、そんな激務が日夜続く職種である。ダンテやデルマのような住み込み職員なら毎日が日勤で夜勤だ。前回いつ三時間以上のまとまった睡眠をとったかも思い出せない。

 ヒューマンデブリ育ちのデルマには案外懐かしいスケジュールでも、新しく入ってきた職員は三日と持たずに辞めていく。

 そのたびデルマは同じことを思った。

 

(……子供(こいつ)らは他に行く場所なんてないのに)

 

 現状、児童養護施設の職員には資格がいらない。あったほうがいいのだろうが、就労にあたって保育士資格が必須になったらダンテもデルマも勉強する時間もとれないまま職を追われてしまうし、入所している孤児たちを置き去りに職員だけごっそりいなくなるのは自明である。

 失業者の増加に歯止めをかけたい火星連合政府は、どうあっても資格を必須条件にできない。

 高学歴移民の流入により、無学な火星人は『効率化』という名目でどんどん会社を追い出され、劣悪な単純作業の現場に追いやられている。妻子を養うため、借金を返すため、自分が生きていくために傭兵として志願し、惑星間航行に同行したら海賊に襲われて戻って来なかった――なんて噂も耳にする。

 女子供はいつも社会が決めたルールに翻弄されるばかり、割を食うばかりだ。火星は確かに豊かになったけれど、その陰では力なき子供たちが搾取され、犠牲になり続けている。

 すがるような目で見上げてくる幼子の頭を撫でれてやば、くしゃりと顔を歪ませ、涙目になってしがみついてくる。

 

「なあ、ダンテ。こいつらの頭触るとき、おれ、いつも思うんだ。こいつらみんな、おれは殴ったりしないって信じててくれる」

 

 ブルワーズでは、身構えないことが『自衛』だったのに。鉄華団も根幹は同じだった。どんな暴力にも怯まず、目を逸らさない『勇気』の証であり、自由を求める戦士の抵抗だった。

 そのせいか、兄貴分が頭を撫でてくれるときには暗黙裏に信頼への感謝が乗っていたように思う。

 この手に怯えないでいてくれてありがとう。褒めさせてくれてありがとう。そんな不器用な心遣いがどこかにあった。

 戦うことしか知らずに育ち、右も左もわからないまま孤児院で働くようになったデルマも同じ気持ちだ。入所している児童はみんな、デルマが伸ばす手を見て慈しみだけを連想してくれる。

 これは殴られる時間を短く済ませるための自衛じゃない。暴力に屈しない勇敢さでもない。

 

 だけど、デルマが好きだからという単純な理由でもない。

 

 デルマは父親ではないし、里親でもなく、教員でも保育士でもない。ただちょっと年上で、何も資格がなくて児童養護施設で働いている元ヒューマンデブリの元少年兵だ。だけど衣食住と生殺与奪を握っているから、この子たちはデルマに懐く。食べものを与えてもらわなければ生きられないから藁にもすがる思いで最も身近な大人に媚びているだけだ。

 実の親子でも、里親と里子でも、教師と生徒でも、雇用主と傭兵でも、こうした非対称な関係は変わらないだろう。

 なのに職員は多忙で睡眠時間もまともにとれず、気持ちに余裕を持っていられない。他に縋れるものを持たないこの子たちの信頼に甘えて、過信して、自尊心を補強する材料にしてしまいそうになるのだ。

 指一本で命さえ奪える大人はいつだって『脅威』なのに。

 

「昭弘さんにもらった苗字、おれ、なくしちまったから……。だからこいつらには家族を作ってやれるように頑張りたかった。でも、――」

 

 ある日、デルマは同僚を殴った。

 

 元来、職員と入所児童は家族ではない。これは『仕事』で、ここは『職場』だ。職員には職員自身の人生があり、家族があり、プライベートがある。

 施設は『帰る場所』ではない。

 いつか本当の家族に巡り会うまでのつなぎの存在として、深く思い入れてはいけないと決められている。情を持たないように、持たせないように。寂しくなって呼ばれる名前になってはいけない。

 ところが鉄華団時代の慣習が残るここでは、就学年齢に達して学生寮へと送り出す子供たちに「ここから通いたい」と毎期のように泣かれる。里親を見つけて送り出すという使命を果たすどころか、みな里子にも出たがらず予算も部屋もカツカツだ。

 いまだストリートをさまよっている孤児たちも保護しなければならないのに、新しく迎え入れてやるスペースが確保できない。

 過密状態になるほど子供たちはストレスを溜め、職員の目も届きにくくなる。とうもろこし畑のただ中という閉鎖的な環境、慢性的な人手不足、――院内でいじめが発生しても気付くまでに時間がかかる。人員を増やせば信用できないやつも出てくる。

 

 デルマが殴ってしまった同僚は、人当たりがよく穏やかで、デクスターを二十歳ほど若くしてメガネを取ったような優男だった。保育士資格保持者を各院にひとりずつ置くようにと、公的機関が派遣してきたのだ。博識でダンテからも信頼され、斡旋に関わったユージンにも好青年と評され、子供たちからもよく懐かれていた。

 働き者で、子供が好きな、よく気がつく男だった。

 

 だから、ある夜、デルマが開いているベッドを見つけてしまったのは単なる偶然だった。

 消灯時間もすっかり過ぎたころ、夜間は閉じているはずのドアが少しだけ開いていたのだ。この孤児院では数少ない女の子の部屋だったからすぐ目についた。そっとのぞき込めば、ベッドで眠っているはずの姿がない。

 トイレにでも行ったのかと廊下に懐中電灯を向けると、今度は夜間は開放されているべき扉が閉じていることに気付いた。夜勤の職員が使う仮眠室だ。地下にある私室とは異なり、当番制で横になるためだけに使っている。

 手をかけたドアノブは、しかしデルマの侵入を拒否する。マスターキーは事務室に置き去りだとしても、内側からの施錠なら鍵をかけた人物が中にいるはずだ。

 

 ――誰かいるのか? ここのドアは開けとく決まりなんだけど。

 

 ――ああ、デルマ先生。すみません、眠ってしまってました。

 

 なんでもない声で答えたのは、例の保育士だった。相変わらずおっとりと柔和な雰囲気でデルマのノックに応じる。寝起きにしてはずいぶんクリアな声音だった。

 耳を澄ませば、何だか嫌な音が聞こえてくる。引き攣るような呼吸音、衣擦れと粘着質な水音。不穏な気配に背筋がぞっと寒くなる。

 

 ――……先生ひとりじゃないですよね? ここ開けてください!

 

 ――いや、僕ひとりだけですよ? 鍵を開けますから、そんなに慌てないで。ちょっと待ってください。

 

 ――は? 明らかにひとりじゃないだろ。開けますよ!

 

 のそのそと緩慢な動きに焦れて、金属製の左腕を振り上げる。一挙動でドアは吹っ飛び、懐中電灯が描く白丸が室内を暴いた。

 着衣の乱れたままの男と目が合う。一撃で扉を破壊したデルマの乱暴さを見守るように苦笑しながら、右腕は不自然に背後にかばっている。……デルマは血のにおいに敏感だ。フロアにまだ新しい血痕。膝頭を擦りむいた程度の出血量だが、ここは孤児院である。仮眠室とはいえ室内で怪我をするような棘や角はすべて丸めてあるはず。

 ふと視線を誘われた部屋の隅、涙を目に溜めた少女と目が合ったとき、すべてを察した。

 

 

 ――あんた……何やってんだ!!

 

 

 怒号を押し殺し、生身の右腕でぶん殴るだけの理性が残っていたことがせめてもの救いだった。

 翌朝から彼はいつも通りの好青年に戻った。働き者で、人当たりがよく穏やかで、子供たちにもよく懐かれている。さすがに連合お墨付きの保育士だ。ダンテからの信頼も厚く、あの悪夢を言い出せない日々が続いた。

 

 いくらか経った静かな夜に、デルマはまたもぬけの殻になったベッドを見つけた。()()を見つけるたびデルマは彼を殴ったが、毎日ではない。仮眠室を探し、倉庫を探し、ただトイレに行っていただけとわかったときは安堵で崩れ落ちた。

 日に日に不安が増し、いつにも増して眠れなくなっていった。不注意をダンテに見咎められることも増え、子供たちからも目の下のクマを心配されるありさまだった。半年くらいの月日をデルマはそんな体たらくで過ごし、ユージンに休暇の申請を勧められても、休みはいらない、ここにいなければならないと首を横に振ることしかできない。

 また空になったベッドを見つけ、現場にたどり着いて加害者の胸ぐらをつかみあげたとき、組み敷かれていた少女の腹が不自然に膨れていることに気付いて、箍が外れた。

 少女には上着を投げつけ、ダンテの通信端末にコールをかけると誰でもいいからすぐに女性職員を呼べと怒鳴りつけた。状況が飲み込めないダンテに、アトラでも桜さんでもとにかく女を叩き起こして現場に向かわせろと部屋番号を告げ、デルマは裏庭に男を引きずり出した。

 

 それからの記憶は、ひどく曖昧だ。

 夜が明けて、とうもろこし畑にさわやかな風が吹き抜けたとき、()()は冷たくなっていた。

 

 金属の左腕が血でぬめっていた。生身の右拳は握りしめたまま痺れていた。何だか水槽の中でぶくぶくと泡の音を聞いているような、非現実的な心地だった。駆けつけたダンテの指示のもと、男の亡骸を遺体袋に詰めて庭に埋める間も、どこか遠くから地面を見つめているように現実味がなかった。

 そして、起きてきた子供たちが園芸用のシャベルを持ち寄って裸足のまままろびでてくる姿を見て、涙があふれた。

 花壇に種を蒔くために人数分揃えたシャベルだ。カラフルで、小さくて、死体を埋めるためのものでも、殺人を隠蔽するためのものでもない。中には何が起こったかを察している子供もいる。細い嗚咽をこぼしながらデルマの力になろうとする少女は、誰よりも現実を理解していた。

 

 被害に遭っていた子供は複数いた。一方で、保育士の先生はどこへ行ったの、と無邪気に首を傾げられることもあったが、デルマには何も答えられない。

 男女あわせて十名が被害に遭っていたことが発覚し、病院へ連れて行った。十六歳未満の中絶手術には医者にも苦い顔をされ、孤児院でなくて斡旋所だったかと非難がましい嫌味を言われた。言い訳の言葉もなかった。

 

 

「おれが殺したのはあいつだけじゃない」

 

 

 苦い記憶にデルマは拳を握りしめる。病院から戻ってきたのはたったの四人。産婦人科での落命、精神科への長期入院――六人もの少年少女が未来を奪われた。腹の子もみな死んだ。

 

「ばかやろう……お前は守ったんだ。こいつらを守ったんだよ……」

 

「おれだって守りたくてやったよ。だから、殺さなきゃ守れなかったことを……、殺してもまだ守れてないってことを、訴えに行かなきゃならない」

 

 もっと早く情報を共有し、もっと早くクビにすることができていれば。今も元気に院内を走り回っていてくれたかもしれない。過密状態にしてしまったのはデルマたちの責任でもある。入所児童と家族のように接してはいけないルールを守らなかった。

 公的機関から派遣されてきた保育士だからと無条件に信頼した。報告も遅らせてしまった。

 

 火星経済はいまだ安定にまでは漕ぎ着けず、学校や児童養護施設、農業プラントは連合政府が手厚く支援してくれる。払いは決してよくないが、行政に守られているので失業の不安がまずない。いつ倒産するとも知れない民間企業とは違ってクリュセ市警に濡れ衣を着せられることもないし、ギャラルホルンの焼き討ちに遭うこともない。安全で、誰にでも挑戦できる仕事だ。

 そんな立場を利用して、子供たちを喰い物にしようとする連中もいる。忙しさにかまけて正気を失っていく職員も後を絶たない。

 デルマは真面目な職員だし、余暇は食事と睡眠その他生理的欲求ぶんだけあればいい――という気質上、あまり欲がない。職員をまとめる立場にあるダンテには行かないでほしい人材だろう。あんなことがあったから、見知らぬ他人を入れたくない気持ちもよくわかる。働き者でも子供好きでも、連合政府のお墨付きがあったって、どんな裏の顔を持っているかわからないのだ。さすがに疑心暗鬼にもなる。

 

「こいつらさ、学校にあがったら『人を殺すのは犯罪だ』って教えられるんだ。()()から。そのとき、守られたことを、悪いことだったんじゃないかって疑うかもしれないだろ。それを、また誰にも相談できなくて苦しむかもしれないだろ? だからおれが、保育士様をクビにもできない〈法〉と〈秩序〉がどんだけクソか証明してやるんだ。なあ、おれ、何か間違ったこと言ってるか」

 

「間違ってねえ……間違ってねえよ。でも、なんでお前なんだ。お前が責任を負う必要なんてねえだろう……」

 

「それじゃ今までと変わらない。みんなそう思ってるんだ。自分じゃない誰かがやればいい、自分には自分の生活があるって。嫌な仕事は他人に押し付けて、……自分たちだけでもしあわせになりたい」

 

「デルマ………!」

 

「おれは自首する。こいつらの未来を守るためには、全部暴露するしか方法がない」

 

 悩むことは苦しい。責任を負うのは恐ろしい。だからみんな目を逸らすんだろう。赦してくれる奴を頼って逃げるんだろう。隠れてやれば大丈夫だとか、口を塞げばバレないとか。市警に金を握らせればもみ消せるとか。子供を殺したって犯したって処罰されるリスクは限りなくゼロだ。成功すれば今度は『次』に挑戦してしまう。うまく行けばもう一度、今度はもっと大きな獲物を。もっと豊かに、もっと自由に、もっともっとと際限なく肉を喰いたがる。

 野放しになってきた暴食を、抑止するための対策が必要だ。

 クーデリアはだから、みずから立ち上がってみせたのだろう。

 

 

 ――ともに考えましょう。生きるために罪を重ねてきた過去を、その責任を。どんなに時間がかかっても、真実を見つめたその先にこそ、誇れる未来があるはずです。

 

 

 ともすれば火星連合議長という地位と権力を失うかもしれない思い切った演説は、彼女にとってどれほどの苦難を強いるのか、デルマには想像ができない。誰が何を言ったって、考えたくないやつは考えない。責任なんか取りたくないやつは、他人になすりつけようと言い訳を考える。この足の下には地面しかないんだと、そこにある屍から目を逸らす。

 肉は肉らしく、ただ黙って喰われていればいい。地面は地面らしく、黙って踏まれていればいい。

 そうやって『役目』を楯に現状を維持しようとする。

 

 デルマだって宇宙海賊〈ブルワーズ〉で使われていたころは、命令されるまま数多の船を襲い、一方的な略奪のために船員たちを手にかけてきた。

 人を殺めることはもちろん怖いが、同時に、それしかできないという危機感もあった。命令通りにできなければ殺される。仲間は次々死んでいく。殺されていく。つないだはずの手が目の前で断ち切られ、握りしめた手の中には死だけが残る。

 

 いつも不安だった。ずっと怖かった。

 MSに乗れなくなったら他にできる仕事はない。死なないために、殺されないために、命令のまま撃って撃って殺して殺して……ヒューマンデブリはそういうものだからしょうがないと諦めるしかなかった。

 

 そんなデルマの戦闘技能は、鉄華団が民間警備会社だったから役に立った。実働一番隊〈流星隊〉への配属は誇らしかったし、戦いになればデルマは役に立った。ヒューマンデブリ時代の戦闘経験がデルマを生かした。

 裾を掴んで嗚咽をこぼす幼子の頭をもう一度撫でてやりながら、目を細める。孤児院に就職したって「せんせい」なんて似合わない呼ばれ方をしたって、デルマはやっぱり人殺しくらいしか満足にこなせない。

 こいつらを――まだ何の罪もない子供たちを、おれのようにはしたくない。

 

「ここは職場だ。帰る場所じゃない。おれは保育士じゃないし、里親になる資格もない。今の稼ぎじゃ手前一人が食ってくだけで精一杯だ。でもおれさ、いつか、ガキどもみんな引き取って本当の家族として暮らしたい。いっぱい働いて、金を貯めて、家を買ってさ。表札は『アルトランド』って、もう決めてあるんだ。……それが、おれの夢なんだ」

 

 いつか生まれ変わって、もう一度帰ってくる『家』を作りたい。昌弘とアストンと、そして昭弘が胸を張ってただいまを言える、本当の居場所を。

 

「なのに行くのか、デルマ……」

 

「だから行くんだよ、ダンテ」

 

 おれには夢がある。だからどうか信じていてくれ。踏み出すこの足は、確かに前に進んでいると。

 たどり着く場所が死刑台だって、受け入れる覚悟はできている。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 カタパルトデッキへ漆黒の機体が進み出る。〈ヴァナルガンド〉のMSデッキでは、刻一刻と迫る開戦に向けて準備が進められていた。

 獣の両耳のようなブレードアンテナ、黄金色のモノアイがぎらりと開眼した。

 

『ベンジャミン——〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機、出るぞ!』

 

 背部の大型スラスターをふかし宇宙空間へと飛び立つ。左肩に稲妻を、右肩には盲目の狼(ブラインドフェンリル)を刻印した戦乙女は、〈ハーティ小隊〉の中で最も航続距離が長い機体だ。搭乗するヒルメは戦友が眠る〈ヴァナルガンド〉を一瞥すると、大型ライフルを小脇に加速をかけた。

 母艦〈セイズ〉に取りつくと、頭部センサーを開き、モノアイを露出させる。

〈ダインスレイヴ専用グレイズ〉と同様の高精度光学ズームを採用した〈千里眼形態(ガンカメラモード)〉。敵陣のただ中へ飛び込み、アリアンロッドの旗艦を狙う手筈である。

 

『続いて〈ガルム・ロディ〉4番機。発進どうぞ!』

 

『フェイ、出ますッ!』

 

『〈ガルム・ロディ〉3番機、発進どうぞ!』

 

『エヴァンいきます!!』

 

『〈ガルム・ロディ〉2番機、発進どうぞ!』

 

『ハルです、お願いします!』

 

『〈ガルム・ロディ〉1番機、発進どうぞ!』

 

 

了解(ラジャー)』と小さな隊長が細く息を吐く。

 

 

 これが最後だ。これは〈ガルム小隊〉の最後の戦いだ。輸送用のランチを含めてすべての戦力を投入し、予備のパイロットも全員戦場へ向かう。〈ウルヴヘズナル混成小隊〉も後に続く。ひとつの大きな塊として、ヒューマンデブリの意地を見せてやると啖呵を切った。

 目覚めないエンビの代わりに前線指揮官をつとめる。責任感を未発達な双肩に乗せ、すうと息を吸い込んだ。

 

『ギリアム、いきます!!』

 

 MS隊が加速する。

 

 

『全機、全速前進! おれたちであの〈ダインスレイヴ〉隊を攻略する!!』

 

 

 この命に代えても、あの鉄杭を打たせやしない。



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023 不退転

 ロディフレームの一団が先陣を切って加速する。

 それをビスコー級クルーザー〈セイズ〉が追う。爆ぜる砲火、スラスターの光線が青白く軌跡を描く。脆弱な船体に取り付こうと接近した〈グレイズ〉が腹を撃たれて昏倒した。

 宇宙空間に黒く溶け込むような〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機の砲弾は、弱腰に攻撃してくる〈グレイズ〉を撃ち据えては退けていく。

 ヴァルキュリアライフルにコクピットブロックを撃ち貫くほどの威力はなくとも、メインカメラを砕けば動きは止まる。撃墜よりも破損、損傷を狙ったほうが今回ばかりは好都合だろう。近づいてくるMS(モビルスーツ)を無力化して転がしておけばいい。

 船体上部に機体を固定したヒルメは常のスナイパーライフル、ワイヤーアンカーに加えてハンドガンをひとつ借り受けてきた。1号機の――エンビの武器だ。

 

(借してくれよ、お前の力を!)

 

 狙撃に適したひとみは灰色(グレー)、次いで(ブルー)だという口伝の通り〈ハーティ小隊〉における火器の取り扱いはエンビ、イーサンが抜きん出ている。

 そんなことは百も承知だ、無い物ねだりをしたってしょうがない。

 

 そのために千里眼形態(ガンカメラモード)がある。

 

 ヒルメはダークブラウンのひとみを眇め、スコープごしに目を凝らす。射撃精度こそグレーアイズのエンビに劣るが、広い視野がヒルメの持ち味である。

 防衛ラインを築くのは九〇ミリ汎用マシンガンを装備した〈グレイズ〉ばかり、前回交戦した〈グレイズエルンテ〉の姿は見当たらない。及び腰の量産型など〈ガルム・ロディ〉の敵ではない。〈マン・ロディ〉や〈スピナ・ロディ〉も戦線に加わって、近付く機影を猛烈な勢いで弾き返していく。

 

 ……このまま近接戦闘用のMSが仕掛けてこないなら、戦艦に比べ装甲の薄い〈セイズ〉にとっては好都合だ。ヒルメは細く息を吐き、スコープにいっそう意識を集中させる。

 ビスコー級クルーザーの船体規模はハーフビーク級戦艦の約八分の一に過ぎず、全長五〇メートルと小柄な〈セイズ〉は、総合的な機動力で各戦艦にかなわない。

 だが〈ハーティ小隊〉の操艦手腕があれば、隙間を縫って防衛ラインを越え、奇襲をかけることだって可能だ。

 ギャラルホルンは前々から同士討ちも厭わない組織であったし、ハーフビーク級戦艦の主砲で味方MSもろとも宇宙ネズミを葬り去るくらい、アリアンロッドならやってみせるだろう。

 それなら玉砕覚悟で突っ込んでいって〈ダインスレイヴ〉による友軍誤射(フレンドリー・ファイア)を狙えばいい。

 

 全速前進、敵陣へ最大加速で突き進む。最前線を切り開く〈ガルム小隊〉隊長がサブモニタで叫ぶ。

 

『正面に〈ダインスレイヴ〉隊を肉眼で捕捉ッ! 第一波装填をかくにん!!』

 

 ギリアムの声が甲高くぶれる。リーダーとしての矜持と責任感で塗り固められた堅牢な理性で、少年兵は戦場を駆ける。

 前線指揮官オルガ・イツカのミニチュアを思わせる小さなカリスマ、その左右を支える両翼が展開し、〈ガルム小隊〉が戦闘態勢に入った。突進するMSやランチの群れで作った巨大な楯は、前衛としてマシンガンを構えたらしい。緊迫感がLCSごしにもびりびりと伝わってくる。

 

『来るのか……!』

 

 第一の目的は、扇状の陣形で待ち受けるダインスレイヴ隊の突破と撃破。母艦〈ヴァナルガンド〉を守るには居並ぶ禁断の砲台を一掃する必要がある。射線上を遡るという危険な任務を〈ガルム小隊〉が指揮する。

〈ウルヴヘズナル混成小隊〉の背後で今は守られているだけの〈セイズ〉は、幼い戦士たちの背中しか見ることができない。

 LCSから響いてくる甲高い少年たちの声の中には、ブツブツと火薬に犯された繰り言も混じっている。細く息を呑む無音の悲鳴と慟哭。恐怖に駆られてガチガチと鳴る奥歯の音。怖い、はやく、まだなのかよ——、悲痛な叫びに心が痛む。

〈ダインスレイヴ〉はリアクターめがけて飛んでくるから、再前衛にあたる一列目は敵に背を向ける格好なのだ。

 二列目の〈スピナ・ロディ〉に押し出されながら、〈マン・ロディ〉の短い両腕が取りすがるように抱きついているさまが、ヒルメにも垣間見えた。

 幼い家族の犠牲を受け入れなければ生き残ることさえ難しい現状を変えたくて、ここまできたはずなのに。また彼らに任務と言う名目の殊死を強いてしまう。

 後列の〈ガルム・ロディ〉がハンマーアックス、ブーストハンマーを構える。

 ダインスレイヴ隊との距離約八〇〇、第一波の発射までカウントダウンがはじまる。9、8、7――。

 

『ミサイル放てぇええッ!!』

 

 指揮官が高く吠える。号令から間髪入れず、前列ランチの主砲が迸った。追いかけるようにマシンガンが火を噴く。刹那、ばっと弾けて霧散する。濃霧が宙域をモニタごと染め変え、スクリーンにノイズが走る。

 ナノミラーチャフ。

 古くさい目隠しだが、阿頼耶識使いを手っ取り早く優位にするスモークスクリーンだ。ロディフレームの番犬たちは速度を落とすことなく突っ込んで行く。

 ヒルメの足許で〈セイズ〉が一気に加速をかけた。〈ダインスレイヴ〉発射前に約八〇〇の距離を走り抜け、アリアンロッド艦隊に肉薄する手筈だ。さすがのギャラルホルンだって、まさか戦闘艦でもないビスコー級クルーザーがこんな動きをするなんて思わないだろう。

 視界の悪い煙の中、船体は乱気流になぶられるようにがたがたと跳ね回る。次の瞬間、センサーではなく操艦手ウタの直感が扇状に展開するダインスレイヴ隊をとらえた。

〈マーナガルム隊〉自慢の子犬たちに群がられ、随伴機〈フレック・グレイズ〉が残弾をむしり取られて横転するさまがヒルメにも見えた。

 犠牲をひとつたりとも無駄にしないために、ウタは操縦桿を握りしめる。隔壁はすべて封鎖し、誘爆のリスクも可能な限り断ってきた。

 

(阿頼耶識がなくても、これくらい……っ!!)

 

 奥歯を噛む。噛みしめる。鉄華団で成長してきた〈イサリビ〉クルーとしての意地がある。戦場にいて、前線にいて、それでもブリッジオペレーターは『戦闘員』の頭数には入っていなかった。

 非戦闘員を数多乗せていたからだ。おれたちだって戦えるという矜持を持ちながらも、どうしたって命を守るための存在であらねばならなかった。

 だが今は違う。これは魂を守るための戦いだ。筋を通すために戦っている。

 このままハーフビーク級戦艦が展開する艦隊の隙間をすり抜けて、旗艦〈フリズスギャルヴ〉を直接叩く。

 近接戦闘はMSの専売特許ではないのだ。阿頼耶識がついていなくたって曲芸航行くらいやってみせる。こちら側から接近すれば、アリアンロッド艦隊を相手取って白兵戦だって、あるいは。

 

「よく狙ってよ、イーサンッ!」

 

「当然だ、〈イサリビ〉のトリガーは誰が握ってたと思ってる!」

 

 砲撃手は前だけを見据えてくちびるを舐め、野心的な喉が獣のように低く唸る。

 これは無謀な特攻ではない。巡航船による近接戦闘だ。直援につくヒルメが追いすがってくる〈グレイズ〉を次々撃ち墜としていく。落としきれなかったマシンガンの豆鉄砲を喰らったくらい、どうってことはない。

 どうやったって目的を遂げたいのだから、器なんて道具にして捨てたっていい。

 

「墜ちろ、スキップジャック!!」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

「タカキ。どうか気をつけて」

 

「はい。おれも負けていられないので」

 

 拡声器を肩から提げ、タカキは和やかにはにかんだ。事務所の外からは喧噪が響いてくる。火星に比べれば格段に治安のいいアーブラウの首都エドモントンですら、迂闊に市街地へ出れば安全は保障されないというありさまだ。

 デモの告知もないのに、市街地のそこかしこで暴動が起きている。生卵の飛来を警戒して雨戸を締めようとした主婦が火炎瓶を投げ込まれて死亡するなど、見過ごせない事態も増えてきた。

 全世界がクーデリアの演説にざわつき、何の罪もない民衆を犯罪者呼ばわりしたと憤っている。

 

 

 ――みずからの手で武器を取り、みずからの責任によってわたしを殺しにおいでなさい!

 

 

 勇敢な彼女の啖呵も、わざわざ火星まで出向かなければ殺せもしないのに、絶対安全圏で何をほざくのかと不満の声があがっている。クリュセのほうがよっぽど危険なのに。ほんの数年前まで無法地帯だった火星には武器の所有に制限がなく、子供が拾い物のナイフや拳銃を隠し持つことだって珍しくない。

 圏外圏は傭兵不足に見舞われると同時に銃火器の普及に歯止めがかけられなくなっており、アーブラウよりも断然危険なのだが、……地球人は火星の現状をよく知らない。

 知るすべがないのだ。遠く離れた異星についての情報が少ないために、火星人という漠然としたイメージが先行してしまう。圏外圏では野蛮人たちが旧石器時代のような暮らしをしている、なんてステレオタイプがあるせいで、誰も彼もが火星といえば原始人を混同してしまったまま、先入観が邪魔をして情報が更新されず、訂正されることなく歳月とともに浸透していく。

 

 それが『偏見』だなんて誰も知らない。みんな『事実』だと思っている。自分が見たもの、経験したこと、これまで読んだ書物に基づいてしか、イメージは膨らませられない。

 

 タカキだって同じで、いまだにバルフォー平原の豊かな緑を物珍しく思ってしまう。肥沃な大地と豊富な水資源に恵まれたアーブラウでは種を蒔かなくても草木は芽生えるものなのかと、雑草をありがたがって笑われたりもした。雨が降ることに感謝して白眼視されたこともあった。

 火星生まれのタカキは十三歳になるまで読み書きのひとつもできなかったが、学校に行くのが当たり前のエドモントンでは文盲なんて理解も想像もできないことだという。メガネもいらない、視力はメディカルナノマシンで治るから。車椅子も義肢もいらない。ちぎれた手足はメディカルナノマシンがつなぎ合わせてくれるから、拾い集めて医療ポッドに入れれば失わなくて済む。

 それが当たり前なのだ、ここでは。教育も、医療も、手を伸ばすまでもなくそこにある。願うものではない。手に入らない状況なんて、ここの人々は思ってもみない。

 想像力のベースとなる知識と教養には、タカキでは考えが及ばないほど深く深い溝がある。たくさん勉強して高等教育を受けている今も、大学教授(プロフェッサー)に提出した小論文は赤だらけになって戻ってくる。

 

「以前、エドモントンでデモがあったときの……あの青年を覚えてますか?」と、タカキは独白のように取りこぼす。

 

 SAUで傭兵の集団死が見つかった事件のあと、軍縮デモは激化の一途をたどっていた。アーブラウは防衛軍を解体せよ、奪われた平和を取り戻せ――という市井の演説もそこかしこで聞かれるようになった。

 あの日、テレビの中で行進するデモ隊の中で流暢な演説を行なっていた青年。あのときは古い知り合いにそっくりな『同じ顔の三人目』だなんてごまかしたけれど、あれはエンビだった。

 力強い声の張り方はオルガ・イツカ団長を真似たのだろう。道理で聞き覚えがあるわけだ。

 

「あいつ、鉄華団の弟なんです。きっとすごく勉強したんだと思います。文字の勉強を始めたのは、おれと一緒だったのに」

 

「タカキ……」

 

「おれはフウカを守りたくて平穏な道を探してきたけど……それじゃだめだって、やっと気付いたんです」

 

 世界中の子供たちのためにできることを見つけたいという気持ちは本心だ。もっと世界を見なければ、知識を深めなければ、経験則という狭い視野の中で自己完結してしまう危険も今だからわかる。

 タカキ・ウノには、ふたりの家族がいる。

 十六歳になった愛妹フウカと、推定十四歳のまま時間を止めた戦友アストン。ふたりとも大切なタカキの家族だ。

 ヒューマンデブリとして二束三文で売買され、宇宙海賊〈ブルワーズ〉の兵士として〈マン・ロディ〉に乗っていたアストン・アルトランドは、八年前の国境紛争で死んだ。タカキをかばって命を落とした。

 お前らのしあわせを守るためなら何だってするとうっそり笑んだ彼は、しあわせになる方法を知らなかった。想像さえできなかった。

 そして初めて自分自身の生存を願ったのは、致命傷を負って命を手放す今際の際だ。

 死にたくないことは死ぬことで、生きることは心を殺して戦うこと。しあわせになることは、生きる力を失うことだった。

 そんな生き方でしかアストンが命をつなげなかった原因は、この『世界』にある。

 

 かつて蒔苗氏が諸国漫遊に宛てた日々は、タカキに取って代え難い学びの経験だった。

 任期を円満に終えた蒔苗・東護ノ介前アーブラウ代表は、晩年、タカキを同伴して各地を旅した。氏の代表再選がなければ、今ごろアーブラウはギャラルホルンの傀儡になっていただろう。彼が語らなければアーブラウは知らないままだった。圏外圏に蔓延する貧困、誘拐、ヒューマンデブリ問題。植民地として支配されていたクリュセで日常化している弾圧。

 かつてアーブラウ防衛軍の軍事顧問をつとめた子供ばかりの民間警備会社〈鉄華団〉が、不当な情報操作で殲滅されてしまったこと。

 忘れるなど薄情ではないかと、老いに痩せこけた手でタカキの手を握った。火星からやって来た少年たちがこのアーブラウのため最前線で体を張り、命をかけて国境紛争の尖兵となったというのに。老いぼれが何も残せんでは、死んでも死に切れんよと。

 アーブラウのため献身的に戦い続けた少年兵たちの勇気について、蒔苗老は語り続けた。

 その努力が、今日(こんにち)の火星連合との友好につながっている。

 

「だから今度は、おれが証言台に立ちます」

 

「わたしたちも同志ですよ。できる限りのバックアップをさせてください」

 

「ありがとうございます。でも、もしアレジさんたちが危険になるならおれのことは切ってくれて構いません。フウカを……妹のことは、お願いします」

 

「わかりました。約束します」

 

 ハンカチで目頭をおさえるアレジに、タカキは「大げさですよ」と微笑した。

 

「フウカが生きる未来は、人殺しがのうのうとのさばっている世界であってほしくない。ロールモデルになれるなら、おれ、本望です」

 

 すっきりと笑んで、タカキは扉へ足を向ける。外は危険かもしれない。けれど、だからこそ。マシンガンではなく声を届けるための器材を肩に提げて、タカキは行く。

 もとより、八年前の国境紛争で未来を奪われた民衆の復讐心を追い風に成り上がってきたのだ。黙殺された戦争の生き証人として望まれた政治家秘書。学もないタカキが議員候補だなんて分不相応な地位にあるのは、東アーブラウに根付く反ギャラルホルン感情のせいでしかない。

 防衛軍の兵士だった息子を亡くした母の涙。手足を失って我が子を抱けなくなった父の慟哭。軍医だった婚約者を失い、花束を抱いて泣き崩れた若者。国境を渡れずに、敵性国家のただなかで飢えに苦しみ、寒さにふるえた旅行者や留学生。

 あの戦争で、多くの人々が生活を激変させられた。

 

 忘れないでくれ、覚えていてくれ――そんな誰かの悲痛な叫びがタカキを今ここに立たせている。

 

 あのころのタカキは、どれほど憧れたって三日月・オーガスに手が届かなかった。表面的な憧憬ばかりを募らせて、本質を理解できていなかったのだと、あとになって気付いた。

 罪のすべてに償いができたらそのときは、愛妹を力一杯抱きしめられる気がする。

 だから世界を変えよう。ともに生きていける未来を作ろう。ここは、ヒューマンデブリの子供たちが、しあわせになりたいとみずからの意思で世界じゃないから。

 アストン。お前にもらった命だから、おれたちのために使いたいんだ。死ぬとか殺すとか、そういう戦いばかりじゃない。

 死なせてしまったラックス、トリィ――地球支部の戦友たちのためにも銃は取らない。

 

(そうですよね。……ラディーチェさん)

 

 地球支部を売り渡した裏切り者。そんな男を信じてしまった弱い心を、殺すために扉を開ける。

 武器は声だ。クーデリアのように言論という名の戦場を選ぶ。

 それが確かな未来への一歩と信じて、タカキは踏み出していく。



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024 指針

『〈レギンレイズ・ジュリア〉——ラスタル様のため、出撃します!』

 

 月面基地から女騎士の機体が飛び立つ。青白く吹き上げたガスはMS(モビルスーツ)にあるまじき力強さで迸る。

 さながら碧の彗星だ。ジュリエッタの愛機は機動力増強のためブースターまみれに改良され、ギャラルホルン製MS随一のスラスター出力を誇る。

 

 戦端は既に開かれており、月外縁軌道統合艦隊指揮官ジュリエッタ・ジュリス准将の参戦は遅すぎるくらいだろう。

 真打ちらしく遅れての登場……とでも言えば聞こえはいいが、実情は招かれざる客の闖入にすぎない。

 ジュリエッタはため息を飲み込んで、重力の反動もかまわず戦闘宙域へと急ぐ。

 

(こんな作戦でアルミリア様に死なれるわけには……!)

 

 くちびるを噛む。こんなもの、ただの『出世レース』だ。生まれも身分も関係なく()()()()()()()ことができれば出世がかなう、だから栄誉栄達を望む地球外出身者が駆り立てられるように最前線へと志願した。

 立会人としてアリアンロッド艦隊旗艦〈フリズスギャルヴ〉が出ている。

 こんなところでアルミリアを失っては、何のために彼女をガンダムパイロットたちのもとへ返還したのかわからない。秘密裏にリタ・モンタークの遺体を葬送した意味だって。

 

 

 ——ラスタル様。わたしも出撃します。

 

 

 パイロットスーツで敬礼してみせたジュリエッタに、支配者はああと頷いてみせた。

 思い出すのは先刻、月面基地にある執務室での一幕だ。壁一面の大きな窓には、スキップジャック級戦艦〈フリズスギャルヴ〉からの中継が映し出されていた。

 遠目には綿飴(コットン・キャンディ)のようなナノミラーチャフの塊の中から、凶悪な爪楊枝が無数に飛び出してくる。めちゃくちゃにひん曲げられた軌道からして、あの煙の中では今も戦闘が行なわれているのだろう。

 どこへ飛んで行ったかもわからない〈ダインスレイヴ〉がどこぞのコロニーにでも激突したら——と考えるとぞっとしないが、ジュリエッタの心配は禁断の矢の犠牲者たちより、むしろ禁止兵器を平然と運用するアリアンロッドへの反感だ。

 きっとあの〈ヴァナルガンド〉では一部始終を録画しているに違いない。アルミリアが映像を公開すれば、ジュリエッタは全責任をかぶせられて死刑台に送られる。

 女騎士の憂いを知ってか知らずか、ラスタル・エリオンはプレジデントチェアを軋ませ振り返った。

 

 ——もう行くのか、ジュリエッタ。

 

 ゆったりと余裕をもって微笑する。支配者の碧眼に映る戦場は、取るに足らない矮小なものなのだろう。ラスタルにとっては()()()()()()()()()()()月面基地の修繕のほうがずっとずっと重要なのだ。

 この執務室だって月外縁軌道統合(アリアンロッド)艦隊司令のためにあるはずだった。なのに後任司令官であるジュリエッタには引き継がれず、ラスタル・エリオン公の部屋であり続けている。

 彼の威光のもとに悪魔を討ち取って出世したジュリエッタは、この部屋にふさわしくないのだ。出自が悪く、そのうえ女である。MSに乗って前線で戦う以外に何の取り柄もない軽い神輿に、誰も役職なんて与えたくない。仕事なんて任せたくない。本音では出世だってされたくなかっただろう。

 こんな小娘を重要なポストにつけることを、ギャラルホルン上層部を取り仕切る守旧派貴族は快く思っていない。

 

 出自には貴賎があるというカースト意識に基けば、ジュリエッタは生まれが賤しい。出身地はアフリカンユニオン北部だが、そこは貧しい田舎町だった。

 詳しいことは覚えていない。ただそこに横たわる貧困、なぜだか襲ってくる爆発——そういったものに振り回されてばかり、誰も助けてくれなかったことだけぼんやり記憶している。

 いつもお腹をすかせていた子供時代。もっと食べたいと駄々をこねては母親を困らせ、どうして涙ぐまれなければならないのかと悔しい思いをしたものだった。わたしはこんなにお腹がすいているのに。

 我慢しなければならない理由を両親でさえ教えてくれない。

 

 今にして思えば彼らも知らなかったのだろう。市場に並ぶしおれたパンや埃っぽいチーズがどこからきたのかも。食事も寝具も満足に手に入らない冬のどん底で、ジュリエッタには家族がいた。いつもいらいらしていたから近寄りがたくて、もう顔も思い出せない。

 初めて手を差し伸べてくれたのは母でも父でも兄でもない、通りすがりの傭兵だった。

 ジュリエッタが生まれて初めて口にしたあたたかい食べ物は、ひげのおじさまが手渡してくれたホットチョコレート。湯気が目に入って、ぱちくりと目を瞬かせたジュリエッタの目の前で、こうやって冷ますんだと教えてくれた大きな手のぬくもりを忘れない。

 初めて食べたおいしいものは、彼が焼いてくれた動物の肉。みずみずしさにびっくりした。かじりついて頬張って、目を輝かせたジュリエッタを、傭兵はいい食べっぷりだと褒めてくれた。

 彼にマシュマロを焼いてもらうまでお菓子(スイーツ)なんて存在すら知らなかった。甘いものも甘くないものも、すべておじさまが与えてくれた。

 

 お腹いっぱいごはんを食べて、弾薬を数え、武芸を教わり、大きないびきを子守唄にぐっすりと眠るようになった少女時代。

 

 ジュリエッタはしあわせだった。

 

 ガラン・モッサという偽名とともに散った彼が、たとえどんな悪人であったとしても、ジュリエッタの中の幸福な記憶はすべて彼がくれたものだ。MSに乗ることを教え、兵士候補生としてラスタル・エリオンに推薦してくれたから、幸運にもギャラルホルンの制服に袖を通している。

 

 ギャラルホルンの貴族たちが生を受けた瞬間から地位と権力を継承するように、貧困と無知もまた、命とともに受け継がれる。再生産され続ける。貧しさだけが根付く場所に教育はなく、医療も福祉もない。就職の際にも差別され、低賃金で危険な仕事に従事するしかない。

 火星やコロニーといった経済的に不利な立場からも成り上がってくる将兵はいたが——アイン・ダルトン、石動・カミーチェ、旧姓『モンターク』のブロンドたち——、みな実父なり養父なりがギャラルホルンの高官だ。

 父権にハシゴを架けてもらってようやく、その実力を発揮してもいい立場になれる。

 生まれが悪いから、出自に問題があるから、権力を持つ者に『依怙贔屓』してもらわなければ、どんな可能性も持ち腐れてしまう。

 

 一方で、セブンスターズは生まれたときから死ぬまで豊かだ。

 ヴィーンゴールヴで純血の子として生まれた男は、有能であれ無能であれ、いずれは七星会議に名を連ねる。そういう運命と決まっているのだ。厄祭戦を戦った七十二人の英雄の血を継ぐ者として、支配者の椅子に座る。

 傭兵になる必要はない。非合法な手段で生活費を稼ぐ必要もない。武官になっても、行なうのは『治安維持』だ。どんな暴力も彼らが行使するだけで『正義の鉄槌』になる。

 免罪符によって守られ続けるセブンスターズの御曹司を裁く法は存在しない。いかなる場合にも秩序は彼らを赦し、清廉潔白なる子女らを弾劾する不届き者が現れてはならない。引退後の生活だってガエリオ・ボードウィンのようにすべてが保障されている。

 

 ——ジュリエッタ、お前は強い。

 

 語り聞かせるようにラスタルは目を細める。ひげのおじさまも、ときどきこうして懐かしむようにジュリエッタを見つめた。

 

 ——わたしは、強くなど……。

 

 ——人はみな弱い。そして凡庸だ。お前にはまだ難しいかもしれんがな……。誰もみな変化を嫌い、孤立を恐れ、それでいて正義でありたがる。人類とはそういうものだ。

 

 ——ラスタル様……?

 

 ——犯した過ちを認め、受け入れるには強い心が必要だ。〈革命の乙女〉は善意というものの残虐性がわからないらしい。勇気というものの希少性も。

 

 ふうと重くため息を落とすラスタルの目にうつるのは、失望とは似て非なる感傷だった。彼の言葉の持つ大きすぎる意味が、今のジュリエッタにはわかる。

 政治とは、支持層からの賛同を得られなければはじまらない。弱者の肩を持ったところで予算は降って湧いてはこないのだ。

 セブンスターズの解体がわかりやすい例だろう。これまで七星会議によってのみ下されていた決議に、参加できる人数が増えた。参政権を欲しがっていた貴族たちはラスタルを支持し、反対したのはネモ・バクラザンとエレク・ファルクのたったふたり。多数決に押し切られ、ギャラルホルンはより民主的な組織になった。

 七つきりの椅子をめぐって蹴落としあうことはもうない。

 

 血統第一主義に叛旗を翻し、自由平等を求めた〈マクギリス・ファリド事件〉の終結を純血の英雄ガエリオ・ボードウィンと民間出身の女騎士ジュリエッタ・ジュリスが預かったことも、出自の貴と賎を併せ持つことを印象付ける世間体政治(リスペクタビリティ・ポリティクス)の一端だった。

 最前線を下層民どもで賄えることになった保守派貴族たちは、安全が確保されたと安堵し、ラスタルを褒めそやす。改革派も、出世のハシゴは降ろされたのならと譲歩を見せた。

 下賎な猿どもを黙らせた素晴らしい指導者に敬意を評し、ギャラルホルンの上層部にはびこる血統主義者たちは喜んで予算会議を通すだろう。

 

 今だって出世の引き金を求めて多くの兵士たちが最前線へと向かった。何を守るためでもない、ただギャラルホルンが定めた『生まれの悪さ』というカーストを受け入れ、みずから望んで最も危険な場所へと赴く。

 出撃理由が単なる出世レースでは都合が悪いから、ラスタル・エリオンは月面基地を破壊することで戦う理由を自作自演してみせた。

 モンターク商会に雇われてみせ、アルミリア・ボードウィン嬢を裏切って破壊工作に勤しんだテロリスト集団の断罪のため、治安維持組織は兵力を差し向ける……という筋書きである。

 

 そんな出来レースでさえ圏外圏出身者が乗せられるのは何の変哲もない〈グレイズ〉だ。

 ナノラミネートアーマーの前には豆鉄砲でしかないマシンガンだけ与えられ、狼の群れの中へ放り込まれる生け贄の羊たち。退路はアリアンロッド艦隊に塞がれて、ガンダムのパイロット——鉄華団の生き残り——の前に散っていくのだろう。

 首狩りに特化した〈グレイズエルンテ〉ならまだしも、ただの〈グレイズ〉の機動力では太刀打ちできない。

 ガンダムの脇を固める三機連隊のヴァルキュリアフレームには阿頼耶識システムが搭載されており、それぞれ異なる可変機構を有している。かつて〈ガンダム・バルバトスルプスレクス〉と戦ったとき、対MSの制圧戦しか想定していなかった〈グレイズシルト〉は次々あの尻尾にやられたのだ。

 前例に学ぶこともできず可変機と戦わされる供物たちが哀れでしかない。

 こんな無意味な戦いに巻き込まれてアルミリアが落命したとしても、事故死として処理されてしまう。

 早く戦闘を終わらせ、彼女を連れ戻さなければならない。

 

 ——期待しているぞ、ジュリエッタ。

 

 ——はい。……お任せください、ラスタル様。

 

 ジュリエッタに科せられた使命はハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉の回収と、アルミリア・ボードウィン嬢の保護だ。いっそ悲しくなってくる。〈法〉と〈秩序〉の番人であるギャラルホルン、その最強最大の艦隊アリアンロッドが、悪魔狩りのためだけに、こんな略奪じみた作戦を決行しているだなんて。

 

 急がなければと苛立つ足でペダルを踏み込む。戦場に追いついたところで歓迎されないことは重々承知だ。既に『准将』にまで出世しているジュリエッタにトロフィーは譲りたくないだろう。

 見渡す限り敵ばかりだ。

 それでもジュリエッタはこの世界の円滑なる歯車にすぎず、命令に背く権利を持たない。

 

(わたしは弱い。わたしは……自分がいやになるほど弱い!!)

 

 せっかく鳥籠から解き放ったはずの希望を、また閉じ込めなければならない。

 これが内通者としてアルミリアに与した代償なのか。いや、ジュリエッタもまた、変化を恐れ、受容と承認を求める有象無象のひとかけらにすぎない。

 そんな弱い心を支える柱こそラスタル・エリオン公なのだ。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 見送りを終えた〈ヴァナルガンド〉のブリッジに、もはや人影はない。ビスコー級クルーザー〈セイズ〉を前線に投入するという無謀な作戦のせいで、母艦に残ったのは非戦闘員ばかりである。

 船体上部では睨みを利かせるトロウのチャールズ——〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機を直援に残して実働1番組〈ハーティ小隊〉は全員出払ってしまったし、3、4、5番組で編成された〈ウルヴヘズナル混成小隊〉も実働2番組〈ガルム小隊〉が率いてすべて連れて行ってしまった。

 残るMSはパイロット不在の〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機、〈ガンダム・バエル〉。

 これが最後になるだろう出撃を目前に、〈ガンダム・アウナスブランカ〉の搭乗者が軽く伸びをした。

 相変わらず似合いもしないギャラルホルンのパイロットスーツ、赤みの強い癖毛が揺れる。

 

「おれも出る。カズマ、船のことは任せてもいいか?」

 

「よしきた任せろ……って、言わなきゃだめか、やっぱり」

 

 がらんどうのブリッジで、カズマが所在なげに肩をすくめる。いくら最年長で、比較的古株だとしても、カズマはメカニックだ。ライドの代わりに艦長席に座るなんて、何とも居心地が悪い。

 ハーフビーク級戦艦だけあってオペレーター席はざっと二十ほど作られているのに、誰もいないというのはなかなかに不気味である。

 スペックとしては戦闘艦だが、今の〈ヴァナルガンド〉は非戦闘員ばかりを残している。依頼主アルミリア・ボードウィン嬢に、金髪の美少年たち、それから医師や整備士たち。医務室の怪我人(エンビ)はまだ目覚めない。

 あくまで自衛のためにしか発砲は行なわず、後方で守られていることが仕事だ。

 前線に出ないとはいえ〈ダインスレイヴ〉に狙われる可能性は充分にある。最深部の気密エリアならまだしもブリッジは、当たりどころが悪ければ命の保障はない。

 しゃーねーか、と独り言ちる。カズマだって元鉄華団団員だ、一度死んだときに腹は括っている。こうなってはライドを送り出すくらいしかできることもない。

 

「戻ってこいよ。必ず」

 

「ああ、わかってる」

 

「頼むよ。お前が守ってくれなきゃ、メカニックはお前を助けられないんだからな」

 

 カズマが突き出した拳をこつりと軽く殴りつけ、ライドはああと屈託なく笑んだ。どこか懐かしい少年の笑顔だ。鉄華団のころ、まだ快活だったころのライド・マッスの面影が浮かんで消える。

 胸の奥から去来する郷愁を零してしまわないように、カズマは拳を握りしめる。

 

(ライド……お前はずっと『光』を目指して進んできた。それが『前』かどうかはわからないけど、それでもおれは、お前の選択は間違ってなかったと思うんだ)

 

 成長し、そしてブリッジを出たライドは格納庫へ、そして愛機へとたどり着く。

 右肩には盲目の狼、左肩には稲妻のシンボルをそれぞれ描いた白い悪魔。〈マクギリス・ファリド事件〉を受けてファリド家がお取り潰しとなり、売却された曰く付きのガンダムフレームだ。かつてバルバトスと死闘を繰り広げたMA(モビルアーマー)ハシュマルのビーム兵器を受け継いでいる。

 狼の魂が息づく世界に残された光のMS(ガンダム)

 

『〈ガンダム・アウナスブランカ〉——出撃する!』



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P.D.324: 呪詛と祝福の指輪

[Interlude]


P.D.324----------------

 

 

 

 

 

 白く清廉な光。窓辺でさえずる小鳥の声。

 コンコンと控えめなノックの音でアルミリア・ボードウィンの朝は始まる。天蓋つきのベッド、真白いシーツの上で、薄すみれ色の髪がさらりと泳ぐ。

 眠気眼をこすりながら身を起こすころ、ちょうど砂時計が起床時間を告げるのだ。

 (うすぎぬ)のカーテンを持ちあげれば、アーリー・ティーの支度をしていたメイドがうやうやしく一礼する。

 

「おはよう。とってもいい香りだわ」

 

 ソーサーに乗せて差し出された今朝の紅茶は花やかにかぐわしく、水色(すいしょく)は赤味がかって鮮やかだ。昨夜は天候が芳しくなかったから、晴れの日を思わせる茶葉がセレクトされたのだろう。湿気の多い日は、芳醇な香りをいつもと違った趣で楽しめる。

 アフリカンユニオン産のとある銘柄をつぶやくと、メイドが「お見事です、お嬢様」と缶のラベルを見せた。

 はにかむアルミリアは、気恥ずかしくも誇らしくて、胸を張って紅茶を一口ふくむ。……やっぱり、アルミリアが淹れた紅茶よりずっと香り高くておいしい。 

 婚約者に振る舞ってあげたくて練習しているうちに、すっかり紅茶の味を覚えてしまったのだけれど、まだまだメイドたちの足許にも及ばない。

 ファリドのお屋敷でもお茶を嗜んでいるだろうにアルミリアの紅茶をおいしいと褒めてくれるマクギリスの気遣いに、嬉しくなる一方で情けなさも募ってしまう。

 

「マッキーは、今日こちらに戻ってくる予定よね?」

 

「はい。午前十時には〈ヴィーンゴールヴ〉にご到着と、当家執事が承っております」

 

「ほんとう? 予定より少し早いわ!」

 

 歓喜に声を弾ませたアルミリアは、身を乗り出してしまったことに気づいて、コホンと小さく咳払いをした。結婚を目前にした淑女の振る舞いは、もっと優雅ではくてはならない。

 姿勢をただして紅茶を飲み干すと、微笑ましげなメイドにソーサーを返却した。

 フィアンセの帰還を待ち焦がれていたことを知っているから、ボードウィン家の使用人たちの心遣いはあたたかだ。

 それがどこか腫れ物にさわるふうでもあって、なおさら軽妙に振る舞わなければと気が引き締まる思いもある。

 

 ボードウィン家は先日、長男ガエリオ・ボードウィンの葬送を済ませたばかりである。

 

 エドモントンで名誉の戦死を遂げた兄は、最期まで誇り高く、武官としての務めを全うしたのだと聞いた。〈ヴィーンゴールヴ〉をあげて執り行われた葬儀では、誰もがガエリオの早すぎる死を悼み、嘆き悲しんだ。

 のびのびと快活で分け隔てなく、清らかだったガエリオ・ボードウィン。年の離れた兄と死別し、アルミリアは目が溶けるほど泣き続けた。

 しかし家人が悲しむほどに屋敷の空気は重くなっていき、ボードウィン邸はガエリオがいたころの陽気さを失ってしまう。カルタ・イシュー嬢の戦死、イズナリオ・ファリド公の失脚——暗いニュースばかりが舞い込んで、アルミリアの母上もふさぎこんでしまっている。

 平和の守護者であるギャラルホルンがそんなでは、世界だって混迷に閉ざされてしまう。

 明るい話題として、マクギリスとアルミリアの結婚式が求められているのだ。

 だから立派なレディにならなければ。エドモントンの一件から多忙を極め、なかなか会えない婚約者を機嫌よくお出迎えすることが、今日のアルミリア・ボードウィンに果たせる責任なのだから。

 

 

 

 

 いつもより丁寧に身支度をととのえ、朝食を終えたアルミリアが向かったのは温室だった。

 剪定ばさみを手に、大輪の白百合を摘み取っていく。

 誇らしげに花開いたカサブランカは庭師が育ててくれたものだ。アルミリアにできるのは水を与えて愛でることと、うつくしく咲いた花を刈り取ることだけ。

 育て方を教えてほしいと乞うたけれど、お嬢様に土仕事をさせるわけにはと拒否されてしまった。

 そんな日々も、もうすぐ終わる。

 ぱちん、と鋏が茎を断つ。倒れてくる花をやわらかく受け止める。庭師の気遣いであらかじめ花粉を取り去られた百合はアルミリアを汚すことなく、それでも香しく咲き誇る。

 

(マッキーは、どんなお花が好きかしら)

 

 摘み取った百合を抱きしめ、寂しく微笑むアルミリアは、ボードウィン家で育てられてきた十一年の末にファリド家へと嫁ぐ。

 あなたはマクギリス様のもとへお嫁に行くのよ——と母に聞かされたのはアルミリアが八歳のときである。そのころには彼に恋をしていたから、青き(フェンリル)の花嫁として認められたのだとはしゃいでしまったものだ。

 立派なレディに成長したから選ばれたのではなく、結婚が決まった以上は淑女でなくてはならないだけなのに。

 

 この屋敷で、あたたかい家族に育まれてきた。いつか花嫁になるための準備期間を、父と、兄と、母とともに。いとおしい日々である。父ガルスも兄ガエリオも軍人であったから任務で留守にする日は多かったけれど、帰還を「おかえりなさい」のキスで迎えれば、しばらくは在宅でいてくれた。

〈ヴィーンゴールヴ〉にいるのならお見合いでも……と縁談が持ち上がった途端、はぐらかすように任務へ行ってしまうようになったのは、いつのころからだったろう。

 

 武官であったという兄がどんな仕事をしていたのか。アルミリアは何も知らない。危険がともなうことも知らなかった。火星に監査へ赴いて、それから不在がちになっていたガエリオが戻ることは二度となかった。

 お兄様『も』お仕事がんばって、と子供じみた意地悪をして送り出したあの日、どうして頬にキスをしなかったのだろうとアルミリアは後悔し続けた。軍人になってから疎遠がちだったカルタのことも、もっと話をしていればと悔恨が胸に刺さってじくじくと痛む。

 当たり前だった日常を恋しく思う。

 もう戻れないことが悲しくて、どうしようもなく胸が詰まるけれど、亡くなった戦士たちの誇りに恥じないように生きていくことが、残された者のつとめであるはずだ。

 

 

 マクギリスの帰還は午前十時と聞いたが、〈ヴィーンゴールヴ〉に戻ってくる時間が予定よりも早くなっただけで、アルミリアとの逢瀬の約束が早まるわけではない。

 待ちわびる足は落ち着かず、廊下の踊り場に出てはうろうろと迷ってしまう。立ち止まっては時計ばかり見てしまう。

 不意に、ボードウィン邸の前に見覚えのある車が停まった。ぱっと顔をあげたアルミリアは窓辺に駆け寄ると、身を乗り出しそうにガラスに両手を触れる。

 

(マッキー!)

 

 焦がれた婚約者の到着だ。車を降りたマクギリスは運転してきた将校と言葉を交わし、おそらく暇を出したのだろう、青い軍服姿の部下が一礼して去って行く。

 車を見送ったマクギリスは、腕時計を見て、そして空を見上げた。

 微かな風にブロンドが揺れる。きらきらときらめいて、まるで遠い世界の王子様のようだ。なのに彼は顔を伏せて、指先で前髪に触れる。まるで絶世の美貌を隠しているように、アルミリアには思えてならなかった。

 彼の目線の先に何があるのか、アルミリアにはわからない。ぼんやりと虚空を見つめるひとみは、鳥を見送っていたかもしれないし、それとも何も映していなかったかもしれない。

 ただ、悲しい目をしていた。

 マクギリスもまた親友を亡くして間もない身だ。兄とは幼馴染みであるとともに、仕事の同僚でもあったという。思いがけずファリド家当主に繰り上げられて、アルミリアには計り知れない心労もあるに違いない。

 

(マッキー……)

 

 かけられる言葉はなく、時計の針だけがカチコチと進む。

 そして約束の時間になって初めて、逢瀬を告げるチャイムが鳴った。執事が玄関を開き、客人を迎える用意をしている。

 アルミリアは鏡に姿をうつすと、両手のひらで両頬をつつんで、ぎゅうっと押し上げた。落ち着いたグレーのワンピースに、白いパンプス。喪服の時間は終わったのだから、沈痛な顔なんてしていられない。

 

(しっかりして、アルミリア・ボードウィン! わたしはフェンリルの妻になる女よ)

 

 とびっきりの笑顔で愛しい人をお迎えするのが、淑女としての矜持だ。手袋をはめて、その上から指輪をつける。白いグローブを戒めるように輝く金色のリング。婚約指輪だ。もう十一歳の子供ではいられない、いてはいけない。

 逸る足に落ち着きなさいと叱咤して、玄関へと駆け下りる。

 

「いらっしゃい、マッキー! お仕事お疲れさま!」

 

「ありがとう、アルミリア」

 

 飛びついてしまわないように、精一杯の背伸びをして駆け寄った幼いフィアンセに、マクギリスはやわらかく笑んで頬を寄せた。

 ただ身長差のある恋人のように。それだけで胸がいっぱいになる。

 

「おかえりなさい……っ!」

 

 ハグを交わした背中ごしに見れば、彼を運んできた車とは異なるリムジンが停車していて、運転手はギャラルホルンの軍服姿ではなかった。

 あの金髪の青年はマクギリスの部下ではなく、ファリド家お付きの運転手だろう。

 監査局での仕事のときは監査局の部下をともない、新しく異動した統制局での任務には統制局の部下を連れ、私用のときにはファリド家の従者に送迎をさせるよう、マクギリスは取りはからっているようだった。

 軍の内情はわからないけれど、カルタ・イシュー一佐の後任として地球外縁軌道統制統合艦隊の指揮官になるのだと噂に聞いた。

 

 

 ボードウィン家使用人たちに見送られ、アルミリアは温室で手ずから作った白い花束をふたつ抱えて、車に乗り込む。

 両腕いっぱいのカサブランカの花束は思いのほか大きな荷物である。マクギリスが手伝いが必要かと尋ねたが、アルミリアは自分で抱えていたいのだと首を振った。

 前々から約束していた今日の逢瀬は、デートだけれどデートではない。

 車窓から見える景色はほどなく、歴代セブンスターズが眠る霊園へとたどりついた。青く整えられた芝生に見守られ、ご先祖様たちが眠っている墓地である。アルミリアがここを訪れるのは、兄ガエリオの葬儀以来だ。

 ボードウィン家の紋章たる八本足の軍馬スレイプニールが描かれた門を開き、華奢なヒールで厳かに足を踏み入れる。

 

「お兄様、お爺さま、ボードウィンに連なる英雄諸卿。ごきげんいかがですか」

 

 花束を抱きしめ、アルミリアは丁寧に膝を折ると、碑の向こう側へと語りかけた。

 礼儀正しいしぐさで微笑む。

 

「ご先祖様がたに、今日は明るいニュースを持ってきたのよ。近ごろは悲しいお話ばかりだったけれど、もう大丈夫。わたし……、アルミリアは、このたび結婚することになりました。といってもね、お相手は以前もご報告したマッキーよ。でも、お式の前にもう一度お伝えしようと思ったの。おめでたいニュースは、何回聞いたっていいものでしょう? それに、次に会いにくるわたしはアルミリア・ファリドなのだもの。アルミリア・ボードウィンとして最後のご挨拶をしないといけないはずだわ」

 

 用意してきた報告を終えて、一度立ち上がる。今朝摘んだばかりのカサブランカの花束を手向けると、両手のひらを祈りのかたちにあわせた。

 

「……あのね、お兄様。お兄様が、亡くなられても……マッキーがね、娘婿としてボードウィン家を継いでくれるって、約束してくれたの。ボードウィン家はセブンスターズの一家門のままよ。このお墓も、わたしたち夫婦でずっと大切に守っていくわ」

 

 だから安心して、と、続けようとした言葉が、涙に吞まれてかすれる。泣いてはだめだと自制心で嗚咽を飲み込む。また子供だからと笑われてしまう。

 こぼれおちそうな悲しみを振り切って、アルミリアは踵を返した。

 カルタにも白い花を捧げなければならない。今日はそのために来たのだ。

 栗鼠(ラタトスク)の紋章が守るイシュー家の墓碑を振り返って、ふと、ひどく胸がざわついた。

 かつては姉のように慕ったカルタもまた、マクギリスに恋をしていた。セブンスターズの第一席イシュー家の誇り高き一人娘として、席次の低いファリドの庶子と結ばれることは決して赦されなかったけれど。

 花嫁を夢見る少女にとってマクギリス・ファリドとは、まるで絵本から出てきた白馬の王子様だ。透き通るブロンド、怜悧な碧眼。紳士的な立ち振る舞い。彼に焦がれる女性は数知れない。婚約披露パーティーでも、頬を寄せたいと近付く妙齢の淑女たちのドレス姿を、アルミリアは何度でも思い出す。

 うつくしい彼女たちから、彼を奪ってしまう。ボードウィン家という血筋と家柄だけを理由に、身の丈に合わない子供でしかないアルミリアがマクギリス・ファリドを手に入れる。

 ……だからみんなつらくあたるのだろうか。

 

「アルミリア?」

 

 ざわりと響いた潮騒がアルミリアの心をかき乱して、そして遠ざかっていく。

 

「マッキー、あのね、わたし…………」

 

 何かを口にしようとして、しかしアルミリアは首を振った。祈りのかたちに組み合わせた指先が婚約指輪に触れて、ぎゅうと握る。

 言いたいことは、本当はたくさんある。

 マッキーはどこにも行かないで。本当はお仕事にももう行かないでほしいわ。だって死んでしまうかもしれないんでしょう? 戦わなくていいなら、戦わないほうがずっといいでしょう? 今ごろどうしているのかって心配しながら待つのはもういやよ。あのね、マッキー。あのね。わたし、わたしは——。

 

 無責任なわがままを押しとどめるために、アルミリアはもう一度、みずからに言い聞かせるように首を振った。

 ガエリオもカルタも失って、悲しみの淵にいるのはマクギリスも同じだ。なのに、久々に会って何を話せばいいかわからないアルミリアのことも真摯に見つめていてくれる。子供の婚約者がいると笑われてしまう彼のためにアルミリアができることは、一日も早く立派なレディに成長することだ。

 花嫁となり、妻になり、母になる『役割』を果たせるなら、きっと誰も指差して笑ったりなどしないはずだ。

 

「何でもないわ。うんと素敵な結婚式にしましょうね!」

 

 今は笑っていなければ。家柄だけで選ばれたちぐはぐなふたりの結婚式は、また冷たい言葉の雨に晒されるかもしれないけれど。祝福してもらえるかはわからないけれど、それでも。

 

 あなたの帰る場所になるために、わたしはいつも笑っていたいって思うの。

 

 誓いをたてようと強がるのに、青いひとみからはころりと涙がこぼれおちる。

 アルミリア、と呼んだ静かな声が耳朶を打って、抱き上げられたことがすぐにわかった。マクギリスがお姫様抱っこをしてくれなければ抱きしめ合うこともできないのだ。

 

「慣れない靴では疲れただろう? 気付くのが遅れてすまないね」と、やさしい彼は赤くなったかかとを見つけて言い訳にしてくれる。

 

「マッキー、あのね 」

 

「うん?」

 

「だいすきよ」

 

 この世界であなただけが、わたしをわたしとして見てくれる。

 だからあなたのためにできることなら、わたしは何だってしたいのよ。




【次回予告】

 戻る場所なんてない。帰るとか、逃げるとか、生きるとか、そんな選択肢は最初から用意されちゃいなかった。
 道の途中で家族の命が手からこぼれていっても進み続けなきゃならなかった団長の気持ちが、今になって少しずつわかってくる。
 華は散った。それでも俺は、進み続けることをやめられない。
 次回、弾劾のハンニバル。
 最終章『ウィル・オー・ザ・ウィスプ』。

 俺たちで、光を描くんだ。


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最終章 ウィル・オー・ザ・ウィスプ
025 戦う相手


【前回までのあらすじ】

 マクギリス・ファリド事件から七年。かりそめの安寧、そして地獄の夜明けを経て〈革命の乙女〉は立ち上がり、そして最後の戦いが幕を開けた。
 そこには意味も大義も、守るべきものもない。
 この世界で生きていくためだけに彼らは戦場へと駆け出していく。


『〈ガンダム・アウナスブランカ〉——出撃する!』

 

 狼の紋章を戴くハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉から仄青い光線がほとばしる。飛び立つ機影が『ガンダム』であることを、アリアンロッドのMS(モビルスーツ)隊はさっそく感知したようだった。

 ざわりと空気が変質する。あらゆる注意がこちらへと向く。その極端なまでの温度変化は、阿頼耶識のないコクピット内でもありありと感じられた。

 はるか遠くに黒煙が見える。どうやらハーフビーク級戦艦が航行能力を失って傾いているらしい。制御の利かなくなった巨躯はエイハブ・リアクターが発生させる重力に従って浮遊するだけの金属塊になる。

 隙間を縫って跳ね回る光線はビスコー級クルーザー〈セイズ〉——ウタとイーサンか。

 それならあちらはまだ大丈夫そうだと、ライドは細く息を吐いた。サブモニタを一瞥する。接近してくる敵MSは四機。最前線まで突出してくる機体はすべてEB−06〈グレイズ〉。主武装は九〇ミリ汎用マシンガンで統一されている。

 会敵まで3、2、1——。弾丸の雨をくぐる。はらりと身をそらしてかわす。なおも果敢に向かってくる機体と装備と、浴びせられる感情の渦がどうも噛み合わない。

 

(何だ……?)

 

 奇妙な違和感に、緑色の双眸を眇める。

 決定打となる打撃武器を持っているMSが見当たらないのだ。

 

(それにこの感じ……殺気とは何かが違う……!)

 

 嫉妬、羨望——何らかの我欲。手に入れたいというプリミティブな願望。戦略も連携もそっちのけでマシンガンを撃ち尽くす〈グレイズ〉をいなしながら、ライドは戸惑いを禁じ得ない。

 鹵獲が目的なのか。確かにエイハブ・リアクターを二基搭載したMSは七十二柱のガンダムフレームのみであるし、ギャラルホルンはいまだ、ツインリアクターの機体を実現できていない。

 だがギャラルホルンは最も多くのガンダムフレームを所有してきた組織だろう。この〈ガンダム・アウナス〉だってファリド家が取り潰されたときギャラルホルンに売却された経緯がある。

 三百年前の骨董品にもはや意味などないのだと、ギャラルホルンは全世界に向けて示したはずだ。

 

 七年前、純血の英雄ガエリオ・ボードウィンが、ラスタル・エリオン公やイズナリオ・ファリド公の後押しを得、逆賊マクギリス・ファリドを断罪した。

〈マクギリス・ファリド事件〉によって命の価値は血統にあるという、この世界の真実が証明された。

 革命軍は壊滅。クーデターに加担した犯罪者集団も駆除され、悪名ごと闇に葬られた。路肩に咲く花に誰も気付かないように、〈鉄華団〉という民間警備会社があったことすら記憶の彼方に置き去られていく。

 

 命の糧が戦場にあった時代は、そうして非可逆の終焉を迎えた。

 だからギャラルホルンは形骸化した英雄伝説(ガンダムフレーム)を手放せたのだろう。

 

 ……自分で放棄したくせに、大人は勝手だ。

 ライドは吐き捨てるように嘆息すると、ぐっと操縦桿を握りしめ、ボタン式のトリガーを引く。ビームで牽制しつつ旗艦〈ヴァナルガンド〉に取り付かせないよう注意を引きつける。目くらまし程度にしか役に立たないことなど百も承知だ。マシンガンが豆鉄砲なら、ビームは水鉄砲も同然である。

 近接戦闘に備え、リアアーマーに懸架していたランドメイスを構えようと手を伸ばす。

 ところがライドの眼前で、熱線をもろに喰らった〈グレイズ〉がモノアイをぶつりと暗転させた。

 

(動きが止まった……っ?)

 

 まるで打ち上げられた魚のようだ。力なくただよう〈グレイズ〉を目の当たりにして、ライドは目をまたたかせる。ビーム兵器はMSには効かないはずではなかったか。

 だが、その挙動には見覚えがあった。

〈獅電〉のときと同じ現象だ。MA(モビルアーマー)と対峙したとき、ライドが乗っていたイオフレーム・獅電はビームの熱に電気系統をやられ、動けなくなった。

 ロディフレームに熱線が無効であることはチャド・チャダーンが証明しており、〈マン・ロディ〉に足をつけて地上戦に対応させただけの〈ランドマン・ロディ〉は確かにビームを通さなかった。

 いつぞやアバランチコロニー付近で戦った〈ジルダ〉もどきも同様の耐性を持っていた。ロディフレーム、ヘキサフレームとも厄祭戦中期に製造された機体であり、当時のMSにとってビーム耐性は必要最低限の機構だったはずだ。

 カズマの見立てによれば、ヴァルキュリアフレームにも理論上無効。〈グレイズ〉はその後継機と聞いていたから、当然ビームは弾くものとばかり思っていた。

 だが厄祭戦終結以降に製造・開発された量産型(マスプロダクト・モデル)という点では〈獅電〉と共通する。

 

「……それなら、あいつらは止められる!!」

 

 いかに水鉄砲といえど宇宙空間で光は無限にまっすぐ進む。ダインスレイヴ隊はみなグレイズフレームだ。射出専用〈グレイズ〉と随伴機〈フレック・グレイズ〉、あれらがビームで動きを止められるなら。

 駆けすがってくる〈グレイズ〉をランドメイスで強制的に黙らせながら、ライドは片手でコンソールパネルを弾く。モニタにダインスレイヴ隊の位置関係を表示させた。

 扇状に展開していたのだろう部隊は中央を強行突破され、番犬たちに群がられて風穴をじりじり拡大させられている。

 三段構えの中段は約七割、上段・下段約二割が機能を停止。……両端の砲台は概ね無事だ。あの弓さえあれば残弾はいくらでも追加できる。月面基地には〈ヴァナルガンド〉ひとつさっくり沈められる弾数が揃えてあるだろう。無駄撃ちはギャラルホルンのお家芸だ。

 

「あいつを墜とせれば……!」

 

 照準を合わせ、照射。宙域をまばゆく照らす光の柱が一直線に描き出された。咆哮の切っ先がダインスレイヴ専用グレイズに到達、そして横薙ぎに払う。

 ところがビームの強襲は〈フレック・グレイズ〉から残弾を取り落とさせただけに終わった。隊列は何の乱れも見られない。

 

「効かない……!?」

 

 ただの量産型とは違うのか。困惑とともに、第三射撃のためコンソールパネルを叩く。襲ってくる〈グレイズ〉にビームを浴びせるが——やはり効果がない。距離が問題だったのかという疑念はあっさりと砕かれる。

 

(あいつが整備不良だっただけかよ……!!)

 

 鋭い舌打ちが鞭打つようにコクピットに響いた。ライドはランドメイスを薙ぎ払い、〈グレイズ〉の腹を刈り取るように払い除ける。

 新たに接近してくる四つのエイハブ・ウェーブの反応もやはり〈グレイズ〉。装備も同じマシンガンだ。頭部を狙ってくる弾丸の雨をくぐる。肩を狙われれば身をそらしてかわす。滑るように着弾を避けつつ、ライドもまたサイドスカートから同じ九〇ミリマシンガンを掴みとった。

 牽制、しかし〈グレイズ〉は姿勢制御プログラムによりすんなりと回避する。もとよりオートコントロールに長けた〈グレイズ〉だ。ならば照準システムも正常だろう。

 なぜか攻撃パターンが一定なのは、パイロットの意図と解釈していい。

 頭部や肩部をしきりに狙ってくるせいで、くぐるか反るかで回避できてしまうのだ。

 だから殺意がまるで感じられないのだろう。頭にコクピットブロックを搭載しているヘキサフレームと違って、ガンダムフレームの頭はただのセンサーだ。パイロットどころか、カメラアイとアンテナくらいしか積んでいない。

 メインカメラを破砕する以外にも、手足を捥ぐなり武装を強制解除させるなり、あるいはコクピットを潰してパイロットを殺すなり、やりようはいくらでもあるはずだ。

 量産型のパイロットたちは、相手の動きを止めることを想定していないようにも感じられる。ツインリアクター機であるガンダムフレームに機動力でかなうわけがないのに、推進力の対策もされていない。

 こいつらの動きは、まるで、胸部コクピットブロックにパイロットが乗っていることを想定していないかのような——。

 

(なんだこの違和感は…………!!)

 

 逡巡している間にも、敵MS隊は〈ヴァナルガンド〉に近付いてきてしまっている。こちらのMSは二十二機きりで、うち二十機をダインスレイヴ隊攻略とアリアンロッド旗艦撃墜に回していて防衛ラインを作る余力は残されていない。トロウが双肩のヘビーマシンガンで追い払ってはいるものの、直援機は〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機たった一機である。艦を盾にして死角にもぐりこまれたらブリッジをやられてしまう。

 その時だった。

 愛機(ブランカ)のセンサーが新たなエイハブ・ウェーブの信号を拾う。

 

 機体の形式番号はEB−06g 〈グレイズエルンテ〉。

 

 腰部・脚部のブースターを強化した〈グレイズ〉の発展型だ。近接戦闘用の武器を持った六機の編隊。月面基地から離脱したときに見た覚えがある。左腕の小型ラウンドシールドからバルカンがほとばしる。

〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機のコクピットでトロウが低く喉を唸らせた。

 

『このやろう……ッ!』

 

 跳躍。四ツ足で飛びつき腕部マニピュレーターをガツンと蹴飛ばす。衝撃に腕ごと捥がれた〈グレイズエルンテ〉は、しかし左腕のバックラーで果敢に応戦する。

 体当たりをするように押し返し、獣の喉笛へバルカンを連射する。

 

『 ——ぐ、 やりやがったな!』

 

 空色の獣が身を起こすような一挙動。変形を解いた〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機の左腕——ヴァルキュリアシールドが〈グレイズエルンテ〉のバックラーをじりじりと押し戻す。右手がサイドスカートから引き抜いたのは、エンビから預かってきたハンドガンの片割れだ。

 押し付けるようにして発砲する。連射。ガンガンガンと至近距離で撃ちまくれば〈グレイズエルンテ〉はなすすべもなく身悶える。なおもトリガーを引き続け、ついにバックラーは完膚なきまでに打ち砕かれた。

 そのうちに〈ヴァナルガンド〉を狙おうとした一機をドロップキックの要領で弾き返す。

 黄金色のカメラアイが凶暴に光を散らす。

 医務室では兄弟(エンビ)がまだ眠っているのだ。目も覚めないうちに船を沈めさせるわけにはいかない。

 トロウとて仕事内容がアルミリア・ボードウィンの護衛であることは理解している。だが雇用主の命令よりも、家族の生命のほうがずっと大切に決まっている。

 取り落とされていた斧鉞(ブロード・アックス)をとっさの機転でつかみとると、振り向きざま〈グレイズエルンテ〉をフルスイングでぶん殴った。回避運動が間に合わず、胴を潰されて吹っ飛ぶ。パイロットは原形もないだろう。

 獰猛に息を吐いたトロウが顔をあげれば、そこには見覚えのある機体があった。飛来する碧の彗星。ライドもはっと気付く。

 

〈レギンレイズ・ジュリア〉——あの女騎士の機体だ。

 

 トロウの双眸が煮えたつように色を変える。〈グレイズエルンテ〉の右腕マニピュレーターがぶらさがったままの巨大斧を両手に構えると、闖入者に斬り掛かった。

 

『お前が————!!』

 

 斬撃をジュリアンソードが受け止める。凄絶なスパークが両者のモニタを染め、鍔迫り合いに腕がギリギリと軋む。操縦桿を握る腕をほんの少しでもゆるめれば弾き返されてしまう。一歩たりとも譲れないせめぎあいの中、ジュリエッタが上擦る声を張り上げた。開きっぱなしの通信回線から直接呼びかける。

 

『わたしは月外縁軌道統合艦隊(アリアンロッド)指揮官ジュリエッタ・ジュリス! 目的はアルミリア・ボードウィン嬢の保護です! 無益な戦いはやめてください!』

 

『だったらそっちが退きやがれ! いつもいつも先に仕掛けてくるのはギャラルホルンのほうじゃねえか!!』

 

 過剰な戦力をもって殲滅にやってくる。みんなでやれば怖くないとでも思っているかのように、絶対安全圏から撃ちまくるのがギャラルホルンの常套手段だ。

 CGSを襲ったときも、鉄華団を潰したときもそうだった。情報を封鎖するも偽装するもギャラルホルン様次第、ありもしない罪状をでっち上げて世論を意のままに操作して、さも正義の鉄槌を振り下ろしたように支配者側の勝手な都合を振り回す。

 それでなくともエンビが傷だらけで戻ってきて以来、トロウは虫の居所が悪いのだ。

 頭部バルカンを連打し、〈レギンレイズ・ジュリア〉を猛攻する。

 

『こ の、犬ッ……!』

 

『お前こそ権力の犬だろうが!』

 

『わたしはアルミリア様を迎えに来たのです!!』

 

『自分で連れてきておいてッ……勝手なんだよお前らはァ——!』

 

 黄金色のモノアイが剣呑な光を発し、ブレードアンテナに稲妻が駆け上がる。関節がギギギと軋みをあげ、武者震いのような震動とともに〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機は殻を脱ぎ捨てるように変形した。両手足のホバーユニットから青い炎がほとばしる。

 突撃形態(ビーストモード)。武器を手放し、体当たりのまま突っ込む。

 

『うぉおらぁああああぁあああああ!!』

 

『邪魔を、——ぉおおおッ!』

 

 流されるまいとジュリエッタはフットペダルを踏みしめる。脚部、腰部、背部スラスター全開、猛々しく噴き上げられた奔流が力を見せ付けあう。〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機も善戦するが、両者譲らぬ拮抗にはほどなくほころびが見え始めた。

 ヴァルキュリアフレームはもとより軽量ゆえの機動性を特色とした機構である。〈レギンレイズ〉の高機動発展型には純粋なパワーで劣る。推進力では〈レギンレイズ・ジュリア〉に軍配があがった。

 各部ブースターが奔騰すれば、まるで仄青い光の塊のようだ。餓狼を力任せに圧倒し、奔流は彗星のように加速する。

 両機もろとも〈ヴァナルガンド〉に激突した。

 

〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉3号機のシグナルをロスト。

 

「トロウ!! おい、応答しろトロウ! トロウ!!」

 

 呼びかけても〈ヴァナルガンド〉の船体に遮られてLCSが届かない。薄情なグレイズエルンテ隊は上官だろうジュリエッタを見捨ててライドのほうへと群がってくる。トロウの救援に向かう余裕はない。ランドメイスを一振りして距離をとるが——〈ダインスレイヴ〉が装填準備をはじめている。

 ここでこいつらを足止めしたところで意味はないのだろう。先行した〈ガルム小隊〉のおかげで弾数はかなり減っているようだが、中央に風穴が開いたためか逆扇上に陣形を変更し、より攻撃的に〈ヴァナルガンド〉を狙う格好になっている。

 こちら側にはジュリエッタ・ジュリス准将がいるのだとしても、アリアンロッド艦隊がアルミリア・ボードウィンごと〈ヴァナルガンド〉を沈めるつもりで弓を引くなら女騎士は確実に巻き添えを喰う。

 彼女とて所詮は民間出身の軽い神輿、戦死者にして『次』を立ててしまえば済むことなのだろう。

 目撃者のいない戦いであればこそ、情報統制も容易だ。

 

 そして禁断の砲台が、断続的に矢を放つ。

 

〈ダインスレイヴ〉が発射されれば近いものから順に被弾していく。一掃だ。着弾とともに吹っ飛ばされ、不明瞭なうめき声が短く途切れると同時に押し流されていくさまは、まさに掃討の一言がふさわしい。MSが、影という影が宙域から遠ざかっていく。〈グレイズ〉も〈グレイズエルンテ〉も転がる石ころもろともすべて巻き添えにしながら、鉄杭は無数に降り注ぐ。

 急襲する凶弾のひとつが天啓のように目にうつった。スローモーションのような一瞬。

 ああ、これは。

 

「止 まれぇえええええ————!!」

 

 このままではブリッジに命中する!! 無意識に突き動かされるように手を伸ばしたのは必然だった。

 被弾の瞬間には、あっと声をあげる暇もない。間に合えと願って伸ばしたマニピュレーターを鉄の杭が貫通する。命中したのは手のひらだというのに〈ガンダム・アウナスブランカ〉の上体がぐわんと振り回された。コクピットまで揺さぶる衝撃とともに右肘の関節が砕け、肩が外れる。アラートというアラートが叫びだす。

 それでも理性をかき集めるように顔をあげれば〈ヴァナルガンド〉に被害は見て取れない。当たりどころがマシだったのだろう。運がよかった。外装が一部ハリネズミと化したくらいでハーフビーク級戦艦は沈まない。

 だが、通信回線からはコクピットを貫かれた断末魔が聞こえてくる。苦悶、喉が潰れたようなうめき声。最期に家族の名前を呼ぶ兵士の涙。スラスターの機能が停止し、あるいはカメラアイを潰されて帰投できないと救援を呼ぶ情けない悲鳴。

 ああ、とライドはそっと目を伏せた。

 こうした声を敢えて聞かせて戦意を喪失させようとでもしているのだろう。死を目前にした人間のあがきは、確かに心に訴えるものがある。危険と隣り合わせの宇宙空間ならばなおさらだ。正気の人間ならばきっと恐怖に駆られ、焦燥によって冷静さを削り取られる。

 人を殺しても平然と生きていられる(ライド)たちがいかに異常か、思い知らせる心理戦のつもりか。

 精神攻撃に屈してやる気はさらさらないが、これほどまでの犠牲を出してもギャラルホルンは変わらないのだろうと思えば、何もかも無駄に思えてくる。体制を維持することが『大義』であると、疑わない者だけが生存を特赦される楽園(ディストピア)

 不適合者は〈ダインスレイヴ〉で一掃してしまえば、不満の声などあがらない。

 コクピットに火花が散る。〈ガンダム・アウナスブランカ〉も右腕を持っていかれた。息も絶え絶えの〈グレイズ〉が這い寄り、最期に一旗あげてやると吠えるかのように拾いものの斧を振りあげる。

 運よく生き残ってくれたビームで応戦するが、出力が安定しない。

 これまでか。

 覚悟を決めそうになった刹那、目の前に迫った〈グレイズエルンテ〉のマニピュレーターがぐしゃりと砕け散った。

 砂嵐を移すだけになっていたサブモニタの一角がパッと灯る。

 

『ライド!! 無事かッ?』

 

 ハッと顔をあげれば、ぎょろぎょろと特徴的なカメラアイと目があう。〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機の千里眼だ。バイザーを開いて露出させたアイセンサーは〈ダインスレイヴ専用グレイズ〉と同様の高精度光学ズームを搭載している。漆黒の機体は宇宙に溶け込むような保護色で、浮遊するスペースデブリによって恒星の光が遮られがちな宙域では見落としてしまうのだ。

 

「ヒルメ……! ああ、よく戻った!」

 

『今すぐメインカメラを破壊しろ! 連中の目的はおれたちの掃討じゃない、ガンダムの首級(クビ)だ!』

 

「はぁ!? いきなり何を……ッ、ブランカに阿頼耶識はついてねーんだぞ!」

 

 右腕を失い、ビームも頼れそうにない。スラスターのガスも残りわずか、満身創痍の上にメインカメラまで失ったら戦闘の継続は不可能だ。

 二の句が継げないライドのサブモニタに新たなウィンドウが割り込んでくる。

 

『ライドさん!!』

 

「お姫さん……?」

 

 なぜ〈ヴァナルガンド〉のブリッジにアルミリアがいる? 中枢ブロックに隠れていろと言い含めたはずなのに、艦長席からパネルに身を乗り出してくるのはアルミリアだ。

 涙でいっぱいの青いひとみから、涙は落ちない。長いまつげに割られた水滴が無重力にきらきら舞い散る。

 

『〈ガンダム・バエル〉にっ……、バエルに乗ってください!』

 

 MSでは戦えない、わたしの代わりに、どうか。

 涙の訴えに、目が覚めるような心地だった。アルミリアだって叶うのならば自身がバエルを駆って亡き夫の足跡を追いたかっただろう。ハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉もガンダムフレーム第一号機〈ガンダム・バエル〉も、マクギリス・ファリドが死出にともなった形見の品だ。

 戦えるようには育てなかった籠の鳥。戦いたいときに戦えない苦しみを、戦う力の得難さを、ライドは知っている。そんな背中をヒルメが押す。

 

『行け、ライド! お前がバエルで戻ってくるまで、ここは死守する!』

 

 メインモニタに重なるように道が描きだされる。〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機からQCCSで飛んできたのは〈ヴァナルガンド〉への帰り道だった。

 漆黒の機体が寄越してきたのはそれだけではない。マニピュレーターが放り投げた()()を、左手でどうにかつかみ取る。

 エンビの戦線復帰が無理ならばと、トロウとヒルメでひとつずつ持ち出していたハンドガンだ。

 

「……拳銃自殺とは穏やかじゃねぇな」

 

 軽口をたたきつつ受け取ると、〈ガンダム・アウナスブランカ〉のこめかみに銃口をあてがう。装甲の隙間に押し付け、めりこませれば不完全でも破壊できるだろう。意を決してトリガーを引く挙動はどうしてか、祈りに似ている。

 

 発砲。

 

 刹那、白い装甲が砕け散る。同時に砂嵐が覆ったモニタの向こう側で、漆黒の機体が親指をたててみせた気配がライドにも確かに伝わった。



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026 奴隷たちの英雄

 ハンドガンで頭部を撃ち抜く。装甲の隙間にめり込ませた銃口からほとばしった弾丸は〈ガンダム・アウナスブランカ〉のダクトを砕き、メインカメラを損傷させた。もう一発。千切れた細いケーブルが散らす火花と、循環していたオイルがずるりと漏れだす。

 三発目。頭が吹っ飛ぶまでには至らずとも内部機構が露出し、白い破片が飛散する。

 ツインアイはひしゃげて歪み、視界の大部分が失われた。感覚がより研ぎすまされていくようだ。ああ、この空気のざわつきは、モニタに降り注いだ砂嵐のせいではない。

 首級(トロフィー)を見失って茫然と立ち尽くす〈グレイズエルンテ〉のモノアイを、ヴァルキュリアライフルが撃ち貫いた。

 追い討ちをかけるように(ブランカ)の欠片も片っ端から潰していく。

 

『急げ! そんでバエルで戻ってこい!』

 

「わかってる! ……死ぬなよ」

 

『ああ。だから早く帰ってきてくれ』

 

 大型ライフルを構えなおし、ヒルメは帰投する〈ガンダム・アウナスブランカ〉の背中を押す。わらわらとやってくるアリアンロッドの増援がライドの目に入らないようにと、千里眼がぎょろりと宙域をあらためる。

 加勢に現れたのは〈グレイズシルト〉のようだ。制圧用の大きな楯に、ハルバードを構えている。猪突猛進な〈グレイズエルンテ〉と比べると足が細く、ブースター出力も過不足なく小回りが利く。集団で囲んで制圧することに適した機体と言えるだろう。

 鉄華団最後の日、ヒルメはあれをイオフレーム・獅電で迎え撃った。

 ひとりでここを守るのは大変そうだと嘆息する。

 エンビもトロウも一緒ではない戦場など生まれてはじめてだ。

 

(それでもやるさ……!)

 

 腰背部のブースターが力強く青い炎を吹き上げる。頭部のような小さな的を撃ち貫く無謀を諦めて胴部を狙うも、戦闘練度の高い〈グレイズシルト〉は楯を構えて傷ひとつつけさせない。

 さすがに〈グレイズ〉とは違うか。アンカークローを放つがシールドで押し切るように圧倒され、体当たりを喰らって吹っ飛ぶ。

 

『ぐうう……っ』

 

 そこへ狙い澄ましたように〈グレイズエルンテ〉が巨大な首狩り斧を振り上げた。

 ひゅっと喉が鳴る。とっさに左腕を振り回し、破れかぶれに薙ぎ払ったワイヤーの先、鉤爪(クロー)が〈グレイズシルト〉の肩装甲をとらえた。振り回されるようにしてどうにか離脱する。バーニアをふかして立て直そうとあがくが、しかし〈グレイズエルンテ〉が追いすがるほうが一足早い。さすがに機動力自慢の機体だ。脚部・腰部のスラスターを全開にして襲いかかる。

 巨大斧の軌道はコクピットへの直撃コースだ。回避——間に合わない。

 

(ライドごめん————!!)

 

 操縦桿から手を離すこともできないまま目をつぶる。脳裏にはトロウにエンビとエルガー——家族の顔が走馬灯のようによぎる。

 ところが死に至る衝撃がヒルメを屠ることはなかった。

 錆びついたようなまぶたを剥がして目を開ければ、眼前には〈グレイズシルト〉の背中。あの大型シールドで〈グレイズエルンテ〉の斧を受け止めているらしい。

 一体何が起こっている……? 当惑するヒルメのサブモニタにウィンドウが割り込んできた。

 

『貴様に味方する気はないぞ、〈グリムゲルデ〉のまがいもの! これは過去の清算だ。我々にも、守らねばならない矜持がある』

 

 オープンチャンネルで通信を試みてきたパイロットは金髪碧眼の将校だ。三十代半ばくらいに見えるが眉目秀麗で、おじさんと呼ぶことに抵抗感を持つ美丈夫である。(ライドやトロウならば遠慮なく呼んだのだろうが)

 ブロンドの彼の旧姓が『モンターク』であることが、その美貌から察せた。

 涼しげにつり上がったグリーンアイズが画面ごしにヒルメを見据える。

〈ヴィーンゴールヴ〉において、イズナリオ・ファリド公が金髪碧眼の少年を買い集めていたことは公然の秘密だ。それが七年前の反乱で世界に向けて明らかになったことで、男娼(ペット)あがりには厳しい目が向けられるようになった。

 衣服を与え、食事を与え、教育まで与えてくれたイズナリオ様を恨むだなんてとんでもない——と貴族の温情に感謝してみせなければ白眼視され、恩知らずどもめと罵倒される日々が続いた。

 自分はマクギリスのような裏切り者とは違うのだと、踏み絵を乗り越えなければ出世の道が(とざ)されてしまう。

 刻み付けられた古傷を抉られ、世を儚んで首を括った者もあった。

 

『我々は、長く生きたほうだな』と男は独り言ちる。

 

 自嘲だった。貴族が愛でるためだけに生まれて死ぬ美少年という生き物ならよかったのに、生物学的には人間であり、男性だ。ぱっちりと丸かった目は年月とともに鋭く研がれ、輪郭のまろみもシャープになっていく。絹のような金髪がダークブロンドに落ち着いていき、おおよそ茶髪になる者も多かった。

 ほくろやそばかす、声変わりといった『劣化』を理由に養育を放棄された同胞たちは、……今だからこそわかるが、〈ヴィーンゴールヴ〉内の研究施設に送られ、阿頼耶識システムの被検体となっていたのだろう。

 運よくプラチナブロンドを維持できた者だけが生き残り、十三歳を過ぎれば用済みになって士官学校へ放り込まれた。

 最後の生存者たちはMSパイロットとなったものの、いかにもイズナリオ公の好みそうな風貌だと下世話な視線がそこかしこから飛んでくる。ご主人様にはいい思いをさせてもらっただろうと。お前が誘ったんじゃないのかとまで。顔や体を値踏みして言いたい放題言ったあとには『被害者面をするな』『恥知らずめ』『お前の外見が悪い』と続けるのだ。

 彼らに悪意はない。暴言であるという自覚もない。ただのくだらない閑談(ゴシップ)だ。出自の賤しさという〈罪〉を抱えたままギャラルホルンに足を踏み入れた犬に意思を投げることに、罪悪感などともなわない。

 愛玩動物が意思を持ち、あたかも人間であるかのように言葉をしゃべることが奇異なのだ。ギャラルホルンはそういう秩序(カースト)によって支配されている。

 

 そんな暗闇の底から救い出してくれたのが彼女だった。

 

『我らの主人は今もカルタ・イシュー様ただひとり!』

 

 出自よりも実力を見てくれた、この世界でたったひとりの女主人。

 

 胸を張りなさいとカルタは命じた。式典での展示飛行を見せる地球外縁軌道統制統合艦隊ならばこそ、洗練された姿かたちもまた得難い資質のひとつだろうと。セブンスターズ第一席イシュー家の誇り高き一人娘カルタ・イシュー一佐の親衛隊として何人(なんぴと)にも馬鹿にさせはしないと。

 

 彼女によって見出されるまで、容姿端麗であることは搾取の記号であった。それさえ『美』というシンプルな価値にしてくれた。文武両道。才色兼備。恥辱にまみれた過去の上に、カルタ・イシューは誇りを与えてくれた。

 心ない言葉が降り注いでも彼女ひとりで受け止め、女だてらにと揶揄されても意に介さず、わたしは花嫁にも妻にも母にもならないと肩で風を切って歩いた女傑。閑職に追いやられてなお第一席の誇り高き一人娘としての矜持を抱き、眉ひとつ動かさなかった。任務のたび月外縁軌道統合艦隊に先回りされても。役目を全うしようと忍耐に徹していた。

 病に伏す父君オルセー・イシュー公の名誉のため、地球外縁軌道統制統合艦隊に所属する地球外縁軌道統制統合艦隊家族の団欒のために、カルタ・イシューは孤独に戦い続けた。

 

 しかしセブンスターズの老人たちが彼女を軽んじるほどに、これ以上プライドを傷つけられまいと抗うようになっていった。父君のため部下のため、耐えるしかできない日々は厳しかったのだろう。耐えれば耐えるほどに増長し、イシュー家の名を蔑ろにし続ける七星会議のありさまに、耐えかねたに違いない。

 いつしか彼女もまた、かつては忌み嫌っていた特権を振り翳し、腐敗した支配者たちと同じ土俵で戦うことを選んでしまった。

 イシュー家を守るために後見人イズナリオ・ファリドを裏切ることのできなかったカルタ・イシュー一佐は、雪原で戦死した。

 剥がれ落ちてしまった彼女の理想も、潔癖ゆえに抱えた二律背反も、すべて承知で彼女を陥れた男——マクギリス・ファリド。

 あの男もまた願ったのだろう。最期まで自由には生きられなかったカルタ・イシューが心のまま、高潔なままいられたならばと。

 

『カルタ様を穢したこの世界への復讐が、もしも叶うのなら……ッ』

 

〈グレイズシルト〉がハルバードを高く掲げる。二機、三機と後に続く。

 この楽園を統べる大人の靴を舐めなければ出世は叶わず、地位を奪われ、命すら——。そんな世界でも生き延びたいのなら立ち上がって殺されるより、うずくまって耐えることが()()な判断だった。

 組織には変えられないルールというものがある。個の力ではどうしようもないことであふれている。生まれには貴賎がある。命の価値は血統で決まる。そうした数多の理不尽を黙って呑み込むことを『大人になる』と呼んできた。

 これが現実だ、大人になれ——と自分自身に嘘をついて、保身という浅知恵に魂を汚してきた。

 

 だからこうもまぶしいのだろう。何色にも染まらない悪魔(ガンダム)の精彩が。

 

 生け贄の館であったモンターク邸の『真実』は暴かれ、貴族主義による孤児の商品化が白日のもとにさらされた。

 この世界の〈法〉と〈秩序〉に基づけば犠牲者側の『恥』でしかない過去も、(フェンリル)の花嫁が導く未来では搾取者側の『罪』になるという。ならばみずから彼女に牙を剥くことで加害者(ギャラルホルン)に忠誠を示せと命じられた。

 これは踏み絵だ。

 本作戦では養子やコロニー出身者、地球外縁軌道統制統合艦隊の生き残りが起用され、前線へと逐次投入されている。自由平等など望みませんと意思表示してみせよとの命令だ。この世界に適応し、順応しますからどうか生きることを赦してくださいと媚びへつらい、みずから奴隷の足枷をはめる。それができないパイロットは味方に背中から撃たれる。生き残っても帰れる場所などありはしない。

 だがもし、もしもアルミリア・ファリドが生き残れば。

 我々は肉ではない。〈法〉と〈秩序〉に踏み躙られることを運命づけられた消耗品ではないのだと、ギャラルホルンが定めた不条理にふたたび叛旗を翻すことができるだろう。

 マクギリス・ファリドが力を示すまで、この世界は変えられないものだと誰もが諦めていた。彼が敗れたときでさえ、愚かな男だったと目を逸らした。〈マクギリス・ファリド事件〉の戦犯として貶められた彼の願いは、ギャラルホルンという強大なる権力の前には風前の灯火にすぎなかったのだ。

 力に固執した人間の愚かな末路。それが逆賊の亡骸に貼り付けられたレッテルだった。

 

 あんなふうに潔く抗えたならばと、己の弱さを恥じた。

 

 自由平等などという見果てぬ夢を追いかけ、燃え尽きた最期を笑って忘れてしまっては、この世界は何も変わらない。肉は肉のまま、地面は地面のまま、未来を削り落としていくばかりだろう。

 七年ごしに革命が遂げられるのなら、今度こそ、立ち上がる覚悟がある。

 今や賞味期限切れのこの命、ただの一度も喰われるためにあったことなどないのだと。

 

『我ら、地球外縁軌道統制統合艦隊ッ!』

 

 ぴしりと重なった呼び声に答えるように、ずるりと一隻の戦艦が、アリアンロッド艦隊を抜け出すように突出した。何の前触れもなく加速しだしたハーフビーク級戦艦の機影に、ヒルメがひとり身構える。

 しかし周囲の〈グレイズシルト〉は敬礼でもするかのようにハルバードを掲げて微動だにしない。

 コンソールパネルを叩き、エイハブ・ウェーブの固有周波数を表示させる。

『これは……』と、ヒルメは思わず言葉を失った。

 

 

〈ヴァナディース〉——既に売却されたはずのカルタ・イシューの座乗艦だ。

 

 

 そのさらに後ろから、ダインスレイヴ隊を轢き潰すようにしてハーフビーク級が続いてくる。

 エイハブ・ウェーブの固有周波数は同じく売却済だったはずのクジャン家の戦艦〈フラペンシュマル〉だと語る。

 

『苦節七年! 我らクジャン家忠臣一同がようやく探し当て、取り戻した、これは形見の品!』

 

『若様は心優しいお方。ラスタル様を慕っておられた。よもや復讐など考えなされますまい。……だが、それとこれとは別の問題ッ!!』

 

『敵の敵は味方とはよく申したものです。我らは一族郎党女子供に至るまで、みなクジャン家に忠誠を誓った身!』

 

 涙混じりの雄叫びが、彼らの厚い忠誠心を物語る。

 クジャン家最後の当主イオク・クジャンは正義感が強く純朴な青年で、溌剌として分け隔てなく、部下や使用人の子供とふれあうことも多くあった。幼子たちもみな若様、若様とイオクを慕ったものだ。庭師の娘が編んだつたない花冠を黒髪に飾り、どうだ、似合うだろう! と胸を張ったクジャン家の太陽。遊び相手のいない子供時代を過ごした背景もあってか、愛されることに長けた少年だった。

 そんな主人が遠征地で戦死したことを感じ取ったのか、愛犬はまるで後を追うようにして息を引き取った。

 悲しみに暮れるクジャン家に追い討ちをかけるように、当主を失ったことで実質上のお取り潰しになると通達があった。ガンダムフレームは解体され売却、首だけ残してどこへ行ってしまったかもわからない。あれよあれよと右往左往しているうちに、何もかも失ってしまった。

 残されたのは後悔だけだ。

 

 見目こそ強くきらびやかなギャラルホルンだが、その実は錆びつき、腐り、ラスタル・エリオンという唯一の柱によってどうにか支えられている惨状である。情報統制によって強大に見せ、傭兵や海賊の力を削いでどうにか体裁を保っているだけだ。ひと押しすれば倒れる砂上の楼閣にすぎない。

 髄まで腐敗していることが明らかであれども、柱が倒れてしまったら今度こそ世界は混迷の闇に投げ出されてしまう。

 現状維持。

 それがラスタル・エリオンの方針だった。

 

 そんな政策に救われている者も数知れない。組織が抱えた不治の病を表層化させることなく秘匿し、地球圏の豊かさを守護しているのは(ラスタル)である。

 ほころびが見え始めた十年前。力任せに権威を回復した七年前。ガエリオ・ボードウィンの活躍がギャラルホルンが統治する世界を救った。

 数多の犠牲の上にも『何もしていない、ただ平和に生きているだけ』と清らかな心で屍肉を喰らえる精神性こそ、エリオン公の治世を支えるロールモデルだ。正統なる血統に生まれ、健全に育ち、正しく運命に導かれるまま誇り高く成長した『英雄』によってしか、今のギャラルホルンは正当化しえない。

 

 現状に問題意識を持つことなく、与えられる教育に疑念を抱かず、プロパガンダを体現するかのように害獣に石を投げる純血の断罪者(ヒーロー)

 

 御曹司らが大義の名のもとに逆賊を粛正するとき、そこに理由や原因がなくとも『正義の鉄槌』ということになる。対等な諍いにはなりえない。殺人には貴賎があり、貴人の行なう治安維持は何にせようつくしいのだ。圧倒的な軍事力が、反骨の気概を削ぎおとす。

 決して覆らないはずだった階級社会は、残酷にも太陽を貶めた。

 主君を失った忠臣に帰るべき家はもはやない。すべてを失って初めて、靴裏の下にべったりと貼り付く無数の腐乱死体に気が付いた。

 

『イオク様、ヨーク様……お元気な姿を拝見できるだけで幸福と思い、若様を真にお支えしなかった我々の懺悔を、どうか……ッ——今度は、我々クジャン家忠臣一同が命を捧ぐ番でございます!』

 

〈グレイズシルト〉の一団が、まるで勝鬨をあげるかのように武器を掲げる。〈フランペンシュマル〉が方向転換してみせたことで、ヒルメは彼らの目的を察した。押し流されそうになりながら、加速しだす戦艦に取り付いてどうにか姿勢を維持する。

 

『うそだろ……特攻……っ!?』

 

 おぞましい予感を肯定するように、ワタリガラスの紋章を抹消された〈フランペンシュマル〉は愛する主君の名を叫びながら、アリアンロッド艦隊旗艦へと突進する。

 絶対安全圏に告ぐ。これは同士討ちではない、決意表明であると。

 

『ラスタル様、どうかお聞き届けいただきたい!! 我らの願いも恨みもただひとつ、クジャン家の未来のみとォ————!』

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 戦場はここだけではない。この世界のあちこちで、いろいろな人が戦っているのだろう。

 火星連合議長クーデリア・藍那・バーンスタインの演説。各経済圏の意思表明、質疑応答。街頭デモで声を張り上げる若者たち、労働者たち、女性たち——〈ヴァナルガンド〉のモニタでは映しきれない世界各地で、戦いは続いている。犠牲も増え続けているはずだ。

 艦長席に座すだけのアルミリアは、彼らに手を差し伸べることができない。

 過去の所業を暴露したことでギャラルホルンの権威はふたたび失墜し、人々は不安に陥っている。この地獄絵図はアルミリアが作ったものだ。

 今のままでいいのかと、本当にこれでいいのかと、世界に向けて問いかけたせいで世界は混沌に焼かれている。

 

 

 ——知らないほうがしあわせだということもある。みずから考えず、定められた規範に従うことで人類は安寧を手に入れられる。

 

 

 耳の奥に蘇るラスタル・エリオン公の言葉が、いつにも増して重く感じられた。

 ここからは見えないモニタの向こう、もっと遠い世界のどこかでは、家族の暴虐を暴かれた子供が泣いているのだろう。何も知らず、パパは何か悪いことをしたの、と問うのだろう。ママはどうして泣いているのと声をふるわせるのだろう。

 秘匿されてさえいればしあわせな家族のままでいられたのに——と、楽園を踏みつぶされた人々は憤るのだろう。

 正論のナイフを降らせ、アルミリアはたくさんの絆を引きちぎってしまった。

 

 きっと誰も、信じていた人の『裏』の顔なんて見たくはなかったはずなのだ。少女を搾取する父も、子供を差別する兄も。破壊と虐殺を繰り返していた治安維持組織(ギャラルホルン)も、現状を明らかにした少年兵たちを悪者(けもの)扱いして権威を取り戻す支配者も。

 知りたくない。信じたくない。やさしくてあたたかい『表』の顔だけ見ていたかったと、思ってしまう。かつてのアルミリアもそうだった。

 あんなことがなければ——と革命を恨んだこともあった。

 

 ラスタル・エリオンはだから、何も知らなくていいのだと無知を赦してきたのだ。

 

 植民地を搾取しなければ成り立たない豊かさ。労働者に正当な対価を払わないことに慣れきってしまった冷たさ。自分さえよければいいと他者を道具のように使い捨てることに疑問を抱くこともない、人々の無関心。

 そんな停滞した世界では、知性を嫌い、孤独を恐れ、不変を愛し、免罪符を抱きしめる者だけがしあわせに生きていける。

 無知と忘却によって守られた肉食者の楽園。

 だから知恵の実をかじらされて食あたりを起こしてしまう。

 

「わたし、とってもひどいことをしたわ。もしも同じ場所(ヘルヘイム)へ堕ちて、また会えたのなら……マッキーはわたしを責めてくれる?」

 

 それとも見放してしまうかしら。虚空に問いかけるアルミリアに答える声は、マクギリスではない。

 

 ——さあ? ……あの世で怒ってりゃいいなって思ってますけどね。おれは。

 

 いつかのライドの言葉である。モンターク商会の少年傭兵部隊〈マーナガルム隊〉を率いる彼は、誰かの言葉を上書きするようなことは決して言わない。そういうところが居心地がよかった。

 夢でいいからあのひとに会いたいと願う夜をいくつも越えてきたけれど、たとえ夢で会えたとしても、都合のいいまぼろしを創り出してしまう自分自身が赦せない。

 

 マッキー。

 

 子供のころのように呼ぶ。思いを馳せる。七年前の彼はどのように、この艦長席に座したのだろうかと。

 両膝がもぞもぞと落ち着かず、アルミリアは所在なげにオリガミの花をもてあそんだ。慣れないパイロット用のノーマルスーツは、矢面に立って戦うこともできないアルミリアには不似合いだ。

 花嫁になるために生まれ、育てられてきたアルミリアが受けた教育といえばワルツやピアノくらいのものである。そのウィンナワルツだって、夫と踊れたことは一度もない。手をつないでいるだけで釣り合わないとくすくす笑われ、父にも無理はするなと微笑ましげに止められた。

 妹として生まれてしまった以上、士官学校になんて当然入れてもらえない。パイロットなんてもってのほかと両親に反対されてしまう。

 カサブランカを摘んで花束を作っていたころだって、種を蒔くことも、花を咲かせることもアルミリアにはさせられないとやんわり拒絶されていた。

 百合を象ったはずの紫色の造花は、紙を折り畳んでできていて、かぐわしく香ることはない。まるでボードウィン家のヴァイオレットに染まってしまったアルミリアのようだと、自傷のようにくちびるを微笑ませる。

 

 ファリド家のハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉のブリッジに、その中央に、アルミリアは到底ふさわしくないだろう。ここは艦隊の指揮をとる『艦長』のための椅子なのだから。ファリド家の従者の血筋に生まれ、士官学校を主席で卒業して、一般の部隊に配属されて経験を積んでファリド家の艦長にふさわしいと認められてようやく座ることが赦される。

 権力を振り回し、生まれ得た財力を使って〈マーナガルム隊〉を雇ったアルミリア・ボードウィンには不相応な玉座だ。

 

 月面基地への旅で、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉の艦長席にはライドたちが交代で座っていた。航行の指示をだし、火器管制、MS(モビルスーツ)隊の作戦指揮に海賊との交渉まで、彼らはすんなりこなしてしまう。

 アルミリアが紅茶を淹れる練習をしていた幼い時間をすべて使って、彼らは戦闘技能を磨いてきたのだ。

 望む望まぬではなく周囲が決めたルールによって、そうさせられていただけだけれど、それでも彼らは彼ら自身が持てる力を愛している。宇宙ネズミと蔑まれても、阿頼耶識システムによってMSを駆る自由を誇りに思っている。

 そのように教えてくれた男がいるという。鉄華団団長、オルガ・イツカ。彼らにとっては父であり母であり、死に場所であったのだそうだ。

 命をかけるに値する目標を持てたおれたちは幸運だとでも言いたげに少年兵たちは笑う。

 

 それなら、アルミリアだってしあわせだ。

 最愛の夫は妻をひとりぼっちにするひどい男だったけれど、アルミリアには彼以外のすべてを遺してくれた。

 書籍も、財産も、ボードウィン家という帰る家も。もしも未来を探しに旅立つのなら、モンターク商会のお屋敷を。アルミリアがいつか遠い未来でしあわせだったと思えるように、道を照らしてくれていた。

 本当は、ふたり一緒に笑っていられる日々だけあれば何もいらなかった。しあわせな花嫁になりたかった。母上がそう教えてくれたように、参列者に祝福されて永遠を誓う花嫁に。妻となり母となって、一緒に老いていきたかった。

 与えられた教育は洗脳と同義であったかもしれないけれど、アルミリアがそうありたいと願う姿は今も変わらない。生まれてきてよかったと思えるだけの愛情を家族から注がれてきた。

 血統書付きの淑女として産み落とされ、愛する男と婚約をした。〈ヴィーンゴールヴ〉では異例の幸運だろう。政略結婚が常態化し、女性は政治の道具でしかない。

 差別と搾取で塗り固められた楽園で、アルミリアは、淑女には与えられるはずのなかった未来を手にした。

 

 アルミリアのしあわせを壊したのは夫ではない。

 ギャラルホルンが決めた運命(カースト)だ。

 

 アルミリアが子供であることは恩赦を乞うべき『罪』なのに、結婚を決めた大人が責められることはない。マクギリスが養子であったことを『恥』と笑うくせに、彼を貶めた養父が咎められることもない。

 悔しくて両手を握れば、オリガミの花がよれる。

 

「わたしが一番赦せないのは、わたし自身だわ……罪を罪と知らなかったわたしは、あなたに償うこともできなかったの」

 

 夫の謀反を知らされても、志まで理解できなかった子供のころ、どうしてアルミリア・ファリドは彼の理解者たりえるレディではなかったのだろう。

 

「無知だったわたしが赦せない、お兄様が赦せない、お父様もイズナリオ様もラスタル様も、みんなみんな赦せない……!」

 

 お兄様が羨ましい。妬ましい。幼馴染みであり親友であり、仕事の同僚でもあった兄なら理解者たりえたはずだ。なのになぜ考えてくれなかった? 兄はどうして、二十年もの長い間マクギリス・ファリドを苦しめてきた体制を支持して、犠牲の上の楽園を守ろうとしてしまったのだろう。友であったのならどうして、命も尊厳も何もかも奪い尽くしてしまったのだろう。

〈法〉と〈秩序〉の番人であるならば、対価を支払おうとしない経営者に何か言うことがあるはずだ。声をあげる労働者を焼き払うのではなく、誰よりも彼らを人ととして対等に扱うべきだった。少年たちを髪や肌やひとみの色で選別するより先に、今日食べるパンを手に入れるために危険な手術に臨んだ子供たちを『宇宙ネズミ』と蔑む前に、やるべきことがあったはずだ。

 脚が不自由なら車いすを、義足を、あるいは無重力環境を。目が不自由ならメガネを、杖を、音声による補助を。人が人らしく、幸福を求めるための選択肢が実現されてこそ世界は『公正』であれるのだろう。テクノロジーによる補助を配備するのは行政の役目だ。

 彼はギャラルホルンを裏切ってなんていない。奪われるばかりの過酷な少年時代を経て、それでも少年のように純朴に、すべての人が『機会』を逸しない、アグニカ・カイエルの理想の実現を願っていた。

 アルミリアはだから、無知蒙昧ゆえに彼の心を見つめることができなかった過去を憎む。

 マクギリス・ファリドが願った未来の世界でなら、ふたり一緒にしあわせになれたかもしれない。あのとき革命に『裏切り』だなんてレッテルを貼ったギャラルホルンの報道を鵜呑みになんてしなければ、彼に寄り添うことができたかもしれない。

 

 ——みずからの罪を暴かれるのが怖いか?

 

 そんなの誰だって怖い。罪と向き合うのは苦しい。清廉潔白でありたいという願望は誰しも少なからず持っているものだろう。だから今ある自分自身を正義にするために、言い訳を重ね、弁明をして、正当化しようとしてしまうのだろう。間違っていないと確信したい一心で他者を蹴落とそうとする。

 両腕には免罪符を抱きしめて、両足は犠牲者たちを踏みにじる。

 

 そんな卑怯な〈法〉と〈秩序〉に守られ、アルミリア・ボードウィンは生きてきた。

 

 悔しさ、情けなさに涙があふれて止まらなくて、両手のひらで顔を覆う。紫色のオリガミに、しずくが触れてにじんでいく。罪が洗い流されることはない。

 あの〈ガンダム・バエル〉の白い翼で宇宙(そら)へ飛び立つことはできない。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 MSデッキがせり上がり、帰投してきた首のない〈ガンダム・アウナスブランカ〉が整備用ドックに到達する。機体が固定されるよりも早く、ライドはコクピットハッチを開いた。

 白いノーマルスーツの少年がキャットウォークで大きく手を振り、こっちだとライドを呼ぶ。

 無重力を泳ぎだせば、追いつくように合流した錦鯉がドリンクボトルをふわりと差し出す。片手でキャッチするとライドは「ありがとな」と短く礼を述べた。

 三人、四人と次々にライドの周りに集まってくる。川の流れに誘導されて格納庫にたどりつけば、カズマが振り向いた。

〈マーナガルム隊〉のメカニック、実質的な整備長だ。背中に阿頼耶識はないが気の置けない元鉄華団の仲間であり、整備の腕も抜群にいい。

 軽く手を挙げればゆるくカールのかかった黒髪が無重力に揺れる。

 

「バエルの改修、どうにか間に合ったよ。〈ガルム小隊〉の整備クルーがよく働いてくれた」

 

「そうか……! お前らよくやった!」

 

 手近な子犬たちを両腕でかきあつめるように肩を組んで抱きしめる。ぐりぐりと頭を順番に撫でると、おれもおれもと群がるように飛び込んでくる。

 非戦闘員まで薬漬けにされて連れて行かれてしまったと早とちりしてしまったが、ギリアムはちゃんとメカニックやオペレーターを『戦力』として数えていたらしい。こいつらは戦意を認められ、今できる限りの仕事をしてくれている。無事だったこと、頑張ってくれていることに熱いものがこみあげる。

 

「遠慮なく褒めてやっちゃって。こいつら、MW(モビルワーカー)で〈ヴァナルガンド〉の主砲外して持ってくるなんて無茶やらかしてるんだから」

 

「久しぶりだったから、ちょっと手間取ったけど……でもちゃんと使えるから!」と予備パイロットだった少年がライドを見上げる。

 

 ヒューマンデブリだったころに海賊船でやらされていた仕事なのだろう。戦艦そのものよりも分解し、バラ売りしたほうが買い手がつきやすく、足はつきにくい。

 だがナノラミネートアーマーもないMWで外に出るなんて、まったく無茶なことをしでかしてくれる。ドンパチやっている真っ最中で、それでなくともここはデブリが多く浮遊する〈ルーナ・ドロップ〉のすぐそばだ。トロウが直援について守ってくれていたとはいえ、外は危険まみれだったろうに。

 

「ああ、ありがとうな。よく頑張ってくれた」

 

 彼らが力を尽くして強化した〈ガンダム・バエル〉を見上げると、ライドはおもむろにヘルメットを取った。癖の強い赤毛がやっと開放されて、汗の粒がきらきらと重たいグレーの闇に散る。

 

「抜かれてたコクピットは『アル』から移植してある。武装はデッドウエイト承知で船にあるだけ積ませてもらったよ。バエルのシステムは謎が多くて、固有の装備がどうなってるかわからないから外付けの武器だけでも戦えるように調整させてもらった。見かけによらずスラスター出力がエグいから重量に関しては心配いらない。残弾が尽きた武装からガンガン放棄(パージ)してってくれていい。引き継がせたブランカとアルフレッドのセッティングがどう反映されてるか不安は残るけど——、阿頼耶識の動作は正常(オールクリア)

 

 艦のブリッジはカズマに代わり、今はアルミリアが預かっている。……夫マクギリス・ファリドの最期はこの〈ヴァナルガンド〉による特攻だったらしいから、馳せる思いもあるのだろう。艦長席は明け渡し、雇用主から直々の依頼を受けてカズマはアルフレッドこと〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機からコクピットブロックを移植する作業に取りかかった。

 エンビが使っていたヴァルキュリアソードを二本、〈ヴァナルガンド〉の対艦武装からもらってきた砲身を四本追加して、ガンダムフレーム第一号機〈ガンダム・バエル〉は腰元にオーバーサイズの黒い翼を二対生やしたような装備になった。

 もともとの白い翼とあいまって、六枚羽の堕天使のような外観である。

 

「〈ガンダム・バエルフルアーマー〉。バエルの恩寵(ハンニバル)でどうだ?」

 

 カズマが片目をつぶってみせる。親指をたててみせる愛嬌とは裏腹に、手のひらに食い込む四指には切実さがにじむ。

 これで最後なら、残っていた装備をすべてライドに賭ける。全力を尽くした結果でさえ完全ではないかもしれないという不安はあるが、それでも今あるすべてを出し切った。

 単騎で艦隊に挑んだマクギリス・ファリドや、死闘の末にMAを撃破した三日月・オーガスほどの戦闘力はライドにはない。彼らほどの実力者は、もうこの世界のどこにもいない。〈ヒューマンデブリ廃止条約〉締結をきっかけに海賊、傭兵、ギャラルホルン兵士でさえ劣化の一途をたどっている。

 世界の流れに逆らえるほどの力は、お姫様に雇われた少年傭兵部隊にすぎない〈マーナガルム隊〉にはなかった。

 

 ああと頷いたライドは、挑戦的に笑む。

〈ガンダム・バエルフルアーマー〉。——ライドを取り巻く少年たちが必死にかき集めてくれた力が、この一機に詰め込まれた。

 

「……〈ハンニバル〉か。悪くねえな」

 

 やおら喉元のファスナーに手をかける。ギャラルホルンの一般兵と同じ仕様のパイロットスーツでは、阿頼耶識につなぐことができないのだ。インナーも脱いで上半身をさらす。汗ばんだ赤毛が低い重力に揺れる。余った袖は腰もとで縛り付けた。

 コクピットへ飛び込み、阿頼耶識システムに接続する。どくりと膨大な情報量がライドを襲う。全身を熱い血がどくどくとめぐりはじめ、バエルの赤い双眸が輝いた。

 見送るように手を振って、くちびるを噛み締めた少年たちは帰ってきてくれと叫びだしたい声を噛み潰す。

 

 無数の願いをすべて背負って、ライドは前へ進む。カタパルトハッチへ降りれば、ブランカのビーム放射器が既に用意されている。整備済みだ。ライドが機体を乗り換えていたほんの短い時間でやってくれていたらしい。

 帰ってきて礼を言わなきゃな。苦笑する。おかげでますます死ねなくなった。

 

『コントロールはそちらにあります。行ってください!』

 

 お姫様の激励がブリッジから届く。凛と強く張られた声ににじんでいた涙は、阿頼耶識がなければ感じとることができなかったに違いない。

 それが今ここで果たすべき責任だとして、アルミリア・ボードウィンは泣かない。

 ああとうなずく。息を吐く。剥き出しの両腕で操縦桿を強く押し出す。

 

『ライド・マッス! 〈ハンニバル〉出る!』




【登場メカニック】

■フラペンシュマル
 クジャン家のハーフビーク級戦艦。かつてはフギンとムニンの紋章が描かれていた。フラペンシュマル(Hrafnsmál)は『大鴉の言葉』の意で、大部分が名もないヴァルキュリアとワタリガラスの対話で構成されたスカルド詩のひとつ。(by Wiki ※発音がわからなかったのでg○○gle先生に読んでもらってカタカナあてました)

※クジャン家、エリオン家、ファリド家の戦艦の名称を捏造しています。情報が出てたらご一報ください。公式の名前に訂正します。


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027 ハンニバル

 愛機〈レギンレイズ・ジュリア〉の手のひらから飛び降りると、息をひそめ、非常用のエアロックを慎重にこじあける。道連れに〈ヴァナルガンド〉に激突した蒼の〈グリムゲルデ〉もどきに搭乗機を破壊されてしまっていたら、ここから帰ることはできないのだろうと、ジュリエッタは自嘲気味にくちびるをゆがめた。

 潜入して無事でいられる保障もないのだ。宙域では依然として激しい戦闘が繰り広げられており、〈ダインスレイヴ〉の命中だってありうる。

 

 だが、せめてアルミリアだけでも連れ戻さなければならない。

 

 ジュリエッタが意を決して〈ヴァナルガンド〉艦内に侵入すると、内部は暗く、しんと静かだった。人気はない。あたりを見回し、ブリッジを目指そうとフロアを蹴った次の瞬間、暗闇から伸びてきた手が視界をよぎった。

 ハッと息を呑み、銃を構える。とっさに身をそらさなければ頭部をわしづかみにされていただろう。俊敏な動きだった。

 気配も感じられないのに一体どこから——! 焦るジュリエッタは宙返りの要領で着地するが、四方八方を闇に閉ざされていて、今ので方向感覚が狂ってしまった。逃げ道もない。焦燥に浅くなる呼吸をどうにか嚥下する。

 そろりと身を低くした次の瞬間、一滴の水滴が見えた。

 

(そっちか!)

 

 浮遊する水の粒。ブラフである可能性は考えずに銃口を向ける。しかしその手は打ち払われ、ジュリエッタは勢いのまま吹っ飛ばされてしまった。「ぐぅ……っ!」 肘が外れそうな衝撃、パイロットスーツの柔い部分を的確に狙っている。まるで鉄パイプで殴られたような痛みだ。それだけじゃない。

 

(無重力でこの瞬発力……! これが阿頼耶識の、——ッ)

 

 感触からして徒手空拳だとわかるのに、打撃を食らった手首はじんじんと痺れて力が入らない。生身でこの威力か。無重力環境での俊敏な動作には定評があったジュリエッタだが、宇宙ネズミ相手の格闘戦となるとこうも不利とは想定外だった。

 暗闇に気を取られないよう身構える。駆け出した手首を引きずるように掴まれたが泳ぐようにひらりと抜け出す。銃口がターゲットをとらえた。抜き身のナイフのような双眸が浮かび上がり、ぞくりと背中を怖気が這う。

 一瞬にも満たないわずかな隙を見せたが最後、足首を掴まれ、ぶんと振り回されて壁にしたたかに叩き付けられた。

 

「がはッ……! あぐ……っ」

 

 壁に縫い止めるように腹にめりこむ銃口。胃液が逆流する。意識だけは手放すまいと歯を食いしばると、頬に一滴の生理食塩水がぶつかった。

 ぬるい呼吸が断続的に頰に触れる。おそるおそる目を開けると、目と鼻の先で、さんばら髪を濡らした少年が揃わない呼吸を整えようと両肩で呼気をおさえつけている。

 逃げ出そうにも、ぎりぎりと押さえつけられた右手首に指が食い込み、痺れて感覚がない。みぞおちを圧迫する拳銃のせいで身動きどころか声も出ない。両脚も壁に押し付けられている。

 せめて左手でハンズアップのポーズを作り、降服を示した。

 

「……はぁ、っは、……話がはやくて、助かる ぜ……っ——今ので傷が開いちまった 」

 

 できれば女は殴りたくなかったんだけど、と少年がうめく。ぜいぜいと荒い呼吸に相反して、顔色は青白い。

 手負いの獣のようだというジュリエッタの直感は的中し、視線を下げればパイロットスーツの大腿部が赤黒く変色していた。くすんだオレンジ色にじわりと新しい血がにじむ。

 水滴は、今しがた医療ポッドから起き上がったためなのだろう。よく見ればあちこち生傷だらけだ。治療中だったことが見て取れる。

 暗闇に目が慣れ、この少年があの紅い〈グリムゲルデ〉もどきのパイロットだと思い当たった。茶髪に近いダークブロンド、灰色のひとみ。間違いない。ID上のフルネームを思い出したがあんなものどうせ偽名だろう。

 月面基地内で発見・拿捕し、アリアンロッド兵士が尋問を行なったという侵入者(テロリスト)だ。

 

「アルフレッ ド……生き て、いたんですね……」

 

「お かげさまで? 家族んとこに帰してくれたおかげ で、よく眠れたぜ……!」

 

 切れ切れでも果敢に軽口をたたき、シニカルにくちびるを歪めた。

 ……嫌味を言われるのもしょうがない。彼にとってはアリアンロッドの指揮官であるジュリエッタこそが拷問を命じた加害者なのだろうから。

 

「エンビさん—— ジュリエッタさんっ!!」

 

 つたなく壁を蹴って近付く呼び声に、ジュリエッタがはっと顔をあげる。

 アルミリア様……と安堵の色を浮かべる女騎士とは対照的に、エンビはふと片眉をつりあげた。アルミリアが着用しているパイロット用のノーマルスーツは女騎士の予備(スペア)かと思い至る。

 腹芸のできそうにない女だ。ヒルメの日誌にあった通り、賛同者と見ていいのだろうとため息をつく。

 

「……お姫様を、拉致しにきたんだな」

 

 人聞きの悪い言い方に、ジュリエッタが柳眉を歪める。だが否定するのも言い訳がましい。

 ええと簡潔に首肯した。

 

「ここで彼女に死なれては困るので」

 

「それは任務か?」

 

「ラスタル様のお手配です。ギャラルホルン月外縁軌道統合艦隊所属、ジュリエッタ・ジュリス准将が直々にお迎えにあがるよう命を受けました」

 

「ふーん? ……その時々で都合のいい奴に尻尾振る権力の犬って、おれ、嫌いなんだけど……、それじゃあどうにもならないってことは、学習させてもらった」

 

 潔癖な正義感は社会悪と紙一重だ。黒をも白にしてしまえる強権に抗うには、黒は黒だと叫び続けても全滅させられないだけの頭数が必要になる。

 どんなに正しくても、どんなにやさしくても、聞く価値のあるやつが語らなきゃ誰も耳を貸さないものだと、今回の一件で身をもって学んだ。

 いや、知っていた。エンビが諜報任務でこなしてきた演説だって、内容よりも()()()()()()()()()やっているかが重要だった。良家の子女ふうの服装、大学生っぽいファッション、人種、髪と肌とひとみの色——言葉よりも外見で判断される。中身なんてなくていい。第三者の手じゃブラックボックスの蓋は開けられない。

 

 ジュリエッタ・ジュリスも礼にもれず金髪に青いひとみの白人で、場合によって『元民間人』と『女騎士』というふたつの服を着られる。

 

 ラスタル・エリオン公の忠実なしもべか。

 

 アルミリア・ファリド姫の理想の賛同者か。

 

 今のお前はふたつのうちのどちらだと、この中でもっとも青さのない双眸が獰猛に眇められる。エンビのブルーグレーは、ジュリエッタのそれとは似て非なる、刃のような色彩だ。

 

「身の安全を保障するならお姫さんの身柄を引き渡す。ただし条件つきだ」

 

「その条件とは?」

 

「脱出用小型艇(ランチ)の誘導」と声は恫喝じみて低くなる。「乗ってるのは全員モンターク商会の従業員だ。どこをどう叩いてもホコリの出ねぇドクターや、メカニックにオペレーター、中には子供も、怪我人もいる。それを全員生きて安全な場所まで連れて行くことを誓ってもらう」

 

 むろん内訳は元ヒューマンデブリや、アルミリアが保護した元少年男娼たちだ。どこをどう叩いても埃が出ない——というのは医師くらいのもので、他は叩かれれば砕けるような被差別階級ばかりである。

 そんなことはお互い承知だろう。わざわざ申告して味方を不利に追い込むような真似は当然しない。

 

「できなければ?」

 

「今ここであんたもろとも全滅したって結果は同じだ。取り引きに応じるメリットがない」

 

「……わかりました。わたしの権限すべてを使い、アルミリア・ファリド夫人とその従者を安全な場所まで送り届けます」

 

「二言はないな」

 

「はい。もし何かあれば、アルミリア様はわたしを赦さないでしょうから」

 

 ちらりと視線を落とせば、アルミリアの手にはサバイバルナイフが祈るように握られている。『FOOD ONLY(食べ物のみ)』と書かれているのが何とも不釣り合いで、ジュリエッタはうっそりと笑んだ。

 拳銃のたぐいはすべて戦闘員のために出払っているのだろう。お嬢様の細腕には切れ味鋭いナイフのほうが役に立つ。

 

「ならいい。交渉成立だ」

 

 突き付けられていた銃口が離れる。エンビは壁を蹴ると拳銃を持つ手をひらりを降って、無重力へと浮き上がった。ついでにジュリエッタが持ってきた銃を拾い、自身のホルスターにおさめてしまう。

 傷が痛むのか、しばしただようことで休息を得ようとしているようだった。

 

「……あなたは、どうするんですか」

 

 アルミリアに駆け寄ったジュリエッタがふりあおげば、少年は悲しく笑う。

 

「おれにはまだ仕事が残ってる」

 

 どこか遠くを見るように、双眸が細められる。ジュリエッタのひとみは灰色がかった青だが、エンビのそれは青みを含んだグレーだ。鉄華団があったころには十歳になるかならないかの幼い子供だったろうに、鋭利に研がれた抜き身の刃のような目をしている。

 

 この戦いもまた『テロリストの敗北』で終わるだろう。歴史を綴るのはいつも勝者だ。この三三三年の間、勝利は常にギャラルホルンの手の中にあった。

 絶対的な権力に逆らう『大人になれない子供』たちは死というかたちで淘汰される。諦めて、受け入れて、何も知らないふりをするなら生きたまま『大人』になれる。

 ここはそういう世界だ。

 

「生きたい場所も、帰りたい場所も、もうおれにはない」

 

 家族だった連中は帰ってこいの一点張りで、鉄華団など忘れられたほうがいいとばかりにみんな過去から目を背ける。つらいことを思い出すくらいにならなかったことにしてしまったほうがマシだと嘆く。そんなだから学校環境は一向に改善されないし、結局、誰も何も変える気はないのかとため息をついた。

 おれたちはただ、大人から殴られない日常を夢見ただけなのに。

 ずっとバカにされて足蹴にされて、いいように扱われてきたおれたちが、今度は家族と信じたはずの年長者から『善意で』同じ目に遭わされるのでは、希望なんか持てやしない。

 言うことを聞かせるためにオルガ・イツカの名前を持ち出し『団長は望んでない』の一言でコントロールしようとする場所には、帰れない。

 

 ただ、生きていてもいい場所がほしかっただけだ。なのに帰る場所を作ってくれたオルガ・イツカは七年前に死んだ。人生の『続き』を生きることを、もう誰も認めてはくれない。人生を正しくやり直せるようにとアイデンティティの屠殺場に収監されて、少年兵(おれたち)は無抵抗で死ぬべき害獣ですと復唱しながら永らえる木偶にはなりたくない。

 ——だから。

 

 

「……死に場所くらい、自分で選ぶ」

 

 

 ジュリエッタに銃口を向け、距離をとってから踵を返す。捨て台詞が物悲しく、ただよう水滴を揺らした。

 そして暗闇の向こうへと消えた彼の行き着くその先を、ジュリエッタが知ることはないだろう。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 ビームの光線が宙域を切り裂く。

 白き英雄の再来に、宙域の目という目が注意を向ける。三対の翼を広げた〈ガンダム・バエル〉の登場に集まった視線には、その変貌への驚きも含まれていた。

 コクピットで好戦的にくちびるを舐める。ライドにとっては久しぶりの阿頼耶識搭載型だ。

 調子を取り戻したビーム兵器がアリアンロッド艦隊を突っ切った。

 案の定、両翼に内蔵されている電磁法はロックされていて撃てない。やはり火器は使えないように細工がされていたらしい。索敵システムは〈ガンダム・アウナスブランカ〉から問題なく引き継いでいる。〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機の蓄積データを継承しており、これなら射撃精度もあてにできるだろう。

 状況を鑑みるに、敵MSの数を減らすのはまずい。

〈ヴァナディース〉はこちらの側につき、〈フランペンシュマル〉が吶喊した。どちらもライドたちの味方ではないが、あの女騎士と同様にアルミリア姫の理想の賛同者だ。

 

『 バエル……バ エルだ…… 准将……!』

 

 不意に動けなくなった〈グレイズ〉から途切れ途切れの繰り言が聞こえてくる。バエル。バエル。夢見るように陶然と、彼は今は亡き上官の名を叫んだ。

 

『ファリド准将……!!』

 

『〈ガンダム・バエル〉……! アグニカ・カイエルの魂!』

 

『ああ、バエルが帰ってきた——!!』

 

 歓喜に沸き立つ声という声が、英雄の再来を叫ぶ。バエル。バエル。長い雌伏の七年を経て、喜びの歌は次第に大きくなり、またたく間にオープンチャンネルを埋め尽くすほどの大合唱になった。

 

 バエル! バエル! バエル!

 

 バエル! バエル! バエル!

 

 虐げられた獣たちが英雄を呼ぶ。バエル。バエル。七年前に失われた群雄の長が、ふたたび我々を救いに現れたと。マクギリス・ファリドが道連れを望まなかったせいで現世に置き去られていた魂が息を吹き返す。

 救世主の復活に歓喜する。

 もう二度と折れない剣を掲げれば、餓狼の雄叫びがスピーカーをびりびりと割るようだった。

 

「……聞こえてるか、お姫さん。旦那への大喝采だ」

 

 白き英雄のコクピットで、ライドは雇用主に語りかける。感涙にむせぶアルミリアの姿が目に浮かぶようだった。

 彼女が待ち望んでいた以上の希望が、この世界にはまだ残っている。革命思想は潰えていない。だからこそ逆賊として断罪された彼の死を悼み、復活を切望する声が月の蛇を喰うほどまでに朗々と響きわたっているのだろう。

 この渦が無視できないほど巨大になれば、アリアンロッドの力をもってしても排除しきれないほどの声になれば。〈法〉を改め、〈秩序〉を再構築することもできるだろう。

 罪を償うことで自由平等は実現されるとアルミリア・ファリドが信じ続ける限り、この世界の醜悪さを誰かが見つめるだろう。『公正』とは何かを、考えざるをえない状況に陥った。

 

 ラスタル・エリオンとアルミリア・ファリドの対立構図は完成した。

 次に軍事クーデターが起これば、次もまたラスタル・エリオンが勝利する保障はない。

 

 マクギリス・ファリド以外に誰も立ち上がろうとしなかった敗走から七年、今度は〈革命の乙女〉クーデリア・藍那・バーンスタインや、アーブラウ政府、ギャラルホルン革命派将兵がアルミリア・ファリドの側につき、二度目はないと抵抗を見せることだろう。

 世の中に深く根を張ったカースト意識をなくすことはできなくとも、せめて誰も泣かずに済むようなシステムを。

 大切な人を愛し、手の届く子供たちを慈み、誰もが人間らしく生きていける未来を。

 切なる願いの実現を。

 

「おれたちで勝ち取るんだ!!」

 

 燦然ときらめく抜き身の刃が、宙域の光という光を集めたように存在を主張する。かつての〈ガンダム・バエル〉が革命軍の士気を高めたあの日のように。

 背にした〈ヴァナルガンド〉が動き出す。まるで最期の日を再現するかのように。

 マクギリス・ファリドが死出の旅路に誰もともなおうとはしなかったのは、いつか来る今日のため、幼妻が革命を望んだときのために戦力を残存させる意図でもあったのだろう。

 盛大なる(とき)の声はファリド夫妻への祝福をも意味する。

 

〈ハンニバル〉が腰元の黒い翼を展開すれば、大型滑腔砲が熱をまとう。戦艦の主砲だけあってMSには過剰な火力がある。元ヒューマンデブリの少年兵たちの思いに背中を押されるようにして、ウィングスラスターが力強く羽ばたいた。

 飛翔する白き英雄(ガンダム)に、青年将校たちが続く。中にはラスタルのために斧を振り翳す〈グレイズエルンテ〉の姿もある。ハルバードが一閃し、〈グレイズシルト〉が応戦する。もう動けない〈グレイズ〉たちもまたバエルを呼ぶ。バエル。バエル。英雄の復活を歓喜する叫びはやまない。

 虐げられた獣たちは結束し、強権に牙を剥く。

 互いに味方ではなくとも同じ夢を追う。自由平等という見果てぬ夢を、戦いの先に見据えている。生きとし生けるものすべてが己のために戦おうと奮い立つ。

 奪われた安息を、みずからの手でつかみとるために。

 革命の狼煙がほとばしる。

 

 

 

 

 

 

 

 ——〈マクギリス・ファリド事件〉まで遡った過去七年が〈フェンリル革命〉と名付けられ、一連の軍事クーデターは一応の収束を見せた。

 今回の争乱でギャラルホルンは戦艦やMSを多数失い、経済的にも、社会的にも大きなダメージを受けた。しかし、これまで積み上げてきた発言力を利用し、アルミリア・ファリドが〈革命〉の必要性を改めて世界に訴えたことで、戦場は武力ではなく言論へと移行しつつある。議論は地球圏、火星圏、木製圏にまで広がっている。

 逆賊の妻と呼ばれた彼女の立場は、七年前とは大きく様変わりした。

 治安維持組織としてのあり方を見つめなおすと約束し、自由平等を願い続ける未亡人。もう彼女を子供と笑う者はいないだろう。勇敢な妻を持ったマクギリス・ファリドを笑う者もいない。

 重ねてきた罪と罰について毅然とした態度で演説する彼女の戦いは、これからも続くだろう。

 

 また、一連の事件との関連性は不明であるが、砕けた月の破片が飽和する月外縁最大のデブリ帯〈ルーナ・ドロップ〉付近では、正体不明の光芒が観測されるようになったという。

 鬼火の原因は投棄されたMSから漏れた気体に引火したものであるとも、エイハブ・ウェーブの干渉により自然発生したプラズマとも、諸説浮上している。

 しかし、戦死した兵士たちが拠りどころを求めてさまよっているのではないか——という物騒な噂は、まことしやかに囁かれ続けた。

 行方知れずの〈ガンダム・バエル〉の首級を得ようと宙域を改めたギャラルホルン兵士、海賊、捜索隊が誰ひとりとして生きて戻らなかったこともまた、その光芒の不気味さを強調している。

 

 件の不知火は通称を『ウィル・オー・ザ・ウィスプ』。

 あるいはこうも呼ばれた。

 

 イサリビ。



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終幕

[Epilogue]


P.D.334----------------

 

 

 

 

 あんたにこの手紙が届いたってことは、おれはもう戻らないんだろう。

 おれの機体が動かなくなったら投函されるようにカズマに頼んでおいたんだ。

 

 っても、これを読んでるのが誰なのかはサッパリわからない。

 おれはユージン・セブンスタークという名前の男にこの手紙を送ったが、鉄華団の生き残りはみんな偽名を使って、捏造したIDで生き延びてる。

 だから、これを受け取って読んでるあんたが副団長本人なのかどうか、おれに確かめるすべはない。わざわざ紙とインクなんて高級品使って、届く保証ないって不便だよな……。

 

 すこし、昔話をしようか。

 おれはクリュセ郊外の娼館で生まれて、引き取る父親がいなくて捨てられた。女に生まれてれば商品にできたんだろうが、男のガキは金にならない。ま、フツーそうだよな、とびっきりの金髪美少年でもない限りさ。おれはブロンドじゃないし、赤毛ってそのうち色素が安定して茶髪になる確率が高いんだってさ。

 おれみたいなのはフツーに傭兵として出稼ぎさせて、弾避けになって死なすのが一番安全で、一番儲かるようにできてた。今だってそうだ。ヒューマンデブリが廃止になっても、売人どもは別の仕事見つけてうまくやってる。海賊も見逃された。

 

 火星の学校じゃ、おれらみたいな少年兵を生来のテロリストって教えてるみたいだけど、違うよな。

 生まれながらの生け贄じゃねえ?(笑)

 運が悪かった、生まれが間違ってたってんならそうなんだろう。

 だけど、もしも生まれ変わりってのがあるなら、そのときも間違って生まれてきたいとおれは思うよ。

 そうしたら困ってるガキが目に見えるだろ? 自分の目の前が平和だからって、見えないものを見ないフリしなくて済む。自滅するかもしれなくても、行き場のない連中と一緒になって本当の居場所を探しに行けるだろ。

 

 ここじゃないどっかを目指して進み続けるほうが、おれには性に合ってるらしい。

 だからさ、おれはこれでよかったんだ。IDなんか変えなくたって、一生お尋ね者だって。

 案外しあわせに生きられるってことを学んだよ。

 

 さて。

 察しのいいあんたならもうわかったと思うが、おれの復讐はこれでおしまいだ。

 テロリストは生け贄として死んで、狼にプライドをかじられた汚い大人が新しい戦いをはじめるだろう。

 ここはそういう世界だ。そうだろ?

 

 それじゃ、愛をこめて!

 鉄華団実働二番隊(筋肉隊)副隊長 ライド・マッスより。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

「ライド…………ッ」

 

 便箋に綴られた文字は、お世辞にもきれいではないくせに思い切りよくセンスがあってあいつらしい。

 手紙を読むユージンの双眸がくしゃりと歪む。便箋を握る手がどうしようもない感傷にふるえた。

 

 そのときである。

 聞き覚えのないブレーキ音が外からいくつも響いてきて、ユージンはハッと顔をあげた。

 

 火星連合議長のオフィスに来客予定はないはずだ。反射的に窓まで駆け寄れば、やはり見覚えのない高級車。さらに護送車じみたつくりのトラック二台、三台と続く。

 停車したすべての影にギャラルホルンのエンブレムが見て取れた。

 

 開け放たれた扉から降り立つ緑色は、見紛うはずもないアリアンロッドの軍服だ。

 仮面じみたヘルメットで顔を隠した歩兵がぞろぞろと降り立ち、――ざっと五十人、いや、もっとだ。

 

 噂の強制査察か。

 鋭い舌打ちが静寂を鞭打つが、オフィスビルは兵士たちに取り囲まれてしまった。先頭を歩く女騎士は、館内に足を踏み入れたのだろう。

 ここは十五階だ。ビルごと封鎖されては逃げ場もない。

 

 どうすべきかと奥歯を噛んだそのとき、デスクの上のタブレットがビィィと叫び出し、ユージンは両肩を大げさなほど飛び上がらせた。

 ……まったくタイミングが悪い。心臓が口から飛び出すほど驚いてしまったが、送信元はクーデリアだ。

 内容はラテン語の格言が一行きり。

 

 

「“Hannibal erat ad portas(戸口にハンニバルがいた)”.……?」

 

 

 そのフレーズは確か、危険が迫っているという意味ではなかったか。

 さっと血の気が引くがここから飛び降りることは不可能だ。そうこうするうちにもオフィスの扉が次から次へと開けられていく。

 銃声は聞こえてこない。おそらく誰かを探しているのだろう。

 

 ついに目の前の扉が開かれ、ぞろぞろと響く足音が室内へなだれ込んでくる。

 先導する月外縁軌道統合艦隊ジュリエッタ・ジュリス准将が白いブーツの踵を鳴らした。

 マシンガンの銃口に見つめられて、ユージンは諦めたように両手を挙げる。

 

 ジュリエッタの目配せで、兵士のひとりがおもむろに銃をおろして進み出た。

 開いた両手で仮面を脱げば、癖の強い赤毛がようやく開放されたとばかりに揺れる。

 

 

「お迎えにあがりました。元鉄華団副団長、ユージン・セブンスターク殿」

 

 

 

 

 

 

 The END.




鉄血のオルフェンズ完結一周年おめでとうございました。


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