チラシの裏の落書き帳 (はのじ)
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オーバーロード

 瞳を開くと目の前にとんでもない美女がいた。

 

 しみ一つ無い透き通る白磁の肌を、肩口から胸元を大きく開いた純白のドレスの上部から惜しげも無く晒し、普遍的な美の価値観を持つ者なら誰もが見惚れる微笑を浮かべる様は女神の如しだ。

 

 ドレスと対象的な漆黒の艶やかな髪が豪奢に流れ落ち、女性なら羨望を禁じ得ない大きくくびれた腰の下辺りまで届いていた。

 

 男性の欲情を掻き立てる事が目的だと思わせる様な、しかし女性の美しさを際立たせる扇情的な純白のドレスは、腰部が肩口と同様に大きく削られ、純白の肌が覗き見え、流れた黒髪がゆらりゆらりと揺れることで白と黒をお互いに印象付け、得も知れぬエロスを醸し出していた。

 

 だと言うのに女性から受ける第一印象は『淑女』だ。

 

 瞳が、表情が、仕草が、雰囲気が。視線の位置、指先一つの所作、一筋の黒髪がさらりと流れる動きですら、心から瞳に映る者を思いやり、畏敬・敬慕・信頼・尊崇・情慕・慈愛・忠義・憧憬・恋慕と言ったポジティブな感情をダイレクトに伝えてくる。

 

 絶世の美女と言っていい。かつて出会った女性など比べるのもおこがましい美しさだった。

 

 だが目の前の美女は人間ではない。人間であるはずがなかった。

 

 女性の左右のこめかみの上からは山羊を彷彿とさせる太い角が先端を尖らせながらぐるりと側頭部を覆い、曲がりくねて前方に突き出ていた。

 

 人間ではあり得ない瞳の色。その虹彩は金に彩られ、瞳孔は蛇のように縦にぱっくりと割れていた。

 

 付け根が背中側の腰の辺りにあるのか、堕ちた天使を思わせる黒く染まった翼がふわりと広がりゆっくりと動いていた。

 

 女性の頭部から伸びる角が僅かに表情に影を作り、容貌に浮かべる女神のような微笑みは、堕天使の羽根も合わさり、妖艶さと神秘性を醸し出していた。だがそれは彼女の清楚さを損なうものではない。相反する性質を内包しつつ、矛盾しながらも破綻しない、圧倒的で幻想的で絶対的な美がそこにあった。

 

 彼女の本質は外面的な美しさではない。戦闘力もさることながら、本質は内側にあった。そうあれかしと創造された優秀な頭脳からくる内政能力、実務能力は折り紙つきで、彼女の能力に疑問を抱くものは存在しない。

 

 戦闘と智謀はそれぞれ第一人者に僅かに劣るものの、総合力では上位を争う実力者。家事にも長け、良妻賢母の趣きすらあった。だがそれも彼女の持つ内面の一つである。他者が苦しむ姿を、絶望を与えることに悦びを感じ、その為には非道で狡猾な手段を選ぶことを厭わない精神。

 

 この言い方は卑怯だった。彼女達から見れば彼女達が属する集団以外の存在は無価値だからだ。俺だってそうだ。地球の裏側でどれほど残酷な死に方をした人間がいてもそれは俺にとっては無意味だ。俺の身近な生活に影響を及ぼさない人の死は、可哀想だと思うことはあっても次の日には忘れてしまう程度の価値しかない。

 

 それを差し引いても彼女の性質は歪んでいる。いや、歪まされた。

 

 その歪みから派生してしまった、彼女の女神の微笑みの下に隠された憎しみとも言えるどろどろとした想念は、俺以外誰も知らない。

 

 モモンガさん以外の至高の存在、生みの親でもあるタブラ・スマラグディナにですら『自分達を捨てた者』と激しく憎悪、軽蔑し、ギルドサインを顕した旗ですら人知れず蔑ろにしていた。

 

 彼女の忠誠はギルド『アインズ・ウール・ゴウン』にすら向いていない。

 

 俺は彼女に会ったことはない。当たり前だ。会えるはずなどない。だが俺はこの女性を知っていた。気高く賢く清楚で淫乱。主への愛が溢れる余り、時に奇行に走り暴走する。

 

 ギルド『アインズ・ウール・ゴウン』の階層守護者統括。ギルド拠点『ナザリック地下大墳墓』に所属する全NPCの頂点に立つ慈悲深き純白の悪魔。その名は……

 

「アルベド……」

 

「どうかなさいましたか? モモンガ様?」

 

 俺は目の前の美に対し、知らずごくりと喉を鳴らし……鳴らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「セバスはプレアデスから二人を選び、ナザリック周辺の地理を確認せよ。知的生命体がいた場合、お前の裁量で交渉し友好的にここに連れてこい。行動範囲は周囲五キロに限定。戦闘は極力控えろ。但し交戦した場合は痕跡を残すな」

 

「了解いたしました、モモンガ様。直ちに行動を開始します」

 

「プレアデスを伝令に使え。何があっても情報だけは持ち帰らせろ。行け!」

 

「承知いたしました。我らが主よ!」

 

 一見ロマンスグレーに見えるナザリックの家令、竜人のセバス・チャンはナーベラル・ガンマとソリュシャン・イプシロンを選び、三人は跪拝の後に行動を開始した。主の前で見苦しい姿を見せるわけにはいかない。走るでもなく、しかし勅命を少しでも早く遂行する為、素早く玉座の間を出ていった。

 

 俺は残ったプレアデス四人に命令を伝える。

 

「ユリ・アルファよ。残ったプレアデスと共に九階層に上がり八階層からの侵入者の警戒に当たれ」

 

「畏まりました、モモンガ様」

 

 プレアデスの四人も跪拝すると一斉に立ち上がり命令を遂行すべく玉座の間の巨大な扉を開き出ていった。俺には分かる。済ました顔をしていたプレアデス達だが、押さえきれない高揚で頬を赤くしていた事を。

 

 文言一つ一つの細かな事は覚えてない。だが概ね合っているはずだ。大事な事は早く一人になることだった。

 

 これで玉座の間に残ったのは俺とアルベドのみ。問題はここからだ。一人になってゆっくりと考えたい。普通に考えればバレる可能性は低い。だが相手はアルベドだ。ほんの僅かな違和感から真相にたどり着く危険性がある。そしてこれはデミウルゴスにも言える。だがこの二人を並べてより危険なのはアルベドだ。

 

 俺はアルベドに命令を言い渡そうとした。

 

「ではモモンガ様。私はいかがいたしましょうか?」

 

 すぐ側に控えていたアルベドが微笑みを浮かべて問いかけてきた。主を心から慈しむ微笑み。だが今はこの微笑みが怖い。この後おっぱいイベントがあったはずだが、オーバーロードに肉欲は薄い。そして心に強い情動があれば即座に鎮静される。肉体の接触も極力避けたい。惜しい気持はあるがここは当然スルーだ。

 

「う、うむ……」

 

 絶世の美人と表現される事だけのことはある。きめ細やかな肌、潤んだ瞳、艶やかな唇、そしてたわわな双丘。アルベドの香りなのか甘い匂いも漂っていた。

 

 無いはずの心臓が早鐘を打った様に感じた。流れていないはずの血液が顔と局所に集中した様に感じた。アルベドに見つめられただけで、余りの美しさに心が浮き立った。アルベドという存在に心が、体が大きく揺さぶられた。

 

 何故だ!? アンデッドの特有の種族特性である精神の沈静化が働かない!

 

 俺はスキルで魅了されたかの如くアルベドと見つめ合ってしまった。

 

「モモンガ様……」

 

 堕天の黒翼がばさりと動いた。ゆらりと体が揺れアルベドが一歩、一歩と歩を進めた。

 

 オーバーロードは骸骨だ。表情を作る筋肉なんてものは一切ない。しかしアルベドは骸骨の、あるはずのない表情を読んでいるのではないかと思わせる節があった。見惚れていた事を知られるわけには行かない。

 

 精神の沈静化が働かない今、アルベドの攻勢に耐えられる自信はない。そうなると簡単にボロをだしてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければ!

 

「ア、アルベドよ! お前に命じたい事がある!」

 

 夢遊病者の様に歩を進めていたアルベドの体が止まった。

 

「なんなりとお命じください」

 

 アルベドは守護者統括に相応しい優雅な所作で畏まった。

 

「う、うむ。アルベドよ、各階層守護者に連絡を取り守護階層に異常がないか確かめさせろ。結果は報告書に纏めておけ。その上で守護者達を、一……三時間後に六階層のアンフィテアトルムまで来るように伝えろ」

 

「畏まりました。復唱いたします。各階層守護者に各階層の異常を確認させ、結果を報告書に纏めます。今より三時間後に六階層のアンフィテアトルムに来るよう階層守護者に伝えます」

 

「よし。行け」

 

「はっ」

 

 打てば響く。アルベドは少し早足で玉座の間を後にした。

 

 俺はアルベドの姿が完全に見えなくなったのを確認して、ため息をついた。肺なんて無いので仕草だけだが、幾分か気分は入れ変わった。

 

 玉座の間には俺を除いて誰もいなくなった。俺だけだ。オーバーロードの俺だけだ。

 

「なんてこった……」

 

 右手を見た。白い骨だけになった指に幾つもの指輪が嵌められていた。腕を持ち上げ顔を触った。こつりと音がして骨同士の乾いた音が響いた。眼窩に指を差し込むと何の抵抗もなくすっぽりと収まった。

 

「アインズ様になってるよ!」

 

 左手に持ったギルド武器、『スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』が苦悶の表情を浮かべるオーラを左腕に絡ませた。

 

 俺はアルベドを前にして混乱した。表情が一切出ない骸骨だが、アルベドは俺の混乱を察したのか「どうかなさいましたか?」と声を掛けてきた。やっぱり彼女は要注意だ。

 

 ここに至って俺は漸く確信した。オーバーロードのアインズ様に憑依している。それもユグドラシルからの転移直後のアインズ様に。

 

 その証拠にセバスと六人のプレアデスが玉座に座る俺の前で片膝を落として臣下の礼を取り、左手にはアインズ様が普段は絶対に持ち歩かない禍々しいオーラを纏ったスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン。それらはテレビのアニメで見たワンシーンに酷似していた。俯瞰で見ているか主観で見ているかの違いは問題にならなかった。

 

 俺は混乱の直後に恐怖した。何故なら、何故なら俺はアインズ様の中の人、鈴木悟ではないからだ。ナザリック地下大墳墓を作り上げた至高の四一人の頂点、ギルド『アインズ・ウール・ゴウン』のギルドマスター、モモンガさんの中の人ではないからだ。数多くのNPCを創造し、ユグドラシルに於いて、プレイヤー、傭兵NPC含めて一五〇〇人という大戦力の討伐隊の襲撃を返り討ちにした至高の四一人のまとめ役、モモンガさんの中の人、鈴木悟ではないからだ。

 

 NPC達はリアルの事を知らない。正確にはリアルがどんな世界かを知らない。ナザリック地下大墳墓を去った至高の存在がNPC達を捨てリアルに去った事は認めたくないながらも漠然と理解している。

 

 NPC達は世界の転移前から意識があり、至高の四十一人の会話を記憶している。それはシャルティアがぶくぶく茶釜とペロロンチーノの会話を聞き、ぶくぶく茶釜のリアルの職業が声優だと覚えている事で明らかだ。

 

 至高の存在の会話を覚えているNPCの前で迂闊な事を話せば、疑われる可能性がある。疑われるだけならまだましだ。問題は守護者統括のアルベド、第七階層守護者デミウルゴス、そして宝物殿領域守護者パンドラズ・アクターの三人である。

 

 アインズ様が思いつきで話した計画に対し、異常なまでに深読みし、一が一〇にも一〇〇にも膨れ上がり、アインズ様の無いはずの胃を痛める程の頭脳を持つナザリックが誇る智の三巨頭。

 

 彼らは鈴木悟というリアルの存在を知らない。恐らくモモンガ様がリアルからユグドラシルにモモンガそのままの姿で渡ってきたと思っているのではないだろうか。故に物語の冒頭、転移直後に中の人が入れ替わったとしても気が付くはずがない……とは思えない。

 

 この三人であるならば、言動のほんの僅かな違和感から、中がの人が違う事を看破される可能性を否定出来ない。一を聞けば一〇〇を知る連中だ。絶対に安心出来ない。

 

 もし正体が露見すればどうなるだろうか。中の人が栄光のナザリック地下大墳墓を作り上げた至高の存在の頂点に立っていた存在と違うとわかった時は。間違いなく彼らの逆鱗に触れることだろう。……正直どうなるか分からない。体は間違いなくアインズ様だ。存在を消される事はないだろう。しかしそれ以外は? 自由を奪われ、なんとしてでも中の人を入れ替えようと手段を探すかもしれない。体の自由だけならいい。精神の自由を奪われる可能性は? アインズ様の玉体を大事に扱い、精神が地獄の様な拷問で苛まれるかもしれない。NPC達がしないと思うか? 俺はそう楽観的には思えない。彼らの人間に対する扱いを知っているからだ。

 

 ナザリックに属する者には仲間意識を持つ彼らはそれ以外に対して、非常なまでに冷淡だ。人間牧場では背中の皮を剥ぎ、死体に尊厳はなく資源として淡々と扱う。全ての人間に貴賎はなく、ただナザリックに役に立つか立たないかが判断基準となっていた。

 

 身震いなどしないはずの骸骨の体が寒気を感じ、ぶるりと震えた。そうだ俺は怖かったのだ。怖くて怖くて、一秒でも早く一人になりたかったのだ。目の前で臣下の礼をとるセバス達とアルベドに命令を下し、玉座の間から一秒でも早く立ち去ってもらいたかったのだ。

 

 冒頭の細かな描写は覚えていなかった。だが概ね物語通りの展開で進めたはずだ。彼らが玉座の間から去った今、僅かでも時間を稼げた事に俺は安堵していた。

 

 少し考えをまとめよう。現状分かっていることは以下だ。

 

・オーバーロードのモモンガ様に憑依してしまった。

・事故で死亡した記憶がなければ、神様に会った記憶もない。

・気がつけばモモンガ様になっていた。

・現在のところ疑われている気配はない。

・アンデット特性である精神の沈静化が働いた様子がない。

・同じくアンデットなのに欲情や悪寒といった人間の様な感覚が訪れる。

・感性は摩滅していない。ほぼ人間の時のままだ。

・勃起はしない。そもそもあれは存在しない。

・そして、目の前に浮かぶコンソールに表示されたカウントダウンされながら一〇〇を切りつつある七セグメントの数字……

 

 そう。俺の目の前には浮かぶはずのないコンソール画面があった。しかもカウントダウン付きで。たった今、腕を何気なくフリックした時に出てきたのだ。

 

 俺は唐突に閃いた。そうだ! フレーバー設定を書き換えればいいんだ!

 

 俺はオーバーロードという物語は大好きだが、小出しの設定のみの至高の御方に対して思い入れはない。だから設定を変えるくらいなんとも思わない。そんなものより、俺の命の方が大事だ。

 

 一〇〇を切ったカウントダウン。俺はNPCのフレーバー設定を変えるべく急いでコンソールを操作した。時間はもうない。数字がゼロになればどうなるのか。爆発するのか? 普通に考えればコンソールの制限時間だろう。三人の設定を変える時間の余裕はない。ならば変更するのは一番危険だと思われるアルベドだ。アルベドの設定を変更して、今現在のモモンガに対して何があっても疑いを持たないように書き換えてやる。幸いなことに左手にはスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンがある。これさえあれば他人の創造したNPCに対してギルドマスター権限で設定の書き換えが可能だ。

 

 NPC一覧の項目をタップした瞬間にNPCリストが表示された。スクロールバーが異常に短い。名前でソートされていない。膨大な数のNPCの一覧が一列で順不同に並んでいた。

 

 これは無理だと判断した。一般メイドのホムンクルスですら四一人もいるのだ。この中からアルベドを探し当て、設定を書き換えるのは時間制限がある中では困難だ。同じ理由でデミウルゴスも選択から外した。

 

 慌てるな。まだ時間はある……俺は焦る心を押さえつけて自作NPCの項目を探した。これならば対象は一人。パンドラズ・アクターだけだ。時間は残り七〇カウント。

 

 指をタップしてパンドラズ・アクターのフレーバー設定の編集を行う。モモンガさんにとっては黒歴史でも、俺にとってはそんなもの関係ない。スクロールバーを操作して活字の最後にカーソルを移動させた。

 

『何があろうとモモンガを疑わない。』

 

 編集し終えた俺は更新ボタンをタップした。

 

 終わった……残りカウントは三〇。余裕で間に合った。少し余裕が出来た俺は、ならばと可能な限りアルベドの項目を探してみることにした。

 

 NPCの項目に戻ってアルベドを探した。スクロールバーざっと流した。最悪見つからなくてもいいからざっくりと流し見た。あった。アルベドだ。カウントを気にする余裕はない。設定項目を開いて最終行までスクロールした。

 

 しかしあと少しで最終行が見えるというところで無情にもコンソールは一瞬で掻き消えた。カウントがゼロになったのだ。

 

 俺はコンソールを出そうと腕をフリックした。出ない。もう一度フリックした。コンソール画面は出なかった。

 

「ふぅ」

 

 流れていない汗を拭う仕草と溜まっていない肺の空気を吐き出す仕草。肉体的には何の意味もないが気分の切り替えには十分に意味があった。達成感を示す行為としてはこの場では最適かもしれなかった。

 

 理由は分からないが出ないはずのコンソールが表示され、出ていたコンソールが今はもう出ない。

 

 俺は玉座に深く体を預けた。次にすることを考えるためだ。

 

 この後、物語の流れではアンフィテアトルムでアウラとマーレに接触していたはず。魔法の使用実験をしている内に守護者達が集まり、モモンガ様をどう思っているか聞いていたはず。いや、忠誠の儀が先だったか……はっきりと覚えていない。セバスがナザリック周辺の捜索を終えて現れたのはどのタイミングだったか。

 

 記憶って結構曖昧だな。指示した時間まであと三時間弱。まだ時間の余裕はある。ならばすることは……

 

 俺は指にはめられたリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを起動して転移をする。宝物殿の領域守護者、パンドラズ・アクターに会い、設定書き換えの確認をするために。

 

 俺の名前は聡。アインズ様の中の人、鈴木悟とは一文字違いの鈴木聡。二一三八年のアーコロジー出身ではない。二一世紀の日本でオーバーロードの新刊を楽しみにしていた、ただのサラリーマン、鈴木聡だ。

 

 



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艦隊これくしょん きらきら光る

「私、なんでこんな部隊に配属されたのかしら……」

 

 満潮は海上でひとりぽつりと呟いた。

 

 空は澄み切り晴れ渡り、青い海はきらきらと太陽の粒子を弾き返していた。この海域は深海棲艦から奪還して久しい。赤い海は遥か水辺線の彼方だ。

 

 満潮は作戦海域から帰還の途中であった。

 

 長門を旗艦として以下、瑞鶴、隼鷹、五十鈴、木曽、満潮の六人で艦隊を組み、中破・小破の艦娘はいるもの、深海棲艦の部隊を殲滅。勝利の余韻に浸る艦娘達に気の緩みは許さないとばかりに、戦艦長門が激を飛ばし気を引き締め、整然と編隊を組み泊地への帰還の途についているのだ。

 

 戦闘は激戦だった。運が悪ければ大破が、そして誰かが轟沈したかもしれない。そう、運が良かったのだ。本当に運が良かった。

 

 深海棲艦側の艦隊編成は、戦艦ル級、空母ヲ級、軽巡ホ級、軽巡ヘ級、駆逐ロ級、駆逐ロ級の六隻。奇しくも艦娘艦隊と同数だった。

 

 戦闘を終え、無傷なのは長門ただ一人。瑞鶴、隼鷹、五十鈴は中破し、木曽は小破。満潮は運良く小破未満に留まっていた。満身創痍とまでは行かずともこれ以上の連戦は避けたい所だった。

 

 尤もこの海域は艦娘達の庭だと言っても良い。泊地にほど近く、駆逐艦や潜水艦、空母による偵察機による哨戒が常に行われている。上空では妖精さんが搭乗する零式水上偵察機が翼を上下に振り、艦娘達の無事の帰還にお帰りなさいと挨拶をしていた。

 

 満潮は胸の奥に燻る、澱にも似た重く濁った思いをため息と一緒に吐き出した。

 

 戦場で死ぬかもと思った事は何度もあった。泊地に赴任する以前、鎮守府に所属していた頃の戦闘でだ。しかしそれは個人的な事例だ。自分は死ぬかもしれないが艦隊は生き残る、そういう戦闘だった。

 

 今日の戦闘で覚えた死の恐怖は過去に体験したそれではない。満潮個人の死ではなく艦隊の全滅。全員の死だ。全員死ぬかも、ではない。全員死ぬと思った。全員死んだとも。

 

 満潮はぶるりと体を震わせた。海上を移動する艦娘に、気化熱による体温の低下はあり得ない。水しぶきに塗れながら深海棲艦相手に砲撃戦をするのだ。熱い寒いなど艤装を展開した瞬間に感じなくなく。

 

 体を震わせたのは恐怖からだ。

 

 満潮は恐怖で身を震わせた。艦娘として誕生して、初めて感じた純粋な恐怖を思い出したのだ。

 

「ひゃっはぁー! 帰ったらパーッと飲もうぜ~。パーッとっ!」

 

 我慢しきれなくなったのか、隼鷹が艦隊の艦娘を飲みに誘っていた。

 

「俺に酒で勝負を挑む馬鹿は何処の何奴だぁ?」

 

「バカね、飲み比べは五十鈴の十八番よ」

 

「いいわね。五航戦の本当の力、見せてあげるわよ」

 

 隼鷹に釣られて木曽、五十鈴、瑞鶴が笑顔を見せた。入渠が終われば艦隊の有志で飲みに行くのだろう。だが……

 

「……っ」

 

 そんな艦娘達を長門がじろりと睨んだ。気を抜くなと激を飛ばした長門だ。戦艦として、旗艦として、責任ある立場の長門の眼光は歴戦の満潮をして身がすくむ思いだ。

 

 爆音鳴り響く戦場であっても不思議とはっきり響く長門の大音声は時に味方を奮い立たせ、敵を震え上がらせる。満潮は長門の叱責を覚悟した。

 

「ふっ…この長門を侮るなよ。ビッグセブンの力とくと味わうがいい。全員で掛かってこい。もしも勝てたなら、お代はこの長門の奢りとしようか」

 

 長門の勇ましい言葉に、わー、きゃー、おー、きゃはーと姦しい声が重なった。満潮が長門の横顔を盗み見すれば、先程までの厳しい表情は崩れ、白い歯を見せて笑みさえ浮かべていた。

 

「提督に無事の帰還を報告するまでが作戦だ。泊地まであと少しだ。気を抜くなよ」

 

 この海域で深海棲艦の奇襲などあり得ない。しかし長門は表情とは裏腹に皆の気を引き締める。歴戦の艦娘達だ。言われずとも誰よりも理解しているはずだ。実際に口に出した言葉とは真逆に油断している艦娘は誰一人としていなかった。油断なく周囲の警戒をしているのは満潮の目から見ても一目瞭然だった。

 

 満潮はそんな艦娘達を見ながらため息をついた。

 

「……ほんとに……なんでこんな部隊に配属されたのかしら……」

 

 満潮の視界にも泊地の施設がはっきりと見えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小破以上は高速修復材の許可が出ている。満潮は小破に届いていない。ゆっくりと入渠してくれ。なに、心配するな。店の予約は満潮が全快する予定の時間に合わせている」

 

「そんな心配してないわよ」

 

 艦隊は泊地の桟橋施設から上陸した。上陸後負傷者は入居施設へ、長門は帰還の報告を提督にする必要があった。

 

「そうか。ならばしっかりと傷を癒やしておけ。私は提督に作戦終了の報告をしてくる。今日はよくやったな」

 

 褒められた事と、しっかりと酒席の頭数に勘定されている事が嬉しくもあり恥ずかしくもあり、満潮は頬を染めながらそっぽを向いてしまい、この時の長門の表情を見ることが出来なかった。

 

「ふふ……」

 

 そんな態度の満潮に気分を害する事も無く、素直になれない満潮の態度を可愛いと思ったのか、他に理由があるのか、長門は小さな笑い声を残し颯爽とその場を去っていった。

 

「そういう事だからさ、先に飲んでっからな。ちゃんと来いよ~。今日は満潮の歓迎会も兼ねてるんだからさ。ひひっ」

 

「え?……」

 

 隼鷹が屈託なく満潮の肩をぽんと叩いた。振り向いた時には隼鷹は既に背中を向けていた。

 

「そういう事だ。新参者の飲みっぷりに期待してるぜ」

 

「新しい戦力に乾杯ね」

 

「あ~あ。折角内緒にしてたのに。じゃ、待ってるから後でね」

 

 木曽、五十鈴、瑞鶴がすれ違う度に満潮の頭を肩を背中をぽんと叩きながら通り過ぎていった。

 

 満潮は生来の性格から素直に礼が言えなかった。勿論内心は嬉しい。我慢しきれず嬉しさから口元がによによとする程に。頬が紅潮しやり場に困った手が中空に浮いていた。

 

「……嬉しくなんか……ないんだから……ふんっ……」

 

 嬉しくないはずがない。仲間だと認めてもらったのだから。しかし満潮はとある理由から、自らが彼女たちの仲間だと胸を張って言えない理由があった。

 

 そして、それとは別に理解出来ない一つの思いがあった。それは戦場から帰ってきたばかりの彼女たちの屈託のない態度だ。

 

 満潮は部隊全滅の予感に恐怖した。しかし長門を含めて、満潮以外の艦娘達は全員、戦闘前も、戦闘中も、戦闘後も、誰一人として恐怖という感情を表に出した者がいない。満潮はただただ無我夢中だったが、戦闘中も彼女たちは終始余裕で笑い声さえ上げていた者もいた。

 

 満潮はそんな彼女達にも恐怖を覚えたのだ。戦歴の差、経験の差と言ってしまえば簡単だ。本土の鎮守府から赴任した満潮と最前線の泊地で戦う艦娘の戦闘経験値の差は当然ある。練度も違う。

 

 だが部隊全滅という最悪の死を目の前にして彼女達のように屈託なく笑う余裕など満潮にはない。そこには何か秘密があるはずだ。

 

 最前線の泊地で異常な戦果を上げる司令官。一時期、本土と泊地をつなぐ航路が深海棲艦に遮断され補給も連絡も滞った時期があった。大本営は泊地の全滅を覚悟していた。しかし泊地の艦娘達は独自で航路を奪い返した。信じられない戦果と共に。その上、以後は資源の補給要請は一切なく、それでも戦果を上げ続けているのだ。

 

 日々の報告は送られている。だが大本営の幹部は誰も信じなかった。泊地の司令官は重大な何かを隠しているはずだと。

 

 満潮はその秘密が知りたい。何故なら満潮はその秘密を探るべく大本営から諜報の為に派遣された艦娘なのだから。

 

 満潮の心は複雑だ。それを踏まえても満潮の口から出る言葉は。

 

「……なんでこんな部隊に配属されたのかしら……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「入り給え」

 

 提督が入室の許可を出し、秘書艦の高雄が扉を開いた。その先には満潮が立っていた。

 

 入渠を終えた満潮だったが、歓迎会の約束の時間にはまだ余裕があった。いつまでも心に澱を溜めておくのは満潮の性に合わない。ならば思い立ったらとばかりに満潮は、直接提督と話をしようと決めたのだった。

 

 提督。司令官。

 

 泊地に在籍する艦娘達を指揮する艦隊司令官だ。

 

 第二種軍装に身を包み、目深に被った軍帽からは鋭い眼光が覗いていた。戦闘中に負ったのか、頬にある一文字の傷が印象的だ。司令官は満潮の姿を確認すると執務を続行し書類に決済をしていた。

 

 秘書艦の高雄が執務室に備え付けの応接ソファーに満潮を案内し、自身はお茶の用意をすべく、笑顔を残して同じく備え付けの給湯室に消えた。その際に司令官とアイコンタクトをして頷いていたのが印象的だった。

 

 チコチコと機械式の置き時計から秒針の音が聞こえる。窓の外からは駆逐艦達の甲高い、楽しげなはしゃいだ声が聞こえた。

 

 時間にすれば僅かだった。満潮が何を話そうかと思案が纏まらないままにいると司令官が手にした万年筆を片付ける音が聞こえた。

 

「すまない。待たせたな」

 

「……別に」

 

「そうか」

 

 司令官は気分を害する事もなく小さく微笑むと応接ソファーまで歩き、ローテーブルを挟んで満潮の正面に座った。タイミングを計ったかのように高雄がお茶とお茶請けを満潮と司令官の前に並べ、流れるように司令官の隣に腰掛けた。

 

 少しだけ怪訝に感じた満潮だが、上官のすることだ。そんなものかと流すことにした。

 

 満潮の目の前に座る司令官は、一〇年を超える歳月を泊地で過ごし、数々の武勲を打ち立てている。泊地に着任する以前は鎮守府に在籍し、当時まだ数の少なかった提督達と連携し艦娘を従え、深海棲艦の支配する海域を次々と開放していった。

 

 しかし実績と比べて年齢は意外と若い。まだ三〇を過ぎたか過ぎていないか。その程度である。鋭い眼光の中に優しさが見え隠れし、頬の傷も、時折浮かべる笑みが威圧感を和らいでいた。

 

「高雄の淹れたお茶は相変わらずおいしいな」

 

「ふふふ。提督、ありがとうございます」

 

 満潮の心情を知ってか知らずか司令官は話を急かすこと無くお茶を飲んで寛いでいた。唐突の訪問に執務を中断させられても嫌な顔一つせず、満潮が話すのを待ってくれている。満潮は考えが未だ纏まらない。しかし口に出るがままに任せる事にした。

 

「……どうして……どうしてあの部隊に、私を配属したのよ……」

 

「ふむ」

 

 司令官は手にした湯呑みをローテーブルに置くと、思案するように顎に手を遣った。

 

「満潮君は、あの部隊の者達をどう思う?」

 

「……君はいらない……満潮でいいわ……」

 

「わかった。満潮は長門達と一緒に戦ってどう感じた?」

 

「……変よ、あの人達……」

 

 満潮の回答は辛辣だ。しかしこれでも控えめに言ったつもりだった。泊地に所属する艦娘は大半が、目の前の司令官が建造し鍛えてきた者達だ。中でも満潮が所属する艦隊の艦娘は全員、司令官が建造した艦娘達だ。悪く言われればいい気はしないだろう。それでも満潮は言わずにいられない。

 

 長門以下、瑞鶴、隼鷹、五十鈴、木曽の練度は満潮を遥かに上回り、一対一で演習を一〇〇度行えば一〇〇度負けるだろう。士気も高く、泊地、つまり司令官への帰属意識も高い。轟沈の可能性が高い作戦でも司令官の命令一つで躊躇せず出撃するだろう。

 

 だがそこは問題ではない。練度も最前線の泊地で戦う内に追いつく自信はある。士気も今は心の整理がついていないだけで落ち着けば負けない自負はある。満潮は艦娘なのだから。

 

 轟沈は怖い。怖いが我が身が大事で怖い訳ではない。身を犠牲にすることで艦隊が勝利出来るなら笑いながら沈んでやると日頃からの心構えはあるつもりだ。

 

 満潮と長門達の決定的な違い。それは……

 

「変か。成る程。ふははは」

 

 叱責を覚悟していた満潮だったが意外にも司令官は怒りもせずに笑った。司令官の隣に座る高雄もふふふと笑みを浮かべている。

 

「……なによ」

 

「あぁ、済まない。長門の艦隊に配属した理由だったな。いくつか理由はあるが、満潮が泊地に派遣された目的を果たして貰う為だと言っておこうか」

 

「……え?」

 

 満潮は血の気が引いていく音を建造されて初めて聞いた。背筋に冷や汗が流れ指先が声が震えた。この司令官はどこまで知っているのだろうかと。

 

泊地(ここ)にはそういうのが得意な艦娘がいるんだ。満潮の様子を気にして勝手に調べたみたいでね。尤も彼女の場合は趣味の範疇だけど」

 

 満潮は諜報活動は得意ではない。むしろ苦手だ。自らの気質にもそぐわない。自分に諜報などという命令を下した大本営が間違っている。それ以前に満潮は諜報活動などするつもりなどなかった。仲間である艦娘を騙すように調査を行うなどあり得なかった。

 

 最初命令を受けたときは鼻で笑った。あり得ないと。艦娘である満潮に深海棲艦と戦う以外、馬鹿な命令を唯々諾々と受諾する義務はない。満潮は、機会があれば調べといてあげる、とその場を濁した。転任してしまえばこちらのものだ。馬鹿な命令を聞く義務も義理もなくなるのだから。

 

 艦娘に命令出来るのは司令官のみ。いくら大本営の幹部だとて艦娘の満潮が彼らの命令を聞くはずがない。そこを勘違いしている人間の、なんと多い事か。

 

 だがその命令は満潮の心の隅に残ってしまった。抜群の戦果を上げる泊地の艦娘達。艦娘として満潮にも誇りはある。深海棲艦と戦う事は艦娘として存在意義でもある。そして自らも泊地の艦娘と同じステージに立って戦いたい。満潮は自らの好奇心と向上心から泊地の艦娘の秘密を探ろうとしていたのだ。勿論大本営に報告するつもりなどなかった。

 

「……どうして……どうして知って……」

 

「言っただろ? そういうのが得意な艦娘がいるって」

 

 満潮は顔を伏せた。いつも強気な自分らしくないことは分かっていた。今更大本営は関係ない、興味本位からだと言っても通用しないだろう。後ろめたさも相まり、満潮は司令官の顔が見れなくなった。

 

 どうやって調べたか分からない。分からないが満潮は司令官に恐怖した。まるで全てを見透かされている様に、装甲艤装であるブラウスからサロペットスカートに至るまで全てを剥かれ、裸で相対している様な恐怖を感じた。司令官と戦えば間違いなく満潮が勝つだろう。それは百回、千回、万回繰り返しても同じだ。しかし司令官の強さとは肉体的なものではない。旗下の艦娘を指揮して戦う総合的な強さこそが司令官の力だ。事実司令官の隣には重巡洋艦たる高雄がいる。肉体の性能も練度も経験も圧倒的に負けている。あり得ない仮定の話だが、満潮が司令官に襲いかかれば次の瞬間、床に這いつくばっているのは間違いなく満潮だ。もしかしたら執務室のどこかに、気配を消すのが得意な艦娘が隠れているかもしれない。

 

 俯いた顎からぽたりと汗が膝の上の手の甲に落ちた。誉ある戦場の恐怖とは一線を画する異次元のもの恐ろしさが満潮の心を縛ろうとしていた。

 

「怖がらせてしまったか?」

 

 意外と言えば失礼に当たるのだろうか。司令官の気遣うような優しい声が耳に響いた。いつの間にか高雄が隣に移動し満潮の背中を労るように撫でていた。母性あふれる高雄の大きな胸が肩に触れたが、悔しさを感じる事なく安心感を与えてくれていた。

 

「もう。提督、駄目ですよ」

 

「むう……満潮、済まなかった」

 

 高雄が提督を窘め、司令官が申し訳なさ気に頭を下げた。

 

「さぁ、これを飲んで落ち着きなさい、ね?」

 

 高雄がローテーブルの上に置かれた湯呑みを手に取り満潮に持たせた。湯呑みはまだ十分に温かく、冷えた満潮の手に熱を伝えた。

 

「……おいしい……」

 

「うふふ。お茶を淹れるのは自信があるの」

 

 満潮が美味しそうにお茶を飲む姿を見て高雄の目が喜びで細まった。

 

「それも食べるがいい。甘いくて美味しいぞ」

 

 司令官がお茶と一緒に出されていたお茶請けを勧めた。それは、餅から作った皮で餡を包んだ和菓子の一種だった。

 

 高雄を見れば、微笑みながら頷いていた。満潮はまだ震える指でそれをつまみ口に運んだ。

 

 まず、さくりとした食感が歯に伝わった。そのまま歯を通すと餡のしっとりとした柔らかさに変わった。

 

 美味しい。甘い。

 

 どちらを先に思っただろうか。唾液がじゅわっと溢れ出し、餡の絶妙な甘さを口いっぱいに広げた。甘味などどれも同じだ。大きな違いなどない。満潮は今日からそんな言葉を言えなくなった事に気がついていない。

 

 二口、三口、四口。夢中になり口に次々と運んでいった。この味は決して飽きることがない。食べれば食べるほどに新しい美味しさに気がつく。

 

「何よこれ……何よこれ」

 

 自身が呟いたことも後で聞いて知った。怯えていた瞳に光が灯り震えていた指はしっかりとそれを掴んでいた。

 

 悩んで悩んで体の奥であやふやになりつつあった艦娘としての芯が真っ直ぐに伸びていく。心に抱え込んでいた澱が次々と融けていき、つまらない事に悩んでいた自分が馬鹿らしく思えた。そうだ自分は艦娘なのだ。人間のつまらない勢力争いに巻き込まれる理由なんて無い。一番に考える事は深海棲艦を倒す事だ。倒す? どうやって? 決まっている。真正面からだ。艤装で吹き飛ばしてやるのだ。素手で殴り倒してやるのだ。仲間(艦娘)を助け庇い、司令官を輔ける。その上で満潮としてありまのままをさらけ出すんだ。それが艦娘だ。艦娘の満潮としてのあり方だ。今なら何でも出来る。根拠のない万能感が満潮を包んでいた。

 

 いつの間にかそれを食べ終わっていた。司令官の前に置かれたもう一つは手付かずで残っていた。高雄の前にはない。彼女の分は最初から置かれていなかった。

 

「よければ私のも食べるといい」

 

「提督」

 

「構わない。私にはただ美味しいだけの甘味だ」

 

 物欲しそうな顔をしていたのだろうか。司令官が自らの前に置かれた甘味を満潮に差し出した。高雄が少しだけ羨ましそうな顔をしていたが、これ程美味しい甘味だ。気持は痛いほど理解出来る。だがそればらば何故最初から高雄の分も用意しなかったのだろうか。

 

「何よ? それで私に恩を着せたつもり?」

 

 艦娘満潮としての性が素直に礼を言わせないでいた。これで臍を曲げられて食べれないとなれば痛恨の極みだ。こんな機会は二度とないかもしれないのだから。しかし満潮には何故か漠然とした安心感があった。この司令官になら、ありのままの自分を曝け出してもいいのだと。それは建造されて今まで感じたことのない不思議な感覚だった。

 

「そんなつもりはないよ。私は甘いものが少し苦手なんだ」

 

 司令官は満潮の言いように気を害することもなく笑顔のままだった。

 

 満潮には分かる。これはやせ我慢だ。司令官が苦手な甘味を高雄が出すはずがない。それに、これほどの甘味は万人を虜にする。甘味が嫌いな者でもだ。

 

「あ、そう。じゃ、貰ってあげるわ」

 

 ありがとうと言うつもりだった。しかし口をついた言葉は減らず口だった。満潮は甘味を見る振りをしながら視界の隅に司令官を収めるが気にした様子はない。やはりこの司令官は満潮としての性を曝け出してもいいんだと再確認出来た。

 

「そうして貰えると助かるよ」

 

「ふんっ、どうも。……ありがと……」

 

 減らず口と感謝の言葉。語尾は小さく司令官達には聞こえなかったかもしれない。自身ですらもどかしく、気恥ずかしいがこればかりは治らない。この司令官を前にすれば尚更だ。

 

 満潮は差し出された甘味を手に取り口に運んだ。一つ目と変わらず美味しく、ふつふつと体と心の奥から湧き上がる何かも同時に感じた。

 

「満潮。食べ終わってからでいい。長門達と一緒に戦ってどう思ったか、もう一度教えて欲しい」

 

 満潮はぱくぱくと甘味を咀嚼し、お茶で嚥下しながら今日の戦闘を思い出していた。

 

「……」

 

 勇ましい戦艦長門。頼もしい正規空母瑞鶴。軽快な軽空母隼鷹、凛々しい軽巡洋艦五十鈴、豪胆な軽巡洋艦木曽。

 

 結果だけ見れば、長門は深海棲艦を二隻、瑞鶴が一隻、隼鷹は制空権確保に貢献し、五十鈴と木曽がそれぞれ一隻づつ倒している。満潮も深海棲艦を一隻轟沈させた。

 

 戦闘の結果から殊勲(MVP)は深海棲艦を二隻沈めた無傷の長門が獲得した。

 

「あの艦娘()達、頭がおかしいわよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘開始直後、開幕爆撃で瑞鶴が軽巡ホ級を沈め、空母ヲ級を小破させた。隼鷹の攻撃では軽巡ヘ級が小破。対して艦娘側は流石の練度で全員無傷であった。

 

 満潮はこの時点で勝利を確信した。確信してしまった。それは慢心だったのだ。艦娘艦隊が順調なのはここまでだった。

 

「どうして長門は駆逐艦しか狙わないのよ! 狙うなら戦艦か空母でしょ!」

 

 射程の関係上、最初の砲撃は長門から始まった。

 

『全主砲、斉射!て――ッ!!』

 

 水柱が駆逐艦ロ級の近くで上がった。砲撃は外れたが、距離もあり最初の砲撃が観測射撃の基本となる。後は修正するだけだ。満潮に不満はなかった。

 

 戦艦ル級の反撃だ。満潮の出番だった。射線に割り込み深海棲艦を撹乱するのが目的だった。満潮は直撃を回避するため最大速度で海上を移動した。

 

『ひゃっはー!』

 

 その満潮の前に隼鷹が割り込んだ。長門を狙った戦艦ル級の砲撃で隼鷹は被弾した。

 

「なんで軽空母が戦艦の盾になるのよー!!」

 

 隼鷹は中破し置物になった。上空では開幕爆撃から帰還する術を失った艦爆と艦攻が補給の出来ないままフラフラと飛び回っていた。艦戦はギリギリ機能していた。

 

『やってくれたわね! でもねっ! 五十鈴には丸見えよ!!』

 

 五十鈴の準備が整った。五十鈴の砲撃は戦艦ル級の装甲に弾き返された。

 

「軽巡洋艦がダメージの通らない戦艦を狙っても意味ないわよ! 目の前のヘ級かロ級狙ってよ!」

 

 開幕爆撃から立ち直った空母ヲ級から艦載機が飛び立った。今度こそ満潮の出番だ。満潮は対空機銃を手に艦隊の正面に飛び出た。そして飛び出た満潮の前に瑞鶴が飛び出た。

 

『五航戦、瑞鶴の力! 見せてあげる! きゃー! 私がここまで被弾するなんて!』

 

 誰をかばったのか。瑞鶴が中破し置物になった。上空では開幕爆撃から帰還する術を失った艦爆と艦攻が補給の出来ないままフラフラと飛び回っていた。艦戦はギリギリ機能していた。

 

「攻撃前の空母が前に出て何がしたいのよ! もう! ほんとにもう!」

 

 満潮は慌てた。勝てる戦闘だと慢心したのがいけなかったのか。ダメージディーラーである空母の二人が現時点で戦力外通達されたのだ。

 

『本当の戦闘ってヤツを、教えてやるよ』

 

 ここで準備を終えた重雷装巡洋艦、木曽が満を持して登場した。

 

『喰らいやがれ!』

 

 木曽の砲撃は戦艦ル級の装甲に弾き返された。

 

「だからなんで戦艦を狙うのよ!! 目の前に小破したヘ級と駆逐艦がいるでしょう!! もう! もう!!」

 

 急いで長門に砲撃をしてもらいたいが、次弾の装填まであと少し時間がかかる。深海棲艦はヘ級とロ級二隻の攻撃準備が出来ていた。満潮は再び艦隊の前に飛び出した。自らを囮にして艦隊を護る為だ。

 

 満潮の必死の献身は報われた。小破未満のダメージを受けてしまったが、艦隊に被害は出なかったのだ。

 

 少しでも深海棲艦の数を減らそうと、奮戦した満潮の攻撃はへ級を中破に追いやった。

 

『ふっ、待たせたな。ビッグセブンの力、存分に見るがいい! てーーーー!!』

 

 長門の四一センチ連装砲が火を吹いた。駆逐艦ロ級は轟沈した。

 

「だから戦艦狙ってよ! なんで駆逐艦なのよ!」

 

 戦艦同士の殴り合いは回避された。飛距離の関係上次に来るのはル級の反撃だ。

 

『やだっ、痛いじゃない! でも! これくらいで五十鈴が参ると思ってるのかしら!』

 

 五十鈴が長門を庇い被弾した。幸いにも直撃を免れ中破で済んだ。しかし手にした連装砲の砲身が曲がり、全力の攻撃は期待できなくなった。だが五十鈴の闘志は本物だ。被弾したばかりの体に鞭を打ち、深海棲艦を沈めんと体制を崩したままに攻撃をしたのだ。

 

『バカね、撃ってくれってこと?』

 

 五十鈴の攻撃はル級に直撃し、装甲に弾き返された。

 

「もう! もう! 分かってたけど! もう! このままだと全滅しちゃうってこの時初めて頭によぎったのよ!」

 

 反撃とばかりにヲ級の艦載機が上空を旋回し急降下してきた。狙いは誰だ? 満潮は運が良かった。狙われたのは木曽だった。木曽が普通に被弾し小破した。

 

『やってくれるじゃねぇか。ちょっとばかし涼しくなったぜ!』

 

 木曽が手に持つ連装砲の砲身は一部が曲がっていた。

 

『今度こそ喰らいやがれ!!』

 

 小破し少しだけ肌が露出した木曽が、折れない心のままに、闘志を剥き出しに反撃をした。

 

 木曽の攻撃はル級に直撃し、装甲に弾き返された。

 

「分かってたわよ! ル級を攻撃するんだろうな~って分かってたわよ! でもね! もしかしたらって心のどこかで期待もしてたのよ! 私の馬鹿馬鹿馬鹿!!」

 

 満潮は艦隊の前に飛び出た。囮になるためだ。なんとしてでも艦隊の被害を最小限にしなければと、ただただその想いからだ。

 

 深海棲艦の攻撃を必死で避けながら放った砲撃は中破のヘ級を大破にまで持っていった。

 

「私だって頑張ったのよ! よく、よく……頑張ったんだから……!!」

 

 ここまでの被害を整理しよう。艦娘艦隊は長門が無傷。瑞鶴、隼鷹、五十鈴が中破。木曽は小破。満潮は小破未満だ。

 

 対する深海棲艦は、戦艦ル級と駆逐艦ロ級が無傷。空母ヲ級が小破。軽巡ヘ級が満潮の頑張りで大破。軽巡ホ級と駆逐ロ級がそれぞれ轟沈していた。

 

 分かり易くまとめればこうだ。

 

 艦娘艦隊

   長門  瑞鶴  隼鷹  五十鈴  木曽  満潮

   無傷  中破  中破  中破   小破 小破未満

 

 深海棲艦

   ル級  ヲ級  ホ級  ヘ級   ロ級  ロ級

   無傷  小破  轟沈  大破   無傷  轟沈

 

 こうしてお互い決定打がないまま戦闘は夜戦に突入した。

 

 夜戦は超至近距離での打ち合いだ。故に互いの攻撃が一撃必殺となり得る。つまり駆逐艦である満潮の攻撃ですら戦艦に通るのだ。

 

 満潮はまだ心の奥の奥に甘えがあったのだろう。それはパンドラの箱にも似た淡い期待に縋る一種の現実逃避とも呼べるかもしれない。満潮が悪いのか? そんなはずはない。

 

 満潮は鎮守府では標準的な駆逐艦だった。敵の攻撃の手数を減らし、相対的に味方の攻撃を増やす。そんな戦闘を念頭に置き戦ってきた。満潮だけではない。鎮守府に在籍する仲間の艦娘は全員同じ考えだった。

 

 激戦の最前線、泊地で戦う艦娘達の戦いは満潮の予想を遥かに超えていた。斜めに。

 

『夜戦か。よし! 艦隊、この長門に続け!』

 

 長門の砲身が火を吹いた。砲弾は駆逐艦ロ級に直撃し、闇夜に大きな火柱を上げた。この一撃を以って長門は深海棲艦二隻を轟沈させ殊勲(MVP)となった。

 

「分かってたのよ。分かってたの。でも駆逐艦は期待しちゃいけないの? 戦艦を狙ってよって期待しちゃいけないの? 私は悪くないわよね!?」

 

 深海棲艦の反撃だ。相手は当然、

 

「ル級の攻撃よ。死を覚悟したわ。砲身は私を狙っていたの……」

 

 至近距離からの直撃を喰らえば駆逐艦満潮の体は粉々に砕け欠片も燃やし尽くされるだろう。戦艦ル級の砲身は満潮に照準を合わせていた。恐怖に体が硬直し、満潮は海上を滑る脚を止めてしまったのだ。

 

『何をしている! 戦場で気を抜くな! 常にベストを尽くすんだ!』

 

 長門の大音声が戦場に響いた。

 

 満潮の頭に血が登った。それを言うのかと。

 

 直後、ル級の砲撃が逸れた。満潮ではなく五十鈴を狙ったのだ。五十鈴は探照灯を照らし自らを囮にしたのだ。体の硬直が解け、海上を滑るように移動した。

 

 探照灯は砕け星空が海上を照らした。

 

 五十鈴は無事だった。練度の高さを存分に活かして神回避を行ったのだ。

 

「……この時初めてこの艦隊の練度が凄いって分かったわ。最初で最後だったけど……」

 

『五十鈴のいい所見せてあげるわ。沈みなさい!』

 

 軽巡ヘ級、轟沈。

 

「もう期待するのは止めてたわ。だってこの時点で残っているのがル級とヲ級だけだったんだもの。私だったらヲ級狙ったけどね……ははは……あははは……」

 

 深海棲艦の反撃だ。しかし夜間攻撃だったこともあり、ヲ級の艦載機の攻撃は要領を得ず回避は簡単だった。

 

『お前等の指揮官は無能だなぁ!』

 

 重雷装巡洋艦木曽の本領は夜間にある。木曽は大量の魚雷を至近距離からばら撒き、面制圧とも呼べる攻撃はヲ級をあっさりと轟沈させた。

 

「感想? 予想通りとしか言えないわね……今まで執拗にル級を狙っていたのは何だったのかとはもうどうでもいいわ」

 

 超至近距離からの攻撃だ。普段は非力な満潮の攻撃もこの距離ならば絶大な威力を発揮する。満潮の連装砲はル級の土手腹に風穴を開け、ル級は轟沈した。

 

「もうね、乾いた笑いしか出なかったわ……後は長門が気を抜くなって檄を飛ばして帰還したわ……なんでこんな部隊に配属されたのかしらってずっと考えながら……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 満潮は手にした湯呑みをことりとローテーブルに置き、語りを終えた。甘味はとうに食べ終わっていた。

 

 誰も口を聞かず、執務室に静寂が訪れた。

 

「もう! なんなのよあれは!? 全滅するかと思ったじゃない! 一体どういう指揮をしているのよ!!」

 

 静寂を破ったのは満潮だ。椅子から立ち上がり拳を握りしめていた。もちろん司令官を殴るはずもなく、行き場のない想いが拳の中に充満しているのだ。

 

「満潮」

 

「何よ!」

 

 司令官の指揮を疑う。艦娘にとってはあってはならないことだ。満潮とて本心で疑ってはいない。きっと理由があるはずなのだ。自らの性を曝け出せる安心感と、先程から続く不思議な心の高揚。この二つが相まって満潮は叫ばずにはいられなかった。

 

「満潮が立っている場所。そこはかつて私が立っていた場所だ」

 

「なにそれ、意味分かんない」

 

 司令官は目深に被った軍帽に手を遣った。被り直すのだろうか。いや不自然だ。それ以前にどうして室内で軍帽を被っているのだ。

 

「私もかつて満潮と同じことを考えていた。何故駆逐艦ばかりを狙うのだ。何故ダメージの通らない戦艦を狙い続けるのだ。何故攻撃前の深海棲艦を攻撃しないのだ。何故攻撃の終わった敵ばかり執拗に攻撃するのかと。何故。何故。何故何故何故」

 

「提督……」

 

「司令官の指揮が悪いのね、きっと」

 

「満潮!」

 

「いいんだ高雄。満潮の言う通りなんだ」

 

 司令官は激高しかけた高雄を宥めた。自分で言っておきながら満潮は司令官の力を疑ってはいない。異常な戦果を上げ続ける泊地の司令官が無能な訳がないのだから。

 

「何度も話あった。彼女たちは素直だ。ちゃんと聞いてくれる。だが結果は同じだった。私は悩んだ。提督としての資質すら疑った」

 

 司令官は軍帽のつばを掴んだ。優しかった眼差しが鋭いものに変化していた。

 

「悩んで悩んで悩み抜いて……そして……」

 

 司令官が軍帽を脱いだ。

 

「禿げた」

 

 司令官の形の良い頭部に毛髪は一本も生えていなかった。窓から差し込む陽光が頭皮に反射してきらきらと光り、室内の明度が上がったように感じた。

 

「あ? え?」

 

「満潮。必要以上に悩んではいけない。私のように禿げてしまうぞ」

 

「提督! 大丈夫です! 少しだけ大きな円形脱毛症です! 他の方より額が少しだけっ! ……大分広いだけです! きっと! きっとまた生えてきます! それに! それに肌面積が増えた提督も素敵です!」

 

「高雄。それ以上私の心をえぐらないでくれ」

 

「ごめんなさい!」

 

 高雄が慌てて慰めた言葉は司令官の心を傷つけたようだ。満潮は何を言っていいか言葉が出ない。

 

 またしても静寂が執務室を包んだ。

 

「くくく……」

 

「うふふ……」

 

「え? え? なに?」

 

 静寂を破ったのは司令官と高雄の笑い声だ。

 

「あらあら。提督の鉄板の飛び道具不発ですわね」

 

「そうみたいだな。長門達は爆笑するのだが……」

 

 司令官と高雄はお互い見つめ合い、何やら残念そうに呟いた。

 

「え? え?」

 

「済まない。冗談だ。いや、悩んで禿げたのは本当だが、気にしていない」

 

「え? え?」

 

「場を和まそうとちょっとした悪戯だ」

 

「提督の鉄板ネタなの」

 

 満潮はやっと理解した。誂われていたのだと。

 

「何考えてるのよ!」

 

「場が暗くなったのでな……」

 

「ごめんなさい」

 

 二人して頭を下げる姿に脱力して、満潮はこれ以上責める気が無くなってしまった。司令官の頭頂部がきらきら光り、思わず吹き出しそうになってしまったのもあった。

 

「話の腰が折れてしまったな」

 

「折ったのは誰よ」

 

「それはさて置き。満潮、もう分かったのではないか?」

 

 司令官は軍帽を被り直し、居住まいを正すと、満潮ならば既に理解を得ただろうと問いかけてきた。満潮が執務室に来訪してから、満潮が望んでいた答えに至る材料は全て揃っていると。

 

 満潮は体が震える想いだった。鎮守府から泊地に移籍し、泊地での活動はまだわずかだ。しかし司令官は満潮という存在を理解してくれ、信頼し、大本営が暴こうとしていた泊地の秘密を教えてくれようとしていた。

 

「……今食べた甘味ね」

 

 満潮は空になったお茶請けの皿を見ながら言った。司令官は満潮の答えに頷いた。

 

「そうだ。これは最中だが他に羊羹もある。最中と一緒に食べることで効果は倍増する」

 

 満潮は思った。羊羹、食べたいと。口腔にじゅわっと唾液が溢れた。

 

「どういう事なの?」

 

 今食べた最中だけでも、落ち込んでいた満潮の気持は持ち直し、それどころか艦娘としての本来の自分を取り戻すに至った。自らの性を出せる艦娘は強い。身体的な強さが変わるわけではない。変わらないが精神が安定し、それが身体に影響を与えるからだ。負荷(ストレス)のない生活は戦いにも影響する。

 

 満潮は羊羹食べたいと、口元から溢れた唾液を拭いながら尋ねた。

 

「これは伊良湖の最中だ。ここには無いが羊羹は間宮が作る」

 

「伊良湖……間宮……補給艦ね」

 

「そうだ。ここの泊地で建造に成功した。海軍で唯一の成功例だと言っていいだろう。羊羹が疲れを癒やし、最中が心を高揚させる」

 

「心が高揚した艦娘は命中率や回避率が格段に向上するのよ。それと遠征での資源獲得効率が著しく向上したわ」

 

 高雄が司令官の説明を補足した。精神は身体に影響を及ぼす。これは艦娘とて同様だ。しかし満潮には疑問が残る。

 

「まぁ、今回は運が悪かったな」

 

「運?」

 

 表情から考えていることを読まれたのか司令官が満潮の疑問を解消する。

 

「長門達は、新しく配属された満潮にいいところを見せようと力んでいたんだろう。普段はもっと当てるし避けるからな」

 

 あぁそうか、と満潮は納得するものがあった。満潮に聞こえる様に声を張り上げ、ちらちらと見られている気がしたのだ。あれはただ張り切って空回りしていたのだと。空回りした結果、長門は駆逐艦を、五十鈴と木曽はジャイアントキリングを狙って戦艦を狙っていたのだと。

 

「長門も時々駆逐艦以外を狙うし、稀に戦艦を初撃で落とす事もある」

 

「時々? 稀?」

 

「あぁ。時々稀に」

 

 満潮の淡い幻想はあっさりと打ち砕かれた。

 

「なんで駆逐艦を狙うのよ!」

 

「考えるな。禿げるぞ」

 

 司令官は軍帽を脱いで満潮に警告した。何という説得力だろうか。

 

「うくっ、卑怯よそれ」

 

 満潮は笑いそうになり口元をを押さえた。先程と違い心に余裕に出来た為か飛び道具としては有効なのを理解出来た。

 

「こんなに凄いんだから食堂で通常メニューに出せばいいのに」

 

 そうなれば満潮は毎日、毎食食べる事だろう。艦娘なので太る心配は無用なのだ。

 

「貴重なんだ。普段から常食するだけの数を用意出来ない」

 

 又しても満潮の幻想は打ち砕かれた。世間は甘味のように甘くないのだ。殊勲(MVP)の報酬として甘味は司令官から渡される。長門はその報酬を艦隊の艦娘達に配っていたのだ。

 

「……残念だわ。あ、そうか。だから高雄は食べなかったのね」

 

 満潮と司令官にだけ出されたお茶請けの最中。最初から高雄の分は用意されていなかった。

 

「違うわ。今は秘書艦だからよ。出撃する時は勿論頂きます」

 

「執務中に、『馬鹿め、と言って差し上げますわ』とか言って欲しくないからな。私に被虐趣味はない」

 

「もう。提督ったら」

 

「おっとこれは失言だったな」

 

 きゃっきゃうふふと高雄がボディタッチを駆使して提督を咎めた。その声、姿には艶があり、二人が只ならぬ関係であることを想像するのは満潮であっても容易であった。

 

 艦娘と司令官が一線を超える関係になることは稀とまではいかないが、儘あることだった。むしろ積極的にアピールする艦娘は多い。そしてそれは人間によくある男性側の勘違いといったものではない。

 

「ごほっごほ! うぅん!」

 

 満潮は司令官と艦娘の関係を否定するつもりはない。満潮とていつかは司令官とごにょごにょと夢見ているのだから。ただ、今はTPOを弁えて貰いたい。

 

「これがこの泊地の秘密なのね?」

 

「秘密と言う程の秘密でも無いんだがな。大本営には当然報告している」

 

「何よそれ。私はそれを調べろって言われたのに。あっ! そんなの報告するつもりは無かったんだからね! ただ自分が知りたかっただけなんだから! 勘違いしないでよね!」

 

 書類上も心情的にも満潮は既に泊地所属の艦娘だ。大本営の指令など既に知ったことではない。だが、目の前の司令官に勘違いされるのだけは絶対に避けたかった。

 

「大丈夫だ。満潮を信頼している」

 

 信頼。その言葉は満潮に絶大な安心感を与えた。

 

「ふ、ふんっ。ならいいわ」

 

 満潮は照れ隠しにそっぽを向いた。

 

「人間というのは不思議だな。艦娘というこれ以上ない不思議な存在を前にして甘味一つの力を信じないなんてな」

 

 深海棲艦は謎だが艦娘もまた謎である。人類を助けに現れた古い時代の艦船の名を持つ戦女神。深海棲艦の猛攻を受け、人類は滅びを避けるため藁をも掴む想いで艦娘達の手に縋り、一息付ける段階に至り、力を利用しようとしている。謎は謎、不思議は不思議のままに。しかしそれでも理解を超える現象については受け入れられないのだ。あり得ないと。そんな馬鹿な話は信じないと。深海棲艦を、艦娘を前にして。

 

「時間だな」

 

 司令官が時計を見て言った。執務開始の時間ではない。飲み会と言う名目の満潮の歓迎会の時間が迫っていた。

 

「ごちそうさま。貴重な甘味……ありがと……」

 

「どういたしまして。困ったことがあればいつでも来てくれ。大抵はこの部屋にいるから」

 

 小さく呟いたつもりだったが司令官には聞こえたようだった。頬を染めた満潮は「ふんっ」と虚勢を張りながら執務室を出ていった。

 

 執務室には司令官と高雄の二人になった。

 

「今は呆れているようだが、泊地(ここ)に染まれば満潮も……」

 

「時間の問題ですね」

 

 ふふふと、二人は見つめ合い笑った。

 

「さて、執務の続きだ。高雄、頼むぞ」

 

「はい」

 

 膝を叩いて立ち上がる司令官。頷いてその後に続く高雄。

 

 その晩、司令官の下に、甘味の効果もあり、歓迎会で気分が更に高揚した満潮が、艦娘達の『みっちしお』コールに押し負け、那珂の持ち歌、『初恋!水雷戦隊』を熱唱したとの密告が映像付きで届いた。

 

 そこには長門から本当の殊勲は満潮だと、伊良湖の最中を手渡され、顔を真赤にした満潮が写っていた。顔が赤いのはお酒か照れからか。

 

 この日から満潮は泊地に所属する艦娘全員から仲間として心からの信頼を受けるに事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 ――一年後。

 

「見つけたわ。ウザイのよ! 蹴散らせ!!」

 

 満潮は昼戦でジャイアントキリングを狙い戦艦ル級に狙いを定め、装甲に攻撃を弾き返され。

 

「バカね。その先にあるのは、本当の地獄よ」

 

 夜戦で見事ジャイアントキリングを果たし。

 

「手ごたえのない子!」

 

 新しく鎮守府から赴任し目を白黒させる曙の前で、自らがされたように啖呵を切り、艦娘らしく戦う姿を見せていた。

 

「この部隊に配属されたからには……力を尽くすわ!」

 

 泊地の秘密は今日も明かされていない。

 

 




詳細

並び  長門 瑞鶴 隼鷹 五十鈴 木曽 満潮

   戦艦ル級 空母ヲ級 軽巡ホ級 軽巡ヘ級 駆逐ロ級 駆逐ロ級
---------------------------------------------------------------------
開幕       小破   轟沈   小破
爆撃       瑞鶴   瑞鶴   隼鷹

一巡       小破   轟沈   中破
                   満潮

二巡       小破   轟沈   大破        轟沈
                   満潮        長門

夜戦  轟沈   轟沈   轟沈   轟沈   轟沈   轟沈
    満潮   木曽        五十鈴  長門



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魔法少女リリカルなのは A's bookmark

自分ではよくわかりませんが、念の為アンチ・ヘイトタグ追加しました。

鬱っぽいのでご注意を。


 信じないかもしれないが、いや、信じなくてもいい。そんなこと慣れている。俺には赤ん坊の頃の記憶がある。断片的なものや連続した記憶。少しあやふやな部分もあるがそれは成長してからの記憶も同じだ。さすがに産まれた瞬間の記憶はないが。最初の記憶は腹が減って泣いていた事だ。

 

 多分一歳にもなっていない頃だ。生後半年くらいか。その頃にはあやふやながらにも自我というものは出来つつあった。腹が減って減って泣いて泣いて。返事は罵り合う怒鳴り声だった。勿論言葉の意味は分からない。分からないが声色に乗った悪意の感情は十二分に伝わっていた。

 

 夫婦喧嘩だ。時々がちゃんがちゃんと物が飛び砕ける音。野太い男の声。きぃきぃと甲高い女性の声。いい加減何か食わせてくれとぎゃんぎゃん泣く俺。叫び声と一緒に小さくて堅い何かが俺に飛んでくる。遠くでガラスの割れる音。男の叫び声。女のがなり声。何かが壊れる音。

 

 俺のくそったれの人生はこうして始まった。

 

 後はご察しの通りだ。両親は別れ、母親は俺を引き取らなかった。正しい判断だ。父親は養育費なんて絶対に払わない。父親も俺を育てるつもりなんてない。俺は父方の祖母に引き取られた。

 

 祖母は平等な人だった。全ての人間に対して平等に暴言の言葉を吐いた。自分の息子の、出ていった女の、世間の、俺の。一歳にならない内から耳元で毎日呪詛の如き罵詈雑言を聞かされた。

 

 別に祖母が悪い訳じゃない。そういう気質の人だ。第三者が聞いているはずもなく、会話も出来ない乳飲み子が一人いるだけだ。祖母もまさか赤子が言葉を聞いているとは思わなかっただろう。この頃になると、ざっくりと言葉の意味を理解していた俺は、祖母の悪口から両親が別れた理由を知った。ろくでもない話だったとだけ言っておく。

 

 まぁそれでも祖母には感謝している。父親は育児なんてするはずもない。祖母がいなければ放置され死んでいただろう。

 

 その祖母も俺が小学校に上る前に他界した。葬式の後親戚一同が集まって俺の扱いを相談するが押し付け合いと非難合戦で最終的に父親が引き取ることになった。父親以外、誰もが納得する結果だ。俺? どうでもよかった。

 

 父親の機嫌次第でたまに暴力を受ける以外は概ね平和な生活の始まりだ。父親は基本、俺には不干渉。つまり飯も自分で用意しなきゃならない。金なんてない。だから父親の財布からバレないようにくすねていた。俺が今まで重ねた悪事はこれだけだ。誓ってもいい。何に? 知るか。

 

 噂が広がるのは早い。時々顔を腫れさせて登校する俺に同級生も教師も遠巻きに避ける。目つきが悪い。口が悪い。怪我が絶えない。これだけで小さな子供が避けるには十分だ。親も俺には近づくなと言っている事だろう。教師も面倒事はごめんだ。人間だものな。

 

 ただ俺が注目されるイベントは年に数回必ずあった。どこかのガラスが割れた。誰々が大切にしている文房具がなくなった。鳥の死骸が道路に転がっていた。他にも沢山。

 

 先入観で見れば俺が犯人だと思うんだろう。ありえない目撃証人まで出てくる。一人が言えば、俺も見た、私も見た。へぇそうかい。スゲェな。俺は二人も三人もいるのか。俺も会ってみたいもんだ。

 

 教室で吊し上げをくらって職員室でさらに説教だ。俺の態度も悪い。聞く気なんか最初からない。言い訳もしない。しても無駄だからだ。俺は愚者だから経験則を大事にする。

 

 暫くして犯人が判明すると、よかったね、怖かったね、で終わりだ。誰も本当の犯人なんて気にしていない。ただ、圧倒的な社会的弱者が目の前にいるから遊んでいただけだ。俺はおもちゃか。ちょっとした仕返しもあったのかもしれない。

 

 物理的ないじめだけは受けなかった。小学校自体が罰ゲームみたいなもんだ。陰口はあっても殴られるようないじめはない。徹底的にやり返したからだ。法律にも正当防衛なるものがあるらしい。やられたら身を護るためにやり返していいと都合よく解釈している。体のどこをどうすれば効果的に痛められるか、こっちは父親に身を以って体に教え込まれている。校長が出てこようが親が出てこようが関係ない。こっちの親は最初から顔すら出さない。

 

 クソみたいな小学校生活だったが義務教育とは素晴らしい。こんな俺でも中学に進学出来た。環境が変わっても俺の評価は変わらない。そりゃそうだ。俺を知ってる人間はいくらでもいた。この頃からだ。誰も知らない場所に行きたい。誰も俺の事を知らない場所で生きたいって考えるようになった。

 

 未成年で中房のガキが粋がってもまともに金を稼げるはずがない。最低でも中学を卒業する必要がある。生活の基盤がない。短絡的に俺は職人になろうと考えた。料理人だ。ずっと自炊してきたから刃物の最低限の扱いは心得ている。

 

 俺は三年間我慢した。この生活から抜けてやるとそれだけを考えながら。

 

 中三の冬。生まれて初めて運が向いた。手当たり次第に掛けまくった電話で話を聞いてやると言われたのだ。週末に顔を出せと。電車で一時間の距離にその旅館はある。旅館を選んだのは住み込みで生活できればいいと考えたからだ。教師になんて相談してない。どうせまともな進路指導なんて受けていない。するだけ無駄だ。これだけは絶対の信頼感があった。

 

 くそったれの人生でやっと運が向いて来た。それくらい思ってもいいだろ? 

 

 電車賃だけを握りしめて電車に乗った。駅から下りて約束した旅館まで向かった。俺は浮かれていたんだ。面接に成功してあの家、あの町からやっと抜け出せる。誰も知らない場所、誰も俺を知らない場所でやり直せるって。

 

 でも天にいる誰かさんはそんな俺を許さなかったらしい。あぁ。神なんていない。そんな事は分かっていた。天国なんてもんもない。あるのは地獄だ。その証拠にほら。目の前に鬼がいた。あり得ない仮装みたいな服を着て、赤みががった桃色の髪の色で、胸のでっけぇ冷たい目をした地獄の獄卒が。

 

 

 

 

 

 

 

 違和感があった。むずむずとかぞわぞわとか、説明が難しい。さっきまでいた通行人が急に誰もいなくなった。目の前を歩いていたサラリーマン風の男が急に消えたのだ。曲がり角を曲がった瞬間だ。振り返っても人っ子っ一人見当たらない。

 

 いるのは俺と女の二人。目の覚める色の髪をポニーテールに纏め、外套みたいな白の羽織。前垂れのついた赤いインナー。手には実用性のなさそうな剣。

 

 年の頃は二十歳を超えるか超えないか。ちょっと見たことが無いくらい美人だ。俺はテレビを殆ど見ないがモニターの向こうでもこれ程の美人は見たことがない。瞬間的に俺は見惚れ……ない。

 

 踵を返して走って逃げた。目がやばかった。完全に逝ってる目だ。睨む瞳は完全に俺を標的にしていた。逆恨みされる覚えは山ほどあるが、一度見れば忘れられないくらいの美人に恨まれる覚えだけはない。何より接点なんか皆無だ。

 

 盲目的に視覚狭窄的な目をした奴は何をするか予想が出来ないし言葉も通じない。三十六計逃げるに如かず。

 

「っがっ!!」

 

 ()から衝撃を受けて体がブレた。俺は生まれて初めて宙を滑った。緩い放物線を描いて地面に落下し、じゃりじゃりとアスファルトに上着を削られた。冬でなかったらこれだけで大怪我だ。

 

 滑りながら跳ね起きた。慣性で滑っていき摩擦で靴の裏から煙があがった。ぐわんぐわんする頭で前を見ると女がいた。逃げていた方向だ。後ろを振り向くと女は当然いない。双子じゃないのだけは理解した。

 

 意味が分からない。分からないがすることは逃げる事だ。考える事は後でも出来る。振り返って走り出した。

 

「ぐはっ!!」

 

 三歩目で後ろにいるはずの女に前から殴られた。瞬間移動でもしてるのかよ!

 

 腹にいいのが入って、昼に食べたトースト二枚が胃液と一緒にリバースした。もったいねぇ。

 

 後ろにブレたお陰で吐瀉物は俺を汚さなかったが女も汚さなかった。女の服に掛かる前に燃えた。おい。なんだそれ。ありえねぇだろ。

 

 あまりにいいのを貰ったせいで膝が震えて動けなくなった。呼吸もまともに出来ない。こんなの父親にも貰った事がない。

 

「抵抗するな。無駄に傷つくだけだ」

 

 初めて女が口を聞いた。暴行犯はみんなそう言うんだよ。目と一緒で冷たい声だった。動けないから唾を吐いてやったらまた殴られた。もう動けない。背中から倒れて頭がごちんとアスファルトにぶつかった。

 

「ぐぅ!」

 

 腹に脚を乗せられた。見た目は細いが馬鹿みたいに重い脚はびくともしない。尤も三発くらって頭はぐらぐら、脚はふらふら、体はびりびり痺れてとっくに動けないけど。

 

 股間がじわぁと熱くなっていた。これは失禁してるわ。恥ずかしいとか思う前に面接いけねぇじゃねぇかと絶望感に襲われた。

 

 ……現実逃避だ。怖くないはずがない。いきなり訳のわからない女に襲われて地面に押さえつけられて失禁してるんだ。はっきり言おう。体が震えていた。この頭のおかしい女に殺されるのかと。あの剣で殺されるんだと。

 

 なんでこんな目に合うんだ。俺はただあの町を出て行きたかっただけなのに。じわりと涙が出た。腕にはそれを拭う力もない。出来ることは女を睨む事だけ。本当にささやかな抵抗だ。

 

「お前に恨みはないが、その魔力貰い受ける」

 

 やっぱり女は頭がおかしい。キ印だ。頭おかしいから人を襲うのか。心臓か脳に魔力ってのがあるって思い込んで、その剣でほじくりだそうってか。下から数える方が早いくらい最悪な死に方じゃねぇか。

 

 女が本を手にした。どこにあったそんな本。鈍器になりそうなくらい分厚い、表紙に十字に似た記号があるどこか禍々しい本。

 

「……」

 

 女がなにか呟いた。耳が遠くなって聞こえない。酸欠で視界が歪んでいた。また表現しようがない感覚が来た。むずむずとかぞわぞわとかを通り越して体から何か大事な物が抜けていく感覚。歪む視界の中で黒い光が粒になって浮いていた。それは俺の体から次々と現れては女が手にした本に吸い込まれていく。

 

 やめろ!

 

 声が出ない。理解なんか最初から出来ていない。黒い光が抜け出す度に、僅かに残っていた体中の力が抜けていく。

 

 命。

 

 あれはきっと俺の命だ。生命力とかそういう物だ。あれが全部なくなると俺は死ぬんだ。嫌だ。死にたくない。最初から最後まで最悪の人生じゃねぇか。いいことなんて一つもねぇ。生きる為に父親の財布から金をくすねるのがそんなに悪いことか。もっと悪い奴なんかいくらでもいるだろ! 殴られて汚物に塗れて頭を砕かれて心臓をえぐり出されて、なんかわからん命まで搾り取られて死ななきゃならないくらい悪い事を俺がしたか!?

 

 女が俺を睨む。この期に及んで冷たい目だ。あれは人間の目じゃない。もう何人も殺してるんだろ? 俺は何人目だ? この殺人鬼め! 鬼! 悪魔!

 

 視界がどんどん暗くなってきた。あぁこのまま死ぬのか。頭に誰も思い浮かばない。俺が死んでも誰も悲しまない。今までどうでもいいと思っていたけどそれが悲しくて涙が次々と溢れてきた。もう真っ暗だ。何も見えない。くそったれ! 最期に思うのがくそったれか。俺らしくて……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた。病院のベットの上だった。血の気が引いた。入院代なんて払えない。サイドボードに置いてあった紙切れにいつか払うと走り書きしてベットから飛び出した。看護師に見つかり声を掛けられたが無視して走る。受付にあったゴミ箱から新聞が飛び出しているのを見つけ、掴んで病院を飛び出した。

 

 まだ昼だった。病衣を着ているので奇異の目を向けられるが気にしない。その内気にしなくなる。いつもの事だ。しばらく走って建物の影に隠れた。新聞の日付を見た。四日経っていた。通り魔の記事はどこにも載っていない。

 

 俺は新聞を捨てて自動販売機を探した。三つ目で目的を達成した。おつりを落とした人に感謝だ。俺は三〇円を握りしめて電話を探した。これには苦労した。電話がなかなか見つからない。三〇分かけてやっと見つけた。電話帳で該当の番号を探してコールする。直ぐに繋がった。

 

「約束をすっぽかした上に連絡も入れない。そんな奴は信用出来ない」

 

 旅館の料理長に面接を断られた。言い訳はしない。しても無駄だ。俺は愚者だから経験則を大事にしている。たった一言謝罪の言葉を述べただけで電話が切れた。

 

 つーつーと鳴る受話器を置いた。ジングルベルが聞こえた。もうすぐクリスマスだ。最高のプレゼントをありがとうサンタさん。

 

「くそったれ」

 

 思ってたより小さい声は自分でも驚くほど力がなかった。俺は電車で一時間かかる距離を歩いて帰った。他に行く場所なんてない。それを探していたんだから。十二月の寒空の下、病衣だけで歩いた。無心で。何も考えないようにしながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 年が明けて一月。俺は普段通り中学校に通っていた。周りは受験の話でぴりぴりしている。俺には関係ない。

 

 あの日、結果的に生まれて初めて学校をサボった形になったが、教師含めて誰も気にしなかった。俺も気にしてない。今更だ。

 

 教壇では教師が眠くなる呪文を唱え、数人がこくりこくりと首を項垂れていた。

 

 机の上で鉛筆がころりと転がった。

 

 俺は何故助かったのかとあれからずっと考えていた。偶然誰かが通りかかって助けてくれたのか。不可能だ。あの鬼の強さは不思議な力もあって人間の範疇を超えていた。世界一の格闘家でも素手では敵わないだろう。

 

 では同じく誰かに見つかり逃げた? 可能性としてはあるか。奴は顔を堂々と俺に見せていた。それは見られても構わないからだ。殺してしまえば顔を見られても何ら問題ない。では何故俺は生きている? 止めを刺してから逃げるのではないか? あの逝った目。殺す事に躊躇はしないだろう。では何故?

 

 消しゴムがするすると横に滑った。

 

 予想外の事が起こったか、それとも目的を達したのか。目的? あの鬼は『魔力を貰う』と言った。魔力。

 

 余程強く想ったのか、筆箱がかたりと動いた。

 

 あの日から俺の日常が少し変わった。変な力が身についたのだ。超能力とでも言えばいいのか。机の上の文房具を動かしているのもそれだ。

 

 むずむずとかぞわぞわとか表現しようのない感覚を俺の体の中から感じたのだ。少し違うか。今までそれは俺の中に在った。感じることが出来なかっただけで。黒い光の粒子が俺の体から出ていった時の事を思い出していると、それが俺の中にずっとあったのを唐突に理解した。かといってこれが何かは分からない。あの時は生命力だと思っていた。だが鬼は言った。魔力と。

 

 じゃあ、今机の上で文房具が動いているのは魔法か? 念動力じゃなくて? 仮に魔力だとして、今は自在に取り出せるわけじゃない。こつがいるのか、何をという訳じゃないが、頑張っても出ない。むしろ力むと出ない。逆に意識せずに自然体でいる時に取り出せる事が多い。だからと言って何が出来るって訳じゃない。今は軽いものが動く程度だ。

 

 消しゴムを滑らせながら俺は思う。住み込みで働ける場所は今も見つからない。電話をしても断られてばかりだ。あの鬼がやっと向いてきた俺の運まで吸い取ったとしか思えない。

 

 教科書が浮いた。新記録だ。手品師ならなれそうだな。種も仕掛けもございませんってね。……馬鹿らしい。

 

 あれから鬼の姿は見ない。通り魔のニュースすらない。偶然運悪く俺だけが狙われたのか、それとも死体が見つからずニュースになっていないのか。それなら助かった俺は運が良かったのか。もう訳が分からない。

 

 手が震えていた。正直俺は怖い。鬼の顔を見たのだから。今でもはっきりと奴の顔を覚えている。顔を見られた俺を殺そうと奴が動いているのではないか。そう考えることがある。遠く離れた街で襲われた。身分証明書の類を持っていなかった。常識的に考えて俺を特定する方法はない。だが鬼は不思議な力を使った。魔力……魔法とかいう奴かもしれない。

 

 だとすれば距離の離れたこの町にいても見つかる可能性はある。見つかった時、正面からぶつかっても勝てる見込みはない。あの時最初の衝撃から殴られるまで何をされたかすら分からなかったのだから。

 

 鉛筆が机の上で転がった。

 

 ろくでもないクソッタレな人生だが、俺は死にたくない。どうせこの先もろくなことが無いことは分かっている。それでも俺は死にたくない。ゲロに塗れて自分の汚物で汚れても、俺は死にたくねぇんだよ。

 

(つかさ)

 

 教師が俺の名前を呼んだ。珍しい事もあるもんだ。雨でも振るんじゃねぇか。教師と目があった。教師のメガネにピシリと罅が入った。どっと笑う同級生。俺は笑わなかった。笑えなかった。体から黒い光の粒が少しだけ出ていた。同級生には見えないらしい。

 

 決めた。殺られる前に殺る。あがいてあがいて、それでも駄目なら仕方ない。最低でも一矢は報いる。今度はちびらねぇ。笑って死んでやるぜ。歯を剥き出して俺はにやりと笑った。

 

 机の上で鉛筆がぽきりと折れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのっ! ちょっと話ええでしょうか?」

 

 案外機会は早く来た。二月の終わりだ。車椅子を押す金髪の女性。その車椅子に小学生の女の子が乗っていた。そして金髪の女性のすぐ後ろに赤みがかった桃色の髪の鬼。声を掛けてきたのは車椅子に乗る小学生だ。

 

 最悪だ。三対一だ。俺がそうであるように(・・・・・・・・・・)、手足を縛られてもあの力は使える。今は鬼の目に狂気の色は見えないが、町中で他にも人はいるからだ。偽装だ。ほいほい誘いに乗って有利な場所に誘い込まれてはどうしようもない。俺が助けを求めても誰も助けてはくれない。

 

 俺は逃げた。

 

「待ってくれ!」

 

 鬼が叫んだ。誰が待つか。場所を変えるだけだ。首洗って待ってろ!

 

 俺が逃げた方向とは別の方向を追いかける三人。上手くいった。空気の層を作ってそこに俺の姿を投影したのだ。奴らはそれを追いかけている。俺の後ろにも空気の層をつくり周りの景色を投影している。見えないようにした黒い光に、足音だけを出す仕掛けも一緒に追従させている。

 

 俺はいくつか力の使い方を覚えた。これもその一つだ。本命は別にある。これでしばらくは時間を稼げるはずだ。

 

「違う! あっちだ!」

 

 甘かった。鬼に見破られた。

 

「嘘や! 魔法つこうてる!?」

 

「デバイスもなしに!?」

 

 小学生と金髪が驚いている。やっぱりこれ魔法なのか。俺は魔法だと思っていなかった。インプットとアウトプット。幅はあるがある程度、ぼんやりと法則がある科学的な力だと思っていた。

 

 見えていないはずなのに正確に鬼が追いかけてきた。距離は稼げていない。このままじゃ捕まる。ちくしょう。こんなに早く切り札を使うとは思っていなかった。

 

 俺は空気の層を消した。鬼に俺の姿は見えているはずだ。鬼と目があったのだから。

 

「話を聞いてくれ」

 

「うるせぇ」

 

 力を発動させた。父親相手に何度も試した力だ。頼む効いてくれ。

 

「なっ! 転移魔法だと!?」

 

「シャマル! 追いかけて!」

 

「はい! え!? 座標が特定出来ない……まさか! 阻害魔法!?」

 

 効いてくれた。三人はいい感じに混乱していた。俺は息を潜めてそれを見ていた。やっぱり瞬間移動はあるのか。あの日、鬼は瞬間移動したとしか思えない動きをしていた。それを真似させてもらった。勿論俺は瞬間移動……転移なんて出来ない。

 

 父親に殴られそうになった時、力が働いた。殴られたくない。身代わりがあればと思ったのが良かったのかもしれない。父親は何もない虚空を殴っていた。まるでそこに俺がいるかのように。空気の層に俺の姿を投影する幻じゃない。精神に影響を及ぼす幻覚だ。脳を騙して殴っている感覚付きだ。父親は俺に跨り楽しそうに殴っていた。

 

 阻害魔法とやらが何かは分からないが、大方移動先を調べる魔法を邪魔するような力だろう。そんな力は持ってない。移動先が分からないのは当然だ。どこにも移動してないんだからな。

 

 俺は地面にしゃがみ込み息を止めている。幻覚で俺の姿が見えないようにして。単純だが効果は抜群だ。多分奴らの盲点をついているんだろう。そうじゃなければ付け焼き刃の力が通用するはずがない。

 

「……リンディさんに連絡をつけなあかんなぁ。力を借りることになるかもしれん」

 

「はやて。申し訳ありません。私のせいで……」

 

「何言っとんねん。家族がやらかした面倒みるんは当たり前や」

 

「はやてちゃん。ごめんなさい。座標が掴めないの」

 

「そか。シャマルの追跡から逃げ切るんは予想外やわ」

 

「どこで魔法を覚えたのでしょう?」

 

「誰かに教えてもらったとしか思えんのやけど、もし自分で覚えたんならリンディさんが確保に動くかもしれんなぁ」

 

 やっぱり俺の人生はくそったれだ。こいつら個人でもなく集団でもなく組織で動いている。しかも捕まれば実験動物扱いされそうだ。自衛の為に必死で覚えた力のせいで殺されるより悪い事態になるとは思わなかった。

 

「とりあえず場所変えるよ。注目浴びてるみたいや」

 

「はい」

 

 金髪の女が車椅子を押し、鬼がその後ろについていく。十分に距離が離れたのを見計らい俺はゆっくりと肺の空気を吐き、吸った。

 

 このまま町を出るしかない。家に戻って荷物を纏める余裕はない。電車で一時間。なんのヒントもなくこの距離を探し当てた連中だ。もう家も特定されているだろう。住み込みの働き先を見つけてから飛び出すつもりだったがそれも難しくなった。とにかく出来るだけ遠くへ。ただ遠くへ。金なんて持ってない。移動は自前の足しかない。人の多い場所を避けて移動する。万が一を考えて巻き添えにならないようにだ。知らない奴らがどうなろうと知ったこっちゃないが後味が悪くなるのは勘弁だ。

 

 俺は二つ目の切り札を使った。四方に見えなくなるよう偽装した力の玉を放出した。少しでも時間稼ぎが出来ればいいと俺は奴らと反対の方向へと逃げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 逃げるなら南だ。二月の終わりとは言えはまだまだ寒い。逃げ切れた時に身動きが取れないと意味がない。俺は馬鹿だった。人の目を避けながら、本州を抜けて九州、沖縄まで金もなしに歩きで行けるはずなんてないのに。おれもいい感じにテンパってたんだろう。気がつけば山の中だ。ひと目を避けた結果だ。馬鹿過ぎる。

 

 逃げながら、時々例の感覚に襲われた。少し前から分かっていた。魔法だ。薄く広範囲に広がる小さな衝撃波の波が体を貫いていく。これには覚えがあった。一月から二月の中盤にかけて同じ魔法を何度か感じた事がある。多分探査か何かの魔法だ。これで俺の場所を調べたんだろう。魔法の間隔は段々短くなってきている。正直言って防ぎようがない。この魔法が来る度に見えなくなるよう偽装した力の玉を四方に放出するぐらいしかできないが効果は疑問だ。

 

 この力の玉は、俺の情報を詰めた魔法の玉だ。俺を構成する情報ってのが何なのか分からないから、出来るだけありったけの情報を詰め込んでいる。奴らに対しては焼け石に水かもしれないがこれくらいしか対抗出来ない。

 

 力の玉を放出して、進行方向を変える。草をかき分け、崖を滑り、沢を抜けてひたすら前に。もう自分が何をしているか分からない。距離だって大して稼げていない。愚かな俺にはこんな時に参考にする経験がなかった。前に。ひたすら前に。

 

 膝は震えて喉はカラカラ。それでも何かに突き動かされるように前ヘ前へと歩いていく。日は沈み月明かりだけが道を示してくれる。月がなければ暗くて一歩も歩けない。

 

 怖い。怖くてちびりそうだ。暗いのも怖い。野生動物も怖い。だが何より、この藪をかき分けた時、崖を下った時、沢を抜けた時、鬼が出るんじゃないかと身が震える。

 

 そして俺は思い出した。俺の人生はくそったれだ。悪い予感は必ず的中する。なんでそう言えるかって? ほら、あれを見ろよ。仮装みたいな白い羽織を来た、赤みがかった桃色の髪の鬼が、スポットライトみたいな月明かりに照らされて俺を見ているんだからよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 完全に捕捉された。やるだけやってこのザマだ。奴は瞬間移動する。どうあがいても逃げ切れない。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 足を止めて息を整える。俺の死に場所はここだ。捕まって実験動物なんて死んでもごめんだ。

 

「……やっと見つけた。話を聞いてくれ」

 

「うるせぇ! ぶっ飛べ!」

 

 俺は力の玉を鬼にぶつけた。合計で四つ。今の俺が出せる最大の数だ。情報の玉と違ってこれは純粋な力だ。当たれば殴るより大きい威力は出る。

 

『Panzerschild』

 

 力の玉が鬼に当たる直前、変な模様が浮かび上がって俺の力の玉ははじけ飛んだ。

 

「ふざけんな!」

 

 本気でふざけんなよ! 何も出来ねぇじゃねぇか! 一発当たれば俺でも気絶するくらい威力があるんだぞ!

 

「よせ、レヴァンティン」

 

 俺と鬼しかいないのに、鬼が誰かに声をかけた。俺は後ろを振り返った。誰もいない。見えねぇもんが見える口かよ。やっぱり頭逝ってるわ。

 

「頼む。話を聞いて欲しい」

 

 俺は話なんて聞くつもりはさらさらない。説得してどこかへ連れて行くつもりだろうがそうはいかない。実験動物なんてお断りだ。

 

「……君はあの時、転移してなかったんだな。幻術魔法で転移したように見せかけて、その場から動いていなかった。完全に騙された」

 

 やっぱりバレたか。これで二度とこの切り札は使えない。鬼がゆっくり近づいてくる。俺を捕まえる為か。正直怖い。逃げたい。泣きそうだ。

 

「その後も撹乱された。探査魔法で居場所を調べる度に、君が増えていった。皆の力を借りて虱潰しに探した。真逆サーチャーを使っているとは思ってもいなかった」

 

 嫌がらせ程度には効果あったみたいだ。でも見つかってしまえば意味はない。鬼がざく、ざくと足音を立てて近づいてくる。ちびりそうだ。

 

「私がここにいるのは偶然だ。タイミングが変われば別の者がここにいたはずだ」

 

 いや。あんたがここにいるのは必然だよ。俺のくそったれの運の無さを知らないのか? それ以上近づかないで欲しいんだけどな。胃がむかむかして吐きそうだから。

 

「シャマルとユーノが魔法の痕跡から調べてくれた。君の使った魔法は……魔法と呼ぶにはとても原始的なものだった。だからだろう。私達は見事に裏をかかれた」

 

 何なのさっきから。魔法、魔法って、知ってるのを前提で話すんじゃねぇよ。原始的って言ったじゃねぇか。猿でも分かる言葉で喋れよ。言ってる事の半分も分からねぇよ。

 

「最初は誰か魔法を教える者がいるのかと疑っ……」

 

「さっきからごちゃごちゃ、何が言いたいんだよ」

 

 段々と近づいてくる鬼のストレスに耐えきれず俺は口上を遮った。実際何が言いたいのかさっぱりだった。近づいてくるのはいい。俺もそれを望んでいる。震える膝を誤魔化す為ってのもあった。なんせジャンプしてギリギリ届かない距離。鬼はもう目の前なのだから。

 

「……そうだったな。こんな事を話したい訳じゃない。私は……あの日の事を謝罪……」

 

「死ねや」

 

 鬼が一歩踏み出した。理想の距離だった。何か言ったが最初から聞く気なんかない。俺は最後の切り札を使った。

 

「よせ! それは!」

 

「うるせぇ!」

 

『Panzerschild』

 

「駄目だ! レヴァンティン!!」

 

 最後の切り札。当たれば像だって殺せる威力はある……はず。俺はこの時本気でこの鬼を殺すつもりだった。追い込まれて完全に精神が逝っていたんだろう。

 

 簡単に言うと、高速で射出する杭が俺の最後の切り札だ。勿論杭なんて持ってない。力の玉の先端を尖らせた形状に成形し、高速でぶっ飛ばすのだ。ただ問題点が二つあった。一つは照準だ。三メートルも離れれば明後日の方向に飛んでいく最悪の命中精度。そしてもう一つは質量だ。とにかく軽いのだ。当っても質量がなければ奴を貫けない。改良した点は二つ。一つは恐怖を押し殺して距離を詰める事。これは奴がしてくれた。もう一つは俺の体を力の玉を使って空間に固定する事。俺の体、腕を支点にして掌から高速で飛び出した杭を奴の体に押し込むのだ。

 

 こればっかりは事前に威力を試す訳にはいかなかった。場所も時間もなかった。生き物相手に試す訳にもいかない。ぶっつけ本番だ。

 

 高速で射出した杭が、鬼の出した変な模様にぶち当たった。

 

「穿けえぇぇぇぇ!!」

 

 ごきん! と凄まじい音がした。

 

 人間は限界を超える痛みを感じると脳が一次的にそれを遮断することがあるらしい。今の俺がまさにそうだ。自転車とトラックがぶつかればどっちが勝つ? 俺が自転車で鬼がトラックだ。

 

 変な模様にぶつかった杭は、簡単に競り負けた。競り負けて尚も飛び出す高速の杭は、杭の先端を支点に俺の肩を高速で押した。体が固定され逃げ場を失った力はそのまま俺の腕と肩を徹底的に砕いた。横を向くと肩から先が、あり得ない角度で曲がっていた。肩の骨は粉々に砕け、腕の関節がいくつも増えて白い骨が所々飛び出して血がぴゅーぴゅーと吹き出ていた。

 

 これは後で知った話だが、レヴァンティンがシールドを張らなくても鬼のバリアジャケットは貫けなかったみたいだ。ヴォルケンリッターどんだけ堅いんだよ。

 

 明後日、明々後日の方向を向いた腕を見て呆然としていたのか、体を固定していた力が解けた。俺の体はそのまま背中から地面に倒れた。倒れた衝撃で肩の凄まじい痛みが襲ってきた。

 

「っがっ!!!」

 

 痛すぎてまともに声が出なかった。目の前が真っ白にスパークして脳が痛みで焼ききれそうだった。

 

「動くな!! シャマル! 重症人だ! 直ぐ来てくれ! 大至急だ!」

 

 鬼が動けないよう俺の体を上から押さえつけた。それすら激痛に変換される。払いのけようにも体がまともに動かない。目の前に鬼の慌てた顔があった。体は背中側で地面で固定されている。俺は激痛で何も考えていなかった。体が勝手に動いていた。

 

 曲がった腕とは逆の掌から杭が射出された。杭は鬼の頬に当たり、逸れて月に向かって飛んでいった。鬼の頬が少しだけ裂け、血が一筋流れた。それでも鬼は全く動じること無く俺が動かないように体を押さえていた。

 

「……ざまぁ……み……」

 

 一矢報いた。そんな事を考えていたのだろうか。この直後、殺される恐怖も、実験動物にされる不安も、全て激痛が塗りつぶした。

 

 ここから先は記憶が曖昧だ。だから、股間を失禁で濡らしていた事も、顔面を涙と鼻水だらけにして鬼の服を血とそれらで汚していた事も知らない。車椅子を押していた金髪の女と、年下の小学生にしか見えない男の子が懸命に声を掛け続けてくれたことは曖昧に覚えている。

 

 応急処置が終わって、鬼が力なく項垂れていた事は知らない。知らないったら知らない。

 

 俺は愚者だから経験則を大事にする。こんな()二度と使わねぇ。魔法かなんだかで痛みが和らぐと同時に睡魔に襲われる中、心の中でそれだけははっきりと宣言した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこに(ブックマーク)打っとくぞ」

 

「うん、お願い。その辺のさじ加減は僕らにはわからないから」

 

 俺とスクライアは第三司書課に所属する司書の半数を率いて無限書庫の地下四〇〇〇階に来ていた。小規模の遠征隊を組んで目的の情報を探す為だ。

 

 無限書庫は管理局が管理する世界のありとあらゆる書籍と情報がストックされている。先人の努力で地下一〇〇〇階を超える層が整理され、データベース化されているが、それ以降は魔境と言っていいくらい混沌としている。

 

 第四司書課が長期遠征隊を組んで地下一〇〇〇〇階以降を数ヶ月から数年単位で調査をしているが道のりまだまだ長い。

 

 ちなみに第一司書課が一般来訪者を対象とした司書業務を行い、第二司書課は整理されデータベース化された地下一〇三四階までの層を管理している。俺たち第三司書課はそれ以降の比較的浅い層から順次データベース化する作業の足場慣らしを業務の一つとして行っている。別に潜って整理する事だけが仕事じゃない。地上に上がれば普通に一般業務もこなしている。

 

 スクライア。ユーノ・スクライアは恩人だ。スクライア達が駆けつけるのがもう少し遅ければショック死してもおかしくなかったらしい。腕と肩が徹底的に破壊された俺の応急処置を完璧にこなし、町から抜け出したかった俺に仕事を紹介してくれた。就労年齢はどうなんだと思ったが、こっちでも珍しい部類に入るが、年齢一桁でも働く奴はいる。スクライアもその一人だった。紹介してもらった仕事は無限書庫の司書だ。無限書庫は慢性的な人手不足で、少し……かなり……異常に忙しい時があるが俺は概ね満足している。だが、あのくそ野郎(クロノ)だけは絶対に許さない。絶対にだ。

 

 今回、潜る羽目になったのもくそ野郎(クロノ)のせいだ。別に潜るのはいいんだ。珍しい本の発見はそれなりに楽しいし、キャンプを張って静かに語りあうのも楽しい。だがな、名前も形も効果もわからないロストロギアの調査をその世界の年代だけで調べろとはどういう事だ。世界の危機だと言われても俺からすればそれがどうしたとしか言いようがない。

 

 俺は断固として断った。馬鹿じゃねぇの? 一昨日出直してこい! とも。だがスクライアが受けた。第三司書課の課長で、恩人が世界を護るためだと受けたのだ。なら従うしかない。モニターに映るくそ野郎(クロノ)に罵詈雑言を吐いたが。くそ野郎(クロノ)にはいつか改良型の(パイルバンカー)を打ち込んでやる。

 

(ブックマーク)魔法、覚えればいいのに」

 

 目録(カタログ)魔法を展開しているスクライアに話し掛けた。普通の司書なら他にリソースを割くのは難しい魔法だが、スクライアはアホみたいに優秀だ。普通に返事を返してくる。

 

「その魔法、意味不明過ぎて僕には使えないよ。司の持ってるレアスキル込みで十全に使える魔法だからね」

 

「そんなもんか? なんとなく使ってるだけなんだけどな」

 

「その何となくが曲者なのさ。終わったよ」

 

「相変わらず早いな。こっちももう直ぐ終わる」

 

「司も十分早いんだけどね。あっちを手伝ってくるよ」

 

「よろしく。終わったら俺も手伝うわ」

 

 (ブックマーク)魔法は整理、データベース化されてない層に打ち込む事で周囲一帯を地上にいながら書籍の検索が出来る俺オリジナルの魔法だ。階層丸ごとは無理だが、打ち込んだ場所で、急ぎの調査依頼の情報が見つかることが多い。だから目の下に隈を作った司書の皆には非常に重宝がられている。数が限られているのでどこにでも打つ事は出来ないが、俺はなんとなく気になった場所に打ち込む。

 

 (ブックマーク)を打ち込むのはついでだ。本来の業務はデータベース化されていない層を目録(カタログ)化すること。下層へ進みながらひたすら繰り返す作業だ。時々四課が目録(カタログ)化した層にぶつかるが、範囲はごく僅かだ。四課の司書は目的の書籍を見つけると、我武者羅に地下へ地下へ潜っていくのだから。

 

 目録(カタログ)化の一定数範囲を広げると二課と合同で行う目次(table of contents)化と地獄の集積情報(データベース)祭りが始まる。一般業務も同時に行うのでこの時期は例外なく全員が殺気立ち、鬼気迫る雰囲気が無限書庫全体を覆うことになる。この時期にアホみたいな依頼をバカみたいに持ち込むくそ野郎(クロノ)は、俺だけじゃなく司書の大多数が暗殺リストに載せている。くそ野郎(クロノ)が無限書庫に来たらお茶に気を付けた方がいい。何が起こるか誰にも分からない。そして何が起ころうと心配する司書なんていない。きっと無限書庫に鳴り響く高らかな笑い声が鳴り響く事だろう。

 

 仕事が進めば進むほど、扱う図書の範囲と業務範囲が広がり、結果ここ無限書庫は慢性的な人手不足となっている。だから俺の(ブックマーク)魔法は、司書の皆に重宝されてるって訳だ。

 

 (ブックマーク)魔法は今のところ俺にしか使えない。俺のレアスキルが関係しているらしい。

 

 稀少技能(レアスキル)

 

 魔法とは別に個人が保有する特殊な固有技能だ。万人が持つわけではなく、割合は古代ベルカ式の魔法を使う人が多く占めるが例外は当然在る。地球出身でミッドチルダ式。珍しいが無いわけではない。

 

 管理局には登録していないからレアスキルに名前はついていない。必要性を感じなかったからだ。だから詳しい事まで分からない。ざっくり言うと感覚的に魔力を効率よく使えるって事らしい。この感覚的にってのか味噌で俺が作った魔法は全部魔法のコードがぐちゃぐちゃになる。スクライアみたいに優秀で魔法理論を完璧に修めた奴でもお手上げになる。なんせコードの中に致命的なバグがいくつもあるんだからな。他の奴なら尚更だ。

 

 俺以外の奴が俺の作った魔法をが使えば発動しないって事はなくちゃんと発動はする。ただ毎回違う挙動をする謎魔法になる。スクライアが首を捻るくらいだ。よっぽどおかしな事なんだろう。

 

 一度コードを整理してバグを取り除いてみた。俺にはそんな事出来ない。スクライアを筆頭に優秀な奴らが総動員になって実施した。(ブックマーク)魔法をどうしても使いたかったらしい。美しく整理された魔法コード。結果、発動させると、ただ魔力を消費するだけのクソ魔法が出来上がった。どうやら俺の魔法はバグ込みで感覚的に使うことで発動する、超レアな魔法に分類されるらしい。無限書庫での需要はあっても一般的には全く価値のない魔法扱いだ。俺としては困ってないし便利だからどうでもいいけど。

 

「よし。終わった。そっち手伝うぞ」

 

「……うぅ……ここから先を……」

 

 スクライアに遅れること数分。まだ作業を終えていない同僚の司書に手伝いを申し出た。こういうのはお互い様だ。俺も普段は別のことで助けてもらっている。

 

「ねぇ、司」

 

「何だよ」

 

 三課で目録(カタログ)魔法を使いながら会話が出来るのは片手の指で足りる程しかいない。ここには俺とスクライアだけ。残りは地上で勤務している。

 

「降りる前にシグナムが来てたけど……まだ顔合わせられない?」

 

「……」

 

 シグナム。ヴォルケンリッター、烈火の将。剣の騎士シグナム。

 

 あの時、俺の命を奪いに来た鬼の名だ。俺の勘違いで実際には謝罪に来てたんだが、そんなの何も知らなかった俺に分かるはずがない。実際一度襲われてるしな。ヴィータに聞いた話だが俺に殺される覚悟もしていたらしい。だが俺の魔法があまりにもショボ過ぎて傷一つ付けだだけで終わった。レヴァンティンが勝手に張ったシールドで自爆したし。

 

 正直に言うともう怒っていない。必死で俺を助けようとしてくれたし、何度も無限書庫に顔を出してくれる。でもトラウマがまだ消えないんだ。シグナムの顔を見るたびに、しょんべん漏らしてみじめに死ぬんだと涙を流していた時の記憶がフラッシュバックするからずっと逃げている。こればっかりはどうしようもない。もういいからとヴィータを介してその辺の事情は話してあるけど、空いた時間を使って律儀に通い続けている。リハビリにとシグナムが戦う映像を見たことがあるが、鬼の様に強かった。やっぱりあいつは鬼だ。

 

「そっか……」

 

 スクライアは俺の顔をみて事情を察した。

 

「まぁ、そのうちかな……」

 

「うん、わかった」

 

 こいつ年下なのに気配り上手いなぁ。なのはとか言う女の子に頼まれてるのかもしれないけど、俺にはその気配りは出来そうにない。変身出来るらしいし、年齢ごまかしているんじゃないのか?

 

「話変わるけど、まだ名で呼んじゃ駄目なの?」

 

「ん? 呼んでるじゃねぇか」

 

(ファミリーネーム)じゃなくて、(ファーストネーム)の方」

 

「悪ぃな。そんな習慣ねぇし、今まで呼ばれた事ねぇから」

 

 俺の名を呼ぶ奴なんて、親族を含めて今まで誰もいなかった。こっちに来て色々と考え方は変わったが、これだけはどうしても慣れない。俺もユーノをスクライア呼びしているし。こっちの奴らは簡単に名を呼ぶ。そういう文化なんだろな。

 

「司書らしい、いい名だし、もっと親しみを持ってもらえると思うんだ」

 

「うるせぇ。そんなのいらねぇよ」

 

 俺は今のままで十分幸せだ。町を出た。友人も出来た。仕事もある。自分の力で生きていける。これ以上望むのは贅沢だ。

 

「相変わらず口悪いなぁ」

 

「ずっとこれで生きてきたからな。今更変わんねぇよ」

 

 口の悪い奴なら他にもいるだろうが。あの自称狼の犬とかヴィータとか。

 

「可愛い顔してるのに勿体無いよ」

 

 けっ。うるせぇよ。

 

「栞ちゃーん。こっち手伝ってー」

 

 作業の手を一時止めて俺達の会話を聞いていた司書が声にからかいの色を載せて応援を求めた。

 

「その名で呼ぶんじゃねぇ!」

 

 俺は嫌な流れを断ち切るためにわざと大声をあげた。司書がからからと笑っていた。俺は司書を手伝う為にスクライアの側から離れた。

 

 ここはいい職場だ。寝る時間もないくらいクソみたいに忙しい時があるが、俺が俺でいられる。同僚にも恵まれた。天職と言っていい。

 

 (ブックマーク)魔法。

 

 無限書庫で初めて作った魔法に俺は自分の名を付けた。憧れていたのかもしれない。自然に俺の名を呼んで貰うため。いつか俺の名を呼んで貰うため。そんな願いを密かに込めた、世界に一つだけの、俺だけの魔法だった。

 

 




次は、ルパン三世かISかオーバーロードかオーバーロードタイプβかオリジナルか。


E3甲 第三ゲージ。上級者仕様はやめてくれぇぇ。もう無理ぽ。


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オリジナル 美醜逆転 華麗なる布佐一家

「地震だ! みんな! テーブルの下に!」

 

 父さんはそれだけを叫ぶと母さんの腰を引き寄せてテーブルの下に押し込んだ。僕は茫然自失中の妹の花子の肩を掴むと父さんと同じくテーブルの下に誘導し、僕自身もテーブルの下に隠れた。最後に父さんが母さんを覆うようにしてテーブルの下に隠れた。

 

 家族四人で身を寄せ合って揺れが収まるのを待った。食器棚がガタガタ揺れ、テーブルの上に並んだ食器が落ちてくる。壁に据え付けているテレビのフックの片側が外れて今にも落ちそうだ。ガタガタと揺れる度に花子が僕にしがみついてくる。僕は少しでも安心させようと強く抱きしめた。

 

 長く感じた揺れは、段々と小さくなっていき治まった。

 

「みんな! 大丈夫か!?」

 

 父さんが頭を上げてテーブルの天板にごちんと音を立ててぶつかった。そのはずみでバーコードみたいな髪が一房たらりと前に垂れた。

 

「ぷっ、ふははは」

 

「あはは」

 

「笑う余裕はあるみたいだな。よし今の内に表に出るぞ。余震があるかもしれんからな」

 

 父さんは怒ることなく冷静に指示をだした。といっても父さんが怒ったとこなんて見たいことないけど。

 

「怖かったよう」

 

 花子が丸々と太った芋虫みたいな指で僕の服を掴んでいた。

 

「大丈夫か。立てる? 表に出るよ」

 

「うん」

 

「さぁ、梅子さんも立って立って」

 

「うふふ。地震は怖かったけど、一太さんの温もりは頼もしかったわ」

 

「梅子さんを、家族を守るのはお父さんの義務だからね。抱きついちゃっけど痛くなかったかい?」

 

「はい……今夜も抱きしめて欲しいな」

 

「おっと。吊り橋効果かな? 父さんもドキドキしてきたよ」

 

 父さんは母さんの巨乳に昔からメロメロだ。といってもお腹もお尻も人三倍は大きいけど。母さんは昔からおっとりした所があって、そんな所にも父さんは惚れているらしい。でも今は避難するのが先だ。

 

「もう。お母さんったら!」

 

「父さんも母さんも早く早く」

 

 僕と花子は庭で二人を待っていた。テーブルの下でイチャイチャする父さんと母さんのお尻はテーブルからはみ出していた。つまり僕と花子のお尻もはみ出していた事になる。怪我はなかったからいいけど絵面は間抜けだったかもしれない。

 

 そう。我が布佐(ふさ)家は太っちょ一家で近所では少しだけ有名だ。それ以上に我が家は不細工で有名だった。全員丸々と太り、鼻は上向き。カロリーの過剰摂取のせいか肌は荒れ気味でおまけに全員汗っかき。押し上げる肉が目を細くして、僕はまだだけど父さんは今時ないお手本のようなバーコードハゲ。

 

 僕の家族を知らない人に集合写真を見せると二度見三度見した後に笑い出す。全く失礼な話だけど家族だけあって皆よく似ている。一緒に住むとなんとなく似てくるんだろうな。

 

 父さんと母さんが手をつないで庭にやってきた。父さんと母さんは仲がいい。と言っても家族自体が仲がいい。旅行にいって家族風呂に一緒に入るくらいには。皆で入るとお湯があっという間になくなるのが悩みの種だ。僕は高校生で妹の花子は中学生だけど全然気にしていない。昔は一緒にお風呂に入っていたけど体が横に大きくなり過ぎて一緒に入れなくなったんだ。それに鏡を見ても僕の体も母さんの体も花子の体も違いが殆どない。僕は太っているからある意味巨乳だし、出ている所は出ているナイスバディだと言っても過言じゃない。

 

「よし、このまま様子を見るぞ」

 

 父さんが物置からキャンプ用のテーブルと椅子、母さんがポットと急須を持っていた。

 

「キャンプみたいだね」

 

 花子が喜んでいた。そう言えば最近キャンプに行っていない。後で父さんにお願いしてみよう。

 

「そうだな。来月にまた行こうか」

 

「やったぁ!」

 

 花子がどすんどすんと音を立てて喜んでいる。お願いする必要はなかったみたいだ。家族だから同じことを考えるだんろうな。

 

「お弁当作りますね」

 

「梅子さんの料理は絶品だからなぁ。楽しみだ」

 

「嬉しいわ」

 

 また始まった。父さんと母さんが手をつないで見つめ合っている。このままでは十月十日後に新しい家族が出来るかもしれない。それはそれで嬉しいけど、母さんの大きなお腹にはもう子供がいてもおかしくない。臨月だと言われても疑われないくらい太ってる。それは僕も父さんも花子も同じだけど。

 

 父さんがラジオを取り出して地震の情報を聞いていた。不思議な事に地震速報は放送されていない。父さんがチャンネルを変えていくがどこも地震については触れていなかった。

 

「おかしな事もあるもんだ。普通直ぐに流れるのにな」

 

 体感では震度五か六くらいありそうだった。横揺れで揺れる度に家族の鼻からぶひぶひ息が漏れていたんだから間違いない。

 

「お昼ごはんが駄目になっちゃったからこれで我慢してね」

 

 そうだ、お昼を食べようとして地震が来たんだ。お腹が減って痩せそうだよ。家の中に入れないから食材なんてないはずなのに母さんはキャンプ用のテーブルに驚くくらい立派な料理を並べていた。

 

「わぁ! 魔法みたい」

 

 花子も驚いている。一体どうやって準備したんだろう。

 

「物置に非常食を準備していたのよ」

 

 それだけでこんな立派な料理を作れるはずがない。妹が言うように母さんは本当に魔法使いみたいだ。

 

「おいしそうだ」

 

 父さんが母さんの胸を見て言った。母さんは頬を赤くしている。今は食事だからね。自重してね。

 

「さぁ冷めない内に頂きましょう」

 

 ほんとにどうやって温めたんだろう。

 

「いただきまーす」

 

 家族全員の声が重なって鼻息もぶひっと重なった。お腹が膨れれば気分も落ち着く。本当にそうだ。家族との温かい食事。これだけで幸せな気持になれる。花子も幸せそうな顔をしている。地震があったばかりなのにこれじゃ近所の人に嫉妬されそうだよ。家の中はぐちゃぐちゃだけど今だけは喜んでいいよね。

 

 この後二時間くらい庭に避難していたけど、余震は一回も来なかった。家に戻って家族全員で片付けをした後、ニュースを見たけど地震の事はどこの局も放送していなかった。MHKですら、地震の地の字も出なかった。

 

 僕達は、おかしいねぇ、おかしいねぇと言いながら母さんの美味しい夕飯を、おいしいねぇ、おいしいねぇと食べて地震の事を忘れてしまった。母さんの料理が美味し過ぎるのが悪いんだ。

 

 この日、僕達家族は、地震があった事以外何も違和感を感じなかった。ニュースのキャスターが薄毛だったり、お笑い番組でおデブ系のタレントが出ていなかったり、そんなことはよくある事だ。僕も花子もアイドルには興味がない。だから歌番組も見ないし、母さんは料理がプロ級に上手だから今更、料理番組も見ない。

 

 だから僕達は誰も不思議に思わなかったんだ。父さんと母さんは一緒にお風呂に入って早々に寝室に篭ったし、僕と花子も明日の学校の準備をして、ふごふご寝息を立てて寝てしまった。お腹が満たされると寝てしまうのは仕方がない。

 

 僕達家族は違う世界に来たみたいだと気づいたのは数日後だ。異世界じゃない。少しだけ違う、少しだけ価値観が違うパラレルワールド。切っ掛けは地震だったのかそうじゃないのか。今となっては分からない。だけど僕達家族は今までと、少しづつ、やがて大きく変わっていく生活に困惑することになる。

 

 僕達は一体どうなってしまうんだろうか。

 

 




一太 お父さん ボリウッドで永遠の主役を張れるロマンスバーコード
梅子 お母さん 九尾がひれ伏す傾世界の美魔女
太志 僕    二〇〇〇年に一人のオンリーワン系美少年
花子 私    一〇人いれば一万人が振り返る小悪魔的癒し系美少女


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オリジナル 美醜逆転 華麗なる布佐一家 (二)

「おにいじゃぁーん!!」

 

 今日あった事を色々と整理しながら帰宅し、疲れた頭を休ませる為におやつでも食べようとリビングに入ると妹の花子がぶつかり稽古みたいな勢いで僕の胸に飛び込んできた。慣れたもので「どすこいっ!」と優しく受け止めてあげた。

 

 花子は僕の胸の中でえぐえぐ、ふひふひと涙と鼻息を漏らしている。

 

「えっ!? 花子! どうしたの!?」

 

 いつも朗らかな花子が泣くなんて滅多にない。僕はどうしていいか分からなくなった。

 

「それがね……いじめにあったみたいなの」

 

「いじめ?」

 

 先に花子の話を聞いていたのだろう、母さんが簡単に説明してくれた。

 

 僕と花子は太っていて、他の人とは違う個性的な容姿をしているけど、いじめには殆どあった事がない。小学校入学前に少しだけあったくらいだ。

 

 僕達は家庭環境に恵まれている事もあって、体格や容姿にコンプレックスを持っていない。むしろ自慢に思っている。それが性格にも出るのか根暗になるわけでもなく普通にクラスメイトと接している。生理的に受け付けない人もいるみたいだけど、それは人それぞれだから仕方ない。

 

 学校で仲のいい友達はいるし、勿論花子もそうだ。特に花子には小学一年生の時からずっと同じクラスで親友の橘(かえで)ちゃんがいる。彼女がいじめなんて許さないはずなのに。

 

「がえでじゃんがぁ……がえでじゃんがぁ……」

 

 僕の制服は花子の涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったけどそんなのどうでいい。楓ちゃんがいじめに関係しているのだろうか。

 

「楓ちゃんが花子を避けてるみたいなの」

 

「そんな」

 

「ぞれだげじゃなぐでぇ」

 

「花子が話し掛けてもクラスメイトどころか先生まで目も合わしてくれないって」

 

「えぇ!? 先生まで!? それって……」

 

「どうしたの太志?」

 

 花子の盛り上がった背中を撫でながら僕の様子を訝しんだ母さん。

 

「うわわぁぁぁん! がえでじゃーん!!

 

 そうだ、僕の事は後でいい。今は花子だ。こういう時にはおいしいおやつだ。僕は母さんの作ってくれたおやつを花子に半分上げることにした。お腹が膨れれば気持も少しは落ち着くんだ。

 

「母さん! おやつを!」

 

「わかったわ。直ぐに用意するわね」

 

「花子、僕のおやつを半分あげる。だから今日あった事を教えて? その後でどうしたらいいか皆で考えよう」

 

「おっ、おにいっじゃんのっ、ばんぶんもっもだえないよう!」

 

 よし、少し元気が出たみたいだ。胃袋は正直だ。やっぱり食べ物の力は偉大だな。それにしても半分も貰えないだなんて花子は優しいな。

 

「大丈夫だ。花子が元気になるならなんでもないよ」

 

「おっ、おにいっじゃん……」

 

 僕と花子のお腹が、ぐぅ~と同時に鳴った。

 

「はい。お待たせ。今日のおやつはカツカレーよ」

 

「匂いで分かってたよ」

 

 四合のご飯にルーがたっぷり。ご飯とルーを完全に隠すジューシートンカツ。我が家のおやつの定番の一つだ。ご飯とルーはおかわり自由だから、半分ってのはトンカツの事だ。

 

「ほら。トンカツを半分載せるよ」

 

「うん」

 

 花子のカレーにトンカツを移動させて、一緒に頂きますをした。

 

「おいしいね」

 

 花子に笑顔が戻ってきた。よかった。

 

「……お母さんも頂こうかしら」

 

 分かる。美味しそうに食べているのを見てると、お腹いっぱいでも食べちゃうよね。

 

「味見したんじゃないの?」

 

「一合だけだったんだもの」

 

 それは少ない。せめて二合は食べないと。この後母さんと三人でおやつのカレーを平らげ、同じくおやつのホールケーキを食べた。勿論母さんの手作りだ。三つのホールケーキはあっという間になくなってしまった。これで夜まで保てばいいけど。

 

「じゃあ花子。何があったか教えてくれる?」

 

「……うん、あのね……」

 

 花子が言うにはこうだ。

 

 中学校に登校するまで何か遠巻きに見られている気がしていたけど勘違いだと思っていたらしい。教室に入って仲のいい楓ちゃんに挨拶をしようとしたら、楓ちゃんはダイエットに成功したのか凄く痩せていた。楓ちゃんは僕達程じゃないけど世間でぽっちゃりと言われる位の体型だ。でも運動神経は凄くいい。柔道部で全国大会に出場するくらいに強い。正義感も強くていじめなんて絶対に許さない性格だ。

 

 その楓ちゃんが一晩で痩せていた。花子は驚いて「どうしたの!?」って尋ねたら、楓ちゃんは目を白黒させながら慌てたらしい。口をパクパクさせるけど何も言えずに、結局目をそらして下を向いたらしい。その後花子がどれだけ声を掛けても目を合わしてくれない。

 

 不審に思った花子は、クラスの友達に何かあったのか尋ねてまわったが、みんな判で押したかのように、口をパクパクさせて下を向いてしまったそうだ。

 

 何かがおかしいと思っていると先生がやってきてホームルームが始まった。仕方なく席に座って後でもう一度、楓ちゃんと話をしようと思っていると、先生の様子もおかしい。

 

 花子の担任は、まだ二〇代の若い男の先生だけど、指導熱心で生徒に人気のある先生だ。話し方も上手で授業も分かりやすい。その先生が顔を真赤にして、しどろもどろに連絡事項を話していた。花子がどうしたのかと先生を見ると、先生は顔を逸して花子を見ない。それはホームルーム中ずっと続いた。

 

 ふと視線を感じて振り向くと、生徒全員が一斉に顔を逸した。まるで達磨さんが転んだみたいに。

 

 休み時間になって楓ちゃんに声を掛けても、下を向いて顔も合わしてくれない。授業が再開しても先生達は誰も花子と目を合わしてくれない。

 

 今日一日、花子は誰とも口を聞けなかったらしい。花子は我慢して我慢して、全ての授業が終わると、涙を我慢しながらカロリーが消費されるのも構わず、どすんどすんと走って帰ってきた。

 

 そして泣きながら母さんと話している内に僕が帰って来たという訳だ。

 

「私、いじめられてるのかなぁ……」

 

「うーん」

 

 僕は腕を組んで考え込んだ。

 

「太志?」

 

 考え込んだ僕の様子を訝しんだ母さん。なんと説明したらいいものか。

 

「……少し違うけど僕も花子と似た事があったんだ」

 

「え? お兄ちゃんも?」

 

「うん」

 

 僕が帰宅の時に考えていたのはそれだ。僕は今日学校であった事を二人に話してみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 学校に着くまで見られている気がしていたんだ。。これはただの勘違いだと思っていた。学校に着いて何となく違和感を感じて、その時は気が付かなかったけど花子の話を聞いて分かった。太った人が誰もいなかったんだ。

 

 次に感じた違和感は国語の先生の頭だ。すれ違った時、いつもかつらがズレているのに今日に限ってズレて無くて、自然な感じにふさふさだった。いいかつらが見つかったんだな、よかったよかったと思っていた。

 

 教室に入って、友達の健太に挨拶をすると、やけにどもって、「い、いいて、天気、ですね……」、って言われた。ちょっと曇ってるよ、って言い返すと、「そ、そうでした……そうでした……」、と目をキョロキョロさせて落ち着きがない。変だなと思いつつも、他の友達にも挨拶をすると、皆健太と似た反応を返してきた。

 

 声を掛ければ、反応してくれるけど、どこか変だ。挙動不審とでも言えばいいのか。あたふたしてるというか、上の空というか、頓珍漢な返事をする。

 

 更に変だなと思ったのは昼休みだ。お昼は母さんのお弁当だ。僕の鞄は四/五を弁当箱が占めている。二段重ねの弁当箱を取り出して食べ始めると、女の子の視線をやけに感じたんだ。

 

 僕は女の子にモテるなんて勘違いは絶対にしない。だから母さんのお弁当美味しそうだろ? 美味しいんだけどね、って思ってた。事実、健太とおかずの交換をした時は大絶賛されたくらいだ。

 

 パクパクもりもりむしゃむしゃと食べて、あっという間にお弁当は残り僅かだ。それでも視線を感じた。不思議に思って振り返ると、女の子達はお弁当じゃなくて僕を見ていた。なんか見たことない顔で。なんて言ったらいいんだろ。うっとり? そう、うっとりかな? 名人、尾中一平斉の作った完成度の高い食品サンプルを見た時、僕もあんな顔をしているかもしれない。

 

 僕は、あげないよ、と思いながら最後に残していた肉巻きを食べた。肉を肉で巻いたミートロールだ。冷めても肉汁が染み出す不思議で美味しい僕の大好物。美味しさの余り、一口食べてお箸が滑ってしまった。ぽろりと落ちた肉巻きが床に落ちてコロコロと転がってしまった。

 

 あぁ! 痛恨の極み!

 

 痩せてしまうほど精神のダメージが大きい。でも肉汁たっぷりの肉巻きは教室の床に落ちて転がってしまえば汚れが塗れてもう食べられない。ショックだ……

 

 僕のショックが伝わったのか教室がしーんと静まり返ってしまった。

 

「ふ、ふ、ふ、布佐さん……そ、そ、それ……も、もう、た、食べない……です……よね?」

 

「う、うん? 食べれないね」

 

 名前は何だったか。ちょっと覚えてないけどクラスの女の子が尋ねてきた。さすがの僕でも食べれない。拾って弁当箱に入れるだけだ。帰って洗って食べるけど。だって母さんのお弁当は美味しいから捨てれないし。見栄を張ってここでは我慢だ。

 

「じゃ、じゃあさ……」

 

 その時、教室に影が走った。僕の背後から走り抜けた影は肉巻きを拾うと一目散に教室の外へ飛び出してしまった。スカートを履いていたのだけは見えた。

 

「あ!!」

 

 クラスの女の子が全員、一斉にそれを追い掛けた。教室内には僕を含めて男子だけになった。僕はびっくりしながらも、もう一つの弁当箱を開いてデザートの杏仁豆腐をぺろりと食べた。

 

「……健太君……みんなどうしたの?」

 

「さ、さぁ? ど、どうしたんでしょうね?」

 

 少しだけ慣れてくれた健太君に聞いたけど、健太君もわからないみたいだ。もう意味がわからない。

 

 午後の授業になっても同じだ。どうも教室が落ち着かない。女の子は顔に痣を作っている子が何人かいたし、妙に緊張感がある。若い女の先生もそわそわしている。一体なんだろう?

 

 授業が全て終わると僕はいつも健太君達数人と少しだけお喋りしてから帰るんだ。今日も話をしようと健太君達の輪に入ったんだ。

 

「え!? どうしたの!? ふ、布佐君!」

 

「どうしたのはないよ。それに布佐君って。いつもみたいに太志って呼んでよ」

 

「へ? いつも? ……無理無理無理無理無理無理無理ぃぃ!!」

 

「無理ってなんだよ! 僕達友達だろ!」

 

 余り怒らない僕もちょっと気が立ったんだ。友達が急に離れていった気がして寂しくなったのかもしれない。

 

「と、友達? 俺たち友達でいいんですか?」

 

「何言ってるんだよ。友達だろ? 健太君達、今日変だよ」

 

 健太君達は「友達ぃ……友達ぃ……」と泣き出した。もう訳が分からない。僕達友達だよね? 僕だけがそう思ってただけなのかな?

 

 泣き止んだ健太君達だったけど、やっぱりいつもより余所余所しいのは変わらなかったけど、少しだけマシになったと思いたい。そんな皆と話をしたんだ。

 

「でね、鈴木さんがデブエット失敗して、また痩せたんだ……痩せてしまったと聞きました」

 

 なんだろう、デブエットって。

 

「英語の田中ですけど、自分で毛を抜いているの丸わかりですよね。かっこ悪いと思います」

 

 すね毛の事かな?

 

「少しずつ抜いて自然を装ってますが、ツルリール・ハーゲンの三ヶ条を無視しているので不自然過ぎます」

 

 すね毛は水泳の授業じゃないと見えないのでは? ツルリール・ハーゲン? エステシャンかな?

 

「俺の所、親戚一同代々ふさふさなんですよ。嫌だなぁ」

 

 すね毛の話だよね??

 

「自然な若ハゲとか殆ど奇跡ですからね。芸能人なんてハゲランスだらけですよ」

 

 ハゲランス? また初めて聞く単語だ。

 

「ふ、太志君のお父さん、ロマンスバーコードでしょ? 羨ましいです。おまけに太ってるし。格好いいなぁ」

 

 あ、これ髪の毛の話だ。太ってるのは事実だし。

 

「ロマンスバーコードって遺伝らしいです。ふ、太志君も将来間違い無しですよ。羨ましいです」

 

 うちは代々若ハゲの家系だから僕も禿げるだろうけど……ロマンスバーコード?

 

「食べても食べても太らないし。無理なデブエットで体調崩すと、リバウンドで余計に痩せちゃうしね」

 

 まだ出たデブエット。流行語かな?

 

「ふ、太志君は沢山食べてますけど、デブエットしてるって感じじゃないですよね。体重も落ちないし、肌も脂ぎって荒れてるし、何か秘訣があるんですか?」

 

「俺も頑張って食べてるんだけどなぁ。太りたい……」

 

 馬鹿にされてるんだろうか? 僕は太ってることにコンプレックスは無いけど、世間一般的に太っていることは良くないことのはずだ。

 

 話が意味不明でついていけないけど、聞かれたからには答えない訳にはいかない。

 

「おいしく食べることかなぁ」

 

「おぉ!」「なるほど!」「さすが!」「凄い!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「って事があったんだ」

 

 僕は今日あった事を母さんと花子に思い出せる限り話した。二人共変な顔をしている。変な顔は元々だから、微妙な顔にしておこう。

 

「太志は嘘なんてつかない子けど……」

 

「変なのー」

 

 花子はもう落ち着いている。僕の事より花子だ。花子が泣く所なんてもう見たくない。

 

「花子。健太君達も最初は余所余所しかったんだ。いつもみたいな感じにはならなかったけど、話せば分かってくれたんだ」

 

「お兄ちゃん……」

 

 花子はもう僕の言いたい事を分かってくれたはずだ。

 

「私……私! もう一度楓ちゃんとお話する! だって友達だもの!」

 

「うん。頑張って」

 

「うん!」

 

「お母さんも応援するわ」

 

「ありがとうお母さん!」

 

 よかった。花子はもう大丈夫だ。先生の様子がおかしいのは気になるけど、それは僕も同じだ。明日、学校で先生と話をすれば花子の参考になるかもしれない。

 

「そうとくれば晩御飯の用意しなきゃね。しっかりと食べてね」

 

「そう言えばお腹ぺこぺこだよ」

 

「私もー」

 

 今日のおやつは少なめだったから仕方がないよね。

 

「その前に洗濯物取り入れてくるわね」

 

 主婦は忙しいんだ。僕達の相談に乗ってくれたから母さんの家事のスケジュールがずれてしまった。ありがとう母さん。

 

 母さんはベランダに出ていった。

 

「お兄ちゃんありがとう」

 

「困った事があればいつでも言ってくれよ。僕は花子の兄さんなんだから」

 

 照れた様子の花子に礼を言われた。感謝を言葉にするっていい事だよね。僕も素直に礼を言われて少し照れていた。

 

「おかしいわねぇ」

 

 母さんが洗濯物を籠に入れて戻ってきた。首をひねっている。僕達の服の洗濯は大変だ。全員汗っかきだから汚れが染み付いちゃうんだ。

 

「どうしたの?」

 

 花子が首を捻る母さんに尋ねた。

 

「下着が無くなってるのよ」

 

「風で飛んだんじゃないのかな?」

 

 下着泥棒なんて我が家には無縁の言葉だ。大きなお尻と胸を包む下着はやはり大きい。世間一般で言う所の色気なんて皆無だ。

 

「そうなのかしら? しっかり止めていたのにねぇ」

 

 確かに。母さんの家事は完璧だ。その母さんが止めていたと言うのだから風で飛んでいくとは思いにくい。でも下着泥棒はそれ以上にあり得ない。

 

「ただいま」

 

「あ、お父さんだ。お帰りなさい!」

 

 花子が立ち上がって父さんを玄関まで、どすんどすんと迎えにいった。花子はお父さんっ子だからいつも迎えに行く。今頃は相撲の立会いみたいに父さんの胸に飛び込んでいる事だろう。

 

 父さんがリビングにやって来た。続いて花子だ。横に太いから廊下を並んで歩くのは無理なんだ。

 

「どうしたの?」

 

 いつも家族の前ではにこやかな父さんが浮かない顔をしている。何かあったんだろうか?

 

「いや……それがな」

 

「お父さん出世したんだって!」

 

「父さん凄い!」

 

 先に話を聞いた花子が自分の事の様に喜んでいる。当然僕も嬉しい。給料が上がるとかじゃなくて、父さんの頑張りが認められたって事だから。それにしては父さんは喜んでいるように見えない。

 

「一太さん、なにか心配事が?」

 

 やっぱり夫婦だ。父さんの事は母さんが一番分かってる。

 

「急に本社に呼ばれてな。本社で営業をすることになったんだ」

 

「あれ? 父さん配送のドライバーだよね? なんで営業?」

 

 父さんはトラックの運転が仕事だ。ゴールド免許で事故なんて起こした事がない。

 

「お父さん、営業? って言うのしたことあるの?」

 

 花子は営業の仕事が何か分かっていないみたいだ。そういう僕も詳しくは知らないけど。

 

「ないなぁ。お父さん今まで運転一筋だったから。まぁやるしかないか」

 

 我が家の大黒柱は家族を養うために、畑違いの仕事でも頑張ってくれるみたいだ。ありがとう、父さん。

 

「一太さんは営業に向いてないと思うのだけど?」

 

 母さんの疑問も尤もだ。僕たちは遠慮のない関係だけど、母さんは少しだけオブラートに包んた言い方をした。僕達の容姿は人によっては不快感を与える事がある。なんたって不細工なんだから。勿論仕事に容姿なんて関係ないはずなんだけどそれは建前って事は僕にでもわかる。

 

「父さんも、そう言って最初は断ったんだ。でもどうしてもって社長に頭を下げられてなぁ。社長なんて初めて会ったよ」

 

「社長!?」

 

「なんで!?」

 

「まぁ」

 

 父さんを除く全員が驚いた。社長って言ったら社長だよ!? 会社で一番偉い人だよ!? そりゃ驚くよね!?

 

「給料を一〇倍にするから、受けてくれるまで頭を上げないって土下座する勢いで言われると、父さん断りきれなくてなぁ」

 

「一〇倍!!」

 

「すごーい!!」

 

「まぁ」

 

 父さんの年収は知らないけど一〇倍って僕達家族がが四〇人になっても食べていける金額だよ。凄いお金だ!

 

「断り続けていたら、二〇倍、三〇倍って跳ね上がっていって、怖くなって頷いた時は五〇倍になってた。流石に冗談だと思うんだがな」

 

 五〇倍っていったら僕達が二〇〇人食べていける額だ。一〇倍でも凄いのにそこまでいくとただの冗談にしか聞こえないよね。一〇倍ってのもたぶん聞き間違いだ。一〇枚と聞き間違えたんだ。何が一〇枚だって? もちろんサーロインのお肉一〇枚に決まっている。

 

「それでお父さん、出世って係長? になったの?」

 

 花子は会社の役職の名前なんて詳しく知らない。ドラマのイメージだけで聞いてるんだろうな。父さんは会社で役職なんてついていない。平社員だ。社長直々って事は主任と班長を通り越して一気に係長ってのもあり得る。

 

「それがな……」

 

 父さんはバーコードの頭をぽりぽりとかいた。髪の毛がはらりと数本前に流れた。

 

「本社の営業事業部を統括する営業本部長だって」

 

 僕と花子はお互いの顔を見た。お互いの目が同じことを言っていた。

 

 それって偉いの?

 

 

 

 




【ロマンスバーコード】
 天然の若ハゲから自然の仕上がりで醸成されるヘアースタイルの気品に溢れる男性(紳士)を指す。さり気なく自然に残った、天使の残り髪を、悠久の時の流れを感じさせる大河のように、大草原のそよ風(サイド方向に受け流す)とし、時おり、前方向に怒涛の如くなだれ落ちる数本の絹糸のSU-DA-REが得も知れぬ色気を感じさせる。

 世界的なデザイナーであるUMI-HEI氏はロマンスバーコードで有名であったが、ふさふさ疑惑が常に付きまとい、良心の呵責に耐えきれず、晩年ハゲランスであることをカミングアウトした。世に言うハゲランスショックである。



【ハゲランス】
 崇高な会社理念を持つ芸能人御用達の秘密企業。詳細は別途記載の電話番号まで。

 理念が素晴らしすぎて秘密になっていない企業の典型。いつの世も、人の口に戸は立てられないのである。長年培った技術とノウハウは他社の追随を許さない。世界シェアNo.1。

 近年では天然モノには到底敵わないまがい物として使われる事もある。



【デブエット】
 無理駄目絶対!
 リバウンドで更に痩せるリクス大。専門のトレーナーの指導の下でも大抵失敗する。
 みんなは自然に太ろうな。



【お母さんの下着】
 大きい!
 闇の市場価格はいかほどか。二度と表の市場に出ることはないだろう。
 盗んだ者は既に口封じをされているかもしれない。
 三〇〇年後にオークションに出されるが、真贋の判定は誰もできなかった。何故ならお母さんの下着は一度も市場に出たことがなかったのだから。
 お父さんの好きな可愛い動物のワンポイント入り。


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ルパン三世 パンドラの哀惜

「警部、コーヒー入りましたよ」

 

 後藤が両手に湯気の上がる紙コップを持っていた。銭形はデスクに両足を投げ出し、頭にアイマスク代わりに新聞紙を被っていた。

 

 後藤はキャリア組だ。現在は警部補だが、数ヶ月の後に銭形と同じ警部に昇進することが決まっている。銭形は新聞紙を頭から取り除くと後藤を一睨みした。

 

「ふん」

 

「熱い内にどうぞ」

 

 デスクに上げた足を下ろし銭形は紙コップを受け取った。

 

 後藤は銭形を尊敬していると常日頃から周囲に公言している。数年前、世間の話題をさらったカリオストロ公国に於いて、国際的な偽造紙幣、ゴート札の秘密を暴いた銭形の活躍をテレビにかぶりついて見ていた。当時は世間知らずで何も事情をしらない学生だったが、情報を集める過程で、当時の銭形がどれほど危ない橋を綱渡りしていたか知ったのだ。インターネットや伝聞で知る情報が殆どだったが、様々な伝を使い情報の検証をしたところ、嘘やデマ、大げさに伝えるものも多かったが、むしろ控えめに伝えられている事が殆どだった。

 

 放送当時、モニターの向こうで、

 

『ルパンを追っててとんでもないものを見つけてしまった。どうしよう?』

 

 と困り顔をしていたのは印象的だった。まだ銭形との付き合いは短いが、今なら分かる。あれは演技だった。ルパン三世の逮捕を生きがいとして、複数回に渡り捕縛。何度も出し抜き、一時はルパンをして好敵手とまで言わしめたとかいないとか。時に法の目を掻い潜り、命の危険を犯してまでルパンを何度も追い詰め、犯罪を未然に防いだこと多数。あのルパン相手に一歩も引かない姿勢は、優秀な銭形でなければ不可能だっただろう。

 

 後藤は銭形と初めて顔合わせした時に、マシンガンの様に銭形を褒め称えた。どれだけ憧れていたか、会えて光栄ですと。

 

 後藤の態度は、ICPO(インターポール)への出向を取り消され、警視庁第十二資料室で、日々未解決事件の資料を整理する銭形と初めて会った時から今日に至るまで変わらない。

 

「そっちは砂糖入りか?」

 

「そうですよ」

 

「そっちをくれ。たまには甘いコーヒーを飲みたい」

 

「珍しいですね。いつもはブラックなのに。どうぞ」

 

 後藤は銭形と紙コップを取り替えた。銭形は「甘い」と文句を言いながらコーヒーを啜った。

 

「その新聞、今日のですよね」

 

 銭形は新聞を軽く畳み後藤に投げた。後藤は投げられた新聞を難なく掴むと広げて記事を読んだ。

 

「『ルパン予告犯行にまたもや失敗。警視庁は犯行を連続阻止』。ルパンはここの所、いいところないですね」

 

「犯罪者にいい所もなにもない」

 

「そりゃそうですが」

 

 コーヒーの甘さに苦虫を噛み潰したように表情を歪める銭形に、後藤は苦笑いした。

 

「生涯をかけて追っていたルパンがこれじゃあ、警部も面白くないでしょう?」

 

「ふん……」

 

 紙コップを丸めた銭形が頭の後ろで手を組み、デスクに足を乗せて天井を見た。

 

「あらら」

 

 ルパン逮捕を生き甲斐としていた銭形はここにはいない。いるのは抜け殻の如く、日々資料を整理するだけの窓際族だ。

 

「で? 何しに来た?」

 

「何って、ここは僕の職場ですよ。資料整理は楽しくはないですが」

 

 ぼんやりと天井を見上げる銭形に覇気はない。

 

「質問を変えるぞ。後藤はどこだ?」

 

「何言ってるんですか? 目の前にいますよ?」

 

 的を得ない銭形の質問は後藤を困惑させるばかりだ。

 

「ルパンの変装ってのはな、そりゃ見事なもんだ。日進月歩の技術もあって、儂でも途中から直接触れんと見破るのは不可能だった」

 

「有名な話ですよね。本人より本人らしいって聞きました」

 

「ルパンは一度見破られた変装技術は二度と使わん」

 

 後藤は涼しい顔だ。額には汗一つ浮いていない。無言で銭形を見ていた。

 

「空調の無い部屋で涼しそうだな。それは儂が過去に見破った変装だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へぇ、噂って当てにならないもんだな」

 

 ぼんやりと天井を見つめる銭形の視界の隅に不敵な笑みを浮かべる後藤が映っていた。変装を見破った事は自慢にもならなかった。後藤に変装している男が使っている変装術はルパンが比較的早い時期に使っていたものだ。表情は豊かに変えられるが汗も出ず、見破るのは容易い。

 

「あんた、世間では無能だって言われてるぜ」

 

「実際そうだからな」

 

 後藤の口調が変わり、銭形を舐めているのが一目瞭然だった。

 

 世間の、そして警察内での銭形の評価は低い。理由が明かされぬまま、有無を言わさずICPO(インターポール)への出向を取り消されると同時に、天下御免のルパンの捜査権も同時に喪失した。日本に戻った銭形に用意されていたのは、警視庁第十二資料室で未解決事件の資料を日々整理するものだった。同僚は新米の刑事、後藤警部補ただ一人。

 

 残された資料から未解決事件の真犯人を特定しても、逮捕令状は取れなかった。何故事件が未解決に至ったのか。銭形が理解するのは早かった。特殊な階級の住人には警察の捜査権は及ばない。その中には前警視総監の親族も含まれていた。銭形が第十二資料室で出来る事は殆どなくなった。

 

 失意の日々の中、ルパンの動向だけは調べていた。新聞、ニュース、信頼できる古い友人。ありとあらゆるソースを利用した。

 

『ルパン予告犯行失敗』

 

ICPO(インターポール)、ルパンから地中海の涙を守りきる』

 

『ルパン捨て台詞、銭形なら成功してたのに』

 

『世界三位の富豪一家惨殺。犯人は不明』

 

『警視庁お手柄。ルパンまたもや失敗』

 

『ウルドリヒ捜査官へのインタビュー。我々はルパンを過大評価していた』

 

 銭形がルパンの担当から外された瞬間からルパンは犯行に次々と失敗した。いくつか成功しているが、それはルパンの名を騙った小物の仕業だと銭形は見ている。

 

 銭形は有名だ。カリオストロ公国ゴート札事件で、一躍全世界に名と顔が知られたのだ。銭形がルパンの捜査権を一手に握っている事も同時に知られている。各国の報道機関がニュース配信し、世界中が銭形とルパンの対決を手に汗を握り見守っていた。

 

 時に犯行を未然に防ぎ、時には出し抜かれ、逮捕に至る事もあった。脱獄され、ルパンを追う銭形。正に一進一退の攻防。銭形でも全ての犯行は防げなかった。

 

 銭形だから。銭形をして。世間の目はそういったものだった。しかし一転、世間の評価は裏返った。

 

 突然のICPO(インターポール)出向の取り消し。そしてルパンはその時期からICPO(インターポール)を筆頭に、銭形を欠く各国の警察機関相手に犯行の失敗を繰り返す事になった。予告犯行は全て失敗し、銀行を襲えば金庫に辿り着く前に警察に包囲され命からがら逃げ出す始末。目当てのお宝は盗めず、アジトを割り出されいくつかの収奪品を回収までされている。

 

 銭形が警察の足を引っ張っていたのではないか?

 

 世間が銭形を酷評し始めた。売名行為。詐欺師。三流。

 

 カリオストロ公国での活躍はたまたまの偶然だったのだ。私たちはルパンを過大評価していた。そのルパンを相手に銭形は苦戦をしていた。私たちは騙されていたのだ。現に各国の警察は銭形抜きでルパンを尽く撃退しているではないか。銭形など最初から不要だったのだ。

 

 一度張られたレッテルを剥がすのは難しい。今の銭形にルパンを追う事は不可能だ。銭形は天下御免のルパンの捜査権限を既に失ってしまったのだから。

 

「後藤って奴、影であんたの事笑ってるぜ」

 

「だろうな」

 

「知ってたのかよ」

 

「そこまで腑抜けておらんわ。儂の監視役だ」

 

「へぇ。そこまで無能って訳じゃなかったんだな」

 

 後藤に変装した男は感心する風でもなくへらへらと笑っていた。

 

「ルパンの手下か。何しに来た?」

 

 銭形は煙草を取り出して、口に咥えた。しかし火は点けない。昨今の事情から全館禁煙となっている。後藤に変装した男が懐から煙草を取り出して火を点けた。紫煙がゆらりと揺れた。

 

「何ってあんたの顔を見に来たんだよ。ボスがあんたの動きを気にしてたみたいだからよ」

 

「ルパンが儂をか……」

 

「何を気にしてるか知らねぇが、しょぼくれたおっさんがいただけだ。来るんじゃ無かったぜ」

 

 銭形は煙草を咥えたまま天井を見つめていた。何か思案をしているようだが、後藤に変装した男にはその心の内まで読めなかった。

 

「帰ってルパンに伝えろ。今の儂はお前を追わん。追わんからから安心しろとな」

 

 しばらくして口を開いた銭形の言葉に男はふんっと鼻を慣らした。

 

「その言い方じゃあ、ボスがあんたを警戒しているみたいじゃねぇか。ま、伝えといてやるよ。あんたの腑抜けた無様な姿をな」

 

 じゃいくわ、と言い残して後藤に変装した男は、一度も口をつけなかった紙コップをテーブルの上に置き部屋を出ていった。

 

「……ルパンめ」

 

 安物の椅子をぎしりと慣らして呟いた銭形の言葉は虚空に消えた。

 

 銭形はルパンを追う権限を失った。いや、失わされた。生き甲斐とも言って良かったルパン逮捕の機会は失わされてしまったのだ。

 

「警部! 只今戻りました! あー! 警部! 煙草吸ったでしょ! 全館禁煙ですよ!」

 

 扉ががちゃりと開き、後藤警部補が入室してきた。銭形は後藤を一瞥したけで直ぐに興味を失った。そんな銭形の様子をいつもの事だと一切気にせず後藤が言葉を並べた。

 

「いやぁ駄目でした。捜査令状一つも下りませんでした。これじゃ未解決事件はずっと未解決のままですよね」

 

「いつもの事だ」

 

「書類整理だけなんて僕も飽き飽きなんですから。あれ? このコーヒー、手をつけてませんね? 誰か来たんですか?」

 

「あぁ。直ぐに帰ったがな」

 

「もったいないなぁ。飲んでいいですか?」

 

「……好きにしろ」

 

「じゃありがたく」

 

 後藤がコーヒーを飲むのを横目に銭形は椅子から立ち上がった。

 

「あれ? 警部何処行くんですか?」

 

「約束がある。後は好きにしろ」

 

「あ、はい。定時に上がりますね。今日デートなんですよ」

 

 銭形は返答を返さず部屋を出た。扉を閉めた瞬間に室内からギュルギュルと異常な音が鳴り、後藤の切羽詰まったうめき声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 警視庁の屋上にその男性はいた。歳は五〇を超え疲れた様子をみせていた。

 

「総監」

 

 屋上の扉を開けた銭形はその男性に声をかけた。

 

 警視総監。所属する警察官が四〇〇〇〇人を超える日本最大の職員数を誇る警察組織のトップに君臨する男性だ。

 

「銭形君……」

 

 警視総監は煙草を取り出し銭形に向けた。銭形は何も言わず煙草を受取り火を点けた。

 

 銭形が煙草を飲み終わるまで二人は無言だった。

 

「銭形君……済まないことをした……」

 

「……」

 

 警視総監は銭形の能力の詳細を知る数少ない人間だ。素手での格闘術は複数を相手に引けを取らず、生け捕り術や射撃は警視総監が知る限り銭形を上回る者は存在しない。身体能力もずば抜けており人間離れしたものを持っている。明晰な頭脳を併せ持ち正義感も人一倍。

 

 そんな銭形をICPO(インターポール)に推薦し出向させたのは警視総監だ。そして出向を取り消したのも。

 

「……済んだことです」

 

「銭形君……」

 

「総監にも色々と事情がおありでしょう。今まで過分に配慮頂いた事、感謝しております」

 

「……済まない……本当に済まない……」

 

「……」

 

 銭形はICPO(インターポール)出向の取り消しを警視総監に問いただした事はない。それはこれからもだ。長い付き合いの警視総監は、銭形がルパン逮捕にどれほど情熱を燃やしていたか知っている。応援もしてくれた。それが事情の説明のないままの出向取り消し。裏の事情があるのは明白だった。警視総監ですら抵抗出来ない事情。

 

 銭形は警視総監を責めることなど出来なかった。

 

「一つだけ宜しいでしょうか?」

 

「何でも聞いてくれ」

 

「『L資金』は実在しておるのでしょうか?」

 

「……っ!! どうしてそれを知っているんだ? いや! ないのだ! そんなものは無い!」

 

 警視総監の態度が一変した。表情は強張り口調が強くなる。信じられないものを見たかのように目を見開き銭形を見ていた。銭形は理解した。警視総監の態度が全てを物語っていた。

 

「……ありがとうございます……」

 

「……ッ! 銭形君!!」

 

 『L資金』。銭形がルパンの動向を調べている内にたどり着いた謎の資金だ。世界中でばらまかれ、日本円にして三〇〇兆を超える巨額のマネー。政界、財界、マスコミ、芸能界……あらゆる業界を巻き込む闇のマネーは世界に小さなうねりを生み出していた。

 

「……私でもどうしようもないのだ……警視総監と呼ばれても……何の力もない……」

 

「総監、ルパンが形振り構わず本気を出したのです。総監が悪い訳ではありません」

 

 それは言外に警視庁が個人の犯罪者に膝を屈した事を表している。警視総監はその事実を理解し力なく肩を落とした。

 

「ルパンは……ルパンは今まで本気ではなかったのか?」

 

「本気でした。奴なりの犯罪美学に則ってですが」

 

「犯罪美学……い、今は……」

 

「箍が外れました。奴は必要なら核ミサイルすら躊躇なく何発でも発射することでしょう」

 

 銭形は煙草を取り出して火を点けた。

 

「どうして……何故そんなことが分かるんだ!」

 

 銭形は大きく紫煙を吐き出した。屋上の風に吹かれて紫煙はあっという間に消えた。

 

「本官はルパンのスペシャリストです。それは今でも変わりません。奴の事ならわかります」

 

 そうだった。銭形のルパン逮捕に対する情熱。それは警視総監をして常軌を逸していたと思わざるを得ないと感じた事が何度もあった。常にルパンの事を考え、時にルパンに成り切った事もある男なのだ。

 

「……銭形君……君ならルパンが変わってしまった理由を知っているのではないか?」

 

「……」

 

 銭形は煙草を咥えたまま何も答えない。

 

「銭形君!」

 

「総監。今日はありがとうございました。失礼します」

 

 銭形は敬礼をすると有無を言わさず踵を返して背中を見せた。

 

「銭形君! 待ってくれ!」

 

 警視総監が銭形に声をかけるが銭形の足は止まらない。

 

「……総監。本官は何も知りません」

 

 銭形は振り返らず、足を止めず、それだけを言うと屋上の扉を開き姿を消した。

 

 嘘だった。銭形は知っていた。ルパンが変質してしまった訳を。ルパンが変質してしまったたった一つの理由を。

 

 何故なら。

 

 何故なら銭形は決定なその場にいたのだから。

 

 記録的な猛暑の夏が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 



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ルパン三世 パンドラの哀惜 (二)

「どうぞ」

 

 貧乏くじを引いた。銭形を先導する看守はそんな顔をしていた。文字通りくじ引きか担当日だったのか、どちらにせよ看守は最低限の職務と態度は保っていた。

 

 一〇〇メートル四方を二〇メートルを超える塀で囲い、塀の上部にある有刺鉄線には高圧電流が常時流されている。一〇メートル毎に配置された中央制御されていない機関銃は、塀の内側を動く物体を無差別に攻撃するように作られている。

 

 無駄な事だと思いながら銭形は塀の内側に唯一ある人工建造物に向かって一人で歩いて行く。銭形の背中には異常に大きな背負袋。歩荷(ぼっか)も真っ青なその量は優に一五〇キロを超える。最低限以下の水と食料、その他細々した生活必需品だ。

 

「では一時間後に」

 

 看守は塀にただ一つだけある扉を閉めた。この扉は一時間後にただ一度だけ開く。その後は三ヶ月後まで決して開かない。そして機関銃は塀の内側で動く物体を無差別に攻撃する。

 

「大層なことだな」

 

 銭形は人工建造物に向かって歩き始めた。一歩ごとに肩紐が体に食い込み、ギシギシと音を立てた。銭形の額から汗が流れ、鼻筋を伝って顎から流れ落ちた。それは荷を背負っているからではない。夏の暑さのせいだった。アブラゼミがシャワシャワと命を削りながら雌を呼んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 国際S級犯罪者特別刑務所。

 

 法務省がたった一人の犯罪者を収監するために建造した特別刑務所だ。塀の内側には厚さ三メートルを超える、鉄骨とコンニャクが埋め込まれたコンクリートで作られた建造物がただ一つあるだけ。

 

 建造物の周囲には所々銃痕の跡があり、骨になった鳥の死骸が転がっている。敷地内には草一本生えてない。強力な枯葉剤で草は枯れ、地面が剥き出しになっている。この地面の下にも鉄骨とコンニャク入りのぶ厚いコンクリートが敷き詰められている。

 

 周囲は地雷原だ。どこにいくつ埋められているか誰も知らない。設計図もルパン対策に既に破棄されている。

 

 脱走を防ぐ為か侵入を防ぐ為か、或いは両方か。今となっても銭形にもその意図を確認する事が出来ない。

 

 特別刑務所にインフラは整備されていない。上下水道、電気、ガス。全て存在しない。明かりは三ヶ月ごとに交換するバッテリー式のLEDライトのみ。水は独房に据え置かれたタンクから。地下一〇〇〇メールまでボーリングした穴で用を足す。水を利用して清拭は可能だが、使用済みの布を洗濯することは出来ない。

 

 収監されている犯罪者を逮捕したのは銭形だ。ルパンと袂を分かち、紀伊山地の山奥で修行をしていたところを確保したのだ。この時銭形はまだICPO(インターポール)に所属していた。そしてそれがICPO(インターポール)での最後の仕事になった。

 

 収監されている犯罪者の名は、石川五ェ門。

 

 伝説の大泥棒、石川五右衛門を祖にして、当代数えて一三代。仕込み刀の斬鉄剣で、ありとあらゆる物を切り裂き、これまで何度もルパンの大仕事を輔けている名実共にルパン一家の一人だ。

 

 性格は冷静・実直。剣だけでなく空手も示刀流の免許皆伝で、忍者の訓練も受けているため銭形と同様に驚異的な身体能力を持っており、並の人間が数を頼んでも到底太刀打ち出来ない事はとっくの昔に証明されている。

 

 銭形は過去に法務省と契約を結んでいた。三ヶ月に一度だけ、囚人に食料・物資を運ぶ契約だ。石川五ェ門の脱獄を恐れた法務省がICPO(インターポール)に打診し、銭形が選ばれた。ICPO(インターポール)から除籍された後もその契約は続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 独房の中は意外と整理されていた。六畳程の独房の隅に飲料用の水タンク、食料・物資、布団一式が並べられていた。不思議な事に異臭はしない。ルパン一味のやる事だ。考えても仕方がない。ゴミは目立たない。持ち運ばれる食料に包装はない。剥き出しだ。僅かに出るゴミは排泄用にボーリングで開けられた部屋の隅の穴に入れてしまえば事足りる。

 

「これは儂からだ。検閲は済んでいる」

 

 敷き詰められた畳は僅かばかりの温情なのだろうか、畳の上で座禅を組む五ェ門に銭形は剥き出しのそれを投げた。五ェ門は自らに向かって来るそれを一瞥し、片手で受け取ると懐からさらしを取り出し大事に包んだ。

 

 沢庵だ。

 

 検閲で端が削れているが食用にはなんら問題なかった。

 

「礼を言う」

 

「ふん。人権無視のこんなところでよく生きていられるな」

 

 銭形は背負った資材を下ろした。下ろすだけだ。後は五ェ門が勝手にする。背負袋は首を吊るにも使えるが銭形が知ったことではない。それに五ェ門がこんなところで自死するはずがない。背負袋は首を吊らなければ自然に分解され早ければ一ヶ月で土に還る。

 

 コンクリートに囲まれた独房は窓もなく光もない。バッテリー式のLEDライトがあるだけだ。外部からの音を一切遮断し内部は無音である。インフラは一切なく情報も入らない。並の人間なら即座に音を上げるだろう。

 

「銭形の好みではないな」

 

「儂ならこんなまどろっこしい事はせん。即縛り首だ」

 

 銭形は首に縄を当てる仕草で五ェ門に当てつけた。銭形はルパン一味を一網打尽にして全員を縛り首にすることを目標にこれまで頑張ってきた。五ェ門も当然それを知っている。

 

 よっこらせと銭形が畳に座った。約束の時間までまだある。外で機関銃に身を晒すのは銭形とて嫌だった。まだ独房の中の方がましだった。

 

 独房の扉は開いたままだ。ここにお互いの共通認識があった。

 

 五ェ門は逃げない。

 

 長期の独房生活で五ェ門と言えども足腰は弱っている。斬鉄剣の有無に関わらず銭形がいる以上脱獄は不可能だ。そして脱獄する以上、銭形は容赦なく五ェ門を射殺する。

 

「五ェ門。何故逃げん?」

 

「……」

 

 脱獄のことだ。五ェ門は過去に幾度となく脱獄に成功している。法務省もそれを警戒して人権無視の特別刑務所を作ったのだ。

 

「お前ならルパンに関係なくこの程度の施設なら逃げれるはずだ。ここには監視カメラの類はない。逃げたとしても発覚するのは三ヶ月後だ」

 

「……」

 

「ルパンを待っているのか?」

 

「……」

 

「これまでお前達を死刑には出来んかった。政府はルパンの報復を恐れていた(・・・・・)。これまでは閉じ込めておくのが精一杯だった(・・・・・・)

 

「アルカトラズで収監されている次元も同じだ。アメリカ政府もルパンの報復を恐れていた(・・・・・)からな」

 

「……」

 

 次元大介。五ェ門と同じくルパン一味の一人だ。凄腕のガンマンで銃器全般に深く精通している。精密射撃と早打ちを両立させ、単純な銃での勝負なら銭形とて敵わない。銭形はその次元を五ェ門に先駆けて逮捕していた。現在はアメリカ、アルカトラズ島にある連邦刑務所に収監されている。

 

「……今は恐れていないと?」

 

「ルパンの評価は暴落した。盗みに失敗続きのルパンを怖がる者は殆ど(・・)いない。それは日本政府も同じだ」

 

「そうか」

 

 それはそのまま銭形の評価として帰ってくる。良くも悪くも二人は有名過ぎた。銭形は足を組んだまま両手を頭の後ろで組み、ごろんと畳の上に寝転がった。

 

「お前の命も保って一年って所だ。これまでの付き合いだ、花くらいは備えてやる。がっはははは」

 

 背中側で寝転ぶ銭形の顔は五ェ門からは見えない。見えないがどんな顔をしているかは想像できた。五ェ門の口角が僅かだけ上がった。

 

「こんなところで時間を潰すよりルパンを追い掛けたらどうだ?」

 

 五ェ門は銭形が息を飲む気配を感じた。

 

「……儂はもうお前たちを追わん……いや、追えん。警視庁に呼び戻された。今や儂の名は無能で役立たずの代名詞だ」

 

「……」

 

 ルパンの失敗。銭形の落胆。それだけで五ェ門は事情を察した。

 

「時間か」

 

 銭形は腕時計を見て起き上がり、五ェ門に何も言わず扉に向かった。

 

「ルパンはあれからどうなった?」

 

 銭形は足を止めて振り返った。

 

「気になるのか? お前がここで待っている。それが答えだ」

 

「……!」

 

 がちゃりと音を立てて扉の鍵が閉められた。独房に静寂が戻った。LEDライトが薄暗く周囲を灯ているだけだ。忍者の訓練も受けた五ェ門は自らの身体から出る音を難なく消す事が出来る。

 

 無音。

 

 独房を完全な無音が支配した。常人なら発狂必至の独房で五ェ門は六ヶ月に渡り耐えている。語る者は誰もおらず、前回話をしたのは、三ヶ月前に物資を運んできた銭形だ。

 

 筋力が落ちぬよう日々訓練をしているが限界はあった。銭形は五ェ門が脱獄出来ると言っていたが、買いかぶりだ。事前に入念な準備をしていればそれも可能だっただろう。斬鉄剣もない。そして心のどこかに甘えがあったのかもしれない。ルパンが助けに来てくれると。誰もに頼れず独房の中からでは今から準備していては、脱獄は優に半年はかかるだろう。

 

 精神も少し参っていた。焦燥だ。薄暗い独房に一人でいる事は精神収容の修行だと思えばなんでもない。焦燥の原因は情報だ。一切情報が入らなかったからだ。これまで投獄されてもルパンとは何らかの手段で連絡は取れていた。しかしこの六ヶ月、ルパンとは一切連絡が取れない。

 

 ルパンと袂を分かったとは言え、過去に何度もあることだった。人誑しのルパンにいつの間にか有耶無耶にされ、共に仕事をこなしている内にわだかまりは無くなる。これまでそれの繰り返しだ。六ヶ月に渡り連絡一つ付かなかった事など、これまでに一度たりともない。

 

 銭形は僅かなりとも情報を持ち込んだ。銭形に五ェ門を気遣う義理などない。五ェ門も探りを入れられていたのだ。ルパンとの繋がりが切れた事は完全に悟られてしまった。それはルパンが狂ってしまったあの日から変わらず狂ったままだと言うことだ。次元も五ェ門も必要とせず、犯罪美学すらかなぐり捨てて。

 

 銭形に覇気はなかった。警視庁への呼び戻しは事実上、ルパンを追えなくなった事と同義だ。ルパン逮捕の天下御免の免罪符が消失するからだ。さぞや落ち込んでいる事だろう……

 

 五ェ門はあり得ない過程を否定する。

 

 そんなはずはない。法の番人が法の目を掻い潜り、五ェ門をして卑怯と思える手段を使い、時には法すら犯して何度も追い詰められた。執念と言っていいだろう。銭形のルパン逮捕の情熱は簡単に消えるものではない。文字通り人生を掛けていたのだ。銭形と敵対し、追い詰められ、出し抜き、逃げてきた五ェ門だからこそ思う。天下御免の免罪符がなくなった程度でルパン逮捕を諦める銭形ではないと。ルパンが狂ってしまった程度で投げ出す銭形ではないと。

 

「まずは食事か」

 

 収監され、脱獄の目処が絶たない五ェ門に当面の出番などないだろう。しかし何が起こるか分からないのが人生だ。波乱万丈はルパンと銭形だけの専売特許ではない。常在戦場で有り続けるため腹ごしらえは急務だ。

 

 五ェ門は沢庵を懐から取り出すと、ぽりぽりと久しぶりの心地よい音を楽しみながらゆっくりと食べ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 銭形は帰路についていた。時刻は夕刻だ。今までなら考えられない時間だった。世界を転々としてルパンを追いかけていた。それが今では定刻で帰宅だ。

 

 日中の内に太陽の恵みを溜め込んだアスファルトが容赦なく熱を放出し、道行く人々を不快にさせる。砂漠の暑さに強い銭形も日本の湿気を含む暑さには閉口する。額から流れる汗を拭いながら、歩いていた。

 

 木造文化アパート二階の一室。二DK風呂なし。それが銭形の住処だ。

 

 所々錆びた金属のステップを音を立てずに登った。突き当りの一室。ドアノブに触れ、直ぐに離した。上着の懐に手を入れ、小さく舌打ちをした。そこには銃のホルスターはなかった。日本の警官は常時銃を所持しない。銭形には超法規特権は無くなっていた。

 

 室内に誰かがいる気配がした。銭形は一人住まいだ。命を狙われる覚えは山ほどあった。罪状は不法侵入の現行犯。しょっ引いてから洗いざらい白状させてやる。銭形の口角が吊り上がった。

 

 静かに解錠し、一気にドアノブを開いた。

 

「動くな! 警察だ!」

 

「コーイチー!」

 

 見覚えがある明るい亜麻色の髪が銭形の頬を撫でた。次いで首に腕を回され頬と頬が触れ合った。鼻孔をくすぐる仄かに甘い香り。

 

 至近で抱きつかれ顔は見えない。だが銭形は扉を開いた瞬間に相手が誰かを理解した。

 

 自称『未来予知』の超能力者。自らを傍観者と位置づける、ロシアからICPOに出向した捜査官。銭形の元相棒。

 

 アナスタシーヤ・ミハイロヴナ。

 

 銭形の頬に小さな水音を立てて唇が触れた。

 

 



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オリジナル らめぇぇぇ!!!

 ゲツォィ王国。

 

 南を海に面し、東西と北を大国に蓋をされた中堅国である。豊かな海洋資源と豊穣の大地。鉄鉱資源にも恵まれ周囲の大国から常に侵略を受けてきた歴史がある。三つの大国から見れば、目の前に美味しそうなホッペンゲがファフェフォーをぶら下げ、なおかつニャシーンと共に歩いているが如きである。手を出さないはずがない。

 

 ゲツォィ王国は建国以来、一国に、時には三国から同時に侵略を受けて来た。だがその全てを跳ね返してきた。

 

 ゲツォィ王国の兵の練度が高かったのか。――否。並である。

 ゲツォィ王国の兵の忠誠度が高かったのか。――否。一部是。

 ゲツォィ王国に歴史に名を残す軍師がいたのか。――否。一人もいない。

 ゲツォィ王国の生産する武器の賜物か。――否。並より少し上程度である。

 ゲツォィ王国の外交が巧みだったのか。――否。全方位に失敗した。

 ゲツォィ王国の統治が安定していたのか。――否。幾度も内乱を重ねた。

 

 三国同時に、三方向から攻められた最後の大戦から三〇年、最後の内乱から一〇年。ゲツォィ王国は漸くの平和を甘受する事が出来た。国王も大臣も戦争はもうこりごりである。

 

 とは言えのんびりしていては大国に攻められる。国王と大臣は頑張った。超頑張った。元々豊かな国である。長らくの戦乱に耐えれたのも豊かな大地、豊穣の大海、豊富な鉱物資源、数多くの人口の存在があったからだ。戦乱の時間が圧倒的に減り、充実した内政に時間を多く割く事で富国強兵はなった。統治も安定し貴族に争いの種は見当たらない。

 

 隙のなくなったゲツォィ王国に攻め入る国はもうないだろう。逆に大国に攻め入る事が可能な程強くなってしまったのだから。しかしゲツォィ王国はそんな事はしない。誰より、どの国より平和が一番であることを知っているのだから。

 

 ゲツォィ王国はこれより繁栄の時を迎えるのだ。

 

 若い国王と老齢の大臣は「平和が一番だねー」「ねー」と微笑み合いながら、テラスで穏やかに日を浴びながら、お茶をずーずーと啜る日々に幸せを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

「陛下、大変です! ソノテツホーシィ国が攻めてきました! その数一二〇〇〇!!」

 

 国王と大臣の優雅で平和な一時を破ったのは慌てた兵士の声だった。

 

「ほう。たった一二〇〇〇か。西の将軍、ラークショが既に動いている事でしょう」

 

 大臣はカップを片手に慌てない。こんな事もあろうかと軍備を整えていたのだ。西の砦には常時三〇〇〇〇の兵が詰めている。百戦錬磨のラークショ将軍なら楽勝に違いない。

 

「はい! ラークショ将軍が軍備を整え万全の体制で出撃済みです!」

 

 兵士はその通りだと返事をした。

 

「ははは。頼もしい事ではないか。昔であれば右往左往していた事だろう」

 

 富国強兵が成った今、ゲツォィ王国に怖いものはない。国王は勝ったも同然だとばかりにカップに口をつけた。

 

「下がってよい」

 

 国王に代わって大臣が兵士に下がるよう命令した。国王と戦勝祝賀会の相談をしなくてならない。忙しいことだ。

 

「あのっ……」

 

「どうした? まだ報告があるのか?」

 

 大臣は気が長い。これまで多くの部下を育てて来たのだ。気が短くては人の上に立てない。

 

「シグールイ男爵が……陛下にご挨拶をしたいと……」

 

 兵士の報告を聞き終わる前に国王が口に含んだお茶を吹き出し虹が出来た。

 

「「なんでそれを先に言わへんねん!!」」

 

 国王と大臣の口から同時に、ゲツォィ王国に古くからある方言が飛び出した。

 

「すんまへん!」

 

 国の頂点に立つ二人が顔を真っ青にして激高した姿に慄き、兵士の口からも土下座する勢いで方言が飛び出した。

 

「わ、儂は会わへんで! そ、そうや! 儂は今日お忍びでインランちゃんに会う約束やった! 大臣! 後は任せたで!」

 

 国王は椅子から立ち上がって、その場を去ろうとした。だが大臣にがっちりと腕を掴まれた。

 

「おい、どこ行くねん」

 

 大臣は笑顔で、しかし底冷えする程冷たい声で国王に尋ねた。

 

「どこって……城下にインランちゃんってええ子がおるんや。おっぱいでこうてな、『王様……王様……』ってええ声で鳴いてくれるんや」

 

 聞いてもいない事をペラペラ喋る国王。そんなこといいから離せと国王は大臣の腕を振り払うが、がっちり掴まれた大臣の腕は離れない。

 

「奇遇やな。ワイもインランちゃんっておっぱいのでかい馴染みの子がおってな。『大臣……大臣……』ってそりゃもうええ声で離してくれへんのや」

 

 奇しくも二人は兄弟だった。感動の暴露だった。

 

「あの……王様、大臣。そんな事言ってる場合では……」

 

 いち早く動揺から回復した兵士が国王と大臣を諌めた。睨み合う国王と大臣の間に火花が散るが、難しい問題は棚上げにして後の世に先送りするのが高度な政治的判断だ。海千山千の国王と大臣は瞬時に妥協した。

 

「兵士、シグールイ男爵を足止めしろ」

 

 大臣が兵士に指示を出した。

 

「あ、はい、ですがどうやって」

 

「そんなことは自分で考えろ」

 

「儂はおれへんって言っとけよ」

 

 自分に出来ないことは助け合う。政治には大切なことだ。ここは兵士に任せよう。大臣は兵士に丸投げした。国王は居留守を決め込んだ。

 

「やべぇよ、やべぇよ……なんで見計らった様に来んねんな……」

 

 国王は頭を抱えている。大臣も痛い程気持は分かる。内政・外政が落ち着き、頑迷に渋るシグールイ男爵を粘り強く説得し、領地の転封をしたのは大臣と国王だ。国内でも気候が最も穏やか、海の幸も山の幸も豊富、土壌も豊かな海沿いの領地。元々王家の直轄領にして王家秘蔵の行楽地。国内で最も安全な場所。シグールイ男爵の領地とはそんな場所だ。大国と領地を接さず、戦火から最も遠い場所。何より情報封鎖が簡単で国王と大臣の意見が完全に一致した。ここしかないと。

 

「陛下。来てしまった以上仕方がありません。ここは知らぬ存ぜぬで誤魔化すしかありません」

 

「そ、そうか、それしかないな」

 

 国王も落ち着いてきた。後は大臣に任せよう。国王には頼りになる大臣がいた。

 

 大臣も考えた。男爵への対応は国王に任せよう。国王の責務を果たすのは今しかない。大臣には尊敬すべき国王がいた。

 

 扉の向こうで兵士が男爵を止める声が聞こえた。

 

「陛下にご挨拶がしたい!」

 

「駄目です駄目です。お引き取りを」

 

「何!? 陛下はおられぬのか!?」

 

「居ますけど居ません! あ、大臣は居ますけど。とにかく駄目です」

 

「要領を得ないな! 大臣もいるなら丁度いい! 直接会ってお話を伺う!」

 

「あーれー。私は止めましたよー。止めましたからねー」

 

 兵士の言葉は誰に向かってのものか。兵士の健闘虚しく男爵を止めることは出来なかった。

 

 国王は思った。あいつ減給三割。

 

 大臣は思った。あいつ最前線に左遷。

 

 十日後、兵士は減給三割で最前線に異動になった。

 

「陛下! ご機嫌麗しゅう! シグールイです!」

 

 扉がバーン! と開いて男爵が現れた。シグールイ男爵家には歴代の王が無礼御免の免状を与えている。これくらいで咎めていてはシグールイ家はとっくの昔にお家断絶している。勿論国王も与えていた。

 

 国王が大臣に目配せした。大臣は一瞬驚愕に表情を歪ませるが、不退転の覚悟で国王を睨みつけた。権威は国王が上だが、気迫は大臣が上回る。年季が違った。国王は渋々男爵に声を投げた。

 

「お、おう、男爵。息災か」

 

「はい! 陛下のお陰を持ちまして!」

 

 男爵が帯剣したまま、づかづかと歩き国王の前で跪いた。シグールイ男爵家には歴代の王がいついかなる時でも帯剣御免の免状を与えていた。勿論国王も与えている。国王も大臣も自分の命の心配など欠片もしていない。

 

「し、して……今日は何の用なのかなぁ……って思っちゃったりして……」

 

 国王はもう分かっていた。男爵を見た瞬間から分かった。分かっているけど聞いた。その上でしらばっくれた。

 

「はい! 参陣のご挨拶に参りました!」

 

 男爵は全身を鎧に包み、いつでも出陣可能な出で立ちだ。

 

「ほ、ほう……参陣とな? せ、戦争でもあるのかなぁ……聞いているか大臣?」

 

「何のことだかさっぱりと分かりかねますな。きっと男爵の勘違いでしょう」

 

 この辺りは阿吽の呼吸だ。国王と大臣の呼吸はばっちりだ。

 

「そうでしたか! これは失礼しました!」

 

 国王はぐっと拳を握りしめた。見れば大臣も拳を握りしめていた。

 

「我が隊が先に情報を掴んだようです! 敵はソノテツホーシィ国! その数、輜重と合わせて一五六八二名! 率いる将軍は鉄血のワーキヤク将軍! 将軍の脇を墨守のソノニーと重攻のソノシー、二名の副将軍が固めています!」

 

 国王は膝から崩れ落ちそうになった。見れば大臣の膝が震えていた。

 

「……へぇ……すごい数だなぁ……でも……そうなのかなぁ……誤情報なんじゃないかなぁ……」

 

「いえ! 間違いありません! 私自ら数えて参りました!」

 

「ちょっ! おま!」

 

 大臣が口を挟んだ。気持は分かる。大臣が言わなければ国王が、お前何やってんの!? と叫ぶ所だった。冷静に。ここは冷静に。冷静になれ国王。

 

 男爵は大臣の言葉に首を傾げるも言葉を続けた。

 

「ですので家訓に従い出陣前のご挨拶をと罷り越した次第! では!」

 

「ちょ!」

 

 男爵が踵を返した。国王は手を伸ばしたが僅かに届かない。国王の指先をすり抜け男爵が機敏な動きで退出する。国王は慌てる。待って! お願いだから待って! と。

 

 しかしここにいるのは国王だけではない。大臣もいたのだ。大臣は加齢で弱った足腰に鞭を打ち、男爵の腰に両手両足を絡めて飛びついた。振り払う事は簡単だろう。だが王家に忠誠を誓い、大臣を深く敬う男爵にそんな事は出来なかった。

 

「でかした大臣!」

 

 国王は急いで男爵の腕を掴んだ。男爵が国王の手を振り払うなどあり得ない。これでとりあえずは大丈夫だ。

 

 見れば大臣が両膝と両手を床に突き、額に大量の汗を流してはぁはぁと息を吐いていた。後で腰を揉んであげようと国王は思った。

 

「の前に~~~ちょっと話をしようじゃないか、男爵」

 

「光栄です陛下! 私に否やなどあろうはずがありません!」

 

 国王はがっちり掴んだ手を離さず、テーブルまで移動した。

 

「男爵……お茶でもどうかなぁって」

 

「お気持ちだけ頂きたく!」

 

「座らない?」

 

「陛下と同じ席に座るなど滅相もない事です!」

 

「……あぁ……そう……」

 

 そうだ。シグールイ男爵家の者は例外なくこういう者だ。男爵の父もそうだった。

 

 一〇年前に起きた貴族の叛乱。男爵の父は最後まで王家に忠誠を誓い、男爵と同じく態度を最後まで変えることなく、叛乱貴族の首魁と刺し違えて死んだ。国王を最後まで守り抜いて。

 

「で、でね、王様思うんだけど、戦争に行くには少ーし男爵の年齢が若くないかなぁって……」

 

 国王は男爵の手を掴んだままだ。離した瞬間に飛び出しそうな強迫観念に駆られとても離せそうにない。

 

「陛下! 決してそんな事はありません!」

 

 男爵は直立不動のまま答えた。

 

「男爵は確か一〇歳だよね? 初陣には若すぎるんじゃないかなぁって……」

 

 シグールイ男爵。当年取って一〇歳。小さな体に鎧を纏い帯剣する姿は、騎士に憧れ、背伸びした子供にも見える。しかし国王は男爵家の人間がそんな甘い物だとは欠片も思っていない。

 

「お心遣いありがとうございます! ですがご安心を! 曾祖父様は七歳で! お祖父様は九歳で! 父上は八歳で初陣を済ませております! 先祖には六歳で初陣を済ませた者も! 私は一〇歳で未だ成らず! 恥ずかしい限りです! ですので決して若すぎるということはありません!」

 

 男爵が言う曽祖父は一八で、祖父は二一で、父は一九の若さで命を散らしていた。

 

 駄目だ。案の定男爵家の者に言葉は通じない。国王は男爵の手を掴んだまま途方にくれた。

 

「しかし、男爵の父上はどう思うだろうか。男爵にもしもの事があれば、王国の建国から存在し続ける名門中の名門の男爵家が絶えてしまう事だろう。決して父上も望まないと思うが」

 

 大臣が口を挟んだ。そうだ、ここは情に訴えるのだ。男爵の父が討ち死にした時、大臣も一緒にいたのだ。

 

 一〇年前、男爵の祖母、伯父、叔母の尽くが、当時王子だった国王をを護り抜いて戦死した。男爵の父が死ねば男爵家は血が絶える。死地に赴く男爵の父を死なせない為、当時王子だった国王は必至で止めたのだ。

 

『ご安心を! 妻が子供を身ごもりました! 我が男爵家はこれで安泰です! 思い残す事は何もありません! 王家に栄光あれ!!」

 

 昔から男爵家はギリギリの綱渡りでお家断絶をすり抜けていた。だが今回ばかりはそうはいかない。男爵には血のつながる遠縁の親戚すら一人もいない。当然兄弟もいない。残らず息絶えた。男爵が死ねば家名は残せても形だけだ。男爵家の血は完全に絶えてしまう。

 

 建国当時から度重なる戦乱で、男爵家は王家を、王国を命を以って支え続けた。戦争の度に、当主が、その兄弟が、妹が、妻が、母が、敵の軍勢を率いる将軍と刺し違えて来た。一人一殺。確殺だ。戦争では将軍を。内乱では首魁を。戦乱の度に数を減らし続け、今では男爵家は男爵ただ一人。しかも一〇歳。子は望めない。

 

 情だ。情に訴えるのだ。通じろ! この馬鹿に通じろ! 国王は祈りにも似た心持ちだった。

 

「誉です! 陛下を! 王家を! 王国を守る為にお家の断絶など何を惜しむ事があるでしょう! 父上も先祖も天上で喜んでくれるに違いありません!」

 

 駄目だ通じねぇし! しかも死ぬつもり満々じゃねぇか!

 

 国王は絶望した。だが掴む腕の力は強くなった。離せば矢の如く戦場に飛んで行くに違いない。そして刺し違えて戦死するのだ。

 

「いや、駄目だからねッ! 死んだら駄目なんだからねっ!」

 

 大臣使えねぇ! 王国の富国強兵に成功した大臣を国王は無能と断じた。

 

「もうラークショ将軍が三〇〇〇〇の兵を率いて迎撃してるから! 楽勝だから!」

 

 国王はぶっちゃけた。戦争を知らない(てい)など星空の彼方だ。

 

「存じております! ですが何が起こるか分からないのが戦争です! ここは万全を期すのがよろしいかと!」

 

 その情報網なんなの!? 一国より正確無比の情報網どうやって作ったの!? 万全を期すって男爵家の手段は一つでしょ!

 

 国王と大臣に残された手段は残り少ない。だが何としてでも止めなくては。出撃したらこいつ、確実に刺し違えて死んじゃう!

 

 こんな事態にならないよう、王国の最奥、最も国境から遠い領地に必至の説得でやっとの思いで転封したと言うのに!

 

 決して男爵家を疎かにするな。命を代価に命を助けられた歴代の王、全員が残した王家の家訓である。

 

「ね? 男爵が万全を期さなくても大丈夫だから今回はお休みしよう? ね?」

 

「死しても魂は護国の鬼となり、王国を守り抜く所存です!」

 

 聞いちゃいねぇ! 普段は穏やかなのに戦争になるとなんでこうなるの!?

 

 ぐぐぐっと少しずつ男爵の腕に力が入っている。振り払えないが偶然腕が離れたと言い張るつもりか。大臣に目配せすると大臣が男爵の背後に周りいつでも抱きつける体勢に入った。

 

「死んじゃ駄目だから! ね? 美味しいもの毎年一杯送っているでしょ? もっと人生楽しまないと! うちの娘まだ四歳だけど婚約してくれないかな? きっと美人になるよ! 楽しみだね!」

 

「いえ! 男爵家に甘えは許されません! 王国の盾となり! 王家の剣となり散りゆくのが我が男爵家の宿命です!」

 

「散っちゃ駄目だから!! 駄目なの!! ね!? そんな宿命ポイだから!」

 

 国王の握力は限界だ。ぐぐぐっと、一〇歳の子供とは思えない力で腕が離れようとする。大臣が腰にぐっと力を貯めた。

 

「我が命! 陛下に捧げます!」

 

「らめぇぇぇ!!! 間に合ってるからぁぁ!! 男爵に死なれると歴代の王に顔向けが出来ないのぉぉぉ!! 枕元に立たれちゃうのぉぉぉぉ!!!」

 

 王宮に国王の叫び声が響き渡った。

 

 ゲツォィ王国は安定期を迎え長期に渡り繁栄する。王国が衰退する時、男爵家が存続していたか、今は誰も知らない。

 

 

 

 




【ホッペンゲ】【ファフェフォー】【ニャシーン】
とても美味しいゲツォィ王国の特産品。
一度食べれば病みつきになるが、気候の変化に弱い。
こんなの見せられたら食べずにはいられないよね。


【ソノテツホーシィ国】
大国だけど鉄がどうしても足りない。
貿易して輸入しろよと言いたいところだが、これまでの関係上素直に「輸入してあげてもいいんだからねっ」とは言い難い。


【鉄血のワーキヤク】 
特筆すべき事は何もない。
足の裏が臭いくらい。


【墨守のソノニー】
ソノシーとは兄弟ではない。


【重攻のソノシー】
じゃんけんが強い。生涯通算で勝ち越している。


【ラークショ将軍】
いぶし銀の四八歳。単身赴任中。
孫が四人生まれたが、任地を離れられず、まだ一度も顔を見たことがない。
せめて名付け親になろうとしたが、尽く却下をくらった。


【方言】
ゲツォィ王国に伝わる伝統的な言語。
普段は優雅に言葉を矯正しているが、慌てると素が出てしまうのは貴族も平民も同じ。
一部の貴族は正式な文書に方言をぶち込んでくるので読み難いったらありゃしない。


【インランちゃん】
城下の一流娼館に勤める売れっ子娼婦。おっぱいがでかい。不断の努力の賜物である。
相手に合わせて様々な性格、反応、テクニックを使い分ける。
インランちゃんを指名する客は一〇〇人を超える。
一〇〇人は全員、インランちゃんが自分に惚れていると思っている。
病弱設定なのでバッティングしても大丈夫。ダブルヘッダー、トリプルヘッダーばっちこい。
国王と大臣が兄弟であることが発覚してしまい、インランちゃんの対応から性癖も酷似していると判断されるが、本人たちが知るよしもない。


【兵士】
最前線で一から出直す事になったが、運命の女性に出会い、軍を退役。
婿養子に入り、波乱万丈の末、五人の子と大勢の孫に囲まれ幸せな一生を送った。


【国王】
この国で一番えらい人。
基本無能。でも人を見る目だけはあるので、丸投げすると何もかも上手いこと行く。
王妃と仲睦まじいが、初めての火遊びがインランちゃん。
惚れられていると思って、妾にするか悩み中。
王子二人、姫一人の三人のパパ。
名君ではないが、繁栄の礎を築いた王として歴史に名を残した。


【大臣】
有能。超有能。独身。
見かけによらずまだまだバリバリ現役。
年季が明けたらインランちゃんを身請けしてセカンドライフを満喫したい。でも孤児院に多額の寄付をしているからお金が無くて無理っぽい。でも身請けしたい。でも財布が厳しい。
インランちゃんにラブぞっこん。
名宰相として名を残した。


【シグールイ男爵家】
 王国建国時からある名門中の名門。
 戦争の度に、内乱の度に当主が、その弟が、妹が、親族が、戦争相手の将軍・首魁と刺し違えて戦死。撤退を余儀なくしてきた。

 王家との婚姻と陞爵を頑なに固辞し続け代々変わらぬ忠誠を誓い続けている。

 歴代の王が全員、今わの際に、『男爵家だけは絶対に、何があっても、なんとしてでも断絶させるな』と言い残し王家絶対の家訓となった。




 顛末。

「君が死んだら今後誰が物理的に王家を守ってくれるのよ!?」

「ぐっ!」

 なんとか留まってくれました。
 現在男爵家では、お嫁さんを急募してますが王家と大臣が全力全開で邪魔してます。
 早急に王家の血を混ぜて、刺し違い戦法を留まらせる様に大臣と画策すると同時に外交に更なる力を入れ始めました。平和が一番。
 現在王家の姫は四歳。説得は困難な模様。








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実録 E県での恐怖

ノンフィクション


 週末を利用して幾つかの県を越境して電車でぶらぶら。特に目的もなく現地の名物を食べながら電車でガタゴト旅をしていました。

 

 そしてE県でそれは起こりました。

 

 足を延ばしてお風呂に入りたーい!

 

 宿は節約してネットカフェで済ましていたので当然お風呂には入れません。なのでネット検索で近場のお風呂をチェック。

 

 意外と近くに温泉があったのでかばんを背負ってレッツゴー。

 

 入湯料は600円。銭湯じゃなく温泉だったのでこんなもんですかねー。

 

 なんとかって云う元素云々、体の隅々まで行き届き云々、元気に云々。

 

 効能はプラシーボなので気にせず突撃だー。

 

 時間は18時。意外と客は少なく一〇人くらい。

 

 普通の湯と温泉湯とサウナと露天。銭湯を少し大きくした程度の規模の温泉です。

 

 体を洗って、お湯に浸かって、温泉に浸かって、サウナに入って、お湯に浸かって。

 

 恐怖はここから始まりました。

 

 ん? なんか見られている?

 

 僕には視線を感じる能力はないのですが、ふと視界の端っこでちょっと小太りのおじさんがこちらを見ているような気がしました。

 

 気のせいだ……気のせいだよね……移動しよう……

 

 おじさんを振り切って露天風呂に移動しました。熱めのお湯が好きなのですがこの温泉は全体的に温めでした。少し肌寒い気温と温めのお湯。まぁ悪くありません。町中の温泉なので景色は見れませんが、温度差が心地よい。

 

 さっきのおじさんが来ました。なぜ隣に座る……

 

 視界の隅で僕をチラチラ見ている気がします。

 

 気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。

 

 よし、サウナに行こう。ということでサウナに移動しました。

 

 サウナも少し温めです。でもサウナって感じで汗がドバドバ。そして俺の隣でおじさんも汗がドバドバ。

 

 視界の隅でおじさんの顔が何度もこっちを動きます。

 

 これ、タゲ取られてる?

 

 取られてるよね?

 

 やべぇ……早合点ならいいけど、偶然はここまで重ならないぞ……

 

 やべぇよやべぇよ。俺丸出しだよ。お尻ぷるんぷるんだよ。

 

 ちなみに僕の簡単なスペックは身長一六八センチ。体重六五キロ。若干ぽっちゃり系の魅惑のボディの持ち主。

 

 参考までに過去に銭湯で二度、それらしき男性にマークされたんじゃないかと思わしき行動をとられたことがあります。その時は友人がいたので逃げましたが、この日は完全に一人。

 

 やべぇよやべぇよ。

 

 マジやべぇよ。お尻の穴がきゅっとなりそうです。

 

 とりあえず風呂は満喫したいので、温泉内をサーキットしながら逃げました。

 

 何度かかち合い、視界の隅でおじさんがちらちらこっちを見ます。僕は絶対に目を合わせません。

 

 出よう……

 

 これほど楽しくない温泉は久しぶりです。

 

 出口近くのシャワーで体をすすぎ、タオルで水気を落としました。

 

 振り返ったらおじさんがいました。こっち見てます。

 

 これ確定だよね……やべぇ。

 

 おじさんは入口近くのかけ湯をするやつの近くにすわりこっち見てます。

 

 た す け て

 

 慌ててはいけません。何気ない振りをして出るのです。目を合わせてはいけません。

 

 サウナに入ったので汗がまだ出てるので扇風機の前で体を冷まします。

 

 おじさん出てきました。俺、丸裸。

 

 よかった。髪を乾かしているお兄さんが一人いました。いくらなんでも襲ってこないでしょう。

 

 おじさんは裸です。

 

 僕はロッカーを開けて急いで着替えます。

 

 恐ろしい偶然でおっさんのロッカーは僕の隣でした。いや偶然ではなく最初からマークされていた可能性が頭をよぎります。

 

 おじさんはまだ裸です。こっち見てます。携帯を取り出してます。

 

 写真とるのか……それとも外に仲間がいて連絡を取っているのか……

 

 やべぇよやべぇよ……

 

 着替えを探す余裕はありません。脱いだ服をそのままライドオン。

 

 おじさんはまだ裸です。僕は大急ぎで着替えて逃げるように脱衣所を出ました。

 

 番台にいたおばあちゃんに報告です。

 

「男に狙われました」

 

「時々いるのよ。困ったわぁ」

 

 知ってるんかーい!!

 

 こんな事してる場合ではありません。急いで逃げよう。

 

 おっさん登場。さっきまで裸やったやないかーい! どんな早着替えなんやねーん!

 

 俺は下駄箱に移動。おっさんがっちりマーク。おっさん若干急ぎ足。

 

「あ、やっぱりたばこ吸って休憩しよう」

 

 ここで俺がVターン。今時珍しい分煙をしないロビー。ありがとうたばこ! これで逃げれるよ!

 

 おっさんも下駄箱からVターン。灰皿を間に俺の正面に座る。

 

 なんでやねーん!!!

 

 俺怖くて不自然にテレビを見続ける。目を合わせちゃダメだ!

 

「旅をしているんですか?」

 

「えぇ……」

 

 話しかけられた。やべぇよやべぇよ。

 

「どこから来たんですか?」

 

「関西からです」

 

 大阪の隣の政令指定都市からですけどね! 絶対に言わない!

 

「今日どこか泊まるんですか?」

 

「今日帰ります!」

 

 良かったらうちに泊まりませんかって言おうとしただろ!? 絶対に泊まらん!!

 

「電車ですか?」

 

「えぇ……まぁ……」

 

 ネカフェで泊まる予定だけどな! 絶対に言わねぇ! 言ったら隣のブースに来そうだ!

 

「良かったら車で送りますよ」

 

「いえ……歩きを楽しんでいるので……それに駅まで二〇分くらいですから……」

 

 俺にハイエースされる危機が発生。仲間いないだろうな……

 

「ご、ご飯でも食べようかなぁ……」

 

 あ、食べ方わからないや。これはうっかりですね。番台のおばぁちゃーん。教えてくださーい。

 

 僕は番頭さんに小さな声で

 

「あ、あ、あの人です……追いかけられてます……」

 

「あの人は知らない人ねぇ」

 

 他にもいるんかーい!!

 

「ごめんねぇ。現行犯じゃないとどうしようもないの」

 

 それ、俺、掘られとるやないかーい!!

 

 トラウマ発生するわ!!

 

 逃げよう!!

 

 僕はかばんをもって下駄箱に向かう。

 

「お、お疲れさまでした」

 

 おっさん立ち上ち上がる。俺、かばんの中身を確認する振りをして座る。

 

 おっさん下駄箱でもたもた。おれもかばんの中身の確認にもたもた。

 

 おっさん出ていく。おれソファーでぐたー。

 

 仲間がいるかもしれないから一応もう少し様子見でロビーに居座る。

 

 番台のおばあちゃん、もう興味なくなってる雰囲気。

 

 少し時間を空けて温泉を出る。駐車場にヘッドライトの明かりがついている車が数台。

 

 この中にいるかもしれない。僕は急いで大通りに逃げました。

 

 何度も後ろを振り返り安全を確認する事は忘れません。

 

 マンションの陰に隠れたり、辻をいくつも無意味に曲がったり。

 

 ここまでくれば安心だろう。

 

「ふう……やばかった……」

 

 僕は気を抜きました。その時前から白の軽自動車が走ってきました。

 

 進路は温泉から逆方向です。なので一度Uターンしないとこの進路は通らないはずなのです。運転席の窓が下りました。

 

「楽しんでくださいねー」

 

 おっさんでした。

 

 田舎道なので街灯がない暗い道を何度も振り返ってネカフェまで逃げました。

 

 あきらめたのか無事逃げきれたと思います。

 

 確実に狙われていたと思うのですがどうでしょう?

 

 偶然? これは偶然なのか?

 

 自意識過剰?

 

 ちなみにおっさんは優し気な顔立ちでしたが、僕にその手の性癖はないので優し気だろうと厳つかろうとノーセンキューです。

 

 でも、視姦されてるよなぁ……男に視姦されるとか……凹む。

 

 



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