思いつきアンソロジー (小森朔)
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一刻百夜物語

 ソロモン王のところにトリップした女主が宦官として仕える話。
 セイレム未プレイですがシバの女王がどストライク過ぎてつい書きました……セイレム走り回ってガチャを回さねば……


 図書館の本棚をくぐり抜けていたらいきなり砂漠地帯の国に転び出て、とっ捕まって男(仮)として士官することになっていたでござる。わけがわからないと思うが以下テンプレである。

 

 いや、本当にわけがわからないよ。なにこれ。すごく気に食わない。興味本位で半分飼われる形になってるあたりも気に食わない。

 とは言いつつ、行き場がない以上下手に何処ぞへ行くこともできない私は、今のところ宦官として宮廷に仕えている。げに凄まじきは宮仕え。ハレムなんて広くて迷いそうだし、女性たちの派閥を渡り歩くのもかなりしんどいものがある。それに、文官相手にしろ武官相手にしろ宮廷内での身の振り方も上手くないし。主な仕事場の女性の精神性だって、現代の、その中でも喪女だった私には分かるものじゃない。だって彼女たちみんな一人の王の妻だしね!!

 いきなりとんでもないところにぶち込まれたもんだ……。切実に帰りたいと思いながら激務に身をやつしている。

 

「王よ、何故私を食客となさるのですか」

 ほとほと疲れて気の迷いから聞いてみたことがある。その時の王は、空っぽな目でこっちを向いて言った。

「君は私の目に映らない。君だけが視えるものから外れて、何一つ視えない。こんな危ないもの、敵国に渡ったら困るだろう」

「……なるほど」

 正直、ふざけるなと言いたいところだったけど、そのおかげで私は生きている。だから、死なない程度に頑張るしかないんだ。

 

 今のところ帰れるかわからないし、そもそも何が原因でここにいるかわからない。とりあえずは、あの答えで私が男として生きている事について納得はできた。女のような体付き(女だけど)は宦官としての特徴と合致させることができる。そして宮廷に出入りして仕事はできる。そして異教徒だからこそありえる同性愛者であったとしても、女とバレないようにハレムの女性と密通はできない。密通して反旗を翻すことも、ない。

 第一、その前に宦官は蔑まれることが多い。それに他にも宦官が国を滅ぼした例があったのか、王の側への控えがあるときには他の側近たちの監視の目が厳しいのだ。私を宦官として使うのはとても合理的だ。

 

 まあ、だから気に食わないんだけど。

 

 

 そうは思っても、ずっとその国に居ると愛着は湧くもので。いつ帰ることができるかと指折り、石版に刻み数えて居たのに、帰りたくないと思い始めてしまった。

 この国は不便だ。でも、書き言葉は必死に覚えたし、与えられた仕事にだって慣れた。ハレムの女性たちとのやり取りも、すごく頑張ってそれなりに上手く行っている。どこの派閥でもない使い走りだから、お気に入り、とまでは行かないんだけど、それでも目をかけてくれる人がいる。慣れたらご飯も美味しいし、監視付きとは言え一人で食べて一人でふらふら遊びに行くのだって楽しくなった。街は面白い。習俗も、全部手持ちのノートに書きつけて真面目に研究してみたりした。フィールドワークとして雑談半分の聞き取り調査もしたし、それをまとめて提出したときのやり遂げた達成感は物凄く楽しくて倒れそうなくらいだった。そういう体験があるから、もう少し、もう少しだけ頑張ってみようと思う。

 

 イスラエル王国に辿り着いて、百夜が経った。やって来てからも相変わらず、知り合いのいないところでの独り寝は少しだけ寒い。

 

 

 

 

 

 

 ふっと目が覚めると、座って寝ていたみたいだった。あれは本当に夢だったんだろうかと思うほど、リアルな夢だった。未だにベッドの固さや布団の柔らかさまで覚えている。起きた瞬間布団がなくて寒いと思ったくらいだ。周りを見回してどうも図書館のソファで眠り込んでいたらしい。時計を見ると、二時間ほど経っていた。まずい、そろそろ帰らないと。来週また返しに来よう。

 しかし、図書館を出る前に足を止めた。それで、もう一度本棚を見て、古代世界でも役立ちそうな発明についての本を幾つか借りる。もう一度、あの世界の夢を見ることができるなら、面白い寝物語や役に立つものをお返しできないだろうか。側に控えるうちに案外気に入ってしまったらしい、あの無機質な王のために。

 

 

 

 

 

 

 図書館で、読み切った本を返して館内で本を読んでいると、あちらの世界の自室にいた。やっぱり、ここで本を読むとかするのが迷い込む原因だったんだろう。とりあえず、朝が来てるんだし、起きなきゃ。胸をあんまり崩れないように慎重に布で誤魔化して、初めの頃に与えられて着慣れた官服に袖を通す。あんまり潰すと痛いし、呼吸がしんどいから緩めに巻いてるけど、宦官という設定がありがたいことこの上ない。レイヤーさんとかでも、めちゃくちゃ締めて完全に平らにすると半日で倒れるみたいだし。

「アモス殿、おはようございます」

「ああ、おはよ、っ!?

 誰か居ないか!セラヤが起きたと伝えろ!」

 部屋の前にいた監視役のアモスさんは、私の挨拶に返事をしようとして途中でとんでもないものを見る目で言葉に詰まった。それから大声を上げて人を呼ぶ。……私、そんなに長く寝てたのか?

 

「では理由も分からない、と」

「はい。申し訳ございません、陛下」

 ソロモン王に拝謁して、事態について聞いたときは卒倒するかと思った。七日間向こうと同じく寝てたらしい。しかし、私にも原因がわからないのだからどうしようもない。次は同じ百日後かも知れないし、あるいは半年後かも知れないし、明日ということだってありえる。

 まあ、わからないなりに、こちらにいるうちはちゃんと仕えるのだからいいだろうと思う。その意見をやんわり変えた言葉にして伝えると、王が不愉快そうに表情を変えたのが愉快だった。まだ自由にさせてもらえず終いなの、恨んでるからね。買い物くらい、そろそろ監視外してほしい。

 

 それから、やっぱり仕事をして泥のように眠ってを繰り返し、持ってるノートにどんどん書き足して。それに王が何かを本当に喜んでいる節はないんだなと確認したり、女中さんやハレムの女性たちが好む話や、王が好む話をした。

 そして何度か、百夜目に昏睡して図書館で起きるのを繰り返して過ごした。現実世界の私が年を取っていないのが不思議なくらい、イスラエル王国では長く過ごした。どうせなら、あちらでもう目が覚めなくてもいいかな、こちらで生きていてもいいな、と思うことも何度かあった。かなり、馴染んてしまった。本当に、このまま生きていくのでもいいと本当に思うほどだったんだ。

 

 

 随分経ってから、南方の王国から女王がやってくると使者が遣わされた。

 私も彼女のことは生で見てみたかったから凄く楽しみだった。知恵比べがどのようであるか、その場で体験することができるのが幸福だと思いながら、その時を待っていた。

 ……彼女を自分の目で見るまでは。

「陛下、南方の女王様がお越しになりました」

 うつくしい、本当にうつくしい人だと思った。その姿を見た途端、雷撃に撃たれたのかと思うようなひどい衝撃で、息が詰まりそうになった。それまで巡らせていた思考が全て真っ白になるくらい、彼女のこと以外気にならないくらい。それだけ、うつくしい人だったのだ。

「お初にお目にかかります、ソロモン王陛下」

 涼やかな、愛らしい声。知性に富んだ人とわかる、怜悧さの滲む声。

 

 

 私は、確かにこのうつくしい女性に、一目惚れの恋をした。彼女を愛してしまった。

 

 

 それから、なんてことはないと思っていた数日間の彼女の滞在が、ほんとうに地獄のような時間になった。

 彼女の微笑みがとても眩しく、見ているだけで心が踊った。淡く紅潮した肌に、なんと温かそうなのだろうと恋しく思った。少しだけ街に出て所用を済ませたとき、装身具や爪紅を見て彼女に似合いそうだとつい買ってしまった。そんな時間が心から楽しかった。

 でも、彼女と我が王が同衾するを見て心臓が締め付けられるように感じた。そこに控えることに、どうしようもなく呼吸が苦しくなった。そのことを思って夜に一人で部屋に篭り、幾度となく泣いた。我が王、とまで最近は呼ぶようになった主君が感情を持ち合わせないことに、遣る瀬無く思った。

 分かってはいる。本当は女で、今はただの宦官でしかない私が、国の同盟相手である女王を恋慕するなんてあってはならないことだ。感情に振り回されるのもいけないことだ。恋というものが一時の暴走でしかないことも、彼らにあるのが恋ではなく同盟の友としての友愛であることも、きちんと弁えている。頭では、わかっているんだ。

 

 幾度か同盟国の首長として行き来し、語ることがある彼らを、私はただ家臣として見ていた。いつしか、彼女への恋心はゆっくり抑えが効くようになったと思う。その代わりに、我が王への罪悪感、彼女への罪悪感がゆっくり、ゆっくり育ってしまった。

 これらは全部不敬、あまりにも不敬だ。それに、誰かに気付かれて指摘されれば、逆臣としても扱われかねない。

 

 切羽詰まった私は、死ぬことを決めた。ふと、どうしようもなく、そう思ってしまった。こちらに来るようになってから蓋をしていた気持ちに、また薄らと火が付いて、燃え始めてしまった。

 

 

 それから、私がしたことは大したことではなかった。仕事の合間に仲良くなった女中に頼んで、幾らかのものを融通してもらった。それだけだ。誰にもバレないように死ぬ。その計画を立てただけ。

 頼んで融通してもらったものは、この町にこれ以上ないくらいに強い酒と、毒草だ。毒草は酒のアテにするからと嘘をついて、人が知らないであろう毒性の高いものを買ってきてもらった。

 本当はあんまり苦しみたくはない。でも、王にバレたら磔刑は免れない。どうせなら、ばれないように自死したかった。我が王が私について何も視えないことが、これ以上なく都合が良かった。

 

 それから、誤魔化すように仕事に取り組んだ。王の寝所にはできるだけ近寄らないように、計画が誰にもわからないように。

 ……なのに、我が王は私を寝所に呼んで物語を語らせたり、報告を上げさせるようになった。あてつけだろうか、それとも、知られてしまったのだろうか。バレようがそうであるまいが、どっちみち死ぬことには変わりないと腹を括った私は、女性を連れ込んだ王の閨や、ハレムのお呼びのない女性のところで夜毎に寝物語を話し続けた。

 

「セラヤ、君は良く仕えてくれている。何かひとつだけ、願いを叶えてあげよう」

 我が王は、気まぐれだろうか二千夜目にこんなことを提案してくれた。特に願うことはない、と言いそうになったが一つだけ思い浮かぶことがあった。

「ありがたき幸せにございます……でしたら陛下、貴方様の魔術書を一晩のみ、人を周りに置いたままで良いのでお借りできませぬか。そうでなければ、私は何も求めません」

「……いいだろう」

 我が王は虚を突かれたようになり、その後苦々しい顔で、一つ頷いた。蜂の巣をつついたような廷臣たちの声も、何もかもが止めようとするけれど、偉大な王の了解は取り下げられることなく、私はその権利を得た。

 

 

「なぁ、レメゲレン、それともゲーティアかな。君、今ちゃんと意思があれば覚えていてくれないか。

 我が王は、自由な心を許されなかった。そして、人のあり方はとても愚かしいように見えるかもしれないけど、それと同じくらい、美しくて愛おしいものなんだよ。私が、彼女を愛することだって、誰かはきっとわかってくれるし、その誰かはきっと、無条件に人を許すことのできる心のうつくしい人だよ」

 何人かの監視役にずっと睨めつけるように見られながら、少し遠巻きにそこにいる彼らに聞こえないように、語りかけて本の表紙を撫ぜる。ここに憐憫の獣はいないかもしれない。でも、もし居たとしたら、届いてほしい。彼が今の、あるがままの人を愛せるように。滅ぼされず、人一人ひとりの愛を知ることができるように。直接誰かに触れて、納得することができるように。

 

 

「もういいのかい」

「はい。気は済みました。ただ一度でいいので、触れてみたかっただけなのです」

 背表紙をなでながら言いたいことを全部言い終わって、ソロモン王に本を返すと随分と驚いたような顔をした。こうしてみると、まるで本当に心があるようにしか見えない。我らの、慕わしく賢き王様。これが、最後の話になる。

「陛下、貴方様にお仕え出来て私は幸せです。だから、もう望みません」

「そうか。立ち寄ったのだから、一つ何か話をしていってくれないか」

「……では、一人の哀れな女の話をしましょう。私の故郷に昔々起こった話です」

 脚色して、今夜も変わらないように語り聞かせる。何が面白いか毎日わからなかったけれど続いた、二千夜目の最後のお話を。

 きっと、彼は明日の朝に笑ってくれると思う。あれはそういう終わりなのかと、分かりやすすぎると、形だけでも笑ってくれるだろう。

 

〈あるところに女がいました。女は、一人の主人に仕え、彼に嫁が輿入れするとき、彼女の世話役になりました。女は、はじめは主人が気に入らなかったけれど、そのうちにほだされて本気で彼のために働くようになり、そうして任された嫁の女性のことを、たいそう気にかけるようになりました。……そのうちに、あろうことか女主人となった彼女に恋をしてしまい、彼女は苦しみました。その後、使用人が増え、会うことは稀になりましたが彼女を思い続け、その思いから誰にも告げずに独りで死んでしまいました。

 陛下、きっと大罪人だとお思いになるでしょう。でも、彼女は誰にも告げることなく死にました。

 陛下、愛するということは、相手を思うことです。その女は相手のために、誰にも迷惑をかけず、しなければならないことをやり遂げたのです。その心意気は、悪くないものだと思いませんか〉

 きっと、私はひどい顔をしていただろう。でも、これからの苦しみがないと思えば悪くないと思えたのだ。それでいいと、清々しく思ったんだ。

 

 

 

 次に彼女が目覚めたときに、何を語らせようかと微睡んでいた。支度をしていても、にわかに彼女が思い出されるときだけは、自由な心というものが少しだけわかった風に、思考が快く乱れていく。これは、きっと本当に心なのだろう。王ではなく、寝物語の聴者としているときだけは、そんな風に思考が揺らぐ。それがどうにも不思議で興味深いと思った。

 だから、次は何を語らせようか、と思うときには、心があった。楽しんでいた。今朝もそうだ。

「他、大変です陛下!セラヤ殿が、セラヤ殿が……!」

 朝、何よりも早く伝えなければならないことを言う役の者が、いつもよりも遅く駆け込んできた。見慣れない顔からして、おそらく士官し始めたばかりのものだ。いつものように寝ているだけであるはずだろうに、セラヤがどうしたというのか。

 そう思っていたはずが、次の言葉で凍りつくことになった。

「セラヤ殿が自死しました……!」

「死んだ……?どういうことだ」

「監視役が妙な物音に気付いて部屋に踏み込んだのです。そこには、すでに冷たくなったセラヤ殿と、遺書らしきもの、割れた毒酒の壺があったのです……」

 渡されたそれには、私を敬愛していたと、ある女性に恋をし悩んだのだとだけ書かれていた。遺言にして、主人である私への懺悔の言葉。

 それが、じわりとあるはずもない心に黒い雫を垂らし、広がっていく。何なのだろう、この思考の乱れ方は。彼女が、セラヤが恋い慕ったという女性はシバの女王だろうということが、死んでしまうほど思い焦がれたということが、思考を歪めていく。

 昨夜のあの語りは彼女自身のことだったのだ。主人を敬愛しているというのに、愛を知って死んだ。罪と知りつつ、誰にも迷惑をかけず死んだ女。

「……少し、一人にしてくれ」

「はっ。失礼致します」

 役人を退出させ、寝台に腰掛ける。

 昨日までは語っていた。昨日までは、たしかに手の届く位置に彼女は居た。居たのだ。もういいと、何も望まないと言いつつ、最後にひとつだけ悪意を置いて逝ってしまった。

「私はまだ、勤めを終えていいと言っていないよ、セラヤ……」

 知らず知らずのうちに涙が落ちる。泣くというのは、意識があるうちでは初めてだ。言ってくれたならば、赦しただろう。異教徒だからと、聞かなかったことにもしただろう。それでも、そばで語りものをするように、私は願っただろう。

 私は、彼女の死と引き換えに、少しばかりの喜怒哀楽の心のすべてを手に入れた。こんなことになるとわかっていれば、欲しくなかった。

 

 

 

 

 

「結局帰ってくるのか……」

 図書館で目が覚めた。とりあえず帰ろう。向こうでは毒死したから、ここにいてもしも世界線を超えてしまったら都合が悪すぎる。

 でも、後悔はしていない。してないったらない。少しだけ、我が王に同情したり、淡い恋のような憧れを持っていなくもなかったけど、それ以上に王の国を愛したから。あの国で、あの王に仕えたことが、幸せで、愛しい思い出だから、それでいいのだ。もしできれば、なんのしがらみもない状態の転生とかした王様に、お幸せにとでも一言伝えられたら、たぶん私は満足するだろう。

 

 願わくば、王に心がありますよう。どうか彼が愛を知って、幸せになりますように。

 

 

――――彼女は知らない。王が彼女に執着したことを。彼女を求めることを。そして、彼女が人になった王に、会うということも。




 このあと人になられた王に執着されるかゲーティアに執着されたらいいのになーと思ったんですがここまで書いて燃え尽きた。読みたい人がいたら書くかもです。


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古イスラエルを研究する

セラヤの足跡を研究する子とマッツア食ってる子。
彼女の足跡を探す人は多分結構出てくる。


「セラヤって、どんな人だったんだろうね」

「どしたの、藪から棒に」

「さっきの文学講義で出てきたの。ソロモン王に仕えた異教徒の宦官の語り部」

 

 学食でやたら平べったいパンを食べている友人に話しかけると怪訝な顔と声が返ってきた。

 今日聴いた講義で、なんとなく面白そうな人がいたんだけど、たぶんこの子なら知ってるはずだ。宗教関係はやたら詳しいし、ラテン語とかヘブライ語とか古代ギリシャ語とかそういうのにも詳しいし。

 

「あー、語り部かぁ……どっちかというと普通に宦官だったと思うけどなぁ」

「そうなの?」

「わざわざ流れ着いた後にブツを切り落としたってわけじゃないと思うし、宦官を登用するならやっぱりハレムで使うのが便利だから」

 冷静に語ってる割に頬袋出来るぐらいパンを頬張るのはどうなんだろう。それから、これ昼に話す内容じゃなかったな。失敗したか。

 というか、お茶が凄くいい匂い。なんだか最近よくお茶を入れてくるようになったけど、何かあったのかな。

「でもそのわりに話とかかなり残ってるよね。二千夜も王の元に通って例え話を聞かせたとか、王は特別心を傾けたとか」

「宦官あるあるだね……語り部である時点でシェヘラザードの亜種みたい」

「でもそれよりかなり昔だし、宦官の語り部って珍しいよ。類を見ないから文学研究結構されてるみたいだし」

 一枚目を食べ切って、ドライフルーツを摘んでからお茶を啜る。結構食いついてる?

 あんまり詳しくは知らないのかも。でも、その割にはなんか歴史とか先行研究方面には詳しそう。不思議だなぁ。

「えー、意外」

「異邦の女のたとえ、嫌いじゃないけど分かりにくかったなぁ。最後は恋と良心の呵責から自死!」

「"恋は罪悪なのですよ"ってか」

 自死って言った途端になんだかつまらなさそうにパンを噛みちぎってるけど、あんまり好きじゃないのかな。と言うか、そのパン何なんだろう。ナンより薄いし。

「何それ」

「マッツア。種無しパン」

 モゴモゴやってる。彼女が食べてるだけで、なんとなく美味しそうに見えるのが不思議。

 

「……って、ちょうどイスラエルの食べ物じゃない!?」

「うん。……なんとなく懐かしい味というか、私は好き」

 料理もできるとは知ってたけど、驚いた。というか種無しパンが懐かしいって前世ユダヤ人かよ。……でも、なんとなくわからなくもない、ような?

「一口ちょうだい」

「いいよ。ほれ」

 不思議な感じの、彼女がそれを食べる姿があんまりにも自然な気がしてふとドキリとする。まさにソロモン王の治世のそのときにずっと生きて、普段から食べてたみたいな雰囲気。

 最近、なんだか前よりずっと彼女が大人びてる気がする。同い年なのに、私よりずっとお姉さんみたい。それに、色々経験した、みたいな空気感。

 

「セラヤは、王から寵愛を賜ったわけでもないから特に気にする必要なさそうだけどなぁ」

「そう?でも愛多き王でしょ?」

「宗教的に無いでしょ。王の血族は多い方がいいからハレムがあるのは分かる。男を連れてくるかってなると、ありえないよ」

「え〜」

「先行研究は?」

「なんか女性説出てきてるって」

 ぐえっほ、げほっ

 

 あ、むせた。すっごく咳き込んでる。

 女性とは思ってなかったんだろうな。だからなんかすごく嫌そうだったのかもしれない。でも、びっくりだよね。

「宦官の遺体があったみたい。副葬品が女性のそれだってさ」

「うっそだあ……」

 なんか一気に情報に振りまわされてるけど大丈夫なのかな。と言うか、反応から見るに案外キャラ設定固定派だったのかも。わかる。結構ポジションが美味しいキャラだし。

 

「私、古代イスラエル史研究するのやめようかなあ」

「えー?!やればいいじゃん!?」

「なんかもう、ダメージがでかい。無理」

 とうとう机に突っ伏した彼女に憐れを感じて、そっと肩を叩く。やっぱりキャラ設定固定派だったか〜……

「というか何調べるつもりだった?」

「文化史、というか当時の生活文化の考古学」

 一応一通り抑えてるんだよねぇ、と見せてくれたノートは、相当先行研究がまとめてあった。……すごく研究が進んでるんだなぁ。

「というかあんたどこに進もうとしてるの」

「解明したいことが多いだけだよ」

 

 ほら、と指されたノートの一部には、生活史で疑問に感じたことがみっちり書き込まれていた。知識欲の権化かよ。

 とはいえ、卒論程度なのだからだいたい大した研究はできないと思う。それでも真摯に向き合えるって、すごいことだな。見習わないと。

 

 しかし、セラヤって一体どこから流れ着いて、どういうふうに生きていた人なんだろうね?




目の前でマッツアもふもふしてる彼女がセラヤです。
セラヤの場合は結構メジャーな存在になってる。


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人になった王と元宦官

続きを希望してくださる方がいらしたので書きました。急ごしらえなので結構あれなところもありそうですが……楽しめる方だけお楽しみください!


 召喚されたわけではなく、普通に国連の職員としてカルデアに赴いて雑務するはずが、我が王らしい人とエンカウントしてメンタル死にそう。いや、メンタルは折れるものであって死ぬものじゃないんだけども。

 でだ、あまりにも「原作」そのままで笑っちゃうよね。私がいたイスラエルの世界線、やっぱりこことは別軸だわ、知らんけど。

「ドクター、紅茶飲みます?」

「ああ、うん。ありがとう世良さん」

「どーいたしまして」

 妙に勤勉に語学をやったおかげで通った国連職員の座、手放したくないから必死で馴染んだんだよなぁ。行ったり来たりしていた頃に近いものを感じる。あの頃、私四ヶ月で六年ちょっと向こうでお仕事してたんだよね。びっくりだわ。今の年齢が23だから実質三十路近い。うわぁ、思ったより年食ってる。

 ちなみにこの世良って名前は偽名だ。一般人なら職場での名前が認められる特殊環境バンザイ。もちろんセラヤから付けた。なんかあったら"彼女"に会えるかもしれないし。そうだったら、わかりやすい方がいい。

「ドクター仕事しすぎです。過労はいい仕事の敵ですよ。貴方も、所長ももっと肩の力を抜けばいいのに」

「ははは……昔、似たことを言われたなぁ」

 どきりとするが、きっと気のせいだ。似たことを言った覚えはあるけど、彼にじゃない。彼はただの人間。私の知っている、我が主君ではない。

「そりゃあ、ずっとそんな調子なら言われるでしょうとも。……所長は本当にまずいし、寝物語でも聞かせながら寝かしつけてこようかなぁ」

 寝物語のレパートリーだけは、あの頃の仕事のお陰で充実してるのだ。結構所長とも仲良くなれたし、個人的に心配すぎるので早く休ませたい。ヒステリックなのは心身疲労困憊気味なせい。異論は認めない。だって、休んだ後にはちゃんと人を思いやれるし、優しく笑えるんだ。どこかの無機質な王とは大違いなんだよ。心の底からかわいいと思う。心から推せる。所長は可愛い。

 乾いた笑いのあとに全く言葉を発しなくなったロマンに何か不審なものを感じたけど、気のせいだろうと違和感に蓋をする。まさか、私の言葉が何かものすごく悪い意味で捉えられたということもないだろう。

 ゴクゴクと普段から愛飲するインスタントコーヒーをガブ飲みする。タン、と軽くタンブラーでテーブルを叩いて、それじゃあと退出する。ああ、やっぱりわかっていても苦手。彼、やっぱり我が王に似てる。最期が最期なだけに、どうしても一緒にいるとぞわぞわする。こんなこと思うのは、良くないんだけどなあ。

 

 

 

 居なくなった彼女を見送る暗い目に、もう色々と面倒になってきたレオナルドはじっとりした視線を彼に向けた。基本的に爽やかな印象の医療チームのトップは、彼女を見送るときだけ、いつもドロドロとした感情を隠さない。今、緑の目に滲むのは、嫉妬と執着の暗い色だ。まさに緑の目の怪物。濁った双眸が、彼女が立ち去った扉をずっと見つめている。

「ロマン、彼女が来てから本当にずっとその調子だよ。どうしたんだい」

「彼女、昔の部下なんだ。前に話しただろう?イスラエル王国の異邦の語り部。あれは、間違いなく彼女だ」

 さらりと言い放った言葉は、天才から言葉を奪うには十分すぎるほど重い。なかなか言葉を紡ぐことはできなかったが、それでもやっと一言、絞り出すように、確認するように発する。

「キミがずっとそんな目で追ってるから嫌な予感はしてたけど、あの子かぁ」

 肯定されて、頭を抱えたくなるのを必死に押しとどめる。できることならば嘘だと言ってほしい。

 飄々としていて「いのちだいじに」といつも符丁のように唱え続けている彼女が、まさか自死した語り部とは。レオナルドは思わず天を仰いでいた。確かにジェンダーの概念が薄い子だと思ったし、どことなく浮世離れしているとは思った。でもそれは流石に突拍子もなさすぎて思いつかない。

 ロマニから彼の正体を聞かされたあと、ずっと探していると話された相手だ。どれほどの執着があるのかなど推し量るのも億劫なほど、暗い思いになっているのは想像に固くない。

「二千年以上ずっと彼女を探したんだけど、まさか人間になってから見つかるとは思わなかったよ」

 ズッ、とカップから紅茶を啜る音が立つ。半分くらい飲みきった響きの音だ。

 きっと座でも探しに探したんだろうなぁと予想は付く。しかし、自死した彼女は逃げ切った。

 もともとこの世界の人でなかったかのように、彼の目からは視えなかったらしい語り部の女性。座に至ったその後、探したところでいるはずも無い。それが今になって見つかったのだ。神は残酷なものであると確信するには十分。あるいは運命力は残酷だと認識するには。

「でもキミさ〜、多分今のままだと逃げられるよ?」

 絶対逃さない、と空気から醸されているのだから、彼女は気付いたら逃げるだろう。逃げ足は早い女性だ。素振りで王に気取られず計画を成功させる程度には、彼女は計算高い。そして演技派だ。

「分かってるよ。だから知らないふりで見てるだけなんじゃないか」

「……もう末期だな、それは」

 彼女が入れた紅茶を味わいつつ座った目で書類を捌くロマニを見て、レオナルドは嘆息した。この拗らせ男はもはやどうにもならないだろう。彼女自身が直接フラグを立てるか、今立ったフラグを粉砕するしかない。じゃないと死亡フラグが立つ。ほぼ確実に。

「でも、彼女まだ女王一筋っぽいよ?」

 以前見たことがあるが、好きな人について他の職員に聞かれ、頬を淡く染めながら、とても美しい黒髪の女性だとはにかんだ。平凡な女性をハッとするような色香が包んだあの瞬間は驚きだった。初恋の少女の様な、酸いも甘いも噛み分けた娼婦のような、不思議な空気はとても新鮮だった。あれは駄目だ。どうしても揺らぐとは思えない。

「絶対振り向かせてみせるから、大丈夫。どんな手を使ってでもやってみせるさ」

「それは……」

 どう考えても大丈夫ではない。おそらく彼女が振り向かなくて、焦れてとんでもない手を使った挙句に大事になってしまう。そうなったら被害を被るのは彼一人ではなく関わりのあるスタッフ全員になるだろう。

 彼女とて単純な頭脳労働者でもない。所属するにあたって急場しのぎでそうなった魔術使いだ。急ごしらえとはいえ火事場の馬鹿力は特に凄まじいので、抵抗したら発火して施設一つ吹き飛ぶ。

「とりあえず、無理に振り向かせるのだけはだめだぞ、ロマン」

「わかってるよ、レオナルド」 

 わかってないだろう、人の話をまるごと無視した男は微笑んで、カップを置いて立ち去った。

 できれば、彼らの起こすであろう騒動の被害者が、なるべく少なくなるように祈るしかレオナルドにはできなかった。

 

 

 

 

 座に至り、探し回ったもののどこにもいなかった彼女は、人間になる間際にあっさりと見えた。その理由はわからないが、最後の最後に彼女はボクから逃げ損なった。

「まだ、いいとは言ってないからね」

 指輪にそっと指を這わせ、瞼の奥の彼女の姿に思いを馳せる。女性らしい服装は、以前はなんとも思わなかったけれど素敵だと思う。女王の色に塗られた爪はとても彼女に似合っていて、今はここにいない女王に嫉妬してしまいそうだ。女王を思って表情を変える様は、本当に嫉妬に狂いそうなほど、艶やかだ。

 ただの人間になって不便だと思ったことはたくさんあるけれど、心のコントロールが彼女にだけはうまく効いていないのが一等難しいところだとロマニ・アーキマンは思う。無理矢理にでも奪い去ってしまいたくなる衝動は、ほんとうに些細きっかけからくるものなのだ。

「早く、手元に落としてしまいたいなぁ」

 呟いたその手の内には、黄金の装身具のかけらが一つ、収まっていた。




こんなんでいいのかなぁと思う程度にはドクターの性格がつかめていないです。ゲーティアはもっと難しいだろうなぁ……


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ずるい王様たちと逃げられない元家臣

ミドキャスさん引いたので続き書かなきゃと思ってます……。

うっかり女王召喚した元宦官と挟み撃ちする王様たち。やっぱり短い。捕捉される話。



「セラヤさん、おいでなさいな」

「おいで、セラヤ」

「イヤです〜!!ゲーティア、ゲーティアどこ!?」

 召喚した元片思い相手と元主君に挟まれるとかどんな地獄よ。女王様、本当に素敵な方だけど近付きすぎるとこう、動悸が激しくて倒れそうでして……

 

 まぁ、私が呼び出しちゃったんだけども。何なんだろうね、私の執念。思ってたより根深かったみたいだ。あと生身で行き来したせいで強く縁が結ばれちゃってたのか。人理は修復されたし、あとは火消しをするだけなので所長もカルデアも落ち着いていたんだけども。

 

 あ、ゲーティアはあの夜、ちゃんと私の話を聞いてくれてたみたいです。人類最後のマスター・立香ちゃんに人間の眩しさを見出したらしく、最近ずっと一緒に居る。世界を滅ぼそうとしたけど、全部くべるのは惜しくなったとか。ほとんど本気でやっていないで試練の感覚だったらしく、本来よりは被害もかなり少ない。

 まあでも、被害が出ていることには変わりなく、そして一年間は実際に空白で過ぎてしまった。後始末は残った全員で死ぬ気でやった。あとは、一つ一つの特異点がめちゃめちゃ攻略に時間のかかるものにされてたせいで、立香ちゃんのメンタルは鋼になった。

 今は立香ちゃんがしっかり首輪つけて飼ってる状態。ファミリアといえばいいんだろうか、彼女が死ねばゲーティアも死ぬから下手なことはしない。

 原作崩壊は割と早い段階で彼女がゲーティアを殴り飛ばしたのがきっかけだったんだ。立香ちゃん、空手と柔道習ってるとかで物凄く強い。生身のゲーティアに難波走りの俊足で近寄ってそのまま殴り飛ばして物理的に倒しちゃった。何なんだろう、あれ。原作とは何だったのか。

 

 シバの女王様が来たのは、ついこの前の全部終わったあと。概念礼装が足りないから回すぞ!と召喚機を起動して呼び出したら、まさかの召喚。今まで全く呼び出すことができなかったというのにどういうことなのか。

 

「オルガマリーの容態も見なきゃですし、私がここにいる必要はないでしょう御二方!」

 王二人のオーラに圧倒されて流されかけつつも、本来の用事を思い出して思わず叫んだ。

 そう、私はとりあえず生き残ったオルガマリーの看病という仕事がある。医療チームだろうか任せるものか!

 

 なぜ生き残ってるかといえば、単純に私が薬を盛ったからです。下衆と言われても気にしない。睡眠導入剤でちょうど講義後に眠るようにコーヒーを細工したのだ。ダ・ヴィンチちゃんにはバレてたけど、敢えて理由は聞かずに居てくれて助かった。医務室は爆破された区画からかなり離れてるから、無事に生き残ったのだ。

 ……とはいえ、いろいろな事情から病人として休んでもらってるし、実際、途中で落ちてきた物が足に直撃して骨折してしまったので怪我人ではある。

 

「いいえ、私達のためにいてくれないと困りますわぁ。ねぇ、陛下?」

「うん。それにセラヤは最近働きすぎだから、少し休んでいきなさい。ああ、医療チームの顧問としての命令ね」

「うっ……」

 やめてください死んでしまいます。

 今のところロマンの意見は絶対なのだ。みんな過労気味だから逆らえません。ドクターが寝ろと言ったら寝なきゃだめです。

 なんかゲーティアを連れ帰った後に閉じていた魔術回路とかいろいろなものが復活していたようで。「普通の人間になること」というのはソロモン王の肉体は放置で肉体を得ることだった。でも、その魂とかに合わせた状態で受肉しているから、本来なら魔術回路だってある。本体(の死体の変質したもの)がやってきてしまったのがトリガーなのか、持っていた魔術回路が一気に開いたらしい。活きたというべきか。まあ、あくまで一般の範疇を得ないらしく20本くらいだったかな。

 同時に王の頃のカリスマだとかも緊急事態で発揮されてたりとかして、そのせいでだんだん逆らえなくなってきた。

 仕事やめて祖国に帰っていいですか。

 

 大人しく示された席……二人に対面する席で紅茶を頂く。この休憩嬉しくない。SAN値が死ぬ。直葬される。

「貴女が私を恋い慕っていたのは知っていましたわよぉ?だからこそ言わなきゃいけないことがあります〜」

「シバ、」

 咎めるようなロマンの声にも、彼女は言葉を紡ぐことをやめなかった。獣の耳と羊の角の女王様は、私にとっては残酷なことを言うんだろう。

「あなたの想いには応えられませんわ。だから、次の誰かと幸せにお成りなさい」

 間延びした語調は、はっきりとした語尾になって。私の思いは断ち切られた。

 だから、むしろスカッとした。目は痛いくらい熱いし、涙は止められないし、鼻水は出るし、嗚咽は漏れるしで大惨事だけど。

「ご、めんなさ……」

「いいえ、いいんですよぉ。私はもう死んでいますし〜、貴女もしっかり生きて幸せになりなさいねぇ?」

 ちょいちょい、と来るように手招きされて寄ると、引き寄せられて抱き締められ、ポンポンと頭を撫でられる。衣から柔らかい、麝香と乳香の匂いがする。懐かしい、あの頃と変わらない彼女の匂いだった。

 早く泣き止まないと。このうつくしい人の服を汚してしまってはいけない。なのに、どうしても離れがたい。

 

「セラヤを愛している人はいますからぁ、幸せにならないとだめよぉ?」

「っ、はい……」

 すぐには思いを捨てられないだろうと思う。でも、それでも、この人はちゃんと振ってくれたから。手づからとどめを刺してくれたから。ちゃんと、生きていかなきゃいけない。今度こそ本当にこの時代を生きていかなきゃいけない。

 

……ん?

 

「あ、あの。それはどういう……」

「ほらぁ、目の前にいるじゃないですかぁ。怪物になっちゃってますけどぉ」

 なんか、妙な空気というか威圧感というかを感じて目をそちらへ少しだけ向ける。いや、まさか。

「あ、」

「うん?」

 ドクターが怖い。目が笑ってない。あの頃の我が王そのままで、これ、王が機嫌が悪かったときの反応……

 

「すみません帰らせてください!」

「逃さないよ」

 すっ、と自然な動きで女王から引き離され、手首が掴まれる。静かで、いつものゆるふわ具合が完全に霧散してる。

 これ、完璧にあかんやつ。

 

「やだー!!」

 こっちはまだ肚括ってないんですー!

なんで私がターゲットなんですか!

 というか、我が王は王の頃感情なかったし、そういう感情抱くなら関わりが深かったオルガマリーでしょ!?もうヤダ本当にお家帰りたいぃぃい!




どうして召喚できたかというと、あれです。それまで一人も引けなかったから鯖が来るやつ。召喚の運命。それも、触媒はなくても本人が触媒になっちゃった大事故。


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ハリエニシダの魔女と円卓の騎士

 うっかりアルビオンの魔法使いになった布フェチの子が、勘違いで斬りつけられる話。
 ちゃんと生きてます。死なない。


 騎士モノ、というか騎士物語というものに一種のあこがれを抱く人は、児童ファンタジーをよく読んでいる人に多い気がする。気持ちはわかる、物語はかっこいいのだ。でも史実に近い騎士、テメェはダメだ。実際には、騎士と貴婦人の恋物語を読んでみると不倫愛であることが多いので、受け止められない人はよく脱落するなぁと思う。あと、結構後先考えず突撃して厄介ごと起こしてたりする。かっこいいと思うのは、それは理性的な物語の騎士だけだ。

 

 少なくとも、同じ空間にあっては共感することはないだろう。……と、思ってた認識は正しかったらしい。ふざけんな、関わってくるんじゃない。

 

 

「貴様が王を攫った魔女か!」

 びりびりと鼓膜を痺れさせる怒声と、一撃で吹き飛ばされ、小屋の壁に叩きつけられて痛む背に返事などできるわけなかった。何がどうしてこうなった。

「っつ、うぅ……」

 ああ、熱い。首元が燃えるように脈打っていて、熱い。

 

 (なんでだろう、わたし、なにかわるいことしたっけ?)

 

 人は拾った。でもそれだって、倒れてた女の子を小屋へ連れてきて、さっき川鱒のグリルとクリームスープを飲ませただけ。久しぶりのお客さんだから頑張って作って食べてもらっただけなのに。美味しそうに飲んで、ちゃんと休んでから出ていくと約束してくれたのだ。この小屋も、《湖の乙女》って言われてた恩人から譲られたもの。それに魔法使いにはなったけど、私は悪いことしてないのに。ただ、恩人に教えてもらった薬や呪いで、毎日必死に生きているだけなのに。

(そうだ。薬、塗らなきゃ)

 止血して、あ、でも直接圧迫は難しいか。どうしよう、手も動かなくなってきた。

 そっか、私ここで死んじゃうのかぁ。

 

「何をしている! 彼女は恩人だ!傷を癒やして食料まで分け与えてくれた賢き女だ!」

 さっきまで寝ていた子が目覚めたのか、半身をベッドから起こして叫んだ。さっきの怒声が原因なんだろう。

 でも、駄目だ。まだ彼女の傷は治ってない。軟膏を塗って半分は治ったけど、傷があまりに深くてまだ寝てないといけないのに。

「だ、め……寝て、なきゃ……」

 怒声を上げている彼女に少し似た騎士が、わたしをみて、つるぎを、

 

 

 

 

 

 目覚めた場所は、知らないところだった。起き抜けの気分は最悪。体中痛くて、気持ち悪くて、重い。もう少しまどろんでいたいけど、なんでこんなに痛いんだっけ。体を捻って、痛む箇所をよく見たらどす黒くなっていた。うわぁ……

「あ、起きましたね」

「ヒッ」

 すごく情けない声が出たけど、これはどうしようもないと思うんだ。起き抜けのベッドの横にあのめちゃくちゃ怖い騎士に顔が似ている女の子がいたらこんな声だって上げる。

「な、何にもしないから大丈夫ですよ!」

「嘘つけ!」

 

 思い出した。女の子助けただけで顔がいい騎士にブッ飛ばされたんだった。この女性もどうせ仲間だ。こういうときに限って武器も何もない。体は痛くて中々動かせないし、もうやだ帰りたい……

 せめてもの抵抗に、サイドテーブルに生けてあったハリエニシダを取った。いつも使ってる杖は無いけど、杖代わりにはなる。

「栄えよ、繁れ、茨の垣よ。根無し草を篭め、閉じよ」

 持てる魔術の技術を全部つぎ込んで、茨の種を作り、それを発芽させ、異様な太さ、長さのそれでベッドをドーム状に覆う。今できる、最大限の抵抗だ。

「待っ、えぇっ!?」

 驚いてるな。ざまあみろ。

 何もないところから茨が茂ったらそりゃあ驚くだろうが、べつにこの時代のこの島は魔力に溢れてるんだから、このくらいのことはできるさ。師匠が優秀だったからね。

 この人たちは信用できないから、誰にも邪魔されないように眠ってしまえ。自発的いばら姫、姫って柄じゃないけど、まあ、死ななくていいならそれでいいや。馴染んできてこっちの生活が楽しかったのに、一気に気持ちが萎びる。おうちに帰りたい……。

 

 

 

「キミは、いつまでそうしているんだい?」

「干からびて死ぬまで」

 あのあとやってきた交渉役は緩い話し方でこっちを懐柔しようとしてくる。そんな手にかかるものか。私は絶対にお前がいるときは出ていかないぞ。こんな胡散臭いやつに騙されてたまるか。騙されて死ぬくらいならこのまま干からびてやる。せいぜい、変死体の後片付けに困ればいい。

 どうせあの時から何も食べてないし飲んでないのだ。緩慢な死。

「それは、苦しいだろう。怯える気持ちはわかるけど、固意地を張っていてもどうしようもないと思うよ」

 うるさい、どうせ、あの騎士の仲間のくせに。都合が悪くなれば、あの時と違って簡単に殺すくせに。

『嫌い。大嫌いだ。こっちになんて来ないで。殺したいと思ってるくせに。そんなの、茨に締め上げられて苦しんでしまえ』

 日本語で、小さな声で、彼にはわからないように魔法を使う。餓死しようが構うもんか。こいつらがいないときに逃げ出したい。早く、お願いだから早くいなくなって。私が干乾びる前に。

 

「キミの魔術は僕らの王には優しいのに。なんでこちらを拒むのかな」

「どこが優しいもんか。王なら、優しくしてなかったさ」

 嘘。年下の女の子には優しくする。この世界はやっぱり、現代日本よりはマシな気がするけど女の子は抑圧されてる。でも、だから優しくしただけで、王様という恵まれた立場なら絶対に近寄ってなかった。

「キミは、帰りたいのかい」

「こんないつ殺されるかわからないところに誰が居たいもんか」

 眠たい。……そういえば、餓死すると言いつつあれからご飯何日食べてないのか知らない。3日水を飲んでないなら、もしかしたら本当に死ぬかも。

 ふっ、と苦しくなる。あ、本当にお迎えかもしれない。やだなぁ。家族に会いたかったなぁ。なんで私、こんな目にあったんだろう。

 

 なんだか慌てたみたいな声がする。さっきの交渉役の男、たぶん私の具合が妙なのがわかったんだと思う。私が死にかけているせいか、茨垣が少しだけ緩む。最後に見えた相手の姿は、驚くほど真っ白だった。

 ……なんか、慌てぶりが哀れだなぁ。最後に随分きれいな衣が見れたから、この人を恨むのは、やっぱりやめておこうかな。ああいう布とか服とか好きだけど、こっちに来てから見られなかったから。なんだか、久しぶりに心が踊った気がしたんだ。

「しっかり、キミ、しっかりするんだ!」

「ざまあ、みろ……」

 でも言ってやらない。形の上では許しちゃ、いけない。形だけでもあのひどいことをしたやつの仲間は許したくない。

嗚呼、眠たいな。

 

 

 

 

 緩んだ茨を無理やり切り刻んで、湖の魔女を引っ張り出す。痩せた身体は、数日何も摂っていないせいか元の姿より、ひどくやつれて細くなっている。

 彼女はアルトリアの恩人だ。だから、丁重に扱うべきだったのだ。姿が見えなくなったことに焦ったガウェイン卿が、攫ったと思い込み彼女を斬ったのは非常にまずい。

〈来ないで、殺そうと思っているくせに〉

 あのとき、たしかに彼女は怯えていた。心の中で殺される可能性に恐怖していた。善行をしただけのはずが、斬り殺されかけたらそうなってもおかしくはない。

 しかし、あれは何だったのか。茨が緩んだ直後、こちらを見て、泣きそうな顔で微笑んだのは。私の姿を見て、ひどく安堵したように見えたのは。口先では嘲っていても、誰かを心配しているような顔をしていたのは。

「誰か早く医者を呼ぶんだ!」

 彼女が死んだら、アルトリアが悲しむ。バッドエンドは、望むところではないだろう。ぎりぎりのところで力が残っていた手は、今にも力が抜けそうになっている。

 

 

「なんで生きているのか」

「キミが倒れたお陰で魔法が緩んでね。ハリエニシダの魔女さん、その力はしばらく封じさせてもらったよ」

 あの白い男は魔術師だったみたいだ。ずっと格上の存在だ。逃げ出す隙なんかないし、なけなしの魔力を封じられた以上は抵抗とかできない。

「帰りたい」

「帰してあげるよ。だから、治るまではここにいなさい」

「……わかったよ、居ればいいんだろう」

 胡散臭い男だ、本当に。私、ちゃんと生きてあの家に帰れるかな……




 このあと恋愛ルートに進むのか、進まないのかは気分次第。怖くない対象は今のところアルトリアとマーリンだけかもしれない。マーリンは胡散臭いと思ってるけど。


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ハリエニシダの魔女と騎士王主従

 気がついたら仕事で登城されるようになったでござるの巻。
 初めてグランドキャスターの名前を知った話。


「嘘だ〜……」

「残念ながら本当よ」

 あなた今までものすごくよく話してたのに知りもしなかったの、と顔なじみになった女中さんに笑われて凹む。知りませんでした。名前を呼ぶことも、呼ばれることも、誰かが呼んでるのを聞いたこともなかったから。

 憧れの魔法使いがあの、なんというか真っ白爽やか系クズお兄さんとは普通思いませんって。

 

「そんなのってありなの……詩人の話はすごく好きだったのに、あの落差とか……」

「えっと、まあ、そうでもないと思うわよ……?」

 現実が残酷すぎる、とますますため息が大きくなるのを見て、笑っていた女中さんがちょっと慌てだした。ごめんね、児童文学のちょっとしたヒーローがあの人とか考えたくなかったから。あれだ、覆面アーティストの素顔を知っちゃった、みたいな。ちょっとイメージとズレて一方的に気落ちしてるだけの。

「まぁ、騎士には直接売りに行かないしあなた達くらいとしか話さないから、誰がどんな人でもいいよね」

 王様にも会いたくないからなぁ。マーリン氏通してだけ薬のやり取りとかをする今が一番楽なのだ。

「え!?会わないの?」

「だって、また勘違いされて斬り殺されるかもしれないでしょ。行きたくないよ。マーリンさんのところでもね」

 もちろん。彼女が動けるようになったとしても絶対に会いませんとも。頑張っただけ身の危険度合いが高まりそうで。

 あとね、絶対あの騎士控えてるじゃない。ガウェイン卿。私やだよ、絶対死にたくない。

「でも誤解は解けたんじゃ……」

「伝言ゲームで大惨事になってたら起こりかねない。そんなの無理。絶対やだ」

 えるしってるか、きがついたらかんちがいされてるからな。迂闊に気を抜けば死ぬ。それはもう見事に悪い方に行く。騎士とかもう本当にやだ。騎士の国しんどい。全員修羅かよ。

「もうそれ染み付いちゃってるのね……」

「そりゃ、首斬られそうになったらね」

 綺麗にスパッと飛びそうだよ……罰か、一人暮らし寂しすぎて話し相手になってくれそうな可愛い女の子を助けたのが悪かったのか。バチ当たるのか。

「でも、みんな美形で素敵じゃない?話したくないの?」

「うん、まあ」

「え、なんで?」

「女ばかりのところで勉強してたし、男の人とはあんまり話さなかったからなぁ……商談は圧迫感あって緊張するし、話したいとは思わないな」

 ここに来るまでは現代のリアルアマゾネスたる女子大の学生だったんだ……12年間エスカレーター式ではなかったものの2年で十分アマゾネスになるぞ、あれは。それにアルビオンまじで男性がみんな壁。160cmに未満の私じゃ囲まれたら身動きできず死ぬ。

 安心と信頼の身長格差。救いはアルトリウス(王様)が同じくらいの身長ってことぐらいだ。ただし彼女のほうが軽い。fate時空の女の子って人体の重量無視してるからこの世界基準にするとリアル現代基準の私はむちむちどころか普通にデブである。つらい。

 

 

「あ、鐘が鳴ってる。そろそろお暇するね。ありがとうメアリ」

「もうそんな時間なの。相変わらずよくあんな小さな音が聞こえるわね。じゃあねゴース」

 遠くから小さく聞こえた誰かの祈りの鐘の音に、そろそろ退散する時間だと立ち上がる。ごめんね、いつも邪魔して。

「そうだ、王様に近い円卓の誰かに会ったら、ご注文くださいましたら焼き菓子も届けますって伝えてくれ、って言っといてくれる?」

「いいわよ。それじゃあね」

 ぽすぽす、と柔らかそうなスカートを軽く払って立ち上がったメアリに、思わず目が奪われる。やっぱり長いスカートの、荒いウールのゴワゴワ布感と使い古しのふんわり布感の混ざった感じ、好きだなぁ。というかいつも柔らかくて真っ白なローブのマーリン氏ってどんだけ服にお金かけてるんだろう。お洒落さんなのか。

 

 まあいいや、帰ろう。隣の村のアン婆様が手伝ってって言ってたし、いい加減帰らないと間に合わない。馬で早駆けしたら間に合うはず。お詫びの馬と必要な量の飼葉、とても役立っております。馬だけでうっかり許しそうになったから私ちょろい。それでも他もちゃんと要求して、今のところ飼葉もしっかりつけてもらってるから負担は少ない。鞍は自分で縫った。ちょっともふもふした、座り心地がいい鞍だ。世界遺産のネムルート王国特集の鞍、見ててよかった。

 どうせだし、ハーブクッキー焼いて御持たせの薬もどきとして売ってみようかな。領主向けには肉や乳製品や魚と交換で。農家さん向けには野菜、特に根菜類と交換にしよう。豆は主食だからあんまり引き換えると熱量不足になるからだ。

 ああ、お仕事がちょっと楽しみになってきた。これでしばらくお城には行かなくていいから頑張ろう。

 

 そういえば、メアリってどこの貴婦人なんだろうね。下働きって、あんなに上品な動きしないからね。お城でそれなりの女中さんって爵位持ちのお家の人だし、やっぱり仲良くなっても雲の上だな。私も立場がある人なら良かったんだけどなぁ。そしたら、もっと気を許してもらえるだろうか。

 

 

 

 

「マーリン、どうしましょう……」

「とは言ってもね、彼女が怯えてるからまず無理だと思うよ」

 城に呼びたい、と半ば強引に馬と飼料を押し付けて定期的に登城させているアルトリアが頭を抱えた。

 

 なんとかあの食事を作らせたい、という食い意地と、仲良くなりたい下心とで呼んでいるのはいい。しかし、彼女が心を開いたのは女中に扮したマーリンである。髪の毛はその時だけ幻術で体格はもちろんのこと、髪はハチミツ色に、声はアルトリアの声を少し低くしたものに変わっているので彼女は気づいていない。

 

「メアリは平民と信じてもらえてるみたいですし、私もなんとか……」

「それはさすがにバレるんじゃないかなぁ」

 アルトリアは素の姿を知られてしまっているからだ。ハリエニシダの魔女、名前を言わないためそのままゴースと呼ばれている彼女は妙に勘がいい。

「うぅ……マーリンは役得過ぎませんか」

「でも、男性のままだと会えないからどっちもどっちな気がするよ」

 思い浮かぶのは、交渉のときの妙にこわばった声。彼女は慣れずに緊張していたのかと話を聞いて初めてわかった。学を修めるために女性ばかりのところで暮らしていたのなら無理もない。そうであるならいい官吏になりそうだのに、登用できないのが残念だ。登用さえできれば優秀な文官になりそうだし、アルトリアもきっと喜ぶだろう。

「とりあえず、焼き菓子は頼んでおいてください。絶対ですよ、マーリン」

「もちろんだとも。どうせなら、いくらか宮廷の厨で作ってくれないか頼んでみようか」

「それはいいですね!」

 そう王に提案すれば、目を輝かせて彼女は肯定した。同意するようにそばにいたカヴァスも大きく一つ吠える。カヴァスもゴースからおやつをもらうことがあるからだ。害意もないので、彼女が好きなのだろう。

 

 アルトリアには言わないが、別の理由もあってマーリンも宮廷に彼女を呼びたいと思っている。実は、女性の姿のときに正体を告げたことがある。そうしたら、笑ってじゃあ私の心も食べるかいとあっけらかんと言って食べさせてくれるのだ。彼女は、女性に対してはとても寛容で、理想的な騎士としての性格を持った気風の良い女性だ。主人共々、食事の世話をしてもらっているので、ぜひとも確保したいところなのである。

 

「まあ、なるようになるだろうね」

 この国の、アルトリアの王国の物語のハッピーエンドには、良い魔女もきっと必要だろう。自分はそのために働くのだから、彼女を囲い込んでもまあ、結果が良ければ大丈夫だろう。

 




「(えらい別嬪さんが困ってる)じゃあ私の心で良ければ食べるかい?」
「(そんなに簡単に食べさせて)いいのかい」
「もち」
 ゴース は きづかない!

恋愛フラグが遠いなぁと思いつつ。アルトリアルートとマーリンルートをどうすればいいのか悩みます。書けばいいのかどうなのか……
 


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ハリエニシダと薔薇

アルトリアルートです。
百合は好きだけど難しい……幸せになってほしいです。


プロポーズ大作戦

 

「まだ焼き上がらないの?」

「もう焼ける。というかなんでアンタここにいるんだ」

「にへへ〜、ゴースが焼く菓子は美味しいからなの」

 んふふ、とご機嫌でかまどの前に腰を落ち着けた湖の乙女―ニミュエ。別名をヴィヴィアン。この人、少し前にガウェイン卿の相手したあと他の騎士と駆け落ちしたんじゃなかったっけ。なんでいるんだ、本当に。

「ゴースが怪我したって聞いたけど、案外大したことなかったのね」

「大したことだよ大惨事だ。本当に殺されかけたのに首が少し切れただけで済んだのはいい。でも、お陰で大黒柱が危うかったから下手したらぺしゃんこだったんだぞ」

 あのとき、私が斬られた一撃は途中止まりだった。大黒柱は相当太かったのに、しっかり補修しないとすぐ折れそうなほどスパッと切れて、折れそうになっていた。こっちも首の皮一枚。

 そんな半端な一撃とはいえ、相当出血してめちゃくちゃ吹っ飛んで、全治一週間近くかかるどす黒い痣を作るほど。本当に強烈に叩きつけられた。あの騎士は人の皮被った化物だと思う。

 振り上げられた剣は結局、あの王様が捻じ伏せて降ろさせたらしいし、あの子には無理しないでほしい。どう考えても大怪我する。あんな細い体のどこにそんな力があるかわからないんだけど、円卓って化け物集団なの?

「ありゃあ、それは困るの。私はゴースのご飯食べられなくなるの、嫌よ?」

「全く、自分のことばっかり」

「そりゃあ私も湖の乙女ですもの。マリアナは他人と交わることを楽しみにしていたけれど。貴方を後継者にするだけで満足したのは、結構驚きなのよ?」

 かまどの中でサンドケーキが甘い匂いをさせ始めた。ニミュエはそれをとても楽しそうに、クッションを抱えて眺めている。

 このクッションも、椅子も、前の住人で私の魔法の師匠である湖の乙女の遺産だ。ボロボロの雑巾みたいになって腹を空かせていた私を見かねて、四季折々の仕事と魔法を教えてくれた。魔法は使えなかったら教えなかったらしいが、幸か不幸か私にも適正はあったらしい。

 お陰で火をおこすのには困らないし、木の実を傷つけずに取ることができる。危ないと思ったら茨の垣根で家を守ることだってできた。

 

「もうすぐ冬だ。草花が眠る季節。人も篭りきりで春を待ち、糸を紡いで歌う季節なんだよ、ニミュエ」

「わかっているの。でも、たまには寄る辺になって頂戴。あのマーリンはもう私には興味ないみたいだし、ここにはあのガウェイン卿は来ないんだもの」

 彼女はフランスに居たはずなのに、また戻ってきた。多分これからも度々戻ってくる。そのたびにセーフティハウスになると思うと頭は痛いけど、それでも、友人を匿うのは問題ないだろうと思いたい。

 

 

 

「陛下、そろそろ」

「もう少し、もう少しだけ居てはくれませんか!」

 ぎゅう、と手を掴まれては、動けたものではなかった。アグラヴェイン卿の視線が痛い。

「私のような呪い師が、一体なんの参考になるというのですか」

「なるんですよ!生糸の染め方も、その生糸の作り方も!食事だってそうです!」

 この国王、テコでも動かない。なんでこんなに力が強いんだ……!

 

 こうなったのは焼き菓子を届け始めて、城内が忙しいからと毎度直接届ける羽目になったから。直接会えば、そりゃ少しぐらいは会話だってする。そこからどんどん話を広げられては、場所が場所であることも相まって下手に断れないんだ。

 いやまさか、農民生活の話聞かれるとは思わなかった。別の人を探せばいいのにと思う。

 ……でも、少し楽しいのは確か。話し相手で、こんなに楽しそうにしてくれて、意見が合うと肯定したりそれは違うと否定してくれる人は居なかった。対等であろうとしてくれる人は、居なかった。

 

「そ、そういえば、もうすぐ祝祭があります。あなたもぜひ、城の祝祭に来てはくれませんか!」

「祝祭……」

 何か怪しい。怪しいけど、一応出てみたいし、いいかもしれない。人が多いところなら、まず乱痴気騒ぎでも起きない限り抜剣するようなことはないだろうし。

「では、お言葉に甘えて」

「ええ、ぜひ!」

 すでに少し後悔し始めたけど、これ大丈夫かな。

 

 

 胸が踊る。随分時間があるのに針仕事でそれなりのドレスを縫い上げる程度には、私も浮かれてしまっていた。

 彼女の顔がちらついて、これを着た反応を見たいと思ってしまうのだから私はどうかしてる。ネジが一本か二本、飛んでいるかもしれない。

 

 

 祝祭の日、招かれるままに城に行くと、比較的狭いホールに数人の騎士と彼女がいた。

 随分アットホーム、と言うか、どっちかというと身内だけで何かするみたいな、そんな感じだ。

 

「ゴース!」

「陛下、本日はお招き下さり恐悦至極に存じます」

 招かれた以上ちゃんと淑女の礼をして、感謝の意を示さねばまずい。公式なのか非公式なのか、未だによくわからない。

 

「これは公式な場ではないから安心してください」

「ありがとうございます。……でも、なぜ」

「それは、ですね……伝えたいことがあったんです」

 真剣な顔をして、国王陛下、いやアルトリアは私を見据えた。いつもよりも強い力の宿った目にどきりとする。

「ゴース、私と共に人生を歩んではくれませんか」

「な、嘘……」

 心臓が早鐘をけたたましく鳴らす。

 嬉しい、嬉しいけど、彼女にはギネヴィア王妃がいる。彼女を愛しているのでは、ないのか。

「私は王です。王妃は、それなりの血筋であらねばならない。……ですが、私の心は貴女と共に在りたい。これから先、私のすべてをあなたに捧げると誓いましょう。然るべき手段で貴女を相応しい立場にし、ギネヴィアと離縁しようと思っています」

 頭が追いつかない。めちゃくちゃだ。でも、ありえなくはない。3年。3年も子がなければカソリックでも教皇の許しの元、離縁することはできる。でも、本当に?

 そこで、傍らにいた騎士と姫君と思しき女性とが示された。

 ラーンスロット卿。ランスロットとも訳される。彼は確か、伝説では彼女と出奔した騎士だったはずだ。

「不実であることは否めません。しかし、私も彼女も別の相手を愛している。愛人になれ、というのは簡単でしょう。でも、それではあなたの心は手に入らないではないですか」

 教皇からの許しは、契約が偽りだったときのみ下りる。そして、その偽りは彼が子をなせない体質であったことを隠すということでカバーできる。

 体裁は悪くなる。でも、やりようとしては無くも無い。公認で離縁の手続きができれば、ランスロット卿とギネヴィア妃は決して王を裏切れなくなるけれど、彼らが結婚の許しを得ることはできる。下賜する、というととても胸糞悪いけど、それでも二人は愛し合っていて、逆境に負けないと言うなら、あるいは。

 

「でも、私は……」

 信じたい。だって、彼女は私にいつも誠実で居てくれた。これ以上ないくらい私と対等に居て、私に向き合ってくれた。

 

 

「絶対、絶対に幸せにしますから!」

 

 

 その瞬間、迷いなんて吹き飛んだ。

 

 真っ赤な顔で、大きく叫んだアルトリアの決心はどれほどなのかなんて、わかるに決まってる。死ぬほど覚悟してもなかなかできないことを、必死に口にしてくれたのだから。

 この時代のこの国だから。女同士で愛するのは難しいけど、それでも求めてくれるというのは凄いこと。建前は男でも、本質的にはそうだからそれは難しいことに変わりない。ならば、

 

 

「……あなたの気持ちはわかりました。でも、お付き合いする期間が欲しいです」

 

 ちゃんと、顔が赤いのは誤魔化せているかな。

 私はね、王であるなら近付かなかったと言ったのに告白してくれた、そんな貴女が大好きです。

 でも、まだ私には覚悟が足りてないんだ。貴女からちゃんと添い遂げる覚悟のきっかけを頂戴。




追記
泥をかぶる、内乱があるのも覚悟の上、のあたりが丸っと抜けていましたすみませんでした……

ローマ、がカソリックでは偽りに基づいた契約であると証明し、かつ次の相手が居れば婚姻が解消できます。逆に言うと、それが難しい。家同士の結びつきもありますし。(なお確認のために該当するカソリック資料がうまく見つからず、この時代でも適用されていると想像した話ですので悪しからず)
浮気自体は中世には頻発していたしありえるんではないか、という話です。このあとの出費、火消し、その他はギネヴィアの実家も巻き込んで(養子とか貴族としての教育とか)すると思います

そのうち改題しようかと思案中


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愛した人は塩対応

トリップして特殊な体質になった女の子が、マーリンに恋する話。言い逃げ上等な逃げ腰っ娘と、塩対応と無自覚とが入り混じったマーリン。


「マーリン!好きだよ!」

「そう、じゃあ大好きなボクのためにどこかに行ってくれるかな」

「あっはは、やっぱりつれないなぁー」

 

 どうも、なんの因果かブリテンに吹き飛ばされた木偶の坊こと私です。なかなか運のいいことに、ブリテンのいろんな人からご飯もらったり、宿に留めてもらったりしてフラフラ生きてる。最初の一年は戸惑ったけど、二の腕にある焼印みたいな数字が年数のカウントダウンと気づいたときには割と心穏やかになりました。今のところ残りは15年。案外、長々滞在できるらしいから楽しむつもりでいる。

 あ、こっちにいるうちには歳は取らないっぽい!だから好き勝手やっても大丈夫なのだ!もともとちんちくりんだからね、狙われるとかそんな問題もないし楽。それに怪我とかしても一晩で巻き戻っちゃう。便利だけど、これ逆に言うとこっちで何かしても帰ってから問題ないようにしてないと誰かの都合が悪いってことだよね。

 

 と、考えつつも、やっぱり好き勝手しても生きていられるこの世界が気に入っちゃったので。好きな人には好きって言って、やりたいことする生活に勤しんでる。言わずは一生の後悔。積極的に世界にラブコール。だって伝えなきゃ損じゃない?

 マーリンは数年前に出会ったんだけど、すっかり慣れきっちゃって対応が雑になってきた。最初は普通に振る舞ってたんだけどね?感じのいいお兄さんから腐れ縁クズ男にチェンジした。うんうん、時間経ってるし、割合いい傾向だ。塩対応でも好き。

 そりゃね、好きな人に雑に扱われるのは悲しいよ。でも、私の愛はこんな風に大盤振る舞いだから、仕方ないんだ。だったら、私はどれほど言葉を尽くしても逆効果。身から出た錆。諦めちゃう方がいいね。

 

「うーん、アリーに粉かけてこようかなぁ」

「未来の王に悪影響があったらどうするんだ、この風来坊」

「うーん、でもまだ普通の村娘だし大丈夫じゃないかなぁ」

 

 悪い影響っつっても、私普通に稽古見てるだけなんだけど。あとは、西洋剣術のお相手するくらい。どうせかっ飛ばされるだけだし、別にいいんだよね。いいサンドバッグになるでしょ、多分。

 

「キミみたいなのが半径1マイルにいるだけでも十分悪影響なのがわからないのかい。害悪だよ、害悪」

「ひっどいなぁ、流石のファウスタさんだって傷付いちゃう」

「鋼鉄の心の馬鹿娘が何を言っているのやら」

 あ、ファウスタっていうのはここでの偽名。郷に入ってはなんとやら。ここの生活は楽しいし、マーリンたち愉快なみなさんと会えたから「幸福な」って意味合いの名前にしてみた。結構気に入ってる。

 しっかし、何だか思った以上に散々罵倒されてるんだけど、どうしてだろうね。アプローチ間違えたかなぁ。やっぱケイ君の方に接触して稽古するべきか。

 これでも一応、ブリテンの未来のためにちょこっとでも役立ちたい気持ちはあるんだよ。だからこそ、片思い相手から罵倒されて引き剥がされそうになっても王候補の子の周りをウロウロしてるんだけど。流石にちょっと、心臓に釘が何本刺さってるか分かんないくらい心が痛いな。打たれ強いだけで無傷じゃないんだぞ。

 時間は有限。だから、少しでも爪痕を残したいんだけど。私そんなに警戒されなきゃいけないのかな。やだなぁ。心が痛いなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 とは言いつつマーリンやアリーのケツ追っかけて14年もサクッと過ぎてった。ちなみに、あと3日で帰宅確定。早い早い。

 いやぁ、あれからもうめちゃめちゃ怒涛の14年だった。イングランド王戴冠式に逆賊討伐、ニミュエのマーリン幽閉事件にベイリンやガウェインの冒険。色々あったな。あのあとマーリンは無事に出てきた。ちょこっと手伝おうとしたらすごく怒られたから、しばらくは近づかんとこと思ってここ2年くらい会ってない。

 

 まあ、私は相変わらず風来坊だし、吟遊詩人の真似事をして日銭を稼いだりしてる流れ者だし、まあ会えないよねぇ。

 なんせ、マーリンの知恵で宮廷は成り立ってる。王のスーパーアドバイザーにも、アリー……王様にも平時は絶対会えないからね。どうせ平民より蔑まれる風来坊の木偶の坊。パーティーで多少歌えるから呼ばれる程度だし、最近はお声掛けされるほどお城にお金はないしでご無沙汰。戦争ってやっぱ国庫の金をごっそり食ってくよね。

 まあ、そんなこんなで会えやしない。相変わらずマーリンは好きなんだけど、伝えたらすごく不機嫌だからね。他の貴族のご機嫌伺いするぐらいしかやることないんだなぁこれが。

 もうあんまり時間もないし、そろそろちゃんと、本気の本気で一旦告白して言い逃げしてやんなきゃと思ってんだけどね。帰りのタイミングは分かってるし、ギリギリん所で呼び出して、言ったら消えてやるのだ。ニシシ、我ながらいいシナリオ。きっと、マーリンもびっくり。たまげるだろうなぁ。楽しみだな。

 

「ファウスタ?」

「あっ、アリー!ひっさしぶりだね!」

 ぼけーっとそんなことを考えて空を見てたら、後ろから鈴を転がしたような声。マーリンの片思い相手のプリンセスだ。前に決定的瞬間見たけど、あれは恋してる顔だった。わかる。アリーすごく可愛いし心が綺麗だから。今日もかっわいいなあ。

「ファウスタ!どうしたんですか、こんなところで」

 道の端の石垣に腰掛けてました。

「いやー、空が青くてね〜。今日の空、故郷の空にそっくりなんだ〜」

 最近、オートミールよりも薄くなってきた元の世界の記憶がはっきり思い出せるようになってきた。しかも、昨日のことくらい、すごく鮮明。やっぱり帰るんだなぁと思うと、随分心残りが少ないことに気づいた。風来坊で適当に、したいことばっかしたからだな。未練もほとんどない。

「ああ……ファウスタ、何かあったでしょう?」

「うん?やっぱりバレちゃう?」

「ええ。珍しく憂い顔でしたから」

 でもやっぱり、特大級の未練は残ってるからね。しんどいけど、それもまた人生。憂い顔にもなっちゃう。……アリーには、ネタばらししてもいいかな。どうせ、他には早めに言うに越したことはないし。

「私、明後日帰らなきゃいけなくてさ」

「えぇ!?」

「だからこの土地とももうお別れ。あ、マーリンには言っちゃだめだよ?」

 シーッ、と唇の前で一本指を立てると、アリーがものすごく慌てた。そんなにびっくりしなくても、と思うけど結構交流はあったね、そういえば。でも私なんかよりもずっと腕のいい吟遊詩人なんていっぱい居るし、そういう人たちを登用すべきだと思うよ。なにせあの人たちは私みたいな道楽者と違ってプロだから。質が違う。

 いやぁしかし、空が青いなぁ。ぜーんぶ流してくれそうなくらい、深くて風がある。未練も吹き飛ばしてくれないかな。だめか。

 銀の風に草花が揺れている。麦穂も、そろそろ膨らんでいく頃だ。出来れば、黄金の海になったところを見たかった。ここらへんは本当にのどかで、彼女たちの作ったいい国で。飢えることも、随分少なくなってきた。

「で、でも、貴女は……!」

「駄目ったらだめ。サプライズが台無しになっちゃうでしょ」

「え……?」

 目を見開くアリーに、ほれ、と即興で作った花かんむりを被せてやると目を白黒させた。びっくりしたでしょー、でもこれ私じゃなくて薬のお礼の村娘の作品なんだな。隠し持ってただけ。

「熱烈に告白してやんの。だから、言っちゃだめ。頼むね?」

「っ、はい……」

 泣きそうな顔で必死に留めたがる彼女の頬を抓む。ほっぺたがムニムニだー。柔らかくて、でもちょっと薄くて。

 肉付きがもっと良くなぁれ。それに、笑って生きていけるようになぁれ。

 言祝ぐことが上手くできるわけじゃないけど、おまじないとか、そんなふうに願掛けするのは現代でもよくやるからね。

 この子が心から、ずっと笑っていられますように。この国の神様、あんたこの子に屋台骨を託してるんだからきっちり幸せにしなさいよ。

「さて、あとはお礼言ってこなきゃいけないところ回んなきゃ。じゃあね、アリー」

「お、お元気で……!」

 大丈夫。今の私はね、ちゃんとお別れできるようにできてるから大丈夫よ。

 ……でも、本気で恋した人が振ってくれるってわかってるのって、辛いけど幸せなんだな。だって、またおんなじ事するって思って、信じてくれてるの、最高に意識に根付いてる感じがする。ちょっとだけ、前向いて生きてられるかも。

 

 

「マーリン!好きだー!大っ好きだー!!全部奪ってー!記憶も全部貰っちゃってー!」

「絶対に嫌だよ。本当に馬鹿だね、キミ」

 夕刻、予想通りにお城から出ていこうとする所に出くわした。良かった、一応ちゃんと、個人的に熱烈だと思う告白はできた。心残りはない。無いんだ。無いはずなのに。

「っ、はは……やっぱり辛いやぁ」

「え、」

 ボロボロ涙が出てくる。暑いせいで汗も滴って、顔はきっとぐちゃぐちゃだ。疲れと、もうすぐ消える悲しさで、もう本音を隠してる気力すらない。

 

 夕方っていうのは、ヘブライの人たちが一日の始まりとしたタイミング。だから、今日が終わるときに私も居なくなる。

 ほら、体が金の粒子になって少しずつ崩れてきた。もう時間だったんだ。本当に良かった。告白だけは間に合った。種明かしなんて、もう見ればわかるだろうし、しなくてもいいよね。

「ファウスタ!」

 急いで駆け寄ってきてくれるけど、もう随分体は戻っちゃったみたいだ。眠気に襲われて、駆け寄ってきてるのがやっと見えるくらいには半目になってる。

「あばよ!……ちゃんと振ってくれて、ありがとう!」

「待つんだ、待ってくれ……!」

 あーあ、いつもの余裕はどうしたよ。先輩風吹かせて、皮肉と嫌味と悪口言ってくるマーリンはどうしたの。いつもらしくないなあ。

「さよなら」

 もう耐えられなかった。そのまま、眠気に任せて完全に目を閉じる。起きたらもう、貴方は居ないよね。まだしばらくは、さみしいなぁ。

 本気の恋でした。でも、お別れは決まってるから、せめて大嫌いな私のままで居たかったのです。ごめんなさい、やっぱり、まだずっと大好きなままだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サラサラと金の粉になって風に溶けた彼女に、伸ばした腕は空を掴んだだけだった。

「ファウ、スタ……」

 空っぽの心がざわざわと波立つ。そんなはずはない、感情なんて無かったはずだ。なのに、何かが抜けていく感覚と腹の底から臓物を食い破りそうな強烈な衝動があって、指先が冷えていく。

「なんで、キミはそんなことばかりするんだ」

 泣いていた。それに、笑っていた。体が崩れていても、いつものボクの悪口で振られても。

 大嫌い、大嫌いなんだ。だって、いつだってキミは愛を叫んでいた。誰にでも、なんにでも。やかましくとも、見苦しくとも。そんなキミが疎ましかった。

 

 違う。本当は、キミのことがきっと好きだったんだ。何でも愛するのが気に入らなくて、だだをこねる子供みたいに、ボクだけにその愛を叫んで欲しい望んでたんだ。

 

「謝るよ、ファウスタ。ボクは一度も、キミの方から居なくなるなんて思ってもいなかったんだ……」

 

 キミはボクらと会えたのが幸福だから"ファウスタ"と名乗っただろう。なら、ずっと幸せでいてくれればよかった。ずっと、ここで幸せに暮せばよかったんだ。どうして消えてしまったかはわからないけれど、急に、不意打ちみたく消えることなんて、なかったじゃないか。

 

 だから、居なくなるなんて嘘だと言っておくれよ。ボクはキミが好きだ。だから、傍にいてくれ。

 

 

 気付くには、随分と遅すぎた。幸福な彼女はもう、どこにもいない。




幸せになーれ、とかしたい割に続きを書く気は(今のところ)毛頭ないという。


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未来で待ってた

未来のブリテンでずっと待ってたマーリンと、マーリンの心に風穴を開けたいファウスタ。

ご都合主義でマーリン幽閉されてません。ニミュエの話とかはまた別口で補足します。


「好きって言って、好きって言って、ほかに何もいらないから〜」

「ご機嫌だね」

「まぁね!だって時計塔に来るの初めてだし!」

 

 この時代のイギリスに来るのは初めてだ。ちょっと前まではみんなと居たのにね。

 卒業旅行で一緒にイギリスに来たけど、結構懐かしいような、そうでもないような。どっちかというと馴染まないかな。農村部とかはそうでもないかもしれないけど。

 予定していたからちょうどよかった。やっぱり大好きだった土地だから来たかったんだ。さっき歌ったみたいに、好きの言葉以外に他に何もいらないなんて、無欲なことは思えなかったけど。

 

「カードも見てきたいな〜後でお店行こ!」

「オッケー、こっち見たら合流するから先に行っててくれていいよ」

「りょうかい!」

 こっちは可愛くて安いカードが多いから見ていきたいな。それに、このあたりの店の並び、どことなくキャメロットの城下っぽい雰囲気なのすごく好き。時代も相当隔たってるし、違うと言われたらそこまでなんだけどさ。

 

 と、洒落たカフェテラスを見つけて他の子もみんな揃ったらお茶をしようかと思っていると、向かいから来た人とぶつかった。突っ立ってたその人にぶつかったから、私が悪い。

 

 ぶつかってしまった彼を見上げて謝ろうとして、思わず言葉が詰まる。

「……マーリン?」

「それ以外の誰に見えるんだい。その目は飾りかな」

「間違いなくマーリンだね、久しぶり」

 皮肉が相変わらずでマーリン確定だわ。元気そうで羨ましいよ。

 まさかその辺フラフラしてるとは思わなかったよ。というかまだ生きてたんだ……

 魔術師って言っても数千年単位で生きてるとは思わなかったから安心して旅行に来てたのに、前提から崩壊してたなんて。実質数週前に今生の別れ告げたんだけど、相手方は1000年以上経ってるって……気まず過ぎない?今度から気をつけよ……

「マーリンはこんなところで油売ってていいの?私は用事済ませたら帰るけど」

「やり口が卑怯すぎるキミを捕まえに来たんだよ、ファウスタ。ちょっと付き合ってもらおうか」

「えー……」

 カード買うだけのつもりだったのに。

 とりあえずは付き合わなきゃまずいと思ったから皆には連絡を入れて、あとでお茶しようと思ったさっきのカフェテラスに一緒に入店。この紅茶の匂い凄くいいなぁ。お店のブレンド茶葉、お土産に買えないかな。

 

「で、ファウスタ。弁明することは?」

「無いよ。私はあれで良かったと思ったからそうしたの。あなたからの返事は要らなかった。どうせ振られるのは目に見えてたし」

 おかげで吹っ切れた。帰ってきてからはたった数週間。それでも、時代か違うのだからと無理矢理でも納得できたんだ。この人を好きだった想いは風化して、ちゃんと思い出になりつつあった。

 ティーカップの底に細かくて残った茶葉が揺らいでる。根無し草に良くしてくれたのに、ひどいことしたとは思う。けど、それしかなかったんだ。時間があんまりにも足りなさ過ぎて、できることと言えば、あとをあんまり残さないよう消えることくらい。

「もう思い出になるから。だから、大丈夫」

「どこが大丈夫なんだ。人の気持ちも知らないで」

 冷ややかな、悲痛な言葉に目線を上げる。

 

 誰だろう、これは。だって、マーリンは感情のない人だった。人に合わせることばっかりやたら上手くて、気付かれないように人を求める人で、こんな心から悲痛そうな顔をする人じゃなかった。そんな顔は見たことなかった。

 ……そっか、やっぱり私は自分勝手だったんだなぁ。人の側面だけ見て勝手に好きって言って。そりゃあ怒られるに決まってる。

 

「好きなんだよ、キミが。キミに会ったら言おうと思ってたのに、まるっきり無駄だったなんて、笑えないな……」

 嘆くみたいな、少しかすれた声で言われた言葉が、一瞬なんなのかわからなかった。

 好かれてた?信じられない。だって、そんなこと知るわけない。日々悪し様に言われて、好きなんて思うはずもない。それで好き?

「信じられない」

「ああ、だろうね。ボクだって信じられなかった」

 そんな顔できるんだなぁ。前なんて澄まして余裕ぶった賢人もどきでしかなかったのに。俯きがちでも悲痛な顔は見える。私のほうが小さいもんね。覗き込めるよ。

 

「それなら、しばらくシェアハウスして確認してみる?私も信じられないし」

「は!?」

 我ながらとんでもない提案だとは思うけど、まあ、面白そうだなって。まだ思い出になったわけでも、完全に思い出にしたいわけでもないし。

「キミね……」

 一度大きくため息をついてから、下を向いていた顔を上げた。穏やかな普段の顔に戻ってる。うん、やっぱりこういう落ち着いてるときのマーリンのほうが好き。あの寂しそうな顔はいただけない。

「まあ、それもいいかもしれないね」

「なら、話はまとまったってことでいい?」

「腑に落ちないけど、構わないよ」

 疲れたようにグテっと机に突っ伏したマーリンに思わず笑う。さて、軽率に言っちゃったとはいえ、私も腹くくらなきゃね。

「オッケー、じゃあ私来年からこっちに移住するわ」

「……そんなに簡単に決めていいものなのかい」

 一応は企業の内定貰ってたけど、移住するなら断らなきゃいけない。就職ちゃんとできるかは分からないけど、バイトして貯めてたから貯金もないわけじゃないし。

「いいの。自分の人生だから、自分の勝手にするよ」

 この国で暮らしてみてそうだった、というかそう過ごしたのが一番心が楽だったから。親だって説き伏せてみせるし、たとえシェアハウスが破綻したってそれまでが楽しければ気にしないからね!

「だからね、マーリン。少なくとも今度は絶対に不意打ちみたいなことなんてしない。それでいい?」

「もちろん。よろしく頼むよ」

 

 メモ帳に走り書きで今の日本の住所と考えられる限りの連絡先を書き込んで押し付ける。

 とりあえず、時間が時間だし、これから友達と旅行してから帰国しなきゃいけない。これ以上時間をごまかすわけにもいかない。そろそろ、みんなのところに行かないと。

 

 店を出て、さっき会ったあたりで彼に向き直る。かなりガタイがいいから、やっぱりマーリンも男の人なんだなあと思う。適当にごまかしたら顔だけは女性にも見えそうなのに。

「それじゃあ、またね。次に会うときは新しいフラットで!」

「ああ。こっちで待ってるよ」

 久しぶりに見た笑顔に、いたずら半分で頬にキスをした。固まってる姿に胸がすく。

 

 勘違いだなんて言わせるもんか。次に居なくなったら胸に風穴開くくらい、好きだと思わせてあげる。だから、手続きが要る少しの間だけ待ってて、マーリン。




ファウストってドイツ語だと砲とかのことなので、女性形の名前でも体を表して一発風穴開けるくらいできそう。


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ヨナタンとダビデ

二人の話。
転生云々は決めてない上にデリケートにも程がある題材なので、本当に大丈夫な方だけどうぞ。
今回は恋愛要素なしです。これだけは気軽に恋愛にできない……


 古イスラエル王国。この時代を「古き世」とは今生きる私は言えないが、きっと、いつか歴史の彼方に去ってしまうことはわかる。

 私が王子になったことも、この王国があったことも、いつかは伝説の如き遠い昔になってしまう。しかし、それは消え失せるのではない。主の与え給うた恵みを受ける土となり、主の蒔き給うた種を育てる雨となり、主の育て給うた麦の袋となり種を守るだろう。

「何してるんだい、ヨナタン」

「偵察だよ。ここからだとよく見えるだろう?」

 私たちはペリシテ人たちの軍に立ち向かわねばならない。正面切って1000人の部隊で突撃するのだ。

 足が震える。弓を引く手は震えてしまいそうだ。それでも、私はサウルの子なりしヨナタンだ。彼らの命を、「主のご大切」である人々を守り抜かねばならないのだ。彼ら兵士の一人ひとりに主の御恵みがあらんことを。私は彼らを守り、忠実な者としてここにある。

「怖いのかい、ヨナタン」

「ああ、情けないことにね。しかし、私には君達がいるからきっと大丈夫。主は君を大切になさっているから、これだけ沢山の兵士が居てくれるのは心強いよ」

 合図が見える。すべて始まるのだ。ペリシテ人と戦うのは怖い。しかし、我々には主のご加護がある。何も恐れる必要など、ない。

 

 そうして無事に生き残ったけれど、私は父上の言いつけを破ってしまった。美味しそうな蜂蜜を、兵士にも食べさせられるようにまず初めに手を付けた。許されないなら上に立つものがそうしてしまえば、下で従うものも心置きなくそうすることができると思ったからだ。

 私の考えは愚かだった。死なねばならないと知ったが、私の過ちによるものであったために不満はなかった。それでも、兵士たちに乞われ生き延びることができた。私はそれを神と人の愛として尊く、愛おしく思った。救われた命は、どこかで主のためにお返しすることになるだろう。そのことを、私はそのとき胸に刻みつけた。

 

 

 

 

 その運命と出逢ったのは、父がゴリアテ打倒の報を受け、功労者を呼び寄せたときだった。

 王座に入ってきた彼は、実に堂々としていて、よく顔を見る前に、この勇士が居るなら国が安泰だと思った。

 そして、顔をまじまじと見た。その瞬間、彼こそが次の王だと私は確信した。

 うつくしい人だった。私より年若く、先見の明があり、才能豊かな青年。十代の若者が王となるなど、まだ考えられるものではなかっただろう。でも、それでもきっと彼は王になる男だと、わかるものだ。聡明な白皙の美少年という、そのあり方だけでも十分に油を注がれるに足りるのではないかと思う。だってあれほど、作り物かと見まごうほどの美貌は、まさしく神の愛の賜物だろう。

 その一瞬でありえないほど強い確信を持って、私は彼と見つめ合った。彼も何かを感じ取ったのだろう、不思議と何かのつながりが生まれたような気がした。これはやはり、主のお導きなのだろう。ああ、主よ、この様な素晴らしき勇士とお引き合わせくださったことを感謝いたします。

「エッサイの子、ダビデと申します」

 真っ直ぐにこちらを見つめるハシバミの目は、光り輝き知性にあふれていた。

 羊飼いの子、それなら、勇士にふさわしい装いも必要だろう。これから彼は活躍するだろうし、そうなれば人前に出ても問題ない、部隊長に相応しい服が必要だ。私は彼に自分の上衣を始めとして、戦衣など様々に贈り物を贈った。彼は最初、面食らったように遠慮したが、しかしそれでは格好がつかないからと半ば押し付けるような形で受け取らせてしまった。強引すぎることにあとから気付いて謝ったが、ダビデは笑って許してくれた。懐が広い、いい青年だと思った。

 

 

 新しい羽と、木と、工具で創造を重ねる。最近、矢についてはやっと誤差なく作ることができるようになったと自分では思う。

「やぁ、ヨナタン。何をしているんだい」

 かけられた声に振り向くと、そこには年若い親友の姿があった。神に愛された次の王、ダビデは今日も美しい。若草色の髪の毛は輝くようだ。ゴワゴワになることなく風になびいているのは凄いといつも思う。私も頑張ってみているが、彼ほどサラサラにはできずうまく行かないから、やはり特別な手順で手入れしているんだろうか。きっと街の女性たちは彼の髪を羨むだろう。光の具合で新しい草木の芽吹きのように見えて、その髪はとても素敵だ。

「ああ、新しい矢を作っているんだ。こればかりは、どうしてもやめられなくてね」

 矢を作り、剣を手入れするのは、あの戦以来ずっと自分でやっている。それにいい猛禽の羽が手に入ると、どうしても作りたくなってしまう。これはもう趣味、というよりも道楽に近い習慣になっている。前からできて履いても、納得するまでには随分と時間がかかった。

「このあとは?」

「そうだね、主への祈りと、弓の稽古をしようと思っている。それから、市内で困ったことがないか見ないと」

 ダビデは正式に士官することになってよく出撃が重なるようになった。最近兵隊長となった彼は、特に武勲を立てている。主は、イスラエルの民に平穏をもたらしてくれる。感謝の祈りは、より捧げられるべきだろう。街の見回りは陳情があったからだ。民には安心して暮らしていく権利がある。今の王族として、私はそれを守らねばならない。

「君は優しい王になるだろうね、ヨナタン」

「それはどうかなぁ。私は王の器ではないと思う。ただの一人の神のしもべでしかないよ」

 付き合ってくれるらしいダビデが手を差し伸べてくれた。好意に甘えて手を借りると弓が震える。ああ、ここのところ実践しかしてないけど、狩りにも出かけたほうがいいだろうか。草木の実も取るならば、きっと姉妹たちも喜ぶだろう。ダビデは、付いてきてくれるだろうか。いてくれたらきっと楽しいだろう。

 

 そのうち私は妻を得て、彼女を愛した。いくらかの月日のあと、たしかに彼女は子を得て、非常に尽くしてくれた。あり方として正しくも、私は少しだけ、彼女に罪悪感を覚えた。というのも、不便な生活をそのままにしてしまったからだ。どれほど手伝おうと、子がいる女性は大変なものだ。生まれた子は、とても可愛らしかった。妻は随分と嬉しそうで、私は裏腹にとても心が沈んだ。ちゃんと、この子に良いものを残してやることのできる父と成れるだろうか。

 

 

 

 

 それからまた時が経ち、父がダビデを疎んじるようになってきた。きっかけは、一体いつだったのか。

 気付いたときには、ダビデはペリシテ人の陽の皮を200集めて私の姉妹ミカルを得た。そこから、運命の石は一気に転がり始めた。

「ダビデを殺せ、やつを生かしてはおくな」

「父上?!なにゆえ、なにゆえそのようなことを仰るのです!」

「決めたことだ!ヨナタンよ、我が息子よ。これは絶対なのだ」

 父は、止まってはくれなかった。

 私は深くダビデを愛していた。これからすべての民を救うであろう、優しい青年を心から慈しんでいた。だからこそ、父の計画はダビデにすぐ伝え、逃げるように促した。うまく行けばすぐに呼び戻せるように、とあまり遠すぎないところに身を隠すように伝えて。

「王よ、どうか家臣であるダビデに罪を犯されませんよう!彼は一度たりともあなたに背かず、あなたに益を齎しました。なのにどうして、そのようなことをなさろうとするのです。どうか、どうか彼に罪を犯すようなことはなさらないでください」

「息子よ、確かにその通りだ……彼に対して刺客を向ける事はやめよう。主は生きておられる。決して彼を殺しはしない」

 

 それでも止まってくれると信じていた。でも駄目だったのだ。

 父は殺害しようとし、そしてそれにダビデは、あろうことか私に殺されたほうがマシだと頼んできたのだ。そんなことはできるはずがなかった。

「生き延びなさい、あなたは決して死んではならない。どうか、神のご加護がありますように」

「ああ、ヨナタン。君の心尽くしには感謝してもしきれないよ」

 泣いて別れの口づけを落とし、決して死なぬようにと神に祈った。それが、とても自然なことと思えたからだった。きっと彼なら、ダビデなら生き延びる。でも、どうか無事でいてほしい。善き人にご加護がなくては、イスラエルの民は生きていけなくなるだろう。

 

 それから、悪い方にばかり事は進み、運命の石はどんどん坂を駆け下っていった。父に罵倒され、それでも気取られないようになんとか合図をして逃したダビデとは、もう二度と会えない。そんな気がした。

 

 そのままダビデを追う父は非道をし、罪無き祭司たち85人を殺した。神の前に罪を犯した私は、父とともに罰されるでしょう。主よ、我らをお導きください。いつか、父を説き伏せたダビデがすべての民の王となり、私たちは死に絶えて、全てが幸福になりましょう。

 それから、ダビデはそのまま土地から去っていきました。これから、かれはきっと神のみ心に沿う、良き世を作ることでしょう。主よ、我らを憐れみ給え。そして、きっとそこに私はいないでしょう。主よ、どうか我が最愛の友を善き方へとお導きください。ダビデ、どうか、お達者で。

 

 それから、ペリシテ人が攻め入ってきたとき、私は自分がこの時死ぬのだと確信した。なぜ、と言われてしまえば感だとしか言いようはなく、しかしきっと、ここでという確証は確かにあったのだ。そこに、ダビデの姿があると知ったから。

「何かあれば、あなた達はお逃げなさい。主への祈りを欠かさず、生きるのです」

「ヨナタン様……」

 こっそりと告げた言葉に兵士たちは呆然としていましたが、それで良かった。私と心中する必要はないのだから。ただ、私は死なねばならない。王の子として。

 主よ、我が子は無事に生きられるでしょうか。安否が心配で、あとのことに不安はつきません。しかし、これもまた運命でしょう。主の御心にすべて委ねると決めた以上は、そうするだけでした。主よ、我らを憐れみ給え。

 さようなら、ダビデ。できることなら、最後にひとたび貴方と語らって死んで行きたかった。どうか、末永き繁栄を。主よりありがたき幸せを給いますように。

 

 

 

 

 眠っているような、穏やかな表情のそれは、ひどく懐かしい思いを与えた。そして同時に、胸を黒く塗りつぶす絶望をも、与えた。

「ヨナタン……そんな、嘘だろう」

 柔らかな頬は固くなり、血の気の引いた頬は以前の微笑みの影はない。そこにあるのは、死者の安寧のみだ。

「ああ、ヨナタン、君は立派な人だったよ」

 主は、彼に印をお与えにならなかったのかもしれない。しかし、敬虔な彼は、きっと死後救われるだろう。願わくば、彼と神の御国で再会できますように。

「きっと、きっとまた会えるだろう」

 竪琴を取り、彼のために整える。一度挽歌を歌えば、涙はとめどなく溢れ出した。ああ、君にも聞かせてあげたいほどだ。どれほど君のことを思っていたか分かってくれるだろう。兄のような、父のような、最愛の友よ。君の愛は女の愛にも勝っていた。勇敢で、心優しき我が親友よ。どうか、安らかに。



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おかんとドクター

行動がナチュラルおかんの子とドクターになる前のドクター


 目の前でふわふわしたストロベリーブロンドが大きく波だった。正しくは、向かいから歩いてきていた青年が転けた。

「うわぁ……!」

「おっと!?」

「へぶっ」

 とっさに手を、胸の辺りに当たって引っかかるように伸ばした。と思ったらずっしりと米俵くらいの重み。見事にキャッチ出来たは良いけど……軽い……成人男性(?)にしてはやけに軽い。見ず知らずの人だけど、ご飯ちゃんと食べてるのか心配になる軽さだ。

 転ばずに済んだ彼は、衝撃が私の腕に当たっただけだったことに混乱していた。……でもさ、焦ったように体制を立て直してこっち見てギョッとするのはどうかと思うよ。

「大丈夫ですか」

「あ、ありがとう。助かったよ」

「どういたしまして」

 細っこい兄ちゃんはきょどきょどしてるけど、これ結構特殊な人馴れした人じゃないかな。

 いつの間にやら足元に落ちて転がっていた私の林檎と、さっきのはずみでコートのポケットから落ちたらしい本を拾い上げる。林檎はちょっと強めに当たったけど、まあ無事か。

「あっ、ごめん!僕のせいで、」

「違う。運が悪かったんだよ。気にしないで」

 取りあえず紙袋の中の、元あった位置に収める。本は雑だけどポケットに捩じ込んだ。元々古書店で買った三文文庫本だし、気にしない。魔女子さんのパンケーキ再現したかったんだけど、林檎は生じゃちょっと危ないかな。引っ越したばっかりの日にはパンケーキとソーセージと生の林檎って決めてたんだけど。

「これはサングリアにするか」

 それか、まるっと皮剥いてジャムだ。こっちだと米が高いから、慣れないけどパン食しかない。ちょうどいいっちゃちょうどいいか。

 

 とりあえず帰ろう。家に帰ったら薄めにコーヒーを入れて、ポケットの本の続きを読もう。

 とそのまま歩きはじめた途端、はたと気付いた。……コーヒー豆買ってない。

 

「あの!」

 思い切った声に振り返ると、さっきの彼が眉を下げてこちらを見ていた。

「もしよければ、お茶でもどうかな!」

「渡りに船」

 どこで読んでも同じだし、暇つぶしにはなるだろうと思う。荷物もそこまで重くないし、まあいいか。

 

 

 

「ってこともあったよね」

「何年前だっけそれ」

「4年前」

 薄いコーヒーを啜りながら新しい本を読む。シェアハウスはやっぱり中々快適だ。マーガレットとジェロルドいつ帰ってくるかな。

「まさか同じシェアハウスとは思わないからね」

 帰ってきたロマンと廊下で鉢合わせしたときには思わず腹抱えて笑った。こんな偶然あるのかと思ったけど、比較的小さい街だしありえちゃうんだろうなぁ。

「しかも君の方が年上なんて……小さいのに」

「一言余計だよロマン。もう本貸してやらないぞ?」

「ごめん」

 あのお茶の誘いは、ロマンが私の持ってた本に惹かれたせいだった。あの本実は貴重なんだとか。まあ、私は読めればいいから気にしないんだけど。

「そういえば、次の休みはレフも来るの?」

「ああ、来るって連絡があったよ」

「なら、夕飯は肉にしようか」

 どうにも、二人とも歴史学の一環として魔術の再現とかをしているらしい。私はそういう話とかがすごく好きだから、なんとなく話に混ぜてもらう代わりに二人の好物を差し入れたり、散らかした片付けをして対価にしてる。あとは夜遅くなりがちなロマンやレフに布団被せたりだとか、はよ寝ろと声かけたりとか、苦手な野菜を積極的に料理して食えるような形で食事を提供するとか。……おかんか。

 

「そういえば、来年はどうするの?もう就職するんだよね」

「一応ね。まあ、一応決まってはいるよ」

「どこ?」

「国連」

 ブッ、とコーヒーを吹きそうになったのか変な音がした。吹いたら吹いたで自分で掃除してほしい。

「おか、いやキミが!国連!?」

「待て、ロマン今おかんって言おうとしたろ」

 マム、まで言いかけたの確かに聴いたよ?待って。この年でこんなに大きな子供持った覚えはない。

 

「でも、国連かぁ……」

「一応ね、一応。まあ、そうじゃなくても大学は卒業するんだし、新しいフラット探さなきゃね」

「越す前にはアドレス教えてくれよ?」

「もちろん。風邪とかに気を付けるように手紙も出すからね」

「本当に母親みたいだ……」

 頭を抱えるロマンに、傍らに置いてたキャンディーポットから一つ飴玉を取って投げ渡す。レモン味。ビタミン飴だ。

 

「ロマンも、無理しすぎないようにしたいことしなよ」

「……うん」

 飴を舌でモゴモゴさせながら頷いた彼に笑いそうになる。子供っぽい。少し可愛い。……可愛い、んだよなぁ。

「母親役じゃなくて、普通に友人なんだがなぁ」

 ぼそっと言ったのは聞こえなかったらしい。少し安心した。

 母親に言えない心配事とか、友達だからこそ愚痴れることとか。そういうものをロマンはほとんど言わない。信用されてない。口先では割りと友達って言ってくれるのに、そういうのも分けたりしていいだろうに、やっぱり友人づきあいって難しい。




おかんは大体感づいてる


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最終兵器おかん

事件発生当時、おかんはカルデアに居た。


 火事のあと無事に調査に出た二人が戻ってきたはいいものの、カルデアまた別口で問題が発生していた。

 自分がおかん属性であったことを感謝するぐらいには衝撃的なものが出てきてしまったのである。

「ロマン、ちょっとそこに正座」

「え、」

「正座」

「アッ、ハイ……」

 机の上には押収したお薬。私が見つけたのは医務室においてあった分だけ。プライベートルームは猫耳っぽい飾りをつけたアサシンちゃんに頼んで取ってきてもらった。

 嫌な予感はしてた。したけどまさか本当に持っているとは思わなかったんだ。

「これは?」

「き、気つけ薬で……」

「薬事法では?」

「違反薬物ですごめんなさい」

 この男、仮にも医療セクションのトップである。にも関わらず、このヤバいブツを使ったのだ。しかも結構な量が出てきてるから継続して使うつもりだったんだろう。

 

「アーキマン」

「え、何でファミリーネーム……」

「栄養ドリンクを使うのは一日一本ならまだいい。カフェインの致死量超えるから複数はダメだ」

「はい」

「マギ☆マリのホームページを毎晩見るのもいい。というかストレス発散になるから見る時間増やしても構わないと思う」

「なんで知ってるの?!」

 うっかり後ろから見えたことがあるからです。あとサイト見たときにロマンが好きそうだなあと思った。

「でもな、これは脳も身体も壊れるやつだ。これだけは本当に駄目。絶対に使っちゃいけない」

「うっ……」

 

 気まずげに目をそらすあたり、その危険を承知でやってはいるけど楽観していたと見た。自分は大丈夫、とか覚醒剤系でもよく言われるやつだろう。

 頑張り屋、というか死に物狂いが本当に死に直結しかねないんだから救いようがない。止めなきゃ多分ポックリ逝くぞ、この人。

「そうだな、立香ちゃんたちの通信は機器の使い方を教えてもらえれば手伝えると思う。少しぐらい睡眠時間を確保する努力をしなさい」

「……わかったよ」

「じゃあこれは要らないね?」

「え?」

 反省していても現物が残っていれば使うかもしれないからね、纏めて始末しよう。

 

「そぉい!」

「ええっ!?」

 纏めてゴミ箱につっこみ、一杯になったゴミ袋はとっとと括って処理機械へ。

 反応からして、また使おうと思っていたんじゃないか。振りだけすればいいってものじゃない。

「ロマン、適切な睡眠を取って」

「でも、」

 

 さっきまでの反省はどこへやら、食い下がるのが気に食わない。というか悲しい。責任は発生してるから仕方ないんだけど、それでもだ。体を壊してしまっては方法があってもどうにもできない。

 

「お荷物で居るのも居心地が悪いから今貴方がしてる仕事の六割を私がやる。ダ・ヴィンチちゃんから及第点貰ったし、許可もぎ取ったからいける」

「いつの間に?!」

 おかんを甘く見るな。仮想とは言え子にブラック労働をさせるつもりはない。というか周りから言われ過ぎてもう仲のいいスタッフ全員我が子みたいに思い始めてるから手に負えない。

「ついさっき。特に権限がなきゃ始末できないやつを中心にしなさい。じゃなきゃ、屋台骨もろともこの砦が崩れるぞ」

「う……」

 はよ寝やれ、と部屋から押し出すと、困ったように笑った。うん、まだ笑えるなら大丈夫かな。ちゃんと元気になってなきゃだめだよ、ロマン。

 

 

 

「ママお腹空いた」

「立香ちゃん、ママ呼びは止めなさい」

「だってムニエルさんとか"ママーッ"て叫んでたし」

「ムニエル氏は知らないうちにああなってたんだよ……」

 かなりディープなオタク入ってる一部職員からロリベヨ姐とかママとか言われるのはもう気にしないことにした。

 立香ちゃんもサブカルはいける口だったからこんな感じなんであって、最初は結構礼儀正しく固かったのに。

(めい)さん、今日のおやつは?」

「今日はクレームカラメル。硬めのプリンって言ったほうがわかりやすいかな。頑張ったみんなにご褒美」

「やったー!」

 小躍りしそうな感じに喜ばれると大したことしてないのに照れる。でも、バットにプリン液を流し込んで焼いただけの簡単おやつ。本当なら初めの戦勝ってことで、もっと凝ったものを用意したいところなんだけどな。果物いっぱいのケーキとか。

「これから立香ちゃんたちには重荷を負わせちゃうから、頑張った分だけデザートを豪華にしよう。一度飛ぶだけでもものすごく偉いからケーキ焼いちゃう」

「今日はプリンなのに?」

 来ると思っていた返答に、そっと寝かせていた肉の塊を見せる。時間的にはもう少しでいい感じかな。

「夕飯はローストビーフだけど、減らす?」

「全然オッケー!」

 もので脅すの良くないけど、ちょびっと我慢してね。あと、ケーキって言ってもパウンドケーキになりそうだから、どっこいどっこいだと思う。

 材料は節約しなきゃいけないけど、年頃の女の子だし、騙し騙しでもご褒美がなきゃやる気もなかなか出ないと思うんだ。偏見かもしれないけど、無いよりはいい。それに、スタッフのみんなだって手軽なカロリー摂取ができるからいいのだ。

 

 とんでもないことに巻き込まれたけど、とりあえずはおかしくない程度に裏方であくせく働いてやろうと思う。

 




おかんはマシュくらい(ちょっと小さい)の大きさでベヨ姐声です。


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いつか壊れる話をしよう

時間神殿へと紛れ込んた感傷的な子とゲーティアの話。


主人公:禅語では立ち返るべき自分自身の姿のこと。





空想好きな私がいつぞやに会った君のことを思い出すのは、きっと悲しいときだろう。君は随分寂しそうで、苦しそうで、でも歩き続ける意志を持っていた。ちっぽけなちっぽけなそれは、大切に握りしめられて形がグシャグシャになっていたけれど、たしかに輝いていたと思うよ。そんな君は、私にはひどく眩しかった。

 

「君はどうかな、ゲーティア」

 

 たしかに幸せだったかい?もしそうなら、見送った私も幸せだよ。君に会えないのは、心が裂けそうなくらい、とても寂しいけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこに落ちたときは、多分夢だと思った。広い広い原っぱ、薄ぼんやり輝く神殿。それから、何かに食いつぶされたみたいに感じるやたらと空っぽに見える星空。

 人のいない世界。誰も入り込めない世界だ。それがとても、単純できれいだと感じる。

「何者だ」

「おや、人がいるのか」

 気配にはとんと鈍いので、背中の向こうからかけられた声でやっと気づいた。振り返ると長くて白い髪の美丈夫。服はゆったりとしているから、中東、西アジアとかそんな感じのところの人なんだろうなぁとぼんやり思う。その青年の髪に編み込まれた紐の目のような赤は、もしかしたら魔除けか何かだろうか。そんな文化は知らなかったけれど、私の無知のせいだろう。

 

「答えろ。お前は、何者だ」

「何者にもなれない者だよ」

 深遠な問いに、私なりに思いつく答えを返した。私はまだ何者でもない。こうだといえるものは見つからないし、見つけることもできないだろう。

 

「人間風情が、なぜここに来ることができた」

「わからない。ただ、きっと君と語るためではないかな」

 ここは美しく、人がいない。禅問答のように語り合うためにではないだろうか。私は、きっとそのために頭の中にこの空間を作り出しているんだと思う。

 ある種の明晰夢。それにしては、随分と美しい主人公を生み出してしまったものだ。主人公の私はこんなに美しくないだろうに。

 

「……そうか。ならば、好きにしろ」

「いいのかい。ならしばらくはそのへんで昼寝でもさせてもらおうか」

 頭を使うと、疲れる。疲れたらすごく眠いんだ。夢の中で眠るのは不思議だけど、主人公と見える形で対話できているのだから、いいのではないか。

 ごろりと転がると、爽やかな風が一迅吹いた。ここは、とてもいいところだな。目覚めたくなくなってしまう

「お前は、私を怖がらないか」

「なぜ恐れる必要がある?」

「私は、お前たちを、人類を滅ぼしたいと望んでいる」

 大の字に寝転がった私のそばに、青年が来た。彼も腰を下ろし、私に目を合わせる。風に遊ばれている髪は、とても柔らかそうだ。

 

「私と随分似た価値観を持っているんだね、あなたは」

「似ている?」

「似ているとも。人は滅びていい。存在していることが間違いのもとであるのだから、そのまま消えればいい」

 死ぬのは怖い。でも、必要であるならは、避けることはできないだろう。

 

「良いものとして再生したくはないか」

「君は善良だね」

 優しい人だ。私の望む姿ではなさそうだから、主人公ではないのかもしれない。でも、とても優しい心根の持ち主だ。良いものになりたい、その手助けをしたい、という心はとても優しいもの。そのために間違えたことをするのは、たしかに悪いことかもしれないのだろうけど。それでも、優しい。

 でも、それは間違いだ。

「きっと再生したところで何らかの苦しみは残る。死ぬことができなければ、全て抱えて生きねばならない。それは、心が耐えられるようにできていても、あまりに苦しいよ」

 人は間違う生き物だ。たとえ、自分の思う完全な姿になっても、きっとどこかで間違うだろう。例えば不老、例えば不死、例えば間違いのない人間性。どれも、何があっても得られないもの。それを得てしまえば、きっとそれは人間ではない別の生き物でしかない。

 

「それに……あ、ごめん。ちょっとかなり眠たい」

「な、待て、まだ話は終わって……!?」

 像が歪む。だめ、もう瞼が限界。開けてられない。

 起きたら、ホットサンド食べたいな。

 

 

「起きたか」

「……あれ、夢がまだ続いてる」

「お前は、夢だと思っていたのか」

 こめかみを押さえる青年は、主人公でも脳内の虚像でもなかったらしい。失礼なことをしてしまった。でも、彼は人類を滅ぼそうとしているのだから、今何をしたって死ぬことに変わりはないだろう。

「お腹は空いてないなあ」

「ここは固有結界だ。外のお前とは切り離されているんだろう」

 さらりと言われたけれど、多分幽体離脱しているってことだろう。固有結界?と言うものが何なのかはわからないけれど、切り離された異空間か何かなんじゃないかな。

「話すことは、もうほとんどないと思うんだけどなぁ」

「……なら、お前の好きに、言いたいことを話すといい。お前の話は興味深い」

「誰か別の人間をとっ捕まえて話させるほうが面白いとは思うよ」

 まぁでも、もう少し長生きできるならいいか。話し終わる頃には、彼の手で世界はきっと終わるだろう。

 

 大したことは語れなかった。私が好きな本の話。文学や歴史や生物の講義で聴いた面白い話。好きな音楽の、どういう時代と思いがあったかの話。たくさんの感情を含ませた、私の話したいこと。面白いと思ったから、誰かに聞いてほしかったことたち。

もちろん、彼の話も聞いた。なぜ、そこまで思い至ったか、人がどれほど愚かしいか、その業がどれほど深いか。時折、直に脳内に流されたから「こいつ直接脳内に……!」ネタを挟んで叱られた。そうでもしないと、身も世もなく泣いてしまいそうだったから許してほしい。彼はきっと、体験してひどく泣いたんだろう。苦しんだんだろう。とても柔らかい心がズタズタにされただろう。私でさえそうだから、彼には耐えられなかったんだ。それを完全に理解することは絶対にできないけど、ただ、聞くことだけはできる。それだけは、していようと思う。

 

 

 そうやってどれくらいか話して、ごろんと寝転がって眠って、それからまた起きて話して。日付の感覚も何もなくなった。ここはいつも昼間だ。日付なんてわかるわけがない。

 途中でゲーティアと名乗った彼が、私に教えてくれたことは、心を揺さぶるには十分すぎると思う。でも、私はどこか他人事でしかなくて、ただ彼が話したり、見せたりするものに同意するしかできなかった。

 ただ、眠っては起き、起きて話をしては眠りを繰り返して彼と居た。

 

 少しばかり気を許してくれたのか、触れさせてくれることがあった。ひどく苦しいものを見せられたときには、思いっきり頭を撫でて、頑張ったね、と抱きしてめてやることもあった。

 ……自分よりずっと年上のはずなのに、ずっと幼い子供のようで。ついそのように接してしまうことがあったのは、彼には悪かったかもしれない。

 

 そのうちに、その空間がじわりじわりと崩壊し始めた。何か起こっているのはわかっていたけれど、どうしようもないから黙って見ていた。彼の髪紐と似た茨の蔓のような何かが解けて消えていくのも、神殿のあちこちが溶けるように崩れていくのも、私にはどうにもできることじゃない。

「怖くはないのか」

「怖いよ。でも、君だって死んでしまうだろう。君こそ怖くないの?」

「怖い。……だが、自業自得だろうからな」

「なら、何も問題はないね」

 頭を撫でると、目が細められる。随分慣れてくれた、のだろうか。

 自業自得でここが崩れるなら、私は元の場所に戻るかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 でも、ゲーティアはきっと死んでしまう。それは、自業自得と口では言えても、とても受け入れられないほど怖いだろう。彼は私よりもずっと長く生きたらしいから、それだけ怖いのは当たり前のことだ。彼は偉い。

「君が怖がっているなら、ひとつだけ呪いをかけてあげよう。"まじない"ではなく、とびっきり重たい呪いを」

 だから私はゲーティアを呪ってやろう。私は魔法使いではないけれど、彼もきっと次を生きられるように。できれば人としてまた生まれ変わって、ここであったことを忘れても生きられるように。

「ゲーティア、君はよくやったよ。だから、次は君自身のために生きなさい。人類や生命なんて考えず、ただ、君がために」

 知ってるかい、ゲーティア。言葉ってね、すごく重たいんだ。発することで本当になるくらい、重たい呪いになる。名前は古くて最高に重たい"まじない"だから、合わせたらきっとすごいんだ。

 

 だから、ちゃんと君自身で、次を生きてね。絶対にだよ。私はその時会えないかもしれないから、きっと、きっと君自身でやり遂げなさい。

「ねぇ、ゲーティア。私は君と会えてとても楽しかった。君の人生が、悪くない終わりでありますように」

「……お前の呪いは、本当に重たいな」

 今にも泣きそうに顔を歪めるゲーティアが、たった一言そう言ってくれるだけで嬉しかった。

 

 でもごめんね、もう、眠たいんだ。さよなら、ゲーティア。

 

 

 

 

 

 

 目が覚めたら、外には雪が降っていた。電子時計が、一年ぐらいバグってる。確認したら、祝日だ。

 今日は学校が休みで良かった。多分、今日は夢みたいだった彼の顔のせいで使い物にならない。私は、思ったよりも彼のことが好きだったみたいだ。

 

 寂しいなぁ。できることなら元気でいてね、どこの、どの時代の人かわからない、でも確かに語り合った、遠い遠い世界の人。




作者風邪気味でちょっと書くのが遅くなります。
あとレポートが倒せない。


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夢が現か幻か

ニ回忌にホットサンドを食べたい子と、都合の良い再会をするゲーティア。

そういえば13日と14日(?)に日刊ランキングに載ってたんですね。ご感謝!


 今日も一日平和、なんじゃないだろうか。相変わらず学校で見るもの聞くものはときどき面白くて、だいたいつまらなくて、それにあの神殿から帰ってきてからちょっと鈍い色に見えているけれど。それはきっと、私の気持ちが整理できていないからで、だから一度片付けなければならないと思う。だから、明日はピクニックに行こう。

 補講が無くて、バイトも祝日の定休と重なったから一日だけ暇だし。美味しいスープを作って、サンドイッチを作っていくんだ。蒸し暑い季節ではないけど、ちょっと奮発してトマトをたくさん使うスープを。よくよく煮込めば、それはきっと美味しいスープになると思う。サンドイッチはホットサンドに。あのとき、食べたいと思っていた、チーズとハムだけのシンプルなのと、それからみじん切り玉ねぎとシーチキンとマヨのやつ。美味しいんだ、とっても。

 

 ぼんやりと意識を飛ばして外を見ていると、雀が低く飛んだ。この後雨が降って、明日は晴れるんだって天気予報のお姉さんは言っていた。

 雨は、あまり好きではない。できることなら帰る頃には止んでいてほしい。

 

 とりあえず教室移動のための片付けをしていると、誰かが背中を叩いた。

「ねー、明日ヒマ?」

 振り返ってみると、それなりに仲のいい友達だ。名前は覚えているし、それなりに話すけど、お互いあんまり踏み込まない人。踏み込まないのが良いと知っている人だ。

 

「ごめん、用事ある」

 嘘じゃない。だって明日は、彼が消えて一年だ。彼の、ゲーティアの二回忌だから。だから、話半分に出していたものとかを持って、よく晴れた原っぱで食べたり、見たり、読んだりするんだ。

 彼の死を世界は知らないだろう。でも私は知っているし、短い間だったけど交流して私の世界の一部になった彼は色々引きちぎっていった。弔いになるかは分からないけど、私がそうしたいから、する。

 

 そういうと、ちぇーと言いながらもその子は笑った。深く言及しないでいてくれるのは嬉しい。彼女も、よく気分で出ないことだってあるから気が楽だ。

「ちなみに、なにするの?」

「知り合いの……弔い?」

「それじゃ、ちゃんとやらなきゃだね」

 素直に言っても笑われないのはいい。友達付き合いをするなら、やっぱり、付き合いやすい人だと言いたいことが言える。馴れ合いは良い。やっぱり、深い付き合いは、ゲーティアのときはよかったけど、あんまり好きになれないな。

 

 

 

 

 

 

 その日の帰りに、結局は我慢できなくなって、帰り道にホットサンドを買って、雨の中を歩きながら食べた。外は寒くて、歩くたびにスニーカーに水が染み込んで重くなるけれど、それでもそうしていると、気分が晴れている気がする。気のせいではないと思う。

 人は居ない。歩く人もまばらで、私のことには気づいてる素振りなどない。気軽に、好きに歩いていていい空間だ。

 

 ああ、でも、しょっぱい。それに、食べ進めるごとに妙に湿気てべたべたする。雨だから、仕方ないけど。

 

「泣きながら食べることはないだろう」

 

 ビニール傘の人とすれ違った直後、背後から声がかかった。深みのある、聞き覚えのある声。ずっと聞きたかった声。

 

「久しぶりだな」

 スーツを着込んで、髪は緩く編まれている。鮮やかなシャツが特徴的で、淡い色の髪の毛とよく似合っている。

「ああ、とても。君は元気だったかい、ゲーティア」

「いや、かなり消耗していた。探すのに苦労したぞ」

 近寄ってみると、あの頃と大差なさそうな姿だ。でも、どちらかといえば少し若い。私より少し上ぐらいの年の頃に見える。

「それはご苦労様」

「神殿から抜け出すとき、ほとんど力を使ってしまってな。お前を見つけたのだって偶然だ」

 きっとそれは嘘だ。彼は一度死んでいる。でも、それを指摘するのは良くない気がした。私が話しているのはその時のゲーティアという人物の記憶を持ち、よく似た人格を持つ人であり、その人でないとしても。私は、彼と話を再びできることに対して、とても嬉しく思っているのだから。

「そう、なら、その偶然に感謝しなければいけないんだね、私は」

 涙が落ちる。さっきまで粒になどならないで伝っていたというのに、雫になって次々に落ちる。情けない。みっともない。そんなことは重々承知でも、動くことさえままならない。これだから、駄目なんだ。

 

「私は、君とまた会えて死んでしまってもいいくらい嬉しいよ、ゲーティア」

 本音、その上澄みの美しい、当たり障りのないところに少しだけ深いところに沈んだものを混ぜる。彼が気づくかは、わからないけれど、それでも気づけばいいと思いながら口に出す。

 

「それは困る」

 

 言葉尻をそのまま捉えたのか、そうでないのか、私には今ひとつ判別できなかった。少しだけきゅっと心臓が縮む。ああ、拒否だったらとても嫌だな。私でなければ、彼は笑って言うのだろうか。

「今夜は満月が美しいからな。月見酒が美味いと言ったのはお前だろう。付き合え」

 理由は、拍子抜けするほど簡単だった。私がホットサンドを食べているのと同じ理由。あの場所に関連づいたものを辿っている。私も、ゲーティアも。

「ああ、もちろんだよ。君は、どの酒を好むんだい」

「好みは特に無いが、お前と呑めるのなら、それで目的は達成できる。人と呑むのが一番美味いんだろう?」

「よく覚えていたね」

 本当に、何気ない一言だったはずなのによく覚えているものだと思う。確かにそういった。

 

 とりとめなく巡ろうとした思考は、ふっと彼が微笑んだところで打ち切られた。あの場所ではついぞ見なかった笑顔が、今はある。何か、喜ばしいことや悲しいこと、それらに当てはまらないものもたくさん経験してきたのだろう。よくいる普通の人、といえばそうだが、彼は普通と私達が呼ぶ基準のところにはいなかったから、何やら物悲しい気も、嬉しい気もする。

 

「ああ、お前の呪いで俺はここにいるからな。お前の言葉はよく覚えている」

 のろい。確かにあの時の私の言葉は、ちゃんと彼には効いていたらしい。随分と早い成就だ。彼は、今を生きている生身の人間だろう。いくつもの人格をより合わせた一人ではなく、一人の人格持つ人として。死ぬまで叶わないものと考えていたというのに。

「なら、今度は生き急ぐような計画もなくゆっくり飲めるのかい」

「ああ。それに明日は、仕事も休みだ」

 それならば、ここは多分、大吟醸を飲むのが正解なのだろう。甘くて、彼にとってはそれなりにきつい酒だ。きっと、古い時代に飲むだけだったから、蒸留で度数の高いものはあまり飲めないと考えたほうがいい。それに、少しで事足りるのだから、語り合うにはその程度がちょうどいい。彼はきっと、長い時間をかけてここにたどり着いたのだろうから積もる話もあるだろう。ただ何も考えず酒をかっ食らうのでは味気がない。

 

 

 酒とともに呑み干して消えてしまう夢か幻だとしても構うものか。二度と彼が現れなくとも構わぬように、もう一度だけ楽しい思い出を作ってしまえれば、それでいい。それだけあれば、きっと私はまた歩けるだろう。

 もし、そうじゃなくて。明日も彼がいるのなら、明日は一緒にピクニックに行く。それから、あの時食べたかったホットサンドをたらふく食べようと思う。復活祝いにしては随分質素な、薄っぺらなホットサンドを。




二回忌はその人が死んで一年後。一回忌は死んだとき。


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家族になろう

リクエストを頂いたカルナと奥さんの話。
型月カルナが奥さんをもらっているのかなぁと疑問なので、ドゥリーヨダナの血縁という設定です。

 そもそもこの時代の女性の生き方とか道徳がいまいちわからないので家父長制的な考えの子にしたんですけどこれでいいのだろうか……


 旦那様と会ったのは、結婚式の場が初めてでした。花嫁らしく着飾っても不安だった気持ちは、一気に吹き飛びました。あまりに人離れした美貌と、その耳に揺れる非常に重たそうな飾りが特徴的だと思いました。そして、私は妻として十分な要件であったかと疑問でした。

 妻となった今は、なぜ私などと結婚したかわからずとても困惑しています。一体、この方は何を考えているのでしょうか。私は器量もそんなに良くはないし、手先だって不器用で、お世辞にも嫁に向いているとは思えないのに。

 

「あの、」

「なんだ」

「なぜ、私を妻にしたのですか」

「そんなことか」

「お前は確かに十人並の容姿で、家の仕事には向いていない。しかし、その不器用さが気に入った」

 これは、褒められているんでしょうか。貶されているような気もしますが。

 でも、旦那様は表情を変えていません。ということは、変える必要もない、当然のことだということ。そのまま捉えればいいのでしょう。気に入ったという言葉を、私は素直に信じればいいのでしょう。それでも、満足してもらうべく精進せねばなりません。不器用でも、妻として家事は素早く済ませられるべきですから。

 

「ラカ、お前は十分に、その、頑張っていると考えていい」

「ありがとうございます、旦那様」

「ああ」

 私が黙っていたので慌ててしまったのでしょうか、付け足すように言ったその言葉はとても嬉しいものでした。

 私は、とても良い方とご縁を結ばれたようです。こんなに良いことがあると本当に、このあと何か同じ以上に不幸があるかもしれないと怖くなってしまうくらい、幸せだわ。

 

 

「旦那様、クルフィがありますが、持って来させましょうか」

「ああ、頼む」

「はい!」

 日々の練習のおかげで、縫い物も多少の料理も上手く行くようになりました。今日のクルフィは、実は自分で作ってみたものです。毎日お勤めに励む旦那様の手助けになると嬉しいのですが、大丈夫でしょうか。

「どうでしょう?」

「旨い。少し木の実を砕きすぎているが、これはこれで良いだろう」

 ああ、よかった。少しはお役に立てたかもしれません。本当は食事もしっかりと作ることができればいいのに。でも、縫い物の上達のほうが先です。コツコツと、できることを増やしていかなくては。

「ラカ、お前は働き過ぎている。野のねずみでさえ、お前ほどは忙しくない」

「は、はい……」

「お前が倒れてしまっては、オレも困る」

 いけないです。旦那様に迷惑をかけてしまっては、本末転倒でした。これからは少しだけ時間を減らして置かなくてはいけないかもしれません。ただ、旦那様がお勤めに行っている間は練習を続けるべきでしょう。

 

 

 

「ドゥリーヨダナ、俺はいい嫁を貰った」

 婚姻が済んだ後日の酒の席で、しみじみと呟くカルナに、ドゥリーヨダナはホッと息をついた。

「そうか、なら紹介した甲斐があったというものだな!」

「ああ、感謝している」

 相変わらず表情は無いように見えるものの、少しばかり口角が上がっている友の姿を見て心からの言葉であると知ったドゥリーヨダナは、やっと安心できた。

 この友人はどうにも言葉が足りない。なんとか間違われにくいように言葉を選んでいるようだが、これが別の女だったならば怒り心頭で出ていくかもしれない。自己評価が低めな愛嬌のある女性を選んで正解だった、とドゥリーヨダナは思う。実は彼女は少し離れているものの親族であるのだ。彼女にも、友にも幸せにはなってもらいたいものである。

「ラカを、妻を安心させるためにも次の計画は必ず成功させなければな」

「無論、そのつもりだ。お前も気張れよ、カルナ」

 これから、パーンダヴァを追い詰めるためにもっと仕事をしなくてはいけない。だからこそ、危険を伴う仕事にカルナを就かせるが、新婚の二人に悪いと思う気持ちがないわけではない。早く全部成功させ、安心して暮らせるようにしていかねばならないのだ。

 そうして交わされた盃は、飲み下すと同時に地面に叩きつけられ、砕けた。果たして結果は、吉と出るか凶と出るか。

 

 

 そして運命は回りだす。




幸せなところだけ書きたい。
そしてインド組難しい……書くの楽しいけどめちゃめちゃ難産になる……


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もしセラヤがシバの女王の所にいたら

可能性の話。本来居ないはずの彼女が来る。
if話なので好き勝手書いてます。ここのところバイトと年末のあれこれで忙しくてなかなか書きたいものを書けない……


 ジャラジャラと首元で擦れて鳴る鎖が鬱陶しくて、惰眠の誘いのままに瞼を閉じる。どうせ、買われるまではここから出られやしないのだから。

 

 図書館でうっかり寝たと思ったら、なんだかわけのわからないところにいて、人攫いに捕まって、その結果がこれだ。別にもうなんでもいい。ここにいるのも何かの運命だ。うだうだ考えても駄目だから、もう口答えも何もしない。口も閉ざしている。それなりの主人にさえ売られれば、あとは奴隷らしく生きて死ぬ。

 そもそも、疫病で死なないだけで丸儲けな時代のようだし。風土病なんて掛かれば一発で死ぬし、今生きてるのだって奇跡だ。予防注射だってしてないんだから。

 

「……あら、この奴隷は?」

「そちらは、どうも異教徒のようでして。口もきかず、飯も食わずでほとほと手を焼いているのです」

 

 仕方ないでしょ、私ラム苦手だから食べるのきついんだよ。どうせなら穀類少しか野菜でお願いしたいんだけど、気温と湿度からしてここ野菜は高価だと思うし無理だよなって思ったから食べてないんだよ。まだ絶食4日目だし、水だけでも十分なんだけど。

 こっちを眺めながら言って、別室で交渉するために二人は出ていった。誰か買われるのか、それとも保留か。

 

「いいでしょう、あの者を買います」

「し、しかしですな……」

「お代はこの程度でいかが?」

「……貴女様がそれでよろしいとおっしゃるのでしたら」

 

 店主が話している声が聞こえる。商売相手の女性は、ここのところ振るわないらしいこの店としては相当の太客みたいだ。身なりも良かったし、何人か買って、随分お金を落としていくんだろうな。

 どこか嬉々とした男の声からして、随分良い値で誰かが買われたんだろう。全体的にボロ雑巾でも相当儲けになるってことなんだろうけど、なんかやだなぁ。

「おい、出てこいガキ!」

 奴隷の雑魚寝部屋でうつらうつらしているところで、鎖を引っ張られ一気に覚醒する。買われるとは思わなかったね。びっくりだ。

 

 私なんか買ってなんの得になるんだろうか。安く仕入れたわけでもないし、私も従うかわからないのに、また随分剛毅な女性だ。

 ……と思ってたらほっぺた引っ掴まれてムニムニされる。地味に痛い。

「あらぁ。絶食していた割には、肌のハリが抜群ですねぇ」

「はぁ……」

 そう言われても。ここ来てからほとんど洗顔も何もできてないから肌ボロンボロンなのになんて返せというんだ。

 しかし、微妙な顔をしているのに嫌な顔一つせず、それどころか彼女は艶然と微笑んだ。

「じゃあ、行きましょうか」

 

 

 連れて行かれた先は宮殿だった。とんでもない大旦那様に使えることになってしまったみたいで、本当に頭がおかしくなりそうだ。下働きでも、ここまでの規模の所ではそれなりの身分のものしか使わないだろうに。

 私の困惑とは裏腹に、彼女は楽しげだ。まさか、この方は重鎮だったりするのだろうか。とてもいい生地の服を纏っているのはわかるし、この香りは乳香の筈だ。教会のミサで嗅いだことがある。

「なぜ、私を……?」

 どえらいことになった、と思ったのがうっかり口から零れ出て、彼女は目を丸くした。小首を傾げるのに合わせ、シャラ、と金の鎖が音を立てる。

 商売人なら、もっと価値の有りそうな、没落した商家とか他国の良家の子女だったのとかそういう奴隷を買うんじゃないんだろうか。

「あなた、知識を持っているでしょう?だから買ったんですよぉ」

「知識?」

 大したものは持ってない。あるとすれば家庭の医学とか、運転の注意事項とか、洗濯の豆知識とか、そのくらい。

「前に来たとき、鳥目になった男の話を聞いて何か言いたげでしたよねぇ?何か知っているんでしょう?」

「緑黄色野菜をたくさん摂れば、後天性なら回復するでしょう」

「やっぱりぃ!」

 満足な様子の彼女に、それでいいのかと考える。この程度なら、いくらかは知識はある。夏休みの家庭科の課題で調べた程度で良ければ、すぐ言えるから大丈夫。

「そういう使える奴隷がいればより良いと思ったの。そういうことで、貴女は当たりですぅ」

「そうですか」

「でも、気が変わったわぁ。貴女、私の侍女に成りなさい」

 連れられて行った先には、私よりも身分が上の平民の他の召使の人たち。手を引かれて、衣装を渡される。

 ひらひらとしたそれは暑く乾燥した地方に良くある長衣だ。彼女たちが着ているものと同じ意匠。

 引こうとした手が止まっているのだから、返事をしなければいけないんだろう。私が言える返答は、ひとつだけ。

「……私は奴隷です。貴方が望むなら」

 満足げに笑う彼女と、その召使の女性たちに、多分これで正解だなと分かる。これからは少し忙しく、それから文化的な生活になるだろう。私は、少しでも彼女に恩返しするべきだ。早く、仕事に慣れるよう専念しよう。

 

 このあと、彼女が女王様だと知って驚いた。まさか、国の長があんなところで奴隷取引をすると思わないじゃないですか〜……

 

「そう言えば、名前を聞いていなかったわ」

 仕事着で侍ったとき、思い出したように陛下が言った。

 そういえば、名前なんて決めてなかった。ここで生きるなら、ここでだけ使う名前があればいい。

 シバ王国の女王の逸話は3つの謎。なら、それに因んだ物語とかから名前を出すといいかもしれない。そうだな、そんな名前は知ってる。

「私はリュー。リューとお呼びください」

 トゥーランドットの侍女の名前。ちょっとポジション違うけど、これにしよう。少し先行き不安になる命名だけど、これはこれでいいと思う。

「そう、なら、これからもしっかりと仕えなさい、リュー」

 陛下も、特に気にすることもなく私が名を答えたことに応えた。これで、私のこれからの名前はリューになる。帰るまで、もしかしたら死ぬまで、私はずっとこの名前だ。すぐに慣れなくては。

「はい、陛下」

 

 

 

 

 

「ということがあったんですよね」

 ズッ、と茶をすするリューに、セラヤは遠い目をした。

 可能性の抽出、ということで呼び出される可能性は考えていたものの、まさか別時空の自分がやってくるなどとは思ってもいなかったのである。目の前で茶を飲むのは全く同じ顔の同じ人格、しかし歩んだ道が違うために別人としか言いようのない自分だ。

「別世界線の私ってそんな感じだったんだ……」

 追加の砂糖たっぷり香辛料マシマシの茶を置くと、リューは目を輝かせる。セラヤとしてはリューは妹分のような気がしてきていたので満更でもない。リューもそれを良しとしている。というか姉と認識して、マスター以上にセラヤに懐いている。

「そうそう。で、あのあとイスラエルに行く前に陛下の代わりに殺されたんだ」

「もしかして、"それは愛の力"?」

 トゥーランドットの劇中台詞、拷問されたリューが言った言葉。劇では恋い慕う相手は父王ではなく王子だったが、きっと、なにより女王を大事にしていたのだろう。

「正解。私、陛下のためならなんだってできたからね」

 にっこり笑って、おかわり!と元気に言い放った彼女に、セラヤは苦笑いで茶を継ぎ足してやった。この"私"も、たぶん物凄く人生を楽しんだんだろうと思いながら。

 

 

「シバ、」

 物陰から二人をひっそりと眺めていたロマニは傍らに居たシバの女王に呼びかける。しばらくぶりに見るセラヤの笑顔が眩しいが、あれはどういう事だと。

「別の私のとはいえ、貴方の家臣とは忠誠心の差が大きいですわねぇ」

「僕と出会わなかったら、あんなふうになってたのかぁ」

 リューはシバの女王のことを心から慕っているが、それはこじれた恋心ではなく、純粋な忠誠心。ああなっていた可能性を見つけてしまうと、なぜ自分のときもそうならなかったのかと口惜しい気持ちにもなる。

「でも、あなたと出会ったセラヤは、それはそれで楽しそうでしたわぁ」

「そ、うだといいけど……」

 女王の言葉に少しばかり生前を振り返って彼女のことを思い出す。それなりに、慕ってくれていたのだろうか。よく働いてはいたが、ロマニ・アーキマンにはその辺りがいまいちわからない。それでも、女王がそう言うなら、そうであったのだと信じたい、と彼は微笑んだ。

 

 そして、

「さっきの二人の写真、如何です?」

「買う」

 耳をピコピコ動かして目を輝かせた女王から写真を買うべく、元王は値切り交渉に臨んだのだった。




今年はもうかけないかもしれないので、皆様良いお年を!


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固有結界・説教部屋

正真正銘の書き納めかもしれない。
おかんシリーズです。おかん結構好きなキャラなので地味に気に入ってる。たぶん、おかんの起源は養育。


その時カルデアに激震が走った。

 

「つまり、ロマンは実質子供……?」

「おかん、おかん顔怖い!」

 

 単身カルデアに乗り込んできたゲーティアと、少しでも時間を稼ごうとゲーティアに対峙したロマンからもたらされた情報に、母は怒っていた。偶々その場に居合わせ臨戦態勢に入っていた頼光でさえ、怒れる母親のオーラに縮こまっている。怒りの対象に当てはまる原因二人こと、ロマンとゲーティアはカタカタと小さく震える始末。

 まさに固有結界・母の説教部屋が展開される真っ只中。

 

「ママ落ち着いて!」

「落ち着けるわけ無いでしょ!!一人の子供に世界背負わせてたと思ったら作戦の要の二人共が子供よ!!」

 ムニエルに羽交い締めにされても怒れる母ちゃんは屈しなかった。むしろ火に油である。

 だが、これはさすがの職員たちも止められない。それもそのはず、彼がひとりで背負い込もうとする癖に乗っかろうとした面々も居るうえ、彼の言葉に甘えて早めに仕事を切り上げるものも多かった。その仕事を処理していたのもやっぱりロマンなのである。自分たちが頼りっぱなしだったことに強い罪悪感を持って黙るしかなかったのである。

 

 畢竟(ひっきょう)、母ちゃんは暴れ、誰も止められない。なんとか動けるのは立香と、怒る母を抑えようとするムニエルくらいである。

「待ってくれ母御!」

「ゲーティア、人の心持った年数的に貴方の方がお兄ちゃんよ!何か思い当たる節は無かったの!」

「そ、それは……」

 さしものゲーティアも、固有結界のような異様な力の働く空間では母が吼えるのにたじろぐ。その力も母の威力である。一応人の子(の体)のゲーティアは逆らえなかったらしい。

 

 恨んでいた。憎んでいた。悲しいと思った。しかしそれは赤子同然に善悪、人の心のわからぬ王に対して尋ねるには酷なものだったのだ。"いや、まあ、別に?"と言うのは、心の分からない、そもそも持ち合わせることができなかった王には難しすぎる。幼子にもわかるだろう、という話でも、情緒発達のハの字もなかった人間には無理な話なのだ。

 

「何も感じやしないって時点で情緒の発達が……あーあの時代は研究進んでないわね」

 荒れに荒れ、そこまで言ってやっと苺の勢いは止まった。

 こめかみを押さえて深い深いため息を着いて、縮こまる二人を見る。ビクリと肩を震わせたのは見ないふりをして、次の行動を促すため、口を開いた。

「もういいわ、皆、おやつ休憩にするよ。ゲーティア、貴方もね」

「え、」

 怒られ疲れたらお腹空いたでしょう、と苺は二人の頭を少し乱暴に掻き回す。少し引っかかるけれど、痛くない程度の強さで。

 

 頭を撫でられるのは、一体いつぶりになるのかとロマンは考える。あまり思い出せないが、最後に撫でられた記憶は随分昔だったとはわかる。ゲーティアは、自分が生み出した魔術式であるからきっと初めてであるはずだと気がついて横を見ると、少し擽ったそうに、甘んじて受け入れていた。母の力というものがどれほど強いのか、身を以て体験した瞬間である。自分にもそんなに懐いてなかったのに!

 

「名前ちょっと噛みそうね。ティアくん、人間の負の感情は知ってるけど、甘いもの食べた幸せとか知らないでしょ。今日はレモンタルトね。どうせ人類滅亡させるなら、全部体験してみてからにしなさい」

 甘酸っぱくていいわよ、お菓子。

 

 そう笑って、手を引く母をゲーティアは呆れながらも振りほどけなかった。多分、その言葉も一理あると思ったのだ。母親とは人生の先達でもある。

 人類は滅ぼす、しかしそれを少し待つくらいは、してやってもいいかもしれない。まだ、特異点は幾らも残っており、計画はこの程度では揺らがないのだから。

 

 それに、少しだけ。ほんの少しだけ、彼女の言う幸せは気になるのだ。母親の用意する菓子の幸せというものを、人ならざる自分も知ることができるかもしれない。そう思うと、少しだけ待つのもやぶさかではないと思ってしまったのだ。

 

 

 そして、その日からカルデアでは不思議なおやつタイムが始まった。




皆様良いお年を!(二度目)


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セラヤとゲーティアの楽しい休日

あけましておめでとうございます!
リクエストから、ゲーティアとセラヤのif小話です。
新年もよろしくお願いします。


 

 やはり後一日くらい、一日くらいは生きてみようか。

 

 傍らに置いた毒酒の壺が、何故か今になって怖いものに思えて、セラヤはまさに飲もうとしていた盃をそっと下ろした。ギラギラと月光で光るそれは、恐らく彼女への狂気を写して照り返しているのだと、ぼんやり考える。なら、これは今使ってはいけない。狂気に飲まれた行動は、良いものではない。

 

「今日飲まないなら、破棄しないと」

 窓の外、草のないそこへ、すべて捨てて、こびりついていた毒草は木の枝で引っ掛けてランプへと落とした。容れていた素焼きの瓶は、そのまま床へ叩き落とす。

「すみません、飲もうとして瓶を落としました。布切れと瓶の破片は捨てておいてくれませんか」

「構いませんよ。いや、私が拾えばよかったのですが、気が利かず……」

「いえ、私の注意不足のせいですから。お願いします」

 監視に新しくやってきたらしい青年に、部屋においておいたズタ袋へ片付けた破片を渡す。濡れた布切れは、漬けるのに使っていない酒の残りを含ませたものだ。床は、まあ後で拭いてしまえばいい。危ないかもしれないから念入りにやっておくことにする。

 ああ、もう一回帰るのか。それなら、気づかれることもあるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。暗殺容疑が掛けられたら、それはそれでいいか。ドロップアウトの方法が違うだけだ。

 

 

 帰ってから、シバの女王が何者かについて探そうと試みた。研究はされてるけど諸説ある。でも、私が知る彼女は、たぶんエチオピアの女王ではないはずだ。だって、彼女の力はジンの噂によく似ている。昔話のそれにも。だったら、コーランに出てくるものが彼女の実態に近いかもしれない。ジンの娘であり、帰依を表明する南方の女王。

 彼女について調べて、思い煩うことを絶とうとして、諦めた。これはもう、時間がどうにかしてくれることだ。無心で陛下に仕えてどうにかするしかない。あと百日経てば、この気持ちもきっと、きっと薄れるくらいはしてくれるだろう。なら、私は思い出にして、一生抱えていけばいい。恋心というのは衝動で、それが穏やかになれば、くすぶる火種として残るだけだ。そうなれば、私は余計な事を思うのをやめて我が王に仕えられる。

 ああ、そうだ。ゲーティアにも聴かせられる面白い話は無いだろうか。我が王に呼ばれたときにゲーティアも聞いているかもしれない。子供向けの何かも、少しばかり取り揃えてみることにしよう。

 

 

 

 

 

 

「セラヤ、朝だ」

「……うん?」

 いつも通りに目が覚めるかと思ったら、誰かに呼ばれて意識が覚醒した。

 声のした方を見てみると、寝台の横から、私より少し背丈の小さな少年が顔を覗かせている。金髪に褐色の肌、赤い目。刺青は、我が王のそれによく似ている。

「もしかして、ゲーティア?」

「ああ。我が王は、一日くらい好きにするといいと」

 その言葉で状況が見えてきた。たぶん、私がゲーティアに語った言葉から人間と触れ合わせる必要があると思ったんだろう。で、ゲーティアを使用人達や家臣に触れ合わせようと。

 しかし、果たしてそれでゲーティアは納得するか。否だ。彼は今ひとつ交流方法がわかっていない。だからここに来たんだろう。

「そうだね、今日は休日にしてもらう予定だったんだ。ゲーティア、市場に行ってみるかい」

「行く」

 即答した子供の頭をグリグリ撫でる。本当に普通の人の子供みたいで可愛い。監視に言えば、まあ一人増えるくらいは許容してくれるだろう。だって王自身が好きにしていいとゲーティアに言ったのだから。

 

「これは……」

「活気があるだろう?これが、実際の人の営み」

「皆、楽しそうだな」

「そりゃ、ここでは苦しいことより楽しいことのほうが多いからね」

 バザールで幾らか墨や筆、パピルスなどを買い入れ、それから特に宛もなくゲーティアの手を引いて散策する。

 ここは商売の場だからね。スラムとはまた趣は違う。どんなところにも色々な感情があって、ここでは悲しみはあまり無いだけ。だって揚げ足取られちゃうからね。

 

 色々買ったり、冷やかしたりしている中、行く先々でゲーティアは大人気だった。色々教えてもらいながら、おまけしてもらったり頭を撫でられたり。くすぐったそうに、でも嫌じゃなさそうにはにかんでいて、これで良かったみたいだ。

 と、眺めているとゲーティアの視線が甘い匂いがしている方へ引き寄せられているのに気付いた。

「セラヤ、あれは?」

「練りごまのクッキーだね。ゲーティア、そろそろお腹が空く頃だろう。お茶にしようか」

「いいのか」

「いいのだ。遠慮しないで、食べたいと思ったときわがままを言っていいんだよ。私は、それを望んでいるんだから」

 市場へ連れ出したのも含めてね、と頭を撫でると、にっと笑って私の手を引いた。うん、いい変化だ。

 

 

「我が王には、買わなくてよかったのか」

「いいんだよ。陛下のための菓子は用意されているし、材料もそのために揃えてあるからね。望まれない限りは、構わないだろう」

 おやつを食べてから宮殿へ帰って、寝床に二人して寝転がる。少し高めの子供の体温で、私までウトウトしそうだ。

「昼寝するのも、悪くないよ。そうだね、物語を聞かせてあげよう」

 目をこすっているゲーティアの背をトントンと軽く叩いて、掛け布団を掛けてやる。子供向けの物語も調べててよかった。眠い目をこすって聞こうとしてるのは、とても可愛らしくて、努力が報われた感じがする。

 空飛ぶ豚の話を途中までしたところで聞こえた寝息に、私も少しばかり眠ろうと布団の半分を拝借する。起きたらきっとゲーティアの自由な一日は終わっているだろう。でも、何だか自分に子供ができたみたいで面白かったから、またこんな日が過ごせたらいいのに。

 

 

「そういえば、セラヤ、あの豚は結局どうなったんだ」

「友達のお陰で地面に戻ってきて、めでたしめでたし、だよ」

 カルデアのシュミレーターで日向ぼっこをしてきたらしいゲーティアに訊かれ、随分前に語った話の続きを簡単に話す。もう図体は大きくなって、情緒もしっかり発達してるから、私が死んだあとにも自由時間を貰いながらしっかりいろいろなことを見聞きして考えたんだろうなと判る。

 あの後2、3日して私は死んだ。酒に毒を盛られていたらしく、酒宴の席でころっと死の眠りに落ちたのである。ゲーティアとまた外に遊びに行けなかったのは残念だし、我が王の悲壮な顔は堪えたけど、謀られたことはどうしようもない。

 

「それ、いつの話?」

「ドクター、いつの間に」

 にゅっ、と顔を覗かせたロマンにびっくりして仰け反ったけれど、彼は気にしていない様に先を促した。いきなり出てくると心臓に悪いですよ、ロマン。

「いいから。いつ?」

「報酬に魔導書を借りたあと、目が覚めた日です。身の回りのものが足りなくなったから市場へ行く、と休暇をもらったでしょう?」

「……あの時かぁ」

 どことなくジトっとした目でゲーティアを見ている彼と、見られてビクッとしているゲーティアに、つい笑ってしまう。あのときは子供だったし、そんなに気にするほどでもないだろうに。

「まあ、またおやつにしたかったから、今はとてもいい環境ですね」

 我が王も、ゲーティアも居る。それに、さっき練りごまのクッキーも焼きあがった。あとは甘い紅茶を淹れれば完璧だと思う。

「さあ、あのときの続きにしましょうか、二人とも。お茶の時間くらい親子らしくしてくださいね」

 彼が生み出したなら子も同然。せっかく親子で、あの頃のことを知る臣下もいるんだから、少しは交流して仲を深めていってほしい。それこそ、本当に人の親子みたいに。だって、今ならそれができるのだから。

 

 

「ゲーティア、後できちんと話してもらうよ」

「は、はい……」

 お茶の前の親子の会話は、どうやらセラヤには聞こえなかったようだった。



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欠陥品姉と新しい家族

何故か天文関連にポンコツなオルガマリーの姉の話。

 ここ最近テスト関連で切羽詰まっていたので全く書き物ができませんでしたが、多分来週からはかけるようになるはず!
次は前までに書いたものの続編を書く予定です。


 

 ロアナヴェーラ・アニムスフィアは妹煩悩である。隔世遺伝の暗い赤の短髪に、父親譲りの緑色の目をしている。頬は、少しばかり血色が悪い。白い肌が蝋でできているように見えるときもある。

 ロアナヴェーラ・アニムスフィアは努力の秀才である。頑張らなければ難しいが、そうすればできなくもないことは多い。錬金術と植物魔術、それに関する魔術には適性があり、本人も望んで多くを習得した。

 ロアナヴェーラ・アニムスフィアは欠陥品である。アニムスフィアでありながら天文絡みの魔術への適性が軒並みなかった。その能力から、当主候補になるのすら絶望的。

 ロアナヴェーラ・アニムスフィアは普通の女性である。魔術師であることがおかしく思えるほど、一般人と変わらないパーソナリティの個人だった。

 

 

 

「父様は何考えてんだ」

 その時ロアナヴェーラは生クリームをホイップしていた。

 パンケーキの用意をして、久々に帰ってくる父親を出迎え、ついでに新しい家族の歓迎をするためである。帰還する父親から、新しい家族が増えると直前の電話で知り、ケーキを焼く暇も見つからずに焦った彼女は、とりあえず山のようなストックの薄力粉でパンケーキ生地を焼いてトッピングの用意に取り掛かっていた。

 生クリームの甘さは控えめに、チョコレート味と普通の味を用意して。腕が悲鳴を上げているのは無視し、ホールケーキに見えるように周りにも塗れるほどホイップした。フルーツの用意は足りない気がしたが、足りない分はシンプルにベリージャムかマーマレードを挟んでごまかす事にした。

 

「ロアナ姉様、今日は随分豪華なのね?」

 トントントン、と開いていたキッチンの入り口のドアを軽く叩いて鳴らして、オルガが来た。

 今日は淡いオレンジのドレスを着た妹。とても可愛らしいから新しいアクセサリーを贈りたいんだけど、流石に貢ぎ過ぎて怒られるのも何度めかわからないからやめよう。代わりにお姉ちゃんはおやつ作り頑張っちゃうぞー。

「父様が家族が増えるって。当の本人も知らなかったらしくて慌ててたけど、声は男の人だったよ。養子でもとったんじゃないかな」

 聞いた話を、電話の向こうで行われたやり取りも含めて説明すると微妙な顔をした。

「そう、……新しい家族が嫌な人じゃないといいわね」

 それでも、どことなく楽しそうに見えてホッとする。オルガは真面目さんで、心配性で、抱え込んでしまう性質だから、この様子ならストレスにならなさそうで安心した。

「気に入らない相手だったらしばらく泊まりに来てもいいから」

 時々遊びに来てくれてもいいよ、と言外に伝えると、緩やかな微笑みになる。かわいいなぁ私の妹。最高に天使。

「大丈夫、目一杯牽制してやりやすくするから」

 訂正、余裕があれば結構攻勢に出るタイプだ。余裕そうでお姉ちゃんは安心した。

 

 あ、そうだ。あとトッピングもう少し増やそう。多分、これから来る彼は気にいるだろう。

 

 

 

「マリスビリー、僕は食客になるって話だったろう?」

 電話を切ったマリスビリーに詰め寄ると、彼は苦笑しながら口を開いた。話が違うというのも、何か理由があるらしい。

「ああ、だが娘は"それを家族って言うの"と怒りそうだったからな」

 どうせ押し切られて息子同然に暮らすことになる、と笑うマリスビリー。頭を抱えるが、言ってしまったものはもうどうしようもないし、彼の娘というのは随分普通の、平民的な感覚を持った人のようであるから仕方がないのかもしれない。しかし、厄介そうではあると思った。

「そうそう、君も喜びそうなサプライズがあるみたいだよ」

「えっ、何?」

「それは、ついてからのお楽しみだろう?」

 行こうか、君にとってもそうなる我が家へ。

 

 

 

 

 

 挨拶もそこそこに、食卓へパンケーキを持っていくと控えめな驚嘆の声が上がった。父様は楽しそうにロマンを見ている。これはもう既に息子同然だな。呼び方は兄様でいいんだろうか。

「わぁ……」

「これは生クリームと苺とブルーベリーとラズベリーソース、これはチョコレートクリームにマーマレードとナッツのパンケーキ」

「あ……その緑色のクリームは?」

「これは抹茶と小豆に、トッピングは甘納豆ね。和菓子風にしてみたんだけど、抹茶風味はお好き?」

「すごく好きだよ!嬉しいなぁ!」

 ああ、じゃあ彼は日本で結構和菓子も食べたのかもしれない。冬木ってどんなご当地菓子があるのか気になる。

 これから増えた家族と、大事な妹と。両方共なくさずにいるにはどうしたらいいんだろうか。足掻いてどうにかなるなら、今世くらい投げ捨ててやろうじゃないの。

 

 

 

 

 

 ロアナヴェーラ・アニムスフィアには秘密がある。彼女が、本当はこの世界にいなかった異端であることだ。

 彼女の行動原理は至ってシンプルで、何より大事な妹と義兄を生き延びさせることである。

 



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せんせい、ごめんなさい

幼いケイローン先生のせんせいの話。

 いやまさかここまで更新が滞るとは思ってもいませんでした……。2月はインフルで一ヵ月潰れ、3月はどうしても書けないスランプに潰れて4月は新学期の慌ただしさ……
 ええ、これからは書きますとも。いま性癖を吐き出さずになんとする。


「いつか、遠くに行きたいんだ。私の故郷に。君も知らないようなところだよ」

 

 先生は、いつもどこか遠くを見ている方でした。綺麗な衣を作っても、それを通して何かを透いて見るような、そんな目をしていました。

 黒い目には、一体何が写っていたのか。

 

 

 生まれ落ちたあと、身寄りのなかった私は野山を駆け巡るようになり、そこで彼女と、先生と出会いました。獣と間違われ、私は撃たれてしまったのです。

 私はその時、先生が女性だとは知りませんでした。そのせいで、自分の知る範囲でひどく罵りました。女のような男、髭も生えない未熟者、と。普通、男なら怒り狂うような言葉を吐いたのです。でも、先生は違いました。なんとも言い難い表情になり、しかし可笑しそうな声で、私に語りかけました。

「そりゃあ、私もそう思うな! 理性ある者よ、誤って射てしまったことを謝罪させてほしい。そして、貴方の手当をさせてはくれまいか」

 その時の驚きは、今でも覚えています。なにしろ、乱暴者として知られていであろうケンタウロス族に、そのようにそのように接する人がいるとは思ってもいませんでしたから。

 先生は、私の姿を見ずにそう言ったようで、茂みを掻き分けこちらにやってくると、目を丸くしました。それから、少し涙をにじませました。

「ああ、本当にすまないことをした。野を駆ける者の足を傷つけるとは」

 それから、先生は私を連れて住まいの小屋へ行き、軟膏を塗り、布を当てて処置してくれました。それから詫びに、と掛けてあった中で一番いい弓をくれました。矢も、鷲羽根の良いものをいくつか、矢筒に入れてくれました。怪我が治るまでは、雨風が凌げるよう、小屋に居させてくれました。

 

 先生は、ひとりぼっちでした。必要に応じて機織りをし、狩りをし、祭壇に生贄を捧げました。酒を造り、竪琴を弾き、詩を唄いました。私が生肉を食べるのだというと、焼いた肉を出すことをやめる代わりに沢山の新鮮な獲物をくれました。ウサギが好きだというと出来る限り仕留めて食べさせてくれました。つかの間、私を家族のように愛してくれました。それこそ、実の子のように。

 そのとき、故郷に行きたいと言う話も聴きました。玉ねぎの皮の如き光沢の布で鮮やかな服を作ったり、とても薄く切れ味のいい剣を作る国。今はもう一部しかそんなことはしないだろうが、そういうところで、とても懐かしい。恋しいのだ、と。

 

 それから、私の怪我が治ると、一人の人として尊重してくれました。種族の違いもないように、ただ一人の友人、もしくは弟子として。

 私は嬉しかった。人とのつながりができたことが、ただ純粋に面白く、先生の教えてくれることが面白かった。何かについて新しい視点を持つようにすることは、先生と関わってから知ったこと。子供を育てるための知識や、人の営みについてのこと、文字についてのことなども、いろいろと教わりました。だからこそ、私は彼女を先生と呼び慕ったのです。

 

「先生……先生」

「そんな目をするな、ケイローン。君が悪いわけじゃないだろう」

 一度、私が人の身に変じたとき、先生は、私を抱こうとはしませんでした。人の世の習いとしては、弟子は慰めると聞いたから、そうするべきだと思ったのに。それなのに、先生はそうしようとはしなかった。むしろ、私をたしなめ、諭すように狩りへ連れ出しました。人の身でも獲物を撃つ技能を損なわないかと確認するために。もし人に変じたままなら、私が自分の速度に頼って狩りをしていたのを改めねばならない、と。

 

 先生は、変わり者でした。暑いのに服をきちんと着て、肌を見せることをあまり好みませんでした。他の男たちは裸体を誇示しているのに、先生はそうしませんでした。いつも胸から腹までを布で固め、肉が薄く頼りない腕で、独りで狩りをして暮らしていました。

 幼かったせいで、私は先生の体に気づかなかったのです。あまりに細いことに。年々自分の体が筋肉を付けて太くなるのに、先生の体はいつまでも細いままであることに。

 

 

「せんせいっ、せんせい……!」

「……ご…めん、ね…ケイローン……」

 

 ぐちゃぐちゃに潰れた先生の腹が、女性だということに気づいた最初で最後の原因でした。

 

 先生は神に捧げ物をするのに、アポッローン様やゼウス様を祀っては居ませんでした。

 だからでしょう。怒りに触れた彼女は、雷を落とされ、腹を裂かれてしまった。

 私は、どのような経緯があったのかまでは知りません。ただ、美しい乙女が傍らに泣き崩れて己の不幸を嘆いていたのは覚えています。それがあまりに腹立たしかったことも。

 そのまま冷たくなる体に、私は追いすがることしかできなかった。もう殆ど力の残らない彼女が、最後の力で私に謝るのを聴くのは、とても苦しかった。私の頬に触れた手が、だらりと垂れ下がった瞬間からその後は、もう何も覚えていません。先生は、もう戻らない。そう考えると悲しかった。

 

 それから、先生の小屋にあったものは、私が譲り受けることになりました。

 棚には、女性が着るようなキトーンやヒマティオン、このあたりでは見かけないような鮮やかな髪飾りなども残っていて、先生は先生たらんとしたのだと知りました。あのとき、私が人の身になったとき、あれだけ悲しそうにした理由も。きっと、彼女は無理強いされる悲しみを知っていたのでしょう。そして、私もそうであると思った。だから、あんな顔をした。

 思い返すと苦しくなるほど、一つ一つのことが鮮明に浮かんできて、私はただ一つ、彼女の形見として髪飾りを選ぶと、小屋には二度と近付きませんでした。

 誰かが困ったときに、助けになったかもしれません。盗賊が居ついて、困ったことになったかもしれません。それからのことを、私は知りません。

 

 もし、またどこかで出会うことができたら、きっと二度と死なせるようなことはしないでしょう。二度と、危険に晒さないように目を配るでしょう。でも、もうそんなことは叶わないのです。二度と。




ケイローン先生の幼少期はよくわからんのですが、とりあえず神々から授けられた以外のもので人との接し方とか教わった人とかいるといいのになと思った結果がこれ。

これ、引き合わせるのが怖くなるなぁ……


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先生は楽しかったよ

「せんせい、ごめんなさい」の続き。
師匠の方から見たあれこれ。先生は先生でよかったよ。

ケイローン先生、弊カルデアにも来てくれるといいなぁ……


 うっかりのせいで起きたことの中で、本当に、はじめて心から泣きたいと思ったよ。

 子どもを傷つけるなんて、思ってもいなかったんだ。

 

 

 古代ギリシャの山の奥に落ちたらしき私は、動きにくい服を全部仕立て直して狩りに精を出していた。人間、食えなくなったら死ぬ。

 なぜ古代ギリシャとわかったか?そんなものすぐにわかる。神様とか妖精とか居たら神代だとはすぐ気付く。ニュンペーの水浴び見ちゃったからね! 結局あれこれやりとりした挙げ句に私も混ざった。罪悪感が物凄かった。

 よそ者で怪しいけど、一応は私もこのあたりに住んで良いらしく、月一で納税、もとい生贄を捧げることで危機は去った。あと、わかりにくい話を要約すると、純潔を守っていればアルテミス様的には問題ないらしい。そうすると私は女で、人間じゃないからだそうだ。

 

 古代ギリシャでは、社会に参加できるのは男だけだ。そうじゃない子供や女は、人間とはみなされない。いや、違うな。「女は人間じゃない」んだ、この世界は。人として認められるのは男や男の子だけ。それ以外は付属品で、資産で、モノ扱いだ。

 まあでも感情もあるし、生きてるという認識はされる。だからこそ女神も女性も、普通に生きている。現在をそのように過ごしている。

 

 とんでもないところに落ちてしまったなとは思ったけど、まあ体を隠して生きればいいよな! と開き直れば後の行動は早かった。

 生活の術はなんにもなかったから、とりあえず許可をもらって植物を編み(ニュンペーのお姉さんたちに教えてもらった。みんなものすごく機織りとか編み物とか組み紐が上手だ)、その布を体に何重かに巻いて凹凸を消した。水面で確認したらものすごく貧弱そうな男っぽい見た目になった。

 

「それなりになったわね」

「取り柄は豊かな黒髪くらい」

「良かったわね、豊かな黒髪の男はモテるわよ〜」

 

 純潔のために男装するし、そのへんのことを言うのはやめてほしかったな。

 それから狩りが出来るように武器の作り方を教わった。これは女神様から、直に。

 

「この蔦は切りやすく、この木はしなり易いから弓くらいバババッと作れるわよ!」

「はい!」

 

 女神様は流石に女神であらせられるぶん、わからない人間には説明が難しかった。そもそも、「人間の才能や理想の極致を固めて人型にしたもの」が神様で、永遠の存在なのだから仕方がない。

 やってみせるところまでで終わりだから、どうしても直し方がわからない。そこら辺はどうにかこうにか自分で試行錯誤するしかない。

 武器が作れたら、あとは自力で狩り。これが初心者なものだからうまく行くはずもなく。2、3日は当然食事に肉類は摂れなかった。逆に言うと肉以外の木の実とか果物は採ることができたから、飢えることは無かった。むしろ水とか住処に困って苦しんだ。自然というのは基本的に危なくて不潔なもの。水を沸かすためにめちゃめちゃ苦労した。瓶とか無いから作るしかないのだ。もしくは窪みのある石を洗って焼いて水を注ぐ。冷めた頃には本当に少ししか残らないし、それでずっと渇きに耐えざるを得なかった。あとで浄水器を作ればいいことに気付いたけど、瓶を手に入れるまでの物々交換で疲弊したから、出来るだけ人とかかわらないように生きようと思った。ニュンペーとは語れるのだ。それに、お会いすることはなくとも、この土地にはアルテミス様がいる。だから、生き延びるだけは、なんとしてでもしようと思った。神は人の死気を嫌う。うっかり神域に足を踏み入れて餓死したら死後まで大変になる。

 

 そこから苦節5年、髪は長く長く腰のあたりまで伸び、立派なアマゾネスと化した私はその日も狩りに打ち込んでいたのだ。

 罠にかかったらしい、多分小動物ではないそれの動きに、茂みの向こう側へ矢を放ったら子供の悲鳴が聞こえるではないか。まさか、こんな山奥に子供がいると思いもしないし、アルテミス様の庇護対象の子供に怪我をさせるつもりなんてなかった。

 

 こちらからは葉の影になって見えないけれど、向こうは私の姿が見えていたらしく、近寄ると罵られた。

「何故わたしを撃った!女のような男が!髭も生えない未熟者のくせに!」

 ああ、この様子だと掠ったのか、と元気そうな声に思って、うっかりと軽口を叩いてしまった。

「そりゃあ、私もそう思うな! 理性ある者よ、誤って射てしまったことを謝罪させてほしい。そして、貴方の手当をさせてはくれまいか」

 刺々しかった気配が少し収まる気配がしたので、茂みの向こうの姿が見える位置に行くと、そこにいたのはケンタウロスだった。それも、よく引き締まって美しい若馬だ。

 私の矢は彼の足を傷つけていて、全くかすり傷どころではない。早く怪我の手当をしなければと気づいて慌てた。なんと惜しいことをしてしまったのか。これほど立派なケンタウロスから、野原を駆ける力を奪ってしまったかもしれない。

 強い後悔の念が襲ってきて、思わず涙が出た。本当に、なんてことをしたんだろう。

「ああ、本当にすまないことをした。野を駆ける者の足を傷つけるとは」

 何故かは知らないが、目を丸くしている彼の了承を得て彼を小屋へ連れて行った。子馬だから担ぐのは結構しんどかったけど、いかんせん移動手段がない。そりを作っても乗れるような図体じゃないからこの五年間で鍛えた腕で担いだ。当然ながら、次の日は筋肉痛になった。

 

 一等上手く作れた軟膏を塗ったり布でカバーしたりで怪我の手当はしたものの、それからはきちんと怪我した子供のケンタウロスの分まで毎日狩りをしたから大わらわ。めちゃめちゃ肉を食う。いや、怪我してるから肉を食べる方がいいしそれでいい。だがその分狩りの量とか時間は増えるし、やらなきゃいけないことは増えた。

 

 でも、すごく楽しかった。こちらに来てからは人間とかかわらない生活でもどうにか生きて来たけど、やっぱり話し相手がいないと寂しかった。

 私を男であると信じ切っているケイローンは理想的な話し相手で、上手くできないという範囲のことで、わからないことがあれば噛み砕いて伝えて一緒に練習をした。弓を与え、矢を与え、その作り方も教えた。怪我が治り、動けるようになってアルテミス様から使い方を教わったら、不十分な点について指摘をした。

 気付けば、彼は私の弟子だった。

 

 ケイローンのことを騙しているようなことになっているのは分かっていたし、きっと伝えたらとても怒って、罵って出ていくだろうと思った。だから、なかなか伝えることはできなかった。

 もう、その時点で私にとって我が子や弟も同然だったんだ。酒を仕込むとき、きれいに蹄を洗ってブドウを踏み潰すときの楽しそうな顔も、故郷の話を聞かせて目を輝かせるのも、真剣に狩りをして大物を仕留めたときの誇らしげな顔も、すべて家族の成長のようで愛おしかった。一度突発的な事故で人間の体になったとき抱くように言われて困惑した。自分が望まないのに性的に消費されるのは良くないことなのに、それを常識としてしようとしているのが悲しかった。言葉を尽くして、彼が納得してくれたときには、本来ならこうした教育も必要なのになと歯がゆかった。習俗である以上、孤立した私にはどうにもできないのだ。あまりに行われる範囲が広すぎる。

 

 

 そうしたことをしていたらあっという間に月日は流れて、ケイローンは少年から青少年に変わっていった。子供の成長は、考えているよりもずっと早いんだ、とその時に初めて気付いた。

 ケイローンも、もうそろそろ私の元から巣立つだろう。もとより教え子にするには私よりもずっと出来が良かったのだ。立派な大人として完全に合流するだろう。そう考えると感慨深くて、つい、気が抜けた。これからは人に歩み寄ったほうがいいかもしれない、と。

 

 結論から言うと完全に間違いだった。

 

 こんなダメ人間でも相応に野山を駆け巡っていたら体が引き締まる。そうすると少しは魅力がついたのだろう。乙女に見初められた。

 嘘だと思うだろ? 気まぐれに恋の詩歌を練習していたら勘違いされた。日頃からアルトボイスくらいで歌ってたのが運の尽きだったみたいだ。私の幸運値低くない?

 それで不味いことに、恋の成就が出来なかったものだから何処の誰とも知らない乙女はゼウスから神罰を授けられろとか宣わられた。しかも聞き届けられた。美人だもんね、そりゃ聞き届けられるわ。

 

 そして今、そのせいで虫の息。

 

「せんせい…せんせい!!」

「な、くな……ご、めん…な……ケイローン」

 ああ、ちゃんと声にならない。ところどころヒュウヒュウ掠れる。お腹が熱い。なんだかぽっかりなくなった感じがする。でも、少し安心する。これで、私は女じゃなくなったんだ。良かった。もう、女であることを強いられない。産むこと、産む性を押し付けられない。

 

 ごめんな、といった口で、頭で、こんなことを考えるのを許してほしい。今まで騙してゴメンな、ケイローン。私は、君の先生になれて楽しかったよ。

 

 ああ、金の矢そそぐ君(クリュセラカトス)よ! どうか、私の弟子たるケイローンが良い一生を送ることができますように!




金の矢そそぐ君というのはアルテミス様のことです。
アポッローン神が銀の矢、アルテミス神が金の矢。


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ごめんな、先生を恨んでくれ

先生が願いを叶えに参戦する話。
相変わらず尻切れトンボですが書きたいので仕方がない。そして先生の名前は偽名。

先生が死んだとき、多分みんな少しずつ運が悪かった。

ミスが残ってたので改訂しました


 苦しい、苦しい、苦しい。それに、怖い。

 女であることが苦しい。怖い。人として認められないことが怖い。女であるというだけで平気な顔をして、嬉々として、抑圧しようとする相手が憎い。

 

「サーヴァント、アサシン。名は……アッティコスとでも呼んでください」

 

 召喚されたのだ、私は。力持つものとして。壊せ、壊せ、壊せ。抑圧を! その目の色を! 恐怖を! 絶望を!

「生きたいのなら、生かして差し上げましょう」

 だから手を取ってください、不運な貴女。

 

 

「ごめんなさいね、貴方のことは、大切な思い出にして生きていくわ」

 その言葉を皮切りに、私は男の死体を解体した。内臓を抜いて、血は絞って、残りはできる限り乾燥させる。獣の処理と大差無い。

「アサシン?」

 無心で作業をしていたせいか、マスターが不安そうな声を上げる。安心させないと、この人はまだ死の恐怖から抜けきってないだろう。

「何ですか、マスター」

「ありがとう」

 マスターは、至極穏やかに笑った。少しマシになったのかもしれない。原因の男は、もう居ないから。

「いいえ、貴方が無事で何よりです」

 血の海になった路地裏で、マスターが笑う。

 ただそれだけのやり取りで心を許してしまったような、安心したような表情の彼女に、これからを思って頭を抱えた。大丈夫だろうか、この人は。聖杯大戦に巻き添えたら駄目なタイプだろうに。なんか嫌な予感がする。ちゃんと守らないと。

 

 

 

 次の朝、まだ召喚された状態のままなのを確認して私は焦った。

 

 確か、昨日までは現代に戻れたことにホッとして、ご飯のレシピだの小説だの資料だのを漁ってたはずだ。あとトマトが食べたくてトマト缶を買った記憶もある。なんでこのタイミングなんだ。私のトマト缶……

 いや、そんなことより、この女性だ。私のマスター。美しい緑髪の人。見たところ生きる気力を感じないけど、それでも生きたいと口に出して言った。なら、私は彼女の願いに応える。生きる意味が見出だせないなら、私が見つけよう。どことなく、古代ギリシャに行く前の私に似ているから、善意で。拒否されたら辞めとくけど、彼女は受け身だろうからまあ大丈夫なはず。

 

「マスター、提案があるのですが、聴いてもらえますか」

「何かしら」

「私は聖杯への願いの他に、もう一つささやかな望みがあります」

「それは?」

「私と契約したマスターが、幸せになること。敗北しても死ぬことなく、この先の未来を生きること」

「……そう。なら、叶えに行きましょう。いいえ、叶えて頂戴、私のアサシン」

「ええ、よろしくお願いします」

 やっぱり、私のマスターはしなやかな人だ。方向転換もちゃんと出来る、しなやかな人。

 

 

「駄目ですマスター、私は霊体化しますから!」

「不安なの……だめかしら?」

 これからルーマニアに行くという話になったはいいもののの、彼女は私の分のチケットまで買おうとする。彼女のお金なんだから大切にしないといけないのに。断ると迷子の子供のような顔をするので、結局折れた。

「……わかりました。玲霞がそう言うなら」

 一人でいると危ない人間が来るのだ、霊体化を解いて一緒についていくのは仕方がないだろう。現代服に着替えないとキトーンは目立つんだけどなぁ……そこらへんで安く売ってるものか、それとも追い剥ぎしたユグドミレニアの人間の服でも構わないんだけど。どうせ現地入りするなら現地の服の方が都合はいい。

 なんだが。

「ね、アティ。この服はどうかしら?」

 しっかり選んてくれるのは嬉しい。嬉しいけど、そうじゃない……。

「私の服は良いのですが……」

「どうせなら、一緒に街を歩きたいわ」

 完全に連れまわす気になっていらっしゃる。いや、マスターと歩くのが嫌なわけではなく、私が歩き回っていいのかとかそういう方面で心配だ。あと単純に荷物増やすのは不合理だろう。サーヴァントである以上は必要なものではないから。マスターの分の荷物を揃えたほうがよほど良い。

「なら、あなたの財布からじゃなくて、ユグドミレニアの彼等から失敬しましょう」

 私はサーヴァントだから、マスターの代わりに悪いことを沢山する。人殺しも、窃盗も、人肉食らいも。良心が痛まないでもないが、ここではどうしようもない。

「これ、美味しいわ。ねぇアティ、旅行って、楽しいのね」

「ええ。これからはいくらでも出来ますよ。少しずつ、変えましょうね」

 この非力な、そして魔力以外では天才的なマスターを、私は心の底から大事に思う。

 マスターには幸せになって欲しい。マスターにだけは。私のように、ちょっと運が悪かっただけで酷くなった最期は迎えてほしくない。

 

 

 

 雨が降っている。

 シギショアラは悪くない土地だった。どうせならここでのんびり生きてみたいとも思うほど、ここは落ち着く。本当はギリシャのあの山奥に行きたいところだけど、きっと今はしてはいけないことだ。

「ねぇ、アティ」

「何でしょう、マスター」

「あなたの望みは、何?」

 聖杯にかける望み。きっと、許されないことだけど、冗談めかして語ることくらいは許されるだろうか。

「私は、弟子の心の傷を消し去りたい。永遠に」

 それはつまり、私の存在を消すこと。そのような宝具でもない限り、私は座の登録から逃げられないからきっと難しいことだ。それでも、もしも叶うならば。

「それは、なぜ?」

「彼に、酷いことをしてしまいました」

 とても良い弟子だった。私の弟子であることが不思議なほど。何でもできて、優秀な優しい弟子。あのとき、私と出会ってしまったことで可能性を潰したかもしれない。それが、私にとって耐え難かった。最期のあの時なんか、特に。

「彼とは、出会わなければよかった」

 その方が、ケイローンにとっては幸せだっただろう。自己満足で一人の人格に悪影響を及ぼすくらいなら、出会わないほうが良かったのだ。可愛い弟子は私を忘れ、私は罪悪感ともども消える。誰も傷つかない幸せな願いだ。

 一番最期、ほんの少しだけ私は運が悪かった。あの女の子も少しだけ運が悪くて、神様も信者をないがしろにしなかった。みんな、ちょっとずつ運が悪かっただけ。無くなれば、運が悪かったことすら忘れる。

「あなたは、ひどい人ね」

「知っています」

 人の足跡を消すことは残酷なことだけど、なくなってしまえば、その酷さすら無いことになる。そうであってくれればいいのに。

 雨が、ひどくなってきた。

 

 

 

 やっぱり、私は少し運が悪いらしい。まさかその愛弟子と対峙することになるとは。彼女が無所属である以上孤立は覚悟していたが、これはかなり厳しい。

でも、やらなくてはいけないのだ。弟子と、彼女と、私自身のために。

「マスターは、私が存在を消すことを良しとしてくれた」

 これはただの諦めだ。私は、死に際に弟子にこの光景を見せてしまったことが辛かった。それに、私がいることにひどい違和感があった。まるごと受け入れてくれた彼女の優しさが、どれだけ尊かったか。

「それは、そんなマスターはあなたに相応しくないでしょう、先生!」

 何故わからない。彼女は私を肯定してくれただけだ。悪いのは、私。すべて私のせい。だから許せない。親しくとも、彼女を否定されるのは全身の血が湧くような心地になる。

「マスターを侮辱するなら、たとえ弟子であっても許さんぞ、貴様」

「っ……!先生!」

 私はただ、愛弟子の君の傷で有りたくないだけなのに、何故。どうして、どうしてそんな目で私を見るんだケイローン。私が全て悪いのに、なぜ悲痛な面持ちをする。なぜ、君が救った有象無象を見るのと同じ目をするんだ。

 本気でも、きっと私は彼を殺せない。弟子は往々にして師より優秀なもの。君が勝つだろう。なら、早く決着をつけるべきだ。私の望みは絶たれたも同然なのだから。

 本気で殺しに来い。マスターは悪くないから、私の選択を恨め、私を殺せ。早く、早く!

 

 頼む、ケイローン。お願いだから、彼女を悪者にしないでくれ。あのときの私のように、運が悪かっただけの彼女を否定しないでくれ。




 先生は弱くて脆い人です。できる範囲でしか救えないし、悲観的で、理想の姿を杖にして何とか立って生きている人。属性は混沌・中庸。少しだけ善性に寄ってるかもしれない。


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没案・先生が赤のバーサーカーになる話

タイトルまんま。
弟子がヤンデレになるとか全く想定してない先生の話。ヤンデレ難しいのと、それにこれいいのかと思って没にしたブツ。


 嗚呼、ここではいけない。ここに居ては、私は変質してしまう。早く動き出さなくては、一刻も早く、一人でも多く、一匹でも高く獲物を積まねば。

 

 

「ミスター、もしご存知なら、お聞きしたいのですが」

「おお! なんですかな、高貴なる教育者殿!吾輩の知ることでしたら何でもお答えしましょう!」

 私が廊下を歩いているところを、最高の文筆家が見ていたことに気付いて、これ幸いと話しかける。高貴な教育者と言えば、多くの英雄の師父となったケンタウルスのケイローンだろう。満足に指導もしてやれなかった私などではない。

「あちらのサーヴァントは、どのような攻撃をするのでしょう。当て推量でも、少なからず対策を講じられるかもしれません」

 これはただの口実だ。敵の実情、もしくは正体の一つでも知ることができているなら、少しでも精度を上げることができる。これからの特攻を、狂戦士らしい自害を。

「それはまた!期待はあらゆる苦悩のもと(Expectation is the root of all heartache.)ですぞ!まだ、知るべきその時ではないのでは?」

「異なことを仰る。知ることで優位に立てるなら、それはそれで悪くはありません。苦難は我が友。それがなんの障害になるとお思いか」

 こちらにいるときは、大体大事なときに少しばかり運が悪いんだ。なら、障害ではなく友とするべきだろう。いつもそばにあるのだからいつも頭の片隅においておく必要があるだろう。

「はっはっは、これは失礼しました。

 あちらのサーヴァントは、ヴラド3世らしきランサー、正体不明のキャスターが召喚済みですな。あとは、本日中に出揃うものかと」

 キャスター曰く、今日中。ならば、今から行けばハリネズミにでもなれるだろう。ユグドミレニアにしても最高のサーヴァントの手配はできているはずだ。早めに座に帰るに越したことはない。

 

 いや、違う。座にすら戻らず、消滅してしまう。私は本来英霊などではなく、この世界の人間ですらない。異物は、これきり再召喚には与れまい。

 

「ありがとうございます。少なくとも、ヴラド公については調べることができそうですね」

 少しばかり晴れやかな気持ちになって礼を述べると、彼は驚いたように目を見開いた。

「バーサーカー殿は理性的でいらっしゃる」

「おや、そうでもありませんよ。私は、今この瞬間でさえ腸が煮えてしまいそうですから」

「おお怖、しかし、抑えられているというのであればそれは鋼の理性に異なりませんぞ」

「どうでしょうね」

 私は、私を殺したい。その一点で狂ってしまっている。相手のランサーのおかげできっとすぐ、確実に死ぬことができるとわかったのだから、余計にだ。

 

 きっと私は今微笑んでいるのだろう。狂戦士の特攻など、たかが知れている。それでも、私は過去の私に、今の私を傷つけ戦うことで復讐するしかないのだ。それがここにいる私の存在を支えているのだから。

 

 

 教会の図書室は、埃っぽいが人が少ない。古い本はすべて盗難防止のために鎖に繋がれていて、在りし日の姿をそのままにしている。

 

 適当に抜き出した本に、一つ栞を挟む。彼らはきっと、私の痕跡を見つけるだろう。その時のために、私は知り得る魔術をこれに込めておく。顔も合わせたことのないマスターだが、一応関わった人間が死ぬかもしれないというのは気分に関わる。対策を打っておけば、すぐに満足感で忘れてしまえるだろう。

 

 これで、やることはすべて済んだ。そうして残していく同盟の相手のことを考えて、あの鮮やかな若草の髪がふと過る。

「ライダーは、乱暴なところを除けばとても良い青年でしたね」

 乱暴、いや血の気があまりに多いのは、きっと生来の性質だ。英雄の多くが備えている、戦いへの渇望。それを統制できないのは、流石に未熟というべきなのだろうが、彼は若い。体に引きずられるサーヴァントの、特に戦で非情を見せた頃だというのなら、あれでもまだマシな方なのだろう。

「立派な大人になっていたのですね、キロン」

 やっぱり君は、私にはもったいない教え子だったらしい。

 望みは、召喚された端から捨てた。ここから消えたなら、きっと全部無かったことになるだろうからね。ああ、でも、黒のアーチャーの腕前だけは見てみたかったな。アタランテの技量は試し撃ちを見たから満足したが、まだ見ぬ弓使いの技量を知りたくなってしまう。悪い考えだ。愛弟子のように素早く撃ち抜ける者であれば、さぞそのさまは壮観だろうと、未練たらしく考えるなど。

 

 

 

「ところで、重要な話とは」

 一通りの話を終えたあと、もう一つ、と真摯な面持ちでマスターにそう切り出された。一体、これほどまでに緊張する事案とは、何なのか。

「アーチャー、赤のバーサーカーは、恐らく貴方に関わりのある人です」

 示された資料には、遺跡から盗み出された品の写真資料があった。それは、生前に私が手放さずにいた、見覚えのある髪飾り。

「こ、れは……」

「伝承では、野を駆け、月の女神を厚く信仰した狩人。水浴びをしていた姫君を誘い、天罰に撃たれた、」

「それは違う!」

 何という作り話だ、それは。全身の血が煮えたぎって、死んでしまいそうだ。

「彼女は、先生はそのような人ではない……!」

 思わず声を荒げてしまったことに気づいたのは、テーブルにティーカップを叩くように下ろしてしまってからだった。

 平静を失うとは、なんと情けない。しかし、聞き捨てならないことを知ってしまったからには、訂正しなければ。

「すみませんでした、マスター」

 驚いた表情のまま固まってしまっていたマスターに謝罪すると、表情を解くことはなく、緊張だけが抜けたようだった。何か、彼女からすると不思議な内容があったのか。

「あ、いえ、それについては構いません。私も悪かったのですから。

 でも、アーチャー……その、訊きづらいことなのですが……アッティコスは女性なのですか?」

「え」

 師は、私の勘違いのそのままに、伝説の中に封じ込められてしまっているらしかった。

 

 

 

「ああ……やっぱりどうしても私は運が悪いらしい」

 英霊になったせいで得た並外れた視力は、しっかりと黒のアーチャーの姿を捉えることができていた。そして、そのせいで私は今頭を抱えている。きっと、彼の方も私の姿を見つけているだろう。あの頃のままであれば、撃ちにくく思っているかもしれない。哀れなことをしてしまっている自覚はある。まさか自陣に敵になった知人が攻めてくるとは思うまい。だが、たかが知人。殺すになれば躊躇はしないだろう。彼は優秀だからなぁ。

「酷いです、モイライよ……私はただ、死地に赴くだけの心積もりだのに」

 多分、今、私の命運は尽きてる。願わくば、彼の矢ではなく彼の見知らぬところで死にたい。

 

 

「せんせい、先生、先生……」

 ぐず、と嗚咽をこらえる音がする。失態を犯した上に、パスを切られ、拘束され、組み替えられている私を情けなく思っているんだろう。ごめんな、出来の悪い師匠で。

「何故、なぜ貴方は私の前で死のうとするのです。何度も、何度も!」

「……少し、運が悪いんだ」

 ああ、喉が痛い。彼の追い縋る腕が痛い。心が、痛い。消えてしまいたい。殺してほしい。

「先生……貴方は、ずっと籠の奥深くに閉じ込めてしまえば、傷つかずにいてくれますか。あの時のようには、ならないでいてくれますか」

 ……は?

「逃しません。殺させません。だから、傷つかないでください、アッティカ」

 弟子の目から、光が消えている。あれほど快活そうだった若草色の目が、底なしに暗い。

 そっと撫でられた頬から、ぞっとするほど血の気が引いていく。狂化が解けてしまいそうなくらい、恐怖で頭が一杯になる。何だ、これは。私は、こんな目するケイローンなんて知らない。弟子が訳のわからない成長を遂げてしまった。

 

 

 なんて、なんて地獄なんだ、ここは。解放して貰える手段が、弟子の好意で潰えてしまうなんて! 弟子が全く知らない顔をするような大人になってしまったなど!

 私、一体どこで地雷踏んだんだろう。




タイトルまんま。話の中でキロンと呼んでいるのは誰かに聞かれたとき書物のことと言えるようにするための先生の予防策。

アッティカは先生の偽名。女性のほうがアッティカ。


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先生、カルデアに行く1

 もし先生がカルデアに行ったとしたら。捏造でオリキャラマスターが一人増えてます。

 アッティカ先生は多分話し言葉ではヘラクレスのことをへーラクレースと呼ぶ気がする。あと例によって先生はアマゾネス系狩人。


 youちょっと手伝って来て、というような啓示を受けて午睡から目覚めると、私は召喚陣の中に立っていた。魔力光の残り香が、空気のうねりになって肌を撫ぜる。

 

「おや……まさか私さえも呼ばれるとは。

 サーヴァント・アーチャー。真名は、すみませんが伝えられません。トラーキアのアーチャーとでもお呼びください、マスター」

 

 なんとも締まりのない第一声だが、許してほしい。肉体はどうあがいても私のもの。サーヴァントらしい能力はあるらしいが、どうしてわざわざ扱いづらいものを呼び出したんだ、人理よ。

 依代ではなく、そのものが来るとは、誰だって思うまい。

 

 

 

「え、え……?」

 ほら、目の前のマスターちゃんらしい女の子めちゃめちゃ戸惑ってるじゃないか。サラサラの銀髪に、在りし日の教え子と同じ目の色の子。なんだっけ、聖杯の知識でなんとなくはわかるんだけど……セレニケちゃんぽい? でも冷酷さはなさそう。特に危険も感じない可愛さ。

「あの、本当に名前わからないの?」

 もう一人いたマスターさんらしい子も戸惑ってる。鮮やかな橙髪の女の子。黄色い目は、馴染みのニュンペーによく似てるな。快活そうな目をしている、気がする。

「そうですが、なにか不都合が?」

「だって、真名分かんないのにステータスもレアリティもめちゃめちゃ高い!」

「たぶん、私の逸話が本来歩んだ道からずれているんでしょうね。それとも、名前のないものとして話だけ伝わっているか」

 銀髪ちゃんが吠えたが、これ私のせいではないから許して欲しい。たぶん、今ここに呼び出されて付加されたステータスは後世の逸話という名の二次創作が原型になってるんじゃないかな。妙に身体能力が上がっている、いや、神代ギリシャにいた頃のような体の軽さに軽く目眩がする。

 私の元々いた現代では、神話の多くは二次創作。どの神様も沢山の詩人によって改変された伝承、いや逸話という世間話が残っているんだ。私もその影響で歪んだんじゃなかろうか。

 

「ところで、私は何をすれば?」

 特殊な状況なのはわかるんだけど、このマスターたちに説明してもらえるのかと不安に思っているとドアが開いて白衣の人が出てきた。

「それは僕から伝えます、トラーキアのアーチャー」

 やわらかそうなストロベリーブロンドの青年は、穏やかな目をしている。あ、これ苦労人だ。この眼差しは過労による柔らかさと見た。

「貴方……また随分と苦労してるんですね」

 胃薬要りますか。もしあれなら胃が荒れないようにハーブティーくらいなら調合できますがいかがですか。

「第一声がそれ!? でも珍しく罵られてないぞぅ!」

「ドクター、ずっと罵られてたのに珍しい」

 

 ドクターと呼ばれてる青年は罵られるのが常なのか。

 いや、罵る側も薄らとだけだがなんとなくは分かる。たぶん、本体丸ごと持ってきたせいでそこらへんの感応力だけ低下してるんだろう。逆を言えば、この人はサーヴァントであれば感じ取れる何かを持っている。それが特有の種族であるのか、個人の特性としてなのか、はたまた、この男は何らかの問題に関わる受肉したサーヴァントか。そのどれかかもしれない。

 

「ああ、なるほど。確かに、他の英霊なら罵っていたでしょうね」

「え、納得なの?」

「サーヴァント特有の感性が一部欠損しているようなので、一応理解できる程度ですけどね」

 うっすらと与えられているサーヴァントらしい感性がないだけに、なんとも言い難い。

 

 まあ、そのことはおいおい気をつけていればいいのだ。まず気にすべきは、召喚のとき与えられなかった知識を補完すること。それから、私という人間がどのように記録されていたか、正しく知ることだ。そうでなければ戦える手数が減る。宝具についてはいくつか確認できても、本当に使えるかどうかはいまいち分からない。なんせ、私は野山で狩りをするだけの半野生だったからね。

 

「さて、そのあたりのことは置いておいて、これまでの特異点と今後起きるであろう戦いについて教えていただけますか」

「それじゃあ、ミーティングルームへ。セナちゃん、リツカちゃん、君たちも」

「「はーい」」

 この子たちは、セナとリツカというらしい。今後仲良くなれるといいんだけど。少しだけ敬語を外せる程度には。

 

 

 

「ふふん、私のバーサーカーは強いんだよ!」

 

 一通りの説明が終わると、今度はカルデアに召喚されていた他の英霊たちの紹介があった。ちらほらとギリシャ神話の英雄が見えるからきっと近いうちに真名もバレてしまうかもしれない。ああでも、男性名の方は偽名のさらに偽名だからなぁ。アルテミス様ご登場とかにならない限りはまず大丈夫だろう。それに、かの女神が来るまでには、きっとマスターを信頼することができているはず。きっと、たぶん。

 

「ヘーラクレースは英雄として名高いですからね。流石に、私も押し負けてしまいそうだ」

 内心、これは殺し合いしたら罠を仕掛けないと負けるなとシュミレートしつつ言えば、マスターはぽかんとした表情になった。なぜ?

「え、虎茶は闘うつもりなの? 肉弾戦だよ?」

 いや、肉弾戦にならないようにしないと勝てない……いや、死力を尽くせばパンクラチオンでならギリギリ勝てるか。武器があったらリーチの差で多分負ける。

「ええ、必要ならば。最悪死んでもマスターを逃しますよ。……ところで、虎茶とは」

 なんか美味しそうだな、虎茶って。バター茶を思い出してしまう。虎のバターのパンケーキ繋がりで、どうしても虎はバターのイメージになってしまう。

「トラキアのアーチャーだから虎茶。ロビンはマントが緑だから緑茶ね。それがどうかしたの?」

「いえ、なんだか美味しそうな名前だなと思ってしまって」

 納得した。ならエミヤさんはさしずめ紅茶か。彼は時折イギリス人みたいな皮肉を言うから何だかとても似合う気がする。

 

 後は実践の手合わせを一応やってから解散とのことだけど、シュミレーションルームよりは宛てがわれた部屋に行ってゆっくり休みたいな。

 

 そろそろ実践訓練を、と提案しようと口を開いた時、チリ、と首筋が焼けるような感覚がした。殺気。いや、警戒心か。嫌な感覚がする。

「■■■■■!」

 原因、と思う間もなく、髪飾りをつけている側を向けた途端に、ヘラクレスが反応した。と思ったら叫んだ。

 

 

ドォン!

 

 

「……っ!?」

 いきなり振り抜かれた得物に、身をかわして本能的に距離を詰める。すぐ側に他に人間がいる以上は被害を出せない。

 

 狙うは、一点。

 

「ふざけるなよ、童」

 全速力で拳を叩き込みに、跳躍して、

 

「ストップ!!!」

 ライダーに止められた。いや、正確には彼の宝具でヘラクレス共々すっ転ばされた。

 

 確かこのライダーの名前は、アストルフォ。シャルルマーニュ十二勇士である英傑。美少女にしか見えないが、見かけで判断すべきではない。

 

「……仕掛けたのはそちらだ。何故止めた」

 相応に覚悟してるから一度殺すくらいは許されるだろうに、なぜ止めるのか。私も復活できないから死ぬのは嫌なんだけど、あれは一撃見舞うべきところだろう。

 

「お、怒んないでよ〜。さっきのはマスターの指示で、奇襲に対応しうるかってテスト!」

「……なるほど、それは申し訳ないことをしました、マスター」

 ああ、そんなのも考えてたのか。うーん、こうしたテストはたしかに大事だ。気の緩みは大敵。たとえ味方、同盟者だったとしても。いい判断だ。

「い、いいのよ……こちらこそ、ごめんなさい」

 少し怯えている気がするのは気のせいだろうか。マスターとの関係が悪くなるようなことはしたくないんだけど、難しいな。

「ヘーラクレース殿にも申し訳ないことをしました。……それで、私はテストには合格ですか?」

「ええ、もちろんよ。……本当にバーサーカーを倒せるかもしれないわね。でも、肉弾戦もできるアーチャーって……」

「一応形だけですが、弟子にパンクラチオンの技術を仕込むくらいはしてましたからね。多少はできますよ」

 

 まあ、あれは説教の一環でやってたのもあるから本腰入れてはなかったんだけども。半馬体の弟子を相手にしたのだから、これからの旅で野生動物相手でもできるだろう。

 

「ところで、さっきの雄叫びは何だったのか」

 へラクレスには直接関わりがないどころか私はケイローンの幼少期に死んでるからね。一体どうしたと言うんだろうか。

「ああ、何言ってるかはわかんないよ。でも、多分大事なことだと思う」

「そうですか……なら、仕方ありませんね」

 気になりますが、と付け加えると、だよねーと返してくれたので空気がちょっぴり軽くなる。そろそろシミュレータールームから出てもいいだろうか?

 

 

 

 

 トラーキアのアーチャーと名乗ったあの弓兵の髪飾りには、少なからず見覚えがあった。青いガラスで出来た繊細なそれは、師傅が片時も離さなかったもの。

 あの女性は師が死ぬまで持ち続けていた髪飾りを付けていた。加えて、トラーキアに縁があるということは、つまり、彼女は。

「■■■■■■■……」

 ああ、語る口がないというのは、なんと口惜しいことか。自分が生まれるよりも遠い昔に死んだ師傅の師に、見えることが叶ったというのに!



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先生、カルデアに行く2

 しばらくして馴染んできたアッティカ先生と、ぐだ子ちゃんに召喚されたケイローン先生。

 なんであんまり出てこないオリキャラマスターを出したかというと、同じマスターだと逃げ切れないなと思ったからです。多分このあとの話が続くとしたら深堀りします、たぶん。


 たぶん、今の私は盛大に顔が引きつっているだろう。冷や汗が止まらない。

「マスター、私、彼が諦めるまで絶対にシミュレーターから出ませんから。人払いよろしく」

 まだ、まだ大丈夫だ。彼は召喚されたばかり。今のうちに逃げてしまえば顔を合わせずに済む。

「頼むよ!」

「待ちなさい虎茶!」

 サーヴァントになってからだが、こちらとて簡易の未来視はやろうとと思えばできるのだ。なんとしてでも捕まるものか! 弟子に説教されるとか絶対に嫌だ!

 

 

 

「とは言ったものの、まさか此処を再現してしまうとは」

 懐かしい森を歩き回って、ひっそりとため息をつく。ああ、本当に都合が良すぎた。逃げ込みたい先にはぴったりだけど、ここでは嫌な記憶もありあり思い出せる。小さなケイローンと過ごしていた、懐かしのこの森では。

 

 

 シミュレーターをランダムにしたせいで、サーヴァントの記憶準拠のステージになってしまったらしい。

 死んだあの日の、そのときそのままの冬の穏やかな陽気だ。植物が生い茂り、灼熱とは程遠い、穏やかな冬。アポッローン神が里帰りをして、デュオニューソス神が神託を与えたもう季節。

「そうだ。私、このあたりで死んだんだったな」

 少し冷たい川の水に、布を晒しているときだった。暫く布を浸してて置かないといけなくて、この大岩に腰掛けて詩歌の練習をした。

 

 すみれの如き豊髪の、麗しき乙女

 涼やかな光纏いて、喜び歌え

 汝が頬には、恋の喜びが咲き

 我が愛を、芽吹かせるだろう

 

 下手な詩歌だとはわかっていたんだけど、ほら、気分ってあるから歌いたくなるときはある。Jポップばっかりじゃなくて、気付かれないようにアニソン混ぜ込みたくなるとか、そんな感じ。ただ、あのときの私は、何度も恨みたくなって、でも恨めない程度に運が少し悪くて歌を聴かれた。それから、問答の末に神罰で死んだ。

 

 カルデアに来てから知ったけど、彼女は良家の姫だったのだ。姫君であるような、高貴な女性を口説いてしまったら、それは不敬だろう。しかも、相手の私は自分は口説いてないし、まさか口説くはずがないとも言ったのだから腹も立つだろう。その気になって近付いて、寒くて堪らないのも耐えて水浴びで気を引こうとしたのに、それすら自分の勘違いで、無駄なのだからそれは怒る。

 ……あの時代、神と人は共存していた。だから、一定数は願いを叶えていた。美人であるというのは、その点で優位になりうる要素なのだ。しかも、彼女は権力を持っていた。ならば、権力を持たないものに罰を与えるのは、自然なこと。

 

 私は無力だった。そして、迂闊だった。それだけだ。

 

「内臓が散ったのは、この辺か」

 それから、ケイローンが飛び出してきたのは、あのあたり。乙女が嘆き伏したのは、そこの岩の近く。

 鮮明に思い出せるのだ。一度死んで、現代に戻って、それからしばらく経っているのに、とても鮮明に。ケイローンの泣き顔なんて、本当に、胸が痛くなるくらいに、

「…っ、ぁ…!?」

 じくり、と心臓が軋む。腹が、ジンジンと焼けるように痛み出す。ああ、やめろ、そんなところまで再現しなくてもいい。苦しいのは、もうごめんだ。私は死すべき人間なんだ。お願いだから、やめて!

 

「し、にたく、ない……!」

 

 まだ、まだ私は生きている! 腹の痛みも、心臓の軋みも、全部まやかしだ。落ち着け、落ち着くんだ。

「先生っ……!」

「っ、嗚呼」

 駆け寄ってくる影に、デジャヴを覚えて声を上げようとしたが、意識が落ちていくほうが早かった。

 

 だから君には、君にだけは来てほしくなかったんだよ、ケイローン。

 

 

 

「ケイローン先生、アーチャーさんは無事!?」

 シミュレーターで先生が倒れることは、召喚に応じてすぐに見えた未来だった。慌ててマスターである立香達に伝え、急いで駆けつけてみれば、シミュレーターには厳重なロックが掛かっている。しかも、なんとかロックを解除して彼女の元へ向かってみれば、あの時のように膝から崩れ落ちてうずくまって悲鳴を上げているのだから目眩がした。また、彼女を目の前で失うかもしれない恐怖に、まさしく心臓が破裂しそうなほど胸が締め付けられた。

「ええ、苦しんでいましたが幻覚ですね。どこにも異常はありませんでした」

「よかった……」

 ほっと胸をなでおろす立香とセナに、彼女の容態が安定していることを伝えれば、それならしばらく一緒に様子を見てドクター・ロマンに任せよう、と提案された。有り難い限りだ。これで、師が目覚めてくれれば、より良いのだが、すぐには難しいだろう。

「ええ、本当に。……私も、彼女が二度死ぬところは見たくありません」

「「えっ」」

 二人の声が被る。目を丸くしているが、何かおかしなことを言ってしまったのかもしれない。少し不安になったが、直後に、セナが恐る恐る口を開いた。

「ケイローン先生って、もしかして虎茶と知り合いなの?」

「虎茶……? アッティカは、私の師ですが」

 アッティコス、いや、アッティカと呼ぶべきだろうとそちらの名で彼女を現せば、二人とも更に雷に打たれたような顔をした。

「先生ってアッティカって名前だったの!?」

「というか、」

 一気にまくし立てたかと思うと、驚愕の表情で口を開けたままに、マスターとセナが顔を見合わせ、こちらを向く。

「「虎茶はケイローン先生の先生!?」」

 二人の絶叫は、トレーニングルームの開け放たれた扉から広がって、消えた。

 

 

 

 

 夢を見ている。

 少し狭くなったように感じる小屋、煌々と燃える祭壇の火。必要なだけの生贄。それから、すべての祭儀を終わらせて、疲れて暖炉の側で眠る愛弟子。この祭儀のときに傷が癒えていないのは、夢だからだろう。都合の良い情報だけが継ぎ接ぎされてできた、私の夢。

「すぅ、すぅ……せんせい……」

 健やかな寝息は、私はあまり知らなかった。夜は獣が血の匂いで寄ってこないか、彼が寝て、彼が起きるまで心配で警戒し続けていたから。時折眠るにしろ、それは昼間のことだった。今思えば子育てをしているような生活だ。昼も夜も、ずっと世話を焼いていた。でも、それを楽しんていた。一人でいなくていいのだと、安心してしまっていた。

 

 これは夢だ。彼を留めておきたかった、独りでいることを嫌がった、馬鹿な私の夢。

「早く、元気になりなさい。君はこんな所にいるべきじゃない」

 そっと、暖炉のそばの若馬を撫でようと手を伸ばす。早く、自由に野山を駆け巡れるように。彼はクローノスの息子だから、きっと立派な狩人になるだろう。立派に独り立ちして、カリクローを娶り、子を設け、幸せになるべきだ。

 

 艷やかな髪に触れるかと思った瞬間、ケイローンがパチリと目を開けた。何も映さない目は、透き通るような若草を宿している。

 

「せんせいは、また私を傷付けるのですか」

 

 ああ、違うんだケイローン。そんなつもりじゃなかった。あんな風に死んで、君を苦しめたくなかった。ごめんよ、不甲斐ない師を許さないでくれ。

 

 

 

「、っう、あ!」

 夢だ。紛れもなく夢だった。脂汗がひどい。大丈夫だ、ここはカルデア。カルデアの、医務室のベッド。

 ……ん? 医務室? なんで? さっきまでシミュレーターの中にいたんだからシュミレーターの中にいないのはおかしい。

 

 混乱したままに状況を確認しようと周りを見ると、

「先生!」

「ゔっ」

 真横からハシバミ色の衝撃が襲ってきた。

「先生……先生……! やっと会えました……!」

 骨が軋むかと思うほどしっかり抱きしめられて死ぬほど苦しいが、流石に最盛期のステータスだから気を失いはしなかった。

 彼の肩口に顔が固定されてるせいで表情は見えない。嗚咽と、温かいものが降ってくる。

「…久しぶりだね、ケイローン」

 立派な大人になったんだね、君は。体格なんて、もうとっくの昔に貧弱な私よりもずっと上だったんだろう。本当に、もう少し見守れたならよかったのにな。

 

「ひゅーひゅー」

「立香、冷やかす前に助けて。マスターも頼む。そろそろ骨が本当にヤバい」

 少しでも力が緩まらないか、と、ぽんぽん背を叩いてやる。が、聞こえてきた声の呑気さにに思わず必死で助けを求めた。見ているんじゃなくて止めてくれれば良いものを。あ、だめだ、肺まで痛くなってきた。

「えっ」

「あっ」

「すみません!」

 バッ、と音が立つ勢いで離すのはいいけと、もうちょっと私の体にダメージ来ないようなやり方はなかったのだろうか。開放されてなお離された勢いも加わって骨がギシギシする。

「アッティカ、何があったの?」

「ああ、シミュレーターで死に際のステージに居たんだけど、まさか死の再現まであるなんて思わなくてなぁ」

 死にそうになった上に、あんな夢まで見るとは思わなかった。嫌だな、もうあんな夢は見たくない。

 

それよりも、サラリと聞き流していたけど、

「なんでもう真名を……?」

「……先生」

 ハッとして弟子を見れば、にっこりと笑った。あ、やばい。これやっぱり説教コースだ。なんとなく恩師に顔が似てる。穏やかな教師って説教する前に大体こういう顔する。

 

 結局、説教される側になってしまった。可能なら、彼の話が長引かないといいな……。

 どうせなら、ずっと憎んでくれていたほうが許されるよりずっと楽なのにな。



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先生のバレンタインよもやま話

 バレンタインの媚薬効果について講義したりする話。

 犯人はなんとなく餌付けする話書きたかったのでついやってしまった、などとと供述しており。


 女帝曰く、カカオとは、甘く、冷たく、苦く、芳醇な毒。経口摂取する非日常の異物。

 

「まあ、決定的な変質とは言っても、マスターに対する"文字通りの媚薬効果"なんてありませんよ」

 チャカチャカ、と確保済みチョコレートを湯煎しながら一部の人達の夢をぶち壊すことを言えば、えー! と残念そうな声が上がる。女の子だってそんな話するよね。というか、一部にしろ過激派がいるからそうならないわけがなかった。

 

 バレンタイン。立香ちゃんが日本出身であることから女性サーヴァントの皆様が色めき立つイベントである。祭り好きも、ほのかな恋心を温める人も然り。あと、アルテミス様はオリオンにチョコレートを作るらしい。仲がよろしくて何より。弟君が全力で止めていたのにカルデアでは意味がなく……恐らく頭を抱えていらっしゃるはずだ。

 これまでは読みたいものが多すぎたからイベント事には関わろうとしなかったけど、今回ばかりは私も参加することになった。作るのはブラウニーだ。日頃から魔力に変換する分の電力供給をしてもらっているのと、時折仲の良い職員の方から本を借りていたから。まあ、これくらいでも許されるだろう。コーヒーとも紅茶とも合うし、軽い栄養補給にはいい。

 

 バレンタイン前で大人数でキッチンを使うだろうから、邪魔にならないように誰も使わない夜の時間帯を見計らってキッチンを借りたはずだった。……のだが、興味津々でキッチンに集まってきた女性陣に囲まれた。皆さんもう用意できたんじゃなかったんですか、面白そうだったからですかそうですか。がっくり。

 

 それで、結局見守られながら(手元を凝視されながら)作業してたんだけど、ポロッと誰かの口から、バレンタインの話の中に媚薬の効果のことが転がり出てきた。

 そういえばそんな本この前読んだな、と思い出して、ついうっかり嘴挟んでしまったが運の尽き。アッティカ先生の突発・バレンタイン特別講義が開始されてしまったのである。講義だから話し言葉も丁寧にするように気をつける。こんなことなら不用意なツッコミ入れるんじゃなかった。

 

「なんで効果が無いんですの?」

 清姫ちゃんがソワソワと聞いてくるが、純度100%の貴女ならなんらかの効果はあるんじゃないかな、知らないけど。

 小麦粉やココアパウダーなどの粉類は、まとめて混ぜて、ふるいにかける。チョコレートのテンパリングも上手くいったようで、ちゃんとなめらかに艶が出ている。あまったら自分の分の生チョコにしよう。

 固めるタイプのチョコならテンパリングをしっかりやっておかないと脂肪分が浮いてくるから、不器用な人にはハート型板チョコはおすすめできないな……ケーキを焼くのが苦手な人にはテンパリングの指導をしたほうがいいだろうか。

 

「そもそも、古来から媚薬と言われていたものは、基本的には栄養豊富な食材なんですよ。遊郭などで茹で玉子が売られていたのは良い例ですね。卵は動物性タンパク質で、ビタミンも多く含まれています。1日に2個食べると健康にいいですよ。もちろん、それ以外が偏るのはいけませんけどね。あと、玉ねぎや人参も媚薬として扱われていました」

 

 興奮作用があるから、ということで言えばカフェインの多いコーヒーや紅茶、緑茶、一部のハーブティーも効く。でも、現代人には古い時代ほどは効かない。こういう効果って、玉露で酔っ払う人がいた頃の話らしいのだ。

「現代の一部薬品は除外しますけど、要は元気になれるご飯ですね」

 

 粉類を混ぜ合わせると途端にそれらしくなる。ナッツも混ぜて、天板へ流し込んで、オーブンで20分程度。薄めだからおやつの時間までには焼きあがるだろう。

 

「よし、今のうちに片付けよう」

「え、もう作らないの?」

「作るにしても一旦全部きれいにしてからでしょう、マスター? ……で、話の続きです。媚薬が信じられてた頃は、餓死者が出るような時代が大半です。というか、餓死者がここまで減ったのはごく最近でして」

「それとどんなつながりが?」

「栄養状態が良くないと動物ってちゃんと子供ができないんですよね」

「もっと簡単に!」

「ざっくり乱暴な言い方すると、正常な体になって生殖できる状態に戻れるような、栄養価が高い食べ物が媚薬ってことです」

 よし、片付け終わった。紅茶で休憩すればいい具合になるだろう。

 

「カルデアのご飯はエミヤのおかげでバッチリだから、とくに媚薬の効果はありません。カカオの興奮作用にしても、そもそも皆おやつで食べてるからそうそう効かない。したがって、宵の口に効果が出て急襲される危険はない。良かったね、二人共」

 ジャっ、と蛇口を大きくひねりすぎて、冷たい水道水が手に直撃する。夜中の水道水って、なんでこんなに冷たいんだろう。

「……はい、これで講義は終わりです。生地が焼けるまでお茶にしようか」

 ちなみに精のつくものは本当に精の生成に必要なものもある。亜鉛とかね。亜鉛はハゲにも効くから気にしてる人には牡蠣食わせればいい。

 

 それからはなし崩し的にお茶会になって、残った面々でゆっくりハーブティーを飲んだ。サーヴァントならともかく、マスター組も飲むなら寝付けなくなる紅茶より、カフェインがないものを選んでハーブティーを淹れたほうがいい。あと、途中でのどが渇いた、と突撃してきたナーサリーやジャックたちチビっ子組は、あまり遅くなるといけないからホットミルクを渡して早めに部屋に返した。子供というのはやっぱり可愛いものだ。

「アッティカ先生、お菓子作れたんだね?」

 まあ、一応現代人だからね。これでもお菓子はそれなりに作れる方だと思う。曖昧に笑って濁してるけど、たぶん事前にレシピを見てたのは向こうも知ってるはずだから、怪しまれることはない。

「誕生日ケーキっていうのは、もともとアルテミス様たちへの供物から派生したものだからね。供物なら一通りなんとか、な」

 しかも、毎月誕生日パーティーと言う名の祭儀があるのでどうあがいても作らざるを得ない。そしてそれなりに腕は上がった。

 

「私はこれ焼き終わったらとっとと撤退するから、頑張ってね、マスター」

「えっ?」

「え?」

 お仕事終わり、と言いたいところだったのに、何故か絶望したような顔になるマスター二人。いったい何だ?

「えっと、アッティカは他のサーヴァントにあげる分は作らないの?」

「なにゆえ?」

「だってケイローン先生たち喜ぶでしょ?」

 言われて初めて思い出して、関わりがあるギリシャの面々に、と考えてみた。が、そんなにチョコレートをありがたがらないだろ、あの面子は。食い出のないうえに若干苦いのだ。チョコレートなんかよりも、ボールいっぱいのヨーグルトに蜂蜜たっぷりかけて渡したほうがきっと嬉しいはずだし、それならエミヤに朝食メニューとして頼むほうが手っ取り早い。あとで蜂の巣取りにレイシフトしてこようか。蜂蜜食べ放題は他の人も喜ぶだろう。

「あの面々はチョコレートなんて喜ばなさそうだから止めとくよ。二人も食べたかったら後でブラウニー取っていけばいいから」

 蜂蜜バイキング、驚いてくれるといいな。結局残りはホットチョコレートにして通りすがりのヘクトールに押し付けたので、自分の分はアルテミス様への供物と一緒に明日作ることにしよう。

 

 

 

 はたして次の日、バレンタイン当日。マスターの提案に乗っておけばよかったと後悔した。

「……」

「機嫌直せ、ケイローン」

 本当にへそ曲げるとは思わないだろ、たかだかチョコレート程度で! アタランテとかアキレウスとかヘラクレスは蜂蜜で正解だったけどな!!

 ちなみにアタランテについては、この前書類整理の手伝いをしてもらったからそのお礼だ。つまり、微妙に喜ばなかったのは愛弟子だけである。

「……チョコレート」

「え、欲しかったの」

「欲しかったですよ、ええ! アッティカの作った供物の菓子類、美味しかったんですよ!」

 待って、蜂蜜ケチって作った菓子類がいいのか。というか自然のもののほうがいいんじゃないのかケイローン。あの頃蜂蜜なかなか見つからなくて少なめにしてたけどそっちのがいいって珍しいな。大体ニュンペーたちとかサテュロスとかに喜ばれるのはデロ甘なお菓子だったのに。

「……ケイローン、」

「……もういいです」

 なんか余計に機嫌悪いオーラ出してそっぽ向いて、完全に黙り込んでしまった。見えにくいが、多分、すごく顔が険しい。あと、無言で抗議するのやめような。頼むから言葉で伝えて欲しい。

「なら、このあとチョコレートケーキでも焼こうか。とっておきのやつ。な?」

「!」

 尻尾が控えめに揺れたので、これで間違いではなかったんだろう。

 なんだか甘やかしすぎな気もするけど、勘違いで我慢させてしまったのだから仕方ない。あとは、アルテミス様に献上するホールケーキに、それと孫弟子たちにも少しずつ作るか。

 

 でも、焼きあがって平らげるまで口を利いてくれないのも困るな。ケイローンの分だけ、孫弟子より少し手の込んだものにしたら、早めに機嫌を直してくれるだろうか。




せんせい、たぶんずっとケイローンのこと子馬だと思ってんなと思いながら書いてました。早めにバスターゴリラな先生とかカルガモ師弟とか、あとスカサハ師匠とせんせいとか書きたいです。


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先生による柔らかめのお仕置き

先生のお仕置きの話。

先生は体罰とか折檻はできるだけ避けるタイプではあるけど、危なくない程度に教材にする人。


「ケイローン、構えなさい」

「え、あ、せんせ」

「構 え な さ い」

 

 流石に優秀で心優しい弟子とはいえ、好奇心が逸りすぎて怪我したら、お仕置きが必要だ。だがしかし、お仕置きの形で相手を凹ませるのも問題。ならば、

 

「実践だ。今の君が半馬体である以上、全力で技をかけるから耐えろ。まず受け身、慣れたら反撃にかかるんだ。相手を殺す気で抵抗しろ。いいな?」

「……はい、せんせい」

 ちょうどいいから授業材料にするまでの話である。

 

 パンクラチオンはそこそこしかできないので、体格差からどうしても全力を出さざるを得ない。勿論、気絶する前には止める。締め落とすようなこともしない。過度な無理もさせない。応用力の高い弟子なだけにすぐ反撃してくるだろうから、そうなったら私は防戦になるし、多少合わせなければいけないな。

 子馬とはいえ重種、死なないように本当に気をつけないと私の命が危ない。全力で蹴り飛ばされたらモツがグチャグチャになって死ぬ。……生還できるだろうか。

 

 

 

「これにて終了。いい先まで行ったな」

「ぜー、はー……ありがとうございました……」

 私も生き残ったので無事に終了したものの、あの蹴りは凶悪だった。死ぬかと思った。まともに食らってたら死んでただろう。

 予想通りに弟子のほうが火力が高くて全力で順応していたので、防戦中心になった。とはいえ何度か関節を極めてるからケイローンの方もボロボロである。馬体に関節極めたの初めてだわ。

 息を整えて、せめて師匠の威厳を醸さねばと平静を装う。本当はすぐにごろ寝したいくらい疲弊してるんだけど、流石に教え子の前でゴロ寝はまずかろう。

「さて、ケイローン。パンクラチオンの途中でも変わってなかったから少し指摘させてもらうが、君は本当に死角からの攻撃に弱い」

「う、」

 

 そもそも、お仕置きの原因はケイローンのよそ見癖だった。結構危ないから、と渋っていた実践地の狩りでうっかり反撃されて大怪我しそうになったのだ。

 

「確かに、私が意図的に視線を誘導していたのもある。だが、立て続けに引っかかるようだと致命傷を与えられかねないんだ。こればかりはどうにかして克服しないと、死ぬぞ」

 言葉がきつくなるのはそうなんだけど、目をかけている弟子が死ぬのも黙って見てられない。時間をかけたくはないけど、どうにか少しずつ慣らしていく他ないだろう。急ごしらえでうっかり、なんて目も当てられないか……。

「せんせい、ごめんなさい」

「謝らなくていい。さて、本気でやったから疲れたろう? 食事にしようか」

 食事、と聞いてパッと笑顔になるのは素直でいい。今日も弟子は元気だ。

 

 

 

 

「マスター、パンクラチオンの訓練、する?」

「えっ、いいの?!」

「!?」

 あまりに落ち着きがなくてしょっちゅう怪我をし始めた(環境のせいもあるにはある)マスターに、流石に見てられないので教育的指導をすることにした。ケイローンとアキレウスが固まっている。

 

「せ、先生」

 ひと呼吸おいて盛大にむせた弟子が苦しそうに呼ぶので、そちらを向けば真っ青になっていた。本当にどうした。

「うん? ケイローン、なにか言いたいことでも?」

「え、あ、その……セナは悪くないのでは?」

 今回の場合は環境のほうが要因としては大きい。でも、落ち着きがないのも問題だし、健全に運動で発散すべきだろうと思ったんだ。

 大丈夫。スポーツじゃなくて運動だから、無理も無茶もさせないし、本人が楽しくできるところまでで終わらせる。あの時みたいなデッドオアアライブにする気はない。

「訓練でどうにかなるものならやるべきですよ。マスターは一般人ですからね、あなたの時ほどきつくはしませんよ」

「大先生、教師スイッチ入ってるな……」

 孫弟子の方は、私が指導したことがないからのほほんとしている。ケイローンは反応し過ぎではなかろうか。

「私より、軽く……?」

「どうしてそこで衝撃受けるの!?え、ちょっと待って。役得な授業とかにならないの?」

「マスター、確かに授業終わりのおやつは用意しましたけど、妙な学習してませんか?」

 いや、終わりにご飯とかおやつとか用意する癖があるからそうしてたけど、マスター人参のために頑張る方向は死ぬかもしれないからよくないよ。疲労でヘロヘロになってるのに詰め込んで吐いたら元も子もないからね?

 あとそこ、宇宙人を見るような目で私を見るんじゃない。パンクラチオンの難易度は変えられるぞ、当然だけど!

 

「先生、先生、考え直しましょう。セナには早いです」

 トコトコついてくるケイローンに、後ろから面白そうな視線が向けられている。孫弟子達までついてきてるのだ。君らはカルガモの親子か。

「……ケイローン、君はトレーニングルーム前で待機な」

「えっ」

 流石にうるさいので無視をやめて、振り向いて釘を挿す。完全に固まったから一気に玉突き事故になる。ケイローンもぶつかったけど、とりあえず私までで玉突き事故は止まったからマスターに被害はない。うっかり蹴られた背中は痛いけど。

「マスターの気が散るほうが危ない。身に覚えがあるなら、邪魔しないように、ね?」

「うっ、」

 たぶん実践を思い出しているであろう白い顔を放ったらかして、トレーニングルームに早足で行く。ケイローンは着いてきてるけど、たぶん外で待機か部屋に戻ってるだろう。

 

「さて、マスター。無理しない程度の関節技から始めますよ。教えますから、私に技をかけてみてください」

「ひぇっ」

 カチャ、と音が鳴るように鍵をすると、マスターが悲鳴を上げた。ごめんね、ケイローンに聞こえるようにと思っただけで怯えさせるつもりはなかったんだけど、だめだったか。




おまけ・その後の弟子たちの会話


「なあ先生、大先生ってそんなに怖ぇの?」
「私が本気で抵抗しても封殺するファイターですよ、怖くないはずがないでしょう」
「うわ……でもマスターだからなぁ……」
「それは、そうですが」
「案外ただのスキンシップだったりして」
「まさか、先生に限ってそれは……」
「ない?」
「ありえますね」


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先生の秘密

先生が化け物じみてる秘密の話。
一応スキルと宝具は考えてみたものの、先生がどう考えても自殺マニアになる。


「そういえば、先生が他の英雄より弱いって絶対嘘でしょ」

 パンクラチオンで体が温まった、というより完全にへばったセナにスポーツドリンクを渡すと、すごい勢いで飲んでいく。本当はこまめに飲むべきなんだけど、必要分を取るのが先だろうな。

「そんなまさか。私はケイローンより弱いよ」

「ええ〜、ケイローン先生は勝てないって言ってたのに?」

「あぁ、それのせいね……」

 何回か関節技を受けたけど、やっぱり初心者だから弱い、というか極め方が甘い。本気で振りほどかれたら反動で頭打ちそうだなと思ったので、おとなしくかけられ続けて体が少々痺れている。

「勝利の定義が違うな。今やりあったら状況違うから負けるんだ。あれ、耐久力の問題だから」

「耐久?」

「そう。私は火力はそこそこの防戦特化型だからね。相手がオールラウンダーだから、持久力尽きたら負けると思うよ」

 あれだけ怯えられてたのは、昔やったときに倒せなかったのが引きずられているんだろう。だが、私は打撃が強いわけじゃない。火力が高い相手と無理に競れば当然負ける。でも、防ぐことには特化してるから、長期戦に持ち込めばスタミナ切れまでギリギリ耐えきれる。どちらかといえばそのうちに弱点見つけて崩すか、援軍来るまで耐えて勝つ方向で考えているから、少なくとも「勝てない」んだ。

 

 それに、今は決定的な弱点もある。

「あの蹄とか鉄拳でレバーブロー食らったら、死因関係で大ダメージ食らうし間違いなく死ぬよ」

「え、えっぐい」

 内臓へのダメージが本当にだめらしい。自分のことだからあんまりやりたくないけど、弟子が本気出したらすぐ殺されるだろうね。嫌だな。割と本物のトラウマスイッチじゃない?

「これ、あんまり伝えないほうがいいやつだと思って隠してたんだ」

 ケイローンにも言いたくはない。でも、うっかり地雷踏み抜くことはある気がする。

「じゃあ、この話は秘密!」

「なんで?」

「だって、なんとなくそのほうが楽しくない? 私、秘密は好き」

 ふふ、と笑う彼女に、ああこのマスターで良かったな、としみじみ思った。

 

 

「マスター、ついでで秘密話していい?」

「なになに? 気になる!」

 無邪気に聞いてくるマスターに、この調子なら軽く流してくれるかなと、意を決して口を開いた。

「私、ここで消滅したら、たぶん次は召喚されないんだ。だから、できるだけ死なないように指揮してくれると嬉しいな」

「……え?」

 

 内緒話だからね、絶対に伝えたらだめだよ。たぶん、あの子はすごく怒るだろうからね。

 

 じわじわと紙の様な顔色になるマスターに、聞かなかったことにしてもらったほうが良さそうだな、と気の毒に思った。これまで何度か自爆宝具使ってるからね。女史たちにバフましましにしてもらって、耐えてから回復してもらってたけど。ごめんね、でも、私も死にたくない。せっかくだから無事に生きていたい。

 

 ぼんやりとした目で、マスターがはく、と口を動かした。なんて答えるんだろう、この子は。

「先生、宝具ほぼステラなのに」

「えっ?」

 待って、私の宝具、ステラと同じ扱いされてたの?

 

 マスターが現実に帰ってくる前に、扉が開いた、と思ったら弟子にタックルかまされた。もともとマットの上にぺたっと座ってたから転がりそうになるだけだったけど、ひっつき虫になってビクともしない。なんだこれ。

「……え? 何それ仲良し?」

「よし、戻ってきたね。解釈が違うよ、決定的になにかずれてるよマスター」

「ひっつき虫……!」

 腹部に回された腕がかなりキツく締められてるせいで、お腹がぎりぎり痛む。というか、原因どう考えてもあれだね、さっきの会話だね。

「マスター、引っ剥がすの手伝って。ケイローン、さっきの聞いてたみたいだから」

「え、というかバレるの早くない?」

 一応防音加工してある部屋なのに聞こえてるということは、たぶん未来視使ったはずだ。たぶん、マスターが心配でやったんだろうけどタイミングが悪い。あと、心配してくる割には私の死因ガンガン痛めつけてきてるんだけど。めちゃくちゃ内臓痛いんだけど。

「うん、未来視使ってたっぽい。……このあとの訓練は切り上げて弟子の教育的指導に時間取ってもいいかな」

「……先生、殺すつもりで行こうとしてない?」

「ヤダなぁそんなまさか」

 かわいい弟子だよ、ケイローンは。殺したりしたらだめだろう。あと苦しめるのも。SAN値チェックは、まあ仕方ないけど。

「でも先生真っ青だよ」

「うん?気のせいだよ」

「言い切った……!」

 見えないんだよ、この位置だと。なんとなく震えてる気はするけど、顔色まで確認するのは、ちょっと無理。

「いやぁ久しぶりだなぁ、ケイローンとのパンクラチオン」

 そっと引き剥がしにかかったけど、もちろん離れるはずがなかった。うん、知ってたけどこういうときに限ってこの子はしつこいな。

「……ケイローン、もちろん出来るな? 場合によっては宝具使うから本気で来なさい」

「で、ですが!」

 なお言い募ろうとする。何か、他に効きそうな言い方あるかな。ちょっとキツくても良いかな。いい加減に腹部が痛い。

「遠慮するなよ、キロン」

 叱るとき、キロンと呼んだことがあったからか、効果はすぐに出た。緩められた腕を外すと、引きつった顔が見えた。……これ、やりすぎかな。

「せ、せんせ…、」

「前も盗み聞きはだめだって言ったよ。悪い子だね、本当に」

 わるいこ、は笑って言ってみたけど、これ相当意地悪な言い方になってないか。なんか嫌な予感する。まだ距離が近いからわかるかと思ってそろっと耳を済ませると、ケイローンの心音は相当荒い音になっている。

「ぁ、……ごめ、な、さ……」

 

 駄目だ。本当にこれ以上は駄目だ。呼吸が早く、薄くなってる。顔を覗き込んだら、予想通り散瞳していた。……このままだと過呼吸起こすな。明らかに言い過ぎだ。行き過ぎて虐待になってる。これはさすがによろしくない。

 ぽす、ぽす、とゆっくりリズムを刻むように背中を軽く叩いて呼吸を落ち着けてやると、少しずつだけど元に戻っていく。

 

 私がもうやらないとはまだ思ってないのか、呼吸が戻ったときに凄く怯えた目で見つめられて、教育は難しいなと思った。今回のは、教育にはらなかったから、真っ当なやり方をきちんと調べないと。

「……まったく、こういうことになるから止めるんだよ。次はやめなさい」

「……もう二度としません」

 またやったら、マスターとの交渉次第ではあるけど独りでQP周回の刑にするぞ。微妙に相性合わないから蜂の巣ギリギリ手前だぞ。

 ただ、どう応えるのが最適なのかわからなかったので、とりあえずひたすら背中ポンポンした。

 

 

 はて、弟子に稽古をつけるのはやめてマスターの訓練をするか、とセナを見る。真っ青になっていたところから再起動したらしく、一呼吸置いて彼女は絶叫した。

「これだから、アッティカ先生はトラウマ量産して……!」

 うん、マスターは人のこと言えないからね。君も紐なしバンジーとか対サーヴァントのトラウマ量産しないでね。更にメンタル削れるから。




固有スキル
・愛は惜しみなく与う
教師として逸話から、また死に際に願った弟子の息災祈願の逸話から生えたバフ祭りスキル。「七つの丘」の上位種。確率で以下が発動。自分以外の味方全体にバスターアップ+アーツアップ+ガッツ付与(3ターン)+ターゲット集中。

・対英雄B
生き延びようと鍛え上げた肉体、及び諦めと根性から得たスキル。相手にもよるものの神性相手にも死なずに生き延びる。自身にガッツ状態を付与+ターゲット集中+被ダメージ時のNPチャージ上昇効果。

・対魔力(生存)
魔力攻撃が効きにくい。たとえ加護系でも魔力の乗った攻撃を受けた場合非ダメージが低減される。生存力が底上げされている。5ターンの間魔力攻撃による非ダメージ低減。


常時発動スキル
・一意専心B
一つの物事に没頭し、超人的な集中力を見せる。先生の場合、野山で単独行動していたことから発生。戦闘・陣地防衛などの行動に対して発揮される。道具作成スキルに対するプラス補正としても働く。自身のNP獲得量をアップ&自身にスター集中状態を付与。

・鋼の精神EX
化物じみた精神力。精神異常無効と確率でクリティカル威力アップ。ただしHPが1割(虫の息)を切ると失効。

・死すべき人間B
恒常効果で回復デバフ、味方に神性がいた場合のみ攻撃力アップする。ただし、敵対者に味方よりランクの高い神性持ちがいる場合は攻撃バフが強制解除される。

無自覚(一体型)スキル
・女神の加護A+
女神アルテミスから与えられた加護。もとより神の効果の効きやすい時代と体質のせいで妙に強化されてしまった。筋力と防御力に化物バフ。これ自体はステータスに組み込まれているため出てこない。後天的な肉体強化。


宝具
・「明日は陰府の我が身なるかな(メメント・モリ)」
 またの名を冥土の土産。
強烈なダメージを負うことを承知の上で、雷に打たれ電力を魔力変換+肉体強化するブーストアップ。なお、発動した場合、負荷により手足の骨は砕け、肉が破裂する自滅スキル。外傷を無理やり押しとどめて発動する。敵単体へのバスター攻撃。3ターンの強力なバスターアップ+毎ターンダメージ1500加算+2ターン後スタン。


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先生のこと

ぶっ壊れ先生についての話と、先生の恋した人についての話。

連載は時系列順にしたいので、一応こっちに先に置くことにしました。死すべき人間であるという感覚が強いので先生はぶっ壊れました。


「先生ってばブッ壊れ過ぎじゃない?」

 くったりとテーブルに突っ伏して、セナが呟いた。アッティコスのマスターをしているものの、いまいち彼女のメンタリティが理解できないで疲弊しているのだ。

「私も、あんなに自壊しているとは思いませんでした」

 向かい側に腰を下ろしていたケイローンさえも、疲れたように呟いた。数時間前にはお仕置き未遂という名のトラウマスイッチが入っていたので当然である。

 

 そもそも、普段は穏やかに本を読んだり、QPカツアゲに行ったり、素材回収にバスターでカチ込んでいるので、トラウマスイッチを押すのが普通ではないのだが。

 

「え! あれカルデアに来てからのぶっ壊れ?」

「恐らくは……」

 在りし日の師を思い出しながらケイローンは言うが、その実、人間らしいところといえば機織りなどのおとなしい仕事程度しか思い出せなかった。パンクラチオンで馬体に関節技を極める師匠である。仕方がない。

「でもアッティコス先生ってバスターで人間辞めてて、平常運転でトラウマぐりぐりするイメージが強いんだけど」

 ぶー、と膨れるマスターに苦笑いしながらも、ケイローンは否定しなかった。それまでの所業のせいでフォローするにできないのだ。

「え、あの子けっこう普通よ?」

 が、一石を投じられる存在が、ひょっこりと顔を覗かせた。今日も麗しい月の女神である。

「アルテミス様!」

「こんにちは、お茶を入れましょうか?」

 通りすがりに覗いたらしい女神が部屋に来たので、二人共席を増やす準備にかかった。椅子を持ってくるのはセナ、お茶の用意をするのはケイローンである。セナが淹れると渋くなってしまうので、率先して椅子を取りに行った。

 

「ええ、お願い! あ、そうそうあの子ね。私の土地に来た頃は真っ当に人間してたのよ?」

「そうなのですか!?」

「ぜんっぜん想像付きません!」

 女神の口から語られる、にわかに信じがたい内容。

「機織りどころか、狩りも全くできなかったし!」

「嘘ぉ……」

「あら、本当よ? それはいいけどマスター、嘘って言うの、驚いたときでもやめなさい」

「ごめんなさい」

 じわ、と後ろから暗い空気が湧き出したような心地がしたためセナが慌てて訂正すると、一気に嫌な空気は霧散する。女神は怒らせてはいけないものである。万国共通の認識だ。

「いいわ! 全然許しちゃう!

 あ、それでね。あの子私の山に来たときには何もできなかったんだけど、死にたくたい一心で加護が効きすぎちゃったみたい。かわいそうにね」

 全く可哀想でもなんでもないように言うので突っ込みたくなるが、セナには言えなかった。人間と女神の感覚は違いすぎるのである。それを否定するだけの論が、セナにはない。

 

 それまでケイローンが黙っていることに不思議に思ったセナがそちらを伺うと、ティーカップを片手に完全に固まってしまっていた。

「先生が、弱い……?」

「ケイローン先生戻ってきて、アッティコス先生は人間だよ。たぶん根は普通の人だから!」

「すみません、つい……」

「女神の加護って、そういう気持ちとかで変わるんですか?」

「ええ、多少はね。本当に、死ぬほど好きだったり嫌いだったりしたらねじ曲がることもあるわよ〜。あの子、それだけ死にたくなかったみたい。お馬鹿よね、死すべき人間が足掻いたところで、すぐ死ぬわ」

 

 それは彼女にも叩き込まれた女神の視点だった。俯瞰して人間を見る、寿命のない上位存在の視点。そして、それは分かりやすい。

 

「それで、一人暮らししてたから壊れたんじゃないかしら。神側にいたのもあるけど、人って寂しいと壊れちゃうもの。ケイローンが来て、よっぽど嬉しくて、反動で糸が切れたんじゃない?」

「えっ」

「守りたいものができた人間は、すごく強くて脆くなるわ。それに、あの子は身体が強かったから自分を守るのをやめちゃったみたいだし」

 母熊みたいだったわ。昔手元に置いてた子にそっくりだったの。

 そう言って女神は、少しばかり慈しむように二人に笑いかけた。少なくとも、彼女はアルテミスにとっても大切だったらしい。

 

 

 

 

 昼間から飲むのははじめてかもしれない。

「自分のことだけでも余裕がないくせに、他人まで守ろうとするから死ぬのよ」

「なんで分かったんだ……」

 珍しくアタランテに誘われたので女性陣の集まりに顔を覗かせてみたが、酒まであると思わなかった。全員今日はお休みだからだろうけど、お昼の飲酒は悪いことをしてる気になるな。

 現代にいた頃から蒸留酒は飲んでたからいいんだけど、慣れてなかったらしいブーティカはへべれけになってる。たぶん、生前はセーブしながら飲んでたんだろう。

「でも、なぜそこまでした? 汝はそういう類の人間には見えないが」

「子供、すごく好きでね。弟がいたから。仲は悪かったけど、すごく大事だった」

「……一緒にしては哀れに過ぎるぞ」

「だよねぇ。全然似てないし」

 質問されたあと返ってきたアタランテの言葉に、同意を込めて深く頷く。弟はどっちかというと小柄な方だから、あの頃のケイローンより小さいし、似てはいない。でもな、子供って守るものだぞ、と聞かされ続けてた身からするとどうしても守らないとという気持ちになる。現代だったら問題ないんだけど、あの時代にやったら奇異なことだったんだな。

 

 もう一杯、とブランデーを注ぐと凄まじい形相で見られた。もうちょっとセーブね、了解。

 

「男の子だし、あんまり一緒にしたら不貞腐れるかもよ」

「それならそこまで。私の知ることじゃない」

「わぁ急にドライね」

 呆れたような顔をされるが仕方ない。だって、どこで地雷踏んづけるかわかんない以上気にしてられないんだよね。踏んだあとの処置ができればそれでいいし、それ以上は無理なのだ。

「わからないからだよ。あの子も他人で、しかも半分神様だからね。部分的に分析して、分かったつもりになってるだけで、基本的に別の生き物は理解できる気がしない」

「言い方酷いわね」

 はあっ、とマタ・ハリがため息をつく。

「でも、愛してるな」

「もちろん。命の恩人で教え子だからね。可能な限り理解したいにきまってるじゃないか」

「そういうところよ」

 重たいのは知ってるよ。でも、こういうふうにしか考えられないんだよね、あの時代に生きてたから。神様は理解できないけど、素直で可愛い弟子は理解したい。できるとは限らないけど。

「弟子に目をかけ過ぎでは?」

「ええ? ……うん、やばいかも。教育に悪い。やっぱ弟子離れしたほうがいいな。」

 いい加減飲むのはやめようか、と思ってグラスを下げると、マタ・ハリとブーティカから新しいグラスを押し付けられる。

 

 ……そろそろお腹いっぱいなんだけど、なんで強い酒しこたま注いでくるかなぁ……。

 

「あなたの場合、離れ方も極端だからやめたほうがいいと思うわ。死に別れは嫌でしょ?」

「死すべき人間だからそのうち死に別れだなとは思ってたけど」

「あー、神さまあるあるね。しかも悲恋モノ」

「分かるな。もう恋じゃないのか? ん?」

 恋バナにでも持っていきたいのか、二人共赤い顔でずいっと寄ってくる。アタランテに目線で助けを求めたが、無視された。ひどい。

「親子も死に別れるものだから不思議でもないよ。あと、荊荷は悪乗りしないで、水飲もうな。……恋は馴染みのニュンペーだけでいいよ」

 ついポロッと本音が出てしまったので、本当に迫って来た。この軽い口をどうにかしないと。酒のせいかな。流石に飲みすぎか。

 

「女の子相手?」

「どんな女人だったんだ?」

 これは流石に答えないと放さないぞという気配を感じる。昔の話なんて何が楽しいのかわからないけど、酒臭くて更に酔っ払いそうになるからやめてほしい。

「カリクローって言う名前で、控えめだったよ。いつもゆったり笑ってたの。大好きだったなぁ」

 亜麻色の髪で、ふわふわ笑う子だったんだ。保母さんみたいな雰囲気もあったっけ。可愛かった。私も男として生きてたから、女の子に恋しても別段何も問題はなかった。性の対象じゃないから信仰的に問題はなかったし。どうにか気を引けないか悩んだりもしたんだった。

 

 押し黙っているので不審に思って他の面子を見ると、みんな下を向いて顔を覆っていた。何がどうした。

「……師弟揃ってか! 業が深い!」

 ……あ、そうか、ケイローンのお嫁さんもカリクローって名前だったんだっけ。

 

「いいんじゃないかな、たぶん同名の別のニュンペーでしょ」

「同一だったら目も当てられんがな」

「別にいいんじゃない? あの子、私が懸想してたの知らなかったし」

「なんで分かるんだ?」

「そりゃ、弟子の前ではストイックに先生業してたからね。こういう素の方の見せられないでしょ?」

「そういうところよアッティコス」

 どういうところだ。私が何をしたと言うんだ。

 

 

 いよいよ面倒くさくなってきたので、アタランテには謝って、二人を無理やり引き剥がしてから部屋を出る。部屋を出たところで孫弟子に酒の匂いがきついのを注意されて凹んだので、もう飲まないようにしようと思った。




よくよく考えると先生って古代の頃にSAN値チェック失敗してそう。


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先生のバレンタインよもやま裏話

バレンタインよもやま話の講義の、その少しあとの話。閑話。


 その日、ギリシャ談話室に激震が走った。

 

「え、アッティカ先生チョコレート作んねぇの!?」

「ああ、職員の分だけで片付けてしまっていたが、どうした?」

 平然と答えるアタランテに対し、講義も面白かったな、と遠い目をするマスター。当然ながら寝耳に水の情報にアキレウスが驚愕する。大師匠のバレンタイン直前の特別講義に、明日のチョコレート中止のお知らせ。驚かないはずがなかった。

 マスターが貰ってきたブラウニーを一切れ貰って噛りつつ、アタランテはチョコ菓子特集のレシピをめくっている。次の日渡さねばならないチョコレートの内容について考えているらしかった。

 

「で、でも明日はバレンタインだろ? それに先生の分だって」

「ああ、なんかもう供物以外作らずに終わらせるってよ」

「「えええええ!?」」

 談話室に本を返しに来たヘクトールに、今度はメディア・リリィとアキレウスが叫ぶ。

「女の子のお祭りなのに楽しまないなんて!」

「ちょっと待て、ヘクトールそれどこで聴いた。あとそのホットチョコレートは」

「ああ? 本人から聴いたんだよ。これは、そん時に貰ったやつ」

 甘い匂いから不自然に思われたそれは、特大級の爆弾に等しかった。普段のあれこれをあまり知らないヘクトールらしくもあるが、このときばかりは致命的である。

「……悪いこと言わない、とっとと飲め。そして無かったことにしろ。死にたくないだろ?」

「え、何、急に真面目なトーンで言われてもオジサン猫舌ですぐ飲めないんだけど」

「いいから!」

 無理やり飲ませようとするアキレウスに、ヘクトールが抵抗してあわや喧嘩になりかけていた。が、

 

 

「やめなさいアキレウス。……ヘクトール殿、どういう経緯か、詳しく教えていただけますか」

 一番会わせてはいけない人物がやってきてしまった。心なしか存在感が増している気がするのは、気のせいであろうか。マスターは特に現実と3人から目を逸らした。

「あ……(逃げろ)」

「は、はは……(無理に決まってんだろ)」

 小声でやり取りしながら冷や汗を流すが、現状が打破できるはずもなく、そのまま向かい合って正座で座ることになった。ホットチョコレートを貰った状況を伝えても、纏った空気は変わらない。

 

「でも一応おやつとかは用意するんじゃないのか?」

 あまりに面倒なやり取りをしていた3人に、呆れたような目を向けながらアタランテが言う。しかし、よそ見をしていたはずのマスターが復帰して呟いた。

「先生のことだから、余程何か無い限りはそういうのないと思うな」

「(マスター退路断っちゃだめー!!)」

 

 

 

「特別講義って、何の話をしてたんですか?」

 貰ったものは粗末にしてはいけないと言う話になり一段落ついた後、参加できずに気になったらしいメディア・リリィが尋ねた。

「ああ、媚薬の話だったよ。面白かったなぁ」

「ぶっ!?」

「大丈夫ですか?」

 要は食品の効果の話だったが、イマイチまとめきれないな、と、立香は詳しく説明するのを放棄した。吹き出したのはもちろんケイローンである。何てことをやってるんですか師匠。

「は、はい……マスター、媚薬の講義とは、まさか誰かに」

「じゃなくて、チョコレートに媚薬効果はないよって話!」

 薄らと暗い目をしたケイローンに、立香が慌てて訂正すれば、明らかな安堵のため息が吐かれた。カルデアに来てから師匠が何をするかわからないだけに、ケイローンの負担も大きかった。妙齢の女性が講義する上に、内容が内容である。

「そうですか……あまり教育上よくない話題は出さないはずの人ですから驚きましたよ」

「先生は清姫の疑問に答えただけだよ」

「それでも、です。最悪の場合はお茶を濁して終わらせる人ですからね」

 基本的にアッティカは教師である。子供に教えられないと判断すれば全力でそこから遠ざけ、必要なだけの時間をかけて叩き込む。この場合教えるべきだと思えない紹介のされ方だったのが問題だったのだ。

「でも、先生の場合ちゃんと授業の真面目な内容です〜って感じだからそんなに違和感感じないよね」

「……大先生、時々突拍子もねぇことするんだよなぁ。先生はよく慣れましたね」

「昔から、いつもそうでしたからね……」

 昔を知らない他の面々は興味が出たが、男装の教師であっても今の愉快な人柄と大差ないだろうと検討をつけた。聞かぬが花かもしれない、と認識が一致したこともある。

 

 だがそこで訊かないという選択肢がないのが立香だった。

「昔の先生ってどんな人だったの?」

「そうですね。師匠である以上に、父親のような、母親のような人でした」

 そう言われ、立香はセナがアッティカを召喚したときのことを思い出した。男性物のキトーンを着込み、立ち振る舞いや堂々とした雰囲気から男性に見えた。あれが師として、父親代わりとしての姿に近いのだろう。

 今は再臨して女性物のキトーンに、長くなった髪は編み込んであるため、普段は母や女教師としてのイメージが強い。生きていた頃なら、どちらも併せていたはずだ。

「お父さんとお母さんの中間みたいな感じかぁ……」

「ええ。食事の用意から弓の稽古の復習まで、一人で全て教えてくれましたから」

 先程の授業のように、食事の支度をしながら講義をしたのだろうか、と立香は少し気になったが、何が飛び出してくるかわからない以上、訊くのはやめておこうと思った。

「先生って本当に親みたいな人なんだね」

「そうですね」

 慈しむような目をして語るのは、限りない親愛からだろう。どれほど大切にされたか、とてもよくわかる表情だった。

 

 

 そんな目を見たからには、それはそれとして先生はバレンタインのチョコレート用意してくれないんだよね、と立香は言えなかった。蜂蜜で大丈夫であると信じるばかりである。

 




せんせいがどんどん愉快な人になりつつある不思議。

いくら回してもケイローン先生来ません。


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マスターなせんせいと人理修復

先生がマスター候補になるif。そのうち水着の話とか書きたいんですけど、夏のうちに書けるのかどうか。


「ビリー、貴方、とんでもない置き土産つくって逝ったね……」

 棺に土が掛けられていく。どんどん箱の色すら見えなくなって、傍らに薔薇が植えられた。墓が完成する。比較的付き合いは短くても、仲の良かったことには変わりない友人が、帰天した。

 

 ちらほらと帰り始めた人の中で、私と、彼の娘だけが残っている。涙の跡を隠さないのは正解だ。きっと今後は泣けなくなる。今のうちに泣くべきだろう。

「オルガ、私は車を回してくるよ。……このあと少し付き合ってくれるかな」

「なによ、哀れんでるつもり?」

 涙ながらにオルガマリーが私を睨む。握られた喪服のスカートが、柔らかなシワを刻んだ。

 

 彼女は敵が多かった。政治能力は高く、魔術師としても優れている彼女は、人に弱みを見せるのを嫌うから嫌がらせだと思ったんだろう。この場においても、きっとこのあとでも、彼女を利用しようとする輩が多い。生前付き合いがあった父親の友人なら、余計に警戒する。特に、何者なのか分からなかった私は、警戒されないはずがない。

 

「いいや、貴女なら一緒に悼んでくれるかと思っただけだよ」

 言葉に偽りはない。ただ、私が交流していたことについて詳しい説明をするためには、少しばかり時間がかかる。

「……なら、いいわ。感謝しなさい」

「うん。ありがとう、オルガ」

 ウィンクを残して彼女を一人にする。心配はしているけれど、少しばかり、速度を落として大回りして車を回してこよう。一人で大事な人に向き合う時間は、きっと今の彼女にとって何よりも必要なことだ。

 

 

 

 

「……と、まあ、いろいろあってね。古代ギリシャに行けたらいいのになと思ってたらビリーが拾ってくれたんだよ。あの頃は研究するのが楽しかったなぁ」

 前はロマニを交えて3人でよく行っていた店で、今度はオルガとふたりでディナーにありつきながら、ビリーにも伝えたことのある昔話をした。死に際とか教え子とかの一部を除いて伝えると、呆気にとられた様子だったけれど、真剣に聞いてくれるあたり、二人共似ているなぁとしみじみ感じる。

 結局、カルデアに所属したあとに神代は難しいと分かったものの、そのまま居着いてマスター候補に収まることで一応話はついた。給料がいいからそれでも構わないと思っているあたり、私も現金な人間だ。

「それ、タイムスリップというよりレイシフトね」

「それにしては、帰ってきたときに年齢の変化がなかったからおかしいんだ。でも、可能性としてはあり得るよね。検査結果だと私のレイシフト適性100%だったから」

 つまり、素のままであの時代に行ってしまったのだ。でも、あっちには10年以上いたせいで、本来なら四十路近いのに行ってくる前の姿に戻っていたから、その点は非常に不可解だ。

 私は知りたかった。知らないことが多すぎて、ビリーにあったとき、魔術に縋った。それは協力者という形で叶えられたもので、取り入る気も、その必要もなかった。

「だから、私は別に何か政治的意図を持ってビリーやオルガと付き合いはしないよ。知りたいことが分かれば、それでいい」

「信じられない」

「信じなくてもいい。ま、私は地味にエゴの塊だからね。好きに使ってくれればいいから、気楽に考えて欲しいな」

 少し考え込んで、オルガはこちらを見る。橙がかった金色の瞳が、私をまっすぐにみつめている。

 思わず喉が鳴る。

「……いいわ。じゃあ、これからもたまに付き合って頂戴。同僚としてではなくて、ただの知り合いの一人として」

「もちろん」

 そういう関係なら気疲れしなくて、こちらとしても願ったり叶ったりだった。私が持ちかけた共犯者は、艶然と笑って、私が差し出した手を握った。

 

 

「って経緯なのよ、オルガとの付き合いは」

「「へ〜」」

 いろいろ省いて共犯になったことを中心に経緯を語ると、人類最後のマスターになってしまった律くんと立花ちゃんが笑った。今振り返ってみても、始まり自体は本当に大したことじゃなかったんだよね。

 

 カルデアスに未来が映らなくなって焦りながらも、オルガはすべての任務を遂行した。爆風に吹き飛ばされて死にかけたりもしたけど、彼女は無事だ。シェルターが閉まる前にロマンに救出されて、今は元気に後方から指示を飛ばしている。暗殺対策にエアバッグ的結界作っといて正解だったなぁ……。

 

「マスター業は荷が勝ちすぎるだろうけど、少しなら力になれるから、いつでも言ってくれるといいよ」

「俺は平気だし、なんとでもなると思うけど」

「瑞樹さんは大丈夫?」

 お互いに補うように話す藤丸姉弟に、思わず笑ってしまいそうになる。

「私は平気。だって、これに耐えればきっとまた思い出の場所に行けるかもしれないからね」

 笑いかけて、石を渡す。ダ・ヴィンチの星の形の虹色の結晶は、落としたらその瞬間するりと召喚陣に溶けるもの。

「さあ、おなじみの運試しだ。どの英霊が応じてくれるかな」

 通算何度目になるか覚えていない召喚のため前に進み出る二人を、私は部屋の隅から眺める。私は優先度低いから後です。マスター適正レイシフト適正共に100%の彼らが優先されるのは当然。

 

 金色の光を放ち、召喚光が召喚陣上で回転する。光は天を衝き、収まったときには二人分の人影がそこにあった。片方は、面差しに見覚えがある。いや、そんな、まさか。

「サーヴァント、アーチャー。ケイローン、参上しました。我が知識が少しは役立てばいいのですが……。ともあれよろしくお願いします。あなたのため、力を尽くしましょう」

「よろしくね、ケイローン」

「いいサーヴァントを引き当てたぜ、アンタ!  ってな訳でライダーのサーヴァント、アキレウスだ」

「え、アキレス腱の元ネタの?」

「そうそう、踵が弱点でお馴染みの英霊さ。ま、俺の踵を捉えるなんて、誰にでもできることじゃあねえけどな! 人類最速の足、伊達じゃあないぜ?」

 律君がケイローン、立花ちゃんがアキレウスなんて大当たりを引いたことも割と気にならない程度に、目の前の懐かしい彼が圧倒的存在感を放っていて、思わず気配遮断をした。

 

 けど、間に合わなかった。術式が起動する寸前に目があって、思わず後ずさる。いや、まさかね。当人とは限らないし、死に際に女とバレたわけで、まだバレないはず……

「アッティコス先生!」

 バレてた。

 

 私を呼んだせいで一気に気配遮断の術式が溶ける。これ、気づかれたら術式がすぐに融解するのがネックなんだよね。

 

 よし、逃げよう。すぐ逃げよう。絶対ややこしいことになる。主に教え子については一切説明してなかったオルガが。

「律君、立花ちゃん、ごめん!」

 あと、単純に顔を合わせるには貧弱すぎて恥ずかしいのだ。今の私は鍛える前とさほど変わりないから、先生としては情けないにもほどがある。あの頃の鬼師匠が貧弱な女とか泣けるだろうし、私なら歳なのかなと思ってちょっと泣く。まあ、帰ってきてから頑張ったし、かなり動ける方ではあるけど、前と比べたら全然なのだ。でもパルクールはできるから全力で逃げられるよ、やったね!

 

 ということで、悪いけど逃げさせてもらう。ギャップが激しすぎてグッピーなら死んでるんだよ。心底残念なことに胸しか引き継げてなかったとか泣く。筋肉もあったけど、もう少し鍛えた頃の筋肉が欲しかった。

 廊下

「え、ちょっと、瑞樹さん!?」

「どうしたの!?」

 ロマンのところなら隠れててもバレないかな。いや、ケイローンは確か千里眼持ちだからバレるか。千里眼とかの阻害術式、神霊にも効くんだろうか……効くといいんだけどな……。

 

 廊下を今までないくらい全力で走るせいで、いろんなサーヴァントやスタッフさんたちが振り返るけど気にしない。たまに殺しに来てるのかみたいな一撃も飛んでくるし、後ろから弟子の矢が飛んできてスレスレのところに刺さっていくんだけど、気にしない。気にして速度を落としたら否応なしに叩き潰される。死ぬ。

 

 

 

 

 

「で、大脱走したのはそんな理由ですか、先生」

 結果、スカサハ師匠に猫の子のごとく首根っこ掴まれて捕獲されました。今は律君経由で貸し出された部屋で、ケイローンから説教されている。

 でも、逃げた私が悪いのはそうなんだけど、なんでこう、正座でお説教になるのかな。君ギリシャ出身だよね。……忘れてるだけで、私がさせた事あったかな。十年以上も一緒に居たから、そういうこともあったかもしれない。歳かな。歳だな。

「……だって、君だって失望するだろ、こんな貧弱なのが教師役だったなんて」

「しませんよ。先生は私をどんなふうに捉えていたんです」

 目を逸して言い訳をすると、ケイローンは眉根を寄せたまま、重い重いため息を吐いた。

 どんなふうって言われても、答えなんて一つだ。

「明らかに私より数段優れた優秀で、人格者の弟子」

 もう、弓ではまず勝てまい。パンクラチオンも、あの頃から体格差で防戦一方になっていた。道徳の授業は簡単なことしか伝えられなかったのに、哲学者のような思慮深い人間性を育んでいた。どこからどう見ても私なんぞより立派な年長者だろう。

 

 そういえば、きっと私よりずっと長生きしてるんだった。才能だけじゃなくて、年齢まで追い越されちゃったか。ちょっと先生寂しい。

 

「私は先生が思うほど優秀でも、人格者でもないですよ」

 嘘だ、と喚き散らしても許されるだろうか。複雑そうな顔をしているが、私の尽くせる言葉全てで褒めて自覚を持つよう促せばいいのか? でも、いかんせん褒めるのは苦手で困る。

「ケイローン、君は」

「先生」

「はい」

 よし、褒めるか、と思って口を開いた瞬間に遮られたのでお口にチャック。相手の話は、邪魔しちゃいけない。ケイローンは恨み言の十や二十は抱えてるだろうから、余計にだ。

「あなたは私の師です。どのように姿が変わっても、あなたは私の師であるその人です。……逃げられたら悲しいです」

「ごめん」

 謝るしかできない。やっぱり弟子は相変わらずの弟子で、人格者だった。

 

 手を伸ばしても怒られないみたいだったので、昔のように頭をなでる。色は前より落ち着いているけれど、髪の毛が硬いのは成長期からあんまり変わってないみたいだ。

 懐かしいなぁ。カルデアで仕切り直しができるとは思っていなかったから、少しばかり嬉しく思う。いつか送還しなきゃいけないにしても、少しくらい、旧交を温めるのは許されるだろうか。

 

「呼んでくださらないので、嫌われたのかと思いました」

「私は、君のマスターには向いていないからね」

 ケイローンは、本当に変わらず気遣いに溢れている。正直に言うとその通りで、あのあとを知りたいけれど、彼には会いたくなかったから正解だ。幸せでいると、幸せだったと知りたかっただけなんだ。

「そんなことは」

「あるよ。君は懐に入れた人を無邪気に信じすぎている」

 撫でる手を止めて、立ち上がる。少し足が痺れていて、うっかりすると足がもつれそうだ。

 

「少なくとも、カルデアにいるうちに君を避けはしない。最優先は君たちのマスターだ。ケイローン、君はそのための判断をしなさい。最悪、私や他の誰かを切り捨ててでも、彼らを守るんだよ」

 硬い表情になるのは仕方ないことだろう。私は、律君や立花ちゃんがこの旅の中心になると理解しているし、人類の生存率を上げるために切り捨てられることは受け入れる。それは、少し苦しいことだけど、仕方のないことなのだ。

 

 あの年若く、未来への希望に溢れた二人を主力にするのは心苦しい。サーヴァントもスタッフも、彼らを辛い目に合わせないように、戦いを無理に強いすぎることがないように。ケイローンがどこかでストッパーになってくれたら良いと、私は無責任にも考えている。

 

 

 顔を見ないように、見られないようにケイローンの方を振り向かずに戸を開ける。

「懐に入れた人間に甘いのはあなたの方でしょう、先生」

 恨み言には、答えられなかった。



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伸ばした指の先

触れないほうがいいこともある話。

古代で少しばかり縁のあった人にアカイアの英雄がちょっかいかけるだけの話。


「絶対触らないでください」

 振り向いて注意すれば、いかにも不満と言いたげな顔のギリシャの英雄がいた。

「なんでだよ、いいだろちょっとくらい」

「今後強烈な薬品アレルギーに悩まされても知りませんよ」

「のわっ!?」

 つつこうとした指を引っ込めて固まりかけのレジン細工を見る大英雄に、そろそろ部屋から出ていってくれないかなと頭を抱えた。

 

 

 私はカルデア職員である。名前はあるが秘匿している。それと、他のスタッフみたいな事をする要員ではない。マリスビリー前所長の食客で、鉱石以外などに魔力を蓄積させる研究をしていただけの穀潰しだ。

 

「立夏くんとマシュさんがいれば良かったんでしょうね……」

 

 何が楽しいのかやってきた大英雄は、未だにレジン細工を眺めている。棚の中から試供品を一つ取り出して渡してみようかと思ったが、オリーブグリーンのそれはどうにも私の好きなトロイアの英雄の色であるので渡したくなかった。何か使えるものはあっただろうか。

 

「アイツらはしばらくレイシフトだろ? 何でだ?」

 今は彼らはアメリカの特異点を攻略している。アメリカがインドとか大乱闘ケルティックブラザーズとか言っていたが、あれは半ば狂ってしまったのではなかろうかと密かに思っている。あんまりマスター業務の荷を重くしすぎてはいけないのに過負荷になっているんだろう。

「ここにいても楽しくありませんよ。英雄好みの愉快さならマスター君たちに任せるべきですね」

「……オレがいたら不満かよ」

「ええとても」

「即答か!」

 もちろん。学生生活と今生をトロイア戦争に捧げるつもりで生きてきたんだよ、私は。トロイア勢は絶対不可侵領域です。侵犯は何であれ認めない。ヘクトール殿は聖域。はっきりわかんだね。

 あと、ついでに加えると前世でざっくりすっぱり斬り殺されてる上に浅からぬ縁もあったりする。今生まで関わり合いにはなりたくない。魔術も何もない場所!と思ってやってきたらこれな上に罠だったのだから大人しくしていたいところだ。

 

「基本腰が低いくせに、なんで俺にはそんなに態度キツいんだよお前」

「推しは正義なのですよ、正義」

「そんじゃあのオッサンのことが好きなのかよ」

「地獄の果までついていける程度には慕ってますね」

「心底惚れてんじゃねぇか」

 そりゃそうだ。というか、なんでここまでの対応で分かってくれないのかわからない。一度や二度でもないので適当に対応してたけど、流石に絶対領域トロイア第一王子は譲れない。軍の指揮官として輝かんばかりのトロイアの英雄とか軍門に下らないわけがない。軍勢いないって? 俺たちが兵卒になるんだよ!

 

「それ、触らないでいてくれたら、こっちで良ければ差し上げられますよ」

 とりあえず、他に縁のありそうな色、と深い青色の鉱石型レジンワークをちらつかせると、簡単にそちらの方に食いついてきた。

 

 英雄が気にするのには訳がある。実はこれ、爆薬代わりになる試験作なのだ。しかも、かなり改良がうまく行った自信作。見た目もそれなりにきれいだと思う。ちゃんとした石ほどではないけれど。

 

「ほう……?こういう仕上がりになるのか」

「ええ。顔料に魔力を混ぜて、一度きりの爆薬にします。一つ一つの火力は宝石より低いですが、まとめて叩きつければ人の群れ一つ吹き飛ばせますよ」

「数が必要なのに、貰ってもいいのか」

「出ていっていただけるなら安いですよ。橙のもありますけど、そっちにしますか」

「いや、これでいい。……邪魔したな」

 一番大きい粒を一つ取って嬉しそうに笑う彼は、ぱっと見たところ普通の青年にしか見えなかった。人間、英雄になるのはそうそうできることじゃないが、メンタル強度や感性は多少なりとも似てるものなのかもそれない。

 

 

 

 なぜ私に話しかけてくるのかなんて、私は知る気はなかった。

「ったく、なんで生まれ変わってもずっとそうなんだよ」

 だからこそ、部屋を出て、壁にもたれかかって崩れ落ちた彼の嘆きを、私はこのときは知らなかった。

 

 

 

「名前、今度はヴィエイユにするかな」

 コロコロ変わる名前の由来を、彼は知らない。知らせるつもりも、ない。真名隠しでごまかせるとは思えないけど、縁があることを知られたくはなかった。私はトロイアの女。今日も元気にトロイアを推すだけである。




続くかもしれない。


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指先で星は爆ぜた

アキレウスとカルデアの食客の、遠い遠い昔の話。


「私は、女として生まれなければよかったよ。貴方はそう思わないかもしれないけどね、アリグノータ」

 私が問えば、歳の近い新入りの娘は曖昧な顔をして、黙った。否定は、されていない。新しい反応だった。肯定してもらえないのはいつものことだから、少し、世界に受け入れられたように思ってしまう。

 でもやっぱり、私はこの世界で生きているのに向いていない。女の徳を尊重するくらいなら、私は七度戦い七度死ぬほうがいい。そう考えてしまう私は、異物でしかないんだろう。

 

 

 

 もともと生まれていた時代から離れて、それなりの家に生まれて。女の性別のまま、流されるように生きてきた。勉強もさせてもらえないのを、こっそり兄たちの道具を使って我流で学んで、抗ってはみたけどどうしようもなくて。親からの圧力のままに娘集団でやり取りをするようになって、息苦しさは増していた。

 しばらく前にやってきた娘のアリグノータは、スッと輪の中に溶け込んでいって、みんなをたちまち夢中にさせた。私はそれがなんだか恐ろしいものに思えて、そっと距離をおいた。それに、ちょうど息苦しい場所から抜け出せると思うと心が弾んだ。好き勝手に隠れて稽古ができたから。隠し持っていた短い槍の練習をするのも、詩の勉強をするのも、全部咎められて、できなくて、鬱憤が溜まっていたから良かった。

 

 そのうち、アリグノータが追いかけてこようとすることが多くなった。不審がったんだろう。一度、槍を振るうところを見られた。

 その時のやり取りが、あれだ。私のことを否定しなかった。それから少しずつだけど話をしたり、こっそりと武術の練習をしたりした。周りは私が意地を張るのをやめたか、説得されたんだと思ったんだろう。都合よく練習時間を取れるようになった。

 毎回負けるのは私。でも、少しずつ上達したし、戦える時間は長くなっていった。それに、その後の話や織物の手ほどきも全く辛くはなかった。下手な私に無理して付き合ってくれるのはありがたいが、いつまでもそんなことをしているわけにもいかない。白緑の髪が戦いのときに風になびくのは好きだったけど、どこか恐ろしいものを感じることはずっと変わらなかった。

 

 

 

「アリグノータ、買い物に行ったんじゃなかったの」

「え、いや、うん」

 アハハ、と笑ってどうにかごまかそうとするのはこの娘の癖だ。余りに高い位置にある顔を見れば、寝坊でもしたのだとすぐわかる。顔に繊維の跡がついていた。

「まあいいけど、もうすぐ面倒ごとが起きるから、食料は少しばかり買っといたほうがいいよ。……穀類が高くなる。買い占めの前に集めておくに越したことはないから」

「何で」

「戦争が起こる。持ち込まれたものに黒くて食べられない臭い油が紛れてたから。あれは、きっとそういうことよ」

 私が言うと、アリグノータは眉根を潜めた。これは、わかっている顔なのかいない顔なのか。

「……どういうこと」

「ああ、そうだったね」

 理解してくれる人はそれほどいまい。女は、こういうものを普通は知りはしないから。臭いだけの食べられない油が、恐ろしい煙で人の命を奪うことを知らない。こういうものが持ち込まれるというのが、買い付けなければいけないことになってしまったということに気付かない。

 いいや、ただの思い過ごしかもしれない。でも、そうなったら私にできることはない。アリグノータみたいに、丁重に守られている人間ではないのだから、先程、黒い油と一緒に結婚を選んでしまった私にはただ、行く末に任せるしかない。それは、とても楽しそうなことであるけれど。

 

「ディカー、聞きたいことがある」

「何」

「何で、いつもそんなにつまらなさそうにしてたんだ?」

「……私は、私には女の仕事ができない。価値がない。この世界にいる価値がない」

 この世界では私に価値はない。私は、糸を紡ぐよりも隠れて槍を振るうほうが好きだった。散々出来損ないと言われながら頑張ったけど、もう頑張れない。理解されることを、その心地よさを知ってしまった。兄さんたちが使い古したそれで、一心不乱に練習することが心地よかった。家の中にだけしかない女の世界は、何もかも息苦しかった。

「だから、もう、死ぬしかない」

「何を!」

「何も。ただ、戦争が起きるところへ売られるだけよ」

 金色の目が、これでもかと見開かれた。いつもなら猫のような、好奇心たっぷりの目が曇る。

「売られる……!? 家が貧しくもないのに」

「そうだね、貧乏よりは裕福だと思う。でも女は価値を、結婚を買わなきゃいけないから」

 仕方がないのだ。持参金で相手を買うだけ。だから、当然女は悪様に罵られる。何か訴えれば、やれ毒婦だ何だと言われる。でも、結婚しないと生きていけないのだ。そういう社会だから。

「それ、どうにかできないのか!」

「出来てもしないわ。もう決まって受け入れたことだから。……落ち着いてられるから、きっとそれほど悪くない気分だと思う」

 泣きそうに顔を歪める彼女は、何だかいつもよりずっと頼りなく見えた。ただ、私は家の商品になっただけ。馬鹿みたいに心配することもないのに、どうしてそこまで悲しむのだろう。

「明日には発つから。さよならだよ」

「……アンタの話は、好きだったのに」

「そう、なら詩作でもしておくべきだったかな。私がいなくても、あなたは読み返せるでしょう」

「……そうじゃない! なんで、なんで助けを求めない! もっといい縁組だって……!」

「ないわ。相手は王の家臣よ。おかしなくらい、いい縁でしょう?」

「そんな、」

 私は平静で、動揺なんかしないと思っていたアグリノータのほうが慌てている。少しは親しんでくれてたみたいで、なんだかもったいないことをしてしまったように思えた。捨てるには惜しいものを、今手に入れちゃうなんて。

 でも、ごめんね。私はこれで好きに生きられる。だから、この藁を掴まなきゃ。

 

 

「本当に良かったのか」

「ええ、もちろん。ここが私の生きる場所になるなら、それで」

 トロイアへの道中、形ばかりの夫となる人が声をかけてくれた。この人には既に妻が居た。でも、とても愛していたのに亡くなったそうで、酷いことをしてしまっている気になる。結婚は私のせいではないけれど、それでも偲ぶ時間もなく私を娶らされるのは気の毒だ。

「……君は、死なせるには本当に惜しい」

「あら、そのために私を連れてきたのに」

 複雑そうな顔をして私を見る彼は、とても分別がある大人らしい人だ。だからこそ、本来なら参加すべきではない私を連れてくることに罪悪感があるんだろう。

 

 

 街に着いて、その後の殿下との顔合わせは、私はあまり話さないということを承知させられた上で行われた。下手なことは言えないし、私は貴族でもないのだ。あまり口を利ける立場にはない。

 オリーブグリーンの衣をまとったその方は、私を見ると悲痛そうな顔をした。ああ、この人もきっと、運命の中にある人だ。滅びを待ちながら、モイライの糸に抗おうと足掻き続ける人。

「ご苦労さん、君のような若い女の子に頼むのは世も末だってわかっちゃいるんだが、神託に従わないとジリ貧になんだ。恨んでくれていいぜ」

 その言葉に、思わず涙がこぼれた。

 恨まれるのは、私の方。あんなところで私が神託通りの行動をしてしまったから、私を連れてこざるを得なくなった。恨んでいるかもしれないのは、この国の方。嬉々として来た私でなく、この国の長だ。ならば、少しでも敵を減らすために死力を尽くすのみ。

「いいえ、殿下。私はこの命を、このトロイアへ捧げると決めたのです。ゼウスに誓って!」

 宣言した以上、もう戻れない。脳裏に、懐かしい白緑が浮かんで、消えた。

 

 

 

 武装した手足が武者震いで軽い音を立てる。

 戦争なのだ。これから、死ぬ気で走りきらなきゃいけない。トロイアの、そして自分のために。

 まだ私は未完成だってわかってる。こんなことじゃ、ただ肉の壁になるくらいしかできないだろうことも。それでも走らなきゃいけない。戦わなきゃいけない。だってあの人は、あの人たちはこの在り方を良しとしてくれた! 必要としてくれた!

 戦場の遠くに、鮮やかな白緑が見える。こちらに来るまでに時間はあるだろう、なら、その間に少しでもアカイア勢を減らさなければ。

「あなたで良かったよ、アリグノータ。いや、アキレウス」

 負けるだろう。知っている。すぐに轢き殺されるだろう。それでも構わない。承知の上だ。

 私はただ、生きた証がほしいだけだ。心のままに命を燃やした、その証が。

 

 さよなら、異物を少しだけ理解してくれた私の友達。お前が救えない有象無象の意地を見ろ。




ディカーは生まれ変わっても火の元に縁があるので、そのうち爆弾兵にでもなるかもしれない。

臭いだけの油、というのはギリシアの火に使う原油です。海上に色々混ぜた上で流して火をつけて使う毒薬。知識がないと使い方なんてまず分からないです。


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星見姫は奪えない

オルガマリー第一主義の女の子と、少なからず関わろうとしてるオルガマリーの話。女の子視点。
雰囲気で読んでください。

百合百合しい話って難しいですね!なかなか書けない!


「ちょっと!」

 よく聴き知った大きな声が木の下から聞こえてきたから座っていた枝から飛び降りる。話をするとき、登ったままだととても怒るから。

 

 時計塔の庭園の、一番立派な木は私の避難場所だ。多少気配を削げば葉っぱが身を隠してくれる。しかも大半の授業が始まったばかり。よほど注意したい人か、同じようなコマ割りの人しかこの辺りには来ないだろう。もっとも、勉強熱心な魔術師ばかりで、くる人はそもそも少ないのだけれど。

 声の主は例外的な人だ。私の友人。君主の娘の、星見の姫。オルガマリー・アニムスフィアその人。そういえば、彼女も今は授業がない時間帯だったのかな。わざわざコマ割りを聞くことはないから、よく知らない。そういうものだよね。

 

 ああ、お説教かと、場面にそぐわないなのは承知で、少し嬉しく思う。彼女が私に接触するのはこういうときだけだからだ。わざわざ呼ばれることなんて、あんまりないから相当ご立腹なんだろうな。

「シドニー、貴女またなの?」

「うん、またやったよ」

 私がいつも通りに笑ったら、軽い音がして、急激に左頬が熱を持つ。叩かれた。平手打ちは何ヶ月ぶりかな。これはいつもより痛いはず。たぶん、きっと。痛いのは、よくわからないけど。

 

 マリーは今日はやけに血色がいいから、急いで来たみたいだ。ランチタイムはしばらく前に過ぎている。昼前にやったことだから、噂好きかいつもの誰かさんが風の流れに放ったんだろう。ここは広いのに、伝わるのは早いね。叩かれたのも、早く来たのも、相当ご立腹だったみたい。反撃されたのは痛くなかったけど、マリーの一撃はすごく効く気がする。

 

 でも、これはこれでも悪くない。彼女が私を探してくれた。それは、得難いことだと思うから、それでいい。だからといって、割に合わない喧嘩ばかりするつもりもないのだから、少しは許されるだろう。

「だって、あいつらマリーのこと凄く悪く言うのよ。腹が立つの、当然ね」

「だからって、わざわざ怪我させることはないでしょう!」

 目尻を吊り上げて吼えるマリーは年相応だ。うん、やっぱりこういう顔も好き。いつも難しい顔をしているから、時々フラストレーションを発散するくらいでちょうどいいんじゃないかな。私は特に気にしないのだから、これでいい。

 

「いいえ、このぐらいでいいの」

 殴った奴らを思い出す。突っかかったのは私だけど、先に拳を振り上げたのは相手。なら、私のは正当防衛だろう。一人一発ずつしか食らわせてない。あれらが妙に怯えてたのも、きっと気のせい。ちょっと、力の加減を間違えただけ。

 まあでも、悪いのは間違いないか。でも、それでいいや。次はもっと、うまくすればいいだけ。マリーが怒るのは、きっと悪評を恐れているから。次はもっと隠れた所でしよう。殴られたらバレるから、反撃させないように。

 

 

 でも、次のその前に、彼女が怖がってることをなんとかしないといけない。悪評は、彼女には決して関係ないのに、ひどく怖がる。私だけの評価を、そんなに恐れなくてもいいのに。

 

 彼女が望めば、私は喜んで自分に首輪をはめる。絶対服従しろと言われると、それは嫌だけど。でも、自分を害するな、彼女を守れ、なんて命令なら、尻尾を振って聞き分けるだろう。それが望まれないことは分かっているから、思うだけだけど。

 それでも、マリーは怖がってる。自分に陰口の牙や刃が向けられるのを。私は力でどうにかするしかできないから、そういうふうにしているけれど、きっとうまい方法はいくらでもあるんだろう。あとはそう、彼女を誰も知らないくらい遠くに連れ去ってしまうとか。

 多分それは、私にとってはとてもいい案なんだけど、彼女は喜ばない。でも、提案して見るくらいは、許されるかな。

 

「ねえ、マリー。息苦しくない?」

 深窓の令嬢、サラサラの生糸の髪の麗しい姫。私からしたら完璧の代名詞みたいなお嬢さんは、きっと今まで何度も聞こえよがしに言われた陰口を知っていると思う。それに、跡取り娘のプレッシャーもあるだろう。

「そんなことないわ。なぜ?」

 それでも、私の女神はまっすぐ前を見つめている。苦しんでも、悩んでも、絶対に折れまいと理想を杖に立ち向かおうとすることができる。こういうのが、高貴な姿だと言えるんじゃないかな。

 

 それでも、私はそんなものは捨ててしまえと囁きたくなる。あなたにとって、それはそんなに必要なものなのか、って。でも、そんなことを言って揺らがせてしまうのは不本意だから、そこには触れずに、言葉を変える。

「それならいいんだけどね、もし、期待とか、押し付けられた理想の姿とかが苦しくなったら」

 マリーの目が大きく開かれていて、ああ、きっとこれは言わないほうが良かったことなのかなと気づいた。でも、溢れたミルクはお皿に戻ったりしない。

「一緒に逃げましょ、オルガマリー?」

 

 答えまでの時間が、あまりに遅い。体感時間なんて信用ならないけど、苦痛でしかないのは確か。

 きっと、私がほしい答えは貰えないから、余計に。

「……考えておくわ」

 

 待ち望んで与えられたのは、息を詰めて、吐き出したような一言。それじゃあ、私は必要無いのかも。

 風が強く吹いている。そろそろ、次の授業の準備をしないと、教授から怒られてしまいそうだ。問題児になるのは、私生活面だけでいいの。マリーまで一緒に怒られちゃいけないし。

 

 

 ああでも、彼女と一緒に逃げられたらどれほど素敵だろう。何気ないことで泣いたり、くだらない映画で笑ったり、星のきれいなところで一緒にマシュマロココアを飲めたら、きっと毎日楽しいのにな。

 

 



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キアラさんとおかん

おかんがお弁当を作るだけの話。

何も思いつかずに適当したと犯人は供述しており……


「キアラちゃん、何してるの」

「えっ」

 

 何言ってんだ的な顔しても駄目です。騙されないぞ。その手に持ってる触手のような生き物は何だ。生き物は軽い気持ちでは拾っちゃいけない。

 

 

 結局、見つけた謎生物は私が確保する前にキアラちゃんが"しまっちゃおうね"しちゃった。

「まあ、これは没収するにできないものね……」

「ですから、召喚されたときには私の中にいたんです、お母様……」

 止めてもその前にしまっちゃう子はお説教です。正座をしているキアラちゃんからは反省の色が見えるような、見えないような。

 仮に言っているその通りだとしても、それでもだめです。お腹の中に収めちゃってたら何があるか分からないじゃない。お腹突き破ってきちゃうかもしれないじゃない。痛い思いをしそうなことは駄目なの。

 時計を見るともう夜も遅く、就寝時間も近い。若い子が睡眠時間を削るようなことをするのはいただけないから、もうよしたほうが良いのだろうけど、どうすれば反省するかしら。

「……まあ、今日はもう寝なくちゃね。お腹は空いてないかしら? 歯磨きは?」

「大丈夫ですわ、ありがとうございます。おやすみなさい」

 

 

 

 卵はじゅわっと、硬すぎず、柔らかすぎずに出汁を含むように焼き上げて。

 肉団子は加熱時間を加減して、火が通っていてもぱさつかないように、しっとりするように気をつける。揚がったら小さい串に3つ刺して、甘酢に絡めて冷ます。

 サラダは食べやすいようにピンチョス風、といえば聞こえはいいけど、とりあえず小さめに切って串で刺す。それから蒸して食べやすくする。蒸すのはレンジ任せだ。文明の利器バンザイ。トマトは蒸し上がってから添えるようにした。

 ポテトサラダは、ガウェイン卿が潰すのを手伝ってくれたからちょっと多め。彼は固辞したけど、あとで少し取り分けてお裾分けに持っていこう。定番とは違って、長ネギとマスタード、カリッとベーコンを混ぜた。長ネギはしっかり加熱して柔らかくて甘くて、でもビネガーも少し効いているから、リリィちゃんたちにはちょっぴり受け入れにくいかも。でも、これはこれで美味しいから、できれば好きになってほしいな。大人組には人気があるから、今日は特別に、っていうこともある。大人たちの分も確保したら、きっと少しは仕事を早く終わらせる気になるはず。下宿生時代によくこれで酒盛りをした思い出もあるからね。お酒にも合うし、美味しいよ。

 

 ご飯は熱いうちに3つのボールに分けて、混ぜご飯、ふりかけご飯、チキンライスにする。

 混ぜご飯に使う調味料はバターと醤油。具は角切りにして炒めたベーコンに、プリッとプチッとした枝豆。少し塩分は多めになるから、醤油は気持ち少なめに。

 ふりかけご飯は定番のゆかり。シソの爽やかな風味がいいおにぎりになる。私はこれに男梅を刻んで包むのが好き。カリカリして美味しいのよね。

 チキンライスは具材を工夫して。トマトソースにベジタブルミックスと小さく切った鶏肉を投入して、しばらく煮詰めてからご飯を入れる。ベチャッとしないように、しっかり水気が飛んでから。

 よし、これでご飯は完成。おにぎりは全体的に三角でも俵型でもなくて、コロコロするボール型を少し潰したような形。丸っこい形にしたのは、もちろん理由がある。

 

 今日のバトルに出る当番は、ナーサリーちゃんたち年少組と、キアラちゃんと李先生とマシュちゃん。だから、リツカちゃんとマシュちゃん、李先生は大人向け弁当で、四人組はお子様ランチ風にするつもりだったのだ!

 

「苺さん、今日のお弁当は何かしら!」

「今日はね、開けてからのお楽しみ。帰ってきたらどうだったか教えてね」

「苺ママのお弁当いつも美味しいから本当に楽しみ!」

 ぱっと見は普通のお弁当たちを渡しながら、私は密かににんまり微笑んだのだった。

 

 

 

「あら、おかえりキアラちゃん」

 みんなが帰ってきてからしばらく経って、弁当箱を洗っているうちにキアラちゃんがやって来た。

「……ええ、無事に帰りました……あの……」

「どうかした?」

 恥ずかしげにモジモジと指遊びをする彼女に、一旦手を止めてちゃんと向かい合うと余計に焦ってしまったのか、殊更に真っ赤になって黙ってしまった。

 どうしたんだろう、食べ残しちゃったとか、気づいてないアレルギーがあってだめだったとか? でも、アレルギーなら流石に碩学二人がやってくれる定期検査のとき引っかかってるわよね。駄目なものがあったのかも。改良したほうがいいかしら。

「お弁当、あんまり良くなかったの?」

「い、いえ! そうではなくて、その……」

 とっても美味しくて、と蚊の鳴くような声で言ってうつむいたので、じゃあ何なのだろうと半ば途方に暮れる。無理に聞き出してもいけないし。

 

「わ、私こんな可愛らしいお弁当を作ってもらったことがなかったものですから……その、嬉しかったです」

 今日のお弁当はチキンライスと薄焼き卵と海苔でまるっこいミツバチのキャラクター弁当にしていました。

 

 真っ赤っ赤なトマトみたいな顔色でそんな可愛らしい、そして聞き捨てならない言葉を聞いた私は、必ずやこの子に飽きるほど可愛い弁当を作ってあげようと決心した。

 でね、アンデルセン先生。あなたあまり邪険にしすぎるのも駄目ですし、そもそもキアラちゃんに難癖つけるような目線を投げるのも駄目ですよ。駄目です。



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おかんとささやかな願い事

ドクターに夜食のお菓子を作る話。

「ぼくの秘蔵のお菓子達が!」という題を貰ったので、そこから始まる話です。


「僕の秘蔵のお菓子達が!」

 悲鳴のような叫びを聞いて駆けつけると、そこにはお腹の膨れたフォウくんとドクターが居た。何やってるの、この子達……

 

 

 

 深夜の厨房に立つのは久しぶりだった。残業をさせないようにシフトを作って、ロマニにも夜ふかしさせないようにして、ゲーティアが棲み着いてからは余計にここを夜間に使うことはなくなっていたのだ。

「ごめんね、メイ。僕の管理が甘いせいで……」

「別に作るのはいいわよ。でも、今後食べられたくなかったら、管理は自分でしっかりしなさいね」

 ありあわせの材料も、少しばかり多めに見積もっていたから残っていたもの。今後の予備分が心もとない。明日の大食漢たちは果たして満足できるかしら。

 簡単な材料比で作れる生地を焼きながら、ぼんやりと考えるのはいつもみんなの空腹のことばかりだった。私にできることは少ないから、せめて、お腹いっぱいにしたかった。空腹が辛いのはほんの小さい頃から知っていたから、みんなは飢えないように気をつけていたかっただけ。それがここまで来たのだから、かなり進歩したんじゃないかな。

「うわぁ……! すごく美味しそうだよ!」

「よかった。まあでも、この時間だとこれしかできないのよね」

ドライフィグ、わかりやすく言えばドライフルーツのイチジクを白ワインとグラニュー糖で煮て、砕いたクルミと生クリームと一緒に、パンケーキで挟んだのだ。

「ゲーティアには、また今度作ってあげましょうか」

「なんでそこでゲーティアなんだい?」

「気づいてないの? 彼、あなたと好きなものがお揃いなのよ」

「っ、」

 彼から生み出されたゲーティアが、彼の好みをなぞる。それは意外かもしれないけど、ありえることだった。まあ、私は今のロマンが好きなものしか知らないから、それ以外は全くわからないけどね。

 彼には、ゲーティアを生み出してしまったことには罪悪感があるのかもしれない。でも、私には作られることが罪だったと思えない。命が与えられたものは、なんだって認められるべきだろう。認めることと、対応をどうするかというのは、つながってはいるけれど別物だ。

 そして、手放してしまったことと、生きたいと願うことは別のことだ。

「ロマン、あなたの選択は尊いものよ。人の意志は、すべからく尊重されるべきものだから」

「でもっ、それでも、それが迷惑をかけるものならだめだろう!」

「いいえ。そのときはそうね、一生を通じて自分で責任を取るか、それが悪くなった原因をどうにかするのよ」

 うつむいた顔に、これは悪い方に考えているな、と気付いて、自分の考えの浅さに舌打ちしそうになる。もっと別な言い方をすればよかった。

「責任を……」

「そう。でも、それをするのには欠かせちゃいけない大事なことが一つあるわ。決して、そのためや、その責任を取る過程のなかで死んではいけないこと。それを守ることよ」

 さっきの言葉を補完するように言い募れば、エバーグリーンの目があった。私が知っている中で、一番生き生きとしていた緑は、曇りきっている。

「じゃあどうしろって言うんだ」

「いい加減にすべて背負い込むのはやめなさい、ロマニ・アーキマン!」

 考えるより先に、言葉が転がり出てしまった。叱るような口調になってしまったせいか、少しばかりロマンの顔色は悪い。

 そうじゃない。叱ろうとなんてしていなかった。でも、言いたいことのほうが、言い繕うより先にどんどん出てくる。

「生きればいいのよ。生きて、誰かと共生できるように奔走する。あなたにはそうするだけの強い心と、必死に生きてきた知識がある。そうでしょう、ロマニ」

 

 否定なんかしないでほしい。このまま、好きに生きればいい。いや、今よりももっと自由に、好きなことをすればいいのに。やっと得た心は優しくて、まだ柔くて傷つきやすいのに、大人だからと必死に背を正している姿は見ていて痛々しかった。

 だから、せめて私は肯定していたい。この立派な青年を、生きる喜びをやっと知ったこどもを、否定したくない。もっと自由に生きていいと伝えたい。私にできることが少ないのは十分承知だけど、出来る限りのことはしたかった。

 

「……僕は、自由に生きていいの」

 肯定の意を示すために、涙声のロマニに笑いかける。ああ、ここまでが長かった。私達だけじゃ、もっと時間がかかったかもしれない。

 

 

 カルデアがあって、ここに来て、本当に良かった。失ったものも多かったけれど、それでも。

「そんなの、もちろんよ!あなたは生きているんだから!」




おかんとマーリンは次のおかん話で書きます。


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がんばれパリスちゃん!

パリスになった子が七転八倒する話。前編。
いつもより長いので分割しました。続きは書けてません。書くかもわからない。


 はろーはろー、私は羊飼いです。名前はパリス。男の子みたいな名前だよね! 実際は女だけど、訳あって男だよ。この名前、ちょっとだけフランスの都市みたいだよね。ここギリシャだけど。

 なぜこんなにテンションが高いかって、こんなのどかでのびのびできる環境で、山の麓とのやり取りをするために歌うみたいな声の出し方を練習したり、好き勝手走り回ったり、羊と戯れてたからだよ。未来と違ってここはとても楽だね。凄く体が軽い。未来に生きてた「私」は、こんなに自由に生きられなかったから目一杯楽しんでる。

 

 そう、僕には未来の記憶がある。正確には、ここじゃない世界だけど。まあ、それはそれとして、僕は元気に牧童として生きている。身分はそこそこだし、あんまり労働がいいこととは思われてないけど、ここでの暮らしはとても楽しい。

 今の僕は捨てられっ子で拾われっ子だ。でも、すごく愛されてる。僕が拾われたあとに生まれた、血がつながってない弟はものすごく可愛いし、父さんも母さんも実子として扱ってくれるから、特に不自由はないよ。一つ不満があるとすれば、たまに女としての結婚の話を持ってくるのはやめてほしいってことくらいかな。僕、今は男の子なのに。それにもう嫁ぎ遅れなのに。今更すぎると思うんだ。

 

 僕を拾ってくれた父さんは、「実子で死んだのは男の子だったから」と言って僕を育てたから、僕は男の子です。誰がなんと言おうと、届け出的にも生き方的にも男の子です。キトーンの着方とかも男の子スタイルだよ。それが表向きの理由で、私が危ない目に合わないように、と心配してのことだって、ちゃんと知ってるんだ。だから、それでいいと思って、男の子になったんだ。

 女として生きることを捨ててるわけだけども、それはそれで大変好ましいよ。だって、勉強するなって言われなくて済むんだ。竪琴の弾き方だって、女として育てられてたら教えてもらえなかった。手当の仕方や天文学なんかも教えてもらえなかった。それよりは、すごく良い環境だと思う。

 

 それにね、女物はスカート可愛らしくていいけど、散歩したり、木登りしたり、仕事してるときすっごく邪魔だからこの服すごく重宝してるんだ。動きやすいのがすごくいい! でも、できるならサンダルじゃない靴がほしいな。ブーツとかのほうがアザミのトゲトゲが刺さらないから、やっぱり通気性が悪くても欲しいな。秋になったら新しいの作ろうかな。

 

 

 

「パリス! この牡牛を競技会の商品になさりたいと代官殿が仰せなんだ」

「本当ですか! ええ、それはもちろん!」

 優勝者が捧げる生贄を育て上げたなんて、とても名誉なことだ。父から牧場の経営を任されてからこの方、一番の名誉だろう。

「父さん、僕も競技会に出たい。いいだろう?」

「しかしパリスよ、お前の体は、」

「体中ひどいあばたなのは分かってる。でも、僕だってずっと鍛えてきた。弓の技術ほどは誇れないかもしれないけれど、どうにか、一度でいいから」

 僕も、男の子として育ってきたから弟とレスリングや円盤投げの稽古をしてきた。体のことは、幼い頃に疱瘡になってあばただらけってことにしてるんだけど、いつまで保つかわからない。だからできるうちに、一度でいいから試してみたいという気持ちがあるんだ。たとえそれが、捧げものである男だけの祭典であっても。いや、だからこそ出てみたいんだ。

 

 父さんは相当渋い顔をして黙り込んだ。でも、僕にはわかる。これは、僕をこう育ててしまったことへの罪悪感のせいだ。僕自身はそんなこと、全く気にしていないのに、やはり責任を感じているんだろう。

 いつもの父さんなら、渋りはすれど、こんな顔をしない。体のこと、これから嫁ぐことがあるかもしれない僕への不安も混じっているんだろう。体だけは、しっかり女の肉付きだから。触れてしまえば、バレてしまう。布でしっかり固めてしまえば、また別なのかもしれないけれど。

「……わかった。参加を頼むだけはしてみよう」

「ありがとう!」

 

 

 

 

 と、まあそんな経緯で参加した競技会。割とちゃんと勝ち進めて、今まで誰とも比べられなかった競争心が満たされてめちゃくちゃ気持ちがいい。レスリングはものすごく痛かったけど。

 あ、もちろんレスリングは裸になるのを避けました。薄い晒し布で体中ぐるぐるまきのミイラにして、見苦しくなくしてってことで。ちょっと心苦しいけど、男同士で心置きなく競えて楽しかった。

 

「っ、この田舎者風情がっ!」

「うわっ!?」

 いきなり斬りかかってきたのは、高貴な身分とわかる服の男性だった。僕より少し背が高い。なんとなく、見覚えがある気がしなくもないんだけど、この方は誰なんだろう。

 ぽっと出の田舎者の僕が勝ってしまったのは不味かったんだろうけど、どうなんだろうね。ああ、ここで死にたくないな。死ぬならオイノネーちゃんに一目会いたい。

 

 とはいえ死ぬ気もないので、近くにあるアポッローン神殿へ飛びこむ。死にたくないからね、抜刀はご法度の神殿に隠れるのが一番さ。誰もいなければいいんだけど、祭壇、空いてるかなぁ。

 山育ちの一番の自慢の駆け足で祭壇の間へ転がり込むと、運が悪いことに女の子がいた。しかも、鮮やかな衣の、きっと王族の女の子。だって、こんな鮮やかな服は王族しか着られないものだ。年頃は、私より少し若いくらいかな。

 

「あ、」

「ごめんね! 僕死にたくなくて!」

 鉢合わせた女の子は、目を大きく見開いたと思うと、大粒の涙をこぼし始めた。闖入者は暴漢だと思ったんだろう。それが普通だ。

 

 それはそれでやばい。死ぬかも。

 

「姉さん! アレクサンドラ姉さんだわ!」

「へ?」

 泣きながら叫んだ言葉が、一瞬全く意味のない言葉に聞こえる。それから、ひしっと抱きついてくる女の子に思わずフリーズ。

 待って、アレクサンドラって、誰? きっと人違いなのに、どうしよう。僕はそのアレクサンドラ嬢じゃないのに。

 

 

 

 女の子の叫びを聞いた王家の人々はすぐに集まってきた。中には、王子たちもいる。姫も。

 さっきの女の子はカッサンドラ姫だった。さすがは太陽神に気に入られる王家。みんな美しい顔立ちだ。とりわけ、兄に当たるらしい第一王子は美丈夫だ。年を経た渋みが男前に磨きをかけていて、正直に言うととってもずるいと思う。男らしくてかっこいい。僕だってそんな歳の取り方をしたい。

 

 で、それくらいの現実逃避くらいいいよね?

 いいと信じてる。だって、こんな状況になったらいくら名の売れた英雄だって戸惑うだろう。そんなこともないのか。英雄だもんね。

「アレクサンドラよ、そなたには悪いことをした。いくら不吉な予言を与えられたとはいえ、お前を捨てるべきではなかったのだ」

「ごめんなさい、本当にごめんなさいアレクサンドラ」

 泣きながら私を抱きしめる国王夫妻に、スゥッと頭が冷えていくのを感じる。これで、僕はパリスではなくなってしまうのか。こんな子供同然のわがままを言ったせいで、僕を愛してくれる父さんと母さんを捨てなくちゃいけない。

 

「この身はただの羊飼いでございます。確かに幼い頃に養父に拾われましたが、私はただの羊飼いの子。きっと人違いでございしょう、国王陛下、王妃殿下」

 

 僕は父さんと母さんを愛しているし、国王夫妻だって、大事だと思う。この方々が泣かないように振る舞うべきだとわかる。それでも、僕は僕の父母への情を捨てられない。王家の血の繋がった人々でなく、今朝まで笑い合っていた家族が私の家族なんだ。父母として実の父母を前に振る舞いを変えることができようとも、私の心は嘘をつけない。

 

「いいや、お前はアレクサンドラだ。倅とよく似ている。アレクサンドラでないはずがないのだ!」

 それでも、父王は僕を捨てた娘だという。

「そうよ! ああ、姉さん。どうして私達を拒むの」

 予言の力を与えられた妹も、追い打ちをかけるように肯定する。

「実の妹なら遠慮せずしなくていいんだ。俺達は君を歓迎するんだぜ?」

 初めて会う兄も、私を歓迎すると笑顔を浮かべている。弟に当たるらしい先程の青年だって、剣を収めて僕を微笑みを浮かべながら見ている。

 どうして、不吉な子供なのにもう一度拾おうとするの。僕は今幸せだったのに、どうして全部お構いなしに、僕の幸せすべてを浚ってしまおうとするのだろう。砂浜の波だって、ここまで全部連れて行こうとしないのに。

 ああ、斜め上の気遣いが心に痛い。つらい。でも、こうなった以上は腹を括るしかないのだろう。まるでお涙頂戴の三文芝居みたいだ。なんて、滑稽なのだろう。

 

 

 

 

「もう慣れたか?」

「ああ、兄上。もちろんです」

「そうか。随分覚えが早いな」

「必要なことですから」

 王宮の昼は、すごく眠い。暖かくて、華のいい香りがして心地良い。でもここには羊もいないし、好きに走り回れないし、木登りもできない。山が恋しいなぁ。もちろん、これは兄上の前では言えないんだけどね。

 

 あの後、これからも私は生き方を変えられないと言い募って、王子として迎えられた。凄く抵抗したけれど結局は無駄だったんだ。

 でも、王子らしく生きることと引き換えに、時折父さんと母さんに会うことを許されたから、私はそのまま励んでいる。父王と母君も嫌いではないし、血の繋がった兄弟たちはとても好きだ。でも、それとこれとは別で、山が、父母と弟が懐かしい。

 

「明日は出立だ。出来てんだろうな?」

「そりゃあ、もちろんだよ。ヘクトール兄上の足を引っ張ったりしないし、僕は僕らしく戦果を上げるさ」

 王子教育が順調だと、いや、十分だと思ったらしい父王は、兄上と僕にレムノス島出征を命じられた。訓練では十分な成果を出した。でも、もちろんこれが初陣だと話は別だ。怖くて怖くて仕方がない。

「……それならいいけど、無茶するなよ。変なとこでヘマして追い詰められるのの常習犯だろ、お前は」

 雑に頭を撫で回してくる手が心地良い。最初はあんまり慣れなかったけど、兄上の大きな手は遠慮が無いようでいて、本当は優しいのだ。心から気遣ってくれるし、知らず知らず懐いてしまっていた。

「それから、今から出立の朝まではアレクサンドラとして過ごせ」

「ええっ、兄様、僕が女物のキトーン苦手なの知ってらっしゃるのにどうして」

 唐突に爆弾を落とした兄上は豪快に笑う。王宮に来てから用意された女物の衣服は、あんまり好きじゃないんだ。自分じゃないみたいで、時々虚しくて、怖くなる。

「父上が、流石に時々は戻れってさ」

「うう、やだよぅ……僕男なのに」

「諦めろ。……疲れたら部屋に引っ込んで休めばいい」

 さくっと引っ込め、と言ってくれる辺りがとても優しい。めちゃめちゃに甘やかされてる。でも、良いのかなぁ。そうなると宴の主役の仕事は全部兄上に集中してしまうだろうに。でも、受け取れる好意は受け取りたい。

「分かったよ。……兄上様、不肖アレクサンドロス、明日からの勤めを立派に果たしましょう」

「ああ、期待しているぞ」

 

 

 

 

 結果から言うと、出征は半ば成功だった。制圧も速やかだったから、捕虜も、戦利品も多い。でも、狼煙が挙げられたから、きっと明日にはギリシャから本隊がやってくるだろう。

 今夜の祝だけはそれなりに陸で行うと言われて、僕は一人で自由にご褒美に散歩をできることになった。船で相当鬱屈していたのが丸わかりだったからだろうな。そのおかげで自由時間がもらえて嬉しいし、まあいっか。

 

「紅色に下着を染めたなら、旅に出てさすらおう。父母はきっと私を嘆くだろう。どうかご無事でありますように」

 大好きだった人の歌を口ずさむ。山育ちで弓は得意だったし、歌うのも、下手くそだけど誰も聞かないから楽しくて好きだった。

 

 と、背後で気配を感じて振り向くと、女性が一人、そこにいた。人ではないような、神が攫わなかったことが奇跡とさえ思える美貌の女性だ。でも、体は不自然に動かされている。どこか、庇うような動かし方になっているのだ。

「あ、」

 あまりに美しい彼女を、僕の推測があたっていれば僕は知っている。でも、なんで彼女が、体をかばうような動きばかりするのだろう。

「えっと、……ヘレネー様、ですか?」

「っ、」

 問いかけると、息を詰めて、声を殺して彼女は泣き始めた。ちょうどその時月が顔を覗かせて、彼女の腕が、姿全体が見えた。

 

 ほろほろと泣き出す彼女に驚いたけど、私にはどうすることもできない。だから、ただ、彼女の側に歩み寄って、そっと手をとって近くの倒木に腰掛けさせる。それから、彼女が僕の肩に顔を乗せる体勢になるように、向き合って体を添わせた。

 少し体が跳ねたから、きっと僕が女だってことがわかったんだろう。胸の膨らみは、触れたらどうしたってごまかせない。他言してはいけないことは、聡明な彼女のことだからわかるはずだ。今はここで捕虜となり、かつて教育を受けたであろう、彼女なら。

「僕は何も見ていません。貴方は、気になさらないで」

 人に触れることを強要している人間が言えた口ではない。僕は、性善説に縋って致命的な秘密を晒して、自分の体が安全だと思わせて、無理に泣かせようとするひどい男だ。全部計算ずくでこの哀れな女を連れ去りたいと願う、馬鹿な男だ。

 

 月光に照らされた元来白いはずの肌は、ひどい痣がいくつも浮き出た痛々しい色だ。彼女は、きっと夫から暴力を受けている。普通なら女性は家から出ない。特に、高貴な女性ならほとんど夫か、同じ程度の身分の妻たちとだけしか合わないのだ。彼女には他の女性たちから虐げられる理由がない。なら、あとは夫から、と考えるのが自然だろう。

 だったら、泣かせて、連れ去りたくなってしまうだろう。「私」なら、侮辱と痛みに耐えられない。僕なら、この様を見せつけられる憤りで耐えられない。こんな酷いことが、あってたまるものか。このまま、この女性をひどい環境においてたまるものか。身分さえなければ、宛もなく彷徨う覚悟一つで、すぐにでも彼女を連れ去ってしまえるのに。

 

「きっと、僕がレムノスに来た時点でもう定まってたんですね、大神ゼウスよ」

 捕虜に、ひときわ美しい人がいた。いらないと言ったのに与えられた美女は審判の失敗を表すのだろう。僕の審判は僕だけに罰が下るはずなのに、きっと破られたも同然だ。

 それだけじゃない。これまでトロイアが避けてきたギリシャ本土は、内紛が治まった時点でこちらを攻めに来る機会を伺っていた。これは、明確な宣戦布告だ。父王も今ギリシャを叩き潰してしまおうと意図していたのは知っていたけれど、これはあまりに悪手だ。私が見つかった時点で、口火は切られていたのだろう。

 

 転がりだした石は、加速して下りきる。それだけだ。もう引き返せない。

 

 兄さんに言うなら今だ。でも、気づいていないのだから、途中で気づいてしまったほうが都合が良い。悪いとはわかってるけど、どうしてもこの哀れな人を、僕は見捨てられない。これは、きっと魅入られたのだろう。女神の魔力は、人をじわじわと締め殺す。これはその一手。

 

 

 

 転がる石が、僕の首になるのは果たしていつ頃だろうか。兄さんの首は、加わらないといいんだけど。




審判の話は尺の都合で次回出てくる、はず。


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パリスちゃんはもう頑張れない

後編。捏造過多注意。

前編の島の名前間違えていたので直します。ごめんなさい。

追記:間違えて推敲前の文章の方を投稿していたので誤字を修正しました。


 結局、兄上には出立前に余裕をもって伝えることにした。僕の立場はそこそこでも、そこまで高くはない。伝えるに越したことはない。

 それで、僕も手持ちのカードを切って兄上をどうにか説得しようとしたものの、やはり手強い。というより、ここまで頑張って舌先三寸で粘ることなんてなかったから、よくぞここまで保ってると褒めてほしい。ちなみにもう30分近く経ってる。

 

「兄上、ヘレネーへの求婚の際、ヘレネーに危害を加えたものに、求婚した男たちすべてが制裁を与えよとしています。ならば、これを旗印にすることができましょう」

「……メラネオスの出方にもよるが、少なくとも、使えない手ではないか」

「最悪の場合、僕の首を差し出してください。主犯の首だけでヘレネーは逃げたと言うと疑われるかもしれませんが、少なくとも体面は保てましょう」

「どうしてお前はそこまで肩入れするんだ、パリス」

 兄上は、僕をパリスと呼んだ。なら、繕わずに本音を言うべきなんだろう。それが認められないことだとしても。

「僕自身が耐えられなかったからです、ヘクトール様」

「そうか。……よし、一発で許してやる。歯ァ食いしばれ」

「はい」

 バキ、と嫌な音と激しい痛みが頬に来て、体勢を整えていたのに吹っ飛んだ。

 

 相変わらずいい拳です、兄上。私も少しは体重増やさなきゃ、やっぱり吹き飛ぶなぁ。受け身は取れても、痛いものは痛い。

「お前のそういうところは嫌いじゃない。事前に言いに来たのも及第点だ。だがな、お前は自分を省みろ」

 やれやれ、と呆れながらも見放さないでくれる実兄に感謝しながら、痛む頬を伴にしてその場を辞する。

 すぐに出港だから、やらなきゃいけないことは多い。ヘレネーは不満を募らせるだろうが、捕虜の女性たちは皆雑魚寝で一部屋に集められる。特別扱いはできないけど、暴行の跡を見た同室の彼女らは、きっと優しくするだろう。流石に酷いことはしないはずだ。

 私は荷積みと航海士の仕事がある。交代で星を読まなくてはいけないし、もともと彼女たちに構う時間はない。仮眠だけは、しっかり取っていなくては。

 

 

 

 いつぞや見た泉のそばには、美しい方々が居る。審判をしろと仰せになった女神様方と、その見届け役のヘルメース様だ。

「最初に誓っていただきたいことがございます」

 賄賂を断り、前置きをしたことに片眉を上げつつも、彼女たちは聞き入れてくださる。私は、世界も美女も名誉も欲しくはない。私は、公平に審判をせねばならないのだから賄賂をもらいたくない。

「構わない。それはなんだ」

「いいわ、言ってごらんなさい」

「ええ、どんな内容でも誓いましょう」

「私がどのような判断を下したとしても、決して私以外に罰をお与えにならないということを。そして、私の判断はただの死すべき人間の考えるところであるとお許しください」

「「「良い。ゼウスに誓おう」」」

 三柱の女神たちが異口同音にそれぞれに誓うのを聴き、震えそうになるのを堪えて口を開く。この答えは、きっと不興を買うだろう。でも、私にはこの答えしか思いつかないのだ。

「この林檎は、本来この場におはす皆様方全員に向けられたもの。女神とはすなわち、美しきもの。一柱にのみ捧げるはずがございません」

 いつも携えているナイフは、そのまま腰に収まっていた。それを引き抜き、りんごを均等に分割する。こういう、きっちり果物を分けるのは、実は結構得意だ。

「堂々と捧げることがなかったのでしたら、手が震えたのか、綴り間違えて、『最も美しい女神たちへ』と書きそこねたのでしょう。ゼウス様が裁定を私めにさせたのは、貴方様方への不和を避けんがため。そして死すべき人間である私にその裁定をお与えになられたのでしょう。

 貴方様方はみなそれぞれの美の頂点。一つの林檎をどなたか一人に捧げようなどと、誰が、一体何故に考えましょう」

 金の林檎の文字を削り、直す。『最も美しい女神たちへ』と。

 

 その文字をよく見えるように掲げる。三切れの林檎は、彼女らの望むものではないだろう。

 私は、それをわかった上でする。これが、たとえ恨みを買っても私に出せる最善と信じて。

 

「これが、私めの考えるところでございます」

 死すべき人間にとって、どうにもできないことはできないのだ。この方々は皆美しく、そしてすべての美の方向性が違う。もとより比べるべくもなく突出しているのだ。なのに、一つの林檎で足りるわけがない。

 どの褒美もいらず、どのニ柱に嫌われても仕方のない状況。なら、三柱の方々全てに嫌われたところで誤差でしかないだろう。きっと、私が選ばれたのも死すべき人間だから、恨みは続かないと考えられたからだろう。

「……良い。誓った以上、反故にするわけにはいかぬ。死すべき人間よ、この審判を、貴様は忘れるでないぞ」

「納得行かないけど、誓っちゃったもの」

「何者にも肩入れしなかったのはこのためか」

 そのまま、女神たちに見つめられつつ私は意識を手放して……

 

「…、リス。パリス! しっかりしろ!」

「兄上……?」

 私は気絶していたらしい。周りの瓦礫に多少血がついていて、額が妙に熱くて、湿っている。

「お前、本当に悪運が強いな。休戦だ」

「はは……あにうえ、ぼく、また生き延びたんですね」

 ろれつが上手く回らない。ぼんやりする。

「起きなくていい。今回は怪我がひどいからな。少し寝てろ」

「ごめんなさい、ありがとう」

 生きたままに何度目かわからない休戦がやって来たらしいのだから、僕はよっぽど悪運が強いのだろう。

 今度は、何人の部下が死んでしまったのだろうか。次の使者は、一体どんな男だろう。いっそ、戦場に似つかわしくない、御しやすい者であれば良いのに。

 

 

 アカイア勢が美しい若武者を使者として送り込んできて、今猛烈に頭が痛い。

 なんでよりによってアキレウスなのかな。すぐに武力行為に出られるあちらの有力な武将を送り込んでくるとは。しかも、廊下の向こうで

 

「ポリュセクネー、僕の可愛い妹よ。何を話していたんだい?」

「あら、アレクサンドラ姉さま。口説かれたの。あのアカイアのアキレウスに!」

 さもおかしい、と言わんばかりにクスクス笑う妹に、これはあの若武者もボロボロに言い負かされたかと内心で合掌する。遠くから聞いたことがあるけど、妹の断り方はこう、心をえぐるのだ。敵とはいえ少しばかり哀れになる。

「アレクサンドロス兄さまを超えたら考えるって言ってやったのよ!」

 考えていたのとは全く違うパターンの「無理」の言葉に、それでいいのかと今度は深く頭を抱える羽目になった。

 いや、僕は確かに生き延びているけどそこまで槍の腕前は強いと言えないよ? どうしてポリュセクネーはガンガン煽っていくのかな。ほら、さっきと全く違う笑顔のせいで、あっちにまだ居たアキレウスが珍獣を見るような目でこっちを見てるよ。ざまあみろと思うから指摘はしないけど。

 

 もう一度こっそりと彼の方を見た。ギョッとしていた顔が徐々に真剣になっていくのを見て、胸がツキリと痛む。ああしてみると、とても精悍で、必要以上の残虐なことはしないように見えるほど、相当落ち着いた風だ。なのに、あれは暴力的な男である。せめて敵方ではなければ、その暴力が妹に向かないのであれば、私も応援できるのに。

 

 そこまで思って、ぐるぐると胸の奥が凝るような心地がして、胃が痛くなってくる。なんで、どうして和平が一時とはいえ叶った時に痛むのだろう。思っているよりも疲れているのか。

「姉さま、お茶にしましょうよ」

「構わないよ。贅沢はできないけど、家族でお茶を飲むのは許されるだろうから」

 えへへ、と抱きついてくる妹を正面から受け止めて、幸せそうに胸に顔を埋めてくるその頭を撫でて、髪を軽く梳いてやる。

 私と違う金色の髪がキラキラと輝いて、ポリュセクネーはやっぱり今日も美しい。兄様やヘカッサンドラ達もだけど、私は本当に実の兄弟姉妹にも恵まれているんだなぁ。

 視線を感じながらも、早々に妹の姿を私の影に隠しながら部屋へ逃げるように入り込む。うん、あの目は少し苦手だな。取られたくないと、僕の中の誰かが叫んでるみたいだ。

 

 お茶を入れながら、私が焦ったように部屋に転がり込んだことをポリュセクネーは笑った。

「姉さまは、きっとあの男が好きなのね」

「どうして」

「だって、彼を見て泣きそうだったもの」

「……あんなに部下を殺されたんだ。顔を見たら、悔しさに泣くだろう」

「いいえ、そういう風じゃない顔だったわ」

 否定したいのに、うまく言葉が出ない。

 違う。僕はあの男は嫌いだよ。だって、大事なものを浚っていこうとする。部下も、大事なポリュセクネーも、このトロイアさえも。だから、好きになんてなるはずがない。なったところで、そんな気持ちは押し殺してしまうだろう。

「姉さま、いっそあの男を誘ってみればいいのに」

「大人しく罠にかかって殺されるような奴じゃないと思うけどね」

 嫌だなと思っているところに、またとんでもないことを提案してくる妹は楽しそうだ。いつも対峙しているときと照らし合わせた感想を述べると、膨れっつらになってしまった。

「もう、そうじゃないわよ……動いてみないと、わからないでしょう」

「分からなくていいよ。あれは部下たちの仇だ」

「本当、いっつもそうなんだから……」

 もういい、なんて言ってお茶を飲む姿に、そう言いたいのは私だと言おうとして、やめる。人間は変われないし、現を抜かす暇なんてない。でも、もしこの戦争が終わって自由に恋をできるなら、誰か良さそうな相手を探してみようかな。男として生きていることを許してくれる、私がしたかったことを肯定してくれる人が、本当に居てくれたらいいのに。少しだけ前を向けるように。

 

 

 

 

 なんて、考えたことももはや遠い。

 兄上は死体になって帰ってきた。手勢も。

 がんばる?いや、そんなものではぬるい。

 兄上の敵。ここで殺さなければトロイアが滅ぶ、怨敵。倒さないと。はやく、仕留めないと。

 絶望までは、まだ一歩遠い。まだ踏み止まっている。憎悪に突き動かされるだけ、まだマシだ。城内にすぐにでも攻め込んできそうな軍勢に、まだ心は折れていない。

 

 頭が冷えていく。まだ、戦力は3割を切ったわけではない。和平交渉も、アキレウスを送り込んでくるものの、まだ叶うと決まったわけではない。なだれ込んでくる相手に、手勢を分散させるのは悪手。ならば、分散を避けつつゲリラ的攻勢を仕掛けるべきか。

「戦力を分散させるな! 和平が破棄された場合に敵の来るであろう通路を絞れ! まだ終わってはいない!」

「「「「はっ!」」」」

 近くにいるほうから情報を伝えさせる。指示の一つ一つは短いほうがいい。まだ折れていないことを示すには、将が指示を下し続けること。この場を持たせるには、発破が上手くかかること。それに、あと一人分の強い首級を得ることだ。きっと和平の提案は、勢いのあるアカイア勢には受け入れられない。ならば、あとの一手を考えておくしかない。

 

 アキレウスがこの建物を出たが最後、奴らはなだれ込んで来るだろう。一番は、和平を破棄された瞬間が狙い目だ。手元にあるのはただの弓だけ。射抜くには相当距離がある。でも、今ならまだ近い。それに、ここで手を出せるのは私だけじゃない。

 あの男に兄が討たれ、激昂しているのは私だけではない。兄上を愛した遠矢の御方も、また激しく怒っている。

「フォイボス・アポッローンよ! 私に捧げられるものは我が死後のみ! その全て貴方様に捧げます! どうか、どうか私にあの男の踵を射抜く力を!」

 血肉はトロイアに、魂は遠矢のお方に。これが正しく届くか、それはわからなかった。でも、私にはそれしか捧げられない。ひとかどの将として扱われている以上、私の死体はトロイアの守護の要になるだろう。英雄の死体は守護の力を持つから、捧げることはできない。でも、そうではなく魂なら。今後生き返ることがなくたって構わない。私を大切にしてくれた兄の死に報いることができたなら、それでいい。

 

「よく決めたね。いいだろう、パリス。君に力を貸そう。今このときを以て、君の死後は僕のものだ。我が従者よ、こちらへ来なさい。アキレウスは直に城内へ来る」

「外しはしません。絶対に」

 息を潜め、やってくるその金色を見つけた瞬間に狙いを定める。

 大丈夫、昔射抜いた猪より、この敵は分かりやすい。それに、きっとこのときのために僕の弓の腕はあったのだから。

 

 ビュン、と風を切り、あの男の踵から血が噴き出す。命中した。でも、まだ生きている。

「貴様ァァアアア!」

 絶叫する男に、口角が上がるのを誤魔化せない。兄上、僕はやりましたよ。あと一息で、貴方の仇を討てる。和平? そんなものは口実だと、どちらの軍勢も思っている。あちらの誤算は、この男が死なないと思ったことだけだろう。

「ハッ、たかが人間ごときに撃たれないとでも思ったのか、アキレウス!」

 慢心しないよう、毒矢の二発目をつがえた。

 

 ああ、なんて虚しいんだろう。僕が生きる理由をくれた人たちは、一体あと何人残っているのか。復讐なんて、一瞬。もう、あとに残るものなんてほとんどないのに。

 

 

 

 

 アキレウスが倒れて、その後全てが目まぐるしく起こっていった。ヘレノスが出奔して、アカイア勢に再び攻め込まれて。僕もまた、誰かに射抜かれた。あれは、きっと音に聴くピロクテーテスだろう。よくあのお方を説得できたものだ。オデュッセウスというのは、やはり相当な切れ者なんだろう。

 射られてから激痛が走り続けているが、解毒はきっとできない。できるのは一人だけだし、その一人だって、すぐ来てくれるかわからない。顔を見せてない友は、きっととても怒っているだろうから、いたずらだと思って断られるかもしれない。あるいは、まだ顔を見せないことをずっと根に持っているか。

 

「オイノーネー様をお連れしました!」

「離してよ! パリス、この馬鹿! 私になんてことをするの!」

 使者が急ぎ連れてきたものの、彼女はやはり怒り狂っていた。無理に連れてきたのだろう。少し、望みが薄まる。

 きっと助からない。その予感を振り払いながら、昔なじみに恥を捨てて頼み込む。もう後がない。長らく連絡を取らなかったのは悪かったけど、彼女も流石に命と引き換えにはしない女の子だと、そう思っていた。

「傷を、治してほしい」

 足から今にも力が抜けそうだ。声を出すこの苦しい。でも、頼みの綱のオイノーネーは怒りに顔を歪めている。視界もぼやけてきたから、ちゃんとは見えないけれど。

 

 でも、怒髪天を衝く状態の彼女に返された言葉は、当然ながら否定だった。

「いやよ! ずっと私のこと忘れてたくせに!」

 確かに、僕はオイノーネーに会いに行かなかった。でも、忘れたわけじゃない。友を思う気持ちを忘れたりなんか、しないのに。

「それは王宮に抱えられて……」

「そんなの知らない! 私が一番じゃないと嫌なの! 私を好きなんでしょ、愛してるんでしょう?!」

 それは、そうか。涙ながら叫ぶ友人の主張に、ああ、ここでも間違えたのかとようやく気付いた。

 彼女は、僕が恋をしていると思ったんだろう。だから大事にされないことに腹を立ててしまった。オイノーネーは悪くない。僕のしたのが勘違いさせる素振りだったんだろう。だって、ここにいたとき、僕はいつも男の子だった。恋をした男が通うのは当然だし、そう思われていたんだ。

 

 目の前が霞む。自分の心臓が鼓動する音が、激しく、大きく、耳の中で鳴り響く。

「不快にさせてごめん。さよなら、オイノーネー。どうか、幸せで」

 背を向け、最後の力を振り絞って寝台から起き上がり、走る。

 

 きっと、血の巡りが早くなるから保つ時間も思っているより短くなるだろう。宮内から出なければ、きっとまだ大丈夫だ。死体を取られはしない。

「何よ、何なのよ急に! 帰ってきなさいよ、ねえ!」

 後ろの方で叫ぶ声が聞こえる。せめて、彼女が追いかけて来られない遠くへ、彼女に僕の死体を見せないように行かないと。きっと、気づいたら自分を責めてしまうだろうから。

 さよなら、オイノーネー。僕はもう死ぬけど、他のニュンペーたちも真っ青なくらい、すごく長生きしてね。

 

 

 追いかけてきて、今まさに僕を支えているはずの弟の声が、恐ろしく遠くに聞こえる。もう、僕もその時が来たのだろう。これで僕の血肉はトロイアの守りの一部になる。できれば、アカイア方に取られないことを祈る。みんな、全部愛していたのに、どうしてこんなことになったのか。

 ……ああ、そうか。養父母も、実父母も、血の繋がった兄弟も、血の繋がらない弟も、友人も哀れな巫女妃も、トロイアさえも。全部愛そうとしたからだめだったんだ。

 なんで今気付いたんだろう。もっと早くわかっていたら、これよりも失わずに済んだかな。でも、これからは関係ないから、もういいか。

 

 

 遠矢の君、私の死後全てを委ねます。貴方様の愛した我が兄が、我が兄が、弟妹が、両親が、友が、エリュシオンで平穏を得られますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「サーヴァント・ルーラー、アレクサンドロス、あるいはアレクサンドラ。どちらで呼んでくださっても結構です、マスター」

 僕を召喚した青い目の少年は、どこか弟によく似ていて泣きそうになる。ああ、女神が紡いだ運命は、一体どこまで惨いのだろうか!



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パリスちゃんと平和で崩壊寸前の世界

ルーラーのパリスちゃんが召喚された先の話。ナチュラルに時空が違った話。


 カルデアというこの施設は、思っていたよりもずっと快適だった。お茶は美味しいし、女の子達は笑顔で楽しそうだし、男性諸君も生き生きとしている。まさに理想のアゴラ。特に心に波風が立つことなく、主君の妹君を守護するお役目をいただきつつ穏やかに過ごせている。

 

「アレクサンドロス……ああ、今はアレクサンドラか」

 部屋にやってきた兄が笑う。とても懐かしくて涙が出そうだ。召喚後から何度も彼と会っているものの、未だに緩みそうになる涙腺をこらえられない。

「ヘクトールさん、笑ってないで助けてください。無理、今日はもう嫌なんです」

「諦めろ。それじゃ、明日はよろしくな」

 戸を閉めて出ていく彼に本気で、別の意味で泣きそうになるけれど、ヘクトールさんは行ってしまった。ああ無情。

 

 ヘクトールさん、と読んでいるのには訳がある。彼は、私の知っている私の兄ではない。

 それは彼だけが違う世界線から喚ばれた、というわけではない。むしろ、私のほうがこの世界的には異物だ。本来僕がいない世界に、今僕はルーラーとして居る。

 私がカルデアの人理修復に参加したのは、マスターがオケアノスを攻略したすぐあと。だからそのときにはヘクトールさんは居たんだけど、まさかの違う世界線と僕を知らない兄上に対するショックは大きかった。僕のうっかりでここにきてしまったのか、それとも主君たる遠矢の君の思し召しなのかはわからないけれど、しばらく立ち直れないくらい打ちのめされたのをマスターに隠せなかったほど。今は、折り合いをつけられたから、平気だ。

 時折女装を求められる以外は、今日も穏やかだ。こういう形でも、やり取りできる今は、本当に幸せだと言えるんだろうな。

 

 

「あら、どうして嫌なの? このドレスもとってもよく似合っているわ」

 私を着せ替えさせていたフランス王妃は、兄上が居なくなってからそう訊いてきた。

 召喚されてからは男物のキトーンで従者らしく慎ましい服装をしていたのに、いつの間にやら着せ替えられることが日常になってきていて、今日もそうだ。今日選ばれたのは淡いクリーム色のドレス。婚礼衣装のように刺繍がたくさん入っていて、優雅で美しい服。僕みたいな粗野な人間が着てもいいんだろうか。

 

「いいじゃない、もうちょっと付き合って。ホラ、こっちも着てみて!」

「ア、アルテミス様もですか……?」

 もう一方から逃げ場を潰しにかかるアルテミス様に、僕は抵抗を諦めた。もう好きにしてくれたらいい。

 

 こちらのアルテミス様はカルデアのヘクトール兄上と同じ世界線のアルテミス様だ。でも、事情を知っていて、私がパリスだということを黙ってくださっている。いつかはバレるにしても、それまでは悪者としてではなく「何となく居座ってる悪意のない仲間」として扱ってほしいと願っているのを肯定してのことだった。

 マスターは僕のことを別世界のトロイア王家の王子だとしか知らない。こちらの僕は男の子だったみたいだし、パリスと名乗っていたみたいだから、ちょうど棲み分けができるだろうから。僕の真名もパリスだから納得行かないけどね。

 

 嬉しそうに服を服を選ぶのは、抵抗できないのがわかっているからなのか、それとも生前から彼女たちはそうだったからなのか。

「どうせなら、あなたが好きな服を楽しんだらいいじゃない。お姉さん、君の服を選ぶの好きだし、着飾って喜んでもらいたいな」

 ヘクトール兄上と入れ替わりでやってきたイングランドの女王が、励ますように背中を軽く叩いてくれる。

「そうよ! それにね、素敵な服を着てたら王子様に見初められるかもしれないのよ?」

「僕も王子ですよ」

「そうじゃなくって!」

 茶々を入れたら怒られた。僕は王子だよ。白馬の王子様をする側だよ。……体が女だとだめなのかぁ。世界を革命できちゃいそうな、かっこいい王子様にだってなれるのに。

「私とダーリンみたいにかっこいい相手が見つかるってこと!」

 確かに、従者として仕事をしているときお会いしたオリオン様は相当な美男子ぶりだったけれど、僕に相手が見つかったところで、ぱっと見たところは少年愛に見える。普段は髪を一つに結んでるか、短く見えるように結わえているから。そっちのほうが楽で好きなんだけど、そんな姿を気に入る相手とは、それはそれでいかがなものなのか。

「男として育ってきた以上、王家の人間としての役目でもない限りは男と関係を持つ気はないのですが……」

「でも、サーヴァントなのよ? 自由に生きればいいと思うのだけれど」

 王妃も食い下がってくる。理由が理由なのであまり言いたくはないけれど、伝えたらやめてくれるかもしれない。

「だからこそです。僕はルーラーですし、何かを望むことも、偏った心を寄せることも許されません。もとより、サーヴァントの状態も含めて僕は遠矢の君の所持物であり、従者です」

 要は余計な現を抜かすことなどできないということなのだ。自由の身ならいざ知らず、すでにトロイアでローンを組んで奴隷契約しちゃってるから下手なことはできないんだよね。バカやらかした従者がハリネズミになったのを見たことがあるのでどうしてもお仕置きは避けたいところだ。

 

「ガタガタ言って悩んでないで、恋くらいしたらいいじゃない。もしあれなら、私から伝えて自由時間もぎ取るわよ」

 うっとおしい、と言いたげに言い放ったアルテミス様に、今度はぎょっとさせられる。多少の自由は認められてるんです。拘束時間めちゃくちゃ長いとかそういう感じなんです。愛人はヘレノスとかが勤めるだろうし、身体的な(もしくは霊体的な)問題があるだけです。だからそこまでしなくても。

「そんな休憩時間みたいなノリで自由時間を取るのは、ちょっと……」

「じゃあ、知ってる人で、いいなぁって人は? それならすぐどうにかなるし、大丈夫かはわかるんじゃない?」

「それは嫌です」

 

 爆弾じみた提案に、本気で顔が引きつりそうになる。これ、どうあがいても知り合いで選択を迫られるやつだ。知っていて、呼び出されそうな相手となるとほぼ一人。あれはやだ、ストレスでお腹が痛い。

 

「どうして? 結婚するまで知らない人とでもなんとかなるけれど、あなたは知っている人なら安心でしょう?」

「私は、もう誰かを愛してはいけないのです、マリー王妃。生前、全部大切にしたくて切り捨てられなかったせいで、沢山大切なのものをなくしてしまったので」

 よくある話、といえばそうだけど、それにしては規模が大きすぎた。

 

「それに、僕は初めて恋をしていた相手を殺してしまいましたから。もう恋はしないほうがいいと心得たのです」

 相手が相手なだけに、二の舞になりそうだ。それを避けるためにも、僕はもう僕自身の気持ちで誰も望んではいけないし、誰かを贔屓にしちゃいけない。触れるときも、公平公正に、何も感ぜさせず、ただの機能としてあるのが一番いい。

 ……それに、僕自身そんなことと思っているくせに、きっと恋をすれば生きていた頃と同じ状況になって苦しむだろう。だって、この体はいびつに継ぎ接ぎされた状態なのだ。従者として加護を得ているくせに、休戦していた頃の心と、従者の精神と、成長しきっていなかった軽い体でここに居る。体が十分にできていないなら、きっと何かあったら歯止めをかけられず殺してしまうかもしれない。だから余計に、恋なんてしちゃいけない。

 

 黙ってしまった三人になにか言うこともできず、自分の着ているドレスを見る。生きている頃は着ることもなかった婚礼衣装を思わせるそれに、心が痛む。あのとき憎さに取って変わられて捨てたはず。なのに、ゴミ同然に扱った恋心につられてしまう。馬鹿だな、本当に。

「僕じゃなくて、妹たちに立派な花婿を見つけて、婚礼衣装を着せてあげたかったなぁ」

 カッサンドラも、ポリュセクネーも、早いうちに嫁がせてやれていたら幸せになれていただろうか。カッサンドラは、主君に見初められるその前に、兄上がいい相手を見つけてやっていたならば、あるいは。

「でも、ありがとうございます、御三方」

 考えを振り払うように、お礼を言って頭からその考えを捨てる。もう、全て過ぎたこと。僕の怒りは、どこにも残ってはいない。僕がアカイアの人間たちに持っているのは、もう全て終わったことだという虚しさだけだ。今更あったところで、心はちっとも動かないだろう。

 

「そのエロースの金の矢が、祝福になりますように」

 私の言葉にいち早く正気に戻ったアルテミス様が、私の頬を撫でて言う。愛の神に不敬なのは重々承知で、鉛の矢に変わってくれと心から願った。



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パリスちゃんと複雑な再会

不本意ながら仇敵の触媒になった話。
パリスちゃんの様子が……?


 マスターが実際に精神を飛ばされる類の夢を見た。どうやら、違う世界の聖杯のせいで夢渡りをしたらしい。目覚めてから「これでアキレウスとケイローンが喚べる!」と嬉しそうにしていたので、戦力が増えると思うと嬉しいが、個人的にはとても複雑だ。パリスと僕が似ていたら困る。身バレはどんなときでも怖いよ。

 まあでも、ヘクトールさんは気付いてないみたいだし、まさか僕が知ってるやつが来るわけじゃないんだから、大丈夫だよね。それに、相当喚びにくいだろうし。

 

 召喚陣の中心から、こちらにガン飛ばす勢いで見つめてくる英雄に頭を抱えたくなる。僕が触媒になったとか、そんなことないよね?

 今日も女の子達にせっつかれて通算何十分回目かになる女性物の服を着たはいいけれど、なぜこのタイミングであの男が来るのか。

 しかも、今着せられているのはポリュセクネーと居たときと同じ色の具合の緋の衣だ。まるで争うなとでも言われているような気分。当然ながら別人だろうし、もちろんマスターに迷惑をかけるようなことはしない。ただ、あちらがどう思うかは別だろう。

 

 

「お前、ポリュセクネーの!」

「……マスター、席を外しても? 僕はここにいるべきではないでしょう」

 僕の姿にアキレウスは目を見開いたのを見て、こいつは僕の世界のアキレウスだと気付き、逃げようと試みる。でも、その前にやたらと通る声がホールに響いた。

「その声、お前まさかパリスか!」

「そうだよ」

 ほら、やっぱり。

 何でよりによって初めて会う同世界線の相手がアキレウスなんだろう。悔しさでちょっと泣きそうだ。そういえば、さっきの反応からして、もしかして顔(というより女装と男装)と声が一致してなかったのかな。これなら発言しないほうが良かったのかもしれない。遅かれ早かれ口を開くことにはなっていただろうけど。

 

 マスターはマスターで、僕の方を見ながら困惑気味に疑問を口にする。

「アレク、パリスって名前だったの?」

「言ってませんでしたっけ?」

「聴いてないよ!」

 とぼけてみたけど、やっぱりだめ。こっちもこっちで面倒なことになったな。なんでこちら側の英雄ではなかったのか。

 

「お前とまた争うことになるのか」

「ハンッ、そんなことするわけないだろう」

 眉をひそめて言うアキレウスに、腹立たしさからどうしても粗野な態度をとってしまう。心底気に入らないときに鼻を鳴らしてしまうのは、羊飼い時代からの僕の悪い癖だ。

「僕らは死人だ。それにここは僕らが生きたのとは違う世界だし、ここまで因縁を持ち込まないさ。もう全部、終わったことだよ」

 もう死んでいる。僕たちに先はなく、過去も途切れている。だからこそ、僕はルーラーになったんだから、笑ってしまう。アキレウス、どうせ僕がアーチャーだと思ってるんだろうな。

「今の僕は遠矢の君の従者で、ルーラーだ。勝手な争いは許されない。……だが、君が兄上を戦利品として扱うなら、僕は君を戦利品として戦車で引きずり回してやる。主君からの仕置きも覚悟の上でだ。そのときは覚悟しろよ、半神」

 実は持ってるし呼び出せるんだよね、戦車。レムノスのときに将軍してたから、バスター宝具で。ただ、これは水着にならなきゃできないみたいだ。

 

 しかしながら、僕はいざとなったらこの男を引きずり回すためなら腹を括るし、大胆な露出も辞さない。まあ、マスターが魔力のリソース不足で大変なことになりそうだからやらないけど。あと、やっぱり僕みたいなのが水着を着るのは見苦しいだろうから、極力避ける努力はする。選んでもらったから着ないわけにはいかないんだけどね。

 

 ただ、ロゴスが足りなくて抑えが聞かないような男だ。腹立たしそうな表情をしているのは、こちらからも何らかのことを提示しなければ釣り合わないから代わりを出せということなんだろう。

「殴りたければ兄さんじゃなくて、心ゆくまで僕を殴ればいいさ。せいぜいそこそこ保つサンドバッグ程度にしかなれないけど、それで気が済むなら幾らでも。マスターが巻き添え食らうよりはずっと安い」

「……パリス、お前、どうして」

 呆然とつぶやく相手に、少しばかり胸がすく。負の感情を全面に出しているこの男を見るのは大変に良い気分だ。でも、同時に昔の僕が、本当はそんなことしたくない、誰かを悪く言いたくないと泣き叫ぶ。昔の心は無視するだけだけど、ちょっとつらい。いや、正直だいぶ辛い。

 アキレウスはアキレウスで、従者でルーラーのくせにマスターを大事にしすぎる、って言いたいんだろう。主君を至上としなきゃいけない僕が肩入れしすぎだって思うんだろうな。

「金の矢注ぐ君が評価している方だ。当然だろう?」

 僕が肩入れする最低基準は主君たる遠矢の君に関連するかどうか。マスターの場合は遠矢の君の妹君と契約をしているから、多少の目付けも含めてのことだ。それ以上に私情を挟んで肩入れしたら、きっと不幸がある。ただでさえ、人と神との隔たりは大きく、その所持物でも、人間からは確実に変質しているのだから。

 

 

「えっと、アレク……部屋に帰ってもいいよ?」

「ありがとう、リツカ。後で埋め合わせをするよ」

 前に見た円卓の彼らのように、マスターの手の甲にキスをする。一目で僕たちがマスターを大事にしてるのがわかるように。

 

 アキレウスは、仲良くなったら一気に絆が深まるタイプだから、焼きもち焼かせてちょっと煽ってやろうという魂胆だ。だって、仇敵の方がマスターより仲良くなってたら嫉妬しちゃうよね。僕なら、しがらみがなければ嫉妬するよ。

 

「なっ、パリス!」

「悔しかったら強くなってリツカの役に立てばいい。それじゃあね」

 怒髪天なのか、茹でダコみたいな顔になった相手に思わずニンマリする。

 マスターには悪さしないだろうし、これからどれだけ早く強くなるかな。まあ、レベル差がなくなっても殺られかけたらギリシャ特攻で殴りに行くから、早く役に立ってほしいところだ。

 ああ、そうだ。エミヤの今日の紅茶は何かな。今日はキーマンの気分だけど、あるかな。

 

 

 

 

「……なぁ、マスター。アイツ、いつもあんな態度なのか」

「いや、あんな王子様然としたアレクは初めて見た。かっこいいなー、円卓の騎士と同じことしてるのに爽やかさが割増」

 動揺することもなくそう言い放つマスターに頭を抱えそうになる。違う、そっちじゃない。

 生前は、あんな風に普通に笑いかけるパリスを見たことはなかった。あんな、穏やかに、楽しそうに笑うやつだとは思っちゃいなかった。

「オレの前じゃ、笑ってくれねぇんだろうな」

 終わったことだと言うくせに、パリスの奴はオレを見ない。それだけが、何故かとても悔しかった。



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パリスちゃんと許し

触媒になって召喚した兄上に許される話。

流石に可哀想過ぎるので救済される話書きました。


 オリーブグリーンに染められ、金の刺繍がされた衣。あの頃と変わらない、大きな背。

「こっちではライダークラスか。君はこっちの俺も呼んでるからわかるよな? こっちにウチの愚弟がいるみたいなんだけど」

「あ、にうえ……?」

 僕の知っている、ぼくの兄上そのものだった。

 

 

 アキレウスを呼んで数日後、もしかしたら、ということで僕を近くに置いて再度召喚をしてみたら、これだ。僕、本当に触媒だったのかもしれない。

 

 それで、本当に何百年ぶりかに会う兄上は変わらず微笑んで、

「ああ。久しぶりだな、パリス」

 

    ゴンッ!

 

 出会って早々に、とても重い、素晴らしい拳を喰らわせてくれた。なにこれ超痛い。

 

「い゛っ!」

「……ったく、この愚弟が!」

 あ、これ駄目なやつだ。めちゃくちゃ怒ってるときの兄上だよ、懐かしい。王宮に上がったあとに好き勝手走り回って拳骨落とされたときの兄上とほとんど同じだ。

 米神をもみほぐしながら叱り飛ばしてくる兄上に、一体どんなお説教をされるか。

「何も、自分の死後を売り飛ばしても守れとは言ってないだろうが!」

 

 実際に言われたのは、予想外の言葉だった。

 トロイアのことを任されたのに守れなかったこととか、兄上の仇を取ったのが卑怯だったとか、そういうことで罵られると思ってた。なのに、兄上はそんなこと全然気にしてないみたいに、そんなことをいう。

 

「だって……! 僕は兄上を守れませんでした! 仇を取れなきゃ、義姉上も……」

「自分を大事にしろって言ったのを忘れたのか、馬鹿。お前がエリュシオンにもいないせいで俺も出てくることになったんだからな?」

 確かに、省みろとは言われた。自分を大事にしなきゃいけないって、王宮にいた頃にポツポツ言われていたのも、今思い出した。

「でも……!」

 きっかけは僕のせいだったのに。尻拭いまできっちりしろって、耳にタコができるほど言われて、そうするのが普通だから、何をしてでも後始末をつけようとしただけなんだ。

 

「兄上、僕、頑張ったんです」

 言い訳をする声が震える。喉が、中々はっきりとした音を出してくれない。

「ああ」

「義姉上も、ヘレノスも、カッサンドラも、ポリュセクネーも、みんな大事だったんです」

 本当なんだ。本当に、僕は取りこぼしたくなかったんだ。兄上も、兄上の傍らで微笑む義姉上も、弟妹たちも、父王と王妃殿下も。心から失いたくなくて、だから自分のことなんて考えられないくらい必死だった。

「ああ」

「僕が、守りたいと思ったんです……」

「……ああ」

「ごめ…なさい……っ、ぼく、何も守れなかった……! 兄上に任されたのに、なんにも……!」

 もう、だめだった。その時その時のことを思い出しては視界が歪む。力が抜けて膝から崩れそうになるのを、寸での所で兄上が支えてくれる。

「もういい。頑張らなくていいんだよ、お前は」

「ぅ、あ、ああああああ!」

 自分の出した声さえ訳がわからなくて、目元からボタボタ雫が落ちていって、喉が痛くて、心が痛くて、ただ兄上に縋り付くことしかできなかった。

 

 兄上は昔と変わらず大きくて、背中をトントン叩かれると余計に視界がぼやける。僕はもう、誰かを大事にしてもしてもいいのかな。自由に、好きなものを好きって言っていいのかな。

 

 

 

 やっと止まった涙とか鼻水とかのせいでぐっしゃぐしゃになった顔を拭って、スッキリした気持ちで顔を上げる。

 兄上はそれまで穏やかな顔をしてたけど、顔を上げた僕が大丈夫だと見て顔を険しくした。

 ……あれ、お説教の続きまで秒読み?

「で、アキレウス引っ張ってきちまったあたり、お前本当はめちゃくちゃ引きずってるだろ?」

「……やっぱり兄上にはモロバレですよね」

 こちらを見る兄上は政治家の顔をしていた。うーん、やっぱりこの顔の兄上怖いんだよなぁ。全部見透かされてる感あるから誤魔化すのが大変で。ああ、でも今は誤魔化さないほうがいいよね。

「そりゃあ、あんだけ懐いてきた弟だからわかるに決まってる」

「え、えへへ……」

 照れ半分、誤魔化し半分で笑ったら、余計に顔が険しくなった。僕、自覚なしになんかやばいことでもしてたのかな。

 本気で思い当たるフシがないから微妙な顔になっていると、兄上は大きなため息をついて僕を見た。視線が鋭い。

「誤魔化すな。アレクサンドロス、お前がズタボロになって帰還したら遠矢の君はお怒りになるぞ。俺達だって黙っちゃいない」

 そっちかぁ……。

 

 なんだか余計に心配して損した気分だ。ああでも、また一触即発からの開戦、なんてことしたら無傷じゃすまないから、心配されるのも仕方ないか。

 それにしても、兄上は来たばかりだから知らないけろうけど、僕はマスターを、よりわかりやすく大事にしてるんだよ。だって、マスターのことを気に入っちゃったからね。今まで公平にしなきゃと思ってたけど、死に際からガッチリ固まってた首輪は、ついさっき外れた。

「大丈夫だよ。だって、僕、カルデアに来て心底嬉しかったんだもの!」

「そうなのか?」

「うん、だって僕が来たときにね、僕が男の子のままでも、時々女の子になるのも構わないって、マスターが言ってくれたんだ」

 もう、素直に認めてもいいと思う。僕はマスターが大事だ。マスターはどっちでもいいようにアレクって呼んでくれるし、僕に合わせて対応を変えてくれたから。普通に生きた人間みたいに、僕のことを尊重してくれたから。だから、僕も彼を尊重する。全力で守る。

 彼は僕のトロイアだ。だから、別に大事にしても構わないよね。構わないはずだ。たとえ駄目でも、これだけはもう一度死んでも構わないから、絶対に認めさせる。生きてた頃みたいに、僕の不手際で落とさせたりはしないよ。必ずね。

 

 あ、でもマシュちゃんは別だよ! だってあの子はマスターの特別で、マシュちゃんの特別もマスターだからね。これは大事な人たちで、大事なものだ。

 

 あと、もう一つ。

「それにね、兄上がもういいって言ってくれたから、もう大丈夫。僕はもう、何も未練はない。アキレウスのことも、さっきの一言でスッキリきっぱり思うところもなくなっちゃった」

 そう、なんか許されたらどうでも良くなっちゃったんだよね。あれだけ咽び泣いてた昔の私がきれいさっぱり居なくなっちゃったような、そんな感じがする。あとに残ったのは、吹っ切れた従者の僕の精神だけだ。憑き物が落ちたみたいな、凄くさっぱりした気分だ。なんであんなに固執してたのかな。分かんなくなってきた。

 

「それならいい。……それと、従者契約は私生活まで縛らないからな? それ理由にあれこれ逃げ回ってたのも、還ったらいい加減にしろよ」

「……オイノーネーの二の舞はやだなぁ」

 お仕事中に秋波を送られることもちょくちょくあったけど、これは本格的に身を固めろってことだろうなぁ。……冗談みたいだけどあったんだよ。本当に、オイノーネーの二の舞みたいになりそうだったことが。頑張って誤解の少ない言動してたのに。

「勘違いするような振る舞いをしなきゃいいだけだからな?」

「心がけてても駄目だったんだってば。ほら、僕、こんな顔だし」

「まあ、トロイアの血だからなぁ……」

 王子らしい麗しい顔、とか若武者らしい堂々とした面立ち、とかは、生前に王宮に上がったあと人との交流が増えてからは言ってもらえていた。……いたんだけど、死んだあとのほうがより酷くなったというか、男性や女の子から褒めてもらえることがとっても多くなった。中には明らかに性的な目もあったから嫌だったけど。トロイア王家、みんな美形だからね。僕もいい面構えを受け継いでるんだよね……。兄上もヘレノスもカッサンドラも主君のお手付きだし。こればかりはどうしようもない。

 

「まあ、なんだ。こっちではまだ自由にできるから、還ったら身を固めるくらいには考えとけ」

「やだ! カルデア生活がスコレーになるじゃないか! 僕まだ自由の身がいい!」

「良いから覚悟決めろ! お前の二次被害の苦情こっちにも来てるんだぞ!」

「キャンっ!」

 反抗したら青筋立てた兄上に拳骨を落とされて、痛みに思わず叫ぶ。やっぱりいい拳です、兄上。本当に生前からお変わりなくて、引っ込んだ涙がまた出て来た。断じて痛みのせいではないよ。うん。まあ、痛いけどさ。

 

 

 

 

 

「なぁ、マスター、嬢ちゃん。ちょっといいか」

 アレクサンドロスと別れて、彼の兄の方のヘクトールを案内しようとしたマスターとマシュを、一旦引き止めた。

「できれば、現界してるうちはアイツの監視を頼みたい。アレクサンドロスは狙われることも多かったからオジサンどうしても心配なんだ」

「「へ?」」

 唐突に告げられた言葉に二人共がフリーズするが、ヘクトールは話を続けた。

「いやぁ、さっき話してたのを聞いてたからわかるだろうけどな、性の対象にされることが多い。アレクサンドロス自身は性に疎いわけじゃないが、変なところで純粋だから妙に狙われやすいんだよ」

 ため息をつきつつ弟の防衛について考える兄は、全くマスターを気にしない。

 再起動した二人は、いきなりの話題に驚いたものの、思い当たる事例を振り返って納得した。

「あ、前もそんなことあったよ。マシュと一緒に守ったけど」

「やっぱりかぁ……女装させて女の集まりにでも預けておかないとオジサンやヘレノスだけじゃ被害を減らせなくてなぁ」

 実は宴の際などにアレクサンドラとして振る舞わせていたのはそういう理由だったりするのだが、当人が知るはずもない。

「確かに、アレクサンドロスさんの見た目は、森の奥の若鹿のような爽やかな美少年ですからね」

 マシュも、アレクサンドロスの容姿を思いながら口にすると、苦悩に満ちた顔でヘクトールが首を縦に振る。いかにも、少年愛の文化圏では好まれそうな中性的で整った顔立ちなのである。妙に純粋なところは、口さえ開かなければ人間味の薄い透明感として雰囲気に現れる。人馴れしなさそうで簡単にさらわれてしまいそうな美少年が狙われないわけがなかった。

「見た目もそうだが、実際アイツはどっちつかずだ。いい相手でもいりゃ、少しはどうにかなりそうなんだが……」

「多分無理じゃないかな、それ」

 振り切れたパリスは全力でその手の話を避けるはず、と先程のやりとりを聞いて大体の検討がついたマスターが首を横に振る。

 暴走特急のような先ほどの様子が素の性格なら、射止められる相手などほとんど居まい。

 約一名、誰にでも声をかける王様がいるものの彼女は青少年認定されているのか声が掛からないために相手など早々見つからないだろう。

 

 頭を抱える彼女の兄に、少しだけ同情しつつもこちらの世界のヘクトールとまだ仲が悪いと思っているアキレウスとの関係をどうするか、マスターは頭を抱えた。



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抜け落ちた金の矢、刺さった金の矢

パリスちゃんをサシ飲みに誘ったアキレウスが恋をした話。
ここからきっと混沌とした様相を呈してきます。頑張れパリスちゃん。


 かろん、と涼やかな音を立てるグラスに、パリスが口をつける。その目線は常にグラスにあった。キス・イン・ザ・ダークを呷るばかりしていて、ろくにこちらを見ようともしない。

 

「ほら、追加だ」

 呼び出したのはオレの方だったが、余りにもハイペースでカクテルを呷るパリスに、すっかり給仕役のようになってしまっている。飲んではいるが、パリスのほうが先を行く。グラスだけで言えば、倍は飲んでいるか。

 エミヤに相談したところ、こっそりと耳打ちして作ってくれた青いカクテル・オリンピックを差し出す。パリスは一瞥すると、そっとこちらへ押し返した。再会は、あちらとしちゃ喜ばしいものではないらしい。それはそうだろうが、世辞半分にでも受け取ってくれるだろうと思っていた。何しろ、こいつは自らを公平公正・中立としたルーラーだったからだ。

 

「オリンピックは、嫌よ」

 その横顔が、あまりにも女の顔の様に見えてくらりとする。ただの、あのときのアレクサンドラとしての表情で言うものだから、血が沸くような感覚に陥った。きっと、俺も思っていたよりは随分飲んだんだろう。

「女らしい顔もできるんだな」

 ぽろりと思わず零してしまった本音に、目を丸くしたと思うとすぐアレクサンドロスの顔に戻る。勿体無いと思った。さっきの顔は胸が苦しくなるが、見ていて見飽きない美しさがあった。即座にその表情が消えたのは、少しばかり惜しい。

「僕は、体ばかりは女だからね」

「すぐ戻っちまって、可愛げがねぇの」

「そんなの、男の顔さえできればどうだっていいさ。これでも僕は引く手数多なんだよ?」

 含むような笑いの後で、パリスは目を伏せる。長い睫毛に縁取られた目やきりりとした目元は、ポリュセクネーに瓜二つだ。

 引く手数多なのは知っている。パリスはカロスな容貌で鳴らしているのだ。女神ですら愛するような美しい者に、引く手がない訳がない。かつて敵として戦場に立ったときも、友軍の兵士で金の矢に撃ち抜かれていた者が多かったのを覚えている。

「その顔でも見せりゃ、気に入りの男なんてイチコロだろ」

 冗談めかして言うと、その時初めてパリスはオレを見た。前までは鋭利だった翡翠色が、ここに来て初めて見るほど潤んでいる。

 

「……じゃあ、あの時そうしてたら、君は僕に落ちてくれてたかい?」

 笑みを消して、真面目な、いや今にも泣きそうなのをこらえるような顔をしてこちらを見るパリスに、息が詰まる。

 口を挟む好きも与えずに、パリスはまた話し始めた。顔は赤いのに、目は熱されきっている。沸ききった感情が垣間見える。

「君は知らなかっただろうけどさ、僕は君のこと好きだったんだよ。城で姿を認めあったとき、君に恋したんだよ」

 

「は、」

 

 今、コイツはなんて言った。

「まあでも、兄上のおかげでトロイアの事もろとも吹っ切れた。昔話さ。笑ってくれよ」

 それまでの顔色全てを消し去って、パリスが立ち上がる。赤い顔には、薄らと涙の跡が見えた。一体、いつ泣いていたのか。

「もう君に関わる気なんてない。だから安心してよ、アカイアの」

 じゃあね、と表情と態度だけは清々しいまでに何も感じさせないで、笑顔で去っていく。その後ろ姿に強烈な怒りと悲しさを抱いて、すぐには動けなかった。扉が閉まってやっと、体が思い通りになる。

 

「なんだよ、それ……」

 手元に残った青のカクテルは、結局受け入れられなかった。きっと、アイツにとって今日の俺との酒席は、望むものでも、憎むものでもなかったのだろう。ここに来て初めのあのときは名前を言ったのに、今では抽象的な、俺が目の前にいるから伝わる呼びかけでしかない。

「オレのことなんて、欠片も見てねえのかよ」

 オレはあのとき、ポリュセクネーではなく、アレクサンドラを確かに見ていたはずだった。でも、あのとき心に居着いたのはポリュセクネーで、今心に居るのは、紛れもなく、先程の熱い目をしたパリスだった。

 アイツからしたら終わったことだろう。だが、オレからしたら、今始まったばかりなのだ。ああ、女神アフロディーテよ、エロースよ。なぜ、今なのですか。相手の矢はとうに抜け落ちてしまっている。なのに、なぜ。

 

「なあ、少しくらい、歩み寄ってくれたっていいだろ、アレクサンドラ」

 返事をするように、他に誰もいない部屋で氷がカランと軽い音を立てた。



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椿散る

 武市先生になった教員志望の男の子が生きた話。
 内容が薄いのと土佐弁曖昧なので薄目でお願いします。薄らと衆道の話があるので注意してください。

 更新が全体的に止まっていた理由はストレスとスランプで全く書くなくなってたからです。公式からの土佐供給で頭パァンしました。ちゃんと書けてる気はしない。
 ネタメモとネタ出し自体は頑張っているので少しずつ書ければと思います。


 武市は、文机に座る自分の傍らで、背を預けて健やかな寝息を立てている以蔵を改めて眺めてから、ため息をついた。

「土佐にこの子を置いておいては、あまり良くはなさそうですねぇ……」

 普段は出ることのない東京弁寄りのその言葉を聴くもの一人を除いて無い。それがわかったうえで、武市は気を抜いていた。

 

 ただ一人、同室の、手を伸ばせば届く位置にいるお富さんにしか聴かれない。そういうところにいるのは、僕にとってはこれ以上ない安心できる空間だった。彼女は自分の本性を知っているから、と気を許しているが、これを龍馬が聞いたら目を白黒させるだろう。土佐弁のみを使うはずの人間が、それより慣れ親しんだふうに別の言葉を語ることは、少しでも付き合いがある者には違和感を拭えないだろう。

 

 僕は、武市半平太は本来のその人物ではない。ただ、別人がその器に入り込んでいるだけの紛い物だ。だからといって、僕自身が何かを打ち立てるわけではなく、ただ、家庭人として、師範として日々の生活を過ごすだけだ。言葉や思想に違和感を持たれても、このご時世には過激派も多いから埋もれるだろう。それに、土佐の習俗に違和感を持っていることも、悟られなければ問題ない。以蔵くんがここにいる原因が知られれば、異端扱いされるだろうけれど。

 

 

 以蔵くんを連れてきたのは半刻程前、無人の筈の道場で男にのしかかられていたのを、手遅れになるギリギリ手前で助けたからだ。

 時代柄、土地柄もあり、土佐にはそういう因習がある。衆道を嫌うものを無理に手込めにすることもザラだ。慌ててその輩を撃退して自宅まで手を引いてきて、お富さん同伴でしばらく匿い続けて現在に至るのだが、お富さんが外出してなくて本当に良かった。「以蔵はあしのじゃ」などと方便を使った以上、一対一では恐怖でしかない。

自分の受け持つ生徒が虐待される寸前なのに黙って見ている現代の教師などいないだろうが、焦って考えた方便があまりに杜撰で、こういうとき同期の八百坂さんたちならもっと上手くできただろうと泣きそうになる。お富さんも交えて建前上衆道関係ということで隠れ蓑にすることに取り決めて、大泣きされたのが四半刻ほど前。こんなことにならないよう、やはり生徒の一部は僕の周遊に連れて出て行くべきかもしれない。

 

 門下生には衆道に偏見も嫌悪感も持たないものが大半だ。一握りだけ、嫌がる生徒はいる。その生徒を集めて、周遊の折に比較的まともな地域に預けておけば少しはマシになるだろう。その一部の生徒を探すために全員のカウンセリングをするのは大変だが、今回のようなことがあってからでは遅い。そもそも、今までに対策の一つでもやっておくべきだったのだ。

「この子達を護るためには、師範を続けるべきでしょうか」

 道場に人が集ったのも、寿之助殿が人望に恵まれているからだろう。自分はただ、周りと協調しつつしなければならないことをしてきただけだ。とても人望が厚いとは言えまい。そんな中で輪を乱すことをすれば、寿之助殿にも迷惑がかかるし、大変なことになるのは火を見るより明らかだ。

 教師になりたかったから、往来物を使って少しずつ、教師の真似事をしていた。元の体が死んでいたらどうしようもなかろうとは思いつつ、それだけはやめられなかったというだけの話だ。そのうちに、生徒が苦しんでいることに気付いたものの、僕は無力だ。周遊の話も巡って来たのだから、適度に探りを入れて、抵抗を示しているものだけ他の道場に預けていくのがいいだろう。というよりも、それしかできないのだけども。

 だが、そんなことを続けていては、土佐にずっと居ることはできない。最愛の妻のそばを離れたくはないし、今受け持っている門弟を放り出すのも気が咎める。どうしたものか。

「あら、うちは辞めなさっても構わん思いますわ」

 元々、お嫌言うてたし。と裁縫の手を止めてお富さんが言う。軽い言葉に聴こえて、その実何があっても支えると言ってくれた彼女の言葉はしっかりと芯を持って強く、重く、堅い。

「お富さんが言うなら、悪くはないのかもしれないですね」

 彼女がいれば、彼女と支え合えば自分は何でもできると思ってしまう。でも、子がないせいで重圧をかけられ続ける彼女の負担を考えれば、甘えるのは良くないことだ。一人で立てるときには立ち、守るべきとき守らねばならない。弱ったとき彼女から貰っただけの元気と強さは、できるだけ同じくらいに、辛いときに返してあげたい。

「……でも、一度預かった門弟なのに、こちらの都合で辞めてもらうわけにも行きませんからね」

 それに、道場の創設者の一人は、紛れもなく自分だ。自分の浅い考えだけでは動くことはできない。いくら、それが後世では悪習とされようと、今の時点のこの国では常識。他所の土地を見せて、無理に馴染まなくても良いと思わせたい。それがひどく傲慢なことで、脱藩の危険を孕んでいるとしても、少しばかり合法で手助けをできるような立場ができつつあるのだから、少しばかり夢を見たいと思うのは自然だろう。

 

「まっこと、正友さまは我が儘なお人やのぅ」

 半平太ではなく、僕だけが持った名前を呼んでくれる彼女の、なんと嬉しいことか。彼女がいるからこそ、"僕"は"あし"として振る舞える。「武市半平太」という人間として振る舞い、生きていける。本当に、僕と夫婦になるには過ぎたお人だ。本当に、愛しい人だ。

「こればかりは、生まれつきなもので。お富さんが愛してくれなくなるなら、どうにか直しますよ」

「えいよ。正友さまは、そのままが」

 だからこそ、これから担ぎ上げられ、生きていく先でこの人を遺すかもしれないことが、つらい。

 

 

 

 

「武市の窮屈が、なにをしゆうがか」

「……アザに言われとうないちや」

 牢に閉じ込められ、ひたすら写経や写筆をする日々を送っていると降ってきた声に驚いて振り向けば、懐かしい遠縁の友人がそこに居た。また随分と体格がよくなり、男前になったものだ。

 アザと呼ぶ程には親しかった、土佐に仕舞い込むには余りに広い視野のこの青年は、一体何を思って僕に会いに来たのだろうか。監視の目は、いくら人徳高いとはいえ彼が潜り込めるほど緩くはない。私だって、写経のための道具や紙を増やすのは難しかった。差し入れを持ってきてくれるお富さんに一目合うことさえ出来ない。そんな中で、見つかればただでは済まないのにやってくるということは、それ程までに僕を憎んでいるか、恨んでいるのだろう。

 彼の幼馴染に暗殺をさせていたことを気づけなかったのが腹立たしくて、僕を罵りに来たのか。それとも、過激派になりかねない彼らを抑えるため担ぎ上げられたくせに、暗殺に走るのを止めることができなかったことに憤っているのか。

「のう、龍馬。あしは、どこでやまっちょった」

 以蔵くんはまだ獄に繋がれていないらしい。持てる人脈すべてを使って、自分に容疑を掛けさせたのだから当然だ。天誅も、倒幕も、土佐勤王派の起こしたすべてが、僕を起点にしたものと思われている。内部の人間からすれば知らぬ、一切関わらぬはずの僕が槍玉に挙げられているのだからさぞ驚き慌てたことだろう。隠れ蓑でもあるから、しばらくは活動なぞできないはずだ。

 僕はもうすぐ処刑されるだろう。そのとおりに動いてくれているらしいので、本当に助かる。これで、僕の仕事は終わりだ。以蔵くんたちは、このまま、長生きしてくれればと思う。

 お富さんを泣かせたくも、置いて逝きたくも無い。それでも、僕が担がれたのは、こういうときのためだったのだから、仕方のないことだろう。

「わしには、わからんぜよ」

「ほうかぇ」

 なら、仕方にゃあ。

 ボロボロ涙を流して、なして、と繰り返す彼に曖昧に笑うことしかできない。なぜこんなことになったんだろうか、どこで掛け違えたかわからない。きっと、担ぎ上げられたときにはもう手遅れだったんだろう。

 顔のせいで女のごときと言われた成りも、幽閉されるうち筋肉が落ちて、本当に女性のように細ってしまった。もう、ここから出ても前のようにやっていくことは出来まい。剣術の師範は務まらないし、この姿ではまず間違いなく初見で甘く見られてしまうから教鞭を執るのにも向かないだろう。近いうちに沙汰が下るのだから、大人しく従うだけだ。

 

 

 

 そうして迎えたその日は、装束を着て出るその場はあまりにも清々しい晴天で、晴れ舞台に相応しかった。ああ、本当に、死ぬには最高の日だった。力がうまく入らないのを、どうにか精神だけで保たせて短刀を握る。

 義弟が、介錯のために刀を構えた。

 

 龍馬くんと以蔵くんは、夜明けを率いてくる青年と朝焼けのような鮮やかな目の青年には、長生きしてほしい。夜明けを見て、朝焼けをも通り過ぎて、昼の日本を闊歩して欲しい。僕がそうできなかったことを託すのは、お門違いであるように思うけれど。

 どうか生きて、生き抜いてくれ、二人共。




武市先生の中の人メモ
・武智正友
 八百坂さんの級友。
 奥さんが大好きなおっとり穏やか青年。子供には恵まれなかったけど奥さんが大好きだから意地でも離縁しなかった。(自分に原因があるかもと疑っている)
 割と弱気。でも竹刀か真剣握ると役に入る。剣術の鬼。

以蔵さん来ませんでした。ざんねんむねん。


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義眼師と竜の娘

バートリ家令嬢とそのお付きの義眼師の話。


燃え尽き症候群みたいなことになっているので、次の苺ママの話まで少し時間がかかります。次はマーリン、ビリー、君らだ。


 彼女は、立派な令嬢だった。

「エリザベート様、御注文頂いておりました義眼が完成いたしました」

「本当? 見せなさい。……綺麗ね! この前目を抉った豚に嵌め込んでみたかったけど、勿体なくなっちゃったわ。上出来よ、ルカーチュ」

「私めにはもったいなきお言葉にございます、エリザベート様」

 ただ、残虐性に富むということを除いては。

 

 

 私がバートリ家に召し抱えられるようになったのは、私が6つの頃。

 私が義眼師になれたのは、ただ彼女のお眼鏡に叶う夢があったからだ。私は、ガラス細工師になりたかった。これ、というものはない。ただ、ガラスの細工を広く行う、腕のいい職人になりたいと思っていたから。

 

 この時代、ガラス工芸ができる上等な職人はこの国にいない。まず、勉強できなかったからだ。ガラス職人は皆、イタリアのムラノ島に住んでいて、そこから出られない。

 でも、私はどうしてもガラス細工の勉強をしたかった。だから、どうにかして取り入ろうと、バートリ家でご奉公するようになったんだ。ルカーチュという名前で、振る舞いを変え、「小さな大人」から大人になった。

 それから、私は男になった。死にたくなかったからだ。完全に育ちきった自我は女性だったが、それに蓋をして、下男として生き始めた。

 

 

 それから私がガラス細工の勉強ができる環境を手にすることができたのは、ひとえに偶然の幸運のおかげ。エリザベート様の偏頭痛を、少しだけ和らげることができたからだった。

 エリザベート様は美しく、そして残酷な方だ。そして、無垢で繊細な方だ。頭痛に悩まされ、悲鳴で痛みを癒やしていたのは、それしか方法がわからなかったからだ。立派な淑女であり、それ以外については全くの子供だったのだ。

 偏頭痛は体調の細々とした変化から生まれることを、私は知っていた。それがどのようにすれば和らぐかも、また同時に分かっていた。静かな環境と、ホルモンバランスを整えることと、偏頭痛は冷やして緩和させること。それから、痛みに効くハーブを何種類かと、その調合。

 ただ、そのとき私は怖かっただけだ。私もいずれ殺されるかもしれない。だから、どうなるかもわからず、まずはハーブに頼った。少しでも彼女の苛烈さがなりを潜めるように。

 時間帯は夜更けを狙った。最もお嬢様の気が昂ぶることの多い、夜会後の時間。人が居ないのは、お嬢様が頭痛で苛烈になって侍女が傷つけられるのを、皆知っているからだ。そこへ飛び込んでいくのは、覚悟が必要だった。でも、しないよりはましだ。ノックは3回、応えを得てから入室する。

「失礼いたします。お嬢様、頭痛に効く薬草茶をお持ちしました」

「は? なにそれ」

 怪訝そうな顔で私を見るお嬢様は、しかしその顔さえも美しかった。不敬であることを咎める前に疑問が飛び出していることから、おそらく少しの興味を抱いてくれたのだろう。

「聖ヒルデガルトが見つけた頭痛に効くハーブだそうです。幼い頃に旅の男から教わったのですが、少しでもお嬢様の助けになれば、と。分不相応であることは承知しております」

 じいっと、ハーブティーのカップを見つめたあと、お嬢様はそっと目を閉じた。赤みの強い髪の毛がサラサラ揺れる。一つ一つの場面を切り取れば、確かに美しい令嬢だ。ずっと、そのままであってくれれば、私達は怯えることもないのに。

「……いいわ、それ、頂戴」

「はい、ただいま」

 返答は是だった。駄目で元々、その場で拷問されて殺されるかもしれなかったけれど、そうはならなかった。私は、今日も生きることができるかもしれない。それが効くか否かにもよるが、ひとまずは良かった。

「お嬢様の頭痛は、2日から3日続くもの、そして強い光や臭いが引き金であるとお聞きしました。ですので、マジョラム、ペパーミント、カモミールを調合した香草茶をご用意致しました」

 少し、香りを嗅いで一口含む。優美な仕草は深窓の令嬢にふさわしい可憐さだった。

「ふぅん……あ、美味しい。嫌じゃない甘さね」

 驚いて目を丸くする彼女は、少し猫に似ていると思った。口に出すことはできないけれど、子猫のような無邪気さを湛えている。

 もしかしたら、こうしてここに来たのは彼女のそういうところを気に入っていたからかもしれない。近くで見ることは今より他になかったけれど、その様を、私は私でない誰かとして知っている。それが誰かは私も知らないけれど。

「蜂蜜を少し垂らしてありますので。香草茶には砂糖よりも蜂蜜のほうが自然に合うそうです」

 蜂蜜は高価だ。特に、お嬢様が口になさるようなものは、良いものを使っているから。砂糖の方が安いのかもしれないが、生憎と私達庶民にはこの館の同等の蜂蜜や砂糖を得ることは厳しい。当然のことではあるが。

「それも、旅の男に聞いたワケ?」

「はい。私めは口にしたことがございません。しかし高貴なる方々はそうしていらっしゃると」

 返事をすると、お嬢様は一等嬉しそうなお顔をなさった。心なしか、いつもよりも穏やかに見える。素直で愛らしい方なのだが、それが嗜虐に繋がると、ひどく残酷な振る舞いになる。そうでなくなれば、生きていられる。彼女の繁栄を見ていられる。下界からでも、そうなればと思っていた。これは、足がかりになるだろうか。

「うん、いいわ。とってもよく眠れる気がしてきた! 貴方、名前は?」

「ルカーチュと申します、お嬢様」

「そう、ルカーチュ。貴方、これから貴方は私の専属よ。いいわね?」

「っ、はい」

 嘘だ、と言うと不敬になる。叫びそうになった言葉を必死に喉元へとどめ、できる限り美しく礼をし、その場を辞した。

 

 

 それから、私はお嬢様専属の使用人としての教育を受け始めた。当然、女であることを隠してはいたが、何度も躾と称した体罰で上半身を剝かれて鞭打たれたので、いつかバレるんじゃないかとヒヤヒヤしていたものだ。

 

 でも、なんとかやり遂げた。やり遂げてしまった。

 体には無数の鞭の跡が残ったけれど、それでも様々なことを学ぶことが許され、また、お嬢様を喜ばせるものであれば何でも学ぶようにとされた。

 だから、私はガラス細工を学んだ。知識は、元々持っていた。本当の私でない私が持っていた、どこか知らない世界のガラスの知識を。

 

 私は自分が何者なのかわからない。私でない誰かの知識はあれ、私は私だった。物心ついたときには、私以外の何者でもなかった。わからないなりに、したいことをしていた。

 時間を作って色ガラスの細やかなペンダントを作り、ブローチを作り、義眼を作って、お嬢様のお気に入りにならないかと期待して返事を待つのは、心底心躍る時間で良い。

 そのうち、義眼は特にお嬢様に気に入られ、私は義眼師になることになった。様々な色ガラスで虹彩を作り、人の目に見えるような義眼を作るのは、大変だけど楽しい仕事である。

 

 だが、お嬢様は苛烈さを増して行った。

 どうも、私が義眼を作り始めた頃には、使用人への折檻が激しくなり始めていたらしい。

 偏頭痛は和らいだと、そう笑っていたはずなのに、彼女はやはりバートリ家の宿痾から逃れられなかったようで。使用人が少しずつ消えていって、何かがおかしいと気づく頃には、彼女はすでに完成した後だった。

「お嬢様、なぜ使用人たちに折檻をなさるのです? 頭痛は治まったと聞いたのですが」

「え、理由なんてないわよ。楽しいからするだけ」

「左様でしたか……」

 ああ、ここは、もう駄目かもしれない。お嬢様をお止めしたかったけれど、きっと、もう無理だ。

 だって、私が尋ねたあとから、彼女の目に嗜虐的な光がある。次は、私だ。

 

 もう少しだけ、お嬢様の運命を変えることができれば良かった。そうすれば、私が私でないときに生きた誰かも、きっと浮かばれただろうに。無辜の怪物にされるであろう、聡明で愛らしいお嬢様。どうか、誰かが貴方様をお止めできますよう。

 




嫁ぐ前までの話なので大体エリちゃんが14歳頃に彼女は拷問死。


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幕間 ガラスの目の男

ガラス細工師と令嬢が嫌な形での再会を果たす話。
グロ注意。


「立香ちゃん、エリザベート、二人にレイシフトしてほしい」

「何かあったの?」

「チェイテ城付近で少し異変を観測してね。調査してきてほしいんだ。今回は揺らぎのせいもあって少人数、できれば二人くらいのほうが好ましいから、土地勘のあるエリザベートと一緒に行ってほしい」

 急に呼び出されて告げられたのは、チェイテに妙な反応があるという内容だった。

 

 

 レイシフトで降り立った場所は、チェイテ城の周りの森の一角だった。通信を繋ぐ間に、少し見てくると言って、エリちゃんは変化がありそうな所を探している。

「このあたり?」

〈そうそう。……エリザベートが随分静かだけど、何かあったのかい?〉

「あ、ホントだ。エリちゃーん?」

 少し遠いところにいたエリちゃんは、何かをじっと見ていた。白くて、キノコみたいな。

「エリちゃん、何し、ひっ!?」

「……これ、ウチの城から捨てた使用人だわ」

 キノコだと思ったのは、よく見ると骨だった。しかも、一つじゃない。同じ骨がいくつも、つまり何人分もある。

 

 固まっていると、ガサガサと茂みの中を何かが移動する音がかすかに聞こえた。

「来るわ!」

 来たのは、人の形をした化け物だった。

 ゾンビみたいで、でも、どっちかというと人間にいろいろなものを付け足した悪趣味な作り物みたいな、そんなエネミーで。

「ァ……エルじェ、ベート、?」

「っ、ルカーチュ……!」

 嫌な声だと、そう思った。男と女と子供と大人の声がごちゃまぜになっている、嫌な声。

 

 隣で警戒していたはずのエリちゃんが動かないからおかしいと思って横目で見ると、完全に血の気が引いていた。もしかして、あのエネミーはエリちゃんの知り合いなのか。

「エリちゃん、」

「違う、違う! あれはアイツじゃない! ルカーチュだけじゃない! 何か混じってる!」

「ルカーチュ……?」

 目の前の化け物じみた人物は、妙にカクカクした動作だけど、それでも動いている。髪の毛はざんばらに切られたような不揃いさで、目に光が宿っているのに、宿ってない。命の宿った光じゃない、どこまでも無機質な光でしかないんだ。そして、向き合っているというのに、おかしなことに視線が全く合わない。

 無数に鞭の跡がついた皮膚は、心臓が見えるほどに深く裂けてる。ずるりと下がった肉の隙間からは肋骨が見えた。白く、半透明なそれは、おそらくガラス製なんだろう。血にまみれているのに、ツヤツヤ輝いてきれい。

 

「ア……ァ?」

「あっ、まずい」

 こちら側に顔を向けてすぐ、化け物、もといルカーシュ(というらしい人)が襲いかかってきた。何あれ、目が見えてなさそうなのにどうしてわかるんだろう。さっきの声? でも、距離までわかるなんて。

「エリちゃん!」

「分かってるわよ!」

 いつもの調子で駆け出して、薙ぎ払う。

 でも、エリちゃんの斬撃は彼まで届かなかった。何か液体みたいなものを飛ばして、それで槍を跳ね返したからだ。

「あっつぅ……!」

「防がれた……! 何あれ!」

「溶けたガラスよ! ルカーチュはガラス細工師だったの!」

 叫びつつ、バックステップで回避してエリちゃんが跳ぶ。斬りつけても斬りつけても、あんまりダメージが入ってるようには見えない。

「うわっ、めっちゃ厄介!」

「やるわよ、子ジカ!」

 一撃でだめなら追加、とばかりに斬りつける。エリちゃんは電光石火の一撃を何度も、という方向に切り替えて、防がれるのを避けようとしてるみたいだ。

「アアアアア!!」

「チッ、邪魔っ!」

「ああアッ? あアアぁァア!」

 おぞましい。耳を塞ぎたい。これ以上聞きたくないような音の集合みたいな金切り声で化け物が叫んでる。

 

 でも、胴の肉を裂くときには叫ぶのに、肺や肋骨の近くを掠めたときには叫んでいない……?

「エリちゃん! あれ、心臓のあたりは全然叫ばない!」

「えっ!? ……わかったわ!」

 すぅ、と深く呼吸をして息を吐いたのを見て、あわてて耳を塞ぐ。あれ、いつも歌い出す前にエリちゃんがしてる呼吸方法だ。

 

 

「ルカーチュ、止まりなさい!」

 

 

 歌うために鍛えられた声で、エリちゃんが叫んだ。マイクなしでも響き渡る。

「そんなことしたら攻撃されっ……あれ?」

 あんな大声で叫んだら攻撃されると思ったのに、動きが止まった。

「ぁ……オ、じョウサま……?」

 ぐちゃぐちゃに声の高さが混じったノイズのような声で、確かに彼はエリちゃんのことを呼んだ。"お嬢様"と。

 わからないけど、たぶんルカーチュさんという人はエリちゃんの使用人だった人なんだと思う。彼は、こんな姿になっても、彼女のことがわかってる。何があったのか、私は知らない。でも、それでもエリちゃんと彼の間には確かに強い、負の感情ではない想いがあったんだと思う。男女とか、友情とかじゃないけど、きっと。

 

 こんな状況なのに、目頭が熱くなる。見なくては、ちゃんと、エリちゃんがケリをつけるところを見届けなくてはと思うのに、視界がぼやけてしまう。

「避けちゃ、だめ」

〈ッ……!!〉

 そう宣言して、跳ぶ。

 エリちゃんの槍が一直線に心臓に刺さる。生きた人間みたいに血が溢れて、支えを失った体が崩れ落ちた。サポートしてくれていたダ・ヴィンチちゃんの息を呑む音が、どこか作り物じみて聴こえる。

 

 悲鳴は、上がらなかった。あれだけ、途中で切りつけられていたときには金切り声を上げていたのに、一言も発しなかった。

 

「アンタ、わざわざブタ共に取り込まれてこんなになることないじゃない」

「……お嬢、様」

「ええ、そうよ。アタシよ」

「嗚呼……」

 

 ルカーチュさんが血の涙を流している。それでやっと、ルカーチュさんが視線が合わなかった理由がわかった。彼、ガラスの義眼をしてるんだ。さっきまでは普通の涙だったから本物の目みたいだったけど、血のせいで肋骨と同じガラス製だったのがわかる。

 

 エリちゃんが言う「ブタ共」を押さえているのか、それとももうそれらは消えたのか、どちらか検討もつかないけど、確かにルカーチェさんとしてエリちゃんと話してる。

「お嬢様……主の、御元で、いつか」

「ええ。いつかきっとそちらに行くから、安心して眠ってなさい、ルカーチュ」

「あ、なたに……主の光が……」

 そこまで言うと、落ちかけていた瞼が完全に閉じて、ルカーチュさんは塵になって消えてしまった。

 遺体が残るんじゃないかと思ったけど、彼には、もう本体は無かったんだ。黒幕が誰かはわからないし、もしかしたら黒幕になるような人物は居なくて、「混じっていた」って言われていた怨念か何かのせいで発生したものだったのかもしれない。

 

 私がぼんやり考えていたうちになにかに気づいたみたいで、エリちゃんは彼がいたあたりの血溜まりにしゃがみこんで、何か拾い上げていた。

 血の涙石みたいな形の、でも魔力の光とは違う普通の光沢の、ただの赤い綺麗な石。

「本当に、バカね。ずっと光はあった(アンタはいた)じゃない」

 俯いて、拾ったそれを握りしめるエリちゃんに、その場にいちゃいけないんじゃないかと思った。私が見るんじゃなくて、ルカーチュさんがそこで見ていないと、寄り添っていないといけないような、そんな気がする。

「ねぇ、ロマン、まだ通信繋いでるんでしょ!

 ダ・ヴィンチと代わってくれる?」

〈おっと、この天才ダ・ヴィンチちゃんに何か用かな?〉

「これ、絵の具にできない?」

 さっきまで握っていた石を見せて、エリちゃんが言った。さっきまでの暗い顔色ではなくて、前を向いて、はっきりとした強い光がある目で。

〈おや、辰砂かい? 出来るよ。というか最高の赤が出せるね〉

「……なら、これで絵を描いてくれない? もちろん報酬は払うわ」

〈うん、いいよ。私も今、ちょうど描きたいものができたところだったからね〉

「ねぇ、マシュ。辰砂ってなに?」

 辰砂、というのが何かわからなくて、こっそり通信越しにマシュに尋ねると、快く答えてくれた。

「鉱石の一種で、水銀を伴って産出する、赤くて透明な石です。紀元前から高品質の赤い顔料として使われていたんですよ、先輩」

「へぇ、あの石、古いタイプの絵の具になるんだ」

 だったら、ダ・ヴィンチちゃんが手がけるんだし、きっと見事に描かれるんだなと思った。さっきまで対峙していた、いつまでも主人を想う細工師の姿が。

 

「じゃあ、帰ろうか」

「ええ、早く依頼したいしね」

 

 

 

 

✩    ✩    ✩    ✩

概念礼装「血涙のルカーチュ」

 化生の硝子細工師はまどろむ。かつての主人の声を反芻し、眼に己が主人の愛した義眼を嵌め込んで。

宝具威力5%アップ+与ダメージ500アップ

 




ルカーシュの語源は(間違ってなければ)ラテン語の「光」
BGMはスザンヌ・ヴェガの「Luka」

追記:名前ミスってたので修正しました。


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ガラス・サンタの贈り物

主人思いの無辜の怪物の話。大遅刻クリスマス。
「今年のネタは今年のうちに」と思っていましたが難しそうですね。SPI対策などしたくない。


 拝啓、エリザベートお嬢様。いかがお過ごしでしょうか。きっと、お嬢様は天の父のもとで心安らかにお過ごしでしょう。ああ、でも、カルデアという場所にもお嬢様がいらっしゃるのでしたね。ならば、いつの日にかお会いすることも叶うと思います。思って、いたのですが……

 

「なんですか、これは」

 

 ここは一体どこですか! 周りがジャングルなのに真っ白なのですが!

 

 

 

 

「おかしい。サンバなサンタ以外にもサンタの反応がある」

【先輩、いつからサンタの反応なんてわかるようになったんですか?】

「いや、なんとなく」

 立香の言葉に通信機越しに尋ねたマシュだったが、帰ってきたのは曖昧な返事のみ。人類最後のマスターこと今イベントのマネージャー兼トナカイは疲れていた。クリスマス周回はつらい。あまり礼装が十分でない中の渋めのドロップ品集め。

 気分を変えるために話をしていたが、ままならない。それに真のサンタを決定するためのプロレス大会にさらに追加されるサンタ。混乱の予感しかない。

「流石にこれ以上サンタが増えたらカルデアのサンタレベルが急上昇して飽和サンタ量を超えてしまう……探してくる!」

【あの、先輩?!】

 

 

 

 と、言って飛び出したとはいえ、立香にあてなどなかった。しかし、イベントはだいたい向こうからやってくる。それだけは身にしみて分かっていた。

 とりあえず、フラフラしながらめぼしいものを探した。マンジョッカフリッタの屋台で一つ買ってパクつきながら歩いていると、挙動不審な少年がいるのが見えて、(あ、たぶんあれだ)となんとなく察した。回れ右しようとするが、間に合わずにバッチリ目が合う。あ、だめだ、あれはたぶん大丈夫やつ。そう直感が訴えているが怪しいものは怪しい。少年は当然のように全速力で走ってきた。背中に担いだ袋がバインバイン揺れている。

「もし、そこの方。プレゼントを渡すお嬢様かご子息様がいらっしゃいますね?」

「うん?」

 声が発せられた方を見ると、一人の少年が立っていた。年は13、4歳ほどで暗めの金髪を一つ括りにして横に垂らしている。服装は、もこもこした綿の縁飾りのついた真っ赤なマントに、同じく綿の縁飾りの真っ赤な膝丈のズボン、そして白のポンポンつきの赤い三角帽子。……子供だが、紛れもなくサンタクロースだった。

「あ、これは! 人類最後のマスター様でしたか!」

「えっと、君は?」

「む、これは失礼いたしました。私めはバートリ家の召使い、ルカーチェと申します」

 擬音の付きそうな見事な礼に、帽子がずり落ちそうになる。慌てて治している姿は、やはりどこにでもいそうな子供だった。

 しかし、この少年はルカーチェと名乗ったか。この前エリちゃんと倒したのもルカーチェじゃなかったか。あのエグい異形と同じ名前とはどういうことだろう。あの見た目は流石に英霊には見えなかった、と立香はぼんやり考える。ちょっとガウェイン似というか、ガウェインを小さくしてもっと優しいというかポヤポヤさせたら多分こんな感じになると思うが、一体。

 

 大きなズダ袋を持っているが、やはり何かしら攻撃してくるかもしれないという懸念はあった。しかも、今は誰一人連れていない。立香の背にヒヤリとしたものが伝っているのを尻目に、少年はズダ袋に上半身を突っ込んで何かを探しているようだった。待て、さっきよりその袋大きくなっていないか、と突っ込みたい気持ちを抑えて、固唾を飲んで見守る。

 ルカーチェと名乗る少年がようやくズボッと体を引き抜いたときには、クリスマスカラーの包装の包を一つ、抱えていた。

「こちらをどうぞ! 実は、エリザベートお嬢様を探しておりましたが、どうしても見つからず……お会いすることが叶わなかったのです。ですので、貴方に!」

 渡されたのは、手のひらよりは大きいが、抱えるほどでもない大きさの箱が一つ。

 控えめに振ってみると、カタカタと音がする。特に嫌な感じはしない。

「んー、でも、オレもしばらくエリちゃんには会わないし、それにみんなサンタを決める大会をしてるんだよ?」

「左様でしたか……では、私も参加すべきでしょうね。非合法サンタとして活動することはお嬢様の名に傷が付くやもしれません」

 かがんで目線を合わせ、大会のことを伝えると神妙な顔をして頷いた。……かと思えば、決意を決めた目でそう言い放った。何なんだ、非合法サンタって。

「こうしてはいられません。ありがとうございます!

 行きましょう、主の平和のうちに!」

 ルカーチェはズタ袋から、一人用のガラス製らしい透明なソリを引っ張り出すと、そのまま飛び乗って颯爽と滑り出してしまった。滑っていくときに何か火花のようなものが散って見えたのは気のせいだと思いたい。

 

【先輩、何かそちらで不思議な反応がありましたが一体……】

 再びつながった通信に、なぜ先程まで途切れていたのかとふと思い返しながら答える。

 妙に人が少ない、というか人がいなかったので、たぶんそういう場所に足を踏み入れていたのだろう。相手は幽霊のような、そういうものだし。

「あー……、うん。凄く主人思いなサンタクロースにプレゼントを委託されたんだ」

 たぶんこれ、エリちゃんは凄く喜ぶだろうなぁ、と言うと、マシュは不思議そうにしていた。うん、でも、すぐカルデアに来ると思うし、多分すごく叱られると思うよ、彼。口には出さないが、立香はぬるい微笑みを浮かべながらそう考えていた。

 

 うん、たぶん。石が足りれば、きっとすぐに。




多分バトル曲はグローリアあたり


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おかんと花の魔術師

ホットドッグ食べたいです。スランプ抜けません。


 賑やかな会場、毎年のように行われていたネロ祭は今年ばかりは趣が違う。

 

「よぉーし、苦手だけど、全力で行こうか!」

 モニターの向こうでドリームマッチが行われているのを尻目に、久々にキッチンに立つ。

 仕事も大概にしないと心が死ぬ。社畜を好んでするつもりもないので、早々に切り上げてモニターも見える場所を借りていた。私からすれば何やら凄まじい演武でしかないので、どうせなら暇があるときには見ておきたかったのだ。今は、サムライクリムゾンと呼称されている岡田さんとの対戦らしい。

 

「そういえば、今年はジャンクフード集め?」

「そうみたいだよ。苺、今日は何を作るんだい」

 前よりも幾分か筋肉がついたロマンは、心なしか、前よりも食い意地が張っているような気がする。キッチンに立とうとしたとき目ざとく見つけられることが増えたような気がするんだ。

「ホットドッグにしようかと思ってるよ。ロマンも要る?」

「要る!」

 元気な返事だ。ホットドッグはロンドンのフラットでは良く作っていたし、私が作るもののロマンは味も知っている。信頼してくれているのもわかるし、腕が鳴る。

 ロマンの料理については……甘いものは凄いとだけ言っておこう。彼の作るパンケーキは美味しい。

「飲み物は」

「おまかせで」

「そっか、じゃあ、コーヒーにしようか。カフェオレとアメリカン、どっちがいい?」

「カフェオレ。甘くして欲しいな」

 甘党さんのリクエストは些細なものなので、叶えるのに苦労はない。どうせなら少しサービスしよう。よく母がやってくれたオマケだ。

「じゃ、ハチミツをオマケしてあげる。最近手に入った、ちょっといいのがあるんだ」

「やった!」

 ロマンは喜んでいるけど、果たして、生産者を知ったらどんな顔をするんだろうね?

 

 

 

 サムライクリムゾンとの対戦はマーリンの剣技に全力で火力を回した立香ちゃんの勝ちで終わった。見ていて楽しい試合だったけど、あれだけ魔力を回して立香ちゃんは大丈夫だろうか。疲れているかもしれないし、おやつは少し多めに取り分けておいてもらったほうがいいかもしれない。今日のおやつ担当は誰だっけ。

 ぼんやりと考えていると、淡い花の香りとよく知った気配が近づいてきた。

「いやぁ、疲れたよ」

 花の魔術師ことマーリンである。今日も元気に周りに花を咲かせているけれど、この花たちは本当に統一性がなくて不思議だ。何かしら法則がないか、少しばかり気になる。

 

 わざわざ私のいるカウンター付近に腰を下ろしたマーリンは、笑顔をこちらに向けて来た。無言の催促だろう、これは。

「お疲れ様です。何か飲みます?」

「うーん、それじゃあ、君のオススメで」

 返事をするときには蕩けんばかりの笑顔なので、どうしても近所の子供を連想してしまう。コーヒーは飲んでいたところを見たけど、今飲むのは別なものがいいだろう。出来れば水分補給としても問題なさそうな

「それじゃあ、ローマの麦茶にしましょうか」

 オルヅォという、平たく言えばローマの麦茶。ネロ祭になるはずだったので用意していたものの、すっかり忘れていたので出すことにする。ハチミツも少し垂らそう。この前、彼が大瓶に詰めて提供してくれたものだ。とても助かってるし、時間とタイミングがあれば貰い物は還元するのがいい。

「うん。それでいいよ」

 ニコニコと笑顔を続けている。なんというか、とても圧を感じるので困る。美人の笑顔は男女問わず、言いしれぬ迫力を感じるんだ。

「……なにか?」

「君を見たら、お腹空いたなぁと思って」

「完全に刷り込まれてますね」

 今までの積み重ねで、私が食事のイメージとと紐づけられているのだろう。

 何かがおかしい気がする。けど、突っ込んだら負けだろうというのも分かるのでそれについては口をつぐむことにする。ヤブ蛇は避けたい。

「食事も、簡単なもので良ければ用意しましょうか」

「そうしてくれると助かるよ」

 そうしてやっと、マーリンの笑顔がほぐれた。

 サーヴァントにしろ、職員にしろ、普通の顔をしているときのほうがよほど安心感がある。目の前の誰かがずっと笑顔になり続けていると、ちょっとだけ不安がよぎるので安心した。年中笑顔な人はともかく、そうでない人の作り込んだような笑顔は長続きされるといささか困る。私だけだろうか。

 

 しばらくはじいっと覗き込んで、彼は私を見た。何か考えているのか、それとも何も考えていないのかわからない目をしている。

「キミは、僕のことをあまり好きじゃないみたいだね」

「ええ、部分的には」

 大した質問ではなかったし、嘘をついたところで丸わかりなのだろうことはわかっているので、正直に返答した。

 不思議そうな顔は崩れない。何となく、これは彼の素の表情であるような気がする。根拠はない。

「それはどうして?」

「あなたは相互理解に積極的ではないでしょう」

「そうかな。そんなこともないと思うけど」

 口先ではそう言いつつ、どこをどう見れば積極的に相互理解しようとしているのか、私にはわからなかった。

 彼は人じゃない。でも、それでも行動をコピーして再構築できる程度には人間について理解がある。なのに、やろうとしない。私の目には、お世辞にも積極的には見えない。

「最終的に最悪の事態につながる選択肢を取らせることに忌避感がない。違うかしら」

 目を伏せて、痛ましそうにする。

「……そうだね、アルトリアのときなんかは、そうだ」

「バビロニアのときも、立香ちゃんが苦しみかねなかった」

「でも、彼女はそうじゃなかったろう?」

 彼女は立ち上がったし、美しい物語を紡いだのだろう。絶望しても光を見つけた。歩き続けた。

「結果としてはそうね。でも、一歩間違えばミス・ペンドラゴンと違わなかった」

「……手厳しいな。君たちは何もできなかったのに」

「ええ、私達は何もできなかったから。だから言うし、怒る。貴方は相互理解の努力はできるのに、しようとしない節がある」

 目を丸くしているけれど、本人は気づかなかったのか。それとも、気づかれないと思っていたのか。また別の理由なのか。別にどれでも構わないけれど、そんなに驚くことじゃないだろうに。

「僕には人の感情がないから、」

「人の感情はなくてもいい。経験知があるなら、予測はつくでしょう。それは怠慢でしかない」

 そういえば、今日ここに来て初めて彼は真顔になった。

 何か私の言葉に不快さを覚えたのかもしれない。もしくは、それ以外の引っ掛かりが何かあったか。それがどこにあったかまではわからないけれど。

「どうしてそう思うのかな」

「だって、あなたはイングランドで、人の中で暮らせていたでしょう」

 その仕草はとても人間らしく見えるし、見えなくもある。人によって、本当はあるのだろうと、いややはり作りものだと言うのだろう。でもそんなことはどうだっていい。それができるというのが大切なのだから。

 仕草を真似られるほど、マーリンという魔術師は人と共にあった。なら、それだけの蓄積された知識がある。知識があれば、思考できる。思考できるならば、感情として理解することはできなくとも、予測して歩調を合わせることはできる。

「真に分かり合えるかなんてどうでもいいけど、どうせなら不快感は少ないほうがいいもの。だから、努力すべきじゃないかしら。個人の意見だけどね」

 

 そんなことを言っているうちに、いい具合にソーセージが茹で上がってきた。

 白ソーセージは本当は朝から昼に食べるものだろうけど、そんなことは気にしてはいけない。美味しいかどうかが大事だから、目は瞑ればいい。

 湯から上げ、温めたパンに挟んで、作りおきのサルサソースを熱々のソーセージの上からかける。皿を彼の前に置くと先程までの難しい顔は既に消えていて、目線は大ぶりのソーセージに釘付けだった。いつもより奮発したものを買ったのは、祭だからということで一つ多めに見てもらいたい。いつもなら普通のサイズでここまで大きめのものは買わないからね。

「はい、できましたよ。熱いから気をつけて」

 あれこれ言ったけど、私は彼のことはそんなに嫌いではない。喜んだふうの顔を、したほうがいいときにはできるのだから嫌いにはなれないのだ。

「ありがとう。うん、美味しそうだ」

 ニッコリと笑う顔は、作りてからすればやはり嬉しいに決まっている。

 わかった上で騙されるのも、まあそれはそれで悪くないのだろうし、気づかなければそのままでいいのだ。分かり合えなくとも、人間は手を取って生きていける。その意志がありさえすれば、それに見合った行動ができるから。

「サルサソースは具が大きめだから、衣装にこぼさないように気をつけてね」

「おっと」

「言ったそばから……!」

 

 ただ、うっかりとかでやってしまう悪意のない行動は、流石に内心で腹を立てても仕方がないのかもしれない。明日の洗濯当番は怒るだろうなぁ。




追記:誤字修正しました。ありがとうございます。


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天命を知る

言葉を告げるためだけに生まれた者の話。

リハビリ。公務員講座が平日九時半まであるのがとても苦しいのと、なかなか折り合いがつかなくて書けていません。ルカーチェの話とか大遅刻ハロウィンとかクリスマスとかゴースの続きとか色々書きたい気持ちはあります。これからちまちま書きたいです。

このキャラクターを作るとき、友人からもネタ提供を受けたので(召喚後のセリフ等)続きを書く予定ではあります。


 ×××は化物だ。ヒトではなく、また、国津の神でも、天津の神でもない。

 ×××は遠い先の話を知っていた。多くの人が死ぬことを知っていた。だが、×××はそれを伝えてしまえば、自分が死んでしまうこともわかっていた。

 ×××は聡い生き物だった。身の程を知っていた。天命を識っていた。しかし、×××もやはりモノを識る生き物だった。それゆえに、死にたくないと思った。×××は簡単に死ぬ。ただ、人に出会ってしまえば、言葉を紡がざるを得ないことを理解していた。

 日ノ本の山の中をのっしのっしと歩きながら、×××は物を考えた。今代の天子に伝えるか、それとも只人の子に伝えることになるか、考えた。なるべくなら、より自分の命を費やすのにふさわしい相手であればと思ったからだ。天子の政治がどうであるか、×××は知らなかった。知る気もなかった。しかし、天子からすれば違うのだろう。×××は災いを告げて死ぬ。天子は災いが続けば位を辞して元号を変える。霊亀が現れないときも変える。×××が現れれば、それはそれは憤るだろう。やるせなさに襲われるだろう。しかし、それで×××が告げることがなかったことにされてはかなわない。

 

 そうしてどれほど歩いていたのか。×××は何者かが茂みを揺らす音を聞いた。

「あれは、人か」

 籠を背負って、何やらしているらしいその人間を見て、あれではふさわしくないのではないか、という考えがよぎった。

 ×××は告げなければならない生き物だ。告げて、死ぬべき生き物だ。それでも、あのようにきちんと伝えるかも分からぬ人間であったとは、と落胆していた。

 

しかし、

 

「おっかあ、喜ぶかなぁ」

 

 ×××は歓喜した。良い人間を引き当てたと知ったからだ。籠の中身で、山菜に混じり、薬草がいくらか混じっているのを見たのだ。これでよいのだ、とそう思える人間をきちんと見つけられた安堵で、×××は迷うことなく歩き出していた。

「そこな人間」

 ×××の言葉に振り向いた人間は、顔をひどく歪めた。当然だろう。×××は顔こそ人間だが、体は牛である。

「うわぁっ!? ば、化物!」

「聴くが良い!」

 これではにっちもさっちも行かないだろうと理解したくだべは、腹の底から叫んだ。

「ひぃっ?!」

 怯んだか、おとなしくなったことに満足してそのまま言葉を続ける。

「我は"くだべ"。天命を受け、ここまで来た。

 これより数年間、疫病が流行し、多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写し絵図を見れば、その者は難を逃れるだろう。しかと、伝え広めよ」

 

 それだけ言うと、くだべは事切れた。満足げに笑って、死んだ。

 

 

 

「とまあ、こういう経緯で遣わされる者になったのだよ、主上」

「まさか牛も召喚されると思わなかったけど、本当にタダモノじゃない牛だったんだ!?」

 可可と笑う半人半牛のそのサーヴァントに、人類最後のマスターは叫んだ。

 第三の異聞帯、そこに突然現れた正体不明の二人目のキャスターのサーヴァント。ムキムキマッチョなジャイアントボディに、果てしなくちぐはぐな牛面。ピンチになりかけたとき彗星のごとく現れたそのサーヴァントは、挙げ句の果てには「拳を報じるのである!」とバスター宝具を発動した。追撃には頭突きをする始末。こいつは頭がおかしいのではないか。いや、実際に頭部は牛で、ボディと合ってないのだが。

「牛と馬、揃って突撃することになるのかぁ……」

 大丈夫じゃないけど、大丈夫な気がしてきた。そう言って、力なく藤丸立香は笑った。笑うと、本当に何となくどうにかなる気がしてきた。




この牛面、第二再臨で牛面にジャイアント○場的なマッチョになります。第一だと伝承通りに人面牛です。


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金切り声の怪物

化物が到底叶わない恋をした話。
たぶん3話くらいになるはず。


しばらく頑張っていました。生きてます。内定も内々定もないのでまだ就活します。しんどーい……


「リゲイアー、また人間たちが来るわ。懲りないわね」

 水平線の向こう側に、木の葉のような影が見えた。座っていた岩礁に、ばしゃん、と波が当たって砕ける。お姉さまは忌々しげにそれらを見て、暗い笑みを浮かべる。水夫は、皆お姉さまの美しさに見惚れ、歌声に恋をする。お姉さまは恋なんてしたくないのに。私達は、恋などできないのに。

「レウコシアーお姉さま、私」

「わかってるわ、あなたは歌わなくていいの。本当に辛そうに歌うもの。そんな顔をして歌うくらいなら、もう二度と歌ってほしくないわ」

 羽を動かす音が上から聞こえて、妹が帰ってきたと知る。私たち三人の中で、一番年若い、皆が求めるような清らかさを浮かべた乙女。私には決して無いものを持つ娘。今日は魚が取れただろうか。私は我慢できるけど、二人がお腹を好かせたりするのは嫌だ。

「そうよ、リゲイアー姉さん。苦手なことなんだから、しなくてもいいの。喉が痛むでしょう?」

「パルテノペー、ごめんなさい」

「謝らなくたっていいのよ、姉さん。私、姉さんのことが心配だわ。だって歌えないし、話すのだって苦しいでしょ?」

 レウコシアーお姉さまは私の左頬に、パルテノペーは私の右頬に、その艶やかな羽根の翼を添わせた。本当は珠の肌の腕だった二人の翼は、変わってしまってもなお美しい。この姿を元に戻せないのが、とても歯がゆくて仕方ない。

 ――セイレーン。姿を変えた私たちは、そう呼ばれるようになっていた。

 

 

 私たちは、はじめから怪物だったわけじゃない。昔はペルセポネーさまと一緒だった。その頃は私たちは三人共ただの人間で、それが変わったのはハーデスさまがペルセポネーさまを攫ってしまってから。デーメーテールさまは人間には力が及ばないこと、と泣きながら、私達にも腹が立つだろうにお許しくださった。けれど、私達はずっとシチリアで泣いてばかりで変わることもないまま、今もまだそのままに過ごし続けている。

 だって、私たちはみんなペルセポネーさまのことが大好きだったのだ。毎日一緒に散歩をしたり、果物を取りに行ったのがまるで幻だったみたいで、ずっとずっと泣いてばかりいた。声をかけてくださった人たちはいたけれど、私たちはその声なんか聞こえなくて、ずっと悲しんでばかりだった。だから、アプロディーテーさまの怒りを買ってしまった。

 

 私たちはそうして、声をかけてくれた人たちの、求婚をした男の人たちの声を無視し続けた罰として、体の半分だけが鳥になった。腕やお腹から下は鳥で、体の上の部分だけは人間の怪物。声と顔とは美しいままのレウコシアーお姉さまとパルテノペー。私は元々二人ほど美しくはなくて、顔はそのままだった。でも、その代わり少しだけ自信を持っていた喉に罰を与えられていた。

 私はずっとペルセポネーさまを慕っていたから、特に怒りを買ってしまったみたい。はじめは声の音がうまく取れなくなった。耳障りで、歌おうとしても調子外れになるばっかり。元々うまいわけではなかったけれど、楽しいから歌っていたこともできなくなった。次に、喉が痛みだした。声を出すのも辛くて、声は更にキンキンしてうるさいだけになった。少し話すだけでも痛くて痛くて、頑張っただけ血を吐くようになってしまって、今ではもう殆ど長話なんてできない。歌うなんてもってのほか。

 それでも、それでも私は歌いたかった。下手くそでも、汚い金切り声でも。

「ねぇ、レウコシアーお姉さま、パルテノペー。私の喉、治るかな」

「そうね……恋をすれば、きっと治るわ」

「ええ、そうよ。だってアプロディーテーさまは愛の女神だもの。私達が愛を知れば許してくださるわ」

 二人は微笑むけれど、二人の目は本音を隠せていない。私たちは、愛を知ることができると思えなかった。怪物になった私たちは、揃って逃げてきたから。ここがどこかなんて、知らなかった。ただ、人があまり来ないところを選んでシチリア本島からは少し離れた海に居たけれど、それでも水夫たちはやってくる。声を聞いて、レウコシアーお姉さまとパルテノペーの歌に聞き惚れた彼らは、みんな死んでいった。私は最初は薬を貰いたくて、近くまで飛んでいっていたけれど、石を投げつけられて怪我ばかりをするから、いつしかそれも止めてずっと島にいるようにしている。

「そういえば、今日も喉に効きそうなものを試してみたの。そうしたら傷に効くものがあったのよ。海辺では貴重でしょ?」

「そうね、リゲイアー。あなたが一番詳しいから、怪我をしたときには任せるわ」

「リゲイアー姉さんはお医者様みたいね」

「……そうなれたら、良かったのにね」

 

 私たちは、歌に魔力を混ぜてしまう。だから、金切り声にだって水夫は惹き付けられて、みんな海に沈んでいく。

 私はお医者さまじゃないし、海の精霊でもない。だから、彼らを助けたくたって無理な話だ。私たちの喉を治したいと思って頑張っても、だめだった。

 それに、なんともなく過ぎていく人間がいたら、私たちは死んでしまう。これは、アプロディーテーさまが私たちに与えた罰のひとつだった。恋をして、彼らを求めろと。何も悪くない水夫を殺し続けろと。きっと、一生水夫に恋をして、恋を失い続けなさいということなんだ。

 

「ああ、なんて立派な船!」

「本当!きっとたくさん殿方がいるのね。……ああ、可哀想に」

 木の葉のようだった船は、恐ろしいほどの速度でこちらへ向かってくる。今までに見たことがないほど大きくて立派な船は、不思議な船首を掲げていた。きっとあれは、神々に守られている船だ。私たちは、きっと死の運命にある。レウコシアーお姉さまもパルテノペーもそれを感じていないのは不思議だけど、もう、逃げられないだろう。だって私たちは声を聞かせて、死を与えるだけの役割を課せられている。彼らはきっと死なずにここを通り去ってしまう。

「ねぇ、お姉さま、パルテノペー。私が偵察してくるから少しだけ待っていて。大丈夫、きっとうまくやるから」

 

 

 そうする、はずだった。うまく騙してやろうと思っていたはずだった。

 

 

 彼の姿を見た瞬間、全身の血が沸騰してしまったような錯覚に陥って、羽がうまく動かなくなってしまった。慌てて急旋回して、なんとか軌道を元に戻す。心臓は早鐘よりも早く脈打っていた。知りたくなんてなかった。潮風に靡く長い白髪が、この葡萄酒色の海と同じ目が、これが私の運命だと。

 黒衣を纏い、リュラーの音の響く甲板に立っていた彼は何よりも存在感を強く放っているように感じて、なぜだか許しを乞うて泣き出したくなる。

 本当は、死ぬことは怖くなかった。早く死んでしまえばいいとさえ思っていた。でも、恋をするのは死んでも嫌だった。ペルセポネーさまに抱いていたような気持ちを他の誰かに持ったり、上塗りするのだけは嫌だったのに!

 

 ああ、嗚呼! アプロディーテーさま、何故あなた様は、私にふたたび罰をお与えになるのですか!

 

 でも嘆いてばかりでいてはいけない。お姉さまたちも飛ばなくてはいけないのだから。でも、せめてお姉さまたちだけでも死んだりしなくて良くなればいいのに。

「患者を………薬……は、」

 リュラーの音の向こう、彼が声を張り上げるのを途切れ途切れにでも聞き取ることができた。お医者さま、みたい。もしかしたら、レウコシアーお姉さまとパルテノペーは助けてくれるかもしれない。二人が恋をすることができる人間がいれば、きっと「治る」はずなのだ。一か八か、賭けて損はない。だって、二人は自慢の姉妹で、死んでほしくない家族だ。たくさんの水夫を殺してきたけれど、それでも、治すことができれば、この先、二人は人を殺したりしなくて済む。二人が怪しむ前に、二人を救えるなら。

 

 一つ握った石と、近くを流れていた流木を捕まえて船の起こす波の間から甲板まで一気に飛び上がった。まっすぐ、黒い衣を纏った彼の元を目指す。私はお金を持っていないけれど。神さまに捧げるためのワインを持っていないけれど。

『どうか、私の姉妹を助けて』

『対価は私の血と肉を』

 おぼつかない文字で、対価を差し出そう。私の血と肉で贖えるなら、それほど安いものはない。でも、魂は。魂だけはペルセポネーさまに。ペルセポネーさまからすれば、きっと私の態度は不誠実極まりない。でも、私が助けられなかったあの方は、きっと私を責めるだろう。だからこそ、魂だけはかの方の元へ。

 

 

 いきなり甲板に飛び込んできて、そのまま流木を差し出し伏した私を殺しても良かっただろうに、私の書いた文字を読んだその人は目を輝かせて、一つ頷いた。

 

 長いまつげに縁取られた海色の宝石は、今まで見た中で一番美しかった。




いつもとは少し毛色の違う展開になるかも。

6.27 誤字修正させていただきました。ありがとうございます。


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金切り声はまだ治らない

化け物の人生二周目の話。

まだ幸せにはなりません。
仏教的には転生ってどの時代にするかわからないらしいですね。古代ギリシャがどうかは知らないのですが転生の概念はあるし、もしそうならアツいなって思ったので採用。
アスクレピオス先生、ちょっと絆上げ渋い気がするんですけど気のせいですか?


 今日も変わらずに、日課のタイニアを編む。明日までにきちんと編み上げて、へーラーさまに捧げなくちゃいけない。物心がついてから、ずっと続けていること。私が自分で決めたこと。いいご縁に恵まれるように、父さまを不安にさせないように。きちんと編み物ができて、織物もできて、嫁に行けるようなりますように。

 喉がヒリヒリと痛んで、咳が出る。これはきっと、ずっと私の喉に残るものになったのだと思う。神さまに嘘は通じないのだろう、きっと。それでも、私は捨てたくない。塗り替えたりしないで、抱えていく。ペルセポネーさまのことも、一瞬だけ抱いたお医者さまへの気持ちも、だって、これはいけないものなのだ。もうそれはきっと恋じゃなくて、ただの執着で、醜いもので、捨てなくちゃいけないもの。前の私のもので、今の私が持っていてはいけないものだから、悪いもので、悪いことだ。

 

 ぼんやりと考えながら手を動かしていたけれど、起き抜けだからか大あくびをしているのが聞こえてきて意識が引き戻される。日も高くなってきていて、辺りは薄明かりからしっかりと日が射していた。ああ、もうそろそろ朝ごはんの時間。

「おはよう、父さま」

「ああ、おはようリゲイアー。タイニアもうできたかい」

「いいえ、もう少し。あと少し編んだら、ちゃんとできるから大丈夫」

 本当は、嫁ぎたいなんて思えなかった。でも、また罰をくだされるのは嫌だった。今度は父さまを不幸にしてしまうから、絶対に一人になるまでは罰の当たらない、善良な人でいなくちゃいけないと思う。

「そういえば父さま、私、不思議な夢を見たの」

 本当は、ちゃんと覚えていた。でも、これを言ったら父さまはきっと私がおかしくなったと思うはず。心配させたくはなかった。母さまが死んでしまってから、父さまは気持ちが沈んでいるから、私がしっかりしなくちゃいけない。私がどこかに嫁いで行くまで、それか、新しい母さまが家にやってくるまで。

「どんな夢だい」

 父さまは私を少し大人びた娘だと思ってる。今日も変わらずタイニアを編んで、明日はそれを捧げて、もう少ししたら誰かのところに嫁ぐ。父さまは、私が化物だと思っていない。

「たしか……海に溶ける夢だったんだけど、どうだったか忘れちゃった」

 うまく言えなくて、目をそらして海のほうを見る。向こうのほうで、葡萄酒色の海は今日も凪いでいて、穏やかで。あの人の目もそうだった。ペルセポネーさまにも、少しだけ似ている。だから、海を見ると落ち着いた。シチリアの海とは違うけれど、変わらない色、穏やかな色。

「父さんがいる限りそんなことさせないぞ、絶対にだ」

「わかってる、でも、」

 父さまが必死になって言うのを慌てて否定する。まだ、まだ死ねない。リゲイアー(今の私)はまだ役割を終えていない。父さまがまた笑顔になれるまで、私は死んではいけない。

 そのことに、少しだけ泣きたくなる。私が私を覚えたまま、ペルセポネーさまのことも、レウコシアーお姉さまのことも、パルテノペーのことも、それに最期に姉妹たちを助けると引き受けてくれたお医者さまのことも。私の人生だったものを、もう二度と手に入らないのに考えてしまう。私の世界を作っていたそれらを。

 でも、その海がとても、とても素敵な色だったから、私はそれでもいいと思った。死んでからのことは、あんまり良く覚えていない。私を呼んでいるみたいな声が聞こえたけれど、私を許すと聞こえた気がしたけれど、きっと記憶は戻らない。それはきっと、ムネーモシュネーさまが良しとされることではないから。

 

 

 

 そのままタイニアを編み上げたあと、なぜだか胸騒ぎがして、海の近くに行こうと思った。昔のことを思い出して、感傷に浸っていたかったのかもしれない。まだ、まだ私は12歳でしかない。嫁ぐまでは時間がある。もう少しだけ思い出しても、きっと許される。

 いつもはまばらにしか聞こえない人の声が、今日はなんだか船着き場の方から大きく聞こえた。理由を知るために崖へ駆け上がってみると、崖の上からだと随分と大きな船が停まっているのがよく見える。まるで、あの船みたい。

 そのまま、吹く風に押しやられるように崖から帰ろうとして、茂みの方に黒い塊が動いているのが見えた。ああ、あれは、あの人は。

 

 

「何をなさっているのですか」

「見てわかるだろう、薬草採取だ」

「それは、そんなに珍しいのですか」

 このあたりだとどこにでも生えている植物。化膿止めになるそれは、それほど珍しいものだと思っていなかった。でも、思い出せる限り、そういえば使う人はそれほどいなかったかもしれない。昔は知らなかったから、きっと私が知らないことや薬はまだたくさんある。もっと知ればよかった。もうあまり時間はないのに。でも、お医者さまに会えたら、どうしても聞きたいことがあったから、ゼウスさまに感謝しないと。

「お医者さま、私、ずいぶん前から貴方を知っています」

 物心がついたときには、私はお医者さまのことを知っていた。名前は、それからあとに知った。小指の先ほどの少しの期待と、それから二人の治療を引き受けてくれた感謝を込めて、お医者さまと呼ぶ。私なんかが名前を呼ぶのは、きっと不敬なことだ。

 お医者さま、アスクレピオスさまは決してその植物から目を離さなかった。慎重に土を削り、根を掘り出そうとしている。

「僕は知らない。お前の勘違いだ」

「いいえ、知っています。絶対に、貴方も知っていらっしゃいます」

「知らないと言っているだろう。もう帰れ、採取の邪魔だ」

 お医者さまは私を見てくれない。言葉は交わしているけれど、全くの無意味。でもそれは、知りたいことだけ切り出せばいいのに、いざとなったら怖気づいて言えない私のせい。決して、お医者さまのせいじゃない。

 いい加減に早く聞けばいいのに、そうしないから怒らせてしまった。最後、そう、これが本当に最後の機会。明日には船が出ていくし、お医者さまはこの植物の根を手に入れたら、きっとすぐ船に帰ってしまう。風が強くなってきた。私も帰って、家にいなくちゃいけない。こういう天気のときは、天気雨が降る。私が化物だったときから知っていること。ずっと海にいたおかげで、海の天気についての勘だけは決して外れなかった。

「……ごめんなさい、お医者さま。どうか、一つだけ聞かせてください」

 心臓がいやに早く脈打つ。きっとこれは聞いてはいけないこと。でも、どうしても知りたかった。レウコシアーお姉さまやパルテノペーのことは、きっと私が知るべきではないことだけど、私は私のことを知る権利があるはず。

 

「私の血と肉と骨は役に立ちましたか?」

 お医者さまの態度の変化は劇的だった。全くこちらを見ることもなかったのに、私を見た。あの時と変わらない、あんなに美しいと感じた海色の目が恐ろしい。きっと、蛇に睨まれる蛙はこんな気持ちだろう。

 

 私は、自分が変わらず役立たずじゃないかと考えるのが怖かった。なんの取り柄もない私が最後には役に立てたなら良かったのにと今世も、前世も何度も思った。死んで何かを残せたなら、それ以上嬉しいことはないと思った。

 ああでも、やっぱり聞かなければよかった。怖くなって、足が震えて、喉がヒリヒリと痛む。うまく息ができなくて、視線にさらされるのを我慢していられなくて、私はそのまま後ずさって逃げ出した。

 

「……っ、お前まさか! おい、待て!」

 お医者さまが呼び止める声も聞かずに走って、走って、走って、息がしんどくなっても走る。帰らないと。お医者さまにも迷惑をかけてしまった。それに、無責任にも言葉を聞くのが怖くなった。私にはもう前みたいな血も肉もない。私はリゲイアー。でも私は前のリゲイアーじゃない。帰ったら、家で父さまが待ってる。

 あと少しで家に着く。ドアに手を伸ばして、それで。

 

 

 ぱつん、と何かが弾けて、視界が消えた。

 

 

 

 

 

 暗い部屋の寝台には、娘が一人横たえられていた。部屋には多くのタイニアと、乾燥させた大量の薬草が吊るされていた。着せられている淡い海色の婚礼装束は、娘が亡き母と共に作ったのだという。

「あの娘は、医者になりたいと言っていました。本当は、婚礼までに叶えてやりたかったのです」

 ああ、知っている。あの珍しい植物の効能もきちんと知っていたような女だ。よほど熱心に薬について学んだんだろう。

 忘れていたわけではない。ただ、甲板に飛び込んできたときとは似ても似つかない声をしていた。金切り声などではなく、掠れながらも柔らかな声をしていた。姿は振り返ったときの、泣きそうな笑顔を覚えている。甲板で喉を掻き切られた時のそれによく似ていた。今横たわる女の、苦しげなそれではない。

「治りたくないのか、お前は」

『私の血と肉と骨は役に立ちましたか?』

「ああ、役に立ったとも。いい薬になったぞ、愚患者」

 死に際と造形が全く変わらない顔に言葉を吐きかける。腹立たしい。治るつもりのない愚かな患者ほど、救えないものはない。

 すぐに忘れてしまいたいはずだ。そのくせ脳裏にこびりつくその声に、なぜだかひどく虚しい気分になった。




6.27 誤字修正させていただきました。ありがとうございます。

もうこの子幸せにするの諦めかけてます。次が思いつかなければこのまま打ち切りになるかもしれません。


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金切り声はもうしない

ツケを清算する話。

難産でした。あと幕間みたいなものを一つ書いたらこのネタは終わりの予定。


 戦闘外傷救護、という分野があると、私は今世で勉強する中で知った。

 今の世の中は、私が暮らしていた範囲では女性でも学校に行くことが許されていた。自由七科も勉強ができて、それ以外の勉強もできる道があった。嬉しくて、楽しくて、これから自分も好きなことをしていいのだと、夢を見ていいのだと、そう思った。

「あ、あああ……」

 火に飲まれた、カルデアのレイシフト計画の日までは。

 

 

「リゲイアーさん、何してるんですか?」

 背後からかけられた声に振り向くと、年若い友人が、私たちの英雄がそこにいた。ノウム・カルデアに辿り着いてから空元気気味なところがあるから、十分に休めていたかと心配になる。本職であると名乗るにはおこがましい腕前だが、私だって救護班として活動するに足ると自負しているし、前線で傷つきやすい彼の手助けを少しでも行いたい。私はサーヴァントと契約できないし、レイシフト適性もさほどない。場合によってはそのまま消失するだろう程度のものだ。しかし、それでもできることは沢山ある。今まで彼が走り抜けてきた道のりを、私もその後ろを走ってきた。私達は、皆で駆けてきた。だからこそ、彼だけ矢面に出してはいけないと強く感じるのだ。

「ああ、藤丸さん。弾薬が足りてるかなと思って確認していたんだ。次の異聞帯の偵察班には私も同行するからね」

 彼がホッとした顔をする。そんなに安心されるようなことはできていないのに。私にできることは、フローレンスさんよりずっと少ない。治癒を根源としているからか、そうした魔術と親和性が高いから多少どうにかできるだけ。死なないように時間稼ぎと、和らげることしか私にはできない。こんなことになるなら、意地でも医師免許を取っておくべきだった。

 確認していたポーチを腹部に巻き付け直し、救急キットの中身を確認する。最低限の外科手術、というよりももっと原始的な処置のための道具たちが、そこに静かに座り込んでいる。本当は、使われないことを望んでいるものたち。これまで幾度もこの青年の体を切り、縫い、時間稼ぎに奔走してきたものたち。そうした者たちを、私はまた使えるようにしておかなくてはいけない。魔術の道具類も、個別に身に着けられるようにカーディガンの内ポケットやスラックスのポケットなどに仕込んでいく。どうか、一枚でも少なく、使うことがありませんように。

「ということは、緊急救護もお願いすることになるんですね、ありがとうございます!」

「うん、でも藤丸さんもあんまり前に出過ぎたら駄目だよ。私も君も生身で、死んだらお終いなんだ」

 そう、死んだら、お終い。本当は覚えていないことを覚えていようが、何回生まれ変わろうが人間はそこで終わり。次があろうが、無かろうが、個人はそこで失われる。どう頑張っても、私は蘇ることはない。次の生に移行するかもしれないけれど、今ここにいる私ではない。

 私は連続したようにここにいるけど、きっとこれは一部の記憶でしかなくて、今の私はここで死んだら記憶だけ、他のまた次の誰かのものになる。こうして怖がりながら生きている私ではなくなる。今までの「リゲイアー(わたしたち)」ではない、また他の誰かになる。今度は、名前も変わるかもしれない。記憶はないかもしれない。それが、本当は普通のこと、今のように悩まなくて良い。執着しなくて良い。

 本当は、死んでしまいたかった。死んだままが良かった。全部忘れたかった。繰り返したくなんて、なかった。生きて死ぬことを繰り返すなんて、なんて寂しくて、つらくて、苦しいことなんだろう。何度も、何度も、私が(わたしたち)でいなければいけないのは。

 でも、それでも私は生きている。藤丸さんは相変わらず背負うことができないほど重たい使命を有無を言わさず背負わされている。私の地獄はちっぽけで、彼のほうが苦しいのは明らかだ。こうして話をしに来て、気を使ってくれている。震える体を抑えて、キリエライトさんと共に立って戦い続けている。

 だったら、長生きしている私が折れたりなんてできない。私には、古い知恵がある。新しい知識も必死で身につけた。記憶している年数をすべて合わせても50年すら生きていないけれど、それでも私は彼よりずっと年長で、本来なら彼ほどの子供もいたかもしれないような歳だ。ならば、年長者として導いて、いざとなれば盾になろう。彼の盾はキリエライトさんだけど、近くにいれば万が一のことがあれば庇うことだってできる。

 そうなってしまったら、きっと迷惑がかかるから最終手段ではあるけれど、彼が死ぬよりはずっと安い。またどこかで出会えるか、そうでなければいずれ忘れることだ。

 

 

 

 

 

 久しぶりに、本当になぜここで出会うのかわからない相手と味方とのやり取りを聞きながら、いつ私は揺らがせればよいかを考えていた。この人は一筋縄では行かない。治癒できるということは、死なないということは、昔から敵に回したくない人間の要素の一つだ。死なない軍隊がどれほど面倒か。どうにか彼の視界を狭くして、戦いやすくすることができるなら何だってすべきだ。

「そんな、」

 キリエライトさんが絶句する。今だ。

「少し、よろしいか?」

「えっ、でも」

「ごめんね、少し聞きたいことがあるんだ」

 藤丸くんを今立っている場所よりも後ろに行くよう、キリエライトさんの作る安全圏の中にきちんといられるようにうながす。単純に私が前に出ようとしている風にしか見えないだろうけど、そのほうが良い。八つ当たりのように攻撃されて彼が巻き添えを食らっては困る。

「お久しぶりです、お医者さま」

「あ?」

「リゲイアーさん、お久しぶり、って……」

 前の因縁など説明していては日が暮れるので、藤丸さんの言葉は無視させてもらう。ギロ、と睨めつけられると身がすくむ思いがするが、想像していたよりはずっと怖くなかった。

「薬の材料にしたものなんて、覚えていませんか。失礼しました」

 薬の材料、と聞いた彼は私をしっかりと見た。なぜここにいる、と言われているような気がした。

「ああ、お前か愚患者……そうか、そこにいたから、見つからなかったか」

 見つからなかった、というのはどういうことだろうか。まるで、探されていたような口ぶりだった。私を見る目の温度が変わる。溶鉄のような、怒りに近いそれだ。怒りよりもよほど熱く、痛々しいものであるようにも思う。ただの主観でしかないけれど、これは火に油を注いでしまったのだろうか。

 

 もし、そうであればちょうどいい。理性的でなければ、時間も隙も生まれる。藤丸さんたちが戦いやすくなる。

 最悪、人身御供になればいいと考えていた。一度はしたのだ。後悔も、ためらいも持つことはなく、身を投げ出せる。でも、まだ駄目だ。ここでやってしまえば不利になる。死ぬなら役割を果たす必要がある。私が前線に出されている意味を、私は理解している。彼らが傷ついてしまっては元も子もない。

 

「ちょうどいい、その捻じくれた在り方も"治して"やろう」

 歪んだ目元は満足げだ。いい症例が見つかったと言いたげな。ここまでねじ曲がった人だとは知らなかったけれど、生前とは明らかに纏う空気が違う。神性などではなく、根本から人間が捻れたような違和感があった。

「結構です。貴方には無理だ」

 だからこそ、覚悟を決めて拒否する。

「何故言い切れる! 今の僕なら治せる。お前が死んでももう一度蘇ることもできるんだぞ!」

「私の死体はもう役にも立たない」

 ひたり、と彼の動きが止まった。棒立ちのように、身じろぎもせず、彼は私を見る。

 その目は空っぽだと、今になって初めて気がついた。先程のような温度の欠片もない。検体以外には、藤丸さんやキリエライトさんたちとの会話の言葉通り、なんの興味もないのだ。あれほど美しいとそれは、見つめられるのが恐ろしいとさえ思ったその目は、私に関心など持ってなんていないのだ。知っていたと思いこんでいた。しかし、こんなになんの感慨もないとは、知らなかった。知ったからには、もう何も恐ろしくもない。ただ、悲しいと、少し寂しいとは思った。私の死体は、きっと人のためにあまり役立たなかった。彼はきっと、今ならもっと有意義に使えるだろうとでも思ったのだろう。

「私の血も、肉も、骨も、もう役に立ちません。あなたの役にも、誰の役にも立たない。私はもう、ただの生身の人間だ。あなたのもとにあるべきものではない」

「違う! お前は患者だ。どうしようもない愚患者だ。治さねばならない! そうでなければなぜこれほどその生を引きずっている? それが症状以外の何物だと言うんだ!」

 

 引き裂くような絶叫だった。患者を前にした医者の叫びなのだろう。治療できない歯がゆさに、この人はいつまでも苦しめられているのだ。英霊になっても、未だに。どうしようもなく、人間らしい叫びだった。

 

 だからこそ、私は否定しなくてはならないと思った。人の手に余るもの。今更どうしたって治らない、私であるための一部。これを切り取ってしまえば、きっと今まで積み上げてきた今世は瓦解する。健常な部位まで切り取るのは明らかに間違っている処置だ。これは、私の中では一体化してしまった記憶たちは、もう健常なものにすらなっていた。

「神罰で、呪いです。貴方だってご存知のはず」

はず」

 口から出任せに過ぎない。でも思いつく理由としてはこれ以外に説明の仕様がない。体は何も変わらず、私が持ち合わせているのは記憶だけ。原因が魂と呼ばれるであろうものにあるのなら、神罰や呪い以外に理由だと言えるものなどない。

 掛けた当事者でないのだから、そんなことは私が知る由もないが。理由として提示するにはそれだけでよかった。

「……それでも、治してやろう。愚かな神々の仕業だろうが、人ならざるものへの呪いであろうが、死んでも生き返らせることができれば、お前も治る見込みがあるんだぞ」

「いいえ、貴方の手では治せません、決して」

 これは、私が受け止めていくべきもの。私が私としてあるために必要なもの。

 やはり、私は記憶から彼を追うべきではなかった。忘れずとも、抱えたままでも、私は彼の記憶を後生大事にすべきではないのだ。ただ、そこにあるものとしてだけ受け止めればよかった。

 そもそも、分かたれた道で少し、ほんの少しだけ、何度かすれ違っただけなのだ。それだけのことで、これを彼に治されてたまるか、消されてたまるかという気持ちもある。不要なものでも、不出来な気持ちなどにつながっていようが構わない。愚かなものでも優れているものでもない。決して病などではない。決して、否定されたくない。

「私は貴方の患者ではない。だから、貴方の元に行くことはない!」

 

 

 

 鶯舌は、高らかに意志を叫んだ。

 




次は疑問に答える話

7.2 誤字を修正させていただきました。ありがとうございます。


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幕間 冥府の再会、元怪物の心中

これでリゲイアーの話は終わりです。
化け物の話と銘打ったけれど、人外の話と神様の話って難しいですね。


 暫しの視界不良と全身の焼けるような痛み。それを知覚した直後には景色が切り替わっていた。一面が黒と灰と白だけで構成された空間。川にも土にも空にも色彩がない。――僕は、死んでしまったらしい。怒りも、虚しさも何もかも抜け落ちていくかのような感覚がする。

 それでも、自分がすべきことは決まっていた。死者となった以上は、彷徨い続けてもいられない。冥府に下らねばならない。生者に害を成す者になる気などさらさらないのだ。他に選択肢は存在しない以上、おとなしく従うしかできやしない。

 

 そうして下った先、冥府の河を過ぎ、そら豆が如き門を通り、広い空間を進んだ更にその先の先に、冥府の二柱が玉座で待っていた。

 そして、やけに見覚えのある存在もまた、そこに居た。

「お、まえは……」

 あの女だった。あろうことか、微笑みさえして、冥府の女王の側に控えていた。

 

 それはひどい衝撃で、この無機質な領域で有機的であるということに違和感を覚えた。ここには、感情を有したままいるものなど居ない。自分のように人にはない出自を持ち合わせていればまだしも、ステュクスの川の水はすべてを流していくはずだ。普通の人間が、自我を保ったまま、感情を表せるはずがないのだ。

「……どういうことだ」

「あら、なにがです?」

 僕の問いかけにハデスは何も言わず、表情も動かさない。反面、ペルセポネーはゆったりと寛いでいた。女は、あいもかわらず微笑んでいるだけで何も言わない。

「その女が笑っているのはおかしいだろう」

 ここは冥府だ。音楽は存在せず、悲しみも喜びも無い。なのに、ただの死者が笑っているなど。この堅物の冥神の世界ではあってはいけないことだろう。

「いいえ、おかしくなんてないでしょう。この娘は、現世で私に仕えていたときからこんなふうに笑っていたのですから」

「何?」

 もう一度、女を見る。穏やかな、幸せそうな笑顔は、よくよく見れば貼り付けられたような硬さがあった。

 ああ、そうか。だから笑っていたのか、この女は。確かにこの女は生前は幸せだったのだろう。だが、これはただその瞬間を切り取って型にはめて残しているだけの人形のようなものだ。決して、人間ではない。あのとき僕が出会ったこの女は、もっと違う顔をしていた。こんな人形ではなく。

 

「アスクレピオス! お迎えに上がりました!」

「っ、何だと」

 突然、立派な体躯の男が、カリュケイドンを持った男神が広間へやってきた。

 ああ、これは。この男神はあの愚かな父親の親友か。なぜ、僕はあの父親に振り回されねばならない。

「ゼウス様が貴方様の功績を鑑み、天に上げることとなりました。さあ、行きましょう。貴方の居場所は天上に既に存在しています」

 大声で語りながらやってくる其奴は、何も言わさぬとばかりに僕の腕を引いた。女を見る。やはり、微笑みから顔色一つ変わらない。

「待て、まだ話が」

「いいえ、いけません。もう時間よ」

 ぴしゃりと叩きつけるように地母神の娘が言う。女は、その時初めて恰好を少しだけ変えた。俯き、表情が暗くなったように見えるそれに、やっと少しだけ胸の支えが取れる。

「あなたは、これから先長らくこの娘と出会えません」

 ムッとしたように女王は言う。そんなことわからないだろう。この女と僕は二度会った。本来ならば決して会うことのない化け物の姿と、ただの人としての姿で。ならば、モイライの紡ぐ先はわからないのだから、決めてかかる必要はない。これは意地だ。この女を、患者を見つけたからには、次こそは治してやると決めた。

 愛の女神の都合で人としての生が奪われていいはずがない。冥府の女神の都合で人が人形にされていいはずなど、決してない。

「待っていろ、いずれ、お前を」

 治してやる。その言葉は、伝える前にかき消された。いきなり吹いた風に途切れ、目を見開く前に紡ぎ直した言葉は、本当にあの女に伝えたかった言葉は、暗く明るい英雄の居所に、やけに大きく響いていた。

 

 

 

 

 居ない、居ない、居ない、居ない! どこにも、あの女が居ない! 何故だ。冥府に赴くこともないわけではなかった。英霊として召喚されることもあった。だと言うのに、なぜあの女は居ない?

 おかしい。あの女とは鎖のような切りたくても切れない縁があると感じていたが、それなのに何故あの女はどこにも居ない? 患者が、僕が治せなかった心残りは、一体なぜ姿を表さないんだ。あれから数千年もの月日が立つというのに、きっかけを探しているというのに!

 ……会うことができたら、きっと治してやることだってできる。苦しむようなら、あの女の記憶だってどうにか取り除いてやろう。だから、身を差し出すような真似をしなくなるまで、治るように。

 

 

 

「それで? あのキャスターとの会話のこと、教えてもらえるわよねぇ?」

「ごふっ!」

 悪い顔のペペロンチーノさんに、焼きバナナを貪り食っていた私は欠片を喉につまらせる。さっきまでキリエライトさんに焼きバナナを勧めてたのに話が急激に変わりすぎて吐血でもしそうな咳が出た。

「昔、ああ、今生きてる私じゃなくて前前世の私のことなんだけど、怪物だったんだ」

 口元を拭いてからとりあえずの原因を言う。ここが始まりだということだけは決して変わらない事実だ。

「ばっ……?!」

「それ、人間なのにってこと?」

 ペペロンチーノさんの問いに、途中から仲間になった彼にも詳らかに聞かせるのはどうかと少し考え込む。ぼかしたほうがいいだろうか。でも、特に隠し立てして得をすることでもないと思い直した。私はただの人間。サーヴァントと違って、致命的な死因なんかなくたって普通に死ぬのだし、あまり関係はないのだから問題ない。それに、彼と会うことはきっとないのだ。今まで何度も会ったことのほうが珍しい。

 なぜか彼の顔が愉快そうに歪められているのが気になるのだけど、何なのだろうか。

「いや、文字通りの怪物ですよ。藤丸さん、セイレーンって知ってる?」

「セイレーン?」

 途端にペペロンチーノさんの表情が渋くなる。あまり馴染みがない学生だったのだから、藤丸さんの反応が普通だ。キリエライトさんは読書が好きだったからその都合でだろう。

「ギリシャ神話に出てくる半人半鳥の生き物です、先輩。セイレーンはアルゴー号の前に立ちはだかる試練の一つなのですが、その……」

「セイレーンは竪琴の音に邪魔されて水夫を殺せなかったから身投げするのよ」

 言いにくそうなキリエライトさんの言葉を引き継いで、ペペロンチーノさんが補足してくれる。そう、私だったとされているものはそのように語られている。

 私も、その文を読んだ。そういう終わり方になる未来もあったかもしれない。でも、私が記憶しているそれではないし、残されていた説のいくつかは私の知る名前ではなかった。そういう創作もあったのだろう。

「そのとおり。私もそうだった。ただ、終わりは違うけどね。そのときにアスクレピオス……お医者さまって呼んだあの人と会った。すぐ殺してもらったけどね」

「殺してもらった?」

「そう。姉妹を助けてもらう代わりに血と肉を対価に差し出した。それだけの縁だよ」

 唖然、といえばいいのだろうか。口をぽかんと開けて三人が固まってしまった。

「そんな、でも、そんなことをする必要は」

 痛ましげな視線を寄越す彼女に笑いかける。若い、というのはきっとこういうことなんだろう。そして健全な人であるというのはキリエライトさんのような反応をする人のことだろう。

「あったよ。私は頭が良くなくて、それ以外に方法を見いだせなかったし、レウコシアーお姉さまとパルテノペーは人の道を踏み外しかけてた」

「でもっ」

「キリエライトさん、これは昔話だ。もう変わらない、終わったことだから傷つく必要はないんだよ」

「やだわぁ、素敵な恋の話を期待してたのにドロドロ因縁劇じゃない」

 とりあえず今は私たちが生き残れるように考えなくちゃいけないのだからその話をしたいのだけど、どうにも食いつきが良すぎて話を戻しにくい。茶化してもらえたからまだしも、こんな話引きずったらろくなことにならない。話すべきでもなかったことだ。

「残念なことに、前世でも彼に会ったことはあるんだけど、直後に落雷死したんだ。まあ運が悪かったとしか言えなかったな、あれは」

「何がどうしてそうなったんですか!?」

「さあ。私にもわからない」

 たぶん都合が悪かったんだろう、色々と。私にそのへんのことはわからないし、今は神の力などない世界だ。科学的に証明しようと思えばできることであるが神意など知ったことではないので、ということしか言えない。

 そろそろ本当に話を打ち切って対策の話をしなくては。アルジュナ・オルタを前に全滅、なんて笑えやしない。

「ま、そんなわけで因縁があったんだ」

「でも、キャスター・アスクレピオスは『何度も』と言いましたよね」

「ああ……あれについては身に覚えがないんだ。私、彼と会うことなんてほぼなかったからね」

 覚えている限りで今回が三回目。だったら

「それにしても想像以上に修羅場というか、これ因縁で済ませていい話なのかしら?」

「いいんじゃないかな。私はあの人が知っているリゲイアーであってそうじゃないんだし、もう関係なんてないからね。よし、ペペさん次対策の話任せるよ」

 パチン、と手を合わせる。納得行かないと言われてもこれくらいしか私にわかっていることはないのだ。もう二度と敵対したくはない。どうにか矛盾に気づいて、穏便に次のユガで自滅してくれないかと願うばかりである。そうすれば、彼が死ぬところを見ることも、殺すこともない。後に引くことはなく、記憶はきっと風化する。作戦のことを考える以外の脳の容量を、そんな考えばかりが占めていった。




リゲイアー、よくよく考えたら反英霊で召喚されていた可能性もあるんですよね。
たぶんそのときには再会する前に消滅してるはず。


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濁った水が流れるところ

 消えていたようなので元データを再掲。
 バーソロミューの船医だった人の話。

 今のところ続編を書こうと頑張ってはいるんですが、どうにも同じくらいの長さのものをかけず苦戦しています。卒論も就活もうまくいかない。しんどい。


 黒い船体が近づいてくる。否、こちらから近付いていく。収奪の計画は綿密に、十分な宝の山を積んだ船は、我々が包囲している。

 期待と、わずかながらの緊張に体が支配されることはない。ただ、気分が昂る。

「セド――セドリック・ダグラス、時間だ」

 自分の傍ら、低い位置にある黒頭に声を掛けると、その冷めた瞳が向けられた。ガラス玉の様に光るそれは、私を見ているようで見ていない。私を通した勝利だけを、冷ややかに見据えていた。しばし目線を合わせると、彼はすぐに視線を標的に戻した。事前の打ち合わせで不測の事態について危惧していたらしいが、それより自分の身の安全について考えないのだろうか、この男は。

「……了解」

 彼――セドリック・ダグラスは口数が少ない。薄く汚れていても清潔さを欠かせてはいない生成りのシャツに、墨染めのような黒のキャラコのズボン。シンプルだからこそ、この青年にはとても似合っていて、なおかつ彼の役割にもお誂え向きなものだった。一点、異物のような風貌でそこにいる男は、他のどのクルーよりも目立つ。

「俺は黄禍だ。一番槍になるか?」

「冗談でもやめてくれ、君が消えたらまた壊血病が流行る」

 冗談にしても笑えないことを言う。彼は収奪物の中で一番役に立つものだった。早々に死なせるのは大きな損失だ。それと同時に、投げかけられた不審な内容に首を傾げる。

 聴き慣れない言葉は、恐らく彼がアジア系の黄色い肌であるということを言っているのだろう。日焼けした小麦色の肌は、元々あまり白くはなかったらしい。図太い男だ。しかし、日焼けをしているせいで元の色など早々にわかるものではない。顔立ちはどうしようもないが、どうせ布で顔を覆ってしまうのだからそれもあまり気にする必要はないだろう。船医として、あるいは戦闘員として有能であれば問題はない。少しばかり不満はあるだろうが、同等に近い扱いをしているのだから。

 ……開戦前の軽口はそろそろお終いだ。緊張が喉を締める。しかし、その特徴を活かしてふてぶてしく生きようとする男を見ていれば、なぜだかひどく安心した。

「……船長」

「どうした、セド。何か不足したのか」

「……いや、違う。船員のことだ」

 あの男に注意したほうがいいだろう、そう言い残すと、彼は早々に船室に引き上げた。……否、万が一のことを考えて、道具を取りに行ったのだろう。パワータイプではない彼の得物は、少なければ少ないほど不利になる。いくらあっても過剰ではないだろう。

「総員、戦闘準備!」

 

 

 

 血の海になった船から役立ちそうなものをすべて奪って引き上げると、一足先に戻っていたらしく、山分けの準備を手伝うためにセドが用意をして待っていた。勘定ができる部下は本当に役に立つ。

「山分けも大変だな、船長」

「ああ。だが有意義だ。これで統率が取れればむしろ安上がりだろう。違うかい?」

「ああ、無論だ」

 紙の束を投げ寄越すとき、それなりに長くなった髪の毛がまるで尾のように揺れる。ガチガチに固まってしまったりすることはないようだ。セドリックは櫛に油を含ませて漉いていると言っていたが、不思議な、甘い匂いがする。アプリコットから絞ったと言っていたか。そういった油は高価だが、非常食を作る余りから絞ったなら文句を言えない。それに、その匂いが気に入っているから文句を言うことでもないように思えた。

「とはいえ、それ以上の取り分を与えている者もいるけどね」

 嫌味を言えば、セドはわかりやすくバツの悪そうな顔をする。それ以上の取り分というのは、今回出た死体の山だ。彼はいつも、状態のいい死体を求める。人がいない時に一人で切り開いて、終わったら全て海に沈めていく。戦闘前に私に注意しろと申し付けてくれた対象も、今日の青年の取り分としてこの船から沈められるだろう。あれは彼が手ずから殺した。状態は極めて良好だ。

「……現物は仕事用だ。減らしてくれるなよ」

「わかっているとも。君が居なくなるのは損失だからね」

 彼は最後の一言に何も言わず、船長室から出て行った。

 

 

「船長、大変だ!ボヤを起こしたやつがいる!」

 集計が終わりに近づいた頃、クルーが駆け込んできた。運の悪いことにセドは席を外していた。

「すぐに行く、取り押さえておけ! ダグラスも呼んでこい!」

「アイサー!」

 案内された先に駆けつけ、ボヤ騒ぎを起こした船員を見てギョッとする。顔が、明らかに黄色くなっているのだ。明らかにおかしい。

「船長、頼みます! 俺はこんな顔のままじゃやって行けやしねぇよ!」

 男泣きに泣くそのクルーの様子に、仕方がないことだと納得ができた。このクルーは黄疸を治すために粥を作ろうとしたのだろう。近くにばら撒かれた米と9つの石は、恐らく治療のために用意したものだ。

「……どういうことだ」

 騒ぎを聞きつけてやって来たセドが、顔をこわばらせた。直後、頬に朱が差した。

「この馬鹿が」

 セドの殺気立ち低く唸るような声色を、私はその時初めて聞いた。

 症状について聞いてから来たからだろう、面を被り、メガネを掛けた姿は滑稽だ。だが、いつもと違う使い捨てる前提であろう長袖の厚いごわついた服装に、彼の危機感が表れているように思えた。嫌な予感がする。

「なぜこちらに聴きに来ない。粥なんぞで黄疸が治るなら苦労するものか」

「ああ?! じゃあどうしろってんだ!」

 怒鳴られた船員の方も黙ってはいない。当然だろう。正しい治療法をこんなに怒鳴るやつなど普通は居ない。そう、普通ならば。

「いいか、黄疸の原因は臓腑の機能不全だ。前にそれらしい死体を何体か掻っ捌いてどうなっていたかは確認してある。肝臓が詰まってるか、腫瘍があるか、詰まってなければ臓腑がイカれてる」

 怒鳴るでもなく、静かに説明するのを聴いた船員の喉が、ひゅ、とか細い音を鳴らす。

「じゃ、じゃあどうしろってんだ!」

「船長、こいつと一緒にいた人間は隔離したい。陸で詳しい人間に聞いたが、酒が原因でなければこの病は"悪い空気"によるものだ。黄疸が引けば病は峠を越えているらしい。乗り切れば復帰できるだろう。近くで寄れる有人島は無いか、下手をすれば蔓延するぞ」

 船室が同じだった者は多い。下手をすれば今後の予定は滞るだろう。しかし、あまり余裕はない。全員同じようなことになれば、そちらの損失が大きいのだから。

「わかった、許可しよう。近くの港にしばし停泊する。だが、キミが責任を持って対処にあたってくれ」

 ジロ、とこちらを睨む青年に、息を呑む。静かに、しかし爛々と輝く目は、恐慌するこの場には不似合いだった。

 

 

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 停泊した港は、よく立ち寄る馴染みの港だ。必要なものを買い込んで、船員たちが取った宿に持ち込む。雑魚寝の部屋に押し込めているが、ウイルス性の肝炎なら黄疸が出ればまあ安心だろう。なぜか伝来していた渋柿を食わせて、あとはしばらく養生させる。もっとも、これが胆道閉鎖症なら開腹手術しか手はない。

 ……私は、本当は大した知識もないヤブ医者だ。だから切開したり、きちんとした投薬は出来ない。これで黄疸の原因が胆道閉塞症だったら目も当てられないと理解している。私にはそのあたりの診察の知識なんてないからだ。腹腔鏡手術なんてものは今の時代には不可能だし、生きた人間を切り開いて手術するだけの技能も持っていない。切り傷や刺し傷、切除ならできる。だが、内科や精密な外科手術には無理があった。せいぜい、ビタミン不足で起こる病気の治療や按摩ぐらいしか出来ない。現代なら治せたであろうとわかっているのが、何より腹立たしい。それでも重宝されているのは、私がそれなりに病に詳しいからに他ならなかった。

「もっと、もっと知識があれば」

 みんな、苦しんでいる。それがわかっているのに、私は十分に対処なんてできない。結局、私は何もできやしない足手まといだ。

「カーラはどうしてるだろう……」

 寝静まった船員たちの部屋を抜け出して、隠していた服に着替えて売春宿の方へ足を運ぶ。彼らは今のところ安定していると思う。原因がウイルスかアルコールかわからないけど、とりあえず酒は絶たせて、監視役にも酒を飲ませないように注意をしてある。だから、一時間未満ならきっと許されるだろう。休憩が必要なことくらい、主張すれば通る。必要なものの買い出しもあったといえばもっと通りやすいだろう。なにせ、私はケネディが裏切る前から船にいて船長に従っている古株だ。彼はもう以前のように閣下(ロード)たちに相談して意見を聞くことはないが、私が進言したときには若干の余地を残している。というのも、私が進言するときは、病が絡んで航海に支障が出かねないときだからだが。それだけに、私は少しばかり、裁量がある。だから、大丈夫。だめなら懲罰だろうけど。

 今日は男装ではなく、町娘と変わらないものへ変えた。男装をしているときは客として彼女を買って、話だけする。梅毒や淋病が怖かったからというのもあるけど、海賊の生活での愚痴を聞いてほしかった。女装のときには友達として会いに行った。化粧品を慣れないなりに楽しむのが面白かった。どうでもいい話をできて、自由に息ができていると思える。今日は愚痴じゃなくて、どうでもいい話をしたかった。疲れ切った海賊ではなく、行商から戻った友達として、一緒に話をしたかった。髪の毛は目立つからかつらを被って。声は、いつもなら地声で低めに話しているけど女装のときは高めに出している。だって、もとに戻って話していると、楽しくてつい声が高くなってしまうから。高めの声で、明るくて短い茶髪なら、いつもとは大違いで遠目にははっきりしにくい。化粧品は危ないからほとんど使わない。肌馴染みのいい口紅だけは、つけていた。彼女に、カーラに褒めてもらえたからだ。

 急いでいると、ふと、目的の建物の近くで彼女の声を聞いた気がした。嫌な予感がして、走っていた足を止めてあたりを見回すと、少し先に彼女がいるのが見えた。誰かと一緒に、連れ立ってどこかに行こうとしている。

「いいのかい、他に君を待っているお客が居るんじゃないのかな」

「いいの、だってあなたのほうが断然良い男だもの!」

 

 隣にいたのは、船長だった。

 

 そこから戻ってくるまでは、よく覚えていない。泣きそうになりながら走って、途中で転んだのだけは膝の痛みのせいで覚えている。膝を洗って、消毒を済ませてから男装に戻る。そうすると、少しだけ冷静になれた。この服はもう、とっとと捨ててしまおう。口紅も落として、いつも通りの粗野な船員に逆戻りだ。

 最低だと思った。彼ではなく、彼女のことを騙していた自分が。彼女の横顔が、まだこびりついている。

 たしかに男として会うとき、私は彼女に触れていなかった。船から下りるときには必ず手袋をしていたし、長袖で肌を隠していた。彼女を買うときだって、性交渉は求めなかった。いや、むしろ嫌がったのが悪かったのか。かつらはすぐ外れてしまうだろうし、私の顔は割れている。これで、私が海賊だとバレたらすぐに噂が広がるたろう。そうなれば、私は船に戻れなくなる。二度と、日の下を歩けないような生活が確約されるだろう。だから、でも。

 だが、どうしようもなく揺さぶられて、心が重たく、ひきつれた痛みを訴える。好きだったのに、と呟いてみれば、より一層心が痛んだ。

「……馬鹿は私か」

 すっかり馴染んだ品のない英語ではなく、思わず母国語が零れ出る。この程度の言葉でさえ、時折意図せず母国語が出る。こちらに馴染んだくせに、宙ぶらりんの中途半端だ。

 好きになったところで、幸せにできるはずなどなかったんだ。それに、船長に従うのが生き延びる道なのだから。内心で言い訳をすればするほど、心は軽くなりこそすれ、罪悪感が積もっていく。そうじゃないのか。何に心が痛んでいるんだろう、私は。

 

「やぁ、セド。どうしたんだい、消灯後に起きているなんて珍しい」

 背後から、聞き慣れたよく通る声がした。船長のお帰りらしい。ズキズキとまた痛みがしてくる。吐き気までする。本格的に私は駄目らしい。

 荷物を取りに来たと思ったからだろう、船長は私がここにいることを咎めなかった。彼が近付けば近付くほど、吐き気と、それに伴ってズキズキと胃や心臓が絞られるように痛む。

「……眠れないだけさ、船長。故郷恋しさで月を見ていた」

 誤魔化すために都合のいい理由を挙げて、ふと本当に家に帰りたいと思った。死んでしまいたいとは思わないけれど、ここに居たくない。遠くへ。私が本当にいないといけなかった所に帰りたい。

 ここ数年は慣れて忘れていたけれど、ここに来たときは頻繁にそう思っていた。いつもそうだった。ただ、苦しい瞬間だけ、戻れないとわかっていても無性に帰りたくなる。わかっているはずなのに、なにか嫌なことが起きたときには故郷が恋しくて、堪らない。

 故郷の深い深い山の、夜の熱くて冷たい土の下に身を埋めてしまいたい。そうすればきっと、この苦しさも穏やかに消えてくれる。そんな、出来もしないことを考えてこの衝動をやり過ごすしか、私は方法を知らない。

 萎えきった自分の声、それにすら嫌気がさす。いつもなら風に煽られる帆布のように張った声ができるのに、ままならない。こんなままでは、いつバレるかわかったものじゃないんだ。いつも通りに、90秒で切り替えるんだ。むしろそれすら遅い。お前は、一瞬が命運を分ける生き方をしているんだろう、私よ。

「……君が故郷を恋しがるのを、初めて見たな」

「……俺は見世物じゃない」

「違いないね」

 ははは、と豪快に笑う姿には、先程まで彼女に向けていた熱い視線など微塵も残っていなかった。切り替えが早いのはいいことだ。海でも長生きするタイプの人間はだいたいこういうタイプだろう。古馴染みの海運の奴にはこういう人間が多い。ああ、しかし。

「じゃあ、何かあったのかい、セド」

 私に向けられている紺碧の瞳が、どこまでも深い色をしているのが、今だけは堪らなく憎い。どいつもこいつも、船長のこの瞳に魅入られるのだ。女たちが噂をするのはその海色の宝石の事ばかり。あの娘も、きっとそうだったのだろう。それに魅入られて、本当に恋をした。

 この人が腹が立つほど美形なのはずっとだ。だが、今日初めて彼を殺したいとさえ思った。

 

 でも、船に戻って来る間にどんどん自分の認識に不安が生じ始めて今も頭の中を占拠している。それが彼女を盗られたからと言うわけではない気がしてきたのだ。彼女が盗られたことはひどく寂しいと思えたし、船長が彼女を奪ったことに対してはストレスしか感じない。殺したいのは、このストレスのせいかもしれない。あのときカーラの笑みや、彼女にに笑いかけた顔が脳裏にちらついては、臓腑が引きちぎられるように痛い。きっと、二人が私の知らないものに変質していくのが恐ろしかったのだ。だから、寝首をかいてしまえばと思ったが、どちらにせよろくな衝動では無い。

 彼女は、不自由な生い立ちをしていた。それ故にそういう商売でしか身を立てられない。私は彼女を囲えない。なら、誰が彼女を抱こうが、私に文句を言う資格はない。船長が彼女を気に入ったところで、私はそれを止めようもない。むしろ、私が殺されるだろう。……そのほうが、きっと楽になれる。

「……姉に似た女を見た。息災か、心配でな」

 嘘であって嘘ではない。こちらに来る前の私の姉は、たしかに今の彼女と同じ年頃だったからだ。でも、そんな理由だけで彼女を気に入ったりしない。歳だけ考えて人を好きになったりするものか。

「それと、どこかの誰かに女を盗られたらしい。アンタにだって居るだろう、そういう女が」

「……ああ、いるとも」

 目に見えて渋い顔をした船長に、やはり分かった上でやったことかと気付いた。そういえば、彼は私が彼女と連れ立って歩いているのを茶化したことがあった。まだ前の船長が生きていたときのことだ。なぜ、忘れていたのだろう。今更、思い出したところで何にもなりやしないけれど。

 それと同時に、あの笑顔を思い出す。彼女の目は、間違いようもなく本気の恋の色をしていた。彼と添い遂げてくれるはずだ。それなら、独り身よりはいいだろう。なにせ、私が今いるこの時代なのだ。彗星よりも早く、私達はきっとすぐに燃え尽きてしまう。それより熱く、早く、身を焦がせるほど愛したい人間が必要だ。海賊として生きれば、人生は随分と長さを詰められてしまう。

 諦めよう、そして祝福しよう。彼女は本気だ。彼が本気になれば私は勝てやしない。きっと、そういうことなのだ。負け犬には、負け犬の流儀を貫いて退場するしか道は残っていない。だから、盛大に祝福してやらねば。人間関係を壊してまで彼女を奪おうとするくらいなのだから、この人も本気だろう。むしろ、そうでないと、私のこの気持ちはどうすればいい。

「大切にしてやれよ、船長。アンタは長生きして暴れ倒すだろうしな」

「暴れ倒さなきゃ、大切にしなくていいっていうのかい」

「まさか。暴れ倒したら大切にする前に俺らは死ぬ」

 風に流されて甘い、甘い匂いが鼻を掠める。船長がいつも身に纏うよりも、幾分甘さが増した、慣れているのに慣れない匂いがした。

 あの娘の残り香が、船長のコロンと混ざり合って私の知らない匂いになっているんだろう。私はもう、きっとあの娘のところにはしばらく行かないだろう。今また会えば、船長といたときの笑顔を思い出してしまうはずだ。それに邪魔されて話ができなくなるのは御免だった。

 そう考えるだけで、顔が醜く歪むのが自分でも感じられる。きっと今の私は、ひどい顔をしているはずだった。

「それじゃあな」

 私が知らないところでよく知った二人が変わっていくのが、怖くて、辛くて、寂しかった。

 

 

 

 戸の隙間から覗いて、私が去ったふりをしたあと船長が部屋に戻ったらしいのを確認して、こっそりと船を降りる。海辺を歩けば、べたりと張り付くように海風が纏わりついてきた。もう、何年になるだろう。港町で日雇い労働をして1年、船の下働きで1年。海賊船に乗せられて、明日で4年になる。いや、もうあと数時間程度か。こちらの世界に、わけがわからないままタイムスリップしてからもうほとんど7年経つ。

 それこそ、私が希望あふれるボンクラ学生になった直後の頃にきたのだから、何もなければもう大学も卒業して、きっと社会人3年目だったはずだ。そのまま現代で暮らせていたなら、パソコンも使いこなせているようになっていただろうし、本も読み漁って、自分がしたいことを好き勝手にしていたに違いない。でも、ここにいるのが現実だ。必死に言葉を覚えて、辞書を分捕ってからはそれで夜毎に勉強した。粗野な話し方になっているであろうことは知っている。でも、喋れないよりはマシだった。そんな努力を続けて、生き抜くために必死だった。言葉は、今のところは大丈夫なはずだ。それでも、日本語のほうが出てきやすいときもあれば、今の英語が馴染んでいるときもある。結局、中途半端にしかならなかった。

 小説なんかよりもずっと奇妙で、ずっと過酷な生活だ。いつ死ぬかわからない。自分の体に変化がないか怯え続ける毎日が続いている。きっと、これからも。

 その割に、私の見た目は変化していない。背も伸びなければ、体重も変化なし。これはきっと帰れるからだ、と思い込み続けて早7年なのだから恐怖を通り越して笑えてくる。もう、限界も近かった。私は安倍仲麻呂じゃないんだぞ。そんな大層な肩書も、仕事も、栄誉も無い。

 ただ最初は細々と海辺の街で仕事をしていた、それだけのつまらない人間だったのだ。それがどうしたことか、船乗りになり、その船が襲撃され捕虜になり、いつしか医学の心得があると重宝されるようになっていたのだから堪ったものではない。真っ先に始末される邪魔者だ。必死に戦い方を覚えた。こんなわけのわからないところで、何処ともしれぬ海原の上で、帰ることもできずに死にたくなかった。

 それでも……それでもだ。こうして生きている。人を殺すのを是としながら。腹を立て、嫉妬に狂いそうになり、そして諦めながら、私はまだここにいる。それならそれが答えなのだろう。諦めきれないと諦めてしまえばいいのに、無駄に強情な心は故郷を逃避先に、ずっと思考を巡らせ続けている。

 

「……ん?」

 何か、浜辺にぼんやりと光るものが見えた。近づいていってみると、なぜだか植生が違うものが生えている森のような空間が、ポッカリと口を開けている。幼い頃から見慣れた温暖湿潤気候の木々だ。もっといえば私の家の裏山にそっくりだった。見慣れた岩がある。

 なぜこんなところに捻じれの空間があるのか。幻だろうか。ここはカリブの島の浜辺だったはずだし、明らかにおかしい空間の歪だ。

 ……でも、これで、帰れるなら。もうこれ以上変わることなんてない。これ以上私が酷い目を見ることはない。

 

 一度、船のことを思った。嫌いではない。でも、私が本当にいないといけない場所は此処じゃないんだ。辛くて苦しくて理不尽な現代でも、そこが私の生まれ故郷で、一番大事な家族がいる場所で。だからこそ、私は7年間ずっと忘れられなかった。

 でも、ここにも家族のような仲間がいた。私は必ず責められるだろう。お前があのとき裏切らなければ、と罵られるだろう。でも、それでも私は捨てられない。私は私の大切なものを他に持っている。誰にも奪わせたくない。奪って奪われて、そうして奪い尽くした7年だったからこそ、これだけは何が何でも守り抜きたかったもの。私の大切な故郷の記憶。私のルーツ。

 腹を括る。早く帰らなくては。あの入り口が消えてしまう前に。

 船の方を振り向かないように、船長やみんなのことを今だけは思い出さないように、頭を振ってから駆け出した。

 

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

 彼がどんな顔をするか見物だと思って女を買った自分を、その時やっと恥じた。

 セドリック・ダグラスという男は繊細だ。病人を気遣い、使命を全うし、そのくせ自分の身の上を恥じて、惚れた女に自分は似合わないだろうと指一つ出していなかった、高潔で繊細な男だったのだ。

 それは普段の様子からもわかっていた筈だった。私が海賊船に移されてからよく知ったことだった筈なんだ。それでも、彼がそれに苦しむと気づかなかったのだから愚かしい。

 船に乗っているときには常に仏頂面をしていて、笑うことはあまりなかった。物語には笑うが、下世話な話にはほとんど興じない、しかし理解は示す男だった。教育を受けている者も受けていない者も平等に扱い、指示を与えれば動くものの、私さえも特別視していなかった。

 私には、すべてが彼の興味の外にあったように見えた。だからあの女を買った。彼が見たら、どんな表情を見せてくれるのか、心が踊った。まるで、幼い日の誕生日の前夜のように。

 

 だが、期待はずれだった。悲しみに暮れて虚ろな目をするなどとは、思いもしていなかった。彼は私を嫌い、ここから去ってしまった。こんなはずではなかった。彼女を買ったのは、ただの戯れに過ぎなかったのに。

「セドリック……」

 あの会話の翌日彼は消えた。黄疸の患者は彼の指示を守り続ければ治った。だが、彼は戻らなかった。浜辺に血と彼の靴だけが残り、彼自身は島のどこにもいなかった。今更何が悪かったかなどと考えたところで、もう何もかも手遅れでしかない。

 

「さて、今日も始めよう」

 ケネディ達は逃げた。セドリックも消えた。だが、彼がまだ生きていれば捕まえられる可能性はある。彼が居たおかげで壊血病は起きなくなった。あれだけ有能な人間だったのだ、どこかの船に拾われたに違いない。

 私がプリンセス号から移されたときからずっと側に居たのだから、彼を奪うのは間違っていない。傍らに置いていたものを、また手元に取り戻すだけの、他愛ない作業だろう。

 

 ――ロバーツ、無理はするなよ。

 

 ああ、わかっているとも、我が友。私の船医。君がいないと、きっと大きな仕事を始められないじゃないか。待っていろ、すぐに連れ戻してあげよう。君だってこちらのほうが勝手がわかっていて仕事をやりやすいだろうからね。




 がんばります


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僕の兄さんは最高なんだ!

Ce frère était tout pour moi!



 

 寒い、寒い冬が来た。冬は嫌いだ。肺がヒリヒリと痛くて、熱を出してしまう。本当は、外を転げ回ったりしたいのに、僕にだけはそれが許されていなかったから。だから、冬は嫌いだ。

 でも、ぶすくれているといつだって兄さんがやってきて、面白いものを見せてくれた。

 いや、いつだってということはないかもしれない。それでも、つまらなくて嫌気がさしている僕にとっては嬉しいことこの上なかった。

 

「テオ、見てごらんよ。窓に結晶が張り付いているんだ。これなら、外にでなくたってよく見えるだろう?」

「えっ、ホントだ! やっぱりにいさんはすごいや!」

 

 兄さんは、優しい顔をしている。父さんと兄さんが衝突することは多くあったけれど、兄さんは僕には優しかった。きっとそれは、僕があまり兄さんを否定しなかったことにあるだろうが、別に嫌われたいわけではないからそれで良かった。兄さんは気難しいけれど慈悲深い人であるから、良かれと思ったことがうまく行かないと想像以上に傷付くことも多い。でも、それが僕の知る兄さんなのだ。

 

 春には草木の芽吹きを。夏には大輪のひまわりを、翡翠たちが残した鮮やかな羽を。秋には愉快な染め方をされた葉を。兄さんはいつだって僕の知らない、見つけられないものを見せてくれる。父さんと一緒に熱心に聖書を読んだりもしていた。いつだって、人のことを考えていた。それに、僕が動けないときにはいっそ自分まで病気になってしまうんじゃないかと思うくらい心配してくれる。そんな兄さんだから、きっと大好きなのだ。

 

 ──でも、時間はあまり無い。

「ん?」

 脳裏に不穏な予感がよぎる。妙な感覚が、胸騒ぎがあった。何かがひっかかったような感覚だ。釣り針のエサを、魚が食らいつこうかとつつくように。

 

 僕に色々なものを見せてくれる、大好きなフィン兄さん。セントおじさんと同じ名前の兄さん、フィンセント・ヴァン・ゴー。──ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。僕より早く死んでしまう、大好きな兄さん。

 

「うそ、だ……?」

 ざあっと血が冷えるような感覚に襲われる。耳を切り落とす画家、早くに死んでしまった画家。生来の気性から人間関係がうまく行かなくて苦しみ抜いた画家。──いずれ早くに死ぬ、ぼくの愛しい兄さん。

 そんな未来を歩んでしまうことが、知らないはずの何かがざらざらと脳に押し込まれていく。

 冷や汗が止まらない。僕は、いや私は、違う。自分は一体誰なのだろう。

 

 主よ、主よ、私にどうしろと仰るのですか。僕は何。私は何者なのです。

 

 呼吸が苦しい。喘息の発作とは少し違う感覚の苦しさと、ぼんやりとした視界と思考が気持ち悪い。

「テオ、どうしたの!」

 体を動かすのも億劫で、大変で。しっかりしろ、と揺すぶられて、やっとのことで顔を上げた。

 兄さんの青い目が見える。兄さんは、兄さんだけは揺らがない。僕の兄さん。誰よりも目を輝かせて素敵なものを見つけてくる人。それを惜しみ無く分け与えてくれる人。苦しむ僕を必死に介抱してくれて、大切に思ってくれている、僕の兄。

「……兄さん、苦しい」

 僕はテオ。フィンセント兄さんの弟のテオドルス。そうだ、それでしかない。それだけでいい。

 

 

 

 それから僕がやったことは、ひたすら兄さんを追いかけることだった。

 だって仕方がないじゃないか。兄さんが凄い画家になるってことしか知らないし、他には僕より先にしんでしまうということぐらいしか分からない。こ◯ぱんで読んだのと美術の時間にうっすら知った最期ぐらいの知識しかないのだ。だから、僕が支えてたこと以外は何にもわからない。

 

 兄さんは、画商になってとてもよく働いているときいた。セント伯父の手紙にはそうあったし、少なくともストレスを溜めすぎないことが大事なのだとは思う。

 それと、画家になるし、今は画商なのだから、流行の最先端を知ることはきっと悪くないはずだ。パリでは印象派が流行っているし、価値も付き始めている。

 

 絵の価値は、僕ら画商がつける。僕らがつけた価値をどうにか画家が生きているうちに知らしめられれば、今は無名の画家でも待遇はきっと変わる。だから、兄さんにも少しだけ納得してもらえたらと思った。繊細で客観的で理知的な兄さんなら、きっとその価値を正確に掴めるはずだ。

 

 

 

 そうやっているうちに、兄さんは画商を辞めた。手紙には価値をつけることがしんどくなったとあったけれど、実際には手紙に書いた以上にすり減ってしまっていたのだろう。

 それでも、骨折した母さんの介抱や、僕の薦めでの画家修行で少しずつ、ほんのわずかにでも穏やかさを取り戻せていっていた。

 

 家族仲はそれなりで、ときどき大喧嘩すること以外は対したことなかったけど、それでも女性関係には口出しをしてあわや絶縁、何てことになりそうにもなったっけ。ただ、ちゃんと家族になってくれる人と幸せになってほしい一心だったけれど、きっと兄さんの方では少なからず根に持っているだろう。

 それでも、それでもだ。それほど悪くはなかったし、場所ややり方を変えてからは兄さんの絵も名前も売れ始めた。だから、これから兄さんは長生きできるし、幸せになってくれると思った。人の温かさを得られる場所を作れると、あるいは一人でも住み良い環境を手に出来るだろう、と。

 どうにも油断していたのだ。娼婦をしていた女性とは喧嘩別れしてしまったからと、少し安心してしまっていたせいなのだろうか。それとも、年上の恋人が出来たことで落ち着いたと思い込んだせいか。これで兄さんも明るい人生を歩めると思い始めていた。

 

 

 

そうなるはずだった。

 

 うまく行きかけていた。明るい色調の絵を書き始めて、兄さんがゴーギャンさんと同居しだして。それで、安心しきって気がついたらこれだ。

「に、いさん……兄さん」

 蝋人形のような、引っ掛かりのない冷たい肌。顎から頭の天辺までをぐるぐると巡らされている包帯。

 私のよく知る、絵では見たことのあった、欠損した兄の肉体。

「嗚呼、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 ただの物体になった兄さんには、腐臭が薄く纏わりついている。

 ピストルで死んでしまった、まだ若いはずの兄さん。

 

 私が良かれと思ってやったから。資金援助をし、仲裁をし、兄の名を知らしめようとした。でもそのせいで、心配しないようにと報せてもくれないままに兄さんは喪われてしまった。苦しかったろうし、心細かったろうに、報せもしないで。

 

 

 だが、ひたすらに泣いている場合ではなかった。葬儀も、作品たちの保管も、兄さんが過ごした黄色い家の保存もしなくてはならない。

 それに、結婚してからまだ5年も経っていないし、子供も生まれたばかりだ。かわいい僕の子供を、なにより下手をすれば育児にかかりっきりになってしまうヨーを放っているわけにはいかなかった。

 

 急ぎ交遊のあった画家たちに連絡をし、作品や書簡の目録を作り、黄色い家を保全するために大家さんとの交渉を進めていくうち、なんとか目処はついた。

 

 だが、今度は私が倒れる番だった。

 

 ヨーは体調を崩してしまった私の代わりに頑張ってくれている。早く回復しなくては、彼女にばかり迷惑をかけてしまう。

「フィン兄さんは迷惑ばかりだったけど、テオ兄さんまで」

「それは違うよ、アンナ。兄さんは、兄さんは自分にしか出来ないことをしたのだから」

 面会に来てくれた妹はまだ兄さんを恨んでいる。気難しい人だし、周りから見たら突拍子もないことをしたからだろう。ただ、あれは仕方のなかったことだ。本人にどうにかできることではなかった。

 

 兄さんの、フィンセント・ヴァン・ゴーの名は売れた。生前にはそれなりに売れた絵には巨額の価値がついた。そんなことで箔をつけてくれとは、決して思わなかったのに。

 

 アンナが帰ったあと、ヨーが私の手を握った。心労をかけないようにと気を付けていたつもりだったが、全く足りていなかったらしい。彼女はやつれてしまったし、手も荒れていた。早く体調を戻して軟膏を買ってこなくては。

「ねえ、あなた。義兄さんが描いたことは、無意味だったの?」

 兄さんがやったことは決して無意味ではなかった。確信しているし、私の心は揺らがない。

「いいや、決して!」

 私は笑って答えましょう。だって、この絵のおかげで、兄さんの見ていた景色をわずかながらにでも理解することが出来る。

 だから、それでいい。それでいいのです。

「兄さんは……兄さんこそ、私のすべてだったんだ。もちろん、君だって私の生きる意味だ。

でも、体の弱かった私に世界を見せてくれたのは兄さんだ。」

 ああ、眠たい。愛しい妻と我が子の顔を見ていたいのに。

「だから、それでいい。それだけで、十分すぎるぐらいだ」

 ヨーと共に、寝室に飾った兄さんの遺作を見る。色鮮やかな一枚の絵。僕の一番のお気に入り。今は僕だけの宝物。兄さんにしか表現できない感情のうねりをぶちまけた、最高の作品たちの中のひとつ。

 家族と兄さんの絵を見ていられて幸せだ。これ以上は望むべくもない。

 

 そうやって、私、テオドルスは長い永い眠りについた。

 

 

 

 と、思ったんだが。

「ねぇテオ聞いて!」

 ……どうして兄さんが女の子になってるんだろう。



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師匠が恵体すぎて腹が立つ。

抱え上げようにもでかすぎて無理じゃん。



 本当はテオくん(美少年)書く予定だったのに、気づいたら道満殿書いてた。どうして……
平安時代の生活も口調もわからん!


 おれの師匠は巨躯だ。それはもうばかでかい。独活の大木のようなでかさをしているが、立派な法師である。いや、むしろ師匠のがでかいんじゃないだろうか。

 

「師匠、袈裟ァ洗っちまいますから早ぉ出してください!」

 そしておれは、そのばかでかい法師さまの弟子である。

 

 

 

「恵祐、言葉を改めなさいと何度言わせれば、」

「お師様、御召替えを。出仕の刻です」

「……」

 すげぇ嫌そうな顔をしている。たぶんギリギリアウトなんだろう。上方の言葉どころか、お上品な言葉遣いと言うのはどうも難しい。

 

 お師匠さんは恵体で、その体の大きさに比例するように人が好い。そりゃあもう仏様といってもいいぐらいだ。道を修めた法師さまだから、そりゃ当然といえば当然なんだろう。だが、それだけじゃ言いようもない人の好さをしている。

 なぜって、どこの馬の骨とも知れないのに、おれを拾って、育てて、あまつさえ名前までもくれてしまったからだ。

 

「恵祐」

「はいはいわかっておりますよ。本日は符もご必要とのことでしたので紙と墨も用意してしまっております。お屋敷の結界維持も抜かりなく。留守は申しつかりました通りに。ご心配召されるな」

 口調もだいぶ頑張ったのに、師匠はやっぱり微妙な顔だ。ずいぶんと前に言葉を改めねば馬鹿にされたままだと説教食らって改めてるのに、おれの努力にはちっとも効果がないようだ。

 だがそれでも麗しきかんばせ。柳眉がひそめられるのはまあ絵になる。あれ、柳眉って美女の例えだっけか、まあいいや。大体似たようなもんだろ。女房さま方とかはキャーキャー言うんだろうか。怪人にしか見えない気がするけど宮女にはさほど邪険にされていないようではあるし。

 

 師匠は陰陽師なので、えらく有用だといわれて出仕とかもしたりする。師匠が出家する前のことはあんまりよく知らない。おれの出自にしろ師匠のことにしろ日々色々と言われるが、都言葉は迂遠すぎてわからん。

 

 おれはどこの生まれかなんてわからない身の上だったので、言葉が悪くて学もなく、参内することなど出来ない。指をくわえて、神経すり減らしながら人のために仕事をして、そのあと雇い主の奢りで旨いもの食って帰ってくる師匠を眺めるだけである。

 師匠が何者で、どうして参内できる立場を得て、今の地位に居るかわからないので、立身などとはほど遠い生活だ。

 だからどう頑張っても出仕のときには手伝えない。せめて大学寮に入れたらと思うが、漢籍は読めぬし漢詩も和歌もド下手くそ。希望すらねぇ。

 

 そんな下人でも、ときどき仕事を手伝わせてもらったり、時おり木果物とか持って帰ってきてくれるのでご相伴にあずかっている。でも、ぶっちゃけ師匠の肉体を維持するためには全部食わせなきゃいけない。欲をいえば食っちまいたいが、師匠が倒れるのと天秤にかけたらそりゃあ師匠を取る。あの恵体は維持が大変なのだ。法師なので生臭物は避けねばならないし、飯だって山盛り食わねば倒れてしまう。

 

 

 贅沢言うなら、野菜だけではなくて果物もしこたま食わせて、本当なら宍も卵も食わせたい。嗜好品はほとんど口にしないが、せめて果物くらいは食って欲しい。携帯食にと干すのを頑張ったのに、師匠は柑子にはどうも嫌な顔をする。

 あーあ、せめてミレニアム過ぎたぐらいなら良かったのに。そうすれば、師匠ほどの恵体でも、生臭物を食わなくたって生きていける食事はできるはずなんだ。

 本気で痩けた師匠なんて見たくもねぇ。あの人、思い詰めて絶食なんてしようものなら可哀そうなくらい骨と皮のごとくになっちまうのに。

 

 

「兎追いしかの山ぁ、小鮒釣りしかの川ぁ」

 石鹸様のもので師匠の袈裟をざぶざぶ洗いつつ、ふとその柄をじっと見た。どうにもスートとかピエロとかを思わせる黒と赤の変わり市松のような柄だ。本当に、師匠はどんな生活をしてきたんだろう。

 

 おれが知っている平安時代と呼ばれた時期では、石鹸なんぞなかったはずだし、灰で洗ってしまうのに、こんな鮮やかな袈裟などまず考えられなかった。これ合成染料使ってない?真っ赤はともかく真っ黒とか貴人ぐらいしか手に入れにくいだろ……どんだけ紫根使ってんだよこの衣……。

 

 やはりここは異世界なんだろう。というか、これが灰ならやっぱり植物が違うし異世界だ。どう転んでも知ってる世界ではない。

 

 紙も墨も高けりゃ師匠の召し物も高い。おまけに源氏の棟梁は女なのに男と偽ってるときた。あーあ、もっと安全な世に転生したかったなぁ、なんて。まあ次なんぞ無いだろうから文句など言えんな。

 

 干してしまったらあとはもう楽だ。やることは数える程度、師匠から式神の扱いも習ったので人手はまあ足りる。

 

 

 

 ようやっと主だった仕事は終わったと思ったら、今度はなにやら外がにわかに騒がしくなってきていた。大人数で来るなどとは、よほどの大事か。まあ、師匠ぐらいの大物なら当然。だってこんだけ屋敷もでかいんだし。

「誰ぞある! 誰ぞある!」

 門の前で叫ぶ者があるので、客が来たかと急いで迎えにいく。だいたい方違えの貴人の遣いだろう。

 

 だが、予想に反して門を開けてみれば、待ち構えていたと見える狩衣の男共が雁首揃えて並んでいた。

 物々しいにもほどがある。一体、何の騒ぎだというのか。

「蘆谷道満が謀反を企てた。屋敷の隅々まで調べさせてもらう」

 

 ありえない。師匠はお人好しだ。善人だ。だのに、そんなことがあるわけがない。呪いを人のためにばかり使うというに、何故そんな嫌疑が上がるのか。

 そんな考えが浮かぶが、それより先に、おれの体は立ち入ろうとする検非違使に立ちはだかっていた。

 

「待たれよ! 我が師が斯様なことをするはずが!」

 とめなくては。ここは師匠の家なのだ。私は留守を仰せつかったのだ。なのに、勝手に踏み荒らされてしまうわけにはいかない。

 腕を広げて入り口からの侵入をとめようとして。

 

「ええい、邪魔をするな!」

 

 

 あれ、なんで。おれの腹から、白刃が生えて──

 

####

 

 気づいたときには、もう夕刻だった。烏も飛んでるし、白刃が生えてたはずの腹は何ともない。どうも、うっかり寝入って夢でも見ていたか。

 そうは思ったものの、よくよく目を凝らせば家の中は検非違使に荒らされまくってズタズタだ。

 まとめてどうにかするために、使えるギリギリの数まで式神を飛ばす。物がそう多くない居所だから、まあどうにか帰りつくまでには片付くだろう。

 

 

 

 空気がピンと張り、震える。師匠が帰ってきた。やっと、やっとだ。

「おかえりなさ……ッ!」

 

 迎えようとした途端、土嚢のような重たいものが落ちるような音がする。水気を含んだ土の袋が崩れ落ちたようなそれは、嫌な予感を掻き立てるには十分だった。

 

「し、師匠? ……師匠ッ!」

 

 ──師匠はボロボロだった。

 

 慌てて駆け寄ったが、師匠はろくろく飯を食えなかったのだろう、かなり痩けてしまっている。髪はなぶられたときに切られたか、ざんばらの不揃いで、長着は破れて、なぜか袈裟は朽ちかけている。一体、たったの数刻々でどれ程の責め苦を味わわされたというのか。というより、おれはもしや数日寝転げてしまっていたのか。

 

「けいゆう…恵祐……」

「そうですよ、恵祐ですよ師匠」

「憎い、憎い憎い憎い憎い憎い。晴明が憎い。お前、あの男を呪いなさい」

 顔を上げた師匠はいつもの穏やかな表情なぞしていなかった。もはや妄執の塊と言ってもいいかも知れないほど禍々しい顔をしている。

 

 だが、おれに出来るのは雑用程度だ。飯を作って台盤を整え、湯を沸かし、衣を敷く。庭が荒れすぎないように整えて、使いが来たら決められた受け答えをして、日々の雑務をこなしていくだけだ。

 師匠が教えてくれた式神の使役をやっても、おれではそういうことをさせる程度しか出来ない。拾われて、師事してまだ十年も立たぬからか、否、才がないからだろう。だからそれだけをなんとかやりながら、師匠を宥めることしか出来ない。

 

「師匠、さては腹が減ってまともな思考が出来てませんね。すぐ台盤用意しますからちょいとお待ちを、ああそれに湯浴みも」

「恵祐、」

 わかっている。今の師匠は怨の一字しか持ち合わせていない。だから、獣のような目をしている。獣のように怨敵の喉笛を食いちぎることしか考えていない。

 

「師匠、師匠は疲れてるんですよ。そんなボロボロになってたらまず動けませんって。彼奴憎しの復讐、少し準備してからでもいいじゃないですか。でもその前にたんと食って休んで寝てください」

 止められない。止められるわけがないのだ。

 

「恵祐、何故だ、何故……」

「なあ、頼むよ師匠」

 泣いている。おれの目の前では決して泣かなかった御仁が泣いている。

 

「あんたはおれの師匠だ。名前も、寝床も飯も、あんたがくれたんだ。なあ、だから頼むから聞いてくれよ。おれァ親同然の師を人の道から外れさせたく無いんだよ……」

 

 何の因果かこんな世界に流れ着いて、それをどういう意図か知らんが拾ってくれた。見目は兄とも親とも同然だった。だから、これ以上苦しい思いはさせたくない。

 

 それで、師匠の体を支えようとして手を伸ばした。手当てと言うくらいだ、人間、人に触れられれば多少は心持ちも変わる。だから僅かながらでも落ち着いてくれないかと、そう思って。

 

 

 

 おれの手は、師匠をすり抜けた。



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師匠は居ねぇがやるしかねぇ

 カルデアに弟子が召喚される話。あんまり師匠は出てこない。

 召喚されるぐらいの格をどう与えようかと考えた結果こうなりましたという話。師匠が全裸なら弟子の再臨は下着。似た者師弟。


 道満法師は弟子の魂が心残りのせいで屋敷に留まっていたことを知り、袖の色が変わってしまうほど大泣きに泣きました。

 しかし、恵祐は喜んで、

「先生、どうか泣かないでください。私の体は朽ち果ててしまいました。ですが、師を慕う心は未だ朽ちてはおりません。ああ、なんと嬉しいことか、先生がようやくお戻りになった!」

 化生となった恵祐はそう申し上げるが早いや否や、煙となって消えてしまいました。

 そこで残された道満法師は、悲しみのあまり恨みを鎮め、門前に転がった骨を人の形に整え、ねんごろに弔ってやりました。

 

──『恵祐』訳文より

 

####

 

 長らく、眠っていた。

 

 どうしようもなく眠たくて、体が重たくて、私は、──おれは、眠り続けている。

 

 でも、ふと誰かに呼ばれた気がしたので目蓋をようやく開ける気になった。

 

 師匠に名を呼ばれるように、心地がよかったから、まあ、起きてもいいかと思ったのだ。

 

 少しばかり、焦げ臭い気もする。近くで小火でもあったのだろうか。

 

 

 

 と、ぼんやりと思ったものの、次の瞬間には目潰しされるほどの光が走ったのでまた目を閉じてしまった。ただ、今度は眠り続けている時よりもはっきりと意識がある。寝坊したような、なんとなくそんな座りの悪さだけは相変わらずあるのだが。

 

 そうして両の目を見開いたときには、もう、知らぬ場所である。

 広がっているのは現実味のない光景だ。それに、異様な匂いが立ち込めている。これまた、随分と厄介なことが起きているようだ。

 

 だが、やるべきことはなんとなくわかっている。脳に必要な情報があるというのは不思議な感じがするが、そう不思議がっている余裕もなさそうであるのだし。

「これは……ああ、名乗らねばならないか。」

 

 そう、新しい自分の主人に、()()()()()()()()()()()()()()()()に、おれはここにいるぞと伝えてやらねばならない。

 

「サーヴァント、ランサー。召喚に応じ参上つかまつった。名を……っだぁ! めんどくせぇ! ケイとでも呼んでくれや。まあ、その、なんだ。よろしく頼む」

 

 燃え盛る廃墟の町でおれを呼んだのは、どうも目の前の少女たちらしい。

 

「サーヴァントの召喚に成功しました! ですが、ええと……」

「ああ、こんな状況で悪いが、おれは白刃で斬られたからランサーなんだよ。だからそこまで力も強かねぇんだわ。奉公は精一杯やるがな」

 

 おれの答えに想像も実感も追い付かないのだろう、不安そうな二人組の背中を呵呵大笑して張り倒す。まだ頼りない背中だ。いや、頼られるべきではない子供の背だ。

 きっと誰かに呼ばれるのは今回ぐらいだろうし、せめて彼女らを守りきれば、償いにはなるだろうか。

 

 

 

 

 そう思っていたが、どうも前にどうにか手を貸して帰してやったのが原因で縁ができたらしく。冬木から帰還した主らに呼ばれてからは、しばらくカルデア暮らしが続いている。

 あのときからここまで無茶をしっぱなしの主だが、私が現地に赴いて手助けをしていた中で一番無茶をしたのはバビロニアだっただろうか。カルデア経由で応援で行ったから知っていたものの、神秘の濃さは私が生きていた頃の京より上だろう。鬼の類いだってここにいれば元気一杯で手がつけられなくなりそうだ。

 

 

 

 そこで主は敵の群れのど真ん中に、あろうことか飛び降りやがった。

 

「ランサーッ! 着地頼んだ!」

「あ゛あ゛っ!?」

 主はそもそも聞く前に飛び降りていた。現在位置が瞬時に脳内を過って行ったので、ここから城塞まで戻るのはどうにかなるだろう。

 しかし、こんな無茶は頂けない。いくら撤退が急務とはいえどだ。

 

 そもそも、私より逃げ足が早くて時間が稼げる奴なんて他にいるだろ!

 

「なんつぅ無茶苦茶やりやがんだよ主ぃ!!」

「ごめんて!」

 

 見渡す限り、獣、獣、獣。しかもこいつら、群れどころか階級意識すら無いらしい。野の獣の類いではない、か。

「ああクソ、抱きつけ口閉じてろ、舌ァ噛むなよ!」

「ん!」

 赤ん坊よろしく丸まったまま、サムズアップするマスターに場違いな笑いが出そうになるのを堪えて、彼女を抱え直す。

 

 戦略的撤退なんて、今世しかやってないから難しいのにな。マスターも本当に人が悪い。

 

####

 

 そんなことを一緒にやってきたマスターとも、そろそろお別れだ。郷里に帰るらしい。私も、この後一時間もすれば退去だ。私物もあらかた片付けたし、元より備品を借りていたものばかりだから片付けにも困らない。

 

「ケイ、今いい?」

「ん、どうした立香、っぐぇ」

 

 そんな、ほとんど片付いてしまっている私室。たぶん死んだ職員の部屋だったのを遺品片して流用してんだろうが、一年以上居着いてしまっているから最早おれの根城だ。ガラガラになってもそれは変わらない。

 寝台でだらだらと本を読むおれの背をマスターがクッション代わりにするものだから、思わずひしゃげる蛙みたいな声が出た。

 

 柔らかい、肉が相応についている体なのでそう痛くもないから構わない。けど、多少は前振りがあったって良くないか。流石にどんな軽さでも不意にぶつかる衝撃だけはどうしようもない。

 

「いや、さ。ケイって日本の反英霊なんだよね」

「まぁ、そりゃな。というか、そうじゃなきゃここに居られねぇからな、クラスもでたらめだし」

 流石にマスター相手に自分は半端者の英霊です、なんて言えるわけがない。だからとりあえずケイを名乗ったわけだが。召し上げられて半年も経っちまったんだ、今じゃケイと呼ばれる方が妙にしっくり来るから困る。

 

 生きてるときに誰かに名前を呼ばれるのはどうでもよかった。師匠が呼んでくれるときは、まぁ、下人にしては大事にされてる気がして心地がいいとは思っていたが。

 

「うーん……でもさ、そろそろヒントくらいはくれてもいいんじゃない? わからないことだらけだし、そろそろみんな還っちゃうし」

「あー……そう、だよなぁ」

 そう言われてしまっては言わずに済まない、と思う。けど。まだ少し、おれは本性を知られることに恐れを抱いていた。

 

 本来なら正体わかったら嫌がられるのが筋だが、このマスターは違う。それは経験でわかってるし、そこがマスターである立香の長所で短所だと、おれは勝手に思っている。

 でも、おれは知られるのが嫌だ。万が一にでも嫌われたらと思うと、おれが嫌なのだ。この期に及んで。

 はじめて、誰彼構わず醜い過去すら心から打ち解けるような、そんな剛胆な友達ができたせいだろう。その万が一がひどく怖い。

 

 生きてた頃には同じ年頃の友達なんて出来なかったし、出来ても病か鬼かで死ぬのが多かったから安心して関わりにくかったから仕方がない。

 あと、生活の大半は師匠と居た。そのうち一人立ちできるように修練なんて本当に血が滲むまでやらされたからな……おかげでランサーでも自分の火力だけは上げられるから今があるんだが。

 

 

「しゃーねぇな……昔話でいいか? さして面白みもないけどな」

 動く気配のない彼女に、静かに腹を決める。もう、十分すぎるほど待たせてしまったのだし、これ以上はよくないだろう。

「やった」

 

 体を起こして居住いを正すと、同じように姿勢を正していた立香は、思い切り力を込めてポテチの袋を開けた。その隣にはコーラもある。

 

 ……主、おれの昔話を怪談かなにかと間違えてないか?

 

####

 

 ──おれはさ、師匠に拾われたからおれになったんだ。その前も名前があるにはあったんだけどな、もう今じゃろくろく思い出せん。

 

 それでも、最初っから懐ききってたわけじゃねぇよ。人攫いも出るからな。

 でも、師匠は特に売っ払おうとはしなかったし、動けるようになっても飯と屋根の代わりに仕事しかさせなかった。というか、何の得もないのにそれなりに動けるようになるまで飯もくれたんだ、そりゃもうお人好し極まれりだ。

 だから、訊いた。何で拾ったって言ったら、まだ目が死んでないってだけ返されてな。笑っちまったよ。目が死んでねぇ捨て子なんて世の中には山ほどいるんだぜ。勿論、師匠が行く先々でも見たろうに。

 

 でも、嬉しかった。

 まだおれは死んでない、おれを見てくれる人がいるんだって思ったよ。正直、野垂れ死にが決まったもんだと思ってた。

 だから、この人のために生きていこうと思うぐらい、おれを拾って面倒見てくれたのが嬉しかったんだ。大恩だよ。それこそ、師匠の代わりに死んでも返しきれないくらいのだ。

 

 ……けど、仕事習いながら奉公して十年もしねぇのに、師匠がお上に捕まっちまった。

 

 

 

「えっ、なんで?」

 

 首をかしげる立香に、思わず笑う。

 おれもそう。当事者じゃないから、そりゃあわけなんてわかるはずもない。おれは蚊帳の外の人間だった。

 

「謀反だ。師匠は今をときめく、ああいや、もう過去か。殿上人を呪殺しようとしたんだ」

 

 

 

 ──わけがわからなかったよ。だってどこの馬の骨か知らねぇ子供拾って、衆生のために祈ってたんだぜ? それに、生真面目で、ドがつくくらい嘘が下手くそな人だった。

 だから何かの間違いだろってさ、ガサ入れしに来た連中に言ってやったんだよ。

 

 ……いや、悪い、嘘言った。皆まで言う前に斬り殺されたわ。楯突いた途端にグサッ、と一発。最後に見たのが腹に刺さった太刀だったもんで、おれはランサーなわけ。

 

 なんでそんな理由で召喚できるのか、正直おれにはさっぱりわからん!

 

 これでおしまい。おれが話せるのは、まあ大体こんなところだろうな。

 

####

 

 所々ぼかして語りきって主を見ると、ぽかんと口を開けていた。一寸間抜けで可愛らしい。

 

「……え、反英霊の要素無くない? それに、()()()()()()()()()だったよね、あれ何?」

 

 そう、基本的に下人をやっていた頃の姿で活動しているが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()である。

 

「ああ……おれ、あの姿で内裏に化けて出たんだよ。師匠が死ぬほど恨んでた奴がいてな、師匠の恨みが強すぎて結局鬼の出来損ないみたいになってさ」

 生成りになるのは女ばかりだ。そのあたりの話もあったし、そのせいでおれの第二臨は下着で半端者の女鬼である。

 まあ、服自体も透けない小袖で豪奢なものだから、現代なら普通の服として通じる格好ではあるはずだが。

 

「うわぁ、マジか」

「ほんとだよ。おれだって本意じゃなかった」

 本当に、本意ではない。師匠のせいと言われればぐうの音も出ないし、もう見つかり次第に首を刎ねて晒されていた可能性すらあった。

 

「化けたあとおれも抵抗してたから人は食ってねぇけど、師匠の法力が強すぎてな。その結果が第二臨の生成りもどきだ。

 ……ま、お陰でおれは反英霊とはいえ召喚できるぐらいの認知度になったからな、まあいい空気吸ってるって言っていいだろ」

「いやそれ呪われてるでしょ」

「まあ最後の親孝行だし死んでるからセーフだろ」

「セーフの意義とは」

 退去前にしてはかなり軽い応酬かもしれない。これなら、気持ちも軽く還ることができるだろう。

 

「うん、でも、名前は教えてくれないんだ」

「これだけヒント出したんだ。がんばって探してくれ。あぁ、そうだ。これやるよ。年頃なんだし、一つくらいあった方がいいだろ」

 

 嘘だ。本当はまだ居たい。そのうち気兼ねなく自分の、師匠にもらった名前が出せるまで。

 その気持ちを噛み砕いて飲み込んで、いよいよ出せなかった品を主に渡す。

 

 視線でおれに尋ねてから躊躇なく包みをほどいた主は、中身の巾着から贈り物を取り出して首をかしげた。

 

「これ、貝殻?」

「紅だよ。塗ったのが乾いたら玉虫色になるんだ」

 

 私が贈ったのは貝に塗りたくった紅だ。玉虫色のやつ。私が生きている頃に使っていたものや、今も塗っているものとよく似ているものだ。

 

「でも、高いんじゃ……」

「気にすんな、高いは高いが全く出せんような値段じゃない」

 

 塗ってみていいか、と尋ねれば、頷きと共に顔が近付く。普通に座っていればいいのに、律儀なとこで。

 

 開封せずにほったらかしていたミネラルウォーターを開けて、ほんの少し筆を湿らせて紅を取る。さて、これを主の唇に塗ったら何色になろうか。さくら色だろうか。それとも、陽のような朱色だろうか。

 

「おれの目元と同じ緑にしたかったら、此限り塗り重ねにゃならんから、この貝の三分の一は要る。」

 

 紅を玉虫のそのまま塗るのは難しい。笹紅のような塗りにするなら唇以外はより難しかろう。

 だが、これから受ける試問に答えるときは、これを塗らせよう。そうだ、退去と引き換えにしようか。そうすれば、この律儀な主は絶対に塗ってくれる。

 

 

 筆を用意してから、霊基を変えて小袖姿になる。この装いだと当時は豪奢とはいえ下着扱いだったのが、今じゃあ普段着だ。まぁ、気にしなくていいからありがたいのだが。

 

「あれ、なんで霊基再臨して」

「何故もなにも、紅と言うのだから、それはこっちの姿だろう?」

 

 小袖の蝶に朱が飛ばないよう気を付けながら主の唇に紅を差す。女同士だ、仲の良い友に見えればいいのに、と思う。角は生えかけだから頭が重たいわけではないし、他人に紅を差すのにも支障はない。

 そうして薄く染めた唇の色は、彼女によく馴染む柔らかなさくら色だった。──決して、鬼に変ずるような赤ではない。

 

「なぁ、主よ。監査のときには私と同じくらい濃く紅を塗って。あと、ここ一番の大勝負のときにも。

 もちろん、監査が全部終わったあと塗るのは目元じゃなくていいし、私のように濃くしなくていい」

 

 化粧に慣れ親しんでいない彼女のことだ、この後紅を落としたら、似たようにするのは難しかろう。

 

「なんで」

 

 苦しげに目を伏せる主は、やはり主として仕えるのに良い人間だった。私のような化生にすら心を砕いてくれる。その心地の良いことよ。

 

「監査の連中に何ぞされて、出したくもない涙が出るかもしれないだろう。だが、血涙ならそいつらも怯む……かもしれない」

「……血の涙かぁ、鬼みたいだね」

 

 彼女がどうにかひねり出した言葉は、私の望むものに近いものだった。

 

「ああ、半端者とはいえ鬼の私がさせるんだ。そりゃあ鬼のように恐ろしいだろうな」

 

 大丈夫だ、彼女は鬼にはならない。私と同じ紅を差しているうちは、私が守ろう。もし立香がこれからの人生の中で私を忘れないなら、私は紅を依代に傍に在り続ける。

 

 師匠とも同じような化粧なのが玉に瑕だが、師匠はいないし、まあいいだろ。

 

「なぁ、主。おれさ、主にケイって呼ばれるの、師匠に呼ばれるのと同じくらい、嬉しかったよ」

 たったふたり、たったふたり分記憶があればいいと思うぐらいには。

 

 

 

 

 

 ──でも、私は立香に黙っていることがある。

 下総の記録で見た黒幕は、私の目では見ることができず、声を訊くことが叶わなかった。

なら、あんなことをやったのは、恐らく……

 




次で平安京書きたいなぁ


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お師匠様の言う通り(前編)

 天覧聖杯戦争の裏で弟子がぐちゃぐちゃになってる。
 グロシーンが多いので注意。

 書き納まらなかった。師走は忙しいとわかっていたけれどここまでとは思わなかった。あともう書くの投げたいので新年に後半の更新があるかわかりません。
 息抜きに晴明の話書かせて……


 道満法師が捕らえられたのち、内裏に現れた生成りは、緋色の小袖を纏った姿の媛のようであった。その鬼は人を食らうことも脅かすこともなく、ぼんやりと佇み、時折涙を流すばかりであったが、それを見て失神、放心するものが相次ぎ、ついに安倍晴明が呼ばれることとなった。

 しかし、その女は清明の語り掛けに対して涙を流すばかりで話は一向に進まない。

 そこで心当たりのあった清明が法師の名を出すと、鬼は一転して涙を流して答えるようになった。女は自らを「祐」と名乗り、問いかけに答えたのち道満法師の処遇を尋ねると、夜明けと共に消えてしまった。

 

──『祐姫問答』概要より

 

 

 

 

  ぐちゃり。

 

 

 ひどく、眠たい。それに、寒くて、冷たくて、わけもわからず息が苦しい。

 

 だが今日もやらなくてはならないことが多い。それに師匠は、今日からしばらくは参内しなくてはならないのだ。おれも水垢離をして、手伝いをせねばならない。

 

 

  ぐちゃり。ぬち、ぐじゅ。

 

 

「起きましたか、恵祐」

 師匠の呼ぶ声がする。いつもより、どこか優しく聞こえる声音だ。

 ああ、でも、だめだ。体が重たくて、寝床から起きられない。応えなくてはならないのに。

 

 ここ最近、水垢離が嫌な気がしているからだろうか。身を水に浸すたびに、何かがこわいという気持ちがする。だから、起きたくないと思ってしまうのだろうか。

 

「し、しょう……」

 起きないと。起きないと、いけないのに。ここにいてはいけないのに。

「眠りなさい。──寝ていろ、恵祐」

 

 

 まだ外は暗い。本日は師匠が参内する日であったけれど、まだ起きる頃合いではないということなら、良いのだろうか。

 ……きっとこのままではだめだと頭の片隅で溶け落ちかけの思考が働いている。でも、それ以上に眠たくて、体が重たい。だから、うつらうつらとしている。

 

「お前が目を覚ますには、まだ早すぎる」

「は、ぃ……」

 

 鉄の匂いが、する。さっきより少し、四肢が重たい。

 

 

  ぐじゅ、ぐちゃ。ばき、ぼき。……ぁ、すけ、ぇ……。ぽき、ぱき。

 

 

 ああ、でも温かい。温かくなった。まるで湯船に浸っているような。とても気持ちが良い。

 

 屋敷には、おれと師匠以外に誰もいない。物の怪が出ることもない。使役する式神が舞っているわけでもない。

 だからきっと、何か聞こえたように思ったのは風の音か何かだ。そんなことより、眠らなくては。

 

 ──閨は暗い。まだ、夜は明けない。

 

 

 

 香子さんの手引きで入った内裏は、冷え冷えとしていて明るく、広かった。

 だからだろう。冷静にならなければと思うのに、怪僧を前にして、どうしても気持ちが落ち着かなかった。これまでの所業が浮かんでは消え、一向に苛立ちが収まらない。

 

(マスター、おれたちみてぇな相手に馬鹿正直に名前を名乗るんじゃねぇぞ。名乗っても姓だけにしとけ。)

 

 ふ、と彼から言われた言葉が過る。ずっと傍にいてくれた、退去しても守ってくれた彼の、きっと今だからこそ必要な情報だ。

 相手がリンボならあまり意味はなくとも、道満であるならば真名隠しが効く。

 

「藤丸、です」

 

 目の前の男、諸悪の根源である男を睨め付ける。決して、出方を間違えてはいけない。いまここで逃がすわけにも、聖杯戦争を続行させるわけにもいかないのだ。

 

「やはり、突然の祓いは宜しくなかったようだ。拙僧は嫌われてしまったようですね」

「そうではない、です」

 

 心底悲しげに放たれた道満の言葉に偽りの色はない。姓だけを名乗ったことは、唐突な祓いに対して警戒をしたものと思ったらしい。

 

 念を通じて報告してくれる段蔵さんもリンボの霊基ではないと言うのだから、きっと目の前にいるのはリンボではない。

 それでも警戒体制は取る。ただ別人だからといって、目の前に居るこの時代の蘆屋道満を警戒しない理由はなかった。為人を知らないのだから、過ぎたることではない。

 

 空気が揺らぐ。

 ふいに影が増えたのに気付き、立香は其方を向いた。

 

「お師様……儀式の準備が、整いました」

 

 現れたのは、玉虫の化粧をし、白の狩衣を纏った“青年”だった。

 

 彼のことは、よく知っている。まだノウム・カルデアには呼び出せていない彼は。ずっと、退去してなお化粧に仕込んだ術で凶刃を防ぎ支え続けてくれた彼は。

 

「っ、ケイ……!」

 声をあげて、彼に語りかけようとして。

 

「恵祐」

 

 

 空気が張り詰める。動けない。

 

 

 どこか歪んだ気配を感じて、嫌な汗が背を伝った。言葉一つ、声一つにひどい歪みと重みがあった。

 

 

「おや、恵祐とお知り合いでしたか。……お前、何処で彼女と?」

 

 そして、たったの一瞬。しかし確実に、穏やかであった道満の視線が鋭くなったのを立香は見逃さなかった。

 

 だが、恵祐のほうは師の様子には気づいていないようで、ただぼんやりとしたまま首をかしげるに留まっている。なにかが変だ。

 

「? 覚えが、ありませぬ……」

「ふむ? ならば忘れてしまったのでしょうね。本当に仕方のない。……よく覚えていらっしゃるというのであれば弟子がお世話になったことでしょう、大変失礼いたしました、藤丸殿」

 

 恵祐と呼ばれた青年の、伏せられた睫毛が揺れる。どこかしどけなさを感じさせる物腰と言葉に立香は絶句した。それまでカルデアにいて友愛を向け、また向けられていた相手と目の前の相手とが重ならない。

 

 ──確実に、何かされている。

 

 

 そう思いはしたものの、左大臣である藤原道長の登場、またそれに伴って身分の低い恵祐が場を辞して消えてしまったことによって、それ以上のことを探れはしなかった。

 

 

 

 

 内裏を辞した後、大路を徒歩で下りながら腕を擦る。あのあと額を拭うと驚くほど汗が吹き出ていたし、腕には鳥肌がびっしりと立っていた。

 

「立香、お前あの恵祐って奴と知り合いなのか」

「うん。でも、態度が全然違うよ。あんなに元気がなさそうなのはおかしい」

 

 金時に問われてそう返し、立香は彼の態度がやはりおかしいと思った。

 カルデアにいた恵祐は、いつだって快活であった。だが、あの場に姿を表した恵祐は、打ち据えられ続けたかのように生気がない。差異に違和感を覚えないというのは無理な話だ。

 

「そうだな。俺も市中で見かけたことはあるけどよ、あんな殊勝な振る舞いをする御仁じゃなかったぜ」

「だよね。ケイ、普段はもっとぶっきらぼうだよ」

「ええ。恵祐殿は人を気遣ってはくださいますが、人を気にしないお方でしたね」

「じゃ、やっぱり恵祐についても調べた方がいいのかもな」

 

 立香は彼のことを思い返し、笑みをこぼした。彼は子供や他のサーヴァントの求めに応えていたが、反面自分からはあまり積極的に関わることもなかったし、印象を気にして愛想を振り撒くようなこともしなかった。

 

 

「あっ、きんとき!」

「きんちゃーん!」

 

 子供たちが金時の姿を認めると駆け寄ってきてじゃれつく。大人たちにも餅を勧められるやら成長を褒められるやらで気楽に接されつつ、天覧聖杯戦争の始まった頃から現在までの噂を尋ねた。

 京人は噂を好む。何かおかしなこと、目先の変わったことがあればすぐに出回るのだ。鋼の怪の話もそれなりに集まってしまった。必要なことについては、概ね訊いただろう。

 

「鋼の怪か……そうだ。なぁ、恵祐って知ってるか? 道満法師んとこの」

「ああ。恵祐はんかぇ? あのお人はええ人よ。困っとったらいっつも来てくれはるし……」

「でもここ最近見かけんなぁ……お師はんが参内してはるって、手伝いに行かはっとるんやろ?」

 

「なあ、それっていつからだ?」

「ここ数日やなぁ」

「鋼の怪も、恵祐を見かけなくなったのも同じくらいか」

 

「そういや、誰が言ってたか覚えてへんのやけど、道満様のお屋敷、夜中に川の水汲んで運んではるらしいわ」

「川の水?」

 

 それを聴いて金時は思わず聞き返した。確かに不自然な話である。また、誰が聴いたかわからない、どこから出たかわからないというのも妙である。噂には、話した者の大まかな身分がついて回ることが多いが、この話にそれがなかったからだ。

 また、夜中にというのも、ここ数日は怪異が多く、聖杯戦争もあって目撃するものがほとんどない筈であることを加味するとおかしなことである。

 

「そう。化けもんの出だしたんとおんなじ頃。黒牛で運んどるんを誰ぞ見たいうて。それで、そっから昼間も恵祐はんを見かけんようになったわ」

「そりゃおかしいな。お屋敷には井戸くらいあんだろ?」

 

 屋敷を持っているというのに川の水をわざわざ汲みにいくというのはあまり考えられることではなかった。井戸がある筈である。

 

「うちもそう思うんやけど、何かまじないでもしてはるんやろか……」

「ああ、そうかもしんねぇ。世のため人のために祈ってる法師様とそのお弟子だしよ。心配すんな!」

 

 不安そうに語る京女の不安を打ち消さんと豪快に笑った金時は、それを見て喜んだ子供たちに飛びかかられて埋もれる。このときは確かに、心配などないと笑い飛ばせたのだ。

 

 

 

 

 そしてその日から二日。京には、黒い太陽が昇っていた。

 

 

「恵祐、起きなさい」

「、ぅ」

 

 目を覚ましてまず知覚したのは、酷い異臭だった。鉄と、脂と肉の腐った臭いが籠っている。暗くて見えなかったが目が慣れてから見てみれば、どこもかしこも汚れている。

 

 だが、恐ろしいことに、それが心地よいと思っている自分がいる。饐えた臭いの筈なのに、それが旨そうに思えて、腹が減ったような気がするのだ。そこかしこに検非違使の衣が散らばっていて、撒き散らされた血肉を吸っているのが勿体無いと思ってしまう。

 

 そんな自分を、師匠はまじまじと眺めてなにやら満足げな表情をした。

 

「場を整えるのに二日。お前の支度に七日。術を行うに三日。やっと、やっとだ。ようやく、お前を作り替えられた! これほどまでに早く天覧聖杯戦争が中止になることは計算外でしたが、まあ良いでしょう。

 さぁ、衣を変えなさい。お前のための装束ですよ、恵祐」

 

 

 師匠は高価そうな黒い衣を纏い、髑髏の意匠のある冠を戴いている。それなのに、汚れてしまうことに一切の頓着をしていないかのような振る舞いをする。

 すぅ、と指された衣もまた黒だった。黒無垢の、女の装束。

 

 どうしておれがそんなものを着なければならないのだ。おれは、師匠の弟子で、下人で、女のように扱われるものではないのに。なぜ師匠がそのように強いるのか。わからない。わからないから、怖い。

 

 

「ぁ……」

 

 声が出ない。ヒリヒリと喉が痛む。食べ物も飲み物も、口にした記憶がない。

 否。おれは一体、この二週間ほど何をしていた? 参内に伴って手伝いを始めたのは、一体いつのことだ。

 

「もう二度と手離すものか。儂から、拙僧から決して離れてはならぬぞ、恵祐」

 

 長い爪の手指で顎を掴まれ、顔を覗き込まれる。痛い、どうして、と疑問が浮かぶが、それ以上のことを考えることができない。頭が痛い。気持ちが悪い。胃の腑がひっくり返りそうな、喉を掻き毟りたくなりそうな不快感がある。

 

 師匠の眼は、既にして人の眼ではなかった。黒目ばかりの眼は獣のそれとよく似ている。白目が見えたかと思えば、今度は瞳孔が山羊のように横に拡がる。

 そんな師匠の眼がおぞましいと思うのに、どうしても目を離すことができない。これも、おかしい。そのおぞましい眼で眺められるのが、功を誉められているかのように心地よいなどと。

 

 

 怖い。

 

 

 誰か、と叫びたかった。だが、助けなど来るはずがない。だって、これをやったのは、検非違使たちを殺したのは師匠だ。清明殿もいない今、師匠に敵うものなどあるはずもなかった。

 

 叫んだところで、泣いて赦しを請うたところで、誰かに助けてもらえるわけがない。そんなことをしたら最後だと、きっと酷い暴力に晒されるぞと冷静な自分が囁きかけてくる。もう、おれの意思の自由など存在しないのだ。

 

 出掛かった悲鳴と嗚咽を堪え、もつれる舌を必死に馴らして、望まれている答えを考える。

 

 耐えなければ。耐えて、耐えて、どうにか耐えきれれば、きっと。

 

 

「……はい、師匠」

 

 

 逃げ場はどこにもない。血と肉が散りばめられた閨は、“私”のために作られていた。

 

 赤黒くどろどろに汚れていた服を脱ぎ捨て、与えられた衣に袖を通す。体液まみれのまま纏った赤い肌小袖の蝶は、あまりにも滑稽だ。

 これのどこが善いのだ。師は部屋が黒ずむほど人を殺めて、自身は得体の知れないものに作り替えられて。外は、どうなっている。ここはどこだ。なにもわからない。……わかりたくない。理解したくない、理解してしまうのが怖い。

 

 痛む頭で式を手繰って黒無垢の装束を纏うと、師匠は笑みを深めた。

 こんな姿の何に満足などなさるのだろう。わからない。つらい。苦しい。ただひたすらに醜いだけであろうに。だれか。どうしてこんな。

 

「良い子だ。さぁ、行きましょう。お前は特等席にいなければならないのだよ、恵祐」

 

 

 いつぞやに見た鬼の角のように固められた前髪が、私の頭に触れようとした師匠の手の邪魔をする。触れられたそれには確かに神経が通っているようで、師匠の手の感触がまじまじと伝わる。それを師匠はわかっているのかいないのか、やはり場違いな、喜びに満ちた笑みを浮かべている。

 

 撫でられるのが怖いと思うのは、これが始めてだった。

 

 

 

 

 空間の出口に寝そべっていた黒い牛を、師匠に手を取られて跨いで越える。……出てしまって振り替えれば、牛などどこにも居なかったかのように姿を消してしまっている。

 ……嗚呼、成ってしまった。もう人間には戻れはしまい。

 

 

「……お主、恵祐と申したか」

「……左様に、ございまするが」

 外には道長様も居たらしい。返事をしようとしたが、まだ口がいうことを利かない。

 

 それをどう思われたか、血の海に立った公に睨め付けられてしまった。それがどうにも愉快で、悲しくて、楽しくて笑いたくなってしまう。ああ、どうして楽しいのだ。違う、悲しい。いいや、不快なのが愉快だ。

 

 

 先程まで自分がいたものを見やる。

 ……随分と大きな、美しい花の蕾だこと。

 

 

 

 紫式部の登場と共に現れた宙に浮かぶ文字──陰陽師・安倍晴明によってアルターエゴ・リンボと蘆屋道満に関わる不可解な状況は解明された。

 

「清明さん、もしかして恵祐を知ってる?」

〈……ああ、知ってるよ〉

「あっ、何か隠してる」

「隠されていますね」

「隠してんな」

 

 新しい文字に変わるまで歯切れが悪いと感じるような、不自然な間が空いた。流石にこれは、隠し立てしていないと思う方がおかしい。

 

〈京のことは全て知っていると言ったろう? さっきあの大莫迦が言っていたからね。厄介なことに、どうやらあの子は調整されているらしい〉

「調整?」

「ですが、恵祐殿は人間でしょう?」

 

 浮かぶ文字列に嫌な予感がする。

 

〈ああ、あの子は間違いなく人だよ。けれど、奴が川の水で垢離をして瀬織津姫に祈祷したんだろうね。彼女は生身の人間では考えられないほど、身の内に穢れを溜め込んでいる〉

「けど、結界があるんじゃねえのかよ? というか、恵祐の奴は男だったろ」

「それに、瀬織津姫といえば穢れを祓う存在のはずでは……」

 

〈無論。私の結界は機能していたし、瀬織津姫は確かに穢れを祓う神だよ。だが、逆なんだ。

 あの子は君たちが参内した日までは、内裏の穢れの浄化装置になっていたんだ。聖杯戦争のために発生する余計な穢れを拭い去り、術式を内裏から弾き出されないためにね。性別はまあ、別にどうでもいいんじゃないかな〉

 翌日からは大莫迦も危機感を持ったか、仕込みが始まったようで内裏には居なかったけれど。

 

 そう続けられた言葉に体の中心が冷えていく。それじゃあ、恵祐は。あのときにはもう。

 

「つまり、弟子すらも道具として使い捨てたと」

 私の考えを受け取ったのか、段蔵さんの声が震えている。下総での段蔵さん自身への扱いを重ねているのかもしれない。

 けれど、それを否定するように文字が揺らぐ。

 

〈いいや、それも違う。あれは弟子を殺したくないがために穢れを受け止めさせて調整していたらしい〉

「それは、どういう」

 

 段蔵さんの疑問に、切瑳に目を塞ぎたくなる衝動に駆られて慌ててそれを押さえる。聴いてしまいたくない。きっとそれは冒涜的なことだ。でも、知らなくてはならない。私は、あの人のマスターだから。

 

〈なに、穢れを受け続ければその者は遠からず人の道から外れてしまう。ましてや流し込まれたのは宮中の穢れだ。七晩、川の水に身を浸して祈祷し、穢れを受けやすくしていれば鬼になるには事足りるよ。〉

 ──鬼になれば、並のことでは死なないだろう?

 

 ぞわり。

 

「~~~ッ!」

 

 総毛立ち、思わず悲鳴を上げてしまいそうになった口を押さえる。それじゃあ、内裏で彼をそばに置いていたのは。あの時、冷たく張り詰めた気を向けられたのは。

 

「でも、それなら彼はどこに? 内裏に居られたことも驚きですが、鬼に変じるほどあからさまな穢れなら、隠せる場所なんて京には早々にないでしょう」

 

 頼光さんが困惑混じりの疑問を呈する。

 

 それはそうだ。将神の出現だって、彼の結界に弾かれている。そこに穢れがあると判れば排除されるし、どうやって隠したのかと思うのは当たり前だ。

 

〈聖杯戦争における穢れは術式の中で循環して自然と消えるようなものだ。英霊はそもそも死出の旅路の先にあるからね。けれど、宮中も清めて穢れをかき集め、ゴミ箱のように扱っていたのでは当然ながら限界が来る。ならば、そんなものを置いておける場所の候補はひとつしかないだろう〉

 晴明さんの言葉に、やっと彼がどこにいるか想像がついた。きっと、恵祐はずっと同じところにいる。きっと、嫌がって、抗っている。

 

 少し前に生え、根を下ろし聳え立つそれを見上げる。おぞましい姿で天を衝き、花開かんとするそこに。

 

 

〈木を隠すなら森に、穢れを納めるなら聖杯の在処──空想樹に、さ〉

 

 

 

 

 人形ひとつ、釘ひとつ。境内のいちばん立派な桜の木に打ち込み、打ち込み。それで神様は木が台無しになるのを厭うて悲鳴を上げて、聞き届けてくれるという。

 

 本来、人を呪殺するには七日七晩、丑の刻に木に人形を打ち付けなくてはならない。そうやって祈り祟った暁に黒い牛を跨げば、おしまい。黒い牛は呪の現れ。そこで願いは成就を確約される。

 

 いずれ槍兵になるという私は、そういう点でも都合が良かったのだろう。どう頑張ったところで、最後には呪うものになる運命らしい。

 ああでも、本当は……師匠と一緒に穏やかに生きていたかった。

 

 

 みしり。

 

 

「っ、」

 不意に、空気に押し潰される。否、存在に耐えきれなくて地面に沈みこんだ。神気だ。

 

 すぐに師匠に助け起こされるが、息が苦しい。口許を押さえられ、幾つかの呪いをかけてもらって、ようやくまた普通に息ができるようになってきた。

 

「大事ありませんか、恵祐」

「……はい」

 

 見ると、道長様も無事であるらしい。やはり雲上の御方は違うのだ。私のような賤しいものとは、きっとつくりが違うから耐えられるのだろう。ああ、悲しい。羨ましい。妬ましい。

 

 

 それはいいとして、余程の存在がこちらへ来ているのは明らかだった。それならば、私は、必要などないのだろうな。きっと私に求められる最後の役は、贄だ。

 

 

 ……慕っていた気持ちなんぞ、きっと、師匠には厭われていたのだろう。いっそ、早々に腹を割って、こんな風に角を生やす前に、死ねば良かったのだ。

 

 

 大樹の花開くまで、あと少し。

 




今年も一年ありがとうございました。
風邪、インフルエンザ、コロナと様々ありますが、来年こそ良いお年を。

追記:新しい機能をちゃんと使いこなせてなかったので修正いれました。


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祈って醸して呑み合って

 酒好き転生女が密造酒作って晴明と呑んだりする話。
※イマージナリー晴明がいます。ご注意ください。

前回で懲りたので文中の特殊仕様少なめ。

 元気良く恵祐の続きをお正月晴明実装に賭けてハズレたので書きました。おのれ晴明。
 前話の続編もちゃんと同時進行で書いてます。


 よく知らん時代への転生。それすなわち死である。ぶっちゃけ身分が高くない限りそんなうまくいくわけないやろ。

 

 

玉箒(たまはばき)、玉箒はどこだ!」

「げっ、お父様だ……」

 

 ……と、そう思っていたのだが私が間違っていた。実際は身分が高くても色々足りないときはダメっぽい。

 

 

 私は今度こそエクストリーム貝あわせで高得点を叩き出すんだ。こんなことしてる場合じゃないんだよ!

 

 

「まったく、お前と来たら歌は下手で教養も今一つ。鼻は低いわ赤いわ、これでちゃんと求婚してもらえるのか……」

 

 

 父親に呼びつけられ、教育係の女房、松雪から渡されたらしい報告を読みながら溜め息をつかれた。二者面談とか聞いてないわよいい加減にしろ。

 米神に手を当てて呻く父親に居心地が悪い思いになる。いや、好きで低性能やってるんじゃないんだよ。

 

「ごめんなさい、お父様……」

「もうよい。はぁ……」

 

 帰って良いとばかりにひらひらと手を振って私をよそにやろうとする父に私も胃が痛い。実際、下手くそであんまり好きじゃないからこそ現実から逃げるように遊んでばかりいるのだ。

 

 しおしおとうちしおれたような振りをするが、心情としては某ボクサーみたいに真っ白に燃え尽きている。あんまりだよ、おとっつぁん。随分前から燃え尽きちまってるよ真っ白に……

 

 返しが下手くそなのも、漢籍の知識があんまり頭にないのももうこればかりはどうしようもないでしょとしか言えないと思っているけれど、流石に言えなかった。

 姫君の教育。贈られる歌に的確に、何十にも意味を込めた歌を即座に歌い、身を整え、髪や衣に香を焚きしめ、美しく、そして気遣いができる人間であらねばならない。あと流行の服とか歌とか噂も捉えてないといけないの、流石にやること多すぎて無理。

 

 

 ──今は西暦1000年頃、ここは平安京。

 勝ち組に生まれはしたものの基本スペックがよろしくなどなかった私は、毎日ヒイヒイ良いながら、いつか嫁ぐための手習いばかりしている。

 

 

 

 

「ア"ーーーッ!!!」

 

「お嬢様っ!?」

 

 

 知 る か よ !

 

 何が教養だ何が結婚だ、ふざけんじゃねぇ。こんなところで生きて死ぬとかつまらんにも程があるわ! もういい知らん、適当に後妻に収まれりゃそれで納得すらァ! ダメだったらダメでさっくり諦めて出家して、死ぬまで厚く仏宝を尊ぶわよ!

 

「もうやだ! 神社に籠ります! 松雪、仕度して!」

 

 もうこうなりゃ自棄だ。神さんでも仏さんでもいい、拝み倒して生きる糧を得られるようにはからって貰わにゃならん。

 

「は、はい……。しかし、いったいどこへ?」

「松尾神社! 何だか行かなきゃ行けない気がするから!」

 

 たしかあの神社は酒の神のところだったはず。だから祈るのだ。

 

 酒が呑みたい酒を呑みたい酒を寄越すのだ、あわよくば酒を作らせろ。体の発育も余りよくないのでろくろく酒を呑めない今、酒の神様に拝まねば気が済まん。

 

 どこぞの酒は命の水というが、具体的にはできれば酒が欲しいのだ、私は。できれば、塩っからい酒肴とよく合う、甘いやつがいい。

 

 今の時点で飲める酒は基本的に米で作る甘い濁り酒で、ちょっと好みとは違うのだ。果実酒飲みたい。それはもう浴びるくらい飲みたい。

 

 しかし、相手は松尾神社。そこいらの寺と違って早々にできることではない──

 

 

 

 

 

 

 境内には青々とした木々が陽光を反射して煌めいている。端的に言ってじっとりして暑い。

 

 

 残念ながら無茶が通ってしまった。

 

「お待ちしておりました、玉箒様」

「突然の不躾なお願いにも関わらず、受け入れていただきありがとうございます」

 

 いきなり無茶言ったのに籠らせてもらえるの凄いな?

 

「いいえ、私どもも貴方様がいらっしゃらねばどうしようかと」

 

 きちんと賽銭をお渡ししてから例を言うと、神主様は朗らかに返してくださった。

 しかし、どうしようかとというのは、一体どういうことなのか。私は参籠できてありがたい限りではあるのだが、旨味は特にないはずだ。

 

 

「あの、それは一体どういう……」

「それが……神主の夢枕に主祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)様が立たれたのです」

 

 

 ──これより来る姫君を参籠させ告げよ。よく祈祷し、場を整え、成すべきを成せ。と。

 

 

 

####

 

 めちゃくちゃ祈祷した。それはもう死ぬかと思うほど必死に祈祷した。

 ひたすら額づいて酒への思いを語りかけて寝ても覚めても酒の作り方を思い出そうと必死になった。成すべきことを成せというのはたぶん、知識を全て並べ直して思い出し、酒を自力で作れということなのだろう。

 

 ぶっちゃけ法律違反になるのだが、それでも神様のお許しを得たからにはバックアップができる、と思いたいところだ。

 

 祈って祈って、祈り倒している間にどんどん感覚が微妙になっていくが気にしない。脳内は前世に好んで聞いていた曲がガンガン流れ出していくし、たぶん脳内麻薬とか色々出てる。

 

 

「酒酒酒酒酒酒……こうじ、こうぼ。ハッ!」

 

ゴンッ。

 

 頭をガバッとあげてうっかり供物を置いていた台に額をぶつける。地味に痛い。だが、それより大事なことが思い出せた。

 

 酵母の発酵が、ある!

 

 

 酵母ならギリギリ自力で培養できるかもしれない。たしか果物の皮とかにもついているのだ、地下水と合わせて温かいところで培養できればいい感じになってくれるかもしれない。

 

 

 

 そこからはもう戦いだった。

 公にバレるとまずいので方違えのためにある洛外の別荘に行き、酵母発酵が出来るかどうか実験をした。寝ても覚めても酒のことばかり考えていたと思う。

 果実を集めて壺にいれて油紙を張り、日中は日当たりの良いところに置いて温める。それを繰り返して成功して、コツが掴めたら今度は潰した果実に混ぜて発酵の実験を何度もやった。

 高価な食べ物をいくらも粗末にしてしまったのは悪いことをしたと思っている。だが、その頃には父も諦めていたし、私が作っているものの正体にも気付いていた。というか微発酵したジュースを飲ませてグルにした。

 

 

 そして、三ヶ月。

 

 

「で、きた……」

 出来てしまった、私の酒……!

 

 

 都合何度、瓶を割ったり酢を造ったりしたことかわからないが、気がついたら出来ていた。

 

 震える手で柄杓をとり、少しだけ掬って茶碗に移す。とろりとした酒は、その滑かさと艶だけ見れば杏の濃厚さを決して失っていないように思える。

 

 

 ひとくち、呑む。二口、三口。じんわりと喉が熱くなる。カッと焼けるほどではなくとも、これは確かに、求めていたものだった。

 

 

「ぁ、…あああっ……!」

 

 ちゃんと、ちゃんと酒になってる……!

 

 

####

 

 

「は?」

 

 松雪に告げられた言葉がうまく呑み込めなかった。まだ酒の味見のアルコールが抜けてないとか、そういうことではない。

 

「ですから、安倍晴明様に文を」

 

 ふみ。文ってあれだね、だいたいお姫様が殿方に送るとかって行ってたやつね。うん、覚えてる。

 

 なんで?

 

「なんでそんな勝手な真似を!?」

「お嬢様がちゃんと恋のいろはを学ばれようとなさらないからです! 三ヶ月も方違えと言い訳して籠ってばかり!」

 

 おかしいでしょ! 一応貴族とはいえギリギリ地下じゃない程度だからあり得ないこともないだろうけどもさ!

 

 

 事情を知っているはずの松雪の暴挙に目の前が暗くなりそうだが堪え、困惑のあまり柄杓を放り投げそうになったのを慌てて掴み直す。

 危ない危ない、まだ酒が薄く底に残ってるのに勿体ないことをするところだった。水を少し入れて溶かしてみたのも味見しないと。

 

 

「仕方ないでしょ! あんな歯の浮くようなやり取りできるかァ!」

「口が悪い!」

「陰陽師の某相手に恋やら歌のやり取りやらなど口が裂けても出来ませんことよ!!!」

「よろしい!」

「良いのね……」

 

 さっきまでの勢いは一体なんだったのか。

 

 ちょっとげっそりするが、まあいつものやり取りだもんな……よく考えたら勉強がうまく行かないときの対応と変わらない。

 

 しかし、安倍晴明である。若くして官位を得て活躍する、あの陰陽師の。確か私より幾つか年上だったか。

 

「まあ、滅多なことがない限りは誘いを断ることのないそうですし、姫の元に訪うのもほとんど一夜限りともお聞きしますから」

「……わかりました。文を送ってしまった以上は仕方がありません」

 

 送ってしまって、返しの文まで届いたというのならもうどうしようもない。とりあえず明日にいらっしゃるというのなら、今のうちに屋敷に帰って間に合うし、準備をする時間もちゃんとある。

 そのまま帰れと言うわけにもいかないし、一晩乗りきればいいだけのことだ。

 

 

「いいわよ、やったろうじゃないの……」

 

 つまり、安倍晴明殿が本当にやってくるのだとしたら、やることはたったひとつ。

 

 ──酒盛りである。

 

 

####

 

 

「ようこそ、我が家へお越しくださいました」

「こちらこそ、お招きいただき感謝いたします、玉箒様」

 

 最近噂の姫君がか細い言葉を上げるのに、いつものように返事をする。どの相手もあまり変わりはしないし、とっとと帰ってしまいたいところである。

 

 彼女が寄越したという名目で届けられた文は、彼女が書いたものではないということは知っている。相手は知らずとも、自分は京の内のことであれば見聞きできる。

 

 

 だが、この玉箒と呼ばれている姫には、奇妙なことがあった。月に何度も、方違えや物忌のためにわざわざ洛外へ出るのだ。

 

 父親も黙認しているようだが、その理由もわからない。声が拾えなかったからだ。京の外で理由を話したのだろう。恐ろしく徹底しており、また知ろうとするときは何故か間が悪く同僚から声を掛けられてしまう。

 結果、玉箒姫がしていることについては、ただ時折瓶を一つ二つ積んで帰ってきていることくらいしか知ることができなかった。

 近しい者らの会話に聞き耳を立てても怪しげな言葉などは拾えず、それどころかそんなことをできるほどの頭は無さそうだという程度しかわからない。

 

 そんな奇妙な姫君だから、むしろ直に会ってみようと考えたのだ。それでなにもなければ良し、何か不審なことがあれば報告を上げるなりして処分させることができる。呪詛でもしてくれたなら気づくことは容易いから一番良いのだが。

 

 

「晴明様」

「何でしょう」

「ひとつ、嘘偽りなくお聞きしたいことがございます」

「何でしょうか」

 

 鬱陶しい、と正直思った。

 

「これまで召し上がったことのあるもので、苦しいと感じたり体や口のなかに痒みを感じたりしたものはございますか?」

「……特には、ありませんが」

「そう……よかった」

 

 

 うっかり殺してしまってはいけませんから。

 

 

 そういって笑う女に、ひやりと背筋が寒くなった。私を殺せるわけがないのだが、それでも嫌な感覚というのは体に現れることもある。

 

「松雪、下がりなさい。晴明様と二人で話したいわ」

 

 松雪と呼ばれた女房が大人しく下がって声の聞こえないかどうかというあたりまで離れたのを確認したとき。

 

 

 ──御簾が大きく上げられ、姿があらわになる。

 

「さて、これで良いでしょう」

「……は?」

 

 御簾を全開にして現れた女は、檀襲の衣を纏っており、扇を置き去りにして台盤を持っていた。

 

 

 

 果たして玉箒の顔は、あまり美しくないがどことなく愛嬌があるように思えるものであった。端的にいって、モテないだろう。

 しかし顔が微妙とはいえ姫君が顔を見せるとは暴挙である。よほど深い仲であればともかく、自分のような初対面かつ身分が低い相手に素顔は見せるものではない。

 

 

 慌てて泰山解説祭で心がわかるようにと備えた。侮って洛内の声の方にばかりチューニングしていたのは失敗だったか。

 

〈ああああああのバカ姫様!!!──そう叫び乱入したい気持ちを堪えるしかない松雪である〉

 

 だが、合わせてすぐには何も聞こえない。それどころか、遠くで伺っていたらしい女房にまで罵られている。

 

 

「玉箒様、お顔が」

「ああ、見苦しいから隠せと? まあ二度といらっしゃらないのですからお気になさらないでくださいませ」

 

 

 違うそっちじゃない。

 

 

 あんまりな言葉に口を開けて呆けてしまいそうになるが気合いで誤魔化す。なんだこの姫君は。本当に姫君か?

 

〈綺麗なかんばせだ。しかし、やっぱり自分の顔が微妙なのはわかるけど、そんなにギョッとされるのはしんどい。──そう思いつつも想像通りの反応に安心する玉箒であった〉

 

 

 残念ながら本当に姫君だった。

 

 綺麗なかんばせ、で感想が終わっているあたりにひどい戸惑いを覚えた。なにせ、自分の容姿が非常に魅力的だと知っているのだから仕方ない。

 

 

「晴明様。まず、謝罪をせねばなりません。貴方をお呼びしたのは私の女房の独断です。ですが……貴方様にお会いできると知って嬉しく思いました」

 

 

 台盤を真横に据えられる。そして、玉箒自身はそのさらに横──自分の同直線上の、少し離れた位置に座った。

 台盤に乗せられていたのは木の実や唐果物、燻製に、酒器であった。そして、しっかりと風をした甕と、中身が入った瓶子がひとつ。酒であるようだ。ただ、珍しいもので濃密な果物の芳香を漂わせている。

 

 

「これは」

「酒の肴にと用意しておりました。晴明様は酒好きだと聞き及んでいましたので、一度で良いから呑み交わしたいと思っていたのです。……ですが、お嫌な様子。なのでもう結構です。土産を用意させますので、お帰りくださって結構ですよ」

 

〈避けなければならないアレルゲンがなくて一安心か。しかし、あからさまに嫌そうな声だったし酒盛りなんてもっての他……まぁ、初対面の女相手におちおち飲んでられないだろうし、仕方なかろう。諦めようとそのように期待を殴り倒す玉箒である〉

 

 

 

「は?」

「ですので、顔をお見せしました。こんなはしたない女は願い下げでしょう? 話の種程度にはなるでしょうから、貴方の噂に馬鹿な女の笑い話がつくだけです」

 

 どうやら、笑い話になることを自ら狙っていたらしい。

 

〈ああでも、ちょっとだけ、杏酒の感想聞きたかったな……せっかく、祈祷しまくった成果がうまく行ったのに。──落ち込みを隠せない玉箒だが、言い方のせいかと同時に深く納得している〉

 

 聞き捨てならない解説が聴こえた。

 

 杏の酒。本朝でもお目にかかることのない代物である。ましてや、杏は三日もすれば味が落ちる繊細な果物。それを、この姫が作った?

 

「玉箒様!」

「は、はい!?」

「その酒、呑ませてはくださらないのですか」

 

 せっかくの珍品を取り上げられては堪らないと腕を掴めば、驚きのあまりに目がこぼれ落ちそうなほど見開かれた。ちょっと気色悪いが、それどころではない。

 それに、珍しく裏表の無さそうな相手であるし──何より、呑み交わすのも楽しげだと思った。酒の密造は犯罪だが、方違えを始めたじきからすれば消費量がガラリと変わるほど作ってはいないはずだ。

 

 うん、中々に面白い姫君じゃないか。

 

####

 

 

「よ、宜しいのですか」

 

 あし絹で濾した酒とか、ちゃんとしたのだけお渡ししようと思ったけれど両手をガッチリと掴まれている。

 というかこの御仁、スラッとしてる見た目に反して力強いな!? 腕ごっつい!

 

「ええ。だからとっとと酒をください」

 

 ひどい言い様である。

 

 

「……これは、」

「いかがですか」

「中々の酒……いや、貴方のように果実でこれを造るというのは難しいでしょう」

 

 晴明様がうまそうに酒を呷る。時折狐のように目が細くなるのが、眺めていて楽しい。

 

 だが、こうして旨そうに呑んではいても、口から出任せの嘘かもしれない。それでもきちんと飲み干している。

 つまり、私が醸した酒を、そうと認めて呑んでくれた。

 

 

 ──褒められた。褒めて、くれた。

 その事実がじんわりと胸の内を温める。でも喜んではいけない。こんなことで満たされて、何になるというのだ。

 

 

「……ありがとう、ございます」

 

 わかっている。お世辞だというのぐらいは重々承知だ。どんな味であれ世辞を言わねばならないのだから、心を動かしてはならない。

 ……それでも、世辞とわかっていようと嬉しいものは嬉しく思ってしまう。

 

 もう内心はひっちゃかめっちゃかだ。それでも、さっぱりと晴れやかな気持ちになったのは一つ真実である。

 

「晴明様。お陰さまで私、この世に未練がなくなりましたわ」

 

 

 ああ、晴れやかだ。月光が水晶の御簾のようで美しくて、こんなにも酒が美味しく思う。こんないい思いをしていいのだろうか。

 

 

「……は?」

 

 晴明殿が盃を片手にぎょっとしたのはスルーすることにする。どうせ酔っぱらってるだろ。紅差してるみたいに頬は赤いし、先程よりもどこか空気が緩んでいる。

 

「私は、お飾りの後妻か愛人にでもなれなければどうせ出家するしかない身です。それなのに貴方は、私が酒を造ったことに諭しも咎めも、あまつさえ顔を晒したことに対して何も言わないでいてくださりました」

 

 宮中の謀略や悪意で揉まれて疲れているだろうに。たかが女一人の言葉など誰も気にしないのだから、憂さ晴らしを兼ねて威圧的に振る舞うこともできよう。それをしないのだ、気を遣われているのだろう。

 

 なんとなく相手の顔を見るのが怖くて、視線を上に投げる。月を肴にというのは味気ないと思っていたが、今日の月はひどく美味しそうだと思えた。

 ぼんやりと雫が滴りそうな、旨そうな月。それが、今にも溶けてしまいそうになっている。

 

 

「嬉しいのです。このあとの上達を望むことができずとも、貴方が酒を褒めてくださった一言で、全て帳消しにできる気がするのですよ」

 

 全部、割ってしまうか自分で呑みきって、欲はすっぱり断つ。そう思っていたのだ。それをしなくてもよくなった。ただ一人でも、無関係な彼が認めたのだ。これほどの僥倖があろうか。いや、あるまい。

 

 ははは、と笑って私も盃を傾ける。一気に呑める量は少ないが、一人で呑みきるにはまだ多すぎる。これぐらいでなくては、残りを捨ててしまうことになろう。

 

 

 ぼたぼたと手や杯の中に雫が落ちて、これじゃあろくに味がわからないなと遠くに思った。杏の甘味は少ない。糖のほとんどが酒精になったからだろうな。

 

 

 三杯ほど一息に呑んで、そこで何故か晴明様に凝視されていることに気付いた。視線に質量があれば穴が空きそうだ。ま、人は視線で刺せないのだからありえないが。

 

「これほどまでの酒を造れるというのに、やめてしまうのかい」

 

 相当酔ったんだろう、晴明殿は口調が砕けきっている。暑そうに衣を緩めるのは、ここが他人の家であるのを忘れているようなのでいただけないが、酔っているのだから仕方あるまい。

 重ねられた衣下の薄い寒色はとても趣味が良い。青みが強い肌の色が明るく見えるから、服の合わせ方や血色を良く見せる方法も熟知しているのだろう。

 

「ええ、当然です。だって、酒を醸す姫なんて気味が悪いでしょう? しかもお上に逆らってるんですよ、これ」

 

 掌の変わりに杏酒が入っていた瓶子を振る。酒は専売品なのだ。勝手に、よく訳のわからないものをつくったと公に知られれば刑罰は免れない。まあ、それは呑んでいる彼も彼だという話にもなるのだが。

 

「……それでもこの酒は旨いさ。良い出来だから、惜しいと思うよ」

「ははは、ありがとうございます。でも、婚姻にせよ出家にせよ、どちらにせよ私が造ることをやめるのに変わりはありません」

 

 それは私なりのケジメだ。変えるつもりはない。流石に周りの立場を危うくしてまですることでもないしな。

 

 だが晴明殿はこの答えが気に食わなかったようで、思い切りしかめ面をしている。あるいは肴のどれかが気に入らなかったか。

 

「なら、どうしてこれを振る舞った」

 

 不機嫌そうなままの晴明殿に問われ、答えに窮する。

 そうだ。バレたくなければ振る舞うことも考えなければ良かった。でも、実際はこうやって、やってしまった。

 

 

 私は──

 

「私は……認めてほしかったんでしょう」

 

 だって私には、酒を好んでいた筈だということ以外、何もないのだ。

 だからこうする以外、思い付かなかった。

 

 

 顔は良くない。頭も良いかと言われれば微妙だ。姫君教育は落第点だし。それに、変な姫だとしか思われてないだろう。

 だが。それでも、私は酒を造った。

 前の私は酒が好きだった。だから酒を介せば何か変わると思ったのだ。それで、一心不乱に祈って、思い出したか授けられたかさえ分からないまま、熟した杏を発酵させるなんてことをやって酒にして。

 

 

 でも、結局は全部無駄なのだ。

 

 

 お父様は諦めたように振る舞うけれど、飾りとはいえどこかに嫁ぐことになるのは変わらない。

 同時に、仮に私が出家するとしても般若湯など造ることが許されるとは思えない。五戒を破るわけではないけれどその原因になることをするわけだからだ。

 

 それならば、この酒は。私が心血注いで造ったこれは、結局身内に呑まれるか、割って捨てられるだけになる。そういうもの、それだけのものでしかないのだ。仮に、この国でどころか他所でも、この時代では早々作られないものだとしても。

 

 

「じゃあ、また来よう」

「え?」

 

 思考が纏まらなくなりつつあったところに思わぬ言葉を投げられて、彼を見る。

 晴明殿は、悪戯小僧のような顔で笑っていた。素の顔だろうか。

 

「流石に君の顔を見たあとに婚姻しようとは思えないけれど、酒を好む友として呑み交わすことはできるだろう?」

 

 続けられたのがえらい言われようの理由で、つい笑ってしまう。

 だが晴明殿はそれ以上に、私がよくわかるよう笑みを作っている。疲れるだろうに。

 

 

 でも、うん。そうだ、笑えば良いのか。笑って良いんだ。この人は取り繕わないのだから。あれこれと考えて取り繕ったりしなくていいというなら……とても居心地が良い。

 

「それなら場所をどうにかした方が良さそうですね。あと上手な言い訳が必要かと」

「堅いなぁ。素の話し方でいいよ。それと空言は地獄行きだけどいいのかい?」

 

 彼は私が答えたのに満足げに頷いて、さっさと立ち上がる。さっきまでの朱がかった顔はどうやったのか元通りだ。便利で羨ましい。

 口調は随分と軽いが、素でもいいのだろうか。……ま、いいか。どうせ一夜限りと思っていたのだし、次がなくなるならそれはそれで。

 

「……一気に態度が軽くなったな。空言を言わない人なんて知らぬし、そんな人がいるなら余程の善人か阿呆だろうよ」

「あはは、やはりそちらの口調の方が君には似合うね。じゃ、これから酒の方もよろしく頼むよ」

「わざわざ言わずとも、それ以外に交わりを持つ理由はないだろ……」

 

 ぱん、と手を軽く叩くと同時に、彼の姿が消える。方術の名手とは聞いていたが、随分と気安く使うものだ。

 

 だが、次。次か。どうしようか、すごく嬉しい。いったい何を肴にすれば喜ばれるだろうか。なにか面白い話を肴にしてくれたりはするだろうか。

 久々に、心が軽い。楽しくて、次が待ち遠しい。

 

「……土産、渡し損ねたな」

 

 まあ、持っていけばいいのだ。次があるのだから。

 

####

 

 

「晴明! おっまえ、また姫君ひっかけよったな!?」

「あー……そうかもしれないね。この前の文の主か」

 

 勝手知ったる屋敷に乗り込み、女房たちを侍らせて酒宴を楽しむ晴明に叫ぶ。付き合いがそれなりに長くなったせいだろう、こいつ、逃げる口実に私を使うようになりよった。

 屋敷にすっかり入り浸りになったのは、まあ五年もあったからだろう。懇意だという話が出たのは最初だけで、古馴染みでしかないとはそのうち伝わった。だからこんな面倒な文まで届くようになったんだが。

 

「いい加減にしなさいよホント、こっちに女からの文来てるんだぞ」

「ああ、燃やしておけば良いよ」

「できるかァ!!」

 

 へらへら笑いながら盃を傾ける晴明から、瓶子を奪ってラッパ呑みするように呷る。

 

 流石に占術も一流らしい、甕を贈ったときにはまだ若かったのに、これはもういい呑み頃だ。まあ、この男のことだから色々見越して古酒も作ってるんだろうが。

 

「あっ、ちょっとそれ私のだろう?!」

「私が醸した酒だよ馬ァ鹿! あー、もうやだ、いい加減に嫁いでやるからな」

 

 そしたらお前には酒が回ってこなくなるぞザマァ見ろと瓶子を置くと、非常に嫌そうな顔をされた。

 

 

 体を起こしつつやれやれとため息をつくのだから、最初の頃の色男の雰囲気はもう欠片もない。畏まられても居心地が悪いからそれはいいが、こう、もうちょっと何かあるだろ。

 

 

「まだもうちょっと無理じゃないかな。というか甕ひとつ分貰えるようになるまで邪魔しようか」

「やめろ冗談じゃない。これでもそろそろ適齢期過ぎそうで不味いんだぞ。……って言っても、まあここに入り浸ってる時点でダメか」

 

 仕返しのつもりか、晴明が意地悪く笑いながらそんなことを言う。本当に悪いのは性格だが、悪戯小僧にしか見えないのはどうかと思うんだよなぁ。

 

 

 正直、結婚は義務と諦めていたのにこいつとつるみ始めたあたりから段々と嫌になってきて、どうしたものかと思っている。酒が呑めなくてもこうして話せるなら、たぶんこの先も愉快に生きていけるだろうと感じるせいだろう。父には悪いが出家を最有力候補にしてもいいだろうか。やっとこさ弟も元服して嫡男らしくなってきたし。

 

「でもそうしたら出家するんだろう?」

「般若湯はダメだっつってんだろうが!」

「破れば良いのに」

「やだ! ちゃんと仏宝を敬う!」

 

 カッ、と目を見開いて宣言すれば、晴明があからさまにつまらなさそうな顔をした。

 というか、二十歳そこそこの女に向ける言葉じゃないだろそれ。一応媛なんだぞ。

 

「なんでそこだけ律儀なんだい、君」

「徳は積んで損はないんだよ」

「次は鳥かもしれないのに?」

「どうせなら人が良いでしょ、それは」

 

 

 そうは言ったが、嘘だ。そんなわけあるか。

 

 

 もし次があるなら草木になって分かりやすく次の何かを残して死にたい。ただ一夏、命のままに伸びて、冬を待たずに枯れて木々の根元に眠りたい。今世は奇跡だ。奇跡は滅多とないから奇跡なのであって、起きてしまったら後には何も残らない。あぶくと変わるものか。

 

 とはいっても、人の気持ちを手に取るように理解する晴明のことだ。言わずとも分かるだろう。そもそも次なんて早々あるわけない。

 

 

 一瞬だけ悲観的になったが、目の前の晴明はそ知らぬ顔で、あっけらかんと酒の肴の塩漬けを齧っている。この野郎……。

 

「玉箒、キミどうせ来世も酒を呑みたいだけなんだろう?」

「よくお分かりで。……あー、なんか気が抜けた。帰る」

「次は梨酒を持ってきておくれよー」

 

 色々めんどくさくなって、土産のつもりだった甕を一つ置いて牛車に戻る。明日はやることがあるから元々長居するつもりはなかった。

 

 

「もし来世で会ったら、そのときは君の渾身の酒を奢ってくれるね、玉箒」

 

 

 私が恨み言を胸の内で言うのを知ってか知らずか、晴明はただ愉快そうに瓶子を揺すって来世分までも酒を催促する。……まったく、こういうところが憎めないのだ。

 

 たぶん大陸の詩仙も、このような仕草をするところに毒気を抜かれてしまって、本朝の才人を気に入ったのだろう。ただ旨い酒と楽しい話で色々忘れられるから。

 

「来年どころか来世の話なんて閻魔様が笑う。それとお前も大概自重しろよ、晴明」

「玉箒でも我慢なんてするんだね」

「当たり前だ。明日も楽しく呑むための節制は大事だろうよ」

 

 ただ、まあ、何だ。こいつのために酒を作るのも悪くはないかもしれない。来世ではなくて来年だけど、次は桃や梨で試してみよう。ネクターみたいな果汁に酵母を突っ込んで作るような酒だから成功率はあまり高くないのだけど。

 

 

「それでも。私たちはまだまだこれからだろう、玉箒」

「それもそうだが、お前は宮中での付き合いもあるんだから本当に気を付けろよ」

 

 まだまだと言われても実感など出来るわけがない。

 早々に糖尿になるぞと、この時代に知るわけもないことは言えないので視線で語るとまた誤魔化すように笑いかけられた。

 

 こんにゃろう、糖尿病じゃなくて尿道結石出来てしまえ。

 

 

####

 

 

 ──ま、こうなってしまった以上、約束なんぞ守れないんだが。

 

 

「げ、ほっ……」

 

 嫌な予感なんてだいたい当たるものだ。京都は暴れ水も多い。そして、今年は雨が長かった。

 最後の最後が水のせいなら、それはもう運命でしかないだろう。酒を作るには水がいる。それを使わずして酒を醸したのだ。罰でも当たったのかね、と他人事のような思考が流れていった。

 

 

 青黒い空に、白い光が滲んでいる。

 初めて会ったときの、認められたあと眺めた月に、よく似ていた。

 

 

 

 呻くようにもがいて、口から出た空気が泡が流れていく。肺を、まっさらな水が埋め尽くしていく。……まっさらというには、ずいぶん汚れているけれど。それでも月が見えるのだからきれいな方だ。

 

 あぶくの奇跡の最後がこれだ。こんな私が、こんなところで。ああ、知ってたよ、そんなもの。ろくな死に方しないってのは当たってた。

 でも、水神の怒りを買ったとだれも知るまい。知るとすれば、あの男くらいなものだろう。

 

 

 あばよ、世界。……晴明、悪い。

 

 

──先に、使いを遣れば良かった。

 

####

 

 

 ──そうやって、当世で酒に溺れ、月を溶かして呑んだ女がひとり。六月の雨に増した川の流れのなか、ゆっくりと沈んでいったのです。

 

 

(天暦4年あたりのことでありました。)

 

####

 

 かしゃり、と盃が軽い音を立てて割れる。

 遺品だというその酒は、最後に約束したものだった。

 

「お前がいなくなったら、誰と酒を呑むというんだい」

 

 封を取って、呑み頃そのものの酒を掬い取って呷る。

 ──待ち望んでいたはずの酒は、どうにも味気なかった。

 

#####

 

 

 ちょうど良く見慣れた顔が廊下の向こうの方を歩いているので、走り寄って声をかける。

 

「あ、ちょうど良いところに来たねムニエルくん!」

「なんか調子良さそうだな、サカワ」

 

 同じ生き残りの彼は、今日はなんとなく具合が良さそうな、そうでもないような感じがした。ちょっと酒に誘うのはよした方がいいだろうか。

 

「まぁねー。で、相談なんだが。具合と都合がつけば酒盛りしないか?」

 

 

 ノウム・カルデアは今日もなんとか存続している。

 先日だって全員でオリュンポスを踏破し、ドッグに帰還して、いきなり現れた平安京の特異点もやり過ごした。いろんなことがありすぎて情緒が安定しないけど、まあなんとかみんな生きている。大丈夫だ。

 だから酒を呑む。祝杯も、悔しさを溶かした酒も全部原動力だ。

 

「おいおい、オレはホームズじゃないぞ」

「ホームズはまだ一応本調子じゃない。誘えないよ」

「そうか。お前、ホームズのことすげぇ気に入ってたから、てっきり今日もそうかと思ってたよ」

 

 ムニエルくんの言葉に笑って答える。ズタボロになったせいでちょっとポンコツ入りかけてたあたり、流石に誘えまい。

 

 

 彼と酒を呑むのは楽しい。マスターの教育上、流石にアヘンやモルヒネを許すわけにはいかないのでぶすくれていたし、ちょうどよかった。ずけずけものを言ったりら怖じ気づかなかったり、そういうところが似てるからだろう。

 あと、他人の神経を逆撫でするのが上手くて、時々それを楽しんでるのも似ている。

 

 それがちょっと機嫌の悪いときのあの男に似ていたのが、ホームズに声をかけ始めたきっかけだったような気がする。まあ、あいつではないから別な愉快さを感じるぐらいで、今ではどうでも良いんだけども。

 

「しかし、サカワは本当に酒好きだよなぁ」

「そりゃあね。なんせ凝りすぎて酒造りまでやってたんだ。それなりに自信があるさ」

「密造はご法度だろ?」

 

 

 半目のムニエルがあきれたような物言いをする。流石に今の警察は騙くらかせないから酒は作ってない。

 だが、そういう目で見られているというのはなんとなく嬉しい。私はずっと一つ地続きの私のままだと、そう思い込めるような気がするからだ。

 

 

「安心しろ、ちゃんと1%以下か蒸留酒で丸のまま浸けてあるかのどっちかしかない」

「うっかり越えたりすんなよ」

「気を付ける」

 

 気心が知れているからこそできる話だが、楽しいのになぜかちょっと物足りない。呑んでも呑んでも、何となくちょっと違うのが侘しい。

 まあ、呑み始めてからこの方ずっとそうなのだから、慣れている。今日もそうだと言うだけの話だ。慰労なのだし、派手にやれば多少は紛れる。

 そうやって微妙な心持ちを捻り潰そうとして。

 

 

 

「玉箒」

 

 

 懐かしいあだ名を呼ばれた。

 

 

 勢いよく振り向いた先には見知った顔がある。胡散臭いような、ただの穏やかな笑顔であるような柔和な表情を作った男が、いつぞやのように手を振っている。

 声も、ほとんど変わりはしない。あの頃よりも少し厚みと深みが出たぐらいだ。まだ覚えていた。本当なら声から忘れるのに。いや、声も思い出せなかったのに、不思議とあまり変わらないのだとわかる。

 

 

 懐かしいとは思わなかった。

 会おうとは、それ以上、毛ほどにも考えなかったが、なかなかどうして嬉しいような、気恥ずかしいような心持ちになる。

 

 だから、思い切り空言を言ってやろう。どうせこの男のことだから何を言ったところで適当に流されるだろうし。それに、喉元過ぎればなんとやら、地獄の記憶なんぞないから怖くもなんともない。

 

 

「は。どちら様で?」

 

 

 

 

 整った顔から、ストンと表情が抜け落ちた。

 




 このあとめちゃくちゃヘッドロックかけられた。


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いつか貴方と青空を

(注意:LB6のネタバレわ多分に含みます)

妖精転生オリ主がLB6の16年前に好き勝手している話。

メンタルも筆も絶不調で、ほとんど書けなくなりました。バトルシーンは進まず、キャラ視点は書けず。書けるものから書かせてください……


 思い付きで旅を始めて、なんとなく踏み込んだウェールズ。来てみると、どこか懐かしさと寂しさを感じて足元がぐらつく。

 森に入る前に腹ごしらえをしてから、ここにしか見られない秋の木々に目を奪われながら散策をしていたら、虫たちが集っているのが見えた。

 

 虫が、たくさん。うじゃうじゃと。その虫たちの中心に、新しく生まれたらしい生き物が転がっていた。

 

「翅の氏族……?」

 

 蜉蝣翅のような薄い翅。陽光できらきらと光る髪は柔らかだ。繊細なつくりの四肢で、バランスのよさは作り物めいている。まあ、妖精という生き物はみんなそれなりに均衡がとれたつくりをしているのだけど。

 

 だが、打ち捨てられたように横たえられた裸体には肉がついておらず、ガリガリに痩せ細っている。目は見開かれ、瞬きもせず、瞳には鈍い敵意の光があった。

 

 

 ……知っている。この生き物が何であるかを、私は数百年前に生まれ落ちたときから知っていた。

 心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。瞳孔が開くのを感じる。──見つけた。見つけてしまった。どうして、なぜこのタイミングで来てしまったのか。だが、悔やんでも仕方ない。

 

 来てしまった。見てしまった。そして、それを相手にも認識されてしまった。もう、これで逃げ場などないのだ。

 

 その妖精は私を見ている。見定めているわけではない。でも、自分の醜い部分を見透かされている気がした。どうしようもない生き物のなかでも、さらにみっともなく、劣ったものだと悟られてしまったのではないかと錯覚する。

 

 彼は、そんな目をしていた。薄い色の瞳が恐ろしかった。それでも、逃げるべきではないと、いつも大して役に立たない理性が足を止めていた。

 

 

「珍しい。この場所は初めてだけど、翅持ちの妖精は久しぶりに見る。となれば、偶然だけど、必然かもしれないのか。

 ならば手助けをしていこう。翅持つ貴方、君が安らいで起きられるように」

 

 台詞じみた言い回しでごまかして、焦りと絶望感を表に出さないよう押さえ込む。彼は、ただここに発生しただけだ。恐れ、困惑しているのは私の都合でしかない。それを必死に思考に塗り込む。

 その上で私にできることは、呼吸を整えて、せめて少しでも不快ではなく感じられるようにすること。無駄なことでも、本能から逃れる善性を備えた振る舞いを心がけること。

 

 

 本当は、嘘だと思いたかった。そうわめき散らして、みっともなく泣いて、神様に赦しを乞いたかった。

 でも、それはかつての私の残滓が許さなかった。そんなことで許されるはずもないと知っていて、心のなかでは、みっともない今の私を嘲笑っていた。

 

「翅持つ貴方、名前は訊かないでおこう。貴方が翅持つ者である限り、牙を持つ私のような生き物とはきっと相容れないだろうから」

 

 抵抗もできない彼の口に、指を切って出た血を垂らして魔力を流し込む。可能な限り魔力を詰めた数滴だ。本当なら手首みたいに絞りやすいところからやるべきだろうけど、それはさすがに痛そうだからやりたくなかった。

 

 魔力を与えれば、少しは楽になる。体を構成するための素材が少し増えるようなものだからだ。

 食べるもの、環境から受けとる魔力の方が多くても、直接受けとる方が一時的な補助にはなりやすい。特に、彼のように魔力の受け皿が出来上がっていない存在には、きっとこの方法のほうが効くはずだ。

 

 

 ──こんな偽善行為はしない方がいいと、分かっている。

 これは大きなお世話だ。そんなものはなくてもそのうち彼は完成する。むしろ、魔力を分けられるなんて、この妖精からすれば心底嫌なことだろう。私を今すぐ殺したいくらいには。

 

 それでも、そうする。知っているくせに、これが何者か理解しているくせにそうしたいと思った。

 こういうところが良くない。でも、こういう余計なお世話を昔からやめられなかった。この生を受ける前から、ずっとだ。だからもう、どうしようもない。

 

 

 そうやって命に関わるものを与えることで生まれた余白は、人間だった頃の感覚が戻ってきたようで嬉しくなってしまう。

 

 それに、早く、できるかぎり早く死んでしまえるのではないかという打算もある。存在税を支払えなければ、私も他の妖精たちと同じく死ぬ。これからの取り立てが厳しければ今年のうちにあっさり死ぬだろう。それならそっちの方が都合がいい。

 この国の妖精である以上、私も令呪を刻まれている。女王陛下に存在税は支払わなくてはならない。

 それでも、それらを差し引いて残るであろうものをまとめて与える。体から色々なものか抜けていく感覚は、久しぶりに空腹や満足感を与えてくれた。

 

 まだ、生きている。記憶も、私も死んではいないと思える。そう思い込めてしまう。

 とはいえ、余計な感情だ。すぐにそれには蓋をする。知られたくないことは、考えないに超したことはないのだ。

 

 

 横たえられた妖精の体が、少し組み変わる。さっきまでほとんどなかった筋肉が、多少の形を得ている。それに、瞬きもした。液体が瞳を潤している。

 

 きっと、ここらが潮時だ。虫たちがさざめいているから、彼の体にはもっと変化が起きていくのだろう。

 

「##################!」

「ごめんね、君たちが何を言ってるかわからないんだ。それと、邪魔して悪かった。君たちは彼を守ろうとしていたんだね」

 

 大きめの芋虫みたいな妖精がじゃれついてきて、かわいい。何を言っているのかわからないけど、なんとなく嬉しそうだった。

 危害を加えてこない虫は好きだ。刺す毒虫は嫌だけど、ここの虫たちはそこまで嫌いではなかった。仮にも彼らが妖精だからだろうか。振り落とすのではなく、そっと下ろす。

 

「私はもう行くよ。さよなら、翅持つ貴方。君が二度と私と会わないで、光の道を歩みますように」

 

 ただ、それだけで。

 私の行いで彼の形が少し変わったという事実だけで、近く死んでしまっても構わないかな、と思った。

 

 どうせ、何をやっても善ではない。なら、これからは今まで以上に勝手に、善だと思うことをする悪者でいよう。そのなかで、彼が、今日の私の行いを憎悪するならば、きっとこの上ない救いになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 本能に、生まれついて持ち得たそれに勝てないというのがどれ程の絶望か。

 私は生まれ直して初めて、生まれつきの苦しみというものを思い知った。

 

 

 初めは、食欲だった。

 あれほど楽しかったのに、早々に必要ない。自分を形作っていた行為の意味がなくなることが悲しかった。だが、それで人間と間違われることは面倒であるし、異様だと理解はしていたから隠していた。

 そのうち、どんどん楽しいことがわからなくなっていっている。たぶん、私にとっては一番の娯楽だったんだろう。

 

 次は、睡眠だった。

 妖精は眠らなくてもいい。でも、眠たければ眠ってもいい。あってもなくてもいいことは、苦しくて仕方なかった。

 存在を保つために、魔力をセーブするために人間的な生活をしても、その根底にあるものは全く違う。

 人間とあまり変わらない生活をして、昼に活動し夜に眠るとしても。それが確実に必要なものであるという実感は薄れてしまった。前の人生では長く眠りがちだったことが理由かもしれない。ただ、あまり眠らずとも活動できることに違和感が強かった。

 

 それから、共同体で妖精たちと生きていくこと。

 同じ生き物に生まれたと言うのに、私には彼らのことがあまり分からなかった。

 利己的であるとは知った。嫉妬しやすくて、享楽的で、自分より弱いと思ったら容赦がない。使い捨てみたいにすることにも抵抗がない。

 そういうところは、理解したくなかった。

 

 でも、同じ村に住む妖精たちを止められず、むしろ自分も同じことをやった。

 浅く呼吸をする、ひどく傷ついた人間。妖精紋様を活性化させて手当てもしたし、それでもどうにもならない傷は、薬や魔術を使えばどうにかなった。だが、やってしまって明確に理解した。

 

 実際は、人間で遊ぶことにひどく興奮したのだ。

 反応が面白くて楽しいと思ってしまった。もっともっと苦しんだり叫んだりするところが見たいとすら考えた。

 これで死んだらつまらないと、死んだら補充はどうしようとまで思って、立ち止まって冷静になった思考が真っ白になった。

 

 私は、確かにこのブリテンの妖精だったのだ。本能から、まったく逃げきれない。

 

 

 だから、私は足を鍛え、武術の腕を上げて強くなった。一人でふらふらと出歩いても死なないように。モースから逃げ切るか、あるいは殺せるように。

 もちろん、牙の氏族として戦える。ガウェイン様のように騎士のようにも戦える。

 

 そうすると、人間と関わることが少なくなっても比較的落ち着いていられた。新しくて楽しいものは、人間以外にもある。

 昼に夜に悔いた。神様を知っているから、恐れていても少しずつ自らの悪性と向き合おうとした。その上で、別な刺激に心を揺らし、罪を重ねることから逃げようと努力を重ねる。

 

 それでも、私は足りなかった。本能を嫌った。ウッドワスのように洗練された文化を学んでも、紳士的な生活を心がけても、決してかつてのようには生きられない。

 今は楽しくても、すぐに絶望感がやってくる。思考を深めれば深めるほど、私のこの生に意味もなく価値もないと突きつけられる。すぐ悔い改めて死ぬべきだと、心が芯から冷える。

 

 妖精の本能は呪いのようだった。いや、そういう生き物であるのだから、かつて生きた記憶こそが呪いだった。

 

 

 ──そのなかで出会ったのが、秋の森の彼だった。

 まさしく救いだった。運命の、遠からず来る破滅の告知だったのだから。嬉しかった。もうこれで終われる。きっと、すぐにでも。そう思うと、胸がつぶれてしまいそうなくらい、嬉しくて、寂しい。

 

 16年なんて時間はすぐに来る。短いものだ。

 人間の精神を半端に引き継いでしまったものだから苦しんだ。でも、あと少しでおしまい。だったら、これからを自由に生きようと思った。好きにしたいことをしようと。だから、彼に魔力を押し付けた。どうせ大筋は変わらないのだから、自分の心のために好き勝手してねじ曲げてやろうと思った。

 

 淡い光の瞳が、きれいだった。

 ひどく無礼で、嫌悪される行動をしたと理解している。それでも、その目に救われた。すべて憎んでいる色が。淀んだ光が。困惑が。それから──私が姿を表すまでにあった湖面のような光が尊いと感じたから、勝手に救われたのだ。

 

 

 だから、今日の行いで私は少し楽になった。これでよいと肯定できた。無駄に魔力を使って死んでもいいし、偽善を振り撒いてもいい。枷をはずすことがどれだけ心に優しいか。

 死を、これなら受け入れられる。

 

 

 あと、16年だけ。もう少しの辛抱だ。




追記:誤字修正しました。ご協力ありがとうございます。(8/8)


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もうすぐ貴方と黄昏へ

(注意:LB6のネタバレを多分に含みます)

妖精転生オリ主が原作直前に再会する話。
オベロン視点のような、そうでないような視点。


 秋の森の虫の王として生まれ落ち、地道に活動を始めてから15年以上。

 

 マンチェスターの酒場の近くを通りがかったとき、彼は探していたものの一つを見つけました。

 ずっとずっと憎かった、探し続けていたのに手がかりのほとんどなかった、わけのわからない生き物がそこにいました。

 

 生まれ落ちてから5ヶ月のころ、自分を見つけた獣混じりの妖精。カウンター奥の席にひっそりと、牙の氏族の女が座っていました。

 布の切れ端でくすんだ白色の長い髪を縛って。ボロボロになりつつある鎧を身につけて。かつて短かった髪の毛が長く延びて隠していたけれど、彼は、ちゃんと顔を見ました。まったく同じ顔でした。

 その妖精はオベロンなんかお構い無しに、ただそこで、居るのか居ないのかわからないもののように、ひっそりと酒を飲んでいたのです。

 

 

 これには基本的にすべてがどうでもいい彼でも、ちょっと腹が立ちます。

 なんてことだ、こっちは片手間にずっと探していたのにこんなところに居やがって、手間をかけさせて。とんでもないやつだ、と。

 

 というのも、どうしても知りたかったのです。

 あのとき、彼女はどうして森に来ていたのか。どうして、中身がどろどろの蛹だった自分の羽化を早めるようなことをしたのか。

 それに、羽化を促しておいて、なぜ変化を続けていた自分を放置して森から立ち去ってしまったのか。

 

 それから、自分が魔力を受けて瞬きをした瞬間に、どうして心底嬉しそうな目をしていたのか。

 

 

 わからないことだらけでした。だから彼女に腹が立っていました。

 

「オベロン、オベロンだ!」

「やぁ、みんな。良い夜だね! でも今日は妖精王もお休みさ! ちょっと話したい相手がいてね!」

 

 オベロンはもみくちゃにされながらも、奥の席に向かいます。

 彼女が騒ぎでこっそり逃げないように、周りの妖精たちがそれとなく出口への流線を遮るように。

 

 そうやって、獣の妖精の前に立ちました。彼女の退路を塞ぎました。そうすると、ひそかに慌てているらしい彼女が滑稽で胸が空きました。

 それで良いのです。妖精が負の感情にあればよりよいのです。発生してからこのかたずっと生き地獄でも、多少は気持ちが軽いのです。

 だから、そういう視線を投げつけられる彼女に少し気を良くしながら、オベロンは語りかけました。

 

「久しぶりだね。名前を訊いてもいいかな?」

「……ギャリー。はぐれもののギャリー・トロットだよ、妖精王陛下」

 

 獣の耳と尾を持つ妖精は、ちょっと困ったように笑います。観念したように、気に病むように、苦しそうに。

 それでも長い尻尾はふさふさと、控えめに左右に揺れています。

 

 

 でも、奈落の虫はその言葉と行動に腹を立てました。

 彼女は自分を一方的に知っていたのです。たとえ、側面でしかない役のことでも、彼女はどこかで、オベロンという妖精の活動を確かに知っていた。

 自分は、その事をまったく知らなかったのに! ずっと、しらみ潰しではないけれど、長い時間をかけて探していたのに! 

 

 

 でも、それも飲み込みます。汚い言葉も、罵りも、妖精王にはまったくふさわしくないので。

 

 酒場の薄暗い中で、ひっそりと酒を飲む彼女は、こちらに気づいて欲しくなさそうでした。

 それでも話掛けたのは、あのときの自分に手を出した理由を聴きたかったからです。ここで、癇癪を起こせばそれこそ全部が台無しになります。

 ぐっと奥歯を噛み締めて。

 

「君は、あのときウェールズの森に来た妖精だろう?」

「……そうだよ。そのとき名前を訊かない、きっと相容れないって言ったと思うんだけどな」

「そこはご愛敬。だって僕は妖精王だ。臣民を知るのは義務だろう?」

 

 横の席は空いていたので腰を掛け、カウンターに肘をつきます。逃がさないというポーズさえすれば、ここにはたくさんの妖精がいるので逃げられません。

 オベロンは人気者なので、嫉妬混じりの視線も飛んできます。だから、余計に逃げにくいと理解していました。

 

 それに、答えを聴いたら、それでおしまいです。

 すぐ終わらせられるのに、逃げられては面倒です。

 

「それで。なぜ、あんなことを?」

 

 

 白犬の混じった妖精はため息をつきました。

 

 

「楽になりたかったから」

 

 

 

 その言葉は、彼には理解できませんでした。

 それでも彼女は続けます。歌うように、祈るように。

 

「あのとき確かに、私は君のお陰で楽になれたんだよ、オベロン殿」

「僕に分け与えたせいで、かなり魔力が抜けたのに?」

「そうだよ、光の冠の貴方。旅の王様。だって、本当に救われた気持ちになったから」

 

 妖精は笑います。今度はなぜか寂しそうに、苦しそうに。

 眦に少しだけ涙が溜まって、それが泣き笑いにも見えました。泣けないんだろうとも思えました。

 

 

 だって、あのときの彼女は本当に苦し気だったのです。

 妖精は生理的に嫌なものを避けるのに、彼女はそれでもオベロンに血を分け与えたのです。それも、税を払いきれなくなるかもしれない、ギリギリの魔力を込めて。

 

 

 彼にはわかりません。わかりたくありません。

 だってこの島の生き物は本当に気持ち悪いのです。

 妖精の善行はすべてまやかし。紛い物。ありえないもの。その見返りはきちんと求められます。時間が経てば経つほどに、それは肥大化します。

 

 

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い! 

 腹の底がざわめきます。嫌悪で臓腑がよじれてしまいそう。

 

 それでも、目を細めるだけに止めて、改めて彼女をよく見ました。これから滅ぼすとき、これが障害になるかもしれないと思ったからです。

 半獣の妖精が何かを企てて邪魔をしては大事も大事。これまで、予言の子がもうすぐ旅立つまで、ずっと彼女はオベロンから逃げ続けていました。ずっといるのに、話すら聞かなかったのです。姿も見つけられませんでした。

 

 目の前の牙の妖精は気づかないで、それかそんなことにはお構い無し。

 ただ、ずっと寂しそうな目をしています。鋭い目を、曇らせています。

 

 彼女から魔力を与えられたときもそうでした。

 寂しそうな、嬉しそうな目をしていました。心から嬉しそうな、安心したような目付き。それが不思議で、やることの隙間を縫って探してきたのに。

 

 気に触ります。不愉快です。

 自分だけで完結したこの生き物を、追いかけてきたことを後悔しました。

 

 

「あのとき君がちゃんと瞬きをしたから、お陰で余計な苦しみも少し減ったんだ」

 

 それでもなお、ギャリー・トロットは口を開きます。

 

「貴方の目が湖面のような光をしていたから、それでいいと思った。瞬きをして、貴方の視界がより鮮明になったようだったから。それで輝いたから、それだけで、私は勝手に救われたんだ」

「……そう。今、君から話を聴いて納得したよ。なんにせよ、助けになれたならよかった。僕も助かったことだしね」

 

 そんなことを言われても、わめき散らしたくなるばかりで仕方ありません。

 

 そんなの理解できるかよ。良いわけあるか、そんなことで救われてるなよ。もっと別な方法で救われろよ。

 

 思うことはいくらでもあります。でも、言えません。

 口に出したとたん、すべて取るに足らないなにかになります。そう思っていたかもあやふやな、輪郭がなくなるような、反転するような。

 だから、丁寧に気持ちに寄り添うだけです。

 

「……だから、二度と会いたくなかったんだ」

 

 肯定したはずなのに、なぜか彼女は項垂れています。

 寂しげな目もいっそう沈んで、見たかったものは違うなと、彼はぼんやり思いました。

 

「うん?」

「だって、貴方はそんな風に言うだろう。私は、ただそのときの気持ちだけで、したいことをしたんだ。伝えるべきじゃないと思っていたし、実際に伝えるべきじゃなかった」

 

(……なんだ、それ。なんなんだよ、その言い種は)

 

 

 ごうごうと、腹のなかでなにかが煮え立ちます。

 いつも感じる気持ち悪さに拍車をかけるように。それとは別の腹立たしさに薪がくべられていくのです。

 

「……まあ、いいさ。でも、僕は聴いて良かったよ」

「そう。なら、もういいかな。そろそろ宿に戻りたい」

「どこかへ行くのかい」

「うん、まあ……お使いもあるから、次はソールズベリーかな」

 

 これ以上は話す気も、止める気も起きませんでした。

 煮えたぎっていた気持ちも、すっかり冷めてしまっています。それは仕方ないことでした。怒りを向ける必要ももう無いのです。

 あと少しで、全部が崩れ去る予定なのですから。

 

「残念だけど、それじゃあここまでか。君なら無事だろう。また縁があれば会おう、ギャリー・トロット」

「ありがとう、妖精王。貴方にも、これからの歩みに幸多からんことを」

 

 

 その一言だけ置いて、ギャリー・トロットは背を向けます。その鎧の背の部分にはひどく多くの傷がついていました。

 それを、ちらとだけ見てオベロンはため息をつきます。どうせ、彼女も含めたこのブリテン島、妖精國は彼の敵なのです。

 だからこそ。

 

「忘れてしまおうかな」

 

 ぽつりと、うっかりそう溢したのでした。

 

 

 オベロンがカルデアに出会うまでに彼女を見たのはこの夜だけ。

 白い獣の騎士もどきが、カルデアに合流する数日前の夜でした。




続きが思い付きません

追記:(8/8)誤字修正とオベロンの二人称を修正しました。
ご協力ありがとうございます。


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絆を結ぶ夜の幕

(注意:ネタバレを多分に含みます)

妖精転生オリ主がカルデアに合流する回その1。
書き始めたらまとまらなくなってきたので色々と長くなりそうです。

オベロンの実装いつ来るんでしょうね……。


 グロスターへ行く一団の護衛なんてものを引き受けて、町へ入らずにとっとと引き返した帰り道。

 

 なにやら騒がしい方に行けば、どうやら旅の一段が襲われているらしかった。助太刀している中に、妖精馬や不思議な機材を駆使する少女、杖持ちの少女なんかも見えて……あれ。

 

 もしかして、カルデア? 

 

 

 ぱ、と思い付くと走り出していた。片刃剣を抜いて、跳躍してモースに斬りかかる。手が震えそうになるのは、力を入れすぎるせいだ。長く戦士は続けているのに、敵と向き合うことに慣れないせいだろう。

 

 数が多いから速度と体重を思い切りかけて、一撃殲滅を最優先。倒す時間は多少かかれど、それでも一人でないだけマシだ。

 一体、二体と落とすと、応戦していた集団も何体か片付けていた。やっぱり、戦えても一人よりは多数が良い。数こそ正義なんだな。

 

 最後の一匹を斬り裂いてから周囲を確認する。……よし、残ったモースは居ない。一旦安心しても問題はないだろう。

 振り抜いた剣を納めて、彼らと向き合う。

 

 

「無事かな、旅の方々」

「貴方は、一体……?」

 

 呆然と、赤毛の女の子が呟いたので笑いかける。

 なんだか物語の冒頭みたいだ。ちょっと、嬉しいような、楽しいような気分になる。

 

 機能的な黒服の赤毛の女の子。

 同じく赤毛で和服の青年。

 煌びやかな装束の美しい少女。

 素朴な衣装でも宝石よりもなお輝く緑の瞳の少女。

 同族の妖精馬。

 

 中々に濃い面子だ。

 それから──

 

「ギャリー! ギャリーじゃないか!」

 

 

 私が顔を合わせたくなくて逃げ回っていた妖精王も。

 ちょっと微妙な表情になってしまうのは、仕方ないと思っても良いだろうか。だって、あまり関わって気分を損ねたくないから避けていたわけだし。今回ばかりは不可抗力みたいなものだ。

 

 これは、どう捉えれば良いんだろう。喜ばれているのか、邪魔なのか、なにか他の感情か。

 まあいいか。とりあえず、彼らはどこかへ行く途中だったようだから、戦力が増えて嬉しいというのはあるだろう。

 

 あやふやな記憶を手繰り寄せなくても、この面子ならだいたい想像がつく。人間を助けに行くんだろう。それか、もう助けたかのどちらかだろうな。

 

 

 それで彼らに近寄ろうとすると、それよりも早くオベロンがやってきて私の前に立った。

 と思うと、ずい、と顔を思い切り近付けられた。目もなんとなく感情の燃えているような、そんな色だ。

 ……えっと、何? 

 

「君、どうしてソールズベリーに居なかったんだ。君が立ち寄ると言っていたから、かなり探したんだよ」

「なんで?」

 

 さらに詰め寄られて、いかにも怒ってます! という仕草に驚いて一歩引いてしまう。そもそも彼は私よりも少し背が高い。それだけに威圧感もあるから後ずさるのも仕方ないんだ。

 

 

 わかりやすく憤慨してみせるオベロンに、ちょっとだけ疑問が湧く。なぜ私を探していたんだろう。

 

 確かに、はぐれもので移動をするのには慣れていて、それなりの戦力にはなるかもしれない。でも言ってしまえばそこまでだ。別に手札の数にするほどでもないだろうに。

 それにここは、どちらかといえばウェールズの彼の領地に近い。ソールズベリーから来たならば、また随分と妙な移動経路をしているものだ。

 

 

「どうして居なかったって言われてもね……私だって、用事があるんだ。それに、貴方が知ったことではないだろう、妖精王」

 

 だいたい嘘です。

 用事はあったけどもう終わってたし、ソールズベリーに長居しない方が彼に会わずに済むかもしれないからと思ったからというのが正直なところだ。

 

「いやいや、僕と君の仲だろう、薄情者!」

「会ったのだって高々二回だけどね……」

 

 貴方と向き合うと醜い部分を見透かされている気がするから関わりたくない、必要以上に構って殊更嫌われたくない、なんて言えるわけがないだろう。

 彼は、私が知るこの島で、一等複雑で美しい生き物なのだ。だからこそ、醜いものを抱えたまま接するのは、少し気後れする。

 

 

「……っ」

 

 息を飲むような音がしたからそちらを見れば、金髪の少女の姿の妖精が固まってしまっている。複雑そうな表情をしているけど、なんなのだろう。

 

「アルトリア? どうかしたの」

「え、ううん、何でもない!」

 

 ──あ。そっか、彼女はわかるのか。

 

 名前を聴いて、やっと思い出す。いけない、ほとんど劣化無しの引き継ぎを繰り返しているとはいえ、私も3代目だ。やっぱり色々と忘れているのだろう。

 それなら、やっぱり情報を聴いたり、伝えなくちゃいけないだろうな。わからないままでいると危ないこともあるだろうし。

 

 オベロンにこれ以上詰められるのも嫌だったので、彼を避けて半ば固まっている彼女の前に跪く。これなら、威圧感はあまりないだろうから怯えないでもらえると良いのだけど。

 

「ねぇ、宝石よりも綺麗な目の貴方。名前を尋ねてもいいかな?」

「わっ、私はアルトリア・キャスターです! 綺麗かぁ、そっかぁ……照れるなぁ……!」

 

 薄く頬を染める彼女に、これなら大丈夫かなと立ち上がる。背後から刺さる視線は無視だ、無視。

 それにしても。誉めて、それを受け入れられるのは嬉しいな。

 それに、彼女は本当に綺麗な緑の目なのだ。人間ならば妖精を見ることができる特別な色。森よりも深く、若葉よりもなお瑞々しい色。

 

「良い名前だね。それに、貴方の目は本当に綺麗だよ。

 ……それで、オベロン殿。私を探してたのって、≪予言の子≫を守るためで合ってるかな」

「ああ、そうだとも。それで、≪予言の子≫は」

「アルトリアなんだね」

「え、知っていたのかい?」

「まさか。でも、見ればわかるでしょう」

 

 私の言葉に、カルデア一行が目を剥いてこっちを凝視する。まあでも、ギョッとされるのも慣れっこだ。こちとら引き継ぎ含めた200年以上仲間内で妙なもの扱いされてきたし、更にはこの16年は変わり者ではぐれものだったからね。

 しかしまあ、それを引いてもあっさりと信じる妖精は珍しい部類ではあるのか。

 

「見ればわかる、って……魔力の質や量もわかるのに?」

「わかるよ。でも、どう説明すれば良いかな、燃えるような目の貴方」

「……ああ、そうだった。まだ紹介してなかったね。彼らはカルデア。そして、彼女こそが彼らをまとめあげるマスターの藤丸立香。このブリテンの外から来た≪異邦の魔術師≫たちさ」

 

 彼は背に隠すように、赤毛の彼女の前に立った。彼女の方は困惑しているようだけど、それも当然だろう。彼の敵意は、ブリテンの妖精が相手なら正当だと言いきれる。

 それにしても、一団を「まとめあげる」とは。どちらかと言えば在り方は違うだろうに。……やっぱり、微妙に翻訳が必要な気がする。彼は難解だ。

 

 それと、私が危険であるかのような振る舞いは少し心に来るけど、まあ、それは受け入れるべきだろうな。自然なことだ。

 いくら戦力になるとは言え、私にしたって信用すべきかわからない。いくらか隠し事もあるし、あちらも伝えたくないことの一つや二つはあるだろう。

 

 でも、その振る舞いがとても王子さまみたいだったから、やっぱり彼はそれで良いなと思ってしまった。彼は骨の髄から王族なのだろうと感じるからだ。

 発生や統治がどのような成立であれ関係なく、秋の森の王として正しい振る舞いだった。

 

 

「外か……確認しないといけないことが多くなりそうだから、後で落ち着いたら詳しく説明して貰っても?」

「もちろんさ! 君が来てくれるなら予定よりは早くことが運ぶだろう。カルデアの諸君、頼れる味方の登場だ。同伴しても問題ないね?」

 

 あっ、この御仁、勢いで流そうとしてる。そういうところだよオベロン。なんか時々大雑把だね、嫌いではないけど! 

 

「ねぇオベロン、彼女は一体何者か、私たちは知らないんだけど?」

 

 あれこれ言うのも面倒だし、流されても構わないかと思っていると、ちょっと微妙な笑顔を浮かべる綺麗な女の子が突っ込みをいれた。

 鈴を転がすようなかわいらしい声だ。ちょっと見ないくらいの素敵なひと。必要なことは必要なだけ補ってくれるのがありがたい。私も楽な方に流れようとしてしまったし。

 

 オベロンはといえば、悪戯っ子のような笑顔にウィンクひとつ。あっ、これは自分でちゃんと説明しないと伝わらないだろうな。

 

「ああ、そうだったね。紹介するよ、彼女はギャリー・トロット。僕にとって、誰よりも頼れる妖精の一人さ」

 

 ああ、やっぱり。何一つ彼らが安心できる情報がない。でも、何をどこまで話せばいいだろう。

 

 そんなことをぼんやりと考えて、とりあえずは怖がられないように笑う。

 

「そんな評価をされてるなんて知らなかったけど、まあいいか。私ははぐれもののギャリー・トロット。色々あって流れの用心棒なんかもしてる牙の氏族だ。よろしくね、アルトリア、カルデアの皆さん」

 

 

 

 

 

 

 結局、夜までに秋の森まで辿り着くのは難しかった。モースが出るわ、アルトリアが妖精を助けに行くわで寄り道が多かったと言うのもあるし、全員の体力を考えると無理はできないということもあった。

 そういう見極めが上手いメンバーがいるのはいいことだ。飛ばしすぎは後に響く。確実に。

 

 だから進むところまで進んで、その近くで場所を確保して野営することに。領地に辿り着く前に情報がもらえるのは、こちらとしては都合はよかった。

 あの森では話し合うよりも、虫たちとの触れ合いの時間の方が必要だろう。秋の森はいいところだ。あの土地は他の妖精たちが考えるよりもずっとずっと価値があるところ。特に、カルデアの面々がゆっくりと魔力補給もできるから重要だといえる。

 

「それで、アルトリアの正体に気づいた理由、だったね。アルトリアは妖精紋様が弱いから術の行使のために杖を持ってる。ということは、だいたいのことに魔術、それにその杖を使ってると思ったんだ。生活は面倒だからね。

 でも、モルガンの娘はよほどのことがなければ狩られて来た。それでも生き延びていたのは村ぐるみで秘匿されていたからじゃないかな」

 

 モルガンの娘が早々に複数出てくるとは思えない。女王陛下が娘としているのは彼女がそう定めて手解きをしているから。でも、それ以外で魔術を使う者は極めて少ないし、女王派の連中はそういう妖精を見れば狩ろうとするからすぐ死ぬ。それでなお生きているんだから、予言の子だったら納得できる。

 ……というのは、もちろん建前だ。これは一種のズルだから、なんとも言えない。

 

「でも、それだけじゃそうとは限らないだろう? ほら、紋様も弱々しいし、それっぽく見えないし」

「オベロン!」

 

 アルトリアが顔を真っ赤にしてふるふる震えている。……ああ、確かにこれはかわいい。彼女をからかいたくなるの、わかるなぁ。

 だからそれを素直に口にしようとして──口を開く前にやめた。

 

 これを、何て言えば受け入れられるんだろう? ずるい、羨ましい。私も仲間になったから、そんな風にやりとりができるくらい気軽に接してほしい。親しくなりたい。全部、私が気軽にそう思ってしまうだけのこと。相手からすれば、一時の寄り合いだ。必要はないだろうし、言って受け入れられなかったとき、ショックだから言うのはやめておこう。

 

 ……親しくなって、そのうえで傷つけてしまうかもしれない。それはいやだ。彼らは善良なのだから、大切にされないと。

 彼らは良い生き物なのだから、妖精に振り回されるようなことがあってはならない。もちろん、私も含めて。

 

 

「ああ、確かに、オベロン殿の言う通りだよ。でも、要素は他にもあるんじゃないかな」

「要素、というと?」

 

 今度はダ・ヴィンチが尋ねてくる。肌はきめ細やかで羨ましい。均衡が取れている四肢も、髪も綺麗だ。いいなぁ、こんな風になれたらいいのにな。

 

「そもそも予言があるくらいなんだ。必ず敵が出てくるなら先にいた妖精からは目をつけられるだろう? それでも排除されないためには、≪予言の子≫だとわからないようにするはずじゃないか」

 

 

 適当な棒を拾って、それらしい形を書く。

 うーん、我ながら下手くそ。しかも、妖精をそれらしく描くの難しいな。

 

 

「例えば、鐘が重要だというなら、その巡礼の過程で彼女に力を与えるだとか。それか、鐘を鳴らすまでは目をつけられにくい弱い存在のままで、さしたる成長もしない、とかね。

 仮に私が女王陛下なら、そういう存在を訝って、探して殺す」

 

 

 そう思ったことを伝えてから、ふと、顔を上げる。

 アルトリアが、顔を真っ青にして震えているのが見えて、ああ、やってしまったんだな、とそこでようやく気がついた。

 気になってオベロンを盗み見れば、どこかイラついたような雰囲気だ。刺々しい、までは行かなくても、非常に面白くないと言いたげだ。カルデアの人々は、気づいていないらしいけれど。

 

 本当に、彼らは誤魔化したり演技したりが上手い。気付かれないようにすることも。

 

「(……どうせ、どれだけ努力しても私は野蛮な牙の氏族だ。改めたところで、変わらず怖がられるのが関の山だろう。知っているよ)」

 

 

 当たり前だけどアルトリアには怖く見えただろう。だって、そういうことを考えていたらわかるものだ。きっと顔にも出てただろうし。

 それに、私は血の匂いだってさせている。昨日も今日もモースやら強盗やらを幾らか返り討ちにした。生まれ持った性質のせいで、余分に叩きのめしさえした。

 できる限りの善行だって、どうせ最後には本能に食い潰される。

 

「まあ、私がこういう性格だから納得したとだけ理解してもらえれば良いかな。危害を加える理由なんて無いし、むしろ女王打倒は私も支持するよ」

 怖がらないで、なんて言ったところで意味ないと、理解している。

 

 それでも、私が曖昧にしたくて笑えばアルトリアもぎこちなくだけど笑ってくれた。なら、これでとりあえずは良いということにしたい。

 

 

「どうして反女王派なの? ギャリーくらい強ければ、キャメロットの兵士にもなれると思うんだけど」

 

 意識が引き戻される。立香の疑問は、まあ確かにその通りであろうものだ。一定以上の力量で戦えるやつは、だいたい女王軍として生き延びようとする。

 けど、それをする気にはなれないし、だからこそのはぐれもの。それに。

 

「女王の兵隊は私がなれるほど甘くないんだよ、立香」

「そうか? 儂から見てもお前さんの太刀筋は悪くなかったがな」

「ありがとう村正。でも、私程度じゃだめなのは事実なんだ。牙の氏族の上位妖精は早々に殺せないし、死なないからね。それに、私の戦い方は牙の名折れになりかねない我流だというのも理由になるかな」

 

 そう、牙の氏族の多くはその肉体の優位性を発揮して戦う。武器よりは己の肉体、のスタイルだ。モースの毒から身を庇うことさえできればいい。

 それに対して私は剣術だ。しかも我流、見様見真似の紛い物。怪我をしながらなんとか対応しようとして出来上がった不細工な太刀筋だ。お世辞にもこれで戦うなんて無謀でしかない。相手は本職なんだから。

 

「でも、さっきのモースは無傷で倒してたよね」

「あれは鉄の武器のお陰だし、単に慣れでしかないよ。私が百年も生きてないのが何よりの証拠だ」

「ギャリーは鉄の武器を使えるの?」

「一応ね。でも、素手で触れたら爛れるからグローブが必要なんだ」

「そっか……でも、これまでに見たどの牙の氏族の妖精よりも強かったと思うんだけど」

 

 本気でそう思ってくれての言葉なんだろう。それだけで、少し舞い上がりそう。──でも、思い当たる変化はある。目的が強化されたおかげで前よりは強くなれたんだろうか。

 

「嬉しい言葉だけどね、それは買いかぶりだよ。私も何度かモースになりかけたり、やられそうになったりしたし」

 

 わりとしょっちゅうアイデンティティの危機に瀕してモースになりかけたからなぁ、最初の頃は。

 あれは底無し沼だ。思考の檻から出られなくなる。抜け出せたのだって、私の目的がなんとか引きずり出してくれたからに過ぎないし。

 

 

「モースに、なりかけ……?!」

「ん?」

「ちょっと待って、なりかけたってどういうこと?!」

 

 ダ・ヴィンチまで目を白黒させているから、恐らくどこかで妖精からモースになったやつを見たな。それと、彼らは死んだ妖精の末路をたぶん知らないだろう。

 妖精の終わりはモースだけでないと知っているのは、もともと活動していたオベロンとアルトリア、レッドラくらいか。

 

「いや、妖精は目的や自我を喪失したらモースになるでしょう? 私も目的は何度か見失いかけたんだよ。危ういところで持ち直したからこうして生きてるけどね」

「それ、僕も初耳なんだけどな!」

 

 今度はオベロンまで絶叫した。コミカルだけど、これは本心からの叫び、か…………? 

 

 

 実際、「人間だったころの記憶」という危険な混ぜ物が多いせいか、記憶だけでなくて諸々の感情まで見事に引き継いでしまっている。そのせいで本能に慣れない最初の頃や、生まれ直した直後だったりには自殺衝動や自己嫌悪や後悔が酷かったのだ。

 2代目からは頻度がかなり減ったけど、今でもどうか静まってくれと祈るなりなんなりして誤魔化してないと時々危ないこともある。

 

 けど、それを言ったところでなんになるだろう。ヒントになるかも知れなくても、ここにいる面々にとってはその知識は必要ない。

 特に、彼には余計に要らないことだ。うっかり口滑らせたのは失敗だったな。

 

「オベロン殿には関係ないことでしょう。というより、何度も言うが私たちは高々二度しか会っていないんだ。経歴を知る必要だってないのに、時々死にかけてますなんて言う必要はもっとないと思うよ」

「……それを言われてしまうと僕も言い返せないんだけどさ! やっぱり薄情だよ君!」

 

 その言葉がおかしくて、つい笑ってしまう。オベロンからすれば冗談じゃないだろうけど。

 

 

 私はただ苦しんでいた頃に立ち会っただけ。それだけの縁の、「厄災」に呑まれるだけの弱い妖精だ。情もなにもあったものじゃない。

 

 さすがは妖精王、心にもないことを言うのも、周りを気分よく動かすのもお上手なことで。……いや、彼は本当に大事なことだけはきちんと抱えているひとだ。冗談にして良いと思ったからそう言うのだと、きちんと知っている。なら、私は私なりに信じるだけだ。

 

 

「そういえば、あなた方がこれからどうする予定なのか訊いても?」

「一旦オベロンの領地で機を窺う予定でした。失礼ながら、ギャリー殿はどうする予定でいらしたので?」

「私はこのままソールズベリーに戻って暫く様子見をしようと思っていたところだよ、レッドラ。まあ、タイミングがずれていたら長くすれ違っていただろうね」

 

 それを考えると、かなりタイミングは良かった。

 ただ、この先がどうなるかは全くわからない。私は、彼らの助けになれるんだろうか。

 

「そういえば、気になってたんだけど」

 

 思考が引き込まれそうになったとき、ダ・ヴィンチが唐突に切り出した。なにか気になるところでもあったんだろうか。

 

「なんでオベロンだけ殿付けなんだい?」

「ん? ああ……」

 

 尋ねられると思っていなかったことに、一瞬だけ言葉が詰まる。

 そういえば、他のひとにはつけなかったな。……どうしてだろう。でも、そう呼ぼうと思っていたのは確かだ。理由はわからないけど。

 

「だって、王様だろう? 特別だと思ったから、ふさわしい呼び方をしたほうがいいかなって」

「君さぁ……好意とは理解してても、疎外感はあるんだぞ」

「それは……ごめんなさい、オベロン。もっと気にするべきだった」

「まぁ、いいよ。言っても仕方ないことだし、君はそういう性質なんだろう」

 

 拗ねるような言い方に、全員が笑う。

 そうやって、夜が過ぎる。空の色が少しずつ黄昏に戻ろうと足を早めていく。

 

 

 そうか、はぐれものを続けていたけど、こういうのは楽しい。楽しんでもいいんだ。もう我慢もしなくていい。傷つけさえしなければ、それでいいんだ。

 

 心が少し軽くなる。終わりは少しずつ近付いてくる。待ち望んだ妖精國の黄昏が来る。

 

 

 ……ああ、楽しい、なぁ。

 

 



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語らい明ける夜の底

(注意:LB6のネタバレを多分に含みます)

妖精転生オリ主がウェールズの森から涙の河まで同行する話。
部分的にざっくり場面が飛びます。


 所変わって秋の森。

 私にとっても15年ぶりの懐かしきウェールズは、相変わらず寂しくて優しい、温かな土地だった。

 

 先に森に踏み込んだアルトリアたちの後から、私も少し距離をおいて森に入る。

 外から来た追手がいないか気になったし、それに、カルデアの面々とこの森の住民たちとの交流に水を差したくなかったというのもある。

 

 そういうつもりだったんだけど。

 

「##################! (あのときの妖精だ、あのときの妖精だ!)」

「#############! (ぼくらの王様を助けてくれた!)」

「#####! #############! (待ってたよ! オベロンもずっと待ってた!)」

「うーん……ごめんね。やっぱり、君たちの言葉はわからないんだ」

 

 

 ちょっと引いたところから眺めようと思っていたけれど、虫たちには歓迎されているらしいかった。前に来たときみたいに、大きめの虫にじゃれつかれる。

 立ったままだと登ってくるようにじゃれてきた子が苦しそうなので、適当なところに腰を下ろすことにした。

頭にも膝にも乗ってきて、なんとなく昔飼ってた生き物たちのことを思い出す。あの頃は、どういう風に生きていたんだっけ。思い出せることは少ないけれど、懐かしさだけは残っているから不思議だ。

 

 じゃれつかれるのはそのまま、されるがままでいい。でも、ただ彼らを乗せているだけというのも何か違う気がして、少し力を抜いてから擽るように撫でれば嬉しそうなさざめきの声が上がった。自分も自分も、と言わんばかりに他の妖精たちも寄ってくるものだから、ずっと座って撫でることになりそうだ。

 

 

 やっぱり、ここの虫たちは可愛げがあるなぁ……昔暮らしてた頃にはあまり得意ではなかったけど、この子たちは妖精だからだろうか。

 意思の疎通ができる相手でなくては共感できないから、ある意味の同族でないと、こんな風には思えないのだろう。

 

 

 少し離れたところでカルデアの面々も遊んでいるようで、こちらはこちらでゆっくりすることに集中することにした。なにしろ、前は少しの恐怖もあって、長居できなかったというのもある。ここは穏やかで、だからこそ立ち寄ったときに交流ができなかったのは惜しかった。

 

 なにやら皆がいる方から物騒な物音もするが、彼らのことだし大丈夫だろう。さすがに同士討ちはしないだろうし。

 ああでも、ここまで穏やかだと眠たくなってくるな。

 

 

「ギャリー、アルトリアたちの訓練だ! 義理堅い君のことだから、僕の方に着いてくれるだろうね!」

 

 眠気に身を任せかけつつ妖精たち相手にじゃれていると、オベロンからお呼びがかかる。

 

 はて、そんなことをする必要はあるのだろうか? 

 ……まあ、いいか。それぞれがお互いの技量を知ることはこれから必要なことではあるし、私も知ってもらっていた方がやり易い。

 

 少しばかりそういう計算をして、膝に乗せた子達を見る。もう少し触れあいたいが、まだここにしばらくいるのだし、どうにでもなろう。

 

 

「ごめん、この子たちがいるから、ちょっと」

「そんな! 敵役が僕だけになってしまうじゃないか、薄情者!」

「待ってって言いたかったんだけど」

「やっぱり君は頼れるなぁ!」

「掌返しが早いね、オベロン。まぁいいのだけど。……っと、ごめんよ、ちょっと【遊んで】くるから、また後でね」

 

 つぶらな瞳に疑問を浮かべる虫たちを頭やら膝から下ろして立ち上がる。髪の毛は、まあ一応括っているし、そのままでいいか。

 

 足がじんじんして多少辛い。けど、それぐらいで動けないほど柔ではないし、そんなだったらとっくに死んでる。

 とはいえ、さっき言われた通り、これは訓練だ。鉄の武器を抜き身で使うよりは鞘か、あるいは鞘に納めたままの剣を使うべきだろう。

 

「さて、采配は頼むよ、妖精王陛下?」

 

 防具も最低限度必要なもの以外を外し、外套も脱いだ軽装で立つ。剣とナイフは鞘に納めたまま、分かりやすく構えることにした。

 

 それから、待っていたオベロンの前に立つ。

 

 視線を交わすのは一瞬だけ。別に、戦闘スタイルは合流したときにも見たからわかるだろう。典型的な前衛、一人での立ち回り中心だ。

 それならば、後衛中心になる彼の前で、そちらまで被害が届かないように戦えばいい。要はいつも通りでいい。むしろ、サポートがあるだけ助かる。

 

「もちろんだとも。こちらこそ頼んだよ、流浪の騎士殿」

 

 ウィンクや笑顔一つでそれらしくまとめるのは、やはり彼のあり方に由来することなのだろうが、ちょっとずるいんじゃないだろうか。

 

 しかし……やっぱり、どうしてこんなに信頼されているのだろう? 

 

 

 

 

 

 

 結局、模擬戦闘では負けた。それなりに善戦はしたはずだけど、最終的に前衛の守りを崩されたからだ。

 ふてくされつつ村正に絡みにいくオベロンはかなり元気そうだったので、引き際は誤ってなかっただろう。

 

 そのあとは普段通り。森を荒らすものを退けて、いくらかの果物を口にして、夜まで皆で騒いだり、休息を取ったりして、英気を養うことを優先していた。

 

 今は、もう皆寝静まって、起きているのは私くらいだろう。

 オベロンは一人で出立するようだったので、少し離れたところで哨戒をしていた。彼は、今は一人でも問題ない。ならばと、一人で少しばかり遠くから、何か厄介事が来ることがないか見張っていた。

 

 

「あれ、立香、まだ起きてたんだ。大丈夫?」

「うん。なんだか眠れなくて……まだ、もう少ししてから寝ようかな」

 

 だが、実際に来たのは、燃えるような目を少し眠気にゆるませた少女だ。

 異邦の魔術師。ただの女の子だった最後のマスター。もう寝た方がいいのに起きているのは、緊張が解けないからだろうな。

 

 さて、どうしたものか。本当ならホットミルクでも用意できればいいんだけど、あいにくと私の手持ちは干し肉といくらかのドライフルーツ程度だ。昼間の模擬戦の魔力消費もあって、ホットミルクはちょっと用意しづらい。

 

 

「そっか。それなら、それまで話に付き合ってくれないかな。こっちへおいで。一応、小さいけど焚き火をしよう」

「……いいの?」

「もちろん。よければ、あなたの世界について知りたいんだけど、聴いてもいいかな」

 

 立香は戸惑ったようだったけど、私のすぐそばに来て腰を下ろした。

 

 ふたりでランプ一つは少し寒いから、落ち葉を小山にして、枯れ枝を突っ込んで、それまで持っていた小さな火種を入れたランプから火を移す。

 消火は昼のうちに汲んだ水でどうにかしよう。飲み水はまた明日汲めばいい。

 

「わかった。何を話せばいいの?」

「どんな生活をしていたか、どんなことが楽しかったか、それと、悲しかったことも」

 

 ぽつぽつと、ゆっくりと。彼女の小さな星のごとき話が続く。

 

 懐かしい世界。どこかにいた私の故郷に近い世界の話。

 学校のこと、進学のこと、家族のこと。

 運動や勉強、友達との交流で楽しかったこと、悔しかったこと。

 

 どれもいい思い出なのだろう。語る顔は楽しそうで、同時に少し苦しそうだった。

 

 

「立香の世界は、やっぱり素敵な世界だね」

「うん。だから、早く解決しないと」

 

 夜中だから、気持ちが表に出やすいのだろう。表情が彫刻のように冷たくなってしまう。私の言葉に反応して引き結ばれた口元が、固い。

 

 これは、間違えてしまった。

 考えなしに言ってしまったせいだ。失敗した。

 

 

「立香。重たい荷物をもったままじゃ、走りきる前に潰れてしまうよ。それじゃあ無理を厭わない行動になる。何とかする前に、きっとあなたが保たない」

 

 目が、冷えている。燃えていた目の色は灰のごとくに。

 でもそれは夜だからだろう。焚き火をしないと肌寒いくらい、夜の底は冷えるから。だから、仕方のないことなのだ。

 

「……でも、私はマスターだし、これまでも、ちゃんと走ってきたよ。だから、」

「そうだね。でも、このブリテンだって、今までと同じくらい難しい問題がたくさんある。……走り切ることは大事だけど、ペース配分と、補給と、休息が必要だよ。特に休息が肝要かな、心は体に作用するから」

「……うん」

 

 立香が、納得をしきってはいないといった風情でぎこちない笑みを浮かべた。

 あまりにも不器用で笑ってしまいそうなほど固い。でも、私も他人のことは笑えないから、今はそれでいい。

 

「でも、妖精國はきれいなところだから、ちょっと惜しい、かな」

 

 不意に立香の口から溢れた言葉に、火をかき回そうとした手が止まる。

 きれいな世界。確かに、内実を知らなければそうだろう。どこまでも相容れない本性を知らなければ。私たちの原初の罪を悟られなければ、その通りだ。

 

 それは、モルガン女王が苦労して積み上げた成果で、私たちはその上に胡座をかいている。

 どんなかたちであれ、覆い隠してもらっていてこそ、彼女から見た評価が「美しい國」なのだから。

 

「……そうだね。うん。立香が言うならそうかも」

「ギャリー……もしかしてこの國が嫌い?」

「嫌いではないよ。ただ、居心地は良くないかな。私ははぐれものだから」

 

 はぐれたから嫌いなわけじゃなくて、居心地が悪いからはぐれた。それでも、大した差はない。

 要は逃げただけなんだ。自分のいやなところから目をそらして、一人の方が楽だと仲間を捨てて、それでふらふらしているだけ。でも、いつかは私も同じだ。本能に逆らえなければ、私たちは皆、贖罪を果たせない。

 

 一呼吸置いて、立香を見る。

 この國のお客様。私たちの世界とは別の理のなかで育った清い者。この子が、これからの旅路でなるべく害されないようにするために、私に何ができるだろう。

 

「そうだ、受け取ってもらいたいものがある」

「私に?」

「そう。私がいつも持ち歩いてるものでね」

 

 そこまで考えて、思い当たるものがあったと気づいてポケットを漁る。いつも持っているものだし、お古みたいなものになってしまうけど、持ち歩いた年月分、結構な魔力を吸っているはずだ。

 

「はい、これ」

 

 出したのは、青い石だ。

 ずっと昔のものだから、渡しておけば何かの際に彼女の力になるかもしれない。価値は、私には特には無かったけれど。ずっと持ってたのは、なんというか惰性のようなものだ。時々見る程度のものだったし。

 

「きれい……石の中もキラキラしてる」

「でしょう。この青色が好きでずっと持ってたんだ。立香にあげるよ」

「え、でも、これ、」

「これからの旅路のお守りに、ね。立香はこれから危ない目に遭うかもしれないんだ。私なりのプレゼント、受け取ってくれないかな」

 

 といっても、これからお守りになるかもしれない、という代物だから、下手すると詐欺だな。

 まあ、多少は許されるだろう。これを持ってるうちはさほど怪我とかもしなかったし、道に迷うとかのトラブルもなかった。

 

「……私だけもらったってバレたら、アルトリアが拗ねそうだなぁ」

 

 今度こそ、安心した顔で彼女が笑った。

 よかった。これで一安心。それにしても、アルトリアが拗ねるところは目に浮かぶようだな。村正を相手にしているときのような顔とか、あんな感じになりそうだ。

 

「大丈夫、彼女にも渡すものがあるから」

「そうなの?」

「うん。まあ、予定だから、実際に渡すのはもう少し後かな。……そろそろ眠らないと、明日に響くよ。さ、お話はこれでおしまい」

「そうだね。……ふぁあ、おやすみ」

 

 渡すなら、もう少し先。彼女が私たちと行動を共にしてから。安心してくれるようになってからだ。

 それを隠して、立香の安心を優先してから、秘密は夜に溶かし込む。よい子は明日も大忙しだ。

 

 せめて、最後のマスターがあれこれ悩んで眠りを妨げられないように。

 彼女たちだけは、美しいもののみを見てこの世界を走りきれますように。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 朝、みんなよりちょっと早起きをする。

 そのときにはダ・ヴィンチちゃんも起きてて、もう色々なものの準備を始めていた。アルトリアやレッドラたちは、まだ寝息を立ててる。

 

「おはよ、ダ・ヴィンチちゃん。今いい?」

「おはよう立香ちゃん。もちろんさ。どうかした?」

「この石の名前って、わかる?」

 

 私がダ・ヴィンチちゃんに差し出したのは、昨日ギャリーからもらった青い石。

 色んな、でもはっきりとした青色がいくつも重なった不思議な石だった。それに、鱗粉みたいなキラキラも閉じ込められていて、本当に星みたいな見た目をしてる。

 

「おや、アイオライトじゃないか。確かにブリテンでも産出するものだけど、これはちょっと見ないレベルだ。どこで拾ったんだい?」

 

 アイオライト、っていうんだ、これ。

 でも、ギャリーはどこでこれを拾ったんだろう。そこは聞いてなかった。はぐれもの、って言っていたから、いろんな所を歩いていて見つけたんじゃないかなとは思うけど……。

 

「ギャリーがくれたの。珍しいものだったんだ」

「ギャリーが? なるほど、それなら納得だ」

 

 納得するダ・ヴィンチちゃんに、私は理解が追い付いてない。ギャリーなら、ってどう言うことなんだろう。

 うんうん、と一人で頷いているので、私にも教えて欲しくて口を開く。

 

「それって、どういうこと?」

「汎人類史のギャリートロットは財宝を守る白い犬の妖精なんだ。やっぱり、妖精國と汎人類史のブリテンには通ずるものがあるみたいだね」

「財宝を、守る……」

 

 知らなかった。ギャリー・トロットっていう名前が妖精のものだということも、私たちの世界のギャリーのことも。

 でも、それを聞いたら確かにギャリーらしいと思ったから、ギャリートロットはどこでもそんな感じなのかもしれない。

 

 もらった青い石を握る。ひんやりとして、気持ちがいい。

 ギャリートロットがずっと守っていた石は、なんだか持っているだけで安心した。

 

「きっと、大丈夫」

 

 呟いたら、本当にそうなるような気がして笑ってしまう。

 うん、大丈夫。ギャリーは悪い人じゃない。それに、気にしてくれているから。きっと、ギャリーはいい人だ。

 

 でも、これからの作戦で裏切るようなことになるかもしれないということには、少しだけ蓋をすることにした。

 

 ◆◇◆

 

 

 予定調和でガレスが参加したのち、さらに河へ。向かった先では、案の定、涙の河にかかる橋が壊れていた。

 レッドラが馬車なしで渡る案について全力で抵抗したのでどうしたものかと思っていれば、ガレスを皮切りに、立香もダ・ヴィンチもレッドラも、みんな河を見てしまった。

 

「なんで危ないとわかっててみんな見るんだ!」

「見ちゃいけないものほど気になるだろう! 本当は僕もかなり気になるからね!」

「そういうことを聞きたいんじゃないんだ! アルトリア、村正、オベロンも河から離れて!」

 

 河に近い奴から全力疾走されてしまうと、さすがに止めようがない。アルトリアと村正とオベロンは無事なのでそちらを止めようとして──

 

「あっ、」

「おい、待てアルトリア!」

「っ、村正まで!」

 

 大丈夫だったはずの村正までもアルトリアを追いかけて飛び込んでいってしまった。

 

 慌てて後を追い飛び込んだ彼に、足を止めて振り向いてしまう。湖面が光っていて、綺麗だ。

 同時に、冷や汗が吹き出る。

 

 しまった、私まで見てしまった。

 

 

 ……正直なところ、怖いものも、欲しいものも思い当たらない。でも、それでも流れてくるとしたら、一体、何が。

 背を流れ落ちる汗を感じながら、視線は離せないままで。水の聖杯が叶えようとするものを見るしかなかった。

 

 

 湖面に、浮かんでいるのは──。

 

「あ、……」

 

 

 流れてきたのは、銀のナイフと、紫色の液体の入った小瓶だった。

 

 

 瓶のラベルは朽ちかけていたけれど、書かれていた言葉ははっきりと見える。私自身の視力が良かったこともあるだろうが、あれは願望の詰まったもの。だからこそ見えるんだろう。

 

 書かれていたのはただの一語。【解毒薬】だ。

 

 

「っ、」

 

 

 声は、出せなかった。

 

 

 ──ずっと苦しいままだった。

 ──早く死んでしまいたかった。

 ──でも、ほんとうは、私は。

 ──それは、きっと無理だ。

 

 喉の奥から、何かが迫り上がるような感覚がする。

 気持ち悪い、吐きそうだ。でも、それを大人しく堪えていられない。

 

 

 だから、気付いたら河に向かって駆け出していた。

 あれを取れば、きっと、私は。

 

 

 

「ギャリー! っ、しまった、僕まで河を見てしまった! いったい何が流れてくるのかな!」

 

 

 背後で叫ばれた支離滅裂な声に、足がピタリと止まる。

 彼も見た? じゃあ、何か流れてくるのか。

 

 そこまで思考が流れて、正気が戻ってくる。危ういところだった。これだから、こういう願望は恐ろしい。

 でもそれはそれとして、そういうところだよ、オベロン。

 

 振り向いてないから表情はわからないけれど、背後で彼が息をのむ音が聞こえたから、彼としては何か不都合だったんだろうか。たとえば、私が落ちていた方が仕込みができてよかった、とか。

 

 けど、彼の愉快な言動のおかげで今回は助かった。

 その一瞬だけ、欲しいという気持ちよりも先に彼が欲しいと思ったものへの好奇心が勝ったのだ。

 

 

「(オベロンの、欲しいもの……)」

 

 一体、何だったか。どうにも覚えていない、というよりは思い出せない。記憶に靄がかかったような。

 ただ、何かいくつも意味がありそうなものだったような。

 

 腹を決めて、思考をクリアにできるように幾つか対策を打ってから河を見る。だって好奇心は押さえられるものではない。

 

 彼が望んで流れてきたのは【Sold outの木板】だった。

 

「魔力切れ(うりきれ)かっ!!!」

 

 

 そうそう、そういう流れだったな。いや、でも別なものではなかったということは、なにかこれから問題になるだろうか。

 

 しかし木板が流れてくる代わりに、気付けばナイフも小瓶も流れていって消えてしまっていた。これ以上、欲しいものは思い付かない。

 今度こそ、河から目を離して振り向く。

 

 

 心底悔しそうに崩れ落ちる彼がそこにいたが、今回ばかりは笑うに笑えない。

 確かに、それは記憶通りで、これは本来笑うべき一幕なんだろう。でも、水の聖杯が売り切れになる願いはどういうことか、考えてみればいくつも可能性がある。彼の都合を知ってはいても、それがどういうことかは、今、ここにいる私には推し量れないのだ。

 

 だから、それでもあんなものを求める私には、彼が酷く羨ましくて仕方ない。

 

 

 

 けど、タイミングは良かった。これで、一時しのぎではあるけど時間は稼げる。

 ドラケイの妖精領域でなら彼らも陸と同じく息ができるだろうし、流されるまでにタイムラグが生まれる。それなら、その間に対応ができるはずだ。

 

 そう思えばとるべき行動だって決まっている。妖精たちに自殺願望者なんてほとんどいない。いたとしても、こんなところに来ずに戦って死ぬか、戦う前に消失するなりモースになるなりする。

 なら、確実に死んだやつの手持ちのロープがあるだろう。それも、川縁から少し離れた太い木の辺りまで伸びるぐらいの長さのものが。

 

 

 周囲を見て、出来るだけ太い幹の木がある方を探す。

 ──あった。あの辺りだけ草が薄い。なら、きっと。

 

「オベロン! ドラケイが魔力切れを起こしてるうちに落ちた皆に動きがないか監視していてくれないか!」

「それはいいけど、君はどうするつもりなんだい!」

 

 怒鳴るように叫べば同じような返事が来る。

 茶化すようなことをしていたわりに焦っているらしいのだから、まあ彼も面倒な性質に振り回されている。でもさっきの河を見たとき以降の言葉は本音だろうし。

 ここで落伍するはずがないとはいえ大事な駒が二人も沈んだのだから、焦るのも当然か。

 

「ロープを探してくる、先に来ていた連中が残したものがあるはずだ!」

「わかった! でも、君も無理は禁物だからね!」

「了解した!」

 

 走る、走る。

 獣の足は持たずとも、同族たちに劣らない速度で走ることはできる。探せ、探せ。彼らが浮上してくるまでどれぐらい時間があるかわかったものではない。

 

 

 ──焦っていると、何か白いものが飛んできた。

 勢い良く、しかしこちらにぶつかったりしないように思慮深く。ああ、あれは。

 

 

「っ、ブランカ!」

 

 頼もしい白い翅の彼女が飛んできていた。

 彼女は視野が広い。きっとオベロンが彼女に頼んでくれたのだろう。ブランカは優しいから。

 

 目星をつけて当たっていたが、どうにも見つからない。

 けど、彼女がいれば百人力。ロープはブランカが手伝ってくれたおかげで見つかったし、びしょびしょの皆と合流したのは大分後だった。

 

 

 

 オベロンはふてくされているし、皆はめいめいに笑ったり叱られたりしていて、端から見ればとても楽しそうにしている。

 

 少しは役に立ちたかったんだけど、やっぱりあれこれ考えたところでそんなにうまく行くものじゃない。やっぱり、ブランカはすごいな。彼女のようになれたら、どれ程良いだろう。

 

 そう思うと、ちょっとだけ先をどうすべきか悩みが芽吹く。

 

 

 

 

 

 次は、どうなるんだっけ。明日のことも、これからのことも、考えようとすればするほど、なぜだか薄ぼんやりとして思い出せなかった。

 




オベロンなんとか引けました。夏イベのガチャは自重します。


【追記】
豆腐餅さまよりギャリー・トロットのファンアートをいただきました! ありがとうございます!

【挿絵表示】


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徒歩にて目指すは煤の街

妖精転成オリ主のノリッジ編

わけわからなくなってきました。先が長い。


 橋を探すために上流からのルートをとったレッドラと別れ、残る全員で先へ行く。先頭はオベロン、その後ろをアルトリアとガレス、村正が行く。真ん中より後ろ側にはカルデアの二人。殿は私だ。

 

 ノリッジへの道を急ぐとは言えど、相応に距離があることに変わりはない。長旅において無理は禁物で、日暮れが近づけばすぐに野営を始めることになった。

 

 

 ところで、途中で出てきた野良妖精、いったい何だったんだろうか。似たようなのが数体いた上に、やたらと粘っていた。

 あんなの見たことがなかったんだけど、運良く避けて通れていただけだったろうか? いや、でもここ15年で何度も通った道ではあるし、そんなことはないはずなのに。

 

 

「おそろしい、敵でしたね、そしてこちらのパン、美味しいですね」

「小麦を粉にして一から作ったものだからだろうね。それに焼き加減がいい」

 

 もっきゅもっきゅと音がしそうなほど、沢山のパンをしっかり食べるガレス。その一方で擬音はしなさそうだけどしっかり食べるアルトリア。

 育て手のことは知らないが、育ちがいいんだろう。マナーは野営には必要ではないし、一緒に食事をするときの大前提は不快ではないこと程度だ。とはいえ、それ以外を気にしないとしても、二人とも品のある食べ方だった。

 きっと彼女たち自身が努力してそのあたりの仕草を身に付けたのだろうな。あるいは、そうせざるを得なかったか。頓着しない妖精はとことん無関心なのだから、そのどちらかだろう。おそらく前者ではあろうが。

 

「おや。君はどちらかといえば肉食だと思っていたけれど、パンにも一家言あるのかな」

「いいえ、ダ・ヴィンチが言っていたことの受け売りだから、詳しいことはわからないよ。それに、きれいに焼けているほうが香りがいいと思う程度」

 

 作ったことはないわけではないが、これが存外に難しい。それに、魔力なしで日持ちさせようと思えば炭になる寸前まで焼き締める必要があるのだ。余計なところにかける魔力を節約しようとしていたこともあって、パン焼きをしてみた感想は「割に合わない」以上にはならなかった。

 お世辞にも、携帯用の食料としてつくるのであれば、美味しいものは期待できない。だからこそカルデアの面々が美味しいものを求めて用意してくれた今回、良い食事にありつけたといえよう。限定的だけど、ご褒美だと思えばかなり嬉しいものだ。

 

「そういえば、アルトリアは風の氏族にしては良く食べるね。食事を目的にすると言ったら牙の氏族だけど」

「いえ、私は6輪の氏族ではなくて、氏族にもなれない下級妖精なので。食事を摂る習慣は、ティタンジェルの村のみんながとにかくよく食べ物をくれたからです」

 

 

 

「そういえば、ギャリーはそんなに食べないですよね」

「ん? ……ああ、実は、私の目的は食事から少し遠くてね。存在維持のために食べるには食べるけど、あまり意味を持たせていないから、最低限にしていたんだ」

 

 これは本当のこと。

 元々の本能は食事を求めていたけど、それにしたって生体の維持のための食欲だ。私の目的は、残念なことに人間的なもの。記憶のせいで少し変質してこそいるが、おおむね変わりはない。

 そして、在り方にしても、それを助けるためのもの。食事をしないと存在を保てない。弱ければ周りに捕食される。それを避けるための本能だったのだし、そのために理性は逃げ場をなくしていた。

 

「そうなのかい? そんなの初耳だな」

「えっ、話してなかったの?」

「オベロンさんとギャリーさんほど仲が良いのにですか?」

「いや、仲の良さは関係ないでしょう、それ……」

 

 言いたくないことのひとつやふたつは当然ある。

 それに、だ。

 

「そもそも目的を明かす妖精は多くないんだ。訊かれなかったから答えなかっただけのことだよ」

「またそれだ。ギャリー・トロット、君はいい加減色々話してくれたって良い頃合いだと思うね!」

 

 ビシ、と人差し指を突きつけられる。

 ああ、居心地の悪いこと。それに、知ったところで信用なんてできないだろうに。こんな面倒な存在なんて、本当は信じちゃまずいはずだ。

 だって、いくら理性的であろうとしているにしても、衝動が本当に抑えられているかをよく知りもしないんだから。それでも信じるというのか? 本当に? 

 

「悪いけどそれは無理だよ、オベロン。何を話せばいいか、どこまで話すべきか明示してくれれば別だけど。それに、本当にこればかりは親しかろうが言いたくなかったんだ。……秘密くらい、ひとつは持ってるものでしょう?」

「その割に、話してくれないことが多いじゃないか」

「大概は必要なことじゃないからね」

 

 少なくとも、あなた方にとっては必要の無い情報だ。要らないものは邪魔になる。

 

 

「さて、私は食べ終わったから見張りでもしてこようと思う。悪いけど、離れていてもいいかな」

「おや、もしかして秘密が明るみに出るのが怖くなったのかい? 君は一人でモースを倒してしまうのに、勇敢なのに妙なところで臆病なようだ」

「……そうだよ。あなたには敵わないな」

 

 怖いとも。怖くて怖くて仕方ない。

 みんな怖いし、気持ちも経歴も何もかも悟られたくない。知られたらきっと手痛いしっぺ返しを食らう。だって私は牙の氏族だ。

 

 だから、仲間(むれ)からはぐれたんだ。

 

 

 

 

 

 オベロンたちから離れて、少し息を整える。

 信用されるべきではないと、そう思ってしまったけれど、これは実際にはあまりよくないことだ。信頼関係を築きたければ情報の開示は必要不可欠であるし、何よりも「そういう相手だ」と納得できなければどうしようもない。

 色々、履き違えていたり間違えてしまったことも多いかな。うん、きっと多いはずだ。どうしよう。

 とはいえ、切り替えなくては。やってしまったことはどうしようもない。

 

 

 

 見張りをすると言ったことを嘘にしないために一声かけよう、と、話も落ち着いたらしいカルデアの面々のほうに向かう。

 この國の面倒な部分に触れたのだから、不信感を隠せはしないだろう。アルトリアたちだけではなく、私が話しかけたとしても、動揺は隠せないはずだ。関係がギクシャクしてしまうきっかけになるかもしれない。

 

 ──だが、そんな今だからこそ話しかける必要がある。

 

 

「妖精も人間も一代限り……」

「その通り。よく気づいた、というより、思ったよりも気付くのが早かったね」

「っ、ギャリー!」

 

 ちょうどタイミングが良かったらしい。

 立香が呆然と呟いたのが耳に入り、思わず頬が緩んだ。今気付いてくれなかったら不自然だから、少し安心した。

 

「驚かせてごめんよ。ちょっと聴きたいことがあったんだけど、うっかり聞こえたものだから、つい」

 

 頬が緩みすぎないように気を付けながら、無害を気取って近づく。いや、危害を加える気は毛頭ないし、彼女たちを気に入っているのも事実ではあるんだけど、それはそれだ。

 

 けれど、動揺する立香とは反対に、ダ・ヴィンチはひどく冷たい目をしていた。……なぜ? 

 

「……ギャリー、キミは【赤ちゃん】を知ってたろう? それだけじゃない。ウェールズの森で立香ちゃんから汎人類史の話を聞いた時点で、私たちとブリテンの違いを理解していたはずだ」

「どういうことだ。お前さん、妖精國の出身だと言ってたよな」

 

 

 ダ・ヴィンチは表情を消している。彼女の言葉を聞いた村正も警戒の色を浮かべて、すぐ戦闘態勢に入れる状態で構えた。

 

 ピリついた空気に、うっかり手が剣へと延びそうになって……意識的に押し止める。危ないな、これは敵対ではないんだから、わざと煽る行動をしてはならない。

 

 

 ダ・ヴィンチのほうは、きっとわざとではない。腹を立ててるんだろうな。それに、私が敵か、いつ排除すべきかを考えている。

 それもそうだろう。彼らからしたら、私は彼らの常識を多少なり知ってるのにもかかわらず黙っているわけだ。不審だし、そもそも汎人類史の仲間ではなく、生まれも育ちも妖精國側の妖精だとして理解している。

 彼らが既に私たちの性質について一通り理解している以上、何をしでかすかわからないものとして警戒するのは当然のことなのだ。

 

 

「そんなに身構えないで欲しい……といっても無理だろうね。

【赤ちゃん】は人間の幼体でしょう。信じられないくらい姿が違って、たしか大きさもバスケットに入ってしまうくらいじゃなかったかな。それと、【お父さんとお母さん】は立香から聞く限り、【赤ちゃん】を育てる共同体の教導役で間違いないと思うんだけど」

「ああ、その通りさ。それで、どこでそのことを詳しく知ったんだい」

「……なぜ、立香の話以上に知っていると?」

 

 意外。早くバレてしまった。

 警戒は解かれない。プレッシャーもかかったままだ。歴戦のオペレーターというのは、やはり厄介だな。

 

「キミが赤ちゃんの大きさをちゃんと理解していたからだよ。立香ちゃんが話したのは家族のことや友達のことだったはずだ。なら、大きさまで知っているはずがない」

 

 ああ、なるほど。先に私が口を滑らせていたのか。

 

 やっぱり、こういう行動には向いていないんだろう。実行したところで、すぐに破綻してしまう。難しいなぁ。

 彼はあんな緻密な計画をほとんど破綻なしに運営できていたのだから尊敬する。私には無理だ。

 

 諦めて、両手を軽く上げてひらひらと手を振る。白旗はこっちにはないし、きれいな布もないからこれが精一杯だ。

 

「ごめん、降参。わかりやすく失敗していたかぁ」

「……ギャリー?」

「ややこしい振る舞いをしたことは謝るよ。でも、私が【赤ちゃん】を知っていたのは、仕事の対価として外の──汎人類史の話を求めたから。そのあたりのことは、正直に言うと隠しておきたくて誤魔化したんだよ」

 

 これはほとんど本当。聞いた話として知っていることも多い。もっとよく知ってはいても、聞いたことも事実であるなら嘘にはならないはずだ。

 

「”外“の話って、どこで仕入れたんだ、そんなもん」

 

 村正が警戒を解いて改めて座り直して問いかけてくる。

 

 正直にいうとさっきまでこちらを警戒していた彼はかなり怖かった。相手は相当にできるとわかってるうえ、彼の刀は質の良い鉄だ。私たちにとってはモースと同じ、いやそれ以上の毒だから、冷や汗が噴き出た。

 お陰さまで、さっきの少しのやりとりの内に背中がひどく湿っている。できるなら水浴びをしたい。

 

「スプリガンの城。彼の私財が溜め込まれた堅牢な城で、金庫城ともいわれていてね。あの城には外からこの國に流れ着いたものがたくさん集められている。だから訊きやすかったんだ。もしかすると、ムリアンも知らないような本もあるかもしれないよ」

「それは本当かい!」

「ああ。ただ、さすがに私も好き勝手はできないし、する気もなかったからね、内容については提供できないよ。そのことだけは諦めて欲しい」

 

 スプリガン、かなりの私財を溜め込んでたからね。

 彼の背景が背景だからか、教養人として嗜むべきものは沢山あった。贋作新作が入り交じっているために質は担保できないとしても、あの財の価値は計り知れない。

 

 彼は私がそれらを理解していたことを気に入ってくれていたようだが、もはや関係のない話だろう。

 

「でも、それだけじゃあ理由にならないよ。なぜ、キミは汎人類史の話を詳しく知っているんだい」

「……今代になってから14年くらいかな、スプリガンの城の宝物番をしてたんだ。番人になるよりも、むしろあの城を離れる方が大変だった」

「スプリガンの城の宝物番!? なんでまた、そんな仕事を?」

「用心棒をやってるときにたまたまトラブルがあって、その解決を手伝ったとき気に入られてね。それをきっかけにスプリガンと契約をしたんだ。それで外から来た本に書かれている話をいくつも聴いた。本当に高い買い物だったけど、楽しかったなぁ」

 

 もちろん給与も貰ったし、宝物番の14年はそれで存在税を払っていた。汎人類史の話はいわばボーナスだ。たまに、扱いをわきまえていれば条件付きで現物に触ることも許されたし、今思えばかなり優遇されていたのだろう。

 それで聴いた話には子供だましみたいな話も多かったけど、彼の過去についての話は聴いていてよかったな。そのとき生きていた人間が語るものでなければわからないことは、往々にしてある。

 

 とはいえ、それだとはぐれものではないと思われるかもしれない。だが、宝物庫を守るときはほぼ一人でいたのだ。たったひとりで内側から私財を守るのだから、それはそれではぐれものとしても問題ないだろう。

 

 

「じゃあ、なんで番人をやめたの?」

「……しがらみが多くなったからだよ。ノリッジは土の氏族が多い街だ。それに……まあ、行けばわかるよ。私にとっては、長居するのには向いていなかったんだ」

 

 まあ、外にいる間に私が同調しないように自制していたのも原因ではあるだろう。兵士も街の鍛冶屋連も気のいい者たちではあったけれど、味方は少なかった。長居をすればするほど、そうではない周りからの視線は厳しくなったのだ。

 辞めるときこそスプリガンからはかなり熱心に引き止められたけど、金庫に籠っていてなお居心地が悪くなってしまっては、もう駄目だった。

 

「……っと、そうだ、見張りをするつもりだったんだ。明日も早いし、みんなは早く寝たほうがいいよ」

「わかった。それじゃあ、おやすみ」

「ああ。寝ずの番はありがたいが、無理するなよ」

「おやすみ、ギャリー」

「おやすみ」

 

 長くなってしまった話を切り上げ、その場を離れる。

 背後から、幾つか視線が刺さるような感覚はあったが無視した。背中から刺されることがないならなんだって構わない。どうせ、彼らと共に歩いていけるのはあと少しなのだから。

 

 

 

 

 

 

 そうして歩き続けると、まだ雲の引かない懐かしい街があった。

 鍛冶屋も槌の音を高く鳴らし、人間の兵士が注文をつけ、行く人々が軽口を叩き合い、鍛造品も鋳造品を競うように売買している。

 

「「「「「すっごく、さわがしーい!」」」」」

 

 ノリッジでは、やっぱり活気が失われていなかった。

 これでこそノリッジだ。

 途中でナックとオベロンが話をしていたらしいけれど、一団からちょっと離れた露店を覗いてしまって、話を聞いていなかった。残念なことをしたと思う。

 あとで顔を見せる予定だったのだから、きちんとついていけば良かったな。

 

「さて、これからは手分けして行動しよう。その方が効率がいい」

「それなら、私は単独行動でもいいかな。ちょっと寄りたいところがあるから」

「え、君も宿探しに来ないのかい」

「ああ、悪いけれど、ちょっとね」

 

 もちろん、ナックの鉄火場にも行きたいのもある。彼が今の片刃剣を造ってくれたのだ、どうせなら彼のところでメンテナンスをしたい。

 だが、それ以外にもやることがあるわけで。特に、表にない情報などはこちらでも探せたほうがいい。

 

 オベロンが情報を仕入れられるのは表だけでないとはわかっているが、それでも伝手から情報を集められるに越したことはない。

 

 

「そっか、ギャリーって」

「ストップ」

 

 まったく悪気なく、おそらく昨日明かしたことを言おうとしたであろう立香の腕を引き寄せた。

 危ない、あのことはあんまり言われたくないから、もうちょっと念入りに口止めしておくべきだったかもしれない。

 

「立香、悪いんだけどあんまり言わないで欲しい。ちょっと色々とあるから、ね?」

 

 不審だろうけど、オベロンたちにはあんまり知られたくないのだ。まあ、詳細に知られるまでの時間があと少し引き伸ばせればそれでいいんだけれど。

 

 そもそも長らくオベロンと会わなかった一番大きな理由は、この街で籠って仕事をしていたからだ。そうでもなければ、2日でブリテンの隅から隅まで巡ることができる彼が気づかないということは無い。

 彼はどこにでも行けるし、小さい分、いくらでも目を掻い潜って偵察ができるのだから、気づかれてないことは奇跡といっていいことだった。

 

「ナックの鍛冶場にはあとで合流するから、よろしく」

「わかった。それじゃあ、またあとで!」

「うん、また後でね!」

「……ああ。それじゃあガレス、僕らも行こうか」

「はい、それじゃあ!」

 

 

 

 

 

 情報はといえば、さほど期待できるものはなし、と。

 ここしばらくの変化にしたって、脛に傷のある連中がいくらか摘発されたくらいで動きはほとんどなかった。

 

 空振りしてよかったかと思いながらナックの鍛冶場に足を運べば、アルトリアも村正もいなかった。先に工房を出たのだろう。

 ……これは予定よりも遅れてしまうのが確定か。まだギリギリ時間はあるとはいえ、終わってすぐ走っても間に合わないだろうな。諦めて叱られることにしよう。

 

「ナック、メンテナンス頼める?」

「おう、構わんぞ。……そういや、探してた先代はどうなったんだ。石だったらそいつで研磨したいって言ってたろう?」

 

 片刃剣を渡せば、じっと眺めた上で丁寧に調べて研ぎ直してくれる。自分でも時折研ぐとはいえ、土の氏族として長く仕事をしてきたナックの作業は具合が違う。

 

「ああ、運の良いことに石になってたよ。回収もした。けど、砥石にはならなさそうでね、今は手元にない」

 

 彼には伝えていた行動。以前の自分の死体探しは、ノリッジを離れてからすぐに終わらせていた。

 あるには、あったんだ。見覚えのある場所に、赤錆なんかも含んだ石があった。傍らには、ボロボロの鉄の塊。あれがなければきっと気付けなかったとは思うけれど。

 

 その石の真ん中には、青い宝石のような、透明度の高い石があった。宝石の青は鉄のいろ。私の知っていることが正しければそのはずだ。

 

「そうか、そりゃあ運が良いんだか悪いんだか。だが、よく見つけたもんだな」

「わかりやすかったからね、思ったよりは早く見つかったよ。それに、もし砥石として使えるなら、程度だったからね」

 

 鉄はかつてご禁制だったものだから、かつての私は刃なしの鉄の板をひたすら叩いて無理やり刃にして、隠れて使い続けていた。鉄の武器の使用が解禁されてからは、ナックの作った武器を買い取って、大手を振って扱っていたものだけれど。それでも初代の鉄の塊は持ち歩いていた。

 そういうことを続けていたせいか、私の死体は鉄を含んだ石になっていたのだ。鉄の武器で手を爛れさせるどころか、芯から鉄に染まってしまったなんて、笑う他ない。

 

 

 死体が変質した原石そのものは、結局どこかの妖精の岩が転がって砕かれたらしく、掴める大きさの石になっていた。それを砕いたとき出てきたのが、あの青い石だ。

 

 周りの余計な部分を荒く砕いて、できるだけ青い部分だけ残るようにしたのが、立香へ渡したお守りの正体。

 大した量ではないけれど、青い石のところだけは有事のお守りになるように持ち歩いていた。それで立香に引き継いだのだ。ノリッジを離れてすぐに手に入っただけに、まずまずの量の魔力を吸い込んでいるだろう。

 あれが、いつか立香の助けになれば良いと思う。同時に、そんな日なんて来なければ良いとも。

 

 

「よし、こいつでどうだ」

「……うん、いい感じだ。助かるよ、ナック。お代はこれでいいかな。多めに入れておいたから、次にアルトリアが来たら融通してくれると嬉しいんだけれど」

「おう、いいぞ。けど、お前さんもまた来い」

「もちろん。ありがとう」

 

 気のいいナックに感謝をして、店を出る。

 メンテナンスの時間はさほどかからなかったけれど、やっぱり時間はオーバーしているし、まずそうだ。

 

 こんなことなら情報収集は後回しか、丸投げするべきだったな!




絆礼装のネタバレ読みました。正ヒロインについては早く教えて欲しかったですね。同人誌沢山欲しい。


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古城の空は狭く閉じ

難産。まだまだ続きそうなので次回投稿までに連載を別口で作成します。


 金庫の奥はいつも暗い。薄く甘い匂いと古い物たち、それから埃の混じった雑多な匂いが空間に立ち込めている。

 蝋燭はない。訪れる者は少なく、また、金庫というもの自体、そうであることが求められる空間だからだ。ここにこもって一週間ほど。少しばかりの空腹感はあれど、喫緊の必要もないためにわずかな水分以外は口にしていない。昼と夜の感覚は薄くなっているが、時計の存在がその手掛かりを与えてくれるため、問題はなかった。

 

 

 微かに、空気が震える。木の軋む音がした。

 

 そのすぐあとに靴音がし、棚の間や積み上がった箱の隙間を動き回る。段々と、踵の響かせるそれが近づいてきていた。

 

「どこにいる、ギャリー・トロット」

「……私はここだよ、スプリガン公」

 

 現れた人物は、明かりを携えていた。一週間ぶりの強い光は少々目に痛いが、それでも、燭台の光というもののありがたみは薄れない。

 

「変わりはないか」

「ああ、誰一人訪れず、私以外は何一つ動いてやしない。皆、定位置に」

「ならば良い。……対価は、何でも良かったか」

 

 現れたスプリガンは相変わらずだった。ずっと変わらない姿ではある。きちんと整えられ、見事に揃えられている。

 しかし、人間臭さもまた、早々に変わるものではない。それをこちらの誰も知らないから彼は生きていられるのだが。

 宝物番として契約したとき、彼なら読めるという外の話を求めたのは、そういうところにある。有り様を隠しつつも、ここで知ることの出来ない過去を知ることは、故郷の地が恋しい心の薬になるのだ。

 

「可能なら、貴方が気に入ったものを」

「そうか。ならば、恐ろしい話をしてやろう」

 

 長い離別に記憶を残したまま繰り返す生など、かつて自分が歩むと思ってなどいなかった。

 彼もまた、こんなところに来ると思ってはおらず、その記憶を求めるものが現れると思っていなかった。

 

 ──そうして語られる物語の名は『牡丹燈記』。私の知る物語の元になった、哀れな死人女の恨み話だ。

 

「何を思った?」

「哀れだなと、そう思うよ。死んでから出来た慕わしい相手だ、それはそれは怨めしいだろうよ」

「なるほど、お前はそう捉えるか、足往(あゆき)

 

 公は私を足往と呼ぶ。なら、ここでの私は足往なのだろう。同じ犬ではあるだろうが、宝など見つけられないので皮肉めいている。

 

 目の前で、金髪の土の氏族長は笑っている。

 蝋燭の明かりに照らされる目尻の皺は濃い。顔色は悪くないが、化粧や礼装によってごまかされている部分もあるだろう。

 

 腹の中では次の謀略が渦巻いている。それがどんな奸計になるのかまでは知らないが、きっととびきりの罠を仕掛けるのだ。相手が妖精であろうが、いや、妖精だからこそ、彼は政治的駆け引きが上手い。それに、相手は生殖で増え、コミュニティを形成して生きてきた人間を知らぬ妖精たちである。我々からすれば、本来それを察することは難しいのだ。

 

「公よ、尋ねたいことがある」

 

 ふと、気になることがあった。

 不可思議そうな顔をするスプリガンに、訊くべきか悩んで、口に出すことに決めた。もとより、そのために口を開いたのだから、ここで引っ込めるのはばつが悪い。

 

 

「どうした」

「……貴方は、死ぬことは恐ろしいか」

 

 この人は、何が恐ろしいのだろうか。

 この国に生まれた妖精ならば誰しも、モース毒にやられたり、魔物に食われて死ぬのが恐ろしかろう。けれど、彼は違う。ただ外からこちら側へ呼び寄せられただけの人間だ。ならば、何を忌避するのだろう。

 人であると知れることか、それとも、帰ることが能わぬことか。

 

「いいや? だが、この宝を価値も知らぬ誰かが手に入れると思うとおぞましい」

 

 返された言葉は、明瞭で、あまりにもあっさりとしたものだった。

 

「そうか。スプリガン公、貴方は強いな」

 

 

 いずれ死ぬにしては、あまりに強靭だ。長生きも出来るかもしれないし、彼のことだからそのつもりで方策を探してもいるだろう。

 だが、それにしたって己の死を見つめざるをえないのに生き延びているこの男は迷っていない。

 この人は強い。そして、私が持ち合わせないその強さが羨ましいと、つくづく思う。

 

 それが判ってか判らないでか、スプリガンは顔を僅かに歪ませた。不機嫌そうに引き結ばれていた口が、にわかに動く。

 

「だから、お前は見届けろ、ギャリー・トロット」

「無茶を言うね、雇い主殿は」

 

 雇用関係にしては、奇妙な言葉だったと思う。

 だが、私には政治的な意図や彼の心情などわからない。私は混ぜ物が多いだけで正真正銘の妖精であり、彼は人間なのだ。

 ならばただ、紛れもなく彼の信頼を表すものとして受け取っておけばいいだろう。これから先の、予言の成就までは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る、走る。嫌な予感がする。

 

 待ち合わせのあと、何がある予定だったか。思い出したときにはもう間に合わないところだった。

 広場の見えるか見えないかのところまで到達したときには、群衆のようなものが見えつつあった。

 

 いや、まだなら。まだ演説をしているならば間に合うかもしれない。

 

 どの程度のやり取りになるかはわからないが、あの手のパフォーマンスはそう長々やるものでもない。ただの一瞬、偶像を相手の印象に強く焼き付けて、すぐに引っ込めるものなのだ。それから、もっともらしく引っ込めた理由を述べて口八丁手八丁で丸め込む。

 渦中の相手は、それがどういうものか想像しにくい。蚊帳の外にいれば子供ですら判るとしても、だ。

 

 

 

「マシュ!」

 

 ──辿り着く前に、マスター(あのこ)の声が聴こえた。

 

 ギリギリまで勢いを殺さないよう足に力を込め、跳ぶように駆ける。

 間に合わなくても、まだ彼女はあの場にいるのだ。少女を演説台前に取り残してざわめく妖精の群れは、まだ敵ではない。

 

 だが、それだけだ。だからこそ走り続ける。

 走って、跳躍し、カルデアのマスターの姿を見た。

 

 

 囲まれた立香は、周囲の兵士にも恐れることなく立っていた。否、兵士など気にならないほど、茫然としている。

 目の焦点は合っていても、立ち方、顔つきのその全てが物語っている。既に彼女の手を落ちたものが、その重さが。

 

 ──してやられた。

 あの元雇い主のことだ、本物の乱入や建前の看破(このぐらい)は確実に計算している。だからこそ、かつての顔見知りである兵士たちが立香を取り囲んでいるわけだ。あの狸め、こういうときは本当に厄介な。

 

 

 ということは、我らがカルデアのマスターは噂の《予言の子》である妖精騎士に近づこうとしたわけで。

 居ても立ってもいられなかったであろう黒い戦闘服の彼女は、まだ演説台の前に立ち尽くしている。

 何にせよ放っておけない。彼女が害されたら、予言の子の巡礼は立ち行かないのだ。ここでお終い、なんて冗談ではない。私にも、彼らにも。

 

 

 シュシュで纏められた赤い髪が揺れていた。顔は見えないが、ダメージが大きいことは見てとれる。体は、その肩は震えてはいないが、きっとそれ以上に苦しいだろう。

 

 

 でも、そんなことで大事な人を諦められるものか。

 

 悔しいだろう。悲しいだろう。だがそれ以上に、無力感がある。忘れられること、失うことを繰り返そうが、それを学習できるほど藤丸立香は大人でもないはずなのだ。

 まだ、背負わされているとはいえ、彼女は子供だ。そして、彼女ほどの年頃だったら、友達の大切さはそれこそ命に等しいことだってある。

 

 だから、叫んだ。この子は、まだ手放さなくていい。

 まだ、相手も自分も生きている。だから、訊かねばならなかった。私が、彼女の口から聴きたかった。

 

 

 

「終わりか、立香ァ!」

 

 腹に力を込め、空中から落下を始める寸前、叫ぶ。

 ──立香が、私を見た。

 弱い光をした目が、叫びながら落ちる獣の姿を、ハッキリと。

 

 

「まだだよ!」

 

 

 火花のように、意思が爆ぜるのを見た。

 

 

 ならば、まだいける。

 

 そのまま身を捩って兵士のいるあたりに落下地点をずらし、踵落としで1人、ついでに周囲にいた4、5人を蹴り飛ばしておいた。

 ついでに蹴った勢いで立香の元へバックステップで移動する。

 

 

 立香に駆け寄る前、ちら、と、その状況を作り出して撤退する間際だった金髪の男と、目が合ってしまった。

 相変わらずの強い光は、やはり寄る年波に左右されるものではない。こちらまで焼き殺せそうな、鋼の意思の乗った視線。

 ──これだから、政治屋を敵に回すのは嫌だ。

 

 

 

「まったく、立香も無茶をするなぁ……!」

 

 まだいけると言ったのは彼女だ。言わせたともいうが、だからといってそれは消える訳じゃない。声にも、目にも、消せるほど弱い火は宿っていない。

 

 俯いていた顔は、既にこちらを向いて真っ正面から見つめてきていた。黄金にも似た琥珀色の目が私を見る。

 ──まだ、いける。まだ終わってはいない。むしろ、言葉にするよりもその視線にこそ説得されるほどに瞳が燃えていた。

 

 

 同時に、自分が彼女のことをかなり舐めていたと理解した。

 見ないと納得できない信頼など、信頼と呼べただろうか。それを信頼として良かったのだろうか。そう思うと腹の底に黒いものが渦巻いた気がしたが、今ここで考えることではない。

 

「ギャリー!」

「ほら、正念場だよ立香。どうする?」

 

 大丈夫、彼女はまだ立てる。

 その実感を得て気合いを入れ直した私とは対照に、スプリガンの兵は明らかに動揺していた。

 かつての同僚が躍り出れば動揺もするだろうが、それにしたって、まるで私がこの状況を静観するだろうと思っていたような態度だ。

 

「ギャリー・トロット、どうしてお前が!」

「契約だよ、わかるだろう?」

 

 

 それについても、あとで調べる必要があるかもしれない。スプリガン公は厄介だ。どこで、どの段階で彼の采配があるかがわからないと困る。だって、私は立香と契約しているのだ。

 

 正式な契約ではなくても、立香が道連れであることに差はない。そのように決めて、ここまで来ている。それに、あの石を渡しているのだから確実に彼女とは連れ立っていく必要があるんだ。

 そうすれば、今の彼らに求めていることはなくとも、私の願いは最終的に彼らの手で叶えられる。途中で死んで、またどこかでやり直しになりそうになっても、だ。

 

「この子が今の雇い主の連れでね、退いてくれないか」

「いくらお前が雇われていたからと、」

「ああ、言い方が悪かったのか。この子に手を出すな、まとめて食い殺されたいか」

 

 犬歯を剥き出し、笑う。大人数だ、恐ろしくないかと言われれば当然恐ろしい。だが、この子が害されるかもしれないと思えばなんてことはない。

 

 

 これでも顎は強いんだ、相手を食いちぎるくらいは造作もない。殺したくないと思ったって、それが自分の牙であるか、剣であるかの違いだけ。命のやり取りであることに変わりはない。

 

 ぎょっとした相手が一歩後ずさるのに合わせて、一歩、踏み出す。また後ずさる。追いかけるように、相手が退いた歩数分だけ、踏み出す。

 半端妖精の威嚇だが、半端だからこそ効く方法だ。牙の氏族でもやらない同族食いを引き合いに出すだけ、こちらも覚悟はしている。

 

 下手をすれば全面戦争、だが、ここでなにもしなければ退けられるだけだ。ここで必要なのは、撤退よりも面子。スプリガンの配下である絶対性を崩しておかねば、この後の動きにも差し障る。

 

 

 脅しでさらに数歩退かせたところで、奥歯を噛み締めている立香の肩を叩く。

 それで気づいたのか、顔が少し柔らかくなった。

 

「よく耐えた。例のマシュって子は無事だったかい、立香」

「……うん、大丈夫そうだった!」

「なら良い。さて、どう出る?」

 

 琥珀が燃える。諦めているわけではない。まだ折れていないから、何度だって、どうなったって彼女は立ち上がる。

 

 痛々しいまでに、眩しい意志だ。

 

 

 

 

「当然合流を目標に!」

「了解した、それじゃ、行こうか」

 

 

 剣を構え直す。

 さて、相手の技量も癖もおおむね知ってはいる連中ばかりだが、どう切り抜けたものか。そう考えると、ひどく心が踊った。

 

 ああ、全部食い殺せたら、腹に溜まるんだろうな。

 



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天下の烏、鉄の樹の花

暗愚な君主と、女狐、神仙に至る道士の話。
(※封神演義や紂王、妲己絡みは色々ごちゃ混ぜ。太公望の逸話も色々あってよくわからんので捏造過多)

ツングースカ、よかったですね。正月怖い。


 生まれ変わって、古代の天子の子となり、即位して。

 ろくに知識のない私も長生きをすればそれなりに整えられた。父親やら教育係やらにさまざまな教えを叩き込まれた私は、軟弱な現代人の精神のままとはいえどうにか政治を始め、臣下を従え、賢人と弁論をし、そのまま卅年ほど。

 

 

 時の流れは早く、私は老いた。

 だが、私の体は歳を取らなかった。

 

 

 それが意味するところを、私は理解できない。ただ、そういった変化は望ましくないということだけは理解していた。

 考えるまでもなく、年を取らない絶対的君主なんてものは害悪でしかない。見た目が若かろうが中身はだいたい十代二十代がいいところで成長せず、世相には疎くなっていく。だから、価値観が時代遅れなだけならまだしも、時代の要請に求めることは当然できずに国を潰す。

 

 

 学ばねばならない。学ばねば、いずれ殺される。

 それだけがいつも頭の片隅にあった。

 

 

 

 だからだろうか。妲己という女の話を聞いたとき、嗚呼自分が例によって暗君なのだと初めて知った。

 だったらもう、少しの理性以外は好き勝手にしてやれと思った。

 

 人を焼くことは嫌いだった。

 殺したいとは思わないし、血を見るのは好きではなかった。でも、家臣であまりに()()()()()者を廃せるというのは良かった。女に溺れることは、心地よかった。大がかりな儀式を簡略にして時間を捻出できるというのは嬉しかった。

 

 だから、私は妲己に溺れている。

 

 

 だが、頭は冷えたままだった。

 学ぶことはやめられなかった。弁論も手を抜けなかった。賢人を招くことも、変わらずに行った。

 

 

 今している日課も、そうだ。

 

 頭がぼんやりする。それに寒い。

 蝋燭が数本だから、今何時だ。日付は変わったような気がするけど、眠気で頭がぼんやりするからわからん。

 

 筆を一度置き、伸びをしてからそろそろ寝ようか茶を飲もうかと思案していると、不意に戸が叩かれた。

 

「皇帝陛下におかれましては、」

「拝礼は良い! 何なんだ、夜更けに」

 

 片付けなど終わってもいないから散らかし放題だ。

 墨と筆はいいとして、せめて客人を通せるように書籍を積み直す。本当に誰なんだ、いったい。

 

 

「誰だ」

「貧道です」

 

 貧道、とは道士が身分の高い者に対し、へりくだるときによく使う一人称だ。そうした形ばかりのやりとりは好かんが、いかんせんここは宮中である。警備のものもいるのだから仕方もあるまい。

 それにあの声なら、たしか思い当たるのは呂道士だったか。

 

 謙遜なぞ、しなくても良い。とはいえ立場の上ではそういうこともできないだろうが、室内なら多少は崩しても良かろうと招き入れることにした。

 

 

「呂道士か、入れ」

「はい、失礼しま……え?」

 

 戸を開け放ち、柔和な青年の様子を残したまま、呂道士が固まった。

 

 とはいっても、妲己に肩入れしているから念には念をというところなのだろう。しっかりと身支度を整えてやってきた。ちらと腰の辺りに視線を落とせば鞭のごときものがある。……なるほど、備えは万全らしい。

 

 

「許せ、就寝前で手元にろくな衣がないのだ」

 

 

 机の上を片付ける。

 こちらは就寝前の自学を行っていた身だ。碌々姿を繕ってもいないがもう構うまい。下手に身支度に時間をかけて勘繰られても困る。

 そもそもこんな時間に来る呂道士が悪い。

 

「茶でもどうだ、呂道士。夜更けだ、いくら修行で慣れようが、貴君も冷えよう」

「あ、えと、お気遣いは」

「気にすることはない。貴君が飲まずとも朕は飲む、いかがか」

「……それなら遠慮無く」

 

 急にうろたえ始めた道士にとっとと入れと促し、茶器を取る。自分でいれるのはあまり良くはないのだろうし、女官より淹れ方が下手だが、それも許されたい。夜更けだし。

 

 呂道士は彷徨わせていた視線を落ち着け、わたしの向かいに腰掛けた。茶器を受けとり、香りを楽しむ様は普通の青年に見える。見えるだけ、かも知れないが。

 

 

 茶器を広げたあと、ちら、と様子を見る。宮女も羨むだろう艶のある髪が広い背に広がっていた。十分に櫛梳っているのはわかるが、あまりにも無造作に広がっていすぎやしないだろうか。いくらか結ってしまえば良いだろうが、あまりきつく結わえないのを気に入っているのだろうか。

 

「呂道士、その髪は邪魔ではないか」

「まあ、多少は。ただ、僕、不器用なんですよ」

「そうか。難儀だな」

 

 もったいないな、と思った。こんなにきれいな髪で、もしかすると私よりも美しい髪をしてるのだ。なにもしないというのは、少々損ではないか。

 そこまで考えてから、机に置いていた釵に思いを巡らせる。どうせ少し話をしたら帰るだろうが、茶を飲むとき口に髪が入ると面倒だろう。

 

「女物で悪いが、使うと良い。退出する前には返してもらわねば困るがな」

「それは、妲己の」

「いいや、私のためのものだ。手元に置いておきたくてな、揃いで作らせた」

「……そのようなものを、借り受けて良いのですか」

「構わん。返さねば、そうだな……私が落ち込むだけだ」

 

 釵を差し出すと、彼は逡巡したのち、おずおずと手を差し出し受け取った。

 妻がいたというから、纏め方は知っていたのだろう。不器用と言った割にそつのない仕草を眺める。彼の髪は妲己ともまた違う。彼女は舶来の絹糸のごとき髪であるが、どちらかといえば呂道士は山蚕の糸のようだ。どちらも質の良い髪であるから、金に困っても売れば多少のどころではない額になるのではないだろうか。

 

 

「それで何用だ……ああ、ここには他の者はない。楽にしてせよ。言葉遣い、態度の無礼も赦す」

「そこは普通に尋ねるんですね!? ……いやぁ、まあ。陛下に聞きたいことがありましたので」

「こんな夜更けにか、それはまた、熱心なことだな」

 

 

 茶を啜る。濃く淹れ過ぎたかと思ったが、存外いい塩梅になっていた。

 ひとくち、ふたくちと啜ると、温かさが胃から体に広がっていくようで心地が良い。

 

 

「なぜ、妲己を寵愛なさるのです」

「あれは美しいだろう。それこそ、骨まで溶けてしまいそうなほどに」

 

 なんだ、と少しばかり気が滅入った。

 諌めの言葉は聴き飽きた。また、変わらぬ進言だろうと思うと、この男も所詮その程度かと、こころなしか茶の味が薄くなったように感じる。

 

 

「ええ、ですがそのようなことに囚われるほど陛下は軟弱ではないはずです」

 

 

 茶を飲むのを、止める。珍しくしっかりと開いていた目と視線が合った。

 見透かされているようでもある。どこか遠くを見ているような目で、思想まで見られているような。

 

 

「……なぜ、そう思う」

「妲己を見る貴方様の目を見ればわかりましょう。

 いかに杏のごとき顔や柳のごとき腰に顔を甘く綻ばせようと、陛下の目は凪いでいました。ずっとそうです」

「目が良い男だな、貴君は」

 

 この男、噂通りに優秀だったか。随分と目が良いことだ。しかしまあ、気づかれたところで別に構わない。言わずともそのうち気づいてしまうに違いないからな。

 

 こちらから種を明かしてしまえば、この善良な道士は激昂するだろう。そして後の世に私の考えたことが残される。最悪の暗君の思想として。

 

 

「呂道士、私はな、歳を取らぬのだ」

「ええ、存じています。いよいよ即位し卅年を迎えんとしていらっしゃいますが、見目は二十歳の頃より変わらぬものと」

「ああ、そうだ。……だから、朕もろとも吾が国は滅んでしまえばいい」

 

 

 呂道士がやおら立ち上がる。

 その双眸は燃えていた。この柔和な道士でさえ、怒るときは常人と変わらないのか。本当に、現代のどこにでもいる普通の青年のようだ。

 

 そう思えば、少し、懐かしいような気がした。

 

「あなた様は! 自らが何を言ったかわかっているのか!」

「わかっているとも。……なぁ、呂道士。貴君は歳を取らなくなって、どう変わった?」

「……は?」

 

 

 立ち上がったまま、道士が素頓狂な声を上げる。

 見た目が若いこの男は、修行をしたための不老である。だから、私のような人間の気持ちなぞわかるまい。

 ──好き好んで不老を受け入れる人間もいるだろうが、そうでないものも、人界には居るのだ。

 

 

「我が心は、恥ずべきことに童児と変わらぬ。まだ親も若く、結婚よりも兵役で戦うことだけ考えるような童児同然の未熟者が、世間の変化も理解しないままに吾子を、国を育てるのだよ。……恐ろしいと、思わないか」

 

 

 くら、と頭が揺れそうになって、堪えてから下を向く。

 思考はまとめていたのに、開くべき口が重たい。眠くて、もうなにも気にせず寝てしまいたい。でも、言わなくては。客人の前で無様を晒すのはいけないことだ。

 

 

「朕はいずれ、耄碌して私の手で吾子を殺すだろう。よかれよかれと吾子の口から粟の粥を奪い、かわりに砂礫を食わせ、果ては鴆を浸した粥を食わせるだろう。国を納めたこともなく、神仙へ至ることを目指す貴君にはわかるまい」

 

 

 眠い。道士に滔々と語りはすれど、抑えていたはずの眠気がどうにも酷くなってきた。

 気を抜けば人前だというのに船をこいでしまいそうな強烈な眠気だ。最後まで言う前に、気絶しそうだった。

 

 

「わたしは、吾子らを育てるべき人間じゃない。ずっとそうだった。……それでも、それなのにここまで来てしまったんだよ、呂道士」

 

 

 膝にかけた布を手繰る。

 寒い。眠い。だから、そろそろ帰ってもらおう。

 

 顔を上げる。茶器の水面が揺れた。

 これも、もう冷えてしまっただろう。眠気は消しきれないとはいえ、相手を見る。道士の姿がぼやけている。

 

 

「話が終わったのなら、帰り給え。今夜はいささか冷える。貴君も冷える前に、温かい衣を羽織りなさい」

「っ、失礼します」

 

 

 堪えられぬ、とばかりに怒声のような返事を発した道士が、立ち上がってこの場を辞そうと律儀にも釵を抜く。一瞬の内に髪が散らばるように解け、道士にしては逞しい背を彩った。

 言葉の荒々しさとは反して、釵を卓の上に置く動作は柔らかだった。軽い音と共に置かれた釵は、蝋燭の光を受けて柔らかく光っている。

 そうかと思えば、呂道士は素早くこの場から去っていってしまっていた。走っていったようにも思うが、ここで罰するほどの狭量と思われたのであれば甚だ心外であるのだが。

 

 やはり、彼には私の考えは合わぬらしい。それも仕方がないか。彼は道義を尊び、私はそうではない。それだけのことである。

 

 しかし、妙に寒いし眠いな、と思って動いて、妙な感覚がするのに気づいた。

 ちら、と衣の袷を覗いて、天井を仰ぐ。

 

「……しまった」

 

 下着がわりの下布すら巻いてねぇや。さすがに人前でこれはない。

 

 衣が厚手だったから透けてはいないが、呂道士には見苦しいものを見せてしまったな。最後は相当怒ってたし、どうせ忘れているだろうが。

 

 他人に対してはそうも思わないが、この体は醜い。

 まだ比較的垂れてないとはいえ、この頃の暴飲暴食は腹回りやら首やら腿やらにも現れているだろう。見た目をどうにかする努力ぐらいはしておくべきだった。

 

 

「まあ、いいか。妲己に会えば、忘れるしな」

 

 どうせもう長くはない。ならば、いい。

 どれだけ水をやり、土をよくしたところで、鉄の樹に花は咲かないのだから。暗愚とされることに変わりなぞあるまいな。

 

 

 

 

 

 

 

 妲己は、私の裸体を知る唯一の女だった。

 晒していいと、初めて思ったからだ。

 

 

「お前は、私と似ていると思ったんだ。だから、覚悟があるのなら、共寝をしてほしい」

「……ええ、もちろんですとも」

 

 答えた妲己に満足し、するり、と衣を落とす。

 傷まみれの私の体を見て、妲己が小さく息を呑んだ。

 

 ──私の体が、女のものだったからだ。

 

「これは、私の罪。これが私への罰だよ、妲己」

「陛下、それがどうして罪なのです」

「だって、こんなの天は赦されないだろう」

 

 天子は乾であり、后は坤である。

 ならば、私が天下を治め、地しかない今は? 

 

 

 彼女は残虐だ。彼女は美しい。

 

 だからこそ、私は彼女を好きになった。少なくとも友人に抱くよりも下劣な欲がある。この女を抱くことを求めるようになった。

 

 女に恋をしたことを後悔などしない。だが、それでも天下を欺いて何になるだろう。

 女の天下をよく思わない者など多くいる。当然、私も私の知る紂王と変わらぬ末路を遂げるだろう。

 

 

「妲己よ、女が天子ではならないなら、私は天に背き続けていることになる。君とのこの閨事もそうだ。だから、ここでは私を煕鳳と呼んで欲しい」

 

 女は、我が子を次の天子にしたがるからだろう。

 本来ならば禅譲をするべきところを、ボンクラだったとしても玉座へと引き渡してしまう──そんなことを話していた。

 

 だから私は、閨では、妲己の前では天子たる子受ではない。自らつけた名の、ただの煕鳳としていたかった。

 

 

 

 

「煕鳳さま、何を考えていらっしゃるんです」

 

 思考が引き戻される。

 寝台に共に寝そべった妲己も、私も、衣は纏っていない。共寝をしていても寒いから、くっついて暖を取る。

 

「あなたのことだよ、妲己。私の体を見たときの、君の驚いてた顔を思い出してた」

「まぁ、意地悪。……ねぇ、陛下。煕鳳さま。お願いを聞いてくださいませんか」

「聞くだけ聞こうか」

「ふふ、つれないお返事。陛下とずっと一緒にいたいんですもの、聴いてくださらないと困るわ。それで──」

 

 妲己の願いを聴いて、笑ってしまう。

 真剣な顔をして、妲己の願いというのはとても些細なことだった。そんなものならいくらでも、と口約束をその場でできそうな、そんなこと。

 

 だからもう一度、戯れることにする。

 あと、何日彼女といられるのだろう。

 

 

 

 

 

 日が、落ちて部屋を照らし始めようとしている頃。妲己が隣で寝ているなか、ひっそりと起き上がる。

 重い腰をさすり、茶を淹れた。──道士に振る舞ったのと同じ、薔薇の実の茶だ。少し色を淡くすれば妲己の髪にも似た色になる。牛乳を飲むハードルは高いけど。

 

 

「あの青年には勘づかれてしまったけど、もういいか」

 

 

 あるいはあれは、若作りな爺だったのだろうか。

 道士というものは本当に仙人に至ろうとするものがいるのだから見た目で判別ができないのだ。

 

 だから私が言った何に対して怒ったか、何となくわかる。道士であるあの男が尊ぶべき相手を尊ばないことを、臣民を弄ぶような暴挙を、道理から外れていると信じたのだろう。

 歳が若かろうが老いていようが呂道士には関係なく、ただ天子であること、その振る舞いのみが絶対である。

 

 

「本心を晒したからこそ、あれらは本当に飢えたものを救うだろう。臣下たち(みんな)はよくやるだろうね」

 

 

 だから、あれはあれで良かったんだ。

 

 

 煕鳳として、子を生まず母にもならなかった。

 子受として、我が子たる臣民や国を十分に育てられなかった。

 

 

 天子として卅年近く、よりふさわしい天子を探した。

 同時に、自分で思い付く限りのことは、やったつもりだった。

 完璧な祭祀より、簡便で行いやすい祭祀をと計らった。

 粟稗にしても徴収し、日持ちする食べ物を作るよう研究をさせようとした。

 敬うべき君主にならねばと道を探り、蝋燭を湯水のように融かして使ってでも学んだ。

 

 無駄ではなかったと信じたいが、成果は芳しくない。やはり、わたしは鉄でつくられた樹のようなものだったのだろう。もっとうまくできる”次の天子“はいたはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 だから、わたしの軍は破れた。

 引き連れたものは戦争奴隷と犯罪で奴隷に身を落としたものたちだ。そのなかでも特にどうしようもない振る舞いをしたものだけを選別した。

 案の定、本当にすぐ瓦解したから笑ってしまう。降伏し、諸手を挙げて武王たちを受け入れた。それでもきちんと戦ったものについては弔われるだろう。性根が変わらないものも、文王なき武王の世でも《徳治》で変わるのなら安いものだ。

 

 

 

 そしてここにはもう、わたしだけ。

 

 使用人のひとりにいたるまで、皆逃がした。

 悪し様に言えと伝え、残ったわずかな財を握らせ、親切な誰かに助けてもらえるように。家族を守れるように。

 

 残った財は、着たきり雀のこの紫の衣だけ。

 日昇前の朝の冷えた空気には、少し寒い装いだったけれども。

 

 

 

「妲己、ちゃんと逃げたかな」

 

 冷たい空気が、肺を、身体中を漱いで透明にしていく。

 

 わたしの町は、きっとうつくしかったのだろう。これから夜が明ければ釜を炊く煙が見えるだろう。人々の活気も溢れるだろう。

 こうなっては、さほど見る間もないけれど。

 

 

 

「ほんとうは、さぁ」

 

 声が出る。もうここには誰もいないから、今ぐらいは弱かったわたしの本音を言ったって構うまい。

 きっと、妲己も呂道士も気づいてただろうけどさ。

 

「ずっと怖いし、怖かったんだよ」

 

 

 痛いのが、嫌いだった。

 死ぬのも怖かった。

 嘲られるのが怖かった。

 

 ──だから、死なないように滅多打ちにされながら剣術の訓練をした。いつだったか、気づけば誰よりも強くなっていた。だから同じように兵の動かしかたを学んで、国を平らかにしようとしてきた。

 

 ──だから、低く見られないように文字の練習をした。気づけば、見劣りはしない文字が書けるようになった。それでも文字を書くことは苦手で、執政も自分だけで書き付けるのは恥ずかしかった。代筆をしてほしかった。

 

 ──だから、批難されないよう良い国をつくろうと学んだ。身を偽り、寝る時間を削り、問答をして限界を知っても取り繕おうと必死だった。

 

 

 国を治めるのも、誰かの前に立つのも、死ぬのも。本当は怖かった。ひとりで籠って布団で震えてて良いなら、そうしたかった。

 

「でも、私が天子になったから、仕方なかったんだ」

 

 国が治まれば天帝のご意志の賜物。

 国が荒れればわたしのせい。

 

 ずっと逃げたかった。逃げ出したくて、でも、そうしたら次の天子がいないから、堪えるしかなかった。

 

 

 

 ほんとうは、ただ、誰かと並んで立ってみたかった。

 今世をただの女として、いろいろな人と接してみたかった。

 

 妲己は振り向いてもくれなかっただろうけど、天子でも貴族でもないただの煕鳳(わたし)として、普通に生きて、彼女と出会ってみたかったと、少しだけそう思う。

 

 

 けど、それも今日までのこと。

 

 鹿台から見る山向こうは、薄く色がぼやけてきている。天の星はまだ消えておらず、だが同時に日も昇ってはいない。

 

 もう大丈夫。私は私だ。天子として落ちるところまで落ちた。権威の衣も引き剥がされ、ちっぽけな私しか残らないところまできた。

 

 

 

「さあ、女禍娘娘、とくとご覧あれ!」

 

 

 鹿台にて、私は私と鹿台に油を撒く。

 寒い。着込んでいても上着がほしくて、でもこれ以上の礼装などないのだから、この姿で挑まねばと気合いを入れ直した。

 

 衣は紫。時は未明。

 これより夜は明ける。新しい、全く違う世が開ける。

 

 

「吾子や、吾が国や。吾が身は滅びれど、弥栄に」

 

 

 金板と、石を打つ。

 かちん、かちんと音が響き渡った。

 

 

「さいわいあれ」

 

 

 


 

 

 

 ──封神演義では、破れた紂王は鹿台で焼身自殺したとされ、またその死体の首は切られたという。しかし。

 

 

 

「何、首が消えただと?」

「はい、どこを探しても見当たりません! 妲己も市中に逃れたまま、見当たらず」

「そんな、馬鹿な……」

 

 

 その直後、紂王の首はいずこにもなく、煙のように消えてしまった。市中に逃れた妲己共々一度消えたのだ。

 

 報告を受け、執務室で机を壊さんばかりに殴り付けた武王であるが、そのまま力なく座り込んでしまった。

 

「何か……どうにかして王の首を取り戻し、祀らねばならん」

 

 焦る武王が消沈しながら呟いたとき、戸が叩かれた。

 

「入れ!」

「陛下、少しお話が」

「おお、太公望ではないか! 良いところに来た!」

 

 訪ねてきたのは、礼装に身を包んだ太公望であった。

 いつになく張り詰めた空気の満ちた武王を前に、泰若自然の立ち姿で拝礼をし、入室する。

 

 武王は武に長けた天子。とはいえ、礼を失することはない。すぐさま腰掛けるよう勧め、賢人に判断を仰いだ。

 

「知恵を貸してくれ、紂王の首が」

「ええ、はい。もちろん存じています。妲己が持ち去ったのでしょうね。だから、宮中に妲己を誘き寄せます」

「できるのか」

「困難ではありますが、やってみせましょう」

 

 太公望も真剣な表情で語り、普段は細めている目を開き、硬い表情をしていた。自然と、武王も背筋が伸び、表情を引き締める。

 

「ですから、市中に密使を放ち、噂を流していただきたい。持ち去った首があり、持ち去られたそちらが偽物だと思わせれば、いくら彼女でも姿を表すはず」

「そうか……ならば、その通りにしてみよう。誰ぞ、誰ぞある!」

 

 武王は声を張り上げて席を立ち、太公望は目を伏せた。

 ──狐狩りは、明朝である。

 

 

 

 

 翌、未明。

 煌々と火の焚かれる陣、その中央に紂王の首と胴があった。

 

 焼死したはずの体は、むしろ生前よりも張りがあり玉のごとく。首は苦悶の表情を浮かべて目を見開いていた。

 ──それらの前に、影が立つ。

 

「やはり、来ましたね」

「あら。誰がこんな悪趣味な真似をと思いましたが、あなたでしたの」

「ええ、その通り。お久しぶりです、妲己」

 

 遺体の前に立った影は、妲己、その人である。

 

 

「そう、じゃあ、あの人の首はちゃんと本物なのね」

「もちろん本物です。でも、貴女が持ち逃げをしたから偽物が晒されてしまったんですよ」

 

 

 陣に置かれていた遺体。その胴は本物であるが、首だけは太公望の術によって再現されていた。

 再現のもとになったのは、就寝前に太公望を出迎えた、あの夜の紂王の首から上である。それが、最も記憶に新しい、素の首であったからだ。

 

 だが、それを見つめる妲己の表情はひどく険しかった。

 

「まったく──とんだ不敬者どもが。閨での陛下の顔を、貴様がなぜ知っている」

「夜更けに尋ねたら普通に入れていただけましたよ。貴女に惑っていたとはいえ、道士の私を閨に招くほど淫乱であったとでも?」

「……そうね、そうだったわ。この人はそういう人だもの。まったく、もう」

 

 

 毒気を抜かれたようになり、妲己はあきれの混じった視線を手元に落とした。

 彼女は、下底部が赤く湿った布包みを持っている。

 

 

「しかし、まあ。陛下の首をまさか持ち逃げされるとは」

「獣は恩を忘れませんわ。あなたたちと違ってね。首を持って行ったのだって、晒されるのを防ぐためよ」

「口では何とでも言えるでしょう。……さて、答え合わせをしましょうか、妲己」

「ええ、構わないでしょう。当てられるものなら当ててごらんなさいな。陛下もお聴きになっていますもの」

 

 おもむろに、包みが解かれた。現れた顔は、術によって造られたそれとは違い、穏やかそのものである。

 

 内心を踏み荒らされるやも知れぬというのに、妲己は涼しい顔だ。当てられるはずもない、と思っていると、太公望にもわかっている。

 だが、それでもその平静さを剥がさねばならないと、彼はふたたび口を開いた。首は抱え直され、彼女の胸に収まる。

 

 

「まず、君が陛下の首を持ち去ったのは、呪具たりえるものだからだと思っていました。我々を擂り潰すために使い、用済みになれば棄てればいいのかと。……ですが、」

 

 

 汗が顎を伝い落ちる。

 彼女は話を聴き、目に剣呑な光を宿していた。それが何を意味するか、わからない男ではない。

 

 

「陛下の首を見てみて違うと理解しました。……手元に置いておくつもりで持ち去ったんですね。己の戦利品として」

「ええ、そうよ。でなくば、持っていく必要などあって?」

「どうするんです」

「知れたこと」

 

 

 女を見る太公望の喉が、笛のごとく鳴った。

 

 

「しばらく抱いてから、欠片も残さず食べようと」

 

 

 国を傾けた女が笑む。口の端が裂けんばかりに。

 白い歯が見える、壮絶な笑みであった。

 

 

 

「煕鳳さまったら、本当にあどけない顔をしていらっしゃるでしょう? 戻すのには苦労しましたの」

 

 するりと、白魚の指が朽ちもしない首を撫でた。

 血が通っていれば、その仕草に嫌々と反応をしてもおかしくはないであろうと思わせるほど、瑞々しい様子を保っていた。

 

 紂王の首は、生きていた頃ほど色がない以外は昏々と眠っているようである。あの夜、太公望に茶を出したときと変わらない顔で妲己に抱えられている。

 赤かった頬と唇は彼女が術を掛けたのだろう、生前のままにされていた。長い睫と髪は妲己が手ずからそうしたのだろう、生前よりもよほど美しく、宮中の女たちのように整えられている。

 

 

 それを幸せそうに抱く妲己もまた、美しかった。

 

「煕鳳さまはね、自分が死んだら死体は好きにして構わないって、食べたいならそうしてくれって泣き笑ってたのよ」

「……っ、それは」

 

 嬉しそうな妲己の姿に、太公望はぞわぞわと腹の底が撫でられ、混ぜっ返されるような嫌な感覚に囚われる。

 動けず、返事すらできずに、そのまま獣に話を続けさせてしまう。

 もちろん、妲己はすべて察したうえで口を開いていた。そうでなくては、極上の笑みの中に嘲るような歪みは見せなかったろう。

 

 

「化粧も、口に含んでも害のないものを煕鳳さまが作ってくださったわ。私がお腹を壊したら大事だって。……馬鹿な人でしょう」

 

 口先では馬鹿にしながらも、心底愛おしげに、楽しげに、臣下を炮烙にかけたときと変わらぬ優美さで妲己が微笑む。

 

 彼女がそっと、慈しむように抱えていた首の断面を掲げると、まだ新鮮な血が滴った。断面もまた、煤のあとすらなく、きれいなままになっている。

 

 

 

 妲己はその血を、戸惑い、固まってしまった太公望の目の前で啜った。

 

 小鳥が甘い果実を食むようにして飲み、唇に残る紅をぬぐう。だが、令嬢としては相当はしたない仕草の中にも、紅を引くかのような密やかさな甘さがあった。

 

 

 ──煕鳳さま。わたくしの煕鳳。あわれな小娘。いとしいひと。国どころか、自分の首まで私に貢いでしまって。

 

 

 

 妲己が笑む。

 犬歯を剥き出して、愚かな周軍を嘲っている。

 

「だからこそ。わたくしが、このひとを食べるの」

「な?! 待っ、」

 

 彼女は、彼らが首を安置するだけでしばし放ったらかし、みすみす手放す隙をくれたことに喜んでいた。

 そうでなければ、この男の、生前の煕鳳を知る男の目の前で獲物を食えなかったろうと。

 

 焦り、制止する太公望を尻目に、悪女が艶然と笑う。

 目線が合うように持ち上げられた首は、しかし目蓋も閉じたまま、愛した女に何一つも反応をせず。

 

 

 がぶり、と。王で自らを彩った獣が、冷たい唇に噛みついた。

 

 

 




鉄の樹に花が咲く:めったにないこと、実を結ばぬことのたとえ。


来年もよろしくお願いします。


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大海に沈んだ石

 お互いにお互いを化物かもしれないと思ってるショタ太公望くんと変人お姉さんの交流の話。

原点回帰のつもりで書いた息抜きです。
ちゃんと妖精國とヤンデレ妲己ちゃんも進めています。

(1/5 フォントのにじみ具合を修正し、加筆しました。)


「改札を抜けるとそこはジャングルであった。いや、ジャングルと違うけど」

 

 しかも改札ですらなく、潜ったのは商店街の看板ゲートである。何一つかすってない。

 

 

 迷った。人生どころかよく使う駅の周りで。

 しかも今日は休日である。いつもよりダイヤが少ないから、帰るタイミング間違えるとやばい。キッツい。

 そのくせ周りは木、木、木。まさに森。やめてくれ方向音痴にはつらいんだ。

 

「いや、どこだよ此処。地図使えないな?」

 

 スマホは故障、というかさっきから電池の減り早すぎて電源切れたし。

 

『まずいなー、迷ったなー、と思ったときには、なぜか駅チカには絶対にないはずの森にいた。』は小説の導入みたいだけど、実際なると笑えるものではない。

 普通に茂みとか繁ってる。木がわさわさしてるだけじゃなくて生えてないところに茂みできてる。ガチの森じゃん。

 

 

 いや、てか、なんで森なんだろう。だからどこよ、此処。

 

 

「はーーーぁ、どーしょっかねー」

「うわぁッ?!」

「ん?」

 

 

 気を紛らわそうと思って大きめの声で独り言を言ったら、近くで悲鳴が上がった。

 声がしたほうを見れば、小学生くらいの子供が尻餅をついている。子供いるんだ、ここ。すごい森なのに。一人で山やら森に行かせる親、最近めっきり減ってると思っていたけど、生き残ってたか。

 

 一方、転んだ少年はといえば、おかっぱ髪のちびっ子である。身動きはほぼしていない。いきなり出てきたように見えたんだろう私を、目を見開いたまま見ている。

 

 身なりはよくわからん感じだが、なんとなく育ちがよさそうな子供だ。体格は悪くない。むしろ肉しっかり食べれば大きくなるだろう。育てよ若人。

 というか、見た目きれいな坊っちゃんだ。そう思う程度には顔つきが整っていた。あと手足長いからダンスとかスポーツに向いてそうだな、とぼんやり考える。

 

 それに、胆力もありそうだ。目を白黒させてはいるけど、案外油断はしていないらしい。退避行動をとらない辺り、この辺の野山に害獣でもいるか、不審者が出たことがあるのか。たぶん、わざと(……)尻餅をついて驚いた様子のまま距離は保ったままだ、これは。警戒体制でいるのだからまた大した子供もいるもんだ。

 

 しかし、顔もだけど髪もサラッサラ。子供の髪ってなんであんなにきれいなんだろう、羨ましいな。

 

「んー、キミ誰?」

「あ、貴女こそだれですか?!」

「え、知らん」

「知らない?!」

 

 

 警戒が解けたな、と感覚でなんとなくわかった。さっきまでよりも、子供の体の強張りがとれている。

 

「あの、嘘ですよね、記憶喪失、とか……?」

 

 

 ぱっちりお目々をぎょっとさせているのが、どうもギャグキャラっぽいんだよなぁ。

 

 

 しかし、このお綺麗な顔立ちの子は、実際はよくわからん服を着ている。中国の時代劇に出てきそうな服だ。

 特にあれこれ手を掛けて染めてなさそうな布で上下を作っている。だから設定的には特権階級ではなさそう、ぐらいしかわからん。

 しかしまあ、こんな服を好きで着ている子供なんか今時早々いない。子役とかだろうか。たしかにこれだけ顔立ちが整ってるんだったらテレビドラマに居そうだな。

 

 

「いや、普通に正気だし、さすらいの迷子してるだけだよ、私」

「迷子はさすらってるんじゃなくて道を見失ってると思うんですが」

 

 子供がジト目になった。軽い動作で身を起こし、私と少しだけ距離を詰める。

 うん、やっぱりさっきのはポーズだったんだな。んでもってその動作の滑らかさは怖いからやめようか。

 

 

 どうもヤベーところにリスポーンしちゃったなと思った。これなんだっけ、リアル正気度チェックが必要か? 

 

 森林。知らない植生。子供一人。手が後ろに回りそう。

 いや、違う。嫌だけど、そんなことで済めばまだいい。明らかに生きるために邪魔になりそうな状況が混じっている。ARではない生身では、あるはずのない、存在してはいけないものが。

 

 

「そういうこともある」

「そういうことしかないですよ!」

「そうかなぁ」

「そうですよ」

 

 そういうことはないと思うんだけどなぁ。

 

 

 そう思うとこの子供もなんとなく怪しい気がしてきたが、不審がられるのはまずい気がした。だから、いつも通りでいようと決める。

 

 とりあえずはこれも子供だ。

 素性知らなくても普通に釣竿携えてるだけの子供だ。すぐ向こうに湖、沈められるようなことしなきゃオッケーでしょ。

 

 

「迷子にちゃんと声をかけてあげるのはえらいよ少年。けどこんな不審者に声掛けるのよくないよ、危ないぞ」

「不審者の台詞じゃないですよそれ」

 

 

 ジト目がますますじっとりする。

 居心地悪いなぁ。

 

 

「まあ、いいじゃないか」

「よくないです。だから、貴女は一体」

「人生に迷って気付いたら此処にいたわけよ。少年、ここどこ?」

「やっぱり行方不明者じゃないですかァ! どちらのご出身ですか。覚えているなら、連絡をするとかできますよね!」

「あー……うん」

 

 ごもっとも、なんだけども。

 形容する方法にもよるし、どう説明したものかわからない。

 

「それもそうなんだけどさ、ここはどこかねぇ。なんか植物とかもあんまり見覚えないんだけど、地名くわしく教えて貰える? あの海、何て言う?」

「東海です」

「そっかぁ……思ってたよりだいぶ遠いなぁ」

 

 少なくともそれが日本じゃないことくらいはわかる。というかなんとなくここの位置がわかっただけに頭が痛い。

 パスポートとか持ってないし、どんな次元跳躍だ。

 

 まず、ここまできてそれぐらいわからないでもないし。それでもって範囲が広すぎる。東シナ海、どんだけ海岸線が広いと思っているんだ。植生的にはギリ米作れそうな、そうでもないような感じがするけど。

 

「覚えてるんですか、それなら話も早いでしょう! すぐ連絡するように文を、」

「ここからだとたぶん無理じゃないかなぁ。そもそも海隔てた国だし」

 

 

 どこか紫がかって見える黒い双眸が、信じられないものを見るように私を見る。よせやい、照れる。

 

 と、思ったのは意識的なことであって、実際のところはこの子の方が信じがたいんだが、それを言ったところで利益はない。

 この辺りの位置を把握したところで中原から豊葦原まで帰れるわけがない。できれば夕飯までに帰りたいけどこりゃ無理そうだ。

 

 

「え? じゃあ、どうやってここまで……」

「それがわからないんだよね」

「やっぱり記憶喪失じゃないですか!」

「まあまあ。あ、そうだ飴ちゃんたべる?」

「へ? あ、飴、ですか……?」

「そう、飴。柑橘系。一口目はちょっとモサモサするけど」

 

 

 意識して彼の言葉を削る。子供で正直だけど、だからこそ突っ込みを入れられると非常に苦しい。わからないものはわからないし、自分の現状を否が応にも理解させられて怖くなってくる。

 

 で、取り出たるはボン◯ンアメである。パッケージフィルムはもう剥いである。

 唾液もそんなに出てない状態でオブラートごと食べると、結構口のなかがモサモサするよね。

 

「きれいな箱だなァ」

「ん、見たことないの?」

「ええ。飴なんて早々買えません。……それに、箱だけでかなり高価でしょう、それ」

 

 残念、100円ちょいです。

 

 きな臭いワードめちゃめちゃ出るなー、とは感じるが口が裂けても言えんので、ひとつ口に放り込んでモサモサさせながら、少年にもひとつ差し出す。

 

「これ、外のつるつるしたやつごと食べられるからね。で、まあ、帰るには帰るからさ。私は、えーっと……(メイ)だよ」

「明らかに今決めた名前なの、ちょっとどうかと思うなァ」

「どうせこの場限りだからいいんじゃないかね。さてそろそろ行くわ」

「どこに?!」

 

 じゃ、と手を振って適当に茂みの方へ足を踏み出した。

 行く宛がないよりも、適当に迷子になった方がよほど気楽だと思って──

 

 

 

「……あれ?」

 

 三歩も踏みしめて、気づくと私は駅の植え込みの近くにいた。一瞬、なにか音が遠くなった気がしたのとか、景色がマーブルに攪拌されたのとか、気のせいか。

 

 それでも、不思議なこともあるものだなぁ、で済ませてしまうことにした。ポケットのアメ箱、さっきの夢らしきものを見る前より確実に軽いんだけども。

 

 

 

 

 

 だがしかし。

 

「あれ、あのときの記憶喪失の」

「あれ、またあったね。あと今日も迷子だよ」

 

 それから、なぜかあの夢の続きを見て、会うことはわりと多かった。

 踏み込むときはだいたい昼間とかで、あの駅周りに行ったときばっかりだ。

 

 最初の三回くらいはお互いに不審がっていたけど、そのうちそれも面倒だな、というところまで落ち着いた。お互いに面倒がりなところがあったのと、人間の慣れの問題だろう。

 

 

 

「またかぁ。少年、釣りの成果あった?」

「はい、大漁ですよ」

「いいねえ、私も夕飯魚にしようかな」

 

 駅に行けば大体迷い込むのもあったけど、なんなら用事が済んだ帰りにも迷い込んだ。ひどいときには日に三回くらい立ったままあの夢を見ていたかもしれない。

 それでも、目が覚めれば二分と立っていない。夢で三時間以上は釣りをしててもだ。

 

「やあ元気か少年。元気無さそうだな、飴いる?」

「……ちょっと色々あって。あ、飴はください」

「きみ、結構図太いよね」

 

 慣れたら慣れたで色々持ち込んだけど、たまに弾かれるものもあった。金属のものはダメそうだったので、今度は箱入りのハードキャンディーを二人でからころ言わせて、釣りをして。

 

 だいたい少年は釣りをしてたし、私もなんとなくそれに倣った。やったことなかったし、あんまり得意ではないけど、これにしたって少しは慣れた。

 

 

 

 けど、だいたい森で会う少年はちょっとずつ姿が違うので、やっぱり幻覚かなにかとか、見ちゃいけない生き物の類いだと思う。

 ついでに少年の背丈と髪の毛もどんどん伸びていって、三つ編みが長くなった。どの段階か知らないけど、背中の一部以外は折を見てきれいに切り揃えたらしい。

 世間一般としての良し悪しはわからんが、そういうのも似合うからいいな! と誉めておくことにする。

 

 

 あるときは、呼び方に不満を告げてきた。竿はしっかり掴んでいるが、まだかかっていないから余裕があるようである。

 

「いい加減少年呼びは止めませんか、そろそろ元服なんですよ僕も」

「へー、そろそろ成人か。早くない? まあいいや。少年老いやすく学成りがたしだもんな」

「……なんですか、それ?」

「あー……なんか偉い人の言葉だったと思うよ」

 

 不満げに口許をへの字にする姿は、やっぱり年下で成人もしてない子供でしかない。

 隣にいるのは化物かもしれない。それでもなんとなく、なんとなくだけど、彼との付き合いは放棄しない方が嬉しいなと思った。その方が人生が楽しそうだったし。

 

 ちなみに、名前が子牙に変わったらしい。

 どうせ釣り友程度なんだし、今まで通りに少年でいいや。

 

「いや、変わってませんよ。小名で呼ばれなくなっただけです」

「うーん、似たようなもんじゃない?」

 

 まあ、そういうことらしいが、いいや。

 

 

 

 

 あるときは暗い顔と言葉でうずくまっていた。少年は釣竿も放置で凹んでいる。

 

「……実家継がずに遊学したい、です」

「そっか、悩め悩め若人。やりたいことやったほうがいいけど、適正はあるからね」

 

 ……あ、すげぇのかかったっぽい。大物かもしれない。

 

 しかし魚ばかりにかまけるわけにはいかないので、釣り上げてから、ちゃんと彼を見た。器用にも頭を半分埋めたまま、上目遣いにこちらをうかがっている。

 

「ついでに、それ忘れないようにしような。そういう誠実な悩みはわりと大事だから。大人になるとどうでもよくなることあるから」

「そう、かなァ」

「そうだよ。私が保証したげる。違ったら恨んでいいよ」

 

 親と夢の天秤に顔を曇らせて膝を抱えた少年も、もうそこそこでかくなっていた。なるほど、留学もしたくなるわけだ。したいことがあるのはいいことだし、自分のことだけじゃなくて家族のことも考えているのは十分に孝行者だ。

 

 あの少年が大人になる、のは。コマ送りのわりに、思ってたのよりはずっと早かった。

 

 

 

「修行? そりゃまた、随分だなぁ」

「ええ、とある人に見込んでいただけまして」

「そうかそうか、じゃあ立ち止まらないどきなよ。振り返ろうが後悔しようが構わんけど」

「なんでですか?」

「まあ、じきにわかる」

 

 その次にあった時にはまたふっきれた顔をしていた。遊学もすると決めたらしい。

 

 顔つきもなんとなく大人になっていて、これが青春ってやつなんだなと実感した。少年、めちゃくちゃ健全な齢の重ね方をしている。

 

 そんなに真面目に生きられない性分としては、ちょっとだけ、ほんのちょっぴり羨ましくなった。

 

 

 

 

「おや、お久しぶりです。しばらく見ませんでしたが、お元気でしたか?」

 

 少年が高そうなチャイナ服着てる。というかもうがっつり青年になってる。

 ついに声も変わったかぁ。でも、うん。彼らしいから似合っている。釣竿は相変わらずだ。もはや釣竿で判別してるところさえある。

 

「やっほー、元気元気。というか少年、きみ、春先の筍より成長早くない?」

「……ええ、そうですね。そういえば、貴女に前に言われたことがちょっとわかった気がします」

 

 彼はかなり疲れたような顔をしていた。

 学問とかがうまく行かなかったんだろうか。でもうまく行かないのは仕方ないこともある。私がどうこう言えるものじゃない。

 

「そっかそっか、それなら次は成長し続けることだね」

「また、難しいことを言うなァ」

「がんばれ。まあ無理ならしなくてもいいよ」

「努力はしますよ。貴女が言うんですから、きっと必要なんでしょう」

「信頼してくれるねぇ、嬉しい限りだわ」

 

 

 

 

 

 

 とはいえ、用事がない時期だって当然あるわけで。

 年末年始でごたつく駅はいやだったから、しばらく外出も控えて、あの駅周りに遊びに行くのをやめた。

 

 

 

 

 で、久々にいったらもう改札を通った途端に意識を飛ばされたっぽい。

 

 またなんかいつもと雰囲気が違う場所で、花が咲き誇って穏やかな土地である。

 少年もちゃんといるけど、彼の方は私を見つけて驚いているようだった。……嫌な予感は、いつもよりひどく強まった。

 

 

「久しぶりだね少年! あれ、なんか見ないうちに随分でかくなった?」

 

 

 気分をいつも通りに、と声をあげたが、これについては嘘はいってない。

 

 なんか第三次成長してないかレベルででかくなってる。あと筋肉ついてるから殴られたら痛そうだなぁと思った。途中からでかい釣竿使い始めてたもんな、そりゃ筋肉つくわ。納得。

 

 

「……どうして」

「ん?」

 

 

 しげしげ眺めていた私とは反対に、私を見た少年はうつむいてしまった。肩が震えている。

 

 

「どうしたよ少ね、」

「貴女はッ!」

 

 ガッ

 

 

 どうしたどうしたと近寄った途端、がっつり両肩を掴まれた。

 そのまま万力のような握力で締められてガクガク揺さぶられたんだからたまったものじゃない。痛い痛い痛い。

 

 

なんでっ、仙境まで来てるんですかッ!!!

「え、なにそれ知らん……怖……」

 

 

 少年、もとい子牙くんは凄い形相である。目をかっ開くな。叫ぶな。怖い。

 しかし、仙境。仙境ってあれだ。たぶん避けようがないヤバワードだ。彼も彼で焦ったような、恐怖を抑えているような顔で問い詰めてるわけなので、これは聞かなかったことに出来なさそうである。

 

 

 

――それはつまり、死んでるのと同義じゃないのか。

 

 

 

 脳裏にそんなことが過った瞬間、ぶわりと冷や汗が出る。

 体から何か色々なものが抜けていく感覚だ。汗だけじゃなく、力の源になってるものが。

 

 

 

 心臓が痛い。

 肺が痛い。

 体に空気があんまり入ってこない。

 両手足から力が抜けそうになっていく。

 頭が割れそうに痛む。

 

 

 あれ、手、が…溶けて……?

 

 

 

 

 だから少年がこんなに焦っているのだと、私は長居は出来ない場所に来ていたんだと、ようやく理解できた。

 

 

 

 ただ、彼はまだ気づいていないようで、顔色や反応はほとんど変わらない。肩を掴んだまま、私の言葉を待っていた。

 

 

 あんまりにも無様だな、と思った。

 

 

 たかだか痛み程度に負けて、たまるかよ。昔から見てきた少年相手だぞ、情けないとこ見せるわけにはいかんでしょ。その気力で、萎えた手足にもう一度力を込める。

 大丈夫、動く。まだ平気だ。まだ、なんとかいける。

 

 

 

 だから、その両手をまず両肩まわしで跳ね除けて、一歩だけ引いて、普通に腰に手を当てる。──そうでもして意識しないと、力が抜けて膝から崩れ落ちそうだった。

 

 おそらく毎回帰るきっかけになっていたことを思い出す。帰るときは、夕方だった。それからまたねと手を振っていた。なら、それできっといい。これでだめなら、そんときゃそんときだ。

 

 

「ていうか、邪魔なら帰るわ。すまなんだわ」

「え、あの、ちょっと!?」

 

 

 

 焦る声に振り向く。

 そうだ。彼は前よりももっとずっと立派になっていた。どこからどう見ても大人物だ。

 

 だったら、言うべきことがある。

 

 

「子牙くん。立派になったね」

 

 

 

 ──これは礼儀の問題だ。

 不肖の大人である私から、大成した彼を寿ぐ。言葉を考えのすらのもつらい具合になってきたから、気持ちだけでも祝う。もっときちんと伝えなくちゃ、いけないとは思うけどさ。

 

 

「お暇するよ、息災でね」

「っ、梅姐……!」

 

 

 声が震えている。けど、止められはしない。

 それでも、なんか、初めてそんな風に呼ばれたなぁという感慨だけはあった。

 

 

 だが、残念ながらこっちはもう帰る準備万端なんだわ。

 彼としちゃ、自分がいきなりつかみかかったことに後悔してるかもしれない。でも、なぁ。きみが焦るほどのこんなヤバげな場所にあんまり長居するのも、ダメだと思うわけだよ。

 私は生身の人間な訳だ。それを今以上に意識したら、居られると思うか? 

 

 

 ──明確にさよならするのがこっちに戻るトリガーらしいのには気付いていた。

 だから、じゃあの、と告げて、自分がさっき出てきた低めの茂みをそそくさと潜る。森に住みし巨体妖怪アニメのちびっ子もこんなことしてたな、私もう大人なんだが。

 

 潜り終わったら毎度のごとく、ぱ、っといつも通りの駅前である。落とし物を拾っていた体で立ち上がって駅を振り返った。時計の針はほぼ動いていない。せいぜい数分がいいところだろう。

 

「……まあ、うん」

 

 背中がなんとなくザワザワする。もう来んな、みたいな拒否をされてる感覚だ。言い方の問題だったんだろうな、あれ。

 

 

 

「たぶんもう会わないわな、こりゃ。わかってたけどさ」

 

 会わないことを肯定する言葉を口に出すと、嫌な感覚は霧散した。これも、なんか正気度確認した方が良さそうなナニカっぽかったなぁ。

 なんだかんだ元気そうだったからいいけど、ヤバワードが聞こえたらそりゃもう退散一択よ。あっちでなにも起きてなければいいけど、これまで大丈夫だったし、まあ大丈夫なはずだ。

 

 

 

 少年というにはでかくなりすぎた子牙くんは、さっき会ったとき場所を指して「仙境」と言った。

 その上で、夢だろうがなんだろうが、かぐや姫以上のペースで成長しまくってるのも考えると、危ない橋に踏み込もうとしているのは明らかだった。むしろかぐや姫的な成長から疑ってた方がよかった。

 

 ならば、夢から帰って来れなくなったときに逆浦島やるに決まってる。石橋どころか腐りかけの丸木橋だ。こっちだって、どこかが抜けるか、あるいは土台から抜けるかわかりゃしないものを渡る気はない。

 

 

 ──それでも、想う。

 

 ひょろっひょろの少年が、また随分と立派になっていたんだ。子供だからと馬鹿にできない聡明さのまま、あとたぶん善良なままに。善良じゃなかったらどうしよう。や、そこはどうもしないか。

 そんな風に、交流した子供があの場所で立派に育ったのだ。

 

 

 だから紛れもなく、私はいいものを見たのだろう。

 人間一人か、化物一人か何かが成長して完成に至ろうとする途中経過を見届けた。なんでかは知らないけど、付き合わされた反面、面白い見物を見たという報酬があった。

 

 

 

 そう考えると、ちゃんと挨拶できなかったのはちょっと痛いけど、まあ許されるでしょ。もし多生の縁で会うことがあれば謝っとこ。

 

 頑張れ未来の私。わりとムキムキになってた少年の鉄拳制裁は今の私が覚悟しておくからな、痛みの担当はお前だ。

 

 

 

 

 なんてまあ、そんな未来はあるはずもない。

 心に、ちいさな石がひとつ、沈んでいくような感覚がした。




石沉大海:返事のないこと。

久々に書くとこんなんでよいのかわからなくなる罠。
それでもこういう話好きなんですわ。

追記:ミスってるっぽかったので該当箇所修正しましま。


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狐は鉄花を知っている

妲己ちゃんがサロメるまで。

これはもうこういうキャラだということで許していただきたい。


「妲己よ、通うだけは通うが、お前を抱くことはせぬ。楽しませる必要もない」

「なぜです!?」

 

 

 

 初めての陛下のお渡りの夜。開口一番は、そんな台詞でした。

 

 

 

 

 

 はじまりのその前は、厄介な人間の営みが気になって、ついでにまとめてぶち壊すのも楽しそうだなと思ったこと。どうせなら自分も同じスケールになって内部から破壊してみようかなー、どうしようかなー、と思ったことでした。

 特に関わることもなく、ただ崇められてそこにいるだけ、ただあることだけが絶対だった存在から切り離されて一人でいたのです。退屈で退屈で、これはもう人間で遊ぶなりなんなりして紛らわせないとと思った矢先に。

 

 

「あ、え?」

「……ほう?」

 

 

 ──そこに、子どもがひとり、ポンと現れたこと。

 

 妾の前に現れたそれは、ちっぽけな人の子、それの中でも特にちっぽけな、数年しか生きていないであろう子どもでした。

 ですが、骨も肉も脆く柔いであろうそれが、確かに妾の居所に潜り込んだのです。

 

 

「貴様、何者じゃ。妾の居所に潜り込むなどとは」

 

 

 ──でも、別に不愉快だとは思いませんでした。そもそも指先でつまんで潰せるような脆いものでしたし。

 

 ただ、よくわからなかったのです。なぜここで生きていられるのか、こちらを見て、じっと見返すことができるのか。

 見たところ中原の服を来ていたのでその縁を辿ってみれば、実際にそのあたりで生まれた人の子のようでした。

 しかし、どうやら女禍の息がかかった中でも強く影響を受けているようで、肉体の作りから在り方までぼんやりとしか視ることができません。そこが興味深いだけのもの。

 

 女神が人の胎に手をいれて、自ら作ったお人形。

 そんなことなど露知らず、その子どもは確かに妾の姿を、目を見て。そのうえで、目を丸くしたかと思うと微笑みました。

 

 

「もうしわけありません、あなたさまのお気を害するつもりはなかったのです」

「ほう、勝手に踏み込み、悪意はなかったと申すか、人の子よ」

「そのとおりでございます、うつくしいお方。平におわびいたします。罰が必要ならば、お受けします」

 

 

 そう言うと、子どもは首を垂れたのです。

 

 

 ──不思議でした。恐れもせず、理解しきれてもいないであろうに、ただ淡々と裁きを待とうとしたのですから。

 その細い首はすぐにへし折ってやれるのですが、その前に、この様々なものがぼやけた子どもにほんの少しだけ興味が湧きました。

 

 ぼろぼろの子どもに目を合わせると、その色はどこまでも透明でした。ただ、そうであるように教え込まれたのでしょう。

 

 

 ──なんと、哀れな。

 

 

「ただの人の子が、よく妾の居所に堪える。そなたは、いったい何だ?」

「わたくしは、子受と申します。天子として、さまざまなおしえを受けているものです」

「ほう。それでは其方、理解したうえで咎を受ける覚悟は出来ておるのか」

「はい。どのような理由であれ、あなた様の不興の罰は受けねばなりますまい」

 

 

 子どもは傷だらけでした。所々折れかけていそうなのに繋がったままの骨。痣の浮かんだ皮膚。掠り傷から切り傷まで大小様々。

 人間の言うところの「教え」というものは、そういうお遊びなのかとも一瞬思いましたが、それも正しくはないのでしょう。

 

 

 この子どもは、頑丈すぎただけ。それに、弱音を吐かない程度には聡明だったというだけのことなのでしょう。

 透明な目でこちらを見てくるのですから。私に対しても疑問を抱かず、ただ「そうでなければならない」を受け入れて。

 

 

 

 

 ──ならば、用済みになったらもらっちゃってもいいのでは? というか、今のうちに唾つけて召し抱えてしまったら楽しいのでは? 

 この子どもを見ていると、不思議な感覚が湧いてきます。ふつふつと何か込み上げてくるような、身を捩ってしまいたくなるくすぐったさのような。

 

 そう思うと、ここしばらくが嘘のようにわくわくしました。いい退屈しのぎになる予感しかない。天子なんて、なんて丁度良い立場。

 

 

 

 

「其方、相当な愚か者であるな。だが、よい。貴様への罰だ、妾のものとなれ。貴様は、妾が迎えに行くまでに他の者にその身を預けることを許さぬ」

 

 

 小さな子どもは、そのとき確かに目の色を変えたのです。

 

「かしこまりました」

 

 嬉しそうに、幸せそうに。妾にこの先の短い人生を縛られたというのに、目を細めて、心底うれしいといった風に妾に笑いかけてきたのです。

 

 

 

 ──ぶちり、と腹の底で何かが切れる音が聞こえた気がしました。

 正直には、そして正確には、めちゃくちゃにいたぶって、手足をもいで、髪を切り刻んで、体を丹念に裂いて、臓物引きずり出して頬擦りして、めちゃくちゃに唇を寄せて撫でまわしてやりたくなったのです。

 

 ぞわぞわと背中を駆け巡る感覚もあり、先ほどの言葉を反古にして今ここでぐちゃぐちゃにしてやろうかと思いもしましたが、もう一段、存在を縛るためにとグッとこらえました。

 

 

「妾の名は──、って、あぁっ! 今消えるのかえ!」

 

 

 ですが、子どもは了承したとたんに引き戻されたか消えてしまい。

 妾だけの居所に残ったのは、腹の底で煮えたぎるような何かだけ。

 

 

「ゆるさぬ。ゆるさぬゆるさぬ許さぬ!!」

 

 

 目の前がチカチカする。その心持ちも初めてだということに気づかないまま、めちゃめちゃにしてやろうの気持ちで中原管轄を行う者共の巣窟へと踏み込んだのです。

 

 

 

 

 

 そもそも千年狐の白面金毛の一部として切り離され、鬱屈していたのもあり。おもちゃで遊ぶのに壊してはいけませんからスケールダウンは確実に必要です。

 

 

 そうなると勝手に中原に踏み込むと戦争することになるわけで。女禍さんともちょちょいと交渉をして、潜り込むことについては条件付きで成功しました。

 

 あの子どもを手元に置いて、それからぐちゃぐちゃになる過程を楽しむつもりだったのでそれなりに準備はします。少々癪ではありましたが、そこはこちらからの貸しのふたつみっつ、といったところ。そのぐらいはバカンスの宿代のようなもの。

 

 そのあとは有蘇氏の娘として生まれて、美貌と教養に楽才で鳴らし。ついでにちょちょいと人心を狂わせて後宮に噂をお届けした私はイージーモードで後宮入り。

 その間にちょこっと人死にか出たりもしましたが、戦をすれば当然のこと。そもそも穀倉地帯を得ようとする侵略者が間近にいる大陸ですから、内紛なんて可愛いものでしょう。

 

 

 お父様との涙の別れのその後。召し抱えられた後宮は想像通りに広く、豪華で、あの子ども──陛下はとてつもない美形に成長していて。お力は強く、獣狩りも戦争もお上手。

 ならば篭絡してしまえば贅沢三昧もなにもかも思うまま、壊れるまでの過程以外も楽しめて大勝利! と思っていたのに……。

 

 

 

 

「じゃあ、何をせよと仰るのですか!」

「ただ、朕の貴妃としての役目を全うでき、節度を保てるのならば、好きに振る舞って構わぬ」

 

 

 そう言うなり、傍らの机に積み上げていた竹簡を取り出して読み始めてしまいました。色気のない寝室だとは思いましたが、よもやこんなことになるだなんて。

 

 私を差し置き持ち込んだ書物を読み出したこともさることながら、欲情の欠片も見せない陛下には腹が立ちます。

 

「そうは行きませんわ! 女の威信的に!」

 

 

 当然、本を奪ってやりましたが、陛下は私があっさり頷くと思っていたのか、ひどく驚きました。そんなこと、女のプライドをズタズタにする発言をしておいて、さほど考えなくてもわかるでしょうに。

 

 こんな侮辱、あってたまるものですか。内戦してまで美女を召し抱えておいて抱かないとか、この方、本当に陽物がありまして? 

 そうでなくとも

 

 

「気に入らないのか、妲己」

「当然です! 私という極上の女を求めたくせに、おさわりすら無しだなんてどういう了見をしていらっしゃるの!」

「……お前は、いやがるだろうと思ったのだが」

 

 

 さも当然のように言う陛下に、スンッと自分の顔から表情が抜け落ちるのを感じました。

 

 自分で呼んでおいて、私が嫌がると。

 しっかり夜着でスタンバって香油も塗って、これだけバッチリ夜の臨戦態勢に入っているのも見て、その台詞を抜かすか、この男。

 

 

 

「お前が後宮にいてくれれば、嬉しいと思ったから呼んだ。抱くことは出来ぬ」

「なっ……なんて弱虫思考なんですか、この軟弱者!」

 

 

 ひっぱたいてやろう、と思いましたが。

 

 

「子受だ」

「は、」

「名を呼ぶことを許す。だが、ある貴人との約束がある。許せ」

 

 続けられた言葉に、思わず尻尾を三本ほど出してしまいたくなりました。

 それは、つまり。私のことは忘れているくせに、私のために潔白であったということで。

 

 

 ──やはり、ぐちゃぐちゃにしたいですわね、この男。

 

 

 

 

 その日のお渡りは失敗でしたが、その後にも他の貴妃たちとは違い、機会は多く与えられました。

 下女やそこそこの女官を誑かしたりちょちょいと鼻薬を嗅がせたりして聞き出しましたが、他のお渡りも基本的に不発で、見栄っ張りで抱かれたと吹聴する女ばかり。

 商売女を召し上げたこともなかったとのことで、つまり陛下は生息子であると確証が得られたのは、お渡りから一月後でした。

 

 わかったときには思わず拳を天に振り上げましたが、はしたないことだったかもしれません。

 

 しかしそこからが長かった。

 毎日興味を引きに行ってもほとんど相手にされず。たまに相手にされたと思えばお茶をご一緒するばかり。懐いてきたと思えば、そこから今度は膝で寝始めてしまう始末。

 

 ええ、ええ。こればかりは仕方がありません。

 朝議をすっぽかすこともなく、むしろ無駄なやり取りや役人たちの負担を減らすため、朝議の間隔をあけるために苦心していること。賄賂対策やら給金の改訂、民の飢餓対策に力を入れていたのは知っています。

 

 

 ──だからこそ、憎い。私に溺れてしまえば、楽になれるというのに。

 それでもそんなことはいえません。だって、美味しくなくなってしまいそうでしたもの。

 

 

 

 それから、少しして。

 やっときちんとしたお渡りがありました。まあ、私が堪えかねてちょっと本性を刻んで差し上げたので、頭は覚えてなくても体が気づいたのでしょう。

 

「お前は、私と似ていると思ったんだ。だから、覚悟があるのなら、共寝をしてほしい」

「……ええ、もちろんですとも」

 

 

 だって、ずっとこのときを待っていましたもの! 

 

 

 私の答えに満足し、陛下は纏っていた衣と晒し布を落としました。が。

 

 

(いや、えっ……嘘でしょう?)

 

 

 思わず息を呑みました。

 

 あらわになったのは、傷だらけの四肢に、どうやってそんなご立派な瓜を隠していたのかと聞きたくなる豊かな胸。

 生来持っていたのであろう、隠蔽の性質が解かれたのはわかりました。おそらく女禍が擁立させるためにかけていたものでしょう。

 四肢は柔らかそうで。牙を立てれば難なく沈んでしまうでしょう。肉はきっと具合がよく脂がのっていて甘く、体液は啜ればまさに甘露であることに間違いはなく。

 

 

 ──しかしまずいことになりました。

 女禍さんが隠していたのはこれかと。せっかく、極上のイケ魂を得られると思ったのに、これでは計算が違う。

 

 いいえ、満足させようと思えばいくらでも満足させられます。陽物くらい自分で生やせば良いですし。

 ですが、これではちょっとプランがガタガタ。食べたいのは食べたいですが、食欲優先になってしまいそうな体つきはちょっとどういうことでして? 

 

 

 

「騙してすまないが、見た以上はきみを離縁させることは困難だ。張型で満足するのは無理だろうし、物足りないなら武官からいいのを見繕って構わない」

 

 

 こちらの気持ちなど知りもしない陛下は、傷まみれの裸体で微笑んでいました。

 治ったものばかりではあるものの、幾らかは新しいものがありました。否、これは──

 

 

「呪い、ですか」

「そうだよ。よくわかるね、妲己。きみ、方術も修めているのか?」

 

 私の気持ちなど露知らず。陛下は純粋な疑問を目に浮かべて首をかしげます。

 

 体はありとあらゆる呪詛や呪いを受け止めたままであるせいで、傷は治れど呪いに蝕まれる。

 女禍さんの意志に反したことで呪いを受けやすくなっていたのでしょう。

 

 

 

「これは、私の罪。これが私への罰だよ、妲己」

 

 陛下は、乾いた笑いとともにそのようなことを言いました。

 あのときと変わらず、許されることもなく叩きのめされてきたからでしょう。

 

 

「陛下、それがどうして罪なのです」

「だって、こんなの天は赦されないだろう」

 

 いいえ、いいえ。天が、都合のよいものとしてあなたを造ったのです。

 

 しかしそのようなことは言うこともできず、ただ見つめるに留まりました。

 この御方はそれすら背負ってしまう。神の事情も自らのせいだと背負い込んで、私のものとなったときのように、女禍のもとに戻ってしまう。そんなの、許せるはずがないでしょう。

 

 

 

 私を見る陛下の目には、確かに欲がありました。

 ならば、何が問題でしょう。天下? やかましい家臣? 

 それとも、どれだけ徳高く治めようとしても出てきて憂いをもたらす愚民? 腹の中にいたあなたを弄り形作った女神の介入? 

 

 

 私を愛したことを後悔などさせません。喜んで、陛下のために天下を欺いて差し上げましょう。

 

 そして、許さねぇですからねあの女神! これはもう私のものなんですから、ピッカピカのクリーンなお体に戻してから私が弄り倒しますよ! 

 

 

「妲己よ、女が天子ではならないなら、私は天に背き続けていることになる。君とのこの閨事もそうだ。……だから、ここでは私を煕鳳と呼んで欲しい」

「わかりましたわ、煕鳳さま。……うふ、ふふふふ」

 

 

 深刻な顔で私に告げて、了承したら心底安堵したような顔を見せてしまった煕鳳さま。

 ──なんて、愚かでいとおしい。

 

 

 

 ああ、嬉しい。

 嬉しくて嬉しくて、この人の身体中に歯を立てて痕を残したい。呪いの残る傷跡を舐めて癒したい。

 全部私だけのものにしてしまいたい。

 

 だってこの閨にいるのは、天子ではないただの小娘ですもの。私だけの、私のひと。

 

「逃がしませんわよ?」

 

 こちらも衣を脱ぎ捨てて、手首を掴む。

 その挙動にびくりと体を震わせるのですから、これは確実に生娘でしょうね。他のものに食わせなかった判断はよいものです。それでこそこちらも安心して事に及べるというもの。

 

 震えている体に体を押し付けて、逃がさないように脚を絡め。それから引き倒してしまえば二人とも寝台から起き上がれません。

 

「え? 妲己、どうし、あ……っ」

 

 まあ、もし何かしようとしている輩がいれば、貴妃でも焼いてやりましょう。それも暇潰しにはなるでしょうし。

 

 ああでも、今は食べることに集中しなくっちゃ。

 せっかくのごちそうがあるんですからね。

 

 

 

 

 

 暗転。

 

 

「煕鳳さま、何を考えていらっしゃるんです」

 

 

 身体中に歯形をつけたまま、体を縮ませた煕鳳さまが布団の中ですり寄ってきました。毛皮を扱うことに抵抗があって寒いからでしょうが、この仕草の可愛らしいこと。

 

 

「あなたのことだよ、妲己。私の体を見たときの、君の驚いてた顔を思い出してた」

「まぁ、意地悪。……ねぇ、陛下。煕鳳さま。お願いを聞いてくださいませんか」

「聞くだけ聞こうか」

「ふふ、つれないお返事。陛下とずっと一緒にいたいんですもの、聴いてくださらないと困るわ」

 

 不穏な気配があったこと、もしかすると壊れてしまうかもしれないとの恐れがありました。

 真剣なお願いとして、今のうちに伝えなくてはと。そう思って、口を開いたのです。

 

 

「あなたさまの屍体は、私にくださいまし。顔も胴も四肢も、爪も、血の一滴まで」

 

 

 煕鳳さまの喉に爪を立て、妖気すら滲ませても。私の願いを聞いて、煕鳳さまは朗らかに笑うことしか、しませんでした。

 

 

「なんだ、そんなことか」

「なんだとは何です! 私は真剣に、」

「それじゃあ、化粧も口に含んでよいもので作らないといけないね。うまくできるといいのだけど、妲己は何を使えばいいものができると思うかい」

「……本当に、よい、のですか」

「うん。だって、わたしのきみだもの。天子でもないわたしでいいなら、全部あげる」

 

 

 気負いもなく言ってしまえる、あなた様は。

 ──それでも天子として生きていかなければいけないと、天子として以外のあなた様に価値はないのだと、心を透明にしていなければいけないのですか。

 

 

「ねぇ、妲己。だから、わたしを貰ってくれる?」

「もちろん、です……ッ!」

 

 

 首肯すればはらはらと涙を流す煕鳳に、ああ、人間としてここにいてよかったと心底感じました。

 あのとき、自らの手元に縛らなくてよかった。縛って、刻んでしまわなくてよかった。

 妲己として、透明になりそうになりながら歩むこの御方の側で、生きていたい。そう、思ってしまいました。

 

 もしこんな調子の私をを見たら、きっとオリジナルは私を引きちぎるでしょうが、それも噛み砕いてやりましょう。なにがなんでもこの方の隣は私のものです。

 そうでなくては、自分も、代わりに隣にたつ誰かも、私自身でさえも、きっと赦せないので。

 

 

 

 

 

 だから、敗北したとわかったときにも、別れ難くて。

 

 負けも予想していたことや、陛下が死のうとしていることはその夜に馬小屋へと手引きされてわかりました。可燃性のものは何でも残すようにと指示して、それから鹿台の宝石すらも使用人の持参金としていくらか剥いで渡してしまったのですから。

 

 

 ──もう寒々しい衣ひとつしか、陛下には残っていないのは、同類を殺されたくなかった、同類を殺した人間を赦せなかった私のせいでした。

 

 

「いや、嫌です! 絶対に嫌!! 

 お願いです陛下、お考え直しくださいませ! 私なら、私とあなた様だけならどこへでも隠して差し上げられます! あなた様が生きていける場所へなら、どこにだってお供しますわ!」

 

 

 陛下は相変わらず笑っていました。

 いつだって、そうです。泣きたいくせに、喚いて、縋りつきたいくせに、全部圧し殺してずっと笑っているのです。

 

 

「だから、どうか……!」

 

 

 だって、今なら間に合うんです。

 だから、一緒にいきたかった。生きていてほしくて、独りなんて嫌で。

 

 

「ごめんね、妲己」

 

 

 それでも陛下は、私を無理に馬に乗せたのです。

 

 

「わたしは、最期までわたしでいなくちゃいけないと思うんだ。だから、一緒にはいけない」

「煕鳳、さま」

「妲己。わたしはね、ずっとずっときみに恋をしていました。これからも恋をし続けると思う」

 

 

 晴れやかな笑顔で。

 泣き叫ぶ私に。

 

 

「王命である。妲己、地の果てへ行け。お前だけは、何があろうと生き延びよ。朕の屍体が手に入るなら、約束通りに好きにせよ」

 

 煕鳳さまは、口づけをしました。深く、煕鳳さまの血を私に飲ませ、抵抗する私を尻目に馬に鞭をくれてやったのです。

 

 

「だから、できる限り許さないでいて」

 

 

 ──許しません。赦せません。赦せるはずがない。

 

 だって、あなたは私のものだったじゃありませんか。

 私だけのあなた様じゃありませんか。誓ってくださったではありませんか。

 

 どうして、ひとりで終わらせるのですか。

 わたくしではあなた様の心を支えるのに足りないのですか。煕鳳さま。

 

 

 

 

 

「あ、ああ……あああああ!!!」

 

 

 屍体は、鹿台から動かされず。

 

 赦せません。黒焦げの体なんて。

 首だけは絶対にと持ち帰り、皮膚も瑞々しく甦らせ、約束した化粧をして。

 

 

 それでもやはり、ここに煕鳳さまはいらっしゃらない。

 もう、どこにも。

 

 

 

 

 

 

 

「……馬鹿な人でしょう」

 

 馬鹿なひと。天下でただ一人、いとおしい人。

 

 そっと抱えていた首の断面を掲げると、血が滴りました。

 

 だから、地に零れないよう術で受け止める。漂う匂い、美味しそうな匂い。

 あとできちんと回収しておかないと。これを女禍に奉じる気などは欠片もないのだから。せっかく、焼けてしまった煕鳳さまをきれいにして差し上げたのだから。

 

 

 その血を、戸惑い、固まってしまった人間の目の前で啜ったのです。

 そもそも、首以外は置いてきたのが間違いでした。首は特に利用されるからと思ったのですが、この性悪男、まとめて利用してくれやがりましたし。

 

 

 

 そんな悪態をついても、煕鳳さまの血は甘い。どんな酒よりも甘美で、もっと欲しくなる味で。

 

 唇に残る紅をぬぐう。はしたないことだと、理解している。でも──相当はしたない仕草でも煕鳳さまは、陛下は私の仕草を愛していた。

 

 

 ──煕鳳さま。わたくしの煕鳳。あわれな小娘。いとしいひと。国どころか、自分の首まで私に貢いでしまって。

 

 この人間が私に何か思うところがあったのは、知っていました。

 それに、あの約束の夜に会っていたことも。そのとき煕鳳さまを知ってしまったことも。それでも、明確にしなければ目を瞑れたものを口にしたのだから許せません。

 

 

 

「だからこそ。わたくしが、このひとを食べるの」

「な?! 待っ、」

 

 

 馬鹿な男。

 断罪なんて、人間にしか必要ないとわかっているくせに。これも罰です。せいぜい苦しめばいい。

 

 

 でも、そうでなければこの男の、生前の煕鳳を知る男の目の前でこの人を貪ることはできなかったでしょう。

 

 目線が合うように持ち上げても、どれだけ願っても。この首は私を見はしないのだから、食べたいと思わなかったでしょう。きっと、ずっとずっと手元に置いて、ただ嘆くしかできなかったのです。

 だから、そこだけは許してやろうと思いました。まあ煕鳳さまの肢体を見た時点で絶対に殺してやると誓いましたが。

 

 

 

 冷たい唇に噛みつくと、至上の血の味がしました。でも、その程度。それぐらいなもの。想像していたよりも、あまり、美味しくはないのです。

 これだけ愛していたのだから肉も甘いだろうと思っていた。けれど現実は、甘くもなんともなく、ただひたすらに寂しい味でした。

 

 

 

 

 ああ、失敗したのだと、ここでもやはり思ってしまいました。

 

 こんな不味いものを食むくらいならば。

 最期ぐらいは一緒に、この方もろとも我が身で焦がし、灰になって消えればよかった。

 




いつも感想、評価、ここ好き、誤字報告ありがとうございます。励みになります。


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その一石は海さえ穿つ

ちいさな子牙くんが出くわした変なお姉さんの話。
変人お姉さんとショタ太公望くんの続きです。


「んん? きみ、誰?」

 

 

 

 その人は、何もないところから突然現れた。

 それから、驚いて転んでしまった僕に向かって、何がおかしいのかニッと笑いかけてきたのだった。

 

 その姿がどこか眩しくて、羨ましいと思ってしまったのは、なぜだったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 その日は、いつもみたいに嫌になって釣具を持って出た日だった。

 家での生活は悪いことがあるわけじゃない。兄さんは優しいし、僕が勉強をすることに嫌な顔をしたりしない。父さんは仕事の手伝いをすれば頭を撫でてくれるし、ご先祖様のように立派になるようにと笑ってくれる。母さんだって、僕が書物を読んでいても呆れるだけで怒ったりはしない。

 

 ただ、周りの目は別だ。あからさまではないにしろ、僕と同じ年頃の子達との間には壁があった。大人の目があまり届いていないときには普通に遊ぶことはできるし、そうでなくても野山に行けば自由にできる。

 でも、大人たちの目は冷たかった。

 

 生家が、屠殺を生業にしているから。

 

 いつだって、殺生をするものは嫌がられるし、振る舞いをごまかしていても、やっぱりどこか冷たい。みんなはいいやつばかりだから、好きだ。──でも、あまり良いことじゃないんだと、大人から向けられる目を見たらわかってしまう。

 

 だから、嫌いだ。そんなもの、僕にどうしろというんだ。生まれなんて後から変えられるものでもない。

 

 

 

 

 そんな状況の中で僕の前にいきなり現れたその人は、胡桃のような色の髪の女性だった。

 尻餅をついてしまった僕を、不思議そうに眺めている。

 

 身なりからして、高貴な人だろう。鮮やかな色合いの毛織物の服なんて、早々に手に入るものではない。

 形にしたってあまり見ない。色彩のはっきりとした毛織物でできた襦裙なんて、どれだけ手がかけられているのだろう。そう思うと、幻のようにそこに立った彼女の得体の知れなさが増したように思えて、体が妙に固まる。

 

 ──恐ろしい人だ。いや、そもそも、きっと人ではないのだ。

 ──やはり、鬼だろうか。

 

 不思議そうに見てはいても、僕のことを侮ってはないないようだ。観察している目はどこか鋭く感じられるし、野の獣のような雰囲気を纏っていた。

 だから、そのままの姿勢で彼女を見上げた。

 

 

「あの、嘘ですよね、記憶喪失、とか……?」

 

 

 ()()()()()()()()()()()()僕に、彼女は腕を組み唸ってから、脱力した笑みを浮かべた。

 こちらの気も抜けるような、緩い表情がなんとも言えない。

 

 

「いや、普通に正気だし、さすらいの迷子してるだけだよ、私」

「迷子はさすらってるんじゃなくて道を見失ってると思うんですが」

 

 

 今、なんと言った? 

 

 聞き違いであって欲しいと願ったけれど、目の前の女性はそんなことどうでもいいとばかりに、真剣な顔で言い訳をぶつけてくる。

 聞き間違いなどではなく、言うに事欠いて、彼女は迷子であるらしい。

 

 

 思わず半目になってしまったけれど、これに関しては僕のせいじゃない。

 体を起こして、少し距離を詰める。

 ──ただ、あまりにも馬鹿馬鹿しいやり取りだと思って、それに女性の雰囲気が返答の直前にふっと和らいだのがわかったから、きっと安全だと思ったんだ。

 

 

 それでもなにも不自然な動きはない。だから、もう少し、あと少しだけ距離を詰める。女性はなにもしない。

 

 

「迷子にちゃんと声をかけてあげるのはえらいよ少年。けどこんな不審者に声掛けるのよくないよ、危ないぞ」

「不審者の台詞じゃないですよそれ」

 

 

 不審者を自称するには、彼女は無防備過ぎる。

 あまり膨れていない袖口は、材質のせいで何か隠せるような部分はなさそうだった。それに持っている背嚢も、抱えて動く姿は兵や密使なんかにしてはどこか鈍臭くて弱そうだ。

 

 

 

 それからのやり取りにしても、その人の態度はほとんど変わらなかった。

 ただ、そのあと彼女は、場所を僕に尋ねてから頭を抱えてしまった。

 口ごもってから、言う。

 

「ここからだとたぶん無理じゃないかなぁ。そもそも海隔てた国だし」

 

 

 さすがにその言葉だけは、にわかには信じられなかった。

 実際にそうした疑念の目を向けると、彼女はなぜか照れたように笑って頭を掻いたのだが、言っていることはにわかに信じられることではないので気にすることじゃあない。

 

 そもそもこの変な女性がそんな遠くから来ているということも。本意ではないのに知らぬ間にやって来てしまって、帰ることは無理だと断じてしまうことも。

 

 

 何を言おうか迷っていると、彼女は少し唸ってから、ひとつ手を叩いて、あ、と呆けた声をあげた。

 

 

「そうだ、飴ちゃんたべる?」

「へ? あ、飴、ですか……?」

 

 あまりにも遠く迷っているというのに、能天気にもほどがある。

 

「そう、飴。柑橘系。一口目はちょっとモサモサするけど」

 

 

 それに飴なんて、何日分の食費になるかを考えれば早々に買えるものじゃない。それを出せてしまうのだから、やはりこの人は貴人か鬼かのどちらかなのだろう。

 

 そう思っている間に衣の内から取り出されたのは、不思議な容れ物だった。彼女の服とはまた違う、濃い鮮やかな青色で、薄くて柔らかそうな材質な、それでいて高価であろうもの。

 

 

「きれいな箱だなァ」

「ん、見たことないの?」

「ええ。飴なんて早々買えません。……それに、箱だけでかなり高価でしょう、それ」

 

 女性は価値がわかっていなさそうで、首をかしげている。

 僕の反応を見て、何かしら察したようで彼女は物言いたげにしていた。けれど、黙ってほのかな笑みを浮かべただけに留めてしまう。

 きっと聴いても無駄だろう、という雄弁な表情で、尋ねることは憚られた。

 

 

 代わりに、飴と称したそれをひとつ、口に放り込んで顔をほころばせるので、思わず唾を呑んだ。

 甘いもの、なんて。この機会を逃したらいつ食べられるだろう。祭りでないと出ないような御馳走にだって、甘いものは少ない。

 

 ほれ、と促されて手を差し出すと、四角い菓子が手のひらにやんわり落とされた。

 外側の薄い皮のようなものを剥こうとしたら、その前にやんわりと止められる。そういえば、さっきは皮ごと食べていた気がする。

 

 

「これ、外のつるつるしたやつごと食べられるからね。で、まあ、帰るには帰るからさ。私は、えーっと……(メイ)だよ」

 

 

 さっきの言いがたい笑みではなく、親しげな表情で彼女──梅娘娘は言った。

 近所の小姐みたいだけど、雰囲気がずっと違う。人里から遠いところにいる仙女みたいだから、娘娘の方が合っているような気がした。

 

 

「明らかに今決めた名前なの、ちょっとどうかと思うなァ」

「どうせこの場限りだからいいんじゃないかね。さてそろそろ行くわ」

「どこに?!」

 

 じゃ、と手を振って適当に茂みの方へ足を踏み出した。

 行く宛がないよりも、適当に迷子になったように──

 

 

 

 ふっ、と、消えてしまった。

 

 

 

 居なくなったのはそもそも僕が見ていた夢だからじゃないかとか、そう思おうとした。

 でも、確かに口のなかにはさっきの柔らかい飴の味や、飴皮の小さな欠片がある。夢ではないのだ。

 

 

 そう理解すると、なんだか愉快な気分になってきた。

 きっとおかしくなったか、山の怪に誑かされたと言われるんだろう。そうやって医者を呼ばれてしまうか、それか道士さまに祈祷してもらうか、はたまた他所へやられて白い目で見られるかのどれかになるだろう。

 

 だから、言わない。

 

 言わないから、みんなこんなおかしなものを知らないままになるんだ。あんな、良くわからないけど良くわからないなりに悪気のないモノを知らないでいることになるんだ。それはちょっと、楽しいことだ。

 

 だから優越感が胸を満たしてくれて、それまでわだかまっていたものは少しだけ忘れることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 それから数年間は、半年から一年に一度、嫌なことがあって悩んだときに彼女に会った。

 

 

「あれ、またあったね。あと今日も迷子だよ」

 

 

 いつ、というのは決まってなかったのでわからなかった。けれど、もう全部捨ててやろう、投げ出してやりたいと思ったときには必ず出会えたのだ。だから、僕にとってはそれほど悪いものじゃないんじゃないかなァ、と思えて嬉しかったのを覚えている。

 

 それで、どうしていたら彼女に会うのだろうと考えていて、会えるのは凄く嫌なことがあったときで、それも釣竿や具を持っていっているとき、という条件だと気づいた。気づいたのは三度目の邂逅で、その日の彼女は独特な深衣のようなものを纏っていた。

 

 

 三回目ぐらいまでは、家のことを馬鹿にされて悔しくて、でもそれを言い返したりすることがうまくできなくて黙っていたときだ。

 そんなときに出会ったから、条件にも思いが至らなくて、共通点には気づけなかった。まだふつふつと腹の奥で怒りが煮えていて、彼女にも当たり散らしてしまいそうだったのだから、仕方ないと思う。

 

「少年、釣りって楽しい?」

「……ええ、楽しいですよ」

「そっか。じゃあ私もしてみようかな」

 

 それしか聞いてこずに、慣れない手付きでよさげな棒切れに糸を括りつけて喜んでいた。

 

 

 梅娘娘が僕のことを理解しようとしてくれていたのに気づいたのはそのときで、彼女自身は僕の苛立ちについてはなにも言わなかったからだった。

 ただ、なんとなく微笑みながら手作りの釣竿にミミズをくくりつけている姿が可笑しくて。でも、目を合わせないからやっと気づけた。きっと、僕がそんな目を向けられたくないことなんて、わかっていたんだ。

 

 

 だから、彼女は僕に釣りのことしか聞かなかったし、必要以上に僕を見たりしなかった。前と同じように、あの不思議な飴をひとつ、差し出してくれるだけ。

 それが居心地良くて、そのうち嫌なことがあると、時間をつくって釣竿を持って、彼女がいそうなところへ行くのが習慣になった。

 

 

 

 

「やあ元気か少年。元気無さそうだな、飴いる?」

「……ちょっと色々あって。あ、飴はください」

「きみ、結構図太いよね」

 

 彼女の釣りの腕は、会うごとに上手くなっていっていた。

 以前とは違う、透明で美しい色の硬い飴玉を食べて、それでも晴れない気分のせいで、獲物を一匹取り逃がした。

 

「どうしたよ、少年。なんか元気ないにも程がなくない?」

「……実家のことを、馬鹿にされて。僕の家、屠殺を生業にしているんですよ。……だから大人ほど、僕らを見るとき嫌な目をする」

 

 

 はじめて事情を告げたとき、娘娘は目を丸くした。

 どことなく猫みたいな表情で、この人は狸精なんじゃないかなと少しだけ思った。その日は黒と茶の深衣を着ていて、足元は茶の皮でできた靴だったから、余計にそうなんじゃないかと考えてしまっていたのだ。

 

 それで、どんな哀れみが向けられるだろうか、と少し居心地の悪さを感じたとき。

 

 

「バッカでねぇの、そいつら」

 

 ──娘娘は、ハッ、と鼻で笑った。

 

「誇りな、少年。きみんとこの家は神様の鞭を扱ってんだ。己の誇りは、小人の言葉に汚されるようなもんじゃない。……あ、反撃しても大丈夫そうならしっかりしといた方がいいよ」

「神様の、鞭?」

「うん。まあ、聞き齧った話だし、違う地域の話なんだけどさ」

 

 

 彼女が振るった竿の先が、ちゃぷん、と水面に当たる。

 

 笑っていた顔から、不意に全て落としてしまったかのように表情が消えた。

 

 

「神様が鞭を振るって命あるものを天に導くように、長い刃を振るって生き物を天へ返すんだ。それでもって、人がやることだから、ちゃんと全部食べられるように切り分けて、骨や皮まで使えるようにする。

 ……私が知っているのは、その集団でしか使われない言葉なんだけどね。たしかにそういうものなんだと、私は思うなぁ」

 

 

 ──口を開いた梅娘娘は、ここじゃない、海でもない、ずっと遠くを透かして見ていた。

 賢人のような言葉は、いつもの娘娘のそれとは違う。学者のようでもあり、また世捨て人のようでもあった。

 

 だから、不安になる。

 彼女は、一体どんなものを見てきたのだろう。僕がなりたいものは、したいことは、婦女である彼女よりさらに先へと進むことだ。それは、あまりにも遠い道になるとさえ思える。

 

 

「……そんなこと言う人は、初めて会いました。みんな、卑しいって言うんですよ」

「そいつが道士様じゃなきゃ笑ってやりゃいいよ。自分もきみんとこの仕事に与ってるんだから。じゃなきゃ、命を繋げないじゃないか」

 

 

 梅娘娘は、からからと木板を鳴らすように笑う。

 

 道士は肉を口にしない。でも、知っていたはずなのに、それ以外の人間から何を言われてもとは、それまで考えたことがなかった。

 あれも、己の道について考えるきっかけのひとつになったといえば、確かにそうだったのだろう。

 

 

 

 ただそのとき、彼女がいつものように消えてから、嗚呼また会いたいなァ、なんて思って。

 ──その頃はまだ、家族よりも遠く、友人よりは近い相手だった。

 

 

 

 

 それからの彼女の姿は全く変化していなくて、やっぱり鬼の類いなのではないかと思ったのだったか。

 

 僕の背丈と髪の毛もどんどん伸びていって、三つ編みが長くなった。どの段階か思い出せないけど、背中の一部以外は折を見てきれいに切り揃えたりもして。

 何て言われるだろう、と不安に思ったのは杞憂で、彼女はまた会うなりこちらに拳を付き出して、親指だけを立てた。

 

「少年って、そういうのも似合うな! いいね!」

「本当ですか? よかったァ……じゃなかった。いい加減に少年呼びは止めませんか、そろそろ元服なんですよ僕も!」

「へー、そろそろ成人か。早くない?」

 

 

 彼女は僕の言葉を聞いて不思議そうに首をかしげたが、僕からしたら娘娘の方不思議で信じられなかった。

 あの頃から、やっぱり変わらないのだ。服装は変わっても、髪の毛も顔つきも誤差にすらならないような変化しかない。

 

 

「まあいいや。少年老いやすく学成りがたしだもんな」

「……なんですか、それ?」

「あー……なんか偉い人の言葉だったと思うよ」

 

 

 ──なんだろう、それ。聞いたことないんですが。

 彼女のその言葉に、ふと、胸に墨が滲んだような感覚があった。

 

 

 実家の書物にはなかったし、近隣の書物にもなかった。腐っても書物は保持し続けている家なのに、見かけることはなかった。娘娘は海の向こうから来たと言っていたけれど、そのときこっちの方が進んでいるのだと言ったのだ。ならば、そんな言葉が書かれた書物は、一体どこにあるというのか。

 

 ──それに彼女は、女性だと言うのにどこで学んだというのだろう。

 

 

 

 

 

「……実家継がずに遊学したい、です」

 

 何日も悩んでいて、釣竿も手に取る気にならない。

 

 そんなときにやっぱりやってきた娘娘は、ミミズを捕まえて嬉々として釣竿にくくりつけている。

 今日は大物も来なさそうだし、彼女は何が楽しいんだろうか。

 

「そっか、悩め悩め若人。ついでにそれ忘れないようにしような、そういう誠実な悩みはわりと大事だから。大人になるとどうでもよくなることあるから」

「そう、かなァ」

「そうだよ。私が保証したげる。違ったら恨んでいいよ」

 

 

 あっけらかんと答えを出してしまうのは、やっぱり梅娘娘だった。彼女がそう言うのならは、違っていたときには遠慮なく恨んでやろうと思う。

 

 親と夢の天秤にかける。それは、どう考えても不孝者だ。兄がいるとはいえ、そう簡単に決めていいことではない。屠殺は、家族で行う大仕事なのだ。

 それを放棄しようかと考えていることすら、梅娘娘にはあまり関係ないことらしい。

 

 

「人間にはさ、色んなことに合う合わないがあるんだよ。人間でも、仕事でもさ。家族だって折り合いつかないときあるしねぇ。

 だから、折り合いがついたら百点満点どころか、一千点だってつけちゃっていいんだ」

 

 何の点なんだろう、それ。

 

「折り合いがつかなかったら?」

「逃げちまえばいいのよ、そんなもん」

 

 あ、同じだ。

 彼女はまた、かつて僕に「誇れ」と言ったときと、ほとんど同じ顔をしている。

 

「思いやりやら仁義なんてのは余裕がある人間にしかできないよ。……なにより、余裕は体と心と財布が豊かじゃなくちゃね!」

「は、はは、アハハハハ! 身も蓋もないなァ、貴女は!」

 

 

 含蓄のある言葉が若い彼女の口から出てくるのは今に始まったことではない。

 でも、最近ふと、それにしては老成しすぎているようにも思えてきた。近所の姐さんたちはもっと気楽だし、考えていることといえば自分の家や子、近所付き合いのことばかりで閉じている。

 

 

 二人でひとしきり笑ってから──ふっ、と。彼女の顔から、それまでの笑みが剥がれ落ちた。

 

 

「私はその辺わかってなくて、ちゃんとできなかったからさ。少年は無理しちゃダメだよ」

 

 

 思い出したように。あるいは、なにかを懐かしむように。

 

 何気なくぽつりと呟かれた言葉は、何よりも重たく胸に沈みこんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 その次は、またしばらく経ってから。

 

 修行のために郷里を離れることが決まった後だった。酒の抜けた後、釣竿を持ち出す。夜までに会えなかったら、それまでだった。

 

「修行? そりゃまた、随分だなぁ」

「ええ、とある人に見込んでいただけまして」

 

 お師匠から声をかけていただいて、それに乗ったのがついこの間のことだ。

 だから。伝えるにはいい時期であったのだと思う。

 

 

「そうかそうか、じゃあ立ち止まらないどきなよ。振り返ろうが後悔しようが構わんけど」

「なんでですか?」

「まあ、じきにわかる」

 

 

 それでも彼女はいつも通りに興味がなさげで。

 ただ、彼女は表情が豊かなので心配されているんだなァ、というのはなんとなくわかった。

 

「それから、立ち止まるのと休むのは別だからね、一応言っておくけど」

「わかってますよ」

 

 いつも通りのへらりと気の抜けた笑み。

 それに背を押されて、一応彼女の言葉を書き付けてから、満を持して異界へ踏み込んだ。

 

 

 

 

 それから、50年。

 仙境に踏み込んでから、またそのうちには会えると思っていた彼女とは、決して会うことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 それからやっと、僕は、彼女が仙女でもなんでもないことを知ったのだ。

 あの人が生きていた理由なんて知らないけれど、時折現れていた彼女は、間違いなく生身の人間だったのだ。その上での修行の50年間は、人間にとってはあまりにも長かった。

 

 

 

 

 

 

「おや、お久しぶりです。しばらく見ませんでしたが、お元気でしたか?」

 

 

 ──だから、現世に戻ってすぐに彼女と会ったときは、少し声が震えていたかもしれない。

 

 

 でも、彼女はやっぱり変わらなくて、なにやら悩んだ様子を見せたのち、ポンと手を打って「少年か!」と呟いた。

 ──僕の見た目は、20代の頃から変わっていない。

 それはそうだ。仙境に至るための修行をつけるのに、10年。遊学をしながらの修行の成果で、ほとんど肉体に変化はなくなっていた。

 

 

「やっほー、元気元気。ありゃ、少年、春先の筍より成長早くない?」

「……ええ、そうですね。そういえば、貴女に前に言われたことがちょっとわかった気がします」

 

 

 僕は、そのときどうしようもなく疲れていた。

 お師匠から使命だと投げ出されて、好きにしろと選択肢を与えられて。どうにもならないまま仙境から故郷へ戻ってから、うまくいかなくて。

 もう全部投げ出したいとすら思った。

 

 だから、嬉しかった。

 身長が伸びたこと以外、彼女にとっては些事だということが。彼女が止まるなと言ってくれたことをちゃんと覚えていられたことが。それに、彼女が相変わらずやってきてくれて、元気そうだったことが。

 

 

 そんなことを考えているなど知らない梅娘娘は、よくよく頷いてから真剣な顔をした。自然、僕も顔つきを引き締める。

 なんだかんだ言って、この人は後から必要になることを言う。だから、覚えておく。忘れないことが大事だと、忘れても思い出せるようにしておかなくては、と。

 

 

「そっかそっか、それなら次は成長し続けることだね」

「また、難しいことを言うなァ」

「がんばれ。まあ無理ならしなくてもいいよ」

 

 

 梅娘娘はいつもそうだ。

 逃げ道を残して、決めることはこちらに投げる。お陰で逃げようがないのなんて知ることもないのだろう。

 

「努力はしますよ。貴女が言うんですから、きっと必要なんでしょう」

「信頼してくれるねぇ、嬉しい限りだわ」

 

 だから、僕もそれに応える。

 この人は、間違いなく味方なのだ。それだけは決して変わっていないと、なにより僕自身が知っている。

 

 

 それで釣れた魚は、修行中の身では食べられないので彼女に差し出した。が、なぜかその場で焼いて全部食べきって帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 それから数百年。

 何もかもが終わってから。懐かしくなって仙境の泉で釣りでもしてみようかと釣竿を持ち出したとき、懐かしい声が聞こえた気がして。

 

 

 ──その姿を、見てしまった。

 ──目が、合ってしまった。

 

 

「久しぶりだね少年! あれ、なんか見ないうちに随分でかくなった?」

 

 あの人が、そこにいた。それも、生身の体で、だ。

 

 心臓が早鐘を打つ。ここは彼女がいていい、人間がまともに生きていられる場所ではない。

 

 

 なのに、まるで気づいていないかのように、笑って、その足でありえざる地を踏みしめているのだ。

 ()()()()()()()()()()()()にも関わらず、なにも気づいていないかのように。

 

 

「……どうして」

「ん?」

 

 

 それが痛ましく、見ていられなくて、一度はうつむいてしまった。

 

 体が震える。言って諌めるべきか、叱り飛ばして返すべきか。だが、どちらにせよ彼女がそれを受け入れるかどうかだ。

 

 

「どうしたよ少ね、」

「貴女はッ!」

 

 

 とはいえ、時間の余裕もない。

 

 肩を掴んで、視線を合わせる。彼女の体が強ばったのをはっきりと感じ、申し訳なさが襲ってきた。

 言わなければ。()()()()()()前に、はやく。

 

 

「なんでっ、仙境まで来てるんですかッ!!!」

「え、なにそれ知らん……怖……」

 

 

 

 絞り出した声は、もうほとんど悲鳴だっただろう。

 

 

 両肩を掴むと、その部分から少しだけ肉が溶けた。

 先ほどまで緩やかだった侵食が、完全に通常の迷い子へのそれと同様に始まっている。書き換えは、さっきまでほとんどなさそうに見えたのに、なぜ。

 

 そのまま肩を掴んでいては余計に溶けるかと思い、慌てて離そうとして──止まる。

 

 もし、離してしまって()()()()が加速したら? 

 

 

 体から彼女を構成する情報群が溶け出していく。

 この仙境でも太極へ還るそれは、魂魄そのものといっても過言ではなく。

 

 

「──あ、」

 

 

 理解した。少なくとも彼女は納得したのだと、反応を見て察知する。そうだ、頭の回転はなかなかに悪くない彼女のことだ、何かしら対策は打っているだろう。

 肩を掴んだまま、彼女の言葉を待つ。

 

 

 だが、彼女は僕の手を跳ね除けて、一歩だけ引いて、普通に腰に手を当てた。胸を張って、こちらを見上げてくる。

 

 

 ()()()()()()()()()()くせに、その行動はやけに元気そうだった。

 

 

「ていうか、邪魔なら帰るわ。すまなんだわ」

「え、あの、ちょっと!?」

 

 

 帰るって、どこに。

 それより、その体で帰るなんて正気ではない。止めなくては。

 

 

 焦る声を上げた僕に、あの人が振り向く。

 

 

 前よりも、もっとずっと小さな背で、小さな体だった。

 そんな背中を、今まではとても大きく感じていたのに、今ではこんなに頼りなかったのかと愕然とする。

 それでも、何でもできてしまえそうなほど頼もしく思ってしまう力強い姿は、相変わらずだったのだ。

 

 

「子牙くん。立派になったね」

 

 

 ──だから、これは決別の合図だった。

 

 目をかけられた子供の僕へ。長く、そしてほんの一瞬一瞬を見てきた彼女からの。

 想像を絶する痛みに襲われているだろうに、ケロッとした顔で、心の底から祝い、寿いでくれているように。

 

 

「お暇するよ、息災でね」

「っ、梅姐……!」

 

 

 止められはしない。止めてしまえば、彼女は失われる。

 

 見送った後でも、探すことぐらいはできる。

 だから、歪みそうな顔を必死に留めて、その背中が消えるのをただ見送っていた。

 

 

 

 

 

 それから、記憶の中の彼女はずっと笑っている。あの頃から変わらないと思っていた、同じような笑顔だ。

 あんなことがあった後でも、それでもまたどこかで。どんな姿になっているかわからずとも、一度くらいは会えると思っていたのだ。

 そう、高を括っていた。

 

 

 ──でも、梅姐はどこにもいなかった。

 一度、あまりにも機会がなかったので、外に出たときに世界の端まで探してみたのだ。

 

 しかし、そんな人はいない。

 存在していたら残るはずの要素すら薄く、それならあの存在は一体なんだったのかと混乱を極めたりもした。

 だが、存在した形跡がないのだから、やはりあれは、幻かなにかだったとでもいうのだろうか。

 

 

 

 梅姐が居ない理由に気づいたのは、その長い時間の中で、外界から新しい弟子が来たそのときのこと。

 

 

「良く励んでいるね。良いことです。少年老いやすく、学成りがたし、ですからね」

「あれ? 師匠、それは魯の孔先生の言葉ですよね。

 外界には疎いと仰っていましたが、よくご存じではありませんか」

 

 カチリ、と最後の譜が、然るべき場所に収まった。

 

 土地の名前を聴いただけで場所を理解し、頭を抱えていたこと。

 菓子の小箱を上等な衣に隠していたこと。

 僕が知らない言葉を知っていたこと。

 女性なのに、学ぶ姿勢があったこと。

 

 

 ──それなのに、僕の問いのそれに答えず、ただ笑っていたこと。

 

 今から振り返れば、あっさりと答えが出てしまうことでした。

 そしてそれに気付いてしまったがゆえに、恥もなにもなく、己の失態に泣いてしまいたかった。

 

 

 

 

 もしあのとき、僕が彼女をその場に留めてしまったら。そうしていたらきっと、彼女は死ぬよりも辛い目に遭っていただろう。

 

 

 

 仙境は、決して生身の人間が長く居られる場所なんかじゃない。

 それは比喩などではなく、物理的に変化を強いられるからだ。後に知ったムーンセルという存在に近いといえば近い。生身の体を融解させ、五大元素に最適化して太極の一部として取り込まれるのだ。

 

 神仙に至るための修行は、まず真っ先に痛覚の遮断を学ぶこと、それから任意の人格を残すことが求められる。それが出来て初めて、神仙への道を拓くことが叶うのだ。

 

 

 だが、彼女はそんなものはできなかった。体が溶けていくような感覚があっただろうことは想像に難くない。痛覚を遮断できないのだから、生きたまま酸に浸けられるように溶かされていたのだから。

 

 何の準備もなくこちらへ踏み込んだら、心肺から順に体が書き換えられ(アップデートされ)て、元素から成る幻想器官に変換されていく。その激痛は意識を保てるだけでも十分に驚嘆すべきものになるのだ。指一本も動かすことはできないのが普通で、崩れ落ちてそのまま書き換えが完了する(オールグリーン)まで変換が進行してしまう。

 ──そして、それまでの人格は仙女としての感性や感覚に塗り替えがな(イニシャライズ)されて、欠片を残して消えてしまう。その残る欠片だって記憶を保持するには心許ないもので。

 

 

 修行という下準備なく、痛みを止める手段も持ち得ない。さらには神秘も薄まっていたであろう時代の人間など、耐性もない分、人格の構成要素が残る可能性は低い。

 神秘の色濃い時代であれば、まだもう少しましではあるだろうけれど、それでも油断すれば意識ごと真っ更な状態になるような、危険な行動だったのだ。

 

 

 

 なのに、彼女は耐えた。

 信じがたいことに、耐えられてしまった。

 

 顔面を蒼白にしながら、それでも僕を祝福して。笑顔で、自分の足で去っていったのだ。

 

 

 僕にも、それが何故なのかはわからない。

 でも、あの状態で動けていたということは、少なくとも心肺の一部は生身の器官とはかけ離れたものに変質してしまっていたはずだ。

 

 そうした器官はこれから先の世、僕らの時代から見て上等だと思える衣を普通に着られる世界では、彼女はきっとひどく貴重な存在だ。

 普通の人間からしても不可解ななほどに強い機能を保持し続けるし、方術や魔術を嗜む人間が気づいてしまえば、彼らにとって喉から手が出るほど欲しいモノになる。

 

 

 ──そんなものが、知れてしまったら? 

 

 

 ぞわりと背筋が粟立つ。

 僕は、もし一歩間違えていれば、我欲で取り返しのつかないことをしてしまっていたのだ。

 

 

 しかし──そんなことならば、いっそ、彼女にとっての夢のようなあやふやな場所から、帰ってしまわないでいて欲しかった。

 きっと修行している弟子たちのよき支えになっただろう。

 

 

 だが、もし、仮にそうしていたら梅姐は苦しんでいたにチガイナイ。

 被検体や材料にされるのなら。そんな扱いで苦痛を味わうくらいなら、こちら側のものになっていた方が生きていやすいのもまた事実だ。

 

 だから、そのままいたらよかったんだ。それで、そばにいて笑ってくれていたら。

 

 

《立派になったね、子牙くん》

 

 

 でも、そうなればきっと、僕は自分のしでかしたことに耐えられなかっただろう。

 あの人の言葉は、まだ鮮明に覚えている。だからこそ、彼女が祝福した立派な人にならなくては、その寿ぎに足る者でなければならない。

 

 

 

 

 だから、想う。

 

 梅姐は、ただ普通の女性だった。いや、仙境に来て体が書き換えられつつあるのに何事もなかったかのように振る舞える時点で普通ではないが。

 でも、確かにただの人間であるあの人に、情をかけてもらっていたのだ。

 

 紛れもなく、僕は大切にされていた。

 偶然に遭遇した子供として。そのうち時間をかけてから、ちゃんと友人として、確かに信じられ、気を許されいたのだろう。

 

 

 ただそれだけの、これからもきっと出会えないその人がひどく懐かしく、苦しく思い出されるのは。

 




変人お姉さん:うっかり立ち入り禁止区域に踏み込んで溶けかけてた。なぜか気合いだけで生還したリアルアマゾネス。

太公望さん:何百年かしてから一人前になったあと、弟子ができた辺りでやっと変人お姉さん真実を知る。一度現世を探したけどSAN値チェック入るだけだった。


もし変人お姉さんがマスターやってたら:ツングースカで隠れて活性アンプルバカ打ちしてるところで藤丸くんと少年に見つかる。鉄拳フラグ回収。


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王の杯はあまりに甘い

 双角王に憧れた皇帝の雛に付き従った奴隷の話。
 (※軽度の玉ヒュン描写があります。)


 エイプリルフールネタを書こうとしてほぼ一文すら書けなくなり、気づけば6月になりました。
 今月はもう二回くらいは更新したいな……。


「ラサース! 早く来い、先生に見つかるだろ!」

「殿下、また叱られますよ」

 

 眩むような日差し。今日も今日とて、炙られる串刺しの肉にでもなったような夏の日向だ。できれば日陰でじっとしていたいが、そうもいかない。

 

 殿下は今日も、宮廷内を逃げるように移動している。それに付き従っているわたしも、大人たちの目につかないように走り回っていた。犬の二匹にでもなったように大人に見つからないよう駆けずり回るのだから、全身汚れもする。これで大人から叱られるのも何度目だろうか。でも、汚れで叱られるくらいならなんともないから別に良かった。

 

 

 今日も変わらず、窮屈だが穏やかだ。

 

 

▲▽▲▽

 

 

 

「ラサース!」

 

 豊かな黒髪と豪奢な衣を揺らして駆けてきた少年が、私の腕を引っ付かんだ。瞬時にだいたいどっちに向かうか確認して、衝撃に備える。何回か引きずられて大きな擦り傷ができたから、まあ慣れたもんだ。

 

「殿下、今日は先生の講義の日ですよ」

「間に合えば叱られないだろ。そんなことよりお前も来い!」

 

 いやに興奮して目を輝かせている殿下に、回れ右していなくなりたい衝動に駆られる。ここは中庭だ。ここからなら講義に間に合うし、おとなしく諦めていただけたら何の滞りもなく今日を終えられるだろう。逃げられたらどんなに良かったか、と。

 

 少年──私の主人であるメフメト2世殿下は、紅顔の美少年とも言える面立ちの良い印象を完全に砕くような、手のつけられないじゃじゃ馬殿下だ。

 彼に振り回されたら生傷は何度もできるし、痛い思いをしたのはなにも引きずられたときだけじゃない。癇癪でものを思い切り投げつけられて、額から出血したこともあった。あれはたんこぶも出来てしまってかなり苦痛だった覚えがある。大人の言うことを聞けば何度も八つ当たりをされたし、殿下に従えば体罰込みで叱られた。

 

 どっちに転んでもあんまり変わらないものだから、死なないなら私はどっちでもいいのだが。だが、憧憬を滲ませる顔を崩すのは、どことなく憚られた。

 

 

「まーたバックレですか」

「うるさいな、ちょっと見に行くだけだろ。それよりも絵だ、あの絵があるらしい! 見に行くからお前も着いてこい」

「聞いてらっしゃらねぇなぁ……」

 

 

 結局、ずるりずるりと引きずられるよりは、と彼の後をついていくことになった。先生、杖で殴り殺しに来なきゃいいんだけどな。

 

 

 こうやってついていくのも、私が圧倒的に下の立場だからという以上の理由はない。バルカン半島から引っ立てられた、他の少年たちと同じく徴用された奴隷だから逆らうのが得策じゃないというだけだ。

 

 私は、逃がそうとした両親の苦悩をよそに、逃げきれずに引き立てられてバルカン半島からやってきた。一応、なんとなくは覚えていたけれどまさか自分が対象になるとは思っていなかったのだ。他の子供たちとは違って思考は大人になっていたが、体格が歳の割に立派であるように見えた以外に特筆すべきこともなく、むしろ訓練で体を鍛えることがひどく苦手な、ただのどうしようもない子供である。

 

 頭脳方面でも他に優秀な子供もたくさんいるのでイェニチェリにも侍従や従僕になることもないであろう私であるのだが、何の因果か王子付きの奴隷になった。少年愛の対象にならないように気配を殺したり適当抜かしたり泥塗りまくったりしてたら、いつの間にかお付きになっていたのだ。わからん。

 

 私をお付きにしたのは、まだ少年だった王子ご本人だった。賢そうな目をした、とても元気な我らの王子(あるじ)。そんな私の主人は、言い負かすだけの利発さと有り余る体力で家臣群を困らせているような、そんな御方であった。

 あと、たまに私たち少年奴隷から適当なのを見繕って連れ回していたりもする。そっちは相手から慕われていることに満更でもなさそうなので、余計に謎だ。

 元は女だったような記憶があるのでそれらしい仕草をして見せたが、露骨にいやがられたし、泥まみれにされて「そっちの方が落ち着くからお前しばらく泥被ってろ」とまで言われた。女的なものはあんまり好かないらしい。だったら私はいったい何を気に入られて引きずり回されているのだろうか。

 

 閑話休題。

 

 

 まあ端的に言ってクソガキである。何度も怪我しそうになったし、実際に怪我もたくさんした。さっきみたいに。

 とはいえ、嫌いではないのだ。だから、今日も彼の背を追っている。

 

 

 

 忍び込んだ先は倉庫の一角、まだ運び込まれて間もない荷物の集まる山のうちのひとつだった。

 殿下は、一見乱雑にも見える慣れた手付きで、目当ての絵とやらを探していく。当たりはつけていたのだろう、そう時間をおかずに額縁もどきに入れられたそれを引き出した。

 

「これだ。これだよ」

「これは、」

「きれいだろ。絵が本当なら、コスタンティニイェは、きっと宝石みたいな場所なんだ」

 

 たしかに、美しい絵だった。

 写実であって写実ではない、都市の魅せ方をよく見知った画家が描いたらしい。城壁も、街の作りも、人々の活気も、すべてが輝いている。

 

 

「オレはあの国を征服する。他のどれでもない、この宝石こそが欲しい」

 

 

 その言葉は、あまりにも真摯で攻撃的な響きでもって、私の胸を刺した。

 この殿下はまごうことなきクソガキである。まだ12にもならない、私よりいくつか年下の、プライドが高くて癇癪持ちで、手遅れなほどに異国に心奪われた王太子だ。

 目を輝かせ、己の野心を隠しもせず、そして夢を語る。それができるのが、殿下の美点だ。恥ずべきことと考えないでいられる素直さは、決して悪いものじゃない。

 

「じゃ、人材が必要ですね。メフメト2世陛下がブチ切れても止められるような屈強なのが」

 

 

 真摯な言葉には、誠意で返す必要があった。だったら、確実に私では足りない。もっと屈強で、強い忠誠心を持った軍隊のような家臣団が必要だ。まだまだお父君であるムラト2世陛下の家臣たちの締め付けの方が強い現状、足場は早く固めるべきだった。

 

 至極真面目に考えて答えたというのに、殿下は妙なものでも見るような目で私の頭から爪先までをじろじろ見る。悪魔付きのようなものかもしれないが、これでもちゃんと人間であるし、まあ、多少は敬虔な信徒ではないだろうか。

 

 

「……お前、笑わないのか」

「そりゃ、まあ。わたし、貴方の配下で、奴隷ですからね」

 

 

 訝しげな殿下に、そんなに変なことかと思うが仕方ない。真面目な話をしたのにこっちがいつも通りだからだろう。もし奴隷が王族を嘲笑ったら、そんなの首を刎ねればいいのだ。変に気構えが必要な立場でもないだろうに。

 

 私は見た目がいいわけでもなく、パッとしないのによく見いだしてもらえたものだとは思うが、殿下いわく、『こいつなんか変なやつだな』で選んだらしい。何があったときだ、と思ったが、たぶんはじめの訓練でヘロッヘロのところで何かとち狂ったことでもしていたんだろう。疲れすぎてさっぱり覚えていない。ので、本当に運が良かったとしか言えないのだ。

 お陰さまで飯を満足に食わせてもらえているし、家族もたぶんいい目にあわせてもらっているだろう。長いこと離れてるだけに、実際どんな風に暮らし向きが変わったかはわからないけども。

 

 だが、当の王子はいたずら小僧、とんだ悪ガキであったわけで。はじめこそ彼と共に学ぶために引き立てられたただの端役であるのだが、いつの間にやら役に立たないなりの止め役にされてしまっている。

 ……でも、それでも良かった。

 

 殿下の主張が都合のよいものだったために仲間内から外れて連れてこられた。それと同時に殿下と共に学んでよいが、彼が不適格であると判断されたときには同じように殴って良いとされた私だ。扱いは人というより、幼児をなだめるためのぬいぐるみと変わらない。

 それでも、今まではよく回る口で逃げる口実を用意していたが、本気で撲殺を視野に入れられていると察した王子は授業だけは真面目に受けている。下手したらそのうち私も一緒に頭がかち割られるだろうと思うとゾッとするが、ダメならダメで一緒に逃げるし、なんとかなるならなんとかなるで、学べることへの喜びは比較にならない。よりよい教育を、快い波を浴びることができるなら、何だって。

 

 だったら、彼につく。そうすればどっちに転んでも得だ。

 

 

「預言者はおっしゃった、『コンスタンチノープルは必ずや征服されよう。何ぞ美しき哉、征服せし指揮官や。何ぞ偉大である哉、征服せし千軍万馬や』

殿下がそうなりたいならそうなるでしょう。欲したなら、諦めたくないじゃないですか?」

 

 

 我が主は、遠からずこの国を率い、広大な国土の王になるお方だ。

 そうならなかったとしても、私にとっての主はこの人だけだ。なんだかんだ言いつつ、大事に扱ってもらってることに変わりはない。容赦もないし遠慮もないけど、だからこそ、決して口で言えはしなくても、本当の友人のようで嬉しい。なればこそ、だ。

 

 

 友の夢を、我が主の夢を、どうして笑えるだろう。

 人間の人生なんて何があるかわかりはしない。既定の道ではないのだ。だからこそ価値がある夢なのだ。いつか歴史に埋もれるかもしれなくとも、本気で恋い焦がれる偉業を、どうして馬鹿にできるだろうか。

 

 その偉大な夢を真っ正面からぶつけられたら、想像させられたならば、渇望しないわけがない。

 いつも引きずられていたのだ。なら、この先も、戦場でもまた、私は戦士の一人として嫌でも敵地に立つことになる。だったらいっそ、身に余る夢を見たい。

 

 

「奴隷の身にも叶うのであればわたしは、貴方の夢の、その礎になりたい」

「……そうか!」

 

 

 主は、屈託なく笑う。苛烈な人だが、そうであるから誰よりもまっすぐに、真摯に、己の欲を追いかけているのだ。

 

 

「じゃあ、お前宦官になれ」

「はああああ!?」

 

 

 

 後日、引っ張り出されて本当に逸物切られてしまったのだから笑えない。

 

 

 痛いとか死にそうとか、そんなぬるい騒ぎではない。本当に死にかねないのにあの殿下、本当に覚えてろよ。あんまり意味が有ったか無かったかわからない転生で女をやめたというのに、今度は男をやめさせられるとは。

 

 手術はどうにかこうにかうまく行ったが、それはそれとしてかなり苦しむ羽目になったのだから笑えない。殿下には死んでほしくないが、それはそれとして一度くらい同じぐらい苦しめばいいと思う。

 

 やっぱり人生なんてもん、なにがあるかわかりゃしない。

 

 

 

 

 だからこそ。

 

 

「だれか! 誰か私の首を切る正教徒は居ないのか!」

 

 

 落日の男の余裕もなにもかもかなぐり捨てた姿に、いかんとも言いがたい親近感というか、魅力というか、そういうものを抱いてしまったのだ。

 だからといって、止めるでもないが。

 

 

 叫んでいた皇帝らしき男は、陥落など想像だにしていなかったであろう。その背中はまだ覇気を失いきってはいないものの、そりゃあひどい顔をしていた。

 

 朦朧としているのだろう。五十に差し掛かった面立ちは、随分と草臥れている。今にも沈み込みそうな足取りで、略奪が行われている市街地を、剣を振るい続け駆けてきていたのだ。帝位を表すもののほとんどすべてを捨てた己が身に、使い慣れた剣ひとつで。

 眺めていた私も、それはひどい顔をしていたかもしれない。私だって、かつてはキリスト教徒だったのだ。かの神をおいて他に神は無し、と認めたとはいえ。

 王は、我が主はそれほどひどい提案をしたわけではない。国盗りなんてものが穏やかに行われるはずがないと知っていても、つい先程まで血と糞尿と煙のなかを走っていたとしても、それでも降伏する道は無いでもないのだ。

 

 そもそも彼らもまた同じく経典の民。ただ、我らは最後であった。それだけの、ただそれだけだというのに。

 

 

 彼の誇りは、まだこうして生きている。

 紫の沓は血と泥にまみれて薄汚れていた。髪にもいくらか汚れがこびりついている。私もだ。

 血と泥は乾くとなかなか落ちないから困る。この御仁も大変だろう……仮に、逃げきれたならばの想像に過ぎないが。

 

 

 ふと、これでいいのだろうか、と思った。

 私に夢はない。ここで私が掲げた夢は完成したも同然だった。この先に希望も、展望もない。ただ、我が主が死ぬまで、彼の宮廷で仕えるだけである。そこにこの王のように豊かな激情は持てるだろうか。紛れもなく国のために殉じるという、高潔で傲慢で、どうしようもなく人間的な欲は。

 視界の中心で、王が兵士を一人切り殺そうとしていた。何人か死んでいる。たぶん、考え事をしているうちにさっさと止めを刺してしまったのだろう。手際のいいことで。

 

 

 足音と気配を殺し、背後を取る。

 彼の手から、剣を奪った。

 

 

「残念でしたね」

「な、」

 

 

 ──かろうじて結わえられた黒髪が切っ先に触れて、ぱさりと落ちた。

 

▲▽▲▽

 

 

 布に包まれた首は、我が主が占拠した城へ持ち込まれ、我が主の前に置かれている。豪奢な耳飾り。長く、しかし薄汚れた豊かな黒髪。閉じられた目、まだ血の滴る首の断面。

 誰によってこの王宮にコンスタンティノス11世がお戻りになったか、と言えば私の手だけではない。そんなことをしたならば、私が偉大な統治者を殺害せしめたと疑われるからだ。これでも腹心の部下、もとい忠実な奴隷であるというのに。まったく、面倒なことで。

 

 

「ラサース」

「なんでしょう、我が主よ」

「お前か」

「何がです?」

 

 首を前にとぼけて見せれば、己の喉目掛けて陛下の手が延びた。あまりにも勢いが良く捕まれたせいで、喉が潰れそうになって吸いかけた息を吐き出してしまう。

 

「ぁ、がっ……」

「我が僕よ、お前、何を考えている?」

「は、は……」

 

 今にも縊り殺さんと喉を掴んだ陛下は、そのくせ困惑したような顔をしている。私と私の主人は、昔からどこかずれているのだ。それを正す気の無かったことのツケが今回ってきている。

 

 本当のところ、なにも考えちゃいないんだよ。ただ、今後に不安があっただけだ。己がしたいように、殿下にも不利益はなかったと自負しているが、信用など地に落ちている。

 こんな状態の陛下に言い訳なんぞ聞き入れられないのは、付き合いの長さからよくよく知っていた。

 

 

「なぁ、ラサース。私は私に与えられたお前に、名を与えた。立場を与えた。お前の身には余る栄光もだ」

 

 

 かつて、絵を見たときにはあった別の名は、陛下から賜った名に置き換わった。主君の栄光の礎となるために、私の身は与えられたものばかりで出来ている。

 

 

「そ、うで……す」

「ならば、わかっているだろう」

 

 

 ほとんど力の入らない体をどうにか動かして、首を縦に振る。ええ、わかってますとも。

 

 

 

 

 数日の後。結局、私は陛下から直々に杯を賜ることに決まった。普通なら首を刎ねられるのだから、陛下は甘い。まったく、情など無いだろうにこんなことをするのだから手に負えないものだ。

 

 牢は暑くも寒くもない。感覚が麻痺しているのかもしれないが、むしろ都合は良かった。

 目の前で立会人が杯を満たしている。私の体には、手にも足にも枷はつけられていない。これまた不用心だ。信頼や同情、といわれればそうなのかもしれないが、屈強な牢屋番を出し抜けないだろうという嘲りでもある。

 はて、何をどこで間違えたのやら。

 

 

「何か、言い残すことはあるか」

 

 

 ──あの高潔な王は、大理石になったと噂されている。獄にいてもその噂が伝わるほど、彼は慕われていたのだ。

 

 満たされた杯を見ると、あの薄汚れた紫を思い出す。あの汚れの美しさは、彼の誇り高さであったのだと、私は知っている。この国の新たな統治者ならぬ私こそが、あの泥の価値を知っている。これは、まあ、言い残すことでもあるまいな。

 

 

「無い」

「……そうですか」

 

 

 立会人の答えを聞くのも待たず、鉛の杯を呷る。

 飲み干した液は苦くて、甘い。なんとまあ、豪勢な処刑なんだろうか。今後はもう少し体面を考えた振る舞いをしてくれればいいのだが。でなくては、仕えてきた甲斐がない。礎になどなれなかったのだから、そう願うぐらいは許されるんじゃないだろうか。

 

 彼は確かに大理石になったのだろう。その名声と、人々の望みによって。ゆえに、この都市へ運び込まれる一塊の大理石は全て、かの王となる。そうして、その身を削って雨風を凌ぎ、人々の足に踏まれ、寄り掛かられる。文字通りの、国の礎となるのだ。

 

 

 

 ああ、嗚呼。なんと、──羨ましい。

 




鉛:古くは水道管やワインの杯にも使われた。青灰色の皮膜を形成する金属であり、使用途は多岐にわたるが、摂取量が一定量を超えると中毒症状をもたらす。


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