キャミにナイフ (紅野生成)
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1 かわいさに騙されるな!

 ぼくは空しい神頼みのために、小高い丘の上へ向かって細い石段を上っていた。

 何を祀っているかさえ知らないが、ぼろぼろの石段の両脇に豆電球みたいな小さな灯りが、ぽつりぽつりと灯り出す。

 

「もう夕暮れか。こんな小さな神社でも、一応管理されているんだな」

 

 これから参拝に行こうという人間がいうには不謹慎な発言だとは思うが、今の自分には、こんな場所へお参りにくること自体ただの気休めでしかない。

 石段を登り切ると、わりと広い敷地が広がり、枝を広げた杉の木と柏の木がばらばらと自生していた。

 そこら一帯に茂る草は、放置され過ぎて生い茂るでもなく、かといってマメに手入れされている風でもなく、いい感じにぼさぼさと命を謳歌している。

 少し奥に立つこぢんまりとした鳥居まで歩いて、そこで足が止まった。

 

「何やってんだか」

 

 短大を卒業したものの、送っては面接をくり返した数十枚の履歴書は、今では全てゴミ収集車の中でぐちゃぐちゃになっているだろう。

 まともな就職に失敗したせいで、学生時代から続けているアルバイト先に居続けることになったぼくは、実家から勘当をくらった。

 母親は元看護師、父親は外科医で二人の兄も証券マンと弁護士になっている。まともに就職できないぼくは家の恥さらしということらしい。

 何とかまともな職を見つけて、お高くとまった実家の面々をぎゃふんといわせてやりたい。

 それで最後の頼みの綱が、神頼み。我ながら情けない。

 とっぷりと日が暮れる前に、ここに来た目的を果たそうと鳥居に手をかけたとき、夕日に染まる敷地の向こうに群生する、柏の木が風に吹かれたようにざわついた。

 振り返って目を懲らすぼくの方へ、猛然と走ってきたのは細いシルエットの女の子だった。

 一本に縛った長い髪が、夕日の照らす逆光の中揺れている。

 どうやら神社の中へ走り込もうとしていたらしい女の子は、ぼくの姿を見て走る足に急ブレーキをかけた。

 

「きみ、誰?」

 

 ポニーテールを振り乱して走る姿からは想像していなかった、少し高めのかわいらしい声。

 

「この寒空に、どうしてキャミ?」

 

 女の子は細身のジーンズに、肩紐の細いキャミだけを身に纏っていたから、彼女の問いに答える前にそんな言葉が口を突いてでた。世の中は春だと浮かれてはいるが、夕暮れともなれば長袖だってちょいと小寒い。

 左頬を夕日で染めながら、女の子がにっこりと笑う。

 

「これはね、わたしの戦闘服だから!」

 

 はっとしたように、柏の木が群生する辺りを振り返った彼女は、キャミの肩紐を指先で浮かせて弾くと、軽くウインクした。

 そして次の瞬間、ぼくを鳥居の内側へと突き飛ばす。

 地面に向けて体が傾いでいく視界の先で、ひらりと彼女が手を振るのが見えた。

 

「じゃあね!」

 

 仰向けに倒れたぼくは、呆然として彼女を見送った。

 長いポニーテールの影が尾を引いて、彼女は来たときと同じように走り去っていく。 

 ただ眺めるだけのぼくの目の前で、走り去る彼女の背後を今にも追いつきそうな勢いで、大きな黒い影が蠢き去った。

 

「やばい、少しノイローゼぎみかも」

 

 彼女の後ろ姿が見えなくなってようやく立ち上がったぼくは、のろのろと拝殿に向かう。

 

「どうか、いい就職先が見つかりますように」

 

 投げ入れた百円玉に願いを込めて、ぼくは深々と頭を下げた。

 

 

 

 

 百円玉で願う頼み事など、所詮は缶ジュース二本分の効果しかなくて、バイトしている店の売り上げが急激に伸びることも、もちろんぼくの就職先が決まることもなかった。

 今日も小さな店で、小走りに走り回る生活が待っている。

 まあ、なぜか嫌いじゃないんだけれどね。

 

「悪いわね,毎日お願いしちゃって」

 

「いいえ、気にしないで下さい」

 

 この五日間で増えた仕事といえば、向かいに住むこのおばちゃんが頼んでくる針の糸通し。

 今週中には縫い終わるからといって、毎日朝早くに持ってくる裁縫セットの針に、ぼくはせっせと糸を通す。小さな刺繍をしているとかで、毎日違う色の糸をそれぞれ三十本ほどの針に通して、絡まないように針山に綺麗に刺してあげるのだ。

 若いとはいっても、数をこなせば目がしょぼつく。

 

「葉山のおばちゃん、できたよ」

 

 眼鏡をかけ直して満足そうに頷いた葉山のおばちゃんは、いつものように缶ジュースを二本置いてにこやかに店を後にした。

 

「おーい、タザさん。一休みしてジュース飲みませんか? 葉山のおばちゃんがくれたやつ。朝早くからやっていたから疲れたでしょう?」

 

 業務用冷蔵庫より大きな工具入れに頭を突っ込んでいたタザさんが、ぬっと顔をだす。

 つるりとそり上げた頭に、白いタオルをハチマキ代わりに巻いているのがタザさんスタイル。

 

「野菜ジュースはいらんぞ。普通のがいい、ふつうの」

 

「オレンジジュースならいい? ぼくは紫色した野菜ジュースでも大丈夫」

 

 缶を渡すと、タザさんは半分飲んだ缶を器用に歯で噛み口にくわえたまま、すぐに工具入れに頭を突っ込み、作業に戻ってしまった。

 

「和也、おまえここ来て何年たつ?」

 

 釘でもくわえているのか、工具箱の中からくぐもったタザさんの声がする。

 

「高卒からからだから、まるっと二年。情けない」

 

 この店は元々、道で落とした荷物を拾ってあげた爺さんとタザさんで営んでいた。

 オーナーであるシゲ爺こと上林重治は、ぼくの就職が決まらずに卒業するのを待っていたかのように『命の洗濯旅』と銘打って、メモ紙一枚だけ残して旅に出ている真っ最中。

 あの日シゲ爺のこぼした芋やミカンを拾いながら、バイトを探しているといったのが運の尽き。客のいないときは勉強していても構わない、という甘い誘いに乗って早三年目。

 

「そういえば雇われオーナーだとかシゲ爺がいってたことがあるけど。こんな小さな店に、オーナーと雇われオーナーがいたら笑えるっての」

 

 タザさんは当分構ってくれそうもないし、十時から店を開ける喫茶店の準備をしよう。

 店の中は落ち着いた木目の板張りの壁で、同じく板張りの床はかなりすり減っているが、それがまたいい味をだしていると、ぼくは思っている。

 

「お客さんには悪いけど、今日もトーストセットかチャーハンだな。チャーハンはインスタントの粉を混ぜてちゃっちゃっとね」

 

 店の中で入り口に向けてコの字に張り出した部分がカウンターで、あとは丸いテーブルがみっつ、それぞれに椅子が三脚ずつ押し込まれている。

 コーヒーだけは、我ながら美味く淹れると思うのだが、料理は駄目だ。メニューのほとんどをシゲ爺が一人で作っていたのに、何もできな二人を残して人生の洗濯に旅立ってしまったのだから、どうもこうもしようがない。

 タザさんとの話し合いの結果、料理をできる人募集中と、バイトの張り紙を店先に貼った。

 オーナの許可は取っていないが、居ないのだから仕方あるまい。経費にとおいていった通帳は、店の存続とぼくの労働軽減のため、有効に使わせてもらう。

 

「コーヒーセットの準備だけでもしておくか」

 

 この店は昼間の喫茶店と同時に、何でも屋も営んでいる。いわゆる便利屋だ。タザさんはそっちの仕事で忙しいから、喫茶店の仕事は必然的にぼくひとり。

 

「早く来い、バイト希望者!」

 

 乾いた布でカップを磨いていると、カランカラン、と重い鈴の音を鳴らしてドアが開けられた。

 

「すみません、店は十時からです。もう少し待ってもらえますか?」

 

 近隣の住民が、時計も見ないでやってくるのはいつものことだ。

 

「表にはって貼ってある、アルバイト募集の紙をみたもので、まだ早かったですね」

 

 アルバイト、という言葉に反応してぼくが顔を上げたのと、タザさんが工具入れから勢いよく首を引き抜いたのはほぼ同時。見えるのは女の子のシルエット。

 

「あとで出直してきます」

 

「まって!」

 

 何が何でも引き留めねば。

 

「きみ、料理は得意?」

 

「はい。だいたいの物なら、作れますよ」

 

「きみ、掃除は好き?」

 

「掃除は、あまり得意じゃないかな」

 

 女の子の影が肩を竦める。

 

「はい、採用! もしかして今日から働けたりする? それならすっごく助かるな」

 

 このさい掃除は諦めよう。料理だけでも十分なうえに、女の子ときた。

 数日続いた、タザさんとぼくで仲良くふたりぼっち、というむさ苦しい空気が変わる記念すべき今日この日。

 

「喜んで。では、失礼します」

 

 ぺこりと頭を下げ、女の子が店の中に入ってきた。

 長い髪をポニーテールに結び、紺色のキャミソールに細身のジーンズ。

 

「あれ、きみは神社であった娘? ぼくを突き飛ばした!」

 

 しげしげとぼくの顔を見ていた女の子は、思い出したように笑顔を浮かべた。

 

「あの時の人ね? なーんだ知らない人だと思って緊張しちゃった」

 

 ぺろりと舌を出した女の子は、タザさんを見てにこりと笑う。

 

「元気そうだな。ていうか、オーナーが自分の店でバイトしてどうするよ」

 

「オーナー?」

 

 素っ頓狂は声をあげたぼくに、タザさんがあきれた目を向ける。

 

「こいつが出ていったのと入れ違いに、和也はここに来てるからな。それにしたって、シゲ爺から聞いていただろ? シゲ爺は雇われオーナーだって」

 

「冗談だと思ってた。しかもこんな若い子だなんて」

 

「若いとはいっても、もう二十歳よ」

 

 高校生くらいかと思っていたのに、ほぼ同い年ということに愕然。

 そして雇う側から、雇われる側に一気に転落。もしかしてこれは、オーナーがこっそり現場に入り込んで、職場の現状を肌で視察するというあれだろうか。

 

「西原和也です。よろしくお願いします」

 

 新しく現れた雇い主に、精一杯の挨拶をしたつもりだったが、くすくすと笑う声だけが頭の上から降り注ぐ。

 

「わたしは、オーナーなんてやらないわ。だからシゲ爺にお願いしているんだもの。だからアルバイトとして雇って。あ、でもね」

 

 でも何だろう。力仕事にはタザさんが必要だけれど、喫茶店のほうはわたしが戻ってきたから、あなたはいらないわ、とかいわれたらどうしよう。

 汗一つ垂らさないように平気を装っていたが、ぼくの心臓は蒸気機関車並の白い煙をあげて爆発寸前だ。

 

「バイトで雇われる前に、たったひとつだけ、オーナーの権限を行使させてもらうわ」

 

 神様、明日の食い扶持まで奪わないで下さい、と心の中で手を合わす。

 

「和也くんは、今日から社員として雇います。だからボーナスもでるよ。」

 

「は?」

 

「この店の社員には秘守義務が課せられるから、わたしがここに戻ってきた以上、社員ではない人間を働かせておくことはできないの。あ、もちろんわたしは別ね」

 

 ここはちゃんとした仕事を見つけるまでのつなぎのバイトであって、あの神社でお祈りしたのだって、けっしてこの店で正社員になりたいからじゃないぞ。

 

「どうするかは和也くんの自由だけれど、社員にならないなら……」

 

「断ったら?」

 

「クビ!」

 

「なります! 今日から社員として働きます! 秘守義務どんとこいです」

 

 就職の前に、とりあえずは明日の飯代だ。なにせここは出来高に応じた日払い制。

 

「よかった! とりあえず来月はボーナスがあるから、和也くんのお給料は、その次の月から社員として振り込むわね。だって、今日からいきなり社員給料ですって、日払いが止まったら苦しいでしょう? 来月のボーナスで、一ヶ月は持たせてね」

 

 社員になったばかりで普通はでないだろう、ボーナス。

 

「ボーナス? とか思ったでしょう。そんなものは、オーナー特権でなんとでもなるのよ!」

 

 目の前で、天使の顔をした悪魔が微笑んでいる。

 

「まあ、肩肘張らずにがんばろうぜ。先輩としてひとつ忠告してやる。ここの社員として一番大事なのは、秘守義務を守ることだ。これがよ、けっこうきついぜ」

 

 タザさんの厳つい手が、どんと背中を叩いた反動でぼくは数歩よろけた。

 

「さあてと、これでオーナーの仕事はおしまい。わたしは冴木彩、よろしくね。彩って呼んでね。タザさんは、小さい頃から知っているからって、あー坊なんていうんだよ」

 

 そんな風におしゃべりしながらも、彩ちゃんはさっさとエプロンをつけ、手際よく野菜を切り始めた。適当に切っているように見えたが、よく観察してみると、それはシゲ爺がやっていたのと同じ下準備だった。これで今日のお客さんは、おいしいランチを食べられそうだ。

 

「いや、そんなことを喜んでいる場合じゃないだろ、自分」

 

 カップを磨く手に嫌でも力が入る。二年以上働いてきたこの店が、何だか違うものに見えてしょうがない。本当はとんでもない所で、働いていたのだとしたらどうしようか。 

 

 二年前といえば、彩ちゃんは高校を卒業してすぐのはず。それから今まで、いったい何処で何をしていたのだろう。

 あの日の夕方、彩ちゃんの背中を追っていた黒い影が、幻じゃなかったら?

 

――これはね、わたしの戦闘服だから!

 

 物のたとえとは思うが、嫌な予感しかしない。

 喫茶店と便利屋の営業でのしかかる秘守義務ってなんだよ。

 今から止めるとかいったら、やっぱり指とか切られちゃうんだろうか? まさか、さすがにそれはないだろう。

 

「和也くん、お塩どこ? あれ、どうしたの? すごい汗だよ」

 

「大丈夫だよ。塩ならその引き出しの中」

 

 全然大丈夫じゃないな、汗が流れているのが自分でもわかる。

 

「お塩発見!」

 

 彩ちゃんが、ぼくを見てにこりと笑う。

 駄目だ、このままだと仕事に身が入らないし、今夜の寝付きは必ず悪い。

 

「ねえ彩ちゃん。キャミは自分の戦闘服だっていってただろ? いったい何と戦うつもり? 世の中に反抗、とか?」

 

「世の中に反抗なんてしてないよーだ! 探すために戦ってんの」

 

「何を?」

 

「両親を殺したやつ。そいつも、もう生きてはいないけどね」

 

ぼくの手元から磨きかけのコーヒーカップが、するりと落ちて床で砕けた。

 聞かなきゃ良かった。寝付きが悪いどころか、寝られる自信がまったくなくなったじゃないか。

 

 彩ちゃんは首を傾げてウインクすると、紺色のキャミの細い紐を、指先で浮かせてパチンと弾いた。

 

  

 

 

 

 

 

 




 お話を読みにきてくださった方、ありがとうございました!
 ハーメルンの端っこで、細々と続きを書いていこうと思います。


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2 笑顔の裏に隠しごと

彩ちゃんが店に戻った途端、露骨に客が増えだした。ネットに彩ちゃん戻りましたよ、なんて情報を流したわけでもないというのに、恐るべし地域のコミュニティー情報網。

 これはこれでいい味よ、なんていいながらぼくの炒めたチャーハンを、三日に一度は食べてくれていた葉山のおばちゃんさえ、彩ちゃんお手製日替わり弁当にさっさと鞍替えという薄情さ。

 シゲ爺がいない間も通ってくれていた常連客の間で、ぼくお手製のチャーハンは、この店の暗黒歴史として記憶の片隅に追い遣られたらしい。

 

「アルバイトの兄ちゃん! コーヒー、ホットでひとつ」

 

「俺はアイスでね。あ、アルバイトの兄ちゃん! ストローはいらないよ」

 

「はーい。ホットとアイスひとつずつね」

 

 そうだ、ぼくにはコーヒーがあるじゃないか。

 暗黒歴史と化したチャーハンと違い、コーヒーだけはみんな、ぼくが淹れたのが一番だといってくれる。

 お湯を回しかけて蒸している間、挽いた豆にふつふつと浮かぶ茶色い泡から香るコーヒーの匂いがぼくは好きだ。

 お湯の太さが変わらないように、外から内へ渦巻きを描きながら、ゆっくりと湯を注いでいく。それにしてもなぜ常連客はみんな、ぼくのことをアルバイトの兄ちゃん、と呼ぶのか。

 

「もう、アルバイトじゃないのよ。和也くんは社員になったんだから」

 

 彩ちゃんがいうと、へぇえーっ、と呆れ混じりの溜息とも、地味な歓声とも聞こえる声が店の中に溢れた。

 

「社員の兄ちゃん! 駄目だよ彩ちゃん、これじゃ語呂が悪いって。やっぱアルバイトの兄ちゃんの方が呼びやすいよ」

 

「どっちでもいいけどね」

 

 彩ちゃんのひと言とオヤジ殺しの笑顔で、ぼくの呼び名改善議論は即時打ち切りとなった。

 別にどうでもいいけどね、呼び方なんてさ。

 

「コーヒーお待たせしました。どうぞ」

 

 コーヒーの香りが満ちた店内に、タザさんの姿はない。

 コの字のカウンターには左右に椅子が二脚ずつ、正面に四脚。その前に広がるちょっと狭めの店内には、丸テーブルが三つ置かれていて、それぞれに椅子が三脚ずつ備え付けられている。

 今日はめずらしく丸テーブルの一つに、女子大生風な女の子が二人腰掛け、洋風日替わり定食を食べながら楽しそうに話していた。

 タザさんが、店内から姿を消した理由はこれ。

 理由は知らないが、若い女性が苦手なんだとか。葉山のおばちゃんクラスになると、全然平気らしい。あとは彩ちゃん。子供の頃から面倒をみてきたから、彩ちゃんは平気だといっていた。

 

「今日は和也くんの引っ越しがあるから、三時にはお店閉めちゃうからね」

 

 彩ちゃんの早く帰れ的な号令にも、店内の客は気分を害した風もなく、のんびりした返事がばらばらと返ってくる。

 いい忘れたことがある、と彩ちゃんがいってきたのは、社員になれという命令が下った日の夕方。

 社員になるなら、この家に住んで欲しいといわれた。個室もあるし家賃は破格に安い。

 家を追い出されてからひと月、友人のアパートを転々としていたぼくにとって、これ以上の申し出はなかった。

 そして今日がその引っ越しの日。とはいっても、荷物はスポーツバックひとつだから、店を閉める必要などないとぼくはいった。

 でも彩ちゃんは、今日はゆっくりしたほうがいいといって、店を閉めることを断行したのだ。

 

 洗い物をほぼ終わらせて、客から見えない部分の閉店作業をしていると、奥の居間からタザさんがこっそり顔をのぞかせた。

 

「帰ったか?」

 

 小声で聞いてくるタザさんに頷くと、ほっとしたように息を吐き、サンダルをつっかけて厨房の中に入ってくる。

 

「おしゃべりしながらご飯食べてるだけの、ふつうの女の子だったのに。あれも駄目?」

 

「別に駄目じゃない。存在そのものが苦手なだけだ」

 

 ボデーガード顔負けの、筋肉保持者の言葉とは思えない。

 

「あと十分で閉店だよー」

 

 店内に常連のオッサン連中しかいなくなったのを良いことに、彩ちゃんが本腰を入れて追い出し作戦に打ってでる。

 飲み終わったカップは下げられ、お冷やのお代わりもなしとは鬼の所業なり。

 

「ひでーな彩ちゃん、こんな店、もう来ねーよー!」

 

「来なくてけっこうですよ。今度来たら、罰としておかず一品抜いてやるんだからね!」

 

 顎をくいっと上げて言い放つと、彩ちゃんは舌をぺろりとだし、人差し指で白いキャミの紐を浮かせてパチンと弾く。

 ゴミの日のゴミ袋並みの勢いで店から追い出された客達が、笑顔で手をふり帰っていく。

 明日になったら、性懲りなくまた飯を食いにやってく来るのだろう。

 一人で生きている人間が街灯に引き寄せられる虫のように、わらわらと集まって来るのがこの店だ。

 クローズの飾り板を戸口にかけて、彩ちゃんがカウンターの中に戻ってきた。

 

「さてと、取りあえず奥の居住スペースの説明ね」

 

 さっさと靴を脱いで奥へと入っていく彩ちゃんを追いかけ、ちらりとタザさんの方をみる。

 ばっちり目があったから、後で飯でも、といおうとしたのに視線をずらされた。 完全にわざとずらしたね、タザさん。

 ぼくが口を開きかけると、話しかけられるのを避けるかのように、タザさんは工具箱に頭を突っ込んだ。

 タザさんがこの行動を取るときは、隠し事があると決まっている。風貌に似合わず、嘘を吐くのが下手なタザさん。かわいそうだから、ここで突っ込みを入れるのはやめておこう。

 湧き上がる小さな不安をかき消すように、ぼくはわしゃわしゃと頭をかいた。

 

「和也くんこっちこっち。これが二階にある和也君の部屋に続く階段式ハシゴだよ」

 

 彩ちゃんが指さした先には、天井に空いた四角い穴からするすると伸びた折りたたみのハシゴがあった。テーブルと椅子だけが置かれた居間にはなんの飾り気もなく、奥の壁の半分を占めるほど大きな本棚だけが、人が住んでいるのだと感じさせてくれる家具だった。

 

「あっちはわたし、あれはタザさんの部屋、その横はシゲ爺の部屋に繋がるハシゴなの」

 

「一部屋にハシゴがひとつずつ? 二階は完全に部屋が別れているってこと?」

 

「まあ完全とはいかないんだけど、一応ね。用があるときは、それぞれにぶら下がっている、この紐を引っ張ってね。中でノックしたみたいな音が聞こえるようになっているから」

 

 何がしたくてこんな造りにしたのだろう。まあ、プライベートが完全に守られているのは悪くないか。

 ハシゴを登ると現れたのは、四畳半のこぢんまりした部屋だった。大きめの窓が二つもあって、狭い部屋にしては、閉塞感はまるでなかった。ただひとつ変わっているのは、部屋の四隅の一角が角になっていないこと。窓から見える景色をもとに建物の構造を考えると、おそらく建物の中心側にある部屋の隅だ。正確には、角に当たる部分から、部屋の中に向かって五十センチほど内側に、細長く壁が張り出ている感じ。そしてその壁もどきには、焦げ茶色の戸がついていた。

 へこみを付けただけの取ってから考えて、どうやら上下に開閉する戸のようだった。

 

「彩ちゃん、これって小さな押し入れみたいなものかな?」

 

「その向こう側は使えないの。別の人っていうか、間借り人の……部屋だから」

 

 珍しくちょっとだけ困り顔の彩ちゃんは、落ちつきなくキャミの裾を指で引っ張っている。

 

「ぼく達以外にも、入居者がいるってこと?」

 

 ここに来て二年以上になるが、そんな人など見たことがなかった。ここに住んでいるのに一度も店に顔を出さないなんて、そんなことありえるのだろうか。

 

「入居者っていうか、間借りしてる人って感じかな。居たり居なかったりだから、めったなことでは会わないし、少しだけ変わり者だから挨拶の必要もないよ。いや、けっこう居たり、わりと居たりかも」

 

「え? どっち?」

 

「気にしないで! のんびり行こうよニューライフってね」

 

 アーモンド型の大きな目でぼくが覗き込み、わざとらしく口を開きかけると、彩ちゃんはあからさまに視線をそらした。

 幼い頃から面倒をみて貰ったというだけで、仕草がこうまで似るとは驚きだ。見た目だけなら可愛らしい彩ちゃんの顔に、厳ついタザさんが被って見えるぞ。

 

「彩ちゃん、正直過ぎると生きづらいだろ、このご時世」

 

「何かいった?」

 

 くるりと振り向いた笑顔は、騙しきったという安心と自信に満ちあふれている。

 騙し切れていないよ、彩ちゃん。

 

「何でもない。とにかく、部屋を貸してくれてありがとう」

 

 肩をちょこっと竦めて微笑む彩ちゃんは、何かを思い出したようにガッツポーズをした。

 

「今日の夜はちょっとした宴会だよ。わたしの手料理と、タザさんお得意のカクテルパーティーだから、楽しみにしていてね」

 

 そういうことか。

 もしかしたら、挙動不審なタザさんの隠したかったことは、これかもしれないな。

 

 彩ちゃんがハシゴを下りて姿を消すとぼくは窓を開けた。どうやら店の向かいの道に面している部屋のようで、見慣れた商店街が左右に広がり、路上は夕暮れ時の活気に溢れている。

 公共の交通手段を使えば、都会と呼べる場所にあっという間に行けるというのに、この町の住人は頑ななまでに自分の町を愛している。だから、こんな商店街が潰れることなく続いている。

 新鮮な空気が流れ込む四畳半の部屋の中、ぼくの視線はどうしたって、焦げ茶色の戸に吸い寄せられる。間借りしている人が居るということは、おそらく戸の向こう側は部屋になっているのだろうが、四方を別の部屋に囲まれているのだから、ここよりはるかに狭いのではないだろうか。外光は、天窓からでも取っているのだろうか。

 

「鍵が付いていないけど、大丈夫かな。それに出入り口としては小さいよな。正座した大人の頭くらいまでの高さしかないなんて」

 

 数着の服をカラーボックスに詰め込むと、バックの中は空になった。

 ひと息吐くと同時に、ここ最近胸を占めるもやもやが鎌首をもたげる。

 

「親を殺されたって本当? なんて、聞けるわけないよな」

 

 二年以上を共に過ごしてきたタザさんにさへ、聞けずにいることは山のようにある。

 ここへ来る前はどんな仕事をしてきたのか、家族はいるのか、彩やシゲ爺との関係も。

 立ち入らない方がいいと思ったから、敢えて聞こうとも思わなかったけれど、同じ屋根の下に住むとなると、何だか気になって仕方ない。

 

「親しき仲にも礼儀あり、だよな」

 

 ぼんやりと考え事をしているうちに、すっかり日も暮れた。宴会のことを思い出したぼくは、窓を閉めてみんなのいる居間へと下りることにした。

 

 

 

「うわ、すごいご馳走だね」

 

 食欲をそそる料理の匂いに、思わず腹がぐぅっと鳴る。

 

「今日は和也くんの入居と入社祝いなんだから、お腹いっぱい食べてね」

 

 中華風炒め物にちらし寿司。一口ハンバーグは、濃厚なデミグラスソースの中にひたひたに浸かっている。海鮮サラダなんて、いったい何年ぶりだろう。短大に入って実家を離れてからは、一度も口にした記憶がない。

 

「いただきます!」

 

 勢い良く料理に箸を伸ばそうとしたぼくは、斜め向かいで今だ手を合わせ、食前の祈りを捧げるタザさんの姿に慌てて箸を置いた。

 そして、再度の合掌。

 タザさんに倣って、彩ちゃんも静かに手を合わせているから、まさかぼくだけ腹の虫に任せて食べ出すわけにもいかない。

 薄目を開いていたぼくは、ようやっと目を開け箸を手にしたタザさんを見て、ほっと手を下ろした。

 

「いただきます!」

 

 仕切り直して箸を持つ。タザさんいわく、毎日こうして美味しいご飯を食べられるのは人生の奇跡なんだとか。だから食前のお祈りはいつも長い。いったいどんな半生を送ってきたのやら。いい意味で、得体の知れない人であることは間違いない。

 最初のお祈りをぬかせば、あとは楽しい普通の宴会だった。

 タザさんが作るカクテルは、ほろ甘い最高の味で、本人が飲む量も半端じゃない。

 白いキャミを着た彩ちゃんは、いつにもまして良くしゃべった。それに相づちを打つタザさんと、突っ込みをいれるぼく。

 オーブンで焼き上がったばかりのグラタンを持って、厨房から彩ちゃんが戻ってきた。

 

「たまらないね、溶けてふつふつと泡立つチーズって最高!」

 

 一番乗りでチーズたっぷりのど真ん中をいただこうと、握りしめて伸ばしたスプーンを持つ手が止まる。

 熱々のグラタン皿をテーブルに置いて、床に落とした鍋つかみを拾おうとした彩ちゃんの白いキャミが、伸ばした手に引っ張られて僅かに上がる。思わず目に入ってしまった白い肌に、ちょっとだけにやけたぼくの表情が固まった。

 見られたことなど気付かずに、彩ちゃんは厨房に戻っていく。

 ウエスト辺りの白い肌に見えたのは、赤く浮き上がる真新し傷跡だった。

 ぼくは大きく息を整え、戻ってきた彩ちゃんににっこりと笑ってみせる。

 

「すっげー美味いよ、これ」

 

 あわてて口に突っ込んだグラタンが熱くて、少しだけ涙が出そうになった。

 そんなぼくを見て彩ちゃんが笑っている。

 今はこれでいい。何か辛いことがあるなら、笑ってくれたらそれでいいや。

 

 酒が進むにつれ、それぞれがトイレにいく回数も多くなる。

 タザさんがスペシャルだといって作ってくれた、生のオレンジを使った果汁100%のカクテルは最高で、我が儘をいって二杯目のお代わりをしたところ、タザさんと彩ちゃんが同時にトイレに行こうと席を立った。

 いつもなら当たり前に彩ちゃんに譲るはずのタザさんが、酒の勢いもあってか、にやりと笑いトイレに向かってダッシュした。

 

「ずるい! レディーファーストでしょ!」

 

 彩ちゃんも負けじと後を追う。

 

「二人とも子供かよ」

 

 笑いながら立ち上がったぼくも、立った途端に急に酔いが回ったのか、足がよろけて壁に手を着いた。だが手を着いたのは壁ではなく、シゲ爺の蔵書を詰め込んだ、壁の半分以上を占める大きさの本棚。

 

「おっとっと!」

 

 天井まである本棚が支えになって、体勢を立て直せるはずだったぼくの体は、予想外の感触に完全にバランスを失った。

 足元よりはるか前方に傾いだ上半身を支えようとする右手に押されて、本棚が中央から外側へとずれていく。

 

――スライド式?

 

 通販で見た左右に開いて、その奥にはさらに本を収納できるスペースがあるという、お洒落な商品を思い出す。

 支えきれない勢いにでんぐり返ったぼくは、引っ繰り返ったまま本棚を見上げた。

 

 部屋の外から、まだトイレの順番を争っている二人の声がする。

 これからはしばらく在り続けるであろう、当たり前のぼくの日常。

 そして不意に訪れたのは、日常とはかけ離れた光景。

 

「本棚の後ろに、格子戸の障子?」

 

 半分開かれた状態の本棚の奥には、想像していたような二重の本棚など姿もなく、代わりに見えているのは、木の格子に張られた障子から漏れる、淡い光。

 それはまるで、朱色に染まる寸での夕暮れを思わせる、光の淡さだった。

 酔っているのだと感情で騙そうとしても、とても人工的に照らされるとは思えないその光が、ぼくの神経をちりちりと撫でる。

 格子へと、手が伸びるのを止められない。

 

「止めた方がいい……」

 

 思わず漏れた言葉は自分に言い聞かせる為なのか、ただの独り言なのか。

 木の格子に、指先が触れる。

 誰かの個室だったらどうする、という理性の囁きは、少し飲み過ぎた酒に溶けて消えた。

 

「和也くん!」

 

 すごく遠くから、彩ちゃんに呼ばれた気がした。

 欠片ほど残っていた、現実と自分を繋ぎ止める細い糸が切れたのはその直後。

 

「彩……彩だね」

 

 格子の向こう側から、さざ波にたゆたうような女性の声がする。

 僅かに力を込めた指先より早く、すいと格子が開けられた。

 だらりと落とされたように、その隙間から細く白い手がのぞく。その手を半分隠すように、とび色をした着物の袖が見えた。

 

「和也くん!」

 

 彩ちゃんが、どこかで呼んでいる。

 力が抜けて床に落ちたぼくの指が、格子からのぞく白い指先に僅かに触れた。

 夕暮れに似た朱の色に、ぼくは視界を奪われ意識を失った。

 最後に格子戸の隙間から垣間見えたのは、灰色がかった薄ら青い空の下、サワサワと葉を揺らす木々と、舞散る一枚の枯れ葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 (改)が付いたものは、全て見つけてしまった誤字脱字直しです。
 間違うなよっ……この一言につきますね。すみません
 お話をかえることはないです。

 また読みに来ていただけることを祈りつつ……(#^.^#)
 


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3 怪しすぎる住人たち

 さらさらと瞼をくすぐる前髪がこそばゆくて目が覚めた。

 どこで打ち付けたのか、右耳後ろの頭が痛い。ぼんやりと目を開けた。

 どうやらぼくは床に横たわったまま眠ったらしく、団扇でゆっくりとぼくを仰ぐ彩ちゃんの心配そうな顔が見えた。

 

「彩ちゃん?」

 

「大丈夫? ひっくり返ったっきり、ここで寝ちゃったんだよ」

 

「飲み過ぎで? まさか躓いたとか?」

 

「知らないよ-。おトイレバトルから戻ってきたら、大の字で寝てたもの」

 

 横でタザさんが頷いているところをみると、多分そうなのだろう。

 

「二人とも、ずっとここにいてくれたの?」

 

 タザさんの指先バッチンが、さりげなくぶっ飛んできて、ぼくの額でいい音をたてる。

 

「ヤローが酔っ払ってぶっ倒れたからって、誰が寝ないで看病するもんか。気持ち悪りいだろうが」

 

「そうだよね」

 

 そういいながら、ぼくは別の事実を思う。気付いてしまった。

 彼らは眠ってなんかいない。彩ちゃんの目は充血しているし、タザさんは歳のせいか充血より先に、でかいギョロ目が窪んでいる。

 そして何よりの証拠は、昨夜と同じ白いキャミを着たままの彩ちゃん。

 二人とも、どうして嘘を吐く?

 二日酔い特有の霞が脳を覆っていて、何もかもがぼんやりとしている。

 

 彩ちゃんが持ってきてくれた水を飲もうと上半身を起こす。それだけで頭が痛んで、ぼくは眉を顰めた。

 受け取った水を喉に流し込むと、乾いていた体が端から水分を吸収するようで、

その心地よさにほっと息を吐く。

 

「ありがとう、できればお代わりが欲しいです」

 

 笑って彩ちゃんが、厨房へと小走りしていく。

 その笑顔とは真逆に、コップを渡した腕を下ろすこともせず、ぼくは体を強ばらせた。

 彩ちゃんの背後にある、シゲ爺の蔵書を収めた大きな本棚。

 頭の中で、ミシミシと亀裂の入る音が聞こえた気がした。

 忘れ去られるはずだった光景が、記憶の下水管からじわりと漏れて、頭の中の霞が一気に霧散する。

 

 真ん中からスライドして開いたのは、目の前にある本棚。

 日などとっくに暮れているというのに、障子を通して漏れた淡い明かり。

 格子戸の隙間から覗いた、とび色の着物の袖。

 白い指先。

 

――彩……彩だね。

 

 さざ波にたゆたうような女性の声。

 ただ座っているだけだというのに、周りの景色がぐるりとまわる。

 

「和也、まだ酔っているのか?」

 

 現実に引き戻したのは、怪訝な顔でぼくを覗き込むタザさんの声だった。

 

「おまたせ! 氷入りだよ」

 

 彩ちゃんがにこりと笑って、タザさんとぼくの間に割り込んだ。

 

「ありがとう」

 

 冷えた水が喉を流れていく。

 コップを受け取ったときのぼくは、上手く笑えていたかな。

 開店準備はいいから寝ていろといわれて、自分の部屋へ行ったぼくは、布団の上に大の字で転がり両手で目を塞ぐ。

 

「夢なもんか。嘘つき」

 

 こんな時は、本当に自分が嫌になる。

 どうして上手に騙されてあげられないんだろう。他人の感情、怒りや嘘、怯えを敏感に感じ取ってしまう。

 相手が隠そうとしているなら、その表情に隠された真意など微塵も感じないでいたいのに。

 子供に関心が持てない親、子供に依存した親、感情を抑えきれずに激高する親達に育てられた子供は、相手の感情に敏感になる。

 特化したアンテナは、少しでも穏やかに生きていく為の武器だ。相手の顔色を伺い、機嫌が悪ければ、望まれる答えを口にしなければならないから。

 

 彩ちゃんとタザさんは、明らかに恐れていた。

 あの部屋を知られることだろうか。それを知ったぼくが、取るであろう行動にたいしてだろうか。

 でもわかっているんだ。見てとれたのは怯えであって、悪意ではないことも。

 

「忘れろ。忘れることには、馴れているだろ?」

 

 何度も自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 大丈夫かと心配する彩ちゃんにひらひらと手を振って、開店と同時にぼくは仕事を始めた。

 シャワーを浴びたのか、モスグリーンのキャミに着替えた彩ちゃんが通り過ぎた後には、ほのかに花の香りがした。

 

「タザさん、汗臭いっすよ」

 

 厨房と扉一枚で繋がっている作業場から出てきたタザさんの前で鼻を摘んでやった。

 

「汗はオドゴの勲章だ」

 

 五本の釘を咥えて眉をつり上げるタザさんなんて、もはや人と呼ぶのも憚られる。知らない人が見たら、即座に通報ものだろうに。

 

「アルバイトの兄ちゃん! ホットひとつね! ホイップミルクっぽいモノものせてね」

 

「はい、ホットですね。ホイップミルクっぽいモノ。はい、了解」

 

 そうだアルバイトの兄ちゃんは忙しいのだ。モップかけにはじまり、皿洗いにお客さんのダジャレ聞き係長、そしてコーヒー。

 

 初見のお客さん以外の好みは把握しているから、ぼくは深煎りのコーヒー豆を手にした。ホイップミルクっぽいモノ、とはカフェラテとかの表面にある、あのふわふわのミルクの泡のこと。

 でもこの店にホイップミルクメーカーなんてあるわけもなく、電動のミルク泡立て器でつくった泡しか出せない。なので常連客は、ぽいモノ、と親しみを込めて注文する。

 

「はいどうぞ、いつもより多めに盛っております」

 

 これで金をとっていいのか、というほどカップから溢れる泡に、カウンターの客人から笑いが起こる。

 だって、これがこのお客さんの好みなんだから、仕方ないよねえ。

 

「いい? まともなカフェオレあんど、カフェラテなんぞを飲みたいなら、いーっぱいお店に通って、豆を挽くためのブラインダーとか、ポルタフィルターとか、どんと買えるだけ稼がせてくれないとね!」

 

 彩ちゃんが腰に片手を当て、目を細めて客を見回す。

 

「いいよぉーこのままで。だって見た目まともな飲み物なら、他の店で飲めるしよ。でもそれっぽいモノが飲めんのはここだけじゃん!」

 

 わっーっと上がったカウンターの歓声に、チロリと舌をだして彩ちゃんはレースの付いたキャミの肩紐をパチンと弾いた。

 

 ミルクを泡立てた容器を洗っていると、タザさんが作業場のドアを開けて顔を覗かせた。

 

「和也、きれいな乾いたタオルを一枚くれ」

 

 白いタオルを一枚渡すと、タザさんはそれを肩にかけ、地雷でも扱うかのような慎重さで背中へと押し込んでいく。

 

「何やってるんですか?」

 

 いいながら覗き込んだぼくは、思わず吹き出しそうになるのを小さなプッという音だけで何とか押しとどめた。

 

「仕事なんだから笑うなよ」

 

 しかめっ面のタザさんの背中には、負んぶバンドで背負われた一歳くらいの赤ちゃんが口を開けて眠っている。

 

「散歩していたら眠ったのはいいんだが、ヨダレがひどくてな」

 

 赤ちゃんのヨダレで濡れる背中を、なんとかタオルで食い止めようという寸法らしい。

 

「作業場で、何をしているの?」

 

「頼まれた犬小屋を造ってる。この子の母親は、病院が終わったらすぐ帰ってくるさ。ひどい風邪なんだと」

 

 しかめっ面をしていても、タザさんが子供の世話をするのが好きなことを、ぼくは良く知っている。だから近所のママさんも、少しの間子供をタザさんに預けて、用を足しにいけるのだ。近所の子供たちも、たまに遊んでくれるタザさんが好きだから、厳つい顔も筋肉むき出しの巨体も坊主頭も気にしていない。

 作業場へ引っ込んだタザさんの健闘を祈り、ぼくは洗い場へと戻った。

 

 

 

 

 騒がしくて忙しい一日が終わり店の片付けが終わると、彩ちゃんは明日の開店までには戻るから、といって店を後にした。

 サーモンピンクのキャミに着替えた後ろ姿ははつらつとしていて、揺れるポニーテールを見ていると友達と遊びに行くようにしか見えない。

 

 忘れるんだ。

 

 サーモンピンクのキャミに隠れた傷跡を思って、ぼくは硬く拳を握った。

 

 寝不足など気にする神経を持ち合わせていないのか、タザさんまで出かけてしまい、ぼくはひとり、店であり住居であるこの家に取り残された。

 一人になりたい気分じゃないけど仕方ない。みんな大人である以上、それぞれの事情ってやつだよねえ。

 風呂に入るとき、四角い籠に入れられた彩ちゃんコレクションの入浴剤の山の中から、モスグリーンのをひとついただく。好きに使っていいよ、って前にいっていたからありがたく。そしてフローラルの香りといういかにも女の子的な部分には、男らしく目を瞑ろう。

 モスグリーンの乳白色の湯は、炭酸の泡で汗がどっと噴き出し、なかなか気持ちいいものだった。

 ただ湯上がりに気になったのは、甘い花の香り。友達と会う直前なら、男としては絶対に避けたい香り。

 

「女の子から漂ってくるならいいのにな。自分から匂うと、おえぇ」

 

 タオルを頭からかぶり、でかい独り言を口にしながらハシゴを上がる。

 カーテンを閉めて、電気を点けようとぶら下がる紐に手を伸ばしたぼくは、危うくその紐を引きちぎりそうになるほど飛び退いた。

 

「彩か? 久しぶりだな」

 

 男の声が背後の闇から響く。

 飛び退いた勢いで引かれた紐に、チカチカと点滅をくり返して部屋が明かりに包まれた。

 

「どなた様ですか!」

 

 部屋の内側にある、謎の小さな焦げ茶色の戸が引き上げられ、入り口をみっちり埋めるような姿勢でこちらに頭を突き出していたのは、五分刈り頭の細い男。

 

「彩……じゃない」

 

 男はきょろきょろと視線を游がせ、慌てて首を引っ込めようとした最中、戸口の上にしたたか後頭部をぶつけて呻いた。

 声を殺して頭を押さえる男の様子が、ぼくを少しだけ落ち着かせてくれた。

 何だ、あの時彩ちゃんがいっていた、めったに現れない住人か、という安心感。

 

「はじめまして。数日前からこの部屋に住んでいる、西原和也といいます。彩ちゃんに雇われている店の従業員です。よろしくお願いしまっす」

 

「彩が雇ったのか。そうか」

 

 男はそういうと、ふっと息を吐いて表情を緩めた。正直いって、男が表情を緩めるまで口を開いている以外は普通に見えていた顔だが、どうやら驚愕して目を見開いていたらしい。

 普通に思えた男の目は、力を抜くと目玉が半分しか見えないほどに細かった。

 

「失礼した。わたしは野坊主という者。彩の匂いがしたから、てっきり彩が部屋にいるのかと」

 

 彩の匂い? そうか入浴剤だ。彩ちゃんが好んで使っている入浴剤の香り。

 

「彩ちゃんは出かけていて、明日まで帰りませんよ」

 

「そうか、残念だ。久しぶりに、茶でも馳走になろうと思ったのに」

 

 残念そうに肩を落とす野坊主さんの体は細く、着ている甚平の肩が大幅に余っている。

 

「お茶なら、ぼくがいれてきます。ちょっと待っていてくださいね」

 

 急いで下りようと、ハシゴに足をかける。

 

「では、渋茶でお願いしてもよろしいだろうか」

 

 畳から頭ひとつ飛び出ただけのぼくを追って、遠慮がちな声がかけられた。

 

「おまかせを!」

 

 張り切って答えたものの、厨房で茶筒を開けたぼくは思わずあちゃーっと声をあげる。

 お茶の葉が切れて、茶筒の底には粉だけが残っていた。

 手ぶらで部屋に戻るわけにはいかないだろうと、ぼくは得意のコーヒーを淹れることにする。

 渋茶が好きなら、コーヒーも少し苦みが強いものがいいだろうか。

 お湯が沸いて、厨房の中には二杯分のコーヒーの香りが流れて満ちた。

 

 カップ二つを手にハシゴを登るのは、けっこうな労力だった。

 部屋に戻ると野坊主さんは、戸口の向こうできちりと正座したまま、静かにぼくの帰りを待っていた。

 

「ごめんなさい。いつもあるお茶を切らしていて」

 

 コーヒーを野坊主さんの前に置くと、しげしげと眺め鼻をひくつかせる。

 

「黒いですな」

 

「あは、だって……えっと」

 

 ぼくが敢えてコーヒーだといわなかったのは、見ただけでコーヒーだとわかるから。香りもしかり。

 もしかして、寺なんぞで修行していて浮世離れしているとか。

 

「これもなかなか美味しいですよ。そう、黒い渋茶です!」

 

 言い切った。

 

「黒い、渋茶ですか」

 

 丁寧に頭を下げて、野坊主さんがカップに口をつける。とはいっても、その手つきは湯呑みを扱うときそのもので、カップの取っ手がただのお飾りになっている。

 

「うまいですな! 黒い渋茶」

 

 ぼくの顔を初めて見た時以上に、野坊主さんの目が丸く見開かれた。

 本当に知らないのかな、コーヒー。

 

「たいへんに美味しゅうございました」

 

 両の手をついて深々と頭を下げる野坊主さんの姿に、慌ててぼくも座り直す。

 ぎこちなく両手を畳につけ、深々と礼。

 というより、熱くなかったのかな。淹れたてコーヒーの一気飲み。

 

「お邪魔いたしました」

 

 声をかける間もなく、戸ががらがらと閉められた。

 

「どういたしまして。まだ部屋に、おじゃまされてさえいないけれどね」

 

 初対面の人に、話し相手になって欲しいと部屋の戸を叩くわけにもいくまい。

 向こう側に聞こえないように溜息を吐き、野坊主さんの飲み干したカップを持ってハシゴを下りた。

 

「そういえば、本名を聞くのを忘れたな」

 

 ひとりで下唇を突きだしたところで、今夜の話し相手が戻ってきてくれるわけもなく、誰もいない一階の居間にハシゴをおりる足音だけが響く。

 

 パラリ

 

 片足を床に付けところで聞こえた、紙をめくる音にぼくは動きを止めた。

 時折タザさんは居間でこっそり本を読む。

 逃がさないぞ、とばかりに息巻いてぼくは振り返った。

 

「早かったね!」

 

 ぼくの予想はいつだって外れる。

 シゲ爺の蔵書を収めた大きな本棚の前で、ぺたりと座り込んでページを捲っていたのは、水色のワンピースを着た、六歳くらいの女の子だった。

 急に声をかけられて驚いたのだろう。

 壁に三カ所取り付けられた間接照明だけが居間を照らす中、女の子は手にしていた本をぼくの方へと放りだし、ひっ、といった。

 

「ごめんね、びっくりさせちゃった?」

 

 本当は跳ね上がった自分の心臓の心配をしたいくらいだが、幼い女の子の前で醜態を晒すなど男としての美学にかける。

 もともとないか、そんなもの。

 小さめの本を拾い上げ、女の子から少し離れた所でぼくはしゃがんだ。

 

「大丈夫かい?」

 

 女の子は目を丸くしたまま、こくこくと頷く。

 

「お兄ちゃんは、和也っていうんだ。彩ねえちゃんのお友達だよ。お名前は?」

 

 本当は、雇用関係にあるが、子供向けの表現にするとこうなる。

 

「小花」

 

 見た目より幼さを残す声だった。

 

「こはなちゃん? かわいい名前だね。ところで、まだ眠くないの?」

 

 小花ちゃんはちょっと迷ったように小首を傾げ、それから小さくこくりとした。

 今ここにいるということは、野坊主の娘さんで、今夜一緒に帰ってきたということなのだろう。

 丸いほっぺたに、小さいながらもくるりと丸い目がかわいらしい女の子だった。

 正直いって、細そ目でやせっぽっちの野坊主さんには似ていない。これは奥さんに感謝すべきだろうな。

 少し安心した表情の小花ちゃんの視線が、ぼくが手に持つカップに集中している。傾げた首の肩先に、柔らかそうな細い髪の毛がかかる。

 

「喉が渇いてるのかい? 何か飲み物を持ってきてあげよっか?」

 

「うん」

 

 返事がかわいい。子供好きのタザさんの気持ちが、ちょっとだけわかった気がした。

 厨房へ行ったぼくは牛乳を小鍋に湧かし、その間に電動ミルク泡立て器で牛乳を二倍に膨らむまで泡立てた。

 煮たつ前に火からおろした牛乳を、ココアを入れたカップに注ぐ。そのココアの上に泡立てたミルクをふわりとのせ、お子様ランチ用のクマさん型を使って、泡の上にココアの粉を振る。あっという間に、クマさんココアのできあがりだ。

 

「はいどうぞ」

 

 きちんと正座して待っていた小花ちゃんは、窄めていた唇をほころばせ、ちょこんと頭を下げてカップを受け取る。

 

「お兄ちゃん特製、クマさんココアをどうぞ」

 

 口を半開きにして、ココアで描いたクマの絵を見ていた小花ちゃんは、恐る恐るといった感じでカップに口を付けた。

 

「クマさん……おいしい」

 

 かわいい! かわいすぎる!

 

「ゆっくり飲むといいよ」

 

 心の中でガッツポーズをしながら、何気なく床に置いた本を手に取った。

 小花ちゃんが手にしていた本。

 手のひらサイズの小さな濃紺の表紙には、何の表題も書かれていない。

 ぱらぱらとページを捲ると、所々に手書きの字が見てとれた。日記のようなものならまずい。なのに本を閉じようとしたぼくは、裏表紙を右手の指に挟んだまま、食い入るように文字を追った。

 店の日誌で見慣れた、シゲ爺の文字だった。

 

『後悔しないと誓ったのに、たまに眠れなくなる。

 あの時、感じてしまった。

 この青年なら、彩と同じ景色を見て

 あの子の苦しみに、寄り添ってくれるのではないかと。

 わたしには、見ることの叶わなかった景色を』

 

 ページはそこで破られ、先に書かれていたであろうことを知ることはできない。

 一番上に書いてある日付は、ぼくがシゲ爺と出会って一ヶ月後にあたる。

 ここに書かれている青年は、ぼくのことではないだろうか。

 

「どうして、ぼくを?」

 

 カタリと床に、カップが転がる音に顔をあげた。

 水色のワンピースを着た少女の姿は、飲み干されたココアの泡みたいに、ぼくの目の前から消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 のぞきに来てくださった皆様、ありがとうございます!
 
 


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4 格子戸の向こう側

 ほとんど眠れないうちに夜が明けた。

 店の準備のために居間に下りると、バスタオルを抱えた彩ちゃんが、風呂場に繋がる脱衣所のドアノブに手をかけたところだった。

 

「お帰り」

 

 声をかけられたことに驚いたのか、少しだけ肩をびくりとさせて振り向くと、彩ちゃんは白い歯を見せてにこりと笑う。

 

「すぐお店の方にいくからね!」

 

 ピースサインと共に、彩ちゃんの姿がドアの向こうに消えていく。

 昨日見てしまった日記と寝不足のせいで萎えていたぼくの気持ちは、底なし沼に沈んだ小石みたいに出口を失った。

 

「聞けないよな」

 

 彩ちゃんのキャミは、寝そべって土を這ったかのように泥だらけで、肩に近い腕の部分には新たな傷がまたひとつ増えていた。

 ぼくの中にタザさんの言葉が蘇る。

 

――ここの社員として一番大事なのは、秘守義務を守ることだ。これがよ、けっこうきついぜ。

 

 いわれたときはこの言葉が何を指しているのか、正直なところ解らなかった。

 今だって本当は解っちゃいないけれど、たぶん、今のこれがそうなんだ。

 社内で起きる全てのことを他人に話すな、その全てに疑問をもつな、疑問を持った事柄を聞いてはならない。

 他人に話すなという本来の意味以外にもうひとつ、自己完結すべき秘守義務が含まれているのだと思えてならない。

 

「さて、仕事するかな」

 

 現実逃避の譫言のような言葉。ぼくの足取りは重い。

 彩ちゃんの笑顔と明るいピースは、大丈夫だから構うなというサインだろう。

 心配して声をかけることさえ駄目なら、どう接していけばいいのだろう。

 いや違うな。

 声をかけるなとはいわれていない。ぼくが躊躇っているだけなんだ。

 

「おう、しけた面してどうしたよ」

 

 工具箱から顔をだしたタザさんの顔は、朝から何の作業をしていたのか真っ黒に煤けている。

 

「おはようございます。単なる寝不足ですよ」

 

 小窓のカーテンを開けにいこうとしたぼくは、立ち止まった。

 

「タザさん、今朝は彩ちゃんに会った?」

 

「おう、さっきな」

 

 やっぱりそうだ。ぼくの胸には太い棘となって突き刺さるあの姿も、タザさんにとっては見慣れた日常。

 

「タザさん、ひとつ聞いてもいいかな」

 

 あん? といってタザさんが振り返る。

 

「今朝の彩ちゃん、泥だらけだったよね。その姿を見ても口を出さないってのも、秘守義務に含まれていたりする?」

 

 表情を変えることなく、タザさんは工具箱に頭を突っ込む。

 

「そうだな。俺達にとっちゃ、やっかいだが守るべき秘守義務だ」

 

「気にならないの? 心配じゃない?」

 

 タザさんは顔を見せない。表情を見られたくないのだろう。

 

「気になるさ。だから、徹底して気にしない」

 

 もしかしたらタザさんは、ぼくなんかよりずっと長い年月、苦しんできたのかもしれない。

 

「秘守義務を破ったらどうなるの?」

 

「ちょっとしたモノなら減俸」

 

「中くらいなら?」

 

「ボーナスなし」

 

「中核に首を突っ込んだら?」

 

「クビ、だろうな」

 

「クビは困っちゃうよね」

 

 タザさんの返事を待たずに、ぼく蛇口を捻って水を流す。

 忙しく働こう。

 働き疲れたら、今夜は眠れるかもしれないから。

 

 もうすぐ開店という時間になってやっと店にでてきた彩ちゃんは、傷を負った腕に可愛らしいサポーターを巻いていた。

 店に客が入り始め常連客達がそのことを問うと、彩ちゃんは悪戯っぽく目を細める。

 

「かわいいでしょう? 気に入ってるんだ!」

 

 笑顔でキャミの紐を浮かせ、パチンと指先で弾いてみせる彩ちゃんの言葉を疑う客など一人もいない。

 同じようなやり取りがくり返されるたび、洗い物の泡に視線を落としたまま、ぼくは唇を噛みしめた。

 

 

 

 店を閉めて彩ちゃんの作ってくれた、じゃこと梅のパスタを食べた。

 多めに散らされた大葉の香りが、じゃこの塩気にいい香り付けをしてくれる。

 

「最近は忙しくて、なかなか夕食を作れなくてごめんねー」

 

 ぶんぶんとクビを振りながら、タザさんとぼくはパスタを口に放り込み続けた。

 夕食を作ってくれたくらいだから、今日は家でゆっくり休むのかと少しだけ安心していたというのに、皿洗いを頼んで彩ちゃんはどこかへと出かけていってしまった。

 

「秘守義務だぞ」

 

 囁くタザさんに、ぼくは苦笑いを返す。

 疲れたのはいいが、今度は疲れすぎて目が冴えるという嫌な現象がぼくを襲った。体はだるいのに、目の奥が眠気に誘われてくれない。

 うんざりして大の字に転がり天井を眺めていると、コンコン、とノックの音が響く。下の紐を引くと、ノックのような音が鳴るといっていたが、これだろうか。

 

「失礼する」

 

 焦げ茶色の戸を引き上げて、顔を見せたのは野坊主だった。

 

「どうも、こんばんは」

 

 入り口いっぱいに張り出す体で、相変わらずあちらの部屋の様子は伺えない。

 

「昨夜は、小花が世話になったそうで。とても珍しいものを飲ませてもらったと、嬉しそうにしておりました」

 

 野坊主が深々と頭をさげる。

 

「どういたしまして。ココアぐらいでそんなに頭を下げないでくださいよ」

 

 それにしても少しだけ引っかかる。今どきの子が、ココアを飲んで珍しいなどと思うのだろうか。

 

「彩は、今日も出て行きましたかな?」

 

「彩ちゃんに会ったのですか?」

 

 野坊主は、少しだけ寂しそうに顔を伏せる。

 

「一方的に、わたしが見かけただけです」

 

「そうですか」

 

「また、怪我をしておりましたな」

 

 ぼくは一瞬言葉につまった。野坊主を相手に、何処まで話していいかわからない。まさか社員ではないだろうし。

 

「あの、秘守義務ってご存じですか?」

 

「それは新しい守り袋か何かで?」

 

 駄目だ、これでタザさんみたいに話せる相手だという線は消えた。

 

「いいえ、何でもないんです。それより何か飲みますか?」

 

「では、黒い渋茶で。あ、いや。今日は止めておくかな」

 

 自分でいいながら残念そうに溜息を吐く野坊主を、珍しい動物でも見るように、ぼくは口元を少し緩めて眺めていた。

 

 トントン

 

 さっきより大きなノックの音に床の戸を開けて下を覗くと、ぽつりと立つ小花ちゃんがこちらを見上げていた。

 ハシゴを下ろしてあげると、ぺこりと頭をさげ上手に上まで登ってくる。

 ぼくをみて少し口を窄めた小花ちゃんは、たぶん笑ったのだろう。

 

「小花ちゃん、クマさんココアでも飲む?」

 

 すると小花ちゃんはちらりと野坊主をみて、小さく横に首をふった。

 小さな手をひらひらと振り、戸口を覆う野坊主の脇と胴の隙間から向こうの部屋にいってしまった。

 

「野坊主さん、小花ちゃんはかわいいですね」

 

 そういうと野坊主と呼び捨てでいいと言い、細い眼をさらに細めて頷いた。

 

「小花は、彩が失った幼少期そのもの。小花がどれほど嬉しい思いをしても、楽しい思いをしても、彩にそれが伝わることはない。彩にしても小花にしても、その身に背負うには深すぎる業でしょうな」

 

 たとえ話なのだろうが抽象すぎて理解できなかったぼくは、曖昧な微笑みを浮かべるに止めた。

 野坊主は、きっと何かを知っていると直感が告げる。

 だがそれを口にすることもできないうちに、ぼくの目の前で焦げ茶色の戸はがらがらと音を立てて閉められた。

 

 

 

 ぼくがここに入社して三ヶ月がたった。

 野坊主と小花ちゃんとは、不意に姿を現しては、黒い渋茶とクマさんココアを飲み、ほんの少しの会話を楽しんで部屋に籠もってしまうという付き合いが、ずっと今日まで続いている。

 店は彩ちゃん効果で増えた常連客で溢れ、相変わらず賑やかだった。

 タザさんは、見た目に似合わない小物製作の才能を開花させ、写真立てや筆立てなど凝った作品を造っては、店の隅の小さな棚に並べて売りに出すようになった。

 彩ちゃんは相変わらず元気で、すっかりキャミの似合う季節になったせいか、毎日元気に働いている。

 ぼくはといえば、コーヒーと抹茶をブレンドするという新作に挑み、なかなかの好評を得ていた。

 そして相変わらず彩ちゃんは一人出かけて、大小の擦り傷を増やしている。

 ぼくは、頑張って働いていると思う。

 アルバイトの兄ちゃんとして、客の受けだってなかなかよろしい。

 インスタントじゃないチャーハンだって、ちゃんと作れるようになった。

 まあ、こちらはほとんど注文が入らなくて、今では裏メニュー化しているが。

 

「彩ちゃーん。最近さ、怪我すること多すぎないか? それ以上増えたら、せっかくのかわいいキャミ姿が台無しだぞ」

 

 常連客の一人が笑う。

 

「最近ね、サバイバルにこってんの。これは名誉の負傷よ!」

 

 笑って嘘を受け入れる客を見ながら、タザさんが俯いている。

 やいのやいのと煩い客達に一喝して、彩ちゃんがキャミの紐を弾く。

 そんな他愛ない日常から、彩ちゃんがキャミの紐を弾く音が消えた。

 その日の夜から五日たっても、彩ちゃんは帰ってこなかった。

 

 

 

 

「タザさん、今までにもあったの? もう五日だ」

 

 絶対に何かあった。ぼくの中で、警鐘が鳴る。

 

「ないよ。せいぜい三日だ。それも、ちゃんとひと言いってから出ていった」

 

 店を閉めたカウンターに座って、コーヒーを前に二人で座っていた。冷めたコーヒーが、カップの中で揺れている。

 

「探さないの?」

 

「探せないんだ」

 

 さすがにイラッとしたぼくは、横目でタザさんを睨み付ける。

 

「本当に探せないのかな。探す気がないの間違いじゃない?」

 

 寝る、とひと言だけ残して、タザさんは自分の部屋に戻っていった。

 タザさんだって心配している。言葉が過ぎたのはわかっている。でも、焦るばかりで心を止められなかった。

 

「中核に首を突っ込んだら首、か」

 

 コーヒーを片づけることさえ放棄して、ぼくは居間に走り込んだ。 

 シゲ爺の残した蔵書の収められた大きな本棚の片側に指をかけ力一杯引いてみる。あの日開いたのが嘘のように、本棚はびくりとも動かなかった。

 留め金でも付けたのかと椅子に乗って上部の隙間を覗いても、それらしい物は見当たらない。

 拳で殴った本棚が揺れて、隙間だらけに詰められた本が跳ね上がる。

 

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 

 不意にかけられた幼い声に目をやると、きょとんとした顔で小花ちゃんが立っていた。本棚をぶん殴った所を見られていただろうか。

 小花ちゃんの姿が、少しだけぼくの心を冷静に引き戻す。

 

「大丈夫だよ。彩ねえちゃんを探しているだけ」

 

 すると小花ちゃんは小さな手で手招きし、ぼくの部屋に通じるハシゴが下りる辺りまでトコトコと小走りした。

 

「二階に行きたいのかい?」

 

 ここでがむしゃらに動いても、何の成果も得られはしない。気持ちを落ち着かせる為にも、ぼくは少しだけ小花ちゃんに付き合うことにした。

 ハシゴを下ろすと、先頭にたって登っていったのは小花ちゃんで、落ちやしないかとはらはらしながらぼくはその後に続く。

 

「野坊主!」

 

 二階についてすぐ、小花ちゃんはそう叫びながら焦げ茶色の戸を小さな拳で叩いた。

 がらがらと音を立てて戸が開けられ、野坊主が顔をぬっとだす。

 

「どうしたのだ?」

 

「彩ねえちゃん、いなくなったって」

 

 明るい小花ちゃんの声とは裏腹に、野坊主の顔が曇る。

 

「彩ちゃんがどこにいるか、知っていますね?」

 

 自信はなかったが、まるで確信しているかのようにぼくはいった。

 ぼくの気迫に押されたとも思えないが、それでも野坊主は僅かに頷く。

 

「探すつもりか?」

 

「はい」

 

 ぼくと野坊主の視線が交差する中、小花ちゃんがぺたりと座って、不思議そうに双方の顔を眺めている。

 

「以前、居間にある本棚が開いて、有るはずのない光景を目にしました。本棚の向こうには障子紙の張られた格子戸があって、その隙間から女の人の手が見えました。彼女は、彩ちゃんに呼びかけたんです。あれは夢じゃない。彼女は、彩ちゃんの不可解な行動の謎を知っているって、ぼくにはそう思えてならない」

 

「行くのか、あの格子戸の向こうに」

 

 やはりそうだ。野坊主は、あの向こうに広がる空間のことを知っている。

 

「行こうと思います。でも、行けないんです。あんなに簡単に動いた本棚が、今はびくともしなくて」

 

「一度目にしただけなら当然だろうよ。はっきりと認識されていない事実は、人の理性が拒絶する」

 

 確かにぼくは、あの日見た光景を現実だと思いながら、心のどこかであり得ないと感じてはいた。

 有るはずのない格子戸。ありえない時間帯に垣間見えた淡い日の光と、その先に広がる空間。揺れる木々。

 

「あなたはいった何者? ぼくはどうしたら……」

 

 野坊主は、前の質問には答えず話を続けた。

 

「今なら書き置きひとつでこの家を去り、彩の元を離れることができるだろう。だが、一度足を踏み入れたら、この家から、そして彩から逃れることは叶わぬよ」

 

 細められた眼の奥から、野坊主は真っ直ぐにぼくを見る。

 選択しろと、暗にいっているのだろう。

 

「彩に惚れた様子にはみえん。なら、立ち去るのもひとつの道」

 

 惚れてはいないな、とぼくも思った。ただ、見捨てるには関わり過ぎただけ。

 

「ぼくの知らない所で、何かをぼくに望んだ人がいました。だから今ぼくはここにいます。その真意はわからないけれど……嫌なんです。他人の勝手で巻き込まれて、訳もわからず逃げるのは。短くても一緒に飯を食った女の子が、一人で傷だらけになっていくのを、黙って見ていることも」

 

 野坊主は顔をくしゃりとさせ、幾度も頷く。どうしてか、目尻の皺には、涙が浮かんでいた。

 

「酔うほどに酒を飲むといい。酒が余計な理性を押さえ、ぬしに扉を開かせる」

 

 隙間に小花ちゃんが潜り込むと、がらがらと音を立てて焦げ茶色の戸は閉められた。

 

「酒か」

 

 部屋の隅から、スーパーの袋を引き寄せる。

 買ったまま冷蔵庫に入れ忘れた、安いワインのハーフボトルが入っていた。

 グラスに注ぐこともせず瓶に直接口を付け、ぼくは一気に飲み干した。

 急激に血中に取り込まれたアルコールに、胸の辺りが熱くなる。そのまま座っていると、頭の芯がぼーっとしはじめた。

 

「酒は好きだけど、それほど強くないっつうの」

 

 足元に気を配りながらハシゴを下りる。

 本当に本棚が動くかなんてわからない。

 でも動けば確実に何かが変わる。あちら側に広がる世界は、確実に自分の中の何かを変えてしまう。それは、確信にも似た直感だった。

 楽しそうに小物を作っている、タザさんの顔が浮かぶ。

 巻き込みたくはなかった。

 タザさんはきっと、ぼくとは違う方法で彩ちゃんと向き合おうとしている。きっと、一人でごちゃ混ぜの気持ちと戦ってきたのだろうから。

 

「タザさん、彩ちゃんが戻るまで店をお願いします」

 

 あの日見た光景を、この手で掴めると思えるまで心に呼び起こす。

 本棚に手をかけた。

 ほんの少し力を入れただけなのに、あっけなく本棚はスライドして、見覚えのある格子戸がみえた。

 あの日と同じ、淡い明かりが漏れている。

 木枠に指をかけ、ゆっくりと開ける。

 格子戸を開けた先に見えたのは、所々に木々が葉を揺らす和風な広い庭だった。

 引き込まれるように数歩足を踏み入れたぼくが頬に感じたのは、自然にそよぐ風。

 

「戸を閉めておくれでないかい」

 

 跳ね上がった心臓を抱えて飛び退くと、格子戸のすぐ横の壁に、足を横に流すようにして座る女性がいた。

 

「あなたは、あの時の」

 

 とび色の着物に鼠色の帯を締め、長い髪を後ろでひとつに束ねている。

 着物の袖から覗く指先はあの日と同じ、白くて細い。

 タザさんが見ることのないよう本棚を元に戻し、ゆっくりと格子戸を閉める。

 ぼくは静かに頭を下げた。

 女性の目は黒い宝石のようで、唇には薄く紅が塗られている。

 

「彩ちゃんをご存じですよね。彩ちゃんがもう五日も帰ってきません。ぼくは、どうしても彩ちゃんを、見つけ出したいんです。助けてください」

 

 切れ長の目が伏せられると、長い睫が影を落とす。

 

「名はなんというのかい?」

 

「西原和也です。彩ちゃんに雇われた、店の従業員です」

 

「あの子が人を雇うなど、昔見かけた大男以来だねぇ」

 

 タザさんのことだろうか。

 

「和也、だったね? ここに足を踏み入れるまで、誰もおまえを止められなかったとは、不運な子だよ」

 

 そういう女性の顔には、哀れみも悲しみも見てとれない。

 だからぼくも、普通に微笑んだ。

 

「心配いりません。不運なら、産まれた時から背負ってますから」

 

 そうさ、とっくに慣れっこだ。

 女性は手にしていた煙管で、すっと庭の奥に続く一本の道を指す。

 

「あれが彩へと繋がる道。無事に戻ってきたなら、そうだねぇ。酒でも酌み交わそうか」

 

 礼をいって、ぼくは深く頭を垂れる。

 

「聞きたいことはたくさんあるのに、何を聞いていいかわかりません。こんな行き当たりばったりのぼくに、彩ちゃんが救えるのかな」

 

 最後は独り言に近い。

 

「彩を救う前に、おまえ様が死なないことが大切だろう? せっかく巡り会った彩に、おまえ様の骸を担がせるつもりかい?」

 

 ぼくは強く頷いて、教えられた道へと歩き出す。

 一度だけ立ち止まってぼくは女性の方を振り向いた。

 

「この先にあるのはいったい何?」

 

 女性は答えない。ぼくは大きく息を吐く。

 

「お名前、教えてくださいませんか?」

 

「あたしの名はカナ」

 

「カナさん、ありがとう」

 

 ぼくは歩き出し、そして走った。

 カナさんがどのような人物なのかなんて知らない。彩ちゃんの味方なのか、敵なのかも。でも今は、あの人の言葉を頼りに進むしかないのだから。

 道は森を抜ける山道へと続いていた。

 迷うことのない一本道を、ぼくは全力で駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 




読んでくださった方、ありがとうございました。
次は格子戸の向こう側の世界でのお話です。
(o・・o)/ では


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5 理の細い鎖

 原生林といっても過言ではない生い茂る木々の中、草の一本も見当たらないむき出しの土の道が、ひたすら真っ直ぐに続く光景は異様でさえあった。

 すでにけっこうな距離を走ったぼくは、立ち止まって呼吸を整える。

 小鳥の鳴く声が遠くから聞こえた。

 何処の山にでもいるような虫が、我が物顔で飛んでいる。

 風に葉がそよぐ。

 ぼくだって森を駆け抜け、今はこうやって息を切らしている。

 全ては動いている。時の流れの中、個々に動き続けていた。

 なのに、まったく変化を見せないものがただひとつ。

 

「空の色が変わらない」

 

 確認するかのように、ぼくは口に出して思考を巡らせる。

 走りながら、ぼくは何度も木々の間に覗く空を見上げていた。

 夕暮れ時なら尚のこと、空は刻々と色を変えるはずだというのに。

 

「カナさんの庭で見た空は、最初に格子戸から覗き見たのと同じ、日が沈んだ後を思わせる、灰色がかった薄ら青い空。もう暗くなってもおかしくないだろう?」

 

 ここが自分の生活する空間とは異なる場所だと解っていても、自然の摂理に反することがあると不安になる。静と動、同時に進行するべき現象が相反する状況は、なんともいえず居心地が悪い。

 歩きながら周囲に気を配ると、走っていたときにはわからなかった気配が、チクチクとぼくの肌を刺すのを感じた。

 虫や鳥の存在はあっても、人はもちろん動物の姿さえ見てはいない。

 だというのに、確かな気配と視線を意識せずにはいられなかった。

 薄気味悪さに再び走りだしたぼくを、粘着質なそれは確かに追ってきている。

 音もなく姿もなく、ぼくに標的を定めた意志のようなもの。

 全力で走ったぼくは、さすがに息が上がって足を止めた。追ってくる姿はなく、いつの間にやら嫌な気配は消えていた。

 

「ねぇ、どこにいくの?」

 

 人の声に飛び退き振り返ると、土の道の端に男の子が立っていた。

 

「きみはこんな所で何をしているの? 家は?」

 

 七、八歳にしか見えない男の子は、つんつくてんの縦縞の浴衣を着て首を傾げる。

 

「ぼくは、存在しているだけ。ただ、それだけ」

 

 薄暗い森の中で、少年が微笑む。

 人ではないのだろうとぼくは思った。ならば、普通の子供に投げかける心配の言葉を口にしても、まったく意味などないだろう。

 

「あのね、この道を若い女の子が通らなかった? もしかしたら何日も前かもしれないんだ」

 

「見たよ」

 

 少年の言葉に希望が湧く。

 

「いつ頃見たの? 誰かに追われたりしていなかった?」

 

 男の子は細い首を横にふる。

 

「誰かに追われてはいなかった。必死に走っていたみたいだったけど」

 

 何かがあったはずだ。誰にも追われていないのに、彩ちゃんが必死に走るなんて腑に落ちない。

 

「その女の子は、この道を向こうに行ったんだよね?」

 

「うん」

 

 礼をいって走り出そうとしたぼくを、幼い声が呼び止める。

 少年の小さな指先は、道の先を真っ直ぐに指していた。

 

「何があっても真っ直ぐに進むんだよ。まっすぐに、一直線だから」

 

 軽く手を上げ微笑み返し、ぼくは走り出す。気にしなくてもと思いながら振り返った先に、少年の姿はすでになかった。

 

 走りながら何度も彩ちゃんの名を呼んだが、返事はない。

 カナさんはこの道を、彩に繋がる道といったがそれは彩ちゃんに会えるということなのか、会うためのヒントがあるということなのかさへ定かではない。

 道は何処までも続く。

 時折頭に当たるのは、木の枝から垂れ下がるツタ。まるで道を塞ぐかのように幾重にもツタが垂れ下がり絡まる場所では、無理矢理に手でこじ開けて先へと進んだ。

 道は見えているっていうのに、何だか八方塞がりな感じだねぇ。

 ぼくはひとり心の中で溜息を吐く。

 

 体力に任せて走り続けていると、真っ正面に背丈ほどもある草が生い茂り道を塞いでいるのが見えた。

 行き止まりかと走る足を緩めると、左に折れる道が急な上り坂になって続いている。先に続くのは、これまでと変わらぬ真っ直ぐな道。

 

「どこまででも行ってやる!」

 

 坂道に負けまいと、ぼくは速度を上げた。回転を上げた足が着地するはずの地面を踏み外し、ぼくの体は後方に一気に傾ぐ。

 

「くそ!」

 

 続いているように見えた道は途切れ、足を踏み外してすぐに手が掴んだ草は、あっけなく千切れ、ぼく急な斜面をめちゃくちゃに転がりながら落ちていった。

 周囲で回る景色の色が滲んで混ざり合い、体勢を戻すどころか腕一本動かすことすらままならない。

 何かに背中を強く打ち付け、肺の中の息が一気に吐き出される。噎せ返るぼくの周りの景色が今だ周回しているのは、おそらく目が回っているせいだろう。

 軽い吐き気を覚えながら上半身を起こすと、自分が打ち付けられて止まったのは見たことがないほどの大木だということがわかった。

 落ちてきた先は、崖とまではいかなくとも斜面が急すぎて、道具も仲間もなく登り切ることは無理だろう。

 

「まいったな。真っ直ぐに進めっていわなかったか?」

 

 シャツからでていた腕には無数の傷から血が滲んでいる。ひりひりする顔面も、おそらく似たようなものだろう。

 真っ先に思い浮かんだのは、彩ちゃんも同じ場所で足を踏み外したのではないかということだった。

 道が続いているように見えたのは、単純な視覚のトリック。進んできた道が上り坂となり、その道を進む者にとは続いているように見える道の先は、反対側に聳える山に走っている道。僅かな条件が重なった不運。

 だが進めそうな道はあれしかなかった。騙されたのか、何か見落とした自分がいたのかまったく判別がつかない。

 こんな危険な道がここそこにあるのなら、彩ちゃんが傷を増やしていた理由もわかる気がする。

 大木に背中を預け、今だ色を変えない空を見上げていたぼくは背中に当たる異物に体を浮かせた。ざらざらとした木肌とは明らかに違う何か。

 痛む体を動かしたくなかったぼくは、軋む腕を後ろにまわしてその異物を手に掴んだ。

 

「紐の結び目?」

 

 ごろりとした塊の端から垂れ下がる端を掴んで引くと、するりと抜けて手の中に残っていたのは、想像したとおりの細い組紐だった。背中に感じるほど結び目が大きかったということは、幾重にも重ねた紐を最後の結び目に引っかけていただけなのかもしれない。

 体を捻って大木に向き直ると、紐は大木を縛っていたのか、はらりと地面に落ちた残りの紐が大木を囲んで輪を形どっている。

 それを端からたぐり寄せ手の中に纏めたぼくは、目の前の大木を見てあっ、と声をあげた。

 

「こんなもの、さっきまではなかったのに」

 

 大木はそのままの場所にそびえ立っている。だが、背中に確かに感じていたざらつく木肌は姿を消し、同じ場所にはつるりとした木肌の戸があった。

 木肌より少し奥まって備え付けられたそれは、まるで巨大な木の虚を塞いでいるようで、人が少し腰を屈めれば十分に通れる大きさだった。

 

「どうみたって、ただの組紐だよな」

 

 組紐をほどいた途端に出現した戸に戸惑いながら、ぼくは恐る恐る木の戸を軽く叩いてみた。

 誰もいないのも嫌だが万が一誰か出てきたら、それは別の意味で少し恐ろしい。

 耳を澄ませていても何の反応もないのを確かめて、ぼくは膝に手をついて立ち上がる。

 まさか勝手に入るわけにもいかないしね。

 骨はやられていないようだが、一歩前に足を出すたび太ももや背中の皮膚が悲鳴を上げた。

 数歩歩いたそのとき、ギィィと戸の開けられる音が聞こえて、ぼくははっと振り返る。

 外に向けて開け放たれた戸口を凝視していると、さらりとした長い黒髪と共に女性が姿を現した。

 女性は地面に置いてきた組紐の塊を見てほんの少し目を見開き、そのまま視線を流してぼくを見る。

 

「あなたが、この紐を解いたのですか?」

 

 落ち着いた大人の女性の声。

 

「はい。成り行きで解いてしまいました。まずかったですか?」

 

「いいえ」

 

 綺麗だけれど表情に乏しい女性は、ぼくを小さく手招きする。

 

「中に入っていただけませんか。もうひとつ、解いていただきたいものが」

 

 女性の力では解けないほど、きつく結ばれた何かがあるのだろうか。

 女性の見た目が普通だったこともあって、断る理由のなかったぼくは、彼女に誘われるまま戸口の向こうへ足を踏み入れた。

 

 想像したとおり大木の中は虚と化していた。どうやって造ったのか想像さえできないが、地下へと掘り進められた人工の階段が螺旋状に続いている。土の壁には時折、大木の根の表面が姿をみせていた。

 女性は燭台に灯された蝋燭の明かりを片手に、無言のまま先を行く。

 

 突如開けた空間にでたぼくは、部屋の様子に感嘆の溜息を吐いた。

 部屋は三十畳ほどの広さで、吹き抜けの天井は高く、家具装飾品はまるで中世の城を思わせる豪奢なものだった。華美ではなく、落ち着いた豪華さとでもいおうか。

 壁は階段と違い土がむき出しになることなく、年季を感じさせるくすんだ緑の蔦模様があしらわれ、所々に花の模様が散りばめられている。

 

「あの方から自由を奪っている、奇怪な鎖を解いていただきたいのです」

 

 すっかり部屋の装飾に目を奪われていたぼくは、女性の声に我に返る。

 女性が指さす先にあったのは、異様な光景だった。

 黒い椅子に腰掛けている女性の手と足には細い鎖が幾重にも巻きつけられ、口に噛まされた布は頭の後ろで縛られている。目を覆う布と相俟ってほとんど顔は見えない。

 ぼくはカッとなって、ここへと誘った女性に向き直る。

 

「どうしてあの布を解いてあげなかった!? たかが布くらい、あなたの手でも外してあげられたはずだろ!」

 

 表情を変えることなく女性は俯き、それから真っ直ぐにぼくを見る。

 

「わたしでは、外せないのです。どれほど力を込めようと、外せないのです」

 

 そんなことがあってたまるか。あんなものちょっと頑張れば小学生だって解けるだろうに。

 女性を睨み付けて、ぼくは拘束された女性の元へと走った。

 

「すぐ外すから、ちょっとだけ我慢して」

 

 頭の後ろで結ばれた布の結び目は、思いの外固かった。

 黒のタイトスカートに白いブラウス。

 ブラウスから透ける腕の影は細くて、見ているだけでも痛々しい。

 結び目をこじ開けるように指先を捻り込み、僅かに広がった隙間から布の締まりを緩めていく。

 最初に解けたのは目を覆っていた布。同じようにして、口に咥えさせられている布も解いた。

 はらりと布がぼくの手の中に落ちると、拘束されていた女性の口から、長い吐息が漏れる。

 

「鎖を解くのは少し痛いかも。なるべく痛くないようにするから」

 

 鎖に擦れた皮膚が、赤く色を変えていた。

 

「気にするな。わたしは痛みに強い。それから、蓮華を責めないでやってくれ」

 

 れんげ? 女性の視線を追って、その名が指すのは自分が責め立てた女性であることを知る。

 言葉に引かれて、拘束されている女性を見上げたぼくは息を呑む。

 女性の顔を見て息を呑むなど、これ以上失礼なことはないだろう。

 この場合は特に。

 

「驚いたか? 見苦しいだろうが気にしないでくれ。わたしは気にしていない」

 

「はい。すみません」

 

 謝るな、といってくすくすと笑う声がする。

 拘束された女性の右頬には、耳から頬の中央にかけて大きな傷が残っていた。

 鋭利なもので深く切り裂かれなければ、残るはずのない引き攣れた傷跡。

 

 ぼくは鎖だけに意識を集中して作業を続けた。

 鍵も何も付いていないというのに、細く長い鎖はそれが複雑に絡まることで、鍵の代わりを果たしている。

 滴る汗を手の甲で拭いながら、投げ出したくなるほど地道な作業を、三十分以上続けただろう。やっと足の鎖が解けて床に落ちた。

 

「次は手だね」

 

 足を解いたときとは違って、女性の顔が視界の隅に入り込む。

 綺麗な女性だ。

 傷がなかったら、蓮華という人より人目を引くかも知れない。

 傷が醜いから、目にしたくないわけではないんだ。

 目にしてしまったら、彼女とどう接していいいのか解らなくて、言葉に詰まるのが嫌だった。

 彩ちゃんの怪我を見てしまった時と同じだ。どうしていいか解らずに、なかったことにして過ごそうとする狡さが、今の事態を引き起こした。

 肝心なひと言を、ぼくはいつだって言えないまま、気付けば大切な者を失っている。

 

 細い鎖がするすると、女性の膝を滑って床へと落ちる。

 久しぶりに自分の手を見たかのように、女性は何度も手を裏返し、太陽の光に透かす子供のように眺めていた。

 

「それじゃあ、ぼくはこれで帰ります」

 

「ありがとう」

 

 背中に投げかけられたのは感謝の言葉。

 

「名前くらいは教えてくれないか? わたしは響子」

 

「西原和也といいます」

 

「そう硬くなるな。取って喰らいはしないよ」

 

 響子さんは立ち上がると、手を上げて大きく体を伸ばす。

 

「ところで、どうして人の子がここにいる? わたしが拘束されていた十数年の間に、外の世は人の子が行き交うほどに変わったというのか?」

 

 カナさんと会ったことで、人ではない者の世界があるのだとぼくは認識していたから、人の子といわれても、もはや驚きはしなかった。

 ぼくは事の成り行きを、掻い摘んで話して聞かせた。

 迷わなかったと言えば嘘になる。彼女たちが、ぼくや彩ちゃんに害がないなんて保証はどこにもないから。

 一通り話し終えると、響子さんは遠くに記憶を馳せるかのように眉根を寄せた。

 

「その娘、確かにこちらに来ているのだな?」

 

 ぼくは力なく首を振る。

 

「確かかどうかはわかりません。他に当てがなくて、カナさんの言葉を信じてここまできました」

 

「カナがいうなら本当だろうさ。少なくとも、その時点では彩という子はこちら側にいたのだろうな」

 

 カナさんのことを知っているとは、意外だった。

 

「ここに来る途中で会った男の子に、真っ直ぐ進めといわれたけれど、突き当たりは草が生えて道が途切れていたから。曲がった道だとは思ったけど、この一本道を行けということなんだと思って、突き進んだ結果がこの有様です」

 

 傷だらけのぼくの体を見て、響子さんはなぜか楽しそうに笑う。

 

「この世界で真っ直ぐ進めといったら、文字どおり真っ直ぐを指し示しているのさ。迷わずその草の中に飛び込めば、先の道が現れただろうに」

 

 そういうことか。でも普通は考えないよ、そんなこと。

 

「ここをでる前に、ひとつだけ聞かせて下さい。蓮華さんは、ただの布を自分では外せないといっていたけれど、それはどうしてですか? 確かにきつく結んではあったけれど、女性の手でも何とかなったはずです」

 

 ちらりと視線をやった先で、蓮華さんは背筋を伸ばして立ったまま、視線を床に落としている。黒いスラックスのスーツが、彼女の押し黙る頑なさに拍車をかけているみたいだった。

 

「いったであろう? 蓮華を責めるなと。君には簡単なことでも、それを蓮華はできない。これは外の世界から持ち込まれた異物だ。わたしを拘束するという念を抱きながら使用されれば、それは呪となる。呪をかけられた外界の物は、私たちの力の一切を寄せ付けない。だから、蓮華は悪くないのだよ」

 

 この世界の理。無知を棚に上げて、蓮華さんを責めた自分に腹が立った。

 

「あの、蓮華さん。知らなかったとはいえ、すみませんでした」

 

 正面に立って頭を下げると、蓮華さんの両手がぼくの肩をそっと支えた。

 

「謝る必要などありません。外の世界からきたあなたが偶然に戸口を縛っていた紐を解かなければ、わたしと響子様はここに閉じ込められたままだったのですから。感謝しています。頭を下げなくてはならないのは、わたしの方です」

 

 深く頭を垂れる蓮華に、ぼくはもう一度一礼した。

 

「とりあえず、ぼくは彩ちゃんを捜しにいきます。もしかしたらぼくみたいに転がり落ちて、どこかで怪我をしているかもしれないから」

 

「探しにいくのは止めないよ。だがね、今ここからでるのは止めた方がいい」

 

「どうしてです?」

 

「ここは完全に日が落ちることなど滅多にない。だが、定期的に日は暮れる。たった三時間ほどだが、完全な闇が森を包む。この世界にとって、もっとも危険な刻だ。明るい時とは、森に姿を現す輩も質が違う」

 

「三時間ですか」

 

 その三時間を、自分は後悔しないだろうか。たった三時間が、手遅れな事態を

招きはしないだろうか。

 響子さんが指さした壁時計が、重い鐘の音を鳴らす。

 

「たった今、日が沈んだという知らせです」

 

 蓮華さんがいう。

 迷いを吹っ切れないぼくの顔を、近寄ってきた響子さんが覗き込む。

 

「いま外へ出たら……死ぬよ」

 

 まるで明日は雨よ、とでもいっているかと勘違いしそうに穏やかな表情だ。

 

「助けて貰った礼だ。この世界を生き抜くつもりなら、最低限知っておいた方がいいことを、闇が明けるまでに教えようじゃないか」

 

 死ぬほど危険だという外の闇に、彩ちゃんがひとりでいるかと思うと胸が痛い。

 だが自分が死んでは、助けることさえ叶わない。

 

――せっかく巡り会った彩に、おまえの骸を担がせるつもりかい?

 

 カナさんの言葉が胸を過ぎった。

 

「日が昇ったら、すぐにここをでます」

 

「いい子だねぇ」

 

 響子さんが微笑む。

 はやる気持ちをおさえて、蓮華さんが勧めた席へとぼくは腰を下ろした。

 重なるように筋となって血の滲む、自分の腕に視線を落とす。これと同じような傷が、彩ちゃんの体についていないことを祈った。

 不安を押しつぶそうと握った拳の傷が開き、赤い血が細くゆっくりと手の甲を流れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 




 今日も読みに来て下さった方、ありがとうございます
 ほのぼの空気の喫茶店へ、戻れる日はいつくるのやら。
 


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6 残欠の小径

「まずは何を聞きたい?」

 

 向かいの椅子に座った響子さんは、テーブルにのせた肘の上で指を絡ませ、手の甲に顎をおいて少しだけ首を傾げた。

 

「響子さんを、こんな目に合わせたのはいったい誰なんです?」

 

 響子さんは少しだけ驚いたように目を見開き、その背後に控えて立つ蓮華さんは口元だけで少し笑った。

 

「最初に聞くべきことか? 自分の身を守る方法とか、危ない連中とか、いくらでも聞くことはあるだろうに」

 

「でも聞きたいんです。ぼく達の関係は、そこからは始まっているから」

 

 この人はきっと強い。強くなければ、鎖につながれたまま泣き叫び狂っているはずだから。こんなに強い人から、まるで拘束具を着せたように自由を奪った者が居るなんて、考えただけでも身震いする。

 

「和也、おまえ……」

 

 響子さんの眉根が寄り、目尻が下がる。

 

「そんなにクソ真面目では、友達がいないだろう?」

 

「います! けっこういますって!」

 

 かわいそうに、といった響子さんのつぶやきは完全に無視した。

 顔も知らない携帯のみの友達が百人、とかいうのは性に合わないけれど、ちゃんと現実社会の友人なら人並みにいるっての。

 

「そうやってムキになるところが、クソ真面目だといっているのだが、まあ良いか」

 

 にかっと笑う響子さんの後ろで、姿勢を崩さず蓮華さんが肩を震わせている。

 笑うなら、いっそ腹を抱えて笑ってくれ。

 

「まあいい。そんなに赤い顔を見ると、失われた夕日を見るようで懐かしいよ」

 

 失われた夕日ということは、過去には夕日が空を茜に染めていたときがあったということだろうか。

 

「十数年前になるかな。長いこと奴は姿を消していて、わたし達は不抜けていたのだろうね。もしくは平和な日常に馴れて、わたしの勘が鈍るのを待っていたのかもしれない。背後から近づく足音は、蓮華のものにそっくりだった。昔のわたしなら、たとえ足音が同じでも気配でわかる。そいつは完全に気配を消していた。珍しく蓮華が何かしかけようと、巫山戯ているかと思ったのだ」

 

「わたしはそのような悪戯などいたしません」

 

「だよなぁ」

 

 思わず話に割り込んでしまったのだろう。

 蓮華さんは失態を隠すように、コホンと咳をひとつする。

 

「呑気にそんなことを考えていたわたしは、背後から眠り札を噛まされてあっさりと縛り上げられた」

 

 その当時を思い出したのか、響子さんは豪快に笑っている。一大事だろ? 笑うところじゃないだろう? という突っ込みは唾と一緒に飲み込んだ。

 油断していたところをやられたのだ、ということだけは良くわかった。

 

「奴が危険なのは解っていたというのに、さっさと殺せなかったわたしの失態だ。内に潜む者が何であれ、子供を殺すのは、難しかったのだよ」

 

「相手は子供なの?」

 

 そんなことを思ってもいなかったぼくは、子供を殺すという言葉に心臓が波打つのを手で押さえる。

 

「見てくれはな。もともとは普通の男の子の魂だけだったろうよ。だがその子には中途半端に力があった。そこを狙われ意識も体も乗っ取られたのさ」

 

「悪いヤツの魂は、今もこの世界にいるのかな? もう地獄にいってるかも」

 

 黙っている響子さんの代わりに、蓮華さんがゆっくりと首を振る。

 

「この世界のことをご存じない和也さんには、そういう解釈があってもおかしくはありません。でも、あり得ないのです。この世界の魂が、人と同じ場所へ昇華されていくなど」

 

 確かにぼくはこの世界が自分の生活する世界とは異なっている場所、という認識しかない。

 こちら側の世界に居る人々は、いわゆる純粋に人といえないだろう。だったら何者なのか。響子さんや蓮華さんは、いったい何と呼ばれるべき存在なのか。

 

「和也、ここは残欠の小径と呼ばれている。本来なら良くも悪くも全てがそろっていて、初めて己と呼べるのではないか? わたし達は欠けているのだよ。それが何かなんて、一度失った物を目にすることはできないだろ? 簡単いってしまえば、わたし達は不完全な欠落者なのさ」

 

 頭は何とか理解しようとしているのに、なぜだか心がついていかない。今の言葉を認めることは、響子さんや蓮華さんの核となる部分を否定することになる気がして、ぼくは黙って耳を澄ませた。

 

「わたしを襲った奴も、他のみんなと同じ欠落者だ。ただひとつ違ったのは、欠けた部分と残った部分のバランスかねぇ。奴の中に残ったのは復讐と欲のみ。だから周りの者を襲っては、その魂を喰らっていく」

 

「魂を喰らうのですか? 喰らわれた人は、どうなるの?」

 

「消えてなくなるよ。先もない、未来もない暗闇に落ちるといわれている」

 

 返す言葉もなく呼吸の浅くなったぼくを気遣ってか、蓮華さんが熱い紅茶を出してくれた。

 小さく頭を下げて礼をすると、蓮華さんはぼくの肩に手を置いて優しく叩く。

 

「わたしを縛り上げた奴を、わたしは何とかしてこの世から排除したかったが、先の理由で躊躇した。今思えば、それはあの者の内に宿る魂のどちらにも惨いことをしたと思う」

 

 オリジナルである本人と、それを乗っ取った魂が二つ。一つの体に宿る、異なった二つの魂。ぼくは自分の手を見た。うっすらと汗ばんでいるが、ぼくの手だ。

 家族からどんなに阻害されようと、疎まれようとぼくは自分で在り続けた。

 友人達が、ぼくがぼくであることを許してくれたから。

 この体に他人の魂が入り込んで好き勝手をするなど、想像もつかない。

 状況が違えばさすがのぼくも、笑い飛ばしていただろう。

 

「あなたを襲った子の名は?」

 

「本来の名は誰も知らないな。残欠の小径の住人は、奴のことを鬼神と呼ぶ」

 

「子供の姿をした鬼神ですか」

 

「鬼神は七歳くらいの子供で、いつも同じ浴衣を着ているからすぐに解る。もともと着ていたのだろうが、今ではそれが鬼神の象徴だ。縦縞の浴衣姿。この世界で、同じ恰好をするものなど一人も居ない」

 

 頭を殴られた気がした。

 早く話そうと思うのに、喉に唾液が絡みつく。

 

「どうかしたか?」

 

 顎を引きながら喉を鳴らすぼくの様子を見て、響子さんが声をかける。

 

「その子なら会いました。話もした。最初に話した男の子です。真っ直ぐに行けと、ぼくに教えた男の子は同じ位の年頃で、縦縞の浴衣を着ていた」

 

 さすがに響子さんと蓮華さんが顔を見合わせる。

 

「その子が、真っ直ぐに進めといったのか?」

 

 返事の代わりに、ぼくは何度も頷いた。

 それぞれが思案に暮れ、豪奢な部屋を沈黙が満たす。

 ぼくにはあの子が鬼神などとは到底思えない。

 指差した小さな手、幼い声。

 最初に沈黙を破ったのは、蓮華さんだった。

 

「信じがたい話ですが、和也さんが出会い言葉を交わしたのは鬼神ではなく、それに押さえ込まれていた元の人格なのではないでしょうか」

 

 よほどにあり得ないことなのか、蓮華さんの言葉は尻つぼみになって流れて消えた。

 

「あり得ないな、だが現実だ。だってそうだろう? この馬鹿正直なクソ真面目青年が、この手のことで嘘を吐くと思うか?」

 

 口の片端を上げながらにやりと笑う響子さんの言葉に、蓮華さんは薄く笑顔を浮かべて首を振る。

 

「その少年を見て、和也は嫌な感じを受けなかったのだな?」

 

「はい。カナさんの存在からして人の子ではないと思ったけれど、別の意味で普通の男の子でした」

 

 思考を纏めるかのように目を閉じた響子さんは、少し俯いたかと思うとはっとして顔を上げる。

 

「わかったぞ、違和感の元が。和也のいう通り、厳密に言うならその子は鬼神ではない。その人型固有のオリジナルの人格だ」

 

 すぐに理解できる内容ではなかったが、言葉から何かを汲み取ったらしい蓮華さんは、目を見開いて響子さんの背中に視線を落とす。

 

「わたしが拘束される前の鬼神は、少年の姿をしていても鬼神以外の何者でもなかった。元の人格が表に出てくることなどあり得ない。だが今回は違う。和也と言葉を交わしたのは、明らかにオリジナルの人格だ」

 

「あの子の元々の性格、魂ってこと?」

 

「そうだ。何よりの証拠に、少年は和也に正しい道を教えている。真っ直ぐに進めといったのだろう? その言葉を読み違えて転がり落ちたのは和也の失態だ。その子は、本当に正しい道を教えただけ。いわれた通りに草の茂みを突っ切っていたなら、その先の道に間違いなく繋がっていただろう」

 

「あの子の内から、鬼神の魂が消えたっていうことなの?」

 

 響子さんは大きく頭を振る。

 

「それは違うだろうな。わたしが拘束されている間に、鬼神は幾つもの魂を喰らったはずだ。その中に、奴を阻害しようとする強い魂が紛れ込んでいたら? 鬼神は思うように表に出てこられなくなる。自由を阻まれる」

 

「そのような魂が、簡単に鬼神に喰らわれるでしょうか。まるで己の意志で喰らわれたような印象を受けます」

 

 戸惑った表情を浮かべる蓮華さんは、意見を問うかのようにぼくを見る。

 

「普通なら有り得ん話だが、喰われたのかもしれんな。己の意志で」

 

「いったい何のために? 魂を喰われるのは死と同義でしょう?」

 

 心臓が高鳴る。その鼓動に合わせるかのように胸の奥がチクチクと痛んだ。

 

「本人に聞かなければ理由などわからん。だが、その者にはどうしてもそうする必要があったはずだ。洗い出してみるか……喰らわれた魂の素性を。自由になったことだしな」

 

 この世界に足を踏み入れたということは、魂を喰われる危険もあり得るということなのか? そんな世界に彩ちゃんは毎夜たった一人で来ていたというのだろうか。

 

「ところで和也。おまえモテないだろう」

 

「はあっ? どこからそういう話になるんですか!」

 

 わざとらしく鼻筋に皺を寄せた響子さんは、ぼくの目の前に置かれたカップをくいっと顎で指す。

 

「湯気が立つせっかくの紅茶に口も付けないとは、蓮華だからいいようなものの、普通のレディーなら目尻に涙だ」

 

 まずい、すっかり忘れていた。

 

「話の内容が深刻すぎて、手を付けられなかっただけです! いただきます!」

 

 温くなった紅茶を一気に飲み干し、蓮華さんに一礼する。

 

「そんなに急いで流し込んだのでは、味もわかりませんでしょうに」

 

 やってしまった。くすくすと笑う蓮華さんを見て、響子さんが香るような笑顔を見せる。

 

「このように蓮華が笑うのを見たのは久しぶりだ。誰かが笑うのは、嬉しいものだな」

 

 蓮華さんはすみませんといいながら、まだ肩を震わせていた。そうか、拘束されていた響子さんと何もできずに見守り続けた蓮華さんにとって、笑うことなどない長すぎる日々が続いていたのだろう。

 

 新しく入れかえられた紅茶を飲み干すまで、他愛のない話をした。

 聞きたいことは山ほどあるが、これ以上の情報を自分の心が処理しきれる自信がなかった。

 久しぶりの会話を楽しむ二人の言葉を、重苦しい話で止めたくはなかった。

 

 

 日が落ちた時には重い鐘の音を鳴らした壁時計が、チリンチリンと風鈴のように涼やかな音を立てる。

 

「おや、闇が明けたようだな」

 

 そういって響子さんは立ち上がった。

 

「わたしは鬼神が喰らった魂の痕跡を探しにいく。和也も彩という娘を捜すのだう? この世界に和也がいる限り、会おうと思えばいつでも会える。まあ、わたしの方から一方的にということだが」

 

「ぼくから会いに行くことは、できないんですねぇ」

 

「まあな、この家に来る以外は無理だろうな。わたしはすぐにでも和也を見つけ出せるぞ。なにしろ人の子の匂いはここでは目立つ」

 

 思わず自分のシャツを引っ張って臭いを嗅ぐ。

 

「馬鹿め、その臭いではないわ。だが動物のマーキングのように、わたしにとっては目印となる。同時に他の者にとっては、獲物がここにいると自ら宣伝しているようなものだ。けして悪い奴らばかりではないが、用心に越したことはない」

 

「はい」

 

「それと、次に鬼神と出会ったなら、すぐに身を隠せ。逃げるんだ。和也が口をきいた相手が、次も表面に出てきているとは限らないぞ」

 

 その言葉が胸に痛い。

 心配して本当のことを教えてくれたあの子を、この次は避けて通らなければならないのか。

 

「わかりました。色々と教えてくれてありがとう。もう一つだけ、聞きたいことがあるんだけど」

 

「なんだ?」

 

「この世界に存在する人々は、いったい何者なの? ぼくと同じ人の形なのに、何が違うの?」

 

 表情を変えない響子さんの横で、蓮華さんの綺麗な顔に影が落ちる。

 聞かなければよかったと、後悔が過ぎる。

 

「わたし達も、元々は生きていた人間だ。ただ、死んでから会うべきではない者に会ってしまっただけ。死んだ後、呪符や言霊で己の一部を摘み取られた者達が集まるのが、この残欠の小径なのさ。一部を失った魂は、すでに人の魂とは呼べないのか、あの世に行くことさえままならない」

 

 己の一部を失った魂。

 魂の一部を削り取られた存在。

 

 自分で問うたというのに、ぼくはまともな返事さえできなかった。

 

「それほど時を空けずにまた会おう。娘を助けにさっさといきな」

 

 響子さんは指先で払うように手を振り、蓮華さんはその横で静かに立っている。

 

 二人に深々と頭を下げ、ぼくは螺旋状の階段を駆け上った。

 開け放った戸の向こうに広がるのは、何一つ変わらない灰色がかった薄ら青い空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




 今日も読みにきてくれた方に感謝 
 次話も読みにきてくれますように!


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7 存在という名の刃

 屋外へと飛び出したものの、一面に広がる森と目の前にそびえ立つ崖にも似た急斜面に息を吐く。

 彩ちゃんに繋がるといわれた道へ戻るには、転がり落ちた崖を登り元の道筋へと戻らなければならないが、ロープもピッケルもない状態では不可能だろうということは素人目にも明らかだった。

 登ることができないなら、せめて進むべき道の先と同じ方角に向かうべきだろ。

 おおよその見当をつけて走りだしたぼくは、それほど時を待たず襲ってきた、皮膚の下を小虫が這うような感触に眉根を寄せた。

 短大に入って実家を出てからは、ほとんど味わうことのなくなっていた感触。

 幼い頃から当たり前のように寄り添ってきた感触は、二年以上の時がたっても、迷うことなくぼくの中に眠る忌まわしい感覚を揺さぶり起こす。

 

「誰かにとって、この感覚が必要ってことか。自分の為とは限らないし、いま面倒ごとに巻き込まれるのはごめんなんだけどな」

 

 チリチリと痛みを伴うむず痒さを意識から追い出すために、ぼくは握りしめた拳の内で、皮膚に爪を食い込ませる。

 爪で捲れた皮の隙間から血と共に全てが流れでるなら、いくらでも自分を傷つけることを厭わないというのに。

 

 なだらかな斜面の小山を囲うように右に折れる道と、左へカーブを描く二股に差し掛かり、ぼくは足を止めた。

 

「まいったな、無闇に走ってるだけだっていうのに、ここで道を違えたら彩ちゃんから遠ざかるだけじゃねぇ? かといって転落した時点で、なんの手がかりも無くしちゃったんだけどね」

 

 口に出した独り言が耳から入ってくるだけで、情け無さが増幅する。

 いっそポケットの中の十円玉を投げて、その時でたコインの裏表に運命をかけようかと思った刹那、右肘から入り込んだぞわりとした感触が、水紋のごとく広がって全身を包んだ。

 本能的に左へと飛び退いたぼくは、肩口までも有りそうな丈の長い草の茂みに目を懲らす。

 そよぐ風に揺れた草を押し分けて、ぎょろりとした片方の目玉が覗く。

 

「風下から追ってきて正解か」

 

 顔半分だけを覗かせた男は、甲高い声でいった。

 

「追ってきた? 人違いじゃないのか?」

 

 すると男は痰を詰まらせたように嫌な音を立て、喉を鳴らして笑った。

 

「人違いなどするものか。滅多に人などいないからな。臭いんだよお前。数時間前から、人の臭いがするともっぱらの噂だ」

 

――なにしろ人の子の匂いはここでは目立つ。

 

 響子さんの言葉が蘇る。

 

「ぼくを見つけてどうするつもり? 追い剥ぎなら、何も持ってなどいないよ」

 

 追い剥ぎだったら面倒は避けられるのに。

 

「人聞きが悪いぜ兄ちゃん。俺は親切心で追ってきたってのによ。そんなに走って何処へいくつもりだ?」

 

 彩ちゃんの名を口に出すのは不味いだろう。だがこの男は、ぼくの臭いを追ってきたといった。ならば……。

 

「ぼくより少し前に、人の匂いがするという噂は立たなかったかい?」

 

「そういやあったな。だがそっちは兄ちゃんほど珍しかない。姿を見たことはないが、何度も嗅いだことのある臭いだから」

 

 やはり彩ちゃんは、何度もこの世界に足を踏み入れている。

 

「その優秀な鼻で、今どの辺にいるのかわかる?」

 

 ぎょろりとした目玉が、右に左にと忙しく動く。

 

「無理だな。兄ちゃんの臭いがきつすぎてわからねえ。でも二股の右の道の方向だぜ。さっきまでは、確かにそっちから臭っていたから間違いねぇよ」

 

 すんなりと出てきた答えに少しだけぼくは戸惑った。襲おうという悪意が、この男にはないということだろうか。下手に信用して痛い目に合うのは自分だ。

 

「そんな目で見ないでくれよ。新しい人の子の臭いが珍しくて追ってきただけさ。一番に見つけたとなりゃ、仲間と呑む酒のつまみになるだろう?」

 

 男の言葉を信用などしていない。だが、真実を引き出す術を持たないのも事実。

 

「ありがとう。とりあえず右の道をいってみるよ」

 

 右端だけ僅かに覗く、男の口元がにたりと笑う。

 

「気をつけていきな」

 

「あぁ。そうするよ」

 

 後ろから襲われる可能性を考慮して、背後に気を配りながらぼくはゆっくりと右へと続く道を歩き出す。

 

「ところで兄ちゃん」

 

 少し進んだところで、男が声をかけてきた。

 

「兄ちゃん、ここに知り合いなんていねぇよな。臭いを見つけた時から計っても、半日も経っちゃいないもな」

 

 まるで知り合いがいては不味いようないい方が、ぼくの防衛本能を刺激する。

 

「まあね。あっ、でも二人ほど知り合いがいる。今その人と共同作戦中」

 

 話をでかくしたのは、カマをかけるため。

 

「知り合いって、どんなやつさ?」

 

 明らかに、声に動揺が混じる。

 

「響子さんと蓮華さんていう女性さ。名前だけいってもわからないよな。この道のずっと向こうに住んでいる人たちだよ」

 

 わざと関心が無いかのように、背を向けて歩き出したぼくの背後でヒィィ、と悲鳴にも似た叫び。

 後戻りして男が顔を覗かせていた草むらを見たが、押し分けられた草は閉じられ、そこに存在することを証明するのは、かさかさと音を立てて揺れる草の先だけ。

 

「間違った!」

 

「何を間違ったの?」

 

 男の声は更に甲高さを増し、キーンと灰色の空に突き抜けるようだった。

 

「教える道を間違えたのさ。いや、ちょっとした勘違いだ。左だよ、左の道。兄ちゃんが探している人の子に繋がるのは、左の道だった」

 

 ちょっとした勘違いとは言いようだ。目的は知れないが、この男は故意に間違った道をぼくに教えていたに違いない。

 

「響子さん達と知り合いなの?」

 

「いっいや、知らないな!」

 

 絶対知っているじゃないか。これだけあからさまに声のトーンが変われば、普通の人間でも隠された嘘を見抜くだろう。

 男のいっいや、という否定の言葉が、ぼくの中で嫌という字に変換される。

 乾いた小枝をバキバキと踏み折る音と同時に、草が人一人分の幅をとって、流れる川のように波を立てながら遠ざかっていく。

 

「いったい響子さん達の何を恐れているんだろう」

 

 ぼくは左の道へ走り出す。

 チクチクと痛みを伴う感触は、潮が引くように無くなった。おそらくは、草陰に身を潜めた男がもたらしたのだろう。

 あの嫌な感触が身を潜めると同時に、山肌を転げ落ちた時の傷が痛み出す。浅い傷は塞がりかけては開き、服と擦れるたび無視しようがないほどにひりついた。

 しばらく走ると、周りを取り囲んでいた密集した木々は疎らになり、山裾に広がる林といった景色に変わる。

 時折感じる視線が肌を刺したが、ぼくは無視して走り続ける。

 得られる情報よりも関わり合うリスクが高いことは、さっきの男を見ただけで明らかだ。

 

 道の途中で立ち止まったのは、枝分かれした道に行く先を迷ったからではない。

 木々の間を抜ける道は、何処までも真っ直ぐに続いている。

 ぼくが立ち止まったのは、甘い花の香りを感じたから。

 そよそよと吹く風に乗って流れてきたのは、この三ヶ月で幾度となく嗅いだ香り。彩ちゃんが風呂上がりにいつも漂わせていた、お気に入りの入浴剤の香り。

 

「こっちか!」

 

 道を外れて木々の中へと走り込んだ。手が届くほど側にいるように、甘い香りが濃さを増す。

 側を通らなければわからないほどほのかな香りを、どうして自分が今嗅ぎ分けられるかなんて知らない。

 二年ぶりに感じた肌を這い上がる違和感と同じで、この世界の空気がぼくに余計な産物を与えているのかもしれない。

 役に立つなら何でもいい。

 彩ちゃんに辿り着けるならぼくの中に眠る、人としての尊厳の全てをぶち壊した黒点さえ、利用してやろうと思った。

 

「彩ちゃん?」

 

 まだ視界に入らない前方で、金属がかち合う音が響く。

 木々に遮断された景色の向こうに、感じる三人の気配。

 人型の白い靄が重なり合っては離れる。

 そのひとつの頭部と思われるあたりから、長い髪が尾のように揺れている。

 

「彩ちゃん?」

 

 膝丈まである草が絡んで、思うように足が進まない。

 必死に体勢を立て直しながら走り続ける。

 そこだけ密集した木立の間を縫うようにして抜けると、人型の白い靄が現実の色を持って目の前に現れた。

 息を切らしたぼくはの動きは、一瞬にして凍り付く。三人の手にはそれぞれに長い刃渡りのナイフが握られ、素早い動きの中、刃が重なり合うたび赤い火花が飛ぶ。

 現実世界ではあり得ないはずの、赤い火花。

 他の二人よりも一回り小さなナイフを手に後方へ飛び去ったのは、ポニーテールを揺らす彩ちゃんだった。

 

 ぼくが動くより早く、彩ちゃんと刃を交える男女の視線が向けられた。

 

「誰だぁ、おまえ」

 

 こっちへ視線を向けたのはほんの一瞬。すぐに彩ちゃんへと向き直った男は、腰を落としてナイフを構えたままいう。

 女の方もぼくを見たのは一瞬で、まるで存在を無視するかのように、徐々に彩ちゃんへの距離を詰めている。

 

「誰だろうね」

 

 自分の中から出たとは思えない、冷たい声色だった。

 

「どうしてここへ!?」

 

 一番驚いたのはたぶん彩ちゃんで、アーモンドみたいな目を見開いて、ちらりとだけぼくをみた。

 彩ちゃんの左腕と胴は、鈍い色を放つ細い鎖で縛り付けられていた。

 その鎖に絡むように、紐のようなものも見てとれる。

 思うように身動きが取れなくて、必要以上に苦戦していたのだろう。

 彩ちゃんの腕からは、血が一筋流れてる。

 ぼくは食いしばった歯から、無理矢理に力を抜いた。

 

「だって、彩ちゃんなかなか帰ってこないからさ。超過労働に苦しむ社員を代表して、直訴しにきたってとこかな」

 

「こんなときに、馬鹿いってないで」

 

 叱るような、困ったような彩ちゃんの声。

 困られたって構うもんか。

 

「とにかく帰ろう。社員の意見を無視すると、ワンマン社長っていわれちゃうよ」

 

 敵対する二人が動きを鈍らせているのは、どう対処すべきか判断が付かないからだろう。ぼくの素性や、能力を測りかねている。

 昔からそうだ。ぼくと出会った奴は、例外なくぼくの存在を計りかねる。

 存在を見間違う。

 存在を見過ごす。

 

「なんでもいいから、早くここから離れて! いうこと聞かないと首だからね!」

 

 彩ちゃんの言葉に、ぼくはくすりと笑う。

 

「今さらそんなの平気。だって秘守義務破っちゃったから、とっくに首は決定でしょう?」

 

 彩ちゃんの口から溜息が漏れる。

 キャミの所々から血が滲み、腕も顔も泥まみれの彩ちゃんの眼光は、今までに見たこともない鋭く、まるで彩ちゃんに似た別物の面を被せたようだった。

 いつもの笑顔、客に見せる悪戯っぽいウインク、そのどれもが影さえ見えない。

 

「ごちゃごちゃ言ってねぇで、どっかいけよ。一緒にやっちまうぞ!」

 

「さっさと終わらそうよ。やばいのが近づいてるって」

 

 ショートカットの浅黒い肌をした女がいう。

 二人にとっては一瞬に感じられただろう。

 誰かが近づいている、という気配に気を取られている隙に、ぼくという存在は動いた。

 寸の間互いに視線を絡ませた二人が前を向いたとき、すでにぼくは彩ちゃんの前に立っていた。

 

「てめぇ何をした! 人の子じゃないってのか?」

 

「こんな人臭いってのに、あり得ないよ」

 

 男が一歩踏み出したのを、無言のまま手の平で制す。

 

「慌てないでよ。ぼくには、君たちをどうこうする力なんてないからさ」

 

 この言葉に嘘はない。

 何か言いかけた彩ちゃんの耳元で、ぼくは小さくシー、と黙っての合図を送る。

 彩ちゃんの左腕と胴を縛り上げている紐と、ストラップをぶら下げるくらいに細い鎖に両手の指をかける。

 

「ちょっと我慢してね」

 

 手に力を込めると少しだけ肉に食い込む感触を残して、鎖と紐がばらばらと地面に落ちた。

 

「和也くん?」

 

 呆気にとられたようにぼくを見た彩ちゃんは、それでも己の置かれた現状を忘れはしなかった。ぼくが頷くより早く、跳躍して二人へと向かう。

 あっさりと千切られた戒めを見て目を見開いたのは、二人も同じこと。

 構えていたナイフが、心の動揺に僅かに下がり脇が開く。

 生みだされた隙を、彩ちゃんのナイフが突いた。

 最初にナイフが突き立てられた女は、驚きの表情を浮かべたまま存在ごと霧散する。体が霧を模る粒子となって、空中に散ったようだった。

 刺したナイフの勢いそのままに、胸を真横に切り込まれた男は、呻き声を上げて飛び退くとそのまま木々の向こうへ姿を消した。

 

「やっぱりな、思った通りだ」

 

 下半身から力が抜け、ぼくはその場にへたり込む。

 男の気配が完全に消えるのを確認したのか、彩ちゃんが眉をハの字にして振り返った。

 緊張が解けたのか震える足取りで一歩、また一歩とこちらへ向かう彩ちゃんは、手にしていたナイフを顔の前で握りしめ、キャミの胸元を引っ張って、キャミと胸の間にナイフを収めた。

 彩ちゃんの手を離れる瞬間、刃先も柄も鉛色であったはずのナイフが、銀色の微細な光を放った気がした。

 目の前に立った彩ちゃんが、しゃがみ込んでぼくの肩に手をかける。

 

「無茶するよね、和也くん。大丈夫?」

 

 いつもと変わらない彩ちゃんの声に、ぼくはほっとした。

 

「うん。平気だよ」

 

 本当は平気じゃないけどね。体中の毛穴から力が抜けていくみたいで、実際の所はさ、目を開いているのも辛いんだ。

 ぼくの存在を、他者に認知させたときはいつもそう。

 でもいいや、初めて誰かの役に立った。

 ぼくの人生を血が滲むほど縛り上げていた、ぼくという無意味な存在に少しだけ淡い色がついた気がした。

 うれしいな。

 どうせ逃れられない呪縛なら、どうせ辛い思いをするなら、せめて誰かの記憶に残りたい。

 

「今答えなくてもいいから、質問だけさせてね。あの瞬間、どうやってわたしの前まで来たの? 彼らの目をどうやって欺いたの? 君は、わたしの知っている和也くんだよね? わたしの友人は、いつもみたいに笑ってくれる?」

 

 体を起こしていられなくなったぼくは、地面に体を横たえた。

 支えようとする彩ちゃんの手を、そっと押さえて首を振る。

 

「この世界に入ってから、妙なことばかりだよ。人生から排除したかったものが、いっぺんに大挙して押し寄せてきた感じかな」

 

 ぼくは少し震える頬に、無理矢理力を込めて笑って見せる。

 

「帰ったら、ちゃんと話すよ。まだ話したくないこともあるけれど、そのうちね。でもひとつだけわかった。シゲ爺がどうしてぼくを雇ったのか。あれは偶然なんかじゃない。シゲ爺は、人混みの中からぼくを見つけたんだ」

 

 目を細めて微笑むぼくに、彩ちゃんが泣きそうな笑みを浮かべる。

 ぼくは今、彩ちゃんを安心させられるように、上手く笑えているかな。

 

「わかったわ。今は無理しないでね。わたしも和也くんに話すことがあるもの。わたしだって、全部は話せないかもしれない。和也くんを信用していないからじゃないよ、言えないのは……嫌われるのが恐いからかな」

 

 彩ちゃんを嫌ったりしないさ。たとえぼくが嫌われることがあってもね。

 ぼく達を傷つけているモノは、きっと似ている。

 自分そのものであるはずの、存在という名の刃。

 己にのみ向けられる、鋭い刃。

 

「誰か来る」

 

 ぼくは仰向けに寝転がったまま、立ち並ぶ木々の向こうへと視線だけを向けた。

 

「彩ちゃん大丈夫だよ。たぶんね」

 

 誰か来るといったぼくの言葉に反応して、彩ちゃんがキャミの胸元に手を入れようとするのを止めた。

 たぶんナイフを取り出そうとしたのだと思う。でも彩ちゃんのキャミの胸元はいつも通りで、それほど有るとは思えない胸の谷間に、異物を隠した膨らみは見当たらない。

 実体を持たないナイフ、そんな陳腐な想像しか浮かばなかった。

 

「おう、いたか」

 

 枝葉に覆われた薄暗がりから姿をみせたのは、響子さんだった。

 

「響子さん、まさかもう調べがついたの? 早すぎない?」

 

 蚊が鳴くような声をだすぼくを見て、響子さんが顔を歪ませ笑う。まるで面白い珍獣でも見つけたかのような反応だ。

 

「超能力者じゃあるまいし、さっきの今で調べがつくわけがないだろ。ところでこの娘か? クソ真面目な青年が必死で探していたのは」

 

「そうだよ。彩ちゃん、この人は響子さん。日が落ちていた間お世話になった」

 

 クソ真面目は余計だと心の中で舌を鳴らしたが、そんなぼくにお構いなく二人はさらっと自己紹介を済ませている。

 響子さんの話に頷く彩ちゃんの笑顔に、不安が潜んでいるのをぼくは見逃さなかった。見逃せなかった、といった方が正しいか。

 人の感情に敏感だなんて、度を超せば最悪の特技だ。

 

「ところで立てるのか? かなり情けない状態のようだが。負ぶってやってもいいぞ。そんな目をするな! 親切心でいっているのだぞ? 楽しんでなどいないからな!」

 

 響子さん、そんなに楽しそうな顔で説得力ないって。

 

「大丈夫です。男たるもの、自分の足で立ってなんぼですから!」

 

 歯を食いしばって上半身を起こす。

 正直それだけで息が切れる。

 

「手をかそうか?」

 

「けっこうです!」

 

 彩ちゃんの前で、これ以上情けない姿を晒すわけにはいかない。

 腐っても男子!

 

「無理しないでよ、和也くんてば」

 

「心配ないって。早く帰ろうね。お客さんだって待っているし」

 

 立てた片膝が震えている。

 渾身の力を込めて立ち上がった途端、視界が暗転した。

 天地の方向さえ曖昧な中、最後に残った意識に届いたのは、響子さんの高笑いだった。

 腹が立つほど楽しそうに、響子さんは笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 読んで下さった方、ありがとうございます!
 
 
 


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8 これ、黒い泡茶ですから

 響子さんの笑い声を最後に気絶したぼくが、意識の泥沼から這い上がったときに最初に耳にしたのも、悲しいかな響子さんの高笑い。

 

「目が覚めたか、寝坊助め」

 

 なんとか薄く瞼をこじ開けたぼくを覗き込んで、響子さんがにっと笑う。

 

「まだ目が回っている気がします。響子さん酒臭い! うえっ」

 

 近すぎるほどに顔を寄せる響子さんの息は、すっかり出来上がった酔っ払いのそれだったから、思わずでた言葉が、うえっ。

 

「女性に対して酒臭いとは酷い言いようだな。傷ついた。泣くぞ? 泣いてやるぞ」

 

 鬼に殴られても泣かなそうだけどね。

 

「ごめんなさい。でも臭いって」

 

 鉛玉を思わせる響子さんの指パッチンに、危うく気絶しかけたぼくを彩ちゃんがうんしょ、というかけ声と共に起こしてくれた。

 

「彩ちゃん、怪我は大丈夫なの?」

 

「うん、平気だよ」

 

 ぼくの背を壁に預ける為に添えた手を、ゆっくりと彩ちゃんが放した途端、頭部が真横にぶっ飛んで再びぼくは、板張りの床とこんにちは。

 

「いったい何の仕打ちですか!」

 

 おそらくは軽く平手打ちしたつもりなのだろう。

 ぼくの頭を薙ぎ払った手をそのままに響子がふん、と鼻を鳴らす。

 

「なーにが大丈夫? だ。陸に上げられたナマコみたいにだらしなく伸びて、呼べど叩けど目を覚まさなかったのは誰だ? どこのヘタレだ?」

 

「……このヘタレです」

 

 気絶する前より首や肩口がヤケに痛むのは、ぼくを起こそうと響子さんが親切心で叩きまくったせいか。最悪だ、この手加減知らずめ。

 

「気絶した奴が一人で歩いたらゾンビだな。さて、ヘタレでモテない青年はどうやってここまで来たのでしょう。もっというなら、誰がここまで運んだのかな?」

 

 額に嫌な汗が滲む。

 けっして傷の痛みのせいじゃない。

 かくかくと壊れたロボットなみの動きで、首を回して彩ちゃんをみる。

 

「気にすることないよ。後から合流した蓮華さんも一緒に運んでくれたもの」

 

 あの長い道のりを二人で? 三人いたのに二人で? 響子さん、鬼かあんたは。

 

「本当にごめんね。重かっただろ?」

 

 もはや彩ちゃんと視線を合わせることさえ辛い。

 

「女性に抱っこされるとは、情けない。モテない男の鏡だな」

 

 人の恥を酒のつまみにするな、と思いながら口にはできない。この人なら、倍返しどころじゃ済まないだろう。

 

「まあいいじゃないか。彩に死体になって運ばれなかっただけましだよ」

 

 声の主はカナさんだった。

 とび色の着物の襟からは、白くて細いうなじ。

 落ち着いてみると、まるでガラス細工のような女性だった。

 そうか、ここは居間の本棚から通じているカナさんの庭だ。

 

「いっただろ? 生きて帰ったら酒を呑もうと。無茶をする坊やが生きて帰って来たんだから、彩の無事と一緒に祝おうじゃないか」

 

 あの時と同じように壁に背をもたれて盃を口へと運ぶカナさんは、涼しげな目元でぼくを見て、ほんの少し唇をほころばせる。

 

「ところで蓮華さんの姿が見えないけれど、帰っちゃった?」

 

 体と意識が少なからず平常を取り戻しはじめ、周りを見る余裕が生まれた。

 

「蓮華は仕事だよ。色々と調べを付けるには、それなりに時間がかかるからね」

 

 おそらくは茶器として使われるのであろう、大きな茶碗に注いだ酒を喉を上下させながら一気に流し込んだ響子さんは、自分で一升瓶から更に酒を注ぎ足した。

 蓮華さんを使いっ走りにして、悠々と酒を呑む響子さんに諦めの溜息をひとつ吐いて、ぼくも酒にちょっとだけ口を付ける。

 

「あの時彩ちゃんを襲っていた二人は、いったい何者なの?」

 

 和やかだった空気に、無言が生みだす細い緊張の糸が張る。

 

「あれはね、わたしが探している奴の信望者」

 

 彩ちゃんが探しているのは、母親を殺した相手。

 

「彩ちゃんを縛っていた鎖と紐があっただろ? それほど力を込めなくても解けたのに、彩ちゃんは自分で解けなかった?」

 

「解けなかった」

 

 彩ちゃんの表情が僅かに曇る。

 

「あの鎖はわたし達の世界の物。もう一本の紐は、こちらの世界の物。その二つが重なると、わたしには解けないの。でも気にしないで、あんなヘマはめったにしないから」

 

 にっこりと笑った彩ちゃんが、キャミの細い紐を指先で弾く。

 着替えていないから、小さく血の染みが付いたままのキャミ。

 

「そういえば蓮華さんも、響子さんを縛っていた布と鎖を解けなかった。あの時響子さんは、布と鎖を外から持ち込まれて物だからといいましたよね。なら、彩ちゃんを縛っていた布と鎖はこちらの世界のものと、ぼく達の世界の物があったから、こちらの世界の縄が邪魔して解けなかったということかな?」

 

 ゆっくりとカナさんが首を振る。

 

「彩がいっていたであろう? 重なっていたと。どちらか一つなら、彩には何の影響も与えないのだよ」

 

 二つの世界の物が重なることによって生みだされる現象、本来こちらの世界の物からしか影響を受けないはずの彩ちゃん。

 答えを追跡しきれずに、ぼくの思考は止まった。

 

「彩も怪我人、ヘタレも怪我人。今日はゆっくり休め。いま知ってもどうにもできないことに首を突っ込んでも、心が疲れるだけだぞ?」

 

 暗に首を突っ込むなということだろうか。

 隣で彩ちゃんは困ったように俯いている。

 今ここで全てを知ろうとされたら、ぼくだって言葉に詰まる。

 何をどこから話すべきか、そして何を話さずにいるべきか整理できいないから。

 

「言ったことと矛盾するが、一つだけ聞いていいか?」

 

 響子さんの声から、ふざけた色がなりを顰める。

 ぼくは小さく頷いた。

 

「和也はどうしてこちら側へ来られたのだろうな? 今こうしてわたし達と言葉を交わせるのはなぜだ? 互いに触れ合うことができるのは、どうしてかな?」

 

 一つだけなんて大嘘じゃないか。

 

「その前にひとつ聞かせて下さい。ぼくには見分けがつかないのだけれど、響子さん達は、霊体なの? 単純にそう呼べる存在なの?」

 

「わたし達は確かに死人だ。だが、霊体とは違う。厳密にはな。霊となっていずれはこの世から離れていくべき者だったのに、その権利を奪われた。前にもいっただろう? 欠陥品なのさ。人でもなく、純粋な霊にもなれない」

 

「目的があって、残欠の小径に身を寄せているの?」

 

「いや、残欠の小径に閉じ込められたと言った方が正しい。和也、目的なんてものは、自分で見つけるもの。わたしはね、蓮華を解放してやりたい。奪われた欠片を取り戻して、蓮華を自由にしてやりたい。ただそれだけさ」

 

 蓮華さんの自由とは何を指すのか。だが響子さんの優しい笑みはけしてぼくへと向けられたわけではなく、それ以上聞くことは躊躇われた。

 

「ぼくは小さい頃から、人じゃない者が見えていました。最悪だったのは幼い頃、人とそれらの区別がまったくつかなかったことです」

 

「珍しいねぇ。それほどはっきり見えるなんて」

 

 カナさんが小首を傾げる。

 

「変わっているのだと気付いたのは、小学校に入ってからかな。家族にも気味悪がられて、接することの多かった母は特にぼくを嫌っていました。最初は心配して、その内に気味悪い目で見られ、その視線はやがてぼくへの恐れに変わっていたと思う」

 

「それだけで、母親とは息子を厭うものか?」

 

「それは……」

 

 口を開きかけたぼくの言葉を遮るように、格子戸の向こうで大きな足音が響く。

 

「まずいね、和也くんまで居ないことに、タザさんが気づいちゃったみたい」

 

 どれほどの時間気絶していたのかわからないが、タザさんがぼくの不在に気付いたということは、開店間近の時間になっているのだろう。

 少し困った顔で見ると、響子さんらしい高慢な笑みを浮かべて、彼女は指先でぼくを払った。

 

「失礼します。あの、色々とお世話になりました」

 

「またどうせ会うだろう。その時はまた、せいぜいお世話してやるよ」

 

 酒を注ぎ足すために下を向いた響子さんに、ぼくはべっと舌をだす。

 その様子を見てくすりと笑ったカナさんに、ぼくは人差し指を自分の唇に当てて口止めを願う。

 カナさんは小さく頷いて、とび色の着物の袖で口元を隠した。

 

「和也くん、帰ろうか。どうやらお仕事の時間だよ。お姉様方、またね!」

 

 格子戸を開けると、見慣れた居間にほっとする。

 シャワーを浴びてくるといって、彩ちゃんはバスルームに姿を消した。ぼくもこの恰好で店に出るわけにはいかないから、彩ちゃんの次にシャワーの順番待ちだ。

 

「タザさんに、なんて言い訳しよう」

 

 はぁ、と肩を落とすと、背後から海坊主のような頭がぬっと現れた。

 

「何の言い訳だ?」

 

 擦り傷だらけのぼくの肩を、ごつい手がぐっと鷲掴む。

 痛い、けっこう痛い。

 

「タザさん、おは、ようございます」

 

「おそようございますだ。開店まであと三十分だぞ。下準備はできないし、今日は休みにするところだった」

 

 顔が見えない分、声色が恐ろしい。

 

「ごめんなさい。以後、気をつけます。はい」

 

「罰として、一週間はトイレ掃除ひとりでやれよ」

 

「ぼく一人?」

 

 彩ちゃんは? 彩ちゃんはスルー?

 シャワーの音が、居間にいるぼくらにも聞こえてきた。

 タザさんの手が肩から離れたかと思うと、ぼくの頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。

 

「か、髪抜ける! 禿げる!」

 

 喧嘩売ったな、とタザさんがぼくの頭をコツリと叩く。

 

「ありがとうな。助けてくれて」

 

 その言葉だけを残して、タザさんは厨房へといってしまった。

 何処にいたとも、どうしていたとも聞かないんだね。

 

「どういたしまして。心配かけてごめんなさい」

 

 見えなくなったタザさんの背中に、ぺこりと頭を下げる。

 今日の店は忙しくなるだろう。

 なにしろ久しぶりに彩ちゃんがいる。地域の情報網は、あっという間に彩ちゃんの存在を隅々にまで伝え、砂糖に群がる蟻みたいに客が押し寄せるだろうから。

 

 開店して一時間、さして広くもない店内は満席。

 

「アルバイトの兄ちゃん! コーヒーおかわり。ホイップクリームっぽいもののせて、たっぷりね!」

 

「はい!」

 

「アルバイトの兄ちゃん! ハゲのタザさんはどうしたよ? 今日は居ないのか?」

 

「タザさんは双子の子守しながら、鉢植えの植え替え作業中!」

 

「アルバイトの兄ちゃん! あや……」

 

「彩ちゃんは、日替わり弁当八個分の材料を調達中!」

 

「アルバイトの兄ちゃん!」

 

「はいっ!?」

 

「……呼んだだけ」

 

 このぉ、みんな人で遊びやがって。店内から笑いと拍手が沸き起こる。

 彩ちゃんが食材調達で姿を消している間、暇を持てあましたオヤジ連中のおもちゃは必然的にぼくひとり。

 そうはいっても、負んぶバンドで前と後ろに双子の赤ちゃんを背負いながら、十個分の鉢の植え替えをしているタザさんよりはましか。

 ぼくには無理な仕事だがタザさんいわく、フギャっという赤ちゃんの泣き声を聞くと、生きる気力が湧いてくるのだとか。

 人はホント、見かけによらないね。

 

 飯を食う暇もないまま閉店時間を向かえ、店のカーテンを閉めたときには使い捨てのぼろ雑巾みたいによれよれだった。

 疲れ切っているであろう彩ちゃんの体力を考慮して、ぼくとタザさんは夕食を辞退した。たまには弁当を買って食うのも悪くはない。

 

 弁当とジュースを買って部屋に戻ると、焦げ茶色の戸を開けて野坊主が顔を出していた。

 

「彩ちゃんなら、無事に帰ってきましたよ」

 

 そういうと野坊主は、ほっとしたように表情を緩める。

 表情が緩むと細い目が糸のようになるが、そこは愛嬌ということで。

 野坊主の脇から、小花ちゃんが這い出てきた。

 ぼくを見てにこりと笑う。

 

「小花ちゃん、ジュース飲むかい?」

 

 小花ちゃんは細い首を傾げたが、すぐにこくりと頷いた。

 常備してある紙コップに黒っぽい炭酸ジュースを入れてあげると、小さな手で受け取り、コップの中で弾ける泡をじっと見ている。

 

「飲んでごらん。美味しいよ」

 

 ごくりと一口飲み込んだ小花ちゃんの背筋がピンと伸びて、くりっとした目が大きく見開いた。

 

「どう?」

 

 そのままの姿勢でぶるりと身震いすると、しげしげとコップの中を見てもう一度口を付ける。今度はぷるぷるとほっぺたを揺らし、小花ちゃんはプワァー、と声をあげた。

 

「野坊主さんもどうぞ」

 

 先に飲んだ小花ちゃんの様子を見ていたせいか、不安そうな表情で紙コップを手にする。

 

「いただきます」

 

 恐る恐る口を付けた野坊主は、少し口に含んだ途端に座ったまま跳ね上がり、頭を突き出していたせいで、戸の上部でゴツンと鈍い音がした。

 

「大丈夫ですか?」

 

「失礼を。これは、何という茶ですかな?」

 

 茶? やっぱり思っていた通りだ。

 

「黒い泡茶です」

 

 断言。

 

「黒い泡茶ですか。め、珍しい」

 

 ほらね。

 

「野坊主さんは、黒い渋茶の方が好みでしょう? 淹れてくるから少し待ってて」

 

 かたじけない、と頭を擦る野坊主はまるで子供のようだ。

 炭酸の食感になれたのか、小花ちゃんは美味しそうに飲んでいる。

 どんな生き物でも、子供は適応能力が高いらしい。

 

「小花ちゃん、お兄ちゃんと一緒にクマさんココアつくろうか?」

 

 嬉しそうに小花ちゃんが頷く。

 

「それじゃあ、先に下りて待っていてくれる? 厨房のスリッパをだしておいてほしいな」

 

「うん、いいよ」

 

 小さく跳ねる小花ちゃんを見ていると、こっちまで楽しくなる。

 小さく手を振って、小花ちゃんがハシゴを下りていった。

 

「野坊主さん」

 

「何でしょう」

 

 ぼくは驚かせないように、精一杯の笑顔をつくる。

 

「野坊主さんは、人ではありませんよね?」

 

 野坊主の頭が戸の上部に当たり、本日二度目の鈍い音を立てた。

 

「黒い渋茶を淹れてきますね!」

 

 野坊主の答えを待たずに、ぼくは小花ちゃんの後を追う。

 お茶を飲みながらゆっくり話そう。

 コーヒーも、炭酸ジュースも知らない彼らが何者なのか、興味はあったが絶対に知りたいわけではない。

 お茶を飲みながらの話題は、野坊主に任せようと思う。

 

「小花ちゃん、お待たせ!」

 

 スリッパを揃えて待っていた小花ちゃんが、おかっぱ頭の髪を揺らして、にっこりと手を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




今日ものぞきに来て下さった方、ありがとうございます 
また、のぞきに来てくださいませ!


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9 小さな殺しの依頼

コーヒーを持って部屋へ戻ると、すでに姿を消したかも知れないと思った野坊主は、律儀にそのままの姿勢でぼくを待っていた。

 無表情のまま僅かに頭を下げコーヒーを受け取った野坊主は、相変わらずカップの取ってを無視して、野点の茶をいただくような風流な仕草でカップに口を付ける。

 ひとつ息を吐いた野坊主はコーヒーの温かさに安堵を得たのか、細い目を糸のようにしてふわりと笑った。

 

「話す前に、ひと言だけ申し上げておこう。今宵が最後の茶会となっても、後悔はしますまい。もう姿を見たくないと言われたならこの野坊主、姿を消しましょう。元来知恵の回らぬ似非坊主ではあるが、引き際くらいは心得ておる」

 

 言葉とは裏腹に、野坊主の表情は柔らかい。

 腹を据えるというのは、今この時の野坊主を指すのだろう。

 

「和也殿の言うとおり、わたしと小花は人ではない。かといって、何者と問われても返答に困るのだが」

 

 最初に会ったとき、すぐに妙だと思った。この時代にたとえ飲まなくても、コーヒーを知らない人間はおそらくいないから。

 それに炭酸ジュース。砂糖水とお茶しか飲んだことのない現代人などいないだろう。小花ちゃんにしてもそう。少し浮世離れしすぎだった。

 

「話せることだけで構いません。話したくないなら、何も話さなくていいんです。夜は長いし、くだらないことを話すだけでもいいじゃないですか」

 

 気を使わせたかな、と野坊主は頭を掻いた。

 

「この建物が古いのは見てとれるだろうが、その前に立っていたのはもっと古い屋敷で、江戸の時代よりここに在り続けた古家でな。わたしは、その屋敷の管理をしていたのだよ」

 

「その屋敷を壊してこの店を建てたのは、野坊主さん?」

 

「いいや。シゲ爺の親が建てた。亡くなる前にはとっくに没落していたが、金のある家でね。この家は成人の祝いにと親がシゲ爺にくれてやったもの。この場所に家が欲しいと頼み込んだのは貰った本人だがね。」

 

 頼み込んだくらいで家が買ってもらえるとは、今のシゲ爺からは想像が付かない道楽息子ぶりだ。

 

「三男坊だったから、家の跡継ぎになる必要もない。金はあるから、その日の飯の為に汗水を流す必要もない。」

 

「とうとうお金に困って、この喫茶店を開いたってこと?」

 

 野坊主はくくっと喉を鳴らす。

 

「あいつは今だって金に困ってなどいないだろうよ。考えてみるがいい。商店街で人気の店とはいっても、自分を含めて四人の給料などでると思うか? しかも社員として雇い、しっかり給料を払っているはずだ。その金はどこから出る?」

 

 その通りだ。ぼく達の給料が、店の売り上げからでるわけがない。

 

「道楽ってこと? でも彩ちゃんが社長で、シゲ爺は雇われだっていっていたよ」

 

「確かにな。だがそれは、自分の寿命を考えて店を彩に任せたに過ぎない。金の出る財布を抱えているのは、あいつだよ」

 

 一体何のためにそんなことを? シゲ爺と彩ちゃんに血の繋がりは無いはずだ。

 

「血の繋がりも無いのに、と思っているであろう? 大切な物ではあろうが、シゲ爺にとっては血の濃さなど窓を開ければ吹く風と同じ。大した意味など持たぬよ」

 

「それはもう悟りの境地ってやつですかね。血縁に雁字搦めになって生きてきたぼくには辿り着けない心境ですよ」

 

 血は人を縛り付ける。受け継がれる血の濃さで、ある者は受け入れられ、ある者は排除される。

 ぼくは後者だ。排除された者の名を語ってくれる人がいるはずもなく、ぼく以外に確かに存在したといえるのは、かわいがってくれた婆ちゃんだけ。婆ちゃんは優しくて面白くて、いつだってぼくを抱きしめてくれた。

 そして親戚中から疎外されていた。

 婆ちゃんが亡くなって、幼いぼくを守る人は誰もいなくなった。家の中で社会的に必要がない言葉をかけてくれる人はもういない。

 

 一生懸命書いた母さんの絵を、ゴミの日の袋の隅にみつけたな。

 みんながテレビを見ているから一緒に隣に座ったら一人、また一人と姿を消す。

 話しかけるといつも、母さんの笑顔は引きつっていた。

 父さんが最後にぼくに声をかけたのは何時だっただろう。何ていったかなんて、今さらだ。

 

「和也殿、思い出に呑まれたかな? 振り返って変えられる過去などひとつもないのだから、いま周りにいる人々を、いま自分がいる場所だけを思うと良いよ。」

 

 野坊主の細く閉じられた瞼の隙間から、黒い眼がぼくをみる。

 口の周りにミルクをいっぱい付けた小花ちゃんは、話の内容などわかるはずもなく、ぼくを見上げてへへっ、と笑った。

 

「シゲ爺がここに家を建てたのは、あの庭を守るため。まだ古家が立っていたとき、一度だけ目にしたのだよ。この世の物ではない庭と、ただそこに居る美しい女性を」

 

 カナさんのことか。

 

「シゲ爺は、その手の物を視ることができたの?」

 

 野坊主は静かに首を振る。

 

「本当なら見えるはずの無かった彼に、夕暮れ時の戯れにと庭を見せたのはわたしだ。ほんの少しだけ、視る力を持っていたのだろう。格子戸をすんなりと開けたときには、正直わたしは驚いた」

 

 シゲ爺の日記を思い出す。

 

「そしてもっと驚いたことに、彼はわたしをみて誰? といった。わたしの悪戯と、彼と共にいた友人の力。色々な偶然が重なって、シゲ爺はわたしをみてしまった」

 

「シゲ爺は、友達を連れて古家に入ったんだね? 勝手に入ったということは、空き家だったのでしょう? 肝試しってとこかな」

 

 だが野坊主が発した次の言葉に、ぼくは呆然とした。

 

「その時一緒にいたのは、彩の祖母だよ。彩以上の力を持っていた祖母の血が、孫の代になってこれ以上ないほど色濃く受け継がれた。因果な子なのだよ、彩は」

 

 受け継がれる血の流れ。色あせない血の濃さは、神様の悪戯だろうか。

 彩ちゃんがそのことで悩んでいるなら、ぼくも同じだと伝えよう。

 一人じゃないと、伝えたい。

 

「彩の何をみた?」

 

「初めて、戦っている彩ちゃんをみました」

 

「では、あの刃物もみたのだな?」

 

「はい。刃先から柄の部分まで、確かに金属の輝きを放っていたのに、彩ちゃんはそれをキャミの胸元にしまい込んだ。でも、胸元に異物が入っている膨らみはなかった」

 

 ナイフを手にする彩ちゃんの様子を語ったとき、聞いている野坊主は眉根を寄せ辛そうにみえた。

 

「彩のナイフは物質に見えながら、およそ物質とは呼べない物で構成されている。あのナイフは、簡単に言うなら、彩の気力そのものといってもいい。彩は、母親を殺した者を探しているといったかな? 確かに今はそうだろう。だが本来は母と共に、あの庭を守ろうとしていただけのこと。もともとは無かったのだよ。あの庭の先に続く残欠の小径など存在しなかった。鬼神が現れるまではな」

 

 鬼神という名を聞くのは何度目だろう。

 ぼくはまだ本当の鬼神を知らない。

 ぼくが言葉を交わしたのは、あの子供の姿本来の魂だ。

 鬼神は、ぼくを認識しているのだろうか。

 

「あの小径が現れてからカナは弱った。彩は守りたい者が多すぎて、力の及ばなさに歯軋りしているのだろう。全てを自分の所為にして、自らを痛めつけているようにさえみえる」

 

 泥だらけのキャミを着た彩ちゃんの姿を思う。

 笑顔でキャミの紐を弾きながら、本当は心の奥で何を思っているのだろう。

 何に怒っているんだろう。

 一人で泣いていたら……嫌だな。

 

「彩ちゃんのお婆さんは、どうして庭を守っていたのかな」

 

「実家であった旅籠の奥に、見つけてしまったのであろうよ。そこでカナと言葉を交わし、他の者とも関わり合い、捨てておけなかったのだと思う。あの庭を知るものがいなければ、古家もこの建物もただの箱だ。認識する者がいるからこそ、あの庭もカナも存在し続ける」

 

「よくわからないや」

 

 眠くなったのか、しきりに目を擦っていた小花ちゃんは野坊主の脇をくぐって、奥の部屋にいってしまった。

 

「普通に眠くなるんだね」

 

「わたしも小花も、人でありながら人ではない。食べることはできる、だが本来その必要はない。眠ることもできる。眠らなくとも支障はないのだが、小花の中に残る人の子であった時の残滓が、小花にあくびをさせ眠くさせるのだろうよ」

 

 人であった残滓。響子は自分のことを己の一部を失った魂といった。

 似ているようでまったく違う者を意味しているのだろう。

 それぞれの存在の輪郭がぼやけて、はっきりとした姿が霧に包まれるようだった。

 

「シゲ爺の日記をみました。シゲ爺はがぼくに声をかけたのは偶然ではないと思う。でも、はっきりとした理由がわからなくて。シゲ爺は、ぼくなら彩ちゃんと同じ景色を見られるかも知れないと書いていました。たとえ見ることができるとして、何をさせたかったのかなって」

 

「自分にはできないこと全てを、和也殿に望んだのだろうな。全てを一人で抱え込む彩の力になるには、同じ景色を見ることのできる者が必要だと思ったのだろう。望み通り、和也殿は彩を追ってあの庭に足を踏み入れ、残欠の小径で彩を救った」 

 

 黙り込むぼくに、野坊主は考えるなといった。

 

「頭で考えるなら誰でもできる。もはやシゲ爺が何を望んだかなど問題ではないのだよ。目の前で見た事実に、和也殿が何を思いどう動くか。それは誰にもわからぬ」

 

 野坊主の膝の上に小さな手が伸びてきて、もじもじと動いている。

 その手をそっと握り、野坊主は残っていたコーヒーを飲み干した。

 

「またいつか語る日もあるだろうが、小花がむずがっていますゆえ、今宵はこの辺で」

 

 ごちそう様でしたと律儀に頭を下げ、焦げ茶色の戸が閉められる。

 野坊主と話した分、わからないことが増えたような気がする。

 理解の及ばない世界に、いつの間にかぽつりと座らされているようで心が落ち着かない。

 野坊主と小花ちゃんは人に近く、響子さん達は魂に近い存在なのだろうか。

 だとしたら、彩ちゃんは?

 一番人間らしいタザさんが、この店に雇われている理由は?

 

「あぁ、そうか。掘り返してみれば、情けない感情だな」

 

 彩ちゃんに一人ではないと知らせたいのは、けっして彩ちゃんの為だけじゃない。

 一人ではないと思いたいのは、自分の方だ。

 暗い感情の波に呑まれかけたぼくを現実に引き戻したのは、ハシゴの下で紐を引いて鳴らされた訪問者を告げる音だった。

 

「はい」

 

 ハシゴを下ろす床板を開けて覗くと、財布を振りながらにかっと笑うタザさんがいた。

 

「開かず食堂の婆が、今日は唐揚げを売っているんだとよ。買いにいこうぜ」

 

「いいですね! 二週間ぶりかな? お婆ちゃんが商売するの」

 

 急いでハシゴを下りて、タザさんの後について夜の商店街へと繰り出す。

 開かず食堂の婆なんてタザさんはいうが、それはこの商店街の人たちが勝手に付けた呼び名で、もちろん親しみを込めて呼ばれる愛称である。

 ユリ食堂というのが本当の名前。お婆ちゃんの名前を付けたらしいが、歳を取った所為もあり、ほとんどボケ防止に商っているといわれるユリ食堂は、せいぜい月に三日ほどしか開かない。

 

「今回は唐揚げかぁ。二週間前は稲荷ずしと浅漬けのセットでしたよね。うまかったなぁ」

 

「煮物も食いたいな。婆も時間がかかる料理はさっぱり作らなくなったからな。筑前煮とかは、ほんと絶品だったのによ」

 

 口では婆といいながら、ユリ食堂の一番のファンであろうタザさんは、今では気まぐれに店の軒先で商品を売り出すだけの商売に、飽きることなく通っている。

 

「うわ、もう早ならんでいるぞ! 恐るべし、お婆パワー!」

 

 楽しそうなタザさんを見ていると、頭の中で渦を巻いていた悩み事が晴れていく気がした。

 日常を楽しめない者は世の中の波に呑まれてしまう、て昔近所に住んでいためちゃくちゃ年寄りのお婆ちゃんがいっていた。 

 少しだけ納得。

 

「ありゃ、作り置きはもう売れちゃって、お婆ちゃん揚げながら売ってんじゃない?」

 

 タザさんも首を伸ばして店先を覗き込むと、うへぇー、といって首を竦めた。

 商店街はほとんど店を閉めているというのに、どこから噂を聞いたのか、十人以上の行列ができている。

 

「こりゃ時間がかかるぞ。和也、おれはこのまま並んで唐揚げを意地でも買うから、おまえはひとっ走りしてビール買ってこい」

 

「了解です! 親方!」

 

 タザさんの機嫌がものすごくいいとき、ぼくはタザさんを親方と呼ぶ。

 生まれ変わるなら職人の親方になると断言するほど、親方というものにあこがれを抱いているらしいのだ。

 

 タザさんが誘ってくれて良かったと心から思う。

 気が紛れるって、とても大切なこと。

 商店街から少しだけ脇道に入って広い表通りに出ると、一番近いコンビニがあるからそこでビールを買おうと、ぼくは道を曲がり細い裏路地を進む。

 道の両脇には昔からある民家が並び、空き家も増えてはいるが窓から漏れる明かりはあちらこちらで淡い光を放っている。

 

「またかよ、駄目だなこのクツ」

 

 日に何度も解ける右側の靴紐を、しゃがんで結び直す。

 新しい紐に付け替えた途端これだ。古い紐と違い、どうにも締まりが悪い。

 ぎゅっと締め上げた靴紐からふと視線をずらすと、街灯に照らし出された人影が古びたアスファルトに落ちていた。 

 見上げた先の人影は、街灯の明かりを受けて逆光となり、表情を伺うことはできない。

 小さな影は子供だった。

 

「お兄ちゃん」

 

 少し緊張したような男の子の声。

 

「なに? どうしたの?」

 

 迷子にしては時間が遅い。親とはぐれたのか?

 

「お兄ちゃんは強い?」

 

「お兄ちゃんは強いぞ-!」

 

 家に送るまでの会話のネタになるなら、正義の味方くらいに話を盛っても許されるかな?

 

「よかった。お兄ちゃんが強いなら、お願いがあるの」

 

 男の子の声が、ほっとしたように和らぐ。

 

「何かな? とりあえずお家に送っていくよ。お母さんは近くにいるのかな?」

 

 男の意子は細い首を横に振る。

 

「お兄ちゃん、鬼神を殺して」

 

 立ち上がったぼくの視界で、街灯に男の子の顔が照らし出される。

 

「……ぼくを殺して」

 

 そこにあったのは、残欠の小径で出会った少年の顔。

 まるで抱っこして、といっているように表情に負の感情が見られない。

 心臓が高鳴り、こめかみから汗がたらりと流れる。

 穏やかな表情だった少年が、拳で胸を押さえて小さく呻く。

 

「逃げて」

 

 少年がいう。

 

「逃げて! 早く!」

 

 脱兎のごとく、ぼくは駆けだした。

 こっちの世界になぜ少年がいたのかわからない。

 纏わり付くような背後からの殺気が、一刻も早く少年から離れろと本能に告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




読んで下さった方、ありがとうございます
次話は再び、残欠の小径に足を踏み入れます。
では 


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10 寄せ集めの町

 何だっていい、人の居る場所へ辿り着きたい一心で走った。

 今にも背中を捕らえそうに迫っていた気配は、タザさんの並ぶ行列が見えた途端、その存在をぱたりと消した。

 自分でも気付かないうちに震えていたのだろう。手ぶらで息を荒げるぼくに、タザさんは眉を顰める。

 

「今日は寝るか?」

 

 買ったばかりの唐揚げを手にしながら、さりげなくいうタザさんにぼくは首を振る。

 

「酒、買って帰りましょう。なるべく強いのを」

 

 タザさんはぼくの異変に気づいても、その理由を尋ねようとはしない。

 それはきっと、秘守義務に立ち入ってしまった者への配慮。

 秘守義務を守るため、余計な詮索をしないことは重要だ。知らなければ、知らない振りをしていられる。

 それに知らない振りをしてくれる人がいることが、今のぼくには大きな救いだった。

 そういえば、首になるのか彩ちゃんに聞いていないな。

 

「男と歩く夜道なんざ、全然楽しくない」

 

 五分刈りの頭を乱暴に撫でながら嘆くタザさんが、ぼくに笑いかける。

 

「ぼくだって、オッサンと歩く趣味はありません!」

 

 無理矢理に作った笑顔は、きっと歪んでいただろう。

 辺りの暗がりに気を配っても、あの嫌な気配は完全に消えている。

 酒を買おうといったのは、タザさんと飲み明かすためでも、感じた恐怖から逃避するためでもない。残欠の小径へと続く、あの格子戸を開けるため。

 少しでも早く酒を買って帰りたいが、事情を聞かずにいてくれるタザさんに、急げというのも気が引けた。

 いや、待てよ。

 

「タザさん。やっぱ、酒はいらないや」

 

「そうか」

 

 何故だとは聞かない。

 

「今度、ぜったい付き合いますから。ぼくの奢りです」

 

 期待しないで待ってるさ、といってタザさんは指先でぼくを払う。

 すでに背を向けて歩き出したタザさんが、唐揚げを袋ごと放って寄越す。

 

「死ぬなよ~! 死んだら、ただ酒に有り付けなくなるからよ」

 

「はい」

 

 一礼して駆けだした。タザさんは今ごろ難しい顔で眉間に皺を寄せ、一人奥歯を噛みしめているのだろう。そういう優しさを持つのが、タザさんという男だから。

 

 脱いだ靴を手に居間に入ったぼくは、心臓の高鳴りと不安に揺れる気持ちが落ち着くのを少しだけ待った。

 昨夜の件でぼくは、この向こう側に広がる世界を、匂いがあり風を感じ触れられる現実として体感している。

 格子戸の向こうの世界を、現実として認識していた。

 だからこそ酒に頼らなくとも、本棚と格子戸は自分に道を開けるという確信があった。

 ハシゴの引き上げられた彩ちゃんの部屋は、しんと静まりかえっている。

 少年のことを彩ちゃんに告げる気はない。今はただ、ゆっくりと休んで欲しかった。

 

「お願いだ。ぼくを通して」

 

 本棚に指をかけると、ほんの少しの力でスライドした。

 現れた格子戸に張られた、障子紙から淡い光が漏れる。

 庭に面した縁側で、まだ響子さん達が酒を呑んでいたらいいのに、という期待は誰もいない庭の光景に打ち消された。

 何処にいるのか、いつもなら此処に座り庭を眺めているカナさんの姿もない。

 靴紐をきつく結んで、庭の奥へと続く道に走り出す。

 前と同じ道を進めばいい。少年と鉢合わせするかもしれない恐怖が鎌首をもたげるが、今は響子さんの顔だけを思い浮かべよう。

 

「ロープくらい持ってくるんだった」

 

 かなり走ってから、あの急斜面を無傷で下りるための道具を持たないで来たことに気づく。

 腕を振るたびタザさんに貰った唐揚げの袋が、ガサガサと音を立てる。

 正面に背の高い草の壁が現れた。

 左へ続く道は知らなければ今見ても、真っ直ぐ続いているように見えた。

 途絶えている道の端から下を覗き込む山肌は、下から見上げるより遙かに急な斜面だった。

 

「四つん這いになって、足から少しづつ下りるしかないな」

 

 カナさんの庭へ来ていた響子さん達が、この急斜面を下りたとは思えない。

 きっとどこかに道があるのだろうが、知らないのだからどうしようもなかった。

 唐揚げの袋を腕に結びつけ、手頃な木の根に手をかける。

 幼稚園児がへっぴり腰で滑り台に張り付いている姿に似た状態で、ゆっくりと足を斜面に滑らせる。

 あと少しで手が届きそうな場所に生えている細い木に、次にしがみつく先として目標を設定した。

 

「足を踏ん張って、ゆっくり手を放せばなんとか……」

 

 少しずつ手を開き指先だけとなったその時、斜面の上から聞き覚えのある声がかかる。

 

「何をやっているのだ?」

 

 目一杯の上目遣に映ったのは、珍獣でも見るような響子さんの顔。

 

「響子さん……ど、どうしてここへ?」

 

 指先が痺れる。

 

「何って、家に帰るところだが?」

 

「どう、やって?」

 

「そりゃあ、あっちの道を通ってだ」

 

 響子さんが指さすのは、急斜面とは違う方向。

 

「まさか、わたしの家に行くつもりか?」

 

「はい! お願い、引き上げて!」

 

 願うと同時に指が離れた。

 

「なかなかの近道だな!」

 

 響子さんの声が、視界と一緒に急回転する。

 二日と開けずに、ぼくは二度目の転落を成し遂げた。

 

 

 

「まったく学習しない男だな」

 

 完全に馬鹿にした様子の響子さんをよそに、蓮華さんが濡れたタオルで傷の泥を拭ってくれている。

 

「蓮華さん、すみません」

 

「気にしないで下さい」

 

 涼やかな表情の蓮華さんまで、押さえきれずにくすりと笑った。

 好きなだけ笑ってくれ、ここに来るのが目的であって、安全は目標に掲げていないっての。

 

「それで、何の用かな?」

 

 響子さんの言葉に一瞬表情が固まったのだろう。蓮華さんが察したように、手当てしていた手をすいと放す。

 

「ぼくの前に現れました」

 

「誰がだ?」

 

「ぼくの世界に、少年が現れたんです。少年の言葉は、自らを鬼神と認めていました。ただ、ぼくの前に現れたのはオリジナルの人格です」

 

 響子さんの表情から、ふざけた笑みが消えた。

 

「あの子は、鬼神を殺してといいました。自分を殺して欲しいと」

 

「なんと答えたのだ?」

 

 隣で立つ蓮華さんが、ぐっとタオルを握りしめる。

 

「何もいっていません。考える暇もなく、少年に逃げろといわれたから」

 

「何から逃げろと?」

 

「少年そのものからだと思います。おそらく、少年の人格が、鬼神に入れ替わるのを己の中で察知したのかもしれない」

 

 踵を返した途端、走り出した背中を追う気配は少年のものとはまったく異質なモノへと変わっていた。

 

「有り得ない。だが、あるいは」

 

 響子さんは思考を巡らせ、頬の傷を指でなぞる。

 

「思い当たることがあるの?」

 

 問いかけても響子さんは、目を閉じたまま静かに傷をなぞっている。

 

「最初に出会ったとき、和也が口をきいたのは少年の人格だ。だが時を同じくして、鬼神はお前のことを認識したのだろう。少年が考えることなど、内に眠る鬼神には手に取るより明らかだろうからな」

 

 認識という言葉が、見えない部分に焼き付けられた烙印の響きを持って、ぼくは思わず身震いした。

 

「わたしが有り得ないといったのは、和也の世界に鬼神が現れたからではない。鬼神がたった一度の接触で、お前を認識したことだ。己が必要としない者に、鬼神は興味を示さない」

 

 鬼神に興味を持たれる覚えはない。ある一点を除いては。

 

「彩ちゃんを助けようとしたからでは? 鬼神の信望者が彩ちゃんを襲っていたでしょう?」

 

「鬼神は彩に興味を示しているわけではない。彩を排除したいだけ。だが和也に対しては興味を示した。わたし達にもわからない、おそらく和也も気付いていない何かを鬼神は嗅ぎつけた」

 

 幼い頃から人ではない者が見えたからか? そんな人間など探せば掃いて捨てるほどいるだろう。上手く生きていくために、隠している人間は思いの外多い。

 

「いったいおまえは何者なのだろうな、和也よ」

 

 ぼくを見る響子さんの目に、いつものような戯けた色はない。

 頬の傷の痛みを思い起こさせるような、鋭く真実のみを追う冷徹な視線。

 その視線を正面から受けてはっきりと思い知る。ぼくはまだ、響子さんの本当の姿を何も知らないのだと。

 次の言葉が見つけられずに俯いていると、ガサガサと聞き覚えのある音が響いた。

 

「旨いな、中はジューシーで冷えても衣はカリッとしているぞ!」

 

 腕にくくりつけていたはずの袋を開け、口いっぱいに頬ばる響子さんの姿。

 

「これは土産だろう? なかなか気が利くな!」

 

「どういたしまして」

 

 お土産ってのは、渡されて初めて開けてみるものだろうに。

 

「蓮華さんの分も残しておいてくださいよ」

 

「おう、蓮華、もっていけ!」

 

 一礼して蓮華さんが受け取ったのは、残り一個となった唐揚げがぽつり。

 

「蓮華さん、ごめんね」

 

 なぜかぼくが謝った。

 

「いいえ、ご馳走になります」

 

 一口食べると、蓮華さんはおいしい、といって口元を綻ばせる。

 こんなに真っ当な反応を示してくれる人に、たったひとつしか当たらないなんて、世の中理不尽だ。

 

「さて、腹も満たされたところで本題に入ろうか」

 

 真面目な表情に戻った響子さんだが、その視線にさっきまでの冷たさはすでに無い。そのことにぼくは内心ほっとした。

 

「信じがたい話だが、最初に和也が来たときと今日では、この残欠の小径はまったく違う様子になってしまったのだよ」

 

「違うって、何が?」

 

 残欠の小径の全貌を見たことはないが、ここまでの道程に気に留めるほどの違いは見つけられなかった。

 響子さんの家を囲む森にも、変わることなく木々の葉を風にそよがせていた。

 

「残欠の小径は、雄大な山々のせいで広大に見えるだろうが、その実かなり限定された小さな世界でな。この世に存在を許された和也の世界のように、地球という星があって、理論的には一周回れば同じ場所に辿り着くというものでもない。かなり限定された、確実に果てのある世界だったのだよ。それが変わった」

 

 響子さんのたとえ話は理解できる。ただし理解はできてもそれは言葉としてである。宇宙に果てがあると科学者にいわれても、空間の最果てを想像すらできないのと一緒で、ぼくにはこの世界の果てを、思い浮かべることができなかった。

 

「難しく考えることはない。そうだな、小さな町で暮らしていたのに、ある朝起きたら急に隣接して見たこともない町が現れ、知らない住人たちによってコミュニティーをなしていた、そんな風に理解してくれ」

 

「和也様、その目で確かめてみませんか? 目にするまでは、わたしも信じられませんでしたから」

 

 蓮華さんの言葉に頷いたものの、同意を得るように響子さんを見る。

 

「まぁ、大丈夫だろうよ。わたしと蓮華に挟まれて歩く和也を襲うほど、鬼神とて馬鹿ではあるまい」

 

 何者なのだろうな、とぼくに問うた響子だが、ぼくから見るとこの二人の方が余程不思議な存在だ。

 二人がいるときに、鬼神は襲わないと予測されるのはなぜだ?

 最初に道に迷っていたとき道を教えた男は、なぜ響子さんの名前を出した途端に真実を教えた?

 ぼくなんかより、二人の方がかなり怪しげだ。

 

「行くぞ!」

 

 さっさと歩き始めた響子さんの後をぼくが追い、その後ろを蓮華さんが歩いてくる。ぼくが知る限り、蓮華さんが響子さんの側を離れることはなかった。ぼくを守るために、挟むように二人は前後を歩いているのだろう。

 薄々感じてはいたが、残欠の小径は素直に道が繋がっていないようだ。

 響子さんが当たり前のように進んでいく道の先には、幾度となく見た目にはその先に道があるとはわからない茂みがあった。

 

「どうして茂みの向こうに道があるってわかるの?」

 

 そう聞くと、響子さんは本当にきょとんとした顔をして振り返り、見ただけでわかるだろう? といった。

 

「わたしからいわせれば、来るのは二度目だというのに、わざわざ命がけであれ程急な坂を下りようとする方が不思議だ。ほとんど崖だぞ? 近道ごときに命をかけるとは、思ったより剛気な男だな、真面目青年は」

 

 道がわからなかったからでしょうが! という言葉は発する前に響子さんの声に遮られた。

 

「見てみろ。あれが新しく出現した空間だ。おそらくはわたし達と同じような者達が住んでいると思われるが、これだけの建物が一夜にして山の谷間に出来上がると思うか? 今までだって残欠の小径には商売をするものはいたさ。草むらに隠れていて、客が来たら品を売り込む。洞穴で店を構える者もいるがな」

 

 目の前に広がる光景に、ぼくは言葉を失った。

 山間の広い土地に、ゆったりとした間隔で建物が並び、行き交う人々の姿が見える。だが、ただの町というには違和感があった。

 首を傾げながら町を眺めるぼくに、蓮華さんが声をかける。

 

「違和感を感じておられるのでしょう? それはきっとこの町の、いつの時代の何処のものともいえない、混沌とした有様が与える印象でしょう」

 

 混沌とした有様、その言葉が頭の中で弾けて視界を開かせる。

 

「そうか、統一されたものが何一つ無いんだ。立派な屋敷。古い木の家に石造りの家。町を走る道もそう。土の道に砂利道、あれはタイルかな。石畳もある。まるで寄せ集めの町」

 

「たとえ寄せ集めでも、一晩でこの町を造るのは無理だ。その言葉の通り、寄せ集められたのだろうよ。残欠の小径が唯一の異世界というわけではないからな。似たような世界が、この世の空間のあちらこちらに点在していてもおかしくはない。その世界の一部分を掻き集めたのがこの町ではないかと、わたしは推測しているのだがな」

 

 それは決して喜ばしいことではないのだろう。

 隣に立つ蓮華さんの表情は、悲しげに曇っている。

 

「あの町へ行ってみたの?」

 

「まだだ。何しろ見つけたばかりで対策を練ろうと家に帰る途中で、和也を見つけたのでな。それにしても、落ちていくときの顔は、酷かったな」

 

 そりゃそうだろう。

 響子さんの軽口にくすりと笑って、ぼくは真っ直ぐに町を見つめた。

 

「あの町へ行ってみませんか? 鬼神が絡んでいるのか、それを知るためだけでも、行く価値はあると思います」

 

「そうだな。だが、網を張るように待ち受ける罠かもしれんぞ?」

 

「構いませんよ。ちょっとだけ感じているんです。本能で」

 

「何をだ?」

 

「頭を突っ込んじゃった、このやっかい事から引き返すのはもう無理だって。どうせ巻き込まれるなら、自分の足で巻き込まれた方がましです」

 

 腰に手を立てて響子さんが笑う。

 

「身を守る術を持たない者は、本能が鋭いのかもな。早死にするぞ?」

 

「響子様、お口を閉じてくださいませ」

 

 響子さんの軽口を、珍しく蓮華さんが窘める。

 わざとらしく響子さんが肩を竦めた。

 

「行くか」

 

「はい」

 

 未知の領域へ、ぼく達は一歩足を踏み出した。

 

 

 

 




読んで下さった方、どうもありがとうございます!
お話の終わりにあるように、次話は混沌とした町へ突入です。突入?
次回も読んでもらえますように……祈


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11 人ならざる者が集う闇

 警戒心を表情に出さぬよう、上辺だけの柔らかな表情で町へと入った。

 実際のところ妙な小芝居をしていたのはぼくだけで、蓮華さんはいつもと変わらぬ爽やかな表情を保ち、響子さんに至っては顎をくいっと上げて、かかってくる奴上等ってな威圧感満載で道を闊歩している。

 

「響子さん、敵の陣に討ち入りって訳じゃないんですから、もうちょっと一般受けする表情にしましょうよ」

 

 見かねたぼくはこっそり耳打ちした。

 まだ人のいない町外れだからいいようなものの、誰かが見たら話を聞く前に逃げてしまう。逃げるくらいならまだしも、いらぬ敵対心を買いかねない。

 子供なら、確実に泣くって。

 

「これが普通だ。和也の顔は緊張感がなさ過ぎるぞ? 自分はアホですが何か? と叫びながら歩いているのとかわらないだろうに」

 

 小芝居がまったく解ってもらえていないらしい。それにしてもアホって。

 

「いいですか? 敵じゃないなら町の人に事情を聞かなくちゃいけないでしょう?

鬼みたいなしかめっ面と、人好きのする笑顔だったらどっちに好感をもって答えてくれるでしょうね?」

 

「楽しくもないのに笑顔か? 無理!」

 

 それは大人として失格だって。

 ここでぼくがにやりと笑ったのは、響子さんが唯一至福の表情を浮かべる瞬間を思い出したから。

 

「じゃあこうしましょう。今度また唐揚げをつくる店が開いていたら、お土産に美味しい料理を持ってきます! 美味しい食べ物ですよ? 想像して下さいって」

 

 目を細めた響子さんの表情がふわりと緩む。

 

「食い物の土産か、いいな!」

 

 元々の端正な顔立ちを無駄にしない、優しげな笑みを浮かべて響子さんは歩き出す。

 

 ちょろいな、鉄の女響子!

 

「あ、蓮華さん、なに?」

 

「いいえ、気にしないで下さい」

 

 口元に指を当て、くすくすと笑う蓮華さん。ちょろいといった心の呟きが口から漏れたかと、少しだけびくついた。

 まぁ、聞こえたとして告げ口するような蓮華さんじゃないよね。

 

 町の中心に進むにつれて人の数が増えていく。

 時代も地域も違うと思われる人々は、それに違和感を感じていないのか、道の中央で談笑し、店先は客を相手にする店主の声で活気に溢れている。

 

「気に入らないね」

 

 響子さんがぼそりと呟く。

 

「蓮華さん、響子さんはこの町の何が気に入らないのかな」

 

 蓮華さんにだけ聞こえるように、小さな声で呟いた。

 

「あまりにも普通すぎるからでしょう。普通では有り得ないものが普通の様子を呈するとき、そこに内在しているのは異常です。この人達は、自分達の置かれている状況を、まったく認識していない可能性もありますから」

 

「認識していない?」

 

「認識していないからこそ、普通でいられるかもしれない。人の経験や記憶など、所詮は脳に残った残像にすぎません」

 

 そうだろうか、そうなのだろうか。今のぼくを形作った人生の記憶は、残像に過ぎないのだろうか。

 そう思えたら、どんなに楽だろう。

 

 混在するとはいっても何かしらの制限があるのか、明らかに現代人よりは身なりが古く思える人はいても、髪を結い上げるほどに古い時代の姿は見かけなかった。

 

「誰もわたし達を気に留めないようですね。町とはいっても小さなコミュニティーですから、これほど住人が密な関係を保っているなら、よそ者は目立つでしょう?なのに好奇心からの声をかけてくるどころか、特にわたし達を見ようともしない。見もしないから、よそ者だという疑惑の念も抱いていない」

 

 蓮華さんが整った眉をよせ、考え込むように唇に指先を絡ませる。

 普通に暮らしてきたぼくから見て奇妙だったのは、物が溢れているのに電化製品といえる物が、ひとつも目に付かないことだった。町の細い通りに街灯はなく、わりと近代的な造りの店の中にも、明かりを灯す蛍光灯やテレビ、電話さえひとつも見当たらない。

 

 目には見えない法則に縛られた町。それがぼくの持った印象だった。

 途中で美味しそうな焼団子に目を奪われたが、響子さんにここで物を買うな、といわれ泣く泣く諦めた。

 情報を集めに来たというのに、なぜか響子さんは自分から住人に声をかけるなとi

う。

 誰に声をかけることなく町の中心部を歩き続けていると、一人の女の子がぼくを見てにっこりと笑った。

 手に持つ風車に息を吹きかけ、見てというようにかざしている。

 ぼくも笑いかけると、母親に手を引かれ歩いていた女の子は、小さく振り向きながらバイバイと手を振った。

 

「ようやく変化が現れだしたな」

 

 響子さんの表情は険しい。

 

「変化って? 何もかわらないよ?」

 

「子供がおまえに笑いかけた。お前に手を振った。あの子供とすれ違うのは、ここに来て五度目だ。あの子供が、はじめて和也を認識した」

 

 振り返りると、女の子の小さな背中が見えた。

 

「あの子には、今までぼくが見えていなかったっていうこと?」

 

 響子さんは静かに首を横に振る。

 

「見えていただろうな。真っ直ぐに道を歩き続ければ、歩く人々はわたし達をよけていた。避けるという行為は、見えているからこそだ。だがここでは、見えているのと認識しているのは、まるで違う結果を生む。ここを彷徨って人々に紛れていた時間のなかで、ようやくわたし達を存在する者として、住人達が認識したということさ」

 

 響子さんがこちらから話しかけるなといったのは、こういうことだったのか。

 この世界の認識が変わる瞬間を見極めるため。

 だがその事実から、いったい何がわかるというのだろう。

 

 一瞬空気が止まったように思えた。

 事実周りの風景は時が止まったように静止して、動いているのは道を通り抜ける緩やかな風だけ。

 道行く人々が一斉に空を見上げている。放心したような表情に精気はなく、店先で焼き鳥を客に渡そうとしていたオヤジも、串を手にしたまま空を見上げていた。

 

 重い鐘の音がどこからともなく響く。

 響子さんの家で耳にしたのとは、比べものにならないほどの重厚な響きを持って、鐘の音が空気を揺らす。

 

「まさか、そんなはずは」

 

 蓮華さんの言葉は細く薄れ、鳴り続ける鐘の音に掻き消される。

 

「もう遅い!」

 

 響子さんが舌を鳴らし、同時にぼくの手首を強く握った。

 

「この鐘の音は、闇が訪れることを知らせるものだよね?」

 

「室内にいるならまだしも外にいたなら、鐘の音で闇の訪れに気づくことなどありえない。前兆がなかった。見逃してなどいるものか」

 

「前兆?」

 

「鐘が鳴ると同時に闇は訪れる。だがその前に、前兆として空を埋め尽くすほどの鴉の群れが渡る。今回はそれがなかった。なぜだ?」

 

 奥歯を噛みしめる響子さんの頬で、古い傷跡が歪む。

 刻一刻と薄墨を塗り重ねたように、空が色を変えていく。

 

「逃げ遅れたようですね。世界はすっかり様相を変えてしまいました」

 

 蓮華さんの言葉に、はたと周りを見渡したぼくは、その変化に言葉を失った。

 見た目だけなら、ぼくらと何ら代わりの無かった住人達が、両手をだらりと下げたまま木偶の坊のように天を見上げていた。

 その顔は各人ごとに、長さの違う長方形の黒い布で覆われている。

 胸まである布に、顔を覆われたまま天を見上げる者の体は心なしか震えていた。

 ふと横を見ると、目元だけが黒い布で覆われた背の低い男が立っている。

 鐘の最後のひと鳴りの余韻が空気を揺らす中、その男の体がびくんと跳ねた。

 人々が依然として天を見上げる中、男ははっきりとぼくの方へ顔を向ける。

 布で目元が隠されているから、目が合ったとは言い難いが、それでも男はぼくを見て一瞬体を仰け反らせた。

 慌てたように周りを見回した男の次の行動は早く、ぼくの手首を掴む響子さんに反論する暇さへ与えなかった。

 

「こっちに来い! 早く!」

 

 男に手を引かれる形となって走り出すぼくの手首を握ったまま、響子さんも走り出した。

 それに倣って蓮華さんも横を走っているが、手に握られた短刀はそのままだった。

 

 

 今だ天を見上げる人々の間を器用にすり抜け、男が向かった先は煉瓦造りの小さな家の中だった。

 民家には有り得ないほど、重厚な造りの観音開きの扉を閉め、これまた日常とかけ離れた金属の長い閂を真横にかけた。

 薄暗かった外の様子が見える窓さえないのか、部屋の中はまったくの闇に包まれ、荒い男の息遣いだけが響いている。

 響子さんはいっそう強い力で、ぼくの手首を握っている。

 この部屋に入る瞬間に掴んだ蓮華さんの腕が、確かにまだこの手の中にある感触に、ぼくはひとり安堵した。

 

 橙の淡い灯りに目を細めた。

 黒い布で目隠しした男が、蝋燭にいれた灯りが部屋の中を照らし出す。

 煉瓦の壁に覆われた室内は、八畳ほどの広さだろう。いたって質素な造りで、置かれている物も木のテーブルに水差し、たったひとつのコップとぽつりと置かれた椅子がひとつだけ。

 

「お前達、何をしている? 自分の意志が残っているのか? それになぜ面を付けていない?」

 

 自分で連れてきたというのに警戒心丸出しの男は、部屋の奥の壁に背中をぴたりと付けていう。

 

「何をしているとはこっちの台詞だな。突如に現れた妙な町を見物しに来たら、もっと珍妙な光景を見てしまったというところかな」

 

 ずっと握られていた手首から、響子さんの手がふっと離れた。

 無表情のまま響子さんが答える。

 

「この町が突然現れたというのか? 突然ここへ来たのではなく、この町の方がやってきたというのだな?」

 

 張っていた男の肩から力が抜け、がっくりと項垂れる。

 

「予想外だったのですか?」

 

 短刀を腰の後ろにしまいながら、静かに問いかける蓮華さんに、男は力なく何度も頷いた。

 

「やっと仲間を見つけたと思ったんだ。ここへ来たばかりの奴なら、闇が下りている間だけならまともに話ができるからな。でも、違ったようだ」

 

「ここは残欠の小径と呼ばれる場所だ。ここへ来る前も、別の空間でこの町は同じような姿で存在し続けていたという認識で良いか? その話からして、ここへ来る前も町には闇が満ちるときがあったのだな?」

 

「あぁ。闇が満ちると必ず何かが変わる。今はまだ闇が満ちる前に正気に戻れるが、これだっていつまで続くか」

 

 壁にもたれたまま、崩れ落ちるように男は床にドサリと座る。

 

「俺を襲うつもりの奴らじゃないよな? 昔見かけた奴らは、二人づれだった。それに女と若造って雰囲気じゃなかったしな」

 

「断言はしかねるが、今のところ敵とはみなしていないから安心しろ」

 

 ひとつしかない椅子に、響子が堂々と腰掛けるのを溜息混じりに眺めながら、ぼくは男の近くまでいき床に腰を下ろす。

 

「その布、外したらどうですか?」

 

「闇が明けたら勝手に消えるさ。それまでは何をやったって外れない。無理に引き剥がそうとすると、面の皮まで剝けちまうよ」

 

「ねぇ、外では今いったい何が起こっているの?」

 

 疲れ切った様子の男を刺激しないように、ぼくは静かな口調で問いかけた。

 

「表に面した壁に、ひとつだけ形の違う煉瓦がはまっているだろう? 静かにそいつを引き抜いてみな。外の様子が垣間見える」

 

 外に聞こえるような声はだすなよ、とぼそりと男は付け加えた。

 長四角の煉瓦が積み重ねられる中、そのひとつを三つに分けた大きさの煉瓦が、離れて三カ所に埋め込まれている。その内の一つが微妙に手前に突き出ていた。

 響子さんと目配せしたぼくは、そっと引き抜いた煉瓦の穴に、顔を近づけて外を覗く。

 天を仰ぎ見ていた人々が足を引きずり、土の道を歩く音が穴から漏れ聞こえる。

 とっくに闇に包まれているはずの外は、所々にちらちらと揺れる明かりが灯され、人々の様子がはっきりと見てとれた。

 ぼくが思わず悲鳴を漏らしそうになって口を押さえたのは、外の道を土埃を上げて風が通り抜けた時だった。

 風に煽られた黒い布が捲れ、その下に隠された顔が覗く。

 風の悪戯が覗かせたそれは、決して人とはいえないものだった。

 ある男には目玉が一つしかなく、別の女性には口から垂れ下がる長い舌。

 

 あの子だ。

 

 風車を手にした女の子の顔を覆う布は鼻の下まであり、母親と手をつないで歩いている。

 風が吹いて、女の子の黒い布がはらりと捲れる。

 ぼくは壁から身を引き剥がすように、尻をついて後退った。

 

 失礼します、といって蓮華さんが代わり穴を覗き込む。

 

「腰でも抜けたか? 何が見えた」

 

 響子さんの横顔を、ゆらゆらと灯りが揺らす。

 

「さっき風車を手にしていた女の子がいた。風に、黒い布が捲れたよ」

 

「それで?」

 

「ぼくの覚えている、女の子の顔じゃなかった」

 

 響子さんが僅かに眉を顰める。

 

「死人だとでもいうのか? わたしのように、顔に傷があったわけではあるまい」

 

 ぼくは思案とも肯定とも付かない、微々たる動きで頷いた。

 

「根本的に違うんだ。表にいる人たちは、人じゃない。存在自体がぼくらと違う」

 

「どういう意味だ?」

 

 あっと小さな息を吐いて、蓮華さんが穴から顔を放した。

 僅かに震える手で、抜いてあった煉瓦を元へと戻す。

 

「昼間見た女の子の目が、外を照らす明かりを反射して光った」

 

 ぼくはゴクリと唾を飲む。

 

「あれは動物の目だ。人の目なんかじゃない。猫みたいに、黄色く光ったんだ」

 

 僅かに目を見開いたのはほんの一瞬、響子さんの目に剣にも似た光が宿る。

 響子さんは怒っているのだと、ぼくは思った。

 立ち上る怒りが目視できそうなほどの沈黙に耐えかねたとき、ぼくより一寸先に男が口を開いた。

 

「おまえら、本当に何にも知らねぇんだな」

 

 三人の視線が男へと集まる。

 蝋燭の明かりが揺れる中、男はぽつりぽつりと語り出した。

 

 

 




本日もお付き合いいただき、ありがとうございました(^.^)
次のお話にも、ぜひお付き合いくださいませ。
感謝!


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12 幼稚な破壊者

「あんたが見たとおり、人間じゃない者だってここには居る。だがな、ほとんどが人間なんだよ。生きている、生身の人間だ」

 

 男の言葉がにわかには信じられず、ぼくは呻くように喉を鳴らした。

 

「こんな妙な場所へ移動する前は、完全に孤立した世界だったのさ。新顔がひょいと現れることもあったが、最近じゃその数をめっきり減らしていたしな」

 

「新顔とは、いったい何処からやってくるのだ? どのような者が来ていた?」

 

 指先をくるくると回しながら、響子さんが問う。

 

「鬼神に喰われかけた奴らだよ。テメーの一部を抜かれちまった奴もいるが、生きるのに支障はないさ。喰うといっても肉体を喰らうわけじゃない。自分を形作っている何かを喰われちまう。上手くはいえねぇな」

 

「ここは、鬼神の餌場ということですか?」

 

 蓮華さんが掠れた声でいった。細い指はきつく握りしめられている。

 

「少なくとも此処へ飛ばされるまでは違った。この町はみんなを守るためにあったものだ。俺たちを鬼神やその手下どもから守ってくれたあの人が、俺たちを匿う為に造り出した空間さ」

 

 あの人とはどのような人物なのだろう。鬼神と対等に渡り合える力を持った者。

 思い当たる顔は浮かばない。胸の奥だけが、小虫を放ったようにむずむずした。

 

「閉鎖された空間でも、たまに現れる新顔に外の様子を聞くことはできた。最初はみんな耳を疑ったさ。だが同じような証言がひとり、またひとりと増えていく。そしてなにより、新顔がやってくる数がめっきり減っていた。だから俺たちは推測しそして認めたのさ。鬼神は弱っているってね」

 

「鬼神のことなら耳に入っている。弱ったと思える根拠はなんだ? 単に人数が減ったというだけか?」

 

 いいや、と男は首を振り、立てていた片膝を組み替える。

 

「俺は何一つ鬼神に奪われていないから、だからこうやって闇が降りても正気を保っていられる。少しでも喰われた奴らは、己の内に洞穴を抱えているようなもの。降りた闇は蠢く霧のようにその穴に入り込む」

 

 男はぺっと床に唾を吐く。

 

「記憶を残している俺が見たものが幻でないなら、事が起きたあの日と、鬼神の動きが鈍くなった時期は確実に繋がる。そしてあの人が現れたのも、事が起きたあの日だった。俺を助けた女性を、あの人はお母さんと呼んでいた」

 

 気付くとぼくは、蓮華さんの腕を握っていた。蓮華さんの細い指が、そっとぼくの手を上から包む。

 

「あの女性は喰われたんじゃない。避けようとする鬼神に自らを喰わせたのさ。まるで白い霧の塊が呑み込まれるように俺には見えた。呑み込んですぐ、鬼神は目をカッと見開いて座り込むと、急に大人しくなってな。次に目を開けたときには、まるで別人だったよ。直に見ていなけりゃ、俺だって疑うね」

 

 喉がからからに干上がって、言葉が口まで出かかっては乾いた舌に押し潰される。

 

「和也、今の話でわたしは知るべきことを全て知った。もともと持っていた情報量がお前とは違う。出会ってから知ったことで、お前に知らせていないこともある。それは、知らない方がお前の為だと信じたからさ」

 

 いつも正面からぼくを見据える響子さんは、顔をそらしたまま床を見やり、けっしてぼくと目を合わせようとはしなかった。

 

「闇が明けたらこの世界からでて、二度と戻らないという選択も今ならできる。知らなければすむ話は、この世の中にはけっこうあるものさ。この男の話の先を聞いたら、あんたはたぶん引き返せなくなるよ」

 

「どうして引き返せなくなるの?」

 

 何とか声を絞り出す。

 

「アホが付くほどの馬鹿正直だからねぇ」

 

 響子さんが微かに口元を綻ばせる。悲しげな笑みだった。

 

「いくら鬼神に目を付けられたとはいえ、お前一人くらいならわたし一人の力で、鬼神を目眩ましにかけることもできるからねぇ。さあて、どうする?」

 

「ぼくが撤退したら……いや、まだ戦ってさえいないや。ぼくが逃げ出したら、響子さん達はどうなります? 彩ちゃんは? ここの人達は?」

 

「和也がこの先歩む道とは、違う道を進む。ただそれだけのこと」

 

 ぼくの手を包む蓮華さんの指先が、ピクリと浮いた。

 返事を待っているのか、男からは息遣いのひとつさえ聞こえない。

 ここから逃げ出してもきっと、ぼくは逃げた事実に追われるようにして生きるのだろう。

 知らないところで傷つき続ける彩ちゃんの姿は、影となって死ぬまでぼくから離れることはないだろう。忘れるなんて、ぼくには無理だ。

 

「最後まで聞くよ。逃げだしたら、あの店にはもう居られない。てことは、食い扶持を失ってのたれ死にだよ」

 

 ぼくは目一杯の笑顔を作る。

 

「だから聞くよ。ぼく自身の為にね」

 

 蓮華さんの指から力が抜け落ちる。

 響子さんはようやく僕の目を見て、にやりと笑った。

 

「思っていた通りのアホだよ……おまえは」

 

 アホでけっこうです。無理矢理の笑顔を引っ込めて、僕は男に向き直る。

 

「これからする話と、そいつがどう関係するのか俺にはわからないが、いいんだな? よけりゃ話すぜ」

 

 男はぼくを顎で指し、その場にいる全員の顔を同意を得るように見回した。

 

「あぁ、話の腰を折って悪かったね」

 

 響子さんに促されて、男は頷いた。

 

「俺たちをこの空間に匿ったのは若い女性だ。名は確か、アヤといった」

 

 男が語る声が、狭い部屋の空気を震わせる。

 心のどこかで覚悟はしていたが、押さえ切れずに背中を寒気が這い上がる。

 

「アヤは母親が鬼神に呑み込まれていくのを、止めることはできなかった。中身をすっぽり差し替えたような鬼神を前に、彼女は振りかざしていた太刀を胸元に収めたのさ。自分の腕ほどの長さのある太刀を、見事に扱う人だった」

 

「そのアヤっていう人は、ぼくが知っている彩ちゃんと同一人物だと思う。でも手にしていた物が違う。ぼくが見た時、彩ちゃんはナイフを手にしていた。腕より長い太刀ではなかった」

 

 そう話を急くな、と男は手の平で僕を制す。

 

「こうやって長いこと妙な世界に身を置いているとな、凡人にでも解ることがあるもんだ。あの人が手にしていたのは、鉄を打ったただの刃物なんかじゃないぜ。上手くは言えねぇが、彼女の持つ力そのものなんじゃねえかな」

 

「なぜそう思ったのです?」

 

 俯いたまま、蓮華さんが問う。

 

「言っただろう? 母親を失ったあと、俺たちをこの空間に匿ったのは彼女だと。あの場にいたのは、ほんの数十人だっった。今とは比べものにならないほど少ない人数さ。だがな、それだけの命を匿う空間を、何の犠牲もなしに造れると思うか?魔法使いじゃあるまいしよ。彼女は自分の力でこの空間を切り開いた。その証拠に安全な新しい空間へ移動した俺達が見た彼女は、さっきまでとは比べものにならない小さな刀を握っていたからな」

 

「彩ちゃんはいったい、どうやってこの空間を維持していたんだ?」

 

 独り言にもひた呟きに、男はすぐに答えを返す。

 

「自分の根幹となる力を削ったんだろうよ。力を命と置き換えても、あながち間違っちゃいないだろうよ」

 

 愕然とした。

 彩ちゃんがキャミの胸元にしまい込んだナイフは、素人考えでも戦うには小さすぎた。毎晩のようにキャミから伸びた腕や肩口に傷を増やしていった彩ちゃんは、なぜそこまでしたのだろう。男のいうことが本当なら、彼らを守っている所為で、彩ちゃんは確実に自分の命を危険に晒している。

 

「もともと俺たちのような者を守ってくれていたのは、アヤの母親だ。遙かに遡れば、その先代はアヤの祖母だったという話も耳にした。その噂が本当だとして、三代かけて築き上げた役目も、アヤが命をかけて造り上げた空間も、あっさり無駄になったというわけだ」

 

「隔離されていたはずの空間の膜は破れ、この残欠の小径へと繋がってしまったのだからな。それでも彩の力が完全に効力を失ったわけではないだろう。破られた膜から染みいるように闇がこの世界を満たすとき、その時だけ彩の力は完全に失われている。違うか?」

 

 感情を抑えたような響子さんの声。

 組み替えた足の膝元に視線を落とす響子さんは、無表情のまま口を閉ざす。

 

「空間の膜が破れる……か。そうだな。そう言い表すのがしっくりくる。まるで膜が破れて散ったように、突如見知らぬ景色が現れたのだから」

 

「こんな事になった原因に、心当たりはないの?」

 

 こればかりは外の世界にいた自分達が、幾ら頭を捻ったところで、答えを得られる日は永遠にこない。

 

「ここへ来て、闇が満ちたのは二回目だ。一日ほどまえに一度。そして今。早過ぎやしねぇか? 俺達の仲間には、この妙な場所に似た所に居た奴がいて、そいつがいっていたんだ。一度目に闇が満ちた後、そいつには闇が満ちたという自覚だけはあった。これでしばらく闇に包まれることはない、と奴はいった。闇は極たまに訪れる漆黒の世界で、こんな恐ろしいものがしょっちゅう現れたら、命が幾つあっても足りんとな」

 

 男の言葉が頭の隅に引っかかる。その針の先を探そうとして、ぼくは瞼の上を強く押す。

 

「その事実から手繰り寄せた答えは、どう出たのかな?」

 

 響子さんの視線は、相変わらず膝の上に落とされたまま。

 時折ギィィと音を立て、体重をかけ直した椅子の背もたれが鳴く。

 

「その事実を、経験として知っている者は少なかったが、この手のことに関しては、人間以外の方が鼻が利く。奴らが嗅ぎつけたのは、不穏な存在の臭いだ。俺にはさっぱりわからねぇが、存在そのものがほんの一瞬放つ、固有の臭いがあるっていうのさ。そいでよ、そいつが現れて俺たちの世界は保護を失った。あんたらのいう、空間の膜が破れたっていうことだ」

 

「鬼神が現れたのでは?」

 

 問いかけながら、ぼくの心はそれを否定している。

 

「違げぇよ。あいつは離れた場所で感知されるようなヘマはしない。凡人の俺でさえ、うすッ気味悪りぃ気配に肌が粟立つほどだ。だが鬼神のその気配に気づいたときには、もう目の前に居るんだよ。その場にいるのが自分一人なら、逃げるなんて不可能だ。だが新たな存在は違う。何処にいるのかえ判断しかねる距離があるにもかかわらず、垂れ流している気配を大勢の奴らに感知されている」

 

「ならばその者にはまだ、名は無いのだな」

 

「いや、事がことだ。昨日の今日であっという間に有名人さ」

 

 男の言葉に、僅かに響子さんが唇を噛む。

 

「ここにいる連中は、その見えない存在をこう呼ぶ。幼稚な破壊者……とな」

 

 今度こそ響子さんはきつく唇を噛み、眉を震わせた。

 

「幼稚な破壊者、ですか」

 

 言いたいことが胸につかえて、その先の言葉が溜息となって漏れる。

 

「何か知っているのか?」

 

 男の声が僅かに尖る。

 震える口を開きかけたぼくを、響子さんの視線が射抜く。

 口を開くな、冷たく細められた眼は、暗にそう語っていた。

 代わりに話の先を引き継いだのは蓮華さんだった。

 

「幼稚な破壊者、その者を皆さんはどう思っているのです?」

 

「丸裸にされて、敵の巣に放り込まれたようなもんだからな。良く思っている奴はいねぇよ。それでも俺は引っかかるのさ。意志が感じられないと思わないか? 俺達の安全をぶち壊したのも、彩の努力を無にしたのも故意には思えない。強いていうなら、本人にその気は無いのかも知れないと俺は思っている。破壊をもたらしたのは奴の意志じゃなくて、存在そのものなんじゃねぇかと俺は感じるんだ」

 

「ご自分達のことを凡人とおっしゃいましたが、ひたすらに凡人というわけではなさそうですね」

 

 男は苦虫を噛みつぶしたように顔を顰めて、仕方なしなしという感じで頷いた。

 

「普通に生きていた頃から、他人の発する気のようなものを感じることがあった。感じるのは相手に強烈な感情があるときだけだ。そんなときは、壁の向こうにいたって俺にはわかった。空間がここと同化したときに感じた奴の気は、今まで出会ったどれと比べても異質だった」

 

「何を感じた?」

 

 響子さんが問う。

 

「津波のように押し寄せる存在の渦に、破壊の意志なんてこれっぽっちもなかった。そこに感じたのは……純粋な水にも似た透明感だ。何をしようとしていたか知らないが、濁りひとつ無い水だって勢いを増せば濁流となる。きっと、その濁流に俺達は流されたのかもしれねぇな」

 

 壁掛け時計が、軽い鈴の音を鳴らす。

 

「闇が明けたようだな」

 

 響子さんが軋む椅子から腰を上げた。

 

「こいつは聞きたいことがまだあるようだが、今日はこれで引き上げる」

 

 そうか、男の呟きは力なく空気に溶ける。

 

「また来てもいいかな? もし許されるならその時は、他にもまともに話せる者を集めて欲しい」

 

「あぁ、内密に声をかけてみよう」

 

 その一言を合図に、響子さんは閂を外しドアを押し開けた。

 蓮華さんに引き摺られるように外に出たぼくは、ただ地面だけを見て歩いた。

 現実を見ることを感情が拒絶する。

 

 町を抜け人気の無い山道へ辿り着くと、響子さんは不意に足を止めた。

 

「何かいうことはないのか?」

 

 背を向けたままいう響子さんの声は、無理矢理なほどに明るい。

 

「あぁ」

 

 僕を支えていた蓮華さんの手に力がこもる。

 

「幼稚な破壊者の、正体がわかったよ」

 

「ほう、誰だと思う?」

 

 蓮華さんの腕が、僕の背中に回された。

 

「和也さん?」

 

 蓮華さんだってとっくに察しているはずだろう。大丈夫だよ、とぼくは頷いてみせた。

 

「幼稚な破壊者は、ぼくだ。……このぼくだよ」

 

 三人が微動だにしなかったのは、ほんの一呼吸の間。

 答えることなく、響子さんは歩きだす。

 もう誰も言葉を発さなかった。風に揺れて擦れ合う葉の音だけが、さわさわと森の中を流れていた。

 

 

 




本日も、ありがとうございました!


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13 番外編 クロスストーリー

 今回は、カイャ キリバスさん(現在は$かにかま$さん)の書かれた、「閻魔大王だって休みたい」という作品と、クロスさせていただける事となりました!
 とても楽しく書かせていただきました。
 読んで下さる方にも、楽しんでいただけるといいのですが……。
 今回は、まったくシリアス要素は成層圏へぶっ飛んでおります!
 では、はじまりはじまり。


 残欠の小径と呼ばれるこの森で、草むらに身を潜めては人の行き来を伺い、必要とあらば物のみならず情報も売る。そうやって俺達は生きてきた。

 俺達はたとえここの住人相手であっても、決して自らの名を語ることはしない。

 人が生きる世界を表というなら、ここは完全に裏の世界といえよう。裏の世界で生き、ましてや眠り飛び交う情報を糧にしている俺達にとって、真名を知られるとは、己の首筋に刃を立てるに等しい。

 最初にそう呼んだのが誰かは知らないが、みな俺達のことを、草陰のギョロ目と呼ぶ。

 俺達は持ち場を変えながら、常に場所を移動している。前にこの崖下の草むらに身を顰めてから、けっこうな月日が流れたように思う。

 何しろ動きを封じられていた響子が、外を自由に歩いていることに驚いた。そして嗅ぎ馴れぬ人の子の臭いに、鼻が痛い。

 

 

 

 

 しょんぼりと肩を落としたまま、格子戸を開けてカナさんの庭へと入ったぼくは、いつものように壁にしな垂れかかって庭を眺めるカナさんに軽く頭を下げ、庭の奥へと続く道を進んだ。

 声をかけたカナさんの声が聞こえた気がしたが、ぼんやりとしていて返事すらしなかった。

 

「まだ怒っているかな。どんな顔して会えばいい?」

 

 昨夜遅くに響子邸を訪ねたぼくは、その玄関先で迎えに出た響子さんに抱きついてしまった。

 草むらから一斉に飛び立った、大型の鳥に驚いたのが事の発端。

 ドアを開けて中に入ろうと、ぼくに背を向けていた響子さんの背後から、胸回りを羽交い締めする要領で思い切り飛びついた。

 

「ごめんなさい!」

 

 後ろ幅跳びという競技があったなら、間違いなく世界記録といえる跳躍で響子さんから離れたぼくの額から、汗がつーっと流れた。

 響子さんの頬をはしる傷がぴくついている。

 

「すみませんでした!」

 

 響子さんの目が美しい瞳を覗かせたまま、すいと細められた。

 

「あの~!」

 

 バタン!!

 

 一緒に入るはずだったドアが、割れんばかりの勢いで閉じられた。

 

 そのまま何の用もたさずに帰ったぼくは、響子さんの好きな酒を入れた袋を両手にぶら下げて、とぼとぼと謝罪するために道を進んでいる。

 そんなこんなで、心ここに在らずの状態だったぼくは、細い道の中央に不意に姿を現した蓮華さんに、ヒッと小さく悲鳴を上げた。

 ぼくの様子など構わず、蓮華さんは更に近づいてぼくの腕を取る。

 

「一緒に来て下さい。先ほどから不穏な空気が。残欠の小径に何者かが紛れ込んだのではないかと、響子様はいっています。」

 

「何かが紛れ込んだって……またどこかの世界を囲う膜が破れたとか?」

 

 胸にチクリと痛みが走る。

 

「いいえ。そのような報告は受けていません。憶測ではありますが、たぶん本当に紛れ込んだのだと思います。状況がはっきりするまでは、お一人にならない方がよろしいかと」

 

 その話に、ぼくは静かに頷いた。

 走り出そうとする蓮華さんを引き留める。

 

「どうなさいましたか?」

 

「えっと、響子さんはいつも通りだった?」

 

「いつも通りとは?」

 

「たとえば、今朝は妙に機嫌が悪いとか……さ?」

 

 蓮華さんは小首を傾げると、はっとしたように目を見開いて小さく頷いた。

 

「そういえば今朝の響子様は、紅茶に口をつけられませんでした。用意した朝食さえ、手つかずのままでしたから」

 

 そこまで怒っているのか!

 

「和也さんは、何か知っているのですか?」

 

「……いいえ」

 

 ぼくは油の切れたロボットみたいに、ぎこちなく首を振る。

 不思議そうにぼくを眺めていた蓮華さんは、それ以上の答えを諦めたのか、踵を返して一気に走り出した。

 けして走った故の汗ではない。冷たい汗が、風に当たってぼくの首筋を冷やしていった。

 

 

「止まってください」

 

 声を潜めた蓮華さんが、木の陰にぼくを引き寄せる。

 

「響子様が感じた不穏な空気の原因は、おそらくあれかと」

 

 そっと太い木の幹から向こう側を覗いてみる。

 その光景に、ぼくは一瞬息を吸うことさえ忘れた。

 

「鬼だ。鬼がいる」

 

 ぼさぼさに伸びた髪と髭を振り乱しながら暴れる大男。

 それに立ち向かっているのは、一人の少女だった。目が覚めるほどに赤い髪は、無造作にかき上げた状態で頭の上で縛られ、尖った二本の角が額近くから生えている。

 その尖った二本の角より鋭利な、刃物のごとき鋭さを放つのは見る者の視線を引きつけずにはおかない、赤い双眸。

 彼女を赤鬼と呼ぶなら、そこから離れた場所に佇むのはさしずめ青鬼。

 青いショートヘアーの少女は腕を組み、冷めた表情で戦いを眺めていた。その青い髪の中央には、額に近い場所から一本の角が生えている。時折くいっと指先で持ち上げられる眼鏡は、彼女の知性を強調しているかのようだった。

 

「亜逗子、苦戦しているようですが、手伝いましょうか?」

 

 声をかけたのは青鬼。あの赤鬼は、あずさというのか。

 

「うっせーよ! こんな雑魚くらい、あたい一人で十分だっての! あたい一人でこいつを仕留めたら、今日の給料アップは確定なんだからあああ~!」

 

 鬼に給料? しかも日払い制? 

 

「蓮華さん、鬼に給料を支払う人って、いったい誰だと思います?」

 

「さあ、存じ上げませんが、鬼を統べるほどの者。余程の強者なのでしょう。まったく、やっかいな者達が紛れ込んだものです」

 

 亜逗子と呼ばれた赤鬼は、鎖の先に繋がれた巨大な鉄の玉を振り回す大男の攻撃を、身軽にかわしては着実に間合いを詰めていく。

 亜逗子の手に武器らしいものは何も握られていない。

 あの鉄の玉を振り回す大男相手に、それは無謀な戦いの挑み方に見えた。

 亜逗子の頭部を狙って放たれた鉄の玉が、呻りながら空を斬る。僅かに頭をそらして亜逗子がそれを避けると、標的を見失った鉄の玉は勢いをそのままに太い木の幹へとぶち当たり、めきめきと音を立てて幹が真ん中から折れて倒れた。

 

「亜逗子、たった一日分の給料が少しばかりアップするからといって、無謀に命をかけてどうするの? ここで死なれて、責任がわたしにまで及ぶのは迷惑です。日頃から貯金を怠るから、そんな浅ましい行動になるのでしょう?」

 

「うるっせーよ、麻稚! 今はそれどころじゃないってのによ! 」

 

 まち、と呼ばれた青鬼はどこから取りだしたのか、いつの間にかライフルを手にしている。

 

「問答無用、これ以上は待てない」

 

 麻稚と呼ばれる青鬼がライフルを構えて腰を落とし、一歩踏み出そうとしたその時だった。

 

「赤鬼の紅亜逗子を、なめんじゃねぇえええええ!!」

 

 空を裂く鎖の間を縫って、亜逗子が一気に大男との間合いを詰めたのに要した時間はほんの一瞬。 右から左へと振り切られた亜逗子の右足が、大男の脇腹を確実に捕らえた。

 

「ぐえぇ!」

 

 大男の丸太のような体が、あらぬ方向へぐにゃりと曲がる。

 力点を失った鉄の玉が落ちて、森の大地を揺らした。

 ぐにゃりと曲がった姿勢のまま、大地に横たわる大男のすぐ脇へ亜逗子が歩み寄る。

 その腕には男が振り回していた、巨大な鉄の玉が抱えられていた。

 

「どんだけ力持ちなんだよ」

 

 思わず口にだしたぼくに、蓮華さんがしっと唇に指を当てる。

 

「手こずらせやがって。あんたが逃げたのはあたいの所為じゃないってのに、逃げられたら無期限で給料なしとかありえない! 給料の恨みは底なし沼より深いからねっ、これでもくらいやがれ!」

 

 あっさり放された鉄の玉が、重力に逆らうことなく大男の腹のど真ん中に落ちた。

 何か叫ぼうとした口は、言葉を発することなくだらりと開いたまま、大男は白目を剥いて気絶した。

 

「む、惨い」

 

 思わず声がでる。

 

「ほんと、惨いよねぇ。でも、あの男は逃亡者で、それを捕まえるのは鬼を統べる亜逗子の仕事。だから、大目にみてあげて」

 

 聞き覚えの無い声に振り向くと肩越しに、これまた見覚えの無い若い男がぬっと顔を出していた。 歳の頃は、十七くらいだろうか。

 やさしい口調とは裏腹に、真っ直ぐにぼくを見る視線に射貫かれた。ぼくは大声を出すことも、逃げることもできないまま、コクコクと頷いてみせる。

 完全に固まったぼくの体を、ぐいっと引き寄せた張本人を見てぼくは内心青くなった。

 訳のわからない連中がわっさりと姿を現した最中に、もっとも来てはいけない危険人物。

 

「あんた、誰だい?」

 

 完全に剣を含んだ響子さんの声。

 だがその声と視線に怯むことなく、青年は笑顔を向ける。

 

「これは失礼しました。私の配下の者が騒がしくしてしまいましたが、それについては私からも謝ります。私は天地の裁判所で、五代目閻魔大王を務めさせていただいております」

 

「閻魔大王? あの天国行きと地獄行きを決定する?」

 

 素っ頓狂なほど高い声をだしたのは響子さん。

 

「はい。ヤマシロと申します。以後お見知りおきを」

 

「うわ~、閻魔様遅いじゃないか! あたいがこいつをやっつけたんだよ!」

 

 突風のように駆け寄って、ヤマシロに抱きついたのは赤鬼の紅亜逗子。

 

「誰? こいつら」

 

「失礼な言葉をつ、か、う、な!」

 

 ヤマシロに一喝されて、亜逗子はぺろりと舌を出す。

 伸びていた大男は、青鬼の麻稚に縄でぐるぐる巻きにされ、これまた麻稚の手で地面を引き摺られて来た。

 

「何だかわからんが、一仕事終わったようだね。ここは誰が見ているかわからないから、まずは私の家にいって話そうじゃないか」

 

 響子さんのひと言で、全員が歩き出す。閻魔に鬼に人の子。そして先頭を行くのは、得体の知れない、一番の危険人物である響子さん。

 このまま何も起きないことを、ぼくは心の底から祈った。

 

 

 響子さんの家の前に付くと、蓮華さんは室内でヤマシロ達をもてなそうとしたが、縛り上げた大男を連れていては入り口さえ通れないことが判明し、蓮華さんの料理の腕は家の前で披露されることとなった。

 どこに仕舞ってあったのか、手織りと思われる厚手の絨毯が惜しげもなく広げられ、一同に会した面々は各の場所に腰をおろした。

 蓮華さんが素早く造り上げた手料理が並べられ、一同からおおっと声が上がる。

 

「和也、さっきから気になっているんだが、両手にぶら下げている物はなんだ?」

 

 響子さんが興味津々といった風に、手提げ袋を覗き込む。

 騒動ですっかり忘れていた。ぼくがここに来た目的は、昨夜の非礼を響子さんにお詫びするためじゃないか!

 

「これは、お詫びのお酒です! 昨日は本当にすみませんでした!」

 

 深々と頭を下げると、響子さんの細い指がくいっとぼくの顎を引き上げる。

 

「何の話だ?」

 

 え、忘れている? 元々気にしていなかったのか? だったら昨日のドアをバタンはいったい。

 

「響子様、お忘れになったのですか? 昨夜和也様が自分の胸に抱きついたあと、慌てふためいていたのが愉快だったから怒った振りをしてやったと、喜々としてわたしに報告なさっていたではありませんか」

 

 ぽん、と響子さんが手を打ち鳴らす。

 

「そうだった! あれは見物だったな~」

 

 何だよ気にしてなかったのか。ぼくはチッと舌を鳴らす。

 

「今、舌を鳴らしたな?」

 

 目を細める響子さんに、ぼくはぶんぶんと首を振る。

 

「怒っていないなら、朝から食欲がなかったのはどうして?」

 

「気にするな、二日酔いだ」

 

 二度と心配なんかするもんか!

 

「おまえも、上司には苦労しているみたいだなっ。まああれだ、負けんな、な?」

 

 赤鬼の亜逗子は耳元で囁くと、ぽんぽんとぼくの肩を叩く。

 鬼に励まされた、今確かに鬼に励まされた。

 

 蓮華さんの料理と、ありったけの酒を並べて、想像もしなかった面子の宴会が始まった。

 閻魔大魔王であるヤマシロの話によると、死者は一人として漏れることなく、天地の裁判所でヤマシロの裁判を受け、その決定を待たなければ天国にも地獄にもいけないらしい。

 亜逗子に倒されたあの大男は、裁判の直後に逃げ出し、有り得ないことに追いかけていた亜逗子と麻稚をも巻き込んで、ヤマシロの目の前で姿を消した。

 姿を消した空間の裂け目を探すのに少しばかり手間取ったヤマシロは、二人よりこちらに来るのが遅れたというわけだ。

 

「あんな裂け目など、長い天地裁判所の歴史の中でも初めてといっていいだろう。今は鬼達が見張っているが、戻ったらすぐに裂け目を塞ごうと思っている」

 

 ヤマシロはそういいながら溜息を吐く。その溜息は、不意に現れた得体の知れない空間の裂け目の所為だけでは無さそうだ。ヤマシロを挟んで座る、亜逗子と麻稚が飲み過ぎた酒の勢いもあって、水面下でバチバチと火花を散らしている。

 

「こっちの世界でも、最近は妙なことが多くてね。そっちに開いた空間の裂け目も、もしかしたらこっちで起きている異変の余波かもしれないよ」

 

 すでにけっこうな量の酒を煽った響子さんは、頭をゆらゆらさせてはいるが、いっていることはまともだから、まだ大丈夫なのだろう。

 

「実は犯罪者ではないが、行方不明者が一人いて、そいつの行方も捜している」

 

「同じ裂け目からこちらへ?」

 

 珍しく蓮華さんが口を挟む。こちらも少しばかり飲んだ酒に、気持ちが緩くなっているのだろう。

 蓮華さんの言葉に、ヤマシロは頭を振る。

 

「消えたところは誰も見ていないんだ。でも、裂け目が他の場所にも無いとは限らないでしょう? もしも天国に裂け目があったなら、あいつはうっかり呑み込まれる。そんな奴です」

 

 天国、死ぬ前に生の話としてその名を聞くとは思わなかったぞ。

 

「あれ~、みんな何してるの? お客さんだね! わたしも一緒にいいかな?」

 

 その声に全員が振り向いた。

 可愛らしく小首を傾げて微笑んでいるのは、いつも通りキャミを着た彩ちゃんだった。

 

「彩ちゃん、こっちに来ていたの? 危ないことなかった? 一人で戦ったりしていないよね?」

 

 怪我をしていないか確かめながらぼくが聞くと、彩ちゃんは大丈夫、と笑った。

 

「でもね、この崖の上で知らない人に会ったの」

 

 うーん、と考え込むように彩ちゃんは顎に指先を当てる。

 

「道に迷っているみたいで、下にみんなの姿を見つけたらここに来たいっていったのよ。だからわたし、案内するから一緒にいきましょう、っていったの」

 

「その人はどうした? 一緒じゃないのか?」

 

 おそらく本心はどうでもいいいのだろう。響子さんは口先だけの言葉を投げて、ぐびぐびと酒を飲む。

 

「それがね、真っ赤になって怒って、走って逃げちゃった。わたし、怒らすようなこと何もしていないよ?」

 

 いや、何かしただろうに、彩ちゃん。

 あっ、小さく漏れた声を彩ちゃんは手の平を口に当てて押さえた。

 やっぱ何かやらかしてるって。

 

「やっちゃった。年上の人には失礼だったのね。だから真っ赤になるほど怒っちゃったんだ」

 

 しょんぼりと肩を落とす彩ちゃん。

 

「彩ちゃん、何をしたの?」

 

「一緒に行きましょうっていったとき、いつもの癖でこうやっちゃった」

 

 彩ちゃんが細いキャミの紐に指をかけ、パチンと弾いてウインクしてみせる。

 

「お店のお客さん相手のつもりでつい……どうしよう失礼なことしちゃった」

 

 俯く彩ちゃんを見ながら、おそらく全員が同じことを思っているはずだった。

 彩ちゃん、怒ったから真っ赤になったわけじゃないよ、それはたぶん……。

 

「オホン、それでその人は、どんな風体だったかな?」

 

 ヤマシロが問う。

 

「見たこともない恰好の人だったよ。髭は黒いのに髪の毛は金髪で、頭の上で縛っているの」

 

「信長だ!!」

 

 二人の鬼と、ヤマシロが一斉に叫んだ。

 信長って、どこかで聞いたような。

 

「探し人なのか?」

 

 響子さんの問いに、ヤマシロはにっこりと頷いた。

 そのヤマシロにぴったりと寄り添うように、両端に陣取った二人の鬼を眺めていた響子さんの目つきが変わる。

 

「ところでヤマシロ」

 

「呼び捨てにすんな!」

 

 亜逗子が眉をつり上げる。

 まずい、響子さんの悪戯心に火が付いた。完全にすわっているあの目は、悪戯心に完璧に火が付いた証拠だ。まずいって響子さん! 世の中けっして手を出しちゃ行けない領域もあるって。

 腕を伸ばしただけで、金魚のように口をぱくつかせるだけのぼくなどお構いなしに、響子さんはヤマシロの背後にまわるとすとんと腰を落とし、あろうことかヤマシロの首に両腕を巻き付けた。

 

「てっめぇ~! 閻魔様から離れろや!」

 

 静かに身を離した麻稚とは対称的に、亜逗子は仁王立ちになってヤマシロの前に立った。

 その様子を見て響子さんがくすりと笑う。

 

「さっきの信長っていうのは、もしかして戦国武将の信長のことかい?」

 

「そうだよ。今は天国であらゆる文化を吸収中だ」

 

「それで金髪ねぇ」

 

 響子さんの悪戯心を見抜いているのか、抱きつかれてもヤマシロは静かに微笑んでいる。

 

「もう無理だ! 気にくわない! 表にでろや、勝負だ-!!」

 

「もうとっくに表にいるよぉ~?」

 

 戯けた口調で返す響子さんに切れた亜逗子が、一歩前に踏み込んだ。

 

「やめろ亜逗子! 一週間の減給と三日間の給料無し、どっちがいい?」

 

 ドスが効いたヤマシロの言葉に、赤鬼の亜逗子の動きが止まる。

 

「ごめんなさい!」

 

 あっさり土下座した。

 そんな亜逗子に、麻稚の冷たい視線が矢のように突き刺さる。

 面白いなこの人達。恐いけど、面白い。

 

「さてと、酒も料理もいただいて満腹だ。亜逗子もおとなしくなったことだし、信長を見つけて帰るとするか」

 

 するりと響子さんが腕を解くと、ヤマシロは立ち上がった。

 

「わたしも閻魔大王を務める者。貴方達がどういうわけか、死んでいるのにこの場を離れられずにいることだけはわかった」

 

「あぁ。今度あんたに会えるのが、天地の裁判所であることを祈るよ」

 

「わたしもだ」

 

 蓮華さんに料理の礼を述べて、三人は去っていった。

 自分たちを見つけていたなら、信長はすぐ近くに身を潜めているだろうと。

 

「騒がしい連中だったな」

 

 余計に騒がしくしたのはあなたでしょう! 心の叫び。

 

「それにしても、あの鬼の二人はからかいがいがあったねぇ。特に赤い方」

 

 やっぱりからかっていたのかよ。

 

「そろそろ解散ですね。みなさん疲れたでしょう?」

 

 手際よく片付けを終わらせた蓮華さんの表情に、もう酒の影響はまったく見えない。

 

「彩ちゃん、帰ろっか」

 

「うん!」

 

「ぼくも見たかったな、照れた信長の顔」

 

「何かいった?」

 

 彩ちゃんが覗き込む。

 

「べっつに、さあ、帰ろうよ」

 

 手を振る響子さんの背中が、ドアの向こうへと消えていった。

 何とも解釈しづらい一日は、こうして静かに幕を閉じた。

 

 

 

 

 草陰のギョロ目は、丈の長い草の影で身を震わせていた。

 話は所々しか聞こえなかったが、あの場に鬼と閻魔大王がいて、よりにもよって響子達と酒を酌み交わしていたことだけはわかった。

 そしてもう一人、この耳に届いた不穏な名は信長。戦国の名将と名高いあの男の名が、死後長すぎる時を経て、どうして今さら語られたのか。

 

「信長を使って策を練ろうという気か? 閻魔大王まで巻き込んだら、事は残欠の小径に留まらなくなるぜ」

 

 独り言がつい口から漏れる。

 鬼神相手に戦を起こすつもりだろうか。

 情報屋は何だって売る。だが、決して売っちゃならないもの、触れちゃならない事柄も希にある。今見聞きしたことが、それだ。

 危ない橋は渡りきった時の見返りもでかいが、ヤバ過ぎる橋は渡っちゃならねぇ。渡り切る前に、橋が落ちたら儲けも糞もないからな。

 

「触らぬ神に祟りなしだ。くわばらくわばら」

 

 ギョロ目が半分だけ見せた顔を引っ込めると、何も無かったように長い丈の草がちんと座るだけとなった。

 草陰のギョロ目の沈黙と共に、残欠の小径の隅で起きたできごとは、完全に闇へと葬られた。

 

 

 




 読んで下さった皆様、ありがとうございました。
 楽しく番外編を書く機会をくださった、かにかまさんに、感謝!
 本編も、あまり間を開けずに書きたいと思います。
 では。


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14 無言が語る過去

 響子さんは別れ際に、数日間はこちらの世界に来るなといった。

 調べたいことがあるのだと。

 幼稚な破壊者ではないかといったとき、ぼくは心の隅っこで密かにこの言葉が否定されることを祈っていた。

 だが否定の言葉はなく、いつもなら笑い飛ばしてくれそうな響子さんでさえ、肯定という名の沈黙を貫いた。

 残欠の小径に入って知りたいこと、調べたいことは山のようにある。自分が感じたように、本当に幼稚な破壊者の正体がぼくであるなら、その行動はみんなのしようとしていることを邪魔するばかりか、大切な人達の安全を脅かすだろう。

 ぼんやりと歩き続け、いつの間にかカナさんの庭に辿り着いた。

 明らかに様子がおかしかったのだろう。

 

「どうかしたの?」

 

 カナさんはそう聞いてくれたが、ぼくは薄い微笑みを浮かべて小さく首を振るだけで精一杯だった。まだ何かいいたそうなカナさんをそのままに、ぼくは後ろ手に格子戸をぱたりと閉める。

 

 本棚を閉じて振り返ったぼくの視界に飛び込んできたのは、歯ブラシをくわえたままクマのように居間を彷徨いていたタザさんだった。

 ほんの一瞬大きく目を見開いたタザさんは、ぼくの顔を見てほっとしたように肩を落とした。

 

「ただいま」

 

「ん」

 

 素っ気ない返事を残して、洗面台へと姿を消したタザさんは、おそらく一晩中起きていたのだろう。居間のテーブルに転がる三本の缶コーヒーが、一人でまんじりともせず夜を明かしたタザさんの様子を物語っている。

 

「心配かけたかな」

 

 部屋へ戻る途中、彩ちゃんの部屋がある辺りを見上げた。

 タザさんが何もいわないところをみると、おそらく部屋で眠っているのだろう。

 

「 彩ちゃんとも話さないといけないや」

 

 とりあえず今は眠ろう。

 できが悪くて親に愛されなかった子供。それが今までのぼくを現す言葉だった。

 そんな情けない事実さえ、己を形成する核となっていた。

 今はそれさえ失ったように思う。

 自分が何者なのかさえ解らなくて、自分を自分だと認識できた根幹がもろくも崩れた。

 眠って目が覚めたら、存在ごと消えてしまっていたらいいのにと、本気でぼくは思っていた。

 

 

 目が覚めると都合良く全てが帳消しになっているわけもなく、相変わらずぼくの体は疲れを持ち越したまま存在していたし、そんなくだらない落胆を吹き飛ばすほどに時計の針は回っていた。

 

「まずっ、もうとっくに昼過ぎ?」

 

 服を着替えて慌てて下に降りると、昼時特有の騒がしさは聞こえてこなくて、居間はしんと静まりかえっている。

 閉められたままの店の中に入ると、工具箱からタザさんが顔を出す。

 

「どうした?」

 

「どうしたって、店は?」

 

「寝ぼけてんのか? 今日は定休日だろうに」

 

 そうか、月に二度だけ設けられた店の定休日。

 いつもなら自由に昼寝ができる最高の日だが、今日はかえって休みであることが悔やまれる。

 お客さんに呼ばれて、忙しく働いていた方がどれだけ気が紛れただろう。

 

「彩はお前が寝てすぐ、あっちの世界にでかけていったぞ」

 

「彩ちゃんが?」

 

 急いで後を追おうとタザさんに背を向けたぼくは、力なく足の動きを止めた。

 数日は来るなと、響子さんにいわれている。

 今下手に動けば、かえって彩ちゃんを危険に晒しかねない。

 

「タザさん、何か手伝うことある?」

 

「ねぇよ」

 

 再び工具箱にあたを突っ込んでしまったタザさんに溜息をひとつ吐いて、ぼくは自分用のコーヒーを淹れる。

 いつもならタザさんにも淹れてあげるところだが、昨夜の缶コーヒーの量を見る限り、これ以上のカフェインの過剰摂取は控えさせた方が良さそうだ。

 

「タザさん」

 

「ん?」

 

「ぼく、この店で働くの辞めようかな」

 

 ごそごそと道具を漁る、タザさんの手がぴたりと止まる。

 

「辞めたら、誰が彩を守るんだよ」

 

「ぼくじゃ守ってあげられないんだ。たぶん、ここに居てはいけない人間」

 

「何があったかは知らんが、辞めるなんて冗談じゃないぞ。俺の仕事を増やすんじゃねぇ」

 

 ぼくはふっと笑った。道具箱の中から、乱暴に物を押しのける音がする。タザさんは優しい。

 何時だって、優しいんだ。

 

「タザさん、ぼくが女の子だったら、迷わずタザさんに逆プロポーズしてる」

 

「気持ち悪りぃな、美人以外お断りだ!」

 

 タザさんの肩が揺れている。きっと笑っているのだろう。

 

「財布を取ってきたら、ちょっと出かけてくるね」

 

 顔も出さずにタザさんが指先でぼくを払う。

 ちょっとだけ肩を竦めて、ぼくは財布を取りに部屋へと戻った。

 

 

 仕事の買い出し以外で、昼間に外に出るのは久しぶりだった。

 今日は妙な存在と出くわすのはごめんだ。

 

「日が暮れる前には、帰ってこよう」

 

 あまり楽しい外出とはいえない。それでも人の感情に関係なく、降り注ぐ日差しは温かい。

 行こうとしているのは、二年以上も足を向けていなかった場所。

 本来なら帰るべき場所であるはずの、実家へと向かう汽車に乗るため、ぼくは重い足を引きずるように歩いた。

 二両編成の汽車に乗って、五つ目の駅にぼくの実家はある。

 この町で高校までの十八年間を過ごしたというのに、駅を降りて眺めた景色に何の感慨も覚えなかった。

 実家でトイレを借りることさえ煩わしくて、古くさい駅のトイレに入った。

 小用を足していると、不意に下の方から声がかかる。

 

「行かない方がいいよ!」

 

 驚いて見下ろした視線の先には、眉をハの字にした小花ちゃんがいた。

 どうしてここに小花ちゃんがいるのかという疑問より先に、小さな唇が必死に訴えるその言葉にぼくは神経の全てを攫われた。

 

「ぼくの行こうとしている場所を知っているの? どうして行かない方がいいの?」

 

 小花ちゃんはふるふると首を振る。

 

「今じゃなくてもいいだろう、って野坊主がいっていたよ。やめよう、ね?」

 

 小花ちゃんの小さな手が、ぼくのシャツの裾を引いている。

 チャックを引き上げて、ぼくは目を閉じた。

 行きたい訳じゃない。でもいつかは行くことになるだろう。

 掛け違えたボタンの歪さが見えてきた今、このままやり過ごすことなどできない。

 

「かえろうよ!」

 

 小花ちゃんの声が、涙の色を含みはじめたとき、トイレの入り口から賑やかにしゃべりながら、若い二人組が入ってきた。

 はっと視線を落としたときには、小花ちゃんの姿は消えていた。

 小さな手で握りしめたシャツの裾だけが、小花ちゃんがいたのだと訴えるように、くしゃくしゃとシワを刻んでいた。

 

「わざわざ呼び戻しにきてくれたんだね。小花ちゃんや野坊主にまで心配させて、どうしたもんだかな」

 

 駅の外に出て、小さな噴水の縁に腰掛けて空を見上げる。

 このまま帰ったって、誰が困るわけでもないだろう。

 ただひとつだけ確信があった。このまま帰ったら、掛け違えたボタンを正しい位置に戻すチャンスは確実に遠のく。

 逃げれば逃げるほど、真実は遠のいて本当に自分を見失うだろう。

 

「ごめんね、小花ちゃん。やっぱり行かなくちゃ」

 

 立ち上がりぼくは歩き出した。このまま手ぶらでいったら、世話になった親に菓子のひとつもないのかと、母さんは眉を寄せるだろうか。

 

「別にいいさ。持って行ったって、どうせ捨てられるだろうし」

 

 自分の産んだ子であるというのに、いつからか母親はぼくが触れた物を遠ざけるようになった。

 母の日のカードも、誕生日のプレゼントも、ゴミでも摘むようにして見えないところでそっと捨てていたから。

 遠い記憶を思い返しながら、ぼくはふと笑った。

 笑える自分が居た。

 実家を離れるまで何かを上げて喜ばれた記憶がない。だから、実家を離れるまで他人に何かをあげたことなどなかった。でも、今は違う。

 ぼくが触れた物を、ちゃんと受け取ってくれる人がいる。

 喜んで笑ってくれる人がいる。

 クマさんココアを飲んでくれる小花ちゃん。

 黒い渋茶を欲しいといってくれる野坊主。

 食べ物でも飲み物でも遠慮なく受け取って、豪快に食べてくれる響子さんや蓮華さん。

 彩ちゃんやタザさん、店のお客さんもぼくを疎外することなく、一緒の時を過ごし同じ物に触れ笑ってくれる。

 あの人達を守れるなら、多少傷口が開いたって構わないさ。

 そう思いながらも徐々に遅くなる足取りは、けれども確実に実家の玄関へとぼくを運んだ。

 

 玄関のチャイムを鳴らすと、奥から明るい母さんの返事がした。

 何かいいことでもあったのかな、そんなことをぼんやり思ううちに、玄関のドアが開け放たれた。

 

「ただいま。ちょっと用事があって」

 

 笑顔でドアを開けた、母さんの表情が凍り付いたのが傍目にも解る。

 

「用事って?」

 

 お帰り、さあ入って、そんな当たり前の言葉すら聞けなかった。

 

「小さい頃の写真が欲しいんだ。できれば全部」

 

 訝しむような表情を浮かべた母さんは、それでも軽く頷いた。

 

「用事はそれだけ? 今日はお兄ちゃん達が帰ってくるの。もうそろそろ着くと思うわ。写真なら今持ってくるから、ちょっと待ってて」

 

 玄関の奥から、出来たての料理の香りが流れ出てくる。

 帰省する兄さん達を出迎える為に作られた手料理。

 たとえコップの水一滴でさえ、ぼくの為では有り得ないのが悲しかった。

 少しの間を置いて、小走りに戻ってきた母さんの手には古びた茶封筒が握られていた。

 

「はいこれ。これであなたの写真は全部よ」

 

 たしか写真は全て、立派なアルバムに貼られていたはずなのに。

 

「ありがとう。それにしても、母さん」

 

「なに?」

 

「二年ぶりに帰った息子に、家には入れのひと言もないんだね」

 

「それは別に……」

 

 ぼくを迎え入れる言葉を発していなかったことさえ、おそらくは無意識なのだろう。

 母さんの頭の中にあるのは、兄さん達が来る前にぼくが姿を消すことだけ。

 楽しい家族の団らんを化け物に汚させないためなら、箒でぼくを掃き出すくらいは簡単にしそうだな。

 

「帰るよ」

 

「そう」

 

 明らかな安堵が声に重なる。

 

「母さん、父さんにも伝えておいて。捨てずにぼくを育ててくれてありがとう。でも、これで終わりにするよ。もう二度と姿を現すことはないから、母さんも安心して」

 

 あからさまに言葉にされるとは思っていなかったのか、母さんの表情は動揺に揺れていた。

 

「さようなら、母さん」

 

 振り向くことなく、ぼくはその場を立ち去った。

 曲がり角を曲がると、車のエンジン音が聞こえて家の前で止まった気配がする。

 兄さん達が帰ってきたのだろう。

 父さんに伝えておいてとはいったが、おそらく母さんは伝えない。消えかけていたぼくの存在を家庭に持ち込むようなことは、たとえ最後と思ってもしない人だ。

 来たときと違って、ぼくの足取りは軽い。

 写真は茶封筒の中に収まったままで、まだ何一つ結果は見えていないが、さして長くない人生の中、ぼくの足を強く引いていた一本の糸を切ることだけはできたように思う。

 引き返す気は無い。

 ぼくには帰る場所がある。

 たとえあの場所を失う日が来ても、それは後退なんかじゃない。

 誰かを守るために失うのは、一歩前に進むことだと信じたかった。

 見上げた空の太陽はだいぶ西へと傾いて、日差しの暖かさも薄らいでいる。

 

「帰るか。小花ちゃん、怒っているかな」

 

 ぼくはホームで汽車を待つ。

 そして二度と降り立つことのないホームに、無言で別れを告げた。

 

 

 

 店に戻るとタザさんと彩ちゃんの姿はなく、代わりに小花ちゃんが細い腕を腰に当て、仁王立ちで頬を膨らませていた。

 

「小花ちゃん?」

 

 ぷいっと顔をそむけ、ハシゴの降りる辺りへいってしまう。ハシゴをおろしてあげると、ふくれっ面のままぼくより先に部屋へと上がっていった。

 部屋ではすでに野坊主が姿をみせていて、狭い戸口から丁寧に頭を下げる。

 

「心配かけてごめんね。でも、どうして今日実家にいっては駄目だったの? 兄さん達と鉢合わせする可能性があったから?」

 

 すると野坊主はゆっくりと頭を振る。

 

「問題はこれから」

 

 野坊主がぼくの手の中にある茶封筒を指さした。

 

「写真を持ってくるとわかっていたの? すごいな」

 

「自分の存在を疑い、家族に別れを告げ、その上でまだ知ろうとするのか? 人など脆弱は生き物ですぞ? 何もかもを一度に受け入れる容量など、その身に持ち合わせてなどいないだろうに」

 

「ばーか!」

 

 あっかんべーをして、小花ちゃんが野坊主の脇をくぐって帰っていく。

 

「小花ちゃんを怒らせちゃったな」

 

「小花は怒ってなどおらぬよ。心配で、泣き顔を見られたくないだけだろう」

 

 茶封筒を間に置いたまま、ぼく達の間を沈黙だけが流れた。

 

「開けてみるよ。そうしないと、何も始まらないから」

 

 野坊主は目を伏せたまま何も語らない。

 ただ語らずにいた真実を、ぼくが覗き知ろうとしているのを見守っている。

 糊で口を貼られた茶封筒を指先で破る。

 中から出てきたのは、幼い日からのぼくの写真。兄さん達の写真を見返すときに、ぼくの姿が目に入ることさえ疎ましくて、母さんはアルバムからぼくの映った写真だけを剥がして茶封筒に封印したのだろう。

 一枚ずつ写真を並べていく。俯いていたり、兄さんの影に半分隠れていたりではっきりと映った物は少なかった。

 写真を並べていたぼくの手が止まり、指先から写真がはらりと落ちる。

 

「これは……」

 

 目に留まった写真と他のものを見比べる。

 半分近くは間違いなく、同一人物だ。

 揺れる視線で野坊主をみた。

 野坊主が何か言いかけた唇を閉じて、きつく目を瞑る。

 

「これは誰? ぼくじゃない!」

 

 全身から力が抜けた。

 予想を遙かに超えた事実を、物言わぬ写真が語っていた。

 

 




 本日も、読んでくれた皆様ありがとうございます!
 では!


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15 出生の秘密

 



 自分の中の記憶を整理して、熱くなった脳みそを冷まそうとするほど、制御できない混乱に視界が揺れては止まる。

 ぼくが投げ出した写真を、野坊主が無言で全て並べてくれた。

 

「このことを、野坊主は知っていたんだね」

 

「知っていた。だが、伝えるべき時期では無いと思っていたのだよ。事柄には、知るべき時というものが存在するであろうに。先を急ぎ、結果を求める余りに己の首を真綿が絞める」

 

 写真に触れることもできずに、揺れる視界と折り合いを付けながら、ぼくは無理矢理に写真に視線を向ける。

 

「全て幼い頃の写真だけれど、赤ん坊の時から三歳前後で映っている人物が入れ替わっている。」

 

「後半に映っているのが、幼かった頃のぬしの姿」

 

 野坊主のいうとおり、はにかんだような幼い笑顔には、鏡に映る成長した自分の面影が残っている。

 家にいた頃も、家族でアルバムを眺めることなど皆無だった。いや、ぼくがいないところでは見ていたのかもしれない。とにかくぼくは、幼い日の自分の顔など思い浮かべられないほどに長い時間、昔の写真など目にしたことがなかった。

 まだ目を瞑ったまま眠る赤ん坊の写真では、自分との違いなど何も気づけなかった。

 少しずつ笑い表情が生まれてくると、子供であっても人相というものは明らかに違ってくる。

 ぼくが被写体の時とは比べものにならない愛情を注いで写された、写真の中に映る子供は天真爛漫に笑い、ぱっちりとした二重を目一杯に開いて戯けている。

 

「野坊主、ぼくは一重なんだ。この子が成長しても、ぼくみたいな顔にはならないね」

 

 母親は二重で、父親は一重だったから今まで何の疑問も抱かなかった。

 三人兄弟の他に、亡くなった子供がいたとも聞かされてはいない。もしいたのなら、たとえ隠していても、写真は大切に保管されていることだろう。間違っても、ぼくに渡す写真の中に母親が入れる筈などなかった。

 

「その子は紛れもなく、あの家の夫婦の息子だ。三歳くらいだったろうか。確かにあの家で大切に育てられていた。ぬしの母も、優しい笑みでその命を育んでおったよ」

 

「どうしてこの子とぼくの写真が、ある時期を境に入れ替わっているのかな?」

 

「写真が入れ替わったのではないのだよ。おぬし達の存在そのものが入れ替わった」

 

 声にならない溜息が漏れた。

 

「この子は何処へいったの? そしてぼくは何処からきたの?」

 

 有り得ないことを多く見聞きした所為で、本能が胸の内に答えを導き出していた。

 それでも誰かの、誰かの口からいって欲しい。もう逃げ道などないように、言い切って欲しかった。

 

「その子はこの世界にはもう居ないだろうな。生存しているかさえ怪しい。その子の存在と入れ替わりに現れたのが、幼い日のぬしなのだよ。」

 

 ぼくの所為で、一人の子供が家庭を失ったのか?

 

「ぼくは、どこからきたの?」

 

「ぬしは元々この世界の者ではないわ。だが、和也殿は故郷に帰ったことがある。ごく最近になってな。」

 

 渇いた喉がひりついた。コーヒーを淹れておけば良かったな、とこの場にそぐわない思いが過ぎる。

 

「ぼくは残欠の小径にいた者っていうこと?」

 

 野坊主は真っ直ぐにぼくを見て、静かに否定した。

 

「和也殿の故郷は残欠の小径であり、昨夜訪れたであろう突如現れた町並みであり、まだ見ぬ集落でもあるのだ。特殊なのだよ」

 

「特殊って、能力とかがあるってこと?」

 

「それもある。だが、何よりも特異なのはその存在。和也殿は存在そのものが、全てを揺るがす特異点となりうる」

 

 有り得ない。そんな言葉では説明が付かない。野坊主の言葉で説明がなされるのであれば、生物学的にぼくは、この世に存在するはずがない者になってしまう。

 

「あの町へ行ったことを知っているなんて、何でもお見通しだね。でも野坊主の説明は筋が通っていない。あの町で会った男がいっていた。人ではない者もいるが、ほとんどは生きている生身の人間だって。鬼神に己の存在の一部を喰われただけで、生きるのに支障はない。」

 

「そうであるな」

 

 膝の上で野坊主の骨張った指がきつく組まれ、込めすぎた力に圧迫されて白く血の気を失っている。

 

「人ではない者達も、必ずどこかで生きていたはずだろ? 鬼神に喰われた者、喰われずに逃げるために身を潜める者、あそこに居る理由は違っても、共通点は故郷を持っているということ。絶対に、帰るべき故郷、もともと居た故郷と呼べる世界があるはずなんだ。ぼくにとっての故郷はどこなの? 知っているなら教えてくれないかな」

 

 在るはずのない答えを、それでも問わずにはいられない。

 

「まだ見ぬ空間、姿をみせていない町、残欠の小径その全てがぬしの命を生みだした故郷そのもの。あれらの空間は、広く視野を広げれば全て繋がっている。触れられぬだけのことで、すぐそこに存在している。その雑多なる世界の只中で、命を授かったのがぬしの魂。」

 

 在ってはならない答えに、心がついていかなかった。

 野坊主を疑ってなどいない。そうではなく、信じるが故に心が置いてきぼりを食わされる。

 

「親は? 親はいるのかな」

 

「神でもあるまいし、親は存在するであろうよ。誰かなど、今となっては知るよしもない。あちらの世界で世代を重ねた者の子孫であろうな。普通なら子を宿しても産まれることなどほとんど皆無。それでも時折、異端の者は現れる。まれに命を授かった和也殿に、更に何らかの偶然が重なったのだろう。不幸にも、鬼神の目に留まった」

 

 幼い子供の顔が浮かぶ。

 鬼神は想像以上の命を、砂を弄ぶようにその手に握っているのではないだろうか。

 親はどうなったのだろうとは、聞くことさえできなかった。

 おそらく生きていることなどないのだろう。

 

「ぼくは、鬼神が恐れるような力を持ってはいない。どうしてぼくに拘る? 放っておいてくれたら、ぼくはあちらの世界にだって二度と関わらなかったかもしれないのに」

 

「鬼神はそうは思っていない。己の描く道の先を妨害する脅威なのだよ、ぬしは。」

 

 就職もまともにできない小僧相手に脅威だって? ふざけるなという罵声が胸の中で炸裂する。

 

「ひとつだけ教えてよ。野坊主はどうしてぼくの側にいるの? 敵なの? 味方なの?」

 

 野坊主の表情が僅かに曇る。

 

「本来であれば、真っ正面から立ち向かう敵である、というべきであろうな」

 

 野坊主の声に迷いはない。ぼくの胸が絞られたように痛みに軋む。

 

「だがわしは似非坊主。ぬしを殺そうなどとは思っておらん。死の淵へ導こうとも思っておらぬよ」

 

「どうして?」

 

「話は複雑だ。だが、簡単でもある。わしは彩を守るために、ぬしを死に追い遣れといわれた。この目で確かめるまでは、それが正しいことと思えていたのだよ。ところがその馬鹿正直な青年は、思っていた人物とは違っていた。ぬしは欠かせぬ存在であると知った」

 

 彩ちゃんを守るため……か。

 

「ぼくには何の力もないよ。響子さんという女性にも、数日は来ないようにといわれた。あっちで噂になっている、幼稚な破壊者という存在の正体が、ぼくかもしれないんだ」

 

「響子殿のことは知っている。幼稚な破壊者とは、言い得て妙だな。あちらの世界で生を受け、更に重ねて何らかの力を持つぬしは、そこにいるだけで隣り合わせる世界の壁を溶かすのだろうよ。だがそれは、ぬしが止めようとしても、どうなるものでもあるまい」

 

 自分が厄災の原因だというのに、何もできないのが歯痒い。

 ふと当たり前の疑問が浮き上がる。

 

「ねえ、育ててくれた母さんは、自分の子供が入れ替わったことに気付いていない。どうしてそんなことが起こる? 昨日まで大切に抱きしめていた我が子が入れ替わったら、どう考えたって気付くだろ?」

 

「普通ならそうであろう。ことに関わり仕組んだのが鬼神でなければ、このような悲劇は起こらなかった。和也殿には酷な話だが、母もまた被害者なのだよ。子が入れ替わったことに気付かなくても、思い焦がれる子がいなくなった事実が意識せずとも心の奥深くに風穴を開ける。おまえを嫌ったのは、お前の変わった能力のせいだけではない。母としての本能が、我が子を奪った存在を憎ませただけのこと」

 

 母さんが苦しんでいたという、思いもしなかった言葉が胸を突く。

 両親に苦しめられてきたと思っていたのに、両親を苦しめあんな態度を取らせていたのは自分に他ならないなんて。

 ぼくの中の悲しみも怒りも、完全に向かう先を失った。

 

 ぼくは力なく頷いて見せた。いくら思い悩んだところで、これ以上は何の答えも得られないだろうから。

 ふとぼくはずっと胸に抱えていた疑問を野坊主にぶつけてみようと思った。

 

「前にいっていたよね、小花ちゃんは彩ちゃんの、失った幼少期そのものだって。それはどういう意味なのかな。」

 

「彩には幼い日々の記憶がない。彩を見ていて思ったことはないか? 明るく元気だが、どこか根本的な感情表現に欠けているはず」

 

「彩ちゃんに欠けている感情?」

 

 困ったように唇を噛んだ野坊主が、僅かに唇を開きかけたその時、小花ちゃんが這い出てきて顔を覗かせた。

 

「お話おわった? くまさんココアのみたいの。 小花、ちゃんと伝えにいったからえらいでしょう? ごほうびにココアのみたい」

 

 ぼくがいいよ、というとふくれていたほっぺたを緩ませ、小花ちゃんは嬉しそうに笑った。

 

「小花ちゃんに、ココアをいれてきます」

 

 ほっとしたように野坊主が頷く。

 続きは今度でも構わない。すでに許容量を超えた心に、ミシミシとヒビの入る音が聞こえそうだった。

 

「いこうか、小花ちゃん」

 

 嬉しそうに小走りする小花ちゃんをハシゴから先におろし、ぼくも後に続く。

 野坊主が焦げ茶色の引き戸を閉めようとしていた。

 

「野坊主!」

 

 半分ほど締まりかけた戸が、ぴたりと動きを止める。

 

「……ありがとう」

 

 聞こえただろうか。野坊主の声はなく、残りの半分も静かに戸は閉められた。

 




 ありがとうございました!
 次話もよろしくおねがいします。


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16 辻が上に在る庭と存在

 翌朝になって格子戸を開け、彩ちゃんがにっこりと戻ってきた。

 どこまで足を伸ばしたかは知らないが、珍しく体に傷はなくキャミも土埃に汚れた様子はない

 

「お帰り彩ちゃん。トーストがもう少しで焼き上がるよ」

 

「やったー! お腹ぺこぺこー!」

 

 音を立てて自分の腹を叩く彩ちゃんの仕草にふっと笑い、部屋へ上がっていくその背中を見送りながら、昨夜の野坊主との会話を思い返す。

 彩ちゃんに欠けている感情。そんなものは思い当たらないし、見ている限り同年代の女の子と比べても、感情表現は豊かな方だと思う。

 良く笑い、ぷっくりと膨れてみせてはまたすぐ笑う。

 他人の事を思いやる半分でもいいから、自分の体や心を気遣ってくれたらと思うほどだ。

 

「ただの明るい女の子なのにな」

 

 答えの見えない疑問を頭から払い、ぼくはトーストに齧り付く。

 今朝は彩ちゃんがいなかったこともあって、食パンとコーヒーはぼくの係、タザさんは皿の上にでんとのせられた目玉焼きとサラダ担当。

 

「こりゃ人生で初めて見る千切りだな」

 

 ちょっと太いキャベツの千切りなんて表現は甘い。後ほんの少し太く切られていたなら、ノートに挟む付箋として十分に役立ちそうだ。

 そんなことを思いながら、箸の先でキャベツの千切りをつまみ上げて眺めていると、どしっと床を揺らす勢いで、タザさんが向かいの椅子に座り、丁寧に合掌してこれまた丁寧にお祈りをして、ようやっと朝食に箸を付けた。

 太すぎる千切りに何の違和感もないのか、もくもくと食べている。まあね、切ったのはタザさんだし、文句のいいようもないか。

 

「タザさん、器用なのにどうしてキャベツの千切りだけブキッチョなわけ?」

 

「全部均一な太さに切れているぞ?」

 

 いわれてみれば、確かに太さにムラがない。同じ太さに揃えられ、山盛りにされた緑色の山。

 

「さすがに、ちょっと太いかなって」

 

 ぼくのクレームの真意がまったくわからないかのように、タザさんが首を傾げる。

 

「細すぎる千切りなんざ、糸くず食ってるみたいでよ。このくらい太い方が、噛みでがあるってもんだろうに」

 

 満足そうに咀嚼を続けるタザさんに、それ以上の突っ込み所を見失ったぼくは、お陰様で丈夫な臼歯に全力で力を込め、浴びせ掛けたドレッシングと共にキャベツを口に放り込んだ。

 

「おっと、久々だね-。タザさんお手製サラダ、キャベツの千切り革命登場!」

 

 噛み切れないキャベツを口に突っ込んだまま、唖然とするぼくを気にする様子もなく、お祈りを済ませた彩ちゃんは、美味しそうにキャベツを口へと運んでいる。

 

「あー坊、いいネーミングじゃねぇか。キャベツの千切り革命! 気に入った!」

 

 ドヤ顔で上目遣いにこっちを見るタザさんに、ハムスターみたく膨らんだ頬のまま、にっと笑って見せる。

 ものはいいようだ。キャベツの千切り革命ときたか。

 彩ちゃん、侮るべからず。

 タザさんは彩ちゃんの話に相づちを打つだけで、黙々と朝食を食べ続けている。

 食事に夢中で反応の悪いタザさんの態度を微塵も気にせずに、彩ちゃんは今日店で出す予定の日替わり弁当のおかずのことを、楽しそうに語っていた。

 頬張りすぎて噎せ返ったタザさんに呆れた目を向けながら、しかめっ面で背中を叩いてやる彩ちゃん。

 深煎り豆で淹れた苦いコーヒーに、思わず舌をだして顔を顰める彩ちゃん。

 どれもみなぼくが知っている彩ちゃんで、大好きな同居人でかわいらしい雇い主。

 彩ちゃんみたいに開けっぴろげに色んなことを受け入れて、それでも笑える強さのある人になりたいと思ったことこそあるが、容姿にも心にも欠けている部分があるなど、思ったことはない。

 それでもつい見てしまう。

 考えてしまう。

 見慣れた彩ちゃんの様子に、野坊主の言葉の意味が隠れていやしないかと、探してしまう。

 

「ぼーっとしていると、お店が開いちゃうぞ!」

 

 彩ちゃんにいわれて、慌てて残りのキャベツを口に放り込む。

 噛みきれないキャベツに悪銭苦闘しながら、ぼくはひとり苦笑いする。 自分の出生すら答えを得られていないのに、他人の心配か、と。

 役に立たない小僧が粋がるなと、声なく自分を戒めた。

 

 

 店は相変わらずの繁盛ぶりで、彩ちゃん目当てのおっさん客でごった返している。

 ぼくが作った新メニューはことごとく裏メニュー化して、時折面白半分とからかい半分で頼む常連客がいる程度。

 この間作り出した、スパゲティーに薄めたカレールーをぶっかけて、目玉焼きとミニハンバーグをのせるという豪華な発案も、カレーうどんの方が旨いというひと言で、日の目を見ることはなくなった。

 タザさんはというと、相変わらず預かった赤ちゃんを負んぶしながら、店の隅で売り出している小物造りに精を出ている。 し

 こちらもぞくぞくと新作を送り出しているが、ぼくと違ってすこぶる評判がよろしいのがちと不満だったりする。

 店の常連客達に、バイトの兄ちゃんと呼ばれるのにもすっかり馴れた。

 客相手に冗談だっていえる程度に、他人と話せるようになったのは自分でも上出来だと思う。

 今この時を気に入っている。

 みんなに囲まれて働く、この空間が好きだ。

 いつか調理師免許を取得して、裏メニューという暗黒にぼくのアイデアを遠慮なくぶち込む常連客達に、旨い! と一泡吹かせてやるのが密かな夢だったりする。

 最後の客が帰っていった。

 

「閉店だね! 後片付けもそんなにないから、先に上がっていいよ。」

 

 彩ちゃんの言葉に甘えて、先に居間へと引っ込んだ。

 労働の後の心地よい疲労感が全身を包む。

 毎日コーヒーの香り漂う中で、何気ない日常をくり返していけるならどんなにいいだろう。

 

「普通に暮らしたいだけなのに、けっこう難しいもんだ」

 

 この先の日々を普通に暮らすためには、今を普通に過ごすことをぼくは許されないだろう。

 部屋に戻ったぼくは、秘蔵の酒を手に居間へと戻る。

 タザさんは頼まれた水漏れを直しに出かけていて、店のキッチンからは彩ちゃんが皿を洗う音が小気味よく響いている。

 

「落ちてやるさ。この生活を本当に手に入れるためなら、どん底にまで落ちてやる」

 

 酒を手にぼくは格子戸に手をかける。

 淡い光が漏れる格子戸は、軋むことなくするりと開いた。とび色の着物の袖から白い指先が覗く。

 

「カナさん、お酒を持ってきました。少しだけ、ご一緒してもいいですか?」

 

 切れ長な澄んだ目でぼくを見上げたカナさんは、口元に淡い笑みを浮かべて小さく頷いた。

 日が暮れることのない庭で、ぼくはカナさんの隣にゆっくりと腰をおろした。

 

「今日は残欠の小径へは行かれないのですね」

 

 カナさんの頬にかかる僅かな髪を、通り抜けた風が揺らす。

 

「はい。今日はカナさんに会いにきました」

 

「おや、それは珍しいこと」

 

 着物の袖で薄く紅を引いた口元を隠し、カナさんがくすくすと笑った。

 

「ゆっくりと酒を飲む相手が欲しかったから。それだけです」

 

「嘘が下手ですねぇ」

 

 俯いてぼくは唇を結ぶ。

 

「でもわたしは好きなんですよ。昔から、嘘を吐くのが下手な御仁が」

 

 ぼくの浮かべた笑みがほっとしたものだったからか、カナさんはもう一度だけくすりと笑った。

 庭の木々の葉が風に時折揺れるだけで、音ひとつない庭だった。

 前にこの廊下に座ったときには、騒がしい人がそろっていたから、この庭の静寂を感じることはなかったのだろう。

 

「静かですね。寂しくありませんか? 長い時間をひとりここで過ごされるのは」

 

 カナさんが、頬にかかる髪を指先でそっと払う。

 

「寂しいと思う時代はとうに過ぎてしまいました。良いこととは申しませんが、馴れるというのもまた、人の心が持つ防衛本能なのでしょうね。少なくとも、ずっと傷つき続けることはなくてすみます。それに、わたしはひとりではありませんよ?前にも申しましたが、ここに共に住む者も居りますし、季節ごとに訪れてくれる古き馴染みも居りますから」

 

 良かった。カナさんがこの静寂の中、一人きりで過ごす時間を想像しなくてすむ。

 寂しくないなら、本当に嬉しい。

 深く関わりをもってきたかといわれれば、きわめて付き合いは浅いといえるだろう。言葉を交わしたことさえ数える程度。だとしても、この女性を気にかけるには十分だった。

 ともすれば影さえ風に飛ばされそうな儚さと、とび色の着物に包まれた体に潜む静かな信念を感じさせる人、それがぼくの思うカナさんだ。

 

「陽炎、お客様に何か酒のつまみになるようなものを。盃も持ってきておくれよ」

 

 カナさんの言葉に返事はなかったが、カナさんの屋敷の部屋へと繋がるふすまの向こうで、人の動く気配がした。

 

「ようえんさん……とは女性ですか?」

 

「はい、夏の間だけわたしの屋敷を訪れてくれる者でございます。古き馴染みでございますから、お気がねなさいませんように」

 

 それほど時を空けることなくふすまが開かれ、着物姿の女性が姿をみせた。

 軋む廊下に素足ですっと足を進めた女性の髪は漆のように黒く、後ろで二段に分けて紐で結い止められている。歳の頃は、十七、八といったところか。

 白地に藍色で染め抜いた牡丹が、着物の裾と共に揺れている。

 控えめな様子で顔を伏せているが、それでも十分に魅力的な女性だと思った。

 陽炎は盃を置いて、小鉢に盛った酒の肴を静かに並べていく。

 

「和也さんですね。お話はいつも伺っております。陽炎と申します。よろしくお願いいたします」

 

 膝を揃えて正座し、三つ指をついて頭を下げる陽炎の姿に、ぼくも慌てて居住まいを正す。

 

「よろしくお願いします。それと、ご馳走になります」

 

 その言葉に陽炎は嬉しそうに口元を綻ばせた。一緒に飲むとばかり思っていたのに、盆を手にそのままふすまの向こうに姿を消してしまった。

 

「人見知りなのでしょう。いい子なのですよ。馴れたらそのうち、共に盃を交わす日もきますでしょう」

 

「はい」

 

 小鉢に盛られたのはこんにゃくの白和えという物らしい。初めて口にしたが、とても美味しくて、やさしい味がした。

 庭を通り過ぎる風の跡を眺めながら酒を舐め、言葉を交わすことなく時が過ぎていく。

 こんなにのんびりと過ごすつもりで訪れた訳ではなかったが、こうしていると庭の揺れる葉を眺めに来たのではないかとさえ思えてくる。

 このまま目を閉じて壁に寄りかかっているだけで、十分に得られたものがある気がした。

 

「おや、やっと匂いを嗅ぎつけたのかい?」

 

 カナさんの声に目を開けると、いつの間に用意されたのか小皿にのせられた目刺しがあった。

 細い指が皿を引き、廊下の縁に寄せられる。

 

 ミャアー

 

 姿を現したのは灰色の毛を持つ猫で、目の開かない子猫とはいかないが、大人というには小さい猫だった。

 

「シマ、おまえの分だよ」

 

 カナさんの言葉を無視して、シマと呼ばれた猫はじっとぼくを見ている。猫相手だというのに、まるでこちらが値踏みされている気分だった。

 ふいっと視線をそらした猫は、小皿の上の目刺しを咥え振り返ることもなく庭の奥の草陰に姿を消した。

 

「何だか、あの猫にじっと見られました。おまえはカナさんと口をきくのにふさわしい人物かと問われているようで、猫だというのに汗が出そうになりました」

 

 ぼくの本心だった。それを聞いたカナさんは、楽しそうに声を立てる。

 

「たぶんその通りだと思いますよ。あの猫は、気に入らない者の側には魚で釣られようと決して近寄りませんし、ここを訪れる者を、ある意味で選り好みいたしますから」

 

「ぼくは合格でしょうか?」

 

「まだ審議中、というところでしょうか」

 

 くすくすと笑うカナさんの横で息を吐く。猫にまで小馬鹿にされるようでは、お終いだ。

 

「ぼくがここにいて、残欠の小径に影響を及ぼすようなことはありませんか?」

 

 残欠の小径に足を踏み入れるわけではないからと思っていたが、庭の奥に続く道の先に残欠の小径があると思うと、不意に不安が胸を過ぎった。

 

「大丈夫でございましょう。この庭もわたしの屋敷も、今では残欠の小径と繋がっておりますが、見たままとは違い、ある意味独立した空間でございますから」

 

 ほっとして、残っていた酒を一気に飲み干した。

 

「ここはいったい、どのような場所なのです?」

 

「ひと言でいうのは難しゅうございますが、敢えていうならここは辻の上に存在する庭であり、屋敷なのですよ。あらゆる道が交わる辻であるが故に、この世に存在する者であるなら、いかなる者もここを訪れる可能性があるのです」

 

「いかなる者も……ですか?」

 

「はい。悪しき者も、澄んだ者も己の存在を見失った者さえ訪れます。遠い昔には、本当に多くの者達が訪れたものです」

 

「今はどうなのです?」

 

「己の存在に迷う者が少なくなったのでしょう。訪れる者はさして多くありません。いいかえれば、己の中に曲げられぬ何かを持つ者が減ったということ。求めるものがないのなら、彷徨うこともないのですよ」

 

 理解しづらい話ではあったが、これ以上問うのはよそう。

 多くを求めすぎると、庭で遊ぶ風にさえ逃げられそうだ。

 

「本当は話したいことがたくさんあって、教えて貰いたいこともあったのに、何だかどうでもよくなりました。今だけは、どうでもいいことにしようって」

 

「お酒と庭があれば十分という時も、たまにはございます」

 

「また、ここへ来てもいいですか?」

 

「いつでもお越し下さい。求めるものが見つかるまで、わたしが宵酒の相手をいたしましょう」

 

 盃を片手に、静かにカナさんが目を閉じる。

 その横顔に、ぼくは静かに頭を下げた。

 胸のつかえを庭を通る風がついでに攫っていった、そう思える一時だった。

 




読んで下さった方、ありがとうございます。


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17 感情のない笑顔

 短めです(・・;)


 残欠の小径から足が遠退いて数日がたった。

 店が閉まってから特にすることもないぼくは、タザさんに付き合って隣町の雑貨屋にきている。

 タザさんは市場のリサーチなどといっていたが、手に持つなら手芸用品より機関銃が似合いそうなタザさんと、その子分てな感じの若い男が入るには肩身の狭い場所であることは間違いない。

 場の雰囲気から浮く気まずさを、感じるセンサーが欠如しているらしいタザさんは、女子高生の間を器用に歩いて顎を撫でながら一人頷いている。

 

「タザさん、まだぁー?」

 

 小物を見ている女の子達の視線が、チラチラと向けられるのが痛くてタザさんに声をかける。

 

「来たばっかりじゃねぇか。レースの紐とかビーズとかよ、買わなきゃならない物もあんだよ」

 

「レースの紐より鋼鉄のワイヤー、ビーズより手榴弾の方が似合ってるよ」

 

 ほんの軽口だったのに、タザさんの動きが止まった。

 

「あんなものは、手にしたって何も産み出さない。平和だ何だって綺麗事ぬかしても、所詮は人殺しの道具なんだよ」

 

「タザさん?」

 

 独り言のように呟いた自分の言葉に驚いたように、タザさんは表情を変えて慌てて胸の前で手を振る。

 

「考えてもみろよ、そんな物にくらべたら、ここにある物はいいぞ? 何しろ人を喜ばせるものを造りだせる」

 

「そうだね、ははっ」

 

 何かいってはいけないことを、口にしてしまったようだなと思った。

 考えてみれば、タザさんの過去なんてほとんど知らない。

 目立ちすぎるタザさんの側を離れて、カップ類がならぶ棚の前をぶらついた。

 こうしていたら彼女の誕生日プレゼントを選んでいる青年……くらいに思ってもらえないだろうかと微かな期待。

 

「いっやさー、ムカツクんだよね」

 

 後ろで買い物をしている女子高生の会話が耳に入る。

 

「うちもムカツいたー。おもいっきり嫌な顔してやったもん!」

 

「こっちは悲しくて泣いてるってのに、酷くない?」

 

「あの女さぁー、鉄仮面だからさ、なーんにも感じないんだよ、きっと!」

 

「そうそう、感情なさすぎ! うわべばっかへらへらしてさ!」

 

 賑やかにしゃべりながら、女の子達がレジへと向かい遠ざかる。

 何気ない日常の会話。ほんの少し愚痴をいいあっているだけ。

 なのに、耳にしたぼくの胸が騒ぐ。

 

「おい、終わったから帰るぞ!」

 

 振り向くとタザさんが買い込んだ荷物を手に立っていた。

 

「約束通り、ラーメンおごってよ」

 

「おう!」

 

「ぼくまで好奇の目に晒された苦しみは、チャーシュー大盛りで許す」

 

「お、おう」

 

 タザさんににやりと笑って見せながら、ぼくの胸のもやもやは晴れなくて、何が引っかかっているのかさえ解らないから、尚のこと胸がむず痒い。

 

 早く帰って創作活動に打ち込みたいタザさんの横で、大盛りチャーシュー麺をのんびりと食ってやった。

 噛んでいるのかさえ疑問に思える速さで食べ終わったタザさんが、ぼくの横でもじもじと足を組み替え、落ちつかなそうにしている様子が可笑しかった。

 大男がもじもじする姿は、気持ち悪いが面白い。

 喜々として店に戻ったタザさんだったが、戻った時の店の様子はとても喜べるような状態ではなかった。

 店の入り口のドアにはめ込まれたガラスが、粉々に割れていた。

 カシャカシャと音がする店内を覗くと、彩ちゃんがチリトリで割れたガラスの破片を集めている。

 

「彩ちゃん大丈夫! いったいどうしたの?」

 

 手を切るから避けろといって、タザさんが彩ちゃんからチリトリを取り上げ、ガラスを片づける。

 

「なんかね、商店街の通りを喧嘩しながら走っていた男の人がいて、恐そうな人達だったからみんな黙って見ていたの。そしたら、お向かいが店先に置いている椅子をぶん投げて、うちの店に見事命中!」

 

 へへっ、と肩を竦めて彩ちゃんが笑う。

 

「彩ちゃん、肩口が切れて血が出ているよ!」

 

 自分の肩をひょいと見て、彩ちゃんは大丈夫だとペロリと舌をだしてみせる。

 確かにそれほど深い傷ではなさそうだ。

 だが女の子がちょっと舌をのぞかせて、笑えるような傷でもないだろう。

 

「救急箱を持ってくるね」

 

 タザさんに後を任せて、ぼくは居間へと走った。

 

「救急箱はたしか、この棚の上っと」

 

 背伸びして救急箱を取り、中から消毒液を探し出す。

 消毒液を手にしたぼくは、その下から現れた絆創膏を見て、はっとした。

 ちょこまかと動き回る小花ちゃんが、膝小僧でも擦りむいたら貼ってあげようと、前に近所の薬局で買った絆創膏。カエルのイラストが入った絆創膏。

 

「小花ちゃんは、怒ったら膨れるし、嬉しいと笑う。悲しいと泣きそうな顔をするし、いつだって、自分の気持ちと表情が繋がっている」

 

 消毒薬を箱に戻し、救急箱をぶら下げてぼくはとぼとぼと彩ちゃんのいる店へと歩く。

 

「彩ちゃんは優しい。明るいし良く笑う。店の客相手に、可愛らしく文句もいう」

 

 彩ちゃんは感情表現豊かな子だと思っていた。

 でも違う。

 そんな風に振る舞っているだけではないだろうか。

 あんなに傷だらけになって帰ってきても、彩ちゃんが苦しそうにしている顔を見たことがない。

 痛いといったことがない。

 泣いたことがない。

 ぼんやりと歩くうちに、彩ちゃんの隣まできていた。

 

「消毒しようか」

 

「うん!」

 

 肩の傷口は浅い。幸い破片も残ってはいないようだ。

 カエルの絆創膏を、その傷口に貼った。

 

「ねえ彩ちゃん。店がこんな風に壊されたのに、怒らないの?」

 

 彩ちゃんは不思議そうに首を傾げる。

 

「うーん、だって偶然あたっただけだよ? 怪我した人もいないし」

 

 彩ちゃんの怪我は?

 

「警察に電話した? 修理代だって馬鹿にならないよ?」

 

「近所の人が連絡して、おまわりさんが来たよ。でも犯人が捕まるまで待っていたら、お客さん風が吹き込むところでご飯食べなきゃいけないから困るでしょう? ちゃんとね、ガラス屋さんに電話したから大丈夫だよ! 今日中には直してくれるって!」

 

 完全に話の争点がずれているよ。

 普通の人間が気にするのは、たぶんそんな事じゃない。

 

「彩ちゃんさ、大変だなって思うことはなに? 今一番の心配事」

 

「心配事? なんだろう……別にない!」

 

「そっか」

 

 黙って立っていろというタザさんを無視して、彩ちゃんもガラスを片付ける作業に戻ってしまった。

 救急箱を片手に居間へと戻り、ぼくはそのまま自分の部屋へと帰った。

 畳に腰をおろし、すっかり室温にまで温くなった買い置きのジュースを開けて口に含む。

 

「やっと野坊主がいっていた意味がわかったよ」

 

 独り言だった。

 

「小花ちゃんは本当に彩ちゃんの幼い頃の姿で、なぜかこの世に存在している。そして彩ちゃんが失った感情の一部を、あの小さな体の中にしっかりと抱えているんだ」

 

 なぜひとつの心が二つに分かれたのだろう。

 精神的な話なら、辛い思いをした人たちが多重人格になることもありうると聞いたことはある。

 でもそれでは、肉体まで別れた理由が説明できない。

 小花ちゃんが魂の存在だとして、それでもぼくはその小さな体に触れることができる。

 野坊主は決して、この部屋に入ってくることはない。

 まるで焦げ茶色の扉の向こうを覗かせまいとするかのように、体全体で小さな入り口を塞ぎ、小花ちゃんはその脇から出入りしている。

 覗いてはいけない世界が、広がっているのだろうか。

 今の心境では、ただの話題として聞くことさえ憚られる。

 自分の気持ちが落ちているのだろう。

 

「彩ちゃんは、小花ちゃんの存在を知っているのかな」

 

 逆もいえるだろう。小花ちゃんは、彩ちゃんから分身したのが己の存在であると、認識しているのだろうか。

 

「野坊主だけは、全てを知っているんだろうな」

 

 ぼくの気持ちを察してか、焦げ茶色の戸口が開くことはなかった。

 何でもお見通しの野坊主のことだ。

 どこかでぼくの独り言を盗み聞いて、余計なことを聞かれぬようにと身を潜めているのかもしれない。

 窓の外はすっかり暗くなり、ぬるいジュースも飲み干した。

 

――鉄仮面だからさ、なーんにも感じないんだよ、きっと。

 

 女子高生の言葉が頭を過ぎる。

 街灯の光しか差さない暗い部屋の中、ぼくは立ち上がった。

 残欠の小径へ、行ってみようと思った。

 

 

 




 覗きに来て下さった方、ありがとうございます(^^)


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18 見誤る存在

 真っ暗な居間を手探りで進み、本棚を中央からスライドさせると、格子戸に張られた障子から変わらぬ淡い明かりが差し込んだ。

 手に提げたビニール袋の中には、酒の小瓶が二本入っている。

 カナさんと呑むためのもので無いことが、ここに来てとても残念に思えた。

 格子戸を開け樫の板張りの廊下に足を踏み入れると、壁に背を凭れ両足を横へと流して座るカナさんの姿があった。

 風が悪戯に揺らす木の葉の音以外、何一つ音を持たないほど静かな庭では、時折景色が色を無くして見える気がする。

 色を無くしたように思えるくすんだ景色の中、カナさんのとび色の着物はひときわ美しく色彩を放っていた。

 格子戸の開いた音にこちらへ顔を向けたカナさんに、ぼくは少しだけ頭を下げる。

 

「残欠の小径へいこうと思います」

 

「響子に止められているのではなかったかい?」

 

 咎める口調ではない。呆れと諦めだけが口調に漂っている。

 

「響子さんに叱られない方法を、試してみようと思います」

 

「どのような?」

 

「どうやらぼくは、存在を垂れ流しているらしいですから、それを最小限にしようと思います。多少の影響はあるかも知れませんが、一度試してみようかと。これで何らかの迷惑をかけるようなら、当分大人しくするって約束しますから」

 

 カナさんはぼくから視線を離し、ゆっくりと目を閉じた。

 

「死ななきゃいいさ。好きにおしよ」

 

 少しだけ首を傾げて、眠ったように目を閉じるカナさんに、ぼくは黙って頭を下げた。

 

「存在を、どうやって消すつもりだい?」

 

 背を向けて歩き出したぼくの背後から、カナさんが声をかける。

 

「心を閉じればいいだけです。感情を押し殺すのではなく、水紋ひとつ無い湖面のようにするだけです」

 

 振り返らずにぼくは歩き出した。

 残欠の小径へと続く一本の道が、庭の奥に姿を現す。

 ゆっくりと歩きながら、半眼にした瞼の奥に浮かぶ家族の記憶に蓋をする。

 笑顔でぼくを呼ぶ、常連客や少ない友人の思い出にも蓋をした。

 シゲ爺のすっとぼけた表情も霞となって溶けて消える。

 タザさんと彩ちゃんの笑顔も、重厚な蓋の底に押し潰す。

 

「行こうか」

 

 むき出しの土の道に足を踏み入れ、半眼だった瞼を見開いたときには全てが胸の中で曖昧な霧となっていた。

 大切な人たちの表情も思い出せないほどに記憶が霧散したなら、無駄な感情も湧いてこない。

 残欠の小径へ入ろうとした目的だけは、はっきりと覚えている。

 ただ誰の為にその目的を胸に抱いたのかさえ、今はとても曖昧だった。

 目的の人物に会うために、ひたすら道を歩き続ける。

 こういう世界で情報を持っているのは、この地に根を張り姿を隠して生きている者達だろう。

 物陰に身を隠して生きる者達にとって情報が命綱であることは、何処の世界でも変わりはしない。

 ぼくは、蔦の絡む木の根元で足を止めた。

 

「今回は声をかけないのかい?」

 

 丈の長い草が、ぼくの声を受けてガサリと動いた。

 

「出ておいでよ。聞きたいことがあるだけだから」

 

 草が束となって真ん中から僅かに掻き分けられ、あの日と同じぎょろりとした目玉が覗く。

 

「ぼくが何処へいくか気になっているのだろ? なのに声をかけないなんて、君らしくないね」

 

 返事を返すことを躊躇うかのように、僅かな沈黙が流れた。

 

「俺じゃない。俺達だ。それに、何ていうか……前とは雰囲気が違ってな」

 

「そうかな?」

 

 ぼくは惚けて見せた。外からのどんな小さな刺激も、針となっていつ均衡を保った心理状態を崩されるか解らない。 

 相手を誘導する以外の言葉は、今は必要ない。

 

「ぼくは和也。君の名前は?」

 

「俺達は、ここの住人にですら真名は教えない。自殺行為に等しいからな。ましてや人臭い人の子になど、教えるわけがあるものか」

 

「でも名前がないと話しがしずらいな」

 

「草陰のギョロ目だ。みなそう呼んでいる」

 

「そうか」

 

 草陰のギョロ目は、いつでも逃げられるよう身構えたまま、草の向こうに身を隠しているのだろう。

 まるで逃げ足の速い草食動物だ。

 いち早く敵を見つけ出し、誰よりも先に遠ざかる。

 

「残欠の小径には、物を売る者もいるって聞いたよ。あと、情報を売る者も」

 

 警戒させただろうか。ぎょろりとした目玉が、草陰の奥へと少し引く。

 

「ここでは今、とんでもないことが起きているだろう? この間新しく現れた町へ行ったよ。奇妙な住人が大勢いた。それに、闇が落ちる期間も短くなったって」

 

「だからなんだよ」

 

「教えて欲しいんだ。この間ね、ここから少し離れた場所にある、ある人の屋敷の庭で、感じたから。隔離されたはずの空間に僅かに漂う、残欠の小径とも、あの町とも違う匂い」

 

「し、知らねぇな」

 

 微かに言葉の頭が強調されている。

 ギョロ目がいった知らない、は嘘だ。

 

「残念だな。まあいいや。時間がかかるのが嫌だっただけで、探すことは不可能じゃないよね。この酒と交換にと思っていたが、無理強いはできないし」

 

 ふらりと数歩足を進めると、真横の草むらから声がかかった。

 

「酒って、どんな酒だ?」

 

 引っかかったな。

 

「まぁ、ぼくの世界ではありふれているけれど、残欠の小径で手に入れることは難しいかも。そう思って持ってきたのだけれど、情報料としては不適切だったね」

 

 三歩以内に声がかかる。

 数えながらぼくは、ゆっくりと歩みを進める。

 一、二……三。

 

「待て!」

 

 かかった。

 

「なに?」

 

「話しくらいは聞いてもいい。商売になるなら、話くらいは聞く」

 

 ぎょろりとした目玉が、右に左に忙しく動く。

 

「新しい空間が、残欠の小径に現れたのでは?」

 

 ぼくは酒瓶の入った袋を、さりげなくギョロ目の視線の高さまで持ち上げた。

 

「確かにそうだ。ただし、あの町とは違ってな、空間と呼ぶにはあまりにも限定されたものだがな」

 

 てっきり別の町が現れたとばかり思っていた。

 もっと小さな村だろうか。

 

「町でも村でもない。現れたのはたった一人の男だ。古くせえ小屋と共に急に姿を現した。中年絡みの男だが、妙な連中の集まったあの町と違って、あの男は普通なのさ。それが返って気味悪りぃいったらありゃしねぇ」

 

 ギョロ目が身を震わせたのか、ざわりと草が穂先を揺らす。

 

「普通ねぇ」

 

 ぼくは酒瓶を一本袋からだして、ギョロ目の潜む草の中へと投げ入れる。

 

「もう一つ教えてくれないかな?」

 

「答えられることならな」

 

 草陰で酒の値踏みをしている気配がする。

 ぼくは口元だけで微かに笑った。

 

「その男がここへ来たとき、君たちがいうところの幼稚な破壊者は姿を見せていたのかな?」

 

「余計なことまで知っていやがる。まあいい。幼稚な破壊者は今回は関わっていないだろうよ。あいつが残欠の小径に紛れ込んだってな噂は、俺達の耳にも入っちゃいない」

 

 ぼくはひとり小首を傾げた。

 

「それなら、その男は幼稚な破壊者の存在が、境目をあやふやにしてしまったから此処へ紛れ込んだのではないね。自力でここへ来たということになる」

 

「理屈は通らないが、そうなるな。まったく、平和な場所だったのに、面倒な奴ばかり紛れ込む」

 

 残りの酒瓶を、袋ごと草むらに放り込む。

 

「その男がいる場所へは、どう進めばいい?」

 

「一つ目の三つ叉で右へ行け。あとは、川に辿り着くまで真っ直ぐだ」

 

「ありがとう、助かったよ」

 

 返事することなく、草陰のギョロ目が去っていく。

 押し分けられていた草は閉じ、ただ真っ直ぐに物言わぬ植物として茂っている。

 

「けっこう疲れちゃったな」

 

 途中に背の高い草や、先を塞ぐ蔦が絡まっていても、ぼくはギョロ目に言われたとおり真っ直ぐに進んだ。

 それほど歩かずに三つ叉に辿り着き、迷わず右の道へと進んでいく。

 草陰のギョロ目は他人を惑わすことはあっても、取引が成立している限り、嘘の情報を教えることはないだろう。情報を扱う者は、何よりも信用がものをいう。

 

「こんな所で閉じた蓋が開いたりしたら、誰かさんに怒鳴られそうだ」

 

 それが誰なのか、意識の表層に浮かんできはしない。

 誰かさんの面影が脳裏にちらつくなど、己にかけた暗示が解け始めている証拠に他ならなかった。

 

「持つかな……」

 

 暗示を保つために、ぼくの表情は仮面を被る。

 ほどなくギョロ目がいっていた川が見えてきた。ゆったりと流れる川は、所々に飛び出た岩で流れる水が割られ、再び巡り会っては流れていく。

 石原が広がる河原は左右に続いていたが、小屋らしい物は見当たらない。

 少しだけ体を休めようと、ぼくは川辺の岩に腰をおろし、揺らぐ川面を見つめて雑念を払おうとした。

 少しでも気を抜いたなら、押し込めたはずの何かが、開いた手から浮かび上がるアワのように姿を現しそうなほど、気力がすり減っているのを感じずにはいられない。

 

「引き返して、出直そうか」

 

 思いを口にした、その声に重なるように辺りが暗くなった。

 必然的に空を見上げる。

 

「鴉、鴉の群れだ」

 

 変わることなく薄ら青い空を、黒く埋め尽くす鴉の群れだった。

 闇が落ちる前に、鴉の大群が空を覆うといったのは誰の言葉だったか。

 

「とにかく、不味いな」

 

 鎌首をもたげた不安を、深呼吸と共に無理矢理押さえつけた。

 不要な感情の起伏は、今の自分の心を揺さぶる凶器でしかない。

 

「くそ!」

 

 立ち上がるとそれだけで視界が揺らぐ。

 揺らいだ視界の中に、ぼんやりと人影が見えた気がした。

 重い鐘の音が響いて、ぼくの頭の中をかき乱す。

 鴉の群れが造りだした暗がりとは違う、漆黒の闇が降りようとしていた。

 

「やっと会えたな」

 

 険を含んだ幼い声が、耳の奥に木霊した。

 刻々と空気が闇に染まろうとする中、数メートル先に立っている男の子。

 つんつくてんの縦縞の浴衣は、薄暗がりの中でも見てとれる。

 同じ姿ではあっても、あの時の子とは違う。

 発せられたたったひと言と、微動だにしない立ち姿に本能が警鐘を鳴らす。

 

「鬼神なのか?」

 

 ぼくの言葉に、人影はくくっ、とくぐもった笑い声を立てる。

 

「たしかに、わたしのことを鬼神と呼ぶ者は少なくない」

 

 心臓がどくりと打った。

 予想の範疇に入れておくべきだった。予期しなかった危機に、心が完全に己の手綱を断ち切り、そこ此処から閉じ込めたはずの蓋が開いていく。

 

「わたしに美学はない。獲ようとする者を得ることこそ全て」

 

 子供の姿を被った鬼神が、小さな右手を川面にかざす。

 川面が騒ぐほどの風が走り、漆黒の闇に包まれる筈のこの場が、淡い灯りで照らされる。

 川面から少し浮いたところに、ゆらりと揺らぐ橙の火の玉が数個浮かんでいた。

 川面へと向けられていた手の平が、瞬時にぼくへと向けられた。

 

「惜しいと思わぬでもないが、取り込むなどという愚行はさけよう」

 

 殺されると思った。

 

「死ぬわけではない。存在が霧散するだけのこと」

 

 幼さの残る顔の中、瞳だけが狂気を宿して鋭く光る。

 殺されていただろう。

 記憶の蓋が開いていなければ。

 

「逝け!」

 

 霧散していた、大切な人達の顔を思い出さないままだったなら。

 

「少しばかり遅かったようだな、鬼神よ」

 

 口の中だけでぼくは呟いた。

 次の瞬間、ぼくは鬼神の目の前にいた。

 鬼神がぼくを認識するまでのずれ、その隙間がものをいう。

 ぼくが鬼神へ言葉を吐き捨てようとした時、見知らぬ男の怒声が背後から飛んだ。

 

「何をしている! 早く中へ入れ! 死ぬぞ!」

 

 思わず振り向いた先には、そこには無かった筈の小屋の入り口に立つ男の姿があった。

 鬼神の手の平が、見知らぬ男へ向けられる。

 ぼくは鬼神の腕を掴んでぐいと顔を寄せた。

 

「いつだってそうだ。みんな、ぼくの存在を見誤る」

 

 次の瞬間ぼくは見知らぬ男の襟首をつかみ、小屋の中へと引き込んでいた。

 いや違う、瞬間の出来事に思えるだけ。

 ある意味、それはまやかしだから。

 叩き付けるようにドアを閉めた。

 

「すみません。勝手に入っちゃいました」

 

 男は唖然とした表情でぼくを見て、それから大声で笑った。

 

「この場所に惹かれたのは君の所為か。これは面白い」

 

 訳がわからないまま、ぼくは曖昧な笑いでごまかした。

 この時すでに、ぼくは記憶を元に戻し自分を取り戻していた。

 誰かに迷惑がかかっていなければいいけれど。

 これで残欠の小径に勝手に入ったことは、簡単に響子さんの知るところとなるだろう。

 何発くらい殴られるんだろう。そんな不安しか浮かばないや。

 ぼくは響子さんがいうところの、アホで馬鹿正直でモテない男に完全に戻っていた。

 

「闇が明けるまで、少し話しませんか?」

 

 ぼくの言葉に、男は目尻にシワを刻んで優しく頷いた。

 

 

 

 




読みに来て下さった方、ありがとうございます!
これからも、地道にがんばりますです! はい!


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19 水月 鬼神を追う者

 小屋の中は外見通りの小さな物だった。

 すっかり乾ききった灰色の木板を打ち付けただけの壁に、六畳ほどの狭い板の間。

 どう見ても手作りのベットの横に、四角いテーブルと椅子がひとつ。

 小さな流しには、薬缶がひとつ置かれている。

 木箱がひとつあったがそれ以外の家具は見当たらず、質素といえば聞こえはいいが、人が生活する空間にしてはあまりに物がなさ過ぎた。

 

「貧乏くさいだろう?」

 

 さしてそうも思っていないような口調で男がいう。

 目尻にシワを刻んで笑う様が、この状況を恥じていないのだと物語っていた。

 

「いえ、こざっぱりした部屋だなって思っただけですよ」

 

 物は言い様だな、と男は声を上げて笑った。

 男にすすめられるまま、木で造られた丸倚子に腰をおろすと、男は向かい合ってベットの上にどかりと座る。

 それほど体格がいいとはいえなが、かといって普通に暮らしている男の体ではないと思った。

 余計な肉が削がれて、必要な動きをこなす筋肉を纏う体といったとこだろうか。

 

「どうしてここへ来た? 河原に姿を現したとき、何かを探すようにきょろきょろとしていただろう?」

 

 男からは、ぼくが見えていたという事実に驚いた。

 男の声が聞こえるまで、ぼくには何も見えていなかったのに。

 

「たぶんあなたを捜しに来たのだと思います。ぼくは空間として隔離されている筈のある場所から、あなたの存在を感じたんです。唐突に現れた気配でした。微かに感じるすきま風のような感じでしたが、異質だった。何がといわれると返答に詰まります。ただひたすらに異質だったとしかいいようがない。この小径に存在する何者とも、あなたの存在は被らない」

 

 真っ直ぐにぼくを見て耳を傾けていた男は、強い眼差しをそのままに、口元だけに僅かな笑みを浮かばせた。

 

「異質なのは、どうやら俺だけではなさそうだが?」

 

 茶を入れる、といって立ち上がった。

 

「外で会った男の子ですが、まだ外にいるのでしょうか?」

 

「どうだかな。だが今のあいつに、此処へ入ってくることはできないから安心していいよ」

 

 背を向けたまま男が答える。

 いつの間に湧かしていたのか、カップに注がれる湯から白い湯気が立ち上っている。

 木箱の陰からでてきた小さな白い生き物を見て、ぼくは思わず顔がほころんだ。

 真っ白い小さな子猫は、細い声でミャと鳴いた。

 

「かわいいだろう? ここに来る前に拾ったんだ。置いて来ようと思ったんだが、このボロ小屋のどこを気に入ったのか、すっかり居着いてね。ふらりと何処かへ行っても、必ず戻ってくる。チビのくせに風来坊なやつ」

 

「可愛いですね。名前は?」

 

「チビ! だってそれ以上大きくならないんだ。成長しないで、チビのままさ」

 

 カップを手に戻ってきた男を綺麗な緑の瞳でちょっとだけ見上げ、チビは木箱の後ろへ戻っていった。

 

「苦いが体にはいい。普段は客など来ないから、自分が普段から飲んでいるものしかない。悪いな」

 

 出されたカップの中には、透明な黄色いお茶。

 匂いがないことに安心したぼくは、一口含んで喉の動きが完全に止まった。

 飲み込めない液体を口の中に溜めたまま、悶絶に目だけが見開かれていくのが自分でもわかるほどに、壮絶な苦みを伴うお茶だった。

 

「苦いだろう? でも飲んだ方がいい。俺達みたいな者には必要な苦さだから。どんな成分がそうさせるのかは知らないけれど、存在を安定させてくれる」

 

 俺達みたいな、という言葉に驚いた拍子に、苦い液体が勝手に喉の奥へと流れていった。

 げほげほと噎せ返るぼくを見て、男が楽しそうに笑う。

 

「焦って飲んで気管に入れるなよ。一滴でも吸い込むと、痛くてたまらん」

 

 早く言って欲しい。すでにもう、一滴以上吸い込んだ。

 

「俺達っていうのは、どういう意味ですか? ぼく達に何か共通点が?」

 

 男の視線は真っ直ぐで、何もかも見透かされそうな気がして居心地が悪くなったぼくは、少しだけ視線をはずす。

 

「文字通り俺達だよ。人と人、妖怪と妖怪、霊だってひとくくりにできる。そして俺と君は、間違いなく一括りの存在だ。噂には聞いていたが、会ったのは初めてだよ」

 

「どういうことでしょう?」

 

「残欠の小径と呼ばれるこの世界と、似通った空間は数多存在する。そこのどこかで産み落とされた者。ほとんどの者が産まれる前に命を落とす中、命を得てしまったのが俺達だ。すでに知っているとばかり思っていたが?」

 

 そうだぼくはその事を知っている。

 現実味を伴わないまま、聞いただけの知識として。

 

「ある人から聞いてはいました。でもぼくはどういうわけか、人の子が育つ世界で育てられました。親も気付かないうちに、本物の子供とぼくが入れ替えられていたという、嘘みたいな話です」

 

「どうりで、こっちの世界の匂いが薄いとは思ったよ。それでも気配が放つ匂いでわかる。同類だってね」

 

 まるでこのコーヒー香りが薄いな、とでもいうような軽い口調。

 

「あなたもこちらの世界で生まれたと?」

 

「そうだよ。育ち方は違っても、君も同じ。成長段階でそれを知ることができなかった分、君の方が辛いかも知れないね。俺は、水月。昔誰かが付けた呼び名だよ。水に映る月に、実体は無いからだとさ」

 

「西原和也といいます」

 

 実体がない存在。そんなつかみ所のないものが、ぼく達の正体なのだろうか。

 

「どうして残欠の小径に? といういより自由に空間を行き来できるのですか?」

 

「完全に自由というわけではないさ。和也……でいいかな? さっき外で鬼神と呼んでいただろう? あいつの通った道であれば、どの空間でも行くことは可能らしい。ぼくが縛られている理だね」

 

 水月は鬼神の存在を知っていて、残欠の小径にやってきたというのか? 

 縛られている理、存在を縛る理。だったらぼくは、どんな理に縛られているのだろうか。

 

「水月さんのように、自分の事をわかっている人が羨ましいです。ぼくは、自分の事ととなるとさっぱりわからない。育ての親とは縁を切りましたし、生みの親なんて、生きているかどうかもわからない」

 

 水月は真っ直ぐに見つめていた視線をふっとはずした。見逃しそうな僅かな変化を、ぼくは見ない振りをする。

 知らなくてはならない事はあっても、余計なことは知らない方がいいことを、残欠の小径でぼくは学んでいた。

 

「俺は鬼神を追ってここへ来た。奴には、どうしても聞きたいことがあってね」

 

「鬼神に聞きたいことですか?」

 

「聞きたいと行っても、俺以外の者には何の必要もない情報さ。惑わすために奴が迷路のようにつけた痕跡を辿って、やっとここに居ることを突き止めた。鬼神の気配に表にでたら、和也がいたってわけ」

 

 そうだ、もう一つ疑問に思っていたことがある。

 

「この河原へきたとき、この場所に小屋は建っていませんでした。なのに水月さんは、最初からぼくが見えていた。どうしてですか?」

 

 水月は少しだけ伸びた無精髭を手の平で撫でながら、言葉を選ぶように唇を舐めた。

 

「和也のことを自分と同じだといいながら、正直なところ本心では存在を計りかねている。そんな俺に聞いても、的を得た答えは出てこないぞ?」

 

 思ったことで構わないからと、ぼくは先を促して小さく頷いた。

 噎せ返るほど苦い茶を旨そうに飲みながら、水月は息を吐く。

 

「この河原へ姿を見せた時の和也と、今目の前にいる人物は同じようで何かが違う。強いて言えば、此処にいる和也には感情や心があるが、初めて見た時の和也はただの器に見えたな。見えていなかったのだから仕方がないが、君が気付く前から、俺は何度も呼んでいたのだよ?」

 

 ただの器、空っぽの器。

 感情の抜け落ちた、ぼくという名の抜け殻に水月は会ったんだ。

 

「故意にあの状態の自分を保っていたのなら、あまり進めないな。ただの感だが、いいことは無いように思える。まあ、必要に迫られていたのだろうけれど」

 

 水月は、会ったばかりのぼくを理解しようとしてくれている。

 全てを否定することなく、全てを肯定もせず、道だけを示してくれる。

 

「そうかもしれません。実験だったから。ぼくがぼくのままで残欠の小径に入ると、多くの人達に迷惑をかける。何かいい方法はないかなって、ただそれだけだった」

 

「迷惑か」

 

 水月は呟くと、乾いた木板の壁の向こうへ視線を向け、すっと眼差しを細める。

 

「どうやら、迷惑なだけではなさそうだが?」

 

 にこりと笑った水月の顔は、本当に嬉しそうだった。

 友人はいるのだろうか。

 家族はいるのだろうか。

 どんな風にどれだけの覚悟を持って生きたなら、こんな笑顔で笑えるようになるだろう。

 

「お客さんだよ」

 

 水月が立ち上がると、すぐに入り口のドアが叩かれた。

 水月の手によって開けられたドアの隙間から、すっかり見慣れた青みがかった灰色の空が覗く。

 いつの間にか、闇が明けていた。

 闇が明ける時間が早過ぎやしないだろうか。

 そんなぼくの思いをよそに、水月は入り口で誰かと話している。

 

「どうぞ」

 

 家主に促されて入ってきたのは、無駄にスタイルのいい足を太もも辺りまで露わにし、黒のタイトスカートをぴたりと腰にはりつけた響子さん。

 

「知り合いが邪魔をしたようで、迷惑をかけたな」

 

 穏やかな口調とは裏腹に、ぼくを見る響子さんの目は完全に据わっている。

 そうか、残欠の小径に勝手に入ったのがばれたのか。

 最悪の事態勃発である。

 彼に聞きたいことが、まだ沢山残っているのにな。

 

「響子さん、あのさ」

 

「アノもクソもない! とっとと帰るぞ、この真面目だけが取り柄のクソガキが!」

 

 反論する間もなく、響子さんの細く白い指で耳を鷲づかみされた。

 

「い、痛いって!」

 

「上等じゃないか」

 

 握っていた指に捻りが加えられた。もはや拷問だ。

 

「ち、千切れるって! 響子さんてば!」

 

 涙目のぼくなど完全に無視して、響子さんは水月の前で立ち止まる。

 

「礼は改めて。まだここに留まるのだろう?」

 

「ああ、此処にいるつもりだから、いつでもどうぞ」

 

 頷いて響子さんは歩き出す。

 

「水月さん! わっ、痛って! ありがとうござ……千切れるって!」

 

「またおいで!」

 

 引き摺られるゴミ袋と化したぼくを見て、水月は笑いながら手を振っている。

 いくら耳の痛覚が少ないといっても、物には限界があるのだ。

 耳の奥まで届く痛みに、ゴミ袋の意識が引いては寄せるぞ。

 響子さんはぼくを引き摺りながら、ずっと文句か説教を止まることなく叫んでいたが、ぼくの耳にそれを聞く聴力はもはや残ってなどいない。

 絶対鼓膜が伸びている。

 絶対だ。

 森の中をぐだぐだに引き摺られながら、ぼくは背後からずっとついてくるそれに気を取られていた。

 水月の小屋にいた白い子猫が、ちょこまかと短い足を必死に動かしついてきている。響子さんに知らせたくても、脳内噴火中の彼女に聞こえるとも思えなかった。

 

「まずい、痛みに幻覚が見えてきた」

 

 後ろから必死でついてきている子猫が、まん丸い白い毛玉となって転がっている。まるで走るのが面倒だからとでもいうように転がる、まん丸い毛玉。

 

「響子さん……もう……だめ」

 

 靄がかかり始めた意識のなか、弱々しいぼくの言葉は敵のように土を踏み進む響子さんの足音に完全に掻き消されていた。

 

 

 

 




 覗きにきてくれた皆様、ありがとうございます!
 次話は明日か明後日には書けると思いますので、よろしくお願いします(^O^)
 では!


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20 空っぽの器

 ぼくの体は蛇腹のリズムを刻んで、軽快に波打っている。

 それに伴う痛みのせいで、もはや意識を失う自由さえ失った。

 階段を肩から先に下るという荒行に身を任せているのは、耳を捻りながら握りつぶす響子さんが、その手を離すことなくずんずんと階段を下りているからだ。

 知っているかい響子さん、階段落ちというのはたとえ作られた映画の中でも、訓練された本職の人がやるものだってこと……。

 

 ドスン

 

 鈍い音を立て豪奢な居間に、ぼくは俯せ大の字のまま放り投げられた。

 

「和也さん!」

 

 驚いた声をあげ、駆け寄ってくる蓮華さんの足音が響く。

 

「まあ」

 

 驚きを一瞬にして哀れみの色に塗り替えたのは、自分でもコントロールできない完全に裏返った白目のせいだろう。

 

「いったよな、数日はここに入ってくるなと」

 

 はい、いいました。確かに聞きました。

 

「返事もなしか? 大きな変動が起きなかったからいいようなものの。ただの阿呆かと思っていたが、考えなしの阿呆か? おまえの阿呆加減は底なし沼間か!」

 

 すみません。返事? したいですよ。でもね、今ぼくの口は辛うじて、何とか呼吸をするためにあるんです。生命維持のために存在しているんです。しゃべる余裕なんざありゃしません。

 

「響子様、生身の人間相手にやり過ぎです。確かに和也様も悪い所はありましたが、大人の対応ではありません。ふふ、少しは手加減を……ふふ、しないと」

 

 笑ってる、蓮華さんまで笑っている。残欠の小径に残る、最後の良心であるはずの蓮華さんが。今完全に、ぼくは味方を失った。

 

「蓮華、そのまま放っておけ! 与太れ過ぎて、床を拭く雑巾にもなりゃしない!」

 

 阿呆から雑巾見習いに格上げか。いや、格下げか?

 ぴくりとも体を動かせないのは、響子さんに引きずり回された所為だけではない。原因ははっきりとしている。河原で鬼神に会ったとき、ぼくは自分の存在を奴に認知させた。

 体中の毛穴から力が抜けていく感覚の、主な原因はそれだ。 

 体の芯が砕けたようになる。

 直後に来る場合もあれば、今回のように時差をつけて襲う脱力。

 

 ミャ

 

 白い子猫の声がする。とうとう響子さんの家の中にまで入ったのか。

 響子さんに追い出されなければいいけれど。

 

 ミャ

 

 カナさんの庭にいるシマとは違って、まだ幼さの残る小さな鳴き声。

 頬をぺろりとされた感触が走る。

 白い子猫が自分を舐めている感触だと気づくのに、少し時間がかかったくらい、ちょろっとだけ舐めたらしい。

 犬が人の顔を舐めるのは知っているが、猫は舐めたりしないだろう、そんなことを思ってふっと笑った。

 息を漏らす程度にだが、笑えた自分にはっとした。

 開けた目に力を込めて焦点を合わせると、白い子猫が緑色した綺麗な目でぼくを見ていた。

 警戒する気すらないのか、子猫はころりと仰向けになって、自分の手を舐め始める。

 腕に力を込めて半身を起こしてみた。

 全身が軋んだが、それは響子さんに引き摺られた後遺症にすぎない。

 いわゆる、普通の傷と痛み。

 消えていた。

 存在を認識させた後に襲う、あの脱力感が体から完全に抜けている。

 

「ありえない」

 

 呟いた。

 

「思ったより早く起き上がったな。どうした? そんな難しい顔をして」

 

 放心とも困惑ともつかぬ表情で目を見開くぼくに、響子さんが歩み寄る。

 

「こんなこと、あるはずがないのに」

 

「何の話だ?」

 

 ぼくは真っ直ぐに響子さんを見て、しゃがみ込んでぼくの顔を覗き込むその腕を強く握った。

 

「さっきまでの、ぼくの状態を見ていたでしょう? こうやって体を起こして普通に話せるなんて有り得ないんだ! 少なくともあと半日、下手をすれば丸一日はまともに話すことさへできないはずなのに。ぼくは今、こうして普通に話している」

 

 ぼくの様子に異常を感じ取ったのか、響子さんは腕を掴むぼくの手をゆっくりと引き剥がし、僅かに目を細める。

 

「どういうことだ? 解るように説明しろ」

 

 蓮華さんが肩を貸してくれたおかげで、ぼくは何とか倚子に辿り着くことができた。足はまだ震えを残している。それでも、自力でここまで歩けた異常。

 

「水月さんの小屋が建つ河原で、鬼神と会った」

 

 響子さんは表情を変えずに頷いた。

 

「鬼神が姿を現したという噂は、すでに残欠の小径全体に広がっている。まさか、和也の元に現れていたとはな」

 

「鬼神は、ぼくを取り込むような愚行は犯さないといいました。ぼくを殺そうとした。だから逃げる隙を作るために、鬼神にぼくの存在を認知させたんです。一度目の認知で鬼神の目の前に迫り、その直後に水月さんの姿を見つけて、そこまで移動する隙を作るために再び鬼神に認知させた」

 

「認知?」

 

「はい。ぼく自身も上手くは説明できないけれど、自分の中で感情を喚起させるような記憶を全て封印し、今動いている目的だけを頭の隅に残しておく。その状態のぼくという存在を相手にぶつける……という感じかな」

 

「それでどうなる?」

 

「認知させられた相手は、ぼくを見失う。そこに隙が生まれる。ただそれだけのことです。でも他人に自分を認知させた後は、体力と気力の消耗が激しくて、それが直後に訪れるか、今回のように時差を持って訪れるかはわからないけれど、とにかく、身動きできないほど自分の中の何かを削がれる」

 

「なのに和也は動いている」

 

 ぼくは強く頷いた。

 

「この体に残っているダメージは、響子さんに引き摺り回された擦過傷と打撲だけです。それだって、けっこうな傷手ですけどね」

 

 肩を揺らして響子さんが笑う。

 蓮華さんが温かい紅茶を持ってきてくれた。

 一度嗅いだら忘れられない、ほっとする香りが立ちのぼる。

 

「和也さんは、その能力に前から気付いていたのですか?」

 

 蓮華さんの問いに、ぼくは曖昧に首を傾げた。

 

「これが特殊なことだと気付いたのは、ここへ来ていろいろな人と会うようになってからだと思います。幼い頃は無意識に使っていました。結局は思いに反して母親の機嫌を損ねてしまいましたけれどね」

 

 幼い頃は母親に構って欲しかった。自分を見て欲しかった。だからお母さんは自分を嫌いなのかな? という感情に蓋をして、満面の笑みで母親に近づいた。   そして直後に倒れていたのだから、まったく世話の焼ける子供だ。

 母親にしてみれば、迷惑以外の何ものでもない。

 薄気味悪いことしか言わない子供が、満面の笑みで近づいてきて、ほんの一瞬目眩を起こした瞬間に、子供が床の上に倒れているのだから。

 あの頃は思いもしなかったが、ぼくが己の存在を母親に認知させるということは、母の子供であるという紛い物の皮さえぬいで、本来のぼくを晒すということ。 その存在は実の子を失った母の心の深部を、幾度も抉ったことだろう。

 

「ということは、得体の知れない能力であると薄々感じながら、意図的にそれを使ったのは最近ということになるな」

 

「彩ちゃんを助けにいって、響子さんが迎えに来てくれた日のことを覚えている?」

 

「ああ」

 

「あの日、鬼神の信望者だという二人の目を欺くために、初めて故意に能力を使った。彩ちゃんは、ちょっとだけその余波を受けちゃったけれど」

 

 考え込むように目を閉じた、響子さんにつられてぼくも黙った。

 壁時計の音だけがチクタクと響く中、蓮華がぼくの体に残る生傷を、丁寧に消毒してくれている。

 白い子猫のチビは、同じ場所でまだころころと自分の手で遊んでいた。

 

「水月は知っているのか?」

 

 響子さんが問う。

 

「話したよ。感情に蓋をしたぼくを見ているからね。その時のぼくを見て、水月さんは器のようだったと喩えていた。故意にやっているなら、あまり進めないともいっていた。たしかに、あの状態のぼくは、傍からみたら空っぽの器だから」

 

 感情も思い出もない、入れるものを持たない空の器。

 

「この目で見ていない以上は何とも言えんが、体力と気力があそこまで削がれるなら、良いことではないのだろうよ。それにしても、急に元気になった原因はなんだ?」

 

「さあね。目星はついているけれど、確信がないから公表は保留」

 

 生意気だ、といって響子さんのつま先がふくらはぎに食い込む。

 

「痛いっての!」

 

 怪我の手当をする蓮華さんと怪我を増やす響子さん、迷コンビだな。

 

「もう歩けるな?、手当が終わったらさっさと帰れ」

 

「はいはい」

 

 立ち上がった響子さんが、ふと立ち止まる。

 

「忘れるところだった。あの町で会った男と繋ぎが取れた。意識を保っている者を集めてくれるそうだ。日取りが決まり次第連絡する。それまでは、死んでもここへ来るんじゃないぞ」

 

 響子さんに額を指で小突かれ、ぼくは大人しく頷いた。

 

「それとな、わたしは利口で立派な空っぽの器より、脆くて阿呆の欠片が山ほど詰まった器の方が、断然好きだ」

 

 口の端でにやりと笑って、響子さんは階段へと向かう。

 ぼくは少しだけ、心の中が泣きそうだった。

 

「ところで、この子猫は和也さんの猫ですか?」

 

 いつもとは違う調子の蓮華さんの声に我に返る。

 子猫に触れることなく、興味津々といった感じで眺めている蓮華さんは、まるで小さな女の子みたいだ。

 

「いえ、水月さんの所からついてきてしまっただけです。名前はチビ。自由に出歩く子猫らしいから、ぼくと一緒に外に出してやってください」

 

 蓮華さんはこくこくと頷きながら、視線だけはチビに釘付けになっている。

 触りたいけど触れない、どうしよう可愛い! そんな心の声が聞こえそうな表情をしていた。

 響子さんと一緒に外に出ると、当たり前のような顔をしてチビもついてきた。

 名残惜しそうな蓮華さんに手を振って、ぼく達は歩き出した。

 蓮華さんが持たせてくれた、焼き菓子の入った袋から甘い香りがする。

 考え事でもしているのか、どんどん歩いて行ってしまう響子さんの背中を眺めながら、短い足を全力で動かしながらぼくの横を歩くチビに目をやる。

 

「チビ、おまえだろう?」

 

 響子さんに聞こえないように囁く。

 

「ぼくの頬を舐めて、何をしたんだい? ずいぶんと調子が良くなったけれど」

 

 ほんの少しチビの白い毛がぶわりと逆立ったのを、ぼくは見逃さない。

 

「チビ、ありがとうな」

 

 今度は目に見えて、毛が一気に逆立った。

 短い足をピンと張り、一瞬硬直したチビはころころと逃げ出した。

 

「幻覚じゃなかったのか」

 

 思わず口元がほころんだ。白くてまん丸い毛玉が、響子さんの背を追って転がっていく。いったいチビが何者なのかは謎のまま。

 

「可愛いからいいか」

 

 危険なものへの警戒ランク付けが、明らかにずれてきたと自分でも思う。

 ころころと転がっていたまん丸い毛玉が、ひょいと跳ね上がり子猫の姿に戻った。

 響子さんが、草むらの横で立ち止まっている。

 仁王立ちで腕を組み、草むらを睨み付ける響子さん。

 チビはさっさとぼくの隣に逃げてきた。

 

「お前達だろう? クソ真面目な青年に、余計な事を吹き込んだのは」

 

 草むらがごそりと動く。

 

「余計なことはいわないように、その口をがっちり縛っておくんだね!」

 

 響子さんが歩き出す。

 その後をチビも、ちょこちょことついていった。

 

「大事なのは商売だろう?」

 

 小声でいって、蓮華さんに貰った焼き菓子を、ぼくは草むらに投げ込んだ。

 袋を拾って遠ざかっていく気配がする。

 響子さんが振り向く前に、何食わぬ顔でぼくは歩き出した。

 あの焼き菓子は、ギョロ目への賄賂だ。

 また次ぎも頼むぞ、響子さんの言葉は忘れろ、という賄賂。

 ギョロ目の情報網はいつか必ず役に立つ。

 ギョロ目は商売を一番に考えるだろう。金にならない脅しより、商売になる客の方がいいに決まっている。

 たぶんね。

 チビがころころと毛玉になって転がっている。

 響子さんに見つからないように、元の姿に戻るタイミングは絶妙だ。

 

「シマと喧嘩にならなければいいな」

 

 一人息を吐いて、ぼくは響子さんの背を追いかけ走った。

 

 

 




 読んで下さった皆様、ありがとうございます。
 次話も読んでもらえますように。
 では!


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21 空の器に残るもの

 カナさんの庭までぼくを送り届けて、響子さんは段取りを決めるからと足早に帰っていった。

 ついてきてしまったチビを見て、カナさんは口元を綻ばせ、陽炎は最高のおもちゃを見つけたと言わんばかりに駆け寄った。

 チビに逃げる暇も与えるずに抱きかかえて、とろけそうな笑顔で頬ずりしているう。

 

「響子に怒られたのでしょうよ?」

 

 心配ではなく明らかに楽しんでいる口調で、カナさんがいう。

 

「かなり怒られていたと思いますが、ほとんど聞こえませんでした。響子さんは人の耳を手綱か何かと勘違いしてますよ。いま両耳が千切れていないのが奇跡です」

 

 美しい顔に笑みを浮かばせると、カナさんはまるで天女のようだと思った。

 

「あの白いのはチビといって、残欠の小径で出会った、水月という男性の住む小屋に居着いています。放浪癖のある子で、どうしてかぼくに付いてきてしまいました」

 

「チビという名なのですね? まあ、かわいらしいこと。和也様、この子は和也様がお住まいに連れて行かれるのですか? それとも和也様がお戻りになるまで、この庭で遊ばせておいてもよろしいのでしょうか?」

 

 陽炎は、興奮のあまりものすごい早口になっている。

 陽炎がぼくを見ている隙に、チビはするりと手の中を抜けだした。

 

「ぼくはいいのですが、シマがどう思うかな? 何しろ、チビは普通の猫ではないようなので」

 

 腕組みしてチビを見ると、小さな目でぼくを見上げてくる。人情にかわいさで訴えようとする、小さな命の恩人め。

 

「噂をすれば、この庭の主がやってきたようですよ」

 

 カナさんの声に庭を見渡すと、草陰から灰色の毛を纏ったシマが姿を現した。

 飯を貰うとき以外に姿を現したことのないシマが、離れた所でぴたりと足を止め、チビの姿を目にしてざわりと毛を逆立てた。

 異質な匂いにつられて出てきたものの、予想していた者とは違っていたのだろうか。

 

「自分に似た存在が現れて、驚いているのだろうねぇ。シマはこの庭を訪れる者を選り好みいたします。はて、シマはチビをどうするやら」

 

 友好的な出迎えとはいえなかった。

 危険を察知した猫が、毛を逆立てるのとは違って見える。どちらかというと、驚いて毛が立ったのではないだろうか。

 シマが人であれば、げっ、と声をあげていたかもしれない。

 

「チビ、あの子はシマよ。シマ、いつまでそこに居るつもり? 自分より小さい子なのだから、庭を案内しておあげよ」

 

 何とかしてシマに面倒をみさせようと、陽炎は少し必死。

 突如現れたこのかわいい白い生き物を、まだまだ眺めていたいのだろう。

 物怖じすることなく、チビは短い足で二歩前に出た。

 シマがすかさず二歩下がる。

 チビがぴっと前足を片方上げると、駆け出されると思ったのか、シマは体を後ろにぐいと引いた。

 

 ミャ

 

 チビの鳴き声はかわいい。陽炎の顔が緩む。

 

 ミャ

 

 ころりと仰向けになり、腹をみせたまま自分の手を舐めはじめる。

 庭にいる三人の視線は、一点シマに集まっていた。

 悠然とした歩調で、シマがチビに近づいていく。

 見下ろすようにチビの脇に立ち、尻尾をぴんと立てた。

 

 ミャ

 

 僅かにシマの首が下がったのを、ぼくは見逃さなかった。ぴんと立った尾が、しなりと下がる。

 

「おや、早かったねぇ。シマがあっさり折れたじゃないか」

 

 面白いものを見たとでもいうように、カナさんの目が大きく開いた。

 シマがチビの首筋を咥え、ゆらゆらとぶら下げたまま庭の隅へと姿を消す。

 咥えられたチビは、されるがままにぶら下がっている。

 ミャ という鳴き声にやられたか? シマ陥落。意外と薄情な奴ではないのかもしれないとぼくは思った。

 

「和也様、シマが連れて行ってしまいましたよ? チビが出ていくというまで、この庭においてもよろしいですよね?」

 

 喜々とした顔で陽炎がいう。

 どうみても、シマが連れて行くように仕向けたとしか思えないが、まあいっか。

 

「チビのことをよろしくお願いします。ぼくは響子さんから連絡があるまで、残欠の小径には行かないと約束したので、しばらくはちょっと。あ、ここへ来るだけなら大丈夫かな?」

 

「大丈夫でしょうよ。それに、ずっと姿が見えなくなればチビが寂しがります」

 

 寂しがるだろうか。どうみてもただの気まぐれで付いてきたとしか思えないが、助けてくれたのも事実だ。どんな理屈かは知らないが、チビがいなければ、ぼくは響子さんの家から、今日中に出ることなど不可能だったのだから。

 

「もしも帰りたそうにしたときは、自由に帰らせてあげてください。陽炎さん、チビをよろしくお願いしますね」

 

 にこりと頷く陽炎とカナさんに頭を下げ、ぼくは格子戸を開けて居間へと戻った。

 すっかり時間の感覚がなくなっていたが、窓の外はすっかり明るくなっていて、厨房からは、タザさんが道具箱を漁る音がする。

 居間の時計は八時を過ぎていた。

 

「やっばい、急いで開店の準備をしなくちゃ」

 

 タザさんに見つからないうちに、部屋に戻ろうと思った。

 何もなかったように朝の挨拶を交わしたなら、そこからいつもの日常が始まる。

 かけがえの無いぼくの日常。

 そのままのぼくで居られる、大切は場所へ早くいこう。

 

 

 

 店は開店と同時に、目がまわりそうな忙しさだった。

 半年に一回の、小さなお客様感謝デー。

 今日に限って食事をしたお客さんには、コーヒーがサービスされる日。大したことのないいサービスに見えるが、小さな商店街は、コーヒー一杯で十分に盛り上がるのだ。

 些細なことでみんなが楽しくなれる、そんな小さなコミュニティー。それがぼくの愛すべき商店街。

 

「アルバイトの兄ちゃん、氷無しのアイスコーヒーひとつね!」

 

「アルバイトの兄ちゃん、俺、ぬるいホットで!」

 

「はいはい!」

 

 好き勝手な注文にも、きっちり応えてみせよう。

 

「アルバイトの兄ちゃん! あれ入れてくれよ、ホイップクリームっぽいもの!」

 

 常連の森田さんが、ずり落ちる眼鏡をしきりに揚げながら注文している。

 

「はーい! ホイップクリームっぽいものねー!」

 

 ホイップクリームっぽいものを、一番最初に気に入ったのは森田さんで、中年のくせに甘い物好き。しきりにこれを勧めるから、他の常連客からも注文がはいるようになったのだ。

 いうなれば、ホイップクリームっぽいもの育ての親といったところか。

 

「彩ちゃーん! 日替わり弁当っぽいものちょうだい!」

 

 森田さんが、声色を変えて妙なトーンで注文した。

 

「残念でした! ぽいものは和也君の専売特許よ!」

 

 厨房で彩ちゃんが叫んでいる。

 

 やられたー、といって頭を掻く森田さんに、店の中に笑いと拍手が湧いた。

 ムードメーカーの森田さんは、いつだって周りを明るい気分にさせる。

 葉山のおばちゃんとの掛け合いは有名で、二人が揃うと客足が伸びるほど。

 いつだったか彩ちゃんも、森田さんには小話料金払うべきかも、といって笑っていたことがある。

 

 賑やかな一日が終わり、店じまいが終わっても隣接する作業小屋からは、タザさんが電動ドリルを使う音がする。

 最近のタザさんは仕事で作っているのか、趣味なのか曖昧な部分が多々あるが、楽しそうだからいいだろう。

 彩ちゃんも珍しく、自分の部屋にすぐに引っ込んでしまったから、話し相手もいなさそうだ。

 彩ちゃんに、今すぐ何かを聞こうとは思っていない。

 今朝のタザさんの話では、めっきり怪我が少なくなったらしいから、内心ほっとしている。怪我が少なくなったというより、あちらの世界へ行く時間が短くなったのではないだろうか。

 聞きたいことは幾つもあるけれど、今はその時じゃない。そう思う。

 

 部屋に戻って一人になると、何だか無性に寂しくなった。

 屁理屈を捏ねてでも、チビを連れてきたら良かったな、などと少しだけ思った。

 でもチビはこちらの世界に、来ることができるのだろうか? 疑問だな。

 布団の上に大の字に寝転がっていると、焦げ茶色の扉ががらがらと開けられた。

 

「よろしいかな?」

 

 目を瞑っているのかと見間違えるほど細い眼の、野坊主が丁寧に頭を下げていた。

 

「どうぞ、ひとりで退屈していたところです。小花ちゃんは?」

 

「小花は遊び疲れて眠ってしまった」

 

 クマさんココアを入れてあげられないのが、ちっとばかし残念だ。

 

「野坊主さん、黒い渋茶を淹れてきましょうか?」

 

「ぜひ」

 

 厨房へコーヒーを淹れにいき、湯気の立ちのぼるコーヒーの入ったマグカップを持って部屋に戻る。野坊主は相変わらず律儀に正座したまま、焦げ茶色の小さな戸口を、みっちりその体で埋めたまま座っていた。

 

「どうぞ」

 

 律儀に頭を下げ、野坊主は美味そうにコーヒーを啜った。

 

「鬼神に会いました。ぼくは、響子さんの忠告を無視して残欠の小径に行ったんです。実験は見事に失敗して、響子さんに叱られました」

 

 ぼくは野坊主に、残欠の小径での出来事を話して聞かせた。

 己の存在を、相手に認知させたこと。

 その為には、自分を極限まで押し殺すこと。

 出会った水月のこと。 

 そしてチビの不思議な力。

 野坊主は最後まで口を挟むことなく、黙って細い眼の奥から真っ直ぐにぼくを見ていた。

 そしてぽつりぽつりと語り出す。

 記憶を選び、言葉を選ぶように噛みしめるような口調で。

 

「わたしは飽きが来るほど長く、この身を失うことなく存在してきた。その中で、和也殿に似た条件下にて能力の発する者を、幾度か見たことがある。禁忌と呼ばれる術を使う者達だった」

 

「似ていますか?」

 

 渋い顔のまま野坊主は頷いた。

 

「似ている。己を極限まで抑えることによって、常人では使えぬ術を使う。だが違うのだと思う。両者は似て非なる。事の根本が違うのだよ」

 

 目を閉じた野坊主の胸の内は解らない。ぼくは黙って、野坊主の次の言葉をまった。

 

「術者達は己の感情、雑念を払うことによって意識を集中させる。それによって己の外部にある術という形式を、己の言葉や体を通して体現させる。だが和也殿はそうではない。認知させるという言葉を使っておられたが、その認識が事をややこしくしておるのだよ」

 

「認識が間違っていると?」

 

 野坊主はゆっくりと頷き、細い眼を見開く。

 

「和也殿が蓋をして押し込めているのは、人の子として生きてきた間に得た記憶。想いと感情は、大切な人々を喚起させるであろう? それを全て消したとして、後には何が残る?」

 

 何が残るだろう。何も残りはしない。あるのはただの器。

 

「上手くいえないけれど、残る物があるとしたなら、それはただの器。ぼくという名の、空の器」

 

 野坊主の眼が、力を込めてかっと見開かれた。

 

「今の和也殿の記憶を取り去った後に残るのが、空の器だというなら、その器に残るのはいったい何者であろうな」

 

 野坊主の言葉を受けて、脳裏にちらつく答えがあった。

 曖昧に、空の器という名称でごまかしてきたが、確かに存在するもの。

 

「空の器に残るのは、ただひとつ。和也殿、あちらの世界で生を受けた、人では無い本来の和也殿の存在。存在するはずの無い者を認知した者は、その存在を見失う。そうであろう? 正確にいうなら、存在しない者ではなく、存在が不安定な者というべきであろうな」

 

 存在が不安定な者、たったひと言で語られるこの命の在り方に、胸がざわめく。

 握りしめた拳の中爪を立てれば確かに痛い。

 音が聞こえそうなほど、心臓が激しく打っている。

 心だってちゃんとある。

 涙だって流れるというのに、それでも人ではないというのだろうか。

 ならばいったい、何を持って人は人と呼ばれるのだろう。

 

「和也殿は、感情や記憶を押し込めることで、人として成長した自分の全てに蓋をして、本来の自分が表に出ることを許したに過ぎない。能力ではないのだよ。本来の自分の存在を相手に見せつけた、それだけのことなのだよ。本来の和也殿を認知したなら、そこに存在を見失う。認知するとは、あるはずの無い者を、無いと確認するに等しい」

 

 頬を流れるものが、涙だと気づくのに時間を要した。

 

「野坊主、ぼくは人でいたかったな。ただ普通に、人で在りたかったよ」

 

 野坊主は応えない。

 言葉をかけないことを誤魔化すかのように、野坊主がコーヒーを啜る音だけが、狭い部屋に響いていた。

 

 

 




 今日も読んで下さった方、ありがとうございました
 これ以上話を、ややこしくしないようにと思う今日この頃です。反省(_ _;)
 では!


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22 異形の覚悟

 店は今日も大盛況だ。

 だがこの大盛況には訳がある。

 風邪を引いて寝込んだ彩ちゃんの不在を知らずに、朝早くから駆けつけた可愛そうな常連客達。

 今いる店内の客が引いてから後は、彩ちゃんいないぞ情報があっという間に流れ、店には閑古鳥が鳴くだろう。

 

「彩ちゃん大丈夫かあ? 栄養のある物食ってっかー?」

 

「大丈夫、栄養満点の具だくさんおかゆを、ちゃんと食べさせました」

 

 道具箱に首を突っ込んでいたタザさんが、ガシャンドシャンと荷崩れを起こしている。

 

「タザさん、大丈夫?」

 

 声をかけると、道具箱からにゅっと出された片手がひらひらと振られた。

 

「タザさんはごっついから大丈夫だって。彩ちゃんが心配」

 

「そうそう、タザさんかゴリラかってくらいの、筋肉やろうの心配はいいって。彩ちゃん熱はないのか?」

 

 さっぱり入らない注文の代わりに連呼される、彩ちゃんコール。

 

「彩ちゃんは大丈夫だから、さっさと注文してくださいって!」

 

「だって彩ちゃんいないから、飯食うったって……なぁ」

 

 ぼくの方を見ながら、オッサン達が目配せする。

 

「ぼくの作った飯だって、売り上げは売り上げです! 今日の店の売り上げが、彩ちゃんの薬代になるんですからね! それでもケチるんですか? ぼくの作った味にビビるんですか!」

 

 カウンターの客達が鼻を膨らませ、意を決したように次々と手を上げる。

 

「アルバイトの兄ちゃん! 恐怖のチキンライスキムチ散らし!」

 

「恐怖は余分です」

 

「アルバイトの兄ちゃん! こっちは 納豆ニラ餃子定食を半人前」

 

「一人前からにしてください」

 

「おーいアルバイトの兄ちゃん! あさりとラー油のパスタひとつ。あと口直しに、ホイップクリームっぽいものたっぷりのコーヒーね」

 

「口直しは余計ですってば」

 

 あさりとラー油のパスタを頼んだ森田さんが、眼鏡の縁をくいっと上げながらけけっと笑った。

 どれもこれも、裏メニュー化したぼくのレシピばかりときた。

 常連客の悪ふざけである。

 

「頼んだからには、食べきってくださいよ」

 

「おー!」

 

「お残しは許しませんからね!」

 

「は~い!」

 

 返事がだんだん、力なくなっていくのは気のせいだろうか。

 まあいい、ぜんぶ作り上げてやるっての。

 常連客の悪戯心で、十品以上全て違うメニューという地獄の厨房で、ぼくはひとり走り回った。

 

 

 閉店後にぼろ雑巾と化したぼくに、タザさんが作ってくれたのはカップラーメンと店で残ったサラダの小鉢。嬉しくなくて涙が出る。

 なんでもこの後は、道を二本挟んだ先にある家まで、雨漏りの修理に行くらしい。

 彩ちゃんには野菜スープと、卵のおかゆを持って行ったとメモがあった。

 タザさんには、ついでにぼくの分も作るという発想は、微塵もなかったらしい。

 カップラーメンとサラダを胃に詰め込んで、ぼくはさっさと二階へあがった。

 こんな日は早く寝るに限る。

 彩ちゃんが復帰しないことには、常連客のおもちゃにされる日々が続くのだ。

 豆電球だけを点けて、ぼくはあっという間に眠りに落ちた。

 

 

 ガラガラという、馴染みのある音にぼくは目を覚ました。

 戸が引き上げられ、野坊主が顔を覗かせる。

 

「これを預かってまいった。今宵は、これで失礼する」

 

 丁寧に頭を下げて、がらがらと戸が引き下げられた。

 畳の上に、四つ折りにされた紙が一枚置かれている。

 部屋の電気を点けて、手の平ほどのメモ帳を開く。響子さんからの連絡だった。

 

『一時間後にこっちへ来い。あの町の男と会う段取りがついた』

 

 色気も素っ気もなく、淡々とした伝達メモだが、響子さんらしいかも。

 三時間も眠っただろうか。昼間の疲れが抜けてはいないが、今回ばかりは若さと気力で乗り切るしかないだろう。

 あの男の話を、聞き逃すわけにはいかなかった。

 それに彩ちゃんの体調も気になっている。本当にただの風邪なのか、最近の彩ちゃんの様子からしても怪しかった。

 何かのせいで体力を奪われている、そんな気がしてならなかった。

 

 

 

 一時間後、ぼくはカナさんと目を合わしていた。

 

「今回は響子さんに呼ばれました。だから心配しないで下さい」

 

「気をつけてお行きなさいな。その前に、これをお飲み、響子から飲ませるようにと預かったものだよ」

 

 受け取った湯呑みの中身を見て、ぼくは顔を顰める。

 

「これを飲まないといけませんか?」

 

「飲まなければ、残欠の小径へ来ることは許さない、といっていましたよ」

 

 着物の袖で口元を隠し、くすくすとカナさんが笑う。

 湯呑みに入っているのは、匂いのない透明な黄色いお茶だった。

 忘れるわけもない。水月が出してくれたお茶と同じ物だろう。

 ただの嫌がらせなら、あとから響子さんにも飲ませてやる。

 鼻をつまんで、一気に飲み干した。

 舌に残った苦みに、感覚が麻痺している。

 顰めた顔をそのままに軽く会釈して、ぼくは残欠の小径へと走り出した。

 

 

 

 崖を転がったりはしない。真っ当なルートを走って、無傷で響子さんの家に辿り着ける。

 全力で走って辿り着くと、響子さんと蓮華さんはすでに外に立っていた。

 

「急ぐぞ。もう少しで闇が満ちるかもしれない。あの町に着いたら、余計な脇目は振らずに、急いであの男の小屋に入りな」

 

 響子さんでさえ予測の付かない不定期な闇の訪れを、いったい誰が予測したというのだろう。

 ぼくに頷く暇も与えずに響子さんは走り出す。それに続いて、蓮華さんとぼくも全力で駆けだした。

 町に近づき小高い場所から見下ろした町並みは、心なし以前見た時より広がっているように思えた。

 ここから見る限り、人通りも多い気がする。

 

「行くよ!」

 

 響子さんの合図で、急斜面の丘を一気に駆け下りた。

 地面を擦る靴の音に混ざって、少しづつ町の喧噪が聞こえてくる。

 町に入ってからは目立たぬように、できる限りの早歩きで進んだ。

 前に来たときに見かけた女の子が、母親に手を引かれて通りの向こうを歩いている。魚屋は威勢のいい声で客を呼び込み、客達もにこやかにやり取りをくり返す。

 時代も服装も違う人々が、互いに違和感なく共存している世界。

 日常という名の異常。

 町の風景から目をそらし、ぼくは響子さんの背中だけを眺めた。

 この背中の向かう先に、求める答えの欠片があるかもしれない。

 小屋に入るまで、何も考えないようひたすら歩いた。

 

 

 小屋の中には男の他に、三人の男女がいた。

 老婆と若い女性、そして三十歳くらいの男性が一人。

 

「待ってたぜ。今回はこの三人で手一杯だった。みんな違う場所からここへ来た奴ばかりだぜ」

 

 男の言葉に頷くと、響子さんは重厚な扉の閂を確認した。

 

「確かではないが、もう少しで闇が満ちる可能性がある。無闇に外へは出ない方がいいぞ」

 

 部屋の隅に固まっていた三人が、びくりと肩を跳ね上げる。

 

「闇が満ちる時を知ることのできる奴なんて、聞いたことないぞ」

 

 男の言葉に、響子さんがにやりと笑う。

 

「残欠の小径には、点在してひっそりと暮らす者が多い。その中には物を売ったり情報を売る者もいるのでね」

 

 草陰のギョロ目だ。ぼくには余計なことを漏らすなと脅しておいて、自分はちゃっかり情報を得ていたのか? 相変わらず抜かりない人だ。

 

「まあいい。今回は人が多い、悪いが床にでも座ってくれ」

 

 男に勧められ、簀の子がひかれた床に丸くなって腰をおろした。

 

「話しはじめる前に、あんた達には言っておかなくてはならない事がある」

 

「なんだ?」

 

 男と三人の男女の目が、一斉に響子さんに注がれる。

 

「お前達が噂している、幼稚な破壊者。その正体はこいつだ」

 

 頭を殴られるより驚いた。響子さんの指が、ぴたりとぼくを差している。

 

「ひぃっ!」

 

 若い女性の悲鳴を合図にしたかのように、ざざざっと腰を擦って住人達が壁際まで身を引いた。

 老婆だけがひとり、眉さえ動かすことなく座っている。

 皺に埋もれた目で、真っ直ぐにぼくを見ていた。

 

「危険じゃないからこうやって連れてきた。特に今日は鬼神に、馬鹿正直なクソガキの進入を知られる心配もないだろう。想像していた人物像と違っていたか?」

 

 溜息混じりの響子さんの言葉にも、背中を壁に貼りつけたまま動く気配がない。

 ぼくはそんなに、忌み嫌われた存在だったのだろうか。

 何をしたわけでもないだけに、けっこう心理的に応えるものがある。

 

「戻ってこんか。でかいただの子供じゃ。喰われやせんだろう」

 

 老婆が嗄れた声でいい、ところどころ歯の抜け落ちた口を開けてかっと笑う。

 

「わしは寸楽という婆じゃよ。歳をくってやっとあの世へ行けると思ったら、訳のわからん場所に立っておった。その場所で長い間暮らしてな、こんな身でもいつかはこの地で朽ちることができるかと、落ち着いた矢先にここへ飛ばされたんじゃ」

 

 畑作業に着る野良着姿の寸楽は、この名は前の世界で友人に付けて貰ったのだといった。寸の間笑わせる、愉快な婆さんという意味だという。

 

「ぼくは西原和也といいます。ぼくが恐ろしくはないのですか?」

 

 そう聞くと、寸楽はかかかっっと天井を見上げて笑う。

 

「今さら恐ろしいものなどあるものか。死なせてくれるなら、鬼にだって身をあずけるさ。ただねぇ、嫌なんだよ。自分の何か取られて、これ以上自分じゃなくなっていくのが嫌なのさ。それだけじゃよ、この世で恐ろしいと思うのは」

 

 ぼくにはまだ、死にたいと思う気持ちはわからない。けれど深く刻まれた老婆の皺に、それを想像することだけはできたように思う。

 

「わたしは平岡宗慶。来世など信じてはいなかったが、今はあの世にいってやり直したいと思っておる。不毛に時間だけがすぎるなかを、長く生きすぎた」

 

 広目に剃った月代に細めに髷を結い上げる姿と姿勢は、武士であった名残を色濃く残している。

 羽織袴のようにかしこまった物ではなく、灰色地の着流し姿であるところを見ると、浪人になって程なく現世を去ったところだろうか。

 

「この静かな娘は雪。最近じゃ怯えて、ろくに口も利かない日もある。目隠しの長さが一番短いんだよ。いつ正気を失うかと、びくついても責められねえ」

 

 男に紹介された雪が、少しだけ頭を下げた。

 

「すっかり遅れたが、おれは佐吉だ」

 

 小屋の家主である男が、名を名乗り再度みんなに座るように促した。

 響子さんと蓮華さんも簡単な挨拶を済ませると、小屋の中にある時計が鐘を鳴らした。

 

「ほう、姉さんの言った通り、闇が満ちやがった」

 

 小屋の外では前に見たと同じ光景があるのかと思うと、煉瓦を避けて表の通りを覗く気にはなれなかった。

 

「まずは互いに掴んだネタの披露といこうか。こっちが掴んだのは住民のことだよ。消えている住人は確実に増えているのに、全体の人数が減っちゃいない」

 

 佐吉が話しながら、煙管でふっと煙草をふかす。

 

「どうしてですか?」

 

「相変わらずの阿呆だな、おまえは」

 

 響子さんを見て、佐吉はにやりと笑う。

 

「察しのいい姉さんだ。たぶん考えている通りだよ。毎日大勢が、存在を維持できないまでに鬼神に何かを吸い取られ、水蒸気みたいに跡形もなく姿を消している。その代わり、補充される餌が増えたってことさね」

 

 背筋を怖気が這い上がる。

 

「昨日今日になってここへ来た奴は、みんなふらふらしてやがる。これは想像だが、あいつらの黒い目隠しは、間違いなく短いはずだ。煉瓦をずらして覗いてみろよ、賑わっているはずだぜ」

 

 恐る恐る煉瓦をずらし、表の通りを覗く。

 前とは明らかに違っていた。

 黒い目隠しが口もとまでも届かない者が、大勢外を歩いている。

 ぼくは静かに煉瓦を元に戻して穴を塞いだ。

 

「ここを守っていた力が、ほとんど効力をなしていないということか」

 

 響子さんが呟いたひと言が、ぼくの胸に鈍い痛みを与えた。

 

「風邪だっていったんだ」

 

「誰がだ?」

 

「彩ちゃんだよ。でもあれは風邪なんかじゃない。もう限界なんだ。彩ちゃんはここを守る力どころか、今は自分の体を支えるだけで精一杯なんだと思う」

 

 響子さんの目が真っ直ぐにぼくを見る。

 

「響子さん、できるだけ多くの情報を持ち帰ろう。それから、あのお茶まだある?ないなら水月さんにも会わなくちゃね」

 

 ぼくは笑顔を作ってみせたが、心はすっかり凪いでいた。

 彩ちゃんとタザさんの顔が目に浮かぶ。

 

「はじめようか」

 

 ぼくの中に、異形の覚悟が降り立った瞬間だった。

 

 

 




 覗いて下さったみなさん、ありがとうございました!
 少しずつ話が、ころころと転がっていくかと思います。
 次話もよろしくおねがいします(^^)


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23 取り戻す想いと 捨てる想いと

「前まではな、身近な者が姿を消せば騒ぐ者が居た。それがどうだ? ここ数日で姿を消す者が異常に増えたというのに、誰一人騒ぎゃしねえ。向かいの婆さんは、ここへ来る前からガキみたいにつるんで歩いていた、ソメって婆さんが昼過ぎに不意に姿を消したってのに、ソメのソの字もだしゃしねえ」

 

 妙な話だった。秩序なく寄せ集められたように見えるこの町でも、人々の交流は存在している。 店先でのやり取りもそうだが、寄せ集めとはいえ町ともなれば、個人の交流もあって当たり前だと思えた。そこには相手を想う気持ちもあるはずなのに。

 

「黒い布が短くなっている奴は、闇が満ちていない時でも記憶が曖昧なんだ。普通に暮らしてはいるが、肝心な何かが抜けてんだよ。他の奴らは闇が満ちている時間帯以外はまともだった。自分たちの置かれた状況を異常だとも思っていたし、どうしたら鬼神から逃げられるかと、頭を付き合わせて思案したりもしたものさ。ところがどうだ? 今じゃ自分たちがどんな状況に陥っているか、気にかける奴すら少ねえ。わかっていても、周りの様子が変わったのを察知して、てめえも知らん振りを決め込む奴まででる始末だ」

 

 佐吉は鼻に皺を寄せ、太ももを拳で叩く。

 口を開いたのは響子さんだった。

 

「佐吉はどうして己を見失わずに済んでいる? ここに集まって三人にも同じことがいえるが、ある意味この町では異常な存在だ。何かあるはずだろう? その他大勢とは違う道を辿った何かがね。それが解らないことには、この先の謎を解くのは難しいと思うが」

 

 目を瞑ったまま佐吉が首を捻る。口から漏れる溜息は、その答えを知らないのだと暗に示してしいた。

 

「なぁ佐吉、あんたは死ぬとき何を思って死んだかね。宗慶と雪にも同じことを聞こうか。思い出してみんか、いまわの際に何を思った? 浮き世に未練があったかね? それとも……やっと死ねると思ったかね」

 

 嗄れた寸楽の声が、澱のように小屋の中で沈んでいく。

 

「わたしは辻斬りに襲われた。二本差しなど日々の飯に消えていたから、形ばかりに添えられた脇差しは竹光だった。皮肉なことに、離縁される前に妻に贈ろうと買い求めた、紅珊瑚の簪を売った金を持ち帰る途中で襲われた。浪人になって長屋暮らしに身を落とし、妻と子供を失っても、その日暮らしの傘張りで何とか糊口を凌いでいた。もはや人の世に何の希望も持ってはいなかった。斬られた苦しみよりも、浮き世から去れる安堵が勝っていた」

 

 俯いたまま宗慶が嗤う。

 

「そうじゃと思ったわい。わしは心の臓が締め付けられて死んだ。病死じゃよ。だが心底ほっとした。死ぬのだと解って安堵した。わしはもともと野良仕事の家に生まれた訳じゃない。お取り潰しとなった武家の娘は高く売れるでな。浮き世には残った記憶だけでも、死ねたら楽だと思えることは掃いて捨てるほどあるさ。わしも過去から逃れなんだ。てめえの生き様に、押し潰されとった」

 

 けけけっ、と寸楽が笑う。武家の娘の名残は微塵もなかった。野良仕事に生きた女。寸楽は、そのようにしか見えない老婆だった。

 

「言われてみりゃあ、おれも死んでほっとした口だ。まあ詳しくは言わねえが、しくじったツケの責め苦でよ。死ぬなと悟った瞬間は、体の力が抜けたぜ。安堵しちまったんだろうよ」

 

 まるで人ごとのように爽やかな口調で佐吉がいう。時の流れは、感じた苦しみさえただの絵空事に変えるのだろうか。

 

「雪といったね、あんたはどうだった?」

 

 響子さんに名指しされ、雪は少し身を縮めた。

 そして恐る恐るといった風に口を開いた。

 

「わたしは死ぬ前の記憶がないのです。未だに自分が何者であったのかさえ、まるで見当が付きません。雪という名は、前にいた場所で雪が振る季節に隣人がつけてくれました。雪みたいに冷たい手だからだと」

 

 名付けた人の顔を思い出したのか、雪の表情がふわりと和らぐ。

 

「それでどうなんだい、寸楽。今の話を聞いて、答えに確信は持てたのかい?」

 

 あぁ、と寸楽は皺をくしゃりとさせた。

 

「わしらが正気を保っていられるのは、おそらく生に未練がないからさ。鬼神は魂の何かを吸い取るといわれているが、どうやら死にたがりの魂は不味いらしいな」

 

 寸楽が、くくくっと肩を揺らす。

 死にたがりの魂、死してもなお存在し続ける事を望む者が多いということか。

 鬼神は生を求める魂に飢えている。だとするなら、そこから鬼神に欠けている何かが見えてくるのではないだろうか。

 

「鬼神は、何を望んでいるんだろう。人間への復讐? こちらの世界への復讐? どちらにしても、動機となる出来事があった筈だ。鬼神を凶行に突き動かしている、その原動力が知りたい」

 

 独り言に近いぼくの呟きだった。

 

「狙いは、おまえさんだろうよ」

 

 寸楽が、皺の隙間からぼくを見た。

 

 

「ぼくは一方的に鬼神に目を付けられているだけで、何もしていない」

 

「おまえが生き延びた、数少ない者の一人だからだろうな」

 

 ぼくを見ることなく響子さんがいう。

 

「こっちの世界で身籠もった子は、例外なく死を迎えるといっていい。だが生き残る者も皆無ではないのも事実。わたしが知る中では、生きて腹から生まれ育ったのは、おまえともう一人、水月だけだ」

 

 水月の笑顔が目に浮かぶ。

 

「水月と和也の違いは、追う者と追われる者だということ。水月は鬼神を追い、おまえは鬼神に追われている。鬼神はなぜ水月を追わないのだろうな? 水月と和也の存在を分けるものは何だ? それさえわかれば、少しは先が見えるのだろうが」

 

 そうだ、水月はなぜ鬼神を追っている? 知りたい事とは何だ?

 いったい何の為に?

 頭を振って、ぼくは居住まいを正した。まだすることは残っている。

 ここに住む人々の受け身の姿勢を、変えなければならない。

 変えることはできないだろう。人を変えることなど、不可能に等しい。

 自分で気づいてもらうしか、道はない。

 

「皆さんにひとつだけ、伝えておくことがあります。代々ここを守ってきた家系の女の子が、寝込んでいます。もう小さなナイフさえ象れないほど、弱っているのだと思います。鬼神が強くなった訳じゃない。ここを守る力が、弱まっているんだ」

 

 雪が両手で顔を覆う。

 寸楽は皺の奥で目を閉じた。

 

「思えば甘えていたのかも知れぬな。若いおなごに守られ、それを当たり前のように思っていたのも事実。そろそろこの足で踏み出さねば、事は動かぬかもしれぬよ」

 

 宗慶の言葉は静かだった。己に言い聞かせるように、静かに重く部屋を満たす。

 そうだ、少しずつでいい。その心に剣を持ち、立ち上がって欲しい。

 

「和也、おまえ……何を考えている?」

 

 ぼくを見る響子さんが、僅かに目を細める。

 

「何も考えちゃいないよ。作戦だってないから当たって砕けろさ」

 

「それが一番恐ろしいのだがな」

 

 にかっとぼくは笑って見せた。

 呆れたように響子さんが息を吐く。

 

「こちらからも言うことがあったのだが、話を聞いて考えが変わった。もう少し時間をくれないか? 何かがずれている。わたし達が考えている鬼神像と、現実の鬼神像。それに取り込まれた魂が、鬼神の中で人格を保っていると思われる。それがもたらす事柄は、はっきり言って予想がつかん」

 

 響子さんは鋭い。

 思わぬ所から、答えの糸口を見いだすだろう。

 ぼくのするべき事は決まったから、今日はそれだけで十分だ。

 みんなが心に剣を翳すなら、ぼくは余計な想いを全て捨てよう。

 

「そろそろ闇が明けます」

 

 蓮華さんの言葉に、宗慶が煉瓦を避けて表の道を覗いた。

 

「町は元通りだ」

 

 膝を抱えて蹲る雪の肩に手を置いた。大丈夫かと、声をかけるだけのつもりだった。肩に指を触れた途端、雪の体が激しく揺れた。

 

「大丈夫? 目眩でも起こしたの?」

 

 目の焦点が定まらない雪の肩を支え、ぼくは静かに声をかける。

 数分ほど経っただろうか。

 雪の目の焦点が定まり、真っ直ぐにぼくを見た。

 

「わたし、お役に立てるかも知れません」

 

 雪の言葉に、響子さんが訝しげに首を傾げる。

 

「何ができるというのだ? 何か思い出したのか?」

 

 頷く雪の表情は、先ほどまでとはまるで別人だった。

 怯えていた瞳に知性と力が宿ったように、ぼくには見えた。

 

「和也さんの手が触れた途端、頭の中が真っ白になりました。幼稚な破壊者と呼ばれる方は、わたしの中に閉ざされた、記憶への壁を破壊したのかもしれません」

 

 そんな力が自分にあるとは思えないが、偶然というにはタイミングが合い過ぎた。

 

「数日の時間をください。この中で町の住人の会話から、情報を得られるのはわたしだけ。信じて数日、待っていただけませんか?」

 

 互いの顔を見合い、全員が頷いた。

 雪という女の子は、いったい何者なのだろう。

 まるで気弱な女の子を演じていた女優が、素に戻ったほどの違いを感じる。

 

「内容があったような無かったような集まりだったが、これでお開きとするか」

 

 響子さんのひと言で、一人ずつばらばらに小屋の外へと出て行った。

 ぼく達は無言で町の中を通り抜け、木々の立ち並ぶ道へと入った。

 

「何をするつもりか知らんが、どうせ碌でもないことを考えているのだろう? 前にも言ったが、阿呆は阿呆のままでいい。正直は阿呆は、嫌いじゃないんだよ」

 

 そう言い残して、響子さんは別の道を走っていった。

 蓮華さんが心配そうな表情をしていることに、ぼくは気付かない振りをした。

 

 響子さんの家の前で、ぼくは蓮華さんを待っていた。

 

「和也さん、これを煮だして飲んで下さい。水月さんから貰ってきました。欠かさず飲むようにとおっしゃっていましたよ」

 

 ごっそりと乾いた薬草の詰まった袋を受け取り、ぼくはひとりカナさんの庭へと向かった。

 響子さんの言ったとおり、ぼくは碌でもないことを考えている。

 けれど実行するにはまだ時間がかかる。

 何しろカナさんに、あのお茶を飲まされたばかりだからね。

 チビを部屋につれて行ったら、陽炎が寂しがるかな。

 庭でしばらく、チビと遊んでいてもいいだろうか?

 庭の木々の隙間から、廊下に座るカナさんの姿が見えた。

 

「カナさん、戻りました」

 

 涼やかな笑顔で、カナさんは迎えてくれた。

 前より少しだけ、元気を取り戻したようにみえる。

 チビが側にいるからかなと、そんなことをふと思ったりした。

 それよりチビはまだ、この庭にいるのだろうか?

 

「チビ! 一緒に遊ばないか?」

 

 庭の隅から、白くて丸い毛玉が転がってきた。

 ひょいと跳ね上がり、子猫の姿になる。

 

「そんなに転がっていると、いつか黒猫になっちゃうぞ?」

 

 ぼくは笑ってチビを抱き上げた。

 

 ミャ

 

 小さく鳴いて、チビはぼくの鼻先をぺろりと舐めた。

 

 

 

 

 





 次話もよろしくお願いします。
 では!


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24 大切な人は 指の隙間から漏れる砂のように

 


「和也様、お茶を淹れました。塩漬けの桜がありましたから、桜茶にしてみました」

 

 陽炎が片手に盆をのせ、素足のまま樫の板張りの廊下に出てきた。

 目刺しの欠片を舐めていたチビは、陽炎の声を聞いた途端、くるりと丸まってころころと転がり、姿を戻すと陽炎の足先に前足をちょんと乗せる。

 

「すっかり陽炎さんに懐いたみたいですね」

 

「和也様がいらっしゃらないときは、絡まった糸みたいにずーっと、わたしの足に纏わり付いているのですよ」

 

 踏みつけてしまいやしないかと心配です、と陽炎は嬉しそうに微笑む。

 陽炎が膝をついて湯呑みを置くと、チビはその手をペロリと舐めてぼくの膝の上に戻ってきた。

 

「シマはちゃんとチビの面倒をみていますか? 猫のくせに一匹オオカミって感じだからなあ、シマは」

 

「無愛想なりのかわいがり方をしていると思いますよ。たまにチビを咥えてどこかへふらりと行ってしまいます。夕暮れまでにはこの庭に必ず戻り、咥えているチビを、不味い魚でも口に入れたような顔をしてぺっ、と放り出すのですよ」

 

「それは、可愛がっているといえるのでしょうかね?」

 

「シマには昔、慕った人間の男が居りましたが、その男以外に気遣いを見せたことのないのです。長いことシマを見てまりましたが、シマは絶対にチビのことを気に入っております」

 

 仕事があるので、といって陽炎は奥へと姿を消した。

 入れ替わりに寝所からカナさんが出てきた。

 

「陽炎の楽しそうな声が聞こえると思ったら、和也様でしたか」

 

「起こしてしまいましたか?」

 

「いいえ、昼間は寝所にいることが多いといっても、身を横たえているだけでございます。本当の意味で眠る事などないのでございますよ。人で在った頃の、古き習慣とでも申しましょうか」

 

 カナさんはチビを膝に抱き寄せ、小さな頭を指先で撫でた。

 さわさわと庭に吹き込む風に、カナさんの頬に髪がさらりとかかる。

 

「チビはいったい何者なのでしょう? 普通の猫ではないことはわかっていますが、ぼくの体調を整えるなど、たとえ猫の幽霊でも無理だと思うんです。あと考えられるのは、妖怪とか? 妖怪のイメージとはかけ離れたかわいらしさですが」

 

 けっこう真剣に考えていったのだが、カナさんは可笑しそうにくつくつと笑う。

 

「この子の本当の正体など、わたしにも解りません。何がきっかけかは知りませんが、和也様を好いてしまった小さな魂がひとつここに居る、それで良いではありませんか?」

 

 好かれたのだろうか、好かれた理由さえわからない。

 

「ここは辻堂。迷う魂が先に進む道を見つけるために立ち寄る場所にございます。

どのような存在であろうと、拒むことはございません」

 

 客が少なくなったと前にもいっていたが、昔はどのような者がこの庭に姿を現していたのだろう。

 

「でも、お気をつけませ」

 

 微笑みながら、カナさんがぼくを流し見る。

 

「気をつけるとは、いったい何にですか?」

 

「長年の間に知ったことでございますが、この子のような存在が誰かを好くというのは、日常で人が感じる他人を好きだという感情とは、少しばかり違うようでございます。この子達にとって、人を好くというのは、その者の存在に心底惚れるということ。だからこそ、好いた存在の為とあらば、惜しむことなく己の命を賭けるのでございます」

 

 カナさんの膝の上で、ころりと上向きになったチビは、無防備に腹を見せて気持ちよさそうに目を瞑っている。

 

「命をですか? はは、ぼくはまだそこまで好かれてはいないでしょう」

 

「そう思うからこそ、お気をつけなさいませ。思わぬ所でこの子の命が消えたとき、泣き崩れることのないよう、覚悟なさいませ」

 

 話を聞いているのかいないのか、チビはのほほんと小さな手で顔を撫でる。

 

「そんな日が来てしまったら、泣かずに笑ってあげて下さいませ。大好きな者の最後にみる顔が笑顔であって欲しいのは、人と変わらぬはずでございますから」

 

 ぼくはカナさんの膝からチビを抱き上げ、頭上高くに持ち上げる。

 

「大丈夫です。好いてくれているなら、最後に笑顔で見送るのはチビの方です。だって、絶対ぼくよりチビの方が長生きするでしょう? 何も起こりませんよ。周りを巻き込んだりしないから」

 

 カナさんは言葉無く目を閉じた。

 

「チビ、ぼくが爺さんになって天寿を全うするときには、ミャって鳴いてにっこり送り出してくれよ?」

 

 ミャ

 

 

 解ってかわからずか、チビは丸い瞳を見開いて可愛く鳴いてみせた。

 板張りの廊下におろしたチビに草でくるくるさせたり、子犬のようにお手を教えようとしたりと目一杯遊んで、ぼくは居間へと戻った。

 チビは少しだけ寂しそうにちょこりと座って見送ってくれたが、あとの世話は陽炎が喜んでやってくれるだろう。

 居間から見える窓の外はまだ暗い。

 厨房の横にある作業場から、やすりをかけるよような音と明かりが漏れていたがタザさんに声をかけるより疲れの方が勝っていた

 一眠りしようと、ぼくは二階へ続く梯子を登り、気絶に似た状態で布団も掛けずに横に丸まって眠りについた。

 何かの夢を見ている様な気がした。夢の入り口で、小さくミャと鳴く声が、遙か後ろの方で聞こえた気がした。

 

 

 

 日が昇りまだ半分閉じたままの目を擦って居間に下りると、ある種異様な光景が目に飛び込んで、ぼくの脳は一気に覚醒した。

 

「た、タザさん、何やってんの?」

 

 振り向いたタザさんの顔は眉間に皺が刻まれ、その形相はまさしく泣く子も黙る鬼面だ。だというのに、タザさんの前には積み木で組み立てられた汽車があった。

 積み木の汽車? タザさんが手にしている短い円柱の積み木が、どうしても手榴弾にしか見えない。

 

「自由に遊べて尚かつ絵の通りに組み立てれば、こうやって汽車が出来上がる積み木を造ってみた。三歳の孫への誕生日プレゼントらしいんだが、なかなかいいできだと思わないか?」

 

 手作りとは思えないクオリティーですよ、確かに。

 昨夜作業場から聞こえた物音は、これを造っていた音だったのか。

 

「箱に入れて可愛く包装したら完璧だよ。ところでそれ、いったい幾らで引き受けたの?」

 

「三千円」

 

「えぇ、安すぎない?」

 

 手作りオーダーメイドで三千円? 逆ぼったくりじゃないのかタザさん。

 

「だってよ、年金暮らしのじいちゃんだぜ? 三千円で造れる物っていわれたら、造るしかねぇだろ?」

 

 三千円で依頼されて造ったのがこれか。タザさん商売には向いてないよ、まったくさ。

 

「お爺ちゃんも子供も喜ぶと思うよ。先に店の開店準備にいってるね」

 

 おう、といってタザさんは積み木の汽車に向き直る。

 人のいない厨房は金属質で、何だかとても冷たい感じがした。

 いつもならとっくに彩ちゃんがお湯を沸かしている筈なのに、冷え切った厨房に今日も彩ちゃんの姿は無い。

 タザさんだって、あえてこの話題に触れずにいる。

 ぼくだってそうだ。

 数日は風をこじらせた、といってお客さんを誤魔化すしかないだろう。

 彩ちゃんに甘い常連客達は、心配しても文句を言うことは絶対にないから。

 

「彩ちゃんがいないということは、今日も裏メニューの嵐か。ていうか、彩がいないのに客が来るのかな? 来るか、薬代を稼がせろっていってあるもんな」

 

 一人頷いて薬缶にお湯を沸かす。

 けれど、この時沸かしたお湯はほとんど無駄になった。

 昼時を過ぎても、通りすがりの一人客がぽつりぽつりと戸口を開けただけで、常連客が一人も顔をださなかった。

 昨日の裏メニュー乱立でみんな腹でも壊したかと、内心ひやっとしていたところに、葉山のおばちゃんが飛び込んできた。

 

「いらっしゃいませ! 今日は一人?」

 

 どこからか全力で走ってきたのだろう。膝に手を付き肩を上下させる葉山のおばちゃんは、なかなか言葉を発せずにいた。

 

「大丈夫? お水でも持ってこようか?」

 

 首を横に振った葉山のおばちゃんが口にした言葉は、ぼくの心を凍らせた。

 

「死んじゃった! 森田さんが死んじゃったんだよぉ!」

 

 顔を手で覆い、葉山のおばちゃんがわっと泣き出した。

 突然のことに、おばちゃんを慰める言葉さえ出てこなかった。

 自分を落ち着かせる言葉さえない。

 眼鏡をくいっとあげて笑う、森田さんの笑顔は昨日見たばかりじゃないか。

 

「だって、昨日は元気にホイップクリームぽいものって。口直しだって笑っていたのに」

 

「脳梗塞だよ! 三時間前に病院に運ばれて、でも駄目だったって。みんな病院にいるよ。森田さん独り者で、身内なんかいやしないからさ」

 

 そうか、独り者だったのか。

 

「最後に手を握ったらね、まだ温かいんだよ。……温かいんだもの」

 

 声を聞きつけ居間からでてきたタザさんが、泣き崩れた葉山のおばちゃんの肩を支えて外へ出た。

 タザさんは黙って頷いて見せたから、一緒に病院へ向かうのだろう。

 ぼくも行こうと思った。

 なのに足が動かなくて、必要の無い薬缶のお湯にもう一度火を付けた。

 

――アルバイトの兄ちゃん!

 

 森田さんの明るい声が人のいない店内に響いた気がして、ぼくは思わず顔を上げる。

 誰もいない。居るわけがなかった。

 ホイップクリームぽいものを、最初に気に入ってくれたのは森田さんで、ぼくのことをアルバイトの兄ちゃん、と最初に呼んでくれたのも森田さんだった。

 薬缶の口から、白い湯気が立ちのぼる。

 ぼくはホイップクリームっぽいものを泡立てた。

 

「今日は特別に、ブルーマウンテンといきますか」

 

 フィルターをセットして挽いた豆を入れ、ゆっくりとお湯を回し淹れる。

 コーヒーの香りが、湯気と一緒に広がった。

 せっかくのブルーマウンテンに白い泡を山にして盛る。

 カウンターのいつもの席に、ぼくはそのコーヒーを置いた。

 

「森田さん、ぼくの奢りです」

 

 森田さんのふざけた口調をコーヒーの香りが運んでくる。

 ぼくはやっと涙を流した。

 冷えた厨房で、一人泣き続けた。

 

 

 客のいない厨房でずっと蹲っていた。

 クローズのプレートも裏返さないまま、とっくに日が沈んでいる。

 立ち上がったぼくは、格子戸に向かった。

 何だっていい、動こうと思った。

 草陰のギョロ目に聞きたいことがあったから、それが今日でも構わないだろう。

 冷蔵庫の中から、草陰のギョロ目に渡すゼリーを取りだし袋に詰める。

 

「余り物だけどな」

 

 ぼくは格子戸に手をかけ、静かに引き開ける。

 庭の端で陽炎さんとチビが遊んでいる。

 こちらを見たチビに、しっと唇に指を当ててみせると、まるで意味を汲み取ったかのように視線を外して陽炎さんに絡みついた。

 楽しんでいるところを邪魔したくはなかったし、この心境を誰かに話せる気分でもなかったから、ぼくはそっと庭を抜けて林道へと入った。

 

 残欠の小径に出入りするようになってから、自分でもわかるほど感覚が鋭くなるときがある。

 微動だにしない丈の長い草の裏に潜む、草陰のギョロ目の気配を感じて足を止めた。

 

「今回の質問は独り言だから。答えたくなければ応えなくていいよ」

 

 僅かだが草が身じろぐ。

 

「響子さんは、何者なの?」

 

 沈黙が流れる。答えたくない内容だったか。

 

「響子さんが鬼神を追うのは、長いこと自由を奪われたから? それとも他に明確な理由があるのかい?」

 

 丈の長い草が割れて、ぎょろりとした目が覗く。

 

「自由を奪われる前も、そして今も響子が鬼神を追う理由は変わらない。蓮華を自由にするためだ。あの女は、ただそれだけの為に此処にいる」

 

「蓮華さんを大切にしているのは知っているよ。でも、恩義を感じているように見えるのは蓮華さんの方に思えるな。主従関係というか、かなり明確じゃないだろうか」

 

 ぎょろりと上目使いに目を見開いたまま、草陰のギョロ目は口を閉ざす。

 ぼくはゼリーの入った袋を、草の向こうに投げ込んだ。

 袋の中を値踏みする音ががさごそと響く。

 どうやら、少しは価値があると思ってくれたようだった。

 

「恩義を感じて側にいるのは蓮華だが、そうやって側に居てくれた蓮華に誰よりも恩を感じているのは響子だ。共に歩む者を持たなかった彼の女にとって、蓮華は己の存在より大切であろうよ」

 

「自由にするとは、具体的にどういうこと?」

 

「鬼神を殺して、奪われた蓮華の欠片を取り戻す。そうしたなら、蓮華は輪廻の輪に戻ることができるだろう。欠片とはいえ、鬼神に何かを奪われた者は、今いる場所から動けないからな」

 

 蓮華さんが欠片とはいえ、鬼神に奪われた者だとは思わなかった。

 

「わかったよ。それで、響子さんは何者?」

 

 草の先さえ微動だにしない沈黙が下りる。

 どうしても答えたくないか。

 

「わかったよ。ありがとな」

 

 背を向けて歩き出したぼくに、草陰のギョロ目が声をかけた。

 

「これはおまけの情報だ。今はこれ以上残欠の小径の奥へは入らないほうがいい」

 

 立ち止まり、訝しげに首を傾げた。お茶の効果はまだ残っているはずだが。

 

「鬼神はおまえの大切な者を、片端から奪いたいらしい。同じく奪われるにしても、見えぬ所のできごととして片付けた方が気が楽だろうよ。このまま足を進めれば、それほどかからず追いつくぞ」

 

「誰に?」

 

 大切な人なら沢山いる。いつの間に、こんなに人に囲まれていたのかと思うほど。

 ぼくの表情が険しくなっていたのだろう。振り向くと、草陰のギョロ目がひっといって草の割れ目を閉じた。

 

「名は知らん。だが、今のおまえと同じ匂いが、微かだが漂っていた。少し前にここを通った。これ以上は知らん」

 

 ざっと音を立てて、草陰のギョロ目が去って行く。

 草むらから視線を外したぼくは、はっとした。

 残欠の小径の住人は、一様に嗅覚がするどい。

 自分たちとは異質の者、違う世界の物なら尚のこと。

 今日一日厨房に居て染みついた、喫茶店のコーヒーの香り。

 同じ場所で毎日のようにコーヒーを飲んでいたら?

 

「森田さん!」

 

 叫びながら走った。

 死んで失ったばかりの人間の、その魂まで奪おうというのか。

 無性に腹がたった。

 

 急なカーブを右に曲がったぼくは、荒い息のまま立ち止まった。

 三メートルもない距離に、森田さんの背中があった。

 

「森田さん?」

 

 振り返った森田さんの顔をみて、冷や水を浴びたように心臓が跳ね上がる。

 胸まで垂れ下がる黒い布に、森田さんの顔は隠されていた。

 

「此処はどこだ? 遠くで誰か呼んでいる。でもな、来るなって叫んでいる人も居る。来るなといわれても、少しずつだが勝手に寄っていくんだよなあ」

 

 まるで独り言だった。

 

「森田さん? ぼくだよ、わかる? アルバイトの兄ちゃん」

 

 森田さんは首を傾げた。

 

「そこに誰かいるのか? 真っ暗でそっちは見えないし、良く聞こえないよ。見えるのは、少し遠いがあっちの人だかりだけだな」

 

 駄目だ、ぼくのことが見えていない。

 今見えているのは、おそらく鬼神に呑み込まれた人々の姿。

 森田さんは、鬼神に取り込まれようとしている。

 

「うそだろう」

 

 目の前で森田さんの顔を覆う布が、端から塵となって崩れていく。

 胸まであった黒い布が、あっという間に短くなっていく。

 

「なんだ? あちこちに道があるが、暗くて先が見えないや。でもなぁ、何となくあそこには行きたくないな。天国には見えないしな」

 

 へへへっ、と森田さんが笑う。

 その間にも、黒い布はどんどん短くなっていた。

 

「もういっぺん飲みたかったな、あのコーヒー」

 

 小さな呟きだった。

 そしてぼくにとっては、叫びにも聞こえる声だった。

 

「森田さん、今見える場所には絶対にいっちゃ駄目だ! 少し耐えてて!」

 

 ぼくは踵を返し走り出す。

 ぼくにどうにかできることではなかった。

 鬼神に呑み込まれる人を救う方法なんて知らない。

 ただひとつ救いがあるとするなら、森田さんは他の人とは違って吸い込まれるのが異常に早い。

 ぼくに見せつける為に、鬼神は事を急いたのだろう。

 隙があるとするなら、森田さんが見えている場所に辿り着くまでの間だけ。

 

「シマ! シマ!」

 

 まだ庭も見えないうちからぼくは叫んでいた。

 やっとカナさんの庭に辿り着くと、庭にシマの姿はなく、どんなに呼んでも出てくる気配はなかった。

 

「和也様?」

 

 カナさんに、ぼくは手短に事情を説明した。

 

「シマなら、森田さんの魂をここへ連れてこられるかと。最後の望みだったのに」

 

「鬼神に呑まれかけている者を導くのは、はたしてシマにさえできるかどうか。シマは訪れた者がいることを、わたしに知らせるのが本来の役目ででございますから」

 

 カナさんが美しい眉根を寄せる。

 

「森田さんは暗くて良く見えないが、他にも道があるようなことをいっていました。その道のどれかに、森田さんが本来進むべき道があるんじゃないかって」

 

 今ここにシマがいたとしても、間に合うかどうかさえわからない。

 すでにもういってはならない鬼神の下へ、辿り着いてしまっただろうか。

 

「ここが辻堂と呼ばれる屋敷で、この庭へ迷う者を導くのもシマの仕事かと。勘違いしていました。森田さんを、救う事ができなかった」

 

 溜息と共に項垂れたぼくの背後で、ミャ、と鳴き声が響いた。

 振り向いた庭の草陰から、ちらりと白いものが見える。

 

「チビ? チビ!」

 

 チビが話の全てを理解できるはずはないと思った。それでも胸が騒ぐ。

 感情を悟なら、その感情が向かう先に察しが付くことも有り得るだろうか。

 

 ミャー

 

 のんびりと庭の端から、シマが悠然と歩いてきた。

 シマに頼もうとした身勝手な願いを、チビが叶えようと森田さんの歩む闇に入っていったとしたら。

 

「チビ、戻ってこい!」

 

 その辺りにいるなら飛んでくる筈のチビは、完全にこの庭から姿を消していた。

 縋るように、シマを見てしまった。

 表情のないいつものシマが、ゆっくりと顔をチビが姿を消した庭の草へと向ける。

 

「シマ……」

 

 後の言葉は続かなかった。

 音もなくシマが跳躍した。地に着い足をたった二歩で体の向きを変え、一気に草むらの向こうに広がる闇へと突っ込んでいく。

 

「カナさん!」

 

 動揺するぼくとは対称的に、カナさんは僅かに目を伏せ、うっすらと笑みを浮かべた口元を開いた。

 

「あの子達には、あの子達の道理がございます。選ぶ道も運命も、わたし達には、口出しできぬ事でございます」

 

 人に近い者とあの子達では重きをおくものが違うのだと、カナさんはいった。

 目を閉じてチビを思った。

 シマを思い拳を握る。

 コーヒーを飲みたかったといった森田さんの声が木霊して、あっという間に視界がぼやけて滲む。

 悲しみを増やすために、大切な人と出会ったというのだろうか。

 せっかく手にしたと思ったのに、大切な者がこの手からこぼれ落ちてく。

 目の荒い砂のように、少しずつこの指から漏れていく。

 

 

 

 

 




 ちょっと長くなりました。
 読んで下さった皆さん、ありがとうございます!
 シマが慕った人の話は、怪奇譚鈴語りの三話目に書いています。
 シマの過去に興味のある方は、覗いてみてくださいね~って、このお話、シマの出番が極端に少ないから、シマに興味持つ人いないかも……シマ撃沈(笑)
 では!


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25 別れと決意とさよならと


 


 呼び止めるカナさんの声が、走り出したぼくの背を追った。

 庭の木々をすり抜けて、ぼくは残欠の小径へと続く林の道へと駆け込んだ。

 森田さんの立っていた場所へと急ぐ。

 腕の力で引き留めた所でどうにもならないのだと、頭では解っていてももう一度戻らずにはいられなかった。

 情報を得られないかと、走りながら草陰の気配を探ったが、草陰のギョロ目の気配はどこにもなかった。

 焦って心が散り散りで、気配を感じられないだけかもしれない。

 

「いない」

 

 急なカーブを右に曲がった先には、山なりに真っ直ぐな土の道が続いているだけで、黒い布をつけた森田さんの姿はすでになかった。

 膝に手を付いて息を吐く。

 助けられないのなら、せめて最後まで側にいるべきだったと後悔が過る。

 

「一人きりで、森田さんを逝かせてしまった……どうしてこんなことに」

 

 揺れるつま先に力を込めなければ、今すぐにも膝から崩れ落ちてしまいそうで、ぼくは爪の先を太ももへと食い込ませる。

 気配のなかった背後の茂みから声がした。

 

「妙な生き物を引き摺り込んだのはあんたか? まったくよ。これ以上厄介ごとはごめんだぜ」

 

 草陰のギョロ目の声だった。

 慌てて振り返ったが僅かに草の先が揺れるだけで、草陰のギョロ目はすでこの場を去っていた。

 呆然と立ち尽くす。

 妙な生き物? 

 土の道に視線を落として脱力する視界の隅を、駆け抜ける白い塊があった。

 

「チビ?」

 

 ころころと先を行く白い毛玉を追いかけた。

 白い毛玉は、今来たばかりの道を全力で転がっていく。

 

「チビ、待ってくれよ!」

 

 止まることのないチビの後を追いながら、無事であったことに安堵した。

 シマはどうしているだろう。

 シマは確実にチビの気配を追ったはずだというのに、今は此処にはいない。

 もう打つ手がない。

 何も考えずにチビの後をひたすら走った。

 

 思った通り庭へと駆け込んだチビは、毛玉が開くようにぽんと元の姿に戻り、短い足で庭をちょこちょこと走ると、カナさんの横に丸まった。

 庭には廊下に腰掛けたカナさんの姿しかない。

 視線を向けるカナさんに、ぼくは黙って首を横に振った。

 一歩進む度に、庭の土がざりざりと音を立てる。

 廊下の板張りに手をつこうと下その時だった。

 

 ミャー

 

 シマの声が庭に響いた。

 はっとして振り向くと、シマが悠然と庭を横切り木々の向こうへ姿を消した。

 

「ここはどこだい?」

 

 ふらりと立ち寄ったように人影が歩いてくる。

 

「森田さん!」

 

 目の下まであと僅かに迫っていた黒い布が、森田さんの顔からはらりと落ちる。

 ひらりひらりと宙を舞う黒い布は、黒く焦げた紙の燃えかすが塵と崩れるように砕けて、地に着く前に庭を通る風に攫われた。

 

「アルバイトの兄ちゃんじゃないか?」

 

 きょとんとした表情の森田さんは、眼鏡の縁をくいとあげてぼくを見るとにこりと笑った。

 森田さんの笑顔に応えるより先に、安堵の溜息が漏れる。

 ここへ来たと言うことは、鬼神の手を逃れたということか?

 

「森田さん、どうやってここまで来たの?」

 

 訪ねると森田さんは、首を捻って鼻に皺を寄せた。

 

「何だか人がいっぱいいる所に磁石みたいに引き寄せられてさ、極楽か? なんて思ったんだが、どうにもあっちに行く気はしなくてな。それでもどんどん引き寄せられるし、どうしたもんかと思っていたらさ、猫の声がしたんだよ」

 

 にっと森田さんが笑う。

 

「さっきの猫とはちょっと違うな。もっとかわいい声だった。大した力じゃなかったが、あっちに引き摺られる速度は遅くなったよ。それが少し経って、急に猫の引っ張る力が強くなった。まるで綱引きの真ん中にくくられているみたいだったぜ」

 

「それで引かれるままにここへ?」

 

 上目遣いで何か思いだすように、森田さんは顎に指を当てる。

 

「こっち側には人の気配はしなかったが、ぽっと小さい明かりが見えていてさ、それに何だか懐かしい匂いがしたんだ」

 

「懐かしい匂いですか?」

 

「微かに、コーヒーの香りが漂ってきたように思う。たぶん、アルバイトの兄ちゃんがいつも淹れてくれるコーヒーの香りだ。おれはあの店意外じゃコーヒーなんて飲まないから。うっすらとした香りだったが、いい匂いだった」

 

 森田さんの言葉に喉が詰まる。

 ぼくに滲みたコーヒーの香りを嗅ぎ取ったというのだろうか。

 

「おれは死んだんだろ?」

 

 森田さんの表情に悲しみの色はない。

 代わりにぼくの心が沈んでいく。答えられずに、表情だけを曇らせてしまった。

 

「最後にぶっ倒れたのだけは覚えてる。あとは……葉山のおばはんが泣いてたな。

独り者だから、ひっそり死ぬんだろうな位に思っていたんだが、玄関前の掃除をしながら倒れたのは神様からの情けかね。けっこうな人が側にいてくれたよ。とはいっても、みんな喫茶店で顔を合わせていた連中ばっか」

 

 けけけっ、と森田さんが笑った。

 

「森田さん、巻き込んじゃってごめん」

 

 森田さんはきょとんとしたように目を見開き、糸の様に細めた。

 

「何言ってだか。アルバイトの兄ちゃんのせいじゃないだろうよ。天命ってやつさ。まあ、最後に彩ちゃんにもういっぺん会いたかったな。キャミの紐をぱちんと弾いてウインクしてさ、あれだけで毎日元気に生きられたってな」

 

 ここに来る体力など、今の彩ちゃんにあるはずもない。

 無理に連れてきても、森田さんが大好きな彩ちゃんの笑顔は見られない。

 

「森田さん、ぼくはその、何ていうか」

 

 手をひらひらと振って、森田さんは言葉の先を遮る。

 

「死んでみてわかったよ。生きているときには、知ることのできない世界があるってな。ここじゃ生きている人間の道理なんて通らないんだろう? あんたが何者だろうと、おれにとっちゃホイップクリームっぽいものを、たっぷりサービスでのっけてくれる、アルバイトの兄ちゃんだ」

 

 あれがもう飲めないのは残念だな、と森田さんが首筋を掻く。

 

「森田さん、ぼくコーヒーを淹れてくるよ。すぐに淹れるから」

 

 居間の向こうの厨房へ向かおうと、靴を脱ぎかけたぼくの背に、森田さんの声が投げかけられる。

 

「ありがとよ。でも、そりゃ無理みたいだ」

 

 振り返ると森田さんの姿が薄れ、背後の木々が透けている。

 

「森田さん待って!」

 

「ありがとうな」

 

 ほとんど薄れた森田さんが、目一杯上げた手を振っている。

 

「おっと、言い忘れるところだった。ありゃさすがに不味いぞ。あさりとラー油のパスタ。じゃあな、アルバイトの兄ちゃん!」

 

 聞き慣れた森田さんの笑い声だけが庭に残された。

 

「いってしまわれましたねぇ」

 

 カナさんがいう。

 ぼくは森田さんが姿を消した空間から、目をそらせなかった。

 森田さんの残像が、眼鏡の縁をくいっと上げる。

 大きく手を振り、そして笑った。

 

「これで良かったのかな」

 

 滲んだ視界をぼんやり眺めていると、ミャっと小さな声が足元で呼んだ。

 白くて小さな体を抱き上げる。

 

「チビ、ありがとう。でもね、もう無理はしないでくれよ」

 

 頬ずりしたチビの顔は、普通の子猫と変わらない温もりだった。

 

 ミャー

 

 少し離れた場所に、シマが姿を現した。

 

 ミャと小さく鳴いたチビを地面に下ろすと、シマは庭をゆっくりと踏みしめながらチビの隣に立って小さな体を見下ろしている。

 

 ミャー

 

 ミャ

 

 二匹の鳴き声が混ざり、シマはチビを乱暴に咥えると庭の隅へと姿を消した。

 

「カナさん、シマの声が少し尖っていたような」

 

 するとカナさんは、目を細めて微笑んだ。

 

「無謀な行動にでたチビに、お仕置きをしにでもいったのでしょう。文句はいえませんねぇ、何しろチビを助けにいったのはシマでございますもの」

 

「やっぱり無理をしたのですか」

 

 シマに礼をいう暇もなかった。

 

「助けにいったなど、死んでもシマは認めないでしょうけれどねぇ」

 

 くすりとカナさんが笑う。

 

「カナさんは、死んだばかりの魂を見送っても平気なのですか? ぼくは駄目です。どうしようもなく気分が塞ぎます」

 

「それが当たり前の人の想いでございます。わたしは魂を受け入れ道を示すのが役目。生きている人とでは死の受け取り方も、旅立つ者への想いも違う物となりましょう。わたしから見たなら先ほどの者、多くの気持ちに包まれ肉体の死を迎え、死を受け入れることによって、穏やかにこの世を去っていった幸せ者にございます」

 

 そうだろうか。

 そうだといいな。

 

「カナさん、チビがシマに叱られて戻ってきたら、少し慰めてやってくださいね。ぼくは、野坊主さんに会ってきます。今の生活を守ろうと必死だったけれど、守ろうとすればするほど、綻びが生まれるんです。今の生活が好きだったけれど、ちょっとだけ人と関わりすぎました。大好きな人達が増えるって、楽しい事ばかりじゃないんですね。だんだん、苦しくなってきました」

 

 ぼくは格子戸に手をかける。

 野坊主の所へいくつもりだった。

 

「まるで子を持った母のような事をおっしゃる。最愛の子を授かった親は、死ぬまで子の幸せを願うもの。それでもわたしは思うのですよ。命を引き替えにしても守りたいほどの者と巡り会えるのは、奇跡ではないかと。幸せなことではないかと、思うのでございますよ」

 

 頷いてぼくは格子戸を開けた。

 誰も居ない居間で、後ろ手に格子戸を閉める。

 カナさんの言葉を何度も心の中でくり返す。

 

「確かに幸せだよな。親でさえ近寄らなかったのに、今は沢山の人がぼくの側にいる」

 

 まだ残る涙を腕で拭きとって厨房へ行ったぼくは、コーヒーとクマさんココアを淹れた。

 クマさんココアを淹れるのは、きっとこれで最後になるだろう。

 形を崩さないように、ゆっくりと二階へ繋がる梯子を登った。

 

 真っ暗な部屋に明かりを点ける。

 窓から見える商店街の道は、心なし寂しく見えた。

 森田さんが居なくなった空洞が、夜の道を寒々しく感じさせる。

 

 焦げ茶色の戸の前に座って、ぼくはふっと息を吐く。

 

「野坊主さん、居ますか? ちょっとだけ顔を見せてくれませんか?」

 

 自分からはじめて声をかけた。

 トントンとノックすると、焦げ茶色の戸の向こうでごそごそと衣擦れの音がした。

 

「何かご用かな」

 

 焦げ茶色の戸が引き上げられ、野坊主が顔を見せた。

 いつもと変わらぬ姿勢で、小さな戸口をいっぱいに塞いでいる。

 

「急にすみません。ねぇ、野坊主さん。この戸の向こう側はどんな世界が広がっているの? 四つの部屋の角の空間を利用した、小さな部屋って訳ではなさそうだ」

 

 野坊主が目を眇める。

 

「急にどうした? 何かあったのであろう」

 

「何かあったというより、何かを決めたってところかな」

 

 野坊主が唇の片端を僅かに上げる。

 

「良い予感はせぬが、話は聞きますぞ」

 

 ぼくはもう一度大きく肩で息をした。

 口にしたなら、二度と引き返すことはできないだろうから。

 

 

「小花ちゃんは元気ですか? あとで呼んで下さいね、ココアを淹れてきたから」

 

 できる限りにこやかにいったが、野坊主の表情は動かない。

 まったく、妙なところだけ感の鋭い人なのだから。

 

「小花ちゃんを、彩ちゃんに返そうと思います」

 

 ぼくの言葉に、野坊主は目を剥いた。

 

「彩ちゃんに鬼神は殺せない。だって、鬼神の中にはお母さんの魂があるんだから、たとえ肉体は無くとも鬼神と共に母親の魂を打ち砕くなんて、彩ちゃんには絶対無理だ。だから弱っている。鬼神に手も出せず、伸びる勢力に対抗しきれない。守ることだけに力を注いでも、永遠に持つはずがないでしょう? このままだと、彩ちゃんは衰弱するだけだから」

 

 野坊主が、きつく閉じた目をゆっくりと開く。

 

「その後をどうするつもりだ? 彩を普通の生活に戻すというなら、代わりがいる」

 

「代わりなどいらないさ。ぼくがいる。彩ちゃんの代わりじゃない。ぼくはぼくの為に戦うつもりだよ」

 

 野坊主が俯いて首をふる。

 

「和也殿は、己の口にした言葉の意味がわかっているのか? 今の生活を捨てるつもりか?」

 

 ほんの少しだけ、野坊主の言葉に胸が痛む。

 

「そうだね、今すぐじゃなくても、そのうち全てを失うかも。でもいいんだよ。一度得た物は、失ってもぼくの記憶に残るから。それは、持ち続けていることと同じだろう? 存在することさえ望まれなかった子供が、今はこんなに話しかけてくれる人がいっぱいいる。他でもない、ぼくに向けて笑ってくれるんだよ。あの人達を、巻き込みたくない」

 

 くくくっ、と肩を揺らして野坊主が笑う。

 

「どうせ止めても聞かぬのだろう?」

 

 野坊主がコーヒーを旨そうに喉に流し込む。

 

「和也殿はあちらの世界で産まれた者。人としては余計な彩の力を、己に吸い取る事は容易であろうよ。最後の力を振り絞ってでも、彩にナイフを具現化させるがいい。あれは、彩の力の全て、彩の抱えた業の全てでもある」

 

「小花ちゃんを戻したら、彩ちゃんはどうなるかな?」

 

「根は変わらぬよ。だが抱える苦悩が消えれば、表情が変わるのは誰とて同じであろう。残欠の小径の記憶も、母を呑み込んだ鬼神のことも忘れるであろうな。普通の娘として、生きていくのであろうよ」

 

 ぼくはほっと胸を撫でおろす。死ぬまで見知った全てを隠し通す。それがぼくの彩ちゃんへの義だ。

 

「小花、出ておいで」

 

 野坊主の脇をくぐって、小花ちゃんが姿を見せる。

 クマさんココアを指差すと、にっこりと笑ってすぐに飲み始めた。

 

「彩とおぬしを見ていると、まるでカナを見ている様だ。この世は優しい者が馬鹿を見る。優しい者を喰らって、成り立つ浮き世かもしれぬな」

 

 黙って頭を下げると、小花ちゃんを残して焦げ茶色の戸は閉められた。

 

「小花ちゃん、それを飲んだら、お兄ちゃんと一緒に彩ねえちゃんの所にいこうか。風邪を引いて寝込んでいるからお見舞いだよ。小花ちゃんも彩ねえちゃんが早く良くなるようにって、お祈りしながら手を握って上げてね」

 

「うん!」

 

 口の周りに白い泡を付けたまま、小花ちゃんがにこりと笑う。

 二度と会えないであろう、小花ちゃんのさらさらしたおかっぱをそっと撫でる。

 幼い日の彩ちゃんの笑顔で、小花ちゃんがぼくの腕に頬をこすりつけた。

 

「よし、いこうか?」

 

 梯子に足をかけると、小花ちゃんの水色のスカートがふわりと舞った。

 全てが変わるというのに、ぼくの中にそんな気負いはどこにもなかった。

 

「小花ちゃん、さよなら」

 

 小さく呟いた。

 

――さっさと行けよ! アルバイトの兄ちゃん!

 

 森田さんの声が聞こえた気がして、ぼくはひとり微笑んだ。

 

 

 

 

 

 




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 お付き合いよろしくお願いします。
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26 戦いを引き継ぐ者

 小花ちゃんの後ろから梯子を登り四角い床板を押し開けると、部屋の中は豆電球一つしか灯されていない薄暗さで、彩ちゃんの少しだけ荒い息づかいが聞こえてきた。

 

「小花ちゃん、彩ねえちゃんにお水を持ってくるから、先に部屋に入っていい子で待っているんだよ。お姉ちゃんはもう少しだけ、眠らせておいてあげてね」

 

 頷く小花ちゃんを部屋の中に押し上げて、ぼくは一度厨房へと戻った。

 水を入れるコップを出していると、入り口の戸が開いてタザさんが戻ってきた。

 裏に入り口があるっていうのに、いつだって店の入り口から入ってくるんだから。

 そうだ、タザさんには言わなくちゃいけないな。

 人としてずっと彩ちゃんを守ってきたタザさんには、今から自分がしようとしていることを、ちゃんと伝えよう。

 タザさんにも解りやすいように、かみ砕いて話せるだろうか。

 タザさんは怒るかな。

 今の彩ちゃんが変わっていくことを、嫌がるだろうか。

 どんな風に変わるかなんて、ぼくにだってわからないよ。

 

「どうした?」

 

 無意識に動きが止まっていたのだろう。

 呆けたようなぼくの様子に、タザさんが先に声をかけてきた。

 今日は何の仕事を引き受けたのやら、顔中煤だらけになっている。

 ぼくは手にしたコップに、ゆっくりと水を注いだ。

 

「タザさんはどうして彩ちゃんを大切にしているの? シゲ爺が居るときも留守の間も、タザさんがこの店に居るのは、彩ちゃんを見守るためのような気がするから。その為だけに、生きているようにさえ見える。ぼくの思い過ごしかな?」

 

 面食らったようにタザさんは目を見開き、それから瞼の力を抜いてふっと息を吐く。

 

「だったら、おまえはどうして彩を助ける? 放っておけばいいだろう? ここで働いていれば給料は入るし、これは男の感だが彩に惚れたって訳でもなさそうだ。彩は体に傷を負ってこの家に帰ってくる。おまえは体の内側に傷を負って帰ってくる」

 

 タザさんは自分の胸を、拳でとんとんと叩いてみせる。

 

「なぜそこまでする必要がある? あっちに俺の覗けない場所があるのは知っている。だが雇われている奴が、どうしてそこまでする? 彩に頼まれたわけでもないだろうに、自分がぼろぼろになってまで、なぜ彩を助ける?」

 

 淡々としたタザさんの問いに、ぼくは思わず返答に詰まった。

 なぜかとか、考えたこともなかった。

 

「俺はおまえや彩と違って、若い時代を畜生みたいな生き方しかできなかった男だ。どうしてその道に足を踏み入れたのかなんて、今となっちゃ覚えてもいないが」

 

 喉から声を絞り出すように、タザさんの表情が歪む。

 

「俺は兵隊だった」

 

 思っても居なかった告白に、ぼくは返事すらできなかった。

 

「もちろんこの国でじゃない。この国の外にでたら、外人だろうが捨て駒に雇いたいって場所があんだよ。自分には本来何の関わりもない争いに、首を突っ込んで俺は仕事をした。無我夢中に働いたさ。必死に敵兵を……人を殺したんだ」

 

 戦争、内戦、独立運動、世の中に争いは掃いて捨てるほどある。けれどその只中に立った人が身近に居るなど、想像した事さえなかった。

 

「彩ちゃんと会ったのは、日本に戻ってから?」

 

「そうだ。肺をやられてな、働けなくなった。何があったか知らないが、近くの神社の鳥居の前で倒れている彩を見つけてな、ここまで抱いて運んだのさ。その時シゲ爺と会った。あの変わり者の爺さんは、行き先がないならここで働けといった。有り得ないだろ? 身元どころか、名前さえ名乗っていない俺をここに住ませるといったんだ」

 

 その時の事を思い出したのか、タザさんはふっと優しい笑みを浮かべた。

 

「それで雇われたってわけか。シゲ爺のこぼした果物を拾って雇われたぼくと変わらないね」

 

 雇われた日にさ、といってタザさんはもう一度息を吐く。

 

「床に体を横たえてやったら、彩が俺の目を見ていったんだよ。怪我をしていただろうに、にっこり笑ってありがとう、てな。抱いて運んだだけなのにあいつはありがとう、てこの俺にいってくれたんだ。嘘みたいな話だが、他人にありがとうなんて言われたのは、生まれてて初めてだった。

俺は頭が悪いから単純でよ、その時に思っちまった。この手は人の命を奪うことも、ありがとうって言葉を生みだすこともできるんだってな」

 

 ガキみたいな発想だろう? とタザさんが笑う。

 ありがとうのひと言に、それほどの重みを感じたタザさんの気持ちがぼくには解る。誰かが呼びかけてくれる声、投げかけてくれる笑顔、そんな事に死ぬほど憧れたから。

 飢えて乾いた者にだけ染みこむ小さなひと言を、僅かな表情を知っているから。

 彩ちゃんに出会うまで、タザさんは苦しかったのだろうと思う。

 ありがとうのひと言が、自分の中に何かを芽吹かせるほどに、飢えて生きていたのだろう。

「彩ちゃんが新しい生き方を指差してくれたから、手にした人生と共に彩ちゃんの側に居るんだね」

 

「そんなご立派なもんじゃねぇよ。他に行く当てもないから、仕方なし無しってとこだ」

 

 鼻の頭に皺を寄せて、タザさんがくくくっと笑う。

 手芸用品を買ってまでタザさんが小物を作ったり、小さな子供の面倒をみたり、たった三千円で値段以上の物を作ってしまうのは、その手で作り出した物が生みだす笑顔の価値を知っているからなのだろう。

 ぼくは少しだけ、前に踏み出したタザさんの一歩を羨ましく思った。

 

「タザさん、今夜ぼくは彩ちゃんに、失われていた彩ちゃんを返そうと思う。上手に説明できないけれど、たぶん彩ちゃんは戦うために、感情の一部を自分から分離させた。一番楽しかった幼い日の、ひたすら楽しく笑って、ふくれて、泣いていた豊かな感情を、自分の内から追い出したんだと思う。一種の防衛手段だよね。苦しくても悲しくても、自分の心が壊れないように。おそらく自分でやったわけではないだろうね。でも彩ちゃんのために、そうしようとした誰かの意思を受け入れた」

 

 タザさんは、きつく目を閉じて唇を僅かに歪める。

 

「明日の朝、彩は俺のことを覚えているか?」

 

 タザさんの声が沈む。

 

「大丈夫だと思うよ。彩ちゃんは彩ちゃんだもの。今までより、ずっと騒がしくなるかもしれない。すぐには無理でも、美味しい物を食べさせて休ませれば、明日からはきっと良くなる。何の確証もないけど、これはぼくの感だね」

 

 当てになんのかよ、とタザさんは肩を揺らした。

 

「タザさん、変な質問して悪かったよ。そうだよね、ぼくもタザさんも、彩ちゃんに幸せになって欲しいだけだもんな。理由なんてこの際、キャミの紐を弾く様子がかわいいから、とかでいいと思わない?」

 

「自分で振っておいて、結局その答えかよ」

 

「ぼくが何をするか、気にならないの? 心配じゃない?」

 

「心配だし気になるさ。だから徹底して気にしない」

 

 ひらひらと手を振って、タザさんが作業場へと戻っていく。

 コップの水を手に、ぼくも彩ちゃんの元へと向かった。

 豆電球のままの薄暗い部屋で布団で眠る彩ちゃんの傍らに、小花ちゃんがぺたりと大人しく座っていた。

 

「ごめんね、電気を点けていくのを忘れちゃったよ」

 

 小花ちゃんでは手が届かなかったであろう、スイッチに手を伸ばして部屋の明かりを点ける。

 

「おねえちゃん、ねてるね」

 

 小花ちゃんが小さな顔を近づけて、眠る彩ちゃんの顔を覗き込む。

 

「彩ちゃん、起きてよ。水を持ってきたから飲んで」

 

 布団からでた肩を軽く叩くと、彩ちゃんはうっすらと目を開けた。

 

「和也君?」

 

「勝手に入ってごめんね。具合はどうかなって、知り合いの子を預かっているから、一緒にお見舞いにきた」

 

 彩ちゃんの視線が、ゆっくりと小花ちゃんに向けられる。

 

「こんばんは」

 

 彩ちゃんが細い声で淡い微笑みを浮かべると、小花ちゃんは元気ににっこりと手を上げた。

 

「こんばんは!」

 

 ぼくはそんな小花ちゃんを彩ちゃんの横に引き寄せ、胸の上に乗せられた手に小さな手をそっと絡ませた。

 

「彩ちゃん、もう一方の手で、ぼくの手に触れて。それと、お願いがあるんだ」

 

 彩ちゃんが何だろうというように目を瞬く。

 

「こんなに調子が悪い時に申し訳ないけれど、ナイフをだして欲しい。彩ちゃんがキャミの中に収めているナイフ。それがあるとね、二つの魂を救えるんだ。ちょっとだけ、無理してもらえないかな?」

 

 軽い調子でいったが、この状況でナイフを出現させるなど、彩ちゃんにとってはかなりの精神力を要するはずだ。

 辛いのは解っている。

 だからこそ、辛いのを知らない振りして笑って見せた。

 彩ちゃんが不信に思わないよう、戸惑わないよう、馬鹿なおねだりをするアルバイトの兄ちゃんを演じよう。

 

「今すぐに?」

 

「うん。見せてくれたら後はゆっくり休んで。もうお願いしたりしないから」

 

 彩ちゃんはまだ力の籠もらない目で、じっとぼくを見ている。

 彩ちゃんはどんな無理をしても、ナイフを出すだろう。

 それで誰かが助かるなら、そう思って生きてきた子だから。

 彩ちゃんはいつだって無理をして生きてきたんだ。

 でもね、これが最後のお願い。最後の無理な頼み事だから。

 

 小さく頷いて、彩ちゃんはキャミの胸元に指先を入れる。

 

「小花ちゃん、お姉ちゃんの手をぎゅって握ってあげていてね」

 

 ぷっくりとしたほっぺたを揺らして、小花ちゃんが元気に頷く。

 彩ちゃんの片手を握る小さな手の指先が、込めた力にきゅっとなる。

 

「こんな小さくっちゃ……何の役にもたたないよ?」

 

 囁くようにいった彩ちゃんの手には、以前見た時より遙かに小さくなったナイフが握られていた。

 ぼくの手の平にすっぽりと収まりそうなナイフに、そっと手を伸ばす。

 何かいおうと口を開きかけた彩ちゃんを、しっと唇に指を立てて押し留める。

 

「彩ちゃん、頑張ったね」

 

「和也君、何を……何をする気なの?」

 

 彩ちゃんという女の子に雇われた、アルバイトの兄ちゃんの顔でぼくはにっと笑ってみせる。

 

「おまじないかな? 頑張った彩ちゃんが、幸せになれるおまじない」

 

 そっと指先でナイフに触れる。

 冷たい金属の手触りはなく、ぬるい風呂の湯に手を入れた時に似た、ほっとする温もりをナイフは持っていた。

 

「彩ちゃん」

 

「なに?」

 

「ありがとう」

 

 彩ちゃんがはっと目を見開いたのを視界の隅で確かめながら、ぼくは指先に意識を集中した。

 ナイフの形を保っていた物は、砂を崩すように光りの粒となり、さらさらとぼくの方へと流れてくる。

 長袖のシャツの袖からぼくの手首に入り込んだ光りの粒は、鈍い痛みを伴って最後の一粒さえ姿を消した。

 彩ちゃんの体が、喉を仰け反らせて僅かに跳ねた。

 視線が宙をおよぐ。いまはもう、この部屋の風景ではない何かが見えているのかも知れないと思った。

 彩ちゃんの手を握る小花ちゃんは、眠い目を開けようと頑張っていたが、瞼を閉じるとそのまま彩ちゃんの胸の上にことりと身を倒す。

 

「小花ちゃんも、ありがとうね」

 

 小花ちゃんの体が、彩ちゃんへと吸い込まれていく。

 彩ちゃんも重くなった瞼を閉じて、今は静かな寝息を立てていた。

 二人の寝息が同調するように、存在が溶け合っていく。

 彩ちゃんの手を握り続けた小さな手が、水面に沈むように姿を消した。

 

「明日から、彩ちゃんも怒ったら膨れるのかな? 小花ちゃんの大きくなったバージョンだとけっこう手強いかも」

 

 ぼくは一人苦笑した。

 

「あのナイフの源は、残欠の小径そのもの。そこで生まれたぼくの元に、帰ってきただけさ。今日だけは、人の子じゃなくて良かったって、少しだけ思えた」

 

 立ち上がって床板を開ける。

 居間にタザさんの姿は無い。

 言葉通り、徹底的に気にしないために、作業に没頭しているのだろう。

 

「タザさんらしや」

 

 厨房で薬缶を火にかける。

 ふつふつと音を立てて沸き始めたお湯の音が耳に心地いい。

 

「たとえ肉体を裂くわけじゃないと解っていても、お母さんの魂が宿った鬼神を、彩ちゃんは殺せない。鬼神を滅することができなくて、守りに入ったから弱っていった。無尽蔵の力なんて在るわけ無いんだ。期限の見えない戦いは、自分を滅ぼす」

 

 挽いた豆にお湯を注ぐと、白い湯気と共に茶色い泡からコーヒーの香ばし薫りが漂う。

 

「好きだったのにな、この匂い」

 

 コーヒーを注いだカップを手に、タザさんのいる作業場の戸口の前に立った。

 中からは、ノコギリを挽く音が響く。

 戸口の横にコーヒーのカップを置いた。

 

「終わったよ、タザさん」

 

 ぼくは作業場に背を向けて、居間の壁を占める大きな本棚で息を吐く。

 力を込めて本棚をスライドさせた。

 障子の向こうから、淡い明かりが漏れる。

 

「ここからは、ぼくの戦いだ」

 

 ぼくは大きく息を吐き、格子戸に手をかけた。

 

 

 





 少しづつ書き上げていきますので、よろしくお願いします。
 では!


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27 選んだ道の先にあるものは

 屋敷の庭にカナさんと陽炎の姿はなかった。

 シマにもお礼を言いたかったが、チビを咥えていったきり庭はしんと静まりかえっている。

 誰にも会わずにここを抜けられたのは、かえって良かったのかも知れないと思う。

 会えば最後に彩ちゃんに会う時間さえ与えて上げられなかったことを、謝らなければならないだろう。

 

「さてと、説教でも喰らいにいくか」

 

 響子さんの家へ向かおうと思った。

 なけなしの決意を固めたくらいで何とかなる状況だとは、お気楽な自分でもさすがに思ってはいなかった。

 響子さんと蓮華さんに力を借りる必要がある。

 目的は同じなのだから、同じ方向に向かって走ればいい。

 でも響子さんは怒るだろうな。フライングしたぼくの行為を、怒るだろう。

 響子さんは手加減を知らない、優しい鬼だから。

 

「いっそのこと、このままスルーしたいな」

 

 理由はどうあれ叱られることを好むわけもなく、溜息と共に本音が漏れる。

 

「わたしに何か言うことがあるだろう?」

 

 通り過ぎたばかりの背後の道から、低く抑えられた声がかかった。

 怒鳴られたわけでもないのに、一瞬にして身が竦む。

 

「響子さん?」

 

 振り返らずに問いかけると、ずかずかと足音が近づいてくる。

 目的地といってもいい相手が向こうから出向いてくれたというのに、生存本能が足を一歩前に動かした。

 

「逃げるとはいい度胸だ。逃がすか! このボケが!」

 

 言うが早いか、響子さんの指で耳を捻り掴まれた。

 

「ごめんなさい! 痛い!」

 

「なんだ? 何か謝る必要のあることでもしでかしたか。あん?」

 

 あとは黙って引き摺られた。

 この前より指に力が籠もっているのは気のせいだろうか。あっという間に耳の感覚がなくなった。

 

「このまま気絶してぇ」

 

「なんか言ったか?」

 

 耳を引っ掴む響子さんの腕にしがみついて、口をむんずと閉じた。ずるずると全身を土まみれに引き摺られながら、歩くって楽だな、と意識の遠い所でひとり呟く。

 

 響子さんの家の前に放り出されて、仰向けになったぼくの目に映ったのは、心配そうな顔のまま目を見開き口元に手をあてた蓮華さんだった。

 

「こんにちは」

 

 何となく場違いな挨拶をしたぼくの横っ腹を、響子さんが靴の先でとんと蹴る。

 

「残欠の小径の匂いが変わった。爽やかな夏の風といった香りだったのに、今は鈍臭いクソ真面目な匂いがする。変わったのはほんの少し前でな。おまえ、何をした?」

 

 質問に答えさせたいなら、せめて五体満足のまま運ぶべきだろうと思うのだが、そんな常識を響子さんに言うだけ無駄だろう。

 

「彩ちゃんは、ここへはもう来られないよ」

 

 たった一言で、響子さんは事情を悟ったのだろう。

 見開いた目を閉じると、ふっと息を吐く。

 

「残欠の小径に介入する彩の力を和也が奪ったというのか? いったいどうやって奪ったという。血に受け継がれてきた力だぞ? まさか鬼神のように己に彩を取り込んだわけでも無いだろうに」

 

 地面に片手を着いて半身を起こすと、予想したとおり体のあちらこちらが痛かった。

 

「そんなことはしていないよ。彩ちゃんの力を引き継いだだけ。ぼくはこっちで生まれたからね。もともとこちらの世界の色合いが強い力なら、受け継ぐのにぼくほどの器はないだろう?」

 

 腕を組んで響子さんは考えるように眉根を寄せる。

 

「確かに残欠の小径を守る膜は、以前より強固なものになったかもしれません。まさか和也さんの力だったなんて」

 

 蓮華さんはどうして良いかわからないという風に、ぼくと響子さんを交互に見る。

 

「ぼくの力じゃありません。もともとの力が宿主を変えて安定しただけでしょう。彩ちゃんはキャミに収めたナイフを維持しながらこの世界を守り、回復できるような体力など残っていなかった」

 

「だから引き継いだと?」

 

「女の子がぼろぼろになるまで頑張ったんだ。もう、血の鎖から解放されて、普通の幸せを手にしたっていいと思うから」

 

「お人好し、馬鹿、脳天気、ノープラン! 真っ直ぐな奴だとは思っていたが、ここまで真っ正直に突き進むとはな。しかも何の相談もなしか」

 

「すみません」

 

 ぼくがへらへらと笑うと、響子さんに靴の裏で頭を蹴られた。

 脳震とうを起こしかけた頭が、続けざまに放たれた横腹への蹴りの痛さに意識を引き戻す。

 

「響子さんの言うとおり、まったくのノープラン。どうしよう……かな?」

 

 知るか! と響子さんが口を真一文字に引き締める。

 

「とりあえず、中に入ってお茶でも飲みませんか?」

 

 蓮華さんが巨木に取り付けられた戸口に手をかけた時だった。

 

「繋ぎでございます」

 

 聞き覚えのある女性の声がした。

 確かに声が聞こえる茂った草は、葉先ひとつ揺れてはいない。

 

「雪さん?」

 

 ぼくの問いかけへの返事はない。

 草陰のギョロ目からですら感じられる気配が、まったく感じられなかった。

 

「和也様、水月様がお呼びです。今すぐ御出立を」

 

「雪さん、どこにいるの?」

 

 おそらくすでに姿を消したのだろう。

 ぼくだけじゃない、響子さんにまで感づかれることなく声が届くほど近くに寄ってくるなど、あまり考えられることではなかった。

 

「町の小屋で会った娘だな。あの時は確か、役に立てるかも知れないといっていたな。記憶の壁が壊れたとも。すでに水月と接していることや、立ち回り方からみて生前はどこかの間者だったとでもいうところか」

 

「雪さんが間者?」

 

「あぁ、昔は老中などが手元に置いて、敵の情報を盗ませたりした者達のことだ」

 

「忍者みたいなもの?」

 

 ふふふっと響子さんが笑う。

 

「忍びの者と、役目は似ているかもしれないな。どっちに転んでも、捨て駒扱いの汚れ仕事だ」

 

 汚れ仕事という言葉が、ぼくの心を重くさせた。

 ぼくが触れることで思い出させてしまった雪の記憶は、彼女を苦しめてはいないだろうか。

 

「気に病むな馬鹿が。どうせ自分の所為で苦しんでいないかとか思ったのだろう? さっきの声を聞いただろう? 出会った当初とはまるで別人だ。嫌な過去だとしても、それも含めて雪を造り上げる一部なのだよ」

 

 下を向いたまま無言でいると、解ったのか間抜けが、といって響子さんがぼくの頭をごつりと叩いた。

 思わず笑いが零れる。

 

「うん、そう思うことにするよ。響子さんは、馬鹿みたいにいい人だ」

 

 黙って聞いていた蓮華さんがにこりと笑う。

 

「いい奴は、この残欠の小径で生き残ったりしないんだよ。さっさと行け!」

 

 蓮華さんを残して、響子さんさんはさっさと家に入ってしまった。

 

「照れているのですよ」

 

 可笑しそうにいう蓮華さんに、ぼくもにこりと笑い返す。

 

「頬の傷のように心の傷も癒えたらいいのにと、どうしても思ってしまうのです」

 

 胸の奥が杭で打ったように痛む気がした。

 言葉にした蓮華さんは、柔らかな笑みを浮かべている。

 だったらぼくも笑っていよう。同情も共感も響子さんは望んでなどいないだろうから。

 

「水月さんの所へいってみます」

 

 頷く蓮華さんを残してぼくは走った。

 あのお茶の効果はまだ残っているだろうか、走りながら浮かんだのはそんな心配だけだった。

 

 

 

 川辺に立つ小屋は以前のままで、少し警戒していたが鬼神は現れなかった。

 大きく息を吸い込み、戸をノックしようと拳を上げると、中から戸が開かれ水月が顔を出した。

 

「早かったな。まあ入りなよ」

 

 のんびりとした口調に少しだけほっとする。

 小屋の中は相変わらず閑散としていて、およそ生活感が感じられないままだった。

 

「雪さんが連絡してくれました。彼女は間者ではないかって、響子さんが言っていたけれど、本当のところはどうなのかな。あまり危険なことをしなければいいけれど」

 

 水月がカップに入れて目の前に置いてくれたのは、忘れもしない味のあのお茶。

 

「これ飲むんですか?」

 

「ちゃんと飲めといったのに、飲んでいないだろう? 必要になったら飲むのをやめればいい」

 

 まるで考えを読まれた気分だった。確かにぼくはこのお茶に、もう口を付けないでおこうと思っていたのだから。

 

「やろうとしていることは理解できる。だが今は存在を安定させろ。おまえさんは、自分で思うよりずっと不安定なんだよ。こっちから見ていると、突けば割れるシャボン玉みたいだ」

 

 水月は自分用のカップから旨そうに茶を飲むと、はぁーと満足そうに息を吐く。

 

「いただきます」

 

 鼻をつまんで一気に流し込んだ努力は、無駄としかいいようがなかった。

 気絶しそうな風味が口いっぱいに広がる。

 

「うえぇー」

 

 悶絶するぼくの様子をみて水月が笑う。

 ぼくが落ち着くまで、水月は柔らかな笑みを浮かべるだけで何も語らなかった。

 ようやく平常心を取り戻し、涙目のまま顔をあげる。

 

「ここを守っていた力を、その身に引き継いだのか?」

 

 責めるような口調ではない。淡々とした事実の確認。

 

「彩ちゃんにはもう無理でした。だから、誰かがやらないといけないでしょう?」

 

「血縁に頼った力を抜き取られたその子は、残欠の小径に関する記憶を全て失うだろう。自分が何をしてきたのか、母親が何を守ろうとして、どうやって命を落としたのかも」

 

 それは覚悟していた。こうなった以上その方が彩ちゃんの為だとも思う。同じ悲しみでも、母親が普通に亡くなったのだと思えた方が、幾分かは幸せに思えた。

 だが、次ぎに水月が発した言葉は、ぼくに衝撃を与えた。

 

「和也のこともいずれ忘れる。今すぐじゃないが、目の前にいて毎日会っているにもかかわらず、和也という存在が、彼女の中から消えていく。燻った炭がいずれ燃え尽きて灰になるように、少しずつ変化は起きる」

 

 彩ちゃんの中から自分の記憶が消える。

 もう笑いかけてもらえない、そんな日が来るなんて想像していなかった。

 自分が死ぬ以外に、彩ちゃんの笑顔を失う日が来るなんて。

 

「大丈夫です。心の整理ならその内きっと。自分で選んだ方法だから」

 

 ちっとも大丈夫には見えんがな、とぽつりと水月が言う。

 

「なあ和也、鬼神と本気でやり合うつもりか?」

 

「はい」

 

 そうしなければ何もかもが無駄になる。

 水月は相変わらずゆったりとした、優しい笑みを目元に浮かべてぼくを見ていた。

 

「雪という娘は役に立ってくれるだろう。本人も望んでいるから、必要があれば使ってやるといい」

 

「手伝ってもらうかもしれません」

 

 生乾きのまま丸めておいたシャツみたいに、心の中がぐちゃぐちゃだった。

 ぐしゃぐしゃの心に、水月のひと言が更に黒く深い穴を穿つ。

 

「俺の魂を、喰らってみないか?」

 

 返事などできなかった。驚いて顔を上げた先に見えた水月の表情からは、先ほどまでの柔らかい笑みは消え、射貫くような鋭い双眸だけが真っ直ぐにぼくを見つめていた。

 

 

 




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 次話もお付き合いいただけますように。
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28 黒い大刀

「水月さん、いったい何をいっているの?」

 

 水月の双眸から鋭い光りがすいと消える。いつもの柔和な笑顔に目尻が幾本もの皺を刻んだ。

 

「ほら、本気で鬼神を追うなら、俺の記憶が役に立つと思ってな。別に鬼神のように魂の全てを奪えといっているわけじゃない。俺だって生きていく限り、人には見られたくない記憶の一つや二つ持っているしな。だから魂の一部なんだよ。鬼神を追い詰めるのに必要な経験と知識。それが有ると無しでは事の進みが違ってくる。俺の記憶が役に立つ」

 

 言われてはいそうですか、と返答できる内容ではなかった。

 たとえ一部でも魂を奪われたなら、水月はどうなるだろう。

 彩ちゃんと雪のことが脳裏に浮かぶ。前に進むために、無邪気で素直な感情を切り離して生きてきた彩ちゃん。どのような記憶であれ、記憶を取り戻して人が変わったように目に光りを宿した雪。 水月だって見えない何かが変わってしまうのだろう。

 なにより自分に魂をどうにかする芸当ができるとは思えなかった。

 

「鬼神を追い続けた記憶をぼくが奪ってしまったら、水月さんの思いはどうなりますか? 長追いし過ぎたとさえいえる鬼神を、水月さん自身は諦めるのですか?」

 

 水月は新しい茶を口に運びながら、うーんと視線を上へと向ける。

 

「諦めるのとは違うな。和也に託すのさ。埒のあかないこの鬼ごっこに、おまえさんなら終止符を打てるかも知れないってな。中年の希望的観測だ」

 

「そんなこと、したくありません。水月さんの中に眠る知識も経験も、それは水月さんのものだ。水月さんの口でぼくに助言して下さい。それで十分だと思います」

 

 わかってないな、と水月は頭を掻く。

 

「会う時はいつも、のんびり茶を啜っているとは限らない。ほんの一瞬の迷いが生死をわける中、助言が何の役に立つ? 呼びかける前にお陀仏だ」

 

 そうかもしれない。ぼくの考えも覚悟も、水月から見たら吹けば飛びそうなガキの決意に過ぎないのだろう。それでも今のぼくには精一杯だから、これ以上抱え込めないよ。

 

「ぼくが駄目になっても、まだ水月さんがいる。そんな気持ちの余裕が欲しいです。正直今はぼくの中の引き出しは満杯です。水月さんの記憶を取り込んだりしたら、何かが破裂しそうです」

 

「死なせやしないさ」

 

 二度も死なれてたまるもんか……最後の言葉はほとんど呟きだった。

 ぼくに聞かせようとしたというより、自分に言い聞かせた思いが思わず口から漏れたような。

 

「水月さん」

 

「なんだ?」

 

 水月の表情に、さっきの言葉の影は微塵も残っていない。

 聞けなかった。

 

「もう少しだけ、考えさせて下さい。いつかどうしても、という日がくるかもしれない。でもね 基本的にはお断りします。水月さんは、ぼくの内からじゃなく、外からサポートして欲しいから」

 

 呆れたように溜息を吐いて、水月は仕方なしなしといった様子で頷いた。

 

「急ぎの用があるときには、雪を使いにやるよ。あの子は気付いた時にはすでに小屋の中にいて、入り口の戸の前に傅いていた。自分が鬼神に呑み込まれることは、決して良い結果は産まないのだと。生まれ落ちた定めと思って、欲に塗れた鬼畜の為に命を賭けて影を渡り歩いて生きていたが、今度は命を預けたいのだと雪は言った。訳のわからない混沌を終わらせるためなら、その為に動こうとしている者達を己の主人と思って、命を預けるとな。たいした女だよ、あの娘は」

 

「そこまでして、最後に雪さんに残るのは何だろう」

 

「何もないだろうよ。混沌が続いても終わりを迎えても、雪はいずれ消えていく。魂に残る人としての尊厳を、取り戻そうとしているのだろうな」

 

 頭を振ってぼくは考えるのを止めた。

 雪の人生を思うと、いたたまれない気持ちに涙がでそうになる。

 でも雪が望んでいるのは涙などではないだろう。雪に会ったら伝えよう。君の考えは間違っていると伝えてみよう。

 

「和也は力を受け継いだとはいっても、あの娘のように意思を持って力を操っているわけではないだろう? 取り込んだ力が、和也の体と意思を媒体にして、かってに拡散しているようなもの。だからこそ気を付けろ、あんたが取り込んだ力は間違えば敵のみならず、自分を傷つけかねない」

 

 真っ直ぐに水月を見てぼくは深く頷いた。

 

「響子の所へ寄っていくのか?」

 

 立ち上がったぼくに水月が問う。

 

「そうですね。突然に呼び出されて、話の内容を気にしていると思いますし。それに、響子さんの説教の途中で抜けてきましたから。日をまたいで叩かれるより、今日中にまとめて終わらせたいです」

 

 ははは、と水月が笑った。

 

「あの人は和也と同じくらい変わった人だよ。自分で気付いているのかいないのか」

 

 

 意味深な言葉に振り向いて首を傾げると、水月は顔の前で手を振り気にするな、といった。

 

「また来ます」

 

 水月の小屋を後にして、残欠の小径を一人歩く。水月が何故執拗に鬼神を追っているのか、細かいことを聞かされてはいない。響子さんに水月、雪さんや町の人々、それぞれが違う思いを抱いて鬼神に反旗を翻そうとしている。

 

 草陰のギョロ目に出会うことさえなく、道を下って響子さんの家の前に広がる平地にでた。

 少し離れて見ると響子さんがその根の下を住み処としている大木は、大きく枝葉を広げまるで残欠の小径の歴史を全て知る、物言わぬ賢者の趣があった。

 後数歩で戸口に手をかけようかというとき、ぞわりとした気配にぼくは立ち止まった。

 

「血に繋がれていた力を、途絶えさせたのか?」

 

 まだ幼い声が背後から響く。

 振り返り今すぐにも反応したいというのに、体が動かない。

 

「獲物をひとつ逃がしたな。網で引き上げた中から、たった一匹を逃して何になる? 気休めか? まあ良心が疼いたなど、吐き気がする返答だけは止めて欲しいが」

 

 幼い声とそれにふさわしくない言葉は不協和音を奏で、ガラスを掻いたような嫌悪感に襲われた。

 

「どうした? 以前のように反撃しようとはしないのか?」

 

 鉛を括り付けたように重い足を何とか動かし、体を鬼神へと向ける。

 口の片端を上げてにやりとした笑みを浮かべていた鬼神が、眉を顰め拳を握った。

 

「まったく煩わしい。引っ込んでいろ!」

 

 自分に投げかけられた言葉ではないだろう。

 鬼神は己の内に潜む魂と、主導権を争っているように見えた。

 険しい表情を浮かべ、唇を噛んだ鬼神の表情が緩む。

 

「どっちだ?」

 

 オリジナルの人格が表に出たのなら、この場を切り抜けることも可能だろう。

 もし違ったなら、状況は厳しさを増す。

 

「ねぇ、ぼくを殺して」

 

 鬼神の口から、聞き覚えのある言葉が放たれる。

 

「君はまさか」

 

 目を見開き前に踏み出そうとしたぼくを、天を仰いで鬼神が笑う。

 

「ぼくを殺して……などと。わたしがそう易々と支配権を渡すと思うか?」

 

 オリジナルの人格を真似ただけか。希望の灯はあっさりと消えた。

 思うように動かない体を抱えていては、のろりくらりと鬼神が近寄ってきてこの身を引き裂いても、止めることなどできないだろう。

 なにより致命傷なのは、水月の小屋であのお茶を飲んだこと。

 今のぼくでは、鬼神の目を欺く隙さえつくり出すことは不可能だった。

 次の瞬間、ぼくは自分の目を疑った。

 

「何だよそれ、有り得ないだろう」

 

 にたりと笑う鬼神が、片手を首筋の後ろへと回す。

 小さな手に握られ引き出されたのは、鬼神の身の丈はありそうな黒い大刀だった。

 長く幅の広い刃は反り返り、青竜刀に似た形をしていた。

 何を元につくり出されているのか、黒い刃は日の光を受けてなお、辺りに影を落としそうな禍々しさを宿している。

 

「前にもいっただろう? おまえを取り込むような愚行は犯さないと。この世界を囲う結界をつくり出す力を吸い取ったその体ごと、ここで一刀の元に殺してくれる」

 

 鬼神の纏う空気が一変した。

 裂けそうに見開いた目をそのままに、足音も立てずに黒い大刀を手にした鬼神が迫る。

 動けない。

 目を閉じる時間さえなかった。

 これだけの大刀を扱う力がどこにあるのか。

 振りかざされた黒い大刀の鋭利な刃が、ぼくの首筋目掛けて振り下ろされた。

 

「和也!」

 

 戸を蹴り開けてでてきた、響子さんの叫びが背後から響く。

 首が飛ぶ、そう思った瞬間に鬼神とぼくの間を、黒い残像を残して疾風が駆け抜けた。

 

「くそ!」

 

 一瞬にして鬼神が手にしていた黒い大刀が霧散する。

 手首を押さえながら鬼神が睨む先はぼくではなく、人気のない草むら。

 鬼神が押さえていた手を離すと、手首には赤く深い傷口が見えた。

 流れるはずの赤い血は無く、代わりに傷口から粘着質な白い液体が這い出てくる。

 

「やめろ! やめろ!」

 

 白い液体は明らかに鬼神の手首の傷口を、内部から広げようとしていた。

 傷口を塞ごうと手を当てた鬼神は、熱湯に触れたようにひっ、短く悲鳴を漏らす。

 押し広げられた傷口から、ふわりふわりと白い煙が吐き出される。

 それは空中に浮いたまま、上に登でもなく消えるでもなく、ただ静かに浮いていた。

 

「がっっ!」

 

 響子さんの呻き声に振り返る。

 軋む体を無理矢理動かした先に見えたのは、内側から木槌で打たれたかのように胸を跳ね上げさせる響子さんの姿だった。

 

「響子さん!」

 

 何度も胸を跳ね上げながら、響子さんはその度に苦しそうな呻き声を漏らす。

 ざっという足音に首を回すと、鬼神が浴衣の袖で傷口を押さえ憎しみの籠もった眼で睨んでいた。

 もう一歩ざっという音と共に後退ると、目の前から鬼神の姿が掻き消えた。

 鬼神が姿を消した突端、体が軽くなり自由をとりもどしたぼくは、慌てて響子さんに駆け寄った。

 肩を支えると、響子さんの体が崩れて地面に膝をつく。

 異常を感じて飛び出してきた蓮華さんが、響子さんの様子に息を呑む。

 

「蓮華さん、どうしよう! 響子さんが!」

 

 蓮華さんが真っ直ぐにぼくを見る。

 

「和也様、心配はいりません。響子様が覚えていないだけで、今までにも何度も同じ状態におちいっていますから」

 

 何度もこんな異常な状態になったことがあるのか?

 はっとしてぼくは思わず状態をを反らせる。

 仰け反った響子さんの胸元から、ちりちりと光る透明な糸が宙に放たれた。

 日の光りを受けて光る糸は、それぞれに違う淡い色を帯びていて、蜘蛛の糸のように先へ先へと伸びていく。

 糸の伸びる先に、人を模った者が立っていた。

 まるで雲を固めて作ったような体が五体。目を懲らすと表情さえ見てとれる、精巧な雲の細工。

 それぞれに伸びた糸は、目指す体に辿り着くとすっとその身に吸い込まれていく。

 吸い込まれると同時に、ぷつりと切ったかのように響子さんの胸元から糸が離れていった。

 響子さんの体から力が抜け、吐き出した息と共に胸に手を当てる。

 さわさわと葉を擦り合わせる音に似た囁きを、耳にした気がして後ろを向いた。

 糸を吸い込んだ白い体が、刻一刻と色を帯びていく。

 精巧な雲の細工は人だった。

 森田さんが消えた時と同じ、体を通して向こう側の森が透けて見える。

 

――ありがとう

 

 それぞれの声が折り重なる。

 女性に老人、若い男と子供が二人。安堵の笑みが背後の景色に溶けていく。

 最後に老人の声が囁いた。

 

――鬼神はただの子供。寂しさに取り込んだ魂の記憶が、あの子に知恵を与え深い悲しみを憎しみに変えた。たったそれだけのこと……。

 

 もう何も聞こえなかった。

 鬼神がただの子供。この言葉が指すのは、オリジナルの意識のことなのだろうか。

 

「和也、大丈夫か?」

 

 こんな状態でも、ぼくのことを気遣う響子さんに苦笑する。

 

「大変そうなのは響子さんの方だよ。いったい何があったの?」

 

 地べたに座り、蓮華さんに背中を預けたまま響子さんが目を瞑る。

 ぼくは鬼神が睨み付けた草むらに声をかけた。

 

「雪さんだろう? 出ておいでよ」

 

 黒い装束で全身を覆った雪が姿を見せ、少し離れて片膝を付く。

 雪に声をかけようとしたとき、響子さんが口を開いた。

 

「すっかり忘れていたよ、己が何者であるかを」

 

 響子さんの言葉に、蓮華さんが睫を伏せる。

 

「もともと存在しないのがわたしだ。響子という名は、模られた形に付けられた呼び名にすぎなかった。思い出したよ」

 

 僅かに俯く響子さんの目が嗤う。

 何も聞き返すことさえできず、ぼくはただ響子さんの傍らに膝を落とした。

 

 

 

 

 





 普通じゃない人物を書いているせいか、書きながら、普通ってなかなかどうして大したもんだよね、とか思ったわたしでした(^^♪
 次のお話も読んでもらえますように。
 では!


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29 心を持つ器

 天を仰いで響子さんは目を閉じている。

 その背を支えながら唇を噛みしめる蓮華さんとは対称的に、その表情は穏やかで微かな笑みすら浮かべていた。

 

「わたしの自由を奪った鎖を、和也が解いてくれた日のことを覚えているか?」

 

「はい」

 

 残欠の小径に入ってすぐの出来事だ。

 あの日椅子に縛られた、響子さんを見た時の衝撃は今も忘れない。

 

「縛られて身動きが取れないわたしは、それでも記憶を失ってなどいなかった。これから成そうとしていることも、自分が何者であるかも理解していた。和也がわたしに触れたことで、記憶の一部が抜け落ちた」

 

「ぼくが?」

 

「和也にそんな意思はなかっただろうな。だが一部の記憶を失った事実は、確実に和也の道を開くこととなった。意識することなく前に進むために不要な壁を打ち砕く。幼稚な破壊者の力は、このわたしにも影響を与えていたわけだ」

 

 響子さんは目を開きまぶしそうに手を翳すと、目を細めてぼくをみる。

 

「響子さんが記憶を失うことでぼくに何の特があるっていうの? そんなことを望んではいないし、何かが有利に働いたとも思えないよ」

 

 幼稚な破壊者という言葉が胸に刺さる。何の感情も生みださないはずのただの呼び名が、今は何故か胸に痛かった。

 

「わたしが今おまえの横にいることこそが、和也が打ち砕いた壁の先に開いた道だ。記憶の欠落で己の認識を誤っていなければ、たとえ出会っても和也と共に行動するなど有り得ない。わたしは単独行動を貫いた。だがこうして、和也と共に居て水月との交流が生まれ、そこに控えている雪までも関わりを持ってしまった」

 

「悪いことじゃないだろう? 目的が同じ同士が行動を共にすることに、何の問題があるっていうの? 今まで一人で抱えてきたことなら、それをみんなで負担するだけのことだよ」

 

 響子さんが白い歯を見せて笑う。頬の傷を忘れさせるほどに、美しい微笑みだった。

 

「そんな戯れ言を平気で抜かす阿呆と、連むのが嫌だったのだよ。人の良い阿呆など、真っ直ぐに突っ走る無人の馬車みたいなものだ。がむしゃらに突っ走って、最後には自分が傷つく。それを眺めている身にもなれ、迷惑もいいところだ」

 

 膝を付き傅いていた雪が、僅かに面を上げる。

 

「この力が及ぶ限り和也様、響子様に蓮華様も影からこの雪がお守りいたします。我を忘れた馬が己の身も顧みずに暴走したときには、この身を盾にしても止めて見せましょう」

 

 再び面を伏せた雪の元へぼくはゆっくりと歩み寄り膝を落として、傅く肩を両手でそっと押し上げる。

 黒い頭巾から覗く目を、驚いたように見開く雪に、ぼくはにこりと笑いかけた。

 

「雪さんは勘違いしているよ。生きていた頃に雪さんが置かれていた立場をぼくは知らない。でもね、何となく予想はできる。残欠の小径にいる雪さんは、生きていた頃の雪さんとは違うよ。もう君に命令を下す人間なんていない」

 

「ですがわたしは……」

 

 しーっとぼくは唇に指を当て、雪さんの言葉を遮った。

 

「雪さんは鬼神を倒したいのでしょう? だったら自分の信念に従って動くべきだ。ぼく達は雪さんの主人じゃない。雪さんに何かをして貰うときは、やって貰えないだろかって頼むんだ。嫌なら断ればいい。仲間に主従関係など必要ないでしょう? ぼく達は同じ目的を持った仲間なんだ。このやり方に、雪さんも早くなれないとね」

 

 やり取りを聞いていた蓮華さんが、くすりと笑い声を漏らす。

 

「和也様、そのように一度にお話になるからいけないのですよ。雪さんの表情をごらんになってください。まるで見たことのない絶景を目の前にしたように、視線が泳いでしまっています。たとえ当たり前のことでも、雪さんにとってはかけられたことのない、別世界の言葉なのですから」

 

 蓮華さんにいわれて雪の顔を覗き込むと、まるでぼくのことなど見ていないようで、完全に心がどこかへ飛んでいる。

 

「雪よ、とりあえずこっちへ来て座れ。そんなにふわふわとした表情で立たれていたのでは、ゆっくりと話すこともできん」

 

 響子さんの声にはっとして頷くと、雪は申し訳なさそうにみんなの近くへ行き、それでも少し離れて腰をおろした。

 落ち着いたところで、ぼくは響子さんに向き直る。

 

「響子さん、聞いてもいいのかな? 思い出したっていう響子さんの正体」

 

 軽く頷くと響子さんの横で、蓮華さんも穏やかに頷いた。蓮華さんの表情に悲壮感は微塵もない。 芯の強い人だと、改めてぼくは思った。

 

「鬼神の体に雪が付けた傷口からでてきたのは、鬼神に取り込まれた魂の数体だ。傷口が塞ぐのを阻害していた粘液質な白いものは、魂を外に出すために他の魂達が手を貸していたのだろう。幾度も目にしてきた光景だというのに、忘れていたことに自分でも驚くよ」

 

 幾度も目にしたのなら、響子さんは鬼神の体に傷を付けたことがあるというのか。

 

「響子さんの胸元から伸びた糸。それぞれ別の体に向けて伸びていたよね。あの糸が彼らの体に吸い込まれ、響子さんの体からぷつりと糸が離れた。あの糸は何?」

 

「鬼神に取り込まれた魂の、僅かな残滓だよ。たとえ僅かでもそれが寄り集まってこそ、ひとつの魂と呼べるものになる。いうなれば、鬼神の内部に眠る魂は、僅かに不完全なのさ。それが鬼神に何か影響を及ぼすかといえば、蚊に刺されたほどの影響もないだろう」

 

 鬼神に影響を及ぼさないのなら、糸は何の為に魂から分化されたのか。

 糸を体内に収める、響子さんの存在理由はどこにあるのだろう。

 ぼくはひとり思考にふける。

 

「蓮華、喉が渇いた。何か飲み物をもってきてくれないか?」

 

 ひとつ頷くと、蓮華さんは家の中へと入っていく。

 まるで蓮華さんをこの場から払ったように思えるのは、気のせいだろうか。

 訝しげな表情のぼくを気にすることなく、響子さんは話しはじめた。

 

「あの糸は鬼神をどうにかする為のものではない。今日の様に、鬼神から逃れることのできた魂を救う為のものだ。鬼神の中ですり切れていく魂が、次の道へ進めるように、補うために温存された無傷な魂の一部があの糸なのさ」

 

 そういうことなのか。

 

「そして魂の残滓を糸として収めるための器が、わたしという存在だ」

 

 指の先が冷えるのを感じた。自分のことを器と称したことはあっても、響子さんを器とは思いたくはない。ぼくの耳を捻って握る響子さんの指は温かかったのに。頭を小突く拳は、とても硬くて痛くて、優しいものなのに。

 その全てを、無機質な器などという言葉で呼ぶことはできない。

 響子さんの口から語られるだけでも、これほど悔しいというのに。

 

「なんて顔をしているんだか。もともとが間延びした顔なのだから、情けない顔をするな」

 

 ぼくの心情を悟ったように、響子さんが唇の片端を上げて笑う。

 

「意識を持った時には、この木の根元座っていた。どういうわけだろうな、ここに腰をおろしていたとき、わたしは既に己の役目を知ってた。残欠の小径を通りすがる者の気配への感は鋭い。良くも悪しくも、鬼神と関わりを持つであろう者に、近づく者など誰もいなかった」

 

 長い時間を一人過ごしただろう、響子さんの孤独に思いを馳せる。

 思うだけで残欠の小径の空気が温度を下げるようだった。

 

「どれくらい時が経った頃だったか。わたしの役目に感づいた鬼神が、わたしに傷を付けたのさ」

 

 響子さんが、頬の傷を指先ですっとなぞる。

 

「戦い慣れていなかったわたしは、鬼神の放つ気の毒気にでもやられたのか、まったく気動きがとれなかった。傷口から伸びでる糸を引き戻すこともできずにいた。そこに現れたのが蓮華だった。蓮華はわたしの頬の傷を必死で押さえてくれた。蓮華の指の隙間から、伸びでた糸が戻っていったよ」

 

 蓮華さんが現れて、響子さんは変わっていったのか。

 言葉を交わす相手が、やっとできたのか。

 

「どうしてあそこに居たのか、蓮華はいまだに語ろうとしない。どうしてわたしの側に、こうも長く居てくれるのかもな」

 

「傍からみていると、蓮華さんが響子さんに恩義を感じて仕えているように見えるけれど、今の話だと、その関係性が良くわからないよ」

 

 まったくだ、といって響子さんは苦笑いする。

 

「わたしにオリジナルの人格があるのかなど知る術もないが、こんな器にも心を持つことが許されるのなら、蓮華こそがわたしの良心だ。たったひとつの、良心なのだよ」

 

 蓮華さんとの日々を思い出すように、目を閉じた響子さん表情は優しくて、今だけはまるで普通の女性に見えた。

 

「響子様、今日は少し甘めの紅茶にしてみました。みなさんもどうぞ」

 

「お、これは旨そうだ」

 

 礼をいって響子さんが紅茶を受け取る。

 目が合うと響子さんはしーっと唇を窄めて見せた。

 

「いえ、わたしはこのような……」

 

 同じように紅茶の入ったカップを差し出された雪さんが、じりじりと膝で後退りながら紅茶を受け取ることを拒否している。

 

「どうしましょう響子様、雪さんがわたしの淹れた紅茶を飲んでくださいません」

 

「決してそのような、わたしがいただくなど」

 

 困り切ったように、雪さんが両の手をぐっと握る。

 

「こう見えて蓮華は恐いぞ? 淹れてくれた紅茶を飲めないなどといってみろ、あの手この手でぼこぼこにされるぞ」

 

 響子さん、それは何のフォローにもなっていないどころか、嘘だらけだろ?

 

「響子様!」

 

 咎めるような視線を送る蓮華さんの手から、おどおどとカップが持って行かれた。

 

「いただきます。ありがとうございます」

 

 ほっとしたように蓮華さんがにこりと笑う。

 何を思ったのか雪さんは横を向いてみんなから顔を背け、黒い頭巾を口元まで下ろしてカップに口を付けた。

 その所作はまるで、茶席で茶碗からお茶を飲んでいるようで、何とも言えない違和感があった。

 三人の視線が集中する中、熱いはずの紅茶を飲みきった雪さんjは、カップに口を付けた部分を指先で拭い、こちらに体を向けると地面にカップを丁寧に置き、けっこうなお手前でしたと三つ指をついて頭を下げた。

 

「おもしろい奴だな、おまえは! 雪か、気に入ったぞ! あはははは!」

 

 何を笑われているのか解らない雪さんは、きょとんとした表情を慌てて収め、黒い頭巾をすっと引き上げて口元を隠した。

 

「響子さん、笑いすぎだって。紅茶もカップもはじめてだろう? そのうち慣れるからそんなに笑って喜ぶんじゃないっての」

 

 責めるように鼻に皺を寄せてぼくがいうと、響子さんは大して悪びれた様子もなく悪い悪い、と口先だけで謝った。

 

「雪さんも気にしなくていいよ。紅茶だって、好きなように飲めばいいんだから。響子さんに馬鹿にされたり笑われた回数なら、ぜったいぼくの方が多いから、気にすることないよ」

 

 握り拳を作って見せると、雪さんは少しだけ肩を揺らした。

 笑ったのだと思う。

 

「本日はこれにて失礼します。ありがとうごさいました。呼んで下されば、どこへでも参ります」

 

「だから雪さん、そんなことは……」

 

 雪はゆっくりと首を振る。

 

「わたしの意思で参ります」

 

 きちりと傅いて、通り過ぎる疾風のように雪は姿を消した。

 

「自分なりに上下関係のない仲間というものを、理解しようとしているのだろう」

 

 立ち上がり尻の埃を払いながら響子さんがいう。

 

「長年の習慣はなかなか抜けそうにないね。ばいばいって手を振って去っていけるようになるまで、こりゃそうとうかかりそうだ」

 

 がしがしと頭を掻いて、ぼくは大きく息を吐く。

 

「今日は部屋に戻るよ。水月さんに彩ちゃんは、そのうちぼく記憶を失っていくっていわれた。毎日会っていても、いつか完全に忘れられるらしい。でも直ぐじゃないってさ。あの店に居られないくらい彩ちゃんの記憶からぼくが消え始めたら、あそこを出るよ」

 

 立ち上がって膝の土埃を払う。

 

「水月さんはね、鬼神を倒す為に自分の魂の一部を喰らってみないかって。いまは嫌だから、そう伝えてきた」

 

 響子さんが驚いたように口を僅かに開く。

 

「とりあえず今日はここまで。アルバイトの兄ちゃんに戻る時間だ」

 

 立ち去る背中にかけられる声はなかった。

 足元でかさかさと枯れ葉が音を立てる。

 何もいわずにいてくれることが、これほどありがたいとは思わなかった。

  

 





 何だかんだで29話ですが、もうしばらくこのお話にお付き合いください。
 では!


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30 ふらりと立ち寄る懺悔の影は

 誰もいない庭を抜けて居間へと戻った。

 いつまで作業を続けるつもりなのか、作業場からはタザさんがノコギリを使う音が響いている。

 

「少し休むか」

 

 彩ちゃんの部屋へと続く床板を見上げ、それから足元に視線を戻す。

 梯子を登って、明かりのない部屋に大の字で寝転んだ。

 

「片付けるほどの荷物もないって、いったいどうやって気持ちに区切りをつけりゃいいんだか」

 

 疲れに全身が痺れる感覚があった。

 腹が減っているのかも、そんなことを思いながらいつの間にか眠りの中に引き込まれていった。

 

 

 雀がちゅんちゅんと鳴く声に目を覚まし、まだ眠い目を擦りながら居間へと下りた。

 昨夜遅くまで作業していたであろうタザさんは、まだ自分の部屋から出てくる様子はない。

 タザさんにしては既に寝坊の部類に入る時間だから、これ見よがしに朝の準備を一人でこなして、今夜はラーメンでも奢らせようかと、少し姑息な手段を思いついたりした。

 

「先に店の掃除でもするか」

 

 今日の朝飯当番はタザさんだから、腹が減っても食う物がない。代わりに朝食を作ってもいいが、みんなの舌の健康を考えると、自分の当番は回数が少ない方がいいだろう。

 なにより彩ちゃんのためのお粥は、タザさんがいつも作っているから、ぼくが代行してもあまり意味がない。

 隅々まで丹念にモップをかけながら、椅子の位置を綺麗に直していく。

 いい加減買い換えたらいいのにと思うほど古びた椅子だというのに、今はずっとこの椅子がこの店にあって欲しいと思う。

 触れる椅子それぞれに、いつもここに座るお客さんの顔が胸に浮かんだ。

 

「この掃除も、後何回できるのかな」

 

 力を入れて雑巾をかける。

 人生のほんの少しを過ごしただけだというのに、十八年を過ごした地元より家より、ずっと大切な場所になったこの店を立ち去る日、ぼくは泣くんだと思う。

 誰にも見送られることなく、一人泣くのだと思う。

 

 森田さんがいつも座っていたカウンターの席。背もたれの塗装が剥げて、地の木が所々見えている。

 

「そんなに不味かったかな、ラー油のパスタ」

 

 思い出し笑いをしながら厨房へ向かう。

 彩ちゃんが復活するまで後しばらく、ぼくの裏メニューが店の売り上げを伸ばすのだから。

 彩ちゃんの薬代になるといったのが効果てきめんで、不味かろう面白かろうと常連客がいつにもまして店に足を運んでいた。

 

「早いな。飯、パンでいいか?」

 

 ぎょろりとした目を寝不足で腫らしたまま、タザさんが居間の入り口に立っている。

 

「うん、腹減ったからぼくの分は、食パン二枚にしてね」

 

 おう、といってタザさんは洗面所へと消えていった。

 店の掃除が終わる頃には厨房からいい匂いがして、バターで焼いた食パンの上にレタスと目玉焼きを載せて、マヨネーズとマスタードをかけたものが大皿にでんと並べられた。

 ぼくの淹れたコーヒーを飲みながら、何を話すことなく朝食の時間が過ぎていく。

 

「終わったのか」

 

「終わったよ」

 

 皿を片づけるタザさんが、背中越しに呟いたひと言にぼくが答えただけ。

 今すぐ全てを伝える必要はないと思った。ひとつひとつ、タザさんの中で消化されていくのを待って、少しずつ話していこう。

 

「タザさん、彩ちゃんのお粥持って行ってもいいかな?」

 

 背中を向けたまま、タザさんが黙って頷いた。

 お粥を盆にのせて、ゆっくりと梯子を登る。

 

「彩ちゃん、起きてる?」

 

 もぞもぞと布団が動いて、彩ちゃんが顔を覗かせる。

 

「和也君、おはよう」

 

「はい、タザさん特製のお粥。今日のは胃に優しい、やさいと卵バージョンだってさ」

 

 背中を支えて布団の上に起こして上げると、彩ちゃんはスプーンですくって、少しずつお粥を口へと運んでいく。

 

「おしいね。お店、忙しい?」

 

 最近の店の様子を、おもしろ可笑しく話して聞かせた。

 森田さんのことはまだ内緒だ。彩ちゃんが泣くのは、泣けるほどの体力が付いてからでいいと思うから。

 

「何かあったら呼んでね。そろそろ店を開けてくる」

 

 彩ちゃんを寝かしつけて厨房へ向かった。

 ぼくうに普通に話しかけてくれたことに正直ほっとした。

 けれどあの様子では、昨夜の記憶は残っていないのだろう。

 彩ちゃんの中にぼくが居られる日々が、少しでも長くありますようにと願う。

 ぼくの戦闘服はこの店の黒いエプロンだ。

 ふと自分の手首に目をやった。彩ちゃんのナイフは、ぼくの中でどうなっているのだろう。

 試してはいないが、おそらくぼくはナイフを出せる。

 今はどう使えばいいのかわからないけれど、彩ちゃんとぼくの色が混ざったナイフが出てくるのだろう。残欠の小径の匂いが変わったように、ナイフもぼくの色に染まっているはずだった。

 

「ちわーっす」

 

 常連のお客さんだ。

 

「いらっしゃい! 彩ちゃん復活まであと少しだよ」

 

「お、だいぶ良くなったのか? 彩ちゃんいっぱい食ってるか?」

 

 首に巻いたタオルをぐっと握って聞き返すお客さんに、ぼくは笑顔を向ける。

 

「大丈夫、だいぶ良くなったからね。だから今日もぼくのオリジナルレシピが食べ放題!」

 

「そりゃ迷惑な話だな、へへへ」

 

 また入り口のドアが開けられる。

 

「いらっしゃいませ!」

 

 アルバイトの兄ちゃんの、忙しい一日が始まった。

 

 

 

 夕方最後の客が引けて、クローズにドアのプレートをひっくり返す。

 下手な料理とはいえ、一日にばらばらのメニューをひとりで四十食以上作ると、さすがにバテる。

 本職の料理人の労働量など、想像しただけで気絶しそうだ。

 凝りまくった首を回していると、からんからんという音と共に、入り口のドアが開いた。

 

「すみませーん。今日はもう閉店です。もう材料も残ってなくて……」

 

 営業スマイルで入り口を振り返ったぼくは、きっと呆けた顔をしていたと思う。

 

「久しぶりだな。ちょっと戻ったついでに寄ってみた」

 

 もさもさの天然パーマに混じった白髪が、前より更に増えている。

 目の前にいるのは、何ヶ月かぶりに見るシゲ爺だった。

 

「シゲ爺! はあ?」

 

グレーのポロシャツの襟がよれよれなのも、前に会ったときそのままで、一瞬離れていた時間を忘れるほどだった。

 ちょっと買い物に出かけて戻りました、とでもいうように少し首を傾げて、にこにこと笑うシゲ爺を見ているうちに、ふつふつと湧いてくる怒りのマグマ。

 

「どこ行っての? メモ書きひとつでふらふら遊びにいっちゃってさ! こっちがどんだけ大変だったと思ってんの!」

 

 ごめんごめん、シゲ爺は頭を掻く。

 

「今回は少し長く店の仕事をできるんでしょうね?」

 

 放浪癖のあるシゲ爺を睨み付けると、急に目線が明後日の方向を向きだした。嫌な予感しかしない。

 

「いやぁ、色々忙しくてな。今夜中にはまた出かける」

 

 もう文句も出てこない。

 店の仕事を放棄して、何が忙しいだ。

 もうひと言だけ文句をいってやろうと口を開きかけたぼくは、シゲ爺のひと言で口を噤む。

 

「森田さんのよ、位牌だけでも拝ませて貰おうと思ってな」

 

 そうか、森田さんのことが耳に入ってシゲ爺は帰ってきたのか。

 

「もう行ってきたの?」

 

 シゲ爺はにこりと頷く。

 古くから森田さんを知っているシゲ爺が感じる想いは、ぼくの悲しみとは違う物だろう。

 皺を刻んでにこりと笑う表情に、森田さんとシゲ爺の間にある年月の深さを思った。

 

「彩とタザ坊主は元気か?」

 

 シゲ爺はタザさんのことをタザ坊主、もしくはタザ坊と呼ぶ。

 タザさんは嫌がるが、絶対にこの呼び方を変えようとはしない。

 

「シゲ爺、ご飯まだだろ? 何か食べて少し酒でも飲もうか」

 

 冷や飯をチャーハンにしてやると、シゲ爺は旨そうにぺろりと平らげた。

 年の割には大した食欲だと、半場呆れてみているとどこかで買ってきたらしい焼酎を、コップに注いでぼくにもくれた。

 

「ぼくは炭酸で割るけど、シゲ爺は?」

 

「お茶」

 

 面倒臭いからお茶のペットボトルを渡すと、それをコップに足して旨そうに口へと流し込む。

 ふーっと息を吐くと、シゲ爺は壁の本棚へと目をやった。

 

「読んだのか? 日記」

 

 何と答えたらいいものかと、ぼくは少しだけ俯いた。

 

「話すと長くなるよ。シゲ爺は知っているような気がするけれど、小花ちゃんという女の子がシゲ爺の日記を読んでいた。それをぼくも読んだ。それを目にしてから色々なことが起こって、彩ちゃんは今寝込んでいる」

 

 シゲ爺が眉の間に深く皺を刻む。

 

「でも大丈夫だよ。直ぐに良くなる」

 

「どうしてそう言い切れる?」

 

「ぼくが、彩ちゃんの業を受け継いだから」

 

 敢えてナイフといわなかったのは、シゲ爺がどこまで見聞きしているか解らなかったから。

 深く知らなければ、知らずにすませた方がいいことだって、この世にはあるはずだ。

 だが、シゲ爺が次ぎに口にした言葉は、ぼくの期待を完全に裏切った。

 

「彩はもうナイフを所持していないということか? もう戦わなくてもいいということか?」

 

 残欠の小径に入ったわけではないだろう。誰から聞いたのかも解らない。けれどシゲ爺は、かなりのことを知っているのだろうか。

 

「シゲ爺の望みは彩ちゃんが、普通に幸せな生活を手に入れることじゃないの? だったら大丈夫。その願いは叶うと思う。小花ちゃんのことも知っているの?」

 

 シゲ爺は孫を思い浮かべたように、目尻を下げて頷いた。

 

「だったら小花ちゃんが彩ちゃんにとって、どのような存在なのかもわかっているよね? ぼくは、彩ちゃんに小花ちゃんを返した」

 

 シゲ爺がきつく目を閉じると、瞼に細かい皺が幾重にも刻まれる。

 

「こうなるかも知れないと予感しながら、おまえを巻き込んだ」

 

「うん」

 

 シゲ爺の深い溜息だけが、狭い居間に響く。

 

「和也の人の良さを結局は利用した。出会った頃の和也は心底何かを諦めていて、なのに求める物へ手を伸ばそうともしていた。彩やタザ坊主と関わって、和也が何を得て何を失うかは、本人に委ねたつもりだった」

 

「そうだね」

 

「今思えば、単なる責任逃避にすぎんな」

 

「まったくだ」

 

 すまない、とシゲ爺は顔を伏せる。

 

「何を謝ってるの? 頭のてっぺんのハゲが見えるからやめてよ」

 

 ぼくが声を立てて笑うと、シゲ爺は奇妙な物を見るような目で顔を上げた。

 

「シゲ爺の罠にまんまと嵌ったけれどさ、後悔していない。まあ、こん畜生とくらいは思っているけれど、心のすまっこで」

 

 苦笑いするシゲ爺は、もう一度すまないな、といった。

 

「中途半端な力などなければいいのにと何度も思った。助けることもできないのに、この目にはっきりと映る光景は辛いだけだ。見える光景に手を伸ばすだけの何かを持っている、それだけは和也に会って直ぐに解った。羨ましかったよ。だがその思いは否定しよう。手を差し伸べる者は、いつだって自分さえ追い込むのだと、忘れていたわけではなかったのに」

 

 腰を上げるとシゲ爺は、肩にかけていたよれよれの黒いショルダーバッグを襷にして肩にかける。

 

「行っちゃうの?」

 

「あぁ、これでもなかなか忙しくてな」

 

「野坊主さんに聞いたけれど、彩ちゃんのお婆ちゃんと友達だったの? だから彩ちゃんを自分の孫のように、最後まで守ろうとしている?」

 

 シゲ爺はゆっくりと首を横に振る。

 

「勘違いするな。一緒にいてくれたのは彩の方だ。この歳になると寂しくてな。一緒に居てくれた者を手放したくなかった。単なる我が儘だ」

 

「もっと沢山話してくれるかと思ったのに、まるで駅弁を買うみたいにすぐに居なくなるんだね」

 

 声を立てずにシゲ爺が肩を揺らす。

 

「また来るさ。ここしか帰る場所などないからな」

 

 よれよれのショルダーバッグのチャックを開け、シゲ爺は封筒を取りだした。

 

「置き土産だ」

 

「あんまり戻って来るのが遅いと、ぼくはここに居ないかもしれないよ。ぼくの記憶は彩ちゃんから徐々に奪われていくらしいから、すっかり忘れられて不法侵入者と間違われる前に、ここをを出るつもり」

 

 封筒を受け取って、ぼくはひらひらと振ってみせる。

 

「そうなるだろうということも、昔ある人から聞いて知っていた。この歳になってようやく身に染みてわかった。幸せと苦難は天秤のようなものかもしれんな。片方から重りを除けば天秤ば傾ぐ。誰かを救うということは、別の犠牲者を生みだすことに繋がることもある」

 

 封筒を指差し、無くすなよというと、頭の上で手を振ってシゲ爺は店の外へと出て行った。

 

「気に病むなよシゲ爺、若くないんだから」

 

シゲ爺の背中が消えたドアを見ながら、ぼくは一人苦笑する。

 手の中の茶封筒をあけると、中から一枚の便せんが出てきた。

 

「推薦状?」

 

 便せんにはシゲ爺の字で、よく働く青年だからという内容の推薦状が書かれていた。

 最初は意味がわからず首を傾げたぼくだったが、思い当たったことにふっと笑みをもらす。

 

「ここに居られなくなることを、シゲ爺は知っていたから、再就職に使えってこと?」

 

 今どきこの推薦状で雇ってくれる企業など皆無だろう。

 それでもシゲ爺の気持ちが嬉しかった。

 

「ありがとうな、シゲ爺」

 

 ぼくは便せんを封筒に戻そうとして手を止めた。

 もう一枚入っているしわくちゃの紙をつまみ出す。

 ぼくの目は釘付けになった。

 それは千切られていた、シゲ爺の日記の続きだった。

 

 

 





次話からまた、少しずつお話が動くかと思います。
このあとも、どうぞよろしくお願いしますね。
では!


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31 幼い黄眼の示す異変

「どうしたよ?」

 

 タザさんに呼ばれてはっと我に返った。

 

「ああ、いまシゲ爺がきた。もうちょっと早かったら会えたのに」

 

 手にしていた封筒を、タザさんから見えないように尻のポケットへとねじ込む。

 

「シゲ爺が? まさかもう出ていったのか?」

 

 目をぱちくりさせて、タザさんの視線がシゲ爺を探して右へ左へ忙しく動いた。

 

「また帰って来るってさ。ここの仕事もしていないくせに、忙しいんだって。ありゃ湯治だよ、ぜたい湯治だ」

 

 少しだけがっかりした様子で頷くタザさんは、それ以上何も聞いてはこなかった。

 

「彩はまだ粥しか駄目か? 少し栄養のある物を食わせたいんだが」

 

「消化のいいものなら大丈夫じゃない? まだいっぱいは食べられないと思うよ。量より質でよろしく。出来上がったら、またぼくが持っていってもいい?」

 

「おう」

 

 タザさんがさっそく厨房で鍋を火にかけ始める。

 

「タザさんは作ろうと思えば、店でだす料理も作れるの?」

 

「おまえよりはマシだ」

 

 リズミカルな包丁の音が、その言葉が嘘でないと物語っている。

 裁縫に工芸に料理、非の打ち所なし。

 

「タザさん、いい嫁さんになれるよ」

 

 口先だけで呟いたというのに、野生動物並の耳の良さでタザさんはぴくりと振り向く。

 

「おっと肉が足りねぇな。ここは彩の胃袋を優先しよう。野菜も煮たら量が減るしな、こりゃどうみても一人前しかないな」

 

 タザさんの棒読みは、日暮れも相俟ってかなり恐い。

 

「タザさん」

 

「あん?」

 

「今日は弁当でも買ってくるよ」

 

 にやりと口の端を上げると、再び包丁がまな板を小気味よく叩きだす。

 十秒前の自分を殴りたい。

 粗方片付けも終わった店を後にして、財布を片手に商店街をぶらついた。

 たまに顔を出してくれる商店街の住人達は、すれ違う度に彩ちゃんの様子を聞いてくる。

 彩ちゃんの周りにはこれだけ多くの人がいるのかと思うと、少しだけ心強い。

 一人きりで残すわけではないのだと思えるだけで、いつか店を後にする自分を許せる気がした。

 

 ふと顔を上げると道の向こうに十数人に行列が見えた。

 久しぶりに店の軒先で商売をしているのは、開かず食堂のお婆ちゃんだ。

 ユリ食堂というちゃんとした名はあるが、どうしたって開かず食堂といってしまう。

 近づくと徐々に腹の虫を鳴かせる匂いが、風に乗って流れてきた。

 

「今日は煮物か。醤油のいい匂いだ、筑前煮かな?」

 

 人の隙間から覗き込むと、予想通り大鍋の中で筑前煮が白い湯気を昇らせている。

 

「旨そうだけど、この列だと時間がかかるかな」

 

 なにしろ腰の曲がったお婆ちゃんがひとりで売っているものだから、タッパに商品を詰めるのも会計するのものんびりなのだ。

 

「タザさんのご機嫌取りにとか思ったけれど、諦めるか。腹減ったし」

 

 旨そうな筑前煮の匂いを嗅ぎながら、商品を売りさばくお婆ちゃんの横を通り過ぎようとしたときだった。

 

「にいちゃん、ほれ」

 

 お婆ちゃんがぼくに向けて、タッパの入った袋を差し出した。

 

「え、これぼくに?」

 

 客達が双方を見比べる中、お婆ちゃんが顔中の皺を寄せ集めてにこりと笑う。

 

「彩にもってけ。里芋の煮物だよ。筑前煮よりこっちの方が柔かいから」

 

 お婆ちゃんの言葉に、並んでいた客達が納得したように首を振る。

 

「お婆ちゃん、ありがとう」

 

 袋を受け取って、ぼくは笑顔でお婆ちゃんに頭を下げる。

 ひとつ頷くとさっさと客の相手に戻ったお婆ちゃんの後ろ姿は、なんだかとっても楽しそうだった。

 

「とはいっても、ぼくの分まではないな」

 

 ひとりゴチながら弁当屋へ急いだ。煮物が冷めないうちに、彩ちゃんに食べさせようと思った。

 

 

「彩ちゃん、開かず食堂のお婆ちゃんが彩ちゃんにって。こっちはタザさん特製のチーズとヨーグルトの……なんとかって名前の料理」

 

 皿に盛った料理を見て、彩ちゃんは嬉しそうににこりとした。

 体調は著しく回復し、自分で起き上がり布団の上で座れるようにまでなっていた。

 この異常なほどの回復は、彩ちゃんが守ろうとした世界に、どれだけの気力と体力を削がれていたかを物語っていて、ぼくは奥歯をぎちりと鳴らす。

 

「和也君、お料理の腕は上達した?」

 

 彩ちゃんの瞳に悪戯っぽい光りが宿る。

 まるでキャミの紐を弾いていた頃の、元気な彩ちゃんを見ている様だ。

 

「そっちは全然。でも売り上げは好調」

 

 くすりと彩ちゃんが笑う。

 

「二、三年かけてみっちり仕込んであげよっか?」

 

「お願いします」

 

「約束だよ」

 

 ぼくは笑った。

 彩ちゃんも笑う。

 果たされることはないだろう約束に、胸の奥がちくりとした。

 

 

 

 彩ちゃんがぐっすりと眠ったのを見届けて、ぼくは残欠の小径へと向かった。

 カナさんの庭を通ったとき、草の茂みからころころと転がり出てきたチビは、ぴょんと跳ね上がると子猫の姿となり、ちらりとだけこっちを見てまるで行き先が解っているとでもいうように、ぼくの先を歩いて行く。

 

「チビ、行き先ちゃんとわかっている? 違う方向にいったらついて行かないからね。それと、この間はありがとう、ほんと嬉しかった」

 

 最後の方でチビの片耳がぴくりと動く。

 それでも知らんぷりをして前を行くチビの後ろを、ぼくは苦笑いしながらゆっくりと歩いた。

 横の茂みがざわりと動く。

 立ち止まったぼくの気配に、チビも足を止め器用に首を回してこっちを見た。

 

「半刻もしないうちに闇が満ちるぞ。おまえがいない間にも幾度か闇は満ちたが、どうもその様子が妙な感じでな。急げば間に合う。その目で直に確かめちゃどうだ?」

 

 草陰のギョロ目の声だった。

 

「ぼくは何も尋ねていないし、取引できる品も持っていないよ。商売にならないことは一切口にのぼらせないのが君たちじゃないのかい?」

 

「こっちにはこっちの事情があってな。情報料なら他からたんまり貰っている。だから今回はおまえから貰う必要はないのさ。じゃあ、しっかり伝えたからな」

 

 いつものように草の隙間から目をギョロつかせることさえせずに、草陰のギョロ目は気配を消した。半刻で闇が満ちるというなら、たとえ草陰のギョロ目でもどこかに身を隠すのだろう。

 いったい誰から情報料を受け取ったのか、という疑問が頭の隅で小さく渦を巻く。

 雑念を払うようにぼくは頭を振った。

 

「チビ、急ぐぞ!」

 

 全力で響子さんの家へと向かう。

 チビはいつの間にやら猫らしさを捨て、くるりと丸まった白い毛玉となって横を転がっていた。

 息を切らせて辿り着いた、響子さんの家の前に立っていたのは意外な人物だった。

 

「水月さん、どうしてここへ?」

 

「闇が満ちた町に潜り込むつもりだろう? こっちも妙な噂が耳に入ったのはついさっきだよ。響子達は先に町へ向かった。調達したい物があるらしい。俺達も急ごう」

 

 走り続けてきたぼくはすっかり息を切らしていたが、しばらく走っても併走している水月の息は少しも荒くなる様子はない。走った距離を差し引いても残る年の差に、日頃の運動不足を感じずにはいられなくて、心の中で情けなく溜息を吐く。

 眼下に町が見えてきた。

 寄せ集めの町は、やはり以前より少しだけその規模を広げている。

 坂を下り町の入り口に辿り着くと、急に周りの空気が薄暗くなりぼくは空を見上げた。

 

「鴉の群れ」

 

 空を埋め尽くして、黒い鴉の群れが空の端から端へと渡っていく。

 

「ああ、鴉の群れさえ見られない内に、何の前触れもなく闇が満ちる日々が続いていたというのに、数回前から鴉の群れが空を渡るようになった。これも異変のひとつといえるかもしれない」

 

 走りながら水月がいう。

 町を行き交う人々は、闇が満ちる気配を気かける様子もなく、あまりにも普通な様子で道を行き交い、店先でありふれた日常のやり取りをしている。

 この当たり前の光景が、まともな意識を保たないまま行われているなど、幾度目にしても信じがたかった。

 急ごう、水月のひと言でぼく達は小屋へ向けて、全力で町中を駆け抜けた。

 

「待ってたぜ」

 

 観音開きの重厚な扉を押し開けると、佐吉が待ちかねていたと言わんばかりに腰を上げた。

 平岡宗慶、寸楽はいたが雪の姿は無く、響子さんと蓮華さんもまだ小屋に辿り着いていないらしい。

 

「響子さん達少し遅すぎやしないか?」

 

 既に闇が満ちていてもおかしくはない。

 戸口から外を覗こうとしたとき、勢いよく開け放たれた重い扉から、身を滑り込ませるように響子さんと蓮華が入ってきた。

 響子さん以外には無理な力業だろう。

 額を押さえるぼくを心配してくれるのはチビだけだ。くるりと丸い目でぼくを見上げ、少しだけ小首を傾げている。

 

「すまない、少し手間取った」

 

 戸口に額を打ち付けて火花を散らしたぼくに構うことなく、響子さん手招きして小屋の中にいるみんなを一所に集めた。

 響子さんが床に並べたのは、人数分の黒い布。

 

「わかっているとは思うが、この面は偽物だ。少しばかり細工は施されているが、周囲にばれないという保証はない。私たち三人はもちろんだが、宗慶と佐吉にもこれをつけてから小屋の外へ出てもらう。寸楽はここに居てくれ。いざというとき、走って逃げるのは無理だろう? ここでみんなの帰りを待っていて欲しい。雪が来たとき、みんなの動向を伝えて貰う役目を頼む」

 

 寸楽は背中で腕を組みながら、こくりこくりと頷いた。

 

「闇が満ちたならわたしと佐吉には、他の者と同じように黒い布の面が顔面に垂れ下がる。布に顔を覆われても、他の者達のように意識を持って行かれることはまだないと思うが、それでもその布を新たに付けて出る必要があるのだろうか」

 

 宗慶が口にした疑問はもっともだ。佐吉と宗慶が布を付ける理由は見当たらない。

 

「いったであろう? ちょっとした細工が施してあると。お前達がこれを付けたなら、本来の面が顔を覆うことはない。本当の意味で正気で居続けられるということだ。わたしたち四人は、布を付けるることで周りに紛れ込む。この黒い布の面はわたし達の見た目だけでなく、面を付けた者達とは異質の存在であるという独特の匂いを消してくれるらしい。まあ、雪のいうことだ、信用してもいいだろう」

 

 響子さんは話ながら既に、自分の頭に黒い布の面を括り付け始める。

 その様子を見て他の者達も各々に、黒い布の面を手に取り頭に縛り付ける。

 黒い布がふわりと顔を覆う。顎の下まで伸びる布からは、なぜだろう微かに削りたての木の香りがした。

 

「外に出たらみんな散れ。闇が明けたら、見咎められる前に面を取るのを忘れるな」

 

「待ってよ響子さん、ぼくたちはいいけれど佐吉さん達は闇が明けたら、ある意味正気そ失うわけだろう? 前に言っていたじゃないか。闇が満ちる少し前から正気を保てるって、だったら闇が明けたら面を外す余裕なんてないだろう?」

 

「その心配は多分ない。前回闇が満ちた後から、彼らはずっと正気を保っているらしい。理由ははっきりしないらしいが、これも異変のひとつだろうな」

 

 水月が言うと、佐吉がこくりと顎を引いて肯定した。

 

「行くよ!」

 

 響子さんの言葉を合図に、部屋を明るく照らしてだしていた蝋燭を寸楽が吹き消した。

 暗闇の中細く開け放たれた扉から、外へと身を滑りだす。

 闇に紛れて全員が外へ出ると、寸楽の手で観音開きの扉はゆっくりと閉ざされた。

 おそらくは闇が満ちたばかりなのだろう。

 黒い布で顔を覆った人々であふれかえる道の向こうから、ちらちらと揺れる明かりが灯っていく。

 締まりかけの扉の隙間から、白い塊がするり抜け出したのは目にしたが、チビの姿はどこにも見えなかった。

 

「あー あぅあー」

 

 隣で細身の男が言葉にならない声を漏らしながら、ふらりふらりと歩いている。

 黒い布の面は、既に鼻の下まで短くなっていた。

 目立たないようにふらりふらりと歩きながら、ぼくはさりげなく周囲の様子を覗った。

 前とは明らかに何かが違う。

 ぼんやりと天を仰ぐ者、ゆらゆらと身を揺らす者、全体にぼんやりとした様は変わらないというのに、以前に煉瓦の隙間から覗いた時とは、どこか違う空気が流れている。

 その違いを言葉にすることはできなかった。

 違うと感じる、そう表現する以外にない。

 闇が満ちる間隔が短くなったように、異変が闇の満ちている時間を狂わせていないとはいえない。

 日焼け後のように、肌がひりひりするのはぼくだけだろうか。

 肌がひりつく感覚が薄れたとき、闇は明けるのだと頭の隅で直感が告げる。

 

「急ぐか」

 

 口の中で呟いて、ぼくは少しずつ歩みを進めた。

 草陰のギョロ目がいう、妙な感じという言葉が指す事象がいったい何なのか、この町あるいはこの残欠の小径で何が起きているのか、それを確かめるにはあまりにも時間が少なかった。

 彩ちゃんのナイフを吸い込んだ、手首に自然と目がいった。

 ナイフは宿主を変えて、力を僅かばかりに増したのは確かだろう。

 自分が宿主となったせいで、ナイフの輝きがその質を変えていたら……想像が胸を過ぎる。

 余計なことは考えずに今は動こう。

 道を一筋の風が吹き抜けた。

 体を弛緩させて天を仰ぎ見ている三人の男女の顔で、風に煽られた黒い布が捲れ上がる。

 布がふわりと浮き上がって垣間見えた男達二人の表情は、まるで夢でも見ているかのようにぼんやりとしたものだった。

 背の高い女性の顔を覆う布が、細い顎から眉にかけて半分に捲れ上がったまま、黒い布がふわりと顔面に着地した。

 思わず漏れそうになった声を抑えるため、ぼくは布の下で唇を噛む。

 黒い布から完全にはみ出した女性の片目は、少し驚いたように見開かれ、息を短く吸ったように唇が震えて隙間を広げる

 細い指が黒い布をはらりと元へと戻した。

 よたよたと歩く女性の背中がゆっくりと遠ざかる。

 

 あの瞳は完全に意思を持っていた。

 布が捲れて顔が露わになったことに驚いて見開かれた目。

 彼女は感情を失っていなかったことになる。

 自分を見失っていないのに、呆けた振りをしていたというのか?

どくどくという音が聞こえそなほど、ぼくが心臓は早鐘を打つ。

 

 道の向こうで前にも会った女の子が、風車を持って母親に手を引かれていた。

 立ち尽くす母親の横に女の子は立っている。

 黒い布の面が鼻の下辺りで途切れているのも、依然とさほど変わらない。

 さっきよりも強い風が吹き付けて、土埃を散らす風に風車がからからと音を立ててまわる。

 ぼくの顔から黒い布が浮き上がる。

 小さな女の子の黒い布の面が、風に押し上げられて額まで持ち上がった。

 ほんの一瞬の出来事だったと思う。

 お互いに顔を露わにしたままで、双方の視線が重なった。

 ゆらゆらと漂う明かりに、女の子の目が黄色く光る。

 風が通り過ぎて浮力を失った布がふわりと戻る様は、まるでコマ送りの映像を見ているようだった。

 女の子の口元を残して、黒い布の面が顔を覆う。

 その小さな口からは、子供特有の小さな白い歯が覗いていた。

 確かに女の子は、にこりとぼくに微笑んだ。

 明かりを反射し黄色く光る瞳で、幼い表情のまま微笑んでいた。

 

 

 





早く春にならないかな~
どうぞ次話も読んでいただけますように。
では!


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32 血の臭いが誘う感触

 反射的にぼくは女の子から体を背けた。

 明るい町中ですれ違った日のことを、まさか覚えているとは思えない。

 佐吉達の話を当てはめるなら、無邪気に風車を手に町を歩いていたあの子も、普通に見えるだけで意識は正常といえる物では無かったはず。

 はっきりとした意識を持たずに日常生活を送る人々の中、あの子だけが意識を保っていたというのか? まだ異変が起きる前のあの日に、あの子だけが?

 

「どうかなされたか?」

 

 さりげなく立ち止まって、声をかけてきたのは宗慶だった。ふらりと体が傾いだ風に顔を耳元へ寄せ、微かな声で囁いた。

 声には出さずゆっくりと首を横に振り、ぼくは静かにその場を離れた。

 

 黒い布の面を付ける人々の、表情を覗うのは容易ではない。微々たる動きだったが、群れの流れから浮き立つ者を見つけては、確証を捕らえようと傍らで佇んでみる。

 道に立つ人々の隙間から、遠くにいる響子さんの黒いスーツ姿を見つけ、ぼくは思わずチッと舌を鳴らしそうになった。

 さすがに派手に動き回ることは自重しているようだったが、立ち姿に呆けた雰囲気が微塵もない。

 真っ直ぐに背筋を伸ばし、くいと顎を引いた姿勢は嫌でも人を率いる力を持つ者の威厳を醸しだし、黒い布の面が秘密結社の頭的な色合いを濃く演出していた。

 あれじゃあ密偵にはなれないな、と心の中で舌をだす。

 視界の隅でだらりと歩く人々が少しずつ、己の立ち位置を変えていくのを捕らえていた。

 響子さんに奪われていた視線を足元に落とすと、自分の靴の直ぐ脇に泥だらけの素足があった。

 骨張って幅の広い足の甲は男の物だろうが、その足はなぜか徐々につま先をこちらへと向ける。

 ぞわりと背筋を這うような悪寒ではなく、もっと鋭利に研ぎ澄まされた邪気に、みぞおちがぐいと内側へ押し込まれる。

 ともすれば浅くピッチを上げた呼吸に、激しく上下しそうになる肩を必死に押さえた。

 視線を向けられない以上、隣に立つ男の正体を知ることはできない。

 横を向くという、たったそれだけのことをぼくは躊躇した。

 みぞおちに感じる邪気を見誤ってはならない。顔を向けて相手の正体を知ることは、知られてはならない者に、自ら存在を明かすことに他ならないのだから。

 

 裸足のつま先が、完全にこちらへと向けられた。

 

 面の隙間から顔を覗かれないように、ぼくは僅かに顔を上げると左に向けて少しだけ首を傾げた。

 ゆっくりと土の道を擦る音と共に、男がぼくの正面へとまわる。

 黒い布を通して見えた男の顔に、面の下でぼくは思わず息を呑む。

 目の前にいるのは、彩ちゃんのナイフを初めて目にした日に、立ちはだかっていた男女の片割。見間違えるはずもなく、あの日の男だった。

 ダークグレーの半袖シャツの袖口はよれよれで、面を付けずに露わとなっている顔のなか、分厚い下唇が何度も上唇を舐め上げる。

 思案する時の癖なのだろうか。

 団子っ鼻に皺を寄せ、細い眼をにたりと歪ませた。

 

「まったく、わかりずれえんだよ」

 

 いつの間にか男の手には、あの日見たと同じナイフが握られていた。

 本能的に後ろに引こうとして、何とか思いとどまる。

 男が手にするナイフは、腕の肘から下ほどの長さがあり、大きさから見ても彩ちゃんのように力が弱まっているとは思えない。

 黒い布の面を端から捲ろうとするナイフの動きに、逃げるという選択肢が頭を過ぎる。

 それを躊躇させたのは、この町に散っている仲間の存在だった。ここで動けばみんなの身に危険が及ぶのは避けられない。

 逃げるにしても戦うにしても、ぎりぎりまで待つ忍耐が必要だった。

 死の瀬戸際を見極めるため、ぼくの目は瞬きすら忘れていた。

 

「ちっ、余計なときに」

 

 憎々しげに呟いた男は、布の端に引っかけていたナイフの切っ先をふいに引く。

 緊張に固まった体の振動を伝えて、面が小刻みに揺れる。

 

「ちっ」

 

 二度目の舌打ちを残して、男が走り去っていった。

 面の下で思わず息を吐く。

 一点に集中していた心が解けると、見上げた空はうっすらと光りを取り戻し始めていた。

 気付くとちりちりと肌を刺す感覚が、不快を感じないほどにまで薄れている。

 

「そういうことか」

 

 もうすぐ闇が明ける。

 闇が満ちてからさほど時間は経っていないが、あの男はそれを察知してここを去ったのだろう。

 ふっと疑問が過ぎる。鬼神も男も、いったいどこを根城にしているのか。

 一時も休むことなく、残欠の小径を彷徨っているなど考えられない。

 答えの見えない疑問を頭の中でこねくり回し、ぼくは目立たぬように道の脇に立つ建物の横に身を滑り込ませた。

 まだ完全には明け切っていない闇の中、人々の顔を覆う面が端から紙を焦がすように消えていく。

 黒い布が完全に消えても、その下から現れた人々の顔の表情は乏しく、完全に心が停止しているようだった。

 剥ぎ取った面をポケットにねじ込み、刻一刻と色を変える空を見た。

 突如として道の往来がざわめき、人々が動き出す。

 何もなかったかのように、各々に道を歩く人々の表情は、普通の人となんら変わりない。

 普通に見えることが、これほど気味悪いと感じたことはない。

 ぶるりと背を震わせ、何食わぬ顔でぼくは道の表へ出た。

 

 視線を感じて横を向くと、風車を持った女の子が立っていた。

 小さな手を母親と繋ぎ、きゅっと唇を窄めてぼくを見上げている。

 話しかけていいものか戸惑っていると、女の子の顔が町の奥へと向けられた。

 小さな人差し指が視線と同じ方向を指して、すっと腕が肩の高さまで上げられる。

 母親が振り返ったのを見て、ぼくは開きかけた口を閉ざし、通りすがりの笑顔で会釈した。

 にこりと会釈を返して、母親は店先の店員との会話へ戻っていく。

 今だ同じ方向を指差す女の子が、ぼくを見て小首を傾げた。伝えたいことを、この場で言葉にするのを躊躇うような仕草に、ぼくは黙って頷き小さく手を振る。

 ほっとしたように、女の子が小さく白い歯を見せて笑った。

 うっすらと光りを纏う空気の中、女の子は丸い黒目をくるりと回す。

 胸の前で手を振る女の子を後に、ぼくは指差された方角へと歩きだした。

 あの男の存在が気がかりだったが、道を彷徨いている姿は見られない。ある程度人の波が少なくなった町外れでぼくは走り出した。

 

「どこへ行く?」

 

 声に振り返ると、涼しい顔で斜め後ろを走る水月がいた。

 

「どこまで行けばいいのかは、ぼくにも解りません。何があるのかもね」

 

 町並みがぷつりと途絶え、平坦な林の中へと入り込む。

 疎らに生えていた木は奥へ行くごとに密度を増し、足場もでこぼこと起伏の激しい山道となっって、ぼく達は走ることを諦めた。

 

「ずいぶんと息が荒いな。若いくせに」

 

 水月の嫌みったらしい笑顔に、ぼくは歯を見せてにっと笑い返す。

 

「これが普通ですって。その歳で息も乱れないなんて、水月さんの方が人として疑問です」

 

 水月が声を立てて笑う。

 密集した木立の間を縫うように、枝に手をかけながら前へと進む。

 

「響子の話だと、みょうな町が姿を見せるまでは、こんな所に森はなかったらしい。見えるには見えていたがあまりにも遠くて、まったく現実感などなかったといっていた。蜃気楼のようだったそうだ。森まで行こうと試みたことは何度もあったそうだが、進めど辿り着けないんだとさ」

 

「それじゃあ」

 

「あぁ、響子が行ってみようとした森は、案外おれたちが居るこの森なのかもしれない。そこに何の意味があるのかといわれれば、答えようもないが」

 

 似たような背丈の木と、生い茂った草に囲まれていると、自然と方向感覚が失われる。

 木々の上の方で葉が風に擦れる音が響く。どこかで虫が鳴いていた。

 それほど奥まで来たとは思わないが、目的の地も解らずにこれ以上奥へ行くことも躊躇われる。

 

「一応安心のため、水月さんは方向音痴じゃないですよね?」

 

「どうしたんだい急に」

 

 行く手を塞ぐ小枝を折りながら、ぼくは水月をちらりと見る。

 

「いや、ここまでの道程をちゃんと覚えているのかなって。ほら、森は似たような景色だから迷うっていうじゃないですか。ぼくは自慢できるほどの方向音痴なもので」

 

 はぁ? と水月の呆れたような声が後頭部に投げかけられる。

 

「てっきり何かに目星をつけて、見当の付く道を進んでいると思っていたよ。まさか、ここまで当てずっぽうに進んでいたのかい?」

 

「はい、平たくいうとそうなります。水月さんは大丈夫ですよね?」

 

 尻にげしりと蹴りが入って、ぼくは前へつんのめる。

 

「おれは無類の方向音痴だ。責任はとらないぞ? 聞かなかった和也が悪い」

 

「すみません」

 

 背後でぶつぶつと文句を言い続ける水月だったが、その声には微塵も責めるような色はない。

 迷った状況を楽しんでいる、そんなからかい口調の文句が続く。

 

「ほら、水月さんが蹴飛ばすから、木の幹に手をついたときに棘が刺さったじゃないですか。こういう傷は地道に痛いんですよ」

 

 振り返って笑いかけたぼくは、はっとして視線を指先へと戻す。

 抜いた棘の後から、赤い血の珠が膨れあがる。ビーズほどの小さな赤い粒から、鉄臭い血の臭いが漂った。

 

「水月さん、この辺りって鉄臭いような、血、みたいな臭いがしませんか?」

 

「いや、森特有の青臭さしか感じないが。臭うのかい?」

 

 頷いて血の珠が浮く指先を水月に見せる。

 

「こんな少量の血に、臭いなんかないって解っているのに。確かに鼻が嗅ぎ取っているのは否定できません。口の中を切った時の味、血の臭いが急速に広がっている。気のせいでしょうか? できるなら気のせいだって、水月さんにいってもらえると、ほっとするな」

 

 黙り込んだ水月は、探るような視線で辺りを見回す。

 森の様子は何ひとつ変わったとは思えない。それでも水月の視線は慎重に森の隅々まで睨め回す。

 

「水月さん、ぼくは町で見かけた女の子が指差した方向に向かってきました。あの子は闇が満ちている間も、多分自分を保っていたと思う。隣にいる母親は、正気を失ってぼんやりとしていた。それにね、以前に会ったことのある男に、危うくぼくの姿を見られるところだった。そいつは面で自分を偽ることさえせず、どうどうと道を歩いていた。何をしようとしていたのかは解らない」

 

「どうしてそんな大事なことをすぐにいわなかった?」

 

「ごめん、女の子が指差した方に意識が引き寄せられて、他のことは頭から抜けていたのかもしれない。町の中には間違いく、呆けた振りをした人が混ざっている。正気なんだよ。どうしてそんなことをするのだろうね。みんなと合流して、そのことを話し合おうと思ったのに」

 

 水月が額に手を当てる。

 

 あぁ、嫌だ。

 こんな感触を、いったい自分はどこで覚えたのだろう。

 誰かが自分から引き剥がされていく感覚。

 手も出せない、声も出ない。

 行かないでと、行きたくないといいたいのに、表現の全てを失ったこの感触。

 体に力が入らない。

 現実に自分を引き留める感覚が、ひとつずつ自分から遠ざかる。

 

「和也?」

 

 水月の口が、ぼくを呼んだように動く。

 風に擦れる葉の音が消えた。

 疲れていたはずなのに、足の感覚がまるでない。

 目の前にある森の景色に、違う映像が重なっていく。

 ここからどこかへ向かう道程を、ビデオで見ている様だった。

 

「手を伸ばせ!」

 

 水月の声が聞こえた気がして、ぼくは感覚の失われた腕を前へと伸ばす。僅かに残る肩の感覚が、使い慣れた自分の腕を前へと押し上げる。

 水月の指先がぼくの手に届こうとして、そこでぷつりと視界が途切れた。

 体温と同じ温度の湯に浸かったような、体が失われる錯覚と混乱にぼくの意識は逃避を試みる。

 ひとりぼっちだ。

 意識が途切れる寸でに、心の底に浮かんだ他愛ない言葉だった。

 

  

 





みなさまも、風邪にはお気をつけて。
次話も読んでいただけますように(^o^)
では!


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33 細い血の川が誘う先に

 まるで他人事として傍観しているように、小さく縮こまったぼくの意識は、表層から深く沈んだ場所で、戻りつつある自分の五感が受ける刺激を感じ取っていた。

 幾度も繰り返し襲う頬への痛みに、幼子が膝を抱えたように眠りかけた意識がうっすらと目を開けた。

 背中が重力に引かれて沈んでいく。

 絵本を見て想像した、底なし沼に嵌っていく感覚だった。ただし沼のような湿り気はなく、乾ききった何かが体を覆い尽くし、底へ底へと押し沈める。

 力の入らない手首を、強く締め付ける力があった。

 シャツの襟ぐり深くに感じる違和感は何だろう。ひんやりと乾ききった感触に全身が包まれる中、胸の辺りだけがほんわりと温かい。

 再び意識が瞼を閉じる。

 体がゆっくと押し流される低い音が小さくなり、完全に遠退いて消えた。

 

 

 

「和也」

 

 ぼくを呼ぶ声と息苦しさに跳ね起き、口の中に溜まった物を吐き出した。

 何度吐き出しても口の中をざらつかせる物の正体は砂の塊で、いったいどこでこんな物が口に入ったのかと噎せ返りながら眉を顰める。

 涙目で見上げた先には、ほっとした様子の水月がいた。

 

「水月さん、いったいどうしてこんなことに? 山で意識が遠退いて、あとは記憶がおぼろげなんだ。それにしても、息苦しくないですか? 酸素の薄い場所にいるみたいだ」

 

 口の中の砂を吐き出して呼吸に支障がない筈だというのに、どんなに呼吸をくり返しても息苦しさが残る。肺に酸素が行き渡らない。

 

「息苦しい? 俺は特に感じないが、もしかしたら和也が人の世で暮らした時間の長さが、違いを生みだしているのかもしれないな」

 

 深く呼吸をくり返しながら周りに目をやると、さっきまでいたはずの山の中とは似ても似つかない場所だった。壁面は大小様々な岩で覆われ自然の形そのままに、ごつごつとした起伏を生みだしている。けっして広いとはいえない空間は、十畳ほどもあるだろうか。

 

「ここはどこ?」

 

 見上げても天井らしきものは見当たらず、ただひたすらに暗がりが色を重ねている。

 周りの様子を見られるのは、中央の空間にぽつりと浮く青白い灯りのおかげだった。蝋燭の芯を失った灯りが、ただそれだけで空中で青白く揺れている。

 

「血の臭いがするといって和也が気を失ったあと、気付け代わりに何度が頬を打ってみたが、何の反応もなくてな。どうしたものかと思っていたら、急に和也の体が地面に沈み始めた。まるで山の土が流砂になったようだった。慌てて手首を引いたが、俺の力でどうにかなるものじゃなくてな。一緒に引き摺り込まれてこの様だ」

 

 意識の底で感じていた感覚は、おおよそ間違っていなかったということか。

 

「おまえの体が完全に呑まれる前に、チビが飛び込んできた。どこから後をつけていたのか知らないが、チビが飛びついて直ぐに砂の山に覆われたから、俺にはどうすることもできなかったよ」

 

「チビ?」

 

 もぞもぞと胸元が動いて、真っ白なチビが襟元から顔をひょこりと出した。

 

「ついて来ちゃったのか? 何をしているんだか、チビったら」

 

 鎖骨に柔らかい肉球を引っかけて、チビは白い小さな体をぐいっと伸ばしたかと思うと、砂にざらつくぼくの顎をぺろりと舐めた。目を丸くするぼくをよそ目に、懐を飛びだすとくるりと身を捻って着地した。

 チビに舐められた顎を手で擦る。

 怪我をしているような痛みはないから、ただの挨拶代わりだろうか。

 はあ、と大きく息を吐いてから吸い込んだぼくは、今度こそ驚きに目を見開いた。

 

「水月さん、呼吸が軽い。まるで外の世界にいるみたいだ。息苦しさがまるでなくなった」

 

 水月がちらりとチビを見る。

 

「これを見越してついてきたってわけか? まったくこのチビ助はいったい何者なんだか」

 

 ぼくの横にぴたりと身を寄せて、自分の手を舐めているチビの頭を撫でる。

 

「チビ、ありがとうな。でも、無理しすぎだぞ。ぼくのことを気にかけるのはどうして? 君に何度も助けて貰うほどのことを、ぼくは何もしていないのに」

 

 チビは答えない。まるで言葉を理解しているかのような振る舞いを見せたかと思うと、肝心な問いには一瞥さえくれない気まぐれな子猫。

 呼吸と共に気持ちも落ち着きを取り戻し、改めて周りを見回した。

 床一面を埋め尽くす大小様々な岩は、壁面とは違い表面を平坦に切り取られた物を、無理矢理に形を合わせてはめ込んだ印象を受ける。訳のわからないこの場所に似つかわしくない、きわめて人工的な意図を含んだ造形だった。

 

「まったくどうやってここへ来たのやら。上を見ても天井さえ見えやしないだろう? 見えないほど上から落下したなら、こうしてぴんぴんしている方が有り得ない。指差したという女の子は、この場所を知っていて、こうなることを解っていておまえを導いたのか? おまえに何を見せたいのだろうな? あるいは、何をさせたいのかというべきか」

 

 珍しく眉を寄せて水月が、無精髭の生えた顎を擦る。

 

 座り込んだまま床についた指先に、ちくりと痛みが走る。

 棘が刺さったような微かな痛みに目をやると、森で木の幹に傷つけられた指先から血の珠が湧き上がっていた。

 

「ほら水月さん、いったでしょう? こういう傷は、後々まで地道に痛いって」

 

 笑いながら立ち上がろうと手を岩に押しつけた途端、べちゃりと濡れた手触りに浮かしかけた腰を戻す。

 

「いったいどうして? こんなに血がでるような傷じゃないのに」

 

 棘が刺さっただけの僅かな傷跡はそのままに、指先から連なった数珠のように血があふれている。

 滴り落ちる血が岩の隙間がつくり出す、十字路にも似た辻の真ん中に溜まっていく。

 ぼくの様子に気づいた水月が、腰を屈めて指先を凝視する。

 

「やっぱり水月さんは何も感じないの? ぼくは森にいた時よりもはっきりと感じる。血の臭いだよ。血の臭いが、この空間に満ちている」

 

「どうやら開かずの扉をこじ開けたのは、おまえの血ってことらしいな。このままゆっくり帰り道を探すってわけにはいかなさそうだ」

 

 寄り添っていたチビが、ひょいとぼくの肩に飛び乗った。ゆっくりと立ち上がり、小さな血溜まりからそろりそろりと身を引いた。

 岩の床から引き離された指先で、流れ続けていた血が止まる。まるで傷など無かったかのように、小さな傷口は既に閉じていた。

 

 ミャ

 

 耳元でチビが鳴く。

 

「水月さん、色々と見てきたけれど、ぼくは初めて自分の目を疑うよ。ぼく達は、来てはいけない場所に足を踏み入れたんじゃないだろうか」

 

 目の前の光景はあまりにも異様だった。指先から滴り落ちた血溜まりが、まるで意思を得たかのように岩の隙間を流れていく。

 岩が組み合わさる度にできる分かれ道を選ぶように、一筋の跡を残して進んでいく。

 流れた血の量などたかが知れているのに、岩の隙間を流れていく質量は変わらない。流れた後に血の色を残し進む様は、枯れることのない細い川を見ているようだった。

 

「これはまた……。まあ、俺は巻き込まれただけだがな。どっちにしろこちら側に選択肢はなさそうだ。来てはいけない場所ではないだろう。おまえにとっては足を踏み入れずに済ませたい場所だとしても、この場所がおまえを呼んだ」

 

「ありがたくないな」

 

「腹を据えて成り行きを見届けよう。安心しろ、あんたを一人にはしないよ」

 

 水月のひと言が心に染みていく。

 あの時心を支配した、ひとりぼっちという思いが流され、心の中心に一本の芯が立つ。ありふれたたった一言が、揺れる心を安定させていく。

 

「水月さん、離れずに側にいてください。何が起こるか予測が付かない以上、二人がはぐれてしまうのは、お互いにとって命取りです」

 

 そうだな、といって水月はぼくに身を寄せ、肩の上に手を置いた。

 細い血の川は止まることなく新たな道を刻んでいく。

 その流れが空間の中央にまで届いたとき、異変は起きた。空間にぽつりと浮かんでいた青白い灯りが、下を流れる血に油を注がれたかのようにぶわりと爆ぜる。

 爆ぜた後に残った炎が身を分かつように、ぽたりぽたりと滴って、流れを止めた血の筋の先端へと落ちていく。

 ぽたりと落ちる度に小さくなっていく炎の、最後の小さな塊が浮力を失って、血が作りだした道に溶けた。

 全ての炎を呑み込んだ、細い血の川がどくりと脈打つ。

 溶け込んだ青白い炎に突き動かされたように、血の川は勢いを増して流れていく。壁に辿り着いた流れは、そのままの勢いで岩の隙間を縫って這い上がり、今度は蜘蛛の巣のように四方八方に伸びていった。

 壁の岩の隙間を、青白い光りの線が満たしていく。

 目に見える全ての壁の岩の隙間が、青白い光りで満たされたかと思うと次の瞬間、目が眩むほどの閃光が岩の隙間を満たす光りの筋から放たれた。

 思わず腕で顔を覆ったぼくは、もう片方の腕で肩に乗るチビを引き寄せた。

 肩に置かれた水月の手に、思わずといったように力が籠もる。

 

どれくらい時間が過ぎただろう。

 周りがあまりにも静かすぎた。

 水月とぼくの息づかいだけが、過度の静寂を現実へと引き戻す。

 恐る恐る腕の隙間から外をみると、淡い光りで照らし出された岩が見えた。さっきまでと何らかわらない、平たく切り出された岩をつなぎ合わせたような床面。

 

「和也、見ろよ」

 

 水月の声に顔を上げ、ぼくは口を半開きに息を呑む。

 

「どこからこんな空間が現れたんだ?」

 

 壁面や床を覆う岩は何も変わらないのに、目の前に広がる空間はとてつもなく広かった。

 壁を造る岩の隙間から漏れ出る、青白い光りの筋が辺りをうっすらと照らし出している。

 平らに切り出された床の岩と岩の隙間からは、橙の淡い灯りがゆらゆらと漏れだし、見渡せないほどに広いこの空間をぼんやりと下から照らしだす。

 地鳴りを伴って、突如岩の床が揺れた。

 下から突き上げるような縦揺れに、踏ん張り切れずによろめいた。

 

「和也、下がれ!」

 

 水月に腕を引かれて、背後の壁に背を押し当てる。

 地鳴りが大きくなると共に、岩の床の一点が内から岩を砕くように盛り上がった。

 めりめりと盛り上がるのを呆然と眺めていると、ばりばりと岩を砕く音と共に、至る所で平らな岩が盛り上がりはじめた。

 

「墓標を見ている様だ」

 

 水月の呟きはぼくの受けた印象そのままで、各所に無数に盛り上がっていく岩は、砕けているというのに崩れることさえなく、五十センチほどの高さで動きを止め、先端の丸まった円錐を形作っていく。

 

「まるで岩の墓場だ。何の規則性もなく並んでいるけれど、完全に自然の摂理を無視している。これだけの岩を突き破って表に出たなら、割れた岩が無数に転がっているはずだ。なのに欠片さえ見当たらない。突き破られた岩その物がこれらを形作っているとしても、欠片も残さず盛り上がるなんて」

 

 岩から漏れる薄明かりでは見通すことのできない、暗がりに隠れた奥の空間でも同じ現象が起きているのだろう。遠くの方で、折り重なるように低い音が響いている。

 

「痛っ!」

 

 傷が閉じたはずの指先から、小さく血の珠が膨れあがる。小さな血の珠はそれ以上大きくなることも、滴り落ちることもなく、指先の痛みはぴたりと治まった。

 

「まただ、この臭い。血の臭いがする」

 

「俺にはまったくわからんな。いっそのこと少し大きめの傷をつけて、欲しいだけ血を与えてやったらどうだ?」

 

 本気とも冗談ともつかない水月の言葉に、ぼくは呆れて首を振る。

 

「人ごとだと思って。だいたい血を欲しがっているようには思えない。どちらかというと、そう、ただの媒体だ。たとえばこの空間を出現させるために必要な鍵」

 

「そうだな。おそらくは残欠の小径とあの小さな空間、そしてあの空間から今目の前に広がるこの空間を結びつけるための媒体が、和也の血だったと考えるのが妥当だろうな」

 

 この仮説が正しいとしても、後に残るのはどうして? という疑問だけだろう。

 遠くで響いていた地鳴りが止んだ。

 二人の息遣いだけが響く中、鼻腔を血の臭いが刺激する。

 俯いて口で息を吸うぼくの肩を、水月がそっと揺らした。

 

「顔を上げてみるといい。あれが答えだろう。和也を呼び寄せた正体だよ」

 

 想像さえしていなかった光景に、ぼくは背中を強く背後の岩に押しつけた。

 水月が墓標と呼んだ砕けた岩の塊から、ぼんやりと人の姿が迫り出していく。

 やがてそれは完全に人の形をとり、まるでそこが自分の居場所であるといわんばかりに、各々の岩の後ろで頭を垂れたまま立ち尽くす。

 

「水月さんの言うとおり、これは無数の墓標だ。継ぎ接ぎの町と同じ匂いがする。年齢も性別も違う人々が、自分が生き抜いた時代のままの姿でここにいる。ここは巨大は墓場だよ」

 

 水月にというよりは、自分に言い聞かせる為に口にした言葉だった。

 囁くような声だったといううのに、声に反応したのはチビでも水月でもなく、頭を垂れていた無数の人々だった。

 声が届く音の波を追うように、手前から人々の顔が上げられる。

 その視線は、真っ直ぐにぼくを見ていた。

 継ぎ接ぎの町の人々とは違う、意思を持った視線が折り重なって、射貫くようにぼくを捕らえていた。

 

 

 

 

 




今日も読んでいただいた皆様、ありがとうございます!
このお話も折り返し地点は過ぎておりますが、どうか最後まで付き合っていただけますように。
では!


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34 呼び寄せし者の名は

少々短し……です。


 平野に並べられた銅像のように、両の腕を垂れたまま微動だにしない数多の人々を呆然と眺めていた。ぼくの声に反応を示し一斉に顔を上げただけで、言葉を発するどころか、息遣いさえ感じることはできなかった。

 

「水月さん、何かいってよ」

 

「この状況で何をだ? 成り行きを見守る以外にできることはない。特に俺はな。大量の墓場から中途半端に死人が蘇ったようにしか見えないな」

 

 この人達がどのような存在であるにせよ、自らの意思で姿を見せたのか、他者の強要で現れたのかで、状況は変わってくる。他者の強要である場合、そこに鬼神が絡んでいる可能性は極めて高いだろう。ひとつひとつは小さくとも、悪意に染まった意思が群れを成せば、簡単にぼく達を押し潰す大きな波となる。

 

「不必要に姿を見せたとは思えないよね。だったらどうして何も言わないのかな。それが返って薄気味悪い」

 

「おそらくは口をきけないのだろうよ。言いたいことを言えずにいるから、飛んでくる視線がこんなに痛いんだ」

 

 視線を絡めても、そこに憎しみや哀れみの表情は見られない。彼らにあるのは目的であって、ぼく個人への感情など最初から無いのかも知れないと思った。

 

「このままじゃ埒があかない。チビを相手に海洋生物学とかで魚の話をした方が、まだ話が通じそうだよ」

 

 ミャ ミャ

 

 馬鹿にされたと思って憤慨したように、珍しくチビが小さく二度鳴いた。

 

「チビを馬鹿にした訳じゃないぞ? チビの方がお利口さんだって褒めたんだぞ?」

 

 言葉を知ってチビが鳴くはずもないというのに、何となく言い訳してぼくは首筋を指で掻いた。

 さっきから肩に乗るチビの毛がさわさわと首筋に触れて、その度肌が痒さにちりちりする。

 

 ミャ

 

「痛い! チビ? ぼくの手を囓ったのか?」

 

 呆気に取られるぼくを見ることさえせずに、チビは身軽に肩から飛び降りる。

 左手の甲にチビの牙が僅かに食い込んだ傷跡から、じわりじわりと血が滲む。

 

「チビ!」

 

 岩の床面を悠然と歩いて前へ出たチビを捕まえようと、腰を折ったぼくを水月の手が止めた。

 見上げた先で水月は、微かな笑みを浮かべて首を横に振る。

 チビの動向を見守れというのだろうか。

 こちらのやり取りなどまるで耳に入っていないかのように、チビはぼく達の少しだけ前に立ち、皿の水を舐めるように頭を下げた。

 静かに一歩前へでて、チビの様子を斜め後ろから覗き込む。床を埋め尽くす平たく切り出された岩の隙間から溢れる橙の光りの筋に、ゆっくりとチビが頭を近づける。

 岩から二指分ほど離れた位置でチビがちろりと舌をだすと、ゆらゆらと漏れ出ていた灯りが、水面に落ちた水滴がつくり出すような、橙の光りを纏った大冠の粒を散らす。

 

 ミャ

 

 さらに頭を下げ、チビは光りの筋をぺろりと舐めた。

 ぼんやりと下から照らしていた灯りが、光りの膜となって立ちのぼる。

 岩の隙間に添って曲線を描き出す様は、まるでオーロラが地表から湧いて出たようだった。

 昇っていく灯りを追うように、人々が顔を天井へと向ける。懐中電灯の光りが漆黒の空に溶けていくように、天井の濃い暗がりに吸い込まれるまで、橙の灯りはその身を伸ばす。

 

「綺麗だな」

 

 異様な場にそぐわない感想が口から漏れた。

 橙の灯りが織り成す光景は幻想的で、本質を問うことなど忘れさせるほどのものだった。

 

 幻想が途切れるときは、いつだってあっけない。

 支えていた支柱を抜かれたように、天井に伸びていた灯りの膜がすとんと落ちた。

 

「岩の隙間を埋めていた灯りが消えた」

 

 水月の声に辺りを見回すと、床の岩の隙間から漏れていた橙の灯りは消え、代わりに壁を埋める岩の隙間から射す青白い光りが強さを増していく。

 床から照らす光源を失ったというのに、岩に囲まれた広い空間は、なぜか明るさを増していた。

 

「この状況に驚いているのは、どうやら俺達だけじゃなさそうだ」

 

 水月が顎をしゃくる先では、果てしなく天井に向かって伸びていった橙の灯りを眺めていた人々が、まるで今隣人の存在に気づいたかのように、互いの顔を見合っていた。

 

「チビ、またおまえが何かしたのかい?」

 

 丸い目でちらりとだけ見上げてきたチビを、そっと脇から抱き上げる。

 

「チビが光りの筋を舐めたことに意味があるなら、行為に意味を持たせるためには、ぼくの血が必要だったの?」

 

 ミャ

 

 チビがぼくの鼻先をちろりと舐める。

 

「そうやって普通の子猫ぶるから、チビのことが解らなくなるんじゃないか。ねえチビ、いったいぼく達はどうしたらいいのだろうね。出口の無い迷路に立たされた気分だよ」

 

 小さな顔に頬ずりすると、めんどくさそうに鼻先を背け、くるりと身を捻ってチビはぼくの手から逃げ出し、愛想のひとつもなしに水月の足元へと寄っていく。

 

「つれないねぇ」

 

 溜息をひとつ漏らした、その時だった。

 

「あんた達、どうやってここへ来た」

 

 中年の男の声が自分に投げかけられたのだと気づき、はっとして辺りを見回すと、背筋を真っ直ぐにの伸ばした細身の男が指先でこちらを指しながら、訝しげな表情を浮かべていた。

 視線を投げた先で、水月が顎を引いてひとつ頷く。

 

「どうやってここへ来たのか、正直わかりません。ここへ来るのが、どうしてぼく達だったのかもです。残欠の小径と呼ばれる世界に、突如現れた町があります。その町は様々な時代の人、あるいは人でない者達が身を寄せる、いわば継ぎ接ぎの町といったところでしょうか」

 

 中年の男だけではない。今は視界に入る人々が、一人として漏れることなく自分の話に耳を傾けている。寄せ集めの町と呼ぶなら、ここは寄せ集めの墓場。ここに集う人々もちぐはぐな印象で、時代背景の統一感がまるで感じられない。

 

「残欠の小径には闇が満ちる。その間隔は不定期に短くなっていて、鬼神と呼ばれる存在が、この現象に関わっているのではないかと思った仲間と共に、闇が満ちた町に潜り込んでいました。そこで掴んだ事実もありましたが、ここへ繋がる方向へ足を向けたのは別の理由です。女の子が指差したんです。母親に手を引かれた小さな女の子は、闇が満ちた中でぼくを見て微笑み、闇が明けた直後の街角で指差して、ぼく達をここへ誘った」

 

 人々の顔に浮かんだのは、明らかな戸惑いの表情だった。

 

「あなた方よりも戸惑っているのは、ぼく達の方でしょうね。ここが何処なのか、何の為に存在するのか、そしてあなた方は何者なのか。どうしてぼくは、ここへ引き寄せられたのか」

 

 最初に声をかけてきた男が、背後を振り返る。人々の視線が男へと集まり、何を問いかけたわけでもないのに、人々が一様に頷き返す。その様子を見て男はゆっくりと深く頷き、こちらへと向き直った。

 

「鬼神なら我々も知っている。我らの魂をここに縛り付けたのも、ある意味鬼神なのだから」

 

 やはり鬼神が絡んでいたかと、心中に湧く驚きはなかった。自分達の存在を魂と呼ぶということは、やはり実体のない死人なのだろうか。

 

「いくら鬼神が絡んでいるとはいえ、この人数はちと多すぎやしないか。大方の推論が当たって、あの町が鬼神の餌場なら、それに劣らない人数を抱えたこの場所はいったい何の意味を成す? 鬼神はいったい、何をしでかそうとしているんだ」

 

 水月の声が低く響く。

 

「餌場、ですか? 鬼神が魂を喰らう餌場を?」

 

 声を上げたのは、三列ほど奥に立つ若い女性だった。大正モダンを思わせる大柄な花の模様の入った浴衣の袖を口元に当て、考えるように首を傾げる。

 

「鬼神が餌場を持つという発想は奇怪ですか? ですが鬼神は確実に幾つもの魂を己の中に取り込んでいます。それは紛れもない事実です」

 

「あんた達は鬼神が己の力を増すために、他者の魂を取り込んでいるというのか?」

 

 左奥に立つ老人が、嗄れながらも張りのある声でいう。

 

「今の時点ではそう考えています。ですが、本当を言うと鬼神の正体もその目的も憶測でしかありません」

 

 言葉を交わすことなく目配せし合う様子を見て、水月は背後で息を吐く。

 

「そう警戒しなさんな。こいつは残欠の小径で生まれ、鬼神の悪戯で人の子として育った珍しい奴だ。ここに来るまでの道も、こいつの血が開いたといっても過言じゃない。ここへ来た理由を知りたい。何かあるはずだ。誰の利益になるかは知らないが、こいつをここへ導いた理由は必ず存在する。思い当たる節はないか? というより、てっきり俺はあんた達がこいつを呼び寄せたとばかり思っていたのだがな」

 

 水月が諦めたように天に息を吐き出すと、耳を傾けていた人々はばらばらと首を横に振る。

 

「まるで逆だ。我々が引き寄せられた。少なくとも、我々はそう感じている」

 

 最初に声をかけてきた細身の男が、困ったように唇を噛む。

 互いに引き寄せた覚えの無い者が集い、互いの真意、もしくは他者の意図を計りかねている状況。

 意図して嘘を吐いている者がいるようには思えなかった。

 尚更に残る疑問。

 この状況を望み、川の水を支線に引き込むように、一同を会させたのは誰なのだろうかと。

 ぱたりと言葉の止まったぼくを見かねて、水月が残欠の小径やぼくの育った世界での出来事を大まかに話しはじめた。

 事実は事実として、予想や憶測を偽ることなく淡々と話は進む。

 奥まで見渡せないほどに広い空間に、集う人々がざわめいた。

 囁くような声が、意味を成さぬままさざ波のように押し寄せる。

 

「ばらばらに一度に話しても伝わらないだろう。いやねぇ、我々は言葉を使わなくとも互いに意思の疎通を図れる。こうして言葉を発しているのは、あんた達に聞かせる為なんだよ」

 

 死人に言葉なんざいらねぇや、と細身の男が片頬に苦笑を浮かべ眉を掻く。

 

「話は理解できたつもりだ。そしてこれだけの人数が集っているというのに、全員同じことを思っている」

 

「同じことを、ですか?」

 

「同じ結論に辿り着いたのさ」

 

 男の背後で響いていた、ざわめきがぴたりと止む。

 突然の静寂に、ぼくは問い返す機会を完全に失った。

 

「あんた達の知る鬼神は、ここにいるみんなが知る鬼神ではない。同じでありながら、まったくの別物だ。いや、別物に取って代わった、とでもいうべきか」

 

 呆けたように口を半開きにしたまま、水月と視線を絡ませる。

 いつも落ち着き払った水月でさえ、僅かに唇に隙間を空けている。

 

 ミャ

 

 足元でチビが鳴く。

 はっと目を見開いて、細身の男がにっと笑った。

 

「どうりでここへ辿り着けたわけだ」

 

「どういうことですか?」

 

「あんた達をここへ呼び寄せた、張本人がわかった」

 

 男の目が笑みを模って細められる。

 岩の墓標の後ろで立つ数多の人々も、同じように緩やかな笑みを浮かべていた。

 次ぎに男が口にした言葉は、ぼくに混乱をもたらす物だった。

 

「あんたらをここへ導いたのは鬼神だ。我々の知る、鬼神だよ」

 





このお話を書いていて後半戦になるにつれ、ヤケに体力と気力が持って行かれます。
なぜでしょう? 摩訶不思議なり。
次話もよろしくお願いしますね(^o^;)
では!


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35 岩に染みいる青白き川の先

 互いに顔を見合わせたが、解らないというように水月は首を静かに横にふる。

 

「あんた達には仲間がいるといったな? そいつらは我らが鬼神を迎え入れてくれるだろうか」

 

 細身の男が笑みを浮かべたまま、遠慮がちに口を開く。

 

「仲間はいるけれど、あなた達の知る鬼神がいったいどういう者なのか。それによって答えは否。どうしてもぼく達には、あの鬼神しか思い浮かばないから、今は答えようもありません」

 

 そうか、と男は僅かに目を伏せ頷いた。

 

「それにしても、ここにいる人達はみな鬼神を慕っているような、大切にしているような印象を受けるのですが、そのような相手をどうして鬼神などと?」

 

 この問いに答えたのは、嗄れた声の老人だった。

 

「ここにいても噂だけは耳に入る。我々の知る者と同じような姿形であるにも関わらず、その者が鬼神と呼ばれていると。だがあくまで噂で、確信を得たのはたった今だからのう。おぬしらの言葉に合わせただけよ。文字にしたためるなら、その者の本質はまるで違う。外見は同じでも、中身がまるで違うようにな」

 

 にやりと悪戯っぽく笑う老人の目元は皺に埋もれ、窄めた口元から放射線状に深い皺が伸びる。

 

「我々が知っていた者の名は希神、希望を統べる者という意味だった。闇に埋もれ散らばっていた我らにとって、差し伸べられた手は、希望以外の何ものでもなかったからのう。いつ誰が呼び始めたのか、我々の手を引いて救い出してくれた者は、希神と呼ばれるようになった」

 

「神なのですか?」

 

「どうであろうな。まるで己の存在が何であるかを理解していない風ではあったが、あの者がたとえ雑草の化身であろうと、土塊であろうと構わない。我々にとっては確かにこの手と心に触れた、確かな存在であったのだから」

 

 まだ見ぬ希神を思い描く。片頬を上げるような鬼神のにたりとした歪な笑いでもなく、オリジナルと呼ばれた少年の寂しそうな表情でもなく、あの少年の顔に浮かんでいたのは屈託のない笑みだったのだろうか、そんなことをふと思った。

 隣で腕を組み考え込むように首を傾げていた水月が、閉じていた瞼を開ける。

 

「ここにあんた達を縛り付けたのも鬼神だといっていたが、それは俺達が知る鬼神のしたことなのかい? それともあんた達の知る希神の成したことなのか?」

 

 水月の疑問はぼくも感じていた。

 鬼神の仕業なら、彼らが噂でしか鬼神を知らないというのはおかしいし、かといって希神と呼ばれる者が、このような非道に走るとも思えない。それとも、彼らの為にここに縛り付けなくてはならない理由でもあったというのだろうか。

 

「耳を疑うでしょうが、そのどちらでもありゃしませんよ」

 

 大柄な花の模様が入った浴衣の袖をぐっと片手で握りしめ、女性が細い眉根をよせた。

 

「希神はあたし達を解き放つためにここに集めたんですよ。だから、ここを離れようと思えば、おそらくここにいる全員が、己が進むべき道へと戻っていけた。けれどあたし達はそうしなかった。もう一日、もう一日だけと、その日を先送りにしていたんです」

 

「それはまたどうしてですか?」

 

 これだけの人数が思いとどまった理由は何かと、ぼくは思わず身を乗り出した。

 

「さあねえ、あたし達のもよく解っちゃいないんですよ。ただ、広大な闇の中に、希神が一人で残されるのかと思うと、できなかったのかもしれないねぇ。まあこれだけの人数がいるんだ。碌な生き方をしていない奴だって大勢いますよ。だから自分の為なのかもしれませんねえ。希神の側にいて、あの笑顔を見ていたかった、ただそれだけかも」

 

 懐かしむように、女の目元に柔らかな笑みが浮かぶ。

 

「俺たちをここに縛り付けた者については、語るほど知っている者はいない。そうであったのだろうという、あくまでも憶測に過ぎん。運が良ければ知ることも叶うだろうさ。それを知ることは、あんた達の鬼神が何者であるのかを、知ることにもなるのだろうよ」

 

 そういって、細身の男が手を高く頭上に翳す。男に倣ったように、人々がぴんと腕を伸ばし天井を見上げていく様は、まるで盛り上がる波を見ている様だった。

 中央に位置する人々が、墓標と共にその位置をずらし、真ん中に何もない一本の道が出来上がる。

 地鳴りと共にずれていく墓標は、やはり岩の欠片ひとつ零すことはなかった。

 地鳴りが治まり、岩間に静寂が滲みていく。

 

 ミャ

 

 何を思ったか、チビがひと声鳴いた残響が木霊となって広がった。

 人々が出来上がった道に向かって、一斉に内側を向く。

 

「アイヤ――!」

 

 語尾を伸ばした老若男女の声が折り重なり、周りを囲む岩に反響する。

 チビの前足が片方、そっと前へ踏み出した。

 壁を形成する岩の隙間から漏れ出ていた青白い光りが、まるで意思があるかのように光りを岩の内に閉じ込めていく。

 灰色だった岩の縁さえ青白く色を放ちはじめると、光りの線は下へと流れ落ち、床に敷き詰められた平坦に切られた岩の隙間へと流れ込む。

 中央の道に向けて急な傾斜がついているのかと錯覚するほど、青白い光りの流れは速く淀みない。

 

「なんだこりゃあ」

 

 隣で目を見開きながら水月が呟く。

 このような異質な空間であることを忘れさせるほど幻想的な光景は、青白い光りの線があっというまに床の岩間を埋め尽くし、道に流れ込んだかと思うと平坦な岩の表面を濡らしたように輝かせながら、真っ直ぐに闇の向こうへ続く青白い光りの川が出来上がった。

 どこまで息が続くのかと、感嘆するしかない叫びがぴたりと止む。

 止まることなく目の前で繰り広げられる光景に、今度こそぼくは息を呑んだ。

 

「人の姿が消えていく」

 

 向かい合って中央に体を向け、両の手を高く掲げる人々の足元から白く濃い煙りが湧き上がり、腰から胸元へと、徐々に体を覆い尽くしていく。

 煙のように見えるが、おそらくそのような物ではないのだろう。

 焚き火から立ちのぼる煙のようにゆっくりと渦巻きながら、決して天井へ昇ることなく人々の体に絡まっている。

 ぴんと伸ばされた指先まで白い渦に巻かれた頃には、足元の白い塊は完全に平坦な岩面を離れ、その後には見えるはずの足も腰も、在りはしなかった。

 

「まいったなこりゃ。世の中知らないことはまだまだあるもんだねぇ」

 

 感心しているのか巫山戯ているのかわからない口調の水月を、ぼくは肘の先でぐいと突いた。

 

「これから何が起こるか予想も付かないのに、呑気なこといって。水月さんだけが頼りなんだから、しっかりしてよ」

 

「おれは巻き込まれただけだっていっただろう?」

 

「巻き込まれに飛んで入ってきたんでしょうが?」

 

 あまりにも現実味のない光景に、会話までもが呆けたように浮き足立つ。

 そんなやり取りの間にも、白い煙のような塊は下から人々の体を呑み込み、手のあった辺りに辿り着くと先端から伸びたちらちらと光る糸に引かれるように、道の上へと集まっていく。

 ちらちらと光る糸は、どれひとつとして同じ色の物はなく、薄い橙、濃い紫とひとりひとり違う糸を紡ぎ出してる。

 広い空間に人の姿はなく、残された墓標だけが主のいなくなった後を守っているようだった。

 

「見ろよ和也。まるで雲でできたトンネルだ」

 

 道を半円に覆う白い塊がこちらへと伸びて、ぼく達が立つ真上を覆い尽くす。

 

 ミャ

 

 まるで餌でも取りに行くような気軽さで、チビが軽い足取りのままトンネルの奥へと歩いて行く。

 

「チビ? おい待てよ!」

 

 慌てるぼくの背中を、水月がそっと押した。

 

「行ってみようじゃないか。ここに居たって、どうせ外へは出られそうもない」

 

 確かに水月のいうとおりだ。頷き返して、ぼくはチビの後を追った。

 少し進んでから振り返ると、背後を白い煙の塊が壁となって閉ざし、今さっきまで立っていた場所を見ることさえ叶わない。

 悪意は感じなくとも、人を不安にさせるには十分な演出だった。

 

「そんなに何度も振り返るな。少しは腹を据えて落ち着きなよ」

 

「水月さんが落ち着き過ぎなんですよ。ぼく達が前に進んだ分だけ、背後の白いもこもこした壁も間を空けずに迫ってくるなんて。岩に囲まれていたあの空間よりも、完全に逃げ道を失った気分です」

 

 目を細めて水月はくくっと肩を揺らす。

 

「どうなるかは知らないが、直ぐにとって喰われるわけでもないだろうさ。見ろよ、彼らが守ってくれている。そんな気がしないか?」

 

 水月の指差すトンネルの壁に目をやった。

 壁から天井までぐるりと半円形に覆われた様は、まるで水族館に造られた水槽の下を歩けるトンネルにいるようで、さしずめ魚の代わりに色とりどりの短い糸が泳いでいる、といったところだろうか。

 

「そんな悠長な。けれど、綺麗ですね。色も輝きも違う糸が、白い煙の中を泳いでいるみたいだ。いったいこの糸は何なのかな」

 

 ちらちらと光りながら、入れ替わり立ち替わりに姿を見せる光りの糸を眺めながら、水月のいうとおり少し落ち着こうと息を吸う。

 相変わらず前をいくチビの背中を見ていると、のんびり裏路地を散歩しているようにしか見えないのだから、自分の小心者っぷりにだんだん嫌気がさしてきた。

 

「コンビニに売ってないかなぁ……強い心の種」

 

「はあ?」

 

「ひとりごとです。お願いだから聞き流して」

 

 くすくすとお笑う水月から顔を背けて、べっと舌をだす。

 

「おっと、こりゃあ早々に現れた分かれ道ってやつだな」

 

 その言葉に目を向けると白い煙のトンネルは途切れ、岩の壁に人ひとりがやっと通れる程度の通路が三本、隣り合わせて穴を広げていた。

 三本のトンネルの前でチビはぺたりと座り込み、歩き疲れたといわんばかりに白い毛に覆われた手を舐め始めた。

 

「どっちに行けばいいのかな」

 

 三本のトンネルの手前中央に、ぽつりと大きな水瓶が置かれている。

 何の変哲もない焦げ茶色の大きな水瓶を覗き込むと、中にはたっぷり水が溜められていた。

 

「それぞれの通路をちょっと覗いてみませんか? あまりに暗くて長いようなら、このまま入る訳にもいかないし」

 

 水月は右端へと向かい、ぼくは左端の通路へ足を向ける。

 おそらくは奥の方で通路が曲がっているのだろう。通路その物は灯りひとつ無く暗闇に満ちているが、かなり奥の方で曲がった先にある光源から、漏れた淡い光りが見えた。

 あの光りを頼りにゆっくりと進めば、歩いて行けないこともないだろう。

 少しだけ足を踏み入れようとしたぼくは、歩く速度に合わせて何気なく前後に振っていた手を見て首を傾げる。

 軽く前に振り出した右手の先に、柔らかな感触を確かに感じた気がしたからだ。

 もう一歩前へ出て、そっと手の平を前に押し出してみる。

 

「どうなっているんだ? まるで透明な水の壁が張っているみたいだ」

 

 手が触れたところから水紋が広がって、暗いながらもはっきりと見えていた先の景色が歪む。

 水底から見上げたような揺らぎは水紋と共に治まり、再び何もないかのようにトンネルの入り口がそこにあるだけとなった。

 

「まさかとは思うが、その呆けた様子だと和也の方も中には入れないようだな」

 

 指先を顔の前でうねらせて、水月が自分の見た水紋の広がりを知らせてきた。

 

「まいったな。これじゃあ前にも後ろにも進めやしない」

 

 背後には白く渦巻く煙の壁、前には水のような膜で入り口を閉ざしたトンネルが三つ。

 これでは完全にお手上げ。

 もっと詳しいことを人々に聞いておくべきだった、という後悔も今更だ。

 もう一度だけ手を前へと突き出し、湧き上がる水紋から目を離さずにゆっくりと後退る。

 

「緊張して喉がからからです。水瓶の水、まさか飲めたりしませんよね?」

 

「やめておいた方が身のためだ。たぶん、腹を下すくらいじゃすまんだろうよ」

 

 そんな事は解っている。ただ何か話していないと、息が詰まりそうだったから。

 のんびり手で顔を洗っていたチビが、ゆっくりと立ち上がったかと思うと、野生の跳躍力で器用に水瓶の縁に飛び乗った。

 

「チビ、それは舐めちゃ駄目だよ!」

 

 いうより早く、チビの舌がぴちゃりと水を舐めた音が響く。

 白い煙の塊の中を泳いでいた色とりどりの光りの糸が、一斉にその光量を増した。交代に姿を見せては奥へ潜っていくのをくり返していた糸が、一斉に表面に浮いてきたとしかいいようがない。

 眩い光りをちかちかと放つ糸を呆然と見上げていると、何事もなかったかのようにチビがぼくの足元へ寄ってきた。

 

「チビ、いったい何をしたの?」

 

 しゃがみ込んで頭を撫でようとしたぼくの手の甲を、いきなり伸ばされたチビの爪が引っ掻いた。

 

「痛ったい! 駄目だろチビ!」

 

 こつりと叩いてやろうとした、げんこつをするりと避けて、再びチビは水瓶の縁へと飛び乗った。

 

 ミャ

 

 水瓶の中を覗くように小さな頭を垂れる。

 

 ミャ

 

「そこに何かあるっていうのかい?」

 

 チビを叱りつけることを諦めたぼくは、水瓶の縁に手をかけ一緒に中を覗き込む。

 

「何か見えるのか?」

 

 つられて水月もひょっこりと顔を出す。

 

「飲めそうもない水があるだけです。チビ、後で腹をこわしても面倒みてやらないぞ?」

 

 しかめっ面で睨んだぼくの顔をちらりとだけみて、チビはぼくの方にひょいと飛び乗った。

 その時だった。

 手の甲にチビが付けた傷から、指先へと一筋の血が流れ落ちた。

 血の臭いが、ぼくの鼻孔を刺激する。

 水瓶の縁から手を離そうとした反動で、指先に垂れていた赤い血の珠がぽとりと一滴、水瓶の中に溜まった水へと落ちた。

 

「えっ?」

 

 たった一滴の血が、水面で筋を成していく。透明な水に溶けることなく伸びる赤い筋は、水瓶の中央でぴたりと動きを止めた。

 沈むことなく沈黙を続けたぼくの血が、竜巻にも似た渦を描き水瓶の底へと潜っていく。

 中央をへこませて、ぐるぐると渦巻いていた水が動きを止め、最初に覗いた時と変わらない、凪いだ水面が何事も無かったかのように揺れている。

 

 ミャ

 

 チビが小さく鳴いたと同時に、足元に水が流れてきた。

 最初に触れた左の通路から、支える物を失ったかのように水の壁が落ちて流れた。

 本当に水の壁が張っていたのかと思えるほど、見慣れた動きで水が流れてくる。

 

「どうやら、道は開いたようだな」

 

 立ちすくむぼくをそのままに、水月が水の流れた通路の前に立ち、すっと腕を持ち上げた。

 

「ほらな、道は繋がったらしい」

 

 明らかにトンネルの内側へと差し出された水月の腕は、何に阻まれることなく真っ直ぐに伸びている。

 ふと見上げると、あれほど鮮やかな色彩の光りを放っていた光の糸が、すっかり姿を消していた。

 

 ミャ

 

 チビが悠然と先を行く。

 

「ほら、チビも早く行こうとさ」

 

 苦笑を浮かべて、ぼくは水月に頷き返す。

 

「そうですね。先へ進みましょうか」

 

 暗闇の満ちた通路の中、先に見える淡い光りだけを頼りに進んでいく。

 この先に何があっても、選択の余地はない。

 そこにあるのは多分、ぼく達が知るべき光景なのだと今はそう思えていた。

 

 

 

 

 

 




 今日ものぞいて下さった皆様、ありがとうございました!
 では!

 


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36 小首を傾げて 希神は微笑む

 今だ薄く水の流れる岩の床を歩き、真っ暗な通路へと歩みを進める。

 遠くに見える淡い光りのおかげで、進むべき方向を見失うことはせずに済んだが、足元さえ見えない暗がりで壁に目をやると、まるでそこに壁など無いかのような闇に意識を吸い取られそうで、くらりと軽い目眩を感じた。

 手を伸ばしてみると、自然の岩を削っただけであるように見えた壁はしっとりと濡れていた。

 試しに指先で触れた足元は乾いているから、壁から流れ落ちるほどの水量では無いのだろう。

 まるでじんわりと岩から水が染み出ているようだと、そんな妄想が頭を過ぎった。

 

 ミャ

 

 ついて来ていることを確認するかのように、暗闇に紛れて姿の見えないチビが、時折小さく声を上げる。

 

「毛玉になって転がったのを見た時から、ただの猫だなんて思ってはいなかったけれど、もはや子猫という定義すら当てはまっていないような気がしてきました。水月さんは、本当にチビの正体を知らないの?」

 

「何者だか知らないが、ご大層な正体を知っていたら、チビなんて安直な名前はつけてないよ」

 

 こつこつと足音が響くだけの通路で、少し斜め後ろから水月の声が答える。

 前に立って淡い光源を遮らない限り、水月が何処に立っているかさえ解らなかったから、意外に間近から聞こえた声に、ぼくはほんの少し仰け反った。

 

「思うんですよ。ここへぼく達を呼んだのは彼らが知る希神だとして、導き手はチビなんじゃないのかなって。たまたま後をついてきてしまったとばかり思っていたけれど、たまたまじゃ無いのかも知れない。チビが道を示し、ぼくは先へ進む為の鍵に過ぎない」

 

 コツリコツリと、二つの足音だけが反響する。

 

「そうかもしれないな。そう考えると、俺は本当におまけだな。まったく、妙な事に巻き込まれちまったよ」

 

 大きく溜息を吐いた水月は、わざとらしく苦虫を噛みつぶしたような顔をしているのだろうと思い、暗闇の中声を立てずにぼくは笑った。

 

「だからね、巻き込まれに自ら飛び込んだの間違いでしょう?」

 

 代わり映えのしない暗闇を黙って歩く。

 それにしても、光源は遠いとはいえ、やたらと辿り着くのが遅くはないだろうか。それとも、海の向こうに浮かぶ小島が見た目より遠いように、闇がもたらした距離感の錯覚なのか。

 

 ミャ

 

「黙ってついて来いってか? はいはい」

 

 ある種異常な状況下であるにも関わらず、緊張感がどこか抜けているのはチビの存在が大きい。いつの間にかこの小さな生き物に、絶対なる信頼を持っていることに、今更ながら気付いて苦笑した。 

 たんまりと叱られるために、シマに大人しく咥えられて庭の隅に姿を消したちっちゃな白い子猫も、知性のある道先案内人がごとく振る舞う今のチビも、同一なのだと心では解っていても、どうしても頭の中では首を傾げたくなってしまう。

 まったく得体の知れないちっちゃな生き物、こんな風に勝手に出歩いていたら、あの庭に戻った時またシマにみっちり叱られるだろうに。

 

「待て! 和也止まるんだ!」

 

 水月が叫んだ後、惰性でぼくの足は更に一歩踏み出してしまった。

 周りを囲む岩の隙間から、じんわりと灯りが漏れる。

 遠くの光源まで続く灯りは、暗闇に慣れた目が辺りを見回すには十分な明るさを保っていた。

 目の前で振り返って叫んだ姿勢のまま、水月が動きを止めている。

 本能的に身を引こうとしたときには、既に遅かった。

 つま先から太ももへと、這い上がるように昇ってきた痺れは体の自由を奪い、肺と心臓意外の動作、全てを阻害した。

 唇が僅かに動くものの、息を取り込む穴を広げるだけの役割しか果たせはしない。

 薄明かりに照らし出された通路の向こうを、白い毛玉となったチビが、ころころと転がっていくのが見える。

 こっちの異変に気づいていないのか、目的地まであと少しと言わんばかりの速さで転がっていく。

 水月に声をかけたくとも喉がいうことをきかないなか、唯一自由になる目玉だけを忙しなく転がして辺りを見回す。

 その時だった。何もない岩のどこかから微かに声がした。

 

「ここへ誘ったのは誰?」

 

 少女のような、幼い少年にも似た細く高い声。

 息を漏らすことしかできない喉に無理矢理力を込めていると、すっと何かに撫でられた柔らかな感触が喉元を通る。

 

「げは!」

 

 力んでいたせいで、急に吐き出された声に噎せ返る。

 

「ここへ君たちを誘ったのは、誰なの?」

 

 再び声が響く。その声に責めるような色はなく、事実のみを引き出そうとする、透明な意思を感じた。

 

「指差してぼく達をここへ導いたのは、小さな女の子。闇が降りると、動物の目を持つ女の子」

 

「この通路へと、繋がる道を開いたのは誰?」

 

「ぼく達が墓標と呼んだ、積み重なった石に宿る魂。とても沢山の人がいたよ」

 

 考え込むように、問いかけの声が止まった。

 体の痺れは相変わらずで、邪な思いでかかって来られたなら、ひとたまりもないだろう。

 それでもぼくの心は凪いでいた。

 残欠の小径で生まれたぼくの血が、本能的に感じ取っていたのは、声の主が持つ心。

 邪心がまったくといっていいほど感じられなかった。

 まるで言葉を得たチビと話しているかのような、そんな錯覚さえ起こさせる。

 

 おやまぁ。

 

 少しだけ驚いたように、小さく声が響く。

 

「縛ったりしてごめんね。さあ、どうぞこちらへ」

 

 言われると同時に体から痺れが抜け、妙な体勢で固まっていたぼくと水月は、みっともなくよろけてしまった。

 

「水月さん、大丈夫? 今の声、水月さんにも聞こえていた?」

 

「あぁ、聞こえていた。それにしても薄情だな。さんざん偉そうに前を歩いていたくせにチビの奴、とっとと先にいっちまいやがった」

 

 水月が笑う。

 

「本当だね。この事もついでにシマに叱ってもらおうっかな。さて、とりあえずは前に進もうよ。せっかくお招きいただいたことだしね」

 

 頷く水月と共に歩き出すと、さっきまではさっぱり距離の縮まる事の無かった、奥で漏れ出る淡い光りが、急に物理法則を思い出したかのように、あっという間に近づいてくる。

 

「何だか狐に化かされた気分だよ」

 

 頭を掻く水月の横でぼくも頷いた。

 

「たぶんぼく達は、白い毛玉のチビ助に化かされたのだと思うよ」

 

 左から差し込む光が漏れる先には、空間が広がっているようだった。

 さっきの声の主は、ここに居るのだろうか。

 ひとつ頷き合って、ぼく達は新たに現れた空間に足を踏み入れた。

 

 ミャ

 

 迎えてくれたのは、待ちくたびれようにだらりと寝転んで、のんびりと顔を洗うチビだった。

 

「おっ、薄情者め、ひとりで何をくつろいでいるんだか」

 

 水月が指先で小突くと、チビは面倒臭そうに起き上がり、ぼく達の前を歩き始める。

 足を踏み入れた空間は、墓標がある場所とは比べものにならないほど狭い場所で、岩に囲まれているのは何ら変わりないものの、その中央には小さな泉が湧き出ている。

 温泉に浸かるように入ったなら、大人三人でも狭苦しいだろう。

 一旦足を止めていたチビが再び歩き出す。

 後をついていこうと一歩踏み出すと、短い足を片方踏み出しかけたままチビが振り返った。

 

 ミャ

 

 前を向いてちょこりちょこりと歩き出したチビに合わせて歩き出すと、再び動きを止めたチビが、首だけを器用に回し、さっきよりも大きな声でひと鳴きする。

 

 ミャ

 

 ぼくと水月は顔を見合わせ、互いに首を傾げて肩を竦めた。

 

「付いて来るなっていうことかな?」

 

「かもしれないな、とりあえずはここに居ようか」

 

 腕を組んで息を吐く水月の隣で、ぼくもふっと息を吐く。

 おまえらやっと通じたか、とでもいうようにこちらを一瞥して、チビは再び歩き出す。

 チビが短い足で一歩、また一歩と泉に近づくごとに変化していく光景に、口を開けたままぼくは息を呑んだ。

 

「もう何を見ても驚かないって、墓標を目にした辺りで決めたんだ」

 

 目を見開く水月が、負け惜しみのような言葉を漏らす。

 

「無理しなくていいよ、ぼくだってかなり驚いているんだから」

 

 小さな足が岩に命を与えていくようだった。

 チビの足が付いた先から、無機質な岩に青々とした若草が芽吹いていく。

 歩き去った後には、黄色い小さな花ビラが幾つも開いて、吹いている筈の無い風にそよそよと揺れている。

 己がもたらしているであろう変化には目もくれず、チビは悠然とした足取りで泉の直ぐ側まで近づいた。

 

 ミャ

 

 泉の脇でチビがすとんと腰をおろす。

 最初に現れたのは小さな手だった。

 チビの背を優しく撫でる手の後に、縦縞の浴衣に包まれた細い腕が現れた。

 まるで隠していた幕を引くように現れたのは、草の上にぺたりと腰をおろした男の子だった。

 座っていてもわかるほど、つんつくてんに短い縦縞の浴衣。

 ぼくの記憶の中から、同じ姿をした少年が浮かび上がる。

 時にはぼくに道を教えてくれた寂しそうな表情の少年であり、別の日にはぼくを亡き者にしようとした鬼神と呼ばれし者。

 そのどちらとも違うのは、チビの背を撫でながら嬉しそうに微笑む少年の笑顔だろう。

 屈託無い笑顔はこの少年のものであり、姿形は同じでも記憶にある二人のどちらともまったく異質のものだった。

 春のそよ風が笑顔を見せるなら、きっとこの少年のように笑うだろう。

 そう思うほどに邪気の無い、優しくて無垢な微笑みだった。

 

「この子を連れて来てくれて、ありがとう」

 

 少年はにこりと首を傾げてそういった。

 

「この子って、チビのこと? 連れて来たというより、勝手について来てしまったんだよ。いや、最初からここへ来ることになると、わかっていたのかもしれないね」

 

 ぼくがいうと少年は、小さく何度も頷いた。

 

 ミャ

 

 短くチビが鳴くと、少年はぼく達を手招いた。頷き合ってそろりそろりと歩き出した靴の裏に感じるのは、間違いなく柔らかな草の感触。岩に囲まれた空間で泉の周りだけが、命溢れる草に覆われている。

 

「この子はチビって名をつけてもらったの? へぇ、ぼくもチビって呼ぼうかな。いいかい?」

 

 勝手にしてくれというように、目を閉じて喉をごろごろさせるチビを見ながら、少年が白い歯を見せてくすくすと笑う。

 

「ここにいてもね、チビが何をしていたかはだいたいわかるんだよ。この泉に、チビの様子が時折映り込むから」

 

 少年の指先がさらりと水面を撫でると、さざ波が立ってそれが治まった水面に、響子さん達の様子が映し出された。

 ぼく達を探しているのだろうか、眉根をよせたまま響子さんがみんなに指示を出している。

 水面に映る映像は鮮明で、そして虚ろだった。意識の焦点がずれると、映像は直ぐに揺らいで消えそうになる。

 

「あぁ、小屋の戸に二重に鍵をかけるのを忘れちまった」

 

 水月がしまった、というように首筋をかく。

 

「えっ、水月さんには自分の住む小屋が見えたの? ぼくに見えた映像は、響子さん達だった」

 

 訝しむようにもう一度泉を覗き込んだ水月は、やっぱり小屋だ、といって首を傾げた。

 

「この泉は気まぐれだから、気にかけている物や人、邪気のない物や場所を映し出す。でもね、いつでも見えるわけではないし、望んだ物が見えるとは限らない」

 

 少年の言葉に、ぼくは呆れて水月を見た。

 

「響子さん達より、小屋の方が心配だったわけ? チビのことを薄情だなんていえないね」

 

 へへっ、と笑って水月は明後日の方へ視線を背ける。

 

「ぼくはいつも、この泉を通してチビを見ていたんだよ。最近は楽しそうだったのに、ここへ戻ってきてしまって良かったの? 灰色の毛色をした猫によく叱られていたけれど、それさえ楽しそうだったのに」

 

 ミャ

 

 ころりと転がって腹を見せたチビに、少年は嬉しそうに目を細めた。

 そしてふっと真顔に戻ってぼく達を見上げ、口を開く前に視線を落とす。

 

「ごめんね、色んなことに巻き込んでしまって。全部ぼくのせいだから。君たちがここへ来たのも。苦しんだのも。君達が墓標と呼ぶ石に宿るみんなが、あの場所に捕らわれたままなのも、全部ぼくのせい」

 

「詳しく話してもらえるかい? 君は彼らがいっていた希神なの? ぼく達に何かをさせたいのでしょう? ゆっくりでいいから、話して欲しいな」

 

 そういうと少年は、少しだけ辛そうに頷いた。

 

「確かにぼくは、みんなから希神と呼ばれていたよ。別に神様なんかじゃないのにね」

 

「へぇ、神じゃないのか」

 

 水月が口をつぼめて顎を撫でる。

 

「神様じゃないから、みんなを巻き込んで、こんな場所に居るしかなくなっちゃった。何から話せばいいかな」

 

 思案する少年を励ますように、チビが肉球でぺたりと座る膝を撫でた。

 

「とにかく、全てを元に戻さなくちゃね」

 

「それはどういう意味かな?」

 

 伏せていた顔を上げて、少年がにこりと笑う。

 

「全ての事の発端はぼくだから、ぼくの存在が色んな事をねじ曲げてしまったんだ。だからね、ぼくは最善の方法はこれだ、っていうのを見つけたんだよ」

 

 少年がチビを抱き上げ膝に乗せる。

 

 見た目は幼い少年の口から、最善という言葉が出ても普通に会話が続けられるほどに神経が麻痺してた。

 人の世意外で、見た目はさほど物を言わない。

 

「最善の方法って?」

 

 さらりとした会話の応対だった。

 

「全てを取り込んで、ぼくが消えればいいんだよ。そうしたら歪みは正されて、あの場に縛り付けられたみんなも自由になれる。もともとは、ぼく為に居てくれた人達だもの。そろそろ、解放してあげなくちゃね」

 

 絶句したままのぼくに構うことなく、少年は言葉を続ける。

 

「だから手伝って? ぼくの存在を、綺麗さっぱり消し去る日まで」

 

 小首を傾げて、少年はにこりと笑う。

 言葉を失ったまま、ぼくは呆然とその笑顔を眺めていた。

 

 

 

 




 忙しい年末に今日も覗いてくださった皆様、本当にありがとうございます。
 また読んでいただけますように(^_^.)
 では!


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37 記憶の泉

「消し去るって、まさか君が死ぬっていうこと?」

 

 ぼくの声は掠れていたと思う。映画で耳にする台詞ならドキドキして聞けるひと言を、幼い少年に投げかけるのは、それだけで苦しくて喉が渇く。

 ぼくのざらついた声に、少年は柔らかな笑みで首を横に振る。

 

「心配しないで、ぼくは死んだりしないもの」

 

 更に問いかけようとしたぼくの言葉を遮るように、少年はチビを抱き上げて顔が見えないように頬ずりした。

 

「確かにぼくはここに居るけれど、存在しながら霧散している。いや、違うかな。本来なら誰にも気づかれずに霧散した霧のような存在であるべきなのに、こうやって人の形をとってしまったというべきかもしれないね」

 

誰からも認知されることなく、見えない霧のようにただそこにあるだけの存在。

 常識で考えるなら七歳前後の子供が口にする内容ではないというのに、ぼくも水月もその言葉に聞き入ってしまった。曖昧な表現ははっきりとしたビジョンをもたらさない代わりに、ぼくの心に言葉ではとても表現しづらい確信を植え付ける。

 この子は本来、目にすることさえない存在なのだと。

 人が出会ってはならない、それどころか死人さえ出会ってはならない存在なのだと、心の深い部分が理解した。

 絶対なる恐怖、圧倒的な悪に近寄れば人が傷つくように、絶対なる無垢は、有り得ないだけに人の心に混乱をもたらすのではないだろうか。

 触れたなら、恐怖に面した時のように火傷を負う。

 悪を目にした時のように、心の芯を引き摺り込まれる。

 いつの間にか、魅入られる。

 それはきっと人として生まれた以上、悪とは心の奥底に誰もが飼っている物であり、無垢とは、人としてほんの一時しか持ち得ない物だから。

 

「なあ坊ず、俺たちはどうすればいい? 俺はずっと鬼神を追いかけてきたが、あの体に触れることさえできていない」

 

 髭を擦りながら問う水月も、いいオッサンが幼い子供に意見を求めている非常識など、とっくに呑み込んで腹の底に収めたのだろう。

 

「あなたは思うとおりに動いてくれるだけで十分。結局はあなたの想いが、幾人もの人を救うはずだから」

 

「俺の思った通りにか? 実際のところ、まだ何も考えちゃいないし、思ってもいないんだが。それに俺は、和也と違って鬼神に立ち向かえるだけの力を何も持っていない。正直なところ、意思を持って鬼神に近づくことさえ不可能だ」

 

 そういえば水月が鬼神を追う理由を、ぼくは聞いていない。

 みんなの為、大儀の為などという思想はおおよそ持ち合わせていないだろうから、これほどまでに鬼神に執着する理由が返って解らない。

 

「鬼神を追い始めた時の感情から、憎しみも悔しさも取り除けばいい。取り除いた後にあなたの中に残った感情が、これからあなたが取るべき行動を示してくれるよ」

 

 少年は不思議そうな表情で、目をくるりと丸くして水月を見たが、直ぐにチビに視線を戻すと白い毛が絡みそうなほど、わしゃわしゃと小さな頭を撫で始めた。

 持ち上げられたまま嫌そうに、後ろ足を少年の頬に突っ張っているチビだったが、爪を立てる様子もなく結局はされるがままになっている。

 少年の回答に望む答えを見つけられなかったのか、ぼくを見ながら水月は、お手上げだという風に大げさに肩を竦めて見せた。

 

「以前にね、鬼神の体に傷が付いて、そこから呑み込まれた魂が外に出たことがあるんだ。中に閉じ込められたままの魂達が、脱出を手助けしているように見えた。鬼神の身に傷を付けなければ、呑み込まれた魂は救えないのかな? 覚悟が足りないと言われるかもしれないけれど、少年の姿をした鬼神に傷を付けるために刃物を向ける自信がない」

 

 これがぼくの本音だった。人を切るなんてできる気がしない。けれど彩ちゃんのナイフを受け継いだ以上、それがぼくの役目となるのかもしれないと、心の底で少し怯える自分がいた。

 

「そうだね、一番手っ取り早い方法だね。そして一番難しい方法でもある。だって鬼神と呼ばれる彼は強いから。負の感情を全て力に変えられるもの。でもね、刃物で肌に傷を付ける必要はないよ? それでも構わないけれど、根本的な解決にはならないから」

 

「ならどうしたらいいの?」

 

「それに答えるのは難しいな。答えを見いだすのは君だから。たとえ刃物で切りつけることはしなくても、鬼神の身を裂いて、内に眠る人々の魂を救うのも君。究極のところ、鬼神を救う事ができるのも、君しかいないよ」

 

 鬼神を救うという言葉がまるでぴんとこなかった。鬼神とは打ち倒す存在であって、救うべき対象には考えたことさえない。

 

「鬼神を救う事が、鬼神を刃物で傷つけると変わらない効果を持ち、最終的には鬼神を救う事で他の者達も救えるっていうことなのか? だめだ、俺の頭じゃわかんねえよ」

 

 素直にわからないといえる水月が、今は少しだけ羨ましかった。ぼくだって解らないことだらけなのに、何が解らないのか問いかける糸口さえ見つけられずにいるのだから。

 少年は暗に、答えを自分で探せと言っているのだと思う。

 少年が既に知っている答えを聞いて実行しても、効果のない方法とはどのようなものだろう。

 ぼく自身が答えを見つけて初めて、道が開ける答えなんて、まるで意地悪く隙間を縮められた知恵の輪に取り組んでいる気分だ。

 

「わかったよ。自分なりに答えを探してみる。だから、もう少しだけ時間をちょうだい?」

 

「うん。ありがとう」

 

 少年は嬉しそうに、ほっとしたように微笑んでチビに頬を擦りつける。

 

「ただし、覚悟だけはしておいてね」

 

 チビの毛に顔を埋めながら少年がいう。

 

「覚悟? 鬼神と戦う覚悟のこと?」

 

 少年は顔を埋めたまま首を横にふった。

 

「失う覚悟。導き出された答えの先には、犠牲が伴うんだ。それは誰にも止められない。でもね、犠牲になる人達は、自分が犠牲になったなんて、これっぽっちも思ってはいないから。それぞれが選び取った道なんだ」

 

「和也は、見送る側ってことか」

 

 水月の呟きに、少年は小さく頷く。

 

「誰かを見送るのは辛い。ぼくは人を見送るのが嫌い。知らないうちにこっそり消えてくれたら、後でこっそり泣くだけですむのにね。うまくいかないや」

 

 ミャ

 

 まるで同意するかのようにチビが鳴く。

 

「あれ、そろそろ限界みたい」

 

 少年が見上げたのに倣って辺りの空間に目を向けると、刻一刻と暗くなっていくのがわかった。 青々と芽吹いていた足元の草花が、端からその姿を掻き消していく。

 

「異質な存在に、ぼくを認知してもらうのは大変なんだよ? 今日はもう限界みたい。ちょっと疲れちゃった。でも、チビに会えて嬉しかったな」

 

 チビが小さな舌で、ぺろりと少年の頬を舐める。

 

「ありがとう、元気が湧いてくるよ」

 

 チビの力は、この少年にまで影響を及ぼすのか、それともただの言葉の彩だろうか。

 

「帰る前にこの泉の水をすくって飲んでね。帰り道なら心配ないよ? ちゃんと送り届けるから大丈夫。この泉の水を飲んでくれたら、この場所と気脈が通じるから、今度は苦労しなくてもここに辿り着けるんだ」

 

 辺りはどんどん暗くなっていく。躊躇う様子の水月より先に、膝を付いてぼくは泉の水を手にひら一杯にすくい上げた。

 口を付けて飲み込むと、まるで体温を吸収しない性質であるかのように、冷たい感触がそのまま食堂を流れていくのが感じられた。

 

「しょうがない、飲むか」

 

 仕方なさそうに水月も、泉の水を口に含んだ。

 膝を付いた泉の周りには草一本なく、最初に見た時と同じ、灰色の岩が顔を晒している。

 

「なんだかくらくらする」

 

 膝を付いていることさえできなくなって、ぼくは傾いたままに尻をついて、なんとか片手で体を支えた。

 

「大丈夫心配しないで。目が覚めたときには、山の頂上にある泉の側にいるはずだから。今度来るときは、その泉に飛び込むといいよ。きっと、楽にここまで辿り着けるから」

 

 少年の声が障子の向こう側で、囁かれているように遠くなっていく。

 

「この泉は記憶の泉。余計な副産物を与えてしまうかもしれないけれど、全てを気にする必要なんてないからね? チビのこと連れて行ってね。あの灰色の毛をした猫に、よろしく伝えて」

 

 最後の方は、声も意味も朧気にしか残らなかった。

 水月はどうしているだろう? 暖かな風に包まれた感触に肌が緩む。

 瞼にさえまったく力が入らないから、自分が起きているのか倒れているのかさえ定かではなかった。古いフイルム映画をみるように、カタカタと見覚えのない映像が頭の中を横切っていくが、時折その映像の中にいるような感覚に襲われて、思わず腰がむずりとする。

 数回目の腰の違和感を最後に、視覚だけを残して五感は役目を放棄したらしい。

 まるで虚ろな夢を見ているようだった。

 

 

 女の人に手を引かれた男の子が、道を歩いている。店で買った野菜の会計をするために、ほんの一時女性が手を離した隙に、男の子はとことこと走り出し、脇道へと姿を消した。

 男の子が居なくなったことに気づいた女性が慌てて辺りを見回すと、姿を消した脇道から、男の子が姿を見せた。

 女性はほっとしたように、その子の手を取り家路につく。

 再び手を繋いで振り返った、微笑んだ女性の顔が鮮明に見えた。

 

――母さん?

 

 そして鳥肌さえ立てることのできないぼくは、失った感覚を心から妬ましく思った。

 今だけでもいい、感覚が戻ってくれるなら血が滲むほど肌に爪を立てて、心の混乱を押さえられるのに。

 背格好こそ似ているが、姿を消した少年と脇道から出てきた少年は別人だった。

 顔はよく見えなかったけれど、あの二人は絶対に別人だ。

 着ている服の色がまるで違う。

 なのに母さんは、何の疑問を抱いた様子もなかった。

 

 

 

 ここは何処だろう。

 蛍のようにゆらゆらと、眩しいほどに白く小さな光りが飛んでいる。

 何もない闇の中を、ただゆらゆらと漂う一点の光り。

 目を懲らすと、遠くから近寄ってくる黄色みがかった淡い光りがあった。

 二つの光りはくるくると絡み合い、映像がぐらりと揺れた。

 明るい日の中を、白い小さな子猫が歩いている。

 歩く度に背中の白い毛の中で、きらきらと更に白く輝く物が見え隠れしていた。

 

――チビ?

 

 チビの姿が霧に包まれたように消えていく。

 

 

 

 霧の一部がふわりと晴れた。

 思考に無理矢理押し込まれるような映像に、ぼくは絶句した。

 水月が必死の形相で何かに手を差し伸べている。傷つき血まみれの体は地に横たわったまま、それ以上望む先へ進むことはできそうにもない。

 霧の切れ間の右から、水月が震える手を伸ばす。

 今の出来事ではないのだと頭では解っているのに、傷ついた水月を見て心が震えた。

 霧の隙間から垣間見える向こう側に、左から小さな手が伸ばされた。

 あと少しで必死に差し伸べた水月の手に届くという寸で、引き剥がされるように小さな手は霧の影に消えてしまった。

 霧の隙間が閉じていく。

 最後に見えた水月は泣いていた。

 なぜだろう、胸が締め付けられる。

 

 ぼくの視界が暗転したのは、この胸の痛みのせいだろうか。

 何も見えない。

 胸の痛みが引いていく。

 まるで心が感情を拒絶したかのように、何も感じないまま得体の知れない暗闇に包まれ、ぼくはどこまでも落ちていった。

 

 





皆様にとって、来年が素敵な一年になりますように\(^o^)/
今年全部の感謝を込めて……(`・ω・´)ゞ 礼!


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38 優しい怒りと嘘と 薄れゆく存在と

明けましておめでとうございます。
マイペースに今年もがんばりますので、どうぞよろしくお願いします。


 心に映し出された光景に反して、突然に訪れた目覚めはすっきりしたものだった。

 まるで何時間も深く睡眠をむさぼった後のように、頭の芯が清んでいる。

 今となっては夢なのか幻なのかさえ曖昧な映像を、数度頭を振って意識の外に押しのけた。

 はっとして辺りを見回すと、凪いだ小さな泉に視線を落として、水月はぼんやりと胡座を搔いていたが、表情は明らかな戸惑いを浮かべ、一人溜息を漏らす様子からしても、ぼくが目覚めたことにまだ気づいてさえいないのだろう。

 

「水月さん、大丈夫?」

 

 こちらに顔を向けた水月は、おう、といっていつものように目尻に深く皺を刻んで微笑んだが、直ぐに視線を水面へと落としてしまう。

 

「あの子は記憶の泉っていっていたよね。水月さんも、目覚める前に何か見えた? まさか、また自分の小屋が見えたとかいわないでよ?」

 

 こういう時に、気の利いた冗談のひとつも言える大人になりたいが、今は無理。

 

「無理するな。和也も何か見たんだろう?」

 

 大人に成り切れていないことを、ぼおっとしたオッサンに見透かされるのは居たたまれなかったが、返す言葉もなくて一つ静かに頷いた。

 

「二つの光りが出会ったところを見たよ。ひとつはチビで、もう一つは少年だと思う。チビは子猫の姿になっていたから間違いないと思うけれど、少年の方はぼくの予想。チビの背に毛に埋もれてきらきら光っていた、小さな光りの粒のままだったから」

 

「それは俺も見た。あれは少年だと俺も思ったよ。正体はわからんが、本当に姿形さえ持たない、ただの存在であったのだろうな」

 

 ぼく達の知らない存在。もしかしたら少年の存在に名を付ける言葉さえ、人は持ち得ていないのだろう。それは、人ならざる物もまた同じ。

 

「記憶の泉って呼び名は、どうやら伊達ではなさそうだ。和也が見たのは一つだけか?」

 

 顔を合わせることなく聞く水月の言葉に、ぼくは一瞬返答を躊躇した。

 傷ついた水月、伸ばされた小さな手。

 泣いていた水月。

 あまりにも身近な人の過去を垣間見た事実は何とも言えず気まずいもので、個室をのぞき見したような罪悪感にぼくは勢いよく首を横に振る。

 

「水月さんは?」

 

「俺はもう一つの映像を見たが、何ていうか……」

 

「なに?」

 

 首筋に手を当てて、へへへっと水月は誤魔化すようににやりと笑う。

 

「目が覚めたらぼやけちまった。水面を見ながら思い出そうとしても、その先が浮かんでこない。何を見たのかさっぱり、思い出せないんだ」

 

 年だなこりゃ、といって水月が笑う。

 年だね、といってぼくも笑ったが、水月は嘘を吐いている。

 おそらくは自分でも口にした言葉の微妙な齟齬に、気付いてはいないだろう。

 水月は、何を見たのかさっぱり思い出せないといったが、それと同時にその先が浮かんでこないといったのだから。

 呆けたように水面の見入っていたのは、寝起きに忘れてしまった見たはずの夢を思い浮かべていたわけではないだろう。水面に求めていたのは、確かに覚えている映像の続き。おそらく目にした光景は、水月の心を引き摺り込むほどの物であったはずなのに、それを水月はぼくに隠した。

 理由はわからないし、ぼくに水月を責める資格などありはしない。ぼくだって、単純な水月の問いに、首を横に振るだけで済ませたのだから。

 

「少年がいった通り、ここは山頂だね。泉は小さすぎて、五右衛門風呂サイズの湧き水って感じだね。次は本当にここから少年のところに行けるのかな?」

 

「この泉の脇で眠っていたってことは、向こうに行けるって話も本当だろうよ」

 

「年長者が肯定してくれると実に心強い。ってことで、今度ここに来たときには、水月さんが先に飛び込むってことでいいよね? 年上ファースト」

 

 おっさんに無理させんじゃねぇよ、笑いながら山を下る水月の後をおって、ぼくもゆっくり歩き出す。

 

 ミャ

 

 何処に身を潜めていたのか、何事も無かったかのようにチビが欠伸をしながら後ろを歩いていた。

 

「相変わらず、マイペースだねぇ」

 

 少し呆れ気味にチビに声をかけ、ぼくは歩く速度を早めた。

 さほど高い山ではないから、直ぐに麓に辿りつくだろうが、響子達はまだ自分達を捜しているのだろうか。この山へ一度も辿り着けなかった響子さんが、この辺りへ足を伸ばしてくるとは思えないが、今回のことをいったいどうやって説明したらよいのだろう。

 心配が安心へ変わった直後の響子の怒り沸騰を予想して、ぼくは幾度も引き摺られた事のある耳に思わず手をやった。

 

 ミャ

 

 ちらりとぼくを見たかと思うと、くるりと白い毛玉になって器用に木々の隙間をものすごいスピードで下っていく。

 

「あいつめ、今回の事に自分は関わりありません、て面で押し通すつもりだな」

 

 転がる毛玉見送って、水月が肩で息を吐く。

 

「どうして?」

 

「そりゃ和也、響子の怒りの矛先を全面的にこっちへ向けるために決まっているだろう? チビのくせに油断も隙もありゃしないな」

 

 できることならぼくだって水月に全てを任せて逃げ帰りたいが、まさかそうもいかないだろう。

 ぼくはあることを思いついて、ひとりにやりとした。

 

「大丈夫だよ水月さん。世の中はちゃんと平等にできているから」

 

「はあ?」

 

「ぼく達は響子さんに叱られる。チビは響子さんの怒りはかわせても、その後にそれ以上の叱責を受けることになるさ」

 

「誰にだよ?」

 

「あの庭の主さ。灰色の毛をした猫のシマは、今ごろ居なくなったチビを心配している筈だから。けっこうなひねくれ者らしいから、つんと澄まして庭を悠然と彷徨いていただろうけれど、チビが帰ったらこってんぱんに叱りつけるさ」

 

「恐いのか?」

 

「いつもはチビを咥えて、庭の隅に姿を消したらしばらく出てこないらしい。チビにとっては、響子さんよりずっと恐ろしいだろうさ」

 

 ぼくが肩眉を上げると、水月は楽しそうに肩を揺らす。

 水月から見えないように、ぼくは張っていた肩の力を抜いて息を吐く。

 無理矢理じゃない水月の笑いが、ぼくをほっとさせた。

 

 心配した闇が降りることもなく、辿り着いた町はいたって普通の営み風景だった。

 ぼくを山へと誘った小さな女の子を捜したが、母親に手を引かれる姿に出会うことはなかった。 

 代わりに出会ったのは、目をまるく見開いて安堵の息を吐く佐吉だった。

 

「あっ、待って!」

 

 ぼくの声を聞くことなく、佐吉は道の先へと駆けていく。同じようにこの町を駆け回ってぼく達を探している仲間に、安否を知らせにいったのだろう。

 

「元気に帰ってきたって、後で伝えてくれるだけで良かったのにな。後で……」

 

 ぽつりと呟くと、しっかり聞こえていたらしい水月が、鼻に皺を寄せて苦笑いを浮かべる。

 

「気の強い女は好きだが、ありゃちょっと強すぎるからなぁ」

 

「水月さんその一言、響子さんにチクってもいい?」

 

「なんでだよ?」

 

「響子さんの怒りの流れを変えられる。ぼくは無罪放免だ」

 

 はぁ? と水月が目をぎょろりと剥く。

 

「絶対だめだ! ひとりで逃げ出したら、こんどあの茶を薬缶から直接口に流し込むぞ?」

 

「すみません」

 

 あっさり負けた。響子さんも恐いが、あのお茶の味の恐怖は、飲んだ者にしか解らない。

 この世に地獄は存在すると思わせる味なのだから。

 へへへっと顔を見合わせて笑っていた、ぼく達の表情が同時に凍り付く。

 

「おまえら、今まで何処を彷徨いてやがった!」

 

 いつの間に近寄っていたのか、二人の頭上に鉈を振り下ろさんばかりの響子さんの怒声が落とされる。

 男が二人、油の切れかけたロボットのように首からギコギコと振り返る様は、傍からみても滑稽だったことだろう。

 何の打ち合わせもしていなかったが、言い訳の代わりに二人一緒ににこりと笑ってみた。

 

「笑うな……よほど死に急ぎたいとみえるな」

 

 響子さんの声のトーンが下がったのを耳にして、ヤバイと思った時には遅かった。

 無精髭を生やしたおっさんと、若輩者がスレンダーな響子さんに息もできない力強さで襟首を鷲づかみにされ、小屋の中に放り出されるまで、物も言えぬまま引き摺られる事となる。

 

 

 煉瓦の小屋の中に勢いよく放り出されたぼくは、三回転ほどして机の脚にぶつかって動きを止めた。水月は壁にぶち当たって、転がったまましきりに肩を擦っている。

 

「さて、ゆっくりと話して貰おうじゃないか」

 

 すっかり目のすわった響子さんをよそに、蓮華さんがにこやかにぼく達を床に座らせてくれた。

 佐吉が呼んだらしく、宗慶も息を切らせて一緒に部屋に飛び込んでくる。

 

「あと少し待ってやれ。雪のことじゃから、佐吉には見つけられんでも、こっちの動きは向こうで勝手に嗅ぎつけておるだろうよ。なあに、すぐにここへやって来る」

 

 皺の間からしょぼしょぼと小さな目を覗かせて、寸楽が楽しそうにくつくつと笑う。

 寸楽が腰をおろすと、まるで申し合わせていたかのように観音開きの戸が押し開かれ、雪が走り込んできた。

 

「ご無事でなによりです」

 

 微塵も息を切らすことなく、雪が静かに頭を下げる。

 

「ご無事もクソもあるもんか。こんなにみんなを走り回らせて、納得のいく話が聞けるんだろうね? まさか顔をつきあわせて、のんびり酒を喰らっていたわけでもないだろうよ」

 

 目を眇める響子さんから顔をそらし、隣に座る水月をこっそりと肘で突く。

 俺かよ、というように口の端を一瞬歪めた水月だったが、諦めたように事の一部始終を話し出す。

 水月が話す間、誰ひとりとして口を挟む者はいなかった。

 

「あたしが内包する糸は、墓標の彼らにも繋がっているのか? いや、それはないか」

 

 全ての話を聞き終えて、響子さんは幾度も首を傾げ独り言のように呟いた。

 

「水月に言ったことがあるが、あの山は見えているだけで辿り着けない場所だった。この町が現れて行動できる範囲が広がってからも一度試したが、どうしたって辿り着くことはできなかった。残欠の小径を囲う結界のようなものかと思っていたが、どうやら違ったようだ。あの山はただそこにあるに過ぎないのだろう。墓標に眠る人々と少年が、おそらくは結界そのもの」

 

 言いたいことは何となく理解できるが、表現があまりに抽象的で、ここへ来て日の浅いぼくには、心底理解したとは言い難かった。

 

「他に言いたいことはないのか、水月?」

 

 無表情のまま響子さんが問いかけたのは、話し終えばかりの水月だったが、水月はほんの少し響子さんの顔をみただけで視線を落とし、何も無いと肩を竦める。

 

「そうか」

 

 響子さんは水月を見つめていた視線を外し、薄い笑顔を浮かべる。

 

「本来ならここで話を煮詰める必要があるのは解っているが、今日はこれで解散にしてくれないか? 慣れない体験が続いて、体力の限界だ。少し休んでからじゃないと、何の妙案も浮かばんよ」

 

 ぼくはじっと水月の横顔に見入ったが、避けるかのように水月は一度もぼくを見ようとはしなかった。体力の限界? 嘘を吐いている。ぼくの横を走っていた水月は、息一つ乱していなかった。

 それにあの泉を通って外へ出て目覚めた後、ぼくは体の疲れがまったくといっていいほど残っていなかったのだから、たとえ疲れ果てていたとしても、同じく泉を抜けた水月の体に今の時点で、肉体的な疲れが残っているなど有り得ない。

 時間が欲しいのは、体力回復の為ではないだろう。

 自分の思考を整理する時間を、ぼくにさえ秘密にしているはずの光景を、心の内で整理する時間を水月は望んでいる、そう思えてならなかった。

 

「ぼく達が姿を消してから、どれくらいの時間が経ったの?」

 

 あの異質な空間と、ここの時間の流れが同じなのかを知りたかった。

 

「時間にするなら、四時間も経ってはいませんよ」

 

 蓮華さんがふわりとした笑顔で答えてくれる。心配したのだと口にせずに微笑むことができることこそが、蓮華さんの強さなのだろう。

 

「本当に心配させてごめんね。とっさのことで頭より体が先に動いちゃった」

 

 ぼくはみんなに頭を下げる。便乗して、水月も僅かに頭を下げた。

 

「みんなもぼく達を探して疲れているだろう? ぼくもへとへとなんだ。水月さんが言うとおり、一度解散して、それぞれの考えを持ち寄ろうよ」

 

 ぼくの提案に、部屋の全員が頷いた。水月がちらりとぼくを見た気配がしたが、あえてぼくはそれを無視した。

 

「ぼくは一旦、店に戻るよ。チビ、一緒においで。大好きなあの庭に帰るだろう?」

 

 ミャ

 

 部屋の隅でみんなの話を他人事のように聞き流して、のんびり昼寝をしていたチビがむっくりと起き上がる。

 

「日取りはまた連絡するよ」

 

 響子さんが言う。

 

「わかった。それじゃ、お先に」

 

 チビを連れて小屋をでた。

 時間が欲しいのは、水月よりむしろぼくかもしれなかった。

 傷ついた水月の苦しそうな表情が、涙が頭を離れない。

 水月が語ろうとしない事には、どんな真実が隠されているのだろうか。

 物思いに耽りながら木々に囲まれた道を歩いていると、歩みの遅さに痺れを切らしたのか、チビがくるりと丸まって転がりだした。

 

「チビ、ちゃんとシマに謝れよ。心配していただろうから、めっちゃくちゃ叱られるよ!」

 

 ぼくが叫ぶと、勢いよく転がりかけていたチビの動きがぴたりと止まる。

 ぽんと子猫の姿に戻り、ぼくが追いつくと短い足でぴったりと寄り添って歩き始めた。

 

「なんだよチビ、やっぱりシマに叱られるのは恐いのか?」

 

 澄まし顔のチビににやりと笑って見せると、ぴょんと飛び上がったチビは、器用に腕を這い上がりちゃっかりぼくの肩に陣取った。

 

 ミャ

 

「悪いけれど、ぼくじゃシマからチビを守りきれやしないって」

 

 肩の上で脱力するチビが可笑しくて、ぼくはくすりと笑う。

 店を出てから、まだ丸一日も経ってはいない。束の間とはいえ、いつも通りの日常が待っているのだから、大切にしよう。

 木々に囲まれた道の向こうに、見慣れた屋敷の障子が見えてきた。

 いつものように廊下の壁に背を凭れ、足を横に崩して庭を眺めていたカナさんが、頬にかかった髪を指で払ってにこりと微笑む。

 

「ただいま帰りました」

 

 チビを肩に乗せたまま、カナさんの元へ行こうと庭を歩いていると、肩の上でチビがぴくりと跳ねた。

 

 ミャー

 

 聞こえてきたのは、いつもより低く潰したようなシマの鳴き声。

 立ち止まって下を見ると、シマがこちらを見ることさえせずに背筋をぴんと張って立っていた。

 

 ミャ

 

 諦めたように小さく鳴いて、チビが肩から飛び降りる。

 灰色の毛のシマが、無言のまま小さなチビの首根っこを咥えて庭の隅へと歩いて行く。

 咥えられたまま大人しく揺れている、チビの姿が見えなくなるまで見送って、ぼくは笑いながらカナさんの側に腰を下ろした。

 

「ほんの少し前、雪という娘が響子に頼まれたからといって、事の成り行きを知らせてくれました。ご無事で何よりですが、あまり無理をされると、響子が憤死してしまいますよ?」

 

 口元を着物の袖で押さえながら、カナさんがくすりと笑う。

 

「今回は水月さんと一緒に引き摺られました。以後は十分気をつけます」

 

「そちらは無事に戻られたが、はてさて、チビは元気にこの庭に戻ってくることができるのかねぇ。庭を横切った回数が、シマの心配と怒りが尋常では無いことを示しておりましたから」

 

 カナさんの言葉にぼく笑った。少年はシマに叱られることさえチビは楽しそうだったといっていたが、今回は楽しいと思える程度で済むのかどうか。

 大人しく叱られているチビを思い浮かべると、自然と笑いがこみ上げる。

 

「ぼくは店の方に戻ります」

 

 居間へと繋がる格子戸に手をかけて、ぼくはふっと立ち止まる。

 

「ねえカナさん。信用できる人間が嘘を吐くときは、いったいどんな時なのかな?」

 

 答えなど特に求めてはいなかった。誰かに、心のもやもやの一部を吐き出したかっただけ。

 

「大切な相手に嘘を吐く理由は、ただひとつにございます。相手を思いやって吐く嘘でございましょうよ」

 

 鳩尾を、ぎゅっと押されたような痛みが走る。

 

「ありがとう」

 

 ぼくは居間に入ると、後ろ手に格子戸の障子を閉めた。

 カナさんの答えが、頭の中でくるくるとまわる。

 本棚の隙間をぴたりと閉じて、ぼくは肩で大きく息を吐く。

 

「誰?」

 

 背後から急にかけられた声にびくりとしたが、声の主は彩ちゃんだ。

 ほっとして振り返り笑顔を向けたぼくは、その表情のまま固まった。

 部屋は十分に明るいし、水の入ったコップを手にした彩ちゃんの体調が良いことは顔色を見ただけでわかる。

 だというのに。

 

「きみは、誰なの?」

 

 彩ちゃんは、重ねてぼくに凍り付くような言葉を投げかけた。

 

 

 




年明け早々ですが、読んで下さった皆様、ありがとうございます! 
のんびりまったり人間の書いているお話ですが、今年も続きを読んでいただけますように……祈りm(_ _)m
では!


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39 消えゆくまでの数日を

 目をまんまるく見開いて、僅かに眉根を寄せる彩ちゃんと、どれくらいの時間顔を見合わせていただろう。

 

「彩ちゃん、ぼくだよ? 和也だよ?」

 

 乾いて張り付いた喉を押し開け、無理矢理出した声は自分でも驚くほど細く弱い。

 彩ちゃんの眉毛が、はっしたように引き上げられる。

 そして口元に手を当てると、体を半分に折って笑い出した。

 

「やだもう、和也君じゃない。蛍光灯がちらついているのが悪いよね、和也君の顔が、一瞬知らない人に見えちゃった。ぼろ蛍光灯の点滅マジックだね」

 

 彩ちゃんの口から自分の名が呼ばれて、ほっと肩の力抜けた。

 天井ではしばらく変えていなかった蛍光灯が一本、チカチカと点滅をくり返している。

 

「タザさんに、新しい蛍光灯をもらってくるね」

 

 軽くウインクしてキャミの肩紐を弾き駆け出す彩ちゃんは、元気だった頃そのもので、さっきまで布団の上で体を起こすだけだったとはとても思えなかった。

 若さ故の回復力、なんて常識的な範疇からは明らかに逸脱している。

 

「蛍光灯のせいなんかじゃない。彩ちゃんは、ぼくのことを認識できなかったんだ」

 

 胸の中の言葉が、ぽつりと漏れた。

 覚悟はしていたが、あまりにも早すぎやしないだろうか。

 これじゃまるで、ぼくの存在が彩ちゃんの中から薄れていくのと引き替えに、彩ちゃんが元気を取り戻しているようにさえ見える。

 ははっと小さく笑いを零す。

 

「もうちょっと、時間があると思っていたのにな」

 

 戻って来る彩ちゃんを待たずに、ぼくは自分の部屋へとあがった。

 敷きっぱなしの布団の上に、大の字に転がって天井を眺める。こんな時はいっそのこと眠ってしまいのに、あの泉がもたらした回復力のおかげで眠気はいっこうに訪れない。

 布団にぼくを張り付けているのは、肉体的な疲労ではなく精神的な脱力。

 まだ先だと思っていたのに、自分の居場所が直ぐにも奪われようとしている寂しさと無力感。

 

「やっと見つけた居場所だったのに。まるで自分の家ができたみたいだなんて、調子に乗ったことを思っていたから、バチが当たったかな? 分をわきまえろってことかよ」

 

 がらがらと焦げ茶色の戸が引き上げられ、静かに頭を下げた野坊主が姿を見せた。

 いつもならきちんと座って相対するのに、今はそんな気力さえ湧かなくて、ぼくは首だけを横に傾げてうっすらと笑って見せる。

 

「そのご様子では、とうとうはじまりましたかな?」

 

 野坊主の眉間に深く皺が刻まれる。

 

「とうとうというより、早すぎます。この間の今日ですよ? 覚悟しようと心に思い留めるのと、覚悟して腹を据えるのでは訳が違います。ひっそりと胸の中に抱いていた中途半端な覚悟が、ぐらぐらにぼくを揺さぶっている結果が、このだらしない有様です」

 

 ぼくは野坊主から顔を背けて天井を見た。

 黒い泡茶だといって炭酸ジュースを飲ませたときの、野坊主の何とも言えない表情を思い出して、ぼくはくすりと笑う。

 

「そうやってまだ笑っておられるではないか。笑えるなら、まだ心が生きている証拠であろう? それにここで潰れる程度の男なら、わたしは和也殿を生かしてはおらぬよ。とっくにこの手で息の根を止めていたであろう」

 

「ぼくを殺したかもしれない依頼をしたのは誰?」

 

 まさか答えが返ってくるとは思わなかった。

 

「みながシゲ爺と呼んでいる者から」

 

 思わず首をもたげて野坊主をまじまじと見た。

 

「どうしてシゲ爺が?」

 

「あの者は彩を守るために和也殿を求めたが、そなたは信用をおく以上に不確定な存在であった。だから己の目に狂いがあったときには、罪を背負うを覚悟の上で消して欲しいと願った」

 

 誰だろうと考えたことはあったが、シゲ爺の顔を思い浮かべたことなど一度もなかった。

 

「あの者は彩のため。わたしは、カナを守るためにその依頼を受けた。互いに守ろうとする者を脅かす可能性を秘めた人物が同じなのだから、ここに居座る代わりに同意したまでのこと。そして同じ人物に、希望を見いだしてもいた」

 

 そうか野坊主は、カナさんを守りたかったのか。

 野坊主の言葉に嘘はないだろう。 なぜならカナさんと野坊主からは、同じ時代の匂いがしたから。同じ時の中を流れてきた、重なる背景が気配で伝わる。

 表現しづらい感覚は、ぼくが水月に感じる類のものと似ていた。

 体に力が入らない。

 脱力感だけが増していく。

 

「野坊主さん、このまま寝転がっていてもいいかな?」

 

 失礼を承知でいうと、野坊主は微笑みを浮かべて頷いた。

 

「残欠の小径に入った後でも、カナの居るあの庭は異質だとは感じなかったか?」

 

 問われてぼくは、日が昇ることも暮れる事もないあの庭を思い浮かべる。廊下の壁に凭れてゆっくりと庭を眺め、ゆったりとした微笑みを浮かべるカナさんと、残欠の小径に生きる響子さんや蓮華さんとの差は何だろうと思った。

 あぁ、そうか。

 響子さんも蓮華さんも今に奔走している。でもカナさんは、他人への心配に眉を寄せることはあっても、己のために感情を露わにしたことがない。

 カナさんの中で、あの庭に居る必要性は既になくなっているのか?

 己の目的は、既に果たし終えているからこそ、どのような事態にも微笑んで居られる。

 余裕がある。

 

「気付いたか? カナはある望みのために、あの庭に留まることを決めた女だ。そして己の望みは既に果たしている。あの庭に縛り付ける理は何もないというのに、カナはあの庭に今も居続ける」

 

「どうして?」

 

「わたしの為だよ。最初に交わした約束を果たして、腐りきったわたしの魂を自由にしようと、あの場で最後の客が来るのを待っている」

 

「最後の客……ですか?」

 

 野坊主は目を閉じて頷いた。

 

「和也殿が深く知る必要の無い、古き時代のことなのだよ。カナの命を奪ったのは、このわたしだから。だがひとつだけ心に留めておかれよ。最後の客が訪れたなら、カナはあの庭を離れるであろう。その時には、こちらの世界と残欠の小径を繋ぐ道が閉ざされる。残欠の小径に身を置く間にカナが去ったなら、和也殿は二度とこちらの世界へは戻れぬよ」

 

 思わずぼくは身を起す。

 野坊主がカナさんの命を奪ったという言葉と同じくらい、後に続いた話がぼくの心を大きく揺さぶった。

 この店はいつか出なければ行けないのだと、彩ちゃんの記憶から完全にぼくの存在が抜け落ちてしまう前に、姿を消さなければならないとわかっていた。

 けれどこの世界に居られなくなるなんて、考えたことさえない。

 この店から離れて、またひとりになるのは我慢できる。彩ちゃん達がこの店で楽しそうに日常を送っていると、離れた場所でこの店の方角を見つめながら思うだけで良かった。

 

「ぼくはあっちの世界のどこかで産まれたらしいけれど、居場所なんてない。鬼神を倒せたとして、あの町は消えるだろう? 残欠の小径は? 鬼神を倒したら、水月さんは自分のいるべき場所へ帰っていくと思う。響子さんは蓮華さんを自由にするといっていた。響子さんだって、役目を終えたらどうするつもりか……。ぼくは、どこにも居てはいけないの?」

 

 狼狽えた視線を押さえ込むように、野坊主は僅かに身を乗り出しぼくの目を覗き込む。

 

「居場所も人も、自ら引き寄せるもの。和也殿が失うかもしれないと、失ったと思い込んでいるであろう事のほとんどは、まだ失ってなどおらぬのだよ。その心が手放せば、人も場所も離れていく。心が手放せば現実は、手放した心に従って喜んで、大切なもの全てを和也殿から遠ざけるであろうな」

 

「難しすぎて、良くわからないよ」

 

 野坊主がくつくつと笑う。

 

「人の心とは、時に岩をも動かすことがあるのだよ。この似非坊主の言葉、胸の隅に留めておきなされ」

 

 がらがらと音を立てて、焦げ茶色の戸が閉まっていく。

 どさりと布団に身を投げだして、胸に詰まっていた空気を一気に吐き出す。

 真新しい空気が、否応なしに胸の中に吸い込まれていく。

 

「野坊主さんは似非坊主なんかじゃないよ。少なくとも、ぼくにとってはね」

 

 目を閉じても、心臓の高鳴りはおさまらない。

 彩ちゃんは、まだぼくのことを覚えている。下に行ってみようか、そう思った。

 戻れなくなってから、会えた時間を無駄にしたと後悔したくなかった。それに野坊主がいった言葉を理解するには、脳みそが少しだけ足りないらしい。

 だったら、今できることをしよう。

 

「和也!」

 

 居間から呼んでいるタザさんの声にふと我に返る。慌てて床板を開けると、タザさんが呆れ顔で見上げていた。

 

「なにのんびり寝てんだ?」

 

 梯子で下におりると、何度も呼んだのに返事がなかったとタザさんは鼻に皺を寄せる。

 

「ごめん、ちょっと横になったら眠っちゃった。ところで何か用?」

 

 少し困ったようにタザさんは、首にかけていたタオルで汗も浮いていない額を拭う。

 

「その、彩が和也と会ってびっくりしたっていっていたから。一瞬だけ、知らない人に見えたそうだ。まさか、おまえのことを忘れかけているのか? 俺も、同じように和也を忘れていくのか?」

 

 語尾がどんどん細くなっていくなんて、ぜんぜんタザさんらしくない。

 

「さあね。ぼくにもわからないや。でも大丈夫。タザさんや彩ちゃんが忘れちゃっても、ぼくはちゃんと覚えているから。ぼくが忘れない限り、ちゃんと此処にいたって思い出は残る」

 

 無理矢理、にっと笑って見せる。

 呆れたようにタザさんは、ぼくの頭をぐりぐりと撫で回す。

 

「忘れねえよ。表向きは忘れちまっても、心の根っこは覚えているさ」

 

「タザさん?」

 

「もう一度出会ったら、また世話してやるっていってんだよ。全部忘れてたって、こんなもやしみたいなガキを見かけたら、世話を焼かずにはいられんだろ? 俺は厳ついお人好しなんだ」

 

 照れ隠しなのかバシリ、とえらく強い力でぼくの後頭部を叩いて、タザさんは作業場に行ってしまった。

 

「もう一度、会えたらいいな」

 

 荷物だけは纏めておこうと思った。

 限界が来る前にここを去るなら、勢いで走り去らないと、あと一日だけという希望を捨てる自信がない。

 

「和也君! お店開ける前に食材を買い出しにいってくれる?」

 

 店の厨房からひょこりと顔を覗かせて彩ちゃんが手を振る。

 

「いいよ。えっ、まさか彩ちゃん、今日から店にでるつもりなの?」

 

「うん! もうすっかり元気っていうより、力が有り余ってる感じだもん」

 

 眉をぐっと寄せながら小さな力こぶをつくってみせる、彩ちゃんの姿に思わず笑った。

 

「願っていたものが、ひとつ取り戻せたってことだよな」

 

「何かいった?」

 

「なんでもないよ。彩ちゃん、米はタザさんに頼んでよね。二十キロ分持って歩くとか、確実にぼく、道ばたで野垂れ死ぬし」

 

 はいはい、と彩ちゃんはひらひらと手を振る。

 

「行ってきます!」

 

「いってらっしゃい!」

 

 人を送り出す温かい言葉を、後何回聞けるだろう。

 少しだけ奥歯を噛みしめて、ぼくは商店街に走り出た。

 みんなが見慣れた、アルバイトの兄ちゃんは、もう少しだけここいる。

 おそらくタザさんの予感は当たっている。彩ちゃんだけじゃなく、この世界からぼくの存在は消えるだろう。

 消えゆくまでの数日を、日常を胸に刻もう。

 動くアルバムのように、この町並みを人を瞼に焼き付けようと思った。

 

 




覗きに来てくださった皆様、ありがとうございました!


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40 最後の日は、格子戸の向こう側

 買い物は地獄だった。

 空元気を振り絞って店を飛び出したぼくは、彩ちゃんが渡した買い物メモを商店街のど真ん中で広げてあんぐりと口を開くことになる。

 

「米の方がましかも……」

 

 タザさーん、と道の真ん中で叫ぶぼくの背中を、あまり言葉を交わしたことのない近所のお婆ちゃんが笑顔でとんとん、と叩いていく。

 まるで泣き止まない園児を宥めるような仕草に、口を噤んで頭を下げ、ばつの悪さにそそくさと手近な店に飛び込んだ。

 飛び込んだのは八百屋だったが、深く考えない自分のアホさ加減を、死ぬほど後悔したのは、レジを終えた後だった。

 

「ありがとねー」

 

 大量購入に上機嫌の親爺の声を背に、ぼくは店を後にする。

 

「これ持ったまま肉屋に寄って、魚屋に寄って、スーパーで日用雑貨?」

 

 一番量が多くて重たい順に、店をまわった自分を呪い殺したくなる。

 すでに両手には、ぱんぱんに膨らんだ巨大なレジ袋が三つ。

 再度叫びそうになるタザさんコールを必死に呑み込み、男の意地で商店街を突き進む。

 

「アルバイトの兄ちゃん、お使いかい? 偉いねえ」

 

 すれ違った葉山のおばちゃんが、すでに底が抜けそうに重いレジ袋の中に、お駄賃と言わんばかりに野菜ジュースの缶をねじ込んだ。

 

「葉山のおばちゃんありがとう!」

 

 両手に荷物では飲むこともできず、単純に荷物が増えただけだが、それでも何気ない商店街の人々と交わす言葉が嬉しかった。

 俺も忘れるのか? といったタザさんの言葉を思い返す。

 常連客達がぼくのことを忘れないとは言い切れない。これは予感でしかないが、おそらく彩ちゃんと時間の差を持たずに、ぼくはこの商店街から忘れ去られるような気がしていた。

 そうならなければ、彩ちゃんと周囲にずれが生じるだろう。ずれは彩ちゃんの心を揺さぶり、かき乱す。そんなことは絶対に避けたい。

 他者の心に眠る思い出と引き替えでも構わないから、彩ちゃんには普通に暮らして欲しかった。

 この願いが叶うなら、ぼくは奥歯を噛みしめながらでも、笑ってこの町を去れる気がした。

 

 

 買い物を終えて店のドアの前で会ったのは、三十キロ分の米を涼しげに肩に乗せて歩くタザさんだった。ぱんぱんに膨らんだ六個の買い物袋を両手に提げて、散歩後の犬のように息を荒げたぼくを見て、タザさんが声を上げて笑う。

 

「ヘタレが! 買い物袋は指に食い込むから俺は嫌いだ。米なら肩にちょいと乗っけりゃ済むから楽なのに、自分から苦労を背負ってでるとはな」

 

 すましてドアを開けるタザさんに、ぼくは背後から舌を出す。

 指は確かに鬱血して紫になりかかってはいるが、このぼくに三十キロを片方の肩に担げる力などあるわけがない。ないのを解っていて、タザさんはからかっているのだから意地悪だ。

 

「お帰り! お疲れ様、冷えた麦茶飲んでね」

 

 彩ちゃんの出迎えの声に、ぼくは皺の寄っていた表情をぴんと伸ばし、まったく平気だという風を装って、荷物をどさりと床に置いた。

 

「これくらいでへたっていたんじゃ、将来結婚式で嫁さんを抱き上げて尻餅をついちまうぞ?」

 

 タザさんがにやりと囁いた。

 

「それまでには力付けてるって……」

 

 最後まで聞かずに作業場に戻っていくタザさんの背を目で追いながら、ぼくは言葉を呑み込んだ。

 そんな日など、来るはずがない。

 そんな幸せな日常は、決して訪れない。

 自分の居場所さえ失おうとしている男が、誰かの居場所になれることなど、決してないのだから。

 

「和也君、急ピッチで準備するからね! あと三十分で開店だよ」

 

「はいはい、アルバイトの兄ちゃんにお任せを」

 

 モップを持って店の中を走り回る。

 今日はどんなお客さんが来るか知らないが、沢山来てくれるといいなと思う。

 彩ちゃんが厨房に立つということは、ぼくの裏メニューは完全封印。目がまわるほど忙しかったけれど、常連客が口に含んだ料理に顔を顰めるのを、もう一度眺めながら仕事がしたかったなんて、そう思えるのはやっぱり、この場所にいる間の自分が幸せだった証拠だろう。

 

「おーい和也! ちょっとこっちも手伝ってくれ」

 

 作業場からタザさんの声が飛ぶ。

 彩ちゃんが頷くのを見て、ぼくは作業場に走り込んだ。

 

「細くて揺れるんだよ。そっち端を押さえててくれ」

 

 長い棒の端を押さえると、タザさんは細い棒に等間隔で数個の穴を開け始める。

 

「何を作っているの?」

 

「何だろうな? とにかくいわれた通りの物を作ってるだけだ。葉山のおばはんの注文だから、さっぱりわからんよ。横にぼっこを通してくれって言っていたから、野菜でもぶら下げて干すんじゃねえか?」

 

 そんな適当な把握で商品を作れるタザさんはすごい。

 いくら葉山のおばちゃんの依頼だからって、少し手を抜き過ぎじゃないだろうか。

 

「いらっしゃい!」

 

 店の方から、客を迎える彩ちゃんの明るい声が響く。

 

「おう、もういいぞ。彩の方を手伝ってやんな」

 

 頷いてぼくは店へと戻る。

 

「いらっしゃいませ!」

 

 数人の常連客が、久しぶりに見る彩ちゃんの顔に満面の笑みで手を振っている。

 

「アルバイトの兄ちゃん! 熱くないコーヒー頼むわ」

 

「はい、ただいま!」

 

 どんな注文でも答えてみせるさ。

 アルバイトの兄ちゃんの、忙しい一日の始まりだった。

 眠れば目が覚めて再びくり返されるありふれた日常ではなく、ぼくにとっては終着点の見えた最後の疾走。

 日常という夢を切り取った、こっそりと胸に納めるべき緩やかな時間。

 

 

 最後の客が店を出て、初日で疲れたであろう彩ちゃんを先に休ませる。

 泡だらけの皿を水で濯ごうとしたとき、がしゃりと音を立てて手から滑り落ちた皿が、流し台の中で盛大な音を立てた。

 どこも割れた様子のない厚手の皿を持ち上げると、下から真っ二つに割れたカップが出てきた。

 

「おまえまでリタイヤか?」

 

 割れていたのは休憩時間にいつもコーヒーを飲んでいた、ぼくの愛用のマグカップ。

 欠片を新聞紙にくるんで、ゴミ箱の底にそっと押し込む。

 失うであろう多くのものをぼくの中で弔うように、カップの割れた音がいつまでも耳の奥で木霊し続けた。

 

 

 店の後始末を終えたぼくは、いつのまにかタザさんが作っておいてくれた煮物を食べて、早めに二階へと上がった。タザさんと酒でも飲みたかったが、頼まれていた商品を届けに行ったきり、葉山のおばちゃんに捕まったらしく戻って来る様子がない。

 だらだらと荷物を纏めてみたが、ここへ来たときよりむしろ減っていて、スポーツバックの上部にはまだかなりの余裕が残る。その一番てっぺんにシゲ爺が書いてくれた推薦状を収めて、古びてすっかり滑りの悪くなったチャックを閉める。

 部屋の隅に荷物を置いて、すっかり見慣れた街灯の灯る商店街を眺めた。 

 夕食前に急いで買い物に走る主婦、仕事帰りの人達。その中には、今日は店で会えなかった常連客の姿がちらほら混ざる。

 黙ってぼくはカーテンを閉じた。

 

「水でも飲んで、早めに寝よう」

 

 床板を開けて、居間へと下りる。

 疲れて眠ったのか彩ちゃんは部屋に戻ったきり姿を見せないし、飲み相手は葉山のおばちゃんに取られてしまったとなっては、寝るしかないだろう。

 日が落ちてからひとりで目を覚ましていても、今は碌でもないことしか頭の中に湧いてこない。

 水を汲もうと、厨房の入り口でスリッパに片足を突っ込む。

 

 パリン

 

 目の前でガラスが砕けたような音がして、ぼくは身を固まらせた。

 明かりの灯されていない厨房の中、入り口のドアと窓から差し込む街灯が逆行となって人影を映し出す。

 

「彩ちゃん?」

 

 ぼくの声に人影は一歩、また一歩と後退る。

 

「誰なの?」

 

 押さえた彩ちゃんの声には、明らかな動揺の色が浮かぶ。

 壁に手を伸ばして、ぼくは厨房の明かりを点けた。チカチカと点滅をくり返してから、蛍光灯が室内を明るく照らし出す。

 

「彩ちゃん? 驚かせてごめん、和也だよ?」

 

 ほんの二、三歩で手が届きそうな場所で僅かに身を仰け反らせ、彩ちゃんが目を見開く。

 淡いモスグリーンのキャミに長いポニーテール。いつもと変わらぬ服装の彩ちゃんの表情に、いつもの笑顔はない。

 目を見開いた表情に張り付いているのは、安心できるはずの家の中で、見知らぬ男とでくわした恐怖の表情。言葉を繋げることができずにぼくが俯きかけた時、店のドアが押し開けられて涼しい夜風が流れ込む。

 

「何やってんだ? 喧嘩かあ?」

 

 袋いっぱいの野菜ジュースを抱えて、入ってきたのはタザさんだった。

 ぼくは縋るようにタザさんに目をやる。

 巫山戯た調子の悪戯っぽい表情を一瞬だけ真顔に戻して、タザさんは笑顔で彩ちゃんの肩に手をかける。

 

「どうした彩? 改めて見たら和也があまりにも、ひょろひょろな優男でどん引きでもしたか?」

 

 タザさんの声に弾かれたように、彩ちゃんが目をぱちくりとさせ軽く頭を振った。

 

「和也君はひょろひょろじゃないよ! 自分がごついからって、威張らないでよね!」

 

 あぁ、まだぼくの存在が完全に消えた訳じゃないのか。

 良かった。ぼくを知っている彩ちゃんに会えた。

 

「ごめんね和也君、やっぱり疲れているのかな? ぼーっとしちゃった」

 

 えへっと笑って、彩ちゃんがキャミの肩紐を弾く。

 

「ゆっくり休みなよ。ぼくも寝るから」

 

 うん、と頷くとひらひらと手を振りながら彩ちゃんは部屋に戻っていく。

 

「またか?」

 

「うん」

 

 彩ちゃん愛用の入浴剤の香りが、ほんのりと辺りに漂う。

 その香りが薄れたとき、心がすとんと落ち着いた。

 心配そうに眉根を寄せるタザさんに、顔を上げて笑って見せる。

 

「タザさん」

 

「ん?」

 

「今日を最後の日にしようと思う」

 

 驚いたようにタザさんの口が開く。

 

「もう決めたんだ」

 

 がっしりとしたタザさんの肩に腕を回し、大きな体を腕に包む。

 

「親方、ありがとう。ぼくはタザさんを忘れない」

 

 何か言いかけたタザさんをそっと制して、ぼくは部屋へ戻った。

 居間に下りたときには、どうかタザさんが姿を消していてくれますようにと、心の中で願う。

 引き上げられる気配のない、焦げ茶色の戸にそっと頭を下げた。カナさんに関わっているのなら、野坊主とは再び顔を合わせることもあるだろう。

 そっと床板を開けて耳を澄ますと、作業場からノコギリで木を切る音が響いていた。鞄を手に居間へと下りて、ぼくはタザさんの居る作業場に深く頭を垂れた。彩ちゃんの部屋からは、小さく音楽が漏れている。見上げた先に彩ちゃんの笑顔を思い浮かべて、ぼくは再び頭を下げる。

 本棚を押し開くと、見慣れた格子戸の障子から薄く明かりが漏れた。

 もう一度だけ振り返って、大切なぼくの居場所だった空間を眺める。

 

「ありがとう」

 

 振り返らずに格子戸を後ろ手に閉めると、胸の奥から自然と溜息が漏れた。

 

「その様子だと、もう戻ることは叶わないようだねぇ」

 

 壁に背を預けて座るカナさんが、ぼくを見上げていた。

 

「はい。この年で家出小僧の真似事です」

 

「響子が呼んでいましたよ。野坊主が捕まらないものだから、なかなか繋ぎが取れなくてねぇ。あの御仁は、どこに雲隠れしたのやら」

 

 口元に笑みを浮かべ、カナさんは静かに目を閉じる。

 

「カナさんは、野坊主さんの為にここに留まっているのだと聞きました。最後に誰かが訪れたなら、あなたはここを去ってしまうと」

 

 うっすらとカナさんが目を開く。

 

「野坊主は私との約定を果たしてくれました。ですからわたしも、古の約定を守るためにここにおります。残欠の小径でのできごとに私は介入できないのが理。私を縛る理の糸は、ほどなく全て解けて消えるでしょう」

 

「その後、カナさんはどうなるのですか?」

 

「わたしには長く待たせているお人がいます。その方の元へ行くこととなりましょう。陽炎とシマも、既に己を見いだし進むべき道を定めておりますから、わたしはこの場から消えるのみでございます」

 

 カナさんの表情に後悔の色は微塵もない。

 どのような生き方をしたなら、この様な潔さを得られるのだろうかと思った。

 

「その人は、カナさんの大切な人なのですね」

 

 着物の袖で口元を押さえ、カナさんがくすりと笑う。

 

「諦めの悪い者がそろいも揃って、長い時の流れの中で絡み合っただけの話でございます。あなた様のお耳汚しをするほどの話ではございません」

 

 ミャ

 

 庭の隅からチビが姿を見せる。背後から守るようについてきたのは、灰色の毛を持つシマだった。

 

「チビ、無事だったか? めっちゃくちゃ叱られたろ?」

 

 ミャ

 

 チビはぷいと顔をそらして、庭の奥へと歩き出す。

 

「その子についてお行きなさい」

 

 カナさんの言葉に頷いてぼくは歩き出す。

 いつもなら白い毛玉となって転がり出すチビが、今日は先々を確かめるようにゆっくりと歩いている。

 

「チビ。そんなにのんびりしていたら、響子さんに怒鳴られやしないか?」

 

 ミャ

 

 庭を抜けた木々の間を通る道で、チビは短い足を止めた。

 目の前に広がる光景に、ぼくは息を呑む。

 両側に真っ直ぐな木立が林となって立ち並んでいた道には、魔女の指のように節くれ立った枝が幾重にも垂れ下がり、風もないというのにゆらりゆらりと枝の先を揺らしていた。

 

 ミャ

 

 強くひと声鳴くと、チビはくるりと丸まって白い毛玉となり、意思を持つ風のように、垂れ下がる枝の間を抜けて転がっていく。

 ぼくは必死にその後を追いかけた。体が通り過ぎる横から枝が鞭のごとくしなって押し寄せる。

 右に左にと転がって枝の向く先を誘導するチビが作ってくれた隙を縫って、ぼくは必死で走った。

 離れていたほんの僅かの間に、残欠の小径に何があったのか、残してきたみんなの顔が脳裏を過ぎる。

 避けきれなかった枝先に打たれて、腕や足に血の線が走る。

 前を行くチビの白い毛先にも、赤いシミが転がりながら輪をつくっている。ぼくの速度に合わせるため、チビは全力を出せずにいるのだろう。その為に、いらぬ傷を負っている。

 

「チビ! 一気に抜けるぞ!」

 

 ミャ

 

 チビの転がる速度が上がって、あっという間に距離をあけられた。

 これでいい。

 このままでは共倒れになるだろう。しなった枝にはじき飛ばされ、ぼくは腹を押さえて地面に転がった。何処から伸びてきたのか、立ち上がる隙さえ与えずに全身に蔦が絡まっていく。

 遠ざかるチビの姿が、蠢く枝に阻まれて見えなくなった。

 

「逃げ切ってくれよ、チビ」

 

 大きく息を吐いて、ぼくは真っ直ぐに顔を上げた。

 打ち付けてぐらつく頭を、傷の痛みが現実へと引き戻す。

 

「ようこそ、生まれ変わった残欠の小径へ」

 

 背後から、下卑た男の声が響いた。

 

 

 

 





 熱くないコーヒー……これはわたしがカフェなどで時たま心の底から望む品。
 たまに熱すぎて、せっかくテーブルに届けられたコーヒーを十分ほど、眺めているしかないことがあるものですから(笑)
 それでは、また読みにきていただけますように。
 では!


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41 無意識に穿つ者

 首を巡らせ背後をみることさえ躊躇わせるほどに、聞き覚えのある男の声からは押さえてもなお殺気が溢れていた。

 殺すな、とでも言われているのだろうか。

 生まれ故郷により近い残欠の小径の空気は、時折ぼくの感覚を鋭敏にする。

 この男から入り交じって発される気は、今すぐナイフを突き立てたい衝動と、それを実行できないジレンマでこれ以上ないほどにストレスを抱えていた。

 

「たった半日でここまで様相を変えるとはね。下手くそな魔法使いが、優雅な庭をつくりそこなったってところかな。鬼神の力も底が知れたな」

 

 明らかな挑発だったが、男は簡単に嵌められてぼくの背中を蔦の上から蹴りつけた。

 

「何も知らないくせに、でかい口を叩くんじゃねぇ!」

 

 詰まった息を咳と共に短く吐き出しながら、ぼくは思考を巡らせる。

 何も知らないくせに、と男はいった。鬼神の力だけがなした結果ではないということだろうか、もしくは鬼神の意思に反して、残欠の小径は動き出したのか。

 いったい誰が?

 

「殺すなとは言われたが、傷つけるなとの命は受けていない」

 

 顎をぐいと持ち上げられ見上げた先には、想像していた男の顔があった。細い眼を残忍に歪ませ、分厚い唇でにたりと歪な笑いを浮かべると、よれたダークグレーの半袖シャツから伸びた腕が高く持ち上げられ、手首から刃の長いナイフがくすんだ光りに包まれて姿を見せた。

 ナイフというよりは、先の尖った鉈に近い鋭利な刃先が鈍く光る。

 最初に挑発を仕掛けたのは早急だったかと、後悔が胸を過ぎった。

 顎をがしりと押さえられ、強制的に上を向かされた顔の上で吹いた風に前髪がさらりと揺れた。

 瞼の上を流れた前髪の隙間から見えたのは、通り過ぎた風の跡。

 風が過ぎた後に残る尾を引くような残像に、ぼくは僅かに口の端を上げた。

 

「戦闘馬鹿だとは思っていたが、ここまで愚かだと笑えるな」

 

 呟くようなぼくの言葉に、男は団子っ鼻に皺を寄せて目を剥く。

 

「半殺しにしたっていいんだぜ」

 

「無理いうなよ。半殺しにしたぼくを抱えて、どうやって鬼神の元へいくつもりだ? 今だけ、ここだけの限定じゃないのか? 鬼神の力が暴走した何かを押さえていられるのは」

 

「はあ? 何をいってやがる?」

 

 そうか、この男は何も気づいていない。言われたことを盲信しているだけの、ただの使いっぱしりということか。

 

「何を? あんたが隙だらけだって教えてやっただけさ」

 

 頭に血の上った蹴りが肩口にはいって、男は両手でナイフを脇の横に構えた。

 ぼくという獲物から、手を離して僅かに距離をとったのが男の不覚。

 男がナイフを押し出す気配に、風を伴ってもう一つの気配が重なる。

 

「ぐえっ!」

 

 胃の内容物を吐き出すような音が、男の口から短く漏れる。拘束していた蔦がばさりと切り落とされ、体が自由を取り戻す。

 

「遅くなりました」

 

 刃物を腰の鞘に収めて片膝を折り、目の前で傅いているのは黒い装束を身に纏った雪だった。

 

「雪さん、ありがとう。実はけっこう危ないところだったんだ」

 

 ありがとうという言葉に、ぴくりと肩を跳ね上げた雪は、ぶんぶんと頭を振る。

 

「この道を抜けたチビが、和也様の不在に気づいてわたしに知らせを。間に合って良かった」

 

 そうか、チビが知らせてくれたのか。深い傷を負っていなければいいけれど、とりあえず無事で良かった。

 

「あの男が気を失っている内に、この道を抜けて響子様の元へ参りましょう」

 

「この男が意識を失っている間は、枝や蔦は襲ってこないの?」

 

 雪は自信なさげにゆっくりと頷く。

 

「絶対という確証はございませんが、鬼神はこの男の意思を利用して、この残欠の小径に何らかの影響を与えているようなのです。本来であればここで切り捨てたいところですが、響子様に固く禁じられておりますので」

 

 一日と経っていないのに、まったく知らない世界に迷い込んだ気分だった。

 

「わたしから離れずに、しっかりつかまっていて下さいね」

 

「うん、わかった」

 

 深くは考えずに雪の手を取った。しっかりつかまれと言われたからに過ぎなかったが、雪は驚いたように振り返り、何か言おうとして諦めたのか、溜息をひとつ吐いて早足で歩き出す。

 しっかりつかまって、といったのは、まさか服を握ってついて来いとでもいうつもりだったのだろうか。人の繋がりになれていない雪が、黒い装束の下で顔を顰めているであろうことを想像して、ぼくはくすりと笑った。

 危険な状況で女の子に手を引かれている自分もどうかと思うが、経験とスキルの違いからして致し方ないだろうと自分を納得させる。

 節くれ立った枝が垂れ下がる異様な光景に変わりはなかったが、襲ってくることはなかった。

 途中で丈の長い草がばさりと割れて、草陰のギョロ目が顔を覗かせたが、神経を集中させて前を行く雪の足を止めることもできなくて、ぼくはその場を後にした。

 

 

「遅かったな。カナに連絡を頼んでからけっこう経つぞ?」

 

 自宅へ繋がる大木の入り口で立っていた響子さんが、腰に手を当て肩眉を上げる。

 

「野坊主さんが捕まらなくて、ぼくに連絡がまわらなかったらしいよ」

 

「和也様、そのお荷物は?」

 

 響子さんの後ろに控えるように立っていた蓮華さんが、あまり膨らんでいないぼくの鞄を指差す。

 

「あぁ、家出……かな?」

 

「はあ?」

 

 蓮華さんの柔らかな口調のはあ? と響子さんの吐き出すように棘のあるはあ? が重なって耳に痛い。

 

「まあいい。雪、面倒な用を頼んで悪かったな。少し休んでくれ」

 

 まるで家来のようにぼくの横で片膝を折る雪は、顔を覆う黒い布を顎の下に下げ、静かに頭を下げる。

 

 ミャ

 

 頭を下げた先に、チビが短い足でちょこちょこと寄って来たのを見て、雪は僅かに顔を仰け反らせる。おそらく瞳は、小さな来訪者に目一杯開かれていることだろう。

 

 ミャ

 

 小さく鳴いて雪の足元にチビが身をすり寄せると、恐る恐るといった感じで、雪の指先が一本チビの白い毛に伸ばされる。白い毛の中に指を埋めて、雪が少し撫でるとチビくるりとその場でまるまった。

 

 ミャ

 

 慌てて指を引っ込めた雪を見て、響子さんが呆れたように息を吐く。

 

「しばらくその白い玉っころを撫でてやれ。今雪が撫でるのを止めて、むくれてミャーミャー鳴かれるとかなわんからな」

 

「はい!」

 

 まるで敵の本拠地に潜入しろと命じられたように、真剣な顔で返事を返した雪は、腫れものに触るかのように、そろりそろりとチビの背を撫でる。

 

 ミャ

 

 気持ちよさそうにチビが鳴くと、雪の口元に微かな笑みが宿った。

 

「和也は中に入れ。他の連中ももう来ている。雪には申し訳ないが、外を見張ってもらおう。チビのご機嫌取りもあるしな」

 

 素直に撫でたいだけ撫でればいいのに、と呟きながら響子さんは地下へと続く階段を下りていく。

 外に残したのはもちろん見張りの意味もあるだろうが、雪が興味を示したチビから引き離さずにいてやりたかったのだろう。

 ぼくを助けた時のように、他の者にはできないことを雪はやり遂げる。自分達以上に命をかける場面が必然多くなる。だからこそ、この緊迫した事態に頭を付き合わせて知恵を絞るのは、自分達の仕事ととして、響子さんは雪をある意味休ませたのだろう。

 

「ここに来る途中で、草陰のギョロ目を見た。言葉を交わす暇はなかったけれどね」

 

「あぁ、わたしが雇った。万が一、和也が死んだら知らせてくれってな」

 

「ひどいなぁ」

 

 肩を揺らして、前を行く響子さんは笑った。

 部屋には関わりを持つ者達が既に顔を揃え、ぼそぼそと話をしていた。

 

「これで全員揃ったな」

 

 ぼくと響子さんを交えて、全員で床に輪を作って座る。

 手にしていたバックを、壁の隅に放り投げみんなの顔を見回した。

 

「この一日の間に何があったのか、簡単に教えてもらえる?」

 

 ぼくの問いに、最初に口を開いたのは佐吉だった。

 

「あんたがあっちの世界に戻ってすぐ、残欠の小径に闇が満ちた。だがあっという間に闇は消えたんだよ。いつものように、町に松明みたいな妙な明かりが灯ることさえなかった。闇が明けて、それぞれの帰路についたときには、すでにこの有様だ。森は姿を変え、町に住む連中は闇が明けてもそのまんま……黒い面が取れないんだ」

 

 黒い面が取れないなら、意識も取り戻せていないということだろうか。

 

「町のみんなは、どうしているの?」

 

「ぼーとしちょるよ。闇が明けても人々は夢の中だ。そんでな、一人また一人と消えとるんよ。わしらの目の前でも、二人ばかり霞のように姿を消しおった」

 

 正座をして背を丸めた寸楽が、皺の隙間から小さく目を覗かせる。

 

「雪さんが助けてくれたとき、ぼくは木の蔦に絡まれていた。チビと駆け抜けていたときも、まるで意思を持ったかのように、長くしなる木の枝が襲ってきたよ。でもね、鬼神の手下であるあの男が姿を見せて、ぴたりと攻撃は止んだんだ。ぼくを縛る蔦意外、異様な形のただの植物だったように思う」

 

「何が言いたい?」

 

 響子さんが小首を傾げてぼくを見る。

 

「鬼神は一定の条件下でなければ、意思を押し通せない状況に追い込まれているんじゃないだろうか。雪さんもいっていた。あの男の意思を、鬼神が利用しているのではないかってね。でもぼくはこう思う。あの男の意思を利用しているというより、あの男は中継所のひとつだ。電波の受信地点のようなものさ」

 

 あまりにもみんながしーんと押し黙ったままなので、話していたぼくは言葉を切って顔を上げた。

 

「和也殿、デンパとかジュシンとやらは、いったいどのような技で?」

 

 申し訳なさそうに宗慶が口を開くと、響子さん意外の全員が頷いた。

 

「えーっと……」

 

 あまりも馴染みすぎて、それぞれが抱える生きてきた時代背景と、知識の差を失念していた。

 

「いいか、中継地点が和也で、これが電波としよう。わたしを鬼神だと思えばいい」

 

 響子さんは立ち上がると、部屋の隅から鞭のようにしなる皮紐を持ち出し、おもむろにぼくの頭に磁器のカップを乗せた。

 

「響子さん?」

 

「大人しくしていろ。カップの代わりに歯が飛んでも知らんぞ?」

 

 もう駄目だ。物騒な予感しかしない。

 

「中継地点となる和也の頭がなければ、カップを乗せる場所がない。だが中継地点があるなら、一定の距離で鬼神の意思は届けられる。この革紐が意思の届く範囲、いわゆる電波だな。それを使って、本来手の届かない場所に影響を及ぼす」

 

 皮の紐が空を斬る音に、ぼくはぎゅっと目を閉じた。

 頭に乗せられたカップがはじけ飛び、床に打ち付けられると盛大な音を立てて粉々に砕けちる。

 

「カップが飛んで砕けた場所までが、鬼神の意思が届く範囲となる。皮紐より遙か遠くまで範囲は伸びる」

 

 ほお、という溜息と共にみんなの首が盾に振られた。

 

「まさか今ので納得したの?」

 

「いや、非常に解りやすかったでござるよ。さすがは響子殿」

 

 宗慶が感心する横で、佐助までもが顎を撫でて何度も頷いている。

 響子さんの実験の被害者への配慮は、これっぽっちもないらしい。諦めて詰まっていた息を吐き出し、ぼくは水月に向き直る。

 

「水月さん、ぼく達があの少年の元へいったのが原因だと思わない?」

 

 水月は目だけでぼくを見て、迷いながらもといった感じで頷いた。

 

「おそらくはな。鬼神が気付いた筈はない。いまの鬼神は、あの場に近寄ることすらできないはずだろう? だったら、誰が動いた?」

 

 ぼくを見ていた水月が、すっと視線をそらす。

 

「水月さん、最近あのお茶を飲んだ?」

 

 突然の的外れな問いに、水月が眉根を寄せる。

 

「いや、こうやって出歩くことが多かったから、二日近く飲んでないな。それがどうかしたか?」

 

 理由はわからない。でもあの泉を通り抜けてから、水月から伝わってくるのは、びりびりと痺れるような後悔と懺悔の感情の波。

 

「この異変の元となるヒビを最初に作ったのは、おそらく水月さんだ」

 

 みんなの顔が、一斉に水月へと向けられる。

 

「俺が? どうして」

 

「水月さんが救いたかったのは、たった一人の人物だろう? それとも救えなかったのか。誰かは知らないよ。でもきっとそうだと思う。あの泉を通って、決して忘れなくとも薄れかけた遠い日の記憶が鮮明に呼び起こされたのでは? その記憶が自分の目的と、ここにいるみんなと成し遂げるべき目的の間で水月さんを裂いたんじゃないかな」

 

「たとえそうでも、たかが記憶で揺らぐほど弱くできちゃいないさ」

 

 水月が片頬を引きつらせて笑う。

 

「記憶はね、痛いんだよ。……痛いんだ」

 

 はっとしたように、水月がぼくを見る。

 代わりにぼくは、視線を自分の膝へと下げた。

 水月に向けた言葉の全てが、木霊となって跳ね返り自分の心を締め上げた。

 




寒いですね、今日も読んで下さってありがとうございます!

ここでお詫びです。
何を考えていたのか、一話と半分くらいの範囲で、水月を無月と書いていた回がありました! びっくりです、たぶんその時私の頭はかなりシェイクされた状態だったのでしょう……反省。
無月……誰?
「はぁっ? 無月? 作者め、またトンチンカンなことして、でも多分これは水月のことだろうな……たぶん」
 読んで下さっていた方の心の中では、きっとこんな独り言が漏れていたのでしょうね。気付かなかった方もいるでしょうね。
 それにしてもいったい何処から無月って……ガーン (_ _;)

追記……他にも沢山あることを教えていただき、直してみました!
    ほとんど、ほとんど直っているかと思います。
    たぶん大丈夫! でもちょっと心配……大丈夫か自分??




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42 意思を持つ武器

「水月、何か見えたのか?」

 

 誰とも視線を合わせることなく響子さんがいうと、水月は呑み込んだ唾に喉を上下させ、それからいつものへらへらとした笑いを浮かべて手を頭に乗せる。

 

「まあな、見たには見たがそれに何の意味があるかと聞かれれば、さっぱりわからん。心の隅に追い遣っていたひどく昔の光景を見た。でもな、知っている光景ばかりじゃなかった。あれが記憶の泉なら、俺が見るはずのない光景まではっきりと浮かんでは消えた。まるでシャボン玉だよ。よく見ようと目を懲らすと、弾けて消えちまう。だから、あの時のことをあれこれ聞かれても、俺自身返答に詰まる」

 

「そうか」

 

 知っている光景がどんなものだったのか、響子さんは尋ねようとしなかった。

 

「他人に答える以前に、俺自身への答えさえ見つかっていない。すまないな」

 

 いつの間にか水月の表情から、へらへらとした笑いは成りを顰め 、代わりに浮かんだのは伏せた睫に映る寂しげな影。見たことのない表情に、ぼくは心臓を抉られる思いだった。

 みんなの前で問いかけるべきでは無かったのかも知れないと、後悔が押し寄せる。

 寂しげな水月の表情は、誰もいない海の真ん中で一人浮いているようにさえ見えたから。

 

「水月さんごめん。余計なことをいったね。ぼくの推測が当たっていたとしても、水月さんは悪くないのに」

 

 気にするな、と水月は目を細めて微笑んだ。

 

 

「とりあえず、みんなで持ち寄った話から導き出した結論を言う。とはいっても、まったく推測の域をでないものだがな。和也と水月が森に入って少年と会い、記憶の泉と呼ばれる場を通ってこちらに戻ってきた。異変が起き始めたのはそれ以降であることは間違いない」

 

「たしかに響子さん達は行けなかったかも知れないけれど、あの場所も少年も今と同じようにあの場で在り続けたはずだろう? ぼく達が訪れたくらいで、いったい何が変わったっていうの?」

 

 ぼくの中でどうしても納得がいかない一点だった。起点となった事柄ははっきりしているのに、何故なったのかという理由に説明がつけられない。

 

「ましてや俺が付いていったのは偶然だしな。まるっきりのおまけだ。チビにも劣る」

 

 肩を竦める水月に、響子さんはゆっくりと首を横に振る。

 

「言っただろう? わたしはあの山に近寄ることさえできなかったと。和也の側にいたから一緒に行けたというのか? そんなことは有り得ないだろうな。それが事実なら、千載一遇のチャンスをなぜ鬼神は逃した? 答えは簡単だ。たとえ和也に付いていっても、少年が望まない限り誰も近寄れはしないからではないかな」

 

 ぼくはここで首を傾げた。つじつまが合うようで、どこかずれている。

 

「まってよ響子さん。ぼく達を少年が望んだというのは妙だ。ぼく達は少年の元へ辿り着くまでに通った通路で、ある意味少年に試されている。少年はぼく達が誰なのか知らなかった。望んで招いた者が、その者を知らないなんて有り得ないよ」

 

 考え込むように眉を顰める響子さんの横で、寸楽がくぇくぇ、と萎びた笑い声を上げる。

 

「年老いた婆の妄想じゃが、その子は確かに招いたんじゃろうよ。だがな、招いた者が招こうとする者の容姿や名まで知っているとは限らん。和也、ちょっと後ろを向いてみい」

 

 訳がわからないまま寸楽に従って、ぼくは腰をずらし後ろを向いた。

 

「この中から一人を呼び寄せてもらおうかの。和也が呼び寄せたいのは女じゃ」

 

「今は別に女性にもてなくていいよ」

 

 くぇくぇ、と寸楽が楽しげに声を上げる。

 

「阿呆が。いいから口に出して、女をここへ、といってみい」

 

「わかったよ。女を、ここへ呼び寄せたい!」

 

 溜息を吐くぼくの背後で、もぞもぞと人が動く気配がする。

 

「おまえさんの後ろに一人立っておる。さあてと、誰じゃろうな」

 

「そんなの解らないよ」

 

「どうして解らぬのかの?」

 

 試すような寸楽の声は楽しそうでさえある。

 

「どうしてって、この中に女性が三人いるのに、その中の誰が立っているかなんて……」

 

 そういうことか。

 

「気づいたかのう? この状態であれば顔を合わす前に、誰が立っているのかと聞くであろう?」

 

 役目を終えたというように、寸楽の笑い声が離れていく。振り返った先に立っていたのは、困ったような表情を浮かべた蓮華さんだった。

 

「少年は確かに必要とする者を呼び寄せようとしたけれど、それはぼくという個人ではなかったということだね。呼び寄せようとした存在に、ぼくや水月さんが当てはまっていただけのこと」

 

 あの少年が、ぼくや水月を必要とする理由がわからない。

 自分が消えるために手伝って欲しいといったが、手を差し伸べる人物がぼくと水月でなければならない理由が、まったく思い当たらなかった。

 

「その部分が核となっているなら、わたし達が直接手を出せることは限られてくるな。呼ばれたのはお前達だ。少年の意思を阻害しないことが、鬼神を倒す早道なのだろうな。言い方を変えれば、少年に望まれたお前達の行動を邪魔するなってことか」

 

「わたし達は、後方支援にまわるということですね」

 

 響子さんの言葉を後押しするように付け加えられた蓮華さんのひと言に、ぼくは首を横に振る。

 

「何か違うとでも言われるのか?」

 

 宗慶が探るようにぼくの顔を見た。

 

「少しだけ合っていて、大分間違っていると思うよ」

 

 響子さんと蓮華さんが顔を見合わせる。

 

「この戦いを受けて立った主役は、もともと少年一人だったのだと思う。だからこそ少年は勝てなかった。守るべき者をこれ以上傷つけないために、姿を隠した。標的がひとつに絞られるとき、鬼神は強いのだと思う。その強さを分散させるには、標的は複数であるべきだろう?」

 

「なるほどな」

 

 合点のいかない表情が並ぶ中、水月がにやりと頷く。

 

「鬼神が襲ってきた男を中継地点としたように、ぼく達はそれぞれがまったく違う能力や経験を持った中継地点だ。しかも鬼神のように、電波を送るやつの命令に従う立ちんぼの電波塔じゃない。意思を持った電波塔だろ? 鬼神に刃向かう力を持った電波塔が多いほど、鬼神はその全てを把握できなくなるんじゃないだろうか。ぼく達に主役なんていらないんだよ。一人一人が、鬼神に対しての動く武器にならなきゃいけない。だろ?」

 

 みんな互いの顔を見合っている。

 

「話は解り申したが、わたしには何もない。雪殿のような力も、響子殿のように糸を収めるという役目さえ、わたしは持っていない」

 

 困ったような表情で、宗慶は呟いた。

 

「必ずあるのだろうよ。わたしはこの身に糸を収め、寸楽には長い時を経た洞察力。雪は戦闘に特化しているし、佐吉ははしっこく情報を集めてくる。水月の鬼神を追う執念は、ここにいるみんなを突き動かすほどに強いものだろう。蓮華は冷静に全体像を見る立ち位置に居ることのできる人物だ。そして和也は……鬼神に好かれているしな」

 

 ミャ

 

 いつの間に入ってきたのか、チビが抗議の声を上げる。

 

「おっと、忘れていたわけではないぞ? まったくチビのくせに自己主張の激しい奴だ。少しは見習え宗慶。こんな白い玉っころでさえ、自分も役に立つとちゃんと解っているぞ?」

 

 ミャ

 

 満足したように階段を昇っていくチビの背を目で追って、宗慶が柔らかい笑みを浮かべる。

 

「そうでござるな……そうでござる」

 

 たとえ勘違いでも、自分が役に立たないと感じた時の失望感は底知れない。微笑んだ宗慶を見て、ぼくはほっと胸をなで下ろし、立ち上がってみんなを見回した。

 

「今一番知りたいのは、鬼神の内から解放された人々が口にしていた言葉の意味。そして少年がいっていた鬼神の体を傷つけなくても、内に捕らわれた魂を解放できるという方法。とりあえず、町に出てみようと思うんだ」

 

「町にですか?」

 

 蓮華さんが心配げに響子さんとぼくを見比べる。止める言葉を持っていないがゆえに、響子さんに止めて欲しいと思っているような表情だった。

 

「佐吉達も逃げるように町を駆け抜けてきた。だから、あの場が今どうなっているか想像もつかないし、安全だともいえない。町へ行って何をする?」

 

「俺だって行きたいかと聞かれて喜んで頷ける場所じゃない。あんな風に呆けた連中ばかりじゃ、得られる情報だって知れてるぞ? それに意識を持った連中は、確実な尻尾を掴ませないように振る舞いやがる。ぼろは出すのに、ゆらりくらりと逃げやがる」

 

 響子さんの後に言葉を続けた佐吉が、苦虫を噛みつぶしたように顔を顰めた。

 

「できることなら、あの女の子に会いたいと思っている。黒い布の面が取れていないなら、母親はぼくが女の子に近づいても、気付かないだろうと思うから。あの子が少年のことを知っているのか、どうして少年へと繋がる道を指差したのかが知りたい。それに、こちらから鬼神を探し出すのは困難だろ? 危険だろうが馬鹿だろうが、動くしかないと思うんだ。動き続けていたなら、鬼神は絶対に動きをみせる」

 

 そうだな、響子さんが自分に言い聞かせるように呟いた。佐吉も天を仰ぎながら大きく息を吐き出し、片手で自分の頬をバシバシと叩いて立ち上がる。

 

 寸楽と蓮華さん、あとはおなご二人を残すのは危険だと言い張る宗慶を残し、それぞれが一旦外へ散ることとなった。

 外へ出ると、雪に指先で撫でられているチビが、立ち上がって足元に寄ってる。

 

「チビも一緒にいくの?」

 

 ミャ

 

「チビは和也の用心棒だな。良かったな和也、ちっちゃな用心棒が一緒にいてくれるらしいぞ?」

 

 黒いタイトスカートから堂々と足を伸ばして、石段の上から見下ろす響子さんに、ぼくはケッと舌だしかけ慌てて引っ込めた。

 

「どうした? 大人しいじゃないか」

 

 目を眇める響子さんの視線が痛い。

 

「響子さん、彩ちゃんがぼくのことを忘れ初めてさ、完全に忘れる前にちょっとした……家出?」

 

「それがどうした?」

 

「しばらく泊めて?」

 

「断る!」

 

 それ以上の懇願を聞くことなく、走り出した響子さんの背を唖然と見送りながら、他に頼れる人はいないかと周りを見る。わざとかと思うほど、あっという間にみんな姿を消していたのには心底驚いた。

 

「チビ、今日は一緒に寝よっか?」

 

 ビャ

 

 妙な声でひと鳴きして、背を向けさっさと歩き出したチビに、空の拳固を振り上げたところでどうにもなるわけがない。

 

「野宿して死んだら、恨んで出てやる。行くぞ、チビ!」

 

 木々に囲まれた道は、ほんの少し前通った時より更にその姿を変えていた。

 平坦だった土の道は歪に盛り上がり、所々で森の奥から流れ出る白い霧の帯に視界が悪い。

 

「この道で枝に襲われたら、さっきより始末に負えない」

 

 短い足で必死に走り続けるチビを見て、思い当たったことのあるぼくはふっと笑った。

 

「チビ、転がっていいぞ? もう一人ではぐれたりしないようにするから!」

 

 ミャ

 

 くるりと丸まったチビは、白い毛玉となってころころと先を行く。その背に遅れを取るまいと、足場の悪い道をぼくも全力で駆け抜けた。

 幾度もこの小高い丘から町を見下ろした筈だというのに、目に映る光景は記憶に残るそれとはまったく違っていた。

 離れていても、町の通りに立ち尽くす人々の様子が見える。ぼくは一気に丘を駆け下りて、町の入口でポケットの中の黒い布の面を取りだし頭に結わえた。これがはたしてどれほどの意味を持つかは疑問だが、強いて言えばお守りのような気分で付けただけのこと。

 

「本当だね、闇は満ちていないし町を照らす灯りもない。まるで町の住人だけが満ちた闇の幻影に取り残されたみたいだ」

 

 あまり目立たないよう、ゆっくりと歩みを進めていく。密集した人だかりをすり抜けると、いつもなら活気に満ちあふれている八百屋が見えた。

 

「居た」

 

 ぼんやりと立つ母親に手を引かれ、くるくると回る風車を手にした女の子が立っている。

 ゆっくり近づいていくと、女の子はすっとこちらへ顔を向けた。鼻の下ほどまでしかない黒い布の面が、小さな手で持ち上げられた。 

 くるりとした目を見開いて女の子が微笑み、胸の横辺りで小さく手を振る。

 

「お話できるかな?」

 

 腰を屈めて視線を合わせると、女の子はにこりと笑って白い歯を見せた。

 くりっと良く動く目は、人間の少女のものだった。

 

 

 




読んで下さった皆様、ありがとうございました。
ちょっとハイペースとなっていますが、お暇なときに少しずつ読んでもらえたらと思います。
では!


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43 指切りげんまん

最初の一行目なのですが、何度打ち直しても、へんに空間が空いて段落もさげられませんでした。プレビューでそうなっているということは、投稿したものもきっとおなじですよね。すみません。どうしてかなぁ?


闇の満ちていない薄ら青い空の下、黒い面をつけた人々が虚ろに立ち尽くす。  こちらの動向が何者かに知れることを、構うことすらしなくなった響子さんが、面も付けずに道の遠くを歩いている。堂々としていると言うべきか、無謀なのかと溜息が漏れたが、ぼくもぼんやりとした様子を装うことを止め、面を半分捲って女の子の前に膝をつく。

 ぼくの仕草を真似たのか、女の子は鼻の下までしかない黒い布の面をぺらりと目繰り上げ、おでこを丸見えにして布を頭の上にのせてしまった。女の子は母親を見上げて、握っている手をもう片方の手でそっと撫でる。

 

「君が指差した方へ行ってみたよ」

 

 唇をちょっと窄め目を細めると、女の子はこくこくと頷いた。

 

「どこと言われても説明ができないけれど、とてもたくさんの人が居て、その人達が手伝ってくれたから、もっと奥にいる少年に会えた。とてもやさしい男の子だったよ。ぼくが会った少年を、知っているのかな?」

 

「うん。お兄ちゃん、ずっと呼んでたの」

 

 お兄ちゃんとは少年のことなのだろう。

 

「誰を呼んでいたの?」

 

 女の子は細い首を傾げて困ったように、頬に赤い風車を持った手を当てる。

 

「いっぱい強いひと! ここが、ぽかぽかしているひと!」

 

 丸めた拳で胸の辺りをとんとんと叩き、女の子はすごく正しいことを伝えられたというように、満足げに微笑んだ。ここにきて、水月と二人で呼び寄せられたのは、やはり何かの手違いだったのではないかと首を捻りたくなる。あの状況で小屋の鍵が気になるおっさんと、ビビリがひとり。

 共通点といえば故郷が似ているということと、なぜか女性に頭が上がらないことだけ。条件を満たすどころか、擦ってさえいないだろうに。

 

「ちょっとだけ一緒にいたいって、お願いしたの。お兄ちゃんはいいよって。その代わり、お手伝いしてねって」

 

 女の子は小さく立てた人差し指で、隣に立つ母親を指差す。母親と一緒には居られない状況に陥っていたということなのか。

 

「どうして一緒にいられなくなったの?」

 

 女の子はぼくに教えた時のように、山のある町の奥を指で差した。

 

「本当はね、いっぱいいる人と一緒にあそこにいるはずだったのに。入る前にぐいって引っ張られちゃった。誰もいないのに、どんどんここに引きずられたの。でもね、わたしはここに来ることはできなかったから、だからお願いしたんだ」

 

 にこりと笑う女の子の表情は、まるで絵本を読んでいるように屈託ないものだった。

 なぜだろう、かわいらしい笑顔が胸の奥にチクリと刺さる。

 

「他の人はみんなぼんやりしているのに、どうして君は元気にお話ができるのかな?」

 

 この子と出会ったときから持っていた疑問。質問の意図が直ぐには把握できなかったのか、女の子は丸い目をくるくるとさせて、唇をつんと尖らせる。

 

「たぶんねぇ……ぼんやりしているのは、人だから」

 

「君は、ひとじゃないの?」

「うん」

 

 当たり前だというように女の子は元気に頷き、僅かに隣で身じろいだ母親を気遣うように、そっと握った手を撫でる。

 

「君は優しい子だね」

 

 ちょっとだけ目を見開いた女の子は、顔をくしゃりとさせてへへっ、と笑った。ちょっとだけ照れたように、手にしていた風車に息を吹きかけ回す姿は、何処にでもいる幼い少女と変わりないというのに。くるくると回る赤い風車の下に結ばれた小さな鈴が、チリンと小さく音を立てる。

 

「鬼神のことは聞いたことがある? とても沢山の人が鬼神の中に捕らわれているんだ」

 

「知ってるよ。みんな心配しているもの。だからみんなここから離れられないの。お兄ちゃんにお願いして、せっかく側にいられたのに、鬼神にスーって吸い込まれたって泣いてたもん」

 

 みんなとは、いったいどのような人物達を指しているのか、あの少年の力を借りなくてはこの町に留まれない存在は、誰と共にいようとしたのだろう。

 

「君と同じように元気に話せる人達と、たまにお話したりするんだね? その人達と今、会うことはできる?」

 

 女の子はぶんぶんと首を横に振る。

 

「見つかっちゃう」

 

 鬼神やその手下連中に見つからないように過ごしているのか? 以前に闇が満ちた町で見かけた明らかに意識を保っているであろう人々は、それと気付かれないように、ひっそりとこの町に身を潜めているのだろう。どうりで、佐吉がどんなに手を尽くしても、彼らの背中に手が届かないはずだ。

 そこまでしてこの町に居続ける理由がわからない。この子の話からして、彼らはこの町を離れることができるのだろう。あの少年の力を借りてまで、危険なこの町に意識を保ったまま居続ける理由。誰かを守ろうとしているのだろうか。

 いったい誰を?

 

「見つかっちゃうなら、こうやって話しているのは、君にとっても危険だよ。ごめんね、ちゃんと考えてあげられなかった」

 

 頭を下げて謝ると、返ってきた答えは意外なものだった。

 

「大丈夫だよ? お兄ちゃんとの約束をちゃんと守れたから、見つかっちゃっても大丈夫だもん」

 

「どういうこと?」

 

 女の子は風車を手にしたまま、隣に立つ母親にぎゅっとしがみついて、腰の辺りに頬ずりするように顔を押しつける。

 大好き……少女が微笑みながら言った言葉は、そっと体を離して見上げた母親へと向けられたもの。愛情の全てを傾けた言葉は、短くともこんなに優しいものなのか。ただひとりへの愛情を注いだことも、ぼくだけへの愛情を注がれたこともない。この胸を締め付けた短い言葉に、胸の上で服を握る。

 

「わたしはね、助けてあげられないもん。だから、見つけた」

 

 女の子が、指差すように赤い風車をぼくへと向ける。何一つ約束してあげられそうもないといううのに、ふわりと安心したようなくるりと丸い目は、ぼくへと信頼を向けていた。

 

「ぼくはどうしたらいい?」

 

「みんなぜーんぶは助けられないって。でもね、それでいいの。お兄ちゃんの所へ、もう一度いってみて。わたしが消えたら、それを合図にみんなが動き出す」

 

「消えるって、どこかへ行ってしまうつもりなの?」

 

「わたしはどこにも行けないよ? ぱって消えちゃうの。それだけだよ? お兄ちゃんに無理にここにいさせてもらったから、代わりにどこへもいけないの」

 

 残欠の小径に関わってから、何度も耳にした理という言葉が脳裏を掠める。この子の存在を絡め取っているのが、どのような縛りを持った理なのか、ぼくになど解るはずもない。だがこんな幼い子にまで平等に及ぶ理というものを、今は不平等だと思わずにはいられない。

 

「お母さんはどうなるの? 君が居なくなったら、きっと悲しむ」

 

 なぜか不思議そうな表情で首を傾げると、寂しそうに睫を伏せた女の子は大丈夫、といって小さく首を横に振った。

 

「ぱって消えちゃうから、人の心には残らない。消えちゃうの」

 

 真っ直ぐに顔を上げた女の子の瞳が、僅かに滲んだ涙に光って揺れる。

 

「あっ、もう駄目みたい」

 

 言葉と裏腹に女の子はにこりと笑みを浮かべ、母親の手をもう一度だけ握って愛しそうに頬ずりした。

 

「駄目って、どういうこと? 何が?」

 

「これ、して!」

 

 勢いよく女の子が突きだしたのは、ぴんと立てた小さな小指。

 

「指切り?」

 

 頷く女の子に、ぼくは戸惑いながらも自分の小指をそっと絡める。

 ふっと安心した表情を浮かべ、女の子は少しだけ目を閉じた。

 

「わたしの時間が終わっちゃった。もっといっぱい一緒にいたかったな」

 

 絡めた小さな指先に、くっと力が込められる。

 

「おっきいお兄ちゃん、ありがとう」

 

 確かに感じていた小さな小指の温もりが、指の間から抜け落ちた。くっと締め付けられた柔らかな感触だけを残して、女の子の姿が霞んでいく。

 

「待って!」

 

 抱きしめようとした腕は、女の子の体をすり抜けて空しく宙を抱いた。

 

――この人は、わたしのご主人様。やさしいご主人様。

 

 耳の奥をくすぐるような、小さな小さな声だった。呆然と視線を下ろした土の道に見つけたものに、ぼくは両手で口を押さえた。

 首輪を付けた茶色い子猫が、眠ったように穏やかな表情のまま身を横たえている。両手で持ち上げてしまえるほどに小さな体が、さらさらと細かな砂となって崩れていく。一筋の風が道を吹き抜けて、子猫だった砂を巻き上げ空へと散らした。

 砂が風に攫われた後に残ったのは、風車の飾りをあしらった鈴の首輪。

 まだ温もりの残る小指を、捻り折りそうな力でぼくは握った。

 

「わあぁぁぁー!」

 

 叫んだのだと思う。

 まるで自分のものではないような絶叫が、継ぎ接ぎの町に木霊した。

 

 

 

 

 どれくらい座り込んでいたのだろう。上体が傾ぐほどの勢いで打たれた頬への衝撃に、ぼくは閉じ籠もっていた心の奥から引き上げられた。

 

「目が覚めたか? 町中に響き渡る声をあげたと思ったら、腑抜けのように座り込んでいたぞ」

 

 顔をぐいと近づけ、ぼくの正気を確かめるように響子さんが覗き込む。

 

「大丈夫です。すみません」

 

 訝しげに眉を顰め、響子さんはぼくの額に手を当てる。

 

「どうした? いつもの反撃はなしか? この怪力女、とくらい言ってみろ。引っぱたいた後に、そんなまともな返答を返されると、返って脳みその具合が心配になるだろ?」

 

 響子さんの言葉に応える気力もないまま、ぼくの視線は土の道の一点に引き寄せられた。

 これを持っているべきなのは、ぼくではない。

 だがこれを持つべき者は、大切に思うに値する記憶を既に失っているだろう。伸ばした指先に触れて、鈴がチリンと音を立てる。

 回ることのない飾りの赤い風車の横に、屈託ない女の子の笑顔が見えた気がした。

 細い紐を幾重にも編み込んだ首輪を拾い上げ、ぼくは自分の手首に結びつける。

 

「ぼくの記憶に、君はちゃんといるよ」

 

 響子さんにも聞こえないほど小さく、口の中で想いを囁く。

 力の抜け落ちた体に、左腕から自分の物ではない力が這い上がるのを感じた。気のせいだって構うものか。ぼく達は、最後まで一緒に戦おう。

 突然立ち上がったぼくに、響子さんは呆れたような視線を向ける。気付かなかったが、響子さんの横には、少しだけ難しい顔をした水月がいた。

 

「佐吉は前に、この町の人々はほとんど生きているといっていたよね。生きたまま意識を失っている人もいるかもしれない。病気の人もね。でも、ここへ来たとき生きていた人達が、今も生きているとは限らない」

 

「何が言いたい?」

 

 水月が響子さんと顔を見合わせる。

 

「佐吉達は、本当に特別なんだ。意識を持っている人がいると思っていたが、そのほとんどは、おそらく動物だよ。少なくとも生きていたときには誰かに飼われたり、世話してもらっていた動物達なのだと思う」

 

「なぜそんなことを? 動物にそこまでの意思があるとでもいうのか?」

 

 響子さんが納得いかないように首を横に振るのを見て、ぼくは首輪を巻き付けた左手を差し出した。

 

「覚えている? 風車を持って母親に手を引かれていた女の子。あの子は母親といたわけじゃなかった。大好きだった飼い主を守ろうとして、ここに留まった小さな猫の魂だよ。ここは残欠の小径だろ? 誰かが力を添えたなら、石だって心を持ちそうだ。あの子の魂は、確かに在ったよ。ぼくはその魂と指切りをした」

 

 道の向こうから走ってくる、佐吉の姿が見える。

 佐吉には、忙しく働いてもらうことになるな。

 

「ぼくはもう一度、少年の元へ行ってくる。水月さん、あなたも一緒にね」

 

 あからさまに顔を顰めてみせた水月は、それでも素直に頷いた。

 肩で息をしながら佐助が、何事だ? という表情でみんなの顔を見回した。

 

「どんな形になるかはわからない。でもこれからはもっと大勢の協力者が、力を貸してくれると思うよ。彼らはおそらく、ここで生き続けようなんて思っていない。女の子が役目を終えて消えた今なら、自ら名乗り出てくれるはずだから探し出して欲しい。佐吉さん、あなたが一番得意とする分野だね。雪さんにも力を借りて、見つけ出してください」

 

 わかった、と佐助はしっかりと頷いた。

 左手を高く掲げ揺すると、小さな鈴の音が喧噪のない町にその音を響かせた。ここから見ただけでも、通りに立つ人々の何人かが、ぴくりと反応を示したのが見てとれる。

 

「水月さん、行きましょう」

 

「おう」

 

 まだ何かききたそうな響子さんを残して、ぼくは駆けだした。どこかで様子を覗っているのかと思ったが、チビが姿を現す気配はない。

 町に音を響かせ役目を終えたというように、どんなに腕を振って走っても、左手首に結わえた鈴が音を鳴らすことはなかった。

 

「ありがとう」

 

 この世から存在が消えていくことを躊躇わなかった幼い笑顔に、ぼくは心から感謝の想いを呟き、土埃の舞い上がる道を一気に駆け抜けた。

 

 

 

 




読みに来て下さった皆様、今日もありがとうございます!

本当は四十五話辺りで締めくくるはずだったのですが、ちょっとオーバーランです。
あと、編集をしたのは全て誤字脱字などですので、お話の内容は一切変わっておりませんです。とりあえず、全部直してみましたっ
あと少し、この物語にお付き合い下さいね(*^_^*)


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44 滝は止まった時を押し動かし 

 相変わらず息ひとつ乱すことなく、横を走る水月に半ば呆れながら、山の斜面に差し掛かった辺りでぼくは足を緩めた。

 

「その無駄な体力はいったいどこから来るの? 感心するのを通り越して、摩訶不思議だよ」

 

 肩で息を吐くぼくを得意げな表情で見下げ、水月は指先で額を拭う真似をして服を捲ると、年齢の割にはかっちり割れた腹筋をこれ見よがしに前に突き出す。

 

「筋力を保ってこその男だろ? かわいい女の子を守ろうとして、盾になって死ぬのが望みなんだ。盾にもなれずにぶっ飛ばされたら、恰好悪いだろうが。この腹筋で盾となるために鍛錬は怠っちゃいないんでね。ただし、可愛い子限定。響子とか論外。ヤローも嫌だぞ」

 

 ゆっくりと山道を登りながら、ぼくは声押さえて笑った。

 

「この状況でよく冗談なんて言えるね? 女の子もオッサンに守られるのは嫌だと思うな。まあ、鍛え損だね。あ、大丈夫。この話チクッた後の響子さんから、命を守る役には立つね」

 

 言ったらぶち殺す、と焦りの表情と一緒に水月が目を尖らせたのを見て、いつか絶対告げ口してやると心の中でほくそむ。

 

「和也こそ、さっきまではえらく沈んでいたっていうのに、もう早笑えるようになったか?」

 

 水月の声は決して責めている訳ではないのだろう。笑える心の変化に少し興味を持っただけ。

 

「笑えるときに笑っておこうと思って。あの子みたいに、にっこり笑って、この先を乗り越えたい」

 

「心配すんな、毎日泣き暮らしても腹は減るし眠くもなる。何があっても、笑えるようになるさ」

 

 ぼくを追い越した、水月の背中を見上げながら無言で頷いた。

 

「まるで泣き暮らしたことがあるみたいな言い方だね」

 

「手を伸ばして掴もうとしたら、あっさり逃げられた」

 

 心臓がチクリと痛む。

 

「いったい誰の手を掴もうとしたの?」

 

「その頃に一番大好きだった子」

 

 無駄な緊張を深い溜息と共に吐き出して、落ちていた木の枝を水月の背に投げつける。

 

「いい大人なんだから、真面目って言葉を知った方がいいよ?」

 

 顔を向けずに水月がへへっと笑う。水月が時折覗かせる強い意志や聡明さは、心に近づいて深く知ろうとすると、蜃気楼のように逃げていく。人当たりの良い水月だが、心の底に何かを淀ませているように思えてならなかった。だが、沈む澱の正体の影を見ることすら叶わない。

 

「とうとうチビは来なかったな」

 

 さっきっからきょろきょろと辺りを見回していたのは、チビの姿を探していたからか。居なければいないで気になるのだろう。

 

「チビが居ないと不安だとかいわないでくださいよ? 水月さんが頼りなんだから」

 

 都合のいい時ばっかりだな、と振り返った水月の目尻に皺を寄せた笑みに、ほんの少し前にうっすらと感じた影は微塵も残っていなかった。

 

 

 山頂の泉に辿り着いて、五右衛門風呂ほどしかない大きさの水面を二人で覗き込む。顔を合わせた水月は、明らかにおまえが先に行けと顎をしゃくる。

 

「こういうのは、年上優先でしょうが」

 

 当たり前のように大股に一歩後退した水月を睨み付けたが、涼しい顔でそっぽを向かれた。

 少年の言葉を疑ってなどいないが、初めてのことに少々勇気が必要なのは変わらない。

 

「付いてこなかったら、響子さんに話を盛ってチクるからな!」

 

 精一杯凄んでぼくは、ひと思いに泉へと飛び込んだ。ザパンという水しぶきに、腹の辺りで服が捲れ上がる。真っ暗闇へと落ちていくのではという恐怖に、ぐっと目を閉じて鼻をつまんだが、水中の泡が耳元を昇っていく音が途絶えると、最初はヒンヤリとしていた水は温度を無くした。まるで体温と同調する用に僅かな水の抵抗を残してぼくを包み込む。

 

――今回は何も見えないや。

 

 以前のように何かしらの記憶が垣間見えるかと思ったが、無音の世界に押し込められたように、瞼の裏をただひたすらの闇が満たしていた。時折ちらちらと遠くで遊ぶように光りの粒が揺れ動いては消えたが、それに何かの意味を見いだすことはできなかった。

 

――水月さん、ちゃんと来るかな?

 

 先の見えない終着点にかなり息が苦しくなった頃、急激な浮遊感に体がぐいと持ち上げられ、顔の皮膚を冷えた空気が撫でるのを感じて目を開けた。

 

「はぁあ!」

 

 胸一杯に空気を吸い込み、自分がいる場所がどこであるのか認識したぼくは、四つん這いになったまま驚きに口も目も開いて混乱の息を吐く。

 確かに水中を通ってきたというのに、髪の先さえ濡れていない。

 ぶはっ、吐き出した息に振り返ると、同じような姿勢で水月が姿を現した所だった。

 

「どうなっているんだ?」

 

 水月の疑問はもっともだ。ぼく達が這いつくばっているのは、青い光りの川の只中だったから。

 以前と違うのは、この川を挟むように手を上げていた人々も墓標もなく、平らく切り出された岩の床が続いていること。光りの川とはいっても、水がつくり出す深さがあるわけでもなく、実体があるようで無い青い光りが、さらさらと流れている。

 

「どうやらぼく達は、光りの川の底から浮いてきたらしいです」

 

 首を傾げながら、げんこつで光りの川面を叩く水月は、固いや、といって再び首を傾げた。

 

『そのイカダに乗ってきてくれる?』

 

 遠くで囁く声にはっとして顔を上げると、向こうから丸太をつなぎ合わせた小さなイカダが流れてきた。水の川であったらな、人ひとり乗れば沈んでしまいそうな小さなイカダは、水月が固いといった光りの水面に丸太の半分を沈めて、ゆらゆらと流れてくる。

 

「俺は驚いてないから。なんだってありだ。イカダくらい乗ってやる」

 

 口で言っただけの行動を起こしてもらいたい物だが、水月に顎をしゃくられて、しぶしぶぼくはイカダに乗り込んだ。ぼくが乗っても安定していることに安心したのか、水月は何食わぬ顔で平然と丸太の上に腰をおろす。

 

「大人ってやり口が汚い……」

 

「馬鹿いうな。経験を積ませてやっているんだろ?」

 

 素直なビビリの方がマシだと呟くと、後ろから平手が飛んできた。そんなぼく達のやり取りなどお構なしに、イカダは今流れてきた方向へと逆流して進んでいく。

 そっとイカダから指を伸ばすと、固い物に触れた感触と同時に、まるで水が割れるように青い光がぼくの指先で跳ねて飛んだ。

 

「墓標の人間達がいないと、俺たちは自力であの場所へは行けないってことか。今度は白い雲みたいなトンネルの代わりに、深く立ち籠めた川霧ってとこだな」

 

 誰も居ない岩を刳り抜いた広い空間を少し進むと、湧いたように霧が立ちこめ、周りの景色はもちろんのこと、青い光りの川さえ少し先までしか見通せなくなった。

 

「おい和也、見ろよ」

 

 光りの川に指を浸していたぼくは、水月が指差した前方を見て感嘆の息を漏らした。

 小さな滝壺に流れ落ちる滝の太さは、大人が両手を広げた幅ほどしかないが、上へ上へとどこまでも天井へ向けて延びている。

 

「まるで流れているようだけれど、この滝は動いていない。ちらちらと光りを放ちながら、流れ落ちる途中の姿そのままに、凍り付いたみたいだね」

 

 冬の滝のように凍ってその色を白く変えることもなく、青い光りをちらちらと放つ滝にしばし心を奪われた。

 

「綺麗でしょう? ぼくはね、たまにここに足を運んで、自分を戒める」

 

 いつの間にか少年が、川の縁に膝を抱えて据わっていた。とても眩しい物を見るように目を細め光りの滝を見上げる少年の口を、柔らかな笑みがかたどる。

 

「君に会いに来たよ」

 

「うん。来るのは解っていたから。ここで待っていたの」

 

 小首を傾げてにこりと目を見開く少年の線は細く、手を差し伸べて支えたくなるほどに存在が儚かった。

 

「最初にぼくをここへ導いてくれた女の子がひとり、この世界から消えた。役目を終えて消えるのは約束ごとのように当然と思っていたみたい。小さな子猫の魂だったよ。とても優しい子だった」

 

「そう」

 

 少年は短い言葉と共に唇を噛む。少年を責めようとしたわけではない。けれど全ての責を負ったような幼い顔が苦悩に歪む姿に、ぼくは思わず目を反らす。

 視線をそらしたまま、ぼくは静かに話を続ける。

 

「仲間の憶測は当たっているのかも知れない。あの子は死ぬことを恐れていなかった。鼻の下まで短くなっていた黒い布の面は、おそらく最初からあの長さで、何もなければそのままの長さを保ったのだと思う。仲間は闇が満ちても意識を保っていた理由をこう言ったんだ。自分達は、命を失うことを恐れていなかったと。言い換えれば死を受け入れていた者達ということになるよね。あの子も魂の消滅を当然のように受け止めていた。主人を助けるために、自分が犠牲になることを躊躇しなかった」

 

 黙って目を瞑っていた少年は、ゆっくりと瞼を開きひとつ大きく頷いた。

 

「鬼神があの町をここへ引き寄せたあの日まで、ここにはぽつりぽつりと魂が立ち寄っていたんだ。あの子の飼い主は独り暮らしの中、居間で倒れて意識を失っちゃって。部屋から出られなかったあの子は、意識を失った主人と共に衰弱して死を迎え、共にここへ流れ着いたんだよ。普通に先の道へ進んでいく筈だったのに、運が悪かった……のかな。無差別に放たれた鬼神の力に引き寄せられて、ここへの入口で引き剥がされたの」

 

 

「きみはあの子の願いを叶えたんだね?」

 

「うん。それが正しかったのかなんて、たぶん永遠にわからないよ。でもぼくは受け入れた」

 

「他にも居るのか? あの子みたいに、おまえさんと契りを交わしたやつが」

 

 水月の答えに少年はこくりと頷いた。

 

「動物は純粋だから、生きるために牙を剥いて、好いた者の為には何だってする。考え方が複雑じゃない分、ひとよりやさしくて強い」

 

 少年の言葉に、かつてカナさんに言われたひと言を思い出す。このての者に好かれた者は、失った日の覚悟をしなくてはならないと。

 

「女の子がいっていたよ。わたしが消えたら、それを合図にみんなが動き出すって。そしてこうも言っていた。全部は助けられないと。最後の言葉は、あの子の言葉じゃないよね、きみの受け売りだとぼくは感じた」

 

「誰かを助けようと願う者が居なければ、誰ひとり助からないけど、誰かが助かる為に、消えていく者達がこの先も増えるのは止められないんだ。ここから先は、ぼくの意思ではないから。彼らが自分で選んで進む先にある結果を、知る者は少ないよ。彼らが不確定要素であることは、鬼神にとってもぼく達にとっても同じことだもの」

 

 そんなことは無いと、口にできない自分が居た。水月も眉根を寄せて顎に手を当てている。水月は少年の言葉の意味を悲しくは思っても、否定することはないだろう。それだけ長く生きた経験を持っているから、ぼくほど揺らぐことはないと思った。

 

「残欠の小径は、ぼく達がここを訪れて姿を変えた。人々もどんどん姿を消しているらしい」

 

 ぼくを真っ直ぐにくりっとした瞳で見つめる少年は、こくりと頷いて口をきゅっと引き締める。

 

「そのことは、残欠の小径に戻ったら、お友達が教えてくれるよ。ここでぼくが話したら、彼の努力を無駄にしてしまう気がするから、いわないね」

 

 お友達……仲間の誰かと言うことだろうが、情報を得るという内容からして佐吉か雪が何かの確証を得たのだろうか。

 考え込んでいた視線をふとあげると、少年は寸足らずの縦縞模様の浴衣からひょっこり出た足で、ゆっくりと青い光りの滝へと近づいていく。滝の後ろにそっと手を伸ばした少年の手には、小型の木槌が握られていた。大切そうに木槌を手の中で撫でた少年は、手の平に乗せたそれをぼくへと差し出す

 

「これは?」

 

「前にたくさんの墓標があった場所に戻ったら、みんなにこれを返して欲しいの」

 

 墓標の後ろに佇む人々がまた姿を現すというのか。

 木槌をぼくの手に握らせて、少年はすっと一歩後退る。

 

「本当はね、こんなことの為に渡す筈じゃなかった。何かを壊す為の物じゃなくて、みんなを自由にするための素敵な木槌だったのに」

 

 更に問いかけようと口を開いたぼくの肩を、水月が押さえて首を横に振る。

 

「もう止められないや。止まっていた時間が動き出す……」

 

 バケツを返したように、青い光りの滝が一気に流れ落ちた。急に生みだされた光りの水流は一気にイカダを押し流し、川を遡るようにうねって少年との距離が開いていく。

 再び立ち籠めた霧の向こうへ少年の姿が消えて、ぼくはイカダの上にドサリと腰をおろした。

 荒れた川のようにうねる青い光りの川は、そのうねりに反してイカダを激しく揺らすことはなかった。

隣に座る水月は、何とも言えない表情でぼくの手の内にある木槌を眺めていた。

 

 

 

 




読んでくださってありがとうです!


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45 想いが生んだ世界と 存在が招いた厄災と

ちょびっと長めですな……。


 流れる青い光りの波に流されながら、小さなイカダはまるで別次元に浮いているようだった。

 光りの大きなうねりに乗って流されているにもかかわらず、ぼく達を乗せた小さなイカダは緩やかに上下をくり返す。

 落とさないようにと胸に抱き握りしめた木槌は、用途がわからないほど小ぶりだが、それ以外は何の変哲もない。水月は口をきくことなく、イカダを包むように盛り上がっては沈む光りの波を見詰めている。

 ぼく達を押し流していた青い光りの波が、イカダを追い越すように速度を上げて流れ始めると、霧が晴れて前方が見渡せるようになった。

 

「墓標だ」

 

 呟いた水月の言葉通り、晴れた霧の先には以前見た時とまったく変わらぬ様子で、無数の墓標が立ち並び、その背後には佇む人々の姿があった。

 先を行く光りの波は、終着点を見つけたとでも言うように穏やかにその身を潜め、平らに切り出された岩の床を流れる光りの川は、床に光りの塗料を塗ったように平坦に煌めいている。

 

「降りるか?」

 

 水月に頷き返し無数の墓標の前に降り立つと、小さなイカダは元来た道を辿って静かに戻っていった。足元にある光りの川で足踏みしても、やはり水の感触は得られない。

 

「これを皆さんの希神から預かってきました。皆さんに渡して欲しいと」

 

 胸に抱えていた木槌を差し出すと、静かに佇んでいた人々の表情に笑みが浮かぶ。

 

「良かった。やっと渡してくれたか」

 

 端の方に立つ若い男が、ほっとしたように息を吐く。

 

「希神は迷っているようでした。こんなことの為に使うはずじゃなかったと。みんなを自由にするための木槌だったのにと」

 

「あの子の気持ちはわかっています。これは、わたし達の我が儘ですから」

 

 長い黒髪の女性がやわらかな微笑みと共に言い、すっと前に手を差し出すと、ぼくの手の中から木槌が浮かび上がり天井高くへと昇りだす。

 空中で止まった木槌を中心に、光りが爆ぜた。眩しさに一瞬目をそらした隙に爆ぜた光りは収縮し、木槌は姿を消していた。

 

「これで少しは、あの子の助けになれる」

 

 誰かが囁くようにいった言葉は、安堵と希望に満ちている。

 光りに眩んだ目が徐々に視界を取り戻すと、人々の手には持ってきたのと同じ木槌がひとつずつ握られていた。

 

「我らには何の力もありはしない! だが、蟻とて群れを成せば城をも崩す。我欲を捨てれば無駄な情動も湧かぬ。かつて我らの手を取った、幼きあの笑顔だけを胸に抱こうではないか!」

 

 誰が叫んだのかはわからない。奥の方から響いた男の声に、木槌を手にした人々の腕が一斉に頭上に翳された。

 合わせたように振り下ろされた木槌が墓標を叩く。

 木槌が岩を打った音だというのに、耳に響いてきたのはグラスを指先で弾いた音を重ね合わせたみたいに澄んだ音色。

 岩に反響する音色に人々の姿が揺らぎ、立ちのぼる煙のように消えて行く。

 

「まるで肉体を捨てて、魂だけを残したように見えるな」

 

「きっと、彼らの魂そのものなんだろうね」

 

 墓標の上には、ちりちりと光りを放つ細い糸が浮いていた。ひとつとしてまったく同じ色はなく、光り具合も太さ長さも違っている。初めて来たときに白い雲にも似たトンネルの中、水槽を泳ぐ魚のようにぼく達の周りに姿を見せた色とりどりの糸。

 

「もう世の中の仕組みがわからんよ」

 

 首を掻いて水月が呻る。

 色とりどりの糸がそれぞれの墓標に吸い込まれたかと思うと、音を立てて墓標が岩の床に沈み始めた。地鳴りにも似た音と共に、足元から振動が迫り上がる。

 

「まずくないか? このままだと、闇の中に閉じ込められることになりそうだ」

 

 水月に言われてはっとした。光源を失い暗さを増した空間に気づかなかったのは、目の前の光景に目を奪われていたから。いつの間にか壁と床の岩間を筋となって満たしていた青い光りは力を失い、ぼく達をイカダに乗せてここまで運んだ青い光りの川も、低い方に流れるように両側からぼく達の足元へとその範囲を狭め始めていた。

 

「どうしよう、明かりがないと記憶の泉がある場所へ辿り着くことさえ難しいよ?」

 

 肩を竦めた水月が、片腕でぐいとぼくを引き寄せる。墓標は完全に呑み込まれて光りの代わりに静寂が、がらんとした空間を満たしていた。光りの川はぼく達の足元にまるで水たまりのように寄せ集まって動きを止め、ぼくと水月は暗闇の中互いを見失わないようにと腕を握り合う。

 

「これじゃ青白い水たまりだ。少しでも離れたら何も見えなくな……うわ!」

 

 固い感触しかなかった青い光りの底が抜けた、としか言いようがない。明らかな水の感触に足先から沈んでいく。最後に吸い込んだ空気を胸一杯に溜めて、ぼくはぐっと目を瞑った。

 

 沈んで行く感覚は直ぐに途絶え、体温にも似た水の中自分の体の存在は失われて、心だけが取り残された気分だった。しっかりと握りしめていた筈の、ごわついた水月の袖も本当に手の中にあるのかわからない。

 少年を信じていたから、身の危険は感じなかった。

 体に収まっていた心の裾野が、垣根を越えて広がっていく不思議な感覚に身を任せる。

 

 心がどこまでも広がっていく開放感の中、延びた心の触手に何かが触れた。

 触れたのは誰かの過去でもなく自分の過去でもない、透き通る少年の囁き。

 

『憎しみの刃は、鬼神にかすり傷さえ負わせることはないよ。君に必要なのは、刃を支える柄だから。手にする柄にどんな刃を据えるかで未来は変わる。切り裂くのは必ずしも、鋭い切っ先とは限らないもの』

 

 心を澄ませていたが、あとは何も聞こえなかった。ぼくの手に眠るナイフは彩ちゃんから受け継いだものだから、ぼくはそれ以外に代わりになりそうな刃などもっていないよ。そう伝えたかったが、伸ばした心の触手に、再び何かが触れることはなかった。

 

 ひんやりした冷たさに、突如肌が感覚を取り戻す。少しだけ感じる息苦しさに目を開けると、直ぐそこにうっすらとした明かりが丸く見える。

 手で搔き足を蹴るとぶわりと体が浮き上がった。

 

「はあー!」

 

 息を吸い込んだ目の前に、同じく口を開けて息を吸い込む水月がいた。

 

「嫌だな、オッサンとふたりで五右衛門風呂」

 

「ならさっさと出ろよ」

 

 水月に体を押し上げて貰い、ふたりで入るには狭すぎる小さな泉からなんとか這い上がる。手を引いて引き上げると、勢い余って水月はごろりと転がった。

 

「今回はべちゃべちゃだな」

 

 犬のように頭を振っていう水月に、濡れたシャツを絞りながらぼくも頷く。

 

「この泉には、もう少年の力が及んでいないってことだよね。ここを通って少年に会いに行くことは、できないらしい」

 

 少年が意図して力を引いたのかはわからないが、目の前にあるのは小さなただの泉だった。もう二度と、記憶を見せることも少年への道を開くことも無いのだろう。

 

「寒いね、とにかく小屋に戻ろうよ」

 

 歩き出したぼくの肩を水月が叩く。

 

「なあ、和也は苦手なことってあるのか?」

 

 ずいぶんと脈絡のない問いかけに一瞬思考が止まったが、ゆっくりと歩きながら頭を巡らせる。

 

「苦手っていうか、好きなのに上手くできないことならあるよ。料理のセンスかな? あんまり認めたくはないけどね」

 

「料理?」

 

「あっちの世界では喫茶店で働いていたから、色んな組み合わせの料理のアイデアは底なしに浮かぶんだ。でもそれに評判がついてこないっていうか、人気がでなくて裏メニュー化っていうか」

 

 くくっと水月が喉を鳴らして笑ったのが聞こえたが、ここはあえて無視。

 

「結局は作れなかったけれど、最後に思いついたのは肉じゃがとオムレツのコラボ。潰した肉じゃがをふんわりと卵で包んで、紅ショウガを散らしたら美味いと思うんだ!」

 

 背後で笑っていた水月が静まりかえって、どうしたのかとぼくは振り向いた。

 水月は呆気に取られたように目を見開き、呆けたように唇を半開きにしている。

 

「水月さん? そんな呆れた顔をするんなら、食べてから文句をいってよね」

 

 少しだけむくれたぼくが足早に歩き出すと、水月も歩調を合わせて後を追ってくるのが足音でわかる。

 

「それだけは止めたほうがいい。肉じゃがとオムレツは別々に食った方が美味いし、紅ショウガはいなり寿司に散らしとけ」

 

「何だよ、食べたこともないくせに。ぜったい美味いと思うよ?」

 

 水月がぼくの肩に腕を回して、ぐっと自分に引き寄せる。

 

「味音痴はなかなか直らんぞ?」

 

「どうしてさ?」

 

「三つ子の魂百までって言うだろ?」

 

「こら! 水月さん! まて水月!」

 

 ぼくの反撃から逃げるように、坂道をかけだした水月を追ってぼくも走った。まともに勝負しても引き離されるのが落ちだが、何だか可笑しくて、ぼくは全力で水月の大きな背を追った。

 

 

 

 町の様子は何一つ変わっていなくて、相変わらずぼんやりと立ち尽くす黒い布の面を付けた人々で溢れていた。もう姿を偽る必要も時間もないだろう、という水月に従って顔を隠すことなくぼく達は人々の間をすり抜け進んだ。

 戸を叩くと内側から開けられた小屋の中には、雪も含めて全員が顔を揃えていた。なぜがそれぞれに難しい表情を浮かべ、ぼくと視線を合わせようとしない。いつもなら正面から見据えてくる響子さんさえ、なぜか視線を落とし気味にして、帰ったか、とだけ言葉を漏らす。

 

「どうかしたの? なんだかお葬式みたいだ」

 

 口を開こうとしないみんなに大きく息を吐き、ぼくは水月と見聞きした全てを話した。

 

「その者達はいったいどう動くつもりかのう」

 

 ようやっと寸楽がぼくの話に合いの手を入れる。その者達とは、墓標と共に居て姿を消した大勢の人々のことだろう。

 

「さあ、今度はそっちの番だよ」

 

 暗い空気を追い払うつもりで、わざと明るい調子で言ってみる。互いにきょろきょろと目を合わせて、仕方無しという風に最初に口を開いたのは佐吉。

 

「悪いが動物の化身達のことは調べきれなかった。というより、他の情報を先に掴んじまって、話の裏を取るのに手間取った。雪と響子もそれぞれに別の情報を得たが、まずは俺から話そう」

 

 ぼくは水月の隣に腰をおろし、佐吉の重たい口が開くのをじっと待つ。

 

「まずはひとつの結論だ。たとえ鬼神を倒して魂を解放しても、解放された魂は己の道に迷う。いや、迷うらしい」

 

「誰から得た情報なの?」

 

「町を走っていたら、不意に肩を掴まれてな。そいつは顎の下まである黒い布の面を半分捲って、まっすぐに俺を見た。正気なんだと思ったよ。若い男だったが、さっきの内容をひとしきりしゃべると、突っ張り棒が外れたみたいに呆けちまってな。あとは何を聞こうが答えやしない。だがな、最初に布を捲った時に俺を見た目は、間違いなく人の物じゃなかった。薄らとした残欠の小径の明かりを受けて、奴の目ん玉は細く縮んだ。ありゃ、化身だよ。動物の化身だ」

 

 幼い少女の存在が消えたことを知って、動き出した者のひとりだろうか。やわらかな少女の小指の感覚が蘇って、ぼくはそっと自分の手を包む。

 

「それじゃ、鬼神を倒しても本質的には誰も助からないってことか?」

 

 落胆の溜息を吐き出した水月の肩が下がる。たしかにそれでは意味が半減するだろう。新たに呼び込まれる犠牲者は防げても、今ここに居る人々の救いにはならないのだから。

 

「他にもまだあるのでしょう? 次は誰?」

 

 見回すと、視線をあげたのは雪だった。

 

「わたしがお話しします。残欠の小径の全てを知る者は少ないですが、一番古くからの記憶を留めているのは、ここの住人達に草陰のギョロ目と呼ばれている者達です。彼らが誰の味方なのか、正直言ってわたしにもわかりません。ただし一度口にした情報に関して、嘘を吐くことは無い者達だということはいえます」

 

 確かにそうだろう。草陰のギョロ目は信用を重んじる。信用が自分達のこの先の商売に大きく影響することを知っているから。

 雪は珍しく口を開けては閉じをくり返し、話しかけた言葉を幾度も口の中で呑み込んでいる。

 

「雪さん、ゆっくりでいいよ。どうしても言いづらいなら、後だってかまわない」

 

 見かねて声をかけると、すっと手を上げたのは宗慶だった。

 

「雪殿の代わりに、わたしが話しましょう。雪殿はやさしいゆえ、口籠もられてもいたしかたあるまい。和也殿、水月殿、話とは響子殿のことでござるよ」

 

 ぼくと水月は顔を見合わせ、不安から互いに眉根を寄せる。いつもなら自分から口を開きそうな響子さんは、俯いたまま話に加わろうとはしなかった。

 

「響子殿の屋敷は、大木の根の下にあると聞いた。それは立派な木であるとか。どのような世界も空間も、雲が湧くように突如現れたりはしないもの。この残欠の小径とて同じでござろう。残欠の小径と呼ばれるようになった、この世界が生まれた一点とは、必ず存在するのであろうよ」

 

 残欠の小径が生まれた理由など、考えたこともなかった。それと響子さんに、いったい何の関係があるというのか。

 

「もともとはこれほど広い空間ではなかったであろうが、出来上がった空間は様々な者を引き寄せ、やがて残欠の小径と呼ばれるようになった。信じられぬであろうが、残欠の小径を造りだしたのは、一本の大木。大木の意思が形を成したのが、響子殿でござるよ」

 

 響子さんがあの大木そのものだと? そもそも木に意思があるなど思ったこともない。御神木という言葉が脳裏を過ぎる。

 

「響子さんは知っていたの?」

 

 響子さんはゆっくりと首を横に振る。

 

「幼稚な破壊者と不名誉な名を付けられた、和也と関わったあの日に抜け落ちた記憶のひとつだろうな。草陰のギョロ目の話では、鬼神から魂の欠片を守るためにわたしが器と成ったわけではないらしい。当初は、訪れる者の魂を単純に守り解き放つために己の内に抱え込んでいたというのだが、わたしには何の記憶もない」

 

 ぼくが奪った記憶なのか?

 

「響子殿は何もない場所に、独り立つただの木であったらしい。長い年月が、大木に眠る魂を呼びさましたのか、大木は春先に僅かに芽吹く命と触れ合い孤独を知った」

 

 見たこともない荒野に独り立つ大木を思った。何もない平地を風が吹き抜け、自分の葉だけがかさかさと音を立てる。寂しくて、悲しいと思った。

 

「何もない荒野だというのに、迷い鳥が大木に巣を作ったのでござるよ。日が暖かい内は良かったが、自然の恵みなど無いに等しい荒れ地のこと。寒さが押し寄せる中、小鳥は次第に弱っていった。小鳥から魂が抜け落ちるのを目にした大木は、目の前に迫った孤独に耐える自信などなかったのであろうな。己のまわりをぴぃちく鳴きながら飛ぶ姿は、大木を孤独から救い出し、孤独へは戻れぬ心を大木に植え付けた」

 

 言葉を切った宗慶の先を、引き継いだのは響子さんだった。

 

「記憶にはないが、草陰のギョロ目にかつてわたしが話したことは本当だろうな。孤独を恐れるわたしの心は、ある種空間を歪ませた。まだ命ある者と、肉体から抜け落ちた魂た共にある空間を生みだした。わたしは、蓮華と離れることに耐えられなかったのだろう」

 

「蓮華さんが?」

 

 それ以上の言葉は出てこなかった。何度も手を触れ言葉を交わした二人の、存在の境目が曖昧になっていく。

 

「つまりはこうだ。和也が取り替えっ子のようにあっちの世界へ追い遣られたのも、鬼神が無謀な欲を満たすための空間を造りだしたのも、もとはといえばわたしの責任」

 

 響子さんの目は、まっすぐにぼくを見る。自らの逃げ道を塞ぐような実直な眼差しに、ぼくはふっと笑みを漏らす。なんだ、簡単なことじゃないか。

 

「なぜ笑う?」

 

 訝しげに眉を顰める響子さんと、その背後で俯く蓮華さんにぼくはにっと笑って見せた。

 

「器に物を入れるのはいつだって他人だ。蓮華さんが淹れてくれる美味しい紅茶が入っても、毒が入っても、それは器を造った者の責任じゃない。だろ?」

 

 寸楽はけけっ、と顔中に皺を寄せて笑い、佐吉は肩眉を持ち上げちげぇねえ、と顎を搔く。宗慶は穏やかな笑みで蓮華さんの肩に手を置き、水月はどうでもいいと言うようにのんびりと欠伸をした。

 

「まったくの馬鹿だな! わたしが居なければ、おまえが無駄な苦労や苦しみを負うこともなかったのだぞ? 少しは怒るなり、憎まれ口を叩くなりしたらどうだ!」

 

 少し怒ったように語気を荒げる響子さんに、ぼくはくいっと顎をあげた。

 

「ばーか、考えることがちっちぇーんだよ! 怪力のくせに! 懺悔とか後悔なんて言葉、どうせいま知ったんでしょう?」

 

 ふっと俯いた響子さんが顔を上げる。にたりと響子さんの口の端が、持ち上げられたのを目にした時には遅かった。疾風のごとく間合いを詰めた響子さんの右手が、躊躇うことなくぼくの首目掛けて襲いかかり、反動でぼくは仰向けに床へと叩き付けられる。

 

「ぐえ、やっぱり響子さんはこうでなくちゃ」

 

 かなり苦しかったし痛かったから、これは単なる強がりだったけれど、響子さんはにやりとした笑みを引っ込め、ふわりと緩めた目元で優しく微笑んだ。

 

「やっぱりおまえは大馬鹿だ。だが、阿呆の塊は嫌いじゃないよ」

 

 にっこりと笑った響子さんにほっとする暇もなく、ぼくにまたがったまま首にかけられた手がすっと引いた。

 響子さんの表情から笑みが消え、何も読み取れない瞳の光りが、ぼくを不安にさせる。

 

「響子さん?」

 

「和也、これは今日得ることのできた最後の情報だ」

 

「誰から聞いたの? 町の人?」

 

 響子さんがゆっくりと首を横に振る。心なし、部屋に重苦しい空気が立ち籠めた気がした。

 

「お前達が少年と会って異変が起きてから、わたしの内側でも少なからず変化があった。飛び飛びの記憶だが、ふっと蘇るものもある。情報源は、わたしだよ」

 

 響子さんが僅かに唇を噛みしめる。何を、と聞けなかった。しんとした空気が、ぼくと響子さんの間を流れた。

 

「鬼神のことだ。オリジナルと今の鬼神という考えは捨てろ。オリジナルを乗っ取った人格の後に台頭したのが、今の鬼神だ。今の鬼神はおまえと……」

 

 響子さんが話す言葉を、耳が拒絶する。

 

――そんな……そんな馬鹿なことって。

 

 響子さんの言葉が霞む。大きく口を開けて息を吸い込んでも、肺に穴が空いたように苦しくて苦しくて、藻掻いた手で響子さんのスーツの襟を鷲づかみにした。

 息苦しさに、意識が薄れ始める。

 すごく遠くで、水月がぼくを叫ぶ声を聞いた気がした。

 なんだ、やっぱりぼくのせいだった。

 図々しくも、普通に生き抜こうなんて思ったからいけないんだ

 薄れる意識の中、残欠の小径に関わった人達全ての悲しみと憎しみが、ぼくというただ一点に向けて、濁流のように押し寄せる夢を見た。

 

 

 

 




覗きに来て下さった皆さま、今日もありがとうございます!
何とかまともに終わらせられないかと、わたしの頭はパンパンです((+_+))
もう少しがんばりますので、どうぞ最後までお付き合いいただけますように(╹◡╹)
では!


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46 跡形もなく砕け散るモノ

 雨雲の中から浮き出たとしたらこんな感じだろうか。

 瞼にうっすらと差す明かりに、ゆっくりと意識が目覚める。後頭部には、たんこぶを床にこすりつけた時のじわっとした痛み。

 最後に上体がぐらりと傾いだのは、何となく体が覚えていた。でもその前の記憶は、頭を打ち付けたときに衝撃と共に飛んだのか、何をしていたのかさえあやふやだった。

 

「目が覚めたか?」

 

 ぼんやりと開けた目に飛び込んできたのは、真剣な表情で上からぼくを見下ろす響子さん。反対側には、心配と言うには違う感情に眉根を寄せた水月が、口を真一文字に結んでいる。

 転んだにしろ倒れたにしろ、こういう時に目を覚ますのはいつだって響子さんの平手打ちのはずなのに、とどうでもいい習慣だけが思考の表層に昇る。

 ぼくはどうして頭を打ったのだろうか。

 再び瞼を閉じかけたぼくの頬に、ヒンヤリとした指先が触れる。

 いつもなら薙ぎ払うようにぼくの頬を打つ、響子さんの白く細い指先が、ぼくの頬をさらりと撫でた。

 

「あぁ……ぼくは」

 

 頬を撫でる響子さん指先が、蹲っていた記憶の結び目を解いていく。

 記憶の底から這い上がる響子さんの言葉が、殴られるよりも強い衝撃を持って、ぼくの肺を締め上げた。

 

「和也様! ゆっくり息をしてください」

 

 水中で聞くスクリュー音みたいに、蓮華さんの声がとらえどころ無く渦巻いて反響する。

 

――今の鬼神はおまえと……

 

 精神が拒絶した先へと続く声は、捕らえた聴覚が憎らしいくらいにはっきりと、ぼくの記憶に言葉を刻み込んでいた。

 

「今の鬼神が、ぼくとすり替えられた……あの子だなんて」

 

 譫言のように、感情の籠もらない声だけが口から漏れる。

 

「ぼくのせいだ」

 

 響子さんの冷たい指先が、半開きになったぼくの唇をそっとなぞる。

 反対に振り上げられた手の残像を視覚が認識した時には、口の中にうっすらと鉄臭い血が染み出ていた。張り倒した手の甲を、再度振りかざした響子さんの腕にしがみついて止める蓮華さんを、ぼくはぼんやりとした感覚のまま目の端で追っていた。

 まだ衝撃に揺れる脳と視界の中、食いしばった歯に響子さんの頬の傷が引き攣るのを見て、ぼくは痛いと思った。痺れる頬の痛みと、響子さんの傷の痛みが重なり合う。

 

「和也が言ったのだろう? 器に物を入れるのはいつだって他人だと。おまえという器に、いつか必ず意味を与えてやる! だがな、その役目は和也のものではない」

 

 怒りを帯びた響子さんの瞳が、伏せた睫で遮られる。

 

「器に自分で毒を注ぐような真似をするな。おまえの存在理由など、周りの者達がいずれ名付ける。今だに、独りで戦っているつもりではないだろうよ?」

 

 いつか成れるだろうか、空の器に呼ぶべき名を付けてもらえるような存在に。

 物心ついた頃から空っぽだったこの器を覗けば、今なら何かが見えるだろうか。

 振ってみたなら、からころと小さな音を鳴らす何かが。

 

「響子さん」

 

「何だ! しみったれた言い訳なら沢山だぞ!」

 

 立ち上がって背を向けた響子さんが、蓮華さんの手を振り切って部屋の奥へと歩いて行く。

 

「ありがとう、ぼくを見てくれて」

 

 大股に進んでいた響子さんの足が止まる。顔だけで振り返った響子さんが、苦虫でも噛みつぶしたように鼻に皺を寄せる。

 

「止めてくれ、気色悪い」

 

 そう言いながら向こうへと向き直る直前、響子さんの頬の傷が僅かに引き攣れた。

 笑ったのだと思う。

 頬の痺れが、すっと引いた気がした。腕で支えて体を起こし、ぼくはみんなへと向き直る。

 

「ごめん、もう大丈夫だから。筋道立てて、詳しく聞かせてもらえないかな」

 

 本来なら自分の記憶として響子さんが話すはずだったのだろうが、当の本人が奥の椅子に腰掛け頬杖を付いているのを見て、みんながきょろきょろと顔を見合わせた。

 ぼくを気遣うあまりに、誰もが話しづらいのだろう。

 

「聞いた通りに話すだけじゃが、わしでも良いかな? まあわしの考えも交えてな」

 

 皺の隙間から小粒な目を、ちょっとだけ見せた寸楽が諦めたように口を開く。この場面で口を開けるのはやはり年の功だろう。正座した背を丸めたまま、寸楽は淡々と語り出す。

 

「オリジナルとは元々の、という意味だとな? そのオリジナルの人格がまだ鬼神と呼ばれる前の名も無き魂じゃて。これは響子の記憶にもないが、わしらの予想ではこの子に最初に宿ったのが、和也の出会った少年、希神であったのだろうな。疑うことを知らぬ幼き魂と、無垢な魂は目の前に居る魂に手を差し伸べ続けていたのだろう。だが、最後にその手が掴んだのは、憎悪と欲に塗れた魂だったのだろうな」

 

「それが最初に鬼神と呼ばれた者なんだね」

 

 寸楽は皺だらけの口をつぼめて頷いた。

 

「最初の鬼神は、惹かれたのであろうよ。己と対局にある魂に。だがその者は差し伸べられた手を握ることを知らなかったらしいの。共に在るということを知らぬ者は、憎悪の対象も興味を得た物も全て支配しようとする。理解できずに押さえられないとわかれば、排除する」

 

 最初の鬼神に排除された希神は、その後あの場所に閉じこもったのか。いや違うな、あの場所から、外の光景が流れる様を目にしていたはず。肉体を持たない希神は、最初に寄り添った少年の姿をそのままに、自分の魂の器としたのだろうか。

 

「希神を追い出しても、体の主であった人格はそのまま残る。ここからは推測じゃがな、オリジナルの人格と触れることで、鬼神は家族の在り方を垣間見て、親の愛というものが存在するのだと知ったのではないかな。経験が無い以上理解はできなかったであろうが、それを自分が持っていないと感じることはできたはずであろう? 口に出さずとも自覚がなくとも、妬みはいずれ憎悪へと変わる。それを持っている者への憎悪じゃよ」

 

 寸楽が言葉を切ると、奥で頬杖を付いていた響子さんが、足を組み直して顔を向けた。

 

「わたしが想像で導いた結果も、いま寸楽が話したことと相違ない。肉体とはいっても、人の世の肉体とは意味が違うのは和也にもわかるだろう? 痛みも感じ血も流すが、人の持つ体とは似て非なるものだからな。だがな和也。肉体は成長しなくとも、魂は触れた経験と時の流れが成長させていくものなのだよ。最初に鬼神と呼ばれた者も、元をただせば子供であったのかもしれない。もう少し成長していたのかも知れない。最初の鬼神が報われなかったのは、触れた経験を糧に心を育ててくれる者を得られなかったことだ」

 

 希神を追い出してしまえば、そこに残るのは手の届かない夢のような景色だけ。触れることが叶わないなら壊してしまえと思うのは、未熟な精神が辿り着く結果。

 まるで隣の子が大切に持つおもちゃを奪って、地面に叩き付ける幼子のように。

 壊れてしまったなら、自分も遊べなくなるというのに。

 おそらくそれは、ひたすらにこみ上げる衝動。

 

「たったひとつの孤独が、悲劇の連鎖を生んだの?」

 

「周りから眺めればたった一人が抱え込んだ孤独でも、当人にとっては全てであろうさ。己の中に生まれた孤独が、周りの世界全てを染め尽くす。どんな物も過ぎれば毒と成る。抱え込んだ孤独も、長すぎる時間も、差し伸べられた希望の暖かさが己の腕に抱えきれないほどとなれば、それも一種の毒と成ろうさ。叶わぬと思い込んでいる希望は、時に負の感情に勝るほどに心を蝕む。この婆がいうのだから違いない。人など、乾いた砂の山より脆いものよ」

 

 独り言にも似た呟きに、寸楽が淡々と答えを返す。感情の色がない寸楽の口調は、かえって長すぎる人生の起伏を感じさせ、重みを持ってぼく胸で染みとなる。

 

「その後どうやって最初の鬼神が、今の鬼神の魂に手を出したのかは定かではない。鬼神の放つ匂いが変わったと、あの時草陰のギョロ目は言っていた。魂の吹き溜まりともいえる残欠の小径では、一つ一つの魂が放つ匂いがあると言われていてな、敏感に嗅ぎ取る者もそうではない者もいるが、あいつが感じたのなら、そうなのだろうな。ある日を境に、宿る魂の主導権が入れ替わった」

 

 顔を横に向けたまま話す響子さんの頬に、耳にかかっていた横髪がさらりと落ちる。

 

「残欠の小径で魂を漁ったというならならわかるよ。ぼくと入れ替わった少年が、たとえば死にかけていたとしたらそれが理由付けになるだろうけれど、あの子はただの元気な男の子だった。記憶の泉で垣間見た映像は、普通の親子を映し出していたからね。人の世に、どうやって手を出したのだろう」

 

 この小屋の中で話を聞きながら、ずっと胸の中に渦巻いていた疑問。

 肉体を持ったままの子供を、どうやって残欠の小径に引きずりこんだ?

 今の鬼神の姿がオリジナルの物なら、少年の肉体はどこへいったというのか。 

 

「それはおまえも同じだろう? こっちの生まれで在るにもかかわらず、人の世で人生のほとんどを過ごしている。そして帰ってきた。確証はないが、和也の体や感覚は確実に人の世の影響をうけていると思うよ。残欠の小径へ立ち入るようになって、戻ってきた感覚もあるだろう?」

 

 水月の言葉には思い当たる節が多すぎて、ぼくは黙って頷くしかできなかった。

 常識の範疇で捕らえようとすると、何もかもが収まらない。

 ぼくが常識からはみ出しているというなら、入れ替わった少年の身にも同じような原理が働いたと思った方がすんなりいく。方法はわからなくとも、結果は今此処にあるのだから。

 

「和也が疑問に思っていることを、ここにいる全員が一度は思い浮かべただろうよ。だが拘っているのはおそらく、和也だけじゃないかな? みんな既にその先を見ている。こっちの世界で産まれていない者でも、すでにここでの生活の方が長い者が多いだろ? こっちの世界を総称で残欠の小径と呼ぶなら、俺達はみんな残欠の小径の理に添って思考する。だが和也は違う」

 

 穏やかに話す水月の表情はなぜか寂しげに見えた。

 

「和也は、人の世で生きた知識と感情で物事を考えている。だから長く思考を巡らす必要の無い事象に拘るのだと俺は思う。良くも悪くも人の世が和也を育てた。おまえは完全に、人の世の子として思考している」

 

「どういうこと? 余計なことを考えすぎ? ぼくが理解できないことを、みんなは理解しているってこと?」

 

 水月はふわりと口元に笑みを浮かべる。

 

「おまえが居るべきなのは、やはりここでは無いのだろうな。此処では、無くなってしまったのだろうな」

 

 落とすように呟いた水月がはっとした様に顔を上げ、いつものようにへらへらとした笑いに目尻に皺を刻む。

 

「気にするな、オッサンの戯言だ」

 

 頭の上でひらひらと手を振って水月は立ち上がると、響子さんの向こう側に、まるで姿を隠す様に腰を下ろし口を噤む。

 ぼくがいるべき場所が此処にないなら、たとえ決着が付いたとして、どこに行けばいいのだろう。

 生まれ育った世界に、もうぼくの居場所はないのに。

 それを知りながらあえて言葉を投げかけたであろう水月を、少しだけ恨めしく思う。

 

「確かにぼくはどっち付かずだ。それはある意味、ここにいるみんなとは違う目線で物事を見られるということだろ? 的外れかも知れない。みんなにとっては気にする必要のない些細なことかもしれない。けれどぼくが仲間として役立つ利点は、おそらくそこだと思う。ぼくなりの曲がりくねった思考回路で考えてみる」

 

「馬鹿正直の緩んだ頭のネジが少しは締まったか? 何を思っている? 聞いてやるよ」

 

 穏やかな表情で、響子さんが美しい目を細める。

 

「人の世と残欠の小径を異世界として見るから、何でもありな感じになって、事が起こる定義があやふやになるんじゃない? ひとつのことが起こるには、必ず原因がある。花が咲くには種が必要なようにね。鬼神の力だけで、二つの世界に穴が穿たれたというのは強引すぎる気がして。何かもっと別の種が撒かれていたと思うんだ。ずっと前に、それこそ誰もがそんなつもりはなかったような自然な状態で。無意識だとしても、二つの世界を繋ぐ道を造った」

 

「なぜそのように思われるのかな?」

 

 宗慶はなんとか理解しようとしているのだろう。袂にいれた手を忙しなく動かしている。

 

「ぼくとあの子が入れ替わった瞬間を記憶の泉で見たけれど、どうしても引っかかる。幼かったふたりには、強制された様子も怯えも見られなかった。あの時点でふたりは、幼心にも納得して行動していたのだと思うよ。どうしたらそんな事ができる? 何を餌にしたら、幼い子供を思い通りに動かせる?」

 

「仮に真実がわかったとして、それがどのような意味を持つのですか?」

 

 おずおずと雪が聞き返す。

 

「鬼神を止めるためには、鬼神を突き動かした事柄を知る必要があるから。ぼくを付け狙う理由はわかったよ。当たり前だよね、ある意味ぼくが親や家庭を奪ったのだから。問題はその前だ。鬼神でさえ気づいていない、もしくは忘れかけている何かを知ることで、もう一歩進める気がするんだ。根本を理解しないと、彩ちゃんから受け継いだナイフもただの飾りになってしまう気がしてね。これって、人特有の考え方?」

 

 雪は目を見開いて大きく首を横に振る。そんなに強く振ったら見ているこっちが目眩を起こしそうだと、ぼくはひっそり苦笑した。

 

「その腕に収められているのは、この地を守り続けてきた刃です。わたし達の希望そのものなのです。それに、そのような責任を感じられる必要など、ないと思うのです」

 

 俯く雪にぼくはありがとう、と笑って見せる。 

 

「どっちにしても幼ない子供から、母親を奪ったのはぼくだもの。その子の魂が鬼神と呼ばれる者であっても、その事実だけは変わらない」

 

「和也、幼い頃に本来の居場所を奪われたのはおまえも同じだ」

 

 再び怒りを滲ませた響子さんに、ぼくはひらひらと手を振った。

 

「そんな恐い顔しないでよ。ぼくは大丈夫。二度と戻れない場所が懐かしくても、ちゃんと前を向いて進んでいるから。でも鬼神は違う。二度と戻れない場所から逃れられなくて、いつまでも同じ場所に留まり続けているんだろうなって」

 

 軽く頷きながら響子さんが席を立つと、横で頬杖をつく水月が見えた。

 

「前に響子さんはいったよね。残欠の小径の住人である響子さんに、触れたり話したりできるのはどうしてかって。今になって思えば、逆の疑問も湧くでしょう? こっちで生まれたぼくが、響子さん達と普通に関われるのは不思議なことじゃない。だとしたら、どうしてぼくは人の世で人間と触れ合うことができたのかな? 話すことができたのかな? 誰ひとり、ぼくを認識できない人はいなかったよ? ぼくはどうして、両方と関われたのだろう」

 

 水月が思わずというようにちらりとぼくを見ただけで、誰も口を開かなかった。

 

「少しだけそれぞれの時間を持って考えようよ」

 

 立ち上がって尻を叩き埃を落とす。突破口となる一点が見つからない限り、このまま話し合いを続けても堂々巡りは避けられないだろう。

 

「ぼくはチビでも探しにいこうかな。どこにいったのか全然姿を見せないし。庭でシマの後をくっついて歩いているならいいけれどね」

 

「俺はいったん小屋に戻るよ」

 

 水月が腰を上げると、部屋の中でぱらりぱらりとみんなが立ち上がる。

 誰を待つことなく、ひとり階段を昇り始めた水月の足取りはゆっくりだというのに、少しだけ丸められた背中は、この場から離れることを急いてでもいるように静かな拒絶を漂わせていた。

 

「へらへらした、いい加減なだけの中年のオッサン、てわけじゃないよな」

 

「何かいったか?」

 

 水月の背を見送りながらぽつりと漏らした声に、響子さんがぼくの顔を覗き込む。

 

「いや、何でもないよ。響子さんも一緒にいく?」

 

「あぁ、蓮華を連れてカナに会いに行ってみる。行き詰まったときは、酒が答えをくれることもあるしな」

 

「酒がくれる答えより、カナさんに女性らしさを分けてもらいなよ」

 

 口の中でもごもごと呟いただけの口が閉じる前に、太ももに蹴りが入ってその場でぼくは跳ね上がった。

 

「何かいったか?」

 

「いいえ、何も」

 

 ドスを聞かせた響子さんに、爽やかな笑顔と返事を返し太ももを擦る。尻の下から足がちゃんと生えているのが、不思議なくらいの衝撃だった。

 踵を返して歩き出す響子さんの背に、べっと舌をだす。さすがに背後に目はついていないだろう。

 

「冗談いうのも命懸けかよ」

 

 いつのまにか隣に立っていた蓮華さんが、口元に指を添えてくすくすと笑う。

 

「大丈夫ですよ和也様。いくら響子様でも命を脅かすようなことはなさいません。せいぜいが、死にそうな思いをするだけですよ」

 

 珍しく笑い続ける蓮華さんに、ぼくは苦笑いを返して痛む太ももを揉みほぐす。

 綺麗な笑顔でぶっそうなことをさらりと言われると、かえって真実味が増して恐ろしいって。

 そんなやり取りをするぼく達の横を、軽く頭を下げた雪が駆け抜けていく。黙って座っていることなどできない性分なのだろう。その後に続いたのは、裾を尻まで端折って大股に駆け上がる佐吉だった。

 ここまで来るだけで疲れたという寸楽に付き添って、宗慶はしばらく此処にいるといった。

 くすりくすりと笑い続ける蓮華さんの後を追って、ゆっくりと階段を上がっていく。

 もし目の前にいるのがタザさんなら、この状況できっと蓮華さんのように笑うことはできないと思う。先に出ていったのがシゲ爺なら、酒に逃げることはあっても酒に答えを求める余裕などないだろう。同じように悩み苦しみながら、それでもやはりここは残欠の小径なのだ。少しだけ人とは異なった思考と道を通って、先に進もうとする人達。

 故郷の住人達は驚くほどに逞しくて、ぼくはそれがちょっとだけ羨ましかった。

 

「響子さんが飲み過ぎないように、ちゃんと監視していてね。蓮華さんだけが響子さんの手綱をあやつれるんだから」

 

 軽く振り返って頷いた蓮華さんが、入口の戸を押し開ける。開いた隙間から薄ら青い空が見えた。

 

「蓮華さん?」

 

 押し開けた戸から一歩外へ出たはずの、蓮華さんの華奢な体が消えた。転んだのかと見下ろした地面には、蓮華さんの姿どころか靴を引きずった後さえない。

 響子さんの悪戯か? まったく脳天気にもほどがあるだろうに。

 

「蓮華さん、大丈夫?」

 

 戸口をまたいで屋外へと足を踏み出した途端、空気が変わった。

 肌に絡みつく粘着質な気配に、ほんの一瞬体と思考が動きを止める。

 そこに生まれたのは、防御を失った隙。

 

「本当に邪魔なんだよ。そんなにちょろちょろ動き回られると、余計なところで埃がたつ」

 

 幼い声と共に、鬼神の三白眼がぼくを見上げる。黒い大刀が首筋に当てられ、氷を滑らせたように半身をぞくっとした悪寒が走った。

 

「僅かな埃に目くじらをたてるとは、何をそんなに焦っている?」

 

 動かした視線の先には、響子さんと蓮華さんが折り重なるように倒れていた。二人の先に立つのは分厚い下唇をべろりと突き出し顔を歪ませる男。

 まったくこの男、幾度見ても好きにはなれない。

 

「未来に希望など持つから、邪魔な動きをやめないのだろ? 塵にも劣る希望を、砕いてやろうか」

 

 見上げる鬼神の目に宿るのは憎しみだろう。事実を知ったばかりの今、直ぐには返す言葉が見つからなかった。やるべき事は変わらないというのに、心が置いてけぼりになっている。

 返事のないことに痺れを切らしたのか、鬼神がちっ、と舌を打つ。。

 

「その阿呆面に、気合いを入れてやる」

 

 鬼神がにたりと頬を歪ませる。

 切り込まれるという恐怖を覚えて、瞬時に体が硬直した。

 

「これでどうだ?」

 

 氷にも似た冷たさが首筋から離れ、体が触れるほど近くに立っていた鬼神の姿は消えていた。

 慌てて声の方へと首を巡らせる。

 

「やめろ!」

 

 細い紐に縛られ頭から薄汚い布袋を被せられた二人の上に、鬼神が両手で翳した黒い大刀がぎらりと光る。

 半開きだった戸をはね除けて、右足が乾いた地面を蹴り上げた。何も考えられなかった。

 折り重なって倒れる二人が鋭利な切っ先で貫かれる前に、黒い大刀との間にこの身を滑り込ませたかった。

 

「くっ!」

 

 右の手首に熱湯をかけられたような激痛が走る。

 

 ガシャ

 

 鈍い音と同時に、二人の上に覆い被さる。この手で何かをはじき飛ばした確かな感触に、腕がじりじりと痺れていた。

 

「どうだ? 希望の全てを砕かれた心境は」

 

 鬼神の小さな足が後退って、乾いた土がしゃりしゃりと音を立てる。

 

「その二人の魂と引き替えに、おまえは残欠の小径を捨てたんだ」

 

 けたけたと耳障りな嗤笑が遠ざかる。

 骨の芯から痺れる右手には、根元から刃の折れたナイフの柄だけが握られていた。

 

「そんな……」

 

 折れて弾き飛ばされた土の上で溶けて消えていこうとしているのは、光りを放つ小さな刃。

 銀色の刃から溶け零れるように、光りの粒が大地へと還っていく。

 呆然と見ていることしかできなかったぼくの目の前で、希望の刃は跡形もなく姿を消した。 

 

 

 

 

 




見に来て下さった皆様、どうもありがとうございます!
読んで下さる人が増えると嬉しいですっ
今回はちょびっと長くなりました。
次話もがんばりますので、見に来ていただけますように。
では!


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47 その想いに名を付けるなら

 光りの粒となって刃が大地に吸い込まれた後、がくりとぼくは膝を付いた。

 全身から根こそぎ力を奪うように流出する何かが、確実に体力と気力を削いでいく。ぷつりと意識が飛びそうになるのを頭を振って押さえていたぼくは、頭から布の袋を被せられ折り重なって藻掻く二人の姿に気力を振り絞る。太ももにありったけの力で爪を立て、ともすれば飛びそうになる意識ごと体を引きずって、響子さんと蓮華さんの横まで這いずった。

 

「今、解くから」

 

 もっとかけたい言葉はあるというのに、酸欠の痺れにも似た口元はいうことをきかなかった。

 少し強引に頭から布の袋を引き抜き、螺旋状に体に巻き付けられた細い縄を引き千切る。縄の様に編まれてはいるが、太い糸といった方が正しいそれは、あっけないほど簡単にぷつりと切れた。 これほど簡単に指先で千切れてしまう細い縛りから、響子さんと蓮華さんは決して自力で逃げ出すことはできない。

 まるで彼女たちを縛り続ける理を、物質化したようだとぼやける頭の隅で思う。

 

「和也様、大丈夫ですか?」

 

 くらりと傾いだぼくの体を、蓮華さんの腕が支える。見上げた先で響子さんは、表情のないまま地面に視線を落としている。

 大丈夫だとぼくが腕を付いて体を支えると、蓮華さんは自分を縛っていた細い縄を手に、訝しげに眉を顰める。幾本も重ねて編み込まれた糸を丁寧に解き、その一本一本を指に絡めては強く引く。

 

「なぜこのように手間のかかることを?」

 

「その縄がどうかした?」

 

 口から息が抜けるような情けない声で、ぼくが問うと蓮華さんは解いた異なる二本のうち一本の糸を指先に絡め、ゆっくりと両側に引いて見せる。

 ぷつり、と糸が切れた。

 

「もう一方の糸はわたしに切ることはできません。おそらくはこの世界の物ではないのでしょう。ですが、それらに混ざって幾本も、この世界で作られた糸が混ざっているのです。わたし達を束縛するだけなら、引き千切れないこちらの糸のみを束にすればよいこと。この縄を編んだ者の意図を計りかねます」

 

 その通りだ。響子さんを束縛し続けた紐も、この世界の物ではなかった。この世界の物であれば、響子さん達の障害にはならない。

 そんなことを思う内にも、ぐらりと視界が揺れる。

 仰向けに倒れたぼくは、目を閉じて自分の呼吸に集中した。

 大量に血を失って気を失うときは、こんな感じなのだろうか。視界も思考もぼやけて、ひたすらに息苦しかった。

 

 ミャ

 

「チビ?」

 

 鳴き声のした方へ目を懲らすと、小さな白い塊の横には雪らしきシルエット。一度目を閉じてうっすらと瞼を開けた時には、チビはぼくの脇にいた。ひょいと胸に飛び乗ったかと思うと、胸に乗せた右手の辺りに顔を近づけた。

 手には何も感じなかったが、舐めたのだろうか。

 全身から垂れ流されていたものの流出が止まった。

 

 ミャ

 

 ぼくの顎を、チビの舌がちろりと舐める。

 吸い込んだ息に、肺が満たされた。抜け切っていた力が内側から少しずつ湧き上がり、体の痺れが止まっていく。

 ぼやけていた思考を働かせる気力も戻ったことに、ぼくは安堵の息を吐く。

 

「またチビの力なの? ありがとう」

 

 胸の上に乗ったまま顔を覗き込むように座る、白く小さなチビの頭をそっと撫でた。

 

「申し訳ございませんでした」

 

 雪が傅いて深く頭を垂れる。

 

「雪さん向けに、一般常識教室だな。こういう時はね、みんなに駆け寄って大丈夫っていうだけでいいんだよ。誰かが潜んでいたことなんて気付かなかったんでしょう? おそらく雪さんに気づかせない策を講じていたのだと思う。雪さんのせいじゃない。だから、その謝罪は受け取れない」

 

 おずおずと顔を上げた雪に、この言葉の全てを理解することはまだ無理だろう。ぼくはにっこりと雪に笑って見せた。

 再び目を伏せた雪は、意を決したように顔をあげる。

 

「まさかと思い、急ぎ引き返しましたが間に合いませんでした」

 

 雪が先の話を繋げようと息を吸い込んだとき、向こう脇の草がごそりと動く。

 

「残欠の小径の空気が変わった」

 

 片目だけを覗かせ姿を見せたのは、草陰のギョロ目だった。

 

「おまえの手にあるそれのせいで、ここの守りが薄れつつあるのかもしれん。急な変化ではない。だがそれは、ゆっくりと真綿が首を絞めるように、残欠の小径の息の根を止めるだろうよ」

 

 僅かに掻き分けられていた草がさっと閉じ、草の切っ先が僅かに揺れるだけで、草陰のギョロ目の気配は既に感じられなかった。

 

「和也様、お手にされている柄はいったい」

 

 頭に被った黒い頭巾の隙間から、大きく目を見開く雪に弁解の言葉が見つからず、ぼくは首筋を搔いて口にすべき言葉に頭を巡らせる。

 

「鬼神にやられた。意外と簡単に折れてしまうものなんだね」

 

 考えた挙げ句がこれかと、自分が情けなくて鼻の頭に皺が寄る。

 呆けたようにこっちを見ている蓮華さんの顔は、とてもじゃないが直視できない。今だに無言を貫く響子さんは、この結果に何を思っているのか考えただけでも身が竦む。

 

「それも要因のひとつなのでしょうか」

 

 まるで自分に問うように、雪の声が落ちる。

 

「雪さん、町で何があったのですか?」

 

 傅いたままの雪に歩み寄った蓮華さんが、そっと雪の肩を抱き立たせた。

 僅かに躊躇する表情を浮かべた雪は、きゅっと唇を一度結んで息を吸い込む。

 

「乱獲です。道の往来に立つ人々を、手当たり次第に網で捕らえている様に、わたしには見えました。網を手にしていたのは、鬼神と行動を共にするあの男でした」

 

「まって雪さん。その男ならここにいたよ。響子さんと蓮華さんを縛り上げたのは、おそらくその男だと思う。雪さんに姿を見られた後、男はどうやってここへ来たんだ?」

 

「和也様、逆ではないでしょうか。ここでわたし達を縛り、和也様の刃を折った後、鬼神達は町へ向かったのではありませんか? 草陰のギョロ目がいっていたように、刃が折れたことで残欠の小径の守りも空間の均衡も崩れたとしたら、決して不可能ではないと思うのです」

 

 蓮華さんの声も言葉も、何一つぼくを責めてはいないというのに、その優しささえ胸の奥を絞り上げる。

 

「彩ちゃんが守り続けた物を、こうもあっさり失うなんて。弁解のしようもないや。正直いって、どうしていいのかわからないんだ」

 

「残欠の小径を守り続けてきた刃だ」

 

 口を開いた響子さんの声は重い。

 

「うん」

 

 しゃり、土を擦る音と共に、響子さんの足が一歩踏み出される。

 

「使い方を模索していたとはいえ、希望の刃だった」

 

「そうだね」

 

 しゃり

 

「魂の掃き溜めのようなこの地でも、その刃で守れる者は多かったであろうよ」

 

「わかってる」

 

 しゃり しゃり

 

「それをおまえは……」

 

 目の前で握りしめた響子さんの拳が震えている。

 落胆という名の怒りが捌け口を見いだせずに拳を振るわせるなら、素直にぼくを殴ればいいのに。

 

「わたしひとりを失ったところで、この世界は何も変わらない。鬼神に呑まれたままの魂達の元へ、この体から溢れた魂の残滓の糸は戻っていくだろう。それがどのような結果を生むかはわからないが、少なくとも、わたしの命と引き替えるほど安い刃ではなかったな」

 

 背を向けた響子さんの肩が大きく上下する。

 助けなければ良かったと怒鳴る事ができないのは、あの場に蓮華さんがいたからだよね。

 震える響子さんの拳に、手を伸ばしそうになる自分がいた。

 そうか、殴られた方が楽になれたのは、きっと自分の方だ。

 

「町へ行こう」

 

 立ち上がると、体の芯が波に揺られたように数歩ふらついた。腕を支えてくれたのは雪だった。

 

「目にしたからといってどうなるとも思えんが、行ってみるか。和也、その状態で襲われたら、小石を割るより簡単に死ぬかもしれんぞ」

 

 背を向けたままの響子さんに、ぼくは頷いた。

 

「わかっている。一つだけルールを設けよう。刃を失った今、この先ぼくは何の役に立つこともないと思う。だから……」

 

「和也様?」

 

 心配そうな目で覗き込む、雪の頭をそっと撫でる。

 

「万が一襲われて窮地に陥ったら、ぼくの事は放って逃げて」

 

 隣で雪が音を立てて息を吸い、言葉を押さえるように口元に手を当てた。

 

「わかった。そうしよう」

 

「響子様!」

 

 留まるべきか躊躇したらしい蓮華さんはひとつ頭を下げて、走り出した響子さんの後を追っていく。

 それでいい。ぼく以外の者が生き残った方が、残欠の小径に僅かであっても希望が灯る。

 

「雪さんも二人についていって。何かあったら、雪さんが頼りだから」

 

 腕を支える雪の指にぐっと力が込められた。

 

「心配いらないって。ほら、小さな用心棒がそこに残っているもの」

 

 にこりと笑ってチビを指差すと、雪はいきなり千切れそうなほど首を横に振る。

 

「嫌です」

 

「え?」

 

 雪の口から、初めて発せられたであろう言葉。

 

「わたしが命令を聞くのは、お仕えする主人だけです。和也様は、わたしの主人にはなってくださらないのでしょう? ですから、この命令はきけません」

 

 半ば強引に腕を引いて雪が歩き出す。

 

「雪さん?」

 

「前にもいいました。わたしは、自分の意思で動きます。誰の命令も……受けません」

 

 語尾が細くなった雪の声に、思わず笑みが漏れた。言われ続けたことを何とかこじつけて、ぼくの側に居ようとしてくれている。本当は立ち去って欲しかったけれど口先だけでも、たとえこじつけでも、雪が誰の命令もきかないと言ってくれたことが嬉しかった。

 

「わかったよ。行こうか。チビ、護衛をしっかり頼むよ? 何せひとりじゃまともに歩けない役立たずと、女性がひとりだからね」

 

 ミャ

 

 わかってか解らずか、チビはひと鳴きして腰をあげ、ゆっくりと町へ抜ける道を歩き出す。

 森の様子は更に変わっていた。

 生い茂っていた葉が、秋を迎えたように黄色く色を変えている。おそらくは、枯れ始めているのだろう。手に握り続けていた柄に意識を集中すると、軋むような痛みを伴って腕の中へと消えて行った。

 

 

 

 黒いタイトスカートを太ももに張り付けて真っ直ぐに立つ、響子さんの背が見えて安心にほっと息を吐いたのも束の間、ぼくは一歩前に踏み出したまま歩みを止めた。

 たらりと指先を開いたまま腕の先で垂れる響子さんの手が、目の前にある光景に心を持っていかれているのだと語っている。これ以上前に進んで、同じ光景を目にするのが恐かった。

 

「和也様、わたしが付いております」

 

 促す雪に頷いて、ゆっくりと前へ出る。町並みの屋根が見えて道の只中に立つ人々が、変わらず呆けたように立ち尽くしていた。

 

「あぁ……」

 

 ぞわぞわと肌が粟立ち、息と共に悪寒を吐き出した。 

 

 遠くから小さく見える人々は動かない人形のようで、すっかり隙間だらけになったその只中に、あの男は居た。雪がいっていたように、手に網を持ち狙いを定めては人々を絡め取っている。

 離れた場所から、これほどまでにはっきりと詳細を見てとれる事が不思議だった。意識を集中したなら、土の道に舞う砂粒さえ数えられそうなほどに。

 ぼくは男の動きに感じた違和感を見極めるため、異様に研ぎ澄まされた視覚を凝らす。

 ゆっくりと人の間を歩く男が立ち止まって網を投げると、網はまるで意思を持っているかのようにうねり、数人を手中に収めていく。

 

「違う、乱獲なんかじゃない」

 

 振り返った響子さんが、軽く顎をしゃくって話の先を促す。

 

「網に惑わされちゃ駄目だ。あいつは確実に獲物を選んでいる。理屈はわからないけれど、男の意思に答えて網は的確に標的を捉えているんだ。狙われているのは、動物の化身ばかりじゃないか」

 

 網に捕らわれた人々は身じろぎもせず、全身を網に覆われた途端姿を消す。地に這うような網の下に眠るのは、動物の姿だった。犬に猫、鳥の姿まで。

 ひとつの例外もなく、動物の姿は砂と化して道を通る風に攫われる。

 あの少女と同じように、砂と成った魂が継ぎ接ぎの町に舞い上がる。

 

「ぼく達の責任だ。あの少女が消滅したことで、動物の化身が動き出したことを鬼神は察知したんだ。彼らが何をしようとしていたのかはわからないけれど、鬼神は阻止しようとしている」

 

「止めるぞ!」

 

 駆けだそうとした響子さんの前に、身を滑り込ませた影があった。

 

「待たれよ。我らの覚悟を無駄にしてはくれるな」

 

 柔和な表情の翁がひとり、腰の後ろに手を組みのんびりとした調子で、しかしはっきりとした意思を持って立ちはだかっていた。

 

「あんたは?」

 

 響子さんの問いに、翁は目のまわりに皺を寄せて笑みを浮かべる。

 

「わしは、確かトウと呼ばれておったかな。主人は鷹狩りを好み、狩り場までよくお供した」

 

「どうして止めるのですか? このままではみんな消滅してしまう。助けにいかないと。あのままではどんな覚悟をしていたって無駄死にです! 無抵抗なまま消えて行くなんて」

 

 当然のことを口にしたつもりだった。だが翁はゆっくりと首を横に振る。

 

「あやつらの行動が、後に続く者への道を開く。無駄死にとは、後悔する者に向ける言葉。誰も後悔などしてはおらぬよ。次ぎに続く者達が切り開いた道を繋ぐのは、おぬし達じゃからの。あやつらの覚悟を無駄死にと名付けるかは、おぬしらがどう動くかにかかっておる」

 

 いったいどうしろというのか。

 それにな、と翁は続けた。

 

「意思と意味を持った無抵抗は、無意味な行動に勝る。あやつらは、捕らえられるために己の意志で立っているのじゃから」

 

 理解できなかった。翁の言葉をどうしても呑み込めない自分がいる。

 

「ここを守っていた者から引き継いだ刃は、鬼神に砕かれました。今のぼく達にできることはないんです」

 

 町へ向けて半身を返しかけた翁が、ぼくへと向き直る。

 

「柄は失っておるまい。柄の先にどのような刃を据えるかは、手にした者しだい。われらは人でもなく、残欠の小径と呼ばれるこの世の者でもない。物の怪にも想いはあってな。我らの想いが、理の鎖を断つであろうよ。断たれた鎖は、必ずや道を開く。我らの思考など、人の子ほど複雑ではないのでな。ただひたすらに、己が寄り添った主を助けたい。ただそれだけなのだよ」

 

 誰も口を開こうとはしなかった。翁がゆっくりと坂を下って町へと歩みを進めていく。

 立ち尽くす人に紛れた翁の顔には、いつの間にか黒い布の面が垂れ下がっていた。

 少しずつ翁と男の距離が縮まっていく。ぴたりと翁の足が止まった。

 訝しげに首を巡らせた男が、翁へと視線を向ける。僅かに逡巡した後、男の手から網が投げられた。

 

「どうしてこんな」

 

 蓮華さんが両手で顔を覆う。

 翁を捕らえた網が沈んだとき、その下に横たわっていたのは一頭の黒い馬だった。

 たてがみが砂と成って宙に舞う。

 男が網を引き上げたとき、土の道には何かが存在したという欠片さえ残ってはいなかった。

 網を手繰り寄せた男が、僅かに小首を傾げるのが見えた。

 

 ミャ

 

 チビが踵を返して歩き出す。険しい表情のまま響子さんがその後に続いた。

 支えようとする雪に、もう大丈夫だからと手を振り、ゆっくりとぼくも歩き出し直ぐに足を止めた。

 背後から感じた異様な気配に思わず振り返る。

 

「伏せろ!」

 

 叫ぶだけで精一杯だった。蛇のごとく身をくねらせる黒い帯が、尾を引いて目前に迫っていた。

 無理だと悟った。自分が逃げ切る時間はもはやなくて、瞬時にぼくは背後にいるみんなの盾になろうと両手を広げた。

 きつく目を閉じたぼくを襲うはずの衝撃、もしくは力を奪われるような脱力はいつまで待っても訪れない。恐る恐る瞼を開いたぼくは、次の瞬間目を見開いた。

 

「何をしてるんだ!」

 

 黒い帯とぼくの間に立ち塞がった、響子さん体が崩れるのを全身で受け止める。

 激しく上下する響子さんの胸に、黒い帯の尻尾が呑まれて消えた。

 

「響子さん、しっかりしてくれ!」

 

 全てをその身に収めた響子さんの口の端から、たらりと赤い血が垂れる。

 

「わかったって言ったじゃないか! ぼくを助けないって決めたんだろ?」

 

 血に染まった唇で笑う響子さんの唇は、小刻みに震えていた。

 

「助けたわけじゃない」

 

 聞いたこともないほどに細い響子さんの声に、ぐっと肩を抱き寄せる。思っていたよりずっとか細い肩だった。

 

「宿なしのおまえを泊めて……飯でもつくらせた方が得だ。蓮華が……楽を……できる」

 

 ぼくの腕に、がくりと響子さんの首が落ちる。

 残欠の小径に長く尾を引いて、蓮華さんの悲鳴が響き渡った。

 

 

 

 

 





次話も覗きにきてくださいね(^-^)
では!


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48 盗み聞き

「和也!」

 

 平手で脳天を張られた衝撃で我に返ると、少し離れて蹲る蓮華さんに駆け寄る水月の姿があった。

 

「庭ってのはどこにある? カナって女性が居る庭だ!」

 

 蓮華さんの肩を支えて立ち上がらせた水月は、だらりと力の抜けた響子さんの腕の下に素早く自分の腕を滑り込ませ、軽々と肩に担ぎ上げる。

 

「カナさんの庭なら知っているけれど、どうしてそこへ?」

 

「いいから早く案内しろ!」

 

 たしかにカナさんなら何か、響子さんを助ける方法を知っているかもしれない。飛ぶように立ち上がったぼくは、後ろを振り返りながら駆けだした。

 

「急げ! 女の一人くらい背負っていても走るくらいできる」

 

 水月に頷いて、前を向いて駆けだした。

 ぼくの前を白い毛玉が転がっていく。チビが水月を呼んできたのだろうか。ちらりと振り返ると、チビを追って全力に近い速度で走るぼくの後を、言葉に違うことなく水月がついてくる。その後ろを走る蓮華さんが若干遅れてはいたが、最後尾を守るように走る雪に全てを任せ、今は全力で走ろうと思った。

 響子さんの体に目立つ傷はなかった。口から流れた血が、どんな攻撃によるものなのか解らないことが不安で、腕を振る先で固く拳を握りしめる。

 

 庭が見えてきた辺りで一気に速度を上げた雪が隣に並び、自分は佐吉達の様子を見てくるとだけ言い残して、風のように姿を消した。

 駆け込んだ庭では、いつものように庭に面した廊下で、壁に背を預けたカナさんが座っていた。

 

「カナさん!」

 

 顔を上げたカナさんは、水月に担がれた響子さんを見てすいと目を細める。

 

「あんたがカナさんか? 響子があんたは物知りだと言っていた。どうにもならないことがあれば、あれは頼りになる女だと。こいつを助けられるかい?」

 

 廊下に横たえられた響子さんの頬をそっと撫でたカナさんは、熱い湯にでも触れたようにさっと細い指先を離す。響子さんが倒れるまでの経緯を話すと、カナさんは長い睫を伏せて目をとじた。

 

「響子さんの体内に入り込んだ、あの黒い帯状の物がなんなのかさえ解りません。外傷もないのに、口から血を流して気を失ったから」

 

 ぼくに言える事は多くない。

 覚束ない足取りで近寄ってきた蓮華さんが、そっと響子さんの手を握ったが、その手をカナさんがそっと引き剥がした。

 

「これと似た状態に陥った者を、昔見たことがあるのだよ。あまり長いこと触れてはいけない。邪気に当てられてしまうからねぇ」

 

 薄く瞼を開いたカナさんは、遠い日を見るようにそういった。

 

「邪気? そんな、水月さんはずっと響子さんを担いできたんですよ?」

 

「そちらの御仁は心配入りやしませんよ。どうやらその御仁、混じりけがないと言うわけではなさそうにございますから。己の内で飼い慣らした闇は、この邪気にさえ勝るだろうからねぇ」

 

 訳のわからない言葉に振り返ると、水月はすっと視線をそらした。

 

「カナ様、響子様を助けて下さい。わたしにできることなら何でもいたします」

 

 深く頭を下げる蓮華さんの指先から、すでに震えは引いていた。やはり彼女は強い人なのだと、響子さんの為ならどこまでも強くあろうとする人なのだと思った。

 

「立ち枯れ草を煎じたものを飲ませれば、邪気が体の内から抜けていくでしょうよ」

 

 立ち枯れ草という希望を耳にした蓮華さんは、唇を真一文字に引き締め、スーツの襟をすっと胸元まで整える。

 

「それは何処にあるのですか?」

 

「この屋敷の庭ほどの広さで自生している野草で、文字通り立ち枯れたまま生えているのですよ。ただその自生地は幾重にも重なる茨で内も外も覆われていてね、生身の者が立ち入れば、無数の刃の中をくぐり抜けると何ら変わりない。だからどれほど優れた煎じ薬になると解っていても、取りに行く阿呆はまずいない。それに、わたしは自生している場所を知らないのだよ。だから教えようもないねぇ」

 

「そんなに貴重な薬草が、どうしてこの屋敷に?」

 

 カナさんと陽炎意外に、ここで人を見かけたことはなかった。

 

「昔、居たのでございますよ。好いた者の為に立ち枯れ草を取りにいった、愛しい阿呆者が一匹」

 

人ではない者ということか。

 遠い日を懐かしむようなカナさんの表情は、春の日だまりのように柔らかい。

 

「必ず探し出して見せます」

 

 さっと踵を返した蓮華さんの顔の前に、丸く小さな白い玉が跳ね上がる。駆け出そうとしていた蓮華さんの足が、白い玉を避けて一瞬止まる。

 

 ミャ

 

 蓮華さんに向けてひと声鳴いたチビは、ぴょんと跳ねて向きを変え、残欠の小径へと続く庭の奥へと走りだす。

 

「チビ?」

 

 庭で葉を揺らす木々の向こうから、鋭利な跳躍の残像を残して飛び出る影があった。

 我に返って後を追う蓮華さんが、駆け出した足を止める。

 

 ミャー

 

 蓮華さんの横へと駆け寄ったぼくが目にしたのは、シマに咥えられ身を揺らすチビの姿。シマは何事もなかったかのように、右に左にと揺れるチビの首を咥えて庭の隅へと姿を消した。

 

「そう慌てなさいますな。問われたから、立ち枯れ草の在り方を語ったまでのこと。この屋敷の奥に、確か少量残ってございます。シマはそれを知っていて、代わりに取りに行こうとしたチビを止めたのでございますよ」

 

 カナさんの表情に、今日初めての笑みが浮かんだ。

 カナさんが二度手を打つと、奥の障子が開き陽炎が姿を見せる。

 

「立ち枯れ草が奥の棚にあるはずだから、急いで煎じてもらえないかい? 少し急がなくては、響子といえど耐えられる刻は限られる」

 

 はっと目を見開いて、廊下に横たわる響子さんの姿に驚きの表情を浮かべた陽炎は、声を出すことなくひとつ頷くと、急ぎ奥へと戻っていく。

 

「響子さんは大丈夫でしょうか」

 

 聞かずにはいられなかった。

 

「煎じ薬が効けば、直ぐにでも良くなりましょう。あの薬草は、まっこと良く効きますゆえ。それにしても、無謀な方ばかりが揃ったこと。おなごの身で立ち枯れ草を躊躇なく取りに行くなど。代わりに行こうとしたチビも、以前にも増して無謀になったこと。己を囲む者達に、似てきてしまったのでしょうかねぇ」

 

 呆れたように息を漏らすカナさんの表情は、庭に吹く風を受けてとても柔らかい。その表情が、ぼくに安堵をもたらしてくれる。

 横たわる響子さんの胸は激しく上下を繰り返すだけで、いっこうに意識を取り戻す様子はない。 眉は苦しげに歪められ、横を向き半開きになった口の傍からは、今も血が伝い流れている。

 

「これこれ、無理をしてはいけないねぇ」

 

 シマに解放されたチビが廊下に飛び乗り、ちろりと響子さんの頬を舐めようとしたところを、カナさんが抱き上げ窘める。

 

「おまえは良い子だよ。少しくらいは、己を大切に扱いなさいな。おまえが居なくなったら、悲しむ者も居るのだから」

 

 チビが少年と深く繋がっているのは解る。だがぼく達の為にどうしてここまでしてくれるのか、それだけは幾ら考えても解らない。

 優しくチビの頭を撫でるカナさんの指先を眺めながら、見透かすことのできないチビの心に思いを馳せた。

 

 

 響子さんの口から流れる血を手ぬぐいで拭きながら、どれくらいの時間が経っただろう。

 

「カナ様、煎じたものを取り急ぎ持って参りました。残りは濃く煎じ、後ほど飲んでいただきましょう」

 

 匙と湯呑みを一つ置いて、陽炎は小走りに奥へと戻っていく。

 カナさんが、水月に向け手招きした。

 

「俺が支えよう。紹介を忘れたな、俺の名は水月」

 

「では水月様、響子の背を起こしていただきましょうか」

 

 水月に背中を支えられた響子の口に、匙にすくった煎じ薬が少しずつ注がれる。

 煎じ薬が舌の上を転がったことを示すかのように、響子さんの体がぴくりと跳ね、更に苦しげに眉根を寄せた。

 

「大丈夫ですか? 響子様の表情が苦しげで」

 

 おろおろと自分の肩を抱き膝を付く蓮華さんに、カナさんは微笑み返す。

 

「顔を顰めたのは、きちんと煎じ薬が口に入った証拠にございます。何しろこの薬の苦さ辛さは、他に類をみませんからねぇ」

 

 根気よく煎じ薬を口に運び続けていると、げほりと咳き込んで響子さんがぼんやりと瞼を開けた。

 

「響子さん、ぼくがわかる? ここはカナさんの庭だよ。もう大丈夫だから安心して」

 

 はっきりと声が聞こえていないのか、響子さんの視線がこちらに向けられることはなかった。

 

「おい響子、しゃきっとしろ! 湯呑みの煎じ薬を全部飲むんだ。匙で流してたんじゃ日が暮れちまう。苦いらしいが、吐き出すなよ」

 

 水月が無理矢理に響子さんの頬を片手で挟み、開いた口に湯呑みを押しつけた。

 一度は吐きかけた響子さんだったが水月の声が届いたのか、顔を顰めながらも煎じ薬を喉へと流し込む。

 

「良かったねぇ、ここへ運ばれていなければ、明日には二度と戻らぬ者となっていただろうよ。水月様、奥に布団がございます。そこまで運んで、陽炎が煎じ終えるまで寝かしつけてはいただけませんか?」

 

「わかった。ありがとう」

 

 水月の礼に、カナさんは小さく首を横に振る。

 

「他の方も、しばしおくつろぎくださいな。慌てても心を煩っても、どうにもならない時が在るのはこの世の常にございます。休めるときに休むのも、利口者の策にございましょう。奥から酒でも持って参りますから、少々お待ちくださいな」

 

 ゆっくりと立ち上がったカナさんの腰帯で、小さな鈴が鳴る。

 

 リーン

 

「おまえ、チビには優しいのだねぇ」

 

 くすくすと笑いながら障子の向こうへ消えたカナさんは、まるで腰帯の鈴に話しかけているように見えた。深く尋ねるのはやめよう。この庭なら、木々が歩き出しても不思議な気がしないもの。

 カナさんが運び出した七輪が庭先に置かれ、小魚の焼ける香ばしい薫りが漂う。だされた酒に少し躊躇したものの、水月に肩を叩かれてぼくも杯に口をつけた。

 焼き上がった小魚を、カナさんが庭の小石の上に一匹のせると、冷めた頃にゆったりとした歩調でシマが出てきた。美味そうに齧り付いていたシマが、ひょいと顔を振って、隣で物欲しげに眺めていたチビに投げたのは、小魚の尻尾の方半分で、チビは嬉しそうにそれを食べると、シマの後について木々の向こうに姿を消した。

 

「カナ様、これを」

 

 煎じ終わった薬を湯呑みに入れて、陽炎が姿を見せる。火の側にずっと付いていたのか、額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 

「水月様、響子を起こして、これを飲ませてくださいまし」

 

 ぼくも行こうと立ち上がると、カナさんに座るようにと促された。

 

「響子はあの気性ですから、弱ったところを人に見られたくはありますまい。ここは水月様にお任せして、暫しここで待つのが良いかと」

 

「はい」

 

 様子を見に行きたくてしょうがなかったが、確かにぼくが居ることで、響子さんは気丈に振る舞おうと無理をするかもしれない。だからって、水月ならいいのかと不満も残る。

 

「あぁ、何で鬼が人の皮を被ったような、気の強い女の世話係が俺なんだか。俺の好みとは真逆なんだよな」

 

 ぶつぶつ文句を垂れながら、それでも湯呑みを持って水月は響子さんの眠る部屋へと入っていった。いい加減ぶってはいるが、根は真っ直ぐな男なのだとぼくは思う。

 その水月が内に抱えた闇とは……思い出したカナさんの言葉を払うように頭を振る。

 

「えっ、地震?」

 

 辺り一帯が揺らいだ気がして、ぼくがきょろきょろと周りを見回すと、カナさんが驚いたように目を丸くした。

 

「さすがですねぇ。地震ではございませんが、場が揺らいだのをお感じになったのでしょう。もうすぐここに、野坊主が参ります」

 

 野坊主と面識がない蓮華さんが、きょとんとした表情でぼくをみる。

 

「知り合いだよ。大丈夫、お坊さんだから」

 

 再び辺りが大きく揺れたが、蓮華が気付く様子はない。現実の揺れとは、おそらく違うものなのだろう。

 

「和也様、野坊主が参りました」

 

 カナさんの白く細い指先が指したのは、何もない板張りの壁。何気なく目をやったぼくは、板張りの壁の変化に目を見張った。

 何の変哲もなかった板張りの壁が、座した人を模って盛り上がる。精巧な彫刻にも似た人型は確かに野坊主で、だが板張り模様に阻まれて、細かな表情を見て取ることはできなかった。

 

「野坊主さん?」

 

――久しぶりでござるな。

 

 くぐもって響く野坊主の声は、確かに壁の方から聞こえてくる。

 

「この御仁、昔は恰幅の良い方でしたのに、今ではすっかり細くなってしまわれた。もう古い付き合いですが、この身の細さだけは何度見ても慣れないねぇ」 

 

 そういってカナさんは、酒を満たした杯を口へと運ぶ。

 あぁ、そうだ。野坊主に会えたのなら、言わなくては。

 

「野坊主さん。あなたの期待を裏切るようなヘマをしでかしました」

 

――ほう。

 

「彩ちゃんから受け継いだナイフ。刃がもうないんです。折れて弾け飛んだ刃は、光りの粒と成って大地に戻ってしまいました」

 

 手首に意識を集中すると、鈍い痛みを伴ってナイフの柄が手の中に姿を見せる。

 壁に模られているというのに、野坊主が細い眼を見開いたのがはっきりと見てとれた。

 

「すみません」

 

 それ以外言葉がみつからない。

 

「和也様は、わたしと響子様を助けるために刃を失ったのです」

 

 更に言葉を続けようとする蓮華さんを、野坊主は僅かに手の平を上げて制すと、声なく肩を揺らす。ふわりと緩む口元を見て、笑ったのだと思った。

 

――失ったのは彩の刃であろう? 彩が母から譲り受けたとき、その柄に刃はなかった。最初に刃の種を生んだのはおそらくは母の力。小さな刃を大きく打ち直したのは、彩の強さであろうよ。 

  

「強い心がなければ、刃は持てないということ?」

 

――いとも簡単に刃が折れたのは、それが彩の刃であって、和也殿の物ではなかったというだけのこと。他者の造りだした刃に、介入できる力など限られる。強い思いだけでは、人の子にできぬこともある。人の子が存在の限界を超えるのは、考えでも想いでもなく、その身を突き動かす強き衝動であろうよ。魂を焦がすほどの、強き衝動であろうよ。

 

 

「彩ちゃんのお母さんは、娘に自分の後を継がせるために?」

 

 野坊主は、ゆっくりと首を横に振る。

 

――彩に渡された刃に込められたのは、残欠の小径やこの庭を守り続けた己の責務ではあるまい。最後に残ったのは、己が居なくなっても娘を守ろうとする、母として湧き上がる情の残滓。

 

 彩ちゃんを残して自ら鬼神に呑まれた彼女を思うと、胸が軋む。自分の手を離れた柄に小さくとも刃を据えるほどの想いとは、いったいどれほどのものなのか。

 

――その柄にどのような刃を生みだすかは、そなたしだいであろう。わたしは無念になど思ってはおらぬよ。今この時も、和也殿を見込んだこと、後悔してはおりませぬゆえ。

 

 壁に模られた野坊主の姿が、壁の中へと吸い込まれていく。徐々に起伏を失っていく壁に、ぼくは静かに頭を下げた。

 顔を上げたときには、平らな板張りの壁がそこにあるだけとなっていた。

 

「野坊主さんは自分を似非坊主だといったけれど、ぼくにとっては、どんな高僧より立派な坊様に見えます」

 

 ぼくがいうと、カナさんは嬉しそうに目を細める。

 

「わたしもそう思いますよ。けれど野坊主は、周りがどれほど言い聞かせたとて、己の業で身を焼き続けるのでございましょう。愚直な男にございます」

 

 その後は誰も口をきかぬまま、酒だけが時間の流れを刻むように量を減らしていった。

 

 

「おい、響子が自分で起き上がったぞ」

 

 水月さんの声にカナさんを見ると、頷いてくれたので急いで部屋へと向かった。

 布団の上で上半身を起こした響子さんが、わしゃわしゃと首筋を搔いているのをみて、ほっと安堵の息が漏れる。

 目を潤ませる蓮華さんの肩を支えて、ふたりで枕元へと腰をおろす。

 

「少しは元気になったみたいだね。それにしてもすごい効能だよ、その煎じ薬」

 

 すると響子さんは盛大に眉を顰め口をへの字にすると、空の湯呑みを手の届かない遠くへと転がした。

 

「飲まなければ死ぬといわれても、もう二度と飲みたくない味だ。人が口にするような物ではないぞ? 生き地獄だ。それを無理矢理飲ませた水月は、鬼畜だ」

 

 文句をいう声に力がないのは、まだ本調子とはほど遠いからなのだろう。まあ文句をいえるようになっただけでも、響子さんにとっては回復の証拠といえる。

 

「もう大丈夫だな。念のために俺はここで様子を見ているから、お前達は眠るといい」

 

 自分もついていると言った蓮華さんに水月は、暴れる響子に煎じ薬を飲ませるのは、女の細腕では無理だからと笑って、今は休むようにと言って聞かせた。

 ぼくが手を引いて部屋を出ても、名残惜しそうに振り返っていた蓮華さんだったが、ふっと息を吐いて諦めたのか、陽炎に案内された部屋に入って静かに障子を閉めた。

 ぼくも庭に面した一部屋を用意して貰い、大して眠くもない目を無理矢理瞑って布団に入る。

 暖かな布団と酒の力に安堵が加わって、現実と夢を行き来するような浅い眠りに身を預けた。

 

 チリリン

 

 涼やかな風鈴にも似た鈴の音が微かに聞こえた気がして、ぼくは目を擦って起き上がり、障子を開けて庭を覗いた。

 シマやチビの姿さえなく、庭は静まりかえっている。

 いつも座っている場所にカナさんの姿もなく、主を失った庭は僅かばかり色を失って見えた。

 せっかく目を覚ましたのだから、響子さんの様子を見に行こうと立ち上がる。

 ずっと付き添っている水月も、そろそろ疲れた頃だろう。響子さんが許すなら、ぼくが付き添いを代わろうと思った。

 眠っている響子さんを起こさないように、忍び足で二人が居る客間へと向かう途中、懐かしい格子戸の前で足が止まった。そっと指先で格子を撫でると、この戸を開けてみんなのいる居間へ、お客さんが集う店へ飛び出したい衝動に駆られる。

 懐かしくて愛しくて、今は思い出の全てが辛い。ぐっと指先を握り格子戸から目をそらして、ぼくはゆっくりと歩き出した。。

 二人が居るはずの客間からは、蝋燭の灯りが障子越しに漏れている。

 

「起きているのかな?」

 

 口の中で呟いて、障子を引き開けようとしたぼくは、はっとして手を止めた。

 漏れ聞こえてくるのは、水月と響子さんの声。二人で話し込んでいるなら、邪魔はせずに出直そうと思った直後、耳に届いたのは足をその場に縛り付ける言葉だった。

 

「相手に存在を見誤らせるのは、何も和也だけじゃない。カナは本当に感の良い女性だな。俺を見て、混じり気がないというわけではなさそうだ、といった」

 

「水月に? あんたにはその意味がわかったんだね」

 

「あぁ、俺は和也と同じくこの世界で生まれて、生き残った数少ない者のひとりだ。そして俺には人の子の血が混ざっている」

 

 信じられなかった。水月はぼくの生い立ちを知っても、ひと言もそんなことは漏らさなかったのに。

 この先の話を聞いてはいけない気がした。意思に反して、板張りの廊下に張り付いたように足は微塵も動かない。

 

「何の因果か成人した俺の前にも、まるでひょっこり迷子になったように、一人の女性が現れた。その娘が人の子だとはっきり知ったのは、かなり後のことだったよ。子供ができた。この世界の理を知っていたから、無事に生まれることはないと思っていた。だがそれを彼女には伝えられなくてね」

 

「ところが、赤ん坊は無事に生まれたのだね?」

 

 あぁ、と水月が頷く声がする。記憶の泉で垣間見た傷だらけの水月と、左から伸ばされた小さな手が脳裏に蘇る。荒くなりそうな息を押さえるように、ぼくは自分の胸元をぐっと握った。

 

「可愛かったよ。気の優しい坊ずで、いっつも俺に纏わり付いていたんだ」

 

「奥さんはどうした?」

 

「忽然と姿を消した」

 

「空間の隙間にでも呑まれたか? 人の子なら不思議はない」

 

「人の世に、偶然戻れたのだと信じているんだ。故意に子供を捨てるような人じゃなかった。坊ずを本当にかわいがっていたからな」

 

 頭の隅で警鐘が鳴る。こっそり聞いていい話ではないと思った。なのに、足が動かない。

 

「ひとりで育てていた坊ずを、ある日突然に攫われた。目の前で攫われたのに、坊ずが伸ばす手に、この手は届かなかった」

 

「鬼神に攫われたのか」

 

 そうだと、答える水月の言葉が胸に刺さる。呼吸が浅くなって、視界がぼんやりと揺らぐ。

 

「死んだと思っていた。けれど匂うんだよ。空間を繋ぐ僅かな裂け目から、時折懐かしい坊ずの匂いがした。それと一緒に、一度嗅いだだけの鬼神の臭いもな。だから俺は鬼神を追いかけ続けた。鬼神の居る先に、坊ずが居ると信じて生きてきた」

 

「見つけたのだろう? いつか連れて帰るのかい?」

 

 響子さんの声は、既に答えを知っているように落ち着いたものだった。

 

「そうだな。帰る場所がないなら連れて帰るさ。一緒に商売でもするんだ。少しは父親らしい事をしないとな。それに一人きりは寂しいもんだ。ふたりなら、きっと楽しいだろう?」

 

 ははっ、と水月が笑う。

 

「その子にはまだ、真実を告げないのか?」

 

「いっぺんくらい父親らしい姿を見せられたら、その時に言うさ。もう離れるなんてごめんだ。居場所がないなら、俺が居場所になってやる。絶対に連れて帰る」

 

「いずれ伝えるのだね?」

 

「あぁ、坊ずに伝えるのは最後だ。全てが終わったら、ちゃんと和也に伝えるよ」

 

 張り付いていた足がすっと呪縛から逃れる。自分の名が、この場を離れる為の力を僅かながら足に与えた。

 そうか、水月との会話の節々に覚えがある。

 障子から遠ざかり背後を振り返ると、寂しげな笑みを浮かべたカナさんが立っていた。

 物言わぬまま、カナさんが自分の唇に人差し指を押し当てる。

 頷いて、ぼくは唇を噛んだ。自分の客間に入り、後ろ手に障子を閉める。

 

――二度も死なれてたまるもんか。

 

 いつの日だったろう、水月の呟いた言葉が蘇る。両手で顔を覆って畳に崩れた。

 

「父さん、水月が……父さん」

 

 嗚咽が漏れぬよう、ぼくは口に両手を押し当てる。

 乾いた畳に滴る涙の粒が、小さな水溜まりを成していった。

 

 

 

 




読んで下さった皆さん、覗いて下さった皆さんありがとうございます!
一話が長いのが苦手な方がいらしたら、すみませんです。
コピペしたら、思っていたより文字数がいってしまっていたという……。
二話に分けるには、これまた中途半端……。
最終話までは少し長めが続くかと思います。
どうぞ、お付き合い下さいませ。
では!


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49 戻らずの橋

 ほとんど眠れないまま一夜を過ごした。

 様子さえ見に行かなかったことを、響子さん達は訝しむだろうか。口元に人差し指を押し当てたカナさんは、おそらく全てを知っていたのだろう。

 考えただけで、体中の毛穴から息が漏れ出る。

 父である水月には人の子の血が半分混ざり、ぼくへと受け継がれた血には更に、人であった母の血が流れている。響子さんや水月寄りの存在かと問われれば、間違いなくぼくは人の子に寄った存在なのだろう。だが、こうも言えるだろう。

 血の濃さでいうなら、純粋にこちらの世界の者とはいえない。

 寄っているとはいえ、人の子ではありえない。

 布団の上にぼんやりと座りながら、自然と口の片端が上がっていく。

 どろどろとした血は、体中を巡ってぼくを縛り付ける、理の鎖にしか思えなかった。

 

 七輪で魚が焼ける匂いが、障子の隙間から流れ込む。陽炎が、早くから朝餉の仕度を始めたのだろう。眠気とは違う瞼の腫れぼったさを、どう言い訳しようかと指先で揉みほぐす。

 

「響子さんが心配で眠れませんでした、なんて信じるわけないよな」

 

 障子を開けると、庭の端で煙を上げる七輪の横、チビがちんまりと座りもくもくと揺れる白い煙を眺めていた。昨日シマから分けて貰った、小魚の半分が余程美味しかったのだろうか。

 ぼくの姿に目をくれることなく、じっと見上げているチビを見てくすりと笑いが漏れる。

 

「よし、いってみるか。まだ笑える」

 

 誰も居ない廊下でひとり、にっと笑顔を作ってみる。響子さん達の前で、自然に振る舞えるだろうか。それより、普通ってどんなだった? いつもぼくは、どんな風にみんなと接していたのだろう。自然に振る舞おうと考えるほどに、当たり前だった今までの自分が霞んでいく。

 

「水月さんにはおはよう、だったかな? ございます……だったか?」

 

 無音の発声練習みたいに顔をぐにゃぐにゃと動かして、ぼくは勢いよく障子を開けた。

 

「おはよう! ……ございます」

 

「なんだぁ? 朝から間の抜けた声だな」

 

 布団の上で座る響子さんの傍ら、水月が無精髭の伸びた顎をしゃくる。

 

「まだ眠いんだよ。どう? 響子さんはだいぶ調子が良くなった?」

 

「あぁ、全快というわけではないが、異常な回復だと自分でも思うよ。あの煎じ薬は、まったく化け物級の効能を持っているらしい」

 

 昨夜より頬に血の通っている響子さんを見てほっとした。

 

「ところで水月さん、そのボロボロ加減はどうしたの?」

 

 水月の顎の下には無数のひっかき傷が赤い後を残し、シャツの肩口は糸が解れて裂けてしまっている。まるで猫が服を着て喧嘩した後のようだ。

 

「一晩中寝ずの番で、煎じ薬を飲ませたあげくがこの仕打ちだ。和也、女だけは選び間違うなよ」

 

 止めておけばいいのに、最後のひと言が多いって。

 スパンという音を立てて、響子さんの平手が水月の後頭部を張り飛ばす。

 

「それにしても、若いくせに腫れぼったい目だな?」

 

 からかう水月に、ぼくはむっと頬を膨らませる。

 

「もうすぐ朝ご飯みたいだよ。流血沙汰になるから、それ以上喧嘩しないでね」

 

 けっという表情の二人を残して部屋を出る。障子を閉めると、胸に溜まっていた緊張が一気に吐き出された。

 相変わらず七輪に張り付いている、チビを眺めて廊下に腰をおろす。いつもならミャくらいはいってくれるのに、ぼくが側に座っても髭一本動かさないときた。

 

「食いしん坊め」

 

「焼き上がったら、シマに知らせにでもいくのでしょうよ」

 

 振り返ると涼やかな表情のカナさんがいた。ぼくの隣にすっと座ったカナさんの腰帯で、小さな鈴がチリン、と鳴る。

 

 ミャ

 

 まるで返事をするようにチビが鳴く。ぼくには挨拶無しだったのにと、ちょっとだけ心の中でむくれると自然に下唇が前へ出た。

 

「まったく、チビは何者なんだか」

 

 ただの独り言だった。

 

「子猫に見えて、この子の真は異質な者。この子のような者が、自由に風を感じ他者に寄り添い温もりを得るためには、依り代が必要にございます。長い時の中幾度となく依り代を替えてきたでしょうが、この様な小さな者に宿っている所をみると、残る力はけっして多くはないのでございましょう。後一度依り代を離れたら、他の依り代を得ることはできないかもしれませんねぇ」

 

 依り代を失ったチビを思い浮かべると、そこには死という概念しか当てはめられない。

 

「その時チビはどうなるのですか?」

 

「流されるままに漂うだけの、ただの存在となりましょう」

 

 無心に煙を眺めるチビの姿が、一瞬薄れた気がした。

 

「仕度ができましたのでどうぞ。響子様と水月様はお部屋でお召し上がりになるそうですよ」

 

 愛らしい笑みを浮かべた陽炎さんは、チビの姿を見つけるとすっかり心を奪われたように両手で頬を挟む。

 

「陽炎は放っておきましょう。あの様子では、チビに魚を与えるまで庭から離れませぬよ」

 

 くすりと笑うカナさんと一緒に、座敷に据えられた膳の前に腰をおろす。

 温かい手料理が喉を優しく流れていく。格子戸を閉めて幾日も経ってはいないというのに、何年も人の温もりがする食事から遠ざかっていた気がした。

 

「カナさん、陽炎さんはどうなるのですか? ここからカナさんが居なくなって、この屋敷を囲む空間が消えてしまったら」

 

 愛しむような、それでいて寂しげに、カナさんは美しく切れ長な目を細める。

 

「闇と人の世が入り交じり、混沌としていた平安の世が生みだしたのが陽炎にございます。生とも死とも違う理の輪から、陽炎は決して抜け出せないのでございますよ。あれほど一人になることを恐れていた陽炎ですが、抜けられぬならその内を渡って、己の存在理由を見つけてみようと思うのだと、そう申しておりました」

 

「存在理由ですか」

 

「在る男が古の時から、暗闇の水面を緒木船で漂っては沈む魂を拾い上げているように、陽炎もまた、あの子にしかできない方法で、他者に手を差し伸べ続けるのでございましょう」

 

 箸を置いたカナさんが、ゆったりとした笑みを浮かべて瞼を閉じる。

 

「陽炎の時は、ようやっと動き出したのでございますよ。そして、永過ぎたわたしの時は、もうすぐ終わりを迎えましょう。ようやっと、終われるのです」

 

 最後の言葉は、噛みしめるようなものだった。

 

「おーい、陽炎ちゃん?」

 

 器用に両手に膳を抱えた水月が、ひょこりと顔をだす。

 

「お呼びでしょうか?」

 

 庭で慌てて立ち上がった陽炎は、目をぱちくりとさせている。ちゃん付けで呼ばれたことなど、最近はなかったのだろう。 

 

「すごく美味しかったよ。ご馳走様でした。重いから流しまでは俺が運ぶから」

 

 すみません、と何度も頭を下げて、陽炎が水月を奥へと案内する。

 

「浅ましいほどの態度の違いだな。響子さんになんて、優しい言葉をかけるどころか女性扱いだってしていないのに。中年根性まる出しじゃないか」

 

 呆れて笑うぼくにつられたように、カナさんも可笑しそうに肩を揺らす。

 

「水月様は、育ちの良い方でございましょう。元から崩れている者と、躾けられた者が敢えて崩すのでは、大きな違いがございます。お母上がきちりと育て上げられたのかと」

 

 ぼくにとっては婆ちゃんだ。厳しい人だったのだろうか。会えていたら、幼いぼくを可愛がってくれただろうか。想像の中でさえ顔の見えない祖母に思いを馳せる。

 

「おい和也、響子は大事をとって今日一日ここで休ませる。俺達は一度町へ行ってみよう。出かけることを響子に伝えて、例の煎じ薬を口に流し込んでくるからちょっと待っていろ」

 

 気合いを入れた水月の足音が遠ざかる。

 

「和也様、先ほどの話でございますが」

 

「なんでしょう?」

 

 カナさんは立ち上がると、庭と座敷を隔てる障子の縁に手をかける。

 

「陽炎のように、新しく道を切り開くのも生きる道でございますが、古巣に戻るもまた、新しい道なのでございますよ」

 

 何のことだろう。

 

「存在が抜けた空間には、ぽっかりと穴が空くのでございます。わたしや陽炎のように、他の者によって埋められる穴は、入れ替わり他者が役目を果たしてゆく、この世の裏舞台にございます。」

 

 カナさんの切れ長の目が、すいとぼくを流し見る。

 

「ですが他者には埋められぬ穴が在るのも、この世の真にございます。和也様は、異なる血をその身に巡らせる、異端にございますゆえ」

 

 カナさんは言葉を切り、視線を庭へと向けた。

 

「戻る道もあるのでございますよ……人の世へ」

 

 止められないまま荒くなる呼吸に、唇が乾いていく。

 想うだけなら、何度あの場所へ帰ったことだろう。懐かしい場所へと繋がる橋は、格子戸によって閉ざされたまま。

 

「おや、こんなことを言っては、水月様に恨まれてしまいますねぇ」

 

 空を見上げて目を閉じたまま、カナさんはもう何も語らなかった。

 冷えた小魚を咥えて、チビが庭の隅へと走っていく。

 

「帰るなんて、手を伸ばせば割れる泡みたいな夢です。とりあえず、水月さんと町へ行ってみますね」

 

 客間から出てきた水月に手を上げ、ぼくも庭へと降りる。カナさんに頭を下げ、庭の中程まで歩いたとき、突き上げるように地面が揺れた。

 足元から少し離れて、庭の土が盛り上がる。出来損ないの彫刻みたいに、ぱらぱらと土の粒を零しながら人の姿の前面が庭の土に模られた。

 

「野坊主さん?」

 

 前を行く水月も足を止めて振り返る。

 

「刃は命を奪いもするが、峰で受けたなら人を守る盾ともなる。言葉も記憶も同じであろう。他者の心を照らす光にもなれば、深層を抉る刃と化すことも造作ない。同じ言葉、同じ記憶でも受け手によって違う意味を汲み取るであろうな。魂とは、人とは不思議な者よ」

 

「野坊主さん、いったい何のこと?」

 

「黒い渋茶の礼でござる。カナを最後に、二度と他者の運命に介入すまいと決めていたが、独り言故、構いますまい。良い思い出のない人の世でござったが、いずれ消えゆくこの身ゆえ、黒い渋茶の香りを、永き今生の土産といたしましょうぞ」

 

 ぐらりと大きく揺れた大地にふらつき、はっと野坊主の姿が在った辺りに目をやったが、少し乾いた庭の土が平坦にあるだけだった。

 

「誰かいたのか?」

 

 ぼくが視線を落とした先と顔を交互に眺めながら、水月は不思議そうに口をつぼめる。

 

「野坊主さんというお坊さんです。たぶん、最後の別れを言いに来てくれたのだと思う」

 

「へぇ」

 

 関心を失ったらしい水月が歩き出す。もう一度だけ庭の地面に目をやり、軽く頭を下げてぼくも水月の後を追った。

 

「ナイフに刃があってもどうかと思うけれど、何せ今は完全な丸腰だからね。妙な輩に出くわしたら、二人ともあの世行きだよ?」

 

「どうせ何時かは、死ぬなり消滅するなりするんだ。細かいことは気にするな」

 

 水月の背中を見ながら、少しだけ悲しい気持ちでぼくは微笑む。

 まだやりたいことがあるだろうに。探し続けた息子と、商売をするんだろ? ぼくに、父親だといつか名乗ってくれるつもりでしょう?

 

――戻る道もあるのでございますよ……人の世へ。

 

 カナさんの声が、耳鳴りのように頭の奥で木霊する。

 何も知らなかった時には戻れない。たとえ帰れたとして、人生をかけて自分を探し続けた水月を置いていく自信はなかった。

 初めて手の届く所に居る肉親を、手放すことなどできそうにない。

 

「おい、おい? 少しは周りに気をくばれよ。丸腰なのは俺も同じだ」

 

 呆れた顔で振り返る水月に、ひらひらと手を振って大丈夫だと伝える。

 その時だった。直ぐ横の草むらが揺れ、草陰のギョロ目が半分顔を出す。

 

「つい最近、ばたばたと町の人間が姿を消したろう? ありゃ鬼神の仕業じゃないぜ」

 

 鬼神だと思い込んでいたぼくは、あまりに意外な情報に眉を顰める。

 

「他に誰が居るっていうんだい? もともと継ぎ接ぎの町は鬼神の餌場と言われていたじゃないか。鬼神意外に、魂を取り込む奴などいないだろ?」

 

 けけっ、と小馬鹿にしたように草陰のギョロ目が笑う。

 

「まったくの豆腐頭だな。幼稚な破壊者に阿呆が加わったら、無敵の馬鹿が出来上がるぞ。鬼神は自分が喰らったと思わせたいだけだ。勝手に魂が隙間から抜け出したなんざ、死んでも認めないだろうよ」

 

 魂が抜け出した? 想像が現実に追いつかなくて、戸惑いだけが唾と共に呑み込まれる。

 

「ぼく達の思い込みってこと?」

 

「鬼神を買い被りすぎなのさ。湖面を平たい板で叩けば跳ね返される。だが縦に押せば簡単に沈むだろ? お前達はずっと、鬼神を真っ平らな板の面で叩いていたようなものだ。愚行を繰り返すな。駄目なら、根本から方法を変えるんだな。情報料はいらないぜ。俺達も金より命が大事なんでな」

 

 ばさりと音を立てて、草の割れ目が閉じられる。

 

「俺にも良くわからんが、耳にした事は心に留めておけ。何時か全てが入り交じり、答えを導くこともあるさ」

 

 あぁ、と頷いて歩き出す。無駄なことなら指一本動かすはずのない草陰のギョロ目が、ぼくに何かを伝えようと姿を見せた。刃を失ったことを知らないわけではないだろうに。

 前を行く水月の背は大きい。決して体格の大きな方ではないが、今のぼくにはヤケに大きく見える。幼い日に負ぶさったであろう暖かな背中に、押さえきれなくてそっと手を伸ばす。

 

「やっと町が見えてきたぞ」

 

 振り向いた水月に、慌てて持ち上げた手を引っ込め背中に隠す。

 

「佐吉さん達の所に雪さんが居るはずだから、取りあえず小屋にいってみようか」

 

 そうだな、と水月が一歩踏み出した膝が折れる。

 木々に囲まれた小径を、小刻みに激しい揺れが襲う。立っていられなくなったぼくは、片膝をついて水月の肩に手を回した。

 森の木々が地鳴りと共に、ずぶずぶと地に吸い込まれていく。節くれ立った魔女の指のような枝さえ、まるで自ら望んだように天に向けてその身を縮め、土を跳ね上げならが呑まれていった。

  

「痛っ!」

 

 水月の肩から手を離し、転がるように尻を付いて水月の背に凭れ、熱湯を浴びたに近い痛みに、手首を押さえつける。意思に反して手首から柄が押し出され、すっと手の中に収まった。

 熱を帯びて柄を生みだした右の手首には、古い火傷の跡みたいに赤い引き攣れ。引き攣れた傷跡から、僅かに血が滲む。

 

「まただ、血の臭い」

 

 森の奥へと波が引いていくように、ぼく達の周りから木々が消えて行くのを呆然と眺めていた。

 




読んで下さった皆さん、ありがとうございました
本当はこの後に上げる一話と一緒にしたかったのですが、あまりにも長くなりそうだったので、分けることにしました。わりと続けて投稿すると思いますが、どうぞお暇なときにお読み下さいませ。
自分の中でやっと明確に、終わりが見えてきました。


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50 身を捨てて 宿る者と消える者

「おい、どうやらお客さんのようだ」

 

 水月が顎をしゃくった先から、地面に亀裂が入っていく。はげ山と化した山肌を突き上げる振動の後を追って、無数に土が盛り上がる。

 

「まさか」

 

 残欠の小径の森に、無数の墓標が姿を現した。墓標の背後には、背を伸ばして立つ人々の姿があった。

 

「汚ねぇモグラみたいに、地に潜んで居たクズどもが、やっとお出ましってか」

 

 はっとして顔を上げると、下衆な笑みと共に口の中で唾を啜る男の姿があった。よれたダークグレーのシャツの肩口で、口の端から漏れたヨダレを拭う。

 突如現れた、男の姿に弾かれて立ち上がったぼくは、刃のない柄を握りしめて唇を噛んだ。

 

「どうやら、こうなることをわかって、機を覗っていたらしな」

 

 低く抑えた声で水月がいい、すっと立ち上がるとぼくの前に立ちはだかった。今前に出ても、水月はそれを許しはしないだろう。いつでも水月をぼくの後ろへ引き倒せるように、触れそうなほど近くで手を止めた。

 

「ちっとくらい騒ぐかと思ったが、諦めが早いな? この網はあらゆる世界の糸を編み込んである。どんな力を使おうと、どの糸かは絶対にその力を跳ね返す。つまりは、逃げられないってことよ」

 

 男の手に無造作に網が握られているのを見て、思わず踏み出したぼくを、水月が背中から羽交い締めにした。

 

「行ってどうする? 助けられないなら、身を引くことを覚えろ。ここがどうなろうと、おまえを死なせるわけにはいかない」

 

 耳元で囁く水月の声に、ぼくは一度だけ全力で身を捻ったが、締め付けた水月の腕はびくともしなかった。

 

「みんな逃げろ! 捕まるぞ!」

 

 ぼくの叫びに、指一本動かす者は居なかった。

 捻った体の脇に、男が両手で抱えた網が、回転を加えて宙へと放たれた。ぼくと水月、そして男が立つ中心に穴を残して、放たれた網が何処までも広がっていく。物理法則を無視した網は、円を描いて広がると、ふわりと人々の上に覆い被さる。

 ぼくの目に映る全ての墓標が、網の中へと呑み込まれた。人々の頭上から肩へ、そして墓標までもを覆いつくした網は、奇妙な伸縮性をもって一人一人を確実に捕らえていく。

 継ぎ接ぎの町で網に捕らえられ、砂と化して散った翁の姿が蘇る。あの光景を再び目にしなければならないのかと、ぼくは思わず瞼を閉じた。

 

 くくくっ、辺りにさざ波のように広がった笑い声に恐る恐る目を開く。

 

「食い過ぎは、腹をこわすぞ?」

 

 若い男の声が響く。

 

「はぁ?」

 

 嘲って顎を突き出した男が、脅すように目を眇める。

 

「腹八分目。食い過ぎれば、伸びる腹も裂けるというもの」

 

 カカカッ、と掠れた笑いが木々を失った森に響く。

 気味悪そうに、男は眉を顰めて網を握る手に力を込めた。

 

「心配はいらない。一度に取り込むような愚かな真似はしないから。くだらない人生を送った者達の魂を、記憶ごと呑み込むのだから、ゆっくり楽しまなくてはな」

 

 いつの間に。湧いて出たとしかいいようがない、幼い鬼神の声に体の芯が凍り付く。

 鬼神の声に辺りが静まったのも束の間、くすくす、くくっ、と含んだ笑いが幾重にも混ざり合って押し寄せる。

 

「チビ、また会えて嬉しいよ」

 

 人々が網を持ち上げる中、墓標の奥から希神と呼ばれた少年がゆっくりと姿を見せる。いつから付いてきていたのか、網の縁でチビがちょこりと座っていた。少年が手招くと、チビは網の縁が浮いた僅かな隙間から、するりと小さな体を滑り込ませる。少年の手に抱き上げられたチビは、短い足をぷらぷらと揺らす。

 

 ミャ

 

「ごめんね、チビ。チビを連れてはいけないんだ。またいつか、チビとぼくが巡り会うには、途方もない偶然が重なる奇跡が必要だもの。千切れた雲が、再び同じ形で繋がることがないようにね。ちょっと、寂しいよ」

 

 ミャ

 

「おい、おまえら。てめぇらの置かれている状況がわかってんのか? 巫山戯やがって!」

 

 手にした網に力を込める男の横で、鬼神の小さな足が後退る。それに気付いた男が、不思議そうな表情で鬼神を見遣る。

 

「どうやら君の役目はここで終わりらしい。この網を操れるのは君だけ。何しろ、網には君の魂が編み込まれているのだから。残念だよ」

 

 鬼神の言葉に男が目を見開くのと、チビを地面に下ろした少年が動いたのは同時。

 網の中、ゆっくりと少年が回る。

 

「みんなにも謝らなくちゃね。本当の意味で自由にしてあげられなかった」

 

 回りながら少年が俯く。

 

「謝罪などいらぬ」

 

 何処からか、老人の凜とした声が響く。

 

「そっか、それならこう言おう。みんな、ありがとう……大好きだよ」

 

 速度を上げて回る少年の指先が網に触れると、そこから空気を含んだようにふわりと網が持ち上がった。少年を起点として、大きく波打った網が、奥へ奥へと空間を広げていく。

 浮き上がった網の内側で、人々が一斉に片手を頭上へと翳す。

 少年がぴたりと動きを止め、腕で自分の胸を抱きしめ目を閉じた。浮力を失った網が、空を掴もうとするように伸ばされた、人々の指先へと落ちていく。

 指先に触れた網が、炎に触れた紙くずのようにぼろぼろと、黒い灰を散らして消えて行く。

 

「我らの想い、この世の全てを砕こうぞ!」

 

 響き渡る男の声に、翳された手が一斉に下ろされた。それぞれの墓石に、ゆっくりと手が触れる。

 積み上げられた墓石から、カタリと最初の欠片が剥がれ落ちた。

 たった一欠片を失ったことに耐えられなくなったとでもいうように、がらがらと音を立てて墓標が崩れていく。

 

「がぁっ!」

 

 詰まった悲鳴を上げて、網を手にしていた男が地面に膝を付く。まだ手の内に残る網の端が、男の目の前で塵となる。かっと見開かれた男の目前で、網を失った手が震えていた。

 震える男の厳つい指先が、見る間に黒く染まっていく。変化はあっという間に肩へと這い上がり、耐えきれなくなった男が左手で黒化した腕を押さえた。

 

「ひでぇな」

 

 水月が嫌そうな声で呟いた。己の手が触れた途端、男の腕はぽとりと外れて地に落ちた。地面に落ちた黒い腕は、炭の燃え残りを砕いたようにばらばらと散った。

 

「ひえぇ! 鬼神! きぃ……しん」

 

 救いを求めて男が見上げた先では、鬼神が表情のないまま既に関心を失ったとでもいうように、 砕けた腕の欠片が飛んで付いた、己の手を拭っている。

 

「汚れちゃった」

 

 乾いた土の上に、男であった筈の黒い灰が小山を造る。

 嫌そうな顔で手を拭い続ける鬼神の視線は、少年へと真っ直ぐに注がれ、心中の不安を示すかのように、足だけが半歩ずつ後退る。

 

「どうしたっていうんだ? くそ!」

 

 右手に掴んだ柄が、意思を持ったように小刻みに揺れる。柄が手から抜け落ちそうな不安に、ぼくは両手で力一杯握りしめた。

 

「大丈夫だよ? それは既に君の物だから。柄は次の主に君を選び、魂に剣を翳したみんなも君を選んだ。ぼくもね」

 

 少年が小首を傾げてにこりと微笑む。

 墓標を失った人々の表情にも笑みが浮かぶ。己の仕事は終えたと伝えるように、視線がぼくへと注がれる。

 

「ぼくにできることなんて……」

 

 小刻みに震えていた柄に日溜まりに似た暖かさを感じて、握り締めていた力をそっと弱めた。

 微笑みを浮かべる人々が、表情をそのままに瞼を閉じる。

 少年と鬼神が互いに牽制するように視線を合わせる中、残像を残して人々の姿がひとり、またひとりと渦を巻く。やがてそれは一人一人違う色を帯び、収束すると一本の光りの糸となった。

 

「少年の所へ行くとき、白いトンネルの中で泳いでいたのは、やっぱりみんなだったんだね」

 

 あの日と同じように、長さも太さもそれぞれに違う光りの糸が、ちらちらと光りの尾を引いて一気に柄へと押し寄せた。

 慌てて柄を両手で握り直したが、思ったような衝撃はなく、ただひたすらに柄が暖かみを増していくだけだった。

 木のない森を四方八方から、柄に向けて流れ込む光りの洪水。少年は少しだけ寂しそうに睫を伏せた。遅れてゆらゆらと流れてきた、最後の一本が柄に呑み込まれる。

 鬼神はかなり後方へと下がっていた。

 少年が胸に手を当て、僅かにだが苦しそうに眉根を寄せた。

 

「どうしたの? いったい何をしようとしているの?」

 

 離れているとはいえ、鬼神から注意をそらさないよう少年をちらりと見る。

 少年の手には、石がひとつ握られていた。小さな手に、すっぽりと包めるほど小さな石は、何の変哲もなく灰色で、河原に転がる石と同じに見える。

 

「言ったでしょう? やっぱり最後には、ぼくが全てを呑み込んで消えるのが一番なんだよ。この子の笑顔、好きだったのにな」

 

 少年が愛しそうに自分の頬を撫でる様子に、ぼくの胸の中で不安が嵐のように渦巻いた。

 声を出す間もなく少年の姿が掻き消え、手にしていた灰色の石が、ぽとりと地面に転がった。

 横髪を巻き上げて、風が一筋ぼくの周りをぐるりと回る。一瞬見えた気がした風の色は、透き通るような純白。

 耳元を過ぎた風が、鼓膜の奥へと声を残す。

 

――か細い糸も、束になれば強靱な縄になる。魂を束ねたなら、それは膨大な記憶の束。強い意志を持つ、刃になる。

 

 ごめんね

 

 最後に耳の奥底で響いた言葉だった。

 舞い戻った風に打たれて、小石がカタカタを身を揺らす。

 一歩踏み出すと、離れて立つ鬼神も一歩後退る。ゆっくりと歩みを進めて、ぼくは小石の側に立った。

 

 ミャ

 

 ひと声鳴いて、チビが前足で小石に触れる。そっとチビを脇に避け、ぼくは小石を拾い上げた。

 

「和也?」

 

 水月が鬼神を睨んだまま、ぼくの肩に手を乗せる。

 

「この小石、まるで脈打っているみたいだ。居るんだよ、きっと。少年の魂が宿っている」

 

 そう感じて小石を握りしめると、右手にある柄の本来なら刃がある筈の場所に、ちらちらと白い光りが沸き始めた。小さな湧き水のように、外巻きに盛り上がっては柄の内へと戻っていく。

   

「まったく、余計なことを」

 

 鬼神が吐き捨てた言葉に、まるで柄から沸く白い光りが反応したかのように、ぶわりと膨らんだのを見て、眩しさに思わず目をそらした。

 

「すげぇな」

 

 鬼神から注意をそらさなかった水月が見とれているのは、ぼくの右手。

 柄には白銀の刃があった。美しい刃文は刀工が焼き付けのさいに生みだす、日本刀のそれに似ている。昔、博物館で目にした日本刀の、のたれと呼ばれる緩やかな刃文を思わせた。

 

「もういい。楽しむ気分じゃなくなった。図々しいんだよ、人の物を全て奪った奴が、人並みに生きようなんてさ。もういい、逝っちゃって」

 

 右手に黒い大刀を持った鬼神は片手を腰の後ろに回すと、ザッと砂埃を上げて、踏み込み様に向かってきた。庇おうとした水月の脇をくぐって前に出る。

 この刃で黒い大刀を受けてみよう、そう心に決めた。

 あまりにも多くの魂が関わりすぎた。

 後に引ける時期など、とっくに逃がしているのだから。

 

「逝け!」

 

 あと数歩で間合いに入ると構えたとき、すっと鬼神が黒い大刀を引き、代わりに腰の後ろに当てていた左手を一気に突き出した。

 大刀を引いて、無防備になった鬼神の姿に、構えた刃が僅かに下がる。

「離れて!」

 

 鬼神との間に割り込もうとした水月を、体当たりで突き飛ばす。

 前へと突き出された鬼神の手の中央には、黒い穴があった。そこから放たれた物に、ぼくは腕で防御する意外に道は残されていなかった。

 鬼神が勢いのまま後方へと駆け抜ける、土を擦る音だけが耳に響く。

まただ……ぼくを庇った響子さんのように、まさか。

 痛みとは違う衝撃に、ぼくは全身を震わせた。 震える腕を避けて見回すと、息を荒げた水月が立っていた。

 

「水月さんじゃない」

 

 ほっとしたぼくは、足元を見て息を止めた。

 黒く細い矢に射貫かれ、動かなくなったチビがだらりと転がっている。

 カッと頭に血が昇る音が聞こえるようだった。

 振り返った先に立つ鬼神へと、一歩、また一歩と近づく足から恐怖は抜け落ち、土を踏みしめ進む力は、怒りだけだった。その怒りを、奥歯でぐっと噛み殺す。

 

「君が怒りを向けているのは、ぼくだろ?」

 

「和也! 止めるんだ!」

 

 背中にかけられた、水月の手を振り払う。

 

「鬼神と呼ばれる者に身を落とした君に、教えてあげるよ」

 

 無表情な鬼神の目の縁が、ぴくりと動く。

 

「君の両親に、ぼくは愛されなかった。ここに居るべきではない子供だと、本能で感じていたのだろうね。どうしてぼくは、これっぽっちも愛してもらえなかった? どうしてだと思う」

 

 怒りなのか、鬼神の唇がわなわなと震えている。ぼくの中の怒りは身を潜め、代わりに湧き上がるのは、吐き捨てる場所のない悲しみだった。

 

「それは、あの人達が、君を愛していたからだろうな。存在ごと消えた我が子を、記憶さえ消えた今でも心の根っこが覚えているからだろう」

 

「止めろ!」

 

 構え直した大刀を横に構え、鬼神が迫る。

 届かないのか……ナイフを振りかざしながら、無力感に心が萎えていく。

 目前まで迫った黒い大刀を払うつもりで、思い切りナイフを振り下ろした。

 

「うぐっ!」

 

 低い呻き声を残して鬼神の体が弾かれ、土にまみれて転がった。手に握った柄に白銀の刃はなく、代わりにだらりと長く垂れ下がるのは、鞭にも似た白銀の光り。

 無闇に振り下ろした素人のナイフが、まともに大刀を受け止めるはずもない。鬼神を薙ぎ払ったのは、紐状に延びる、白銀の光りだった。

 わなわなと身を震わす鬼神は、既に目の焦点が合っていない。

 

「くそ、見たくない! 見たくないのに!」

 

 呻く鬼神の袖は裂けて、そこから覗く腕には白銀に染まった傷が口を開けていた。黒い大刀を真横に振り払うと、掻き消すように鬼神は姿を消していた。

 

「チビ!」

 

 駆け寄って抱き上げたチビの体に、刺さっていた黒い矢は見当たらない。

 ミャ、と鳴いていた口からは小さく赤い舌が下がり、胸は僅かな上下もしていなかった。

 

「どうして助けたりしたんだよ」

 

 まだ温かいチビの体を胸に抱き寄せる。

 チビを抱えて膝を付く、ぼくの背中を水月の手がそっと撫でた。

 

――この子の命が消えた時、泣き崩れることのないよう、覚悟なさいませ。

 

 カナさんの言葉が蘇る。

 

――流されるままに漂うだけの、ただの存在となりましょう。

 

 チビが好きだったのは、あの少年の筈なのに。

 

――そんな日が来てしまったら、泣かずに笑ってあげてくださいませ。

 

「最後に笑顔で見送るのは、チビの仕事だろ?」

 

 堪えようとしても、チビの姿がぼやけていく。乱暴に涙を拭いチビの顔を眺めていると、閉じた瞼の隙間から、小さな黄色い玉が転がり出た。

 

「チビ?」

 

 そっと呼びかけたが、玉が答えるはずもない。少しずつ転がって鼻の横で止まった黄色い玉は、途方に暮れたように毛の間で浮いては沈む。

 

 ミャー

 

 声の主はシマだった。相変わらずの仏頂面でぼくを見上げるシマに戸惑っていると、ミャーと再び強く鳴いた。

 

 

 

 




覗いて下さった皆様、ありがとうございます!


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51 お茶をひく者

「もしかして、チビを迎えにきたの?」

 

 シマの前にくったりと力の抜けた小さくて白いチビをそっと下ろすと、じっと見下ろしていたシマが、鼻先にさっと顔を近づけ、ぺろりと舌でチビを舐めた。

 

「待ってよ」

 

 もう済んだといわんばかりに、背を向けて悠然とシマが立ち去ろうとするのを、猫と知りつつぼくは止めた。

 だるそうな様子で振り向いたシマが、べっと口先から舌を出す。シマの舌先には、黄色く小さな玉が乗っていた。シマに触れて、玉はきらきらと輝きを放っている。

 

「チビ、だよね?」

 

 ちらりと一瞥して、黄色い玉を乗せた舌が口の中に戻される。

 

「水月さん、チビはひとりぼっちで、ふらふら彷徨うだけの存在にはならないよね?」

 

「あぁ、あの捻くれ猫が、ちゃんと面倒を見るだろうさ」

 

 町へ向けて歩く間も、風に巻き上げられた砂埃にさえはっとしてしまう。丸い毛玉となってころころとチビが転がって、ミャっと鳴く幻を、風に巻き上げられた砂の影に見てしまう。

 

「とにかく小屋へ行ってみよう。今の事態で、また何かが変わっているかもしれない」

 

「わかった。町の様子を見に行こう」

 

 遠目に見える町並みは、残された人々が道に立ち尽くすだけで、特に大きな変化は見られなかった。男が投げた網で、多くの者達が捕らえられた後もぽつりぽつりとだが、目に見えてひとが減っているせいか、闇が満ちた様子を最初に目にした日に比べると、ひとの姿は疎らだった。

 薄ら青い空の下、黒い布の面で顔を覆った人々が立ち尽くす。

 

 重い音を立てて閂が外されると、押し開けられた戸口から佐助が顔を出した。

 

「あんたら、今度は何をやらかしたんだ?」

 

 責めると言うより、呆れた息を吐いて佐助がひらひらと手を振り招き入れてくれる。

 

「最初に妙な空気を嗅ぎ取ったのは雪だった。飛んで行った雪は、どういうわけか直ぐに戻ってきてな、力なく首を振って、今度ばかりは自分の出る幕ではないと言っていた。今は、ひとっ走り町の様子を探りに出ているが、直ぐに戻るだろうよ」

 

 佐助はそういうと、座り直そうともぞもぞと腰を動かす寸楽に手を貸し、隣で見ていた宗慶は寸楽が飲みやすい位置へと湯呑みをずらす。

 

「それなら雪さんから、何が起きたのかは聞いているんだね?」

 

「雪殿が目にした事実のみだったが、鬼神は和也殿の刃に傷を負ったのであろう? その傷は、この町を残欠の小径を変えるであろうかな」

 

 宗慶が茶を啜る寸楽の背を擦りながら、心配げな視線を向ける。

 

「正直いってぼくの刃が鬼神に、どんな影響を与えたのかはっきりとは解らないんだ。けれど、何かは変わると思う。変わっているって、ぼくは感じている」

 

「今度は些細な変化では済まんぞ。一度に全てが覆る。既に事が動き出したのは、この老体でさえはっきりと解る。さっきから腰がむず痒くてかなわん。町の空気が、ちりちりと棘を出しながら、あちらこちらで渦巻いとる」

 

 言葉とは裏腹に美味そうに茶を啜った寸楽は、へぇ、と息を吐いて皺だらけの手で腰を叩く。

ぼくはポケットに入れていた石を手の平に載せ、みんなの前に差し出した。

 

「この石の中にね、墓標の人々が希神と呼んだ少年が宿っているのだと思う。あの子は言ったんだ。ぼくが全てを呑み込んで消えるのが一番だって。それが具体的にどういう意味なのか、ぼくには良くわからないけれど」

 

 何の変哲もない灰色の小石にみんなの視線が注がれる。違う場所から濁流に呑まれるようにこの継ぎ接ぎの町に流されてきた彼らの胸にあるのは、いったいどんな思いなのだろう。結局は何もしてあげられなかった。ぼくという存在が現れた事で、色々な物を掻き回し、傷つけただけのような気がしていた。

 本当の意味で自由にしてやれなかったと少年が謝った、刃を生みだした魂達も、ぼくが居なければ違う運命を辿れただろうか。

 

「痛っ!」

 

 指先で額をばちんと弾かれた。

 

「何をいっぺんに四十も五十も年食ったような顔してるんだ? 何が起きようと和也の所為ではないだろうよ。所詮は人の子に出来ることなんざ、耳クソくらいしかないんだよ」

 

 水月がにっと笑って、ぼくの頬を手の甲で軽く叩く。水月に口を開きかけた時、観音開きの戸が叩かれた。素早く立ち上がった佐吉が閂を外すと、雪が小屋へと身を滑り込ませる。

 

「和也様、水月様、ご無事で」

 

 ほっとした笑みを浮かべ雪が静かに頭を下げた。だが、その顔が上げられたとき、雪の表情には不安の影がが色濃く落ちていた。

 

「目の前で人が消えて行くのです。山の方から砂を巻き込んだ茶色く濁った風が線を成して吹き寄せ、通り道に居る者を巻き込んでは、町の外れへと駆け抜けるように吹き抜けていくのです。奇妙な風に巻かれた人々は、黒い布の面だけを残して、まるで塵となったように風に溶ける……そうとしか言いようがございません」

 

 雪が眉根を寄せる。

 

「黒い布の面を残して?」

 

「はい。残るとはいってもはらりと宙に跳ね上げられ、土に付く前にまるで陽炎であったかのように消えてしまいますが」

 

「隙間から逃げるのではなく、違う理由で人が消え始めたのは、さっき鬼神との件があった後からだよな?」

 

 水月の問いに、雪はしっかりと頷いた。

 

「下手に出歩いて巻き込まれる危険を思えば、お二人もしばらくは此処に身を隠しておられた方が良いのでは?」

 

 心配する宗慶に、少し考えてからぼくはゆっくりと首を振る。

 

「ぼく達が町の中を歩いてきた時には、既に始まっていた現象でしょう? なのにぼくは何も身の危険を感じなかった。肌をひりひりとさせる、あの感覚はなかったんだ。だとしたら、風の通り道に居る人が巻き込まれている訳ではないのかもしれないよ」

 

「そりゃどういうこった?」

 

 理解できないといった表情で、佐吉がきょろきょろと全員の顔を見回す。

 

「風は通るべき道を選んで吹いているのだと思う。特定の人を、風は攫っているとしか思えない」

 

「攫われた人々はどうなるのです?」

 

 雪が不安そうに胸の前で手を組み合わせる。

 

「どうだろう、それは今のぼくにはわからないや。これはぼくの感だけれど、既に黒い布の面を付けていないみんなは、たぶん風には攫われない」

 

「珍しいな、感でおまえがみんなを危険に晒すかもしれないことを言い切るなんて」

 

 にやりと水月がぼくを流し見る。

 

「幼稚な破壊者と呼ばれた小僧の感だよ。たまに感覚が研ぎ澄まされるから」

 

 立っている事に疲れて、寸楽の向かいに腰を下ろそうとしたぼくは、はっとして隣に立つ水月を見上げた。

 

「ねぇ、蓮華さんは? 部屋に入ったのを見たきり、今日は一度も姿を見ていない」

 

 顎の無精髭を指先で擦りながら、水月も訝しげに眉を顰める。

 

「色々あって疲れたんだろう。部屋で寝坊していただけじゃないか? 俺達が庭を出たのは、けっこう早い時間だったと思うが」

 

 蓮華さんが寝坊? そうだろうか。

 

「回復に向かっているとはいえ響子さんが床に伏せた翌日に、蓮華さんが寝過ごすなんてありえるかな? あの蓮華さんが?」

 

「響子が倒れたのか?」

 

 驚く佐吉に頷き返したぼくは、何ともいえぬ表情だったと思う。

 

「だったら蓮華は何処にいたっていうんだ? 何かあれば、カナがひと言いうだろうよ。あの二人に、変わった様子はなかったぞ」

 

 そうだ、何か言ってくれると思い込んでいるから、蓮華さんの姿を見ていないのに安心して出てきてしまった。指先を床について、下ろしかけていた腰を持ち上げる。

 

「カナさんだけじゃない。おそらく陽炎さんも何かを知っていて言わなかったんだ。陽炎さんはぼくとカナさんの分の朝餉の膳を並べてから、水月さんと響子さんは部屋で食べるからといったのに、蓮華さんのことにはひと言も触れなかった。寝坊しているなら、後で運ぶと陽炎さんならぜったいに言うはずだ」

 

「弱っておるんじゃろうよ」

 

 踵を返して駆け出そうとしたぼくは、寸楽の言葉に立ち止まり、振り返って目で話の先を促した。

 

「蓮華はいうなれば響子の宿り木のような存在じゃ。本体の木が弱れば、宿り木も弱るのは当たり前じゃろうて。宿り繋がっているとはいっても、繋がりの流れは一方的な物なのではないかとわしは思う。蓮華へ回復の力を与えるほど、響子が回復してはいないということだ。これだけは、どれほど響子が願っても、己の力ではどうにもなるまい。生き物として、肉体は己の生存を優先するであろう?」

 

 皺に埋もれた小さな目が、僅かに開かれてぼくを見る。

 

「蓮華さんはどうなるの? 響子さんは、自分と一緒にいてくれた蓮華さんを解放することだけを願って生きているのに」

 

 僅かに開いていた目を皺に完全に埋もれさせ、寸楽はゆっくりと首を振る。

 

「響子が蓮華を解放することなど、無理な話じゃよ。弱り切って存在が消えて行くのを見送る意外、響子にできる解放など、ありはせんじゃろう」

 

 振り返った先の水月も、表情を険しく歪め唇の端を噛んでいる。

 

「水月さん、庭に戻ろう」

 

「待たんか。わしを連れて行け」

 

 寸楽が湯呑みの底に残っていた茶を啜り、小さく手招きする。

 

「連れて行くったってよ」

 

 戸惑う水月に、寸楽は顔いっぱいに皺を寄せてにっと笑った。

 

「負ぶっておくれ」

 

 また俺か、と肩を落としながらも、寸楽の前で膝を折る水月の背に宗慶が寸楽を乗せる。

 

「骨と皮ばっかじゃよ。軽いで」

 

 けけけっ、と笑う寸楽にはさすがに水月も言い返せないのか、鼻を膨らませただけで大人しくしたがった。

 

「和也様が危険を感じないとおっしゃるのであれば、わたしはここに残ってお二人を守ります。何かあればお呼び下さい。直ぐに駆け参じます」

 

 片膝をついて傅こうとする雪の片腕を持ち上げる。たしかに筋肉質だけれど、細っこくて素性を知らなければ、ただの女の子の腕だった。

 

「雪さん、新しい言葉を教えてあげるね。こういうときは、気を付けてねっていうんだよ。そうしてこうするんだ」

 

 ぼくは胸の前で拳をつくってよし、というポーズをしてみせる。

 

「こうやって、がんばって! ていうの。簡単でしょう?」

 

 目をぱちくりさせている雪を残して、戸をから出ていく水月の後を追う。戸が閉まる隙間から見えた雪が、真面目な顔でぶつぶつと口を動かしながら、胸の前で拳を握っている姿がかわいらしかった。

 

「和也、走るぞ! 婆さん、揺れるからしっかり捕まってくれよ。うぇっ、首に巻き付くなって。肩にしてくれ肩に!」

 

 首に巻き付いた、寸楽の腕を引き剥がして水月が走り出す。響子を背負ったときより若干速度を落として走る水月の後を追いながら、町の様子を目で追っていく。

 ふと背後から迫る気配に気付いたぼくは、反射的に腕を引いて水月を道の脇へと寄せた。

 

「風だ」

 

 継ぎ接ぎの町の奥から、土埃を巻き上げて真っ直ぐに風が走ってくる。縦に渦を巻く風の先端は、巻き込んだ塵を後に続く尾からばらばらと散らしながら道の真ん中を吹き抜けた。

 

「いったい何が起きているんだ?」

 

 水月の呟きが時間をおいて耳の奥で言葉として組み立てられていく。それほどに、ぼくは目の前の光景に見入っていた。

 目の前を通り過ぎた風は、土埃を含んで茶色い尾を引きながらちょうど道の真ん中に立っていた女性らしき人物にぶつかった。

 先頭で縦に渦巻いていた風が長い舌先で絡め取るように、女性を自らの渦に巻き込んでいく。

 顔を覆っていた黒い布の面が弾かれて宙に舞う。まるで舞散る黒い花びらを見ているようだった。

 女性は茶色い風に包まれて完全に姿を消していた。ざっと音を立てて風が過ぎた跡に、黒い布の面が落ちていく。役目を終えたと言わんばかりに、端から塵と成って散っていく。

 

「早く行かんと、蓮華とて長くは持たんぞ」

 

 立ち尽くす男二人に激を飛ばしたのは寸楽。肩をぴしゃりと叩いた、皺だらけの寸楽の手に弾かれて、ぼく達は走った。町を抜けても、見慣れた森の木々はほとんど姿を消している。知らない場所を走っている感覚が、ぼくの胸にある不安を助長させた。

 カナさんの庭と、残欠の小径を隔てるように残る森の木々が見え始めたとき、茶色く渦を巻いた風が、ぼく達の脇をすり抜けて真っ直ぐに庭へと向かっていくのが見えた。

 立ち止まった水月と思わず顔を見合わせる。

 茶色い尾をなびかせた一筋の風は、ぼく達の立ち止まった場所より少し先で、まるで何かにぶつかったように行く手を阻まれた。ぶつかった衝撃に振り落とされて、風に含まれた土埃がばらばらと地に落ちる。

 

「光りの糸だ」

 

 ぼくが指差す先には、行く手を阻まれて上へと昇っていく光りの糸があった。あの回りを、土埃を落として透明になった風がまだ覆っているのだろうか。光りの糸は、時折風に巻かれたみたいにくるりと身を翻しては、隙間を探すように上へと昇って見えなくなった。

 

「はたして俺達は通れるか、行ってみるか」

 

 寸楽を背負う水月が不意に衝撃を受けることがないように、ゆっくりとぼくが先を歩く。地面に落ちた土埃が、この辺りに見えない壁があったのだと教えてくれる。

 恐る恐る腕を突き出してみたが、何の抵抗もなかった。

 

「大丈夫。ぼく達には影響がないらしい」

 

 庭に駆け込む前にも、どんという小さな震動と共に背後で風が何かに衝突した音がした。少しだけ振り返ると、さっき見たのとは違う色の糸がゆらゆらと上に昇っていくのが見えた。

 

 息を切らして駆け込むと、いつもと変わらぬ様子で庭の廊下に腰掛けたカナさんの姿があった。

 

「おや、新しい客人をお連れになったのですね」

 

 急いて口を開いたぼくを、カナさんはそっと手の平で制す。

 

「響子が眠っております。そして蓮華も」

 

 着物の裾をすっと手で撫でて乱れぬように立ち上がったカナさんは、蓮華さんの眠る客間の障子を開け、ぼく達をそっと手招きする。

 居間の座敷からそっと顔を覗かせた陽炎が、泣きそうな表情で小さく頭を下げた。

 客間にひかれた布団には、腰元までしか布団を掛けずに横たわり、浅い息を繰り返す蓮華さんがいた。足音を立てないように駆け寄り顔を覗くと、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

 

「ぼく達が出発した時には、カナさんは蓮華さんの容体を知っていたのですね?」

 

「ええ、知っておりました。ですが響子にそれを知られたくないと、蓮華は起き上がれないことを他人に知られることを頑なに拒みましたゆえ、何も申し上げなかったのでございます。たとえ響子が立ち枯れ草で回復しても、煎じ薬の効き目がこの子にまで届く訳ではありませんからねぇ。響子からこの子へと、力が流れるまで持ち堪えることができるかどうか」

 

 濡らした手ぬぐいで、そっとカナさんは蓮華の額に浮いた汗を拭う。

 

「響子がこの子を自由にしたいと願うように、蓮華もまた響子の幸せだけを願っているのでございます。己の身が明日どうなるかなど、思い煩ってさえいないのでございましょうよ」

 

 薄く紅をひいたカナさんの唇がふわりと微笑みの孤を描き、黒く長い睫は悲しげに伏せられる。

 

「下ろしてくれんかの」

 

 蓮華に見入っていた水月が、思い出したように慌てて寸楽を畳に下ろした。

 

「よっこらせ」

 

 拳を畳について、膝を擦りながら寸楽は枕元に座り、蓮華の髪をそっと指で梳いていく。

 

「前にもいったかの? わしは遊里にどっぷりと浸かって生きた女じゃて。武家の女は高く売れるせいか、わしが望まずとも吉原の冷えた水はわしを好んだらしい。呼び出しといわれる、花魁のてっぺんにまで登り詰めた」

 

 想像の世界でしかなかったが、吉原と呼ばれる遊郭があったことも、そこへ身を落とした遊女の頂点に立つ女達を花魁と呼んだことくらいは知識として知っている。太夫から花魁へと呼び名が移行した時代なら、遊女とはいえ最高位につく者には、高い知識と教養が求められたと聞いたことがある。ならば、素養のある武家の娘なら尚のこと。

 

「そんな顔をしなさんな。大昔のことじゃて。あの時代は部屋持ちにもなれん、切り見せの安女郎がわんさと居てな、体を壊して死んでは穴に放り込まれて、虫にも劣る短い生を終えておったものよ。辛かった……だがわしは諦めた。何かに思いを馳せることも、苦しみから逃れたいと願うことも、普通の娘のようにひとり町の道を歩くことさえな。そうやって諦めた人生に未練など残らぬ。だからこそ、こうやってここに居る」

 

 まるで愉快な落語を一席終えたような満面の笑みで、寸楽は嗄れた声を上げカカカッ、と笑う。

 

「死んだとき、わしはこんな婆じゃなかった。若くして命を落としたからの。不思議じゃろう? 己が死んだときの姿のまま、空間を彷徨う者がほとんどだというのに、わしは皺だらけの婆じゃからの。このしゃべり方も、婆の姿しか知らぬ者達と話す間に身についたものじゃて。骨の髄まで郭言葉が身に染みておったが、もうすっかり忘れたの」

 

 遊女達が使った郭言葉は、田舎から出てくる泥臭い娘達の訛った言葉を隠すためと、何かで読んだことがある。古い時代のただの情報でしかなかった事が、寸楽を通して重い色を持つ。どんなに考えても、男の自分に寸楽の苦しみを真に理解するなど不可能なのだろう。

 そんなあやふやな理解を、この老婆は求めていないと思うから。

 

「わしが一番嫌っておったのは、己の顔立ちじゃった。わしを目の前にしたなら牡丹の花さえ枯れ落ちるといわれた、他人が美しいという顔が嫌いじゃった。この顔さえなければ、醜女に生まれていたなら、遊郭に身を落とそうにも受け入れられなどしなかったろうにとな」

 

 寸楽の指が、血の気の抜けた蓮華の頬をそっと撫でる。

 

「死に際に役に立たぬ神仏に、祈ったのはたったひとつの事じゃった。若さも美しさも、捨てさせてくれとな。願いは叶ったが、遊郭の水に汚れた身で、どうして魂がこうまで朽ちることなく在り続けるのか、不思議でならなかった。己の意思ではどうにもならぬ。だが、やっと解けた」

 

 顔いっぱいに皺を刻んで微笑む寸楽に、むずむずと胸に不安が湧き上がる。

 

「寸楽さん、何をしようというの?」

 

 何かを悟っているのか、カナさんは睫を伏せたままきちりと膝に両の手を添え座っている。

 

「人の子の命も魂も、他人様の役に立ってなんぼじゃろ? 蓮華と響子を繋ぐ管を断つだけじゃ。あんたらには見えんのかね? 離れて眠る響子まで、壁を抜けて繋がる管があろうに」

 

 蓮華の胸元を指した指を、寸楽はすっと壁の方へと向けていく。ぼくには何も見えなかった。水月も、解らないというように小さく首を振る。

 

「そうか、見えんのか。この管とは違うが、人を繋ぐ縁が見えねば、遊郭で生き残ることは難しい。必要のなくなった客との縁を切り、必要と思えば無いはずの縁をこの手で手繰り寄せる。男の心も金も、視線を向ける先さえ、この手の内で操れねば吉原の水に溺れてしまうでな。浮き世で得た、妙技かもしれん」

 

 寸楽は目に見えない管をなぞるように、揃えた指を横へと這わせる。

 

「寸楽さん?」

 

 背後から水月が、ぼくの腕のシャツを引く。

 一歩、また一歩と水月の力で足が後退る。

 

「客が取れんで暇な女郎は、お茶でも飲むしかないという例えか、暇になることをお茶引をひくといってな。まぁ、わしはにはお茶をひく暇もありゃしなかったがの。だが、もうそろそろいいじゃろう」

 

 寸楽の皺だらけの両手が、大切な物を包むように胸の前で握られた。

 目を閉じていた寸楽が、ふっと顔を上げ皺だらけの顔を水月へと向ける。

 

「水月よ、我が儘という愚かさが人にあるのは、何も悪いことだけではないぞ。水月の胸にある我が儘など、言い換えれば息子への想いそのものじゃろうが。年寄りは目がしょぼくれた分、無駄に心眼は澄んでおるでな」

 

 けけけっ、と肩を揺らして寸楽が笑う。

 

「その我が儘、伝えねば後悔するぞ」

 

 皺に小さな目を埋もれさせて、口を窄めた寸楽が笑みを浮かべた。

 

「そんじゃあ、幕引きじゃ。わしもそろそろ……お茶ひかせてもらいますわ」

 

 寸楽の両手にぐっと力が込められ、何かが爆ぜた煽りを受けて、ぼくは仰向けのまま後方へと飛ばされた。

 顔を庇った指の隙間から、寸楽の背中が見えた。

 ちりちりと線香花火が燃え尽きていくように、寸楽からぽとりと落ちた紐のような両端が短くなっていく。片方は蓮華さんの胸へと、おそらくもう片方は離れた部屋で眠る響子さんの胸へ、二人を繋いでいた物が、見えた気がしたのは幻だろうか。

 畳に打ち付けられた背中に、げほりと肺の息が吐き出された。

 大きく胸を跳ね上げて、蓮華さんが胸を押さえ横を向いて体を丸める。

 

「想像が見せる、幻想だよな」

 

 横から囁かれた水月に言葉を返すことさえ忘れて、ぼくの目は見開かれた。

 いつの間にか背を丸めた寸楽の姿は消え、ほんの一瞬見えたのは、黒髪を結い上げ半身を返して微笑む、若く美しい女性の姿だった。

 

「逝ってしまった」

 

 寸楽が腰を下ろしていた畳に手の平を当てると、微かに残る温もりがぼくの涙腺を崩壊させた。

 声を押し殺して泣くぼくの肩を、水月が強く握って背中を叩く。

 

――お茶ひかせてもらいますわ

 

 苦界を生き抜いた女性が、明るく言い放った言葉が、いつまでも胸の奥に残響を残していく。

 

 




読んで下さった皆様、ありがとうございました!
最後までお付き合いいただけますように……
では!


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52 そこにある遠い日の記憶 (挿絵)

大きな音を立てて障子が開かれ、胸を押さえた響子さんがそのままの姿勢で呆然と蓮華さんを見下ろしていた。

 

「響子さん、寸楽さんが二人を繋ぐ何かを断ち切った」

 

「あぁ」

 

「そうしなければ、蓮華さんが危なかったから」

 

「そうだな」

 

「寸楽さんは、逝ってしまったよ。最後まで、くしゃっと皺を寄せて笑っていた」

 

「……そうか」

 

 畳の上に一歩足を踏み入れた響子さんだったが、すっと廊下側へと足を引き戻し、何も言わずに障子が閉められた。

 

「大丈夫でございますよ。どのような想いが胸にあろうと、響子は響子にございます。顔を合わせるまでの寸の間に、少しは表情を戻しておりましょう」

 

「あいつ何しに出ていったんだ? 蓮華の様子さえまともに見ないでよ」

 

 腕を組む水月に、カナさんは微かに笑みを浮かべて立ち上がる。

 

「酒でも酌み交わそうというのでございましょう。寸楽の魂へ向けて、弔いの酒にございます」

 

 陽炎が立ち枯れ草ではないが、これが邪気を払う役に立つだろうと、何かの草をすり潰したものを椀に入れて持ってきた。それを薄い布で巻いて蓮華さんの額に乗せる。

 ぼく達が廊下へ出ると酒瓶を並べた響子さんが、誰を待つことなく、ひとり酒に口を付けていた。

 

「今日は、ぼくも飲もうかな」

 

 水月と共に杯を差し出すと、響子さんはにやりと口の片端を上げて酒を注ぐ。口を付けた杯の酒は、前に飲んだものよりほろりと甘いものだった。

 杯の酒を一気に飲み干した響子さんが、薄ら青い空を仰いで息を吐き、指先でつままれた空の杯が心もたなそうにふらふらと揺れている。

 

「寸楽には、返せない借りができてしまったな。何かが切れたのは直ぐにわかった。胸から骨を抜かれたような衝撃で跳ね起きたから。不思議な感覚でな、自分の中に空洞ができた。今までここに居た者が不意に居なくなって、そこが冷えていくんだよ」

 

響子さんは指先でとん、と自分の胸を押す。

 手酌で酒を注ぐ響子さんは、ぼく達に話しているというより、まるで自分の心の内に語りかけているようで、廊下に落ちる手の影さえ心なし薄れて見えた。

 

「鬼神に奪われた欠片が蓮華に帰れば、後はわたしが残滓を戻して、それで蓮華は自由になれる。蓮華を手放し、魂の残滓を収める器としての役目を終えたなら、この身は消えるだろうか」

 

「消えやしないだろう? 一度でも他人と袖を触れ合った者が孤独に馴染むには時間がかかる。蓮華を知らずに一人大地に立っていた気持ちには、戻れないぞ。自分を追い詰めるな」

 

 いつもと違う響子さんの様子に耐えかねてか、口を開いたのは水月だった。

 

「心配するな。わたしの心も感情も、蓮華が生んでくれたようなもの。感情を与えてくれる者が去れば、そのうち何も感じなくなるさ。何も感じないまま、昔の自分に戻るだけだ」

 

「響子さんの体に収められた魂の残滓が、持ち主の元へ帰る日はすぐそこまできていると思う。ぼくの刃が、いや違うな。ぼくの意思と墓標の人々の魂が形を得たのがこの刃かもしれない。刃は鬼神に傷を付けた。その傷からは誰も出てこなかったけれど、あの傷はおそらく鬼神の深いところまで達しているのだと思うよ。何かを鬼神は、とても恐れている様だったから」

 

 倒れていた間に起きたことを掻い摘んで聞かせたが、黙って耳を傾ける響子さんの表情に驚きの色は無かった。全てを受け入れようと決めた筈の心が揺らぐのを、静かに座って酒で宥めているかのようで、直ぐ側にいる響子さんを手の届かない遠い霞のように感じてしまう。

 貝のように口を閉ざした響子さんを横目に、ぼくはさりげなく引っかかっていた思いを水月に零す。

 

「ねぇ、水月さんの我が儘ってなに? 寸楽さんが、置き土産のように残した言葉が気になって」

 

 触れて欲しくなかったのか、小さく舌打ちして水月は首の後ろを掻いた。

 

「あの婆さんも、まったく余計な置き土産だ」

 

 苦笑しながら俯いて、水月はちらりとぼくを見て視線をそらす。

 

「違う形で話したかったが、仕方ないか。あれじゃ婆さんの遺言みたいなものだしな」

 

「水月様、心ここにあらずの響子のことは、廊下に立てられた箒とでも思ってくださいませ。わたしは陽炎に頼み事がありますゆえ、あとはどうぞお二人で」

 

 すっと立ち上がったカナさんは座敷の奥へと入り、間の襖をぴたりと閉めた。

 

「何から話せばいいのだろうな。全てを話していたら、十日あっても足りないな」

 

 ぼくに視線を合わせることなく、水月は微笑んで目尻に皺を寄せた。

 皮を突き破って波打ちそうな心臓を、ぼくは拳で胸の上から押さえつける。

 

「俺には人の子の血が混ざっている。そして昔、迷い込んできた人の子である女性と結ばれた。絶対に育つ筈などないと思っていたのに、俺達の間には男の子が生まれたんだ。優しくて、可愛いわんぱく坊ずだったさ。ある日、不意に息子が姿を消して、二度と戻らなかった」

 既に知っている事なのに、口が渇いてうまい相づちさえ打てない。

 

「その坊ず同じと匂いを追ってきたら、その先に居たのが……和也だった」

 

 水月が顔を横に向けて、真っ直ぐにぼくを見る。

 

「和也は、俺の息子だ」

 

 無い唾をごくりと飲む動作に、喉の奥が張り付いた。無理にトーンを上げて押し出した声がざらつく。

 

「知っていたよ。響子さんと話しているのを、聞いちゃって」

 

 驚いたように瞼を押し上げた水月は、そうか、といってひとり頷く。

 

「こんなのが父親で、がっかりしたか?」

 

「まだ実感がわかない。水月さんは、やっぱり水月さんなんだ」

 

 ひどい事を言っていると解っていたが、本心を偽って父と呼んでも、多分水月は見抜くだろう。妙なところで勘が鋭い水月のことだ。血が繋がっているのなら尚更に。

 

「なあ和也。帰る所がないなら、俺と一緒に来ないか? 無事に全てが終わったら、一緒に暮らすのも悪くないだろう? 二人で商売しながら、おまえは料理の腕を上げて屋台でも出せばいい」

 

「ぼくの作った料理を食べたことないくせに、お客に無責任だよ。発想のセンスはあると思うんだ。あとは技術かな?」

 

 嬉しい筈なのに、どう反応していいのか解らない。父親、という言葉から離れたくて、店で出した料理のことをずっと話し続けた。お客さん達のこと。唯一褒めてもらえた、コーヒーのこと。

 口を挟まずに耳を傾ける水月は、時折声を上げて笑ってくれた。

 

「寸楽さんにも、飲ませてあげたかったな、コーヒー」

 

「そうだな」

 

 コーヒーの香りの代わりに、水月の笑い声と響子さんの想いは届いているだろうか。そこにぼくの気持ちも乗せられるといいのだけれど。

 

「俺にもいつか飲ませてくれよ、コーヒー」

 

「いいよ、ってコーヒーの豆なんてあるの?」

 

「知らん」

 

 知らないのかよ。まあいいや、楽しそうに笑う水月を見ていると、会えて良かったと思える。この先水月と暮らす自分を思い浮かべてみた。どんな場面に想いを馳せても、そこにいるのは目尻に皺を刻んで笑う水月だった。

 ぼくを捜し出し居場所を与えてくれようとしている水月の横顔に、まだ口には出せないままの、ありがとうを喉の奥で呟いた。

 

「水月さんは、どんな商売をしたいの?」

 

「俺は手作りの木工品を売りたいんだ。こう見えても、手先は器用なんだぜ」

 

 今まで作った作品を楽しそうに話して聞かせる水月の姿に、タザさんの面影が重なる。たったひとつの想いのために、自分の人生を投げ打つことを厭わなかった二人は、どことなく似ていた。

 

「水月の作った物か、葉っぱ三枚でどうだ?」

 

 急に話に入ってきた響子さんの目は、まだ弱くとも悪戯っ子の光りを取り戻していた。

 

「なんだ聞いていたのか? 葉っぱ三枚で誰が売るか! 響子に売るなら普通の倍がけだ。迷惑料だよ、迷惑料!」

 

 立ち上がると、ちっと舌を鳴らして目を細める響子さんの前に立った水月は、いきなり腕を掴んで引き上げ、ひょいと響子さんを肩に乗せた。

 

「何する気だ!」

 

「お薬の時間だよ。頼むからこれ以上俺の傷を増やすなよ」

 

 喚いて水月の肩を拳で殴る響子さんにかまうことなく、水月は離れた客間へと姿を消した。

 

「騒がしいと思い覗いてみれば、どうやら響子の調子がでてきたようですねぇ」

 

 ぼくの向かいに腰をおろして壁に背を凭れた響子さんが、すっと手にした杯に、ぼくは黙って酒を注ぐ。

 

「水月様を、お父上として、お呼びにはならないのですか?」

 

 カナさんの言葉に、苦笑いで首を振る。

 

「気恥ずかしいだけです。だって、自分に笑いかけてくれる親に、会うのは初めてだし。言い方が変ですね。経験がないから、どうしていいか解らないだけです」

 

 そうですか、とカナさんは杯に口を付ける。

 

「水月さんはぼくを捜してくれたけれど、カナさんは大切に想う人を捜さないの?」

 

 ふわりと微笑を浮かべ、カナさんはぼくの杯に酒を注ぐ。

 

「ずっと捜しておりました。居るのかさえわからぬ者を、ただ捜すために此処に居りましたからねぇ。遠い日の話ではございますが、出会ったのでございますよ。捜すとはいっても待つしかできなかったわたしを、見つけてくれたのはあの御方の方だったと、今でも思っております」

 

 そうか、カナさんは大切な人に逢えたのか。

 

「あの御方は、ここに残る道を選んでくださいましたが、同じ屋敷に居ても所詮は違う時の流れを生きる者同士。わたしがこの庭を捨てない限り、時に分かたれる日は避けられないものでございました」

 

「亡くなったのですか?」

 

 懐かしむようなカナさんの笑みが、その事実を物語っていた。

 

「独り残されてから今までも、満たされた日々でございました。想いの届かぬ者になり果てているかもしれないと、既に存在しないということも有り得るのだと思いながら、待ち続ける日々を思えば、独りであっても寂しさを感じたことはございません」

 

「会いたいとは、思いませんか? 隣に居てくれたらと、願いませんか?」

 

 ぼくを通り越して庭に目をやりながら、唇から僅かに白い歯を覗かせ、カナさんは頬にかかる黒髪を指先でそっと払う。

 

「野坊主との約定を果たしたいというわたしの我が儘を、あの御方は待つといって下さりました。その約束が胸にある限り、たとえ千年でも待てるのが、わたしという女にございます」

  

 共に過ごした日々の中、触れることすら叶わなかった男を想い続けられるカナさんが、ぼくには少し羨ましかった。柔らかな微笑みの向こうに、しなやかな細い体の奥に、一本の鋼を通しているのは、その男の存在なのだろう。

 いったいどのような男なのだろう。少なくとも、いい加減を装う水月とは真逆の男だろうと思って、ぼくはひとり苦笑いを浮かべた。

水月も姿を消したぼくの母に、会いたいと思う日があるのだろうか。

 人という生き物はどれくらいの年月なら、愛しいと想う記憶だけで生きられるのだろう。

 戻れないなら、日溜まりみたいな記憶の全てを消し去りたいと願っている、ぼくには想像も出来ない強さだった。

 

「和也様は、共に行かれるおつもりですか? お父上と」

 

 ここに水月の姿はない。視線を合わせずに、ぼくは頷いて顎を引く。

 

「水月さんの気持ちを聞いて動揺したのは確かです。でも、心を決めたのも、水月さんの気持ちを知ったあの時のような気がします。父親という実感はなくても、ぼくの為に人生を賭けた水月さんの願いを叶えたい。いつの日か、それがぼくの願いでもあったと、気付く日が来るかもしれないでしょう?」

 

「そうでございますね」

 

 それ以上カナさんがこの話題に触れることはなかった。

 廊下の向こうの客間から、畳に何かが打ち付けられる音と響子さんの怒声が響く。時たま混ざる蛙を潰したような音は、おそらく水月の口から漏れた声なき悲鳴だろう。

 

 ぼくは庭の奥に目を懲らした。

 ここで酒を飲み始めた頃から時折すっと弱い風が吹き込み、枯れ落ちた葉の欠片を転がしている。気のせいか、風が吹き込む感覚が短くなったように感じていた。

 

「うぐっ」

 

 杯に伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。這うように手首から柄が現れたかと思うと、刃の先端からぽろりと廊下に垂れたのは、親指の爪ほどの大きさがある透明な雫だった。

 用は済んだと言わんばかりに、いまだ慣れないねじ込まれるような違和感を持って、ナイフが手首と戻っていく。

 

 ミャー

 

 いつもの仏頂面で現れたシマが、ひょいと廊下に飛び乗った。

 

「シマ、これを舐めちゃ駄目だよ。ただの水みたいだけれど、何だろうな?」

 

 ぼくのいうことに耳ひとつ動かすことなく、シマはカナさんの膝の上で丸まった。

 刃が口をきけるはずもないが、黙って置いていかれても対処に困る。いつもなら助言してくれそうなカナさんも、のんびりとシマの背中の毛を撫でるだけで、何も言ってくれそうにはなかった。

 奥の客間からは、響子さんが畳を蹴る音が絶えることなく響いている。

 拭き取っては不味いのだろうか。そんなことを思いながら、ぼくはそっと透明な雫に指先を触れた。

 

「あぁっ」

 

 口から、間の抜けた息が漏れる。

 指先に軽い電流に触れたような痺れが走り、腕を這い上がると頬を僅かに痙攣させ視界が黒く染まった。

 前にも感じたことのある独特な感触は、体温に近いぬるま湯の中、自分というモノを失っていくようなものだった。自分が此処にいるのはわかるのに、ぽつんと意識だけが残り、声をどうしたら出せたかも曖昧で、耳元を流れる風に聴覚だけを残して、上下さえ解らない暗闇に浮いていた。

  

 

 ザッ、と鼓膜を突く風音に、どこかへ引き寄せられているのだと、そんなことを思った。 

 何の前触れもなく視界が開けて、暗闇に慣れた目に飛び込んできたのは鬱蒼とした森だった。

俯せに這っているような低い位置からの慣れない目線は、ぼくの意思に関係なく、きょろりきょろと見る先を変えていく。

 小鳥が鳴く声が聞こえた。

 動き回るこいつは何者だろう。

 皮膚と手足の感覚が戻りつつあったが、ぼくのモノとは言い難い一度も経験したことのない感触に落ち着かない。まるで誰かが感じている柔らかな土の感触や、風がそよぐ度にさわさわとする背中のこそばゆさを追体験しているように。

 そして空を流れる雲が溶け合いひとつになるように、誰か、とぼくの心は完全に重なった。

 

 

 

 ここは木ばかりが多くてまったく歩きづらいね。とはいっても、此処の前に迷い込んだ場所のように乾いた大地が何処までも続いて、たまに命を見つけたと思ったら棘だらけで、側に寄ることさえできないような寂しい場所でないだけましかな。

 日が昇れば小鳥が鳴くし、少しだけ煩わしいけれど虫もぼくを馬車代わりにするために寄ってきて、体を休めたりしてくれる。

 まあ、だからってぼくが話しかけても、誰も答えてはくれないけれど。

 最近はあちらこちらから、隙間を通って流れ込む別の世界の匂いがするねぇ。

 またどこかへ行ってみようか。

 ぼくの言葉に耳を傾けてくれる人がいるかもしれないもの。居たらどうしよう。

 照れちゃって、ぼくは何も言えなくなるだろうか。

 それでもじっと待っていてくれたら、少しだけ我慢して待っていてくれたなら、頑張ってちゃんと挨拶するのにな。もっと頑張って、少しだけ一緒にいませんか、って言えたらいいな。

 

 おや、どこかの隙間が大きく開いたみたいだねぇ。

 何かが紛れ込んだ匂いがする。

 何だろう、いつだったか海の側を通った時みたいに、塩っぽい匂いがするよ?

 それにお日様の香りだ。良い匂いだねぇ。

 それほど遠くじゃなさそうだし、ちょっと捜してみようか。遠くから見てみるだけでも、暇つぶしくらいにはなるもの。

 ぼくの声が届くと良いな。あまり期待はしないでおこう。

 だって、後でがっかりしちゃうから。

 

 風上から流れてくる匂いが濃くなって、微かに鳴き声も聞こえてきた。

 誰かさんは、ずいぶんと妙な鳴き声を上げるなと思いながら、ふふんと鼻を鳴らした。この体に入ってから、鼻をふふんと鳴らすときのぼくはいつだって、ちょっとだけうきうきしているんだ。

 あっ、見つけた。

 ちょっとだけどきりとして、ぼくはさっと草陰に身を隠す。あれは、前にも幾度か見たことがある、人の子というものだ。

 前に出会った人の子は屈強な体ですごく乱暴者で、危なく食われるところだったけれど、あの子はずいぶんと小さいねぇ。

 捕まえて食べようなんてしないなら、少しだけ近くに寄ってみたいけれど、どうだろう。

 

「あーん、父ちゃんどこ? えぇーん!」

 

 そうか、鳴き声かと思ったが、人の子は泣いているのか。

 どうしよう、このまま放っておこうか。人の子に、ぼくの言葉が解らないことなら知っているもの。

 

「あっ……ワンちゃんだ」

 

 声にどきりとして顔を上げたときには遅かった。自分の思考に陥っている間に、人の子はぼくの目の前に立っていたから。

 

「おいで、ワンちゃん。こっち、おいで」

 

 げっ、とぼくは身を竦めた。人の子がひらひらと手招きしている。

 面倒なことになりそうな予感に逆らってまで足を踏み出したのは、呼ばれたから。

 初めて自分意外の誰かが真っ直ぐにぼくを見て、おいでと言ってくれたから。

 二歩目を踏み出さない内に、たたたっ、と寄ってきた人の子にさっと抱き上げられた。慌ててばたついてみたが、体の向きを変えただけで背中からむぎゅっと両腕に抱かれてしまった。

 うぇ、苦しい。けっこう苦しい。 

 

「ワンちゃんもまいご? お家どこ?」

 

 くるりと向きを変えて両手で脇を持ち上げられると、垂れ下がった足がぷらぷら揺れた。

 

「足みじかいね。ぷらぷら、かわいいね」

 

 人の子は短めのサラサラとした髪とおでこを、ぐりぐりとぼくに押しつける。

 諦めて息を吐いたぼくは、人の子のほっぺたをぺろりと舐めた。

 しょっぱいな。

 そうか、塩臭いと思った匂いは、この涙のせいだね。

 人の子は、迷子になると泣くのかな。

 

 あっ、笑った。

 

 ぺろりと舐めたら、人の子は鼻水と涙でぐしょぐしょの顔でにこりと笑った。

 他でもない、ぼくに向けて笑ってくれた。

 笑ってくれるなら、ともう一度ぺろりとすると、人の子はこそばゆそうに首を竦めて、明るい声を上げて笑う。

 笑い声は耳に心地くて、さっきまでの泣き声みたいに胸が痛くなることはなくて。

 だからちょっと思ってしまったんだ。迷子じゃなくなったら、この子はもう泣かないで、ずっと笑っていてくれるのかなってね。

 人の子が紛れ込んだ隙間は大きく開いているから、流れ込む独特の匂いを辿れば道案内してあげられる。

 毛玉になって転がれば速いけれど、それだとこの子がついて来られないよね。

 どの個体に宿ってもできる、唯一のぼくの特技なのに。

 

「ワンちゃんは父ちゃんいないの? どこからきたの?」

 

 ぼくにとってそれは、意外過ぎる展開だった。人の子はぼくの毛で涙を拭くと、今までよりぎゅっと強くぼくを抱きしめ、ぼくの家を探し始めたんだもの。

 ぼくには、帰る場所なんてないのにね。

 歩き回る人の子に抱かれて、足をぷらぷらさせながら、しばらくは好きなようにさせていた。

 なんてね、偉そうに言ってみたけれど、本当はもう少しだけこの子と居たかっただけなんだ。

 ちょっと苦しいけれど、温かくて気持ちよくて。体温を感じる誰かとくっついていられるなんて、初めてのことだったから。

 何より嬉しかったのは、時折ぼくに向けて話しかけてくれる声の心地良さ。

 やっぱりぼくの声を聞いてくれることは無理みたいだけれど、この子の気持ちを感じることだけはできたから。

 

 おや? 残念。時間切れだね。

 隙間が細くなり始めている。

 それにすごく遠くから、誰かの声がする。この子のとうちゃんという者だろうか。

 

 ワン

 

 人の子の腕の力がふっと弱まった隙に、ぼくは身を捩って抜け出した。ついておいでと言いたけれど伝わらないだろうから、少し走っては振り向いて、ひと声だけ鳴いてみた。

 ぼくに置いていかれると思ったのか、人の子は少しだけ泣きそうに眉を下げて必死に後を追ってくる。可愛そうだけれど、急がないと隙間が完全に閉じたら帰れなくなっちゃうもの。

 

 ワン

 

 微妙に景色が揺らぐ隙間の入口で、ぼくは人の子に顔を向ける。もうはっきりと、この子を呼ぶ誰かの声が聞こえている。

 

「父ちゃん? 父ちゃんだ!」

 

 その声を辿れば、元の世界へ戻れるよ。

 駆け出そうとした人の子が、立ち止まってぼくを抱き上げた。

 

「ワンちゃん、いっしょにいく?」

 

 小首を傾げる人の子はとうちゃんの声に安心したのか、にこりと笑っている。

 最後にもう一度だけ首を伸ばして、ぼくはぷっくりとしたほっぺたを舐めてみた。

 へへ、と人の子が目を細めて笑う。

 ずっと眺めていたいけれど、この腕の中にいたいけれど。

 ぷらぷらと揺らしていた足をくいっと捻って、ぼくは人の子の腕を抜け出した。

 そうするしかないんだもの。

 この子には帰る場所があるから、一緒には居られないよね。

 

「いっちゃうの?」

 

 ちょっとだけ俯いた人の子が、また泣いてしまうかとどきりとしたが、小さな手をひらひらと振ってにこりと笑ってくれた。

 

「ばいばい、ワンちゃん。大好き!」

 

 閉じかけた隙間から、人の子が駆け出していく。

 歪んだ景色の向こうに溶け込んだあの子を、大きく包み込む影が見えた。

 そっか、とうちゃんとやらに会えたんだ。

 良かったな。

 隙間が閉ざされ、またぼくは独りぼっちになっちゃった。

 鼻先を舐めたら、くっついたあの子のしょっぱい味がした。

 

 大好き、だってさ。

 

 どこかでまた会えたら、大好きだと言ってくれたお礼をしなくちゃ。

 ありがとうって言葉は伝わらないから、喜ぶことをしてあげよう。

 困っていたなら、いっぱい助けてあげたいな。

 会えたらいいな、無数の空間が絡むこの世界で再び出会える奇跡。

 そんな儚い夢にちょっとだけ寄りかかって、ぼくは幸せな気分になる。

 ぷらぷらは、可愛いのか。

 だったら今度からは、大好きな誰かの前では足をぷらぷらさせようかな。

 

 でもね、また会えるなんて奇跡が起きても、あの子はぼくに気付かないんだよ。

 その頃ぼくはきっと、違う姿になっているから。

 人の子とか小鳥とか、名付けられる存在なら良かったのに。

 化け物だとしたって、同じ姿で会えたなら気付いてもらえたのにね。

 やっぱり、足をぷらぷらさせてみよう。

 ぼくはふふん、とわざとらしく鼻を鳴らしてみた。

 

 気分がいいからここで少し眠ろう。

 あの子が姿を消したここなら少しの間、温かい気持ちで眠れそうだもの。

 柔らかな草の上を選んで、ぼくは小さく身を丸めた。

 誰も一緒に居てくれないぼくだって、誰かを想うくらいは、したっていいと思うんだ。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 




読んでくれた皆様、ありがとうございます!
次ぎで最終回です。
最後まで、お付き合いいただけますように。
では!


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(完) 終焉は始まりの宴

 ミャー

 

 シマの鳴き声に現実へと引き戻された。

 記憶の泉を通り抜けた時のように、他人の記憶を垣間見たとは違う。

 千切り取った物語の一頁の中で、確かにぼくは主人公であろう者の中にいた。

 まるで自分で思ったことのように、心の呟きがはっきりと心に届いたのだから。

 そして初めて耳にした筈の呟きにその声に、ぼくは白く小さな姿を重ねていた。

 

「シマ?」

 

 カナさんの膝からひょいと飛び降りたシマが、板張りの廊下に黄色い玉を吐き出した。板張りの上でちんと座していた水滴が、黄色い玉に触れて意思を持ったように吸い込まれていく。

 面倒臭そうに首を下げたシマは、黄色い玉を舌で器用にすくい上げて口に収めると、ぶるりと身を震わせる。

 眠るように閉じられた、シマの目が開かれた。

 

 ミャ

 

 短く鳴いた声は、確かにシマの鳴き声で、シマの声色だというのに。

 抱き上げたシマの足が、右に左にとぷらぷら揺れる。

 

「チビ? チビなの?」

 

 あの記憶の中の少年がしたように、シマを背後からぐっと抱き締めた。でれっと体の力を抜いて、のんびりと足がぷらぷら揺れる。

 

「あの少年はぼくだね? たった一度きりの、すれ違いにも似た小さな出会いだったのに、忘れずにいてくれたの? ごめんね、ぼくには記憶がない。小さすぎて、覚えていないんだ」

 

 ミャ

 

 器用に体を捻って、シマの体がこっちへと向けられる。

 やっぱりチビだ。およそ表情のない仏頂面のシマの顔の中、くるりと見開かれたガラス玉みたいな目が、最後の悪戯だと言わんばかりにチビらしくきょろきょろと動く。

 

「チビ、ありがとう。迷子のぼくを導いてくれて、今回だって、何度も助けてくれた。ぼくの為に、宿る力まで失っちゃった。ごめんね」

 

 それがどうしたというように、ぷらぷら揺れる足を見ていると、自然と笑みが湧いてきた。

 

「大好きだよ、チビ」

 

 ミャ

 

 シマの体が首を伸ばし、ぺろりとぼくの頬を舐めた。

 シマの体がぶるりと震える。強い力で身を捩って、シマは板張りの廊下へと降り立った。面倒臭そうにまったりと首を返したシマが舌を出すと、ちらちらと輝く黄色い玉が見えた。

 ぺっぺっと盛んに嘔吐くような仕草を繰り返しながら、シマが庭の奥へと戻っていく。自分の舌でぼくの頬を舐められたのが、何とも言えず嫌だったのだろうか。くすりと笑って、ぼくは心の中でシマに感謝した。シマの体を借りてまで、会いに出てきてくれたチビにも。

 

「あのシマがチビの為に体を貸すなど、長年共に暮らしてきたわたしでも、目を見張る光景でございました」

 

 着物の袖で口元を隠し、カナさんがくすくすと笑う。

 

「以前カナさんに言われた言葉の意味が、ようやく解った気がします。失う覚悟、まだ出来てはいませんが」

 

「ああいう子らは、好いた者のためなら小石を投げるように、簡単に己の命を賭けてしまうのでございます。わたしがお慕いする方を同じように好いた者も、あの御方のために己の身を顧みることはございませんでしたからねぇ。黒い毛に身を包んだ小さな体で、守り通しておりました」

 

「でも大好きという、たった一言でですか? 抱き上げてしがみついていただけなのに」

 

「水月様と出会い、この庭に辿り着くまでの永い年月の中、その日の温もりがたった一度のものであったとしたら、それが最後の優しい記憶だとしたらな、捨てられる思いであるはずがございません」

 

 チビの歩いてきた道を思った。

 広くて自由で、それはどこまでも寂しい。

 

「あぁ、もうやってられん!」

 

 障子を強く押し開けて、響子さんのいる客間から水月が出てきた。

 シャツのボタンが二つほど弾け飛び、手の甲にくっきりと入った赤いみみず腫れに息を吹きかける水月を見て、カナさんがくすりと笑う。

 

「ありゃもう大丈夫だ。こっちが看病して貰いたいくらいだっての」

 

 煎じ薬を飲まされて眠ったのか、後からついてくると思った響子さんは姿を見せなかった。

 

「そうだ、和也に俺の腕前を見せてやるよ」

 

 どしりと音を立てて隣に座り込んだ水月が、腰のポケットから手の平サイズの物を取りだした。

 

「響子に付き添った夜、あいつが眠っている間は暇だったから、ちょちょっと作ってみた」

 

 得意満面にぼくの前に水月が突きだしたのは、根付けに似た短い紐が取り付けられた小さな木箱だった。溝に板を差し込んだだけの蓋には、ユリの花が一輪彫られている。

 

「薬草を丸めた玉とか、常備して歩くのに便利だろう?」

 

 携帯用小物入れといったところだろうか。

 

「いいな、頂戴!」

 

「やーだね」

 

 差し出したぼくの手を軽く叩いて、水月はさっさと小物入れをポケットにしまった。このクソ親父め、見せびらかしたいだけかよ。

 

「そのユリも水月さんが彫ったの?」

 

「そうだよ。けっこう上手いだろ? 好きなんだよ、ユリの花」

 

「ユリの花って柄じゃないよね」

 

「ほっとけ」

 

 この若さで持ち歩くには渋すぎる小物入れだったが、蓋に彫られたユリの花は、水月が本当に彫ったのかと疑うほどに繊細で、何となくぼくの心を引きつけた。  

 

立て続けに細く風が吹き込み、さっきまでより勢いを増して廊下に腰掛けるぼくの髪をふわりと持ち上げる。

 

「カナ様」

 

 庭に下りた陽炎は乾いた土の上に膝を揃えて座ると、すっと三つ指をついて頭を下げる。

 

「行くのかい?」

 

 陽炎を見つめるカナさんの目元は柔らかく、膝を横に崩した姿勢を戻すことなく、ゆったりと微笑みを浮かべる。

 

「はい。一足お先に、わたしは旅路につかせていただきたいと思います。シマは少しの間、わたしと共にいてくれるようです。いずれはシマとも違う道を進む日が来ましょうが、それまでは」

 

「そうかい。シマがいるなら、わたしも安心して見送れるねぇ」

 

 顔を上げた陽炎は、美味しくできた料理をだしてくれる時のように、可愛らしい笑みに目を細める。

 

「ほんの少しでも、最後までカナさんのお側に居たいというのが本音なのです。でも、苦手なのですよ、大切な方を見送って一人残されるのは」

 

 はにかんだように少し俯いて、陽炎は白い歯を覗かせ、ちらりとカナさんを見る。

 

「ですから、幾度となく夏の終わりにそうしてくださったように、送り出してくださいまし」

 

 陽炎はぼく達を真っ直ぐに見て、ゆっくりと頭を下げた。カナさんは切れ長の美しい目を細めて、僅かに腕を持ち上げると白く細い指先を払うように揺らす。

 

「いってらっしゃいな」

 

「はい」

 

 ミャー

 

 いつの間にか姿を見せたシマはひと声鳴くと、面倒臭そうな足取りで陽炎の膝に乗った。

 庭の背景に、陽炎とシマの姿が溶けていく。

 ぼくにとっては、チビとの別れでもあった。

 

 チリリン

 

 カナさんの腰帯で鈴が鳴る。

 

――カナ様、ずっとお慕い申し上げております

 

 最後に聞こえた陽炎の声は、鈴の音に乗って微かに耳の奥へと届けられた。

 

「寂しくとも、嬉しい別れにございます。それにシマも、最後の役目を終えたようでございますねぇ。もうじき此処へ客人が訪れるのでございましょう。それを知らせるのが、シマの役目でございましたから。おまえも目の敵がいなくなって、つまらなくなったろう?」

 

 カナさんが、腰帯の鈴を指先で軽く弾く。

 

 チン

 

 カナさんの指先が当たって鳴ったのだろうが、ただの物である鈴の音が、心なし不満そうな色を帯びていたように思えて、ぼくは耳を指先で何度か捻った。

 

「おや、庭の外に珍しい客人がおいでのようで。どうやらわたしへ客人ではなさそうにございます。和也様か水月様に用がある者かと」

 

 頷いて水月と共に庭の外へと駆け出した。

 木々が無くなった丸裸の山肌を、向こうから茶色い風が走ってくる。何かにぶつかったように跳ね返ると、含んでいた土埃を払い落として上へ上へと昇っていく。

 

「町の向こうの山へ行きな」

 

 声にはっとして横を見ると、まだ残る丈の長い草の間から、草陰のギョロ目が顔を覗かせていた。

 

「鬼神なら山裾にあるでかい風穴の中にいるぜ。あんたの刃で切った傷がある以上、近づけばわかるだろうさ」

 

「まったく、何でも知っているんだな。町も残欠の小径も、姿を消すかもしれないよ」

 

 けけけっ、 ギョロ目の甲高い笑いに、草の先がわらわらと揺れる。

 

「俺達は三人でぐるぐる回って商売をしているんだ。そのひとつが消えたとしても、他を探すだけのことさ」

 

「前は命の心配をしていたくせに」

 

「人の血が混じった半端物とは、死への概念が違うのさ」

 

 ギョロリとした目玉が、ちらりと水月を見る。

 

「そういうこった。こっちは先にずらからせてもらうぜ」

 

 ばさりと草の分かれ目が閉ざされた。背後に森が続いているわけでもないというのに、草陰のギョロ目の姿はどこにも無い。あっさりとした別れだ。これも混ざる血の違いが生む、感覚のずれなのだろうか。

 

「草陰のギョロ目が身を引いたとなると、あんまり悠長なことを言っている時間はないぞ」

 

 吹き付けては上昇する風を見送りながら、水月が顎に指を当てる。

 

「それなら急ごう。鬼神が居るという風穴を探すんだ」

 

 走る途中丸裸の山間にぽつりと立つ木が見えた。響子さんの家であり、響子さんそのものである永い時を経た大木。周りの木々を失い立つ姿は、ぽつりと一人きりに戻った響子さんを想像させて、ぼくは顰めた目をそらして前を向く。

 継ぎ接ぎの町を駆け抜けるのに、人を避ける必要は無かった。疎らに立つ人々も、いずれ此処から姿を消すのだろう。おそらくその時、住人を失ったこの町はただの空間として消滅する。

 町を抜けて山に近づいたはいいが、鬼神の臭いがするわけもない。何を持ってして草陰のギョロ目は近づけばわかるといったのだろう。

 

「和也、あれだ」

 

 水月が斜め前方の薄ら青い空を指差す。目を懲らすと、ゆらゆらと宙に舞い上がる細い糸が見えた。それらの糸は、鳥が飛ぶほどに高い場所で円を描いて集まっている。

 上空の塊から、何かが吐き出され急下降すると、土埃を巻き上げながらぼく達の横を通り過ぎ、町のある方へと去って行った。

 

「壁にぶち当たっていた正体はこれか」

 

 右の手首に意識を集中させると、ずるずると刃を据えた柄が姿を見せる。柄を強く握りしめ、水月と軽く視線を合わせて駆け出した。

 

 木々に覆われた山肌の一部に、大きく抉られたような洞穴があった。穴の奥から吹き出る風に髪が煽られるのを気にすることなく、鬼神は入口に座っていた。

 両膝を外に折り曲げぺたりと地面に座る鬼神は、避けた袖口から覗く白銀に染まった傷口から、細く輝く糸を一本ずつ抜きだしては、指先に摘んだそれにふっと息を吹きかけ空へと放つ。

 目の前に立つぼく達に一瞥をくれることさえないまま、鬼神はぽつりぽつりと言葉を漏らす。

 

「ぼく達が入れ替えられたのは、たまたま目に留まったから。父親の元から迷子になった君、神隠しというのかな。知らず知らずのうちにほんの一瞬、こっちの世界へ迷い込んだことのあるぼく。誰かが通って繋がりを持った空間は、たとえ細くとも二つを繋ぐ道ができる。同じ年頃の子を、入れ替えたのは些細な気晴らしだったのかもしれないよ。まだ親に抱きつき、愛されて当然の幼い子を選んだのは、ただの嫉妬にすぎない」

 

 ふっと吹きかけられた息に黄緑色の糸が、上手く泳げない魚みたいに身を捩って昇っていく。

 

「違うかな、自分が受けた傷を違う形で他人に与えることで、苦しむ姿を見ることで、自分の傷を癒そうとしたのだろう。そんな愚行を重ねても、受けた傷は開くばかりなのにね。あぁ、愚行を繰り返したのは、ぼくか」

 

 糸が抜けていくごとに、鬼神から抜け落ちていくであろう他人の記憶は 、鬼神と呼ばれた魂を元々の少年の心に戻していくようだった。

 

「あんたは息子を奪った者としてぼくを追っていたけれど、最初に会った時以降はすでにぼくが意識を乗っ取った後だから。その意味では、恨む相手を間違えているよ」

 

 鬼神を前にした水月の視線は、ぼくでさえ背中がぞわりとするほどに冷たく固い。

 探した敵が鬼神の体内に眠っているのなら、目の前に居る者が少年の姿であることが、今の水月を止める楔にはならないだろう。

 

「水月さん、駄目だよ。水月さんの拳では何も変わらない。たとえ腰に隠した物を使ってもね」

 

 驚いた表情で水月がぼくを見る。腰に潜ませたのは刃物だろう。腰に当てた手をゆっくりと下ろし、険しい表情のまま水月は小さく頷いた。

 

「これで最後だ」

 

 ぼんやりとした表情で空を見上げる鬼神の指先から、白い糸が放たれる。

 眠たそうな表情でうつらうつらと目を閉じた、鬼神の肩がぴくりと跳ねた。

 ゆっくりと瞼を開けた表情は、同じ顔立ちだというのにまったく別人のものだった。

 

「君は、ぼく達がオリジナルと呼んでいた魂だね?」

 

 少年はこくりと頷く。

 

「ぼくを殺して、君はそういったけれど、その必要はもうないみたいだよ。もちろん、最初からそんな事をするつもりはなかったけれどね」

 

 少年の口元が笑みを模り、子供らしい白い歯が覗く。

 

「最初にぼくを押さえつけた奴は強くて、ぼくは深くて暗いところで、何をしているかを感じることしかできなかったんだ。鬼神と呼ばれたこの子を取り込んだ時も、あいつはこの子の魂が苦しむのを味わいたかっただけだから。ぼくを押さえつけたように、泣いていたこの子も簡単に押さえ込めると思ったんだろうね。でもね、時が経って力関係は一気に入れ替わった。この子は悲しみと憎しみを糧に、力を付けていたから」

 

 少年の胸の辺りがぼこりと盛り上がる。胸を押さえて顔を顰めた少年は、大きく息を吐いてぼくを見る。

 

「上空に浮いているみんなが動き出したら、この空間はそれほど時間を措かずに閉じてしまうよ。ぼくもね、やっと道が見えてきたんだ。あそこに行けば、きっと終わりに出来る」

 

 少年の言葉に、ふとカナさんの庭を思い浮かべた。

 脈打つように盛り上がった胸に、再び少年は顔を歪める。

 

「巻き込まれないように逃げてね。お兄ちゃん、ありがとう」

 

 苦しそうに、それでも笑顔を浮かべて少年が瞼を閉じる。

 他者に弄ばれるばかりだった少年の魂が自由になれるなら、今までの騒動も悪くはなかったと、少しだけそう思えた。

 閉じられた瞼が開いて、ぼんやりと鬼神が視線を泳がせる。

 ぼくは手の中の白銀の刃に祈るように指を滑らす。人肌に似た温もりが増して、刃がぼくの意思を受け入れたのだと思った。

 

「君に見せたいものがある。君のお兄さん達に向けて、お母さんが微笑んでいる姿。本当なら、君にも毎日向けられていたはずの、温かい視線だから」

 

 差し出した刃に伸ばされた鬼神の指先は、小刻みに震えていた。

 子供そのものである細い指が刃に触れて、鬼神は弾かれたように目を見開く。大きく開かれた目は左右に忙しく動き、目の前の景色を映していないのだとわかるものだった。

 

「お母さん……」

 

 とてもうっすらとだったけれど、鬼神の口元に笑みが浮かんだ気がした。

 胸を押さえて呻くと、すっかり抜け落ちていたはずの冷徹な鬼神の眼差しで、自分の腕に口を広げる白銀の傷に指先をねじ込む。

 

「くだらないとか、止めておけとかは言わないでよね。嫌ってほど解っているから。生憎ぼくは、他人の記憶を垣間見て知識だけが肥大した幼子でね。頭では解っていても、感情がついていかないんだ」

 

 傷口から引きずり出されたのは、てらてらと灰色に身をぬめらす、芋虫を思わせる塊だった。

 鬼神の手に強く握られて、力なく身を捩る。

 

「こいつが苦しむ様子を眺めていようと思っていた。でも、もう止めたよ。こいつだけは、許せない。どうしても、駄目なんだ」

 

 ぐしゃりと嫌な音を立てて、鬼神の手が強く握られた。止める暇さえなかった。握り潰された塊が、粘液質な液体となって地面に落ちる。

 止めることができたなら、傷ついた鬼神の魂の行く末を少しは変えられただろうかと、ぼくは悔しさに眉根を寄せた。

 

「そんな顔しないで。同じように居場所を失ったというのに、君とぼくではずいぶんと立ち位置が違ってしまったね。あの魂達も、ぼくに取り込まれた時点で進むべき道を失っている。家に帰れなかった失望は、触れるだけで彼らの道を奪うほどに、淀んだものだったのだろうね。謝る気はないよ。謝るべきことが何かなんて、してはいけないことが何かなんて、教えてくれる人はぼくには居なかったんだから」

 

 かけるべき言葉が見つからずに視線を落とした先で、手の中の刃が消えていく。白銀の蒸気となって、天へとくゆり昇る。

 

「君もそろそろ行きなよ」

 

 空を見上げて鬼神がいう。

 

「君にも行き先はあるよ。受け入れようとしてくれている人が居る」

 

 小石を取りだして、鬼神の膝先に置いた。

 

「へえ、そうなんだ。しばらく眠れるなら、何処だって構わないかな。ぼくが消えれば、それほど経たずに上空の魂は一気に動き出すだろうから、その渦に巻き込まれちゃいけないよ。教えてあげたからって、勘違いしないでね。ぼくはやっぱり、君のことが大嫌いなんだ」

 

 座ったままの姿勢で、だらりと鬼神の手が落ちた。閉じられた瞼の隙間から、涙が一粒こぼれ落ちる。黒い涙はそろりそろりと這うように鬼神の頬を伝い、浴衣の裾からはみ出た膝まで辿り着くと、ぽとりと小石の上に身を落とす。

 黒い涙が、小石へと吸われていく。

 

「終わったな」

 

 呟く水月に頷いて、ぼくは小石を拾い上げた。二つの魂を宿した小石を握りしめ、水月の肩を叩いて走り出す。円を描いていた上空の塊は、不規則な動きで渦巻き始めていた。一本の糸が生みだすのが細い一筋の風だとしても、あれほどの数になればどれほどの勢いがつくのか想像さえできなかった。

 

「小屋にいる佐吉達にも知らせないと!」

 

 全力で走るぼく達の背後で、音を立てて風が鳴る。佐吉の小屋に辿り着くまで、留まってくれと祈りながら走り続けた。

 

「急げ和也!」

 

 地鳴りを伴って吹き付ける茶色い風の渦がぼく達に追いつく寸前に、なんとか小屋の中に体を滑り込ませた。風に煽られ、小屋ががたがたと屋根を鳴らす。

 

「終わったよ」

 

 転がって倒れたままの姿勢で、握りしめていた小石を見せる。佐吉と宗慶、雪は神妙は面持ちで小石を眺めていた。

 

「この町はもうすぐ消失するらしい。それを知らせたくて」

 

「そうか」

 

 ぽつりと佐吉がいう。

 

「ぼく達と一緒に、カナさんの庭へ行かない? あそこ意外に安全だと思える場所はないんだ」

 

 ぼくの誘いに、佐吉はゆっくりと首を横に振る。

 

「おまえがいない間に、話し合っていたんだ。俺達は、もう少しあちらこちらをぶらついてみることにした。俺達にもまだ、やれることがあるような気がしてな」

 

 思ってもいなかった返答に、どう言葉を返して良いのか戸惑っていると、宗慶が膝を折ってぼくの肩に手を置いた。

 

「望む物は、それぞれでござるよ。雪殿も、共に空間の隙間を抜け新たな地へ向かうと決められた」

 

 頷く雪の表情は、どこか晴れ晴れとしたものだった。

 

「そっか、この小屋がそれぞれの道への分岐点になるってわけか」

 

 水月の言葉に少しだけ希望を感じたぼくは、立ち上がってみんなを見回した。

 

「今までありがとう。ぼく達は先に行くよ」

 

 外へ出て振り返った戸口の隙間から見えたのは、胸の前に片手で拳をつくり、慣れない様子で手を振る雪の姿だった。

 

「がんばって……ください」

 

 雪の声にぼくは笑顔で答えた。なんだ、やっと言えるようになったじゃないか。

 

「行くぞ!」

 

 水月の背を追って走る町の通りに、人の姿は見当たらない。

 確かに踏みしめている大地も、そこにある建物も消失するという実感がわかなかった。町を抜けて禿げ山の道を走っていた水月が急に立ち止まり、それにぶつかってぼくは鼻を押さえる。

 大地を揺らす振動が、大きな風の塊が何度も壁にぶつかっているのだと知らせてくれる。

 

「響子だ」

 

 言われて前を見たぼくは、鼻の痛みを忘れて声が漏れそうになる口を押さえた。

 透明な壁の前で渦を巻いてぶつかり続ける風の傍ら、地に膝をつく響子さんの姿があった。

 含んだ土埃をすっかり払い落として透明となった渦の中、色とりどりの糸が乱れ飛ぶ。遙か空の彼方から僅かな裂け目を抜けるように降ってくる糸達は、鬼神の力が弱まった隙に、一足先に町を抜けだした魂だろうか。

 両手を広げた響子さんの胸が激しく波打ち、折り重なって無数の糸が吐き出されていく。魂の残滓を舐め取るように、ゆっくりと風が巻いては吐き出された糸が吸い込まれていった。

 最後に少し長めの白い糸が這いだして、響子さんの体が後ろへと傾ぐ。駆け出した水月が響子さんに覆い被さると同時に、糸を孕んだ風が轟音を上げて垂直に登り始めた。

 

 ガシャリ

 

 何かが砕けた音が響く。

 見えない壁に沿って加速を付けて昇る風の渦が、カナさんの庭の方へと一気に流れ込む。 息もつ吐けないほどの風圧に、思わずぼくは顔を覆った。

 指の隙間から見えたのは、押し寄せる風の名残に髪を逆立てながらも、倒れた響子さんの上に覆い被さる水月の姿だった。

 庭へと走り去った風の渦を追うように、後から流れてきた風の塊が幾度も吹き抜け、ぼくは何度も足をふらつかせる。

 やっと止んだ風に水月の元に駆けつけると、風に飛ばされた小石か何かに傷つけられた跡が、頬と腕に赤い筋を刻んでいた。

 

「響子さんは?」

 

「最初から決まっていた役目だ。おそらくは大丈夫だろう」

 

 傷がひりつくのか、水月は指先で血を拭い舌でそれを舐め取った。

 響子さんは上半身を水月の膝に抱きかかえられたまま、穏やかな表情で眠っていた。蓮華さんのこと、己に内包した魂の残滓。苦しみながら覚悟を決めたであろう寝顔は、とても穏やかなものだった。

 

「息が落ち着くまで少し待ってくれないか。風が吹き荒れている間、まともに息さえ出来なかったんだ」

 

「うん。待っているよ」

 

 肩で息を吐く水月を、ぼくは少しだけ頼もしく思う。

 言葉で伝えるのは恥ずかしいから言えないな。口ではクソミソに言いながらも、響子さんを守ろうとした水月が、父親であることが誇らしかったんだ。

 

「響子が吐き出した魂の残滓を取り込んだ糸は、自分を取り戻したと思うか? カナの庭へいっていったい何をする気だろうな。早く行ってやらないと、カナが不味いんじゃないか?」

 

 水月の言葉にぼくは首を横に振る。

 

「多分ね、大丈夫だと思うよ。カナさんが言っていたじゃないか。もうすぐ客人が来ることをシマが知らせたって。カナさんは、最後の一人である客人を待っていたんだ。魂の残滓を取り込んだ糸は、カナさんの庭で道を見つける。きっと、見つける」

 

 風が止んで、水月の息も収まった頃、ぼく達はカナさんの庭へと向かった。気を失ったままの響子さんを腕に抱き上げて、水月が先を行く。

 今回はさすがに、乱暴に肩に担いだりはしないんだ。そんなことを思うと小さく笑いが漏れた。

 

「何を笑ってんだ?」

 

「笑ってないよ。ねえ、水月さん。ぼくは幼い頃、水月さんをどんな風に呼んでいたの?」

 

「お父様だ」

 

 ぼくは声を上げて笑った。

 

「嘘つき! 父ちゃんでしょう? チビの記憶で見たんだよ」

 

 ちぇ っと水月が舌を打つ。

 

「なぁ和也、いっそのこと何処か安定した場所で、小さな店でも造らないか? 小屋みたいな小さなもんでいいから一緒に建てて、そこでちっさく商売するんだ。その日に食える分だけ稼げればいいだろう?」

 

 確かにあれだけの小物を作る腕があれば、そこそこの儲けにはなるだろう。ぼくの料理だって、あの店の常連客以外になら受け入れられるかもしれないし。いや、間違いない。楽しそうに話し続ける水月の背中を見ながら、これから先の日々を思った。

 心配をかけた分、親孝行の真似事くらいしてみようかと思う。

 ぽつりぽつりと浮かんでは消える、懐かしい常連客達の声と笑顔を、頭を叩いて振り払う。

 

「庭を出たら、良さそうな木の枝を拾っていこう。材料集めは必須だろ? 料理を造る為に火を起こすにしても、薪は必要だからな」

 

「気が早いな、水月さんは」

 

 不意に振り返った水月が足を止める。

 

「俺と一緒に……来るよな?」

 

 不安そうな目元に胸が痛む。

 

「うん、行くよ。子供の頃に可愛がって貰えなかった分、めいっぱい甘やかして貰う」

 

「それは全力で断る!」

 

 響子さんを抱く水月と二人、笑いながら歩いた。

 失った時間が巻き戻されると音が、重なる笑い声となって響く。

こんな幸せもあるのだと、幼い日から消えなかった胸を刺す棘が消えていく。

 

 カナさんの庭に一歩入ると、話し続けていた水月がぴたりと口を閉ざした。

 見慣れた板張りの廊下から庭に下りた辺りで、力を抜いた両手を下げたカナさんが、僅かに天を仰いで瞼を閉じて立つ姿は、空気の流れさえ止まりそうにしんとしたものだった。

 庭に立ち入ったぼく達の気配を感じたのか、カナさんが静かに目を開く。

 

「お帰りなさいませ。たった今、最後の客人が先の道へと進んで行かれました。最後にお一人と思っておりましたのに、ずいぶんと大勢の方がいらっしゃいました。響子が魂の残滓を戻しておりましたから、道はあるのだと指し示すだけで、盲目の目が開いたかのように散って行かれたのでございますよ」

 

「そうですか、良かった。残欠の小径が消失するまで、あまり時間はないと聞きました。カナさんはどうするのですか?」

 

「外の空間の歪みは、この庭には及びませぬ。この庭がわたしと共に終焉を迎えるまで、少しの間、永く共に在ったこの庭を、愛でていたいのでございます」

  

 いつもと変わらぬ様子で、板張りの廊下に腰を下ろすカナさんの胸の内は解らない。

 

「あまり時間は残されておりませんが、響子をあの木の元まで運んでやってくださいませ。何が起ころうと、あそこが自分の居場所だからと頼まれたのでございますよ。朽ちるなら、あの場所が良いのだと申しておりました。苦しみも、楽しさもあの場から始まったのだからと」

 

 カナさんはいつだって、相手の思いを尊重する。その先に痛みが待っていようと、進もうとする者の肩を静かに押しやる。

 

「わかりました。それで、蓮華さんはどこに?」

 

 まだ歩けないのなら、ぼくが担ぐしかないと思った。

 

「蓮華は、すでにこの屋敷を後にしております。ここには、おりませぬよ」

 

 そうだった。響子さんと蓮華さんを繋いでいた管は既に断たれ、蓮華さんは自由を得た。そして、その自由を響子さんも望んでいた。

 

「それならこのまま響子を運ぶ。この屋敷の裏に流れる川の向こう岸に、裂け目から流れ込む風を感じるが、間違いないか?」

 

「はい。川の向こう岸はこことは異なる世界にございます。此度の揺らぎに、歪みが生じたのでございましょう」

 

「響子を送り届けたら庭に戻って、俺と和也はその裂け目から抜け出るとしよう。それまでは、この庭を閉じないでくれよ」

 

 ゆったりと微笑みを浮かべ、カナさんは小さく頷いた。

 

「畏まりました。無事にお戻り下さいますように」

 

 板張りに腰掛けたカナさんが、膝の上に細く白い指を揃え深々と頭を垂れる。

 その姿にじっと見入っていた水月が、ゆっくりと頭を下げ踵を返して走り出す。いったいどこに体力が潜んでいるのかと思うが、響子さんを抱えたまま水月は一定のスピードを保って走り続ける。 人の血がぼくより薄い分、体力にも人とは違う部分を多く残しているのかもしれない。

 響子さんの木が見えた。ふと目をやると、離れてはいるが町がある方角の景色が歪み始めていた。

 

「水月さん、まずいよ。急ごう」

 

 今にも押し寄せてきそうな歪んだ景色に舌打ちして、水月は速度を上げた。

 地下の部屋へと繋がる扉は、鍵さえかけていないのかあっさりと開いた。階段を下りていくと、部屋に灯された明かりが漏れて足元を照らしてくれた。

 火元を消し忘れるとか、響子さんのずぼらさにはほとほと呆れる。この先、本当に大丈夫なのだろうか。響子さんの心は、頬と同じように傷を刻んだりしないだろうか。

 

「お待ちしておりました」

 

 聞き慣れたはずの声に、一瞬心臓が跳ね上がる。蓮華さんが、いつもと変わらぬ姿勢で折り目正しく礼をしていた。蓮華さんの声に、響子さんがうっすらと目蓋を開く。

 

「馬鹿が……」

 

「はい」

 

 力ない響子さんの声に、蓮華さんが応える。

 

「空間が閉じたら、また二人きりになるのだぞ」

 

「はい」

 

「身動きがとれないほど、狭い空間しか残らないかもしれないというのに」

 

「はい。繋ぐ管が断たれても、わたしは響子様の宿り木でありたいのです。自由になった宿り木が、新たに自分の意思で選んだのが、響子様であっただけのこと。よろしいでしょう?」

 

 悪戯っぽく笑う蓮華さんに、響子さんの頬の傷が引き攣る。

 

「勝手にしろ」

 

「はい」

 

 安堵からぼくの表情も自然と緩む。見えてしまったんだ。苦々しげに顔を歪める中、視線を背けた響子さんの目元が、ほんの一瞬笑みを模った。

 

「俺は響子を横にさせてから直ぐに庭に向かう。和也は先に帰って、小石をどうにかしておいてくれ。まさか持っては歩けないし、あいつらもそれを望みはしないだろうからな。終わったら、庭の廊下で待っていてくれ。直ぐに行くから」

 

「そうする。時間がないから、水月さんも急いでね。蓮華さん、響子さんをよろしく」

 

「頼まれる覚えはないぞ」

 

 ふて腐れた声をだした響子さんを、水月はひょいと肩に担ぎ上げる。意識を取り戻した途端、ずいぶんな扱い方だ。

 

「和也様も、お気をつけて。本当に、感謝しております」

 

 いや、結局のところぼく自身は何もしていない。

 片手の空いた水月が、ぐしゃぐしゃとぼくの頭を撫で回す。

 

「禿げるって!」

 

「俺が禿げてないから大丈夫だ。気を付けて行くんだぞ。立ち止まるな」

 

 目尻に皺を刻みながらぼくの髪を逆立てていた、水月の大きな手が離れていく。

 

「響子さんも、元気でね」

 

 手を振って階段を駆け上がる。振り向かずに別れよう、陽炎さんを送り出したカナさんのように。 これは嬉しい別れなのだから。

 

 外に出ると空間の歪みは更にこちらへと近づいていた。水月のことだから、逃げ遅れることはないだろうと思う。ポケットから出した小石を握りしめ、カナさんの庭へと走った。

 背後からパリパリとガラスに亀裂が入るような音が追ってきている。

 

 庭に足を踏み入れると、追ってきていた音がぴたりと止んだ。やはり此処は、まったく違う空間なのだと、改めて思い知る。

 

「カナさん、水月さんは直ぐに後を追ってきます。それまでに、この小石をどうにかしたいんです。鬼神と少年が宿る小石を、彼らが安堵できる場所に委ねたいから」

 

 駆け寄ったぼくの手の中にある小石を見て、カナさんはすっと屋敷の裏を指差した。

 

「裏を流れる川に、小石を捨てられるのがよろしいかと。あの川は、どこの世界にも属さぬ川でございます。あの水に流されて、この石に宿る魂も少しは清められましょう」

 

 カナさんに礼をいって、ぼくは屋敷の裏へと回る。

大小の石が転がる河原の向こうに、緩やかに流れる川があった。

 

「鬼神と呼ばれた君の心が、あの日の小さな子供に戻れる日が来ることを、心から願うよ。君は、希神という名を捨てて、ゆっくり休んで欲しい」

 

 手の中の小石を、そっと撫でる。

 

「ふたりに、安らかな眠りを」

 

 流れる川に小石を投げ込んだ。ぽちゃりと音を立てて、小石を呑み込んだ川面は何事も無かったように流れ続けている。

 

「屋敷に戻って、水月さんを待とう」

 

 子守歌のように、さらさっらと川の流れがぼくの背中を包み込んだ。

 

 

 板張りの廊下の上でカナさんは壁に背を預け、いつものように膝を横に流して座っていた。

 

「カナさん、ぼくは今までそれほど多くの人と関わって生きてこなかったから、これほど一度に身近に思えた人を失うのは、正直辛いです。短い時間だったけれど、密度が濃すぎて一生分を過ごした友人を手放した気分です」

 

 カナさんは、涼しげな目元を細めてぼくを見る。

 

「別れが意味を持つのは、時が過ぎてからのことでございましょう。別れに意味を持たせるのは、後に流れる時の中、何を成したかということでございます。和也様が老いの季節を迎える頃には、この別れもはっきりとした意味を成していると、そう思うのでございますよ」

 

 そういうものか。ぼくにはまだ解らないけれど、寂しい記憶が色を変えていくならいいな。

 ぼくは尻ポケットに入れていた封筒を取りだし、紙の切れ端を取りだした。

 

「カナさん、これはシゲ爺という人が自分の日記から千切り取ったものです。こう書かれています。

この子が迷った時には、あの場所が導いてくれるだろうか。あの場所とは、シゲ爺が目にしたことのある、この庭とカナさんのことでは?」

 

「そうだとしても、すでに必要のないことでございましょう?」

 

 微笑むカナさんの言葉に頷いて、ぼくはその紙をポケットにねじ込んだ。シゲ爺は、優しすぎる。優しすぎて、苦しかったろうに。

 

「水月さん、少し遅いけれど大丈夫かな? 目を覚ました響子さんに殴られて、昏倒してなければいいけれど」 

 

 くすくすとカナさんが笑う。

 

「水月様は、根っからの男でございます。数多の男は存在すれど、本物の男に出会えるのは希なこと。水月様と、一緒に行かれるのですね」

 

 確かめるようにぼくの顔を覗き込むカナさんに、ぼくは笑顔で頷いた。

 

「店を開きたいそうです。手伝うことで、少しは親孝行になるかなって」

 

「水月様は、幸せな男にございますねぇ。そして和也様も、幸せ者でございます」

 

 よくは訳のわからないまま曖昧に返事をして、ぼくは立ち上がり庭の奥を眺めた。

 廊下で待っていろといわれたが、肝心の水月が来なくてはどうしようもないだろう。

 うろうろと歩き回っていたぼくは、廊下の壁と壁を繋ぐ柱にすっと目を奪われた。

 

「これって、水月さんの作った小物入れじゃないか。落とさないように置いていったのかな」

 

 くれないとは言ったが、見るくらいならいいだろう。気に入っていた蓋の彫刻は、改めて見ると思った以上に繊細で、その背後には池らしきものと水面に揺らぐ月も彫られていた。

 

「変なところで繊細なんだな」

 

 小箱を裏返そうと少しだけ力を込めた指先に、溝にはめられただけの蓋が開く。ついでだからと、こっそり中の造りを覗いてみる。

 吸いかけた息が止まった。

 小箱の底には、荒削りに彫り込まれた水月の文字。

 

『母さんの名はゆり』

 

 微かに震える手に握る、板状の蓋の裏側が目に入る。

 

『題 ユリに添う水面月』

 

 そうか、水月は、今でも母さんを忘れてはいないのか。傷つけないように、そっと蓋を閉め直す。

 顔も知らないけれど、水月が母さんを想い続けていてくれたことが嬉しかった。  

 

 チリーン

 

 庭に鈴の音が渡る。

 気付けば直ぐ横にカナさんが立っていた。

 

「カナさん?」

 

「最後の頼まれ事ですゆえ、この手にて」

 

 カナさんの指先が、とんとぼくの肩を突く。軽い力だというのに、突かれた肩から後ろへ向けて体が傾いだ。よろめいて数歩下がりながら更に傾ぐ体は、背後にあるはずの柱の抵抗さえ感じることなく、何処までも沈んでいく。

 

 リーン

 

 世界を隔てるように、鈴の音が鳴る。

 

「依頼主は、水月様にございます」

 

 この耳に届いた最後の言葉だった。水月は最初から戻らないつもりだったのか。振り返るなといってぼくの頭を撫で回した水月の声に、手の感触に唇を噛む。

 まるで水に潜って水面を見上げているようだった。揺らぎの隙間に、時折はっきりと庭の風景が見てとれた。

 足を横に流して廊下に座るカナさんの眺める先で、奥から流れ込んだ水が庭に溜まっていく。

 湖に木々が生えたような幻想的な光景の中、木々の隙間を縫って小さな緒木船が、ゆらりゆらりと寄ってきた。 

櫂を漕ぐ男とは別に、細身の男が乗っていた。肩に黒い毛の塊が乗っている。緒木船が廊下に着けられると、カナさんは立ち上がり、船の上から差し伸べられた男の手にそっと自らの手を添えた。

 手が触れた瞬間、はっとしたように男の目が見開かれ、それから泣きそうな顔で微笑んだ。

 そうか、庭を離れると決めて、カナさんを縛っていた理の鎖が解けたのか。触れることさえ出来なかった人に、やっと触れられたんだね。

 カナさんが乗り込むと、とんと廊下に櫂を突いて緒木船が離れていく。

 背を向けたカナさんの表情は見えなかったが、隣に腰を下ろし、守るように肩を抱く男の横顔が優しく笑っているから、きっとカナさんも微笑んでいるのだろう。

 庭の奥の木の影に緒木船の姿が消えて、視界から明かりが消えていく。

 また独りになるのか。

 ぼくは目を閉じて、沈む感覚に身を委ねた。

 

 

 

 目覚めたとき、ぼくは電柱に背を預けて、知らない町の中にいた。

 

「大丈夫かい兄ちゃん?」

 

 声をかけてくれた中年の男性に礼をいい、知らない町を見回した。足元に転がっているのは、ぼろぼろになったぼくの鞄。これがここにあるということは、おそらく響子さんも共犯者なのだろう。 手の中には、ユリの小箱があった。

 

「また職探しかよ」

 

 顔を顰めてみたが、悪い気分ではなかった。失ったものが大きすぎて、今すぐには心の整理がつかないけれど、水月に後悔させることだけはしないでおこう。

 

「父さんて、一度くらい呼べばよかったな」

 

 目の前の看板を見て、ぼくは足先を駅へと向けた。行く先は、自分で選ぼう。

 

 

 

こっちへ戻って数ヶ月が経ち、妙な力が無くなっていることに気付いた。手首の傷はまだうっすらと残ってはいるけれど、ぼくはただの人だった。

 ある日ずっと避けていた場所へと足を向けた。どうせ誰もぼくを覚えてはいないのだから、通りすがるくらいは平気だと思った。

 懐かしい商店街を見知った顔が何人も歩いて行く。以前のように声をかけてくれる人はいないけれど、歩いているだけで懐かしくて温かい気持ちになれた。

 喫茶店の前は、黙って通り過ぎるつもりだった。けれど、うっかり見てしまった張り紙に、思わず足が止まる。

 

『アルバイト募集! コーヒー淹れるの得意な人、料理出来る人求む!』

 

 彩ちゃんの字だ。

 街灯の灯りに虫が逆らえずに飛び込むように、ぼくは店のドアを開けてしまった。

 

「いらっしゃい!」

 

 モスグリーンのキャミを着た彩ちゃんが、もの凄い勢いで動き回っている。店の中は常連客で埋め尽くされていた。

 

「ごめんね、満席なの。食べ終わった順に直ぐ追い出すから、ちょっと待っててね!」

 

 指先でキャミの紐を弾いてウインクすると、彩ちゃんのポニーテールが元気に揺れる。

 

「あ、いやぼくは……」

 

「あぁ! もしかしてアルバイト希望? やったー、もう死にそうに忙しいの。何人も面接を受けに来たのに、このオッサン連中が全員駄目だって雇わせてくれないんだもん」

 

 ふくれる彩ちゃんに、ケケッっと常連客達から笑いが起こる。

 

「だってよ、根暗っぽいのとか、ヤケに真面目臭いのとかロクなのいなかったじゃん。しかもコーヒー淹れさせても下手だしよ」

 

 そうだそうだー、と店内からヤジが湧く。

 

「煩いぞ! このままじゃわたしが過労死しちゃうんだからね!」

 

 ぷぅっと頬を膨らませるなんて、前の彩ちゃんにはなかったことだ。ぷっくりと頬を膨らませて腰に手を当てていた小花ちゃんを思い出して、ぼくはこっそりと笑う。

 

「とりあえず、コーヒーを淹れてみてくれる?」

 

 断るタイミングを完全に逃した。強引に手を引かれて厨房へと入る。

 

「美味いの淹れろよ-」

 

「あぁ、俺さ、クリームのっけてね。だっぷりと」

 

「俺はさ、熱すぎないホットで」

 

 厨房に立った途端、ここに居てはいけないんじゃないかとか、覗いただけだとか、そんなことは頭から飛んでいた。

 

「はい、お任せを!」

 

 フィルターの中で豆が茶色く粟立ち、豊かなコーヒーの香りが店内に満ちていく。クリームだって? クリームっぽいものの間違いだろうに。

 たった三杯のコーヒーを淹れるのが、楽しくてしかたなかった。

 

「はいどうぞ」

 

 それぞれの前にコーヒーカップを並べる。

 試してやる、みたいな表情でコーヒーに口を付けた常連客達の表情が変わっていく。

 

「うわー、美味いなこのコーヒー」

 

「このクリームなんだ? クリームっぽいけど、クリームじゃないよな? でもウマ!」

 

「あぁ、熱っちくないコーヒー。絶妙の湯加減」

 

 風呂か! と危うく突っ込みを入れそうになる。

 

「彩ちゃん! この子に決定! ぜったいこの兄ちゃん!」

 

 勝手なことをいう常連客に、彩ちゃんが大きく息を吐く。

 

「雇うのはわたしなのにな、もう!」

 

腕を組んで常連客を睨み付けた彩ちゃんが、にっこりとぼくに笑顔を向けた。

 

「そういう訳で、採用ね! 今から働けると嬉しいな。だって忙しいんだもん。それじゃ、取りあえずエプロンつけてね!」

 

 店内から拍手が湧き上がる。この軽いノリは相変わらずか。

 というより、ぼく意思は無視? 

 何となくポケットに入れてきたシゲ爺の推薦状を、ズボンの上から触ってみる。シゲ爺、必要無かったみたいだよ。

 戸惑いながらエプロンを着けていると、背後からごつい手に肩を掴まれた。

 

「おう新入り。ここで働くんなら秘守義務は絶対だぞ」

 

 低い声で囁いたのはタザさんだった。秘守義務という言葉に、思わず心臓が締め付けられる。

 

「それっていったい……」

 

「彩はな、前はそんなもの口にもしなかったのに、ここ最近甘いココアばっか飲んでやがるんだ。それで増え続けているのが、こっそり毎晩計っている体重だ。常連客に増えた体重のことをばらしてみろ。瞬殺されっぞ」

 

 ぽかんとした表情でタザさんと顔を見合わせた。次ぎに込み上げてきたのは、押さえようのない笑いだった。

 

「ほらそこ! 遊んでないでお仕事!」

 

「はーい」

 

 きゅっとエプロンの紐を締めて厨房へと戻る。

 

「おーい、アルバイトの兄ちゃん! すっごい甘いコーヒーひとつ」

 

「アルバイトの兄ちゃん! なんか飯作ってよ」

 

 自然と顔がにやりとする。

 久しぶりに、ラー油入りのパスタといきますか。

 

「はーい! ただいま」

 

 コーヒーの香りに包まれて、ぼくは大きく一歩踏み出した。

 

 

 

 




読んで下さった皆様、ありがとうございました。
この物語りを読んで下さった皆様、お気に入り感想、評価などで関わって下さった皆様、本当にありがとうございました。
書き手としては少しの間お休みです。
またこの名前を見かける日が来ましたら、暇つぶしに立ち寄ってみてくださいね。
本当に、ありがとうございました!
皆様に、全力で感謝!


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