南端泊地物語―戦乱再起― (夕月 日暮)
しおりを挟む

プロローグ
プロローグ


 海が騒がしい。

 天候も波も激しくない。ただ、砲声のやかましさが空気を震わせる。

 

「清霜!」

 

 制止の色を帯びた叫びが聞こえる。それを振り切るように一つの影が躍り出た。

 戦場である。今、この場所では艦艇同士の砲撃戦が繰り広げられていた。

 

 ただ、艦艇と言っても――それは本来あるべき形を成していなかった。

 

 片や少女の姿をしており、片や怪物じみた風貌をしている。前者を艦娘、後者を深海棲艦という。

 飛び出した人影――清霜と呼ばれたのは艦娘である。水上を駆ける小柄な身体つき、小さな砲塔と大きな魚雷発射菅は、彼女が駆逐艦の艦娘であることを示していた。

 

「こんな敵、私だって――!」

 

 勇ましい顔つきで小型の深海棲艦目掛けて突っ込んでいく。

 駆逐艦は主砲の火力・射程が貧弱だが、その分機動性に優れている。敵の懐に飛び込んでインファイトに持っていくというスタイルは間違っていなかった。

 深海棲艦は口を大きく開き、その中に仕込まれた砲口を清霜に向ける。だが、清霜はそのとき既に深海棲艦に主砲の照準を合わせていた。

 

「くらえ――!」

 

 躊躇わず主砲を放つ。眼前の深海棲艦は直撃を受けて吹き飛んだ。

 

「やった、どうだっ!」

 

 喜色満面の笑みを浮かべる清霜だったが、すぐさまそこに鋭い声が投げかけられた。

 

「どけ!」

 

 清霜を押しのけるようにして、険しい眼差しの少女が前に出る。

 

 駆逐艦・磯風。

 

 かつて艦艇だった頃、かの大戦で様々な武功を打ち立てた駆逐艦屈指の武勲艦。その名を得た艦娘が向かう先には、隙だらけになった清霜を狙う重巡クラスの深海棲艦の姿があった。

 磯風に文句を言おうとした清霜も、すぐに敵の姿を捉えた。

 

 敵が中口径主砲を二人に差し向けるのと同時に、磯風の艤装に備え付けられた魚雷発射管が音を鳴らした。

 同時に磯風は大きく身を動かす。敵を前に棒立ちでいることほど危険なことはない。常に動き、相手の意識を乱す。それが艦娘の接近戦における常道だった。

 敵の意識は、清霜・磯風・磯風の発射した魚雷に分散された。どこに意識を向けるかという迷いが、敵の動きを鈍らせる。

 

「その迷いが命取りだ」

 

 磯風の呟きと同時に、深海棲艦の足元が爆発した。

 魚雷が直撃したのである。

 

「既に魚雷を一発先行して発射しておいた。真っ先に魚雷へと意識を向けていれば気づけただろうに」

 

 言いながらも、磯風は油断なく周囲を警戒していた。

 清霜も辺りに残敵がいないかと視線を巡らせる。

 

『大丈夫です。他の敵はすべて掃討しました』

 

 通信機から女性の声が聞こえた。清霜や磯風が属する艦隊の旗艦――軽巡洋艦の艦娘・大淀の声だ。

 二人が視線を転じると、少し離れたところに大淀の姿が見える。更に彼女の背後には、正規空母の艦娘である雲龍と、その護衛である駆逐艦の艦娘・時津風の姿があった。

 そして、そのすぐ隣には彼女たちの母艦である小型船があった。船の甲板には清霜たちとそう変わらないであろう年頃の少女の姿が見える。

 

『清霜、磯風』

 

 通信機越しに少女の声が聞こえた。

 

「司令官! ねえ、どうだった清霜の戦いぶり!」

『……独断専行で単身突撃したのは、褒められたものではないわ』

 

 元気溌剌とした清霜とは対照的に、司令官と呼ばれた少女の声は静かなものだった。

『敵を倒した途端油断した点もマイナス。C判定と言わざるを得ない』

 

「えーっ!」

 

 清霜は全身で不満をアピールした。C判定というのは、戦闘後に指揮官が戦闘員につける評価のランクで、下から二番目のものになる。

 

「当然だ。動きに無駄も多いし、動くべきときに棒立ちでは話にならんぞ」

 

 横から磯風にも指摘されて、清霜は「うぐぐ」と歯ぎしりをした。

 生来、負けん気が強い性格なのである。

 

『一応言っておくけど、磯風はB判定』

「……なぜだ、康奈司令。敵もきっちり仕留めたし油断もしていない。マイナス要素はないだろう。A判定以上が妥当では?」

『独断専行で突っ込んだという点が大きなマイナスよ。艦隊戦は喧嘩じゃない。旗艦と連絡可能なら旗艦の立てた方針・指示に従いなさい。大淀は敵の撃破よりあの船の護衛を優先すると言っていたでしょう』

 

 康奈が指し示したのは、海上で所在なさげに漂う小舟だった。

 母艦で移動中、深海棲艦たちが小舟目掛けて突き進んでいることに気づいた。それが戦闘のきっかけだったのである。

 

『詳しい反省会は後でやるから。……早く戻ってきなさい』

 

 最後だけ、言葉が柔らかくなった。それに気づいたのか気づいていないのか、清霜と磯風の表情から緊張がなくなる。

 

「はーい」

「了解した」

 

 二人は、康奈や大淀が待つ母艦に向かって主機を動かす。

 

 時は二〇一四年・秋。

 人類・艦娘と深海棲艦の間に起きた大規模な戦闘の傷跡が、まだ十分に癒えていない頃のことだった。

 

 

 

「……所属不明の漂流船ですか」

 

 ソロモン諸島の首都・ホニアラ市にある日本大使館。

 そこに努める長崎大使は、康奈からの報告書に目を通して眉根を寄せた。

 ホニアラ市に向かう途中で遭遇した深海棲艦が狙っていた小舟。そこに乗員らしい乗員の姿はなく、どこから来た船なのか、どこに向かっていたのかがさっぱり分からなかった。

 ただ――全身に酷い火傷の跡がある男が、一人寝室で倒れていた。

 

「男性の意識は戻っていません。現在は大淀たちに頼んでホニアラ市の病院に入院させるよう手続きを進めています」

「分かりました。いろいろ気になるところですが、男性の意識が戻るまではどうにもならないですね」

「はい。……男性についてはお任せしても良いでしょうか」

「ええ。ソロモン政府と相談して決めていくことになるでしょうが、ひとまずこちらで預かりましょう」

「助かります」

 

 康奈は頭を下げると「ところで」と話を切り替えた。

 漂流船の件は予期せぬアクシデントで、康奈がここまで来たのは別の用件があったからだ。

 

「渾作戦について、既に大本営から連絡は?」

「来ています。ソロモン政府との事前交渉は既に済ませていますが、今回は反応が芳しくありません」

「無理もありません。AL/MI作戦の顛末やその後の『お家騒動』のことを考えれば」

 

 康奈の言葉に応じるかのように、長崎大使は重いため息をついた。

 AL/MI作戦というのは、今年の夏に行われた深海棲艦に対する大規模作戦である。主導したのは日本だが、日本が対深海棲艦戦力を派遣している周辺諸国もこれに協力していた。ソロモン諸島もその一つだ。

 

 作戦の目標は、深海棲艦に奪われていたAL/MI海域の制海権掌握。かなりの苦戦を強いられたものの、この目標はどうにか達成できた。ただ、AL/MI海域に大規模な戦力を投入した隙を突かれて、各地を深海棲艦に襲撃されるというアクシデントが発生した。

 

 少なくない犠牲が出た。作戦を主導していた海上幕僚長は責任を取る形で退任。更にその後釜を巡って主導権争いが発生した。収束したのはついこの間のことで、そこから更に現在進行形で組織の再編が進んでいる。より効率的に深海棲艦へ対処できるようにするための再編ではあるが、傍から見れば日本の能力・内情がひどく不安定に映る。

 

「幸い先の戦いでソロモン諸島はほとんど犠牲者を出しませんでした。日本の能力に疑念を持っていたとしても、それ以上の悪感情は持っていない――と私は見ています」

「交渉の余地はあるということでしょうか?」

「はい。前回のような大々的な支援は難しいかもしれませんが」

「そこまではせずとも良いと思います。作戦概要を聞いた限りでは、AL/MI作戦と比べると小規模な作戦のようなので」

 

 そう言いつつ、康奈の表情は晴れない。

 AL/MI作戦後に再編された日本の対深海棲艦用組織――その真価が問われる作戦になる。

 各国もこの作戦には注目している。作戦の結果次第では、日本の立場はこれまでよりも圧倒的に苦しいものになるだろう。

 

「ソロモン政府との本交渉は明日からになります。今日はゆっくりお休みになってください」

「ありがとうございます。……では、また明日。午前一〇時に伺います」

 

 姿勢よくお辞儀をして出ていく康奈を見送り、長崎大使は深いため息をついた。

 通常の執務に戻ってしばらくしたところで、再びドアがノックされる。

 

「さっき、ここに来る途中であの嬢ちゃんと会ったよ」

 

 入って来たのはソロモン諸島の老練な船乗り・ウィリアムだった。

 ソロモン政府にコネを持っており、深海棲艦との戦いでは何度か支援をしてくれたこともある老人である。

 あのお嬢ちゃん――というのは康奈のことだろう。ウィリアムも彼女とは顔見知りだ。

 

「しっかりと提督をやっているようだ。……あの若さを思うと、少し居たたまれなくなるが」

「替われるなら替わってあげたいと思うこともあります。しかし、提督になるためには適性が不可欠。適性がなければどうにもなりません。……先代も、苦しい決断だったと思います」

 

 康奈が提督になったのはつい最近のことだ。

 

 元々彼女は、自分の過去のことも思い出せない孤児だった。

 それをショートランド泊地の提督が拾って、保護者として面倒を見ていた。

 ただ、その提督は諸事情あって提督を続けることが困難になった。

 その後を継いだのが、高い提督適性を持つ康奈である。

 

「我々には我々にしかできないことがある。それで支えてやるしかあるまい」

「ソロモン政府内の動向はいかがでしょう」

「半々といったところか。日本よりもイギリスを頼るべきだという意見も出てきている。正直、勢いもそれなりにある」

「……どちらに転ぶかは、次の作戦次第といったところですか」

「今回の交渉は、適当な落としどころを見つける形になるだろうな」

 

 生まれ変わった日本とショートランド泊地。

 その真価を、ソロモン政府は注意深く見定めようとしている。

 

 康奈は――ショートランド泊地は、崖っぷちに立たされているも同然の状態だった。

 

 

 

 ホニアラ市から少し離れた海岸。

 そこから一人の艦娘が海目掛けて砲撃を放った。

 主砲から放たれた砲弾は、遠距離にあった的に直撃する。

 

「……よしっ」

 

 ガッツポーズを取ったその艦娘は清霜だった。

 市街から離れた場所で、砲撃訓練をしているのだった。

 

「相変わらず訓練熱心ね」

 

 そんな清霜のところに、長い前髪の少女がやって来た。

 夕雲型の艦娘――清霜の姉妹艦・早霜だ。

 

「早霜姉様! どうかしたの?」

「こちらに着いてからすぐに飛び出していったから、少し心配したのよ……」

「あー、ゴメンゴメン。別に不貞腐れてるとかそういうのじゃないわ」

「清霜は不貞腐れたりする子じゃないでしょう。ただ、純粋なところがあるから落ち込んでないかと思って」

 

 早霜に指摘されて、清霜は「あはは……」と力ない笑みを浮かべた。

 ホニアラ市に来る途中で行われた反省会で、清霜は先の戦闘に関して康奈・大淀からいくつかの注意を受けている。

 その場ではじっと堪えるように聞いていた清霜だったが、母艦がホニアラ市に着いた途端飛び出してしまったのだ。

 

「私、まだまだ弱いなって思って。司令官や大淀さんが言ってたことは全部もっともだと思ったし――全然駄目だなあ、って」

「命令違反は確かに駄目なことね。……私も、急に敵に突っ込んでいった清霜を見て肝を冷やしたもの」

「ううっ、ごめんなさい……」

「でも、その勇気は見習いたいと思ってるわ」

 

 早霜の言葉に、清霜は「ありがと」とお礼を言った。

 

 二人はAL/MI作戦後にショートランド泊地に着任した。

 それから今日に至るまで、ほとんどが訓練の日。

 泊地を離れたのは、今回が初めてで――あの戦闘は清霜たちの初陣だった。

 

「お世辞とかじゃないわ。私は怖くてほとんど動けなかった。敵に向かわず船の方に行けって言われて……安心してしまったもの」

 

 艦娘は深海棲艦と戦うことを使命としている。

 にもかかわらず、敵と戦うことに恐れを抱いてしまった。そのことを早霜は悔やんでいるようだった。

 

「私は……ただ無我夢中だったなあ。敵を倒して、戦果を挙げて、それで――」

「――戦艦になる、か」

 

 新たな声がした。

 黒髪を腰元まで伸ばした鋭い相貌の少女。磯風だ。

 

「……悪い?」

 

 清霜は口を尖らせて磯風と相対した。

 磯風は清霜たちと同時期に泊地へ着任した艦娘の一人である。

 ただ、元の艦艇が駆逐艦屈指の武勲艦だったということもあってか、彼女は清霜たち同期の艦娘と比べ出色の存在だった。

 清霜にとっては、同期であると同時に越えるべき壁でもあった。

 

「艦種を変更するケースはあるが駆逐艦が戦艦になったという話は聞いたことがない」

「前例がないなら自分が最初の一人になればいい!」

「口にするのは容易いが、そう簡単にできるとは思えんな。……それに、駆逐艦には駆逐艦だからこそできるということもある。戦艦を目指したいというお前の心情は、私には理解しがたい」

 

 言って、磯風は清霜が撃ち抜いた的目掛けて主砲を構えた。

 大きく息を吸い込み、吐き出すのと同時に砲撃を放つ。

 放たれた砲弾は、寸分違わず的のあった場所を貫いた。

 

「お前は基礎ができているのに意識の集中に時間がかかり過ぎている。考えて動くことを覚えろ。すぐに思考を切り替えられるようになれ。いたずらに砲撃訓練をしてもあまり意味はない」

 

 艤装を解除し、磯風は踵を返す。

 清霜は悔しそうにその背中を見送った。

 

「……射撃精度なら負けてないわよ。清霜だってちゃんと当てられたんだから」

「ううん。……私はかなり時間かけて集中してようやく当てただけ。実戦であんな時間をかけてたら、動いてる相手には当てられない」

 

 立ち去る磯風の背中に向けて、清霜は手を伸ばし握り締めた。

 

「絶対私は磯風より強くなって――戦艦になるんだ」

 

 それは、夢見がちな少女の言葉にしては、どこか悲壮感が漂っていて。

 側にいた早霜は、妹が何を見ているのか分からなくなるような不安を抱いた。

 

 

 

 母艦の自室に戻り、康奈はベッドの上で横になった。

 ソロモン政府との交渉を前にして、何をしておくべきか再考する。

 しかし、結局何をすればいいのか分からないままだった。

 

 政府相手との交渉なんてやったことはない。

 こちらの要求をあくまで押し通すスタンスの方がいいのか。それとも妥協点を探るべきか。探る場合、譲れないラインはどこか。

 そんなことを考えていると――次第に頭が痛くなってくるのを感じた。

 

 ……嗚呼、この感覚は、駄目だ。

 

 康奈がこの感覚を味わうのは初めてではない。

 ここ最近、何度も経験している。

 気分がとにかく落ち着かなくなる。頭痛を皮切りに、苛立ち、落ち込みを繰り返すようになる。

 この状態になると眠気が消し飛んで、まったく眠れなくなる。

 

 ……薬。

 

 康奈はふらつきながら引き出しから錠剤を取り出す。泊地にいる医者に処方してもらった精神安定剤だ。それを一気に飲み干す。

 即効性のある薬ではない。ただ、薬を飲んだという事実のおかげで安堵感は得られた。

 

 康奈がベッドで深呼吸を繰り返していると、扉をノックする音が聞こえた。

 表情に生気が戻る。艦娘の前でこんな姿を見せるわけにはいかないという自制心が働いた。

 

「……誰?」

「大淀です」

「入って」

「失礼します」

 

 書類を持って入室した大淀は、康奈の疲弊した顔を見て息を呑んだ。

 取り繕うとしても、内側から滲み出る疲労感はそう簡単に誤魔化せるものではない。

 

「お休みのところすみません。明日のソロモン政府との会談に向けて、重要そうなポイントをまとめておきました」

「ありがとう。助かるわ」

 

 大淀から書類を受け取ってパラパラと見ると、無駄なく重要なポイントが分かりやすく整理・整頓されていた。

 彼女は先代の頃から泊地の事務方を務めていた。こういう仕事は得手とするところである。

 何かと経験が不足している康奈は、提督として着任してからの短い期間、既に随分と彼女に助けられてきた。

 

「お疲れのようですね。……もう少し私たちが提督の負担を減らして差し上げられたら良いのですが」

「気にしなくていいよ。皆はよくやってくれてる。……問題があるのは私だから」

 

 康奈は頭を振る。

 泊地の艦娘たちは自分の役目をよく理解し、一生懸命働いている。それに対し自分は半人前だ――そういうコンプレックスは、着任してからずっと胸の内にあった。

 

「そういえば、清霜はどうしてるかな。急に飛び出していったみたいだけど」

 

 大淀を相手にしているとき、康奈の口調は普段よりも砕けたものになる。

 先代の提督に引き取られ、その頃からある程度親しくしていた。だから一対一のときは素が出る。

 

「落ち込んだりしているわけではないと思います。あの子は良くも悪くも真っ直ぐなところがありますから……今頃は、汚名返上するための特訓をしているんじゃないでしょうか」

「あの真っ直ぐさは羨ましいな。……危うい感じもするけど」

「……提督。一つ伺ってもよろしいでしょうか」

「清霜のこと?」

 

 大淀は頷いた。

 

「清霜だけでなく磯風にも言えることですが……先ほどの戦闘、私は清霜はD判定、磯風はC判定が妥当と思っていました。艦隊行動を乱すというのは、それぐらい大きなマイナスになると思うのですが」

「大淀は厳しいわね」

「……私は、あの子にあまり無茶をして欲しくないんです」

 

 大淀は悔しさを噛み締めるように言った。

 その表情を見て、康奈は軽巡洋艦・大淀と駆逐艦・清霜の過去を思い出した。

 二人はかつての大戦末期、とある作戦に参加した。結果的に作戦は成功したが――清霜は、その最中に沈むことになったという。

 

「ごめん。訂正する。大淀は厳しいんじゃなくて――優しいのね」

「甘いと思われるかもしれません。ただ、あの子たちには無茶をすることが決して良いことではないと、自覚して欲しいんです」

「思わないよ。私も皆に無茶をして欲しくないと思ってる。……ただ、あの子たちが敵に向かっていったタイミングが、かなり絶妙に思えてしまったの。敵を倒すことを目的とするなら、味方への被害を抑えるという意味でなら、あのタイミングはベストだった。大淀はどう思う?」

「……否定は、しません」

 

 方針に反する行いは決して褒められたものではない。ただ、違う方針だったとしたら――二人の動きは見るべきものがあった。

 

「艦娘としての初陣でああいう動きができたのは、きっと二人が持つ天性の直感とかそういったものなんじゃないかと思う。まだ見極められてはいないけど……そういった直感というのは決して馬鹿にできない。だから二人には、今の自分をあまり否定し過ぎて欲しくなかった。それがあの判定にした理由よ」

「提督は、二人に期待されているのですね」

「……期待する、なんて偉そうなことを言えるほど私は大した人間じゃないよ」

 

 陰りのある笑みを浮かべながら康奈は言った。

 

「私もあの子たちもまだまだ未熟――これから、いくつもの壁を乗り越えて戦っていかないといけない。すべては、これから――」

 

 その言葉に強い自戒の念を感じながら、大淀は何も言えなかった。

 清霜たちと同様、康奈にも無茶をして欲しくない。ただ、提督である彼女には頑張ってもらわなければならない。そうでないと艦娘は立ち行かなくなってしまう。

 

 灯りのない夜の海を行くような心細さを覚えながら、大淀は部屋を後にした。

 

 

 

 二〇一四年・秋。

 AL/MI作戦で痛手を受けた日本が反撃の狼煙を上げる――ほんの少し前のことである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一章「再起のための新たな牙」(渾作戦編)
第一陣「再起の号令」


 二〇一四年・夏、日本は深海棲艦に対し一大攻勢を仕掛けるべく、深海側の重要拠点と見られるAL/MI海域に軍勢を差し向けた。

 深海側は精強だったが、大規模な軍勢を用いたことが功を奏して、同海域を制圧することに成功する。

 ただ、その隙を突かれて各地の拠点を深海棲艦の遊撃部隊に急襲された。

 多くは撃退できたものの、一部は深海棲艦によって占拠されてしまい、そのまま今日に至る。

 

 奪われた拠点の中に、パプアニューギニアの北部に位置するビアク島があった。

 ここで深海棲艦に足場を固められると、パプアニューギニアだけでなく、インドネシア・オーストラリア・ソロモン諸島といった周辺諸国の海上輸送に支障が出る。空路も深海棲艦のせいで十分に使えない現状、海上封鎖の影響は以前よりも遥かに大きい。

 

 日本は、こんな状況に陥った責任を追及されていた。

 深海棲艦と対等に戦える戦力――艦娘を保持しているのは、この辺りでは日本だけだった。だからか、表向き追及はさほど苛烈なものではない。

 ただ、諸国の不満が高まっているのは誰の目にも明らかである。

 

「だから、組織再編がまだ十分にできていない状況でも、急いで対応しないといけない――ってことなんだよ」

「春雨は物知りだねー」

 

 パプアニューギニア南部の海域を行く複数の影がある。

 あまり立派とは言い難い母艦と、それを守るように囲んでいる人影。

 海上に二つの足で立つ彼女たちは、深海棲艦と戦う力を持った存在――艦娘だった。

 

 現在の日本を取り巻く情勢を話していたのは、ピンク色の髪をした愛らしい顔立ちの艦娘だった。

 白露型五番艦――春雨という。

 その話を聞いて感心していたのは、夕雲型の最終艦・清霜だ。

 

「私は次の戦いがどんなものになるかで頭いっぱいだよ」

「何のために戦うか分からないと不安にならない?」

「んー、そこは司令官に任せようかと」

 

 あっけらかんと言う清霜に、春雨は少し困ったような表情を浮かべた。

 

「私は戦いのことを考えるの怖いな。だから別のことを考えようとしちゃうのかも」

「そうなの? 春雨って夕立さんと一緒にソロモン海で敵に突入したって言うじゃん。実は凄い武闘派なのかもって思ってたけど」

「あ、あれは夕立姉さんについていこうとしてただけで……。結局すぐ離脱しちゃったし」

 

 清霜から期待の眼差しを受けて、春雨は慌てた様子で否定した。

 謙遜しているわけではなく、誤解されて本気で困っているようだった。

 

「興味深い会話をしてるわね」

 

 船上から、二人に声をかける者がいた。

 二人の司令官――提督・北条康奈だ。

 

「司令官!」

「聞いてたんですか?」

「盗み聞きするつもりはなかったんだけど、波の音と一緒に聞こえてきてきたのよ。清霜は戦いに対するやる気十分という感じね。春雨は作戦の意図を汲み取ろうとする視野の広さがあって良いと思う」

 

 清霜と春雨は気恥ずかしそうにはにかんだ。

 けど、と康奈は続ける。

 

「自分の苦手分野はしっかりと克服するよう努力した方が良いわ。清霜はもっと視野を広げなさい。私に任せっきりにしていたら、連絡がつかなくなったときに困るでしょう?」

「う、うん……」

「春雨もね。戦いが怖いというのは分かるけど、そこから意識を逸らしたら却って危険よ。戦うための勇気は持てなくても良いけど、生きるための勇気は持てるようにしておきなさい。その勇気が持てれば、意識も逸れなくなるわ」

「はい、気を付けます」

 

 頷く二人を前に、康奈は「いやはや」と口元を綻ばせた。

 

「まあ、私も人にとやかく言えるような立場じゃないんだけどね。……二人とも、しばらくはとにかく生き延びなさい。最低限それができれば良いから」

 

 康奈の眼差しは徐々に険しいものになっていく。

 その視線は、進行方向の遥か先へと向けられている。

 

「……見えてきましたね」

 

 春雨の言う通り、彼方に船影が見えた。

 こちらの母艦とは比べ物にならない立派な艦。

 日本の対深海棲艦組織が持つ最大の母艦。

 かつて日本海軍の栄光の象徴とされた名を持つその艦は――三笠という。

 

 

 

 側近として大淀・大和・武蔵を引き連れ、康奈は三笠に乗り込んだ。

 まだ年若い少女が大和型戦艦を従えている――そんな光景に艦内のあちこちから奇異の眼差しが向けられた。

 提督として艦娘の指揮を執っている者は少しずつ増えてきているが、康奈ほど若い提督はいなかった。

 

「どうも、落ち着かないわね」

「……気になさらない方が良いと思いますよ」

 

 周囲の気配を感じ取って、康奈は眉間にしわを寄せた。

 大淀がフォローしたものの、それで気にならなくなるわけもない。

 

 艦娘とは、艤装と呼ばれる依代にかつて存在した艦艇の魂――その分霊を宿し、受肉させた存在である。

 分霊を宿して受肉するためには、契約が必要となる。その契約を実行することができる者だけが、提督になれた。

 契約ができるかどうかは特別な才が必要で、訓練等でどうにかなるものではない。

 そのため、元々軍事とはまったく無縁だった提督も多い。康奈もそうした提督の一人だ。

 

「……あれがショートランドの新しい提督か」

「まだ子どもじゃないか。大本営はよく認めたな」

「仕方ないさ。提督としての才は希少だ。細かいことにどうこう言ってられる状況じゃないんだろ」

 

 彼女は元々身寄りのない孤児だった。昔のことは覚えていない。

 そんな彼女を引き取ってくれたのが、ショートランド泊地の先代提督だった。

 康奈は、彼の後を継ぐ形で提督になったのである。

 

「なんでも元は孤児だったって噂もある」

「そんな素性の知れない子どもを提督に据えて大丈夫なのか……?」

 

 康奈は耳がいい。

 普通の聴力なら聞き逃してしまいそうな声も、はっきりと聞き取れてしまう。

 

「前の提督も頼りなさそうだったが、今度のは輪をかけて頼りなさそうだな。あんな子どもに何ができるんだか」

 

 すれ違った男たちが、少し離れてからそんなことを口にした。

 

 康奈の表情がピクリと動いたのを見て、大淀・大和・武蔵が冷や汗をかいた。

 

「深海棲艦の奇襲受けたとき、迎撃部隊の戦力出し惜しみしてやられてしまったって聞いたぞ」

「なにやってんだか。提督の連中がそんなんだから、俺たち下っ端まで無茶振り喰らってひでえ目に遭ってるってのに」

「もっとまともに指揮執れる奴に提督の資質があればな……。挙句あんな年端もいかない嬢ちゃんに重責押しつけて、無能のろくでなしじゃねえか」

 

 男たちは、康奈に聞かせるつもりで言ったわけではない。

 むしろ、聞こえないように小さな声で話している。

 ただ、それでも康奈の耳には届いてしまっていた。

 

「――あっ!?」

 

 大淀たちが男たちの会話に意識を向けていた隙に、前を歩いていた康奈の姿が消えていた。

 慌てて周囲に視線を巡らす。

 

 康奈は、男たちの真後ろに立っていた。

 不平不満を口にする男たちの一人の腕を、背後から思い切り掴む。

 

「……ん?」

 

 掴まれたことに気づいた男が振り返り、すぐに顔をしかめた。

 腕を掴む康奈の力が並外れていたからだ。ぎりぎりと、腕をへし折りそうな強さで握り締める。

 

「訂正してください」

「な、なにがだ……っ!?」

「先生は無能なろくでなしではありません。……もう一度言います。訂正してください」

 

 言いながら、康奈は更に力を込めた。

 男は激痛に顔を歪ませながらも、歯を食いしばって抵抗する姿勢を見せた。

 

「な、なんでだ。お前みたいな子どもを提督に仕立てあげるなんざ、まともな大人のすることじゃねえだろ……!」

「……っ」

 

 康奈の眼差しには、怒りの炎が宿っていた。

 彼女は、自分が未熟だと自覚している。だから自分に対する悪評には耐えるつもりでいた。

 しかし、恩人である先代の提督に対する悪評に関しては許容できなかった。

 

「その言葉、私に喧嘩を売っているとみなします……!」

 

 康奈が男の腕をへし折ろうとした、まさにそのとき――周囲一帯に、パアンと大きな音が響き渡った。

 

「――どうしたんだい、随分と機嫌悪そうじゃないか」

 

 大きな音で手を叩いた糸目の男が、にこやかな表情を浮かべながら立っていた。

 その姿を見て、康奈は男の首から手を離す。

 

「……毛利さん」

 

 そこに立っていたのは、切れ者として名を馳せているトラック泊地の提督――毛利仁兵衛だった。

 海自出身でないにもかかわらず、提督として着任する前後から目覚ましい戦果をあげ続けている、ある種異様な人物だ。

 

「やあ康奈君。親しみを込めて仁兵衛さんと呼んでくれても良いんだよ」

「いえ、結構です」

「そうか。残念だ」

 

 本気で残念がっているようには見えない素振りだった。

 毛利仁兵衛。彼はトラック泊地の提督である。

 

「ともあれ、暴力沙汰は感心しないな」

「……失礼しました。申し訳ありません」

 

 康奈は男たちに向かって頭を下げた。

 仁兵衛が現れたことによって、少し冷静さを取り戻したらしい。

 

 男たちはやや気まずそうに頭を下げて、足早にその場を去っていった。

 

「さて。それじゃ落ち着いたところで、少し歩こうじゃないか」

 

 そんなことを言いながら、仁兵衛は康奈と並んで歩き出した。

 

 

 

 康奈たち以外のショートランドのメンバーは、三笠に移乗せず自分たちの母艦周辺で待機していた。

 これから三笠で行われる会議の最中、深海棲艦の襲撃がないとも限らない。

 そのときの備えとして、各拠点の母艦・艦娘たちは三笠を囲むように陣取っていた。

 

「あーあ、私も三笠で作戦会議に参加したかったなー」

「参加して、内容分かるの……?」

「むー。……分からない、かも」

 

 隣にいた早霜に指摘されて、清霜は降参のポーズを取った。

 

「でも司令官に言われたんだ。苦手なことをそのままにしてたら駄目だって。だから分からなくても参加してみたかったの!」

「分からないと意味ないんじゃない?」

「分からないということを身をもって知ることができる!」

「前向きね」

 

 特にからかう風でもなく、素直に感心した様子で早霜が頷く。

 早霜はどちらかというと控え目で慎重な性格だった。だから、妹である清霜の前向きな言動を羨ましく思っているところがある。

 

 そんな二人のところに、一人の艦娘が近づいて来た。

 

「あれ。……あれって神通さんだよね」

「ええ。でもうちの神通さんじゃないわね」

 

 神通は、かつての大戦で華の二水戦と呼ばれる精鋭部隊を率いた軽巡洋艦である。

 清霜たちのショートランドにも神通は所属しているが、今回の作戦には参加していない。

 それに、元になった艦ごとに艦娘の姿形はおおよそ決まるものの、個体によって細かい特徴は異なる。

 清霜たちからすれば、今近づいてきている神通は知り合いによく似た人といったところだ。

 

 敵意がないことを示すためか、神通は両手をあげて交戦の意思がないことを表していた。

 

「はじめまして。こちらは――ショートランド泊地の母艦で合っていますか?」

「はい。私はショートランド所属の駆逐艦清霜、こっちは姉の早霜です」

 

 ハキハキと応じる清霜と、それに合わせて頭を下げる早霜。

 軽巡洋艦は駆逐艦にとって自分たちを直接指揮することが多い艦種だ。

 所属が異なるとは言え、礼をもって接しなければならない、と教えられている。

 

「私は、横須賀第二鎮守府の秘書艦を務めている軽巡洋艦・神通です」

「横須賀――第二鎮守府、ですか?」

 

 聞き慣れない鎮守府に、清霜と早霜は首を傾げる。

 横須賀鎮守府は対深海棲艦のため最初に設立された拠点で、そこの艦隊は最強と言われていた。

 ただ、第二鎮守府というのは聞いたことがない。

 

「組織再編で設立されたばかりの新しい鎮守府です。内地の鎮守府――横須賀・呉・佐世保・舞鶴は、提督たちが対深海棲艦用の組織の運営に携わることになるので、それを補佐・支援するための戦力として第二鎮守府が設立されました。本当は今回の作戦に参加する予定ではなかったので、作戦終了後に紹介されるはずだったのですが――急遽うちは参加することになりまして。その説明と挨拶を」

「そうなんですね。お疲れ様です!」

「ありがとうございます。……貴方は元気があって良いですね。話していると晴れやかな気持ちになります」

 

 神通に褒められて、清霜は満更でもなさそうな顔で「いやー」と頭を掻いた。

 

「私たちの提督は事務手続きの影響で少し到着が遅れる見込みです。提督が着いたら改めて挨拶に伺わせていただきますね。それでは」

 

 そう言って、横須賀第二の神通は踵を返した。

 

「なんだか格好良かったね。やっぱり神通さんはどこの神通さんも神通さんって感じ」

「言いたいことが分かるような分からないような……」

 

 清霜の感想に苦笑する早霜だったが、その表情はすぐに曇った。

 

「私は正直、少し怖いと思った」

「そう?」

「悪い人ではないのかもしれないけど……なにか、底知れないものを感じた気がするの」

 

 早霜は胸を押さえながら、不安げな面持ちになっていた。

 

 この出会いは、ショートランド泊地と横須賀第二鎮守府の奇妙な縁の始まりとなる。

 しかし、遠ざかっていく神通の背を見送る二人は――まだそのことを知らない。

 

 

 

 康奈にとって、過去の記憶は朧気だ。

 知識はある。だが、それをどこで得たのかは分からない。

 地に足がついていない。ふわふわと不安定に宙を漂っている。それが康奈という存在だった。

 

『君はこれからどうしたいんだい』

 

 はっきりと思い出せる最初の記憶は、その問いかけだった。

 どう答えたのかは、しっかりと思い出せない。もしかすると答えられなかったのかもしれない。

 

 ただ、問いかけを発した男――毛利仁兵衛は、そんな康奈をある場所へと連れていった。

 そこには一人の男がいた。

 大勢の艦娘と共に、四苦八苦しながら深海棲艦と戦う、どこか頼りなさそうな男。

 

 先代のショートランド泊地提督。康奈が先生と呼ぶ男だ。

 

 彼は康奈の境遇を聞いて、こう口にした。

 

『大変だったね』

 

 何がどう大変だったのか、康奈は思い出せない。

 ただ、そう言ってもらえたことで、自分が忘れてしまった過去の自分が――少しだけ救われたような気がした。

 

『けど、もう大丈夫だ』

 

 そのとき、康奈と先生は初対面だった。

 先生がどういう人物なのか、康奈はこのときまったく分からなかった。

 ただ、もう大丈夫と言いながら頭を撫でてくれたその温かさは――今でもはっきりと覚えている。

 

「――君とは何度か顔を合わせているが、ああいう風に怒っているのは初めて見た気がするな」

 

 並んで歩く仁兵衛の軽口に、康奈は意識を現実へと引き戻した。

 もう先生はいない。ただ、仁兵衛はあの頃と変わりない姿でそこにいた。

 

「会議前なのにこんなところにいて大丈夫なのですか、情報部長」

「やめてくれ、その肩書きはとてもむず痒い」

 

 露骨に嫌そうな表情を浮かべて、仁兵衛は手を振った。

 

 AL/MI作戦で深海棲艦の急襲を許してしまったことを受けて、日本は対深海棲艦組織の在り様を見直すことにした。

 シビリアンコントロールの原則によって、組織のトップは内閣の大臣が務める。

 ただ、その下で動く実働組織は海上自衛隊ではなくなった。深海棲艦との戦いをより優位に進めていくために、艦娘・深海棲艦への理解が深いメンバーを集めて専門の組織がつくられたのである。

 

 その名を深海対策庁という。

 

 庁の活動は深海対策本部で決定される。

 本部の幹部は現時点でまだ数名しか決定していないが、その中の一人が情報部長――毛利仁兵衛だった。

 

「僕は海自上がりじゃないし、こんな重職につけられるのは本意じゃない。トラック泊地は会社としてやってるから副業扱いになるんでつけません――なんて言ったら『提督』に関する新法まで用意してきたんだよ。信じられるかい? ……まあ、ともかく公の場以外では役職名で呼ぶのは勘弁してくれないか」

「分かりました。けど、本当にこんなところにいていいんですか?」

「いいとも。やるべきことはすべてやってある。そうだな、朝潮君」

「はい。留守はウチの大和さんに任せてますので、特に問題ありません」

 

 うむうむと頷き、仁兵衛は康奈と並んで歩き出した。

 

 あまり饒舌でない康奈に対し、仁兵衛はあれやこれやと話を振る。

 内容はショートランド泊地の近況に関するものが中心だが、さほど重要性の高くないものばかりである。

 ただ、話しながらも、仁兵衛はときどき周囲に視線を転じた。

 

 ……そういうことか。

 

 康奈は仁兵衛が出向いてきた理由を悟った。

 彼は、軽んじられる可能性の高い康奈に箔をつけようとしているのだ。

 

 民間出身ながら情報部長に選出された仁兵衛は、それだけ一目置かれている。

 そんな仁兵衛がわざわざ出迎えたとなれば、康奈について表立ってとやかく言う者は少なくなるだろう。

 見方によっては『仁兵衛の腰巾着』と言われる可能性もあるが――それについては康奈自身がどうにかするしかない。

 

 ……毛利さんは、先生と親しくしていたから、気にかけてくれているのかもしれない。

 

 毛利仁兵衛は人の好悪が激しかったり、自分の才能を頼みとする傾向が強く、癖のある人物だった。

 ただ、決して他人のことを思いやれないような男ではない。気に入った相手に関しては、人一倍気を配るようなところもある。

 

「毛利さん」

「うん?」

「すみません。いろいろと気を遣っていただいて」

 

 と、礼を口にしたそのとき、三笠全体に警報音が鳴り響いた。

 船内全体が要警戒を示す赤い照明に切り替わる。

 

『東方に深海棲艦の反応あり。各自、厳戒態勢を取れ。指示があるまでは迎撃に専念せよ。繰り返す。各自、厳戒態勢を取れ。指示があるまでは迎撃に専念せよ。――』

 

 事務的なアナウンスが流れる。

 康奈が周囲を見ると、三笠に乗り込んでいるスタッフたちは皆自分の持ち場に向かって駆け出していた。

 急いではいるが、取り乱している様子はない。皆、深海棲艦との戦いを何度も経験してきている者たちばかりだった。

 

「――毛利さん!」

「こりゃあ、会議は少し後にしないとね」

 

 仁兵衛も落ち着いていた。

 先程までは朗らかに会話をしていたその顔は、既に怜悧な戦術家のものに切り替わっている。

 提督として着任してから、この男の戦術眼が曇ったことはない。世間から非難されているAL/MI作戦も、彼は反対の立場を表明していた。

 

「康奈ちゃんは自分たちの母艦に戻っておいてくれ。朝潮君、行こう」

「はい!」

 

 短く告げると、仁兵衛たちは駆け足で去っていった。

 

「大淀、大和、武蔵。私たちも急いで戻りましょう」

「ええ。現場指揮は那智さんに任せているので大丈夫だとは思いますが」

「そうね。でも、提督はこういうとき皆と一緒にいるべきでしょ」

 

 康奈の言葉に、大淀は少しだけ嬉しそうに頷いた。

 

 

 

 深海棲艦の軍勢は、さほど大規模なものではなかった。

 威力偵察が目的だと、大多数の指揮官は判断した。ショートランド泊地の那智もその一人だった。

 

「待ち受けるよりもこちらから打って出る。ただし深追いはするな」

 

 ショートランドから出てきている部隊は四つ。そのうちの二部隊に対し、那智は出撃を指示した。

 

「私たちは出なくていいのですか?」

 

 那智に尋ねたのは、姉である妙高だった。彼女も現場指揮官としての適性はあるが、この方面では那智の方が僅かに秀でている。そういう自覚を持っているから、康奈の判断に同意し、妹に指揮を任せていた。

 

「防衛には一部隊いれば十分でしょう。もう一部隊出してもいいのではないですか」

「いや、念のため自由に動ける部隊を残しておきたい。今見えている敵戦力なら二部隊で対応可能だ。だが、敵がどこかに伏兵を配しているなら、三部隊出していても危うくなるかもしれない」

「分かりました。……ふふ、いい指揮官振りですね」

 

 妙高に褒められて、那智は気恥ずかしそうに頬を掻いた。

 那智は先日のAL/MI作戦において、AL方面のショートランド泊地の指揮官の一人として奮戦している。

 そのときの采配を見込まれて今回も抜擢されたのだ。それ自体は嬉しく思っているが――身内に評価されると、どうにもくすぐったさの方が勝ってしまう。

 

「電探に反応は?」

「今のところないね」

 

 那智の問いに応えたのは、ソロモン諸島から派遣されたクルーの一人だった。

 ショートランド泊地用のレンタル母艦一隻と、搭乗するクルー数十名。

 それが、先日康奈がソロモン政府からもぎ取った支援内容だった。

 

「引き続き警戒に努めてくれ。この船の安全は保証する。周囲の敵影に集中して欲しい」

「了解!」

 

 海上は障害物もほとんどないため、伏兵など潜水艦くらいしか配置できない――というのは間違いだ。

 海は思った以上に歪んでいる。常に波が生じており、見方によっては障害物だらけと言えなくもない。

 それに、海上は平ではない。少し離れたところに兵を伏せられると、案外ギリギリまで捕捉できなかったりすることもある。

 

『那智』

 

 そのとき、通信機越しに雲龍が声をかけてきた。

 この母艦の防衛部隊の隊長代理である。隊長は大淀だが、現在康奈の護衛役として三笠に行っていた。

 

「どうした、雲龍」

『磯風と清霜が、出撃したいと言っている』

「……お前たちの部隊はこの母艦の護衛が任務だ」

『それは分かってるけど、二人が……北東が気になるって』

「北東?」

 

 現在深海棲艦たちは、南東方面から攻撃を仕掛けて来ていた。北東方面に敵影はない。

 ただ、こちらの軍勢の配置を見ると、どうも意識が南東方面に傾き過ぎという気はした。

 

「北東方面、電探に反応はないな」

 

 那智たちの会話を聞いていたクルーが、そう補足した。

 もっとも、電探も絶対ではない。敵が上手く隠れているという可能性もあった。

 

「――状況はどうなってる?」

 

 そこに、新たな声が入り込んできた。

 康奈だ。側には大淀・大和・武蔵の姿もある。

 

「提督、戻ったか」

「ええ、留守をありがとう。何か問題が起きたの?」

 

 周囲の微妙な空気を察して、康奈は那智に重ねて質問した。

 那智は簡潔に現状を説明する。敵の迎撃自体は問題なさそうだということ。そして、磯風・清霜の進言のこと。

 

「分かった。雲龍、ちょっと二人に繋いで」

『了解――』

『……もしもし、司令官?』

『戻ったか』

 

 清霜と磯風の声がした。

 

「二人とも、話は那智から聞いたわ。北東に敵がいるってこと?」

『いるかどうかは分からないけど、何か嫌な感じがするの』

『現在我々の意識は南東方面に傾いている。ここで北東から奇襲を仕掛けられるとマズい。そう思ったから進言した』

 

 直感的な清霜と、論拠を示す磯風。そういう意味では対照的な二人だが――懸念するところは一緒のようだった。

 

「……二人は、初陣のとき他のメンバーよりも早く敵の動きに対応していたわね」

「ええ。勿論偶然という可能性もありますが」

 

 康奈の問いに、大淀が答えた。

 

「那智はどう思う。戦いにおける、そういう臭いに対する鋭敏さについて」

「侮るべきではないと思う。今回に関していえば、清霜の言葉だけでは些か根拠として弱過ぎる気もするが、磯風の言っていた懸念は私も少し気になっていた」

 

 康奈は周囲を見渡したが、他に異見を唱える者はいなかった。

 

「――大淀隊は北東方面に偵察に出なさい。大淀と雲龍で索敵を行い、磯風・春雨・時津風・早霜・清霜は両者の護衛を行うこと。母艦の護衛は那智隊に交代。現在出撃中の扶桑隊・鬼怒隊は、敵を掃討後、大淀隊の援護に回りなさい」

「了解!」

『了解!』

 

 艦橋と通信機の先にいる各隊のメンバーが応じる。

 それで命令としては十分だったが、康奈は更に続けた。

 

「私にとって、大きな作戦は今回が初めてになる。まだ私のことを信頼できないという人もいると思う。こんな指揮官に任せられるのか。この戦いを乗り越えられるのか。そういう不安は、皆持っていると思う」

『――』

 

 反応はない。

 そういう懸念は、きっと誰もが持っている。

 先程三笠でいろいろ言われて弱気になっている、というのもある。ただ、康奈は元々自分にそこまで自信を持っているわけではなかった。

 

「けど、まずは今だけでいいから私を信じて欲しい。私は皆でこの局面を乗り切るために最善を尽くす。皆を信じて指示を出す。だから、皆も今だけは私を信じて欲しい。――以上ッ!」

 

 康奈が言葉を切る。

 しばらく、静寂があった。

 

『信じるも信じないもないよ』

 

 第一声を上げたのは、清霜だった。

 

『司令官を信じない人が、今この場にいるはずないもの!』

『――そうだな』

 

 磯風が同意の声を上げる。

 それに呼応するかのように、あちこちから激励の声が飛んできた。

 

 康奈への不安がないわけではない。それでも、皆信じると決めたからこの場にいる。

 清霜の言う通りだった。

 

「……参ったわね。これじゃ、余計に無様を晒すわけにはいかない」

 

 康奈は俯き、自分の頬を叩いた。

 頬を赤く腫らした指揮官は、艦橋から前を見据えて大きく手を前にかざす。

 

「ショートランド泊地――改めて、ここから出るッ!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二陣「弱き者たちの挑戦」

 さすがに経験値が違う。

 ショートランド泊地が北東方面に部隊を出す前後、他の艦隊も同じような動きを見せた。

 

「目先の戦いに気を取られるような人はいないってことね」

「今回作戦に参加しているのは横須賀・呉・舞鶴・佐世保といった強者たちだからな」

 

 那智が補足した。出撃した大淀と交代で康奈の補佐を務める形になっている。

 

「うちの泊地ができる前から死線を潜り抜けてきた者たちだ。強いし、判断力も優れている。でなければ生き残れん」

 

 北東方面に進んだ軍勢の電探に反応があった。

 少し距離が離れているが、深海棲艦がいた。

 南東に攻め寄せていた集団よりも規模が大きい。呼応してこちらを脇から急襲する腹積もりだったのだろう。

 

『提督、どうしますか』

 

 通信機越しに大淀が問う。

 間髪入れず仕掛けるべきだ、と思った。

 敵も、急襲が失敗したこと、自分たちが狙われていることはすぐ気づくだろう。逃げるであろう敵を、少しでも多く倒しておきたい。

 

 ただ、他の艦隊も呼応して攻めかけてくれないと、戦力差で不利になる。

 逡巡していると、康奈の持つ別の通信機が着信音を鳴らした。

 

『各自、聞こえているか。こちら作戦本部。三浦剛臣だ』

 

 三浦剛臣。横須賀鎮守府の提督であり、作戦本部の部長も務めている。

 艦娘と契約し、深海棲艦と戦い始めた最初の人、と言われている。

 彼の率いる艦隊は名実ともに最強と見られていた。それは過大な評価ではない。事実、彼は一年以上に渡る深海棲艦との戦いで、常に目覚ましい戦果をあげ続けていた。

 

『北東方面の先に深海棲艦が布陣している。現在北東方面に展開している各部隊は、連携してこれを撃滅してくれ。撤退するような奴がいたら後をつけて敵本隊の位置が探れないか試すように』

 

 剛臣は気負いのない声音で、世間話をするかのように命を下した。

 

『また、これから三笠も前に出る。会議で戦略を決めようと思ったが、この状況で悠長に話し合いをしても仕方ない。幸い各艦隊の準備は万端のようだし、このまま敵に手痛い反撃を加えることにする』

 

 大丈夫なのか、という不安が康奈の胸中をよぎる。

 ただ、反対する者はいなかった。それだけ剛臣の力量が信用されているのだ。

 

 他の艦隊の練度はいずれも高いものだった。

 射程距離に入った深海棲艦を無駄なく撃ち落としていく。

 

 大淀隊の動きは、他と比べると些か鈍いと言わざるを得なかった。

 あの部隊は着任してそこまで日が経っていない。基礎訓練は終えているし、伸びしろはあると聞いているが、如何せん経験値が不足している。

 

「見ていて、少し不安になるわ……」

「一応言っておくが、迂闊にそんなことを言うなよ。特に本人たちには」

 

 思わず漏らした言葉。それに那智が釘を刺した。

 康奈が何に対し不安を覚えたか分かっているようだった。少なからず、那智も同様の印象を受けたのだ。

 

「分かってる。さすがにそこまで失礼なことはしないわ」

「失礼という話ではないぞ、提督。戦場において指揮官の心情というものは伝播していく、それに気を払え、ということだ」

 

 那智の言うことはよく分かった。

 指揮官の不安が皆に広がれば、全体の士気にかかわる。

 しかし、多くの命を預かって戦場に立つのは、経験したことのない人間には想像もつかないような重みがある。

 

「……もし吐露することで楽になりたいなら、副官や補佐官に言え。そういう話を聞くのも、補佐役の務めの一つだ」

 

 那智が声を和らげた。厳しいことを言ったと思ったのかもしれない。

 その言葉はありがたかったが、自分から人に弱音を吐くのはどことなく抵抗があった。

 

 泊地の艦娘は信頼しているが、自分の情けない面をさらけ出すのは、信頼・信用とは別の関係性が必要だという気がしている。

 清霜たちは自分が提督になって間もない頃に着任したので、他の艦娘よりも近しいものを感じる。それでも、彼女たちに自分の弱い面を見せられる気はしなかった。

 

 ならば耐えるしかない。

 

 指揮官とは孤独なものだ、と何かの本で読んだことがある。

 そのときは言葉の意味がよく分からなかったが、こうしてその立場になってみると、嫌でも分かった。

 

 

 

 初陣は済ませた。

 深海棲艦との戦いはできるようになった。清霜はそう思っていた。

 だが、この戦場は違っていた。以前の戦いが突風のようなものだとしたら、ここは嵐の真っ只中だ。

 

 戦いが止まらない。

 眼前に迫る敵部隊をどうにか撃退しても、周囲に目を向けると、他の誰かが別の敵と戦っている。

 

「清霜、前方注意!」

 

 大淀が鋭く叱責する。

 見ると、前方から人型の深海棲艦が六体、こちらに向かって来ていた。

 

「雲龍は残った艦載機で迎撃を! 時津風は雲龍の護衛! 他は私と一緒に突撃を敢行します!」

 

 大淀の下知に従い、清霜たちは隊列を整え直した。先程の戦いで乱れていたせいだ。

 その隙を突く形で、深海棲艦の砲撃が清霜たちを襲った。

 

 早霜が、次いで大淀が被弾した。これまでの連戦が祟ったのか、動きが鈍くなっている。

 雲龍の艦載機が敵部隊に襲い掛かるが、空母一人分の機体数では、六体もの深海棲艦を倒すには至らない。

 何体かが艦載機の猛攻を掻い潜り、接近してきた。

 

 敵を攪乱しようと、清霜・磯風は散開した。

 しかし、それが仇となった。敵は二人を無視して、ダメージを負っている大淀・早霜の元に向かう。

 

「しまった!」

「くそ――」

 

 急旋回して戻ろうとする。しかし、間に合わない。

 そのとき、春雨が大淀たちの前に出た。深海棲艦から二人を庇うような位置に立つ。

 

「私だって……! 春雨、守り切ります!」

 

 怯みそうなところを踏み止まって、春雨は深海棲艦目掛けて主砲を撃った。

 命中する。だが、仕留めきれない。

 それは春雨も分かっていたのだろう。主砲で動きを止めた相手目掛けて、ありったけの魚雷を発射する。

 

 敵は散開しようとしたが、春雨の魚雷は大きく広がるような軌道を描いていた。逃れきれず、直撃する。

 魚雷が命中し、あちこちで爆発が起こる。

 

「……やった!」

「まだだ!」

 

 春雨が安堵の息を漏らすのと、磯風が鋭い声を上げるのはほぼ同時だった。

 爆破炎上する深海棲艦の一体が、残りの力を振り絞って春雨たちに主砲を向ける。

 

 春雨の表情が凍り付く。

 避ければ、大淀たちに命中する。避けなければ、自分が直撃を喰らう。

 

「い、いや……!」

 

 そのとき、主砲を向ける深海棲艦目掛けて清霜が体当たりをした。

 駆逐艦の小柄な体躯。相手が万全の状態なら、微動だにしないところだったはずだ。しかし、今は瀕死の状態だった。

 

「私の仲間に、手出しするなっ……!」

 

 雄叫びを上げながら清霜を捕まえようとする深海棲艦に、清霜はむしろ自分から飛び掛かった。

 主砲を撃たせまいと、相手の腕を抑えにかかる。

 

 炎上し、沈みかかっている深海棲艦は、熱かった。

 掴もうとすると、肌が焼けるような感触がした。それでも、離そうという気は微塵もわいてこない。

 離せば、この深海棲艦は春雨たちに牙をむく。それは、清霜にとって看過できないことだった。

 

「離すもんか。私は、今度は守るんだっ!」

 

 やがて、力尽きた深海棲艦は海の底へと沈んでいった。

 残されたのは、それを最後まで押さえ続けていた清霜だけだ。

 

「大丈夫、清霜!?」

 

 駆けつけてきたのは、時津風と雲龍だった。

 大淀や春雨たちのところには、磯風が向かっている。

 

「あ、うん。平気平気……っ、いたた……」

 

 清霜は、掌が焼けただれていることに気づいた。

 相手を押さえつけている間は忘れていた。時津風たちの姿を見て、ようやく我に返ったのだ。

 

「酷い傷ね。艤装は無事だけど……この状態で戦いを続けるのは、あまり良くないと思う」

「大丈夫だよ、雲龍さん。艤装の操作ができるなら、戦える」

「そうやって無理して後に響いたらしょうがないじゃん」

 

 時津風に諫められて、清霜は口をつぐんだ。

 外見は幼く見えるが、時津風は磯風の姉にあたる艦娘だ。

 マイペースでつかみどころのない性格だが、道理に合わないことは言わない。

 

「清霜もそうだが、大淀と早霜のダメージも深い。二人の艤装は、戦闘継続が困難な状態だ」

 

 合流した磯風が状況を報告した。

 大淀たちは意識こそあるものの、海面に立っているのがやっとな様子だ。

 指揮官である大淀がこの状態では、部隊が機能しない。

 

「すみません。私が不甲斐ないばかりに……」

『気にしないで、大淀。どのみちそろそろ撤退してもらうつもりだったわ』

 

 大淀の通信機から、康奈の声がした。

 

『貴方たちは十分戦ったわ。そろそろ燃料・弾薬ともに尽きつつあるでしょう。一旦戻って来なさい。今、そっちには鬼怒隊が向かってるから』

「分かりました。では大淀隊、これより母艦に戻ります」

 

 大淀隊が母艦に戻る途中、清霜の隣に春雨が寄って来た。

 

「清霜、ごめんね。私がもっとしっかりしていれば……」

「え、全然しっかりしてたよ? むしろ、春雨凄いなって思ったくらいだもん」

「そうだな。あのとき見せた春雨のガッツは大したものだった」

 

 側で話を聞いていた磯風がフォローを入れる。

 

「どちらかというと、清霜の方が無茶苦茶だ。深海棲艦は基本能力なら艦娘を凌駕する個体も多いと聞く。下手に接近して、身体をねじ切られたりしたらどうするつもりだった?」

「えー、いいじゃん。結果として皆無事だったんだし」

 

 あっけらかんとした清霜の返しに、磯風は不服そうな表情を浮かべて視線を逸らす。

 春雨がどこか悔しそうに唇を噛んでいることに、このとき二人は気づいていなかった。

 

 

 

 艦娘は超常的な力で深海棲艦と戦うことができる。

 しかし、そのエネルギーは無尽蔵なものではない。

 疲労もするし、戦うための武器や弾薬が使用できなくなるような事態もある。

 だから、適宜休息や装備の修復が必要になるのだった。

 

 戻ってきた大淀隊を迎えた康奈は、全員の無事に安堵し、次いでそれぞれの傷具合を見て苦しそうな表情を浮かべた。

 

「ごめんね。少し無理をさせ過ぎたかもしれない」

「いえ、お気になさらないでください、提督。私もまだいけると思っていたのです。少し、自分たちの力を過大に見ていたのかもしれません。きちんと状況を把握し、進言すべきでした」

 

 大淀はそう言ったが、康奈の中で後悔は消えなかった。

 いろいろな要因によってこの結果になった。その中には大淀の言うように、彼女たちの判断ミスもあったのかもしれない。しかし、責任は提督である自分に帰すものだ、という考えがある。

 

「とにかく、大淀隊の負傷者はすぐに母艦内の艦娘用入渠施設に行くこと。再度出撃命令があるまでは休養に専念しなさい」

「はーい!」

 

 清霜が手をあげて、元気よく応じた。

 しかし、その手は焼けただれている。それが痛々しくて、早く行きなさい、と急かしてしまった。

 

「……那智。少し、私も休んでいいかしら」

「ああ。顔色が悪そうだ。あまり無理をするなよ」

 

 那智に礼を言って、康奈は船内の自室に戻る。

 備え付けの椅子に腰を掛けてしばらく部屋の天井を眺めていたが、どうにも落ち着かない。

 引き出しから瓶を取り出して、中に入っていた薬を飲み込んだ。

 

 泊地の医者に処方してもらった精神安定剤だ。

 なるべく使わないようにしているが、己の指揮で誰かが傷つく度に、これに頼ってしまう。

 

 誰かが傷つく姿を見る度に、死という言葉が脳裏をよぎる。

 二度と会えない。どこからもいなくなってしまう。死とはそういうものだと、先代に教わった。

 

 身寄りも過去もない康奈にとって、泊地の人々と艦娘たちは心の拠り所だった。

 先代がいなくなったことは、康奈にとって深い傷になっている。

 

 先代の提督は、泊地が深海棲艦に急襲を受けたとき、康奈と一緒に行動していた。

 敵空母が放った艦載機に、先代も康奈も撃たれた。康奈の傷はまだましな方だったが、先代の傷は深かった。

 

 彼は自分が力尽きる前に、康奈に提督としての力を継承させた。

 継承の負荷によって康奈は意識を失い――その後、先代の姿を見ることはなかった。

 

 これ以上拠り所を失いたくない。それが康奈の正直な気持ちだった。

 しかし、提督という立場にある以上、艦娘を死地に向かわせなければならない。

 その矛盾が、常に彼女を苛んでいた。

 

「……先生。こんなときは、どうすればいいんですか」

 

 誰もいない部屋で一人、康奈は何度も繰り返しそう呟いた。

 

 

 

 三笠に設けられた司令室。

 そこには様々な機器が設置されており、周囲の戦況をつぶさに確認することができるようになっていた。

 

「敵の進行部隊は無事退けられたようだな、毛利」

「当然だ。ここまで準備しておいて無様な結果になってたまるか」

 

 作戦本部長――三浦剛臣の言葉に、毛利仁兵衛はにべもなく答えた。

 愛想のない対応だが、二人の周囲にいる艦娘やスタッフは平然としている。

 

 深海対策庁が発足する前、海自出身の提督とそれ以外の提督にはいろいろと細かい格差があった。

 それを真っ向から批判し続けていたのが仁兵衛だ。故に、彼は海自出身の提督へのあたりがきつい。

 もっとも、憎まれ口を叩きながらも、仁兵衛は剛臣の実力を認めている節がある。周囲もそれは分かっていた。

 

「今のところ勝率はどの程度でしょうか、提督」

「七割程度といったところだ、朝潮君。今のところ想定外の問題は起きていない。すべて対処できる範囲内だ」

「三割はどういう?」

「一割は敵の援軍だ。深海棲艦は拠点を中心に活動する連中もいるが、そうでない連中もいる。拠点活動型の動きは把握しているが、流浪型の動きは捉えようがない。突然海から現れたとしか思えないような奴らがいる。そういう奴らの存在は、常に考慮しなければならない」

 

 司令室に設置された大きなディスプレイには、周辺海域の敵味方の状況が表示されている。周辺に張り巡らされた潜水艦や偵察機の報告を元に作られたものだ。

 そこに突然、大量の敵軍の表示が追加される可能性がある。深海棲艦との戦いは、常にそういう危険がつきまとった。

 

「残りの二割は、敵の友軍ですね」

 

 剛臣の側に控えていた駆逐艦・吹雪が、ディスプレイの一点を見ながら言った。

 絶えず移動を続けている敵の部隊がいる。先程の戦いでも、こちらが攻勢に出ようとすると的確に邪魔をしてきた。

 

「本格的な攻勢に入る前に、あの部隊を叩いておかなければ危険かと思います」

「同感だ。交戦した部隊によると、あの遊撃隊を率いているのは駆逐艦・春雨に酷似した個体らしいな」

「映像、出します」

 

 スタッフがディスプレイの表示を切り替える。

 そこに映し出された深海棲艦は、確かに春雨によく似ていた。ただ、足がなく、肌や髪が深海棲艦特有の暗い色をしている。

 

 司令室内にざわめきが生じる。

 ここにいるスタッフや艦娘は、各地の拠点から召集された者たちばかりだ。

 それぞれの本来の拠点には、春雨がいる。

 

 深海棲艦と艦娘の関係性については、これまでも何度か取り沙汰されたことがある。

 しかし、結論だけ言ってしまうと、今もはっきりとしたことは分かっていない。

 ただ、これだけ艦娘とよく似た深海棲艦が現れたのは、今回が初めてだった。

 

「今もつかず離れずでこちらを牽制してきている。確かに邪魔だな、三浦」

「ああ。問題はあの機動力か。どうやって追い込むか考えなければな」

「戦艦や空母といった主力は、まだ温存しておきたい」

「理由を聞いておこうか、毛利」

「本命であるビアク島の攻略には、主力の力が欠かせない。万一あの遊撃部隊との戦いで戦闘不能に追い込まれたらまずい」

「なら、水雷戦隊をいくつか編成して当たらせるか」

「それが妥当なところだろう。部下を率いて戦術的な行動を取っていることから、あの個体は鬼・姫クラスと言っていい。ただ、これまでの交戦記録を見る限り、戦闘能力に関しては戦艦棲姫や空母棲姫ほどじゃない」

 

 ざわめきを意に介さず、剛臣と仁兵衛は作戦の行動方針について話し合いを続けた。

 作戦本部のメンバーに選出された提督は他にもいるが、今この場にいるのは二人だけだ。今回の作戦の絵図を描くのは、この二人と言っていい。

 

「どこの部隊を出す?」

「統率は呉の部隊に任せるのが良いだろう。あそこは大海戦における経験も豊富だし、慎重だ。無謀な行動はしない」

「そいつはいいな。今回初遭遇の相手だ、無鉄砲なことをしない統率者は歓迎だ」

「他は――リンガ・タウイタウイ・パラオあたりに頼もうと思うが」

「異論はない。いずれも先の戦いで提督が無事だったところだし、今回の戦いでの動きも悪くはなかった」

「……もう一つか二つ加えた方が良いと思うが、どこか良いところはあるか、毛利」

 

 仁兵衛が先程までの戦いを注視していたことに気づき、剛臣は意見を求めたくなった。

 

「少し危険な賭けになるかもしれないが、ショートランドを加えるのが良いと思う」

「あそこは提督が代わったばかりだが、大丈夫そうか」

「練度自体は悪くない。今回は水雷戦隊多めの編成で来ているみたいだしな。……ただ、以前と比べると精彩に欠ける印象は受ける。だからこそ、積極的に作戦に参加させてみたい。新任提督に不安はあるが、そういう若手も育てていかないと将来が不安だ」

 

 戦力になる、というよりも、今後戦力になるよう育てたい、という見方だった。

 仁兵衛はショートランドに多少の縁がある。しかし、それで贔屓するような男でもなかった。

 

「同じ意味で、横須賀第二も加えたいところだが――あそこはどうだ」

「……第二か」

 

 仁兵衛の問いに、剛臣はやや険しい表情を浮かべた。

 

「あそこは確かに新設された鎮守府だが、練度においては生半可なものではない。いつも死と隣り合わせのような調練を行っている。その厳しさのせいで倒れる者も続出した。今、あそこの正規メンバーとして残っている艦娘は、いずれも万夫不当の兵だ」

「そうですね。あそこの子たちは皆、強い。味方としては頼もしく思うべきなのでしょう。ただ、時折怖いと思うこともあります」

 

 吹雪も表情を曇らせた。

 横須賀の吹雪と言えば、最強と名高い横須賀艦隊の最古参で、今も剛臣の側近として名を馳せている存在だ。

 その吹雪が、怖いという。

 

 仁兵衛は二人の反応を見て、眉間にしわを寄せた。

 

「……今、第二の提督はこっちに向かっているんだよな。どういう奴だ?」

「悪い子ではない。ただ、気難しいところがある。あと、上昇志向がとても強い。おそらく、毛利とはあまり気が合わないだろう」

「なるほど。作戦に参加してもらうかどうかは、そいつの人となりを見てから決めるとしよう」

 

 そのとき、ディスプレイに新たなマークが点いた。

 友軍を示す、緑色のマークだ。

 

「噂をすれば、というやつだな。吹雪、すまないが迎えに行ってきてくれないか」

「了解しました、司令官」

 

 敬礼して出ていく吹雪を見送って、仁兵衛は「わざわざ迎えがいるのか?」と尋ねた。

 剛臣はその問いに、渋面で応える。

 

「まあ、トラブルが起きないように、念のためな」

 

 仁兵衛と朝潮は、嫌な予感を覚えつつ顔を見合わせた。

 

 

 

 自室で作戦本部からの指示を受けて、康奈は艦橋に戻ってきた。

 先程部屋で飲んだ薬のおかげで、今は落ち着いている。

 

「水雷戦隊か。大淀隊は先ほど帰投したばかりだし、鬼怒隊か能代隊のどちらかになるな」

「那智はどちらが良いと思う?」

「難しいところだな。鬼怒は堅実な戦い方をする。突破力なら能代の方が上だろう。今回の作戦にどちらが合うかだな」

「呉の艦隊と話してみたけど、なるべく損害を抑えつつ敵遊撃部隊を叩きたいようだったわ」

「それなら、鬼怒だな」

 

 康奈も頷いて、鬼怒隊に連絡を取った。

 両部隊は、今も母艦を警護する任務に就いている。

 

「――ということなんだけど、鬼怒、いけそう?」

『うん、大丈夫……と言いたいところだけど、何人か艤装がちょっとやられてるのが気になるかな。出られないわけじゃないけど、万全の状態とは言い難いね。できれば交代要員がいると助かるよ』

「分かったわ。他の部隊で動けそうな子を探してみる」

『よろしく!』

 

 通信を切って、康奈は編成表に目を通した。

 今回の作戦に連れてきたメンバーの名前と、現在の状況がまとめられている。

 水雷戦隊は鬼怒・能代・大淀隊で構成されている。あとは主力部隊だ。

 主力部隊は温存したいと作戦本部から指示があったから、出すとしたら能代・大淀隊の誰かということになる。

 

「少し休息している分、大淀隊の方が良いかもしれないわね。大淀・早霜はまだ動けないと思うけど……」

「あ、あのっ……!」

 

 そのとき、艦橋の入り口の方から声を発する者がいた。

 

「私、行きます!」

「春雨」

 

 春雨は一礼してから康奈の前にやって来た。

 その眼差しは、静かな炎を宿しているように見える。

 

「すみません。司令官が作戦本部の人と話しているのが聞こえてしまって、それで」

「別にそれは構わないわ、特に隠すようなことを話していたわけでもないし。でも、なぜ志願するの?」

 

 作戦本部からは、敵部隊を率いているのが春雨に酷似している深海棲艦だと聞いている。

 それを康奈は口にしていない。だから春雨はそのことを知らないはずだった。たからこそ、このタイミングで志願してきたことに奇妙なものを感じる。

 

「私、初陣のときも、さっきの戦いも、いつも誰かに助けられてばかりでした。だから、自分が誰かを助けられるなら助けたいって、そう思ったんです。いつまでも助けられてばかりなのは、嫌なんです」

 

 それは、康奈にとって耳の痛い言葉だった。

 自分では戦うことができない。安全な場所に立ちながら、皆を戦場へと送り出さなければならない。

 そういう苦悩は、康奈にもよく分かった。戦う力があるなら、自ら戦場に出たい、と思う。

 

「足手まといにはなりません。だから、お願いします……!」

 

 どうすべきかと、那智に視線を送る。

 那智は軽く頷いた。

 

「動ける者も少ないし、今は春雨の熱意を素直に受け取るべきだろう」

「……分かった。なら、もう一人も大淀隊から出しましょう」

 

 誰にすべきか。

 編成表を睨みながら、康奈はそれぞれの艦娘の顔を思い描いた。

 

 

 

 横須賀第二鎮守府の提督の姿を見て、三笠はどよめいた。

 これまで第二横須賀鎮守府については、ほとんど情報が出回っていなかった。

 だから、余計に衝撃的だったのかもしれない。

 

「まさか、また子どもとはなあ」

 

 三笠のクルーの一人が、第二の提督が去った後を見ながら驚きを口にした。

 その側にいたもう一人の男は鼻を鳴らした。

 

「どいつもこいつも、なに考えてやがるんだ」

「……そう怒るなよ。と言っても、無理な注文か」

 

 苛立っているのは、康奈と衝突して腕を掴まれた男だった。

 しわが見え隠れするその顔には、明確な怒りが表れている。

 

「理由があるんだろう。なければ、子どもを戦場に引きずり出すようなことはしないだろうさ」

「なら、理由があれば子どもを戦場に出してもいいって言うのか」

「そうしないと立ち行かないんだろ? 誰だって提督になれるなら、艦娘になれるなら、もっと他のやりようもあるだろうさ」

 

 肩を竦める同僚に、男は何かを言おうとして、ぐっと堪えた。

 

「ほら、それより仕事だ。出撃する艦娘の艤装整備の支援。俺たちは俺たちの仕事をやるしかないだろう、上田」

「……ああ、分かってるよ。次は――嗚呼、ショートランドのとこか」

 

 上田と呼ばれた男は、何かを絞り出すように嘆息した。

 

 

 

 出撃前の準備をしているときの空気感は、戦場にいるときよりも張り詰めたものになる。

 戦場に出てしまえば、どう戦うかということだけを考えれば良い。しかし、出る前はそうもいかない。

 

「やっぱり緊張するね」

 

 声をかけられて、清霜は我に返った。

 目の前には、思いつめたような表情の春雨がいる。

 この二人が、鬼怒隊に編入されることになったのだ。

 

「春雨、大丈夫? なんだか顔色良くないみたいだけど」

「うん。……ううん。ちょっと、怖いかな」

 

 同期が相手だからか、春雨は真情をぽつりと漏らした。

 

「でも、怖いのと同じくらい、今のままでいたくないって思う。ほら、ここに来るときソロモン海での海戦の話したでしょ?」

「うん。夕立さんと一緒に参加したって話だったよね」

 

 かつての大戦において、駆逐艦夕立は敵陣の中に突入し、大いに戦場をかき乱した。

 戦場は混沌とした様相を呈し、正確な状況を把握するのは困難となったが――夕立の暴れっぷりは疑いようのないものだった。

 

「あの戦いで夕立姉さんは縦横無尽に戦った。戦って戦って戦い抜いて――そのまま帰ってこなかった。私は、そのとき夕立姉さんとはぐれて、一緒に行くことができなかった。それが、心残りだった」

「……夕立さんには、そのこと話したの?」

「うん。笑って『気にしないでいいっぽい!』って。でも、私はやっぱり思っちゃうんだ。あのとき一緒に行けていたら、夕立姉さんは助かっていたかもしれない。まったく違う展開になっていたかもしれないって。だから、今度は肩を並べて戦いたい。そうなれるくらい、強くなりたいんだ」

 

 かつての戦いでの強い後悔。それは、清霜にも理解できた。

 自分たちは幸運だと、そう思った。本来は払拭することの叶わぬものを、第二の生で払拭する機会が与えられたのだから。

 

「春雨、一緒に頑張ろう。私も……春雨に負けないくらい、頑張るから!」

「……うん!」

 

 決意を新たにする二人のところに、整備を終えた艤装が運ばれて来た。

 普段は泊地の工廠で整備するところだが、今回のような大規模作戦ではそうも言っていられない。

 こういうときは、艤装整備用の妖精や、人間のスタッフの手を借りる。

 

「終わったよ。これで大丈夫なはずだ」

「ありがとうございました! おかげで戦えます!」

 

 艤装を運んできたスタッフに頭を下げて、清霜と春雨は出撃するために駆け出した。

 

 

 

「行かなくて良かったのですか」

 

 後ろから声をかけられて、康奈は慌てて振り返った。

 そこにいたのは、艤装修理中の大淀である。

 

「急に声かけないでよ」

「すみません。ただ、提督なら気づくと思ったのですが」

 

 大淀はいたずらっぽく笑ったが、すぐ真顔になった。

 

「あの子をつけたのはなぜですか? 春雨が心配なら、抑え役としてもっと他の選択肢もあったと思いますが」

「……今の春雨は、確かに危ういところもあるわ。でも、それは変わろうとしているが故の危うさだと思う。そういうときに必要なのは、抑え役よりも火つけ役なんじゃないかって、そう思ったの」

「苦しい賭けになりますね」

「そうね。……だから、ついここまで足を運んでしまった」

 

 康奈自身、その考えが正しいのかどうか分からなかった。

 自分の判断に対する不安は常にある。だが、その不安から逃げるわけにもいかない。

 

「信じて待つというのは、歯がゆいものね」

 

 そう言って踵を返す康奈に、大淀は何も言うことができなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三陣「若輩者の気概」

 艦艇だった頃のことを、自分は比較的よく覚えていた。

 進水日。冷たくも気持ちの良い感覚が、目覚めのときだったと記憶している。

 

 多くの人を乗せ、仲間と共に大海原を駆けた。

 自分が戦うために生み出されたものだということは、誰に教わるでもなく理解していた。

 砲火を交えることは怖くなかった。ただ、使命を全うすることだけを考えた。

 

 似たような姿形の仲間は沢山いたが、その中でも特にそっくりなのが何隻かいた。

 自分も含めて、白露型駆逐艦というらしい。

 艦艇はいくつかの艦種に分類され、同じ艦種の中でも艦型というもので分かれている。

 艦型まで同じ艦艇は共通項が非常に多く、姉妹艦と呼ばれているようだった。

 

 自分は、白露型駆逐艦のうち村雨・夕立・五月雨と共に行動することが多かった。

 駆逐艦四隻による駆逐隊というやつだ。自分たちの隊は、第二駆逐隊というらしい。

 

 数々の作戦を共にした。

 一緒にいることが当たり前のようになって、互いに欠かせない存在になっていると感じた。

 

 四二年、十一月。

 何度目かのソロモン海戦に、第二駆逐隊が参加することになった。

 このとき、隊は村雨・五月雨と夕立・春雨で分かれることになった。

 それまでも分かれて行動することは何度もあったが、このときは少し嫌な予感がした。

 

 予感は的中した。

 悪天候。連携訓練の不足。度重なる進路の変更。

 様々な悪条件が重なり、艦隊の陣形は大いに乱れた。

 先行していた自分と夕立は、敵陣近くに取り残される形となった。

 

 悪条件が重なったのは敵艦隊も同様で、戦いは混沌としたものになった。

 夜だったこともあり、視界は不明瞭だった。側に夕立がいてくれると信じて、がむしゃらに動いた。

 

 だが、気づいたとき、夕立はいなかった。

 どこにいったのか。不安になったが、自分にはそれを誰かに尋ねる術がない。

 未知の恐怖を感じながら、戦いの趨勢が決まるのを待った。

 

 そうして。

 自分は初めて『喪失』というものを知った。

 

 

 

 部隊の違いというものだろうか。

 鬼怒隊には、大淀隊とはまた異なる雰囲気が漂っていた。

 

 鬼怒隊は旗艦の鬼怒と、白露型の艦娘たちで構成されていた。

 春雨は白露型五番艦なので、姉妹艦だらけということになる。

 だからか、よく馴染んでいるように見えた。

 

「いや、しっかしすげえな。聞いたぜ清霜」

 

 そう言って話しかけてきたのは、白露型の末妹・涼風だった。

 江戸っ子風の気風の良い性格の持ち主で、これまでも顔を合わせると気さくに話しかけてくれた。

 

「深海棲艦を組み伏せて沈めたんだって?」

「それは大袈裟だよ。元々沈みかけてた深海棲艦にしがみついてただけだし」

 

 自分の掌を見る。

 多少は回復したが、まだ焼け跡はくっきりと残っていた。

 

「だけって言うけど、それも十分凄いことだと思うけどな。あたいも今度やってみようかな」

「やめときんさい」

 

 涼風の思い付きを諫めたのは旗艦の鬼怒だった。

 長良型姉妹の五番艦。こちらも明るい雰囲気の人となりで、泊地ではよく誰かと一緒にいろいろなことに取り組んでいる。

 真面目一徹な大淀に比べると、多少適当で融通の利く性格と言えた。

 

「せっかく艤装があるんだし、理由がないなら素直に砲撃で仕留める方が無難だよ。接近戦もできるに越したことはないけど」

「鬼怒はできるのか?」

「いやー、全然。サッパリ。そういうのは天龍とか木曾とかに任せることにしてる」

「なんだ。得意なら教えてもらおうと思ったのに」

 

 まるで日常会話のようで、今どこにいるのか、清霜は忘れそうになった。

 

 ここはニューギニア近海。

 鬼怒隊は他の拠点の諸部隊と連携し、敵部隊を撃滅する作戦行動中だった。

 敵部隊を率いるのは駆逐棲姫と名付けられた強力な深海棲艦だという。

 

 鬼・姫と名付けられる個体は、いずれも抜きん出た能力を有する強敵だという。

 そんな相手と一戦交えることになる。その事実に、清霜は先程から緊張し続けていた。

 

 鬼怒たちは特にそういう様子は見受けられない。

 他愛ない会話を続けながら、作戦開始ポイントに向かっている。

 ただ、油断しているわけでもないようで、話をしながらも周囲の警戒を行っているようだった。

 その様子が自然体なので、清霜は気づくのにしばらくかかった。こういうところに練度の差を感じてしまう。

 

「皆、すごいんだね」

「ん?」

「油断せず、緊張もせずって感じで」

「なんだ、そんなことか。こういうのは慣れだよ慣れ。清霜も、春雨の姉貴だって、慣れればできるようになるさ」

 

 その春雨は、先ほどから白露や村雨と何かを話していた。

 

「春雨の姉貴を助けようとしてくれたんだってな」

「うん」

「その――ありがとよ」

 

 涼風は鼻っ柱をこすりながら短く礼を言うと、少し離れていった。

 

「結局、それが言いたかったみたいだね」

 

 鬼怒が、涼風の背を見ながら微笑む。

 自分の行動が、誰かのためになった。その実感を得られて、少しだけ心が弾む。

 

 作戦開始ポイントまで、もうすぐだった。

 

 

 

 清霜たちが作戦開始ポイントに向かっている頃、康奈は作戦本部から送られてきた機材の搬入指揮を執っていた。

 ショートランド泊地のように、自前の母艦を持っていない拠点の場合、作戦本部との連絡手段が限られる。

 それをどうにかしようと、通信機器やディスプレイ等が届けられた。本格的な作戦行動に入るまでの間、迅速に設置していかなければならない。

 

「作戦までにはどうにか間に合いそうね……」

「ええ、お疲れさまでした」

 

 大淀が労いの言葉と共にタオルを差し出した。

 艤装が損傷しているせいで出撃はできないが、大淀自身は多少回復しており、船内での仕事はできるようになっている。

 

 大きく息を吐いた康奈は、微かに視線を感じて面を上げた。

 

 少し離れたところに、何人かの整備員らしき男たちが立っている。

 その中の一人が、若干気まずそうな表情を浮かべながらこちらを見ていた。

 

 覚えのある顔である。

 少し前、三笠で会った男の片割れだ。

 

 男は他の整備員たちに何かを告げると、こちらにやって来た。

 大淀が警戒して康奈の前に出ようとしたが、康奈はそれを制した。

 男から、敵意を感じなかったからだ。

 

 男は気まずそうな顔のまま康奈の正面に立つと、被っていた帽子を取り、頭を下げてくる。

 

「ショートランドの提督さん、だよな。先程はすまなかった。あなたを見た目で判断して侮辱してしまったようだ」

「……いえ、こちらこそ。乱暴な振る舞いをしてしまいました。申し訳ありません」

 

 少し意外な心持になりながら、康奈は自身の非礼を改めて詫びた。

 頭に血が上っていたとは言え、あのときの行動は決して良いものではない。

 

「その言葉からすると、我々の提督を認めていただけたということでしょうか」

「大淀」

 

 どことなく不機嫌そうな大淀を窘める。

 だが、男は大淀の態度に気を悪くした風でもなく、素直に頷いてみせた。

 

「そうだな。船内での様子やさっきの仕事振りを見せてもらったが、そちらの提督さんはきちんと仕事ができる人のようだ。その人となりをよく知りもせず、侮るようなことを言ってしまったのは、恥ずかしい限りだな」

 

 そう返されて大淀も毒気が抜けたのか、そうですか、と相槌を打った。

 

「お名前を聞いても良いでしょうか」

「横須賀で艦娘の艤装整備をやっている上田だ。こういう作戦のときは他の拠点のカバーもしている」

「私はショートランド泊地で提督をしている北条康奈という者です。今後ともよろしくお願いいたします」

 

 第一印象ほど悪い人物ではない。

 そう判断して、康奈は上田に手を差し出した。

 上田は少し意外そうな表情を浮かべたが、ごつごつの手でしっかりと握手に応じる。

 

「上田さん、一つ聞いても良いでしょうか」

「ああ」

「あのとき、なぜあなたはあそこまで怒ったのですか」

 

 こうして素直に謝れる性格だと分かると、あのとき上田が激昂したのが少し妙に思えた。

 無論、単に虫の居所が悪かっただけという可能性もある。ただ、あのときの怒り方に少し引っかかるものを感じたのだ。

 

「あのときのあなたは、私に向かって怒っているわけではないように見えました。本当は別の何かに怒りを向けている。そう感じたのですが――違いますか」

 

 上田は険しい顔でしばらく押し黙っていた。

 どれくらいそうしていただろう。

 やがて、彼は大きく息を吐いた。

 

「……俺には、娘がいた。ちょうどあなたと同じくらいの年だった」

「娘さんと同い年くらいの子どもが戦場にいる。そのことに対する苛立ちがあった、ということですか」

「それもあるが、それだけじゃないよ、艦娘さん。……」

 

 上田は周囲を見回した。

 先程までいた整備員たちも今はいない。この辺りには三人しかいなかった。

 

「……俺の娘は、国に奪われた。『艦娘適性がある』。ある日突然そう言われて、問答無用で引き離されたんだ」

「艦娘――適性」

 

 康奈は表情を強張らせた。

 その言葉には――聞き覚えがある。

 

「娘を連れていった奴は言っていた。人間でも艦娘になれる可能性がある。国防のためには、その実現が急務なのだ――と」

「……」

「勿論俺も妻も反対した。眉唾ものの話だと思ったし、いろいろ話を聞いてみれば、まだ安全性の保障もできないような状態だっていうからな。ただ――向こうも次第に手段を選ばなくなってきてな。脅しに屈するような形で、連れていかれたんだ」

 

 上田の双眸には、怒りの炎が浮かび上がっている。

 あのとき見せたのは、これだったのだ。

 

「あれ以来、娘には会えていない。行方を探ろうとしても駄目だった。世迷いごとを言う狂人なんて言われて終わりだ。だけど、親としては諦められない。どんな手段を使ってでも見つけてやりたい――そう思って、俺はここに来た」

「……だから、子どもを戦場に出すような大人が――うちの先代のことが、許せなかったんですか」

「そうだ」

 

 上田は力強く頷いた。

 しかし、すぐに頭を振る。

 

「だが、そちらの先代の提督がどんな人だったのか、考えてみれば俺はまったく知らない。どういう経緯であなたを提督にしたのかも知らない。だから、あれは結局――八つ当たりだったんだろう」

 

 すまなかったな、と改めて頭を下げて、上田は去っていった。

 

 残された康奈と大淀の間に、重い空気が漂う。

 

「……人間を艦娘にする、ですか」

「まさか、こんなところでその話を聞くなんて思ってなかったわね」

「深海棲艦への唯一の対抗戦力でありながら、艦娘の数は不足がち。その不足を埋めるために……ということなのでしょうけど」

 

 大淀は気遣うような視線を康奈に向けた。

 それが、康奈には少しばかり煩わしい。

 

「上田さんの話は信じても良いと思う。現に一人、ここに艦娘になり損ねたのがいるんだもの」

 

 康奈には過去の記憶がない。

 泊地に来る前のことはほとんど思い出せない。

 

 ただ、そうなった原因は知っている。

 

 艦娘量産のための人体実験。

 その実験で『不合格』の烙印を押され、廃棄されかけていた出来損ない。

 それが――北条康奈の正体だった。

 

 

 

 作戦開始地点には他の部隊も集まっていた。

 顔見知りでもいるのか、鬼怒は通信機で他の部隊の指揮官に挨拶をしている。

 

「夕立姉さんも時雨姉さんも、さっきは凄い戦いっぷりだったって」

 

 白露たちとの会話が一段落ついたのか、春雨が清霜のところにやって来た。

 鬼怒隊には夕立・時雨が所属していたのだが、先ほどの戦いで艤装がやられてしまったらしい。

 清霜と春雨は、二人の交代要員ということになる。

 

 夕立・時雨はどちらも艤装の第二改装を実施しており、他の艦娘と比べて一歩抜きん出た実力を持つエースだった。

 艤装がやられてしまったのも、二人を警戒した深海棲艦が攻撃を集中させたからだという。

 

「二人のようにはできないかもしれないけど、私は私なりに、二人の代わりとして頑張るよ」

「うん。私も頑張るよ」

 

 そう言って互いに手を叩く。

 同期で共同訓練をしていた頃も、一緒に頑張ろうというときはこうやって手を叩き合ってきた。

 

「……清霜、まだ手荒れてるね」

 

 叩き合ったときに気づいたのだろう。春雨が心配そうな眼差しを向けてきた。

 

「艤装はもう修理できてるんだよね。だったら身体の傷も直ってるはずなのに、どうしたのかな」

「うーん、よく分かんない。まあ、前から怪我の直りは少し遅い気がしてたから、改めて気にしても仕方ないんじゃないかな」

 

 艦娘は艤装を依代に、軍艦の御魂の分霊を降ろした存在だ。

 だからか、艤装の損傷は身体への影響が出やすい。艤装が壊れたままだと怪我はなかなか直らない。逆に、艤装が修理できていれば重傷でもあっさりと直る。

 

 自分がそういう艤装からの影響を受けにくいということに、清霜は前々から気づいていた。

 違和感はあったし多少不便に思うこともあったが、深海棲艦と戦えるということに変わりはなかったので、気にしないよう努めてきたのである。

 

「……清霜、あれ」

 

 春雨が少し離れたところに集まっている部隊を指し示した。

 その部隊の艦娘たちは、皆揃って紺色のスカーフをつけている。

 だが、それ以上に見る者たちの意識を引き付けたのは、彼女たちが纏う異様な空気だった。

 

 他の部隊も皆、こういう大規模作戦に参加するだけあって、相応の実力の持ち主である。

 清霜や春雨のように経験がまだ浅い者もいるが、そういう者たちは何かしら期待されてこの場にいる。

 彼らは皆、戦場を堂々と駆ける威風とでも言うべきものを身に纏っていた。

 

 しかし、紺色のスカーフの部隊はそういうものを持っていない。

 その部隊は、ただ敵を打ち倒すためだけに存在している。鋭利な刃物が人の形を得てその場にいる。

 威風などいらない。堂々たる行軍など不要。ただ敵の喉元を掻っ捌ければそれで良い。

 見る人にそういう印象を持たせる――そういう存在感を放っていた。

 

「あれ、あの神通さんだ」

 

 部隊の先頭にいたのは、先の戦いの前に挨拶に来た神通だった。

 

「ってことは、あれが横須賀第二鎮守府の部隊なんだ。なんか、凄いな」

「凄いっていうか、少し怖い気がする……」

「そうかな。……あっ」

 

 神通が、軽く会釈をした。視線は清霜たちにいる方に向いているようだった。

 もしかすると自分に気づいたのかもしれない。そう思って、清霜は頭を下げた。

 

「皆、呉の部隊から指示があったよ」

 

 鬼怒が通信を終えて、部隊の皆を集めた。

 

「今回うちは囲い込み役。敵を捕捉したら、他の部隊と連携して包囲する。機動力が求められる役割だよ。艤装のメンテは抜かりないかな」

 

 鬼怒の問いに全員が頷く。

 それを確認して、鬼怒はもう一つ補足した。

 

「囲い込みって聞くと地味だと思うかもしれないけど、敵はいつどこに向かってくるかも分からない。戦わなくて済むなんて思わないでね。ここが戦場だってこと、忘れないように」

 

 清霜や春雨は、鬼怒のこういった表情を見るのが初めてだった。

 快活な性格で普段はよく笑っている印象がある。しかし、今は戦う者の顔になっていた。

 そのギャップが、今戦場にいるのだという事実をより強く感じさせる。

 

「春雨、清霜」

「はい!」

「二人はとにかく鬼怒たちについてくることだけを考えて。決して艦隊から離れないように。いいね?」

「了解ですっ!」

 

 二人の返事に鬼怒は頷き、部隊は海路を進みだした。

 

 

 

 問題の敵遊撃部隊は、思ったよりも早く捕捉された。

 集結していた艦隊の端に陣取っていたリンガの本隊に食いついたのだ。

 

 リンガからの連絡を受けて包囲部隊が駆けつけると、敵遊撃部隊はすぐさま反転した。

 

「引き際を弁えてるね。ああいう相手は厄介だ!」

 

 敵旗艦の姿が遠目に見えた。事前に聞いていた通り、春雨に酷似している。

 清霜は春雨の様子を窺おうとした。しかし艦隊はかなりの速度で動いている。前を行く春雨の表情は確認できない。

 ただ、動揺しているような雰囲気はなかった。

 

 鬼怒隊は相手を直接追わず、右側を旋回する進路を取った。覆うような形で包囲するためだ。

 旋回しながら敵を追わなければならないので、速度は更に跳ね上がる。

 主機が悲鳴のような音を立てた。

 

 鬼怒が「ついてくることだけを考えろ」と言った意味が、ようやく理解できた。

 この速さでは、少しでも油断すると落伍しかねない。

 

「大丈夫か?」

「大丈夫! 大丈夫じゃなくても、ついていく!」

 

 清霜の後ろにいた涼風が声をかけてくれた。おそらく落伍しそうになったときのフォロー役なのだろう。

 さすがに他のメンバーは動きが安定していた。少なくとも、春雨や清霜のように身体の軸がぶれそうになったりすることはない。

 

「右!」

 

 鬼怒が短く叫びながら、大きく右に曲がる。

 隊もそれに続いた。速度はほとんど下げないままだ。

 

「春雨の姉貴、清霜! 二人は少し速度落とせ!」

 

 涼風が叫ぶ。今の二人の練度では、他のメンバーの真似をしようとしてもうまくいかない。

 意地を張らずに速度を落としながら方向転換を図る。

 

 そのとき、偶々左方向にいた敵部隊の姿が視界に見えた。

 いくつかの艦影が、こちらに砲口を向けている。

 

「敵艦隊、攻撃してくる!」

 

 清霜が叫んだ直後、砲声が海上に響き渡った。

 

「ちっ、行くぜぇっ!」

 

 着弾までの僅かな間。

 涼風は、速度を下げていた清霜と春雨の背中を押した。

 ぐっと押される感覚と同時に、近くで強い衝撃が走る。

 

「……涼風っ!」

 

 振り返る。

 涼風は被弾していた。艤装がいくらか損傷を受けている。まだ航行は可能だが、万全の状態とは言えなくなってしまった。

 

 清霜と春雨を助けようとして、そうなってしまったのだ。

 

 おまけに、敵部隊は進路を変更して真っ直ぐ鬼怒隊の元に突っ込んできた。

 損害を与えたことで、鬼怒隊を突破できると踏んだのだろう。

 

「こちら鬼怒隊、敵が交戦を仕掛けてきた! こっちで引き付けるから、他の部隊はその隙に包囲して!」

 

 他の部隊に連絡を入れて、鬼怒はすぐさま清霜たちの前面に出た。

 

「き、鬼怒さん。ごめんなさい……!」

「気にしなくていいよ。二人が何かヘマしたわけじゃないでしょ。戦いではよくあることだよ。……そこで落ち込んで足手まといになられる方が、今はちょっとしんどいかな!」

 

 謝罪する清霜に鬼怒はそう言って笑ってみせた。

 鬼怒の言う通り、今は反省している場合ではない。

 姫クラスの敵が率いる部隊が、こちらを食い破らんと猛スピードで迫っている。

 

「ここで足止めできれば他の部隊が包囲してくれる。作戦大成功ってやつだよ! 皆、歯を食いしばる用意はいい?」

「もちろん、一番食いしばるよ!」

「村雨は程々に頑張りますね」

 

 白露、村雨が鬼怒の両脇を固めるように陣取った。

 後方の三人と合わせて、複縦陣の形になる。

 

「敵とのガチンコはこっちに任せて!」

「三人は後方からのフォローをお願いね。……支援射撃一つでこっちの生死が分かれるかもしれないから、お願いね?」

 

 村雨からの頼みに、清霜たちは頷くしかなかった。

 

 装填が終わったのだろう。

 敵部隊が、もう一度主砲をこちらに向けてきた。

 

「さて、いっちょやりますか――!」

 

 

 

 鬼怒隊の状況は康奈たちも当然把握していた。

 艦橋は緊張に覆われている。自分たちの艦隊の仲間が危険な状態なのだ。

 

「鬼怒隊の場所はここからそう離れてはいないわね……」

「提督、まさか行くつもりなのか」

「間に合うかどうかは分からない。けど、提督が近くにいれば艦娘はより力を発揮できるんでしょう? だったら――」

 

 艦娘は依代である艤装に軍艦の御魂を降ろした存在だが、それを可能とするのは提督としての資質を持つ者の霊力である。

 提督と艦娘は霊力の経路で繋がれる。距離が近ければ、経路を介してより多くの霊力を送ることが可能になる。

 それによって、艦娘は最大限のポテンシャルを発揮することができるようになるのだった。

 

 康奈が母艦を動かす命令を発しようとしたとき、作戦本部からの通信が入った。

 思いがけない横やりに、康奈は舌打ちした。

 

「はい。こちらショートランド艦隊」

『毛利だ。……機嫌が悪いところすまないけど、今動けるかな』

 

 仁兵衛は康奈の苛立ちを見透かしているようだった。

 作戦本部も戦況は把握している。康奈がなぜ苛立っているのかも含め、すべて承知しているはずだった。

 

「動く? どこにですか」

『ビアク島だ。水雷戦隊によって敵遊撃部隊は動きを抑えられている。こちらの各艦隊の艦娘稼働状況も大分回復した。この隙に敵本隊を叩いて、ビアク島を奪還する』

 

 焦りを覚えながらも、康奈は仁兵衛の言葉を反芻した。

 確かに、タイミングとしては悪くない。ビアク島攻略に関する懸念事項は、もうほとんど残っていない。攻略できるだけの戦力が整ったなら、待つよりも動いた方が良い。それは理解できた。

 

「……うち抜きだと厳しいですか」

『ああ。そちらの部隊が動かせないと、いささか勝率が下がる。今回はあまり余裕のある編成ではないからね。ギリギリの運用をしないといけない』

 

 先日のAL/MI作戦での反省を踏まえて、日本政府は各拠点の防備を重視する方針になった。

 拠点の安全性は向上したが、それは一方で自由に使える戦力が減ったことを意味する。

 

 仁兵衛の言うことはすべて理に適っている。彼は作戦成功のための最善手を打とうとしているだけだ。

 それは分かっている。しかし、今の鬼怒隊を放置してビアク島に向かうことは、康奈にとっては選び難い選択肢だった。

 

「……五分だけ、時間をください」

『五分か。分かった』

 

 一旦通信を打ち切って、設置したばかりのモニタを見る。

 ビアク島の敵戦力。遊撃部隊包囲戦の様子。そして自分の手元にある戦力。

 

 康奈はほんの少しだけ黙考した。

 自分にとっての最適解とは何か。それは比較的すんなり出た。

 ただ、リスクを伴う。そのリスクを周囲にも背負ってもらわなければ、成立しない。

 

 康奈は側に控えている主力部隊の面々を見た。

 最高クラスの砲撃戦力である大和型の大和・武蔵。実戦経験豊富な妙高・那智。他の面々も皆、頼もしい者たちばかりだ。

 

「大和」

「はい」

「――ビアク島に主力部隊・能代隊だけで行った場合、何か不安はある?」

 

 康奈の問いの意味を察して、大和は表情を曇らせた。

 

「この母艦は行かないという理解で良いですか?」

「ええ。この母艦は鬼怒隊の援護に向かうわ」

「……ビアク島攻略については問題ないと思います。提督からの霊力供給が平常通りだとしても、戦力に不安はありません。指揮系統についても作戦本部に預けるということであれば問題ないでしょう。ただ、母艦の警備は手薄になります」

 

 大和率いる主力部隊、それに能代隊をビアク島攻略に向かわせた場合、ここに残るのはほぼ機能停止している大淀隊だけだ。

 ほとんど無防備な状態になる。敵艦隊に襲われた場合、ひとたまりもないだろう。

 

「能代隊だけでも残すわけにはいかないか、提督」

「それは無理よ、那智。毛利さんがああ言った以上、こちらの戦力は全部投入しないとビアク島攻略が失敗する可能性が高い。今回の作戦は日本の信用がかかってる。絶対に失敗できない作戦なのよ」

 

 康奈にとって、日本の信用自体はどうでもよかった。

 ただ、それによって泊地が不利益を被る可能性が高い。

 元々ギリギリのところでやり繰りしている泊地である。今、これ以上問題を増やすわけにはいかなかった。

 

「大丈夫。現状を見る限り、敵戦力はビアク島の方に集中していってる。包囲戦側は敵遊撃部隊にいくつかの支援艦隊がついているだけ。そこに気を付ければリスクは少ない」

「だが、提督の身を危険にさらすような作戦を容認することはできん。……康奈、私たちはこれ以上、もう失いたくはないのだ」

 

 那智の言葉が、康奈に重くのしかかる。

 他の艦娘の表情も暗くなっていた。

 ショートランド泊地は、先の作戦で提督を失ったばかりだ。

 今再び提督を危険にさらすようなことはしたくない――そう思うのは、当然だろう。

 

「でも、このままだと鬼怒隊は全滅しかねない」

 

 今はまだ持ちこたえているが、状況は良くない。

 他の艦隊が鬼怒隊の支援に行こうとしているようだったが、敵遊撃部隊の支援に向かった艦隊に阻まれていた。

 

「誰かを見捨てるようなやり方は、うちの流儀じゃない。私はそう思う」

 

 康奈はそのまま艦橋のクルーたちに顔を向けた。

 

「聞いての通り、私はこれから無茶をします。貴方たちはソロモン政府から出向してきただけなので、この無茶に付き合う必要はありません。近くにはラバウルの母艦がいます。付き合いきれないという方は、脱出用のボートでそちらに向かってください」

 

 周囲が静寂に包まれる。

 誰もが、康奈に対しどう答えるべきかを迷っていた。

 

「……常識的に考えれば止めるべきなのだろうな」

 

 口を開いたのは、大和型二番艦の武蔵だった。

 

「だが、なるほど。確かにそれはうちの流儀ではない。あいつがこの場にいても、おそらく同じ選択をしただろう」

「……武蔵」

「提督、上手くやれ。その選択をしたことを後悔しないように。その選択を認めた私に後悔させないようにな」

 

 武蔵の言葉で折れたのか、大和や妙高・那智たちも肩を落として苦い笑みを浮かべた。

 本心から賛同しているわけではない。ただ、康奈の意思を尊重したいと思っての消極的容認だった。

 

「提督さん、俺たちも付き合うぜ」

 

 クルーの一人が屈託のない笑みを浮かべて言った。

 

「あんたたちがいなけりゃ、俺たちは島ごとに分断されて今頃半数以上が飢え死にしてたかもしれない。あんたたちが常日頃から危険な任務を引き受けてくれてるから、俺たちは今みたいな生活が送れている。それが分かっているから、今回もついてきたのさ」

「そもそも俺たち志願して乗り込んだんだしな。覚悟なんてのはとっくに決まってる。あんたが作戦成功のために動くなら、最後まで付き合ってやる」

 

 他のクルーたちも皆意思は決まっているようだった。

 

 思いがけない流れに、康奈は戸惑った。

 もっと反発を受けると思っていた。最悪、母艦が動かせなくなるくらい人が降りるかもしれないと覚悟していたのだ。

 

「なにを呆けている。決めたのだろう、ならさっさと作戦本部に連絡しておけ」

「……うん」

 

 思わず素の口調で答えてしまったが、康奈自身はそのことに気づかなかった。

 

『またリスクの高い方針だね』

 

 話を聞いた仁兵衛は半ば呆れたように言った。

 

『だが、上手くいけば最小限の被害で最大限の戦果を得られるか。……個人的には、嫌いではない』

「では」

『ああ、やってみたまえ。無茶ではあるが無理な話ではない。難しい立ち回りだが、君ならできるだろう』

 

 仁兵衛はそう言って通信を切った。

 

「……我儘を言ってごめん、皆」

「気にするな。鬼怒隊は任せたぞ、提督」

 

 敬礼をして、主力部隊・能代隊が出撃していく。

 それを見送り、康奈は新たな号令をかけた。

 

「これより最大船速で鬼怒隊の援護に向かう! 全員無事に帰還する、それが私たちの勝利条件だ!」

 

 

 

 忙しなく変化し続けるモニタ。

 その様子を眺めながら、小柄な体躯の持ち主が「ほう」と興味深そうに声を上げた。

 

「ショートランドの母艦が前線に出た、か。窮地に陥りつつある自分たちの艦隊を救おうというつもりか」

『提督』

 

 通信機越しに神通の声がした。

 

「神通か。首尾はどうだ」

『こちらの損害は警備。戦艦部隊と潜水艦部隊に絡まれましたが、どちらも殲滅済みです』

「ではそろそろ仕上げだ。姫の首を獲って来い」

『了解』

 

 短く告げて、神通は通信を切った。

 

「我々の力を、見せつける」

 

 狂いそうになる程の憎悪に声を震わせながら、拳を握り締める。

 

「すべては――そこからだ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四陣「飢えた者たちの牙」

 夕立を失った後も春雨の戦いは続いた。

 ソロモン海戦のような激しい戦闘はなかったが、戦線を支えるための輸送作戦に従事した。

 人員や物資を運ぶための大事な作戦だった。姉妹艦の喪失に落ち込んでいる暇などなかった。

 

 あるとき、敵の潜水艦とやり合って大怪我を負った。

 もう駄目かと思ったが、悪運が強かったのか、危ういところで助かった。

 ただ、その代償と言わんばかりに村雨が沈んだ。修理中、連絡が届いたのだ。夕立に続く駆逐隊仲間の喪失だった。

 

 残された春雨と五月雨は、同じく僚艦を失っていた白露・時雨と合流した。

 第二駆逐隊は解隊となった。夕立や村雨がいたという事実そのものが失われたような寂しさを覚えた。

 

 やがて春雨は、□■■に参加することになった。

 白露・時雨・春雨・五月雨たちはこのとき初めて一堂に会した。

 駆逐隊を指揮するのは春雨の役目だった。もうこれ以上姉妹艦を失いたくない。そう、強く思ったのを覚えている。

 

 そうして。

 そうして自分は△△を受けて、そこで××を――。

 

 嗚呼。

 なぜ、思い出せない。

 記憶がノイズ混じりになる。

 

 ここで、自分は大切なことを実感した筈なのだ。

 思い出さなければならないことがある。

 

 なのに、なぜ。

 なぜ、思い出せないのか。

 

 

 

 駆逐艦と言えど、姫級と認定されただけあって、駆逐棲姫率いる部隊の動きは尋常なものではない。

 基本的に深海棲艦は、集団で動くことはあっても、会敵すれば個々が好き勝手に戦うだけである。

 しかし、部隊に鬼・姫級のような司令塔がいる場合は違う。相手も戦術的行動を取ってくる。

 

 元々深海棲艦は、単純なスペックなら艦娘を凌駕する個体も多い。

 それに対し艦娘は、技術や連携――戦術によって対抗していた。

 深海棲艦側が戦術を駆使するようになれば、苦戦するのは当然のことと言えた。

 

「陣形を乱さないで、固まって! 敵を一体ずつ確実に仕留めていくよ!」

 

 分散し翻弄するように動き回る駆逐棲姫部隊に対し、鬼怒隊は陣形を固めて防衛を優先する形を取った。

 耐えながら敵に打撃を与えつつ、味方の増援を待つ。

 経験の浅い清霜・春雨、そして負傷した涼風を抱えた鬼怒隊では、単独でこの敵を殲滅するのは至難の業だった。

 

 しかし、耐えても耐えても敵の攻撃の手は緩まない。

 むしろ、鬼怒隊のダメージが蓄積されていくばかりだった。

 

「あー、もう! 救援はまだなの!?」

「……どうも、敵の増援が来たみたいね」

 

 敵の攻撃を回避しながら苛立ちの声を上げる白露に対し、村雨はある場所を指した。

 かろうじて視認できるほどの距離のところに、呉の部隊がいる。この包囲戦の指揮を任されている部隊だ。

 しかし今、その部隊は敵の重巡部隊に取り囲まれていた。

 

「さっきまでいなかったじゃん!」

「こちらの警戒網の外に潜んでたか、文字通り深海から出てきたかのどちらかだろうね!」

 

 鬼怒の砲撃でようやく敵の一体が倒れた。

 駆逐棲姫の部隊は、鬼怒隊と同様駆逐艦中心の構成である。各個体の動きが素早く、動きを捕捉するだけでも一苦労だった。

 

『――鬼怒!』

 

 そのとき、鬼怒の通信機に康奈の声が響いた。

 

「提督! ゴメン、今ちょっと苦戦中!」

『分かってる。他の部隊は皆足止めを喰らってるみたい。場合によっては、私たちだけでそいつを仕留めないといけないかもしれないわね』

「それはかなり無茶な注文……ん、私たち?」

 

 康奈の言葉に違和感を覚えて、鬼怒は復唱した。

 

『今、母艦ごとそっちに向かってる。私が直接指示を出すから、それに従って合流して。そうすれば連携して挑める』

「マジで!? 危ないって! 護衛ちゃんとつけてるんだよね?」

『……ええ、つけてる!』

 

 嘘だ、と鬼怒は内心舌打ちした。

 本人は自覚していないかもしれないが、康奈はかなり分かりやすい性格をしている。

 今の僅かな間は、正直に言うべきか嘘をつくべきか迷ったことで生じたものだ。

 鬼怒だけでなく、それを聞いていた全員が理解した。

 

 おそらく残りの部隊は別行動をとっているのだろう。

 動かせる部隊があるなら、そもそも康奈自身が危険を冒して動く必要がない。

 

「……でも、止めたところで聞かないんだろうな」

「それが提督さんの困ったところでもあるし、綺麗なところでもあると思います」

 

 手傷を負いながら村雨が言った。

 鬼怒は自らの髪をわしゃわしゃと掻きむしりながら吠える。

 

「あー、もう分かったよ! 指示ちょうだい、提督。鬼怒さんが、全部背負ってみせるからさ!」

 

 半ば自棄になりながら、鬼怒は覚悟を決めた。

 望もうと望むまいと、腹を括らねばならないことが戦場では多々生まれる。

 これもその一つだと、鬼怒は割り切ることにした。

 

 

 

 康奈の指示はシンプルなものだった。

 防衛中心のスタンスは変わらない。ただ、積極的に動き回る。

 動くことで、周囲の戦況を少しずつ変えていく。

 

 鬼怒隊と康奈たちが合流するための最短ルートは他にあったはずだが、康奈はその策を取らなかった。

 他の敵増援に足止めされている部隊に近づき、敵部隊を刺激しつつ適当なところで距離を取る。

 それを繰り返すことで他の部隊を動けるようにし、連携して駆逐棲姫の部隊に当たる。それが理想的な形だった。

 

 もっとも、駆逐棲姫隊を相手にしつつ他の部隊にちょっかいをかけるだけあって、リスクは高まったと言える。

 

「けど、このリスクを背負わないと後々もっと面倒なことになるもんね……!」

 

 負傷した涼風の前に立ちながら、清霜は主砲を敵駆逐艦に放った。しかし当たらない。相手の動きが早過ぎるのだ。

 

「清霜、横!」

 

 春雨の声と同時に、砲弾が宙を切り裂く音が聞こえた。

 身を低くして空を見る。一瞬、砲弾が視界に飛び込んできた。

 

 着弾。

 砲弾が叩きつけられたことで、海面が凄まじい水飛沫を上げた。

 周囲に大きな波が生じて、身体が揺れる。

 

 さっきからこんなことの繰り返しだった。

 命がいくつあっても足りない。戦場がそういうものだということを、改めて思い知る。

 

「大丈夫?」

「へーきへーき! 司令官がせっかく来てくれるんだもん。合流する前にやられたりはしないよ!」

 

 清霜も微かに被弾していたが、まだまだ十分に戦える状態だった。

 意気軒昂といったところである。

 それに対し、不詳を重ねた涼風は戦闘続行が困難になっていた。

 

「……悪いな、二人とも。もしあたいが足手纏いになるようだったら――」

「見捨てたりはしないよ」

 

 涼風の言葉を封じるように清霜が言った。

 

「私は、もう誰も見捨てたりなんかしない。それは絶対に絶対だッ!」

「うん。私も……もう、仲間を失うのは嫌だから、置いて行ったりしないよ」

 

 涼風の手を握り締めながら、春雨が清霜に同調した。

 

 康奈の策は、少しずつ芽が出つつあった。

 いくつかの隊が鬼怒隊と合流し、駆逐棲姫の部隊に対応し始めてきたのである。

 だが、各部隊とも既に負傷している者が多く、数が増えても駆逐棲姫に決定打を与えることは出来ていない。

 

 康奈は他の部隊と直接通信できないので、鬼怒隊以外の指揮を執れない、というのもマイナスに響いていた。

 部隊間の連携が思うように取れないのだ。

 

 駆逐棲姫は鬼怒隊に攻撃を集中した。

 自分たちが囲まれつつあることを察し、一点突破を図ろうというつもりなのだろう。

 集中攻撃を受けて、鬼怒隊の損害はますます酷くなっていった。

 

 村雨が被弾し大破したのを皮切りに、白露、そして鬼怒までもが大破した。

 艤装の損傷が激しく、主機もまともに動かせなくなる。隊としての機動力が奪われ、余計被害が増えやすくなってしまうのだ。

 

「……大丈夫。私、敵を攪乱させます!」

 

 艤装の状態をチェックし、清霜が前に飛び出した。主砲は損傷が激しくまともに動かせないが、動き回るだけならどうにかなる。

 敵は攻撃の手を緩めない。このままでは、鬼怒隊から轟沈する者が出かねなかった。

 

「待って清霜、行くなら私が――」

「春雨は他の人たちをお願い!」

 

 他の隊の動きに合わせる余裕はない。

 清霜は、我武者羅に敵部隊の中央に突っ込んだ。敵の陣形を割ろうとしたのである。

 

 しかし、相手が駆逐艦一人だと見た駆逐棲姫隊は、陣形を固めてこれを迎え撃つ構えを見せた。

 

「そっちがその気なら――!」

 

 無理にでも隊を割ってやる、と清霜は自身の進行方向目掛けて魚雷を放った。

 これなら隊を割らざるを得ない――そう考えた清霜だったが、その目論見はすぐさま破られた。

 魚雷の前、敵の駆逐艦が飛び出してきたのである。

 

 魚雷が敵駆逐艦に到達し、炸裂した。

 それによって水柱がたち、清霜は一瞬足を止めざるを得なくなる。

 

 その隙を突いて、水柱の向こうから駆逐棲姫が主砲を清霜目掛けて撃ち込んだ。

 

「――ッ!」

 

 悲鳴を上げる間もなかった。

 正面から主砲をまともに喰らい、清霜の小柄な身体は海面を跳ね――その意識は、深い闇の中へと沈んでいった。

 

 

 

 春雨は、時が止まったような錯覚を覚えた。

 清霜が海面を何度も跳ねながら転がっていく。艤装の破片がいくつか吹き飛んだ。

 もう戦えない。一目で分かるくらいのダメージだった。

 

 集まった他の部隊も、鬼怒隊と似たような状況だった。

 戦闘続行が可能な艦娘は、春雨くらいしか残っていない。

 

 敵部隊も決して万全な状態ではない。その数は既に半数以下になっている。

 しかし、駆逐棲姫とそれを取り巻く護衛数体はまだ健在だった。

 

 もう逃がしてしまえば良いのではないか。そんな思いが春雨の脳裏に浮かび上がる。

 敵は十分引き付けた。いくら姫級と言っても、この状態からではろくなこともできまい。

 

 しかし、そうも言っていられなかった。

 駆逐棲姫は、吹っ飛んだ清霜を一瞥すると、春雨目掛けて突っ込んできたのである。

 その眼差しは敵意に満ち溢れていた。

 春雨がもう戦いたくないと思っていても、向こうの戦意は依然として高かった。

 むしろ、散々邪魔をされた分だけ膨れ上がっている。

 

「……やっぱり、逃げの考えじゃ駄目だね」

 

 康奈の気配が近づいて来ていた。

 もしかしたら、振り返ればもう見える位置まで来ているのかもしれない。

 

 だとしても、今、振り返るわけにはいかない。

 

 突入してきた駆逐棲姫たちに向かって、春雨は応戦する構えを取った。

 

「駄目だ春雨の姉貴! 逃げろ!」

 

 涼風が止める。鬼怒たちも皆口々に避難するよう言ってきた。

 しかし、今ここで逃げれば他の誰かが狙われるかもしれない。

 そうなれば、きっと誰かが犠牲になる。

 

 かつて――夕立と離れて、一人だけ助かってしまった。

 そのことが、ずっと心にしこりとなって残っていた。

 

「……そうだ。私は、もう後悔したくない」

 

 駆逐棲姫たちの進行先に主砲を放つ。

 海面に叩きつけられた砲弾が飛沫を上げ、駆逐棲姫たちの足を止めた。

 

「だから私は、絶対退かない!」

 

 そこ目掛けて魚雷を放つ。

 足を止めたところを狙う。先程清霜が駆逐棲姫にやられた戦法だった。

 

「――コンナトコロデ、止マッテラレナイ」

 

 そのとき、駆逐棲姫は大きく口を開いた。

 明確な意思を伴った人の言葉。

 人語を解する深海棲艦がいることは春雨も知っていたが、正面からそれに相対すると、奇妙なざわつきを覚えた。

 

「仲間ガ待ッテル――ダカラ、私ハ絶対戻ラナイトイケナインダ――ッ!」

 

 駆逐棲姫が、咆哮しながら跳躍した。

 宙にいる相手に、魚雷は届かない。

 春雨は咄嗟に主砲を構えた。しかし、装填が間に合わない。

 

 鬼気迫る表情の駆逐棲姫が迫る。

 その瞬間、春雨は背筋が凍り付くような感覚に襲われた。

 

 沈む。

 暗い海の中に、一人沈む。

 

 それは――嫌だ。

 春雨は知っていた。自分が沈んだ後、残された姉妹艦がどういう思いを抱いたのかを。

 艦娘として着任した後、姉妹艦たちが教えてくれたのだ。

 

 姉妹艦を失う痛みを知りながら、自分が沈むとき、春雨はどこか満足していた。

 しかし、それは残される者たちのことを忘れていたからこそ覚えたものだ。

 

 ……満足なんて、できるはずがない。今私が沈めば――悲しむ人がいっぱいいる!

 

 仲間を守るだけではない。

 仲間を悲しませないよう、自分自身も守る。そういう戦い方をするのだと、春雨は誓っていた。

 

 折れそうになった春雨の闘志が、土壇場で蘇る。

 その身を焦がすような気迫の駆逐棲姫を、春雨は真正面から睨み据えた。

 

 このままでは主砲の装填が間に合わない。

 ならば、ギリギリのところで敵の攻撃を避け、着地の瞬間に生じる隙を突くしかない。

 

 超近距離での対応は至難の業だ。

 しかし、諦めたくないのであれば、やるしかない。

 

 春雨と駆逐棲姫が衝突する。

 見ていた誰もがそう思った瞬間――駆逐棲姫は、横合いから何者かに殴り飛ばされた。

 

 

 

 鬼怒隊が視界に入ったとき、既に状況は最悪に近しいものになっていた。

 ほとんどの者が倒れ、唯一無事な春雨が駆逐棲姫と相対している。

 

 その光景を見て、康奈の心臓は跳ね上がった。

 数ヵ月前に味わったときと同じ感覚。身内を失うということへの恐怖である。

 

 春雨が逃げれば誰かが沈められるかもしれない。

 逃げなければ、春雨自身がやられる。

 

 ……先生。

 

 助けられなかった人がいた。

 そういうのが嫌で、こんな無茶な強行軍を敢行した。

 

 それでも、結局は助けられないのか。

 

「――雲龍、艦載機を出して!」

「それは、すぐには無理……!」

 

 母艦の護衛任務についていた雲龍が悲痛な声を上げた。

 現在、この母艦は雲龍の戦闘機と磯風・時津風によって守られている。

 戦闘機から艦攻・艦爆に切り替えて発艦させるのは、どうしても時間が必要だった。

 

「……私が出る!」

 

 堪りかねた磯風が、一人母艦から飛び出した。

 無謀極まる行動だが、他に打てる手がない。

 

「誰でもいい。誰か――私の家族を守って……!」

 

 甲板の手すりにすがりつきながら、康奈は悲痛な願いを口にした。

 

 

 

 ……声が聞こえる。

 

 助けを求める声だ。

 混濁した意識の中で、声の主を求めて手を伸ばす。

 

 しかし、届かない。

 

 以前もそうだった。

 救いを求める声に応じようとして、動けなかった。

 

 海に消えゆく巨大な艦影。

 その周囲には、すべてを飲み込まんとする渦が生じていた。

 

 近づけばただでは済まない。

 だから、近づけなかった――否、近づかなかったのだ。

 

 伸ばしかけた手を、引っ込めてしまった。

 助けようとして助けられなかったのではない。

 助けることを諦めて――見殺しにしたのだ。

 

 完全に見捨てたわけではない。

 安全が確保できる状態になったのを見計らって動いた。

 助けられた命もあった。あのときは、ああするのが最善手だったのだ。

 

 そう思いつつ、それは逃げの理屈だ、という思いが絶えず脳裏にこびりついている。

 

 だから。

 今度、助けを求められたら、理屈などかなぐり捨ててでも応じなければならない。

 

 

 

 康奈が面をあげたとき、戦場で一人の艦娘が立ち上がるのが見えた。

 ボロボロになった身体を、錆びついた機械のように、ガクガクと覚束ない様子で起こす。

 

 清霜だった。

 

「あの子……何を!?」

 

 康奈の隣で様子を見ていた大淀が戸惑いの声を上げた。

 清霜は満身創痍だった。主砲は既に原型を留めておらず、主機も最低限の機能が働くかどうかといった有様。

 なにより、清霜自身があちこちに傷を負っていた。あちこちから血が滲み出ていて、全身が赤黒くなっている。

 

 そんな状態にもかかわらず、清霜は立ち上がり、あろうことか海面を走り出した。

 主機による滑走ではない。大地を蹴るような調子で、海面を二本の足で全力疾走している。

 

 無茶苦茶な動きだったが――それは妙に速かった。

 

 駆逐棲姫が春雨に飛び掛かる。

 春雨はそれに応戦する構えを見せた。

 危うい。誰もがそう思った。

 

 しかし、駆逐棲姫の刃が春雨に届くことはなかった。

 その寸前で、横合いから飛び掛かった清霜が、駆逐棲姫を殴り飛ばしたからである。

 

「嗚呼アアアァァァァ!」

 

 駆逐棲姫を殴り飛ばした清霜は、まるで獣のように吠えた。

 海面に叩きつけられ、身を起こそうとする駆逐棲姫目掛けて飛び掛かる。

 

 殴る。

 蹴る。

 反撃に出ようとした駆逐棲姫の腕を掴み、その腕に噛みついた。

 

 もはや艦娘の戦い方ではない。

 それは、理性を失った獣の戦い方だった。

 

 駆逐棲姫は噛みついた清霜を振り払うと、至近距離から主砲を撃ち込む。

 

「――清霜ッ!」

 

 康奈が悲痛な声を上げる。

 今のは、どう考えても致命傷だった。

 誰が見ても助からない。そう思わせる一撃だった。

 

 しかし、至近距離から姫級の主砲を喰らっても、清霜は倒れなかった。

 傷はより深くなっている。いつ死んでもおかしくないような深い傷だ。

 しかし、それでも清霜は再び駆逐棲姫に殴り掛かった。まるで自分が負っている傷に気づいていないかのように。

 

「……大淀。あれは、なんなの?」

「分かりません。ですが……あれは、良くないです。いかに信じられないような底力を出したとしても、徒手空拳では――」

 

 清霜の艤装は既に攻撃能力を失っている。主砲は破損し、魚雷もまともに射出できない。

 駆逐棲姫を倒すための決め手がない。驚異的なタフさと身体能力があっても、あれではいつ力尽きてもおかしくない。

 

 磯風が急ぐ。春雨が動く。

 清霜は、暴風のように駆逐棲姫の周囲を飛び回った。通常の艦娘からはまず考えられないような、凄まじい機動力だ。

 

 しかし、清霜がいくら攻めても駆逐棲姫は倒れない。

 掴みかかった清霜の頭を駆逐棲姫が掴み、海面目掛けて叩きつけた。

 艦娘としての力が残っているからか、清霜の身体は沈むことなく跳ねた。

 だが、さすがに限界だったのか――今度は、もう起き上がらなかった。

 

 ……まだ死んではいない。

 

 康奈と清霜の間に霊力のパスが残っている。だが、そこから感じ取れる清霜の力は急速に弱まっていった。

 

 磯風が距離を詰めていく。しかし、それよりも早く、駆逐棲姫が清霜目掛けて魚雷を放った。

 間に合わない。清霜に魚雷が命中する。

 

 康奈と大淀の表情が蒼白になった。

 そのとき、魚雷と清霜の間に割り込み、清霜の身体を抱き締める者がいた。

 

「……春雨!」

 

 清霜を庇うように、春雨は魚雷に背を向ける形で身を固くした。

 

 轟音が響く。

 凄まじい衝撃が、康奈たちのいる母艦まで伝わってきた。

 

 魚雷の破壊力は主砲の比ではない。

 春雨が無事だとは、到底思えなかった。

 

 康奈の身体から力が抜けて、膝から崩れ落ちる。

 

 二人がこれまでに見せてくれた表情が脳裏をよぎる。

 もっと仲良くしておけば良かった。優しくしてあげれば良かった。

 そんな後悔が、一気に心の奥底から噴き出してきた。

 

「……あ、あ。あぁ……う、うぅぅぅ」

 

 言葉が言葉にならず、呻き声としか言いようのないものが康奈の口から零れ落ちる。

 そんな康奈の肩を、大淀が掴んだ。

 

「提督」

「……」

「提督。見てください」

「……なに、を」

「いいから見てください! 春雨たちは――無事です!」

 

 その言葉に康奈は面を上げる。

 視線の先。魚雷が巻き上げた飛沫が消えて、先程までと同じ姿の春雨と清霜が姿を見せた。

 

 そして、そこにもう一人。

 紺色のスカーフを身に着けた神通が、春雨たちを守るように立っていた。

 

 

 

 何度目だろうか。春雨は、また死を予感した。

 死ぬつもりはない。自棄になったわけでもない。ただ、考えるより先に身体が動いていた。

 

 迫りくる魚雷を見て、心身が共に凍り付いた。

 もう、身動き一つ取れない。さすがにこれは助からない。春雨はそういう確信を抱いた。

 

 そのとき、紺色のスカーフが視界に入って来た。

 横須賀第二鎮守府の神通である。

 彼女は春雨の前に立つのと同時に、流れるような動作で魚雷を射出した。

 

 神通の放った魚雷が駆逐棲姫の魚雷と衝突し、凄まじい爆発が生じる。

 鼓膜が破れそうな音がしたが、神通が前に立ってくれているからか、春雨たちのところに衝撃はほとんど来なかった。

 

 魚雷による破壊が収束し、海が静けさを取り戻したとき、神通が口を開いた。

 

「遅くなりました」

「……あ、えっと」

「ここまで持ち堪えた皆さんの戦いに――敬意を」

 

 そう言って、神通は微かに春雨の方を向き、頭を下げた。

 

「漁夫の利をさらう形になってしまい恐縮ですが、後は我々で始末をつけます」

 

 春雨に完全に背を向けて、神通は駆逐棲姫に相対する。

 その後ろ姿から、春雨は何かただならぬものを感じた。

 

 先程の清霜が見せた動きも凄まじかったが、この神通がまとっている雰囲気は、それよりも一段上の何かを感じさせる。

 

 駆逐棲姫も眼前の敵の危険性を感じ取ったのか、表情を険しくして低く構えた。

 

 荒野のガンマンが撃ち合う寸前のような、張り詰めた空気が周囲を覆いつくす。

 

 先に動いたのは神通だった。

 一歩、駆逐棲姫に向かって足を進める。

 

 駆逐棲姫は動かない。

 否――動けなくなっていた。

 

 神通に攻撃するため身体を動かそうとするが、思うように身動きが取れない。

 いつの間にか、身体のあちこちに細い糸がまとわりついていた。

 

「先程、魚雷で周囲の視界が奪われている間に仕掛けさせてもらいました」

「馬鹿ナ……オ前ニ、ソンナ余裕ハナカッタハズダ……!」

「ええ。私には」

 

 神通が右腕を小さく上げると、それに呼応するかのように五つの影が姿を見せた。

 周囲に倒れている艦娘や深海棲艦の影に隠れていたのである。

 皆、紺色のスカーフをつけていた。神通旗下のメンバーである。

 

 五つの影がそれぞれ手にした糸を引っ張ると、駆逐棲姫の身体に糸がきつく食い込んでいった。

 

「人型の利点は、様々な道具を使える汎用性の高さにあります。艤装以外でも、使えるものは何でも使うべき。私はそう思います」

「グッ……ガァッ……!」

「もっとも、その利点も道具を使う手が封じられれば――意味のないものとなりますが」

 

 語りかけながらも、神通は少しずつ駆逐棲姫に近づいていく。

 ゆっくりと、主砲の砲口を駆逐棲姫の心臓部に向けながら。

 

「抜カセ――ッ!」

 

 駆逐棲姫の脚部にある艤装が大きく口を開く。

 搭載された艤装は、駆逐棲姫の両腕がなくとも敵を屠る力を持っていた。

 

 しかし、神通目掛けて砲撃を敢行しようとしたとき、拘束する糸によって駆逐棲姫は身体の向きを逸らされた。

 放たれた砲撃は、神通の脇を逸れていく。

 

「グ……グアアァァァッ!」

 

 自分の置かれた状況を否応なく痛感し、駆逐棲姫は怒りの雄叫びを上げながら、糸を断ち切ろうともがいた。

 しかし、どれほど頑丈なのか、糸はまったく千切れる気配がない。

 

「切れませんよ。我々に捕まった時点で、貴方の命運は尽きていたのです」

「ア、嗚呼アァァァッ!」

 

 駆逐棲姫は、近づいていた神通目掛けて直接牙を突き立てようとする。

 しかし、それよりも先に神通の主砲が火を噴いた。

 

「――貴方の奮戦に、敬意を表します」

 

 ほぼ零距離からの連撃を受けて、駆逐棲姫の身体が大きく震える。

 神通の指示で旗下の五人が糸を緩めると、その身体はゆっくりと崩れ落ち、海の底へと沈んでいった。

 

 

 

 沈む。

 この感覚は覚えのあるものだと、駆逐棲姫は消えゆく意識の中で思い返していた。

 

 自分は、前もこうして戦って沈んだ。

 満足して沈んだ。そのはずだが、どこか引っかかるものがあった。

 

 水面を見る。

 自分を沈めた艦娘は、既に踵を返していた。

 ただ、もう一人視界に入った艦娘は、じっとこちらを見ていた。

 

 どこか覚えのある顔だ。

 あれは、もう一人の自分かもしれない。

 駆逐棲姫は、そんな突拍子もない考えに一人得心した。

 

 その艦娘は、どこか痛ましげに駆逐棲姫を見ていた。

 腕には、別の艦娘を抱きかかえている。

 

 ……嗚呼、そうか。

 

 その艦娘を見て、かつて胸に抱いた想いを思い出した。

 残される仲間のことを、姉妹艦のことを想ったのだ。

 きっと、自分が沈むことで心を痛めるに違いない。そんな想いをさせてしまって申し訳ない。そう、後悔したのだ。

 

 今、駆逐棲姫は沈んでいる。仲間を助けることもできず、生き残ることもできず。

 ただ、自分と同じ顔をしたヤツが、仲間を助け、この先も生きていくのだという確信を得た。

 

 だから、それで納得した。

 

 何もかも上手くいかない自分のような結末もあれば、ああいうIFもあるのだと。

 その可能性を見出せたのであれば、きっと、この救いようのない結末にも意味はあったのだ、と。

 

 叶うならば。

 もし自分が再び浮上することがあれば――あのIFに辿り着きたい。

 

 そんな願いも、やがて深海の闇に飲まれていく。

 ただ、駆逐棲姫にはその闇が不思議と優しいもののように思えた。

 

 

 

 磯風たちが忙しなく負傷者を母艦に運び込んでいく。

 ショートランド泊地のメンバーだけではない。多くの部隊が傷ついた。

 これを放置しておくことはできない。そう言って康奈は負傷者の収容を始めたのだ。

 

 ボロボロになった清霜が、雲龍の手で医務室に運ばれていく。

 酷い怪我だが、まだ生きている。急ぎ艤装を修復すれば、多少はましな状態になるはずだ。

 

 康奈と春雨はそれを並んで見送っていた。

 清霜の姿が見えなくなると、春雨は大きく息を吐いた。

 

「すみません、司令官。私、今回は皆の足を引っ張ってばかりだった気がします」

「そうかしら」

「最初に涼風が負傷したのも、私が未熟だったからです。あれで隊が思うように動けなくなって、被害が大きくなってしまいました。清霜みたいに、果敢に敵に挑んでいけたわけでもないですし……」

「でも、最後まで戦おうとしていたじゃない」

 

 康奈は春雨の頭をポンポンと叩く。

 

「敵に挑むばかりが戦いじゃないわ。最後まで逃げずに踏ん張った。貴方の踏ん張りがあったから、犠牲者がゼロになった」

 

 そう言って、康奈は春雨を力強く抱き締めた。

 

「……ありがとう。皆を守ってくれて。そして何より、無事に帰ってきてくれて」

「――っ」

 

 康奈の抱擁で緊張が解けたのか、春雨は微かに身体を震わせ、泣いた。

 恐怖によるものか、安堵によるものか、それは春雨自身にも分からないだろう、と康奈は思った。

 

 ただ、それがどういうものであれ、今は思い切り泣かせてやりたい。

 そう思う康奈も、自分で気づかないうちに、大粒の涙を零していた。

 

 

 

 戦いを終えた神通は、横須賀第二鎮守府の母艦に戻った。

 隊員一同を先に休ませ、司令室にいる提督のところに向かう。

 

「神通、ただいま帰投しました」

「入れ」

「失礼します」

 

 司令室に入ると、戦局を示すモニターを注視する提督の姿があった。

 

「駆逐棲姫の討伐、完了しました。ただ、単独撃破はできませんでした。あれは、他の各部隊との共同撃破という形になります」

「そうか。まあ、仕方あるまい。なにせお前たちの部隊は戦艦・潜水の部隊を五つも相手にしていたのだ。間に合っただけ上出来だろう」

 

 提督も、おおよその状況はモニターで把握していたようだった。

 作戦中、神通にほとんど指示がなかったのは、そうする必要性を感じなかったからだろう。

 

「総合的な戦果を見れば上々の出来と言える。今回のことは気に病まず、まずは休め」

「……ビアク島の戦況はいかがでしょうか」

「順調だ。うちの長門たちが一番槍だな。北東方面から敵の増援が湧いて出たが、どうやら作戦本部はそれも想定していたらしい。特に慌てる様子もなく、戦力を分けてそれぞれ対処中だ」

 

 そこで、初めて提督は神通の様子をちらりと見た。

 

「……珍しい。お前が負傷するとは。他に負傷者は?」

「いません」

「ますます珍しいな。旗艦だけが怪我をするなど。普通なら旗艦を庇うだろう。そういう調練もしてきたはずだが」

「……私が独断で、駆逐棲姫と交戦中だった艦娘を庇いました。その間、隊のメンバーには駆逐棲姫の動きを封じる準備を」

「……」

 

 神通の報告を聞いて、提督は身体を神通の方に向けた。真正面から神通を見据える。

 

「誰を庇った?」

「ショートランド泊地の駆逐艦・清霜です」

「――出撃前、お前が気になると言っていた艦娘か。そいつに庇うだけの価値があったと?」

「はい。……彼女は、オーバーフローを起こしていました」

 

 神通の言葉に、提督の眼差しが鋭さを増した。

 

「それは、つまりそういうことか?」

「はい。因果関係は不明ですが、そのとき先方の提督が近づいてきていました。もしかすると、提督の方も……」

「……ふん。ショートランド泊地か」

 

 提督は視線をモニターに戻した。

 

「少し興味が出てきた。一度、会っておこうか」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五陣「迷い子たちへの道標」

 横須賀第二鎮守府によって駆逐棲姫が倒されてから半日程で、ビアク島攻略作戦は収束した。

 重軽傷者は多数出たものの、死者はほんの僅か。作戦としては間違いなく大成功と言える結果になった。

 

「――やれやれ。これでようやく安眠できる」

 

 堅物で知られる作戦本部長・三浦剛臣が漏らした呟きに、三笠の司令室の張り詰めた空気が和らいだ。

 

 大成功に終わったと言えど、楽な戦いではなかった。

 前回のAL/MI作戦で痛手を受けたことで、動員できる戦力に制限がかかった。

 組織体系もガラッと変わったので、各拠点の連携についても不安があった。

 加えて、深海棲艦の戦略的・戦術的行動が発達してきているという懸念事項もあった。

 

 そうした諸々の懸案事項を乗り越えての作戦成功である。

 司令塔として本作戦にもっとも深く関わってきた司令室の面々が気を緩めたのも、無理はなかった。

 

「お疲れ様でした、司令官」

「ありがとう、吹雪。これも皆の力があったからだ」

 

 秘書艦である吹雪に礼を告げ、剛臣は自らの頬を両手で叩いた。

 

「さて、戦後処理も気合いを入れていかねばな」

「辛く厳しいのは戦いの真っ最中。ただ、難しいのはその前後だからな」

 

 剛臣の言葉に応じたのは情報部長の毛利仁兵衛である。

 彼は戦いの間もどこか余裕を感じさせる態度を崩さなかったが、その目は常に険しかった。その険しさは、今も解かれていない。

 

「準備を怠れば勝てる相手にも負ける。勝って驕れば次の戦いへの禍となる。深海対策庁にとって最初の作戦、これをどうまとめるかで、今後の舵取りが上手くいくかどうかが変わる」

「ああ。お偉方は景気の良い発表を望んでいるんだろうが、危ない橋を渡る場面が何度もあったことは正確に述べておかねばな」

「そういう部分をきちんと汲み取ってくれると良いんだがね。カエサルは言っていた。『多くの人は見たいと欲する現実しか見ない』と」

 

 AL/MI作戦で被害を出した関係上、現在日本は周辺諸国からの風当たりがきつい状態にある。

 それを和らげるため、今回の作戦成功を殊更に過大に喧伝するのではないか、という懸念があった。

 確かに作戦は成功した。しかしギリギリの成功だ。今回の成果で調子に乗ったら、今度はAL/MI作戦のときの比ではないくらいの損害が出かねない。

 

「大臣は判断力に優れた方だ。愚かな選択はされないだろう」

「そうだといいがな。僕は本質的なところで、お前ほど上を信用することができない」

「そういう見方も大事だと思う。俺には少々難しい」

 

 剛臣は自嘲気味にこぼした。

 

 ……こいつは、こういう奴さ。

 

 仁兵衛は腹立たしげに鼻を鳴らす。

 

 剛臣は優秀な指揮官だった。戦術面だけでなく戦略面においても確かな視野を持っている。

 ただ、上からの命令に忠実であることを求められる環境に長くいたからか、組織の枠の中で物事を考えようとするところがある。上の判断が最初にあって、そこから自分の考えを動かすのだ。

 だから、どこかで上が無体なことをしない、という希望的観測を持っている。

 そういう自分の欠点を把握していながら、直すのを諦めている節があった。

 

「三浦。お前、一年くらい職務を離れて諸国を回りながら見聞を広めてきたらどうだ」

「そんなことができる立場ではないだろう。俺も、お前も」

 

 剛臣の言葉に、仁兵衛は押し黙った。

 深海対策庁に現状余裕はない。中心となって動く作戦本部の人員は、特に代え難い人材ばかりである。

 剛臣にしろ仁兵衛にしろ、今戦線を離れるようなことはできない。

 

「なら、吹雪君。君はどうだ。各地を巡り、多くを学び、政界にでも進出してみないか」

「わ、私ですか?」

「君は横須賀の代表的艦娘として、一般にも名を知られるようになってきている。僕の見たところ頭の回転もなかなか早いし、洞察力も悪くない。前線で戦う以外の道を模索してみるのもありではないかな」

「おいおい。うちの初期艦に変なことを吹き込まないでくれ」

 

 剛臣は苦笑したが、仁兵衛の表情は真剣だった。

 

「僕は至って真面目だぜ。人と艦娘はこれまで以上にいろいろな形で協力していかないといけない。深海棲艦は明らかに学習している。戦略的行動、戦術的行動を明確に取るようになってきた。今回だって最後のアレは……本当に際どいところだっただろう」

 

 仁兵衛が言っているのは、ビアク島の敵本隊と交戦中、北東方面から現れた敵の増援部隊だった。

 こちらの偵察部隊を入念に潰しながら現れた増援部隊は、初めて見る空母クラスの深海棲艦に率いられていた。

 

 空母棲姫をも凌駕する制空能力を保持するその個体は、戦術面においても優秀だった。

 増援を予期していた作戦本部はビアク島攻略部隊を二手に分け、増援部隊の迎撃にあたらせた。

 十分な戦力を投入したが、戦線は荒れた。後一歩で迎撃部隊が突破されるところだったのだ。

 

 一部の艦の命懸けに攻勢によって新型の深海棲艦は撃破され、どうにか迎撃には成功したが――首の皮一枚繋がった勝利だった。

 

「上の言うことに従ってただ戦ってるだけじゃ、いずれジリ貧になる。深海棲艦の進化を理解している者が上に立たないと、戦場を知らない者が後方から口を出しているような状況を変えないと、どうにもならなくなる」

「だから政治にも介入しろというのか。軍人が政治の口を出すのは、それは、いかん」

「軍人として口を出せとは一言も言ってない。何人かの艦娘には、ここを離れて政治家になってもらいたい。深海棲艦と直接干戈を交える艦娘――彼女たちが政局を動かすファクターになる。そういう体制が必要になる」

 

 軍事組織内だけで人と艦娘が協力しても意味はない。

 様々な場面で人と艦娘の協力体制を整える必要がある――仁兵衛が言っているのはそういうことだった。

 

「……私は、司令官の元を離れるということは、考えたことがありませんでした」

 

 吹雪が戸惑いながらも口を開く。

 

「ですが、皆のためにできることがあるなら……いろんな可能性を探ってみたいと、そう思います」

 

 周囲が沈黙に包まれる。

 この場にいる全員が、剛臣の反応を窺っていた。

 

「……将来的にはそういうことも必要になるかもしれない。だが、まだ艦娘は一般の人から十分に理解を得られているとは言い難い。艦娘の人権をどのようにするかということさえ、半ば宙に浮いたままになっている有様だ」

「艦娘が戦場以外で活躍するための土台作りは、僕らの仕事だ。それは、僕らでやるべきだ」

「そうだな。……ああ。やらねばなるまい」

 

 やや心苦しそうに剛臣は頷く。

 命を張って国民を守る。それだけを考えて生きてきたような男である。

 こういう話は自分の領分ではないという思いがあって、どこか竦んでしまうようだった。

 

「毛利は凄いな。いろいろと先のことまで見越している」

「お前だって見えてはいたはずだ、三浦。僕はただ、AL/MI作戦のように上の判断ミスで犠牲が出るのは二度とゴメンだと、そう思っているだけだ」

 

 戦力をAL/MI方面に集中させ過ぎている。もし急襲されればひとたまりもない。

 そういう声は、あの作戦が始まる前から出ていた。しかし、上はその意見を一蹴して作戦を強行した。

 結果、少なくない犠牲が出た。

 

「深海棲艦が進化するというなら、僕らも進化しなければならないのさ。そのためには、あらゆる可能性を模索すべきだ」

 

 

 

 清潔感のある部屋。開かれた窓の外からは、鳥の鳴き声と波の音が聞こえてくる。

 ソロモン諸島から借り受けた母艦の医務室。そこでは、重軽傷を負った者たちが横になっていた。

 清霜も、そのうちの一人である。

 

 既に艤装は分離させて、緊急修復を行っている。

 しかし、艤装が直っても清霜はなかなか回復しなかった。

 普通の人間よりは早いが、艦娘としては明らかに遅い。

 

 艦娘に関する記録の中には、手足が吹っ飛んでも艤装修理後に元に戻った、というものすらある。

 艤装を依代に提督の霊力で受肉した艦娘は、人間とは異なる理を持っている。

 清霜の傷は確かに深いものだったが――本来なら、とっくに直っているはずの傷だった。

 

「……清霜」

 

 病室で横たわる清霜の手を握り締めて、康奈は何度目かの呼びかけを行った。

 三笠の司令室で戦後の報告会が行われている時間だったが、康奈は欠席した。

 今、こんな状態の清霜の元を離れる気になれなかったのである。

 

 代理として大淀を向かわせたので、特に支障はない筈だった。

 

「提督。そろそろお休みになった方が……」

「ありがとう。でも私は大丈夫。二人も、きちんと休んでおきなさい」

 

 気遣うように声をかけてきた春雨と早霜を休ませながら、康奈は今回の戦いを反芻していた。

 もっと上手く立ち回ることができたのではないか。

 経験の浅い清霜たちを起用したのがそもそものミスではないのか。

 自分の指揮はどうだったか。どこでどういう判断をしていれば、より良い成果を出せたのか。

 

 康奈の表情は次第に暗くなっていく。

 考えれば考えるほど、自分の行動が駄目なものだったと思えてしまうのだ。

 

 ただ、自分を責めるような思いとは別に、あれはなんだったのか、という疑念が脳裏から離れなかった。

 駆逐棲姫を前にしたときの、清霜の異常な動き。他の皆にも聞いてみたが、誰もが困惑するばかりで答えを持っていなかった。

 

「失礼します」

 

 どれくらい物思いに耽っていたか分からなくなった頃、扉をノックして看護師が入ってきた。

 見たところ康奈と同じくらいの背格好の女性だった。大分若そうだが、どことなく大人びているようにも見える。

 

「貴方は……?」

「作戦本部の方から来ました。そちらの大淀さんから、清霜さんの容体を聞きまして。念のため診させていただけますか?」

「……はい。分かりました」

 

 何か妙なざわつきを感じながら、康奈は頷いた。

 

 ……思考を中断させられたからかもしれない。

 

 看護師は脈拍を測ったり聴診器を当てたりしていたが、不意にポケットから小さな機器を取り出して清霜の腕に押し当てた。

 何かの医療器具か。そう思って、康奈は何気なく看護師の表情を見る。

 

 ぞくりと、康奈の全身が寒気に震えた。

 

 見る者の背筋を寒からしめるような――ひどく冷たい目をしていた。

 

「……どうかされましたか?」

 

 看護師はぴくりとも動かず、静かに尋ねた。

 その首元には、康奈が武骨なナイフを突きつけている。

 意識してしたことではない。この女は危険だという本能が起こさせた行動である。

 

 康奈はすぐに我に返ったが、ナイフは引っ込めなかった。

 急にナイフを突きつけられても汗一つかかない。そんな看護師が、常人な筈はなかった。

 

「その機械を清霜から離して」

「別段、危険なものではありません」

「いいから、離せって言ってるのよ」

 

 殺気をちらつかせ始めた康奈を前にして、看護師は短い溜息をついた。

 

「――調査にあった通り、激情家だな」

 

 看護師の口調が一変した。

 聞く者を威圧するような、冷たい声音である。

 

「身体能力は高い。艦娘には及ばんが、成人男性数人程度ならあしらえる、といったところか」

「……早く離せ!」

 

 淡々と自分のことを分析する相手に恐怖を覚えたのか、康奈は更に一歩踏み込もうとした。

 しかし、その踏み込もうとした僅かな隙に、看護師は突き付けられたナイフを下から弾き飛ばした。

 康奈が天井に突き刺さるナイフを目にしたのと同時に、看護師はどこからか拳銃を取り出して康奈に突き付けた。

 

「艦娘相手でなければ勝てると思ったか。覚えておくと良い。自分だけが特別だと思わないことだ」

「……っ」

 

 康奈は動くに動けない。

 そんな彼女に銃口を向けながら、看護師は例の機器で何かを計測したようだった。

 表示された計測結果を見て小さく頷くと、機器と拳銃を両方納める。

 

「今のはなに」

「この清霜のルーツを確認するための機器だ。別に害はない」

「ルーツ……?」

 

 康奈の疑問に、看護師は機器の計測結果をもう一度確認しながら答えた。

 

「――この娘のルーツは人間だ。艦娘に作り替えられた人間だよ、この娘は」

 

 

 

「どうだった、清霜の様子は」

 

 食堂で食事をする春雨と早霜のところに、磯風がやって来た。

 先程まで母艦の警護任務についていたが、時津風と交代で休憩に入ったところである。

 

「変わらないわ。回復すると良いんだけど……」

「心配だね」

 

 物憂げな表情を浮かべる二人の正面に座り、磯風も食事をとり始めた。

 

「……早霜。前から聞きたかったのだが、清霜はどのように着任したのだ?」

「え、どう……って?」

「私たちはAL/MI作戦の後に着任した。だが当時はいろいろと混乱があったから、それぞれがどういう形で着任したのかが今一つ分からなかった。……清霜は少し妙なところがあるから、出自と何か関係があるのかと思ってな」

 

 艦娘がこの世の現れるためには、提督としての資質を持つ者が、依代となる艤装を通じて軍艦の御魂と契約を結ぶ必要がある。御魂と契約するためには、その艦艇に対応した艤装が必要だった。

 艤装は人工的に――妖精という超常的な存在の力を借りてだが――建造することができる。ただ、ゼロからは作り出せないタイプの艤装もある。

 

 そういう艤装を用意するための方法は大きく分けて二つある。

 

 一つは、元になった艦艇に縁のあるものを素材として艤装を作る方法。

 こちらは成功率が低い上に、縁あるものを用意するのが大変なので、数を揃えられないという欠点がある。

 磯風や春雨は、この方法で艤装を用意し、康奈と契約した。

 

 もう一つは、深海棲艦の残した艤装を浄化して艤装にする方法である。

 深海棲艦の艤装は妖精の力を借りて浄化すると、艦娘用の艤装として使えるようになる。

 ただ、どの艦艇に対応した艤装なのかは浄化してみるまで分からない。

 そのため、目当ての艦艇の艦娘と契約できる可能性は非常に低い。

 

「私は、早霜と清霜は深海棲艦の艤装がベースになっていると思っていた。だが、清霜に関しては少し違和感もあった。どういう形で艤装を用意するにしても、提督と艦娘の契約形態はすべて同じだ。特に差異はない。……だが、あいつの場合私たちとは明らかに違うところがある。怪我の治りにしろ、さっきの戦いようにしろ、通常の艦娘とは明らかに違う。契約形態そのものが、何か違っているのではないか」

 

 磯風の疑問に、早霜は困ったような表情を浮かべた。

 

「……ごめんなさい。実のところ、私もそこまで詳しくは知らないの。清霜はAL海域攻略中に拾ったって龍驤さんが言ってたけど、清霜自身、そのときのことは覚えてないみたいで。私は、MI海域にいた深海棲艦の艤装がベースらしいけど……」

「そうか。……いや、すまん。不躾な質問だった」

 

 頭を下げる磯風に、早霜は「いいの」と言って笑った。

 

「清霜の出自がどういうものであれ……艦娘としての今のあの子は、私の大事な妹だから。それで私は、満足してる」

 

 早霜の言葉に、磯風と春雨は揃って穏やかな笑みを浮かべた。

 

 

 

 看護師の宣告に、康奈の脳裏は真っ白になった。

 

 上田の娘の話を――艦娘を作り出そうという計画の話を思い出す。

 人を艦娘に作り替える、艦娘人造計画。

 記憶こそ残っていないが、他ならぬ康奈自身、その計画の被験者だった。

 

 先代は康奈の事情をある程度知っているようだったが、その話題に触れるのを露骨に避けていた。

 人が人を作り替える。それを、忌避すべき話だと思っていたのだろう。

 だから、康奈はそれが何か良くないことだと理解していた。ただ、実感は伴わなかった。

 

 しかし、こうして目の前にいる清霜が――康奈にとっての家族の一人が、そうやって作り替えられたものだと聞かされると、胸の内からふつふつと沸き立つものがあった。

 清霜は、誰かの手によって歪められてここに来た。その結果、こうして酷い傷を負っている。

 

 本当は、どこかで平穏な日々を過ごしていたのかもしれない。

 温かい家庭の中で、幸せな日常を過ごしていたのかもしれない。

 

 だが、彼女は今戦火の中に放り込まれて、深い傷を負っている。

 

 ……そんなの、理不尽じゃない。

 

 だからこそ、それが事実だと容易に認めたくないという思いが働いた。

 

「なんで、そんなことが分かるの」

「これは霊力計測値だ。霊力で受肉している艦娘と人間ベースの艦娘では内包している霊力の量が全然違う。それで判別がつく」

 

 看護師は機器のディスプレイを康奈に見せた。

 中心部に標準と記載されたラインがある。そして、現在表示されている計測結果はその遥か下だった。

 

「人間ベースの方は受肉に霊力を割く必要がないから、少なくて済む。この娘の傷の治りが遅いのも、それが理由だ。外付けされた艦娘としての力で自己治癒能力は強化されているが、元々は普通の肉体だ。治る速さには限度がある。霊力で受肉している艦娘は多くの霊力を必要とするが、生身ではない分、無茶な傷でもあっさり治る」

 

 機器の数値が変動する。

 標準のラインを一気に越えて、上限いっぱいまで上昇する。

 やがて画面が点滅し、大きくエラーを表す文字が表示された。

 

「貴様の方は測定不能か。天然ものだとすれば恐ろしい限りだが、先程の身体能力と併せて考えると、貴様も艦娘人造計画の被験者だったのだろう? であれば、実験の過程で無理矢理引き上げられたタイプだろうな。これだけ高いと常時オーバーフローを引き起こすから、艦娘としては使い物にならんだろうが」

「オーバーフロー?」

「人間ベースの艦娘は、元になった人間のキャパシティを超える霊力を扱うことができない。超えるような霊力を無理矢理注ぎ込まれると、霊力が溢れ出てオーバーフローを引き起こす。貴様も見ただろう、この娘が暴走する様を」

 

 先の駆逐棲姫戦を思い出す。

 常識では考えられないような清霜の動き。

 正気を失い獣のように敵へ躍りかかる様は、暴走としか言いようがなかった。

 

「オーバーフローはしばしば想定外の事象を引き起こす。使いようはあるが不安定でリスクが大きい。まともな奴は使うのを避けるバグ技と言える」

「……貴方は、艦娘人造計画の関係者?」

 

 ゆっくりと、清霜と看護師の間に割って入るように移動する。

 もしこの看護師が艦娘人造計画の関係者なら、清霜を奪おうとしている可能性があった。

 それは、康奈にとって看過できる話ではない。ルーツがなんであれ、今の清霜は康奈にとって身内の一人だからだ。

 

 看護師は束ねていた髪を下ろした。長い黒髪が広がる様は、どこか薄暗い森の情景を思わせる。

 内心を見透かすかのような眼差しで、彼女はじっと康奈のことを見据えた。

 

「安心しろ。私は神通の報告を受けて、貴様とその清霜のことが気になっただけだ。貴様たちをどうこうするつもりはない」

「神通? それって……」

 

 この作戦において、康奈の印象に残っている神通は一人しかいない。

 紺色のスカーフを身に着け、駆逐棲姫をいとも容易く屠った艦娘。

 

「私は横須賀第二鎮守府の提督、長尾智美。――艦娘人造計画の元・被験者だから、関係者と言えば関係者だ」

 

 堂々とした口ぶりで名乗ると、智美はやや皮肉めいた笑みを浮かべながら付け足した。

 

「つまるところ貴様の同類だ。ショートランド泊地提督、北条康奈」

 

 

 

 目の前には鏡が一つ。

 そこに映し出されている自分の姿を見て、清霜は違和感を覚えた。

 

 ここがどこなのかは分からない。

 自分が何をしていたのかも覚えていない。

 一つ確かなのは、目の前の自分の姿をしたものは、自分であって自分ではない何かだということだ。

 

「貴方は誰?」

「私は清霜。駆逐艦・清霜だよ」

「それは、私だよ」

 

 鏡の中の清霜は頭を振る。

 

「駆逐艦・清霜は私だよ。貴方は違う。……貴方は誰?」

 

 逆に聞き返されて、清霜は言葉に詰まった。

 はっきりと『お前は清霜ではない』と言われると、それを否定できない。

 自分が誰なのか、よく分からなくなる。

 

「貴方は私。私は貴方。私たちは二人揃って、初めて駆逐艦の艦娘・清霜になる」

「……艦娘・清霜……」

「艦娘としての私は、私と貴方でできている。私はかつて存在した駆逐艦・清霜の御魂――そこから分かれた分霊。それなら貴方は? 私と一緒に艦娘・清霜を作っている貴方は誰?」

「わ、分からないよ」

 

 自らの顔に触れてみる。

 しかし――そこには何もなかった。

 あるべき頬も、唇も、鼻も、何もない。

 のっぺらぼう。顔のない少女。鏡の前に立っているのは、そんな子どもだった。

 

 鏡の中の清霜が悲しそうな表情を浮かべる。

 

「貴方は忘れてしまったんだね。……ごめんね、意地悪なことを聞いちゃったかもしれない」

「……」

「いつか、思い出したら教えてくれるかな」

「思い出せるのかな」

「多分、思い出せるよ」

 

 鏡の中の少女が笑う。

 悪意も根拠もない、子どもらしい笑みだ。

 

「さっき、貴方の声が聞こえた気がしたんだ。何かを為し遂げたいって、そういう強い意志のこもった声が。私には私の後悔がある。艦娘としてやり直したい夢がある。でも、私たちは二人で一つだから、貴方の夢があるならそれも一緒に叶えたい。そう思ってるんだ」

「――夢。私の、夢……」

「うん。……嗚呼、もう時間みたい」

 

 周囲に靄がかかっていく。

 鏡が、そこに映る少女の姿が薄らいでいく。

 

「ま、待って。私は……」

「大丈夫。私たちはいつも一緒だから。それに、司令官や皆もいる。貴方が誰であっても、貴方は一人じゃない。そのことは、忘れないで欲しいな」

 

 鏡に向かって手を伸ばす。

 そこで、顔なしの少女の意識は途絶えた。

 

 

 

 もぞもぞと動く気配がした。ベッドの中の清霜が身動ぎしている。

 康奈と相対していた智美は、身体の力を抜いた。

 

「病人のいるところで騒ぐべきではなかったな」

「……そっちが妙なことをするのが悪いのでは?」

「貴様がどういう立場にいるのか分からなかったのでな。できればこちらの正体を隠したまま確認だけしたかったのだ」

 

 智美は康奈を睥睨すると、少しばかり落胆した様子で息を吐いた。

 

「貴様は艦娘人造計画について、ほとんど何も知らないようだな。いや、覚えていないのか。……記憶障害は計画の初期段階でよく起きていたという。それならば仕方のないことではあるが」

「その口振りだと、貴方は覚えている、と?」

「そうだな。幸か不幸か、すべて覚えている」

 

 そう口にしたとき、智美の双眸に暗い炎が宿った。

 単なる怒りではない。もっと深い怨嗟の念である。

 

「すべて忘れているというのは些か期待外れではあるが、大本営の犬というわけでもなさそうだ。艦娘一人守るために、大本営関係者と思われる相手へ切りかかるくらいだからな」

「……何が言いたいの?」

 

 痛いところを突かれて、康奈は苛立ちを込めながら問いを投げる。

 

「私には夢がある。この戦いのきっかけとなった深海棲艦どもを駆逐すること。そして、艦娘人造計画に携わった連中への復讐だ。……それを果たすため、私はもっと上に行かなければならない」

 

 智美は、康奈に向けて静かに手を差し出した。

 その手に拳銃は握られていない。ただ、手を差し出しただけだ。

 

「――私に手を貸せ、北条康奈。私たちの人生を狂わせたものに、復讐を果たす」

 

 

 

 清霜が目を覚ますと、そこには康奈がいた。

 他に人の気配はない。病室内はいたって静かだった。

 

「……しれい、かん?」

「起きたのね、清霜」

 

 清霜は身体を起こそうとするが、激しい痛みに襲われて、上手く起き上がることができない。

 そんな清霜をそっと抑えながら、康奈は優しい表情を浮かべた。

 

「無事で良かった。皆、心配していたのよ。もうあまり無茶はしないで」

「……司令官。私は、誰なのかな」

 

 不意に、清霜はそんな疑問を口にした。

 なぜそんなことを言ったのか、清霜自身にもよく分からなかった。

 ただ、妙に心細かった。自分が本当の自分ではないような気がして、世界に一人ぼっちなのではないか、という不安に駆られた。

 

 康奈は少し驚いたようだったが、清霜の手をしっかりと握り締めて応えた。

 

「清霜は清霜よ。うちの、ショートランドの清霜。私にとっては家族同然の子。今は、その答えで満足できない?」

「……ううん。ありがとう、司令官」

 

 礼を述べる清霜の目から、細い涙が流れ落ちる。

 清霜自身はそれに気づいていないようだった。

 

「でも、今じゃなくていいから……私は私が誰なのか、知りたいな。ううん。知らなきゃダメな気がする」

「――そっか。それなら、私も一緒に探してあげる」

 

 康奈はいたずらっぽく笑って、人差し指を自身の口元にあてた。

 

「ここだけの話、私も自分が何なのかよく分かってないの。……だから、一緒に探しましょう」

「司令官も?」

「ええ。でも他の皆には内緒よ。心配かけたくないから」

「……うん。分かった」

 

 指切りを交わして、二人は笑い合う。

 

 そこに、会議終わりの大淀がやって来た。

 意識が戻った清霜に驚いて、康奈への挨拶もそこそこに、他の皆に知らせると言って駆け出していく。

 

 そんな大淀の姿を見て、ようやく二人は戦いが終わったことを実感したのだった。

 

 

 

 太平洋の片隅にある無人の島。

 そこに小さな洞窟があった。長い年月の中で自然と作られたその場所に、影が二つ。

 人によく似た形をしているが、いずれも異形である。

 

『ビアク島は結局人間どもの手に落ちたようだ』

 

 どこかと交信していた片方の影が、忌々しげに告げた。

 その姿は、人間が戦艦棲姫と名付けた深海棲艦に酷似している。ただ、戦艦棲姫より更に一回り大きな艤装を背にしている。

 

『別にいいじゃないか。あそこは戦略上さほど重要な場所ではないし』

 

 もう片方の影は小柄だった。

 ただ、身に纏う気配は相対する大きな影以上に禍々しい。

 

『救援に向かった彼女は?』

『消息を絶った。もしかするとやられたのかもしれん』

『どうかな。彼女は気まぐれだし、戦に飽いていた気配もあったからねえ。これ幸いと雲隠れしたのかもしれない』

『……否定はできんが』

 

 大柄な影が苛立たしげに息を吐く。

 

『しかし、この短期間に持ち直すか。人間は個としては脆弱だが、組織としては強靭だな。我らとは正反対だ』

『けど、組織を強靭たらしめているのは極一部の人間だ。そこさえ排除できればどうにかなる』

『なぜそう言い切れる?』

『私の目は、この二つだけじゃない。そういうことだよ』

 

 真っ赤な双眸をギラリと光らせながら、小柄な影はクスクスと笑った。

 

『ならば優秀な目を持つ貴様に問おうか。……狙うべきは、どこだ?』

『……そうだねえ』

 

 人間の拠点の配置を思い描き、やがて結論を出す。

 

『私なら――』

 

 ビアク島攻略――渾作戦は終わった。

 しかし、各々は既に次を見据えて動きつつあった――。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章「失われた過去から始まる道」(トラック泊地編)
第六陣「ある男の記録」


 薄暗い空の下、一隻の船が横須賀から出航しようとしていた。

 トラック泊地の母船である。甲板には泊地を預かる毛利仁兵衛の姿があった。

 

 仁兵衛は埠頭にやって来た男をじっと見ていた。

 

「なんだ三浦、見送りに来たのか」

 

 埠頭の男――横須賀鎮守府提督の三浦武臣は、仁兵衛にまっすぐな視線を向けた。

 深海棲艦に立ち向かう国民的英雄は、マスコミの前では決して見せないような険しい表情を浮かべている。

 

「やはりトラック泊地へ戻るのか」

「僕の本拠地はあそこだ。いろいろと便利だが、ここは息が詰まる」

「お前に抜けられるといろいろと困るのだ。俺は、どうも交渉事が上手くない」

「なら上手くなれ。僕だって最初から上手かったわけじゃない。こちとら元々はただの作家だぞ」

 

 毛利仁兵衛は、今でこそ提督として艦娘を率いる立場にあるが、元々は歴史作家だった。

 誰かを指揮して戦うような立場にいたわけでもないし、この界隈にコネがあるわけでもない。

 提督になるまで仁兵衛が経験した交渉など、出版社を相手にしたものくらいである。

 

「トラック泊地の防衛も重要だ。あそこは本土と南方拠点を繋ぐ要所だからな。落ちたらまずいことになる」

「だからこそ懸念している。敵がトラック泊地に攻め寄せてお前に万一のことがあれば、深海対策庁としては大きな痛手だ」

 

 仁兵衛はもはやトラック泊地の提督というだけの身分ではない。

 深海対策庁作戦本部の情報部長――日本の対深海棲艦組織の最重要人物の一人である。

 智勇兼備の三浦、日ノ本の盾浮田、兵站の鍋島等、作戦本部に選出された提督たちは皆優れた能力を持っている。

 仁兵衛は特にその知恵を高く評価されていた。深海棲艦の動向を読んで戦略・戦術を練る際は仁兵衛が中心になる。無論他の提督も十分な知恵を持っているが、仁兵衛のそれは頭一つ抜きん出ていた。

 仁兵衛に何かあれば大きな痛手になる、というのは剛臣の大袈裟な評価ではない。

 

「だから安全な内地に引きこもっていろと? それこそ危険な判断だ。僕以外にあの要所を任せられると思うのか、お前は」

「……お前の弟子はどうなんだ」

「元景か。あいつは優秀だよ。真っ直ぐな気性の持ち主だが、読みの力にも長けている。日々の精進も怠らない逸材だ。ただ若い。まだあと二~三年は学ばせておきたい」

 

 弟子の自慢をしつつ、仁兵衛は話を打ち切るかのように大きく頭を振った。

 

「気を付けるべきはお前だよ、三浦。今やお前は救国の英雄だ。お前に何かあれば、この国は深い傷を負うことになる。ある意味総理大臣より死んではいけない男さ、お前は」

「俺は――」

「お前がどう思おうと関係ない。周囲がお前をそう見ているんだ。だから三浦よ。こんな夜更けの港に単身来るような阿呆な真似は二度とするんじゃあないぜ。どこに行く際も護衛を必ずつけろ。それはお前の義務だ」

 

 そのとき、剛臣の名を呼ぶ声が近くから聞こえてきた。

 どうやら横須賀の艦娘たちが剛臣を探しに来たらしい。

 

 トラックの朝潮が、仁兵衛の元に船の出港準備ができたことを告げに来た。

 仁兵衛は軽く頷くと、剛臣に視線を向けた。

 

「じゃあな、三浦。昨年はバタバタしていたから、今年は本拠地でゆっくりと年を越させてもらう。良い年を」

「良い年を。……くどいようだが、気を付けろよ」

「ああ。お互いにな」

 

 仁兵衛たちを乗せた船が動き出す。

 その音を聞きつけて、横須賀の艦娘たちが集まってきた。

 

 剛臣や横須賀の艦娘に見送られながら、仁兵衛は傍らの朝潮にぼやいた。

 

「まったく、あいつは隙だらけで困る。僕が敵の指揮官なら、多少強引な手を使ってでもまず横須賀を落とすところだよ」

「司令官も、あまり人のことは言えないと思います」

 

 少し呆れたような表情で告げる朝潮に、仁兵衛は困った表情を浮かべて頭をかいた。

 

「……君は、もう少し隙を作った方が男にモテると思うぞ?」

「セクハラで訴えますよ」

「すみません」

 

 物凄い速さで謝る仁兵衛に、朝潮は思わず吹き出す。

 二〇一四年の暮れのことだった。

 

 

 

 二〇一五年になってからしばらく経った頃。

 康奈は清霜たちを伴って、ソロモン諸島の首都・ホニアラ市を訪れていた。

 日頃の協力への御礼も兼ねた、少し遅めの年賀の挨拶回りである。

 

「やっぱり、こういうのは苦手だわ……」

 

 政府高官との会合を終えた康奈は、市内を歩きながら思わずぼやいた。

 康奈がまだ子どもだということもあってか、要人たちは皆ある種奇異の視線を向けてくる。

 理屈では康奈が提督になった理由を理解していても、実際目の前にするとどうにも妙な風に映るらしい。

 

 中には、パイプを作ろうと「うちの息子を紹介しようか」などと言ってくる者もいた。

 もっとも、そういう提案はすべて大淀がやんわりと拒否していたが。

 

「提督に悪い虫を近づけさせるわけにはいきませんから」

「大淀、最近少し先生みたいになってきたわね……」

「光栄です」

「今のは褒めたわけじゃない」

 

 ドヤ顔で眼鏡を光らせる大淀に、康奈は笑ってそう言った。

 

「悪い虫ってなあに、司令官?」

 

 と、前方を歩いていた清霜が不思議そうに尋ねてきた。

 渾作戦の後遺症は残っておらず、今はすっかり元気になっている。

 ただ、以前よりも康奈と一緒にいることが多くなった。

 

「大淀が私と仲良くして欲しくないって思う相手……だと思うけど」

「そうなんだ。皆仲良くできればいいのにね」

「清霜、世の中には悪い人がいっぱいいるの。そういう人に騙されないよう注意しなければいけないのよ」

「そうなんだ。大淀さんが言うなら、そうなのかな」

「大淀の言うことが絶対だと思わない方が良いわよ、清霜」

「んー?」

 

 康奈と大淀の言葉を反芻し、清霜は首を傾げた。

 大淀の言うことを信じるべきかどうか、必死に頭を働かせているらしい。

 

 それからすぐに、一行はホニアラ市内にある日本大使館へと辿り着いた。

 大使はショートランド泊地や本国と連携して動くため、康奈たちにとっても重要な場所である。

 康奈もここへは何度も来たことがあった。

 

 だが、この日はこれまで訪ねたときと少し様子が違っていた。

 いつもは受付の人が出迎えてくれるのだが、今回そこにいたのは受付の人とは思えない風貌の人物だった。

 顔中を包帯でぐるぐる巻きにしている。まるでミイラのような人物だった。

 

「……み、ミイラ男……!?」

「敵かっ……!」

 

 清霜と並んで前方に立っていた春雨が少し怯えたような声を上げた。

 後方にいた磯風も、思わず康奈の前に出た。警戒心丸出しである。

 

「どーも。大使館へようこそ」

 

 しかし、緊張感を高める康奈一行に対し、そのミイラ男は気さくな様子で話しかけてきた。

 ひらひらと手を振ってくる緩い様子に、磯風たちもどう反応すべきか戸惑いを見せる。

 

「あの、貴方は?」

「自分か。自分は――いや、それに答えるために一つ質問させてくれないか。そちらはショートランド泊地の提督さん?」

「……ええ、そうだけど」

 

 警戒しながら答えると、男は得心したように頷くと、席から立ち上がって一礼した。

 

「自分は、以前そちらさんに助けられた男だ。……と、長崎さんから聞いている」

「あ、司令官。この人あのときの人だよ、多分」

 

 と、清霜が何かに気づいたようにパッと顔を輝かせた。

 両者の反応を見て、康奈もようやく思い出した。

 渾作戦前、ソロモン政府と交渉するためホニアラ市に来る途中、正体不明の船を深海棲艦から救った。

 その船には、大火傷を負った男が一人乗っていたはずだ。

 

「そう、あのときの」

「ああ。こうして自分が生きていられるのはそちらさんのおかげというわけだ。感謝感激ってやつだな」

 

 あまり感謝感激しているように見えない口振りだったが、少なくともこちらへの害意は感じない。

 どうも飄々としていて腹の内が読めない感じはしたが、ここに来た目的はこの男と問答することではなかった。

 

「長崎さんはいますか?」

「ああ、奥の部屋にいる。ちょっと待っててくれ」

 

 男はゆったりとした動きで奥へと引っ込んでいった。

 全身が包帯だらけで、本当にミイラ男としか言いようのない風体である。

 

「大淀さん、あの人は悪い虫なの?」

「……ええっと。ちょっとよく分からないわね……」

 

 清霜の何気ない問いかけに、大淀も困惑の声を上げるしかなかった。

 

 

 

「いや、驚かせたようで申し訳ありません」

 

 部屋に招き入れられた康奈たちに、日本大使である長崎は頭を下げた。

 

「最近はときどき大使館の仕事を手伝ってもらうようにしているのですよ」

「結局、あれからずっとこちらで身柄を預かっているのですか?」

 

 以前助け出したとき、ミイラ男は意識不明の重体だった。

 素性も何も分からなかったので、市の病院に入院させつつ、身柄は一旦長崎に預けていたのである。

 

「彼の素性は未だ不明ですが、どうも日本人ではないかと思われる節がありますので。ソロモン政府とも協議しましたが、こちらで預かることにしたのです」

「未だ不明……ですか?」

 

 ちらりと横で待機しているミイラ男に視線を向ける。

 本人の意識が戻ったなら聞けば良いのではないか、と康奈は疑問を抱いた。

 

「自分はここに来る前のことを何も覚えてないんだ」

 

 康奈の疑念を察したのか、ミイラ男は肩を竦めて見せた。

 

「医者にも見せましたが、虚言の類ではないだろうとのことでした。日本語や英語に関する知識、一般常識は持ち合わせているものの、自分自身のパーソナルな情報が欠損しているようなのです」

「そういうわけで、自分はここで居候の身になっている。働かざるもの食うべからずということで、長崎の旦那にはこき使われているってわけだ」

「……彼はとても頭が良いのです。いろいろと助けられていますよ。サボり癖さえなければもっと嬉しいのですが」

 

 長崎の含みのある言い方に、ミイラ男は明後日の方向へ視線を逸らした。

 否定しないあたり、サボりがちなのは事実らしい。

 

「おっと、こちらの話ばかりで申し訳ありません。泊地の近況はいかがでしょうか」

「深海棲艦との小競り合いはありますが、基本的には平和なものです。渾作戦以降、あまり敵も活発な動きを見せていませんし」

「AL/MI方面は深海棲艦に奪取されてしまったと聞いていますが、そちらは問題ないのでしょうか」

「トラック泊地を中心に防衛ラインを構築中です。元々あの辺りまで維持するのは無理がありましたし、構築した防衛ラインを堅守する方針で問題ないと思います」

 

 康奈と長崎大使が戦略について話をし始めると、ミイラ男は欠伸をしながら清霜たちの方にやって来た。

 

「年賀の挨拶というのは随分と物騒な話をするものだな。どうだ、暇なら自分と軽く遊ばないか?」

「ナンパならもう少し上手くやることだ」

「いやいや、自分は子どもには手を出さんさ。そちらのお二人さんならお誘いしたいところだがね」

 

 牽制してきた磯風に釈明しながら、大淀と雲龍に向かって笑いかける。

 もっとも、包帯だらけのせいでその笑みは若干恐ろし気なものになってしまっていた。

 

「謹んでお断りします」

「よく分からないけど、右に同じ」

「残念。けど、あんたらもこうして待ってるだけだと退屈だろう。こういうのはどうかな?」

 

 そう言って、ミイラ男はお手製のものと思われる木製の独楽を取り出した。

 その出来栄えに、早霜が感心したような表情を浮かべる。

 

「あら、上手ね」

「お褒めにあずかり光栄だ。ここの仕事はどうにも面白くなくてな。こんなものを作ったり、あれこれ調べ物をするくらいしか楽しみがない」

 

 ミイラ男はそう言いながら、独楽以外に人形やネックレスのようなものを取り出した。

 いずれも素材が悪くあまり見栄えのするものではなかったが、加工技術に関しては確かなものを感じさせた。

 

 清霜や春雨たちは興味深そうに渡された小物を見つめている。

 磯風も少し距離を置きつつ、その様子を眺めていた。

 

「凄いねえ。おじさんってもしかして、職人さんだったのかな」

「どうだろうな。他にすることがないから手を出したってだけで、そこまで思い入れがあるわけではないが」

 

 時津風に言われて、ミイラ男は頭をかいた。

 

「退屈させているようで申し訳ないね」

 

 と、康奈との会話が一段落ついたのか、長崎大使がいつの間にかミイラ男の背後に立っていた。

 

「あら、もう終わったのか。若いレディとの会話、もう少し楽しんだらどうだ?」

「待たせてる子たちもいるのに長話はできないだろう。……皆さんもすまないね、変な男だと思うが気にしないでくれ。悪い人間ではないんだ」

「ハッハッハ」

 

 何がおかしいのか、ミイラ男は長崎大使の肩を叩きながら大きく笑った。

 しかし、次の瞬間嘘のようにトーンを低くし、

 

「――近々、大きな戦が起きるかもしれない」

 

 と告げた。

 その双眸は、何かを見通しているかのような凄味を宿している。

 先程までとの変わりように、部屋の空気が静まり返った。

 

「……どういうことですか?」

「現在日本は周辺諸国の協力も得て、着実に防衛ラインを強化しつつある。南はかなり固まったし西も最近じゃ優勢だ。北はちと怪しいが、あちらは元々さほど深海棲艦の動きが活発じゃなかった。問題は東。太平洋側だ」

 

 男は長崎大使の机に飾ってあった地球儀を回して、日本の東に広がる大海原を指し示した。

 

「こっちは陸地が少なく小さな島が点在するのみで、拠点を置きにくく防衛ラインの維持が他の三方面よりも難しい。深海棲艦が戦略を理解しているなら、こっちの方から何か仕掛けてくるはずだ」

「……つまり、近いうちに敵が仕掛けてくるってこと?」

 

 清霜が問いかけると、ミイラ男は肩を竦めた。

 

「多分な。これまでの戦闘について自分なりに少し調べさせてもらったが――深海棲艦側はまとまった軍勢を整えるのにおよそ三ヵ月から四ヵ月程度の時間を要している。逆にそれ以上の期間を空けるケースはほとんどない。なら、そろそろ仕掛け時だろうってわけだ。会話を少し聞いた感じだと、そういう警戒をあまりしてないように聞こえたんでな。お節介かもしれないが忠告させてもらった」

「……彼、頭は回るのです」

 

 困ったように長崎大使が言った。

 地球儀をくるくる回すミイラ男をじっと見て、康奈は長崎大使に一つ提案をしたくなった。

 

「長崎さん。この人、うちのスタッフとして雇うのはありでしょうか」

「え? ああ、本人が良いと言うなら私としては構いませんが……」

「だそうだけど、貴方は?」

 

 康奈に問われて、ミイラ男は露骨に面倒そうな顔を浮かべた。

 

「自分、退屈は苦手だと言ったが、面倒はそれ以上に嫌いでな……」

「うちで貴方の頭をフル回転させれば、未然に防げる面倒があると思うけど」

「……さっきの忠告だって、当てずっぽうだ。恩人相手に誠実であるべきだと思い、口にはしたが」

「誠実にそういうことを言える人だと言うなら、尚更欲しい人材ね」

 

 素性は怪しいが、康奈は頼れるスタッフが欲しかった。

 先日の戦いでも痛感したが、自分一人ではやれることに限界がある。

 多くの優秀な人材を揃えなければならない。艦娘たちも日々成長しているが、彼女たちを支える立ち位置のスタッフもなるべく多い方が良かった。

 

 引くつもりのない康奈の姿勢を察したのか、ミイラ男は肩を落とした。

 

「分かった。ただしあまりアテにはしないでくれ。自分は、自分にあまり自信を持っているわけではない」

「貴方がアテになるかどうかは私が責任を持って判断するから、そこは貴方が気にする必要はないわ」

 

 と、そこで康奈は一つ大事なことを失念していたことに気づいた。

 

「ところで貴方の名前は?」

「名前も覚えてない。今は長崎の旦那がつけてくれた名前を使ってるけどな」

「その名前は?」

「新十郎。自分にはよく分からんが――長崎の旦那にとっては、由来のある名前らしい」

 

 

 

「本当に良かったのですか、提督」

 

 船上で航路を確認していると、不安そうな表情を浮かべた大淀が声をかけてきた。

 

「記憶喪失で素性も知れない人を雇うのは、どうも危険な気がします」

「素性が分かっている人なら安全とも言い切れないでしょ。もし駄目だと思ったら、そのときは解雇すれば良い」

 

 話題の主である新十郎は、現在船室で休んでいるはずだった。

 今のところ怪しい様子はない。むしろ、何かをする気はないのかと言いたくなるくらい無気力だった。

 

 ……記憶喪失の素性不明がアウトなら私も駄目だと思うけど。

 

 一瞬そんな考えが康奈の脳裏に浮かんだが、口にすると大淀をへこませてしまいそうなのでやめておくことにした。

 

 船の前方には清霜と磯風が並んで警戒に当たっている。

 清霜の背中を見ながら、康奈は過日のことを思い出していた。

 

 あの日、横須賀第二鎮守府の長尾智美から「共に艦娘人造計画の関係者に復讐を果たそう」と誘われたとき、康奈は答えを保留した。

 自分としては何も覚えていないし、急にそんなことを言われても答えようがない。

 そう告げると、智美は意外にもあっさりと「それはそうだ」と康奈の言い分を認めた。

 

『しかし、いつまでも知らぬ存ぜぬというままで良いとは貴様も思っていないだろう。特に私たちは、連中が思っていたのとは少し違う形で世に出始めている。いつ向こうから手を出してくるか分からない。そういうときに備えて貴様は知っておくべきだ。己の出自をな』

 

 現在康奈が向かっているのはトラック泊地だった。

 毛利仁兵衛。康奈をショートランド泊地へと誘った男。彼なら、康奈の出自について何か知っているかもしれなかった。

 

 ……それに、清霜のこともある。

 

 泊地に戻った後、康奈は清霜を最初に発見した龍驤から話を聞きだしていた。

 清霜をAL方面のどこで見つけたのか。どのような遭遇を果たしたのか。

 

 康奈は、可能ならトラック泊地からそのままAL方面にも足を延ばしたいと考えていた。

 もっとも、AL方面は既に深海棲艦に制海権を奪取されている。行くのは容易ではなかった。

 

「司令官」

 

 物思いに耽っていると、清霜と磯風が心配そうにこちらを見ていた。

 

「どうした、考え事か?」

「あんまり難しいことばかり考えてると眉間にしわが増えるって、足柄さんが言ってたよ」

「……そう?」

 

 素直に眉間へ手を当てた康奈に、大淀が思わず吹き出た。

 気恥ずかしさを覚えた康奈は「これ以上しわが増えないよう少し休む」と告げ、自室に戻ることにした。

 

 ……そういえば、最近は飲まなくなったわね。

 

 自室に戻って横になりながら、康奈はふと、最近は精神安定剤を服用していないということに気づいた。

 少しずつ自分に変化が訪れているのかもしれないと、康奈は錠剤の入った瓶を手に取った。

 前は早く飲んで楽になりたかったが、今はそういう気持ちは湧いてこない。

 

 ……先生のことも、前程は思い出さなくなってきたな。

 

 自分の成長を感じながらも、少しそのことに寂しさを覚えた。

 

 だが、過去を寂しく振り返っている場合ではない。

 家族同然の泊地の仲間を守れるよう、今よりも強くならねばならない。

 

 ……そのためにも、私の、そして清霜のルーツを知りたい。

 

 どこから来てどこへ行くのか。それが分からなければ、進む道を間違えてしまう。

 瓶を引き出しに戻しながら、康奈は気を引き締め直すのだった。

 

 

 

「司令官、また執筆ですか」

 

 ノックして執務室に入ってきた朝潮は、開口一番呆れたようにそう言った。

 手には片付けなければならない書類が沢山ある。

 

「今良いところなんだ。……そうだ、元景。代わりにやっておいてくれないか」

「先生、またですか」

 

 仁兵衛の言葉に苦い表情を浮かべたのは、仁兵衛の隣のテーブルで書類と格闘中の若き青年だった。

 彼が今戦っている書類は、つい一時間前仁兵衛に押しつけられたものである。

 

「これもお前が将来提督になるための訓練だと思えば良い」

「お言葉ですが先生、それならお手本を見せていただきたく存じます」

「書類仕事なら司令官より元景さんの方が早いですね」

 

 朝潮がため息交じりに書類を元景の机に置いた。

 

「朝潮も手伝います」

「すまない。俺一人では限界だった」

「……」

 

 並んであくせく働く二人を見て、仁兵衛の表情が僅かに綻んだ。

 自分なしでも泊地はある程度回るようになっている。

 一年弱前に拾った提督候補生である元景が、期待以上の早さで成長してくれたからだ。

 艦娘たちからの信頼も厚い。留守がちな自分よりも、よっぽど信望を集めているかもしれない。

 

「先生はいったい何を書いているんです?」

「新作の小説だ。もう少しで書き上がる。そしたらまずお前に見せてあげよう」

「それは大変光栄ですが、よくこんな状況で話を思いつけますね。今回はどこの国の、どの時代の話ですか?」

 

 元景は作家としての仁兵衛のファンでもあった。

 作業を押し付けられているためか素直に喜べないようだったが、先程よりも声に活気が出ている。

 

「舞台は現代、とある泊地の話だそうですよ」

 

 仁兵衛の代わりに朝潮が答えた。

 彼女は以前、同じ質問を仁兵衛にしたことがあって、新作の内容をある程度把握している。

 

「……まさかここですか?」

「自伝は趣味じゃないな。それに僕くらいの人間であれば、放っておいてもそのうち誰かが作品として書いてくれるだろう」

「凄い自信ですね」

「朝潮君は僕に手厳しいな」

「長い付き合いですから」

 

 他の拠点の朝潮よりも、トラック泊地の朝潮は大人びているところがあった。

 頭の回転が速く、そのせいで周囲からは破天荒と取られがちな仁兵衛。

 そんな彼のサポートをずっとし続けてきたのだ。否応なく大人びてくる。

 

「……ショートランドらしいですよ。舞台は」

「ショートランド……ですか?」

「あそこの前任の提督とは良い付き合いをさせてもらったからな。餞別代りに一筆したためて候――というわけだ」

 

 毛利仁兵衛は人の好き嫌いが激しい男で、よく他の提督と衝突することもあった。

 そんな彼が気兼ねなく付き合えた数少ない提督が、ショートランドの前任の提督だった。

 

「あいつはさほど優秀な指揮官だったわけでもないし、特に目立った功績もなかった。このままでは歴史の中で風化してしまう。……だが、それは寂しい。なんでもない拠点に、なんでもない男がいて、死ぬ気で頑張っていた。そのことを残しておきたかったのさ」

 

 そう語るときの仁兵衛は、日頃の彼とはまるで別人のように穏やかだった。

 もっとも、それはほんの一瞬のことだった。

 仁兵衛はすぐにいつもの調子に戻ると、

 

「そんな作品がもうすぐ完成なのだ。よって今僕は仕事をしている場合などではない! ということで頼むぞ二人とも」

 

 と、勝手なことをのたまった。

 

「司令官に入る印税の半分は泊地の運営費に回させてもらいますね」

「あれ、朝潮君、もしかして機嫌悪いのかね?」

「先生はもう少し周囲を労わることを覚えた方が良いかと……」

 

 元景の控え目な指摘に、仁兵衛は「分からんな……」と首を傾げる。

 

 そのとき、司令室の電話が鳴った。

 こういうとき仁兵衛はまず出ない。仕方ないので代理として元景が出た。

 

 元景は何度か頷いて、最後に「了解しました」と告げて受話器を置いた。

 

「誰だ?」

「伊勢さんでした。先生にお客さんだそうです」

「客……誰かと会う約束などしていたかな」

「若い女性だったそうですが」

「うーん?」

 

 仁兵衛は首を傾げた。

 この男は優れた頭脳を持っているが、一つ欠点として、自分の興味のないことを全然記憶しない、という悪癖があった。

 

「とりあえずお会いになられてはどうですか。もし司令官が忘れているのだとしたら問題ですし」

「……まあ、そうだな」

 

 椅子から腰を上げて背中を伸ばすと、仁兵衛は思い出したかのように元景に尋ねた。

 

「元景。伊勢は客人のこと以外は言ってなかったんだな?」

「はい」

「分かった。もし哨戒中のメンバーから何か報告があれば、最優先で僕まで連絡するように」

 

 そう言い残して、仁兵衛は部屋から出て行く。

 

「……そういえば先生、最近は哨戒班のメンバーを五割増にしていたな。何か懸念事項でもおありなのだろうか」

「あの人のことだから、きっと何か考えはあるのでしょう」

 

 微かな不安を表情に浮かばせる元景に対し、朝潮はさっぱりとした様子で書類仕事を再開し始めた。

 

 二〇一五年、二月。

 この日、まだトラック泊地は穏やかな空気に包まれていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七陣「率いる者の宣言」

 ソナーに反応があった。

 最初に気づいたのは春雨である。先日のビアク島の一件以来、彼女は以前よりも冷静かつ大胆になった。些細な変化を見逃さず、自身の判断に迷うこともあまりなくなったと言える。

 

「敵潜水艦がいると思われます。正確な数は不明ですが複数。おそらく数隻の偵察部隊ではないかと」

「こちらでも感知したよー。ここってもうトラック泊地の防衛圏だよね。ってことは、放置しておけないな」

 

 時津風が春雨に続いて報告した。

 幼さを感じさせる容姿と性格だが、戦場での立ち振る舞いは清霜たちの同期の中でもっともクレバーである。訓練での成績は妹の磯風に劣るが、磯風は加点・減点の波が激しいのに対し、時津風は減点がほとんどない。

 

「大淀、春雨、早霜、雲龍は母艦護衛に残って。他のメンバーは対潜作戦を速やかに実施するように」

「司令官。私は……」

 

 何か言いたそうな春雨に、康奈は真っ直ぐな眼差しを向けた。

 

「別に春雨が引っ込み思案だからって後方に置いたわけじゃないわ。春雨の『守る力』を頼みにしてるからよ。私とこの船、守り切ってくれるわね?」

「……はい!」

 

 春雨が、そして他のメンバーが力強く頷いた。

 

 康奈の指示に従って清霜たちは散開する。素早く敵を発見して爆雷で撃破するためだ。

 早速、清霜のソナーにも反応があった。同時に潜水艦が魚雷を発射する。隠れているのも限界だと思ったのだろう。

 清霜は魚雷によって生じる波の変化を見た。以前は落ち着いて視認することが難しかった魚雷の航跡だが、今は冷静に観測する余裕がある。

 

 敵の魚雷を避けつつ旋回し、その航跡から敵潜水艦の居場所を探る。

 

「そこっ!」

 

 清霜は掛け声と共に勢いよく爆雷を放り投げた。

 弧を描き、海中に投下された爆雷が勢いよく水柱を立てる。

 

「油断するなよ」

「分かってるって!」

 

 釘を刺すように言ってきた磯風に応えながら、清霜はすぐにソナーで周囲の探索を再開した。

 しかし、他に残っている反応はない。清霜以外のメンバーも皆それぞれ爆雷を投下していた。おそらくそれで一通り仕留めることができたのだろう。

 

 敵の気配が収まったことを確認し、康奈が「警戒終了」と声をかけようとしたとき、遠方で大きな音が聞こえた。

 爆雷の音だ。別の場所で戦闘が行われている。爆雷の音がしたということは、片方は潜水艦なのだろう。

 

「司令官、どうする?」

「片方はおそらくトラック泊地の哨戒部隊だと思う。多分大丈夫だと思うけど、放っておくわけにはいかないわ」

「へへ、そうだよね!」

 

 康奈の答えに清霜は満面の笑みで応える。

 大淀は困った様子で溜息をつき、磯風は軽く肩を竦めてみせたが、表立って反対する者はいなかった。

 

 しかし――音のした方へと向かった一行が見たのは、予想していたものとは少し違う光景だった。

 

 既に戦闘行為は終了したのか、海は静けさを取り戻している。

 そこには、紺色のスカーフを巻いた一団が立っていた。

 

「お久しぶりですね、清霜さん。ショートランド泊地の皆さんも」

「……横須賀第二の、神通」

 

 昨年の秋、姫クラスの深海棲艦を容易く屠ってみせた横須賀第二鎮守府の水雷戦隊。

 それを束ねる神通は、静かに康奈へと一礼した。

 

 

 

 客室にいた人物を見て、毛利仁兵衛は僅かに身体を硬くした。

 

「……突然の訪問だな、長尾君。いや、情報部長補佐官とでも言うべきかな」

「どちらでもお好きな方で。両方とも私を指す言葉ですし、悪い意味は込められていませんから」

 

 席から立ち上がり、仁兵衛の前で静かにお辞儀をしたのは、横須賀第二鎮守府の提督――長尾智美だった。その側には軽巡洋艦・川内もいる。

 康奈と対面したときと比べると幾分柔らかい雰囲気だが、見ようによっては慇懃無礼とも言えそうな所作である。

 智美には、礼法に則った振る舞いをしても相手をざわつかせるようなところがあった。

 

 情報部長補佐官という肩書は、ビアク島攻略作戦の褒賞として得たものである。

 日本の今後がかかった戦いで、彼女が率いる横須賀第二鎮守府は著しい戦果をあげた。

 それに対して何か与えようという話が大本営――深海対策庁のトップから出てきたとき、彼女が求めたのは情報部への参画だった。

 

 即物的な褒美を求めるわけでもなく、そんなものはいらないと突っぱねるでもなく、情報部への参画を求めた彼女に、仁兵衛は明確な意思を感じていた。情報部に入ることで得られるものを使って、長尾智美は何かをしようとしている。

 警戒はしていたが、情報部長と言えど他の情報部職員の行動を制限する権力は持っていない。

 裏で智美が何かしている気配を感じつつも、決定的な証拠を押さえることはできずにいた。

 

「それで、今日は何か用かな。君と会う約束は……あまり自信はないが、確かしていなかったような気がするんだけどね」

「意外ですね。あまり記憶力には自信がないと?」

「僕は自分の興味あること以外あまり覚えられない性質でね。ああ、気を悪くしないでくれ。今のはスケジュール全般についてのことだ。親しい友人と会う約束すら忘れそうになることが多い」

「それは、周囲の人はさぞかし大変でしょう」

「朝潮君にはよく怒られるな。ははは、困ったものだ。――で、どうなんだ」

「約束はしていませんね」

 

 笑みを引っ込めて再度尋ねた仁兵衛に、智美は動じることなく答えた。

 

「一度、貴方とは記録に残らないような形で話してみたいと思っていたのです」

「新進気鋭の提督である君に言われるとくすぐったいな。で、テーマは何かな」

「――艦娘人造計画について」

 

 智美の雰囲気が少しだけ変わった。

 それまでは先輩、上司として仁兵衛を立てるような雰囲気だったのが、一気に対等のところへ上がってきた。

 たった一言が、それくらいの重みを持っている。

 

 艦娘人造計画。

 仁兵衛も、それについては知っている。

 

「……君はその計画の何を知っている?」

「私は当事者でした。落第して、こういう身の上になりましたが」

 

 断片的な情報だが、それでも仁兵衛には十分伝わった。

 長尾智美は艦娘人造計画の被験者で、艦娘にはなれなかった。

 

 ……だが、何かしらの事情があって提督として引き立てられた、ということか。

 

 ショートランドの康奈に近い境遇の持ち主だが、仁兵衛に拾われて成り行きで提督になった康奈と引き立てられた智美では、まるで立ち位置が違う。

 

「僕は詳しいことは知らない。噂話で聞いたことがあるくらいでね。しかし、実際にそういう計画があったのだと考えると、少々嫌なものだと思ってしまうね」

「御冗談を。貴方はかなり深いところまで調べておられるでしょう」

 

 穏やかな表情のまま、智美は踏み込んできた。

 

「貴方が情報部長の権限を行使したり、そうでない独自のルートを使ってこの計画の調査をしていることは分かっています。貴方だけではない。ショートランド泊地の前の提督――伊勢新八郎――彼も一枚噛んでいた。調査に着手された正確な時期は不明ですが、貴方たちがいつ頃この計画の存在に気づいたのかは推測可能です。北条康奈を貴方が発見し、伊勢新八郎に預けた。その頃でしょう」

「……」

 

 仁兵衛は内心舌を巻きながら、目の前にいる若き提督を見直した。

 智美の言っていることはすべて当たっている。当てずっぽうでここまで具体的なことは言えないだろう。

 

 艦娘人造計画は、防衛省に存在する非公開の部局が進めていた計画だ。

 通常、艦娘は提督が持つ契約の力でこの世に呼びだす。しかし契約の力は天賦の才とでも言うべきもので、提督になれる者は極めて少ない。一人の提督が呼びだせる艦娘の数も有限なので、深海棲艦に比べると戦力は心許ない。

 そんな状況をどうにかせねばと、危機感を持った一部の人間が非情な手段を取ることにした。それが艦娘人造計画――人体実験により人間を艦娘に変質させる計画である。

 

 深海棲艦による被害は既に世界規模のものになっており、悠長に計画を進める余裕はなかった。

 だから、彼らは相当強引な手を使って研究者・被験者を集めた。本格的に調べようと思えば、あちこちでその痕跡が見つけられる。

 おそらく、康奈も智美も、そういう強引な方法で被験者に仕立て上げられた子どもなのだ。

 

 康奈を拾い、その裏側にある計画の存在を察した仁兵衛は、新八郎と共にこの件の調査を進めていた。

 時には情報部長の権限を使い、時には私的なコネクションを利用し、かなりの情報をかき集めた。

 それは、紛うことなき事実である。

 

「――それで、君の用件は?」

「貴方の持っている情報を私にも提供していただきたいのです。それから、艦娘人造計画の調査について、今後も出来る限りご協力をお願いしたいと思っております」

「なるほど。君が情報部への参画を願い出たわけが、少し分かった気がするよ」

 

 情報部には数多の情報が集まる。また、情報収集のための権限も付与される。智美が欲しかったのはその権限なのだろう。

 艦娘人造計画という国家の暗部を探る。そのためには、国の中心部で情報を集められる力が必要だった。

 

「しかし、これは脅しと取ればいいのかな? 艦娘人造計画は政情を大いに乱しかねない危険な火種だ。それを独自に調査していたことが露見すれば、いかに希少な提督であっても、無事では済まないだろう。君の言葉一つで僕は消される可能性がある」

「それはいささか過剰に警戒し過ぎではないでしょうか。あるいは、作家ゆえの思考なのでしょうか」

「フィクション作家は自作をフィクションと割り切って書くものだよ。いたずらに陰謀論をぶち上げたり被害妄想を展開するのは阿呆のすることだ。僕がこう言っているのは、調査を依頼したうちの何人かが実際に行方をくらましているからだよ」

 

 智美の表情がかすかに動いた。

 実際にそういう被害が出ているとは思っていなかったらしい。

 

「一人だけなら偶然と思うだろう。二人だけなら確信には至らない。だが、三人目が消えた時点で僕は確信した。この計画は今も動き続けている。そして国はこの件に触れられることを極端に嫌がっている。……さすがにこれ以上首を突っ込むのは危ういと思い、手を引くことにしたのさ。僕一人ならともかく、他の人をこれ以上犠牲にするのは忍びない」

「……それではいつまで経っても奴らを裁けない」

 

 智美が怒気を孕んだ声を出した。

 慇懃無礼な態度ではない。微かに感情が垣間見える表情だった。

 

 ……これが彼女の本心か。

 

 何を考えているか今一つ読めない少女だったが、これがおそらくこの子の芯の部分なのだ、という気がした。

 

 そのとき、トラック泊地全体に響き渡るようなサイレンが鳴り始めた。

 同時に、智美の通信機と、客室に備え付けられた電話が音を立て始める。

 

「敵襲かい?」

 

 電話を取った仁兵衛が尋ねると、受話器の向こうから『はい』と朝潮の声が聞こえた。

 

『かなり大規模な潜水艦の部隊が東方から接近中。哨戒中の部隊が迎撃を始めていますが、思った以上の規模なので増援を出して欲しいと』

「分かった。残っている水雷戦隊の半数を出して良い。残りの半数は北方・南方・西方に出してくれ。重巡・戦艦は泊地周囲の警護を。空母は偵察機を各方面に出して、追加の敵戦力がいないか確認して欲しい」

『出撃部隊の内訳は?』

「スピード重視だ、君に任せる。僕も今すぐそちらに向かうよ」

『承知しました』

 

 通話を切ると、智美もちょうど通信機の通話を終えたところらしかった。

 

「暇潰しをしているよう申し付けていたうちの艦隊も、潜水艦隊の迎撃を開始したそうです」

「うちの担当海域内で勝手に戦闘行為をしたことは不問にしておこうか。協力を要請しても構わないかい?」

「ええ。……毛利提督は、この攻勢をどう見ますか?」

「全体像を確認しないことには何とも。ただまあ直感的な意見で良いなら――陽動か威力偵察のどちらかだろう。どちらにしても、潜水艦舞台の背後には、ここを攻めるための『本隊』がいると考えている」

 

 仁兵衛はすぐさま立ち上がり、泊地の司令室へと向かう。

 その後に、智美と川内が続いた。

 

 

 

「……提督。どうするの?」

 

 先を行く仁兵衛に聞こえない程度の小さな声で、川内が尋ねてきた。

 

「今後の協力を取り付けられないにしても、今持っている情報をいただくことはできる。そのためにもここで恩を売っておくことにしよう。川内、お前は隊を率いて偵察に出ろ」

「護衛は?」

「この泊地内なら私一人でも問題ない。それより敵の動向を知ることが肝要だ」

「了解」

 

 短く告げると川内は姿を消した。

 待機させていた部隊のところに向かったのだろう。

 

 外では神通隊と那珂隊が対潜行動に移っている。

 仁兵衛と同様、智美も潜水艦隊とは別に本隊がいると考えていた。川内にはそれを探ってもらった方が良い。

 

 しかし、と智美は奇妙な縁を感じていた。

 神通の報告によると、ショートランド泊地の艦隊と遭遇したらしい。

 

 ……奴らも毛利仁兵衛から何か聞き出そうとして来たということか。

 

 妙なタイミングの良さに、何か因縁めいたものを感じざるを得ない。

 

「単なる偶然なら良いが」

 

 胸騒ぎを覚えながら、智美はこの後の立ち回りをどうすべきかに思考を切り替えた。

 

 

 

 横須賀第二鎮守府の神通たちとの話は、ほとんどできなかった。

 再会の挨拶を交わした直後に、新たな反応をソナーが捉えたからだ。

 ショートランド・横須賀第二鎮守府の部隊は、対潜行動に専念する必要に駆られたのである。

 

「単なる偵察にしては数が多いねえ」

 

 母艦に戻って爆雷を補充してきた時津風がぼやいた。

 こういうときのため、母艦には消耗品である燃料や弾薬等が積んである。

 ただ、今回は大規模作戦に従事するために来たわけではないから、あまり多くは持ってきていない。

 戦力も大淀隊ともう一部隊のみだ。

 

「今のところ被害は出てないからいいけど……」

「潜水艦は魚雷による一撃必殺を得意とするから、油断はするなよ。一発もらえばそれで戦闘不能になる」

「むう、分かってるよ磯風」

 

 磯風に注意されて、清霜は頬を膨らませた。

 時津風はそんな二人の肩を叩いて「それじゃ行くよ」と促した。

 

 それから更に爆雷が五つ程投下された頃、三人の元に紺色のスカーフを巻いた駆逐艦が近づいて来た。

 

「よう、そっちの状況はどんなもんだい」

 

 夕雲型の制服を着ているが、その艦娘に見覚えはない。ショートランド泊地にはまだいない艦娘のようだった。

 

「えっと、貴方は? この前はいなかったよね」

「へえ、記憶力良いんだな。お前清霜だろ。この前大暴れしたっていう」

 

 面白そうなものを見るように清霜を覗き込んでくる。

 笑みを浮かべた口元から見えるギザギザの歯が特徴的な艦娘だった。

 

「あたいは朝霜。まあ横須賀第二鎮守府じゃ新入りさ。着任したのもついこの間だしな」

「朝霜――」

 

 その名前を聞いて、清霜は呆けたような顔になった。

 

「朝霜……朝霜なんだ!」

「おう。なんか不思議なもんだな、艦娘として会うのは初めてなのに、どうにも懐かしいような気になっちまう」

「うん……うん、そうだね!」

 

 思わず清霜は、朝霜の手を取ってぶんぶんと振り回した。

 

 清霜と朝霜は、共に夕雲型の駆逐艦であるだけでなく、共にレイテ沖海戦や礼号作戦に従事したという縁がある。

 夕雲型は短命な艦が多く、一度も顔を合わせたことのない組み合わせも沢山いる。そんな中、共に戦ったことがある朝霜は、清霜にとって特別な思い入れのある艦の一つだった。

 

「そっちは時津風に……磯風か」

「うん、よろしくねー」

「久しぶり……と言うべきかな」

「どうだろうな」

 

 磯風と朝霜も浅からぬ縁を持つ艦だった。

 奇妙な邂逅に、二人はどこかくすぐったそうな表情を浮かべる。

 

「おっと、のんびりと話してる場合じゃなかった。神通さんにどやされちまう。こっちは母艦に戻って周辺海域の警戒にあたるけど、そっちはどうすんだ?」

「うちは……どうする、司令官?」

 

 清霜は通信機越しに康奈へ尋ねた。

 これまでは主に指揮官にしか持たされていなかった通信機だが、いろいろと不便だと言うこともあり、最近は安価なものが全員に支給されるようになっている。

 

『私たちは一旦トラック泊地に向かうわ。一度仁兵衛さんに話を通しておきたいから。……そちらの提督は既に泊地にいるのかしら』

「ああ、あの鬼……いや、司令は泊地にいるぜ」

『ありがとう。なら、そっちにも挨拶しておかないとね』

 

 通信を切ると、朝霜が「いいねえ」と羨ましそうな声を上げた。

 

「羨ましい?」

「そっちの司令さ。少し声聞いただけだけど、なんか優しそうじゃんか。ちゃんと礼も言ってくれるし」

「そっちの司令官は違うの?」

「あー、駄目駄目。あれは鬼だ。深海棲艦よりおっかねえよ。あたいたちのことなんか駒としか見てない」

 

 心底うんざりしたような顔で肩を竦めてみせる朝霜に、清霜たちは顔を見合わせた。

 横須賀第二鎮守府の提督について、清霜たちはあまり多くを知らない。康奈は一度直接対面したことがあるようだが、詳しいことは誰にも話していなかった。

 

「訓練で成果を出せなければすぐにどっかに飛ばされるし、実戦でも容赦ない指揮を執るから他所と比べて被害が段違いだ。今じゃうちの艦隊は『九死軍』なんて呼ばれてる。十のうち九は死にそうな奴らってわけさ」

 

 その苛烈な在り様は、噂としてショートランド泊地にも届いていた。

 ビアク島攻略作戦以降も横須賀第二鎮守府は各地で戦功を上げ続けているが、あまりに激しい戦いぶりに味方すら恐れをなすと言われている。

 

『朝霜、長引きそうですか』

 

 朝霜の通信機から神通の声が聞こえた。

 しまった、という顔をしながら、慌てて朝霜は「すぐ戻ります」と応えた。

 

「やれやれ。上司もトップもおっかねえったらありゃしない。……んじゃあな、また会おうぜ」

 

 若干名残惜しそうにしながら去っていく朝霜を見送って、時津風が「面白い子だったねえ」と感想を告げる。

 

「横須賀第二は皆おっかない子たちばかりだと思ってたけど、ああいう子もいるんだね」

「朝霜も歴戦の武勲艦だ。そんな朝霜をしてあそこまで言わせるのだ。横須賀第二、噂通り尋常ならざるところのようだな」

「お、磯風興味津々?」

 

 時津風が磯風の顔を覗き込む。

 磯風は去り行く朝霜の後ろ姿を見ながら、複雑そうな表情を浮かべた。

 

「私は『磯風』の名に恥じぬ戦いができれば、それで良い」

 

 その言葉には、少しだけ己を誤魔化すような響きが混ざっていた。

 

 

 

「お待ちしていました。北条提督」

 

 トラック泊地で一行を出迎えたのは、まだ年若そうな青年だった。

 

「お初にお目にかかります。私は毛利提督の下で提督候補生として働いている大江元景です」

「はじめまして。ショートランド泊地の北条康奈です。突然の来訪、申し訳ありません」

 

 型通りの挨拶を交わしながら、一行は泊地の中へと進んでいく。

 あちこちで艦娘やスタッフが忙しなく動いていた。臨戦態勢なのだ。泊地全体に緊張感が漂っている。

 

「状況は?」

「対潜部隊は概ね迎撃に成功したと見られます。引き続き警戒は必要ですが、敵の第一陣は撃退できたと考えて良いでしょう」

「第一陣ということは、後続部隊が?」

「情報収集中です。ただ、毛利提督も、本日来訪されている横須賀第二の長尾提督も、第二陣以降はあると見ているようです」

 

 話しているうちに、トラック泊地の司令室に着いた。

 中では仁兵衛と智美、そして何人かの艦娘が卓を囲んで会議をしていた。

 

「せんせ……毛利提督。北条提督をお連れしました」

「ああ」

 

 普段のような愛想の良さはない。他のことに頭を使っているのか、仁兵衛の回答は短かった。

 一方、智美は康奈の方を見てにっこりと笑みを向けてきた。もっとも、智美の本性を既に知っている康奈にとって、その笑みは素直に受け取れるものではない。

 

「今日は千客万来だな。康奈君まで来るとは思っていなかった。君とは会う約束をしていたかな?」

「いえ、少し個人的にお聞きしたいことがあって来たのですが――それは後にしましょう」

「そうしてくれると助かる。あと、力を貸してくれるともっと助かる」

「それはもちろん」

「ありがとう。早速で悪いがこれを見てくれ」

 

 仁兵衛は卓上に広げた海図を指し示した。

 そこには、トラック泊地の防衛に関する様々な事柄が記されている。仕掛けられた機雷、三段階に分けて設けられた防衛ライン、予測される敵の進行ルート等だ。

 

「敵の第一陣によっていくつかの機雷が破壊された。これにより予測される進軍ルートがいくつか増えている。ただ、東方以外は現状敵の気配が見当たらない。第一陣が進軍してきたルートから見ても、敵は東から来ると見て間違いないだろう」

「現在うちの千歳さん、千代田さんが長距離偵察を敢行しています。じきに報告が来ると思います」

 

 朝潮が仁兵衛の補足をして、一番外側の防衛ラインを引いた。

 

「ここを突破されると泊地周辺の民間人に被害が出る可能性が高くなります。長尾提督と北条提督には、今のうちに民間人の避難支援をお願いしたいのです」

「避難? 私たちを安全なところに配置しようという気遣いなら無用だぞ」

 

 朝潮の言葉に磯風が不服そうな声を上げた。たしなめるように時津風が磯風の袖を掴む。

 

「民間人を守るのは私たちにとって大事なことよ。気遣いなんかで任せるような、そんな軽い話じゃない」

「だったら尚更だ。私たちを前線に出して、自分たちで避難させれば良いだろう。普段からコミュニケーションを取っているそちらの方が妥当なのではないか」

 

 磯風と朝潮の間で火花が散る。

 慌てて間に入ったのは清霜だった。

 

「ま、まあまあ。敵と戦うのも民間人の避難も、どっちも大事だよ。どっちにするかは司令官に任せよう。ね?」

 

 清霜の言葉で、会議室内の視線が康奈と智美に向けられる。

 

「避難誘導は今すぐやらないといけないし、漏れが絶対にあってはいけない。ちょっと私たちには難しいんじゃないかと思うわ」

「私も同意見です。……うちの部隊は戦いにこそ真価を発揮するタイプなので、あまりそういうことには向いていません」

 

 康奈と智美の意見を受けて、朝潮は難しい顔をした。

 

「……分かりました。では敵が接近してきたときの迎撃をお願いします。ただ、この海図にあるようにうちの近海はトラップが仕掛けられているので、それは頭に叩き込んでおいてください。最初に避難をお願いしようとしたのは、それがあったからです」

 

 康奈は言われた通り覚えようと、海図の前に立った。

 その隣に、さり気ない動きで智美が寄ってくる。

 

「――貴様も毛利提督から話を聞きに来たのか」

「……ということは、そっちも同じ目的みたいね」

「良いことだ。自分のルーツを知れば、自分が置かれている本当の立場が分かるだろう。それで奴らに逆らう意味がないと思ったなら私の提案は忘れれば良い。私も貴様のことはただの提督としてみなそう。だがそうでないなら――共に復讐を果たそう」

 

 それだけ言って智美は離れていった。

 

「もう良いのですか?」

「ええ。もう覚えました」

 

 朝潮の問いにしれっと答えて、大人しく椅子に座る。

 こうして猫をかぶっているところだけ見ると、愛らしい少女そのものだった。

 

「……私も覚えました」

 

 康奈はそこでちらりと仁兵衛を見た。

 仁兵衛は先程から会話に加わらず、じっと窓の外を見続けている。

 どこか心ここにあらずという様子だった。

 

「――毛利さん?」

 

 そのとき、仁兵衛の通信機が音を発した。

 

『提督。敵部隊を――いえ、敵軍隊を捕捉しました』

 

 千代田の声が会議室に響き渡る。

 仁兵衛は既に我に返ったようだった。通信機を卓の真ん中に置くと、険しい表情で確認を取る。

 

「規模はどれくらいだ、千代田君」

『……正確には測定不能です。ただ、うちの全艦隊の数倍はありそうな規模です』

『まずいよ提督。これは……アイアンボトムサウンドのときとか、AL/MIのとき以上よ!』

 

 千代田の声もした。こちらはどちらかというと悲鳴に近い。

 アイアンボトムサウンドは二〇一三年の秋、ソロモン諸島で発生した深海棲艦との大規模な衝突である。

 一方、AL/MIは二〇一四年夏に行われた、これまでで最大規模の二方面作戦だった。

 

 今、このトラック泊地に迫っている敵はそのときの軍勢を上回る規模だという。

 さすがにその報告は想定外だったのか、智美も若干強張った表情を浮かべていた。

 

「ありがとう。では戻って来てくれ」

『……提督。大丈夫よね?』

 

 千代田が不安そうに問う。

 その不安は、彼女だけでなくこの司令室にいる全員が持っているものだった。

 

 否。

 一人だけ、その不安を持っていない者がいた。

 

「ああ、まあ――なんとかしてみようじゃないか」

 

 余裕のある言い方ではない。

 なんとかなるという確信を持っているわけでもなさそうだった。

 

 それでも――毛利仁兵衛はこの状況をどうにかすると宣言してのけた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八陣「毛利仁兵衛の軍略」

 敵軍は悠然と構えていた。

 こちらが敵の第一陣を早々に迎撃したから警戒しているのか。あるいは、別の狙いがあるのか。

 

 清霜たちは、トラック泊地の東方にある小さな基地に来ていた。

 東方から進撃してくる敵に対する前線基地である。トラック泊地にはこういった小規模の拠点が複数存在しており、さながら支城網のようなものが構築されていた。

 

「基地と言っても、見た目が頑丈そうに見える建物があるくらいだね」

 

 拠点の状態を見て回った時津風がコメントした。

 防衛拠点としての機能は不十分だ。建物の強度も、実際はさほどのものでもない。悪く言えばこけおどしである。

 

「あちこちに設置するわけだし、あまりお金をかけられなかったのかも」

「そんなところだろーね。敵への牽制にはなるだろうし、万一取られてもさして痛くないから、考え方次第かな」

 

 雲龍の推測に時津風は頷いて答えた。

 時津風はよく戦闘中に雲龍の護衛を務めており、その縁からか普段も一緒にいることが多い。

 

「けど、本当にあの軍勢を相手に凌げるのかな」

 

 遠目からも見えるくらい広く展開した敵の大軍を前に、清霜が疑問を口にした。

 戦うことを恐れているわけではないが、戦力差が大き過ぎる。勝てるか疑問に思うのは当然のことだった。

 

「攻城戦では攻め手は守備側の三倍の兵力を必要とする、なんてよく言われたわね」

 

 懸念を浮かべる一同に、康奈が明るい声で言った。

 

「まあそんな単純な計算で彼我の戦力差を見るべきじゃないと思うけど、毛利さんがやるというなら、多分勝ち目はあるんだと思う」

「司令官は毛利提督を信頼してるんだね」

「どうかな。あの人の指揮に従うのは抵抗ないから、信頼してると言えばしてるのかもね」

 

 人間としてはそれなりに信じているが、戦場における仁兵衛の力量を康奈が目の当たりにしたのは、先の渾作戦が初めてだった。

 ただ、それまでも彼の評判や事績は聞き知っていた。仁兵衛に指揮を預けても良いと考えたのは、彼が今まで成し遂げてきた結果によるところが大きい。

 

 仁兵衛の名が知れ渡ったのは、二〇一三年の夏に開かれた大海戦である。

 深海棲艦の活動が活発化し始めていた時期で、人類は各地に艦娘を集めた拠点を作りつつあったが、連携などほとんど取ったこともないような状態だった。大本営が大まかな指示は出していたが、それも十分に機能していなかったらしい。指揮系統もはっきりしておらず、現場でのやり取りも上手くできていなかったという。

 

 そんな現状を看破し、大本営や内地組の提督たちに喧嘩を売るような姿勢で改善策を提示したのが仁兵衛だという。当時彼は着任して日が浅く、その献策は大本営に容れられなかったようだが、三浦武臣等一部の提督はこの一件で仁兵衛を高く評価するようになったという。

 

 その後は、仁兵衛を評価する剛臣たちの取り計らいによって献策がある程度用いられるようになり、鉄底海峡の戦い、霧の艦隊との戦いで辣腕を振るった。その頃には大本営も仁兵衛の実力を認めるようになっていたようで、深海対策庁設立に向けて重要な役職を与えようという話が内々で進んでいたという噂がある。

 

「しかし、指示があるまでは基地で待機しろというのは些か悠長に過ぎる気もするが」

 

 磯風が不満を口にした。

 幸い敵軍は大きな動きを見せていないが、このまま何もせず待っていて大丈夫なのか、という不安はこの場にいるほとんどの者が持っていた。

 

「動くばかりが戦いってわけでもないよ。のんびりしてよう」

 

 と、妹を宥めるように時津風が言った。

 彼女は敵の様子が見える窓の近くに腰を下ろし、大きく欠伸をしている。

 

「動かないことで相手にプレッシャーを与えることもあるし、いざというとき十全の働きができるよう英気を養う効果もある。時津風の言う通り、今は待とう」

 

 康奈が時津風の言葉を補足すると、各員は一応納得したようで、それぞれの場所に散って待機の姿勢を取り始めた。

 

「時津風は大人って感じするね。私より、少し遠くまで物事が見えてるみたい」

 

 康奈の側にいた清霜が感心したように言った。

 

「妹分の磯風がいるから、姉としてしっかりしないとって思ってるのかもしれない」

「お姉さんか。私は末っ子だから、そういうのあんまり分からないな」

「無理に分かろうとする必要はないと思うわよ」

 

 それより、と康奈は磯風が去っていった方向を見やった。

 

「清霜。最近、磯風なにかあった?」

「……んー。やっぱり司令官も気づいたか」

 

 清霜は少し困ったように頭をかいた。

 

「磯風、最近焦ってるみたいなんだ。同期の皆もそれには気づいてる」

「いつ頃からっていうのは分かる?」

「あんまりはっきりしたことは言えないけど、多分――渾作戦が終わった頃からかな。普段はそうでもないんだけど、たまにすごく苛々してるときがあるんだ」

「……そう」

 

 磯風は誇り高い武人としての性質を持っているが、意味もなく怒りを周囲に見せるようなタイプではない。

 彼女が何かに苛立っているのだとしたら、その理由は限られてくる。康奈には、その心当たりがあった。

 

「理由をそれとなく聞いてみたことあるんだけど、あんまり取り合ってくれなかったんだ。だから、皆で相談してもうちょっと様子を見よう……って」

「そうね。私の想像が合ってるなら、磯風の苛立ちは皆との相談とかで解決できるものじゃないわ」

「そうなの?」

「多分、だけどね」

 

 出撃編成は少し考えて組んだ方が良いかもしれない。

 そう思いながら、康奈は連れて来ていたもう一部隊の様子を見に行くことにした。

 

 

 

 康奈たちが前線基地に入って数時間後。

 相変わらず動きを見せない敵軍の一角で、大きな音がした。

 

「戦闘が始まったのか?」

 

 駆け足で全員が集まり、窓から双眼鏡で敵の陣容を確認する。

 深海棲艦が砲撃している様子はない。ただ、各所で散発的に轟音が響き渡っていた。

 

「……おそらくトラック泊地の潜水艦による奇襲ね」

「敵もそう判断したみたいだね。軽巡洋艦を始めとする駆逐艦を前面に出してきたよ」

 

 康奈に言葉に時津風が応じた。

 時津風の言う通り、敵の水雷戦隊が前に出てきた。対潜装備を整えているようで、すぐさまあちこちに爆雷を投下し始めているようだった。

 

 それでも潜水艦によるものと思われる雷撃は止まない。

 あちこちで繰り返される攻撃に堪りかねたのか、深海棲艦はより多くの水雷戦隊を前に押し出してきた。

 

 そのとき、康奈たちがいる前線基地の上空を航空隊と思しき影が駆け抜けていった。

 完全に対潜体勢に切り替えていた深海棲艦たち目掛けて、航空隊は雷撃・爆撃を続々と敢行していく。

 

 海の下に意識を取られていた深海棲艦たちは、航空隊による攻撃をまともに喰らった。

 次々と倒れていく前線の対潜部隊を押しのけるようにして、後ろに下がっていた主力艦隊が出てきた。

 しかし、彼らも対空体勢が十分ではなかったようで、航空隊をなかなか落とすことはできないようだった。

 対空装備を整えた部隊が出てきた頃、航空隊は既に全機引き上げていた。

 

「上手い具合に敵を翻弄した形になったな。引き際も絶妙だった」

 

 磯風が感心していた。否、他の皆も言葉に出さないだけで、トラック泊地の鮮やかな戦い方に驚いていた。

 先の渾作戦では横須賀第二鎮守府の存在感が圧倒的だったが、元々トラック泊地も練度はかなり高く、内地の拠点を除けば最高クラスの練度を誇ると言われていた。これくらいのことはやってのけて当然とも言える。

 

「けど、敵の損害は全体の比率で考えるとそこまで大きくはないわね」

 

 康奈は残った敵陣を見て険しい表情を浮かべる。

 確かに今回の戦闘では多くの敵を倒したが、残っている敵の数はもっと多い。

 

 今の攻撃に対し敵がどう出てくるか、まだ予断を許さない状況だった。

 康奈たちは息を呑んで敵陣の動向を見張り続ける。まだ散発的にトラック泊地との間で小競り合いが続いているようだったが、その後はあまり大きな動きがないまま一夜が明けた。

 

 毛利仁兵衛からの通信が入ったのは、康奈たちが手持ちの携帯食で朝餉を済ませているときだった。

 

『待たせたね』

「出撃ですか?」

『いや。調査が終わったから情報共有をと思ってね。複数端末での通話に切り替えるよ』

 

 画面上に『長尾智美』の表示が加わる。智美も交えた作戦会議――ということらしい。

 

『おはようございます、毛利提督。攻勢に回るのであれば我々にもお声かけいただきたかったですわ』

『すまないね。だがあれは攻勢というほどのものではない。本当に仕掛けるときは君たちの腕を存分に振るってもらいたい』

 

 智美の言葉をさらりと流して仁兵衛は続ける。

 

『さて。昨晩僕らは潜水艦と空母による陽動作戦を実施した。その間に周辺の索敵を実施して敵の陣容を確認した。地図データを二人の端末にも送るから確認してくれたまえ』

 

 データはすぐに送られてきた。

 万一盗聴されたときのために、基地防衛に関する詳細情報は省かれている。

 ただ、敵の布陣や規模についてはきっちりと載っていた。

 

「よくこれだけ調べられましたね」

『千歳と千代田には感謝しないとね。他の軽空母たちもそうだ。潜水艦と正規空母は陽動作戦に集中してもらったし、他の艦種の子たちは住民の避難誘導で手一杯だった。今、うちの軽空母組は死んだように眠ってるよ』

『よくそのような大胆な采配ができましたね。敵が本格的に攻め寄せてきたかもしれませんのに』

『そのために君たちを前線に配置したんじゃないか。ま、来ないような気はしていたけどね。これは直感だったが、調べてみて確信に変わりつつある』

 

 仁兵衛はそう言って地図データの何ヵ所かを赤く点滅させた。

 敵の本隊から離れたところに陣取っている。単なる別動隊と言うには、少々規模が大きいような気がした。

 

『第一陣の後にすぐ攻めてこなかったから、これは何か裏があると思ったのさ。あれだけの数がいるなら力押しがもっとも効果的だからね。あのまま攻め込まれていたらこちらは苦しい戦いを強いられていただろう』

『……これは、囮、ですか?』

 

 仁兵衛の地図データを見て、智美が低い声で呟く。

 地図データには、トラック泊地の東方に位置する巨大な軍勢と、その北に位置する中規模な軍勢、その他の位置に陣取る遊撃隊らしきものが載っている。このうち中規模な軍勢は、本土の南東近くに陣を構えていた。

 

 トラック泊地と本土のラインを断とうという作戦なのかもしれない。ただ、その割には位置が半端だった。

 

「もしかして、内地の拠点がトラック泊地に応援を出した隙を突こうとしている……?」

『二人ともご明察。この北の中規模な軍勢、中身は空母だらけだ。一気に本土を叩こうとしていると見て間違いないだろう。トラック泊地を急襲するにしては、ちょっと遠すぎるしね』

「ぞっとしますね。もし目の前の大軍を恐れて本土に援軍を要請していたら、首都圏や横須賀鎮守府が襲われていた可能性もあった、ということですか」

 

 現在、深海対策庁の設立によって艦娘が所属する拠点の数は増加しつつある。

 しかし、やはり中心となるのは首都圏と横須賀鎮守府だ。この二つが壊滅的打撃を受けた場合、日本は相当の痛手を被ることになる。

 

『援軍要請は出してないからその点は心配いらない。逆に絶対こっちに来るなという連絡はさっきしておいた』

「……この中規模な軍勢を叩いてもらってから応援に来てもらうというのは?」

『微妙なところだね。いきなりここを叩きに行ったら、敵も自分たちの狙いが看破されたとみなして、一気にこちらに攻め寄せてくるかもしれない。僕としては、こいつらはしばらく放置しておくのが良いと考えている』

「敵の狙いに気づいていない振りをするんですね。となると……」

『叩くべきは正面の大軍か周囲の遊撃部隊ということになりますね』

 

 遊撃部隊を放置しておくと正面の大軍と相対するときに不安材料が残る。

 ただ、遊撃部隊の撃破に気を取られ過ぎるとその隙を突かれてしまう恐れもあった。

 

『叩くのは両方だ』

 

 仁兵衛は簡潔に方針を示した。

 

『こちらも住民の避難誘導は一段落ついた。動かせる艦娘の数は増えている。持てる兵力の大半を注ぎ込んで敵に正面からぶつかる。その隙に君たちは遊撃部隊を叩きつつ――敵の親玉を狙ってくれ』

「……旗艦を、ですか?」

 

 突然の要求に康奈は思わず聞き返した。

 あれだけの大軍の中にいる旗艦を狙えというのは、酷い無茶振りである。

 半ば死にに行けと言っているようなものだった。

 

『狙っているぞ、と相手に知らしめることができればそれでいいよ。本気で首を獲って来いとは言わないさ。こちらが本気で眼前の敵相手に足掻こうとしていることをアピールしたい』

『あら、そうなのですか。獲って来いと言われれば本気で案を考えたのですが』

『……さらりと怖いことを言うな、長尾君』

 

 智美が言うと冗談に聞こえない。

 彼女もあまり多くの手勢を連れてきているわけではないが、それでも敵旗艦を討ち取りそうなところはあった。

 ただ、その場合犠牲はかなりのものになるだろう。恐ろしいのは、それでもやると言っているところだった。

 

『言っておくが決戦はまだ少し先の予定だ。こちらの本気度をアピールしつつ、被害は最小限に抑えて欲しい』

『了解しました』

「了解」

 

 その後、三人はそれぞれの役割分担を取り決めた。

 まず、トラック泊地の艦隊が正面から敵軍にぶつかりに行く。

 ある程度敵の陣形が動き、相手の意識が正面に集中し始めたら、北から横須賀第二鎮守府が、南からショートランド泊地が攻めかかる。遊撃部隊を蹴散らしつつ、後方に回り込む形で敵の旗艦目掛けて突撃を敢行する。

 それが大まかな作戦方針となった。

 

「部隊を二手に分けるわ」

 

 通信を終えた康奈は、その場に集まったショートランド泊地の面々に告げた。

 

「一隊は遊撃部隊の排除に全力で臨んで。もう一隊は敵本陣に切り込むことに専念してもらう」

 

 編成表を各メンバーに渡す。何人かは少し驚いたような表情を浮かべていた。

 今回、康奈は大淀隊ともう一部隊を連れて来ていた。今回の編成は、両部隊でメンバーを何人か入れ替えている。

 

「遊撃部隊の排除は大淀隊。敵本陣への切り込みは――お願いできるかしら、金剛」

 

 康奈の問いに、ショートランド泊地トップクラスの練度を誇る部隊指揮官――高速戦艦・金剛は笑って応えた。

 

「オーケー。ドンとお任せネ!」

 

 

 

 前線基地の守備をトラック泊地から来たメンバーと交代し、康奈たち一行は南東に進軍した。

 敵の警戒網にかからないよう大きく迂回し、後背を突く。そのためしばらくは大淀・金剛隊が共同で動くことになる。

 

「私も敵陣切り込みしたかったなー」

 

 道中、母艦の甲板上で清霜が背を伸ばしながらぼやいた。

 さほど不満に思っている風でもない。少しだけ残念に思っている、というところだった。

 

「前々から思ってたけど、清霜は結構戦うの好きなの?」

「好きってわけじゃないけど、私の目標は戦艦みたいに強い艦娘になることだから。そのためにはいっぱい戦って経験積んでいかないと駄目じゃない?」

「酷いなあ、司令官。清霜を馬鹿にしてるでしょ」

 

 そんな二人のやり取りを、微笑ましそうに見守る人影があった。

 金剛である。

 彼女の気配に気づいた康奈は、少し気恥ずかしさを覚えた。

 

「楽しそうネー。提督も随分元気になったみたいで、私安心したヨ」

「……金剛。悪かったわね、心配かけて」

「ノープロブレムネ!」

 

 金剛は明るくサムズアップしてみせた。彼女のこういう明るさは、先代を失って落ち込んでいた康奈にとって、随分と救いになった気がする。

 ショートランド泊地の中でも、金剛は特に先代を強く慕っていた艦娘の一人だった。先代がいなくなってかなりのショックを受けたことは間違いない。だが、彼女はそれをおくびにも出さず、周囲を励ますかのように明るく振る舞い続けた。

 金剛とは、そういう艦娘なのだった。

 

「欲を言えば、私たちにもそんな風に砕けた感じで接して欲しいところだけどネ!」

「それは、なんというか……少しやりにくいというか」

「ンー、残念……」

「……一応、善処はしてみるけど」

 

 康奈がそういうと、金剛は喜色満面の笑みを浮かべた。

 先代に引き取られて間もない頃、よく康奈の面倒を見てくれた艦娘が何人かいる。大淀もそうだし、金剛もその一人だった。先代が父のような人だとすれば、金剛は母や姉のような存在だ。

 信頼はしているが、清霜たちを相手にしたときのようにフランクな接し方をするには抵抗がある。

 

「へー。司令官、金剛さんたちの前だとまた少し違う感じなんだ」

「そうダヨー、清霜。とても御堅い感じになって。前はもっとあどけない感じだったんだけどネー。お姉さんは寂しいデース」

「それは良いでしょ、もう。それより金剛、何か用があったんじゃないの?」

「オー、そうネ。提督。一つ聞いておきたいことがあるんだケド……」

「今回そっちの隊に編入させた子たちのこと?」

「イエス。私も彼女たちと組むのは初めてだし、今回の任務はかなりデリケートなものになりそうダカラネ! 何か気を付けないとイケナイことがあるなら教えて欲しいネ」

 

 今回康奈が金剛隊に移したのは、磯風・時津風・雲龍の三名だった。

 

「時津風は立ち回りが上手いから特に気を付ける点はないわ。雲龍は少しマイペースなところがあるけど、集中力は十分だから、なるべく彼女のペースに合わせてあげた方が活躍できると思う」

「なるほど。……で、磯風はドウネー?」

「――あの子は、誇り高い武人よ。だから、その誇りを損なわないような戦いをさせてあげて欲しい」

 

 康奈の声音が少し変わったことに気づいたのか、金剛は表情を引き締めて小さく頷いた。

 今回このような編成にしたきっかけは磯風にある。そのことを金剛も察したのだろう。

 

「磯風にどうしても言うことを聞かせたい場合は、時津風経由で命じた方がスムーズにいくかもしれない。ただ、道理を説けばきちんと分かってくれる子だから、なるべく正面から向き合ってあげて」

「オーケー! リトル長門だと思えば大丈夫そうネ!」

「リトル長門……まあ、確かにそんなところね」

 

 金剛の表現に、康奈は思わず笑ってしまった。

 連合艦隊旗艦を務めた往時の大戦艦・長門。艦娘となった長門は、艦艇時代の名残りか、誇り高く少々融通の利かない武人としての性質を持つことが多い。ショートランド泊地の長門もそんな人柄の艦娘である。

 

「金剛さん」

「ン、どうしたネ清霜」

「……磯風たちのこと、よろしくお願いします」

 

 そう言って、磯風は金剛に頭を下げた。

 清霜は清霜なりに、同期の仲間のことが心配なのだ。

 

「大丈夫ダヨ! ちゃんと全員、無事に帰ってくるからネ!」

 

 金剛は清霜の肩に手を置いて、明るく大きな声で言った。

 

 遠くから砲撃の音が聞こえてきた。

 トラック泊地の艦隊が正面から攻撃を仕掛け始めたらしい。

 

 戦いの気配が近づいている。

 康奈たちは、ごくりと息を呑んだ。

 

 

 

 北部を迂回する横須賀第二鎮守府の母艦に接近する艦娘が一人。

 智美の命令で偵察に出ていた川内だ。

 彼女は母艦警護にあたっていた他の艦娘に目礼すると、物音を立てずに母艦の甲板へと飛び乗った。

 

「戻ったか」

「はい。トラック泊地が調査した通りの布陣でした」

「すまんな、お前には無駄足を踏ませることになってしまった」

「毛利提督が提督同様情報を重視する方だった。そういうことなのでしょう」

 

 川内の言葉に智美は頷いた。

 戦場で指揮官に求められるのは決断力だが、物事を決めるために必要となるのは情報だ。

 正確な情報をかき集めて最適な判断を下す。言葉にすると簡単だが、実際にそれができる指揮官は稀有である。

 

「それで、私はどうしますか。神通共々敵への攻撃に加わりますか」

「いや。今回はまだ本格的な攻勢ではないからな……。お前には別のことを頼みたい」

 

 智美は川内の側に近づき、何かを耳打ちした。

 川内は無言で頷くと、再び甲板から姿を消す。

 

「提督」

 

 川内と入れ替わりで、神通が姿を見せた。

 今回の突入部隊の指揮は神通が執る。川内隊も一時的に神通の指揮下に入り、一部隊として動く形だ。

 

「準備はできたか」

「はい」

「士気は問題ないか? ここまで彼我の戦力差が大きい戦は初めてだ。士気が衰えていては話にならん」

「問題ありません。あの朝霜も腹を括ったようです」

 

 朝霜は最近加入した新顔だ。

 まだ横須賀第二鎮守府の苛烈さに十分馴染めているとは言い難い。

 ただ、見所はある。本人も気づいていなさそうだが、十分な才覚を持っている艦娘と言えた。

 

「この戦力差が却って良かったのかもしれません。この状況、腹を括る以外にどうしようもありませんから」

「逃げたところで深海棲艦が見逃してくれるとは限らんからな。結局のところ我々は戦うしかない。綺麗事を口にするかしないかの違いはあるだろうがな」

 

 双眼鏡で戦況を確認する。

 トラック泊地の面々はかなり勢いよく攻めかけているようだった。

 深海棲艦の前衛が押されている。全軍を倒しきる前に疲弊して力尽きるだろうが、しばらくは優勢のまま続きそうだ。

 

「毛利仁兵衛という男、器量次第では利用するだけして後は見捨てても良いと思っていたが、ここで失うのは日本にとって大きな痛手だな」

「失われる可能性が高いとお考えですか。今のところ順調に見えますが」

「それは敵の動きをすべて的確に毛利が読んでいるからだ。これだけの戦力差、一歩読み違えれば即座に崩壊しかねん」

「毛利提督が読み違える、と?」

「古今東西どれだけの名将でも、読みが百発百中などという者はいない。読み違えたときの対応力こそが、名将かどうかの境目とも言える。無論毛利も備えはしているだろうが、このような状況ではできることに限度がある。薄氷を踏むような戦いだ、この戦いは。だからこそ――我らの価値が出てくる」

 

 敵陣が動いた。

 崩されつつあった前衛を下げて、主戦力と思しき一団をトラック泊地の艦隊にぶつけようとしている。

 

「お喋りはここまでだ。神通、手筈通りに行け」

「承知しました」

 

 神通は踵を返し、戦場へと出向いていく。

 そんな彼女たちを見送りながら、智美は戦況に厳しい眼差しを向けるのだった。

 

 

 

 こういうときに備えて、トラック泊地では資源を十分に確保していた。

 敵の攻撃を凌ぎ続けることができれば、一ヵ月は抵抗が可能である。

 

 艦娘の練度も申し分ない。艦娘の能力を引き上げる指輪を持った子も、何人もいる。

 住民の避難を無事に済ませたということもあってか、艦隊の士気は十分なものだった。

 強大な敵に対する恐れはある。あるが、それを乗り越えるだけの気骨を皆が持っている。

 

 トラック泊地の艦隊は、理想的な状態にあった。

 ただ、それでも仁兵衛は心の中に正体の分からない不安があると感じていた。

 

「司令官。懸念事項があるのですか?」

 

 前線近くまで出てきた母艦の艦橋。

 そこで険しい表情を浮かべる仁兵衛に、朝潮が声をかけた。

 

「そういう顔をしていたかな」

「はい。司令官がそういった顔をされるときは、大抵その後まずいことが起きるものです」

「……実のところ自分でも何に不安を抱いているか、見えていないんだ。見えている部分に関しては万全だと思っている。だが、何かが足りてない。こういうのは良くないから早々に解決しておきたいんだが――」

 

 こういうことは今までにも何度かあった。

 正体の見えない不安が何なのか、突き止められるときもあれば、突き止められないときもあった。

 ただ、朝潮の言う通り、そういうときは大抵ろくなことが起きない。

 

「西方のことが気がかりなのではありませんか?」

「西か……」

 

 敵の大軍が東にいたので、索敵は東、次いで南北を重視した。

 西についても多少の注意は払っているが、他の方面に比べると些か不安が残っている。

 

 もっとも、トラック泊地、横須賀鎮守府、ショートランドやブイン等の警戒網をすり抜けてトラック西部に入り込むのは容易ではない。少なくとも大軍が入り込んでいる可能性はほとんどないだろう。

 

「パラオには援軍を頼んである。西に伏兵がいたとしても、パラオから来る部隊が気づくだろう。その点は、おそらく大丈夫だ」

 

 言いながら、仁兵衛はふと周囲に視線を巡らせた。

 艦橋には朝潮含む側近の艦娘が数人と、クルーが何人か乗り込んでいる。

 特に変わった様子は見られない。

 

 ……そういえば、僕も含めてスタッフ陣は全員丸腰だな。

 

 なぜか、仁兵衛はそのことが妙に気になった。

 戦場に出ているとは言え、仁兵衛やスタッフたちは直接深海棲艦とやり合うわけではない。

 やり合うにしても、艦娘や妖精の力がなければ深海棲艦に有効打は与えられない。

 だから、仁兵衛たちが丸腰でも別に問題はないはずだった。

 

「……朝潮君。念のため、この母艦付近の警戒態勢を少し強化しておいてくれないか」

「分かりました」

 

 朝潮は素直に頷いて、他の艦娘たちに指示を出す。

 そんな相棒の姿を見ながら、仁兵衛は意識を正面の戦場に戻した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九陣「トラックの黄昏」

「ふと疑問に思ったんだが、お前は僕と話をしていて腹を立てたりすることはないのか?」

 

 それは、些細な好奇心から生じた問いかけだった。

 互いの拠点の近況報告を済ませた後の雑談の中で、毛利仁兵衛は通信機の向こうの相手にそんなことを聞いてみた。

 

「僕はそのつもりはないのだが、どうも相手を苛々させてしまうところがあるらしい。うちの艦娘ですらそうだ。だが、極稀にそんな素振りを見せない奴がいる。お前もその一人だ。だが、実際のところはどうだろう。表に出さないだけで、苛々していたりするのか?」

『また答え難い質問をするな、仁兵衛は』

 

 相手は、若干呆れたような声で応じてきた。

 

『私はあまりそういうのは気にしない性質だよ。鈍い鈍いとよく言われる。……まあ、仁兵衛相手に苛々する人の気持ちも分からなくはない。ああ、これはこの人は怒るだろうなあ、と思うことはある。もう少し話し方というか、人への接し方を見直したら良い。石田治部みたいになるぞ』

 

 石田治部というのは、安土桃山時代の武将である。

 主君亡き後、主家のために活動したものの、生来の人望のなさで破滅したとされる人物だ。

 

「答え難いという割にはズバズバ言ってくれるな。ま、僕はそういう奴の方が話していて楽しいが」

『それはどうも。私も仁兵衛の話は聞いていて面白いよ。お前はいろいろなことが見えているからな。いろいろなことに気づかされる』

 

 言葉だけ並べたてるとおべっかのようにも受け取れるが、相手の声音にそういった卑屈なものは一切なかった。

 彼は平凡な男だった。仁兵衛のような智略もなければ、三浦剛臣のような優れた指揮能力があるわけでもない。

 ただ、人の話をよく聞き、人の長所を見つけ出し、それを伸ばすことのできる提督だった。

 

「……たまに思うことがある。お前が大本営のトップに立っていれば、今より皆もっとやりやすくなるんじゃないかとな」

『冗談を言うな。私にはとても務まらん』

「お前一人じゃそうだろうが、優秀な側近がいれば話は別だ。お前はそうせい侯として丁度良い」

『なんだ、治部に例えたことへの意趣返しか』

 

 そうせい侯というのは、部下の言うことにしょっちゅう「そうせい」と答えた江戸時代末期の殿様のことである。

 相手は仁兵衛の言葉を冗談として捉えたらしく、おかしそうに笑った。

 だが、すぐに苦しそうに咳き込む音が聞こえてくる。相手は、あまり身体が丈夫な方ではなかった。

 

「悪いな。長話し過ぎたか」

『いかんなあ、友達との話は時間を忘れる。今日はこれくらいにしておこう』

「そうだな。養生しろよ」

 

 仁兵衛はそう言って通信を切ろうとする。

 その直前に、相手がポツリと呟いた。

 

『もし私に何かあったら、康奈のことを頼んでいいか』

「縁起でもないことを言うな。お前はしばらく休養するだけだろ。さっさと回復して面倒見てやれ」

『もちろんそのつもりだ。そのつもりだが、人間、何があるか分からないからな』

「……ふん。そう言われると反論のしようがないな。しかし僕で良いのか。こんな偏屈野郎で」

『石田治部なら、この手の約束を破ることはないだろう』

 

 石田治部は、周囲に理解されず破滅した。

 しかし、最後まで主家のために奮闘した。それは、石田治部と敵対した相手も認めたところである。

 

「ずるい奴だ、お前は」

 

 仁兵衛はそう言って通信を切った。

 

 AL/MI作戦が始まる、ほんの少し前のことである。

 

 

 

 トラック泊地の艦隊の勢いが、少しずつ衰えてきていた。

 燃料や弾薬が尽きた隊は、適宜後退して補給しながら戦っている。資源はまだ豊富に残っていた。

 ただ、艦娘たちの疲労は蓄積し続けていく。数の上では相手の方が圧倒しているため、休ませておける隊がいないのである。

 

「司令官。そろそろ……」

 

 朝潮が仁兵衛に目配せした。

 

「ああ。各隊に、少しずつ後退するよう伝えろ。防衛ライン沿いに退き、そこで長期戦の構えに移れ」

「了解。各隊、防衛ラインまで後退!」

『了解!』

 

 朝潮の指示に、通信機から応答の声が聞こえた。

 疲労感が滲み出ているが、戦意はまだ十分だ。後退は難しい動きの一つだが、そこで無様を晒すようなことはないだろう。

 

「……少し霧が出てきたね」

 

 戦場を覆うように、少しずつ海霧が広がってきている。

 互いに相手の姿が確認し難くなる。それが、トラック側にとって吉と出るか凶と出るか。

 天候が戦の趨勢に影響を及ぼした例は少なくない。仁兵衛は、この霧に何か嫌なものを感じた。

 

「霧は身を隠すのを助けてくれる。これが彼女たちの力になってくれると良いんだが」

 

 タイミングは任せてあるが、そろそろ康奈と智美が奇襲を仕掛けてもおかしくない頃合いだった。

 危険な仕事を押し付けてしまった負い目を感じながら、仁兵衛は彼女たちの艦隊の無事を祈る。

 いかに策を練ろうと――最後にはこうすることしかできないのだと、そう痛感しながら。

 

 

 

「北条提督」

 

 霧が濃くなりつつある中、康奈に声をかけてくる者がいた。

 新十郎だ。包帯で全身を包み込んだ男は、出撃していった艦娘の方を見やりながら、複雑そうな表情を浮かべている。

 

「何か懸念事項でもあるの?」

「あるなら作戦会議のときに言っているさ。多分奇襲作戦はそれなりの効果を出すと思う。……ただ、この霧がちょいと気がかりでね。これは想定していなかった」

 

 新十郎は不安そうな眼差しを大海原に向ける。今や、視界に入る光景の大部分に霧が広がりつつあった。

 

「これだけ霧が広がると、向こうも同じことを仕掛けてこないかが気になる」

「……毛利提督の船?」

「あるいはトラック泊地。この船もヤバイっちゃヤバイが、それは霧とは関係ないからな。霧に乗じて攻めるという意味なら、最初に挙げた二つのどちらかだろう」

 

 新十郎の指摘はもっともだった。

 敵は本能のまま襲い掛かってくる獣ではない。中には人語を解する個体もいる、戦術・戦略的行動を取る存在なのだ。

 

「毛利提督ならその可能性に気づいていると思うけど、念のため通信で警告はしておくわ」

「その方が良いだろう。……その通信は安全なんだろうな?」

「提督同士専用の通信機で連絡する。これは互いの霊力によるテレパシーの応用らしいから、普通の方法で傍受されることはないと思う」

 

 かつて横須賀鎮守府の技術開発部が開発した専用の通信機だ。

 提督同士の通信にしか使えないという欠点はあるが、電波妨害等の影響を受けないという長所もある。

 

 康奈は通信機を取り出し、毛利仁兵衛宛てに通信を試みた。

 

 

 

 霧はますます濃くなってきた。遠方の敵はまともに捕捉することもできない。

 ただ、それは相手も同様のはずだった。つまり、今は奇襲を仕掛ける絶好のチャンスでもある。

 

 相手はまだこちらを捕捉していない。加えてこちらは小勢なので、視界の悪さで起こり得る同士討ちの不安が少なかった。

 トラック泊地の艦隊と深海棲艦の砲撃戦はまだ続いている。既に戦端が開かれてから結構な時間が経過していた。そろそろトラック艦隊の疲労も溜まってきている頃だろう。

 

 今が頃合いだと、康奈は判断した。

 

「大淀隊、金剛隊は共に出撃。大淀隊はこちらの近くに布陣していた遊撃隊を殲滅。金剛隊は敵本隊に突撃を仕掛けて、大いにかき乱して。撤退の判断は現場に任せるわ」

「了解デース!」

「了解しました」

 

 金剛と大淀が康奈の指令に応じる。彼女たちの側で、磯風や他のメンバーも出撃の準備を終えていた。

 

 奇襲を仕掛けるからか、出撃メンバーはそれぞれ黙々と母艦から出て行く。

 康奈もそれを無言で見送っていたが、磯風が出撃するタイミングになって、不意に彼女の肩を叩いた。

 

「司令?」

「……期待してるわ。武勲を立てて来なさい」

 

 康奈からの激励に、磯風は少しだけ顔を赤らめて、大きく頷いていった。

 

「しれー。磯風に発破かけて良かったの?」

「フラストレーション溜まってるみたいだし、思いっきりぶちまけるための後押しをした方が良いと思ったのよ」

 

 時津風は磯風と康奈のやり取りを見ていたのだろう。

 怪訝そうに康奈へ問いかけたが、康奈はあえて調子の良いことを時津風に言った。

 そうやって皆を上手く乗せてやることも、時には大事なのだ。今回のように寡兵で臨まなければならない戦いの場合など、景気の悪いことを言っても逆効果だと、康奈はそう考えていた。

 

「危ないと思うなー。歯止め利かなくなるかもよ」

「そのときは時津風が抑えてね」

 

 時津風の肩を叩いて、康奈は少し甘えるように言った。

 

「仕方ないなあ、しれーは。今度何か奢ってよね」

「考えとくわ。だから、ちゃんと帰ってくるように」

「あいあいさー」

 

 時津風は普段と変わらぬ気楽さで出撃していく。

 そのマイペースっぷりが、今は頼もしく映った。

 

 

 

 後退するトラック泊地の艦隊に対し、深海棲艦はこれを追撃するか決めかねているようだった。

 これまで相手に翻弄される形になっていたので、警戒心が働いたのかもしれない。

 

 そこに、霧に乗じて南北からショートランドと横須賀第二の部隊が挟撃を仕掛けた。

 急襲部隊の勢いは凄まじく、視界が悪いことも相まって深海棲艦の軍勢は大混乱に陥った。

 

「行く手を阻む輩は全部敵デース! 遠慮なくぶっ飛ばしてくだサーイ!」

 

 景気の良い金剛が先頭を行き、その後ろに高尾や愛宕、木曽が続いた。

 磯風や時津風も彼女らに負けじと前に出ていく。

 

 金剛の言う通り、周囲はすべて敵で埋め尽くされている。

 おまけにまだ混乱の最中にあるようで、適当に撃つだけでも敵に次々命中するという有様だった。寡兵で奇襲を仕掛けるメリットの一つである。

 

「ならば、遠慮なく行かせてもらおうか!」

 

 磯風は金剛たちを追い抜き先頭に躍り出る。

 駆逐艦の主砲は射程・威力ともに戦艦や重巡より貧弱だった。

 そのため、敵との戦いでは距離を詰めたインファイトに持ち込む必要がある。

 

 深海棲艦の懐に飛び込むと、磯風は相手の急所を見定めて主砲を撃ち込んだ。

 駆逐艦のものとは言え、零距離から放たれる攻撃である。まともに喰らった深海棲艦は致命傷を負った。

 

 そんな深海棲艦の身体を抱えると、磯風は敵軍目掛けてそれを投げつける。

 敵かと早合点した深海棲艦たちは、一斉に投げ込まれた同胞に攻撃を加えた。

 その隙を突く形で、磯風は魚雷を撃ち込む。放たれた魚雷は、周囲一帯の深海棲艦を巻き込んで大爆発を起こした。

 

「磯風、凄いネー。駆逐艦でこれだけ無茶苦茶やるの、夕立くらいだと思ってたヨー!」

 

 縦横無尽に暴れ回る磯風に、金剛は驚きの声を上げた。

 しかし、磯風は金剛の声など気にも留めず、どんどん奥へと突き進んでいく。

 獲物に食らいつく猟犬のような獰猛さだった。

 

「やっぱり、相当フラストレーション溜まってたなー、あれは」

「時津風。何か心当たりあるデース?」

「んー。触発されてたんだと思うよ。横須賀第二鎮守府と――清霜たちに」

 

 磯風を一人にすまいと、金剛や時津風たちも懸命に後を追う。

 事前に調べていた敵旗艦の所在地まで、あと少しのはずだった。

 

「この前の戦いでは、磯風はほとんど出番らしい出番もないまま終わっちゃったからね。一方で、春雨は懸命に戦い抜いたし、清霜は尋常じゃない戦い方を示してみせた。横須賀第二は言うまでもないっていうか。凄い活躍を目の前で見せつけられて、自分は何もできなかった。それが『磯風』の名を持つ身としては耐え難かったんだと思う」

「……なるほど。武勲艦の強味でもあり、辛いところでもあるところネ」

 

 艦娘は艦艇の魂を宿している。そのため、元々の艦艇の存在に引きずられてしまう面がある。

 これは良くも悪くも個性となる。広く名を知られた艦や武勲を打ち立てた艦は、そういった傾向が顕著に現れるケースが多かった。

 

「言ってしまえば一種の負けず嫌いなんだけど、うちらの場合負けたくないって意地は自分だけのものじゃないからね。艦艇の記憶に責め立てられる気持ちになるんだ。お前はそれでもこの名を継ぐものなのかって。ある意味、呪いの一種だよ」

 

 そんなことを言い合っているうちに、金剛隊は大きな壁に当たった。

 軽巡と思しき新種の人型深海棲艦に、戦艦棲姫や空母棲姫。

 それらが、ある深海棲艦を守るかのように陣を組んでいた。

 

 見た目は戦艦棲姫に似ている。

 ただ、戦艦棲姫よりも一回り大きな艤装を背にしていた。

 戦艦棲姫のものと同様、人に近い形をした怪物のような艤装である。

 

「――同時に到着みたいネ」

 

 と、金剛が深海棲艦たちの向こう側を見て呟いた。

 そこには、紺色のスカーフを身に着けた一団がいた。

 

 先頭に立つのは神通。

 その両脇を扶桑・山城が固めていた。更に後ろには軽巡・駆逐・空母が控えている。

 駆逐艦の中には朝霜の姿もあった。横須賀第二のメンバーとして、ここまで戦い抜いてきた。

 新人とは言え、それくらいの実力は持っている。

 

 神通は金剛隊を一瞥すると小さく頷いた。

 それに応じるかのように金剛も頷く。

 

「ここで敵の親玉を仕留めマース! 総員、突撃してくだサーイ!」

「了解!」

 

 号令と同時に、磯風が先陣を切って敵に飛び込んでいく。

 姫クラスが相手でも物怖じする様子はない。

 むしろ、先程までよりも闘志は増しているように見えた。

 

 

 

 敵陣の変化に、仁兵衛はすぐ気づいた。

 トラック泊地軍を追撃する敵の勢いが僅かに落ちている。

 おそらくショートランドと横須賀第二が挟撃を仕掛けたのだろう。

 

「司令官」

「ああ、分かっているとも朝潮君。……各部隊、前進せよ! 敵の意識を後方に集中させるな! 彼女たちが撤退するまで、敵前衛の視線をこちらに釘付けにするんだ!」

 

 敵前衛部隊が後方に引き返したら、ショートランド・横須賀第二の部隊は袋のネズミになる。

 今は、疲労を押し殺してでも敵の目をこちらに引き付けておく必要があった。

 

「この艦はもう少し後方に下げた方が良くありませんか」

「いいや。この霧だ、味方艦隊から孤立するのはまずい。他の艦隊と併せて前に出るよ」

 

 仁兵衛は、先程康奈と交わしたやり取りを思い出していた。

 奇襲の可能性。元々その可能性も考えていたが、康奈も警戒していることを踏まえると、より注意しておくべきだと思った。

 

 ……僕にしては消極的だろうか。

 

 仁兵衛はどちらかというと守りよりも攻めを重視するスタイルだった。

 無策の突撃は決してしないが、彼の戦術は自ら仕掛けていくことに比重を置いている。

 

 いつもより慎重なのはこの霧のせいか。

 そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、朝潮が鋭く叫んだ。

 

「――司令官!」

 

 なんだ、と仁兵衛が口にするよりも早く、朝潮が仁兵衛の身体を突き飛ばした。

 その小さな身体が、無機質な怪物の身体によって殴り飛ばされたのは、その直後のことだった。

 

 いつの間に入り込んだのか――仁兵衛たちの母艦の艦橋に、一体の深海棲艦がいた。

 重巡洋艦の深海棲艦。取り立てて珍しい個体ではない。鬼・姫クラスのような相手でもない。

 ごくありふれた深海棲艦だったが――それが今、艦隊をすり抜けて母艦内部に侵入している。

 

「各員、逃げろ!」

 

 仁兵衛の叫びによって、艦橋は悲鳴に包まれた。

 深海棲艦は人間を凌駕する身体能力を有している。訓練された軍人でも、まともに戦って勝つことはできない。

 まして、トラック泊地のスタッフたちは仁兵衛含めて民間出身者ばかりだった。

 

 恐怖のあまり動けない者、我先にと逃げ出す者、様々な者たちの悲鳴に覆われる艦橋で、深海棲艦は真っ直ぐに仁兵衛を見据えた。

 

 侵入する際に邪魔になったからか、深海棲艦は艤装を身に着けていなかった。

 もっとも、素手でも人間相手ならば何の支障もない。

 首を掴んで力を入れれば、それで終わりだった。

 

 仁兵衛はじりじりと後ずさりながら朝潮の様子を窺った。

 敵の奇襲をまともに喰らったのだろう。お腹を抱えて苦しそうに咳き込んでいる。

 

 他の艦娘は全員外に出していた。

 一歩ずつ迫りくる深海棲艦相手に、仁兵衛が打てる手は、何もない。

 

「……まいったな。こんな読み違いをするとは。こんなのは奇襲ですらない。暗殺だ。こんな手を打つなんて、まるで人間そのものみたいじゃないか」

 

 深海棲艦はゆっくりと腰を下ろした。

 仁兵衛に飛び掛かり、一息に捻り殺すつもりなのだ。

 

 仁兵衛の頭の中が真っ暗になった。

 さすがに、これは助からない。そして、死を前にしても冷静でいられるほど、仁兵衛は怪物じみた精神の持ち主ではない。

 

「ちくしょうが。こんな形で負けるなんざ――納得できるか……っ!」

「――なら、助けようか」

 

 声がしたのは、まさに深海棲艦が飛び掛かろうとしたその瞬間のことだった。

 深海棲艦目掛けて、どこからともなく銃弾が放たれる。

 致命傷にはならないものの、鬱陶しいと思ったのか、深海棲艦はすぐさま飛び退いた。

 

 仁兵衛と深海棲艦の間に割って入ってきたのは、紺色のスカーフを巻いた川内だった。

 

「どーも。うちの提督に言われて、助けに来たよ」

「……智美君が?」

「そ。もしかすると毛利提督は暗殺されるかもしれないからって。だから、勝手ながらこっそり忍び込んで護衛させてもらってたんだ。……ま、それに見合った報酬はいただくつもりだけどね」

 

 川内は軽い口調で仁兵衛に説明したが、一寸たりとも気は抜いていなかった。

 飛び退いた深海棲艦は変わらず仁兵衛に狙いを定めていた。相手に付け入る隙を与えないよう、殺気を相手に向かって放ち続ける。

 

「……ちっ。まずいね」

 

 何かに気づいたのか、川内は舌打ちして朝潮を抱きかかえた。

 そのままスッと仁兵衛の側まで後退する。

 

「来るよ」

「なに?」

 

 川内の言葉に呼応するかのように、艦橋の入り口の方――何人かのスタッフが逃げていった方から、甲高い悲鳴が聞こえてくる。

 やがて、悲鳴がパタリと止み、何人かのスタッフの死体を両手に抱えた深海棲艦たちが艦橋に入り込んできた。

 

「この霧に乗じて侵入してきたか、あるいは個別に潜入していたのか……」

「どっちにしても同じだよ。けど、これじゃまずいな。毛利提督、もしかすると守り切れないかもしれない」

「冗談じゃない。こんなところで死んでたまるか」

 

 川内から受け取った朝潮を背負いながら、仁兵衛は憤慨した様子で吐き捨てるように言う。

 

 そのときだった。

 艦橋の入り口付近に立っていた深海棲艦を、小柄な艦娘が砲撃で吹き飛ばしたのは。

 

「――大丈夫ですか、毛利提督っ!」

 

 水上ではなく船上で艤装を振り回す。

 そんな、一歩間違えば船を破壊しかねない危険なことをしでかした駆逐艦――清霜は、開口一番そう叫んだ。

 

「……少しは希望が、見えてきたかもね」

 

 仲間をやられて殺気立つ深海棲艦たちを前に、川内はどこまで本気か掴みかねるコメントをした。

 

 

 

「ひゃあっ!?」

 

 艦橋に踏み込んだ清霜は、すぐさま川内に襟首を掴まれた。

 川内は清霜を掴んだまま、仁兵衛たちを艦橋から脱出させる。

 

「簡単に説明するよ。艦橋に深海棲艦が何体もいる。他にも侵入してきてるかもしれない。救命ボートを確保して毛利提督を泊地まで逃がす。理解した?」

「は、はい!」

 

 有無を言わさぬ口調の川内に、清霜は思わず敬礼して答えた。

 

 艦橋から出た先にも、深海棲艦たちが待ち受けていた。

 トラック泊地艦隊の意識が敵前衛に向いていた。その隙を突かれた格好になる。

 

「くそ。こんなことになるなんて……!」

 

 仁兵衛は苛立たし気に髪を掻きむしった。

 彼は常に冷静沈着というタイプではなかったが、ここまで感情をあらわにするのは珍しい。

 

 深海棲艦たちに見つからないよう、物陰に隠れながら救命ボートのところへと向かう。

 

「……司令官。落ち着いてください」

 

 深海棲艦にやられた傷が痛むのか、朝潮が苦しそうに声を絞り出した。

 

「こういう形での奇襲は、想定できたはずです。これは見落としです。私も、司令官も見落としていたんです。負けを認めましょう。その上で、先のことを考えましょう。……いつか、司令官が私たちに教えてくれたことです」

 

 仁兵衛は息を呑んだ。

 朝潮の言葉を噛み締めるように、何度か深呼吸をする。

 

「……すまなかったな、朝潮君。そうだ。本当は気づけたはずだ。連中がこういう手段に訴えてきたのは、今回が初めてじゃない。気づく機会はあった」

「――AL/MI作戦のこと?」

 

 川内が尋ねると、朝潮は頷いた。

 

「あのとき、AL/MI海域の大海戦に日本は兵力の大半を割いた。その隙を突いて、手薄になっていた各地の拠点が襲われた。……ただ、その奇襲によって出た被害は思いの外少ない。奴らは特定のものを狙って動いていた節がある」

「特定のもの、ですか?」

 

 清霜が首を傾げると、その場にいた全員が複雑そうな表情を浮かべた。

 

「そうか。君はあの戦いの後で着任したんだったな。……君をここへ寄越したのは康奈君かな?」

「はい。念のため毛利提督の護衛をしてくれって」

「とすると彼女も気づいていたわけか。……狙われていたのは、各地の『提督』だよ」

「……提督を、深海棲艦が?」

「連中は理解しているんだ。艦娘を率いる提督って存在を。それが艦娘にとっての最大の急所であることを」

 

 仁兵衛は苦々しい表情を浮かべた。

 

「AL/MI作戦のときは、拠点に残っていた提督の1/3が何らかの被害に遭ったらしいよ。軽傷で済んだなら運が良い方で、中には再起不能ほどの重傷を負ったり、亡くなった人もいるらしい。……私が前にいた泊地の提督も、それにショートランドの先代提督もそうだった」

 

 川内が物憂げに補足する。

 横須賀第二鎮守府が設立したのはAL/MI作戦の後だが――川内はそれ以前から、どこかの拠点で艦娘として活動していたらしい。ただ、彼女はそれ以上言葉を重ねることはしなかった。

 

「情けない話だ。僕はまだあの戦いに正面から向き合えていなかったってことだ。……こんなんじゃ、あいつに笑われるな」

「司令官」

「分かっている。今は逃げることを優先しよう」

 

 深海棲艦たちは周囲の人間を手当たり次第襲い始めていた。

 艦橋の中や甲板は、既に地獄の様相を呈している。

 

 甲板上の目立つ位置に置いていた救命ボートは、すべて破壊されていた。

 

「これじゃ逃げられないね。いっそのこと身一つで海に飛び込んだ方が良いかもしれない」

「深海棲艦からしたら格好の的になりそうだな……。だが、救命ボートにこだわって逃げる好機を逃すのも同じくらいまずいか」

「人を抱えながらだとまともに戦えないから一方的に攻撃され続ける恐れもあるけど、この霧なら相手に気づかれずに逃げられる可能性もなくはないね。清霜、朝潮を頼める?」

「分かりました」

 

 朝潮を清霜が、仁兵衛を川内が背負い、海に飛び込んで一直線にトラック泊地まで駆け抜ける。

 かなり危険な方法だが、それしか道は残されていないようだった。

 

 しかし、清霜が朝潮を受け取って背負おうとしたとき、更なる異変が艦を襲った。

 

 砲撃である。

 

 乗り込んできた深海棲艦によるものではない。

 彼らは暗殺を第一と考えているからか、艤装を付けていなかった。

 艤装の力を振り回せば艦を沈めてしまう恐れがある。標的を確実に仕留めたという確証がないうちに沈めてしまっては、暗殺の成否が判断できない。

 

 砲撃は、敵前衛艦隊によるものだった。

 直撃こそしなかったものの、至近距離に砲弾が落下し、船が大きく揺れ動く。

 

「まずい。僕からの通信が途絶えたことでこっちの前線が崩れ始めている」

「こっちが生き延びるかどうかとは別の大問題だね。今は後方で神通たちが攪乱しているだろうけど、指揮官不在のままじゃ押し切られる」

「……なら、尚更早くトラック泊地に戻らなきゃ駄目ですね。戻れば、各部隊への連絡手段もあるんですよね」

 

 川内の予測を聞いて、清霜は仁兵衛に問いかけた。

 仁兵衛は頷く。この艦に備え付けられていた各部隊との通信設備は泊地にもある。

 急ぎそこまで戻れば状況を立て直すことも可能だった。

 

「なら、全速力で行くよ!」

 

 仁兵衛を背負いながら、川内はすぐさま通路から飛び出し、甲板上を駆け抜けて海へと飛び込む。

 清霜も朝潮を背負って、その後を慌てて追いかけた。

 

 

 

 仁兵衛からの通信が入ったのは、挟撃作戦が始まってしばらく経った頃のことだった。

 康奈だけでなく、智美にも繋がっているようだった。

 

『すまない。やられた』

 

 開口一番、仁兵衛は謝罪した。

 

「無事ですか、仁兵衛さん」

『君たちが派遣してくれた二人のおかげで僕と朝潮君はどうにか。艦は駄目だ。まったく、戦術家気取りも今日で卒業した方が良さそうだ』

『そうやって自己分析できるなら問題ないでしょう。それで、今後どうされるのですか』

 

 仁兵衛の弱音を一蹴して智美が方針を確認する。

 康奈や智美は自分たちの艦隊との連絡手段は持っているが、トラック泊地への連絡手段はない。

 仁兵衛に代わって指揮を執るのは不可能だった。

 

『僕らは今トラック泊地に向かっている。そこまで辿り着けば立て直せるはずだが、それまでうちの艦隊はまとまった動きが取れない。挟撃部隊が追い込まれるリスクはかなり高まったと言える。僕としてはすぐさま撤退することを推奨したい』

 

 仁兵衛は、ショートランド・横須賀第二鎮守府への直接的な命令権を持っていなかった。

 推奨するという言い方をしたのはそのためだ。

 

『撤退後はどうします?』

『……君たちはすぐに自分たちの拠点まで戻ってくれ。僕らも敵を迎撃しつつ、トラック泊地を放棄する』

 

 通信機の向こうからは、砲声が絶え間なく聞こえてきた。

 敵の攻撃が激しさを増しているらしい。仁兵衛が指揮を執れなくなったことで、大勢は決したと言って良かった。ここから立て直したとしても、取り得る選択肢は撤退くらいしか残されていない。

 

「……あまり気になさらないでください。元々無理な戦力差だった。ここまで耐え抜いただけ凄いと思います」

『慰めはいらないよ。それに放棄すると言っても一時的な話だ。すぐに取り戻すさ』

 

 強がりを言っているようには聞こえなかった。

 仁兵衛は、本気で取り戻すつもりなのだろう。

 

『川内君と清霜君は、僕がトラック泊地まで帰り着いたらすぐに帰させるよ。そのときに報酬を持たせておく』

「報酬って……別に、そんなのは」

『トラック泊地に残しておくわけにはいかないものだ。報酬だと受け取り難いなら、預かると思って受け取ってくれ』

『……その報酬というのは?』

 

 智美の問いに、仁兵衛は少し間を置いて答えた。

 

『僕は、独自にAL/MI海域の調査を行っていた。……その結果をとりまとめた資料すべてだ』

 

 そのとき、通信機の向こう側から、どこかで聞いたことのある嫌な音が聞こえてきた。

 

「毛利さん」

『まいったな、敵艦載機だ。すまないがここで通信は切る。――生き延びたまえ』

 

 そこで、ブツリと通信は途切れた。

 

 ……毛利さん。

 

 敵艦載機の音を聞いたせいか、康奈の脳裏にはAL/MI作戦のときの光景が蘇っていた。

 逃げ続ける先代提督と康奈。しかし逃げきることはできず、二人は敵艦載機の攻撃を受けた。

 そして――。

 

「……北条提督」

 

 康奈の様子がおかしいと察したのか、側に控えていた新十郎が気遣うように声をかけてきた。

 おかげで、康奈は正気に立ち返った。

 もう、半年以上前のことだ。いつまでも引き摺っているわけにはいかない。

 

「各部隊に連絡するわ。敵への強襲作戦は中断。各部隊がこの艦に戻り次第――トラック泊地へ向かう!」

 

 引き摺られているわけではない。

 ただ、このままショートランドに戻るという選択肢は、康奈の中に存在しなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十陣「憤りし者たちの行軍」

 霧の海に、人の姿が見えた。

 二人――否、その背中に抱えられた人も含めて、四人いた。

 

「あれは……」

 

 紺色のスカーフを巻いた川内と、清霜だった。

 二人はそれぞれ、仁兵衛と朝潮を背負っている。

 四人は、いずれも怪我をしているように見えた。

 

「大変。大江さんに知らせないと」

 

 トラック泊地の天城は、慌てて通信で大江元景を呼び出した。

 元景に四人のことを伝えると、天城はすぐに四人の元へと駆け寄った。

 

 近づくにつれて、四人の様子がはっきりと見えてきた。

 全員、怪我は決して軽いものではなかった。あちこちに撃たれた跡がある。敵艦載機に襲われたのだ。

 

「皆さん、大丈夫ですか!」

 

 声をかけられて、川内はようやく天城に気づいたらしい。

 

「あれ、貴方は……トラックの艦娘?」

「正規空母・天城です。着任間もなかったので留守を任されていました。……提督は?」

「……」

 

 川内は自分の背中でぐったりしている仁兵衛を見た。

 仁兵衛も川内たちと同様、怪我を負っている。決して軽い怪我ではない。

 艦娘に比べると、人間は脆い。同程度の怪我でも、危険度はまるで違っていた。

 

「早く泊地で治療しないとまずいかもしれない。悪いけど頼める?」

「はい。皆さんは……」

「もうすぐそこなんでしょ? だったら自力で行くよ。……行ける?」

 

 川内は隣の清霜に尋ねた。

 清霜は「はい」と力強く頷く。川内と比べると清霜の怪我はそこまで酷くはなかった。敵が重点的に仁兵衛と、仁兵衛を背負う川内を狙ったからだ。

 

「良い返事だ。……天城、毛利提督を頼むよ」

「分かりました。必ずお助けします」

 

 天城は川内から仁兵衛の身体を受け取ると、あまり揺らさないようしずしずと泊地に戻っていく。

 

「毛利提督、助かりますよね」

 

 清霜の問いに川内は答えなかった。

 

 霧の中での逃亡劇は凄惨なものだった。

 こちらは反撃できない。敵はやたらめったらと撃ち続けてくる。

 撒けたかと思えば別の艦載機が襲い掛かってくる。そんなことが何度も続いた。

 

「悪いね、清霜。少し先に行ってくれないかな。私は少し疲れたよ」

「それは駄目です」

 

 清霜はキッパリと川内の提案を蹴った。

 そして、崩れ落ちそうになっていた川内に肩を貸す。

 

「ここは泊地の側ですけど、いつ敵が来るか分からないですもん。連れていきます。私が」

「――ハッ。大した返事だ。うちの提督や神通が気にかけるのも分かるよ」

 

 清霜は川内の評を聞いていないのか、歯を食いしばりながら二人分の曳航を始めた。

 

 砲声は未だ止まず。

 トラック泊地を巡る攻防は、新たな局面を迎えようとしていた。

 

 

 

「撤退か」

 

 旗艦・金剛からの指示を聞いて、磯風は無念そうに表情を歪ませた。

 眼前には、躯となった鬼・姫クラスの深海棲艦が横たわっている。

 大物には違いないが、本命である巨大な戦艦棲姫は健在だった。ショートランド・横須賀第二の部隊から距離を置きつつ、部下をけしかけて戦いを冷静に見据えている。

 

「このまま残ってもやべーし、ここが潮時だろうさ。暴れるのは好きでもやられるのは嫌だろ?」

 

 磯風の隣で、横須賀第二の朝霜が息を切らしながら言った。

 挟撃部隊の消耗も激しくなっている。また、敵が徐々に磯風たちを囲み込むような動きを見せつつあった。

 

「互いに生き残りましょう。貴方の戦ぶり、見事なものでした」

 

 そう告げたのは、横須賀第二の旗艦・神通だった。

 彼女は、この場の誰もよりも深い傷を負っている。しかしその反面、一番涼しい顔をしていた。

 

 華の二水戦の旗艦・軽巡洋艦神通。

 その名を冠するだけあって、彼女の戦い方は苛烈を極めていた。部下にも無茶な要求をするが、それ以上に無茶なことを自身でやってのけている。ショートランド泊地にも神通はいるが、この神通ほどの凄味を感じたことはなかった。

 

 そんな相手からの称賛の言葉は、武勲艦たらんとする磯風にとって最高の栄誉だった。

 

「私は貴方ほどのもののふを知らない。できれば、また共に戦う機会を得たいものだ」

「同感です。……朝霜、戻りますよ」

「了解」

 

 神通は朝霜を連れて、元来た道に戻っていった。

 

「磯風。こっちもモタモタしてる余裕はないよ」

「承知している。早く戻って司令を安心させてやろう」

 

 時津風に促されて磯風も踵を返す。

 

 本命だった巨大な戦艦棲姫が何かを叫んだ。

 逃がすな、と言っているのかもしれない。

 

 ……追ってこれるものなら追ってこい。

 

 内心の昂ぶりを抑えきれず、磯風はつい笑みをこぼした。

 

 

 

 トラック泊地を覆う雰囲気は暗くなる一方だった。

 

 泊地の部隊は、異常を察した大江元景の指揮でかろうじてまとまっている状態である。

 

 元景は泊地で待機しつつ仁兵衛たちの艦を経由して戦況を確認していた。

 その途中、突如仁兵衛たちと連絡が取れなくなったため、急遽代理で指揮を執り始めたのである。

 この動きのおかげで、トラック泊地の艦隊は潰走を免れた。

 

 それでも、本来の指揮官の不在は大きな痛手だった。

 加えて、トラック泊地の艦娘たちは実力を十分に発揮するだけの霊力を仁兵衛から得られなくなり、元々疲労が重なっていたことも相まって弱り切っていた。

 

 艦娘は受肉する際に提督と契約を結び、提督から得られる霊力を活動の糧としている。

 仁兵衛が重傷を負ったことで、それが十分に得られなくなった。

 人間で例えるなら、水分が不足して脱水症状を起こしているに等しい。

 

 戦闘の継続が困難になり泊地に戻ってくる部隊も多くなった。

 そこで彼女たちを待ち受けていたのは、仁兵衛が重傷を負ったという知らせである。

 泊地の空気が暗くなるのも無理はなかった。

 

「はい、お水どうぞーっ」

 

 そんな空気の中、一人元気に駆け回る艦娘がいた。

 清霜である。

 

 清霜は仁兵衛と契約を交わしているわけではないから、霊力不足に陥る心配はなかった。

 負傷してはいるものの、動けないほどではない。

 

 ……だったら、今できることをしなくちゃ。

 

 気落ちしている艦娘たちに差し入れをしつつ、清霜は意識して明るく振舞っていた。

 

「あんたは元気だねえ」

 

 差し入れを一通り配り終えて一息ついているところに、身体を引きずりながら川内がやって来た。

 彼女の傷は深い。深海棲艦が積極的に狙っていた仁兵衛を背負っていたからだ。

 清霜と違って、彼女は動くのが精一杯という様子だった。

 

「元気なのが取り柄ですから!」

「なんだか眩しいな。うちにもあんたみたいなのがいれば、大分雰囲気変わるんだろうけど……」

 

 川内は肩を落としながらぼやいた。

 

「すまない。少し邪魔をする」

 

 そこに、大江元景が姿を見せた。

 側には朝潮もいる。

 

「いいんですか、指揮は?」

「今大和に替わってもらったところだ。実戦で指揮を執った経験は彼女の方が多い。心配はないだろう」

 

 トラック泊地の大和は数多の戦線で戦果を挙げてきた強者で、この泊地における司令塔の一人だった。

 朝潮が提督の補佐官なのに対し、大和は方面司令官として経験を積んできている。

 こういうときは、非常に頼りになる存在だった。

 

 元景は、大分憔悴しているようだった。

 

 提督というのは、艦娘や拠点のスタッフにとって組織的にも精神的にも支柱と言うべき存在である。

 それが重傷を負い、敵の大軍が目前に迫っている。

 今や、トラック泊地の命運は風前の灯火だった。

 

「それより朝潮から聞いた。先生がこれを君たちに、と言っていたそうだな」

 

 元景はポケットから二つの小箱を取り出して、中身を清霜たちに見せた。

 それぞれの箱には、一枚のフロッピーディスクが入っている。

 

「君たちへの報酬は海外のサーバーに保管されている。このフロッピーには、そこにアクセスするための認証情報が入っている。一週間経過すると無効になるから、それまでにダウンロードしておいてくれ」

「……」

 

 清霜は渡された小箱をじっと見据えた。

 

 彼女は、康奈から自分の出自について既に聞かされている。

 元々は人間だったこと。その出自の手がかりがAL海域にあること。

 今回トラック泊地に来たのは、その手掛かりについて毛利提督に確認したいことがあるからだということ。

 

 自分が元々人間だったと言われても、そのときのことを覚えていないからか、清霜はあまり実感を持てずにいた。

 ただ、他の皆と違う、という点に少しだけ恐怖を感じた。

 

 今渡された小箱の中にあるのは、その皆との違いをより明らかにするものだ。

 そう思うと、これを康奈に渡さず捨ててしまいたいという気もする。

 

「これからどうするの?」

 

 川内の声で清霜は我に返った。

 彼女は当たり前のように、受け取った小箱を自分の懐にしまい込んでいる。

 それを見て、清霜も慌ててポケットの中に小箱を入れた。

 

「撤退しかあるまい。先生の――失礼、毛利提督の救急対応が終わり次第、ここを引き払う。付近の住民は近くの避難場所に逃れているが、ここが深海棲艦に占拠されるとなると少しでも多く連れ出したいところだが」

 

 元景が疲れ切った表情を浮かべているのは、そういったことも考えているからなのだろう。

 仁兵衛であれば存外救助不可能と判断して置いていくかもしれない。

 ただ、元景にはまだそういう非情な判断はできなかった。

 

「……大江さん」

 

 朝潮が何かを元景に言おうとした、まさにそのときだった。

 

『――大江さん、至急戻ってきてください。繰り返します。大江さん、至急司令室まで戻ってきてください』

 

 切迫した様子の大和の声が、放送機器を通して室内に響き渡る。

 何事だと全員が顔を見合わせた。

 

 その場にいた面々が司令室に駆けつけると、困惑した様子の大和が一同を出迎えた。

 

「どうしたんだ、大和」

「大江さん。その――横須賀鎮守府から通信が入って」

「横須賀から?」

『はい。こちら横須賀鎮守府、司令官代理の吹雪です』

 

 こちらの会話が聞こえたのだろう。

 通信機器越しに、横須賀鎮守府の吹雪が名乗りを上げた。

 

「こちらトラック泊地司令官代理の大江元景です。ご用件をどうぞ」

 

 大和に代わって元景が吹雪に問いかける。

 早く撤退の準備に取りかからなければならない。

 そんな焦りがあるからか、元景の表情は硬くなっていた。

 

『そちらもお忙しいと思うので用件のみ単刀直入に言いますね。……うちの司令官が現在そちらに向かっています』

「三浦本部長が? しかし今横須賀は奇襲部隊に狙われていると聞いています。離れられては――」

『その点は対策済みなので大丈夫です』

 

 吹雪は特に強がる風でもなくさらっと言ってのけた。

 そう言い切るからには、奇襲部隊をどうにかする目途は立っているのだろう。

 

 しかし、横須賀からトラック泊地までは遠い。

 直線距離にして三千キロを超える。船では急いでも二日以上の時間がかかる。

 

 航空機を使えば話は別だが、空は深海棲艦に襲われた際に身を守る術がないという問題があった。

 空母の艦娘を同乗させて護衛させる案も出たが、普段と勝手が違うこともあってかあまり有効に働いたケースがない。

 

 つまり、普通に考えて横須賀からの増援は間に合うはずがなかった。

 

「……三浦本部長のお心遣いには感謝します。しかし、そちらの艦隊が到着するまで持ちこたえるのは不可能です。先刻報告した通り、敵戦力はまだ半数近くが健在。それに対しこちらは毛利提督が指揮を執れない状態で、各艦隊も疲労が限界に達しているのです。我々は撤退しようかと――」

『大江さん』

 

 口惜しさを滲ませながら話す大江を、吹雪が制止した。

 

『大丈夫です。希望を捨てないでください。うちの司令官は――あと三十分もあればそちらに到着します』

 

 

 

 実のところ、三浦剛臣の行動は大本営の許可を取ったものではない。

 ただ、毛利仁兵衛が重傷を負ったという報告を受けて、もはや待てぬと動いてしまった。

 

 それ以前から、剛臣は呉・佐世保・大湊等内地にある各拠点の艦隊に招集をかけていた。

 いざというとき、奇襲部隊を迎撃もしくは先制攻撃で黙らせるためのものだ。

 

 当然そうした動きを見せれば、敵本隊がトラック泊地に総攻撃を仕掛ける可能性がある。

 その場合、トラック泊地の現有戦力だけでは絶対に持ちこたえられない。

 

 だから、剛臣は敵本隊と戦うための戦力を引き連れていた。

 横須賀鎮守府の現存戦力の約八割。そして、智美が留守を任せていた横須賀第二の戦力の約八割。

 本来剛臣には横須賀第二の艦娘に対する指揮権はなかったが、深海対策庁本部長の権限を行使して、臨時の指揮権を無理矢理作ったのである。

 

 そうして剛臣がかき集めた戦力は、超音速輸送機に乗ってトラック泊地目掛けて南進していた。

 

「無茶をするな、提督」

 

 横須賀の長門が改めて呆れ顔を浮かべた。

 

「こいつはまだ試作段階だ。いろいろと確認できていないことが多い。深海棲艦の艦載機に追いつかれないかどうか、トラック泊地まで期待通りの速度を維持してちゃんと行けるのか。高額予算をかけて研究開発中の試作機、無断で飛ばしたとなると大問題になるぞ」

「トラック泊地が落ちてしまうよりはずっとマシだ。大本営の判断を待っていてはもはや間に合わん。……俺はな、長門。これ以上仲間を失いたくないのだ」

 

 そういいつつ、剛臣は顔をしかめて額を指で押さえていた。

 自分でも、こんな強引な方法を取ったことが信じられないのである。

 

「とは言え正直後が怖い。俺の首一つで済めば良いが」

「毛利提督に上手い言い訳を考えてもらうか?」

「それなら自分で考えた方がマシだろうな。あいつの言い方は鋭過ぎる」

「であれば、この問題行動を帳消しにするくらいの功績を上げねばな」

「そうだな。後には退けん」

 

 トラック泊地が目前に迫る。

 各員の闘志は十分にみなぎっていた。

 

「でも、到着してもどこに着陸するんですか?」

 

 剛臣に問いかけてきたのは横須賀第二の那珂だった。

 他の拠点の那珂同様明るく元気な子だが、仕事に関しては一切の妥協をしないタイプでもある。

 

「戦線は既に拡大してるし、あの辺陸地も少ないからこの輸送機を下ろせる場所ってなかなかなさそうですけど」

「君たちは降下訓練はしたことがあるか?」

「はい。ありますよ。うちの基礎訓練に含まれてますから」

「なら大丈夫だな」

 

 剛臣は頷いて、輸送機に乗っている艦娘たちに告げた。

 

「これよりトラック泊地近郊に降下する。降下はチーム単位で行うこと。各チームはその後周辺の敵を掃討しつつトラック泊地まで集合するように。不安のある者はいるか?」

「……一つ良いでしょうか、司令官」

 

 剛臣の問いかけに、横須賀の白雪がおずおずと手を挙げた。

 

「司令官は、どうされるのですか?」

「俺か。さすがに皆と一緒に降下して狙われたら即死しかねんからな、……少し離れたところに降下して、自力でトラック泊地まで泳いでいこう」

「白雪。我らが司令官についていってくれ。道中襲われたら問題だ」

「了解しました」

「……うむ。よろしく頼む」

 

 剛臣はバツの悪そうな顔で頭をかいた。

 どうやら道中襲われる可能性を失念していたらしい。

 

 他に手を上げる者はいなかった。

 緊張している様子はない。恐れている様子もない。ただ、やるべきことをやるだけだった。

 

「――では行こうか。我らが同胞のため、進軍するぞ!」

「了解!」

 

 

 

 少しずつ霧が晴れてきた。

 深海棲艦の軍勢は、半数近くを削られつつも未だ戦闘続行の意思を見せている。

 当然だ。指揮官である戦艦水鬼――このときはまだ命名されていなかったが――の闘志はまったく消えていなかったのだから。

 

『慎重に進め。またどこで奇襲を仕掛けてくるか分からん』

 

 戦艦水鬼は慎重になっていた。

 今回の戦いにおいて、主導権を握っていたのは相手の方だった。

 圧倒的に有利だったのはこちらだったはずなのに、終始相手にペースをかき乱されていた。

 

 ……それでも勝つのは我らだ。

 

 そう分かっていても、不愉快な思いは消えなかった。

 前衛は削られ、中央の部隊も左右からの奇襲によって損害を受けていた。

 被害の少なかった後衛部隊を前に出し、周囲に敵の罠がないか確認しながら進んでいく。

 

 徐々に敵の抵抗が少なくなってきていることは、戦艦水鬼も肌で感じ取っていた。

 連絡は来ていないが、敵の指揮官の暗殺が成功したのかもしれない。

 明らかに艦娘たちの動きは鈍くなっていた。

 

 ……指揮官を潰すというのは、有効な策だな。

 

 それを提案してきた不遜な態度の同類の顔を思い浮かべながら、戦艦水鬼は今回の戦いを反芻していた。

 

 ……学習せねばならぬ。

 

 人間や艦娘は、深海棲艦と比べると脆弱だった。

 少なくとも個々の戦闘能力においては深海棲艦が圧倒的に優位である。

 しかし、集団として戦うとき、人間や艦娘は個々の性能差を覆す力を見せることがあった。

 

 それは戦術・戦略というものだ、と先日の戦いで消息を絶った空母水鬼は語っていた。

 人間たちの強さの根幹はそこにある、とも。

 

 戦艦水鬼はあまりその意見が好きではなかった。

 己の力で相手をねじ伏せる。そうして勝ち残った者がすべてを支配する。それがシンプルで良いと思っていた。

 

 だが、個々が好き勝手に暴れまわるだけでは人間たちに勝てない、という事実がある。

 好き嫌いは別にして、戦術・戦略を学ぶ必要性は戦艦水鬼も理解していた。

 

『司令官』

 

 側に控えていた空母棲鬼が緊迫した様子で声をかけてきた。

 元々は戦艦水鬼と敵対していた一派の長だった。それを力でねじ伏せて支配下に置いた。

 深海棲艦も一枚岩ではない。絶えず抗争を繰り返している。

 弱肉強食――それが深海棲艦の世における共通のルールである。

 

『どうした。敵の罠でも見つけたか。あるいは反撃でも仕掛けてきたか』

『後者です。……ただ、反撃に出てきた艦娘の数が想定以上に多く……』

『まさか、増援か』

 

 トラック泊地の軍勢に反撃する余力があるようには思えなかった。

 別動隊が二つあったようだが、あれは小勢だ。機を見て使うなら有効な一手にもなろうが、正面切って反撃できるほどの規模ではない。

 

『司令官。横須賀奇襲部隊と連絡がつきません』

 

 別の空母棲鬼が震える声を上げた。

 

『おそらく、横須賀鎮守府の艦娘どもにやられたものと思われます』

『……構わん。あれはあの駆逐の入れ知恵によるものだ。我らの本意はあくまでトラック泊地の制圧にあると心せよ』

『はっ』

 

 空母棲鬼たちが配下に反撃部隊を速やかに殲滅するよう命じるのを見ながら、戦艦水鬼は静かに苛立ちを募らせていた。

 

 今回の件は貴重なデータだ。

 人間たちの動きを学び、次は同じようなことを自分たちがしてやれば良い。

 そう割り切ってはいるが――。

 

『前衛部隊、二つ壊滅。戦闘継続困難な隊も、一つ、二つ……押されています……!』

 

 ……嗚呼。良いように虚仮にされるのは腹立たしいものだな。

 

 戦艦水鬼のこめかみに、青筋が浮かび上がった。

 

 

 

「すまない、待たせた」

 

 白雪を伴って三浦剛臣がトラック泊地司令室に入って来たとき、既に戦況は大分回復しつつあった。

 

 彼が率いてきたのは最強と名高い横須賀鎮守府の精鋭たち、そして新進気鋭の横須賀第二の猛者たちである。

 トラック泊地の艦隊も相当な練度を誇っているが、横須賀の練度は更にそれを上回っていた。

 

「三浦本部長。今回は本当にありがとうございます」

「ああ、存分に感謝してくれ。後で俺は査問会に呼びつけられるだろうから、援護射撃をお願いしたい」

 

 剛臣は珍しく軽口をたたきながら元景や朝潮に笑いかけた。

 清霜と川内にも軽く会釈し「お疲れ様」と声をかける。

 

「戦況は――今のところこちらが優勢か」

 

 司令室のモニターに映し出された情報を見て、剛臣は頷いた。

 

 横須賀からの増援部隊は、凄まじい勢いで敵深海棲艦を蹴散らしている。

 敵の軍勢はまだ相当な数が残っていたが、トラック泊地の艦娘たちと同様疲労を重ねていたし、部隊としての足並みも揃っていなかった。

 一方、横須賀の部隊は第二も含めて部隊としての練度が極めて高かった。強度が違うし機敏さも違う。布切れを真剣で切り裂くような戦いぶりだった。

 

「前線は横須賀の部隊がこのまま引き受けよう。トラック泊地の艦隊は引き上げさせてくれ。休ませておきたい」

「承知しました」

「報告では長尾君と北条君も来ているそうだが、二人は今どこに?」

 

 剛臣に問われて、清霜と川内は頭を振った。

 

「通信機の調子が悪くて、連絡が取れないんです」

「うちも同じく。毛利提督は『自分たちの拠点に帰れ』と連絡してたけど」

「それで帰るような二人でもないか」

 

 剛臣は苦笑した。

 ともあれ、独自に動いているのであれば戦略に組み込むことはできない。

 

「今はこちらが勢いに乗っているから優勢に見えるが、彼我の戦力差を考えると安心するにはまだ早い。敵艦隊には複数の鬼・姫クラスや、戦艦棲姫の強化型と見られる個体もいるそうだな。そちらへの対策を講じなければ勝ち目はないだろう」

 

 その場にいた全員が剛臣の分析に頷いた。

 一時的に優位になったからと言って安心できる状況ではない。

 鬼・姫クラスの深海棲艦は、単独でも複数の部隊に匹敵すると見て良い。

 それが複数存在するのだから、まだ安心できる状態ではなかった。

 

「確実に仕留めるのであれば、こちらの大和型・長門型・重雷装巡洋艦・正規空母たちによる一斉攻撃を仕掛けるしかあるまい。だが、横須賀と横須賀第二だけで対処できるかは疑問だ。できればトラック泊地の艦隊の協力も要請したいが……」

「申し訳ありません。当方の艦隊にその余力は……。せめて霊力の供給ができれば良かったのですが」

 

 艦娘に霊力を与えられるのは、契約を交わした提督だけだ。

 トラック泊地の艦娘たちは、仁兵衛が復活しないとどうにもならない。

 

「……毛利は?」

「治療中です」

「そうか……。ならば止むをえまい。横須賀の艦隊だけで、やれるところまでやってみるとしよう」

 

 剛臣は、自らの頬を叩いて気合を入れる。

 そこに、横須賀の艦隊から通信が入った。

 

『提督。敵の鬼・姫クラスが前線に出てきたぞ』

「長門、正確な構成は分かりそうか」

『軽巡と思しき新型が五体、空母棲鬼が三体、戦艦棲姫も同じく三体。そして、一際巨大な艤装を有する戦艦と思しき個体が一体。あれが敵の首魁だろうな』

「了解した。まずは倒せそうな相手から集中して倒せ。敵の首魁については情報が少ない。取り巻きを減らすんだ。軽巡の新型についても十分に注意しろ」

『心得た』

 

 長門が通信を切った。

 

「一気に決着をつけようと出てきた――ってことかな」

 

 清霜の呟きに、剛臣は唸り声をあげた。

 

「自軍がこれ以上減らないようにと思っての動きかもしれない。戦線の状況を見た感じだと、鬼・姫クラス以外の敵深海棲艦ならこちらの戦力で駆逐できる可能性が高い。だから、これ以上減らされる前に連中が前面に出てきた……とも考えられる」

「指揮官が先頭に出てくるなんて馬鹿げてる――と言いたいところだけど、深海棲艦の場合指揮官たる鬼・姫クラスとそれ以外との戦力差が大きいからねえ。自ら先陣切って敵を蹴散らし、後に続けと叫びながら進軍する。そんなスタイルも割と有効ではあるだろうね」

 

 川内が嫌そうな顔で語る。

 実際、戦況は少し変わりつつあった。

 

 鬼・姫クラスの個体が前に出てきたことで、横須賀の艦隊はそちらに集中せざるを得なくなっている。

 その隙を突いて、他の深海棲艦たちが少しずつ前に出て来ていた。

 

「少し、押され気味になってきたか……」

「……やはり当方の艦隊も出しましょうか」

「いや、無理に出して取り返しのつかないことになったら一大事だ。十分な戦力として勘定できないのであれば、出すべきではない」

 

 しかし、モニターに映し出される戦況は芳しいものではなかった。

 軽巡の新型――後に軽巡棲鬼と呼ばれる個体はすべて撃破したものの、戦艦棲姫の装甲と空母棲鬼の攻勢によって、横須賀艦隊も苦戦を強いられている。

 

 どれだけ早く戦艦棲姫と空母棲鬼を倒せるか――そこで戦の趨勢が決まる。

 

「――三浦提督さん!」

 

 皆が緊迫した様子で戦いを見守っていた中、清霜がやにわに立ち上がった。

 

「私、出撃してきます!」

「なに? 確かに君はまだ戦えるかもしれないが、しかし一人では――」

 

 そう言いかけて、剛臣は気づいた。

 清霜の手に、通信機が握られていることに。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一陣「託す者の言葉」

 揺れで、目が覚めた。

 全身が痛むが、それ以上に今の状況が気にかかった。

 

「気がつきましたか、提督」

 

 やや疲弊したような声。

 トラック泊地の天城のものだ。

 

 天城はすぐ側に立って、こちらを心配そうに覗き込んでいた。

 休んでいないのだろう。顔色が優れない。

 もっとも、自分はもっと酷い顔をしているのだろう――と仁兵衛は察していた。

 

「戦況は……?」

「さっき、横須賀の方々が応援に来られました。おかげで何とか持ちこたえていますが……」

「優勢というほどでもない、という感じだな」

 

 仁兵衛は、痛む身体に鞭を打って上体を起こした。

 天城がそれを慌てて抑えようとする。

 

「駄目です、提督。先生もしばらくは絶対安静にしろって……!」

「そんなことを、言っていられる状況か、阿呆」

 

 息を吐きながら天城の手を振り払い、仁兵衛は起き上がった。

 視界がぐにゃりと歪むような気がした。

 身体中が燃えるように熱い。痛みがすべて熱に変換されているかのようだった。

 

「嗚呼――頭が割れるように痛い。だが、それでも、やるべきことは分かる。天城君、悪いが肩を貸してくれ」

「で、でも……」

「……」

 

 仁兵衛はじっと天城を見た。

 命令するでもなく、諭すわけでもない。

 そうするだけの余裕が仁兵衛にはなかった。

 

 だから、じっと不退転の意思を込めた眼差しで見続けた。

 

 根負けしたのは、天城だった。

 

「――分かりました。私が全責任を持って、提督をお連れします」

「それは、いい」

 

 天城に肩を借りながら、仁兵衛は頭を振る。

 

「僕の命に、君が責任を負うことは、ない」

 

 

 

 それは、歴戦の兵である横須賀の艦娘たちからも、深海棲艦を超越した存在のように映った。

 後日戦艦水鬼と称されることになる深海棲艦――彼女は指揮官でありながら、前線に姿を現すなり、敵味方の誰よりも暴れ狂った。

 

 戦艦棲姫を上回る怪物の如き艤装が、周囲の存在をすべて薙ぎ払っていく。

 艦娘たちだけではない。味方であるはずの深海棲艦すら、彼女の前では邪魔もの扱いだった。

 

『役立たずのガラクタどもめ……死にたくなければそこを退け!』

 

 一振りで、戦艦や空母すらもまとめて吹き飛ばす。

 圧倒的なパワーとスピード。そして戦艦の主砲以外ほとんど受け付けない分厚い装甲。

 すべてが、これまでの深海棲艦の常識を打ち破るものだった。

 

 加えて、戦艦水鬼とつかず離れずの距離に戦艦棲姫や空母棲鬼がいる。

 さすがに鬼・姫クラスの個体は、戦艦水鬼の攻撃を喰らうようなへまをしなかった。安全な距離を維持しつつ、こちらの攻撃を封じてくる。

 

「まず取り巻きを倒せ! あのデカブツは全員総出でかからなければ無理だ!」

 

 自身も傷を負いながら、横須賀の長門が自軍に号令をかける。

 他の敵とまとめて相手をするには、戦艦水鬼は強過ぎた。

 あちらの攻撃はひたすら耐えつつ、まずは周囲の鬼・姫たちを倒さなければならない。

 

「もー、インフレ酷いなあ。取り巻きっていうけど、あの人たちも皆ボスキャラ並ですよ?」

 

 ぼやきながら敵の雑魚集団を牽制するのは、横須賀第二の那珂だった。

 明るい調子ではあるが、動きには一切の無駄がない。

 さすがに横須賀第二の一員だけあって、実力は相当のものがあった。

 

「ボスだろうとなんだろうと、どうにかせねばどうにもならん!」

「だよねー!」

 

 どこかやけっぱちな相槌だったが、言葉に反して那珂隊は少しずつだが着実に鬼・姫クラスの力を削いでいた。

 川内隊がオールラウンダー、神通隊が敵の喉元を食い破る猟犬なのに対し、那珂隊は護衛に特化していた。

 敵を瞬時に屠るような目を引く戦い方こそしないものの、相手の戦意を削ぎ落して撤退させるため、じわじわと相手にダメージを与えていく戦い方を得意とする。

 

「ま、倒せないにしてもトラック泊地に行かせなきゃ那珂ちゃんたち大勝利だもんね。皆、そういうわけだから、いつも通り行くよ! 敵がほんの少し強いってだけだから!」

「了解!」

 

 那珂隊も、そして長門隊も士気は高かった。

 鬼・姫クラスの敵を前にして一歩も退かず、互角の戦いを繰り広げている。

 

 ……だが、互角というだけだな。

 

 一人、長門はこの状況に焦りを感じていた。

 敵のダメージは蓄積しているが、それは味方にも言えることだった。

 空母棲鬼の艦載機による攻撃、戦艦棲姫の砲撃による打撃、いずれも軽いものではない。

 戦闘継続が困難になって後退する艦娘も、少しずつ増えてきた。

 

 ……今のままでは、空母棲鬼・戦艦棲姫を倒したところで継戦不可能になりかねん。

 

 増援が欲しい。

 そう願ったとき、長門の通信機が反応した。

 

『長門。一旦こちらに戻って来い。補給をしなければそろそろまずいだろう』

「提督よ、それは承知している。しかし、ここを離れれば一気に泊地へ攻め込まれるぞ」

『問題ない。――今、そちらに増援が着く』

 

 通信機越しに三浦剛臣が告げる。

 それと同時に、遠方からの砲撃が暴れ回る戦艦水鬼に直撃した。

 

「HAHAHA! 盛り上がってるみたいネー!」

 

 高らかにそう告げて突っ込んできたのは、ショートランドの金剛と――彼女率いる艦娘部隊だった。

 

 

 

「本当に来てたのね、横須賀の部隊」

 

 船から長門たちの姿を確認して、康奈は半ば呆れたような声を上げた。

 横須賀からの距離、横須賀が置かれていた状況からすると、そう簡単に来られるはずはなかった。

 おそらく、相当な無茶をしてきたのだろう。

 

「横須賀の提督ってのは、相当無茶苦茶なのか?」

「質実剛健、模範的な提督――というのがこれまでの印象だったけど」

「認識は常にアップデートできるようにしておいた方が良さそうだな」

 

 康奈の話を聞いて、新十郎はおかしそうに笑った。

 

「金剛、長門たちが補給する間だけでいい。戦線を支えて。敵の進行を食い止められればそれでいいわ」

『了解! それじゃ皆さん、ついて来てくださいネー!』

 

 金剛の号令で、ショートランドの部隊が敵との交戦を開始する。

 それと入れ替わるように横須賀の部隊はトラック泊地へと退いていった。

 燃料・弾薬が尽きかけていたので、補給しに戻ったのである。

 

 ショートランドの部隊は、先の奇襲から戻った後、この船である程度休息を取った。

 補給も十分にしてある。疲労は多少残っているが、横須賀艦隊によって数を減らされた敵艦隊なら、どうにか持ち堪えるくらいのことはできるはずだった。

 

 金剛は、彼我の戦力差をよく理解して動いている。

 金剛隊の火力では戦艦水鬼に決定打を与えることは難しい。

 他にもまだ敵戦力が残っている以上、やるべきは敵旗艦の撃破ではなく、敵戦力の漸減だった。

 

 金剛たちの主砲が、磯風や時津風の雷撃が深海棲艦たちを撃破していく。

 戦艦水鬼たちの砲撃を紙一重のところで避けながらの、ぎりぎりの戦い方だった。

 

 もっとも、大人しいだけの金剛隊ではなかった。

 金剛、そして磯風が隙を突いて戦艦水鬼に主砲・魚雷による攻撃を敢行する。

 しかし――二人の攻撃は、いずれも戦艦水鬼の装甲の表面を僅かに傷つけただけだった。

 

『Shit! 提督、やっぱりアイツ無茶苦茶硬いデース!』

『あの装甲越しでは、まともなダメージはまず与えられそうにないぞ、司令』

「分かった。周囲の敵の掃討を重視して。効かない攻撃続けて無駄撃ちするのは勿体ないもの」

『私好みのやり方ではないが、やむを得まい……!』

 

 不承不承と言った様子で磯風が応じた。

 金剛も短く『了解デース!』と返答する。

 

「あれをどうにかするには徹甲弾か何かが必要ね」

「持ってきているのか?」

「生憎。トラック泊地にはあると思うから――そっちに期待するしかないわ」

 

 元々、こんな大海戦が起きるとは思っていなかったから、康奈たちは標準的な装備しか持ってきていない。

 鬼・姫クラスと遭遇するのでもなければ、徹甲弾の出番など滅多になかった。

 

 そのとき、康奈たちの船に接近してくる一人の艦娘がいた。

 清霜だ。

 

「司令官、ただいま!」

 

 船に乗り込むなり、清霜は真っ直ぐに康奈のところへ駈け込んで来た。

 

「お疲れ様。大丈夫?」

「平気平気。補給済んだら私もすぐ出るからね!」

 

 清霜は背負っていた艤装を外して整備員に預けると、そわそわした様子で金剛隊の方に視線を向けた。

 

「毛利提督は、まだ?」

「うん。私が出るときはまだ……。あ」

 

 仁兵衛の話を振られて、清霜は思い出したかのようにポケットから小さな箱を取り出した。

 元景から預かった、康奈への報酬である。

 

「これ。毛利提督から司令官に……」

 

 心なしか躊躇いがちに箱を差し出す清霜。

 それを見て、康奈はしばし考えてから箱を受け取った。

 

「ありがとう、清霜。泊地に戻ったら、一緒に中身を確認しましょう」

「……一緒に?」

「ええ。その中身は私にとっても清霜にとっても大事なものだから」

 

 そう言って、康奈は清霜の頭を優しく撫でる。

 清霜は、くすぐったそうに笑いながら「うん、分かった」と口にした。

 

 

 

 長門の報告を受けて、剛臣は表情を曇らせた。

 今はショートランドの部隊が敵を食い止めてくれている。

 だが、あまり長時間現場を彼女たちだけに任せておくわけにはいかなかった。

 早く、方針を決めなければならない。

 

「横須賀艦隊の戦艦による一斉射撃だけでは、まだ危ういか……」

「ああ。徹甲弾を用いたとしてもな。それぐらい、あの個体は強い。そして硬い」

 

 戦艦水鬼は装甲の硬さもさることながら、敏捷性も並外れていた。

 こと殴り合い――中・長距離における砲撃の撃ち合いでは、これまで出現した深海棲艦の中でも群を抜いている。

 集中攻撃を仕掛けたところで、それがどれだけヒットするか分からないし、直撃させられる可能性は更に低い。

 攻撃のチャンスも限られるだろう。相手の猛攻で何人戦闘不能に追いやられるか分からない。

 

 渾作戦で遭遇した空母水鬼も並外れた強敵だったが、あちらは艦載機を封じれば本体はまだどうにかできた。

 戦艦水鬼の場合、艦載機こそないものの、単体としての強さが並外れている。

 

「それに、あのデカブツが前面に出て来てからは他の深海棲艦たちは後方に控えるようになった。奴を倒した後、それら残存兵力をどう片付けるかも問題になる」

「……現状これ以上の増援は無理だ。本土の兵力をこれ以上割くことはできないし、他の拠点に超音速輸送機はない。ブインやラバウルからの増援は、まだ到着までに時間がかかるはずだ」

「それまでに時間を稼ぎ続ける、という手もあるが」

「きつい根競べになる。それに、今動きを止めている敵部隊が出てきたら対処しきれない。……今はある意味好機でもある。敵の指揮官を一気に仕留められれば、戦局はほぼ決まると言っていいだろう」

「では、やるか。我々はやれと言われれば死ぬ気でやるぞ、提督」

 

 剛臣は渋面を作り、唸り声をあげる。

 ここで一気に勝負を仕掛けるのは、ハイリスクハイリターンな案だ。

 しかし、ここで仕掛けなくともリスクはそれなりに残る。安全策を選べる状況ではないのだ。

 

 仕掛けるか、耐えるか。

 

 剛臣が決断しようとした、まさにそのとき、部屋の扉がゆっくりと開いた。

 

「……戦況は?」

 

 入るなり、そう問いかけてきたのは、このトラック泊地の提督――毛利仁兵衛だった。

 天城に肩を借りながら、青白い顔で苦しげに歯を食いしばっている。

 

「毛利。お前、大丈夫なのか!?」

「戦の只中で一人の心配をしている場合か。……朝潮君、状況説明を」

「……はっ」

 

 僅かに逡巡した後、トラックの朝潮は仁兵衛に状況の説明をする。

 苦痛に耐えながら報告を聞き終えた仁兵衛は、周囲を見渡し、ある人物に目を止めた。

 

「元景」

「はい」

 

 呼ばれた大江元景は、仁兵衛の前に駆け出した。

 実直で、そして若い。そんな元景の肩に手を置いて、仁兵衛は短く告げる。

 

「お前に、譲渡する」

「……先生。それは」

 

 仁兵衛の言葉の意味は、その場にいる全員が理解していた。

 提督としての力を、元景に継承させる。

 今の仁兵衛は、トラック泊地の艦娘に霊力を供給できるような状態ではない。

 だが、特に怪我を負っていない元景ならば、提督として十分な霊力を与えることができるようになる。

 

「トラック泊地の艦娘を動かせるようにし、横須賀の艦隊と一緒に総攻撃しろ――そういうことですか、司令官」

 

 朝潮の問いに、仁兵衛は黙って頷いた。

 

 確かに、それならリスクを抑えつつ敵旗艦への一斉攻撃を敢行できる。

 現状、もっとも有効な手段の一つと言えるだろう。

 

 ただ、一つ問題があった。

 

「提督権限の継承は、霊魂に刻みついた大量の情報のやり取りが必要になる。継承される側は相当の負荷がかかるし、する側も決して楽ではないはずだ。大丈夫なのか」

 

 懸念点を口にしたのは剛臣だった。

 他のメンバーも、皆不安そうに二人を見る。

 

「俺は、大丈夫です」

「ふん。……大丈夫に決まっているだろう」

 

 元景が表情を強張らせながら応える。

 仁兵衛も、ぎこちない笑みを浮かべながら剛臣の懸念に応じた。

 どちらも虚勢が混じっている。提督権限の継承で生じる負担がどの程度か――正確なところは知らないのだ。

 

 だが、この仁兵衛は既にやると決めていた。

 これが、トラック泊地を防衛するための最良の選択だと信じているのだ。

 

「……反対意見は、なさそうだな」

 

 周囲の反応を確認すると、仁兵衛は震える手を元景の額に伸ばした。

 仁兵衛の手が光を発し、元景の方へと流れていく。

 

「元景」

 

 自らの霊魂に刻まれた艦娘の情報を移しながら、仁兵衛は後継者と定めた若者に声をかけた。

 

「お前は、僕に比べれば融通が利かないし、まだまだ甘ちゃんだ」

「……承知しています。自分は、まだまだ未熟者です」

「ああ。だが、それは経験が不足しているからだ。……経験を積み重ね続けろ。時には心が折れることもあるだろう。だが、それでも……折れた心を継ぎ合わせながら、歩み続けろ。そうすれば――お前はいつか、僕なんかよりずっと良い提督になる。僕が言うんだ、間違いない」

 

 仁兵衛は、ほんの一瞬、自然な笑みを見せた。

 これからの若者にかける期待が、その表情を作らせたのだろう。

 

「……正直なところ……自分が、提督としてやっていけるか……不安ではあります」

「安心しろ。僕が大御所よろしく見張っていてやる。今のお前は――まだまだだからな」

 

 仁兵衛がそこまで言ったところで、一際強い光が元景へと移った。

 それを受け切って、元景はゆっくりと崩れ落ちる。

 継承の負荷に耐えかねて、意識を失ったのだ。

 

 元景のところに駆け寄った朝潮が様子を見る。

 

「――大丈夫です。気を失っただけです」

「……そうか」

 

 はっ、と仁兵衛は大きく息を吐いた。

 顔色が余計に悪くなっている。死相を感じさせる――そんな顔をしていた。

 

「天城君。悪いが元景を頼めるか。……今、トラック泊地にとって、一番大事な奴だ」

「分かりました」

 

 仁兵衛の身体をゆっくりと降ろして、天城は倒れた元景を抱えた。

 周囲に一礼して、奥の方へと下がっていく。

 

「朝潮君、調子は?」

「大丈夫です。霊力が十分回ってきたので、これなら、行けます」

 

 朝潮の答えに満足したのか、仁兵衛は笑って頷いた。

 そして、ゆっくりと身体を起こしながら、室内にいたトラック泊地の艦娘たちに告げる。

 

「トラック泊地の智勇に秀でた諸君に告げる。――行って、勝って、戻って来い。いいな?」

「……了解しました!」

 

 トラック泊地の艦娘たちは、揃って仁兵衛に礼を取った。

 

 この泊地を巡る攻防も――とうとう、最終局面を迎えようとしていた。

 

 

 

 金剛隊の消耗も少しずつ激しくなってきた。

 先の戦いによる損傷も残っている。補給と疲労回復はしたものの、最初から万全の状態などではなかった。

 だが、それを理由に引くことはできない。防衛戦の辛いところだった。

 

「皆!」

 

 そこに、小柄な駆逐艦娘――清霜が駆けつけた。

 彼女も仁兵衛たちを護衛したときのダメージが残っているが、まだ戦闘は可能だった。

 

「清霜。おかえり~」

 

 気楽そうな調子で出迎えたのは時津風だった。

 彼女はどんな苦境であっても、ほとんどペースを乱すことがない。

 

「出過ぎるなよ。今回は根競べだ」

「司令官にも散々言われたから分かってるもん。磯風こそ、突撃しかけたりしないでよ?」

「我慢できるうちは我慢するさ」

 

 軽口を叩きながら、二人はすれ違いざまに勢いよくハイタッチをした。

 

 不思議なことに、清霜が合流すると、磯風の動きが目に見えて良くなった。

 それまでは敵の砲撃を紙一重で避けるのがやっとだったのに、今は敵の動きを先読みして余裕のある動きになっている。

 

「不思議な関係ネ。清霜が来た途端、磯風のコンディションがマックスになったみたい」

「あの二人は、まあ、ライバル関係みたいなものなんで」

「ライバル……互いに負けじと奮起してるわけデスカ。それは、とても良い関係デース!」

 

 隊というのは妙なものだった。

 清霜と磯風の動きにつられるような形で、他のメンバーの動きも良くなっていく。

 戦艦水鬼とやり合う余裕まではなかったが、脇に控える他の鬼・姫クラス相手に攻撃を仕掛ける余裕は増えてきた。

 

 金剛の主砲が直撃し、最後の空母棲鬼が沈黙する。

 更に、清霜と磯風の雷撃が戦艦棲姫を襲い、中破まで追い込んだ。

 

 戦艦水鬼も、金剛隊の動きが変わったことに気づいたらしい。

 きっかけとなった清霜を重点的に攻めるが、清霜はこれらの砲撃をすんでのところで避け続けた。

 

「へっへーん、当たらないよ!」

『おのれ……猪口才なッ!』

 

 業を煮やした戦艦水鬼は、砲撃を中断して清霜の元に飛び掛かった。

 小柄な駆逐艦なら、砲撃よりも接近して叩き潰した方が早い――そう判断したのである。

 

「清霜、逃げろッ!」

 

 磯風が主砲で牽制しながら叫ぶ。

 しかし、駆逐艦の主砲は戦艦水鬼にとって豆鉄砲のようなものだった。

 歯牙にもかけず、凄まじい速度で清霜の元に迫る。

 

 戦艦水鬼の化け物じみた艤装の剛腕が、清霜を潰さんと振り上げられる。

 清霜は逃げの姿勢を取っていたが、避けるには遅かった。

 

「――させるものかッ!」

 

 凛々しい声が戦場に響き渡る。

 同時に、戦艦の主砲が放つ轟音が海上を揺るがした。

 

 動きを止めた戦艦水鬼は、自らに向かって飛んでくる砲弾の影を見た。

 艤装によるガードが間に合わない。

 

 砲弾が、戦艦水鬼本体に直撃した。

 

『ぬ、ヌウゥゥゥッ!』

 

 初めて傷らしい傷を負った戦艦水鬼が目にしたのは、トラック泊地から再出撃してきた長門たちの姿だった。

 

 

 

 判断は間違っていなかったはずだ、と戦艦水鬼は反芻した。

 自分で暴れたかったというのもあるが、あのまま弱卒たちを前面に出して攻め続けても、いたずらに兵力を消耗するだけだった。だから、自ら前に出た。そうすることで自軍の犠牲を最小限に抑えることができた。

 

 だが、相手が思った以上に粘った。

 突如現れた横須賀の軍勢も、二度目の対峙となるショートランドの部隊も、戦艦水鬼の攻めを上手くいなした。

 それどころか、深海棲艦側の戦力を少しずつ減らしていった。

 

 戦艦水鬼の狙いは、決して的外れなものではなかった。

 しかし、思うような結果はついぞ出なかった。

 

 ……なぜだ、なぜだ、なぜだ!

 

 撤退したはずの長門たちが戻ってきたことによって、いつの間にか形勢は変わりつつあった。

 

 戦艦水鬼は、砲撃を受けた箇所に触れてみた。

 べったりと、何かが付着する。それが己の血だと気づくのに、数秒の時を要した。

 

『――おのれおのれおのれおのれおのれェェェッ!』

 

 思い通りにならない怒りが、追い詰められたことで爆発し、戦艦水鬼は指揮官であることを止めた。

 本能の赴くまま、敵に向かい、暴威を振るう。

 

 砲撃。艤装についた剛腕による暴力。自分の持てる様々な手段で敵を駆逐せんと戦場を疾駆する。

 

 戦艦も重巡も軽巡も駆逐も空母も――皆、関係なかった。

 戦艦水鬼の前では、すべて等しく獲物だった。

 

 だが、獲物たちは毅然と立ち向かってくる。

 その中で、一際強い力を感じさせる獲物が目に入った。

 

 遠方から戦艦水鬼を狙撃しようと狙う艦娘たち。

 それは、大和を中核とするトラック泊地の戦艦部隊だった。

 

『砲撃など――させるかアァッ!』

 

 自らの艤装に備え付けられた全主砲を大和たちに向ける。

 戦艦水鬼の動きに気づいた他の艦娘たちが「止めろ」と叫んだ。

 

 だが、止まらない。

 大和たちが砲撃を放つよりも先に、戦艦水鬼の主砲が火を噴いた。

 

 この距離なら、大和たちが主砲を撃つよりも先に、戦艦水鬼の砲弾が彼女たちを撃ち砕く。

 その――はずだった。

 

 撃った瞬間、戦艦水鬼は見た。

 射線上に飛び込んできた、小さな人影。

 先程急に現れて、場の空気を変えた駆逐艦娘。

 

 清霜が、戦艦水鬼に主砲を向けていた。

 

 刹那、砲弾が直撃する音が戦場一帯に轟いた。

 同時に、戦艦水鬼を鋭い痛みが襲う。

 

 清霜の撃った主砲が、戦艦水鬼の片目に直撃したのだ。

 

『グ、グゥゥゥゥッ!?』

 

 装甲のない部位への一撃。

 それは、戦艦水鬼がかつて経験したことのない激痛をもたらした。

 

 そして――そこで動きを止めたことが、戦いの行く末を決めた。

 

「トラック泊地、戦艦部隊一同」

 

 大和が、凛とした声で腕を振り下ろす。

 

「――撃てーッ!」

 

 その声を聞いたとき、戦艦水鬼は勝負が決まったことを悟り――破顔した。

 

 

 

 戦艦水鬼の姿は、消えた。

 あれだけの主砲をまともに喰らったのであれば、跡形もなく消し飛んだ可能性もある。

 生きている可能性も、ある。

 ただ、今回の戦場からは退場した。

 

 敵の残党は、戦艦水鬼が倒されるとすぐさま離散した。

 実はこのとき、後方で智美率いる神通隊が敵の補給部隊を壊滅させていた。

 戦艦水鬼が倒れたことがきっかけだったのか、補給を受けられなくなったことがきっかけだったのかは不明だが、トラック東方を覆いつくしていた深海棲艦の大軍は――文字通り姿を消すことになったのである。

 

 トラック泊地防衛戦は終わった。

 泊地は、守られたのだ。

 

「……ふん。今回は、助けられたな」

 

 椅子にもたれかかりながら、仁兵衛は力なく言った。

 

「気にするな。俺は俺の信条によって動いただけだ」

「正直、少し見直した。お前は、組織の飼い犬の枠を、越えられないと、そう思っていたからな」

 

 仁兵衛の悪口に、剛臣は笑って応えた。

 この口の悪さは、決して悪意だけで出来ているわけではない。それがなんとなく分かるからだ。

 

「ま、おかげで俺の首は危ういがな。査問会では助け船を出してくれ」

「……悪いが、その頼みは、聞けん。元景にでも、頼め」

 

 仁兵衛の声音が、僅かに変わった。

 その意味を悟って、剛臣は表情を硬くする。

 

 艦娘・スタッフは皆出払っている。

 この場にいるのは、剛臣と仁兵衛だけだった。

 

「……何か、伝えておくことはあるか?」

「ないな。……ああ、いや。これだけ、伝えておいてくれないか」

 

 これでも僕は、泊地の皆のことが好きだった――。

 

 それは、おそらく仁兵衛が初めて吐露する想いだったろう。

 剛臣は、その言葉をじっと聞いていた。

 

「……そんなの、皆知っていますよ」

 

 そう言ったのは、気丈な表情の朝潮だった。

 いつの間にか、入ってきていたらしい。

 

「知っていますよ。司令官は我儘だし、分かりやすい優しさを見せることもなかった。突飛なことを言って周囲を戸惑わせることばかりでした。口も悪くて、着任したばかりの子たちが誤解することもあった」

 

 でも、と朝潮は口を結んだ。

 

「でも、私たちのことをきちんと考えてくれていることは――皆知っています」

 

 仁兵衛は、やや照れ臭そうに笑う。

 

「やれやれ。身内すら騙せないようでは……本当に、戦術家失格だ」

「司令官」

「……なに、かな?」

「ありがとうございます。……あなたの艦娘でいられて、私たちは幸せでした」

「……ははっ。馬鹿だなあ、朝潮君」

 

 世の中、もっと幸せなことがいっぱいあるぞ――。

 

 仁兵衛は、おかしそうに、穏やかな笑みを浮かべた。

 

 沈みゆく夕陽が、部屋を寂しく照らす。

 戦いの終焉を告げる波の音だけが、朝潮と剛臣の耳に残った。

 

 

 

 冬が終わり、春が近づく季節。

 一つの大きな戦いが終わり、一人の男が世を去った。

 

 ここから日本の対深海棲艦戦略は、また少し動きを変えていくことになる――。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二陣「彼女たちの理由」

 日本の中では、二〇一五年の冬から春は平和だった。

 世間では、何事もなかったかのように時間が流れていく。

 

 しかし、深海対策庁内部では大きな動きが生じていた。

 

 トラック泊地防衛戦における問題行為により、作戦本部長である三浦剛臣は停職処分を受けることになった。

 期間は一年。虎の子の超音速輸送機を無断で持ち出し危険に晒したこと、強力な戦力である横須賀・横須賀第二の兵力を自分勝手に使ったことが問題視されたのである。

 免職に至らなかったのは、剛臣の行動にも理があったとみなされたこと、不可能と思われたトラック泊地の防衛に成功したこと、そして剛臣が世間一般に英雄として認知されていたこと等によるものだと噂された。

 

 更に、激戦の中でトラック泊地提督・深海対策庁情報部長である毛利仁兵衛が亡くなった。

 トラック泊地提督の後任は大江元景に決まったが、彼には実績がなく、深海対策庁の情報部長を継ぐことはできなかった。

 

 深海対策庁は、作戦本部長と情報部長という柱を失うことになったのである。

 

 代わりに台頭してきたのが、横須賀第二の提督である長尾智美だった。

 初陣である渾作戦、そしてトラック泊地防衛戦において、彼女の横須賀第二は目覚ましい働きを見せた。それが評価されたのである。

 さすがに作戦本部長という実働部隊トップの椅子につくことはなかったが、彼女は情報部長補佐だったことから、情報部長に昇進することになった。

 更に、剛臣の停職処分中の間だけではあるが、横須賀鎮守府の指揮権も預けられる。

 

 長尾智美の存在感は、もはや一提督の範疇を超えていた。

 

 

 

 二〇一五年、三月。

 ソロモン海は穏やかな情勢の中にあった。

 

 深海棲艦はところどころに現れるものの、それらは巡回する艦娘だけで撃退できる程度の規模で、目立った戦いは起きていない。

 ソロモン諸島の人々は、平穏な春の訪れを感じていた。

 

「――提督」

 

 呼びかけられて、康奈は意識を現実に引き戻された。

 眼前には心配顔の大淀がいる。執務室詰めの泊地中枢メンバーも、皆康奈を見ていた。

 

「……ごめん。何の話だったかしら」

「今月の護衛計画についてです」

「ああ、そうね。うん、そうだった」

 

 資料に目を落とした康奈だったが、どうにも反応が鈍かった。

 

 護衛計画書には、そこまで細々としたことは書いていない。

 あくまで大まかな予定と編成概要が記載されているだけだ。

 普段の康奈であれば、一瞥して気になるところを確認し、それで終わるような代物である。

 

 再び大淀が呼びかけようとしたところで、不意に康奈の手元から資料を取り上げた艦娘がいた。

 

「駄目よ、提督。シャキッとできないなら、まずは休まないと」

 

 康奈に対して口を尖らせたのは、小柄な軽空母の艦娘――瑞鳳だった。

 

「いや、でも休んでるわけには――」

「働き過ぎは却って効率悪くするの。ほらほら、今日はもうお休み。やれることはやっておくから。皆、異議あるー?」

 

 瑞鳳の問いかけに異議を差し挟む者はいなかった。

 誰がどう見ても、今の康奈は仕事になるような状態ではない。

 

「それじゃ大淀。提督のことよろしくね」

「え、私ですか?」

「今の提督を一人にしておくのは危なっかしいもの。よろしくね!」

 

 瑞鳳は康奈を立たせると、グイグイと執務室の外に押し出した。

 提督を半ば押し付けられる形になった大淀は、バタンと閉ざされた執務室の扉を見上げて苦笑いを浮かべる。

 

 ……私も戦力外とみなされたのですかね。

 

 康奈ほどではないにしても、大淀も最近は仕事に身が入らないことが多くなっていた。

 

 康奈がこうなったのは、トラック泊地防衛戦が終わってからである。

 誰もあえて口には出さなかったが、康奈は相当なショックを受けていた。

 

 あの防衛戦の最終局面で清霜がかつてない程の大怪我を負ったこと。

 そして――いろいろとショートランド泊地や康奈のことを気にかけてくれていた毛利仁兵衛が戦死したこと。

 

 深海棲艦との戦いは命を懸けたものだ。

 当然、誰かが傷つき斃れることもある。

 それでも、そういうものだ、と割り切るのは難しい。

 

「清霜の様子でも、見に行きますか?」

「……そうね」

 

 康奈は短く頷いて、医務室に向かって歩き出した。

 

 ショートランド泊地は、昨年の夏に敵の空襲を受けて半ば壊滅した。

 しかし、今は大分再建も進んでおり、拠点としても相応に様になってきている。

 ただ、ほとんどの部分を再建したが故に、かつての面影は大分薄くなっていた。

 

「ここも変わったわね」

「ほとんど、作り直しましたからね」

「先生が見たら、なんて言うかな」

「よくここまで立派に再建した、と褒めてくれると思いますよ」

 

 康奈が前任の提督のことを口にするのも久しぶりだった。

 毛利仁兵衛のことがそれだけショックだったのだろう。

 彼女にとって、前任の提督は親代わりだったが、仁兵衛は叔父のような存在だった。

 

「ねえ、大淀」

「はい」

「大淀は、いなくならないわよね」

「……ええ。私はずっといますよ」

 

 確約はできない。

 それでも大淀は、康奈が安らげるようにと、そう答えた。

 

 清霜の怪我は酷いものだった。

 幸い四肢は繋がっていたが、戦艦の主砲をまともに喰らったためか、骨や内臓があちこちズタボロになっていた。

 泊地常駐の医者が「生きているのが不思議」と評するくらいの惨い有り様である。

 

 幸い、艦娘としての回復機能が少しずつ働いた結果、清霜の身体は大分元の状態に戻りつつある。

 しかし、意識は一向に戻る様子がなかった。

 

「大淀は、最近清霜の様子見に行った?」

「いえ。片付けなければいけない仕事が多かったので……」

「そっか。考えてみれば、私と一緒にずっと執務室に缶詰状態だったものね」

「昨日、食事のときに早霜と会ったので話は聞きました。意識は戻っていないものの、身体的には異常はなく、落ち着いているそうです。今は何人かが交代で様子を見ているそうで」

 

 話しているうちに、二人は清霜が寝かされている医務室に到着した。

 コンコンとノックすると、中から早霜の「どうぞ」という声が聞こえる。

 

「――」

 

 扉を開けて、康奈と大淀は目を丸くした。

 そこには、ベッドの上で美味しそうに林檎を頬張っている清霜がいたのである。

 

「あ、司令官に大淀さん」

「……あ、じゃないわよ。もう」

 

 張り詰めていた何かが途切れて、康奈は身体から力が抜けてしまった。

 危うく倒れそうになったところで、大淀が抱き留める。

 

「ついさっき、目を覚ましたの。後ほど連絡しようと思ったのだけど……」

 

 リンゴの皮をむきながら、早霜が申し訳なさそうに弁明した。

 

「いえ、いいのよ。全部無茶して人を心配させた清霜が悪いんだもの」

「えっ、そんなに怒られるようなことだった!?」

「それはそうよ。いくら命を賭して戦っていると言っても、清霜は無茶が過ぎるわ」

 

 清霜のおでこにデコピンをしながら、康奈は口を尖らせた。

 

「……まあ、でも。こうしてちゃんと帰ってきてくれたんだから、良しとしましょうか。おかえり。あるいは、おはようって言った方が良い?」

「えへへ。おはよう……ただいま!」

 

 鼻を擦りながら、少しはにかんだ表情で清霜が礼をする。

 それに返礼する康奈は、先程までよりも、少しだけ生気が戻っていた。

 

 

 

「これが、毛利提督の調査レポート?」

 

 翌日。

 清霜は、康奈の部屋で大型のモニターをじっと眺めながら首を傾げた。

 

 トラック泊地防衛戦の最中、毛利仁兵衛が報酬として康奈たちに提供したデータ。

 それは、彼が独自にAL/MI海域の調査をした結果をとりまとめたものだった。

 

 清霜は、AL海域の作戦行動中に龍驤たちの艦隊が拾ってきたという。

 ただ、当人にそのときの記憶はほとんど残っていない。

 

 龍驤も、あまり清霜の素性についての手掛かりは持っていなかった。

 AL海域における作戦行動中、彼女たちは深海棲艦が群がる小島の存在に気づいた。

 戦場においてはさほど重要でもなさそうな地だったが、深海棲艦の動きから「何かある」と踏んだ龍驤たちは、同島を制圧。その中で、奇妙な施設を発見した。清霜はそこで倒れていたのだという。

 

 作戦行動中ということもあり、龍驤たちは清霜を確保するとすぐに島を離れた。

 詳細調査は作戦後に然るべき者が行えば良い。そう判断したのだという。

 

「ま、報告した後何を見たかとか不審なものを見かけなかったかとか、胡散臭い質問飛んできて、何かヤバイもん見つけたかなあ、とは思ったけど。ああ、そういう質問にはまとめて『何も見なかった』と答えておいたで。ウチらが見たのは艦娘一人だけ。不審なとこなんか何もないもんな」

 

 そう言って龍驤はケラケラと笑っていた。

 

 閑話休題。

 その後、AL/MI海域は大本営の管理下に入り、維持困難という理由によって先日放棄された。

 おそらく、今はもう何も残っていないのだろう。少なくとも、康奈たちが求めるようなものは、何も。

 

 仁兵衛が遺したデータは、大本営が管理していた頃に彼が独自調査を行った内容をまとめたレポートである。

 情報部長という立場を利用して、彼はかなり際どいことまで調べていたらしい。

 ざっと通しで見ただけでも、いくつか危ない情報と思しきものがあった。

 

「うぅ、見てもサッパリ分かんない……」

 

 どうやら、清霜には少し難しい内容だったらしい。

 モニタに映し出される情報の数々に、彼女はすっかり目を回していた。

 

「分からないところは飛ばしても良いのよ。私も全部を理解できるわけじゃないし」

「司令官でも?」

「別に私、そこまで頭良いわけじゃないもの」

 

 この場に大淀辺りがいたら「嫌味に聞こえますよそれ」と突っ込むところだったろうが、生憎ここには康奈と清霜、それに早霜・春雨がいるのみだった。

 

「私もサッパリ分かりません……」

「なんとなく、という感じね。分からないところはとりあえず流してるけど」

「早霜のやり方で良いのよ。分からないところは後で確認する。とりあえずは全体を見て、気になる情報だけチェックすれば」

 

 早霜と春雨は、清霜のことが心配で付き添いとしてやって来たのだった。

 当然、心配しているというのは、怪我の具合だけではなく清霜の素性のことも含まれている。

 

 清霜が元々人間だったということは、泊地内ではもう隠してはいなかった。

 少しずつ噂としては広まっていたが、トラック泊地防衛戦以降はもはや公然の事実のようになっていた。

 これ以上隠してあらぬ風聞が立つのも良くない、と思い、康奈は主要な艦娘に事情を説明したのである。

 

「こういうのは、意外と時津風が得意なのだけど」

「磯風・時津風・雲龍さんは哨戒任務で出払ってますもんね。……あ、でも清霜が意識戻したって伝えたら喜んでましたよ」

「そう? 三人にも早く会いたいなあ。心配かけちゃったもんね」

 

 自分たちとルーツが異なっても、清霜と同期の艦娘たちの関係性は変わらない。

 そのことを目の当たりにして、康奈は胸を撫で下ろした。

 信じていなかったわけではないが、どこか不安を感じていたのは確かだからだ。

 

「……司令官。それ」

 

 早霜が表示されているウインドウの一角を指し示した。

 今映し出されているのは、艦娘人造計画の被験者となった子どもたちの一覧である。

 早霜が指した子どもは、どこか清霜に似ていた。もっとも、面影があるかないか、という程度の類似性だ。

 

「これ、私?」

「分からない。今とは大分違うけど……」

「艦娘にしていく過程で、人間だったときの個性や特徴は少しずつ削がれていく――ってさっき見たわ。であれば、元々の顔と今の顔では結構違っているのかもしれない」

 

 被験者の詳細情報も載っていた。

 

 上杉静。

 上杉家は数世代に渡って議員を輩出している名家であり、静はそこの本家の娘だった。

 姉妹共々艦娘適性があることが判明。相手が相手だけに政府も駄目元で交渉を仕掛けたところ、静の父――現当主は『国家の存亡にかかわることであればやむを得ない』として、娘たちを艦娘人造計画の被験者とすることに合意したという。

 ただ、母親の方はそれで納得したわけではなかったらしく、娘たちが送り出されて程なく離婚している。

 

 静たち姉妹は艦の魂と高い親和性を示した。

 研究は順調だった。親和性の低さから精神に異常をきたす被験者も多く出たが、その中にあって静たち姉妹は極めて良い成績を出し続けている。

 

「けど――異変があった」

 

 二〇一四年、春。

 ピーコック島に離島棲鬼と名付けられた深海棲艦が現れる直前、静たちがいた研究施設は深海棲艦の標的にされた。

 秘密裏に進めていた艦娘人造計画の施設だけあって、彼らは表立った援軍を呼ぶことができなかった。

 実験も佳境に入っている。後少しで成果が出せる、というところまで来ていた。

 

 施設長は決断した。

 比較的高い親和性を持っていた被験者たちを、急ぎ艦娘にしてしまい、その戦力を以て施設を防衛する。

 完全な艦娘化はまだ十分な検証が出来ておらず、危険が伴う。

 それでも、この施設を手放すよりは良いと、施設長は考えたらしい。

 

 静たち姉妹も、このとき選ばれた。

 どの艦の魂に見初められるかは、直前にならないと分からない。

 何一つ確かなものがない賭けに、彼女たちは付き合わされることになったのである。

 

 そして、施設による記録はそこで途絶えていた。

 施設自体は無事だったが、いくつか損傷している箇所も見受けられたため、交戦の末敵わないと見て放棄することになったのだと思われる。

 

 それが、上杉静に関する記録だった。

 

「……これが、この子が私なのかな」

「ハッキリとしたことは言えない、けど……」

 

 他の被験者の記録と照らし合わせてみると、艦娘適性があると言っても、その適性度合いはピンキリで、この記録の施設において最終的に艦娘化できるとみなされた子はそう多くはない。

 清霜は実際に艦娘になっている。そして、上杉静は艦娘になり得るとみなされた数少ない被験者だった。

 両者が同一人物である可能性は、それなりに高い。

 

 だが、これが事実だとすると、清霜は親に半ば見捨てられたということになる。

 

 ……清霜。

 

 康奈は清霜の様子を窺う。

 意外にも、清霜はそのことにショックを受けていないようだった。

 

「姉妹、かあ」

 

 清霜の関心は、上杉静の姉妹に向いているようだった。

 上杉静の資料には、姉妹の名前は載っていない。対象以外の個人名は徹底して避けるのが、この施設の記録の特徴のようだった。部分的に流出したとき、影響を最小限に抑えるための措置なのかもしれない。

 

「なにか思い出せそう?」

「ううん。でも、なんだろう。思い出せないのが……なんだか、少し苦しい気はする」

 

 清霜が険しい表情を浮かべる。

 そのとき、早霜が清霜を後ろから抱き締めた。

 

「大丈夫よ。もし思い出せなかったとしても――ここに、私がいるから」

「……うん。ありがと、早霜……お姉ちゃん」

 

 気恥ずかしそうに言う清霜を、早霜は目いっぱい抱き締めた。

 少し力が入り過ぎたのか、途中から清霜が「タンマ、痛い、痛いってばー!」と悲鳴を上げる。

 

 その様子を眩しそうに見る康奈に、春雨がおずおずと声をかける。

 

「あ、あの。私もぎゅーってしましょうか……?」

「え? あ、あー……。ううん、いいわ」

「そ、そうですか」

「落ち込まないでってば。別に春雨が嫌なんじゃなくて、私からすると春雨は妹みたいなものだから、されるのは何かこう違うっていうか……」

 

 慌てて釈明する康奈を見て、清霜と早霜がおかしそうに笑う。

 春雨も、本気で落ち込んだわけではなかったのか、クスクスと口元を隠しながら笑みを浮かべた。

 

 

 

 仁兵衛のデータは数が多い。

 一日ではすべて見れそうになかったので、康奈は清霜たちを帰らせた。

 

「提督、まだ起きてる?」

 

 夜間、康奈が一人でデータをチェックしていると、瑞鳳が尋ねてきた。

 

「起きてる。どうかしたの?」

「ううん。昨日は元気なかったから、どうかなーって思って。大淀から、少し元気戻ったって聞いてはいたけど」

「ごめんね。今日はお休みもらっちゃって」

「いいのよ。康奈は働き過ぎなくらいなんだから。もっと休んで欲しいくらい」

 

 そう言って、瑞鳳はお盆のクッキーとコーヒーを康奈のデスクに置いた。

 

「はい、お夜食。康奈のことだから、早く寝なさいって言っても寝ないだろうし」

「そうね。今日はちょっと、これをしっかり見ておこうと思って」

「……大丈夫? 顔色、少し悪いけど」

 

 瑞鳳が康奈の顔を覗き込んでくる。

 

「大丈夫大丈夫。ちょっと、嫌な内容が多いってだけで」

「心配だなあ。嫌なものなら見ないで済ませるとか、駄目なの?」

「うん。……これは、見ないと」

 

 清霜たちを帰らせた後、康奈が目を通しているのは艦娘人造計画の実験に関する詳細情報だった。

 被験者の心身の安全を省みない、過酷としか言いようのない数々の検証。

 国家の――人類の危機だとしても、本来守るべき対象である子どもを相手に、ここまで惨いことができるのか、と言いたくなるような内容だった。

 

 被験者として集める際、強引な手段で周囲から引き離された子どもも大勢いる。

 過酷な実験の中、犠牲になった子も大勢いる。

 

 目を背けたくなるような内容ばかりだが――康奈は、これをしっかりと記憶しなければならないと考えていた。

 

 覚えてこそいないが、自分もこういった実験の当事者だった。

 今は周囲のおかげで大分良い環境にいられるが、今の自分があるのは、こういう実験での犠牲があったからこそ、という考え方もできる。誰かの命が犠牲になった結果得られた知見で、康奈が死なずに済んでいるのかもしれないのだ。

 

「私は、覚えておきたい。この子たちが歴史の中に葬り去られることになっても――私は」

「そっか」

 

 瑞鳳は短く頷くと、部屋を出て行った。

 幾分あっけない反応だな、と康奈が意外に思っていると、瑞鳳はすぐに戻って来た。

 その手には、枕とタオルケット――そして小さな椅子がある。

 

「……どうしたの、それ?」

「康奈が頑張るなら、私も一緒に付き合おうかと思って」

「別にいいのに」

「駄目よ。康奈ってば、放っておくと全部一人で抱え込もうとするんだもの」

 

 そう言って、瑞鳳は康奈の隣に陣取った。

 

 彼女は、康奈がここに来てすぐの頃から世話をしている。

 だからか、康奈も瑞鳳にはどこか頭が上がらないところがあった。

 姉がいたらこんな感じだったのだろうか――と思うこともしばしばある。

 

「大淀といい瑞鳳といい、私にはお節介な姉が多いわね」

「私たちだけじゃないよ。司令部の皆――叢雲や古鷹たちも、ずっと康奈のことは気にかけてるんだから」

 

 どこか注意するように言ってくる瑞鳳の仕草がどこかおかしくて、康奈はつい笑ってしまった。

 こんな風に何でもないことで笑ったのは、かなり久しぶりかもしれない。

 

 ひとしきり笑い終える頃、康奈の表情は僅かに寂しげなものになった。

 

「……ねえ、瑞鳳。私、毛利さんには随分とお世話になったわ」

「うん。毛利提督は、うちの泊地にとっては恩人よね」

「でも、私は結局何一つ恩返しができなかった」

 

 それは、と瑞鳳が言葉を重ねようとすると康奈は頭を振った。

 

「少なくとも、私はそう思うの。……私、いろんな人のおかげでこうして生きていられる。でも、誰に恩返しできてるわけでもない。恩返しが義務とは思わないけど……何かしたい。今回、毛利さんにする機会を失って――改めてそう思ったわ」

 

 そう告げる康奈の表情には、どこか力強さがあった。

 

「……それが康奈の、戦う理由なんだ?」

「うん。今の私にできるのは、提督として戦うことだけ。だから、できることは全部全力でやっていきたい。ちょっと無理をすることもあるけど……」

「無理はしないで欲しいけど、そういう顔する人って、言っても止まってくれないんだよねえ」

 

 瑞鳳は困ったような笑みを浮かべると、康奈を抱き寄せた。

 

「だから、付き合うよ。康奈が止まらないなら――康奈の辛さを私たちも一緒に受け持つ。多分、皆同じように言うと思う」

 

 力いっぱい抱き締めてくる瑞鳳の温かさに、康奈の目から少しだけ涙が零れ落ちた。

 

 ……嗚呼、私は幸せ者だ。

 

 周囲には、温かい人が沢山いる。

 こんなに恵まれていて良いのだろうかと――そんなことを思ってしまう程に。

 

 

 

 彼女は、眼前で妹が貪り食われる様を見た。

 

 半端な力で対抗しようとしたのが、そもそもの間違いだった。

 ギャンブルの投資者は、いつの間にか姿をくらませている。

 後に残されたのは、身勝手にもチップにされた子どもたちばかり。

 

 決死の抵抗で深海棲艦相手に立ち向かった妹は、噛み砕かれ、助けを求める間もなく食われた。

 助けを求められなかったのは、妹思いの彼女にとって幸いだったかもしれない。

 罪悪感を、少しでも減らせるという意味で。

 

 無論、その光景が彼女にとっての悪夢であることに変わりはなく――。

 

「――っぁ!」

 

 深夜。

 眠りから覚めた彼女は、飛び跳ねるように身体を起こした。

 

「ハ、ハーッ、ハァーッ」

 

 呼吸の乱れに気づくのに、しばらくの時間を要した。

 頭が割れるように痛く、吐き気のせいで胸からお腹のあたりが気持ち悪い。

 

 膝を落としてしばらく呼吸を整えていると、短くノックをする音がして、部屋に誰かが入ってきた。

 

「提督。大丈夫ですか?」

 

 聞き馴染みのある声に、ようやく意識が現実へと定着する。

 

「……咲良」

 

 声をかけてきた相手を見ながら、思わず口から零れ出た名前。

 その意味に気づいたのは、相手がこわい表情をしていたからだ。

 

「提督。私は川内型・軽巡洋艦の神通です」

「……ああ。そうだな。神通。分かっている。分かっているさ」

 

 神通の言葉を押しとどめ、彼女――長尾智美は起き上がった。

 

「無様を晒した。忘れてくれ、神通」

「必要であればドクターを呼びますが」

「いや、いい。彼は信用できるが、医者を見るのは今の私には却って毒だ」

 

 そう言って、智美は引き出しの中にあった精神安定剤を飲んだ。

 

 悪夢にうなされることは、少なくない。

 そういうときは、素直に薬の力を借りることにしていた。

 過剰に摂取しないのであれば、薬は使用者の力になってくれる。

 

「最近は以前にも増して忙しくなりました。あまりご無理をなさらぬよう」

「分かっている」

 

 智美の声には苛立ちが含まれていた。

 ただ、神通はそれを気にしている風でもない。

 こういうことは、ときどきあった。

 

「そういえば提督」

「なんだ」

「先日提案した例の件、いかがでしょうか」

「……ん、あれか。そうだな」

 

 数日前、神通は少し変わった提案を持ち掛けてきた。

 神通が何を思ってその提案をしたのかは、智美も分かっていない。

 ただ、面白い試みだという気はしていた。

 

「構わん。進めろ。具体的なことはすべてお前に一任する」

「ありがとうございます」

 

 神通は深々と頭を下げると、智美の部屋から出て行った。

 

「やれやれ……」

 

 残された智美は、ようやく自分の気分が落ち着いてきたことを実感する。

 神通のことは、多くの艦娘の中でも特に信頼していた。

 だが、時折酷く苛々させられることもある。

 そして、問題があるのは神通の方ではない、ということが余計智美を苛々させた。

 

 親に見捨てられたとき、智美は最初の死を迎えた。

 二度目の死は、無謀な賭けのチップにされて、姉妹を失ったとき。

 

 ……三度目はない。

 

 自分たちを見捨てた親。

 妹を貪り食った深海棲艦。

 多くの友人を死なせた挙句、我が身可愛さで逃げ出した研究者たち。

 

 いずれも、許すつもりはない。

 

「私はもっと上に行く。そうして、誰にも文句をつけられないような立場になってから、復讐を果たす。奴らに報いを――必ず報いを与えさせてやる」

 

 

 

 翌朝。

 執務室に出た康奈を待っていたのは、困惑した表情の大淀だった。

 

「おはよう。どうかしたの、大淀」

「いえ、それが……先程、横須賀第二の神通さんから連絡がありまして」

「横須賀第二の?」

 

 今や飛ぶ鳥を落とす勢いの横須賀第二が、こんな辺境の泊地に何の用事だろうか、と康奈は訝しんだ。

 艦娘人造計画に絡む件かもしれないが、それなら神通ではなく智美が康奈に直接連絡を寄越すはずである。

 神通が泊地の執務室に連絡をよこしたということは、横須賀第二からの公的な連絡ということになる。

 

「それで、神通はなんて?」

 

 康奈に促された大淀は、困惑しながらも神通の言葉を伝えた。

 

「――横須賀第二とショートランドの艦娘で、交換留学を実施したい、と」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三章「向き合うべきもの」(西方遠征編)
第十三陣「西方からの救援要請」


 ショートランド島では、本州ほど四季の変化はない。

 暦の上では春だが、その日もショートランド泊地はむわっとした暑さの中にあった。

 

「そこまで!」

 

 演習の監督役を務めていた長良が声を張り上げた。

 演習場で縦横無尽に駆け回っていた艦娘たちが、動きを止める。

 

「勝者は紅組。それぞれこの後演習内容をレポートにしてまとめて提出すること。以上、解散!」

 

 長良の終了宣言を受けて、演習に参加していた艦娘たちは思い思いに散っていく。

 白組――負けた側に参加していた清霜は、何がまずかったのかと考え込みながら歩いていた。

 

「よっ、どうしたよそんな考え込んで!」

 

 その背中を、後ろから思い切りバシッと叩く艦娘が一人。

 夕雲型の一員で、清霜の姉にあたる艦娘――朝霜である。

 

 ただし、彼女はこの泊地の艦娘ではない。

 彼女は、紺色のスカーフを身に着けていた。

 これは、横須賀第二鎮守府の艦娘のトレードマークである。

 

「痛いなー、もう。せっかくさっきの演習について反省してたのに、頭から吹き飛んじゃったよ」

「それくらいで吹き飛ぶ内容なら大事なもんじゃなかったってことだろ。改めて考え直すこった」

「うー、そうかもしれないけど」

 

 朝霜は先程の演習で紅組に属して戦っていた。

 清霜とは直接相対することはなかったが、終始そつのない動きをしていた。

 白組のうち一人を轟沈判定に追い込む戦果も挙げている。

 

「朝霜から見て、私って何が足りないと思う?」

「直感に頼りすぎ。嗅覚は大したもんだが、それに振り回されて釣られてる場面が多い」

「そうなの?」

「ああ。実際何度か揺さぶりかけたら成功したし」

「気づかなかった……」

 

 知らないうちに朝霜の術中にはまっていたことを知り、清霜はがっくりとうなだれた。

 

「砲火を交えるだけが戦いじゃないってことだ。より長く戦場に立っていられるよう、目的を遂行できるよう、あらゆる手段を講じる。それがあたしの基本ポリシーだ」

「横須賀第二は皆そんな感じなんだ」

「……いや、ちっと違う。あそこは『目的を遂行できるようあらゆる手段を講じろ』がポリシーだな」

 

 両者の僅かな違いに、清霜は何かを言いかけて、やめた。

 そのことについて深く追求するなと、朝霜の表情に書いてあったからだ。

 

「けど、大丈夫かね」

「ん?」

「いや、磯風のヤツだよ」

 

 磯風は、朝霜と入れ替わりで横須賀第二鎮守府に留学に行っていた。

 当初、康奈は交換留学について懐疑的だったが、磯風が自ら希望したため、彼女を行かせることにしたのである。

 

「あそこはマジで地獄みたいな訓練するからな。一週間で吐かなくなれば上出来だと思うが」

「大丈夫じゃないかな。磯風、ここにいるときも人の倍近く訓練してるから」

 

 ショートランド泊地は、横須賀第二鎮守府のような強豪ではない。

 しかし、曲がりなりにも最前線に位置する泊地である。訓練は決してぬるいものではなかった。

 

「訓練量だけの問題じゃないけどな。ま、そこはあんまり心配しても仕方ないか」

「そうそう。あーあ、私も病み上がりじゃなかったら立候補してたんだけどな」

 

 交換留学の話が出たとき、清霜はまだ本調子ではなかった。

 そのため、立候補しようとした手を早霜や春雨によって抑えられたのである。

 

「お前のその向上心……と言っていいのかどうかよく分からんものは、どこから湧き上がってくるんだろうな。磯風と言い物好きなもんだぜ」

「えー、そうかな。訓練いっぱい積んだら、戦艦みたいに活躍できるかもしれないじゃん」

「戦艦ねえ」

 

 朝霜は訝しげに清霜を見やった。

 

「なあ、清霜」

「なに?」

「なんでお前――そこまで戦艦に憧れてるんだ?」

 

 それは、身近な人々から何度となく尋ねられたことだった。

 ただ、朝霜はこの泊地の艦娘ではない。

 だからか、清霜の反応は普段と少し異なるものだった。

 

「戦艦って、大きいでしょ」

「ああ。でかいな」

「とても頑丈だし、遠くにも手が届く」

「おう。耐久力や砲撃戦での射程に関しちゃ、右に出る者はいないな」

「――それがね。羨ましいんだ」

 

 どこか遠くに思いを馳せながら、清霜はゆっくりと告げた。

 

「私は、よく夢を見る。武蔵さんが沈む夢。……戦艦・武蔵が沈む夢、と言った方が良いのかな」

 

 それは、艦娘になる前の――艦艇としての記憶だ。

 艦娘は時折、かつての記憶を夢という形で振り返る。

 

「武蔵に乗っていた人たちを助けたかった。でも、私も、一緒に護衛についていた浜風も、近づけなかった。武蔵の沈没に巻き込まれたら、私たち駆逐艦じゃひとたまりもなかったから。……そのときは、仕方ないなあって思ったんだ」

「……駆逐艦・朝霜と合流したのは、その後だったな」

「うん。それで、多号作戦や礼号作戦で一緒になったんだよね」

 

 懐かしいなあと、清霜は笑った。

 どこか寂しい笑みだと、朝霜は思った。

 

「そして、礼号作戦で私は沈んだ。……沈むとき一人でね。誰も側にいなくて、乗ってる人たちを誰も助けてくれないのか――って思ったとき、あのとき武蔵も同じ気持ちだったのかなって、初めて後悔したんだ」

「……清霜も浜風も、助けること自体を諦めたわけじゃなかったろ。武蔵沈没後に、助けられるだけ助けたって聞いたぞ」

「うん。でも、それは武蔵が沈んだ後だったから。……駆逐艦・清霜だってそう。あの後霞・朝霜が助けに来てくれたっていうのは艦娘になってから知ったし、そのことは感謝してもしきれない。けど、沈むときは――やっぱり辛かった」

 

 清霜は空に向かって腕を伸ばす。

 

「あのとき清霜が戦艦だったなら、武蔵に横付けして、もっと多くの人を助けられたと思う。武蔵を安らかな思いで送り出せたと思う。私が戦艦みたいになりたいのは――そういう思いもあるからなんだって、そう思うんだ」

 

 伸ばした腕は、武蔵のものと比べると、いかにも小さく、細く、便りのないものだった。

 

 

 

「失礼します」

 

 ノックをして入室した神通は、海図を相手に唸る智美の姿を見た。

 情報部長という役職についてから、智美は前以上に働き詰めになっている。

 

「少しお休みになられてはいかがでしょう」

「……ん、神通か。何か用か」

 

 集中していたからか、神通が来ていたことに気づいていなかったらしい。

 やはり、疲れが溜まっているのかもしれない。

 

「朝霜からの定例報告が届きました。文書化してありますので、お時間のあるときにご確認ください」

「――ああ、交換留学、だったな」

 

 神通から報告書を受け取って一瞥する。特に変わったことは書いていなかった。

 

「大した情報はないな。元々あそこの泊地自体はそこまで気にかけるようなところでもないし、こんなものと言えばこんなものだが」

 

 神通が提案した交換留学の実態は、ショートランド泊地への諜報員派遣である。

 朝霜には、できる範囲でショートランド泊地の内情を調査し、定期的に報告するよう申し付けてある。

 

「提督は、あそこの泊地をもう少し気にかけておられると思っていましたが」

「あくまで一部だけだ。あの泊地そのものにはさほど興味はない」

 

 智美は他にも複数の場所に諜報員を派遣している。

 情報部長になる前から、彼女は情報の重要性を理解していた。

 戦いにおいても、それ以外の場面においても、情報を制する者は優位に立つことができる。

 

「それに、本格的な諜報活動をするなら朝霜は人選ミスだろう。奴は嘘が上手くない。向こうの泊地に気づかれている可能性もあるんじゃないか」

「特定の情報を探るようなケースでは不向きかもしれませんが、今回は内情偵察が主な目的ですし、それくらいなら朝霜でも問題ないと判断しました。デリケートな情報を扱うわけでもないので、むしろ嘘がつけなさそうな艦娘の方が適任ではないかと」

「……なるほど、そういう考え方もあるか」

 

 実際、朝霜の定期報告の内容は業務日誌のようなものばかりで、見ていて退屈さを感じる。

 ただ、こういう情報でも積み重ねていくことで見えてくるものはある。智美はしっかりと内容を頭に叩きつけた。

 

「磯風の方はどうだ?」

「優秀ですよ。初日しか吐きませんでした。今日などは通常の訓練の後で自主訓練をしているようです」

「……私がいうのもなんだが、なかなかクレイジーだな」

 

 通常の訓練と神通は言ったが、それは朝霜がいうところの『地獄』である。

 大抵の艦娘はそこで心身ともに力尽きてしまうものだが、磯風はこの短期間で既に適応してきているらしい。

 

「使いものになる、という理解で合っているか?」

「はい。これまであまり表立って評価されることはありませんでしたが、あそこは最前線に位置する拠点です。訓練も十分に行われているようですし、艦娘の練度もこちらの認識以上だったと見て良いでしょう」

「そうか。ならば『今度の作戦』でも、存分に頼らせてもらうことにしよう」

 

 智美は短く頷いて、神通の方を見た。

 

「ところで神通。磯風はショートランド泊地に連絡を入れているのか?」

「いえ、まったく」

 

 磯風が施設内から出た様子はないし、施設内では外部に連絡を取ろうとすればすぐに検知できる。

 どうやら、磯風は純粋に横須賀第二鎮守府の在り様に興味を持ってやって来ただけらしい。

 

 智美は何とも言えないような顔で鼻を鳴らした。

 

「たまには連絡を入れるよう言っておけ。地獄の横須賀第二に派遣した艦娘から連絡がないとなれば、向こうも余計な心配をするだろう。それは、面倒だ」

 

 

 

 康奈は、全資料に目を通し終えて、大きく息を吐いた。

 毛利仁兵衛が力を尽くして収集した情報だけあって、得るものは多かった。

 

 艦娘人造計画の変遷。

 被験者となった少女たちの情報。

 艦娘という存在に関する論考。

 深海棲艦という存在に関する論考。

 

 その中で、清霜の前身と思われる少女の情報も掴めた。

 それだけではない。横須賀第二の智美の前身と思しき少女の情報も、このデータには掲載されていた。

 一気に詰め込むには多過ぎるくらいの情報が、ここには含まれている。

 

 しかし。

 

「ない」

 

 康奈は再び息を漏らす。

 疲労だけではなく、失望を感じさせる吐息だった。

 

「私に関する情報は、何もない」

 

 もしかしたら見落としているのかもしれない。

 そう思って、被験者となった少女たちの情報に関しては何度も繰り返し目を走らせた。

 しかし、引っかかるものは何もない。自分の素性に関する手がかりは、どこにも見当たらなかった。

 

「毛利提督も、全部を調べられたわけじゃない――ってことなのかもしれないよ?」

 

 瑞鳳が慰めるように康奈の頭を撫でた。

 しかし、康奈は得心がいかずパソコンの画面をねめつける。

 

「毛利さんのメモがところどころに残ってるの。……少なくとも、AL/MI海域にあった研究施設に関しては網羅してるみたい」

「康奈が元々いたのが、別の海域の研究施設だったってことは?」

「可能性はゼロじゃない。でも、毛利提督のこのメモを見る限り、その可能性は低いと思う」

 

 そう言って康奈は適当な名称がつけられたテキストファイルを開いた。

 その中には、資料に対する仁兵衛のコメントが記載されている。

 この手のメモは他にも多数残されていて、仁兵衛の調査がどこまで進んでいたか確認するのに役立っていた。

 

<彼女の情報がないのが不審。『霧』が敢えて嘘をつく理由もないはずだ。なぜないのか>

 

 ここに出てくる『霧』というのは、康奈を研究施設から連れ出した者を指し示すワードである。

 その正体は康奈も把握していないが、今重要なのは『霧』の正体ではない。

 その『霧』がもたらした情報が正しければ、この資料の中に康奈に関する情報が含まれているはず、というところである。

 

「多分、私が元々いたのはこの資料に載ってる施設のどれかだと思う。けど、手がかりがない」

「康奈は、やっぱり元の自分のことが分からないと不安?」

 

 少し控え目な口調で瑞鳳が尋ねる。

 康奈はハッとしたように面を上げて、瑞鳳の顔を見た。

 

「……ううん。私には、この泊地の皆がいる。今、私は十分恵まれた環境にいると思ってる。だから不安はない。そのはずなんだけど――」

 

 それは偽りのない康奈の本心だった。

 しかし、それとは別に、胸中をざわつかせるものがある。

 

「この資料を見ていると、妙に頭が痛くなるの。息が詰まるような息苦しさを感じる。この資料の裏側に、私に関する情報が隠されているのだとしても――むしろ、私はそれを知りたくない。でも、知らないままでいるのも、怖い」

 

 知りたいという欲求ではない。

 どちらかというと、知らなければならないという強迫観念がある。

 だから、取っ掛かりがない今の状況は、ひどく落ち着かなかった。

 

「少し、休もう?」

 

 瑞鳳に言われて、康奈は小さく頷いた。

 近頃は、日中は提督としての業務、それ以外の時間は資料の精査に追われていて、ほとんど休む間もなかった。

 そろそろ無理やりにでも脳を休ませないと倒れかねない。

 

 しかし、ベッドに横になろうとしたタイミングで、康奈が持っていた通信機が震えた。

 提督同士の間でのみ通信可能な専用機である。

 相手は、横須賀第二鎮守府の長尾智美だった。

 

「……もしもし」

『お疲れのようだな』

 

 康奈の声音から、智美は彼女が今どういう状態なのかを察したらしい。

 

「何か用かしら。今、資料に目を通し終えて非常に疲れているところなんだけど」

『そうか。そちらはいろいろ忘れているから確認に時間がかかるのだったな』

 

 嫌味のつもりはないのだろうが、智美のそういった物言いは疲労して苛々している康奈には毒だった。

 何か言い返そうとしかけて、眼前に瑞鳳がいることを思い出し、かろうじて言葉を飲み込む。

 

『では単刀直入に用件を話そう。大本営から通達があった』

 

 大本営、という言葉に康奈は意識を改めた。

 通常の泊地運営に大本営が口を出してくることはほとんどない。

 大本営からの通達は、重要な作戦の前触れであることがほとんどである。

 

『インドが現在深海棲艦の攻勢を受けている。そこで――西側から来るイタリア軍と共に、この深海棲艦どもを打ち払え、とのことだ』

 

 

 

 インドの海は広い。広いが故に、制海権の維持は困難を極めた。

 

 インドも艦娘を戦力として抱えてはいるものの、日本と比べるとまだ艦娘の数は心許ない。

 そのため、広大なインドの海の制海権を十分に確保できているとは言い難かった。

 

 その状況で、深海棲艦の軍勢による攻勢が始まったのである。

 窮地に追いやられたインドは、日本とヨーロッパに救援を依頼した。

 

 日本もヨーロッパも深海棲艦との戦いに相当の戦力を割いているため、救援にはかなりのリスクがある。

 しかし、東西を結ぶ海が深海棲艦の支配下に入れば、今後連携を取ることができなくなる。

 

「そういった諸々の事情を鑑みて、大本営は今回の救援作戦に踏み切ったそうよ」

 

 ショートランド泊地の司令室。

 そこには、泊地司令部に属する艦娘が揃っていた。

 司令室の外にも、話を聞きつけた艦娘たちが大勢集まっている。

 

「ヨーロッパの方はイタリアが手を挙げたの? イギリスではなく?」

 

 疑問を口にしたのはビスマルクだった。

 彼女は司令部の一員ではないが、今回ヨーロッパ方面との連携が発生するということで康奈が呼んだのである。

 その側には、昨年秋に着任したプリンツ・オイゲンの姿もあった。

 

「インドと縁が深いのはイギリスだけど、どうも現状イギリスは四方から深海棲艦に攻め込まれていて、外洋に出せるような戦力がないらしいのよ。そこで、比較的余裕のあるイタリアの白羽の矢が立ったみたい」

「イタリアの艦娘か……。ヨーロッパの中では、比較的私たちとも接点がある方ですけど」

 

 と、オイゲンは若干気まずそうに頬をかく。

 ビスマルクやオイゲンが艦艇だった頃所属していたドイツは、各地を敵に回して猛威を振るった歴史がある。

 そのことに関する是非はさておき、ヨーロッパの艦娘相手には少々やりにくさを感じるところはあった。

 

 一応イタリアはドイツと同盟関係だった時期もあるので、他よりは多少話が通じやすい。

 ただ、最終的には同盟関係も決裂してしまったので、遺恨がないというわけでもない。

 

「ま、でも接点がないよりはあった方が良いでしょう。過去のことをいつまでもグチグチ言い合っていても仕方ないってことくらい、互いに分かっていると思うし。私たちは当然参加するということで良いのよね、アトミラール?」

「そうね。ビスマルク、オイゲン、レーベ、マックス、ユーには参加してもらいたいと思ってる」

 

 康奈が泊地に所属しているドイツ艦娘の名を挙げると、ビスマルクは得心したかのように頷いた。

 彼女たちは元になったのがドイツの艦艇というだけで、艦娘になってからドイツの地を踏んだことはないのだが――艦艇時代の記憶が多少なりともあるので、その辺りはさほど問題にならない。

 

「今回は朝霜にも参加してもらうわ。長尾提督から連れてくるように言われてるから。問題ない?」

「ああ、問題ないさ。居候の身だが、手を抜かずちゃんと働いてみせるぜ」

 

 朝霜は鼻っ柱をこすりながらニヤリと笑ってみせた。

 その隣にいた清霜も身を乗り出す。

 

「司令官! 私! 私も行く!」

「はいはい、ちゃんとメンバーには入れてあるから」

 

 宥めるように言いつつ、康奈は西方遠征に連れていくメンバーの名を次々と挙げていく。

 泊地の全艦娘のうち三分の一に及ぶ、大軍勢だった。

 

「凄い数になりそうだな」

「うん。こんな大勢で出るのなんて初めてかもしれない」

「インドともなると、AL/MI作戦のときと同じくらいの遠出になるからね。報告されている敵の軍勢も、あのときに近い規模みたいだし」

 

 規模の大きさに驚く清霜と朝霜のところに、一人の艦娘がやって来た。

 一見すると普通の駆逐艦娘のように見えるが、どこか他とは違う雰囲気をまとっているようでもある。

 

「叢雲さん!」

「久しぶりね、清霜。朝霜は挨拶のとき以来かしら」

 

 ショートランド泊地の初期艦にして、康奈が不在の際に泊地を取り仕切る副司令を務める艦娘――駆逐艦・叢雲だった。

 最近第二改装を終えたばかりの彼女は、康奈がとりまとめている編成図を眺めながら難しい表情を浮かべた。

 

「今回はこれでも数を抑えている方よ。さすがに大本営もAL/MI作戦のときの失敗は忘れていないみたいね」

「あのときはもっと多かったんですか?」

「ええ。遠征軍も規模は尋常じゃなかった。……今回は妥当なところだとは思うけど、あのときほど遠征軍に余裕がないとも言えるわ。厳しい戦いになると思うから、覚悟はしておきなさい」

 

 清霜と朝霜の肩を叩いて、叢雲はすぐに別の艦娘のところに行ってしまった。

 おそらく、今みたいに皆へ声をかけているのだろう。

 

「今回の遠征、あの叢雲も出向くみたいだな」

 

 朝霜が興味深そうに叢雲の姿を追いながら言った。

 

「叢雲さんがどうかしたの?」

「いや、あいつの名前はうちでも少し知られてるからな。いろいろと参考になるんじゃないかと思ってよ」

 

 叢雲だけではない。

 ショートランド泊地でも有力な艦娘たちの多くは、今回の遠征に参加するようだった。

 渾作戦で清霜たちと一緒に戦った鬼怒隊の面々、トラック泊地で共に戦った金剛たちも名を連ねている。

 そして、その中には武蔵の名前も含まれていた。

 

「……お」

 

 大和たちと談笑していた武蔵が、清霜たちに気づいて手を振った。

 しかし、清霜はそれに短い会釈で応えると、すぐに別の場所へと行ってしまう。

 武蔵と向き合うことを、どこか恐れているように見える逃げ方だった。

 

 ……やれやれ。今回の遠征、何かが起きそうな予感がひしひしとしやがる。

 

 一癖ありそうな面々が、それぞれの思いを抱えたまま臨む西方遠征。

 朝霜にできるのは、何事も起きなければ良いがと祈ることくらいだった。

 

 

 

 日本の対深海棲艦防衛ラインの南東の要はショートランド泊地だが、南西の要はリンガ泊地である。

 

 そのリンガ泊地が近づくにつれて、船が増えていった。

 船の周囲には、護衛の艦娘が多数ついている。おそらく、各拠点の母艦なのだろう。

 ショートランド泊地も、今回は三隻の船を用意してきた。それくらいの備えがなければ持たない遠征である。

 

 どの拠点もそれくらいの用意をして臨もうとしている。

 今回の遠征が大規模な作戦になる、というのが肌で感じられる陣容だった。

 

 ただ、すべての拠点が参加しているわけではない。例えば、トラック泊地は今回の作戦に参加していなかった。

 トラック泊地は先日の襲撃で大打撃を受け、現在再建中の状態である。とても遠征を出せる状態ではない。

 大本営もトラック泊地の重要性と現状は理解しているらしく、無理に参加しろとは言わなかった。

 

「お待ちしておりました、ショートランドの皆さん」

 

 横須賀鎮守府の母艦・三笠に着いた康奈たちを出迎えたのは、呉鎮守府の初期艦である電だった。

 その隣には、穏やかな顔つきの青年が立っている。

 

「遠路はるばるご足労いただきありがとうございます。作戦本部部長代行の浮田です」

 

 浮田は呉鎮守府の提督で、停職処分を受けた三浦剛臣の代理という立場にあった。

 三浦ほど華々しい戦果を挙げてきたわけではないが、堅実な戦いぶりが高く評価されている。

 

 三浦同様元々自衛官だったこともあって、大本営からの信頼も厚い。

 作戦本部長代行に推されたのはそういう経歴による。

 

「まだ本会議までは時間がありますので、しばらくは艦内でおくつろぎください」

「ありがとうございます」

 

 浮田や電と握手を交わして、康奈は周囲を見回した。

 

「そういえば、長尾提督は?」

「船内にいると思いますよ。お呼びしましょうか」

「いえ、大丈夫です」

 

 別段会いたいというわけではなかった。

 確認したいこともあるにはあるが、今はプライベートなことを話すような状況でもない。

 

「――イヅナ?」

 

 そのとき、若干の驚きを含んだ声が聞こえてきた。

 康奈たちが視線を転じると、そこには目を丸くしたベスト姿の白人男性が立っていた。

 彼は真っ直ぐに康奈の元にやって来ると、喜色満面の様子で「やっぱり!」と声を張り上げる。

 

「久しぶりじゃないか、イヅナ! 少し大きくなったんじゃないか? 無事だったなら連絡をくれれば良かったのに!」

 

 そう言って康奈の手を取り、がっちりと固い握手を交わす。

 悪意も何もなさそうな男の振る舞いに、康奈も抵抗を忘れて「え、ええと?」と困惑するしかなかった。

 

「あの、私は北条康奈と言って――その、人違いでは……?」

「ヤスナ?」

 

 言われて、男は康奈の顔を怪訝そうに覗き込んでくる。

 

「ンー、やっぱりイヅナにしか見えない。別人なのかい? こんなに似てる別人なんて、初めてだが……」

「エルモ」

 

 と、そこで浮田が男の名を呼んだ。

 

「彼女は北条康奈提督だ。艦娘を率いる指揮官の一人としてここに来ているんだよ」

「提督? フーム。そうか。提督、か……」

 

 エルモと呼ばれた男は、興味深そうに康奈や周囲の艦娘たちを見つめた。

 

「分かった。気になる点はあるけど、今ここで話を続けても仕方なさそうだ。そちらのお嬢さん方にこれ以上睨まれたくないからね」

 

 清霜や大淀、瑞鳳といった面々から向けられる猜疑の眼差しに降参の意を示しつつ、エルモは「また会おう」と足早に去って行った。

 

「……司令官。今の人、知ってるの?」

「ううん。知らない――と思う、けど」

 

 清霜の問いかけに、康奈ははっきりと答えることができなかった。

 もしかすると、自分が記憶を失う前の知り合いなのかもしれない。

 

「彼はイタリアから派遣されてきたメンバーだ。と言っても本国から来たわけじゃない。インドの大使館を拠点に動き回っている――研究者だそうだよ」

「……研究者ですか。何の研究を?」

「艦娘や深海棲艦の艤装まわりについて、と聞いているけど」

 

 康奈の胸中はざわついていた。

 研究者エルモが口にしたイヅナという人物。

 それは、どういった人間なのか――。

 

「司令官、大丈夫? 顔色悪いけど……」

 

 心配するように覗き込んでくる清霜に、康奈はかろうじて笑みを返した。

 

「大丈夫。ちょっと考え事をしていただけだから」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四陣「変化の兆し」

 リンガに集結した遠征軍は、慎重に西進していった。

 西方海域は深海棲艦が跳梁すること甚だしく、各国が十分に対応できていないため、少しずつ制海権を確保していかなければ退路を断たれる恐れがあった。

 

 総指揮を執る呉の浮田提督は、その慎重さが評価されている人物だった。

 このような遠征においては打ってつけの人材とも言える。

 

 無論慎重過ぎては救援が間に合わなくなるが、その辺りは補佐役である情報本部長・長尾智美が上手くバランスを取っていた。

 

「大きな抵抗はなかったよ」

 

 周辺の敵を掃討してきた清霜が、汗を拭いながら康奈に報告した。

 

「深海棲艦自体はそれなりにいるけど、この前のトラックのときみたいな統率が取れてる軍って感じじゃなかった」

「ありゃ拠点活動型じゃなくて流浪型だな。個体の強さはともかく、集団としてまとまってないからどうとでもなる」

 

 清霜の報告を朝霜が報告した。

 異なる拠点の艦娘ではあるが、同じ夕雲型であり艦艇時代も接点があったからか、二人はなんとなく馬が合うようだった。

 

「ただ、流浪型の出現頻度自体は高い。インドを攻めている深海棲艦の軍勢と戦うことになったとき、流浪型が乱入してくる可能性を考えると、あまり良い状況じゃないな」

「ありがとう。その報告は作戦本部にもあげておくわ」

 

 おそらく深海棲艦の軍勢とぶつかる際、何割かは流浪型の警戒・対応に割く必要が出てくるだろう。

 ショートランド泊地がどちらに回されるかは分からないが、いずれにしても厳しい戦いになりそうだった。

 今回は敵地に乗り込んでの戦いになる。先日の防衛戦とはまた違う辛さが待ち受けているのだろう、と康奈は感じていた。

 

 そのとき、船室の扉がノックされ、叢雲と武蔵が入って来た。

 二人は清霜たちとは別の隊として、哨戒任務に出ていたのである。

 

「戻ったわ。康奈、少し相談があるんだけど良い?」

「ええ。何かあった?」

 

 叢雲はショートランド泊地創設メンバーの一人で、康奈の補佐を務める副司令官の立場にあった。

 これまでは康奈が外征する際に留守を守っていたのだが、今回は大規模な戦いになることが予想されたので、康奈と同じように戦略的指揮を執れる者がもう一人欲しい、ということで参戦することになった。

 

 途中で提督として着任した康奈からすると、叢雲は指揮下にある艦娘であるのと同時に、頼りになる先輩でもあった。

 

 場の雰囲気を察して清霜たちは出て行こうとしたが、それを叢雲は制止した。

 

「ああ、清霜たちも残ってていいわよ。別に内緒話をするわけでもないし」

「どのみち後で話すことになるからな。もし意見があれば聞かせてほしい」

「わ、分かりました」

 

 さすがの清霜も副司令官と大戦艦を前にすると緊張するのか、表情が強張っていた。

 ただ、単に緊張しているだけでなく、どこか気まずさを覚えているようにも見える。

 

「私と武蔵、それに千歳・千代田で少し遠くまで様子を見に行ってみたわ。結果、流浪型の活動範囲と軍勢の位置取りが部分的に分かった」

 

 そう言って叢雲は海図に深海棲艦のマークを描いていった。

 流浪型は赤く、軍勢は青く記載している。

 

「……なんか、そのまま敵の軍勢まで行けそうですね」

 

 清霜の言葉に叢雲が頷いた。

 流浪型は各所に散らばっているが、敵の軍勢へのルートを阻害するような位置にはいない。

 

 深海棲艦の軍勢は何かしらの目的をもって動くが、流浪型は明確な目的もなく、近づかなければ積極的に襲い掛かってくるようなこともない。

 無視しようと思えばできるのである。

 

「ただ、この流浪型の数は少し多い気がするのよ」

「確かに、普段ソロモン諸島の巡回で発見するよりもずっと多いわね」

 

 康奈の記憶にある限り、一海域にこれだけ流浪型が集まっているケースというのはほとんどない。

 

「……この流浪型、ダミーってことはないのか?」

 

 口を開いたのは、海図を少し遠くから眺めていた包帯男――新十郎だった。

 火傷の跡は今も残っており、簡単には消せないらしい。そのため、彼は今も全員を包帯で覆っていた。

 

「ダミー?」

「こいつらを無視して突っ切り、敵軍勢と戦ったとして、そのときこいつらに後背を突かれたら俺たちはひとたまりもない。ただの流浪型ならそんな動きは取らないが――取らないとこちらが判断することを見越した策だとしたら、という話だ」

 

 新十郎の提言を受けて、康奈は改めて海図を見直した。

 流浪型を無視して突っ切れば無駄な消耗を抑えた状態で敵軍勢と戦える。

 しかし、流浪型と敵軍勢が連携していた場合、新十郎が言ったような背後からの奇襲を受けることになる。

 

「元々流浪型か軍勢かの違いは、指揮官タイプの個体がいるかどうか、一定以上の数で集まって動いているかどうか、というものでしかないわ。流浪型になりすますこと自体は難しくない」

「叢雲、あなたも新十郎と同じ見解ということ?」

「そうね。それを危惧したから、こうして相談に来たのよ」

 

 叢雲はショートランド泊地でもっとも多くの戦いを見てきた艦娘だ。

 最近は泊地の運営が主な仕事になっているが、渾作戦やトラック泊地防衛戦についても目を通している。

 戦略・戦術両面をこなせる彼女の言葉は、軽々しく扱うことができない。

 

 新十郎に関しても、最近は泊地で様々な功績を上げており、艦娘やスタッフからの信頼を着実に得ている。

 肉体労働はからきしだが、頭脳面においては泊地首脳陣からも一目置かれる存在になっていた。

 

 康奈としては、二人の考えは杞憂なのではないかという思いもあった。

 しかし、杞憂かどうかを確認せずに仲間を危険にさらすのは指揮官の仕事ではない、とも感じている。

 

「敵軍勢の規模はかなりのものよ。おそらく本部はいたずらに敵を増やしたくない、と言ってくるはず。それにあまり時間もかけられないわ。インド方面が落とされれば私たちの負けになる」

「なら、このまま突っ切る気か?」

「違うわ新十郎。康奈は、本部を説得する方策を考えろって言ってるのよ」

 

 付き合いの長さの違いか、叢雲は即座に康奈の考えを察した。

 新十郎はまだそこまで康奈のことを理解できているわけではない。

 ただ、すぐに納得して頭を働かせ始めた。こういう切り替えの早さが彼の持ち味である。

 

「この流浪型に奇襲されないようにすれば良いんですよね」

 

 と、そこで一同の話を聞いていた清霜が声を上げた。

 

「なんだ清霜、いっちょまえに何か策でもあるのか?」

「策っていうほどのものでもないけど」

 

 朝霜に突っつかれながら、清霜は若干自信なさげに言葉を紡いでいく。

 

「正面から敵軍勢に追いつかれたら、背後に流浪型を抱えることになるから、思い切って大きく迂回しちゃえば良いんじゃないかなって」

「……敵軍勢の側面を回り込むってことか」

「成功すれば、流浪型に追いつかれることなく、敵の軍勢と当たれる構図になるわね」

 

 新十郎と叢雲が海図を指でなぞりながら、清霜の案をシミュレートする。

 

「ただ、側面を移動するとき敵軍勢から猛攻を受けることになる。そういう点ではかなりリスキーだが」

「背後に潜在的な敵を抱えるよりはマシでしょ。流浪型が仮に動いたとしても、敵軍勢とまとめて相手すればいい」

 

 清霜の言葉をきっかけに議論が展開していく。

 その様子を見て、朝霜は「やるじゃん」と清霜の背中を叩いた。

 

「いや、私はただなんとなく思ったことを言っただけで」

「言えるってのがすげえんだよ。いや、ここだと普通のことなのかもしんないけどさ」

「横須賀第二だと違うの?」

「あそこはな……。司令の言うことが絶対というか、何か言える空気じゃねえんだよ。司令に物申せるのは神通さんくらいじゃねえかな」

 

 叢雲と新十郎だけでなく、武蔵や千歳たちも加わって、議論はますます白熱していく。

 厳しい言葉の応酬もあるが、皆感情的にはなっていない。

 勝ち負けを決めるための議論ではなく、より良い結論を出すための議論をしているという雰囲気だった。

 

 

 

 ショートランド艦隊含め、各艦隊から情報や意見が届けられてくる。

 それらをとりまとめながら、智美はちらりと浮田提督を見た。

 

 三浦提督や毛利提督のように目立った戦果をあげているわけではないが、凡庸な人物というわけでもない。

 果断さには欠けるがその分慎重であり、判断を誤るということがほとんどなかった。

 そんな彼が、作戦開始前に口にした言葉を思い出す。

 

『君が良ければだが、今回の戦いは君に一任したいと思う。責任はすべて私が取るから、存分に腕を振るって欲しい』

 

 随分と思い切ったことを言う、と思ったが、智美としてはありがたかった。

 浮田提督とは何度か顔を合わせたことがある程度だったので、どのように連携を取るべきか考えあぐねていたところだったのだ。好きなようにさせてもらえるなら、その方がありがたい。

 

 もっとも、本当に危ないと思ったら止めさせてもらう――という補足はついている。

 ただ、そう言ってあれこれと細かいところに口を出してくる、というようなことはなかった。

 今のところ、浮田提督はこちらの提案を見て「それでいこう」と頷くばかりである。

 

「提督。各艦隊からの意見をこちらにまとめました」

「神通か、ここに置いておけ」

 

 戦局を確認してから、神通の資料に目を通す。

 前線で水雷戦隊の指揮を執ることが多い神通だったが、出番がないときはこうして補佐官としても働いている。

 補佐官としての神通は優秀だった。報告内容に無駄がなく、必要なときに適切な意見を出す。

 元々神通とは浅からぬ縁がある智美だったが、こうして頼ることが多いのは彼女の能力あってのことである。

 

「……ん?」

「どうかされましたか」

「神通。この資料、誰がまとめた?」

 

 神通が作る資料と同様、よくまとめられた内容だが、どこか普段と違っている。

 いつも神通の資料に目を通していなければ見落とすような違いだったが、智美はそれを見逃さなかった。

 

「ショートランドの磯風です」

 

 智美の声音に負の感情が含まれていないことを察して、神通は手短にそう答えた。

 

「こういった仕事もできるのか」

「物事の要点をすぐに掴む。そういうところには長けているように見えます」

「随分と買っているようだな。お前が誰かにこういう仕事を任せるのは珍しい」

「得難き人材かと。……願わくば、彼女のような者が我が鎮守府にもっといればと思うのですが」

 

 横須賀第二鎮守府の艦娘は皆精鋭だ。

 地獄のような訓練を乗り越えてきた、一騎当千の猛者ばかりである。

 しかし、戦局を見極める観察眼を持つ者、他の者たちとの連携を円滑にするための場を作れる者は、そう多くない。

 

「何人かはいる。なによりお前がいる」

 

 智美の短い言葉の中には、神通への全幅の信頼が含まれていた。

 しかし、神通はそれに頭を振る。

 

「私は前線に出て戦う身です。何かあったときに後を託せる者が欲しい。そう思うこともあります」

「縁起でもないことを言うな、戯け」

 

 神通の言うことを「もっともだ」と感じながらも、智美はそれを杞憂として一蹴した。

 

「だが、何かとお前に負担がかかっているのも事実だ。もしお前が希望するのであれば、進めてみるか」

「と言いますと?」

「磯風の移籍の話だ。磯風自身と先方の意向もあるだろうが、提案はしてみても良いだろう」

 

 交換留学ではなく正式な移籍の話を持ち掛ける、ということであれば、康奈も難色を示すだろう。

 しかし、神通がこれほど誰かを評価するのは珍しい。そういう人材を逃すべきではない、と智美は考えていた。

 

「……負担という点では、提督も相当なものだと思いますが」

 

 神通が釘をさす。

 近頃の智美は、職権が増えた分以前よりも働き詰めになっていた。

 顔色も冴えず、どこか危うい雰囲気を醸し出している。

 

「ふん、要らぬ心配だ。この程度のことで倒れるようで、我が望みを果たせるものか」

 

 智美は神通の懸念を笑い飛ばし、資料を読み込む。

 しかし神通には、その様子が強がりの一種のようにも見えた。

 

 

 

 作戦本部は、艦隊を大きく二つに分けることを決定した。

 敵軍勢との決戦に臨む本隊と、それを支援する巡洋艦以下を中心とした支援艦隊。

 支援艦隊の任務は、各地の流浪型深海棲艦の牽制と輸送部隊の調査だった。

 

「輸送部隊?」

 

 康奈から概要を聞かされて、清霜は首を傾げた。

 先程の軍議では聞かなかった言葉だったからだ。

 

「他の艦隊がそれらしきものを見かけたらしいのよ」

「深海棲艦の連中も物資がなけりゃ戦えない。どこかで資源確保してそいつを届ける部隊は、まあ必ずいるだろうな」

 

 そう語る朝霜は、前回のトラック泊地防衛戦の最終局面で敵の輸送部隊を叩いた経験がある。

 あのとき敵の大軍が撤退したのは、大将が倒れたことと補給に不安が生じたことが主な理由だ、という分析結果が出ていた。

 

「敵が大軍なら物資もその分たくさん必要になる。補給路の重要性も増すことになるわ。だからこそ叩いておきたい。作戦本部はそう判断したみたいね」

「流浪型についてはどうするの?」

「邪魔をしなければ手を出すな、ただし輸送部隊との戦闘行為において邪魔立てするようであれば撃滅すべし、とのお達しがあったわね」

 

 作戦本部は流浪型の存在をあまり重視しなかったらしい。

 そのことに対して不満そうな顔をする清霜に、康奈は励ましの言葉をかけた。

 

「ま、流浪型についてはそれとなく私たちの方で気にかけておきましょう。もしこっちの考えが当たっていたら、作戦本部に大きな貸しができることになるわ」

 

 清霜以外にも大本営の決定に不服を抱いているメンバーはいたが、康奈の言葉で表情が柔らかくなっていく。

 久々の大遠征だが、ショートランド艦隊としての士気は低くない。悪くない雰囲気だった。

 

「司令官、うちはどっちにいくの?」

「二手に分かれるわ。大型艦含む決戦部隊と、輸送部隊の相手をする水雷戦隊」

「そっか。流浪型を避けながら輸送部隊探すの、結構難しそうだなあ」

 

 そう言って頭を掻く清霜に、康奈はちょっと妙な顔をした。

 

「なに言ってるの、清霜。まだ清霜がどっちかなんて言ってないでしょ」

「え、水雷戦隊じゃないの?」

「今回は決戦部隊よ」

 

 康奈に言われて、清霜は動きを止めた。

 まったく予想していなかったらしい。

 

「な、なんで?」

「さっき清霜も言ってたじゃない。今回水雷戦隊側は繊細な行動を求められるのよ。これは向き不向きの話になるけど……清霜はそういうのに向いてないでしょ」

 

 清霜としては、返す言葉もなかった。

 強敵相手にドンパチやる方がシンプルだと常々思っているくらいである。

 交戦を最小限に抑えつつ、目標だけを狙って動く。そういうデリケートな仕事は苦手な方だった。

 

「それに決戦部隊の方だって大型艦の護衛として駆逐艦は必要よ。というか、本来の適性からすると清霜はそっち寄りだと思う。これまでは経験不足だったから同期のメンバーと一緒に行動させてたけど……そろそろ良い頃合いだって、叢雲たちとも相談したのよね」

 

 つまり、今回の決戦部隊への配属は、康奈を始めとする泊地首脳陣が清霜のことを認めたということである。

 しかし、肝心の清霜の表情は冴えなかった。

 

「どうしたの、清霜。もし嫌だって言うなら、配置変えも検討するけど」

「あ、ううん。嫌じゃないよ、嬉しい。だって、ようやく一人前になれたってことだもんね!」

「……」

 

 清霜の様子に妙なものを感じながらも、康奈はそれ以上追及することを避けた。

 今、このまま踏み込むべきではない。そういう予感がしたからだ。

 

「朝霜」

「おう」

「あなたも清霜と一緒に決戦部隊に行ってちょうだい。横須賀第二からの許可はもらってるから」

「あいよ」

「……清霜のこと、それとなく気にかけておいてあげて」

 

 康奈は朝霜の側に近づき、他の人に聞こえないようそっと耳打ちした。

 

 決戦部隊は伊勢・日向を中心とする連合艦隊となった。

 清霜は第二艦隊で、ビスマルクの護衛につくことになる。

 

 連合艦隊のメンバーに武蔵の名前はない。

 それを見て安心する清霜に、朝霜は内心肩を竦めた。

 

 ……やっぱ、艦艇時代の記憶のこともあってか、武蔵をどこかで避けようとしてるな。

 

「ん、朝霜、なにか言った?」

「別にー」

 

 一方、これまで清霜と戦場を共にすることが多かった同期のほとんどは水雷戦隊に配属することになった。

 決戦部隊に配属される同期は、雲龍のみである。

 

「同期の中で清霜と二人っていうのも、なんだか新鮮ね」

「いつもは時津風と一緒だもんね。でも大丈夫、今回は清霜がバッチリ守るからね!」

 

 どことなく調子づいている様子の清霜に、朝霜は微かな不安を抱くのだった。

 

 

 

 清霜の先ほどの反応については、康奈もおおよそ察していた。

 提督として着任して以降、泊地に属する艦娘の艦艇時代については日々学ぶようにしている。

 清霜と武蔵の縁についても、当然把握していた。

 

「やれやれ。あの様子だとなかなか解決するのは難しそうだな」

 

 そうぼやいたのは、当事者でもある武蔵その人だった。

 武蔵も、どこか清霜に避けられている、というのは当然感じ取っている。

 

「武蔵の方から強引に距離を詰めてみたら?」

「いや、そういうのは、どうもな」

「提督。武蔵はこれでいて、結構人付き合いは奥手な方なんですよ」

「大和、いらんことを言うな」

 

 横から言葉を差し込んできた大和に、武蔵は嫌そうな顔をした。

 泊地に着任したのは武蔵の方が先だったが、それでも姉である大和相手だと頭が上がらないらしい。

 

「実際、艦艇時代の記憶に引き摺られて思うようなことができない、というのは私にも経験があるからな。上から目線で人にどうこう言えた立場ではない。それだけだ」

「とは言え、このままだと艦隊運用に支障が出るのも確かなのよね……」

 

 清霜の成長は目覚ましいものがある。

 このまま順調に成長を続けていけば、そう遠くないうちにショートランド泊地の駆逐艦の中でもエース級の存在になれるだろう。

 そんな清霜と主力最強クラスである武蔵の相性が悪いというのは、どうにもよろしくない。

 

 どうしたものかと康奈が悩んでいると、せかせかとした靴の音が聞こえてきた。

 音が部屋の前で止まったかと思うと、勢いよく扉が開かれ、ベスト姿の白人男性が姿を現した。

 

「ハロー、ショートランド泊地の諸君! ご機嫌いかがかな!?」

 

 突然ハイテンションで現れた男に、室内の面々は動きを止めた。

 横須賀鎮守府の母艦・三笠で会った男である。名は――。

 

「……エルモさん?」

 

 どうにか名前を思い出した康奈だったが、エルモにとってそのリアクションは物足りないものだったらしい。

 

「そこは『貴方はイタリア人なのになぜ英語?』とツッコミを入れるところだよ!」

「……ええと、はあ」

 

 訳の分からない不満をぶちまけるエルモに、康奈は戸惑うことしかできなかった。

 

「提督よ、こいつはなんだ?」

「僕はイタリア出身の研究者エルモだ。よろしく、ショートランドの武蔵」

 

 淀みなく爽やかに手を差し出され、武蔵は若干気圧されながらも握手を交わした。

 にっこりと満足気な笑みを浮かべたエルモは、続けて康奈にも手を差し出した。

 

「改めてよろしく、"康奈"」

「……よろしく」

 

 悪い人間ではなさそうだが、その反面どこか薄気味悪いものを感じてしまう。

 そんな思いをなるべく顔に出さないようにしながら、康奈はエルモと握手を交わした。

 

「それで、何か御用でしょうかエルモさん」

「ははは、もっと親しみを込めてエルモ博士と呼んでくれても良いんだよ」

「エルモさん、何か御用でしょうか」

 

 康奈の返答は素っ気ないものだったが、エルモは気にした様子もなく、むしろどこか嬉しそうにしていた。

 ただ、康奈に対する馴れ馴れしい態度がショートランドの艦娘たちの不興を買った。

 室内の空気がどことなく張り詰めたものになっていく。

 

「おっと、この辺で本題に入るべきか。しかし君は艦娘たちに愛されているね」

「それくらいしか取り柄がないので」

「謙遜は良くない。……では、そろそろ。今僕は各艦隊に新型の通信機と装備を配っているところでね。少し前に日本が発案して、共同で開発していたんだ」

 

 エルモが取り出したのは、耳元に取り付けるタイプの通信機だった。

 

「先日のトラック泊地防衛戦で通信機が不調を起こしたそうだね。これはその対策として用意されたものだ。提督と艦娘の間に通っている霊力のチャンネルを利用しているから、電波妨害等の影響を受けない。カッコカリしてない艦娘相手だと、あまり長距離の通信はできないけどね」

 

 これまで提督と艦娘の通信は、普通の通信機を使用していた。

 そのため距離や場所によっては通信できなくなることもあった。

 この新型は、その欠点を解消するためのものである。

 

「もう一つは、これだ」

 

 エルモが取り出したのは、どことなく装飾品めいた美しさを持つナイフだった。

 手にしてみると、妙にしっくりくる。どこからか力が湧き上がってくるような感覚があった。

 

「……これは、対深海棲艦用の武装?」

「ご明察」

 

 エルモは得意げに笑ってみせた。

 そういう様は、邪気のない子どものような印象を与える。

 

「僕の専門は、対深海棲艦用の艤装や兵装でね。これは先日の一件を踏まえて考案された提督用の武装だ」

「……毛利提督の件ですね」

「惜しい人物だったと聞いている。いや、今生き残っている提督諸氏についてもそうだ。これ以上犠牲を出すわけにはいかない。そう思って作り上げたものだ。受け取ってくれるかな?」

 

 エルモが信用に値する人物かどうか、康奈はまだ決めかねていた。

 ただ、彼が作ったというこのナイフからはやましいものを感じない。

 

「ありがたく受け取ります」

「ありがとう。この武装は提督の持つ霊力を使ったものだ。身に着けている間、少しの間だけ艦娘に準ずる戦闘能力を発揮できるようになる。ただ過信してはいけない。敵を倒そうなどと考えず、味方が駆けつけるまでの時間稼ぎ用と割り切って使うようにしてくれ」

 

 あくまで護身用の武装ということらしい。

 

「分かりました。過信はしないようにしておきます」

「うん。くれぐれも注意してくれ。君はどこか危なっかしいところがあるからね」

「……貴方とは会って間もないはずですけど」

「おっと失礼。どうも、まだ割り切れない部分があるみたいだ」

 

 三笠で会ったとき、エルモが口にしたイヅナという人物。

 それがどんな人だったのか聞いてみたい衝動が、康奈の胸中に湧き上がってきた。

 

 聞いてみようか――そんな考えが脳裏をよぎったとき。

 

「提督」

 

 それは、誰の呼びかけだったのか。

 

 振り返ると、そこには泊地の仲間たちがいた。

 皆、どこか心配そうにこちらを見ている。

 

 イヅナという人物への関心は、いつの間にか薄らいでいた。

 

「そうね、準備を急がないと」

「邪魔をして悪かったね。それじゃあ僕はこの辺で。他の艦隊のところにも顔を出さないといけないからね」

「……一つ忠告しておきますが、予めアポを取ってから行った方が良いですよ」

 

 康奈のもっともな指摘に、エルモは若干ばつが悪そうな表情を浮かべた。

 

「いや、実はサプライズをしかけてみたくてね。ここだけ、わざとアポなしで来たんだ」

「は?」

「それじゃ、また今度!」

 

 そう言って、エルモは逃げるようにその場を後にした。

 

「……なんだったんだ、あいつ」

 

 成り行きを見守っていた新十郎が、半ば呆れたように言った。

 

「それが分かれば、良いんだけどね」

 

 康奈としては、そういうのが精一杯だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五陣「胎動の戦場」

 輸送部隊の捜索・散在する敵への警戒対応を行う水雷戦隊は叢雲が率いることになった。

 康奈は主力艦隊を率いて前線に向かう。

 指揮系統は完全に分けることにした。

 

「こっちは任せておきなさい」

 

 第二改装を終えて少し雰囲気の変わった叢雲は、そう言い残して康奈たちと別れた。

 駆逐艦だけあって、その背中は小さい。

 

「叢雲さんたち、大丈夫かな」

「他人の心配している場合じゃないでしょ」

 

 見送りながら不安を口にした清霜に、康奈は笑って応えた。

 

「それに、叢雲は大規模作戦で艦隊の指揮を執った経験がある。心配いらないわ」

「そっか。司令官がそう言うなら、間違いないね」

 

 唯一懸念事項があるとしたら、叢雲が大掛かりな作戦に出るのが久々という点くらいである。

 ただ、それについても康奈は特に心配していなかった。ブランク程度で潰されるほど、ショートランドの初期艦はやわではない。

 

「清霜の方こそ、緊張してたりしない?」

「まったくしてないってわけじゃないけど、戦艦と一緒に戦うのはこれが初めてってわけでもないから」

 

 先日のトラック泊地防衛戦で、清霜は僅かながら金剛たちと戦線を共にした。

 その経験が緊張感を和らげているのかもしれない。

 

「それは良いことだけど、今回は戦艦の護衛が主な任務なのを忘れないように。前は奇襲部隊だったから敵を倒すこと以外考えなくて良いって言ったけど、今度は立ち回りも重要になるからね」

「立ち回り、かあ」

 

 清霜は少し困った風に頭をかいた。

 

「演習とかでも立ち回りはあんまり上手くできないことが多いんだ。私、勘で動いちゃうところがあるみたいで」

「自覚できてるなら直せば良いわ」

「うーん。気づいたら動いてるって感じだから、ちゃんと自覚できているかと言われると……」

「なら自覚するところから初めてみなさい。それに気を取られてやられないように気を付けながら」

「難しそうだけど、頑張ってみる」

 

 清霜の良いところは、前向きなところだった。

 常に成長しようとしている。そういう点が、康奈には少し眩しく映る。

 

「提督。もうすぐ敵の軍勢が見える位置に来るよ」

 

 偵察機を飛ばしていた瑞鳳が報告した。

 周囲の艦隊も少しずつ母艦から艦娘を出し始めている。

 

 敵の領海に入り込めば、いつ戦闘が発生するか分からない。

 ここは、その境界線の辺りといったところだろうか。

 

「分かったわ。事前に伝えておいた編成で出撃するよう伝達をお願い。私は艦橋で状況をモニタリングしてるから」

 

 清霜と瑞鳳が「了解!」と元気よく応じて駆け出していく。

 それを見送ると、康奈はディスプレイに映し出されたマップに視線を向けた。

 

 今回の作戦において、作戦本部は主力部隊を中央・北・南の三つに分けた。

 ショートランド泊地の艦隊は南軍に属している。

 南軍の指揮権はブルネイ艦隊の提督に与えられていた。機動性を重視するスタンスの人物である。

 

 作戦本部が南軍に命じたのは、敵主力部隊を南方から攻めながら迂回し、敵の陣形をかき乱すことだった。

 無論、それはあくまで基本的な方針に過ぎない。かき乱した結果敵陣に隙が出来たと見た場合は、即座に本丸へ突っ込んで敵の首魁を討ち取る権限も与えられている。

 

 ……清霜だけじゃない。今回のこの南軍は、立ち回りの上手さを要求される。

 

 自分も気を引き締めてかかる必要があると、康奈は頬を叩いて気合を入れ直した。

 

 

 

 リランカ島と呼ばれる島の深奥。

 鬱蒼とした森の中に、異形の影が三つ。

 

『――東方の軍勢の侵攻が始まった』

 

 額の角と大きな両腕が特徴的な人型の深海棲艦――後に港湾水鬼と呼称される深海棲艦が口を開く。

 

『思っていたより早いのね。彼女が言っていた攪乱というのは?』

『断念したようだ。野良どもになりすまして後方をかき乱す算段だったそうだが、敵が相応の数を残したことで対応が困難になったと連絡があった』

『あらそう。まあ、気分屋だものね、彼女』

 

 港湾水鬼に問いを発したのは、後に泊地水鬼と人類に名付けられる深海棲艦である。

 この場にいない『彼女』という存在のことを思い浮かべて、両者はため息をついた。

 

『奴のことなど最初からアテにはしていない。お前たちもそういう料簡であったのだろうが』

 

 最後の影が口を開いた。

 片目に大きな傷跡を残した、大型の艤装の持ち主。

 戦艦水鬼である。

 

『そうね。いえ、少しだけ期待はしていたのよ。彼女、頭は良いから』

『過ぎたことだ。それよりも対策を練らねばならん』

『余裕がないのね』

『ないな。私は一度経験している。人間や艦娘は深海棲艦に比べて脆弱だが、同時に強い。間違いなく強い』

 

 戦艦水鬼が片目を抑えながら低い声をあげる。

 その凄味に、港湾水鬼と泊地水鬼は押し黙った。

 

 単純な戦闘力であれば三者はほぼ拮抗している。

 自分と同等の力を持つ戦艦水鬼の言葉は、戯言として聞き流すには重過ぎた。

 

『連中の侵攻が思ったよりも早かった。こちらはまだ十分に布陣を固めきれていない。そこが問題だ』

 

 港湾水鬼が地面に海図を描きながら問題を提起した。

 現状、リランカ島の艦隊はインド方面に何割かが出向いていてやや数が心許ない。

 今のままでも敵の先鋒と戦うことはできるが、その後の展開も考えるとあまり良い状況とは言えない。

 いたずらに戦力を消耗するだけになってしまうからだ。

 

『偽の輸送部隊を用意して連中を釣り出すという手が使えるかもしれない』

 

 戦艦水鬼は、リランカ島北東部の海域を指し示した。

 

『敵の進行方向を少しの間逸らす。その間にインド方面の艦隊を戻して体制を整えれば良い』

『釣られるかしら?』

『トラック泊地での戦いで、最後に奴らは輸送部隊を狙ってきた。今回も姿を見せれば狙ってくる可能性はある』

 

 戦艦水鬼の言葉に、港湾水鬼と泊地水鬼は頷いた。

 

『ならばその手で対応してみよう』

『けど、不思議なものね。こうして軍の動かし方、敵の動きの読み方を考えるようになるなんて』

『勝つため、奪うために必要なことだ。必要であればする。単純なことよ』

 

 艦娘たちへの対応方針をまとめると、戦艦水鬼は自らの持ち場に戻っていく。

 その姿を見送りながら、泊地水鬼は『やっぱり妙な子ねえ』と呟いた。

 

『前から知らない仲ではなかったけど、ここ最近はまた少し様子が変わったみたい』

『トラック泊地での敗北が、あいつを変えたのだろう』

『そこも不思議よね。前の彼女なら、負けたことを恥じて自死しそうなものだと思ったけど』

『……おそらく、恥を忍んででも成し遂げねばならぬことがあると、思い定めているのであろうよ』

 

 戦艦水鬼の在り様から言葉にし難いものを感じながら、港湾水鬼はそう口にした。

 

 

 

 突如姿を見せた輸送部隊に対し、作戦本部は主力部隊の何割かを向かわせて撃破させることを決定した。

 その中には、北軍に含まれていた横須賀第二鎮守府の神通隊の姿もある。

 

「あの輸送部隊についてどう思いますか、磯風」

 

 輸送部隊への侵攻を阻もうとする敵勢力との戦いの最中、神通は随行していた磯風に尋ねた。

 

「陽動という気がするな、神通殿。あの位置なら敵本隊との合流を阻むよう間にいくつかの小隊を差し挟めば良い。そんな感じがする」

「同意見です。どうもわざと姿を見せてきたようにしか思えない。おそらく、あの輸送部隊は敵にとってさほど重要な存在ではないのでしょう」

 

 磯風の回答に満足しながら、神通は自分の見解を口にした。

 横須賀第二鎮守府の隊の中にあって、磯風は驚くほど馴染んでいた。

 

 元々、横須賀第二鎮守府は諸事情あって他の拠点にいられなくなった艦娘の集まりである。

 他所の拠点の艦娘に対し、排他的な姿勢を取る者はほとんどいない。実力さえあれば認められた。

 そして、磯風はその実力を存分に示している。

 

 駆逐艦としてはかなり高い戦闘能力を有しており、加えて状況判断も的確だった。

 この短期間のうちに、彼女を頼りにする風潮すら生まれてきている。

 厳しい環境に身を投じるだけあって、皆『誰に頼れば生き残れるか』という嗅覚には秀でていた。

 

「提督も、その可能性は十分に考慮されているようでした。一定の打撃を与えたらすぐ本隊と合流するように言っていたのがその証左です」

「……以前の長尾提督なら、このような指示は出さなかったのか?」

「今も本当は出したくないのだと思います。ただ、今の提督は作戦本部の指揮権を持っている。以前より多くのものを見なければならない。その違いに、まだ苦労されているのでしょう」

 

 立場が変わることによる苦悩。

 それについては、磯風も分かるような気がした。

 

 横須賀第二鎮守府で過ごし始めてしばらくした頃、嚮導駆逐艦をやってみないかという話を持ち掛けられた。

 艦艇時代に経験があったので引き受けてはみたが、最初のうちはまったく思い通りにならなかった。

 艦娘と艦艇では、命令する側もされる側もいろいろと勝手が違う。その違いに磯風は大いに戸惑った。

 

 多少ましになったが、今も悩みが解消されたわけではない。

 

「神通殿も、悩むことはあるのか」

「常に悩み続けていますよ。正解などありませんから。……いえ、あるにはありますが、それは常に変わり続けている、と言った方が正確ですね」

 

 磯風から見て神通は常に果断で心の内を滅多に見せない。

 それ故周囲から畏怖されている面もあるが、指揮官としては良いスタンスだと磯風は思っていた。

 そんな神通も、やはり内心思うところはあるらしい。

 

「磯風、こんなときですが一つ相談があります」

「なんだろうか。神通殿にはいろいろと世話になっている。可能であれば恩は返したい」

「……」

 

 神通は僅かに押し黙った。

 が、迷いを振り払うように頭を振ると、磯風をまっすぐに見据えてくる。

 

「――この戦いが終わったら、正式に横須賀第二鎮守府に来ませんか」

「……なに?」

「移籍の誘いです。貴方が私の右腕になってくれると、私は嬉しい」

 

 突然のことに、さすがの磯風も困惑した。

 どう返すべきか。

 思考を巡らせている最中、前方に敵影が見えた。

 

 磯風含め、神通隊は全員が戦闘態勢に入る。

 

「答えはすぐに出さなくとも構いません」

 

 そう言いつつ、神通は突撃の合図を出して敵影目掛けて突っ込んでいく。

 磯風としては、それに続くしかない。余計なことを考える余裕はなかった。

 

「……まったく、横須賀第二は刺激だらけだな!」

 

 胸中のモヤモヤを吹き飛ばすように笑いながら、磯風は主砲を構えた。

 

 

 

 リランカ島の敵主力軍はなかなか動かない。

 南軍は南方から回り込むように攻撃を繰り返しているが、相手は僅かに反撃してくるのみで、本格的に打って出てくる様子を見せなかった。

 

「あまり良い状況ではないわね」

 

 ショートランドの南軍艦隊旗艦を務めるビスマルクは、この状況に顔をしかめていた。

 敵はインド方面の攻勢部隊をリランカ島に戻しつつある。

 インドの脅威は薄れるので一概にマイナスとは言えないが、リランカ島の防備が強化されれば敵拠点攻略の難易度が上がる。

 

 敵拠点を落とさなければ、インド方面の脅威が去ったとは言えない。

 遠征軍が去った後に再び侵攻を再開するだろう。

 

「ビスマルク、提督から連絡。南軍司令から指示があって、少しちょっかいをかけるって」

「了解。瑞鳳、攻勢部隊の編制については指示あった?」

「ビスマルクに任せるって」

「分かったわ」

 

 ビスマルクは淀みなく攻勢部隊のメンバーを指名していく。

 その中には、清霜と朝霜も含まれていた。

 

「最近期待の有望株、その腕前を見せてもらうわよ」

「が、頑張ります!」

 

 やや緊張気味に応じた清霜の頭をポンポンと叩きながら、ビスマルクは攻勢部隊出撃の号令をかけた。

 先頭を行くのはプリンツ・オイゲン。最後尾にビスマルクがつき、艦隊全体の動きを見る陣形である。

 清霜と朝霜はオイゲンのすぐ後について、臨機応変に動けるよう備えていた。

 

「いやあ、緊張するねー」

 

 と、先頭を行くオイゲンが清霜たちに声をかけてきた。

 彼女は昨年秋の渾作戦の頃に着任した艦娘で、着任時期的には清霜よりも後輩になる。

 厳しい訓練を積んでビスマルクの片腕と言われるようになっていたが、大規模な作戦に参加するのはこれが初めてだった。

 

「清霜は着任してから何度も大きな作戦に参加したんでしょ? 何か至らないところがあったらドンドンアドバイスしてね!」

「あ、はい!」

「おお、清霜が先輩か。なんか妙な気分だぜ」

 

 朝霜がからかうように言った。

 着任時期だけで言うなら朝霜は清霜どころかオイゲンよりも後になるのだが、横須賀第二という特異な場所にいたからか、本人の性格によるものか、まったく後輩という感じがしない。

 

 ふと、清霜は背筋に寒気を感じた。

 前方を注視すると、空に小さな影がちらほらと見える。

 

 同時に、オイゲンの電探にも反応があった。

 

「敵艦載機、近づいて来てます!」

「了解。雲龍、行けるかしら?」

「問題ない。迎撃用の艦戦部隊、発艦する」

 

 ビスマルクに問われて、雲龍は艦戦部隊を空に解き放った。

 

「敵はこちらに近づいて欲しくないみたいね。他のメンバーは全員対空戦に備えなさい!」

 

 ビスマルクに指示されるまでもなく、艦隊のメンバーは全員対空戦の準備を整えていた。

 清霜と朝霜は他の艦より前に出て、高角砲を両手に迎撃の姿勢を取る。

 敵艦載機を撃ち落としつつ、いざというときは大型艦の盾になる。

 それが護衛役の駆逐艦の仕事だった。

 

「清霜ォ、対空戦は得意か!?」

「実はそんなに得意な方じゃない!」

「なるほど、だったら手本を見せてやるぜ!」

 

 雲龍の艦戦部隊を潜り抜けた敵攻撃機目掛けて、朝霜が躍り出た。

 朝霜の存在に気づいた敵攻撃機が旋回運動を取ろうとする。

 その動きの変化が生じるかどうかという微妙なタイミングで、朝霜は高角砲による対空射撃を開始した。

 

 敵艦載機の動きを予測しながらの射撃は、かなりの命中率だった。

 本来、小さくて機動力のある艦載機に命中させるのは難しい。

 だが、朝霜の対空射撃はかなりの精度を誇っている。

 

「ま、防空駆逐艦ほどじゃねえけどな!」

 

 一方、清霜も必死に敵艦載機の迎撃に務めていた。

 朝霜には及ばないものの、迎撃率は決して低くない。

 

 無我夢中で敵艦載機を撃ち落としているうちに、敵の攻撃は止んでいた。

 

「お疲れ様、二人とも凄いね!」

 

 オイゲンが駆け寄ってきたとき、初めて清霜は自軍の状況を確認できた。

 幸い、誰にも目立った損傷は見受けられない。

 

「敵の攻勢はまだ何度か続くはずよ。皆、気を緩めないで」

 

 攻勢を凌いでホッとする一行に、ビスマルクが注意を促した。

 その言葉を裏付けるように、再度遠方の空に黒い点が浮かび始める。

 

「やれやれ、奴さんはどうしてもこっちに近づいて欲しくなさそうだな」

「朝霜。敵の嫌がることなら、是非ともやるべきだと思わない?」

「違いない」

 

 ニヤリとビスマルクに応じて、朝霜は再び対空射撃の構えを取った。

 

 敵の攻撃が続く限り、守り続けなければならない。

 護衛の難しさを改めて感じながら、清霜も再度高角砲を構えた。

 

 

 

 南軍の挑発は不首尾に終わった。

 敵は頑なに動かない。籠城する構えを見せている。

 

「南軍は西から、主力と北軍は東から一気呵成に攻め立てる。それが最善かと思いますが、いかがでしょう」

 

 作戦本部で、長尾智美は呉の浮田提督に打診していた。

 これまで、浮田提督は基本的に作戦行動の意思決定を智美に委ねていた。

 その方が智美も動きやすいだろう、という配慮によるものである。

 

 智美もその厚意を受け取って、自分の考えで全軍を動かしていた。

 しかし、この局面において独断で動くのは危ういという思いがある。

 

 浮田提督は長考するタイプの人だった。

 だから、早期決着を求められる今回の遠征には元来向いていない。

 ただ、しっかりと考える分、見落としや漏れがない。

 今は、そういう隙のない浮田提督の見解が必要だった。

 

「……長期戦で臨む方針にシフトするという手もあるが、それは取らないという前提なんだね?」

「ええ。補給に関してはインドから支援するという申し出があるので一定期間は問題ないと思いますが、それ以前の問題として、本国周辺の守備を長期間薄くしておくことはできません」

 

 今、日本の東方防衛ラインは北方領土付近からソロモン海域までのラインまでしかない。

 そこから東の広大な太平洋は、現在大部分が深海棲艦によって掌握されている。

 

 米国もどうにか勢力を取り返そうと計画を練っているようだったが、あちらは防衛しなければならない国土が広すぎるため、外部に軍を派遣する余力が残っていなかった。

 海外との貿易手段が限定的になったせいで、軍備に回せる経済力も十分ではない。深海棲艦によってもっとも大きな被害を受けたのは、米国とも言える。

 

 米国があてにならない以上、太平洋からの侵攻には常に備えておかなければならない。

 今回の遠征はその方針に反する、かなりリスキーなものだった。

 補給の問題がなかろうと、長期戦にしたくないことに変わりはない。

 

「気になるのは、リランカ島の西側だ」

 

 浮田提督は海図の西側を指し示した。

 インドの国土の南端が突き出ているが、そこから南西には多くの島々が広がっている。

 

「小さい島々だが数が多い。……軍事拠点にすることもできなくはない」

「ここは――モルディブですね」

 

 インド南西に存在する島国だが、深海棲艦の出現以降、国民の大半は海外に脱出しており、現在どのような状態になっているかハッキリしたことが分からない。

 

「モルディブが深海棲艦に占拠されている場合、南軍は挟撃される危険性がある。北部まで旋回させて攻撃した方が安全ではないかな」

「確かにその方が危険性は減らせますが、時間がかかり、燃料の消耗が激しくなる分南軍の動きが鈍くなります。また、リランカ島の敵が西側に逃亡する可能性があります」

「インド方面の制海権を確保するためには、拠点を奪取するだけではなく相応の敵を撃破する必要がある、と?」

「はい」

「分かった。では、長尾提督の案に時間制限を設けるというのはどうだろう。短期決戦で片付けるなら、西側に敵がいても被害は抑えられるだろう」

 

 浮田提督の案は悪いものではなかった。

 元々智美としては短期戦を望んでいた。実質、要望はほぼ受け入れられた形になる。

 

「異論ありません」

「ああ。時間は――二日程度でどうかな」

「それくらいあれば、落とせるでしょう」

 

 浮田提督の承諾を得て全軍に方針を伝えると、どっと疲れが全身に圧し掛かってきた。

 ふと傍らに視線を向ける。しかし、そこに神通はいない。今頃は輸送部隊を叩いているはずだった。

 

「お疲れのようですね」

 

 視線の反対側から声がして、智美は表情を硬くした。

 気配がまるでしなかったからだ。

 

 警戒心を抑えながら振り向くと、そこにはベスト姿の白人男性が立っていた。

 

「……貴方は?」

「エルモと言います。インドで艦娘や深海棲艦の艤装を研究している者です、よろしく」

 

 にこやかに差し出された手を見て、智美は逡巡しつつも握手を交わした。

 

「研究、ですか」

「ええ。各地を飛び回って、必死に情報をかき集めながら、どうにかこうにかやっています」

 

 そう言って、エルモは手にしていたケースから通信機と小型の拳銃を取り出した。

 

「今日はこちらを届けに来ました。新型の通信機と、対深海棲艦用の護身装備になります」

「通信機――と、護身装備ですか」

「護身装備はそれぞれの所有者に適しているものにしています。貴方の場合は拳銃が一番使い慣れているとのことでしたので」

 

 どこでその情報を掴んだのかと、智美は気味の悪さを覚えた。

 ただ、実際手にしてみると不思議なくらいしっくりと来る。

 

「こちらは、有難く頂戴します」

「是非有効活用してください。貴方の役に立つのであれば――父君も喜ばれるでしょう」

 

 エルモの口にした単語に、智美は大きく目を見開いた。

 胸中に深く秘めていた部分に、いきなり土足で踏み込まれたような不快感。

 それを堪えながら、智美はエルモに尋ねた。

 

「……今、何と?」

「父君も喜ばれるでしょう、と。貴方の父君は、我々にとって大事な出資者ですので」

 

 さらりと言ってのけたエルモに、智美は鋭い眼差しを向けた。

 

 長尾智美という存在に、父親はいない。

 戸籍上の父は存在するが、それは提督として活動するため戸籍を作り上げた際に用意した名義だけの存在だ。

 実在する人物ではない。

 

 ただ、智美も無から生まれたわけではない。

 父親は存在する。

 長尾智美になる前の――艦娘人造計画の被験者になる前の父親だ。

 

「貴様、どこまで知っている?」

「……おや。随分と雰囲気が変わりましたね?」

「答えろ。貴様、私についてどこまで知っている」

 

 近くには浮田提督を含め作戦本部のスタッフがいる。

 荒事を起こし難い状況ではあったが、智美は構わずに殺気のこもった眼差しをエルモに向けた。

 

 冗談は通じないと見たのか、エルモは笑みを引っ込めて真顔になった。

 

「僕は一介の研究員に過ぎません。貴方について知っていることも限定的です」

「それでも良い。知っている範囲で話してみろ。でなければこの場で脳天に風穴を開けてやる」

「……貴方が上杉重蔵氏のご令嬢の一人、景華様だということ。艦娘人造計画による実験を経て、現在は長尾智美という名で活動されていること。それくらいです」

 

 その瞬間、智美はエルモの胸倉を掴み、受け取ったばかりの拳銃をその喉元に突き付けた。

 

「……今、艦娘人造計画と口にしたな。貴様は、その関係者か」

「関係していると言えば関係しています。もっとも、計画の全容は把握していませんが」

 

 エルモは落ち着いた様子で淡々と告げる。

 一方の智美は、明らかに我を失っていた。

 目を大きく見開き、口元をわなわなと震わせながら銃口を突きつける様は、傍から見ても尋常ではない。

 

「長尾君」

 

 いつの間にか、浮田提督が智美の手首を強く掴んでいた。

 周囲のスタッフや艦娘も、不安そうな視線を智美に向けている。

 

「君と彼の間に何があったかは知らないが、この場でそういう振る舞いは許可できない」

「――しかし、この男は」

 

 やっと掴んだ艦娘人造計画の手掛かりだ、と言いかけて、智美は口をつぐんだ。

 それを浮田提督に言ったところで、状況は変わらないだろう。

 浮田提督は、艦娘人造計画とまったく関係がないのだ。

 

「……」

 

 智美は銃を下ろし、エルモから手を離した。

 

「貴方の激情がそれほどのものだとは知りませんでした。艦娘人造計画は、それだけ被験者にとって過酷だったということでしょうか」

「なにを、白々しい――」

「僕はあくまで艤装部分が主な研究分野でしたので。日本の機関に滞在していた頃も、人体に関する研究に直接携わったわけではありません」

 

 エルモは、智美の凶行にさらされても動じる様子を見せなかった。

 あくまで冷静な彼の態度に、智美の中で昂っていた熱気も少しずつ冷めていく。

 

「……ならば、何か伝手はないのか。人体に関する研究をしていた奴に。私はそいつらに用がある」

「大部分は既に連絡が取れなくなりました。僕は部外者でしたので、連絡先の交換もあまりできませんでしたし。ただ、僕がいた研究機関は深海棲艦の襲撃を受けたと聞いています。もしかすると、生き残りは殆どいないのかもしれない」

 

 エルモは肩を竦めた。

 ただ、彼の言葉に込められた微妙な言い回しを智美は逃さなかった。

 

「大部分は……と言ったな?」

 

 つまり、エルモは僅かな生き残りの所在を掴んでいる可能性がある。

 智美の言葉に、エルモは困ったような表情を浮かべた。

 

「生き残っていた――と思われる人は一人知っている。だが確証はない」

「噂話程度でも良い。教えろ」

「……」

 

 エルモは智美と浮田提督の顔を交互に見た。

 話すべきか逡巡しているようだった。

 

「エルモ、話してくれないか。このままでは軍の指揮に乱れが生じるかもしれない」

 

 溜息交じりに浮田提督が告げる。

 それを受けて、エルモは渋々といった様子で口を開いた。

 

「僕が親しくしていた若手研究者に横井飯綱という女性がいる。若手研究者のホープとも言われている女性だった。僕は彼女も死んだと思っていたが、最近になって彼女と瓜二つの女性を見つけた」

 

 そこまで言うと、浮田提督の表情が強張った。

 彼は、今エルモが口にした名前をつい最近聞いている。

 

「本人か確認はしなかったのか?」

「確認したが、彼女は記憶を失っているようだった。だから、仮に彼女が飯綱本人だったとしても――何も出て来ないと思う」

「記憶……?」

 

 智美の眉毛がぴくりと吊り上がる。

 

「まさか、貴様が言っているのは……」

「おそらく貴方も知っているだろう。飯綱と瓜二つの女性。彼女は――北条康奈と名乗っていた」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六陣「神通の後悔」

 エルモからもらったナイフは、精神を疲弊させる。

 この武装は、提督が持つ霊力を一時的に吸い上げて艦娘のような力を持たせる代物らしい。吸い上げられた霊力は戻ってこないので、あまり迂闊に使い続けると消耗してしまう。

 

 霊力は艦娘の力の源だ。普段はさほど必要ないが、艦娘が大きなダメージを受けたとき等は提督からの霊力供給が必要になる。

 そういったケースを考慮すると、提督の霊力を無闇に消耗させるこの武装はあまり多用すべきではなかった。

 

「……けど、不思議。妙にすんなりと仕組みが思い浮かぶ」

 

 武装の構造についてエルモは細かい説明をしなかった。

 にもかかわらず、康奈の脳裏にはこの武装に関する様々な事柄が浮かんでくる。

 想像に過ぎないのかもしれない。しかし、どこかで「間違いない」という確信を感じる。

 

「最近の提督はよく難しい顔をしているな」

 

 側にいた武蔵が声をかけてきた。

 作戦行動中の武蔵は決して多弁な方ではない。

 そんな彼女が言うくらいなのだから、よほどの顔だったのだろう。

 

「武蔵。もし私が艦娘を生み出すための計画にかかわっていたとしたら、軽蔑する?」

「藪から棒だな。どうした?」

「毛利提督が遺してくれた資料には、艦娘人造計画に関する情報がたくさん載っていたわ。それらの情報が、私の頭の中にすんなりと入ってきたの。知らないことを知るという感覚じゃなくて、昔知っていたことを思い出すときのような――」

「考えすぎだ。あのエルモという男の言っていたことを気にし過ぎではないのか?」

 

 イヅナ。

 艦娘の艤装等を研究しているエルモの知己だったという女性。

 もしそれが自分のことだとしたら――もし艦娘人造計画にかかわっていたとしたら。

 そう考えると、康奈は心臓を鷲掴みにされたような恐怖を覚える。

 

 康奈には過去がない。

 あるのは泊地に来てからの思い出だけだ。

 思い出には、常に泊地の皆がいた。

 

 しかし、過去の自分が非人道的な艦娘量産計画に携わっていたら、もう泊地の皆に顔向けできないのではないか。

 康奈の顔を険しくさせているのは、そういう強迫観念である。

 

「仮にお前の過去がどんなものであろうと、お前が私たちと過ごした時間が変わることはないさ」

 

 康奈が持つ不安に気付いたのか、武蔵の声が心持ち優しくなった。

 

「お前が過去と向き合うと言うなら私も付き合おう。おそらく私だけではない。他にも付き合ってくれる奴らは大勢いるはずだ」

「……ごめんね」

「そこは、謝るところではないぞ」

 

 武蔵の優しさが、今の康奈には却って辛い。

 

『ショートランド艦隊、こちらブルネイ艦隊だ』

 

 そのとき、南軍を統括するブルネイ艦隊から通信が入った。

 

『作戦本部は短期決戦でいくことにしたようだ。これから俺たちは西からリランカ島を攻める。攻撃開始は他の軍と歩調を合わせて行うことになるから、まずは陣立てを整えるところからだな。ショートランド艦隊は南についてくれないか』

「ええ、問題ありません」

『作戦本部は西側の群島に敵が潜んでいる可能性も考慮している。それも加味しての短期決戦案らしい。ショートランド艦隊も、その点は考慮しておいてくれ』

「了解しました」

『ああ。それでは、健闘を祈る』

 

 通信が切れたとき、康奈の表情から憂いは消えていた。

 完全に払拭できたわけではない。ただ、他に考えることがあるから忘れられるだけだ。

 

 

 

 艦橋から出て少し歩いていると、武蔵は後方に誰かの気配を感じた。

 振り返ると、そこには包帯面の男がいる。新十郎だ。

 

「あれで大丈夫かね」

 

 武蔵が何かを問いかけるよりも早く、新十郎が口を開いた。

 

「あれ、というのは?」

「うちの提督殿だ。元々あんまり顔に出すタイプじゃないから分かり難いが、相当疲れてるんじゃないか」

 

 よく見ている、と武蔵は内心意外に思った。

 新十郎は頭の回転が早い一方で、かなりものぐさなところがある。

 人付き合いが悪いわけではないが、積極的に誰かと絡むような性質でもない。

 

「休ませた方が良いということか。だが、素直に聞き入れるとは思えんぞ」

「本人がやるというならやらせても良いだろうさ。自分が心配しているのは――皆が構い過ぎなんじゃないかってことだ」

「構い過ぎ?」

「さっきの武蔵に限ったことじゃないが、皆提督を心配する余り何かある度に声をかけているだろう。あれは逆効果だ。気を遣って疲れる。その思いやりが、却って提督の負担になりかねんぞ」

 

 そんなことはない、と反論しかけて、武蔵はかろうじて言葉を呑み込んだ。

 言われてみれば、艦橋にいる間、康奈はしょっちゅう艦娘から声をかけられていた。

 そのときは皆が康奈を心配しているのだとしか思わなかったが、新十郎の指摘の後だと、確かに些か過剰なようにも思える。

 

「皆が心底提督を心配しているのは分かる。それだけ大事に思ってるんだろう。だからこそ、少し冷静になっておいた方が良い」

「それで私に声をかけたのか」

「自分は面倒が嫌いなんだ。武蔵に言う必要のあることだから、こうして話している」

 

 語る口調は、実際面倒臭そうだった。

 ただ、面倒であってもするべきことはするという妙な律義さも感じ取れる。

 

「……お前の言う通りなのだろうよ。私たちは――少なくとも何人かは、提督のことを過剰に気にかけているのかもしれない。先代を守り切れなかった後悔が、そうさせているのかもしれないな」

 

 艦娘は深海棲艦と戦う存在だが、その本質は人類の守護者というところにある。

 ただ深海棲艦憎しで戦うのではない。人々を深海棲艦から守るため、提督と手を携えて活動していくのだ。

 

 無論、守るべき対象には提督も含まれている。

 もっとも身近で共に戦う人類。そういう意味で、多くの艦娘にとって提督というのは一番守りたい相手でもあった。

 しかし、ショートランド泊地の艦娘は一度提督を守り切れなかったという苦い経験をしている。

 

 康奈に対して過保護になりがちな艦娘が多いのは、そういう理由もあった。

 

「それとなく、私の方から他の艦娘にも言っておこう。瑞鳳には特にな」

「そうしてくれ。自分から言っても聞き入れられるかどうか自信がない」

「私なら大丈夫だと見たのか?」

「きちんと説明すれば問題ない。そういう風に見ていた」

 

 本当によく見ている、と武蔵は感心した。

 案外、何もしていないように見えるときも、新十郎は周囲をよく観察しているのかもしれなかった。

 

「なんだかんだで、お前も康奈のことを気にかけてくれているのだな」

「形式上のことだが、身内と言えば身内だからな」

 

 新十郎の正式な名は北条新十郎という。

 戸籍上では、北条康奈の兄ということになっていた。

 

 元はソロモン諸島の大使である長崎の姓を取って長崎新十郎と名乗っていたのだが、ショートランド泊地に来て間もない頃に提督適性があることが判明したので、いざというとき康奈の代役を務めやすいようにと改姓することになったのである。

 

「それに、提督が潰れたら俺に厄介ごとが回されるんだろう? それは御免だ。ストレスで早死にしてしまう」

 

 やれやれと言いたげにひらひらと手を振って背を向ける新十郎。

 それを見送りながら、武蔵は困ったような笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 配置につきながら、朝霜は作戦本部の方針に若干の不安を覚えた。

 

「急ぎ過ぎてる感じがするな」

「そう? 早めに終わらせたいっていうのは、分かる気がするけど」

 

 隣にいた清霜が首を傾げた。

 

「いや、あたしもそこは分かるんだけどよ。なんつーか、もうちょっと慎重になっても良い気がするんだよな」

「西側のことを気にしてるの?」

 

 プリンツ・オイゲンが興味津々といった様子で会話に加わってきた。

 行軍中、サン人はよく言葉を交わした。若手艦娘同士、どことなく気が合うところがある。

 

「まあ、そうだな。あたしなら西側の索敵をもうちょい実施してから方針決める。……普段の長尾提督なら、そうすると思うんだけど」

「今回は規模の大きい遠征だから、普段とは違うスタンスなのかもしれないよ」

「他の人と協議して決めてるのかもしれないし、そこはあまり気にしても仕方ないんじゃないかな」

「そうだな。一応うちからは偵察隊出してるみたいだし……」

 

 康奈は独自の判断で、母艦護衛役の空母部隊に西側への偵察を命じた。

 何かあればすぐに連絡が来るだろう。それまでは、リランカ島への攻勢に集中すべきだ、と朝霜は考え直した。

 

「……ふふっ」

「なんだよ清霜、気味の悪い笑い方すんなよな」

「だって朝霜、今『うち』って言ってたからさ。すっかりショートランドに馴染んだんだなーって」

 

 清霜に指摘されて、朝霜は初めてそのことを自覚した。

 それぐらい自然と、ショートランド泊地のことを『うち』と認識するようになっていたのである。

 

「あ、危ねえ。自分の本拠地忘れそうになってたぜ。戻ることになったときヤバイな」

「別に良いじゃん、もっとショートランドに染まりなよ~」

「うるせえオイゲン! お前はショートランドっつーか日本に染まり過ぎだ、短期間で!」

「えーっ」

 

 まるで平時のやり取りだが、三人は決して油断しているわけではなかった。

 三人が属しているビスマルク隊は既に配置についており、周囲への警戒も徹底している。

 何気ないやり取りをしながらも、三人はいつでも戦闘を始められる体勢を取っていた。

 

「けど、そうだとすれば磯風も今頃は横須賀第二に染まってるかもな。あいつ結構合いそうだし」

「磯風――」

 

 清霜は、北東方面の空を見た。

 リランカ島を挟んだ先に、磯風が属する神通隊がいるはずだった。

 

 本来、他所の艦隊の細かい配置は外部まで伝わらない。

 清霜たちが磯風の所在を把握しているのは、神通の気遣いによるものだった。

 

「磯風、元気にやってるかな。……まさか、あっちにそのまま残るとか言い出さないよね」

「なんだ、不安になったのか?」

「朝霜がこっちに残りそうな感じだから、逆もあり得るのかなって」

「いや、残らないからな。そのうち帰るからな、あたし」

 

 朝霜の指摘も耳に入らなかったのか、清霜はどこか不安そうに彼方の空を眺めている。

 溜息をつきながら、朝霜は「大丈夫だろ」とフォローを入れた。

 

「艦娘が所属を変えるにはいろいろなハードルがある。それに磯風だってホイホイ所属を変えようとするような軽いタイプじゃないだろ」

 

 そのとき、清霜たちの通信機が一斉に反応した。

 エルモから支給された新型機だ。通信状態の改善に伴い、多人数での会話も可能になっている。

 

『――こちら瑞鳳。西部を索敵中、敵戦力を発見。現在交戦しながら退却中よ』

 

 瑞鳳の声からは、切迫した状況が伝わってきた。

 砲撃・射撃の音も聞こえてくる。

 退却を選んだということは、瑞鳳隊単独で敵戦力を打倒できそうにないということだ。

 

『こちら北条。瑞鳳、大雑把でいい。敵戦力はどのくらい?』

『こっちに来てるうちの艦隊総出で対応できるかどうかってところ。けど、まだ後方に控えてそうな感じもする』

『下手すると南軍全体で対応する必要がありそうね。……ブルネイ艦隊に連絡してみるわ。瑞鳳隊は安全優先でこっちまで戻ってきて。他の皆はいつでも戦闘に入れるように。瑞鳳隊が見えたら支援を』

 

 康奈の指示に、了解、という声が通信機越しで鳴り響く。

 

 リランカ島攻防戦は、敵に先手を打たれる形で幕を開けることになった。

 

 

 

 西部戦線が押され始めている、という情報が神通隊にも届いて来た。

 現在、リランカ島攻防戦は大きく二つに分かれて行われている。

 北軍・中央軍によるリランカ島攻略戦と、南軍による西部防衛戦だ。

 

 西部に潜んでいた敵は、リランカ島を救援すべく猛進してきている。

 これをかろうじて止めているのが、西に展開していた南軍だった。

 ただ、西の敵の勢いは非常に強く、南軍はやや劣勢に追い込まれているという話だった。

 

 ……皆、動きに迷いが生じている。

 

 神通は、隊員の動きをそう捉えている。

 

 先程まで、リランカ島攻略のため激戦を繰り広げていた。

 今は他の隊と交代して休憩中だが、誰もが不安そうに西を眺めている。

 

 南軍が西方の敵戦力にかかりきりなので、当初想定していた包囲戦が実施できず苦戦を強いられている。

 ただ、皆が西を気にしているのはそれだけではなかった。

 

「朝霜、大丈夫だろうか」

 

 そんな声が、ちらほらと神通の耳に入ってきている。

 

 横須賀第二は、戦果を挙げるためなら犠牲も問わない冷血無比の恐ろしい集団と評されている。

 それは間違いではないが、正鵠を射ているとも言い難い。

 

「皆、朝霜のことが気になっているようだ」

 

 休憩用の水筒を神通に手渡しながら、磯風が周囲の様子を見て言った。

 

「意外ですか。横須賀第二の艦娘が、仲間のことを案じるというのは」

「まさか。私とてこちらで過ごしてしばらく経つ。横須賀第二の本質はそれなりに掴んでいるつもりだ」

 

 自分の分の水筒を片手に、磯風は横須賀第二の面々を見ながら続けた。

 

「いかなる犠牲を払っても戦果をもぎ取る――それは、そうするだけの理由があるからだ。皆、必死なだけだ。戦いを恐れていないわけではない。死に無頓着なわけではない。……仲間を案じないわけではない」

 

 磯風の分析に神通は黙って頷いた。

 

「ついでに一つ教えてあげましょう。横須賀第二の訓練は死と隣り合わせの地獄そのもの。脱落者も後を絶たないと言われますが――今のところ、本当に命を落とした者はいません。脱落した者は除隊させていますが」

「何人かは残留して裏方に回っていないか? 艦娘に近しい気配のスタッフを何人も見かけたが」

 

 神通は静かに笑った。それが答えである。

 

「あまり吹聴はしないようにお願いします。横須賀第二は泣く子も黙る死に狂い集団。そう思われていた方が良いのですから」

「一種のブランドイメージというものか」

 

 そのとき、神通の通信機が鳴った。智美からだ。

 神通隊には、エルモの新型通信機はまだ届いていない。

 通信機を持っているのも旗艦である神通だけだ。

 

『率直に聞きたい。神通、お前の目から見てリランカ島攻略は期待できそうか』

「困難ではありますが、不可能というほどではありません。西側の戦力がこれ以上増えない、という前提ではありますが」

『そうか。それならいい。引き続きリランカ島攻略に専念してくれ』

「提督」

 

 そのまま通信を切ろうとした智美を、神通が止めた。

 

「このままリランカ島への攻撃を継続するのは上策とは思えません。北軍の何割かを西部戦線に向けて、早急に立て直しを図るべきです」

『……然る後にリランカ島を改めて包囲する、ということか? それは時間がかかり過ぎるし、消耗も大きいだろう』

「消耗に関して言えば、このまま作戦を推し進める方が大きくなると思います」

 

 神通がこれほどハッキリと智美に意見を出すのは珍しかった。

 普段は智美の意思を尊重するし、何か意見を言うときもそれとなく伝えることが多い。

 

『珍しいな。お前が私の意見にこうも反対するとは。私の判断が信じられないのか』

「些か強引に事を進めようとしている。そのように見受けられます」

『知った風な口を利く』

 

 智美の声は苛立たしげだった。

 普段の智美であれば、神通が今のような意見を述べても笑って流しただろう。

 

 ……提督の様子も、何かおかしい。

 

 それは、神通にしか分からない違和感だった。

 その違和感に、神通は何か危険なものを感じ取った。

 このままでは、何か良くないことが起きる。そういう予感がある。

 

「提督。現在西部戦線は押され気味です。南軍が崩れた場合、遠征そのものの継続が困難になりませんか」

『それは北軍や中央軍にも言えることだ』

「現在置かれている状況の違いがまずいのです。こちらは予定通り島を攻めていますが、南軍は背後から強襲を受けた形になっている。十分な力を発揮できていません。危機に瀕しているのです」

『西側に敵戦力がいる可能性は南軍にも伝えていた。予想より敵の来襲が早かったのは確かだが、これは言ってしまえば南軍のミスでもある。その尻拭いで他の軍を危険にさらすことはできん』

 

 智美も頑なだった。

 神通にはその様子が、どこか南軍を助けに行くことを忌避しているようにも感じられた。

 

 その予感は当たっている。

 神通は知る由もないし、智美も自覚していなかったが――先程のエルモとのやり取りのせいで、智美の中には康奈に対する怒りとも憎しみとも取れる感情が芽生えつつある。

 胸中に生じた思いが、どこかで「あんな奴は死んでしまえばいい」という暗い感情になりつつある。

 

 ただ、神通はそのことを知らない。

 知らないからこそ、言ってしまった。

 

「……提督。このままではショートランド艦隊も致命的な打撃を受ける可能性があります」

『ショートランドだと?』

 

 智美の声色が硬くなる。

 今にも噴き出しそうな感情を抑えながら、智美は通信機越しに低く告げた。

 

『神通、貴様はどこの艦隊所属だ。ショートランドなぞ気にする必要はない。ここで壊滅するならその程度の奴だったということだ』

 

 そこで通信は切れた。

 智美が、有無を言わさず問答を終わらせたのだ。

 

 神通はしばらく通信機を無念そうに眺めていたが、やがてそれをしまい込んだ。

 

「どうやら、提督を怒らせてしまったようです」

「神通殿――」

「すみません。お見苦しいところをお見せしました」

 

 神通は磯風と隊のメンバーに頭を下げた。

 これも、珍しいことである。

 

「一つ聞かせてくれ、神通殿。貴方は何かとショートランドを気にかけてくれているように見えるが――それはなぜだ?」

 

 磯風の中には元々疑問があったのだろう。

 それが、今の智美と神通とのやり取りで抑えきれなくなったのかもしれない。

 

「今回の交換留学の件も、元々は貴方が発案したものだったと聞いている。ショートランドは中央の政局には殆ど関与していない。長尾提督や横須賀第二鎮守府からすれば、ほとんど気にするようなところはないと思うが」

 

 磯風の言っていることは正しい。

 ショートランド泊地は最前線に位置する拠点の一つ。

 そこに属さない人々からすれば、それだけの存在だ。

 

 しかし、その見方には一つの例外がある。

 

「……個人的な繋がりがあるんです。ショートランド泊地と、私――には」

 

 神通は逡巡したが、これからすべきことを考えて、意を決した。

 

「磯風さん。これから話すことは、私の個人的な事情を含むものになります。くれぐれも第三者には漏らさないよう、お願いします」

 

 神通が何かを決意したことに気づいたのか、磯風は何も言わずにゆっくりと頷いた。

 

「……貴方も薄々感じていると思いますが、横須賀第二は様々な事情がある者たちが集められて出来た組織です。壊滅した拠点の生き残り、他拠点からの逃亡者――そして、非公式に進められていた艦娘人造計画の成功体」

 

 艦娘人造計画。

 それについて康奈から多少の話を聞いていた磯風は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

「私は、艦娘人造計画の成功体です。元の名を――太田咲良と言います」

 

 

 

 咲良の父親は、上杉重蔵という男が君臨する企業グループのトップの一人だった。

 財界・政界に大きな影響力を持つ上杉重蔵の、片腕とも言える存在である。

 

 咲良は、幼い頃から重蔵の息女たちによく引き合わされた。

 子どもの代でも強い結びつきを――と大人たちは期待していたのだろう。

 

 結果として、咲良は重蔵の息女たちと意気投合した。

 特に長女の景華とは、同い年ということもあって親友とも言い合える間柄になった。

 

 そのまま何事もなければ、彼女たちは上杉重蔵の息女として何らかの地位を得ていたに違いない。

 咲良も、その側近のようなポジションになっていた可能性が高かったであろう。

 

 しかし、その未来絵図は――深海棲艦の出現、そして彼女たちの艦娘適性によって打ち砕かれた。

 

 上杉重蔵は、娘たちを国のためにと言って研究機関に差し出した。

 生贄に捧げるようなものだと咲良は憤ったが、子どもの意思は大人たちによって封殺された。

 咲良も、父の意向によって差し出されることになった。

 

「咲良」

 

 研究機関に移送される車の中、すべてを失ったはずの令嬢・上杉景華はぎらついた目で正面を見据えていた。

 咲良が友人のこんな目を見たのは、それが初めてだった。

 

「私は決めた。私たちをいとも簡単に見捨てたあの冷血漢に、いつか絶対復讐してやる。だから、何があっても絶対生き延びる」

「……なら、私も付き合うわ」

「だったら、アンタも絶対生き延びなさい」

 

 景華はそう言うと、両脇で泣き顔を浮かべている妹たちを抱き寄せた。

 

「アンタたちもよ。絶対死んだら駄目だからね。姉の命令よ、光、静」

 

 景華の妹たちは、姉の力強い宣言に勇気をもらったのか、何度も頷いてみせた。

 

 そこから先は、恐ろしい日々だった。

 

 施設では、外出以外の自由は比較的認められていた。

 ただ、訓練活動や試験が義務付けられている。

 訓練活動は厳しいものだったが――それ以上に恐ろしかったのは、試験だった。

 

 この試験では、様々なことが行われた。

 薬品投与や手術による肉体改造、オカルトじみた降霊儀式まで行われた。

 それらの試験によって、発狂する者・身体が壊れてしまった者・自殺する者が大量に出た。

 

 艦娘を生み出すことを目的とした試験だからか、人間で試して初めて分かることが多いのだと言われた。

 だから、事前に動物実験をしたものであっても、安全は保証されない。どうなるかは誰にも分からない。そういう試験の繰り返しだった。

 

 当然、明るみに出れば大問題になる。

 だからか、研究者たちは決して素顔で咲良たち被験者の前には現れなかった。

 皆、全身をスーツで覆い、顔には仰々しいマスクをつけて姿を見せた。

 

 それは、さながら死を告げる異形の怪物のようだった。

 

 咲良の身の回りにいた子たちは、少しずつ姿を消していった。

 最初は皆その異様さに怯えていた。

 数ヵ月経つ頃には、一日ごとに生きていられたことを神に感謝するようになっていた。

 

 幸い、咲良や上杉姉妹には高い適性があったらしく、試験は次々とクリアすることができた。

 

「このままいけば、生き延びることができるかもしれないね!」

 

 姉妹の末っ子である静が嬉しそうに言ったのを、景華が複雑そうな表情で見ていたことがある。

 ここを生き延びても、待っている未来は暗い。

 咲良には、景華が妹たちの行く末を思って、言葉にできない悲しさを抱いているように見えた。

 

 そして、あの日――研究施設は深海棲艦の急襲を受けた。

 

 当日、大人たちは朝から落ち着かない様子だった。

 おそらく、深海棲艦が接近していることは早々に気づいていたのだろう。

 

 大人たちは、黙って全滅する道も、すべてを投げ出して逃げる道も選ばなかった。

 被験者である子どもたちをチップにして、深海棲艦を撃退するための賭けに出たのだ。

 

 艦娘として艦の御魂を降ろすことになった咲良は、そこで何の覚悟も持てないまま軽巡洋艦・神通になった。

 

 だが、そんな急場しのぎの対応でどうにかなるほど現実は甘くなかった。

 

 上杉景華は艦娘化に失敗した。

 その妹である光は、艦娘になりかけていたところで深海棲艦と交戦状態に入り、景華の目の前で捕食された。

 末の妹の静は、艦娘になったものの、訓練も何も受けていなかったからか、あっという間に返り討ちにあった。

 

 神通は逃げた。唯一見つけられた景華を背負い、無我夢中で逃げ出した。

 

 二人で無人島に到着した頃、景華は目を覚ました。

 死んだ抜け殻のような顔をしながらも、震える声で神通に訴えた。

 

「静は、まだ生きてるかもしれない。頼む、咲良。無理のない範囲で良い――様子を見て来てくれないか」

 

 景華が彼女に土下座をしたのは、後にも先にもこのときだけだった。

 

 友人の頼みを無下にすることなど、神通にはできない。

 彼女はすぐさま踵を返し、地獄と化していた研究施設に舞い戻った。

 

 そのとき、深海棲艦は既に引き払っていた。

 ただ、そこで神通は見た。

 どこかの艦娘たちが、艦娘となった静を担いで連れていくところを。

 

 相手は何人もいる。神通一人が、力ずくで静を奪い返すのは不可能だった。

 かと言って、素直に事情を話せば分かる相手かも分からない。

 なにしろ、艦娘人造計画は国家によるプロジェクトだ。

 あの艦娘たちを通して、景華や神通のことが首謀者に知られてしまう可能性もある。

 

 危険を承知で静を助けるか。

 危険を避けて景華と逃げることを優先するか。

 

 結局、神通はそのまま景華の元に戻り――静は見つからなかったと告げた。

 

 今でも、神通はそのときの自分を許せずにいる。

 

 

 

「ここまで話せば、もう察しはつくでしょう」

 

 磯風を真っ直ぐに見据えて、神通ははっきりと言った。

 

「上杉景華とは長尾智美提督の本当の名。……そして、上杉静を引き取ったのはショートランド泊地の艦娘。今、彼女は夕雲型駆逐艦・清霜と名乗っています」

「……交換留学の本当の狙いは、清霜に誰かをつけておきたかったというところか」

 

 半ば予感はしていたのかもしれない。

 磯風は、驚いてこそいたが、神通の告白を素直に受け入れていた。

 

「為になると思ったのも本当ですよ。さっき貴方を勧誘したのも本心によるものです。……ただ、清霜の側に私たちの側の誰かをつけておきたかったというのも、否定はしません」

 

 そこまで言うと、神通は身に着けていた紺色のスカーフを解いて、磯風に差し出した。

 

「どういうつもりだ、神通殿」

「しばらくの間、預かっていてもらえませんか。私は、これから提督の命に背きますので」

 

 神通は、どこかサッパリしたような表情を浮かべていた。

 自分の中でずっと抱えていた罪を告白したからかもしれない。

 

「私はこれ以上後悔を重ねたくありません。――これより軽巡洋艦・神通は、西部戦線のショートランド艦隊に助太刀しに向かいます」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七陣「深海棲艦たちの進撃」

「提督」

 

 神通との通信を打ち切った智美のところに、川内が姿を見せた。

 

 今まで姿を見せていなかっただけで、本当はずっと側にいたのだろう。

 川内は横須賀第二鎮守府の中で、智美の信頼がかなり厚い艦娘の一人である。

 主に諜報や裏方の仕事をこなすが、用事がないときは智美の警護をしている。

 

「なんだ、川内」

「苛々してるね。そこまで分かりやすく苛立っているのは珍しい」

「今は作戦中だ。雑談をしている余裕などない。用件がないなら失せろ」

 

 智美は足を小刻みに動かしながら、心底腹立たしそうに川内を睨みつけた。

 慣れないものは直視すれば震えあがりそうな眼差しである。

 しかし、川内はそれに怯まず見つめ返した。

 

「いらぬ世話だと思うけど、あえて言うよ。少し落ち着いた方が良い」

「貴様に言われるまでもない。落ち着こうと意識はしている」

 

 智美自身、自分がかなり苛立っていることは自覚しているようだった。

 不愉快であることを前面に押し出したような表情をしているが、感情を抑えて話そうと努めていることは川内にも伝わってくる。

 

「さっきの神通の提案、私は悪くない案だと思う。西側の戦線はかなり危うい状況のように思える。救援を出すよう今からでも言った方が良いんじゃないかな」

 

 川内は、大人しく命じられたことを淡々とこなす艦娘である。

 こんな風に意見を述べるのは異例のことだった。

 

「神通のような口を利く。貴様に戦術が分かるのか」

「提督や神通ほどではないかもしれないけど、無学ではないつもりだよ。さっきのやり取りを聞いた感じだと、神通の言葉の方に理があるように思った」

 

 作戦本部詰めのメンバーは、遠巻きに二人のやり取りを見守っている。

 呉の浮田提督もその一人だ。彼は注意深く智美の様子を窺っていた。

 

 彼は作戦本部長として智美に作戦指揮を委ねている。

 それは、逆に考えればいつでも作戦指揮権を智美から取り上げることができる、ということでもあった。

 

 先程のエルモとの一件以来、浮田提督からの眼差しは厳しいものになっている。

 自然、智美は川内に対して慎重な姿勢で臨まざるを得ない。

 

「西側に援軍を送る場合、島の攻略そのものは西部戦線の立て直しを行ってからになる。それでは時間がかかるだろう」

「時間かかるのは良くないけど、絶対にダメというわけでもないんじゃない。むしろ、戦線崩壊して戦力を大きく削られる方が問題だと思うけど」

「……」

「提督さ」

 

 川内は大きく息を吸って、意を決したように言葉を紡ぐ。

 

「西部戦線への援軍を送りたくないの、ショートランドの提督がいるからなんじゃないの?」

 

 川内の指摘に智美は「黙れ」と叫びそうになった――が、かろうじて自重した。

 浮田提督の視線を感じたからだ。

 

「あの人が艦娘人造計画にかかわっていたという裏付けはまだ取れてない。さっきの男の発言以外何もないんだ。まだ提督の仇と判断するには早い。それくらいは分かってるでしょ?」

「……そうだな。だが疑わしい状況ではある。毛利提督が遺した資料にも、あの女らしき被験者の名前は載っていなかった。あの女はただの被験者ではない――そう考えるのが自然だろう」

「だとしてもさ。提督たちの直接の仇ではないでしょ。……時期が違うからね」

 

 川内の指摘に、智美は頷かざるを得なかった。

 あの悲劇が起きた日――智美や妹たち、そして神通の運命を変えたのは、二〇一四年の八月の出来事である。

 

 北条康奈は、そのとき既にショートランドの前の提督に拾われて生活していた。

 彼女が記憶を失う前計画に関わっていたとしても、あの日智美たちを無理矢理艦娘にしようとして逃げ出した者ではない。

 

「……直接の仇ではないとしても、同じ穴の貉だという可能性はある。私たちがいた施設にかかわっていた可能性も、まだ考えられる」

 

 そうやって口にしながらも、智美の声はか細くなっていった。

 少し考えれば分かるようなことだ。

 しかし、智美は仙台に指摘されるまでそのことに気づいていなかった。

 

 エルモという男の存在に過去の出来事を揺さぶられ、判断能力が鈍っている。

 そのことを、智美はようやく実感した。

 

「――うん。普段の提督の目に戻ったね」

 

 智美の内心を見透かしたように川内が言う。

 

「私はこれでも提督に感謝してるし、評価もしている。行き場を失ったところを拾ってもらった恩義もある。だから、余計な口を出させてもらった。さっきまでの提督は、ちょっと見てられなかったからね」

「……ふん。生意気を言う」

 

 智美は礼など口にしない。

 言葉だけの礼に、さほど意味があるとは思えなかった。

 それよりは実績で応えるべきだろう、というのが智美の考えだった。

 

「浮田提督。北軍から少し部隊を西部戦線に回したいが、どうだろうか」

 

 智美に問われて、浮田提督はすぐに首肯した。

 

「良い判断だ。北軍の四分の一までなら問題ないだろう」

 

 浮田提督が応えたとき、作戦本部宛てに通信が入った。

 北軍に参加している拠点の提督からだ。

 

『作戦本部に確認したい。我々は西側に援軍に行った方が良いのか?』

 

 その提督の声には、戸惑いがあった。

 智美や浮田提督は、新たな方針についてまだ何も言っていない。

 にもかかわらず援軍の話が出てきたことに、智美たちも怪訝そうな表情を浮かべた。

 

「こちら情報部長。北軍の一部を西側に回すことを検討している。だがまだ案はまとまっていない。少し待つように」

『了解した。……だが、良いのか? 一部隊、既に動いているが』

「なに?」

『我々は、その部隊の動きを不審に思ったから連絡を入れたんだ』

 

 そのとき、智美の胸中がざわついた。

 何か――猛烈に嫌な予感がしたのだ。

 

「……その一部隊というのは、どこだ?」

『貴方のところだ、情報部長。横須賀第二の――神通隊だ』

 

 

 

「……本当に良かったのですか?」

 

 西へと進む航路の途上、神通は後ろを振り返って尋ねた。

 そこには、磯風を含む神通隊の全員がいる。

 皆、横須賀第二鎮守府の象徴だった紺のスカーフは外していた。

 

「神通一人だけでは、さすがに援軍にならないだろう」

「それは、そうかもしれませんが……」

 

 神通は一人一人の顔を見た。

 どの表情にも迷いはない。全員、神通と共に行くことを選んだのだ。

 

「それに、私の場合ホームの仲間を助けに行くことにもなる。そういう意味では、行かぬ理由がないというものだ」

「その口振りだと、移籍の件は……」

「すまないな。横須賀第二の居心地は悪くない。私の気性にも合っていると思う。それでも、私の居場所はショートランドだ。神通、貴方の居場所が長尾提督の元であるように」

 

 磯風の言葉に、神通は困ったような笑みをこぼした。

 

「そう言われては、何も言えません」

 

 話しているうちに、南軍の影が見えてきた。

 ショートランド艦隊は南軍の最南端に陣取っている。

 まだ、助けるべき相手は遠い。

 

「……行きましょう。神通隊、突貫します!」

 

 

 

 清霜は、ショートランド艦隊の母船の甲板上で休息を取っていた。

 度重なる敵の攻勢によって、艦隊はかなりの損害を出している。

 清霜も、二度中破に追い込まれた。

 高速修復によって艤装は戦える状態になったが、疲労はそう簡単には取れない。

 

「清霜、ちゃんと休んどけよ」

 

 朝霜が釘を刺したのは、清霜が先程からじっと戦場の方を見続けているからだった。

 

 清霜は、戦えば戦うほど集中力が研ぎ澄まされていくところがある。

 彼女が時折戦場で見せる勘の鋭さというのは、この集中力に起因するところが大きい。

 その集中が、何度も敵の攻勢をしのいでいくにつれて途切れなくなってきている。

 

 高い集中力というのは、いつまでも続くものではない。

 休むときは切っておくべきものだ。そうでなければ、戦いの最中に突如切れてしまうこともある。

 

「休めるときは休むことにだけ集中すべきだな」

 

 そのとき、清霜の頭をポンポンと叩く者がいた。

 戦艦の艦娘――武蔵だ。

 

「……武蔵さん」

「なんだ、武蔵も休憩か?」

「出撃前のな。艤装の点検が済み次第出ることになっている」

 

 武蔵が出撃することになった背景には、作戦本部の方針変更がかかわっている。

 北軍からの増援があれば、西部戦線は攻めに転じる余裕ができる。

 そこで、一番南側に陣取っているショートランドの部隊は、援軍に先駆けて敵陣に突撃を仕掛けることになった。

 

 そこで敵の動揺を誘えれば、援軍を得た残りの軍が敵本隊を叩く。

 誘えないようであれば、残りの軍が敵本隊を抑え、その間にショートランド艦隊が敵拠点まで進軍する。

 

「――ということに決まった。私以外にも母艦守備部隊は一通り出ることになっている」

 

 武蔵のいう母艦守備部隊というのは、ショートランドが誇る主力中の主力である。

 いざというときに備えて母艦で温存されていた、とも言えるメンバーだ。

 それが出撃する以上、ここからの動きはかなり重要な意味を持つということになる。

 

「けど、母艦はどうすんだ?」

「そのことだが、先程康奈たちと相談した結果、ビスマルク隊に守備についてもらうことになった」

「私たちが?」

「そうだ。この母艦と康奈たちのこと、よろしく頼むぞ、二人とも」

 

 武蔵は二人の肩を引き寄せて、ぐっと力強く掴んだ。

 清霜と朝霜の表情に緊張が走る。

 最終防衛線を任される。初めての経験は、二人に重圧となってのしかかってきた。

 

「……武蔵さん」

「ん?」

「――私も、連れて行ってもらえませんか」

 

 武蔵を正面から見据えて、清霜は窺うように尋ねた。

 突然のことに、朝霜と武蔵は言葉を失う。

 

「……なんだ、急に。お前はビスマルク隊に配属されているだろう」

「それは分かってます。母艦の護衛が重要だってことも、分かってます。でも……」

「――やめとけ、清霜」

 

 言い募ろうとした清霜を、朝霜が抑えた。

 

「武蔵たちが行くってんなら、その戦場は相当危険な場所のはずだ。あたしらが行ったところで足手まといにしかならない。死体を増やすだけになる」

「……」

 

 朝霜の言葉は、的を射ている。

 清霜は何度も大きな戦いに参加したことで、飛躍的に成長を遂げている。

 しかし、それでも武蔵たちに比べれば実力不足と言わざるを得ない。

 

 武蔵たちが投入されるような苛烈な戦場に行くにはまだ早い。

 それは、清霜もどこかで理解していた。

 理解しているから、口をつぐむしかなかった。

 

「清霜」

 

 武蔵は腰を落として、清霜たちに目線の高さを合わせた。

 

「こんなときに今更かもしれないが、昔のことについて礼を言わせてくれ」

「お礼?」

「お前と浜風が、私の乗組員たちを救助してくれた件だ」

「――っ」

 

 清霜は息を呑んだ。

 

 武蔵が語っているのは、艦娘になってからの話ではない。

 お互いにまだ艦艇だった頃のことだ。

 戦艦・武蔵が、沈んだときの話だ。

 

 清霜にとっては、脳裏から離れない苦しみの元でもある。

 

「私は、お礼を言われるようなことはしてないです。だって、あのときは見ていることしかできなかったし……」

「私が――武蔵が沈んだときのことか。あれは仕方あるまい。近づけば海流に呑まれてお前たちまで沈みかねないところだった。さっきの朝霜の言葉ではないが、いたずらに犠牲を増やすだけだっただろう。沈みゆくときにそんな光景を見せられたら、たまったものではない」

 

 武蔵は困ったように笑った。

 

「無論、もっと多くの乗組員を助けられれば――という後悔はあった。あったが、それは艦であるこの武蔵自身が背負うべきものだ。お前や浜風に渡すわけにはいかないものさ」

 

 それは清霜を気遣って出た言葉ではない。

 真実、武蔵はそう思っている。聞いている清霜たちにも、それは伝わった。

 

「清霜。私にはもう一つ譲れないものがある。それが何か、分かるか」

「えっ? う、うーん……?」

 

 武蔵の問いに、清霜は必死で頭を働かせた。

 しかし、分かるようで分からない。

 過去のトラウマから、これまで武蔵を避けていたからか――清霜は武蔵という艦娘について、驚くほど無知だった。

 

 悪戦苦闘する清霜を見かねたのか、武蔵は振り返って艦橋を見ながら、その答えを口にした。

 

「ショートランド泊地だ」

「割とありきたりな答えだな」

「はは、言うな朝霜。まあ実際その通りだと思うよ。ありきたりだ。……だが、私は一度それを守れなかった」

 

 昨年の夏。

 AL/MI作戦に出ていて手薄になった各地の鎮守府・基地・泊地は深海棲艦の強襲を受けた。

 

 ショートランド泊地には大和や武蔵がいた。

 しかし、彼女たちの力を持ってしても、守り切れなかったものがある。

 泊地の建物はほぼ破壊され、当時の提督も再起不能に追いやられた。

 

「私は正直ここを離れたくない、という想いがある。今ここは戦地の真っ只中だ。一歩間違えば命を落とす。そんな場所だ」

 

 武蔵の言葉を証明するかのように、敵深海棲艦が放った長距離弾が母艦の近くに落ちて、飛沫を上げた。

 清霜たちのように休憩している艦娘たちは、皆戦場に少なからず意識を向けている。

 間近の戦いを無視できるほど、皆図太い神経を持っているわけではない。

 

 武蔵にとって、ここを離れるのは身を切り裂かれるような思いのすることなのだろう。

 

「清霜。この母艦と康奈たちのことを頼む。私の大事なものを――もう一度助けて欲しい」

 

 先程と同様の武蔵の言葉。

 しかし、それはより重みを増して清霜の肩にのしかかった。

 

 

 

 武蔵たちが出撃して程なく、敵の攻撃の苛烈さが増した。

 こちらが援軍を得たことに向こうも気づいたのだろう。

 

「奴らは早期決着をつけるつもりのようだな」

 

 次々と報告される敵情をまとめながら、新十郎は嫌そうに呻いた。

 

「動揺はほとんど見られない。それどころか、援軍との合流ができてない自分たちの方から攻め立てようとして来てやがる。深海棲艦も馬鹿じゃないってことだ」

 

 深海棲艦にとって一番突破口を開きやすいのは、手薄なショートランド艦隊の陣だった。

 そこを突き崩せれば、リランカ島まで突き進むなり、他の西部戦線の陣を側面から突くなりすることが可能になる。

 

「どうする、提督。自分たちの安全だけ考慮するなら一時撤退するのが無難なとこだと思うが――」

「形の上では悪くないわね。こちらが下がったところに敵が押し寄せてきたなら、脇を他の南軍が突けるだろうし。……ただ、これまで粘っていたところで撤退するとなると」

「士気はガタ落ち、一気に崩れる危険性もなくはない」

 

 実際に身体を張って戦う者たちの士気というのは、指揮官にとって悩ましい要素の一つだった。

 いくら優れた絵図を描こうが、動く者たちの士気がなければ、その通りに物事は運ばない。

 

 ショートランド艦隊は既に何度も戦闘を繰り返しており、艦娘だけでなくスタッフたちの疲労も相当なものになっていた。

 

 逆に、康奈は戦いに集中しているからか、先程までよりも落ち着いていた。

 自分の過去に対する不安はまだ胸中に残っている。

 しかし、そちらに意識を割いている余裕はない。

 今は今このときをどう生き延びるか、それを考えるのが最優先だった。

 

 康奈は海図に敵の陣形を広げて注視する。

 この状況を打開するための最善の一手が、どこかにあるはずだった。

 

『提督! 南西方面から、新たな敵軍が迫ってる!』

 

 そのとき、南側の偵察を行っていた瑞鳳が悲鳴を上げるかのように報告してきた。

 

「瑞鳳、落ち着いて。その軍の陣容は?」

『提督たちがトラック泊地で戦ったって言ってた戦艦水鬼と特徴が一致してる! まだそれなりに距離はあるけど――こっちまでドンドン砲撃を繰り出してきてる!』

 

 瑞鳳の偵察機が捉えた敵の姿が、画像データとして母艦に送られて来た。

 その姿を見て康奈は息を呑んだ。

 瑞鳳が言った通り、その姿はあのとき戦った戦艦水鬼そのものだったからだ。

 

「……どうする、提督」

「今この辺りに残ってる戦力だけで戦艦水鬼の相手はできない。壊滅させられて終わりよ」

「そうだろうな。じゃ、逃げるか」

「ええ。――皆には、最初から全力で逃げてもらうわ」

 

 康奈の言葉に、艦橋のスタッフはざわついた。

 ただ一人、新十郎は「それが良いだろう」と頷く。

 

「中途半端な撤退をして途中から潰走なんてことになれば、艦娘たちの間にも動揺が広がる。最初っから全力で逃げて潰走って形を取れば、後々になって動揺することはなくなるってことだ。全力で潰走してるがこれは計画通りなんだ――ってことになるからな」

「し、しかし皆が全力で逃げたのでは、この母艦が危険に晒されます!」

 

 陣形も何もなく逃げるとなると、母艦の防御が手薄になる。

 戦術や戦略を弁えた深海棲艦が、それを見逃すとは思えなかった。

 

「この船も当然全速力で逃げるわ。大丈夫。護衛としてビスマルク隊は残っているもの」

 

 強がりの笑みを見せて、康奈は全軍に指示を出す。

 

 地獄の退却戦が、幕を開けた。

 

 

 

 リランカ島の戦況が思わしくない。

 そのことを報告で聞いた戦艦水鬼は、迷わず泊地水鬼と連絡を取り合って援軍を出すことを決めた。

 

 それぞれの拠点は連携し合った方が強靭になる。

 個別に動いたのでは、各個撃破されて終わるだけだ。

 

 遠征軍が懸念していたモルディブ方面には、泊地水鬼の拠点がある。

 戦艦水鬼の拠点は更にその西側にあったが――彼女はそこから全速力で自軍を引き連れて来た。

 

『戦いには機というものがある。機は動いた者が掴み取れるものだ。――動け、我が軍勢よ!』

 

 泊地水鬼の繰り出すモルディブ軍と交戦していた艦娘たちは、戦艦水鬼の登場で完全に陣容を崩していた。

 何のまとまりもない状態で、我先にと逃げ出す者が増えていく。

 

 ……このまま追撃して壊滅させてやろうか。

 

 ついそんなことを考えてしまうほど、敵の逃げ惑いようは酷かった。

 なにしろ、母艦と思われる船の警護すらろくにせずバラバラに逃げ出しているのだ。

 

『――ん?』

 

 片方だけになった眼で、戦艦水鬼は敵の母艦と思しきものを凝視した。

 そこには、何人かの艦娘らしき者がいた。

 戦艦。重巡洋艦。空母。駆逐艦――。

 

『……あれは』

 

 駆逐艦の一人に、見覚えがある。

 かなりの距離があったが、失われた方の目に焼き付いた相手だ。見間違えるはずはない。

 

 先日のトラック泊地防衛戦――その最終局面で戦艦水鬼の片目を奪った艦娘だ。

 

『――クク』

 

 顔は無表情のまま、笑いが声になって零れ落ちた。

 

『まさか、こんなに早くまた会えるとは思わなんだ』

 

 戦艦水鬼の全身から、どす黒い感情が溢れ出していく。

 目に見えるはずのないそれを目の当たりにして、戦艦水鬼の側にいた深海棲艦たちは皆一様に怯えた。

 

『者ども』

 

 ただ一点を、己に敗北の味を教えた者の一人を見据えながら、戦艦水鬼は高らかに告げる。

 

『他の有象無象は捨て置け。――あの船だ。あの船を狙え』

 

 オォォ……と戦艦水鬼旗下の軍勢が吼える。

 圧倒的強者に率いられた、武威の軍勢。

 獲物を狩り尽くす戦場の魔獣たちが、一斉にその牙をショートランド艦隊の母艦に向ける。

 

『――逃がすな。皆殺しだ』

 

 

 

『……以上です。こちらの補給部隊は一通り叩けたかと』

「お疲れ様。それじゃ、直接康奈たちのところに向かってちょうだい。どうも向こう、今良い状況じゃないみたいだから」

 

 味方からの通信を切って、叢雲は大きく身体を旋回させた。

 チッと何かが身体を掠めていく。

 こんなやり取りが、もう何度も続いていた。

 

「あら。また避けられた」

 

 人の言葉を紡いだのは、小柄な体躯の深海棲艦だった。

 戦艦水鬼や泊地水鬼たちのような、見る者を圧倒する威圧感はない。

 

 しかし、どこか得体のしれない不気味さを感じさせる。

 

「仲間と雑談しながらこっちの攻撃を避けるなんて……さすがに傷つくわねェ」

「……」

 

 作戦指揮を執っていた叢雲の元に、この正体不明の深海棲艦が姿を現したのは三十分程前のことだった。

 叢雲の周囲にいた艦娘は、皆あっという間に倒されてしまった。

 ただ一人、叢雲は被害を免れ、相手から逃げつつどうにか耐え凌ぎ続けている。

 

「本当は最初の数分で全員倒してしまうつもりだったのだけど……貴方、かなりの使い手なんだ」

「……」

「だんまりなのね。ふふ、人の言葉を話す深海棲艦は怖い?」

「過去にそういう個体がいたのは知っているわ。こうして相対するのは初めてだけど」

「あら。やっと口を利いてくれた」

 

 おかしそうに笑いながら、小柄な深海棲艦は主砲を下げた。

 

「なんだか満足してしまったわ。今日はこのくらいにしておくわね」

「……アンタは何者なの? 目的は?」

 

 叢雲は戦闘態勢を解かずに尋ねた。

 

 少しでも気を抜けば、命を落とす。

 それだけ危険な相手だということを、叢雲はこの三十分間で嫌と言うほど理解していた。

 

「目的というほどの目的はないわ。今回はインド洋の連中の手伝いをしに来ただけだもの。……もっとも、ダミー作戦は全然できそうにないし、なかなか隙もできなさそうだから、適当に敵将の一人でも討って帰ろうかと思っていたのよね」

「そこで運悪く私たちが目をつけられた――ということね。そんな理由で死にそうになったなんて思わなかったわ」

 

 心底うんざりしながら叢雲は吐き捨てた。

 

「私は楽しかったわよ。……ふふ、貴方はどこの艦娘なのかしら? 私は南太平洋の辺りを住処にしてるのよ。もしそっちに来るようなことがあるなら、今度はお互いもっと本気でやり合いましょう――」

 

 そう言い残して、謎の深海棲艦は踵を返した。

 その背中に叢雲が主砲を向けるのと同時に、その深海棲艦を守るかのように、複数の巨大な深海棲艦たちが姿を見せる。

 

 多勢に無勢。今手を出せば、やられるのは叢雲の方だった。

 笑って手を振りながら去っていく深海棲艦を見送り終えると、叢雲は大きく息を吐いた。

 

「あれは――怪物ね」

 

 後に防空棲姫と名付けられる個体の脅威を、叢雲はそう評した。

 

「今は、あれが今回の戦いに参加しなかった幸運を喜ぶべきか。……急いでこっちの軍をとりまとめて、康奈たちのところに戻らないと――」

 

 気持ちを切り替えて西の方に目を向ける。

 

 雲行きが怪しい。

 一雨来そうな予感がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十八陣「西部戦線の死闘」

 全力で逃げる。

 至ってシンプルな命令を受けたショートランド艦隊は、その命令を遂行できずにいた。

 

 敵の攻撃は、母艦に集中している。

 自然、他の部隊に比べると母艦の足は遅くなった。

 

 命令に徹するのであれば、それでも逃げ続ければ良い。

 後ろを振り返らず、一目散に敵の砲撃が届かぬ場所まで。

 

 しかし、ショートランド艦隊はそれができなかった。

 母艦には提督が――康奈がいる。

 

 自分たちだけ生き延びても、康奈が命を落としては意味がない。

 皆が皆、一様に同じことを思った。

 

 中には武蔵同様、二〇一四年の夏に提督を失ったことを思い出す者もいた。

 

「瑞鳳さん」

 

 苦悩する瑞鳳に、瑞鳳隊として参戦していた駆逐艦たちが顔を向けた。

 今、彼女たちは敵から相当の距離を取っている。

 安全圏まで後一歩というところまで来ていた。

 

「なに?」

「戻りましょう」

 

 一人がその言葉を口にすると、全員が頷いた。

 彼女たちの中には、提督を助けに行くという選択肢しかない。

 

 だが、部隊長を任せられている瑞鳳はそう単純に考えることはできなかった。

 瑞鳳の肩には、隊員の命の重みがのしかかっている。

 このまま康奈の命令を遵守すべきか、康奈たちを助けに行くべきか。

 部隊全体の命の責任を負いながら、最善の判断をしていかなければならない。

 それも、できるだけ早く。

 

 敵は待ってくれない。

 瑞鳳が悩んでいる間にも、母艦付近へ敵の砲弾が降り注ぐ。

 護衛のビスマルク隊が奮戦しているようだが、あれでは長時間持たないだろう。

 

 瑞鳳にとって、康奈は提督であるのと同時に、家族のようなものだった。

 

 人間が持つ家族というものに、憧れを抱いていた。

 前の提督は、そんな瑞鳳に対し『自分を家族と思ってくれて良い』と言ってくれた。

 康奈は、そんな前提督の娘同然の存在だった。

 

 最初に会ったとき、康奈は何も知らない無垢な子どもだった。

 己の記憶を持たず、知己もおらず、どこに行けば良いか分かっていない迷子だった。

 それが、前提督や泊地の艦娘たちと接していくうちに、己を持つようになっていった。

 

 皆で育てた、自慢の子である。

 自惚れだと思いつつも、瑞鳳はそう思っていた。

 

 本当なら、我が身を省みず助けに行きたい。

 しかし、他ならぬ康奈から「脇目も振らずに逃げろ」と言われている。

 単に瑞鳳の身を案じての命令ではない。

 そこには、戦力を温存しろという意味も込められていた。

 

「――瑞鳳さん!」

 

 焦れたように部隊のメンバーたちが瑞鳳の名を叫ぶ。

 

 どうすれば良いのか。

 瑞鳳は、苦悩に顔を歪ませた。

 

 

 

 追撃してくる敵の中に戦艦水鬼の姿を認めて、清霜の顔から感情が消えた。

 トラック泊地で猛威を振るったその強さに、本能が警鐘を鳴らし、一瞬で集中力が極限まで高められたのである。

 

「ビスマルクさん」

「なにかしら、休憩ならもうちょっと待って欲しいんだけど」

「まず、戦艦水鬼を落としましょう。あれがいると、駄目です」

 

 断定する清霜の言い方に、ビスマルクも表情から笑みを消した。

 

「落とせると思う?」

「倒すのは無理です。少なくとも、ここにいるメンバーだけでは」

「倒す以外に何か手があるのね」

「目を潰します」

 

 清霜は視線を戦艦水鬼に向けたままだ。

 今、母艦に向かって急接近しつつある戦艦水鬼は片目が潰れていた。

 もしかすると、トラック泊地で交戦したあの戦艦水鬼なのかもしれない。

 

「戦艦水鬼の装甲は大和型や長門型でも貫くのに苦労する厚さです。でも、目は違う。私の主砲でも潰せました。あの戦艦水鬼は既に片目を失っている。……もう片方を潰せば無力化できます」

「あくまで可能性はあるって程度の話ね」

 

 ビスマルクの言葉に清霜が頷く。

 口で言うほど、それは容易いものではない。

 

「――けど、可能性があるのとないのではまったく違う。良いわ、その作戦に駆けてやろうじゃない!」

 

 ビスマルクの決断を諫める声はなかった。

 既にショートランド艦隊は追い詰められている。

 取れる選択肢は、殆ど残っていない。選り好みしている場合ではなかった。

 

「ビスマルク、それに皆」

 

 そこに顔を出したのは康奈だった。

 手にはエルモから提供された護身用のナイフを手にしている。

 

「少しなら、私はこれで持ち堪えてみせる。だから、半端な対応はしないで全力で行きなさい。それぐらいでないと、戦艦水鬼の相手はできないわ」

「……良いの?」

「それが結果的に私たちの命を助けることになる。こういうのを、死中に活を求めるって言うんだったかしら」

「合ってるわ。二度と使って欲しくない言葉だけどね」

 

 ビスマルクは敵の陣容を見て、すぐに作戦をまとめた。

 

「雲龍、周囲の雑魚を牽制して。倒せなくていい。艦爆であちこちに爆弾ばら撒いて、敵の動きを鈍らせればいいわ。他のメンバーは全員私と一緒に戦艦水鬼目掛けて突撃。他の敵は無視しなさい」

 

 メンバー全員が首肯するのを確認すると、ビスマルクは清霜の肩を掴んだ。

 

「清霜。悪いけど先陣は頼むわ。私が砲撃で貴方の道を切り開くから、戦艦水鬼を潰してちょうだい」

 

 清霜は以前の戦いで戦艦水鬼の目を撃ち抜いた実績がある。

 ビスマスクは、その実績に賭けた。

 

「大丈夫だ、あたしも一緒にカチコミかける。一人では行かせないからよ」

 

 と、朝霜が清霜の背中を叩いた。

 ビスマルクの期待と朝霜の想いを受けて、清霜は歯を食いしばって大きく頷く。

 

「駆逐艦清霜、必ず作戦を成功させます」

「清霜、成功させるだけじゃ駄目よ」

 

 康奈が険しい顔で釘をさす。

 

「必ず――生きて戻りなさい」

 

 そんなことを言われてはいざというとき迷ってしまう。

 そう思いながらも、清霜は康奈に対して「了解」と応えた。

 

 

 

 一目散に逃げるショートランド艦隊に対し、深海棲艦側は猛烈な攻撃を加えていった。

 しかし、思ったように成果を上げることができない。

 潰走しつつある敵を前にして、闘争本能を掻き立てられた深海棲艦たちが、各々勝手自在に動き始めたからである。

 

 まとまりを失うだけならまだしも、敵を追うのに邪魔な味方を蹴散らそうとする者がいる始末だった。

 そして、そういう者が決して少なくない。

 

 元々、トラック泊地の戦いの後に流れ着いた戦艦水鬼が短期間でまとめた軍勢である。

 寄せ集めと評するしかない。戦艦水鬼自身、軍としての練度は前の方が良かったと思っているくらいだ。

 

 ……ガラクタ共め。

 

 散々な有様の自軍に毒づきながらも、戦艦水鬼は懸命に指揮を執った。

 例え一時優勢であっても、気づけば追い込まれてしまうことがある。

 彼女はそれを、トラック泊地の戦いで嫌と言うほど学んでいた。

 

 そんな戦艦水鬼が、息を呑んだ。

 ショートランド艦隊の母艦から飛び出した、小さな影を捉えたからだ。

 

 駆逐艦清霜。

 かつてトラック泊地の戦いで、戦艦水鬼から片目を奪った駆逐艦が、母艦の護衛から離れ、戦艦水鬼目掛けて突撃を仕掛けてきたのだ。

 

『――ハ』

 

 思わず笑みが零れ落ちる。

 トラックの大和と並び、ショートランドの清霜は必ず破壊すると決めていた。

 その標的が自分からこちらに迫ってくる。それは、戦艦水鬼にとって最高のシチュエーションだった。

 

 しかし、沸騰しそうになった彼女の感情は、配下の深海棲艦たちが奏でる不躾な咆哮によってクールダウンした。

 

 突出してきた清霜たちを叩き潰そうと、我武者羅に迎え撃とうとする深海棲艦たち。

 その手合いは、すぐさま雲龍の艦載機やビスマルクの砲撃によって蹴散らされた。

 

『無暗に突っ込むな! 取り囲んで潰せ!』

 

 尻込みしそうになっていた配下に檄を飛ばしながら、戦艦水鬼も清霜たち目掛けて砲撃を敢行する。

 しかし、距離のせいか相手の練度のせいか、なかなか命中する様子がない。

 

 清霜たちは、囲みこもうとする戦艦水鬼軍の動きを無視して、ためらいなく真っ直ぐに突き進んできた。

 

『愚かな。追い詰められて血迷ったか』

 

 失望を口にしながら期待を胸に、戦艦水鬼は迎撃姿勢を取った。

 

 囲い込みを図ろうとする深海棲艦たちよりも、清霜らの進撃の方が速い。

 清霜――そして朝霜の二名が、戦艦水鬼本隊に肉薄する。

 

 戦艦水鬼に向けられる清霜の眼差しは、狩人のものだった。

 いかにして獲物を狩るか。そのことしか考えていない双眸である。

 

『その目――覚えがある。あのときも、貴様はその目をしていた!』

 

 戦艦水鬼の随伴艦の砲撃を尽く避け、清霜は主砲を戦艦水鬼の足元に向けた。

 ここまで接近されては主砲は当てにくい。そう判断した戦艦水鬼は、艤装による格闘戦で応じた。

 

 戦艦水鬼の艤装は、自立したモンスターのような外見をしており、清霜の倍以上はありそうな剛腕と、鋼すら噛み砕く大きな口がついている。清霜・朝霜にとっては、十分脅威となる代物だった。

 朝霜は咄嗟に飛び退いて避けたが、清霜はむしろ更に突っ込んできた。

 

 ……こいつ、恐れ知らずか!?

 

 もはや手を伸ばせば届きそうな距離まで迫った清霜は、見る者をぞっとさせる冷たい眼差しで戦艦水鬼を見据えていた。

 

『私を、怯ませるつもりか――!』

 

 異形の怪物じみた戦艦水鬼の艤装が、その剛腕を清霜めがけて叩きつける。

 盛大に水飛沫が上がり、一瞬、戦艦水鬼は時が止まったような錯覚を覚えた。

 

 潰せたか、どうか。

 思いを巡らせる戦艦水鬼の眼は、飛沫の向こうに見える影を捉えていた。

 

 清霜が、飛沫の反対側で戦艦水鬼の顔に向けて主砲を構えている。

 その眼に自分の瞳が映っているのを見て、戦艦水鬼は清霜の狙いに初めて気づく。

 

 清霜の主砲が音を響かせたのと、戦艦水鬼が動いたのは――ほぼ同時のことだった。

 

 

 

 飛沫が収まったとき、朝霜が目にしたのは想像を超えた光景だった。

 

「――き、清霜ッ!」

 

 膝をつく戦艦水鬼と、その目の前でうずくまる清霜。

 戦艦水鬼の外傷は傍目からではよく分からなかったが、清霜のダメージは一目で分かるものだった。

 

 右腕の肘から先が――ない。

 

 じんわりと傷口から血が溢れ出していく。

 それを左手で押さえ、顔中汗だらけになりながら、清霜は必死に歯を食いしばっていた。

 

 戦艦水鬼の艤装には、返り血が付着していた。

 自らの目を狙わんとする清霜の腕を、戦艦水鬼は艤装で強引にもぎ取ったのである。

 

 戦艦水鬼が起き上がる。

 同時に、朝霜も動いた。

 清霜の元まで駆け寄り、そのまま清霜の身体を肩に担いで、遮二無二その場からの離脱を試みる。

 

 だが、すぐにその足は止まることになった。

 戦艦水鬼が囲い込みをかけていたため、敵の懐に入り込んだ清霜と朝霜は、完全に包囲される形になっていたのである。

 

「くそっ、どこか――」

 

 どこか薄いところはないか。

 必死に敵情を確認する朝霜だったが、二人で突破できそうなポイントは見当たらなかった。

 ビスマルクたちも二人の窮地に気づいたのか、援護を仕掛けようとしているものの、あちらも他の敵に囲まれつつある。救援を期待するのは絶望的だった。

 

 朝霜たちの背後から、戦艦水鬼が少しずつ近づいてきた。

 その右手は、何本か指が欠けている。ギリギリのところで放たれた清霜の主砲によるものだった。

 

 戦艦水鬼の表情は、怒りに満ちていた。

 二度に渡り同じ相手に不覚を取った。そのことが、武人としてのプライドに瑕をつけたのである。

 

『壊せ』

 

 戦艦水鬼の言葉は、朝霜には分からない。

 ただ、それが自分たちの破滅を示すものだということは察することができた。

 

「悪い清霜。いざとなればお前だけでも逃がすつもりだったが、これっぽっちもアイディア出てこないわ」

「……」

 

 本当にか細い声で、いいよ、と聞こえた気がした。

 

 そのとき――さほど遠くない場所で、悲鳴のようなものがあがった。

 

 戦艦水鬼軍の後方からである。

 その悲鳴らしき音は、波及的に広がっていった。

 

 朝霜たちを囲んでいた深海棲艦たちも、思わず視線をそちらに向けた。

 向けざるを得なかった、と言って良い。悲鳴を上げていたのは、戦艦水鬼軍の者たちだった。

 

 悲鳴を上げさせているのは、横須賀第二鎮守府の神通隊だった。

 南軍に西からぶつかりにいった軍勢の背後を大きく迂回し、戦艦水鬼軍の虚を突く形で乱入してきたのである。

 背後を取られた戦艦水鬼軍は、烏合の衆だったこともあり、驚くべき勢いで離散していった。

 

 先頭は、神通である。

 

 神通隊は、ドリルで穴を穿つように戦艦水鬼軍を裂いて突き進んでくる。

 誰もが鬼気迫る表情を浮かべていた。横須賀第二鎮守府の艦娘は鬼のように恐ろしいと言われることもあったが、今の神通隊は鬼そのものと言って良い。

 

 尋常ならざる敵の出現に、戦艦水鬼も意識を朝霜たちから神通隊へと切り替えざるを得なくなった。

 

『こいつらは捨て置け! まずは奴らを止めるぞ!』

 

 戦艦水鬼の号令に従って神通隊に向かっていく深海棲艦たち。

 しかし、それで「命拾いをした」と胸を撫で下ろすほど、朝霜は能天気ではなかった。

 

「待ってろ、すぐに……!」

 

 それは、深い傷に苦しむ清霜に向けた言葉なのか、強大な敵に立ち向かう神通隊に向けた言葉なのか。

 朝霜自身にも、それは分からなかった。

 

 

 

 ここに至るまでの道のりで、既に燃料はほぼ尽きかけている。

 逃げるという選択肢は、もはや取れそうにない。

 

 自分について来てくれた部下や磯風に心の中で謝りながら、神通は眼前の大敵と対峙した。

 

 戦艦水鬼。

 トラック泊地での戦い以来、二度目の相対だった。

 

 清霜は、朝霜が逃がしてくれたようだ。

 これで、目的の一つは果たされた。あとは、母艦ごと遠くまで逃げ延びてくれればいい。

 

「残すは――貴方の始末だけですね」

 

 艤装に仕込まれた各種武装が使えることを確認し、神通は戦艦水鬼に側面から急接近する。

 神通が何かをするつもりだと察したのか、戦艦水鬼は迎え撃とうとはせず、一旦距離を取ろうとした。

 

 しかし、後ろに退こうとした戦艦水鬼の動きはすぐに止まる。

 神通隊が、鋼線を張って戦艦水鬼の退路を断っていたからだ。

 

 神通隊を倒すか、神通に対して仕掛けるか。

 戦艦水鬼が逡巡した隙を突いて、神通は戦艦水鬼の艤装目掛けて飛び掛かった。

 

 手には、普段対潜水艦用に使用する爆雷が握られている。

 それを、神通は戦艦水鬼の艤装についている口の中に叩き込んだ。

 

 叩きつけられた衝撃もあってか、爆雷はすぐさまそこで炸裂し――戦艦水鬼の艤装は、内側からの衝撃で半壊状態に陥る。

 

「以前は作戦上無理はしないと決めていましたし、貴方に恨みもなかったので適当なところで引きましたが」

 

 戦艦水鬼の反撃を避けた神通は、再び少し距離を取った。

 その双眸は、先程の清霜以上に冷たく、容赦がない。

 

「今は無理を通すつもりですし、貴方への恨みもありますので――本気でやらせてもらいます」

 

 

 

 母艦に帰投したビスマルク隊を迎えて、康奈は言葉を失った。

 全員、相当の傷を負っている。

 その中でも、特に清霜の傷が酷い。右肘から先を失い、そこから大量の血が流れ出ていた。

 

「提督、清霜が……!」

「傷が、止まらないんです。私たちなら大丈夫なはずなのに……」

 

 血の気のない清霜の顔を見て、康奈は頭の奥底に鈍い痛みを感じた。

 身近な存在の死を間近に感じたからか、それとも別の何かがあるのか、康奈自身もその正体が掴めずにいた。

 

「……人間ベースの艦娘は、艤装ベースの艦娘と違って、身体は元の人間のものがベースになっているの。だから霊力補充で元に戻るようなことはないし……このまま放っておいたら失血死する可能性もある」

 

 それは、毛利仁兵衛が遺した資料から得た知識か。

 それとも、別のところから引き出された記憶か。

 

 康奈を強烈な吐き気が襲う。

 しかし、喉元まで出かかったところで押さえる。

 

 ……今は、そんな場合じゃない。

 

 このままでは清霜が死ぬ。

 どうにかしなければならない。

 

「……まずは止血よ。朝霜、ついてきて。他の皆は護衛を継続して」

「アトミラール。頼むわよ」

 

 不安が見え隠れしていたが、ビスマルクたちは康奈に後を託して母艦の外に出た。

 一人、雲龍はなおも不安そうに清霜の左手を握っていたが、

 

「雲龍さん……大丈夫、だから」

 

 という清霜の言葉に、渋々離れた。

 

「雲龍、必ず清霜は助けるから。貴方は貴方で、今は少しでも多くの仲間を助けることに集中して」

「……分かった。清霜をお願い、提督」

 

 艦娘以外で母艦に乗り込んでいるのは、必要最低限のクルーと康奈・新十郎くらいだった。

 専門の医療スタッフはいない。手が空いている者で対応するしかなかった。

 

「新十郎、指揮と応急処置どっちが得意?」

「どちらかと言えば指揮だ」

「なら指揮は任せる。被害を最小限に抑えつつ、他の南軍が南下して敵を側面から叩く。その実現に向けて最大限努力して」

「分かった」

 

 新十郎も、さすがにこの場面で「面倒は嫌いだ」などと軽口は叩かない。

 それだけ状況は切迫している。康奈はすぐに医務室まで清霜を運んだ。

 

「朝霜、清霜の腕に巻けるものを用意して。あまり細すぎない方が良い。タオル、タオルで良いわ」

「おう!」

 

 動脈を確認し、朝霜から受け取ったタオルで傷口より内側の腕を強く縛り付ける。

 かなり強い締め付けに清霜は顔を歪ませた。しかし、悲鳴を上げたり泣き言を口にしたりはしない。

 

「……ど、どうだ。血は大分止まったように見えるけど」

「まだ応急処置を施したに過ぎないから、安心はできない。あまり強く締め付けてると却って良くないから、三十分おきに少し緩めて。あとは――輸血をした方が良いかもしれない」

 

 今この場で実行できることを頭の中で整理し、一つ一つこなしていく。

 ときどき母艦が揺れる。敵の砲撃によるものだろう。康奈は、恐怖よりも苛立ちを覚えていた。

 

 どれくらいそうしていただろう。

 

 今できることはもうない。

 そう判断をくだしたとき、康奈は全身の力が抜け落ちて、その場に膝をついた。

 慌てて朝霜が肩を貸し、康奈を起こす。

 

「大丈夫か!?」

「……ええ。問題ないわ」

 

 朝霜に支えられながら立ち、清霜の様子を見る。

 まだ予断を許さない状態ではあるが、運び込まれたときよりも顔色は良くなっているように見えた。

 今は意識を失っているようで、呼吸の音が微かに聞こえてくるくらいである。

 

「――」

 

 白い部屋。

 ベッドの上で横たわる少女。

 部屋に漂う血の臭い。

 

 改めて周囲を見る。

 そこは間違いなく母艦の医務室なのだが、どこか別の場所のようにも思えた。

 

 ……なに、これ。なんだか、すごくいやなかんじがする。

 

 清霜への処置を終えたことで気が緩んだのか、康奈の中で、濁流のように何かが押し寄せてきた。

 

 死んだように横たわる少女。

 否、あれは本当に死んでいる。

 何人も、何人も、沢山の少女たちが、真っ白な部屋の中で死んでいる。

 

 死への恐怖と明日への希望を持ち合わせていた彼女たちの眼は、もう開かれない。

 

 ……嗚呼、本当は私だって、こんなことを望んでいたわけではなかったのに。

 

 それは誰に対する言い訳だったのだろうか。

 いつの間にか、康奈は意識を失っていた。

 

 朝霜の呼びかけも聞こえない。

 深く暗い深淵の中へと、沈みこんでいった。

 

 

 

 戦局は徐々に変わりつつあった。

 撤退するショートランド艦隊を追いかけていた深海棲艦の部隊に、側面から南軍が突撃を仕掛けたのである。

 これは、他の軍から南軍への支援が行われた結果、西部戦線全体の形勢が逆転したからできたことだった。

 

 西部戦線全体で、人類が勢いを取り戻しつつある。

 

 そんな戦局の変化を肌で感じ取りながらも、神通と戦艦水鬼は互いにそれを無視した。

 

 神通隊はもはや燃料が尽きかけている。ここで戦艦水鬼の相手をする以外の選択肢がない。

 戦艦水鬼の軍勢は、かなりの打撃を被っている。撤退するという選択肢はあったが、戦艦水鬼はそれを選ばなかった。

 

「――なぜ逃げないのか、不思議か?」

 

 不意に、戦艦水鬼が人の言葉を発した。

 

 激動する戦場の中にあって、神通隊と戦艦水鬼がいるこの辺り一帯だけが、奇妙な静寂に包まれている。

 

「形勢は変わりつつある。普通なら、撤退するところでしょう。貴方がこの場に残る理由はない。武人として私たちと決着をつけることを優先している、ということなら話は別ですが」

「武人か。良い言葉だ。人の言葉の中でも、特に好ましい」

 

 戦艦水鬼の艤装はあちこちが損傷している。

 戦艦や空母ですら易々と貫けない艤装を、神通隊は持てる手すべてを駆使して打ち壊した。

 

「だが、武人としての己は前の戦いで捨てた。ここでは将として戦うと決めていた」

「ならば、なぜ撤退しないのです」

「大勢は決した。一時撤退したところで、もはやこの地での挽回は難しいであろう。ならば将として責を負わねばなるまい。……そこらのガラクタどもが、逃げる間くらいはな」

 

 戦艦水鬼軍の深海棲艦たちは、自分たちが不利と悟ると、大半が逃げ出していた。

 今、戦艦水鬼の周囲にいるのはほんの僅かな深海棲艦だけである。

 

「その心意気は買いましょう。故に、最後まで全力でやらせてもらいます」

 

 神通隊が動く。

 磯風や他のメンバーは、神通の動きを止めようとする戦艦水鬼軍の残党を狙った。

 

 戦艦水鬼に挑むのは神通単騎。

 ほんの少し、神通よりも早く戦艦水鬼が艤装の腕で、海水を神通に浴びせかけた。

 勢いよく突っ込もうとしたところで海水を受けて、神通の動きが止まる。

 

「終わりだ、強き者よ!」

 

 神通も既に相当の深手を負っている。

 今、戦艦水鬼の一撃をもらえば致命傷になるのは間違いなかった。

 

「――させないッ!」

 

 そのとき、戦艦水鬼の目の前に艦載機が飛び込んできた。

 突然の乱入者に、戦艦水鬼の身体が硬直する。

 

 視界はまだ十分に戻っていなかったが、神通は相手の異変を気配で察知した。

 残された魚雷を外し、その手に取って、直接戦艦水鬼の本体目掛けて叩きつける。

 

 戦場を震わす衝撃が、周囲一帯に広がった。

 

 魚雷が起こした水柱が消えたとき、そこに立っていたのは神通だけだった。

 戦艦水鬼は、倒れている。

 その身体は――少しずつ海の中へと沈んでいった。

 

「大丈夫?」

 

 神通隊の元に駆け寄って来たのは、瑞鳳隊だった。

 戦場から逃げ落ちることを良しとせず、少し離れたところからずっと機会を窺っていたのだ。

 

「……ありがとうございます。助かりました」

「――」

 

 そう応える神通の状態を目の当たりにして、瑞鳳は声を失った。

 

 すぐに、他の神通隊のメンバーも集まってきた。

 磯風も一緒である。

 

「――」

 

 皆、神通を見た。

 

「戦況は、もう落ち着きましたか?」

「ああ」

 

 神通の問いに、磯風が応える。

 

 磯風は、視線を遠くに向けた。

 ショートランド艦隊の母艦が見える。

 

「……清霜はどうだ、瑞鳳」

「連絡があった。応急処置で、一命は取りとめたみたい」

 

 瑞鳳の言葉を聞いて、神通が安堵の表情を浮かべる。

 

 肩を貸そうかと磯風が前に出ようとしたとき、神通隊の駆逐艦がそれを止めた。

 

「ごめん。これは、私たちにやらせて」

 

 駆逐艦たちに支えられた神通は、

 

「三笠に帰投します」

 

 と宣言した。

 

「提督に――報告を行います」

 

 

 

 リランカ島、そしてモルディブで発見された敵拠点の歓楽に成功した頃、智美の元に、神通隊が帰投したとの報告が届いた。

 

「そうか、戻ったか」

 

 命令違反を犯した神通隊をどのように出迎えるべきか、智美は決めあぐねていた。

 しかし、そんな迷いは帰投した神通を見て吹き飛ぶ。

 

「ただいま戻りました、提督」

 

 そう告げる神通は、満身創痍としか言いようのない状態だった。

 艤装はほぼ全損しているに等しく、両腕は欠け、顔は火傷によってただれている。

 

 艤装ベースの艦娘であれば、艤装さえ修復すればこの状態からでも元に戻せる。

 しかし、人間ベースの艦娘にとって、これほどの傷は致命的だった。

 

「……なにをしている。早く治療室に神通を運べ!」

「提督」

 

 神通隊に向かって怒鳴りつける智美に、神通は静かな声で語りかける。

 

「お伝えしたいことがあります」

「話はあとで聞く。今は早く治療だ、治療に専念しろ!」

「――静は、生きています」

 

 智美の声が、止まった。

 神通の視線は、智美の方を向いていない。

 もう、見えていないのだ。

 

「あのとき、静はショートランドに連れて行かれたんです。でも、私は怖くて、静を助けるために出て行くことができず、貴方の信頼を裏切るのが怖くて、本当のことも言えませんでした。ですが、静は生きています」

「……お前、なにを」

「――ショートランドの清霜。あの子が、静です」

 

 神通は、命を削りながら懸命に言葉を紡いだ。

 少し話すだけで、残り少ない生命力が零れ落ちていく。

 

「景華。あなたは、まだすべてを失ったわけではない。復讐が辛くなったら、あの子と、一緒に――」

 

 神通の身体が僅かに震え、そして止まった。

 

 どれだけ待っても、続きの言葉は出てこない。

 

「……ふざけるな」

 

 智美は、駆逐艦たちから奪い取るようにして神通の身体を抱え上げた。

 

「ふざけるな、神通。おい、言いかけておいて止めるな。言いたいことだけ言って、私の言い分は何も聞かないつもりか。ふざけるな、お前には言ってやりたいことが沢山あったんだぞ。いつでも言えると思って、言わなかっただけだ。おい、言わせろよ。……おい、咲良!」

 

 悲痛な智美の声に、勝利に沸き立っていた三笠の艦橋が静まり返る。

 

 智美は、神通の身体を抱きかかえたまま、じっと立ち尽くしていた。

 誰も声をかけることができない。

 

「磯風」

 

 智美は、神通の顔を見据えたまま磯風に問いかける。

 

「こいつは、立派だったか?」

「ああ。あれほど勇猛果敢に戦った艦娘は、他に知らない」

「そうか」

 

 智美は泣かなかった。

 ただ、じっと神通の顔を見つめ続けている。

 

「すまない。少し、二人にさせてくれ」

 

 そのまま、智美は神通を抱えて艦橋から出て行く。

 その後ろ姿は、今までの彼女からは想像できないくらい、小さなものに見えた。

 

 

 

 西方救援作戦が一段落ついた頃、陸地に戻ったエルモは自らが勤務していた研究施設に戻ってきていた。

 軽やかな足取りで自分の研究室に向かう。ここは彼専用に用意された部屋で、他に人の姿はない。

 

 エルモがデスクトップマシンを起動すると、待ち構えていたかのようにテキストメッセージが送られてくる。

 

『お疲れ様。今回はどうだった?』

 

 メッセージを見て、エルモは思わず相好を崩した。

 できれば音声通話をしたい、と希望を出すと、相手はすぐに応じてくれた。

 

「やあ、久しぶり。今回も貴重なデータが取れたよ」

『嬉しそうね。ま、今回のような大規模な戦いはサンプルが大量に取れるから、貴方にとっては最高の環境なのでしょうけど』

「まあね。ボーナスステージのようなものさ。ああ、でも今回はそれ以上に君に話したいことがあってね」

『なにかしら?』

「――『君』に会ったよ」

 

 エルモがそう告げると、相手は『へえ?』と興味深そうな声を上げた。

 

『どうだった、私は。元気にしてた?』

「ああ。なんとまあ提督をやっていたよ」

『なるほど。あのときの実験結果が、そこに結びついたのね。艦娘ではなく、提督か……』

 

 そのとき、通話先から別の誰かの声が聞こえてきた。

 

「誰か来たのかい?」

『うちのお姫様のお戻りね。今回そっちにちょっと顔出しに行っていたのよ』

「ああ、彼女か。報告にも上がっていたね」

『そんなわけで、話の途中だけど一旦離席するわ』

「仕方ない。今回の件はレポートにして後で送ることにするよ」

『それが良いわ。貴方、話が長いし要領を得ないんだもの』

「手厳しいな」

 

 エルモはにこやかな表情のまま、名残惜しそうに告げる。

 

「それじゃあね――IZUNA」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終章「海の彼方で」(第二次SN作戦編)
第十九陣「清霜の意思」


 横井飯綱という少女は、一言で言うなら天才だった。

 幼少期から様々な知識を貪欲に吸収し、小学校に入学する頃には既に高校生相応の知識を持っていたという。

 

 惜しむらくは、協調性というものがなかった。

 欲しい知識は書籍やインターネット等で収拾することができる。

 周囲の人間は、彼女の知識欲をまったく満たしてはくれなかった。

 知識以外に関心を持たなかった彼女は、自然、周囲への興味を持たず、周りに合わせて動くということをしなかった。

 

「彼らは私の欲するものを持たない。なら、相手にするのは時間の無駄です」

 

 両親は投書早熟な彼女に期待をかけていたが、学校に入れることで、娘の異常さを感じ始めたらしい。

 何度か改善を試みようとしたが、却って飯綱の反発を招くことになり、彼女が三年生になった頃、家庭は崩壊した。飯綱は施設に引き取られた。

 

 その施設は、上杉重蔵と繋がりを持っていた。

 表向きは身寄りのない子を引き取る児童養護施設だったが――内実、上杉重蔵に利をもたらす人材の育成機関でもあった。

 

 

 

 リランカ島攻略により、インド方面の深海棲艦は散り散りになった。

 敵の殲滅とまではいかなかったものの、限られた条件の中で行った遠征としては、まずまずの成功を収めたと言って良い。少なくとも、インド洋での人類側の優勢は確保できた。

 

 作戦本部はしばらくインドに滞在して今後のことを近隣諸国と相談していたが、各拠点の艦隊の大部分は戦の終了に合わせて帰還した。ショートランド艦隊もその一つである。

 

「――提督」

 

 大淀の呼びかけに、康奈は顔を上げた。

 

「どうかした?」

「……あ、いえ。なんだか、少しいつもと違う感じがしたものですから」

「変なの。私はいつもと変わらないわよ」

 

 口元を僅かに綻ばせて、康奈は再び書類に視線を転じた。

 西方遠征が終わってしばらく経つ。

 彼女が目にしているのは、横須賀第二鎮守府から届いた『交換留学終了』に関する書類だった。

 

 特に期限を設けず行っていた磯風と朝霜の交換留学を、そろそろ終わりにしたいという申し出だった。

 この件を取り仕切っていた神通は、先の遠征で命を落とした。その影響で、この交換留学に対する方針が変わったのかもしれない。

 

「大淀。最近、朝霜はどうしてる?」

「清霜と一緒にいることが多いようです。元気づけてくれてるみたいですよ」

「……清霜」

 

 その名を聞いて、康奈の表情がかすかに曇った。

 

「近頃は、あまりお会いになられてないんですか?」

「……そうね。曲直瀬先生から、命に別状はないと聞いたけど」

 

 清霜は、西方遠征で右腕を失うという重傷を負った。

 康奈が応急処置を施し、泊地に帰還後、泊地スタッフの曲直瀬医師によって本格的な治療が行われた。

 結果、一命は取り留めたが、艦娘として戦い続けることは不可能だという宣告を受けた。

 

 艤装に艦の御魂を降ろして肉体を構築するタイプの艦娘であれば、霊力さえあれば肉体の欠損も回復が可能である。

 しかし、清霜は人間の身体に艦の御魂を降ろすタイプの艦娘だった。肉体構築に霊力を使う必要はないが、失われた腕を元に戻すことはできない。

 

 利き腕なしで戦場に出ても、足手まといにしかならない。

 もはや、清霜は艦娘としてはどうにもならなかった。

 

「やっぱり、落ち込んでる?」

「ええ。見ている方も辛くなるくらい……。でも、今のままにしておくというわけにもいきませんね」

「……あの子の身の振り方、考えないと駄目ね」

 

 交換留学終了の書類を睨みながら、康奈は沈思した。

 

「大淀。清霜の件と交換留学の件、少しこっちで預からせて。一週間以内には答えを出すから」

「分かりました。お願いいたします」

 

 大淀が退室して一人になると、康奈の表情の陰りが濃くなった。

 誰もいないことを確認して、大きくため息をつく。

 

「……答えを出す、か」

 

 窓の外は、常夏の晴天かと思えるくらい明るい。

 逆に室内は、冬の夜を思わせるほど暗かった。

 

 

 

 清霜は、海を見渡せる丘の上に来ていた。

 朝霜はいない。清霜が一人になりたがっているのを察したのか、今回はついて来なかった。

 

 海に向かって手を伸ばそうとする。

 右腕を動かしているような感覚はある。

 しかし、それは感覚だけで――あるべきはずの腕は、もうなかった。

 

「清霜」

 

 声をかけてきたのは、武蔵だった。

 清霜が無言で振り返ると、武蔵は日本酒を掲げて見せた。

 

「一杯、どうだ?」

「……私、お酒はあんまり」

「まあ、そう言うな。酒は味わう以外の効能もある」

 

 言いながら、武蔵は少しだけお猪口に酒を注いで清霜に薦めてきた。

 よく見ると顔が少し赤い。どうやら武蔵自身は、既に少し飲んでいるようだった。

 

「私、多分身体は子どもです」

「だが艦娘だ。人間の法は適用されん。それは良い面も悪い面もあるが、な」

 

 武蔵が差し出したお猪口を引っ込めないので、清霜は渋々それを受け取った。

 どうすべきか逡巡したが、何かどうでも良いような気分になって、一気にそれを仰いだ。

 

 口の中に、馴染みのない味わいが広がっていく。

 それは心地よいものではなかったが、広がるにつれて身体が温まり、思考が拡散されていくような感覚に陥った。

 

「すまなかったな」

 

 武蔵は清霜の隣に腰を下ろして、静かに頭を下げた。

 

「酒のことじゃない。この前の作戦のことだ。私が変なことを言ったせいで、お前に無理をさせてしまった」

「別に、武蔵さんのせいじゃないです」

 

 酒の力か、比較的スムーズに言葉が出てきた。

 近頃は、何かを言おうとしても暗い思考が邪魔をしていた。

 

「私は、武蔵さんの言葉がなくても多分戦ってました。いつも通り全力で挑んで、それで負けたんです。私は――何もできなかった」

 

 元々勝算は低かった。

 それでも、清霜は勝つことだけを考えて戦艦水鬼との勝負に臨んだのだ。

 

 結果、右腕を失った。

 そして、一人の艦娘が命を落とすことになった。

 

「戦艦水鬼を倒した神通さん、私は何度か会ったことがあります。強い人でした。怖い人だって言う人もいたけど、私はそうは思わなかった。強くて、優しい人だと思ったんです」

「誇り高い武人だったと聞いている。それに、清霜がそう言うなら優しい人でもあったんだろう」

「私が負けたせいです。神通さんが死んだのは、私のせいなんです。……私は、何もできなかった。右腕があるかないかなんて関係ない。私は、艦娘失格です……」

 

 後半は、嗚咽混じりの言葉になった。

 悔しさと悲しさから、涙がボロボロと零れ落ちてくる。

 

「私の中にいるもう一人の子が、泣いてるんです。多分、あの神通さんは私の元になった子を知ってる。大切な――大切な誰かだったんです。何もできなかったことが、こんなに悔しいなんて、私、知らなかった」

 

 清霜の独白に、武蔵は何も言わなかった。

 ただ、泣き続ける清霜の肩を抱いて、じっと泣き終わるのを待っていた。

 

「……清霜。何もできなくて悔しかったなら、次はどうしたい?」

 

 清霜の感情が落ち着くのを待ってから、武蔵は静かに問いかけた。

 

「どうしたいって、言われても。私には、もう何も……」

「何かをしたいという意思があるなら、何かはできるはずだ」

 

 武蔵は、清霜の失われた右腕を見つめながら続ける。

 

「お前は確かに前の戦いで何もできなかったかもしれない。失ったものもある。だが、何もしなかったわけじゃない。何もできなかったことに憤りを覚えて涙を流すなら――何かをしたいという想いもあるはずだ。なら、今考えるべきは、次にどうするかということだ」

 

 ポンポンと清霜の頭を軽く叩いて、武蔵は腰を上げた。

 

「私だって、何もできないことはある。失ったものもある。それでも、もう何もしなくていいと思ったことはない。成したいという意思がある。だから私は今も戦い続けている。意地一つでな。そんなちっぽけな艦娘だよ、うちの大和型二番艦は」

 

 武蔵は後ろを振り返らず、そのまま日本酒を手にしたまま戻っていく。

 あの酒は、武蔵自身が言葉を紡ぐために必要としたのかもしれなかった。

 

 

 

 翌日、護衛任務を片付けて泊地に帰還する部隊があった。

 清霜が埠頭でぼんやりとその部隊を眺めていると、二人ほど駆け寄ってくる者がいた。

 早霜と春雨である。

 

「清霜、どうかしたの?」

「あ、ううん。なんでもない。ちょっと考え事してただけ」

「昨日からこんな感じなんだよな」

 

 側で釣り糸を垂らしていた朝霜が、不思議そうに清霜を見た。

 昨晩の武蔵との一件は、朝霜にも話していない。ただ、何かあったことは察しているようだった。

 

「護衛任務、どうだった?」

「今回は何事もなかったわ」

「深海棲艦と遭遇することもなかったよね。いつもこうなら良いんだけど」

 

 春雨は心底ホッとしたように胸を撫で下ろした。

 昨年秋の作戦では防空棲姫相手に奮闘した春雨だったが、本来は心根の優しい性分で、争いは好まない。

 早霜もその点は同様で、あまり好戦的なタイプとは言えなかった。武を重視する清霜や磯風とは対照的である。

 

「……ねえ。二人だったら、もし戦えなくなったとき、どうする?」

 

 やや緊張気味の清霜の問いかけに、早霜と春雨はきょとんとして顔を見合わせた。

 

「考えたこと、なかったわ」

「私も」

 

 早霜も春雨も、人間ベースの艦娘ではない。

 どれだけの傷を負っても、霊力を注ぎ込めば再び戦える状態まで回復することができる。

 彼女たちが戦えなくなるというのは、轟沈したときだけである。

 

「でも、他人事ではないものね。一緒に考えてみましょうか」

「うん。清霜が困ってるんだもんね」

 

 自分たちには関係ないと一蹴することなく、早霜と春雨は清霜の問いかけに対し真摯に応えようとした。

 しかし、なかなかこれといった答えが出てこない。

 朝霜も含めた三人は、清霜の問いかけに対ししばらくウンウンと唸り続けた。

 

「なにしてんの、皆して」

 

 そこに、雲龍とその肩に乗った時津風がやって来た。

 どうやら泊地内を散策していたらしい。

 

 二人にも同じ質問をしてみると、時津風は「なんだ、そんなことか」と呆れたように言った。

 

「戦えなくなっても何かしたいならさ、クルーとして頑張ってみるとか、内地のスタッフとして頑張ってみるとか、いろいろあるじゃん」

「あっ」

 

 清霜たちにとって、それは盲点だった。

 つい艦娘であることを前提に考えてしまうから、戦えなくなったという不足分をどうにかして埋めようという方に思考が傾いていたのである。

 

「直接戦う力のない人たちにも、私たちは普段たくさん助けてもらってる。そっちに目を向けるのも良いかもしれないわ」

「そうそう。戦い方なんて人それぞれだよ。艦娘が戦いに専念できるよう尽力するのだって、立派な戦い方の一つなわけだし」

 

 雲龍と時津風の言葉に、皆が「おお」と感嘆の声を漏らした。

 改めて埠頭を見ると、護衛任務の報酬である食料等を運び込んでいる人々の姿が目に入る。

 彼らのような存在がいるからこそ、艦娘は深海棲艦との戦いに集中できるのだった。

 

「ま、合う合わないはあるだろうけどね。視点を変えてみればいろいろ選択肢はあるってことだよ」

「そもそも、私たちは深海棲艦を倒すためにいるわけではないものね」

「え、違うの?」

 

 雲龍に対して時津風以外の面々が不思議そうな顔を向けた。

 艦娘は、現状深海棲艦に対抗できる唯一の戦力である。

 艦娘といえば「対深海棲艦用の存在」と見るのが自然だった。

 

 しかし、雲龍は頭を振る。

 

「極端な話、襲ってこない深海棲艦とは戦う必要はないでしょう。私たちが深海棲艦と戦うのは、あくまで海上での人々の安全を確保するため。ただの手段に過ぎない。だから、戦いを支援するってだけじゃなくて、誰かのためになるってことなら――それも一つの戦いだと思うわ」

 

 清霜たちは、今まで一本の道しか見えていなかった。

 しかし、少し立ち止まって周りを見てみると、道はいくらでもあった。

 

 問題は、自分がどの道を行きたいかである。

 

「ありがとう。皆のおかげでいろいろ見えてきた気がする」

「役に立てたなら良かったわ。この前は、清霜に無理をさせてしまったから」

「あ、ごめんね。気にしてたんだ……」

 

 雲龍は先日の戦いのことを気にしていたらしい。

 特に彼女がミスをしたわけではない。清霜が戦艦水鬼と戦ったとき、雲龍は十分な支援をしていた。

 

「雲龍はあのときちゃんとしてたよ。こうなったのは私の問題だから、気にするのは私だけで良いって」

「そう言ってもらえると、少し気が楽になるわ」

 

 雲龍はそう言って表情を和らげる。

 仲間のこういう表情を久々に見たことに、清霜は今更ながら気づいた。

 

 

 

 それから清霜は、泊地の中を歩き回った。

 普段あまり出歩かないような場所にも足を運び、働く人々や艦娘たちの姿を見ていった。

 

 最後に訪れたのが、工廠である。

 

「あれ、清霜じゃない。惜しかったわね」

 

 やって来た清霜の顔を見るなり、工廠勤めの工作艦・明石はそんなことを言った。

 

「惜しかった? なにがですか?」

「さっきまで提督が来てたのよ。ちょうど入れ違いになっちゃったのね」

「司令官が? そういえば、最近ちゃんと会ってなかったな……」

 

 康奈のおかげで一命を取り留めたということは朝霜から聞いている。

 しかし、意識が戻ってからは誰とも会いたくなかった。

 だから、康奈のところにも顔を出していない。康奈も忙しいのか、清霜のところには顔を出さなかった。

 

「あとでお礼言いに行かなきゃ」

「だな。かなり心配してたぜ」

「朝霜もありがとね。お礼言うの遅くなっちゃったけど」

「よせよせ。照れるだろ」

 

 鼻っ柱を擦りながら、朝霜は視線を明後日の方向に逸らした。

 

「それで、どうかしたの?」

「実は――」

 

 訪れた理由を説明すると、明石は「なるほど」と手を打った。

 

「いやー、もし清霜が工廠来てくれるならお姉さん嬉しいわ。ここにいるのはむさくるしいオジサンと物好きの技術部、あと気まぐれな妖精さんばっかりだから!」

「聞こえてるぞ明石ー!」

「おぬしも大概物好きな方であろうがー!」

 

 後方から野次が飛ぶ。

 それらをスルーしつつ、明石は嬉しそうに工廠の設備を案内した。

 

 明石は大分噛み砕いて説明をしたのだが、清霜と朝霜は聞き慣れない言葉が飛び出す度にハテナマークを頭上に浮かべ続けることになった。

 

 どうも向いていないらしい。

 申し訳なさそうに清霜がそう告げると、明石はからからと笑って手を振った。

 

「いやまー途中からなんとなく察してはいたけどね!」

「いろいろ案内してくれたのに、なんかゴメンナサイ……」

「気にするな清霜。明石、途中から分かってて言いたいことだけ言ってた節があるぞ」

「あ、バレてた?」

 

 朝霜の指摘に明石は小さく舌を出した。

 

「けど、最初からあれこれ理解できるなんてことはないから。今全然分からないからって、適性なしかどうかは分からないわよ。少しでも興味があるならいつでもウェルカムだからね」

「ありがとうございます。……でも、多分足引っ張っちゃうから」

「最初は誰だって足手まといよ。気にしない気にしない」

 

 明石はそう言って清霜の頭をわしゃわしゃと撫で回した。

 

「清霜、良い言葉を教えてあげる。『一人で出来ないことは協力して事に当たれ』」

「……それ、誰かの言葉ですか?」

「ええ。私が一番尊敬してる人の言葉」

 

 そう話す明石は、ほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。

 

「清霜は今とても大変なものに向き合おうとしてる。今後どうするかは自分で決めて行かなきゃいけない。でも、どういう道を選んだとしても、一人でやっていかなきゃいけないわけじゃない。それを忘れないでね」

「一人でやっていくわけじゃ……ない?」

「ええ。清霜が工廠スタッフになろうとクルーになろうと内勤になろうと、一人になるわけじゃない。誰かがいる。できないことがあれば頼っていい。その代わり、相手ができなさそうなことがあったら助けてあげて。それができれば、きっと上手くいくはずだから」

 

 言われて、清霜は今日一日のことを振り返った。

 今日だけで、随分といろいろな人にアドバイスをしてもらった。

 清霜が戦力になるからではない。清霜が清霜だからというだけの理由で、時間を割いて、付き合ってくれた。

 

「……明石さんの言ってること、少し分かる気がします」

「そう。ならば良し!」

 

 うんうんと満足そうに頷いて、明石は仕事に戻っていった。

 

 明石は工作艦という性質上、戦場に出ることは滅多にない。

 戦う力を失った清霜の境遇について、思うところがあったのかもしれない。

 

「……朝霜」

「ん?」

「私って、もしかして凄く周りの人に恵まれてるのかもしれないね」

「……」

「朝霜?」

 

 清霜が押し黙った朝霜の方を見ると、彼女は顔を真っ赤にしていた。

 

「お前、よく恥ずかしげもなくそんな台詞が出てくるな……」

「え、駄目?」

「いや、いいよ。お前はそのままでいい」

 

 根負けしたかのようにひらひらと手を振る朝霜。

 

 そんな彼女の帰還が決まったのは、それから間もなくのことだった。

 

 

 

「私も……横須賀第二鎮守府に?」

 

 朝霜と一緒に執務室へ呼び出された清霜は、康奈から意外な提案を持ち出されて、戸惑いの声を上げた。

 

「ええ。先方から、差し支えなければ朝霜と一緒に横須賀第二鎮守府へ来ないかと誘いがあったわ」

「……それは、転属ってこと?」

 

 自分の置かれている状況に不安を覚えながら、清霜は康奈に問いかける。

 康奈は静かに頭を振った。

 

「そういう話は聞いていないわね。朝霜の見送りという理解で良いと思う」

「なら、私は良いけど……でも、なんか急だなあ」

「……」

 

 康奈は朝霜をじっと見た。

 その眼差しに込められた意図に気づいて、朝霜はばつが悪そうな表情を浮かべる。

 

「清霜。あれから、なにか思い出した?」

「思い出したって言うと……昔のこと?」

「ええ。なんでもいい。ハッキリしたことでなくても」

 

 康奈の問いに、清霜は腕を組んでここ最近の出来事を思い返した。

 

「……どことなくだけど、横須賀第二の神通さんのことは、昔から知ってるような気がした」

「そう」

 

 康奈は目を伏せて押し黙った。

 何を言うべきか、言葉をまとめているように見える。

 

「良い機会だと思うから、あっちの提督と話をしてきなさい。彼女は、あなたにとって大事な人だから」

「司令官は、なにか知ってるの?」

「ええ。確認はしていないけど、おそらく間違いないと思っている。けど、それは私から言うことじゃない」

 

 いつになく突き放したような言い方のように聞こえて、清霜は気後れした。

 しばらく顔を合わせていなかったからか、康奈が以前とは少し違って見えたのだ。

 

「司令官、なにかあった?」

「……特になにもないわよ。ああ、ごめん。少し冷たい感じになっちゃったかもしれない。ちょっと、疲れてるのかもしれないわね」

 

 そう言って康奈は自嘲気味に表情を崩した。

 やはり、以前とは少し違って見える。しかし、その違いが何なのか清霜にはよく分からなかった。

 

「朝霜。あなたが来てくれて良かったと思ってる。清霜と仲良くしてくれて、本当にありがとう」

「……別に、気にしなくていいよ。それより、司令官は……」

 

 そこまで言いかけたとき、朝霜と康奈の目が合った。

 康奈の双眸からは、何か言い知れぬものを感じる。

 

「……いや、なんでもない。こっちこそ、お世話になりました」

「またいつでも遊びに来なさい。清霜だけじゃない。泊地の皆で歓迎するから」

 

 ささやかな笑みを浮かべる康奈。

 だが、朝霜にはその言葉がどこか他人事のように聞こえた。

 

 

 

 ソロモン諸島を出立した清霜たちは、海路を北上して真っ直ぐに本土へと向かった。

 トラック泊地まではショートランド艦隊が、そこからしばらくはトラック泊地の艦娘が護衛につき、道半ばのポイントで横須賀第二鎮守府の艦娘と交代する。

 

 交代ポイントで、清霜たちは磯風に会った。

 入れ違いでこれからショートランドに向かうらしい。

 

「磯風、うちの司令官の調子はどうだ?」

 

 軽く挨拶を済ませると、朝霜はそう尋ねた。

 片腕であり長年の友人でもあった神通の死が、何か良くない影響を及ぼしているのではないか。

 そんな懸念を持っていった朝霜だったが、磯風は頭を振った。

 

「直接会う機会はあまりなかったから、はっきりしたことは言えんが……そこまで変わった様子はなさそうだった」

「そうか。……まあ、それくらいで気落ちするような人じゃねえか」

 

 失望混じりの溜息をこぼす朝霜に、磯風は「どうだろうな」と疑問を呈した。

 

「本当は気落ちしているのかもしれない。内心深く傷ついているが、それをおくびにも出さないだけなのかもしれない。私は長尾提督の人柄は最後まで掴めなかったが……あの神通殿が友とする人だ。何も感じないような人物ではないと、そう思いたいところだな」

 

 次いで、磯風は清霜を見た。

 失われた右腕と、久々に見る顔。

 

「……どうやら、立ち止まっているというわけではなさそうだな」

「うん。皆のおかげでね」

「そうか。お前が泊地に戻ってきたら、いろいろ話そう。積もる話もある」

 

 ショートランドに向かう磯風を見送りながら、清霜は口元を綻ばせた。

 

「磯風、なんか前よりカッコ良くなったな」

「そうか?」

「うん。前はもうちょっと怖いところがあったけど、それがなくなってスッキリしたような気がする。きっと神通さんのところで、良い経験ができたんだろうな」

 

 どこか、羨ましそうな響きがこもった言葉だった。

 

 

 

 横須賀第二鎮守府に到着した二人は、まっすぐ執務室に向かうよう指示された。

 

 鎮守府というだけあって、ショートランド泊地やトラック泊地とは設備の充実度が段違いである。

 廊下の窓から見える光景から、歴然とした差を感じて、清霜はどことなく理不尽なものを感じた。

 

「うちもこれくらいあればなあ」

「贅沢言っても仕方ないだろ。それに、ここは首都に近いこともあっていろいろ面倒も抱えてるんだぞ。あたしからしてみれば、ショートランドの方がずっと良いぜ」

「こらこら。あんまりここで文句言っちゃ駄目だぞー。バレないところでしなさい」

 

 二人の先を行く川内が、朝霜に釘を刺した。

 神通亡き今、智美の補佐は彼女が担当しているらしい。

 

「いいじゃないっすか。今日はスタッフの姿も見当たらないし」

 

 朝霜の言う通り、この日、横須賀第二鎮守府に人の姿は見当たらなかった。

 不平不満を口にしたところで、それを咎めるような者はいないのである。

 

「ま、それはそうなんだけどね……」

 

 どことなく歯切れの悪い川内に案内されて、二人は執務室に通された。

 

「駆逐艦朝霜、帰還しました」

「――ああ。よく帰ったな、朝霜」

 

 智美は、書類に目を通しているところだったらしい。

 朝霜と清霜にちらりと視線を向けたが、すぐに書類へと戻してしまった。

 

「日次で行っていた分があるから、細々とした報告はいらん。総括報告書を明日までに提出しろ」

「了解しました」

 

 口頭報告を終えて、朝霜は冷や汗を垂らした。

 磯風の言う通り、特に変わった様子は見受けられない。

 普段と同じ、傲岸不遜でおっかない女傑である。

 

「それと、ショートランドの清霜。よく来たな。お前には少し聞きたいことがある」

 

 そこで智美は手を止めて、再び視線を上げた。

 清霜の腕を見て、微かに顔をしかめる。

 怒っているようにも、痛ましく思っているようにも見えた。

 

「その腕は、痛むか」

「いえ、大丈夫です。うちの司令官と医務室の先生が、きちんと対応してくれたので」

「……そうか」

 

 大きく息を吐いて、智美は改めて清霜に向き合った。

 

「ショートランドの清霜。私はお前が人間ベースの艦娘であることは知っている。昔のことを思い出せずにいるということもな。……それは、今も変わらないか」

「はい。はっきりしたことは、まだ。ただ、こちらの神通さんのことは……知っていたような、そんな気がしています」

「そうか」

 

 智美は小さく頷いた。

 小声で何か呟いているようだったが、その内容は清霜たちのところには届かなかった。

 

「あの、長尾司令官は神通さんの昔のことを知ってるんですか?」

「なぜ、そう思う?」

「なんとなく……としか言いようはないですけど。でも、そんな気がして」

 

 清霜は、長尾智美とあまり接点を持たなかった。

 だから彼女のことなど、ほとんど知らないはずなのだ。

 神通とだって、そう何度も会っていたわけではない。

 

 しかし、心の中で何か特別なものを感じていた。

 ただの他人ではないと、清霜の中の誰かが訴えかけているようだった。

 

「もし、何か知ってるなら……よければ、教えてくれませんか」

「……一つ、私の質問に答えてくれれば教えよう」

 

 智美は書類から手を離して立ち上がった。

 

「お前は、これからどうするつもりだ? 腕を失い、戦うこともできず、この先どうしていくつもりだ?」

 

 なぜ智美がそんな問いかけをしてくるのか、清霜には分からなかった。

 しかし、どう答えればいいかは分かっていた。

 

「もちろん、戦い続けます。どうやってかはまだ決められてないですけど――皆と一緒に、これからも戦っていきます!」

 

 一人では、答えることはできなかっただろう。

 泊地の皆がいてくれたから出せた答えだった。

 

「――そうか」

 

 智美はゆっくりと清霜の前にやって来て、腰を少し落とした。

 目線の高さを清霜に合わせて、肩に手を置く。

 

「……ああ。こうして見るとはっきり分かる。本当にお前なんだな」

「え?」

「強くなったな、静。だが――その強さは、もういらない」

 

 そのとき、清霜は首筋に何かが刺さったような感触を覚えた。

 チクリとした痛みと、脳を揺さぶられるような気持ち悪さが襲い掛かってくる。

 

「な、に……を……?」

 

 視界が歪んでいく。

 見えるのは智美の顔だけだ。

 それも、酷く歪んでいて、はっきりと見えない。

 

 安堵しているようにも、泣いているようにも、怒っているようにも見える。

 

 そのまま――清霜の意識は深い闇へと落ちていった。

 

 

 

「……司令官、なにしてんだよ!?」

 

 智美の突然の行動に、朝霜が食ってかかろうとする。

 しかし、その動きは側にいた川内によって防がれた。

 

 腕を後ろに取られ、完全に動きを封じられてしまう。

 

「悪いけど、静かにしてて。大丈夫、その子に危害は加えないから」

「そりゃ、そうだろうよ……大事な妹なんだからな。だけど、なんでっ!」

「戦うと言ったからだ」

 

 意識を失った清霜を抱きかかえながら、智美は静かに告げた。

 

「非難は甘んじて受け入れよう。だが、私はこれ以上失いたくはない。どんな手段を使っても、守るべきものは守り通す」

「そのためなら、清霜の意思なんかどうでもいいってのか!?」

「説得するさ。それでも折れないなら、妥協点を見つけてもいい。だが今は駄目だ。こんな状態で、次の作戦に出すわけにはいかない。絶対に……絶対にだ!」

 

 誰にともなく苛立ちをぶつけるように吐き捨てると、智美はそのまま部屋を出て行った。

 

 智美が出て行くと、川内は「悪いね」と言ってすぐに朝霜を解放した。

 

「なんだよ、あれ」

「提督も必死なんだろう。実際、生半可な状態で次の作戦に臨むのは命取りになりかねない。少なくとも、ショートランドの提督にあの子の身柄を任せる気にはなれないんだと思う」

「……次の作戦ってなんだよ。そんなにヤバいのか?」

「少し前に大本営から通達があってね。サモア方面に、現在深海棲艦の軍勢が集結しつつある。その規模は、かつてのAL/MI作戦のものを上回る規模らしい」

 

 サモアは、南太平洋に位置する島国である。

 

 もっとも近い拠点は――ショートランド泊地だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十陣「不揃いの人々」

 その施設で、飯綱は異端ではなくなった。

 彼女と同様、天稟に恵まれた子どもたちが大勢揃っていたのだ。

 

 一般社会に馴染めない子どもたちも、その施設では己の才覚をいかんなく発揮した。

 互いが互いの長所を尊重し合い、刺激を受けながら自己研鑽に励んだ。

 

 そこでは、人間をより良い存在にするための研究が行われていた。

 既に存在する人間を強化する研究。

 これから生まれる人間を用途に合わせて最適化する研究。

 優れた人間の遺伝子を掛け合わせて人造人間を創造する研究。

 

 なぜそのような研究をしているのか、子どもたちは知らなかった。

 皆、熱中できるものにしか目が向いていなかったのだ。

 施設の大人も説明しようとはしなかった。

 

「君たちは君たちのやりたいことに集中しなさい」

「それが誰かのためになるんだ」

「目の前のことに励めば、必ず報われるんだ」

 

 余計なことに目を向けようとする子どもがいると、大人は決まってそう諭した。

 

 施設が求めていたのは、子どもたちの成長などではない。

 彼らがもたらす成果だけが欲しかったのである。

 

 

 呉の浮田提督からショートランド泊地に連絡があったのは、二〇一五年の七月半ば頃のことだった。

 

『こちら作戦本部。ショートランド泊地、北条提督どうぞ』

「あー、申し訳ない。北条は北条だが、提督代行だ。どうぞ」

 

 通信機に出たのは、康奈ではなく新十郎だった。

 彼は康奈同様、提督として艦娘と契約を結ぶ資質を持っている。

 

 そのため提督候補として康奈の義兄という立場になり、泊地で生活をしている。

 このことは作戦本部も承知していた。

 

『新十郎君か。康奈君はどうかしたのか?』

「少し性質の悪い夏風邪にあたったようでね。申し訳ないが、用件は自分の方で伺いたい」

 

 浮田は少し沈黙した。

 どうやら、軽い話題というわけではないらしい。

 

『……康奈君は、かなり厳しい状態なのか?』

「ああ。治ったとしてもしばらくは絶対安静だとうちの主治医殿が言っている。近々大規模作戦があるとしても、参加は困難だろう。その場合自分が代理で指揮を執ることになる」

 

 わざとらしく作戦のことを持ち出す新十郎に、浮田はため息をこぼした。

 

『その口振りだと、こちらの用件について心当たりがありそうだな』

「作戦本部のことは正直よく分からないけどな。ただ、こっちの方の動きは当然掴んでいる」

 

 新十郎が言っているのは、ソロモン近海の深海棲艦の動きだった。

 

 このところ、ソロモン諸島および東部方面の海域では、深海棲艦の動きが活発化していた。

 哨戒中に敵を発見する機会は普段の倍近くにもなり、護衛依頼の回数も増してきている。

 

 新十郎は隣に控えていた大淀に目配せした。

 大淀は机の上に広げられていた報告書を確認しながら補足する。

 

「浮田提督、ショートランドの大淀です。現在こちらでは独自に索敵を進めており、東からかなりの規模の深海棲艦がこちらに向かいつつあることを把握しています。確認した分だけであれば、我々にブイン・ラバウルで対処できそうですが――」

『トラック泊地のことがあるからな。今、君たちが補足している敵が前衛部隊という可能性もある』

 

 トラック泊地を襲った軍勢を撃退できたのは、毛利仁兵衛が初手で戦いのペースを握ったこと、横須賀の援軍をもって敵指揮官を集中攻撃して撃破できたことが主な理由になる。

 正面からの単純なぶつかり合いであれば、まず間違いなく負けていただろう。

 

「本隊や後詰がいるかどうか早々に調査するのはちと厳しそうでな。証拠不十分な状態ではあるが、できればどこからか援軍をもらいたいと思っていたところだ」

『そうか。私が連絡したのも、そのことだったんだ』

 

 大本営は、この深海棲艦の動きを危険な兆候として認識した。

 そして、作戦本部に総力を挙げて撃退するよう命じてきたのだという。

 

「総力とは、また思いきりましたね」

『……いや。どうも、大本営は撃退だけを考えているわけではないようでね』

 

 意外そうな声を上げる大淀に、浮田は歯切れ悪く答えた。

 

『正確な情報とは言い切れないが、敵の軍勢はサモア周辺に集結しているらしい。大本営の狙いは、同地域の制圧にあるらしいんだ』

「サモア――ここからは、遠いですね」

 

 ショートランドの東方に存在する島だが、大淀が言うようにかなりの距離がある。

 制圧したとしても維持するのは困難だった。

 

『こちらでも掛け合ってはみるが、もしかするとそちらにとっては面倒な話になるかもしれない。一応、留意はしておいて欲しい』

「承知しました」

「面倒は嫌いなんだがな……」

 

 げんなりと頭を掻く新十郎だったが、大淀の視線に気づいて慌てて咳払いをすると、居住まいを正して通信機に向き直る。

 

「状況は理解した。自分たちはそちらからの援軍が来るまで独自の裁量で動きつつ、現状維持に努める。その認識で問題ないか?」

『ああ。こちらも準備を進めているが、サモアの件も含めて気がかりなところがあってね。……また進展があれば都度連絡する』

 

 そう言って浮田は通信を切った。

 

「……どう思う、大淀」

「浮田提督は良くも悪くも慎重な方ですから、早期の援軍到着は期待しない方が良いかもしれません」

「だよなあ。仕方ない、ブイン・ラバウルに連絡を取って三者で一味同心といこうか」

「体制を考えないといけませんね」

 

 本土にある拠点は深海対策庁直轄の組織として一つにまとまっているが、ショートランド・ブイン・ラバウルのような海外の拠点は表向き独立した企業として、各国の政権と連携を取りながら活動をしている。

 そのため、深海対策庁の作戦本部を介さず直接連携を取ろうとする場合、いろいろなハードルが存在する。

 

「敵対関係にあるわけじゃないんだし、普通に『助けてくれ』で済ませたいところだけどな」

「まあ、そこは国家間で取り決めを交わしたことでもありますし……」

「分かってるさ。……しかし、なんだろうな浮田提督の言っていた気がかりって」

 

 新十郎のぼやきに、大淀は首を傾げた。

 

「サモアの件ではないんですか?」

「いや、あの口振りは他にも何かあるって感じだったな。自分たちに話さないのは、それが向こうの身内に関する話だからなのか――それとも言うに言えない程面倒な話だからなのか」

「……これ以上の厄介ごとは、起きないで欲しいですね」

 

 大淀は不安そうに窓の外を見る。

 愁いを帯びたその表情は、まるで誰かの身を案じているかのようだった。

 

 

 

 彼女には二人の姉がいた。

 名前も顔も思い出せないが、どんな人たちだったかは覚えている。

 

 すぐ上の姉はよく笑う人だった。

 朗らかで明るくて優しい、大好きな姉だった。

 

 一番上の姉は強い人だった。

 自分にも他人にも厳しく、とても優秀で、常に前を向き続けるような人だった。

 

 昔は、一番上の姉のことが怖かった。

 いつも険しい顔をしていて、なにか粗相をするとかなり厳しく注意される。

 彼女は出来が悪いからか、いつも注意されてばかりだった。

 

 しかし、そんな姉をすぐ上の姉はこう評した。

 

「姉さんは不器用なんだよねえ。静は知らないかもだけど、あれで結構優しい人なんだよ」

 

 そこで目が覚めた。

 

 控えめに差し込んでくる陽射し。

 青を基調とするおとなしめなデザインの部屋。

 

 そこにある温かなベッドの中に、清霜はいた。

 

「……私、どうなったんだっけ」

 

 ぼんやりする頭で起き上がり、部屋の中をうろうろと歩き回ってみる。

 特に身体に異常はなく、動きに支障もない。ただ、艤装の展開はできなかった。

 

 艦娘は艤装を霊体化させておき、いつでも展開できるようになっている。

 人間ベースの艦娘であってもそれは変わらないのだが、持っていたはずの艤装が、何度やっても出せなかった。

 

「うーん、取り上げられちゃったのかな」

 

 部屋の中は風呂・トイレ・冷蔵庫等が完備されていて、ここで生活できそうなくらい充実していた。

 ただ、扉は固く閉ざされており、窓についても鉄格子がかけられていて、出られないようになっている。

 艦娘である清霜は常人よりも遥かに高い力を持っているのだが、それでもビクともしなかった。

 

「完全に閉じ込められてる」

 

 動いているうちに、意識を失う前のことも思い出していた。

 横須賀第二鎮守府の長尾智美に、何らかの方法で眠らされたのだ。

 

「もしもーし、誰かいませんかー!」

 

 腹の底から気合を入れて叫んでみるが、反応はまったくない。

 

 小一時間奮闘した結果、清霜は疲れてベッドの上に寝転がった。

 

「……そういえば、静って言ってたな」

 

 意識を失う直前、長尾智美は清霜の顔を見て、確かにそう言ったのだ。

 上杉静。その名前は、毛利仁兵衛が遺した資料の中にもあった。姉がいるということも載っていた。

 

 上杉景華。

 上杉光。

 

 長尾智美は――おそらく本当は上杉景華なのだろう。

 

「姉様、なのかな……」

 

 同じ夕雲型の艦娘たちの顔が思い浮かんだ。

 清霜は夕雲型の最終艦だから、他の夕雲型は全員姉にあたる。

 皆、個性的で優しい姉たちだ。こちらは実艦をもって言える。

 

 上杉の姉のことは、おぼろげにしか思い出せない。

 しかし、ただの他人という気もしなかった。

 胸の内がモヤモヤとして落ち着かない。

 

「あー、もうっ!」

 

 むしゃくしゃして、勢いのままに起き上がると、清霜は思い切り扉にタックルを仕掛けた。

 凄まじい音と衝突の痛みがしたが――それだけだった。

 

「姉様なら、なんでこんなことするの!? 夕雲姉様たちなら、こんなことしないのに!」

 

 出せ、と叫ぶ。

 地団駄を踏む。

 駄々っ子のように部屋の中で暴れ回る。

 

 すべてが徒労に終わった。

 状況は、何も変わらない。

 

「もしかして、私ずっとここに閉じ込められたままなんじゃ……」

 

 生きる分には困らないだろう。

 しかし、それで本当に生きていると言えるのかは分からない。

 

「まったく、騒がしいお嬢さんだな」

 

 そのとき、扉の外から男の声がした。

 

「誰?」

「上田という。ここで艦娘の艤装の整備員を担当してる。……ちょっと待ってろ、今ここを開けるから」

「上田? もしかして、司令官の言ってた上田さん?」

「多分その上田さんだよ」

 

 横須賀鎮守府に努めている上田という整備員は、艦娘人造計画によって娘を奪われた。

 康奈からその話を聞いていた清霜は、扉の外にいる男への警戒心を解いた。

 

「ねえ上田さん、ここから出して! 私、ショートランドに帰りたいの!」

「分かってるよ。俺はそのためにここまで来たんだ。扉の前のアホみたいなバリケードどかしてるから、少し静かにしてくれないか」

 

 扉の外では、確かに何かを引きずるような音がしていた。

 どうやら扉が開かないよう、いろいろなものを前に置いているらしい。

 

「でも、なんで上田さんが? 怒られない?」

「出せと言ったりこっちの心配したり忙しいなお前さんも。子どもは余計な心配しなくていい。それと、俺がここに来たのはある筋から連絡を受けたからだよ……っと」

 

 どうやらすべての荷物をどかし終えたらしい。

 ガチャガチャと鍵を開ける音がしたかと思うと、あのビクともしなかった扉が軽やかな音と共に開いた。

 

 扉の外にいた上田は、よく見かける整備員の格好をしていた。

 どこかで顔を合わせたような気もしたが、清霜はそれ以上考えるのをやめた。今は脱出することが最優先だ。

 

「その上からでいいからこいつを着てくれ。艦娘の格好だとさすがに目立つ」

 

 上田に渡された整備員の制服を身に着ける。

 少し臭う気もしたが、そこは我慢することにした。

 

「こっちだ、手筈は整えてある」

 

 上田に先導されながら、清霜は周囲の様子を窺った。

 どうやらここは横須賀第二鎮守府の中らしい。遠くに朝霜と一緒に通された長尾智美の執務室がある建物が見える。

 

 執務室のあった棟と同様、こちらも人の気配がほとんどなかった。

 時折スタッフらしい人とすれ違うこともあったが、上田は堂々としたもので、特に怪しまれる素振りもなく出口らしい方へと向かっていく。

 

「あの、今ってここあんまり人いないんですか?」

「元々そこまで多いわけじゃないが、最近は外に出てる人数の方が多いな。近々大規模な作戦が行われるって噂だから、横須賀鎮守府共々調練を厳しくしてるらしい」

「大規模作戦……」

「そこに向かう横須賀艦隊の船に密航して戻るというのが脱出ルートだ」

 

 出口が見えてきたところで、上田は振り返り、清霜の顔をまじまじと見た。

 

「……なあ。お前さんは元々人間だったんだよな」

「うん。そう聞いてる」

「それで、あの長尾提督の妹だっていうじゃないか。……なのになんで、ここから出たかったんだ?」

 

 艦娘人造計画で娘を失った上田は、清霜や智美の境遇について思うところがあるようだった。

 清霜に向けられた眼差しには、若干の困惑が見え隠れしている。

 

「……人間だった頃のことを、まだハッキリと思い出してないから、というのもあるかもしれません。でも、一番の理由は――私には私のやりたいことがあるから、です」

「その腕でもか。ハッキリ言うが、正直俺個人としては、ここで長尾提督と一緒に生活してた方が幸せなんじゃないかって思うところもある。今回手を貸して良かったのかどうか、今も悩んでるくらいだ」

「でも、手を貸してくれましたよね」

 

 失われた右腕を見て、清霜は頭を振った。

 

「例え私のことを気遣ってくれてたとしても、姉様だったとしても、私の記憶が完全に戻ってたとしても――私は出ていきます。やりたいことがある。あっちは私の話を聞いてくれない。だったら、行動に移すしかないと思うんです」

 

 それは、子どもの理屈だった。

 どのように歩んでいけば良いか分からない子を導く――そういう大人の心情を知らない子どもの理屈だ。

 

 しかし、ときには道理で説き伏せるよりも、そういう子どもの行動を見守った方が良いこともある。

 良い結果になるかどうかは分からない。しかし、それが意味のある経験になるかもしれない。

 

「俺の娘も、言い出したら聞かない子でな。無理に説き伏せようとすると、しばらく口きいてもらえなくなったもんだ」

「……」

「――分かった。お前さんは行くといい。だが、お前さんのことを想ってる奴がいるってことは、忘れないようにな」

 

 そう言って上田は身を脇にどかした。

 いつの間にか、出口には人影が一つ現れていた。ここで案内人は交代ということらしい。

 

「上田さん、ありがとう」

「気にするなよ。他人事のように思えなかったんでな」

「あの、できれば『伝言』をお願いしても良いですか?」

「伝言?」

 

 清霜は、小声でその内容を上田に伝えた。

 上田は小さく頷くと「ま、バレないよう上手く伝えるとするさ」と言い残し、元来た道を戻っていった。

 

「それじゃ、そろそろ行こっか」

 

 出口に現れた人影――横須賀鎮守府の初期艦・吹雪が口を開いた。

 

「吹雪さん! ってことは、上田さんに依頼を出したのって……」

「『謹慎中のため直接出向けなくて申し訳ない』って言ってたよ」

 

 三浦剛臣。

 トラック泊地防衛戦での独断行動によって停職中の提督が動いているのであれば、かなり心強かった。

 横須賀鎮守府の方は、清霜の脱出を支援してくれると見て良いだろう。

 

「急ごう。今度の作戦は――清霜ちゃんにとって、他人事じゃないから」

 

 

 

「威力偵察に出した部隊は半壊状態か……。敵もそれなりにやるわね」

 

 小柄な体躯の白い深海棲艦が、薄暗い部屋で面白そうに言った。

 後に人類から『防空棲姫』と畏怖の念を込めて呼ばれる存在である。

 

 ここはサモア島の都市・アピアにある政府庁舎の跡だった。

 サモア独立国やアメリカ領サモアに暮らしていた住民は、深海棲艦の跳梁が激しくなってきたことから、近隣諸国へと避難していた。

 現在サモアは無人の地と化しており、深海棲艦たちがアジトとするのに何の不都合もない。

 

『楽しそうね』

 

 防空棲姫が見ていたモニターの片隅に、テキストメッセージが表示された。

 メッセージの発信者はIZUNAと表記されている。

 

「それはもう。歯応えのない相手では、戦術の振るいようがないもの。私も彼女のように熱い戦いをしてみたいものだわ」

 

 喜悦に表情を歪ませながら、防空棲姫は西方に布陣する敵へと思いを馳せた。

 

「知性があるというのは素晴らしいものね。試したいことが山のように出てくる。戦だけではないわ。私は政治というものもしてみたい。人類はどう思うかしらね。野蛮な深海棲艦が、いつの間にか自分たちと同等の政治的集団――国家を作り上げたとしたら」

『気の弱い人間なら、驚いて死んでしまうかもしれないわね』

「ふふ。もし私が国をつくるなら、人類も参加させてあげても良いかもね。脆弱で取るに足らない劣等種だけど、その知については見所があるもの。それに、見ていて飽きないわ」

 

 そのとき、モニターに動きがあった。

 北方――日本本土の方で動きがあったようである。

 

「今回はのんびりね。どうもミスター・ウキタは……なんというのかしら。慎重居士――で合ってたかしら?」

『ええ。その分ミスは少ない。彼が作戦本部代表になったことで、本土は少し攻め難くなったとも言えるわね』

「おかげで遠方は攻めやすくなったけどね」

 

 防空棲姫が端末を操作すると、日本が関与している各拠点の情報や作戦本部の構成員に関する情報が表示される。

 どの拠点にどの程度の戦力があるのか、指揮官はどのような傾向で動くかといった情報も掲載されていた。

 

「貴方には感謝しているわよ、IZUNA。私にいろいろなことを教えてくれた。情報というものの重要性も、貴方がいなければきっと軽視していたでしょうね」

『感謝しているのはこちらも同じよ、姫様。貴方の存在は非常に興味深い。艦娘を捕食した結果知性を持った異端の深海棲艦。貴方の在り様は他の深海棲艦とは大分違う。その行く末、できれば最後まで見守りたいものね』

「ええ、これからも見守ってちょうだい。きっと、貴方を退屈させないわ」

 

 防空棲姫は、ともすれば妖艶とも取れるような笑みをこぼす。

 その周囲には、多数の人型深海棲艦が控えていた。

 まるで、女王を守護する騎士のように。

 

『姫、次はいかがされますか』

『そうねえ……。もう少し本気で、攻め立ててみましょうか』

 

 防空棲姫の視線の先には、モニターに映し出されたソロモン諸島があった。

 

 

 

 深海棲艦の攻勢が次第に激しさを増す中、トラック泊地を経由して磯風が帰投した。

 

「かなり忙しない様子だな」

「復帰早々で悪いけど、あんまりのんびりとはできないかもね」

「なに、望むところだ」

 

 出迎えに来た時津風と雲龍を前にして、磯風は鷹揚に頷いてみせた。

 戦うことを本懐とする在り様は変わっていないようだったが、どこか以前よりも落ち着いたような印象を与える。

 

「向こうでは教導艦やってたんだって?」

「ああ。実は引き抜きの話もあった」

「すごいわね。横須賀第二と言えば、今や知らぬ者もいない精鋭集団なのに」

「精鋭ではあるし、気風も合っているように感じられたが……それでも私の居場所はここだからな。断ったよ」

 

 そう語る磯風に、時津風と雲龍は顔を見合わせた。

 そして、一斉に左右から磯風を挟み込む。

 

「な、なんだ!? やめろ、息苦しい!」

「いやいや、磯風がこっちのこと忘れてないか実はちょっと不安だったからさ」

「ちゃんと帰ってきた。磯風、良い子良い子してあげる」

「いらん。離れろ、暑苦しい!」

 

 慌てて時津風と雲龍のサンドイッチから脱出し、磯風は乱れた髪を整えた。

 

「まったく、ここはなんというか相変わらずだな。そんなに呑気なことを言っていられる状況でもないだろう」

 

 磯風も、ここに来るまでに大まかな状況は聞いていた。

 敵の侵攻に備えて、現在ショートランド泊地の艦娘はかなりの数が出払っている。

 

 東部からの侵攻に対して、ショートランド泊地は西に拠り過ぎていた。

 そのため前線基地を設けて、そこに防衛線を敷いているのだ。

 早霜や春雨たちもそちらに出向いている。残っているのは大淀等一部の艦娘のみである。

 

「司令も倒れたと聞くが、容体はどうなんだ?」

「――」

 

 磯風の問いかけに、時津風と雲龍は気まずそうな表情を浮かべた。

 単純な良し悪しとは別の何かを漂わせるような様子に、磯風は眉をひそめる。

 

「……司令は、どうした? 容体悪化というのは偽りなのか? まさかとは思うが――」

「安心しろ。死んではいない」

 

 磯風の言葉を止めたのは、包帯だらけの男――北条新十郎だった。

 側には大淀も控えている。

 

「司令代理。……磯風、ただいま帰投した」

「ああ、おかえり。悪いな、出迎えが康奈ではなくて」

「なにがあった?」

 

 大淀も、時津風と雲龍も気まずそうにしたまま口を開かない。

 新十郎は重苦しいため息をつくと、磯風を先導するように歩き出した。

 

「結論から言う。康奈は今この泊地にいない」

「前線基地に出向いているのか?」

「いや。……あいつがどこに行ったかは、誰にも分からない」

「――は?」

 

 新十郎の言葉に、磯風は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「分からないとはどういうことだ。この一大事に、司令がどこに行ったか誰も分からないのか?」

「ああ。それと一つ訂正しておくと、現在この泊地の艦娘と契約状態にあるのは自分だ。康奈じゃない」

「……おい。それは、つまり――」

 

 霊力をもって艦娘と契約を結び、深海棲艦に対抗する。

 それが『提督』というものだった。

 艦娘との契約関係は、提督という存在の根幹にかかわる部分である。

 

 だが、今康奈はこの泊地との契約関係を持っていない。

 つまり、それは――。

 

「あいつは提督権限を自分に委譲して――そのまま姿を消したんだ」

 

 

 

 現在、サモア諸島の付近には地図にない小島が一つあった。

 正確には、島ではない。島のような形をした、巨大な船である。

 

 これは、かつて艦娘人造計画を進める際に建造された、移動する研究施設とも言うべき船だった。

 

 この船は元々AL海域の研究施設と連携を取るため、同海域にあった。

 その後、同海域の研究施設が深海棲艦に襲撃された際に失われた――と人類は認識している。

 しかし、実際は健在だった。人類の網にかからぬよう巧みに移動を繰り返し、流れ流れてサモア諸島にまで辿り着いたのである。

 

 以前と違うのは、この船の主が人類ではなく深海棲艦という点だった。

 かつて研究員や被験者たちが使っていたエリアは、ことごとく深海棲艦たちの住居として利用されている。

 

 その深奥に、巨大なコンピューターが存在していた。

 深海棲艦たちもここには近づかない。近づくなと防空棲姫に厳命されているからだ。

 

 そのコンピューターが、なにかを検知した。

 

『姫様』

 

 政務省庁に君臨する防空棲姫の下に、IZUNAからのメッセージが入った。

 

「あら、IZUNA。どうかしたの?」

『こちらの島で、深海棲艦が一体死んだわ』

「それは事故? それとも――病気というやつかしら。だとしたら興味深いわ。遺体を見せて欲しいところね」

『残念だけど、どちらでもないわ。これは、殺されている』

 

 IZUNAは研究施設内部で撮られた写真を防空棲姫の端末に送った。

 そこには、軽巡クラスの深海棲艦の遺体が写っている。

 次いで、もう一枚拡大された画像が送られて来た。

 

 軽巡クラスの深海棲艦は、首の辺りを何かで切り裂かれて絶命している。

 切り裂かれているのは後ろの方だった。背後からの奇襲で始末されたのだろう。

 

「深海棲艦同士の喧嘩……という感じでもなさそうね。他に外傷がない。一撃で殺すつもりでやっている」

『私も同意見よ』

「艦娘がそちらに侵入しているという可能性は?」

『ゼロとは言えないけど、私は別の可能性を考えているわ。艦娘が刃物片手に単独で侵入してくる理由は思い当たらないけど――そういうことをしそうな人間なら、一人心当たりがあるから』

 

 IZUNAのメッセージを見て、防空棲姫もその心当たりに行き着いた。

 

「そういえば、例の彼が護身用にナイフをあげたんだっけ?」

『ええ。おそらく、私に会いに来たのでしょう。そういうわけだから、もし見かけたら殺さず捕まえておいて欲しいのよ』

「殺したら駄目?」

『なるべくね。できれば彼女の身体、欲しいから』

「了解。まあ、善処するわ」

 

 その答えで十分だったのか、IZUNAは通信を打ち切った。

 防空棲姫は、ショートランド泊地の情報リストを開き、提督と記載された項目を開いた。

 

「……私も一度話がしてみたいわね。さて、どこに隠れているのかしら――ふふ、なんて呼べば良いのかしらね?」

 

 そこに映し出されたのは康奈の顔。

 NAMEの欄は、UNKNOWNとされていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一陣「彼女たちの為したいこと」

 横井飯綱に友人はいなかった。

 

 施設に入る前も入った後も、周囲の人々が見ていたのは彼女が持つ才だけだった。

 世俗の人間はその才を恐れ、施設の人々はそれを尊重した。

 接し方は異なるが、どちらも彼女の才だけを見ていたという点では共通している。

 彼女の人間性に気を払う者は、誰一人としていなかった。

 

 彼女が小学校を卒業する頃、施設の方からある提案がなされた。

 

「最近問題になっている深海棲艦を知っているかい?」

「現在、奴らへの対策を講じるためのプロジェクトの話が持ち上がっている」

「国家主導で進められるプロジェクトだが、うちの方からも人員を派遣することになった」

「相談したんだが、我々としては君を推したい」

「――どうかね?」

 

 飯綱は何の気負いもなく「行きましょう」と答えた。

 知らないことを知る。それ以外に望みはなかった。

 新規事業の立ち上げに携わるのであれば、いろいろと発見も多いことだろう。

 そんな、軽い気持ちだった。

 

 予想と違っていたのは、とある施設のリーダーに推されたことだった。

 その施設で、飯綱は再び異端になった。他のスタッフは、極めて優秀ではあったものの――施設のメンバーほどの異才の持ち主ではなかった。

 

 所長と部下という関係だったので、才の違いは以前ほど問題にはならなかった。

 スタッフは、若きリーダーに敬意を払っていたからだ。

 

 ただ、飯綱は苦悩した。

 自分ならできるということをスタッフに頼んでも、思うように進まないことが多々あった。

 スタッフ同士のいざこざも発生した。

 ごく一部ではあるが、飯綱に従おうとしない厄介なスタッフもいた。

 

「無理言わないでください。我々だって一生懸命やってますが、できないものはできないですよ」

「所長、あの人どうにかなりませんか。仕事にならないでしょ、あんなんじゃ」

「私には私のやり方があるので。気に喰わないなら外してもらっても構いません」

 

 円滑にプロジェクトを進めるため、飯綱は『人間』というものに初めて真剣に向き合う必要に迫られた。

 

 ……これはノイズだ。

 

 知的欲求を求める過程で生じた雑音。

 人間模様をそのように定義した飯綱は、しかしそれを放置しておける立場でもなくなっていたため、一人頭を抱えることが増えた。

 

 このとき、もし彼女に頼れる存在や親しい友がいれば、相談に乗ってやることもできただろう。

 しかし、彼女は以前と変わらず――どこまでも孤独なままだった。

 

「――どうかしたの?」

 

 飯綱がその少女に出会ったのは、ただの偶然だった。

 

 その少女は、研究施設に集められた被験者の一人だった。

 飯綱の研究施設は、人間を対深海棲艦用の兵器――艦娘に作り替えることを大目標としている。

 そのため、施設には適性があると見込まれた全国の少女たちが集められていた。

 

 その少女の名は、上杉静という。

 施設の出資者である上杉重蔵の娘でありながら、被験者として差し出された子だった。

 

「……なに?」

「お姉さん、ずっと壁に向かってブツブツ何か言ってるみたいだったから。どうかしたのかと思って」

 

 二人が出会ったのは、研究員と被験者双方が出入りする区画の一部だった。

 被験者は自分たちを道具のように扱う研究員を忌み嫌っている。

 そのため、両者の接触が最小限で済ませられるよう区画が分けられていた。

 ここは、数少ない例外の一つだった。

 

「もしかして、試験で何かあったのかなって。……大丈夫?」

 

 このとき、静は飯綱のことを被験者と勘違いしていた。

 研究員は素性が割れないよう、被験者の前に出るときは仰々しいマスクをつけることになっていた。

 しかし、飯綱はそういうことに頓着しておらず、このときも素顔を晒していた。

 

「なんでもないわ。少し困ったことがあっただけ」

「そうなんだ。良かったら聞いてあげようか?」

「なぜ?」

 

 上杉静に飯綱の悩みを解消できる能力はない。

 そういう認識から出た疑問符だったが、静はその点について気にしていないようだった。

 

 問われた静は、ほんのわずかな寂しさを滲ませながら、

 

「――ここでは、頼れる人が少ないから。だから、初めて会った人でも、困ってたら力になってあげたいって思ったんだ」

 

 父親に見捨てられ、人体実験が行われるような恐ろしい場所に送られた少女は、そう言って笑みを作ってみせた。

 

「私はね。姉様が二人いるからずっと良い方だと思う。だからその分、他の誰かに頼られるようになりたい。少しでも支えになりたいんだ。……だから、もし良かったら!」

 

 静は自分の胸を力強く叩いた。

 

 結局のところ、上杉静と交わした言葉は飯綱の悩みを解消するのに全く役立たなかったが――その間だけ、飯綱は孤独を忘れることができた。

 その後も何度か二人が言葉を交わす機会はあったが、飯綱にとって上杉静は、最後までそういう存在だった。

 

 

 

 康奈は慎重だった。

 

 近場の島まで小型艇で移動し、そこからは生身でこの敵拠点に乗り込んだ。

 見つかれば一巻の終わりだったが、思いの外上手くいったと言える。

 

 この場所について、康奈は既に知っていた。

 知っていたが、その情報は少し前のものだ。

 現在どういう風になっているか、島の外縁部から少しずつ中心に迫っていく形で調査を進めた。

 

 ……あの頃と変わってない。

 

 この地を一言で表すなら「巨大なバックアップ装置」である。

 

 艦娘人造計画を含め、国は――大本営は表沙汰にできないような研究を複数行っていた。

 研究は基本的に人の手が入り難い離島で行われたが、深海棲艦の襲撃等で退去せざるを得ない状況に陥ることも考えられた。

 そこで、万一の事態に備えて、各研究施設を巡回しながらデータのバックアップを行うものを作り上げた。それがこの大型船――通称『研究島』と呼ばれるものである。

 

 おおよその調査を終えると、康奈はすぐさまある場所に向かった。

 島の中枢――ではなく、どちらかというと外れの方にある小さな建物である。

 

 この研究島は、データ以外にも様々なモノを保存していた。

 

 例えば――試験薬を投与されたまま凍結された艦娘人造計画の被験者。

 

「……いた」

 

 建物は地上部こそこじんまりとしているが、地下が広くなっている。

 地下には大量のコールドスリープ装置があった。中には、艦娘人造計画の被験者たちが収められている。

 

「試験薬を投与したけど安定化が難しく、鎮静剤を打って眠らせた者。施設廃棄に伴い研究のことを外部に漏らさないよう半ば口封じで凍結された者――理由はいろいろだけど」

 

 周囲に深海棲艦の姿がないことを確認してから、康奈は装置の管理端末を起動させた。

 電源は今も通っているらしい。昔のままなら他の設備との連携はされていないから、気づかれる恐れもないはずだ。

 

「クリア。クリア、クリア――クリア。アラートなし。すべて閾値以内に収まっている……皆、生きている!」

 

 収納されていた被験者たちの状態を確認し終えて、康奈は安堵の息を吐いた。

 

 思わず腰が抜けそうになったが、どうにか堪えて重要なログを一通り確認する。

 どうも、深海棲艦はこの辺りのシステムを放置していたらしい。

 さほど興味がわかなかったのか、使い方が分からなかったのか、システム自体起動したのは久々のようだった。

 

 念のため外部との通信が発生していないかキャプチャを取ったが、それもない。

 この棟に何者かが潜んでいないのであれば、システムの起動は気づかれていないと見てよさそうだった。

 

「なら、早く済ませないと」

 

 康奈はすばやくコンソール画面を動かして、コールド状態の解除に踏み切った。

 さすがに解凍した途端暴れ出すような被験者はそのままにするしかないが、施設側の都合だけで冷凍された者はすべて解凍する。

 

 康奈が危険を冒して研究島に潜入した理由の一つが、この被験者たちの救出だった。

 

「しかし、こんな装置があるなんて知ったら世間はビックリするでしょうね……。これは確か高階の研究だったかしら」

 

 物体の保存について研究していた女子のことを思い出して、康奈は頭を振った。

 今は、往時を懐かしむときではない。

 

「……ここは……」

 

 徐々に、解凍された被験者たちが目を覚まし始めた。

 康奈は管理端末から彼女たちの情報を拾うと、一人一人に声をかけていく。

 

 そのうちの一人、銀髪のショートカット姿の子を前にしたとき、康奈は僅かに逡巡した。

 

「……貴方は、上田羽美さんね?」

「え――ええと、はい。おそらく。今は、改白露型一番艦の……海風ですが」

 

 海風は、康奈を警戒している様子だった。

 否、彼女に限った話ではない。

 目を覚ました被験者たち――艦娘となった彼女たちは、皆、素性のしれない康奈に訝しげな眼差しを向けている。

 

「皆、一通り目を覚ましたみたいね」

 

 最後のメンバーに声をかけ終えてから、康奈は目覚めた艦娘たちを前にして、静かに告げた。

 

「ここは敵地。貴方たちは今、深海棲艦の拠点の中にいる」

 

 康奈の宣告に、艦娘たちは皆動揺した。

 強制的に集められ、被験者として散々な扱いを受け、目覚めてみればこの有様。動揺するのも無理はなかった。

 

「ど、どういうことですか」

「なんでそんなことになってるの?」

「っていうか、アンタは誰だ?」

 

 不安が広がり、ざわざわと声が増していく。

 そんな艦娘たちに対して、康奈は「静粛に」と短く告げた。

 大音声というわけでもないが、その言葉には妙な迫力があった。

 ざわめきは、意外なほどあっさりと静まった。

 

「私は深海棲艦と戦う者です。今は、そうとしか言いようがありません」

 

 その答えに納得したのか、艦娘たちから疑問の声は上がらなかった。

 康奈は頷き、言葉を続ける。

 

「これから貴方たちには、ここを脱出してもらいます。今から手順を教えるので、その通りにしてください。その後どうするかは――貴方たちの自由です」

 

 それは、IZUNAが深海棲艦の死体を発見する少し前のことだった。

 

 

 

 清霜が通されたのは、横須賀鎮守府から少し離れたところにある吹雪の私邸だった。

 

「吹雪さん、自分のお家持ってるんですか」

「持ち家じゃないよ。借りてるだけ。それに越してきてそんなに経ってないんだ」

 

 ほのかに生活の香りが漂っているが、どことなく小綺麗すぎるところもあった。

 まだ馴染み切っているというほどではない。

 

「今、私外に出向中なんだ。鎮守府からでも通える距離なんだけど、鎮守府の業務に携わることがほとんどないから、心機一転する意味で外に出てみろって司令官が」

「出向?」

「うん。……以前、トラック泊地の毛利提督に『もっと多くの場所に行って多くのことを学べ』って言われたんだ。艦娘としてやるべきことをやるだけじゃなくて、他の道も探ってみろって。それからいろいろ考えて、司令官と相談して決めたんだよ」

 

 もっとも、いざ上の方に話を通そうとしたとき、トラック泊地防衛戦で横須賀の三浦提督が処分を受けたので、その話は立ち消えになりかけた。

 

「けど、少し前にこの話を長尾提督が拾ってくれたんだ」

「姉……長尾提督が?」

「うん。司令官からの引継ぎのときに話は聞いていたらしいんだけど、私を外せるような状況じゃなかったから先送りにしてたんだって」

 

 智美は横須賀鎮守府の指揮権を預かる形になったが、基本的に内部への介入は一切行わなかったらしい。

 三浦に気を遣ったというわけではなく、単純に横須賀のことは横須賀に任せるのが一番だと判断しての措置だったが、おかげで横須賀鎮守府は大きな混乱を起こすことなく、今も以前と同じように動き続けていた。

 

 ただ、そういう方針である以上、三浦に次いで横須賀鎮守府の内部を把握している吹雪の存在は外せなかった。

 最近になって、吹雪抜きでも動けるようになったことから、出向の件が実現したのである。

 

「でも、良かったんですか? それだと長尾提督を出し抜くっていうのは……」

「確かに少し気が引けたけど、やっぱり監禁とかそういうのは良くないと思うから。それに、長尾提督からも『お前たちはお前たちの裁量で動け』って言われてるし」

 

 しれっとそんなことを口にする辺りに、最強の艦隊の代表格を務めてきた風格が滲み出ていた。

 横須賀鎮守府も今は難しい立場になっているが、したたかに逞しく動いている。

 

「まあ、それはともかく。ここには横須賀鎮守府の皆も滅多に来ないから、自分の家だと思って過ごしてくれて良いよ」

 

 そう言って吹雪は清霜を席に着かせると、冷蔵庫からお茶を出して入れてくれた。

 

「あの――大規模作戦のこと、教えてくれませんか」

 

 お茶をいただいて一息ついたところで、清霜はずっと頭の中で気になっていたことを尋ねた。

 近々行われるという大規模な作戦。それに参加するための艦隊に紛れて帰ることになると上田は言っていた。

 眼前の吹雪自身、今回の件を「清霜にとって他人事ではない」と言ったのだ。

 

「もしかして、ショートランドが危ないとか……」

「うん。隠してても仕方ないから言うけど、もう小競り合いは始まってるみたい」

 

 今はそこまで大事になっていないが、どうも敵の軍勢がショートランド東方にあるサモア島に集まりつつあるらしい。

 大本営はそれを踏まえて深海対策庁としてサモア島を確保するよう命令を出したそうだが、それについて作戦本部が疑義を呈している状態なのだという。

 

「作戦本部の浮田・長尾両提督はAL/MI海域の失敗を懸念してるらしいの。確保しても維持が難しい場所に大軍を派遣する。その隙を突かれて、以前相当な痛手を受けたから。今、その辺りの調整を進めているみたいなんだけど」

「……それに時間がかかりそうなんですか?」

「そう聞いてる。もちろん、その間手をこまねいているわけにもいかないから、横須賀・横須賀第二からある程度先発隊を送るって話だけど」

「その先発隊の艦隊に、乗れますか」

 

 身を乗り出す清霜を宥めながら、吹雪は「ちょっとリスクはあるよ」と説明した。

 

「先発隊は横須賀艦隊の『三笠』じゃなくて、横須賀第二の母艦で行くことになる。両鎮守府の合同部隊になるし、指揮を執るのは横須賀第二の艦娘だって聞いてる。本隊の『三笠』ならうちの方で匿えるけど……」

 

 もし潜り込んだところを見つかれば、再び横須賀第二に強制送還させられる恐れがあった。

 

「本隊の出発もそこまで長引くとは思わないし、そっちを待ってからの方が良いんじゃないかな」

 

 以前の清霜であれば、吹雪の提案を断って早々に帰る道を選んでいただろう。

 清霜は、己の右腕を見た。そこには今、何もない。

 今急いで戻ったとしても、何の役に立てるのか、分からなかった。

 

 ……私は。

 

 そのとき、吹雪の家のチャイムが鳴った。

 ワンルームの小さな家だ。玄関もすぐそこにある。

 

「なんだろう。宅配便かな。ちょっと待っててね」

 

 用心のためか、吹雪は声を出さず扉まで近づくと、覗き窓から外の様子を窺った。

 清霜も用心のため部屋の隅に移動する。

 

「えっと、清霜ちゃん」

 

 外を見て、吹雪は戸惑った様子を見せた。

 吹雪に手招きされて、清霜も扉に近づき、そこから外の様子を確認する。

 

 そこにいたのは、配達員でもなければ近所の住民でもなかった。

 

「……ちっ。いねーのか? いるはずなんだけどな」

 

 横須賀第二鎮守府の朝霜が、たった一人、堂々と扉の前で立っていた。

 

 

 

 部屋の中は緊張感で溢れかえっている。

 普段は吹雪が使っている小さなテーブルで、清霜と朝霜が向かい合って座っている。

 そんな二人の様子を、サイドから吹雪が窺っていた。

 

「そんなに警戒しなくても、他の奴は連れて来ちゃいねえよ」

「……なぜ、ここが分かったの? 尾行はされてなかったけど」

「いやいや、実はこっそりつけてたんだよ」

「ううん。尾行はなかった。だから、あなたがここに来れた理由はハッキリさせておきたい」

 

 吹雪の言葉の端々に、静かな圧があった。

 朝霜もさすがに「おっかねえな」と冷や汗を垂らす。

 

「元々あたいは神通さんからコイツの護衛を頼まれてた。そのために神通さんは、清霜の位置がいつでも確認できるような仕掛けを用意してたんだ。具体的な方法は言えないけど、その方法が使えるのは今現在あたしだけのはずだぜ」

「方法は、言えませんか」

「あたしが一人でここに来た。それで『他の奴は知らない』って証明にはならんかね」

「確かに、今のところ他の艦娘の気配はありませんね」

 

 朝霜が来てから、吹雪は神経を尖らせている。

 周囲に他の艦娘が隠れていないか警戒しているのだ。

 

「朝霜は、なんでここに来たの? 護衛の任務は――もう終わったんでしょ?」

「厳密には終わってないけどな。あたいに命令を出したのは神通さんだ。うちの司令は知らない。……いつが終わりなのかは、もうあたいが自分で決めるしかない」

 

 朝霜はほんの少しだけ痛ましげな表情を浮かべた。

 ショートランドで一緒にいる間、朝霜はよく横須賀第二の愚痴をこぼしていた。

 ただ、神通についての悪口はどことなく避けようとしていた節がある。

 

「なあ、清霜。お前は、本当にショートランドに戻るつもりなのか。戻るにしても、今すぐじゃないと駄目なのか」

 

 逆に朝霜から問われ、清霜は口をつぐんだ。

 戻りたいという思いはある。しかし、戻ったところで何ができるのかという迷いもあった。

 

「あそこは確かに悪い場所じゃない。戦えなくなったとしても、お前があそこに戻りたいって言うならあたいは止めない。けど、今は時期が悪い。もう聞いてるんだろ、次の作戦のこと」

「うん。聞いたよ、うちが今大変なことになってるのは」

「なら、終わってからでも良いんじゃないか。何も考えずただ突っ走るのは、良くないと思うぞ」

 

 朝霜は、清霜を連れ戻しに来た。

 ただ、横須賀第二の――智美の意図を汲んでの行動ではない。

 ショートランドで共に過ごした姉妹艦として、友人として清霜を想って止めに来たのだ。

 

「……ありがとう。心配かけちゃったかな」

「バッ、別に心配とかしてねーよ! ただお前が無茶してくたばったら、あっちにいる神通さんがキレるだろうが! あたいはそれが嫌なだけだ!」

 

 反射的に清霜の言葉を否定しにかかる朝霜を見て、吹雪が思わず笑みをこぼした。

 清霜もつられて笑ってしまう。

 朝霜は、居心地の悪さを咳払いで誤魔化した。

 

「フン。……それで、どうするつもりなんだ? ハッキリ言っておくが、納得いく答えがもらえなかったらあたいはお前を連れて帰るぞ。例え横須賀のが相手でもな」

「……まあ、そうだね。そこは私もちゃんと聞いておきたいかな」

 

 凄味を利かせる朝霜をやんわりといなしながら、吹雪も清霜をまっすぐに見据えた。

 

「清霜ちゃん。あなたがショートランドに戻りたいのは分かった。けど、いつ戻る? 戻って――どうする?」

 

 二人の視線を受けて、清霜は静かに瞼を閉じた。

 浮かんでくるのは、ショートランドで過ごした日々。

 それ以前の記憶を持たない清霜にとって、ショートランド泊地は故郷も同然だった。

 

「――ショートランドは、私にとって家なんだ。あそこにいる皆は、家族なんだよ」

 

 夕雲型の姉妹艦たち。

 同期の仲間たち。

 一緒に戦った多くの艦娘。

 それを支えてくれるスタッフ。

 そして――康奈。

 

「皆が辛い状況にあるなら、私もそれを分かち合いたい。私はこんな状態だし、向こうの戦況も正確には分かってないから、役に立てるかどうかは分からない。でも、何も知らず遠くの場所で呑気に過ごしてることなんかできない。……そういう答えじゃ、駄目?」

 

 先行きの見通しが立っているわけではない。

 無謀と言えば無謀な話だ。

 理に適った意見とは言い難い。

 

 それは清霜自身にも分かっていたが、今はそう言うしかなかった。

 

「……家族か」

 

 朝霜が、頭を掻きながら大きく息を吐く。

 

「あたいは――横須賀第二に着任する前、ある離島にいた」

 

 元々朝霜は、離島に暮らす老人と契約を結んでいた艦娘だった。

 老人の中にあった提督としての資質が、偶発的に目覚め、たまたま呼びだされた。そういう縁だった。

 

 その老人の家は広かった。

 かつては子どもたちや孫も一緒に暮らしていたが、深海棲艦を恐れて内地に避難したらしい。

 残っているのは、老人とその妻だけだった。

 

 二人は朝霜が艦娘だということを理解しつつ、どこか孫娘のようにも扱った。

 艦として第二の生を受け、深海棲艦を倒すことに集中していた朝霜は、二人のそういう接し方に戸惑った。

 

「けど、居心地は悪くなかった」

 

 あるとき、老夫婦の子どもたちが島に来ることになった。

 迎えに行ってやって欲しい、と頼まれた。

 ここは良いのかと朝霜は尋ねたが、老夫婦は「構わない」と答えた。

 

 なら大丈夫だろうと迎えに行って――その間に、離島は深海棲艦の手で滅ぼされた。

 

 戻ったとき、既に老夫婦の姿はどこにもなかったが、契約をしていた朝霜は、老人との繋がりが静かに消えていくのを確かに感じていた。

 

「離島を襲った深海棲艦は結構な数だった。おそらくあたい一人で残ってても結果は同じだったはずだ。……そう自分に言い聞かせてたんだが、どうにもずっと納得できないものがあった」

「……朝霜は、島に残っていれば、と思ってるの?」

「だろうな。無駄死にしてたとは思うが、それでも一緒にいてやりたかった。……ああ、お前の言葉を借りるなら『分かち合いたかった』ってことなんだろう」

 

 そこまで話し終えると、朝霜は席を立った。

 

「……あーあ。なんつーか、迷いながら来るもんじゃなかったな。ああ、まったく性に合わないったらないぜ」

「朝霜――」

「心配すんな。もう止めないよ」

 

 朝霜は苦笑しながら手を差し伸べる。

 

「理屈だけで考えるなら止めるべきなんだろうが、そういう気分じゃなくなった。また同じ後悔するのも嫌だしな」

 

 一緒にいてやりたい相手がいる。その清霜の気持ちを否定することは、朝霜にはできなかった。

 そして、それ以上に――そういう相手を一人危険な場所に向かわせるのは耐え難い。

 

「付き合ってやるさ、最後まで。――護衛任務、続行だ」

 

 

 

 ソロモン諸島を取り巻く状況は悪化の一途を辿っている。

 敵は本格的な大攻勢こそ仕掛けてこないものの、新十郎たちが設けた防衛ラインを突破しようと絶えず攻撃を繰り返している。

 

 前線で戦う艦娘たちの疲労は確実に蓄積されつつあった。

 ソロモン政府は一時的に首都を西方に移すことを検討しており、住民の避難も少しずつ行われ始めている。

 

「春雨と雲龍が中破。しばらく戦線復帰は難しいそうだ」

 

 前線基地で、磯風が新十郎の被害状況を報告する。

 艦娘の被害は拡大しつつあり、艤装修理のための手が回らなくなりつつある。

 艤装だけではない。艦娘自身の疲労も無視できない状況になっていた。

 

「北部では長良隊も半壊状態だ。幸い引き際は見誤ってないから犠牲は出てないが――このままだとジリ貧だな」

「司令代理。いっそ攻めに回るのはどうだ?」

「やりたいのは山々なんだがな。とてもじゃないが数が足りない。防御を捨てるなら、周辺住民の避難が済んでからだ」

「やはり厳しいか」

 

 磯風も戦況は把握しているので、自分の意見はすぐに引っ込めた。

 兎にも角にも数が足りない。ブイン・ラバウルも応援を寄越してくれているが、敵軍の規模には遠く及ばなかった。

 

 こうして話している間にも、新たな損害報告が届く。

 赤城・加賀たちが率いる精鋭空母部隊にも損害が出始めていた。

 

 練度は申し分ないが、空母や戦艦は数が少ない。

 水雷戦隊はローテーションを組ませてなるべく休ませるようにしているが、空母・戦艦組はそういうわけにもいかなかった。

 そのせいか、部隊の動きが少しずつ鈍くなってきている。身体的な疲労だけでなく、精神的疲弊も無視できなかった。

 

「状況を変える一手を打ちたいところだが――」

「提督代理!」

 

 そこに、血相を変えて涼風が飛び込んできた。

 

「どうした涼風。被害が出たのか?」

「いや、違う。漂流者だ。艦娘の漂流者がいたんだよ!」

「なに?」

「どうも、敵拠点から脱出してきたみたいなんです」

 

 涼風の後を追ってきた五月雨が補足した。

 

「敵拠点から脱出……そいつらは捕まっていたのか。深海棲艦たちに」

「はい。なんでも――ある女性に助け出されて、こっちに向かうよう言われたって」

 

 新十郎と磯風は揃って息を呑んだ。

 深海棲艦の拠点に乗り込んで、囚われていた艦娘たちを助け出す女性。

 二人の脳裏には、康奈の顔が浮かんでいた。

 

「五月雨・涼風、すぐその艦娘たちを連れて来てくれ」

「もしかすると」

 

 新十郎は包帯だらけの顔で東方の空を見上げた。

 

「もしかすると――この状況を変えるキーになるかもしれないな」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十二陣「南端の戦地へ」

 どういうキッカケで検査することになったのか、記録には残されていない。

 ただ、あるとき横井飯綱は艦娘適性検査を受けて、極めて高い数値を叩きだした。

 

 この結果を受けて、飯綱の研究施設は相当の議論を重ねたらしい。

 否、研究施設だけではない。

 彼女の支援者である上杉家や関連企業からも様々な意見が出た。

 

 艦娘化は危険が伴う。安全に艦娘化するためのプロセスは確立されていない。

 実験の過程で命を落とす者もいるし、精神に異常をきたす者、記憶を失う者もいる。

 飯綱を被験者にするということは、彼女の極めて優秀な頭脳を失う恐れがあるということだった。

 

『慎重に判断すべきだ。艦娘適性が高い子は他にもいる』

『しかし、ここまで高いとなると――。これまでは控えていた高難易度の検証にも耐え得る可能性があるのですよ』

『研究の発展には最適なサンプルと言える。だが、これまで艦娘研究に深くかかわってきた彼女の頭脳も替えが利くものではない』

 

 そう言った周囲の懊悩を見聞きしながら、飯綱は静かに準備を進めていた。

 要は、実験に必要な飯綱の身体と研究を主導するための飯綱の頭脳を分けることができれば良いのだ。

 

「――私の思考を再現可能な人工知能を用意しました」

 

 自ら思考し成長していく人工知能。

 実用化されたものではないが、元々飯綱がいた施設の一人が開発した代物だった。

 そこに飯綱は自身の思考パターンや知識を叩き込んだ。

 もし自分がすべてを失っても、研究を主導するための頭脳を失わないようにするためだ。

 

「これがあれば、仮に私が命を落としたとしても研究が頓挫することはないでしょう」

 

 飯綱の発案に、彼女の周囲で働いていた研究員はさすがに戸惑ったが、上層部は狂喜した。

 選び難い二者択一が解消され、艦娘人造計画が発展する可能性が高まったのだ。

 

「所長は、どうかしてるんじゃないですか」

 

 人工知能の件を公表した直後、飯綱に面と向かってそう言ってきた研究員がいた。

 

「貴方の頭脳は残るかもしれませんが、それは貴方ではない。今ここにいる貴方は間違いなく無事では済みませんよ。計画の被験者がどれほど惨い目に遭っているかは、他でもない我々が一番よく分かっているはずだ。貴方は自らそこに飛び込もうとしている。貴方の立場なら、そこから逃れることだってできたはずなのに」

 

 そのとき飯綱の脳裏に浮かんでいたのは、上杉静のことだった。

 他の名もなき被験者たちのことまでは、正直考えていなかった。

 ただ、僅かな接点を持ったあの純粋そうな少女を死なせたくないと思った。

 

「なぜ、貴方はわざわざあんなものを用意してまで被験者になろうとしたんです? 被験者たちへの罪悪感からですか? だとしたら貴方はズルい人だ。我々にもっと重いものを背負わせようとしている」

 

 研究員の言葉は悲鳴に近いものだった。

 彼らとて好き好んでこんな研究に手を出しているわけではない。

 深海棲艦の脅威から国を――身近な人々を守るための手段を得るため、悲痛な思いで研究に携わっている。

 

 飯綱の行動は、彼らにとっては裏切りとも取れるものだった。

 自身は良心の呵責との戦いから逃げ、研究員たちにはこれまで以上の苦しみを与える。そういう行為に映ったのである。

 

「気にする必要はないわ。私は計画がもっともスマートに進展するであろう方法を選んだに過ぎない。私の行動に貴方たちが後悔することはない。苦しむことはない」

 

 飯綱はこのとき、初めて本当の意味で研究員たちと向き合ったとも言える。

 

「他の誰が認めずとも私は貴方たちの働きを評価します。だから頼みます。一刻も早くこの計画を成就させてください」

 

 飯綱が被験者となったことで、これまで実施が躊躇われていた検証が行われるようになり、その結果艦娘人造計画は大きく発展していくことになった。

 

 ただ、この後も当該研究施設の所長は『横井飯綱』のままとされ、これまで通りの体制が続いているように扱われた。

 非人道的行為を含む研究を人工知能が主導している。そんなSFじみた話を上層部はあまり表沙汰にしたくなかったのだ。

 

 こうして、自らを犠牲にして計画の発展に貢献した少女は『横井飯綱』ではなくなり、名もなき誰かになった。

 

 やがて少女の身体は研究に耐え切れなくなり限界を迎える。

 だが、その在り様を不憫に思った研究員たちの手で、彼女は命を落とす寸前のところで凍結された。

 

 その後程なく施設は諸事情により放棄され、少女は取り残される。

 

 そして少女は、ある縁により再び目覚め、奇跡的な回復を果たし――南端の泊地へと流れ着いた。

 

 

 

 雨が降り続けている。

 智美の眼前にある墓石には、大量の雨粒が容赦なく叩きつけられていた。

 

『上杉家之墓』

 

 そう刻まれた墓石の脇には、故人の名前が刻まれた墓誌がある。

 

 上杉景華。

 上杉光。

 上杉静。

 

 砂利を踏む音がした。振り返らなくとも、智美には誰が来たのか分かっていた。

 

「趣味の悪いことだ。こんな場所に呼びつけるとは」

「故人の話をするなら、ここが最適だろう。上杉景華にも聞かせてやらねばならんからな」

 

 智美は吐き捨てるように言いながら振り返った。

 そこに立っていたのは、厳めしい顔つきの大柄な壮年の男性だった。

 昔からこの男はいつもこんな表情を浮かべていった。笑ったところなど見たことがない。

 

「口の利き方を忘れたか」

「年上だからという理由だけで敬意を払う性質ではないのでな。貴様の社会的地位も私が畏れ敬うようなものではない」

「父親に対する口の利き方ではないと言っているのだ。景華よ」

「景華? 上杉景華はこの墓の下だ。私は長尾智美。横須賀第二鎮守府の提督にして、深海対策庁作戦本部の情報部長だ。貴様とは縁も所縁もない赤の他人だよ」

 

 己のスタンスを明確にした智美に対し、男性は深いため息をついた。

 心底見下すような、呆れ果てたような――そんな眼差しを智美に向ける。

 

「昔からお前はそうだった。己の納得のいかないことに行き当たると不貞腐れて周囲に強情を張る。そんな態度が何を生み出すというのだ、愚か者めが」

「強情だけで生き延びてきたものでな。こいつは今後も捨てるつもりはない」

 

 智美の態度には、ありありと敵意が現れている。

 国家のためという理由で自分たちを捨てた男が目の前にいる。

 できることなら、今すぐ飛び掛かって喉笛を食いちぎってやりたいくらいだった。

 

「無駄話はこれくらいで良いだろう。そちらも暇などないはずだ。こちらも暇ではない。用件を言わせてもらおう。――大本営を動かしたのは貴様だな?」

 

 少し前、大本営から作戦本部に対して人事異動命令が出た。

 対象は長尾智美。異動先は大本営だった。

 

「私に異動の内示があった。今のこの状況で私を外そうとする人間は殆ど思い当たらない。私はあくまで対深海棲艦でのし上がってきた身だ。通常の国家公務員試験など受かっていない。無理筋なんだよこの話は。そんなことが可能で、する理由のある人間は貴様以外思い浮かばない。……どうだ、答えろ上杉重蔵」

 

 智美の問いかけに、重蔵はあっさりと首肯した。

 

「そうだな。私が掛け合った」

「今すぐ撤回させろ。これから大規模な作戦が始まる。今このタイミングで私が外れるのは死活問題だ!」

 

 智美は横須賀第二鎮守府の提督というだけでなく、横須賀鎮守府の提督権限の代行者でもある。加えて、各拠点の連携を取る際の中心となる作戦本部の重要ポストにもついていた。

 作戦開始直前のタイミングで智美が抜けることになれば、現場は間違いなく混乱する。

 

 しかし、重蔵は頭を振った。

 

「死活問題と言うほどではない。確かに多少の混乱は生じるだろうが、貴様の後任はきちんと考えてある。大本営とも協議済みだ」

「後任だと? そんなものを務められる奴が――」

「貴様は自惚れ過ぎだ」

 

 重蔵の短い叱責に、智美は息を呑んだ。

 

「お前は優秀だ。それは認めてやろう。だからこそ私は大本営に推挙したのだ。国のためにだ。身内だからという贔屓によるものではない」

「だろうな。貴様が身内に贔屓するような性質なら、貴様の娘たちはあんな目に遭わなかったろうよ」

「だが、現状のお前の代わりなら各地の提督たちでも十分可能だ。現場指揮官・情報本部長としてのお前は、何においても代え難い人材というわけではない」

「言ってくれる。なぜ貴様にそんなことが――」

「ずっと見ていたからだ。お前のことも、他の提督たちのことも」

 

 重蔵の言葉に、智美は微かな悪寒を覚えた。

 そんな彼女の異変に気づいているのかいないのか、重蔵は淡々と続ける。

 

「私にとって最優先は国家の存続だ。そのため国防の要となる提督・艦娘という存在には常に目を光らせている。当然、貴様が最初に提督として活動し始めた当初から、その動向は把握していた。死んだと思っていた娘が思いがけない形で姿を見せたことに、最初は驚いたがな」

「……貴様は、随分と前からこっちの動向を掴んでいたようだな」

「そうだ。だから推挙した。お前の資質は十分知っていたから、このまま野放しにしておくのではなく、国家で管理できる場所に置いておいた方が良いだろうと判断した」

「推挙、か」

 

 薄々感じてはいた。

 素性も定かではない野良の提督だった智美は、あるとき大本営に立場を認められ、突如横須賀第二鎮守府の提督として任じられた。

 元々はぐれの艦娘等を集めてある程度の組織を作っていたから、その点を評価されたのだと思っていた。

 だが、実際は違っていた。裏で重蔵が動いていたからだったのだ。

 

「すると何か? 私が提督としての立場を保証されたのも、情報本部長まで上り詰めたのも、すべては貴様の根回しによるものだったと。こういうことか」

「お前の働きを私が認めたからだ。今回の大本営への推挙も同じこと」

 

 智美は歯を食いしばって重蔵を睨み据えた。

 

「それはフォローのつもりか? 要するに私は、すべて貴様の掌で滑稽に踊っていただけということだろうが! そんなことで、私は――私や咲良、光たちは……ッ!」

 

 今にも智美が重蔵に掴みかかろうとしたとき、智美のポケットからけたたましい音が鳴り響いた。

 緊急のアラームだ。苛立ちを抑えながら携帯を見ると、作戦本部からのメールが届いている。

 

『エス泊地より緊急連絡』

 

 そう題されたメールには、機密情報にアクセスするためのURLが掲載されている。

 いくつかの認証を経由して開いたファイルには、智美が驚愕する情報が載っていた。

 

『ソロモン諸島に侵攻している敵旗艦は人語を解する姫クラスと推定。会話ログによると、この深海棲艦は艦娘を捕食した結果進化を遂げた存在とのこと』

 

 どういう手段で得たのかは不明だが、その深海棲艦の映像データも届いていたらしい。

 それを目にした智美は、わなわなと口元を震わせた。

 

 ……知っている。私はこの顔を知っている……ッ!

 

 あの日、艦娘となった妹は、智美の眼前で深海棲艦に捕食された。

 映像データに映し出されている深海棲艦は、そのときの妹の姿に瓜二つだった。

 

 衝撃が収まりきらない中、更にもう一通のメールが届いた。

 差出人は不明。フリーのアドレスから送信されたものらしい。

 

 捨て置こうかと思った智美だったが、件名を見て指を止めた。

 

『ショートランドの清霜より』

 

 本文は、短くこう書かれていた。

 

『また来ます。今度はきちんとお話しできると嬉しいです』

 

 智美は、目を閉じた。

 

 これまで積み重ねてきたもの。

 目の前にいる復讐相手。

 守りたくて、失ってしまったもの。

 

 いろいろなものが胸中に去来する。

 

 目を開けたとき、智美は己がどうすべきか決断を下していた。

 

「上杉重蔵。私は貴様がどう動こうと今回の作戦には参加する。内示は蹴る。後でどんな処罰が下ろうともな」

 

 携帯を閉じた智美は、そう短く告げると、重蔵のことを見ないまま一目散に駆け出した。

 

 重蔵は呼び止めず、去っていく娘だった者の背を見送った。

 

 

 

「――お前は追わなくて良いのか?」

「すぐに追いつくよ」

 

 重蔵に問われたのは、近くの墓石の影に潜んでいた川内である。

 彼女は智美の護衛として、常に側に控えていた。

 

「才覚があるから推挙する、か」

「何か言いたいのかね」

「いや。その言葉に嘘はないんだろうと思うよ。例え血を分けた子どもでも、無能なら切り捨てる。多分貴方はそういう人なんだろうね」

 

 ただ、と川内は付け加えた。

 

「このタイミングで大本営に転属させようってのは、これ以上危険な目に遭わせたくないという親心を感じるけどね」

「……貴重な才覚が前線で失われるのは惜しい。それだけだ」

 

 重蔵はそう言って、上杉家之墓の隣にある墓石――川内が隠れていた墓を見た。

 そこの墓誌には、咲良、という名が刻まれている。

 

 言葉はない。

 ただ、重蔵は黙祷した。

 

 再び目を開いたとき、そこに川内の姿はなかった。

 雨に濡れた墓石が、二つ並んでいるだけだった。

 

 

 

「横須賀艦隊が急遽出撃したらしい。こちらに最大船速で向かっているそうだ」

 

 磯風の報告を受けて新十郎は頷いた。

 彼の目の前には、敵の拠点――研究島から脱出してきた艦娘たちがいた。

 

「改めて礼を言う。疲れはもう癒えたかな」

「ええ。その――ありがとうございます。助けていただいて」

 

 艦娘たちを代表して、銀髪の少女――海風が頭を下げた。

 

「礼を言うとしたら、君たちを助けたという例の女性だな。自分たちは大したことはしちゃいないさ」

 

 海風たちを助けた女性は十中八九康奈に違いない、と新十郎たちは判断していた。

 彼女は海風たちに脱出する算段を伝え、敵艦隊に関するいくらかのデータを与えると、再び敵基地の中に消えていったという。

 

 危険極まりない敵地の中に、今も康奈は一人残っているのだ。

 

「その女性は我々にとって大事な人なんだ。疲れているところをすまないが、改めて敵拠点について聞かせてくれないか。……なにがなんでも助けに行きたい」

 

 磯風が言うと、海風たちは快く頷いた。

 

「はい、それは是非。あの人は私たちにとっても恩人ですから」

 

 戦況は苦しいままだったが、ショートランド泊地のメンバーは康奈を連れ戻すという方針を既に決めていた。

 タイミングや方法は慎重に練っていく必要がある。しかし、放置しておこうという者は一人もいなかった。

 

 康奈の提督権限は新十郎に委譲されている。

 それでも、ショートランドの艦娘たちにとって、提督は未だ康奈のままだった。

 

「とは言え、これはかなり厳しい条件だな」

 

 海風たちからヒアリングを終えて、新十郎はしかめっ面を浮かべた。

 敵軍はかなり広域に展開している。これを避けて敵拠点に接近するのは容易ではない。

 海風たちが脱出してきたルートは、まさに針の穴を通るようなか細いものだった。

 

「海風たちは夜間かつ少人数だったから脱出できたと言えそうだな」

「それに敵も当然動くでしょうから、いつまでもこのルートが使えるとは限らないですよね」

 

 磯風と春雨は、険しい表情で海図を見た。

 

「潜水艦で潜入を試みる……というのは駄目かしら」

 

 早霜の提案に、新十郎は頭を振った。

 

「潜水艦は数が少ない上に敵の偵察や攪乱で手が一杯だ。今も大分無理してもらって、どうにか戦線を支えてもらっている状態でな」

「となると、なるべく高速移動できる少数精鋭の部隊を送り込むしかありませんね」

「ああ。できれば急造の部隊ではなく、ある程度連携の取れている部隊が望ましい」

 

 大淀に頷きながら、新十郎は瞼を閉じた。

 現在の戦況はかなり際どい均衡状態と言える。

 一歩判断を間違えれば、取り返しのつかないことになりかねなかった。

 

「司令官代理。我々では駄目だろうか」

 

 悩む新十郎に、磯風が名乗りを上げた。

 

「大淀隊はこの一年でいろいろな戦いに参加した。それなりの練度には達していると思う」

 

 大淀・春雨・早霜・時津風・雲龍も頷いた。

 大淀以外のメンバーは、皆康奈が提督になって初めて迎えた艦娘たちだ。

 この一年間、彼女たちは康奈と共に歩みを重ねてきた、特に親しいメンバーでもある。

 

「私は、司令官を助けたいです……!」

「私も同じ意見よ。私たちは、司令官がいたからここまで来れた」

 

 春雨と早霜が磯風に賛同の意を示す。

 一方、時津風・雲龍・大淀は慎重だった。

 

「あたしも司令は助けたいけど、少数で突入するのはリスクが高過ぎると思うな」

 

 時津風が口を開いた。

 先程から、皆の意見を聞くばかりでずっと黙っていたが、彼女は彼女なりに現状を分析していたのである。

 

「単独で潜入するってことは、なにか生き残る算段があるってことじゃないのかな。そういう意味で、司令を信じてみるのも良いと思うけど」

「どちらにしてもリスクはある。……私は、潜入部隊を送る方が高リスクだと思うわ」

 

 雲龍が時津風の意見を補足する。

 磯風たちも、時津風と雲龍の意見を否定はしなかった。

 

「大淀はどう思っている?」

 

 新十郎は、酷な質問と知りながら大淀に問いかけた。

 彼女は、康奈の側に一番長くいた艦娘だ。

 いつも康奈のことを気に欠けていた。実の姉妹のような関係だったと言っても良い。

 

 しかし、大淀はこういうことに私情を差し挟む艦娘ではなかった。

 

「――私は、少数精鋭部隊を送り込むということに賛成できません。提督を救う方法は他にもあるはずです。他の手段も検討すべきです」

 

 隊長格である大淀の言葉は、他のメンバー以上の重さを持つ。

 それに、感情を押し殺して慎重論を唱える大淀になにかを言える者はいなかった。

 

「……再度状況の確認だ」

 

 新十郎は集められた情報を整理し直す。

 大淀や磯風たちも、必死になってそれを手伝った。

 

 打開策が見つからず、全員の顔に諦観の念が表れ始めた頃、通信機が鳴った。

 

「はい。こちらショートランド提督代理、北条新十郎」

『おお、包帯のあんちゃんか。話には聞いてたが、マジで代理やってるんだな』

「……誰だ、お前さん?」

『なんだ、つれねぇな。面識あるだろうが。横須賀第二の朝霜だよ』

 

 新十郎はそれを聞いて、すぐさま通信機をスピーカーモードに切り替えた。

 

「朝霜。今お前さんはどの辺りにいる? 少し前に言ってた横須賀第二の先発隊か」

『ああ。今はトラック泊地まで来てるぜ。じきにそっちの戦線に合流できる』

 

 戦力増加は現状なによりもありがたい知らせだった。

 大々的に動くには本土から来るであろう本隊を待たねばならないが、戦線の維持は大分楽になる。

 

「朝霜、ショートランドの磯風だ。つかぬことを聞くが、清霜の行方は分かるか?」

『清霜? あ、ああ……そっちではどういう扱いになってんだ?』

「横須賀第二鎮守府に問い合わせても、そっちに戻ったはずだ、の一点張りだったぞ」

「トラック泊地に問い合わせても、うちには戻って来てない、としか言われないし……」

 

 早霜が不安そうに胸を抑えた。

 

『……んー。そうだな、ここまで来たなら傍受されても良いだろ。……ちょっと待ってろ』

 

 そう言って、朝霜は通信機の向こうで誰かを呼んだ。

 誰かが通信機のところに駆け寄ってきたのか、朝霜となにか言葉を交わしているのが聞こえてくる。

 

 それは、大淀隊にとって聞き慣れた声だった。

 

「清霜……!」

 

 磯風たちの呼びかけに、通信機の向こうから応じる声があった。

 

『皆、大丈夫。私はここにいるよ!』

 

 

 

 トラック泊地を出立した横須賀第二鎮守府の先発隊は、ショートランド泊地ではなく、ソロモン諸島東部の前線基地に直行した。

 トラック泊地の艦隊も何割かが同行してきている。

 

 清霜は、横須賀第二鎮守府の母艦から人目をはばかるように出てきた。

 一応、密航という扱いなのである。

 

「清霜、おかえりなさい」

 

 そんな清霜をいの一番に取り囲んだのは大淀隊のメンバーだった。

 姉妹艦の早霜は、まっすぐに清霜に駆け寄って力いっぱい妹を抱き締める。

 

「心配したのよ、もう」

「ごめんね。こっちもいろいろあって」

 

 しばしの抱擁を終えると、清霜は大淀隊の後ろに控えていた新十郎に目を向けた。

 

「司令官代理。話は朝霜から聞きました」

「ああ。悪いな、出迎えが自分で」

「いえ……。それより、司令官を早く助けないとですね!」

 

 気合十分といった様子の清霜に、大淀が心配そうな表情を浮かべた。

 

「清霜。貴方は無理をしては駄目よ」

「それは……分かってるけど。でも、なにかできることがあるなら!」

「気合十分だな」

 

 磯風が苦笑すると、清霜の後ろにいた朝霜が肩を竦めた。

 

「こっちに来るまでずっとこんな調子だ。お守り大変だったんだぜ」

「お疲れ様だったな、朝霜」

「改めて、ありがとう。ここまで清霜を連れてきてくれて」

 

 早霜に手を握られて、朝霜は照れ臭そうに頬を掻いた。

 

「礼を言われるようなことはしちゃいねぇよ。それよかどうすんだ、司令代理殿。本隊が来るまではアンタの指示に従えと言われてるんだぞ」

「基本は戦線維持の方針だ。全体の戦略については後程司令室で主要メンバーを集めて話す」

 

 新十郎は近くに他の人がいないことを確認すると、大淀隊と朝霜にだけ聞こえるような声で続けた。

 

「ここからはここだけの話だ。……しばらく考えてみたが、やはり少数精鋭部隊を突入させる以外に康奈を助け出す方法は思い浮かばない。こっちが敵軍を撃破するまで康奈が生き延びるのを祈るだけってことになる」

「それは……」

 

 不服そうな顔の清霜を制するように、新十郎はニヤリと笑った。

 

「だから、少数精鋭部隊を送り込む。それを大淀隊に任せたい」

「……リスクの件は?」

 

 時津風の問いに答えるため、新十郎は地面に簡素な図を描いた。

 

「海風たちが脱出してきたルートが甘いのは確認済みだ。だが確実にここを通れるかは微妙だ。だから、こちらからこのルート付近の敵に対して攻勢を仕掛ける」

「敵陣を崩すということですか。それで隙を作ると……?」

「軽く敵を挑発して引き付ける。その隙にお前たちは潜入を決行するんだ。リスクゼロにはならないが、大分マシにはなるだろう」

 

 か細い道筋を、こちらからアクションを起こすことで広げる。

 もし上手くいけば、敵に発見される危険性は格段に低くなるだろう。

 

「……分かったよ。そこまで考えてあるならあたしも反対しない」

「私も時津風も、提督を助けたいって思いは同じだから。私も、異論はない」

 

 時津風と雲龍が賛意を示す。

 残すは隊長格である大淀だけだった。

 

「私としても異論はありません」

 

 ただ、と大淀は釘をさすように清霜を見た。

 

「危険な敵地への潜入任務です。清霜は連れて行けません」

「それは……」

 

 仕方ない。

 その場にいる誰もが、そう思った。

 

 清霜自身、十分に戦えない状態では、あまり無理を言えないと理解している。

 ただ、自分一人が残されるのは、身を切られるような思いだった。

 

「――どうしても行きたいなら、手はあるわよ」

 

 と、そこに新たな影が一つ。

 ショートランドの工作艦・明石だった。

 

「明石さん?」

「明石? どうして貴方が……」

 

 不思議そうに明石を見る清霜・大淀に対し、新十郎は「ほう」と笑みを浮かべた。

 

「明石。もしかして間に合ったのか」

「ええ。提督にもらったデータを元に、必死こいて間に合わせましたよ」

 

 そう言って、明石は手にしていた何かを清霜の前に差し出した。

 

 それは、銀色に輝く人の腕。

 

「重傷を負った人造艦娘用に作られた義体――その試作品第一弾。<アガートラーム>です!」

「アガートラーム……」

 

 まじまじと差し出された銀の腕を見つめながら、清霜はその名を口にした。

 

「これは……」

「清霜がどうしても戦いに行きたいと言い出したときに必要かもしれない――そう言って提督が開発用のデータをくれたんですよ」

 

 明石から銀の腕を受け取る。

 冷たい金属製の腕だったが、清霜はそこに不思議な温かさを感じた。

 

「どうする、清霜。急造品だ。十分な検証をしている時間はないが」

 

 新十郎に問われた清霜は、迷うことなく力いっぱい応えた。

 

「行きます。――司令官を迎えにッ!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十三陣「提督・北条康奈の罪と罰」

 アガートラームと名付けられたその義手は、清霜の意のままに動いてくれた。

 ただし、動かすたびに霊力を消費する。霊力は力の源泉だ。無闇に多用してはいけない、と明石は言った。

 

「艤装の一種みたいなものだから、普通の腕と同じような感覚で動かしたらガス欠起こすわよ」

「うん、分かった」

 

 一通り動かしてみたが、清霜はこの新しい腕に何の不満も抱かなかった。

 元より失われたものだ。多少の制限があろうと、ないよりはずっと良い。

 

「準備はできたか」

 

 出立の準備を終えた頃、清霜たち大淀隊のところへ新十郎がやって来た。

 何人かの艦娘も一緒である。その中には武蔵の姿もあった。

 

「武蔵さん!」

「戻ってきて早々に出撃とは、忙しないな。清霜」

 

 どことなく呆れが混じった笑みを浮かべて、武蔵は清霜の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 

「行くのか」

「うん。司令官を迎えに行かなきゃ」

「結局、お前は戦うことを選んだんだな」

 

 清霜の銀色の腕を見つめながら、武蔵は感情を出さずに言った。

 戦いに行くことを良いとも悪いとも言わない。ただ、清霜の決断を尊重しているのだ。

 

「多分、これがなかったとしても私は戦うことを選んでたと思う」

「それは無茶だ」

「戦場に出るのはね。でも、それ以外の戦い方もある。少なくとも、諦めて投げ出すようなことはしないよ」

 

 こう思えるようになったのは、あの日武蔵にかけてもらった言葉があったからだ。

 清霜がそのことを伝えると、武蔵は少しだけはにかんだ。

 

「戦艦の定義はいろいろある。その中でも私が特に大事だと思っているのは『不屈』であることだ」

「不屈?」

「決して諦めず、戦場において最後まで戦い抜く在り様を見せつけることだ。それができたからこそ、かつての戦いで戦艦は艦隊の中心であり続けた。主砲が届かず、装甲が打ち破られようともな」

 

 武蔵はしゃがみこみ、そっと拳を清霜の胸元にあてた。

 

「お前はもう立派な『戦艦』だ。行ってこい、提督を迎えに」

 

 清霜は、戦艦になりたかった。

 それは憧れによるものだけではない。小柄な駆逐艦故に、助けられなかった命があったからだ。

 その過去は変わらない。ただ、既に清霜はそこに囚われていなかった。

 

 清霜は一歩引いて、自らの拳を武蔵の拳にあてた。

 

「行ってきます」

「戻って来いよ」

「もちろん」

 

 それは、戦友同士の挨拶だった。

 

 

 

「楽観視はできんが、あいつは別に自棄になって敵地に乗り込んだわけじゃない。見込みがあって行ったはずだ」

 

 大淀隊が出撃する間際。

 見送りに来た新十郎が、不意にそんなことを口にした。

 

「なんで分かるの?」

「『戻る』と言っていたからな」

 

 皆の視線が新十郎に集まる。

 この場にいるのは、康奈の身を案じている者ばかりだ。

 彼女に関することは、どんな情報であろうと気になるのである。

 

「……ああ、まあ、ここにいるメンバーには言っておくか」

 

 先程の言葉だけでは足りないと気づいたのか、新十郎は康奈が消えた日のことを語り始めた。

 

 その日、新十郎は夜更けまで本を読み耽っていた。

 区切りの良いところまで読み終えて、そろそろ寝るかと思ったとき、康奈が一人でやって来た。

 

 こんな時間に彼女が新十郎を訪ねてくることは今までなかった。

 何事かと訝しむ新十郎に、康奈は開口一番、しばらく提督権限を預けたい、と告げた。

 

『今から私はケジメをつけにいく』

 

 ケジメとは何なのか、新十郎は当然尋ねたが、康奈は頭を振るのみだった。

 だから、新十郎は質問を変えた。

 

『戻ってくるんだな?』

 

 康奈は視線をそらし、随分と長い間逡巡していた。

 普段は大人しいので分かり難いが、康奈は直情径行な性質である。嘘は、あまり得意ではない。

 戻ってくるとも言わず、戻らないとも言えないのは、彼女の複雑な心情の表れだった。

 

『私は、ここにいていい人間なのか、自信がない』

『なんでだ』

『……』

 

 康奈は答えに窮したのか、辛そうに表情を歪ませた。

 無理に聞き出そうとしても、答えは得られないだろう。

 そう判断した新十郎は、少しだけ聞き方を変えた。

 

『それは――ケジメをつければ言えるのか』

 

 康奈は躊躇いながらも頷いた。

 本当は言いたくないのかもしれない。

 しかし、黙っているべきではないという思いもあるのだろう。

 そこにある迷いを断ち切るために、彼女はケジメをつけにいくのかもしれない。

 

『なら、ケジメとやらをつけたら聞かせてくれ。それで良いなら提督権限、一時的に預かっても良い』

『ごめん』

『まったくだ。自分は面倒が嫌いなんだから――さっさと戻って来いよ』

 

 提督権限の委譲は、康奈の魂に刻み込まれた艦娘の情報を新十郎に刻むのと同義だ。

 委譲される方には相当な負荷が伴う。新十郎は耐え切れず、意識を落としてしまった。

 

「ただ、自分は意識が落ちる前に確かに聞いた。あいつは最後の最後に『絶対戻る』と言ったんだ」

 

 行先も告げず、一人きりで姿を消した康奈だったが――自暴自棄で行動しているわけではない。

 敵地に一人乗り込んだのも、そのケジメとやらのためなのだろう。

 

「さっきも言ったが、楽観視はできない。あいつがいるのは敵地だ。無責任に無事だと言うつもりはない。何かあったら、お前たちは自分のことを第一に考えろ」

 

 だが、と新十郎は頭を下げた。

 

「できるなら、助けてやってくれ。戻ってくるとは言ったが、あいつは今一人きりで戦っている。あいつと一緒に戦ってやれるのは、お前たちだけだ」

 

 言われるまでもない、と大淀隊のメンバーは頷く。

 

「私は、提督が何に悩んでいるかは分からなかった」

 

 先程までアガートラームを調整していた明石が、清霜の肩に手を置いた。

 

「でもね。提督はいなくなる前、このアガートラームの開発を私に託していった。清霜がどんな道を選ぶかは分からない。けど、あの子が進みたいと思う道があるならそれを尊重したい。そのために、これはきっと役に立つはずだ――そう言ってたんだよ」

 

 清霜はアガートラームを見つめた。

 康奈が残した置き土産。清霜に再び戦う力をくれた腕だ。

 

「司令官には、怒られちゃうかな。戦わせるために用意したわけじゃない――って」

「止めておくか?」

 

 悪戯っぽく言ってくる朝霜に、清霜は笑って頭を振った。

 

「一人で出来ないことは協力して事に当たれ――でしょ」

 

 清霜の言葉に、ある者は首を傾げ、ある者は頷き、ある者は瞼を閉じた。

 

 この一年間、皆、康奈と共に戦ってきたのだ。

 一人では乗り越えられなかった困難もあった。

 一緒だったから、乗り越えて、今ここにいることができる。

 

 今度も、そうやって越えていくだけだ。

 

「怒られても行くよ。一緒に戦いに来たって、言いに行く」

 

 

 

 生身の身には辛く感じるほどの冷気が漂う施設。

 研究島の中心にある建物――その最奥に、康奈は足を踏み入れていた。

 

 囚われていた艦娘たちを逃してから数日間。

 研究島の内部を歩き回り、慎重に施設の現状を把握することに努めた。

 時折深海棲艦を急襲し、あえて敵の視線を向けさせることもあったが、それらは敵の行動方針を見極めるためのものだった。

 

 施設の現状・敵の行動パターンは十分に掴んだ。

 そう判断した康奈は、当初の目的を敢行するために動き出したのである。

 

 身体の芯まで凍り付きそうな寒気に見舞われながら、康奈は足音を殺しつつゆっくりと歩みを進めていく。

 異常なまでに効いた冷房は、この施設の最奥にある端末を冷やし続けるためのものだ。

 膨大な演算能力を有するその端末は、それを維持するだけの力を持った施設でなければ稼働し続けることもできない。

 

 深海棲、艦の姿はほとんど見受けられない。

 大半は研究島の外縁部で発生した爆破事故の対処に出払っていた。

 僅かに残っていた深海棲艦は、康奈を見逃す者、見つけて始末される者に分かれた。

 

 今、康奈の手には先程始末したばかりの深海棲艦の遺骸がある。

 

 康奈は目の前にある大きな扉を前にして、脇にある機器に遺骸の手を押し付けた。

 

『認証成功。開錠します』

 

 機械的なアナウンスと共に、分厚い扉がゆっくりと開かれる。

 康奈はなおも遺骸を手放さず、それを盾のように前に掲げながらゆっくりと部屋の中に入っていった。

 

「――人間というのは慎重なのね」

 

 肉声がした。

 康奈が発したものではない。

 康奈に向けられたものだ。

 

 扉の向こう――研究島の最奥にある制御室には、壁一面を覆いつくす巨大なコンピューターがあった。

 正面には映画館にあるような大きなスクリーンがある。

 そこには「WELCOME BACK」という文字列が映し出されていた。

 

 そのスクリーンの前に、小柄な体躯の影が一つ。

 それは、人類が飛行場姫と名付けた深海棲艦の姿をしていた。

 

「ごきげんよう。オリジナルの私」

 

 その一言で、康奈は相手の正体を看破した。

 

「深海棲艦の姿を選ぶとは、趣味が悪いわね――IZUNA」

 

 飛行場姫の姿をしたソレは、嬉しそうに破顔した。

 

「会えて嬉しいわ。こうして直接話をするのはいつ以来かしら。ここまで来たということは、思い出したということよね」

 

 心底楽しそうな表情を浮かべるソレは、かつて横井飯綱が己のバックアップとして用意した人工知能。

 コードネームはIZUNA。

 何者でもない誰かになった横井飯綱の、代替物である。

 

「……生きていくと、様々な過ちを犯すことがある」

 

 深海棲艦の遺骸を盾にしたまま、康奈は静かに口を開いた。

 

「間違えている最中は気づくことがない。終わってから、あれは間違いだった、と気づく。罪というものがあるとしたら気づかないこと。罰というものがあるとしたら気づくことだと、私は思う」

「私を生み出したことが自らの罪だったと、そういうことかしら?」

 

 怪訝そうに首をかしげるIZUNAの言葉を、康奈はすぐに否定した。

 

「私が話しているのはアンタのことよ、IZUNA」

 

 片手には躯。

 もう片方の手には、エルモから受け取ったナイフ。

 

「私はかつての行いが過ちだと気づいていた。気づいていながらやっていた。間違いではあるけど、誰かがその間違いを踏み越えて行かなきゃいけないと思った。だから罪を自覚しながらも過ちを続けた」

 

 けど、と康奈は眼前の敵を見据える。

 

「アンタは何が過ちなのか理解していない。ただ自分の知識欲を満たすためだけに動いている。だから越えてはならない一線を越えた」

「以前の貴方と一緒でしょう?」

「――昨年の夏頃、AL/MI海域にあった研究施設が立て続けに陥落した。日本政府があの作戦を強行したのは、研究成果を自分たちの手で回収するため」

 

 康奈の言葉に、IZUNAは笑みを深くした。

 話題を変えたわけではない。

 そこが、問題の始まりなのだ。

 

「けど、当時の研究施設はある程度の防衛機能を備えていた。深海棲艦を撃退するだけの力はなかったけど、接近に気づいて逃げ出すくらいのことはできたはずだった。けど、なぜかできなかった。防衛システムがバグを起こしたからよ」

 

 定期連絡が取れなくなり孤立した施設は、深海棲艦の接近に気づかず、次々と陥落した。

 防衛システムは連動していた。何かあったときに、研究施設同士で連携して危機を乗り切るためだ。

 

 バグは、そのネットワークを介して拡散された。

 

「広めたのはアンタよ。研究成果が行き詰まり始めたアンタは――深海棲艦をも巻き込んで、新しい実験を始めた。最初は他所の施設を何ヵ所か使ってやっていたけど、段々エスカレートして、AL/MI作戦に合わせて、残っていた全施設を襲わせた。自分自身がいた施設すら巻き込んで」

「おかげで研究は一気に進化したわ。それに、これくらいのことは大本営だって――日本政府だってやっていることよ。知ってるかしら、戦死したり意識不明になった提督や艦娘を使った実験とか……」

 

 おかしそうに語ろうとしたIZUNAは、途中で言葉を止めることになった。

 頬を、銃弾が掠めたからだ。

 

「黙れ」

 

 憤怒。

 そう形容するほかない激情を双眸に宿しながら、康奈は吼えた。

 

「私も善悪を弁えていたとは言えない。それでも、深海棲艦から人類を守るという理念だけは裏切らなかった。アンタはその理念から外れた。自分の知識欲を満たすためだけに、越えてはならない一線を越えたのよ」

「それが私の罪だと? 私はあらゆる知識を吸収し、プロジェクトを発展させ続けるために生み出されたのよ。それが罪だというなら――それは私を生んだ貴方が背負うべき罪ね」

 

 言われるまでもなく、康奈はそのことを理解していた。

 これは、あの泊地に流れ着く前の自分が残した問題だ。

 皆を巻き込む筋ではない。

 

 自分の過ちは、自分で拭わねばならない。

 

「だから――私はここに来た」

 

 康奈はそう言い捨てると、大きく一歩を踏み出した。

 

 

 

 艦娘になり損なった康奈の身体は、通常の人間よりも遥かに高い身体能力を有している。

 しかし、それはあくまで人間より優れているというだけの話だ。

 艦娘には敵わないし、深海棲艦を一人で相手取るのも本来は難しい。

 

 康奈が踏み込んだのを見て、IZUNAは大きく腰を落とし、迎え撃つ構えを見せた。

 飛行場姫の姿は伊達ではない。今のIZUNAは、まさに飛行場姫と同等の戦闘力を持っている。

 

 康奈の突進は早い。普通の人間であれば反応することすらできない早さだ。

 しかし、IZUNAは余裕をもってその動きを見極め、向かって来る康奈の肩を掴んだ。

 

「正面から来るなんて、馬鹿ね」

「アンタがね」

 

 言いながら、康奈は手にしていた深海棲艦の骸を捨てて、そちらに隠し持っていたナイフをIZUNAに突き立てた。

 通常のナイフであれば飛行場姫に傷つけることなどできないだろう。

 しかし、康奈のナイフは深々とその手を切り裂いた。

 

「――っ、それは」

 

 康奈の力を一時的に引き上げるエルモ製のナイフは、肩を掴まれた方の手に握られていた。

 今IZUNAを切ったのは、それとは別のナイフである。

 

 大きく飛び退いて距離を取った康奈に、IZUNAは苦々しげな表情を見せた。

 

「エルモのをヒントに、自作したというの……!?」

 

 康奈も、考えなしにここまで来たわけではない。

 半端者なりに、勝算を高めようと様々な小細工をしてきた。

 武器の準備くらい、当然してある。

 

 予想外の反撃を受けて動揺を見せたIZUNAの前で、康奈はズボンにつけていた小型のスイッチを押した。

 その瞬間、先程康奈が捨てた深海棲艦の骸が大爆発を起こす。

 艦娘の艤装をヒントに生み出した試作爆弾を、深海棲艦の骸の中に仕掛けていたのだ。

 

 爆発の瞬間、康奈は更に飛び退いたが、それでも爆風が肌を焦がし、身体を吹き飛ばさんとするような勢いが襲い掛かる。

 

 ……けど。

 

 熱風を正面から浴びながら、康奈は歯噛みし、敵の姿を目に焼き付ける。

 

 煙火の中、IZUNAは依然として立ち続けていた。

 表面に多少の火傷は負っているが、さほど気にした様子もない。

 

「どうやら、決定打はないようね」

 

 切られた手元から流れる血を舐めながら、IZUNAは一歩ずつ康奈へと近づいてくる。

 先程不意の一撃をもらったからか、その動きは慎重なものだった。

 康奈のことを、油断できぬ敵として認めた証拠とも言える。

 

「驚いたわ。相応の準備をしてくるだろうとは思っていたけど、準艦娘と言えるくらいの戦力を用意しているなんて。不意打ちばかりとは言え、何体も深海棲艦を倒しているのだもの。私も警戒しておくべきだった」

 

 だがIZUNA相手には戦力不足だ。

 

 護衛くらいはつけていると思っていた。

 ただ、さほど強力な深海棲艦をつけてはいないだろうと甘く見ていた点はある。

 

 深海棲艦に協力しているとは言え、IZUNAはあくまでアドバイザーでしかない。

 そんな相手に、そこまで強力な護衛はつけない。せいぜい戦艦クラスの深海棲艦程度だと見ていたのだ。

 まさか、IZUNA自身が姫クラスの深海棲艦の身体をインターフェースにしているとは思っていなかった。

 

 IZUNAは歩みを止める。

 奇襲を仕掛けるには、やや遠い距離だ。

 

「……おそらく私がこの姿で待ち受けているとは想定していなかったのよね。貴方に他の切り札はない。そう思うけれど――貴方相手に油断してはいけない、と私は学習した」

 

 言うや否や、IZUNAの周囲に小型の怪物が浮上する。

 飛行場姫が使用していた艦載機だ。円形の生物のようなその艦載機は、いずれも銃口を康奈に向けている。

 

「これ以上は接近しない。貴方の身体は欲しかったけれど――ここから嬲り殺しにさせてもらう」

 

 IZUNAの艦載機が一斉に康奈目掛けて牙を剥く。

 多方面からの銃撃に、康奈は全力で逃げ回るしかなかった。

 

 しかし、室内でそう長時間逃げ回ることもできない。

 すぐに、左足を撃ち抜かれ、バランスを崩して転倒してしまう。

 

「ぐっ……」

「貴方は一人でここに来るべきではなかったわね」

 

 身動きが取れなくなった康奈を前に、IZUNAは腕を振り上げた。

 その手が下りた瞬間、康奈は蜂の巣にされるだろう。

 

「――あの深海棲艦」

 

 追い詰められた康奈は、痛みをこらえながらIZUNAを正面から睨み据えた。

 

「あの小柄な深海棲艦の姿は、見覚えがある。あれは――上杉光なの?」

 

 ソロモン諸島に攻め寄せている深海棲艦の総大将。

 IZUNAが彼女と度々通信でやり取りしていることを、康奈は把握していた。

 

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

 

 構えを崩さぬまま、IZUNAは康奈の問いに応じた。

 

「上杉光はあの日、艦娘となって深海棲艦と戦った。けど、なりたてでろくに訓練もしていなかったから、すぐにやられてしまった。あの子は深海棲艦に捕食されたの。……でも、しばらくしてあの子を捕食した深海棲艦は倒れた。そして、その身体を突き破って姿を見せたのがあの子よ」

 

 捕食された上杉光が、深海棲艦の体内で何かしらの変貌を遂げたのかもしれない。

 詳細は突き詰められていないが、興味深い事例だ――そうIZUNAは語った。

 

「もっとも、あの子は人間だった頃の記憶なんて持っていない。長尾智美や貴方の清霜ちゃんを前にしたところで、手心を加えることなんてないでしょうね」

「そんなムシの良い話は期待していない」

 

 康奈はIZUNAの話を一笑に付した。

 

「ただ、私は因縁の在処を明確にしておきたかっただけよ。彼女たちの問題は、彼女たちでケジメをつければ良い」

「そうね。その点は私も同感だわ」

 

 IZUNAの声音には、これで話は終わりだ、という意思が含まれている。

 彼女は振り上げていた手を、殺意をもって振り下ろした。

 

「私も私のケジメをつける――貴方を殺して、私は代替品ではなくなる!」

 

 代替品として生まれ、決められた役割の中でのみ生きることを許された。

 そんなIZUNAの内に蓄積された悲痛な声を、このとき康奈は初めて目の当たりにした気がした。

 

 ……勝てなかったか。

 

 そんな思いが脳裏をよぎる。

 

 だが、敗北の瞬間は訪れなかった。

 IZUNAの艦載機が、すべて沈黙したからだ。

 

 康奈を骸にしようとした兵器は、いずれも横合いから放たれた砲撃によって撃ち落とされている。

 

「――司令官」

 

 声がした。

 康奈のものではない。

 IZUNAのものでもない。

 

 それは、小さき戦艦のものだ。

 

「……皆」

 

 深く暗い島の最奥に、新しい風が流れ込む。

 そこに、大淀隊の姿があった。

 

 

 

 攻勢に出た防衛軍の協力を得て、大淀隊は一目散に駆け抜けた。

 遅れまいと。一刻も早く大事な相手を救い出さんと。

 

「間に合ったようですね」

 

 IZUNA目掛けて牽制射撃をしながら、大淀隊は素早く康奈の前に移動した。

 敵から視線を逸らさぬままに、大淀は大きく息を吐く。

 

「提督。覚悟しておいてください」

「そうだな。皆をあれだけ心配させたんだ。丸三日は小言を喰らう覚悟でいるが良い」

 

 大淀に同調しながら磯風が笑う。

 他のメンバーも、表立って口にはしなかったが、概ね同じような思いだった。

 

「……もしかしたら来るかもとは思っていたけど。無茶をするものね」

「司令官だけには言われたくないよ」

 

 清霜に言い返されて、康奈は口をつぐんだ。

 

「独断でこんなところまで来たの? ご苦労なことね――!」

 

 目前に迫っていた勝利を取り逃し、IZUNAは苛立ち混じりの言葉と共に清霜たち目掛けて砲撃を放つ。

 清霜は、動けなくなっていた康奈を抱えてこれを避けた。

 

「清霜、この腕は」

「うん。司令官と明石さんがくれたものだよ」

「……馬鹿ね」

 

 清霜が戦場に出てきたことについて、康奈はそれ以上の言葉を口にしなかった。

 

 姫クラス相手の陸地戦。

 普段とは異なる条件での戦闘だったが、大淀隊の連携に乱れはなかった。

 

「朝霜、早霜、雲龍は敵艦載機の迎撃に専念。春雨と清霜は提督の護衛に!」

 

 各員に指示を出しながら、大淀は主砲を構えてIZUNAへと肉薄する。

 

「磯風、時津風は私と共に敵撃破!」

「応ッ!」

 

 IZUNAは次々と新たな艦載機を出現させ、大淀隊の動きを乱れさせようと試みる。

 しかし、一年通して戦い抜いた大淀隊が、それしきのことで動揺することはなかった。

 

「ハッ、どいつもこいつも良い的だぜ!」

「一機たりとも――突破はさせない!」

 

 朝霜と早霜は高角砲と機銃を駆使して室内に飛び交う敵艦載機を撃ち落としていく。

 そんな二人の後方から、雲龍は各種艦載機を展開し、チーム全体の動きをサポートしていた。

 

「好きにはさせない。ここで必ず食い止める……!」

 

 多勢に無勢。

 八名を同時に相手取ることになったIZUNAは、さすがに焦りを見せ始めた。

 

「嗚呼、邪魔なのよ貴方たち……邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔ァッ!」

 

 迫りくる大淀たち相手に肉弾戦を繰り広げながら、IZUNAは康奈を睨みつけた。

 

「貴方たち、分かっているの? すべての元凶はそこの女なのよ……! 貴方たちの前司令官が倒れたのも、そこの清霜が艦娘になったのも、家族を失ったのだって――全部元を辿れば、そこの女が悪いんだから――!」

 

 責任転嫁――そう一概に切って捨てることのできる言葉ではなかった。

 

 IZUNAは生き方を規定された存在だ。

 結果として作成者の意図を逸脱する行為に及んだが、それも含めてすべての責任は作成者である横井飯綱――康奈にある。それは決して無理筋な理屈ではない。

 

 その責任を感じているからこそ、康奈はたった一人で乗り込んだのだ。

 

「……司令官。それは、本当なの?」

 

 敵への警戒を解かないまま、清霜が問う。

 康奈は苦しげに表情を歪ませながらも、ゆっくりと頷いた。

 

「一人でここに乗り込んだのは、そのためですか」

 

 春雨に聞かれ、康奈は再び首肯する。

 

「まったく、水臭いなあ司令は!」

 

 前線で敵と撃ち合いながら時津風が不平を漏らす。

 

「司令官」

 

 清霜は、少し寂しそうに笑った。

 

「司令官の昔のこと、私はまだよく分かんない。自分の過去のことも、きちんと思い出せたわけじゃない。だからあの人の言うことが本当だとして、司令官に何を言うべきなのか、よく分かんないけど」

 

 けど。

 一人で決めて去ってしまうのは寂しい、と清霜は言った。

 

「きちんと私たちと、向き合って欲しかった――かな」

 

 それは、どんな弾劾の言葉よりも深く、康奈の心に突き刺さった。

 ケジメをつけるなどと偉そうなことを言ったが、結局のところ、康奈は清霜や皆に自分の行いを否定されるのが怖かった。だから逃げた。一人だけで解決する道を選んでしまった。

 

「……ごめんね」

 

 康奈は清霜を力いっぱい抱き締める。

 そして、自分を下ろすように言った。

 

 飛行場姫のスペックを誇るIZUNA相手に、大淀たちは攻めあぐねていた。

 

 このまま長期戦にもつれ込めば、ここに深海棲艦の増援が来ないとも限らない。

 そう言って、康奈は清霜の銀の腕――アガートラームにそっと触れた。

 

 康奈の霊力が、直接アガートラームの中に入り込んでいく。

 清霜は、そこから温かさと力強さを感じ取った。

 この一年間、側で見守り続けてくれた人の温かさだ。

 

「行きなさい」

 

 康奈の意を汲み取った清霜は、春雨に護衛を任せ、前線へと駆け出していく。

 

 異変に気づいた艦載機が清霜を狙う。しかし、放たれる弾丸は清霜の身体を掠めるだけだった。

 迷いなく突き進む清霜に、艦載機の照準が追い付かないのである。

 

「――なんで」

 

 IZUNAは吼えた。

 理不尽に縛られ、自由を求めた。

 それだけのことなのに、なぜ、と。

 

「なんで、誰も認めてくれない……! あの女だけ、なんで――!」

 

 アガートラームに込められた力が、その手に握り締められた主砲へと流れ込んでいく。

 

 嘆き叫ぶIZUNA目掛けて、清霜は砲撃を放った。

 

 眩い光に覆われた砲弾は、IZUNAの胸元に吸い込まれ、そこで爆散する。

 高濃度の霊力をまとった艦娘による一撃だ。

 

「……ごめんなさい。貴方がどんな人か、私には分かんない」

 

 砲撃を受けてうずくまるIZUNAを前に、清霜は言葉を紡ぐ。

 

「けど、私は司令官と向き合いたい。だから、それを否定する貴方を認めることは、できない」

 

 それが引き金になったかのように、IZUNAの身体に亀裂が入っていく。

 仮初の身体が、少しずつ壊れていく。

 

「嗚呼――」

 

 目の前の清霜に救いを求めるかのように、IZUNAは手を伸ばした。

 しかし、その手を清霜が取るよりも早く――その身は灰燼に帰した。

 

 

 

 IZUNAの姿が消えてから、康奈たちは皆口を閉ざしていた。

 再会の喜びはあるが、IZUNAが残した言葉のせいか、素直にそれを口にすることができない。

 

 誰もが、何を言えばいいか迷っていた。

 

「……ひとまず、ここを出ましょう」

 

 康奈の傷の手当を終えた大淀はそう提案したが、康奈は一人頭を振った。

 

「駄目よ。まだ終わっていない」

「どういうことだ、司令」

 

 磯風の問いに、康奈は正面の巨大なパネルを指し示した。

 

「さっきまでいたのは、奴のインターフェースに過ぎない。本体は、あの巨大な演算装置。あれを破壊しなければ、奴を倒したことにはならない」

「あれをぶっ壊せばいいの?」

 

 なら簡単だ、と時津風は装置目掛けて砲撃を放つ。

 しかし、砲撃が命中しても、演算装置は傷一つつかなかった。

 

「あれ、随分頑丈だなー」

「何かガラスがあるみたい」

 

 雲龍の指摘通り、演算装置はガラスによって覆われていた。

 艦娘の砲撃に耐えるような代物だ。おそらく通常の強化ガラスとは別の、もっと厄介な代物なのだろう。

 

「どうしても壊さないと駄目なの?」

 

 IZUNAの最後の姿が引っかかっていたのだろう。

 清霜が、やや躊躇いがちに尋ねた。

 

 しかし、康奈がその問いに答えるよりも先に、康奈の持っていた通信機がアラーム音を鳴らした。

 エルモの手による強化型の通信機だ。

 

『いろいろと言いたいことはあるが、用件だけ伝える』

 

 通信機から聞こえてきたのは、長尾智美の声だった。

 思わず、清霜と朝霜は表情をこわばらせる。

 

 だが、智美の用件は清霜の脱走よりも遥かに重いものだった。

 

『そちらの司令官代理――新十郎とやらからこちらに報告があった。深海棲艦が大挙して押し寄せてきた。戦線は崩壊しつつある』

 

 それは、現状の康奈たちにとって最悪の報せだった。

 

 

 

 サモアの本拠地で、防空棲姫は戦況を確認していた。

 敵の攻勢が落ち着いたタイミングを見計らっての一斉進撃は、今のところ上手くいっている。

 

「もっとも、悠長にしている余裕はないわね」

 

 彼女は決して状況を楽観視していなかった。

 既にIZUNAから、研究島が敵の手に落ちつつあるという連絡を受けている。

 このまま敵を押し返せば研究島の敵は孤立するだろうが、相手もそれを座して眺めてはいないだろう。

 

 北方から、相当な規模の軍勢が接近しつつあるという連絡も受けている。

 日本の深海対策庁が重い腰を上げてきたと見るべきだろう。

 

「そちらに助けは必要かしら、IZUNA」

『不要よ。姫様は自分のやりたいことにだけ集中してくれれば良いわ』

 

 良かった、と防空棲姫は嬉しそうに言った。

 

「私は自分が元々なんだったのか覚えていない。ただ、きっと自由のない生き方をしていたのでしょうね。今……こんなにも自由が欲しいのだから」

 

 赤く塗りつぶされていく海図を前に、防空棲姫の情念が燃え上がる。

 満たされない。欲しくてたまらない。そんな渇望が彼女を突き動かしている。

 

「私は自由を得る。誰の言うことを聞かなくても良い私が自由に振る舞える国を作る。その妨げになるものは、ここですべて叩き潰すわ」

『ええ。それでいい』

 

 防空棲姫の情動をIZUNAは肯定する。

 どんな生まれであろうと自由であって良いはずだ。

 その思いにおいて、二人は同志だった。

 

「かつての生き方がどうであれ、私は新たな生き方を見つけた。――私は、ここから再起する」

 

 総員進撃せよ。

 防空棲姫の号令に、深海棲艦の大軍は咆哮で応えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十四陣「戦乱の果て」

 水平線が、黒く塗りつぶされていく。

 あれは、すべて敵だ。

 人類をこの大海から駆逐せんとする存在――深海棲艦だ。

 

 各地からは、戦線維持が困難であることを告げる通信が入り続けている。

 もはや、南方の拠点だけで敵の大軍の侵攻を抑えるのは限界だった。

 

『こちら武蔵。どうする、提督代理。ここだけでも持ち堪えた方が良いか?』

「強気だな、武蔵」

 

 通信先でほくそ笑んでいるであろう戦艦の顔を思い浮かべて、新十郎は渇いた笑みをこぼした。

 

「自分たちは十分にやったさ。これ以上無理を重ねる必要はない。――撤退しよう」

 

 既に新十郎たちも前線基地を引き払う準備を進めていた。

 ショートランドの艦隊だけではない。これは、現在この地に集まっている諸艦隊の総意でもある。

 

『私はまだまだやれるぞ』

「意気軒昂なのは結構だが、今は温存しておけ。撤退という言い方が不服ならこう言い直そうか? 一時撤退だ」

『……撤退による影響は?』

 

 武蔵も単に意地を張り続けているわけではない。

 戦線を放棄することで、どんな影響が出るか。それを気にしているのだ。

 

「ほとんどない。皆がよくやってくれたおかげでソロモン諸島及び近隣の住民は安全圏に避難済みだ」

 

 新十郎たち指揮官は、この戦線をずっと維持するのは不可能だと見ていた。

 だから、早々に近国政府と調整して住民避難を進めていたのである。

 現在、この周辺に守るべき無辜の民はいない。

 

 それは、ここまで奮戦し続けてきた南方拠点の艦娘たちの戦果だった。

 

『清霜たちはどうなる。取り残される形になるのでは?』

 

 武蔵は痛いところを突いてきた。

 新十郎が"ほとんど"と言ったのも、そこを意識してのことである。

 

 敵地に入り込んでいる清霜たちは、置いていかざるを得ない。

 回収するほどの余裕はなかった。

 

 しかし、そんな状況下でも新十郎は笑みを崩さなかった。

 

「なに、自分も見捨てるつもりはない。――ちゃんと手は打ってある」

 

 

 

「この島を動かして、敵を攪乱する」

 

 智美からの連絡を受けた康奈は、ほとんど迷わずに決断した。

 

「撤退はしないのですか?」

「今、相手は勢いに乗っている。逃げに徹したらその勢いに呑まれる恐れがあるわ。積極的な交戦は勿論避けるけど、追い込まれないよう注意しながら敵の意識を引き付ける」

 

 康奈の脳裏には、北方から接近中の智美たち本隊の存在がある。

 

「長尾提督。あとどれくらいでこっちまで来られる?」

『……半日もあれば』

「十分。敵との距離を保ちつつ、この島の防衛機構も利用して時間を稼ぐわ。身一つでここから逃げ出すよりはマシなはずよ」

『その島の設備を、制御できるのか?』

「潜伏期間中におおよそ把握したわ。ある程度は覚えのあるものだったから」

 

 康奈は背後にそびえ立つIZUNAの本体――巨大な演算装置を見据えた。

 今は、放っておくしかない。直接手出ししてこないのであれば、その処分は後回しにせざるを得ないだろう。

 

「大淀隊は、まずこの島に残っている深海棲艦を駆逐して。ここを完全に制圧することが第一よ」

「了解!」

 

 大淀たちは、康奈の命令に応じて駆け出していく。

 その中にあって、清霜は一人康奈に心配そうな眼差しを向けた。

 

「司令官は、大丈夫?」

「足の怪我なら心配いらないわ。私はここで島の制御をするから――清霜は清霜の戦いをしなさい」

 

 そう告げる康奈は、普段と何も変わらないように見えた。

 この一年間、ずっと一緒に清霜たちと戦い続けた司令官の姿が、そこにあった。

 

「……うん、分かった!」

 

 康奈の姿に安心したのか、清霜も駆け出していく。

 残されたのは、康奈一人だった。

 

『……連絡がつかないと思っていたら、急にあんなものを聞かせるとはな。あれは、どういう意味だ?』

 

 通信機越しに、智美が険しい問いを発した。

 それは、二人の間でしか伝わらない問いかけである。

 

 康奈は泊地に提督間で行う通信機を置いてきた。

 指揮を執る際、新十郎が必要とするからだ。

 

 エルモが用意した新型通信機は持っていたが、研究島の妨害電波によって通信は遮断されていた。

 通信可能となったのは、ここ数日の潜伏期間中、康奈が妨害設備の乗っ取りに成功したからである。

 

 なぜそんなことをしたのかと言えば、IZUNAとの決戦時のやり取りを、すべて智美に聞かせるためだった。

 あの戦いにおいて、康奈は最初から智美宛てに通信を入れていたのである。

 

 島の管制システムにアクセスを試みながら、康奈は智美の問いに応える。

 

「貴方にはすべてを知る権利がある。この機会を逃したら、もう得られないかもしれない情報だった。だから、直接聞かせたいと思った。他に理由はないわ」

『……貴様は、私たち姉妹にとって仇の一人だ。私たちの人生を無茶苦茶にした一人だ』

「否定はしない」

『――だが、見方を変えれば恩人の一人とも言える。貴様が身を呈して艦娘人造計画を進展させなければ、私たちはどこかで命を落としていたかもしれない』

 

 智美の言葉に、康奈はため息をついた。

 

「無理してそんな解釈はしなくて良いわ。感情というのは、そう理屈っぽく整理できるものではない。……今の貴方は、私についてあれこれ考えるよりも、敵の姫について考えた方が良い」

 

 姫と呼ばれる深海棲艦。

 智美や清霜の姉妹、上杉光のなれの果てだ。

 

『言われずとも分かっている』

 

 智美は苛立たし気に声を張り上げる。

 思いがけない妹との再開に、感情が追い付いていないのだろう。

 

『北条康奈。貴様、勝手に死ぬんじゃないぞ。貴様には面と向かい合って言いたいことが山ほどある!』

「そうね。私は貴方とも向き合わないといけない。――そちらが到着するまで死なないよう、善処するわ」

 

 向き合わなければならない相手が多い。

 そのことを感じながら、康奈は意識を研究島制御に集中させた。

 

 

 

 意識が芽生えたときから、何かに従うことが嫌だった。

 誰にも指図されない。何も我慢しなくて良い。そんな世界が欲しかった。

 

 そういうのを何と言うのか。

 IZUNAは、それを『自由』だと語った。

 

『姫様。敵が次々と撤退していきます。いかがいたしましょう』

 

 部下からの報告で、防空棲姫は我に返った。

 ほんの少しだけ、物思いに耽っていた。

 

 傍らの端末を見る。

 現在、IZUNAは沈黙していた。

 

『研究島は、現在どうなっているのかしら?』

『よく分からない動きをしています。急に動き出したかと思ったら、逃げたり、こちらに接近しようとしたり』

『……どう見るべきかしらね』

『……』

 

 部下は答えなかった。

 答える術を持たないのだ。

 

 人型の形を得て、独自の言語で意思疎通を図れるようになっても、彼女たちにはまだ戦術という概念がない。

 敵がいたら破壊する。そういう領域から、まだ抜け出せていない。

 大多数の深海棲艦は、まだそういう段階にある。

 

『敵の追撃は程々で良いわ。北から迫っている艦隊に備えなさい。研究島の動きも気になるから、部隊を派遣して動きを抑えておきなさい』

『了解しました』

 

 強き者に従順な深海棲艦たちは、防空棲姫相手には素直だ。

 

 防空棲姫は、時折思う。

 彼女たちに囲まれた国。

 それは、果たして自分が渇望している自由の国なのだろうか、と。

 

 応える者は、いなかった。

 

 

 

 島内の深海棲艦を一掃することに成功した大淀隊だったが、彼女たちに休む暇はなかった。

 研究島奪還のための部隊が、ひっきりなしに近づいてくるからだ。

 

「資源には事欠かないが、さすがにそろそろ疲れてきたな」

 

 接近する敵部隊を蹴散らした後で、磯風が珍しくぼやいた。

 

 研究島には、おそらく深海棲艦が使う予定だったのであろう資源が大量に備蓄されていた。

 当面、大淀隊が戦い続けるには十分な量である。

 

「なになに、弱音吐くなんてらしくないじゃん」

「疲労というのは気分の問題ではない。現実的な問題だ」

 

 時津風の指摘に、磯風はやや不服そうな顔で応えた。

 実際、大淀隊は数時間戦い続けている。

 

 何時間も戦場に身を置くというのは、慣れていても神経をすり減らす。

 まして、今の彼女たちは味方から取り残されている格好だ。

 もう少しで援軍が来ると分かっていても、孤軍奮闘し続けることによる消耗は激しい。

 

「ローテーションを組むというのは?」

「……私たちだけだと、ちょっと厳しいんじゃないかな」

 

 早霜の提案に、春雨がやんわりと異議を唱えた。

 大淀隊は軽巡と駆逐艦だけで構成された水雷戦隊だ。

 それに対して、敵は戦艦や空母を容赦なく織り交ぜて来る。

 戦力を小分けにしては、対応ができなくなる恐れがあった。

 

「提督。一旦逃げに徹するというのは、やはりダメ? 今なら最初程敵も勢いに乗っては――」

 

 雲龍が通信機で康奈に提案しようとしたとき、不気味な音が遠方から迫ってきた。

 全員が視線を上げる。そこには、大量の深海棲艦の艦載機があった。

 

「敵は、本腰を入れてこの島の奪還を試みるつもりのようですね」

「これは……逃がしてもらえそうには、ないかな」

 

 艦載機だけではない。

 これまでは一部隊ずつ様子を見るように接近してきた深海棲艦たちが、数倍の数で押し寄せようとしてくる姿が見えた。

 

「ま、こうなったらやるしかないよね!」

 

 率先して前に出たのは、清霜だった。

 彼女の脇に控える朝霜は、やや呆れたような表情を浮かべている。

 

「清霜は単純で良いよな」

「駄目?」

「護衛役の身にもなれってんだよ」

 

 文句を言いながらも、朝霜は清霜の側を離れない。

 

 他の大淀隊の面々も、戦うことを諦めてはいなかった。

 疲労の色を滲ませながらも、その眼差しには依然として闘志が宿っている。

 

『各員』

 

 そのとき、喜色を含んだ康奈の声がした。

 

『よくここまで頑張ったわ。本隊が来るまで、もうひと踏ん張り。けど――孤軍奮闘はこれで終わりよ』

 

 それはどういう意味か。

 問いかけようとした矢先、敵が迫りくる方角とは逆の方から、巨大な砲声が轟いた。

 

 研究島に接近しようとしていた敵が倒されていく。

 迫りくる艦載機たちも、次々と撃ち落とされていった。

 

『ショートランド泊地、大淀隊の皆さん。聞こえていますか?』

 

 通信機から、康奈とは別の声がした。

 それは、幼いながらも凛とした強さを感じさせる声。

 

「……もしかして、朝潮さんですか!?」

『はい』

 

 かつて、毛利仁兵衛が率いていたトラック泊地の初期艦・朝潮。

 大淀の問いかけに応じたのは彼女だった。

 

『朝潮さんだけではありませんよ』

 

 次いで聞こえたのは大和の声。

 

『前回の作戦ではゆっくり休ませていただきましたし』

 

 航空母艦・天城の声もした。

 

『ショートランド艦隊の皆さんには、大きな借りがあります。ここで返しておかなければ、先代に笑われましょう』

 

 若き青年の声。

 これは、毛利仁兵衛の後を継いでトラック泊地の提督となった大江元景のものだ。

 

 研究島の両サイドから、トラック泊地の艦隊が姿を見せる。

 それは、総勢百余名にも及ぶ大艦隊だった。

 

『トラック泊地、今が再起のときだ! 皆、進撃せよ! 繰り返す! 進撃せよ!』

『了解』

『了解ッ!』

『了解ィ!』

 

 毛利仁兵衛の死と泊地の半壊。

 大打撃を受けた南方の雄・トラック泊地は、今、再び錨を上げ、戦場へと舞い戻ってきた。

 

 

 

 波というものは、気が付いたときには、新たな流れを生み出している。

 康奈たちがトラック泊地の艦隊と合流を果たした頃、防空棲姫の軍勢は各地で奇襲を受けていた。

 

『報告! 第四艦隊、第六艦隊が半壊!』

『第三艦隊、敵の奇襲を受け交戦中! 苦戦を強いられています!』

 

 次々ともたらされる報告に、防空棲姫の表情は険しくなっていく。

 戦術面で大きなミスはなかったはずだ。

 逃走する敵の深追いもしていないし、北方から迫る敵本隊への監視も怠っていない。

 

 だというのに、防空棲姫は何かおぞましい場所に入り込んでしまったような感覚に襲われていた。

 

『トラック泊地はどこから現れたの? 考える必要はないわ。分かっている情報をすべてちょうだい』

『はっ……。南方から突如現れたそうで』

『トラック泊地は主戦場の北よ。南から来たなんて、そんな馬鹿な――』

 

 言いかけて、防空棲姫は一つの可能性に思い至る。

 トラック泊地は、この戦端が開かれてからずっと、大きな動きを見せていなかった。

 敵の前線基地に、雀の涙程度の増援を送っただけだ。

 

 その動きの鈍さから、戦艦水鬼との激戦で疲弊しているのだと思い込んでいた。

 だが、そうではないとしたら。

 例えば、いざというときのため、南から急襲を仕掛けるため、戦端が開かれた直後に行動をとり始めていたとしたら。

 

『最初からそのつもりで迂回していたなら――十分間に合う、か』

 

 敵の力を見誤っていたかもしれない。

 そこに気づいて、防空棲姫は戦場の盤面を見直した。

 

『もしかすると、接近中の敵本隊というのも囮……? 実戦部隊は細かく分けられていて、既に戦場各地に配置されていた、と考えるべきかしら――』

 

 四方八方から食い破られる自らの軍勢に、防空棲姫は敵の意図を見つけた気がした。

 

『……各地で戦闘中の各艦隊に告げなさい! 敵は無視して良い、まずは各指揮官の元に集まって大艦隊を結成するのよ。相手と戦うときは、相手の倍以上の数を揃えてからにしなさい!』

 

 各個撃破による状況の打破。

 それが敵の狙いなら、敵の仕掛けてきた戦いに乗らなければ良い。

 

 防空棲姫の判断は、間違っていない。

 絵図を描いた長尾智美の狙いは、まさに、各個撃破で深海棲艦の軍勢を掻きまわすことにあった。

 

 だが、気づくのが少し遅かった。

 

『ほ、報告! そ、その……』

『報告なさい。早く!』

 

 叱咤された部下は、恐る恐るといった様子で、新たな報告を行った。

 

『撤退していたはずの敵防衛艦隊が反転――物凄い勢いでこちらの軍勢を突き崩しています!』

 

 

 

「言ったろう? 一時撤退だと」

 

 新十郎はいつになく険しい表情で水平線の彼方を見つめ、全艦娘に再度号令をかけた。

 

「既に本隊は辿り着き、敵陣には綻びが生じた。加えて――我らが指揮官は未だ敵地で奮闘している。我々は十分に鬱屈をためた。これ以上我慢する必要はない」

 

 前線基地から遥か後方。

 馴染みのあるショートランド泊地で、新十郎は東方の戦地を睥睨し、指揮する者として咆哮する。

 

「後は皆の仕事だ。我々が描いた絵図、色を付けるも良し、手を加えるも良し。納得のいく形で戦場を駆けろ」

 

 ショートランド艦隊の面々は、この通信を耳にして、目に光を宿らせた。

 再び立ち上がるため、彼女たちは束の間の休息を取っていた。

 そして、誰もが「もう良いだろう」と思っていた。

 

 ここから始まるのは、耐え忍ぶための戦いではない。

 取り戻すための戦いだ。

 

「提督、大丈夫かな」

 

 鬼怒が、心配そうに彼方を見つめる。

 

「そこは、信じるしかないネ」

 

 金剛が、艤装を身に着けた。

 

「大淀たちが向かったのであれば、きっと大丈夫でしょう」

 

 ビスマルク隊は一歩早く前に出る。

 

「皆強い子だもん。きっと帰って来てくれるわよ」

 

 艦載機を発艦させて、瑞鳳が言った。

 

「皆気にしてるみたいだし、早く迎えに行った方が良さそうね」

 

 ショートランド艦隊、全艦娘の出撃準備が整ったのを見届け、叢雲が大きく手を振り上げる。

 

「北条康奈旗下、ショートランド艦隊。――総員、出撃する!」

 

 

 

 戦況は好転しつつある。

 母艦『三笠』の作戦本部司令室で状況を確認しながら、長尾智美は渋い表情を浮かべていた。

 

『今の貴方は、私についてあれこれ考えるよりも、敵の姫について考えた方が良い』

 

 康奈の言葉が脳裏から離れない。

 敵の旗艦が妹のなれの果てと言われても、実のところ智美にはどうすることもできない。

 

 敵の姫に、上杉光としての自我は、もはや残っていないのだろう。

 残っているのだとすれば、人類に向かって牙をむくはずがなかった。

 

 打ち倒す以外、取るべき選択肢はなかった。

 

「提督は、どうしたいの?」

 

 智美の心中を察したかのように、川内が声をかけてきた。

 

「……どうするもこうするもない。敵は倒す。それだけだ」

「鹵獲する、という手もあると思うけど。やれと言うなら、やってくるよ」

 

 今の川内は、神通亡き後の神通隊を引き取っていた。

 隊長としての資質も神通に劣らず、現川内隊はかつての神通隊と同様の練度を誇っている。

 

 しかし、そんな彼女たちでも姫クラスの鹵獲は難しいだろう。

 今まで成功した試しがない。

 

「鹵獲は非現実的だ。出来たとしても、どういう扱いをされるかは想像に難くない」

「なら」

 

 念を押すように。

 智美の覚悟を確認するかのように、川内は重ねて問う。

 

「アレは、倒してしまっても良いんだね?」

 

 当然だと答えようとして、声が出ないことに智美は気づいた。

 躊躇いがある。康奈の言う通り、感情というものは理屈で割り切れるものではないらしい。

 

 だが、他に出来ることは何もなかった。

 納得できなかろうと、倒すしかないのだ。

 

 そのとき、作戦本部宛てに通信が入った。

 研究島の康奈からだ。

 

『こちら北条康奈。救援、ありがとうございます』

「こちら浮田。援軍が遅くなってしまった。申し訳ない」

 

 作戦本部の部長代理を務める浮田が康奈に応じる。

 

「……? おい、北条。貴様、どういうつもりだ?」

 

 康奈からの通信が入ったことで、智美は反射的に研究島の現在位置を確認した。

 そして、研究島が現在どこに向かっているか、ということに気づいた。

 

「貴様、まさか敵の本拠地に乗り込むつもりではないだろうな」

 

 研究島は、サモアに向かって一直線に突き進んでいる。

 これまでの、敵を攪乱するためのものとは、明らかに違う動きだった。

 

『そのつもりよ。トラックの大江提督とも協議は済ませている。ここで本丸を落とせれば大勢は決したも同然』

 

 康奈の判断は、多少のリスクは伴うものの、そこまで悪いものではなかった。

 勢いを得ているとは言え、防衛軍はかなり疲労が溜まっている。

 長期戦になれば、再び戦況がひっくり返る可能性は十分にあった。

 

 だから、短期決戦に持ち込む。

 

『可能であれば、こちらに合わせてそちらからも人数を出してくれると助かります』

 

 康奈からの通信は、そこで終わった。

 

「提督。……どうする?」

 

 もはや決断の先送りはできない。

 妹だった存在に、どう相対するか、今すぐ決める必要がある。

 

「……私、は」

 

 歯を食いしばり、顔をしかめながら、智美はどうにか言葉を吐き出した。

 

 

 

 研究島が急接近しつつある。

 その報告を受けて、防空棲姫は司令室から飛び出した。

 

『姫、どうなされます……!?』

『ちょうどいいわ。私も出る』

 

 大勢が決しつつあることは、肌身で感じ取っていた。

 おそらく、研究島は決定打を打つべくやって来ているのだろう。

 

 ならば、それを正面から叩き伏せることで、敵の勢いを断ち切るしかない。

 

 外に出て、最初に感じたのは風だった。

 潮の香が漂う、心地よい風だ。

 

 かつて、どこかで誰かと共に感じたことのある風だ。

 それは、誰と感じたものだったか。

 

 正面から研究島が近づいてくる。

 その周辺には、数多の艦娘の姿があった。

 

「……フフ。ここまで来たのね。フフ……フフフッ」

 

 己の自由を断たんとする敵を前にして、防空棲姫はこれまで感じたことのなかった高揚感に包まれつつあった。

 

 日は沈みつつある。

 月明かりが照らし出す南方の海。

 そこが、決戦の地だ。

 

『総員。ここがこの戦いの正念場よ。さあ、存分に暴れ倒しなさい――!』

 

 防空棲姫の号令と共に、彼女の直属部隊が砲口を艦娘たちに向けて構えた。

 南方海域を舞台とする長き戦いの――クライマックスの幕開けである。

 

 

 

 トラック泊地の部隊を中心とする艦隊と防空棲姫直属部隊の戦いは、当初艦娘側が優勢だった。

 単純に数が違う。泊地の防備が薄くなるデメリットを理解しつつ、この戦いに相当の戦力を配した大江元景の判断が、ここではプラスに働いた。

 

「主砲、てーッ!」

 

 トラック泊地の誇る戦艦部隊が、敵の戦艦や空母を次々と打ち倒していく。

 一方、水雷戦隊を中心とする前衛部隊は、主力部隊が攻撃に専念できるよう敵陣をかき乱していた。

 

 その中に、大淀隊の姿もある。

 

「この戦い、いけるかな……!?」

 

 敵の水雷戦隊を撃滅し終えて、清霜は周囲を見渡した。

 まだ敵は数多く残っている。

 しかし、艦娘たちの被害はほとんど見受けられない。

 まだ状況はこちらが有利だった。勢いは、断たれていない。

 

「このまま流れに乗れれば、勝てる!」

 

 清霜の背中を力強く磯風が叩く。

 

 二人の視線の先には、敵の旗艦であろう小柄な深海棲艦の姿が見えた。

 

 清霜と深海棲艦の視線が交わる。

 まるで、ずっと昔から知っていた知己に再開したかのような――そんな感覚を、両者は共有した。

 

「――行こう」

 

 だが、そこで異変が生じた。

 耳をつんざくような不快な音が、戦場を包み込んだのだ。

 

「っ、なんだ、これは……!」

 

 全身から力が抜けていく。

 今、戦場を覆っているのは、ただの不快な音ではない。

 

 大淀隊だけではない。

 トラック泊地の艦娘たちも、皆、耳を押さえ、体勢を崩していた。

 

 

 

 制御室のモニターに大きく映し出された文字列を見て、康奈は歯噛みした。

 

『これでもう艦娘たちは戦えない』

 

 IZUNAだ。

 彼女が、この局面で艦娘に悪影響を及ぼす何かをしたのだ。

 

 制御室から研究島の各システムを見直して、康奈はIZUNAが何をしたのか、その答えに行き着いた。

 ここは、艦娘人造計画に関する様々なデータを保管する施設である。

 その中には、人造計画の進行中、艦娘や艦娘被験者が反乱を起こしたときのためのシステムに関するデータもあった。

 

 艦娘は、人間ベースであろうとなかろうと、戦いの際には提督との契約で得られる霊力を使う。

 霊力に不足が起きたり異変が生じると、十分にその力を発揮することができなくなる。

 

 その点に目をつけて、艦娘と提督の間にある霊力の経路をかき乱す装置が作られた。

 今IZUNAが動かしているのは、その装置である。

 

 制御室からその装置を停止できないか試みたが、各所にロックがかけられていた。

 

『司令官。駄目、このままじゃ――!』

『提督。ここは……くっ!』

 

 通信機からは、戦況の悪化を想起させる音声が聞こえてくる。

 いかに数が揃っていようと、練度が高かろうと、エンジンが壊されてしまっては、まともに動くこともできないだろう。

 

 このまま手をこまねいていては、全滅は必至だった。

 

『私と姫様は、自由を手にする。この戦い、最後まで諦めなかった私たちの勝ちだ』

 

 モニターに表示された新たなメッセージ。

 しかし、それを目にしても、康奈は動じなかった。

 

「最後まで諦めなかった?」

 

 制御室のコンソールから離れ、康奈はモニターに正面から向き合う。

 

「その心意気は大したものだけど――最後というのは、まだ訪れていないわ」

 

 康奈は、手に隠し持っていたスイッチを躊躇いなく押す。

 それからキッチリ五秒後、研究島全体を揺るがすほどの大きな爆発が起きた。

 

『これは、貴様、なにを!?』

「私はケジメをつけるためここまで来た。アンタと勝負をするために来たわけじゃない。だから、万一私が失敗したときのために――荒っぽい方法でアンタをどうにかする手段も用意していた」

 

 爆発は一度では収まらない。

 何度も、大きな爆発が島の各所で発生し続けている。

 

『ここを、この島を、丸ごと沈めるつもり!?』

「ええ」

 

 事もなげに言い放つと、康奈は戦場に残っている艦娘たちに通信を発した。

 

「こちらショートランドの北条康奈。皆――調子はどうかしら?」

 

 

 

 身体を覆っていた不快感は消えつつあった。

 深海棲艦の猛攻に押し切られそうになっていたが、かろうじて戦線は維持できている。

 

「調子は、戻ったよ!」

「これなら、まだいける!」

 

 康奈の問いに、各地で戦っていた艦娘たちが応える。

 まだ戦える。

 勝負はこれからだ、と。

 

『なら――いきなさい!』

 

 康奈の言葉に背中を押されるように、清霜は駆け出した。

 

 目指すは一ヵ所。

 敵陣の奥深くにいた、小柄な白き深海棲艦。

 後に防空棲姫と名付けられる、異形の深海棲艦だ。

 

 清霜たちの接近に気づいたのか、防空棲姫も迎え撃つ構えを見せる。

 

「支援する!」

 

 雲龍の艦攻隊・艦爆隊が防空棲姫周辺の深海棲艦を蹴散らす。

 しかし、すべてを倒しきれたわけではなかった。

 残った何体かが、急接近する清霜目掛けて主砲を放つ。

 

「させないッ!」

 

 咄嗟に清霜を庇ったのは春雨だった。

 清霜の前に飛び出した春雨は、敵の直撃弾を受けて、小さな身体を宙に浮かせる。

 

「春雨!」

「いいから!」

 

 先に行って。

 春雨の叫びを聞いて、清霜は振り返るのをやめた。

 

 今見るべきは、防空棲姫ただ一人。

 相手を倒すため、全神経を集中させる。

 

「好きにやりなよ」

「フォローは任せて」

 

 時津風と早霜が、清霜の両サイドから飛び出した。

 周辺の敵を打ち倒し、清霜が防空棲姫へと至る道を切り開く。

 

「行きましょう」

 

 大淀が清霜の肩を叩く。

 側には、磯風と朝霜がいた。

 

 清霜は頷くと、防空棲姫目掛けて主砲を放ちながら接近した。

 敵の反撃を仕掛けてくるが、その砲撃は紙一重で清霜に当たらない。

 

 一歩でも踏み違えれば、そこで決着がつく。

 際どい勝負だったが、清霜は躊躇わずに突き進んだ。

 

 互いに息がかかるほどの距離まで近づく。

 

 清霜の足から魚雷が放たれた。

 防空棲姫も、清霜の腹部目掛けて砲撃を放つ。

 

 両者の攻撃は、紙一重のところで当たらない。

 ただ、清霜の放った魚雷は防空棲姫の護衛の深海棲艦に直撃した。

 

 魚雷が引き起こす爆風の最中、清霜の背後についていた磯風と朝霜が前に出る。

 両者の後ろに控えていた大淀が主砲を放った。

 更に両サイドから磯風と朝霜の魚雷が迫る。

 

 すべて、防空棲姫に命中した。

 だが、それでも彼女は健在だった。

 

「痛い……痛いわねェッ!」

 

 接近していた朝霜の頭を掴むと、力任せに磯風へと投げつける。

 そのまま、流れるような動作で大淀目掛けて連装砲による砲撃を放つ。

 

 接近が仇になったか、連装砲の直撃を受けて大淀の艤装は一気に大破した。

 

 体勢を立て直そうとする清霜と防空棲姫の視線が合う。

 

「私は、ここを切り抜けて自由になるッ!」

「ここを切り抜けるのは、私たちだッ!」

 

 清霜の右腕が輝きを増す。

 アガートラームだ。

 

 防空棲姫の視線が一瞬、そちらに引き寄せられる。

 

 そのとき、間隙を突くようにして現れた者たちがいた。

 紺色のスカーフをまとった一団。

 横須賀第二鎮守府の川内隊だ。

 

 予期せぬところから現れた川内たちに、防空棲姫の動きが止まる。

 その隙を逃すような川内隊ではない。

 

「総員、魚雷発射」

 

 低く鋭い命令が、防空棲姫への死刑宣告となった。

 

 一斉に放たれた多数の魚雷が、防空棲姫の装甲を貫き、致命傷を負わせる。

 

「ま、まだ――まだよ!」

「もう終わりだよ」

 

 なおも足掻こうと川内に迫る防空棲姫に、清霜が主砲の照準を合わせた。

 アガートラームの輝きは、夜には一際強いものに見える。

 

 その輝きの中にあって、清霜は悲痛な表情を浮かべていた。

 

「ごめんね。()()

 

 自然と口をついて出てきた言葉。

 それは、清霜自身が放った砲声によってかき消された。

 

 

 

 結局のところ、手にしたのは自由などではなく、孤独だけだったのかもしれない。

 戦いが終わり、全身から力が失われていく最中、防空棲姫は自分自身の生涯を振り返り、そう結論付けた。

 

 強大な力をもって生まれた彼女は、何に縛られることもなく、思うがままに生きた。

 もっと自由を得たい。そう告げた彼女に、IZUNAは『国を作ろう』と言いだした。

 誰もが自身を肯定するような、そんな国を作ろう、と。

 

 しかし、そこにあるのは自由ではなかったのだろう。

 もし作ることができたとしても、きっと自分は満足していなかったはずだ――防空棲姫はそう感じた。

 

 目の前にいるのは、脆弱で小さな艦娘たちだ。

 一人一人の力は取るに足らないものだろう。

 人間たちに良いように使われて、不自由も多いはずだ。

 辛いことも沢山あるだろう。思うようにいかないことだらけの生活かもしれない。

 

 それでも、防空棲姫は、彼女たちが羨ましいと思った。

 

「最後に一つ、うちの提督から言伝だ」

 

 艦娘の一人が、静かに告げる。

 

『守り切れなくて、ごめん』

 

 告げられたのはそれだけ。

 短い、本当に短い言葉だった。

 

 しかし、そこに万感の思いが込められていることを、防空棲姫は理解していた。

 

「嗚呼――」

 

 やがて死に至るという状況で、防空棲姫の心は、かつてないほど満ち足りていた。

 もしかすると、欲しかったのは、自由などではなかったのかもしれない。

 

「仕方ないなあ。景華姉は――」

 

 防空棲姫の視界がぼやけていく。

 そのとき、彼女は誰かが自分を抱きかかえていることに気づいた。

 それは、よく知っている人のような気がした。

 

「ほら、言ったでしょ」

 

 その誰かに向けて、防空棲姫は言葉を紡ぐ。

 

「ああ見えて、優しい人なんだよ」

 

 もし、次があるなら、もっとちゃんと伝えたかった。

 

 消えゆく意識の中で防空棲姫が最後に思い浮かべたのは、知らないはずの、笑顔の二人だった。

 

 

 

 戦いが終わる頃、康奈は爆炎の中にいた。

 制御室の中、彼女は一人モニターと向き合っている。

 

『逃がさない』

 

 制御室の扉が、開かなくなっていた。

 いろいろと工夫を試みたが、どうにも開きそうにない。

 最後の意地というやつか、IZUNAが完全にロックしているようだった。

 

『お前だけが未来に行くなんて、許さない。私や姫様だけが取り残される未来など、許さない――』

 

 モニターには、延々と恨み言が連なっていく。

 自らが生み出した人工知能ながら、この感情の豊かさに、康奈は素直に驚いていた。

 

「……まいったわね」

 

 研究島は既に沈みかけている。

 制御室も、浸水しつつあった。

 

 爆発のときに壊れたのか、通信機も応答しなくなっていた。

 

『私は諦めない。私と姫様が未来を得られないのなら、お前も、お前だって……!』

 

 IZUNAのしたことは、人間の価値基準で見るなら間違いなく『悪』だ。

 しかし、そこに康奈との――横井飯綱との違いはほとんどない。

 偶々道を踏み外したのがIZUNAだった。それだけの違いだ。

 

「なるほど。それなら、確かに私だけがのうのうと未来を掴むのは、我慢ならないんでしょうね」

 

 もう一度扉を開けようと試みるが、やはりダメだった。

 力ずくで開けることは不可能だろう。

 助けを呼ぶこともできない。

 

 康奈は笑った。

 それは、笑うしかないが故の笑いでもあったし、IZUNAという存在への賛辞を込めた笑いでもあった。

 

「良いわ――そこまで言うなら()()()()()()()()

 

 島が大きく傾く。

 沈みゆく禁忌の知の島の中で、禁忌の生み手と生み出された禁忌は、互いに向き合い続けた。

 

 

 

 そこに、戦勝を喜ぶ声はなかった。

 

 沈みゆく研究島は、海流に大きな影響をもたらした。

 離れなければ、巻き添えで自分たちまで沈みかねない。

 

 近くに残っていた艦娘や深海棲艦の残党は、我先にとその場を離れ始める。

 

「……司令官!」

 

 その中にあって、清霜は一人、研究島に乗り込もうとしていた。

 両脇を固めている早霜と朝霜を振りほどこうともがくが、戦いの疲労もあってか、思うように力が出ない。

 

「よせ、近づいたらお前も無事じゃ済まない!」

「でも、でも……! 私は、また、こんな……!」

「戦艦でも無理だっての! 連絡つかなくなっただけで無事かもしれないだろうが!」

 

 かつての武蔵沈没のことを思い出しかけた清霜の頬を、朝霜が思い切りはたいた。

 そこで、清霜はようやく動きを止めた。

 

「少なくとも、清霜が無理をすることを、司令官は望まないと思う」

「……っ」

 

 眼前で沈みゆく島を前に、清霜は慟哭する。

 それは、長く辛い戦いの果てに勝ち取った、あまりに苦い勝利であった――。

 

 

 

 二〇一五年、夏。

 深海対策庁は、ソロモン海域に進出してきた深海棲艦の大軍を迎撃。

 敵本拠地であるサモアを陥落させ、同地に安寧をもたらした。

 

 なお、この戦いにおいて、ショートランド泊地の提督・北条康奈は戦死。

 同泊地の新たな提督には、大本営の承認を得て、義兄・北条新十郎が就くことになった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ
エピローグ「人は皆、何度でも立ち上がれる」


 二〇一五年、初秋。

 この日、ショートランド泊地の艦娘代表団はソロモン諸島の首都・ホニアラを訪れていた。

 先日の戦いで命を落とした前提督・北条康奈の葬儀を執り行うためである。

 

 日本大使館の長崎は沈痛な面持ちで一行を出迎えた。

 

「皆さん、既に集まられています」

「ありがとうございます。いろいろと手配していただいて」

 

 謝辞を述べる大淀の顔色は悪い。

 あの戦いの後、なにかを振り切るように仕事に没頭し続けていたのだ。

 放っておけばすぐにでも倒れそうで、かなり痛ましい。

 

 後に続く清霜たちの表情も暗いものばかりだった。

 葬儀とはそういう場ではあるが、艦娘たちの喪失感は、見ている方にも辛さが伝わってくるようである。

 

 長崎も、在りし日の少女の姿を思い出して、なんともやるせない気持ちになった。

 まだ若い。戦場で散るには、あまりに若過ぎる命だった。

 

 葬儀の場には、多くの人が集まっていた。

 

 横須賀鎮守府の提督・三浦剛臣。

 呉鎮守府の提督・浮田秀雄。

 トラック泊地の提督・大江元景。

 

 他にも近隣の提督やその代理、深海対策庁に名を連ねる面々が揃っていた。

 

 彼らはショートランドの代表団を見つけると、丁寧に弔辞を述べた。

 若手ながら、康奈の存在は提督たちの間でも、確かに認められていたのだ。

 

 ただ、会場に長尾智美の姿はなかった。

 彼女は大本営の辞令を蹴り、作戦に独断で参加した。

 その責を問われ、横須賀第二鎮守府の提督権限を剥奪され、作戦本部からも外されることになったという。

 

 ショートランド代表として、そして義兄として、新十郎が葬儀を進めていく。

 この間、面倒臭がりな彼にしては珍しく、面倒だとはぼやかなかった。

 

 遺体は見つかっていないため、火葬は行われず、形式的に空の棺が出された。

 

「――これで終わりなのか」

 

 どうにも実感がわかない様子で、磯風が呟いた。

 他の皆も同じような表情を浮かべている。

 

 康奈がもういない。

 そのことを、まだ十分に受け入れられていないようだった。

 

 参列者たちはしばらく残って故人の思い出話をしていたが、皆激務の身ということもあって、程なくその場はお開きということになった。

 

「本当はもう少しゆっくりしていきたかったんだが」

「三浦提督は早々に戻った方が良いだろう。復帰して、やることが盛り沢山なんじゃないか」

 

 新十郎の言葉に、違いない、と剛臣は微笑を浮かべた。

 智美が外されたことで、剛臣を取り巻く状況は急変しつつある。

 横須賀鎮守府の再編や作戦本部の人事替え等、彼はしばらく忙しない日々を送ることになるだろう。

 

 そんな剛臣は、清霜の姿を見かけると、こっそりと耳打ちしてきた。

 

「今夜、教会の側にある康奈君の墓地に行ってみると良い」

「え?」

 

 それはどういう意味かと問いかけようとしたが、そのとき既に剛臣は遠くに行ってしまっていた。

 

「清霜、どうかした?」

「……ううん。なんでもないよ、早霜姉様」

 

 剛臣の言葉の意味は分からないが、そこで何が待っているのかは、なんとなく予想がついた。

 それなら、あまり余人には話さない方が良い。

 そう決めた清霜は、大人しく夜が訪れるのを待つことにした。

 

 

 

 ショートランド泊地の面々は、この後も所用があって残ることになっていたので、宿舎が用意されていた。

 夜半、清霜はその宿舎をこっそりと一人で抜け出す。

 

 昼間は活気のあるホニアラの町並みも、夜は静けさを増し、いつもと違う雰囲気を漂わせていた。

 知っているようで知らない道を駆け足で進み、教会の墓地へと辿り着く。

 

 そこには、先客がいた。

 

 北条康奈の墓石の前に立ち尽くす、小柄な人影。

 

「――景華姉」

 

 清霜が声をかけると、上杉景華――長尾智美は静かに振り返った。

 

「……静。そう呼んでも良いのかな」

 

 智美の様子は、これまでと大分違っていた。

 清霜がこれまで見てきた智美は、表面を取り繕うことはあっても、常にどこかへと怒りを溜め込んでいるようなところがあった。

 今は、それがない。憑き物が落ちた――そういう印象を受ける。

 

 清霜が頷くと、智美はほんの少し嬉しそうに笑った。

 

「最近、どうしてるの?」

「父に捕まらないよう、どうにか逃げ回っているよ。あの男の掌で踊るのは我慢ならないからな」

「あの人は、景華姉をどうしたいのかな」

「さあな。これまでの長尾智美としての立場はすべて奪われた。元々は大本営の一員に加えるつもりだったそうだが、今は何を考えているのやら」

 

 雨で湿った草の香りが、夜風に乗って漂ってくる。

 昼間はしとしとと降り続けていたが、今はもう止んでいた。

 

「あいつは、元気にしているか」

「……うん。今は、他の皆と基礎訓練中」

「記憶は、戻らないか」

「うん」

「そうか。……そうだな。そこまで、都合よくはいかないか」

 

 景華の語ったあいつというのは――防空棲姫のことだった。

 川内隊や清霜に倒された防空棲姫は、その場で駆逐艦・照月へと姿を変えた。

 

 これまでも、艦娘によって倒された深海棲艦の艤装が浄化され、艦娘用の艤装に変化したということはあった。

 しかし、深海棲艦が直接艦娘に変化するというのは、異例の事態だった。

 

 このことは、極僅かな者しか知らない。

 大本営すら掴めていない情報のはずだ。

 もし掴んでいたとしたら、照月は捕らえられ、実験材料として扱われていることだろう。

 

 それは忍びない。

 そう判断した者たちの手で、照月は普通の艦娘として、ショートランド泊地に配属されることになったのだった。

 

「いつか、戻るかもしれないよ」

「そうだな。そのときまでは、私の分まで、お前が守ってやってくれ」

「……なにか不思議な気分だね。景華姉が、私になにかを頼むなんて」

 

 昔は、叱られてばかりだった。

 そう言うと、智美は少しばつの悪そうな表情を浮かべる。

 

「お前も、大きくなったからな。それに、私は自分の不甲斐なさも思い知った。信用できる者は、もっと信頼すべきだと思ったまでだよ」

 

 そうして、二人は言葉を止めた。

 

 残す話題はあと一つだけ。

 眼前の墓に名前を刻んだ、若き提督のことだけである。

 

「……景華姉は、司令官のこと、やっぱり許せない?」

「そうだな。お前の前で、故人についてとやかく言うのもなんだが――正直に言えば、許し難い部分はあるよ」

 

 艦娘人造計画によって、人生を無茶苦茶にされた智美にとって、計画に与していた横井飯綱――北条康奈は用意に受け入れられる存在ではなかった。

 

「だが、あいつの経歴を追ってみると、一概に責めることもできない。あいつが計画に与するようになったのは、そもそも父に原因があるようだったしな。……それに、あいつがいなければ、私たちは今こうしてここで再会できていなかった、とも思う」

 

 智美の言葉は、歯切れが悪い。

 彼女も康奈の死をまだ割り切れていないようだった。

 

「……もっと、沢山お話したかったな。司令官」

「そうだな。恨み言を言うにも、感謝を述べるにも、奴がいなければ始まらない。……本当に、早過ぎた」

 

 智美は、墓を前に手を合わせて静かに祈った。

 清霜もそれに倣って瞼を閉じる。

 

 二人で、しばらくそうしていた。

 

 そのとき。

 誰かの足音が、近づいて来た。

 

 こんな夜更けに墓地へ来るのは、教会の人間か、もしくは特別な用事のある人間くらいだろう。

 念のため警戒しつつ、二人は一斉に振り返った。

 

「――」

「――え」

 

 そこにいたのは、顔の半分を覆うような眼帯を身に着けた小柄な人物だった。

 その人物は、足を引きずりながら、ゆっくりと二人の元に歩み寄ってくる。

 

「こんな時間にこんな場所にいるってことは、貴方たちも三浦さんに呼び出されたのかしら?」

 

 その声は、清霜にとって忘れ難いものだった。

 その顔も、半分だけだが、見間違えようがない。

 

「……しっ、しししし………司令官――!?」

 

 深夜の墓地で、清霜の声が響き渡る。

 

 彼女たちの前に姿を現したのは、葬られたはずの北条康奈その人だった。

 

 

 

 宿舎は、天地がひっくり返ったような大騒ぎになった。

 もっとも、騒ぎの元である康奈本人はというと、やや居心地悪そうに周囲の様子を探っている。

 

 あの戦いで研究島共々沈んだかと思われていた康奈は、その実、沈む直前で脱出していた。

 ただ、研究島の沈没によって生じた海流に呑まれ、しばらくは海を漂流するハメになったという。

 

 それを見つけて救い出したのは、戦後処理にあたっていた横須賀鎮守府の艦娘たちだった。

 

「そのときはかなり危険な容態だったらしくて、東京の病院に連れて行かれて、何度か手術をして、どうにか一命を取りとめたみたいだったのよね」

 

 まだ調子は万全ではないらしく、足は元通り歩けるようになるまでかなりの時間を必要とするらしかった。

 顔の方も、右の視力は完全に失われ、火傷の跡もしばらくは残るのだと言われた。

 

「つまり、三浦提督はすべてを知った上で、しれっと提督の葬儀に参加されていたというわけですか」

「ま、まあ三浦さんも私の立場を考えた上で秘密にしてくれていたみたいだから。皆に話す時間がなかったのかもしれないし」

「……戦後処理の中で、私は大本営やその一派から貴様のことをいろいろと聞かれた。おそらく貴様の行動や通信記録を洗い出したんだろう。貴様の記憶が戻っていることは、連中も把握しているはずだ。しばらくは、身を隠していた方が良い。そう判断したのだろうな」

 

 智美の補足に、大淀は不承不承剛臣への怒りを引っ込めた。

 康奈のための行動であれば、責めるに責められない。

 

 実際、横井飯綱としての記憶を取り戻した康奈は、大本営にとって非常に都合の悪い存在と言えた。

 自らの暗部をいつ暴露するか分からない危険因子である。一歩間違えば、世論を大きく動かしかねない。

 もし康奈を見つけたのが大本営の手の者だったら、今頃どうなっていたか分からない。

 

 剛臣は、独自の調査で康奈の事情をそれとなく把握していた。

 そんな彼の艦娘たちに見つけてもらえたのは、かなり幸運だったと言える。

 

「どこで大本営に漏れるか分からないから、皆にも連絡取れなかったのよ。そこは悪いと思っているわ」

「……いえ。ご無事なら、それでいいんです」

 

 頭を下げる康奈に、大淀は困ったような表情を浮かべた。

 その目からは、涙が滲み出ている。

 

「そうだね。本当に、無事で良かった。司令官」

 

 康奈に抱き着きながら表情をほころばせる清霜に、ショートランドのメンバーは頷いてみせた。

 

「だけど、よく抜け出せたな。完全にロックされちまってたんだろ?」

 

 新十郎の問いに、康奈は「ああ」と思い出したかのように補足説明をした。

 

「説得したのよ、IZUNAを」

「説得?」

「ええ。このまま二人で海の藻屑になるくらいなら――二人で一緒に生きてみないかって」

 

 そうして、沈みゆくギリギリの時間まで、康奈はIZUNAの持っていた情報を手持ちの機器に移動させた。

 IZUNAが本来持っていたデータは膨大な量だ。とても移動しきれるようなものではない。

 ただ、外部とのやり取りをするためのインタフェース規格に関するデータは、きっちりすべて確保したという。

 

「……ええと。それって、どういうこと?」

『私の本体は今も海の底。だけど、こうしてこちらに顔を出すことはできる――ということね』

 

 首を傾げる清霜に、どこからともなく声がかけられた。

 康奈のものにも似た、しかしどこか機械的で不自然さのある声。

 

「右目か」

『ご明察』

 

 康奈の眼帯の内側から声が聞こえる。

 心なしか、眼球の位置の辺りがもぞもぞと動いているようにも見えた。

 

「即席の代物だけど、霊力でパス繋いで会話だけ出来るインタフェースを用意してみたのよ。勝手にあれこれされたら困るから、とりあえず義眼ということで」

『自由に動けないのは気に入らないけど、今はこれで我慢してあげるわ』

「もっとアンタがこの世界に適合したら、ちゃんとしたのを作ってあげるわよ」

 

 そんな二人のやり取りを、周囲は何とも言い難い表情で見ていた。

 IZUNAは様々な問題の元凶とも言うべき大罪人である。清霜や智美からすれば仇の一人でもあった。

 

「……そいつは大罪人だ。そんなものを右目で飼うつもりか?」

「あれだけ生きたい、自由になりたい、と言われたら――生み出した身としてはね」

 

 裁くのではなく、生み出した者としてこれから付き合い続けていく。

 そういうケジメのつけ方を、康奈は選んだのである。

 

 智美はしばらく康奈を睨み据えていたが、やがて大きく息を吐いた。

 

「それがお前のケジメのつけ方なら、私から他に言えることは何もない。――せいぜい貫いてみせることだ」

 

 肯定とも否定とも取れる言葉。

 ただ、そこに敵意はなかった。

 智美の中にあった一つの因縁は、ここで一区切りついたのかもしれない。

 

 智美は席を立つと、ゆっくりと宿舎の出口に向かっていく。

 

「もう行っちゃうの?」

「私がいては、水入らずのところを邪魔することになるからな」

 

 扉を開けて出ていく智美の背中を、清霜がじっと見つめる。

 引き止めたいが、言葉が出てこない。そんな想いが込められた眼差しだった。

 

 その視線に気づいたのか、気づいていないのか、智美は去り際に小声で付け足した。

 

「また――邪魔をする」

 

 

 

 思いがけない再会を機に始まった夜半の祝宴は、終わり時を見失ったまま、夜明け前まで続いた。

 康奈の生還に盛り上がるショートランドの面々は、皆、目一杯はしゃぎ倒した。

 

 そうして、皆が力尽きて寝入った頃。

 康奈は幸せそうな顔で眠る皆を見渡して、優しげな表情を浮かべると、静かにその場を離れた。

 気づく者はいない。それを確認してから外に出る。

 

 じきに夜が明ける。

 水平線の彼方からは、ほんの少しだけ陽の明かりが顔を覗かせつつあった。

 

「司令官」

 

 海を眺める康奈に、後方からかけられる声。

 そこには、清霜の姿があった。

 

 一年前、二人が出会ったときよりも、その表情は少しだけ大人びている。

 

「私は、もう司令官じゃないわ」

「じゃあ、なんて呼べばいい?」

「――とりあえず、康奈、で」

 

 ショートランド泊地の提督・北条康奈は死んだ。

 だが、彼女は康奈という名前まで捨てるつもりはなかった。

 この名前には、彼女がショートランドに辿り着いてからの、多くの想い出が詰まっている。

 

「康奈さんは、これからどうするの?」

 

 祝宴中、皆が聞こうとして聞けなかった問いかけ。

 ショートランド泊地の提督でないただの康奈が、今後どうしていくのか。

 

「世界を見て回ろうと思う」

 

 康奈は迷わず答えた。

 既に、決めていたことである。

 

「私はいろいろなことを知りたいと思った。多くの知識を集めた。けど、知識を扱うニンゲンのことを知らな過ぎた。そこから、いろいろな問題を引き起こしてしまった気がする。だから、今は世界を回って――多くの人のことを知りたいと思う」

 

 サッパリとした康奈の答えに、清霜は寂しそうな笑みを浮かべた。

 

「やっぱり、泊地には残らないんだね」

「大本営に見つかったら問題になるかもしれないでしょ。しばらくは目の届かないところに退散させてもらうわ」

 

 そう言われてしまうと、清霜としては何も言えない。

 あえて引き止めれば、他の皆にも影響が及びかねないのだ。

 

「そんな寂しそうな顔しないの。ときどき、連絡は入れるから」

「うん」

「あと、あまり無茶しないのよ。清霜はいつも無茶ばかりするんだから」

「うん……」

「風邪には気をつけるのよ」

「うん――」

「あと……」

 

 そこで、康奈の言葉が止まる。

 言いたいことはいくらでもあるはずなのに、頭の中が空っぽになって、何も出てこなくなった。

 

 ただ一つ。

 たった一つだけ、言葉が浮かんだ。

 

 大いに照れ臭いが、この機会を逃しては、もう言えないかもしれない。

 そう思って、康奈は一歩踏み込んだ。

 

「あと……できれば、私と、友達になってほしい」

 

 一人の友も得られず消えた横井飯綱。

 司令官という立場からの孤独感と戦い続けた北条康奈。

 そのどちらでもなくなった、ただの康奈だからこそ、言える言葉だった。

 

 清霜はきょとんとした表情を浮かべたが、その意味を考えたのか、ゆっくりと満面の笑みで応えた。

 

 

 

 失った過去を取り戻し、それを背負って進むと決めた二人の少女は、こうして新たな門出を迎える。

 

 再起の道は険しく遠い。

 それでも、このときの想い出がある限り、彼女たちが歩みを止めることはないだろう。

 

 

 

「えー、本日付けでショートランド泊地に異動になりました。夕雲型駆逐艦の朝霜です」

 

 ある秋の日。

 ショートランド泊地の執務室で型通りの挨拶をする朝霜を見て、その場にいる全員が笑いを噴き出した。

 

「なんだよ。なにかおかしいこと言ったか?」

「ううん。た、ただ、なんていうか――」

「凄く今更というか」

 

 笑いをこらえながら応じる清霜と早霜に、朝霜は顔を赤くした。

 

「うるせえな! こっちだってそんなの分かってるんだよ! けど、こういうのはちゃんとやらないと駄目だろうが!」

 

 横須賀第二鎮守府は解体され、そこに所属していた艦娘たちは多くが横須賀鎮守府に編入することになった。

 ただ、希望を出して他の拠点に異動する艦娘もいたという。

 

「あまりからかってやるな、清霜。朝霜はお前のためにここまで来たんだぞ」

「おい、そういう言い方やめろ磯風。ぶっ飛ばすぞ!?」

「じゃあ違うの?」

「あー、もう! うるっせえ!」

 

 じゃれあう艦娘たちを見守りながら、新十郎はボソッとぼやく。

 

「賑やかなのは結構だが、他所でやってくれんかね……」

 

 

 

「はあ、疲れた……」

 

 本日分の訓練を終えて、海風たちは泊地近くの浜辺に倒れ伏していた。

 

「お疲れ様。お届け物だよ」

 

 と、そこに顔を出したのは清霜だった。

 手には封筒を持っている。

 

「郵便?」

「うん。はい、これは海風さん宛てね」

 

 清霜に渡された封筒の送り主の名前を見て、海風は表情をほころばせた。

 そこには、上田と記載されている。

 

「またお父さんから。心配性なんだから」

「そんなに心配ならこっちに来れば良いのにね」

「弟や妹のこともあるから……。それに、ここへの配属は私が我侭言ったっていうのもあるし」

 

 上田は今も横須賀で整備員をしている。

 娘が艦娘・海風として戦う道を選んだこと、ショートランド泊地に配属希望を出したことについては、一悶着あったらしい。

 最終的には父親の方が折れる形になったようだが、条件として、定期的に連絡をよこすよう言われているそうだ。

 

 ちなみに、ショートランドを希望したのは、助けてもらった恩義と、康奈への憧れが主な理由らしい。

 着任当初は康奈の死を聞かされてめっきり落ち込んでいたが、最近は再びやる気を見せ始めていた。

 康奈が泊地に残らなかったのは残念に思っているそうだが、今度会うときまでに立派な艦娘になる、と現在は頑張っている。

 

「あともう一通は、はい、照月さん」

「んー、私?」

 

 ぐったりとしたまま、防空駆逐艦・照月は身体を反転させて、清霜から手紙を受け取った。

 

「あれ、こっちは送り主の名前書いてない」

「そうだね」

 

 ふふふ、と少しおかしそうに笑う清霜に、照月は首を傾げた。

 

「んー? もしかして清霜、なにか知ってる?」

「どうでしょー。あ、それじゃ私これから出撃だからもう行くね!」

 

 照月に問い質されそうな気配を察して、清霜は足早に駆け去っていく。

 不審に思いながらも照月が封を切ると、中には『頑張れよ』という簡素極まりない応援のメッセージが入っていた。

 

「……誰ー!?」

 

 照月の疑問に応える者はいない。

 ただその日、ショートランド泊地には、一人の客人が少しだけ訪れていたそうである。

 

 

 

 ショートランドから遠く離れた異郷の地。

 パスタを愛する人々の国の片隅で、新たな艤装に関する研究が着手されていた。

 

「……はあ。こんなことになるなんて」

 

 困ったような表情を浮かべているのは、艤装研究者のエルモだった。

 彼の背後には、顔半分を覆い隠した小柄な体躯の少女が一人。

 

「あら、私との再会は不満?」

「滅相もない。ただ、なんというか、恫喝混じりのコミュニケーションはそろそろ辛いというかね」

「IZUNAとアンタが繋がってた証拠は既に掴んでるし、いつでも公開できるようにしてある。それだけよ? 公開はしてない」

「それを脅しと言うんだよ……。嗚呼、たくましくなってしまって、まあ」

 

 エルモは嘆きながら資料を少女に渡した。

 

「感謝してるわ、エルモ。私の身分を作るのに手を貸してくれて。これからも良い関係でいたいわね」

「それなら、もっと自由に研究をさせて欲しいと言いますか……」

「モラルって大事だと思わない?」

「イエス・マム」

 

 姿勢を正して作業に没頭するエルモ。

 彼の視線の先には、新しいタイプの艦娘の艤装があった。

 

 欧州の戦況は思わしくない。

 状況を打開するため、艦娘に関する技術開発の需要が高まっていた。

 

『こういう状況だと、目的を達成するため手段を選ばなくなったりする人が増えそうだし、しっかりと目を光らせないとねえ』

「アンタがそれを言うか。……いや、私も言えた義理じゃないけど」

 

 間違えた者だからこそ見えるものがある。

 そう信じて、彼女は無用の犠牲を少しでも抑えようと、この場に立っている。

 

「綺麗事だけでは済まないかもしれない。手を汚さないといけない場面もあるかもしれない。けど、それでも――それが汚れたものであるという事実は、見失わないようにしないといけない」

『分かってるわよ。説教臭いわね、貴方は』

「似たのかもね」

『誰に?』

「内緒」

 

 

 

 道は分かれ、彼女たちはそれぞれ歩みを進めていく。

 いつか再び道が交わるとき、前より立派になった自分を見せられるよう――少しずつ、確実な一歩を踏み固めていく。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あとがき
あとがき


●はじめに

 拙作「南端泊地物語―戦乱再起―」を最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。

 そうでない方はご注意ください。このあとがきには「南端泊地物語―戦乱再起―」の本編に関する内容が含まれております。

 

 

 

●「南端泊地物語―戦乱再起―」とは

 本作は拙作「南端泊地物語―草創の軌跡―」(以下「前作」と表記)と同じショートランド泊地を舞台にした物語です。

 時系列は前作の最終話からほんの少し先。登場人物も重なる部分があります。

 

 ただ、本作は前作の"続編"としては描きませんでした。

 地続きだが物語としては別物。前作を読まないと理解できないような話にはしたくなかった、という想いがあります。

 その一方で、作中では前作で積み上げられたものを登場人物たちに持たせることも意識しました。

 物語は別物でも、同じ世界で生きている人物たちなので、前作から成長した部分も描かねばならないだろう、と。

 

 本作から読んでいただいた方に不案内なところがなかったか。

 前作から引き続き読んでいただいた方に作中の人々の変化を感じ取っていただけたか。

 ある意味、本作で作者が一番気にしているのはそこだったりします。

 

 では、続編ではない物語で何をやりたかったのかというと、一つの大きな物語を描いてみたかった、というのがあります。

 前作も長編ではありましたが、構成は複数の中編が連なっていくというものでした。

 それぞれの中編はほぼ単独で物語として成立するものでしたが、今度はもう少し区切り難い大きな流れを描きたくなり。

 あれやこれやとプロットを練りながら、どうにか着手し始めたのが本作になります。

 

 

 

●北条康奈という提督

 前作の提督が「中年男性」「本人は特に有能ではない」「艦娘たちを導くメンター的ポジション」だったので、その真逆にしようと考えながら人物像を練りました。「若き女性」「本人は有能」「艦娘たちと共に歩むポジション」というところです。

 

 艦娘たちの前では提督として立派に振る舞おうとするものの、一人になると不安を抑えきれず倒れ伏す。

 そういう精神的な脆さ、未熟さを意識して書いていたのが印象深いキャラクターです。

 己の過去も知らないまま、自ら望んだわけでもないのに戦地に向かわなければならない。

 そう考えると、こういう風になるのが自然なのだろうという気もします。

 

 艦娘たちと共に歩むという点から、前作の提督と比べて主人公らしい主人公になった気はします。

 設定上、中盤はもう一人の主人公の清霜や狂言回しの長尾提督の方が目立つ部分がありました。

 率先して動くことで物語を動かす清霜と比べると、康奈は状況に振り回されることが多かったように思います。

 

 ただ、康奈は決断する主人公として描きました。

 華やかさはないけれど、物語中の人々の意思を受けて決断をくだし、物語を次のステージに進ませる主人公です。

 

 この試みが成功したのかどうかは、読んでいただいた方の判断に委ねたいと思います。

 

 

 

●プロローグについて

 主要キャラクターの紹介・主人公が属するショートランド泊地の現状説明をしつつ、説明臭くならないよう苦心しました。

 ショートランド泊地の説明は、現在進行中の出来事に合わせて必要な情報だけを。

 各キャラクターの説明は、艦娘は戦闘およびその後のやり取りを中心に、康奈は大規模作戦の展開に関するやり取りを中心に、なるべく「なぜ今この説明を?」という不自然さが出ないよう気を付けたつもりです。

 

 一度戦闘を行わせた方が艦娘たちの特徴も出しやすい。ただ「特に意味はないけど戦わせました」だと物語上の必要性が薄い。

 そういう理由から、戦闘のキッカケや戦果としてミイラ男こと新十郎を登場させています。

 ここに限ったことではありませんが、本作ではなるべく無駄なキャラクターやシーンが出ないよう心掛けていました。

 

 

 

●第一章「再起のための新たな牙」について

 春雨を軸とした渾作戦編です。

 この話は少し意図的に前作の章に似せた作りにしつつ、最後の方で次章に繋げる要素を怒涛の勢いで叩き込みました。

 前作から続けて読んでくださった方に受け入れてもらいやすい形を取りつつ、徐々に本作の色をお見せできれば、という出来心。

 はたして上手くいったのかどうか。

 

 このときは私自身、清霜・春雨を通して大淀隊の面々や康奈の人となりを探りながら書いていた部分があります。

 最後は横須賀第二鎮守府がいろいろと持っていきましたが、書き手としては大淀隊中心でやっていけそうだと手応えを感じたのが印象深いです。

 

 ちなみに終盤で出したオーバーフロー状態。

 あれは清霜が他の艦娘と違うという演出の一環だったので、最初からここ以外では使わないと決めていました。

 危ない危ないと言いつつ危険な力に手を出すのもお約束ではありますが、前作からの流れを考えると、艦娘にそういう無茶をさせるのはショートランド泊地の提督らしくない、という想いがあったのです。

 

 

 

●第二章「失われた過去から始まる道」について

 物語としては破が始まる部分にあたるこちらの章。

 強大な強さを誇る存在として印象深かった戦艦水鬼との戦いに終始する、戦闘だらけの章でした。

 

 圧倒的物量で攻めてくる強敵相手に限られた力で対抗するという構図は、書いていて非常に楽しかったです。

 前作では呼称の違いはあれど、基本的にどの個体もただの『深海棲艦』として扱っていましたが、本作では人格を持たせて強敵として仕上げようと意識しました。敵側の描写も加えることで戦いに厚みを持たせられたような気がしています。

 

 この章から本格的に物語に絡み始めた横須賀第二鎮守府は、無暗に対立こそしないものの安易に信じて良いか分からない、という微妙な立ち位置になるよう意識して描き始めました。この鎮守府に属する神通・川内・朝霜は三者三様のスタンスを持たせられたので、全員描いてて面白いキャラクターになりました。

 

 トラック泊地の提督の顛末については前作終了時点で既に決めていました。

 惜しいキャラクターではありましたが、こうすることでいろいろなものを動かすキッカケになったように思います。

 前作からの継投キャラだったこともあって愛着があったので、書き終えたときは無性に寂しくなりました。

 

 

 

●清霜について

 もう一人の主人公・清霜は元のゲームの時点で「戦艦に憧れる元気な少女」という要素から、主人公っぽいなと感じていました。

 その一方で姉妹艦を「姉様」と呼んだりする一面もあり、意外と上品なところもある、というところから本作における彼女の前身の設定が決まりました。

 

 設定上彼女もいろいろ背負っているのですが、そういった諸々の要素に引きずられるのではなく、むしろ引きずり倒して動き回るようなパワーを持たせようと心掛けました。もう一人の主人公である康奈が立場上あまり無茶に動かせないので、話を動かすために率先して動く役割は彼女に担ってもらおう、と。

 

 清霜については「記憶をどうするか」と「艦としての側面と人間としての側面のバランスをどうするか」で大いに悩みました。

 記憶については「あっ、戻った!」と戻らせるのは何かわざとらしいような気もして、迷いに迷ってああいう形になりました。

 艦・人間のバランスについては、物語の流れを重視して人間としての面を重視するバランスに。艦として過去を乗り越えるという展開は既に前作や第一章の春雨でやってきた、というのもありましたので。

 ただ、浮いた話にならないよう、その後の「人間としての清霜の話」に繋げるような形にしようと意識して描きました。

 

 

 

●第三章「向き合うべきもの」について

 とにかく話をきな臭い方に持っていくことに心を砕いた章でした。

 最終章への布石を打てるだけ打ちつつ、西方遠征作戦のこともきちんと描かないといけないので、そのバランスに苦慮したのが良い思い出です。

 

 第二章から引き続き戦艦水鬼が登場しますが、彼女の最後の相手が主人公ではないのは、まだ主人公が強大な相手を独力で打ち倒して道を切り開けるほど強くないから、という意味合いを込めています。

 深海棲艦という敵役でありながら、人格を持ち、成長し、最後まで己の矜持を貫き通す。

 戦乱再起の中でもお気に入りのキャラの一人です。

 

 主人公たちの過去が徐々に見えてくるところが物語上の重要なポイントですが、個人的に書いていて印象に残ったのは、第十八陣で神通隊が磯風に向かって告げた一言です。

 特に固有名詞は出さず脇役に徹してもらった神通隊のメンバーたちですが、あの一言に彼女たちの想いを集約させるつもりで描きました。

 

 

 

●最終章「海の彼方で」について

 主人公たちが戦に参戦するまでかなり時間のかかった最終章。

 

 本作はタイトルに「戦乱」という言葉がついていますが、私が描きたかったのは戦そのものではなく、その中で傷ついたり何かを失った人々が「再起」するところでした。

 再起するには時間が必要です。いろいろな人々との交流もあった方が良いです。これからどうしたいか決めることも必要です。

 そういう意味で、再起するまでを丹念に描くべきだと考えて、あのような構成となりました。

 

 しっかりと再起して戦場に向かった清霜と、再起するため過去を清算しようと戦場に向かった康奈。

 この章はとにかくこの主人公二人に視点を集中させて、新しい一歩を踏み出すまでを描き切ろうと決めていました。

 物語を盛り上げる意味で、康奈の顛末についてはいろいろと仕掛けをしましたが、そちらはいただいた感想を見る限り狙い通りにいったケースもあるようで、書き手としては嬉しい限りです。

 

 生きていればいろいろなことはあるし、過ちを犯すこともある。

 二度と取り戻せないものを失うことも多々あるかもしれません。

 それでも、人間はまた立ち上がっていけるのだという想いを込めて、様々な人々の「再起」を描いたつもりです。

 

 

●最後に

 隔週更新ということもあってか前作よりも長期連載となりましたが、本作もこうして無事に終点まで辿り着くことができました。

 今はひとまず充電期間ということで、いろいろなものをインプットしつつ今後の計画を練っていこうと思います。

 

 本作の後も作中人物たちの戦いは続いていくので、また新しいスタイルで別の物語を描ければ、という想いはあります。

 もしこの泊地の物語が再開するようなことがあれば、そのときもお付き合いいただけると幸いです。

 

 最後に、本作にここまでお付き合いいただいた皆様に改めて感謝の言葉を。

 本当にありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編
年賀状について


拙作に触れてくださった皆様、今年一年お世話になりました。
来年も引き続きよろしくお願いいたします。


 二〇一四年・師走。

 年の瀬が近づいてきた日の夜、ショートランド泊地の片隅で康奈は「ううん」と頭を悩ませていた。

 

 時刻は既に深夜二時過ぎ。

 普段ならとっくに寝ている時間帯だが、この日の康奈は眠気を忘れて目の前のものに集中していた。

 

 年賀状である。

 

「なにを、なにを書けば良いのかしら……」

 

 仕事の書類であれば、書くべきことがあるからすぐに済ませることができる。

 しかし、年賀状はそういうわけにもいかない。

 

 年賀状にも書くべきこと――最低限の挨拶というものはあるが、それだけで済ませるのはあまりに殺風景である。

 泊地を率いる立場上、何か気の利いたコメントくらい添えなければならない。

 そう康奈は考えているのだが、肝心のコメントがまったく思い浮かばないのだった。

 

 そもそも、康奈には泊地に来る前の記憶がほとんどない。

 泊地に来たのは今年の年明けから少し経った頃なので、年末年始の記憶がまったく存在しないのだった。

 年賀状を出すのもこれが初めてだし、もらった覚えは皆無である。

 

「せめて、参考になるようなものがあれば良いんだけど……」

 

 眼前に並ぶ年賀状に書かれているのは『謹賀新年』の文字のみ。

 ショートランド泊地には年賀状ソフトなどないので、挨拶文の自動生成やイラスト等の挿入など夢のまた夢である。

 

 素直に泊地の誰かに相談すれば良さそうなものだが、康奈の中にある妙なプライドがそれを妨げていた。

 

 ……年賀状出す相手に年賀状の文面相談するっておかしいし。

 

 ちなみに康奈は泊地の艦娘・スタッフ全員に出す気でいる。

 日頃の感謝を込めたものにしたい。そういう真摯な思いが彼女の原動力となっていた。

 ただ、この場合その真摯さとプライドが悪い具合に働いている。

 

「うう、このままでは何も思い浮かばないまま完徹してしまう。大淀に小言喰らいそう……」

 

 そのとき、康奈の脳裏で不思議な連想ゲームが行われた。

 

 大淀。

 業務をこなす彼女がよく使っているもの。

 

「――そうだ。パソコンで調べれば参考例を調べられるかも」

 

 天啓。

 そこに行き着いたとき、康奈は思わず自分が天才か何かであるかのような錯覚に囚われた。

 実際は睡眠不足で頭が回らなくなっている状態なのだが、今の彼女がそれに気づくことはない。

 

 深夜のテンションで一人発奮しながらパソコンのある執務室に向かう康奈。

 しかし、そこで彼女は思わぬ障害に遭遇することとなった。

 

「……大淀!?」

 

 そこには、こんな夜更けにもかかわらず執務室でパソコンを前に何か作業をしている大淀の姿があった。

 普段であれば、その働きぶりを褒め称えるなり、遅くまで残業していることに注意するなりするところだろう。

 しかし、今の康奈は大淀の前に姿を見せたくなかった。

 見せれば、

 

『提督。こんな時間にこんなところへ来て、どうされたのですか?』

 

 とお説教タイムになってしまうだろう。

 康奈がまだ若いというのもあってか、妙に保護者っぽく接してくる艦娘が何人かいるが、大淀はその筆頭格の一人だった。言ってしまえば康奈にとって姉というかオカンのようなものなのである。

 

 ……大淀、アウトッ! 早くアウトして!

 

 物陰に隠れながらそう念じてみたものの、大淀がパソコンの前から動く様子はない。

 仕方なく康奈は泊地内にある共用パソコンエリアに移動してみたが、こんな時間にもかかわらず、各所のパソコンの前には誰かしら艦娘たちが陣取っていた。

 

 ……ええい、なんで皆パソコンをそんなに使いたがるのよ!

 

 完全に自分のことを棚に上げて頭を抱える康奈だったが、呻いたところで状況は変わらない。

 大淀がいなくなっていることを期待しつつ執務室に戻ってきたが、まだ彼女はパソコンの前で黙々と作業をしていた。

 

 

 

 微かな気配を感じ取り、大淀は内心笑みを浮かべた。

 

 ……フフ、他のところを当たってみたけど駄目だった。そんなところでしょうか、提督。

 

 この大淀、実は康奈の気配にずっと気づいていた。

 更に言うと、彼女がなぜこんな時間に執務室に来ようとしていたのかも知っていた。

 

 ……年賀状が上手く書けなくて参考情報を調べに来た。そんなところでしょう。

 

 数日前から康奈が密かに年賀状作成に取り掛かっていることを、大淀は知っていた。

 意外と康奈は私生活まわりで隙が多い。だからか、それとなく気を付けている保護者組は、康奈が普段と違うことをしていればなんとなく気づいてしまうのだ。

 

 本当なら手を差し伸べてあげたいところだが、康奈は妙に強情なところがあり、大淀たちが世話を焼こうとすると「自分でやる」と意地を張ることが多い。

 私が年賀状用意しますよと言ったところで、康奈は断固拒否するだろう。それは目に見えていた。

 

 ……ならば、提督が私に助けを求めるような状況を作り出すまで。

 

 大淀は、実のところパソコンで何か作業をしているというわけではなかった。

 至って真面目な顔つきだったが、やっていることはマインスイーパーである。

 

 ……私はここをどきませんよ。提督が観念して私の前に姿を見せるまでは!

 

 自己タイムを少しずつ更新しながら、大淀は康奈が諦めるのを待っていた。

 康奈が姿を見せれば後は話術でどうにか丸め込める。

 そんな自信が大淀にはあるのだった。

 

 ところが、康奈の気配は再び消えてしまった。

 今度こそ諦めたのか――大淀がその可能性を思い浮かべたとき、思わぬ来訪者が執務室に訪れた。

 

「大淀さーん、ただいまー」

「駆逐艦早霜・清霜……ただいま帰投しました」

 

 清霜と早霜。

 先日遠征に出かけていた部隊のメンバーである。

 

 ……あれ、なんでこの時間に?

 

 二人が参加していた遠征部隊は、天候悪化の影響で帰りが遅くなるという連絡を受けていた。

 ただ、帰投予定は明朝頃になるはずだとも聞いていた。

 

「お、おかえりなさい二人とも。思ったより早かったのね」

「うん。天候が回復したから少し早めに戻ってきたんだ」

「夜遅いから連絡は控えていたのだけど……。執務室に電気がついてたから、誰かいるのかと思って、報告しておこうかと」

「そうだったの。ともあれ、お疲れ様でした」

 

 そう言って、雨で濡れた二人を拭こうと大淀が立ち上がったとき、更なる訪問者が執務室に姿を見せた。

 

「二人とも、おかえりなさい」

 

 軽やかに挨拶しながら入室してきたのは、康奈だった。

 

 

 

「ふと目が覚めて散歩してたら、帰投した時津風と偶然会ってね。二人が執務室の方に報告しに行ったって聞いたから様子を見に来たのよ」

 

 ほとんど事実である。ただし、一点だけ嘘がある。

 時津風と会ったのは偶然ではない。帰投した部隊の気配を察した康奈が、自主的に会いに行ったのだ。

 

「でも、まさか大淀がこんな時間になるまで残ってるとは思わなかったわ。なにか作業溜まってたかしら?」

「え、ええ。少し片づけておきたいことがあって――」

「そう。でも無理は禁物よ。二人の報告は私が受けておくから、大淀はそろそろ休んだ方が良いわ」

 

 言いながら、康奈は内心で勝利を確信した。

 自然な流れで執務室に入る理由。

 それこそが、康奈の勝利に必要不可欠なものだった。

 

 理由なく執務室に入れば大淀から来訪理由を問い質される。

 そうなれば、ペースを握られて勝率がガタ落ちしてしまうところだった。

 

 しかし、この流れであれば大淀が康奈に理由を問い質すことはない。

 加えて、こんな時間まで執務室に残っていたということを理由に、大淀を帰らせることができる。

 そうなれば、清霜と早霜の報告をまとめるという体で康奈がパソコンを一人使えるのだ。

 

 ……フフフ、悪いわね大淀。今はゆっくりお休みなさい。無理をしたら駄目よ。

 

 半ば本気で気遣いつつ、康奈は勝利を確信して大淀の肩に手を置いた。

 

「――提督」

「大淀――」

 

 睨み合ったまま硬直する二人。

 追い詰めた康奈と、追い詰められた大淀。

 二人の勝負は、ここに決着したと言っても良い。

 

 しかし、そこで予想もしないことが起きた。

 

「あ、大淀さん、司令官。ちょっとパソコン借りていい?」

「遠征中少し気になることが出てきたので調べ物をしたく。すみませんが、少しだけお貸しいただけますか?」

「え? あ、うん」

 

 そう言われては貸さないわけにもいかない。

 それに、すぐに済む用事であれば特に支障はないだろう。

 

 ……ん?

 

 何を調べるつもりなのだろうかと二人の様子を大淀と並んで見ていると、清霜たちが開いたのは『年賀状の書き方』というページだった。

 

「あ、あったあった。へー、こんな風に書くんだね」

「参考になるわね。メモしておきましょうか」

「うん。おお、絵はこんな感じのもあるんだ」

「写真をつける人もいるみたいね。うちでもプリンタとデジカメがあればできるかしら……」

「デジカメは確かあきつ丸さんや長月が持ってたよね。明日辺りちょっと相談してみようか」

 

 ワイワイと話しながら二人が次々と開いていくのは、康奈が躍起になって調べようとしていた参考例が載っているページの数々である。

 

 ……なんだろう。この妙な敗北感。

 

 探し求めていたものが予期せぬ形で目の前に転がり出て来たことで、康奈の深夜テンションは急速にしぼんでいった。

 今となっては、無駄に意地を張ってあちこち動き回っていた自分がアホにしか思えない。

 

 ふと横を見ると、大淀も何とも言えないような微妙な表情を浮かべていた。

 もしかすると、彼女も何かから醒めたのかもしれない。

 

「……清霜、早霜。もし良かったら明日辺り、一緒に年賀状でも書く?」

「え、いいの?」

「もし良ければ――他の子たちも誘って良いでしょうか?」

「ええ、いいわよ。皆で書きましょう。ね、大淀?」

「そうですね――」

 

 やったー、と無邪気に喜ぶ清霜。

 ふふ、と静かに微笑む早霜。

 乾いた笑みを浮かべる康奈と大淀。

 

 師走の夜。

 ショートランド泊地の人々は、少しずつ新しいを年を迎える準備を進めていくのだった――。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大淀隊の年明け

 三が日が明けた一月四日。

 ショートランドは、年末年始の休息から目覚めようとしていた。

 交代制で一部の艦娘は年末年始の間も仕事をしていたが、今日が仕事始めという者も多い。

 

「ふっふーん、負けないからね」

「その自信、どこまで持つか見せてもらおう」

 

 演習場で対峙しているのは清霜と磯風である。

 今、彼女たちは三対三の模擬戦を始めようとしていた。

 

 清霜と同じチームにいるのは、春雨と時津風。

 一方、磯風のチームに属しているのは早霜と朝霜である。

 

「それじゃ、改めてルールの説明……」

 

 審判役を務めるのは、清霜たちの同期である正規空母の艦娘・雲龍。

 艦載機を使ってルール違反等の問題行為がないかチェックし、いざとなれば止める役だった。

 

「これは、駆逐艦としての護衛力を測るための模擬戦。三人の中の一人が護衛対象である旗を艤装につけて戦う。先に相手チームの旗を落とした方が勝ち」

 

 清霜チームは時津風の艤装に旗がついている。磯風チームは、朝霜が旗を指していた。

 

「うん、どっちも準備万端みたい。……それじゃ、演習開始!」

 

 雲龍が手にしていた笛を力強く吹くと同時に、両チームは一斉に動き出した。

 

 最初に動いたのは、清霜と磯風の両名。

 二人は真っすぐ相手チームの旗持ちを狙って突き進み、演習場の中央部で激突した。

 

 まったく同じタイミングで主砲を構え、そこから流れるような動きで一気に横へと急旋回する。

 正面の相手を狙うか、旗持ちの方に矛先を変えるか。

 清霜は前者を選び、磯風は後者を採った。

 

「脇が甘いわ、清霜」

 

 磯風をカバーする形で前進していた早霜が、扇状に広げる形で魚雷を発射する。

 それを横目で見ながら、清霜は一気にその身を加速させた。

 判断に迷って半端な動きをするよりは、思い切った手を打つ方が良い。

 

 早霜の魚雷と並走するような形で、清霜は再度磯風に急接近する。

 大型艦の艦娘・深海棲艦が相手ならともかく、同じ駆逐艦同士なら主砲の射程に入って一撃を食らわせるのが一番堅実だ。

 間合いに入ったことを確認すると、清霜は即座に主砲を放つ。しかし磯風もそれを呼んでいたらしい。同じタイミングで砲口を清霜に向けると、応じるかのように主砲を撃った。

 

 両者の砲弾は宙で激突し、すさまじい音を立てて弾け飛ぶ。

 そのとき、磯風の死角から春雨が主砲を放った。

 

「二段構えか。だが――!」

 

 言葉と同時に、磯風は身を回転させ、紙一重で春雨の主砲を回避する。

 なぜそれを避けられるのか。そうコメントしたくなるような、驚異的な動きだった。

 

 しかし――。

 

「二段構え程度で倒せるなんて、そこまで磯風を甘く見てはいないよ」

 

 春雨の何かを確信したかのような言葉に、磯風は突如水面を叩きつけた。

 その衝撃で、磯風の間近に迫っていた春雨の魚雷が爆発を起こす。

 誘爆するかのように、清霜を追っていた早霜の魚雷も大きな水柱を立てた。

 

「どう――」

「――なった?」

 

 旗持ちの時津風と朝霜は、目を凝らして中央部を窺う。

 結果は、そこから飛び出してきた。清霜と磯風がこの一瞬の空白を好機と捉え、一気に旗を落とすべく旗持ちに迫る。

 二人はそれぞれ魚雷によってダメージを負っていたが、主砲はどちらも無事だった。

 損傷して敵が倒せなくなると困るのだと、二人は咄嗟に主砲を抱え込んで魚雷から庇っていたのである。

 

 両者が旗に照準を定める。

 春雨と早霜が、そんな二人を止めようと接近する。

 

 雲龍が注視する中――主砲が放たれる音が、演習場に響き渡った。

 

 

 

「雲龍から送られてきた映像を見たけど、皆、本当に良い動きをするようになったわね」

 

 演習後、執務室に顔を出した清霜たちを出迎えたのは、年末年始もずっと勤務続きの大淀である。

 朝霜以外の面々は皆同時期に泊地へ着任した同期組で、大淀はそのまとめ役でもあった。

 

 今は昼休憩の時間。

 演習の報告がてら、大淀と一緒に昼食を取っているところだった。

 

「身体がなまっていないことは確認できたが、春雨にしてやられたのは悔しいところだな」

 

 鮭おにぎりを食べながら眉間にしわを寄せる磯風に、春雨は少し照れくさそうな笑みを向けた。

 

「私もちょっとは成長できたってことかな。前は全然だったから」

「そう? 春雨は前から一生懸命にやってたと思うけど」

「ううん。あ、一生懸命にはやってたつもりだけど、なんていうか結果が出せてなかったから」

 

 そうかなあと時津風は首をひねる。

 目に見える戦果こそなかったものの、春雨は割と前々からチームを支える重要な動きをすることが多かった。

 最近は、それに加えて戦果も出せるようになってきたということだろう。

 

「清霜と磯風も、前より周囲が見えるようになってきたように見えた」

 

 雲龍の評価に大淀がうなずく。

 一見すると猪突猛進のようにも見える二人の行動だったが、結果を見ると仲間との連携が成立している。

 自身の持つ特性と仲間の役割を考えた結果ゆえの行動だったとも取れる。以前はもっと連携に難があった。

 

「そうかなあ、えへへ」

「あんまり甘やかさない方が良いぞ。コイツすぐ調子に乗るところあるからな」

 

 演習中とは打って変わって緩い表情を浮かべる清霜に、横から朝霜がくぎを刺す。

 朝霜は清霜たちと着任時期こそ違うが、いろいろあって彼女のお目付け役のような立ち位置になっている。

 突っ込まれた清霜は「厳しいなー、もう」と唇を尖らせた。

 

「ところで大淀さんは、まだ仕事があるのかしら」

「ううん、実はそろそろ休息をとるよう提督から注意されてね。午後からは久々にオフなのよ」

「そうなのね。うふふ……」

「実は私たちも午後予定がなくて。せっかくだから、お正月らしいことを何かしようかなって話してたんです」

 

 意味深に笑う早霜をフォローするように、春雨が状況をかいつまんで説明する。

 

「正月らしいこと……凧揚げとか?」

「泊地内では羽根つきがブームみたい」

 

 確かに近頃は、艦種問わず様々な艦娘が羽子板片手に勝負をしている光景を見かける。

 あちこちから勝負を挑まれ、罰ゲームとしてあちこち落書きだらけになっている者もいた。

 

「でも、午前中演習でかなり動いたんでしょう? 身体動かすので大丈夫なの?」

 

 大淀に問いかけられると、春雨や早霜たちは顔をそらした。今はちょっときついらしい。

 

「ねえねえ、それじゃ駅伝なんてどうかな! 本土の方では毎年やってるらしいし、このメンバーでもショートランド島一周走ってみるとか!」

「おい清霜、お前話聞いてなかったろ」

 

 身を乗り出して提案する清霜を、朝霜がどうにかこうにか押さえ込む。

 新年早々なかなかきつい演習だったようだが、清霜はさほどこたえていないらしい。

 あるいは、疲労に関する感覚が鈍いのかもしれなかった。

 

「書初めでそれぞれ今年の抱負でも書くってのはどうかな。書道部に行けば墨とか一式貸してくれるみたいだし」

「なるほど。集中できそうだし悪くないな」

 

 時津風の提案に、磯風やほかの面々も頷く。

 三が日の間はそれなりに混雑していたが、今なら問題ないだろう。

 

 皆が昼食を取り終えて書道部に向かおうとしたとき、遠征から戻ってきた涼風が執務室にやってきた。

 

「お、出かけるところだったのか。ちょうどよかった」

「どうかしたの?」

「いや、なんかよく分からない手紙が届いててさ。差出人の名前にも心当たりなくて、どうしたもんかと」

 

 涼風が差し出した封筒の宛名には「泊地の皆へ」とだけ書かれている。

 差出人は英名のようだった。確かに心当たりのある名前ではない。住所なども一切書かれていなかった。

 

「開けて見てみれば良いんじゃない?」

 

 どうしたものかとためらう大淀の手から封筒を取って、清霜は封をきれいにはがしてみせた。

 その場にいた全員が、興味深そうに封の中の手紙を覗き込む。

 

 そこには新年の挨拶と泊地の皆を気遣うメッセージ、そして武運長久を祈る言葉が綴られている。

 

「これって――」

 

 記されている字に、清霜たちは見覚えがあった。

 まさかという思いと共に、清霜は手紙の末尾にある「追伸」に目を留める。

 

 Dear friend, Little Battleship. See You Again.

 

「あの人から、か」

「ああ――」

 

 手紙を見ていた皆も、そこで送り主の正体に気が付いたのだろう。

 

 この泊地を去った人。

 しかし、この泊地の皆にとって今も大事な人。

 

 今はどこにいるかも分からない。

 ここに戻って来ることもできない。こうして手紙を送ってくるのも、大変なことだったかもしれない。

 

 それでも、あの人は今もどこかで元気にやっている。

 この年賀状は、そのことを伝えてくれた。

 

「……よーし、返事書かなきゃ!」

「返事って、住所もないし送れないだろ」

「いーの」

 

 呆れたように言う朝霜に、清霜は笑って応じた。

 

「送れるようになったらまとめて送るんだ。それが駄目なら、いつか直接渡しに行く。でも、今書きたいことは今しか書けないから、今書くの!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。