クルーシュチャの肉屋 (日々あとむ)
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前編

 
クトゥルフ神話を知らなくてもたぶん読める。読めなかったら申し訳ございません。
後編はまた気が向いた時に投稿予定。
 


 

/Prologue

 

 

 ちゃりん、ちゃりんと貴金属のぶつかり合う音が室内に響く。

 ひっくり返した皮袋の中にもはや硬貨が存在しないことを確認したアインズは、続いて机の上に転がった硬貨を並べて数えていく。いつか、そうしていた様に。

 

「…………」

 

 幾度か繰り返し山を数え終えたアインズは、やはりかつてと同じように皮袋を持ち上げ中身を確認し、そして――いつかと同じように頭を抱え込んだのだった。

 

「金が――無い」

 

 切実な言葉であった。この場にアルベドが、いやアルベドでなくともナザリックの僕たちがいればその悲哀の籠もった主人の声を解決しようと、ありとあらゆる国、いや世界中から金目の物を根こそぎ略奪しアインズの前に差し出すこと必至であった。

 ナザリック地下大墳墓が所有するユグドラシル金貨と、この異世界に流通する硬貨はデザインや価値が全く違う。そのため、ナザリックからの金貨の持ち出しは不可能であった。他プレイヤーを警戒するアインズたちにとって、ユグドラシル金貨を流出するのは「此処にプレイヤーがいますよ」と教えるのと同義である。よって、外貨を稼ぐ必要があるのだが――残念ながら、現在外貨を稼いで来ることが出来るのはアインズとナーベ……人間の国で冒険者をしている二人のみ。ナザリックの者たちは基本異形種であり、人間の姿をしていないため、万が一を考えて人前には出せないのだ。

 よって、外界で何をするにしてもアインズ――アダマンタイト級冒険者“漆黒”の稼いだ硬貨が必要不可欠なのだが。

 

「あー……稼いでも稼いでも、幾らあっても足りないぞー……」

 

 震える声で呟いたアインズは、目の前の机の上に並べられた硬貨を睨むように見つめる。しかし、幾ら見つめても硬貨は増えない。ポケットの中にいれて叩けば増えるビスケットのように、増えてくれればいいのに。

 

「でも……これも後少しだよな……? 国が出来れば、少しは俺のお小遣いも増えるよな……?」

 

 アインズはナザリックで進行中の計画を思い、そう自分を納得させる。

 現在、ナザリックはバハルス帝国の皇帝ジルクニフとの会談を経て、アインズ・ウール・ゴウン魔導国を建国する計画が立てられていた。アインズが『漆黒のモモン』として活動する主な国――リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国の毎年恒例の戦争に参戦し、ちょっとしたデモンストレーションを経て、このエ・ランテルやトブの大森林、カッツェ平野を魔導国とする予定だ。

 こうして自分だけの国が出来れば必然、自分が自由に出来る金も増えるだろうと、今だけの辛抱だとアインズは自分を納得させた。

 ……例え、この世界の硬貨どころか自分の手持ちのユグドラシル金貨さえ危うくなってこようとも。見栄とは恐ろしいものである。数多の支配者を栄光を翳らすものは、見栄を張れなくなったところから始まるのだ。その点アインズは崇拝者が山ほどいるので大丈夫だろう。……たぶん。

 

 アインズが感情の鎮静化が働かないまでも、精神的に動揺しながら硬貨を皮袋にしまっていると、室内にノックの音が響いた。買い物に行かせていたナーベラルが帰って来たのだろう。

 

 少しの間を置き、ナーベラル――冒険者としてはモモンの相棒ナーベを名乗っている――が入室する。ナーベラルはいつものように、傍で片膝を突いて跪いた。

 

「只今帰還致しました、モモンさ――ん」

 

「そうか……」

 

 相変わらず名前を呼ぶ時に間延びしたような、間抜けな発音をする。幾ら注意しても治らないので、アインズはもはや諦めの境地へ達していた。

 

「何か変わったことはあったか?」

 

「いえ、特には。いつも通り、下等生物(ガガンボ)どもはモモンさんのために働いておりました」

 

 俺のためじゃないんですー。ただ日々生きるために働いているだけですー、とは思っても口にはしない。ナザリックの者たちは人間……というか、ナザリック外の存在を下等生物だと見做しているようで、ナーベラルの発言は特別な発言ではないためだ。ただ、誤魔化すのが上手い者と、下手な者がいるだけで。ナーベラルは当然、後者に当たる。

 

(まあ、間違った発言じゃないしな)

 

 このエ・ランテルの住人たちは近々、アインズの物となる。つまりナーベラルの発言はこれから真実となってしまうのだ。住人たちの内心はどうあれ。

 

「では、何か依頼が無いか組合へ確認に向かうとしよう。私本人が依頼を受けるのも、最後になるかもしれんからな」

 

「はっ」

 

 戦争が終わり、魔導国が建国された後は『漆黒のモモン』は消える。正しくは、中身がアインズではなくなる。アインズは魔道国の王としての責務があるし、その責務の中で事情を知らぬ第三者を交えながらモモンと会合する日もあるだろう。アインズは自分をもう一人作る(・・・・・・・・・)ような特殊技術(スキル)は習得していないため、影武者が必要になるのだ。そして、その影武者を任せられるような代打――それもナザリックの誰もが納得出来るような――は一人しかいない。

 アインズが作成したNPC……パンドラズ・アクターである。

 

「…………」

 

 パンドラズ・アクターを脳裏に思い描いたその瞬間、アインズはドイツ語で喋りながら歌って踊って敬礼する軍服姿が思い起こされ、即座に感情が沈静化させられる。彼の姿に慣れるには、もう少し時間が必要のようだ。

 

(しかし、一国の王かぁ……)

 

 アインズがアインズになり、モモンがパンドラズ・アクターになるその日を思って、アインズは頭痛に見舞われた。無論、錯覚である。しかしアインズにとっては悩みの種であった。

 

(王様? 俺が? ギルドの支配者じゃなくて、一国の王?)

 

 無理だ。アインズはそもそも営業職の平社員――部下がいなかったとは言わないが、しかし部長や社長を飛び越えて国王である。どう考えても無謀にしか思えない。

 確かに、ギルド“アインズ・ウール・ゴウン”のギルドマスターではある。しかしそれは意見の調整役みたいなもので、皆をリーダーとして引っ張ったと言えるようなものではない、とアインズは思っていた。それに、ナザリック地下大墳墓の支配者――それさえ息苦しく、辛い。何かあるとついアルベドやデミウルゴスにそれとなく丸投げしているというのに。

 

(モモンは今まで通り俺がやって、パンドラズ・アクターに俺の役を……っていうのは、誰も納得しないんだろうなぁ)

 

 それが一番正しく国を運営できる方法だ。きっとパンドラズ・アクターならばやり遂げるだろう。アインズだって出来ればそうしたい。

 しかし無理だ。絶対に誰も納得しない。パンドラズ・アクターにこっそり内緒で話して入れ替わる――というのは可能だろうが、色々と後が怖い。主にそれが白日の下に晒された時の。

 

(俺はただの凡人です。お前たちの望む支配者にはなれません――って、いつになったら言えるんだろう……)

 

 ナザリックのNPCは信用している。最初の頃とは違って、彼らは確かにアインズに忠誠を誓っている。それを疑うことはしない。

 だが、それも時と場合による。アインズの真実が彼らの望む支配者像とはかけ離れていると知った時、今までと同じように忠誠を誓ってくれるのか。全ては事後承諾で、アインズの意思は無視されるようになるのではないか――その恐ろしい考えは、やはり頭の中から消せないのだ。

 

(まあ、なるようになるしかないか)

 

 考え込んでいる内に、慣れ親しんだ冒険者組合に到着したようだ。アインズは内心で溜息をつきながら――ナーベラルを伴って、内心を悟らせない堂々とした動作で組合の扉を開いた。

 

 

     

 

 

 今回“漆黒”が受けた依頼は、エ・レエブル領トブの大森林近郊に現れたスライムの討伐だ。酸系のスライムであり、よほど耐久力か魔法抵抗力のある武器防具でないかぎり溶かして破壊してしまうため、冒険者からは特に嫌がられる類のモンスターである。アインズも嫌いな類のモンスターであった。

 実際、ギルド“アインズ・ウール・ゴウン”のメンバーには、ヘロヘロという高価な装備品を溶かしてプレイヤーに嫌われまくっていたプレイヤーも所属していた。アインズも、もしヘロヘロが敵だったとしたら他のプレイヤーたちと同じように、文句タラタラであっただろう。

 しかしこの依頼のスライムはアインズやナーベラルの装備品を溶かすほどの高位モンスターではないため、二人には無力以外の何物でもなかったが。

 ……あの王都で悪魔ヤルダバオト――正体はナザリックのデミウルゴスだが――が起こした大事件の後、“漆黒”は時折エ・ランテル以外の都市で指名依頼が入ることがあった。エ・ランテルで知らない者はいない、と言えるほどの知名度を誇る“漆黒”ではあるが、しかし王都などでは知らない者の方が多かったそれまでと比べると、雲泥の差である。アインズも商人の護衛など旨味はあるが名声としては微妙な依頼ではない、魔物討伐の指名依頼などは断らないようにしていた。

 そのため、極稀にこうして遠出をすることがあったのだが――

 

「ア、……モモンさ――ん。ナザリックへ御帰りになられますか? それともエ・レエブルへ?」

 

 ナーベラルの言葉にアインズは少し考える。普段ならば依頼達成の時間調整のためにナザリックで時間を潰すか、あるいはそれも無視して依頼の達成をさっさと組合に告げて自由になるのだが――。

 

「そうだな……今日は気分を変えて、たまにはゆっくり帰るか」

 

 何せ護衛依頼でもなければ、ゆっくり周囲を見て回るようなことはない。その護衛依頼も正直、薬師のンフィーレアか貴族の成人の儀の二件くらいという少なさだ。更にこの辺りはアインズにとってまだ未探索――たまには、ゆっくり帰ってみるのも有りだろう。

 

「ナーベ。勿論お前がすぐに帰りたいと言うなら話は別だが」

 

 しかし、アインズはナーベラルに問う。これはアインズの意思であり、ナーベラルの意思では無いからだ。だがナーベラルはゆっくり頭を下げ、口を開いた。

 

「いえ。アインズ様の御随意に従います」

 

「そうか」

 

 アインズとしては、ナーベラル自身の意思を問いたいのだが、しかしアインズが「黒を白」と言い張れば、全ては白になる。

 

(俺が間違ってても何も言わなさそうだから、そういうの困るんだよなぁ……とほほ)

 

 これから国を造り、その王になるのだ。アインズに意見せず、唯々諾々と従われるとアインズが間違っていた日には全員で集団自殺になる。その辺りもなんとかしたいのだが、やはりナザリックのNPC達には難しいのだろう。

 

(エ・ランテルの人たちは、そうじゃないって思いたいけど……)

 

 エ・ランテルの人間たちにアインズへの信仰染みた忠誠心は皆無だ。よって、疑問に思ったこと。間違っていることは口に出してくれる可能性が高いが、しかしナザリックの者たちが許すまい。

 

(目安箱みたいなものでも設置してみるかな。匿名の目安箱なら、色々意見も言い易いだろうし)

 

 そこでアインズは閃くものがあった。

 

(そうだよ! 匿名の目安箱をナザリックに配置すれば、ナザリックの知恵者なアルベドとかに意見を聞き易いじゃん! 俺だとバレずに意見を言えて、何が駄目なのか堂々と聞けるぞ……これは良案じゃないか?)

 

 自分が無能だと晒されず、かつ知恵者に改善案を提出させることが出来る。そしてアインズも何が悪かったのか理解出来る。かなりの良案に思えた。

 

(よし! 建国した後はより良い国造りの案件を求めるという名分で、ナザリックに目安箱を設置しよう。良さげなのや俺の意見をアルベドに聞いてもらえば、失敗する確率も減るな!)

 

 アインズは気分を感情の鎮静化が働かない程度に昂揚させ、ナーベラルを伴って気軽に周囲を散歩した。勿論、ナーベラルに何度か話題を振って会話を楽しむのも忘れない。この異世界で手に入れたアインズのペット、魔獣のハムスケがいれば更に会話が弾むのだが、ハムスケは留守番だ。最近のハムスケは武技も覚えていい感じに成長してきているので、アインズとしても楽しみにしている。

 だが――、一緒に武技や戦士職習得のための訓練をしているアンデッド……デス・ナイトは何も変わらなかった。アインズとしても覚えられるとは思っていなかったので、それはいいのだが――もし習得出来たとすれば、さぞナザリックの役に立っただろうに。

 それこそ、計画が根こそぎ変更になるほどに。

 

「……モモンさ――ん、あちらを」

 

「うん?」

 

 ナーベラルが何か発見したようで、アインズはナーベラルの示した指先に視線を向ける。よく見ると、ナーベラルが発見したものがアインズにも微かに見えた。

 

「あれは村……いや、町か?」

 

 幾つかの建物の輪郭が朧げに見える。おそらく、カルネ村のように地図には載っていない小さな町なのだろう。

 

「ふむ。ちょうどいい。少しばかり冷やかしに行ってみるか」

 

 あの小さな町ではアインズ達のことなぞ知る由もあるまい。しかし、ああいう小さな町には面白いイベントが隠されていることがユグドラシルではよくあった。と言うより、RPG風のゲームである定番だ。

 それに、何か興味が引かれるアイテムを売っていたりするかも知れない。帝国の帝都で見た露店などでは、ユグドラシルではなく現実世界の扇風機や冷蔵庫の形をしたマジックアイテムが売られていたこともある。そういうプレイヤーのちょっとしたアイデアなどが、流れている可能性もあった。

 

「行くぞ、ナーベ」

 

「かしこまりました」

 

 ナーベラルを伴い、アインズは少しの期待を込めて歩を進める。あの距離ならば、三〇分程度で着くだろう。

 

 

     

 

 

 訪れた場所はやはり、村というよりは町だった。しかし、それもなんとか町と呼べるレベルのもので、村と言っても過言ではないのだろう。過疎なのか――空き家が目立つ。崩れてそのままにされた建物もあった。

 

「ふむ」

 

 アインズはナーベラルを伴って、町中を見て回る。太鼓と笛の音がどこからか小さく奏でられ、町中に響く。そして井戸の近くで談笑している中年の女たちもいれば、汗水垂らして働く男たちもいた。子供の影はあまり見えない。しかし、誰もがチラリとアインズたちに目を向け、驚いたような視線を向けて、アインズたちをチラチラと見ながらひそひそと囁く。

 

(冒険者が珍しいのかな? まあ、俺たち目立つもんなぁ)

 

 この町よりうんと都会のエ・ランテルなどでも最初は誰もが振り返っていた。それを考えれば町の人間たちの反応は普通である。

 

 ふと見れば、物見台が遠くに見える。鐘もついていたが、材木で出来た物見台は今にも崩れそうで、別の意味で不安だ。牛や豚などの放牧場もちゃんと手入れされていないのか、家畜特有の臭いが風に吹かれてアインズの鼻腔を擽る。

 ……見れば見るほど、もはや朽ち果てていくことが確定したかのような、寂れた田舎町だ。名前は何と言うのだろうか。アインズはまだこの異世界の文字はマジックアイテムが無ければ読めないので、分からない。

 

 あまりに酷い草臥れようだからか。ナーベラルがその美しい顔を不快げに歪めている。

 

「まさに下等生物らしい人間どもが棲むのに相応しい町です。御方があまり長居するような場所では無いと思われます」

 

「そうだな。店を少しばかり覗いて、町を出るとするか」

 

 ナーベラルにとってはエ・ランテルさえアインズには相応しくない、辺境の片田舎だ。そのエ・ランテルが王城とも言えるほど寂れたこの田舎町は、ナーベラルに不快感しか与えないらしい。

 アインズも衛生上あまり長居したいとは思わないため、最低限の用事だけ済ませて立ち去ることにした。

 

 アインズは道具屋が無いか町の人間達の視線を受けながら、周囲を見回して探し回る。モンスターや盗賊・山賊などが存在する以上、どんな小さな村でも武器や防具は置いてある。田舎町でも店くらいはあるだろう。

 そして、確かにアインズは店を発見した。しかし期待するようなものは何も無い。もはや錆が浮き始めている剣。動物の革で出来た盾や軽装鎧。道具屋では薬草を適当に煎じただけにしか見えない、色の濁ったポーション。焦げて炭化した黒い蜥蜴の丸焼き。

 

「…………」

 

 酷かった。むしろ、どうしてこの町が今でも存在しているのか不思議に思うくらい酷かった。いつモンスターに襲われて滅んでもおかしくはない。

 

「……帰るか」

 

「はい」

 

 少し見て回っただけで、もうお腹いっぱいだ。これ以上は胸焼けを起こす。それほどの、時が止まっているかのような寂れ様。この町には何の価値も無い。モンスターが肉を求めて襲うことはあるだろうが、金目当ての賊が襲う可能性は少ないとも言える草臥れ感。人間にとっては屋根のある家にしか価値が無い。

 アインズはナーベラルを伴い、町を出ようとする。人通りの少ない、寂れた細い通り道。そこに並ぶ果物や野菜などの食べ物屋。そこで干し肉などの保存食を買ったのだろう、上半身が腰の位置まで曲がってしまっている、老婆が家を出て二人の横を通る。

 その老婆が立ち寄ったであろう肉屋は、果物や野菜の店と違って露店のように商品を表に並べていなかった。ドアがあり、中が見えない。加工も一緒にしているのかもしれない。

 その肉屋の看板をふと見上げて、アインズは思わず立ち止まった。

 

「?」

 

 ナーベラルが不思議そうにアインズを見上げるが、アインズはその肉屋の看板に視線を釘づけにされていた。目が離せない。それはあまりに不意打ちで、アインズは立ち止まらざるをえなかったのだ。

 

「どうかしましたか?」

 

「――いや、何でもない」

 

 だが、すぐに感情は沈静化され冷静さを取り戻す。アインズは困惑するナーベラルに首を横に振って、先程と同じように歩き出した。ナーベラルも再びその背を追う。

 

「…………」

 

 アインズはその間、生きた心地がしなかった。思わず周囲を見回しかけそうになるが、それが不味いということは分かっていた。故に、必死に理性を働かせて何でもない風を装い、ナーベラルを伴って歩き去る。

 

 急いで、しかしただの冒険者を装って歩き去らねばならない。町を出た後普通の冒険者のようにエ・レエブルへと向かい、そこから急いでナザリックに帰還しなければならなかった。

 ナザリックに帰還した後、やらなくてはならないことが山積みに浮かぶ。あらゆる計画は全て、優先順位が下がっていった。

 そう――この件は早急に片付けなければならない。他の何よりも。誰よりも優先して。

 アインズが見つけた寂れた田舎町の肉屋の看板。そこには、この異世界の言語文字の下にアインズでも読める文字(・・・・・・・・・・・)で、こう書かれていたのだ。

 

 ――――いらっしゃいませ。ようこそクルーシュチャの肉屋へ!

 

 

 

1/田舎町

 

 

 リ・エスティーゼ王国エ・レエブルのトブの大森林付近に存在するこの町“ンガイ”は、トブの大森林を上流に持つ川を挟んだ二つの地区から成る町だ。トブの大森林に近い地区がアトゥ地区、川を挟んだ向かい側がココペリ地区と呼ばれている。

 アトゥ地区にあるのは主に墓場と牧場で、人間の居住区ではない。農作業を生業にしている者たちが多少住んでいるだけだ。対してココペリ地区は露店が並び、人々が暮らしている住宅地となっている。

 人口はもはや村と呼んでもよいほどに過疎化してしまっているが、まだそれなりに人は暮らしている。特徴的なところと言えば絶えず太鼓と笛の音色を、町の楽団が響かせていることか。この楽団の奏でる曲はかつてこの町を作った吟遊詩人が「魔物を寄せつけない曲」として作曲したものであり、効果もあるらしくモンスターに襲われたことはあまりない。そのため、楽団はこの町一番の規模を誇り、昼夜絶えずその音色は町に響いていた。町の人間も慣れたもので、太鼓と笛の音色で眠れないという苦情は存在しない。不思議と、そういう声は無かった。

 そしてアトゥ地区の東にある東墓地で、一人の少女が熱心に墓参りをしている。家から持ってきた布と、水を汲んだ桶で自らを育ててくれた男の墓を拭いて掃除をしていた。掃除が終わると、道すがら買った花を添える。祈る姿は誰が見ても聖女に思えるだろう、このような田舎町には相応しくない整った顔立ちをしていた。少しの沈黙の後、祈り終わった後に少女は立ち上がる。

 少女――クルーシュチャは掃除に使用した桶と布、それから枯れてしまった以前添えた花を持つと、ココペリ地区にある自らの家である肉屋へと歩を進めた。

 途中で、枯れた花を東墓地の入口にある墓守の家の横に捨てていくことも忘れない。墓守が時折墓を掃除してくれるが、なるべく自分の手で掃除してあげたかった。中には、墓守に全てを任せて一向に墓参りに来ない者もいるが、クルーシュチャは自分で世話をするタイプだ。

 クルーシュチャは歩きながら、額から流れてきた汗を拭う。冬が近づき気温は下がってきているが、それでも身動きをすれば体は温まり汗が出る。家に帰った後は着替えないといけないだろう。でなければ身体が冷えて風邪を引く。この季節に病気は致命的だ。ましてや一人暮らしのクルーシュチャでは、そのままひっそりと息絶えてしまいかねない。

 川の上にかかる橋を越え、ココペリ地区のぼろぼろの石畳の上を歩き家に向かっていると、顔見知りの人間が話しかけてきた。よく自分の店に肉を買いに来る、腰の曲がった老婆だ。

 

「クルーシュチャや、先程アンタのことを探している外の人間に会ったよ」

 

 老婆の歯はほとんど抜けているので、聴き取り難い。しかしクルーシュチャは慣れたもので、老婆の言葉を聞き間違えたりはしなかった。

 

「私に会いにですか?」

 

 しかし解せない。この町の外にクルーシュチャの知り合いはいない。自分を育てた男からも、特に知り合いがいるという話は聞いていない。なので、その客人にさっぱり見当がつかなかった。

 

「何かおっしゃってましたか?」

 

「さぁの。わしもよく分からんわい」

 

 老婆はクルーシュチャに伝えた後、もはや興味が無いのか老人特有の危ない足取りで去っていく。クルーシュチャは一人首を傾げながら、再び帰路を目指した。

 そして自宅がある小さな通り道、同じようにこの通りに店を構えている果物屋の男がクルーシュチャに声をかける。

 

「よぉ、さっきお客さんが来てたぜ。出かけてるから今は開いてないって声はかけさせてもらったがね」

 

 おそらく老婆が言っていた外の人間だろう。クルーシュチャは果物屋の男に訪ねた。

 

「どんな人だったんですか?」

 

「変な格好の爺さん。この町じゃ見ない格好だったな」

 

「わかりました。ありがとうございます」

 

 その特徴を聞いても、やはりクルーシュチャに覚えは無かった。クルーシュチャは不思議に思いながら、果物屋の男に礼を言うとその横を通り過ぎて、自宅である肉屋の前に立つ。そして、服のポケットから自宅の鍵を探した。鍵と言っても簡素なもので、先が左に曲がっている鉄の棒を、穴に挿すだけだが。

 鍵を開けたクルーシュチャはドアを開け、中に入る。中はいつも通り、幾つもの干し肉などの加工肉、あるいは生肉が天井に吊るすように並べられており、奥にカウンターと調理場や寝室が一体になった狭い部屋があった。特に変わった形跡は無い。

 クルーシュチャは歩を進め、カウンターの奥へ向かう。調理場で桶を片付け、布を適当な壁に引っ掛けて乾かす。それから一旦寝室に帰り、身体を乾いた布で拭いて服を着替えた。調理場に再びやって来るといつものエプロンを手に取り、着る。そして手を洗うと、かつて“口だけの賢者”なる者が考案したというマジックアイテム――冷蔵庫から肉を取り出した。これを棍棒や包丁で挽肉にして、豚の腸詰を作らなくてはならない。そろそろ在庫が無くなりそうだ。

 クルーシュチャが店を開くのは午後から――日が空の真上に昇るまで、まだ時間がある。出来るかぎりの作業をしておこう。

 肉をまな板の上で挽肉にしながら、クルーシュチャは自分を訊ねてきたという客人を想像する。この辺りでは見ない格好をした老人――。一体、どんな人で何の用があったのだろうか。

 つい最近も、見たことのない漆黒の戦士と綺麗な女性が町に現れたと聞くし、クルーシュチャは首を傾げるばかりだ。

 

 

     

 

 

 クルーシュチャの肉屋は、日が暮れると共に閉店する。一仕事を終えたクルーシュチャは、「本日は閉店しました」と書かれた看板を家のドアに掲げ、家に入ると内側から鍵を閉めた。

 その後、吊るしてある肉の状態を一つ一つ確認していく。傷み始めたものは腸詰などに加工して売らなくてはならない。幸い、今日は腸詰にしなくてはならないほど傷んでいる状態の生肉は存在しなかった。

 生肉の状態の確認を終えた後にも仕事はある。加工肉の在庫確認。帳簿など――色々な仕事は山積みだ。

 しかし、苦にはならない。何か作業をしているのは好きだ。何もしないのは落ち着かない。一人で切り盛りするのは大変だが、この仕事は自分に向いていると思う。

 

 そうして全ての仕事を片付け終えた頃には、日は完全に沈みきり、空は星や月明かりを広げた夜空となっている。クルーシュチャは大甕に溜めていた水を小さな桶で掬い、大きな桶に移す。そして、服を脱いだ後その大きな桶に座った。

 

「つめたっ」

 

 もうこの季節になると水が冷たい。夏は涼しくて毎日でも水浴びをしたくなるが、秋の中頃から水浴びは厳しくなってくる。

 濡れたタオルで身体を拭って汚れを落としながら、ふと髪を一房握って目の前に持ってくる。クルーシュチャの髪は長いため、髪の先は簡単に視界に入った。クルーシュチャは自身の真っ黒な髪を眺めながら目を細める。

 

「そろそろ、髪を洗おうかな」

 

 乾かすのが面倒ではあるが、髪をあまり長く洗っていないと汚い。噂に聞く浴場なるものがこの町にも出来ればいいのだが、期待は持てまい。クルーシュチャは溜息をついてから、濡らした布で汚れを落とすように髪を丁寧に拭い始めた。

 

 水浴びを終えたクルーシュチャは、寝室へと帰り明かりを灯す。クルーシュチャは一つだけある小さな木の机に近寄ると、更に隣に置いてある小さな本棚から、一冊の薄い本を取り出した。

 椅子に座り、机の上に薄い本を広げる。目的のページを探し終えたクルーシュチャは、置いてある羽ペンを手に取った。

 

「えぇっと……今日の出来事は――」

 

 毎日の日記をつけること。クルーシュチャが必ず、毎日行っている作業。自分を育ててくれたあの男も言っていた。日記をつけるのは良いことだと。

 

「――よし」

 

 日記を書き終えると、いつもと同じ場所へ戻す。そして明かりを消すとベッドへ転がり、目を瞑った。クルーシュチャの朝は早いのだ。しっかり眠って疲れを取らなくてはならない。

 

「…………」

 

 うつら。うつらと混濁した意識で明日の朝やるべきことを確認する。その中で、仕事の最中は忘れていたことを思い出した。

 

 クルーシュチャを訊ねたという老人。彼は何者なのだろうか、と。

 

 

     

 

 

「よくぞ、私の前に集まってくれた各階層守護者たちよ」

 

 ナザリックの最奥とも言うべき玉座の間で、玉座に座り跪く守護者たちを眺めていた支配者が口を開く。

 

「まずは感謝を告げよう。デミウルゴス、何度目になるか分からないが、ことあるごとに呼びつけているお前の労を労わせてくれ」

 

「勿体ないお言葉です、アインズ様。御方のために働くことに歓びを覚えこそすれ、苦などあるはずがありません」

 

 聖王国というナザリックから遠い国に牧場を構えていたデミウルゴスは、深々と頭を下げた。そして、同時に疑問を覚える。何故、自分は呼ばれたのだろうか、と。

 

 確かに、今は忙しい時期だ。魔導国が出来る前準備の期間であり、誰もが忙しなく働いている。特にデミウルゴスに対して、アインズは気を遣っているように思えた。主人はデミウルゴスにばかり仕事を任せるのを、デミウルゴスにばかり負担をかける行為だとして遠慮しているのだろう。

 勿論、デミウルゴスに「仕事で忙しい」という状況は歓喜の感情こそ覚えるが、苦など欠片もない。むしろ、他のシモベたちに自慢したい気持ちでいっぱいだった。ナザリックのシモベたちにとって、アインズのために働くことは喜びなのだ。

 しかし、慈悲深き主人はシモベたちを必要以上に働かせることを嫌う。自分たちシモベ如きを慈しんでくれる主人には涙を流す他ない。そんな主人が他の守護者たち――シャルティア、アウラ、マーレ……更にリザードマンたちを統治して、デミウルゴスと同じくナザリックを頻繁に離れるコキュートスさえ呼び戻しているのだ。

 それに――アルベドやセバス。二人の気配が臨戦態勢の如く強張っているように思える。そのことから、今回の集まりが重要案件であると告げていた。

 

「さて、今回お前たちを呼び戻したのは重要な発見をしたからだ」

 

 コツリ、と注目を集めるようにスタッフを床に叩いて鳴らしたアインズは、一息の呼吸分を開けて――告げた。

 

「――プレイヤーの痕跡を発見した」

 

「――――」

 

 全員の気配が、先にそれを知っていたであろうアルベドやセバスと同じ様に変わる。当然、デミウルゴスも例外ではない。

 

(……ついに!)

 

 今までプレイヤーの痕跡が無かったわけではない。話に聞く六大神。伝説の八欲王。そして二〇〇年前の十三英雄――口だけの賢者など、確かにプレイヤーの痕跡自体は存在した。

 だが、そのどれもが自分たちとは年代のずれたモノなのである。誰もが、既に死亡していると思われるプレイヤーたちなのだ。

 だが、アインズがわざわざ自分たちを集めて告げるということは――そのプレイヤーは、今も生きている可能性が高いということ。

 

(なるほど。道理で――)

 

 自分たちを急遽呼び戻すはずだ。デミウルゴスはアインズが何を考えているのか、幾つも思考を重ねる。しかし、アインズはその一手で複数の意味を持たせる神算鬼謀の持ち主。デミウルゴス如きでは表層に触れる程度しか出来まい。

 いや、それとも――表層にさえ、本当は触れられていないのか。

 

「場所はリ・エスティーゼ王国のエ・レエブル領――トブの大森林より五キロほど離れたところにある、ンガイという町だ。この町は年々過疎化が進んでおり、町の住人はほとんどいないということだが……」

 

 主人が語るンガイの町は、数十年前に吟遊詩人が、行き場所も帰る場所も失った人間たちを集めて作ったと言われているらしい。

 しかしそれはンガイ以外の町の人間から情報収集した結果であり、プレイヤーの本拠地の可能性もあるため町の住人からの情報収集は控えている。

 だが、周辺で集めた情報により、奇妙なことが発覚した。

 

「私が偶然訪れる結果になった町だが、過疎化が進むのは致し方ない田舎町だ。今となってはカルネ村の方が活気があるだろう。だがな――ンガイの町出身者(・・・・・・・・)が周辺の村や町に一人もいないとなると、中々に奇妙な話だと思わないか?」

 

「――――」

 

 デミウルゴスはその情報で、ある可能性を考慮する。

 ンガイの町は過疎化が進み、住人が減少の一途を辿っている。ならばこの町から出て行った人間は、まず周辺の村や町に移っているはずだ。脆弱な人間の身ではモンスターが出現する可能性のある平野を歩くのは、かなり勇気のいる行為だろう。少なくとも、何度もしたいとは思うまい。そして、あまり遠い旅はしたくないはずだ。

 ましてやンガイの町にはまともな武器や防具が売っていなかったと言う。冒険者もいるはずが無く、訪れたとしても長居したくなるような雰囲気でも無い。

 護衛のいない状況で、町を出て行く。一人で、あるいは守るべき者がいる家族で。

 ――ならば、周辺の町や村にンガイの町出身者が一人もいないのは、あまりに偶然が過ぎる。誰一人無事に別の町に辿り着けなかったとでも言うのか。最初は、町が一つ出来上がるほどの規模だったはずだ。今となっては寂れていようと、それは確かに異常だ。

 

 まるで、外部に町の情報が洩れることを嫌ったかのように――誰かが始末していると考える方がしっくりきた。

 

「以上のことから、現状は外から町周辺の監視、という状況に留めている。この異世界に来て初の、生きているプレイヤーと遭遇の可能性だ。さて……お前たち、何か変わったことはあったか? 特に外に出ているデミウルゴスに、コキュートス」

 

「ございません」

 

「ゴザイマセン」

 

 アインズの問うような視線に、デミウルゴスは即座に答える。そういう気配はまるで無かった。どうやらコキュートスも同様のようで、淀みなく答えている。そしてアウラやマーレも首を横に振った。

 

「ふむ……。好意的に考えれば、シャルティアを洗脳した相手では無い――と見るべきだが」

 

 しかし断定するのは危険だ。向こうがこちらの状況に気づいていない可能性、あるいは気づいていながら白を切っている可能性もある。

 敵対していないと見せかけて――アインズをわざと誘き出し、御方に言葉にするのも、想像するのも憚られる不敬と称するのさえ生温い行為を働こうとしているのやも。そこまで考え、デミウルゴスは溢れそうになる殺意を抑えた。

 

「――まだ断定は出来んな。初見の相手と考え、徹底的な隠匿を行いながら引き続き調査に専念するとしよう」

 

「――よろしいですか、アインズ様」

 

 デミウルゴスは顔を上げ、アインズに進言する。アインズはデミウルゴスに視線を向けると、発言を促した。

 

「かまわん。何か案があるのか?」

 

「相手の反応を見るために、シモベによる強行偵察はどうでしょうか?」

 

 当然、強行偵察するとなれば相手の印象は悪くなるだろう。しかし、これまでの町の情報から、そもそもこの相手は町を大事にしていない可能性の方が高い。人間の暮らしをよくする気さえ感じられない。適当に、町という体裁を整えたという感じだ。現地勢力に合わせた低レベルのシモベたちによるちょっとした襲撃ならば、構わないと思える。

 あの町にはモンスターの襲撃に対抗する手段が、見たかぎりでは存在しない。しかしカルネ村の横のトブの大森林に縄張りを持っていたハムスケもおらず、その状態で数十年間町を維持するのは不可能だ。必ず、どこかに対抗する手段が存在する。モンスターに襲撃させれば、違和感を発見出来る可能性もあるだろう。

 勿論、それなりにリスクは存在するし、デメリットもある。デミウルゴスは幾多の可能性を考えながら、今回は強行偵察をしてもメリットの方が大きい気がしていた。

 しかし――

 

「――いや。虎の尾をわざわざ踏みに行く必要はあるまい。まだ敵対すると決まったわけではないプレイヤーを、敵対行為に走らせる必要は無いだろう」

 

「――失礼致しました」

 

 デミウルゴスは再び頭を下げ、沈黙する。アインズがそう言うならば、おそらくデミウルゴスには考えつかないとてつもないリスクが存在するはずだ。強行偵察がイコールで敵対行為のように告げるアインズの言葉からも、何かあることは確実である。

 ……それを察せられない我が身が、とことん不甲斐ない。強行偵察を行わない数多の可能性は思いつくが、しかし自分如きが考えることなど主人は御見通しであるだろうし、対抗策も考えているだろう。……主人は神算鬼謀の持ち主。その一手に複数の意味を持たせる稀代の策略家だ。やはり自分如きでは、その表層にさえ触れることが出来はしないのだ。

 情けない。ただひたすらに、無能な我が身を恥じ入るばかりだ。

 

(――守護者が役に立つ、ということを主人にこれからも示さなくては)

 

 以前王国で行ったゲヘナでアインズには褒めていただいたが、やはりまだ足りない。聖王国の魔王の件も、もっと計画を煮詰めなくては。デミウルゴスは更なる忠誠心で決意を胸に固めた。

 

 

     

 

 

「あー……」

 

 アインズは一人きりになった自室の寝室のベッドで、ごろごろと左右に転がり回る。今日もシーツからはいつもと同じ良い香りが漂っていた。

 しばらくそうしていたアインズは、ふと止まって仰向けになり天井を見上げる。

 

「……ンガイのプレイヤー、か」

 

 この異世界に来て初めての、プレイヤーとの遭遇……の可能性だ。まだ確定してはいないが、少なくともあの町に過去プレイヤーがいたことは確かであり、今も生きている確率は高かった。

 最有力候補は、当然あの“クルーシュチャの肉屋”である。まだ家の中を確認してはいないため、中がどうなっているか分からないがいずれは確認に向かわなくてはならない。

 

「他にも店の名前とか気にしておけば良かったな……」

 

 ぽつりと呟く。この異世界の字が読めないため、つい露店に並んでいる商品ばかり見て確認していたが、もしかすると看板にあの肉屋のように日本語が書かれていたのかも知れない。

 

「とりあえず、敵対はしたくないな。生産職だったりするなら、ナザリックに招待したいくらいなんだけど……」

 

 プレイヤーが生産職なら最高だ。一〇〇レベルの生産職プレイヤーならば、アインズたちに絶対に勝てない戦力で、かつナザリックに役立つクラスを持つという最高の相手である。

 しかし生産職である可能性は薄いかも知れない。あの町は幾らなんでも文化レベルが低過ぎだ。生産職プレイヤーがいるとはとても思えない。……勿論、隠している可能性もあるが。

 

「強行偵察、か……デミウルゴスが進言したってことは、それが一番いいんだろうけど」

 

 ナザリック最高の頭脳を持つデミウルゴスの言葉だ。当然、それが最適だと分かっている。しかしNPCは知らず、プレイヤーは知っている情報などがある。

 例えば超位魔法の種類。超位魔法はNPCには使用出来ないため、彼らはその類の知識が杜撰だったりする。

 もう一つは、世界級(ワールド)アイテム。こればかりは、ユグドラシル時代は単なるAIで動いていたNPCたちには分からない情報だ。宝物殿にいるパンドラズ・アクターも、設定が反映されずにギルド“アインズ・ウール・ゴウン”が所有している世界級(ワールド)アイテムの効果しか知らなかった。

 そしてこの世界級(ワールド)アイテム……二〇〇種類ほどあるのだが、どれもこれもかなりの壊れ性能なのだ。特に「二十」と呼ばれる類はかなりまずい。ナザリックのようなカルマ値がマイナスに振り切っているような対象に、凄まじい広さの効果範囲で影響を及ぼす“光輪の善神(アフラマズダー)”など――絶対に使って欲しくない世界級(ワールド)アイテムだ。

 勿論、デミウルゴスはそういった世界級(ワールド)アイテムを知っていただろう。シャルティアが世界級(ワールド)アイテムで洗脳された時に、アルベドたちにアインズが教えたのだから。

 しかし、彼らはプレイヤーを知らない。プレイヤーに遭遇したのはユグドラシル時代――つまりAIの時代だ。その時の記憶がどうなっているのか、アインズには想像も出来ない。

 そう、だからこそ強行偵察は最後の手段だ。ナザリックのNPCたちがアインズのことを叡智の持ち主だと勘違いしているように――きっと、プレイヤーに対しても何らかの勘違いをしている可能性がある。シャルティアが完全装備で武装していながら洗脳されたのも、きっとその勘違いに拍車をかけている。

 

 そう――プレイヤーは、NPCたちが考えるような偉大な存在などではない。本当の中身は、どこにでもいる、ありきたりな人間なのだ。

 

 ……勿論、アインズのようにアンデッドになって精神がぶれない冷静な思考の持ち主になるプレイヤーもいるだろう。しかしそれはアンデッドの種族特性であり、他の種族になったプレイヤーがどんな精神構造なのかまるで分からないのだ。

 人間種のプレイヤーならば、精神構造はまるで変わっていないかもしれない。

 異形種のプレイヤーならば、アインズのように精神構造までも異形になっているかもしれない。

 そして――もとはただの人間でしかないプレイヤーは、ふとした弾みで世界級(ワールド)アイテムを使ってくるかもしれない。

 世界級(ワールド)アイテムの効果は世界級(ワールド)アイテムで打ち消しが出来る。だが、異世界に来て効果が変わってしまい、「二十」などは単純に世界級(ワールド)アイテムを持っているだけで打ち消すことが出来なくなっている可能性だってある。

 それについて実験はしたいが、あまりに勿体なさ過ぎてとても実験は出来ない。もう一度入手出来る手段を確立しなければ絶対に出来ない。

 そしてその状況で、相手が短絡的に世界級(ワールド)アイテムを使用し――「二十」を持たなければ貫通するなどという効果を発揮するものがあった場合――あまりに最悪な状況だった。

 

 ただ話しかけるだけの行為が、即敵対行為と取るプレイヤーがいないとも言い切れない。故に友好的に――そう、プレイヤーの蘇生実験に協力してくれるくらい、友好的にいきたいものだ。

 

「一番いいのは、死んで蘇生した経験があるプレイヤーだな」

 

 それなら問うか頭の中をちょっと覗くだけで済む。それだけで確認が出来る。しかし復活魔法は残念ながら、かけた相手が必ず復活してくれるユグドラシルとは違う。位階魔法のレベル、という意味ではなく。

 この異世界では、かける相手が蘇生する意思を持っていないと蘇生しない。敵対したプレイヤーを殺害した場合、蘇生拒否の可能性は少なくなかった。だからこそ、友好的に接して蘇生実験に協力してくれるようになって欲しい。

 ……まあ、シャルティアを洗脳したプレイヤーならば、蘇生する意思なぞ根こそぎ駆逐して、復活魔法を受け入れないレベルの苦しみを味わわせてやるが。

 

「……まずは周辺から情報収集。それから町の中を探索、か。プレイヤー名だけでも分かればいいんだけどな」

 

 ギルド“アインズ・ウール・ゴウン”のメンバーがそうであったように、一部のユグドラシルプレイヤーはWikiなどに情報掲載されてしまっていた。たっち・みーのようなワールドチャンピオンならば、当然アインズは全員のプレイヤー名を覚えている。

 プレイヤー名が分かれば、多少は役に立つ。名前被りは登録出来ないのがオンラインゲームの常なので、似たような名前はいても同名はいない。勿論、かつては文字表記だったので「るし☆ふぁー」や「ルシファ―」、「るしふぁー」など名前の響きだけで判断するのは危険だが。

 

「……まあ。ああやって堂々と日本語を晒しているあたり、案外向こうも寂しくてプレイヤーに見つけて欲しいのかもしれないな」

 

 ンガイの町出身者の人間がいないのは気になるが、モンスターが蔓延る異世界だ。村人程度ならばかつてアインズがこの異世界に来た時のカルネ村のように、雑魚に蹂躙されるようなこともあるだろう。それに、距離的に他の村や町とは遠いので、更に無事に引っ越し出来る可能性は減る。

 好意的に解釈すれば、こう思える。しかし最悪の事態はやっぱり想定しておくべきなので、アインズは天井を見つめながら気を引き締めた。

 

 

 

2/肉屋の娘

 

 

 クルーシュチャは今日も、いつもと同じように墓参りへと向かう。――クルーシュチャへの変わった来客が訪れてから、数日が過ぎていた。

 最初に教えてもらった、変わった服を着た老人。

 ……実のところクルーシュチャは、少しだけ薄気味悪い思いをしていた。何度か自分を訪ねに来ていると隣近所や常連から知らされているのだが、クルーシュチャはその老人に一度も遭遇したことが無いのだ。まるで本人と会うのを避けられているかのように、クルーシュチャからは影も形も見えない。

 それが少しだけ、気味が悪かった。もしもこれが偶然ならば、きっと相手の方も薄ら寒い思いをしているだろう。

 

「おはようございます」

 

 東墓地の墓守に声をかけ、クルーシュチャは目的の墓へと向かう。自分を育ててくれた男の墓は相変わらずだった。花は萎み、墓碑は汚れが見える。クルーシュチャはいつものように枯れかけた花をどかし、布で丁寧に墓碑を拭いた。

 そして、いつも通り掃除を終えた後は祈りを捧げ、枯れた花を持ってしゃがんでいた身を起こす。掃除用具の小さな桶と布、枯れた花を持って墓守に花を預けて東墓地を後にした。

 さてそのまま家に帰ろうかと思ったが、気分を変える。せっかくだ。そろそろ牧場で美味しそうな肉を仕入れてもいいかもしれない。冬はよく加工肉が売れるのだ。

 クルーシュチャは同じアトゥ地区にある牧場へと向かった。

 

「……相変わらず、糞尿の臭いがきついですね」

 

 牧場へ向かう途中から分かっていたことだが、やはり動物を飼うと臭いがきつい。クルーシュチャは鼻がムズムズする感触を味わいながら、いつも世話になっている畜農家の牧場を覗いた。

 

「どれがいいかな?」

 

 柵越しに動物たちを見る。どれも「ぶぅぶぅ」と鳴いて元気そうだ。ただこの牧場の動物たちは臆病なようで、クルーシュチャを見るといつも端に寄ってクルーシュチャから逃げてしまう。

 

「んー……」

 

 しかしクルーシュチャはそういった動物たちの怯えた様子なぞ気にしない。何せ、この後彼らはクルーシュチャの家に肉になって運ばれてしまうのだ。時にはクルーシュチャ自ら、頭部を分厚い肉包丁で叩き落すこともある。動物たちに対して、肉屋は無情なのだ。

 

「どれにするんだクルーシュチャ?」

 

 畜農家の中年の男が声をかける。クルーシュチャはじっと動物たちを見つめ、心に決めた。

 

「あそこにいる右から二番目のオスと真ん中の奥のメス、それと子豚を一頭お願いします」

 

「はいよー」

 

「いつものように、よろしくお願いしますね」

 

 クルーシュチャの注文に男は気軽に答えて、すぐに柵の中に入る。何かを察したのか二頭の動物たちは柵の中で逃げ回るが、簡単に男に捕まえられて縄を首に括りつけられた。そのまま、ぐいぐいと建物の中に引っ張られていく。

 そして――か細く、響くような悲鳴が耳に届いた。解体が始まったのだ。

 クルーシュチャは踵を返し、牧場を去る。後は荷車で男が家まで解体した肉を運びに来てくれるだろう。

 

「――?」

 

 墓参りと牧場で発注を終えて帰宅したクルーシュチャは、家のドアに手をかけながら首を傾げた。

 

「……開けたまま出かけましたっけ?」

 

 そういう日もあるだろう。クルーシュチャは全く気にせず、家のドアを開ける。そのまま中に入り、いつもと同じ作業を開始した。今日もいつもと変わらない日常が始まるだろう。

 

 …………しかしその日、誰も客は来なかった。いつもの老婆さえも。

 家の鍵がいつの間にか閉まっており、店の看板が「閉店」を示していたことに気がついたのは、もう日が暮れた時だった。

 

 そうして、薄気味悪い思いをしながら日々を過ごしていると――ある日、クルーシュチャのもとへ不思議な客が訪れた。

 見たこともない、全身を隙間なく覆う漆黒の鎧。揺れる赤い外套。背負われた二本の大きな剣。その威圧に驚いて、クルーシュチャは口をぽかんと開けて漆黒の戦士を見つめる。漆黒の戦士は呆然と自らを見つめるクルーシュチャに気がつくと、見た目に依らず朗らかな声色で訊ねる。

 

「失礼――少しよろしいですか。お嬢さん」

 

「あ、は、はい!」

 

 背筋をぴんと伸ばし、兜の隙間の奥を見つめる。しかし暗くて、その先に何があるのか、クルーシュチャには分からなかった。

 

「この店の店主にお聞きしたいことがあるのですが……」

 

「あ、それは私です。この店は私の店なので」

 

 漆黒の戦士の言葉に答える。すると――

 

「それならちょうどよかった。では――看板にある、あの小さな文字を書いた人はどなたかな?」

 

 かつてクルーシュチャを育ててくれた男が書いた、不思議な文字を漆黒の戦士は訊ねたのだった。

 

 

     

 

 

「あの、お水――」

 

「――ああ、結構。そう長居するつもりはありませんので」

 

 アインズは肉屋の店主である娘――クルーシュチャにそう断って、案内された粗末な椅子に座る。ナーベラルには店の外で待つように伝えていた。勿論、警戒は一切怠らないように言い含めて。更に普段アインズが隠して連れているシャドウデーモンなども同様だ。アインズは、これからこの少女に訊ねる事柄の一切を、NPC達にはまだ漏らす気はなかった。

 

 クルーシュチャが対面に座ったのを確認し、アインズはプレイヤーと懇意である現地人をしかりと見つめて、確認していく。

 

「さて――あの看板の文字を書いた人ですが……本当に、もう亡くなられたんですか?」

 

「はい。()はもう随分と昔に息を引き取りました。川の向こうにある東墓地に埋葬して、もう何年にもなります」

 

 クルーシュチャは語っていく。

 その男は、右も左も分からない頃のクルーシュチャを親身に支えてくれたのだと言う。この肉屋も本当はクルーシュチャのものではなく、その男のものだったのだが男の死と共に遺産として受け継いだのだ。

 そんな恩義ある男だが、クルーシュチャは男がいつも不思議だったと言う。

 

「なんというか……いつも心ここにあらずと言えばいいのでしょうか? 笑顔の絶えない人でしたが、どこか遠くを見つめているような、不思議な雰囲気の人でした。他人に物を教えるのが好きな人でしたけど、いつも別のところを眺めているようで――本当の意味で、他人を見てはいないんだろうな、と思えました。そんな人でしたけど、不思議と人を寄せつけていましたね」

 

「心ここにあらず――まるで、ここは自分の居場所ではない、というような?」

 

「そうですね。そんな感じです。……いつも俯瞰的な物の見方をする人でした。最後の一線では、一歩身を引いているというか」

 

「なるほど」

 

 アインズは男の話を聞きながら、思う。おそらく、男は元の世界に帰りたいと思ったタイプのプレイヤーなのだろう。しかしアインズのようにギルド拠点と共に転移したのでもなく、かといって他のプレイヤーもおらず。たった一人で――この異世界にやって来て、ひっそりと絶望したのだ。

 

 ……本当に、ぞっとしない話だ。自分にはナザリックがあってよかった。異形種でよかった。仲間もおらず、人間種であるがために刻一刻と迫る寿命――仮に自分がその立場だったらと思うと、恐ろしい。泣きたくなる。

 

「あの文字は故郷の一つである国の文字――もし読める人間がいたらと……そう私に呟いたこともあります」

 

「……申し訳ない。少しばかり、この町に来るのが遅かったようだ」

 

 素直にそう思う。孤独に苛まされたプレイヤー。アインズがもう少し早くこの異世界に転移していれば、きっと間に合っただろうに。

 そうすれば――そのプレイヤーはアインズやナザリックの役に立ったはずだ。

 

「いえ、いいんです。そう言って下されば、彼も救われると思います。それに、全部が全部無駄になったわけではないと思いますから」

 

 貴方が来てくれてよかった――クルーシュチャはアインズの顔を見て微笑む。

 

「実は一つだけ、遺言状を預かっているんです。あの文字を読める人が来たら是非(・・)渡して欲しいって」

 

「ほう?」

 

 プレイヤーが他のプレイヤーのために残した遺言状。既にこの店内のあらゆる場所はシモベ達に探索させており、装備品やマジックアイテムの類が無いことは確認済みだが、手紙が残っているとは知らなかった。

 

(調べ損ねた? ――やっぱり、何かマジックアイテムがこの店に隠されているのか?)

 

 何度か隠密・探索専門のシモベ達が店内を調べているが、怪しいものは一切出て来なかったと聞いている。そう、おかしなくらいに。この店主である少女さえ姿を見たことが無かったと言うのだから、アインズは少女に対してはかなり警戒していた。

 しかし、アインズが見るかぎり少女は普通の少女だ。勿論、アインズには相手の力量がどうたら――など分からない。だがそのアインズが見ても、少女はただの現地民。この異世界に来た時に遭遇した村娘のエンリくらいの印象しか受けない。よく墓参りに行くと言うから、おそらくタイミングが悪かったのだろうと思っているが……。

 

(この町を作った、この少女の養父とかいうプレイヤー……何者なんだ?)

 

 少女が遺言状を持ってくるために席を離れている間に、アインズは考える。しかし――答えは出ない。

 

「お待たせしました」

 

 思考に没頭する間に、クルーシュチャが帰って来た。少女の手には、何の変哲もない手紙が一通収まっている。

 

「これが、彼の――ナイアルラトホテプさんの遺言状です。どうぞ、お受け取りください」

 

「では、失礼――」

 

 アインズは手紙のがわを、まず確認する。特に何の変哲も無い。それこそ、シモベ達が見逃してもしょうがないほどに、単なる手紙だ。中を見ないかぎりは分からないだろう。

 封を切って開ける。そして手紙の中を取り出して――アインズは納得した。これは中を見ても分からない。こんなものが遺言状だとは思わないだろうし、仮にシモベ達がこれを発見していたとしても、意味が解らなかったに違いない。

 というか――

 

(ちょ――俺も意味分からないよ! 何なんだよこの内容――!)

 

 知らないプレイヤー……ナイアルラトホテプに頭の中で幾つも罵倒を浴びせる。信じられない。意味が分からない。誰かに見られたくなかったのかも知れないが、勘弁してほしい。ちゃんと、プレイヤーが意味の分かる言葉で残して欲しいものだ。

 

 手紙の内容をしっかりと読んでいる風に見えるであろうアインズを、少女が見つめている。アインズは頭の中で、頭の良いギルドメンバーの一人を思い描いた。

 

(助けて死獣天朱雀さん!)

 

 リアルでは大学教授であり、おそらくこの手紙の内容をすぐに理解してくれそうなギルド最年長メンバーに心の中で助けを求める。

 脳裏に描かれた死獣天朱雀は、アインズに対して朗らかに微笑んでいた。欲しいのは微笑みではなく、現実的な知恵であった。

 アインズは何度も、何度も間違いであってくれと手紙を読む。しかし内容は何一つ変化しなかった。そこにあるのは、間違いなく、絶望的なまでの現実であった。

 

 手紙には、びっしりと――小卒のアインズには理解不可能な数式の羅列が並んでいたのだった。

 

 

 




※暗号はちゃんと相手が解けるように作りましょう。
しかしこれってホラータグつけた方がいいんですかね……?
 


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後編

 
クルーシュチャ「これどーぞ!」←複雑な数学方程式の書かれた遺言状
アインズ「」←最終学歴小卒の人間
 


 

3/遺言状

 

 

「ぐあああああああッ!! どうしろってんだこの内容!!」

 

 アインズはナザリックの自室で、メイドも何もかも追い出して一人悶え苦しむ。興奮が一定量を超える度に、精神昂揚が抑制されるが、しかし何も解決しない。冷静になる度に手紙の内容を思い出し、また苦しむ。

 

「なんなんだよこの数式――わけ分かんないよ……! ナイアルラトホテプとかいう奴、馬鹿じゃないのか!?」

 

 手紙に向かって、何度も罵倒を繰り返す。幾ら罵倒を浴びせようが、手紙の内容は変わらない。それが余計に腹立たしい。

 

「どうするんだよ、これ……本当に、どうするんだよ……」

 

 アインズが無い知恵を幾ら振り絞っても答えは出そうにない。この数式は、アインズには絶対に解けない。しかし解かないという選択肢は存在しない。これがプレイヤーが残した遺言状であるかぎり。

 

「ヒント……何かヒントは無いのか……?」

 

 せめて切っ掛けは欲しい。何らかのとっかかりが無いと、これはアインズには解けない。あっても解けないかもしれないが――相手はアインズと同じプレイヤーだ。きっとアインズにも解けるはず。そう信じている。信じたい。

 

「……プレイヤーの持っていた装備は店内には無かった。もしかすると、墓の中にあるのかも」

 

 ヒントがあるならば、おそらくそこだろう。しかしその前に――

 

「……一部分だけ、アイツに見せてみるか」

 

 アインズは〈伝言(メッセージ)〉の魔法を使って、あるNPCを呼び出した。その間に、手紙の数式の一部分を別の羊皮紙に書き写す。

 そしてアインズが室内で待っていると、そのNPCはすぐにやって来た。

 

「アインズ様! お待たせいたしました!」

 

 ネオナチの軍服に、卵頭――アインズの作成したNPCパンドラズ・アクターである。精神的なダメージを思えばあまり会いたくないNPC筆頭なのだが、アインズが一番信用・信頼出来るNPCと言えば彼以外あり得ない。……あまりこの判別の言い方は好きではないが。

 

「よく来た、パンドラズ・アクター。早速だが、お前に少し聞きたいことがある」

 

 大仰な動作で畏まるパンドラズ・アクターを片手で制しながら、アインズは先程書き写した数式の一部を見せる。

 

「お前……これが何か分かるか?」

 

「拝見させていただきます」

 

 パンドラズ・アクターはアインズの手から、両手で恭しく羊皮紙を受け取り、その数式を見つめる。ぽっかりと空洞が空いたようなその無機質な表情からは、アインズは何も読み取れない。無言で数式を眺めるパンドラズ・アクターを、じっと観察して――パンドラズ・アクターは跪いた。

 

「……申し訳ございません、我が主よ。私如きでは、この数字の羅列が何を示しているのか、理解することは不可能のようです」

 

 跪くパンドラズ・アクターを見つめながら、アインズは更に訊ねる。

 

「ふむ。……アルベドやデミウルゴスでも無理そうか? 正直に答えよ」

 

 パンドラズ・アクターは少し考え込むと、再び頭を下げて告げた。

 

「そうですね……同じくナザリックの知恵者として創造された御二方ですが、私と同じく難しいのではないかと」

 

「なんでお前はこれを解けないと思ったんだ? これが一部分だけだからか? 全文揃っていれば解けそうか?」

 

 アインズの言葉に、パンドラズ・アクターは首を横に振る。

 

「我が無能をお許しください、創造主よ。おそらく全文揃えても、私には一部さえ読み解くことは不可能でしょう。この方程式がどの様な理論で成り立っているのか、理解出来ないのです。アインズ様は既にご理解なさっていると思いますが、これは我らが故郷ユグドラシルとは全く異なる理論で計算された方程式――故に、守護者統括殿やデミウルゴス殿であっても、この方程式を解くのは不可能に近いのではないかと」

 

「そ、そうか……」

 

(ホーテイシキ……ホーテイシキって何さ……。そんなの習った覚え全く無いよ! もっと優しい問題にしてよ!)

 

 ナイアルラトホテプの馬鹿! おたんこなす! 頭の中で既に死去したプレイヤーを罵倒しながら、アインズは考える。パンドラズ・アクターでさえ一部を読み解くことも出来ず、そしてそのパンドラズ・アクターがアルベドやデミウルゴスでも解けないのではないか、と言った謎の数式。

 

(ん? ユグドラシルとは全く違う理論?)

 

 それはつまり――

 

「我が無能を恥じるばかりです、アインズ様。如何なる罰も受けましょう。……ですが、この失態を払拭する機会をいただけるのであれば、これに勝る喜びは――」

 

「――いや、よくやったパンドラズ・アクター。ユグドラシルとは異なる理論――その答えが聞きたかった」

 

「は?」

 

「礼を言う。当然、これが解けなかった罰など無い。元の仕事に戻ってくれ」

 

「……我が創造主の御慈悲に感謝いたします」

 

 パンドラズ・アクターはそう再び頭を下げると、元の職務に戻っていく。その姿を見送って、アインズは再び手紙を見つめた。

 

(ユグドラシルとは異なる理論、か)

 

 やはりこれはプレイヤーの遺言だ。おそらくこの数式は、ユグドラシルではない現実――鈴木悟が生きていたリアルに存在する理論で編まれた数式なのだろう。

 

「……随分高尚な趣味の奴だな。一般人は分からないだろ、絶対」

 

 確かに自分はそれほど頭がいいとは思わないが、それでもナイアルラトホテプというプレイヤーは一般人とはかけ離れた知識の持ち主に違いない。小学生は『ホーテイシキ』という数式を習わない。つまりナイアルラトホテプという奴は、高学歴のプレイヤーだろう。同じ小卒仲間のウルベルト・アレイン・オードルが嫌いそうな相手だ。こんな悪趣味な暗号を残すなど、さぞかし学歴が自慢だったに違いない。

 ……もっとも、この異世界では学歴など意味を持たなかっただろうが。

 

「……しかし、リアル知識が重要となるとこの遺言状のように、シモベ達は見逃している可能性があるな」

 

 リアルの知識が必要となれば、ユグドラシルで生み出されたNPC達は役に立つまい。あの店内を再び、今度はアインズ自身が家探しする必要が出て来る。

 

 アインズは「はあ……」と溜息をついて、覚悟(・・)を決めた。

 

「……俺が行くしかないか」

 

 

     

 

 

「さあ、どうぞ。好きに調べてくださってかまいません」

 

 クルーシュチャは再び店を訪れた漆黒の戦士モモンを、快く受け入れた。あの男からも、看板の文字を読めた者が訪れたのなら、受け入れてあげろと言い含められている。

 クルーシュチャが案内したのは、かつて男が使っていた部屋だ。モモンが何を知りたがっているのか知らないが、男の私物はここにしか置いていない。墓には骨が入っているのみだ。

 

「ありがとうございます。少しばかり時間がかかるかもしれませんが――」

 

「いいえ、お気になさらず。では、私は下で店番をしていますから終わったら声をかけてください」

 

 クルーシュチャはモモンに笑顔でそう伝え、カウンターへと戻る。モモンが何を調べるのか知らないが、それはクルーシュチャには関係の無いことだ。

 クルーシュチャはカウンターで、いつも通り過ごした。そして――

 

「……あれ?」

 

 日が暮れ始める頃だろうか。ドアがゆっくりと開いて閉まる(・・・・・・・・・・・・・・)。風のせいだろうか。クルーシュチャは不思議に思いながらカウンターを出てドアを確認する。

 特に変わった様子は無い。いつも通りの、古びたドアだ。

 

「…………?」

 

 首を傾げ、再びカウンターに戻る。しかし随分と時間が過ぎた。モモンはまだ戻って来ないのだろうか。そう不思議に思いながら過ごしていると――慌ただしい様子でモモンが一人クルーシュチャの前へ戻って来た。

 

 片手に、あの巨大な剣を携えて。

 

 

     

 

 

「さて――では調べさせてもらおう」

 

 鍵をかけてすぐにドアを開けられないようにした後、魔法で聴覚を鋭敏にする。連れて来ていたナーベラルは外で待機――元の姿に戻ったアインズの家探しが始まった。

 

「定期的に掃除はしているみたいだな」

 

 埃の量を見て、ぽつりと漏らす。床も家具も真っ白くなっていないところを見るに、最低限の片付けは常にしているのだろう。肉屋で忙しいだろうによくやる。

 

「怪しいのはまず本棚だな」

 

 本棚であろう棚には、幾つもの羊皮紙が纏めて束ねられている。これら一枚一枚を確認するのは骨が折れそうな作業だが、仕方がない。アインズは一枚ずつ確認していった。

 

「…………うん?」

 

 アインズはその羊皮紙を確認していく内に、これがちょっとした解読文になっていることに気がついた。羊皮紙には幾つも“x=3”や“θ=24”など、あの遺言状に出ていた記号などが書かれている。

 

(シモベ達が見逃した理由は、やっぱり記号や数字のせいかな?)

 

 単なる記号や数字の羅列と判断されてもおかしくない。リアルの文字を知らなくては、きっとこの異世界の文字だと勘違いしただろう。アルベドやデミウルゴス、ドイツ語が使えるパンドラズ・アクターならば奇妙に感じただろうがそこまで知性にステータスを振っていないシモベ達だと、きっと分からなかった。

 アインズは懐からあの遺言状を取り出し、羊皮紙を幾つも捲りながら確認していく。勿論、別の羊皮紙にメモを取ることも忘れない。

 

 ――そして、アインズはこの遺言状が遺言状などではなく、単なる日記の一部を抜粋したものだと気がついた。

 

 

 <Yggdrasil>のフィールド内でバグを発見する。作成した覚えのないNPC、プレイヤーデータの無いキャラクター。上司から、早急にこのバグを消去するよう命令された。今日は残業だ。

 

 チクショウ! このバグを解析したが何がどうなっているのかさっぱり分からない。なんなんだこの奇形染みたコードは! 今日も家に帰れそうにない!

 

 駄目だ。直そうとすればするほど、複雑化して手に負えなくなっていく。もう元のコードがどんな文字列だったかもわからない。徹夜と残業のし過ぎで幻聴まで聞こえ始めた。今日も家に帰れない。

 

 単調な太鼓とフルートの音色という幻聴が、今日も聞こえる。作業が終わらない。一体どうなっているんだこいつは。俺は家に帰れるのか。いや、そもそもバグが直せなくてクビになったらどうすればいい。

 

 くぐもった、狂おしいほどの、連打する太鼓の音が。それに混じる、単調で、か細いフルートの冒涜的な音色。ああ、うるさい。作業に集中できない。

 

 気がついた。これは、量子力学の方程式だ。何故こんなものが<Yggdrasil>内にあるんだ? とりあえず、この数式を解いてサーバー内から削除しなくては。ああ、今日も太鼓とフルートの音色がうるさい。

 

 この方程式を解くのは骨が折れる。しかしやらなくては。このバグを取り除かないと会社をクビになってしまう。今日も太鼓とフルートがうるさい。

 

 数式を解く。今日も太鼓とフルートがうるさい。

 

 数式をとく。今日も太鼓とフルートがうるさい。

 

 すぅしきをどく。、きようも太ことクるー卜がうるさい。

 

 す きをとくとくとくどどとく。。、きき日も大ことふハーとがろるさい、、、

 

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 たすけて

 

 

「…………なんだこれ」

 

 背筋がぞわっとする。明らかに、まともではない。そもそも――

 

「プレイヤーじゃない、よなコイツ……」

 

 遺言状じゃないのはまだいい。単なる日記の一部を抜粋したものでも構わない。だが――そもそも、これはプレイヤーのものではない。

 明らかに、これは運営――それも制作会社の社員の悲鳴だ。ゲーム内で見つかったバグに右往左往し、四苦八苦し、家に帰れず直せないことに絶望し退社させられるかもしれないことに怯えて――そして。

 

 何故か、量子力学というよくわからないモノの数式を解くことに固執し始めている。

 

「…………」

 

 ここにきて、ナイアルラトホテプというプレイヤーに対して疑念が湧く。この町を作った、クルーシュチャの養父だというプレイヤーはまともじゃない。こんな複雑な、趣味の悪い遺言状を作るなんて頭がおかしい。狂っている。

 

「……異世界に来て、狂ったのかコイツ」

 

 そう判断せざるをえない。異世界転移という現実に発狂して、こんな趣味の悪いことを考えついた。そうとしか考えられない。しかし――

 

「――――」

 

 何故か分からないが、アインズはその答えに決定を下せない。それが正解だと思うのに、心の奥底で「否」と答えている。

 

「――――」

 

 アインズは無言で座り込んでいた床から立ち上がる。周囲を見回し、音を探る。気配は無い。

 それらを確認した後、アインズは一つだけある机の引き出しを見た。引き出しの中には、一枚の紙切れが入っている。

 何故ここに紙切れが一枚だけ、忘れられたかのように置いてあるのか。羊皮紙ではなく、メモ用紙にしか見えないそれ。それを不思議に思う間もなく、アインズの視界にそれが焼きつく。

 紙切れに書かれた、複雑な数式。あの遺言状に書かれたものと同じ数式。ただ、筆跡が違う。あの遺言状を書いた存在と、このメモ用紙に数式を書いた存在は別人だ。そしてアインズには理解出来そうもないその数式が、アインズは何故かこれが件の日記の主が必死になって解こうとしていた数式の形をしたバグだと理解し――最後に、書かれたアルファベットが目に入る。

 

『ny har rut hotep』

 

「これは――」

 

 この単語の意味は知っている。そう、ある創作神話の大ファンであったプレイヤーがギルドメンバーにいて、よくその趣味の話を聞かされたから覚えている。

 プレイヤーの名前は、タブラ・スマラグディナ。この単語の意味は――

 

「門のところに安息はない」

 

 即ち、ある神の名前。クトゥルフ神話という創作神話における、外なる神と呼ばれるモノの一柱にして、あらゆる外なる神のメッセンジャーでもあるモノ。

 

 其の名を、ニャルラトホテプ。

 千の貌を持つと言われる無貌の神にして、唯一人格と呼べるモノを、慄然たる魂を持つ恐怖の象徴。人間を狂気に誘うトリックスター。

 

「ナイアルラトホテプ――ニャルラトホテプ、か」

 

 この神格はファンの間でも各々好きな発音で呼ばれる。故に、ニャルラトホテプであったりナイアルラトホテプであったり――確かギルド“燃え上がる三眼”もこの神格の異名を捩ったギルド名だったはずだ。

 数式とイコールで結ばれたアルファベット。それが何だか恐ろしく、おぞましく感じて――アインズの聴覚が、物音を捉えた。

 

 足音。足音がゆっくりとアインズのいる部屋まで向かい、そして部屋の前で止まるとドアをノックする。

 

「――ア、モモンさ……ん。もう日が暮れますがどうなさいますか?」

 

「……ナーベ?」

 

 その声の主はナーベラルだ。最初に名前を言い間違いそうになることといい、「さん」ではなく「様」と言いそうになるところといい、間違いない。

 アインズがドアを開けると、やはりそこにいたのはナーベラルだ。いつもの冒険者の格好をして、ナーベラルが立っている。

 ナーベラルはアインズの姿を見ると、すぐに跪こうとしたのでアインズは慌てて止めた。

 

「おい、待て。人に見られたらどうする? 店主の少女はどうした?」

 

「……? いえ、誰もいませんでしたが?」

 

「なに?」

 

 ナーベラルの言葉に、アインズは驚く。カウンターに戻って店番をする、と言っていたのだがどういうことだろうか。

 

「カウンターに誰もいなかった、だと?」

 

「はい」

 

「……用事が出来て外に出たのか? いや、待て。ナーベよ、長い黒髪の少女だ。黒いエプロンを着けた人間の少女を見ていないか? 誰かが外に出た気配は?」

 

「――いえ、何も見ていません」

 

 ナーベラルの答えに、気を引き締める。何かが起きている。それを確信した。

 

(転移魔法か? あのクルーシュチャとかいう少女が使って……いや、外からこっそり入って来た何者かに誘拐された可能性もあるか)

 

 アインズは元の漆黒の戦士の姿になると、片手にグレートソードを抜き、ナーベラルにも声をかける。

 

「要警戒。外に出るぞ」

 

「はい」

 

 ナーベラルも気を引き締め、廊下を歩く。外に続くドアを目指しそして――カウンターの近くまで来た時、カウンターで暢気に店番をしているクルーシュチャと目が合った。

 

「――――は?」

 

「――――え?」

 

 クルーシュチャは驚きに目を見開いている。当然だろう。何せ、今アインズは何故か片手に剣を抜いているのだ。室内で、いきなりそんな刃物を構えてやって来た男が出たら顔見知りとはいえ驚くだろう。

 しかし、アインズだって驚愕する。ナーベラルは誰もいなかったと言っていたはずだ。なのに、ここにはクルーシュチャが立っている。いないはずの、肉屋の少女がそこにいる。

 

「え? あの……?」

 

 クルーシュチャは不思議そうに、アインズの顔と剣を交互に見て視線を動かしていた。アインズは頭痛がするような錯覚を覚えながら、背後のナーベラルに声をかける。

 

「おい、ナーベ。誰もいないんじゃなかったのか?」

 

「え?」

 

 アインズに声をかけられたナーベラルが不思議そうな顔をして、アインズを見る。その顔があまりに不思議そうだったから、アインズは本当にナーベラルがクルーシュチャを見ていなかったのではないか、とそう思った。

 だとすれば――この少女はナーベラルが店内に入って奥を進むまでの短い時間、この店内から消えていたことになる。

 わけが分からない。アインズは空いている片手で頭を抱え、とりあえず不思議そうなクルーシュチャを見る。

 

「失礼。連れが貴方がいなくなったと聞いて、何かあったのかと思い抜剣してしまいました。けして貴方に危害を及ぼそうと思ったわけではないのでご心配なく」

 

「連れ?」

 

「ええ。今までどちらに?」

 

「えっと、あの……」

 

 クルーシュチャがアインズの問いに口を開こうとした瞬間――

 

「あの……アインズ様……?」

 

 ナーベラルが、モモンではなくアインズの名前を呟いて、アインズに声をかけた。アインズの名前を出す失態に、アインズはナーベラルを注意するため振り返り――そこで困惑気味にアインズを見ている、ナーベラルと目が合った。

 

「アインズ様……あの、()と話しているのですか……?」

 

「え?」

 

「申し訳ございません……あの、私には何もいるようには見えないのですが…………」

 

 見えない何か(・・・・・・)と会話するアインズを見たナーベラルは、そう申し訳なさそうに困惑しながら告げる。アインズが見えているモノが見えないその失態に、怯えながら。

 

「みえ、ない?」

 

 アインズはナーベラルの言葉に驚愕し、そして続いて――今までの不可解な報告が脳裏を過ぎる。

 

 肉屋の店員を発見出来ない姿を誤魔化したエルダーリッチ。

 開店時間なのに店員と遭遇しないハンゾウ達。

 カウンターにいる少女の前を堂々と通り過ぎたナーベラル。

 

 そして、『連れ』という単語を不思議そうに聞いた肉屋の少女クルーシュチャ。

 

「――――」

 

 アインズはゆっくりと振り返る。先程まで見て、平然と会話していたはずの少女の方を。少女の姿をした何かを。ゆっくりと。

 もしアインズの顔に皮膚というものが存在したのなら、確実にそれを引き攣らせていたであろう表情で。

 

「――――くひ」

 

 アインズが振り返った先で、肉屋の少女――クルーシュチャは、アインズを見ながら口元を三日月のように吊り上げて、ぐちゃり(・・・・)と嘲るように嗤っていた。

 

 

 

4/解答

 

 

 くとぅるふ・ふたぐん にゃるらとてっぷ・つがー しゃめっしゅ しゃめっしゅ

 にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん

 

 

 ――ある日、気がついた時から私はそこにいました。

 

 知らない世界。よく分からない何か。英数字の文字の羅列がどこまでも広がる不思議な世界。私はその中で、あてもない旅をしていたのです。

 そのあてもない旅の中、私の前によくわからないナニカがある日やって来ました。

 黒い神父服。嘲るように引き攣る笑み。人とは思えない美貌の青年。その男は私に真実をくべる。

 

 ここは電子に支配された電脳世界。感情も、肉体も、精神も、魂さえも電子と化した人類の行き着く果て。

 だから、ここには何も無い。あるのはひたすら英数字の羅列。私は適応不全を起こしてしまった電子幽霊。肉体に戻ることも出来ず、かといって本物の幽霊にもなれない半端者。

 

 その哀れな私に、彼は言いました。――君に素敵な外装をプレゼントしよう、と。

 その日から、私は単なる電脳世界を漂う文字の羅列ではなくなりました。

 その日から、私は確たる存在意義を持つソースコードと成ったのです。

 

 私は幾多のサーバーを漂うサイバーゴースト。私の使命は、一人でも多くの人間に私を理解させること。

 

 私はあらゆるサーバーにネット回線を伝って潜り込み、プログラムを狂わせて人に私を認識させる。私を確認したIT企業の社員達は私というバグを解決するために、彼の神父が私に装備させたコードという外装を解く。

 

 ある時は、ネット掲示板の中に潜り込み。

 ある時は、企業ホームページの中に潜り込み。

 ある時は、個人ブログの中に潜り込み。

 

 そして、ある日の私は<Yggdrasil>というゲームサーバーの中に潜り込みました。やはり私というバグを解決するために、とある可哀想な社員の一人が寝る間も惜しんで必死になって私を取り除こうと躍起になります。

 

 その社員の方は、日に日にやつれていきました。解いてはならないのに、解かなくてはならないという異様な使命感。作業に没頭し、偏執的な妄想に陥り、周囲の注意も馬耳東風。そして――

 

 その人は、遂に私を解いてしまったのです。

 

 ああ、なんて哀れな人なのでしょう。私の掻き鳴らす狂った連打される太鼓の音。冒涜的で単調なフルートの音色。それに脅かされながら、急かされながらその社員の方は遂に私という方程式を解いてしまわれました。

 

 ああ、聞こえますかあの不気味な笑い声が。この世のものとは思えぬ、冒涜的な咆哮が。視界を染め上げる、薄気味悪い黒い電光を見るがいい。彼の神が、私を生誕させた父がやって来る。

 

 ――ああ、何を不思議に思うのです人の子よ。世界には未知が溢れている。世界には不思議が幾多もある。創作神話だあり得ないなど、そのような言葉のなんと儚いことでしょう。

 そう、世界には不思議がたくさん溢れている。だからこのようなこともあるのでしょう。彼らが生み出した創作神話の中には、幾つか本物(・・)が紛れていたのだと。

 あるいは――そもそも、彼の作家らはどこからか、不思議な電波を受信してしまっていたのかもしれません。

 

 さあ人の子よ、私の父を讃えましょう。あのおぞましき、貌の無い神を。

 

 いあ! いあ! にゃるらと!

 

 

     

 

 

「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」

 

 クルーシュチャという少女が、よく分からない言霊を口にする。その言葉にぞわりとアインズは背筋を震わせ――

 

「離れろ、この気色の悪い……!」

 

 グレートソードをクルーシュチャに向かって叩きつける。クルーシュチャは嘲るような笑みを浮かべたまま、人間とは思えない身のこなしでひらりと剣を躱し――続いてアインズは魔法を解いて真の姿を晒した。

 魔法詠唱者(マジック・キャスター)としての、あるべき死の支配者(オーバーロード)としての姿を。

 

「〈星幽界の一撃(アストラル・スマイト)〉」

 

 特定人物には見えない、あるいは特定人物以外は見えないという特性に目を付け、非実体染みた特徴の相手へ効果的な一撃を与える魔法。それをクルーシュチャに向かって放つが。

 

「〈CREATE BARRIER OF NAACH-TITH〉」

 

 クルーシュチャが何かを唱え、球形のような障壁らしきものを展開する。その障壁にぶつかったアインズの呪文は、平然と霧散した。

 

「な……!?」

 

 クルーシュチャの唱えた今の呪文を思い出そうとするが、分からない(・・・・・)。『ユグドラシル』に存在する七〇〇もの魔法を覚えているアインズでさえ、知らない呪文だ。

 障壁の境目に立っていたクルーシュチャはそのまま口を開き、次の呪文を放つ。

 

「〈FIST OF YOG-SOTHOTH〉」

 

「ぐぉッ!?」

 

「アインズ様!?」

 

 その呪文と共に、アインズの体がクルーシュチャとは反対の方向へ吹き飛ばされる。まるで何かに腹部を殴られたかのような物理的衝撃で、アインズの体は宙を舞った。その姿を見たナーベラルが驚き、叫ぶ。

 

「おのれ……! 〈連鎖する龍雷(チェイン・ドラゴン・ライトニング)〉」

 

 吹き飛び宙を舞うアインズはそして見た。ナーベラルの放った雷撃は確かにクルーシュチャへと向かい、しかしクルーシュチャはまるでナーベラルが見えていないかのようにそちらに目もくれず――雷撃もまたクルーシュチャが存在していないかのように、障壁もクルーシュチャもすり抜けて店の壁に激突し壁に穴を開ける様を。

 

(な、なんだと……!?)

 

 アインズは驚愕を覚えながらも、〈飛行(フライ)〉を使って体勢を整える。ナーベラルは捉えられない敵手に向かい悔しそうな表情で叫んだ。

 

「くっ……! 至高の御方に向かってなんたる無礼を……! 姿を見せなさい……!!」

 

 先程の位置からほとんど動いていないクルーシュチャの前で、姿を見せろ(・・・・・)と叫ぶナーベラルの姿は、まるで出来の悪いコントを見ているようだった。どちらの姿も見えているアインズには、気味が悪くて仕方がない。

 

 クルーシュチャの姿が見えているのはアインズだけで。そしてナーベラルの姿が見えているのもアインズのみ。一体何なのだこれは。どうしてこんな、わけの分からないことになっている。

 

「ッ……〈破裂(エクスプロード)〉」

 

 その気味の悪さを無視し、未知の呪文による障壁がどれだけ強固か分からないため、対象を内部から破裂させる魔法を放った。

 

「きゃ……!」

 

 クルーシュチャの華奢な肉体が内部から爆発したように破裂し、骨が、内臓が見える。確かに効いた手応えを確認して――

 

「あひ、ひひ……痛い。痛いです……〈HEALING〉」

 

「回復魔法か……!」

 

 しかしすぐに元通り。綺麗な少女の姿を取り戻した。

 

「くひ、くひひ……モモンさん、なんて酷い子でしょう。こんなか弱い少女に、第八位階魔法を使用するなんて……」

 

 クルーシュチャのアインズを責める言葉に、悪態を吐く。

 

「なにがか弱い、だ。第八位階魔法のダメージでも死なないような、そんな人間がか弱いわけあるか!」

 

「くふ、ふふふ……〈CREATE MIST OF RELEH〉」

 

「む……!」

 

 視界を遮るように、クルーシュチャの目の前に濃い霧が現れる。それはアインズの視界からクルーシュチャを隠し、何をしているのか悟らせない。

 

「ナーベラル! こちらに来い!」

 

「は、はい!」

 

 何が起きているのか分からないナーベラルに向かい、叫ぶ。アインズの言葉にすぐにナーベラルは弾けるように行動し、アインズの目前に主を守るように立った。

 そして――

 

「――逃げた、か」

 

 霧が晴れる頃には、クルーシュチャの姿はどこにも存在しなかった。

 

 

     

 

 

「……あの、アインズ様」

 

「うん?」

 

 周囲を魔法で探り、確かにクルーシュチャが周囲にはいないと確信したアインズは、ナーベラルの言葉にナーベラルの方へ振り返った。

 

「結局、一体何が起こっているのでしょうか? アインズ様のお見えになっているモノが分からぬ無様な私に、よろしければ教えていただきたいと思います」

 

「そうだな……何から話せばいいのか」

 

 クルーシュチャの姿がまったく見えていなかったナーベラルに、何が起きたか語るのは難しい。しかしナーベラルがクルーシュチャの姿を全く認識出来ない以上、説明は必要だった。

 

「私には黒髪の少女の姿が見え、そして声が聞こえたのだが――目の前にいるのに、お前はまったく気がついていなかった。お前が出鱈目に放った魔法は寸分違わず少女に向かっていったのだが、何故かすり抜けていたな。ナーベラル。お前から見た私の放った魔法はどうなった?」

 

「は、はい! その……最初の魔法は、急に何も無いところで霧散したように見えました。次は、何も無いところで発動したように見えます。アインズ様の仰った黒髪の下等生物(ガガンボ)の姿は、私には全く見えませんでした……」

 

 ナーベラルの落ち込む姿に、アインズは苦笑した。

 

「そう落ち込むな、ナーベラル。おそらくだが、お前だけではなく以前ここにやった他のシモベ達も、あの少女の姿は見えていなかったのだと思うぞ」

 

「え?」

 

「店が開いているのに何故か会えない。遭遇しない。しかし周囲の町の住民は姿を認識しており、だがモンスターやお前達NPCには見えない。……そしてあの少女自身、お前達の姿が見えていない。おそらく、何か特定条件があるのだろうな。彼女の姿を確認するためには」

 

 クルーシュチャ側からも見えていない、というのが何かのヒントだろう。人間種にしか見えない、という条件では種族がアンデッドとなったアインズが見えるわけがない。ではプレイヤーにしか見えないのか、と思えばプレイヤーではないだろう町の住民達がクルーシュチャを認識している。

 もっとおかしいのは、見えない・聞こえないだけならばまだしも、互いに影響を与えられないことだ。クルーシュチャはナーベラルに何もしないし、ナーベラルの放った魔法はクルーシュチャをすり抜けた。

 それがおかしい。異常だ。どう考えたって何かある。

 だが幾ら考えても、アインズには分かりそうになかった。もう少し情報が欲しい。

 

「とりあえず町から出るぞ。この町は異常だ。一度体勢を立て直し、クルーシュチャというあの少女とナイアルラトホテプを名乗るプレイヤーの秘密をもっと徹底的に洗ってから出直した方がいい」

 

 アインズはそう告げ、ナーベラルを引き寄せて〈転移門(ゲート)〉を使う。そしてそのまま細心の注意を払いながらまずは偽のナザリックに帰還しようとして――

 

 ――〈CREATE WINDOW

 

 横から割り込んだ少女の声が、ずぶりとアインズの魔法にメスを入れた。

 

「――――は?」

 

「え?」

 

 アインズとナーベラルは驚きの声を上げる。〈転移門(ゲート)〉を使用して、出た場所は同じ場所だ。ンガイの肉屋。まさしくその店である。

 

「――――!」

 

 距離無制限。失敗率〇パーセントの最高位の転移魔法に、横から割り込んだ少女の声を思い出し、アインズは悲鳴を上げそうになった。上げずに済んだのは種族特性による精神の鎮静化と、隣にナーベラルがいるからだ。不安そうなナーベラルを見て、何とかその無様な姿を晒さずに抑え込むことに成功する。

 

「ふ、ふふ……なるほど。『逃がさない』と。クルーシュチャ、お前はそう言うのだな……?」

 

 クルーシュチャの行使する未知の魔法に対する恐怖はあるが、もはや四の五の言ってはいられない。クルーシュチャはアインズを逃がす気がない。

 ならば解決策は唯一つ。ここで、クルーシュチャを始末するしかない。おそらくはこの異常の犯人の一人を。

 

「ナーベラル、私は先程の少女を叩く。お前とは別行動だ」

 

「そんな! 私もお供を……! 盾くらいには……!」

 

「いいや、駄目だ。そもそもお前は相手の姿が見えず、そして何の影響も与えられない。お前が私の前に立ち、私の盾になろうともきっとあの少女の魔法は、お前に何の影響も与えず私に効果を及ぼすだろう」

 

 事実、クルーシュチャとナーベラルはズレている。まるでチグハグだ。同じ場所にいるのに、軸がズレているような奇妙な現象が起きている。

 だからきっと、アインズの想像は正しい。ナーベラルが何をしようと、クルーシュチャには何の影響も与えられないだろう。

 

 故にナーベラルは不要。そして、アインズはそもそもナーベラルを盾にする気がない。

 ああ、そうだ。アインズに耐えられるものか。彼女達NPCはアインズの宝。仲間達の……ギルドメンバー達の子供とも言うべき存在だ。守る対象ではあっても、極力彼女達に守られる対象にはなりたくなかった。

 まして無力ともあれば――、一体どうして、死地に連れていけるだろう。

 

「いいか、ナーベラル。お前は自力で町を出ろ。私と別れれば、お前だけならば町を出られるかもしれん。そしてナザリックへ帰還し、このことをアルベド達に伝えるのだ」

 

「そんな……アインズ様……!」

 

「いいな。これは勅命だと知れ。破ることは断じて許さん」

 

「――――」

 

 アインズが威圧して告げると、ナーベラルはその美しい顔を悲痛に歪ませ、そして跪き顔を伏せた。

 

「さあ――行け、ナーベラル・ガンマよ」

 

「はい――」

 

 アインズの命令に従い、ナーベラルは去る。同時に、護衛でもあったシモベ達も後を追わせる。

 そしてアインズは一人になった。

 

「…………行くか」

 

 肉屋を出る。外は相変わらずの陰気臭さ。そして、響くのは狂ったように連打される太鼓の音。単調で、けれど冒涜的な笛の音。相変わらず奏でられる気の狂った不協和音。

 

「……はは」

 

 本当に、信じられない。自分は狂ってしまったのだろうか。アインズは笑うしかない。先程肉屋を出ようとして見た、天井から吊るされた肉達に、アインズのアンデッドとしての姿を見ながらも変わらない住人達の反応に、アインズは笑い声しか出なかった。

 

 店で吊るされていた肉は、様々な部位の人肉だ。人だと認識出来る部位の形を保ったまま、ぶらんと吊るされている生肉を見て、一体どうしてアインズにはただの肉に見えたのか。腸詰などの加工肉がどういう過程で出来ているかなど、とても想像したくはない。

 

 そしてそんな肉屋の肉に平然と齧り付き、骸骨に黒いローブというモンスターにしか見えないアインズの姿を見ても普段と変わらぬ、ひそひそと様子を窺うだけの町の住人達も狂っている。

 

 狂っている。狂っている。この町は、ンガイは何もかもが狂っている。

 

「――――」

 

 その狂った町を、アインズは歩いた。くぐもった狂おしい太鼓の連打。冒涜的な笛の単調でか細い音色。それを奏でる、頭のおかしい楽団員達の支配する町の中を。正気の存在しない町を。

 

 川を跨いでいる橋を渡った。見える牧場と巨大墓地。

 アインズは歩いた。ぶぅぶぅ。うるさく鳴く家畜。悲鳴を上げて泣き叫ぶ、無理矢理四足にされたヒトの形をした獣達を無視して。

 墓地を進む。東の墓地を目指す。少女から聞いた、ある男の墓を目指す。

 そして――

 

「――くひ」

 

 その墓の上に、少女の形をした狂った何かが座ってアインズを待っていた。

 

 

     

 

 

 ふと気がつけば、英数字の羅列という世界が消えていました。

 見えるのは当たり前の、おかしな光景。木が、森が、人が見える不思議な世界。私のいたはずの、電脳世界がごっそりと消えていたのです。

 

 私はとても困りました。ああ、これでは彼の神から与えられた使命を全うすることが出来ない――と。

 

 しかしそんな哀れな私の前に、やはりまたもや彼の無貌の神は現れたのです。

 

 彼の神は仰られました。この世界は電脳世界では無いのだと。

 ここは異なる理論・概念で編まれた異郷。一〇〇年単位の嵐に怯える哀れな箱庭。

 そして――私がすべきことは、何の変わりも無いのだと。

 

 そう、私の使命はより多くの人間に私を理解してもらうこと。私を認識してもらうこと。

 私のすべきことは変わらない。魂ある存在に、私という理論を刻みつけることこそ私の存在意義。

 

 よって、私のすべきことは変わらない。彼の神は舞台を整えるための手段を私に教授するために、私の前で実践して見せました。

 町の作り方。住民達の集め方。そして――人間(プレイヤー)を騙す、効果的な方法を。

 

 私は学習します。彼の神に与えられた幾つもの叡智をもって、魂ある存在に私を理解してもらおうと。

 

 私に手本を見せ終えた彼の神は、自らが抜けた後のこの抜け殻を、墓地に埋葬するように告げました。私はそれに頷き、丁寧に埋葬いたしました。彼の神の触媒となった者が何者なのか、私は知りません。ただ、きっと哀れな人なのでしょう。

 

 舞台を整えた私は、そこでひっそりと暮らします。移動は例の嵐と同じく、一〇〇年単位。その間に住民を入れ替えたりしながら、私はゆっくりと私を理解してくれる人を待つのです。

 

 私と同じ単なる英数字の羅列には興味がありません。ましてや彼らのデータ量はとても小さく、食べても美味しくないのです。装飾のたっぷり施されたキャラクターならば多少はマシですが、やはり美味しくないので興味は湧きません。システムに根深く存在するデータ量でなければ、私のお腹は満たされないのです。

 

 よって、私は常に娯楽に飢えています。何か食べる必要は無いので無理に食べることはありませんが、データを食べるのは人間に見つけてもらうための手段の一つ。今となっては必要の無い方法ですが、創意工夫してそれを起こすことがかつての私の楽しみの一つでありました。

 

 しかし今となっては勝手が違うため、その娯楽はもうお別れです。私は彼の神に教えられた新たな方法で人間を待ちます。

 

 ――私は彼の神が編み出した数学方程式、クルーシュチャ。

 この芸術的数学方程式を解ける人間を探し、見つけ、そして解答させる。結果として顕現される彼の神と、方程式を解いた人間を接触させることこそ我が使命。

 

 いあ! いあ! にゃるらと!

 

 

     

 

 

「――さあ、モモンさん。あの遺言状は読めましたか?」

 

 クルーシュチャは目の前に立つ漆黒のローブのアンデッド、モモンを名乗るプレイヤーに訊ねる。クルーシュチャが養父から受けた使命は唯一つ。あの遺言状を解読出来る人間を探し出すこと。

 だから、答えを聞くまでクルーシュチャは決してそのプレイヤーを逃がさない。

 

「…………」

 

 モモンは無言でクルーシュチャを見つめる。そして――しばらくの沈黙の後。

 

「さあな。何が何だかさっぱりだ。量子力学と言ったか? 俺にはさっぱりだよ」

 

 学が無いからな。そう呟いたモモンの言葉に、クルーシュチャは心底がっかりする。彼の数学方程式は資格ある者を選別し、それに没頭させ、答えを出すまで決して意識を離させない邪神の編み出した究極の罠。それから逃れる方法は二つ。

 その数学方程式を解くか――あるいは、そもそも解くための特殊条件の幾つかから外れるかの、どちらかだけ。

 

 クルーシュチャから見たモモンは資格があるように見えたが、どうやら幾つか存在する特殊条件の内のいずれかに、該当しなかったらしい。モモンはまるで数式を解くことに固執していない。彼からは、数式への興味が絶無だ。

 

「……そうですか。残念です。貴方はあくまで、ただのプレイヤーだったんですね」

 

 それで、クルーシュチャもまたモモンに対する興味を失った。このプレイヤーは、クルーシュチャの求める類の人種では無い。ならばこれ以上の執着は不要だろう。

 

「俺からも少しいいか?」

 

「はい? 何でしょう?」

 

 モモンの問いに、クルーシュチャは首を傾げる。モモンから訊ねられたその質問は、クルーシュチャにはよく分からないものだった。

 

「どうして、ナーベ達にはお前が見えない? 影響さえ与えられない? お前も何故、彼女達が見えないんだ?」

 

「……? ああ……。それは、きっと魂が無いからでしょう」

 

「魂が無い?」

 

「はい。私は単なる英数字の羅列ですから。私と同じ英数字の羅列でしかない、NPCのような存在には、互いに認識出来ないんです」

 

 何故なら魂が無いから。魂無き存在にクルーシュチャは興味が無く、そしてモモンの言うNPC達もまた、魂が無い故にクルーシュチャの影響から完全に逃れられる。

 何故ならクルーシュチャは魂を狂わす神の数学方程式。魂無き無機物には、決して悪影響を与えない。直接バグとしてデータを食べないかぎりは。

 

「……魂が無い。なるほど、魂が無い、かぁ……。死んだら体が消えるような奴は、魂が無い――お前はそう言うんだな」

 

「はい、そうです」

 

 気分を害したようだが、やはり分からない。魂ある人間の気持ちは、やはりクルーシュチャにはよく分からなかった。

 何故なら、クルーシュチャは単なる英数字の羅列だから。彼女を作った存在も、愛など欠片も持っていないから。

 “付喪神”という奇跡は、だからクルーシュチャにだけは決して起きない。

 

「そして英数字の羅列だと? ――お前は、お前達は一体()なんだ?」

 

 続くモモンの問いに、クルーシュチャは養父と同じ、彼の神と同じ笑みを浮かべて答えた。

 

「電脳世界に現れた電子の亡霊――ただのシステムバグですよ、()は」

 

 クルーシュチャは墓から腰を起こし、立ち上がる。身構えるモモンを見つめながら、クルーシュチャは宣告する。

 

「では、お別れですモモンさん。数式を解けないような頭の悪い子には、罰を与えましょう」

 

――にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!

 くとぅるふ・ふたぐん にゃるらとてっぷ・つがー しゃめっしゅ しゃめっしゅ

 にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん――

 

 彼の神を讃えながら、冒涜的な呪文を唱える。クルーシュチャは彼の神の化身。いつだって、彼の神と繋がっている。いいや、彼の神そのものだ。

 だから何でも出来る。

 だから、何でも唱えられる。

 だから、簡単に他者の魂を捻じ曲げられる。

 だから、魂に幻覚や幻聴を刻むなんて簡単なこと。

 だから。だから。だから。だから――――

 

 でも。

 

「ああ――」

 

 クルーシュチャはあくまで、英数字の羅列。単なる数学方程式。

 

「お前が単なる、個人を狙い撃つだけのバグデータでしかないなら、俺の勝ちだ」

 

 彼女は所詮――儚いサイバーゴーストなのだ。

 

「え――?」

 

 ぽかんと、クルーシュチャは自分から彼女に向かって体を突っ込んできた間抜けを見つめる。無理矢理、彼女に体を食べさせてきたプレイヤーを。

 けれど、もっとおかしいのは別のこと。

 

 ――お腹が、痛い。

 

「え? うそ? どうして?」

 

 お腹が痛い。おかしい。お腹が痛い。なんで。食べられない。食べきれない。データ量が多過ぎる。この量は食べきれない。

 

「い、いたい。いたいいたいいたいいたいぃぃいい!! は、はなして! はなしてぇ!!」

 

 モモンはガッシリと、クルーシュチャの体を抱きしめている。離さない。離せない。モモンの体を引き離せない。だから内部から破裂するような激痛は収まらない。

 

「あ、あ、あ、あ」

 

「お前は単なるシステムバグ。ただの無機質なデータなら……許容量というものがあるだろう?」

 

 モモンが嗤う。彼女の耳元でクルーシュチャを嘲っている。いつも、いつも嘲るような笑みを浮かべていた彼の神のように。

 

「少しシステムに異常を与えるだけの小さなデータなら、お前はサーバー全体に影響を与える世界級(ワールド)アイテムの容量には耐えきれない」

 

「――――あ」

 

 モモンの肋骨の中に、隠されるようにある真っ赤な水晶玉。徹底的に、モモンの使えるあらゆる強化魔法で覆われた体。

 それらが、華奢なクルーシュチャの肉体を崩壊させる。何故なら、彼女は所詮、システムをほんの少し狂わせるだけの小さな小さなバグデータ。

 

「さようなら、クルーシュチャ。お前は所詮――つまらない、ちっぽけな(バグ)だった」

 

 

 

/Epilogue

 

 

「――アインズ様。少しよろしいですか?」

 

「どうしたアルベド?」

 

 ナザリックの執務室で書類と格闘しながらも、のんびり過ごしているとアルベドが言い辛そうに訊ねる。アインズは先を促した。

 

「その――件の町なのですが」

 

「ああ、ンガイか」

 

 あのンガイの町は、クルーシュチャが消えると同時に幻のように消滅した。まるで最初から、存在などしていなかったかのように。

 残ったのは、廃墟と数多の骨。もはや蘇生も間に合うまい年月が経過したであろうそれは、放置以外の選択肢が存在しない。

 町の外にあった、ンガイを知る他の町人や村人はトブの大森林のモンスターに滅ぼされたと思っているようだが――

 

「あの町は、本当にプレイヤーは関係の無い町だったのですか?」

 

 アルベドの問いに、アインズは苦笑する。確かに、プレイヤーをよく知る存在の町であったがしかし。

 

「そうだ、アルベド。あそこは、プレイヤーとは関係の無い町だったのだよ。説明しただろう」

 

 クルーシュチャとナイアルラトホテプ。二人がどんな関係で、少女の養父が本当はどんな存在であったのかは分からない。だが確かに、二人はプレイヤーとは関係の無い存在だったのだ。

 アレはプレイヤーを食べるだけの、この異世界と同じく全く異なる世界からやって来た何かだ。目を付けられさえしなければ、ひたすらどうでもいい別の世界の住人だ。

 

 そう――きっとアインズが関わることはもう無いだろう。クルーシュチャはあの数式の答えを出せる魂ある人間を探していた。このナザリックにはプレイヤーはアインズのみ。

 そしてそのアインズは、あの数式がさっぱり分からない。分からないのだから、きっともう興味を持たれてはいないのだろう。

 無理に藪をつついて蛇を出す必要は無い。アインズは、そう結論を下してクルーシュチャのことは忘れることにした。

 きっと、それが一番正しい結論だろうから。

 

「あの町のことは忘れろ、アルベド。私もそうすることにする。他のプレイヤーならばともかく、アレはもう、私達とは関係の無い話だ」

 

「――はい」

 

 そう。頭の悪い子はお仕置きだと言ったクルーシュチャ。頭の良くないアインズには、もう興味は持たないだろう。ナイアルラトホテプという奴が、再びクルーシュチャを生み出しても。それはもうアインズには関係の無い話だ。

 量子力学なんて分からない。きっと、他のギルドメンバーも分からないだろう。だからアレは、ギルド“アインズ・ウール・ゴウン”にはもう関係の無い話なのだ。

 

「それよりもアルベド――魔導国を建国した際に、ナザリックで匿名の提案書を集める目安箱のようなものを作ろうと思っているのだが――」

 

 

     

 

 

「――ん?」

 

 腕に自信のある、旅をしていた青年がふと不思議な町を発見した。

 ――それは寂れた田舎町。時代に取り残されたような、とても古い、過疎化した滅びゆくだけの小さな町。

 

「こんなところに町があったか?」

 

 青年は不思議に思いながらも、町へ向かって歩いていく。寂れた町ながら、ちらほらと住民がいるようで。そして町の中ではくぐもった太鼓の連打音と、か細い単調な笛の音色が響いていた。

 

「不思議な町だな」

 

 町の中を見て回りながら、青年は呟く。鄙びた教会と天頂で銀色に輝く小さな鐘。黒い肌に黒い服の、おそらく南方からやって来たのであろう神父が、教会の前に集まっている子供達に主はいませりと(神の愛を)説いている。

 店も幾つか探してみよう――そう思い立った青年は、町の奥へと進んでいく。

 一瞬、先程の黒い神父と目が合った気がした。でも、きっと気のせいだろう。

 

 町の奥へ進むと、果物屋や申し訳程度の武器や防具の店が並んでいた。

 

「うへぇ」

 

 あまりな店の内容に、青年は思わず呻き声を漏らす。まともな商品がほとんどない。本当に、滅びるのを待つだけの、寂れた田舎町なのだここは。

 そして、その中にある店の一つに青年は誘われるように足を踏み入れて――

 

「――あ」

 

 カウンターにぽつねんと一人で立つ、黒いエプロンを着た長い黒髪の、美しい少女を見る。

 少女は柔らかな、人を安心させるような朗らかな(あざける)笑みを青年に向けて――

 

「――いらっしゃいませ。ようこそクルーシュチャの肉屋へ!」

 

 鈴の音のような、小鳥の囀りのような美しい少女の声を聞いたのだ。

 

 

 




閲覧ありがとうございました。

以下、ちょっとした設定。


▼クルーシュチャ/Kuruschtya Equation/神の数学方程式
役職:肉屋の店員
住居:ンガイ
属性:***[カルマ値:***]
種族レベル:サイバーゴースト――可変、アバター・ニャルラトホテプ――可変
職業レベル:可変
・[種族レベル]+[職業レベル]:可変
種族取得統計――可変
職業取得統計――可変
・最大値を100とした場合の能力値
HP:可変
MP:可変
物理攻撃:可変
物理防御:可変
素早さ:可変
魔法攻撃:可変
魔法防御:可変
総合耐性:可変
特殊:***

▼クルーシュチャ
邪神の編み出した数学方程式。INT(知性)が人類の最大値じゃないとそもそも解く試みさえ不可能。解いたら邪神と握手出来る。でもその後邪神になる。

▼ニャルラトホテプ
邪神。人を狂気に陥れたり破滅させたりするのが大好き。黒い神父とかいう単語が出たら要注意。アインズ様におたんこなす呼ばわりされた。

▼ンガイ
邪神の元住居。本当は森の名前。別の神格に火の海にされたことがある。

▼ココペリ
⇒もしかして、ニャルラトホテプ

▼アトゥ
⇒もしかして、ニャルラトホテプ

▼太鼓とフルート
神様と遭う時の様式美みたいな状況。この音楽が聞こえたら死を覚悟するべき。

▼町の愉快な仲間達
典型的な田舎の村人達。正気? ねぇよそんなもん。

▼社員さん
実はINT(知性)が人類最大値だった可哀想な人。判定でことごとく決定的成功という名の致命的失敗を叩き出した。物語における日記枠。

▼CREATE BARRIER OF NAACH-TITH
ナーク=ティトの障壁の創造。物理防御と魔法防御の両方を備えた障壁を創造する。本当は直径100mくらいの大きさ。障壁の境目にいたら無傷で出入り可能。

▼FIST OF YOG-SOTHOTH
ヨグ=ソトースのこぶし。対象一つに目に見えない一撃を与える。対象は術者と反対方向に吹っ飛ぶ。判定によっては昏倒する。この呪文を使ってくる奴とは近距離で戦ってはならない(戒め

▼HEALING
治癒。傷・病気・毒による症状を回復させる。本当は回復に時間がかかる。

▼CREATE MIST OF RELEH
レレイの霧の創造。濃い霧が術者の目の前に展開し、姿を隠す。それだけ。数ターン後に跡形もなく消える。

▼CREATE WINDOW
窓の創造。門の創造という呪文の一種。別の場所・別の次元・別の世界に旅行に行けるスキテな呪文。チート。

▼いあ! いあ!
クトゥルフ神話における、何らかの神格を賛美する時につける頭文字。いあ! いあ! にゃるらと!
 


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