アマガミサンポケット (冷梅)
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プロローグ

初めまして、冷梅と言います。
この度は拙作に目を通して頂きありがとうございます。
この作品が処女作の為、至らないところが多いと思いますが寛大なお心で見ていただけると嬉しいです。
後書きの方で、この作品の設定を軽く話したいと思います。


  丘の上公園――――輝日東市遠前町の外れにその公園は存在する。

  丘の上にあるから、名前は丘の上公園。

  名前の所以は至ってシンプルな理由で付けられたものだ。

  その公園で少年――――橘 純一は独りベンチに腰を掛け、寒空の下時間と戦っていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  気のせいだとは思う。 それでも、今日の夕焼けはいつもよりも、特別眩しい気がした。

 

  季節は冬真っ只中。 12月だと言うのに、子供たちはまるで寒さを感じていないのだろうかと思うような元気の良さだ。 自分もあの様な時があったのだろうか、とズボンのポケットの中にある携帯カイロを軽くさすった。

  子供たちの元気の良さは、 もしかすると、この夕焼け空がそうさせている起因なのかもしれない。

  これからのことを考えて、少し浮かれているのだろうか。 公園内を元気に走り回る子供たちを見ていると、不思議と笑みが零れた。

 

  眼下に広がる街に目をやると、きらびやからなイルミネーションが明かりを灯しているのが分かった。

  この街――――遠前町は、以前はこれ程までに活気はなかった。 商店街は閑散とし、雰囲気は暗く、シャッター商店街と言っても差し支えないものだった。 しかし、そんな商店街も転機を迎え、今では人々で溢れる等と、かつての面影は無くなっていた。

 

  どれくらいの時間が経ったのだろうか。 ふと気付くと、すっかり子供たちの声は聞こえなくなっていた。

  冬の寒さが牙を剥き始めた。 携帯カイロはすっかり熱を失い、冷気が公園を覆い始める。

  先程まではぼんやりと浮かんでいた、イルミネーションの明かりは輝きを増していた。

  日が完全に落ち、辺りは暗闇に包まれ、月明かりが頭上から照らしていた。

 

「……寒っ! ……ははっ、冬だから寒いのは当たり前か」

 

  風が吹くたびに、体中を冷気が貪るように凍えさせてにくる。 左腕に付けた腕時計を見ると、針は11を指していた。 つまり、午後11時だ。

 

「……梅原と色々相談して、ようやっと今日の約束を取り付けて……梨穂子から女子が喜ぶプレゼントを教えて貰って……薫にはオススメのデートスポットを教えて貰って……公には勇気を貰ったのにな……それでも、駄目だったのか」

 

  今日はクリスマス。 この日のために、色々と準備はしてきた自負はある。 思い続けてきた、蒔原さんに想いを伝えるために。 我ながら随分と間抜けな話だと思う。 今日の約束を受けてもらったからと言って、美也にまで自慢話を聞かせたと言うのに。

 

  もしかしたら時間を間違えたのでは、とそこまで考えて、考えるのをやめた。

  それは有り得ない無い。 詰まるところ、振り向いて貰えなかった。 そういうことなのだ。

 

  ベンチに背を預け、はぁ、とため息を吐く。

  視界に、白いふわふわしたものが過ぎった。

 

「雪、か……ホワイトクリスマスになったのにな」

 

  誕生日プレゼントを渡した時は、とても喜んでくれた。 あの時の彼女の顔は、今でも忘れることは無い。 それくらい、華がある笑顔だった。

  でもその彼女は、約束を果たすことなく、ここに現れることは無かった。

  自分の中で、何か大切にしてきたものが崩れ去る音が聴こえた気がした。

 

  僕の中に残ったものは、彼女に対する虚無感と、クリスマスに対する恐怖心だった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「ねぇ、橘のやつまだ来ないの?」

「もしかして、怖気づいて来なかったりして!」

「え〜、何それウケる〜」

 

  人の気持ちも知らないで、何て勝手な人たちなのだろう。 そう思えるほど、私の目の前にいる女子グループから酷いモノを感じた。

 

「ねぇ美佳。いつまで待つの?」

「……そうだね。後少し、もうちょっとだけ」

「さっきからずっとそう言ってるけど、もう約束の時間を一時間も過ぎてるよ?」

「うん。でも彼は、そんな悪い人じゃないと思うんだけどな」

「確かに、根は悪い人じゃなさそうだけど、正直言ってパッとしないじゃん?」

「そうそう、美佳とはどう考えても釣り合わないよ。ほら、冷えるしもう帰ろう?」

 

  蒔原さんは腕時計を見た後、名残惜しそうに他のクラスの女子たちとその場を去った。

 

  ――――これでいい。

 

  これで、彼に寄る悪い虫は居なくなり、彼があの場で笑い者にされることも無くなった。 今日から冬期休暇ということもあり、次に学校に行くまでにそれなりに時間が出来る。 その中で自然に、彼女たちに噂を流しおけば安心だ。

 

「ごめんなさい橘君。でもこれは、貴方の為だから……本当にごめんなさい」

 

  彼には申し訳の無いことをした。 私は、彼の――――蒔原さんに対する恋を摘み取ってしまったのだから。

  それでも、その事に対して後悔は無い。 していられない。

 

  あのまま彼が約束の地に向かっていれば、周りの取り巻きのせいで、彼は深く、とても傷付くことになっただろうから。

 

「ごめんなさい……私に、もう少し力があれば」

 

  冬の夜の強い風が吹き、私の言葉はそれによってどこかへと飛ばされる様に消えていった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  懐かしい夢を見た。

 

  中学校3年生の、クリスマスの頃のものだ。

 

「弱いな、僕は……」

 

  何故今頃になって見たのだろうか。

 

  この呪いの様な苦しい思い出から解放されるには、どうすれば良いのだろうか。

 

「にぃに〜、朝だよ?」

 

  ガラッと音を立てて、扉が開く。 朝の日差しが、僕の顔を照らした。

 

「も〜、起きてるなら返事してよにぃに!」

「……あはは、ごめんごめん」

 

  力無く笑ってから、頭の後ろを軽くかいた。 この仕草は最早癖みたいなものだ。

 

「にぃに今日始業式でしょ? 初日から遅刻しちゃうよ」

「……そうか。今日から学校か」

「にしし〜、そうなのだ〜。じゃ、みゃーは朝ごはん食べてくるから」

 

  美也が部屋から出ていったのを確認すると、僕も居心地の良い寝床である押入れから体を起こすことにした。

 

  予め昨日のうちから準備しておいた制服を手に取り、シュルシュルと手際良くネクタイを首に通す。

  最後にブレザーを羽織れば、着替えは終了だ。

  鞄を取って、階段を一定のリズムで降りていく。 降りた先では美也が待っていた。

 

「にぃに目玉焼き食べる?」

「うん、貰おうかな」

 

  ピッと、サムズアップを向けた美也はそのまま台所へと入っていった。

 

「おっと……顔を洗っていなかったな」

 

  美也の様子からして朝食が出来上がるまでもう少しと言ったとこだろうか。 その間にやるべき事を済ますためにと洗面台へと足を運ぶ。

  夏季休暇が終わったと言え、現在は9月。 地球温暖化の影響か知らないが、暑さは健在である。 その中での冷っとした水は気持ちがいい。 微睡んだ意識を覚醒させるのにはぴったりだ。

 

「にぃに、出来たよ」

「今行くよ」

 

  歯を磨き終えてから、居間へと向かう。

 

「そう言えば母さんは?」

「んー、まだ仕事してるのかなぁ。さっき部屋を覗いて見たけど居なかったし」

 

  美也の言葉に頷いてから、用意された朝食を口へと運ぶ。

  うん、今日もご飯が美味しい。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「にぃにと学校に行くの、久しぶりだね〜」

「んー、そうだっけ?」

「そうだよ〜、にぃにったらみゃーのこと置いてっちゃうじゃん!」

「あー、なるほど。でも、美也は七咲や中多さんと通うことがあるだろ?」

「それはそうだけどさぁ……」

 

  コツン、と小石を蹴りながら美也が顔を伏せた。

  全く、仕方が無い妹だ。 とは思いつつも、悪い気にはならない。

 

「ほら、折角一緒に歩いてるんだから元気だせって」

 

  ぽんぽんと、頭を撫でてやると途端に笑顔になった。 単純なやつだな。

  そこがいいところなんだけども。

 

「それより美也、家の中じゃないから呼び方変えないと駄目だろ?」

「あ、油断してた……ごめんごめん」

 

  そう言うと美也は、ひょこっと戯ける様に首を傾げる。 大体、学校でベタベタしないように言ってきたのは美也本人だと言うのに。

  学校までは凡そ20分。 ゆっくりと歩いて行こうか。

 

「あ、お兄ちゃん! 紗江ちゃんが居るから先に行くね」

「うん、転けるなよ」

 

  紗江ちゃん、もとい中多さんの姿を確認するや否や美也は駆け出していった。 落ち込んだり、元気になったりと朝から忙しい妹だ。

 

「よ〜大将! 朝っぱら熱いねぇ! ただでさえ熱いのにご苦労なこったぁ」

「……誰でしたっけ?」

 

  高校への道程も中腹に差し掛かったと言うところ。 後ろから現れたのは小学校からの親友――――梅原 正吉だった。

 

「っと、とっとっと、そう来ちゃう?」

「美也が妹だと知っていて、からかうような友達は持った覚えが無いので」

 

  僕の言葉に梅原はやれやれと首を振る。

 

「折角新作が入ったから持ってきてやったのにさぁ……」

「新作……例の写真集か!」

 

  例の写真集――――ローアングル探偵団を梅原が持ってきてくれたと言うならば、話は変わってくる。

 

「親しき友の為にと思って持ってきたが……そう思っていたのは俺だけとはねぇ」

「ああ! 良く見れば小学校の頃から一緒で、クラスも一緒! スポーツが得意で部活は剣道部! 但し最近は幽霊部員と困った一面が! 寿司屋の次男坊で、家も近い僕の親友の梅原正吉くんじゃないか!」

「……驚きの変わり身っぷりだな」

「……すまん」

「へへっ、いいってことよ。それでこそ我が親友、橘純一だ! 寧ろその食い付きを待ってたぜ!」

「ははっ……相変わらずだな。で、どうだった?」

「ふふふ……凄かったぜ」

「ほんとか!」

 

  朝に見た夢は頭の片隅へと追いやり、楽しみにしていた“お宝本”について語り合いながら学校へと足を進める。

 

「――って感じだな」

「ほ〜、それは凄そうだ……って、梅原、急に止まったりしてどうしたんだ?」

 

  突然歩みを止めた親友に合わせるように、僕も歩みを揃える。

 

  理由は直ぐにわかった。

 

  離れているため会話は聞こえないが、明らかに周囲とは違う空気を纏っている2人の女性がいる。

  僕たちの通う、輝日東高校のマドンナである森島はるか先輩に、水泳部の部長を務める塚原響先輩だ。

  梅原の足が止まったのはこの2人が居るからだろうと、容易に推測が出来る。

 

「大将、森島先輩と塚原先輩が居るぜ?」

「だからどうしたんだよ?」

「ふっふっふ、何だと思う?」

 

  にやっと、梅原が黒い笑みを浮かべる。

 

「まさか――」

 

  そう思った時には、遅かった。

 

「あぁ、そのまさかさ!」

「お、おい!」

「じゃあな、後で感想聞かせてくれよ」

 

  梅原はドンと僕の背中を押し飛ばし、お陰で僕はかなり前方へと進み出てしまった。 止まるために踏ん張ったせいで、音もおまけ付きだ。

 

「あれ、橘くん?」

「久しぶり、橘くん」

「あ、あはは……お久しぶりです、先輩方」

 

  新学期早々、思いがけない――――恥ずかしい邂逅をさせられてしまった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「ねぇ、橘くん?」

「は、はい!」

「橘くんは、夏休み楽しかった?」

「そ、そうですね……有意義に過ごせたんじゃないかなって思います」

「わお! それは良かったわね!」

「先輩方は、どうでした?」

 

  言い終わってから、はっとなる。 塚原先輩は確か国公立大学を受験する予定だから夏休みは勉強漬けということが考えられる。 森島先輩も受験生ということもあり、余り遊ぶ時間は無かっただろう。 何と言うか、地雷源に立たされている気分を味わった。

 

「ん〜、私はそれなりに楽しめたかな。お祖父ちゃんたちにも会えたことだし」

「私も、それなりに楽しく過ごせたように思うわ。受験生とは言えど、適度な息抜きは必要だもの」

「やっぱり夏休みは遊ばないとね! あ、そう言えば橘くん――――」

 

  幸いにも地雷を踏むことは無かった様だ。 この時期は先輩たちにとって、大事な時期だ。 発言は慎重にする様に、と心掛ける。

 

  先輩たちと歩くこと数分、目的地が見えてきた。

 

「はるか、そろそろ」

「え、もう学校なの? ごめんね橘くん、久しぶりに話せて良かったわ」

「はい、こちらこそ……また会ったら声をかけさせてもらっていいですか?」

「オーキードーキ! 勿論よ!」

「塚原先輩も朝からありがとうございました」

「良いのよ別に。 それに、はるかをほっておく訳にはいかないしね。それじゃまたね、橘くん」

 

  2人に別れを告げて、2年の昇降口へと歩き出す。 いやらしい顔付きをしているであろう親友の顔が想像出来た。

 

「お、遅刻ギリギリ。何話してたんだ大将〜」

「純一が森島先輩と話せる日が来るとはね〜、私は嬉しいよ」

「……梅原。何勝手に核弾頭に教えてるんだよ」

「あれ〜? 私の聞き間違いかなぁ? 純一くん、今何か言った?」

「わかめもじゃ子さんの耳はどうやら遠くなったらしい、年は取りたくないねぇ」

 

  薫が笑顔で額に青筋を浮かべている。 相変わらず器用なやつだ。

 

  それはそうと――――

 

「その右手をしまって貰えると嬉しいんだけど」

「何言ってるのかなぁ」

 

  グリグリと右拳が僕のこめかみにくい込んでくる。

 

「痛い痛い! ストーップ! 僕が悪かった!」

「ははは、新学期も好調だねぇ。完璧な夫婦漫才だぜ」

 

  ははは、と3人で笑い合う。 さっきまではどこか実感が無かったけど、漸く学校に来たって実感が湧いてくる。

 

「それにしても」

「どうした大将?」

「いや、公のやつ来ないなって」

「あー、そう言えばまだ見てないね。もう先生来ちゃうのに何やってんだか」

 

  遅刻に慌てる生徒が何人か教室の前を通っていくがその中に公の姿は無い。

 

「お、噂をしたらなんとやら、麻耶ちゃんの登場だ。ほら棚町、俺たちも席に戻ろうぜ」

 

  新学期早々、公が姿を見せないのは珍しい。 小学校からの仲になるが、野球部に所属している彼が学校を休んだり遅刻したことは記憶の中に一度も無い。 それだけに、彼の席が空いているのは違和感があった。

 

「みんな、久しぶり。夏休みは有意義に過ごせたかな?」

 

  高橋先生が教壇に立つ。 公は一体どうしたのだろうか、と窓から空を見上げたその時だった。

 

「遅くなってすみません!」

 

  ガラッと勢い良く、教室後方の扉が開き、練習着を見に包んだ主人(ぬしひと)(こう)が姿を見せた。

 

「ちょ、ちょっとどうしたのその格好!」

「その……ですね、ボールが見つからなくて探してたら遅刻しそうになったんでそのまま」

 

  バツの悪そうな表情を浮かべながら右頬を掻く公を見て、クラス中から笑いが起きた。

 

「公、アンタせめて着替えはしなさいよ。練習着のままって、ぷっ、アハハハハ」

 

  お腹を抱えて薫が盛大に笑う。 勿論、僕も梅原も同じように笑った。

 

「棚町さん笑いすぎ。みんなも少し落ち着いて。主人くん、理由は分かったから早く着替えてらっしゃい」

「は、はい!」

 

  相も変わらずの濃いキャラっぷりに、どこか安心するモノを感じた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  公の着替えも無事に済み、現在は学級指導の時間だ。 この時間を利用して、クラス委員等の係員を決めるらしい。

 

「じゃあ今学期のクラス委員だけど、絢辻さん以外にしたい人は居ないかしら? 特に男子に期待したいんだけど」

 

  感じる視線の方を見ると、梅原が首をクイッと動かしながら何かを伝えようと口を動かしている。 大方クラス委員をやれと言っているのだろうが、お断りだ。

 

「……誰も居ないのね。じゃあ、仕方が無い。私が決めます、文句は言いっこ無しよ!」

 

  高橋先生のこの発言に、クラスの男子が凍りつく。 今学期には、輝日東高校の一大イベント――――創設祭が行われる。 よって今学期のクラス委員は、11月に入ると創設祭実行委員会に所属することにもなる。 部活に所属していない僕からすれば、自由時間を潰されてしまうのはとても痛手になってしまうのだ。

 

(頼む……僕以外の人が当たってくれ……!)

 

「はぁ、仕方無し。じゃあ主人くん、よろしくお願いね」

『よっしゃあ!』

 

  公が指名された瞬間、クラスの男子が団結し、勝利の雄叫びを上げた。

 

「ちょっとこら男子! 騒ぎすぎ! 主人くん……何かごめんね」

「俺は大丈夫ですよ、ははは……」

 

  こうして学級指導の時間は進んで行き、授業は終わりを迎えた。

  ホームルームの際に、高橋先生は明日から本格的に2学期が始まると言っていた。

  いよいよ始まったのだ。

 

  僕にとって、勝負の学期が。

 

 




プロローグ、読了ありがとうございます。
前書きに記述した通り、設定ついてお話したいと思います。
今作の舞台である遠前町はパワポケ9、パワポケ14から拝借致しました。 パワポケ原作よりも、街は都市化しており、ゲーム版アマガミや、アマガミSSと街並みは同じような感じです。

我らが変態紳士・橘さんはヒロインたちとある程度面識がある状態です。
今作の表主は橘さんですが、裏主は名の通り、主人公となっております。

批評お待ちしております。 閲覧、ありがとうございました。



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9月-①

地の文の表現が難しい。

パワポケキャラが登場します。


  何時からだろうか。 グラウンドから聞こえて来ていた野球部の声は、いつの間にか静かになっている。 教室の壁に掛けられている時計を見上げると、それも納得のいく時間になっていた。

  それにしても、想像より今学期のクラス委員の仕事は多くなりそうだ。

  それは一重に、来月末に控えた体育祭と、12月に控えた創設祭が起因している。

  手元にある資料に見て、軽く肩を落とした。 それでも泣き言は言っていられない。 何と言ってもこれは私が自分で選んだ道だ。 逃げ出す事も、投げ出す事も出来ない。 最も、性格上途中で放棄する等は出来ないが。

  とりあえず、今日決めた分だけでも整理しようと伸ばした手は――――

 

「あれ、絢辻まだ残ってたのか。 遅くまでお疲れ様」

 

  不意に現れた一人の野球部員の存在によって、空気を掴むことになった。

 

「ええ、今日頼まれていた資料の整理でね。 主人くんも、こんなに遅くまでご苦労様」

「もうすぐ秋大が在るからな。って……すまん絢辻、任せ切りにしてて」

 

  彼は顔の前で手を添えて、申し訳無さそうにこちらに謝罪の言葉を述べてきた。

 

「ううん、気にしないで。 主人くんは野球部の主将(キャプテン)としての仕事があるし、これくらい私一人でも出来るから」

「いやでも、絢辻独りに任せるのは申し訳無いよ。 そうだ、その資料俺が職員室に届けるよ。 これもあるしさ」

 

  練習着のポケットから鍵を取り出し、彼は柔和な笑みを浮かべた。

 

「気を使ってくれてありがとう。 でも、私も半分持つわ。 このままだと主人くんに手柄を独り占めされそうだし」

「おいおい、流石にそんなことはしないぞ」

「ふふ、冗談よ」

「笑えないなぁ……」

 

  結局私たちは2人で資料を運ぶことにした。 その方がお互いの顔を立てれると判断したからだ。

  部室の鍵を返しに行くだけなら、わざわざ教室に寄る必要は無い。 彼が遠回りをして、手伝いに来てくれたことが私の胸を暖かくしてくれていた。 だからこそ、先程の様な普段言わないような軽口を叩いてしまったのだと思う。

  気分は悪くなかった。

 

「はい、確かに預かったわ。 二人とも、遅くまでお疲れ様」

「俺は何もして無いですよ。 絢辻に頼りっきりです」

 

  彼はそう言って、また優しい笑みを浮かべた。 これが彼が慕われる理由なのかもしれない。

 

「流石に、野球部の主将とクラス委員の兼任はキツいかしら?」

「俺は絢辻みたいにスペックが高くないんで、ちょっと厳しいかもです。 でも、一度やったからには最後までやり遂げます。 今日は遅れを取ったけど、明日からは俺も手伝いますよ」

「ですって絢辻さん。 何か言いたい事はある?」

「そうですね、強いて言うならば、先生はどうして主人くんを指名したのですか?」

「あ、それは俺も気になるな」

 

  私の言葉に彼も興味を示した。 クラスの男子の人数は18人。 その中で部活動に入っていないのは9人と半々と言ったところだ。 それだけの数の生徒が居ることに対し、部活動に勤しむ彼が何故指名されたのか、私は密かに気になっていた。

 

「……ん〜、それがこれと言って理由は無いんだけどね。主人くん、今日の朝遅刻ギリギリで来た上に、練習着から着替えてなかったでしょ? だからなのか、妙に頭の中に君の姿が残ってて。 つい、指名しちゃったって理由(わけ)。 本当は、橘くんに頼もうかと思ってたんだけどね」

「そうか、もうちょっとで純一がクラス委員だったのか。 何か勿体無い事をしたな」

 

  成程ね。 彼が指名されたのは、あの朝の騒動がきっかけか。 確かに、主人くんのあの登場の仕方は癖が強くて、元々濃い存在感を更に強めていたから先生の気持ちも解らなくも無い。

 

「大変だと思うけど、何かあったら私に言ってね? 担任なんだし、精一杯協力するわよ!」

 

  高橋先生はそう言いながら自身の右腕をぽんぽんと叩いた。 彼女は教師として、まだ若手に数えられる年齢だけど、若い分私たちと目線が近いから相談しやすいし、頼りになる。

  先生にお礼を伝えてから、教員室を後にした。

 

「運んでくれてありがとう。 助かったわ」

「俺に出来るのはそれくらいだからさ。 部活が休みの日は手伝う様にするよ。じゃあ、また明日」

「ええ、また明日。 気をつけてね」

 

  時計の針はもうすぐ午後8時になろうかと言うところ。 丁度良い。 良い感じに時間が潰せたと、帰りの足取りは軽かった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

  夏休みが終わり、9月に入ったとは言え日差しはまだ強い。 日が沈んでからも、気温は大して下がらず未だに熱は残っていた。

 

「主将、お疲れ様でした」

「お疲れ、また明日な。 気を付けて帰るんだぞ」

 

  同級生、後輩たちが帰っていったのを見送ると部室の鍵を閉めて、近くのベンチに腰を下ろした。

  スパイクの金具部分に付いている土を落としていると、ふと明かりが目に入った。 その正体は、普段自分たちが勉強をする際に使用している教室だった。

 

「……まだ独りで作業してるんだろうな」

 

  手入れの終えたスパイクを棚にしまい、荷物を持ってその場を後にする。目指す先は、先程明かりを灯していた我らの教室。 不本意な形で学級委員になったとはいえ、最後までやり遂げるのが俺の信条だった。 ここで曲げたら何かを失う気がする。 不思議とそんな感覚が頭の中にあった。

  先程確認した通り、教室からは明かりが漏れ出している。 誰かが居る証拠だ。

  引き扉を開け、教室の中を見ると、予想通りの人物が、戸惑った表情を浮かべていた。

 

  絢辻に別れを告げてから歩くこと数分。 鞄の中から携帯の着信音が流れてきた。

 

「もしもし――」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「こんばんは、遅くなってすみません」

 

  喫茶店「さんせっと」の扉には「Closed」の文字が掛けられているが、ノックを行う事で開けてもらえることになっている。 3回ほどノックを行うと鈴の高い音が鳴り、扉が開き中から金髪の女性が出迎えてくれた。

 

「おお〜、公くんお疲れ様。 待ってたよ」

「ありがとうございます准さん。 それで、さっきの電話って」

「ささ、とりあえず入って入って」

 

  准さんが後ろに周り、とてとてと背中を押す。 店内を見渡すと、見慣れた3人の顔があった。

 

「よっ、公くん。 練習お疲れ様」

「……こんなに遅くまで、お疲れ様」

「いらっしゃい主人くん。 ゆっくりしていってくれ」

「ありがとうございます。 夜長さん、維織さん、世納さん」

「お冷だよ〜」

 

  コトンと、小さい音を立てて冷水が机の上に置かれる。 店内は冷房が効いているとはいえ、先程まで暑さにさらされていた為この水は体に染み渡った気がした。

 

「今日はメイド服着てないんですね?」

「今日のバイトは終わってるからね。 あれ、もしかして残念だった?」

「それで准さん。今日俺が呼ばれたのって?」

「……華麗に流したわね。 はぁ……実はね、あ、ちょっと待っててね」

 

  会話の途中で准さんは厨房の奥へと姿を消した。 何事かと少し待っていると、見せる方が早いわね、と言わんばかりの大量のタマゴサンドと珈琲を持って、准さんが現れた。

 

「……凄い数のタマゴサンドですね」

「あはは、ちょっと張り切り過ぎちゃってさ」

 

  目の前には大量のタマゴサンドが置かれている。 こんな光景、他の店では滅多に見られるものではないだろうと思う。

 

「今日はビクトリーズが試合でね、夜長さんが活躍したから維織さんが美味しいものを食べさせてあげたいって言ったの。私としてはステーキとかそう言うのをイメージしてたんだけど、夜長さんはタマゴサンドが食べたいって言うからさ。つい作りすぎちゃった」

 

  てへぺろとはこの事を言うのだろうか。 准さんは舌をちょろっと出し、笑顔でタマゴサンドを皿に小分けにし始めた。

 

「これ、俺も貰っていいんですか?」

「そうそう、公くん珍しく冴えてるね」

「……珍しくは余計です」

 

  准さんと軽口を叩きあった後で世納さんが席に着く。 珈琲が良い香りを辺りに漂わせる。 良い香りだとは思う、飲めないが。

 

「みんな揃ったことだし、始めよっか。 ――乾杯!」

 

  准さんが音頭を取り、交わしあったグラスの音が綺麗に響く。 情けないことに珈琲はまだ飲めないので、グラスの中身は身体に優しい野菜ジュースとなっている。

 

「珈琲で、乾杯したのって初めて」

「まぁ、普通はお酒とかが多いかな」

 

  和やかな空気で食事が進んで行く。

  ここの雰囲気は本当に好きだ。 落ち着いた色合いの多い店内の内装がそうさせているのだろう。

 

「公くん、学校は楽しいかい?」

「そうですね、まぁまぁですよ。 あ、でもクラス委員に指名されたのは驚きましたね」

「ふふっ、クラス委員という柄でも無いだろうに」

 

  俺の言葉に世納さんが目を丸くする。 そんなに驚くことないだろ、気持ちは解らなくもないが。

 

「クラス委員て言うと、学級委員みたいなものかな?」

 

  タマゴサンドを口に運びながら、准さんの言葉に頷く。

 

「野球の方はどうだ? もうすぐ秋季大会だろ?」

「ぼちぼちと言った感じですかね。 やっと試合が出来るようになってきました」

「輝日東は公立だもんな。 設備の差もあるし、私立の壁は大きいだろう?」

「大きいですね。 でも――やりがいがあります」

「そう思えるのが、公くんの良いところ。 でも、後悔してないの?」

 

  維織さんの言う後悔とは公立である輝日東高校に進学したことだろう。 ボーイズリーグである程度の成績を残していた為、強豪校と呼ばれる私立高校からスカウトの声が掛かることはあった。 でも、俺はそれらの誘いを断った。 チームメイトにも勿体無いと言われたし、家族にも理由を訊かれた。 そんな中でもブレずに輝日東を選んだのは理由がある。

 

「傲慢や自惚れもあるかもしれません。 それでも俺は、自分でレールを引いて歩いていきたかった。 それに、アイツら(・・・・)と野球をするなら試合で()りたいです」

 

  アイツらとは、お互いに好敵手(ライバル)として認め合ってる存在だ。 同地区の親切高校の十野(との)将人(まさと)、星英高校の天道(てんどう)翔馬(しょうま)。 県外にも何人か居るが、それは今は置いておこう。

 

「好敵手か。 良い響きだ」

「はい。秋大で試合が出来ることを考えたらワクワクが止まりませんね。 生きていることを実感出来ます」

「ぷっ! あはははは!」

「……面白い」

「ふはは、面白いことを言うね、公くん」

「そんなに、変なこと言いましたかね?」

 

  俺の言葉に准さん、維織さん、世納さんが笑みを浮かべる。

 

「いやぁ、面白いねぇ。 公くんたら、段々と夜長さんに似てきたね」

『え?』

「ほら、シンクロしてるし……あはは、ダメ、お腹がよじれそう」

「……そっくり」

 

  准さんはお腹を抱えながら心底楽しそうに笑い、維織さんも薄らだが表情に明るさが見える。 世納さんの表情にも喜色が見えるけど、そんなに面白いとは思わないんだが。

  3人のこの様子に、夜長さんと顔を見合わせて笑い合った。

 

 

 




読了、ありがとうございます。

作中キャラを軽く紹介。

・夏目准――喫茶店「さんせっと」でバイトをしている女子大生。 現在大学3年生。 経営学部。 普段は長い金髪を下ろしているが、バイトの際には縦巻きロールにしている。 バイト時に身につけているメイド服は自作。 服が好きで、将来は自分の店を持てたらいいなと思っている。 維織の良き理解者。

・野崎維織――極度のめんどくさがり屋で、准に「めんどくさい星人」と呼ばれている。 読書が好きで、喫茶店「さんせっと」は維織の好みに合わせて作られている。 読んだ本の影響をしばしば受ける。 一番気に入っているものは「さつまいも右手の法則」。 准よりも1つ年上で、同じ大学に通っているが、ずば抜けて頭が良いため既に単位を取り終えている。 中学校の頃から仲のいい友人がいる。 実家は大企業。

・夜長朱鷺――ある時どこからともなく遠前町にやってきた風来坊。 ヒゲを生やしている為、おじさんと呼ばれることがあるが27歳。 運動能力が非常に高く、地元の草野球チームに助っ人として所属している。 「さんせっと」の新作珈琲がタダで飲めると聞き、来店した際に維織と准と出会った。 無職。 維織に養ってもらっている為、准からは「ヒモ」と呼ばれている。 好きな言葉は「浪漫(ロマン)」で、怖いモノは准。 主人の能力を高く買っている。

・世納香太――喫茶店「さんせっと」のマスターであると同時に、維織の付き人。 非常に温厚な性格で、人当たりも良い。 夜長や主人の事を気に入っている。 珈琲が好きで、豆にかなりの拘りを持っている。

閲覧、ありがとうございました。


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9月-②

  今朝から酷い目に合った。 折角森島先輩と話す機会が出来たというのに美也のやつ、あんな態度を取るなんて。 お陰で水浸し、これが冬なら風邪引いていたかもしれない。

 

「お、大将。 水も滴る良い男だねぇ」

「この間は寝不足だったみたいだけど、今回はどうしたの? また随分と変な顔してるよ」

「ちょっとポカをしてな。 お陰でこの様だよ」

 

  そう答えてからポケットからハンカチを取り出し、体の水気を取っていく。

 

「何だ純一、タオル持ってないのか。 言えば貸すのに」

 

  ほら、と公が鞄からスポーツタオルを取り出して手渡してくれた。 正直こういうのは女子に貸してもらった方が嬉しいものだが、公の気持ちを無視は出来ない。 若干の抵抗はあったものの、素直に受け取ることにした。

 

「今変なこと考えたろ?」

「え、何が……?」

 

  予想外の鋭さに、思わず声を上ずらせてしまう。 勘の良さは昔から変わっていない。

 

「大将の事だから女子から借りたいとか思ってたりしてな」

「梅の言う通りだな。違うか純一?」

「ま、まさかそんなこと……」

 

  どうやら梅原にもバレているらしい。 本当に変なところで勘のいい連中だ。

 

「そ、そうだ。タオル、借りるよ」

「おう。ちゃんと洗ってあるから心配すんな」

 

  公の言葉通り、タオルからは柔軟剤の良い香りがした。 おまけにふかふかで肌触りも良い。

 

「明日、洗って持ってくるよ」

「いいよそんなこと。高々タオルだしな」

「じゃあ、お言葉に甘えるよ」

「あ、待った。掃除当番代わってくれ」

「……はいよ」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「じゃあ、純一よろしくな」

「うん、部活頑張ってな」

 

  朝の約束通り、掃除当番を代行する。 その掃除だが、どうやら公はゴミ捨て番だったらしい。 今日は週末の為、ゴミ捨て場に溜まっているゴミも焼却炉に運ばなければならない。 その手間に思わず溜息が出た。

 

「まぁでも、捨てるだけだし文句は言えないな」

 

  教室とワークスペースの掃除が終了した為、行動に移る。 梅原や薫に別れを告げて、廊下を歩くこと少し、聞き覚えのある声と共に首根っこ――制服の襟を掴まれた。

 

「あ、橘くん! 丁度良いところに!」

「せ、先輩……首が、閉まってます……!」

「あら、ソーリー。 ちょっと気合が入りすぎちゃったみたい」

「入りすぎですよ……それで、何かありましたか?」

「あ、そうそう。 ねぇ、女子用の水着持ってない?」

「…………え?」

「だから、女子用の水着。 持ってない?」

「せ、先輩、僕が女子に見えますか? 持ってたら色々とやばいです」

「そっか〜……もしかしたらと思ったんだけどなぁ」

 

  もしかしたら、って一体先輩は僕のことをどんな目で見ているんだ。 男性である僕が女性用の水着何て持っていたら、問答無用で学校には居られなくなる。 それに薫のやつが色々と面倒なことにしてきそうだ。

 

「ん〜、美也ちゃんのでもいいんだけど、どうかな?」

 

  手から力が抜け、ドサッと音を立ててゴミ箱を落としてしまう。 美也とは朝あんな事があったから少し気まずいところがある。 家に帰ったらそんなこと言っていられなくなるだろうが。 帰りに「まんま肉まん」でも買って、それを献上するしかないか。

 

「美也のをどうするつもりですか?」

「どうするって、着るに決まってるじゃない」

 

  成程。 先輩は恐らく急に泳ぎたくなったんだろう。 森島先輩の事だ、充分に考えられることである。

  でも、それには――――

 

「仮に、美也の物があったとしても、先輩には小さいと思いますよ? 先輩が美也の水着を着たら大変なことになっちゃいます」

「ん〜、そうなのかなぁ」

「それに、どうして急に水着何です? もう9月ですし、水に浸かるのは少々肌寒い気がしますけど」

「何かね、水泳部の練習を覗いていたら私も泳ぎたくなっちゃって」

 

  すいすい、と森島先輩はクロールの動きを取りやる気を見せる。 ふむ、これはもう僕が何を言ってもプールで泳ごうとするだろう。

 

「やっぱりそうでしたか。 それなら水泳部の子に借りるのはどうでしょう?水泳部ならスペアとして、競技用の他に学校指定の物も持っている可能性が高いですし」

「わお! 橘くん冴えてるわね! そうと決まったらプールに突撃よ! ゴーゴーゴー!」

 

  先程と同様に、またもや襟を掴まれ廊下を引き摺られて行く。 おかしい、華奢な森島先輩よりも僕の方が力は強い筈。 なのに抗えない。

 

「先輩! 周りの視線が痛いです! 自分で歩けますから! ゴミも捨てたいです!」

 

  無事にゴミを捨て終えてから、目的地へと足を向けた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  屋内プールに着くと、先輩は辺りを見渡し一人の水泳部員を見つけた。

  細身のスタイルながら、水泳をしている為か身体は美しく鍛えられている。

  輝日東高校水泳部1年の期待の星――――七咲逢だ。

 

「あれ、逢ちゃん久しぶり」

「森島先輩? それに、橘先輩も」

「久しぶり。 ちょっと七咲に頼みたいことがあって――――-」

 

  七咲に、今日プールを訪れた理由を説明すると共に水着の交渉を行った。

 

「……はぁ、仕方ないですね。流石にお二人に頼まれてしまっては断れません」

「やったわ! 流石逢ちゃんね! じゃあ早速着替えてくるわね」

「あ、ちょっと先輩……」

 

  一人取り残されてしまった。 これは非常に不味い展開である。 森島先輩の水着姿を拝めるなんて、人生に置いてそう何度もある事とは思えない。 寧ろ、“今日がラストチャンス”なのではとさえ思ってしまう。

  しかし、それを拝もうならばそれ相応の代価を支払わなければいけないらしい。 それが等価交換の法則だ。 先日たまたまテレビで見かけた面白いアニメで学んだことだ。

  そして、その代価とは――――他の女子水泳部員からの冷たい視線である。 これで僕がアブノーマルならば、この状況も好機として乗り切ることが出来るだろう。 だが生憎、僕はまともだ。 その様な性癖は持ち合わせていない。

  自身の中の気持ちと葛藤すること数分、漸く森島先輩が着替えを終えて、姿を現した。

 

「おまたせ〜。 どう、似合うかしら?」

「も、勿論です。……ちょっと小さい気もしますが

「先輩、今は女子水泳部がここを使用しているのでそろそろ退出しないと罰則がかかりますよ」

「そ、そうだね。 そうなる前に帰らないとな」

「そんなこと言って、足は動いてませんよ? 眼は動いてる見たいですけどね」

 

  七咲との最初の出会いは最悪と言える形だったものの、今ではこうして話すことが出来ている。 こうして、話が出来ることは幸せなことなのに、胸がズキリと痛みを見せた。 ここ最近は大人しくしていたのに。

  軽く胸を摩ってから顔を見上げると、困り顔の森島先輩が視界に入った。 プールの向こう側には塚原先輩の姿がある。 理由はそういうことなのだろう。

 

「妙に騒がしいと思って来てみたら、部外者が二人も居るじゃない。 七咲も、幾らはるかとは言え、簡単に水着を貸しちゃ駄目よ」

「響ちゃん、お願い。 ちょっとだけ泳がせて?」

「駄目」

「そんな釣れない事言わないで」

「駄目なモノは駄目よはるか。部外者は立ち入り禁止。着替えたら早く出て行って」

「そんな〜」

 

  食い下がる森島先輩に対して、塚原先輩は睨みを利かせる。 ここに私情を挟まないのが、塚原先輩の水泳部の部長としての立場であり、優しさなのだろう。 ここで森島先輩が親友だから、と言って泳ぐことを許可すればルールは破られ無法地帯となってしまうことも充分に考えられる。 そして何より、先輩が罰せられてしまう。 そこまで考慮した上でのこの姿勢なのだと思う。

 

「ちぇ〜……詰まんないの」

 

  森島先輩は口を尖らせながらも、すごすごと塚原先輩の言葉に従って更衣室へと戻っていく。

 

「橘くん」

「は、はい!」

「あの子のフォロー、よろしくね」

「わ、わかりました!」

「橘くん、そんなわからず屋の響ちゃんと話してないで帰りましょう」

「え、でも……」

「ここは良いから、はるかの言う通りにしてあげて」

「はい……失礼します」

 

  もう既にかなり先を歩いている森島先輩に追いつくために駆け出した。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  コツコツ、と足音が放課後の校舎に良く響く。 日は落ち始め、夕焼けが出来つつあった。

 

「もう、響ちゃんのケチんぼ」

「仕方ないですよ。 塚原先輩には、水泳部の部長としての立場がありますから」

「何よ、響の味方をするつもり?」

「ち、違いますよ。そういう訳じゃ……」

 

  完全にへそを曲げてしまっている。 普段天然な森島先輩だから、こうなった時の対処には手こずるって塚原先輩も言ってたっけ。

  さて、どうするべきか。

 

「あ、そうだ先輩! 気分転換に、また図書室に行って子犬の写真集でも見ませんか?」

「え〜、でもこの前結構借りちゃったからなぁ。まだ可愛い本あるかな?」

「結構、と言うことはまだ全部じゃ無いってことですよ。大丈夫です、まだ見つけていない本が必ずありますから! 僕が探し出してみせます」

「ほんとに?」

「はい! 男に二言はありません」

「君がそこまで言うなら良いかもね。 うん、おっけー! 素敵な本を見つけてね」

「わかりました! 任せてください」

「うん! それじゃあレッツゴー!」

「せ、先輩! その前にせめてゴミ箱だけでも教室に戻させてください」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「では、探してくるので先輩は楽に過ごしていてください」

「うん、待ってるわね」

 

  森島先輩の機嫌も80%くらいは戻ってきているだろうか。 もう一押し、ここで確実に入れておきたい。 そうしないと、塚原先輩に合わせる顔がない。

 

「あれ、梨穂子か」

「じゅ、純一!?」

 

  まだ目を通していない部分を探していると、幼馴染を発見した。 読んでいた本をサッと、後ろに回したが僕には見えてしまった。

「ミニ運動ダイエット」とか書かれていた気がする。 梨穂子の事だから食べ物かダイエットの事に関する物だろうと思ったが、その通りとは。 少しからかってやろう。

 

「ははーん、その慌てようからするにまた新しいダイエットに手を出そうとしているな」

「え、何で解るの!?」

「何年幼馴染をしていると思ってるんだ。 梨穂子の考えていることくらい、顔を見れば解るさ。 梨穂子が本を読むなんて、食べ物かダイエット関連の物って相場が決まっているからな」

「もう……純一の意地悪」

「そんなに気にする事はないと思うけど。 あ、因みに言うとさっき僕が梨穂子の持っている本を当てれたのは、たまたま表紙が見えたからなんだ。 僕の視力も捨てたもんじゃないな。 それと、あんまり無理をするなよ」

「うん……ありがと純一」

 

  梨穂子と分かれてから思いつく場所を虱潰しに探してみたが、あまり成果は芳しくなかった。 正直言って、もう少し存在すると思っていたからだ。

 

「とりあえず、今ある分で先輩が喜んでくれたらいいんだけど」

 

  先輩の興味が湧くようにと、順番を並び替えてから先輩の待つ席へと戻った。 思いの外時間がかかってしまった。 急がないとな。

 

「先輩、お待たせしました……って、あれ、寝ちゃったか」

 

  起こさない様注意を払いつつ、風邪をひかないよう制服をその背中に羽織らせておく。 これで少しは効果があるだろう。

 

  段々と、空色が暗色へと近づいて行く。 気がつけば、図書室に居るのは僕ら二人となっていた。

 

「あ、あれ……ごめんね橘くん。寝ちゃった」

「おはようございます先輩。少しだけですよ」

「あ、これ掛けてくれたんだ。ありがと、優しいね」

「いいえ、そんな、普通の行動ですよ」

「そっか、うん、そういうことにしておこうかな」

 

  少しの間、場に沈黙が流れる。 少し気まずく感じた為コホンと咳払いをすると、森島先輩とタイミングが被った。

 

「ふふっ、重なったね」

「みたいですね。 あ、すみません、大口叩いたのにこれだけしか見つけることが出来ませんでした」

「ううん、ありがとう。 あ、これも、それもまだ見てない。 橘くん凄いね!」

「そ、それほどでも」

「あ、これ可愛い! この写真もキュートね〜」

 

  食い入る様に先輩は写真集を見続けた。 どうやら気に入ってもらえたらしい。 その様子は愛くるしく、魔性のモノの様に感じる。

 

「……やっぱり僕は先輩が好きだ」

「え……?」

 

  ピタッと頁を捲る先輩の手が止まる。 やってしまった。 思ったことをつい零してしまうなんて、完全に失態だ。 気を抜きすぎた。

 

「あ、いえ、急にすみません。迷惑ですよね……」

「迷惑じゃないけど……理由(わけ)を、話してくれないかな?」

 

  以前に先走って想いを伝えた時は、こんな風に取り合って貰えなかった。 この間の下校時の会話が頭を過ぎるが、こうなった以上下手な言い逃れは出来ない。 覚悟を決めるしか無さそうだ。

 

「……先輩と居ると、楽しいんです。もっと色々な話をしたいというか、それで」

「急に、そんなことを言って」

「……すみません、本当に」

「謝らないで」

「すみま……あっ」

 

  辺りに沈黙が漂う。 1秒が何分、何時間にも感じられるような重圧が身体を襲っていた。

 

「……何で?だってこの間」

「諦めたく無くて。 先輩が迷惑じゃ無くて、またチャンスが貰えるなら諦めたくない。 何度振られたって、構わない」

 

「僕が一番怖いのは、返事さえ貰えないことなんで」

「そ、そんなことしないわ」

「ありがとうございます」

「な、何お礼言ってるの、変だなぁ……」

 

  取り合っては貰えるものの、状況に進展はない。 ここはもう、単刀直入に言おう。

 

「あの! 僕、先輩のこと好きでいていいですか? 鬱陶しかったら、諦めます」

「……鬱陶しくなんか、無いよ」

「じゃあ……いいんですか?」

「……うん」

「やった! ありがとうございます!」

 

  まさかの返事だ。 最悪の展開が避けられたことに思わず立ち上がり、声を上げてしまった。

 

「もう……何でそんなに、一生懸命かな」

「すみません、僕には、これしか無くて」

「――――そんなに頑張られたら、ほっとけないじゃない」

「先輩?」

「もぉ! 橘くんめ! これでもくらえ!」

 

  時が、止まった様な気がした。

 

  今起きていることは、夢なのかと疑った。

 

  でもそれを否定するには、肯定の材料が多すぎた。

 

  目の前にいる頬を紅潮させている先輩と、眉間に残った確かな熱の感覚が、それを如実に物語っていた。

 

「せ、先輩……今のって?」

「必死で八の字になってる、君の困り眉毛があんまり可愛いからキスしたの」

「え、えっと……」

「本当はね、分かってたんだ。 我儘だってこと。 それでも、あの響ちゃんが熱中している水泳がどんなものなのか、一度感じてみたかった。 授業でやる水泳じゃなくて、部活で行う本気の水泳を」

「そう、だったんですか」

「……うん。だから、さっきのはちょっとしたお礼。 キミと話してたら、響ちゃんに謝る勇気が出たの」

「先輩……」

「ありがとう橘くん。 また明日ね」

 

  先輩はそう言うと、図書室を後にした。 恐らく、塚原先輩の元へ行くのだろう。

  とても、言葉では表せない、それくらいに濃い時間が過ぎた。

  しばらくの間、眉間に手を当てて、先程までの余韻に浸っていると下校時刻を知らせる校内放送で我に返った。

  そう言えば、まだ教室にゴミ箱を返していない。 このままでは、僕だけでなく、公も咎められることになってしまう。 それだけは避けまいと、急いで教室に向かった。

 

 

 




読了、ありがとうございます。

考えを文字に起こす表現が難しい…。

批評、募集しています。 閲覧ありがとうございました。


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10月-①

あれ、アマガミが息してないな。。。



  天道の持つ金属バットが、甲高い音を奏でる。

  真芯で捉えられたその打球は綺麗な放物線を描き、外野フェンスの奥へと吸い込まれた。

  これによって相手ベンチ、応援団が共に歓声を上げ、先程自分が本塁打を浴びたという事実を突きつけてくる。 均衡したこの場面、ここでの一発は正直キツいものがある。

 

「……すまん、甘く入った」

「落ち込むのは試合の後だ。次も気が抜けないからな、頼むぞ主将(キャプテン)

「ああ、気合いを入れ直す。打たせていくから、皆も頼んだぞ」

『おう!』

 

  汗を拭い、ロジンバックを手で跳ねさせる。

  そうして手に付いた滑り止めを適量にするため、ふっと吹き飛ばせばスイッチの入れ直しが終わる。

  もう簡単には打たせない。

  5番・木下を三振に抑えベンチに駆け足で戻った。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「……あちゃ〜、打たれちゃったね」

「スライダーが浮いて、それを捉えられた形になったか」

 

  先程の追加点は輝日東高校にとっては、とても大きな痛手だ。

  それにしても、あの天道くんとか言う投手、いやはや大した才能の持ち主だ。 1年生ながら星英高校の主力として甲子園で準優勝を経験。 その後も甲子園に出場し続けているのは正に天才――――そういう星の下に生まれたと言っても過言ではないだろう。

  プロが注目しているのも納得のいく超高校級だ。

 

「そんな子に、君は好敵手(ライバル)と認められてるのか。やるじゃないか公くん」

 

  贔屓目無しに見ても、公くんの能力も天道くんに負けてないと思う。 球速は天道くんの方が上回るが、公くんには無尽蔵の体力(スタミナ)がある。 強いて差があるとすれば――――

 

「やっぱり、彼は道を間違えた気がする」

 

  突然、維織さんがそんな言の葉を落とす。

 

「維織さん、それってどういう意味?」

 

  准は怪訝(けげん)そうに維織さんを見つめる。

 

「……朱鷺くん、貴方は解る?」

「公立と私立の話だろ? 基本は、私立の方が設備が整っているからな」

 

  維織さんが言っている意味は、恐らくそこにある。野球留学なんて言葉があるくらいだ。 強豪校に進んでいれば、その分甲子園は近くなるし、その後の進路も決まりやすい。

  公くんの努力をずっと近くで見続けてきた維織さんだ。 その努力を無駄にして欲しくないという思いがあるのだろう。

 

「でも維織さん。この前公くんは、後悔は無いって言ってたよ?」

「そう、彼は心が強い。だからこそ勿体無い――背中に羽根を持っているのに」

 

  それっきり維織さんは黙り込んでしまった。

  維織さんには維織さんなりの葛藤があるのだろう。 でも、維織さん。 心配する必要は無い。 公くんは、俺たちの想像よりも強い。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  最終回、打者2人が三振に倒れ、これで2(アウト)。 後1死で試合が終わってしまう。

  天道も間違いなく疲れている筈。 ここまで来て、あっさり負けたく無い。

 

「――椎名、頼む」

「あぁ、繋げるさ主将」

 

  その言葉通り椎名はボールを良く選び、四球で出塁する。

  何とも頼もしい恋女房だ。 自然と笑みが零れた。

  正直言って身体は鉛の様に重く、体力は尽きかけている。 そんな状況でも、打席に入ると力が湧き上がってくる。 どうやら俺は、どうしようも無く野球が好きみたいだ。

 

「主人、君で最後だ」

「まだ勝った気になるのは早いぜ天道」

 

  天道は好戦的な笑みを浮かべると、走者が居るにも関わらず振りかぶった。

  椎名が上手くスタートを切る。 とは言え、天道の球速は並外れた物を誇っている。 ここで刺されてしまっては、元も子も無くなってしまう。 故にここはバントの構えで直前まで引き付けて、捕手の動きを制限する。

 

「ボール!」

 

  椎名の盗塁も無事に決まり、おまけにボールと来た。 良い感じだ。

 

「走りたければ、走ればいいさ!」

 

  またも天道は振りかぶり、豪速球が投げ込まれる。

 

「ストライーク! ワン!」

 

  今度は真ん中低めに決まってストライク。 しかし、椎名もまた三盗に成功した。

  ここで椎名を返すことが出来れば、まだ試合は分からなくなる。 何としても返したいところだ。

  カウントは並行。 次も恐らくストレート、ここで狙っていきたいところだ。

 

「ストライーク! ツー!」

 

  相手捕手の構えるミットが重い音を立てる。

  球速が更に上がった。 サッと、電光掲示板を見上げるとそこには驚異とも呼べる数字が記されていた。

 

  155km/h

 

  今年の夏の甲子園で記録した、最速の153km/hを上回ってくる数字。 それをここで出してくる。

  ゾワっとしたモノが、背中を走り抜けた。 腕にも小さな震えが起こる。

 

  ――――怪物

 

  この表現通りの力を遺憾無く発揮してくる。 その様子は最終回のこの局面で、自己最速を更新してくるのだ。 我が好敵手ながら、恐ろしい。

  だけど――――負けていられない。

 

  自分は何故、輝日東高校を選んだのか。

 

  自分は何故、この場に立っているのだろうか。

 

  自分は何故、怪物を前にして武者震いを感じるのか。

 

  それは簡単なことだ。

  壁は、高ければ高いほど、登りきり、超えた時が気持ちいい。

  それを成すために、ここに居るんだ。

  繋いでくれた、椎名の為にもここは打つ。

 

  4球目、左腕がしなり豪速球が投げ込まれる。

  コースは内角高め(インハイ)。 振り負けぬ様、反射的に短く持ち直し、全身全霊を込めてバットを振り抜いた。

 

  先程の回の、天道同様に金属バットが甲高い音を奏でた。 打球はセンター方向へと伸びていく。

  叫んだ。 腹の底から、声を出した。

 

「――行けェ! 超えろォ!」

 

  センター上空に、高々と上がったその打球に――――勝利の女神が微笑むことは無かった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「……惜しかった」

「ああ。良い試合だった」

 

  最後の公くんの打席、あそこが名実ともに勝負の決まりとなった。

  内角高めに投げ込まれた豪速球に振り負けない様に、反射的にバットを短く持ち直したのは素晴らしいモノ(センス)だ。 中々出来る芸当では無い。

  そして、見事、あの豪速球を弾き返す事が出来た。

 

  しかし――――運が無かった。

 

  寄りにも寄って、球場の一番深い所に打ち込み、(あまつさ)え上空から強い風が吹き付けていた。 それが無ければ、同点は間違いなかっただろう。 とは言っても、それは所詮“たられば”に過ぎない。 残ったのは星英(天道)が勝ち、輝日東(主人)が負けたという事実だ。 それは、何をどうしようと変えられるものではない。

 

「准ちゃん。今日の夜、お願い」

「解りました、用意しますね」

「ありがとう准ちゃん」

「辛いことを吹き飛ばすには、楽しいことが一番だからね。協力しますよ!」

 

  たった今維織さんの手によって、「さんせっと」で公くんの慰労会が開催されることが決定した。 ふむ、これは良いタイミングかもしれない。

 

「維織さん、話があるんだ。准も聞いてくれないか?」

 

  夏が終わってからずっと考えていたことを、遂に口にすることに決めた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  届かなかった。

  全力を出し切ったのに、負けた。

  天道は打って抑え、俺は打てずに抑えきれなかった。

  気が付けば、一進一退を続けていた好敵手の背中は、遥か遠くに行ってしまった様に感じる。

 

「主将、お前は頑張りすぎだし、独りで抱え込もうとするな。誰もお前を責めてない、責めるはずが無いんだ」

「椎名……」

「そうだろ皆?」

 

  椎名の言葉に野球部の面々は力強く頷く。

  揃いも揃ってお人好しな連中だ。 この優しさに救われたのは一度や二度だけでは無い。

 

「まだ夏があるんだ。()り返すチャンスは、充分にあるだろ?」

「ああ、そうだな。椎名、お前の方がよっぽど主将に向いてるよ」

「……俺は人を引っ張ると言う様な柄じゃ無い。皆、お前が主将だからここまで付いてきてるんだ。――ちょっとは自分のキャプテンシーに自信を持て」

「……何か、お前にそこまで言われると恥ずかしいものがあるな」

「そういう柄じゃないだろ……はぁ、まぁいい。解っただろ? 俺たちはまだ、下を向くには早いんだよ」

「うっし……切り替え終了。もう落ち込まん」

「ああ、野球バカ何だからそれくらいで居てくれ」

「バカは言い過ぎだ、バカは」

 

  全く、椎名には頭が上がらない。 高校からの付き合いになるが、純一たちを除いた面々では一番仲の良い友人だ。 こんな感じで野球の方でも頼りなる。 ほんと、頼もしいやつだ。

 

  今日はもう練習も無いため、まもなく始まる準決勝第2試合を観戦するも良し。 家に帰るのも良し。 要するに自由時間が与えられることになった。

 

「主人、お前どうするんだ?」

「あぁ、俺は見ていくよ。アイツが出るからな。椎名は?」

「俺は皆とカラオケだ。さっきみんなの前だったからあんな風に言ったけど、悔しいものは悔しいからな。ストレスをぶつけてくるさ」

「そっか。じゃあ、楽しんでこいよ」

「分かってるさ。じゃあな」

 

  椎名たちに、別れを告げて俺は独りスタンドで観戦することになった。 何だ、皆帰ったのか。 別に寂しいとかじゃ無いが、何だかなぁという思いがある。

 

「相変わらず、変わったユニフォームだな」

 

  親切高校。

 

  三塁側ベンチ前でアップを行っている、紅白のユニフォームを身に包んだ野球部だ。

  帽子には赤い笑顔のマークがあるが、親切何て名前の割に、殺伐としたものが感じられると椎名が以前言っていた。

 

  県内でも屈指の強力打線を誇る親切高校が、今日対戦する相手は、鉄砂高校。

  イーファスピッチと堅実な守備が持ち味の、戦りづらい相手だ。 両校の試合を観ようと、駆けつけた高校野球ファンから聞こえてきた会話によると、矛盾対決とされているようだ。

  強力打線対エラー0の堅固な守備。 球場が湧くのも納得の行く話だ。

  さぁ、その守備の穴をどうつくのか、見せてもらおうか――――十野。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  結果から言えば、親切高校が試合に勝利した。 それも、大量得点で。

  2点ビハインドで迎えた7回、そこまで鳴りを潜めていた親切打線が牙を剥いた。

  “打”の親切高校という二つ名の意味を、遺憾無く発揮した試合になった。 序盤はイーファスピッチに苦しめられるも、主将の十野が口火を切り、この回一挙7得点とビッグイニングを展開した。 その後の鉄砂高校の攻撃は、継投策を用いて抑える等とその地力の強さを存分に見せた。

  これによって、明日行われる決勝戦は星英高校対親切高校で繰り広げられることになった。 その場に自分が立てないことに、悔しさはあるが後悔は無い。 夏は必ず好敵手を破ると誓い、その場を後にした。

 

  帰宅すると、母が心配そうな顔つきでこちらを見つめてきた。 今日の試合はローカルテレビで放送されていた為、内容を知っているのだと思う。 試合終了後からかなり時間が経って帰宅した息子の心境を想像しての行動だろう。

 

「母さん、そんな顔すること無いから」

「でもねぇ……」

「本人が大丈夫って言うんだから信じてくれよ。遅くなったのは親切の試合も観てたから。これでOK?」

「……そう、それなら良いわ。お風呂入るでしょ?」

「うん、ありがとう」

 

  試合での疲れを吹き飛ばすのに風呂は最適だ。 心が休まる。 疲労回復の為に、軽くマッサージを行うのも欠かさない。 柚子の香りがする入浴剤を十二分に堪能した為、湯船から身体を起き上がらせる。

  大分リラックス出来た。 やっぱり疲れてる時には、湯船に身体を預けるのが一番だ。 温熱、湯温、浮力によって血の巡りを良くし、更に入浴剤で香りを楽しみ気分を落ち着かせる。 完璧な風呂の利用法と言っても過言では無いかもしれない。

  着替えを済ませ、自室に戻ってベッドへと身体を沈ませたところで突然携帯が振動する。

 

「うわぁ! ……何だ、准さんか」

 

  完全に気を抜いていた為、我ながら素っ頓狂な声を上げてしまった。 携帯の画面に表示されているのは見知った名前。 送られてきた内容を目を通すと、今日の夜に「さんせっと」で慰労会をしてくれるとのここと。 出席に関しては、拒否権は無いらしい。 電話で無く、文面で伝えてくれたのは気遣ってくれているのだろう。 出席する意思を示した簡素な返信を送り、目を閉じる。 意識は直ぐに、深く潜った。

 

「あら、どこか出掛けるの?」

「うん、ちょっとそこまで。夕飯要らないから」

 

  部屋着から外出用の服に着替え、「さんせっと」に向かって自転車を走らせる。 少し眠りすぎたが、約束の時間には充分間に合いそうだ。

「さんせっと」に着くと、丁度准さんが「Closed」の文字を扉にかけているところだった。

 

「あ、来た来た。時間前行動、流石野球部だね」

「今日は呼んでくれて、ありがとうございます」

「うん! 今日は君が主役だからね。ご主人様のご来店で〜す!♡」

 

  店内は相変わらず、珈琲特有の香りが辺りを漂い鼻腔をくすぐる。 見渡すと、維織さん、世納さん、夜長さんの3人が居る。 全員集合だ。

 

「よ! 試合お疲れさん……惜しかったな」

 

  開口一番に、夜長さんが今日の試合の労いを入れてくれる。 本当に人のことを良く見ている人だ。

 

「急に呼んだけど、大丈夫だった?」

「大丈夫ですよ、維織さん。じゃなかったら、ここに居ないです」

 

  この言葉に夜長さんたちが優しく笑う。

 

「はい、出来たよ。召し上がれ」

 

  テーブルの上には馴染み深いハムサンドやタマゴサンド、シーザーサラダの他に、見た事も無い料理が並んでいる。

 

「維織さん……この一際豪華な料理って名前なんですか?」

「……満漢全席」

「へ?」

「ごめん。108種類、再現できなかった」

「………」

 

  開いた口が塞がらないとはこのことなんだろう。 それくらいの衝撃が襲いかかってきていた。 チラッと、周りを見渡すと准さんも夜長さんも世納さんも苦笑いだ。

  目が語りかけてきている。

 

  ――――凝り性なところが出てしまったと。

 

「この量を今日で食べ尽くすんですか?」

「……心配要らない。朱鷺くんが居る」

「流石に俺でも、この量はちょっと……」

「食べたくないの?」

「は、はい! いただきます!」

「……初めからそう言えばいいのに」

 

  苦しいけど、楽しい食事になりそうだ。 そんな気がした。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「も、もう無理……これ以上は入らん」

「あはは! 夜長さん何その顔! 信じらんない!」

 

  准のやつが、偉く笑うもんだから周りを見渡してみると維織さん以外が笑っていた。 いや、維織さんも楽しそうにしているし、ぎこちないだけか。

  全く、失礼な人たちだ。 イキでクールなナイスガイの俺のどこを笑うところがあると言うのだ。

  食卓に並べられていた食事も、今では皿を空にしている。 そろそろ本題に入る頃合いか。

 

「公くん、話があるんだ。聞いてくれるか?」

「は、はい。どうぞ」

 

  会話を始める前にと、烏龍茶を飲み喉を潤す。

 さて準備は整った。 問題はどう話すかだ。

 

「朱鷺くんが、外部コーチになりたいんだって」

「へぇ〜、そうなんですか……ん?」

「そうそう、前から思ってたんだよ……って、維織さん!」

 

  何で先に話すんだというツッコミはしない。 したらもう負けが確定してしまう。コテっと首を傾げてもダメだ。 可愛い、じゃなくて、溜め込んだ真面目な空気を返して欲しい。

  准は相も変わらず腹を抱えて笑っている。 まさか、お前が仕組んだのか。 どうしてやろうかと、考えていると公くんの口が動き始めた為意識を戻す。

 

「えっと、外部コーチってどういうことですか?」

「そのままの意味さ。今日の試合を観て思ったんだ。このまま君たちが終わってしまったら、それは何て残酷で悲しい事なんだろうと。役に立てることは少ないかもしれない。それでも俺は、君たちの力になりたい。そう思ったんだ」

 

  これは紛れもない本心だ。 あの試合を観て、輝日東高校野球部に力を貸したくなった。 これでも昔、ある高校を鍛え上げたんだ。 多少なりとも彼等の力に成れるはず。

 

「……良いんですか? そりゃあ、夜長さんが来てくれるならウチにとっては凄いプラスですけど」

「けど……?」

「夜長さんの気持ちは嬉しいです。でも、それに見合うだけの返しが思い付きません」

「あぁ、それなら大丈夫。君たちが甲子園に行くこと。それが条件だ」

「――簡単に、言ってくれますね」

「信じてるからさ。ここに居る全員がそう思ってる」

 

  公くんは3人の顔を見渡し、そっとを顔を落とした。

 

「……ズルいですよ、そんなの」

「ああ、これが大人ってものだ。君等はただ、前だけ向いていればいい」

 

  静かな時が流れた。

 

「いつから来てくれるんですか?」

「月曜日から出るつもりだ。出来れば毎日行きたいと思ってる。とは言っても、教員免許は無いからボランティア見たいなものなんだけどな」

「それでもちょっとは給料が出るんでしょ?目指せヒモ脱却だね!」

「ヒモって言うなヒモって……」

「大丈夫。朱鷺くんは私が養う」

「……俺ってもしかして飼われてる?」

『何を今更』

 

  満場一致で、急に俺を弄り始めた。 ほんとにこの腹黒メイドと来たら、溜まったもんじゃない。 でも、まぁそれでも准は准なりにエールを送ってくれているのだろう。 と言うか、そう思わないと辛い。

  だが、このやり取りのお陰で公くんの顔に笑顔が戻った。

  彼は責任感が強い。 周りが助け舟を出して、それに表面上では気付いても、頭の中では自分を追い込むのだろう。 それを防ぐのが、俺たち大人だ。 まだ高校生なんだ、もっと大人を頼っていい時だ。

  維織さん、元ヒーローと言うことに誓って、貴女の秘蔵っ子を立派に羽ばたかせてみせるよ。 約束だ。 必ず、守る。

 

 

 




野球回になってしまったので、次いでにキャラの簡易能力表も。
あくまで参考程度で。

主人(ぬしひと) (こう)

・右投げ右打ち

・投手/外野手 145km/h オーバースロー コントロールC スタミナA
・ツーシーム スライダー 4 カーブ 2

・弾道 3
・ミートB
・パワー B
・走力 C
・肩力 A
・守備力 C
・耐エラー C

・人気者 威圧感 ムード〇 センス○ ノビ○ 一発 ランナー△
・人気者 威圧感 ムード○ 広角打法 ハイボールヒッター

・輝日東高校 主将兼エース兼主砲。 キャプテンシーが非常に強い。

椎名(しいな) (まこと)

・右投げ右打ち

・捕手

・弾道 2
・ミート B
・パワー D
・走力 C
・肩力 A
・守備力 B
・耐エラー A

・キャッチャー〇 送球〇 アベレージヒッター ムラっけ 三振

・輝日東高校 正捕手。 公の手網を引っ張る恋女房。

天道(てんどう) 翔馬(しょうま)

・左投げ左打ち

・投手 155km/h オーバースロー コントロールE スタミナC
・高速スライダー 2 フォーク 2 シュート 2

・弾道 4
・ミートD
・パワー A
・走力 B
・肩力 A
・守備力 C
・耐エラー D

・人気者 ジャイロボール ノビ◎ 完投タイプ 牽制〇 球持ち〇 速球中心 重い球 一発
・人気者 チャンスメーカー アベレージヒッター ムード〇 走塁〇 流し打ち 広角打法 チャンス△ 三振

・星英高校 主将兼エース兼主砲。 プロ注目選手。 世代No.1とも。

十野(との) 将人(まさと)

・右投げ左打ち

・内野手(遊撃手)

・弾道 3
・ミート A
・パワー B
・走力 B
・肩力 B
・守備力 A
・耐エラー B

・人気者 広角打法 チャンス◎ 流し打ち 固め打ち センス〇 チャンスメーカー 逆境〇 連打〇 ムード〇 ヘッドスライディング 悪球打ち

・親切高校 主将兼主砲。 親切高校の守りの要でもある。 勝負強い。

読了、ありがとうございました。


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10月-②

キャラのキャラが定まらない…。


 

  新聞を見て、朝から複雑な気分になった。

  昨日行われた親切高校対星英高校の試合は、2-1の接戦を親切高校が制し、春の甲子園大会(センバツ)への出場がほぼ確定した。

  内容だけを見れば、親切高校が上回ったと判断できるが、この新聞によると星英の天道は肩に爆弾を背負っており、それが響き敗北したと書いてある。 つまり、親切高校の勝利は純粋に評価されてないのである。 天道の怪我は心配だが、十野たちの力が認められないのは釈然としない。

 でも、十野たちのことだ。 今頃この記事を見て、見返してやろうと躍起になっているはずだ。 県の代表として、相応しい活躍を期待しておこう。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  放課後の教室。 日は既に落ち、辺りは暗くなっている。 時刻はまだ5時過ぎだが、9月の頃と比べると幾分日没が早くなったように思う。

  身体に溜まった疲れを掃き出す様に、息を吐き出す。 幾ら私でも、こう細かい作業を独りで進めるのは味気が無いから集中力が切れてくる。 それを入れ直すのに、呼吸は重宝している。

 

「すまん、絢辻。遅くなった」

 

  肩で息を切らしながら、主人くんが教室へと入ってきた。 彼がここまで息を乱しているなんて珍しい。 それこそ初めて見たと言っても過言ではないと思う。

 

「ううん、気にしないで。忙しいのに、ありがとう。助かるわ」

「普段はあんまり手伝えないからな。こういう時にでもしとかないと」

 

  彼はそう言うと、通路を挟んだ隣の席に腰を掛けた。

 

「ほい、疲れてるだろうなと思って」

 

  ひょい、と言う擬音語が似合いそうな軽快な腕運びで、彼は制服のポケットから缶コーヒーを取り出してくれた。 このメーカーのコーヒーは私も好きで、良く飲む事がある。

 

「えっと、私に?」

「絢辻しか居ないだろ。この前これを飲んでるの見たからさ、好きなのかなって……って、どうかしたか?」

「え、ううん、何でも無い。ありがとう、頂くね」

 

  驚いた。

  伊達に野球部で主将をしている訳では無さそうね。 観察眼はそれなりにあるらしい。

 

「そう言えば、野球部の方は良いの?」

「ああ、今日から外部コーチが来てくれるんだ。だから、粗方説明して練習の方を任せてきた」

 

  外部コーチと言えば、今朝の朝礼で紹介されていた人のこと。 プロ野球選手と顔が似ていると騒いでる人たちがチラホラと居たわね。

 

「それはこの間の大会の結果が、認められたってことかな?」

「んー、まぁそうなるのかな」

「惜しかったもんね、一昨日の試合」

「次は勝つさ。その為の、夜長さんだ」

 

  こうして会話をしながらでも、彼の作業の速度は落ちていない。 大分慣れてきた証拠だ。

 

「さてと、こんなものでいいか?」

 

  スっと、差し出された資料を受け取り目を通す。 彼に頼んでいたのは歴代の体育祭の競技の人気順を纏めるという仕事だ。 基本は毎年学年競技は同じだけど、今年は変化が欲しいと声が上がっていたみたい。 彼は野球部の主将と言うだけあってか、校内で顔が広い。 その為、学年を問わずこうした情報を得ることが出来る。 初めはどうなることかと思ったけど、実に良い仕事をしてくれている。

 

「ありがとう、本当に助かるわ」

「まぁこれくらいしか俺には出来ないからな」

 

  これで週末に行われる委員会を上手く進めることが出来る。

  彼のファインプレーね。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  絢辻の司会で、体育祭委員会の会議は進んで行く。 相も変わらず文を読み上げるのが上手い。 非常に聞きやすい声だ。

  このスペックの高さには、脱帽できるモノがある。

  何しろ、各クラスの代表であるクラス委員の代表に、絢辻はなっているのだ。 これに加えて、信頼の高さから先生に頼まれた仕事もこなしている。 その量はいつかオーバーワークが祟って、体調を崩しそうだと考える程。 そうならない為にも、出来るだけフォローをしていきたいところだ。

 

「では、競技に関して主人くんの方から説明をして貰いたいと思います。主人くん、お願いね」

 

  どうやら俺の番が回ってきたらしい。 コホン、と咳払いを一つしてから資料を読み上げる。

 

「ではまず、手元の資料の1枚目に目を通して貰って――――」

 

  資料を読み上げ、説明を終えると再び絢辻の司会に戻る。

 

「今年の体育祭は、これで行こうと考えていますが皆さんどうでしょうか? 賛成の方は挙手をお願いします」

 

  満場一致で手が挙がった。 どうやら必死になって考えた甲斐が有ったようだ。 この事に口元が少し緩んだが、それくらいは許して欲しいと思う。

 

「体育祭までもう少しです。一丸となって頑張りましょう」

 

  最後も絢辻が締めて、今日の委員会が終わった。

 

「お疲れ、絢辻」

「主人くんもお疲れ様。貴方が競技を纏めてくれたお陰で進行がスムーズに行ったわ。これからも宜しくね」

「ああ。大会も終わったし、俺も出来ることは頑張るよ。じゃあ、そろそろ部活に行ってくるな」

「ええ、期待してるね。くれぐれも怪我しない様に」

 

  思ったより早く委員会会議が済んだ為、途中からになるが部活に顔を出すことにした。 と言うか、もう早く身体を動かしたい。 どうも椅子に座っているのは好きじゃない。

 

「お、もう終わったのか……公く……主人」

「呼びにくいなら普段通り呼んでもらって大丈夫ですよ」

「俺は特別扱いはしないつもりなんだ」

「そんなキリッとして言われても。いいじゃないですか、皆のこと下の名前で呼んでるんですから」

 

  夜長さんが外部コーチとして就任してから今日で5日目になるが、既に皆と打ち解けている様子が見受けられる。

 

「あぁ、それもそうか」

「そうですよ」

「じゃあ公って呼べば良いか?」

「コーチの好きな様に」

「了解主将」

 

  スパイクの靴紐が結び終わり、アップも終了したので行われているシートバッティングに混ざりに行く。 投げるのも好きだが、打つ方も好きなんだ。

 

「今日は早い上がりだな、主人」

「さっき同じ事をコーチにも言われたよ」

「だろうな、聞こえてたよ公くん」

「……椎名にそう呼ばれると気持ち悪いな」

「喧しい。さっさと打て」

 

  夜長さんが来てくれてから、良い感じに練習が回り始めてる気がする。 部員のモチベーションも上がっているし、このまま行けば夏の甲子園も充分に狙うことは出来る。

  待ってろ、2人共。

  直ぐに追いついてみせる。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  いよいよ体育祭を明日に控えたということで、今日は運動部も部活が休みになり、準備を手伝ってくれている。

  この活動の中心になっているのは、野球部であり、彼――――主人くんだ。 学年を問わず、慕われている様でその様子は例年より早く準備が進んでいるこの現状が表している。本当に、思ってもみなかった彼の活躍は大助かりだ。

 

「絢辻、お疲れ」

 

  準備が終わり、本部席の方で最終確認をしていると彼が現れた。

 

「お疲れ様、主人くん。貴方って慕われているのね、お陰で去年より早く終わったわ」

「先輩たちがお人好しなだけさ。あ、これ飲むだろ?」

 

  照れ隠しなのか鼻頭を軽く触りながら、左ポケットからこの間と同じ缶コーヒーを取り出し、こちらへと優しく投げた。

 

「こんなに気を使って貰わなくてもいいのに」

「良いんだよ。絢辻はそれくらい仕事をしてくれているからな」

「ふふ、そういう事にしておくね。ありくがとう主人くん」

「どういたしまして。じゃあ、俺はもう帰るから。絢辻も気を付けてな」

「うん、主人くんもね」

 

  ひらひらと手を振りながら彼は去って行った。

  彼の性格の事だ。 これから自主練に励むのだろう。 その熱心さを少しは勉強にでも向けたらいいのに、と彼の背中を見て、そう思った。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  いよいよ今日は待ちに待った体育祭だ。

  天気は良好、空は晴れ渡っており風も無い。

  絶好の体育祭日和だ。

 

  今日は朝練が無いが、いつも通りに起床した為ゆっくりと朝食を食べた。 時間に余裕があるって素晴らしい。

 

「あ、公くんだ! おっはよ〜」

 

  家を出て歩くこと少し、不意に背後から声をかけられた。

 

「美也ちゃんか久しぶりだな。純一もおはよう」

「おはよ公。珍しいな、公がこんな時間に」

「今日は朝練が無いからな。いつもよりゆっくりしてるんだ」

「なるほどねぇ。よっ! 大将たち、朝から元気だな」

「元気なのは梅もだろ」

「違いない」

 

  こんな風に純一たちと学校に向かうのは随分と久しぶりだ。 高校の入学式以来か。 時間が経つのは本当に早い。

 

  学校に着いてからも、あれこれと話していると校内放送で体育祭実行委員が呼び出しを受けた。

 

「それじゃ、行ってくるわ」

 

  いつものメンバーに別れを告げて、校庭へと足を運ぶ。 体育祭を開催するに当たっての諸注意の確認と言ったところか。

 

「主人くん、ラジオ体操お願いね」

「はいよ」

 

  体育祭実行委員の代表として、ちょっとした台の上で体操を行うことが決定している。 大勢の人の前で体操を披露するとなると気恥ずかしい気もするが、散々人に見られてきたんだ。 そんな泣き言も言うことでも無いだろうと割り切ることにした。

 

  体育祭は午前と午後の2部に分けて行われる。 得点の配分は、基本的には学年共通で行われるものが高得点が得られるようなものになっている。

  競技の割り当ては、全学年共通で行うものが20人リレー、4×100mリレー、応援合戦、実行委員企画の4つ。

  1年生の学年競技はバンブーリレーと呼ばれる、名の通り竹を使ったリレー方式の競技と、20人21脚と言う数が増えた二人三脚だ。

  2年生の学年競技は純正の二人三脚と、背中渡りレース。

  3年生の学年競技は大縄跳びと、ムカデレースとなっている。

  今年は3年生が楽しめるようにと、3学年全体でアンケートを取り、人気の高かった2つを採用することにした。

  この他にもクラブ対抗リレーという物を昼休憩後に入れた。 部活動を引退した先輩方がまた後輩と顔を合わすことが出来るという点や、自分たちの所属する部活動をアピールする場にもなる。 運動部は勿論のこと、文化部にもそのチャンスが与えられるようにしている。 とは言え、運動部と文化部が勝負をすれば正直運動部に分がある為、仕切りを作った。 そうすれば両者共に、楽しめるだろうという計算だ。 勿論、運動部は男女別々でチームを組ませてある。

 

「主人くん、リレーが始まるけどここに居ていいの?」

「げ、それはやばい! すまん絢辻、ありがとう!」

 

  危うく最初の競技に出られないところだった。 絢辻には感謝しないとな。

  最初の競技は4×100mリレーだ。 マサと純一と梅が走るということから強制的に同中学出身ということで走らされることになった。 走るのは好きじゃないが、結果次第では梅の父親が経営している東寿司の寿司ネタをご馳走して貰えるとなれば話は変わってくる。 日頃のランニングで鍛えた脚力を見せる時がきたようだ。

 

「大将……バテすぎだろ」

「あはは……面目無い」

「純一! テメェどうしてくれるんだよ! お陰で俺の東寿司が無くなったじゃないか!」

「……主人、お前も落ち着けって。勝手に東寿司(ウチ)を私物化するな。キャラも壊れてるぞ」

 

  フラグ回収とはこの事を言うんだろうか。

  予選リレーの結果は3位と何とも微妙な結果に終わってしまった。 1走目のマサは良いスタートを切り、2位で純一にバトンを繋ぐ等と活躍を見せてくれた。 しかし、ここでだ。

  純一の気合が空回り、後半で急激な失速を見せてしまい4位まで順位を落としてしまった。 続く俺もその差を埋めようと奮闘したが、差は大きく詰め寄ることが出来なかった。 アンカーの梅の巻き返しのお陰で最下位は免れたものの、本戦出場は逃してしまった。

 

「全く、どうせ森島先輩の前だから良いところを見せようと意気込んでたんだろ」

「……やっぱり分かった?」

「前半の走り具合を見ればな」

「あー……失敗したなぁ。ますます先輩が遠ざかるよ」

「いや、そうでも無いみたいだぞ純一」

「え? うわぁ!」

 

  落ち込む純一の後ろには、ジャージ姿の森島先輩と塚原先輩が立っていた。 どうやら先程のリレーを見てくれていたようだ。

  純一が後ろを振り返る寸前に、森島先輩の両手が純一の顔を塞いだ。

 

「問題です、私は誰でしょう?」

「こ、声で分かりますよ、森島先輩」

「わお! やるわねぇ橘くん」

「あのねはるか。いつもと同じ声色で話しかけたら分かるに決まってるでしょ」

 

  相変わらずの天然具合を見せつけている森島先輩に対し、それを咎める塚原先輩。 本当に仲のいい二人だと思う。 きっとこの二人は、卒業後も今と変わらない仲の良さを保っていけるのだろう。

 

「それもそっか。あ、橘くん、さっきは惜しかったね〜」

「い、いや! そんなこと、無いですよ」

「ははは、大将のやつ照れてやんの」

「う、うるさい梅原!」

「顔を真っ赤にしちゃって、子犬みたいで可愛いわね」

「砂糖吐きそう」

「おお、ボスもそう思うか」

「じゃあな純一。先輩との会話、楽しめよ」

 

  目の前で繰り広げられる空間に、何とも言えない気持ちになった為足早にその場を去ることにした。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  森島先輩との会話で純一に火がついた様だ。

  普段の授業ではお目にかかれない集中力を身に宿した純一は、梅原と阿吽の呼吸で二人三脚を制し、20人リレーに置いても先程と違い活躍を見せた。

 

「お、やるじゃん純一!」

「まぁね。僕が本気を出せばこんなものだよ」

「うわ、何そのキャラ。ムカつく」

 

  鈍い音が響き、純一がその場に崩れ落ちる。薫の気持ちも分からなくも無いが、少しやり過ぎな様にも見える。 しかし、それでもこれらの行為はあの二人にとってデフォルトだから指して問題は無いのだろう。

 

  順当に体育祭は進んでおり、結果は良好そのもの。 先程、実行委員企画の借り物競走が終了した為、次は3年生の学年競技である「ムカデレース」が行われる。

 

「おい、公くん。さっきは良くもやってくれたな」

「あれ、夜長さん来てたんですか?」

「……借り物に書いといて良く言うな。段々と准のやつに似てきたぞ」

「それって褒め言葉ですか?」

「さぁ、どうだろうな」

 

  にやっと夜長さんが悪い笑みを浮かべる。 これは後で准さんに報告だな。

 

「と、論点がズレてるぞ。公くん、君は借り物の指定で何て書いたんだ?」

「あぁ、えっとですね。野球部外部コーチ、運動神経の良い人、テンガロンハットの3つですよ」

「……嘘じゃ無いだろうな?」

「まさか。そんなメリット、俺には無いですよ」

 

  口には出さないが、メリットは有るのだ。 2番目に言った、「運動神経の良い人」は嘘であり、本当は「ヒモ」と書いた。 梅がそのお題を持って俺のところに来た時は驚いたが、アイツの洞察力なら夜長さんの実態を見破っていてもおかしくは無いのかもしれない。

 

「ほら折角ですし、もうすぐ3年生の競技が始まるんで見に行きましょう」

「ふむ。それもそうだな」

 

  夜長さんを誘い、先に見に行っている純一たちと合流を果たす。

 

「へぇ、この人が野球部の外部コーチをしてるんだ。どっかで見た顔ね」

「はは〜ん、俺は解ったぞ。大神ホッパーズの小波選手に似てるんだよ」

「……ははは、良く言われるよ」

 

  確かに梅の言う通り、プロ野球選手として活躍している小波選手と夜長さんの顔は瓜二つだ。 世界には同じ顔が3人居るというが、どうやら本当らしい。

  そんな感じで談笑を続けていると、ムカデレースが始まり、我らが森島先輩の出番がやってきた。 彼女は先頭に立ち、先程まで纏っていたジャージを脱いで競技に臨んでいる。 つまり、破壊力抜群のブルマ姿だ。 鼻血を出している純一らを見れば、その強烈さが分かることだろう。

 

「純一。応援するのは良いけど、鼻血はダサいぞ」

「……すまん」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  最後の競技である20人リレーの決勝戦が終わり、体育祭は終わりを迎えた。

 

「もう直ぐ結果発表だね、主人くん」

「そうだな。今年は接戦だからな、どこが勝ってもおかしくない」

 

  1年生の実行委員が得点を集計し終え、いよいよ順位が発表される。

  まずは3位から。

 

「第3位――――3年B組」

 

  3-Bか。 4×100mで優勝していたし、おかしくない順位である。

 

「第2位――――2年A組」

 

「大将! やったぜ! 俺たちが2位だ!」

「やったな梅原!」

 

  2位か。

  決して悪い結果では無いが、1位に手が届きそうなだけあって悔しくないと言えば嘘になる。

 

「私たち、2位だって。良かったね主人くん」

「そうだな。絢辻たちが頑張ってくれたお陰だよ」

「ううん、皆が頑張った結果よ」

「ははっ、違いない」

 

  絢辻はこう言ったものの、女子の活躍が無ければこの順位に立つことは出来なかっただろう。 4×100mリレーを制してくれた女子に感謝だな。

 

「第1位――――3年A組」

 

  結果発表と同時に、辺りから歓声が湧き上がる。 毎年上位を取っているのは3年生だ。 今年は2位を2年に取られたとは言え、優勝したのは3年生だ。 皆、自分の事の様に嬉しいのだろう。

  3-Aと言えば、森島先輩や塚原先輩の居るクラスだ。 森島先輩の出ていたムカデレースや大縄跳びの声援はとてつもなく大きなものだったが、どうやらそれが生きたらしい。

 

「ねぇ皆、写真撮らない?」

「お、良いですね。撮りましょうよ!」

 

  表彰式と閉会式が終わり解散となった後、森島先輩がこちらに来るなり写真を撮ろうと言い出した。 最後の体育祭ということで、記念写真が欲しいとのこと。

 

「おい、純一。……解ってるよな?」

「えっと、何が?」

 

  純一(こいつ)とは長い付き合いになるが、未だにこの鈍感具合には溜息をつかされる。

 

「……森島先輩の隣、行けよ」

「あ、ああ。勿論だよ」

「二人共、何話してるの?」

「何でも無いですよ。ほら、早く撮りましょう。片付けもありますし」

「そうね。それが賢明だわ。あ、七咲、丁度良い所に。貴女も入りなさい」

 

  塚原先輩が七咲を捕まえたことにより、必然的に美也ちゃんと中多さんと言う1年生の子も写真に入ることになった。

 

「じゃあ、撮るぞ……1+1は?」

『2!!』

 

  夜長さんがカメラマンを買って出てくれた為、カメラマン役を探す手間が省け時短することが出来た。

  この2ヶ月間はとても濃厚で、大変なこともあったがそれなりに楽しんで過ごす事が出来たように思う。

  こんな日々をくれている皆には感謝しないとな。

 

 

 




今更ですが、梅原の主人に対する呼び名は主人、ボスです。

目を通していただき、ありがとうございます。


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10月-③

冒頭は純一の回想シーンから入ります。

体育祭終了後の話です。


  無事に体育祭を終えた橘純一は回想に浸っていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「おーい大将」

「どうした梅原?」

「塚原先輩が話があるんだとよ。テラスで待ってるって伝えて欲しいって、大将何かしたのか?」

「そ、そんな訳ないだろ!」

「なはは、分かってるって。ほら、行ってこいよ」

「うん、ありがとう梅原」

 

  塚原の話とは一体何だろうと、純一は歩みを進めながら考える。 心当たりがあると言えば、連日の女子水泳部の練習見学だ。 もしやバレているのでは、とそこまで考えたところで身体に悪寒が走る。

 

「……胃が痛くなるなぁ」

 

  先程昼食に食べたカレーライスが胃から逆流しそうだと、胃を摩る様にしながら向かっていると視界に塚原を捉えた。

 

「あ、橘くん。丁度良いところで会えたね」

「こんにちは塚原先輩。あの、話って?」

「ふふ、橘くんてアップルジュースは嫌いかな?」

 

  アップルジュースと話の接点がまるで分からなかったが、特に嫌いという訳でも無いのでとりあえず答えることにした。

 

「いえ、嫌いじゃないですよ」

「良かった。それじゃあちょっと買ってくるから先にテラスで待っててくれるかな?」

「え……いや、でも」

「いいから、ほら。先輩命令よ?」

 

  塚原はいたずらっぽく笑みを浮かべながらそんな言葉を落とした。 先輩命令、そんな言い方をされてしまっては純一は断れない。 後でお代を払おうと、その場は返事をする事にした。

 

  テラスの席に着いてから純一は思考を巡らせる。 普段塚原と話をする際は、必ずと言って良い程森島の存在が側にあった。その為、この様に改まって塚原と話すのは初めてのことだ。 緊張するのは無理も無いことだろう。

 

  ――――やっぱり、覗きの事か?

 

  思考を巡りに巡らせても、出てくるのはそればかり。 純一の額には冷や汗が浮かんでいた。

  緊張から重圧に、身体を硬直させていると頬に冷たいものを感じた。

 

「……っ! 心臓に悪いですよ塚原先輩」

「ふふ、はい、これ飲んでね」

「……でも、僕にはご馳走して頂く理由がないです」

「それはこれから話すから、そんなに身構えなくて良いわよ」

 

  塚原のその言葉に喉が鳴った気がした。

  いよいよ、刑が執行される。差し詰め、このアップルジュースは最後の晩餐と言ったところか。 純一は覚悟を決めてそれを手に取った。

 

「……それじゃあ、頂きます」

「ええ、どうぞ」

 

  ストローを挿して、ゆっくりと中身を口に含む。 林檎特有の、すっきりとした甘味が口いっぱいに広がった。 塚原がこれを推すのも納得の行く一品だ。

 

「どうかな?」

「凄く飲みやすくて、美味しいです。今まで気付かなかったのが勿体無く思えますよ」

「ふふ、気に入ってもらえて良かったよ。私も最近はまってるんだ」

「そうなんですか……。あ、でも何で僕に?」

 

  思い切って一歩を踏み込んだ。 幾らアップルジュースが飲みやすいとはいえ、このままだと自身の胃が持たないと判断したからだ。

  しかし、塚原から返ってきた返答は予想だにしないものだった。

 

「実はね、最近はるかの機嫌が(すこぶ)る良いんだけど……橘くん何かしたのかなって?」

「………はい?」

「あれ、聞いてなかったの?」

「い、いや! えっとですね……」

「……ふふ、そういうことか」

 

  塚原の口角が上がった。

  純一は知っている。 塚原がこの笑みを浮かべる時は決まって森島を弄り倒す時だ。

 

「え、えっと、塚原先輩?」

「話を元に戻すわね。はるかの機嫌が良いから君が何かしてくれたのかなって思っただけよ」

「ぼ、僕ですか?」

「思えば、一番上機嫌だった時に『橘くんは良い子ねぇ』って言ってたの。この間はるかがプールで泳ぎたいって言って拗ねてた次の日よ」

 

  ――――図書室での会話か!

 

  純一の脳内で一つの答えが見つかった。 確かにあの会話の後の森島の足取りは軽かった様に思う。

 

「何か心当たりがありそうだね?」

「え? いやぁ……どうでしょうか……」

「はるかは結構気分屋なところがあるから、上機嫌で居てくれると助かるんだよね」

「え? 助かるって?」

「ちょっと機嫌が悪くなると、やれ『今から甘いものを食べに行こう』だの『今日は買い物付き合って』だの……」

「ははっ、森島先輩らしいですね」

「勿論楽しいから良いんだけど、付き合う側としては意外と大変なんだよね」

「ちょっと分かる気がしますよ」

 

  そう言い終え二人で軽く笑い合うと、長髪の黒髪にカチューシャを付けた介入者が現れた。

  森島はるか。 件の女性だ。

 

「あ〜! 響ったらまたアップルジュース飲んでるんだ」

「え?」

 

  塚原が眉を寄せ、顰めっ面を作る。 このタイミングで森島が現れることを全く計算していなかった様だ。 それはそうかもしれない、誰にだって先のことは読めないのだから。

 

「一口頂戴!」

「あ!」

「あ……」

 

  純一と塚原が二人して声を上げるが、森島には届かない。 二人の制止も虚しく散ることになった。

 

「ん? どうかしたの?」

 

  ――――これは、関節キス!?

 

  途端に純一の顔が紅く染まった。 彼は今を生きる健全な男子高校生だ。 意中の、それも校内No.1と呼ばれる美貌を持つ森島のソレは刺激が強かった。

 

「ふふっ、それ今鼻血を出してる橘くんのだよ」

「あ、そうなんだ。ごめんね橘くん……って、大丈夫なの?」

「い、いえ! 気にしないで下さい!」

 

  ――――僕のと気付いた後でも嫌がる様子も無く、寧ろ僕を心配してくれている! 今日はなんて良い日なんだ!

 

「おかしな橘くん。あ、そうだ。この間はありがとね」

「いえ、こちらこそご馳走様です」

「へ?」

「す、すみません。気にしないで下さい」

 

  頭のショートが続く純一に、さしもの塚原をしても苦笑いを浮かべるしか無かった。

 

「そう? 大丈夫?」

「大丈夫です森島先輩。それより、何でしょうか?」

「えー、ここで言うのはちょっと恥ずかしいかな」

「そ、そうですか」

「うん。だけど、お礼は言っておくわね」

「は、はい。お役に立てて良かったです」

 

  純一の言葉に、森島がウインクで返したところで昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。

 

「あ、もうすぐ昼休みが終わっちゃう。響ちゃん教室に戻ろっか」

「そうね。橘くん、ありがとね」

「美味しいアップルジュース、ありがとうございました」

「どういたしまして。覗きの件、反省してるみたいだし、今回は見逃してあげるわ。はるかの件もあるしね」

「響遅いわよ〜」

「またね、橘くん」

「は、はい」

 

 ――――やっぱり気付いていたのか。

 

  流石は塚原である。

  純一の上を簡単に取る存在だ。 天然自由人である森島の手綱を握っているだけあって、しっかりしている。

 

「敵わないな、あの人には」

 

  そう言葉にしてから、アップルジュースの残りを一気に流し込んだ。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「……いてるの?」

「へ?」

「だから、聞いてるの? って聞いたの」

「あぁ、すみません先輩。ちょっとこの間のこと思い出してて」

「この間のこと?」

「ほら――――」

 

  大雑把にだが、説明を終えると先輩はふぅんと頷き笑顔に戻ってくれた。

 

「何で急にそんな事思い出してたの?」

「何ででしょうか。先輩と塚原先輩が会話してて、本当に仲が良いんだなって思ったからですかね」

「まぁ私と響ちゃんは親友だからね!」

「ですね。先輩もうすぐで片付けも終わりそうですし、ささっと終わらせちゃいましょう」

「オーキードーキー! それが良いわね」

 

  体育祭も無事に終えることができ、今はこうして皆で資材の片付けを行っている。

  学年を問わず、全員が動くためこうして先輩と話しながら作業を進めることが出来ている。 例年よりも作業に積極的な人が多く、公の人柄がそうさせているのかもしれないなと思った。 公には、人を惹きつける不思議な魅力があるのだろう。

 

「ねぇ橘くん」

「どうかしましたか?」

「帰りにファミリーレストランに寄ってかない?」

「え、ファミレスですか?」

「うん、駅前にあるファミレスって知ってる?」

「はい、知ってますよ」

 

  駅前にあるファミレスと言えば一つしかない。

  トトス。

  薫がバイトをしている店だ。 来月から冬の味覚フェアをするから来て欲しいって言ってたけど、まさかその前に行くことになるとは。

 

「私ね、そこに行きたいの……嫌かな?」

「橘純一! どこへなりともついて行きます! 問題なんてありません!」

「ふふっ、良かった。ありがと」

 

  折角先輩から誘って貰っているんだ。 断るなんて勿体無いことは絶対しない。 ただ、一つ懸念材料があるとすれば薫の存在だが、まぁ明日僕が弄られれば良い話なので特に気にすることもない。

 

  その後作業も終わり解散となったので、僕たちはトトスに向かって足を進めた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  店内に入り、直ぐに辺りを見渡し薫の存在を探したが見当たらない。 どうやら今日は休みの様だ。

  店員に席へと案内され、奥の客席に腰を下ろした。 席に着くなり、先輩はメニュー表を手に取り一覧に目を通し始めた。

 

「よし、き〜めた。ねね、橘くんて甘いものは平気?」

「得意って程じゃ無いですけど、普通くらいに食べれますよ」

「それじゃあ私と一緒にパフェを食べてくれる?どうも私一人じゃ厳しそうなんだ」

「へぇ、そんなパフェがあるんですね」

「うん、このシャイニングラバーズパフェが食べてみたいの」

「ええ!? これって……」

「駄目かな?」

 

  シャイニングラバーズパフェ。

  名前からして、明らかにカップル向けのパフェだ。 これを先輩から食べようと言ってもらえるなんて。 明日は雹が降るのかもしれない。

 

「甘い物苦手なら他のやつにするよ?」

 

  断れる筈がない。

  男として、ここで逃げずにパフェを食べる義務がある。

 

「いえ! 大丈夫です。丁度僕も、パフェが食べたい気分だったんです」

「わお! 本当に?良かった〜、気が合うね」

「ははっ、そうですね」

 

  合ってなくても合わせる。 それが僕に出来る唯一の事だ。

  先輩が注文を終え、談笑すること少し、いよいよ件のパフェが届くというところで思わぬ事態が起きた。

 

「げ……あの店員は薫」

 

  件のパフェと思われる物を持ち、スタッフルームから身体を半身だけ覗かせる店員は僕の悪友・棚町薫だった。

 

「え、知り合いなの?」

「はい……クラスメイトです」

「へ〜、うちの学校の生徒がここでバイトしてるなんて知らなかったなぁ」

「服装も違いますし、気付きにくいですよ」

 

  まさかここで薫が現れるとは。

  非常に不味い。 さっきまではどこか楽観視していたけど、よくよく考えてみたら薫だけじゃなくて梅原や公にも弄られる。

 

「橘くんどうかした?」

「い、いえ、別に」

「……ねぇ、橘くん。良い事思いついちゃった」

「え、せ、先輩! 何を……」

「ふふふ……よいしょっと……」

 

  事もあろうか先輩は机の下に潜るなり、そのまま動かなくなってしまった。

 

「な、何してるんですか」

「しーっ! 私と来ていることがバレたら大変でしょ?」

 

  口に人差し指を当てながら、上目遣いでこちらにそう問いかけてくる。 可愛い。

 

「そ、そんなこと無いですよ!」

「そんなことあるの――――だって、隠しておいた方が面白いでしょ?」

 

  なんて事になってしまったんだろう。

  そうこうしている間に薫が僕たちのテーブルにやって来てしまった。 もうやけくそだ、成る様に成るだろう。

 

「お待たせ致しました〜。シャイニングラバーズパフェになります」

「ど、どうも」

「珍しい注文があるもんだから、どんなお客さんが頼んだのかって見に来たけどまさか純一とはね」

「……別にいいだろ?僕だって甘いものは食べるさ」

そうだそうだ〜

 

  僕の言葉に同調する様に、森島先輩が相槌を入れる。

  頼むからじっとしていて下さい先輩。

 

「そういうことを言ってるんじゃないの。で、どんな素敵な人とこの恋人向けのパフェを食べるつもりなのかしら?」

「どんな人って?」

「質問に質問を返さないの。伝票を見れば二人で来たってわかるのよ。それで、誰と来たの?」

「っ、それは……」

誰だ誰だ〜

 

  先輩はこの状況を完全に面白がってる。 僕の寿命はどんどん削れていっているというのに。 僕は苦肉の策として、小学校からの親友の名前を絞り出した。

 

「……梅原」

「……ぶっ! くっくっくっ、やっぱり!」

「……くすっ」

「……何か問題が?」

「はー、もう駄目。純一、アンタ最高ね。私が気付いてないとでも思ったの?」

「……え?」

 

  薫はそう言うと、パフェを机に置くなり下を覗き込んだ。

 

「こんな所に美女を隠して。アンタ、こういうプレイが好きなの?」

「な、何言ってんだよ薫! そんな訳ないだろ!」

「冗談よ、知ってるってば。森島先輩、もう出てきてもらって大丈夫ですよ」

 

  薫が優しく言葉をかけると、満足した表情の先輩が机の下から現れた。

 

「あー、おっかしい。面白いモノが見れたわね」

「……笑えないですよ。先輩、こいつは棚町薫。僕のクラスメイトです」

「初めまして、棚町薫です。いつも純一がお世話になってます森島先輩」

「ううん、こちらこそ。宜しくね、薫ちゃん」

 

  どうやら僕の苦労も虚しく、薫は先輩の存在に気付いていたらしい。

 

「ふふっ、それにしても橘くんは梅原くんとパフェを食べるんだね」

「そ、それは先輩が隠した方がいいって言うから……」

「梅原もとばっちりだねぇ」

「……薫はいつから先輩のことを気付いてたんだ?」

「そんなのお店に入って来た時からに決まってるじゃない。アンタじゃなくても、森島先輩は人を惹きつけるの。先輩程の人に気付かない方がおかしいわよ」

「……それもそうだな」

「じゃあ純一をからかえた事だし、私もそろそろ戻るわ。森島先輩、ごゆっくりしていって下さいね」

「オーキードーキー! 薫ちゃん、またね!」

 

  薫のやつ、まるで嵐みたいな存在だ。

 

「あ〜、面白かった。どんな言い訳をするのか、楽しみにしてたけどまさか梅原くんを出すなんてね」

「も、もう勘弁して下さい」

「ふふふ、そろそろパフェを食べ始めよっか」

 

  パフェは想像よりも遥かに大きく、食べ終わるのに20分もの時間を要した。

 

「ふふっ、あ〜楽しかった〜」

「そ、そうですね……」

「パフェは美味しいし、橘くんは面白いし言う事無しね」

「ははっ、そう言って貰えたなら良かったです」

「うん、また一緒に行こうね」

「はい、お願いします」

 

  自然に返事を返してしまったが、次回もお誘いして貰えるなんて。 薫が現れた時はどうなることかと思ったが実に素晴らしい日だ。

 

「それじゃ遅くなっちゃう前に帰るね。ばいば〜い」

「あ、はい。気を付けて」

 

  こうして先輩と二人きりでパフェを食べるという貴重な時間が終わった。 もう少し甘いムードになる事を期待していた自分が居るだけに、今回の結果は少し残念だ。

  とは言っても、先輩は凄く喜んでくれていたし、僕も何だかんだ言って楽しめた。

  次回が早く来ることを祈りつつ、僕は帰路に着いた。

 

  次の日の朝、学校に着くなり薫たちに弄り倒されたことは最早言うまでもない事だと思う。

 

 

 




次話から11月に入ります。
閲覧、ありがとうございました。

冒頭に誤り、純一の口調に指摘があったため編集を行いました。
ご指摘ありがとうございます。


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11月-①


ようやっと創設祭編です。

タグの編集を行いました。


  10月も終わり11月へと移るとすっかり冬に入り、寒さが姿を見せ始めた。

  コート等を着込む人が増えたことがそれを物語っている。

 

  この寒さに伴い野球部も朝練のメニューを変えることにした。 朝の短時間の練習は身体を動かし、筋肉を温めた後は素振り等比較的怪我のしにくいものを中心に行うことにした。 この時期に怪我をするなんて洒落にならないからな。

 

  朝練を終えて着替えを済ませて教室に向かうと、いつものトリオが何やらはしゃいでいた。

 

「3人とも、朝から元気だな」

 

  席に着き、今日の授業の準備をしながら言葉を落とした。

 

「お〜ボスか、聞いてくれよ」

「う、梅原……!」

「純一、諦めなさい。アンタじゃどう足掻いてもあたしらには勝てないよ」

「これが数の暴力か……」

「そういう事。それで話なんだけど――――」

 

  本当にこの3人は仲が良い。 どこからでも話のネタが溢れてきて、それは尽きる事を知らない。

  この前の森島先輩とカップル向けのパフェを食べたって聞いた時も、腹を抱えて笑わせて貰ったが今回も中々面白いものだ。

 

「へぇ、遂に重い腰を上げる時が来たって訳か」

「まぁね……」

「焚き付けたのは俺だが、まさか大将がやる気になってくれるとは。俺は嬉しいぜ」

 

  話を聞く限りだと、純一を動かしたのは梅らしい。 流石に長い間同じ時間を過ごしてるだけあって扱いが上手い。 気遣いも出来るし、何より性格が良い。 梅のやつも彼女が居てもおかしくないとは思うが。 残念ながら意中の先輩は勉強に忙しく恋愛どころでは無いらしい。

 

「まぁ問題は純一が気持ちを決めても、それが森島先輩に響くかどうかよね。あの人天然ぽいし」

 

  薫の言うことは最もだ。 幾ら純一が決心したとはいえ、あいつの想い人は校内人気1位の森島先輩。 敵は多いし、何より先輩の好みを叶えるとなると中々厳しいらしい。 この間も3年生人気No.1男子の御木本さんが振られたという話を聞いた。あの人は色々と手癖が悪いという話が出ていたのでヒヤリとしたが、変な男には引っかかる心配は今のところ無さそうだ。

 

「それよか主人。お前はどうするんだ?」

「どうするって何をだよ」

「クリスマスだって。今年は俺も大将も予定が入りそうだし、去年みたいに集まれないぜ?」

 

  梅の言葉に、顎に手を当てながら考える。

  確かに去年は三人で集まって色々しながら過ごしたが、今年二人がやる気に溢れているというならばそれが出来る可能性は薄い。

 

「はて、どうすっかな?」

「ふっ、俺たちは先に大人の世界へ踏み込ませて貰うぜ。なぁ、大将」

「気が早いヤツだな」

 

  さて困ったことになった。 折角のクリスマス、何かしら特別な形で過ごしたいと思うのは現代の人間ならば当然の欲求だろう。

  「さんせっと」で過ごそうにも、維織さんと夜長さんは二人で過ごすだろうし、准さんを放っておく男が居るとも思えない。

 

「でもさ公、アンタなら引く手数多よね? 梅原たちと違ってさ」

「くっ、これが野球部の主将の力か……」

「薫も梅も何言ってんだよ。俺はモテた事なんて一度も無いぞ?」

「あれ、そうなの?」

 

  そうだ、と短く返してから三人の顔を見つめる。 三人とも意外そうに口をポカンと開けたまま固まっている。 悪かったな、恋愛経験が無くて。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  授業が終わり、残すところはホームルームのみとなった。 内容は来月に控えた創設祭についてらしい。 純一たちが朝から騒いでいたのはこれが近づいていたからか。

 

「皆も知ってる通り、来月24日は本校の創設者の誕生日です。そこで、今年も例年通り学校の近隣住民の皆さん及び、父兄の方々との交流を目的に創設祭が開催されます。実行委員の方はクラス委員の二人にお願いすることになるけど、大丈夫かな?」

 

「私は大丈夫ですよ」

「俺も、大丈夫です」

 

「そう、ありがとうね。あくまで実行委員として動いてもらうのは絢辻さんと主人くんになるけど、皆も何かあれば手伝ってあげてね。はい、二人に拍手!」

 

  創設祭実行委員か。

  体育祭とは違ってこっちは頭を使うことが多くなりそうだ。 成り行きで返事をしてしまったけど、早まったかもしれないな。 とは言え、実行委員として作業をしていれば当日も違和感無くその場に立つことが出来る。 そこはプラスと考えておく事にしよう。

 

  ホームルームが終わったので軽く身体を伸ばしていると、薫がこちらに話しかけてきた。

 

「しっかし意外だね。アンタは委員なんて柄じゃ無かったでしょ?」

「まぁそれは自分でも思うな」

「だったらどうして?」

「俺は最後まで仕事をやり遂げたいタイプだ。それに身体を動かしていれば、変なことも考えずに済む」

「へぇ、何かアンタらしくないね。ま、その気があるなら頑張ることね」

「……言われなくてもそのつもりさ」

 

  薫との会話を終え、荷物を纏め始める。

  来週からの学校生活を考えると頭が痛くなる思いがあるが、それと同時にやりごたえがある様に思う。

 

「椎名にはまた苦労をかけるな」

 

  眉を吊り上げて、あからさまに不機嫌な様子を表す恋女房の顔が脳裏に浮かぶ。

  あまりに明確に想像出来たことに自分でも驚きながら、笑顔になっているのが分かる。

  部活へ向かう足取りは軽かった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「あ、橘くん」

「こんにちは森島先輩」

「橘くんてもうお昼ご飯食べた?」

「まだですよ、これから食べに行くところです」

「そっか、じゃあ私と一緒に食べない?」

「は、はい! お願いします!」

 

  梅原とマサの取引の立会人になったお陰で、いつもより遅れた昼食がこんな形で巡ってくるとは。 神様には感謝しないとな。

 

  テラスで昼食を取りながら楽しく談笑していると、美也の話が浮上した。

 

「でね、美也ちゃんたらね――――」

 

  先輩は最近美也と仲が良くなった。

  先輩は先輩で機嫌が良いって塚原先輩が言っていたし、美也も美也で御満悦な様だ。

  僕自身先輩と仲良くなれてきているとは思うけど、(ライバル)は多い。 仲良くなることに越したことは無いし、何より僕自身が仲良くなりたい。

  さて、どうするか。

  ここで僕が出した答えは、美也に(あやか)る事だ。

 

「先輩、最近美也の機嫌が良いんですが何か知りませんか?」

「ん〜色々お喋りしたり、寄り道したり……」

「これと言って特別な事も無さそうですね」

 

  どうやら僕の考え過ぎだった様だ。

  誰だって先輩見たいな方と友達になれたら嬉しいに決まってる。 現に僕だってこうして話しているだけで小躍りしそうなくらい嬉しいし。

 

「あ、一つ思い出したわ」

「本当ですか!」

「ええ、本当よ。仲良しならではのことね」

 

  仲良しならでは…とな? これは是非とも聞かせてもらいたい話だ。

 

「あの、先輩。その仲良しならではのことを僕にもして貰いたいんですけど、駄目ですかね?」

「え、橘くんにも?」

「ぼ、僕ももっと先輩と仲良くなりたいんです!」

「ふぅ〜ん。成程ねぇ」

 

  遂、口走ってしまった。

  薫との日々のやり取りで口は災いの元と学習していた筈なのに。 穴があったら入りたい、という気分は正にこの事だろう。

 

「橘くんて、時々ドキッとする様なことを言うよね」

「……そうですかね?」

「その後に、ちょっとおどおどしてこっちを(うかが)うんだよね」

「そ、そんなつもりは……」

「そういうところが可愛いんだけどね。響ちゃんも言ってたわ」

「ははっ……塚原先輩もですか」

 

  この人はやはり平然と物事を口にする。

  こういうところが天然と呼ばれることに起因していると思うが、これも先輩の魅力の一つなのだろう。

 

「それで先輩、美也にしていることって?」

「ん〜、説明するよりやって見せた方が早いかな。ちょっと立って、後ろ向いて動かないでね」

「は、はい……」

 

  一体何をされるのだろうか。

  先輩が見えない分、行為の検討が付かず少なからず恐怖がある。

 

「それじゃあ行くわよ〜」

「は、はい! お願いします」

「ふふ、腕マフラー!」

 

  先輩はそう言うと首元に腕を回して、文字通りマフラーの様に腕を重ねた。

 

「え、えっと、先輩?」

「こんな感じで美也ちゃんにくっついて温めてあげてるの」

 

  先輩の腕が僕の首に巻き付いている。

  まさか、僕はもう死んでしまうのか?

  これは、死を前にした男に最後のご褒美という事で神様がくれたものなのか。

  体がいつもよりも近い位置にあるせいか、女性特有の良い香りが鼻腔をくすぐる。 それに、どことは言えないが、当たっている。

  流石は森島先輩。 効果は抜群だ。

 

「あ〜、でも橘くんは背が高いから、美也ちゃんと一緒って訳にはいかないね」

 

  口には出さないけど、この体勢は苦しいものがある。 若干首が閉まっているのだ。

  しかし、それと引き換えに背中に当たる柔らかな感触。 これは何物にも変え難い素晴らしいモノだ。

 

「ん〜、こうして見ると君って結構背が高いんだね。そんな印象無かったなぁ……」

 

  すみません先輩。 苦しくて気持ち良くて、言葉が出てきません。

 

「橘くん? あ、ごっめーん」

 

  先輩はそう言うと、腕を解き離れてしまった。 今ので10年分くらいの寿命を使ってしまったかもしれない。 それくらい凄い体験だった。

  僕が反応しないせいか、先輩は顔を覗き込む様な姿勢を取る。

  その上目遣いには何とも愛らしいものを感じる。

  ここに女神が居ます。

 

「苦しかったよね?大丈夫?」

「あ、いえ……。気持ち良かったです」

「え?」

 

  しまった。 僕はなんて馬鹿なんだろう。 数分前に猛省したことをすっかり忘れているなんて。 先輩は顔を赤らめている。 やってしまったが、これはこれで有りなのでは?

 

「全く……聞いた通りにぃに(・・・)はエッチなのね。怖い怖い」

「え、えっとにぃにはエッチって……」

「ふふっ、可愛い1年生に教わったの」

 

  美也のやつ、一体僕が何をしたと言うんだ。

 

「はぁ……美也め。先輩に何を吹き込んでるんだ」

「あら、この事で美也ちゃんを虐めたら許さないわよ?」

「まさか! そんなことしませんよ」

「ふふっ、分かってるわ。それじゃあね、エッチなお兄ちゃん」

「せ、先輩!」

 

  手をひらひらと振りながら先輩は去ってしまった。

  はぁ美也のやつ、普段どんな話をしているんだ。 後できっちり問い詰める必要が有りそうだが、それはそれで森島先輩の機嫌を悪くするかもしれない。 帰りにまんま肉まんを買って、それを献上することで美也の機嫌を保つことにしよう。

 

  それにしても、森島先輩はやはり素晴らしいスタイルの持ち主だった。 毎日腕マフラーで登下校をしたいものである。 それによって寿命が尽きようとも、人生に悔い無しである。 訂正、悔い無しと言うのは、少し盛ったかもしれない。

  何はともあれ、素敵な体験をさせて貰ったのだ。 それを考えると、普段は強敵に思える午後の授業が全く敵で無くなったように思えた。

 

 

 




短めですが、ダラダラと続けてもあれかなと思い区切ることにしました。
次話から絢辻さんについて、書けていけたらいいかなと思っています。
閲覧ありがとうございました。 次話も宜しくお願いします。



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11月-②

  ――――来週から忙しくなる。

 

  そんな俺の勘は当たっていた。

 

  創設祭実行委員、思っていたより大変な仕事だ。 どのイベントでも全員が楽しめることが究極的な目的だが、その根底には如何に3年生を楽しませることが出来るかと言うポイントがある。

  特に輝日東高校の一大イベントである創設祭は、3年生が卒業式を除いた場合、最後の行事の場になるので尚の事力が入ったものになる。

  体育祭と違い、創設祭は1年と2年の二学年で実行委員を担い、事を円滑に進めていく必要がある。

  必然的に、人一人当たりにかかる負担は大きくなるということだ。

  つまり、どういうことかと言うと――――

 

「主人くん、今日も部活に行かなくていいの?」

 

  そう、ここ最近部活に出れていない。

  と言うのも、絢辻は去年も創設祭実行委員をしていたということもあり今年の創設祭実行委員長に任命されている。 その為、彼女が執り行う仕事量は他の委員と比べて多い。 高橋先生からの頼みもあって、俺はそのフォローに回っているといった感じだ。

  因みに塚原先輩は去年の実行委員長だ。 あの人も文武両道を体現している凄い存在である。

 

「俺が出なくても夜長さんが居るし、椎名も居るからな。練習は上手く回るだろうし、1時間は出るようにしてるから大丈夫だ」

「あまり野球の事は分からないけど、主人くんの練習に差し支えが出るなら無理しないで良いからね?」

「大丈夫だって、その分夜に身体を動かしてるからさ」

 

  軽く頷くと絢辻の口はそれ以上動かなかった。 動いているのは資料を纏めるのに使う物くらいだ。

  ぶっちゃけた話、絢辻の仕事を熟す速度は尋常なものでは無い。 俺のサポート何て要らないのでは、と思うくらい仕事が出来る人だ。

  それでも俺が部活を削ってまで実行委員の仕事に拘るのは理由がある。

 

「それにしても……ふふっ、本当にキーボード苦手だね」

「……うるさいな。誰だって苦手な事はあるんだよ……」

 

  そう、俺はタイピングが苦手だ。

  初めてこの作業を始めた時、それはもう絶望したものだ。 頭ではスペルを分かっているのに、文字に起こせないそのもどかしさに。

  だからこれは、俺のちょっとした意地だ。

  こうした機会を貰ったんだ。 だったらせめて、人並み以上まで上達したいという思いがある。

  俺の我儘で部活に迷惑をかけている事だろうが、今まで自分なりに奮闘してきたつもりだ。

  これくらいは見逃して欲しい。

  人の良いアイツらだ、きっと笑って許してくれるのだろう。 椎名からは何発か拳が飛んでくるだろうが。

 

  キーボードと格闘する事30分、漸く資料を纏め終えることが出来た。

 

「ほい、各クラスや部活の出し物のリストを軽く纏めてみた」

「ありがとう、今年は数が多いから準備も大変そうね」

「あぁ、全くだ」

 

  プリントアウトが終わった資料に目を通すと、その出し物の多さに思わず笑みが零れる。

  去年の創設祭に参加していない為、どんな屋台が並ぶが楽しみであり個人的には「水泳部のおでん」に期待している。

  寒空の下で食べる温かい食べ物は最高だ。

 

  そういえば今年は椎名たちがカレーの屋台を出したいと申請に来ていた。

  何でも「カシミール」の味を再現すると言っていたが、あれは奈津姫さんだから出せる味だと言うのに。 あまり期待せずに待つことにしようと思う。

 

  他にも茶道部が甘酒を販売することや、1年A組――――純一の妹の美也ちゃんが居るクラス――――が劇を行う等とそれなりに楽しくなりそうだ。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  資料を纏め終えた後は、資材の確認が待っている。 絢辻の話によると、やや建付けの悪い扉の奥にそれらの資材は眠っているらしい。

 

「去年先輩から教えて貰ったんだけど、ここのドアを開けるには少しコツが必要なの」

 

  ドアノブを少し下に押し込みながら、それは開けられた。 成程、ドアノブが錆び付いて内側が馬鹿になってるんだな。

  部屋の中は資材倉庫というだけあり、特有の埃っぽい匂いが立ち込めていた。

 

「へぇ、ここが資材倉庫ね」

「クリスマスツリーに使う電飾とか、創設祭に使うものを管理してる場所なの」

「見た感じ、そう見たいだな」

「ええ。基本的には、年に1回しか使われないわね」

 

  絢辻の言葉に耳を傾けながら辺りを見渡す。

  大量のダンボールが置いてあることから、それなりの数の資材があることが分かる。

  扉を閉めようと、ドアノブを手に取ると絢辻から言葉が発せられた。

 

「あ、閉めないで。ドアノブが壊れてるみたいで、中から開けられないの。先生には話してあるんだけど、まだ治ってないみたい」

「さっきの様子からしてそうみたいだな」

 

  確かに、中から開けられないと言うのは非常に不味い。 外に出る経路が無いからだ。

  何か止めるものを、と視線を動かすと丁度手頃な木材が目に付いた為それを下にはめておくことにした。

  これによって、空気の入れ替えに窓を開けて扉が閉まってしまうといった事は無くなる筈だ。

 

「じゃあ右側のチェックをお願いね」

「了解っと」

 

  気が付けば絢辻は手馴れた手つきでエプロンを身に纏っていた。 制服に埃がつかないよう注意を払ってのことだろう。

  それを見習って少し肌寒いが、制服を窓に掛けカッターシャツ姿になり作業と向かい合った。

  それにしても、絢辻のエプロン姿か。

  これは、滅多に見れない代物である。 さり気なく目に焼き付けようと後ろを振り向くと、目的のモノでは無く絶対領域と呼ばれるモノに目が行ってしまう。

 

  大丈夫、俺は紳士だ。

  決して、疚しいこと等考えてはいない。

  自分の事ながら、変な事を考えたと頭を振ってから作業に集中するのだった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  その後順調に作業は進み、無事に今日の目標は達成することが出来た。

  2人での作業と言うこともあってか、必然的に絢辻との会話は増えることになった。 その中で絢辻の家と俺の家はそこまで離れていないことが解った為、一緒に下校することにした。

  家が近いなら同じ小中でもおかしくは無いが、別地区の学校にも近いという理由で俺とは別の学校だったらしい。 確かに、輝日南はこの辺りのモラル校である。 絢辻の様なタイプはそっちの方が色々と都合の良いだろう。

 

「今日の部活は良いの?」

「身体を休めるのも練習のうちさ」

「ふふっ、じゃあ明日は今日の分も練習しなきゃね」

「2倍とは手厳しいな」

 

  これと言って何も無い。

  そんな取り留めのない話をしながら歩みを進めて行く。

  歩き初めてどれくらい経っただろうか。

  気付けばいつもの坂を抜け、商店街へと辿り着いていた。

  まだ小さい頃、ここは今ほど活気溢れる状態では無かった。

  朧気な記憶を探っていき、辿り着いた先にあった答えは夜長さんの存在だった。

  まだ数年の付き合いであるが、彼がどの様な人間であるかは分かっているつもりだ。 維織さんに、准さんに、世納さんについても同様だ。

  ちょっとした事から始まったこの関係は、人生に置いて間違いなく誇れる大切なモノだ。

  「さんせっと」に足を運ぶと気が和む理由が解った気がする。

 

  そんな事を頭に思い浮かべながら歩く事少し、前方から何やら見覚えのある顔(・・・・・・・)の女性が声を掛けてきた。

 

「あれ、詞ちゃん?」

「え、絢辻が……2人?」

「はぁ……間違いでは無いわね」

 

  思わず目を見開いてしまった。

  目の前に居る女性は、今俺の隣に立っている絢辻詞と瓜二つ(・・・)だ。 勿論、声が違うので別人だと言うことは分かるが、それにしても良く似ている。 少し離れて見たら、どちらが俺の知っている絢辻か当てる自信は無い。

 そう思える程にこの2人は似ていた。

 

「やっぱり詞ちゃんだ、男の子と一緒だなんて隅に置けないなぁ」

 

  見れば見る程そっくりである。 先程の絢辻の「間違いでは無い」と言う発言からして親族である事は間違いなさそうだ。

 

「えっと、どちら様?」

「……あたし(・・・)の姉よ」

 

  親族と言うのはビンゴ。 目の前に居る女性は絢辻の姉か。 しかし、先程の絢辻の言葉は普段と同じだが、どこか違和感を感じたのは何だったのだろうか。

 

「初めまして。詞ちゃんの姉の、絢辻(ゆかり)です。縁って呼んでね」

「どうも、絢辻……こほん、詞さんと同じクラスの主人公です」

「よろしくね。いつも詞ちゃんがお世話になって、る?」

「まさか。その逆ですよ、逆」

「そうなんだぁ」

 

  何というか、絢辻と違ってお姉さんの方はほんわかしている感じがある。 森島先輩と同属性と言ったところか。

 

どうしてこんな所に居るのよ(・・・・・・・・・・・・・)

 

  声のトーンがいつもより低い気がする。

  これがさっきの違和感の正体かもしれないな。

 

「ん、お夕飯のお買い物。頼まれちゃって」

そう(・・)

 

  笑顔を見せる縁さんに対し、絢辻の表情はどこが影がある。 ほんの数分前まで会話していた人とはまるで別人の様に感じた。

 

「……ごめんね主人くん。私ちょっと用事思い出して」

「そっか、気をつけてな」

「うん、今日は色々とありがとう。明日はちゃんと部活に行ってね」

「ああ、分かってるさ。じゃあな」

「主人くんも気をつけて……ほら(・・)行くわよ(・・・・)

「詞ちゃん、歩くの速いよぉ」

 

  他人様の家庭に無闇に干渉することは避けるようにしているが、どうやら2人の姉妹仲は宜しくないらしい。

 とは言うものの、縁さんの方は絢辻に対して明るく接していた。

 

  つまり、縁さんは絢辻の事を嫌っていない。

 

  あの態度を取る理由、何かがあるのは絢辻の方か。

  そこまで考えたところで、一度息を吐いて思考を切り替えることにした。 理由も知らない俺が幾ら考えを立てようと、それはあくまで想像止まりに過ぎない。

 

  そうは思いつつも、先程絢辻が見せた普段とは明らかに違うあの声色は気になるモノがある。

  普段の絢辻からは想像出来ないような、黒いものを。

 

  ここまで考えてまた息を吐き出した。

  俺はまだ、絢辻がどんな人間なのか知らない。

  人には誰だって何かしらがある。 今回のモノも、少なからずそれが関係しているのかもしれない。 それを詮索するのは、不躾な事だろうと思う。

  こういうモヤモヤした気持ちを吹き飛ばすには、身体を動かす事が一番だ。 頭の中を運動に切り替え急いで家に戻り、スポーツウェアに着替えてから河川敷へランニングに向かった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「おい、主人。これは一体どういう事だ?」

「いや、えっと椎名さん……俺に言われてもだな」

 

  眉を吊り上げながら、笑顔で語りかけてくる椎名からは相変わらず恐ろしい。

 

「いいや、お前に言うね。部活をそっちのけで実行委員として活動しているんだからな」

「う……痛いところを……」

「とにかく、貸出申請書は出してあるんだ。他のクラスは合って、ウチのクラスの分が無いのはおかしいんじゃないのか?」

「んー、何かの間違いじゃないのか?」

「しばくぞ」

 

  絢辻のやつは一体どこをほっつき歩いて居るんだ。 今日の放課後は手伝って欲しいと頼まれていたから会議室にやってきたものの、そこに絢辻の姿は無く、代わりに有ったのは各クラス等の代表者の姿であった。

  昨日遅くまで練習メニューを考えていたせいか、頭が働かず絢辻の言葉に適当に返事を返してしまったが、まさかそれが原因でこうなっているのか?

 

「電源タップが2個じゃ足りないって。せめて3個! 後、場所も別のところがいいんだけど!」

「ははは……俺に言われてもな」

「主人先輩!」

「……今度は何だ?」

「パンフレットの印刷部数って何部ですか? 印刷所から問い合わせがあって」

「……はぁ」

 

  駄目だ、絢辻じゃないと手に負えない。

  と言うか確実に人手が足りていない気がする。 集まってくれた人には申し訳無いが、今日のところは引き返して貰うように頼んだ。 この際に用件を紙に記入して貰い、それを提出して貰ったから絢辻にそれが伝達されれば早急に対処が出来る。

  本当に、絢辻しか機能していない創設祭実行委員会に頭が痛くなった。

 

  聞いた情報を元に、絢辻が居るであろう場所に足早に向かった。

  鼻腔をくすぐる独特の塩素の匂い。 プールに絢辻の姿はあった。 但し、薫と田中――――2人のおまけ付きだ。

 

「絢辻さん、痛い痛い!」

「準備運動はしっかりやって置かないと」

「絢辻さんの鬼……」

「貴女が怪我をしなくて済むなら、鬼にでも悪魔にでもなるわ」

「嬉しいけど嬉しくないよそれ!」

 

  準備運動か。 確かに、それは重要だ。 しっかりと身体をほぐしておかないと怪我の原因に繋がるからな。

  準備運動も終わったみたいだし、頃合はここだな。 絢辻たちの元へ歩み寄ると向こうから声を掛けてくれた。

 

「あら主人くん、どうしたの?」

「ちょっと創設祭の事で話があってな。水着何か着て、何してるんだ?」

「水泳の補習よ。体育でね、陸上と水泳の補習をしてるの。担当の先生が陸上を見ているから、私は代理としてこっち」

「へぇ、相変わらず凄いな絢辻は」

「ふふっ、水泳は得意じゃ無いんだけどね」

 

  絢辻の用事は水泳の補習の手伝いか。

  本当に良く働く人だ。 一体いつ休んでいるのやら。

 

「あ、何よ公。アタシ達の水着姿でも拝みに来たの?」

「バカ、なわけ無いだろ。用があるのは薫じゃなくて絢辻の方だよ」

「あ、それで話って?」

 

  とりあえず先程まであった事を絢辻に話した。 てっきり溜息の一つでもある落とすのかと思ったら、絢辻は嫌な顔一つせずにこれを受けてくれた。

 

「絢辻さんをサポートする為にアンタも実行委員してるんでしょ? しっかり働きなさいよ」

「……うるさいな、俺が一番そう思ってるよ。それより、何でお前が補習何だ?運動神経は悪くないだろ」

「棚町さんは休みが多かったから。田中さんは泳ぐのが苦手みたいだけどね」

「薫、お前ちゃんと学校に来てたよな?」

「水泳は嫌いなの。髪が濡れるから」

「お前な……」

 

  薫の水泳嫌いの理由がまさかの子供じみたもので思わず肩を落としてしまったが、こうしては居られない。

 

「じゃあ、俺は先に戻って資料を纏めておくよ」

「うん、お願いね。終わったら直ぐに向かうから」

 

  実行委員会の本部に戻り、絢辻の趣意を伝えた後である程度の資料を持って教室に向かった。 こういう作業をする時は周りが静かな方が確実に捗る。 その為図書館と言う選択肢もあったが、あそこはあそこで人が集まるので距離の近い教室で落ち着くことになった。

 

  作業を始めてから幾分が時間が経ち、喉に渇きを覚えた。 そう言えばさっきから何も口にしていないなと、鞄から財布を取り出し自販機の元へ向かおうと席を立った時――――視界に黒いものが映った。

  気が付いてしまった以上、ソレが何かを見届ける義務が発生する。 それ程手間と言う訳でも無いため、ソレの元に移動し拾い上げた。

 

「黒い……手帳?」

 

  軽い罪悪感を感じながらも、これが誰の持ち物かを特定する為に中身を拝見させてもらうことにした。 表紙に名前が無いからとは言え、他人の物を勝手に覗くは良心が痛むものがある。 そんな気持ちとは裏腹に、手帳をめくる手は止まらない。 非常に几帳面に、小さいながらも綺麗な字で埋められたそれは、俺の好奇心を刺激するのには充分すぎるものだった。

  何頁めくっただろうか。 漸く、ヒントに成りうるモノを見つけた。

 

  ――――創設祭実行委員

 

  今月の中頃の欄に、そう記されていた。

  このクラスで創設祭実行委員をしている人物と言えばそれはもう1人しかいない。

  答えは出たと、手帳を閉じようとした瞬間――――扉が開き、水着姿の絢辻が姿を現した。

 

「着替えもせずに、どうしたんだよ?」

「ちょっと忘れ物をして……その手帳」

「ああ、これか。やっぱ絢辻のだったか」

「……もしかして、中身も見たの?」

「名前が無かったから、持ち主を調べる為にも軽く見させてもらった。勝手に覗いてすまん」

 

  沈黙が流れた。 物音一つしない静寂が辺りを包み込む。

 

「えっと、絢辻?」

 

  絢辻の表情はとても暗いものになっていた。

  視線は冷たく、こちらの言葉に反応が無い。

  肩にかけられていたタオルが床に落ちても、それにも反応を示さない。 一体どうしたと言うのだろうか。

  依然重苦しい空気を纏ったまま、大きく溜息をつき、どこか呆れた様な表情をする絢辻は、俺が今まで見てきた絢辻詞では無かった。

 

「絢つ――――」

 

  重い沈黙が続いた為、それを破ろうと声を出そうとしたその瞬間。

  絢辻がこちら側に踏み込み、素早い手付きでネクタイを掴み首元を引っ張ることで顔と顔の距離を縮めた。

 

「見ちゃったんだ」

「……は?」

 

  滴る水滴が音を立てる。

  この雰囲気、本当に自分の知っている絢辻詞なのかと困惑せずには居られない。

  にわかに受け入れ難いこの事実が、身体を硬直させていた。

 

「……絢辻?」

「勝手に喋らない」

 

  氷の様に冷たいと言えばイメージしやすいだろうか。

  いつもの温和な声ではなく、以前実の姉である縁さんに対して使っていた口調――――棘のあるモノに絢辻の声色は変わっていた。

 

 

 

 

 





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11月-③

 

「どうしてこうなった」

あたし(・・・)が訊きたいくらいよ」

 

  俺たちは今、ある神社の境内に来ている。

  理由を詳しく説明される暇も無く、どこからそんな力が出てくるのかという謎の力(威圧感)になすがままにこの場に連れてこられてしまった。

 

「ここなら人も居ないから、話がしやすいと思わない?」

「この寂れた神社を選んだのはそれが理由か」

「そういう事」

 

  あれからしばらく時間が経って、少しは頭の中も落ち着いてきたがそれでもまだ動揺は収まらない。 今まで文字通り優等生だった絢辻が、あれだけの変貌をしたのだ。 驚かない人がいるなら見てみたい。

 

「……髪ちゃんと乾かしたか?」

「余計なお世話よ」

 

  この通り、取り付く島もない。

  一体何が何だと言うのだ。

  ここまで絢辻が豹変するなんて、あの手帳はどれだけの爆弾だったのだろうか。 そんな危ないものを学校に持ってこないで貰いたいと切実に思う。

 

  初めて目にした鋭い視線に、何物にも形容し難い威圧感を前にされるがままにここに連れてこられてしまったが、ここいらで誤解を解く必要がある。 一息つくと、痺れを切らしたのか絢辻から質問を投げてきた。 そろそろこの問題と向き合う時が来たようだ。

 

「本題に入るわよ。中身を、見たんでしょ?」

「表紙に持ち主の名前が書いてなかったから少しだけな」

「それで、書き殴ったアレを見ちゃったんだ。残念だわ、クラスメイトが一人減っちゃうなんて」

「書き殴ったアレ? そんなもの見てないって。俺が見たのは、絢辻らしい綺麗な字とちょっとしたメモだけだぞ?」

 

  絢辻の言う“書き殴ったアレ”と言うのが、絶対に他人に見られたくなかった何かなのだろう。 俺の返答に絢辻は眉をひそめるが、寧ろそれをしたいのはこちらの方だ。

 

「……もう一度聞くわ。手帳の中身、見たのよね?」

「ああ、見たよ。スケジュール表とメモ欄をちょっとだけな。でも、書き殴ったアレとやらは見ていない」

「へ?」

 

  絢辻が締まらない声を出し、そのまま動きが固まった。

  まさかとは思うが--

 

「……絢辻の勘違いか?」

「あ、え、えっと……」

「随分と分かりやすい反応をありがとう」

 

  ご丁寧に頬まで紅くしている。

  先程までの緊張感とは一体何だったのだろうか。 そう思わずには居られなかった。

 

「う、煩いわね! そもそも貴方がはっきりと話さないからでしょ!」

「はっ、良く言うぜ。聞く耳も持たなかった癖にさ」

「見てないなら見てないって、堂々としてなさいよ! お陰で深読みしちゃったじゃない」

 

  はぁ、と大きく溜息をつき絢辻は肩を落とした。 そのリアクション、本来なら俺がしたかったんだけどな。

 

「それにしても、普段は猫かぶってたんだな」

「なっ……」

「ほんと分かりやすいな、まぁもうバレバレだけど」

「……だから何? それであたしが誰かに迷惑をかけたとでも?」

「ああ、ついさっき俺にかけたじゃないか」

 

  したり顔で返答すると、絢辻は肩をぷるぷると震わせながらこちらを睨んできた。

  おっと、怖い怖い。 准さんとは別の怖さだな。

 

「はぁ……まぁ良いわ。貴方が誰にも言わなかったら良いだけの話だし」

「元より言うつもりも無いって。何も見てないんだからな」

「はいはい、分かったから。さっ、復唱して。『僕は何も見ていません。絢辻さんは裏表のない素敵な人です(・・・・・・・・・・・・・・・・)』」

「はぁ? 何で俺がそんなこと。それに、自分で裏表の無い素敵な人って、くっくっく」

「わ、笑いすぎよ!」

「いいや、笑わずには居られないね」

 

  普段は凛としている絢辻をからかうのは実に気分が良い。 先程までの鬱憤を晴らすかのように、盛大に笑ってやることにした。 あんな思いをさせられたんだ、これくらいしたって罰は当たらないだろう。 ここ神社だが、大丈夫だよな?

 

「……ふぅん。それならあたしにも考えがあるわ」

「考えとな?」

「野球部の主将、主人くんはか弱い少女の胸を触って謝罪の一つもしませんって学校で流させて貰うわ」

 

  なっ、コイツ、自分の信用度を使って何て事を。 確かにネクタイを引っ張られた時、左手に柔らかい感触を感じたが、あれは不可抗力だ。

 

「あ、あのなぁ……わざとじゃない無いんだぞ?」

「酷い、酷いわ! あたしの純情が汚されてしまった……貴方の家族や先生に相談しないと……しくしく」

 

  どこが純情だと声に出したいが、泣き真似まで使って来られちゃお手上げだ。

 

「……分かったよ」

「早く」

「はぁ……俺、こほん。僕は何も見ていません。絢辻さんは……」

「絢辻さんは裏表のない素敵な人です」

「……絢辻さんは裏表のない素敵な人です。これで良いか?」

「ふふっ、よろしい」

 

  嘘泣きをされた後に、そんな飛びっきりの笑顔を見せられても複雑すぎて何とも言えない。 少し反則じゃあないですかね。

 

「はぁ……全く面倒なことに」

「あら? そう言うなら、ご褒美にもう一度触ってみる?」

 

  そう言うと着ているコートの片側のボタンをひとつ外し、決して大きくとは言い難い双丘の片方を強調する様に、勝ち誇った視線を向けて来る。

 

「興味無いな」

「そう? でもこの手は何かしら」

「……何だろうねぇ」

 

  言葉とは裏腹に、俺の手はその片方に向かって伸びていた。 んー、おかしい。 俺は紳士な筈なのだが。

 

「なぁ、一つ聞いていいか?」

「何よ」

「“書き殴ったアレ”って、どんな内容だったんだ?」

「そうね。見られたら、私が学校に居られなくなる様な内容かな--勿論、見た人も居られなくしてあげるけどね」

「……そんな内容を書き込んだもの、学校に持ってくるなよ」

「確かにあたしも迂闊だったところはあるわ。次からは気をつける」

「そういう事じゃなくてだな……」

 

  駄目だこりゃ。 反省している様で反省していない。

 

「話も済んだし、ここに長居したら風邪を引きかねないわ。早く帰りましょう」

「……お前が長々と話すからだろ」

 

  こつこつと音が響く石段を降っていると、不意に絢辻の口が開いた。

 

「そう言えば、貴方の秘密を聞いてないわね」

「俺の秘密? 何でその必要があるんだよ」

「あたしのだけ聞いておいて、自分は話さないつもりなの? そうしたいのなら別にいいのよ、どうなるかは知らないけどね」

 

  してやったり顔で、絢辻はコートのボタンを外し先程同様に誘いをかけてきた。 言うことを訊かなかったらどうなるか解るわよね?と、目で訴えかけてきている。

 

「そうだな……秘密か」

「秘密の1つや2つくらいあるでしょ?」

「んー、これが秘密と言えるかどうかは分からないが、1つあるな」

「へぇ、じっくりと訊かせてもらおうじゃない」

「俺は、珈琲が飲めない。甘党なんだ」

「それで?」

「……それだけだ」

 

  そうあからさまに落胆しないでくれ、地味に傷付くから。

 

「はぁ、詰まんないわね」

「悪かったな、ネタが無くて」

「本当よ、他に無いの?」

「……あるっちゃある」

「ふふっ、あるんなら初めからそれを言いなさいよ」

 

  絢辻のやつ、完全に開き直ってるな。

  以前の優等生に戻ってくれると嬉しいんだが。

 

「……本当に言わないと駄目なのか?」

「ここまで来て逃げるのは男らしく無いんじゃないかしら?」

 

  痛いところをピンポイントで付いてくる。

  これだから頭の良いやつの相手をするのは苦手なんだ。

 

「……学校に、使われていない教室があるのは知っているだろう?」

「ええ、物置小屋に変わっている部屋もあるわね」

「その中のどこかに、俺たちはお宝本と呼ばれるような類のものを置かせてもらっている」

「…………え?」

「ま、予想通りの反応だな。普通、こんな話を聞かされたら引くわな」

「……それが、貴方の秘密なの?」

「俺だけの秘密って訳じゃ無いけどな。これなら、絢辻の秘密に相当するものがあるんじゃないか?」

「そうね。内容は正直に言って嫌悪すべきものだけど、貴方にはあたしの秘密を黙っていて貰う訳だしこれで手打ちにしましょう」

 

  危なかった。 今の会話で心臓を5個は消費した気分だ。 それくらいに心臓が跳ね上がっている。 下手な事を言うより、衝撃が強いものを選んだのがどうやら上手く行ったみたいだな。

  すまん純一に梅。

  お前たちには犠牲になってもらった。

  不甲斐ない俺を許して欲しい――――何てな。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「――――梅! 上がれ!」

「がってんでい!」

 

  前からパスコースを防ぐ様にブロックをしに来たケンを躱し、フリーになっている梅に素早くパスを出す。

  パスを受け取った梅は、ゴール前に居た純一を躱して見事にレイアップシュートを決めた。 上手いもんだ、これだけの運動神経を持っているのに幽霊部員になっているとは勿体無い。

 

「ナイス梅! 相変わらず上手いな」

「ふっ、大将が相手ならこんなもんよ」

「た、たまたまだ! 次は止めるからな!」

 

  今月に入ってから体育の授業では男子はバスケットボール、女子はバレーボールと1つの体育館を半分ずつ使って授業が行われている。 ゴールを決めた梅とハイタッチを交わすと、丁度視界に絢辻がアタックをする場面が目に入った。

 

「おっ、絢辻さん流石だな」

 

  梅が褒める通り、絢辻も運動神経が良い。 勉強も出来、運動も出来、性格も良い……と言いきれるか分からないが、猫を被っている状態の絢辻は間違いなく大多数から好感を持たれるような人物だ。 居るんだな、文武両道を素で行く様な人間が。 絢辻の場合は、その裏でとてつもない努力をしているので尚更凄いように思うが。 努力が出来るのも一種の才能だからな。

  マサからパスを受け、スリーポイントラインをしっかりと確認。 肘の角度を意識しながら放たれたシュートは、そのままゴールリングへと吸い込まれる様に入っていった。

  良し、完璧。 やっぱりどの競技でも自分で得点した時は格段に嬉しいものがある。

  ケンが反撃にと、ボールを回し始めるが終了を知らせるブザーが鳴り響いた。 純一が恨めしそうに得点板に視線を移すが、得点が変わることは無い。 俺たちの勝利だ。

 

「純一、勝負は俺たちの勝ちだな」

「大将の奢り、待ってるぜ」

「もう……勘弁してくれ」

 

  試合にも勝って、純一との賭けにも勝って、尚且つ自分は得点を決めた。 今日の体育は文句無しの良い授業だったと思う。

 

「主人くん、ちょっといいかな?」

 

  授業の終了を知らせるチャイムが鳴り響き、体育館シューズから校舎用の上履きに履き替えていると後ろから絢辻が話しかけてきた。

 

「別にいいけど、どうかしたか?」

「うん、ちょっとね……こっちに来てもらえるかな?」

 

  この後に別に用事がある訳でもないので、そのまま言葉に従って体育館裏へと向かうことに。 話の内容は恐らくアレだろうと容易に想像出来る。

 

「面倒だから単刀直入に言うわ。さっき、ずっとあたしの方見てたでしょ」

「深い意味は無いさ。絢辻やっぱ運動神経良いなって」

「それだけじゃないでしょ?」

「……はぁ、アレか?」

「ええ。箱の中の猫が生きているか何て蓋を開けてみないとわからないでしょ?」

 

  ほら来た。 昨日の今日何だし、思わず目で追ってしまうことくらい許して欲しいものだが、駄目なんだろうな。

 

「ごめんなさいね。猫被ってて」

「駄目だ、なんて一言も言ってないだろ」

「でも、視線はこちら側を知らなければ良かったって言うのを物語ってるわ。目は口ほどに物を言うのよ」

 

  ジト目で見つめるのは辞めていただきたい、心臓に悪いんだ。 とは言え、絢辻が心配する気持ちも分からなくは無い。 ここはお互いの為にもはっきりと言う必要がありそうだ。

 

「誤解だ誤解。俺は寧ろ、今の絢辻を知れて良かったと思ってるよ」

「……え?」

「手帳を拾ったのが俺で良かったと思ってるくらいさ。こっちの絢辻の方が話しやすいしな」

 

  本当にそう思っている。 以前の絢辻も話しやすかったが、こっちの絢辻の方がフランクに話が出来るように思う。 まぁまだ2日目なので、何とも言えないところもあるが。

 

「そ、そう」

「俺がこんなつまらない嘘を付く様に見えるか?」

「う〜ん」

「……悩むんかい」

 

  正直ここは悩むこと無く“見えない”と言ってもらいたかったが、まぁ仕方の無い事なのだろう。

 

「はぁ……主人くんと話してると、どうも調子が狂うのよね」

 

  調子が狂うか、初めて言われたなそんな事。

 

「すみませんでした。変な深読みして、勝手に怒って」

「ああ、良いよ。気にしなくていい、それより着替え無いとそろそろやばくないか?」

「それもそうね。じゃああたしはこっちだから」

 

  絢辻が女子更衣室へ向かって行くのを見送った後、自分も着替えなければいけないと言うことに気が付き急いで教室に戻ることになった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「良し、今日はここまで。みんな、お疲れさん」

 

  夜長さんが打ち上げたキャッチャーフライを、椎名がしっかりと捕球したところで今日の部活が終わった。 相変わらず夜長さんはノックが上手い。 何でも出来すぎて怖いくらいだ。

  今日の部活はいつもより早く終わった為、絢辻を手伝いに会議室に向かうが電気は付いていない。 来る前に見た教室も人気が無かったことから今日はもう帰っているのかもしれないと予想が出来る。 案の定下駄箱に絢辻の靴は無かった。

  こういう日は素直に帰るべきだ。 下手に作業に手を出して、事態を悪化させるなんかしたら絢辻に何を言われるか溜まったもんじゃない。

 

  絢辻の裏側を見てから1週間が経った。

  そのうちの何日かを、放課後残って一緒に作業を進めていると段々と馴染んで来るものがある。 今の絢辻なら遠慮すること無く言葉を選べる、それが一番大きい。

  のんびりと家に向かって足を進めていく。

  こうして独りで家に帰るのは久しぶりかもしれない。

  色褪せた葉を地面に落としている桜坂を降りていき、ゆっくりと辺りを見渡しながら歩いて行く。 いつもの時間より早く終わったとは言え、日が落ちるのも日に日に早くなっている。 気が付けば、夕日はかなり落ち込んでいた。

  不思議な感覚だ。

  見慣れている筈なのに、どこか違う様に映る。 黄昏時のこの町は、普段とは違う雰囲気を纏っているように感じた。 このまま歩いて行けば、後10分もしないうちに家に辿り着く事だろう。 しかし、それはどこか勿体無い気がする。 時折吹き抜ける風が、季節が冬と言うことを実感させていた。

 

「きゃあ!」

 

  散歩気分で足を進めていると、突如甲高い声が耳に入って来た。 声の主は恐らく女性。

  声も自分が足を進めていた公園の方からとなれば、向かわないという選択肢は無い。

  鞄をしっかりと担ぎ直し、出せる限りの速度でその場に向かった。

 

  やや息を切らしながら辺りを眺める。

  公園に目立った人影は無い。 あれは気の所為だったのか、と大きく息を吐いたところで木陰に佇んでいる女性を見つけた。

 

「よっ、絢辻」

「あぁ主人くん」

「さっきこの辺りから悲鳴が聞こえてきた様に思ったんだが、何か知らないか?」

 

  閑散としているこの場に居るのは絢辻のみ。

  訊かなくてもほぼほぼ絢辻の悲鳴で確定なのだが、敢えて訊いてみることにした。

 

「おーい絢辻」

「煩いわね……さっさと帰りなさいよ」

 

  本当に予想通り過ぎて面白い。

  以前に絢辻が使っていた“箱の中の猫”という言い回しを使う事も考えたのだが、その必要は無かったようだ。

 

「足濡らしたままにしておくと風邪ひくぞ」

「あのね、好きでこんな風にしてる様に見えるかしら?」

 

  相変わらず鋭い眼力なこと。

  だけどそれに一々動じていては一瞬で攻守を入れ替えられてしまうのでここは踏ん張りどころだ。

 

「……おしっこを引っ掛けられたのよ!」

「は? ……え、誰にだよ!」

「誰? バカじゃないの! 犬よ、犬!」

「あ、あぁ、犬ね……あいつか」

 

 言ったそばから丁度タイミング良く、遊具の影から高そうな犬が姿を見せた。

 

「一度病院で頭を診察して貰った方がいいかもね。腐ってるかもしれないし」

「そこまで言わなくてもいいだろ。でもなんだ、……すまん」

「謝ったって許さない。傷ついた、凄く傷ついた、とっても傷ついた」

「棒読みじゃねぇか……」

 

  傷ついたのは寧ろ俺の方だと言うのに。

  脳が腐っているかもと言われることなど、普通の人生なら早々ない経験だろう。

 

「……でだ。何でそうなった?」

「別に大したことじゃないわ。帰りがけに高そうな犬を見つけたから、何か使い道があるんじゃないかと思って捕まえようとしたの」

 

  流石裏辻……相も変わらず打算的すぎる。

 

「で、お弁当の残りをチラつかせながら近寄ったらこのザマよ」

「くっくっく、そりゃあ大変だったな」

「笑い事じゃ無いんですけど〜」

 

  いやいや、これを笑わずにいつ笑えと言うのだろうか。 中々起こり得ない現象だと言うのに。

 

「んで、どうやって帰るんだ?そのままだとキツいだろ」

「良いわよ別に」

「良い訳無いだろ、ほら靴と靴下脱げ」

「ちょ、ちょっと!」

「そんなの履いてたら気持ち悪いだろ。靴下は野球用だけど俺の換えがあるからそれを履けばいい」

 

  鞄からビニール袋と換えの靴下を取り出し、絢辻の手にあるものと入れ替え洗う為に蛇口へと向かう。 当然この時期なので水は刺すように冷たい。 早く絞って、カイロで冷えた手を温めないとな。

 

「靴は、ここで洗う訳には行かないから家に帰ってからだな」

「しくじった。あの犬にここまでされる何て思ってなかったわ」

「ま、そりゃそうだろ。靴も濡れてる事だし、ほら、背中に捕まれ」

「……あたし、そこまでして貰う覚えは無い」

「絢辻に無くても、俺にはあるんだよ」

 

  流石に年頃の女子はおぶられることに抵抗があるらしい。 仕方ないとは言え、早く折れてくれないと色々と困るのだが。

  という心配も他所に、思っていたよりも早く絢辻は結論を出してくれた。 その答えが大人しくおぶられること。 とは言え、おぶられている状態では身体が冷える。 そして絢辻は女性と言うこともあり、スカートを着用している。 言わずもがな、問答無用でウインドブレーカーを履かせることにした。

 

「さてと、絢辻の家はどっちだっけ?」

「……こんなところ見られたら、何を言われるか分からないじゃない」

「別にいいさ」

「あたしが良くないの! だから……途中まででいい」

 

  途中まではいいんかい、とツッコミたくなるのをグッと堪える。 何かの拍子で気に触ったら首を絞められかねないからな。

 

「きゃっ、変なところ触らないでよ」

「今のは自転車が悪い。でもまぁ、すまん」

 

  後ろから来た自転車を避ける為に横に動いただけなんだが、絢辻がそう言うのでそう言う事なのだろう。 手の位置は初めから動かしてないんだが。

 

「……変態」

「お好きにどうぞ」

 

  何を言っても絢辻の認識は変わらないと思ったのでそう言ったのだが、数秒後に激しく後悔させられることになった。

 

「みなさ〜ん! ここに変態が居ますよ〜っ!!」

「あのなぁ……流石にそれは勘弁してくれ」

「ダーメ」

「でもそれは絢辻の為でもあるんだぞ?騒いでいたら誰かに見られるリスクも高くなる」

「うっ……」

 

  絢辻の中で激しく天秤が揺れているのが手に取る様に分かる気がする。

  俺を弄るか、他人に見られるリスクを減らすか。 どうやらその天秤はリスクを減らす方に傾いたらしい。 俺にとってもその方が良いし、助かった。

  こうしてこの後も後ろから叩かれたり、耳元で怒鳴られたり、不平不満を聞かされたりと大変だったが無事に絢辻を家に送り届けた。 最初は途中までと言っていた癖に結局最後まで送る事になった。 まぁ別に自分から言い出した事だし、不満があるとかそういう訳では無いが。

 

「ご苦労様、乗り心地悪く無かったわ」

「まぁそれなりに気を遣ったからな。ほら靴、早めに洗えよ」

「分かってるわよそんな事」

 

  そんな会話をした後に、絢辻から靴下とウインドブレーカーを返してもらった。 洗って返すと言われたが、今から俺の物も洗濯する訳だしそこまでしなくていいと断っておいた。

 

「じゃあ、また明日な」

「ええ、また明日」

 

  軽い別れの挨拶を交わしてから、自宅に向かって足を進める。 先程までと違い、完全に日は落ちている。

  これからもっと日が落ちるのが早くなるのだろうな、とそんな事を考えながらのんびりと帰路に着いた。

 

 

 

 

 

 



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11月-④

  彼――――主人(ぬしひと)(こう)は不思議な存在だ。

 

  彼は校内で名が通った存在、彼について耳にすることは多々あった。

  主に聞く内容と言えば、彼の所属している野球部についてのもの。 弱小と呼ばれている我が校の野球部が、着実に力を伸ばしつつあるのは彼の力。 この秋に行われた大会である程度の結果を残すことが出来たのは偏に彼の力の成せる技なのだろう。

  しかし、いくら話を聞くとは言え、クラスも違えば実際に話したことも無い人等、興味の蚊帳の外だった。

 

  学年が上がりクラスが同じになってからも彼の存在は、わたしの中では路傍の石だった。

 

 “他人より運動神経の良い存在”

 

  精々この程度にしか彼の存在を認識していなかった。 けれど、そんなわたしの考えを変革する出来事が起きた。

 

  それがクラス委員、つまり行事の実行委員としての役目。

 

  高橋先生の選出に対して不安が拭えぬまま実際に作業を進めていくと、その中で彼という人となりが徐々に分かり始めてきた。

  意外にも人を良く視ており、社交性があり、学年を問わずに人望が厚い。

  話によると、彼と共に野球がしたいとこの輝日東に進学してきた(ひと)も居るらしい。

 

 その理由は、何処と無く理解出来る。

 

  時たま頼りない時もあるけど、野球部の主将として忙しい中作業を手伝ってくれるし、何より気が利く。 包容力とも言えるそれが彼の魅力であり、存在そのものなのだろう。

 

  だから、わたしの手帳(内側)を見ても平然としていた。 そういうことなのだと思う。

 

  幸か不幸か、わたしは彼を知ってしまった。

 

  そして、気が付いた。

 

  わたしとは“価値観”が違うと言うことにも。

 

  そう気付かされたのは数時間前にあった出来事--校内のオブジェの塗装を行っている際。 いつもの様に平然とわたし好みの缶コーヒーを差し出してきた彼は、わたしにとってやはり不思議な人だった。

  わたしの秘密(・・)を知っていながら平気で近づいてくる。 その事に何のメリットも無いと言うのに。 缶コーヒーにしてもそう。 わたしの冷えた身体は温まるが、彼の財布は寂しくなる一方な筈。

 

  その理由を問いただすと、彼はゆっくりと口を開いた。

 

『見返りとかは関係無い。頑張ってる人を応援するのに、理由が要るのか?』

 

  普段とは違う、重みのあるその言葉に彼の意思を感じた。 彼とわたしは、損得勘定がまるで違う。

  それを感じるという事は、わたしが彼に近づこうとしているという事であり。 彼に対して少なからず興味を抱いているという事だろう。

  彼はブレない。 どこまで行っても、彼は彼--主人公のままなのだろう。 彼はこれまでに、自分の信じる価値観を相手が信じないという状況を乗り越えて、各々に価値観の魅力を伝えてきたのだろう。 だからこそ、多くの人々と良い関係を構築出来ている。

  確かに、彼の価値観とわたしの中のそれは違うのかもしれない。 それでも、いずれは人と触れ合う価値を理解出来る日が来るかもしれないという期待が胸に膨らみ始めている。

 

  シャーペンを置き、軽く伸びをする。

  彼について考えていたせいで、今日の勉強は捗らなかった。 姉が運んできてくれた紅茶はすっかり冷めており、本来の旨味を損なっていた。 そんな紅茶を喉の奥に流し込み、歯を磨く為に洗面台へと足を運ぶ。

  急に来た寒気と倦怠感に一抹の不安を感じながらベッドへとその身を投じる。 沈んでしまった気分を忘れる為にと、とにかく早く眠りにつくために羊を数えることにした。

 

  しかし、嫌な予感というのはどうしてこうも当たってしまうのか。

 

  昨夜よりも明らかに倦怠感が強くなり、頭はボーッとしている。

 

「……嘘でしょ」

 

  机の引き出しから取り出し、使用した体温計に表示されている温度は38℃を越えていた。 風邪もしくは疲れから来た熱だと容易に推測出来る。

 

「はぁ、憂鬱極まりないわね……」

 

  そんな言葉が自然に口から零れていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「あ! やっと来たわね、大変なのよ!」

「……どうしたんだよ?」

 

  遅刻ギリギリで教室に滑り込むと、薫に肩を掴まれそのまま揺すられる。 普段との行動の違いに、何か異変が起きたのだろうが皆目見当がつかない。

 

「で、何かあったのか?」

「あった! あの絢辻さんがね、過労で倒れたらしいの!」

 

  その言葉に慌てて教室を見渡すも、絢辻の姿は見当たらない。

  いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていたが、杞憂であって欲しかった。 昨日は寒波の影響によって一段と冷え込んでいた。 その寒空の下で絢辻は制服で作業を行っていたんだ。 風邪をひくなり、体調を崩す事は考えられた。

 

「はぁ……だから無理をするなって言ったのに」

「絢辻さん相当頑張ってたもんね」

「ああ……頑張りすぎてるよ」

 

  幸いにも、まだこの時期ならリカバリーが充分に効く。 絢辻だけにいつまでも頼っては居られない。 ここが創設祭実行委員の踏ん張り所だ。

 

「そんな難しい顔するなって、俺たちも手伝うからよ」

 

  ピッと、サムズアップを向けてくるのは梅だ。 純一もそれに賛同する様に頷いてくれる。

 

「アタシもシフトが入ってない日はなるべく手伝うわ。勿論、恵子も一緒にね」

「ありがとう、助かるよ」

 

  これだけ言ってくれるのは心強い。

  この言葉通り、皆は今日の放課後から作業に参加して手を貸してくれている。 お陰で予定よりも遥かに早く今日のノルマを終えることが出来た。

 

「はー、働いた働いた。しっかし、実行委員はこんな作業をやってるのか。そりゃあ絢辻も疲れる筈だ」

 

  梅は先程まで睨み合っていたパソコンから目を離し、大きく伸びをする。 純一も同じ様に辿々しいながらもしっかりと役目を果たしてくれた。 ホント、大助かりだ。

 

「なぁ大将、ガソガルでもやっていかないか?」

「いいじゃないかそれ! 公はどうする?」

「あぁ、悪いパス。ちょっと用事があるんだ」

 

  久しぶりに3人でゲームセンターに行くのも魅力的な提案だが、今回は断る事に。 朝から考えていた事を成すためにも商店街に向かう事に。

 

「恵子、アタシらはどうする?」

「駅前のクレープ屋さんに行きたいかなぁ」

 

  目的地は違えど、道中は殆ど同じという事もあり5人で下校している。 普段は部活があるから、滅多に無い組み合わせだ。

 

  会話の中心は来月に控えた創設祭がメインとなってくる。 高校生活に置いての貴重なイベントだ。 やるからには盛大に執り行いたいところ。

  暫く道なりに歩いて行き、目的地であった商店街に入った為4人に感謝を伝えてそのまま別れた。

 さてと、疲労回復に効く食べ物を探さないとな。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  目当ての物も買えた為に、新たな目的地に向かって足を進めることに。

  商店街を抜けて、住宅地を歩いて行くと開けた場所で以前見かけた犬に近寄る女性の姿が目に入った。

 

「あら、この前の」

「こんにちは、縁さん」

 

  相も変わらず、遠目から見ると本当にそっくりな姉妹だ。 性格は真反対と言っていいほどかけ離れているが。

 

「もしかして、詞ちゃんの御見舞いに来てくれたの?」

「はい。普段お世話になっているんで」

「優しいんだね、主人くんは」

「誰だって、これくらいはしますよ。もし詞さんの体調が優れないのなら、これを縁さんから渡して頂けますか?」

「ん〜、薬は飲んでるみたいだから落ち着いてると思うけど、折角ここまで来てくれたんだし顔を見ていってあげて」

 

  縁さんは立ち上がると、空いている俺の手を取りそのまま自宅に向かって駆け出した。

 

「え、ちょ、自分で歩けますから!」

 

  こちらの言う事など全く耳に入っていないといった様子で、縁さんに引っ張られる形で絢辻家に到着した。 まさかこんな形で来ることになるとは思いもしなかった。

 

「ささ、入って入って」

「お、お邪魔します」

 

  広い。 まず初めに思ったのがそれだ。

  外見からして何となく想像は付いていたが、まさかここまでとは。 中流階級以上なのは間違いないだろう。

  縁さんに案内されるまま、階段を登って絢辻の部屋に入室する。 うん、俺の部屋よりも確実に広い。 これだけ広ければ色んなトレーニングが出来そうだ。

 

「詞ちゃん、詞ちゃん。ん〜、ぐっすり眠っちゃってるみたいね」

 

  部屋を見渡していると縁さんが絢辻の様子を確認していた。 どうやら眠っている様だ。

 

「あ、お夕飯の買い物に行くの忘れてた。ごめんね、ちょっと行ってくるね」

「あ、はい。気をつけて」

「ありがとう。主人くん、ゆっくりしていってね」

 

  そう残すと縁さんは部屋を後にし、階段を降りていった。

  そうなるとこの空間に居るのは俺と絢辻の2人になる訳で。

 

「貴方はいつまで乙女の部屋に居るつもりなのかしら?」

 

  そんな事を考えた瞬間、絢辻の鋭い双眼が俺を捉えていることに気が付いた。

 

「え、うわぁ! ……お、起きてたのか」

「起きてたのじゃなくて、起こされたのよ。全く、静かにして欲しいわ」

「……悪い」

「もういいわよ。あたしの為に来てくれたみたいだし」

 

  絢辻のその言葉にハッとなり、急いで鞄から先程商店街で購入した品々を取り出す。

 

「過労で倒れたって聞いたから風邪の線も考えて、消化の良い疲労回復に効く食べ物を買ってきたんだ」

「気持ちは嬉しいけど、それだけで充分。そんなにも貰えないわ」

「これは俺だけの気持ちじゃなくて、実行委員皆の気持ちだ。だから絢辻は気にしなくていい」

 

  実行委員たちにこの事は話していないが、負担をかけ過ぎたと心配しているという気持ちは本当なので話は通るだろう。 嘘も方便ってな。 あながち嘘八百じゃないのがミソだ。

 

「……そう。ありがとう」

「絢辻にばかり頼っていたからな。それで、体調の方は大丈夫なのか?」

「平気よ、少し熱が出ただけだから。診察も受けて、薬も効いてるし明日には学校に行けると思うわ」

「それなら安心だな、良かったよ」

「……貴方って変な人ね」

「そうか?」

「そうよ」

 

  即答か、参ったな。世の中にはもっと変わった人間も居ると思うんだがな。

 

「ねぇ、主人くん」

「何だ?」

「林檎食べたいから剥いてくれない?」

「はぁ、縁さんから借りといて良かったよ」

「ふふっ、準備が良いのね」

 

  しゃりしゃりと音を立てながら、大名剥きを行っていく。 本当は櫛形に等分してから切っていくつもりだったが、絢辻さんの命となれば断れない。

 

「へぇ、案外器用なのね」

「中学の時、家庭科の授業でやったからな」

「誰でも経験はあるわよ、あたしだって出来るし」

「……さいですか」

 

  林檎を切り分けてからは少し談笑をした。 人間は笑っている時が一番良い状態だと思う。 猫を被っている絢辻の笑顔も好感が持たれるが、雰囲気が変わった絢辻の笑顔も人間味があって良い様に思う。 何て本人に言ったら仕事の量を増やされるのが目に見えているので今は黙っているが、いつかは言ってやろうと思っている。

 

「そろそろ俺は帰ることにするよ、長居して悪かった」

「良いのよ、気にしないで。主人くん、御見舞い、ありがとう」

「ああ、早く良くなると良いな。お大事に」

「……うん」

 

  熱も無く、あれだけの元気があるなら明日には学校に戻って来てくれそうだ。

  家を出ると、丁度縁さんが買い物から戻ってきたところだった。

 

「もう帰るの?もっとゆっくりしていけば良いのに」

「あんまり長居しても詞さんに悪いですし」

「ん、そっか。詞ちゃん起きた?」

「少し会話をして、今は寝るって言ってました」

「具合はどんな感じだって?」

「熱も下がり始めて、林檎も食べてくれました。明日には学校にも来てくれそうです」

「そうなんだ、詞ちゃん全然話してくれなかったから心配だったんだ」

 

  その後、少し会話を交わしてから縁さんと別れることに。 笑顔で手を振ってくれる縁さんと絢辻の性格は対照的で姉妹と言うのは少し信じ難いが、顔の造りがDNAの繋がりをこれ程までにと言わんばかりに証明しているので信じざるを得ない。 以前にも感じたことだが、絢辻と縁さんの仲は複雑そうだ。 力になりたいが、こればっかりはあの2人が自分たちの力で何とかするしか方法は無いのかもしれない。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「主人くん、今日は部活?」

 

  ホームルームが終わり、絢辻がそんな言葉をかけてきた。 さて、こういう時は何かがありそうだがどうしたものか。

 

「もしかして、委員の仕事が詰まってきてるのか?」

「あー、うん。それもあるけど、何とかなるわよ」

「……良いのか?」

「たまには、ね」

 

  委員の仕事でも違うとなると、何の用事があるのだろうか。

 

「で、えっと、何かあるのか?」

「あ、うん。ちょっと話があって」

 

  委員の仕事では無く、話か。 こうして俺の予定を確かめていることからして、何やら大事な話だというのは想像出来る。

 

「解った。遅くなるけど、それでも大丈夫か?」

「作業をしながら時間を潰すわ。だから大丈夫」

「了解。病み上がりなんだし、無理はしないようにな」

 

  復帰してまだ2日目の絢辻に、無理はさせられないからな。

  軽い会話を交わした後、練習着に着替える為に部活へと向かう。 今日は照明の点検がある為、ナイター練習は無い。 その為遅くても6時には絢辻の元に付けるだろうと、予測しながら準備を進めていく。

 

「主人、今日も投げるのか?」

「あぁ、そのつもりだ」

 

  鞄からいつも手に滲ませるために携帯している硬球を取り出し、椎名にその球種の握りを見せる。

 

「夜長さんの勧めなんだ。まだ時間はあるんだし、価値は充分にあるだろ?」

「それをものに出来れば投球の幅も広がるし、俺も組み立てが楽になる」

「そういう事だ。てことで、付き合ってくれ」

「了解主将(キャプテン)

 

  アップを済ませ、全体練習へと移行したところで椎名と共にブルペンへと入る。 夏の大会を勝ち抜くには、もう一つ武器がいる。 それは前々から常々感じていたことだ。 あの敗戦には良い切っ掛けを貰ったと言うことになる。

  が、話はそう上手く進まない。 今月の頭から試し始めているが精度は余り芳しくない。 試合で使えるかとなると、厳しいというのが現状だ。 とは言え、大会までは後半年以上はあるので何とかなるだろうという希望的観測は一応ある。

 

「そろそろ時間だ、上がるぞ」

 

  椎名の言葉に頷き、ゆっくりとマウンドから降りていく。 今日はストレートの調子が良かった。 新しい球種を試し始めてから良い感じにスピンをかけることが出来ている様な気がする。

 

「今日はここまで。皆、お疲れ様」

 

  夜長さんのノックが終わったことにより、今日の部活が終了となる。 絢辻を待たせている事だし、急いで教室に向かわないとな。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  いつもより早く着替えを済ませ、戸締りは椎名に任せて教室に向かって足を走らせる。

  教室の灯りが、絢辻が居ることを教えてくれる。

 

「はぁはぁ……待たせて悪い」

「そんなに急がなくて良かったのに」

「待たせてるんだから、急ぐさ」

「ふふっ、それじゃあ帰りましょうか」

 

  校舎を出て、歩みを進めていくとある場所に着いた。

 

「……遠前神社?」

「ええ。ここは普段から人が少ないし、話しやすいでしょ?」

 

  納得の行く答えだ。 ここなら他人に話を訊かれるということも無くなる。

 

「ほら、あそこの縁側に座りましょう」

「良いのか? 座っても」

「バレなきゃ大丈夫よ」

「……おいおい」

 

 腰も落ち着けたことだし、そろそろ本題の方を話してもらわないとな。

 

「それで、話って?」

「主人くん、貴方をあたしのモノにします」

「はぁ? 突拍子過ぎにも程があるだろ」

「そっか、それもそうね。率直に訊くわ。あたしの事、どう思ってる?」

「……それはどういう意味だ?」

「あたしね、仮面を付けることに飽きたの。--貴方の存在のお陰でね」

 

 全く話が見えない。 仮面を付けることに飽きたと言ったのが、どういう意味なのだろうか。

 

「意味が解らないって顔ね」

「ああ、面目ないがその通りだ」

「そうね……どう言えば上手く伝えられるか解らないんだけど……」

 

  顎に手を当てて、数秒黙り込んだ後に絢辻が再び口を開く。

 

「貴方とあたしの価値観はまるで違う。一言で言えば、気になるの。貴方の考えが」

 

「あの手帳の中身を見れば、必要以上に干渉したくない筈。それでも貴方のあたしに対する接し方のスタンスは変わらないまま」

 

「あたしにとって、それは不思議だったの。貴方と作業をしてきた日々は、楽しかったものだと言い切れる。そう思えることが嬉しかった」

 

「それで良かったの……そこに不安を覚えるまでは」

 

  声が小さくなり、絢辻の表情に影が生まれた。

 

「どういう不安なんだ?」

「……貴方が、主人くんがいなくなる可能性」

「……俺?」

「そう。いつまで一緒に居られるのか」

 

「あたしは今の生活を失いたくない。例え話にしてもそう思うと怖いの」

 

「でも、だからといって、ずっと側にいて欲しいだなんてあたしには言えない」

 

「あたしと貴方の間には何も無いから」

 

  何も無いと言えば、証明出来るものはないのかもしれない。 思い出は、形では表すことが出来ないから。

 

「だから、あたしをあげる」

「……あたしをあげる?」

 

  思わず訊き返してしまったが、それほど驚いたのだ。 これくらいは許してもらいたい。

 

「分かるでしょ?」

「何となく……絢辻の言いたいことは分かるけど……本当に言っているのか?」

「ええ、その代わり……今、主人くんがいる日常をあたしに頂戴」

 

 こんな時、他の男ならば何と答えるのだろうか。 恋愛が苦手で、臆病者な俺にはきつい問題だ。 顔が熱を帯びているのがはっきりと解る。 それくらいに、今の俺は動揺しているのだろう。

 

「それに、これには理由もあるの」

「理由?」

「貴方は優しい。困っている人を見逃せないそんな性格。だからこそ、その在り方が危なっかしいのよ」

「……独りで抱え込むってことか」

「その事に、気付けるのは世界広しといえあたししか居ないわ」

「絢辻……」

「だから、今までより近い場所で主人くんを見てあげなくちゃって思ったの」

 

  言葉が、出てこなかった。

 

「……納得して貰えた?」

「ああ、充分に」

「……本当に良いの?」

「勿論」

「……そう」

 

  ゆっくりと絢辻の顔がこちらへと近付いてくる。 視線は外さない。

 

「どうしたら良いのか、分からないからあたしのやり方でするわよ?」

「任せるさ」

「……覚悟、出来てるのよね?」

「ああ」

「……ありがとう、主人くん」

 

  数秒。 時間にしてたった数秒のそれは、とても濃く、時が止まったかの様に感じた。

 

「ふふっ、契約成立ね」

 

  契約か。 絢辻らしいと言えば、それらしいが。 もう少し他に言い方は無かったのだろうか。

 

「……あたしはかなり緊張したのに、貴方は余裕そうね?」

「そんな事ないさ。意地で耐えてるだけだ」

「何それ」

 

  軽く笑い合ったところで立ち上がる。 街はもう夜に包まれていた。

 

「そろそろ、帰るか」

「ええ、エスコートよろしくね?」

「ああ、任せとけ」

 

  絢辻と契約。

  つまりは、そういうことなんだろう。

  だがこれはあくまでも利害関係。

  純一の様に気持ちをストレートに伝える事が出来れば、話は変わってくるのだろうが生憎俺自身もまだ自分の気持ちをはっきりと理解出来ていない。 俺も男な訳で、そういう事について興味が無いと言ったら嘘になるが、恋愛事が苦手な俺に踏み込むのはまだキツい。 こういうところがヘタレと薫に言われる所以何だろうなと思うと悲しくなった。 ただ距離が近くなったというのも事実だろうと思う。

 

「ちょっと、話聞いてるの?」

「ああ、聞いているよ」

 

  明日からの日常は、さらに濃いものになりそうだ。

 

 

 

 




受験等諸々があり、かなり時間が空いてしまいました。
今回の話にて、絢辻さんと主人は契約を交わした訳ですが、俗に言う関係と言えば友達以上恋人未満と言ったところだと思います。
そう言った部分も、これから書けるように成りたいと思っています。
閲覧、ありがとうございました。


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12月-①




 

「いくらあたしでも、こうも同じ作業を同じところで続けていると飽きてくるわね」

 

  そう零す絢辻が行っている作業は、創設祭の際に使用するとされている用具類の確認だ。 主に各クラスや部活動に所属している生徒が使用するものがその書類の大半を占めている。

 

「じゃあ、場所を変えてやってみるか? 気分もだいぶ変わると思うぞ」

「どこか当てがあるのかしら?」

「あぁ、良い所がな」

 

  主人の言葉に絢辻は興味を示す。

  この退屈な現状が変わるかもしれないという期待が胸の中に生まれた。

 

「どこに向かうつもり?」

「それは着いてからのお楽しみってことで」

 

  飄々としている主人に対し、やや顰め面を浮かべる絢辻の顔は対照的だ。 自分だけ置いてけぼりにされているのが気に食わないのだ。

 

「どうかしたのか?」

「……別に。早く行きましょう」

「そんなに慌てなくても逃げやしないって」

 

  教室の戸締りを終えてから会議室に向かうことに。

 

「今日は先に帰るから、皆も無理しないでね」

「はい、お疲れ様です」

 

  会議室で作業を行っていた創設祭実行委員の面々に先に帰るという事を伝えて、目的地へと歩みを進める。

 

「ねぇ、どこに向かってるの?」

「着いてからのお楽しみさ」

「ヒント」

「んー……絢辻なら気に入ってくれると思う場所だな」

 

  雑談を交えながらその場所を目指すこと、凡そ15分。 二人の姿は主人の目的地にあった。

 

「喫茶……店?」

「何で首を傾げてるんだ?」

「珈琲も飲めない貴方がここに来る姿なんて、想像もつかないからよ」

 

 主人が先程言った『気に入ってくれると思う場所』について、絢辻は話を交わしながら真剣に考えていた。 幾つか上がった候補の中に喫茶店は存在したが、珈琲を飲めない主人では違和感が大きすぎた。 従ってすぐ様候補から外していたのだが、まさかまさかな結果だ。 今のご時世、喫茶店のメニューは珈琲だけと言う訳なく、豊富なサイドメニューを売りにしているところもあるという。

 

「いらっしゃいませ、ご主人様♡」

「……主人くん、貴方まさか」

 

  主人が扉を開けると、店内から現れたのは黒と白を基調としたエプロンを纏った金髪の女性。 レースのついた白いカチューシャ、エプロンの下部にフリルをつけたそれはまさにメイド服その物だった。 本人の容姿に加え、仕草も相まって存在感をこの上無く強くしている。

 

「待て絢辻! 誤解だ誤解! これは准さんの趣味なんだ! だからその目は止めてくれ!」

「公くん、血圧が上がると身体に悪いよ?」

「誰のせいですか!」

 

  目の前で突如繰り広げられたコントに、流石の絢辻もどう反応したら良いのか分からなかった。

 

「まぁふざけるのもこの位にしておいて、ささ二人とも入って」

 

  金髪メイドの言葉に従い、主人と絢辻の二人は喫茶店「さんさっと」の店内へ入店する。

 

  ――――落ち着いた雰囲気。それに珈琲の香りも良いわね。

 

  珈琲独特の深みのある香りが絢辻の鼻腔を擽り、来店を向かい入れる。 顔には出さないようにしているが、好みにぴったり当てはまるそんな店だと感じていた。

 

「久しぶりだね公くん。可愛い女の子なんて連れちゃって、今日はどうしたのかな?」

「お久しぶりです。今日は創設祭の資料の纏めにここを使わせて貰おうと思って」

「成程ね〜、それならあの窓際の席を使うと良いよ。机も大きいし、作業も進めやすいんじゃないかな?」

「ありがとうございます。あ、准さん紹介します。彼女は絢辻詞、創設祭の実行委員長です」

「紹介に与った絢辻詞です。よろしくお願いします」

「うっわ、すっごい良い子。私は夏目准。気軽に呼んでね詞ちゃん」

「はい、分かりました夏目さん」

 

  絢辻と准の自己紹介が終わると、何やら怪しい笑みを浮かべた准が主人の体を引き寄せ耳元で小さく囁いた。

 

「それで詞ちゃんは公くんの彼女なの?」

「ち、違いますよ!」

「ん?」

 

  笑顔の准、顔の赤い主人、困り顔の絢辻という異なった三つの表情がこの場に生まれた。

 

「こんにちは維織さん」

 

  先程准に紹介された席に向かう途中、入店時から絢辻の目を引いていた人物に主人が声をかけた。

 

「……来てたんだ。今日は部活休み?」

「はい。なんで今日は創設祭の資料を纏めるためにここに」

「そう。後ろにいるその子は?」

「ああ、同じクラスの絢辻です。実行委員長を務めてるんですよ」

「初めまして、絢辻詞です」

 

  准の時同様に、名を言った後作法通りの礼を行い絢辻は自らの紹介を済ませる。

 

「私は野崎維織。公くんと仲良くしてくれてありがとう絢辻さん」

「詞で大丈夫ですよ」

「分かった、詞ちゃん」

「じゃあ維織さん、また」

「……うん、またね」

 

  会話を終えて、窓際に設けられている席のうちの一つに座る。 普段ここは維織のお気に入りの場所なので、他の客が座る事はまず無いのだがどういう風の吹き回しだろうか。

 

「ねぇ」

 

  時間は有限、と主人が鞄から資料を取り出していると絢辻が口を開く。

 

「あれはどういう事?」

「どういう事って、どういう事だ?」

「だから、どうして“NOZAKIグローバルシステム”のご令嬢がこんな所に居るのよ? そもそも何故貴方は知り合いなの? 納得がいかないことばかりだわ」

 

  主人に対し、矢継ぎ早に質問を浴びせる絢辻。 これは至極当然な光景だろう。 世界中に支社を持つ超有名な大企業のご令嬢であり、才能に恵まれた存在が自分の住む町に住んでおり、尚且つ自分の知人と密な関係がある。 これを訊かずまいとして、何を訊くのかという話だ。

 

「そうは言っても、それはこの町に住んでるからだろ?」

 

  返ってきた答えは何の変哲もないもの。

  主人にとっては、野崎維織がどんな人物等関係無い。 知り合うべくして、知り合った。 そう思っている。

 

「はぁ……そう、もう良いわ。何か頼みましょう」

「そうだな、どれに――――」

「お待たせしました、ご主人様♡」

 

  主人がメニューに手を伸ばし、開こうとするのと同時に准が登場する。 それも、飛びっきりの営業スマイルを浮かべて。

 

「当店の店主世納自慢の珈琲に、これまた自慢のタマゴサンドのセットです。ごゆっくりどうぞ」

「准さん、まだ何も頼んでないんですけど?」

「これは維織さんから。もうお代も貰ってるし、後でお礼言っておいてね」

「あー、そっか。はい、分かりました」

 

  お伺いしまーす、と笑顔で接客に戻って行った准を見送ると、早速とばかりに主人はオレンジジュースに手を伸ばす。 その様子を絢辻は不思議そうに見つめる。

 

「珈琲好きじゃ無かったのか?」

「好きだけど、その、初対面の方に奢ってもらっても良いのかなって」

「あー、そういう事か」

 

  半分程飲んだオレンジジュースを机に置き、主人が口を開く。

 

「維織さんは普段からある人の面倒を見ているんだ。だからと言って、感謝もせずにそれを受け取るのは失礼だし、話は変わってくるけど、金を返すと言うのもまた違った話になってくる」

「どういう事?」

「あの人――――維織さんは超が付く程の頑固なんだ。めんどくさい星人のせいなのか、一つ考えを決めるとてこを使っても動かない。だからここで絢辻が代金を支払っても、准さんは受け取らないし、維織さんの機嫌は悪くなる」

「……あたしたちが出来ることは、ありがたくいただく事ね」

「そういう事だ。流石に回転が早いな」

「ここまで説明されて、流石も何も無いわよ」

 

  自然と会話が終わり、作業が開始される。

  店内で流れているクラシックをBGMに、各自ペンを走らせ資料を整理していく。

  30分程して、予定していた量を達成することが出来た。 当初の想定時刻よりもかなり速い。

 

「あら、もう終わったの?」

「あぁ、今日はいつもより集中出来た」

 

  そう言うと主人は腕を大きく伸ばし、固まった体をほぐす。 絢辻にとっては、見慣れた光景だ。 良い捗り具合だと、絢辻は笑顔を浮かべる。

 

「ふふっ、たまにはこういう所も悪くないわね」

「だろ! 良いところなんだよな〜」

「同意見ね……少し個性的な人が多いみたいだけど」

 

  絢辻の視線の先には、見るからに怪しい二人組に捕まっている准の姿があった。

 

「ボ〜ク、ピエロ〜。そろそろ、ボ〜クと付き合〜って欲しいな〜」

「キィィボォォォドォォォォ! 准さん! 今日こそ、僕だけの女神になって下さい!」

 

  遠前町で今年からサーカス活動をしているサーカス団員のピエロに、ネット上にある電脳空間と現実の区別がやや付いていないと言われている電子炎斬。 この二人が怪しい二人組の正体だ。

 

「……あの二人はカウントしないでくれ。根は良い人なんだけどな」

「……夏目さんも大変ね」

「違いないな」

 

  こうして楽しい時間が過ぎていく。

  店内が盛り上がりを見せる中、一人の少女がふと「さんせっと」の側を通りかかった。

 

  ――――今のってもしかして、主人くん? 誰かと話してるみたいだけど、対面に居るのは……っ、絢辻詞!

 

  この時、彼等はまだ知らなかった。

 

  これから起こる、二人にとって果てしなく迷惑なサプライズの存在を。

 

 

 

  二人が喫茶店を去ってからの事。 准が閉店作業の為に店内の清掃を行っていると、維織の口が動いた。

 

「絢辻、詞ちゃんか」

「維織さん、詞ちゃんのこと知ってるの?」

「ううん、今日初めて会った。でも、あの子のお父さん(・・・・)なら知ってる」

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  後日の昼休み。二人の姿は中庭にあった。

 

「食べないの?」

「いや、絢辻が俺の為に弁当を作ってきてくれたと言うのが信じられなくてな……」

「あっそ。嫌なら良いのよ、食べなくて」

「いやいや! 食べる! 食べますから!」

 

  非常に珍しい光景だが、これには背景が存在する。

  昨日訪れた喫茶店「さんさっと」を絢辻が気に入り、店の紹介料として弁当を馳走しているのだ。

 

「いきなりだけど、良い?」

「ダメっつっても話すだろ?」

「へぇ、そんなこと言うんだ」

 

  主人が箸を口に運んだ瞬間を見計らい、素早く弁当箱の中から唐揚げを一つ取り上げる。

 

「あ、おい! 唐揚げは楽しみにしてたんだぞ!」

「あら? これを作ったのは誰だったかしら?」

「ぐっ……痛いところを」

「それで、話を聞く気になったかしら?」

「はい……なりました」

「よろしい」

 

  若干涙目の主人を無視して、絢辻は話を切り出す。

 

「創設祭までもう1ヶ月を切ってるじゃない? 残り少ない時間でどうするか考えてみたんだけど、良い案が浮かばなくて。ねぇ、何か無い?」

 

  12月に入ったこともあり、創設祭までは後約3週間程。 使用品の確認は終わっており、数も足りていることが分かっているがどうも制作作業の進行具合が芳しくない。 絢辻の見立てではもう少し進んでいる予定だったが、見通しが甘かったのだろうか。

 

「まぁ一番確実なのは人数を増やすことだな。今のままだと、ぶっちゃけ一人一人の負担を増やさない限り厳しいものがある」

「それはダメ。今更手伝って下さいなんて、あたしのプライドが許さないわ」

「絢辻のプライドはだろ? 俺が皆に声をかけるさ。これで仮に大勢が手伝ってくれたとしよう。それを統率するのは勿論絢辻だ。結果は上手く行きました。さて絢辻の評価はどうなる?」

「……上がるわね」

「だろ? まずは今日のホームルームで皆に声をかけよう。話はそれからだ」

「ふふっ、お願いね」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「皆、話があるんだ。聞いて欲しい」

 

  ホームルームが始まった。

  この時間は主人と絢辻の二人にとっては勝負の時間となる。 今から行う呼び掛けである程度の人数を確保出来なければ、最悪の場合計画は頓挫してしまう可能性が出てくる。

 

「――――という理由だ。どうか皆の力を貸して欲しい」

「僕手伝うよ」

「大将がやるのに俺らがやらないのはダメだよな?」

「そうね、アタシもやるわ! それと恵子も!」

「えぇ!? もう、手伝うけどさぁ……」

 

  初めに挙手をした橘に続いて梅原、棚町が了承の声を上げ、田中も渋々といった様子だが受け入れる。 それを聞いた周りの生徒からも手が上がり始め、無事にクラス全員からの承諾を得ることにした。

 

「とりあえず今日残ってくれたのはこのメンバーか。皆、ありがとう。早速になるけど、始めていこうか」

 

  人数を分担し、今日の作業目標を立てて資材を教室へと運び込む。

 

「梅と純一はこれを頼む。薫と田中はそれだな。完成図をここに置いておくから、申し訳無いが各自で頑張って欲しいんだ」

「どうかしたのか?」

「集まって貰っておいてあれだが、今から定例会議なんだ。30分もすれば戻れるから、梅に純一。この場を任せてもいいか?」

「合点承知之助!」

「うん、頑張るよ」

 

  主人が教室を去ってから30分が過ぎた頃、女子グループの一人田口弥生が手を止めた。 それに伴い山崎、磯前の二人も作業を中断する。

 

「あーあ、もうやってらんない」

「ホント。何でアタシ達がこんな事しなきゃいけないの」

「あの二人実行委員なのに」

「二人でイチャイチャするのに忙しいんだよ、きっと」

 

  負の連鎖というものは、簡単に続いてしまうものだ。 一人が止めると、また一人二人と連鎖的に作業の手を止め、口ばかりが動く。

  そして先程、この女子グループの主格である田口が言い放った一言により教室の空気が凍り付く。

 

「アタシ達見ちゃったんだよね。絢辻さんが、主人くんと二人でお弁当を食べてるところ」

「それは本当か田口!? かぁ、主人はこっちの味方だと思っていたが、それも今日限りだぜ!」

「全く、何言ってんのアンタは」

「梅原落ち着けよ……」

 

  教室は静まり返り、重い空気が漂う。

  そんな状況の教室に、最悪のタイミングで主人は戻って来てしまった。 しかも、絢辻も一緒にだ。

 

「悪い、遅くなった……って、やけに静かだな」

「何か問題でもあった?」

 

  ――――大アリだよ! 気付いて!

 

  絢辻の言葉に答えるように橘は視線を主人へと送り、この空気を作り出した張本人である田口の存在を気付かせようと奮闘する。

 果たしてそれは叶った。 橘の様子に違和感を感じた二人は直ぐに視線を田口へと向けた。

 

「クリスマスツリーが中止になるって聞いたけど、本当?」

 

  田口のこの発言に教室がざわめきを覚える。

  主人にしろ、絢辻にしろこの発言には驚いている。 そんな話は高橋教諭から聞いていないからだ。

 

「去年より派手な創設祭の計画を立てて、それが上手く行きそうにないからって今更皆を手伝わせるなんてどういうつもり? 成功したら実行委員長として絢辻さんの手柄にでもするつもりかしら? 随分と都合が良い話ね」

「別にそんなつもりは……」

「スケジュールが遅れてるのは誰かさんが男子とイチャイチャしてるからでしょ? アタシ聞いたよ、いつも二人っきりで仕事してるって。彼氏彼女みたいにさ」

「それは主人くんが、私の仕事の補佐をしてくれているから。別に仕事以外の事をしている訳じゃないわ」

「そんなの信用出来ないよ」

 

  完全に拗らせている、と主人は心の中で深く溜息をついた。

 

「ちょっと! アンタたちね!」

「棚町さんは黙ってて!」

 

  今日の田口はいつにも増して機嫌が悪い。 “輝日東の核弾頭”という渾名を持つ然しもの棚町もその気迫の前に思わず黙り込んでしまう。

 

「おい田口。お前な――――」

「主人くん、貴方も今は黙ってて。アタシが話をしているのは絢辻さんよ。で、どうなの絢辻さん?」

「あれ? もしかして泣かせちゃった?」

 

  絢辻を嘲笑うかのように高い声で笑い出す女子グループを前に、絢辻の雰囲気がガラリと変わった。 表情は笑顔が張り付いているが、どこか好戦的なモノを感じる。 つまり、キレていた。

 

「――――はぁ、バカバカしい。貴女たちの言っていることは創設祭に関係の無い事ばかりじゃない。何それ、もしかして嫉妬?」

「……っ!」

 

  雰囲気をガラリと変えた絢辻の迫力は凄まじいものであり、現に主人を除いた教室にいる生徒は皆今の絢辻に恐れ慄いていた。

 

「ツリーの話は正直気掛かりだけど、スケジュールの方は去年と比べても充分に間に合うペースなの。皆に手伝ってもらうのは、それを確実にするため(・・・・・・・・・・)

 

  トントンと、田口のネクタイをつつきながら挑発的な笑みは絶やさない。

 

「さっき信用出来ないって言ってたけど、それなら資料を見てみる? 幾らでも見せてあげるわ。居るのよねぇ、貴女たちみたいに根も葉もない噂を鵜呑みにして文句ばかり言う人」

 

  尚も絢辻の攻撃は止まらない。

  こうなってしまった以上、全て吐き出させるのが最善の方法だろうと主人は再び、先程とは違い実際に息を吐き出して溜息をつく。 頭を悩ませる主人とは違い、棚町はどこか嬉しそうに笑顔を浮かべている。

 

「何にも出来ない癖に他人を見下して優越感に浸るなんてくだらないわねぇ。言い返したいならどうぞ、でも貴女たちに出来るかしら? 何をやってきたの? あたしに勝ってる部分があるかしら? さぁ、何か言いたいことがあったら――――」

「もう良い、止めろ絢辻。それ以上言っても自分を貶めるだけだ」

「でも――――」

「でもじゃない。良いから落ち着け。田口たちもだ。絢辻の言った通り、ペースは充分間に合う。それでも保険をかけて、皆に手伝って貰える様に声をかけているんだ。俺たちも言葉が足りなかった、悪かったな」

「……っ、帰るわ」

 

  主人が絢辻を抑えたお陰で、この場はひとまず落ち着いたが田口を含めた三人は教室から去ってしまった。 暫くの間教室を静寂に包まれるが、ここで梅原がムードメーカーたる所以を発揮する。

 

「ほら大将、腕が止まってるぜ?」

「あ、ああ、そうだな。公、進めようよ」

「そうだな――――絢辻」

「……そうね、動かないのは勿体無いわ。皆、騒がしくしてごめんなさい。作業の方、お願いします」

 

  会話が生まれた事によって、沈んでいた空気も元に戻り和やかなものへと変わる。

  そんな雰囲気にあたり、絢辻の様子も普段の落ち着きを取り戻した。

 

「また、貴方に助けられたわね」

「助けるも何も、初めから無いさ」

 

  飾り付けの道具を作りながら、飄々とした様子で主人はそう答える。 発した言葉通り、先程の件は絢辻が自ら解決した様なものだ。 主人はあくまでフォローを行ったに過ぎない。

 

しかし絢辻からしてみれば、そんなことは関係無い。 知ったことではないのだ。

 

「主人くん、話があるんだけど――――」

 

 

 

 




思いの外長くなってしまったので、思い切ってここで区切る事に。
「さんせっと」の外から中を見ていたのは、一体何沢さんなんだ…

パワポケキャラである准や維織の髪色ですが、原作通り金髪と緑髪となっています。 パワポケは割と髪色がアイデンティティになっている気がするので、この世界でもそれをデフォルトにしたいと思います。

閲覧、ありがとうございました。
感想、批評等お待ちしております。


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12月-②

  遠前神社。

 

  山の中腹に本堂を構え、長い石段を登っていって漸く姿を現す場所だ。

  少し前にも二人はここを訪れており、相変わらず寂れてるわね……と、絢辻がそう零した。

 

「ここに来たってことは、大事な話があるんだろ?」

「今日は察しが良いのね」

 

  主人は辺りを見渡しながら、いつもと変わらない様子でそんな言葉を絢辻へと投げかける。 そんな主人の様子に、軽く笑いながら絢辻は振り返り主人の目を見て言葉を発する。

 

「ここは、スタート地点。箱の中の猫の正体を、貴方が知った場所」

「絢辻がドジったお陰でな」

「……煩いわね。ねぇ、これ覚えてる?」

「絢辻の手帳だろ?」

 

  鞄から手帳を取り出し、互いに良く見えるように掲示する。 二人にとって、この手帳は大きな鍵だ。 この手帳によって今の関係は形成されている。 加えて大きな衝撃を与えられた主人にとって、それを忘れるということは出来るはずも無かった。

 

「もう、あたしには必要無いと思うの」

 

「前に進むには、邪魔なのよ」

 

  絢辻はそう言葉を紡ぐとおもむろに、コートの外ポケットからライターを取り出し手帳に火を付けた。

 

「……良いのか?」

「うん。こんなものよりもっと大切なことがあるって、分かってきたから。こうした方が、言葉よりもシンプルだし」

「……そうか」

「あたしの言いたいこと、貴方にはまだ全て解らないと思う。でもきっと、貴方なら解ってくれる筈。あたしの事をもっと知ってくれた時にね」

「絢辻がそう言うなら、俺はその時を待つさ」

「うん。だから、覚えておいて。“ここがあたしの出発点”って事を」

「……ああ、分かったよ」

 

  手帳を燃やしたというのは、絢辻なりの覚悟の表明なのだろう。

  その覚悟を前にして、“はいそうですか”と流す程主人の性格は淡白では無かった。

 

「さて荼毘も済んだ事だし、後始末をしましょうか」

「ちゃんとそこも考えてたんだな」

「当然の事よ。火事を起こすなんて、洒落にならないわ」

「違いない」

 

  その後二人で手洗い場に向かい、備え付けてあった柄杓と木桶を用いて火の始末を行ったが、その作業を主人一人で行うことになったのは想像に容易いことだろう。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

  一夜が過ぎた次の日。

  今日の体育も男女が合同で行われるという事もあり、梅原たちのテンションは高くなっていた。

 

「共学の良いところはここだよなぁ!」

「お、おい、梅原……」

「ボスもそう思うだろ?」

「まぁ、うん。思わなくは無いな」

「ダメだこりゃ……」

 

  A組は兎も角、B組から向けられる視線に純一は頭を抱えていた。

 

「とは言え、合同と言っても俺たちは校庭で持久走で女子はドッジボールだ。梅が期待してる様なことは無いさ」

「それを言うな……! 全く、“ゴリ”の野郎手抜きしやがって。足を捻挫して見学してるマサに、測定を任せて自分はふけるとはな。教師の風上にも置けねぇやつだ」

 

  デスクワークに追われ、今日の授業に出席していない教師に対して梅原が毒を吐く。 その教師は見るからに体育会系の人種であり、上背もある筋肉隆々のその姿がゴリラの様だと言うことから“ゴリ”という、本人からしても決して嬉しくない渾名を付けられている。

 

  閑話休題(それはさておき)

 

  準備体操も終わり、持久走が始まった。 いつもはゴリが測定している為、野球で培ってきたスタミナを発揮し上位グループで走り切るが、この日はゴリが居ないという事もあり、橘や梅原たちのペースに合わせて主人も走っていた。

 

  校庭のトラックを走り始めて3周目。

  主人は視界に写った光景に違和感を覚えた。

 

「……内野が一人って、そんなに戦力差があるのか?」

「……気が付いたか」

「梅は気付いてたのか?」

「まぁな、とは言ってもついさっきだけどさ。最初から絢辻さん独りだけっぽいぜ」

「……っ、そういう事か!」

 

  梅原の指摘を受けて、主人は事を理解した。

  思えば今日の昼食の時、絢辻は一人で食事を取っていた。 つまりは、そういう事なのだろう。

 

「――――梅、純一。悪い、先に行く」

「合点! 頑張ってな!」

「……無理はダメだからな」

「解ってるさ!」

 

  主人のギアが上がり徐々にペースが早まって行く中で、女子によって行われているドッジボールにも動きが生まれていた。

 

「ほらほら、どうしたの? もうへばっちゃった?」

 

  15人対1人――――多勢対無勢と言う試合は絢辻にとって余りにも部が悪く、現に息は上がり始めていた。 しかしその様な状況でも――――絢辻の眼は決して下を向く事はなく、闘志は高まり続けていた。

 

「まだやる気充分と言った様子ね。棚町さん、やっちゃって!」

 

  外野からのボールを受け取った棚町に対し、チームを束ねる田口は当てるように声を掛ける。 棚町の運動神経は絢辻に負けずとも劣らないものがある。

  その棚町がボールを持ったことで絢辻は身構えるが、直ぐにそれは解かれることになった。

 

「アタシ止めた。このチームつまんないもん」

「え?」

「てことで、アタシこっちのチームに入るね」

「ちょっと! 棚町さん!」

 

  計算外だ、とばかりに田口の顔に動揺が現れる。 絢辻を独りにして、昨日のお返しとばかりにいたぶるを事を考えていたからだ。

 

「そんなに慌てちゃってどうしたの? もしかして、アタシが居ないと絢辻さん一人に勝てないとか?」

「そ、そんな事ないわよ!」

「ほら恵子! アンタもこっち来なさい! 良いよね? 絢辻さん」

「……ありがとう棚町さん、田中さん」

「いいのいいの、さぁ試合はここからよ!」

 

  棚町、田中の二人の加入はとても大きい。

  田口らは執拗に絢辻を狙い続けるが、そうはさせまいと棚町、田中の二人が立ち塞がる。

 

 とはいえ、数に大きなある事には変わりない。 圧倒的なまでのビハインドを背負った絢辻たちは、着実に溜まっている疲労に苦しめられていた。

 

「ご、ごめん……! 当たっちゃった」

 

  早々に離脱してしまった田中に続き、活躍を見せていた棚町も遂にやられてしまった。 絢辻がここまで残れているのは間違いなく棚町の助力があったからだ。 だからこそ、彼女のここでの離脱は大きかった。

 

  ――――疲れが足に溜まってきてる。まともに動けるのも後数回か。

 

  追い込まれても、持ち前の分析力は失わない。 体に熱は灯るが、頭の中は常に冷静を保っている。 自分の体のことは、自分が一番分かっていた。

 

「もう、いい加減に、しなさいよっ!」

 

  中々当たらない絢辻に対して、痺れを切らせた田口は自らそのボールを投じた。

 

  ――――っ! 不味い、足が……

 

  投じられる瞬間に、コースを読みその場から離れようとするが地面に足を取られ、滑らせてしまう。

 

  万事休す。

 

  覚悟を決め、捕球体制に入ろうとしたその時――――見慣れた背中が目の前に現れボールを受け止めた。

 

「ぬ、主人くん……」

「ちょ、ちょっと主人くん! どうして男子の貴方が女子の授業に混ざるのよ!」

 

  それは本来、ここに居る筈のない主人の姿。

  田口が捲し立てるのも無理のない話。 本来であるならこの様な行為は厳重注意処分を受けることになるだろう。 しかし、今はそれを判断する体育教員がこの場に居ない。 それを踏まえた上での田口らの今回の行動だったが、主人がこの様な形で絢辻のフォローに入る事など考えもしなかった。 いや、考える事は誰であっても不可能だっただろう。

 

「ちょっと通りかかったら、ボールが目の前に飛んできたから反射的に受け止めただけだ」

「ふふっ、歩く時は周りを良く見た方が良いわよ。勿論、走る時もね」

「これから気を付けるさ」

 

  主人と絢辻の二人が会話を交わしていると、梅原と橘の二人もその場に合流する。

 

「公! さっきのタイム学校新記録らしいぜ!」

「ハァ……ハァ……相変わらず、公の体力は凄いな」

「格好良い! 格好良いよ公!」

「そりゃどうも。さてと、課題も終わって暇だし俺たちも交ぜて貰おうか」

 

  主人らの参戦により、絢辻陣内に活気が生まれ始めた。

 

「……くっ! そんなにしたいならアンタたちだけでやればいいじゃない!」

 

  男子生徒の参戦により、完全に勝ち目の無くなった田口たちは早々に切り上げその場から去っていった。 棚町は一人詰まらないといった様子だが、主人らはひとまず緊張を解いた。

 

「流石にこの面子に対して、バカはしないみたいだな」

「野球部が居るってだけで、女子からすれば難攻不落みたいなもんだからね。純一、アンタも公を見習いなさい!」

「う、煩いな薫!」

 

  相変わらずの夫婦漫才に場の空気も和やかなものになる。

 

「ありがとう主人くん」

「これくらい大したことないさ」

「ふふっ、大した自信だこと」

「事実を言ったまでだ」

 

  実行委員二人の仲が、また1つ深まった。

 

「香苗ちゃん、A組の人たち」

「うん、落ち着いたみたいだね」

 

  隣接されたコートで試合を行っていたB組の伊藤香苗も、事が収束したことに安堵を覚える。 クラスは違えど、仲が良いことに越したことは無いからだ。

 

「香苗ちゃん、誰か見てるの?」

「み、見てなんか無いわよ! ほ、ほら桜井も投げて投げて!」

「んー、私苦手なんだよね〜」

 

  珍しい桜井の感性に、柄にも無く狼狽する伊藤。 この時見ていた人物が誰であるか、桜井は何れ知ることになるがそれは先の話。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  悪い知らせはいつだって唐突に訪れる。

 

「ごめんなさいね、主人くんは部活があるのに」

「いやそれは構わないんですけど……」

 

  ホームルームの終了後、創設祭の担当である高橋から呼び出された絢辻と主人の二人は手渡された一枚の書類に目を通していた。

 

「これは、どういう事ですか?」

 

  大きく書かれた『クリスマスツリーの設置について』と言う文字に対し、絢辻が疑問を投げ掛ける。

 

「……この間、1年生が怪我をしたでしょ? あれが問題になってるみたいで……設置は市の方で行うらしいの」

 

  1年生の怪我……と、主人は思考を巡らせる。 怪我が起こったのはつい最近。 主人と絢辻が学校での作業を早く切り上げ、喫茶店「さんせっと」にて談笑しながら資料を纏めていた日だ。

  その1年生と翌日に対話をしたが、軽い捻挫という事もありすっかり頭の片隅に追いやってしまっていた。

 

「こう言っちゃあれですけど、市が動く程の怪我じゃないと思うんですけどね」

「ごめんなさい主人くん。決定事項らしいの……対応はおって連絡するわね」

 

  高橋が職員会議の為、その場から去って行く。 こうして会議室は二人だけとなり、空気には重いものが残る。

 

「あの三人が、ツリーが中止になると言っていたのはこういう理由(わけ)ね」

 

  絢辻の言葉にはっとなる主人。

  思えば昨日の放課後に、田口がその様な事を口にしていた。

 

「ということは――――」

「ええ。これは誰かが意図的に仕組んだってことよ」

 

  高橋の様子からして、1年生の怪我の事はあの資料を見てから知ったのだろう。 担当の教師でさえ知らない様な小さな事件を建前に行動出来るとするならば、この騒動の犯人は凡そ推測できる。

 

「……動くのか?」

「皆頑張ってくれているのに、こんなことは絶対に許されないわ。――――直接叩く」

「はぁ……止めても行くんだろ。だから止めはしない」

「そう……ありがとう主人くん」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「ねぇ主人くん。あたしとデート(・・・)しない?」

「……すまん、良く聴こえなかった」

「デートしましょう、ホ・テ・ル・ま・でっ」

「…………」

 

  赤らんでいる空と日に照らされて主人の頬色は隠されているが、一度点った熱は中々引いてはくれない。 この時主人にとって幸いだったのは、窓から射し込んでくる夕焼けの光が、顔を照らしていたことだろう。 そうでなければ今頃絢辻にその紅潮具合を弄られていただろうから。

 

「あれ? どうかしたの?」

「……それって、本気で言ってるのか?」

「あたしが嘘をつくとでも?」

「そうは思わないけど……あんまり手持ちが無くてだな」

「大丈夫大丈夫。ほら、さっさと行きましょう。モタモタしてると遅くなっちゃう」

「あ、バカ! 引っ張るなって! 心の準備がだな!」

 

  こうして本来ならば力関係は反対であろうという、女子高校生に引っ張り回される男子高校生という図が出来上がった。

  辺りに人が居なかったことが幸いし、主人の精神がより一層深く傷つく事はなかったが。

 

「ふふっ、それにしても貴方は本当に面白い反応をするわね」

「……絢辻の人が悪いからだろ? 初めからツリーの件で市の関係者との話し合いって言ってくれれば良かったのにさ」

「でもそれじゃあ主人くんの面白い反応が見られないでしょ? 一体、何を想像してたのかしら?」

「……煩いな。信号も変わったし、早く行くぞ」

 

  やりにくいとばかりに、足早に目的地に向かう主人。 普段は飄々とした性格の主人だが、こと恋愛に関しては小学生並みの精神年齢の持ち主である。 そんな主人に対して、先程の含みのある絢辻の言葉は刺激が強すぎた。

 

「さてと、それじゃあ行ってくるわね」

「えっと、俺はここで待っていたら良いのか?」

「そうね、会議室に呼ばれたのはあたしだけ(・・・・・)だし」

「……そっか――――ん?」

 

  絢辻の言葉に違和感を感じた主人は顎に手を当て、先程の言葉をもう一度脳内で再生する。

  そして、気が付く。

 

「……俺の存在要らなくないか?」

 

  何とも言えない敗北感に身を包まれ、息を吐き出しながら肩を落とす。

 

「もう、そんなに露骨に落ち込まないでよ――――主人くんが近くに居てくれるって思えば、あたしは頑張って戦える。これじゃあダメ?」

「これは、喜んで良いのか?」

「当たり前でしょ。主人くん、行ってきます」

「ああ、頑張ってな」

 

  主人はその場に残り、絢辻は指定された会議室へと足を進める。

 

  二人にとって、勝負の時間が始まった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「失礼致します」

「初めまして……。君が輝日東高校の生徒さんだね」

「はい。実行委員長の絢辻詞と言います。本日は創設祭に用いるクリスマスツリーの件でお話をさせて頂きたく――――」

「話は聞いているよ」

 

  食えない男……と、絢辻は心の内でそう毒告ぐ。 見るからにして、高校生など相手にしていないと言った様子だ。 こういう相手に長ったらしい話は必要無いと、単刀直入に本題に入り始める。

 

「では、単刀直入にお伺い致します。この件での市の決定は、どういった経緯なのでしょう?」

「というと?」

「先日の事故は、確かにこちらの落ち度です。ですが、これによる決定。今までの市の対応からすると、随分と早く横暴なものだと思いませんか?」

「…………おかしいな」

「何がです?」

「今日は設置の引き継ぎの話し合いだろう?」

 

  そう言うと男は急須を手に取り、湯呑みに緑茶を注ぎ始めた。 あくまでも主導権は自分が握るという明確な意思表示だ。

  だったら、ここは踏み込むと絢辻は挑発的な言葉を選ぶ。

 

「はい。ですから、結論としてそのお話が無くなれば問題ない(・・・・・・・・・)ですよね?」

「…………」

「申し訳ありませんが、生徒によるツリーの設置が中止になった経緯、ご説明して頂けますでしょうか?」

「ふむ、そうだな……」

 

  注いだお茶を喉の奥に流し込んでから、男は言葉を紡ぎ始める。

 

「事故に対する決定と考えれば、早いのも妥当じゃ無いのかな?」

「ですが……私や担当教員から事情を訊かずに決定してしまうのは、少々性急過ぎるのでは無いでしょうか?」

「事は早い方が良いだろう。市の責任問題にもなり兼ねないからな」

「随分と責任感がお強いのですね」

「当たり前だ。そうでなければ私は市議会議員等していない」

それです(・・・・)

「……何が言いたい?」

 

  絢辻の短くも力強く言い放ったその一言に、男の顔にシワが生まれる。

 

「今回の件、あたしには貴方のその偏った独断による決定としか思えません」

「……どういう意味かな?」

「そのままの意味です」

 

  男の視線は強いものになるが、絢辻はそれに動じることなく会話の主導権を握って行く。

 

「この件は私の管轄だ。市議会議員としての決定なら、独断であっても構わない筈だが?」

「――――他に理由がある独断でもですか?」

「…………」

「あたしを甘く見てもらっては困ります」

「甘くなどは見ていない」

「そうですか。では、市長への面会をお願い致します」

「市長は多忙だ。そんな時間は無いだろう」

「そうですか……残念です」

「……っ!」

 

  ふと嫌な予感が男の頭を過ぎった。

  そして、その予感は的中することになる。

 

「では、代わりに貴方の“ご令嬢”に直接話をさせて頂くことにします。それでよろしいですね?――――黒沢議員さん」

「なっ……!」

「こう見えてもあたし、学校側からの信頼には自信があるんです。当然、生徒からもね……」

「……どういうつもりだ?」

「交渉のつもりです。貴方の力が一般生徒にまで届くと思ったら大間違いですよ」

 

  当初とはうって変わり、話の主導権は絢辻が握っている状態だ。 この状況に黒沢議員も、絢辻の要求を飲まざるを得なかった。

 

「……話は解った。君の言う通りにしよう」

 

  しかし、男も絢辻の倍の年月を生きてきた人生の経験者だ。 ここで簡単に引くようならば、市議会議員等務まっていない事だろう。

 

「だが、条件がある――――良いかな?」

 

  このまま絢辻のペースで話を終わらせてしまうのは面子の丸潰れだと、男は粘りを見せる。

 

「――――という訳だ。君に、これが呑めるのかな?」

「はい、呑めます。となると結論ですが、最初に申し上げた通りに白紙になりますね」

「……君は一体何者なんだ?」

ただ(・・)の女子高校生ですよ」

 

  絢辻が会議室から去って行った後、末恐ろしいな、と男は椅子に深く腰掛け息を吐く。

  丁寧な言葉の中に時折現れていた好戦的な口調。

 

「ただの、高校生か。とんだ女狐だな」

 

  あれだけ表裏の使い分けが出来る人間は、この社会に置いても希少な存在だ。

  それが幸か不幸か定かでは無いが、異質ながらも強い光を放っている事は確かだと言えるだろう。

  娘である典子が目の敵にする訳だと、再び茶を注ぎながら男はそう思った。

 

  場面は移り、ホテルロビー近くの自販機の前。 ホテル備え付けの自販機の前には幾つかソファーが用意されており、腰を落ち着けて購入物を飲食することが出来るようになっている。

 

「お疲れ、絢辻」

「……ありがとう、主人くん」

「ほら、飲むだろ?」

 

  手渡されたいつもと同じ銘柄の缶コーヒーを受け取り、絢辻はそっと主人の隣に腰を降ろす。

 

「話はどうだった?」

「上手くいったわ。明日には、高橋先生から連絡が貰えると思う」

「そっか」

 

  二人の間に沈黙が流れる。

  どことなく、重い雰囲気だ。 元来主人は、重苦しい雰囲気を苦手としている。 彼の飄々とした性格からすると肌が合わないのだろう。

 

  だから、自分から切り出していく事にした。

 

「何があったんだ?」

「何って、何も――――」

「嘘だな。さっきからずっと震えてるんだよ、絢辻」

 

  その言葉に絢辻の表情は強張りを見せる。

  主人も、初めて見る絢辻詞の弱った表情だった。

  その表情を見て、主人は悟ってしまった。 悟らざるを得なかった。 絢辻詞と言う一人の少女を駆り立てていたモノが崩れたと言うことに。

 

「独りで抱え込みすぎだ。絢辻は独りじゃないだろ?」

「主人くん……」

「俺は絢辻を貰っているんだ。だったら、支えないとな」

 

  姿勢を変え正対する様に座り直し、そっと絢辻の背に手を回してそのまま胸を貸す形を取る。

 

「……ねぇ主人くん」

「何だ絢辻?」

「少し泣くから、このままでいて」

「――――ああ、そのつもりさ」

 

  何分か経過した頃だろうか。

  絢辻はゆっくりと身体を起こし、主人の目を見つめる。

 

  ――――相変わらず、不思議な人……こんな感覚は初めてね。

 

  本当に良く人を見ていると、心底思う。

  外見だけでなく、内面までも見ることが出来るのは中々出来ることではない。

  そんな彼――――主人の安心感に当てられ、先程まで己の中に取り巻いていた負の感情も払拭されてしまったように思う。

  それが嬉しくて、恥ずかしくて。

  絢辻は微笑みを浮かべ、主人の顔を見上げながら訊ねる。

 

「いつまで背中に手を回してるつもりかしら?」

「え゛?」

 

  絢辻詞が正直になるには、まだ少し時間がかかりそうだ。

 

 

 




閲覧、ありがとうございます。
この間から色んな書き方を試しているので、よろしければ感想・批評等頂けると嬉しいです。


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12月-③

後半から橘純一編へと移ります。


 

  輝日東高校校舎裏。

 

  敷地内末端に位置し、校舎裏という事もあり人気の無いこの場所に何故か絢辻詞の姿はあった。 その手には何やら白い紙が握られており、それがこの場にいる理由を示していた。

 

『話がある。明日8時に校舎裏にて待つ。』

 

  手紙にはこの様に書かれているが、差出人の名前は記載されていない。 とはいえ、昨日の放課後に自身の下駄箱に入れられていたこれを、絢辻の性格上無視をすることは出来ない。 その為、気は向かないが仕方なくこの場に訪れるという状況が出来上がったという訳だが。

 

  再び手紙を一読し、左腕に付けている女性用腕時計で時刻を確認した後、指定された場所に立っている三人の女性(・・・・・)に視線を向けた。

 

「…………」

「…………」

 

  視線は交わされるが、その口が開かれることは無い。 吹き抜けて行く冬の風の音が、やけに強く聞こえたように感じられた。

 

  このまま互いに黙り込んでいても拉致が明かない、と絢辻はこの沈黙を破る事にした。

 

「時間が無いから手短に訊くわ。これの差出人は貴女たちで良いのかしら?」

「……そうよ」

「それで、用件は何?」

「……それは」

 

  ばつが悪そうに、田口らの三人は顔を見合わせる。

  しかし、いつまでもこうしている訳にはいかない。 時間を割かせてまで何の為に呼び出したのかと、勇気を振り絞り小さいながらも大きな一歩を踏み出した。

 

『絢辻さん、ごめんなさい!』

「……へ?」

 

  田口らの言葉に、思わず呆気に取られてしまった絢辻は自分でも奇妙と思える声を出してしまった。

  絢辻の呆然とした表情を見ながら、田口は言葉を続ける。

 

「……私たち、何も知らないのに、確証も無い噂に振り回されて、絢辻さんを傷つけて」

 

  拳に力が籠るのを田口は感じていた。

  自分の気持ちを言葉にするのがこんなにも難しいと感じる日が来るとは、露ほども思っていなかった。 それでもここで逃げ出すことは出来ない。 それが田口にとっての、ケジメであった。

 

「私たちも不安だったの……創設祭は高校生活で欠かせないイベントだし。それが中止になるかもしれないと思ったら怖くて……怖くて仕方が無かった……」

 

  重たそうに紡がれるその言葉を、絢辻は逃すことなく聞き取っていく。

  今までは仮初の付き合いだったクラスメイトの本音を、聞くことが出来たのだから。

 

「絢辻さんは凄い人よ。凄いなんて言葉で片付けるのは駄目なんだろうけど、それでも私から見れば、私たちから見れば絢辻さんはそう映る……だから、作業が遅れているって聞いて、それで……」

 

  人の感情は儚いものだ。

  どれだけ好感を積み上げていても、一つの過ちでそれは崩れ去る。

 

  人間は負の感情に弱い生き物なのだろう。 個人差はあるだろうが、この地球上に住む人間に共通している事柄だ。

 

  当然、田口にもそれは存在した。

  何事にもストイックだった絢辻が、自分の色恋の為に創設祭を犠牲にしているかもしれない。

 

  考えれば考える程、泥沼へと落ちて行った。

 

「……実行委員長から解任されたって本当?」

「……どうしてそれを」

「噂ってやつよ……ホント、だったのね」

 

  先日の市議会議員との話し合いの末に、絢辻はクリスマスツリーに関する全権利を勝ち取ることに成功していた。

  しかし、それと引き換えに創設祭実行委員長という座を失った。 所謂、等価交換と言うモノである。

 

「それを聞いて、私たち本当に何も見えていなかったんだなって……絢辻さんは、誰よりも一生懸命だったのに」

 

  彼女は色欲に負けていた訳では無かった。

  創設祭を開催するにあたって、どの様に段階を踏んで行くかを綿密に計画を立て、それを実行していたに過ぎない。

  自分の役職を捨ててまで、絢辻はクリスマスツリーの件に尽力してくれた。 これは紛れもない事実であり、絢辻がどういう人間かを如実に物語っている。

 

「本当に、ごめんなさい」

 

  田口に合わせ、山崎、磯前の両人も深く頭を下げる。 自尊心の高い彼女らが行った行動に、絢辻は不思議な感覚を覚えた。

 

「三人共、顔を上げて」

 

  誰にだって至らない点は部分はある。 眼前の三人はそれを受け止め、前に向かって一歩を踏み出した。 ならばそれに応えるのが、誠意というモノなのだろう。

 

「私も、そう取られても仕方の無い振る舞いだったのかもしれないし、貴女たちに酷い言葉も浴びせた。だから、貴女たちばかり悔いる必要は無いと思うの――――不安にさせてしまって、ごめんなさい」

「あ、絢辻さん……」

 

  こういうことに関しては、まだまだ未熟だとそう痛感させられてしまった様に思う。 少し、前のめりになってしまっていたのかもしれない。

 

  ――――今なら、解る気がする。

 

  以前に彼――――主人は友達の定義をこう言っていた。

 

『互いの事を解りあって、初めて友達と言うんじゃないのか?』

 

  長所と欠点は隣り合わせ。

  これらは個性と置き換えることが出来るだろう。

 

  それを互いに理解し合うことで、その人物の内面的な部分までを受け入れて同じ時間を共に過ごす事が出来る。

 

  きっとそれは簡単な事で、難しい事なんだろう。

 

  彼が受け止めてくれた様に、彼女たちも自分を受け入れてくれるかもしれない。

  反対に、拒絶されるかもしれない。

 

  それでも彼女たちが一歩を踏み出したのなら、自分も踏み出そう。

 

  そう思えた。

 

「田口さん、山崎さん、磯前さん」

 

  彼の影響をかなり受けているのかもしれない、と内心でほくそ笑みながら言葉を綴る。

 

「――――私と、友達になってくれますか?」

 

  その問に対する三人の答えは、了承を示す言葉であった。

 

 

 

「絢辻さん、私たちも手伝うわ」

「ありがとう弥生ちゃん。じゃあこれを――――」

 

  放課後の教室では創設祭の準備の為に、クラス中の殆どの生徒が残り作業に没頭していた。 その中には田口ら三人の姿も見え、明るい表情を浮かべながら作業に勤しんでいる様子が伺える。

 

「貴方の仕業ね?」

「絢辻さんよ。開口一番がそれとは如何なものかと思うぞ」

「そう、恍けるのね」

「……恍けるも何も、話が見えないんだが?」

「ふふっ、まぁいいわ――――ありがとう、主人くん」

「……あぁ、どういたしまして」

「やっぱり貴方じゃない」

「……何のことか知らないけど、とりあえず作業を進めないとな」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  創設祭まで残り数日となった今日。

  今朝起きた時から、胸がざわめきを覚えていた。

 

  見ていたはずの夢は、靄がかかってしまっていて思い出せそうにも無い。

  何処と無く、嫌な予感がする。

 

  そんな一日の始まりで。

  そしてそれは、現実になった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「あ、おはよう七咲」

「…………」

「……あれ、えっと、七咲?」

 

  朝に出会った場合はおはよう。

  昼に出会ったならばこんにちは。

  それが夜になればこんばんはだ。

  その作法に則って声を掛けるが、七咲からその応答が来ることは無かった。

 

「お〜い大将、何やってんだ?」

「……梅原か。別に、何って無いよ」

「そっか。そんじゃま、教室に向かおうぜ」

 

  梅原が良いタイミングで声を掛けてくれたお陰で僕の存在が浮くことは無かったが、あの七咲が理由も無しに無視をするとは考えにくい。 つい先日も、普通に会話を交わしている。

  何かがあったとすれば、その後に事は起きているんだろうと思う。

 

  ――――嫌な音が聞こえる。

 

  激しくなっていく心臓の鼓動は、先輩と会話している時やお宝本を見ている時とはまるで違う――――不吉な宣告を突きつけてくる、そんな旋律に聞こえた。

 

  昼休み。

  梅原に食事を任せ、テラスの席を確保に向かうとばったり七咲と遭遇した。

 

  そこでもやっぱり七咲との会話は生まれなくて。

  僕が近づけば七咲の顔色は悲しげなものに変わってしまった。 そんな七咲に近づくことは出来なくて。

  やるせない気持ちが胸の中で溢れかえり、その日の昼食は好物の味噌ラーメンであったにも関わらず、喉を通すのに時間がかかった。

 

「にぃに……顔色悪いよ?」

「そうかな?」

「……うん」

 

  これはどうやら僕自身が思っているよりも心に来ているみたいだ。 今日は先輩と会わなかったから、自然と気分が落ち込んでいるのかもしれない。 テラスでは同じ3年生で水泳部の方と食事をとっている塚原先輩の姿しか無かった。 もしかすると、先輩は今日休みだった可能性も有り得る。 風邪とかなら早く良くなるといいんだけど。

 

「それにしても……七咲か」

 

  部屋の電気を消して、押入れへと入って一息をつく。 授業中も休み時間も色々と考えたが、それらしい答えを出すことは出来なかった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  翌日。

  朝からやけに、他人の視線を感じる様な気がする。

 

「なぁ梅原」

「何だ橘?」

「僕ってさ、何かしたのかな?」

「してないだろ。でも……これを見るとそう簡単に否定するのは難しいな」

 

  梅原の視線の先にあるものは僕の上靴。

  水浸しにされており、オマケに画鋲も付いていると来た。 教室に向かう際にも、視線を向けられ机には落書きが。 椅子には大量の水糊が付着しているといった状態だった。

 

「純一、アンタこれどうなってるのよ?」

「そんな事、僕が一番訊きたいよ」

「まぁそうよね。ほら、手伝うからさっさと済ませるわよ」

「……ありがとう薫」

「口より手。先生が来る前に仕上げないと厄介な事になるわ」

 

  梅原、薫、田中さんの協力もあって何とか朝礼前に作業を済ませることが出来た。 マサやケンが干渉してこない事からすると、やはり面倒な事が起きているのだろうと推測することが出来る。

 

「純一、今話せるか?」

「うん、どうかしたの?」

「ちょっとな。屋上でいいか?」

 

  朝練から戻った公の言葉に頷き、そのまま二人で屋上に向かう事に。 一限目は芸術の時間だから授業に遅れてもどうということは無いだろう。

  屋上に着くなり扉の鍵を閉め、公は話を始めた。

 

「……随分と厄介な事が起きているみたいだな」

「そうだね。僕も何が何だか分からないや」

「……だろうな」

 

  少し間を置いて、再び公が言葉を紡ぎ始めた。

 

「……きついぞ?」

「だからこそ、僕は逃げないよ」

「解ってるさ。それが、橘純一だからな」

「ありがとう、流石だね」

「単刀直入に言うぞ――――純一……お前が二股をしていると噂が流れている」

「……え、それってどういう」

「“誰かと付き合っているにも関わらず、森島先輩に近付き、気持ちを弄んだ”。ざっくりだがこんな感じの噂が校内で流れているらしい。俺も昨日、後輩から話を聞いて驚いたよ」

「そ、そんな……デタラメな話が」

 

  ああ、思い出した。

  これはまるで、昨日の朝に見た夢と同じ展開じゃ無いか。

  僕のせいで、森島先輩が傷付いてしまう。

  そんな事は、あっては成らない事だ。

 

  でもこのままだと確実に――――

 

「森島先輩が……変わってしまう」

「……かもな」

 

  先輩は男性不信に陥ってしまうかもしれない。

  掴める筈だった幸せを得られなくなってしまうかもしれない。

  先輩の将来を、僕が潰してしまうことになる。

  それだけは、絶対に避けなければならない。

 

「森島先輩は、学校を休んでいるらしい」

「そうなんだ……だから、こんな噂が早まって出回ったのか」

「どうするつもりだ?」

「決まってるさ」

 

  そう、答えは決まっている。

 

「僕は助けるよ。先輩も、その噂を流した犯人も」

「純一なら、そう言うだろうなって想像は付いていた。こういうのは日にち薬だ。だから無理はしないでくれ」

「――――うん、約束するよ」

 

  ズレてしまっても、戻す事は出来る。

  戻すことが出来ないのならば、以前よりも良くすればいい。

  さぁ、ズレた歯車を戻そうか。

 

 

 




閲覧、ありがとうございます。

次回は遅くなるかもしれません。


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12月-④

 

  翌日の朝。

  いつもより早く登校した僕は、教室に鞄を置くなりその足で3年生の教室へと向かった。

  森島先輩が休んでいる今、頼れる人物は一人だけだ。

 

  教室に着くと、それに反応して3年生が数人僕の前に立ちはだかる。 その中には、校内で有名な3年生――――御木本久遠先輩の姿もあった。

 

「お前……何しに来たんだ?」

「塚原先輩と、話をさせて下さい」

「森島の次は塚原ってか? ……自分が何してるのか分かってるのかよ」

「僕は噂されている様な事はしていません」

「じゃあ何でそんな噂が流れんだよ! 火のねぇ所に煙は立たないって言葉を知らねぇのか!?」

 

  御木本先輩は激昴と同時に、言葉より早く僕の胸ぐらを掴みあげる。

 

「だから、こうして……動いてるんじゃないですか」

 

  胸ぐらを掴む手に、更に力が込められるがここで引く事は出来ない。 僕にも、僕なりの意地がある。

 

「……チッ、時間かよ」

 

  睨み合うこと数十秒間。

  予鈴が鳴り響いた事により、その手は離された。

  とはいえ解放されたは良いが、目的の塚原先輩から話を聞くことは出来ずに時間が流れてしまった。 初めから上手く行くとは思っていなかったが、実際にそうなると中々来るものがある。

 

  去り際に教室の中を眺めると、塚原先輩と目が合い、そして直ぐに外されてしまった。 この分では昼休みも変わらない事だろう。

  そうなってくると狙うところは一つだけになる。 気は進まないが、正直これしか打つ手が無い。

 

「部活が終わるまで、待つしかないよな」

 

  これまでにも何度もしてきた事だ。 今更2時間程度待つ事など造作もないと思う。 時間を潰すのは公たちの手伝いを一人離れてひっそりとやればいい訳だし。

 

  そこまで考えて、急いで足を走らせた。

  慌てて居たからはっきりと確認していないが、下駄箱が荒れていた分机も同じ様子、もしくは酷くなっているかもしれない。 そんな状態を高橋先生に知られでもしたら、大問題になることは間違いない。

  それはそれで、避けるべき事なんだろうと思う。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「ありがとう公。片付けておいてくれて」

「礼を言うなら梅や薫、田中にだ。俺は三人程動けてないさ」

 

  公の言葉に薫、梅原、田中さんを順に見渡すと三人とも笑顔を浮かべて『気にしない』と一言だけ答えてくれた。

  本当に、僕は友達に恵まれている。 そう思った。

 

「で、どうだったんだ?」

 

  ホームルーム終了後、粉末状になっているプロテインに自前のミネラルウォーターを注ぎながら公が静かにそう言の葉を落とす。

 

「……全然ダメだったよ。胸ぐらを掴まれて、それで終わり」

「そうか。想像は付いていたが、厳しいな」

「ホント、参っちゃうよ」

「でも、動くんだろ?」

「うん。昼休みはどう足掻こうと無理だと思うから、放課後にしてみるよ」

「それが賢明かもな」

 

  その後時間は移り昼休みが訪れたが、予想通り七咲、塚原先輩とは会話を交わすことは叶わなかった。 それでも二人と視線は合うので、一応認識はされているらしい。

  それだけ分かれば、充分だ。

 

  放課後。

  淡い夕焼けは姿を消し、黄昏時が姿を現す。

  そろそろ頃合だろう。

 

「大将、行くのか?」

「うん。梅原は先に帰っててくれ」

「ああ。無理はすんなよ」

「分かってるよ」

 

  この時間でもそれなりの人数がまだ校内に残っており、すれ違う人々の視線を嫌でも感じさせられた。

  この分だと学校中に噂は広まっているんだろうと思う。 どうして人間はこんなにも噂と言ったものが好きなのだろうか。 そんな事を考えつつも、自分も立場が逆であれば興味を示しているだろうなと想像出来てしまい何とも言えない気持ちにさせられてしまった。

 

「何て、馬鹿な事言ってる場合じゃないよな」

 

  視線の先に映るのは一人の水泳部員。

  塚原先輩の姿が、目の前にある。

 

「塚原先輩。少し、お時間を頂けませんか?」

「……君か」

「待ち伏せする様な真似をして、すみません。でもこうでもしないと」

「私と話せないって訳ね。でも……今は、話したくないんだ」

「塚原先輩……」

「着替えてくるから、そこで待ってて」

「は、はい! ありがとうございます!」

 

  最後までプールサイドの掃除を行っていた先輩はすれ違った部員とは違い、まだ水着姿のままだ。 幾ら暖房の効いた屋内とは言え、真冬に濡れた水着姿で過ごす等自ら風邪を引きたいと言わんばかりの行動だ。 創設祭が近いこの時期に、そんな事はさせられない。

 

「……お待たせ」

 

  待ち始めて5分後。 塚原先輩が着替えを終え、案内されるまま部室へと入室し椅子に腰を掛ける。

 

「……正直に言って、君とは話したくない」

「……はい」

「ここで私が貴方を相手にしない事は簡単に出来るわ。でも、それじゃあ真実は解らない」

「……聞いてくれるんですか?」

「そうじゃ無ければここに入れてないわよ」

 

  塚原先輩はそう言うと目を閉じ、大きく息を吐き出してから言葉を発した。

 

「……今流れてる噂は、真っ赤な嘘なのよね?」

「そうです」

「信じていいの?」

「はい、信じて下さい」

「嘘だった場合、貴方はどうするのかしら?」

「……先輩方の好きな様にして下さって構いません。僕は、二股何てしていません」

 

  静寂が辺りを包み込む。

  壁に掛けられている時計の針の音が、普段よりも大きく思わず焦燥に駆られる。

  一秒が長い。 これ程一秒が長く感じたのは、以前のクリスマス以来かもしれない。 いやその時よりも、今回の方がキツいモノがある。

 

「……嘘じゃないみたいね」

「この状況でシラを切れるほど、僕の肝は据わってません」

「分かった。橘くんを信じるよ」

「あ、ありがとうございます! 塚原先輩!」

「でもその前に、一つ訊かせて」

 

「橘くんにとって、はるかの存在は何?」

 

  先輩が僕にとっての何か、か。

  正直に言って、考えた事も無かった。

  だからここは、思う事をそのまま伝えよう。

  それが僕の本心なのだから。

 

「……先輩と僕はどこか似ています。月並みな表現ですけど僕にとっての――――運命の人。一方的な、都合の良い想いですが、そう思います」

「……君らしい答えだね」

「僕は、クリスマスが嫌いです。でも、森島先輩のお陰で、それと向き合えているんです。――――僕は、先輩が欲しい」

「あら、言うじゃない」

 

  塚原先輩は心底愉快そうに表情を緩める。

  我ながら随分と恥ずかしい事を言ったものだと、顔中を熱が覆ったのを感じた。

 

「……はるかはね、貴方が他の女の子と抱き合っている写真を見せられたらしいの。それが原因で、その日の内に早退しちゃって今に至るって訳」

「成程。それで一昨日姿が無かったんですね」

「そういう事。もう一度聞くけど、それは間違いなのよね?」

「……僕が他の女性と付き合っている様に見えますか?」

「無いね。橘くんははるかにゾッコンだもの」

「恥ずかしい話ですが……まぁそうです」

 

  良かった。

  塚原先輩は信じてくれたみたいだ。

  問題なのはその写真。 今は携帯一つで、電話やメールと言った機能が使える時代だ。 合成写真の一つや二つ、簡単に作れるのかもしれない。

 

「橘くん」

「何ですか?」

「頑張ってね」

「ありがとうございます、塚原先輩」

 

  純一が水泳部の部室を去った後。

  物影に隠れていた一つの影が動き、光の前に姿を見せた。

 

「――――そういう事らしいわよ、七咲」

「……私はまだ、信じられません」

「確かに昨日の今日だし、難しいかもしれない。でもね七咲。私が言うのもあれだけど、私以上に貴女は彼がどの様な人間かを知ってる筈よ」

 

  塚原の言葉に七咲の表情が悲しいものへと変わる。

  彼がどの様な人間か、言われなくてもわかっている。 それでもやっぱり、拭えないモノが心にあった。

 

「……お先に失礼します」

「気をつけて帰るのよ」

 

  七咲という一人の少女の中でも、様々な感情が渦巻いていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「今日ちらっと小耳に挟んだんですけど、橘って人が二股してるって本当何ですか?」

 

  創設祭が間近に迫ったある日の放課後。

  部活終わりに一人の後輩が耳を疑う様な、そんな話題を口にした。

 

「今何て言った?」

「えっと、2年生の人が二股してるって……」

 

  2年生の人が二股?

  どういう事かさっぱり分からん。

 

「詳しく教えてくれ!」

「とは言っても……俺も軽く聞いただけなんで。その橘って人、浮気癖でもあるんですか?」

「いやいや。アイツは確かにドが付くほどの変態だが同時に紳士でもある。そんなやつが二股をするとは思えないし、第一する度胸も無い。万が一する様なら、とっくに縁を切ってるさ」

 

  純一が二股か。

  おかしな噂が流れているものだ。 これまで一緒に過ごしてきている純一に、森島先輩以外の恋愛対象が現れれば直ぐに気が付いている。

 

「この噂は広まってるのか?」

「3年生に兄貴がいるやつが放課後に言ってたんで、明日には広がりそうですね」

「上絡みか……そうなると、厄介だな」

 

  純一のやつも大変だ。 この忙しい時期に、一癖も二癖もありそうな事件に巻き込まれるとは。

  やっぱり動くしか、無いよな。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  昼食を取りながら、先日後輩から聞いた話を思い出していると味噌カツ定食のカツが少なくなっている事に気が付く。

 

「……っ、薫! お前か!」

「アンタが悪いんでしょ。純一が話してるのに、一人で難しい顔しちゃってさ」

「……あぁ、そうか。すまん純一」

「大丈夫だよ……何か考えてたんだろ?」

「ちょっとな」

 

  何か違和感を感じたが、この際もうどうでもいい。

  純一の話によると、森島先輩は純一が他の女性と抱き合っている写真を見せられ噂を信じてしまっているらしい。 確かに、モノを見せられてまで話を聞かされたとなると、信じてしまうのも仕方の無い話だ。 特に先輩はそういうネタに弱そうときた。 そこに付け込まれた形になったみたいだな。

 

「七咲、ちょっと良いか?」

「主人、先輩……」

 

  食べ終えた定食のお盆を下げ、浮かない顔をして歩いている七咲を見かけたので声を掛けたのだが思わぬ客が現れてしまった。

 

「野球部の主将も、七咲にちょっかいを出しに来たんですか?」

 

  制服を着崩し、髪には整髪料が僅かだが付いている様に見える。 生活指導の方に掛からないギリギリのラインを攻めているんだろう。

  目の前に居るこの人物が、以前に後輩が言っていたマセガキで間違いない。

 

「はぁ、異性が話し合っている度にちょっかいを掛けるなと制しているのか?」

「それは、してないっすけど……」

「だったら首を突っ込んでくるな。別に七咲に頼まれた訳でも無いんだろ?」

「……だからって黙って見ているのは」

「煩いな。はっきり言ってやるよ。今俺は、七咲と話がしたいんだ。お前と話すつもりは無い」

「…………」

「俺に文句があるなら、まずは純一に対してしている嫌がらせを辞めろ。解ってるんだよ、お前の気持ち(・・・)はな」

 

  ここまで言ったところで漸くその1年生は黙り込み、下を向いてしまった。 初対面であろうが、関係無い。 別に間違った事は言っていないのだから。

 

「と思ったが、もう時間だな。今日部活はあるか?」

「……いえ、今日は水質検査があるので休みです」

「それは良かった。じゃあ、放課後。屋上に来てもらえるか?」

「……分かりました。では、失礼します」

 

  七咲との会話を終え、教室に向かって歩いていると後ろから強い視線を感じた。

 

「絢辻、居たのか」

「ええ、貴方のお宝本の整理をね」

「なっ……!」

「それを終えてから、昼食を取ってたんだけど。まさか1年生を誑し込んでるとは思わなかったわ」

「誰が誑し込むか!」

「ふふっ、冗談よ。この話はね」

「……と言うと?」

「ええ。お宝本は今頃どこにあるかしらね」

 

  さぁ、と全身から血の気が引いていった気がする。 この日の放課後は、週に一度のゴミ処分の日だ。 業者によってそれらは処理させるが、ゴミ袋の数は数知れない。

  つまり、お宝本を見つけ出すのはほぼ不可能だ。

 

「マジかよ……」

 

  すまん純一、梅。

  取引は当分、出来そうに無い。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  放課後。

  指定された通りに七咲は屋上を訪れていた。

  寒空の下、先輩を待たせるのは失礼だと真面目な七咲は急ぎ足でこの場に向かって来たが、彼はそれよりも早くその場で待っていた。

 

「こうやって、二人で向き合うのは久しぶりだね七咲」

「橘、先輩……」

 

  その場に居たのは約束をした主人では無く、今輝日東を騒がせている橘純一の姿がそこにあった。

 

 

 



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12月-⑤

書きたい方向からどんどん逸れていくのが恐ろしいです……。


 

「ごめんね七咲」

「……何がですか?」

「――――色々とさ」

「……そうですか」

 

  現在この屋上に居る人間は純一と七咲の二人。 そんな状況ならば周りを気にすることなく、存分に話し合うことが出来る、という主人の考えは見事に刺さっていた。

 

「早速だけど、話を聞いてもらっても良いかな?」

「……はい」

 

  ありがとう、と一つ落とし呼吸を整えてから純一は口を開いた。

 

「こう言ったら身も蓋もないけど、ここ最近七咲は僕の事を避けてるよね?」

「それは……その……」

「分かってる。何か理由があるんだろ?」

「はい……」

「今日はその事について話をしに来たんだ。――――僕が誰かと抱き合っている写真を見せられたりしたかな?」

 

  純一の言葉に、七咲は小さく頷く。

  目を凝らして良く見れば、小さなその身体は今にも消え入りそうなくらい儚いモノだった。

 

「……一緒に写ってた方は、何方なんですか?」

「それがね、僕も写真を実際に見た訳じゃ無いから誰だか分からないんだ。七咲ならもしかしたらって思ったんだけど、知らないみたいだね」

「……すみません」

「謝らないでよ。七咲は何も悪くないじゃないか」

「……その写真の人は、輝日東の制服を着ていませんでした」

「という事は、他校だね。ありがとう、助かったよ七咲」

 

  そう言って、純一は優しい笑みを浮かべる。

  七咲のこの証言のお陰で、事件は解決に向けて大きく前進したと言えるだろう。

 

「……誰に見せられたか訊かないんですか?」

「訊きたいところだけど、多分七咲の知らない人だろ?」

「……それは、そうですね」

「うん、だから今は良いよ。忙しいのに、時間を割いてくれてありがとう」

「――――先輩

 

  扉へと足を進めた純一に対し、七咲の数日振りの呼称が届いた。

 

「……今起こっている事件が収まったら、話を聞かせて貰ってもいいですか?」

「うん、わかった」

 

  純一が屋上から去った事により、七咲は独りベンチに腰を掛けていた。

  自然と零れていく溜息に、七咲は頭を深く抱える。

  また一つ、自身の中に渦巻く負の感情が強くなった気がする。 深い霧の中に迷い込んだ様な、そんな気分。 一体自分はいつからこんなにも弱くなってしまったのか。 そんな事ばかりが何度も頭の中に浮かんでは沈み、また浮き上がると言った事を繰り返している。

 

  今校内で広まりつつある純一の噂は、恐らく嘘なんだろうと、七咲は理解し初めていた。 自分も含め、他の部員等多くの人間から信頼されている塚原が橘純一の人間性を諭し、その噂を否定した。 噂が信じるに値しないモノに変わるには、それだけで充分だった。

 

  それでもまだ、七咲の気持ちの整理は付いていなかった。 純一の顔を見る度に、七咲は自身の胸の奥をギュッと摘まれる様な感覚を覚えていた事がこれに起因する。 暖かくて優しい、そんな不思議な感覚の正体に七咲は気付き始めていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  七咲と別れた純一が向かった先は丘の上公園。 2年前の出来事が頭を過ぎり、気が付けば足はここに立っていた。

 

  この公園は純一にとって、思い出深い場所だ。 良い思い出も、悪い思い出も兼ね備えたそんな場所。 最近訪れた際は森島と一緒であり、あの日(・・・)の翌日にここで出会った女性が彼女と言うことが分かった。

 

――――こうして、あの時のことを思い返すと……やっぱり胸が痛むな……

 

  脳裏を過ぎるのは、森島との出会いの前日。

  純一にとって、強いトラウマを植え付けられたクリスマスの前日の事。 周りの友人の助力を得て、漸く掴み取った中学での最初で最後のチャンス--果たしてそれは成しえなかった。

  訪れる黄昏時が、いつもよりも淡い光を放っている様に感じられた。

 

――――でも今は違う……この場所で、あの時の事を思い出せる。

 

  きっと自分独りのままでは、あの時のままであっただろうと思う。 梅原、桜井、棚町、主人らの助力があって今の自分が形成されている。 自分は本当に周りに恵まれた、と純一は心の底からそう思った。

 

  日は既に沈みかけ、森島が以前に言っていた遠方に聳える山々の姿は見えなくなった。

  時間も時間なので、そろそろ引き返そうかと思ったその瞬間――――

 

「あれ? 橘くん?」

「え……君は……」

「久しぶりだね。あれ……もしかして覚えてない? 中学で同じクラスだったんだけど」

「……覚えてるよ、久しぶりだね蒔原さん」

 

  まさかこのタイミングで出会う事になるとは、露ほども考えていなかった。 心臓の動悸は激しくなるが、頭は急速に冷えていく。

  純一はとにかく冷静になる事に務めた。

 

「どうかしたの? テンション低いね」

 

  自分にトラウマを植え付けた元凶とも言えるその存在が目の前に居る。 それを前にして、気持ちを盛り上げて会話を行う事が出来るほど純一は大人では無かった。

 

「橘くん輝日東に入ったんだ。制服、似合ってるよ」

「……ありがとう。蒔原さんは輝日南なんだね」

「うん、家が近いからね。そう言えば今大人気の「激はじ」のロケ地がね――――」

 

  純一のそんな気持ちとは裏腹に、蒔原の言葉は止まることを知らない。

  最高視聴率30%と、今クールNo.1ヒットを誇っている「激愛はじめました」――――通称「激はじ」のロケ地がここ丘の上公園だという話や、中学3年生時の担任が結婚した事、妹である美也についてと次から次へと会話が生まれてくる。

 

――――どうして蒔原さんは、僕と普通に話が出来るんだろう。2年前、僕は彼女にクリスマスデートをすっぽかされて……フラれたのに。

 

「……橘くん、訊いてもいいかな?」

 

  嫌でも意識してしまう過去により、気持ちはどん底まで沈んでいた。 そんな時、雰囲気の変わった蒔原が初めて純一と向き合ってその質問を声に出した。

 

「ねぇ、2年前のあの日、橘くんはどうして待ち合わせの場所に来てくれなかったの? 私ずっと待ってたんだけど」

「……え?」

「え? じゃ無くてさ。私、あの日結構長い間待ってたんだけど」

 

  頭を何か硬いもので殴られた様な、そんな衝撃に襲われた様な感覚を感じた。

 

――――これは一体どういう事だ?

 

「約束をすっぽかすなんて、ちょっと酷く無いかな?」

「ちょ、ちょっと待って! 僕はずっとこの公園で、日が落ちても、雪が降り始めても待ってたよ!」

「え、この公園で? でも当日になって、橘くん待ち合わせ場所変えたよね?」

「……待ち合わせ場所を変えた?」

 

  一体どういう事だ、と純一は顎に手を当て思考を巡らせる。 蒔原と自分の言っている事が見事に噛み合っていない。 それに、蒔原が先程言った「待ち合わせ場所を変えた」と言う言葉が引っかかる。 その日のデートプランは事前に、時間を掛けて入念に考えてあった。 それを当日になって変更する等、考えられる筈が無かった。

 

「あの日の朝にね、貴方から「待ち合わせ場所を変えたい」って伝言をクラスの子から聞いて、ずっと映画館の前で待ってたんだ」

「……そんな事情が有ったんだ。それじゃあいつまで待っても、会えない訳だ」

「……でもね、あの日橘くんと会わなくて良かったとも思ってるの」

「……それはどうして?」

「ほら、私が居たグループにマリって子が居たでしょ? あの子が橘くんとの約束を聞いてた見たいで、貴方の事を冷やかす為に皆を引き連れて私に着いてきてたんだ」

「ははは……それは、笑えないな」

「それに関しては……ホントにごめんなさい」

 

――――もう何が何だか解らない。

 

  そんな心境だった。

  約束を破られたと思えば、誰かの伝言によるすれ違いで。

  でももしそれが無ければ、自分はクラスメイトの女子たちに笑われていたかもしれない。

  考える事を放棄してしまいたい。 切実にそう思ってしまう程、純一の心は酷く疲弊していた。

 

「誰が貴方を嵌めたのか、訊かないの?」

「……今更訊いても仕方無いよ」

「橘くん、貴方変わったね」

「……そうかな?」

「うん。今の橘くん、付き合ってみたいかも」

「という事は、あの日僕はやっぱり振られてたんだ」

「もう……そういう所は変わってないのね」

「僕は弱い僕のままだよ。周りのお陰で、こうして立っていられるんだ」

「そっか。橘くん――――お互い、良いクリスマスに成るといいね」

 

  蒔原が去って行った後、純一は辺りを見渡し大きく息を吐いた。 辺りは既に暗くなっており、商店街を飾るイルミネーションが煌めきを見せ始めていた。

 

「今ここで、君とは会いたくなかったよ……蒔原さん」

 

  いつもの声色とは違い、弱々しかったその言葉は吹き抜けて行った風によって掻き消され、その姿を消した。

 

 

 

 

 




「激はじ」 主演ザッキー。 エンターブレインはもしかすれば預言者たちが集う場所なのかもしれない。。。

先に述べさせて貰います。
全国の七咲ファンの方、誠に申し訳ございません。


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12月-⑥

まず最初に。
評価・感想・お気に入り登録をして下さった皆様、本当にありがとうございます。 小躍りしそうなくらい嬉しいです。

では、本編をどうぞ。


 

「ただいま」

「あ、にぃにお帰り……遅かったね」

 

  帰宅すると丁度夕食の後片付けを終えた後なのか、着ているニットの腕をたくし上げた美也が玄関で出迎えてくれた。

 

「……ねぇにぃに」

 

  居間にある炬燵に入り、いつもより遅い夕食を取っていると襖が開きそんな声が聞こえた。 顔を見なくても分かるその不安げな声が、全てを聞かずとも会話の内容を物語っている。

 

「大丈夫。美也が思ってる程、僕はヤワじゃないよ」

 

  何て口にしてみるが、自分の事は自分が一番良く分かっているものだ。 ただ、たった独りの妹の前ではちょっとくらい格好を付けたい。 それくらいは許されて欲しいと思う。

 

「嘘だ」

「嘘じゃないさ」

「……にぃには昔から嘘をつく時、相手の目を絶対見ないもん。気付いてないでしょ」

 

  ……参ったな、そんな癖があったのか。

  それがあるなら、どう足掻いても通らない。

  この世の中は、上手くいかない事ばかりで溢れている、と切実にそう思った。

 

「……ホントなのか?」

「嘘だよ、引っかかったねにぃに!」

「お、お前なぁ……」

「にししし! みゃーに勝とうだなんて10年早いのだ!」

 

  美也だって、今の状況が辛い筈なのにこうして僕を励ましてくれている。

  僕は美也に、何をしてあげられるのだろうか。

 

「今度まんま肉まん買ってくるよ」

「ホントに!? 幾つ買ってきてくれるの?」

「そうだな、5個ぐらいでどうだ?」

「え、そんなにも!」

「冗談だ、1つでいいだろ? 5個も食べたら牛になるぞ牛に」

「こんの、バカにぃに!」

 

  美也のお陰で、ちょっとした冗談が言えるくらい気持ちは和らいでいた。 僕は、良い妹を持ったと思う。

 

「美也」

「……何?」

「ありがとう」

「にぃにが前を向いてくれたみたいだから、別に良いのだ!」

 

  ぱっと目を見開き少し間を置いて、美也は大輪の花を咲かせてくれた。

  いつの間に、ここまで大きくなったのだろうか。 ついこの間まで、僕を後ろから追いかけてくる小さな妹だと思っていたのに。

  背が伸びたとか身体的な事では無く、精神的に、ヒトとして大きくなった気がする。

  つまりはそういう事。 周りの環境がそうさせたのだろう。

 

  七咲と美也の関係を考えると、今の状況が続くのは双方にとって間違い無くマイナスしか生まれない。

  七咲の為、美也の為、森島先輩の為――――そして、僕の為にもここで行動に移る必要がある。

  形振りなんて、構ってはいられない。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  翌朝。

  向かう先は、3年生方の居る教室。

  今日は昨日までと違い、下駄箱にて僕に対する嫌がらせはされていなかった。 その分、この間より早く行動出来ている。

 

  これなら、もしかすると。

 

「何だ、また来たのか?」

 

  ……そうは問屋が下ろさない、と来た。

  教室へ入る為の扉の前には御木本先輩らの姿がそこにあった。

 

「はい、塚原先輩と話をさせて下さい」

「ハッ、ヌケヌケとまぁ良くも」

 

  御木本先輩は戯ける様な仕草の後、顔を顰めるといつかの様に僕の胸ぐらを掴みあげる。

  このままじゃ、先日と同じ。 酷ければリンチだって考えられる。

  それを避ける為に口を開こうとした瞬間――――

 

「ストップ、やり過ぎよ御木本くん」

 

  正直に言って、自分の目を疑った。

  何しろこんな展開は、予想していなかったから。

 

「塚原、先輩……」

「幾ら噂の事があるからって、やっていい事と悪い事はあるでしょ。橘くん、何とも無い?」

「は、はい。大丈夫です」

「そう、それは良かった」

 

  塚原先輩の仲裁により、御木本先輩の手は僕の胸元から離れ元の場所に戻っていった。

  驚いた、まさか塚原先輩が助けてくれるなんて。

 

「何で止めた塚原!」

「そんなの決まってるじゃない、暴力はダメよ」

「でもよ、こいつは森島を……」

「確かにそういう噂は流れてる。でも、暴力でそれは解決出来ないわ」

 

  塚原先輩が多くの人から人望を寄せられているのは、多分ここ何だろう。

 

「御木本くん、彼は噂されている様な人間じゃないわ」

「だったらどうしてそんな噂が立つんだよ?」

「それは……」

 

  塚原先輩と僕は目を見合わせ、その言葉に対する解答を考える。 でも、その言葉を今の僕じゃどう答えても御木本先輩には届かない。

 

  そんな時だった。

 

「嫌がらせにも耐えて、学校に来て、こうして俺たちの前に橘は居る。橘を信じるのは、これで充分じゃないか?」

「神代……」

 

  手を差し伸べてくれたのは神代先輩。

  こうして話すのは初めてだが、彼の事は僕も知っている。

  輝日東高校硬式野球部の――――前主将だ。

 

「とまぁ、俺も後輩から話を訊くまでは御木本と同じ考えだったさ」

「……だったら何で」

「普通、学校中から嫌悪感を当てられたらまず間違いなく不登校だ。それでも橘は、怯まず自分を貫いている。信じるにはこれで充分だろ?」

 

  この考え方、そっくりだ。

  公が入れ込んだのも、解る気がする。

 

「な、御木本。ここは塚原に任せて俺たちは下がろうぜ」

「……はぁ、そうだな。橘、確証も無いのに手荒な真似して悪かった」

「い、いえ、気にしないでください」

「塚原も、邪魔して悪かったな」

「御木本くん……」

 

  きっと、御木本先輩には御木本先輩なりの何かがあったのだろう。 だから僕に対して、あれだけ激昴していた。 あんな風に暴力を振るわれるのは勿論嫌だが、そうさせてしまう何かが僕にはあったのかもしれない。 現にあんな噂が流れている事が、それを表していると言われればそれまでだ。

 

  でも今は、そんな事は後回し。

 

「塚原先輩、少し時間をいただけますか?」

「……うん、屋上でいいかな?」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「久しぶりに身体を動かしたが、やっぱり鈍ってるな」

 

  今日の部活は珍しく、引退した先輩方が練習に参加してくれていた。 進路が決定した先輩も入れば、年明けにセンター試験を控えている先輩も居る中でこれだけの人数が集まるのは中々ない光景だ。 三塁ベンチが先輩方で埋まっているのを見ると、胸に来るものがある。

 

「神代さん、今日はありがとうございました」

「おう、良いチームになってるじゃないか主人」

「神代さんが土台を作ってくれたからですよ。椎名に夜長さん、色んな人に支えられてます」

「それも一つの才能だと思うけどな。お前は立派に皆を纏めてるよ」

 

  この人は、本当に昔から変わってない。

  どこまで行っても、この人は神代(かみしろ)(つばさ)のままなんだろうと思う。

 

「なぁ、急なんだがちょっと良いか?」

「大丈夫ですけど……」

 

  ふと気が付けば、ベンチに座っていた先輩方の視線が一つに集中している。 その幾つもの視線の先に写っているのは俺――――主人公の姿があった。

 

  ああ、成程――――そういう事でしたか、先輩。

 

「先輩方が全員集まってくれるなんて珍しいと思ってましたが、理由が分かりました」

「……勘が良いな、お前は」

「今の状況なら流石に。それで、話というのは?」

「ああ。橘純一についてだ」

 

  やっぱりか。

  いつか訊いて来るとは思っていたが。

  まさか、この人数で来るとは……。

 

「純一は、噂されている様な事はしていませんよ」

「そう言い切れる証拠は?」

 

  神代翼と言う人間は、強い。

  選手生命を失ってもおかしくない、そんな重症から復活を果たした。 その彼の気迫は対戦してきた投手を震え上がらせてきたが、今自分がそれを当てられるとは思ってもみなかった。

  とはいえ、ここで怯んでいたら甲子園なんて夢のまた夢だ。

  何より、純一に対して示しが付かない。

 

「純一とは、小学校からの付き合いなんですよね。――――その純一が噂通りの人間なら、今頃俺がキレています」

 

  一体何がおかしかったのだろうか。

  先輩方は顔を見合わせるなり、声を大にして笑い始めた。

 

「くっくっ、な、言った通りだろ?」

「ああ、確かに神代の言う通りだった」

 

  ……どういう事なんだろうか、全く話が見えない。

 

「何が何だか分からないって顔をしているな、主人」

「……はい」

「試したんだよ」

「は? 試した?」

「彼は噂通りの人間なのか、不思議だったんだよ。あれだけ噂されているにも関わらず橘は臆さず学校に来ている。これはもしかすると、“噂は嘘なんじゃないのか”って思ってな」

 

  その為に、皆を集めて来てくれたのか。

  自分たちも色々とする事があって忙しいだろうに、良い人たちばかりだ。

 

「……橘の事か」

「聞いてたのか?」

「いや、何となくそうなんだろうなと考えていただけだ」

 

  椎名も椎名で、頭がキレる。

  もしかすると、話の真相に辿り着いているかもしれない。

  決してそれを口にする事は無いが。

 

「お前は動くのか?」

「もうやれることはしたさ。それに、あまり干渉していい話でも無い。あくまでもこれは純一の問題だ」

「そう心配しなくても、直に噂は収まるさ」

「どうしてそう言い切れる?」

「お前は勘が良いのか、鈍いのか分からないやつだな。――――橘に対する視線が変わり始めてるんだ、ここまで言えば解るだろ?」

 

  あぁ、成程と一人納得する。 なんだ、見ているつもりで見えていなかったんだな。

 

  俺はみんなに、色んな事を気付かされてばかりだ。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  今日は第4土曜日という事もあり、授業は無く学校自体も休みとなっている。

 

「あれ、にぃに出かけるの?」

「うん、ちょっとな」

 

  ――――今日は大事な用事があるんだ。

 

「お、お待たせしました、塚原先輩」

「うん、時間ぴったりだね」

 

  商店街を抜けてバス停へ向かうと、既に塚原先輩の姿がそこに在った。

  服装はグレーのチェスターコートに、白のタートルニット、それにネイビーパンツを合わせたもので知性的な雰囲気を醸し出している。

  良く似合っている、そう思った。

 

「はは……ホントはもう少し早く来たかったんですけど」

「良いの、気にしないで。じゃあ、行こうか」

「はい!」

 

  数分後、バス停に到着したバスに乗りこみ目的地を目指す事に。

  目指すはバスで凡そ30分、そこから歩いて5分といった場所――――森島先輩の自宅だ。

 

  しかし……。

 

「……どうかしたの?」

「い、いえ! 何でもないです!」

「そう、気分が悪かったら早めに教えてね」

 

  バスの席が二人掛けの物だとは考えていなかった。 窓際に座らせて貰ったお陰で、席を移ることは出来ない。

  つまりそれは、このバスが第一目的地のバス停に着くまで“僕は塚原先輩の隣に固定される”という事だ。

 

  鼻腔を擽るのはいつもの塩素の匂いではなく、女性特有の良い香り。

  美也とも、七咲とも、森島先輩とも違う、塚原先輩の香り。

 

  控えめに言っても極楽。

  この状況で僕は……森島家に着くまで、橘純一として居られるのだろうか。

 

  そんな馬鹿な事を考えているうちに、バスは目的地であったバス停に辿り着いた。 人生の中でも、とても早い30分だった様に思う。

 

「随分真面目な顔をしてたけど、何か考えてたの?」

「え、まぁその……今からの会話を」

「ふぅん、そうなんだ」

 

  なんて言って、いつもの様に塚原先輩は含み笑いをするが……もしかしたらバレているのかもしれない。

  この先輩は、本当に勘が鋭いから。

 

「着いたよ、ここがはるかの家」

「え……ここがですか?」

「ふふ、大きいよね。私も始めて呼んでもらった時は驚いたもの」

 

  造りは恐らく欧米風。

  スパニッシュデザインとモダンな雰囲気が上手く調和されており、映画等の撮影に使われていそうだ。

  表札を見れば確かに「森島」と言う文字が表記されており、ここが先輩の家で間違いない。

  芝生の引かれた庭には、ガーデン用の白い机と椅子が置かれており以前先輩との会話で出てきていた物だと気付いた。

 

「橘くん、用意は良い?」

「……はい、いつでも」

 

  深く息を吐き出し、そしてまた息を吸い込む。 嫌でも緊張しているのが実感出来た。

 

「そんなに気を張らないで、大丈夫だから」

 

  何故だろう。

  その一言で随分と肩が軽くなった気がする。

  もう一度深呼吸を行ったタイミングで、塚原先輩がインターホンを押した。

 

 




4月からの準備を始めた為、もしかすると次回の更新は遅くなるかもしれません。

閲覧ありがとうございました。


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12月-⑦

新生活早々、風邪を引き寝込んでいました。
皆様も、お身体に気をつけて日々をお過ごして下さい。


では、本編の方をどうぞ。


  インターホンが押されたことにより、それに伴いチャイム音が鳴り響く。 流れたその音は、近所のコンビニエンスストアの入退店を知らせるものと同じものであった。

 

『……はい、森島です』

「あ、はるか? 私だけど」

『響ちゃん……』

「連絡もせず、突然ごめんなさい。聞いて欲しい事があるの」

『……うん』

「今ね、橘くんもここに来ているんだ」

『……何で』

「彼独りならはるかは動かない、動けない。だから、私も来たの」

『……そうなんだ』

「彼と話出来る?」

『………』

 

  それもそうよね、と塚原は小さくそう落とす。 そう上手く話が進むとは思っていなかった。 自分が同じ立場であれば、言葉を並べて言いくるめられたのだろうと思案するからだ。

  だからと言って、ここで引く事は勿論出来ず、そもそも選択肢に存在しなかった。

 

「はるか、お願い。話だけでも聞いて欲しいの」

『……橘くんもそこに居るのよね?』

「ええ、居るわよ」

『……そっか、分かった』

 

  通話終了を知らせる音が鳴ってから少し過ぎた頃、沈黙を破り閉ざされていた玄関の扉が開いた。

 

「……はるか、ありがとう」

「お礼はまだ早いよ響ちゃん。――――久しぶりだね、橘くん」

「お久しぶりです……先輩、僕は!」

「ちょっと待って」

 

  純一が言葉を紡ごうとした矢先、森島はそれを直ぐさま制する。 その言葉を聞くや否や、途端に純一と塚原は顔を青ざめた。

  一呼吸置いて、二人から視線を外し森島は言葉を続けた。

 

「……落ち着いて話をする為にもね」

 

  示されたのは家庭用ガーデンセット。

  そこから読み取れる意図として、互いを考慮している事が伺える。 もたらされた安堵によって、二人の引いていた血の気は無事に戻る事になった。

 

「先輩、誤解を招かせてしまってすみません。あの噂は、根も葉もないモノなんです」

 

「あの写真が偽物だと、確かな証拠を示す事は今この場では出来ません。でも、噂にあった様な事を僕はしていません」

 

「先輩……僕を、信じて下さい」

 

  アルミ質の椅子に腰をかけるなり、純一は

 矢継ぎ早に言葉を紡ぎ森島へと思いの丈を伝えた。

  しかし、森島の表情は依然として暗いもののまま。 純一がどれだけ言葉を並べようとも、負ってしまった傷は根深く心に住み着き、簡単に癒えてはくれなかった。

 

「はるか、やっぱり信じられない?」

「……わかんないよ」

「そうよね、だから今日はこれを持ってきたの」

「……これって」

 

  紺色のショルダーバッグから取り出されたものは一冊のノート。 どこにでも売っているような、ごく普通の大学ノートだ。

 

  ただ――――違う点を挙げるなら、それは森島へのメッセージが詰まっているというところ。

 

 自分があれだけ酷く言われているにも関わらず、それでも尚森島を助けようとする純一に、胸を打たれた神代のとった行動がそれだった。

 

「クラスの皆が、はるかにって。橘くんは、誰に何と言われようと自分を曲げなかった。酷い逆風の中で、自分の意思を貫いたの。そのノートは、それの証――――これでもまだ信じられない?」

 

  森島の瞳からつうっと一筋の涙が流れ、やがてそれはボロボロと大きなものへと姿を変えていった。

  とめどないと言わんばかりに、涙は止まるところを知らない。

  森島は泣いた。

  ただひたすらに、二人の前という事も忘れて泣いた。

 

「――――落ち着いた?」

「……うん」

 

  それから暫くして、優しく問われた質問に森島は小さいながらも頷きを返した。

  そして純一に視線を向け、微笑みながら言葉を落とす。

 

「君はホントに……いつでも一生懸命だね」

「先輩……」

「ごめんね橘くん、迷惑かけちゃった」

「先、輩……」

「もう……泣いちゃうなんて……ズルいんだから」

 

  二人の目尻に、熱いものが込み上げる。

  互いに見つめ合い、顔を赤らめては伏せるという見事なシンクロがここに生まれていた。

 

「……せ、先輩!」

「どうしたの?」

「あの、お話したいことが――――」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

  森島邸を後にした二人はバス停へと歩みを進めていく。 最寄りのバス停まで後少し、交差点へと差し掛かったところでふと純一は足を止めた。

 

「……行くのね」

「はい」

 

  塚原の問いかけに、純一は短いながらも力強くそう言い放った。

 

  ――――余計な心配は、するだけ無駄ね。

 

「先輩、色々とありがとうございました」

「良いのよこれくらい。貴方なら大丈夫、頑張って」

 

  塚原の言葉に頷いた純一は、後ろを振り返ること無く走り出す。

  まだ事は済んでいない。

  待たせているのだ、独りの少女を。

 

  目指す場所は、いつかの公園。

 

 

「……やっぱり、ここだったか」

 

 

  純一がその場に到着するなり、丁度17時を知らせる自治会の放送が辺りに鳴り響いた。

  この時刻になると、陽は沈みかけ辺りは暗闇に包まれ始める。

 

  ――――初めて出逢った時も、確かこんな感じだった様な。

 

  脳裏に過ぎるのは七咲との邂逅。

  あの時はあまりの衝撃に、当初の目的を忘れて暫くその場で呆然としていた憶えがある。

  それから程なくして、今度は体育館裏で二人は再会を果たした。 そしてこの時もまた、純一の視線は七咲が制服の下に身につけているであろうものに釘告げになっており、その場には微妙な空気が流れた。

 

  ――――あの時からだ、七咲との距離が近くなったのは。

 

  美也を通して、中多を通して、塚原を通して、そして、森島を通して。

  純一は七咲逢という人を知り、七咲も橘純一を知っていった。

 

  そんな二人は今、深い亀裂に襲われている。

  それを埋める為に、純一は今この場に立っている。

 

「……七咲」

 

  視線の先に、ブランコに腰を下ろした七咲の姿を捉えた純一はその名を呟く。 これまでに何度も見てきたその背中を、見間違う筈が無かった。

 

  距離にして凡そ1m程。 そこまで歩み寄ったところで、七咲の口が動きを見せた。

 

「……私、嘘をつきました」

「……嘘?」

「“あの人”には、もう気にしていませんと告げましたが、本当のところは整理がついてないんです」

「……七咲」

「許します、とも伝えましたがどうしてあの時……と、今もそう思ってます」

 

  表情こそ見えないが、純一には今の七咲がどんな面持ちで言葉を選んでいるのかが痛いほど理解することが出来た。

 

「今から話すことは、全て私の独り言です」

 

  そんな純一を知ってか知らでか、七咲は体勢を変え純一と向き合う形を取ってから言の葉を紡ぎ始めた。

 

「私は……先輩が好きです。こんな想いは、初めてのことでした」

 

「不思議です。避けようとすればするだけ、私の中の先輩に対する想いは強く、大きくなって」

 

「聞いたことがあるんです。好きの反対は無関心。嫌いの反対は好きなんだって。私は先輩に対して……無関心になれなかった」

 

「だから、先輩の噂が否定され始めたと訊いた時、本当に嬉しかったです」

 

「先輩は、お世辞にも勘が良いとは言えません。その鈍感な人が、やっと気付いてくれたのかも知れない……そう思いました」

 

「でも、違いました。先輩の中のヒロインは――――森島先輩だった」

 

「ホント、バカだと思います。自分から距離を置いて、先輩から離れておいて、風向きが変わればそれに縋ろうとするなんて……」

 

「都合の良い自分が、嫌いになりました。ぬか喜びは、辛かった。私だって……先輩が好きでした」

 

「初めて逢った時から、きっと先輩に惹かれていたんです。不思議な魅力を持った、その優しい眼差しが私の心を揺さぶるには充分でした」

 

「……私は、自分でその想いを汚してしまった。誰よりも、先輩のことを想っていたはずなのに、信じることが出来なかった……」

 

「酷い態度をとって、すみません。先輩のこと、今もまだ好きですみません…………弱い私で、すみません…………」

 

  必死に目を溜め、羞恥や憤怒から来る身体の震えに七咲は必死に耐えた。 そんな七咲の様子を見た純一は、気付けば手を伸ばそうとして、その手は何も掴むこと無く下げられた。

 

 ――――僕は、なんて無力なんだろう。

 

「……七咲」

「……はい」

 

  顔を伏せ、必死にその表情を見られないとする七咲に対し、純一は想いを吐露していく。

 

「本音を聞かせてくれて、ありがとう」

「……」

「あの子のことを、表面上とは言え許してくれてありがとう」

「……っ」

「謝ってくれてありがとう。七咲は優しいから、この話もまた自分の弱さだと数えるんだろうね」

「……先、輩」

「……僕は、七咲の気持ちに応えることが出来ない……けど――――逢えて良かった。心からそう思うよ」

 

  溢れ出す感情に、遂に涙腺は耐えられなくなり決壊を起こす。 ブランコの椅子を支える銀色の鎖を強く握り、七咲は感情が溢れ出すまま涙を流した。

  純一は悔いた。 強く悔いた。 何も出来なかった自分を悔いた。 持ち前の優しさ故に、誰にも助けを求めることが出来ず、独り苦しみ続けた少女を、七咲を助けられなかったことを悔いた。

 

  謝罪の言葉は口に出さない。 口に出せば、七咲はまた自分を責めることになると解っているからだ。 だから、心の中で何度も繰り返す。

 

  ――――ごめん、七咲。

 

  ――――僕がもっとしっかりしていたら……。

 

  ――――ごめん、七咲。 ごめん……。

 

  それから暫く時間が立ち、七咲はひとしきり泣いた後その場から立ち上がった。

 

「……先輩」

「何? 七咲」

 

  純一の優しさが篭ったその返しに、七咲は再び胸の奥が熱くなるのを感じる。 が、今はそれに浸っている場合では無いと小さく息を吐き、しっかりと純一の量の目を見て言葉を告げた。

 

「先輩、仲直り……してくれませんか?」

「――――うん、仲直りしよう七咲」

 

  手を取り合った二人はしきりに笑い合い、そしてどちらとも無く手を離し目を見つめ合った。

 

「明日はとびきり美味しいおでんを作って待っています。是非、食べに来てください」

「……うん、ありがとう七咲」

「……では、失礼します。 先輩――――また明日」

「あぁ、また明日。気をつけて帰るんだぞ」

 

  ――――そっか。明日は、創設祭……クリスマスイブだ。

 

  七咲が去った後、公園のブランコに腰を下ろした純一は、既に暗くなり冬の星々が顔を出した空を見上げながら独りそう呟いた。

 

 そして日付が変わった12月24日。

 

 この日輝日東高校は、創設祭を迎えた。

 

 

 

 




今回の話は、この拙作を書き始める前から考えていたポイントだったので内容を厚くしたかったのですが今の私ではこれが限界でした。
後日、時間が出来次第何か書き足すかも知れません。

後数話で、創設祭編も終了予定です。
閲覧、ありがとうございました。


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12月-⑧

アマガミ、10周年おめでとうございます。


「あ、あの……! た、橘くん!」

「は、はい?」

「うう……え、えっと、その……手紙! 読みました……」

「……手紙?」

 

  時は遡ること、金曜日の放課後。

  突然の事に純一は酷く困惑していた。

  ふぅ、と大きく息を吐き、焦る気持ちを落ち着けるように務める。

  そうして押し寄せる情報の波を整理していった。

 

『橘くん、創設祭に使う備品を取ってきて欲しいんだけど――――』

 

  事の始まりは絢辻の一言。 特に断る必要性も感じなかった純一は、資材倉庫に足を進めたのだが――――果たして事件は起きた。

 

  部屋に着いたは良いものの、そこにお目当てのものは無く、代わりにと一人見知らぬ女性が佇むだけ。 それに追い討ちをかけようと言わんばかりに少女の口から“手紙”という名が飛び出した。

 

  少女の言う“手紙”とは一体何なのか。

 

  これは一体どういうことだ、と純一は思考を巡らせるも、まるで見当がつかない。

 

「……君が誰に貰ったのか分からないけど、僕は手紙なんて書いてない」

「そ、そんな! ウソっ! ちゃんと貴方の字だった!」

「そうは言われても……ん?」

 

  少女の言葉に、純一は僅かだが違和感を感じとった。

 

「……君はさっき、『貴方の字だった』って言ったよね?」

「う、うん……それがどうかしたの?」

「この高校で、僕と君が同じクラスになったことは無いと思うんだ。――――どうして僕の字を知ってるの?」

「そ、それは……」

 

  言葉が出てこないのか、少女は言い淀む。

  その姿を見るや否や、純一の脳内は目まぐるしい回転を始めた。

 

「えっと……今更ごめんね、ホントは直ぐに訊くべきだったんだけど。君の名前を教えて貰ってもいいかな?」

「か、上崎――――上崎裡沙です」

「上崎さん、か。訊いてばかりで悪いけど、続けて良いかな?」

「……ど、どうぞ」

「自分で言うのもあれな話なんだけど、最近校内で僕の噂が色々と流れてるのって知ってる?」

「……はい」

「それで、僕が女の子と仲良くしてる写真が出回ってるみたいなんだけど――――上崎さん写真持ってたりする?」

「えっ! う、ううん……持ってない、けど……」

 

  確信。

 

  それに近しいモノを純一はその言葉から感じた。 写真の件を知っているのは、実際に見たであろう森島に七咲。 話として聞いている塚原に、相談を持ちかけた棚町と梅原、そして主人という僅かである。 その根拠として、写真の存在が噂に持ち上がった事はこの騒動において一度も無い。

  それにも関わらず、先程の会話の際に上崎は純一の質問に対し明らかな狼狽を見せた。

  写真の事を知らなければ、あの様な反応はしない。

  出回っていない筈のものが、出回っていると聞いて上崎は焦りを見せた。

 

  つまりはどういう事なのかと言うと、

 

「――――君が噂を流したんだね」

「ち、違う! あたしは……」

「……違わないよ。写真を知らなかったら、あんな反応はしないと思う」

「……証拠はあるの?」

「さっきの写真が出回っているって話、あれ嘘なんだ。――――ごめんね」

「え……」

「写真の存在を知っているのはホントに少数だけ、限られた人だけなんだ。僕の周りにいてくれる人たち、それと――――犯人」

「…………」

「上崎さんは、それを知っていた。理由としてはこれで充分だと思う」

「…………凄いね」

 

  何とか絞り出した、そんな声が上崎の口から落とされた。

 

「思ってたより、頭が切れるんだ」

「……蒔原さんの時も、君が?」

「……全部お見通しかぁ。凄いね、橘くんは」

「僕は別に凄くなんてないよ。それより聞かせて欲しい――――どうしてこんな事をしたの?」

 

  純一の問い掛けに、上崎は思わず顔を曇らせる。 とても哀しげに絞り出すような声色に心が傷んだ。

 

「そうだね、貴方は知る権利があるから」

 

  聞いてくれる? と上崎は言葉を落とした。

 

 

 

 

  * * *

 

 

 

 

  きっかけは、一つの出来事だった。

 

  二人がまだ小学校3年生の頃、ある日の昼休みの事である。

 

  給食の片付けが進み、教室は賑やかな雰囲気に包まれている。 そんな中、少女――――上崎裡沙は教室の片隅で独り小さな身体を震わせ目に涙を浮かべていた。

  上崎は今日転校してきたばかり。 大人しい性格で、まだ友達の出来ていない上崎にとって頼れる者は担任の教師だけだ。 しかしその頼みの綱であった教師も、教室の外で給食当番の子供たちと共に食器の片付けを行っている最中である。

  少女の希望は絶たれ、独り格闘する時間が延々と続く様に思われた――――そんな時だった。

 

「牛乳飲まないの?」

 

  少年の言葉と共に、少女の元に一筋の光が舞い込んだ。

 

「……牛乳……嫌いなの」

 

  突然の出来事に、直ぐに言葉が浮かぶことはなかったが何とか返答する上崎。 独り絶望の中に取り残された気分を味わっていたため、尚のこと反応は遅れてしまう。

 

「――――じゃあ僕がこれ貰ってもいい?」

 

  そんな上崎を気遣ってか、その少年は優しい申し出を行なった。

 

「あ、ありがとう……」

「ううん、僕の方こそ牛乳ありがとう!」

 

  一瞬で牛乳瓶の中身を空にした少年は、歯を見せ朗らかに少女に笑いかける。 その笑顔は少女を照らし、少女は自身の胸が温かくなるのを静かに感じた。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

「覚えていないみたいだけど、あたしはね、小学校も貴方と同じだったの。とは言っても、引越しの関係で転校してきたから途中からだけどね」

 

「小学校の時って、給食残しちゃダメだったでしょ。あたし苦手な物が幾つかあるの。焼き魚、酢の物、ゴーヤ……それと牛乳。 特に牛乳が嫌いで、どうしても飲めなかったの」

 

「転校する前の学校では残しても良かったのに、あの学校では駄目だった。どうして転校してきたばかりのあたしにこんな意地悪をするんだろうってそう考えると余計に飲めなくて、独りで悲しくなってた」

 

「そんな時にね、橘くんが牛乳を飲んでくれたの。それから毎日、あたしの牛乳を飲んでくれた」

 

  上崎がそこまで紡いだところで、純一は力無く頭を垂れる。 彼女はここまで明瞭に記憶しているのに、何故自分は朧気どころか覚えてすら無かったのだろうか。 そう思わずにはいられなかった。

 

「……ごめん、覚えてなくて」

「ううん、いいの。あたし、目立たない地味な子だったから」

 

  だから気にしないで、と純一の謝罪を受け取った上崎は、更に言葉を続けていく。

 

「大袈裟だと思うかもしれないけど、あたしにとっては特別なこと。橘くんのことが、本当の王子様みたいに思えたの。それからずっとずっと、貴方のことを見て来た」

 

「なのに、あの人は……蒔原さんは、橘くんを友達と馬鹿にする為に、自分のステータスの為だけに貴方の誘いをふざけて受けて……許せなかった!」

 

「あたしは橘くんのことずっと本気で好きだったのに、橘くんが好きになった人ならって諦めようとしてたのに……」

 

「だからねあたし、橘くんからの伝言だって言って、嘘の待ち合わせ場所を伝えたの」

 

  なるほど、と純一の中で探していたピースが当てはまった。 少し前の事、丘の上公園で蒔原と偶然とは言えど再会を果たした時のことを思い出す。

 

「……それで僕は独り残されたわけだ」

「ごめんなさい。結局あたしの行動のせいで、あの時橘くんはとても傷ついてしまった」

「……今も、良い思い出は無いよ」

「そう、だよね……だからあたし、あの時橘くんを守れなかった責任を感じて貴方に告白しないって決めたの」

「上崎さん……」

「でも、最近橘くんが2年前のことを乗り越えようと、積極的に女の子たちと仲良くしているのを見てあたし思ったの。また橘くんが他の女の子に傷つけられたらどうしようって」

「……それで写真を使ったの?」

「……うん。橘くんにはもう付き合ってる人がいるって、でっち上げの証拠写真まで作ってみせて」

「何で、そこまで……」

「さっき言った通りだよ。他の女の子じゃ橘くんを傷つけるかもしれないと思ったって。だからあたし、橘くんと距離が近い森島先輩と七咲さんを傷つけたの……」

「…………」

「……本当にごめんなさい。謝って済む問題じゃないと思うけど……」

 

  沈黙を破ってそう言った上崎の身体は小さく震えている。 少しばかり視線を逸らすと、目に入ってきたのは握りしめられた両の拳。 制服の袖から覗く指先の血色が赤く変化している様子から、その心の内をある程度純一は察した。

 

「……あたしって、ホントにズルいね」

「そうだね……ズルいかもしれない」

「貴方を守るためって思い込んで……でも、それは嫉妬だったのかも。橘くんを、他の人に取られたくなかっただけ」

「……っ、でもそれは」

「貴方に幸せになって欲しかった。それだけだったのに、他の人から幸せを奪っちゃ……駄目だよね」

「――――理由はどうとあれ、上崎さんは人を傷つけた。これはやっちゃいけないことだよ」

「だね…………あたし、迷惑をかけた人全員に、謝らなきゃ……沢山酷いことをしちゃった」

「うん。それに気づいてくれたなら、僕のことはもう気にしないで」

 

  膝から崩れ落ちた上崎の目からは、涙が堰を切ったように流れ出す。

  彼女は彼女なりに画策し、最善を求めての行動だったのだと純一は深く理解していた。 ただ、そのやり方が間違っていた、それに尽きる。

  人間に過去を変える力は備わっていない。 起きてしまったことはもう変わることの無い事象である。 しかし反省し、次に活かす力もまた持っているのが人間という生き物だ。 自身の行いの過ちを認め、改善に努めようとする者を責める気など純一には毛頭無かった。 人を赦せるこの性格が、彼が橘純一として人に好かれる所以である。

  そっと優しく、震える身体を支えながらその背中を撫で続けていく。

  資材倉庫に、上崎の嗚咽だけが鳴り響いた。

 

 

 

 

 

  * * *

 

 

 

 

 

  一頻り泣き終えた上崎はそっと顔を上げる。 流した涙の影響で目のあたりがやや腫れているが、顔つきはどこか晴れ晴れとしている様子が見て取れる。

 

「ありがとう橘くん。もう、大丈夫だから」

 

  上崎はおもむろに立ち上がり、落ち着いた所作で制服の裾に付いたであろう埃を払っていく。

 

「落ち着いたみたいだね」

「迷惑ばかりかけて、本当にごめんなさい」

「……僕のことはもう気にしなくていいよ。それより二人に、ね」

「うん。じゃあ、あたし行ってきます」

 

  上崎は純一に頭を下げると、県内でも有数の屋内プールで部活動に励んでいるであろう七咲の元へと向かう。

  途中で視界に捉えた時計はもうすぐ17時を示そうとしている。 基本的に部活動は18時を迎えれば終了となるが、校内でも力を入れている水泳部、剣道部、硬式野球部といったところは時間を延長して活動することが学校によって許可されている。 その為今屋内プールを訪れても七咲と対面できないのは自明の理であるが、そんなことはお構いなしに上崎は足を進めた。

  自分はあくまで謝罪をさせて(・・・)貰う側だ。 傍から見れば、自己満足とも取れる行動かも知れないことも理解している。

 部活動を終え体力を消耗しているところに突然押し掛け、尚且つあの話を伝えれば七咲が精神的疲労を被ることも想像に容易い。

  しかしそれでも、七咲に掛けてしまった枷を取り除くにはその方法しか思い付かなかった――――

 

 

 

  上崎が資材倉庫を去ってから少し経った頃。

  当初の予定通り、指定された備品を探そうと棚を眺めていると不意に入口に影が差した。

 

「あれ、どうしたの絢辻さん」

「さっき橘くんに頼み事をしたでしょう? 帰って来ないから少し心配になって」

 

  絢辻の言葉通り、純一が資材倉庫に向かってからかなり時間が経過していた。

  慌てて頼まれていた備品を探すために部屋中に視線を巡らせ、ふと違和感を感じた。

  そしてその違和感はあっという間に意識に浸透していく。 普段使わない資材倉庫に、手紙を見たという女子生徒が待っており、しかもその彼女が現在輝日東高校を騒がせている噂の元凶だったのだ。 あまりにも、出来すぎている。 それこそドラマや映画の脚本のように。

  そう、まるで誰か意図を引いているように。

 

「絢辻さん、まさか君が」

「ご明察。橘くんが考えている通りだと思うわ」

「……ありがとう、で良いのかな」

「お礼なんて要らないわ。あたしが勝手に動いただけだもの」

「……そっか」

「でもごめんなさい、強引な手段を取って」

「そうだね、確かに強引だったかも」

 

  点と点が繋がったことに、純一は安堵のため息を漏らした。 確かに、絢辻ならばクラスメイトである自分の字を知っていてもおかしくは無い。 何より絢辻ならば一連の流れをやってのけても不思議では無いと納得がいくものである。 何でもこなせる万能すぎる人物として、純一の中で絢辻はイメージが定着していた。

  改めてその絢辻を見て、そして肩を竦めた。

 

「何?」

「やっぱり絢辻さんは凄いな、って」

「そう、それはどうも」

「……絢辻さん、ひょっとして怒ってる?」

「あら、どうしてそう思うのかしら?」

「こうなんというか、いつもと雰囲気が違うような感じがして」

「気の所為よ」

「そうは思えないんだけど……」

「そんなことより、明日は森島先輩に会いに行くんでしょう? そろそろ帰って身体を休めた方が良いと思うけど」

「……うん、そうだね。じゃあ、僕はこれで」

「ええ、気を付けてね」

 

  疲労感を感じていた純一は、大人しく絢辻の言葉に従うことにした。 今日一日の情報量はあまりにも濃く、そして多すぎた。 ここ最近は噂のせいもあって精神的にきついモノがあったのは事実である。 そこに加えてあの上崎の話は、純一を疲弊させるのに充分すぎる力を孕んでいた。

 

「どうしてあたしの周りにはこうもお人好しが過ぎる人ばかり居るのかしら」

 

  今のままでは埒が明かない、といつか主人がして見せたように手紙を利用したが、よくよく考え見ればそれは失礼極まりない行為だったように思える。 事件を解決するためとは言え、彼女の想いを利用したのである。 結果的に、事件は好転を見せたがリスクは十二分に存在していた。

  上手くいったものの、その過程は決して褒められるべきものでは無いと絢辻は感じていた。

 

  全く嫌になる、と純一を見送った絢辻は踵を返し、上崎が向かったであろう場所に歩みを進めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






随分と久しぶりに帰ってきました。
実に一年ぶりとなる投稿です。

相も変わらず地の文に苦戦していますが、次話も目を通していただけると幸いです。

感想、批評お待ちしております。


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12月-⑨

遅くなりましたが、パワプロクンポケット20周年おめでとうございます。
これからも楽しく遊んでいきたいですね。


  ――――夢を見ている。

 

  ――――忘れもしない、あの日の記憶。

 

  ――――2年前の、あの雪の日の夢を。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

  街を暖かく照らしていた陽は姿を隠し、辺りは夜の帳に包まれている。 灯りは一つ、頭上を白く照らす街頭だけ。 周囲を見渡すが、その先にはひたすらに闇が広がっている。 雪がしんしんと降り始め、冬の寒さが猛威を振るう。 堪らず身を屈めてベンチに座り、必死に身体を摩るがその効果は薄い。 寒さで気が狂いそうになる。 それでもこの場から立ち去ることは出来ない。

  約束をした。 少しばかり悩む素振りを見せていたが、それでも確かに彼女は頷いてくれた。 だから、それを果たす前にこの場を離れることは出来ない。 約束とは守るべきモノだと、守って当然のものだとそう思っていた。 きっと彼女は来てくれる、そう信じていた。 だから震え上がる身体に鞭を打って、約束の場であるベンチに座り彼女を待っていた。

 

  しかし――――それにも終わりがやって来る。

 

  ふと気がついた時、静寂(しじま)を破るようにやけに大きく時計の秒針を刻む音が耳に響いた。 ダッフルコートには雪が積もっており、少しばかり呆けていたのを自覚させられる。 手元の携帯には幾つかの着信履歴が入っており、その中身は見知った顔ばかり――――そこに彼女の名は無かった。

  約束の時間はとうに過ぎている。 あの日、確かに彼女と交わした約束が果たされることは無かった。 こうなる事を考えなかった訳では無い。 もしかしたら来てくれないかもしれないと、少なからず思っていた。 予定の時間を過ぎても連絡が来ないことから、嫌な予感を薄々ながら感じていた。

 

  そう考えていても、足掻きたかった。

 

  苦くて辛い、聖夜の夢。

 

  意識が深く沈んでいく。

 

  そんな夢の中で、

  微睡んで、微睡んで、微睡んで――――

 

「――――橘くん」

 

  白い光の人影に名前を呼ばれて目を覚ます。

 

「……っ、待って!」

 

 伸ばした右手が掴んでいたのは虚空であり、視界はぼやけて、頬を涙が伝っていくのを感じた。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

「……また、あの夢か」

 

  耳元で鳴る目覚まし時計の音で目が覚めた。

  見ていた夢は、苦々しい思いを胸に残して簡単には消えてくれない。

  深く深く、刻み込まれた失恋の記憶だ。 この時期になると、どうしても意識をしてしまう。 だけど、それはもう乗り越えた。 過去は過去であり、いつまでも引き摺るのは辞めた。

 

  沈んだ気持ちをかき消すために、欠伸を噛み殺しながら両手を持ち上げ目一杯伸ばす。 押し入れと違い、ベッドの上では天井の距離を気にすること無く伸びが出来る。 寒い冬の朝を乗り越えるにあたって習慣化すると良いモノを公に教えて貰ったが、その効果は覿面なように思う。

  まずはカーテンをミラーカーテンに変更し、朝日を取り入れる為にレースを取り付けた。 カーテンレールにサンキャッチャーを付けるのも忘れない。 こうすることによって、晴れの日には朝日を効率的に浴びることが出来るようになるらしい。 何でも朝日をたっぷり浴びることによって、脳が活性化されてスッキリと目覚められるんだとか。 ソースは公曰く偉い人とのこと。 偉い人、脳裏に浮かぶのは一人の淑女の姿。 野崎さんだろうな、きっとそうに違いない。 いや、夏目さんという線も考えられる。 どちらにせよ大した違いはないのだが。

 

  簡単なストレッチを済ませた後は、昨夜のうちに準備しておいた水を口に含んでいく。 良く冷えた水が、身体に染み渡っていくようなこの感覚が堪らなく好きだ。 ついつい飲み過ぎてしまいそうになるが、腹痛を起こしては元も子も無いのでそこは頑張って押さえ込んでいる。 ここまで進むと意識は覚醒しており、仕上げに部屋の換気を行って目覚めの工程は終了となる。

  押し入れは押し入れで落ち着くし、自分だけの世界を楽しめるからと気に入って利用していたが、どうやら風水的には良くないらしい。 風水なんて眉唾なことは信じない、とその話を一蹴したかったが、状況が状況だ。 出来る手は全て打たないと損をする、そんな風に考えてしまう。 人事を尽くして天命を待つとは良く出来た言葉だと思う。

  着替えを終えたところでカレンダーに視線を移す。

  今日は12月24日――――輝日東高校創設祭だ。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

  遠前町と言えば夕焼けと続く様に、ここ遠前町は夕焼けの名所である。 とりわけ丘の上公園から見える夕日は美しく、陽が輝日東湾に沈んでいく様を眺めるのが純一は好きであった。

 

「ごめんなさい、待たせちゃったね」

「いいえ、今来たところですよ」

 

  橙色に染まった輝日東湾から視線を外して、純一は声が聞こえた方向にそう返す。 いつの間にか左腕に付けた腕時計は約束の時刻を迎えており、幾許かの間景色に魅入られていたことを純一は実感した。

 

「ふふっ、やっぱり橘くんは優しいね。ホントは少し前に着いてたんだけど、遠くから見てたの」

「え、それならもう少し早く声を掛けてくれても」

「ううん、あんな表情で眺めてる人の邪魔なんて出来ないよ」

 

  時間になったから声をかけたけどね、と森島はふわりと笑う。

 

「気遣ってくれてありがとうございます、先輩」

「いいのいいの、気にしないで」

「はい……あ、あの先輩」

「うん、そうだね。話って何かな?」

 

 

  穏やかな雰囲気から一点、森島の表情は真剣なものになる。 わざわざこの場での対話を望んだのだ。 二人にとって――――少なくとも純一にとって重要なモノだと、昨日話を受けた時から森島は感じていた。

 

「先輩は、去年のクリスマスにここで僕と会ったことって覚えていますか?」

「え、橘くんと!?」

「……はい。風が一段と冷たい日のことです」

 

  昨年の創設祭の後日――――12月25日のことだった。

  輝日東高校に入学して初めての創設祭はトラウマの影響で学校に入る事すらままならず、親友の梅原正吉、主人公らと共に純一はその年のクリスマスイブを過ごすことになった。

  気をつけて帰れよ、と翌朝梅原に見送られ共に居た主人も帰路に着いた。 しかし、このまま帰宅するのはどうも気が乗らない。 家に帰れば、十中八九妹の美也が忙しなく駆け寄って来るであろうことが想像に容易いからである。 今帰宅しようがしまいが結果には些細な違いしか生じないと割り切り、自宅に向けていた重い足取りを方向転換した。

 

  遠前町の外れに存在するここ丘の上公園からは、純一たちが過ごす遠前町を一望することが出来る。 それに加えて本日は晴天。 眼下に広がる輝日東湾は一際輝きを魅せ、純一はその雄大さに息を呑んでいた。

  しかし、それを持ってしても心に巣食う不快感は拭い切れず、あの日と同じベンチに腰を下ろして深く深く溜め息を吐いた。

 

  そんな彼の視線の先に、唐突に影が生まれた。

  その様子を怪訝に思った彼は落としていた視線を持ち上げると、こちらに向かって微笑む独りの女性の姿を捉えた。

 

  ――――貴方も見に来たの? 今日は良く見えるわよ。

 

  始まりの会話は、輝日東湾の奥に位置する山に関してだった。 彼女に言われて、純一も初めてその山の存在に気が付いた。 彼女曰く、天気が良くないと中々お目にかかることは出来ないらしい。 これは得をした、と少し気分が明るくなった。

  ふとここで、彼女はここで何をしているのかが気になった。 まさか山を見るのが趣味という訳でもあるまい。 純一のその視線に気付いたのか、彼女は笑ってこう答えた。

 

  ――――君と同じ理由だと思うよ。気分転換て、ところかな?

 

  成程、と純一はひとり納得した。

 

「あの時の僕は酷く落ち込んでいて……、これからどうやって過ごせばいいのか分からなくなっていたんです」

 

「でもあの日、笑顔で声を掛けてくれた森島先輩に、海の向こうに見えた綺麗な景色のおかけで……」

 

「本当に救われました。こんな素敵な人でも、悩みを抱えているんだなって。勝手だけどそう思うと、気が紛れました」

 

「それから暫くして、先輩と同じ学校だって分かった時は本当に嬉しくて……」

 

  茜色の空の下、純一がここまで紡いだところで森島がハッとしたように声をあげる。

 

「ど、どうしました先輩?」

「そっか! そうだったんだね! 橘君が公園くんだったのね!」

 

  こ、公園くん……、と純一は呆気に取られてしまう。

 

「あっ、ごめんね勝手にあだ名をつけて。あの時お互い名乗らなかったから名前を聞いてなくて」

「確かに、そう言えばそうでしたね」

「……ふふっ、実はね、私にとっても、あの時に出会った事が凄く印象的でね」

「……え?」

「響ちゃんに、公園で面白い子に会ったって話をしたかったんだけど、呼び名がなくて困ったから……公園くんて呼んでたんだ」

「そうだったんですか……」

「うん、あ……今まで思い出せなくてごめんね」

「い、いえ、いいんです」

 

  何だか恥ずかしいね、と森島は髪を耳に掛け直す。 そんな仕草さえも追ってしまう自分の目に、純一も純一でむず痒い思いをしていた。

 

「……あの日、私がこの公園に来たのは、ちゃんとした理由があったからなの」

「気分転換て、言ってましたね」

「うん。私、3歳の頃から飼っていた犬がいたの」

「あ、前に写真を見せてもらった」

「うん、そのジョンよ。私、ジョンが大好きで毎日散歩しててね、ジョンはこの公園が好きで毎日来てたの。でも、2年前のクリスマスの日に死んじゃったんだ」

「そうだったんですか……」

「それから一年間、ジョンの事を思い出す度に落ち込んでいていたんだけど……このままじゃジョンにも心配をかけちゃうと思ってあの日公園に行ったの」

 

  あの日彼女が来ていた理由は何だろうか、と数えた事は一度や二度では無い。 しかし、この理由には至れなかった。 森島は家族の死を乗り越える為にあの場に訪れていた。 それに比べると、何だか自分の悩みが酷くちっぽけなように純一は思えた。

 

「そしたらなんとね! ジョンが好きだったベンチに男の子が座ってるじゃない?」

「それが僕だったんですね」

「うん。ジョンがしょんぼりしている時と同じ感じて座ってたの。それでもう放っておけなくて」

「……そうだったんですか。なら、僕はジョンに感謝しなきゃいけませんね」

「え、どうして?」

「ある意味、ジョンのお陰で先輩に会えた訳ですし」

「ふふっ、そう言われてみればそうかも。ジョンと同じように、ベンチでしょんぼりしてたものね……」

「はい。今度お線香あげさせてください」

「わお! それはいいわね」

 

  ジョンも喜んでくれるわ、と森島は空を見上げながらそう話すと、トートバッグから小さな魔法瓶を取り出して喉を潤していく。 ルイボスティーの香りが辺りに漂った。

 

「……あのね橘くん」

「何ですか?先輩」

「――――上崎さんがね、昨日あれから謝りに来たんだ」

「……え、そうだったんですか」

「うん、それから二人でしっかり話し合ったわ」

 

  二人の間に沈黙が生まれる。 時折吹く風の音が、耳に良く届いた。

 

「あの……先輩」

 

  暫くして、純一は重くなった口を開いた。

  その問いかけに森島は一つ頷いて続きを促す。

 

「先輩は、どう返事を返したんですか?」

「どうって?」

「いや、その…………許してくれたのかなって」

 

  おどおどしていると言うべきか、どこか遠慮がちな、様子を窺うように問いかける純一だったが、それを見つめる森島の方は対照的に可笑しそうに微笑んでいる。 それもそうだろう。 何せ彼女からしてみれば、純一の問いかけはまるで意味をなさ無かった。 答えるまでもなく、彼女の中で答えは一つしか無かった。

 

「ふふっ、勿論許したに決まってるわ。当事者の橘くんが許したんですもの、私が許さないわけにはいかないでしょ?」

 

  そう、純一が上崎を許した時点で、既に森島の中でこうすることは決まっていた。 一番苦しんだ純一が彼女を許したのだ。 ならばもう、彼女をこれ以上責め立てる必要は無いというものだ。

  勿論最低限のお小言は零したけどね、と森島は茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。

 

「……ありがとうございます、先輩」

「もう、君はいつもお礼を言ってばかりだね」

 

  そこが良いところでもあるんだけど、と森島はくすりと笑う。

 

「あはは、ありがとうございます」

「もう、お礼を言うのは私の方だよ。響から聞いたんだ、色々無茶をして大変だったんだって?」

「……どうでしょう、周りに助けて貰った自覚の方が強いですね」

「……うん、そっか」

 

  二人の間にまた沈黙が生まれる。 しかしそれは、以前までの気不味いモノではなく、どこか心地良さすら感じさせるモノであった。

 

「ねぇ橘くん――――今日何の日か覚えてる?」

「……はい」

「……ならこの先は、言わなくても分かってくれるよね?」

 

  そう言って森島は柔らかな微笑みを純一へと向けてみせる。

  遠前町は黄昏時を迎えていた。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

  初めは懐いてくれているんだなって思っていた。

 

  可愛くって、どこか放っておけない子。

 

  橘くんに対して持ってた印象はそんな感じだった。

 

  それだったのに――――。

 

  ゲームセンターに遊びに行った時。

 

  商店街で、大判焼きを買い食いした時。

 

  彼のアップルジュースを飲んじゃった時。

 

  トトスでシャイニングラバーズパフェを食べあいっこした時。

 

  天の川通り(ミルキーウェイストリート)のアウトレットモールに遊びに行った時。

 

  彼と会う度に、胸の奥が高鳴っていく。

 

  でも――――。

 

  彼と時間を過ごす度に自分の気持ちに蓋をして、目を瞑ってきた。

  彼が自分を好いてくれている、そんな筈はないって自分に言い聞かせた。

  彼は友情と愛情を勘違いしているだけだと決めつけていた。

 

  だって――――私と橘くんはただの先輩と後輩という関係で。

  中途半端に受け入れて、彼に幻滅されるのが怖かった。

  彼に幻滅されたくない――――それはつまり、拒絶されたくない、受け入れて欲しいという、そんな感情を抱いていることになる。

 

  こんな気持ちは初めてだった。 だからこそ、不安になって、必死に気付かない振りをした。

 

  以前から変わらず、私の心の深いところを見つめてくるような彼の瞳。

  大きくて、ぱっちりとしていて、優しさが滲み出ているその瞳に、いつしか私は魅入られていた。

 

  この気持ちの正体は、橘くんが既に教えてくれている。

 

  だから――――。

 

  その瞳が、他の女性に向けられていたと上崎さんから聞かされた時、私の世界から色は消えていった。 今までの思い出が全て幻だった様に感じた。

 

  でもそんな彼――――橘くんの視線の先には。

 

  棚町さんでもなく、桜井さんでもなく、中多さんでもなく、上崎さんでもなく、逢ちゃんでもなく、他校の見知らぬ彼女でもなく――――私がいた。

 

  その事実が堪らなく嬉しかった。

 

  からかうと赤くなって、照れちゃったりするところとか。 偶に見せる、男らしいところとか。 女子水泳部を覗いて響に怒られた時は、まるでジョンが怒られた時みたいにシュンとして、それでいて楽しい時は本当に可愛い笑顔を浮かべて。 隣に立つためと言って、自分を変えようと努力してくれる。

 

  そんな橘くんに――――いつしか惹かれていた。

 

  誰かが言っていた、「恋の始まりは予報外れの天気みたいなもの」という言葉。 私の中ではそれが不思議なくらい腑に落ちた。

 

  ――――ふふっ、やっと自分の気持ちに気付いたみたいね。

 

  ――――もう、響ちゃんの意地悪!

 

  響に諭されるまでもなかった。

 

  誤魔化して、誤魔化して、誤魔化し続けたこの気持ちに、向かい合う時が来た。

 

  彼は真っ直ぐに私を求めて来た。

  なら、私もそれに応える必要がある。

  その理由なら橘くん――――君に貰っているから。

 

 

『第57回ミスサンタコンテスト、栄えある優勝者は――――3年A組、森島はるかさん! おめでとうございます!』

 

 

「先輩、三冠達成おめでとうございます」

「ふふっ、ありがとう。橘くんのお陰だよ」

 

  最後まで出るか迷っていた三度目のミスサンタコンテスト。

  散々今日まで迷っておいて、実は密かに決めていたことがある。

 

「ねぇ橘くん」

 

  自分で定めた条件は既に整っている。 後は決行に移すだけ。

  気持ちは確認するまでもなく決まっている。

  私を今日まで見続けてくれた、その双眼を見つめて想いを口にする。

 

「私、橘くんのことが好き。ううん、大好きよ」

「――――僕もです、先輩。先輩が大好きです」

 

  互いにそっと、背中に腕を回し合う。

  二人の影が重なるのに、時間はかからなかった。

 

 

 

 




天の川通り
―― パワポケ8にて登場したミルキー通りが元ネタ。
―― 輝日東駅から電車で一駅先にある。

次話より、箱の中の猫――――絢辻さん√の締めに入ります。


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12月-⑩

 吐き出す息は白く染まり、冬の空へと溶けていくその様をじっと眺める。 季節が移ろうのは随分と早い。 正門に背を預け、少し前まではうんざりするほど暑かったのに――――そんなことを思いながら悴む両の手を擦り合わせて温めた。

 

「悪い、遅くなった」

 

 背後からの声に振り返れば、そこにはいつもと変らない見慣れた彼の姿があった。

 ここ輝日東高校では校則として、“ 如何なる部活動も下校時は制服を着用するように ”と定められている。 それは当然彼も例外では無くて。 野球用の練習着では無く、輝日東高校の制服に身を包んでいた――――ただし、頭部に被る野球帽を除いて。 そのアンバランスな格好に思わず苦笑いする。 そんな彼はほら、という声と共に制服のポケットから取り出したモノを手渡してくれた。

 

「パンダココア?」

「……間違えた、こっちだな」

「そんなに気を遣ってくれなくていいのに」

「珈琲は得意じゃないんだ」

「そういう意味じゃないんだけど」

「どういうことだよ」

 

 プルタブを開け、どこか恥ずかしそうにパンダココアを飲む彼の姿に口角が上がるのを感じる。

 

「えっと、絢辻?」

「あら、どうかしたかしら」

「いや、ちょっとな」

 

 主人くんへと視線を向けると、こちらの様子を窺うような表情が見て取れる。 彼は相変わらず、人の変化に敏感だ。

 

「野球帽と制服、合わないなって思ってね」

「……そんなにおかしいか? まぁ、鞄に仕舞うと形が崩れるからってのもあるんだけどさ」

「ふふっ、拗ねなくてもいいのに」

「おい、こら」

 

 軽い拳骨が優しく優しく頭へと落とされる。

 それを受けた流れに身を任せ、そのまま彼の胸元に身体を預ける。

 

「――上手くいったんだな」

「……ええ」

 

 ここ最近、連日にわたって輝日東高校を騒がせていた事件は終局を迎えた。 話を速やか且つ内密に済ませるためにと、あたしは上崎さんに接触を試みることに。

 結果は重畳、いつしか彼がして見せた手紙を用いた方法は事を上手く運んでくれた。

 

 ――――とは言ったものの、自分のとった行動が決して褒められるべきもので無いことは充分に理解していた。 他にも方法はあったはず。 結果的に事件は解決し、事なきを得た形になった。

 けれども、理由はどうあれ上崎さんを傷付けたことには変わりない。 例え大義名分が有るとは言えども、あの行動は悪手だった、とそう思う。

 

 これでビンタの一発でも貰っていれば、少しは胸の蟠りも溶けて無くなっていただろうか。

 そんな考えが脳内に巣食って離れない。

 

 上崎さんはあたしを罵倒することも無く、寧ろお礼を言ってその場から去って行った。 すれ違った際の上崎さんの様子はというと、どこか清々しささえ感じられる、そんな面持ちだったように思う。

 

「一番大事なところを引き受けてくれたんだ。絢辻がそこまで抱え込む必要はないと思うぞ」

 

 言葉と共に、そっと頭を撫でられる。

 大きくて、少し硬くて、暖かい彼の手は心地良い。

 

 ――――あぁ、全く本当に。

 

 以前の自分と比べると、随分と弱くなった気がする。

 でもこれはきっと、そう悪いことではなくて。

 猫を被っている私でなく、素の絢辻詞になるという事だろう。

 

「主人くん」

「どうした?」

「――ありがとう」

「……ああ、どういたしまして」

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 先程手渡された“創設祭実行委員”と書かれた緑色の腕章に目を落とす。 指示にあったよう左腕に付けようとするが、付け慣れていないからか中々思うように付けることは適わない。

 

「ズレてるじゃない、しっかりしなさいよ」

「案外難しくてさ」

「はぁ。仮にも委員なのだし、自覚を持って欲しいわ」

「……面目無い」

 

 苦言を呈する絢辻の手付きは案の定素晴らしく、先程自分が付けた時よりも様になって見えた。 視線を戻すと、捉えたのはやや得意げな表情を浮かべた絢辻の姿。

 

「ありがとう」

「っ……別に、気にすることないわ」

 

 最近になって気付いたことだが、絢辻は意外と真っ直ぐな好意に弱い。 頬を赤く染めそっぽを向くその姿は中々乙なものだな、と内心喜んでいると、それに気付いた絢辻が足を踏み付けてきた――――それもそこそこの強さで。

 抗議の視線を送るが、ここで反撃をするとイタチごっこが続くような気がしたため咳払いを一つ。 こんなことをしている場合では無い、と絢辻に進行を促す為だ。

 

 委員の活動で使用してきた会議室は既に実行委員の面々で満たされており、中には梅原や棚町、田口らと言った委員では無いものの手伝いに来てくれている人達もいる。 一同を見渡した後、絢辻はその端正な顔立ちに柔和な笑みを浮かべた。

 

「みんなの協力もあって、無事に今日という日を迎えることが出来ました。本当にありがとう」

 

「そう言って貰えるのは嬉しいが、礼を言うにはまだ早いんじゃないか委員長(・・・)?」

「そうだよ、終わるまで取っておかないとね」

 

 梅原や田口の言葉に一同からそうだそうだ、と笑顔で茶々が入る。 梅原は人当たりも良く取っ付き易い為日頃から絢辻と話す機会があったが、驚くべきは田口だ。 一時期は最悪と言って良い程険悪な仲だったのが、今では嘘のように良好な関係になっている。 これも偏に絢辻の魅力の一つなのだろな、と賑やかなその様子を見てそう思う。

 

「創設祭は今日が本番です。忙しい一日になるとは思いますが、それ以上にきっと素晴らしいものなると思っています。現時点で予定に変更は無いので、事前に通達した通り進行する予定です。それでは一足早くですが、私――絢辻詞が創設祭の開催を宣言します」

 

「いよっ! 待ってました!」

 

 梅原に呼応する様に全員から絢辻に対して惜しみない拍手が送られ、開会式の準備のためにと会議室を後にして行く。 残されたのは俺たち二人だけになった。

 

「ホント良い人達ね」

「そうだな、みんなが居なかったらここまでこれてない」

 

 去年より規模を大きくした創設祭をここまで持ってこれたのは、尽力してくれた人たちの努力の賜物だ。 最後の方は過密スケジュールだったが、本当に良くやってくれたと思う。

 

「あたしの為に動いてくれたのはびっくりしたわ」

「あぁ、委員長の件か」

 

 クリスマスツリーの一件により、絢辻は創設祭実行委員長の座を解任された。 絢辻の後任には黒沢という他クラスの女生徒の名前が挙がっており、大人の黒さを垣間見たと、絢辻がそう口にしていたことは印象に残っている。 そんな理由(わけ)で彼女が創設祭を盛り立てて行き、俺たちはそのサポートに当たる、そう思っていたのだが――――

 

『先生、委員長は絢辻さん以外有り得ません』

 

 なんて意見が次々に高橋先生の元に届いた。 実行委員会の総意として絢辻の委員長続投を願う中では、以下に権力を行使しようともそれはまるで意味を成さない。 この様な空気の元で黒沢が耐え抜くことは当然適わず、彼女は副委員長というポストに着くことになり主に雑務の振り分けを担当することになった。

 

 閑話休題。

 

 会議室の戸締りを確認し、廊下を行きながらイベント会場である校庭を目指す。 生徒たちとすれ違う度に、みんなが今日を楽しみにしていることがひしひしと感じられた。

 

「――良い日にしなくちゃね」

「そんなに気負う必要はないさ」

 

 年に一度の――――過去最大規模の創設祭という事もあり、開催宣言を前にして学校内は盛り上がりを見せていた。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 NOZAKIグローバルシステムの令嬢――――野崎維織は喫茶店「さんせっと」にて、いつもの様にお気に入りの定位置で本を片手に珈琲を飲んでいた。

 読書中のタイトルは「三牧師」。 三教会の三人の牧師が教会の土地を巡って繰り広げる争いを書籍化して刊行したものだ。 この三牧師を語る上で外せないのは膨大な数の登場人物たちである。 その中でも最も維織が好きなキャラの名は「シスター・リョーフ」、素手で鐘を鳴らすという三牧師界一の女傑である。 一人一人が一癖も二癖もある個性的なキャラたちだが、キャラが被ることなく物語の進行も邪魔をすることが無い。 維織は三牧師という作品のこの点をいたく気に入っていた。

 維織の(ページ)をめくる速度が徐々に上がっていく。 物語が遂に佳境に入り始めたからだ。 文字に目を通す程、その世界観に引き込まれていく。 挿絵の効果も相まって、維織はまるで自分がその場に居るような感覚を覚えながら読書に没頭した。

 

 

 

「維織さん」

 

 優しい声色と共に、とんとんと肩に受けた刺激によって維織は目を覚ました。 気付かぬうちに眠っていたらしく、背中にはコートがかけられていた。 夜長朱鷺が普段愛着しているものである。

 

「…………朱鷺くん?」

「そろそろ時間だからさ。気持ち良く寝てたから起こすの躊躇(ためら)ったんだけど、風邪を引くよりいいかなって」

 

 置時計が示す時刻は午後6時30分。 三牧師を読み始めたのが食事を終えた昼下がりであったことと三牧師の頁数を考えると、それなりの時間眠っていたことになる。

 

「……全然気が付かなかった」

「寝落ちってものはそういうものさ。ほらこれ」

 

 夜長から手渡された蒸しタオルは程よい熱さで心地良く、微睡んでいた維織の意識はこれによって覚醒した。

 そして、それによってあることに気が付く。

 

「もしかして……今日、輝日東の創設祭?」

「正解だ、維織さん」

 

 首を傾げながら問う維織に対し、夜長は笑みを浮かべる。

 

「公くんが招待してくれたんだ。みんなで来てくださいってな」

「そう……なら早く行こう」

「そんなに慌てなくても創設祭は逃げないよ。准ももうすぐ戻るだろうし、それから行こう」

「分かった、私は車を呼んでおく」

 

 携帯を取り出し、おもむろに通話を始めた維織を流し目に、夜長は髭を剃るべく店の奥へと進んで行く。 こと自分に関してはズボラな夜長の為に、「さんせっと」では日用品が幾つか常備されており、それは髭剃りも例外ではない。

 随分と変わったものだと、洗面台に映る自身の姿に彼は笑みを零す。 風来坊として各地を放浪していた時は身嗜(みだしな)みに気を使うことなど無く、気の向くままに生きてきた。

 しかし、その生活もここ遠前町に来てからというもの変化してきている。 「ブギウギ商店街」の人々、「さんせっと」の人々――――とりわけ維織や准と言った存在は夜長にとって特別な存在であり、変化の要因となっていた。

 

 洗顔を終えて店内に戻ると、そこには準備のため「さんせっと」を後にしていた夏目准の姿があった。 どうやら無事に準備を終えて戻って来たらしい。

 この店のマスターである世納を含めて談笑していた三人だったが、夜長を視界に入れた途端にその場で停止し、中でも准は鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべていた。

 

「どうしたんだ? そんなにきょとんとして」

「え、えっと……夜長さんだよね?」

「何で疑問形なんだよ」

 

 以前にも同じやり取りをしたことを思い出し、夜長は苦笑いする。 准がこの様に取り乱すのは新鮮なことで、普段玩具にされている分の返しが出来たな、と内心でほくそ笑んだ。

 小さな勝利も、勝利には変わらない。

 

「普段からそうしてればいいのに」

「維織さんにもそう言われたけど、どうも落ち着かなくってな」

「ホームレスの(さが)だね」

「やめろ、その言葉は俺に効く」

「でも服装はダメダメだね。折角の創設祭なんだし服装は整えて行こうよ。公くんも薄汚いホームレスの知り合いだとは思われたくないだろうし」

「そんなに俺の事が嫌いか……」

 

 淡々と准が言い放った言葉は、その場にいる維織や世納の心境そのものだった。 茶色のテンガロンハットに同色のコート、首元には黄色のスカーフ、緑のポロシャツに藍色のチノパンと言う服装に今でこそ慣れた面々だが、出会った当初はそれはもう不審者を疑わなかった。 維織や准と出会っていなければ、この服装のまま各地を放浪していたに違いない。 そう遠くない未来、怪しい人物として警察のお世話になる可能が十二分に存在した。

 

 項垂(うなだ)れる夜長には目もくれず、准は従業員控え室へと入っていき、やがて両腕に衣類を束ねて戻って来る。

 態度には出さない様務めているが、この日の為に用意した衣類たちだ。 准は緩みそうになる表情筋と格闘しながらも会話を進めて行く。

 

「はい、これ着てみてよ」

「いや、まじか」

「まじだよまじ、減るものじゃないし」

 

 ボソボソと呟く夜長を控え室へと無理矢理押し込み、准は満足気な表情を浮かべる。 将来服飾関係の道に携わりたいと考えている准からすると、夜長の普段の服装はとてもじゃないが見逃せるものではなかった。

 

「おお〜、見違えるね。 流石私のセンスってところかな!」

「いや、准……正直変わりすぎて自分が怖いんだが」

「似合ってる、自信を持って」

「二人の言う通り良く似合っているよ。私は普段のウエスタン風も好きだが、こちらもカジュアルで良いと思うよ」

 

 三人が賞賛するほど、それくらいに夜長の風貌は変わっていた。 冬らしいグレーのクルーネックニットに、白のロング丈Tシャツを合わせたレイヤードスタイル。 手に抱えるチェスターコートは暖色系を取り入れてベージュにし、パンツは黒のスキニータイプ。首元にはスヌードを巻くことによって寒さ対策と服装へのアクセントも怠らない。 上背もあり、引き締まった体をしている夜長にとって、このYラインシルエットと呼ばれる服装の相性は良く、様になっていた。

 

「迎えが来た……行こう」

 

 店外を眺める維織の言う通り、店前に一台の自動車が到着した。 丁寧にワックス掛けされているその黒い車体は一目で高級車であることを周囲に悟らせる。

 メルセデス・ベンツ・プルマンW220。 NOZAKIの所有する自動車である。

 

「……まじか。こんなのどこに停めるんだよ」

「停めない。近くまで送って貰うだけ」

「あはは。生徒に見つかったら夜長さん大騒ぎになるね」

「洒落にならん……」

 

 一行を乗せたメルセデスは輝日東高校を目指し、遠前町の道を往く。

 創設祭の開催まで、もう少し。

 

 

 

 

 

 

 

 



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