ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック (ほいれんで・くー)
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プロローグ 鮮烈な印象
第一話 バナーヌのような金髪


 すべては、泡沫(うたかた)のごとく消え去った。

 

 繁栄を謳歌していたハイラルを一夜にして滅ぼした未曾有の大厄災から、すでに百年近くの時が経とうとしていた。

 

 当時、完膚なきまでに打ちのめされ、粉砕されたハイラルの人間社会は、百年にわたって徐々に回復を続けた。文明らしきものが、人々の間に戻りつつあった。

 

 ほぼ百年という時間の長さは、かつての大厄災の記憶を薄れさせるには充分だった。今や当時の状況を直に知っている者は、ゾーラ族などの長命な種族を除けば、ほんの一握りになってしまった。

 

 大厄災など爺さんや婆さんの昔話、絵本のおはなし、簡単な読み物の数ページ……人々はハイラル王国を過去のものとしていた。

 

 だが、そんな一般人たちとは対照的に、いまだにハイラル王国に対し憎悪を燃やし、魔物に(くみ)し、人々に害なす集団が存在した。

 

 それは、イーガ団である。

 

 彼らは臙脂(えんじ)色のスマートな忍び装束に、涙目の逆さ紋様をあしらった仮面を身に纏っている。彼らの身のこなしはしなやかで、洗練されている。彼らは首刈(くびか)(かたな)をクルクルと振り回し、怪しげな術を使い、音もなく忍び寄っては敵の命を奪う。

 

「街道を行く旅人たちよ、注意せよ。(なんじ)の隣をゆくその者こそ、あるいはイーガ団であるかもしれぬのだから」 だが、このような警告は、なんの意味も持たない。彼らはそれほどまでに忍び、忍びきることができる。

 

 イーガ団の目的は? その規模は? 彼らの根拠地は? イーガ団に関する情報はあまりにも少ない。すべてが謎である。

 

 いや、たったひとつだけ、彼らに関して分かっていることがある。

 

 イーガ団は、黄色いツルギバナナに目がないということだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 ハイラル西方、ゲルド砂漠のその北方にカルサー谷はあった。そのカルサー谷の奥の奥は、天性の強靭な肉体と、鍛え上げられた武技を誇るゲルドの女戦士たちでさえ、侵入するのに困難を極める難所中の難所であった。

 

 そこに、イーガ団の本拠地(アジト)があった。

 

 その日、アジトの広間には大勢の団員が集まっていた。華やいだ雰囲気だった。広間の中心部には土俵が据えられていた。

 

 その日は、年に数度の相撲大会の日だった。日頃()き使われている下っ端団員たちにとって、その日は合法的に上役(うわやく)を痛めつけられるチャンスの日であった。上役にとっては、その日は自己の強さを総長に直接アピールできる絶好の日であった。老幼、男女の区別なく、相撲の取り組みは行われることになっていた。

 

 広場の上座(かみざ)には絹の(しとね)が敷かれていた。褥の傍には漆塗りの盆が置かれていた。盆の上には酒の(びん)(さかずき)と、黄金に輝くツルギバナナがたっぷりと盛られていた。

 

 でっぷりと中年太りをした男が、見目麗しい女団員を侍らせ、上機嫌な様子で酒を呷りつつ相撲を観戦していた。

 

 この、強くたくましい男が、イーガ団総長コーガ様であった。

 

 先ほど行われた土俵の上のぶつかり合いは、数秒でカタがついてしまった。小さな体格の若い団員が、大きな体格のやや年配の団員を押し倒したのだった。

 

 コーガ様はここぞとばかりに口を開いた。

 

「ハハハハ! 普段大口を叩いているコジローも土俵の上ではまるで羊だな! 俺様もとんだ買い被りをしておったわ! サブはそれに比べて良くやった! ボーナスにバナナ十房をやろう!」

 

 押し倒され、土俵から派手に転落したコジローは、恥ずかしげに苦笑いをすると、自分の座へと戻っていった。小柄なサブは満面の笑みを浮かべ、抱えきれないほどのバナナを持って、ヨタヨタとした足取りで広場から出ていった。

 

 コーガ様はその様子を見てひとしきり笑ったあと、酒のせいで更に歯止めの効かなくなった持ち前のわがままを周囲にまき散らした。

 

「おい、ただのバナナはもう飽きたぞ! 冷凍バナナをもってこい! 酒も足らん! もっと持ってこい! それから焼き極上トリ肉もだ! 本当にお前らは気の利かん奴らだな! 俺様の食欲を舐めるなよ!」

 

 だが、傍らに控えていた女団員はその大声に気圧されることもなく、コーガ様の肩にしなだれかかると甘えるように言った。

 

「でも、コーガ様。次の取り組みは()()()ですわ。食べ物はそれが終わってからでも良くなくって?」

 

 コーガ様は言った。

 

「むむ!? ああ、そうか、()()()の番か! そんなら良いだろう」

 

 突然、広場が静まり返った。いつの間にか、土俵に一人の女団員が上がっていた。

 

 その女は美しかった。歳はまだ二十歳に少し届かないと思われた。キリッとした怜悧(れいり)そうな顔立ちに、鋭いサファイア色の双眼が光っていた。彼女は女性にしてはやや長身だった。その鍛え上げられた筋肉は、しかし、流麗な身体のラインを乱してはいなかった。その胸には白いさらしをきつめに巻いていた。その下半身には普段の忍び装束ズボンを身に着けていた。

 

 何より目をひくのが、その髪の毛だった。彼女は見事な金髪だった。金糸の如き流れるような豊かな金髪はポニーテールにしてまとめ上げられていた。ほどけば肩の下まで届く長さの髪の毛だった。

 

 ひそひそと、あちこちでささやき声が漏れた。

 

「おお、バナーヌだ……バナーヌが出たぞ……」

「あいつが相撲なんて取るとはな……」

「へっ、どうせ()ちのめされるさ……」

 

 どうやら土俵上の女、バナーヌはあまり好印象を抱かれていないようだった。

 

 バナーヌは、無表情だった。緊張や気負いなどの、そういった感情の動きはまったく見えなかった。

 

 その時、土俵の反対側に男が上がった。途端に周囲から歓声があがった。

 

「おお、バナーヌの相手はイワゾーか!」

「イワゾーなら、バナーヌは勝負にもなるまい!」

「イワゾー! その生意気な冷血女に恥をかかせてやれ!」

 

 イワゾーは、大きかった。その容姿は巨大な岩石を彷彿とさせた。彼は全身が筋肉でできているかのようだった。彼はバナーヌの二倍はありそうな背丈で、その両手両足は丸太のようだった。

 

 岩の割れ目から噴き出す蒸気のような吐息を、イワゾーは盛んに漏らしていた。彼の闘志はばっちりと燃えているようだった。

 

 女団員はコーガ様にささやいた。

 

「コーガ様、ねえコーガ様。聞けばあのバナーヌ、このあまりにも無謀な取り組みを自分から希望したそうですわ。よっぽどの自信があってのことだと思いますけど……万が一彼女が負けたら、これは何かしら(ばつ)を与えないと、彼女は反省しないんじゃないかしら」

 

 その言葉は、ひどくコーガ様の関心を惹いたようだった。彼は持ち前の大声で、広場中に聞こえるように言った。

 

「おお、それもそうだな! じゃあ、裸踊りでもさせるか! おい、バナーヌ! 負けたらお前、土俵の上で裸踊りしろ! 俺様が満足するまでな! ハハハハ!」

 

 総長に倣って、団員たちも騒ぎ立てた。

 

「ヒューヒュー!! 裸踊りだってよ!」

「サイコーだぜ!!」

「イワゾー、なるべく痛めつけてやれよ!」

「おい、バナーヌ! 前からテメエのさらしの下が気になってたんだ! いったいどれだけデケェのを持ってるのかってな! 今日はよく見せてくれよな!」

 

 下卑(げび)た歓声が辺りを包んだ。男も女も、上役も下っ端も、誰も彼もが欲望に薄汚く顔を歪ませていた。普段から彼らの全員がそれほどまでに下卑(げび)ているわけではなかった。今日は特別、そういう日なのだった。

 

 だが、バナーヌはそれに対して、何の表情も浮かべていなかった。ゆっくりと、冷静に周囲を見回すと、彼女はコーガ様のほうへ顔を向けた。

 

 バナーヌは、透き通った声で言った。

 

「総長。もし私が勝ったら、何をいただけますか」

 

 その声には奇妙な迫力があった。しかし、そのサファイア色の瞳に射抜かれても、コーガ様は(いささ)かもたじろぐことがなかった。彼は面倒そうに声を発した。

 

「ああ? お前が勝ったら、だと? そんなことはありえねえと思うが、それなら俺様の秘蔵のツルギバナナ百本をくれてやるよ。さあ、とっととおっ始めろ!」

 

 バナーヌは答えた。

 

「分かりました」

 

 彼女は一礼してから、イワゾーと向き合った。ついに立ち会いが始まった。

 

 イワゾーが知性の欠片も感じられない声で言った。

 

「げへへ、一瞬で終わらせてやるぞ」

 

 バナーヌは何も言わなかった。

 

 両者位置に付き、両手をつけた。

 

 爆発的なスピードで一気に飛び出したのはイワゾーだった。それに対して、バナーヌは一歩も動かなかった。一瞬で勝負は決まったものと思われた。

 

「なにっ!?」

 

 しかし次の瞬間、イワゾーの動きは止まっていた。いや、正確には止められていた。イワゾーは渾身の力でバナーヌの両肩を掴んではいたが、まったく動かすことができなかった。

 

 ざわめきが広場に満ちた。

 

「なんだと! どういうことだ!」

「ありえん! 怪力無双のイワゾーがバナーヌごときに止められるとは!?」

「どんなトリックを使ったんだ!?」

 

 あまりにも意外な事態に誰もが驚愕を隠せなかった。

 

 そこで、誰かがバナーヌの足を()した。ざわめきはさらに大きくなった。

 

「あっ、やつの足を見ろ!」

「いつの間に!」

「やつめ、いつの間にか変な靴を履いてるぞ!」

 

 イワゾーもまた驚いていた。開幕で全力をかけてぶつかり、そのまま土俵外へ吹っ飛ばして勝利を掻っ攫うつもりだったのに、この女はまったくビクともしない……困惑する心のままにイワゾーは、いまだ無表情を保っているバナーヌに問いかけた。

 

「おい、バナーヌ! テメエ、いったい何をしやがったんだ!」

 

 バナーヌは、ポツリと言った。

 

()()()()()()()に履き替えた」

 

 履き替えた? この立ち会いの最中に? いつ? どうやって? それに、()()()()()()()? あいあんぶーつって何なんだ?

 

 様々な疑問がイワゾーの脳内を駆け巡った。しかしその間に、イワゾーの体は宙へと浮かび上がっていた。周囲の者たちが驚愕の声をあげた。

 

「お、おおおっ!?」

「持ち上げた!? バナーヌがイワゾーの体を持ち上げただと!?」

「ありえねえ! イワゾーの体重は百貫(ひゃっかん)もあるのに!」

 

 バナーヌが、そのほっそりとした両腕でイワゾーの体を持ち上げていた。大樽(おおだる)を上に掲げて運ぶように、彼女はイワゾーの巨体を無造作に持ち上げてしまっていた。

 

 今度も、気づくことのできた者は気づけたかもしれなかった。彼女の両腕には、いつの間にか茶色のブレスレットが(はま)っていた。ブレスレットは淡い光を放っていた。

 

 視界が急激に切り替わり、今や背中を土俵上へ、顔を天井へ向けているイワゾーの心の中に、初めて恐怖心が湧いてきた。彼は叫んだ。

 

「おい、バナーヌ! お前、まさか俺をこのまま投げ飛ばすんじゃないだろうな!?」

 

 バナーヌは言った。

 

「そうだけど」

 

 イワゾーは言った。

 

「いや、『そうだけど』ってお前、やめろ! やめガっくわぶへ!!」

 

 イワゾーの言葉が終わる前に、バナーヌは彼を土俵の下へと投げ落としていた。轟音と砂煙が巻き起こった。地震のような振動がアジト全体を揺さぶった。アジトのあちこちに設置されている棚の上で、バナナが()んで()ねて踊って、バラバラと落下した。

 

 やがて、振動は収まった。だが、広場は静寂を保ったままだった。誰も彼もが意外な結末に唖然とし、呆然として声が出せないでいた。

 

 しかし、その事態を引き起こした当の本人であるバナーヌは、落ち着き払っていた。彼女は軽く手を叩くと、次に肩についたホコリを払い、前髪をかきあげた。彼女は身だしなみを整えてから、土俵(ぎわ)へと歩いていった。

 

 彼女は土俵下を覗き込んだ。彼女の口から声が漏れた。

 

「あっ」

 

 イワゾーは頭から星を出して気絶していた。それは良い。それは彼女にとって予想通りだった。だが、そこにはイワゾーだけではなく、酒瓶や砕けた盃の破片もあった。どうやらイワゾーがそこに落ちる直前まで、誰かがそこにいたようだった。イワゾーのすぐ横で、バナナが潰れていた。潰れたバナナはフレッシュな香りを放っていた。

 

 女団員が、呆れたような顔をして座っていた。バナーヌが視線を送ると、女団員はイワゾーの下へと指をさした。

 

 バナーヌは尋ねた。

 

「総長?」

 

 無言で女団員は何度も頷いた。すると、地獄の底から響いてくるような怒りと恨みの籠もった声が、イワゾーの下から発せられた。

 

「よくも、よくもこのバナーヌ野郎がぁっ! テメエ、わざと俺様の上にイワゾーを落としやがったな!」

 

 その声には並の人間ならば失神するほどの迫力があった。それでもバナーヌはいささかも表情を変えなかった。彼女は言った。

 

「いえ、そのようなことは決して」

 

 体重百貫もあるイワゾーを布団のようにはねのけると、コーガ様は勢いよく立ち上がった。人差し指をバナーヌに突きつけて、コーガ様は一気に捲し立てた。

 

「なにが、『いえ、そのようなことは決して』だ! こちとらテメエのクール気取りにはいい加減うんざりしてるんだよ! テメエ、内心では俺様のことを見下してるだろ! 俺様を甘く見るなよ! 団員のことなら俺様は何でも知ってんだ! なにせ、俺様は強くてたくましいイーガ団の総長だからな! お前、『いい機会だから相撲にかこつけて恥をかかせてやろう』と思ってただろ! いや、弁解しなくて良い! すべては明白だ! おい、罰としてコイツを牢にぶち込んでおけ!」

 

 今まで呆然としていた他の団員も、総長の怒声によって我に返った。

 

「ははっ!」

 

 彼らはバナーヌをあっという間に簀巻(すま)きにすると、そのまま担ぎ上げて牢へ猛スピードで運んでいった。

 

 ミノムシのようになったバナーヌが、ぽつりと呟いた。

 

「こんなはずでは」

 

 それでも、三日間の牢内での謹慎を終えた後、バナーヌのもとへ木箱に詰まったツルギバナナ百本が滞りなく届けられたのは、総長コーガ様の流石の采配(さいはい)といえた。




 ほいれんで・くー、人生初の小説執筆、人生初の投稿です。

 どうぞよろしくお願い申し上げます。

 2017年の年末、念願叶ってようやくニンテンドースイッチとブレスオブザワイルドを手に入れることができました。年末年始はゼルダ世界にどっぷり浸かってました。

 好きなプレイは、ウオトリー村付近でひたすらカニとヤシの実を集めること。私は旧軍の兵隊さんロールプレイと勝手に呼んでいます。あとはパパイアとマンゴー、タロイモがあれば完璧だった……

 続きはゆるゆると上げていく予定です。

※前書きの内容を後書きに移動。かつ、その内容に加筆と修正を行いました。(2018/03/11/日)
※加筆修正を行いました。(2022/05/24/火)
※さらに加筆修正をしました。(2023/05/06/土)


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第一章 ゲルドキャニオンはルージュに燃えて
第二話 バナナ護衛命令


 カルサー谷のイーガ団アジトは、灼熱のゲルド砂漠を幾日もかけて進み続けなければ辿り着けない難所である。アジトは幾世代にわたって入念に防御設備と秘匿工作が施されていた。そこはまさしく難攻不落の要塞であった。

 

 歴史上、ハイラル王国は幾度も精兵を選りすぐってイーガ団討伐軍を編成し、ゲルド族の支援のもとに砂漠へと送り出した。だが、結果はいつも同じだった。カルサー谷に辿り着く前に、王国の兵士たちは昼の炎熱と夜の冷気で消耗し、イーガ団の奇襲により小荷駄(こにだ)を焼かれ、ろくに戦果も挙げられずに無念の屍を熱砂に(うず)めていった。

 

 ゲルド族もまた、イーガ団討伐に手を焼いていた。ゲルド族はカルサー谷の地形的特徴を熟知していたため、イーガ団を相手に積極的に戦いを挑もうとしなかった。彼女たちはイーガ団のことを至極めんどうな勢力だと見なしていた。それはある意味で本質をついた見方であった。イーガ団とはめんどうな、厄介な集団なのである。

 

 大厄災によってハイラル王国が滅んだあと、もはやカルサー谷へ挑むものは存在しなかった。総長コーガ様も枕を高くして昼寝を(むさぼ)ることができるというわけだった。

 

 ただ、何事にも長所と短所があり、それはだいたい表と裏の関係となっている。強大な敵軍が存在した時代に難攻不落と讃えられた地形は、それが存在しなくなった現在、そのアクセス性の悪さでイーガ団幹部たちの頭を悩ませるようになっていた。アクセス性の悪さによってハイラル東部への人員の迅速な展開が妨げられるだけではなく、何よりも、物資の搬出入に莫大なコストを必要とした。

 

 そして、イーガ団にとって最も欠くべからざる物資とは? 言うまでもない。それはバナナである。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌの謹慎が明けてから、一日が経った。その日の朝、バナーヌはいつものように朝の鍛錬を終えると、同室のノチと一緒に朝食をとった。

 

 基本的に、イーガ団は一堂に会して食事をとることはしない。各々が何らかの任務を帯びており、また当直制が採られていることもあって、同じ時間に同じ場所で大勢が毎度のように集まるのが不可能だからである。年に数度の祭りやイベントの時などは、数少ない例外といえた。

 

 ノチは、バナーヌのほぼ唯一の友人だった。ノチは女の子で、その歳はバナーヌよりもやや下、十代中頃といったところだった。その短い黒髪と柔和な顔つきから、年相応のあどけなさが感じられた。ノチは背が低く、病気がちで、イーガ団員としては致命的なほどに運動神経が鈍かった。だが彼女は、その持ち前の人当たりの良さと明るい性格で、団員たちから広く愛されていた。

 

 今日の彼女たちの朝食は、タバンタ小麦のパン、フレッシュミルク、ツルギバナナだった。朝食はノチが、バナーヌが朝の鍛錬に出ている間に手早く用意したものだった。

 

 もそもそと、無言でバナーヌは食事をした。ノチも、バナーヌよりは遥かにスピードは遅いながらも、同じようにもそもそと食事をした。

 

 バナーヌは、無口な性格だった。彼女は滅多に自分から話をすることがなかった。あまり彼女のことを知らない者からは、無愛想で人付き合いの悪い奴だと思われがちだった。

 

 しかし、ノチはこの無口な友人との上手な付き合い方を知っていた。バナーヌは話をしないが、人の話を聞かないわけではない。むしろ、他の人よりもよく話を聞いてくれる。だから、どんどんこちらから話しかければ良い。はたから見ると一方的な会話に見えるかもしれないが、ちゃんとコミュニケーションは取れている。

 

 ノチはパンをちぎる手を休めることなく、対面のバナーヌに話しかけた。

 

「バナーヌ、謹慎が明けてから初めての鍛錬だったけど、具合はどう? いつもと同じ?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「うん。同じ」

 

 ノチは言った。

 

「今日の鍛錬は何人集まったの?」

 

 バナーヌはちょっと考えてから答えた。

 

「……上役(うわやく)も合わせて、五人かな」

 

 ノチが少しだけ心配そうな顔をして言った。

 

「みんなから意地悪とかされなかった?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「大丈夫」

 

 ノチは小さく安堵の息をした。彼女は言った。

 

「それなら良かったけど、これからはあまり無茶をしちゃダメだよ。そういえば、大会の後に没収されたアイアンブーツとパワーブレスレットは返ってきたの?」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「返ってきた」

 

 アイアンブーツに、パワーブレスレット……バナーヌが多くを語らないため、それらの不思議なアイテムについてノチはあまり知っているわけではない。アイテムはどうやら魔法の力が用いられているようで、バナーヌはそれらを任務でハイラルのあちこちへと派遣されている間に手に入れたのだという。他にも何点か似たようなモノをバナーヌは持っているという噂もある。

 

 不思議なのは、それらを誰にも気づかれないうちに装備できるというバナーヌの特技だった。相撲大会の時も、バナーヌは衆人環視の中でいつの間にかアイアンブーツを履いていたし、パワーブレスレットを腕にはめていた。

 

 以前ノチは、どうやったらそんなことができるのかと訊いてみたが、バナーヌが言うには、「なんとなく」だった。答えになっていなかった。

 

 他にもバナーヌには特技があった。まず、一瞬で着替えを完了するという、(はや)着替えがあった。しかしこれは、変身術を身につけているのが常識であるイーガ団員たちからすればさほど驚くものでもなかった。ただ、ノチからすると、寝間着からほんの一瞬でいつもの忍び装束に着替えるのは、変身術と少し違うような気がしてならなかった。

 

 バナーヌの他の特技としては、早食いがあった。今でこそバナーヌはノチに合わせてゆっくりと一緒に食べてくれるが、出会った頃は食卓に着いたと同時に皿が空になっていることなどザラだった。

 

 そんなに早く食べて口の中を火傷しないのか心配になったノチが訊いてみると、バナーヌが言うには、「全然平気」とのことだった。火傷が平気でもそれは早食いの理由としては十分ではないことに気づいて、ノチは頭を抱えたものだった。

 

 それにしても、今回の件にかこつけて不思議なアイテムがずっと没収されたままになるかも、と内心で危惧していたノチにとって、すんなりとアイテムが返ってきたのは意外だった。彼女は言った。

 

「アイテム、ずいぶんとあっさり返ってきたね」

 

 バナーヌは言った。

 

「任務だからって」

 

 ノチは驚きの声をあげた。

 

「えっ、任務!? バナーヌ、また任務に出るの? どんな任務なの?」

 

 バナーヌは静かに首を左右に振った。

 

「今日、これから、上役に会って聞いてくる」

 

 ノチは言った。

 

「そっか……詳しい話はこれからなんだね……」

 

 任務は長くなるのかな、また一人でご飯を食べるのかな……ノチはそう思った。いつもノチが任務に同行することはなかった。彼女は体が弱いため、外に出る任務に就いたことがなかった。ノチはいつもアジトで裁縫や矢の製作などをして過ごしていた。

 

 一方、バナーヌは戦闘員としては優秀そのものだった。彼女は性格と対人関係に難があるが、その戦闘能力は折り紙付きだった。彼女が任務に失敗したことは今までに一度もなかった。彼女はボコブリンなど物の数としなかったし、モリブリンも苦もなく倒せた。砂漠に数多く生息するリザルフォスは、擬態を得意とする魔物であるが、彼女は逆にリザルフォスにふい打ちを食らわせることもできた。

 

 幹部たちからしてみれば、扱いづらいが、扱いやすくもある人材、それがバナーヌだった。()き使っても、彼女は文句の一つも言わなかった。そんなわけでバナーヌはしょっちゅうどこかへと駆り出されていた。先日の謹慎などは、彼女からしてみればむしろ、突然手に入ったような休日のようなものだった。

 

 バナーヌはすでにパンを食べ終えて、ツルギバナナの皮を剥いていた。バナナの皮は少し黒ずんでいた。どうやら、一番美味しい時期は過ぎているようだった。

 

 ノチは努めて明るい声でバナーヌに話しかけた。

 

「バナナ、だいぶ古くなってるね。貯蓄(ストック)が減ってきてるのかな?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「そうかも」

 

 バナーヌは、相撲大会の景品としてバナナ百本をたしかに貰っていた。だが、結局それは没収されてしまった。「いくらイーガ団員とはいえ一人でそれだけの量のバナナを食べるのは贅沢がすぎる」「コーガ様に怪我を負わせた者がバナナを独占するなど許せん」という意見が幹部の間で噴出したためであった。バナーヌは「バナナ百本を食糧庫に寄付する」ことを命じられた。

 

 ノチは言った。

 

「バナナは黒ずみ始めてるのが良いっていう人もいるし、黒ずみきってるのも乙な味がしてまた最高だなんていう人もいるけど、私は普通のバナナのほうが好きだな。黒くなったバナナも嫌いじゃないけどね。バナーヌはどう?」

 

 バナーヌは軽く頷いた。

 

「私も同じかな」

 

 明るい声でノチは答えた。

 

「ふふ……そう、私と同じ好みなんだね。なんだか嬉しいな。あっ! もしかしたら、バナーヌの今回の任務ってバナナ関係かもね! なんだか、そんな気がするよ!」

 

 バナーヌは答えた。

 

「そうかも」

 

 ノチは言った。

 

「でも、私の予想ってよく外れるからなぁ」

 

 しばらく、沈黙が辺りを包んだ。窓から柔らかな朝の日差しが入り込み、バナーヌの金髪のポニーテールを優しく照らしていた。ノチは、それがなんだか大きなバナナのように見えた。ノチは言った。

 

「とにかく、危険な任務じゃないといいね」

 

 ノチがバナナを食べ終えたのは、それから十分も経ってからだった。バナーヌはノチが朝食を食べ終えるのを待ってから、上役のもとへと出向いていった。

 

 

☆☆☆

 

 

「来たか。ま、お前とは世間話をするまでもない。任務の内容だけ話すとしよう」

 

 やや禿げ上がった額に汗を浮かべつつ、ひっきりなしに書類をめくりながら、その上役はやる気を感じさせない声で言った。彼はバナーヌのほうを見ることすらしなかった。

 

「お前も勘付いたかもしれんが、アジトのバナナの貯蓄(ストック)が底を尽きかけている。割と緊急事態だ。前回の補給のときは、道中で輸送部隊が魔物に襲われてな。そのせいで必要量を貯蓄できなかった」

 

 バナーヌは頷いた。あの時は随分騒ぎになったものだった。ゲルドキャニオンの中ほどで、輸送部隊は騎馬ボコブリンの襲撃を受けた。魔物たちは谷の上から奇襲をかけてきた。三分の一のバナナが魔物によって焼き払われたという。「ここは自分たちの勢力圏内だからもう安全だ」と輸送部隊の指揮官が油断したことが原因だった。コーガ様は大層ご立腹で、その指揮官はキツイお仕置きを受けた。熱い岩盤の上に正座で五時間座らされたとかなんとか。

 

 汗を拭い、書類仕事をしながら、上役は話し続けた。

 

「コーガ様に古いバナナをお出しするわけにはいかん。それに団員たちの士気にも関わるからな。早速、次の補給をフィローネ支部に命じた。南国の気候で頭の緩んだ連中でも、コーガ様のためならば仕事は早い。すぐにバナナを送ると言ってきた」

 

 バナーヌもフィローネには何回か行ったことがあった。そこは砂漠とは違う、湿気で茹だるような暑さだったのを彼女は覚えていた。猿と極楽鳥の奇妙なコーラス、虫の大群、緑また緑の尽きることなきジャングル……それから、そこら中に勝手に生えているバナナが彼女には特に印象的だった。

 

 上役はさらに言った。

 

「バナナ一万本を搭載した輸送馬車が、三日後に『平原外れの馬宿』に到着することになっている。お前の任務は輸送馬車の護衛だ。今度こそボコブリンごときに遅れをとるわけにはいかんぞ」

 

 ようやく上役はバナーヌのほうを向いた。彼は小皿に盛った乾燥バナナチップに手を伸ばし、見せつけるように口に入れてゆっくりと咀嚼し、飲み込むと、意地悪そうな声で言った。

 

「欲しいか? バナナチップ」

 

 バナーヌは短く答えた。

 

「いりません」

 

 上役は言った。

 

「ふん、そうか。まあそうだろうな」

 

 上役はやや不機嫌そうな表情で、さらにバナナチップを口に入れた。バリバリという音があたりに響いた。上役はバナーヌに言った。

 

「それで、何か質問はあるか」

 

 バナーヌは尋ねた。

 

「任務は単独で(おこな)うのですか?」

 

 上役は頷いた。

 

「そうだ。他の奴らは次期作戦でハイラル東部に出払っている。お前くらいしか空いている奴がいないし、お前の実力なら充分だろう」

 

 バナーヌはさらに尋ねた。

 

「装備品の支給は?」

 

 上役は答えた。

 

首刈(くびか)り刀に、二連弓。矢は二十本。あとは自分でなんとかしろ。お前は重いブーツだとか変なブレスレットだとか、妙なモノを持ってるから、それで充分だろう」

 

 バナーヌは最後の質問を発した。

 

特別報酬(ボーナス)は?」

 

 上役は鼻で笑った。

 

「はっ、馬鹿を言うなよ。ぜんぶ給料のうちだ。まあ、バナナの二、三本をつまみ食いしても大目に見てやる。さあ、もう質問は良いだろう、さっさと行け」

 

 上役は話は終わったとばかりに、書類に目を落とした。こうなったらもういっさい話をしないというのがこの男だった。

 

 バナーヌは律儀に一礼をすると、音も立てずに部屋から出て、装備科へと向かった。




 ところで、私は食べたことないのですが、揚げバナナって美味しそうですよね。今度作ってみようかな。

※加筆修正を行いました。(2022/05/24/火)
※さらに加筆修正をしました。(2023/05/06/土)


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第三話 出国

「さっさと行け」と上役には言われたが、馬鹿正直に今すぐ出発すると、カルサー谷を出てゲルド砂漠にさしかかる頃は暑さが一番厳しい時間帯になってしまう。バナーヌはそれを避けたかった。

 

 ゆえに彼女は、薄暮(はくぼ)から夜半にかけてゲルド砂漠を越えることにした。夜は夜で寒さが厳しく下手をすると凍死する危険性もあるが、彼女は訓練されたイーガ団員であるから問題なかった。簡素な耐寒装備といくらかのピリ(から)薬でもあれば、彼女にとって砂漠の寒さなど大したものではなかった。

 

 上役の部屋を出たあと、バナーヌは装備科へ向かった。団員たちからの装備科の評判は良くなかった。風采(ふうさい)の上がらない偏屈な性格をした中年独身男性の担当者が、いちいち難癖をつけて装備の支給を渋るからであった。「装備の横流しをして結婚できない鬱憤をケチな蓄財で晴らしているのだ」と、口さがない団員たちの間でもっぱらの噂だった。

 

 バナーヌは薄暗い装備科室に入った。彼女は任務の内容を告げた。すると、担当者は露骨に嫌そうな表情をして、嫌味たっぷりな口調で言った。

 

「おう、パシリのバナーヌか。今日も今日とてパシリか? え、何? バナナ輸送の護衛任務だと? また随分とご大層な仕事を(おお)せつかったもんだな。はっ、お前みたいな未熟者にくれてやる装備なんて、本来は小刀一本たりとてないんだがな、バナナのためとあったら文句も言ってられねぇな」

 

 担当者はわざとらしくゴソゴソと音を立てて棚を探った。彼は無造作に武器を取り出すと、おざなりに刃の具合を確かめた。彼は言った。

 

「ああー、まあ、これで良いだろ。ほれ、首刈り刀に、二連弓だ。それと矢が十八本。それで充分だろ。それ持ってとっとと消えな。不景気が移る」

 

 雑音を聞き流しつつ、バナーヌは受け取った武器の状態をさっと確認した。首刈り刀の状態はあまり良くなかった。それは誰かが何かの任務で使った時の中古品で、()ぎが不充分な上に、(つか)も微妙に緩んでいた。二連弓は、なんとも珍しいことにほぼ新品だった。こんなことはほとんど奇跡的ともいえた。しかし、矢の本数が十八本しかない。バナーヌはそれを苦々しく思った。上役は二十本を支給すると言っていなかったか? 二本の違いはかなり大きかった。

 

 だが、バナーヌは武器を受け取ると挨拶もそこそこにそこから退出した。彼女は元来無口な性質で、交渉ごとは苦手だった。あの担当者は偏屈で独身で中年だが、口が立つ。頑張っても勝ち目はないだろうし、勝ったところで矢の本数が二十本以上に増えることはないだろう。

 

 それに、理想的なことを言い出せばきりがなくなる。バナーヌはそう思った。首刈り刀よりも鬼円刃(きえんじん)が欲しいし、二連弓は耐久力に優れたものが良い。本当のことをいうなら矢は五十本だって足りない。工夫と節約でどうにか乗り切るしかないのだ。

 

 装備科を出たバナーヌは、次に資料室へ向かった。それは地図を確認するためだった。年中ほぼ無休でパシリをやらされている彼女の頭の中には、ゲルド地方周辺の地理は完璧に記憶されていた。しかし、覚えていながらなおこの確認という作業を踏むことが、実はとても重要であることを彼女は経験上知っていた。誤った知識や思い込みで道に迷い、自滅した団員はこれまで数知れないほどいた。

 

 地図の上で、彼女は今回のルートを確認した。カルサー谷を出た後は、一路東へ向かい、ゲルドの街北方の遺跡地帯と北ゲルド巨石を経由して、ゲルドキャニオン馬宿を目指す。ゲルドの街とカラカラバザールには近づかない。余計なトラブルを避けるためだ。いくらゲルドの女たちの勘が鈍いとはいっても、自分からトラブルを招き寄せるような真似をするのは賢明とはいえない……

 

 ゲルドキャニオン馬宿付近に常駐している連絡員とバナナ輸送について打ち合わせをしたあと、一気にゲルドキャニオンを抜ける。通過しながら、通行状況、路面の状況、魔物の展開状況、落石、陥没、その他諸々、とにかく色々と確認しなければならない。

 

 場合によっては魔物を排除する必要があるだろう。騎馬ボコブリンの動向には特に注意しなければならない。前回の(てつ)を踏むわけにはいかない。自分にとって総長コーガ様は怖くもなんともないが、お仕置きはやっぱり怖い。裸踊りなど命じられた日にはどうなることか。

 

 ゲルドキャニオンを抜けてもまだ難所が残っている。デグドの吊り橋だ。あそこは橋の幅が狭く、大型の馬車の通行には適していない。魔物が襲ってきたら苦戦は免れないし、悪天候で視界不良にでもなったら転落の危険すらある。幸い、近頃魔物が出たという話は聞かないが、何が起こるか分からないのが大厄災以後のこのハイラルの大地だ。気を抜くことはできない。

 

 デグドの吊り橋を抜けたら、あとは特に何もない。平原外れの馬宿まで街道沿いに進めば良い。途中モリブリンやウィズローブがうろついている地帯があるが、そこは街道から外れている。馬車が襲われることはないだろう。

 

 おおまかな見当はついた。バナーヌは資料室を後にした。

 

 

☆☆☆

 

 

 彼女が資料室を出た頃には、時刻は昼になろうとしていた。バナーヌは調理場へ向かい、簡単な昼食をとることにした。ピリ(から)薬も調達しなければならなかった。

 

 調理場にはノチがいた。ノチは団員たちの昼食用に、古くなったバナナをひたすらあげバナナにしている最中だった。ノチはその小さな手を懸命に動かして黒ずんだバナナの皮を剥き、きび砂糖の汁に浸し、タバンタ小麦の小麦粉をまぶして、料理鍋に放り込んでいた。

 

 手を軽く挙げて、バナーヌはノチに挨拶をした。ノチは見るからに忙しそうだったが、バナーヌに気づくと途端に嬉しそうに頬をほころばせた。ノチは言った。

 

「バナーヌ! まだ出発したわけじゃなかったんだ!」

 

 バナーヌは言った。

 

「今から出ると暑いから」

 

 ノチは作業の手を休めることなく答えた。

 

「そっか、そうだよね。私、アジトから出たことないからそこらへん(うと)くて……」

 

 ノチの手は小麦粉で真っ白だった。顔に小麦粉がつかないように、彼女は器用に汗を拭った。

 

「ふぅ、もうそろそろ終わりそう。量が多いから、途中からやっつけ仕事になってないか、ちょっと心配だよ」

 

 ちょうど空腹だったバナーヌの視線は、できあがったあげバナナに釘付けになっていた。彼女が「食い意地だけは一人前だな」と揶揄されたことは数知れなかった。バナーヌは言った。

 

「あげバナナ、美味しそう」

 

 ノチはにっこりと笑って言った。

 

「バナーヌ、あげバナナ食べたい?」

 

 バナーヌは神妙に頷いた。

 

「食べたい」

 

 ノチも頷き返した。

 

「じゃあ、ちょっと待ってね! 今、あげたてを作るから……」

 

 ノチは手を動かし始めた。彼女の手つきは鮮やかで、丁寧だった。鍋の中で油が鳴った。

 

 

☆☆☆

 

 

 一時間ほど後、バナーヌはすっかり満足して調理場を出た。いや、厳密に言うと彼女は「すっかり」満足したわけではなかった。「出発を控えているんだから、腹八分目にしたほうが良いんじゃない?」とノチに言われた彼女は、本当はもっと食べたかったのを我慢したのだった。ノチはさらに言った。

 

「アジトを出たあとは走りっぱなしなんでしょ? たくさん食べたらきっと脇腹が痛くなっちゃうよ」

 

 たしかにそのとおりだとバナーヌは思った。だから彼女は我慢したのだった。彼女に我慢をさせられるのはノチだけだった。

 

 バナーヌとノチの二人は、一緒にあげバナナを食べながら色々とお喋りをした。装備科のおっさんが中古の装備をよこした上に、矢の本数をケチったことをバナーヌが言うと、ノチは「自分が作った員数外(いんずうがい)の矢があるよ!」と言って、それをわざわざ部屋から持ってきてくれた。

 

「これで足りるか分からないけど、ないよりはマシだと思うよ」

 

 それは色とりどりの鳥の羽がついた、丁寧な作りの矢だった。おかげで矢の総数は四十本に増えた。これで道中ボコブリンの拠点を襲撃して矢を略奪する必要はない。余計な労力が減るに越したことはないし、なにより純粋にありがたい。バナーヌはそう思った。

 

 食後に、バナーヌは手持ちのポカポカヤンマとリザルフォスの(つの)を用いて、ピリ辛薬を四つ作った。ピリ辛薬は夜の寒い砂漠を越えるには必須のものだった。

 

 別れ(ぎわ)、ノチは数食分の焼きトリ肉とビリビリフルーツをバナーヌに持たせた。ノチは言った。

 

「お礼なんていいよ。友達だもん」

 

 気をつけて、と言って、ノチは微笑んだ。

 

 バナーヌの乾いた心にノチの優しさが沁みた。本当に良い友達を持ったと彼女はしみじみと思った。無表情で、無口で、妙な特技を持っていて、うだつの上がらない下っ端ではあるが、ノチという友達がいるだけで自分は他の団員よりも遥かに恵まれている。彼女はそのように感じた。

 

 そう、恵まれている。たとえ自分が、人が人として生きる上でなくてはならない、記憶を失っているとしても、やはり自分は恵まれている。

 

 バナーヌには記憶がなかった。もっと正確に言えば、イーガ団で生活を始める以前の記憶、十歳より前の記憶がバナーヌにはなかった。

 

 イーガ団に入ってからのことは、かなり鮮明に彼女は覚えていた。厳しい戦闘訓練、退屈な座学、ひもじい夕暮れ、理不尽な暴力、ノチと友達になったこと、相撲大会、初めての任務、パシリ、初めて魔物を殺した感触……

 

 だが、バナーヌにはどうしてもその前が思い出せなかった。大きな胸に手を当て、真摯に精神を集中させても、どうしても彼女は思い出すことができなかった。

 

 イーガ団に初めて来た日のことも、彼女は思い出せなかった。ノチが物語るところによると、ある日、まだ総長就任前の上級幹部時代のコーガ様が「拾い物だ」と言って、突然アジトに小さな女の子を連れてきた。その女の子は痩せていたが、色が白く、綺麗な金髪で、何より澄んだサファイア色の瞳がとても印象的だったという。

 

 ポニーテールに編んだ髪の毛がまるでツルギバナナのようだったことから、コーガ様はその女の子を「バナーヌ」と名付けた。コーガ様は言った。

 

「名前がシーカー族のろくでなし風なのも、この鬼っ子にはちょうどお似合いだろ? 俺様のネーミングセンスもあながち捨てたもんじゃねえな!」

 

 しかし、連れてきた張本人であり名付け親であるコーガ様は、ほどなくしてバナーヌに興味をなくし、その教育も生活の面倒も他の幹部に任せてしまった。バナーヌについて尋ねられると、コーガ様はこう言うのだった。

 

「バナーヌ? そんなシーカー族のことなど俺様は知らんぞ。俺様は今、スナザラシのアラちゃんの調教で忙しいんだ。向こうへ行け」

 

 おかげでバナーヌは、愛のない、さながらガーディアンのごとき殺戮マシーンを作り上げるような苛烈な戦闘訓練漬けの毎日を送るはめに陥った。

 

 同じ教育を受けた子どもたちは順調に冷酷な殺戮マシーンとして完成していった。

 

「俺、人体の効率的な破壊の仕方がやっと分かった!」

「ふいうちってスリルがないからつまらない! 正面から殴り合いがしたい!」

「ああぁー、殺してぇ!! 敵を殺してぇよおおお!」

 

 幸か不幸か、はたまた天分だったのか、バナーヌの性格には少し抜けたところがあったため、彼女は幹部たちが理想とするような殺戮マシーンにはならなかった。幹部たちは口々に言った。

 

「こいつには殺戮者に必要な緊張感がまったく足りてない」

「とんだ期待外れだ。無愛想と早食いだけは一級品だな」

「今までかけたルピーと労力とバナナを返してほしいよ、まったく……」

 

 そんなこんなで、期待を裏切られた幹部たちはコーガ様と同じようにバナーヌに興味をなくし、どうでもよい一山いくらのパシリとして彼女を()き使うようになった。

 

 バナーヌとしては、別にこの境遇を不幸だとは思っていなかった。ノチという友達がいたから、彼女は(つら)い境遇も割と能天気に乗り切ることができた。それに、やや成長してモノの分別がつくようになってから(パシリの一環としてではあったが)ハイラル各地を巡ったことで、彼女は世の中には色んな人がいることを知った。

 

 自分には衣食住が保証されていて、なおかつ、たまにバナナが食べられる。それはとても恵まれているのではないか? 彼女はそう思うようになった。

 

 それに、彼女が昔のことを思い出そうとすると、決まって鋭い頭痛がした。頭痛を我慢してさらに頑張ると、彼女は吐き気を催した。「記憶喪失者は、何かの呼び水があれば思い出すことがないでもない」彼女はイーガ団の医師に言われたことがあった。だが、彼女はわざわざその呼び水を求めるための旅に出るほど暇ではなかったし、自由でもなかった。

 

 どうしても思い出せないものは、きっと思い出せないのだ。数年前、彼女はきっぱりと諦めることにした。それに、たとえずっと今のままだったとしても決して不幸ではない……

 

 いつの間にか、バナーヌはアジトの入り口まで来ていた。日暮れまであと三時間はあった。カルサー谷を抜けてゲルド砂漠に差しかかる頃には日没になるものと思われた。

 

 さあ、仕事の開始だ。

 

 逆さの涙目の紋様が刻まれた仮面を装着すると、バナーヌは音もなくアジトから走り去った。




 スナザラシに乗りながらカッコよくモルドラジークさんを倒したい! → リモコンバクダンと蛮族装備最高や! スナザラシなんかいらんかったんや!

※加筆修正を行いました。(2022/05/24/火)
※さらに加筆修正を行いました。(2023/05/06/土)


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第四話 ディペンデンス

 カルサー谷は静かな殺気に満ちている。鳥や獣、虫といった生き物はおろか、砂漠ではおなじみのリザルフォスといった魔物さえまったくいない。たまに岩と岩の間にひっそりと生えている草花が、わずかに生の気配を感じさせるにすぎない。

 

 しかし、この谷に入った者は、常に何かに見られているような、奇妙な違和感を感じることだろう。それは、崖の上に点々と意味ありげに鎮座している、カエルを(かたど)った石像のせいかもしれない。あるいは、崖と崖の間に張り巡らされている鳴子(なるこ)に、明らかな人為の痕跡を感じるからかもしれない。時折吹き抜ける風に、鳴子はカラカラと音を立てる。その音響は狭い谷底内で増幅し、えも言われぬハーモニーとなって谷を行く者の耳を貫く。

 

 かつて、ハイラル王国のある騎士はこう言った。「当地(とうち)は死地なり、我らすでに死せり」

 

 勢力盛んなりし時代のハイラル王国が満を持して送り込んだ第一次イーガ団討伐軍にとって、この言葉は現実のものとなった。鎧兜に身を包んだ重装備の騎士たちは砂地に足を取られ、その進軍は遅々として進まず、業を煮やした大将は、投石器や弓矢で武装した機動力の高い軽歩兵を先行させた。

 

 だが、軍が二分されたその隙をイーガ団は見逃さなかった。崖上から次々と投げ込まれる大量の岩石によって軽歩兵はあっという間に血煙と化し、防御円陣を組んだ騎士たちの頭上には爆薬樽が降り注がれた。王国軍は四分五裂となって、算を乱して壊走した。そこへイーガ団精鋭部隊による追撃が容赦なく加えられた。結果は言うまでもなかった。討伐軍の大将は討ち死にし、何とかゲルドの街北方の出撃拠点に逃げ帰ることができたのは、全体の四割に満たなかったという。

 

 その後、ハイラル王国は幾度も討伐軍を送り込んだ。そのどれも、結果は第一次の時と似たりよったりだった。それでも、一度はあと一息というところまで行ったこともあった。第八次討伐軍は特別に訓練された山岳部隊をうまく活用したことで、谷の三分の二を制圧し、イーガ団にも大損害を与え、もう一日もすれば谷の奥に到達するという地点まで進軍した。

 

 さしものイーガ団も今度ばかりはアジトを捨てて脱出することを検討したが、ここで奇跡が、つまり討伐軍にとっては悪夢が起こった。討伐軍の出撃拠点を、突如として超巨大な白いモルドラジークが襲ったのであった。そのモルドラジークの大きさは通常種の五倍はあったと伝えられているが、とにかくこの異常事態を受けて、討伐軍は進撃を断念して引き返さざるを得なかった。

 

 この戦いの後、ハイラル王国は大規模な軍勢を起こすことはなかった。折り悪くゾーラ川大氾濫が起きたことで、ただでさえ逼迫していた財政は完全に破綻し、貴族たちはここぞとばかりに国王への批判を強め、父や息子を失った民は怨嗟の声を上げ、神官たちは砂漠には女神の祝福が及ばないと嘆いた。王国は噴出する内政的課題の解決に忙殺され、もはやイーガ団に関わっているどころではなかった。

 

 そんな血と涙と栄光の地を、バナーヌは駆けていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 走る、走る、歩く。走る、走る、歩く。単調な繰り返しだった。スタミナ(がんばり)が切れないよう、短いインターバルを挟みながら、バナーヌはひたすら足を進めた。足音をまったく立てないのが、彼女が訓練されたイーガ団であることを示していた。

 

 ハイラル王国が膨大な戦費と多大な人命を投入し、ついに攻略し得なかったカルサー谷という地を、バナーヌは数時間で駆け抜けようとしていた。順調そのものだ。この(ぶん)なら、当初の予定通り、日没頃にゲルド砂漠に出ることができるだろう。彼女はそう思った。

 

 しかし、彼女にはひとつ、不快なことがあった。それは、汗だった。走っては歩き、走っては歩きを繰り返していると、すぐに彼女の体は温まり、汗が噴き出してきた。イーガ団員の装備する標準E型(いーがた)忍びスーツと忍びタイツは、静かさアップの基本的効果に加え、防寒、耐火、耐電機能がそれなりに備わっており、全状況に対応可能なまさに万能ともいえる優れモノであるが、その代償として通気性がとても悪かった。

 

 おまけにバナーヌは、やや筋肉質ではあるが、他の女団員と比較して非常に女性的な体つきをしていた。端的に言えば、彼女はグラマーだった。イーガ団の掟として、対峙する相手に性別を悟らせてはいけないというものがある。ゆえに彼女はきつくさらしを巻いて胸の大きさをごまかし、その上から忍びスーツを着ていたが、これがまた暑さに拍車をかけた。ああ、汗は胸にたまるし、熱気はこもるし。バナーヌが日中の暑さよりも夜間の寒さを選んだのはこんなところにも理由があった。

 

 バナーヌは汗疹(あせも)になるのを防ぐため、少し立ち止まって汗を拭くことにした。彼女はポーチから手拭いを取り出して、スーツの胸元を少しはだけさせようとした。

 

 その時だった。突然、轟音を立てて崖の上から巨岩が降ってきた。岩は三つあった。三つの岩はバナーヌの至近距離に落下した。落下の衝撃で、彼女の体全体が宙に浮かび上がった。濛々(もうもう)と砂埃が舞い上がり、視界が閉ざされた。

 

 バナーヌは狼狽した。いったいなにがどうなっているのか、彼女にはまるで見当がつかなかった。こんなことは今までになかったことだ。まさかこんなにアジトに近い場所で、敵の襲撃か? もしくは魔物の攻撃か? それとも時々夜空に見かける流れ星が、自分のすぐそばに落下したのか? 数瞬の間だったが、彼女の脳内には様々な考えが去来した。

 

 だが、バナーヌは非常によく訓練されたイーガ団員であった。彼女はすぐに平静さを取り戻すと、側転とバック宙を繰り返して転がってくる巨岩を回避し、首刈り刀を抜いて構え、辺りを見回した。弓矢にもすぐに手を伸ばせる体勢を、彼女はとった。

 

 ゴロゴロと三つの巨岩が転がっていった。パラパラと崖上から土埃が落ちてきた。砂埃が徐々に収まってきた。

 

 何かが動く気配がした。崖の上だ! バナーヌはすぐに二連弓に矢を(つが)え、その方向へ素早く狙いをつけた。

 

 彼女が矢を放つ寸前、崖の上から男の声がした。

 

「あっ、いけねぇ! おい、待て! 撃つな! 俺は仲間だ、仲間だよ!」

 

 どこかで聞いたことのあるような声だった。だが、正体が分からないのに「仲間だよ!」の言葉だけで気を緩める馬鹿はいない。バナーヌは弓の狙いをつけたまま、油断することなく問いかけた。

 

「合言葉。『食わぬバナナの』」

 

 声は答えた。

 

「『皮算用(かわざんよう)』! 皮算用だよ! 頼むから弓で狙うのはやめてくれ! 今、そっちに降りる!」

 

 崖から影が降ってきた。大きな影だった。巨岩と同じくらいの音と砂埃を立てて、その男は着地した。男は言った。

 

「よう、パシリのバナーヌ。俺だよ」

 

 バナーヌは冷たく言った。

 

「イワゾーか」

 

 バナーヌは弓を構えたままだった。男は慌てて口を開いた。

 

「あっ、待て! なぜまだこっちを狙い続けてる!? やめろ、やめてくれ! 悪かった、俺が悪かったよ!」

 

 男は、バナーヌが相撲大会で投げ飛ばした、あのイワゾーだった。意外な犯人の出現に、バナーヌはもしやあの時の意趣返しとして岩を落とされたのかと思ったが、イワゾーの釈明によれば事情は次の通りだった。

 

 相撲大会でバナーヌに投げ飛ばされ、コーガ様を下敷きにして気絶した後、目を覚ましたイワゾーを待っていたのはきついお仕置きだった。「いくら相手があの変人バナーヌとは言え、大男で怪力自慢たるお前がああも無様な敗北を喫するのは許せぬ。罰として一ヶ月のバナナ禁止と、単独でのカルサー谷の落石設備の補修点検を命ずる」 そのように幹部に言われたとのことだった。

 

 大のバナナ好きでバナナジャンキーであったイワゾーにとって(もっとも、バナナ好きかつバナナジャンキーであることは全団員に共通のことである)、一ヶ月のバナナ禁止令は実に落胆することだった。まだ四日目だが、すでに彼の脳内はバナナのことでいっぱいで、取るものも手につかなかった。手は震え、頭に靄がかかり、目はチカチカし、口の中にはいつの間にかヨダレがたまる……

 

 そんな上の空の状態で落石設備を点検していたら、下に人影が見えた気がした。

 

「てっきり敵だと思って、岩を落としちまったんだ。いや、冷静に考えたら、砂漠からの侵入者だったら見張り員から連絡があるはずだし、俺だって馬鹿じゃねえ、普段だったらすぐにアジトからの仲間だと気づけたはずなんだ。やっぱりバナナがな、バナナがどうしても頭にチラついて離れねえんだよ……」

 

 バナーヌは納得した。イワゾーの言葉に嘘はなさそうだった。バナナが食べられない辛さはよく知っている。しかし、それだからといってうっかりミスで危うく殺されそうになったのを簡単に許すわけにはいかない。バナーヌは無口で無表情だが、無感情ではない。彼女は言った。

 

「もう少しで死ぬところだった」

 

 バナーヌが顎をしゃくると、イワゾーは即座に土下座した。

 

「悪かったよ、悪かったよ! ほら、この通り頭を下げる! な、許してくれ! な、な、ほれこの通り、な! 頼むから、上には報告しないでくれ! これ以上罰としてバナナ抜きなんかされたら、俺死んじまうよぉおお!!」

 

 大きすぎる体を懸命に折り畳み、必死になって頭を下げ続けるイワゾーを見ているうちに、バナーヌの怒りは薄れてきた。ここらで手打ちにするとしよう。彼女は言った。

 

「二百ルピーとバナナ二十本で許してやる」

 

 イワゾーが「バナナだけはどうしても勘弁」といったので、彼女は結局五百ルピーで許してやることにした。

 

 

☆☆☆

 

 

 古代シーカー族のことわざに曰く、禍福(かふく)(あざな)える縄のごとし、と。だが、バナーヌとしてはそうは思えなかった。良いことはだいたい連続して起こるものだし、悪いことは良いこと以上に連続して起こるものだという考えを彼女は持っていた。

 

 今回の件にしてもそうだった。納得のできない謹慎を三日間、景品のバナナの没収、どう考えても一人の手には余る任務、しょぼい装備、そしてイワゾーのうっかり落石事故……悪いことが連続しているではないか。

 

 だから、カルサー谷を抜けた後も、砂漠で何か悪いことが起こるのではないかと、バナーヌは危惧していた。ゲルド族の哨戒部隊に見つかるようなヘマはしないが、砂嵐に見舞われたり、エレキースの大群に遭遇したり、リザルフォスに囲まれたり、そういう不幸が襲ってくるのではないか……彼女は油断なく身構えていた。

 

 だが、彼女の案に相違して、そういうことにはまったくならなかった。道中、三、四匹のリザルフォスと遭遇してそれらをあっさりと倒し、強化リザルブーメランを一つ分捕ったくらいしか目立った出来事はなく、彼女は実にあっさりと砂漠を抜けてしまった。

 

 バナーヌは、拍子抜けした。なんだか運命に自分の哲学を笑われた気がして、彼女は少しだけ腹が立った。本当なら、不幸な目に遭わなかったことを喜ぶべきなのに……

 

 夜の砂漠の冷たい風が彼女の頬をなでた。無数の星々とひときわ明るい月の光が、彼女の金色の髪を冷たく照らしていた。

 

 今、バナーヌはゲルド砂漠の入り口、ゲルドキャニオン馬宿付近、崖上の祠の近くにいた。もう一時間もせずに夜明けだった。日が昇ったら馬宿にいる連絡員に会いにいこうと彼女は思った。さすがに夜中に若い女が一人で馬宿を訪ねるのは怪しすぎる。

 

 バナーヌは、ふと何となくかたわらの祠の黒い外壁をなでた。ヒンヤリとしていて気持ち良い。そういえば、この祠は、古代シーカー族が勇者の試練のために建立したものであるという。涙目の紋様が刻まれた台座があることからもそのことがうかがえた。

 

 いつかの座学の際、教官は言った。

 

「愚かにも魔王様に逆らう憎き勇者のための施設など完全に破壊して然るべきなのであるが、祠は謎の素材でできていて、どれだけ岩をぶつけても凹まず、どれだけ火薬を積んでも燃えず、どれほどの手練(てだれ)が刀で斬りつけても傷一つつかず、結局放置するほかない。ただ、長い年月の間、一度でも祠が開いたという話は聞いたことはなく、おそらく建てたは良いが内部の燃料なり何なりのエネルギーが切れて機能を停止しているのではないか……」

 

 教官は得意げに自説を披露(ひろう)していたが、バナーヌとしては、そんなことはどうでも良かった。座学は厳しい戦闘訓練の後に行われていたので、疲労困憊の子どもたちはいつも座ったまま意識を夢の世界に旅立たせていた。バナーヌもその例に漏れなかった。彼女はみんなに混ざって、貴重な睡眠を(むさぼ)ったものだった。

 

 戦闘訓練の場合は、サボったり怠けたりしたら死を覚悟しなければならないほどの折檻が加えられた。だが座学の場合は、教官は本の虫で目が悪く、話すのは好きだったがさほど教育熱心というわけではなかったので、子どもたちは心置きなく眠ることができたのだった。祠の話は、珍しくバナーヌが起きていて、かつこれまた珍しく、真面目に話を聞いていたから覚えていたものだった。

 

 だから、バナーヌがここに来たのは祠に興味があったからではなかった。ここは高い崖の上にあって馬宿からは視界が切れ、本道から道は通じているが急勾配のため、一般人はあまり寄り付かなかった。つまり、休憩場所として絶好の場であった。だから彼女はここに来たのだった。それに、この時間帯ならばなおさら人は来ないだろうと彼女には思われた。

 

 バナーヌはポーチを開いて、清潔な布で丁寧に包まれた食物を取り出した。中身は焼きトリ肉とビリビリフルーツだった。別れ際にノチが持たせてくれたものだった。バナーヌは一口一口を味わって食べた。誰も一緒ではない、ただ一人の食事なのだから特技の早食いでパッと食べてしまっても良いのだが、友達の心尽くしの食べ物をそんなふうに食べてしまうのは彼女には躊躇(ためら)われた。

 

 革袋の水筒の水を飲み干して食事を終えたバナーヌは、少し横になって食休みをした。そして、彼女はおもむろに立ち上がると、忍びスーツを脱ぎ始めた。

 

 別に彼女に露出癖があるわけではない。実は、彼女がこの祠に来たのには、もう一つ理由があった。それは、ここには湧き水が水たまりを作っているからであった。彼女の体は汗ばんでいた。質実剛健を旨とするイーガ団員(その割にコーガ様はあまりに贅沢三昧が過ぎるが)として教育を受けてはいても、バナーヌは一人の女性であった。彼女はできることならば一日に一回は何らかの形で入浴したいのだった。

 

 バナーヌは標準E型忍びスーツを脱いだ。次に彼女は忍びタイツを脱いだ。彼女はさらしと下着だけの姿になった。それも彼女は脱ぎ去った。星明かりに、彼女の筋肉質だが豊満な白い肢体がわずかに照らされた。

 

 彼女は手拭いを水に浸し、体を拭いていった。気温は低かったが、そこは祠が壁になっているおかげで風は当たらなかった。彼女は気になっていた胸の谷間を入念に拭き、腰のあたりを拭き、その他色々な部分を拭いた。彼女は砂埃で汚れた顔を洗った。

 

 一連の作業が終わると、バナーヌは水たまりに仰向けに横たわって全身を浸した。無論、彼女は首刈り刀を手放さなかった。髪が濡れるが、どうせもうじき日の出だ。軽く拭いておけば勝手に乾くだろう。彼女はそう思った。全身がひんやりとして、夜通し駆けてきた体の熱が急速に冷めていくのが彼女には分かった。

 

 彼女は目を閉じて、この快い感触をじっくりと楽しんだ。小さな水たまりと、小さな手拭いしかないが、これはこれで良いものだ。アジトでの週に四回の入浴(前の総長までは毎日入浴できたのだが、コーガ様の代になってからは経費削減として減らされた)は、時間も短いし窮屈でとても楽しめるものではない。初めてオルディン地方にパシリとして派遣された時、この世に温泉というものがあることを知ったが、結局入らずじまいだった。それから、へブラ地方にはサウナという蒸し風呂があるらしい。なんでも蒸気で満たされた浴室で体を熱して汗をかき、岩塩を肌に擦り付け、その後氷の浮かぶ湖にダイブして汗を流すのだとか。どう考えても拷問の一種だとしか思えない……

 

 色々と、とりとめのない考えをめぐらせているうちに、バナーヌの意識は眠りの世界へと落ちつつあった。頭の片隅ではこのまま寝ては風邪をひくかもしれないと彼女は思っていた。だが、まどろみがどうしようもなく気持ちよくて、彼女はどうしても起き上がることができなかった。

 

 だが、それもそこまでだった。突然、彼女の頭上で何かが動く気配がした。何か声もしたようだった。パラパラと土くれと石ころが落ちてきた。

 

 そして、その次の瞬間だった。

 

「うおおおっ!!」

 

 崖上から、何かが絶叫しながら落ちてきた。それは盛大な水しぶきを立てて、水たまりに落下した。落ちたところは、バナーヌの至近距離だった。一連の出来事は瞬く間に起こったため、ウトウトとしていたバナーヌとしてはただ咄嗟(とっさ)上体(じょうたい)を起こして、首刈り刀を構えることしかできなかった。

 

 苦しげな声が響いた。それは男の声だった。

 

「ごぼごぼ、がぼごぼ、がはっ! ぺっ、ぺっ! あー、畜生(チクショウ)、死ぬかと思ったぜって……? えっ?」

 

 水たまりから立ち上がったのは、歳を取った男だった。バナーヌは即座に足払いをかけて男を水たまりに顔面から叩きつけた。それと同時に、彼女は男の右手をとって捻り上げ、背中に全体重をかけてのしかかり、首元に首刈り刀をかけた。それはイーガ団流格闘術「ジョ・ノクチ」のひとつ、「アツ・セイ」であった。彼女はこれだけの動きに、わずかにゴーゴーガエルが一回ジャンプするだけの時間しかかけなかった。

 

 男は苦痛で叫んだ。

 

「がはっ、ぐほっ! おぇっ! いて、いてててっ!! なんだなんだ、なにがいったい、なんだこれっ!? いてててっ!!」

 

 全裸のバナーヌが冷たく言った。

 

「黙れ」

 

 バナーヌの声には殺気が込められていた。男はさきほどまでとは別種の悲鳴を上げた。

 

「ひっ!? 黙る、黙るから! 右手だけははなしてくれ、いたすぎる!」

 

 バナーヌはまた冷たく言った。

 

「黙れ」

 

 男は答えた。

 

「はい」

 

 喉元に突きつけられているモノが冷たい刃物だということに気づいたのであろうか、騒いでいた男は途端に大人しくなった。バナーヌは言った。

 

「質問に答えろ。名は?」

 

 男はうわずった声で答えた。

 

「ピ、ピルエだ」

 

 バナーヌは言った。

 

「職業は?」

 

 ピルエは答えた。

 

「う、馬宿の店員だ。下のゲルドキャニオン馬宿で働いている」

 

 そこまで聞くとバナーヌは、制圧されて痛みに悶えるこの男のことを思い出すことができた。ピルエという老年に差し掛かった男が、ゲルドキャニオンの馬宿で働いているのを確かに彼女は知っていた。男はちょっと悪そうな雰囲気を漂わせていて、行商人や旅人にやたらとキノコについて尋ねていた。一般人のふりをして馬宿を利用したバナーヌにも、男は職務そっちのけで「なぁ、姉ちゃん、ゴーゴーダケを持ってないか? ゴーゴーガエルじゃねえ、ゴーゴーダケだ。なんだ、持ってねぇのか……」と、勝手に質問し勝手に落胆し勝手に去っていった。

 

 バナーヌはまた言った。

 

「ここで何をしていた?」

 

 ピルエと名乗る男は言い淀んだ。

 

「そ、それは……」

 

 バナーヌはその右手を更に強く捻り上げた。

 

「言え」

 

 男は悲鳴を上げた。

 

「いでででで! いう、言う! ゴーゴーダケ、ゴーゴーダケを探していたんだ!」

 

 痛みと恐怖でピルエは勝手に話し始めた。小さい頃からゴーゴーダケが好きだったこと。ゴーゴーダケから得られるスピード感がたまらないこと。嫌なことがあった時はゴーゴーダケをやけ食いすると気分が晴れたこと。次第に食べる量が増えてきたこと。給料の大半はゴーゴーダケの購入に費やしたし、それでも足りないので休み時間などに暇を見つけては自生しているゴーゴーダケを探していたこと……

 

 ピルエは話し続けた。

 

「だけどなぁ、こないだ配属された新人が妙に生真面目なやつで、協会本部に俺のことを密告(チンコロ)しやがったんだ。俺が職務怠慢のゴーゴーダケジャンキーだってな。おかげで給料は減らされるし、昼間は監視が厳しくなって、職場から抜け出すこともできなくなっちまった。仕方ねぇからみんなが寝静まった夜中にコッソリ抜け出してゴーゴーダケを探してたんだ。そしたら崖から足を滑らせてこの有様さ」

 

 話を聞いているうちに、だんだんバナーヌは疲れてきてしまった。悪いことには悪いことが続く。やはり自分の哲学は正しかったのだ。ゴーゴーダケジャンキーの爺さんのおかげでつかの間の休息を台無しにされるなど、歩行型ガーディアン襲来並の不幸だ。幸か不幸かこちらの姿は見られてないようだが、もし裸を見られていたら飛行型ガーディアン飛来級の不幸だった……

 

 背中の上の存在がわずかに殺気を緩めたのを感じたのだろうか、ピルエが話しかけてきた。

 

「ところで姉ちゃん」

 

 バナーヌは答えた。

 

「何?」

 

 ピルエは言った。

 

「でっかくて良いおっぱいしてんな、へへ」

 

 バナーヌは渾身の力でピルエを殴り倒した。やっぱり裸を見られていた。気絶したピルエを後目(しりめ)に、バナーヌは手早く体を拭いた。彼女は下着を履くとさらしを胸に巻き、スーツとタイツを着た。彼女は装備を身に着けると、髪を編み直し、忘れ物がないか確認した。そのあと、彼女はもう一度ピルエの側に寄って、脇腹に蹴りを一発くれてやった。

 

 任務を終えたら、バナナをやけ食いしてやる。

 

 昇りかけた赤い太陽に、バナーヌは固く誓った。




 私はゴーゴーガエル派です。

※加筆修正を行いました。(2022/05/25/水)
※さらに加筆修正をしました。(2023/05/06/土)


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第五話 逃げ出した者

 黎明(れいめい)のゲルドの空に意気揚々と赤い太陽が躍り込むと、夜の冷気はすごすごと退却した。これから日没まで、砂漠は灼熱の大気と凶暴な太陽光に支配される。生命力のなき者、知恵のなき者、忍耐のなき者……こういった者たちは、砂漠の不夜城ゲルドの街に辿り着くことはできない。もっとも、辿り着けたところで掟によりヴォーイ()は街に入れない。だから、男の旅行者たちはせいぜいカラカラバザールへ行って、何となく異国情緒を楽しみ、何日かを無為に過ごしたあと、疲労した体を引きずって砂漠から去っていくのが常であった。

 

 ゲルドキャニオン馬宿は、長いゲルドキャニオン本道を踏破して、それから広いゲルド砂漠へ挑戦する者たちにとっての、いわば中間地点であった。ハイリア人、ゲルド族、ゴロン族、リト族など、様々な人々が集まり、大量のルピー、食料、物資、武器、交易品、宝石、貴金属、馬匹(ばひつ)、スナザラシ、そして何よりも貴重な情報が取り引きされていた。ハイラル各地のどの馬宿も、ゲルドキャニオン馬宿と状況はほぼ同じであった。馬宿には人が集まり、(いち)が開かれ、情報が交換される。

 

 このような重要地点をイーガ団が放置しておくはずはなかった。イーガ団は一般人に紛れ込ませる形で、馬宿に常駐する連絡員を派遣していた。

 

 情報収集は重要な任務である。しかし、イーガ団員において、馬宿に派遣されることは一種不名誉なこととされていた。下級団員たちは、戦闘員として前線に立たず安穏と日々を送る連絡員に羨望と嫉妬と憎悪を抱いていた。また、幹部たちは、連絡員が情報に触れ過ぎることで余計な知恵をつけ、「イーガ団よりも良い世界がある」と考えて出奔(しゅっぽん)するかもしれないと危惧していた。事実、馬宿の常駐連絡員の出奔率は、他の部署に比べて高かった。

 

 出奔、脱走、抜け忍……そのいずれもイーガ団においては最大級の(ばつ)が与えられる罪である。イーガ団が結成された直後の時期は、団の規律を維持するために、極端なまでの厳罰主義が採られていたという。たとえば仲間殺しは、殺された仲間の遺族による(のこ)引き刑と決められていた。命令不服従は、(ひたい)へバツ印の焼印をしたあと、斬首して晒し首にされた。横領は、錆びた刀による斬首とされた。そして、出奔、脱走、抜け忍といった罪を犯した者は、地の果てまで捜索され、追い詰められて捕縛された。脱走犯は総長と全団員の前ですべての衣服を脱がされて晒し者にされたあと、モルドラジークに踊り食いされたという。ちなみに盗みは、軽微なものならばお咎めなしで、むしろ忍びとしての才覚があると褒められ推奨されることが多かったといわれている。

 

 今のイーガ団はかつてほどの厳罰主義ではない。罰としては、訓戒、謹慎、禁錮、強制労働、死刑、この程度に過ぎない。それらに加えて、コーガ様が自ら考案した()()()()()()()がある。だが、出奔者に対する罰はというと、それは昔と変わらず死刑である。さすがにモルドラジークによる踊り食いではないが、見つけ次第即座に処刑することが捜索者には許されている。

 

 それでも、出奔者は絶えなかった。誰も決して口にはしないが、コーガ様が総長に就任してから出奔者が増えたと団員の殆どが感じていた。コーガ様はカリスマ性があり、戦闘能力も歴代最強との誉れが高かった。だが彼は傍若無人のわがまま放題をするばかりで、イーガ団の管理運営をまったく放棄していた。それでも優秀な幹部たちの働きによって、イーガ団は問題なく運営されていた。しかし、こと規律という面においては、ガタガタとまではいえないにせよ、先代に比べ確かに緩んでいた。これでは出奔者が増えないほうがおかしかった。

 

 出奔事件が起こる(たび)に、幹部たちは団員を集めてこう訓示したものだった。

 

「逃げ出した者には忍耐が足りていない。確かに、イーガ団の生活は優しくない。終わりなき抗争と厳格なる規律生活に、諸君らも時折息が詰まりそうになるだろう。だがそれはすべて、来たるべき魔王様の君臨する栄光の王国にあって、人間の中でも我々イーガ団のみが生存を許され、永遠の幸福を享受せんがためである。一時(いっとき)の苦痛に耐えきれず、永遠の幸福をみすみす逃す者は、すべて忍耐が足りないのである」

 

 バナーヌは、この言葉を聞くたびにいつも疑問に思った。そも、魔王とはなんぞや? その顔も姿も見たことがないし、声を聞いたこともない。ハイラル王国が滅んだのであるならば、今ハイラルの大地を支配しているのは魔王ではないのか? しかし幹部たちは、魔王様の王国はまだ地上に実現していないという。意味が通らないではないか。あと、魔王様はバナナをたくさん食べさせてくれるのか、それも気になる。むしろ、それが一番気になる。

 

 それに、バナーヌはかつて彼女自身の目で見て、彼女自身の耳で聞いたのだ。ハイラル城をグルリと取り巻く、漆黒の瘴気と赤電を纏った巨大な化け物の姿を、彼女は見た。この世の生きとし生けるものすべてを呪うかのような、怖気を震う咆哮を彼女は聞いた。あまりの恐ろしさと禍々しさにしばし呆然とし、立ち竦んでいたところを上空の飛行型ガーディアンに捕捉され、パシリの用事も忘れて彼女は命からがら逃げ出した。今でもその時のことを思い出すたびに、彼女の心に苦々しいものが湧き起こる。

 

 あの後、何回かハイラル城に行ったが、化け物はもう見られなかった。バナナ欠乏による禁断症状からくる幻覚だったのだろうか? しかし、あれは幻覚と言うにはあまりに絶対的な存在感を示していたが……

 

 あんな化け物が魔王なのか? あれがイーガ団に永遠の幸福をもたらしてくれるのか? バナーヌは一晩考えたが、結局、結論は「分からない。だからこれ以上考えない」というところに落ち着いた。彼女はイーガ団の教義を知っているだけで、それを人生の指針としているわけではなかった。だから、他のピュアなイーガ団員ならば悩み苦しむであろうこの問題も、あっさりと捨て置くことができた。もし、バナーヌの教義に対するこの心的態度が幹部に露見したとしたら、バナーヌは思想矯正対象とされただろう。だが、彼女は寡黙な性格をしていたため、そのようなことがバレるおそれはまったくなかった。寡黙さは彼女を守る鎧の役目を果たしていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 朝の馬宿はごった返していた。ハイリア人の旅人、四人グループの旅行者、ゲルドの街へ向かう隊商、カブトムシの形をした大きなバックパックを背負った行商人、ヴォーイハントの旅をしているゲルド族などがいた。宝石売りのゴロン族や、吟遊詩人のリト族もいた。様々な人が馬宿のテントを忙しなく出入りしていた。

 

 四人グループの旅行者は朝だと言うのにテーブル席でカード博打に興じていて、おまけに酒まで飲んでいた。既に何本かの酒瓶が床に転がっていた。

 

 一人の男がカードを投げ出して叫んだ。

 

「くそ、また負けた! おい、次は五十ルピーだ! 今度こそ負けんぞ!」

 

 別の男が鼻で笑った。

 

「ははっ、熱くなるなよこのおぼっちゃんが! もうトータルで三百ルピーは負けてるじゃねーか! このままだと尻の毛まで(むし)られちまうぞ!」

 

 他の男が手をあげて馬宿の宿長(やどちょう)を呼んだ。

 

「おーい、おーい! 宿長! リンゴ酒を追加だ!」

 

 四人目の男は酒で顔を真っ赤にしていた。その男もまた大きな声で宿長を呼んだ。

 

「こっちはエールだ、エールを一本!」

 

 呆れ顔をした馬宿の宿長が、片手にリンゴ酒の瓶、片手にエールの瓶を持って、カウンターから出てきた。宿長は言った。

 

「はいはい、金を出すんならいくらでも酒はお出ししますがね。アンタ方、今朝は早めに出発して暑くならないうちにカラカラバザールに行くと昨晩言ってたじゃないですか。酒なんて飲んだら砂漠越えは厳しいですよ」

 

 四人組の男たちは口々に言った。

 

「馬鹿を言うな、酒を飲まずに博打なんてできるものか! それに俺はハイラルの近衛騎士の末裔だ! 砂漠なんぞ恐るるに足らんわ!」

「そうだ、馬宿の店員ふぜいが俺達に意見するな!」

「いや、『店員ふぜい』というのはちょっと暴言だが、やはり意見はするな!」

「おい、キノコの串焼きも持ってこい!」

 

 宿長は平然として答えた。

 

「はいはい、悪うございました。キノコの串焼きですね、ただいまご用意します。ではでは、どうぞごゆっくり……」

 

 宿長はカウンターへと戻った。宿長は、ああいった手合いの輩の扱いには慣れていた。言われるままに酒を出して、酔い潰れさせればそれで良い。真面目に説教を垂れて反感を覚えられるより、宿泊費と酒代をふんだくるほうが商売としておいしい……

 

 その点、隣のテーブルの男女はなんとも「旨味のない」客だった。宿長はちらりと視線を向けた。男と女は茶と焼きバナナを頼んだだけで、あとは何かぽつりぽつりとお喋りをしているだけだった。男女のうち、宿長は男についてはよく知っていた。名前は、たしかラウドンだったか? ラウドンは茶色の髪をした目の鋭い中年の男性で、鍛え上げられた筋肉質な体つきをしていた。ラウドンは数年前から隊商や旅行者の護衛役として働いており、この馬宿を寝床としていた。剣術の腕は達人並で、砂漠のリザルフォスを正面から真っ二つにするらしいが、まあ、きっとそれは商売上の宣伝文句だろうと宿長は思っていた。

 

 女の方は、宿長が初めて見る顔だった。女は短い黒い髪をしていた。女は童顔だった。その眉は太く、黒目勝ちの目は少し垂れていた。あまり美しくはないが、かわいいといえる女だった。体つきは女性らしいが、服装の野暮ったさが全体的な印象を台無しにしていた。ラウドンと話し込んでいるということは、彼女はこれから砂漠を越えようという旅行者で、護衛契約の交渉とか内容の確認とかをしているのだろうか……?

 

 最近は単独の女の旅行者も増えてきたと宿長は思った。ゲルド族の奇妙な風習、ヴォーイハントの真似事だろうか。若い娘が、はしたない。俺の娘も自分探しとか言ってハイラル中を遊び回っている……

 

 急に不愉快な気持ちになった宿長は、八つ当たり気味に新人の店員を怒鳴りつけた。

 

「おい、新人! ピルエのクソジジイはまだ見つからねぇのか!」

 

 新人の店員は答えた。

 

「はい、どこにもいません。昨晩寝たときは隣のベッドで(イビキ)をかいていましたから、たぶん夜中にここを抜け出て外へ行ったんだと思います」

 

 宿長は苛立ちを隠さずに言った。

 

「そんなこたぁどうでも良いんだよ! 探せ! 見つけたら奴の鼻の穴にゴーゴーダケを()じ込んでやる! そしたらあのクソジジイもガンバリバチみたいにキリキリ働くようになるだろうよ!」

 

 馬宿は更に混み合ってきた。吟遊詩人の奏でる物悲しげな音色と共に、様々な呼び声が外からも中からも聞こえてきた。

 

「えー、ケモノ肉、ケモノ肉、ケモノ肉はいかがですかぁ! 砂漠越えにはケモノ肉の串焼きですよー!」

「宝石はいらないゴロ? コハク、サファイア、格安ゴロ」

「オーウ、マイドー! イツモオーキニー! ソレ、買ッチャウカ?」

「遠く東のハテノ村で一流の職人が貴重素材で染め上げた反物(たんもの)、今なら安いですよ!」

 

 周囲の喧騒の中、二人の男女のテーブルだけは異常に静かだった。男が地図を広げ、そこここを指で指し示し、小声で説明を加えていた。女は地図を凝視し、たまに頷いていた。

 

 男が言った。

 

「昨日、大規模落石があったのはこの地点、ウメタケ台地の北の突端付近です。なんとかして岩を撤去しない限り、馬車の通行は不可能です。理解しましたね、プラタノさん」

 

 女は頷いた。

 

「うん、確かに」

 

 男は話を続けた。

 

「それからご懸念の騎馬ボコブリンですが、馬宿が金を払ってゲルドの戦士を招聘し、また有志が力を合わせて義勇団を組んだこともあって、この一ヶ月でほぼ全滅させることに成功しました」

 

 女はまた頷いた。

 

「うん」

 

 男はさらに言った。

 

「ですから、プラタノさんとしては魔物の討伐はお気になさらず、落石の撤去にのみ注力されるのが良いと思います。例の不思議なブレスレット、あれを使えば良いのではないですか? その他、路面の状況ですが、大規模な陥没などの情報は入っていません。こちらも問題ないでしょう」

 

 女は短く答えた。

 

「うん」

 

 男は話をまとめるように言った。

 

「以上がゲルドキャニオンの状況の概要です。ご理解頂けましたか?」

 

 女はどこか満足そうに返事をした。

 

「うん、ありがとう、ドゥラ……ラウドン」

 

 男は言った。

 

「礼には及びませんよ。仕事ですからね、プラタノさん」

 

 プラタノと呼ばれた女は居心地の悪そうな顔をした。やはり、偽名で呼ばれるのは何度経験しても気持ち悪い、とプラタノ――つまりバナーヌは思った。

 

 バナーヌはぬるくなった茶を飲んだ。茶は、乾燥させたビリビリハーブの葉を煮だしたハーブティーだった。一口含むたびに、彼女の舌にピリピリとした感触が走った。ビリビリハーブのハーブティーは、上等な品ならば舌が痺れるようなことはない。つまり、これは安物だった。茶と一緒に注文した焼きバナナも中身がスカスカで、とても美味しいと言える代物(シロモノ)ではなかった。

 

 バナーヌは目の前の男を見た。この男はどうなんだろう? いや、茶や焼きバナナの話ではない。()()()()()()()()()()についてだ。ドゥランという本名を隠し、ラウドンという偽名で護衛役として活躍し、人に感謝され記憶されていくのは、とても気持ちの悪いことなのではないか?

 

 バナーヌの視線に気づいたドゥランは、穏やかな口調で彼女に話しかけた。

 

「いかがなさいましたか?」

 

 バナーヌは言った。

 

「ラウドン」

 

 ドゥランは答えた。

 

「はい」

 

 バナーヌはドゥランの顔を見つめつつ、言った。

 

「奥さん、お腹どんどん大きくなってる」

 

 ドゥランの目が一瞬光ったのが、バナーヌには分かった。ドゥランは言った。

 

「……そうですか。元気でしたか」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「とても元気」

 

 ドゥランは溜息をついた。

 

「それは良かった……」

 

 ドゥランは目を閉じて、天井を向いた。こみ上げる思いを抑えているのだろうか。それとも、数ヶ月に一度しか会えない妻の面影を懸命に思い描いているのだろうか。あるいは、これから生まれてくるであろう赤子のことを想っているのだろうか……? いずれにせよ、ずいぶん印象が変わったなとバナーヌは思った。

 

 アジトで剣術教官をしていた頃のドゥランは、まさに勝負の鬼だった。常に彼の眉間には深い(しわ)が刻まれていて、(ひたい)には青筋が浮かんでいた。彼はどんな相手でも、そう、たとえ相手がコーガ様であっても決して手加減せず、容赦なく木刀を振り下ろした。そんな彼についたあだ名は「剣鬼」だった。彼の得意技は居合抜刀術だった。神速の速さで振るわれる彼の風斬り刀は、一撃で鋼鉄リザルシールドごとリザルフォスを真っ二つにすると評判だった。

 

 だが、結婚してから、ドゥランは猛々しさを失った。彼の口調は丁寧になり、その表情から皺と青筋が消えた。幹部たちは、剣鬼が惰弱に堕したと失望した。彼は剣術教官の任務から外されて、ゲルドキャニオン馬宿の常駐連絡員という不名誉な職業に左遷された。

 

 バナーヌは、つい尋ねてしまった。無口な彼女が自分から質問するなど珍しかった。

 

「ねえ、ラウドン」

 

 ドゥランは答えた。

 

「なんですか、プラタノさん」

 

 バナーヌは言った。

 

「奥さんに会いたい?」

 

 ドゥランは深く溜息をついた。

 

「……会いたい。会いたいですなぁ。最後に会ったのは三ヶ月前です」

 

 バナーヌはさらに尋ねた。

 

「ラウドンは今、不幸?」

 

 ドゥランは少し驚いたような顔をした。しかし、彼はすぐに笑みを浮かべると、静かに首を左右に振った。

 

「プラタノさん。どうやら私が左遷されてこんな場所でつまらない仕事に右往左往し、妻にもロクに会えない状況をあわれんでくれているようだね」

 

 バナーヌは答えた。

 

「いや、あわれんではいない」

 

 ドゥランは少し笑いながら言った。

 

「いえいえ、あわれまれてもそれは当然です。でも、それは以前の私に対してであって、今の私を不幸だとか惨めだとか思われるのは心外です」

 

 確信に満ちた表情で、ドゥランはそう断言をした。それがバナーヌには不思議だった。彼女は問いを発した。

 

「どうして?」

 

 ドゥランは言った。

 

「剣鬼と言われていた頃の私は、本当に鬼そのもので、人間的な愛や優しさというものを知りませんでした。興味のあることといえば、いかに早く剣を振り、いかに早く獲物を仕留めるか、そういったことだけでした。無論、我々の組織にとってはそれが一番の貢献だったということは分かっています。ただ、そこに私の心の安らぎはなかった。剣が私の孤独感を癒やしてくれることはなかった……」

 

 言葉を一度切ると、ドゥランもまたハーブティーを一口、口に含んだ。露骨に渋い顔をしてから、彼はバナーヌに微笑んだ。やはりここの茶は安物のようだった。

 

 ドゥランはまた口を開いた。

 

「妻は私にはもったいないほどの女性です。彼女のおかげで、私は人間として生まれ変わることができて、自分の中に棲む鬼を斬ることができました。その代償なのかは分かりませんが、妻とはなかなか会えないようになりました。ですが、この仕事だってけっこう悪くありません。色々な人に出会って、色々な人生があることを知ることができたのですから」

 

 ちょうどその時、馬宿の時計が午前十時を示した。そろそろバナーヌは出発しなければならなかった。ドゥランが言った。

 

「世間話が過ぎましたな。私が喋る一方でしたが」

 

 バナーヌは答えた。

 

「楽しかった」

 

 ドゥランは頷いた。

 

「それは何よりです」

 

 バナーヌは席を立った。今からゲルドキャニオン本道を駆け、問題の落石現場に行き、それを処理することを考えたら、あまりモタモタしていられない。

 

 それでも、ドゥランの話を聞けて良かったと、彼女は素直に思った。

 

 バナーヌが馬宿から出た時、彼女と入れ違いになるようにして、馬宿の店員が血相を変えて駆け込んできた。

 

「おーい、おーい! 見つかった! ピルエが見つかったぞ! 崖上の祠のそばでぶっ倒れてやがった! 早く担架を持ってきてくれ!」

 

 馬宿の中は、途端に大騒ぎになった。

 

「何だと! 死んじゃいねぇだろうな!」

「分からねぇ、とにかく早く、早く!」

 

 店員の一人がドゥランに声をかけた。

 

「ラウドンさん、アンタも俺たちと一緒にいって、手伝ってくれ!」

 

 ドゥランは答えた。

 

「はい、それならば一緒に行きましょう」

 

 バナーヌは、ピルエという名前を聞いて少しばかりギョッとした。彼女は足早に馬宿から立ち去ると、人目のつかない岩陰で変身術を解いた。それから彼女はゲルドキャニオン本道を走り出した。




※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第六話 道をひらけ!

 ゲルドキャニオンは、ゲルド地方と中央ハイラルとを結ぶ回廊地帯である。北側にターフェア高地とネフラ高地、南側にめがね岩とその裾野であるウメタケ台地、東側にナボール山を控えたゲルドキャニオンのその長大な道筋は、ウメタケ台地の北の突端部で大きく折れ曲がっている。

 

 ゲルドキャニオンの谷底は狭く、やや薄暗く、乾燥している。両側の崖は高く垂直に切り立っており、直射日光を(さえぎ)っている。樹木こそ一本も生えていないが、草は豊富で、(まぐさ)には困らない。川や池、湧水の類は一切ないため、旅行者は水の確保に留意する必要がある。かつて、ゲルド地方遠征軍の指揮官たちは、井戸掘りの名人を(こぞ)って求めたものだった。

 

 生き物の姿は、あまり見られない。ウマ、ヤギ、シカ、イノシシといった大型動物の類はこの地に一切(いっさい)棲息していない。稀にカラカラコヨーテを見かけるくらいである。このカラカラコヨーテは夜になると遠吠えをして、谷の向こうにいる仲間と呼び合う。一種の悽愴(せいそう)な響きを持つその鳴き声は、しばしば異国の寂しさを歌う詩のモチーフとなった。

 

 断崖には木製の桟道(さんどう)が設けられている。それはゲルド地方への勢力拡張政策の一環として、長い年月をかけてハイラル王国が建造したものだった。中央ハイラルから多大な労力とコストをかけて資材が運び込まれ、多数の死者を出しながら桟道の建設工事は幾世紀にも渡って行われた。

 

獄舎(ごくしゃ)いこうか、桟道(さんどう)いこか、どうせどちらも地獄いき、ハンマー鳴る鳴る、遠吠え響く」

「居場所がないなら桟道いきな、どんなトンマも勇者になれる」

「ここは天国よいところ、固い干し肉、()いワイン、コヨーテあいぼの夢枕」

 

 いずれも桟道の工事に従事した下級労働者たちが唄った()れ歌である。遠く本国を離れ来て、過酷な労働に従事するハイリア人の悲哀が滲み出ている。

 

 ある時代のハイラル王国は、遅々として進まぬ桟道建設に見切りをつけ、代わりにウメタケ台地の地下を東西に貫通するトンネルを掘り、ゲルドキャニオン本道を真っ直ぐな一本道にしようと計画したことがあった。足りない技術力は、シーカー族のカラクリ技術とオルディン地方のゴロン族たちを多数雇うことで補うこととし、人員は桟道建設要員を転用、かつ国内中の浮浪者、無頼の輩、あぶれ者、犯罪者をかき集めることで確保すると共に、コストカットをも両立させようとした。

 

 トンネル建設を推進する大臣は豪語した。

 

「三女神によりて創造されしハイラルの大地を、人為によりて開拓す。これぞまさしく運命が我らハイリア人に与えたもうた歴史的使命にして、止むことなく遂行されるべき営為である」

 

 だが、桟道建設とは比較にならぬほどの膨大な費用(一説には、ラネール地方の貯水池建設のほぼ十倍の費用といわれている)がかかること、また、当の大臣が急死したこと(登城途中の交通事故による。暗殺説あり)から、おそらく実行されていればハイラルの歴史上空前絶後の大事業となったであろうこの計画は、ぱったりと沙汰止みになった。

 

 民は喜んだ。相次ぐ増税にうんざりしていたところであったし、何より大臣はその意地悪で陰険な性格のせいで非常に嫌われていた。居なくなってせいせいする、というのが民たちに共通する思いだった。

 

「ざまぁみろ、バチが当たったのさ。俺達から搾れるだけルピーを搾り取って、女神様の大きなどてっ腹に大穴ブチ開けようなんて、そんなことが許されるわけがねぇのさ」

「へへ、気分良いぜ。王国と国王一家に乾杯!」

「乾杯!」

 

 ハイラル王国が滅んだ今、桟道は誰にも整備されることなく、自然と朽ちてゆくに任されていた。誰も寄ることがなくなった桟道にはいつの間にかボコブリンたちが棲みついた。魔物たちはしばしば弓矢を使って谷底の旅行者を威嚇し、場合によっては峻険な崖を降りて、馬車や荷車を襲撃した。

 

 つい最近、イーガ団の命の源であるツルギバナナの輸送車列が襲われたのも、ゲルドキャニオン中ほどでのことだった。輸送担当者が馬宿でバナナ片手に一杯やることを妄想していると、突然上から岩を落とされて進路を塞がれた。崖を駆け下りてきた騎馬ボコブリンによって、あれよあれよと言う間に退路を断たれ、炎の矢を思う存分撃ち込まれ、金のルピーよりも貴重なツルギバナナの詰まった木箱は次々と炎上した。少人数の護衛たちは憤然として反撃したが、その必死さをあざ笑うかのようにボコブリンたちは退却していった。

 

「魔物らしからぬ、統率され計画された襲撃だったのです。確かに私の油断もありましたが、仮に警戒をしていたところで、あの少人数で防ぎ切れるものでは到底ありませんでした。貴重なバナナをみすみす失い、イーガ団の名誉を著しく傷つけた罪、償いきれるものではないと重々承知しておりますが、何卒お許しをいただきたく、温情ある御裁きを……」

 

 総長臨席の裁判の際、輸送担当者は涙を流して情けを乞うたが、それが却ってコーガ様の(かん)(さわ)った。

 

「そんな猿芝居の泣き真似で俺様を騙せると思ったのか! どうせこの裁判が済んだあとにバナナ片手に一杯やって、『存外総長も甘い甘い』と笑うつもりだろう! 俺様を舐めるなよ!」

 

 担当者は財産没収の上、熱く熱された岩盤の上で五時間も正座させられた。お仕置きが終わったあと、哀れな担当者はシーカー族の即身仏のようにカラカラに干からびていたという。団員たちはコーガ様の苛烈さに改めて怖れを抱いた。コーガ様も締めるところでは締めるのだ。

 

 だが、そんな腹いせを行ったところで、失われたバナナは二度と戻ってこないのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 馬宿を出たバナーヌは変身術を解き、いつもの仮面と臙脂色(えんじいろ)の忍び装束という姿になると、北東へ進路を取り、ゲルドキャニオン本道をひた走った。

 

 道中、行き交う通行人たちを見かけては、バナーヌは身を潜ませてその会話の内容を窺った。

 

「お、ああ、どうも」

「あ、どうも。あなたはハイラル方面から? 私は今朝、ゲルドキャニオン馬宿を出た者です」

「何? じゃ、これからあっちに行くのか? やめとけやめとけ、無駄骨を折ることになるぞ」

「そりゃいったいどういうことです?」

「アンタ知らないのか、落石事故だよ。道が完全に塞がれてんだ」

「え、本当に」

「本当さ、俺も夜明け前にゲルドキャニオン馬宿を出て道を急いだクチなんだがな。まさか塞がれてるとは思わねえよ。実際見たが、ありゃ女神様だって通れやしねぇ。気を利かせた奴が馬宿へ馬を飛ばして通報したが、撤去にはえらく時間がかかりそうだぜ。火薬樽を山ほど積んでも吹っ飛ばねぇだろうさ」

「そりゃ大事件ですが、いったいなんでまた落石が。確かちょっと前にもここで同じことがありましたね。あれは魔物の仕業だったとか。馬車が何両か焼き払われて……」

「いや、今回は違うらしい。魔物はつい最近討伐されて、赤い月も出てないから、魔物の仕業ではないと言ってる奴がいた」

「死者は出なかったんですかね」

「知るもんかよ、誰がどんな風にくたばろうが俺には関係ねえし、アンタにも関係ねえ。さ、アンタも馬宿に帰った帰った……」

 

 二人の通行人の脇を、バナーヌはスルリと駆け抜けた。彼女はわずか半歩分ほどしか離れていない至近距離を通った。そして当然のことながら、二人が彼女に気づくことはまったくなかった。訓練されたイーガ団員は存在感そのものを希薄にさせることができる。たとえ視界内に入ったとしても、一般人は気づくことはおろか、違和感を抱くことすらない。

 

 バナーヌは先を急いだ。このままだと落石地点に通行人が溜まって、大渋滞にならないとも限らない。そうなったら、パワーブレスレットを使うのは難しくなる。というのも、なぜか変身術を使っている間はパワーブレスレットが使えなくなるからだ。イーガ団が素手で落石をどかしていた、などという噂が立ち、それが幹部たちの耳にでも入ったりしたら大変だ。イーガ団は徹底した秘密主義を貫いている。いつでも活動は秘匿されなければならない。

 

 

☆☆☆

 

 

 時間は少し遡る。ちょうどバナーヌが馬宿を出た頃のことだった。それはウメタケ台地の北の突端でのことだった。道と崖と空がひときわ狭くなり、馬車が一両ようやく通れるようなゲルドキャニオンでも有数の隘路はその時、大量の大小様々な落石によって完全に封鎖されていた。

 

 その落石現場の東側で、馬車の車列が足止めを食らわされていた。四頭立て四輪馬車が三両、二頭立て二輪の二人乗り小型戦車が四両、全部で七両の馬車によって車列は構成されていた。一両の豪華な造りの四輪馬車を、さながら生まれたての子鹿を護るように残りの馬車と戦車が取り囲み、油断なく周囲を固めていた。

 

 声がしていた。

 

「よっ、ほっ、ほっ、この、クソ」

「えいっ、やっ、えいっ」

「あぁーあぁー、えーい、ちくしょー」

 

 積み上がった岩の山の前で、ツルハシやハンマーやスコップを巨岩に叩きつけたり、大声で呼ばわったり、槍や大剣を苛立たしげに振り回したり、ぼんやりと空を眺めている人々がいた。

 

 それは馬車に乗っていた人々だった。赤い髪、褐色の肌、ハイリア人よりも遥かに高い背丈、露出度の高い独特の衣装、そして、隆々たる筋肉……朝の砂漠の優しい息吹と共に生まれ、夜の砂漠の冷たい息吹と共に死ぬ彼女ら、その人々は紛れもなくゲルド族の女兵士たちであった。

 

 屈強な彼女たちは、喚きながら必死になって道具を振るっていた。鍛えられた褐色の肉体に汗が滲んでいた。

 

「駄目だ、ビクともしない! こんなチャチなツルハシじゃ歯が立たないぞ!」

「もうハンマーが駄目になっちまった、代わりはないのか?」

「こっちもツルハシが折れそうだ!」

「泣き言を言ってる暇があったら手を動かせ、手を! たかが岩石ごとき、我々の敵ではないはずだ!」

 

 一方で、ほとんどやる気を失い座り込んでいる兵士たちもいた。

 

「あー、いたた、手に豆ができちゃった……」

「隊長、これは爆薬でもないと無理じゃないですかねー。こんな調子じゃヴェーヴィ(赤ちゃん)ヴァーバ(おばあさん)になるくらい時間かけても岩一つどかせないと思うんですけど」

「ちょっと休憩しましょうよー、隊長。もう三時間は頑張りましたよ、私達」

「お化粧直したいなー」

 

 やる気のない姿を見て、彼女たちの隊長は激昂した。

 

「ふざけるなよ、お前ら! なんとしてでも道を開け! ルージュ様のお帰りが遅れたら、族長様がどれだけ心配なさるか、それが想像できないわけではないだろう!」

 

 明らかに疲労の色を隠せない声で、兵士たちは返事をした。

 

「はーい」

「あーあ、明日は筋肉痛がすごそうだな……」

「冷たい『ヴァーイミーツヴォーイ』が飲みたいなー」

 

 隊長は溜息をついた。

 

「まったく、お前ら……」

 

 いかん、士気が下がってきている。女兵士の隊長、チークは焦っていた。車列が落石現場にぶち当たってから既に三時間あまりが経過していた。兵士たちは食事も休憩もロクにとっていない。疲労がごまかせなくなってきた。チークは言葉を漏らした。

 

「なんとかしなければ、なんとか……」

 

 まさかこんな事態になろうとは予想だにしなかった。完全に道が塞がれていることに落胆し意気消沈した部下たちをなんとか奮い()たせて総出(そうで)で作業に当たらせ、自分も月光のナイフを振り上げ声を振り絞って督励(とくれい)したが、作業は一向に進む気配がない……

 

「チーク」

 

 チークの背後から声が掛けられた。彼女が振り返ると、そこには一人の体格豊かなゲルドの女戦士が、色とりどりの宝石で装飾された巨大な両手剣を携えて、彼女を睨んでいた。

 

 鷹のように切れ味の良い視線に貫かれたチークは、即座に頭を下げた。

 

「も、申し訳ありません、ビューラ様! 全員手を尽くして作業をしておりますが、開通にはなお時間がかかる見通しです! いましばらく、いましばらくお待ち下さい!」

 

 チークの(ひたい)から冷や汗がだらだらと流れ落ちた。砂嵐もリザルフォスも、モルドラジークさえも怖れぬ勇敢な戦士である彼女だが、射殺すように見つめてくる目の前の戦士ビューラだけは、新人時代から現在に至るまで一貫して恐怖の象徴だった。

 

 そのビューラは、静かな口調でチークに言った。

 

「チーク、何を勘違いしている。貴様が謝るべき相手は私ではなく、族長様と、ルージュ様に対してだろう」

 

 チークは答えた。

 

「はっ!」

 

 ビューラはさらに言った。

 

「それに、私も怒ってはいない。ルージュ様が『怒るな』と(おっしゃ)られたからな。『落石など誰が予想しようか、みんなはよく働いてくれている、何もせずただ座っている自分が情けない』とな……」

 

 なんともったいない、温情に溢れたお言葉であろうか。チークの目に涙が滲んだ。彼女は肩を震わせ、俯いた。彼女は言った。

 

「そんな、滅相もない! 我々の力が足りないばかりに……!」

 

 ビューラは短く言った。

 

「そう言うな」

 

 ビューラは自分の主、ルージュの乗る馬車に視線を移した。ゲルド族族長の専用車であるそれは、実に豪奢な作りをしていた。四頭の輓馬はすべて若い精悍な白馬で、金と銀の馬具で身を飾っていた。キャビンは鈍い黄金色に輝いていて、ゲルドの歴史をモチーフにした複雑で精巧なレリーフが施されていた。窓には貴重な透明度の高いガラスが用いられ、窓枠にはふんだんにルビー、サファイア、トパーズなどの宝石があしらわれていた。それだけで数万ルピーは下らないと思われた。馬車は今回の旅のために、族長が特別に娘に貸し与えたものであった。

 

 ビューラは視線を落石現場へ戻した。懸命になって道具を振るう女兵士たちが彼女の目に映った。砕いた岩石の破片と、土砂と、壊れた道具が辺りに散らばっていた。

 

 ビューラは言った。

 

「チーク、どうやら皆、疲れているようだな。一度休憩にしよう。軽く食事をとらせて、一時間後に作業を再開させろ」

 

 チークは答えた。

 

「はっ!」

 

 ビューラは頷いた。

 

「私はルージュ様のお(そば)に戻る。何かあったらすぐに報告しろ」

 

 隊長から休憩だと告げられ、女兵士たちは歓声を上げた。それを後目(しりめ)に、ビューラは馬車へ戻った。優れた体格の彼女がタラップに足を掛けると、さしもの大型馬車も大きく揺れた。

 

 ビューラは畏まった声で言った。

 

「ルージュ様。ビューラです」

 

 可愛らしい、しかし凛とした声が響いた。

 

「戻ったか、入れ」

 

 緋毛氈(ひもうせん)の内張りにリト族の羽毛のクッションを用いた内装の車内に、その少女、ルージュは座っていた。ルージュはピンク色のスナザラシの大きなぬいぐるみを両腕で抱いていた。歳はわずかに十歳か、あるいはまだそれにさえ満たないかもしれなかった。しかし、その容貌は、年齢に不釣り合いなほどに美しく完成されていた。真紅の髪、黄金のティアラ、意志の強さを感じさせる大きな目、スッと通った鼻梁、そういった要素のいずれもが、彼女が生まれながらにして高貴なる一族に連なっていることを証明していた。

 

 その少女、ルージュには人を惹き付ける魅力があった。ビューラの巨大な体躯に比べれば、それこそモリブリンに対する人間のように彼女の体は小さかったが、彼女が醸し出す支配者としての雰囲気は、(だい)の大人をして自ずと跪かせるほどであった。

 

 ビューラは車内に入った。ルージュは大きな目を瞬かせて、穏やかに自分の側近に話しかけた。

 

「気に病むなとチークに伝えたか」

 

 ビューラは畏まった態度を崩さずに答えた。

 

「感激しておりました」

 

 ルージュは軽く頷いた。

 

「そうか。少しでも慰めになったのならば、それで良いが……」

 

 ビューラは言った。

 

「チークには兵士たちに一時間の休息を取らせるよう命じました。ルージュ様もどうかお(くつろ)ぎください。あまり気を張り詰めてはなりませぬ」

 

 ルージュは、真剣な色を目にたたえつつ答えた。

 

「それはできぬ。兵士たちの苦労を、それに母様の御病気を思うと、どうしても気を緩めて体を休ませることができぬのだ」

 

 主の言葉になんと答えたものかビューラには考えかねた。

 

「ルージュ様……」

 

 なんとおいたわしや。ビューラは痛切に思った。本来、これくらいの年齢の子どもなら、狭い馬車で長時間行儀よく座っていることすらできないのだ。

 

 あまりにも強すぎる義務感と責任感が、ルージュから年相応の稚気を奪っていた。

 

 日は既に中天に差し掛かっていた。車内は蒸し暑くなってきた。その蒸し暑さは砂漠に住む彼女たちにとっても不快に感じられた。

 

 ルージュは言った。

 

「暑いな、ビューラ。少し新鮮な空気が吸いたい。窓を開けてくれ」

 

 ビューラは答えた。

 

「はっ」

 

 ビューラが窓を開けるのを見ながら、ルージュは不安と焦燥に苛まれ続けたこの三ヶ月を思い返していた。




 第六話と第七話は当初ひとつの話として書いていましたが、長大になってしまったので二つに分割しました。小説ってやっぱり難しいですね。

※前書きの内容を後書きに移しました。(2018/03/07/水)
※加筆修正をしました。(2023/05/06/土)


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第七話 フィーバー

 三ヶ月ほど前のことだった。ゲルド族の族長が突然倒れた。氷嚢(ひょうのう)がすぐにぬるくなるほどの激しい高熱で、一時は意識混濁というところまでいった。症状から、族長の病気はカラカラユスリカが原因といわれている「ゲルド熱」と診断された。

 

 ゲルド熱を治療するには、とにかく体を冷やし続けなければならない。北の氷室(ひむろ)から大量の氷が切り出されて宮殿へ運び込まれた。医師団はヒンヤリアゲハ、ヒンヤリヤンマ、ヒンヤリハーブと、ありとあらゆるヒンヤリ素材を集めて薬を調合した。兵士団には非常招集が掛けられて、万病の特効薬たるモルドラジークの肝を手に入れるよう出撃が命じられた。

 

 三日後にようやく熱が引き、安らかな寝息を族長が立て始めた時、寝台の傍らで連日連夜母の看病をしていたルージュの目から、思わず涙がこぼれ落ちた。もうこれで安心だ、母様は大丈夫だ。ゲルド熱は一度熱が下がり症状が落ち着けば、二度と罹患することはないと言われている。一度苦しんだのならば、もう二度と苦しむことはないはずだった。

 

 だが、これで終わりではなかった。四日後、まともな食事がとれるようになり、日課の槍の素振りまでできるほどに回復した族長を、前回を上回る高熱が襲った。

 

 万一に備えてあらゆる種類のヒンヤリ薬と大量のアイスチュチュゼリー、さらに新鮮なモルドラジークの肝を用意していた医師団であったが、それらを以てしても今回ばかりはなかなか熱が下がらなかった。

 

 ついには熱を下げるためにアイスロッドやフリーズロッドまでもが投入され、族長の体を直接凍結させるという非常手段が採られた。前日の夜まで元気で、寝台で優しく頭を撫でてくれながら本を読み聞かせしてくれた優しい母が氷漬けにされている。あまりに凄惨な光景を目にしてルージュは失神した。

 

 そして、症状は三日後に寛解した。ここに至って医師団も、これは単なるゲルド熱ではなく新種の奇病であろうと認識した。これまでの傾向を踏まえると、また四日後には高熱が族長を襲うはずだった。医師団は準備を整えたが、予想とは異なり二日後に族長は発熱した。医師団は首を傾げるばかりで、何ら有効な治療法も、効果的な薬品も見つけ出すことができなかった。

 

 しかし今回の発熱はそれまでと異なり、あまり高熱ではなく、族長が意識を失うことはなかった。責任感の強い族長は「これ以上政務を滞らせるわけにはいかない」と寝台を降り、氷風呂に浸かりながら執務をこなした。

 

 熱で顔を真っ赤にしながら、文官からの報告を聞き、書類に目を通し、指示を与える母……ルージュは少しでも熱を下げる手助けになればと、コログのうちわで母を扇ごうとしたが、「仕事の邪魔になるからやめろ」と怒られてしまった。その夜、お気に入りのピンク色のスナザラシのぬいぐるみを強く抱きしめながら、ルージュは無力感と情けなさで声を押し殺して泣いた。

 

 以来、ルージュは母の病気を治そうと、ハイラル各地の名医の情報を集め、また医師団の討議に参加して治療法について理解を深めるべく努力した。名医はすぐに見つかった。遠く東の果てのハテール地方のハテノ村、シーカー族のカカリコ村、南の海のウオトリー村、どの村にも名医がいた。ルージュは豪華な贈り物を持たせた使者を派遣して、丁重な文言のもと高額の報酬を提示して医師たちをゲルド砂漠に招聘した。だが、意外にもそれに応ずる者は皆無だった。どの医者も自分の村だけで手一杯で、長期間離れるわけにはいかなかった。「力だけで人を統べることはできぬ」という母の言葉をルージュは思い知った。

 

 それでもルージュは、カカリコ村の医者からある有用な情報を入手することができた。ハイリア湖の南岸には、大厄災以前の古き時代より(みずうみ)研究所がある。そこでは澄んだ湖水を用いた様々な実験が行われ、数々の革新的な治療薬が発明されてきた。王国滅亡後、研究の規模はかつてと比較してかなり縮小したものの、今でも一人の老研究者が研究を引き継いでいる。彼ならば、もしかしたら招聘にも応じるのではないか。ただ、その老研究者は変人であるため、普通に使者を寄越しても会ってくれない可能性が高い。高貴な人が自ら訪問するならば、いくら(かたく)なな性格の彼でもまさか無下にはしないだろうから、是非検討されてみてはいかがだろうか……

 

 ルージュはこの助言を天の声と感じた。かつてのハイラル王国の医学薬学の水準は非常に高かった。ある代の国王はなんと百三十歳まで健康であったという。(みずうみ)研究所は、王国の薬学研究の第一線にあった研究所である。そこへ行けば、必ずや何らかの成果を得られるに違いない。

 

 彼女はビューラに、すぐに自らハイリア湖へ出向き、老研究者を連れて帰って来たいと相談した。

 

 ビューラは、困った。いくら族長を救うためとはいえ、砂漠を出て遠くハイリア湖に行くなど危険極まりない話だった。族長の生命が危うい現在、唯一の跡取り娘であるルージュに万一のことがあっては、ゲルド族は終わりである。ルージュの母を思う気持ちは痛いほど分かるが、はたしてどうなることか……不安な気持ちを抱いたままビューラは族長に謁見し、経緯を説明した。

 

 氷風呂に浸かり、書類を捌きながら、高熱で赤い顔をした族長ははっきりした口調で言った。

 

「娘の思う通りにさせてやってくれ。私は今まで娘に母親らしいことをあまりしてやれなかった。これからは可能な限り願いを聞いてやりたい。それに、娘が自発的に何かやりたいというのも嬉しいことだ。若いうちにゲルド地方を出るということも貴重な経験になるだろう」

 

 それでも、ビューラは言った。

 

「しかし、万一のことを考えると……」

 

 ビューラの懸念を、族長は一向に気にしなかった。

 

「万一、ということがあれば、それこそ運命が我々ゲルド族に滅びよと命じたのだと考えるしかない。それに、娘は私と違って強運だし、(さと)くて強い子だ。そんなことにはならないだろう。私の専用車を出す。それから兵士と戦車も連れて行け。良いかビューラ、これからお前が娘を護り、導くのだ」

 

 こんな経緯で今回の旅は始まったのだった。旅程は順調そのもので、ルージュたちの一行は砂漠を抜け、ゲルドキャニオンを抜け、デグドの吊り橋を渡り、街道を東へ進んだ。初めて見る緑豊かな景色にルージュは興奮と好奇心を隠しきれない様子だったが、己の使命を強く自覚しているため、はしゃぐようなことはなかった。ハイリア大橋を渡る最中、一行は橋の真ん中に棲みついていたリザルフォスたちに襲撃されたが、ゲルドの精鋭たちによる護衛の前では鎧袖一触で、大して時間もかからずに突破した。

 

 だが、彼女たちが目的地についたとき、すべてが無駄になったことが明らかになった。(みずうみ)研究所の建物は、完全に破壊されていた。新しい墓の前にいた若い息子に話を聞いてみると、事件が起きたのは二週間前で、やったのはイーガ団だと名乗る奇妙な連中だったと言う。

 

「不気味な仮面と忍び装束の奴らは突然やってきて、『研究所が保管しているすべての論文と文献、データと試料と薬品を譲渡しろ』と要求してきました。そして父には、『栽培計画中の改良ツルギバナナのための肥料と農薬の研究をしろ、さもなければ貴様の片腕と片足をもぎ、自由に動けないようにしてから連れていく』と言うんです。脅しに屈するような父ではありません。父は断固拒否し、イーガ団に渡すくらいならと、いざという時のために密かに設置していた自爆用の火薬樽に火をつけて果てました」

 

 旅は、完全な失敗に終わった。ルージュはかつてないほどの失望感と徒労感に崩れ落ちそうになったが、なんとかそれを(こら)えた。彼女はその息子へ見舞金として各種の宝石と一万ルピーを与え、道を引き返してゲルド地方へ戻ることにした。一刻も早く帰って母に報告し、謝らなければ。彼女の心の中はそのことでいっぱいだった。

 

 そんな時に、ルージュはこの落石事故に遭遇したのだった。ビューラと兵士たちの手前、動揺を見せるわけにはいかないとルージュは努めて冷静さを装った。私が弱気になれば、ゲルド族の未来はますます暗く閉ざされたものになってしまう。強くあらねば! 

 

 本当はルージュも、体面(たいめん)を気にせず思いきり泣きたかった。自分の未熟さがすべての不運を招いたように彼女には感じられた。純粋で優しい彼女の心は大きなダメージを受けていた。

 

 ぬいぐるみを強く抱きしめ、顔を(うず)めながら、ルージュはため息をついてひとりごちた。

 

「運命とは残忍なる略奪者。その前にあっては高貴な生まれも山のような財宝も何の役にも立たぬ。何もかもままならぬものよ……」

 

 強がりをしている。とても幼稚で、尊い強がりを、この方はしている。ビューラには分かっていた。頑張りすぎてしまうこの愛しい主のために、ほんの少しでも良いから休息を取ってほしいと彼女は思った。ビューラは言った。

 

「ルージュ様、何かお飲み物をご用意いたしましょうか。果物が若干ございますから、これでミックスジュースでもお作りします」

 

 ルージュの顔が、少しだけ明るくなった。

 

「すまないな、ビューラ……む?」

 

 ルージュは何かを聞き取ったようだった。ビューラは己の主に問いかけた。

 

「いかがなされましたか?」

 

 ルージュは言った。

 

「外が何やら騒がしい。兵士たちが騒いでるようだ。何かあったのではないか。ビューラ、ミックスジュースはよい。すぐに様子を見てくるのだ」

 

 ビューラは答えた。

 

「はっ!」

 

 ビューラは素早く馬車を降りると、兵士たちのもとへ大股で歩いて向かった。兵士たちは何かを取り囲み、がやがやとお喋りをしていた。が、ビューラがやってきたことに気づくと一斉に沈黙し、頭を下げた。

 

 なにか、あったな。めんどうなことでなければ良いが。そう思いつつ、ビューラは言った。

 

「チーク、どうした。なにがあった」

 

 隊長のチークは困惑した顔をしつつ、ビューラに答えた。

 

「ビューラ様! それが、この者たちが……」

 

 チークが話し終える前に、どこかのんきそうな声が響いた。

 

「何だ、お偉いさんでも来たゴロ?」

 

 そこには、三人のゴロン族がいた。ゴロン族は山に住む、岩の種族である。彼らは大きな岩石の塊に小さな岩石の手足がついたような奇怪な風貌をしている。三人のゴロン族はいずれもねじり鉢巻きをしていた。

 

 意外な存在だった。ゆえにビューラは意外の念にとらわれた。たが彼女は経験豊かなゲルドの戦士であった。堂々とした態度で彼女は彼らに話しかけた。

 

サヴァーク(こんにちは)! 我々はゲルド族の戦士である。私の名はビューラという。さる高貴な御方をお護りしている。失礼だが、お前たちは……」

 

 三人のゴロンは一斉に肩幅に足を開き、背筋を伸ばし、腕組みをした。そして言った。

 

「マッスル! よくぞ聞いてくれたゴロ! 俺たちは!」

「ホット! ゴロンのド根性三兄弟!」

「ス、スウェット。ボクたち、立派なオトコになるために修行の旅をしている最中ゴロ」

 

 三人はそっくりだった。三人のうち、一番覇気をまとっているゴロンが言った。

 

「俺は長兄バケット! オトコとは 厚き胸板 フルハート。マッスル!」

 

 次に、長兄バケットの次に覇気をまとっているゴロンが口を開いた。

 

「俺はヒール! オトコとは 気力体力 不屈の精神。ホット!」

 

 最後に、一番弱々しい雰囲気のゴロンが言った。

 

「ボ、ボクはカベータ。オトコとは……ごめんゴロ、ボクまだオトコの句を持ってないゴロ、すまないゴロ」

 

 あまりの暑苦しさにビューラは面食らった。隣のチークも愕然としていた。たまにゲルドの街へ宝石の交易で訪れるゴロン族たちは、みんな穏やかでともすれば臆病な性格をしていたため、彼女たちはこれほど自己主張が激しく押し出しの強いゴロン族がいるなどとは思ってもみなかったのだった。

 

 ややあって、ビューラがまた口を開いた。

 

「あ、ああ……その、なんだ。丁寧な自己紹介に感謝する。それで、お前たちはなぜこんなところに来たのだ」

 

 三兄弟は同時に腕を組んだ。長兄のバケットが言った。

 

「マッスル! 俺たちはド根性三兄弟! オトコをアげる修行ができるなら、たとえ火の中水の中草の中森の中、土の中雲の中オクタの胃袋の中、どんなところへでも出向いてド根性を試すゴロ!」

 

 末弟カベータが長兄の言葉にツッコミを入れた。

 

「いや、さすがに雲の中は無理ゴロ……」

 

 次兄のヒールが口を開いた。

 

「ホット! 俺たちがここに来たのは暑さを(こら)える修行のため! これから適当な場所を見つけて修行場を作るつもりだったゴロ!」

 

 末弟のカベータが次兄の言葉に補足を入れた。

 

「組長からあまりに堪え性がないと怒られて、オトコをアげるまでは帰ってくるなとゴロンシティを追い出されたのは内緒ゴロ……」

 

 長兄バケットが()えた。

 

「カベータ、さっきからごちゃごちゃとうるさいゴロ! 余計なことは言うなゴロ!」

 

 末弟カベータは縮こまった。

 

「ご、ごめんアニキ」

 

 ビューラは頷いた。

 

「なるほど、だいたい事情は了解した」

 

 オトコを上げる修行か。ビューラは女なのでオトコというものはよく分からないが、修行というからにはそれはおそらくゲルド族でいうところのゲルド砂漠一周マラソンとか、モルドラジーク単騎狩りとか、リザルフォス百人組み手とか、スナザラシチキンレースとか、まあそういう類のものだろう。彼女はそう思った。

 

 ゴロン族三兄弟はまたもや大きな声で言った。暑苦しい声だった。長兄バケットが言った。

 

「マッスル! 修行に使えそうな適当な岩盤を探している最中、聞けば落石で道が塞がり、立ち往生している人々がいるとか! 俺たちはピーンと来たゴロ!」

 

 次兄ヒールが言った。

 

「ホット! これはオトコをアげる修行になると!」

 

 末弟カベータが言った。

 

「ス、スウェット。ほんとはひもじくて彷徨(さまよ)ってただけゴロ。ああ、特上ロース岩が食べたいゴロ……」

 

 次兄ヒールが()えた。

 

「カベータ、オマエはさっきからブツブツうるさいゴロ! 少し黙っておけゴロ!」

 

 長兄バケットが最後に言った。

 

「というわけで、俺たちが落石を撤去してやるゴロ! オマエたちは邪魔だから脇に退くゴロ!」

 

 何という幸運! ビューラはほくそ笑んだ。どうやらこのゴロン三兄弟が道を開いてくれるらしい。ゴロン族は全員採掘のエキスパートと聞く。この程度の岩ならば朝飯前に片付けてしまうだろう。だが、あまりにもこちらにとって都合の良すぎる話ではないか? ビューラは(いぶか)しんだ。

 

 長兄バケットが、彼女の心を読んだかのように、にやりとした笑みを浮かべた。

 

「お、あまりにも都合が良すぎると思ったゴロ? オマエの予想はすこぶる正しいゴロ!」

 

 ビューラは言った。

 

「やはりか。しかしこちらとしてはこれほどありがたい話はない。道を急いでいるのでな。(ルピー)はいくらでも出そう」

 

 三兄弟はどんと胸を張った。次兄が言った。

 

「ホット! 俺たちにルピーは不要ゴロ! 必要なのは修行に使うための薪の束ゴロ!」

 

 末弟が言った。

 

「ここらへん全然木が生えてなくて薪の束が手に入らないゴロ。困ったゴロ」

 

 長兄がまた言った。

 

「マッスル! だけではどうにもならんこともあるということだゴロ。そこでだが、ずいぶん金持ちみたいなオマエたちに頼むゴロ。これから毎月定期的に俺たちへ薪の束を持ってきて欲しいゴロ!」

 

 案外安い要求にビューラはホッとした。

 

「そ、そうか。その程度で良いならば、喜んで提供しよう。だが本当にそれだけで良いのか? ルピーや宝石はいらないのか?」

 

 三兄弟は憤然とした様子を見せた。次兄が叫んだ。

 

「宝石なんて小さくて食いでがない上に酸っぱくて不味いだけゴロ! 俺たちに今必要なのは薪の束だけゴロ!」

 

 末弟が付け加えた。

 

「あと特上ロース岩ゴロ」

 

 次兄は末弟を(たしな)めるように言った。

 

「カベータ、黙るゴロ!」

 

 話はまとまった。ビューラはルージュに事の経緯を報告した。ルージュは明らかに愁眉を開いたようだった。彼女は言った。

 

「よろしい。帰ったら早速、薪の束を手配しよう。特上ロース岩?だったか、どういうものかはわからないが、それもなるべく早く彼らの元に届けるように。ルージュが感謝していると伝えておいてくれ」

 

 ビューラは恭しく頭を下げた。

 

「ははっ」

 

 ルージュは呟くように言葉を続けた。

 

「それにしても、運命とは本当に意地の悪いものよ。人に不運を押し付けて嘆かせたかと思えば、すぐに幸運を与えて、人の感情を極端から極端へと揺り動かす……」

 

 

☆☆☆

 

 

 長兄バケットがツルハシを振りかざして叫んだ。

 

「マッスル! それじゃ始めるゴロ!」

 

 まだなにも手にしていない次兄ヒールが言った。

 

「ツルハシを寄越すゴロ!」

 

 末弟カベータが言った。

 

「危ないから下がってるゴロよ」

 

 そして、ゴロン三兄弟は猛然と働き始めた。彼らの働きぶりは目覚ましかった。彼らの手にかかるとただのツルハシが削岩棒となり、あっという間に巨大な岩が砕かれて細かい石となった。

 

 ゲルドの女兵士たちは歓声を上げた。

 

「すごい、さすがはゴロン族だ!」

「よっ、アニキ!」

「あんたたち、オトコの中のオトコだよ!」

 

 三兄弟は実に良い気分だった。デスマウンテンの粘っこい火山岩を相手に格闘することに比べれば、多少サイズが大きいとはいえ、単なる砂岩を砕くことなど児戯に等しい。イシロックをひっくり返すようなものだ。

 

 次兄ヒールが笑みを浮かべつつ大きな声をあげた。

 

「うおおホット! もっともっと砕くゴロ!」

 

 長兄も笑っていた。

 

「はははっ、人から褒められるなんて何年ぶりかゴロ! 悪くないゴロ!」

 

 だが、末弟カベータが言った。

 

「む、待つゴロ。妙な音が響いてないかゴロ?」

 

 ツルハシを置くと、末弟カベータは地面に腹這いになって耳をつけ、振動と音響を探った。バケットとヒールもそれに倣った。ゴロン族は岩の中から生まれ、最期は岩へと還る一族である。僅かな振動から、それを発生させている者の大きさや、その者が何をしているかを推測することは、さながらゾーラ族にとっての滝登りのように彼らにとって容易(たやす)いことであった。

 

 数秒後、三兄弟は一斉に、驚愕して目を見開いた。彼らは叫んだ。末弟が言った。

 

「こ、これは俺たちの反対側ゴロ! 反対側で誰かが同じように岩をどかしてるゴロ!」

 

 次兄が言った。

 

「しかもツルハシも使わずに、素手で掴んで岩を投げ飛ばしているみたいだゴロ!」

 

 長兄が言った。

 

「反対側の奴、俺たちより先にこの落石を片付けてしまうかもしれないゴロ! うおおおおお! マッスル! 負けてられないゴロ!」

 

 三兄弟は焦った。相手は誰だか分からないが、このまま負けたとなるとオトコが下がる。あの怖そうなゲルド族の戦士も呆れて報酬をくれないかもしれない。彼らは今まで以上のスピードで岩を砕きに砕き、そして砕きまくった。

 

 ゲルド族の女兵士たちは、盛んに三兄弟へ向けてエールを送った。

 

「あ、向こう側がちょっと見えた!」

「あとは正面のあの巨岩をどかせば開通だ!」

「頑張れ、ゴロンのアニキたち!」

「頑張れ、頑張れ!」

「マッスル! マッスル!」

「ホット! ホット!」

「えーと、スウェット?」

 

 落石現場に、アツい一体感が生まれていた。今まで他人からこんなにアツく応援されたことのなかったゴロン三兄弟は感激した。彼らは最後の力を振り絞った。

 

「うおおおっ!」

「勝つのは!」

「俺たちゴロおおおっ!」

 

 だが、三兄弟のツルハシが渾身の一撃を直撃させるその直前に、小屋ほどもあるその巨岩が宙に浮かび上がった。いかなる怪力かそれとも魔術か、反対側の正体不明のライバルが巨岩を持ち上げたのだった。

 

 勢い余った三兄弟はバランスを崩し、つんのめって顔から地面へとダイブした。だが三人ともすぐに顔を上げ、自分たちを打ち負かした者の正体を確かめようとした。これほどの怪力の持ち主である。どれだけ屈強なオトコなのだろうか。

 

 三兄弟は同時に声をあげた。

 

「えっ」

「あれ」

「あっ」

 

 巨岩を持ち上げているその人物と、三兄弟の目が合った。そして、大勢のゲルド族の兵士と、隊長のチークと、戦士のビューラとも、その人物の目が合った。

 

 その者が、声をあげた。

 

「あっ」

 

 そこには巨岩を両腕で頭上に掲げる、一人の若い女がいた。歳はまだ二十歳に少し届かないだろう。怜悧そうな美しい顔立ちに、鋭いサファイア色の双眼が光っていた。白い肌に、新鮮なツルギバナナの房のような金髪のポニーテール、女性的魅力に満ちたやや長身の肉体……

 

 その女は、なぜか半裸だった。上半身に身につけているのはさらしだけだった。白い健康的な肌は土埃でいささか汚れていた。さらしは純白で、豊かな胸部をきつく締め上げていた。柔らかそうな白い肉が上下に少しばかりはみ出ていた。下半身は臙脂色(えんじいろ)のピッタリとしたタイツを身につけており、長く優美な両脚と、細く引き締まった腰のラインがはっきりと見て取れた。その背中には弓を背負い、腰には何か丸い形をした白い板と、三日月のように湾曲した独特な刀を下げていた。

 

 その女は、また声を出した。

 

「えい」

 

 女は巨岩を無造作に道の脇へと置いた。地響きを立てて、岩は新たな場所に鎮座した。

 

 その時、女が腰に下げていた白い板の紐が切れ、表側を上にして地面へと落ちた。

 

「しまった」

 

 女はすぐにそれを拾い、顔面に被せた。白い板は仮面だった。仮面に刻まれた逆さ涙目の紋様が、午後の日差しを受けてはっきりと浮かび上がった。

 

 ゲルドの兵士たちはざわつき始めた。腰の月光のナイフへ隊長チークは手を伸ばした。ビューラは腕を組み、射殺すような視線で女を見つめていた。

 

 女兵士たちは言った。

 

「おい、この紋様って……」

「まさか……」

「イーガ団!」

「イーガ団だ、イーガ団が出たぞ!」

 

 どうやら、また一悶着ありそうだった。




 ゴロン三兄弟大好きです。マッスル!

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第八話 仁義なき戦い

 ツルギバナナ。フィローネ地方の熱帯林に実るフルーツ。皮に包まれた果肉には筋力増強効果があるとされる。

 

 ハイラル南東部のフィローネ地方は、熱病と毒虫、魔物と野獣が蔓延る、人が生きるにはあまりに過酷な広漠たる緑海である。その中にあってツルギバナナは、昨日も今日も明日も変わらず黄金のように輝いて、内に秘めた生命力をこれでもかと誇示している。

 

 ハイリア人にとってバナナは、南国の代名詞の一つであった。大冒険の末に探検家が持ち帰ったこの珍奇な果実は、王城の展覧会で「()()()()()()()」デビューを飾り、注目の的となった。野心的な商人たちはバナナの潜在的な商品価値を鋭く見出し、他に先んじて流通経路を確立すべく激しい競争を行った。

 

 結果、バナナはたちまちのうちに城下町市場の一角を占めるようになった。庶民から貴族、果ては王族に至るまで、その美味と滋養に魅了された。

 

「さあさあ()うた、さあ()うた、バナナの因縁聞かそうか。生まれは南国フィローネで、親子諸共(もろとも)もぎ取られ、箱に詰められ牛に乗り、ゆらり揺られて道千里、着いたところが城下町。 さあさあいくらで売ったろか」 これは城下町南市場の名物、ツルギバナナのたたき売りの口上である。それは今では誰も知ることのない、ハイラルの失われた庶民文化の一つである。

 

 だが、ある王の時代のことであったが、食卓において特権的地位を享受していたツルギバナナを悲劇が襲った。高名な御用学者が、「ツルギバナナの筋力増強効果とその依存性に関する研究」という論文を王立アカデミーで発表したのである。内容を要約すると、ツルギバナナの果肉には特殊な栄養素(TRG有機酸)が存在し、各種動物(囚人を含む)に濃縮液を定期的に投与した結果、被験体の九割に顕著な筋力増強効果と高い依存性が確認された、というのだった。

 

 新聞や週刊誌は大げさに特集を組んでこの論文を紹介し、サロンの文化人たちはバナナの有害性を訴えるパンフレットを(こぞ)って執筆した。

 

「バナナは、異常行動を引き起こす」

「依存性のあるバナナを庶民に売り捌くことで商人は巨富を貪っている」

「私はバナナを食べるくらいならば、むしろ死を選ぶ」

 

 流行りに乗ることに敏感な吟遊詩人や講談師は事実を誇張して、「バナナは魔王がハイリア人を滅ぼすために生み出した悪魔の果実である」と言いふらした。

 

「魔物はバナナを食べている。朝昼晩と食べている」

 

 恐慌と共にバナナの迫害が始まった。世に言う「バナナ大迫害」である。広場に集められたバナナは神官の呪文とともに焼き払われた。バナナ問屋(とんや)はたいまつとハンマーを持った民衆によって打ち壊され、バナナを扱っていた商人たちは次々と町を追われた。

 

 王は「ツルギバナナを収穫する者、商う者、食する者は、王国の庇護を永遠に失い、女神の名のもとに断罪されるべきであること」という勅令、通称「バナナ勅令」を発し、事態はようやく沈静化したが、同時にバナナの輝かしい未来は完全に閉ざされてしまったのであった。

 

 だが、権力によって悪と断じられたものが、同じく権力によって迫害されている存在にとっての、いわば輝ける太陽となることは世の中往々(おうおう)にしてある。バナナ勅令後、バナナは反王国・反権力の象徴になった。犯罪者や無頼の輩はバナナの密輸入を貴重な収入源とし、また悪人としての誇りとした。本来温厚な一般国民も、増税や徴兵に反対する際はバナナを食べながら行進し、バナナの皮を役所や城門へ投げつけるのが常であった。

 

 そして、ある集団において、バナナはついに生命となり、道となり、天使となった。その集団とは言うまでもなく、あのイーガ団である。

 

 

☆☆☆

 

 

 二人の通行人に遭遇した後であった。バナナのようなポニーテールをふさふさと揺らして走りながら、バナーヌはどうしても解消されぬ不満感に先ほどから苦しんでいた。

 

 原因は、彼女がゲルドキャニオン馬宿で食べた焼きバナナであった。あれは()が細かったし、皮は分厚かったし、パサパサしていたし、量は少なかった。席に着いた時、デカデカと壁に貼られた「焼きバナナ、始めちゃいました」というふざけた文言のポスターに思わずバナーヌの目が奪われたのを、ドゥランは見逃さなかった。

 

「一週間前からここの宿長(やどちょう)が始めたんですよ。何でもフィローネの商人と仲良くなったのがきっかけだとか。私はまだ試していませんが、食べたいですか?」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「ぜひ食べてみたい」

 

 ドゥランは言った。

 

「それでは、私がお金を出しましょう」

 

 ドゥランの申し出をありがたく思ったバナーヌであったが、出てきたものに彼女は心底ガッカリさせられた。これが、バナナか。これが、バナナか。こんなに粗末でみすぼらしいバナナを見たのは初めてだ。打ち合わせと雑談を挟んだため、その時は不満感が誤魔化されていたが、走っている最中にむくむくとそれが蘇ってきた。

 

 バナーヌには好きな言葉がある。

 

(しょく)せよ、なお食せよ。バナナは希望である」

「右手に刀を、左手にバナナを持て」

「バナナは道です。生命です。信じてバナナを食する者は、死んでも生きるのです」

 

 いずれもイーガ団の教義の一節である。バナーヌは他の内容をろくに覚えていないし、実践もしていないが、バナナにまつわる言葉だけは固く信じていた。

 

 だから、バナーヌはいい加減なバナナを許さないのだった。彼女はバナナを(おとし)める者を許さなかった。彼女の不満感は次第に怒りへと転化した。やはり見過ごせない、引き返して馬宿の宿長をぶん殴ってやろうか。いや、そんなことをしている暇はない。粗末な焼きバナナを糾弾するのと、バナナ一万本の輸送、どちらが重要かよく考えろ……

 

 あれやこれやとバナナについて考えている内に、バナーヌはいつの間にか落石現場に到着していた。幸いなことに、周囲に人はいなかった。チャンスだった。ここに来る途中も、こちらへ向かう通行人はいなかった。皆、落石を知って引き返したのだろう。始めるなら今しかない……彼女は仕事に取り掛かった。

 

 バナーヌはパワーブレスレットを装着すると、早速岩を持ち上げて、運び、脇へと下ろすというごく単純な作業を開始した。鈍い音が谷底中に響いた。しばらくすると彼女の全身から汗が吹き出した。すでに時刻は正午に差し掛かっていた。気温は刻一刻と高くなっていた。

 

 バナーヌは言葉を漏らした。

 

「暑い」

 

 彼女は顔の汗を拭くために仮面を外し、腰に下げた。手拭いで乱雑に顔を拭うと、彼女はまた岩を持ち上げた。牛のように大きな岩だった。

 

「暑い」

 

 今度は彼女の胸に汗がたまってきた。躊躇することなく彼女は忍びスーツを脱いだ。彼女の白い肌があらわになった。彼女に露出(へき)があるわけではない。彼女でなくとも、己の肉体のみで巨岩を撤去し続けていたならば、大汗をかくだろうし服も脱ぎたくなるだろう。

 

 上半身が涼しくなったことでバナーヌの作業は楽になったが、それと同時に、頭を使わない単純作業は彼女の脳を退屈させ、とりとめのない思考へと導いた。彼女が考えることといったら、バナナ以外にはなかった。

 

 あの宿長が知り合いになったという商人はどんなやつなのだろうか。あんなにショボいバナナを売りつけているのだからどうせロクでもないやつに決まっている。一時期、イーガ団も外部の商人に一部委託する形でバナナ補給をしようとしたが、成長不良の酷いバナナを売りつけられて大損をしたことがあった。装備科のおっさんは装備を横流しして得たルピーで、毎朝新鮮なバナナシェイクを飲んでるという噂がある。なんと嘆かわしい、世の中バナナを悪用して金儲けを企むひとでなしが多すぎる。そういえばフィローネの支部が改良型のツルギバナナを開発しているらしい、房に実る本数が平均五本から七本に増えるとか。肥料が悪いせいかすぐに枯死してしまうらしい。収量アップでコストカットだと幹部は期待しているが、しかしそれもどうなのか。バナナはこの世に誕生した時のまま、自然にあるがままが一番美味しいし美しいのではないか。楽をしてバナナをたくさん得ようだなんて、バナナに対する冒涜ではないのか……

 

 いつの間にか、岩は最後の一個になっていた。だが、バナーヌの思考は止まらなかった。何だか向こう側から声が聞こえるが、とりあえずさっさと片付けてしまおう。それにしても今回輸送されてくるバナナは二千房という。二千房のバナナといえば、一房に五本と考えて一万本だ。先日の相撲大会の景品はバナナ百本だった。つまり今回運ぶのは景品の百倍だ。百本を手に入れるには、イワゾーを一人投げ飛ばす必要がある。つまり、バナナ一万本とは百イワゾーだ。イワゾーが百人か。あれ? こう考えると大した量ではないような……?

 

 バナーヌは両腕で巨岩を掴むと、頭上へと持ち上げた。さすがに少し重いと感じられたが、無事に持ち上がった。

 

「えっ」

「あれ」

「あっ」

 

 なぜか目の前に、地面に倒れたままこちらへ顔を上げている、ねじり鉢巻のゴロン族が三人いた。その奥には、槍や盾や刀を持つ屈強なゲルド族の女兵士たちがいた。繊細な彫刻が施された半月刀を腰に下げた、隊長らしき女もいた。両手剣を携える筋骨隆々とした女戦士もいた。

 

 その全員と、バナーヌの目が合った。思わず彼女の口から声が漏れた。

 

「あっ」

 

 優れたイーガ団員は決して動揺しない。バナーヌもまた、よく訓練されたイーガ団員であった。彼女はとりあえず持ち上げた巨岩を脇に置き、その拍子に落としてしまった仮面を拾い上げて顔に(かぶ)ると、落ち着き払って首刈り刀をくるくると振り回し、油断なく構えた。

 

 ゲルド族たちが叫んだ。

 

「イーガ団!」

「イーガ団だ、イーガ団が出たぞ!」

 

 さあ、どこからでもかかってこい。

 

 

☆☆☆

 

 

 突然のイーガ団の出現にゲルド族の女兵士たちは色めき立ったが、彼女たちもまた、今回のルージュの旅に際し護衛として特別に選抜された精鋭であった。すぐに冷静さを取り戻すと、彼女たちは日頃積んできた猛訓練の通りに整然と隊列を組んだ。

 

 隊列は三列の横隊であった。前列にゲルドの槍を装備した兵士が並び、中列はゲルドの剣と盾を装備した兵士が並ぶ。最後列は弓兵である。緊密な連携による槍衾(やりぶすま)は前面の臆病な敵を寄せ付けず、その間に弓兵が正確な射撃で敵を射抜く。勇敢な、ともすれば無謀な敵が傷つくことも(いと)わず、槍先を回避し接近戦を挑まんと突入して来ても、後列の兵士が前列を盾で援護しつつ剣で排除する。この隊列こそ、ゲルド兵法でいうところの「新月の隊形」である。

 

 隊長チークは、命令せずとも隊列が即座に組まれるのを見てほくそ笑んだ。

 

「ふっ……」

 

 さすがは我らの精鋭だ。半裸のイーガ団が出た時は面食らったが、たかが一人。いくら神出鬼没のイーガ団とはいえ、単独かつこのような隘路では逃げ場はあるまい。

 

「それに、(みずうみ)研究所での恨みもある」

 

 族長様の原因不明の御病気を治す唯一の手がかりだったもの。いとけなきルージュ様の初めての旅の目的だったもの。それをイーガ団は無惨にも踏み躙った。バナナ栽培などという意味不明な目的のために! ここで会ったが百年目である。ゲルド族を愚弄した罪を、その命で償わせなければならない。

 

 チークは月光のナイフを振り上げると、谷底中に響き渡る勇ましい声で号令をかけた。

 

「ぜんたーい! 構えぇっ!」

 

 女兵士たちは一斉に武器を構え、右足を半歩分前へ出した。

 

 イーガ団は逃げようとしなかった。半裸のまま、独特な形をした首刈り刀を構えて動かない。当然だ。チークはそう思った。熟練の弓兵が狙いをつけているのである。少しでも背を見せたのなら矢が降り注ぎ、その薄汚い命を散らすことになるのを理解しているらしい。

 

「前進!」

 

 チークはそう言うと、月光のナイフを振り下した。

 

 号令と共に隊列が猛然と前へ進み出ようとした、その時だった。

 

 すっかり存在を忘れられていたゴロン三兄弟の長兄バケットが、大声を上げて隊列の前に立ちはだかった。

 

「ちょっと待ったゴロ!」

 

 その両隣にはヒールとカベータが控えていた。

 

 チークは激昂した。

 

「貴様ら、退()け! さもなければ突き殺すぞ!」

 

 およそ戦士にとって、振り上げた刃を振り下ろす寸前で止められることほど腹立たしいことはない。いくら道を開通させたオトコたちとはいえ、隊列を止めるなど到底許されることではなかった。

 

 女兵士たちも隊長と心を同じくしていた。はちきれんばかりの闘志を剥き出しにして、彼女たちは口々に喚き散らした。

 

「邪魔だ! さっさとそこを退()け!」

「はりたおすぞ!」

「ゴロンのアニキたち、さっさと退()かないと怪我じゃ済まないぞ!」

「ふざけやがって、イーガ団の前に血祭りに上げてやろうか!」

 

 だが、三兄弟は退かなかった。それどころか彼らはねじり鉢巻を締め直すと、どっかりと腕組みをして、鋭く隊列を睨みつけた。

 

 三兄弟は同時に言った。

 

「この戦い、俺たちに預けてくれゴロ!」

 

 意外なことを言い始めた。チークは唖然としつつも、怒りを隠さず長兄を怒鳴りつけた。

 

「何を言うか! イーガ団は族長様とルージュ様に仇なす我らが不倶戴天(ふぐたいてん)の敵! ゴロン族ごときに預けられる戦いではない! ゲルドの戦士の誇りにかけてやつをここで(たお)す! 分かったならそこを退け!」

 

 ゴロン三兄弟の長兄バケットも負けずと言い返した。

 

「それを言うなら、やつは俺たちにとってもフグタイテンの敵ゴロ!」

 

 チークは(ひたい)に青筋を浮べて叫んだ。

 

「何を言うか! 意味の分からないことを言うな!」

 

 それからは言い合いになった。長兄バケットが言った。

 

「やつは俺たちのオトコの修行を台無しにしたゴロ! だからここで俺たちがやつを倒さないと、俺たちのオトコはどん底のままゴロ!」

 

 チークが叫んだ。

 

「貴様らの事情など知ったことか!」

 

 バケットが大声で言った。

 

「それに、もうひとつ!」

 

 チークが答えた。

 

「何だ!」

 

 バケットは言った。

 

「大勢で一人を囲むなんてケンカの流儀に反するゴロ! 戦士の誇りというなら、一対一で戦うべきゴロ!」

 

 なんと言い返すべきか、チークは言い淀んだ。

 

「むっ、それは……」

 

 たかが喋る岩の分際でこのゴロン、なかなか口が立つ。それに戦士の誇りという点から見ると、確かに一人を隊列で包み殺すのは少し問題があると言えなくもない。

 

 チークが逡巡した僅かな間を肯定と取ったのか、ゴロン三兄弟は体の向きをイーガ団の方へ変えると、大音声で口上を述べ立てた。

 

「マッスル! 俺たちはゴロンのド根性三兄弟! 俺は長兄バケット!」

「ホット! 俺はヒール!」

「ス、スウェット、ボクはカベータ……」

 

 三兄弟は両腕を振り回し、足を踏み鳴らした。長兄が言った。

 

「お前を倒してオトコをあげるゴロ! 正々堂々勝負しろゴロ!」

 

 次兄が言った。

 

「ちなみに俺たちは三人で一人! だから三人一組でお前と戦うゴロ!」

 

 末弟が言った。

 

「卑怯ではないゴロ、ボクたち戦いの素人ゴロ、弱いものが徒党を組むのは自然の摂理ゴロ」

 

 長兄バケットには勝算があった。目の前のあのニンゲンの女、むちむちとしていて肉付きは良いが、所詮は自分たちの(いわお)の如き筋肉に敵うものではない。岩を持ち上げたのは、たぶん魔法か何かだろう。構えている武器も、ゲルドの怖い戦士たちのものと比べて明らかに貧弱だ。あんなに細い(やいば)では岩盤のように分厚く硬いゴロンの皮膚を斬ることも穿(うが)つこともできるはずがない。

 

 デスマウンテンの噴火をイメージして、三兄弟は雄叫びを上げた。

 

「うおおおおっ!!」

 

 それは威嚇のためだった。威嚇を甘く見てはならない。彼らの組長もマグロックを相手にしてよく威嚇をしている。

 

 だが、膨大な熱量と覇気を受けても、イーガ団はさながら擬態したリザルフォスのごとく、ピクリとも動かなかった。ふと、長兄バケットは内心底知れぬ不気味さを感じた。だが彼は、(おく)した心に活を入れるように気迫を込めて叫んだ。

 

「さあ、覚悟するゴロ! マッスル!」

 

 三兄弟はぐるぐると腕を振り回し、ズンッ、と地響きを立てて一歩を進めた。

 

 その時だった。イーガ団は初めて動いた。イーガ団は素早くポーチから何かを取り出すと、三兄弟の頭上へと放物線を描くように放り投げた。

 

 三人の目が飛んでくるものに一斉に向けられた。

 

「むっ」

「なにっ」

「えっ」

 

 存外ゆっくりと飛んできたのは、二本の小瓶だった。中には真っ赤な液体が詰まっていた。小瓶は午後の日差しを受けて、キラリと怪しい閃きを放った。

 

 次の瞬間、何かが突然飛んできて、二つの小瓶は同時に空中で粉々になった。中身の赤い液体が無数の飛沫となってゴロン三兄弟の顔面に襲いかかった。

 

 三兄弟は絶叫した。

 

「ぐわぁあああっ!!」

「いでえええええっ!!」

「目が、目があああっ!!」

 

 三兄弟は一斉にのたうち回った。その動きのあまりの激しさに砂煙がもうもうと立ち上った。いまだかつて経験したことのない激痛が彼らを襲っていた。両目から涙が滂沱(ぼうだ)として流れ、溶岩の熱にもビクともしない皮膚からは一斉に汗が噴き出した。顔面はヒリヒリとし、唇と口の中がピリピリとした。

 

 ピリピリ? そう、ピリピリだ。幼い頃、ゴロンシティの観光客向け料理屋に行った時のことを、なぜか長兄バケットは思い出した。その店はゴロンの香辛料をふんだんに用いた「もはや(さつ)ゴロ事件! 特製激辛カレー!」を提供しており「これはオトコの修行になるゴロ」と、今は亡きじいちゃんが連れていってくれたのだ。

 

「激辛? こんな程度、俺にとってはピリ辛ゴロ」

 

 鼻水と涙を滝のように流しながら、笑顔で強がってみせたじいちゃん。

 

 あの時と同じ味がする。

 

「わ、わかったゴロぉ……」

 

 息も絶え絶えに長兄バケットは言った。

 

「これは、ピリ辛薬……」

 

 三人は仲良く、一斉に気絶してぶっ倒れた。




 バナーヌ! 目や! 目ぇ狙うたれ!

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第九話 疾風のように

 その魔物は、ブヒブヒと様子を窺っていた。

 

 その頭部には、豚のような平たい鼻、豚のような大きな耳、尽きることなき欲望で赤くギラつく両眼があった。長い手の先には三本の爪が伸びており、短い筋張った足の先には豚の(ひづめ)があった。皮膚は白銀に輝き、怨念めいた紫の模様が全身を覆っていた。

 

 魔物は、白銀ボコブリンであった。その額には短い「三本の」角があった。真ん中の角は途中でポッキリと折れていた。

 

 ボコブリンはハイラルに跋扈する魔物の中でも、最も一般的で最も数の多い種である。平原、森林、山谷、廃墟、水辺……ありとあらゆるところに、ボコブリンは大抵三匹から四匹、大きいものだと十匹前後からなる拠点を構える。

 

 その性質は凶暴、無軌道、そして貪婪(どんらん)である。ボコブリンは雑食性で、何でも食べる。何でも、である。彼らが馬車を襲ったならば、人は頭から爪先に至るまで食われ、馬は生皮を剥がれ肉を削がれ骨髄を啜られ、積荷は奪われ燃され食われ、馬車そのものも車輪から(ほろ)に至るまで面白半分に破壊され、そして食われてしまう。その悪食(あくじき)のせいで、ボコブリンの体は常に耐え難いほどの悪臭を発している。夏の強い日差しを浴びて一気に腐敗した生ゴミのような、そんな悪臭である。それこそが魔物の臭いであると言えなくもない。

 

 ボコブリンには知能がない。というより、欲望を制御する理性がない。ボコブリンはイノシシと見れば飛びかかり、シカと見れば飛びかかり、敵と見れば、たとえガンバリバッタがイワロックに挑むくらいの実力差が離れていても、躊躇なく飛びかかる。彼らは手傷を負っても逃げず、死ぬまで戦い続ける。唯一、ガンバリバチだけは苦手でロクに抵抗もせず逃げ出すが、他に怖いものは彼らにはない。

 

 だから、ボコブリンは魔物の中ではかなり弱い。剣、槍、弓、盾など武器の一通りを扱い、火を起こして肉をこんがりと焼くほど器用ではあるが、それでも彼らには理性がない。理性がないから戦術もない。戦術がないから、遥かに力で劣る人間に、知恵と策略によってあっさりと殺される。

 

 王国のある近衛騎士の家は、幼年期の終わりに一種の通過儀礼(イニシエーション)として、ボコブリンの拠点を襲撃し壊滅させることを慣習としていた。血の滲むような鍛錬を積んでいるとはいえ、年端もゆかぬ子どもにボコブリンは手もなくやられるのである。たとえ武器を持ったボコブリンが百匹集まったとしても、連携し戦術を駆使する兵士十人の一個分隊には到底敵わない。

 

 ある時、ゲルドキャニオン周辺で、ある噂が広まった。いわく、三本角の白銀ボコブリンには気をつけろ。やつは強く、タフで、何より知恵が回る、と。

 

「何を馬鹿なことを。ボコブリンに知恵などあるわけないじゃないか」

「三本角のボコブリンだって? そんなやつがいるわけないだろ。どうやったら一本を三本と見間違えるんだ」

「おおかた襲われてパニックになった素人が見た幻覚だろうよ、よくある話さ」

 

 護衛を生業とする練達の戦士ほど、この噂を信じなかった。馬鹿馬鹿しい、たかがボコブリンじゃないか。やつらよりもチュチュのほうが音もなく突然現れる分だけ危険なくらいさ……

 

 豊富な経験は得てして先入観となるものである。実際のところ、噂は本当だった。先ごろゲルドキャニオン本道において、イーガ団のバナナ輸送馬車を襲撃し焼き払った魔物こそ、噂の三本角の白銀ボコブリンだったのであり、その後に相次いだ馬車襲撃事件の犯人であった。

 

 三本角は、自分がいつこの世に発生したのか覚えていなかった。気がついたら、彼は切り立った崖の上で、沈みゆく赤い月を見ていた。赤い月は美しく、優しく、そしてとても悲しそうに見えた。なぜ悲しそうなのだろう、あんなに綺麗なのに。夜が明けて、太陽が昇って沈み、また夜が来た。彼は赤い月をまた見られると思った。美しく優しい月を、彼はまた見られると思った。だが、それは来なかった。彼が見たのは、欠けて不完全に冷たく光る、白い月だった。

 

 なぜだ! 三本角は憤った。彼は怒りに身を任せて喚き散らし、白い月が夜空から消えるまで腕を振り回して猛り狂った。それから毎晩、彼は赤い月を待った。多くの生き物を殺し、食らい、命を奪いながら、彼は待った。

 

 それでも、赤い月はいつまで経っても来なかった。ビクリと身を震わせて、三本角は唐突に理解した。()()()()()()()()()。赤い月が悲しそうに見えたのは、これから死ぬことを知っていたからだ。

 

 彼は死が怖くなった。自分もいつか赤い月のように消えてなくなってしまう。死とは、消滅だ。消えるのは嫌だ、嫌だ! 自分が今まで食らった命のように、(クソ)となって(ちり)になり、いつしか風となって地上から消えてなくなる、そんなのは嫌だ……!

 

 死への恐怖は、三本角にそれを回避することを必死で考えさせた。そして、彼は思考という習慣と、知恵という武器を身に着けた。戦い、殺し、食らう度に、彼の頭脳は急速に成長していった。武器を改良することを彼は覚えた、馬に乗ることを覚えた、仲間を集めることを覚えた、仲間を指揮することを覚えた、敵を罠に()めることを覚えた……

 

 三本角は知恵を使うことの楽しさを知った。彼は頭を使って仲間を増やし、武器を蓄え、馬を乗りこなし、拠点を拡大した。

 

 ある日、三本角は谷底に面白そうなものを見つけた。たしか、あれは馬車とかいうモノだ。武器を持ったニンゲンもいる。強そうだ。もう、ここらのボコブリンやリザルフォスは自分には(かな)わない。正直、最近は飽きが来ていた。新しい獲物を見て、彼は急に自分の知恵を試したくなった。気づいたときには彼は馬に跨り、仲間に岩を運ばせ、炎の矢を準備させていた。

 

 襲撃は、面白いように上手くいった。岩を落としてニンゲンが慌てふためくのを見るのは楽しかった。大事そうに運んでいたものを燃やしてやるとスカッとした。怒り狂って追いかけてくるニンゲンを馬でぶっちぎるのは胸がすくようだった……

 

 以来、三本角はニンゲンの襲撃に熱中した。思っていたよりもニンゲンは、弱い。魔物よりも弱い。頭が悪く、怖がりで、力は貧弱だ。でも、斬りつけたり殴りつけたりすると面白いくらいに痛がって、見ていて飽きない。ニンゲン狩りは、楽しい。

 

 知恵あるものに特有の傲慢さが、いつしか彼に宿っていた。襲えば必ず成功する、腹は膨れる、たっぷりと楽しめる。俺以外のモノは、全部俺のオモチャだ。

 

 そんな三本角にある日、ついに大鉄槌が振り下ろされた。いつものように彼が仲間を集めて、意気揚々と馬車を襲撃すると、その馬車は突然大爆発を起こした。火だるまになって仲間たちは吹っ飛んだ。今まで経験したことのない事態に、三本角の頭の中は真っ白になった。その間に矢玉と岩石が頭上に降り注いだ。残った仲間たちは血飛沫を上げた。何とか逃げ出した先には、赤い髪と褐色の肌をした、強そうなニンゲンたちでできた壁があった。彼は槍で突かれ、刀で散々に切り苛まれた。

 

 どうやって逃げ出せたのか、それすら彼は思い出せなかった。真ん中の角はいつの間にか折れていた。すべての仲間を失い、三本角はたった一人で、寂しく谷間を彷徨(さまよ)った。営々と築き上げてきた自慢の拠点はニンゲンたちに焼き払われた。三本角はすべてを失った。

 

 ところが、である。彼が今日も失意のままに崖上をうろついていると、谷底が何やら騒がしかった。そっと彼は顔を出して様子を窺った。すると、あの時彼を罠に嵌めた赤い髪と褐色の肌をしたニンゲンたちが、落石の前で大騒ぎをしているのが見えた。馬車がたくさんあった。

 

 これは、好機(チャンス)だ。自分からすべてを奪ったニンゲンに思い知らせてやる好機だ。だがやつらは強い。知恵を働かさなければ! まずは様子を窺うのだ!

 

 三本角はブヒブヒと鼻を鳴らした。

 

 狙うのは、あの大きくて立派な金色の馬車だ。

 

 

☆☆☆

 

 

「わ、わかったゴロぉ……」

「これは、ピリ辛薬……」

 

 上手くいった、とバナーヌは内心ホッとした。彼女は構えていた二連弓を背中に戻した。目の前には、悶絶して転げ回り、そして気絶した三人のゴロン族がいた。

 

 どんなに防御を固めていても、目だけは隠しきれぬ弱点である。伝承の数々は、憎き勇者が魔物の目を執拗に狙って勝利したことを伝えている。ブ厚く固い皮膚を持つ敵と戦う時は、目を狙え! それは彼女が小さい頃に戦闘訓練で叩き込まれた鉄則だった。

 

 無駄に暑苦しい三人のゴロン族が意味不明なことを叫びながら立ち向かってきた時、バナーヌは冷静にこの鉄則を思い出して、それを実行する手段を素早く考え出した。ちょうど「大成功」しすぎて、使うには少し辛すぎるピリ辛薬がポーチの中に二瓶あった。

 

「できた」

「ちょっと味見させて! あはは、なにコレからーい! あははゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!」

「ちょっ」

 

 アジトでの昼食のあと、薬の調合を手伝ってくれたノチが、炎のような辛さに激しくむせた光景がバナーヌの脳裏に浮んだ。

 

 これを投げて、弓で射抜いて破壊し、中身をぶち撒けてやれば良い。バナーヌの作戦は見事成功した。だが、もちろんそれだけで事態が収束したわけではなかった。

 

 三兄弟の後ろに控えて、はたして勝敗やいかにと成り行きを見守っていたゲルド族の女兵士たちが、怒り狂って口々に喚いていた。

 

「おのれ、よくもアニキたちを()ってくれたな!」

「目を狙うなど悪辣な! 恥を知れ!」

「殺せ! 殺せ!」

「ぶっ殺せ!」

「卑怯千万なイーガ団をぶち殺せ!」

 

 隊長の女が月光のナイフをバナーヌに向け、断固とした口調で命令を下した。

 

「三兄弟の仇を討て! 前進!」

 

 兵士たちが答えた。

 

「おう!」

「おう!」

「おう!」

 

 精鋭ゲルドの鉄壁のごとき隊列がバナーヌへ地響きを立てて迫った。ギラつく槍の穂先、鈍く輝く剣と盾、狙い済ました弓と矢……歩調を崩さず整然と、まるで一個の生き物のように、ゲルド族の隊列はゆっくりと確実に歩を進めてきた。どこにも逃げ場はなかった。

 

 普通ならば、降伏して命乞いをするか、一か八か背を向けて逃走を図るか、それとも破れかぶれの正面突破か、いずれかを選ばねばならない状況であった。そしてそのいずれも結果は同じ、死であった。

 

 しかし、バナーヌは慌てなかった。彼女は相変わらず表情をひとつも変えずに、迫り来る隊列をさっと眺めて観察すると、素早くポーチから何かを取り出して隊列へ力一杯投げた。

 

「むっ!」

 

 前列の女兵士が高速で飛来するものを槍で叩き落とした。ガランと金属音を立てて地面に落ちたのは、砂漠ではおなじみの魔物であるリザルフォスが好んで扱う武器、強化リザルブーメランだった。

 

 隊列から嘲笑が湧き起こった。

 

「なんだ、これくらい!」

「手詰まりか、イーガ団!」

「たかがブーメランで私達を止められると思ったか!」

 

 兵士たちは思った。万策尽きて武器を投げつける。魔物がよくやる行動だ。仮面で表情は見えないが、確かにやつは追い詰められている。弓矢で射殺すのはつまらない。じわじわとなぶり殺しにしてくれる……興奮した戦闘者に特有の、残忍な敵愾心(てきがいしん)が隊列全体を満たしていた。

 

 だが、バナーヌは強化リザルブーメランが叩き落とされるや否や、別のポーチに手を伸ばし、中から白い「く」の字形のモノを取り出していた。彼女は片手でその端を持ち、隊列の右端へとじっと狙いをつけて構えた。彼女は何やら軌道を計算しているようだった。

 

 隊列からまたもや大きな笑い声が起こった。それは狭い谷底で反響し、野蛮なハーモニーを奏でた。

 

「やつめ、またブーメランだぞ!」

「何度も同じ手を! 馬鹿なのか!」

「馬鹿の一つ覚えだ!」

 

 嘲笑を浴びせられても、バナーヌには一切反応する様子がなかった。やがて、彼女の手からスルリとブーメランが放たれた。それは高速で回転し、隊列へ向かって綺麗な軌跡を描いて飛翔した。

 

 先ほどと同じように叩き落としてやろうと思っていた女兵士たちは、しかし、次の瞬間驚愕した。

 

 風だ、風が吹いてくる!

 

「なっ、なんだ!? なんだこの風は!?」

「構わん、叩き落とせ!」

 

 白いブーメランは隊列の端へと到達した。それは叩き落とされる寸前になって、突如としてまばゆく光り輝き始め、竜巻のごとき突風を身に纏った。

 

 女兵士たちは叫んだ。

 

「わぁっ!」

「や、槍が!」

「剣が、剣が!」

 

 吹き上がる土埃と共に、次々と女兵士たちの手から槍と剣、盾と弓矢が無理やり引き剥がされ、軽々と宙へ舞った。疾風と共に無数の武器は高く高く飛んで行き、やがてバラバラと広範囲に落下した。

 

 変わらぬ勢いで戻ってきたブーメランをしっかりと右手でキャッチしたバナーヌは、短く会心の呟きを漏らした。

 

「よし」

 

 切迫した状況下で、かつ、このような大勢を相手にして使うのは初めてだったが、上手くいって本当に良かった。彼女はそう思った。持っていくか出発前に迷ったが、飛び道具は多いに越したことはないと、ポーチの狭いスペースを犠牲にして持ってきたのだ。

 

 パワーブレスレット、アイアンブーツと同じく、これも例の「不思議アイテム」であった。バナーヌはそれを「疾風(しっぷう)のブーメラン」と呼んでいた。それは彼女が以前、パシリの途中、とある地方の深い森で、真っ赤な(ケツ)をした白い大猿から死闘の末に奪い取ったものだった。

 

 ゲルドの女兵士たちは狼狽し、口々に叫んだ。

 

「武器が、武器が!」

「おのれ! 何も見えない!」

「ちょっと! あたしの足を踏まないでよ!」

「落ち着け! 隊列を組み直せ!」

 

 鉄の隊列は今や大混乱を起こしていた。視界も、疾風のブーメランが起こした砂煙で完全に遮られていた。好機だった。

 

 それは後ろへと逃げる好機ではない。先へと突破する好機である。バナーヌはなんとしてでもゲルドキャニオンを抜け、吊り橋を渡り、平原外れの馬宿へ行かねばならない。万難を排して、生命の源、ツルギバナナ一万本をアジトへ運ばなければならないのだ。

 

 バナーヌは決然として、音も立てず前方へ飛び出した。倒れんばかりの前傾姿勢を彼女はとった。その右手には首刈り刀を持っていた。ふさふさと金髪のポニーテールが揺れた。あっという間に、彼女はいまだ混乱の渦中にある隊列へ突入し、人影を避け、跳躍するように駆け抜けた。ヒケシトカゲのように素早い動きだった。

 

 視界が晴れた。隊列を抜けた。このまま全速力でこの場を離脱しよう。落石は撤去した。馬車の通行には支障ない。ゴロン族やゲルド族というハプニングはあったが、手早く無傷で切り抜けられたのは大きい……うん、良いぞ。

 

 弛緩にも似た安堵の感情がバナーヌの脳内を支配しようとした瞬間、彼女をこれまで幾度も窮地から救ってきたある直感が、全身の神経へと電流と信号を送った。彼女の両足は急ブレーキを掛けて踏ん張り、首刈り刀を構えている右手は、意志と無関係にひとりでに動いて顔面を守った。

 

「どりゃあああっ!!」

 

 突如、首刈り刀を衝撃が伝わってきた。強い日差しを受けて残忍にギラリと輝く、ひときわ斬れ味の良さそうな厚みのある半月刀が、首刈り刀の細身の刀身と、ギリギリと音を立てて噛み合っていた。

 

「ふんっ! まさか隊列を突破するとはな! 敵ながらあっぱれと褒めてやる!」

 

 バナーヌはそれを即座に振り払うと、間髪を入れず目の前の新たな敵へ首刈り刀を横薙ぎに振るった。しかし、こともなげに防がれてしまった。

 

「隊長としてお前を逃がすわけにいかん! とっととその首を寄越せ!」

 

 堂々たる覇気を満身から放ちながらバナーヌの前に立ちはだかったのは、ゲルドの隊長、チークだった。優れた戦士としての資質と直感が、バナーヌの突破行動を彼女に予測させたのだった。

 

 仮面を挟んで、視線が絡み合った。これは、簡単には終わらないだろう。バナーヌの頬に、滅多にかかない冷や汗がひとすじ流れた。




 風が吹いておる……

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第十話 死闘

 ドゥランは、ゆったりと椅子に腰掛けて、ビリビリハーブのハーブティーを飲みながら一息ついていた。

 

 彼のすぐそばには、初老の男が蒼い顔をして担架に横たわっていた。その周りを、不安げな表情を浮かべた馬宿の宿長(やどちょう)と、若い店員たちと、興味半分で集まった客たちが囲んでいた。

 

 宿長は担架の傍らに膝をついて、初老の男の頬を(しき)りに叩いていた。

 

「起きろ、起きろ! ちくしょう、起きやがれ、このゴーゴーダケジャンキー!」

 

 ペチペチという音が響いた。やがて、担架の男はうめき声を漏らして、閉じられていた両目をゆっくりと瞬かせた。男はぼんやりとした視線を左右に動かした。そして男は言った。

 

「こ、ここは……」

 

 店員たちは安堵の声をあげた。

 

「おお、目が覚めた、目が覚めたぞ!」

「ピルエが起きたぞ!」

 

 宿長もホッとした表情を一瞬浮かべたが、すぐにそれを隠すと、わざとらしい怒り顔を作って言った。

 

「まったく、このクソジジイが! ついにくたばっちまったのかと思ったぞ! 心配かけやがって!」

 

 担架に横たわっている男、ピルエは、いまだ意識がはっきりしないようだった。彼はうわ言のようにぶつぶつと言葉を発した。

 

「う、うーん……白くて……白くてデカイ……」

 

 宿長が言った。

 

「なんだ!? 白くてデカイのがどうした!?」

 

 ピルエはぽつりと言った。

 

「……おっぱい」

 

 言い終わるとピルエは目を閉じ、ガクリと頭を傾けた。彼は能天気に安らかな寝息を立て始めた。

 

 店員たちは頭の上に疑問符を浮べながら話し合った。

 

「は? おっぱい? おっぱいって、あのおっぱい?」

「なんだ、なんのことだ? おっぱいがなんだってんだ?」

「はぁ、ついにゴーゴーダケの菌糸が脳にまで回ったのか?」

 

 突然、馬宿の入口から凛々しい声がした。

 

こんにちは(サヴァーク)! 宿長はいるか!」

 

 室内にいる全員の目がそちらへ向けられた。赤い髪に褐色の肌、長身で筋骨隆々の肉体、腰には煌めく半月刀……ゲルドの女戦士が、大きな影を室内に投げかけていた。

 

 ピルエのうわ言に首を(かし)げていた宿長だったが、その声を聞くと即座にスッと立ち上がり、素早く女戦士の元へ向かった。彼はうやうやしく頭を下げると、熟練の営業スマイルを顔に浮かべた。

 

「これはこれは、ランジェ様ではありませんか。どうぞどうぞこちらへ。いやはや、三本角の討伐ぶりでございますな。その(せつ)は大変お世話になりました。ろくに気の利いたご挨拶もできず大変申し訳ございません……」

 

 ランジェと呼ばれた女戦士は苛立たしげに頭を振った。どうやら相当気の短い性格をしているようだった。ランジェは言った。

 

「ハイリア流のまどろっこしい口上はいらん! 宿長よ、ゲルド流に単刀直入に言う。今日あたり、いとけなきルージュ様が初めての御旅行よりお帰りになられる。一晩この馬宿でお休みになる御予定だ。貴様には御出迎えの準備をしてもらう」

 

 宿長は嬉しそうな声を出した。

 

「なんと、それはまことでございますか! あのルージュ様がはや大冒険からご帰還とは。さてさて、それでは早速盛大な祝宴の準備をしなければなりませぬな。それでは、いささか無作法にて恐縮でございますがルピーの相談を……」

 

 ハーブティーを啜りながら女戦士と宿長の会話を聞いていたドゥランは、ふと嫌な予感を覚えた。砂に埋もれた怪しげな宝箱を前にした時のような、安物のビリビリハーブティーのような、そういうピリリとする嫌な予感だった。彼は言った。

 

「まさかな……いや、しかし……」

 

 ドゥランは席を立ち上がり、無言で外へ向かった。取り越し苦労ならば、それで良い。どうせ暇な仕事だ。だが、バナーヌに何かあったとしたら? 彼女のことは、彼女が小さい頃からよく知っている。優しい娘だ。妻や娘とも仲良くしてくれている……

 

 誰にも気づかれずに馬宿の外へ出ると、ドゥランはバナーヌの後を追ってゲルドキャニオンを駆け始めた。彼はその時、剣鬼に戻りつつあった。

 

 

☆☆☆

 

 

 金色に輝く豪奢な馬車の中で、ルージュは、つくねんと座っていた。彼女はピンク色の大きなスナザラシのぬいぐるみを両腕でしっかりと抱いていた。

 

 少しだけ開いた窓からは涼しい風と共に、様々な音が入ってきた。つい先ほどまでは、女兵士たちの喧騒、なにか野太く暑苦しい声、そして岩を砕く音が聞こえていた。今度は隊長チークの鋭い号令と、女兵士たちの怒号が聞こえてきた。

 

 一体、何が起こっているのか? ルージュは確かめに行きたかった。好奇心をくすぐられる。だが、それを満たすことはできない。自分はゲルド族族長の唯一の跡取り娘、ルージュである。自分の身柄の重さは充分承知している。ふらふらと馬車の外に出て、万一のことがあってはならない。そんなことがあれば、優しくも厳格な母はきっと怒るだろうし、なにより責任を問われる護衛の兵士たちが気の毒だ……

 

 それでも、知りたい。うずうずする心をごまかすように、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら、ルージュは行儀良く座っていた。

 

 馬車が大きく揺れた。ルージュはビクッと体を震わせたが、すぐに安心した。側近(そっきん)のビューラが扉を開けて馬車に入ってきたのだった。ビューラは言った。

 

「ルージュ様、ご報告します。ゴロン三兄弟の協力を得て落石を完全に撤去することに成功しました。しかしその直後、イーガ団が出現。現在チークの指揮の元、兵士たちが応戦中です」

 

 ルージュにとって、イーガ団という名前の響きは意外そのものだった。彼女は言った。

 

「何、イーガ団? それは(みずうみ)研究所を襲ったという、あのイーガ団に相違ないか?」

 

 ビューラは頷いた。

 

左様(さよう)でございます」

 

 ルージュはまた言った。

 

「もしや、わらわの帰路を妨害せんとの悪しき陰謀か? この落石も、もしや彼らの計略では?」

 

 (あるじ)の懸念に対して、ビューラは答えた。

 

「そうであるかもしれませぬ。しかしながら、出現したイーガ団はただ一人です。ここへ戻る途中、周囲の様子を探りましたが伏兵があるとも見えませんでした。いずれチークたちが討ち取るでしょう。ですが、御身(おんみ)に万一のことがあってはなりませぬ。私が護衛いたしますので、どうかご安心なさいますよう」

 

 だいたいの話は分かった。それでも疑問は残っている。抑えきれぬ好奇心から身を乗り出して、ルージュはビューラに問いを投げかけた。

 

「チークはいまだ若いが、指揮官としても戦士としても、その力量は疑いなきもの。そやつを必ず討伐するであろうが、そも、イーガ団とは何者だ? 古き時代においてはハイラル王国に反抗し、そして近頃においては母様の御病気治癒の手がかりを奪い去った、憎さも憎き敵ということは分かるが」

 

 ビューラは主からの下問に答えて言った。

 

「イーガ団は、カルサー谷に拠点を構える武装集団です。隠密と潜伏を事とし、ハイラル全土に陰謀を巡らせ、闇夜に紛れて破壊と殺戮を行う、卑劣にして非情なる者共です」

 

 ルージュはさらに問うた。

 

彼奴(きゃつ)らの組織の規模は? その目的は? なぜ人心を(いたずら)に惑わすのだ」

 

 ビューラは静かに首を左右に振った。

 

「実のところを申し上げれば、イーガ団はまったくの謎です。厄災を魔王として崇め、そのために暗躍しているらしいのですが、組織の規模も、何を目的としているのかも、詳しいことはなんら分かりませぬ。ただ、全団員に共通する特徴として、ツルギバナナに目がないということは知られております」

 

 ルージュは言った。

 

(みずうみ)研究所を襲った連中も、バナナ栽培だのなんだのと言っていたらしいな」

 

 ビューラは答えた。

 

「我らゲルド族には理解のできぬ宗教なり、慣習なりを持っているのかもしれませぬ」

 

 ひととおり話を聞いたルージュは、目を閉じた。神出鬼没のイーガ団、一切謎のイーガ団、そして、愛しき母様の怨敵イーガ団……それが我々の前に現れたという。これは、天の与えた好機かもしれぬ。

 

 確固たる決意と共に、断固とした口調でルージュはビューラに言った。

 

「ビューラ」

 

 ビューラは頭を下げた。

 

「はっ!」

 

 ルージュは言った。

 

「そのイーガ団は、何としてでも捕らえよ」

 

 ビューラは驚きの表情を浮かべた。

 

「なんと」

 

 ルージュはさらに言った。

 

「その者を捕虜としてゲルドの街へ連れて帰り、尋問するのだ」

 

 ビューラは言った。

 

「しかしながら、おそらく口は割らないでしょう」

 

 ルージュは首を少し振った。

 

「だが、手かがりにはなる。(みずうみ)研究所を襲った連中について、わらわは少しでも情報を得たい。母様の御病気の治療にわずかでも関係するかもしれないのだ。ビューラ、わらわの護衛は良い。チークのもとへ行き、『ルージュがイーガ団を生きたまま捕らえよと望んでいる』と伝えてくれ」

 

 お側を離れるわけには、と忠誠心の篤いビューラは難色を示した。ルージュは重ねて命じ、さらには小さく華奢な手を、大きく無骨なビューラの手に重ねて、真摯に目を見つめて静かに頼んだ。

 

「頼む、わらわには情報が必要なのだ」

 

 これ以上はかえって不忠となる。ビューラは、何があっても外には出ないよう、そして決して窓は開けぬようルージュに忠告してから、素早く身を馬車の外へ躍らせると、煌めく宝石も鮮やかな巨大な両手剣を携え、チークのもとへ向かった。

 

 

☆☆☆

 

 

「ふんっ! まさか隊列を突破するとはな! 敵ながらあっぱれと褒めてやる! 隊長としてお前を逃がすわけにいかん! とっととその首を寄越せ!」

 

 刃を振り払うと、バナーヌは後ろへ跳んで間合いを取った。たらりと、彼女の頬に冷や汗が流れた。仮面越しに見るゲルドの女戦士は、赤い髪と褐色の肌をした、筋骨隆々の堂々たる偉丈夫、いや「偉丈婦」で、満身より闘志と殺気を奔流のごとく迸らせていた。

 

 容易な相手ではない。バナーヌは喉を鳴らした。少なくとも、体格面では圧倒的に不利である。剣技も、先ほど打ち込んできた威力から察するに、相手に分があるように思われる。持つ武器も、こちらの中古でガタガタの首刈り刀と比較して、より大きく分厚く重く、切れ味は鋭そうだ……

 

 イーガ団の基本戦術は、潜伏と奇襲である。その戦闘教義は徹底されている。団員は、幼年期にふいうちと奇襲の重要性を鞭の痛みと飴の甘さと共に教え込まれ、過酷な実戦を経てそれを骨肉に染み込ませているのだ。

 

 その点から言うと、今回バナーヌが置かれている状況は最低最悪であった。逃げ場はない。姿を晒してしまった。相手は大軍だ。なんとか切り抜けたと思ったら、自分よりも戦闘技量に優れるかもしれない女戦士と正面対決を強いられている。

 

 時間は掛けられない。ダラダラと斬り合いをしていれば、いずれ体格差によって圧倒されることは容易に想像できるし、なにより首刈り刀が保たないだろう……

 

 バナーヌは仕掛けることにした。鋭い身のこなしであっという間に間合いを詰めると、彼女は相手の首筋目がけて、必殺必中の気迫を込めて首刈り刀を振るった。

 

「ふんっ!」

 

 だが、それはあっけなく防がれた。バナーヌの耳を甲高い金属音が貫いた。さすがはゲルドの女戦士であった。その反応速度は異常なまでに高かった。広漠たる砂漠で日夜修練に励む彼女らは、優れた視覚と神経系統を有していた。

 

 今度は、チークが月光のナイフを袈裟がけに振るった。リザルフォスのように素早く、明確な殺意の込められた動きだった。

 

「はあっ!」

 

 短く声を発し、バナーヌはそれを受け止めた。

 

「しっ!」

 

 ガッシリと双方の刀がかち合った。バナーヌはチークの動きに完璧に対応できていた。だが、彼女の首刈り刀の細い刀身は、頼りなく大きくたわんでいた。

 

 彼女たちは、互いに弾かれたように距離を取り、すぐ猛然と詰め寄った。それからは激しい打ち合いとなった。裂帛(れっぱく)の気合いとともに怒号を上げ、骨まで断てよとばかりにチークは月光のナイフを振るった。対してバナーヌは、静かな闘志を全身に(たぎ)らせて、流れるように首刈り刀を振るった。

 

 そこで、女兵士たちの声が響いた。

 

「あっ、隊長!」

「おのれ、隊長が!」

「守れ! 隊長を守れ!」

 

 いつしか、女兵士たちが戻ってきていた。疾風のブーメランで遠くに飛ばされたために、武器を持っていない者が大半だったが、それでも女兵士たちは円陣を組んで、打ち合いを続けるチークとバナーヌを取り囲んだ。

 

「武器を持つ者は前へ出ろ! 持たぬ者はイーガ団の周りを固めろ!」

「隊長、お下がりください! あとは私達がやります!」

「イーガ団、今度こそ逃げ場はないぞ!」

 

 ギンッ、と鈍くひときわ大きい音を立てて、また二人は距離を取った。チークもバナーヌも、呼吸をまったく乱していなかった。

 

 突然、チークは意外なことを言い始めた。

 

「お前ら、手を出すな! こいつは私が倒す!」

 

 兵士たちは困惑した。怒りっぽいが冷静で、敵に対してきび砂糖の絞り汁一滴ほどの甘さを見せぬ隊長にしては、あまりに「らしくない」発言であった。兵士たちは口々に言った。

 

「いったい何を言ってんですか、隊長!」

「さっさと囲んで殺しましょうよ!」

「こいつはイーガ団ですよ!? 情け無用です!」

 

 チークは大きな声をあげた。

 

「えーい、黙れ黙れ! 命令だ! お前ら静まれ! 静まれ!」

 

 隊長の命令には絶対服従である。兵士たちは静まりかえった。

 

 チークは、バナーヌを不敵な笑みと共に見つめた。二人の間を一陣(いちじん)の風が砂塵ともに吹き抜けた。油断なく首刈り刀を構える対戦者に、チークは気負うことなく語りかけた。

 

「なかなか良い腕前じゃないか。イーガ団というのは、後ろからでないと人を斬れぬ臆病者ばかりだと思っていたが、ここまで私の剣に正面から打ち合える者がいるとは」

 

 バナーヌは何も答えなかった。だが、チークは気にせずに話し続けた。

 

「ゴロン三兄弟も言っていた。『一人を大勢で囲むのはケンカの流儀に反する』とな。いくらゲルドオオサソリのように卑怯卑劣で薄汚いイーガ団とは言っても、たしかに数にモノを言わせて勝つというのは、戦士としての誇りと体面に関わる。おいっ!」

 

 チークは一人の女兵士に声をかけた。女兵士は答えた。

 

「はっ!」

 

 日頃より共に鍛錬を積み、よく気脈を通じている部下は心得たもので、隊長の短い声から何を欲しているかをすぐに察して、腰に下げている月光のナイフを投げて寄越した。

 

 チークはそれを力強く受け取ると、鞘を振り払った。その右手に月光のナイフ、その左手にも月光のナイフがあった。

 

 兵士たちは歓声をあげた。

 

「おお、あれは!」

「あれこそは隊長必勝の構え!」

「古ゲルド剣法奥義、円月(えんげつ)二刀流!」

「本気だ! 隊長が本気になったぞ!」

 

 彼女たちはみんな、滅多に見られない隊長の本気の構えに興奮していた。

 

 左の刀を上段に、右の刀を下段に構えながら、チークは高らかに名乗りを上げた。

 

「我が名はチーク! ゲルドの戦士! 一族の誇りにかけて貴様を倒す! いざ尋常に勝負!」

 

 名乗るや否や、チークは爆発的な勢いで前方へ飛び出した。瞬く間に距離を詰めると、さながら幾日も砂漠を支配する、雷電を伴った大砂嵐のような勢いで、チークは二振りの月光のナイフをバナーヌへ振り下した。

 

「うおおおっ!!」

 

 目にも止まらぬ連撃であった。チークの円月二刀流は、生まれついての類稀な剣の才能を、血の滲む努力を幾年も重ねて磨き続けた結果習得されたものである。

 

 円月二刀流の始まりは古い。一書によると、それはかつて、ゲルド族が盗賊として生業(なりわい)を立てていた時代、迫り来るハイラルの大軍を少数で迎撃するために考案された剣法だという。二振りの刀は、一つを攻撃、一つを防御と割り当てるのではなく、双方ともにもっぱら攻撃に用い、対戦相手に反撃する(いとま)を与えず、短時間で圧倒圧殺することを目的とする。

 

 その威力は、まさに砂漠に吹く暴風だった。バナーヌは頼りない首刈り刀で必死に防ぎ続けるしかなかった。

 

 チークの戦意に満ちた声が響いた。

 

「どうした、どうした! その程度か! まだまだこれからだぞ!」

 

 チークは両手の刀を思い切りバナーヌへ叩きつけると、不意に後方へ跳んで間合いを作った。そして、左手の刀を前方へ、右手の刀を後方へ向け、あたかもブーメランのような形の構えを取った。

 

 女兵士たちが息を呑んだ。

 

「おお、出るぞ!」

「隊長の必殺技だ……!」

「しっ! 静かに……!」

 

 チークは刀を構えたまま前へ飛び出した。バナーヌは身構えた。一足一刀の間合いに入ろうとする寸前、チークは突如として体を(ひね)り始めた。しなやかで厚みのある豊かな筋肉が生み出す高速回転により、二振りの刀はあたかも円月(えんげつ)のように光り輝いた。

 

 それこそ、円月二刀流の真髄、回転斬りであった。チークはバナーヌに刀を振るった。

 

「どりゃあああっ!!」

 

 思わず、バナーヌの口から苦しげな声が漏れた。

 

「……チィッ!」

 

 圧倒的威力に抗しきれず、バナーヌは空中へ弾き飛ばされた。しかし彼女もまた、よく訓練されたイーガ団であった。

 

 斬られてはいない! 彼女は斬られていなかった。

 

 バナーヌは、間一髪で迫り来る(やいば)の片方を避け、片方を首刈り刀で受け止めていた。彼女は軽業師(かるわざし)もかくやという軽やかな身のこなしで、空中で独楽(こま)のように回転すると、音もなく着地した。

 

 だが、彼女が再度構えた首刈り刀は、真ん中から無惨(むざん)にも折れていた。

 

 勝ち誇ったように、チークが言った。

 

「勝負はついたな。さあ、首を差し出せ」

 

 チークは、勝利を得たと確信していた。強敵を打ち倒した感慨が彼女の全身を駆け巡っていた。なかなか粘り強いやつだった、必殺の回転斬りを受けて生きているとは思わなかったが、武器を破壊されてはもはや抵抗できまい……

 

 敵は、クルリと背を向けた。観念して首を打たせるようだった。チークは言った。

 

「殊勝なやつではないか。安心しろ、お前は優れた戦士だ。痛みは与えぬ」

 

 チークはつかつかと近寄った。敵は、やはりピクリとも動かなかった。イーガ団は生き汚く、卑劣で、ふいうちを得意とする。最後まで決して油断はしないが、容赦もしない。

 

「むんっ!」

 

 得難い強敵を失うという哀しみをどこかで感じながら、チークは月光のナイフを振り下ろし、白く細い首を斬り落とした。

 

 そのはずだった。

 

「なにっ!」

 

 確かに首を落としたと思ったその直後、予想だにしない硬い衝撃が、鈍い金属音とともにチークを襲った。これは、何か岩を斬りつけたような感触だ!

 

「ゴロぉ……」

 

 目の前のイーガ団はいつの間にか、ゴロン三兄弟の長兄バケットにすり替わっていた。硬いゴロンの頭にぶち当たった刃が、ねじり鉢巻を両断していた。

 

「これは!?」

 

 いかん、後ろだ! ハッとして後ろを振り向くチークの鳩尾(みぞおち)に、強烈な衝撃が走った。発射された大砲の砲弾のように彼女はぶっ飛び、ゴロン三兄弟の長兄バケットをついでに巻き込んで、長い距離を飛んだあと、激しく砂煙を上げながら地面に突っ込んだ。

 

 そこには、バナーヌがいた。長く優美で、しなやかな片足を、彼女は前に突き出していた。彼女はチークへ渾身の蹴りを放ったのだった。その首筋にはごく浅い切り傷があり、赤い血が滲んでいた。

 

 変わり身の術、それはイーガ団流戦闘術「オ・クノテ」の一つである。その術は本来ならば重装甲の敵に対して用い、変わり身には火薬樽を用いる。それはどれだけ修練を積んでも、才なき者は一生身につけることができない高等技術である。たとえ身につけたとしても、日々弛まぬ研鑽を重ねて技量を維持しなければ実戦で生かすことはできない。

 

 女兵士たちが悲鳴を上げた。

 

「隊長!」

 

 女兵士たちがチークへ駆け寄った。長兄バケットがチークの上にのしかかっていた。彼女たちは邪魔なゴロンを押しのけて、隊長が死んでいないか確かめた。死んではいない! だがチークは頭から星を出し、完全に気絶していた。

 

 女兵士たちの血管がブチ切れた。

 

「おのれ、よくも隊長を!」

「許さん!」

「殺せ、イーガ団をぶち殺せ!」

 

 怒り狂った女兵士たちが、バナーヌを取り囲んできた。折れた首刈り刀を、バナーヌは静かに構えた。そして彼女は、いつもと同じ冷静な声で言った。

 

「次は、だれだ」

 

 あえて挑発的なことを彼女は言った。なんとか隙を作らなければならなかった。

 

 答える声があった。

 

「次は、私だ」

 

 突如、バナーヌの背後に巨大な影が現れた。咄嗟に振り向いたバナーヌを、鋭い斬撃が襲った。彼女の仮面は真っ二つに縦に両断され、キツく巻かれていたさらしも断ち切られた。オルディンダチョウの卵のように白く大きな彼女の胸が、勢いよくまろび出た。

 

 バナーヌの新たな敵は、ビューラだった。ビューラは低い声で言った。

 

「ルージュ様が貴様をご所望だ」

 

 兵士たちが歓声を上げた。

 

「ビューラ様!」

 

 ビューラは言った。

 

「抵抗は無駄だ。一緒に来てもらうぞ」

 

 新たな強敵の出現に、バナーヌの胸が早鐘を打った。彼女はじっと、折れてしまった首刈り刀を見つめた。

 

 どうする? 武器はもう、どこにもない。




 任天堂さん、リンクさんにも大破絵実装して下さい!

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第十一話 デスパレートな女たち

 宝石と化粧品、恋と酒を好むゲルド族であるが、それは彼女らが奢侈(しゃし)惰弱(だじゃく)に流れやすいという意味では決してない。過酷な砂漠に生まれつき、日のあるうちは灼熱の風、月が昇れば荒涼の風にいとも軽やかに命を奪われる環境にあって、いかに儚い生を華やかに謳歌するかという(すべ)を、彼女たちはよく知っているだけなのだ。

 

 ゆえに、ゲルド族には戦士が多い。それも、優れた戦士が多い。あらゆる綺麗なもので身を飾り、見果てぬ恋を追い求め、冷たい美酒で喉を潤すことと同じく、彼女たちは身に横溢する生命力を発散する手段として、鍛錬と闘争を好むのである。

 

 詩情豊かなハイラル王国の騎士は、そんなゲルドの戦士を「可憐なる砂漠の花」と呼んだ。もっとも、言われた当人たちはそれを「耐え難き侮辱」と受け取り、怒ったものであった。

 

 そのような美々しく勇ましい女の園に、ビューラは生まれた。彼女は優れた戦士の素質を持っていた。彼女はカラカラコヨーテの幼獣のように可愛くひ弱な幼い頃より、その身に余る大剣を振り続け、珠玉のごとき才を飽くことなく磨き続けた。(ちょう)じて人並み優れた肉体を手に入れてからも、彼女はそれに甘んじることなく日々の鍛錬を欠かさなかった。

 

 いつしかゲルドの人々は、彼女のことを「ゲルドの至宝」と呼び、讃えるようになった。

 

「あんなに可愛かったビューラちゃんが、まさかこんなに屈強な戦士になるなんて」

「ヴォーイハントには行かないのかしら?」

「ビューラちゃん、族長様の盾になるっていつも言ってるのよ。ヴォーイには興味なんてないんじゃないかしら」

「まさか、ヴァーイズラヴ!?」

「しかも族長との身分違いのラヴ!? キャーッ!! ロマンスよロマンス!」

 

 雑音に耳を貸さず、ビューラは剣を振り続けた。より鋭く、より速く、より美しく! 若く一途な彼女の頭の中には、常に剣を磨くことだけがあった。

 

 ひときわ気温が高く、日差しが強かったある年のことであった。その年、モルドラジークが異常繁殖し、砂漠の各所で大量発生した。

 

 貪欲(どんよく)なる砂漠の支配者、ハイラル最大級の魔物、陸の巨鯨などと呼ばれるモルドラジークの生態について、詳しいことは分かっていない。砂漠の地下奥深くに産み付けられた卵が一万年をかけて温められて孵り、一万年をかけて成長し、そして一万年をかけて卵を産むのだと、古くからの伝承は言う。原因はともかく、その年はモルドラジークがあらゆる場所に蔓延った。

 

 それらは通常種よりやや小ぶりであったが、凶暴性と危険性はまったく変わりなかった。多数の隊商が襲われて物流が途絶し、ついにはカラカラバザールが孤立するという緊急事態となった。これを受けて、若き族長は決然として立ち、自ら兵士を率いてモルドラジーク討伐へ向かった。その軍勢に「ゲルドの至宝」ビューラが、きらびやかな両手剣を携えて従っていた。

 

 豊かな赤髪を軽く靡かせ、絶対の自信と共に晴れやかな笑顔を浮かべながら、若き族長はビューラへ力強く語った。

 

「私もお前も、その才を讃えられたことは数知れないが、その功績を認められたことは一度もない。此度(こたび)はかつてなき国難であるが、私達が歴史にその名を刻み、磨き上げた才がどれほどの功績を残せるのかを確かめる良い機会だ。ビューラよ、存分に働くが良い。私にゲルドの至宝の輝きを見せてくれ」

 

 この族長こそ、後にルージュを産むその人であった。

 

 作戦は順調だった。族長の着実な指揮のもと、モルドラジークの大群は徐々に追い詰められ、その数をじりじりと減らしていった。すべては順調そのものに思えた。だが、予期せぬことが予期せぬ時に起こるのが戦場というものである。

 

 作戦開始から一週間が経った日のことだった。季節外れの大砂嵐がゲルドの隊列を襲った。そして、そのタイミングに合わせたようにモルドラジークの大群が、さながらデスマウンテンの絶え間なき噴煙のように、黒い砂煙を上げて迫ってきた。

 

 戦場は、またたく間に混沌と狂乱の巷と化した。伝令が次々と急報をもたらした。

 

「視界がまったく得られず、接近を確認できません!」

「第二、第三分隊が消えました! 敵に呑み込まれた模様!」

「スナザラシがパニックを起こしました! 輜重隊(しちょうたい)を維持できません!」

 

 族長は的確に指示を出し続けた。

 

「目だけに頼るな、耳も使え! 聴音手を配置せよ!」

「隊列の間隔を広く取って攻撃を避けよ!」

「荷物は捨てよ! だが、火薬樽だけは放棄するな!」

 

 吹き荒ぶ砂の暴風に負けず、族長は声を枯らして指揮をとった。麾下(きか)の隊長たちと兵士たちは、ここを先途(せんど)と死力を振り絞って戦った。

 

 戦いが始まって、どれだけ経ったのだろうか。族長を守って奮戦していたビューラは、いつの間にか孤立していた。あたりにはモルドラジークの気配が五匹、すべてこちらを狙っていた。いわゆる、絶体絶命の状況であった。

 

 絶望と死の予感の次にビューラの胸中を満たしたのは、意外なことに、火のような闘争心と、今まで感じたことのない歓喜だった。彼女は笑っていた。

 

「は、はは。ははははっ!」

 

 彼女は、噛み付かれ弾き飛ばされ、全身が血塗れになりながらも、笑顔を浮かべてモルドラジークを屠り続けた。これまでいくら鍛えてもそれ以上速くならなかった剣は、いとも簡単にその壁を乗り越え、あたかも柔らかな木綿の布を断つように、モルドラジークの硬い表皮を切り裂いた。

 

 いつしか、砂嵐は晴れていた。大量のモルドラジークの残骸の中に、ビューラは放心したように佇立(ちょりつ)していた。

 

 あらゆる賞賛がビューラへ投げかけられた。

 

「おお、ビューラちゃん、生きてて良かった!」

「さすがはゲルドの至宝!」

「これだけのモルドラジークの肝と背びれ、ルピーに換算したらいったいどれほどの値が付くことか。でかしたな、ビューラ」

 

 それでも、ビューラが一番大切にしたのは、彼女自身がこの戦いで得た一つの「悟り」であった。

 

 確実な死を飛び越え、歓喜に満ちた新たな生を得るために、絶望の中で剣を振り続ける者、それこそが真の戦士である。そのことを彼女は悟った。

 

 若き族長は、笑顔を浮かべて死線を乗り越えたビューラが、以前とは比較にならないほど著しく成長したことに気づいた。そして族長は、主君と臣下という関係を超えた、一種の親愛の情を抱くようになった。子をなしてからもそれは変わらず、族長は愛しき娘を預けるに足る人物として、ビューラを信頼し続けた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ビューラは、目の前のイーガ団を見つめた。イーガ団はオルディンダチョウの卵のような白く大きな胸部を隠しもしなかった。そのしなやかな体は、もはや役に立たぬ折れた刀を持って油断なく身構えていた。断ち割られた仮面の下から現れた素顔は、無表情ながらも、夜空の冷たい月のような美しさを持っていた。澄んだサファイア色の瞳は、まだ闘志を失っていないようだった。

 

 ビューラは言った。

 

「抵抗は無駄だ。一緒に来てもらうぞ」

 

 イーガ団は、ちらりと折れた武器を見た。そして次に、ビューラへ静かな視線を向けた。その無表情に、本当に微かであるが、笑みが浮かんだように彼女には思われた。ビューラはまた言った。

 

「笑うか、イーガ団」

 

 ビューラは、かつての自分を重ね合わせていた。死地に陥ってなお、諦めぬ。この者にとって、今この時この場こそ、新たなる生へと跳躍する瞬間なのかもしれぬ。

 

 ならば、自分のやることは決まっている。ビューラは軽く頷いた。この者をこれ以上さらなる死地へと追いやらないこと、それが肝心だ。追い詰められれば追い詰められるほど実力を開花させる者には、蜜のように甘い言葉で、とろけるような安心感を与えてやれば良い。ビューラはよく選んで言葉を投げかけた。

 

「どうした、来ないのか。安心せよ、決して命を奪うようなことはしない。練達の戦士であるチークを倒した勇士として、お前は我らの街で然るべき歓待を受けるであろう。ツルギバナナ、だったか、それを山のように積んでお前に提供してやろうではないか」

 

 バナナと聞いて、イーガ団の表情に考えるような色がうっすらと見えた。だがそれは、厚い雲に遮られた太陽が一瞬だけ顔を覗かせてまた隠れてしまうように、またたく間に掻き消えてしまった。

 

 ビューラは言葉を続けた。聞き分けのない(かたく)なな子どもに説き聞かせるように、彼女は言った。

 

「もしや、捕虜となることを仲間に知られるのを恐れているのか。ならば、それについても心配はしないで良い。決して、お前の仲間に通報するようなことはしない。我々を除いて、お前が敗北し囚われたことを知る者は誰もいないのだ。安心して我々に身を委ねるが良い」

 

 やはりイーガ団は何も答えなかった。表情も変わらなかった。イーガ団は、じっとビューラを見つめるだけであった。決死の覚悟に身を強張らせている者には、言葉は届かないのか。ビューラは溜息をついた。

 

「どうしても来ないのか」

 

 ルージュ様は連れてこいとは(おお)せになられたが、五体満足で連れてこいとは命令されなかった。腕か足の一本でも奪えば、さすがに抵抗できまい。彼女はそう考えた。

 

「ならば、力づくだ」

 

 そうビューラが言った瞬間、イーガ団は動いた。イーガ団は腰のポーチへ手を伸ばすと、白いブーメランを素早く放り投げた。

 

 あっ、と女兵士たちが叫んだ。

 

「ビューラ様!」

「お気をつけください!」

「武器を手放さないよう!」

 

 放たれたブーメランは突風を纏って光り輝きながら、ビューラの周りを目まぐるしく飛び回った。巻き上がる砂塵で視界は遮られ、襲いかかる疾風は彼女の手から両手剣をもぎ取ろうとした。

 

「子ども騙しか」

 

 だが、ビューラはまったく動じなかった。北ゲルド巨石のように、彼女は(いわお)のごとく(げん)として揺るがなかった。鷹のように鋭い視線は、依然として敵を見据えたままだった。

 

 ブーメランを放った直後、イーガ団は間髪を入れずに次の行動へ移った。ゲルドの弓とはまったく異なる、独特な形をした弓に矢を(つが)え、次々とビューラへ放ってきた。番えられた矢は一本だったはずだが、なぜか二本が一度に飛来した。

 

「ふん」

 

 ビューラは、ハイリア人には身に余るほど長大で重厚な両手剣を、あたかも片手剣を振るうかのごとく軽やかに振り回して、顔面めがけて殺到する幾筋もの矢を撃ち落とした。一回、二回、三回、四回……

 

「む!」

 

 五回目の矢を払った直後、ビューラの懐を目掛けてイーガ団が飛び込んできた。優美なシルエットが走り、跳んだ。金髪のポニーテールが揺れ、白く大きな胸が揺れた。

 

 武器がないのだから、必然的にそれは徒手空拳であった。短い掛け声と共に連撃が放たれた。固く握られた拳による鋭い突きと、細く優美な脚からは想像できぬほどの重みを持った蹴りが連続した。

 

 無数の打撃に見舞われたビューラであったが、しかし、彼女はまったく(こた)えていなかった。

 

「こそばゆいわ!」

 

 ビューラの鍛え上げられた筋肉は、さながら鋼鉄のように硬く、若竹のようにしなやかで、イーガ団の渾身の連撃をすべて受け流した。彼女は、目障りなふさふさと揺れる金髪のポニーテールへ重い手刀を振り下ろすと、両手剣の幅広の腹で横あいから思い切り殴りつけた。

 

「むんっ!」

 

 イーガ団は叫び声をあげた。

 

「ぐはっ!」

 

 血反吐(ちへど)を吐いて、イーガ団はふっ飛ばされた。イーガ団は空中を数瞬飛翔したあと、ぐちゃりとバナナが潰れるような音を立てて地面に墜落した。

 

 周りを囲んでいる女兵士たちが口々に喝采をあげた。

 

「さすがは『ゲルドの至宝』ビューラ様!」

「イーガ団をまったく寄せ付けないわ!」

「身のほど知らずめ! 徒手空拳でビューラ様に(かな)うわけないのよ!」

 

 イーガ団は落ちた直後、すぐに体勢を立て直した。

 

「ぐっ……む……」

 

 だが、その口からは血が垂れていた。血が白い胸を鮮やかに赤く染めた。サファイア色の瞳は光を失ってぼんやりと弱々しかった。イーガ団は荒々しい呼吸をして、片膝をついていた。

 

 ビューラは感心して、声を発した。

 

「ほう、まだ意識があるか」

 

 たしかに意識を刈り取るつもりで殴ったのだが……これほどの戦士はなかなか見つかるものではない。彼女はそう思った。チークが(おく)れを取ったのも分かる。優れた戦士を見ると興奮しすぎるのはやつの悪い癖だが、私もルージュ様のご命令がなければ戦いを楽しんでしまったかもしれない……

 

 圧倒的強者の風格を伴って、ビューラはイーガ団のもとへ歩いていった。イーガ団は意識がはっきりしないようだった。イーガ団は近づいてくる影に何も反応を示さなかった。

 

 ビューラは言った。

 

「お前は実によく戦った。だが、ここまでだ」

 

 午後の日差しを受けて、両手剣にあしらわれた宝石が色とりどりの輝きを放った。特にどうという感慨もなく、ビューラはその両手剣を振り上げた。頭蓋を砕かないように、だが今度こそ意識を確実に奪うように。磨き上げられた技術によって、巧みに力を調整された大剣が振り下ろされた。

 

 イーガ団の頭部へ、光り輝く無慈悲な鉄塊が迫った。

 

 そこで、金属音が響いた。その直後、男の声がした。

 

「いや、ここまでではないさ」

 

 低く、深みのある声だった。何者かが、細く長い片刃の刀で、両手剣を受け止めていた。

 

 

☆☆☆

 

 

「なんとか、間に合ったな」

 

 ビューラとイーガ団の間に割り込んだその人物は、筋肉質で、肩幅の広い体格をしていた。椰子の木のような一本の黒い髷と、臙脂色(えんじいろ)の頭巾と臙脂色の忍び装束、そして涙目の逆さ紋様を刻んだ白い仮面は、その人物が紛れもなくイーガ団員であることを示していた。

 

 意外な展開に女兵士たちは騒いだ。

 

「なっ!? イーガ団!?」

新手(あらて)だ! 新手のイーガ団だ!」

 

 対してビューラは、特段の動揺を見せなかった。両手剣へ込める力を些かも緩めることなく、彼女は目の前の闖入者(ちんにゅうしゃ)へ言葉を投げかけた。

 

「救援か」

 

 新手のイーガ団は答えた。

 

「そうだ」

 

 イーガ団は刀を素早く振ってビューラの両手剣を跳ね除けると、蹴りを放って無理やり間合いを作った。男は仲間の金髪のイーガ団を庇うように、長く繊細な作りの刀を下段に構えた。

 

 ビューラは言った。

 

「たった一人で救援か」

 

 イーガ団は答えた。

 

「そうだ」

 

 その返答を嘲笑うように、ビューラはまた言った。

 

「無謀だな」

 

 どこか不敵な口調でイーガ団は答えた。

 

「そうでもない。ゲルドの至宝、お前さえ倒せばあとはどうとでもなるさ」

 

 ビューラは少し意外そうな顔をした。

 

「ほう、大した自信だ。できるのか」

 

 男は短く答えた。

 

「できるさ」

 

 そう言うと男は、刀を鞘へと戻した。その左手は刀の鯉口(こいくち)に、その右手は泳がせるように腹の前へ。男は体を低くし、独特の構えを取った。

 

 居合いか。ビューラは相手の意図をすぐに悟った。ゲルド族の剣法にはない、一種の抜刀術と聞く。鞘の中で刀身を滑らせることで神速の斬撃を生み出し、その威力は分厚い鋼鉄の鎧兜すら切り裂くという。

 

 ビューラとイーガ団は、痛いほどの緊張感を伴って対峙していた。固唾を飲んで、取り巻きの兵士たちがそれを見守っていた。白い肌を鮮血で染めた、上半身裸の金髪のイーガ団は、いまだ上の空といった感じだった。

 

 乾いた風がその場を吹き抜けた。

 

 勝負は、一瞬。

 

 突然、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。女の子の悲鳴だった。

 

「ぴぎゃーー!!」

 

 声を聞いて、ビューラは明らかに狼狽した。

 

「ルージュ様!?」

 

 次の瞬間、風を斬るような鮮烈な斬撃が、ビューラの両手剣を薄氷を割るように真っ二つに両断していた。




 次回、ゲルドキャニオン編完結!(たぶんやでー)
※サブタイトルを、「死にもの狂い」から「デスパレートな女たち」に変更しました(2018/02/04 23:27)
※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第十二話 目覚め

 おかしい、なかなか帰ってこない。ふと、ルージュは不安な気持ちを抱いた。

 

 ビューラにイーガ団を捕まえるように命じたが、生真面目な彼女のことだ、隊長チークに命令を伝えたあとは、すぐに馬車へ戻ってきて自分の側に居てくれるはず。ルージュはそう思っていた。

 

 それが、なかなか帰ってこない。兵士たちが代わりに護衛にくるのかとも思ったが、それもこない。窓を開けて様子を窺いたいが、ビューラと約束した手前、それもできない……

 

 いくら早熟で気丈夫であっても、未だルージュは幼かった。やっぱり一人は寂しいし、心細い。ましてや、この族長専用車がいくら頑丈でその防御は鉄壁であるとしても、敵が近くにいる状況で孤独に待つというのは、(だい)の大人でさえ神経をすり減らすものである。

 

 ルージュは、一般的な子どもと同じく、無力であった。彼女は独力で身を守る術を持たなかった。ゲルド族は、たとえ貴人であっても自ら戦う。彼女の母である現族長は槍の使い手で、その技量の高さは幼少期より有名であった。およそ百年前のゲルドの英傑ウルボザは、演舞のような鮮烈華麗な剣術と、雷電の力を自由自在に操る強大な魔法力で敵を寄せ付けなかったという。

 

 だが、ルージュはまだなんの力も持たなかった。もちろん彼女は剣や槍、弓矢を手に取ったことがあるし、その時は「なかなか(すじ)が良い」と指南役から褒められた。魔法の力も、母からは「自分を凌駕する才能の片鱗がある」と彼女は言われていた。だが、いずれも、身を守り敵を倒すなどということは思いもよらぬものであった。

 

 ぬいぐるみを抱きしめながら、ルージュの頭脳はとめどなき妄想を始めてしまった。

 

「もしや、わらわの想像もしていない事態が起こっているのでは……?」

 

 毎晩の母の本の読み聞かせによって鍛えられたルージュの想像力は様々な怪物を生み出し、弛まぬ努力によって日々蓄えられた様々な知識がそれに迫真のリアリティを与えた。

 

 ルージュは、妄想した。追い詰められたイーガ団が不思議な(いん)を結び、ボンッという爆発音と怪しげな紫色の煙と共に、巨大な魔物へと姿を変える。まず変身したのは、毛むくじゃらの醜悪な黒い蜘蛛だ。その単眼から極太の白い怪光線を放って、蜘蛛は屈強な女兵士たちの隊列をなぎ倒す。次に、イーガ団は赤い背びれを生やした黄金色の巨大なトカゲに変身して、鉄をも溶かす火炎を撒き散らして、勇敢なるチークを火だるまにする。最後に敵は、円筒状のブヨブヨとした半透明の怪物へと姿を変え、ビューラを一呑みにすると、武器ごと胃液で溶かしてしまう。ゲルドの精鋭を全滅させたイーガ団は、首をポキポキと鳴らして、満足げに辺りを見回すと、舌なめずりをして金色の馬車に迫る。中にはピンク色のスナザラシのぬいぐるみを抱いた少女がいる。少女はそわそわと皆の帰りを待っている。イーガ団は忍び足で近づいて、タラップに足を掛けて……

 

 ルージュの妄想がいよいよクライマックスに達したその時、馬車が大きく揺れた。

 

 妄想の世界から現実へと意識を引き戻されたルージュは、短く悲鳴を上げた。

 

「ぴっ!?」

 

 彼女の心臓がドキドキと音を立てていた。まさか、本当にイーガ団なのでは……? いや、そんなはずはない。きっとビューラが戻ってきてくれたのだ。彼女は声をかけた。

 

「ビューラか?」

 

 返事はなかった。だが、何かの気配がする。何かがそこに、扉の向こう側に確実にいる!

 

「ビューラよ、なぜ返事をせぬ。早く入ってこい!」

 

 不安と焦燥から、ルージュは、彼女としては滅多にないことだが、声を(あら)らげた。

 

「ビューラ! 返事をせよ!」

 

 突然、分厚い窓ガラスが割れた。

 

「ブヒィイイイッ!!」

 

 ガラスの破片を撒き散らし、耐え難い悪臭を放ちながら、何かが狭い窓枠に頭を突っ込んで(わめ)き叫んでいた。

 

「ブヒィイイイッ!!」

 

 フゴフゴと鳴る豚のような鼻、バタバタと動く豚のような耳、貪婪(どんらん)に輝く赤い目、そして、三本の角……白銀色のそいつは、汚いよだれを撒き散らして、遮二無二車内に体を突っ込もうとしていた。

 

 ルージュは、声を限りに絶叫した。

 

「ぴぎゃーー!!」

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌの意識は、朦朧としていた。彼女の視界はグラグラと揺れていた。キーンという甲高い耳鳴りが彼女を襲っていた。口に溢れる血液の鉄臭さと、脇腹を走る疼痛(とうつう)が、彼女の意識をなんとかこの世界に留めていた。

 

 状況を打開するために、さっさと思考を走らせなければならない。しかし、バナーヌの頭脳はどうしようもなくぼんやりとしていた。疾風のブーメランが効かない。矢も落とされた。殴っても蹴っても手応えがまったくない。二刀流の戦士はつけ入る隙がまだあったが、今度の敵は、まったく手に負えない。頭と脇腹に一発ずつ良いものを貰ってしまった。空を飛んだ。何かが、口の中を満たしている。これは、血の味だ……

 

 そんなバナーヌの目の前に、いつの間に現れたのか、誰かがいた。大きな背中だった。彼女には、それがとても頼もしく感じられた。その誰かは自分を守るように長い刀を構えていて、ゲルドの戦士と対峙していた。何か二人で言葉を交わしているようだが、その内容はよく分からなかった。

 

 突然、女の子の悲鳴が響いた。ゲルドの戦士があからさまに動揺した次の瞬間、その分厚く大きい両手剣を、目の前の誰かが真っ二つに叩き折った。

 

 それからの一連の出来事はバナーヌにとって、あたかもゲルド高地の大雪崩のように、あっという間に起こった。

 

「ルージュ様!?」

 

 両手剣を失った戦士は蹴りを放って対戦者を振り払うと、向こうへ全速力で駆けていった。

 

 兵士たちが叫んだ。

 

「今の声は、ルージュ様!?」

「しまった!」

「急げ! 急げみんな! 走れ、走れ!!」

 

 周りの女兵士たちも一斉に駆け出した。

 

 誰かがバナーヌのもとへやって来て、肩を抱き、何かを語りかけてきた。

 

「バナーヌ! バナーヌ! しっかりしろ! 早くこの場を離れるんだ!」

 

 ドゥランだったのか。バナーヌはありがたいと思った。剣鬼のドゥランでなければ、きっとあの女戦士の相手はできなかっただろう。バナーヌは声を漏らした。

 

「……ドゥラン、ありがとう」

 

 ドゥランは気づかわしげな声をかけてきた。

 

「立てるか? 肩を貸す。さっさと立つんだ」

 

 だが、どうしても彼女の体には力が入らなかった。肋骨が折れているのだろうか? バナーヌはドゥランにだらしなくもたれ掛かるしかなかった。

 

 その時、兵士たちの絶叫が聞こえてきた。

 

「魔物だぁ!」

「魔物が馬車にいるぞっ!」

「ルージュ様を守れっ!」

 

 けたたましい馬の(いなな)きが響いた。魔物の金切り声がした。砂煙を立てて、轟音と共に四頭の白馬と、それに()かれた大きな金色の馬車が迫ってきた。馬車が人影を跳ね飛ばした。バナーヌもあと数秒で轢かれてしまう。

 

 轢かれる寸前、ドゥランがバナーヌを抱えて()んだ。

 

「危ないっ!」

 

 二人は間一髪のところで回避することに成功した。しかし、人一人を抱えた大ジャンプは無謀だった。彼らは着地に失敗し、ゴロゴロと地面を転がった。ドゥランとバナーヌは離れてしまった。

 

 倒れていたゴロン三兄弟が、もののついでといわんばかりに馬車に弾き飛ばされた。三兄弟は無念の叫びをあげた。

 

「ゴロぉおおおっ!?」

「ぐべらっ!?」

「ボクたち、これで退場ゴロ……」

 

 バナーヌたちを轢き損ねた馬車は、ほとんど横転しそうなほどに傾きながら旋回した。

 

 ドゥランが叫んだ。

 

「また突っ込んでくるぞ! バナーヌ、()けろ!」

 

 勢いを増して、馬車は再度バナーヌのほうへ突っ込んできた。歯を剥き出しにした、血走った目の白馬たちが彼女には見えた。鞭を手当たり次第に振り回し、殺意に赤い目を光らせる、馭者(ぎょしゃ)台に立つ白銀の魔物も彼女には見えた。

 

 またドゥランの声が聞こえた。

 

「バナーヌ、なにをしている!?」

 

 バナーヌの体は、自然と動いていた。彼女は幽霊のように立ち上がっていた。なぜ、そうしたのかは彼女自身でも分からなかった。どこにそんな力が残っていたのかも彼女には分からなかった。

 

 だが、彼女を突き動かす一つの意志は、確固とした形を保ったまま精神に残留していた。

 

 彼女は、呟くように言った。

 

「……行かなければ」

 

 決して、組織への忠誠心ゆえではない。任務への情熱でもない。ただ、生存本能にも似た、先へ行かなければという意志だけが彼女の中にあった。

 

 それが、彼女の萎えてしまった筋肉を無理やり動かした。そのしなやかな両脚に力が入った。軽やかに跳躍すると、バナーヌは暴走する馬車の馭者(ぎょしゃ)台に難なく取り付いた。

 

 魔物が驚きの声をあげた。

 

「ブヒィイイイッ!?」

 

 バナーヌの隣には、白銀色のボコブリンがいた。魔物は鞭で滅茶苦茶に馬を殴りつけていた。

 

 バナーヌはその顔面へ、ほぼ反射的に正拳突きを放った。拳が魔物の顔にめり込んだ。

 

 

☆☆☆

 

 

「ぴぎゃーー!!」

「ルージュ様!?」

 

 しまった! ビューラの心中を駆け巡ったのは、嵐のような後悔だった。そして次の瞬間には、その手に持っている両手剣を新手のイーガ団に破壊されていた。

 

 だが、砂漠の至宝たるビューラは、肉体と同じく精神をコントロールする能力にも長けていた。優れた戦士といえども、感情に全身を支配されてしまうことはある。重要なのは、その支配からいち早く脱することだ。

 

 彼女の後悔は半秒だけだった。ビューラは目前のイーガ団へ蹴りを放つと、躊躇することなく背を向けて、大地を砕かんばかりに地面を力一杯蹴ってルージュの馬車へ駆けた。

 

 魔物が盛んに(わめ)いていた。

 

「ブヒッ、ブヒヒッ! ブヒィイイ!!」

 

 馬車の馭者(ぎょしゃ)台には、三本角の白銀ボコブリンがいた。その手には鞭を持っていた。馬たちは魔物の放つ異様な臭気と、身の毛もよだつような怨念にあてられて、ヒンヒンと悲鳴を上げていた。

 

 ビューラは瞬時に状況を観察した。窓ガラスは割れているが、扉は開かれていなかった。

 

 無事であってくれという切実な思いを込めて、ビューラは主の名を叫んだ。

 

「ルージュ様、ルージュ様!」

 

 怯えた声が馬車の中から聞こえた。

 

「ビューラ!? 助けて、魔物が!!」

 

 ギリギリだが、なんとかご無事のようだ! ビューラがホッとしたのもつかの間だった。魔物が声をあげた。

 

「ブヒ!」

 

 ビューラと白銀ボコブリンの目が合った。魔物は、ニヤリと笑った。ピシッと鞭を馬に当てると、魔物は馬車を急発進させた。馬車は、周りを守って取り囲んでいた護衛の四輪馬車や二輪の小型戦車に衝突し、跳ね飛ばし、バリバリと音を立てて踏み潰した。

 

 暴走が始まった。金色の巨大な馬車が猛スピードでビューラへ迫った。

 

「チィッ!!」

 

 彼女は素早い身のこなしで脇へ跳び、ギリギリのところで暴走馬車を回避した。

 

 だが、ビューラの後から追いかけて来た女兵士たちはそうはいかなかった。まさか馬車が突っ込んでくるとは彼女たちは思わなかった。

 

「きゃああああ!」

「ぐわぁっ!」

「うわあああああ!」

 

 咄嗟に避けることができなかった女兵士たちは、あるいは跳ね飛ばされ、あるいは轢かれた。その光景を見たビューラは毒づいた。

 

「畜生!」

 

 あの白銀ボコブリンは、間違いなく例の「三本角」だ。ビューラはそう思った。つい最近、ランジェたちが確かに討伐したはずだが。なぜ生きているのかは分からないが、やつは明らかに人間に強い敵意を抱いている。明確な復讐心を抱いている!

 

 グズグズしてはいられない。ビューラは、無事だった戦車に目をつけると、手近な女兵士へと声を掛けた。

 

「追いかけるぞ、コーム! お前が操縦しろ!」

 

 女兵士コームは元気良く答えた。

 

「はいっ!」

 

 ビューラは身を躍らせて戦車に乗り込んだ。操縦台に立つ女兵士コームが鞭を振るった。馬が嘶いた。熟練の手綱捌きのもと、戦車はガラガラと轟音を立てて暴走馬車を猛然と追いかけ始めた。

 

 ビューラの視線の先で、馬車がゴロン三兄弟を弾き飛ばした。

 

「ゴロぉおおおっ!?」

「ぐべらっ!?」

「ボクたち、これで退場ゴロ……」

 

 馬車は勢いを弱めることなく、次の目標を二人のイーガ団に定めて突進した。新手のイーガ団の方は避けたが、半裸の女イーガ団はユラリと立ち上がったあとはピクリとも動かず、ぼんやりと迫る馬車を見ていた。このまま轢き殺されるのか?

 

 次に起こったことを目にして、ビューラは思わず声を漏らした。

 

「なにっ!?」

 

 女のイーガ団は、華麗な跳躍で馬車に飛び乗った。そして間髪を入れず、ボコブリンへ向かって正拳突きを放った。

 

 突然、顔面に衝撃を受けて、魔物の滅茶苦茶な操縦がさらに乱れた。馬車はグルリと進路を変えると、今度は南へと道を進み始めた。

 

 馬車は猛烈な速度で砂煙を巻き上げて驀進(ばくしん)した。四頭の白馬は死にもの狂いで、合計十六本の脚を跳ぶように動かし続けた。それをビューラの小型戦車は懸命に追いかけた。

 

 戦車は徐々に馬車との距離を詰め、ついに並走するところまで追いついた。

 

 三本角とイーガ団は、激しく揺れる狭い馭者(ぎょしゃ)台の上で殴り合いをしていた。大ぶりのボコブリンの引っ掻き攻撃は全てかわされ、逆にイーガ団の拳はすべて白銀の体へ的確に叩き込まれているが、まったく効果がないようだった。

 

 飛び移ったイーガ団の意図は分からなかった。だが、これは好機だ。ビューラはあらん限りの声で馬車のキャビンへ呼びかけた。

 

「ルージュ様! ルージュ様!」

 

 答える声があった。

 

「ビューラ!」

 

 ルージュが窓から顔を覗かせた。ルージュの表情は青褪め、大きな目は不安げにビューラを見つめていた。その両腕は潰さんばかりにぬいぐるみを抱き締めていた。

 

 主の姿を見て、ビューラの胸は張り裂けそうだった。彼女は叫んだ。

 

「遅くなりました、今、お助けいたします! おい、コーム! もう少しだけ寄せろ!」

 

 コームは訊き返した。

 

「えっ、なんですって!? 寄せるって、どういうことですか!?」

 

 ビューラは言った。

 

「先に敵を排除する! 馬車にもっと寄せろ! そうでないと敵を討てない!」

 

 得心がいったコームは答えた。

 

「了解!」

 

 馬一頭分の距離をあけて、馬車と戦車は並走していた。ビューラは戦車に積まれていたゲルドの弓を手に取り、構えた。激しく振動する戦車の上から、同じように激しく揺れる馬車へと、彼女は正確に狙いをつけた。

 

 必中の信念と共に、ビューラは矢を放った。ビュンっと弦が鳴った。彼女は、こちらに背を向けているイーガ団から先に撃ち落とすつもりだった。しかし矢はその肩を掠めて、白銀ボコブリンの(ひたい)に命中した。魔物が鳴き声をあげた。

 

「ブヒィイイイッ!!」

 

 ビューラは呪いの言葉を吐いた。

 

「サヴォーテン! 畜生めっ!」

 

 放たれた矢は魔物の頭蓋を貫通しなかった。矢は真ん中の折れた角に当たって、その勢いを殺されたのだった。

 

 矢を受けて怒り狂ったボコブリンは、鞭を取り上げると滅茶苦茶に振り回した。鞭が馬に当たった。馬の皮が裂け肉が弾け飛び、真っ赤な血が噴出した。馬は激痛に狂い嘶き、身を(よじ)らせた。

 

 仲間のあまりの痛がりように、他の三頭は動揺した。その動揺は馬車全体に伝わり、唐突にその進路を右方向へと転じさせた。そこには並走している戦車がいた。

 

 突如として巨大な馬車が眼前に迫り、ビューラは声をあげた。

 

「何っ!」

 

 コームも咄嗟に声を発した。

 

「危ない!」

 

 戦車を操るコームは咄嗟に避けようとしたが、戦車はあまり操縦性の良い乗り物ではなかった。避けきれず、戦車は馬車の右側面にけたたましい音を立てて、浅い角度で衝突した。

 

 嫌な音を立てて、戦車の左輪が脱輪した。コームが悲鳴を上げた。

 

「きゃあああっ!!」

 

 ビューラも無念の雄叫びを上げた。

 

「ぐぉおおっ!!」

 

 片方の車輪を失った戦車はもんどり打って横転した。ビューラとコームは車体から投げ出され、宙を舞った。

 

 

☆☆☆

 

 

「ビューラ! コーム!」

 

 悲痛の念がルージュの胸を貫いた。助けようと追いかけて来てくれた戦車が無惨に横転し、みるみるうちに遠ざかっていった。

 

 ルージュの目から涙がこぼれそうになった。ここまで、あっという間の出来事だった。目の前で()ね飛ばされていく女兵士たち、何かを轢いた時のガクンとした揺れ、笑い声に似た魔物の咆哮、哀れな馬たちの悲鳴……

 

 すまない、兵士たちよ! すまない、ビューラよ! わらわのせいで取り返しのつかないことになってしまった! すべてわらわの責任だ! 強い後悔と深い絶望がルージュの心を満たしていた。彼女は声をあげて泣いた。

 

 だが、彼女の嘆きが頂点に達しようとした、その時であった。ルージュの柔らかで優しい精神が、突如として確かな変容をきたした。砂糖菓子のように脆く甘い心の外殻が、強すぎる衝撃で粉々に砕けたと思われたその次の瞬間には、真昼の太陽のように赤く光る熱い内核が姿を現していた。

 

 それは、強い怒りだった。

 

 それは、ビューラやチークや兵士たち、大切な人たちを踏み躙る、理不尽な暴力への怒りだった。それは、愛する母を奪い去ろうとする運命への怒りだった。いやそれはむしろ、自分の心を傷つけた憎き敵どもへの、純粋なる強い怒りだった。

 

 生れて初めて、ルージュは怒っていた。

 

「おのれ……!」

 

 ルージュは馭者台を見た。小さい窓からは、三本角の白銀ボコブリンと、大きな胸を曝け出した金髪の女が、激しい殴り合いを続けていた。

 

 ルージュの口から、低い声が漏れた。

 

「お前たちの……お前たちのせいで……」

 

 溶岩の奔流のような膨大な熱量が、ルージュの体の深奥で生み出された。熱は魔力を生み、魔力は新緑色の雷電となった。バチバチと音を立てて、小さな彼女の体が帯電した。電気でソファーが焦げ、独特の臭いを発した。

 

 右手を上げると、ルージュは人差し指を馭者台へ向けた。

 

 抑えられぬ強い怒りのままに、ルージュは緑の雷電を放った。彼女は叫んだ。

 

「思い知れぇっ!!」

 

 

☆☆☆

 

 

 突如として馬車の中から放たれた激しい電流は、御者台の白銀ボコブリンとバナーヌを飲み込んだ。

 

 その余波は、狂奔する四頭の白馬たちにも及んだ。馬たちは電撃でその身を硬直させると、一斉に転倒した。

 

 巨大な馬車は、砂塵を巻き上げて横転した。

 

 

☆☆☆

 

 

 これは、なんだ。

 

 バナーヌは宙を舞っていた。彼女の全身が痺れていた。元から朦朧としていた彼女の意識は、さらに希薄なものとなっていった。

 

 砂漠のリザルフォスやエレキースのものとは比べ物にならないほどの、力強くて清らかな電撃だった。それに刺激されて、バナーヌの脳内のスクリーンに、ある光景が映し出された。

 

 奇妙なほどに懐かしいが、しかし見覚えのない光景だと、彼女には感じられた。

 

 一人の少年が、いや少年にさえまだ届かない、小さな小さな男の子が、リンゴのように赤い頬をして、ふうふうと(つら)そうな呼吸をしながら、大きな寝台に横たわっていた。その両目はピッタリと閉じられていた。

 

 少年を励ます、誰かの声がした。

 

「頑張って……良い子だから……きっと大丈夫……あなたは強い子……」

 

 優しい声だった。それに励まされたのか、男の子はうっすらと目を開けると、こちらを見つめてにっこりと笑った。

 

「目が覚めたのね。本当に良かった……」

 

 男の子の頭へ、手が伸びた。手は、柔らかな蜂蜜色の髪をかき混ぜるように、しかし愛しげに男の子の頭を撫でた。また声がした。

 

「お腹減った?」

 

 男の子は頷いた。

 

「バナナの果実煮込み、食べる?」

 

 男の子は首を左右に振った。

 

「じゃあ、あげバナナ食べる?」

 

 男の子は首を左右に振った。

 

 その光景を見ているバナーヌは、(いきどお)った。この子ども、せっかくのバナナを拒否するのか。私だったら口に無理やりねじ込んででもバナナの美味さを思い知らせてやるのだが……

 

 女性の優しい笑い声が聞こえた。

 

「もう! バナナを食べなきゃ元気にならないでしょ、ふふふ……」

 

 突然、その光景は、ぐにゃりと溶けた飴細工のように湾曲した。光景の輪郭はぐにゃぐにゃとだらしなく変形し、グルグルと勢いをつけて回転し始めた。そして、いつの間にか現れた暗闇の中へ、光景は次第に呑み込まれていった。

 

「うぇ」

 

 バナーヌの意識は、チカチカと明と暗の世界を行き来していた。彼女はあまり良い気分ではなかった。彼女は頭痛がしたし、吐き気もした。

 

 気づいた時には、バナーヌは乾いた地面に座り込んでいた。いつ抜いたのか、その右手には折れた首刈り刀が握られていた。

 

 彼女の目の前には、金色の馬車が横転していた。白馬たちが泡を吹いて白目を剥いていた。

 

「ブ、ブヒ……」

 

 そして、左足を引き摺りながら、じりじりと歩みを進める白銀ボコブリンがいた。その歩く先には、赤い髪をした褐色の肌の女の子が、仰向けに倒れていた。

 

 なぜか、バナーヌの中で、その女の子と寝台のあの男の子のイメージが重なった。

 

 守らねばならない。バナーヌは立ち上がった。

 

 バナーヌは魔物の背後へ近づくと、その頭頂部へ折れた刀を力一杯振り下ろした。

 

 

☆☆☆

 

 

「ルージュ様、ルージュ様! どうか、どうか目をお覚ましください、ルージュ様、どうか……」

 

 泣き出しそうな声を聞いて、ルージュの意識は覚醒へと導かれた。彼女が目を開けると、そこにはビューラの顔があった。今まで見たこともないほどに不安そうな表情をビューラは浮かべていた。

 

 僅かな光にも眩しげに大きな目を瞬かせて、弱々しくルージュは答えた。

 

「ビューラ……」

 

 主の声を聞いた瞬間、ビューラは男泣きに、いや女泣きに泣いた。彼女は無様に泣き崩れた。

 

「おお、おお……ルージュ様、ルージュ様……」

 

 ルージュは優しく言った。

 

「どうしたビューラ、なぜ泣くのだ。ゲルドの至宝たるお前が泣くなど……」

 

 ビューラは泣き続けた。

 

「お許しください……どうか、お許しください……」

 

 しばらく、室内にはビューラの嗚咽だけが聞こえていた。ルージュは、その頭を優しく撫でてやった。やがて、彼女は言った。

 

「さて、泣くのはもう良いだろう、ビューラ。これまでのことを報告してくれ」

 

 ビューラは答えた。

 

「はっ!」

 

 ビューラは語り始めた。ここはゲルドキャニオン馬宿であること。戦車が横転したあと、すぐに馬車を追いかけたこと。眩い閃光が見えたこと。大急ぎで駆けつけると、黒ずんで風化しつつある魔物の死骸があり、その(そば)でルージュが気を失って倒れていたこと。大急ぎでルージュを馬宿へ運び込んで半日が経過したこと……

 

 そこまで聞いてから、ルージュははっと気が付いて、慌てたように言った。

 

「いや、わらわのことなどどうでも良いのだ。皆はどうなった? 怪我人は? チークはどうした? まさか、死者が出たのではあるまいな……?」

 

 胸を締め付けるような想像に、ルージュは顔を歪ませた。

 

 ビューラは答えた。

 

「ご安心ください、ルージュ様。奇跡的に誰も死にませんでした」

 

 チークはイーガ団に不意をつかれて気絶させられたが、ほどなくして意識を取り戻したという。暴走した馬車に轢かれた者は九名で、いずれも重傷だった。そのうち三名は数カ月間寝台の上での生活を余儀なくされるであろうが、命に別状はないという。

 

 ルージュは言った。

 

「コームはどうなった。お前の戦車を操縦していたコームは?」

 

 ビューラは目を伏せた。

 

「右足を折りました。後遺症が残るかもしれません」

 

 コームはスナザラシラリーの名手だった。だが、足を折ってしまっては現役引退となるかもしれない。惜しいことをした、とルージュは嘆息した。

 

 ビューラは続けて、重傷者以外にもほとんどの者が軽い傷を負ったが、誰も休むことなくみなルージュの回復を願って祈り続けている、と言った。

 

 ルージュは身を起こそうとした。

 

「それでは早速起きて『ルージュ健在なり』ということを皆に知らせてやらねば……」

 

 ビューラはそれを抑えた。

 

「なりませぬ! まだお目覚めになられたばかり、どうかそのままでお休みになられますよう」

 

 訊くべきことはまだ残っていた。それはイーガ団のことだった。ルージュは強いて自分を寝かせようとするビューラに尋ねた。

 

「イーガ団はどうした。捕らえたか」

 

 ビューラは苦渋に満ちた声で答えた。

 

「申し訳ございません。逃しました」

 

 一度は追い詰めたが、救援が出現した。その新手は見事な剣の使い手で、ビューラの両手剣を叩き折った。馬車に飛び乗った女のイーガ団の行方も掴めないという。

 

 ルージュは小さく嘆息した。

 

「手がかりを失ったか」

 

 ビューラは答えた。

 

「申し訳ございませぬ。このうえは……」

 

 ルージュはビューラの言葉が終わるのを待たずに言った。

 

「良い。イーガ団は逃げおおせ、その一方で我らは多くの勇士が傷ついた。此度(こたび)は我らの敗けだ。だが、百戦して百勝を得るなど、そのような傲慢を運命が許すものではない。むしろ、皆の命が一つとして失われなかったことを喜ぶべきであろう」

 

 ビューラは頭をさげた。

 

「はっ!」

 

 それに、何も成果がなかったわけではない。ルージュは右手の指先を見つめた。

 

 あの時のあの一撃、体を駆け巡る新たな力の奔流、目にも鮮やかな雷電の輝き……

 

 確かに自分は、この旅で成長したのだと思う。

 

「母様も、喜んで下さるだろうか」

 

 そう呟くルージュの顔は、窓から優しく射し込む月光に照らされて、美しく輝いていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そこはゲルドキャニオンの崖上のどこかだった。日は既に地平線へと没していた。冷たい月が淡い光線を放っていた。

 

 バナーヌは、胸のさらしをキツく巻き直した。

 

「これでよし」

 

 気合を入れるように、彼女はパンッと胸を軽く叩いた。両手剣で殴られた脇腹には携行していた薬を塗り、さらしをキツく巻いておいた。頭には大きなタンコブができているが、たぶん一晩も経てば小さくなるだろう。

 

 彼女は忍びスーツを身につけた。仮面は真っ二つにされて、もはや役に立たなかった。彼女は紺色の手拭いで覆面をした。ないよりはマシだろう。手拭いには白いバナナの模様が染められていた。

 

 彼女は呟いた。

 

「急がなければ」

 

 だいぶ寄り道をしてしまった。平原外れの馬宿へ急がなければならない。

 

「あっ」

 

 そういえば、ドゥランは無事に逃げられただろうか? バナーヌはそう思った。絶体絶命のあの瞬間、彼が助けてくれなければ自分は囚われの身となり、今頃は()巻きにされて砂漠へ連行されていただろう。今度お礼として、高級バナナの詰め合わせを贈らなければ……

 

 冷たい夜風に吹かれて、彼女のツルギバナナのような金髪のポニーテールがふさふさと揺れた。

 

 先鋭なシルエットが動き出した。バナーヌは、音も立てずに駆け出していた。

 

 彼女の次なる目的地は、デグドの吊り橋だった。




 明日になったら、バナナ食べようよ!

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第二章 揺れる吊り橋は運命の鼓動
第十三話 旅情それぞれ


 この時代の人間は、実によく旅をする。

 

 大厄災以降の、緩やかな衰退と滅亡の中にあるハイラルの大地を、旅人たちは各々の思うがままに歩き回っている。ある者は一攫千金を夢見て廃墟の中にお宝を追い求め、ある者は究極の料理を追い求めて荒野を目指し、ある者は幻のキノコを求めて暗い森を徘徊する。

 

 百年ほど前まで、旅は一般的ではなかった。庶民たちはその土地その土地で日々の糧を得ることに汲々(きゅうきゅう)としており、観光や物見遊山のためにふらりと旅に出ることなど思いもよらなかった。

 

 そんな庶民にとって、旅とは唯一、巡礼を意味した。一つの例を挙げよう。ある時代のある日、ハイラル王国の東の果てのハテノ村で、ある村人が、一日の野良仕事を終え、変わり映えのしない夕食を手早く食べ、疲れ切った体を寝台に横たえたその瞬間、その脳に電流が走り、唐突に発願(ほつがん)する。

 

「そうだ、俺もいっちょ信心深くなって、女神様にお祈りを捧げに行かなきゃなるめぇ」

 

 それで彼は翌日から、一ルピーや五ルピーという小銭、それでも彼にとっては貴重な現金である小銭を村中でカンパしてもらい、粗末な旅支度を整える。村人たちは口々に彼へ言う。

 

「ありがてぇ、ありがてぇ。代わりにお祈りに行ってくれるなんてよ」

「うちのおっ母の病気が治るよう、女神様にようお頼みしてきてくれや」

「悪い人間に騙されんようにな。外には悪いやつらがいっぱいじゃ」

 

 準備を終えた明くる日、彼は太陽もまだ眠そうな朝早くに、誰からも見送られることなくひっそりと村を出る。道連れはいない。彼はたった一人だ。彼が目指す先は、始まりの台地にあるといわれる時の神殿である。激しい風雨に悩まされ、突然の病気や怪我に苦しみ、魔物や野盗の襲撃に怯えながら、彼は黙々と歩き続ける。

 

「ちぇっ、つまらねぇな。こんな目に遭うくらいだったら、村を出ないで野良仕事してたほうがマシだったかな?」

 

 だが、コツコツと歩を進めればいずれ必ず道は尽きる。やっとの思いで彼は目的地に辿り着く。見たこともなければ想像したこともないほどの、絢爛(けんらん)にして宏壮(こうそう)な神殿を彼は目の当たりにする。美しい巫女たちが優しい微笑みを浮べている。低く荘重に奏でられる音楽が彼の耳朶(じだ)を打つ。彼は、荘厳な雰囲気に満たされた内陣(ないじん)をおずおずと進み、村の小さくて可愛い像とは比較にならないほどに大きくて立派な女神像の前でぬかずく。

 

 感動が渦を巻いて彼の体中を駆け巡る。口から出てくるお祈りの言葉はしどろもどろだ。

 

「……女神様、女神様……! お祈りします、お祈りします……!」

 

 この短く拙い祈りのために、彼は旅をしてきた。いや、彼は祈りをするために旅をしたのではない。言うなれば、彼の旅そのものが祈りだったのだ。

 

 祈りを終えた彼は、また歩き始める。今度は、故郷の人々に伝えるために彼は歩く。彼の足取りは軽く、表情は晴れやかである。なぜなら、女神様がいつでもすぐそばにいてくれるのを、今回の旅で知ったからだ。

 

「ああ、旅に出て良かった。女神様に会えて本当に良かった……」

 

 もちろん、すべての庶民の旅がこの例のように、素朴で真面目で信心深いものだったわけではない。道中で悪い人間に騙され、宝箱バクチで有り金を全部失う愚か者もいたし、門前町の酒場や売春宿に入り浸って出てこない意志の弱い者もいた。たまたま出会った人に恋をしてそのまま結ばれ、二度と故郷に戻って来ない者もいたし、何らかの原因で不運にも命を落とし、誰にも看取られぬまま屍を晒す者も多かった。

 

 一方、城下町に住む富裕商人や貴族たちの旅は、庶民のものよりも遥かに贅沢で、楽しみに満ちたものだった。彼ら上流階級の人間は、バカンスのシーズンには四頭立ての馬車を連ね、悠々と街道を行き地方へと下った。

 

 快適な車内では、冷えたワインとガンバリバチの蜂蜜水、新鮮な生野菜に果物、焼き極上トリ肉などの簡単な食事が供され、彼らは笑いさざめきお喋りに興じる。

 

「お聞きになって? 前の大臣の一人娘が、ついに結婚するそうよ?」

「おや、たしかもう二十五歳は過ぎてるのに、よく嫁ぎ先があったものだな」

「お相手は城下町南のあの成金一族の三男坊だとか。ほら、昔ツルギバナナ輸入で一山当てた、あの一族ですわ」

「ほう、あのバナナ一家?」

「そうそう、あのバナナ一家ですわ。まったく、いくら生活が困窮しているからといって、バナナ一家に嫁がせるだなんて、前の大臣ったらやっぱりとんでもない悪者なんだって思いますわ……」

 

 目的地は、人それぞれに異なっている。例えば、それはフィローネ地方の穏やかな海岸線だったり、あるいはオルディン地方の温泉地だったり、もしくはアッカレ地方の広大な草原地帯だったりする。

 

 こじんまりとした別荘に着いた彼らは、その日から二ヶ月間、待ちに待った休暇を満喫する。狩猟、音楽、詩作、読書、登山、もしくは何もかも忘れて睡眠、それとも酒蔵を空にせんとばかりに連日の宴会だろうか。いずれも共通しているのは、辛気臭い「お祈り」などする者はいないということだ。

 

「なぜなら私達は日頃から神殿と神官団に多額の献金をしているのですから。献金ですよ、献金。これ以上のお祈りがありますか?」

 

 そして瞬く間に二ヶ月が過ぎる。帰り道の彼らの足取りは重く、表情は暗い。なぜなら、楽しい夢のようなバカンスが終わり、退屈で苦痛に満ちた都市生活に戻らなければならないのを知っているからだ。

 

「ああ、こんな憂鬱な思いをするくらいなら、いっそのこと旅行になんか来なければ良かった……」

 

 大厄災以降のハイラルには、もはや庶民も上流階級も存在しない。あるのは、ただその日その日を生きる人間たちだけだ。彼らは巡礼でもなく、バカンスでもない、新しい形の旅をしている。有為転変のハイラルの広大な天地に、旅人たちはそれぞれの目的と楽しみを持って、今日も思い思いの草枕を求めるのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 今を遡ること数カ月前のことであった。場所はハイラル東部、東ハテール地方、ハテノ村、その外れにポツンと建つサクラダ工務店の事務所に、三人の男たちがいた。

 

 男たちは卓を囲み、黙々と昼食をとっていた。昼食のメニューは、チキンピラフだった。民宿トンプー亭に頼んだ出前料理だった。肉体労働の後の疲労した肉体に濃い塩味がスーっと効く一品だった。大盛りで一皿わずかに四十ルピーしかしなかった。

 

 カチャカチャと食器が鳴っていた。会話はなかった。なんとも珍しいことだとサクラダ工務店のベテラン社員、エノキダは思った。社長にして棟梁にしてデザイナーであるサクラダが、今日に限って何故か黙りこくっているのだった。

 

 エノキダはまだ若かった。少なくとも、まだ老けてはいない、と自分では思っていた。隣に座って一心不乱にピラフを掻き込んでいる、新人のカツラダのような溌剌とした若さは流石にないが、まだ若い。彼は骨太のがっしりとした体格で、毛深く、髪の毛はさながらマックストリュフのようだった。おまけに豊かな口髭まで蓄えていた。こういったむさい外見と朴訥な喋り方のせいで、彼は歳の割に落ち着いているとよく言われた。むしろ、歳よりも老けていると彼は言われた。

 

 対して、棟梁のサクラダは若作りだった。というより、年齢不詳であった。建築家らしく、サクラダは一風変わったファッションセンスを持っていた。ピンクの鉢巻をおしゃれに締めた頭は、頭頂部が禿げていて、側面の髪の毛も短く刈り上げられていた。丸にゲンノウの紋を背中に染め抜いた青い印半纏は、セクシーに前をはだけさせていた。首周りにはふわふわした虎柄の襟巻きがあった。彼は首からお守りを下げ、耳にはピアスをつけていた。

 

 サクラダの性格は、明るく陽気であった。だが、どこか冷たいところもサクラダにはあった。どうやら、彼は若い頃にとても苦労をしたらしかった。一ルピーたりとておろそかにできない生活を送っていたとのことだった。そのせいか、彼には妙にリアリストなところがあった。

 

「良い? 夢を語るというのは、同時にルピーを語るってコトなのよ」

「建築家というのは何より創造的でなくちゃね。でもその創造性は実現を可能とするしっかりとした土台を持ってないと駄目なの」

「アタシは自分の建築がこの世の終わりまで残ってほしいと思ってるワ。でもそれが叶わないこともよく知ってるの。いずれ滅びるものに不滅の願いを込めてる。大したロマンチストだと思わない?」

 

 こういった分かるような分からないような独自の人生観や美学を、サクラダは二人の社員へ向かって、食事の時はいつも、のべつまくなしに喋り続けるのだった。

 

 そんな棟梁が、今日に限って何故か黙っていた。ちらりと、エノキダは自分の対面に座る人を見た。サクラダの食事はまったく進んでいなかった。サクラダは目と口を閉じ、腕組みをしていた。どうやら、彼は何か考え事をしているようだった。

 

 突然、サクラダが立ち上がった。彼は甲高い声で、力強く宣言した。

 

「エノキダ、カツラダ! 旅行にいくワよ! すぐに準備なさい!」

 

 脈絡がなさすぎる。なぜ旅行なのか? なぜ今すぐなのか? なぜ自分たちも一緒に行くことになっているのか? 様々な疑問がエノキダの頭脳で湧いた。しかし、彼の体は勝手に席から腰を上げていて、口は勝手に動いていた。

 

「合点!」

 

 隣のカツラダも元気よく立ち上がった。彼は口の周りに大粒のハイラル米の粒をつけていた。

 

「了解っス!」

 

 思考は一秒、返事は半秒。考えるよりもまずは返事をする。それはサクラダの社員教育の賜物であった。サクラダは満足そうに言った。

 

「良い返事ね。でも、まずは食事を終えましょう?」

 

 三人とも席に座った。そして、彼らはまたカチャカチャと食器を鳴らし始めた。サクラダが口を開き、一方的に話し続けた。

 

「食べながらでいいワ、アタシの話を聞きなさい。まずは改めて、村長さんの館の修築工事ご苦労様。クサヨシさん、とっても喜んでたワ。まるで新築みたいになったって。まあ当然よね、アタシとアナタたちが手掛けたんだもの。ハイラル中のどの村だって、あれだけ素敵なお家に住める村長さんはいないって思うワ。でもね……」

 

 サクラダは言葉を切って、深くため息をついた。

 

「正直言って、アタシは満足してないのよ。一万五千ルピーの大きな仕事だったし、やりがいもあった。決して退屈な仕事ではなかったワ。でもアタシ、満足はしてないのよ。アタシとしては、あの古ぼけた館を土台からぶっ壊して、アタシの理想とする新しい家をイチカラ作り上げたかったの。もちろんそのように提案はしたわ。でもクサヨシさんは、これ以上お金は出せないし、何よりアタシの建築デザインは突飛過ぎて村長の家としてどうかと思う、だから元の雰囲気を残したまま修築するだけにしてくれって言ったのよ。酷い話だと思わない? アタシのことをただの大工だと思ってるのよ、アタシは大工以上に芸術家でもあるというのに!」

 

 話しているうちに感情が昂ぶったのだろうか、サクラダはやや語調を荒らげた。だが彼はすぐに平静を取り戻すと、コップの水を一口含んでゴクリと飲み干し、一息ついてからまた話し始めた。

 

「オホン。とにかく、アタシは心の中にどこかわだかまりを残したまま今回の仕事をこなしていたの。アナタたちには隠していたけどね。それで、考えたの。どうしたらアタシの理想を実現できるかって。何日か考えてみたんだけど、クサヨシさんが言うように、もしかしたらアタシのデザインってちょっと先鋭的すぎたんじゃないかって思うの。ほら」

 

 サクラダは部屋の隅に飾られている模型を指し示した。それは、異常な形をしていた。完全な球形が上下左右に積まれたような、既存のどの建築物にも当てはまらない外見をしていた。建物が球形ならば窓は円形で、扉も円形、煙突も円筒形であった。まるでチュチュゼリーを何個も連ねたような、異様な建物模型だった。

 

 サクラダは言った。

 

「アタシは、自然界における理想的形状は球形だと思うの。古代シーカー族の学者プト・レマの『天体論序説』によると、アタシたちの住んでるこの世界は夜空に無数に浮かぶ星々の一つなんですって。しかもそれは絶えず運動して、互いに位置を変えているそうよ。この運動ってことについてなんだけど、運動するということは、その動作主の形は角張っていない。なぜならアナタたちも知ってる通り、四角い車輪じゃ車は動かないものね。だから、アタシたちの星は円ないし球形ということになる。ここまではいいワね?」

 

 エノキダは答えた。

 

「はい」

 

 サクラダも答えた。

 

「はいっス!」

 

 いいワね、もなにもないのだ。エノキダはそう思った。この話は入社以来何度も何度も聞かされていて、正直エノキダの耳にはタコができていた。

 

 元気の良い二人の返事を聞いているのかいないのか、サクラダは話し続けた。

 

「アタシたちの世界が円ないし球形ならば、アタシたちの理想とすべき形も円ないし球形なんじゃないかしら。だって、女神様がそうであるようにと言って作った世界の形なんですもの。アタシたちはそれを大事にしなくちゃならないワ。アタシはそう思って、建築家兼芸術家として、理想のハウジングを追求してきた。ドブの整備から屋根瓦の交換みたいな安くて退屈な仕事をしている間も、理想を形にするべくいつも頭を働かせていたワ……」

 

 サクラダは遠い目をした。辛かった下積み時代を思い出しているのかもしれなかった。

 

「今回は良い機会だったの。だって顧客はあのクサヨシさんよ? 有能で、人格者で、働き者で、村のことを第一に考えてる。だから、クサヨシさんが自分のお家をアタシの提案に従って理想的な球形にしてくれたなら、ハテノ村のみんなも村長さんに倣って、お家を球形にしようって(こぞ)ってアタシのところに来たと思うのよ。でもクサヨシさんは拒否したのよ、突飛すぎるからって!」

 

 サクラダの話はなかなか終わる気配が見えなかった。これは長くなるな、とエノキダは思ったが、彼にはどうすることもできなかった。じっと嵐の過ぎ去るのを待つだけだ。彼は耐えることにした。サクラダは言った。

 

「さすがに悩んだわ。ハテノ村で一番の常識人であるクサヨシさんが否定したアタシの理想、もしかしたら一般人には一生かかっても絶対に理解できないんじゃないかって。先鋭的すぎるんじゃないかって」

 

 長い話に(たま)りかねたように、若いカツラダが質問を差し挟んだ。

 

「それで、そのことと旅行とはなんの関係があるっスか?」

 

 だが、それに気分を害した様子もなく、サクラダは答えた。

 

「一度頭をカラッポにして、イチカラ出直す必要があると思うのよ。だから、端的に言うと取材旅行ね。ハイラル各地の遺構や遺跡、現存する建築物を見て廻って、アタシの理想をもう一度練り直すの。今は別件も受注もしてないから、時間なら余裕があるワ。三人がブラブラと歩いて、誰のものでもない建物を見るだけだから、お金もかからない」

 

 ここで初めてエノキダは口を挟んだ。

 

「それで、旅行の期間は?」

 

 サクラダはさも当然とばかりに答えた。

 

「アタシが満足するまでよ」

 

 ここぞとばかりにエノキダは質問を続けた。

 

「なぜ、俺達も同行を?」

 

 サクラダは答えた。

 

「か弱い棟梁に一人旅をさせるつもり? まあ、あとは社員教育も兼ねてるワね」

 

 エノキダは言った。

 

「出発はいつですか?」

 

 サクラダは顎を手で撫でながら言った。顎には青々とした髭の剃り跡があった。

 

「ご飯を食べたらすぐに荷物をまとめなさい。なるべく必要なものだけを持っていくのよ」

 

 エノキダは、一縷の望みをかけて、最後の質問をした。

 

「俺たちに、拒否権は?」

 

 突然、サクラダは金切り声を上げた。

 

「サクラダ工務店社訓ッ!!」

 

 条件反射的にエノキダとカツラダが勢いよく立ち上がった。そして、二人とも叫ぶように言った。

 

「『棟梁が、白と言うなら、黒も白!』」

 

 ピッタリと息のあった二人の返事に、サクラダは満足げにニヤリと笑った。

 

「ま、そういうことヨ。他に質問ある?」

 

 若いカツラダが元気よく手をあげて言った。

 

「はーいっス! バナナはおやつに入りますか?」

 

 サクラダは言った。

 

「まあ、カツラダったら、バナナだなんて無政府主義(アナーキー)ね! いいワ、おやつなんていくらでも持っていきなさい。社員教育とは言ったけど、これは慰安旅行も兼ねてるんだから……」

 

 エノキダは、瞑目した。やれやれ、また社長の思いつきに振り回されるのか。社長は類稀な才能と確かな技術を持った尊敬すべき人だが、やはり変人である。

 

「だが、悪くないか」

 

 入社以来、いろいろと社長のわがままに付き合ってきたが、その度ごとにエノキダも得るところは多かった。今回も、結局は収穫の多い旅になるだろう。「ペンキは七色、気分は春色」だ。何事も楽しむ気持ちが大切なのだ。エノキダは皿に残っていたチキンピラフを口へとかき込んだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 そんなわけでサクラダ工務店一行の旅は始まった。彼らは手始めにハテノ砦へ赴き、そこからはハイラル各地を東西南北、棟梁の気の向くままに歩き回った。彼らは街道を北にとって、山間の隠れ里であるカカリコ村へ向かった。次に彼らは足を伸ばして険路を冒し、夜光石輝く繊細豪壮なゾーラの里へ向かった。彼らは西へ道を辿ってゴングル山から瘴気と怨念渦巻くハイラル城を遠く眺め、それから一路南へ雄大なハイリア大橋を目指した……

 

 彼らは各地でスケッチを取り、測量し、地元の古老に話を聞き、文献を収集した。荷物を背負うエノキダとカツラダの足取りはだんだん重たくなっていったが、サクラダの足取りはますます軽やかになっていくようだった。

 

 そんな旅を続けて数ヶ月経った、ある日のことであった。サクラダが歓声を上げた。

 

「素晴らしい、素晴らしいワ!」

 

 サクラダを興奮させたのは、ハイラル平原南、アクオ湖に位置する、闘技場跡地だった。三人は街道からその偉容を眺めていた。サクラダは言った。

 

「戦士たちが命を賭けて戦った舞台が綺麗な円形をしている。昔の人は分かってたのよ! プト・レマの天体論を! こうなったら是非、中の様子も見てみたいワ!」

 

 カツラダがどこかうんざりとしたような口調で言った。

 

「けど今日はもう遅いっスよ。宿を取りましょうよ」

 

 サクラダは口を尖らせた。

 

「もう、意気地なしね! でも、確かにくたびれたワね。しかたない、カツラダの言うとおり、今日は休みましょう。エノキダ、この近くの宿は何処(どこ)?」

 

 エノキダは答えた。

 

「平原外れの馬宿です」

 

 そんな会話を交わしつつ、彼らはなんとか日暮れ前に馬宿に着くことができた。宿の店員が三人にお茶を出しながら、如才なく世間話を振った。

 

「いや、それにしても遠くハテノ村からよくぞここまでいらっしゃいました。取材旅行ですか、私のような馬宿の店員には分かりませんが、大変なお仕事なのですね」

 

 サクラダは胸を張って答えた。

 

「そんなことはないワ。とっても刺激的でクリエイティブなお仕事よ」

 

 店員は言った。

 

「闘技場跡地はご覧になりましたか?」

 

 サクラダは頷いた。

 

「見たワ。明日は中に入ってみるつもりなの」

 

 強い期待と好奇心を隠さずにサクラダは答えた。だが、店員は驚くように言った。

 

「え、それはとんでもない!」

 

 サクラダは首を傾げた。

 

「アラ、どうして?」

 

 店員は言った。

 

「闘技場の中は魔物の巣になってるんですよ。上から下まで魔物でギッシリで、中に入ろうものならたちまち挽き肉にされてしまうとか。実際に確かめた人はいませんが」

 

 カツラダが呆れたように言った。

 

「そんな危険な場所が近くにあって、この馬宿よくやって行けるっスね」

 

 店員は答えて言った。

 

「不思議なことに、やつら中から出ては来ないんですよ。何でも、滅茶苦茶強い魔物が他の魔物を従えてるとか。その強いやつが外に出ないから、他のやつも中に留まってるって噂で」

 

 エノキダが呟くように言った。

 

「どうしてその魔物は外に出ないんだろうな」

 

 店員は言った。

 

「何かを守ってるって噂ですよ。貴重な武器だか宝石だか、とにかく大したお宝があるんだって噂です」

 

 またエノキダは言った。

 

「なんというか、噂ばかりだな」

 

 店員は答えた。

 

「確かめようがないので仕方ないです。とにかく、闘技場跡地に入るのだけはやめてください。無駄死にするだけです」

 

 サクラダはガッカリしたようだった。彼は言った。

 

「そう……地元の人が言うならやめといたほうが賢明ね。でもとても残念だワ。ねえ、他にこのあたりで見どころはないの?」

 

 店員はすぐに答えた。

 

「それでしたら、デグドの吊り橋なんてどうでしょう? 昔から景勝地として知られてますし、あそこから眺める朝日は格別美しいですよ」

 

 サクラダはしばらく唸って考えた。やがて彼は言った。

 

「うーん……吊り橋と朝日か……いいワ、インスピレーション湧いてきそうじゃない」

 

 店員はにこやかな表情を浮かべて言った。

 

「お疲れのようですし、朝日をご覧になるのでしたら出発は夜半を過ぎてからになりますから、いかがでしょう、ここは少しごゆっくりと休息なさって、英気を養うというのは……」

 

 三人は店員の勧めに従うことにした。寝台に横になると、社長のサクラダを指揮者として、彼らは(イビキ)の大合奏を始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 その三日後の、夜明け前のことだった。

 

「おーい! エノキダ! エノキダ! 生きてる!? 生きてるなら返事をしてェ!! エノキダー!!」

「エノキダさーん! エノキダさーん! 返事をしてくださいっス! エノキダさーん!」

 

 棟梁とカツラダの必死な呼び声が、どこか遠く頭上から響いていた。

 

「おーい、おーい! ここだ! ここだ! おーい!」

 

 エノキダは必死になって呼び返した。だが、こちらの声は上に届かないようだった。

 

「おーい、おーい……むぅ……」

 

 いつしか、向こうからの呼び声も止んでいた。彼は力なく空を見上げた。夜明け前の空はどんよりと暗く、雨がしとしとと降り続いていた。

 

「足は……折れていないな……」

 

 エノキダは、じんじんと痛む足を労るように撫でた。痛いのは足だけではなかった。全身が酷く痛んだ。その上びしょ濡れだった。彼は惨めな気分だった。

 

「俺としたことが……とんだことになった」

 

 彼は短く嘆息した。

 

 エノキダは、ひとり滑落していた。




 ああエノキダよ、何処へいく。

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第十四話 取引

 中央ハイラル地方の南西部に、その湖はあった。名前は特になかった。周辺住民は「あの湖」とか、「デグドの吊り橋の湖」などと呼んでいた。湖には北からヒメガミ川、東から黄泉の川が滝となって流れ込んでいた。湖は豊富な水量を(たた)えていた。

 

 その地形的特徴として第一に、大小七つの浮き島が挙げられる。いずれも湖面から高く聳え立っており、根本から上部にかけてくびれた形をしている。上部はまるで水平に切ったように平たい。浮島は一種の奇観を呈していた。

 

 これらの浮島に合計六本の木製の吊り橋が掛かっている。これがデグドの吊り橋である。デグドという名前の由来はよく分かっていない。設計者の名前からだとか、いや建設当時の大臣の名前だとか、そうではない、吊り橋の設計様式から取ったのだとか、諸説紛々(ふんぷん)であった。そしてその真偽を確かめる(すべ)はもうない。

 

 もう一つの特徴は、湖岸がほぼ存在しないことである。北東に細長い小さな浜があるだけで、他に舟をつけられる場所はない。周囲は切り立った崖に囲まれている。さながら底の深い洗濯桶のようだった。つまり、一度湖に落ちたら這い上がるのが非常に難しい。

 

 ハイラルの水瓶と呼ばれるハイリア湖や、周辺五湖と合わせて広大な面積を誇るフィローネのフロリア湖と比較すれば、この湖の規模は微々たるものであるが、それでも、ハイリア人にとっての馴染み深さという点では決して劣っていない。

 

 中央ハイラルとゲルド地方のちょうど中間地点に当たるこの湖は、古くから景勝地として知られていた。溜池のような地形でありながらも、二本の川から常に新鮮な水が流れ込むことで、その水面は澱むことがない。水草が豊富に繁茂し、様々な川魚が群れを作って泳ぐ。シラホシガモは睦まじく体を浮かべ、魚を狙うアオバサギ、モモイロサギは慎重な足運びをして、意地悪く目を光らせている。上空には空の覇者たるシマオタカがヒョロヒョロと鳴き声を上げて悠然と飛翔する。浮島には色とりどりの草花が生えていて、その間を虫たちがブンブンと羽音を立てて乱舞する。画家や詩人たちはしばしばこの湖へ足を伸ばし、のびのびと創作に励んだものだった。

 

 だが、この湖にまつわる歴史は、やや暗い。これからゲルドキャニオンへ挑もうというハイリア人にとって、この湖は最後の「自然豊かな」地であった。ここはちょうど、緑豊かな中央ハイラルと、黄色の埃にまみれたゲルド地方の中間地点である。桟道(さんどう)建設の出稼ぎ労働者たちや遠征軍の兵士たちは、もう二度と戻っては来れないかもしれないという寂しい感慨を持って湖を渡った。

 

 不思議とも、悲惨とも言えるエピソードがある。それは、第四次イーガ団討伐軍が派遣された時のことであった。一人の変わった将軍がいた。将軍はアッカレ地方の寒村の出身で、十二人兄弟の末っ子だった。両親から愛されず、口減らしとして軍隊に送られた彼は、幼い頃から輜重隊(しちょうたい)の一員として馬糞にまみれて働き、あるいは労務者として石材や土嚢を運んだりして苦労を重ねた。

 

 こんな人間は当時のハイラルには幾らでもいたのだが、彼は少し違った。伝承によれば、彼がとある地方の沼地埋め立てに駆り出されていたある日のこと、奇妙な石像がその地で掘り出されたという。それは二本の角と一対の翼を持つ、黒い石像だった。現場監督は、そんな気味の悪い石像はさっさとぶっ壊してしまえと命令し、彼も唯々諾々とそれに従った。

 

 だが、つるはしを振り下ろす寸前、彼に不思議な声が聞こえたという。

 

「俺とひとつ、取引をしないか。命と力を司る俺とな……」

 

 彼は、それ以来変わった。今まで軽々と運んでいた大樽や石材を、彼は持てなくなった。ダッシュすれば、彼はすぐに息切れしてしまった。崖登りをしても、彼はズルズルと滑り落ちてしまった。仲間たちは病気を疑った。だが、彼はせせら笑ってこう答えたという。

 

「俺はな、がんばりの代わりに絶対に死なない体を手に入れたのさ。俺は無敵になったんだ」

 

 無論、彼は正気を疑われた。だが、ほどなくして彼の言葉が本当であることが戦場で証明された。彼は死ななかった。彼はがんばりがきかない代わりに異常に打たれ強くなった。仲間がバタバタと屍を重ねる過酷な戦場でも、彼はしぶとく生存し続けた。あらゆる戦場に顔を出し、必ず生還することから、彼は「不死身」とも「死神」とも呼ばれた。

 

 ついに将軍へとのぼり詰めた時、新聞記者のインタビューに対して彼はこう答えたといわれている。

 

「生き残る秘訣だって? 売って百、買うのに百二十、差し引きたったの二十ルピーの取引さ」

 

 意味不明な回答に記者は首を傾げたが、おそらく戦場での命のやり取りについて諧謔を込めて語ったものであろうと解釈した。

 

 彼は第四次イーガ団討伐軍の大将を命じられた。その打たれ強さと幸運を買われてのことだった。なまじ才のある人間よりも、しぶとい人間を大将とすべし! それがたとえ死神であっても! 当時の王の直々の指名だったと伝えられている。

 

 そんな彼が立派な白馬に跨り、デグドの吊り橋に差し掛かった時であった。ちょうど朝日が顔を出し、水面をキラキラと輝かせていた。(もや)が晴れ、爽やかな風が吹き抜けた。美しく、幻想的な光景がいたく彼の胸を打ったようだった。

 

 振り返りつつ、彼は部下にこう言ったという。

 

「女神ハイリアなど信じたことはないが、この光景を見ると少しだけ信心深くなる気がするな」

 

 彼がこう口にした瞬間、吊り橋が突然崩壊した。多数の随員と共に、彼はあっという間に湖へ落ちていった。懸命な捜索にも関わらず、その死体はついに浮かび上がらなかったという。

 

 

☆☆☆

 

 

 仄暗い夜空と冷たい大気だった。忍び寄る雲が、キラキラと輝く星々と、明るい月を徐々に隠そうとしていた。

 

 ズキズキと、頭のタンコブが痛んでいた。ジリジリと、殴られた脇腹が熱を持っていた。低気圧が接近しているのだろうか。直に雨が降るかもしれない。金髪のポニーテールをふさふさと揺らして走りながら、バナーヌはそう思った。

 

 彼女がデグドの吊り橋に到着したのは、夜明けまであと三時間ほどの時だった。彼女がゲルドキャニオンで落石を撤去し、直後にゲルド族の精鋭たちと死闘を繰り広げ、辛くも虎口を脱してから、まだ一日と時間は経っていなかった。

 

 あれから駆け通しだった。幸い、あれ以降敵らしい敵には遭遇していない。いつもならば小規模なボコブリンの拠点を襲撃し、矢と武器、場合によっては固くて臭い焼きケモノ肉を分捕るのだが、今はそんな場合ではなかった。バナーヌは脇目も振らずゲルドキャニオン本道を疾走した。

 

 その甲斐あってか、彼女はゲルドキャニオン後半をすんなりと抜けることができた。だが、立ち止まって休むことはまだ彼女には許されなかった。彼女はデグドの吊り橋の状況を確認しなければならなかった。

 

 孤影が走り、跳んだ。疲れた体に鞭打って、バナーヌは南から北へ、六本の橋を丹念に見て回った。あのゲルド族の大車列が通ったはずであるから、どこかに負荷が掛かって壊れかけている、なんてことがあるかもしれない。念には念を入れておかなければ。大厄災以来ロクに整備されていない古い橋だから、たまに橋板が欠けていることもある。それに魔物共が、どういう目的かは分からないが、綱に切れ込みを入れていることもある。前に一度あったきりだが、火薬樽が仕掛けられていたこともある。魔物にとって吊り橋という存在は、とかくイタズラ心を呼び起こす存在らしい。人間にとってはたまったものではないが……

 

 バナーヌはたいまつを使わなかった。すべて頼りない月明かりの下で、彼女は目視で確認をした。訓練されたイーガ団員の夜目はフクロウのように鋭いため、照明など必要ではない。それに、そもそも彼女はたいまつを持っていなかった。

 

 やがて、彼女は言った。

 

「……ここも問題なし」

 

 バナーヌは最後の橋を見終わった。どれも問題はなかった。それどころか、重要部は新しい部材で補強されてさえいた。どうやら、つい最近になって誰かの手が入ったようだった。平原外れの馬宿がやったのだろうか? これならガッチムッチなゴロン族百人がガッチりと隊列を組んでムッチムッチと大行進をしても大丈夫だろう。

 

 あとは平原外れの馬宿に行って、フィローネ支部からやってくる輸送馬車と待ち合わせるだけだった。

 

 一仕事を終えたバナーヌは、誰に言うでもなく呟いた。

 

「……疲れた」

 

 誤魔化しようのない疲労感が彼女を襲っていた。何しろ、ここまで休みなしだった。食事はロクにとっていないし、仮眠も取っていない。傷は痛むし、体は埃と血で汚れている。

 

 バナーヌは、パシリのプロである。それは完璧にパシリをこなすという意味ではない。極力サボりつつ、要求されたことだけこなすという意味である。身も心も組織に捧げている人間ならば、このまま真っ直ぐに平原外れの馬宿へ向かい、万全の態勢を整えて輸送馬車を待ち受けるだろう。それどころか、自分から迎えに行くことまでするだろう。だが、そこまでバナーヌは「出来た」イーガ団員ではない。プロとは、休み上手を意味する。私はプロだから休む。彼女はそう考えていた。

 

 だから、バナーヌは、休憩に入ることにした。ちょうど、デグドの吊り橋には人目につかずに休むのにうってつけの場所があった。彼女は吊り橋を渡り、湖の真ん中に浮かぶ一際大きな浮島へ向かった。

 

 ここの下には祠があった。それは例の、古代シーカー族が作ったというあの祠だった。そこは吊り橋の上からは死角になっており、かつ一度下に降りると容易に上には戻れないため、一般人は絶対に寄り付かない場所だった。ゲルドキャニオン馬宿ではピルエとかいうゴーゴーダケジャンキーに裸を見られるという不幸があったが、ここならば大丈夫だろう。バナーヌはそう思った。あそこもここと同じく祠の近くではあったが……

 

 バナーヌはスルスルと浮島の側面を降りると、難なく祠へと辿り着いた。彼女はポーチから包みを取り出すと、残っていた食料をすべて食べた。食べ物は焼きトリ肉と、ビリビリフルーツだった。肉の脂と果実の甘みが彼女に活力を与えた。

 

 バナーヌは、食事をしながらノチのことを思い出していた。この時間帯ならば、彼女はぐっすりと寝ているだろう。ノチは体が弱く運動神経も鈍いため、矢玉が飛び交う前線には出されないが、それでも日中は掃除炊事洗濯とあらゆる仕事にかかり切りだ。自分よりもよほど働き者であるとバナーヌは思っている。

 

 食事を終えたら? 当然、水浴びだ。バナーヌは身に着けているものを全てさっと脱いでしまった。拘束を逃れた豊満な胸部が惜しげもなく外気に晒された。起伏に富んだ白い裸体が闇に浮かび上がった。彼女は軽く伸びをすると、湖に勢いよく飛び込んだ。もちろん、彼女は武器を手放さなかった。その手には疾風のブーメランを持っていた。

 

 闇夜に水泳などまったく命知らずな行為であるが、バナーヌはこれが好きだった。疲労した時こそ運動を! へブラ地方の人間の格言だという。どんなに疲労していても、彼らはスキーや盾サーフィンを一日一回は必ずやるとか。一理あると彼女は思っている。運動後にバナナがあればなお良いが、ないものねだりはできない。コポコポという水泡の音を楽しみながら、彼女は両腕を胸の前で掻き、両足を後方に蹴り出した。まるでガッツガエルになったようだった。

 

 冷たい水がバナーヌに癒しと再生の力を与えた。埃と汗に塗れた肉体は泳げば泳ぐだけ白く輝き、くすんでいた金髪は豊かに流れる金糸のごとき美しさを取り戻した。

 

 水音を立てて、バナーヌは祠の近くに上がった。いつの間にか、しとしとと雨が降っていた。彼女の全身から水が滴り落ちた。その白い肌には濡れた金髪が張り付いていた。豊かな胸部を揺らして、彼女は体を拭いた。久しぶりに思う存分水浴びができた、と彼女は満足した。

 

 突然、バナーヌの足元に何かが飛んできて、ドカッと音を立てて砕け散った。それは、人の頭よりも大きい岩だった。彼女は即座に二連弓を手に持って戦闘態勢を取ると同時に、岩が飛んできた方向を確認した。

 

 雨雲のせいでさらに弱々しくなった月光の薄明かりの中に、そいつは黄色い双眼をギョロつかせていた。擬態用の草を一筋生やした、ブヨブヨと膨らんだ青い頭部があった。虚ろな口、折り畳まれた触手……それらから明らかなように、それはタコの魔物、水オクタであった。

 

 バナーヌは、ホッとした。運が良かった! やはり疲労が溜まって、思考力が落ちていたようだ。水辺に来た時にはまず水オクタを警戒すべきだというのに、そのことがまったく頭から抜け落ちていた。暢気(のんき)に全裸になって水泳を楽しんでしまったが、もしその最中を襲われていたら大変なことになっていた。イーガ団員としてあるまじき緊張感のなさであった。

 

 そんなことを考えていたら、二発目が飛来していた。バナーヌは最小限の動きで回避したが、祠の硬い壁面に着弾した岩は、細かい石片となって彼女の体に降り注いだ。鬱陶しいことこの上ない。

 

 水オクタは非常に射撃能力に長けた魔物である。水の中に潜伏し、岸を行く者や舟で行く者が近づくと、突如水面上に姿を現し、奇襲的に岩を放つ。その射程は長く、一度捕捉されれば被弾せずに離脱することは困難である。吐き出される岩には、人の骨の一本や二本を難なく圧し折る威力がある。

 

 そして、水オクタの一番厄介なところと言われるのは、その偏差射撃能力である。大きな目玉で目標の動きを完全に先読みし、たとえ全力で回避運動をしたとしても、正確な射弾を容赦なく送り込んでくる。

 

 だが、バナーヌは慌てなかった。彼女は弓を構え、水オクタが三発目を撃ってくるのを待った。彼女はギリギリまで動かなかった。彼女は矢を(つが)え引き絞り、澄んだサファイア色の瞳に殺気を漲らせて水オクタを見据えた。

 

 水オクタは浮上すると同時に三発目を放った。そして直後にまた潜行した。だが、そこで魔物の命運は尽きた。潜った直後、そのギョロついた二つの目玉に一本ずつ矢が突き刺さっていた。水オクタの最後に放った三発目は惜しくもバナーヌの頭を掠め、またもや祠の壁面に当たって空しく砕け散った。

 

 水オクタが偏差射撃をするのならば、人間もまた偏差射撃をすれば良い。岩を吐き出した直後に水オクタは潜行する。ならば、発射音と同時に水中へ向けて矢を放てば良いだけだ。水オクタは深く潜行しないため、矢は水によって威力が減衰する前に目標に到達するというわけだった。

 

 醜い叫び声と爆発音を立てて水オクタは爆発四散した。ボチャボチャと残骸が水面に落下した。せっかくだからと考えて、バナーヌはそれらを回収することにした。手に入れたものは、オクタの足、オクタの目玉、そして、オクタ風船が二個だった。

 

 バナーヌは下着を履き、さらしを巻き、忍び装束を着て装備を身に着けると、祠の影で横になった。夜明けまで、あと少しだった。空はどんよりと暗かった。雨はまだまだ降り続いていた。雨音の他、音は何もしなかった。水泳のおかげで、彼女の体は温まっていた。

 

 彼女はオクタの足を引っ張ったり縮めたりしてもてあそんだ。指に吸盤がくっついた。これが、バナナだったら良かったのに。バナーヌはそう思った。バナナはゲルドキャニオン馬宿で食べたきりだ。しかも粗悪極まるものを。あれは酷かった。人生最後のバナナがあんなものになった可能性だってあった。ああ、ノチの作ってくれたあげバナナが恋しい。それだけではない、バナナの煮込み果実も恋しい。バナナのハチミツ果実も良い。いや、シンプルに、ただのバナナが恋しい。冷えたバナナシェイクも飲みたい。ああ、バナナ。ああ、バナナ……

 

 本当はそろそろ休憩を打ち切って、平原外れの馬宿へ向かわねばならない。だが、バナーヌは睡眠という甘い誘惑に負けた。彼女は瞼をそっと閉じて、まどろみを楽しんだ。その長い睫毛(まつげ)には細かい水滴がついていた。せめてバナナの夢を見たい。山盛りのバナナをパクつく夢を……

 

 仕事に取り掛かる前の刹那の睡眠、なぜこの睡眠は何にも増して甘美なのであろうか。

 

 ぼんやりとした意識の中で、音がした。浮島の上の方から声がした。男の声が三人に、女みたいな男の声が一人だった。何かおしゃべりをしているようだった。一人が突然、何か叫んだ。駆け出していく足音がした。追う声がし、「あっ」と叫ぶ声がし、崖をズルズルと何かが滑る音がした。そして、大きな着水音が響いた。

 

 何かが起こっている。バナーヌはすでに覚醒していた。彼女は油断なく二連弓を構え、耳をウサギのようにそば立たせて、祠の影から様子を窺った。

 

 何かが祠の建っている陸地に這い上がって来た。人間の男だった。男はヨロヨロと立ち上がり、力なく(そで)を絞っていた。男は風采の上がらない風貌だった。その髪型はマックストリュフのようだった。年齢は、ほんのちょっと老いているくらいだろうか? 若くはない。男は青い半纏を着ていて、腰にはゲンノウを差していた。

 

 上から二人の男の声が響いてきた。

 

「おーい! エノキダ! エノキダ! 生きてる!? 生きてるなら返事をしてェ!! エノキダー!!」

「エノキダさーん! エノキダさーん! 返事をしてくださいっス! エノキダさーん!」

 

 男も負けじと声を張り上げた。

 

「おーい、おーい! ここだ! ここだ! おーい!」

 

 上と下でしばらく呼び交わしていたが、そのうち上からの声がしなくなった。

 

「おーい、おーい……むぅ……」

 

 男は諦めたように座り込んだ。彼は足を労るように撫でていた。どうやら怪我をしているようだった。

 

「足は……折れていないな……」

 

 彼は力なく雨の降る空を見上げていた。

 

「俺としたことが……とんだことになった」

 

 どうやら、なんらかの事情で上から滑落してきたらしい。放っておいても害はないだろうが……バナーヌとしては、このまま捨て置くこともできなかった。この時間帯、この場所に、この天候の下で、三人(ないしは四人)で来ること自体が普通ではない。調べるだけ調べ、吐かせるだけ吐かせたら、当て身でも食らわせて寝かせておこう。バナーヌはそう決めた。

 

 音もなく背後に近づくと、バナーヌは弓矢を構え、男の後頭部に(やじり)の先端を押し付けた。彼女は言った。

 

「動くな。動くと撃つ」

 

 男は、一瞬動揺したようだった。だが、神経が鈍いのか豪胆なのか、男は開き直ったように言った。

 

「分かった。動かない」

 

 バナーヌは尋問を開始した。

 

「質問に答えろ。名は?」

 

 男は答えた。

 

「エノキダ」

 

 バナーヌは言った。

 

「職業は?」

 

 エノキダと名乗る男は淡々と答えた。

 

「サクラダ工務店社員。大工だ」

 

 バナーヌはまた言った。

 

「なぜここに来た?」

 

 エノキダは短く答えた。

 

「棟梁に連れられて」

 

 バナーヌの脳内を疑問が埋め尽くした。なぜ大工? なぜここに、この時間帯に? 先ほどの叫び声や追う声は何だったのか?

 

 混乱する彼女の心境にお構いなしに、今度はエノキダの方が話しかけてきた。

 

「すまないが、一度武器を下ろしてくれないか」

 

 バナーヌは答えた。

 

「なぜだ?」

 

 エノキダは言った。

 

「サクラダ工務店社訓を実践しなければならない。頼む」

 

 意味が分からない。こんな緊迫した状況下で実践しなけばならないこととは何だろうか? そう思いつつも、彼女は言った。

 

「妙なことをすれば、撃つ」

 

 エノキダは言った。

 

「妙なことはしない。まあ、ちょっと見ろ」

 

 そう言うと彼は、独特な節回しの歌と妙な振り付けの踊りを始めた。彼はクソ真面目な顔をしながら、少し音痴な低い調子の歌声を披露した。

 

「新築 減築 解体 外構〜

 家の 事なら なんでも ございっ♪」

「その名も サクラダ

 DADADA サクラダ工務店〜」

「さくらだっ DADADA さくらだっ♪」

「フワフワ」

「シャキーン!」

 

 エノキダは最後にポーズを取った。直後、その足元に二本の矢が勢いよくブスリと突き刺さった。

 

「妙なことをすれば撃つと言ったはずだ」

 

 そう言うバナーヌに対して、エノキダは弁明をした。

 

「待ってくれ。サクラダ工務店社訓、『名刺代わりに歌と踊りで』を実践しただけだ。他意はない」

 

 その時、男が腰につけていた袋がベチャリと地面に落ちた。結び目が緩んでいたのだろう、袋の中から出てきたのは竹の皮に包まれた山菜おにぎりが四つに、それから……バナーヌは息を呑んだ。

 

「バナナ……!」

 

 暗闇にあって黄金のごとく輝く果実、ツルギバナナが一房こぼれ落ちていた。ひと目見ただけで彼女はそれと分かった。新鮮で、身が詰まっていて、甘くて栄養満点なバナナ、完璧なバナナだ、完璧なバナナだ! バナーヌは改めて息を呑んだ。

 

「バナナ……!」

 

 バナーヌの目はバナナに釘付けだった。綺麗なサファイアの瞳が心なしか輝いていた。

 

 その様子を見て、エノキダはチャンスと感じたようだった。どうやらこの野盗は、ずいぶんバナナに執心しているようだ。ならば、それにつけこむしかない。

 

「お前が何者かは知らないが、俺はこのとおり、ちょっと困っている。助けてくれないか?」

 

 バナーヌの目がさらに輝いた。それでも無表情は崩さなかった。バナーヌはエノキダと静かに会話を交わした。

 

「取引か」

 

 エノキダは頷いた。

 

「ああ、そうだ」

 

 バナーヌは言った。

 

「報酬は?」

 

 エノキダは少し考えてから言った。

 

「お前が俺を見逃す。それでバナナ一房。そして、俺が上に戻るのをお前が手助けする。それでバナナ二房。合計でバナナ三房、十五本のバナナだ」

 

 バナーヌは首を左右に振った。

 

「あと一房よこせ」

 

 エノキダは頷いた。

 

「それでは、バナナ二十本でどうだ?」

 

 バナーヌも頷いた。

 

「よし、いいだろう」

 

 交渉は妥結した。こんなに簡単にバナナが二十本も手に入るなどありえないことだった。奇跡的だった。降って湧いたバナナだった。バナナがバナナを背負ってやって来た。

 

 だが、どうやって男を上に戻すか? バナーヌは考えた。雨はしとしとと降り続いていた。時間的に夜明けは迎えたようだが、厚い雨雲に遮られていて辺りはまだ薄暗かった。この悪条件の下、怪我をした男がこの急峻な崖を()じ登るのは難しいだろう。ロープを何処(どこ)かから見つけてきて、上から引き上げるのが一番早いだろうが、この近場で長いロープを見つけ出すのは難しそうだった。

 

 その時、バナーヌの脳内に閃くものがあった。彼女はじっと男を見つめた。

 

 それは氷のような、怜悧さを秘めた美貌だった。サファイア色の美しい双眼が光っていた。女に、それも美しい女に見つめられることなど、今までの人生で一度もなかったエノキダはどぎまぎした。彼は言った。

 

「なんだ?」

 

 バナーヌは視線を逸らさず、澄んだ声で言った。

 

「服を脱げ」




 ハイラルにおけるチョコバナナ実現の可能性とは?

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第十五話 浮上する悪夢

 活動的な人間にとって、閑暇というものは「我慢ならぬ停滞」らしい。たとえそれが怪我を癒やし病から回復するためにどうしても必要なものだったとしても、彼にとってはどうしようもない時間の浪費のように思えてしまうらしいのだ。

 

 だから、サクラダ工務店社長兼棟梁にしてデザイナーであるサクラダにとって、馬宿で過ごした三日間は苦痛そのものだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 平原外れの馬宿に着いたその晩、サクラダは素晴らしい明日を夢見て、さして上等でもない普通の寝台に身を横たえた。彼の両隣にはベテラン社員のエノキダと新人社員のカツラダがいた。重低音の効いた(イビキ)と共に、三人はほどなくして眠りの世界へと落ちていった。

 

「あら……?」

 

 いつしかサクラダは、巨大な建造物の中を歩いていた。ここは、闘技場だ。彼はそう思った。夢にまで出てくるとは、どうやら昼間に見た闘技場跡地がよほど印象に残っていたらしい。

 

 客席は見物人で満ちていた。その間を縫うように、可愛らしい少女たちが軽食と飲み物を売って歩き回っていた。着飾った富裕商人たちは色とりどりのパラソルを広げていた。貴賓席には絢爛豪華たる装いの貴族たちが座っていた。

 

「まったく、出来の良い夢だこと」

 

 サクラダは空いている席に腰を下ろした。前に読んだ本に書いてあったが、このような夢を明晰夢というらしい。ならば、自分の思うがままに振る舞えるはずだった。

 

「せっかくだし、楽しませて貰おうじゃない」

 

 手にはいつの間にか、肉汁滴る串焼き肉と、よく冷えたリンゴ酒の(びん)があった。サクラダは肉にかぶりつき、二口(ふたくち)三口(みくち)噛んでから一気にリンゴ酒で流し込んだ。

 

「うん、美味しいワ」

 

 突然トランペットが高らかに鳴り渡った。司会者がよく通る美声を闘技場内いっぱいに響かせた。

 

「皆様、長らくお待たせ致しました! さあ、戦士たちの入場です!」

 

 ワアワアと歓声が上がった。サクラダも身を乗り出し、眼下の競技場へ目を走らせた。戦士たち? 戦士たちねぇ……一体どんな戦士たちなのだろうか?

 

「……エノキダ?」

 

 サクラダは呆気にとられた。アーチから堂々とした足取りで入場してきたのは、工務店の従業員、エノキダだった。エノキダはいつもの青い印半纏を身に纏い、腰にはゲンノウを下げていた。彼は真面目くさった表情のまま、片手を上げて歓声に応えていた。

 

 その上、さらに驚くべき事態が起こった。

 

「エノキダが、沢山!?」

 

 エノキダが増えた。同じ格好、同じ表情をした、まったく同じエノキダが、最初の一人に続いて後ろからゾロゾロと出てきた。

 

 総勢十一人のエノキダが、競技場の真ん中で縦一列に整列した。

 

「どういうこと?」

 

 困惑するサクラダをよそに、司会は朗々と声を張り上げた。

 

「青チームが出揃いました! 続いて、赤チームの入場です!」

 

 反対側のアーチから、バラバラと元気よく人影が飛び出してきた。

 

「今度はカツラダ!?」

 

 赤チームは、工務店の新人社員、カツラダだった。いずれも赤い印半纏を着ていた。若い溌剌とした笑顔を浮かべた十一人のカツラダたちが、陽気に観客席へ向かって手を振った。エノキダたちと正対するように、彼らもまた整然と縦一列を成した。

 

「両チーム出揃いました! 一斉に礼! さあ、いよいよ古式ゆかしい運動競技、『タ・マケリ』が開始されます! 栄えある勝利を手にするのは一体どちらのチームでしょうか!」

 

 サクラダは一人頷いた。

 

「ふぅん、『タ・マケリ』か。なるほどね」

 

 かつて読んだ本の知識によれば、タ・マケリとは古代シーカー族の宗教儀式から派生した運動競技である。十一人で一つのチームをなし、二つのチームが一つの球を巡って走り回るというものだ。

 

「でも、肝心の球がないじゃない」

 

 サクラダは競技場を見渡した。何処にも球がない。タ・マケリに用いられる球は天体論的理想形に則り、限りなく真球に近いものでなければならないとされていたはずだった。

 

 突然、彼の隣に誰かの気配がした。声がした。

 

「球はあるワ」

 

 サクラダの口から声が漏れた。

 

「えっ?」

 

 首に妙な違和感を覚えた直後、サクラダの視界が反転した。また声がした。

 

「理想ってのは、頭に詰まってるものでしょ?」

 

 彼の視界がゴロゴロと転がった。雲ひとつない真っ青な空、石造りの座席、ガヤガヤと騒ぐ観客たち、売り子たちの笑顔……目まぐるしく光景が変わった。

 

「だから、アタシの首こそ完全な理想形なのよ」

 

 そして、噴水のように真っ赤な血液を噴き上げる、首のない胴体が見えた。その手には串焼き肉とリンゴ酒の瓶があった。紛うことなき自分自身の体だ。サクラダはそう思った。そして言った。

 

「あら、アタシじゃない」

 

 その誰かが答えて言った。

 

「そう、アタシ」

 

 首無しのサクラダの隣に、鋭利なノコギリを持ったもう一人のサクラダが立っていた。

 

「アラ、アラ」

 

 どうしようもなく、ゴロゴロと首は転がっていった。やがて、首は勢いよく競技場内へ飛び込んだ。

 

 待ちかねたというふうに司会が叫んだ。

 

「球が場内に入りました! 試合開始です!」

 

 歓声が上がった。サクラダの生首へ向かって、十一人のエノキダと十一人のカツラダが殺到した。

 

「パスだ」

「させないッス!」

「アハン」

「シュートだ」

「させないッス!」

「イヤン」

 

 宙を飛んで、跳ねて、転がって、サクラダの生首の所有権は目まぐるしく両チームの間を行き交った。

 

 カツラダの一際強い蹴りが側頭部にめり込んだ。

 

「どりゃーーッス!!」

 

 サクラダは言った。

 

「アラ、まあ」

 

 宙高くサクラダの生首は飛び上がった。

 

「見える見える」

 

 観客席に彼の目が向いた。キラキラと日光を反射するノコギリが彼には見えた。自分の首を切り落としたもう一人の自分であるサクラダが、不思議な踊りを踊っていた。

 

「新築 減築 解体 外構〜

 家の 事なら なんでも ございっ♪」

「その名も サクラダ

 DADADA サクラダ工務店〜」

「さくらだっ DADADA さくらだっ♪」

「フワフワ」

「シャキーン!」

 

 我ながら惚れ惚れする振り付けネ……宙を舞うサクラダの生首は、莞爾(かんじ)として微笑んだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 結局、サクラダが起きたのは翌日の昼過ぎだった。外はしとしとと雨が降っていた。彼はびっしょりと寝汗をかいていた。その両目の下には隠し難いほどのクマができていた。げっそりとした声で彼は言った。

 

「微熱もあるみたい。悪いけど今日は休ませてもらうワ……」

 

 毎日欠かさないひげ剃りもその日だけはサボって、サクラダは寝台の上でゴロゴロしていた。

 

 食事を盆に載せて枕元へ運んで来たカツラダが、至極能天気な気休めを言った。

 

「滅茶苦茶頑丈な社長が寝込むなんて、ここ数ヶ月ずっと強行軍だったからスかねぇ。疲労したんスよ。とにかく寝れば治るッスよ、たぶん」

 

 エノキダはいつも通りだった。

 

「寝れば治る。大丈夫です」

 

 少しは心配する素振りを見せてくれても良さそうなものなのに、とサクラダの純真な乙女心が密かに不平を漏らした。

 

「まあ、悪夢を見るなんて、確かに疲労が溜まってたのかしらね。アタシもまだまだ若いと思ってたけど、しっかりと休みを取らないと体が保たない年齢にいつの間にかなってたのかしら……」

 

 食事もそこそこに、サクラダは毛布を被った。若さ、それは泡沫である。分かってはいたことだが、眼前に突きつけられると存外堪えるものだった。拭いきれぬ寂寥感を強いて忘れ去ろうと、彼は睡眠に専念することにした。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが、彼の悪夢はその夜も続いた。

 

 翌朝、青々とした無精髭も情けなく、サクラダはやつれ果てた表情で、二人の社員に語っていた。

 

「聞いて頂戴。今度の悪夢はアタシの生首で玉入れ大会だったワ。無数のアタシの生首が籠に向かって投げ込まれるの……」

 

 カツラダが言った。

 

「どっちのチームが勝ったッスか?」

 

 サクラダが叫ぶように答えた。

 

「そんなことどうでも良いじゃない!!……カツラダのチームよ……」

 

 前日と比べて明らかに消耗している棟梁を見て、エノキダもカツラダも不安になった。夢見が悪いということは、ハイラルではことさら不吉の前兆とされている。そうでなくとも、サクラダはもう若くない。厳しい旅路に耐えかねて、精神より先に肉体が悲鳴を上げているのかもしれない。

 

 だが、二人とも無骨な大工に過ぎなかった。二人にその道の知識はまったくなかった。だから、二人はとりあえず店員に相談をすることにした。

 

 エノキダから話を聞いた店員は、いかにも気の毒そうに、しかしさして驚いたふうもなく答えた。

 

「ああ、お客様も悪夢を見たのですか。お気の毒なことです」

 

 エノキダは言った。

 

「どういうことだ」

 

 店員は答えた。

 

「いえ、あまり大きな声では言えないのですが……」

 

 店員がヒソヒソと囁くように続きを言った。曰く、この馬宿に泊まる客の中には、毎晩悪夢を立て続けに見る人が必ず一定数いる。人だけではない、馬もロバも悪夢を見るようで、夜中に悲鳴を上げることはしょっちゅうである。

 

 エノキダが尋ねた。

 

「原因は分からないのか?」

 

 店員は答えた。

 

「それがですね、『どうやら闘技場跡地が関係してるんじゃないか』と魔物専門家は言うんですよ」

 

 闘技場跡地の周りには、赤いような黒いようなピンクなような、とにかく一見して体に悪そうなドロドロが地面にへばりついている。専門家の間ではそれを「怨念の沼」というらしいが、これが悪さをしているらしい。

 

「微粒子になった怨念が空気に乗ってここまで漂ってくるのだとか、そういう話らしいですよ」

 

 若いカツラダが率直な疑問を挟んだ。

 

「どうして俺たちは平気なんスか」

 

 店員はポリポリと頭を掻いた。

 

「感受性の豊かな人ほど怨念の影響を受けるらしいですよ。芸術家とか、吟遊詩人とか、そういう人がよく(うな)されてますね」

 

 エノキダが腕組みをして尋ねた。

 

「何とかならないのか。このままでは社長が倒れてしまう」

 

 店員は答えた。

 

「一番良いのは一刻も早くこの場から離れて、お(うち)に帰ることなんですけど……」

 

 エノキダは首を左右に振った。

 

「成果なしで退却するのを社長は承知しないだろう。治すなり、誤魔化すなり、なにか方法はないのか?」

 

 うーん、と店員は顎に手をやって考え込んだ。そして、「仕方ないか」と小さく呟くと、彼はカウンターへ行き、戸棚の中から一つの紫色の小瓶を取り出した。不思議な装飾が施された、ラベルも貼っていない小瓶だった。

 

 店員はエノキダへ向かって小瓶を差し出した。

 

「では、これを使ってみてください」

 

 小瓶の放つあまりにも怪しげな雰囲気に、エノキダは不審感を隠さなかった。

 

「これは?」

 

 店員は答えた。

 

「先にも少し話しましたが、ヒルトンだかキルトンだか、そういう名前の魔物研究者の方から貰ったものです。魔物の肝から抽出した、マモノエキスなんだそうで」

 

 エノキダは呆れたように言った。

 

「なんだ、毒じゃないか」

 

 店員は首を左右に振って否と示した。店員は言った。

 

「いえいえ、彼が言うには毒も薬も紙一重で、結局は用法と用量の問題なんだそうです。『魔物由来の病気や疾患にはマモノエキスを!』と力説してました。すごい早口な上に専門用語が多かったので、説明はよく分かりませんでしたが」

 

 エノキダは言った。

 

「効果はあるのか」

 

 店員は平然と答えた。

 

「うちの馬やロバたちにはマモノエキスを混ぜた飼料を定期的に食べさせてますよ。確かに夜中に悲鳴を上げることがなくなりました。他に悪い病気にもなってません。人間に使ったことはありませんが、たぶん大丈夫なんじゃないですか」

 

 エノキダは唸った。

 

「うーむ……」

 

 そんな怪しさ満点のものを飲ませて良いものだろうか。治るかどうか確証が持てないし、予期せぬ副作用もあるかもしれない。エノキダとカツラダは暫く話し合いをした。結局、二人はサクラダにすべてを話すことにした。

 

 静かに話を聞いていたサクラダは、疲れた表情に決意の色を示して、コクリと頷いた。

 

「いいワ。飲もうじゃない」

 

 エノキダが念を押すように言った。

 

「良いんですか?」

 

 サクラダは頷いた。

 

「アタシには夢がある。こんなところで休んでいられないのよ。さ、用意して頂戴」

 

 サクラダは大きなコップに一杯の水を持って来させると、それにマモノエキスを三滴ほど垂らした。水はみるみるうちに濃い紫色に変色した。心なしか、妙な臭いも漂ってきた。サクラダが、覚悟を決めたように言った。

 

「いくワよ……」

 

 鼻をつまんでサクラダは一気に水を飲み干した。ゴクリゴクリと彼の喉が鳴った。カツラダとエノキダ、馬宿の店員は、サクラダを見つめていた。

 

 飲み終えたサクラダが、言った。

 

「うん、不味いワ」

 

 店員が頷いた。

 

「それは不味いでしょうね。馬たちも悪夢を見る時よりマモノエキス入りの飼料を食べる時のほうが大騒ぎをするくらいで」

 

 サクラダが言った。

 

「でも、この不味さが却って効き目のありそうな感じを醸し出しているワ。今夜は良い夢見れそうよ」

 

 サクラダは毛布を被った。これで安心だと自分へ言い聞かせるような大きな鼾をかいて、彼は三日目の夜に挑んだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 朝食のがんばりハチミツクレープを頬張りながら、サクラダはやや(やつ)れていながらも元気な表情を見せた。

 

「うん、まあ元気よ。悪い気分じゃないワ」

 

 カツラダが心配そうに尋ねた。

 

「今度はどんな夢だったッスか?」

 

 サクラダは言った。

 

「アタシの生首で大玉転がしよ」

 

 カツラダが叫んだ。

 

「やっぱり悪夢じゃないッスか!」

 

 カツラダを静かに見つめた後、サクラダは首を左右に振った。

 

「確かに悪夢よ。でもね、もう開き直ることにしたの。悪夢なら悪夢で楽しんじゃおうって。そう思ったら、不思議なんだけど活力が自然と湧いてきたのよ。それでアタシも観客席を降りて、大玉転がしに参加することにしたのよ」

 

 カツラダが尋ねた。

 

「首無しの体で?」

 

 サクラダは答えた。

 

「首無しの体でよ。生首の無精髭がチクチクと手のひらに刺さって痛かったワ。でもそれなりに楽しかったワね。二度とやりたいとは思わないけど。自分なりに悪夢に立ち向かった結果なのか分からないけど、寝覚めは悪くない。マモノエキス、確かに効果はあったのかもね」

 

 先にクレープを食べ終わったエノキダが、布巾で口を拭いながらサクラダに尋ねた。

 

「それで、今日はどうするんですか」

 

 サクラダは答えた。

 

「元気になったことだし、早速デグドの吊り橋を見に行こうと思うのよ。吊り橋と朝日、かつての死神将軍じゃないけど、きっとアタシに良いインスピレーションを与えてくれると思うワ」

 

 エノキダは言った。

 

「では、食事を終えたらすぐに出発しますか?」

 

 サクラダはわざとらしく驚いたような顔をした。

 

「あら、それはイヤよ、アタシ。まだ病み上がりなんだから、もう少し寝台で休んでいたいワ。店員さんも言ってたけど、ここを夜半過ぎに出ればちょうどデグドの吊り橋に差し掛かる頃に夜明けだそうよ」

 

 エノキダは頷いた。

 

「では、出発は今晩ということで」

 

 サクラダは言った。

 

「そゆこと。それまでせいぜいダラダラしていましょう」

 

 言うだけ言うとサクラダは席を立ち、洗面器と剃刀と石鹸を持って外へ出ていった。彼はご機嫌に鼻歌まで歌っていた。どうやら裏の井戸で彼はひげ剃りをするようだった。

 

 エノキダとカツラダは顔を見合わせた。カツラダは言った。

 

「社長、すっかり元通りッスね!」

 

 エノキダは諦めたように首を振った。

 

「おかげで休みは終わりだ。俺は夜に備えて一眠りする。お前もしっかり仮眠をとっておけ」

 

 元気だけが取り柄の後輩に先輩としてアドバイスしつつ、エノキダの頭はぼんやりと別のことを考えていた。店員にお礼としてルピーをいくら包むべきか? ふと、彼は外の景色へ目をやった。一昨日来の雨は止み、水たまりには青い空と白い雲が映っていた。

 

 このまま良い天気が続けば、それに越したことはないが。エノキダはなんとなく不安を覚えた。

 

 

☆☆☆

 

 

 予定通り、サクラダ工務店一行は夜半過ぎに馬宿を出発した。三人ともその腰に、朝食として食べる予定の弁当の包みを下げていた。

 

 包みの中身は、山菜おにぎりとツルギバナナであった。馬宿に弁当を作ってくれるよう頼むと、わざわざおにぎりを用意してくれたのだった。

 

「ハテール地方の人はお米がお好きだと聞きました。ちょうど材料があったので作ってみたんです。お口に合うと良いのですが」

 

 バナナは、行商人から購入したものだった。どうしても仮眠からすぐに目覚めてしまうカツラダが気分転換に外をぶらついていたところ、バナナの行商人に会ったのだった。行商人は愉快な調子で口上を述べていた。

 

「さあさあ買った、さあ買った、バナちゃんの因縁聞かそうか! 生まれは南国フィローネで、親子諸共もぎ取られ、箱に詰められ牛に乗り、ゆらり揺られて道千里、着いたところが平原外れ! さあさあいくらで売ったろか!」

 

 カツラダは叫んだ。

 

「買ったッス!」

 

 行商人は嬉しそうに答えた。

 

「おっ、可愛いバナちゃん買ってくかい! 大特価、一房(ひとふさ)九十九ルピーだよ! さあさあ買ったさあ買った!」

 

 それはいかに言っても高すぎた。カツラダは言った。

 

「高えッス!」

 

 行商人は即座に答えた。

 

「そんなら一房三十三ルピーで良いよ! さあさあ買った、さあ買った! 可愛いバナちゃんさあ買った!」

 

 カツラダは結局六房を購入し、合計百九十八ルピーを支払った。経費ではなく、自腹であった。極端な値下げに思うところがないわけでもなかったが、大のバナナ好きの彼としてはこのチャンスを見逃すわけにはいかなかった。馬宿に帰ると、彼はサクラダとエノキダに言った。

 

「バナナ買って来たッスよ! 二人の分もあるッス!」

 

 寝台に横になって本を読んでいたサクラダが、カツラダに視線をやってから言った。

 

「アラ、ありがたいワね……って、ちょっと量多くない?」

 

 椅子に座って考え事をしていたエノキダも、バナナの量を見て言った。

 

「バナナばかり、こんなに食べられんぞ」

 

 カツラダは大きな声で言った。

 

「そんな! デグドの吊り橋まで結構距離あるッスから、着いたらきっとお腹ペコペコッスよ! そしたらこれだけのバナナなんてペロリッスよ!」

 

 サクラダは、あまり関心のなさそうな声で言った。

 

「そ。ま、食べ切れなかったらカツラダに返すワ」

 

 

☆☆☆

 

 

 星空の下、サクラダ工務店一行は暗い街道を進んだ。先頭を行くのはエノキダだった。その手にはたいまつを持っていた。念のために用心棒を雇おうかと三人は検討したが、最近のここら一帯の魔物の活動は低調ということだったので、サクラダはそれを却下した。

 

 黙々と三人は歩き続けた。いや、黙々と歩いていたのは二人だけだった。たった一人、棟梁のサクラダはすっかりいつもの調子で話し続けていた。

 

「建築家と大工さんの違いって分かるかしら。建築家も大工さんも職人であることには変わりない。問題は、どういう技術をもっているかよ。大工さんの技術は手仕事に特化してるワね。材木を寸法通りに切断したり、鉋をかけたり、真っ直ぐに釘を打ち込んだり。でも建築家の技術はそうじゃないの。建築家はね、頭の中にある家の形を実体化させる技術を持ってるの。だから言うなれば、部下の大工さんをいかに動かすか、どんな材料をどれだけ集めるか、コストを掛けるべき箇所と省くべき箇所をいかに見極めるか、こういう全体を俯瞰的に眺める力こそが彼の技術であって……」

 

 はい、はい、と適当に棟梁の話に相槌を打っていたエノキダだったが、ふと彼は足を止めた。

 

「おお……」

 

 サクラダが尋ねた。

 

「どうしたの、エノキダ」

 

 エノキダは言った。

 

「あれを」

 

 エノキダが指さした先には、夜空の星々と月の光をキラキラと反射する湖があった。ぼんやりとした白い浮島が、本当に宙に浮いているように闇夜に浮かび上がっていた。それに木製の吊り橋がかかっていた。三人はデグドの吊り橋に到着したのだった。サクラダが言った。

 

「ああ、ようやく着いたのね」

 

 頷きつつ、エノキダが言った。

 

「朝まで休憩にしますか」

 

 サクラダは答えた。

 

「いえ、伝承によると死神将軍はデグドの吊り橋の真ん中で最期の朝日を見たそうよ。アタシたちもとりあえず真ん中まで行ってみましょう」

 

 その時、たいまつがジュンという音を立てた。ポタリ、ポタリと周囲に音がした。雨が降ってきたのだった。カツラダが叫んだ。

 

「うわ、雨なんてサイテーッス!」

 

 エノキダがサクラダに尋ねた。

 

「引き返しますか?」

 

 ちょっと怒ったような口調でサクラダが言った。

 

「何言ってんの。こんなのただの(にわか)雨よ。(じき)に止むワ。さ、先へ進みましょう」

 

 暗夜に雨に吊り橋、こんな中を行くなど、普通ならば自殺行為である。だが、三日間も寝台で横になっていたサクラダはもはや我慢の限界だった。多少の危険を冒してでも、朝日は絶対に見る! 雨はきっと上がると信じる! サクラダは信念の人であった。そして彼は信念が裏切られたことをコロッと忘れる、忘却の人でもあった。

 

 コツコツと足音を鳴らして三人は吊り橋を渡った。雨で消えかかったエノキダのたいまつが弱々しく周囲を照らしていた。若いカツラダは「高い」だの「怖い」だのと悲鳴を漏らしていたが、一方サクラダは鋭い目を辺りに配っていた。設計は古いが、強度はしっかりと確保されている。乱雑だが、補修も定期的に行われているようだ。平原外れの馬宿が橋の整備をしているのだろうか?

 

 そろそろ、真ん中の一番大きな浮島へ着くという時になって、突然、先頭を行くエノキダが立ち止まった。彼は言った。

 

「む、止まってくれ」

 

 サクラダが少し声量を落して言った。

 

「どうしたの?」

 

 エノキダは言った。

 

「何かがいる……魔物かもしれない。見てください」

 

 エノキダの低く小さい声に従って、サクラダとエノキダもその方向を見つめた。闇に紛れ込むようなシルエットで分かりづらいが、たしかにエノキダが言うように、何かが浮島の中心にいるようだった。エノキダは言った。

 

「もう少し近寄って、様子を見てみましょう」

 

 カツラダが言った。

 

「えっ、それって危なくないッスか?」

 

 エノキダの代わりにサクラダが答えた。

 

「たぶん大丈夫よ。魔物とか野盗だったらアタシたちがここに来てる時点で気づいてるだろうから、向こうからこっちへ来るはず。そうじゃないってことは、少なくとも敵意はないってことよ」

 

 三人は恐る恐る、忍び足で浮島の中心地へ向かった。彼らは腰をかがめて、低い姿勢で丈の高い草影に隠れた。

 

 そこには、奇妙なシルエットの人間がいた。その人間は、一生懸命スコップで地面をコツコツと探っては掘っていた。そっと聞き耳を立てると、ブツブツと喋っている声が聞こえてきた。

 

「なるほど、なるほど。ここを掘って、そう、骨だ、骨だ! この骨の形、それならばここを掘れば……ほらあった、あった! このサファイアの首飾り、間違いなく例の黒いヒノックスの持ち物……やはり私の仮説の通り、伝説の『吊り橋上の化物』は二体いたのだ……そうなると英傑に倒されたもう一体は何処へ……いや、確か闘技場の古い記録には……」

 

 三人は顔を見合わせた。エノキダが言った。

 

「見るからに怪しいな」

 

 サクラダが言った。

 

「魔物ではなさそうだけど、何をしてるのかしら?」

 

 エノキダがまた言った。

 

「とりあえず、声をかけてみるか」

 

 サクラダが頷いた。

 

「危ない相手だったらすぐに逃げましょう」

 

 カツラダが能天気な声を出した。

 

「逃げ足だけは自慢ッス!」

 

 サクラダがカツラダを叱りつけた。

 

「お馬鹿! 棟梁を見捨てて真っ先に逃げる大工さんがどこにいるのよ! カツラダはアタシを逃がすために(デコイ)になるのよ!」

 

 エノキダが言った。

 

「しっ、静かに。やつに声を掛けてみよう」

 

 エノキダはさっと立ち上がると、人影へ声を掛けた。

 

「おい! ここで何をしている!」

 

 突然の誰何(すいか)に、その人影はスコップを放り捨てて、面白いほどに飛び上がった。その手には何やら青色に輝く物があった。謎の人物は甲高い声で絶叫した。

 

「ひっ、ひぇえええ!!」

 

 人影は、一目散に吊り橋を目指して北へとドタドタと足音を立てて走り始めた。サクラダたちは叫んだ。

 

「待て!」

 

 エノキダが追いかけた。サクラダとカツラダが後に続いた。逃げる人影は思ったよりも素早く、すでにかなりの距離が開いていた。

 

「あっ!」

 

 吊り橋を渡ろうとしたエノキダが、つるりと滑って転んだ。どうやら雨で橋板が滑りやすくなっていたようだった。彼の大柄な体が橋の縁へと滑った。どこかに掴まる(いとま)もなかった。ザリザリと崖を滑り落ちる音がした後に、バシャンという大きな着水音が響いた。エノキダが転んでから、僅かに数秒しか経っていなかった。

 

 サクラダとカツラダの悲痛な叫びが響いた。

 

「あ、エノキダ!」

「エノキダさぁーん!」

 

 追っていた人影は、もはやどこにも見えなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

「おーい! エノキダ! エノキダ! 生きてる!? 生きてるなら返事をしてェ!! エノキダー!!」

「エノキダさーん! エノキダさーん! 返事をしてくださいっス! エノキダさーん!」

 

 二人は、まだ下にいるであろうエノキダへしばらく呼びかけを続けていたが、どうにも向こうからの返事は聞こえてこなかった。呆然としつつ、カツラダが言った。

 

「どうしよう……エノキダさん、死んじまったとか?」

 

 サクラダは力強い目線をカツラダに返した。そして彼は言った。

 

「お馬鹿ね、この程度でエノキダは死なないわ。声が出せないほど怪我をしたか、もしくは、この浮島の独特の構造のせいで、下からの声が上へと反響しないようになってるのよ」

 

 カツラダが言った。

 

「それじゃあ、俺が降りて助けに行くッス!」

 

 サクラダは言った。

 

「もう、カツラダは本当に短慮ね! この雨の中じゃ崖下りはプロだって諦めるわ」

 

 カツラダがどこか憤然として言った。

 

「じゃあ、どうすれば良いッスか!」

 

 サクラダは冷静な声で答えた。

 

「カツラダ、あなたは急いで馬宿に戻るなり近場の廃墟を漁るなりして、長くて丈夫なロープを調達してきて頂戴。それを下に垂らしてエノキダを救出しましょう。時間はかかるけど、それが一番確実で安全よ」

 

 カツラダはやや落ち着きを取り戻した。彼は言った。

 

「社長はどうするッスか?」

 

 サクラダは答えた。

 

「アタシはここで待機しとくワ。さ、早く行ってらっしゃい!」

 

 走る時に邪魔なんでと言って、カツラダは弁当とバナナが詰まった大きな包みを置いていった。先ほどまで吊り橋を怖がっていた彼だったが、今回は迷いも見せず、全力疾走で馬宿方面へ走っていった。

 

 空はやや明るくなった。どうやら夜明けを迎えたようだった。それでもいまだにしとしとと、陰気な雨は降り続いていた。

 

 サクラダは俯き、ため息をついた。

 

「朝日は見れなかった。不審者は捕まえられなかった。エノキダは滑落した。ああ、余計なことなんてするんじゃなかったワ! 不審者なんてほっとけば良かったのよ!」

 

 突然、彼の背後からエノキダの声がした。

 

「社長」

 

 失望のあまり幻聴までするようになったかと、サクラダは自分の情けなさにガッカリとした。ガッカリとしつつも、彼は振り返った。

 

 思わず、サクラダは我が目を疑った。

 

「は?」

 

 それは、信じがたい光景だった。そこには、エノキダがいた。上半身裸のエノキダが宙に浮いていた。素肌を晒した両肩に赤いトゲトゲの風船がついており、ふわふわとゆっくりと上昇を続けていた。エノキダが言った。

 

「社長、引っ張ってください」

 

 サクラダは、エノキダの足に目をやった。誰かがエノキダの足に掴まっていた。そいつは、ピッタリと体に張り付くような臙脂色(えんじいろ)のスーツとタイツを身に着けていた。若い女だった。氷の如き美貌で、澄んだサファイア色の双眼が闇の中で光っていた。そして、見事な金髪のポニーテールをしていた。

 

 何故かその女は、一心不乱にバナナをもぐもぐと貪り食っていた。

 

 エノキダが急かすように言った。

 

「社長、そろそろオクタ風船が割れる。早く引っ張ってください」

 

 空を飛ぶ上半身裸のエノキダに、片手でエノキダの足に掴まりながら、もう一方の片手でバナナをひたすら貪り食う謎の無表情の女……

 

「意味が分からないワ……」

 

 サクラダの精神は、混迷を極める一方だった。




 最近見た悪夢は、タッパーに詰まった胎児に指先で心臓マッサージを施そうとする夢です。いや、ホントに怖かった。


※皆様。いつもお世話になっております。早いもので第十五話となり、字数もほぼ10万字となりました。これも皆様の応援あってのことでございます。日々増えていくUA数に心をときめかせ、頂いた感想と評価に感激し、ありがたくも誤字報告までして頂きましたこと、本当に感謝の念に堪えません。改めまして、本当にありがとうございます。今後も何卒よろしくお願い申し上げます。(2018/02/22/木)
※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第十六話 幸せの形、幸せな記憶

 人は働く。ガンバリバチのようにせかせかと、ガンバリバッタのように跳ね回りながら、ポカポカアゲハのようにキリキリ舞いをして、人は働く。

 

 生まれも育ちも関係ない。人である限り、働くことから無縁ではいられないのだ。農民はクワを振るって畑を耕し、漁師は網を打って魚をとり、鍛冶師はハンマーを振るって鉄を打つ。庶民だけではない、かつて存在した王も貴族も金持ちも、みんな労働から解放されるほどに幸せな人々では決してなかった。

 

 悲観主義的な詩人は「労働とは、人類最大の不幸」と歌い、しかつめらしい顔をした神官や坊主は「労働とは、天が人に与えた使命にして恩恵」といった。

 

 だが、実際のところ、労働そのものは大して不幸ではない。本当に不幸と言えるのは、「自分の才能と適性を活かせない」労働をやらなければならないということだ。

 

 しかしながら、そのことも一般人にとっては大したことではない。というのは、世の中はそんな人間が大半だからである。人々は、本当はこんなはずではなかったという懊悩(おうのう)を抱えて、さして面白くもない仕事に従事している。人は愛のない、苦悶に満ちた仕事をせざるを得ない。

 

 さらに不可解なことがある。それは、明らかに才能も適性もないのに、それを天職と思い込んで精励する人間がいるということである。子どもの落書きにしか見えない風景画をせっせと量産する画家、ハエも寄り付かない料理のようなナニかをせっせと量産する料理研究家、プロの宝箱ギャンブラーを目指して空っぽの財布をせっせと量産するばくち打ち……

 

 彼らは自分の仕事に誇りを持っている。彼らは決して自らを疑わない。彼らは満ち足りていて、幸福である。

 

 つまり、この滅びの時代にあっても、心の底から幸せな人々は確かに存在するというわけだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 平原外れの馬宿で用心棒をしているウドーも、才能がないのに仕事に惚れ込んでいるタイプの人間だった。

 

 彼の体格は、大して優れていなかった。その手足は女のように白く細かった。血飛沫(ちしぶき)(まみ)れる闘争に必要な筋肉が、彼にはまったく不足しているのが一見してよく分かった。

 

 その容貌もよろしくなかった。彼の頭にはボサボサの黒髪が生えていて、顔は平凡だった。平凡さが一種の優しさを生んでいたが、それを魅力的と感じるかどうかは人それぞれだった。彼はメガネをかけていた。どう見ても、彼は強そうではなかった。どんなに良く見積もっても、彼は「考古学者志望の冴えない書生」といったところだった。

 

 こんなウドーを宿長が用心棒として紹介すると、大抵の客は困惑した。

 

「えっ、こんな弱そうな人が用心棒?」

「なんだか、部屋にこもって本でも読んでいたほうが良いんじゃないか、君は」

「こんなオッサンに守られるほど落ちぶれてはいないぞ!」

 

 しかし、ウドーには素晴らしい長所があった。それは、決してめげないということであった。渋る客に対して、彼は快活な態度と明晰な言葉遣いで用心棒の必要性を諄々と説くのだった。しかも、彼は自信たっぷりにそれを(おこな)うのだった。

 

「お客様の行く道の先には、つい先日ボコブリンの小拠点ができました。まだ街道にまで出てきて悪さをするようなことはしていませんが、万一に備えて俺を雇うことを強くお勧めします」

「俺は確かに体格は平凡で、剣技も平凡です。ですが、それを補って余りある知恵があります。どうか安心して護衛をお任せ下さい。ちなみにこれまでの護衛成功率は百パーセントです」

 

 いつも彼はメガネを輝かせ、自信たっぷりに相手の目を見つめ、断言した。そんなウドーの売り込みを受けると、それまで不信感を持っていた客たちはコロリと考えを変え、護衛を依頼してしまうのだった。「どうしてこんなに有能な人の護衛を断ろうとしていたのだろう」と、彼らは不思議に思うのだった。

 

 そんなウドーだったが、肝心の戦闘はからっきしであった。彼の剣技は(にぶ)く冴えないもので、槍は使えず、盾は自分を守るだけで精一杯だった。弓だけはまあまあ使えたので、彼はこれをメインの武器としていた。

 

 彼は事前に綿密な調査をし、予定ルート上の会敵可能性を計算し、無理な戦闘は避け、やむを得ない場合は弓で勝負した。彼は同業者よりも人一倍努力していたが、成果は大して変わらないので、効率は非常に悪いと言わざるを得なかった。

 

 要するに、ウドーは生まれてくる時代を間違えたのだった。人を説得し契約を取り付け、綿密な調査をし、あらゆる可能性を検討することができるという才能は、明らかに商人向けのものだった。城下町に大商人が商館の軒を連ね、引きも切らず人々が多種多様な商品を買い漁っていた、大厄災以前のあの夢のような時代、あの時代にあっては、ウドーはひとかどの商人として名を馳せたかもしれない。

 

 そういう才能に満ちた人間が、今の時代では一匹の用心棒に過ぎないのだった。いざとなれば依頼人の盾となり、体を張ってボコブリンやモリブリンと斬り合いをしなければならない用心棒を、世が世ならば一流の商人となったであろう人間がしなければならない。

 

 だが、ウドーはこの用心棒という仕事が大好きだった。

 

「たしかに、俺は弱いさ。全ハイラルでも下から数えたほうが早いくらい弱い用心棒さ。でもさ、楽しいんだよ、この仕事は。命を削って魔物と命のやり取りをしている瞬間、俺の心は楽しさで(はず)むんだ。変人と思うかい? なに、世の中もっと変なやつはいっぱいいるよ……」

 

 そんなわけで、ウドーは日々幸せに暮らしていた。モリブリンが全力で振り抜くモリブリンバットを何とか(かわ)し、小さな弓で矢を飛ばしてチクチクとダメージを与えるような、そういう稚拙極まる戦いをしていても、彼の心は仕事をしているという歓喜で満たされているのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 そんなウドーをムッとさせる出来事があった。

 

 それはある日の夜のことだった。馬宿の店長がウドーを呼んだ。彼が呼ばれた先へ行ってみると、三人の奇妙な男たちがいた。みんな青い印半纏を着ていて、腰にはゲンノウをさげていた。それはハテール地方から来た、サクラダ工務店一行とのことだった。

 

 事情を聞いてみると、工務店の三人はこれから夜半過ぎに馬宿を出て、デグドの吊り橋を見に行くとのことだった。そこで用心棒の雇用を検討したいということだった。

 

 早速ウドーは、熱弁を振るって自分を売り込んだ。

 

「夜中の街道を三人で行くのは大変危険です。ここは是非用心棒を雇うべきです。俺ならば護衛はもちろん、周辺の観光案内もできます。まさに一石二鳥とは思いませんか。それに……」

 

 熱心なウドーとは対象的に、頭にピンクのねじり鉢巻をした棟梁はどこか冷めた視線をじっと彼に向けていた。棟梁は気乗りしない感情を含ませた口調で尋ねた。

 

「あー、ウドーさんと言ったかしら。随分とお詳しいようだから訊くけど、ここら一帯の魔物の活動はどうなの? 活発? 低調?」

 

 ここでウドーは少し嘘をつくべきだった。だが、彼は用心棒としては正直者すぎた。

 

「幸い魔物の活動は低調です。最近は目撃証言すらありません。ですが……」

 

 正直に状況を伝えたウドーの言葉を聞いて、棟梁は話は終わったとばかりにパンっと手を叩いた。

 

「そんなら問題ないワね! うちにはエノキダとカツラダもいるし。あなた、またの機会ってことでヨロシクねー」

 

 馬宿の店長も棟梁へ用心棒の雇用をそれとなく勧めたが、彼はにべもなく断った。三人はほどなくして暗い夜空の下、街道をデグドの吊り橋方面へ歩いていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 サクラダ工務店一行が出て行った後、ウドーは、自棄酒(ヤケざけ)を喰らっていた。彼は強い蒸留酒をコップに並々と注いで、グイグイと胃の腑に流し込んでいた。見るからに無謀で、無茶な飲み方だった。

 

 ウドーはガンッ、と乱暴にコップをテーブルに叩きつけた。彼は「ハーッ」という酒気たっぷりの溜息をついた。いかにも憤懣せんやる方なしというふうだった。

 

 ウドーはしばらくそのまま俯いていた。突然、彼は怒声を上げた。

 

「クソ! 何なんだ! クソ!」

 

 店長が呆れ顔で彼を慰めた。

 

「まあまあ、仕事が取れなかった程度でそこまで怒らないで。あの棟梁は随分変わり者ですし、今回は運が悪かったんですよ。それにしても、お酒を少し過ごされ気味では? そろそろ止めたらいかが?」

 

 ウドーはグイッと残りを飲み込んだ。彼は喉が焼き尽くされるような感覚がした。ぼうっとする視界、クラクラする頭が、自分は今酒を飲んでいるのだという思いを強くさせた。そしてその口からは、不満、愚痴、ぼやきが芋虫の行列のように出てきた。

 

「あの棟梁、俺が話してるのを見てどんな顔していたと思う? 面倒臭そうな顔? 興味のない顔? 苛立ち? そうじゃない、あいつ、あいつは……」

 

 彼は乱暴に蒸留酒の瓶を掴むと、なみなみと茶褐色の中身を注いで、グイッとまたもう一杯あおった。ウドーの顔はすでに真っ赤だった。

 

「あいつ、俺を(あわ)れんでいた! 何故だ! 憐れむなんて、憐れむなんて! あんな目で見られたのは初めてだ! あんな風に見られるのは耐えられない! 酷い侮辱だ! 用心棒ってのは舐められたらオワリなんだ! だってのに!」

 

 激昂し、ここまで一息に喋った後、バンッと音を立ててウドーはテーブルに突っ伏した。そして、グウグウと(イビキ)をかき、三回目の鼾の直後に、ガバッと突然起き上がった。

 

 隣に立っている店長にウドーは訊いた。

 

「今、俺は寝てたか!?」

 

 店長は呆れ顔をした。

 

「寝てましたよ」

 

 ウドーは立ち上がると、あたりをグルグルと歩き始め、空いている寝台へ身を投げ、また鼾を二回か三回かき、それからまた飛び起きた。彼は自分の柳行李(やなぎごうり)を開けると、急に装備を取り出して身に纏い始めた。

 

 突然の行動に店長は驚いた。

 

「何をするつもりですか!?」

 

 決意と憤懣をないまぜにした真っ赤な顔のウドーが、吐き捨てるように言った。

 

「今からアイツらを追いかける。やっぱり俺が必要だったんだと思い知らせてやるんだ! あのスカした棟梁の目ん玉をひっくり返させてやるぞ!」

 

 言うやいなや、彼はフラフラとした千鳥足で宿の外へ出て行った。

 

 慌てて店長は後を追いかけた。

 

「あー、待った待った。まったく、あなたの怒りどころはよく分からないな! とにかく行くって言うなら止めはしませんけど、せめてたいまつくらいは持っていきなさい……」

 

 

☆☆☆

 

 

 幸せな記憶、暖かな記憶、泣きたいほどに懐かしく、胸を締め付けられるほど切ない記憶……それはどんなにつまらない人間でも必ず持っている、精神という神殿の内奥に安置された、絶対に奪われない煌めく財宝である。

 

 バナーヌには、十歳より以前の記憶はない。そんな彼女にも幸せな記憶というものはやはりある。

 

 イーガ団に来てしばらく経った頃だった。バナーヌは病気になった。高熱が続き、全身の関節が痛み、意識が朦朧とした。彼女はただの風邪だろうと診断され、適当な薬を投与された。寝台にしばらく放置されていた彼女だったが、数日経っても熱が下がらなかった。

 

 普通の温かな家庭ならば、子どもが病気になった場合、母親は付きっきりで看病し、粥を煮て、氷嚢を取り替え、優しく頭を撫でてくれるものだ。父親は栄養のつく食べ物と薬を求めて村を駆け回り、爺さんと婆さんは他の子どもたちを引き連れて女神像へお祈りを捧げに行くものだ。

 

 だが、そこはイーガ団であった。バナーヌには、優しい母親も、温かな父親も、愛溢れる家族もいなかった。そして、イーガ団の中に、それらの代わりをしようという奇特な者もいなかった。もしかしたらいるのかもしれなかったが、下手に手を出して上役から睨まれるのを全員が恐れていたから、結局は同じことだった。

 

 バナーヌには友達もいなかった。同じ年代の子どもたちはいたが、それは友達ではなく、生存競争の競合者だった。甘い友情の代わりにひりつくような敵意を! 競争、競争、息つく間もなき競争を! イーガ団の教育方針はおおまかこんなところだった。

 

 だから、バナーヌに友達などできるわけがなかった。第一、彼女は子どものくせに妙に無口でおとなしかったため、仮に競争主義がなくとも友達を作るのは難しかっただろう。

 

 たまに、彼女の枕元へ医師がやってきた。医師は彼女の脈を取り、舌を見、眼球を観察し、やる気なく診察をすると、カルテに何やらカリカリと書き込んで、終わりに決まってこう言って去っていった。

 

「まったく良いご身分だな、食っちゃ寝三昧とは。さしずめ仕事仕事仕事の俺たちは奴隷で、お前は王様といったところかな、ハハハ……」

 

 その頃はまだ幼く、純粋だったバナーヌの心は、その度に非常に傷つけられた。力の入らぬ体で苦労をして寝返りを打ち、彼女は横向きになった。綺麗なサファイアの瞳から涙がポロポロと溢れた。

 

 孤独、まったくの孤独だった。窓からは月の光が差し込み、医務室は闇と静寂に包まれていた。ネズミの這い回る音すら聞こえなかった。

 

 はらはらとバナーヌの涙は流れた。熱は引かない、意識ははっきりしない。自分はこのまま死んでしまうのだろうか。いや、死んでも良い。死んでしまいたい。こんなに寂しくて悲しいのなら、ひっそりと死んでしまいたい……

 

 突然、バナーヌの背後から小声で誰かが話しかけてきた。

 

「……バナーヌ、バナーヌ……」

 

 涙も拭わずに、バナーヌは振り返った。

 

 そこにいたのは、小さな女の子だった。確か、名前はノチといっただろうか。おかっぱに切り揃えた黒髪の下で、ぱっちりとした双眼が輝いていた。彼女は腰をかがめ、心配そうにバナーヌの顔を見つめていた。

 

 涙に気づいたのだろうか、ノチは遠慮がちにバナーヌに訊いてきた。

 

「……泣いてたの?」

 

 バナーヌは強がりを言った。

 

「……泣いてない」

 

 その言葉に気圧されたノチは、しばらく押し黙っていた。数秒か数分か、小さな二人の女の子は静かに見つめ合っていた。

 

 しばらくして、ノチは意を決したように「よしっ」と呟くと、何やら包みを開いてその中身をバナーヌに差し出した。

 

「これ、あなたにお見舞いだよ」

 

 バナーヌの目が驚愕に見開かれた。

 

 ノチが差し出していたのは、バナナだった。暗い中でもはっきり分かる、丸々と実の詰まった、新鮮で黄金に輝くバナナだった。それも、三本あった。一本だけでも貴重なのに、三本もあった。

 

 バナーヌはしどろもどろに言った。

 

「えっ、これって……バナナが……その……」

 

 ノチはにっこりと微笑んだ。

 

「あなたが病気って聞いて、お見舞いしなきゃって思ったの。お小遣いを全部使っちゃったけど、何とか三本だけ用意できたんだ」

 

 驚愕のまま固まっているバナーヌに、ノチはなおも促した。

 

「ねぇ、せっかくだし、今食べてよ。今日のお昼に倉庫番から買ったからまだ新鮮だよ。あっ、剥いてあげたほうが良いのかな。ちょっと待ってね」

 

 ノチはバナナを手早く剥いて白い中身を出した。食べやすいように、ノチは皮を剥いたバナナをバナーヌの口元へ運んでいった。

 

「ほら、あーんして、あーん」

「……あ、あーん」

「ほら、パクっと! そうそう、もう一口! あーん!」

「……あ、あーん」

 

 一口、二口と食べる度に、バナーヌの冷え切っていた心が温められた。

 

「美味しい……」

 

 ゆっくりと、バナーヌはバナナを咀嚼した。正直なところ、味はよく分からなかった。それでも、自分が今食べているのはこの世で一番のご馳走なのだと、バナーヌは心の底から確信していた。

 

 バナーヌの両目から温かい涙が流れ出した。滾々と湧き出るように、感謝と幸せの気持ちが凝結した濃い涙が、ポロポロと彼女の目からこぼれ落ちた。

 

「……美味しい、本当に……」

 

 ノチは笑っていた。ノチは片方の手で優しくバナーヌの金髪を撫でながら、片方の手でバナナを食べさせた。彼女は言った。

 

「明日もまた来るからね……」

 

 月の光がノチを優しく照らしていた。バナーヌには、彼女がとても美しく、神々しいものに思えた。

 

 それ以来、バナーヌとノチは友達になったのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 デグドの吊り橋の、その真ん中の浮島に、三人の人影があった。

 

 サクラダはエノキダの両肩を掴むと、いかにも感激したというふうに言った。

 

「エノキダ、本当に無事で良かったワ! 一時はどうなることかと……まあ、アナタが滑落程度で死ぬような男とは思ってなかったけど。ネェ、怪我はしてない?」

 

 エノキダはいつものように無愛想だった。何でもないというように彼はサクラダに答えた。

 

「少し足を挫きました。歩くのには問題ありませんが、走るのは無理です」

 

 バナーヌはその時、二本目になるバナナの皮を剥いていた。丁寧に、祈りを込めて、心をバナナの天使へ向けて、彼女は黄色い皮を剥いた。そして、万感の思いを込めて彼女はバナナを口へ運んだ。

 

「……モグモグ……」

 

 バナナを黙々と食べる奇妙極まりない女をあえて無視するように、サクラダとエノキダは話を続けた。サクラダが言った。

 

「カツラダにロープを探しに一人で行かせちゃったんだけど、早まったかしら?」

 

 エノキダは言った。

 

「カツラダは足が早い。今から追いかけても追いつかないでしょう」

 

 サクラダは困った顔をした。

 

「どうしたものかしら?」

 

 エノキダは答えた。

 

「俺達も馬宿へ帰りますか」

 

 サクラダは空を仰ぎ見た。

 

「……この天気じゃ、朝日を拝むのはもう無理ね。しかたないワ。撤収して再起を図ろうじゃない」

 

 バナーヌは三本目の皮を剥き始めた。これも良いバナナだった。

 

「……モグモグ……」

 

 不意に、サクラダがクツクツと笑いだした。

 

「それにしてもオクタ風船で飛ぶエノキダが見れるなんて……ほんっとーに気色悪い光景だったワ! でも、その分だけインスピレーションがガンガン湧いてきたワ。怪我の功名ってやつかしらね」

 

 エノキダは不愛想な顔のまま答えた。

 

「怪我をしたのは俺ですが」

 

 バナーヌは四本目の皮を剥いた。彼女は祈りを込めて皮を剥いた。「……食せよ、なお食せよ。バナナは希望である。しかし、バナナよ、汝は我が栄え、我が頭をもたげさせるものなり……」 祈りの言葉は彼女の心の中でだけ響いた。

 

「……モグモグ……」

 

 ここで初めて、サクラダはバナーヌのほうへ顔を向けた。彼は不審感たっぷりに彼女を頭から爪先までじっくり観察した。

 

 臙脂色(えんじいろ)のピッタリとしたスーツを身に纏ったその女は、いまだにバナナを一心不乱に食べ続けていた。ハイリア人のようではあるが、これだけの美しさを持った女性を見かけることはなかなかなかった。というより、そんなことは今のご時世では絶無だった。整ったその顔立ちは彫刻芸術を思わせ、澄んだサファイア色の双眼は冷たい光を放っていた。何より目を惹くのが、金髪のポニーテールだった。

 

 無表情でバナナをもぐもぐし続ける女に不気味さを感じながらも、サクラダは一個の大人として彼女に挨拶をすることにした。

 

「それで、アナタがうちのカツラダを助けてくれたのよね? 感謝するワ。アタシはサクラダ。サクラダ工務店社長、兼棟梁、そしてデザイナーよ」

 

 バナーヌは手に持っていたバナナを食べ終えてから、ようやく言葉を発した。

 

「サクラダ?」

 

 サクラダは少しムッとした。なにこの娘、せっかくこっちが挨拶したのに、その返答はなんなのかしら……教育がなってない!

 

 だが、サクラダは出来た大人であった。彼は大きな心で女の無礼を許してやることにした。

 

「そう、サクラダ工務店を知らないのね。まあこんな辺境じゃ知られてないのも仕方ないかもね。良いワ、サクラダ工務店ってのはね……」

 

 サクラダは急に姿勢を正した。そして彼は喉から低い声を出すと、独特の節回しの歌と奇妙な踊りを始めた。

 

「新築 減築 解体 外構〜

 家の 事なら なんでも ございっ♪」

 

 五本目のバナナの皮を剥きながらそれを見ていたバナーヌは、ポツリと呟くように言った。

 

「それ、もう見た」

 

 だが、サクラダはお構いなしだった。

 

「その名も サクラダ

 DADADA サクラダ工務店〜」

 

 バナーヌはまた言った。

 

「もう見た」

 

 サクラダはめげなかった。

 

「さくらだっ DADADA さくらだっ♪」

 

 バナーヌはまたまた言った。

 

「もう見た」

 

 一際キレの良いポーズをサクラダは決めた。こうなれば大盤振る舞いである。彼はその場で華麗に一回転をした。

 

「フワフワ」

「シャキーン!」

 

 トドメとばかりに、彼はウィンクまでした。

 

 だが、渾身のプロモーションを終えたサクラダの足元に、ブスリと音を立てて二本の矢が突き刺さった。見れば、バナナを食べていたはずの女が、今度は弓を構えていた。そのサファイアの目は異様に鋭かった。

 

 突然向けられた殺意に、サクラダは激しく動揺した。

 

「な、なにをするのヨ!?」

 

 だが、その様子を見ていたエノキダは、棟梁とは対照的に落ち着いていた。彼はバナーヌに話しかけた。

 

「落ち着け、妙な動きでは決してない」

 

 しばらくバナーヌは無言でサクラダを観察していた。やがて、どうやら無害そうだと分かると、彼女は弓を降ろした。彼女は言った。

 

「もっとバナナをよこせ」

 

 サクラダは困ったふうにエノキダを見た。エノキダは社長へ耳打ちした。

 

「上に戻してもらう代わりにバナナを二十本やると取引したんです。社長のバナナをやってください」

 

 サクラダは頷いた。

 

「ああ、そういうこと……でも、なんでバナナなの?」

 

 エノキダは答えた。

 

「理由は分かりませんが……たぶん、バナナが好き過ぎるんでしょう。シーカー族のことわざにも『無くて七癖あって四十八癖』と言いますから」

 

 サクラダは、どこか釈然としないふうであったが、とりあえず言った。

 

「ふうん……まあ、そういうことなら仕方ないわね」

 

 とりあえず、サクラダは手持ちのバナナをすべてバナーヌへ渡すことにした。

 

 

☆☆☆

 

 

 結局、カツラダが帰ってくるのを待つことなく、サクラダとエノキダは馬宿へ帰ることにした。歩いていれば、いずれこちらへ戻ってくるカツラダと会うであろう。何よりこの不吉なデグドの吊り橋から早く離れたいという気持ちも二人にはあった。

 

 出発する前に、二人は朝食の山菜おにぎりを食べながら、先程の不審者がスコップで掘っていた場所を調べていた。掘られた場所からは白くて、木の枝よりも太いものが地表へ顔を覗かせていた。それは骨だった。どうやら地下にはまだまだ大量の骨が埋まっているようだった。

 

 サクラダは好奇心から、骨を撫でさすった。

 

「これは……骨かしら?」

 

 傍らで見ていたエノキダも感嘆の念を漏らした。

 

「随分と大きい骨だな」

 

 もっと掘り出せないかと、サクラダは骨を引っ張った。

 

「とっ、とと……随分重いし、長いワねぇ……一体何の骨かしら」

 

 エノキダも骨を引っ張りながら言った。

 

「牛にしては大きい……魔物の骨か……?」

 

 サクラダは軽く悲鳴をあげた。

 

「ヤダ! 気味が悪い!」

 

 二人の男がはしゃいでいるのを、バナーヌはバナナを食べながら眺めていた。彼女の頭の中は多幸感で一杯だった。いっぺんにこんなにバナナを食べたら頭が馬鹿になってしまうのではないかと彼女は思ったが、やはりやめられないし止まらなかった。

 

「めっ! バナナは一日二本までだよ!」

 

 ノチの怒り顔が目に浮かんだ。もうそれの三倍以上は食べてしまった。ごめん、とバナーヌは心の中でノチに謝った。

 

 三人は食事を終えると、即座に出発した。サクラダはエノキダに肩を貸し、エノキダは痛む足を引きずって、ノロノロと歩いた。

 

 意外にも、バナーヌはこの二人に同行することにした。出発前、彼女はさらなるバナナを条件として護衛を依頼されたからだった。エノキダは言った。

 

「報酬としてバナナをさらに十本出そう」

 

 バナーヌは言った。

 

「十五本だ」

 

 エノキダは頷いた。

 

「分かった、十五本出そう」

 

 サクラダは宿を出るとき護衛を断った。だが、こうも変なことが続くと、次は魔物や野盗が襲撃して来ないとも限らなかった。正体不明のバナナ女に護衛の依頼をするのも妙な話だったが、その佇まいや身のこなし、雰囲気からしてどうやらただ者ではないことは明らかだった。女は馬宿で紹介された用心棒よりもよっぽど強そうだった。

 

 二人が前を進み、バナーヌはその後ろについた。二人はゆっくりゆっくり、エノキダの足をこれ以上痛めないように歩いていった。

 

 退屈しのぎに、サクラダとエノキダはヒソヒソと話し合った。サクラダは言った。

 

「エノキダ、後ろのあの娘は一癖も二癖もある女よ。何か隠し事をしてるって感じだワ。油断しちゃ駄目よ。アナタは女に耐性がないんだから」

 

 エノキダはのっそりと頷いた。

 

「大丈夫です。俺はもうちょっと家庭的な女が好きですから。あの女は美しいが冷たすぎる」

 

 サクラダは意外そうな顔をした。

 

「アラ、アナタの好みのタイプなんて初めて聞いたわ。ていうか、エノキダ、アナタに結婚願望なんてあるの?」

 

 エノキダはどこか心外だというような口調で言った。

 

「あります。人並みには」

 

 一方、バナーヌは、十本目のバナナに手を伸ばしていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そうこうしているうちに、三人はデグドの吊り橋を抜けていた。

 

 サクラダはホッと一息ついた。その禿げた頭頂部に汗が滲んでいた。

 

「ふぅ、これで危ないところは抜けたワね。今度は二人で滑落、なんてことになったら冗談にもならないワ」

 

 エノキダも多少元気を取り戻した。彼は両足で地面を踏み、調子を確かめた。

 

「社長、歩くのにはもう慣れました。多少痛むが、もう肩を貸してもらわなくて良さそうだ。このまま馬宿まで帰りましょう」

 

 バナーヌは、バナナを食べるのをやめていた。さすがに一度に十五本は食べ過ぎだっただろうか? 彼女は満腹になったお腹をさすった。そういえば、バナナを食べた後のお祈りをしていなかった。彼女は祈り始めた。

 

 心の中で声をはっきりと出して、彼女は唱えた。「……我は心を尽くしてバナナに感謝し、汝のくすしき御業をことごとく宣べ伝えん。いと高きバナナよ、汝によりて我は喜びかつ楽しみ、汝の名をほめ歌わん。我が敵は退くとき、つまずき倒れて汝の香りの前に滅び去りぬ……」

 

 このまま順調に行けば、三人は昼前に平原外れの馬宿に到着するはずだった。しかし、サクラダには気がかりなことがあった。彼は言った。

 

「それにしても、カツラダが帰ってこないワね。足の早いカツラダのことだから、もう戻って来ても良い頃だと思うんだけど」

 

 エノキダは顎に手をやって考えた。

 

「ロープを見つけるのに手間取っているのかもしれません」

 

 サクラダは呆れたように言った。

 

「馬宿に行けばロープの一本や二本簡単に手に入るでしょう! そんなことで時間が取られるなんて思わないわ! それに事情を伝えたら戻りは馬を貸してくれるかもしれないし。とにかく遅すぎよ、何かあったんじゃないかしら?」

 

 その時だった。バナーヌの鋭い視力は、街道上になにか奇妙なものが存在するのを認めた。どうやら、人が倒れているようだった。彼女は短く言った。

 

「二人とも、止まれ」

 

 有無を言わさぬバナーヌの口調に、サクラダとエノキダは素直に従った。

 

 二人を後ろに残して、バナーヌは倒れている人の元へ走った。

 

 その人は、黒焦げだった。その人はうつ伏せで倒れていて、ピクリとも動かなかった。どうやらその人はすでに息絶えているようだった。

 

 その服装は一般的な旅装だったが、丈夫な帯革(たいかく)と燃え残った盾の残骸から、この人物が用心棒であることが窺えた。その手には折れた弓があった。矢筒には一本も矢がなかった。他に武器は携帯していないようだった。

 

 バナーヌは、死体を仰向けにひっくり返した。意外なことに、死体の正面側は燃えていなかった。泥に汚れた男の顔は青白く、割れたメガネをかけていた。

 

「あっ」

 

 バナーヌは、この顔に思い当たる(ふし)があった。たしか、こいつは平原外れの馬宿で用心棒をやってる、ウドーとか言うやつだ。さして強くもないのに喧嘩っ早いやつで、弱いのにモリブリンの群れに突っ込んでいくという変態だ。口達者ゆえ客を多く集めることができるが、やぶれかぶれの突撃戦術ばかりで肝心の護衛の質はあまり高くないという、珍妙な評判を持つ男だったはずだ。

 

 その男が、なぜこんな場所で死んでいるのか?

 

 とりあえず安全を確認したバナーヌは、サクラダとエノキダの二人へ振り返って手で合図をした。こちらへ来いという意味であった。

 

 その瞬間、バナーヌは右足首に異常な感覚を覚えた。彼女は咄嗟に目をやった。

 

 死体が、彼女の足首を力一杯掴んでいた。




 ゼルダ世界におけるアルコール事情が気になるぅ

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)


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第十七話 ポイントブランク作戦

 死体が蘇る。大厄災以降、ろくでもないことばかり起こるハイラルの大地とはいえ、そのような奇々怪々なことがはたしてあり得るのだろうか。

 

 いや、この問いこそまさに愚問というべきものである。特に、それは戦闘者にとって愚劣極まる問いである。相手が死体であろうとなんだろうと、こちらに危害を加えてくるのならば即座に反撃する。戦闘者とはそのように訓練され、そのように習慣づけられているのだ。

 

 そういうわけで、訓練されたイーガ団員たるバナーヌもすぐに死体へ反撃した。

 

 右足首を掴まれるや否や、彼女はすぐにしゃがみこみ、空いている左足を地面を滑らせるように運び、死体の顔面へ蹴りを放った。

 

「ふっ!」

 

 彼女が狙った部位は鼻だった。彼女は一切の容赦をせずに左足を蹴り込んだ。

 

 強烈な蹴りを食らった死体は、出すはずのないうめき声を発した。

 

「おぐぇっ!」

 

 死体は力一杯掴んでいたバナーヌの右足を離して、両手で顔面を守るように覆った。

 

 足が解放されて、バナーヌは立ち上がった。こうなればあとは容易(たやす)かった。彼女はがら空きになった死体の腹部へと、踏み潰すような蹴りを幾度も放った。一回、二回、三回……蹴りが柔らかい腹部に入るたびに、死体は叫び声を上げた。

 

「おげっ! おげっ! おげっ!」

 

 そして、五回目の蹴りが命中した、その時であった。

 

「おげげ……うぇっ! でげぼぉおおお……」

 

 死体が吐いた。吐瀉物(としゃぶつ)を避けるために、バナーヌは距離を取った。彼女は思わず声を漏らした。

 

「うわっ」

 

 死体は吐き続けた。

 

「げほっ、げほっ、おぇええ……」

 

 どこにそれだけの水分が入っているのか、不思議といえば不思議であった。死体が動くことよりも不思議であった。地面に汚い水たまりを作りながら、死体はなおも吐き続けた。

 

「おぇ、おぇ、おぇええ……」

 

 バナーヌは、腰に手をやってその光景を眺めた。

 

「うーん」

 

 外見では取り澄ましているように見える彼女だったが、実のところ内心ではかなり困惑していた。彼女は正直なところ、少しやり過ぎたとも感じていた。バナナをたらふく食べていつもより気分が上がっていたというのもあるが、これは明らかにやり過ぎだった。

 

 顔に蹴りを入れた段階で相手は無力化されていたのだから、腹部への攻撃など必要ではなかった。だが、「弱った敵は徹底的に叩け!」と、そのように育てられてきたバナーヌである。気づいた時には、彼女の体は勝手に動いていた。だから、これは仕方のないことだったのだ。彼女はそう結論した。

 

 いつの間にか、彼女の後ろにサクラダとエノキダが来ていた。サクラダが言った。

 

「大丈夫!? 何かあったの!?……ってうわ……」

 

 エノキダが低い声で言った。

 

「……これは、ひどいな」

 

 二人が目にしたのは、鼻血で顔面を赤く濡らした男が、ゲロゲロとあたり一面に吐瀉物を吐き散らしているところだった。まさしく酸鼻(さんび)を極める光景だった。

 

 サクラダはじろりとバナーヌを見つめ、やや非難の混じった声色で語りかけた。

 

「これ、アナタがやったんでしょう? アナタ、やっぱり怖いコだったのね」

 

 バナーヌはそっぽを向いて、聞こえるか聞こえないかの声で答えた。

 

「……ちょっと、やり過ぎた」

 

 サクラダは、少し意外に思った。

 

「……ふーん。そう」

 

 どうやらこの娘、罪悪感を感じているらしいワ。冷たいように見えるけど、中身はそこらへんの一般人と変わらない感性の持ち主なのかもしれない。そのようにサクラダは人物鑑定をしていた。彼は(すき)があれば人物鑑定をするのだった。それは一個の会社経営者として身に染み付いた、一種の職業病であった。

 

 しかし、サクラダはすぐに考えを打ち切った。

 

「ま、いいワ」

 

 目の前の哀れな男をどうにかしてやるのが先決であった。持っていた水筒をエノキダに手渡すと、彼は命令した。

 

「エノキダ! その人を介抱してやって!」

 

 エノキダは即座に答えた。

 

「合点!」

 

 部下がいるなら部下に任せる。それがサクラダ流の経営術である。決してゲロまみれの男に近づきたくないわけではない。断じてない。

 

 エノキダは水筒を男の口元へ持っていった。彼は優しい声で言った。

 

「ほら、飲め」

 

 エノキダは大きな無骨な手で男の背中を乱雑にさすりながら、水筒の水を飲ませた。

 

「よし」

 

 ふとエノキダの視界に、ただ見ているだけのバナーヌが映った。彼は言った。

 

「お前も、さすれ」

 

 バナーヌは、小さく頷いた。彼女は男の背中へと回ると、おずおずと壊れ物を扱うようにさすり始めた。エノキダにはそれが物足りなく感じられた。彼はバナーヌに向かって口を開いた。

 

「もっと力をこめろ」

 

 バナーヌの手に力がこめられた。彼女は確かめるようにエノキダに言った。

 

「……こう?」

 

 エノキダはまた言った。

 

「もっと真心(まごころ)をこめろ」

 

 バナーヌはバナーヌなりに真心をこめて背中をさすり始めた。彼女は確かめるようにエノキダに言った。

 

「……こう?」

 

 エノキダはひとまず頷いた。

 

「うん、まあ、良いだろう」

 

 大きなブ男と全身タイツの女に、ゲロまみれの男は背中をさすられ続けた。

 

 サクラダは、思わず(うめ)いた。

 

「なに……この……なんなの、この光景は?」

 

 少なくとも、こんな光景からインスピレーションなど湧かないのは確かだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 数十分後、二人の懸命な介抱を受けて、「死体」だったウドーは息を吹き返した。彼はブツブツと何ごとかを呟いていた。

 

「……まったく、本当に今日は厄日だ……」

 

 まだ立ち上がるほど元気ではないのか、ウドーは地面に座り込んでいた。鼻血を止めるため、彼はちぎった懐紙(かいし)を鼻の穴に詰めていた。その顔には、割れたレンズとグニャグニャに歪んだフレームのメガネを掛けていた。

 

 相手が落ち着いたのを見計らって、サクラダは話しかけた。

 

「それで、アナタは確か馬宿の用心棒の……ウドーさんだったかしら。いったいどうしてこんなところで倒れてらっしゃったのかしら」

 

 問いかけをされても、ウドーはしばらくぼんやりと三人の顔を眺めるだけだった。だが、彼は突然「あっ!」と大きな声を上げた。

 

「そう、そう! 大変なんだよ! 大変なんだ!」

 

 彼はふらつく足で立ち上がろうとし、すぐにまた転んだ。彼はいかにも焦っているというふうで、尋常な様子ではなかった。

 

 サクラダはウドーの肩を抑えて座らせた。

 

「落ち着きなさい。順を追って、イチカラ分かりやすく話して頂戴」

 

 ウドーはやや落ち着きを取り戻した。

 

「あ、ああ……すまん」

 

 はじめはポツリポツリと、合間に水を飲みながらゆっくりと話し始めた彼だったが、そのうち本来の頭脳のキレの良さを取り戻したのか、至極分かりやすい、明瞭な言葉遣いで、彼はそれまでのことを説明し始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウドーは自棄酒(ヤケざけ)をかっ喰らった。強い酒気で彼の理性の働きは著しく鈍っていた。そんな状態でウドーは馬宿を出て、闇夜の中、サクラダ工務店一行を追っていった。

 

 彼が身に纏っていたのはいつもの服装といつもの装備だった。そして、その手には蒸留酒の大瓶とたいまつがあった。

 

 酔っ払いにはつきものの、意味の通らぬ言葉の羅列が彼の口から漏れ出ていた。

 

「俺は強いんだ、最強だ、みんな雑魚だ、イモムシだ。イモムシぞろぞろぞんぞろぞ、お花に()まってさあ大変……」

 

 フラフラと千鳥足で、時々チビチビと酒を呷りながら、ウドーはデグドの吊り橋方面へ歩いていった。

 

「へ、へへ……うへへ」

 

 彼はふわふわとした、雲の上を歩くような心地だった。彼の全身に全能感が(みなぎ)っていた。大瓶の中身はすでに半分以下になっていた。

 

 彼は、久しぶりに良い気持ちだった。普段は酒を過ごさない慎みのある男ではあるが、そのために却って彼は、酒を過ごした時の対処法を知らなかった。とっくに酒量は彼の限界を超えていたが、ウドーは瓶の中身をせっせと胃の腑へ送り込み続けた。

 

 いつの間にか雨が降っていた。細かで、陰気で、冷たい雨だった。彼が手に持っていたたいまつは、ほどなくして消えてしまった。ウドーは雨に向かってくだを巻いた。

 

「あー? ヒック、なんだコラっ、ヒック、この雨っ! コラッ! 火ぃ消えてるじゃねーかよコラっ! 雨っ!」

 

 酔っ払いの思考とは不思議なもので、支離滅裂で滅茶苦茶なことを考えているかと思えば、同時に、一つのことを達成しようと妙な執着を見せることもある。ウドーはその時、まさに後者の状態になっていた。

 

 どうにかしてたいまつに火をつけなければならない。彼は酔っ払った頭脳でそう考えた。サクラダ工務店を追いかけるという本来の目的を忘れて、彼は火を求めて街道を彷徨った。普通の人ならば大樹の下に入るなりして雨を避け、そこで火打ち石を使って火を起こすのであるが、酔っ払いにそのような理屈が思い浮かぶはずもなかった。

 

 そうして、彼は小一時間ほど歩き回った。いつの間にか夜は明けていて、空はやや白み始めていた。ウドーはそれに気づかなかった。

 

 だが彼はふと、妙な光景が眼前に広がっているのを認めた。

 

「なんだぁ、ありゃあ?」

 

 道の先には、二人の人影があった。一人は青い印半纏を身に纏い、腰にゲンノウをさげた男だった。男は髪の毛を短く刈り込んでおり、いかにも若者といった風体をしていた。

 

 もう一人は、人間にしてはえらく大きかった。その人は(そで)の大きな、ゆったりとしたローブを着ていた。首回りが血のように赤く装飾されたローブであった。その頭は異常に細く尖っていて、手足は黒く細長く、手には炎のように光り輝くロッドを持っていた。

 

 しかも、よくよく見ると、そのローブを着た人は宙に浮かんでいた。

 

「うぃー、ヒック」

 

 だが、ウドーがそんな奇妙なものを見て感じたことは二つだけだった。一つ、世の中には、変な特技を持ったやつもいるもんだ。空中浮遊なんて珍しい。もう一つ、あ、火があるじゃねーか。

 

「オラぁー、火ぃ寄越せ、火ぃ寄越せぃー」

 

 フラフラと、ウドーは二人の人影に近づいていった。距離が縮まるにつれて、彼には二人の様子がよく見えてきた。若者は大きな人影に向かい、(ひざまず)いて何か懇願しているようだった。若者は泣きそうな声で叫んでいた。

 

「お助け、お助けッス! 命だけは助けて欲しいッス! 命だけは!」

 

 対して、ローブを着た人物のほうは、愉快そうに「クルッキュウ、クルッキュウ」と笑い声をあげていた。身の毛もよだつような笑い声だった。ローブの人物は笑いながら両手と両足を振り上げ振り下ろし、妙なリズムで踊るような仕草をしていた。

 

 そして、ローブの人物は炎で光り輝くロッドを振り下ろし、若者のすぐそばに火球を飛ばした。若者の目の前に着弾した火球は、一回バウンドしたあと空中で爆発し、無数の火の粉を撒き散らした。若者は叫んだ。

 

「あちちちっ! あっちぃっス!!」

 

 若者の前髪に火がついた。若者は必死になって火を両手で消そうとした。それを見て、ローブの人物はケタケタと邪悪に笑った。

 

 火を消した後、若者はまた跪いて「命だけは!」と繰り返した。だが突然、彼は何かを悟ったような顔をして、すっくと立ち上がった。若者は言った。

 

「そうだ! こんな時こそサクラダ工務店の社訓を実践する時ッス! 見ててくださいッス、社長! エノキダさん! 行くッスよ!」

 

 若者は妙な節回しの歌と独特の振り付けの踊りを始めた。

 

「新築 減築 解体 外構〜

 家の 事なら なんでも ございっ♪」

「その名も サクラダ

 DADADA サクラダ工務店〜」

「さくらだっ DADADA さくらだっ♪」

「フワフワ」

「シャキーン!」

 

 だが、踊りが終わった直後、ローブの人物はまたもや火球を放った。ローブの人物は若者をいたぶるように今度もギリギリのところで火球を着弾させて、若者が火と熱に怯えて慌てふためくのを見てケタケタと笑い声をあげていた。

 

 ここに至って、ようやくウドーは二人に追いついた。彼はいまだに笑い続けているローブの人物の背後から、酔っ払い特有の馴れ馴れしさで声をかけた。

 

「なんだよなんだよ、ずいぶん楽しそうなことしてるじゃねーか、ヒック。ところでそこのローブ野郎くんちゃんさんよぉ、ヒック、わりぃが火、貸してくれよ。なぁ、火だよ火、ヒック」

 

 ローブの人物は怪訝そうに、背後に立つウドーの方へと振り返った。その人物は妙な声を発した。

 

「クキュウ?」

 

 ウドーは、不思議に思った。

 

「あれ?」

 

 このローブ野郎くんちゃんさん、なんと頭がない。そのかわりのように、胸にドでかい顔がついている。顔にはビカビカと光るオレンジ色の双眼があり、剥き出しになった鋭く大きな四本の牙が伸びている。

 

 一方、若者はウドーの姿を認めると、哀れっぽい声をあげた。

 

「あっ、アンタは用心棒の兄さん! 助けてくれッス! こいつは魔物ッスよ!」

 

 ウドーは間の抜けた返事をした。

 

「え、魔物?」

 

 すると、彼の隣の地面に火球が着弾した。

 

「えっ?」

 

 改めて、彼は前を見上げた。ローブの人物がニタニタとした笑みを浮かべていた。

 

 ゾゾゾ、と潮騒のような音を立てて彼の血の気が引いた。それと同時に、彼は急に酔いが覚めてきた。ウドーの脳内に蓄えられた知識は、目の前の存在をピタリと言い当てた。

 

 ウドーは震える声で言った。

 

「ふぁ、ファイアウィズローブ……!」

 

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ウドーの眼前へ二発目の火球が迫っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

「……それで、その火球は何とか避けて、弓矢で反撃をしたんだがね。酔っ払ってるから全然当たらなくて。ついには最後の一発を撃ったときに弓が折れてしまったんだ。もうどうしようもなくてね。逃げ回ってるうちに背中にでかい火球を二発食らっちまって……」

 

 ウドーは面目なさそうに言った。彼は沈痛な表情を浮かべていた。魔物との戦いに完敗したことで、彼は用心棒としての誇りをいたく傷つけられたようだった。

 

 だが、話を聞いていたサクラダは、相手の沈んだ様子にはお構いなしに、ウドーの両肩を掴んでガクガクと揺さぶりながら問いを発した。

 

「ていうかアンタのことなんかどうでも良いのヨ! カツラダは!? ねぇ、カツラダは!? カツラダはどうなったのよ!? まさか魔物に殺されたんじゃないでしょうね!?」

 

 揺さぶられたウドーは叫んだ。

 

「待て待て待て! やめてくれ! また揺さぶられたら……おえ、おぇえ……」

 

 ウドーはまた吐き始めた。サクラダが悲鳴をあげた。

 

「ギャアアアッ! こいつ、また吐いたワ! もう最悪!」

 

 今度は誰もウドーの背をさすらなかった。三人とも、えずくウドーを冷ややかに眺めるだけだった。話を聞いた限りでは、どう考えてもこの男に優しくしてやる必要は感じられなかった。この、クソ酔っ払いが。やはり酔っ払いはどうしようもない。それが三人に共通する思いだった。

 

 ひとしきり吐いて落ち着きを取り戻したあと、ウドーはまた語り始めた。

 

「弓は折れるし矢はないし、背中は二発も食らって燃え上がるしで、正直もう駄目だ、と思ったね。でもここでハッと閃いたんだ。モノの本で読んだんだが、古代シーカー族の武術に『フリシ・ニ』というのがあるらしい。平たく言えば死んだふりなんだが、イチかバチかこれに賭けてみることにしたんだ」

 

 サクラダが質問を挟んだ。

 

「で、今ここにアンタが生きて存在しているってことは、それに成功したわけネ?」

 

 ウドーは自慢げに答えた。

 

「大成功だったさ。俺の旅装は野宿の時でも直に地面で横になれるように、背中にぶ厚く綿が入ってるんだが、これがちょうど雨の水分を吸っててね、良い断熱材になったんだ。背中に下げてた旅人の盾は派手に燃え上がったけど、これがちょうど良い目くらましになったらしい。バッタリと派手に地面に倒れてそのまま火に焼かれるのに任せたというわけさ」

 

 今までずっと黙っていたエノキダが質問をした。

 

「その、ウィズローブという魔物、その程度のごまかしで騙されたのか?」

 

 ウドーは自信たっぷりに答えた。

 

「そりゃそうだ! あいつ、倒れて燃えた俺のそばにやって来たが、指先でちょいと俺をつついたあとは、笑いながら向こうにいっちまったぞ。所詮は魔物、人間の知能には敵わなかったんだ、ハハハ!」

 

 バナーヌは、呆れていた。この男、死んだふりが成功したと思いこんでいるが、そんなものが魔物に通用するわけはない。ましてや、相手はウィズローブである。魔物の中でもかなり高い知能を持つウィズローブに、稚拙な生兵法(なまびょうほう)の「死んだふり」が通じるわけがない。

 

 ところで、さきほどウドーは「フリシ・ニ」の名を出したが、イーガ団にもその技は脈々と受け継がれている。「フリシ・ニ」は死んだと見せかけて相手を油断させ、背後から心臓を一突きにするという殺人術である。それは日々、まさしく命をかけた猛訓練を弛むことなく繰り返すことで、ようやく身につけられる高等技術だった。

 

 もちろん、バナーヌも「フリシ・ニ」を習得していた。彼女がついて習った教官は、すでに九十歳を超えた老婆で、生きているのか死んでいるのか分からないようなシワシワでヨボヨボの人物だった。だが、その技のキレは超一流だった。

 

 独特の呼吸法と精神操作により、瞳孔を散大させ、呼吸を停止させ、心臓の動きを止めるのが「フリシ・ニ」の極意であった。まさに生きながらにして死体となるのである。

 

 バナーヌは、この技が嫌いだった。なぜなら、例の老婆の教官がこの技を実演している最中、本当にあの世へと旅立ってしまったからである。他のイーガ団員はそれを飲み会の席でのとっておきの笑い話にしているが、バナーヌはノチと一緒に、毎年密かに老婆の命日に線香を上げていた。

 

 バナーヌが「フリシ・ニ」について考えていると、エノキダが体をずいっとウドーに寄せて、大きな顔もずいっと寄せて、有無を言わさぬ迫力を込め、詰問するように言った。

 

「それで、お前はカツラダを見捨てて逃げたのか」

 

 ウドーはその言葉を聞いてハッとしたようだったが、しかし次には苦悶と怒りの入り混じった表情を浮かべ、三人へ向かって歯を剥き出しにし、大声で抗弁し始めた。

 

「仕方なかったんだよ! 悔しいが自分の命を守るだけで精一杯だったんだ! 相手はウィズローブだぞ! 勝てるわけがなかったんだ! カツラダとかいう人には悪いとは思うが、俺だって人間だ、命が惜しい! それに、あんたらが馬宿で俺を雇っておけば、こんな事態はきっと防げたはずじゃないか! 俺は悪くねえ、悪いのはあんたらだ!」

 

 ウドーの子どもじみた言い訳を聞いたサクラダは軽蔑するような表情をした。そして、どうせ聞き入れられはしまいが、という気持ちを含ませながらも、諭すように言った。

 

「ねえ、ウドーさん。アタシがアナタを馬宿で雇わなかった理由を言うワ。それはね、アナタに護衛の才能がなさそうだと判断したからじゃないのよ。こう見えてもアタシは建築家であり芸術家だもの。人にどんな才能があるのかはすぐに見抜けるワ」

 

 ウドーが叫んだ。

 

「じゃあ、なんなんだ! どうして俺を雇わなかったんだ!」

 

 サクラダはあくまで冷静だった。

 

「アタシはね、アナタが才能もないのに護衛を天職と思ってるのが滑稽とも哀れとも思えたのよ。だって、そう信じてて上手くいってるうちは良いかもしれないけど、いざピンチになって、場合によっては死ぬって時になったら、今まで自分が大好きだった仕事に裏切られたっていう絶望感を抱いたまま死なないといけないのよ? それは特に護衛とか用心棒っていう仕事の場合はなおさらじゃない? だから哀れに思えたの。そんな可哀想な人に大事な護衛を任せられると思う?」

 

 ウドーは、サクラダが説く言葉に思うところがあったようだった。次第に彼は俯いて、最後は神妙に話を聞いていた。

 

 サクラダはなおも話を続けた。

 

「アナタは何とか命をながらえた。それはとても良かったと思うワ。いくら無骨な大工さんであるアタシたちだって、たとえちょっとした顔見知り程度の仲だったとしても、その人が魔物に黒焦げにされて死んでたら嫌な気持ちになるもの」

 

 サクラダはため息をついた。そして、彼は静かな迫力を伴ってウドーに質問をした。

 

「ねえ、教えて頂戴。カツラダはどうなったの? アナタが見捨てたカツラダ、可哀想なカツラダ、アタシの大事な社員であるカツラダは、いったいどうなったの? 死んだの? 黒焦げになったの?」

 

 ウドーは、顔を上げた。そして、キッパリとした口調で答えた。

 

「カツラダは、死んでない」

 

 サクラダはホッとした。彼はあごをしゃくって続きを促した。

 

 ウドーは話し続けた。

 

「死んだふりをしてやり過ごした後、俺は去っていくウィズローブとカツラダの様子をコッソリ窺ったんだ。魔物はカツラダの背中にロッドを押し当てて、笑いながら空中を歩いていった。カツラダは泣き(わめ)いていた。要するに、カツラダは連れ去られたんだ。彼は魔物に誘拐されてしまった」

 

 エノキダが声を発した。

 

「ウィズローブは、どこへカツラダを連れていった?」

 

 ウドーは、どこか右の方、その遠くへと指をさした。エノキダのみならず、サクラダもバナーヌもその方向へ顔を向けた。ウドーは言った。

 

「俺が()している方角へ少し行くと、今は誰も住んでない家がある。二階建てで納屋までついている立派な家さ。二年前まで老夫婦が住んでたんだが、二人ともボケて病気になったから、遠くに住んでる息子夫婦がやってきて引き取っていったんだ。それ以来ずっと空き家になってる」

 

 エノキダが短く相槌を入れた。

 

「それで?」

 

 ウドーは喋り続けた。

 

「その空き家は、しょっちゅう魔物の住処(すみか)になるんだ。モリブリンが住んでたり、ボコブリンが住んでたりな。たぶんウィズローブもそこへカツラダを連れていったんだと思う」

 

 エノキダは言った。

 

「どうして、そう言えるんだ?」

 

 ウドーは答えた。

 

「ここ最近、魔物の活動が低調だと言っただろ? それは、いつもあの空き家を根城にしているモリブリンたちが居なかったからなんだ。誰が討伐したわけでもないのに出て来なくなったから、不思議に思って俺は調べに行ったんだ」

 

 水筒の水をウドーは飲んだ。間を置かずに彼は話し続けた。

 

「古ぼけた家の庭には、黒焦げになったモリブリンの骨が散乱してた。燃え尽きたバットとか、武器とかもな。残骸はだいたい魔物三体分だったかな。その時は原因が分からなかったが、今だとよく分かる。あの家へウィズローブが外からやって来て、どういう気まぐれか分からんが住みついて、先住者のモリブリンを皆殺しにしたんだろう」

 

 今度はサクラダが疑問を発した。

 

「なるほど、そこへカツラダが誘拐されていったのは分かったワ。でも、なんでウィズローブはカツラダを(さら)ったのかしら?」

 

 ウドーは首を左右に振った。

 

「そこまでは分からない。ただ、ウィズローブは魔物の中でも特殊な存在なんだ。やつらは例外的なまでに高い知能を持ってるし、未だにその生態のほとんどは解明されていない。人間を攫って茶飲み仲間にするか、それともおもちゃにするのか、それは分からないが、とにかくあの感じだったらカツラダをすぐに殺すっていうのは考えづらい」

 

 話は終わった。しばらく沈黙があたりに満ちた。サクラダは、腕組みをして考え込んでいた。彼は目を瞑っていた。しばし沈思黙考した後、彼は隣に立っていたバナーヌの方へ向き、話を切り出した。

 

「ねぇ、バナナ娘さん。ちょっと契約の追加をしたいんだけど……」

 

 

☆☆☆

 

 

 それから、だいたい半時間が経過した。

 

 すでに夜明けからは数時間が経っていた。どんよりと曇った空からは散発的に雨粒が降っていた。そこここで虫やカエルが耳にうるさいほどの大合唱をしていた。

 

 デグドの吊り橋からほど近い所に、その家はあった。白い壁をした大きな家だった。壁には所々に緑の(つた)が絡みついていた。柵は破れていて、屋根瓦は崩れ落ちていた。明らかに、その家に人は住んでいなかった。

 

 その空き家の近くの茂みに、孤影が一つ、息を潜めて身を隠していた。

 

 それはバナーヌであった。

 

 あのあと、バナーヌはサクラダから、カツラダを救出するように依頼を受けた。

 

 禿げ上がった頭頂部が見えるまで頭を下げて、サクラダは真摯な態度でバナーヌに頼み込んだ。

 

「お願い、彼を助けてあげて! カツラダはアタシのかけがえのない従業員なの。絶対に助けてあげたいワ。この通り、頭を下げてお願いするワ」

 

 社長に倣ってエノキダも頭を下げた。

 

「俺からも頼む。カツラダは見捨てられない」

 

 バナーヌは、迷った。ひとまず彼女は考えを整理した。今まではバナナに釣られてこの男たちと同行してしまったが、本来的なことを言うと、こんな連中はほったらかしにして平原外れの馬宿に急ぐのが(すじ)である。冷酷非情かもしれないが、イーガ団のためならば人情は切り捨てなければならない。

 

 だが、例のウィズローブは捨て置くことができない。その魔物が街道にまで出没し、人間を攫うというのならば、今後イーガ団のバナナ輸送馬車を襲撃しないとも限らない。話を聞く限り、今のところウィズローブは一体だけのようだが、そのうち仲間を呼び集めるようになったとしたら大変である。そうなればここら一帯の通行は完全に封鎖されてしまう。

 

 つまり、例のウィズローブは今回の任務遂行において障害となっている。排除する必要があるのは明白だ。彼女はそう結論した。

 

 それに、エノキダが付け加えた一言が、バナーヌの背中を後押しした。

 

「頼む。カツラダは大のバナナ好きなんだ」

 

 サクラダとウドーは、エノキダに「何言ってんだコイツ」というような顔をした。しかし、バナーヌはその言葉を聞いて「それなら助けないわけにもいかないか」という気持ちになった。

 

 彼女としてはウィズローブさえ排除できれば、攫われた人間がどうなろうと知ったことではない。だが、その人間がバナナ好きとあらば、見捨てるのはやはり寝覚めが悪くなるだろう。

 

 それに、彼女は以前、ノチから言われたことがある。

 

「バナーヌ。『情けは人のためならず』だよ。人にかけた情けはいつかは巡り巡って自分の助けになるんだよ。誰でも助けろっていうのは夢物語かもしれないけど、せめてバナナ好きな人くらいは助けてあげたら?」

 

 だから、バナーヌは依頼を承諾した。彼女は報酬として一千ルピーとバナナ五十本を要求した。サクラダはそれを承諾した。

 

 彼女は今、じっと家の中の様子を窺っていた。時折、中から若い男の声が聞こえてきた。おそらく、それはカツラダの声なのだろう。

 

「誰かー! 助けてくれッスー!」

「ここッスよー! 社長ー! エノキダさーん!」

「助けてー! 助けてー! たすけっゴホ、ゴホゴホッ!」

 

 彼は助けを呼んでいたかと思うと、今度は大声で歌い始めた。

 

「あちっ! あちちちち! 分かった、分かったッスよ! 踊れば良いんでしょ、ホラ!」

「新築 減築 解体 外構〜

 家の 事なら なんでも ございっ♪」

「その名も サクラダ

 DADADA サクラダ工務店〜」

「さくらだっ DADADA さくらだっ♪」

「フワフワ」

「シャキーン!」

 

 直後、彼はまた悲鳴をあげた。

 

「アチチチチチ! 踊ったじゃないッスか! 火球はやめるッスよ!」

 

 どうやら、ウィズローブもカツラダと一緒に家の中にいるようだった。バナーヌは密かに家の周囲を巡り、カツラダと魔物が家の中のどの辺りにいるのか当たりをつけた。どうやら、彼らは一番大きなダイニングルームにいるようだった。

 

 どうやって突入するか? 武器はない。首刈り刀はゲルドキャニオンで失われたきりだった。ウドーから小刀でも借りようとしたが、用心棒としてはあるまじきことに、彼は刀剣の類をいっさい持っていなかった。

 

「すまん。俺、剣技は不得手でな……」

 

 それならばせめて武器の代わりになりそうなものをと、バナーヌは二人の大工にゲンノウ(ハンマー)を貸してくれるよう頼んだ。だが、それも断られた。

 

「申し訳ないけど、これは大工の魂なの。武器として使うなんてもっての他よ。いくらカツラダを救うためとはいえ、こればっかりは譲れないわ」

 

 刀剣やゲンノウが使えないのならば、弓矢はどうか? しかし、目標がいるのは狭い室内である。突入して目標を確認し、弓に矢を(つが)えて発射する。その間に向こうは得意の「姿をくらますような」歩行法で動き回り、ロッドから火球を連射してくるだろう。何発か矢を当てられるかもしれないが、その間にこちらが丸焼きにされるかもしれない。

 

 となれば、あとはバナーヌの切り札である「不思議アイテム」しかなかった。

 

 ふと、彼女の頭に思いつくことがあった。彼女は考えを巡らせた。多少強引で、失敗した時にどうなるか予想もつかないが、成功した時は相手に反撃を許さないほど迅速に倒すことができ、かつ人質も無傷で回収できるはず……これでいこう。

 

 決意を固めたバナーヌは、そっと家から離れた。

 

 

☆☆☆

 

 

 カツラダは、疲労困憊していた。

 

 目の前には、朽ちかけた椅子にゆったりと腰掛けているファイアウィズローブがいた。魔物は手にロッドを持っており、もう片方の手で酒瓶を握っていた。酒瓶の中身は強い蒸留酒だった。ウィズローブはそれを、人間で言うなら胸の部分についている大きな顔に近づけて、ラベルをしげしげと眺めた。魔物は酒瓶を傾けて、その中身を四本の鋭い牙の間に流し込んだ。魔物はその動作を繰り返した。

 

 そしてウィズローブは、時折カツラダへロッドを向けて、ギャギャギャと声を出して彼に踊るように命令するのだった。

 

 哀れな人質カツラダは、要求に応えて何回も踊らなければならなかった。

 

「あぁー、新築減築解体外構ぉー、家の事ならーなんでもぉー、ござい」

 

 元気のない、明らかにフラフラとしたおぼつかない踊りでも、ウィズローブは満足するようだった。あたかも幼い子どもが、同じ絵本の同じ箇所を読み聞かせするよう何回も母親にせがむかのようだった。カツラダはサクラダ工務店のプロモーションダンスを延々と繰り返さなければならなかった。

 

 昨晩以来の空腹、何回も同じ踊りをさせられることによる疲労、魔物と同じ空間にいなければならないという恐怖……カツラダはもう、限界だった。

 

 もしかして救いになるようなものがないかと思い、カツラダは窓へと目を向けた。空はどんよりと曇っていて、雨がポツポツと降っていた。そういえば、社長とエノキダさんはどうなったのだろう? そして、あの用心棒は?

 

 魔物が叫んだ。

 

「ギャギャギャ! クルッキュウ! クルッキュウ!」

 

 魔物はまた踊りを要求しているのだった。カツラダは元気なく、ようやくのことで立ち上がった。

 

「はいはい、踊るッスよ……えー、、新築減築解体外構ぉー、家の事ならーなんでもぉー、ございッス」

 

 その時であった。突如、轟音が鳴り響いた。それは天井からだった。何か巨大な質量を持った重量物が、勢いをつけて天井にぶつかった音がした。魔物とカツラダは同時に声をあげた。

 

「ギャ!?」

「何事ッス!?」

 

 そして次の瞬間には、無数の瓦礫を撒き散らし濛々(もうもう)(ほこり)を舞い上がらせながら、何かが天井をぶち破って部屋へ突入してきた。

 

 魔物の叫び声が聞こえた。

 

「ギャギャギャ、ゴェ!!」

 

 カツラダも叫んだ。

 

「うわあああっ!!」

 

 カツラダは頭を抱えて床に伏せた。伏せつつも彼は顔を上げて、ウィズローブの方を確認した。

 

 そこにウィズローブはいなかった。かわりに、一人の女が立っていた。女は臙脂色(えんじいろ)の忍びスーツと忍びタイツを着ていて、顔には覆面をしていた。その手には弓を持っていた。サファイア色の瞳が凛とした光を放っていた。金糸の流れるが如き見事な金髪は、ポニーテールにして纏め上げられていた。

 

 女は、何か妙なブーツを履いていた。ブーツは鉄で出来ていて、いかにも重そうだった。

 

 そしてそのブーツで、女はウィズローブを踏み潰していた。ウィズローブはピクピクと痙攣していた。

 

 女は腰をかがめてウィズローブの手からファイアロッドを奪い取ると、短く言った。

 

「作戦成功」




「エノキダ、カツラダ、生きてるかぁ!?」
「ああ、なんとかなぁ」
「上から来るぞぉ、気をつけろぉ!」

※加筆修正しました。(2023/05/07/日)





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第十八話 二人の友

 ところで、魔物は友情や愛情、尊敬の念といった、それこそ人間しか持ち得ないと一般的には思われているそういった情念を持ち合わせているのだろうか。

 

 これは重要な問いである。なぜなら、それこそ「人間と魔物とを分かつ基準とは一体何であるか」という問いに繋がるからであり、ひいては人間性そのものに関する問いへと繋がるからである。

 

 ハイラルの大地に住まう種族は実に様々である。ハイラル王国の民たるハイリア人、砂漠のゲルド族、火山のゴロン族、水のゾーラ族、空のリト族……噂だが、森に住む謎の種族もいるらしい。

 

 その昔、といってもたかだか百年前までの話であるが、ハイラル王国は軍事的にも経済的にも他に懸絶する実力を有していた。しかし王国は、他種族を征服して完全にその統治下に置くという侵略主義的外交政策を採ることはなく、基本的に穏健な姿勢を崩さなかった。

 

 時には忌まわしい種族間戦争がハイラルの大地を汚したこともあったが、それでも他種族を差別し、絶滅させてやろうなどという醜悪過激な思想に王国首脳部が染まったことはなかった。

 

 この穏健的な外交政策こそ、ハイラル王国がその長い歴史の中で、ハイラルの大地にいわば中原(ちゅうげん)の覇者として君臨し続けることができた要因であった。種族差別はなく(あったとしても政策レベルまでには反映されない)、他種族の王国内での居住を認め、商業活動を推進し、さらには技術や学芸をも、ハイラル王国は積極的に吸収した。

 

 かくのごとくハイラル王国は文化的にも経済的にも他種族と密接な関係を構築していたのであるが、このことは当然、ハイリア人の精神と観念の世界にも影響を及ぼした。

 

 何が問題になったかといえば、それは伸び盛りの国家にお定まりの「いったい我々は何者であるのか?」という議論であった。

 

 ハイリア人も、ゲルド族も、ゴロン族もゾーラ族もリト族も、どれも見た目は異なり、能力も異なり、寿命すら異なっている。しかしながら、どの種族も同じように感情を持ち、思考をし、行動をしている。

 

 それでは、ハイリア人が他種族と比べて優っているところは何か? ゴロン族のように頑丈ではなく、ゾーラ族のように自由自在に泳げるわけではない。リト族のように空を飛び回ることもできないし、ゲルド族のように体格に優れているわけではない。

 

 一体ハイリア人とは何者か? だが、この問いに対する答えは案外すんなりと出た。それは、ハイラル王国の歴史から導出された。

 

 太古の昔からハイラル世界を襲う、ガノンという厄災。その邪悪なる存在に、剣を持って対峙する勇者。そして聖なる力を以て、厄災を封じる姫巫女。

 

 そう、この勇者と姫巫女こそはハイリア人以外にはあり得ぬのである。ならば、ハイリア人とは何者か、という問いに答えるのも簡単だ。

 

 ハイリア人とは、厄災を封じる存在である。

 

 現にハイリア人の王国は一万年前、古代シーカー族の技術協力の元に自動機械の大軍団を作り上げ、厄災を完封したというではないか。

 

 確かに、ハイリア人の個としての実力は他種族と比べるまでもなく貧弱である。しかし、総体としては厄災をも滅する力を有しているのだ。

 

 ハイリア人こそ、このハイラルの大地に平穏と安寧をもたらすものなのだ。

 

 こうして、ハイリア人は民族的なアイデンティティを確立した。次に問題となったのは、厄災そのものについてであった。

 

 ハイリア人は厄災討伐を使命としている。ではその厄災とはそもそも、なにものであるのか?

 

 この問題を解明する上で手がかりとされたのが、多種多様な魔物たちであった。穏やかにして苛烈な自然界の生態系に明らかにそぐわぬ、人に仇なす異形の怪物、魔物たち……この魔物たちを調べることによって、厄災を解き明かすことが可能になるのではないか?

 

 こうして、今まで討伐され、排除されるだけの存在であった魔物たちは、一躍研究の対象として脚光を浴びることになった。熱心な学者たちは挙って魔物たちを追いかけ、捕まえ、観察し、場合によっては解剖した。王国も魔物研究の重要性を認め、専用の研究所を設立し、資金援助を行った。

 

 そのような魔物研究のブームの中で、判明したことが一つあった。それは、魔物といえども人間のような情念を、例えば喜怒哀楽の感情や、愛情や友情、嫉妬や憎悪を持っているということだった。氷漬けになったボコブリンを仲間が知恵を絞って救い出し、ともに喜び合った事例が報告された際、発表会に臨席していた王が「魔物とはいえどなんとも麗しき友情であることよ」と言ったエピソードは有名である。

 

 魔物研究はここでさらに活況を呈した。情念を持つものならば、それは制御可能であろう。魔物を新たな労働資源として活用できる可能性すらある。

 

 だが、この考えはいささか気宇壮大に過ぎた。記録を辿ると、闘技場や騎士訓練場で出し物や標的として使われたという例は僅かにあるが、それ以外で魔物を使役したという例はほとんどない。魔物を完全に制御することは不可能だったのだ。

 

 今や、ハイラル王国は滅んだ。そしてそれと同時に魔物研究も潰えた。魔物に関する膨大な知識の蓄積は、灰となって風と共に消え去ったのである。

 

 

☆☆☆

 

 

 ファイアウィズローブに囚われたカツラダを救出せんと、バナーヌは一計を案じた。普通に室内へ入った場合、魔物と正面から戦わなければならなくなる。しかし、なんといってもウィズローブは強敵である。救出対象たるカツラダを守りつつ、乏しい装備で討伐するのは大変な危険を伴う。

 

 ここで彼女が注目したのが、アイアンブーツであった。この「不思議アイテム」はなかなか変わった特性を持っていた。まず、履くと非常に重たくなる。どんな強風にも飛ばされることがなくなるし、イワゾーのような巨漢が真正面から突っ込んで来ても、難なく受け止めることができる。

 

 第二に、それは履くまでなぜか重量が増えない。手に持っている時やポーチに入れている時には、その重量は魔法のように消え失せていて、履いた瞬間に激増するのだ。

 

 このブーツを使って、奇襲的に室内へ突入する。そういう単純だが豪快な作戦をバナーヌは立てた。彼女は密かに建物をよじ登り、痛んでいる屋根を探した。瓦が割れ、穴が開き、木材が腐っているようなところを彼女は探した。

 

 目当ての箇所はすぐに見つかった。しかもおあつらえ向きに、それはウィズローブとカツラダが居るであろうダイニングルームの上にあった。

 

「ギャギャギャ! ギャギャ!」

「あぁー、新築減築解体外構ぉー、家の事ならーなんでもぉー、ござい」

 

 声が聞こえてきた。魔物は完全に油断しているようだった。好機だった。

 

 バナーヌは煙突によじ登った。少しでも高度を稼ぐためだった。そして登った後、さらに鍛え上げられた跳躍力でもって、彼女は垂直に、高く跳び上がった。それは突入前の予行演習だった。数瞬して、すっと音もなく彼女は着地した。この程度高さを稼ぐことができれば充分だろう。

 

 さっそく彼女は突入することにした。突入後の戦闘に備えて、彼女は弓矢を手に持った。そして彼女は、煙突の上から傷んでいる屋根へ向かって()んだ。

 

 跳躍の頂点へ達した時、バナーヌは、瞬間的に装備を身に着けるという例の特技を発揮して、アイアンブーツを空中で装着した。突如、巨大な質量が彼女に与えられた。落下によって加速度がついた彼女は、狙い違わず屋根をぶち破った。

 

 魔物とカツラダの悲鳴が同時に聞こえた。

 

「ギャギャギャゴェ!」

「うわあああっ!!」

 

 ドカンという大きな音と共にバナーヌは着地した。彼女は靴底に何か妙な感触を覚えた。見ると、なんとも幸運なことに、ウィズローブがアイアンブーツに踏みつぶされていた。魔物はぴくぴくと痙攣していて、直ちに反撃してくる様子はなかった。

 

 バナーヌは素早くファイアロッドを奪い取った。そしていつもの癖で、彼女は小さく呟いた。

 

「作戦成功」

 

 見ると、頭を抱えて床に伏せている若い男がいた。これがサクラダ工務店の従業員のカツラダだろう。彼女は頷いた。

 

「おい」

 

 バナーヌが声を掛けると、カツラダは顔を上げた。彼は突然の事態に驚き、いまだに呆然としているようだった。

 

 こちらをただ見つめてくるカツラダに、バナーヌは冷静な声で促した。

 

「さっさと逃げろ」

 

 カツラダは答えた。

 

「は、はいッス!」

 

 彼女の冷たい声が正気を取り戻す上で役立ったのだろうか、カツラダは立ち上がると、一目散に出口へと向かって走り出した。

 

 出口から外へ出る前に、カツラダは律儀にも振り返って、バナーヌに礼を言った。

 

「キレーな姉さん、ありがとうッス! ご恩は一生忘れませんッス!」

 

 バナーヌは適当に手を振ってそれに答えた。彼女は足元を見た。あとはウィズローブを始末するだけであった。すでに魔物はアイアンブーツで踏み潰されている。ロッドも奪い取った。後は、トドメを刺すだけだ。

 

 ガン! ガン! ガン! と、バナーヌは重たいアイアンブーツで三回、敵を踏みつけた。魔物は苦悶の声をあげた。

 

「ギョッ、ギョッ、ギョッ!」

 

 バナーヌは不満そうな声を発した。

 

「むぅ」

 

 だがウィズローブは消滅には至らなかった。案外頑丈なやつだ。ここはやはり、弓で顔を打ち抜くべきなのだろうか? そう思ったバナーヌは、二連弓に矢を(つが)えた。彼女は足元のウィズローブに狙いを定めた。

 

 その時であった。殺気を感じ取ったのだろうか、ウィズローブは怒りと憎悪と後悔と、どこか哀願するような調子の入り混じった、聞くに堪えない醜悪な叫び声を上げた。

 

「クルルアアアッ!!」

 

 そして叫ぶや否や、ボンッという音と共に、ウィズローブはその体を風船のように一気に膨らませた。その急激な膨張力は尋常なものではなかった。アイアンブーツを履いたバナーヌを跳ねのけるほどに、それは強力だった。

 

 バナーヌは思わず声を漏らした。

 

「なにっ」

 

 バナーヌはバランスを崩され、倒れそうになった。だが咄嗟にアイアンブーツを脱ぐと、彼女は態勢を整えた。見ると、ウィズローブはいつものように宙に浮き、胸の部分についた顔を敵意と憎悪に歪めながら、四本の牙を剥き出しにして彼女を睨んでいた。

 

 だが、やつの武器であるファイアロッドはすでに奪い取ってある。バナーヌは考えた。ウィズローブは強力な魔法の使い手ではあるが、徒手空拳で戦えるなど聞いたことがない。さきほどの膨張は、さしずめ最後の悪あがきというところだろうか。

 

 唸り声をあげて、ウィズローブはバナーヌを威嚇した。

 

「グルルル……」

 

 魔物は逃げる素振りをまったく見せなかった。得意の「姿をくらませる」歩行法をすれば、少なくともこの部屋から脱出はできるだろうに、魔物はそれすらしなかった。

 

 バナーヌは、弓を引き絞った。何だか不気味な敵だが、さっさと始末して終わらせるに限る。澄んだサファイアの双眼でしっかりと敵を見据えると、彼女は殺意を込めて矢を放った。

 

 その瞬間だった。さっき出ていったはずのカツラダが、悲鳴を上げてまた部屋へ戻ってきた。

 

「あぁあうわぁああっ!!」

 

 カツラダは慌てふためいていた。直後、魔物とバナーヌは声を発した。

 

「ギョエエエエェエッ!」

「……ちっ!」

 

 どんなに鍛錬を積んだ肉体と精神でも、突然発せられる音に対して無感覚でいることはできない。音に反応したバナーヌの肉体は、わずかに矢の狙いを()れさせてしまった。放たれた二本の矢は標的の顔を外れ、胴体部分に突き刺さった。ウィズローブは床に崩れ落ちた。

 

 だが、致命傷ではない!

 

 しかも、ものすごく邪魔なことに、カツラダがバナーヌの足元に縋り付いてきた。

 

「姉さぁーんっ!!」

 

 彼は明らかに恐怖で我を失っていた。彼は涙まじりの大声で喚き散らしていた。ものすごく邪魔だった。カツラダは喚き散らした。

 

「姉さん、姉さん! 助けて、助けて!!」

 

 バナーヌは乱暴にカツラダを振り払うと、落ち着かせるために顔へ一発、平手打ちを食らわせた。彼女は言った。

 

「落ち着け」

 

 カツラダは痛みに叫んだ。

 

「いてぇッス! いや、そんなことより、アレ、アレを見てッス!」

 

 カツラダは震えながら部屋の入口を指さした。

 

「クルッキュウ……」

 

 そこには、もう一体のウィズローブがいた。今までバナーヌが対峙していたものとは違って、その体格はやや大きく、手足も太く、ローブの赤い装飾はもっと派手であった。その手にはファイアロッドよりも大きく立派な、溢れんばかりの熱量を発するロッドを持っていた。それはメテオロッドだった。

 

 新手のウィズローブは、その紅蓮の両目に強い殺気を込めて、一心にバナーヌを睨みつけていた。

 

 バナーヌの口から言葉が漏れた。

 

「メテオウィズローブ……!」

 

 ファイアウィズローブの上位種であるメテオウィズローブが、そこにいた。予期せぬ強敵の出現に、顔には出さないながらもバナーヌは驚愕していた。

 

 カツラダが泣きながら言った。

 

「家を出ようとしたらもう一匹いたんス! 助けてほしいッス!」

 

 魔物たちが鳴き声を上げ始めた。

 

「クルッキュウ! クルッキュウ!」

「クルッキュウ……」

 

 矢で撃たれたウィズローブは歓喜の声をあげていた。新手のメテオウィズローブは低い声を上げ、油断なくバナーヌを見据えていた。

 

 カツラダは囚われの部屋へと戻ってきてしまった。しかも、敵は二体に増えた。状況はふりだしに戻ったばかりか、むしろ悪化してしまった。なんということだ。表面上はいまだに冷静さを保っているバナーヌのひたいに、一筋の汗が流れた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そのウィズローブは一人ぼっちだった。

 

 彼も他の魔物と同様、いつかの赤い月の時に、この広大なハイラルの大地の片隅でひっそりと発生した。発生したときから、その手にはファイアロッドがあった。彼の体の中には溢れんばかりの魔力があった。誰かから告げられるまでもなく、彼は己がファイアウィズローブであることを、発生直後から自覚していた。

 

 だが、発生したからといって、特にやるべきことなど彼には何もなかった。彼には倒すべき敵も、果たすべき使命もなかった。彼は生まれ落ちた後、適当に野山をうろつき、時折見かける人間を面白半分に襲撃し、ボコブリンたちの拠点に火を放って遊んでいた。

 

 ただの魔物ならばそれで満足だっただろう。襲撃し、奪い、殺す。これさえできれば、魔物たちにとって幸せなのだから。しかし、彼はウィズローブだった。高い知能を持つウィズローブだった。そして、高い知能を持っているということは、退屈を覚えるという厄介な習性を持っていることも意味した。

 

 次第に彼は、単調な日々の繰り返しに退屈した。彼が歩き回ったハイラルの大地は広大だったが、心を震わせるような強い敵もおらず、興味を惹くような面白いものもなく、美味い食べ物もなかった。おまけに持て余した魔力は彼の体をほてらせ、彼の神経をいらだたせた。

 

 退屈をどうにかこうにか紛らわせ、溜まった鬱憤を発散する方法としては、野山に放火することが一番だった。最大にまで魔力を込めた火球を連発し、緑豊かで花咲き乱れる美しい森を丸々一つ灰燼に帰すこと、それは彼の数少ない楽しみの一つだった。炎に追われて逃げ惑う野獣たちや、煙に巻かれて空からバタバタと落ちる小鳥たち、焼け出されて呆然とするボコブリンたちを見るのが、彼にはとても楽しかった。

 

 それでも、一時の興奮が冷めると、どうしようもないほどの虚無感が彼を襲った。こんなことをして何になるのか? 確かに面白いかもしれないが、ただ面白いだけだ。つまるところ、やっていることは火を放っているだけ。それは呼吸し、食事をし、排泄をすることと何の違いがあるというのか?

 

 永遠に続くかと思われるような、暗い単色に塗り込められた日々だった。だが、転機というものは必ずあるらしい。満たされない日々を送っていたウィズローブだったが、そんな彼にもそれはしっかりと訪れた。

 

 ある日のことであった。彼はいつものように退屈を発散させようと思って、適当な場所を探していた。しばらくうろつくと、今まで彼が見たこともないような美しい森に行き着いた。高さも葉の茂り具合も同じような樹木が等間隔に植えられていた。樹々はどくろ型の大きな岩を囲んで立っていた。その周りには色味豊かな花々が咲き乱れていて、綺麗なチョウやうるさい羽音のクマバチが飛び回っていた。鹿は静かに草を食み、鳥たちは美しい合唱をしていた。

 

 燃やし甲斐のある森だ、と彼は思った。こんな綺麗な場所を燃やすのは初めてだ。もしかしたら今までにない楽しみが得られるかもしれない。そして、終わった後はきっと、いつもと同じように落胆して、満たされない思いを抱いてまたどこかへ行くことになるのだろう……

 

 彼は渾身の力を込めて大火球を作り上げると、力いっぱいロッドを振り下ろし、その美しい森へ向けて放った。

 

 その時、何かが急に彼の目の前に現れた。その何かは彼と同じようなローブを身に纏っていて、大きなロッドを持っていた。何かはロッドを振るうと、あっという間に彼がさきほど放った火球を消し去ってしまった。

 

「クルッキュウ……」

 

 突然乱入してきた存在に、彼は驚いた。せっかくの楽しみを邪魔されて、彼は怒った。なんてことをするんだと言わんばかりに、彼はロッドを振るって攻撃した。

 

「クルッキュウ! クルッキュウ!」

「クルッキュウ……」

「クルッキュ、クルッキュアアア!」

「クルッキュウ……」

 

 しかし、攻撃はすべて躱されてしまった。しかも、相手はまったく反撃をしてこなかった。撃ち続けたせいで、ついに彼の魔力は切れてしまった。

 

 ばてた彼を見て、ようやく新手のウィズローブは攻撃に移った。相手は彼の作り出すものとは比べ物にならないほど強力な火球を同時に三つも生み出し、放ってきた。

 

 実力が違い過ぎた。彼はもはや反撃もできず逃げ回り、焼かれ、ロッドでしたたかに打ち据えられた。彼は頭を下げて許しを乞うた。

 

 戦いともいえない戦いが終わった後、新手のウィズローブは彼に語った。ここは私の森、私の住処(すみか)だ。お前のような半端者(はんぱもの)に燃やさせるわけにはいかない。見たところ、お前は力の使い方が分かっていないようだ。だから森を焼くなどというちんけな遊びに興じることになったのだ。これからは私がお前を導いてやる。師としても、友としても、私という存在なしにはもはや生きられないようになるだろう……

 

 こうして、日々を無為に過ごしていたファイアウィズローブは、メテオウィズローブという友と師を得て生まれ変わった。

 

 二人はハイラル各地を巡り、時には遊び、時には戦った。経験と研鑽を積み、戦い方を改良し、二人で強敵に立ち向かった。そんな日々は、ファイアにとって夢のように楽しかった。

 

 次第にファイアはメテオに対して尊敬と信頼を深めていった。メテオのほうも、ファイアに師と弟子という関係を超えた親愛の情を抱くようになった。それでも、ファイアが旅の途中で覚えた飲酒の習慣に対しては、彼はいつまでも文句を言っていた。

 

 二人は最近になって新居を得た。ある日、彼らが闘技場跡地へ立ち寄った後のことだった。ぶらぶらと付近を放浪していた時、怪しげな人間の男が二人に話しかけてきた。男は小さく不格好な体に大きな荷物を背負い、頭にはウィズローブを(かたど)ったと思しき下手な作りのマスクを被っていた。人間の男は、わざとらしく魔物の臭いを纏っていた。

 

 男は灰色の肌の手を振り回しつつ、甲高い声で熱弁を振るった。

 

「いやはや、二人連れのウィズローブだなんてとても珍しい! どうか私と友達になってください。いやいや、決して怪しい者ではありませんよ。それで、お名前は? なるほど、ファイアさんとメテオさんというのですか。私の名前? まあ、あなた方には人間の名前などどうでもよいでしょう。とにかく、どうぞよろしく! おお、あなたはお酒がお好きなのですか、それではこちらを差し上げましょう……」

 

 人間の男が何の敵意もなく、何の恐怖もなく、人懐っこい調子で話しかけてきたものだから、二人のウィズローブはすっかり驚いてしまった。もとより人間と魔物との間で会話が通じるわけはないのだが、この人間の男はどういうわけか二人の思っていることをすべて先回りして察することができた。男はぺちゃくちゃとおしゃべりをし、おまけに色々と贈り物をくれた。

 

 吊り橋近くの廃屋を紹介したのも、その男だった。

 

「旅をしているとはいえ、安心して身を落ち着ける住処(すみか)は必要でしょう、今は無粋なモリブリンたちが住んでいますが、お二人ならばすぐにでも追い出せるでしょう。他に欲しいものがあったら何でも言ってください……」

 

 男の言った通り、そこには住み心地の良さそうな家があった。比較的穏やかな性格をしているメテオは、対話と交渉によってモリブリンたちを退去させようとしたが、突然やってきたやつらにすごすごと安住の地を譲り渡すようなモリブリンたちではなかった。モリブリンたちは手に手に武器を持って歯向かってきた。結果は、言うまでもなかった。二人は住処を手に入れた。

 

 二人は面白おかしく、毎日を愉快に生きてきた。だが、どんなに良好な友情を育んでいる仲であっても、時には喧嘩をするものである。

 

 その日、ファイアとメテオは肉の焼き方を巡って喧嘩をした。ファイアは酒に合うように岩塩を振った良く焼け肉(ウェルダン)を欲したのだが、メテオは軽く表面をあぶった肉が食べたかった。口論のきっかけはこのように些細なものだったが、前々から飲酒の癖を良く思っていなかったメテオがこれにかこつけて文句を言い始めると、ファイアもいい加減にメテオの説教癖にうんざりしていたところであったため、いつになく口論は激しくなった。

 

 口論自体はものの十分もしないで終わった。だが、メテオは家を出ていってしまった。ファイアはまったく面白くなかった。彼は怪しげな男からもらった酒を飲んで憂さ晴らしをしていた。

 

 広い家に一人ぼっち。ファイアは何となく、昔を思い出した。広い大地にたった一人。あの時の自分は、まったくの孤独だった、そして今も……

 

 それでも、メテオに対する怒りはなかなか収まらなかった。ファイアは憤懣を抱えて酒を飲み続けた。彼はそのうち、家を出て外へ行くことにした。もしばったりとメテオに会えたら、謝るか、それとも喧嘩の続きをするか、それは決めていないが、とにかく彼は昔のように一人で歩き回りたい気分だった。

 

 街道のほうまで来て、彼は面白い拾い物をした。青い服を着た若い人間の男が、雨の中を脇目も振らずに走っていた。魔物特有の嗜虐心が刺激された彼は、こっそりと先回りをして、突然姿を現した。

 

 人間は面白いくらいに動揺した。

 

「えっ?……うっ、うわぁああ!!」

 

 人間はすぐに背を向けて逃げ出そうとした。彼はそこをまた先回りをした。人間はまた逃げた。彼はまた先回りをした。

 

 ついに、その人間は地面にへたり込んでしまった。そしてその人間は、(ひざまず)いて何やら懇願し始めた。

 

「お助け、お助けッス! 命だけは助けて欲しいッス! 命だけは!」

 

 彼はちょっと火球を出して脅かしてやった。人間は、今度は奇妙な踊りを始めた。

 

「そうだ! こんな時こそサクラダ工務店の社訓を実践する時ッス! 見ててくださいッス、社長! エノキダさん! 行くッスよ!」

 

「新築 減築 解体 外構〜

 家の 事なら なんでも ございっ♪」

「その名も サクラダ

 DADADA サクラダ工務店〜」

「さくらだっ DADADA さくらだっ♪」

「フワフワ」

「シャキーン!」

 

 まるで意味が分からなかったが、死に物狂いのその表情と、震えを必死に抑え込んで踊る様子が、いたくファイアの琴線に触れた。彼はその人間を連れ帰って憂さ晴らしのおもちゃにすることにした。

 

 そのあと、酒の臭いをぷんぷんと漂わせた、見るからに貧弱な人間の男がやってきた。だが、その酒臭い男はまるでお話にならなかった。ちょっと燃やしてやると、酒臭い男は死んだふりをしてやり過ごそうとしたので、ファイアはそのまま放置することにした。別に殺してやっても良かったのだが、彼は早く帰って「おもちゃ」で遊びたかった。

 

 こうして、一晩中人間で愉快に遊んでいたファイアだったが、その楽しみは台無しにされた。

 

「作戦成功」

 

 突然、何かとても重たいもので踏みつけられ、彼はロッドを奪われた。

 

「グルルル……」

 

 メテオから教わった奥の手で跳ねのけることはできたが、敵は弓矢をしっかりと構えていた。逃げ出しても良かったが、彼は何とかして目の前の敵に一泡吹かせてやりたかった。

 

 今まで無意味な死を無数の生き物に強要してきたファイアであったが、こうしていざ自分に死ぬ番が回ってくると、どうしようもない絶望感と怒りを彼は覚えた。

 

 そして、その次には後悔がきた。メテオと喧嘩などしなければ良かった。肉の焼き方などどうでも良いことだった。酒を止めろと言われたら止めるべきだった。失うべきでなかったのは、メテオとの友情だった……

 

 人間の女の殺気が引き絞られていくのが感じられた。それが限界に達した時、矢が放たれるのだろう。彼はそう思った。しかし、どうすることもできなかった。

 

「あああうわぁああ!!」

 

 叫び声がした。次の瞬間、彼の腹に二本の矢が刺さっていた。

 

 しかし、大した怪我ではなかった。それよりも、もっと重要なことがあった。

 

「クルッキュウ……」

 

 そこには、自分の友が立っていた。それを見て彼は、自分はやはりメテオなしでは生きられないのだと思った。

 

 

☆☆☆

 

 

「どうするッスか!? どうしたらいいッスか!? 姉さん助けてッス!」

 

 人生最大級の生命の危機に直面して、カツラダは完全に取り乱していた。彼は涙と鼻水を顔面にまき散らしていた。彼はみっともなく謎の女に助けを求めていた。

 

 部屋の入口側に立っている大きなウィズローブが、ずいっと歩を進めてきた。魔物は低く声をあげた。

 

「クルッキュウ……」

 

 カツラダは恐怖して思わず、女の足に縋り付いた。

 

「ひぃっ!」

 

 間髪入れずに一発の平手打ちが繰り出された。女は言った。

 

「落ち着け」

 

 平手打ちは電撃のような痛さだった。彼は叫んだ。

 

「いてぇッス!」

 

 ぶたれた頬を抑えながら、カツラダは女を見た。女はまったく取り乱した様子がなかった。女は弓と矢で新手のウィズローブを狙いつつ、もう一方への殺気も切らしていなかった。なおかつ、彼女はなにやら周囲の様子を探っているようだった。

 

 ぶち破られた屋根から薄暗い空が見えていた。天井の大穴から入ってくる淡い光線が、女の見事な金髪のポニーテールを照らしていた。

 

 突然、女は弓を背に戻した。カツラダは叫んだ。

 

「えっ!? 姉さん、なんで弓をしまうッスか!?」

 

 なぜここでそんなことをするのか、カツラダには理解できなかった。

 

 次に、女はへたり込んでいるカツラダの両肩を掴んだ。その両手には、いつの間にか茶色のブレスレットが(はま)っていた。

 

 ここで初めてカツラダは、女の氷のような美貌に気が付いた。姉さん、すげえ美人だったんだな……場違いにもほどがあることを彼は考えていた。

 

 彼と彼女の目と目が、しっかりと合った。そして、何か決心したように女は呟いた。

 

「よし」

 

 カツラダは言った。

 

「よしって……一体どうしたんスか?」

 

 入社以来、サクラダ社長の厳しい監視のもとに置かれていたせいで、カツラダは女性と付き合ったことも遊んだこともなかった。うぶなカツラダは、緊急事態だというのに心臓が別の意味でドキドキとした。

 

 女が短く問いかけてきた。

 

「いいか?」

 

 カツラダはほぼ反射的に答えた。

 

「えっ、えーっと、いいッス!」

 

 次の瞬間、女はカツラダを両手で持ち上げると、勢いをつけて放り投げた。カツラダは絶叫した。

 

「ううわわああっ!!」

 

 あたかも大型弩砲(バリスタ)から発射された矢のように、カツラダは薄暗い天空へ向かって天井の大穴から飛び出していった。




 厄 友情談疑

※加筆修正しました。(2023/05/07/日)


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第十九話 炎のさだめ

 ある者が戦いに挑む時、その者は二つの敵と同時に戦っている。一つの敵は、言うまでもなく眼前に立つ対戦者そのものであり、もう一つの敵は、心の範疇の外からくる「予期せぬ事態」である。

 

 そしてこの二つの敵のうち、どちらがより危険でより強力かといえば、それは「予期せぬ事態」のほうである。それは突然現れ、精神に打撃を加え、心の均衡をかき乱す。今まで組み立ててきた作戦、磨き上げてきた武技、練り上げてきた胆力、それらすべてを混乱させ、無秩序におき、台無しにしてしまう。

 

 だからこそ、ありとあらゆる戦闘訓練は心と技と体を鍛えることを目的としているのだ。強敵と対峙した際に心が怖気づかないように、そして何より、不測の事態にあって闘争心を萎縮させないように、心と技と体を鍛えねばならない。

 

 体を鍛えることで技を扱うことができるようになり、技を磨くことで心は「どんな強敵にも負けない」という自信を得て、そして、心が泰然自若として不動であるならば、体はいかなる状況でも怖じることなく自在に動く。

 

 天性の強靭な肉体も、異能の如き才能も、持って生まれた類稀な幸運も、この三位一体を欠いてはものの役には立たない。凡才も天才も日々の鍛錬と努力を怠らないのはこのゆえである。

 

 そして、この己を磨き上げるという自己教育能力こそが、魔物にはない人間の強みなのであり、人間に固有の特質なのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

「ううわわああっ!!」

 

 驚きと恐怖と絶望の入り混じった絶叫を残して、カツラダは空へと旅立っていった。投げ飛ばした張本人であるバナーヌは、軽くため息をついた。

 

「ふぅ」

 

 彼女はひたいの汗を拭った。懸念の一つが簡単に片付いて、彼女の精神に少しだけゆとりが生まれた。

 

 非戦闘員であるカツラダを守りながら、狭い室内で二体のウィズローブと戦闘をする。そんなことはどう考えても不可能である。そんなことをすれば確実にカツラダは火だるまになって無念の(しかばね)を灰とするであろうし、バナーヌ自身も、よもや負けることはあるまいが、少なからぬ損害を負うであろう。

 

 だから、彼女は最初にカツラダを脱出させることにした。パワーブレスレットを装着すれば、小屋ほどに大きい岩を軽々と持ち上げられるほど腕力は強化される。ゆえに、カツラダを天高く放り投げることなど容易かった。

 

 放り投げられたカツラダが落ちた先で岩にぶつかったり、硬い地盤にめり込んだり、木の枝で串刺しになったりする可能性はあったが、この場から迅速に脱出させるには他に方法はなかった。

 

「確実に死ぬ」のと「悪くしたら死ぬ」の二択ならば、後者を選ぶのは当然である。それにバナーヌにしては珍しいことに、投げ飛ばす前にちゃんと承諾も取った。相手も快諾した。なぜか大工は顔を赤らめていたが、おそらく魔物の出現に興奮していたのだろう。彼女はそう思った。

 

 自分とは縁もゆかりもないただの一般人だが、彼はバナナ好きらしい。無事に着地してくれることを彼女は祈った。

 

 あとは、敵を排除するだけだった。彼女は改めて敵と対峙した。

 

 バナーヌはダイニングルームのちょうど中央あたりにいた。ファイアウィズローブは左手側の壁際(かべぎわ)に立っていた。新手のメテオウィズローブは右手側、キッチンと寝室につながる部屋の入り口にいた。

 

 二匹のウィズローブたちはバナーヌを挟んで、人間には分からぬ謎の言語で盛んに呼び合っていた。

 

「クルッキュウ……」

「クルッキュウ! クルッキュウ!」

 

 魔物たちは何やら、相談事をしているようだった。その内容は分からなくとも、何を企んでいるのかバナーヌは推測できた。「この人間の女をどうやってぶち殺すか」の算段をつけているのだ。

 

 突然、ファイアウィズローブがバナーヌに対して()えかかった。

 

「クルゥアアアッ!」

 

 威嚇のためなのか、それとも絶対的優位にある自分たちの優越感を誇示するためなのか。その吠え声は、踏み潰されて惨めに床に這いつくばっていた時とは全く違う、驕りと嘲りの調子を含んでいた。

 

 だが、バナーヌは動じなかった。彼女は左右の敵に対して間合いを取り、殺気を切らさずそれでいて冷静に、そして素早く状況を分析した。

 

 メテオウィズローブの出現は、まさにバナーヌにとって予期せぬ事態であった。相手が一匹であったからこそ、貧弱な装備しかない現状であってもこちらから出向いて攻撃をかけたわけであるし、事実それは半ば成功しかけていたのだ。

 

 しかし、敵が二体に増えてしまった。新手は無傷で元気いっぱいで、おまけに敵意に満ち満ちたメテオウィズローブだった。メテオウィズローブは膨大な魔力を秘めたメテオロッドを手に持っていて、油断なく出口を固めていた。

 

 メテオウィズローブは、まだ攻撃をしてこなかった。身じろぎもせず、ただオレンジ色に輝く両眼をじっとバナーヌに向けているだけだった。どうやら相手の実力を見極めているようだった。

 

「クルッキュウ……」

 

 対して、ファイアウィズローブの方は盛んに奇声を上げていた。

 

「クルッキュウ、クルゥウワァアッ!」

 

 魔物は腕を振り上げ、振り下ろし、全身をゆらゆらとせわしなく動かしていた。魔物は自分たちの勝利を確信していた。これからどうやってこの生意気な人間に最大限の苦痛と屈辱を与えて殺してやるかを想像して、魔物は興奮しているのだった。

 

 バナーヌは素早く考えた。状況は? 狭い室内で、二対一で、敵に挟まれている。つまり、圧倒的にこちらが不利だ。

 

 イーガ団の戦闘教義は、一対多の戦闘を固く禁じている。逆に言えば、イーガ団の戦闘教義は数的優位の重要性を強調していることになる。強敵に遭遇した場合は、単独での戦闘を避け、増援を要請し、数的優位を作った上で、奇襲とふいうちをかけるべし、と戦闘教義は説いている。

 

 日頃の鍛錬によって肉体と精神に刻み込まれた戦闘教義に則って、バナーヌは決心をした。ここは、逃げの一手である。ここを脱出し、いち早く平原外れの馬宿に到達して、そこの常駐連絡員に増援を要請する。しかる後に悠々とこの二体の魔物をやっつけてしまえば良い。

 

 それでは、どうやって逃げるか? 出口はメテオウィズローブに塞がれている。天井の大穴は、先ほどカツラダを放り投げたあと、そこから逃げられるのを警戒したのか、ファイアウィズローブが近くに陣取って塞いでいる。

 

 だが、何としてでも脱出しなければならない。それに、断固とした脱出行動を完全に阻止することは事実上不可能であると古代兵法「ブン・ソ」も述べている。やってやれないことはないはずだ。多少強引だが、ここは力づくで行くしかない。彼女はそう考えた。

 

 睨み合いが始まってから、わずかに一分しか経っていなかった。バナーヌは動いた。ここは速攻、奇襲あるのみだ! バナーヌは、手に持っていた何かをファイアへ投げつけた。

 

 顔面へ向かって勢い良く飛んできたそれを、ファイアはキャッチした。それは、先ほど奪われたはずのファイアロッドだった。

 

「ゲゲ?」

 

 ファイアは、困惑した。なぜ? せっかく奪ったものをどうして返した? これを返すから見逃してくれということか? いや、他に何か作戦が……?

 

 敵の謎の行動にファイアの精神が混乱したその一瞬の(すき)をついて、バナーヌは一挙に接近した。そして彼女は、そのしなやかな右手を振り上げて、砕けよといわんばかりの勢いで彼の顔面に思いきり叩きつけた。

 

「ふんっ!」

 

 肉の詰まった袋を、硬い棒で打ったような音が響いた。突然の鋭い痛みに、ファイアは悲鳴を上げた。

 

「ギョギョギョゴエエエエ!?」

 

 彼は思わず、両手で顔面を抑えてしまった。せっかく手元に返ってきたファイアロッドを、彼は取り落としてしまった。

 

「ゴェッ、ゴェッ……ゲゲ?」

 

 彼は、口の中に石のようなジャリジャリとした感触があることに気づいた。これは、牙だ! 四本あった自慢の牙が、叩き折られて無数の欠片となっていた。

 

 ファイアは敵の手を見た。敵の右手には、いつの間に持っていたのか、小さなハンマーのようなものがあった。頭の部分は金属製で、先端は尖っていた。あれで自分の顔面を打ったのだ。ファイアはそう悟った。

 

 このゲンノウ(ハンマー)は、バナーヌがカツラダからスリ盗ったものであった。投げ飛ばす前、「いいか?」と承諾を取った時に、バナーヌは彼の腰に下げてあるゲンノウをさり気なく取って、我が物としていたのだった。

 

 牙を折られてショック状態にあるファイアに、バナーヌはまったく容赦なく、情け無用の猛連撃を加えた。

 

「ふっ!」

 

 彼女はゲンノウで彼の顔面を滅多打ちにした。しかも彼女は、折れた牙をさらに執拗に狙った。彼女は蹴りを敵の腹部に送り込んだ。そして彼女は、床に落ちていたファイアロッドを器用に足で蹴り上げると、左手でキャッチして確保した。これでまた、敵は武器を失った。

 

 ファイアは悲鳴と共に崩れ落ちた。

 

「クゥアァアッ!!」

 

 かつてない激痛が彼を襲っていた。折れて神経が剥き出しになった牙に連続で硬い金属の塊が打ち込まれ、さらに前に打ち込まれた二本の矢には強烈な蹴りが突き刺さり、彼の体内を深く(えぐ)った。

 

 このままではやられる! 彼の体は強い恐怖心によって完全に萎縮していた。床に膝をついた体勢で、彼は敵の方を見上げた。

 

 人間の女は、ゲンノウを振りかぶっていた。女は、短い掛け声と共にそれを振り下ろした。

 

「ふっ!」

 

 ファイアはそれを防ぐでもなく避けるでもなく、呆然とゲンノウの描く軌跡を目で追っていた。存外それはゆっくりと動いているように見えた。あれが自分の脳天に刺さったら、その時自分はどうなってしまうのだろう……?

 

 バナーヌの渾身のトドメは、無理やり中断させられた。

 

「クルッキュウ……!」

「……ちっ!」

 

 部屋の反対側にいたメテオが彼女の背後を取り、後頭部目掛けてロッドを振り下ろしたからだった。優れた感覚と、もうそろそろ来るだろうという予測によって、バナーヌは難なくそれを回避することができた。だが、結局ファイアの方を完全に仕留めることはできなかった。

 

 バナーヌが動いてファイアを滅多打ちにし、メテオが援護に来た。この一連の出来事は、わずか十秒ほどの間に行われた。

 

 だが、状況は大きく変わった。一方の敵であるファイアはほぼ無力化し、ファイアロッドは今やバナーヌの手中にあった。彼女の背後にはもう一方の敵であるメテオがいるが、彼らウィズローブの不得意とする接近戦に持ち込めた分だけ、状況はむしろバナーヌにとって有利といえた。

 

 間髪を入れず、バナーヌは回し蹴りをメテオへ向かって繰り出した。

 

「ふっ!」

 

 それをメテオはロッドで受け止めた。

 

「クッキュウ!」

 

 バナーヌは攻撃の手を緩めなかった。勢いのまま相手の懐に飛び込むと、彼女はゲンノウを顔面へ振るった。

 

 だが、メテオもさるものだった。

 

「クァアアアッ!」

 

 数秒前にいとも容易く仲間を戦闘不能にしたゲンノウによる連撃を、彼は流れるようなロッド捌きで防ぎ続けた。

 

 バナーヌは、意外に感じた。ウィズローブは格闘戦が苦手であると聞いていたし、事実今まで倒してきたウィズローブはみなそうであった。だがこいつは、まったく怖じることなく打ち合いに応じてくる。やりづらい。

 

 さらに、次にメテオがとった行動が彼女を驚かせた。

 

「クッキュウ!」

 

 防戦一方だったメテオが、蹴りを放ってきた。バナーヌは両手でそれを防いだ。

 

「……ぐっ!」

 

 細く筋肉もなく、いかにも貧弱そうなウィズローブの脚になぜそれほどの力があるのか、蹴りは彼女をのけぞらせた。

 

「クッキャアッ!」

 

 バナーヌの動きが一瞬だけ止まったその隙に、メテオは後方へ勢いよく跳んで距離を取った。そして、彼は煌々(こうこう)と燃え盛る巨大なメテオロッドを振り上げると、練り上げた高純度の魔力を込めて、三発の火球を発射した。

 

 暗い室内が一気に明るくなった。膨大な熱量を誇る三発の火球が、狭い室内をところ狭しと跳ね回り、火の粉を飛ばし、壁を焦がした。

 

 バナーヌは必要最小限の動きで火球を避けた。軽く跳び、しゃがみ、あるいは手に持ったファイアロッドで払って打ち消して、訓練されたイーガ団員である彼女は火傷も負わずに火球を回避した。

 

 メテオはさらに火球を生み出した。

 

「グルゥウウオアアアッ!」

 

 最初の三発に加え、次に三発、また次に三発、そしてさらに三発……キースの群れのごとく、無数の火球が乱舞した。室内の温度はぐんぐん上昇し、火の粉が花吹雪のように舞い散り、あちこちで黒い煙が立ち昇った。

 

 煙! 煙を吸い込むのは非常にマズい! そのことはバナーヌも心得ていた。火球を避けながら、彼女は手早く水筒の水で手拭いを濡らし、それを覆面にした。完全に煙を防ぐには物足りないが、ないよりはましだった。

 

 そして、黙って攻撃を避け続けるだけのバナーヌではなかった。彼女も反撃することにした。回避を続けている今、弓矢は使えないだろう。彼女は考えた。疾風のブーメランも、狭い室内では効果は出ない。

 

 ならば、使うものはただ一つしかない。

 

「ふっ!」

 

 バナーヌは、左手に持っているファイアロッドを振るった。ウィズローブの持つ魔力と比べればその力は微々たるものであるが、それでも火球は生み出せる。発射された火球は、てんてんと床を跳ねながら、メテオウィズローブへ一直線に向かっていった。

 

 しかし、メテオウィズローブは文字通り火を自由自在に操る魔物である。人間の生み出した愚にもつかない小さな火球など、さながらそよ風のささやきでしかなかった。

 

「クアッ!」

 

 メテオはバナーヌの放った火球をわざと体で受け止めると、これみよがしに胸を張った。まったく効いていなかった。

 

 彼はさらに火球を飛ばした。ついに、ダイニングルームのそこここから火の手が上がり始めた。メラメラと音を立てて、無数の炎の蛇が壁を這い登り、床を這い回り、あたかも魔王の軍勢が侵略の魔の手を拡げるごとく、瞬く間にあたり一面が火の海と化した。

 

 長い年月にわたって手入れのされていなかった廃屋は、既にかなり傷んでいたのだろう。そこへ、バナーヌがアイアンブーツで天井をぶち破った衝撃が加わった。さらに、トドメとばかりに膨大な炎と熱が襲った。哀れな廃屋は脆くも崩壊を始めた。

 

 バラバラと火のついた天井の部材が落ちてきた。太い(はり)が外れて、ガタンと斜めになって床に尻もちをついた。

 

 バナーヌの頬に汗が走った。熱と、煙が部屋に充満してきている。時間が経つほど状況は不利になるが、打開策が見い出せない。なかなか好転しない状況に、肝の太い彼女もさすがに焦りを覚えていた。

 

 当初彼女は、ファイアのほうを手早く戦闘不能にした後、メテオのほうにも一撃を加え、それから脱出しようと考えていた。それが、あのメテオはなんと格闘戦に通じていたのだ。それに、得意の格闘戦に持ち込んだと思いきや、逆に今度は相手の得意な射撃戦を強いられてしまう始末である。

 

 まさしく「予期せぬ事態」であった。そして、状況はいよいよ切迫していた。バナーヌの着用している標準E型忍びスーツは多少の耐火性能を備えているため、まだなんとかなっていた。だが、これ以上火の手と煙が回ると、なんとかならなくなるだろう。いよいよ危なくなってきた。

 

 そんなバナーヌの一方で、メテオは余裕綽々(しゃくしゃく)といったところだった。火の手が強くなればなるほど、彼の魔力は増していくかのようだった。

 

「クルッキュウ……」

 

 そして「本当の火球とはこういうものだ」と言わんばかりに、メテオはひときわ大きな火球を作り始めた。今までよりも強く、より魔力純度が高く、より巨大な火球だった。それがメテオロッドの先で、うずうずと撃ち出されるのを待っていた。彼が狙う先には、もちろんバナーヌがいた。

 

 突然、バナーヌの足を何かが掴んだ。彼女は思わず叫んだ。

 

「なにっ!?」

 

 それは先ほど彼女によって打ちのめされたはずの、ファイアだった。

 

「グルッギュウウウウ……」

 

 ファイアは床を這いずって密かにバナーヌの足元に近づき、その足を掴まえたのだった。

 

 ファイアは、やったぞと言わんばかりの雄叫びを上げた。

 

「クゥウウアァアアッ!」

 

 得たりとばかりにメテオも会心の叫びを放った。

 

「クルッキュウ!」

 

 爆発せんばかりに膨れ上がっていた超巨大な火球が、ついにロッドから発射された。破壊と死の権化たる大火球が、大砲の砲弾のように勢い良く一直線に、バナーヌへ突進した。

 

 バナーヌは声を漏らした。

 

「くっ……」

 

 彼女は動けなかった。そして火球は、紛うことなく目標に着弾した。

 

 

☆☆☆

 

 

 大爆発が起こった。ダイニングルームは内部から爆砕された。大火球は天井を半分ほど吹き飛ばした。無数の破片と瓦礫を天高く噴き上げられた。

 

 メテオは、勝ったと思った。

 

「クルッキュウ……」

 

 ファイアは実に良いタイミングで敵の動きを止めてくれた。あの人間は、そう、人間にしてはなかなか強い部類だったが、魔物の中でも上位の実力を誇る我々ウィズローブに所詮は優るものではない。彼はほくそ笑んだ。

 

 爆炎が晴れてきた。メテオは着弾点に目をやった。そこには黒く炭化した哀れな人間の死体が、立ったままの姿で晒されていることだろう。

 

 しかし、メテオが目にしたのは意外な光景だった。彼は驚きの声をあげた。

 

「クルッ!?」

 

 案に相違して、そこには何もいなかった。倒れているファイアがいるだけだった。

 

「グ、グルッキュウウ……」

 

 死体などどこにもなかった。爆発で肉体がすべて飛び散ったのかとも思われたが、それならば足の部分だけはファイアが掴んでいるはずであった。それもなかった。

 

 まさしくそれは、メテオにとって「予期せぬ事態」であった。いったい、敵はどこへ消えたのか……? 冷静沈着を自認するメテオは、その時珍しくも混乱した。彼はキョロキョロと辺りを見渡し、下を見て、そして、念のために上を見た。

 

 突然、メテオの視界が真っ暗になった。

 

「グギャアアアッ!」

 

 彼の顔面に激痛が走った。これは、何かが目に刺さっている!

 

「グルゥアアアッ!!」

 

 手を伸ばして、メテオは目に刺さったものを引き抜こうとした。目には、何か棒のようなものが突き刺さっていた。彼がそれを力任せに引き抜いた。オレンジ色の眼球が、眼窩(がんか)から引き摺り出された。無論、彼はその光景を見ることができなかった。彼の視覚はすでに失われていた。彼は苦痛に満ちた声をあげた。

 

「グ、グルッキュウウウ……」

 

 ポッカリと空洞になったメテオの眼窩から、血と涙が滝のように流れ出た。死を感じさせるほどの激痛と、取り返しのつかないことになったという後悔と、もはや視覚は戻らないという絶望、それらがないまぜとなって、一種の衝撃(ショック)となった。ショックはメテオの体を打ち倒し、床へとひれ伏させた。

 

 ファイアが、突然叫んだ。

 

「クッキャアアアッ!!」

 

 崩れ落ちたメテオの背後に、バナーヌがいた。その腕には光り輝く茶色のブレスレットを()めていた。彼女はその腕で、一抱えもある太い(はり)を持っていた。

 

「ク、クルッキュウ……」

 

 何者かの気配を感じて、メテオは背後へヨロヨロと振り返った。

 

 バナーヌは、躊躇しなかった。彼女は言った。

 

「トドメだ」

 

 パワーブレスレットで強化された腕力は、大工が四人がかりでも持ち上げるのに苦労する大梁(おおはり)を、あたかもボコこん棒を振るように軽々とフルスイングした。

 

 一番勢いの乗った先端部分が、メテオの頭部を直撃した。

 

「グブッ」

 

 彼はブッ飛ばされ、まだ燃え残っていた壁にグチャリとぶつかると、そのままズルズルと下に落ちた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ファイアはその光景を、まるで夢でも見ているかのような心地で眺めていた。強かったメテオ、賢かったメテオ、優しかったメテオ、そして、大好きだったメテオ……そのメテオが目玉を撃ち抜かれ、太い梁で打たれ、宙を舞った。

 

「クルッキュウ……クルッキュウ!」

 

 ファイアは這いずった。這いずって、這いずって、彼はメテオのところへ向かった。人間の女は、不思議なことにトドメを刺しに来なかった。

 

 ようやく、彼はメテオのもとに辿り着いた。哀れなメテオは、仰向けに倒れていた。メテオの顔面はメチャメチャに破壊されていて、全身はクタクタに砕かれていた。メテオはピクリとも動かなかった。

 

「クルッキュウ!」

 

 ユサユサと、ファイアはメテオを手で揺り動かした。死んではだめだ、死んではだめだ! 祈るべき神を知らず、呪うべき運命を知らず、それでも彼はただ必死の願いを込めて、思うように力の入らぬ手を動かしてメテオを呼び続けた。

 

 その甲斐があったのか、それとも祈りが通じたのだろうか。メテオが微かに声を出した。

 

「……グ、グルッキュゥ……」

 

 メテオは、少しだけ動いた。そして、もはや何も見えぬはずなのに、その顔をファイアへと向けた。

 

「クルッキュウ! クルッキュウ!」

 

 ファイアは喜びの声を上げた。死んでない、生きている! これなら、美味しい肉を食べて魔力を蓄えれば、きっと元通りに元気になる!

 

 さあ、ここからはやく立ち去ろう! そう告げるファイアに、メテオは力なく首を振った。メテオは、最後の力を振り絞って手に持っていたメテオロッドを差し出すと、ファイアにお別れだと言った。

 

「クルッキュウ……?」

 

 ファイアには意味が分からなかった。助かるのではないのか? また元気になるのではないのか? なぜ、メテオは起きないのか? なぜ、お別れだと言っているのか?

 

「クルッキュウ……?」

 

 また、彼は呼びかけた。だが、もうメテオは動かなかった。何度揺り動かしても、何度呼びかけても、もうメテオは動かなかった。

 

 ふと、ファイアは差し出されたメテオロッドを見た。それは彼のファイアロッドとは比べ物にならないほど綺麗で豪華で、強いロッドだった。前に少し触らせてと頼んだ時は、断られた。これは宝物だから。メテオはそう言った。いつか時が来たら、お前にやるよ……

 

 呟くように、ファイアは声を漏らした。

 

「クルッキュウ……」

 

 メテオは、死んでしまった。ファイアに、一番大切な宝物を残して、メテオは死んでしまった。

 

「クゥウウウ……」

 

 メテオは、殺されてしまった。あの人間の女に殺されてしまった。ファイアに宝物を譲ってから、メテオは死んでしまった。

 

 渦を巻くような(とげ)の生えた悲しみの感情を、ファイアは自覚できなかった。彼は呆然としていて、その精神は氷のように固まったままだった。

 

 それでも、数秒が経過した後、彼は叫び始めた。

 

「……クル……クルルル……クルッキュウアアッ!!」

 

 ファイアは魔物である。魔物とは、尽きることなき憎悪を活力とし、情念とし、生命力とする存在である。魔物とは、その喜びも悲しみも愛情も、結局は憎悪へと転化される生理的構造を持った、超自然的存在である。

 

 あの人間の女を、殺す! ファイアはロッドを握りしめた。すると、ロッドから魔力の残滓(ざんし)が彼の体内へと流れ込んできた。それはメテオの置き土産だった。

 

「クルッキュウ!」

 

 無限のように湧き上がるエネルギーに()き動かされて、ファイアは力強く立ち上がった。彼は放たれた矢のように空へと飛び上がった。彼は、あの人間の女を探した。

 

 それは、案外すぐ近くに見つかった。燃え盛る建物から少し離れたところに人間の女は力なく座り込んでいて、懸命に呼吸を整えようとしていた。

 

「クルッキュウ!」

 

 ここにいるぞ! と彼は大声で呼ばわった。人間の女は、即座に彼のほうを向いた。人間の女は、相変わらず何を考えているのか分からない無表情のままだった。しかしファイアは、その顔に僅かばかりの驚きの色が見えたと思った。

 

 人間の女は素早く弓矢を構えた。構えたと思った次の瞬間には、二本の矢がファイアを目掛けて飛んできていた。

 

 嫌な音を立ててファイアの胴体に矢が突き刺さった。だが、ファイアは動かなかった。彼は精神を集中していた。

 

 今こそ、親友が教えてくれた奥義を使う時だ。

 

 彼は叫んだ。

 

「クッキャウ! クッキャウ! クッキャウ!」

 

 ファイアはロッドを握りしめると魔力を込めて振り回し、奇妙な掛け声と共に独特のステップを踏んだ。彼は魔法を行使するために詠唱をしているのであった。

 

 その間にも矢は飛来し、ファイアの体のあちこちに突き刺さった。それでも彼はやめようとしなかった。強い憎しみが、矢傷の痛みを打ち消していた。

 

 そして、詠唱が終わった。

 

「クッキャアアアッ!!」

 

 ロッドから魔力が迸った。混合され濃縮された赤い魔力が天へと向かって走り、大気を掻き乱した。

 

 数瞬も経たずして、劇的な変化が訪れた。

 

 周囲の気温が異常なまでに跳ね上がった。大気はあたかもデスマウンテン火口近くのような熱気を帯びた。空は赤く紅く変色し、そしてその満天に獰猛に煌めく星々を浮かび上がらせた。

 

 その星々が、垂直に落ちてきた。ファイアは術が成功したことに歓喜の声を上げた。

 

「クルッキュアアアッ!!」

 

 それはメテオウィズローブの秘奥義、メテオストライクだった。

 

 

☆☆☆

 

 

「……ゴホッ、ゴホッ、ゲホッ! はあ、はぁ……」

 

 バナーヌは、荒く息を吐いていた。

 

 激戦だった。そして、とても危うい戦いだった。だがそれは、燃え盛る建物の中で煙を吸い込みながら戦わなければならなかったからというだけであって、対峙したウィズローブたちはさして強敵ではなかった。

 

 無力化したと思っていたファイアウィズローブに足を掴まれ、それ諸共に大火球の攻撃を受けた時、よく訓練されたバナーヌの肉体はごく自然に最適解を選択していた。

 

 彼女は目を瞑り、手をグルリと円を描くように体の前で一周させると、印を結び、呪文を唱えた。

 

 次の瞬間、バナーヌはメテオウィズローブの頭上にいた。これぞイーガ団の戦闘術の一つ、「ゾタエ・オチノリ」であった。それは魔力を用いた一種の瞬間移動術で、現在位置から相手の頭上に転移し、そのまま脳天へ必殺の一撃を放つというものだった。

 

 彼女は弓矢を構え、狙いをつけた。メテオウィズローブはキョロキョロと辺りを見渡していた。彼女は敵がこちらを向いたその瞬間に、両眼を射抜くように矢を撃ち込んでやった。

 

 そのあとは、天井の(はり)でトドメを刺した。呆気なく片がついたと彼女は思った。

 

 それでも、バナーヌが戦えたのはそこまでだった。濡らした手拭いでマスクをしてはいたが、彼女は少し煙を吸い込み過ぎてしまった。彼女は仕留めたメテオウィズローブの死体を確認し、無力化したほうのファイアウィズローブにもトドメを刺しに行きたかったが、炎と煙が強く、どうしても呼吸が安定しなかった。

 

 彼女は燃え盛る廃屋から脱出し、距離を取ったあと、座り込んで息を整えた。彼女の動悸は激しかった。その頭脳の働きも鈍っていた。落ち着くまで、彼女は少し休まなければならなかった。

 

 だが、魔物のの叫びが響き渡った。

 

「クルッキュウウウアアア!!」

 

 何かが凄い勢いで廃屋から飛び出した。

 

「クルッキュウ!」

 

 それは、ファイアウィズローブだった。魔物は砕かれた牙を剥き出しにしていた。そのオレンジ色の目には凶悪な光を湛えていて、手にはあのメテオウィズローブが持っていたロッドがあった。

 

 生きていたのか。なんてしぶといやつだ。バナーヌはそう思いつつ、ふらつく体を必死に操って、弓矢を手に持った。魔物の生命力とは恐るべきものだ。やはり、無理をしてでも確実に息の根を止めに行くべきだったか? ぼんやりとそう考えながら、彼女はひたすら矢を撃ち続けた。

 

 放たれた矢は一発も外れることなく、吸い込まれるようにファイアウィズローブに命中した。それでも魔物は怯まなかった。

 

 それどころか、ファイアウィズローブは妙な詠唱を始めた。

 

 それをバナーヌは知っていた。彼女は舌打ちした。あれは、メテオストライクだ。一度放たれれば半径百数十メートルの範囲を灰燼に帰す威力を持つ大魔法だ。

 

 あれをやらせるわけにはいかない! バナーヌは懸命に、詠唱を阻止しようと矢を撃ち続けた。

 

 だが、詠唱は止まらず、ついに隕石(メテオ)が降ってきた。 

 

 ヒュルルルというどこか間の抜けた音と共に、無数の火の玉が落下してきた。そして、着弾した。地響きを立て、大地を穿ち、巨大な爆炎を噴き上げて、隕石の群れは絶望的な破壊を振りまいた。周囲一面が、焦熱地獄と化した。

 

 もはやバナーヌに打つ手はなかった。彼女は力の入らぬ体を引きずるように動かして、時には伏せ時には跳ね、必死に隕石を避け続けた。

 

「クルッキュアアア!!」

 

 爆発音に混じって、ファイアウィズローブの雄叫びが聞こえてきた。

 

 勝ち誇っているのか。でも、そんなことはどうでもいいな。バナーヌはそう思った。

 

 彼女は直撃だけはなんとか避けていたが、破片は体に食い込んだ。それに、煙がまた周囲に満ちていた。避けるためには体を動かさなければならず、体を動かすと煙を多く吸い込んでしまう。バナーヌは苦しそうに呼吸をした。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 次第に、彼女の視界は暗く閉ざされてきた。何もかも輪郭がはっきりしなかった。意識もはっきりしなかった。自分が今どういう動作をしているのか、どこを向いているのか、何を考えているのか、彼女は分からなかった。

 

「はぁ、はぁ、がはっ……」

 

 ついに、彼女は倒れた。うつ伏せになって、彼女は地面に顔を埋めていた。彼女は指先一つ動かせなかった。

 

 遠く、爆発音が聞こえた。ファイアウィズローブの高笑いも遠くに聞こえた。おかしいと彼女は思った。全部近くで起こっているはずなのに、遠く感じるなんて。次第に、彼女の意識はまどろみにも似た混濁へと落ちていった。

 

 ふと、ある光景がバナーヌの脳内のスクリーンに、チカチカと浮かび上がった。

 

 燃え盛る街、逃げ惑う人々、巨大な城の影。雲つくような大きな柱、走り回る無数のガーディアンたち……

 

 若い女の声がする。

 

「走って! 走って!」

 

 衛兵たちがガーディアンに立ち向かっている。衛兵たちは槍と剣で、必死にガーディアンと渡り合っている。しかし次の瞬間には、放たれた一筋の光線で彼らは灰となった。

 

「急いで! 走って!」

 

 目の前を走っていた辻馬車に、ビームが直撃した。馬車は大爆発を起こし、木っ端微塵になった。乗客と御者が宙を舞った。脚を砕かれた馬たちが悲鳴を上げていた。

 

「逃げるのよ! 逃げて……」

 

 背中に赤子をおんぶし、手には小さな子供を抱いて、走り続ける母親がいた。何が大切なのか、大きな壺を抱えたまま走る中年の男がいた。転んで、そのまま起き上がらない老婆がいた。何を思ったか、くるりと道を引き返していく若い男がいた。座り込み、母親を求めて泣き叫ぶ女の子がいた。

 

 若い女の声は、徐々に小さくなっていった。

 

「みんな、逃げて! 走るのよ、走って……」

 

 大きな着地音がした。黒い影があった。目の前には、ガーディアンがいた。

 

「あっ……」

 

 頭部の単眼に、白い光が収束していく。そしてそれは、パッと一瞬輝いて……

 

 だがその次の瞬間に、スクリーンは光を失っていた。光景はグニャリとその輪郭を捻じ曲げると、暗黒の淵へと落下していった。

 

 

☆☆☆

 

 

「クルッキュアアアッ!!」

 

 ファイアは、幸せだった。親友から教えてもらった大魔法は成功した。人間は、無様に逃げ惑った末に地面に倒れて突っ伏し、まったく動かなくなった。きっと死んだのだろう。

 

 やった! やっつけた! ファイアは勝利の雄叫びを上げた。

 

「クルォオオオオオ!!!」

 

 勝利した! 殺した! メテオの仇を討った!

 

 彼の目から涙が出た。自分は親友を失った。でも今は、親友がいつもそばにいてくれる。彼はロッドを撫でた。そうだ。このロッドがある限り、自分とメテオはずっと一緒だ。

 

 もう頃合いだろうと思い、ファイアは魔法を止めることにした。眼下では、いまだに隕石が降り注いでいた。炎に焼かれて破壊し尽くされた死の土地に、人間が倒れていた。

 

 ファイアの目が残忍な光を帯びた。トドメは、やはりこの手で直接、刺す。目玉をえぐり出して、首を絞めて、最後は骨も残さず焼いてやる……

 

「クルッキュウ……?」

 

 だがファイアは、違和感を覚えた。魔力の放出が止まらなかった。彼は詠唱を停止し、ロッドへの魔力供給を切断しようとした。だが彼の体からは勝手に、魔力が止めどもなく流れ出していた。完全に制御不能という状態だった。

 

 彼は知らなかった。()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()のだ。メテオロッドが彼から魔力を吸い取っていることも、彼は知らなかった。

 

 ウィズローブにとっての魔力の枯渇とは、死を意味する。

 

 この事態を、はたしてメテオもファイアも予期していたのだろうか? メテオは、自分の宝物が親友を殺してしまうことを知っていたのだろうか?

 

 きっと知らなかったのだろう。なぜなら、彼らは親友だったからである。最後に自分の一番大切なものを、大切なひとに渡すことができて、メテオはきっと幸せだったに違いない。

 

 そしてファイアも、やはり幸せだった。

 

「クルゥウウワァア!!!」

 

 魔力の流出が止まらない。メテオストライクも止まらない。このままでは、自分は干からびて死ぬだろう。でも、それがなんだ? 友のもとへ行けるのだ。メテオのいない生になど何の価値もない。憎き人間を殺して、一足先に旅立ってしまった友のもとへ行く。それは幸せなことじゃないか。

 

 ファイアはまた、思った。どうせなら、最後の最後までメテオを撃ち続けよう。あの人間に隕石を直撃させよう。そしてこの大地に、自分たち二人が確かに存在したという痕跡を残そう。

 

「クルッキュウ……」

 

 彼でも実感できるほどに魔力量が減ってきた。そろそろ終わりが近づいているようだった。彼は目が見えなくなってきた。

 

 ああメテオ、メテオもこの暗さを味わったのか……?

 

 隕石のシャワーはその後も数分間続いて、それからぱったりと、嘘のように止んでしまった。




 メテオストライクとは、ほいれんで・くーによるオリジナル命名です。ウィズローブたちが使ってくるあの技、正式名称ってありましたっけ? 私は、あのロッドを手に入れたらリンクさんもメテオストライクが使えるんだと、そりゃもう興奮して分捕ったわけです。それで、使ったんです。できないんです、メテオストライク。もうね、落胆、失望、ガッカリ……結果、メテオロッドはただのでけぇチャッカマンになりましたとさ。

※加筆修正しました。(2023/05/07/日)


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第二十話 乙女の祈り

 このハイラルの大地はあまりに強大で、残酷で、峻烈である。この世界が持つ圧倒的な偉力の前に、ちっぽけな人間はあまりにもなす術を知らない。

 

 例えば、美しい青天を黒く染める雷雨がある。それは順調な旅路のさなかに突如現れ、篠突く大粒の雨はさながら矢のごとく人を打つ。恐ろしい唸り声を伴った青白い雷はさながら巨人のナイフのごとく、熟練の木こりが一日かかって切り倒す大木を、わずか半秒の間に一撃で地面に倒れ伏せさせる。

 

 あるいは、穏やかな海岸に吹きすさぶ大風がある。それはカニや貝を楽しげに拾い集め、暢気(のんき)に釣り糸を垂れる漁師たちに牙を剥く。大風は彼らの目を潰し、彼らを吹き飛ばし、彼らの生気を奪い去る。大風は沖を行く小舟やイカダを木の葉のようにあしらい、弄び、転覆させる。

 

 もっとも恐ろしいのは火山である。地底の奥深く、年々蓄えられた膨大な熱と火は、ある日突然に大地を割ってドロドロと溢れ出す。その破壊的現出を前にして人間は、おろおろと逃げ惑い、泣き叫び、嘆き悲しみつつ住み慣れた故郷を捨てざるを得ない。

 

 数え上げればきりがない。ハイラルの人間が自然の暴威に蹂躙されることなど、ごく当たり前のことなのだ。

 

 いや、自然だけではない。人間の前には更なる脅威が立ちはだかっている。

 

 それは魔物である。魔物は森の主たるイノシシよりも凶暴で、臆病なシカのように俊敏で、おとなしいキツネのように狡猾である。手に手にこん棒やボコ槍を持ち、徒党を組むボコブリン、おおざっぱで大ぶりな武器を軽々と振り回すモリブリン、群れをなして夜空を乱舞するキース……魔物どもは躊躇なく人を襲い、命を奪い、まだ生温かい肉をガツガツと貪る。

 

 さらに、魔物よりも恐ろしいものがいる。それは無機質なる殺意の具現、すなわちガーディアンである。いまや辺境に逼塞している人間一般にとって、ガーディアンはさほど日常的な存在ではない。だが、血気に逸る冒険者や旅人たちの前に、ガーディアンはさながら死神のごとく降臨する。

 

 多脚単眼の歩行型ガーディアンはあらゆる地形を走破し、その速さは駿馬を凌駕する。翼無き飛行機械である飛行型ガーディアンは空からあらゆる獲物を探り出し、その目の鋭さはタカなど及びもつかない。

 

 暗い空、ぼやけた地平線、あの向こうには何があるのだろう? 丘を越え、先へ行こう。旅人は疲れて萎えた足を引きずり、希望に胸を躍らせ、息を弾ませて歩みを続ける。

 

 そこにぬっと、ガーディアンが現れる。はっとして、旅人は足を止める。その間にガーディアンは赤いポインターを走らせ、旅人の汗が滲んだひたいへ無慈悲に照準を合わせる。

 

 パウッ、と白い光が走る。一巻の終わりである。残されたのは何かの残骸だ。何事もなかったかのようにガーディアンは走り去ってゆく。暗い空から雨が降ってきて、惨劇の痕跡を洗い流す。

 

 あまりにもハイラルの大地は厳しい。世界は、暴君のごとく意のままに振舞っている。この中にあって人は、人智は、人間性は、無力にして無価値なのか?

 

 そうではない、決して人間は無力ではないのだ。貧弱な腕力で農具を振るい、大地の表皮をわずかに削って粗末な糧を得ていても、矮小な頭脳で知恵と技術を絞り出し、強大な自然に立ち向かった果てに打ち倒されても、人間は決して無力ではない。

 

 なぜなら、人間には祈りがあるからだ。

 

 信も正義も、そして愛すらも消え果てた今、天地に怨念と瘴気が渦巻くこの今も、祈りだけはまだ生き残っている。

 

 そう、確かに存在しているのだ!

 

 人は知らない。滅んだハイラル城で百年という長きにわたり、今もなお祈りを捧げる乙女がいることを、人は知らない。何もかもを失い、幾度もの絶望を味わいながら、乙女は毅然として立ち、清らかなる祈りを続けている。

 

 すべては、愛するもののために。彼女は祈る。やがて来る、光に満ちた世界を信じて、彼女は祈り続ける。

 

 人は知らない。その祈りこそ厄災を封じ込めていることを、人は知らない。その祈りこそ、破局的終末を迎えるはずだったハイラルの世界を百年という長きに渡り存続させていることを、人は知らない。

 

 しかし、ちょっと待ってくれという人もいるかもしれない。

 

 なるほど、世界と比べて人間はあまりに無力である。現に百年前、人間は一度滅亡する一歩手前まで追い込まれた。そんな事態を、ある乙女が聖なる祈りでギリギリ食い止めていると、まあ、あなたはそう言うわけですな。それでもって、あなたは人間には祈りがある、だから人間は決して無力無価値ではないと説くわけだが……でも、言わせてくれ。それは、その乙女がさながら神に選ばれたかのような格別に強い存在だからであって、そういう乙女が祈りをするから意味があるだけなのではないか? 普通の人間が普通の祈りをしたところで、魔物をやっつけられるわけではないし、自然が優しく微笑むわけでもない。一般的な人間にとって、祈りなんていうものは、一種の精神的な錯乱状態で、意味があるわけでも力があるわけでもない。だから、あなたの考えには同意し難い。結局人間は、みじめに這いつくばっているしかない存在ではないか……

 

 このような反論に、更なる反論で以て応じることは無益なことだろう。祈りの力を信じられぬ者に、更に言葉を尽くして祈りの力の偉大さを説いたところで、それはただ双方が双方なりの思想信条をぶつけ合っているだけで、とうてい議論にはならない。

 

 どうすれば良いのだろうか、頑なな人を納得させるには? 人が知能を得て言葉を使い始めて以来、頭を悩まし続けているこの問題は、容易に解決できない。

 

 だが「祈りが通じた」のだと確かに信じたくなるような出来事には、人は一生のうちに必ず出会う。どれだけ不幸で、どれだけ恵まれず、どれだけ打ちのめされている人であっても、「祈りによって自分は救われた」という瞬間は、もしくは「祈りによって大切な人を救いたい」と信じ願う瞬間は、必ず訪れるものなのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 カルサー谷のイーガ団アジト、その中の暗い一室で、ノチは一心に祈っていた。

 

 乾燥し、変化に乏しい気候のカルサー谷にしては珍しく、その日の天気は曇っていた。時刻は早朝を少し過ぎた頃であった。

 

 短い黒い髪、まだあどけなさを残した可愛らしい顔つき、歳は花盛りの十代中頃、そんな少女のノチは、部屋の真ん中に跪いていた。彼女は手のひらを合わせて、言葉も発さず一途に祈り続けていた。

 

 親友のバナーヌのことを、ノチは祈っていた。どうかバナーヌが無事に、元気で帰ってきますように……

 

 祈りはノチの習慣の一つだった。忙しい日中の仕事の最中にふと訪れる、ちょっと空いた時間、そういう時に自然と彼女は手を合わせることにしていた。

 

 彼女が祈りを捧げる対象は、物心つく前に他界した両親だった。当然、イーガ団の一員としてノチは魔王様にも祈ったが、その比重は明らかに偏っていた。

 

 幼いころから魔王様を信じ、魔王様のために生きよとノチは教えられてきた。その教えは確かに、彼女の精神の根底の一部となっていた。日々の炊事や掃除や洗濯、裁縫や矢づくりなど、そういう地味で(つら)い裏方仕事をしているのも、すべてはイーガ団のため、総長コーガ様のため、そして魔王様のためであると彼女は信じていた。その信じ方は素朴ではあるが、純真そのものであった。

 

 だがノチは、こと祈るという時には、なぜか頭の中に両親のイメージが浮かぶのだった。おぼろげながら覚えている、柔らかに優しく微笑んでいる父と、仏頂面だが口元がわずかに緩んでいる母、そんな両親の背後から、きらきらと黄金の光が差している。彼女が目をそっと閉じて、心を祈りに集中させると、そんなイメージが自然と浮かび上がってきた。

 

 彼女が魔王様にお祈りする時は、そういうイメージは湧いてこなかった。いつもしどろもどろなお祈りの言葉が頭の中によぎるだけで、何らかの光景が頭の中に出来上がるということはなかった。文言を考えているうちに、彼女の心はどこかお祈りから離れてしまうのだった。

 

 例えば、「最近コーガ様の水虫が酷いのでお前らも祈れ」と幹部が言った時には、ノチも手を合わせた。そういう時、彼女は両親ではなく魔王様へお祈りを捧げた。だって、総長コーガ様は魔王様に最も愛されている人だから。

 

「……魔王様、魔王様、謹んでお祈りを申し上げます。愚かしくも、えーっと、哀れな私の願いをどうかお聞き入れください。このたび私が申し上げますのは、えーっと、私が敬愛いたします総長コーガ様の水虫のことでございます。あぁー、えーっと、コーガ様は日々足の痒みと痛みに苦しめられております。あの、その、どうかコーガ様にご慈悲を御示しください、そして悪い水虫を懲らしめてください……」

 

 他には、作戦成功を祈る集団祈祷の時、老齢の神官がブツブツと祝詞(のりと)を唱えるのだが、ノチはそれについていくだけで精一杯だった。神官の言葉遣いは難しく、魔王様をイメージしながらお祈りをするなど彼女には思いもよらなかった。彼女の隣にいるバナーヌはいつものように冷静で、じっと念じているようだった。自分にもバナーヌみたいな集中力が欲しいなぁ、と彼女は事ごとに思った。

 

 そんなわけだからノチは、自分流のやり方で気軽にお祈りができる両親へ、気がつけば手を合わせているのだった。手のあかぎれを治してほしいとか、ゴキブリを退治してほしいとか、もっとバナナが食べたいとか、そういうちっぽけな願い事から、遠い空の下で過酷な任務に従事する仲間の団員たち、わけても親友のバナーヌの無事を祈ることまで、なんでも彼女は両親に祈った。

 

 そして彼女は、今朝はいつにも増して真剣に、とても集中してお祈りをしていた。やらなければならない仕事の量を考えると、祈りにかまけて時間を無駄にすることなど許されないのだが、それでもノチは祈らずにはいられなかった。

 

 彼女をそんな心境にさせたきっかけは、ついさきほど、ある人から語られた言葉だった。

 

 

☆☆☆

 

 

 時間はやや遡る。場所は同じくイーガ団のアジトだった。アジトの中の、とある一室の前で、ノチは緊張して身を強張らせていた。

 

 その部屋は、ある上級幹部が住まいとしているものであった。なぜノチはこのような所に来たのか? それは昨晩、ようやく仕事から解放されて身を休めている彼女のもとへ、唐突にある指示が届いたからだった。

 

 指示と言っても大したものではなかった。やってきた団員はノチに「明日の朝、ウカミ様の御髪(おぐし)のお手入れの手伝いをするように」と告げたのだった。

 

 ウカミ様! ノチは息を呑んだ。ウカミ様に私が呼ばれるなんて!?

 

 総長コーガ様を頂点とするイーガ団の組織はピラミッド型の構造をしている。一人の総長の下に数人の上級幹部がおり、その上級幹部の下にさらに複数の幹部がおり、その幹部が多数の下っ端の団員たちを抱えている。

 

 ウカミはその上級幹部の一人で、なおかつ、唯一の女性であった。徹底した実力主義を採るイーガ団にあっては彼女もその例外ではなく、突出した戦闘能力と冷徹な指揮能力を持っていると言われていた。だが、ここ最近、彼女は前線に出ていない。彼女が近年に何らかの成果を上げたとか、功績を残したとか、そういう話もなかった。

 

 そんなウカミであったが、不思議なことに組織内部において隠然とした影響力を及ぼしていた。どうやら、ウカミはコーガ様と()()()()()()をもっているらしい。いわば公然の秘密というやつだが、彼女に対するコーガ様の甘い態度を見ると、団員たちは「ああ、やはり」という感を強くするのだった。

 

 ただ、ウカミの影響力というのは、彼女が総長の愛人であるから、という単純な理由からのみ生まれているものではなかった。純粋に、彼女が優秀であるということも、その一因だった。

 

 コーガ様は天性のカリスマでイーガ団を纏め上げているが、組織運営において肝心(かなめ)であるところの実務能力はさっぱりであった。やる気を出したらできないこともない、むしろ優れているくらいらしいのだが、当の本人にはまったくやる気がなかった。若手の幹部時代から、面倒なことは全部他のやつらにやってもらうというスタンスをコーガ様はとっていた。

 

 大厄災以来、大規模な作戦行動の必要もないイーガ団である。難敵を撃破するという課題があればこそ、戦闘集団はその士気を保ち、構成員の結束も強くなるというものだが、平和で単調な日々にあってはともすればその規律は緩みがちである。魔王への狂信的なまでの信仰心を持ち、それを絆としているイーガ団でも、その例外ではなかった。

 

 そんな現状に、コーガ様はうまく対処していた。より正確に言えば、コーガ様の部下たちがうまく対処していた。その筆頭がウカミであった。優秀な配下を持つということ自体が優れた器量の持ち主であることを意味するならば、コーガ様は確かに望ましい統率者であった。だが、その配下を手足のごとく操るという指揮能力こそは、ウカミがもたらしているものであった。

 

 団員たちは、ウカミを恐れていた。ある意味では、団員たちは彼女を総長より恐れていた。コーガ様も怒る時は烈火のごとく怒り、罰として命じるお仕置きは苛烈そのものであるが、普段は基本的に上機嫌で、趣味や娯楽を邪魔しない限り多少の失態や粗相をしても気を悪くしない。

 

 一方のウカミは、コーガ様とは違う恐ろしさを持っていた。彼女は物静かで、穏やかで、微笑みを絶やさないが、逆に言えばどういう感情を抱いているのかが分からない。チラチラと顔色を窺うだけが能のおべっか使いたちは、いつもハラハラしながらウカミに接していた。ウカミは合理主義者であり、情実を介さぬ冷静な組織運営を行う。それでいて他人の心情の機微に敏感であり、わずかな兆候からすぐに心の動きを察知してくる。要するに、ウカミの前ではいっさいのごまかしがきかないのだった。

 

 とても怖い上級幹部、そしてコーガ様の愛し人……そんな人の部屋の前にノチは立っていた。指定された時間まで、あと五分ほどあった。精神を落ち着かせようと、彼女はゆっくりと深呼吸をした。心と呼吸は関係していると、彼女は以前バナーヌから教わった。

 

 ノチは、お祈りをした。どうか、上手くいきますように。ウカミ様の前で、粗相をしませんように……

 

 彼女は、ウカミの姿を見たことがなかった。ノチが下っ端の下っ端で日々雑務に追われ、組織の上級者と出会う機会など全然持たないということもあるが、ウカミ自身が、あまり公の場に姿を現さない。

 

 どんな人なんだろう? やっぱり、噂通りの怖い人なんだろうか? 怒られたらどうしよう……とりとめもなくノチは考え続けた。

 

 いきなり、ノチの目の前の扉が、音もなく開いた。ノチは驚いたが、漏れ出ようとする悲鳴を喉の奥で押し殺した。

 

 出てきたのは、ウカミの侍女だった。その年齢はノチより少し上なようで、整った顔立ちをしていた。侍女は肩まで届く黒髪だった。勝気に吊り上がった目が鋭い光を放っていた。扉を開いたら目の前にノチがいたことに彼女のほうも少し驚いたようだったが、そのことをおくびにも出さず、静かに言った。

 

「ノチ、中でウカミ様がお待ちです。入りなさい。決して粗相のないように」

 

 ノチは答えた。

 

「は、はいっ」

 

 おずおずと、ノチは室内へ足を踏み入れた。ドキドキと彼女の心臓が鳴っていた。自分の呼吸の音がやけに大きく感じられた。すでに何かとんでもない間違いをしているのではないかと、ノチは錯覚しそうになった。

 

 室内は薄暗かった。頼りない光を放つ青銅製の燭台が、部屋の左右に二つ置かれていた。採光窓にはイーガ団の象徴たる、涙目の逆さ紋様が染め抜かれた赤い幕がかかっていて、日光を遮っていた。

 

 香が焚かれているのか、かぐわしい甘い香りであたりは満たされていた。だが、それはごくさりげないもので、鼻につくほどではなかった。

 

 部屋の奥は一段高くなっていた。それを区切るのは、黒漆と金箔で装飾された大きな衝立(ついたて)だった。衝立には大きなツルギバナナの木が描かれていた。たっぷりと実った、黄金色のバナナの房が木に実っていた。

 

 ノチは、息を呑んだ。

 

「あっ……」

 

 衝立の向こう側に何かがいることを、彼女は感じた。胸を強く締め付けるような、強烈な緊張感を放つ何者かの存在を、彼女は確かに察した。

 

 きっと、あそこにウカミ様がいる。

 

 何もかもがノチの知識と経験の中にないものだった。まるで別世界だった。ちょっと前までは平穏な日常だったのに……クラクラと、眩暈(めまい)にも似た感覚を彼女は覚えていた。彼女は軽いショック状態に陥っていた。

 

 しかし侍女は、この部屋ではそういう状態になることを知っているようだった。侍女は衝立の前で音も立てずに(ひざまず)くと、平然と口を開いた。

 

「ウカミ様、ノチが参上いたしました。ノチ、ご挨拶をして」

 

 下っ端の裏方担当とはいえ、ノチもまたイーガ団の一員である。彼女は何とか気力を取り戻すと、侍女と同様に跪いて、精一杯の声を張り上げた。

 

「はっ、はい! ノチ、遅ればせながら参上しました!」

 

 下っ端はどんな時でも全身全霊で返事をしなければならない。ノチの大声はそういう教育の賜物だった。ただこの場合、それは少し場違いのようだった。侍女は振り返って、鋭い視線でノチを見やった。声が大きすぎる、ウカミ様に失礼だ。そう言いたげな表情だった。

 

 しまった! (さと)いノチは侍女の視線の意味をすぐに理解した。何とかして失敗を取り繕おうと彼女は思った。しかし、その方法が分からない。なにもできず、彼女は身を縮こまらせるだけだった。

 

 だが衝立の向こうの存在は、そんなことをまったく意に介していないようだった。ノチに聞こえてきたのは、意外にも、円満に人格が成熟した女性に特有の、優しさと親しみを感じさせる声だった。

 

「……うふふ……元気が良いわね。私まで元気になっちゃいそうだわ」

 

 ふぅというため息が聞こえた。衣擦れの音もしたようだった。続けて、柔らかな声が聞こえてきた。

 

「サミ、あまり怖い顔をしちゃ駄目よ。せっかくこの部屋に来てくれたのに、怖がらせちゃったら気の毒だわ」

 

 ノチを睨んでいた侍女のサミは、(あるじ)の声を聞いてハッとしたようだった。

 

「も、申し訳ございません!」

 

 重大な失態を犯したことを恥じるかのように、サミは姿勢を正して畏まった。それを見たノチは、何だか申し訳ない気持ちになってしまった。

 

 ほんの一瞬、静寂が場を支配した。だが、すぐに向こう側からの声がそれを破った。

 

「ごめんなさいね、ノチ。サミはいつも一生懸命なの。模範的なイーガ団員なんだけど、女の子としてはちょっとたおやかさに欠けるわね。ともあれ、あなたを歓迎するわ。さあ、こっちに来て、あなたのかわいいお顔を私に見せて頂戴」

 

 ノチは答えた。

 

「はいっ!」

 

 ついに呼ばれた! ノチの心臓がさらに動悸を激しくした。全身の神経が電流を帯びて昂ぶり、熱を持った血液がゾゾと逆流するような感覚がした。下っ端にとってはただの幹部ですら非日常的な存在であるのに、それが今は雲上人たる上級幹部から、しかもあの怖くて有名なウカミ様から、直接声をかけられている。

 

 凝り固まった肉体をギクシャクと動かして立ち上がると、ノチは衝立の向こう側へと右側から回り込んだ。彼女は、関節という関節から音が出ているような気がした。衝立に描かれた黄金のバナナがやけに彼女の目についた。こちらを見てくるサミの真剣な表情も、彼女は見た。

 

 長い長い時が経ったように彼女には思われた。実際にはほんの数秒でしかなかった。ノチは回り込むや即座に跪いて、やはり全身全霊の大きな声で挨拶を述べた。

 

「ノチ、まかりこしぇ、(まか)り越しました!」

 

 噛んだ。噛んでしまった。ここぞという時に、失敗の許されぬところで噛んでしまった。ノチは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。

 

 だが、当人にとっては顔から火が出るほどの恥ずかしさであっても、上位者から見れば微笑ましいものであるようだった。床と一体になるほどにひれ伏しているノチに、優しい声がかけられた。

 

「うふふ、そうやって伏せていたら、あなたのお顔が見られないわ。さあ、顔を上げて、こっちを見て」

 

 ノチは叫ぶように答えた。

 

「はいっ!」

 

 意を決して、ノチは顔を上げた。

 

 ノチの目に飛び込んできたのは、一人の妙齢の佳人が、絹の(しとね)になよやかに横になっている光景だった。

 

 その美人は、螺鈿(らでん)の施された黒塗りの寄懸(よりかかり)に半身を預けて、にこにこと微笑んでいた。薄暗い部屋の中でもはっきりと分かるほどに、美人の肌は白くきめ細やかだった。(つや)やかで滑らかな、とても長い黒髪だった。鼻は高く、あごは細かった。ひたいは高い知性を証明するかのように広かった。柳眉の下の茶色の瞳は柔和な光を宿していた。その目尻はどこか眠たげに垂れていた。

 

 美人はその身に白く薄い、木綿の肌襦袢(じゅばん)だけを着ていた。そのおかげで、彼女の肉体の豊かな起伏が否が応にも明らかになっていた。ノチの目は今や釘付けだった。横になっているため正確には分からないが、背丈は一般的な女性よりも高いだろう。バナーヌに匹敵するか、それより少し低いくらいか。腰は細くて、見事なくびれを形作っていた。

 

 なによりノチの目を離して止まなかったのは、その胸だった。大きい。とても大きい。きっと……ううん、絶対に、バナーヌの胸よりも大きい。ノチはそう思った。

 

 姿かたち、そのどこをとっても美の要素に欠けていない。それでいて、その全体は完全な調和を示している。

 

 この(かた)が、ウカミ様か……ノチは先刻までの緊張を忘れて、目の前の美人に見惚れていた。バナーヌも美人ではあると彼女は思うが、この(かた)の美しさは彼女の短い人生経験ではちょっと表現し切れないものだった。

 

 ノチの反応が面白いのだろうか、ウカミは笑みを浮かべて彼女の様子を眺めていた。やがてウカミはため息をつくと、やや体を動かして、居ずまいを正した。ウカミは言った。

 

「そう、あなたがノチなのね。はじめまして、私はウカミ。知っているかもしれないけど、コーガ様に仕える幹部の一員として仕事をしているわ」

 

 ウカミの(なま)めかしい姿態に見入っていたノチは、弾かれたように返事をした。

 

「は、はひっ!」

 

 返事にならなかった。ノチは満足に声をあげることすらできなくなっていた。圧倒的なまでの美を前にして、彼女の精神は電撃に打たれたようになっていた。

 

 ウカミは身を起こした。肌襦袢が少しはだけて、豊かな白い胸が露わになりかけた。ウカミはそっとノチのそばに身を寄せると、白く繊細な指を伸ばして、ノチの頬に軽く触れた。ノチは声を漏らした。

 

「あっ……」

 

 ウカミは優しく言った。

 

「大丈夫、落ち着いて。私の目を見て、ゆっくりと呼吸を整えるのよ……」

 

 よしよしとあやしながら、ウカミはノチの精神が落ち着きを取り戻すまで、その指でノチの頬を優しく撫で続けた。

 

「綺麗な肌をしてるわね。それに、とっても可愛いわ……」

 

 甘く、とろけるような声音と撫で方だった。ノチが平静を取り戻すのにさほど時間はかからなかった。頃合いを見て、ウカミが話しかけた。

 

「落ち着いた?」

 

 ノチはやっとのことで答えた。

 

「は、はい……」

 

 ウカミは笑みを浮かべていた。

 

「うふふ、それは良かったわ」

 

 そう言うと、ウカミは撫でるのを止めて、おもむろにノチへ背中を向けた。優美なうなじがノチの目の前であらわになった。

 

「さっそくで悪いけど、あなたには私の髪の手入れをして欲しいの。櫛はそれを使ってね」

 

 そう言ってウカミは、化粧台の上にある櫛をそっと指し示した。

 

 ノチは、すっかり元通りになっていた。やる気に満ちた大きな声で、彼女は元気よく返事をした。

 

「はい!」

 

 

☆☆☆

 

 

 ウカミは、とても気さくな人だった。その美しく長い黒髪をノチが細心の注意を払って懸命に()いている最中にも、ウカミはあくまで邪魔にならない程度に、ゆったりとした口調で様々な話題を振りまいた。

 

 年齢は? 両親は? 仕事は何をしているのか? 仕事は辛くないか? お化粧は毎日欠かしていないか? 好きなバナナ料理は?……

 

 ノチにとって、ウカミは噂とは全く異なる存在であるように思われた。怖いなど、この方に限ってあり得ない。温かくて、優しくて、まるでお母さんみたい……

 

 優しい雰囲気に誘われて、ノチのほうからも質問をした。本来下っ端が上級幹部に話しかけるなど、悪くすれば懲罰の対象となるほどの「絶対に許されない」行為なのだが、ウカミはまったく気にしなかった。

 

「ウカミ様。どうして私のような者をお呼びになったのですか? サミ様もいらっしゃるのに……」

 

 ウカミは微笑みつつ答えた。

 

「ふふ、それはね。とっても(うるわ)しいお話をサミから聞いたからよ。お風呂の時に、仲睦まじげに洗いっこをする二人の女の子のお話をね。だから、私も羨ましくなっちゃって。さすがにお湯浴みを一緒にすることはできないけど、髪の手入れなら大丈夫って、サミも言うものだから」

 

 ノチは声を漏らした。

 

「それって……」

 

 ウカミは頷いた。

 

「そう、あなたと、バナーヌのことよ」

 

 それからウカミは、バナーヌについて色々とノチに尋ねた。あの子、無表情で無口だから、知らないことが多いのよ。好きな花とか、よく歌う歌とか、趣味とか、ノチは何か知らないかしら……?

 

 ノチは、胸を張ってそれらの質問に答えた。

 

「バナーヌは、私の一番の友達なんです! 好きな花はバナナの花で、歌は歌わないのでよく分からないですけど、趣味は読書と、バナナの葉を使った小物細工作りです! あと、バナナが大好物です!」

 

 ウカミは優しげに笑った。

 

「そう、バナーヌは、やっぱりバナナが大好きなのね」

 

 ウカミの言葉に、ノチは嬉しそうに頷いた。

 

「本当にバナナが好きなんです! こないだだって任務の前なのにあげバナナを何本も食べようとするから、止めるのが大変で……」

 

 仲の良い親子が時間を忘れておしゃべりに興じるように、ノチとウカミは会話を楽しんだ。だが、どれだけウカミの黒髪が長く豊かでたっぷりとしていても、()き続けていればいずれ梳くべき髪はなくなる。

 

 それに気づいたノチは、「あっ」と残念そうな声を上げた。

 

「ウカミ様、御髪(おぐし)のお手入れが終わりました……」

 

 ウカミは言った。

 

「そう、どうもありがとう、ノチ。とっても気持ちよかったわ。あら、どうしてそんなに残念そうなのかしら?」

 

 ノチは残念そうに言った。

 

「だって、もう綺麗な御髪に触れることができないから……」

 

 ウカミはノチへと振り返ると、にっこりと微笑んだ。

 

「ふふ、ノチは本当に可愛いわね。でも安心して。これからもできるだけあなたを呼んで、私の髪の手入れをお願いするから」

 

 ノチは感激した。こんなに綺麗で美しい人に認められたんだ! こんなに楽しい時間を、これからも過ごすことができるんだ! 彼女は答えた。

 

「はいっ! ありがとうございます!」

 

 嬉しさのあまり涙目になっているノチを、ウカミはにこやかに見つめた。そして、ウカミは何かを思い出したように懐に手をやると、一本の(かんざし)を取り出した。簪は銅製で、黄金のバナナの房があしらわれていた。

 

 ウカミはそれをノチに差し出して、言った。

 

「ノチ、今日はよく来てくれたわね。二人が出会った記念に、あなたにこの簪をあげる。あなたの綺麗な黒髪になら、きっと似合うはずよ。さあ、私が挿してあげるから、こっちにおいで」

 

 ノチは恐縮した。

 

「えっ、そんな、私にはもったいないです!」

 

 ウカミは笑いながら言った。

 

「いいから、いいから。私があげたいんだから、あなたは受け取らないとダメよ。気にしなくて良いから。さあ、こっちにおいで……」

 

 実際、その簪はノチに良く似合った。ウカミは至極満足そうな表情を浮かべた。

 

「まあ、とっても綺麗。ノチ、今のあなたはお人形さんよりも綺麗よ。昔のハイラル王国の王女様にだって、絶対に負けてないわ」

 

 ノチの感激はとどまるところを知らなかった。

 

「ありがとうございます!」

 

 ついに別れの時が来た。あたかも地獄から天国へ移ったような、夢のような時間だった。ノチは幸福に満たされていた。

 

 別れ際も、ウカミは微笑みを絶やさなかった。

 

「また、きっといらっしゃいね。待ってるわ。何か困ったことがあったら、すぐに私に言ってね」

 

 ノチは返事をした。

 

「はい! そうします!」

 

 何度も何度もお礼の言葉を言ってから、ノチは部屋を後にした。

 

 様々な思いがノチの心中を駆け抜けた。ウカミ様、とっても綺麗で、美しくて、優しくて……また、ここに来たいな。バナーヌにも、お話しなくちゃ。帰って来たらすぐに教えてあげようっと。ウカミ様は噂と違って、とっても良い人だって……

 

 浮かれているノチに冷や水を浴びせるように、低く冷たい声が掛けられた。

 

「ノチ、よくやったわ」

 

 見ると、廊下の壁に背中を預けるようにして、侍女のサミが腕を組んで佇んでいた。

 

 ノチは驚いた。彼女はてっきり、部屋から出たのは自分だけだと思っていた。彼女はサミに言った。

 

「サミ様! 今日はありがとうございました!」

 

 サミは怪訝な顔をした。

 

「なぜ? なぜ私に感謝するの?」

 

 ノチは明るい声で言った。

 

「ウカミ様に私をご推薦してくれたのはサミ様だと、ウカミ様ご自身から伺いました」

 

 サミは軽く頭を振った。

 

「そう……確かに、あなたとバナーヌのことは私がウカミ様にお話ししました。でも、あなたをお部屋に招くというのは、ウカミ様のご意志によるもの。私が感謝されるべきではありません」

 

 ノチは言った。

 

「でも、その、あの……とにかく、ありがとうございました!」

 

 満面の笑みで感謝の言葉を述べるノチに、サミはどこか気の毒そうな顔をした。

 

「でもあなた、大丈夫なの?」

 

 ノチは首を傾げた。

 

「大丈夫って、何がですか?」

 

 サミは、あまり関心がなさそうな口調で言った。

 

「だって、あなたの親友のバナーヌ、いま大変な目に遭ってるらしいじゃない。ゲルドキャニオンで敵に遭遇して、手傷を負って血を吐いてるとか……」

 

 ノチの表情は、凍り付いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 悄然として、ノチは部屋へ帰っていった。それを見届けると、サミは主の部屋へ戻った。サミは主人に報告をした。

 

「ウカミ様、ノチは帰っていきました」

 

 ウカミが衝立の向こう側から返事をした。

 

「そう、ありがとう」

 

 その声音に、さきほどまでノチと話していた時のような柔らかさはなかった。ウカミはさらに言った。

 

「それで、例のことは話したの?」

 

 サミは答えた。

 

「話しました。気の毒なくらいに落ち込んでおりました」

 

 ウカミはどこか面白そうに言った。

 

「あら、ちょっと可哀そうなことをしたかしら」

 

 サミは、心外だという色をわずかに表情に浮かべた。

 

「話せとご指示をされたのはウカミ様でございます」

 

 衝立の向こうから、笑い声が漏れた。

 

「うふふ。そうだったわね、そうだった。気を悪くしないでね、サミ」

 

 ややムキになってサミは答えた。

 

「悪くしておりません、決して」

 

 からかうような調子のウカミの声が響いた。

 

「もしかして、()いてるのかしら? あなた、もしかして、『このままじゃノチに居場所を取られちゃう』なんて、そんな乙女な気持ちになっちゃった? 案外かわいいところがあるじゃない。見直したわ」

 

 これ以上ウカミ様の言葉に応じると、完全に会話の主導権を奪われてしまう。サミはそう思った。彼女は、多少強引だが話題を切り替えることにした。

 

「乙女な気持ちにはなっておりません。それはそれとして、よろしかったのですか? 今回が初めてということもありましたが、あまりバナーヌに関する情報を引き出せなかったようですが」

 

 ふぅ、とため息が聞こえた。教え諭すような調子の言葉が返ってきた。

 

「『これを奪わんと欲すれば必ずしばらくこれに与う』 古代シーカー族のありがたい教えよ。あなたもよく覚えておきなさい。今回は私についての好印象を彼女に与えることができた。()()のはこれからよ」

 

 サミは短く答えた。

 

「ははっ!」

 

 ウカミは言った。

 

「いずれ、こちらが望んでいなくても、勝手に情報が出てくるでしょう。あのバナナみたいな娘には、そういう不思議な力があるから。それよりサミ、はやくこっちに来て着替えを手伝って頂戴。そろそろ()()()も起きる時間だし……」

 

 何かを暗示するかのように、燭台の蝋燭が音を立てた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ノチが部屋に帰って、バナーヌのために一心不乱に祈りを捧げていたその頃、デグドの吊り橋にほど近いその大地は、無惨に破壊し尽くされていた。

 

 一面に大小様々なクレーターが咲いており、ところどころから煙が一筋、二筋と立ち上っていた。砕け散ったメテオは無数の破片をまき散らして地表を覆っていた。

 

 ポツンと地面に落ちているメテオロッドが、煌々(こうこう)と明るい光を放っていた。その主は、もうこの世にいなかった。

 

 生きている者などどこにもいない、静寂に満ちた死の大地だった。その一角に、奇妙なものが生えていた。それは、一本のバナナだった。いやバナナではなかった。バナナのように見事な、金髪のポニーテールだった。

 

 もぞもぞと地面が動いた。突然、にょきっと、土に汚れた細く白い腕が一本生え出てきた。続けて二本目が、勢いよく地面の上に飛び出してきた。二本の腕は力を込めて大地を抑え込むと、ついにその本体が、待ちかねたりとばかりに地上へ出てきた。

 

 荒い呼吸音が響いた。

 

「ぷはっ! がはっ! はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 ノチの祈りが通じたのか、それとも持って生まれた類稀な生命力によるものか。

 

 バナーヌは、死の淵より生還を果たした。




 今回はかなりの難産でした。辛かった。苦しかった。人妻の色気を描くのなんてどうやれば良いんだ。これもすべてコーガ様のせいだぞ! コーガ様が中年太りのブヨブヨお腹をしてるのに愛人なんて持ってるから! コーガ様のくせに! コーガ様のくせに!
 よし、いまからアジトにカチコミかけるぞ! みんな、丸太は持ったな!! 行くぞォ!!
 死んでるじゃねーか、オイ!!

※月日の経つのは早いものですが、それ以上に驚いているのは、完全な執筆素人のほいれんで・くーが、よくもまあ第二十話まで話を書き続けられたということです。字数にして約15万字になりました。これもすべて応援してくださる読者の皆様のおかげです。いつも本当にありがとうございます。バナナ輸送の護衛を命じられたバナーヌの旅路も、そろそろ終盤へと入ります。私の拙い語りでは、どこまでお話をできるか自信が持てませんが、出来る限りの力を尽くして、皆様に作品をお見せすることができればと思います。
愛を込めて ほいれんで・くー(2018/04/13/金)
※加筆修正しました。5年前は「そろそろ終盤」とか言ってたってマジ……?(2023/05/07/日)


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第二十一話 ベサメ・ムーチョ・ハイリア

 史書を紐解き、仔細に読み解いてみると、歴史というものが存外「偶然」によって動かされてきたことが分かる。最も望ましい人に、絶好のタイミングで、最良の出来事が「偶然」起こっている様を見せつけられると、あたかもこの現世(うつしよ)は、人智や人意を超越する何かによって回転しているのではないかと思わされる。

 

 ハイリア人の話ではないが、偶然が歴史を動かした実例として、ある時代のゾーラの王のエピソードが挙げられるだろう。

 

 昔、ゾーラの里に戦下手な王がいたという。ある時、ド・ボン山脈に魔物の群れが集結し、ゾーラの民を脅かした。王は戦いの才能に乏しかったが、民への愛に動かされ、戦を決意した。王を深く愛していた王妃は大変心配し、王の鎧に自身の白いウロコを編み込んで、その無事を祈った。

 

 彼方の渓谷には、黒き魔物の軍勢が集結していた。それに対して、此方にはきらびやかな武具を身に纏った美々しいゾーラの戦列があった。銀灰色の剣と槍が鈍く日光を反射して林立した。常よりもさらに蒼い顔をした王は、戦列の後方にいた。王は緊張と不安を圧し殺し、精一杯の威儀を保っていた。そして、そんな王を優しく見守るように、編み込まれた白いウロコが輝いて照り映えていた。

 

 戦が始まった。王の作戦指揮がその時だけ珍しく冴えていたのか、あるいは優秀な部下に恵まれていたのか、それとも魔物たちの拙劣な戦い方によるものか、とにかく、戦はゾーラ族の優勢のもとに進んだ。

 

 だが、一瞬の隙を突き、あるリザルフォスの将が隊列を突破して王の本営へ斬り込んできた。既に死を覚悟した者の攻撃は猛烈そのものである。王は懸命に防戦をしたが、リザルフォスの巧みな剣術の前に徐々に追い詰められていった。

 

 後世、ドレファン王が自ら記すところによると、その劇的な瞬間の詳細は以下の通りである。

 

「……リザルフォスがとどめの剣を振り上げた瞬間、その奇跡は起きた。王の鎧の一部が鋭く光り、目を眩まされたリザルフォスの動きが一瞬止まったのだ。王はその隙を逃さず、横薙ぎにリザルフォスのノド元を切り裂いたという……」(『ゾーラ史』第三章「ゾーラの鎧伝説」より)

 

 かくして、戦下手の王は敵将を討ち果たした。勇壮なる戦列は醜悪な魔物の群れを殲滅した。ゾーラの里に安寧と秩序が戻った。ゾーラの戦士たちは凱歌を奏して里を行進し、王は手をあげて民たちの歓呼に応えながら、もう一方の手で鎧の白いウロコを愛しげに撫でていた。ゾーラ族の歴史に、栄えある勝利の記録がまた一ページ追加されたのだった。

 

 しかし、もしあの時、あのタイミングで、白いウロコが鋭く輝かなければどうなっていただろうか? もしあの時偶然にも、光がリザルフォスの目を貫かなかったら? 王は無事に帰還できたのだろうか? そして里は守られたのだろうか?

 

 もしも、の話を問うているのではない。ここで問題にしているのは、偶然というものの重さについてである。偶然はあまりにも強く我々を支配している。それは上の例のような歴史的大事件に限らない。記述するに値しない日常生活の一瞬一瞬の出来事が偶然によって引き起こされ、その出来事がさらなる偶然を生んでいく。

 

 例えば、浜を歩いていると偶然、砂に埋まった宝箱を見つける。中身を元手に宝箱博打をし、偶然、三回連続で当たりを引く。ほくほく顔をして街道を歩いていると、偶然、流れの肉屋と出会う。偶然、肉屋は仕入れたての極上ケモノ肉を持っている。すかさず購入し、今夜はご馳走だとばかりに岩塩をまぶして焚火でワイルドに焼き上げる。その近くを、偶然、何日も食べ物を口にしていない黒ボコブリンがうろついている。黒ボコブリンは、偶然、風に運ばれてきた美味しそうな香りを鼻にし、そして……

 

 幸いなことに、人は偶然を滅多に意識しない。嬉しいこと、悲しいこと、何か目新しいこと、そういったことがふと起こった時に、人はその力の片鱗を感じるだけである。あたかも大波に揺られに揺られている船の一室に閉じこもっていた船客が、今まではまったく気づいていなかったのに、甲板に出て初めて波の高さに驚き、途端に船酔いを覚えるようなものである。

 

 だが、中には大波に敏感な者もいる。言うまでもなく、それは戦闘者たちである。

 

 

☆☆☆

 

 

「ぷはっ! がはっ! はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 無惨に破壊された一面の大地、その一角で、バナーヌは荒く息をついていた。

 

 彼女は体力を著しく消耗していたが、外傷はなかった。彼女の忍びスーツは茶色い土に汚れていた。自慢の金髪のポニーテールもどことなく力なく垂れ下がっていた。それでも、無事に生命を保ったことと比べれば何ということもなかった。

 

 いったいバナーヌは、メテオが降り注ぐ地獄のような状況の最中、どうやってその生をながらえたのだろうか?

 

 彼女を救った要因はいくつかあった。一つには、ファイアウィズローブが術に不慣れだったことが挙げられる。怒りと憎悪によって急速に才能を開花させたファイアではあったが、メテオストライクを発動させるのは正真正銘、これが初めてだった。殺意は一流だったが、それを確かな形にするほど彼は経験を積んでいなかった。

 

 もう一つには、メテオストライクという術自体が持つ欠点がある。この術は広範囲を破壊し焼き尽くすほどの大きな威力を持っていたが、その反面、ピンポイントの目標を攻撃するという精密性に欠けていた。

 

 ファイアはメテオから、この術の恐ろしさと素晴らしさについては教えられていたが、どういう場合にこれが不適であるかについては教わっていなかった。一人の人間を殺すのであれば、メテオストライクは明らかに威力が過剰である上に、効率が悪すぎた。小さなタモ網一つで簡単にハイラルバスを捕まえられる時に、大きな火薬樽を川に放り込むようなものだった。

 

 だが何よりもバナーヌが助かった要因は、彼女がふと訪れた偶然を利用し、それに身を任せたことだった。もっとも、煙のせいで彼女の意識は朦朧としていたため、それは明確に状況を認識した上での行動ではなかった。

 

 紅蓮のごとく天空が燃え盛っていた。無数のメテオが降り注いでいた。乱雑なドラムロールのような、魂を消し飛ばすような着弾音が響いていた。爆発と炎と煙、ビュンビュンと音を立てて飛び交う破片、狂ったように喚き散らすウィズローブの奇声……バナーヌの周りは、そういったもので満ちていた。

 

 もはや、一矢を放つ気力すら彼女にはなかった。白昼夢のごとき奇妙な光景を脳裏に描きつつ、彼女はうつ伏せになって地面に倒れ込んだ。

 

 その後だった。

 

 何かが、ウゾウゾと地面から這い出てきた。最初は数えられるほどにポツリポツリとだったが、次第に数えきれないほどにウゾウゾと大量に、それは(あらわ)れ出た。

 

 それはぶよぶよとした、不定形の半透明の体を持っていた。ぼんやりとした光を放つ、生気を感じさせぬ目が体の真ん中にあった。それは、チュチュだった。大地の一枚下に眠っていた大小様々なチュチュたちが、メテオストライクの発する轟音と熱に刺激されて、一斉に地表へと姿を見せたのだった。

 

 このゲル状をした下級魔族チュチュは、ハイラル全土に生息している。チュチュは木の上から音もなく降ってきたり、地面から突然湧いて出たりするので、ある意味ではボコブリンやモリブリンよりも嫌われている。大きさも様々ならば性質も様々で、熱を帯びたファイアチュチュ、冷気を帯びたアイスチュチュ、電気を帯びたエレキチュチュなど、その姿はバリエーションに富んでいる。

 

 その性質は魔物らしく、凶暴で貪欲である。チュチュは人間を見つければ一直線に近寄ってきて、重い体当たりを仕掛けてくる。チュチュは動きがトロく、見かけも他の魔物に比較して凶悪ではないため、用心棒や冒険者にはやや軽んじられている節があるが、一般人にとって危険なことには変わりない。

 

 廃屋の付近一帯のチュチュたちは、ここ数年は穏やかな生活を送っていた。以前はそうはいかなかった。まだ人間が住んでいた頃、ここの二人の人間の住人は歳をとっていたが元気が良く、朝と夕方に必ずクワを片手に散歩をし、チュチュを見つけ次第退治していた。

 

「婆さん、まーたチュチュが出よったぞ。ほれ、あっちにもおるわい」

「爺さん、力み過ぎるなや。腰を言わしたら爺さんのシモの面倒を見ることになるのはわしじゃからの」

 

 この世に発生したての、まだ肉の旨味も知らぬ小さなチュチュたちは、爺さんと婆さんの一撃必殺のクワによって次々と破裂させられた。老夫妻は単調な生活を彩る娯楽のひとつとして朝夕のチュチュ狩りを楽しんでいたが、チュチュたちにしてみれば毎日が過酷な生存競争だった。

 

 老夫妻がついに老いと病によって正常な判断力を失い、遠方から息子夫婦が来て引き取っていった後、この廃屋周辺はチュチュたちの秘密の楽園となった。好物のニンゲンこそなかなか来なかったが、餌となるカエルや小さな虫たちには事欠かなかった。土は暖かで具合が良く、ほどよく雨も降るので、チュチュたちは順調にその数を増やしていった。小さなチュチュは合体を繰り返して大きなチュチュとなり、大きなチュチュはさらに合体を繰り返してもっともっと大きなチュチュとなっていった。

 

 そんなチュチュたちの繁栄の日々に終止符を打ったのが同じ魔物のファイアウィズローブだったとは、偶然とはいえ皮肉なことであった。地面の下でぬくぬくと過ごしていた彼らは、突然頭上に鳴り響く轟音と振動に刺激され、条件反射的に飛び出して来たのだった。

 

 地上に出たチュチュたちは、どうしようもなく体に染み付いた習性に従って、いつものように餌を探し始めた。バッタは? ヤンマは? カエルは? あっちに跳ね、こっちに跳ねて、ウゾウゾと体を揺らしてチュチュたちは獲物を探した。

 

 そこに、メテオの嵐が降り注いだ。あるいは直撃し、あるいは至近弾となって、メテオはチュチュたちに絶対的な死を容赦なく振りまいた。

 

 チュチュたちは、出てきてはメテオに殺されることを繰り返した。軽快な破裂音と共にチュチュゼリーをバラまいて、彼らはあえない最期を遂げていった。そのチュチュゼリーすらもメテオに破壊された。彼らの痕跡はこの世に何も残らなかった。

 

 なかには、倒れているバナーヌに気づく個体もいた。あ、ニンゲンだ。ニンゲン、食べたい。魔物としての本能に従って、チュチュはノロノロとまっしぐらにバナーヌを目指したが、体当たりの射程に入るまでもなくメテオにやられ、死んでいった。

 

 閃光と爆炎が炸裂し続けていた。倒れているバナーヌのすぐそばの地面が、モゴモゴと揺れた。何か大きなものが這い出ようとしていた。

 

 姿を現したそれは、最古参の巨大チュチュだった。それは爺さんと婆さんの殺戮から逃れた幸運な個体であった。彼は、他の仲間たちと同じく暗い眠りをメテオストライクによって破られ、これまた他の仲間たちと同じく、半ば条件反射的に地上へ出てきたのだった。

 

 柔らかな土から、のっそりと彼は出現した。彼はぴょんと一()ねした。そのあとにはぽっかりとした大穴があいた。人間一人は容易に飲み込むほどに大きな穴だった。

 

 ぼんやりとした視線を走らせて、彼はあたりを見回した。餌はないか、バッタは、アゲハは、カエルは?

 

 彼は視線を下にずらした。そこには、人間が倒れていた。あ、ニンゲンだ。ニンゲン、食べたい。

 

 その図体こそ群を抜いて大きい彼も、所詮は知能低劣なチュチュに過ぎなかった。むしろ、多数の小さなチュチュの集合体であるだけ欲望も凝縮されているので、彼は湧き上がる食欲を抑えることができなかった。

 

 なにやら周囲が騒がしいが、とりあえず目の前のご馳走を食べてしまおう。彼はそう思った。体当たりをして弱らせて、生きたまま丸呑みにしてじっくりと消化するのだ。彼はゆっくりと狙いを定めた。

 

 突然、それまでピクリとも動かなかったバナーヌが、ゆっくりと顔を上げた。サファイア色の両目で、彼女は巨大なチュチュを見つめた。その眼差しは光がなくぼんやりとしていて、まるでチュチュとそっくりだった。

 

 しかし、巨大チュチュは一向に気にかけなかった。彼はぶよぶよの肉体に力を込めて、一切の躊躇もなく空中へ跳んだ。

 

 バナーヌは動かなかった。ただぼんやりと、彼女は巨大な影が自分に迫るのを見つめていた。数瞬の後には、彼女の細い身体はゼリーの圧倒的な質量に圧し潰されてしまうのだろうか。

 

 そこへ、まったくの偶然だったが、人の頭ほどもある大きなメテオの破片が、ヒュンッと音を立てて飛んできた。あらゆる大砲から放たれるどんな種類の砲弾よりも速く鋭く、一直線に飛んでくると、破片は空中を跳ぶ巨大チュチュに直撃した。

 

 破片はチュチュの体の右側面下方から飛び込み、内部を滅茶苦茶に破壊しながら左上面へと抜けていった。

 

 一拍の間を置いて、巨大チュチュは爆散した。びちゃびちゃと、ゼリーと体液が周囲へ雨のようにまき散らされた。

 

 この時、バナーヌは動いた。彼女は匍匐前進をして、巨大チュチュが出てきた大穴へと這いずった。それは意識しての行動ではなかった。これまで幾度も死線を潜り抜けてきたという経験と、日頃の火の出るような鍛錬と、生まれつき有している優れた運動神経が、この偶然訪れた好機を逃すまいとして、彼女の体をして行動させたのであった。

 

 頭から落ちるようにして、バナーヌは大穴に入った。先ほどまで彼女が倒れていた場所には、別のメテオが着弾し、大きなクレーターを作っていた。まさしく間一髪だった。

 

 彼女は穴の中で姿勢を元に戻すと、しゃがむように身を低くして、両手で頭を防御した。この動きも、無論彼女の意識の外で行われた。

 

 バナーヌのこの行動こそ、イーガ団流戦闘術「オ・クノテ」の一つ、「土遁(どとん)の術」だった。本来この術は、地形地物を観察し、遮蔽物を見出し、場合によってはタコツボや壕を掘るなどして、敵の圧倒的火力攻撃から身を防ぐことを目的としている。

 

 巨大チュチュの開けた穴は、まさしく天然のタコツボだった。長身なバナーヌが完全に身を隠すにはやや深さが足りなかったが、身をかがめてさえいれば、頭上を飛び交う無数の破片から身を完全に守ることができた。真上からの直撃だけはどうすることもできないが、平地でただ伏せているよりは遥かにマシだった。

 

 あとは、メテオストライクが止むまでじっと耐えるだけだった。タコツボからぴょこんと、金髪のポニーテールが姿を覗かせていた。メテオの雨はますます激しさを増し、タコツボの至近距離にも何発かが着弾した。爆発によって噴き上げられた大量の土砂がバナーヌの頭上に降り注ぎ、タコツボ内部に侵入してきた。

 

 次第に、土砂によって空間が埋まってきた。このままでは、彼女は生き埋めになってしまうところだった。しかし、恐怖に耐えきれずに外に飛び出せばそれこそ敵の思うつぼであった。土遁の術とは、言ってしまえば、やせ我慢の術であった。

 

 そしてバナーヌは、忍耐強い性格をしていた。そもそもこの場合、彼女の意識は半ば別世界へと旅立っていたため、彼女は忍耐すらしていなかった。石像になったかのように、彼女は動かなかった。

 

 タコツボは、ついに土砂で埋まった。地面からポニーテールが生えているように見えるほど、バナーヌは完全に埋められていた。

 

 いつしか、メテオは止んでいた。ファイアの歓喜に満ちた絶叫も、凶悪な空の紅さも、大気を満たしていた焦げ付くような熱気も、嘘のように止んでいた。

 

 後に残されたのは、破壊し尽くされた穴ぼこだらけの大地だった。それから、一本のメテオロッドが残されていた。チュチュの楽園がひっそりと崩壊したことなど、誰も知らなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌの、暗く澱んだ意識の中で、声が聞こえた気がした。優しくて、小鈴の音のように綺麗な声だった。それは祈っていた。誰かのために、何かを祈っていた。

 

「どうか、バナーヌが無事で元気に帰ってきますように……」

 

 バナーヌは、そこで覚醒した。目の前は真っ暗だった。嗅覚は、濃厚な土の香りをかぎ取った。彼女は全身を圧迫する重みを感じた。彼女は無我夢中で腕を動かした。

 

 もぞもぞと地面が動いた。突然、にょきっと、土に汚れた細く白い腕が一本生え出てきた。続けて二本目が、勢いよく地面の上へ出た。二本の腕は力を込めて大地を抑え込み、そして本体が地上へ出てきた。

 

「ぷはっ! がはっ! はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 バナーヌは、メテオストライクを乗り切った。

 

 彼女はあたりを見渡した。周囲は完全に灰燼と帰していた。

 

 よく生き残ったものだと、バナーヌは半分呆れた。途中から意識がなかったが、穴に埋まっていたということは、おそらく身体が無意識に動いて「土遁の術」を実行したのだろう。

 

 ズキズキと、彼女の頭が痛んだ。軽く吐き気もしていた。こんな気分の時にはとにかくバナナを食べるに限る。そう思い、バナーヌはポーチをまさぐってバナナを取り出そうとした。たしか、まだ、あの大工からもらったものが二本は残っていたはずだが……

 

 指先で、ぐちゃりとした感触がした。ハッとして、バナーヌはポーチを開いた。彼女は息を呑んだ。

 

「……バナナが……」

 

 中にあったバナナは、先ほどまでの激戦に耐えきれず、無惨に折れて潰れ、泥と土に汚れていた。

 

「……バナナが、バナナが……」

 

 ガッカリと彼女はうなだれた。だが、いつまでも立ち止まっているわけにはいかなかった。サクラダとかいう大工の棟梁からカツラダ救出の報酬を受け取ったら、すぐにでも平原外れの馬宿へ行かなければならない。報酬は一千ルピーと、バナナ五十本という約束だった。

 

 落ちていたメテオロッドをバナーヌは拾い上げた。あの魔物、ただのファイアウィズローブの分際でかなりの強敵だった。彼女はそう思った。どうやら魔力の使い過ぎで自滅したようだ。あのファイアウィズローブとメテオウィズローブの二匹の魔物の間には、明らかに仲間意識があった。こちらの命を執拗に狙ってきたのも、討たれた友人の仇をとろうとしたのだろうか?

 

 友人。そういえば、なぜかノチの声が聞こえた気がする。彼女らしい真摯で純粋な、真心のこもった祈りの声がした。その声に励まされたかのように、自分の意識は土中で戻ったのだった。

 

 もしあの時、祈りの声が聞こえなかったら、土の中で窒息していたかもしれない。

 

 立ち止まって、バナーヌも目を瞑り、手を合わせた。彼女はノチのことを思い、祈った。ややあって、彼女は走り始めた。彼女はサクラダ、エノキダ、ウドーの三人が待機している場所へ向かった。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌが廃屋へ向かった後のこと、街道からやや離れた場所でサクラダ、エノキダ、ウドーらの三人は車座になって座り、救出作戦の首尾やいかにと、じりじりとした思いで待っていた。

 

 サクラダは誰に言うでもなく、ポツリと呟いた。

 

「あのバナナ娘さん、上手くやってくれるかしら?」

 

 エノキダが、いつものぶっきらぼうな調子でそれに答えた。

 

「社長の人を見る目は確かです。大丈夫でしょう」

 

 ウドーは、懲りずにまた酒に手を出していた。彼は懐から取り出したスキットルに口をつけ、ちびちびと中身の蒸留酒を飲んでいた。

 

 それに気づいたサクラダが、呆れたような声を上げた。

 

「ちょっと、ちょっと。アナタ、またお酒なの?」

 

 ウドーはまったく悪びれなかった。彼はずり落ちた眼鏡をくいっと持ち上げると、こともなげに言った。

 

「迎え酒ってやつだよ。二日酔いにはこれが一番効くんだ。それに、神経をすり減らして待ち続けるのも心の健康には良くないだろう。どうだ、あんたたちも一杯やったら?」

 

 サクラダは首を横に振って否と示した。

 

「遠慮しとくワ。お酒は好きだけど、今はとても飲む気になれないし……」

 

 エノキダも言った。

 

「社長に同じく」

 

 ウドーは憮然とした表情を浮かべた。

 

「ふん、そうかい」

 

 そして、彼はまたちびちびとやり始めた。どうやら、この中で最も不安にとらわれているのはウドーのようだった。

 

 しばし、沈黙が三人を包んだ。だが、それも長くは続かなかった。

 

 腕組みをして、ぽつぽつと小雨を降らす薄暗い空を見上げていたエノキダが、すっと立ち上がった。

 

「社長、声が聞こえませんか? 人間の声が、どこか遠くから」

 

 サクラダも立ち上がり、耳をそばだたせた。ウドーもそれに倣った。二人は言った。

 

「む、確かに。何か叫ぶような声がするワね」

「上の方からだ。それに、だんだん大きくなってないか?」

 

 三人は空を見上げた。次第に声は大きくなり、はっきりと聞き取れるまでになった。

 

「ううわわああーっ!!」

 

 サクラダは驚愕で顔を歪ませた。この声は、確かにカツラダだ!

 

「これはカツラダの声よ! カツラダが降ってくる!」

 

 サクラダがそう叫んだ直後、三人から少し離れたところに、ドカッという音を立てて人影が落下した。

 

 すぐさま三人はそこへ駆け寄った。エノキダは足の怪我のためにのろく、ウドーは酒のせいで少し足取りが怪しかった。それゆえ、真っ先に駆け付けたのはサクラダだった。

 

 サクラダは倒れているカツラダを抱き起こすと膝の上に乗せ、必死に呼びかけた。

 

「カツラダ! しっかりしてカツラダ! 駄目だワ、意識がないみたい!」

 

 いつになく取り乱した様子のサクラダに、追いついて傍らに立ったウドーが叱責するような調子で叫んだ。

 

「アンタ、怪我人をそういう風に扱っちゃ駄目だ! ここは俺に任せろ!」

 

 そう言うとウドーは、サクラダからぐったりとしたカツラダを受け取り、手慣れた様子で救命処置を取り始めた。戦闘はからっきしの彼だったが、戦いの現場で必要となるこういった技術の習得には人一倍余念がなかった。これまでにも彼はこうして何人もの命を救ってきた。

 

 ウドーは大声で呼びかけながらカツラダの肩を叩いた。反応なし。ならば、まず気道を確保する。次に呼吸を確認する。正常な呼吸をしているか? していない。

 

「呼吸をしていない。人工呼吸だ!」

 

 ウドーは片手でカツラダの気道を確保しつつ、もう片方の手の親指と人差指でカツラダの鼻を摘まむと、口を大きく開けてカツラダの口を覆い、息を吹き込んだ。

 

 そして、彼は心臓マッサージを行った。迷うことなく、彼は必要な処置を次々と実施していった。確かな知識と経験と自信に裏打ちされた技術の冴えがそこにはあった。

 

 その光景を、サクラダは不安に潤んだ瞳で見つめていた。一方、エノキダは自分の胸中に湧き起こった、ある不謹慎な考えに苦しんでいた。

 

 いや、考えまい……考えまいが……いや、でも……こいつ、さっきまでゲロ吐いていたよな……エノキダの顔が奇妙に歪んだ。

 

 ウドーが懸命な処置をとり続けている間、廃屋の方角の空が赤く紅く燃え、魔物の恐ろしい叫び声と爆発音が聞こえてきた。

 

 エノキダがポツリと社長に尋ねた。

 

「なんでしょう、あの空と音は」

 

 サクラダが確信に満ちた声で答えた。

 

「戦闘をしてるのよ。あのコと、ウィズローブが。まさしく死闘でしょうね」

 

 エノキダが言った。

 

「様子を見にいきましょうか?」

 

 サクラダが口を尖らせた。

 

「あら。なんのために見にいくのかしら? アナタは怪我をしてて、アタシもきっと足手まとい。それに、カツラダも何とかここに戻ってきた。後は信じて待つほかないでしょう。待ちなさい」

 

 エノキダは頷いた。

 

「はい」

 

 その戦闘騒音も、数分が経過すると嘘のように止んでしまった。

 

 

☆☆☆

 

 

 カツラダは、無事に蘇生した。

 

 健康で若い肉体は、高空からの落下にもさしたるダメージを負わなかったようだった。普通なら脳挫傷、骨折、全身打撲、頸椎損傷など、ありとあらゆる大怪我を負ってもおかしくはなかった。

 

 それとも、落ちた場所が偶然ぬかるんでいて、落下の衝撃をわずかながらでも和らげたのが影響したのだろうか。あるいは、バナーヌの投げ方が良かったのだろうか。いずれにせよ、奇跡と言って差し支えないほどの偶然が彼を救ったのだった。

 

 カツラダはにこにこと、人懐っこい笑顔に感謝の気持ちを上乗せして、ウドーへしきりに頭を下げていた。全身が激しく痛むせいで、彼は横たわったままだった。横たわったまま彼は頭を下げていた。彼は言った。

 

「ほんと、助かったッス! ウドーさんのおかげっスよ! あんたは命の恩人っス!」

 

 ついに用心棒としての面目を大いに施すことができた。ウドーの表情は明るかった。ウドーは言った。

 

「いや、それほどでも。できることをやったまでさ。とにかく無事で良かったよ」

 

 サクラダもウドーの手を取って、言った。

 

「本当にありがとう! アタシ、アナタに偉そうに説教しちゃったけど、今は本当に心から謝るワ。アナタは立派な用心棒よ! ハイラル一の用心棒!」

 

 禿げたサクラダが浮かべる感動の表情は凄まじい迫力を伴っていた。ウドーはどぎまぎした。どぎまぎというより、面食らった。

 

「そ、そうかな? そう言われるとちょっと照れるかな……」

 

 サクラダは叫んだ。

 

「これは感謝の気持ちよ! 受け取って!」

 

 突然、サクラダはウドーに顔を近づけた。ウドーが避ける間もなく、サクラダはその瑞々しいピンク色の唇を彼の唇に重ねた。ぶちゅっという音が鳴った。

 

 それはサクラダの悪癖の一つだった。彼は感極まった時に、老幼と性別を問わずに熱いキッスをするのだった。

 

 数秒経ってから、ウドーは熱い接吻から解放された。

 

「モガガ……! むぐ……ぷはっ! お、おぇ……」

 

 ウドーの目から思わず涙が零れ落ちた。マジかよ、俺のファーストキスが。彼の顔の皮膚には、サクラダの無精ひげが刺さったチクチクとした痛みがまだ残っていた。

 

 それを見たエノキダは、また場違いなことを考えていた。

 

 社長のキスも大概だが……いや、その……やっぱりこいつ、このウドー、さっきまでゲロ吐いていたよな……ゲロした(くち)とキスか……エノキダの顔が奇妙に歪んだ。

 

 あまりの不快感にえずくウドーを後目(しりめ)にして、サクラダは横たわっているカツラダにも顔を近づけた。

 

「アナタも無事に帰ってきて良かったワ! もう最高よ!」

 

 カツラダは叫んだ。

 

「あ! 社長、俺はいいっス! いいっスから、やめ、やめて、やめてぇえ! うぐ……むぐ……うぐ……」

 

 ぐったりとして動かなくなったカツラダを尻目に、サクラダは腕組みをして座り込んでいるエノキダに顔を近づけた。

 

「エノキダ! アナタも頑張って……頑張ったかしら? とにかく、社長の喜びは社員の喜び! アナタも受け取りなさい!」

 

 エノキダは言った。

 

「む、そうですか。では」

 

 エノキダは抵抗せずに受け入れた。もっちりと厚みのあるサクラダの唇が、エノキダのひび割れた無骨な唇に重ねられた。エノキダの顔にサクラダの無精髭がチクチクと刺さった。入社以来、これで四回目、いや五回目だったか? もはやどうということもない。最初は抵抗したせいで舌まで入れられそうになったものだ。

 

 そして、エノキダはこうも考えていた。これは……その、やはり……ゲロした口との間接キスではないか……? エノキダの顔が奇妙に歪んだ。

 

 三人の男にあらん限りの感謝を振りまいたサクラダは、ひとつため息をつくと、振り返りもせずに言った。

 

「それで、アナタもアタシの感謝の気持ちを受け取ってくれる? バナナ娘さん」

 

 若い女の声が響いた。

 

「いらない」

 

 いつの間にか、そこにはバナーヌが立っていた。どうやって気づかれもせずにここまで近寄ってこれたのか、彼女は勝手に一行の弁当の包みを開き、黄金に輝くバナナの房を取り出すと、一本一本を丁寧にもいで、もぐもぐと貪るように食べていたのだった。

 

 しかしサクラダは止まらなかった。溢れ出る感激の気持ちをどうにかして発散しなければ、彼の気が済まないのだった。彼は叫んだ。

 

「遠慮はいらないワ! さあ受け取って、アタシの熱いキッスを!」

 

 バナーヌは短く答えた。

 

「いらない」

 

 すげない返答が聞こえたと思ったその直後、サクラダの視界がガクンと下がった。彼はそのまま地面にへたり込んでしまった。どうやら、彼は足払いを食らわされたようだった。

 

 バナーヌの姿は、忽然と消えていた。足跡すら残っていなかった。バナナの皮が落ちているだけだった。

 

 エノキダがサクラダに、さして心配そうでもなく、声をかけた。

 

「大丈夫ですか。何かされましたか」

 

 ペタペタと、サクラダは自分の体を触った。どこにも異常はなかった。彼はエノキダに言った。

 

「大丈夫、何ともないわ。それにしても、ああ……逃げられちゃったワね。せっかく感謝を伝える良い機会だったのに」

 

 エノキダは言った。

 

「他に異常はないですか」

 

 サクラダは答えた。

 

「心配性ね、エノキダは。まあ、そんなところがアタシは好きなんだけど……って、あれ? 財布、財布はどこにやったかしら?」

 

 先ほどまでサクラダの腰にしっかりとした重みを与えていた財布が、いつの間にかなくなっていた。その中身は、たしか千二百ルピーはあったはずだった。

 

 あたふたと体中を探って財布の所在を確認するサクラダを見て、滅多に表情をあらわさないエノキダが珍しく眉をひそめた。

 

「どうやら、あの女に盗られたようだな」

 

 サクラダは、呆気にとられたようにぽかんと口を開けた。しかしその次には、彼はにやりとした笑みを浮かべて、どこか満足そうに言った。

 

「ふふ、やってくれるじゃない。報酬はしっかり受け取ったってわけね。確かに中身は一千ルピーとちょっと。だいたい契約通りよ」

 

 立ち上がって、いまだにえずいているウドーとカツラダに向かって、サクラダは呼びかけた。

 

「さあ、これにてすべては一件落着! 宿に帰って、みんなで美味しいものをたくさん食べて、いっぱい休みましょう! カツラダ、アナタは特別にアタシがおんぶしてあげるワ、さあつかまって……」

 

 

☆☆☆

 

 

 昼過ぎになった。厚く天を覆っていた雨雲は去って、青く美しい空が頭上に広がっていた。やわらかな日光が燦燦(さんさん)と降り注ぎ、犬は寝そべって日向ぼっこをしていた。馬やロバもどこか嬉しそうな様子だった。

 

 そんな平原外れの馬宿の近くで、バナナの行商人は今日も今日とてバナナのたたき売りをしていた。

 

「さあさあ買った、さあ買った、バナちゃんの因縁聞かそうか! 生まれは南国フィローネで、親子諸共もぎ取られ、箱に詰められ牛に乗り、ゆらり揺られて道千里、着いたところが平原外れ! さあさあいくらで売ったろか!」

 

 行商人の前に、一人の女が音もなく現れた。

 

「一千ルピーある。バナナをくれ。団員優待込みで」

 

 バナナの行商人は答えた。

 

「おっ、可愛いバナちゃん買ってくかい! 大特価一房九十九ルピーだよ! さあさあ買ったさあ買った……」

 

 そこまで言ってから、行商人は驚きで目を見開いた。

 

「って、お前はパシリのバナーヌじゃないか! ちょっと遅かったから心配したんだぞ! どこかで油売ってるんじゃないかってな。一体全体どこで何を……」

 

 バナーヌは短く言った。

 

「いいからバナナを」

 

 何をおいても、今はとにかくバナナだ。

 

 バナーヌは、ついに平原外れの馬宿に到着した。

 

 だが、忘れてはならない。これはまだ、折り返し地点ですらないのだ。




 独特の審美眼ゆえなのです、熱いキッスは。サクラダは大真面目です。
 しかしですね、私としても人生で初めて書いたキッスシーンがこんなふうになるとは思わんかった……

※加筆修正しました。(2023/05/07/日)


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第三章 硝煙に烟る麗しの黒髪
第二十二話 あるいは贅沢という名の罠


 およそ生命体である限り、食という問題から完全に解放されることは不可能である。頑健強壮な肉体と覇気横溢(おういつ)する精神を持つ、まことに望ましい状態にある生命であっても、一食や二食を欠くだけでその活力は簡単に損なわれる。いわんや、三日も絶食となれば、もはや瀕死の重病人と同義である。

 

 このハイラルの天地に棲まうあらゆる生命体は、野獣にせよ魔物にせよ、そして人にせよ、食わなければ生きていけない。そんなことは改めて言われるまでもなく、至極当たり前のことに思えるかもしれないが、その「アタリマエ」を常日頃から、身も切られるような切迫感を持って意識している人が、はたしてどれだけいるだろうか。

 

 だが、大厄災以前のハイラル王国においては、幸いにも人は食の問題から解放されていた。いや、先の記述に従うならば、食の問題を意識する必要がなかった。幾棟の巨大な倉庫には膨大な量の穀物がはちきれんばかりに蓄えられ、市場にはありとあらゆる食物が低廉な価格で取引されていた。冷涼なタバンタ地方や、さらに万年雪で覆われたヘブラ地方から城下町にやってきた人は、豪壮絢爛なハイラル城の建築よりも、食べ物が色とりどりで風味豊かであることにまず驚いたという。

 

 想像してみよう。ある日遠路はるばる、城下町へ二人の若いヘブラ人がやって来る。彼らがここに来るのは初めてである。彼らは地味で野暮ったい防寒着を着ていて、大事な商品であるオオツノサイの毛皮を何枚も背負っている。その雪焼けした黒い顔には常に驚きと好奇心が浮かんでいる。人いきれに圧倒され、辻馬車に轢かれそうになりながら、二人はやっとの思いで毛皮を取引先の商館へ送り届ける。

 

 安心して一息ついた時に腹が鳴った。何か食べないと。目についた食堂に二人はおずおずと入る。二人は元気よく一声かける。「すいません、何か食べ物を!」 なぜかクスクスと笑う声が聞こえる。どうして笑う? 二人には分からない。でも、どうでも良いことだ。何か食べ物を!

 

 ほどなくして可愛らしい女給が運んできたのは、上ケモノ肉をゴーゴーニンジン、リンゴ、ハイラルダケで煮込んだシチューに、タバンタ小麦を使った焼きたての小麦パン、それからコップに一杯の新鮮な水だった。

 

 城下町の住民にとってはなんということはない、むしろ安っぽくて飽き飽きするようなメニューだが、二人にとっては見たこともないご馳走である。

 

「この煮込み料理、えらいうまいなぁ。肉もとろとろで、汁も色んな味がして。舌が痺れるわ。パンも白くてやわこくて、うちらが普段食べてる黒パンとは比べ物にならんわ」

「空腹に任せて考えもせずに入っちまったが、たけぇ店だったら困るなぁ」

「なぁに、さっき商館でもらったルピーがたんまりあるわ。心配せんでええ、もっと食おうぜ。お姉さん、お代わりをくれ!」

「わしも、お代わりじゃ!」

 

 周りの客の生温かい視線も気にせず、二人は食べに食べる。それで、いざ会計となる。さっきはああ言ったが、いったいいくらするんだろう? ドキドキと心臓が高鳴る。タバンタヘラジカの大きな群れに出くわした時でも、二人はこんなにドキドキとはしたことはない……

 

 女給が告げる。四十ルピーです。

 

 えっ、四十ルピー!? そんなら二人で八十ルピーか。あまりにも安い。驚きに震える手で財布の紐を緩めようとすると、女給はにっこりと笑って二人にこう告げる。

 

 いいえ、二人で四十ルピーですよ。一人二十ルピーですから。それから、母がお礼を言っていました。こんなにシチューをたくさん食べてもらえて嬉しかった、最近はみんな隣町のゴロン族がやってるカレー屋さんに行くからねぇ、って……

 

 多少戯画化が過ぎた描写だったかもしれないが、城下町に来れば食に困ることがなかったのは真実である。どんなに恵まれない人々でも、一日の生存に必要なカロリーだけは確保することができた。売れ残りの果物を譲ってもらえば良かったし、慈善団体の炊き出しに並んでも良かった。日雇い労働をしてまかないにありつくのも良かった。贅沢を言わなければどうとでもなるのが城下町という世界だった。

 

 そう、贅沢を言わなければ! それは、人間にとって最も難しい問題かもしれない。人間は、贅沢を言わずにはいられないという厄介な性質を持っているのだ。

 

 彼にとって最低限の必要が満たされれば、その後に来るのは満足ではない。さらなる必要である。昨日には薄いスープで満足していた人間は、今日には上ケモノ肉のシチューを求め、明日にはゴロンの香辛料をたっぷり使った極上トリ肉のチキンカレーを欲している。ちょっとした贅沢がいつしか標準化され、さらにちょっとした贅沢をそれに上乗せし、時々はこんなことはやめて粗食に甘んじようとふと立ち止まっても、結局もはや後戻りできないほどの贅沢を覚えてしまっている。

 

 ゆえに古代シーカー族の賢者は「足ることを知る者は富む」と言った。もっともっとと望めば望むほど、人間は満たされない思いに永遠に苦しむことになる。それを断ち切れ! パン一切れ、スープ一杯、今日も必要なカロリーを無事に得ることができた。それで充分ではないか! そう思えるようになれば、肉だの魚だの果実だの、珍味を欲することはなくなる。

 

 賢者の忠告ほどありがたいものはないのだが、それ以上に、賢者の忠告ほど実行されないものはない。古代から言われ続けているという事実は、古代から人間がまったく進歩していないことを示している。

 

 大厄災以降、いささか飽食気味と言っても良かったハイラルの食事情は、一挙に後退した。ガンバリバチのハチミツをたっぷり塗った極上ケモノ肉の丸焼きなど、かつては毎日のように大富豪の食卓に供されていたが、今では影も形もない。新鮮な果物をふんだんに使ったフルーツケーキは、さる王女のお気に入りの菓子であったが、今ではその作り方さえ失われている。

 

 この時代の人々は、粥一杯、おにぎり一個、パン一切れで満足している。たまに贅沢もするが、それを標準化することなどない。ついに人々は、賢者の忠告した通りに生きていけるようになったのか?

 

 いや、そうではないのだ。大厄災以降の人々が贅沢をしなくなったのは、足ることを知ったからなのではなく、贅沢をすることが物理的に不可能になったからに過ぎない。誰が魔物の跋扈(ばっこ)する山野へわざわざ極上ケモノ肉を、きび砂糖を、マックストリュフを取りにいくというのだ? そんなものに命を懸ける価値などない。田畑は限られているのに、それをわざわざ珍奇な野菜や果物の栽培に割くなど、誰がするというのだ? 余力がないから贅沢ができない。それだけである。

 

 現に、贅沢を可能とする実力を有している者たちは、今もなお贅沢三昧を楽しんでいる。それは整然とした組織体系のもと、魔物をものともせぬ武力を持ち、独自の流通経路を持っていて、なにより、贅沢をすることに執念のような情熱を持つ者たちだ。

 

 贅沢とは言えど、彼らのそれは一つである。それは、黄金の果実を食すること、すなわち、ツルギバナナを食することである。

 

 

☆☆☆

 

 

 平原外れの馬宿近くの、街道から少し離れたところの窪地に、二人の人影があった。人影のひとりが言った。

 

「どうだ、美味(うま)いか?」

 

 もうひとりの人影が、バナナを食べながら答えた。

 

「……おいしい」

 

 ひとりめの人影は言った。

 

「そりゃ美味いだろうな。第一、お前はバナナだったらなんでも良いもんな」

 

 まあそれは俺も同じだが。平原外れの馬宿の常駐連絡員であるゴンクは、黙々とバナナを食べる仲間の女性を、半ば呆れたように見ていた。

 

 ゴンクのイーガ団員歴は三十年と少しに及ぶ。彼は既婚者であった。彼は中肉中背で、髪は黒だった。顔は、やや鼻が低くて少し出っ歯であることを除けば、平凡そのものだった。これと言って特徴のない男であった。

 

 彼の特技は、バナナのたたき売りだった。彼は口上(こうじょう)をいくつも覚えていて、(ふし)回しも板についていた。彼が売れ残りを作ることはほとんどなかった。しかし、戦闘を事とする男性イーガ団員としては、それはどことなくパッとしない特技とも言えた。

 

 これには事情があった。

 

 もともと、ゴンクは優秀な戦闘員だった。生まれついての才能は平凡だったが、彼は欠かさず鍛錬を重ねたことで並々ならぬ技量を手に入れた。モリブリンが三匹がかりで掛かってこようが、彼はものともしなかった。それになにより、彼は命令に従順で任務の遂行にひたむきだった。彼は幹部たちからは気に入られていたし、同僚たちからの信頼も厚かった。

 

 しかし、彼の戦闘員としての順調なキャリアは、ある日突然終わりを告げた。森の中の開けた広場に築かれたリザルフォスの拠点を隠密裏に偵察中、「少しばかりの」失敗から、彼は膝に矢を受けてしまったのだった。

 

 それほどまでの技量を持った男がどうして失敗などしてしまったのか? 任務を命じられた前日、ゴンクは仲間と、バナナ二十本と百ルピーを賭けた「ちょっとした」博打(ばくち)をした。

 

 それで、彼は無念にも大敗した。真面目だったゴンクはそれまで一度も博打をしたことがなく、したがって博打によって貴重なバナナとルピーを無為に失ったこともなかったのだが、その日の初めての経験はいたく彼を傷つけた。仲間は面白がってこれ見よがしにバナナを彼の目の前で貪り食ったが、それも彼には非常に(こた)えた。

 

 仲間はゴンクに言った。

 

「どうだ、どうだ、悔しかろう、悔しかろう! 博打に負けるってのはそういうことだ!」

 

 ゴンクは悔し紛れに言った。

 

「……博打初心者をいたぶって分捕ったバナナの味はどうだ?」

 

 仲間はいやらしさ極まる声で答えた。

 

「おいしいね、抜群に!」

 

 ゴンクは毒づいた。

 

「畜生!」

 

 仲間は言った。

 

「次はもっと勉強をして、俺からバナナを三十本でも四十本でも取り返せば良いさ。もっとも、それができるまでにはあと何年必要かな、ガハハ……」

 

 気持ちの整理がつかないまま、ゴンクは任務に臨んだ。そんな彼に追い打ちをかけたのが、リザルフォスたちのある行動だった。彼が拠点を偵察した時はちょうど昼だったのだが、リザルフォスたちはギャオギャオと互いに呼びかけ合うと頭を突き合わせて座り込み、思い思いに食事をとり始めた。

 

 食事か、食後は満腹感で奴らの警戒心も薄くなるだろう、そしたらもっと近づいても良いかもしれない。そうゴンクは考えた。だが、次の瞬間、彼は我を忘れた。

 

 リザルフォスたちがバナナを食っている! 貪り食っている!

 

 どういう経緯で手に入れたものかは知らないが、リザルフォスたちは大量のバナナを食べ始めた。皮も剥かずにそのまま一本丸ごと、魔物たちはその牙の生えた大きな口にバナナを放り込んでいた。ギャオギャオと楽しげに呼び交わしながら、魔物たちは狂乱のバナナパーティを繰り広げていた。乱暴で下品で、見ていられない食べ方だった。

 

 そんな光景を見せつけられたゴンクは、思わず体が動いていた。前日、下卑た喜びに顔を歪ませながらバナナを貪り食った仲間の顔が彼には思い浮かんだ。

 

 畜生どもめ、思い知らせてやる!

 

 彼は二連弓に矢を(つが)えて、慎重に音を立てないように引き絞り、リーダー格と思しき青リザルフォスに狙いを定めた。

 

 八つ当たり気味の乱雑な殺意を込めて放った矢は、しかし外れた。一本は青リザルフォスの手前へ、もう一本はその向こう側へ、むなしい音を立てて地面に突き刺さった。

 

 リザルフォスたちは飛来した矢に驚き、バナナを投げ出して、代わりに武器を手にした。魔物たちはキョロキョロとあたりを見回して、襲撃者の姿を探した。投げ出されたバナナは泥水のたまりにぼちゃぼちゃと落ちて、続けて魔物たちによって無惨に踏み潰された。

 

 一方、ゴンクの精神は混乱していた。外れるくらいなら撃たなければ良かった。このことに対する後悔の念があった。弓の腕には絶対の自信を持っていたが、それが外れた。このことに対する落胆の念があった。偵察任務を台無しにしてしまった。このことに対する失望の念があった。

 

 暗い感情が彼の心を支配した。精神は正常な判断力を失い、そして彼は二度目の、致命的なミスを犯してしまった。

 

 ゴンクは、もう一度射撃をしてしまったのだった。

 

 隠密と潜伏を基本的な戦闘スタイルとするイーガ団員にとって、それはあるまじき失態であった。こちらの存在を悟られたならば、どんな理由を()いてもまずはその場を離脱し、再度の機会を待たなければならない。そのような教育と訓練をゴンクは受けてきたはずであったし、事実今までもそのようにしてきたのだ。

 

 それが、射撃続行であった。漫然とした、考えなしの、甚だしく惰性に満ちた射撃だった。おまけに彼は、さらに視界を得ようと、身を隠していた茂みから立ち上がってしまう始末だった。いくら動揺していたとしても、彼はあまりにも無様であった。そんなことがうまくいくわけがなかった。彼は矢を放ったが、矢はまたもや命中しなかった。

 

 まるで戦闘の素人のように支離滅裂な行動をとるゴンクに対して、拠点のリーダーである青リザルフォスは冷静そのものだった。一度目の射撃で何となく襲撃者の所在に当たりをつけていた彼は、二度目の射撃の際に姿を現したゴンクをいち早く発見すると、その自慢の鋼鉄リザルボウで必殺の一矢を放った。

 

 メシャ!という音を立てて、矢がゴンクの右膝に命中した。矢は膝頭(ひざがしら)に直撃し、その勢いで以て膝蓋骨(しつがいこつ)をめちゃめちゃに粉砕し、そのまま裏へ貫通していった。傷口からは真っ赤な血が噴出し、砕かれた骨の白い破片が飛び出していた。

 

 ゴンクは苦痛の叫び声をあげた。

 

「ぐぁああっ!!」

 

 それは、三度目のミスだった。イーガ団員たるもの、攻撃を受けて悲鳴をあげるような軟弱さは絶対に許されない。それはこちらの所在を敵に知らせるだけではなく、こちらの「攻撃を受けて弱っている」という状態をも知らせることになるからだ。

 

 リザルフォスたちは今や完全に襲撃者を捕捉していた。魔物たちはリザルスピアやリザルブーメラン、リザルボウをひっつかむと、リーダーを先頭に立てて、地面に張り付くほどの低い姿勢で大地を疾走してきた。その目は殺意と食欲に燃えていた。捕食者に特有の目の輝きだった。

 

 そして、ゴンクも走り出した。彼が逃げ込む先は森の中だった。彼の右足は完全に動かなくなっていた。彼は残った左足でとび()ねるようにして逃げた。着地するたびに、彼は耐えがたい激痛に襲われた。彼の貴重な血液が滝のように流れ落ちた。彼は目に涙を浮かべ、顔にべっとりと脂汗をかいていた。彼の口はカラカラになっていて、心には恐怖が満ちていた。

 

 背後にリザルフォスたちが迫った。ギャオギャオという叫び声がした。体のすぐそばを掠めて幾筋もの矢が飛んでいった。死が、迫っていた。ゴンクは懸命に逃げ続けたが、追い付かれるのは時間の問題だった。絶望感で彼の足がもつれそうになった。

 

 その時、力強い男の声が頭上から響いた。

 

「伏せろ!」

 

 言われたとおり、ゴンクは力を振り絞ってパッと前方へ跳び、両手で頭を守って伏せた。

 

 突如、森中に大爆発の音が響き渡った。ゴンクの背中の上を爆風が通り抜けた。リザルフォスたちの断末魔の悲鳴が聞こえた。さらに爆音がし、ややあってからもう一度爆音がした。何か切り結ぶ音も聞こえたが、それもやがて聞こえなくなった。

 

 伏せたまま、ゴンクはじっと様子を窺っていた。その近くへ、誰かがやってきた。ゴンクは警戒したが、その顔を見てほっと安堵の息を漏らした。

 

「ああ……ハッパ様……」

 

 そのイーガ団員は、筋骨に優れた立派な体格をしていた。その男は、椰子の木のごとくそそり立つ黒い(まげ)を結っていた。彼は白い仮面と、臙脂色(えんじいろ)の忍びスーツを身につけていた。その手には血の滴っている鬼円刃(きえんじん)があり、腰には爆弾(バクダン)袋を下げていた。それは、幹部のハッパであった。

 

 ハッパはゴンクに応急処置を施しながら、なんていうことはないとばかりに気楽に話しかけた。

 

「どうした、ゴンク。お前らしくないじゃないか。死にかけのゴーゴーカエルのように這いつくばるなど」

 

 ゴンクは苦しそうに答えた。

 

「……まことに、申し訳ありません」

 

 ハッパは手当てを続けながら言った。

 

「今朝から様子がどこかおかしかったからな。気になったから後を追ってきたんだ」

 

 ゴンクの目から涙がこぼれた。それは痛みのためばかりではなかった。

 

「……本当に、助かりました」

 

 ハッパは明るい声でさらに言った。

 

「それにしても失態だな。おまけに傷も重い。矢は動脈を傷つけてはいないが、これでは今後歩くことも難しかろう。なに、心配することはない、俺が面倒を見てやるよ……」

 

 こうして、ゴンクの戦闘員としての経歴は、無様な敗北という字句を書き加えられて打ち切りとなった。彼は戦力外とされ、アジトでの療養とリハビリを終えたあとは、不人気なポストである馬宿の常駐連絡員として働くことを命じられた。

 

 もともと彼は努力家の男であった。まさしく血の滲むほどのリハビリを重ねたことで、彼は何とか歩行には問題がなくなるまでに回復した。跳んだり走ったりはもうできなかったが、彼はそのことに折り合いをつけた。彼は偽の職業としてバナナの行商人を選んだ。彼は行商の口上の研究と練習を欠かさなかった。

 

 リハビリの最中にも、幹部ハッパはよく顔を見せて、時には彼を励まし、時には彼に訓戒を与えた。彼に「バナナの行商人になれ」と言ったのも、ハッパだった。

 

「お前はバナナのせいで今回の任務に失敗したと言うが、それは間違いだ。お前は常日頃からバナナへの祈りを怠っていた。だから、今回バナナの神がお前に罰を下したのだ。それに、バナナを賭け事の対象にするなど言語道断だ。お前はバナナに対して犯した罪を清算しなければならないぞ。だから、バナナに奉仕する仕事をしろ。『汝らバナナの恩恵深きを思い知れ、バナナにより頼むものは幸いなり』と言うだろう」

 

 ハッパはなにくれとゴンクの面倒を見てくれた。ハッパはゴンクの病気がちの妻に薬をくれたし、子どもたちが高度な教育が受けられるように手を回してくれた。ゴンクが平原外れの馬宿に着任するのに前後して、ハッパもフィローネの支部へ転勤していったが、そこから新鮮なバナナを定期的に送ってきてくれていた。そのおかげでゴンクは常に良いバナナを売ることができた。

 

 左遷され、妻子は遠いカルサー谷にいるとはいえ、ゴンクは非常に恵まれていた。バナナの行商人はやっていて楽しい職業だった。練習に練習を重ねた口上と節回しで、大好きなバナナを次々と売り飛ばしていくのは爽快だった。万一売れ残りが出たとしても、それはそのまま彼の贅沢となるのだから、これほど素晴らしいことはなかった。

 

 そんなふうにここ数年を毎日楽しく暮らしていたゴンクだったが、ここ最近の彼は少しピリピリとしていた。まず、先頃(さきごろ)のバナナ輸送の失敗が彼を苛立たせた。輸送隊はゲルドキャニオンで魔物に荷物を焼かれたらしい。それから、(みずうみ)研究所襲撃の失敗も腹立たしかった。いずれもフィローネの支部が犯した大失態であった。

 

 なにより彼にとって気がかりなのは、今度のバナナ輸送作戦だった。フィローネの支部としては一刻も早く先の二つの失態によって地に堕ちた名誉を挽回し、カルサー谷の本部からの信頼を回復しなければならない。そのためには、今回のバナナ一万本の輸送には絶対に成功しなければならない。

 

 それなのにもかかわらず、本部から応援として派遣されてきた人員は、パシリのバナーヌたった一人であった。

 

 いまだに無口で無表情のまま、もぐもぐとバナナを食べ続ける仲間を、ゴンクはチラリと見た。彼は言った。

 

「そんなに食って大丈夫か? もう十五本は食ったみたいだが」

 

 バナーヌは口の中のバナナをゆっくりと、しかし素早く咀嚼すると、ゴクリと飲み込んだ。彼女は何も感情を乗せない声で言った。

 

「まだ足りない。あと、眠い」

 

 ゴンクは言った。

 

「ああ、そうかよ」

 

 ここまでの道中、ゲルド族の精鋭と戦い、二体のウィズローブを退けたというから、その戦闘力は折り紙付きと言って良い。だが、所詮はパシリの雑用屋だしなぁ。ゴンクは嘆息した。任務に失敗したことはないそうだが、それはせいぜい子どものお使いレベルの、安い簡単な仕事ばかりだったからだろう。あまり彼女のことを知らないゴンクは、漏れ伝わってくる噂を(もと)にして、バナーヌの実力をこのように低く見積もっていた。

 

 彼は呟くように言った。

 

「ああ、心配だ……」

 

 ゴンクとしては、このバナナ輸送作戦は絶対に成功して欲しかった。弱い自分の後ろ盾となってくれていて、なおかつ深く敬愛している幹部ハッパが勤めているフィローネ支部が、もしこれ以上の失敗を積み重ねたらどうなるか?

 

 コーガ様は短気なお(かた)である。失敗の原因を支部長や幹部の怠慢であると決めつけて、重いお仕置きを命じてくるかもしれない。そうなればハッパ様もタダではすまないだろう。ハッパ様の一人娘も、路頭に迷うかもしれない。

 

 そう、ハッパには一人娘がいる。一度だけゴンクはその娘に会ったことがあった。いかつい父親に似ず、大変可愛い娘だった。褐色の肌に小さな体躯、元気いっぱいの溌溂さと年齢に見合わぬ聡明さ……たしか、名前はテッポと言ったか? 今回のバナナ輸送作戦が彼女の初陣だという。初めての任務で張り切っていると、ハッパからの手紙には書いてあったが……

 

「まだ来ねぇんだよなぁ……」

 

 不安と焦燥感がゴンクの心中を満たしていた。本来なら、とっくにこの平原外れの馬宿にバナナ輸送馬車が来ていてもおかしくはない。それが、影も形も見えない。行程が遅延しているのならば、一人や二人の伝令が来て、その旨を連絡してきても良いはずだが、それもない。自分から迎えに行っても良いが、足が不自由だし、任務の関係上、あまり馬宿から離れるわけにもいかない。

 

 もう一回、ゴンクはバナーヌを見た。バナーヌは二十本目のバナナを食べ終え、目を瞑って手を合わせていた。どうやら彼女はバナナに祈りを捧げているようだった。こういうところは素直に感心できるな、と彼は思った。

 

 バナーヌが到着して以来考えていたことを、ゴンクは告げることにした。

 

「おい、バナーヌ、どうやら輸送馬車に何か問題があったようだ。昨日の夜には着いていてもおかしくなかったんだが、今になっても来ない。そこでだが、お前、ちょっと街道を東へ行って、輸送馬車を迎えに行ってくれないか? できれば、ハイリア湖のほうまで」

 

 無表情のバナーヌの顔に、少しばかり不満げな色が浮かんだ。そして彼女は短く、断固とした調子で答えた。

 

「嫌だ」

 

 ゴンクはなおも言葉を続けた。ここでバナーヌを何としてでも動かさなければならなかった。

 

「『嫌だ』も何も、任務だろうが。お前は任務を放棄するのか」

 

 バナーヌは抗弁した。常にないほどに彼女は多く言葉を発した。

 

「本部では『平原外れの馬宿からアジトまでの道中を護衛しろ』と命令された」

 

 ゴンクは言った。

 

「それは命令の曲解だ。お前の第一の任務は、バナナ輸送の護衛のはずだ。護衛の区間だとか範囲だとかは問題じゃない。とにかく、輸送馬車に何か異常があったら、お前が出向いて何とかするのが使命のはずだ」

 

 ゴンクの言い分にはちゃんとした理屈が通っていた。バナーヌは言葉を返しかねた。

 

「……まあ、うん」

 

 ゴンクはさらに言った。

 

「そして俺はここから動けない。お前も知っての通り、膝に矢を受けてしまったからな。自由に動けるのはバナーヌ、お前だけなんだ」

 

 バナーヌは唸った。

 

「……うーん」

 

 ダメ押しのようにゴンクは言った。

 

「頼む、行ってくれ。なんだか嫌な予感がしてならないんだよ」

 

 バナーヌは、諦めた。彼女は言った。

 

「それなら、こちらからも頼みがある」

 

 太陽はすでに、やや傾きつつあった。

 

 

☆☆☆

 

 

 数時間が経過した。遠くに見えていた噴煙たなびくデスマウンテンの威容は、日が暮れたことにより、もはや暗闇のうちに隠されていた。虫たちがリンリンと声を上げ、夜の風がさわさわと草原を撫でていた。

 

 時折、サンゾクオオカミの遠吠えが聞こえた。ザワザワ、キィキィと鳴き声を上げて、キースの群れが上空を乱舞した。一般的な旅人には、いずれも危険な兆候であった。だが、訓練されたイーガ団員にとっては何ということもなかった。

 

 バナーヌはその時、ハイラル宿場町跡地の一角にいた。

 

 ゴンクに説得された彼女は、不承不承ながらではあったが、結局出発することにした。彼女は平原外れの馬宿から街道を東へと進路を取り、順調に道中を消化した。

 

 百年前は殷賑(いんしん)を極めたであろう宿場町には、往時の面影の一片すらなく、不気味な廃墟の群れとなっていた。噴水の跡地で朽ち果てて残骸となっている歩行型ガーディアンが、おそらく破壊の下手人であった。

 

 かつて宿場町一の大きさを誇った宿屋の廃墟の一室で、バナーヌは小休止をしていた。その手にはバナナがあり、傍らには新たに手に入れた首刈り刀が置いてあった。

 

 あの後、彼女はゴンクと交渉をした。元来彼女は無口で交渉事は不得手ではあったが、どうしても手に入れておきたいものがふたつあった。それは、武器とバナナだった。「右手に刀を、左手にバナナを持て」という言葉の通り、イーガ団にとって刀とバナナは必須であった。

 

 だが、バナーヌには首刈り刀がなかった。装備科のおっさんが寄越した中古の首刈り刀はゲルドの戦士に叩き折られてしまった。そのせいで、ウィズローブたちと戦った時は、彼女は選択できる戦術の範囲を著しく制限されたのであった。

 

 口の達者でないバナーヌの交渉は、交渉というより、ただの買い物に近いものだった。彼女はゴンクに言った。

 

「ゴンクの首刈り刀をくれ。あとバナナをありったけ」

 

 ゴンクは困ったように言った。

 

「おいおい、そりゃバナナはいくらでもくれてやっても良いが、俺だって刀はこれ一振りしかないんだぞ」

 

 バナーヌはなおも言った。

 

「どうしても要る。くれ」

 

 ゴンクは答えた。

 

「そんなら、何かと交換だ」

 

 バナーヌは、先の戦闘で分捕ったメテオロッドをくれてやろうとした。だが、そんな大仰(おおぎょう)なものを持っていても何の役にも立たない、俺は戦闘者ではないからな、膝に矢を受けてしまったし、とゴンクは言った。それなら、彼女に残っているのはルピーしかなかった。大工の棟梁から報酬としてスリ盗った財布の中身は千二百ルピーほどもあったが、馬宿に到着した後にバナナを大量に買ったせいで、それは半分ほどに減っていた。

 

 彼女はそれをすべて払ったのだった。値切ろうと思えば値切れたはずだが、相手はイーガ団員のくせに商売人でもあった。バナーヌは言われるがままにルピーを差し出すしかなかった。

 

 それから彼女は、少し昼寝をして休み、できれば顔も洗ってから出発しようと思った。だが、それは果たせなかった。ゴンクに止められたからだった。寸時を争う事態が起こっているかもしれない、お前が暢気(のんき)に昼寝をしたせいでとんでもないことになったらどうするつもりだ。疲れているのは分かるが、すぐに出発してくれ。その代わり、残ったバナナはお前に全部やるよ……

 

 そんなわけで、バナーヌは疲れた体に鞭を打って街道をひた走り、この宿場町跡地にたどり着いたのだった。

 

 彼女は祈りを込めて、バナナをゆっくりと咀嚼していた。だが、眠気が凄まじかった。半分夢の中にいるようだった。思えばゲルドキャニオン以来、デグドの吊り橋の下の祠で数十分に満たない過眠をとった他、彼女は満足な睡眠をしていなかった。幸い、彼女はここに来るまでに大量のバナナに恵まれ、それによってある程度疲労を癒すことができたが、それにも限度というものがあった。

 

 加えて彼女は、宿場町跡地を縄張りとしているモリブリンたちと戦闘しなければならなかった。いずれも赤色の弱いモリブリンだったので、戦闘巧者たるバナーヌにとってまったく脅威にならず、ふいうちの連続で三匹全部を屠ることができたが、彼女の疲労と眠気は募る一方だった。

 

 うつらうつら、こっくりこっくりと、バナーヌの首が不安定に揺れ動いた。

 

 あれ、おかしい。彼女は思った。目の前にノチがいる。ノチはにこにこと、いかにも楽しそうな表情を可愛い顔に浮かべていた。ノチは焼きたてのバナナのチカラフルーツケーキと、揚げたてのチカラあげバナナ、さらにでき立てのバナナの果実煮込みを食卓に並べていた。ノチは元気良く言った。

 

「バナーヌ! 任務達成お疲れ様! バナーヌの大好きな料理をいっぱい作ったよ! こんなに贅沢をしたら幹部様たちに怒られちゃうかもしれないけど、今日は特別! これ、全部バナーヌが食べて良いからね! さあ、たーんと召し上がれ!」

 

 ありがとう、ノチ。バナーヌは早速ご馳走を食べることにした。贅沢三昧などいつ以来のことか。まず、どれから食べようか? 良し、ここはやっぱり、揚げたてのチカラあげバナナだ。揚げ物は揚げたてが最高に美味しい。

 

 バナーヌは、銀製の立派なナイフとフォークを手に取った。あれ、こんなものあったっけ? まあいいや。彼女は気を取り直した。彼女はフォークであげバナナの端を抑え、ナイフでサクリと真ん中に切れ込みを入れようとした。

 

 そこで、ノチが言った。

 

「バナーヌ! せっかくの狂乱のバナナパーティなんだから、ここは手づかみでガッと食べちゃおうよ! こう、ガッと!」

 

 行儀の良いノチとしては何だか「らしくない」発言だったが、それもそうかとバナーヌは思った。彼女は湯気が立ち上る熱々のあげバナナを素手で持って、口元へと運んだ。彼女は万感の思いを込めて言った。

 

「いただきます」

 

 あげバナナに、彼女は齧り付こうとした。ここで、何か妙な音が聞こえてきた。シューっと言う、蛇の鳴き声のような、そしていつかどこかで聞いたことのあるような音だった。ほのかに火薬の匂いがした。

 

 はっとして、バナーヌの意識が一挙に覚醒した。

 

 彼女が手に持っていたのは、黒々とした輝きを放つ、ヒンヤリメロンほどのサイズの爆弾(バクダン)だった。爆弾の導火線には火がついていた。

 

 次の瞬間、宿場町跡地に大爆発の音が響きわたった。




 今回の話を書くにあたり、ハイラル宿場町の跡地へロケハンに向かいましたが、そういえば始めたての頃はここを闊歩する赤モリブリンに恐怖して迂回しながら進んだことを思い出しました。
 それで、迂回した先の丘の上で、イシロックに遭遇したのです。慌ててリモコンバクダンを設置し、そして自爆しました。いやあ、懐かしいです……みなさんもこのような体験をされたことがおありなのでは?

※加筆修正しました。(2023/05/07/日)


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第二十三話 「初めて」のパルス

 例えば、ある者が肉体と精神をまったく新しい形へと作り変えるべく、日夜研鑽と努力を重ねるとしよう。その結果として、一般人とは比較にならないほどの強大な力と卓越した技量を手に入れるとしよう。

 

 しかしながら、その者が兵士を名乗るには、なお乗り越えなければならない壁がある。

 

 その壁とは、初陣である。さらに正確に言うならば、それは初陣の際に直面する、異常なまでの緊張感である。

 

 ブルブルと体が武者震いをする。口はカラカラにかわいている。手は武器を折らんばかりに握り締めているが、逆に足はふわふわとして感覚がない。精神は極度に張り詰めているが、思考は著しく集中力を欠いている。

 

 目はチカチカとして、対象を捉えられない。目前の敵すら満足に見ることができない。指揮官の号令を聞き逃すまいと彼は耳をそば立たせているが、聞こえてくるのは自分の荒い息遣いだけである。

 

 史書に名を残すような例外中の例外を除けば、初陣の戦場に立つ者を襲う緊張感とはいずれも上記のごとくであって、多少程度の違いはあるにしても、その重大さに変わりはない。

 

 かつてハイラル王国軍にて最強と(うた)われ、その実力比類なき者として国王の嘉賞(かしょう)に与ること幾度にも及んだ、ある兵士がいた。彼の名はビスーナといった。ビスーナはその回想録において、自分の初陣の様子について以下のように書き残している。

 

「部隊は老練な隊長が率いており、私以外の大半は実戦経験豊富なベテラン達だった。部隊の兵数は五十人で、対する魔物はモリブリンが十匹に、ボコブリンが四十匹ほどだった。数の上では互角だったが、指揮官の戦術的能力と兵士の練度を見れば、我が部隊が圧倒的に優勢で、負けることなどあり得なかった。初陣としては至極理想的状況だった」

 

「……(中略)……ベテランの兵士ボルは、緊張して黙りこくっている私に言った。『何も考えず、ただ一直線に敵に突っ込め。俺たちがしっかり援護してやるから、心配することは何もない。後は訓練どおりに勝手に体が動くさ』 私はただ頷くだけだった。私は無闇やたらと水筒の水を飲んだ」

 

「……(中略)……投石と弓矢の応酬のあと、前衛同士の戦いが始まった。私は言われたとおり、真っ直ぐ突っ込んだ。訓練どおりに勝手に体が動くと言われたが、そんなことはまったくなかった。敵と思われる影に滅茶苦茶に槍を振り回し、攻撃が当たっているのか当たっていないのか分からぬまま、私はとにかく前へ前へと進んだ」

 

「……(中略)……戦いが終わったあと、疲れ果てて地面にへたりこんでいる私に、ボルが笑いながら話しかけて来た。『ほら見ろよ、俺の盾と兜を。ここに真新しいキズがついてるだろ。これ、お前がつけたんだぞ。必死だったから気づかなかっただろうが、こっちとしてもお前を援護するのに必死だったさ。下手をするとお前に殺されそうだったからな、ハハハ……』 私は呆然としてボルの顔を見つめていた。恥ずかしさで私は祝勝会でも隅っこでじっとしていた。隊長から『初陣にしては良くやった』と褒められた。それで私はわずかに慰められたのだった」

 

 無論すべての者が、この兵士ビスーナのように恵まれた状況下で初陣を迎えられたわけではない。興奮して周囲が見えないまま敵中に孤立し、積年の努力も空しく戦場に屍を晒す者もいれば、隊列に並んで歩いただけでそのまま戦が終わってしまい、何とも味気ない初陣となる者もいた。

 

 ハイラル王国滅亡に伴い、軍旗を高く掲げる武勲鮮やかな王軍も地上から消え去った。戦列にあって震えながら初陣を戦う新兵も、その新兵を弟とも我が子とも思って支え戦う老兵も、今ではいない。ハイラル兵という種族は滅亡したのである。

 

 したがって、この一大種族が有していた文化、習俗、風習、掟という広大な背景も、歴史の地層の中へ深く埋没することになった。我々の興味を著しく惹くところの、初陣という壁を乗り越える方法についても、おそらくかの種族は熟知していたのであろうが、それを掘り起こすのは並大抵のことではない。

 

 だが、ハイラル兵は消滅したとはいえ、戦闘を事とする者たち自体が消え去ったわけではない。例えば、リト族の戦士たちがいる。彼らの実力は空の覇者を自称するにふさわしいものである。他にも、ゾーラの兵士たちにゲルドの女兵士たち、カカリコ村のシーカー族や、ゴロンの屈強な腕自慢たちがいる。彼らは日夜鍛錬に明け暮れ、魔物に立ち向かい、そして勝利を重ねている。

 

 今日もハイラルの大地のどこかで、初陣を迎えた新兵がベテランに見守られつつ、叫喚とともに魔物に躍りかかっていることだろう。その新兵もいずれは経験を積んでベテランとなり、新たな世代の兵士を見守ることだろう。循環は絶え間なく行われ、新しい血が次々と古い血と代わっていくだろう。

 

 ハイラル王国滅びたりとはいえ、世界そのものが未だに厄災とその眷属の支配するところとならないのは、彼ら兵士という種族の存在に依るところが大きいのだ。もっと言えば、初陣の緊張と恐怖を克服する勇気ある者たちがいるからこそ、光ある世界が保たれているのだ。

 

 では、世界のあらゆる光を葬り去らんとする、闇と魔の軍勢はどうか? 彼らもまた人間や、その他種族の兵士たちと同じように、初陣で震えるのだろうか? 恐怖に(おのの)くのだろうか?

 

 きっと、彼らも同じであろう。光も闇も、人間であることも魔物であることも、思想や信仰も問題ではない。戦闘者となるためには、あの緊張感を痛みと共に精神へ刻みつけなければならないのだ。かつて密林に繁栄したと言われる古代部族が、成人の証として全身に入れ墨を彫ったように、それは必要である。

 

 イーガ団も、もちろんその例外ではない。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌの物静かな精神は、珍しくも逆上し、火のごとく燃え上がっていた。

 

 夜空の砂金のごとき星々と、煌々(こうこう)と輝く大きな月は、幾重もの厚い雲に覆い隠されていた。周囲は、一寸先も見えない闇で満たされていた。

 

 バナーヌは夢から覚醒した直後、なぜか手に一発の爆弾を持っていた。彼女はとっさにそれを蹴り上げた。爆弾は空中で爆発した。閃光が一瞬だけ、付近一帯を明るく浮かび上がらせた。次いで、轟音が宿場町跡地に響き渡った。硝煙のにおいが漂った。バナーヌが遮蔽物にした廃墟の石壁に、空中から飛来した破片がカンカンと音を立てて当たった。

 

 せめて小休止をとのんびり座っていられた状況は、急激に変化した。敵の姿は見えなかったが、もはや戦闘状態であることは明白だった。敵は何らかの方法でバナーヌの存在を感知し、頭上から爆弾を投げ入れたのだろう。その爆弾を彼女は、夢現(ゆめうつつ)の境界に彷徨(さまよ)いながらも、なかば無意識にキャッチしたのだった。それは、高度な戦闘技能が彼女の芯に根付いている証拠であった。

 

 今、バナーヌの心は、襲撃者について考えを巡らすのではなく、夢を中断させられた怒りに満ちていた。

 

 貴重な夢だった。疲労した肉体と精神が生み出したとは到底思えぬほどの、あり得ないほど幸せに満ち溢れた夢だった。親友のノチが浮かべる優しく晴れやかな笑顔、テーブルに並んだご馳走の数々、鼻をくすぐるバナナの香り……どれをとっても最高だったのに。最高だったのに!

 

 それが、無粋な爆弾一発ですべてが台無しとなった! バナーヌは、必ず襲撃者を見つけ出し、この落とし前をつけてやると決意した。

 

 だが、決意とは裏腹に、彼女はどうしても眠かった。眠い! たまらなく眠い! バナーヌは睡魔に責め苛まれていた。そのサファイアの瞳に光はなく、瞼は閉じかかっていた。彼女の首と、金髪のポニーテールはがっくりと垂れ下がっていた。

 

 何をたかが眠気ごときに、と思うかもしれない。だが、睡魔ほど恐ろしいものはない。昔、ある地方における要塞包囲戦での話だが、要塞の守備隊の兵士たちは、連日連夜に渡る包囲軍の波状攻撃のせいで、満足に食事をとることも眠ることもできなかった。しまいには彼らは立ったまま眠り、目を見開いたまま眠り、剣で斬り結びながら眠り、()に装填しながら眠っていたという。命のやり取りの最中でも、睡魔は一切の遠慮をしない。

 

 そんなわけで、睡眠不足と疲労という不調を抱えたバナーヌの肉体は、彼女の強い決意を遂行できるほどの活力を残していなかった。

 

 彼女は首刈り刀を構えていた。しかし、その体は力なく廃墟の壁にもたれかかっていた。彼女の意識は途切れがちだった。万全な状態ならば、すぐにこの場から離れて、襲撃者の所在を探りつつ、戦闘するのに最適なポジションを得ようと素早く移動を続けることができる。だがバナーヌは、やはり一歩も動けないでいた。

 

 突如、どこかから、鋭く甲高いかけ声が響いた。

 

「やぁーーっ!!」

 

 その数秒後に、ボトボトという音がした。バナーヌはうつらうつらとしていたが、ハッとして目を見開いた。彼女の目の前に、導火線の赤い火も鮮やかな、黒い爆弾の丸い輪郭が二つあった。

 

 彼女は声を漏らした。

 

「くっ……!」

 

 バナーヌは、横へ咄嗟に跳んで地面にピッタリと伏せた。直後、二発の爆弾が破裂した。最初のヒンヤリメロンほどのサイズと比べれば、今回のものはそれよりやや小ぶりだった。ゆえに破片も爆風もさして威力はなかったが、それでもバナーヌの聴覚を一時的に狂わせるには充分であった。

 

 キーンという耳鳴りに悩まされながら、伏せているバナーヌは思った。このままではいけない! なんとかして、敵よりもまず先に睡魔を撃退しなければ! 

 

 今でもこうして伏せているだけで、眠りの世界に半分入ろうとしているのだ。一度寝てしまえば最後、彼女が目覚めることは永久にないだろう。多分に危機的状況であった。

 

 バナーヌは決心した。彼女は片手でポーチを探った。そして、中身が半分になった瓶を彼女は取り出した。その瓶には、燃えるように赤い液体が入っていた。それは任務の初日に夜のゲルド砂漠を越えるのに使った、ピリ辛薬の残りだった。

 

 彼女は瓶に人差し指を入れて、指先をたっぷりと液体に浸した。細く白い人差し指が真っ赤に染まった。ヒリヒリと皮膚が痛んだ。

 

 バナーヌは、躊躇いなくその人差し指を左目の直下へ運び、液体を塗りたくった。

 

 即座に彼女の左目を耐え難い痛みが襲った。バナーヌは、呻いた。

 

「くっ、ううう……!」

 

 しかしバナーヌは止まらなかった。彼女はもう一度瓶に指を突っ込むと、今度は右目の下にも同じことを行った。ついでに鼻の下にも彼女は薬を塗った。

 

 涙が滂沱(ぼうだ)として彼女の両目から流れ出た。鼻はツーンとして、鼻水まで出てきた。類稀な氷の如き美しさを誇るバナーヌの顔は苦痛に歪んでいた。彼女の顔は今や哀れにも色々な水分でぐちゃぐちゃになっていた。

 

 だが、これで良い! いや、ちょっとやりすぎな気がしないでもないが、これ良い! バナーヌは素早く懐紙(かいし)を取り出して顔を拭うと、とどめとばかりに瓶を口につけて、残った液体を一気飲みした。喉が焼けた。

 

「……うん。良し」

 

 まだ涙目で、鼻はグズグズするし、喉はヒリヒリするが、今までと比べて眠気は明らかに薄れていた。これなら、万全の六割程度ではあるが、戦うことができるだろう。彼女の意識はしっかりとしたものに戻った。

 

 睡魔を無理やり追い払う方法は、激痛を用いるのが一番効果的でかつ迅速である。ゲルドキャニオンで三人のゴロン族へ与えた苦しみと同じものを、あたかも因果応報であるかのようにバナーヌは味わったわけだが、他に方法はなかった。

 

 バナーヌは、次なる行動に移った。

 

「ふっ……!」

 

 彼女は高く垂直に跳んで、廃墟の壁の上に立った。細い足場で、足を踏み外しそうだったが、睡魔を追い払った今ならば問題はなかった。

 

 高所を得て索敵(さくてき)をするのは戦術の基本である。こちらの位置も暴露してしまうが、すでに敵に察知されている以上、まったく問題ではない。

 

 彼女が壁の上に立ってから数秒後に、またもや甲高いかけ声が闇の中で響いた。

 

「やぁーーっ!!」

 

 彼女は身構えた。

 

「来るか」

 

 予想通り爆弾が、しかも今度は三発の爆弾が、緩い放物線を描いて、右前方約十五メートルの壁の向こう側から飛んで来た。暗夜で、しかもバナーヌの目は未だに涙で潤んでいたが、訓練と経験を積んだ彼女の視覚はしっかりと、飛来する爆弾の導火線の小さな火を捉えていた。

 

 先程までは無様に這いつくばって避けていることしかできなかった。しかし、今度はそんなことなどしない。決然として反撃に出る時だった。

 

 バナーヌは、ポーチから白いブーメランを取り出して素早く構えた。彼女は瞬時に軌道を計算し、ブーメランを手から放った。

 

 放たれたブーメランは突風を纏い、飛来する三発の爆弾に近づくと、その風で以って器用にクルクルと絡め取った。なおも飛翔の速度は衰えることなく、疾風のブーメランは三発の爆弾を引き連れて、襲撃者がいると思われる地点へ向かって突進した。

 

 廃墟の壁に疾風のブーメランが直撃し、大爆発が起こった。爆音に混じって、なにやら声のようなものが聞こえた。どうやら悲鳴のようだった。

 

「……キャぁ……ぁぁぁ……」

 

 着弾と同時に、バナーヌは勢い良く大跳躍をした。彼女の優れた直感が、先程のカウンター爆撃が何らかの被害を敵に与えたと告げたからであった。せっかくの機会を見逃すわけにはいかない。

 

 ここで、空中のバナーヌへ向けて、今度は小さく先鋭なシルエットが連続して四発飛来した。敵の新たな攻撃であった。

 

「ふっ!」

 

 正確に偏差を計算した攻撃であるが、それゆえ熟練者にはかわしやすい。バナーヌは一発目を軽く首を傾けることで避け、二発目と三発目は首刈り刀で叩き落とし、四発目を左手で捕まえた。

 

 捕まえたモノに目にして、バナーヌは驚いた。

 

「クナイ……!」

 

 クナイ。鉄製で、平らな爪の形をした、両刃の武器である。いわゆる多用途武器で、小刀にもなれば手裏剣にもなり、壁登りの際のハーケンとして、または穴を掘るスコップとして、はたまた果実の皮を剥くペティナイフとして用いられる。

 

 そして、何よりクナイという武器が意味すること、それは、この武器の持ち主がシーカー族であるということだった。

 

 シーカー族! では、この襲撃者はシーカー族なのか?

 

 シーカー族は、イーガ団のまさしく不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であり、最も油断のならぬ勢力である。これまで幾度も両勢力は干戈(かんか)を交えてきた。イーガ団は彼らのおかげで数え切れないほどの苦汁を舐めさせられてきた。

 

 相手がシーカー族であるなら、戦いの方針は変わってくる。バナーヌはさらに気を引き締めた。イーガ団の戦闘員に徹底されている方針として、シーカー族と対峙した場合、可能な限り生かして捕らえよ、というものがある。

 

 シーカー族とその本拠地カカリコ村に関する情報は、長い年月をかけてかなりの蓄積がなされているが、情報というものはいくらあっても無駄ということはない。それに、次期作戦はハイラル東部で展開されることになっている。そのためにも、何よりも「生きた」情報源が今は求められている。

 

 バナーヌは、爆破された壁の近くに音もなく着地した。付近にはいまだ爆煙が垂れ込めていた。闇夜であることも相まって、視界は良くなかった。頼れるものは聴覚だけだった。彼女は油断なく首刈り刀を構えて、そろりと一歩を踏み出した。

 

「でやぁあああっ!!」

 

 突如、叫び声とともに、何者かがバナーヌの背後から斬りかかってきた。真っ暗闇であろうと、それは訓練されたイーガ団員にとってさしたる障害とはならない。バナーヌは難なく首刈り刀でそれを受け止めると、右足で蹴りを放った。

 

 腹にバナーヌの強烈な蹴りが刺さり、敵はうめき声を上げた。

 

「うっ、ぐぅううっ!」

 

 バナーヌは、困惑した。

 

「む?」

 

 この一当りで分かってしまったが、この襲撃者、思っていたよりもかなり弱い。彼女はそう思った。シーカー族なのだとしたら、なおさら弱い。斬りかかってくるタイミングも悪ければ、剣筋も未熟で、間合いのとり方も良くない……

 

 だが、それ以上に彼女の心に奇異の念を起こさせたのは、敵の実力ではなく、その影と声だった。

 

 影と雰囲気から察するに、敵は明らかに体躯が小さい。それに、声も幼い。まるで子どもではないか。そう、まるで女の子のような……

 

 シーカー族は、決して子どもを戦いに出さないと聞く。どうやら族長のインパが、子どもの従軍を断固として禁じているらしい。

 

 事実、バナーヌがこれまで何度か戦ったことのあるシーカー族の戦士たちは、男も女も老いも若きもいたが、子どもだけは絶対にいなかった。

 

 目まぐるしく思考を働かせるバナーヌに対して、敵は腹に一発もらったことで却って闘争心を刺激されたようだった。ほとんど悲鳴に近いほどの叫び声と共に、敵はバナーヌへ向かって刀を振り回しながら突進してきた。

 

「うわぁああっ!!」

 

 敵は背が低く、その分だけ腕も短かった。しかも、その攻撃は滅茶苦茶だった。バナーヌは冷静に対処しつつ、方針を決めた。よし、こいつは捕まえよう。

 

 刀と刀の斬り結ぶ、鋭い金属音が連続して響いた。刀が空を斬る音と、荒い息遣いの声がした。

 

 このまま斬り合いを続けて敵が疲労するのを待ち、しかる後に捕獲する。バナーヌはそう決めた。シーカー族であると考えるには、いささか説明のつかない敵ではあるが、いずれにせよ情報を得なければならない。

 

 このように考える余裕のあるバナーヌに対して、敵は必死そのものだった。戦闘者には似合わない可愛らしい声に殺意を含ませて、敵は刀を振り回し続けた。

 

「この、このぉっ! えい、やぁっ!」

 

 相手の渾身の一振り一振りを、バナーヌは最小限の力で受け止めた。

 

「ふっ!」

 

 彼女は、あるいは流し、あるいは躱した。実力は明らかに彼女が上回っていた。

 

 次第に敵の息が乱れ始めた。バナーヌはそれを見逃さなかった。彼女は勢いをつけて相手の刀を振り払い、姿勢を崩させると、左手で手刀を作って、それを敵の頭へ振り下ろした。

 

「ふっ!」

 

 彼女の鋭い手刀は、まごうことなく敵の脳天に直撃した。

 

「ふぎゅっ!」

 

 悲鳴と共に、軽い金属音がした。どうやら敵は手刀を受けた衝撃で刀を取り落としたようだった。

 

 うめき声を上げて、敵は地面にへたりこんだ。

 

「ぐぅ……ううう……」

 

 突然、その場を光が照らした。それまで厚い雲に隠されていた月が、唐突に下界に姿を見せたのだった。

 

 バナーヌと襲撃者が月光で照らし出された。バナーヌは右手に首刈り刀を持ち、油断なく構え、敵に近づこうとした。

 

 滅多にないことだが、彼女は驚愕の声を発した。

 

「あっ!」

 

 頭を抑えて地面に膝をついている敵対者は、長い黒髪をしていた。露出度の高い臙脂色(えんじいろ)の忍びスーツを着ており、剥き出しになっている腕は健康的な褐色をしていた。腰に下げている大きな袋は、おそらく爆弾袋だろう。

 

 そしてその顔には、涙目の逆さ紋様の仮面があった。落ちている刀は、ピカピカの新品の首刈り刀だった。

 

 味方だ。バナーヌは愕然とした。今まで彼女が戦ってきた敵は、なんと仲間であるイーガ団員だったのだ。

 

 なんてこった。バナーヌは内心でひとりごちた。どうして早いうちに気づくことができなかったのだろう。眠気のせいか?

 

 だが、同士討ちの原因究明は後回しにすべきだった。今は一刻も早く誤解を解かねばならなかった。バナーヌは、静かな口調で目の前の仲間に話しかけた。

 

「お前は、イーガ団か」

 

 相手は、電撃に打たれたように小さな体を震わせた。そして、仮面のついた顔をバナーヌへ向けると、やや舌足らずな、少女に特有の可愛らしい声で、毅然として返答した。

 

「そう。私はイーガ団。あなたたち、シーカー族の宿敵よ」

 

 なに? シーカー族? この私が? バナーヌは混乱した。混乱しつつも、とにかくこちらの身分を明かさなければならない。彼女は口を開いた。

 

「待て、私はシーカー族ではない……」

 

 しかし、少女はバナーヌの言葉を最後まで聞かなかった。なにやら決意を秘めた、力のこもった声を出して、少女は祈りを始めた。

 

「魔王様、亡きお母様、尊敬するお父様、そして、バナナの神様に総長コーガ様! どうやら私が勝利することはできないようです。ですが、このまま敵に捕縛され虜囚(りょしゅう)の辱めを受けるわけには参りません。役立たずの娘の最後のご奉公を、どうかご照覧あれ!」

 

 そう唱えると、少女は仮面を脱ぎ捨てた。幼い顔があらわになった。その顔は、美しさと可愛らしさを奇跡的に両立させていた。秘めたる覚悟を不敵な笑みに変えて、少女は一心にバナーヌを見つめていた。

 

 仮面の下の顔のあまりのあどけなさに、バナーヌは一瞬呆気にとられた。その瞬間を少女はついた。少女は腰の爆弾袋から出ている朱色の紐を思いきり引っぱると、前方へ勢い良く飛び出した。少女は、バナーヌの腰にしっかりと両腕を回してしがみついた。

 

 興奮の色を隠さずに、そして切なそうに、少女は叫んだ。

 

「さあ、覚悟しなさい! イーガ団幹部ハッパの一人娘テッポが、ここに見事な『ダンコー・クニ』を(つかまつ)るわ! さあ、とくと味わいなさい!」

 

 バナーヌは戦慄した。

 

「なにっ!?」

 

 まさか「ダンコー・クニ」とは! ダンコー・クニはイーガ団流戦闘術「オ・クノテ」の中でも最終手段とされている、いわば禁じ手である。術者は大量の爆薬を身につけ、それに点火してから対戦者に組み付き、もろとも自爆する。要するに、人間爆弾戦法である。術者は当然のことながら、戦果と引き換えに死亡する。

 

 シューッという、導火線に火が走る音が聞こえた。

 

 内心では慌てていたが、バナーヌは冷静な声で、優しく諭すように言った。

 

「無益だ。離せ」

 

 少女は叫んだ。

 

「離すもんですか、絶対に!」

 

 腰にしがみついている少女を、バナーヌは改めて見た。少女はギュッと目をつぶっていた。その体は震えていた。少女は、数秒後にやって来るであろう死を待ち受けているようだった。

 

 すると、少女はなぜかスンスンと鼻を鳴らした。しがみついて密着した際にバナーヌのポーチに顔が近づき、その中身が発する匂いが少女の嗅覚を刺激したようだった。少女は透き通った声で言った。

 

「ああ、バナナのいい香りがするわ……バナナの神様、ありがとうございます。最期はバナナの香りに送られて、私はあなたのもとへ()くのですね……」

 

 いつ爆発するか分からない恐怖に、バナーヌは無表情の顔をやや引き攣らせながら、ここぞとばかりに少女を説得した。

 

「術を解け。バナナをやるから」

 

 少女は、鼻で笑った。

 

「ふっ、モノで釣ろうと言うなら無駄よ。あなたはここで私諸共(もろとも)木っ端微塵に吹っ飛ぶのよ」

 

 そんなつまらない死に方はごめんだった。バナーヌは必死になって言葉を繋いだ。

 

「このままでは同士討ちになる。やめろ」

 

 少女は、どこか間の抜けた声を上げた。

 

「はぁ? 同士討ちって……? じゃあ、あなたもイーガ団だって言うの? 名前は?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「バナーヌ」

 

 少女はその名を聞いて、驚いたような顔をした。

 

「えっ、バナーヌ!?」

 

 少女は、改めて自分がしがみついている女性の顔をまじまじと見た。サファイア色の怜悧そうな瞳が少女を見つめていた。長くつややかなまつ毛が生えていた。黄金に輝く見事なポニーテールが闇の中で輝いていた。ツルギバナナのような、美しいポニーテールだった。

 

 少女は、見る間に狼狽し始めた。

 

「し、しまったぁっ!!」

 

 そして、少女はパッとバナーヌから離れると、腰の爆弾袋を帯革(たいかく)から外そうと格闘し始めた。しかし、焦った手付きでは何もかもうまくいかない。

 

 少女は慌てた声を出した。

 

「あれ、あれあれ!? おかしい、外れないわっ!?」

 

 ガチャガチャと金具は音を立てるが、爆弾袋は一向に外れる気配がなかった。

 

 見かねたバナーヌが強い口調で少女に言った。

 

「帯革を切って、それごと遠くに捨てろ!」

 

 少女が泣きそうな声で答えた。

 

「ああっ! 帯革を切るにしても、もう時間が……! ダメ、ホントに……あ、ああっ!」

 

 時間が来た。しかし爆発と閃光は起きなかった。

 

 その代わりに、「ボン」という軽い音がした。それと共に、白い煙がシューッと爆弾袋から漏れ出てきた。

 

 少女は唖然としていた。バナーヌも信じられないという心地で、少女と爆弾袋を見比べていた。

 

「ふ、不発? そんな馬鹿な、お父様お手製の爆弾が不発だなんて……?」

 

 バナーヌが言った。

 

「どうやら、そのようだな」

 

 べたりと、少女は脱力して地面にへたり込んだ。少女は今度こそ落ち着いて一つ一つ金具を外すと、爆弾袋の中身を改め始めた。

 

 バナーヌが注意を促した。

 

「もう大丈夫なのか?」

 

 少女は答えなかった。少女はなおも袋の中をゴソゴソと探った。そして、何かを見つけたようだった。

 

「これは、手紙……? お父様の字だわ……『自爆攻撃は禁ずる。たとえ捕虜となって辛酸を舐めることとなっても、生き延びよ。父はお前を……』」

 

 しばらく少女は手紙を読み耽っていた。少女は読み終えると丁寧にそれを折り畳み、懐にしまった。少女は肩を震わせて、時折目元をそっと拭っていた。

 

 バナーヌは、その光景を静かに見守っていた。どうやら一件落着したようだった。

 

 バナーヌはポーチからバナナを二本取り出して、少女に一本を差し出した。彼女は言った。

 

「食え」

 

 少女は呆気にとられたような顔をした。

 

「えっ……? あ、これ、バナナ……ありがとう……」

 

 おずおずとした手つきで少女がバナナを受け取っている間に、バナーヌは一本を食べてしまった。さらに彼女はポーチへと手を伸ばした。

 

 しばらく控えめな咀嚼音が、廃墟の中で静かに響いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナナを食べ終えた少女は、バナーヌに頭を下げた。少女は真摯な声に心からの謝罪の気持ちを込めて、バナーヌに言った。

 

「間違ってあなたを攻撃したこと、本当に申し訳ないと思っています。謝罪します」

 

 深々と頭を下げているその少女、テッポを数秒見つめたあと、バナーヌはどこかそっけなく答えた。

 

「もういいよ。気にしてない」

 

 夜空の雲は晴れて、やわらかな月明かりがあたりを照らしていた。時折吹く夜風は冷たく、戦闘で興奮した体の熱をほど良い具合に下げた。

 

 バナーヌは改めて少女を見た。その少女、テッポは美しいが、まだあどけない顔をしていた。吊り目がちの目つきは鋭く、生来の気の強さが感じられた。歳はノチよりも三歳は下だろうか。やはり、まだ子どもだ。

 

 長い黒髪は(まげ)にされていなかった。髪は腰まで伸びていた。前髪は切り揃えられていて、それによって強調された広いひたいが知性と意志の強さを感じさせた。

 

 テッポはフィローネ支部の団員に特有の露出の多い忍びスーツを着ていた。健康的な褐色の肌が、淡い月光を浴びて輝いていた。

 

 その体格はまだ成長途上の貧弱さで、そのほっそりとした手足では重い爆弾を投げるのにも相当の苦労がありそうだった。先程の戦闘で、甲高いかけ声と共に投擲していたことからも、それが察せられた。

 

 じっとバナーヌに見つめられて恥ずかしくなったのか、テッポは少し顔を赤らめた。

 

「な、なによ、そんなに見つめて……」

 

 バナーヌはぷいっと顔をそむけた。そして、強いて話題を切り替えるように言った。

 

「なんでもない。それより」

 

 テッポは答えた。

 

「それより?」

 

 バナーヌは尋ねた。

 

「どうして、私を攻撃した?」

 

 問いを予期していたのだろうか、テッポはすぐに答えた。

 

「説明するわ」

 

 二人は地面に座った。なぜ同士討ちに至ったのかについて、テッポが真剣な面持ちをして語った。

 

「夕刻、輸送馬車がハイリア大橋にそろそろ差しかかるあたりで、何者かから襲撃を受けたのよ。敵は数人いたわ。クナイを四方八方から投げつけられて、馬が二頭怪我をした。でも敵はなぜか、すぐにその場から離脱していったの。輸送担当者のサンベの言うことも聞かないで、私は単独で敵を追いかけた……」

 

 聞いているバナーヌのサファイアの瞳はとろりと淀んで、どこか眠そうだった。戦闘の緊張が解けたことで、また眠気が彼女のもとへ戻ってきたのだった。それでも彼女は、静かにテッポの話に相槌を打った。

 

「無謀だな」

 

 テッポは図星をつかれ、ギクッとしたようだった。

 

「うっ、確かに無謀だったわ……敵はハイリア大橋を渡ったあたりで見失っちゃったし、日は完全に暮れるしで、途方に暮れたの。このまま戻ったらサンベには叱られるだろうし、もしお父様に知られたら失望されるかもって思って。だから、このまま敵を追いかけて、何か少しでも良いから情報とか手がかりとか手に入れようと思ったの」

 

 テッポは水筒の水をゴクリと一口飲んだ。一方、バナーヌはコックリコックリと首を上げ下げしていた。テッポは言った。

 

「宿場町跡地に来た時、廃墟の一室から光が漏れるのが見えた。私、あの時はやっぱり頭に血が上ってどうかしてたと思うんだけど、それを敵だと思ったのよ。それで、そこに近づいて、上から爆弾を放り込んだ。それでそこから、今に至るわけ」

 

 バナーヌは、話を聞いて思い当たるところがあった。たしか、廃墟で小休止をとると決めた時、彼女はなんとなくメテオロッドを灯りにして周囲を確かめたのだった。普段ならば自分から光を発する真似はしないのだが、眠気と疲労で注意力が散漫になっていたのか、そんなことをしてしまった。悪いことには悪いことが重なるらしい。

 

 ガクリ、とバナーヌの姿勢が崩れた。どうやら考えている間に半分寝ていたようだった。

 

 テッポが心配そうに訊いてきた。

 

「ちょっと、大丈夫? 本当は怪我をしてるんじゃない……?」

 

 バナーヌはなんとかして答えた。

 

「そんなことはない。それより」

 

 テッポが答えた。

 

「それより、何?」

 

 バナーヌは、一語を発するのですら面倒だった。それでも彼女は言った。

 

「あのクナイはなんだ?」

 

 テッポはやや考えたが、ああ、あれかと思い至ったようだった。

 

「馬車が襲撃された時に何個か拾っておいたのよ。それを有効活用しようと思っただけ。全然効果はなかったみたいだけど」

 

 バナーヌが、ぽつりと言った。

 

無様(ぶざま)な戦いだった」

 

 みるみるうちに、テッポの褐色の肌に血がのぼっていくのが分かった。テッポは大きな声でバナーヌに反駁した。彼女はちょっと涙目だった。

 

「そ、それはしかたないじゃない! 対人戦で殺し合いなんて初めてだったんだもん! 初陣(ういじん)よ! 初陣! こっちとしても初めての相手があなたみたいな変人でガッカリよ! おまけに同士討ち! せっかくの初めてだったのに!」

 

 バナーヌが短く、感情の見えない口調で言った。

 

「おい、ちょっと」

 

 気分を害したのだろうか? テッポは(おのの)いた。彼女はやや震えた声で答えた。

 

「な、何よ、怒ったの……? ちょっと言い過ぎたかもしれないけど、でも、私だってもっとかっこいい初陣にしたかったっていうか……その……大事な初めてだったし……」

 

 その言葉を聞いているのか聞いていないのか、バナーヌは力なく壁にもたれ掛かると、目を閉じて言った。

 

「すまん。夜明けになったら起こしてくれ」

 

 唐突な申し出にテッポは声をあげた。

 

「ええっ!?」

 

 バナーヌはすぐに安らかな寝息を立て始めた。まったく無警戒な顔をして、彼女は完全に寝入っていた。

 

 テッポは呆れたように言った。

 

「ええ……? お父様の言ったとおり、バナーヌってものすごい変人なのね……それにしても、はぁ」

 

 これからどうしようと、テッポは一人頭を抱えた。




 褐色黒髪ロング前髪パッツン真面目空回り系ロリ忍者、推参!(なお、当初はですわキャラまでつける予定だったが、収拾つかないので断念した模様)
「人生で最も貴重な瞬間、それは決断の時である」と、あるアニメンタリーの冒頭で言いますが、私がそれに付け加えるならば、それはやはりすべてにおける「初めて」だと言いたいです。
 特に可憐な少女や少年が「初めて」に心躍らせ、頬を紅潮させている様は、実に小説の対象としてふさわしいでしょう。そうでしょう、ね?
 ブレスオブザワイルドも「初めて」の連続でしたが、やはりインパクトのある「初めて」は「はじまりのイワロック」先輩ではないでしょうか。皆様はどうでしょう。

※加筆修正しました。(2023/05/07/日)


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第二十四話 素肌

 ハイラルの悠久の歴史を叙述する際に採用されるスタイルは、実に様々である。

 

 その一つは、政治体制の変化を追うものである。つまり、何年何月に何某(なにがし)という王が即位し、何某(なにがし)という大臣の輔弼(ほひつ)を受けて、何々という政策を実施し、何年には自ら軍を興して親征し、何年何月に崩御した、ということを延々と記述していくスタイルである。こういった形式は王宮付きの歴史編纂官が好んだものだった。事実のみの記載であるから、価値判断という難しい問題から解放されるし、何より学者的な頭の冴えがなくとも歴史が書けるというのが強みだった。

 

 もうひとつは、各時代ごとの著名な人物に焦点を合わせた叙述スタイルである。例えば、農業改革に一役買った寒村出身の在野研究者、もしくは、夜光石の精錬の新技術を発明したゾーラ族の技術者、または、歌声でハイラル全土の生きとし生けるものを魅了し、魔物すら靡かせたリト族の歌姫、あるいは、容貌魁偉(かいい)で武錬抜群、胆力と知力に秀で、数々の戦場で無敵の凱歌を数知れず上げたゴロンの喧嘩屋など……これは、ハイラルの歴史は政治によって動かされるものではなく、人によって展開しているのだと信じる者が採用するスタイルである。いわゆる民衆派が好むスタイルだと言えよう。

 

 さらにひとつ、忘れてはならないのは、勇者と、姫巫女と、魔王との戦いを主軸に据えるスタイルである。神官団やシーカー族の賢者たちはこのスタイルを採った。彼らは営々脈々と各地の口伝や修道院の図書館の奥深くに眠っている写本を見つけ出して、それらを合わせて校訂し、まさしく「伝説」とするべく日夜全身全霊で体力と知力を振り絞っていた。

 

 上記の例の他にも、歴史を見る上での視点、いわば「切り口」というものはそれこそ無数にある。経済、軍事、都市設計、建築、生活、学問、教育、法律、文化、他種族との交流……

 

 新しく切れ味の良い視点もあれば、古くて錆びついた切り口もある。しかし、切れ味が良すぎるために却って結論が極端過激なものになってしまう場合もあるし、古くともその断面を丹念に観察して、彼なりの歴史を綴ることで一級の研究となることもある。

 

 いずれにせよ、歴史学者たちが目指していることはただ一つで、それはある一つの問いに対する答えを見いだすことである。

 

 その問いとは、すなわち「ハイラルの歴史の原動力は一体何か?」ということである。

 

 政治史家は、それは歴代の王とその政策というだろう。民衆派の歴史学者は、それは特別な力を持った特別な人間というだろう。「伝説」を信じ、考究する神官やシーカー族の賢者は、それは勇者と姫巫女と魔王だというだろう。

 

 だが、この汲めども尽きぬハイラルの歴史という大海を漕ぎ渡る上では、これらの見解を以てしてもまだまだ貧弱に過ぎる。せいぜいが大海の波打ち際で水遊びをするのが関の山である。まだまだ、ハイラルの歴史は研究途上なのだ。

 

 逆に言えば、歴史学者には伝統や学派にとらわれず、独自の観点から、次々と新しい歴史叙述を行う自由があるということになる。(こと)に、この滅んだ大地においてその自由は、あたかも天空を翔ける猛禽類のようにのびのびとした融通無碍(ゆうづうむげ)なものである。

 

 そういった自由から生み出されてきた、ある一つの新しい歴史観がある。

 

 その研究者は、大厄災以前のハイラル王国における教育水準について興味を持ち、その一環として、民衆の読書量について調査した。彼は各地の廃墟をめぐり、カカリコ村やゾーラの里、ハテノ村やリトの村を丹念に訪ね歩いて蔵書を見せてもらい、昔の民衆が特にどういうジャンルの本を好んでいたかということを探り出した。

 

 数年間に渡る地道で困難な研究の末に判明したことは、まず第一に、民衆たちの読書量は概算すると一週間に一冊のペースで、年間で約五十冊だったことである。城下町に住む都市住民だけではなく、日々野良仕事に追われ、日没頃には疲労しきっている農民たちも、かなりの量の本を一年間に読んでいたことになる。ハイラル王国における識字率の高さをこの事実によって窺い知ることができよう。

 

 次に、どのようなジャンルの本が好まれたかということが調べられた。研究者は仮説として、生活の役に立つ実用書、例えば農業書とか、技術書とか、作法指南書や手紙の例文集、他には宗教儀式に必要な伝説集や教理問答書などが好まれたのではないかと推測した。

 

 しかし、研究の結果判明したのは、ある意味で意外な事実だった。

 

 民衆たちが好んだものは、騎士物語だったのである。ある城下町の本屋の記録を見ると、一ヶ月の売上のうち、騎士物語関連の書籍が全体の六割を占めていた。地方のウオトリー村では、本と言えば医学書と騎士物語しかなく、漁師たちは挙って騎士物語の新刊を買い集めたという。「本屋開くにゃ騎士物語、ゾーラもゴロンもみんな読む」と()れ歌に歌われたともいう。

 

 それにしても、一見したところ民衆の生活とはまったく関係のない騎士物語が、なぜこれほどまで彼らの心情とマッチしたのだろうか?

 

 ある物語の例を挙げよう。それは、大厄災以前の王国で最も人気のあった騎士物語シリーズで、タイトルは『勇猛果敢なる騎士セバスンの物語』といった。

 

 この物語の舞台は、ハイラル王国がこの世に誕生する前の時代である。人々はスカイロフトと呼ばれる天空の島々で、大きな鳥を馬のように駆って暮らしていた。彼らは雲の下の地上のことを一切知らなかった。

 

 恵まれない生い立ちの主人公セバスンは、憧れの騎士学校に苦学の末に入校するが、意地悪な同輩たちから食堂の大樽運びや便所掃除などの過酷な使い走りをさせられる。その上、彼の体はいくら鍛えても貧弱なままで、勉強もうまくいかない。彼はついに落ちこぼれ一歩手前になってしまう。

 

 そこで、勇者が現れる。勇者は手ずから調合した霊薬をセバスンに与え、彼に活力と勇気を吹き込んだ。セバスンは奮起して、今までの倍以上のトレーニングを重ねて強靭な肉体と天空無双の怪力を手に入れる。彼はイジメっ子に復讐するが、恨みは持たない。彼は勇者に憧れを抱くが、崇拝することはない。セバスンは心身ともに健全な成長を重ねていく。

 

 いよいよ下界へ降り立つや、セバスンはハイラル王国の最初の騎士となって、数々の難敵を打ち破る。彼は魔族の残党をカボチャ投げで殲滅し、巨大生物を剣一本で単独で討伐し、他種族との紛争を無血鎮圧する。こうした偉業を重ね続け、彼はついにハイラル王国の大将軍となる。

 

 この『騎士セバスンの物語』は大ヒットし、重版を重ねた。どの本屋の記録にも必ずこの書名が出てくる。また、何種類ものバリエーションが書かれた。たとえば『騎士セバスンの優雅なる恋』、『騎士セバスンとデスマウンテンの大怪物』、『騎士セバスンの砂漠横断記』、『騎士セバスンの剣術十番勝負』など、そういったバリエーションを数え上げれば優に百作品を超える。

 

 物語が「ウケた」要素としては、数々の魅力的な女性とセバスンとのラブロマンスや、セバスンと勇者との熱き友情、あるいは篤き忠誠心などがあろう。だが、何よりこれが民衆の心をとらえて放さなかったのは、この物語が「立身出世」の物語だったからではないかと、その研究者は言う。

 

 当時のハイラル社会の状況を想像してみよう。長きに渡る平和によって環境は安定している。大規模な社会変動は起こらず、時間が経つにつれて階級は一層強固に固定され、階級間の移動は滅多なことでは起こらないようになった。農民として生まれたら一生農民のままであり、下級官吏の家に生まれたら生涯下級官吏に甘んじなければならない。下からの人材登用という目的を持っている国家試験制度も、莫大な教育費用を湯水のごとく投入できる富裕市民階級の子弟しか、実質的には利用できない。

 

 そんな鬱屈した、閉塞感に満たされた暗い日々を送っている民衆にとって、「立身出世」の『騎士セバスンの物語』がどれだけのインパクトを与えたのか、容易に想像できるのではないか? そう研究者は言う。 

 

 大半の読者は、食い入るように物語を読み続けながらも「所詮は拵えごとだ、現実はこうはいかねぇ」と思っていただろう。だがそれ以上に読者たちは、様々な困難を打ち破り、美人と出会い、勇者と友になり、姫君から信任され、名声を得て人々から崇められるようになるセバスンの姿に、自己を投影し、セバスンと一心同体となって、共に最底辺から最上級へと駆け上る、そういう涙の出るほどの高揚感と感動を味わっていたのではないだろうか?

 

 ところで、勇者の物語は、立身出世ではない。勇者の物語は、いわば神話である。勇者は女神に愛されたかのように、生まれながらに強大な力を持ち、どんな困難も怖れない勇気を持っている。勇者は誰よりも孤独で、富や名声を求めず、自己をなげうって魔王に立ち向かい、報われることなく世界を救う。姫とは堅い絆で結ばれているが、時には永遠の離別の悲しみにすら耐えなければならない。

 

 どちらが大衆的なウケが良いかは一目瞭然だろう、とその研究者は言う。とてもではないが、一般人では勇者にはなれない。だが、「セバスン」にはなれるかもしれない。たとえ物語の上での話でも、この辛い日常を忘れ、彼のように社会を縦横無尽に駆け巡ってみたい……

 

 この研究結果から見えてくることが二つある。ひとつは、勇者は尊敬と崇拝の対象ではあっても、娯楽の対象にはならなかったということである。もうひとつは、昔のハイリア人の「立身出世」志向が、後代に生きる我々の想像よりもかなり高いものであったということである。

 

 この民衆の心的な傾向性を、時の為政者たちがどのように評価していたのかは、また今後の研究を俟つほかない。今、少なくとも言えることは、ハイラル王国が大厄災によって滅んだことで、同時に民衆たちの立身出世志向も粉砕されたということである。

 

 偉くなってあいつらを見返してやりたい! だが、「偉くなる」とはどういうことか? それに、「あいつら」とは誰のことか? そもそも、この小さな村で偉くなることができるのか? 誰かを見返してやる必要があるのか?

 

 金持ちになって、富を見せつけてやりたい! だが、そのルピーで買える貴重なものなど、この荒野に残っているのか? そもそも、ルピーで得られる贅沢とは何か?

 

 気品と教養を身につけ、洗練された立ち居振る舞いをし、社交界で数多の女性たちを虜にしたい! だが、その女性たちはどこにいる? それに、社交場のダンスホールなど、とうの昔に崩れ落ちて廃墟になっているではないか?

 

 だが、時代錯誤な願望を抱く者は、いつの時でも必ず生まれてくるものだ。荒れ野にあって、(はた)から見れば夢物語そのものの「立身出世」を目指す者が、やはりこのハイラルの大地に今もいる。

 

 また、一個の独特な社会と組織と文化を持つ集団にも、立身出世という幻影はしつこく付き纏っている。

 

 武技を練り、胆力を蓄える。敵を屠り、任務を華々しくこなす。目上の者に媚びへつらい、目下の者を手足のごとくこき使う。隠忍自重の数十年を送る。「一寸先は闇」という恐怖と不安を圧し殺し、忍耐に忍耐を重ねて、やっと組織の上層へ至ることができる。

 

 社会のアウトサイダーであったイーガ団が、民衆の中心にあった立身出世願望を今日最も強く保持しているのは、皮肉なことであるかもしれない。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌとテッポが宿場町跡地で壮絶な同士討ちを繰り広げていた、その夜のことであった。

 

 月は、せっかく放った光を幾重もの雲に遮られていた。下界は漆黒の闇に包まれていた。さわさわと鳴る夜の風が、湿った地面を乱雑に撫でていた。遠くからキースの群れのザワザワという声が聞こえてきた。時たま、サンゾクオオカミの遠吠えも聞こえてきた。

 

 そこは、平原外れの馬宿だった。馬宿の中で、若い男の大きな声が響いた。

 

「じょっ、冗談じゃないっスよ! そんなヤバそうなやつ絶対に飲みたくないッスよ!」

 

 若い男は大騒ぎをしていた。全身に包帯が巻かれて寝台に横たわっている彼は、青い印半纏を着ていた。それはサクラダ工務店新人社員である、カツラダだった。彼は動かせる範囲で腕を振り回し、懸命になって拒否の態度を示していた。

 

 彼の上司であるサクラダと、先輩であるエノキダが、難しい顔をしてベッドの前に立っていた。サクラダは言った。

 

「むぅ、カツラダの分際(ぶんざい)で、意外と強情だワ……」

 

 エノキダが諭すように言った。

 

「カツラダ。お前も知ってるだろう、魔物エキスの効果は。今度のやつは『飲めば必ず怪我にも効く』と、宿長も確約してくれたじゃないか」

 

 エノキダの手には、コップがあった。コップには濃い紫色をした液体がなみなみと注がれていた。液体からは、心なしか変なにおいが漂ってくるようだった。それは腐ったイノシシの内臓のようなにおいだった。

 

 寝台の上のカツラダは、なおも叫ぶように抗弁した。

 

「改良型が届いたとか何とか言ってたみたいですけど、そんな明らかにヤバそうなのは飲みたくないッス! ヤダヤダヤダッス!」

 

 サクラダが優しく言った。

 

「宿長の話では、『骨折、挫傷(ざしょう)、打撲、切り傷、下痢、自律神経失調症、何にでも効く新薬』らしいワ。そんな貴重なものをタダで提供してもらったのヨ? ここでアナタが飲まないのはサクラダ工務店の恥よ、恥! さぁ、もう観念して。飲みなさい」

 

 カツラダは涙目で、社長を精一杯睨んだ。

 

「イヤっす!」

 

 その返答を聞いたサクラダは、なぜかニヤリと口元を歪めた。

 

「そう、どうしてもイヤなのね?」

 

 カツラダはなおも言った。

 

「社長の命令といえど、イヤなもんはイヤっす!」

 

 サクラダはひとつ溜め息をつくと、次に獰猛な笑顔を浮かべた。獲物を前にした捕食者のように、彼の瞳は爛々(らんらん)と輝いていた。彼は言った。

 

「では仕方がないワね。強硬手段よ。エノキダ、それを寄越しなさい」

 

 エノキダは頷いた。

 

「はい」

 

 サクラダはエノキダからコップを受け取ると、中身の液体を口内に流し込んだ。彼は口の中に液体を溜めた。そして、素早い動きで寝台の上に飛び乗ってカツラダのマウントを取ると、彼は有無を言わさぬスピードで、カツラダの口へ自分の口を押し当てた。

 

 最低なキスだった。

 

「ぶちゅーー!!」

 

 カツラダは暴れた。

 

「もががっ!?」

 

 カツラダは暴れたが、数秒後にはおとなしくなった。

 

「むぐ、むぐぐ! むぐぉおお……ごくっ、ごくっ……」

 

 一方、サクラダは至極満足そうだった。最低なキスを終えた彼は満足そうに言った。

 

「やったワ! 大成功よ! あ、吐いたらもう一回やるから、吐いちゃダメよカツラダ。頑張って」

 

 カツラダは涙目だった。彼は吐きそうになるのを必死にこらえた。

 

「うぇええええ……ごく……」

 

 隣でその様子を見ていたエノキダは、思わず目を(そむ)けた。なんともおぞましい。そして、恐ろしい。これぞ社長の百八ある必殺技の一つ、口移しである。

 

 そして、エノキダはさらに残酷なことを苦しんでいる後輩に言わなければならなかった。彼は言った。

 

「カツラダ。宿長が言うには、『怪我を治すには最低でもコップ三杯は飲まないといけない』そうだ。次も用意してある。さあ、飲め」

 

 エノキダの言葉を聞いて、サクラダが舌なめずりをした。

 

「あら! じゃもう一回口移ししてあげるワ! さあ力を抜いて……」

 

 馬宿中に、再度カツラダの悲痛な叫びが響いた。

 

「もうやめてくれっスぅうううう!!」

 

 

☆☆☆

 

 

 残酷な口移しが行われていた、その同時刻のことであった。

 

「なんだか騒がしいですね。庶民の分際で私の気を煩わせるつもりでしょうか」

「ええ、ええ、まったく、貴重なお時間を頂いてこうしてお会いしているというのに。まったくあの叫び声は無粋ですね、ええ」

 

 そこは馬宿から少し離れた街道の上だった。そこに、四輪の四頭立て馬車が止まっていた。変わった意匠の彫刻が施された、白く豪華な馬車だった。その車輪は大きく頑丈で、車軸は太かった。白い馬たちは精悍で、よく調教されているようだった。馬車の持ち主が、実用性と芸術性の両方を重んじる性格をしていることが窺えた。

 

 馬車のキャビンの中は、薄暗かった。夜光石のランプが灯されていて、淡い緑色の光が放散されていた。車内にいるその二人の人物は、互いの顔を見ようとしてもその輪郭だけをようやく捉えられるに過ぎなかった。

 

 一方の座席には、恰幅の良い男が座っていた。男の年頃は中年か、もしくはそれより少し若いかもしれなかった。男の肌は日焼けしていて、浅黒かった。その髪はくすんだ金髪だった。男は豊かな口髭を蓄えていた。釣り上がった眉と鋭い眼光からは、ただならぬ迫力が感じられた。この男がつまらない労働に従事するような人物だとは到底思われなかった。

 

 男の対面の座席には、奇妙に小さいシルエットが座っていた。その小さな男は、醜悪な容姿だった。彼は人間のものとは思われぬ灰色の肌をしていた。おむすびのような三角形の頭に、ひとかたまりの白髪が張り付いていた。下側の二本の前歯が口外に飛び出していて、それが男の姿の奇怪さを一層増していた。

 

 金髪の男は、上質な赤ワインがたっぷりと注がれたクリスタルのワイングラスを、ゆっくりと、誇示するように口元へ傾けた。金髪の男は、それを味わったのか味わわなかったのか、すぐに口を開いた。

 

「で、チミの報告を聞こうではありませんか。目的のものは入手できたのですか」

 

 灰色の男は、待っていましたとばかりに、急き込んで答えた。

 

「そう、そう! これを見てください! このサファイアの首飾り! やはり私の仮説は正しかったんですよ! デグドの吊り橋上の怪物は確かにいたんです! これをどうぞ。とくとご覧になってください」

 

 灰色の男は、金髪の男にサファイアの首飾りを手渡した。そして彼は、あれこれとそれまでの経緯について、不明瞭な言葉遣いで、かつ早口で(まく)し立てた。何を言っているのか今ひとつ理解のできない話だった。灰色の男の話し方には、人に理解させる気があまり見受けられなかった。

 

 金髪の男は、灰色の男の話をまったく聞いていなかった。どうやら彼は、灰色の男の話を雑音かなにかのように感じているようだった。彼は不機嫌そうな顔をしていた。彼はサファイアの首飾りをちょっと持ち上げて、夜光石のランプで宝石を照らした。それをしばらく見つめた後、彼は飽きたかのように放り投げて、言った。

 

「つまらないですねぇ」

 

 灰色の男は、投げ捨てられらサファイアの首飾りを慌ててキャッチした。

 

「わわっ! 何をするんですか、ご無体(むたい)な!」

 

 金髪の男は、それを冷たい視線で眺めていた。彼は低い声で言った。

 

「チミぃ、私が依頼したことを覚えていますか?」

 

 灰色の男が、なぜそのようなことを今更というような顔をして答えた。

 

「それは、もちろん。ハギさん、あなたは『何か面白いものを持ってきて下さい。そうすれば資金援助をします』とおっしゃいました。だからこれを持ってきたんですよ」

 

 灰色の男からハギと呼ばれた金髪の男は、もう一杯グラスへ赤ワインを注ぐと、ちょっとだけ口に含んだ。彼はまた言った。

 

「気安く人の名前を呼ばないで下さい。それにしてもチミ、ちゃんと私の依頼を覚えているではないですか。ではなぜ、こんなつまらないものをそんなにも得意げにここへ持ってきたのですか?」

 

 灰色の男は、困惑の表情を浮かべた。彼は言った。

 

「えっ、これが面白くない? かつて英傑ですら手を焼いた、吊り橋上の怪物が持っていたサファイアの首飾りですよ? 値をつけるなら一万ルピーは下らない逸品ですよ」

 

 金髪の男、ハギは、心底呆れたように溜息をついた。そして、あたかも物分りの悪い使用人を主人が訓戒するような口調で、ねちっこく話し始めた。

 

「はぁー……分かっていませんね。所詮はチミも一匹の庶民ということですか。私のような上流階級の考えは庶民は理解できないのでしょうか。良いですか? 私のように何もかもを手に入れてしまった人間にとって、サファイアの首飾りなんてどうってことはないシロモノなんですよ。英傑がどうだの、魔物がどうだの、そんな物語にも興味はありません。あなたの発想と私の発想はあたかもトンボと妖精。まるで釣り合いが取れてないんですよ……」

 

 ハギはそこまで言うと、いったん言葉を切った。そして、ワインを一口飲んだ後、刑を宣告するように言った。

 

「これでは、資金援助なんてできませんね」

 

 話を聞いた灰色の男は、いささか動揺したようだった。おずおずと、彼は言葉を発した。

 

「そ、そんな……このサファイアの首飾りは貴重な歴史的遺物ですし、何より伝説の吊り橋上の怪物の存在を実証するものなのに……」

 

 ふんっ、とハギは馬鹿にするように鼻を鳴らした。

 

「自分にとって大事とか貴重とか思えるものが、必ずしも他人にとってはそうではない。それどころかゴミや汚物に過ぎないこともあるという単純な社会常識が、チミには欠けているようですね。これまで一体、どんな教育を受けてきたんですか」

 

 灰色の男は深刻そうな顔をしてハギの言葉を聞いていた。だが灰色の男は、そのような罵倒混じりの難詰を容易く聞き流せる図太い神経を持っているようであった。灰色の男はめげずに答えた。

 

「では、あなたが面白いと思うものはなんですか? 次こそそれを持ってきてお目にかけますから、どうか資金援助のことだけは打ち切らないでいただきたいのです……マモノショップ開店は私の夢、私の悲願ですから……」

 

 グラスの中のワインをぐるぐると回しながら、ハギはしばし考えにふけるようだった。

 

「ふむ……」

 

 痛いほどの沈黙がキャビンに満ちた。数分してから、ハギは口を開いた。

 

「……私はね、庶民共から成金と言われています。少年時代は貧乏で、その日のパンにも事欠く毎日でした。その後は、己の才覚と剛腕だけで財を築き上げ、人を顎で使えるまでに自身を高く、(たっと)く持ち上げてきました。一夜にして財を得た山師に対するような、『成金』などという呼び名はあまり好きではないですが、私が今まで送ってきた立身出世的な成功譚に満ちた人生は、我ながら気に入ってます」

 

 ゴクリと喉を動かして、ハギはワインを一口飲んだ。彼は言った。

 

「ルピーを得てから、私はありとあらゆる贅沢をしました。食べ物や酒は常に最高級のものを追求しました。身を飾るものは最上の素材と最高の技術で作られたものだけにしました。しかし、そんな贅沢は一年も経たずに飽きるものです」

 

 ハギは窓の外へ目をやった。車外は暗闇で、何も見えなかった。

 

「物質的な贅沢に()んだ時、私はふと、今まで見てきたモノを思い出しました。私はいろいろな人々を見てきました。はしたルピーのために父を売る息子、商売のために娘を売る母、若者の生き血を啜る老人、自尊心が昂じて破滅する若き天才、幸運だけで生きている大馬鹿者……面白かったですよ。大厄災前の王国には劇場というものがあったそうですが、そこで上演されるどんな演目よりも面白いであろう人間劇を、私は見てきました。ある日、私は、面白さとはつまりそういうものだと気づいたんです。私は、物質的なものから一段階上がって、ついに精神的な楽しみを見出すことができたんです」

 

 そう言いつつも、ハギの顔はどこか不満そうだった。彼はまったく楽しくないというような顔をしていた。灰色の男は、そんなハギを見つめていた。何をハギが言わんとしているのか、灰色の男もその時には分かり始めていた。

 

 ハギは言った。

 

「だからね、チミ。私が面白いと思うものは演劇なんです。人が死んだり傷ついたり、裏切ったり裏切られたり、殺し合ったりする、そういう最高級の演劇なんですよ。命のやり取り、その生命力の迸り。そういったものを私は見たいんです。サファイアの首飾りなんてつまらないものです。すべてを手に入れた私にとって、楽しみがそれだけしかない……そんな悲しみがチミに分かりますか?」

 

 再び、その場に沈黙が舞い降りた。話を聞いた灰色の男は、最初は静かに俯いていたが、やがて肩を小刻みに震わせ始めると、最後はケタケタと笑い声を上げた。

 

「キャキャキャッ! いや、面白い! あなたは実に面白い! 人間としておよそ望ましい限りの状態にあるあなたが、なんとも魔物的な欲求を抱いているなんて! ああ、ああ、なんとも、キャキャキャッ! あなたこそ本当の魔物かもしれませんね! 魔物以上に魔物的だ!」

 

 ハギは眉を顰めた。甲高い笑い声が彼の神経に障ったようだった。だが、声を荒らげることなく、ハギは灰色の男に言った。

 

「それで、チミはそういうものを用意できそうですか」

 

 灰色の男は、ニッコリと醜怪な笑みを浮かべた。

 

「おまかせください。そういうことなら、この平原外れにはうってつけのものがございます。そう、かつての庶民共の立身出世の晴れ舞台が……」

 

 灰色の男は、ある方角へと視線を向けた。その先には、闇に包まれた闘技場跡地があった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ポカポカとした、柔らかな暖かみを彼女は頬に感じた。瞼の裏が、薄い紅色に染まっていった。爽やかに澄んだ空気が、鼻腔の奥へとやって来た。小鳥たちの(さえず)りが、耳に心地良かった。

 

 朝が来た。気持ちの良い夜明けだった。薔薇色の指をした曙の女神がはにかみ屋の太陽を引き連れて、この広漠としたハイラルの大地へと姿を見せたのだった。

 

 バナーヌは、目を覚ました。彼女はその日最初の声を発した。

 

「……夜明けか」

 

 彼女は横になったまま、意識が完全に覚醒するのを待った。久しぶりに纏まった睡眠をとったことで、彼女の体からはほぼ完全に疲労感が抜けていた。

 

 ふと、彼女は横を見た。そこには、前夜同士討ちを繰り広げた相手である、テッポが横になっていた。少女はすやすやと、安らかな寝息を立てていた。

 

「すぅ……すぅ……むにゃ……」

 

 その両目はピッタリと閉じられていた。たっぷりとした、(うるし)のような黒髪が広がっていた。朝の日差しに照らされた褐色の肌が、健康的な輝きを放っていた。

 

 昨晩、夜明けになったら起こせと言っておいたはずなのに。しかし、バナーヌは怒る気になれなかった。こうして明るいところで見てみると、ますますテッポは子どもだった。その華奢な手足と、忍びスーツの隙間から覗いている腹部の丸まり具合を見ても、強くそう思われた。

 

 子どもというものは、よく眠るものだ。バナーヌはそう思った。それに、昨晩は初めての対人戦闘だったという。肉体的にも精神的にも疲労が溜まっていたのだろう。

 

 バナーヌは、短く言った。

 

「……よし」

 

 彼女はテッポをまだ寝かせておくことにした。やるべきことを思いついたバナーヌは、そっと立ち上がった。足音も立てずに廃屋から外へ出ると、彼女は宿場町跡地の中央にある、破壊された噴水へと歩いた。

 

 崩れた噴水には、朽ちたガーディアンがのしかかっていた。このような状態になるまで、いったいどのようなドラマが展開されたのだろうか。しかしバナーヌはそのようなことに思いを馳せることはなかった。彼女はただ手を伸ばして、噴水に水が残っているか確かめた。

 

「水は……あるな」

 

 噴水の跡には、ボウフラも湧いていない綺麗で新鮮な水がたっぷりと溜まっていた。そうであるならば、彼女のやることは決まっていた。彼女は洗顔とうがいを始めた。

 

 バナーヌはうがいをしたあと、バシャバシャと音を立てて顔を洗った。以前、ノチから「乱暴に顔を洗うのは、くすみとシワのもとだよ」と言われたことがある。だが、バナーヌはこの洗い方が好きだった。洗い終えると、彼女は手拭いで顔を拭いた。

 

 ふと、バナーヌは思いついた。

 

「体も拭くか」

 

 彼女は、デグドの吊り橋の下で少しばかり水浴びをしていた。その後、彼女はウィズローブたちと死闘を繰り広げ、炎に焼かれ、煙に(いぶ)され、土に埋まった。その後も彼女は、休む間もなく街道を走ってここへ来た。夜、彼女はテッポの爆撃に遭って硝煙にまみれた。綺麗好きな彼女にとって、体の汚れは許容できる範囲をとっくに超えていた。

 

 バナーヌは、忍びスーツの上を脱いだ。さらしの巻かれた白い上半身が露わになった。すぐさま彼女は、そのさらしも脱ぎ去った。オルディンダチョウの卵もかくやといわんばかりの、白くて大きな胸部が外気に晒された。その両端は健康的に上向いていた。優しい朝の日差しを浴びて、彼女のキメの細かい白磁のような肌が輝いた。

 

 彼女は両手で水をすくい、バシャバシャと体にかけた。手拭いを水に浸すと、彼女はゴシゴシと体をこすった。彼女の大きな胸が揺れていた。彼女は、その割れた腹筋をなぞるように手拭いでこすった。今までの戦闘で酷使した両肩を労るように、彼女は拭いた。大きな胸がその時ばかりは少しわずらわしかった。バナーヌは丹念に体を清めていった。

 

 やがて、彼女は言った。

 

「よし」

 

 上半身は終わった。次は下半身だ。こういうのは一気にやってしまったほうが良い。彼女はそう思った。あまり時間をかけてしまうと、いくら鍛え上げているとはいえ、朝の冷たい大気のせいで風邪を引いてしまうかもしれない。

 

 バナーヌは特技の早着替えで、忍びタイツを半秒もかけずに脱いでしまった。もはや彼女が身に着けているのは、下着一枚だけだった。優美でしなやかな両脚が、素肌を晒していた。

 

 彼女は伸びをした。声が漏れた。

 

「くっ、ふっ、うぅ……」

 

 ストレッチは、やはり良いものだ。彼女の鍛え上げた筋肉がキリキリと音を立てて、そして弛緩した。独特の心地良さで彼女の心が満たされた。

 

 ストレッチが終わると、彼女は深呼吸をした。

 

「ふぅ……すぅ……」

 

 気分は爽快だった。生き返るようだった。さっさと下半身も綺麗にしてしまおうと彼女は思った。彼女は再度、手拭いを水に浸そうとした。

 

 突然、彼女の背後で叫び声が上がった。

 

「あぁーっ!?」

 

 続けて、ガチャリという金属音もした。何か硬いものを下に落としたような、そういう音だった。

 

「む……?」

 

 バナーヌは、ほぼ全裸の状態で、後ろへ振り向いた。

 

 そこには、テッポがいた。テッポの足元には首刈り刀が転がっていた。なぜかテッポの顔は茹でオクタのように真っ赤だった。彼女は大きな目をさらに大きく見開いていた。

 

 テッポは片方の手を口に当てていた。もう片方の手の指は、バナーヌへ向けられていた。信じられないという顔をして、テッポはバナーヌを見つめていた。

 

 言葉にならない言葉をテッポは口から漏らしていた。

 

「な、な、なっ……!?」

 

 何を驚いているのだろうか? 体を拭いているだけなのに。バナーヌは怪訝に思った。とりあえず彼女は、朝にはいつもノチにしているように、朝の挨拶をすることにした。

 

 彼女は片手を挙げて、軽く挨拶した。その胸が揺れた。

 

「おはよう、テッポ」

 

 テッポは渾身の叫びを放った。

 

「なんでお外で裸になってるのよっ!? このヘンタイィッ!」

 

 近くの森の鳥たちが、バサバサと音を立てて逃げ飛んでいった。




 今回はスカイウォードソードネタを出してみました。「セバスンは地上に降りたあと無敵の切込み隊長になってそう」というプレイ当時の私の家族との会話から今回のネタを思いつきました。
 そしてバナーヌはまた脱ぎました。三回目です。冷静に考えればそこはかつて宿場町だったわけですから、つまりバナーヌは人混みでごった返す宿場町のど真ん中でほぼ全裸になってるわけです。忍びとはいったい……? テッポは育ちが良いので驚いています。

※加筆修正しました。(2023/05/08/月)


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第二十五話 埋もれよ眠り

 朝は意地悪だ。昔のハイリア人はそう思っていた。

 

 朝は、柔らかな優しい笑顔を浮かべつつ、逃れられぬ(かいな)を振るって人間を今日の生命の戦いへと駆り立てる。時には爽やかな息吹を送り、時には黒雲を纏って陰鬱な雨を注ぐ。老いも若きも、男も女も、健やかな人にも病める人にも、ゴロン族にもゾーラ族にもリト族にもゲルド族にも、朝は平等に訪れる。

 

 紺色の空がだんだん白んできて、朝は、はにかみながら薔薇色の笑顔を浮かべる。そうしておきながら、人間にあれこれと意地悪く命令する。

 

 ほら、起きて、履物(はきもの)を履きなさい。水を一杯、口に含みなさい。顔を洗ったら、さあ、(かま)を手に取って。畑に出なさい、厩舎(きゅうしゃ)へ行きなさい、かまどへ行きなさい。今日も一日頑張るのですよ!

 

 大厄災以前のハイラルの大地、なかんずく城下町のごとき都市部において、朝は、慢性的な疲労に苛まれ常に物憂げな表情を浮かべている下級労働者にとって、なんとも説明のしようもない、嫌な時間だった。

 

 労働者たちは全身の筋肉を酷使して重い石材を運び、塵芥(じんかい)にまみれつつ腰をかがめて溝を掃除し、続々と街道を上ってくる輸送馬車に取り付いては荷卸しを続ける。地方から出稼ぎにやってきた彼らには、一緒に住む家族はいない。家族は故郷にいる。父や兄弟の帰りを、家族は一日千秋の思いで待っている。

 

 彼らがわずかながらでも安息を得られるのは、食事の時と、寝る時だけだ。

 

 疲れ切った体に塩味の濃い野菜スープ、小麦パン、たまに一切れの干し肉、それに安いリンゴ酒……城下町が恵まれた食糧事情のもとにあるといっても、労働者に過ぎない彼らが日々金を掛けずに食べられる食事はこんなものだった。それに彼らは、少しでも節約して家族へルピーを送ってやらなければならない。

 

 そして、彼らは眠る。泥のように夢も見ずに、ただ彼らは眠る。向学心の強い者は、疲労を学究心と負けん気でごまかして、冷たい月明りの下で読書をする。ランプは使わない。燃料代がもったいないからだ。そんな者でも二時間が限度で、あとは眠ってしまう。

 

 死んだように彼らは眠る。いや、誰も気づいていないだけで、本当に彼らはその時だけは死んでいるのかもしれない。

 

 また、朝が来る。空気はヒンヤリとして澄んでいる。被っている毛布が擦れる音の他は何も聞こえない。突然、静寂を突き破ってコッコの鳴き声が響き渡る。ハイラル城の礼拝堂の鐘が鳴る。牛乳配達の荷車が石畳をゴロゴロと鳴らしながら下の通りを走っていく。商店が鎧戸を開け、新聞配達の少年が頬を赤くして走り回る。

 

 さあ、今日も仕事だぞ。ボロの作業着を着て、タライの水でうがいと洗顔をすると、もう身支度はおしまいだ。彼らはボソボソの固い乾燥したパンをかじりつつ、今日も仕事場へ向かう。

 

 ああ、このような朝があと何年続くのだろうか。故郷の妻や子たちに会えるのはいつの日だろうか……?

 

 物憂げな彼らにも、朝は微笑んでいる。そして、その表情とは裏腹に、力強い(かいな)を容赦なく振るうのだ。さあ、戦いの始まりですよ、と。

 

 だが彼らも、ついに思い知っただろう。その憂鬱な朝こそが、望んでも望みえぬほど貴重なものであったことを、彼らは思い知ったに違いない。変わり映えなく毎日訪れる朝こそ、世界が光に満ち、生命に満ち、希望に満ちていた証拠であったことを、彼らは知ったはずである。

 

 大厄災以降の朝は、以前と少し変わった。まず、朝を享受できる人間が、ちょっとばかり減った。

 

 そして人々はついに、意地悪ではない、朝が本来持つ優しさに気づき始めたようだった。特に旅人や冒険者、わけても戦闘者は、朝が振りまく温かみを実感していた。

 

 前日、彼は魔物との血生臭い激戦を辛くも制した。彼は怪我をした(うで)に包帯を巻いて、そこら中に散らばる血痕と肉片と残骸の中で、正体もなく眠る。

 

 ふと瞼に光を覚えて、彼はそっと目を開ける。眼前に広がるのは、黄金の輝きを纏った美しい朝の空である。

 

 爽やかな朝の息吹を浴びて、彼の野性はブルブルと躍動する。

 

 昨日は生き残った。そうさ、今日も生き残ってやる!

 

 昂然(こうぜん)と、彼は胸を張る。そんな人間の姿を見て、朝は微笑んでいる。朝はもう、その(かいな)を意地悪く振るうことはない。

 

 

☆☆☆

 

 

 夜明け直後の、早朝だった。イーガ団フィローネ支部の新米団員である少女テッポは、その幼いながらも端正な顔を真っ赤にしていた。彼女は、ワナワナと震える人差し指を視線の先の人物に向け、声の限り叫んだ。

 

「なんでお外で裸になってるのよ! このヘンタイィイイッ!?」

 

 近くの疎林から鳥たちが一斉に飛び立った。テッポの得意とする爆弾(バクダン)が爆発したとしても、これほどまでに鳥を驚かせることはないだろう。

 

 一方、テッポにヘンタイ呼ばわりされたバナーヌは、なんら表情を変えなかった。きめの細かな輝く白い肌を外気に晒しつつ、彼女は下着一枚の姿のままでテッポを見つめていた。彼女の親友のノチが見れば、その顔にやや不可解そうな色があるのを認めたであろうが、そんなことは出会って間もないテッポには分からなかった。

 

 なぜ、水浴びを咎められなければならないのか。必要なことだからやっているだけなのに。バナーヌはそう思った。

 

 身体を清潔に保つことは、とりもなおさず、健康状態を維持・改善し、戦闘力の低下を防止することにつながる。これはイーガ団の教義においてもしっかりと述べられている。イーガ団員たる者は、平時においては常にその身を清潔に保つべきである。戦時においては、戦場の不衛生に甘んじるべし……そんな感じである。

 

 それなのに、テッポは怒っている。それがバナーヌには不思議でならなかった。水浴びをするのだったら、裸になるしかないではないか。服を着たまま水浴びをすることなんて不可能だ。それなのに、なぜヘンタイ呼ばわりされなければならないのか?

 

 テッポの声が響いた。怒ったような声だった。

 

「ちょっと、何ぼんやりしてるのよ! 早く服を着なさいよ!」

 

 いつの間にか、テッポがバナーヌの目の前に来ていた。テッポは腕を組んで、長身のバナーヌを見上げていた。その顔はまだ赤かった。テッポはチラチラと視線を走らせて、バナーヌの身体を観察していた。白くて美しい、引き締まっていながらも肉付きの良い身体へ、テッポの視線が降り注いだ。テッポの口からは時々、「うわっ……」とか「すごっ……」という小さな声が漏れていた。

 

 ややあって、テッポは言った。

 

「ほら、早く服を着なさい!」

 

 バナーヌは、静かに訊いた。

 

「どうして?」

 

 敵の気配はおろか人の気配とてここにはないのだから、今すぐ服を着る必要はない。バナーヌはそう思った。男に裸を見られるのは絶対に嫌だが、このテッポに見られるのならば何も問題はない。

 

 問いかけられたテッポは、呆れたような顔をした。

 

「どっ、どうしてって、あなたねぇ……」

 

 なぜかテッポは沈黙してしまった。しかし、その視線は未だに泳ぎ続けていた。

 

 右手を顎の下に添えて、しばらくバナーヌは考えた。大きな胸が右腕で圧迫されて柔らかく形を変えた。

 

 そして、バナーヌはハッと得心した。テッポは新人で幼く、おまけに今回が初陣だ。だから、水浴びの意義を充分理解してないのだろう。

 

 ならば、ここは先達(せんだち)として指導をしてやらねばならない。

 

 バナーヌは、腰に手をやった。大きな白い乳房が完全に露わになった。それを見て、テッポはますます顔を赤くした。

 

 彼女なりに真心を込めて、バナーヌはテッポに語り掛けた。

 

「テッポ」

 

 テッポは戸惑ったように答えた。

 

「な、なによ!」

 

 バナーヌは言った。

 

「お前も水浴びをしろ」

 

 直後、二度目の大きな叫び声が、またもや森の鳥たちを驚かせた。

 

「するわけないでしょこのヘンタイぃいいい!!」

 

 ポカポカと両手で、テッポはバナーヌを叩いた。バナーヌにはやはり、テッポの言葉の意味が分からなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 数分後、落ち着きを取り戻したテッポは、バナーヌに言った。

 

「良い? 野外で水浴びするのは自殺行為なのよ? 悪い病気が水から伝わってくるし、蚊は飛んでくるし、ヒルにだって刺されるわ。体を清めるのなら、ちゃんとお湯を沸かして、安全な屋内で……」

 

 バナーヌはどこか不満そうな顔をして答えた。

 

「それは密林での話だろう」

 

 テッポが怒ったように言った。

 

「それだけじゃないの! 女の子がお外で、はっ、(はだか)になるなんて、あなたいったいどんな教育を受けてきたのよ!」

 

 バナーヌは至極当然というように答えた。

 

「外でも水浴びをしろと指導された」

 

 テッポは頭を抱えた。

 

「ああああ! もう! 良いからさっさと服を着て! ああ、なんだか私のほうが恥ずかしくなってきたわ……」

 

 結局、テッポがあまりにもしつこく「服を着て」と言い続けたので、バナーヌはしぶしぶと水浴びを打ち切った。彼女としてはもう少し楽しみたかったところだが、こうなっては仕方なかった。彼女は服を着ることにした。

 

 その際、せっかくだからと特技の早着替えをバナーヌは披露した。テッポは声を上げた。

 

「えっ、えっ!? あなたさっきまで裸だったのに、えっ!? もう完全装備? なんで、どうやったの?」

 

 バナーヌは言った。

 

「なんとなくだ」

 

 信じられないものを見たような顔をしているテッポを後目(しりめ)に、バナーヌは腰のポーチを開いて、一房のツルギバナナを取り出した。

 

 黄金に輝くその果実を見て、テッポは目を輝かせた。

 

「あっ、バナナ……!」

 

 バナーヌはテッポへ頷いた。

 

「朝食にしよう」

 

 テッポは言った。

 

「待って、その前に私も顔を洗うわ」

 

 二人はそれから、廃墟の陰の地面に座り込んで食事を始めた。

 

 前日、バナーヌは急いで平原外れの馬宿を出てきたために、食べ物といってもゴンクから購入したバナナしか持っていなかった。

 

「バナナがあれば充分だろう」

 

 だが、テッポは色々と持っているようだった。

 

「待って! ふっふっふ……こんなこともあろうかと、準備おさおさ怠りないわ!」

 

 大切な食事の時間を前にして、テッポの気分は上がっているようだった。テッポはいそいそとポーチを開いた。彼女は笑みを浮かべつつ、自慢するように中身をバナーヌに見せた。テッポは言った。

 

「ハイラル米の(ほしいい)でしょ、乾燥マックスサザエでしょ、ガンバリバチのハチミツアメでしょ、焼きトリ肉でしょ……」

 

 バナーヌは感心した。

 

「多いな」

 

 テッポは顔を輝かせた。

 

「お父様が持たせてくれたの。ねぇ、あなたのバナナと交換しない? 好きなのを選んで良いから」

 

 その時テッポのポーチから、何か大きなものがごろりと転がり出てきた。赤子の頭ほどもあるそれは、ゴツゴツとした棘を持っていて、黄緑色(きみどりいろ)をしていた。

 

 バナーヌは、なぜか嫌な予感がした。一抹の不安を覚えつつ、彼女はテッポに尋ねた。

 

「それは?」

 

 テッポは言った。

 

「あっ、これこれ!」

 

 テッポは両手でそれを拾い上げると、満面の笑みを浮かべて、バナーヌの目の前に持ち上げた。テッポは喜びに満ちた声を発した。

 

「見なさい! これこそフィローネ特産、マックスドリアンよ! 滋養強壮に優れた、天然の万能薬なの! 私はこれが大好物で……」

 

 言葉が終わる前に、バナーヌはマックスドリアンをがしっと鷲掴みにすると、力いっぱい放り投げた。

 

「ふんっ」

 

 綺麗な弧を描いて、哀れなドリアンは勢いよく彼方へと飛んでいった。やがて、投げられた果実は疎林の向こうへ落ちていった。

 

 テッポは、バナーヌの突然の暴挙に激怒した。

 

「ああっ、私のマックスドリアンが!? あなたなんてことするのよ!」

 

 鋭い怒声を浴びせられたバナーヌは、顔色一つ変えることなく、断固とした口調で言った。

 

「バナナ以外は認めない」

 

 これにはテッポも反論できなかった。

 

「くっ……!」

 

 イーガ団員として、尊ぶべき果物は何を()いてもまずはツルギバナナである。マックスドリアンなどという嵩張(かさば)るものを入れる空間があるならば、そこには代わりにバナナを詰め込むというのが模範的な団員である。

 

 バナーヌはドリアンを掴んだ手の匂いを嗅いでいた。教義云々はさておき、彼女のドリアンに対する苛烈な態度には、彼女の嗜好も少なからず関係しているようだった。彼女はバナナ以外の果物も普通に食べる。だが、ドリアンは許せないようだった。

 

 そんなバナーヌの様子を見て、悔し紛れか、テッポは前髪をかきあげると、ふふんと鼻を鳴らした。

 

「……まあ別にいいわ。ドリアンはまだあるし。ねえ、そろそろ食べ始めない?」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「うん」

 

 バナーヌは、ガンバリバチのハチミツアメとバナナを交換した。朝から脂っこいものや塩味の濃いものを食べるのは、彼女の食習慣に反するからだった。

 

 一方、テッポはドリアンを食べようとした。だが、彼女は先ほどのバナーヌの態度を鑑みて、「ここであえてドリアンを食べるのは彼女に喧嘩を売るようなもの」と考え直した。テッポは焼きトリ肉とバナナで朝食を済ませることにした。

 

 食後、二人はそろってバナナの神に跪き、祈りを捧げた。律儀にもテッポは言葉を口に出してお祈りをした。

 

「我は心を尽くしてバナナに感謝し、汝のくすしき御業(みわざ)をことごとく()べ伝えん。いと高きバナナよ、汝によりて我は喜びかつ楽しみ、汝の名をほめ歌わん。我が敵は退(しりぞ)くとき、つまずき倒れて汝の香りの前に滅び去りぬ……」

 

 

☆☆☆

 

 

 二人は簡単な食事を終え、そして厳かな祈りを終えた。

 

 二人が立ち上がろうとした、その時だった。突然、鳥の鳴き声のような、奇妙な音が聞こえてきた。一回、間をおいてもう一回、間を置かずもう一回、音は響いた。「ピョロー、ピョロピョロ、ピョロー、ピョロピョロ……」 独特の抑揚を持った、どこか語り掛けてくるような音だった。

 

 テッポは訝しんだ。細い眉を寄せて、やや俯きながら彼女は独り言ちた。

 

「何かしら、あれ。どこかで聞いたことがあるような……」

 

 テッポが考えている間に、バナーヌはいち早く反応していた。彼女は立ち上がると、音へとさらなる注意を向けた。再度響いてくるそれを聞いて、彼女は確信を得たように軽く頷いた。彼女は忍びスーツの胸元を少し開いて、胸の谷間から一本の小さな金属製の笛を取り出した。笛にはバナナの刻印が施されていた。

 

 テッポは笛を見て、ようやく理解したようだった。

 

「あっ、それって」

 

 バナーヌは言った。

 

「静かに」

 

 バナーヌは桃色の唇に笛に当てて、これまた独特なリズムを持って笛を吹き始めた。「ピョッピョッピョ、ピョッピョッピョ……」 短く、それでいて四方に響くように力強く、彼女は信号を返した。

 

 それは、イーガ団の野外通信システムの一つだった。単独、もしくは少人数で長期間独立行動をするイーガ団員であっても、例えば増援や補給の要請、もしくは緊急連絡の際には仲間と通信をする必要がある。そのためには五色米(ごしきまい)を用いた暗号や、黄色に着色された狼煙(のろし)や、さらには伝書鳩を用いる。笛もそのひとつである。笛を使った通信は、その秘匿性と利便性の良さから、団員たちに愛用されていた。

 

 リズムごとに通信の意味するところが決められている。先ほど向こうから響いてきたものは「汝は近くにありや」という信号であった。バナーヌはそれに「了解」を返した。

 

 かつてハイラル王国が健在だった時代は、この通信方法とて決して安全ではなかった。訓練された王国の諜報員やシーカー族の戦士たちは、イーガ団の通信符丁を解読することができた。大厄災以降のこの大地においては、この笛の音の意味を知る者はシーカー族しかいない。しかも、彼らは積極的にカカリコ村から出てはこないため、イーガ団員たちは心安く笛の通信を行うことができた。

 

 バナーヌが信号を返してから十数秒後に、また信号が返ってきた。「ピョロヒーピョロ、ピョロヒーピョロ……」 それは「狼煙(のろし)を上げよ」という意味であった。バナーヌはテッポの方へ振り返ると、声をかけた。

 

「狼煙の準備を」

 

 テッポは軽く頷いた。

 

「もうできてるわ」

 

 いつの間にかテッポは、装備の入ったポーチから発射筒を取り出していて、地面に垂直に立つようにそれを設置していた。発射筒は竹製のしっかりした造りのものであった。

 

 テッポは慣れた手つきで、サラサラとした粉状の発射薬を筒先から流し込んだ。続けて、彼女は黄色の紙に覆われた狼煙玉(のろしだま)を筒に押し込んだ。彼女は周囲を確認すると、発射筒各部をチェックした。最後に彼女は、火打ち石で導火線に火をつけた。

 

 テッポは発射筒から一歩下がった。

 

「離れて」

 

 バナーヌは、少し感心した。昨晩の爆弾攻撃にしても、この狼煙の打ち上げにしても、このくらいの年齢の子どもにしては随分と火薬の取り扱いに慣れている。バナーヌはそう思った。彼女自身も、火器の取り扱いについては訓練生時代に仕込まれたものだったが、手早くそれができるようになるまでかなり苦労をした覚えがある。

 

 バナーヌは言った。

 

「慣れてるな」

 

 バナーヌの言葉から素直な賞賛の念を感じ取ったのか、テッポは微笑んだ。

 

「お父様仕込みの技ですもの。そこらの団員には絶対に負けないわ」

 

 やがて、導火線を辿る火花が筒の下に達した。ポンッという軽い発射音が鳴った。音を立てて狼煙玉が打ち上げられた。風はなかった。ほぼ垂直に飛んだ玉は、空中で破裂した。目にも鮮やかな黄色い煙が花開いた。

 

 ややあって、「了解」を意味する信号が響いてきた。バナーヌとテッポは、やってくるであろう仲間を待ち受けることにした。

 

 あっ、とテッポが声を上げた。

 

「そういえば、シーカー族を警戒しなくて良かったのかしら。もし近くに(ひそ)んでいたらどうしよう……?」

 

 不安そうに言うテッポへ、バナーヌは短く言った。

 

「大丈夫だろう」

 

 バナーヌとしては、もうこの近くにシーカー族が存在すると思えなかった。その判断に確証はない。彼女の長年の経験と勘によるものである。昨晩、轟音を立てて爆弾合戦をした時にも、シーカー族は介入してこなかった。二人が寝ている時にも襲撃はなかった。だから大丈夫だろう。敵はこの近くにいない。

 

 テッポはまだ不安そうな顔をしていたが、バナーヌが断言するのを聞いて幾分か落ち着いたようだった。誰にも聞こえないようにテッポは呟いた。

 

泰然(たいぜん)としてるというか、マイペースというか……それともただの変人なのかしら……?」

 

 未だにテッポは、この金髪碧眼の仲間をどこか測りかねていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 およそ十分が経った。バナーヌたちのもとへ姿を現したのは、露出の多い忍びスーツを着た一人の下っ端イーガ団員だった。柔らかな朝の日差しを受けて、白い仮面がキラリと光を反射した。

 

 念のために廃屋の陰へ身を隠して様子を窺っていたテッポが、声をかける。

 

「雷鳴!」

 

 男がそれに答えた。

 

「スイートスポット!」

 

 なんてひどい合言葉だとバナーヌは思った。フィローネ支部特有の組織文化というものなのだろうか。そんな彼女の思いを余所(よそ)に、テッポはやってきた団員の前へと姿を現して口を開いた。

 

「グンゼ! あなただったのね!」

 

 グンゼと呼ばれた団員は、仮面で表情が隠れているためはっきりとは分からないが、声に幾分か安堵の調子を滲ませて言った。

 

「テッポ殿! ああ、良かった、無事だったんですな!」

 

 バナーヌもそっと物陰から出てきて、男と対面した。グンゼは驚いたような声を上げた。

 

「あっ! お前さんはパシリのバナーヌ! お前さんまでいたのか! さてはさっきの通信もお前さんがやったんだな。テッポ殿は笛を吹くのが下手だから、『あれ、こんなに綺麗に笛が吹けたっけ、少しおかしいな』と思ってたんですよ」

 

 思わずバナーヌは言った。

 

「ちょっと待て」

 

 バナーヌは内心げんなりした。「パシリ」とは我ながら嫌な異名を奉られたものだと思っていたが、それがフィローネ支部にまで広まっているとは。こんな下っ端にまでパシリとして認知されているというのは、功名心が薄い彼女にとっても少しばかりほろ苦いものとして感じられた。

 

 テッポが話に割り込んだ。

 

「笛の話はどうでも良いでしょ! それより、みんなはどうなったの? サンベは怒ってない?」

 

 グンゼは頷いた。

 

「ああ、今から話をして差し上げます。バナーヌ、お前さんにも説明してあげますよ。襲撃を受けた状況と、その後何が起こったのかも……」

 

 グンゼは順を追って話を始めた。

 

 フィローネ支部はここの所、まったくもって「いいとこなし」な状況であった。前回のバナナ輸送はまことに不本意な結果に終わったし、それに(みずうみ)研究所の襲撃も、当初計画していた博士の拉致に失敗したうえ、資料も奪取できなかった。

 

 一連の失態で、フィローネ支部の面目は丸潰れになった。幹部たちはその埋め合わせに躍起になっていた。特に、研究所襲撃部隊を率いていた中級幹部のサンベは名誉を挽回しようと必死になっていた。彼は、今回の輸送部隊の指揮官になることを熱望した。

 

 幹部会において、サンベを任命することの是非について議論された。否定的な意見が多く出た。曰く、サンベは熱意だけの男で、傲慢で、しかも逆境に弱い。能力的には低くないが、かと言って高くもなく、せいぜい魔物の討伐くらいにしか使えない男だ。そんなサンベに、重要な輸送任務の指揮官をやらせるのには不安が残る。前回の任務失敗についての裁定が下っていない現在ではなおさらだ。聞けば、総長コーガ様は、「今回の輸送作戦の首尾如何によっては、フィローネ支部の独立性をも再考しなければならない」と仰せになっているそうだ。いわば、本作戦は我が支部の浮沈が掛かっていると言っても過言ではない。サンベは用いないほうが賢明だろう……

 

 だが、支部長の鶴の一声で、サンベが輸送指揮官として起用されることになった。

 

「一度失敗した者は、汚名を返上するために次は死力を尽くすものだ」

 

 サンベは涙を流して支部長に感謝したという。テッポの父である幹部ハッパはそれとなく支部長を諫めたが、支部長は一度決めたことを考えを翻さなかった。

 

 時間が差し迫っていた。輸送部隊は早速出発することになった。三台の四頭立て四輪の大型輸送馬車に、合計一万本のツルギバナナが積載された。指揮官はサンベ、馭者は三名、護衛部隊は五名、合計九名の部隊が編成された。

 

 初陣のテッポを除けば、護衛部隊の他の四名は手練れ揃いで、たとえ魔物の集団に出くわしたとしても容易に蹴散らすことができるだろう。それは幹部たちの苦心の采配だった。

 

 出発した翌日、季節外れの大雨に見舞われて路面の状況は悪化したが、何とかそれを乗り越えた。彼らがフィローネ樹海入口を通過してハイリア湖南岸方面に到達したのは昨日の昼過ぎだった。ここらはボコブリンが拠点を築いているため、彼らは警戒態勢を取りつつ進んだ。しかし襲撃はなかった。このまま何事もなく、ハイリア大橋に進入できるものと思われた。

 

 油断したのか、それとも張り詰めた気持ちから解放されるためか、ここでサンベは暢気(のんき)なことを言い始めた。

 

「お前ら! 警戒を怠るなよ! 俺は夜に備えて少し仮眠をとる!」

 

 馬車の中で高鼾(たかいびき)をかき始めた指揮官に呆れながら、部隊は夕刻にハイリア大橋に差し掛かった。

 

 そこで、何者かから襲撃を受けた。

 

「敵襲!」

「左から来るぞ!」

「馬を守れ!」

 

 敵の数ははっきりとは分からなかった。おそらく三人は超えないだろう。とにかく敵は突然高台から奇襲してきて、クナイをバラバラと馬車と馬に投げつけてきた。敵襲の声にサンベは狼狽(ろうばい)し、ろくに指揮も取れなかった。だが護衛部隊は各々独自の判断で反撃に出た。

 

 ここまで話して、グンゼはテッポの方に顔を向け、にやりと笑った。

 

「テッポ殿が爆弾を使おうとしたのでギョッとしましたよ。馬車を吹っ飛ばす気かってね」

 

 テッポの顔がぼっと赤くなった。とんでもないミスを犯しかけたことを穿(ほじく)り返されたためだった。

 

「うっ……確かに軽率だったわ……グンゼが止めてくれなかったら大変なことになってたと思う……」

 

 バナーヌの冷たい視線に耐えるテッポを後目(しりめ)に、グンゼは話を続けた。敵は一当たりした後、なぜかすぐに退いていった。あくまで敵を倒そうと追跡を開始したテッポに、仲間たちは「深追いはやめろ!」と叫んだ。仲間たちはテッポを連れ戻そうと走り出した。

 

 だが、ここで意外な敵の増援が現れた。

 

 それはボコブリンたちだった。魔物たちの数は多かった。その上、戦意が旺盛で、車列左側の高台から大量の矢を射掛けてきた。彼らは飛んでくる無数の矢を払い、あるいは矢をこちらからも射掛けた。彼らが敵を何とか追い払った時には、だいぶ時間が経っていた。とっくの昔に陽は落ちていた。

 

「あのボコブリンたちは、おそらくシーカー族たちが(けしか)けたんでしょうな。出てくるタイミングがあまりに良すぎました」

 

 彼らは損害を集計した。人的被害は、テッポが行方不明の他は特になかった。だが、馬車の一台が前部車輪を損傷して行動不能になった。十二頭の馬のうち、三頭が負傷して動けなくなった。

 

 サンベは動揺した。

 

「おい、マズいぞ……おい、どうすんだよ、おい、おい……」

 

 車輪に関しては、一晩かけて修理すればどうにか馬車を動かせることが分かった。

 

 問題は馬だった。グンゼは、「直ちにフィローネ支部へ連絡して代替馬を要請すべきだ」と意見具申した。サンベは言下にそれを否定した。どうやら失態を知られたくないという自己保身が働いたようだった。結局、その晩は更なる敵襲を警戒しつつ、馬車の修理と馬の治療に専念することになった。

 

 グンゼは溜息をつきつつ言った。

 

「私たちは戦闘の後で疲労しているうえに食事もとってないのに、指揮官どのは昼間に仮眠をしていたからかえらい元気で、『あれをしろ、これをしろ』と横から口を出してくるので、まったくこちらとしては閉口しましたよ。結局、昨晩は一睡もできませんでした。まあ、任務ですから仕方ありませんけどね。で、作業も一段落したところで翌日の行動について決めたんですが……」

 

 サンベは、朝になったらグンゼを平原外れの馬宿に派遣することにした。テッポを捜索しつつ馬宿に向かい、そこの連絡員に遅延を報告するよう、サンベはグンゼに命じた。サンベは、他の団員には代替馬を調達するよう命じた。

 

 これが、夜明けの三時間前のことだった。

 

 グンゼはここまで話して、一息ついた。水筒の水を一口飲むと、彼はまた口を開いた。

 

「私はテッポ殿の安否が気にかかっていたので、夜明け前にさっそく出発しました。当たりをつけて笛をヒョロヒョロ吹きながらね。指揮官殿は『くれぐれもよろしく頼むぞ』と言ってましたよ。テッポ殿を失ったら、幹部のハッパ殿に殺されると思ってるんでしょうね。私もここでこうしてお会いできるまでハラハラしておりました」

 

 テッポはグンゼの思いやりに感激したようだった。彼女は深く頭を下げた。

 

「ありがとうグンゼ。それからごめんなさい。私の軽率な行動のために部隊の統制を乱したこと、深く反省しています」

 

 グンゼはハハハと笑った。

 

「まあ初陣ですからね。死ななかっただけで上出来ですよ。それに、私たち上級者の監督が行き届いていなかったことも原因の一つです。こうして無事に合流できたことですし、これ以上は言いっこなしですよ。ところで……」

 

 言葉を切って、グンゼはバナーヌへ顔を向けた。

 

「パシリのバナーヌ。お前さんはどうしてこんなところにいるのですか」

 

 テッポも声を上げた。

 

「あっ、そうそう。それ、私も気になってたのよ。どうしてあなたはここに来たの?」

 

 バナーヌはポツリと答えた。

 

「馬車を迎えに行けとゴンクに頼まれた」

 

 グンゼは、ああ、と納得したような声を上げた。

 

「ということは、お前さんがカルサー谷のアジトからの援軍ですか。他に誰が来てるんですか?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「私だけだ」

 

 テッポが目を見開いた。

 

「あなただけ!? 本部からはあなた一人しか来てないの!?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「そうだ」

 

 ああ、とグンゼが頭痛を抑えるかのように、頭にそっと手をやった。

 

「なんと、一人だけとは……本部は本気でこの輸送を成功させる気があるのか……まあ良いでしょう。一人でも、いないよりはマシというものです」

 

 しばらく、沈黙があたりを包んだ。

 

 グンゼの言葉はバナーヌの実力をやや軽く見ている(ふし)があったが、そのようなことでバナーヌは怒らなかった。彼女には、他人からの評価など一向気にしないという美質があった。

 

 それよりも、輸送馬車が思ったよりも危機的な状況にあったことにバナーヌは内心驚いていた。ゴンクが「早く行け」と言った時は、正直なところ少し彼を怨んだものだったが、彼の予感は的中していたわけだ。

 

 テッポはその綺麗な鳶色の瞳で見つめつつ、グンゼに言った。

 

「グンゼ、私はこれから輸送馬車へ戻ろうと思うんだけど……」

 

 暗い予感を追い払おうとするのか、グンゼは努めて明るい声で答えた。

 

「おお、そうしてください。みんなもえらく心配していますからね。元気な顔を見せてやってください。それからバナーヌ、お前さんも馬車を迎えに行くんでしょう? じゃあ道中テッポ殿をお()りしてください。どうにも危なっかしいですからね」

 

 テッポは大きな声を発した。

 

「もう、グンゼったら!」

 

 グンゼは笑った。

 

「ハハハッ、じゃあ頼みましたよ。私は予定通り平原外れの馬宿へ向かって、ゴンクに連絡を入れてきます。可能だったら馬も何頭か連れてきますからね。二人とも、注意して行ってくださいね。魔物共もなぜかは知らないがどことなく興奮しているようですし……」

 

 それじゃ、とグンゼは片手を上げて軽く挨拶すると、一目散に街道を西へと駆けていった。

 

 バナーヌとテッポは、彼をしばらく見送った。そして、彼女たちは装備をもう一度点検すると、ハイリア湖へ向けて出発することにした。

 

 歩き出す前に、テッポが言った。

 

「ところでバナーヌ、あなたグンゼから『パシリの』って言われてたけど、それ、どういう意味なの?」

 

 バナーヌは短く答えた。

 

「きくな」

 

 日は、すでに中天に差しかかりつつあった。




「ただしドリアン、テメーはだめだ。」

 少し言い訳をします。バナナ約一万本に対して、大型四輪馬車三台ではたして事足りるのか? そう疑問に思われた方がきっといらっしゃると思います。その通りだと思います。おそらくですが、これっぽっちの馬車じゃ運べません。それもこれも私に数理計算的センスがないことが原因です。木製のコンテナにギュウギュウ詰めにして、馬車の車軸がたわむくらい積み込めばワンチャンいけなくもないか……? と軽く考えていたのです。
 ここは一つ、ゼルダ世界特有の「いっぱい物が持てるよ! いっぱい詰まってるよ!」理論で大目に見てください。読者の皆様の寛大なお心に縋るばかりです。
 ところで私はドリアンを食べたこともなければ実物を見たこともないのですが、どんな味と香りがするんでしょうね。相当臭うというのは聞いていますが……いつかお目に掛かりたいものです、ドリアン。

※加筆修正しました。(2023/05/08/月)


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第二十六話 街道上の化物

 かつて、才能ある人々がいた。その才能とは二通りの意味で説明された。一つは、絵や文や詩を作るといった技術的な才能であり、もう一つは、人を惹き付けるという、いわば人格的な才能であった。

 

 例えば、老いたる神官は信仰の尊さについて荘重な説教をし、若き詩人は麗しい友情を瑞々しく詠い、恋に焦がれる画家は情熱と愛を込めて恋人の像を描き抜いたものだった。

 

 人は、作品の光彩に魅了された。感動と歓喜の感情の渦に身を任せた。更には、その作り手自体に強い憧れと羨望を抱いた。

 

 うっとりとした甘い香りの陶酔感と、我が身と心を忘れるような、音もない没入感を、かつての時代の才能と芸術はもたらした。それはまさしく人間に光を照らし、心に火を灯した。それは世界を黄金に輝かせるものだった。

 

 だが、あの大厄災から、時代は変わってしまった。光は消え去り、時代は闇へ沈みつつある。神殿は荒れ果てて魔物の住処(すみか)となり、詩集は廃墟の中で残骸に埋もれ、絵画は一面の埃と(かび)に覆われて、破り捨てられ焚き付けとなって燃え落ちるのみである。

 

 そして、この黄昏の時代にも、やはり才能ある人々はいる。その才能も、やはり二通りの意味で説明される。一つは、殺しや破壊や略奪といった技術的な才能であり、もう一つは、人を圧伏し畏怖(いふ)させるという、いわば人格的な才能である。

 

 殺し、焼き、奪う。ボコブリンの頭蓋を叩き割る。粗末な拠点に効果的に火を放つ。歯を剥き出しにして、僅かな物資を奪い去る。血の滴るナイフを振るって、魔物の肝を乱雑に剥ぎ取る。

 

 危機の時代にあって、人間はもはやなりふり構ってはいられなくなった。生き残るために、人間も魔物のようになりつつあった。才能は、暴力的な側面において急速に開花しつつあった。

 

 いや、そもそも人間とはそこまで上等な生き物であったのか? 人間は、光に満ちていたあの時代においても、このハイラルの大地に陰謀と策略を張り巡らし、互いに互いを陥れ、血と涙で幼い子どもたちの顔を汚していたのではなかったか? 才能を善用したことなど、歴史上で数えるほどしかなかったのではないか? それこそ、姫巫女や勇者たちといったごく一部の者しか、才能を善く用いることができなかったのではないか?

 

 時代とは? 人間とは? 才能とは?

 

 ともあれ、一つだけ確かなことがある。それはこのハイラルにおいて、人間こそ至弱の存在でありながら至強の存在をも打ち倒すほどの、才能に溢れた戦闘者だということである。

 

 今日もハイラルの何処(いずこ)かで、阿鼻叫喚の戦いの(ちまた)が展開されている。その戦いの勝者はおそらく、魔物のような人間なのだろう。

 

 

☆☆☆

 

 

「準備はできたわ。あなたは?」

「すでにできてる」

 

 バナーヌとテッポは装備を確認し、露営の痕跡を抹消した。軽く体操をしてから、二人は横に並んだ。踏みしめられた地面が音を立てた。

 

 短く、感情を込めずにバナーヌが言った。

 

「では、行くか」

 

 当然とばかりにテッポが元気良く答えた。

 

「ええ、行きましょう!」

 

 颯爽(さっそう)として影もなく、二人は走り始めた。ツルギバナナのような輝く金髪と、ぬばたまの美しい黒髪が、勢い良く宙を踊った。

 

 二人は進路を南へと取り、ハイリア湖を目指した。グンゼからの情報によれば、輸送馬車を取り巻く状況は非常に不安定である。一刻も早く合流しなければならなかった。

 

 充分な睡眠時間、思うがままの水浴び、それにバナナたっぷりの豊かな食事、それらのおかげで、走り出したバナーヌの心身の状態は高い水準にあった。

 

 空は透き通るように青かった。白い雲は焼き菓子のような形をしてふわふわと流れていた。日光は柔らかで、暖かかった。徒歩で強行軍を敢行しようというバナーヌとテッポにとって、なかなか好ましい天候であるといえた。

 

 ふと、バナーヌはグンゼの言葉を思い出した。「魔物共もなぜかは知らないがどことなく興奮しているようですし……」 胸騒ぎというほどではないが、彼女は妙にその言葉が気にかかった。しかし今のところ、魔物の姿は見当たらなかった。

 

 二人が走り始めてから、早くも一時間ほどが経過した。バナーヌは、チラリと横目でテッポの様子を窺った。長身でスラリと長い足をしたバナーヌと、未発達の肉体のテッポとでは、走るペースに自然と大きな差が生まれる。それにもかかわらず、テッポは一歩も遅れなかった。彼女は呼吸も乱さず、声も漏らさずに、ピッタリとバナーヌに追従していた。

 

 テッポは、バナーヌの視線に気づいたようだった。何よ、というような非難がましい目で彼女はバナーヌを見返してきた。

 

 バナーヌは、目線を正面に戻した。内心では、彼女はテッポに感心していた。まだ子どもであるのに、この強行軍にまったく問題なくついて来ている。大した才能だ。生まれ持った素質だろうか、それとも、幹部である父親からの英才教育の賜物だろうか。呼吸が苦しくなるからか、顔に仮面を着けていないのは規律上問題だが、手拭いを仮面代わりに巻いている自分が(ただ)すことでもない……彼女はそう思った。

 

 このまま走り続けても良かった。しかし、バナーヌは小休止を取ることにした。グンゼからはテッポの「お()り」を頼まれていた。ここは、「一時間の行軍ごとに五分間の小休止をとるべし」というイーガ団の戦闘教義に忠実に則るべきだろう。彼女はそう決めた。

 

 バナーヌは街道を少し外れると、背の高い草むらに入って足を止めた。その隣にはもちろんテッポがいた。

 

 命令を下すような断定的口調で、バナーヌはテッポに告げた。

 

「これから小休止。五分間」

 

 テッポは素直に従った。

 

「了解」

 

 テッポはふぅと溜息をつくとそのまましゃがみ込み、地面に直に腰を下ろした。テッポは水筒の水を一口飲んだ。彼女のつややかで健康的な褐色の肌には、キラキラとした汗の粒が張り付いていた。

 

 一息ついて前髪をかき上げた後、ふと横を見たテッポは、何か異様なものを見た。テッポは言った。

 

「……あなた、いったい何をしてるの?」

 

 バナーヌが隣りで、地面に仰向けになっていた。彼女は横になり、足を交互に上げたり下げたりしていた。時々、彼女は手でふくらはぎを揉んだり、足の裏のあちこちを指で押したりしていた。

 

 怪訝そうな声を受けてバナーヌは、テッポを見つめ返した。彼女は言った。

 

「小休止の時は、足のマッサージをしろ」

 

 テッポは納得したように言った。

 

「あ、マッサージだったのね、それ。分かりました、私もやります」

 

 見よう見真似で、テッポも足のケアを始めた。育ちの良いテッポにとって、マッサージとは自分以外の誰か専門家がやるものであった。自分で自分をマッサージするとは思いもよらなかった。だが、パシリで全土を駆け巡っているバナーヌにとってそれは、常識以前の問題だった。

 

 敬愛する父親から授けられた英才教育は、ただひたすら戦闘技術を磨くことだけを重視していた。そのため、徒歩行軍中の小休止に何をすべきか、といった細かい知恵をテッポは教わっていなかった。

 

 変人かもしれないけど、やっぱりバナーヌは実戦経験が豊富みたい。テッポはむにむにと細い足を揉みながら、バナーヌへの評価を改めていた。

 

 五分が過ぎた時に、事件が起こった。

 

 立ち上がったテッポが小さなお尻を(はた)いて、バナーヌに出発を促した。

 

「マッサージ、かなり効果的ね。これからも忘れないようにするわ。さて、そろそろ行きましょう」

 

 しかしバナーヌは立ち上がらなかった。彼女は警戒するような眼差しで辺りを見回すと、すんすんと鼻を鳴らした。

 

 バナーヌは何かを感じたようだった。彼女は短く、小さな声でテッポに言った。

 

「待て。伏せろ」

 

 テッポは即座に伏せた。そして彼女もバナーヌに倣って、空気の匂いを探った。

 

 かすかに、悪臭がした。それは風上から微かに漂ってきた。腐敗した生ゴミのような、夏場のゴミ捨て場のような臭いだったが、ただの悪臭ではないようだった。なにか、独特な意味を持つ臭いだった。

 

 それの正体に思い至って、テッポは呟いた。

 

「これは……ボコブリンの臭い?」

 

 バナーヌが頷いた。この特有の腐敗臭は、間違いなくボコブリンの発するものである。しかも、バナーヌの経験が伝えるところでは、ボコブリンは複数で、だんだんこちらへと近づきつつあるようだった。バナーヌは静かに言った。

 

「ボコブリンたちが来る。しばらく待とう」

 

 テッポは答えた。

 

「了解」

 

 二人は、地面に伏せて全身を完全に隠蔽すると、街道方向を密かに窺った。いつ戦闘になるか分からない。バナーヌは首刈り刀を抜き、テッポは爆弾袋の中身をあらためた。

 

 ほどなくして、魔物は現れた。ブヒブヒ、フゴフゴと鳴き声を漏らし、豚のような大きな耳をバタバタと動かしながら、ボコブリンたちは街道の南からやって来た。ボコブリンは五匹いた。手に手にボコこん棒とボコ槍を持ち、それを振り回しながら、どこか楽しそうな様子で歩いてきた。

 

 バナーヌは考えた。ただの通りすがりだろうか? いや、どうにも腑に落ちない。基本的に縄張りと拠点から離れない性質を持つボコブリンが白昼堂々街道を歩いて移動するなど、自分の知識と経験の中にないことだ。ここはもう少し様子を見るべきか……?

 

 小さな声で、テッポがバナーヌに尋ねてきた。

 

「攻撃する?」

 

 バナーヌは言った。

 

「もう少し待て」

 

 二人に監視されていることにも気づかず、赤ボコブリンたちは歩き続けていた。赤いアゲハを追ったり、花を手折って香りを嗅いだり、フゴフゴとおしゃべりをしながら、彼らは二人の目の前までやってきた。

 

 ボコブリンたちは、そこで車座になって腰を下ろした。そして、どこに持っていたのか、各々は大きな焼きケモノ肉を取り出すと、一斉にかぶりついた。魔物たちは昼食会を始めた。

 

 人間の軍隊ならば、食事や大休止の時には必ず歩哨を立てるものである。だが、彼らは所詮、魔物であった。そのような知恵は回らないようだった。襲撃するには絶対の好機だった。

 

 距離はおよそ十五メートルほどあった。バナーヌはテッポに小声で話しかけた。

 

「テッポ」

 

 テッポはバナーヌの意図を正確に察した。

 

「分かったわ。何発必要かしら」

 

 バナーヌは言った。

 

「私が三発、左側に投げる。テッポは右側」

 

 テッポが軽く頷いた。

 

「了解。爆弾は大きく弧を描くようにして投げて。空中で爆発するように導火線を切るから」

 

 伏せた状態でテッポは爆弾の準備をした。数分も経たずして、テッポから三発の爆弾がそっとバナーヌに手渡された。リンゴよりもやや大きい程度の小型爆弾だった。その爆弾は小振りながらも強烈な威力を持っていることを、バナーヌは昨晩身を以て知っていた。

 

 ボコブリンたちは、何も気づかずに食事に興じていた。中には、焼きケモノ肉を放り出して踊り出す者もいた。手折った花を(つの)に巻き付けて、その原始的で稚拙なお洒落を見せびらかす者もいた。魔物たちは、この幸せな時間が永遠に続くと信じているようだった。

 

 バナーヌは火打ち石を取り出した。テッポも身構えていた。バナーヌは言った。

 

「合わせろ……良し、さん、にい、いち……」

 

 カウントが終わると、二人は同時に立ち上がった。テッポが言った。

 

投擲(とうてき)!」

 

 導火線に火が点いた爆弾を、彼女たちは次々と放り投げた。特にテッポは、身につけていた特殊技術によって、三発の爆弾を同時にボコブリンの頭上に降らせた。

 

「ブヒッ!?」

 

 ボコブリンたちは異常に気づいた。だが、すべてが手遅れだった。飛来した六発の爆弾は、精妙に調整された起爆時間の通りに空中で一斉に爆発した。

 

「グギャオォオオッ!?」

「ゴボェッ!?」

「グェッ」

 

 耳を(ろう)さんばかりの大爆発音が響いた。破滅的な爆風が巻き起こった。真っ白な閃光があたりに満ちた。真っ赤な爆炎と真っ黒な爆煙が広がった。破壊の魔手は大小様々な無数の破片となって、無防備な赤ボコブリンたちに容赦なく襲いかかった。

 

 ややあって、爆煙が晴れた。伏せていたバナーヌたちは、立ち上がって状況を確認した。そこに残っていたのは、かつて魔物だった者たちの残骸だった。大きな破片によって首を半ば切り裂かれた者、爆風によって無惨に手足をもがれた者、胴体に大穴が開いた者、五体は揃っているがピクリとも動かない者……魔物の血と内臓の破片が、街道を黒く染めていた。

 

 予想以上の、壮絶な光景だった。テッポが呻くように声を漏らした。

 

「うっ……」

 

 彼女はひたいから滴り落ちる汗を、手の甲で拭った。もう片方の手は、帯革(たいかく)を強く握り締めていた。彼女の透き通るような鳶色の瞳は、なぜか少し潤んでいた。放心したように、彼女は爆発地点を見つめていた。

 

 バナーヌはそんなテッポを見て、ごく普通の調子で声をかけた。

 

「よくやった」

 

 隣りから突然発せられた声に驚いたように、テッポはビクリと肩を震わせた。そして、彼女はいつもより大きな声で話し始めた。

 

「……えっ!? あ、ああ、そうね、ありがとう! それにしても、流石はお父様お手製の爆弾ね! 魔物の群れもイチコロよ。ふん、良い気味だわ、良い気味よ……」

 

 一方、そんなテッポの言葉を聞いているのかいないのか、バナーヌは魔物のすべての死体を調べていた。彼女は油断なく首刈り刀を構えて、爪先で蹴飛ばして死体を転がしていた。

 

「むっ」

 

 まだ、かすかに息をしている魔物がいた。バナーヌは容赦なくその首筋へと刀を振るった。コヒュ、というどこか間の抜けた音を最後に、そのボコブリンは生命活動を停止した。

 

 無表情のままバナーヌは、テッポに告げた。

 

「ただのボコブリン。問題なし」

 

 テッポも、表情を見せずに答えた。

 

「分かったわ」

 

 疑問は尽きなかった。なぜこいつらはここに来たのか? ただのピクニックだったのか? 魔物がピクニックなどするのか? しかし、それを究明している時間はなかった。

 

 二人は使えそうなものを拾い集めてから、また街道を南へと走り始めた。

 

 その背後で、赤ボコブリンたちの死体は急速に黒ずんで風化していった。惨劇の痕跡は、きっと雨が洗い流すのだろう。

 

 魔物に()折られた花が、こぼれたピンクの花びらと共に風に乗って、彼方(かなた)へと吹き流されていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 おかしい。バナーヌはそう思った。この街道は、どこかおかしい。いささかも足を休めることなく走り続ける彼女の心の中は、今や強い違和感に満たされていた。

 

 おかしいと思うほど、魔物の数が多かった。魔物は多すぎた。最初に遭遇した五匹の赤ボコブリンの以来、彼女たちはすでに十五匹近くの魔物を倒していた。以前、別のパシリの任務でバナーヌがここへ来た時は、これほどまでに魔物は多くなかった。むしろ、他と比べてもここは平穏なほうだったと彼女は記憶していた。

 

 ついさきほどの戦闘など、彼女の抱く違和感の原因の最たるものだった。新たに出現した三匹の青ボコブリンを倒した後、二人は脇目も振らずに街道を進んでいた。

 

 突然、道の先から叫び声が聞こえてきた。それは女性の声だった。

 

 テッポが首を傾げた。

 

「何かしら? また魔物?」

 

 バナーヌは言った。

 

「行くぞ」

 

 慎重に、なだらかな丘の稜線(りょうせん)で姿を隠しながら、バナーヌとテッポは声の響いてきた方へ音もなく進んだ。その地点に接近すると、二人は密かに様子を窺った。

 

 そこには男と女がいた。二人とも(わめ)いていた。女が泣いていた。

 

「助けて! 誰か、誰かぁ! 助けてください!」

 

 男が叫んでいた。

 

「来るなら来い! ホラ、どうした! かかってこい! 俺が相手だ!」

 

 冒険者の格好をした男一人と女一人が、十匹前後のボコブリンに襲われていた。男はおそらく妻か恋人であろう女を庇って、その細腕で粗末な旅人の剣を必死に振るい、魔物の群れと渡り合っていた。

 

 魔物たちも喚いていた。

 

「ブヒヒッ! ブヒヒィッ!」

 

 だが正確に言うと、男は渡り合えてなどいなかった。ボコブリンたちは戦闘の構えすら取っていなかった。魔物たちはいたぶるように男と女を取り囲み、池の水鳥(みずどり)を虐めるように投石を繰り返していた。

 

 男は息を切らしていた。

 

「はぁっ、はぁっ、どうだ、おい! かかってこい! どうした! おい!」

 

 女は消え入りそうな声で言った。

 

「あなた、あなた、頑張って……」

 

 男が叫んだ。

 

「オゼーユ! 君は僕の後ろに隠れているんだ! クソ、どうした! かかってこないのか! おい!」

 

 飛んでくる石を男はなんとか払い落とした。女はもう声が枯れてしまったのだろうか、男の背後で蹲ると頭を抱えて動かなくなった。

 

 テッポが声を漏らした。

 

「ひどいわね……」

 

 彼女は、そっと目を伏せた。やや刺激の強い光景を目にしたせいか、その瞳は潤んでいた。彼女は(たま)りかねたように、バナーヌに言った。

 

「どうする? 助ける? 私としては、その……助けてあげたいんだけど……もちろん、任務に支障のない範囲でよ! それに、あれだけ大勢の魔物を放っておいたら、私達の輸送馬車だってきっと襲われるわ。ここで全部倒しておくのが、やっぱり最善だと思うけど……」

 

 どこか懇願するようなテッポの言葉を聞いて、バナーヌは思案した。結局、彼女は攻撃することにした。確かに、あれだけの数の魔物は見過ごせない。それに、任務とは何の関係もないとはいえ、生きた人間を見殺しにするのはやはり気分が悪いものだ。

 

 そしてその戦闘は、案外あっけなく片が付いた。バナーヌはテッポに発煙弾を三発投げさせた。煙に包まれて、敵は混乱した。バナーヌはその中へ一直線に突入した。彼女は煙の中、音もなく魔物に近寄っては次々と首を()ねていった。

 

 リーダー格の黒ボコブリンは抵抗しようとしてバナーヌと数回切り結んだが、やがてあっけなく背後を取られると、半秒後には無念の屍を晒した。

 

 一方、テッポはバナーヌが斬り込んでいるスキに、男と女を救出した。バナーヌの討ち漏らした一匹の魔物が、手負いながらも歯向かってきたが、テッポは手に余る首刈り刀を器用に扱って冷静に始末した。

 

 戦闘は終わった。街道には十体の魔物の死体が転がっていた。それらは次第に黒ずんで、パラパラと細かな粉を撒き散らしながら風化していった。

 

 男と女は、バナーヌとテッポに向かって盛んに頭を下げた。男が言った。

 

「危ないところを助けてもらったね。どうもありがとう! 僕はイムタ。こっちは妻のオゼーユだ」

 

 女が言った。

 

「どこのどなたかは存じませんが、あなた達は命の恩人です! 本当にありがとうございました!」

 

 礼を言う二人の顔色は、直前まで死の恐怖に晒されていたせいか真っ青だった。だが今は、満面の笑みを浮かべていた。

 

 対するイーガ団の二人は、互いに対照的な態度をとっていた。バナーヌは腕を組んで冷たい視線を夫婦に送っていた。テッポは細い腰に手をやっていた。仮面の下の幼い顔には、「ふふん」といわんばかりの得意げな表情が浮かんでいた。

 

 なぜかバナーヌは黙り続けていた。代わりに、テッポが夫婦に質問をした。

 

「まあ、私達にかかればこの程度の魔物共なんて赤子の手を(ひね)るように皆殺しよ! というより、あなたたちが弱すぎなのよ。あなたはイムタさんだったっけ? 敵の数が多かったとは言っても、あなたはちょっと弱すぎよ! そんな貧弱さでいったい何をしようとしてたの?」

 

 男は小さな女の子から「弱すぎ」と言われたことにさして反応しなかった。彼はポリポリと頭を掻きながら答えた。

 

「いやぁ、面目ないです。剣が弱いのは重々承知なんですが、私達夫婦にはある夢がありまして、そのためには魔物なんぞ怖れてはいられないんです」

 

 テッポは、こてっと首を傾げた。黒髪がふわりと揺れた。

 

「えっ、何? 夢? どういうこと?」

 

 男と女は、どこか自慢げに答えた。夫のほうが言った。

 

「伝説の花、姫しずかを見つけ出すのが私たちの夢なんです!」

 

 妻のほうが言った。

 

「姫しずかは、本当に美しい花らしいんですの! それを見つけるためなら多少の危険でも冒さないといけません! 姫しずかは、私達が結婚して以来の長年の夢ですから!」

 

 テッポが、心底呆れたような声を上げた。

 

「姫しずか? それってただの花でしょ? あなたたち、たかが花のために一個しかない命を張ってるの? ちょっと理解できないわ……って、あなた、どうしたの?」

 

 テッポはバナーヌに声をかけた。突然、腕組みをしたまま動かなかったバナーヌが、夫婦に向かってずいっと歩を進めたからである。バナーヌは右手を振りかぶると、男の左頬に向けて思いっきり強く平手打ちを食らわせた。

 

「ふん」

 

 男はぶっ飛ばされた。

 

「ぶぇっ!?」

 

 女が叫んだ。

 

「あ、あなた! ちょ、ちょっと、何をするんですか……!」

 

 しかしバナーヌは、女が抗議の言葉を吐き終える前に、既にもう一度右手を振りかぶっていた。数瞬の間もなく、バナーヌの平手打ちは女の左頬に直撃した。

 

「ふん」

 

 女はぶっ飛ばされた。

 

「ごえぇえっ!?」

 

 テッポが大きな声を上げた。

 

「ちょっと、バナ……じゃなかった! あなた、何してるのよ!?」

 

 テッポはバナーヌの突然の暴力に驚いたようだったが、バナーヌは一切そのことについて説明しなかった。彼女の中では平手打ちの理由は説明の必要のないほど明白だった。

 

 夢を追うのは良い。夢を追うのが人間というものだ。だが、身を守る手段も持たずに冒険するとは、なんという馬鹿者たちだろう。いや、ただの馬鹿者でもここまでの馬鹿者はそうそういないはずだ。この二人は、どうやら死の恐怖に直面したことで頭に血が上っているようだ。ここは一つ、平手打ちでもして頭を冷やしてやろう……彼女はそう思ったのだった。

 

 バナーヌとしては、暴力を振るったつもりはまったくなかった。むしろそれは、イーガ団的な作法に則った、一種の心遣いのつもりであった。それが一般人には少しばかり威力が強すぎるものであったとしても、彼女は彼女なりに二人の男女のことを心配していたのだった。

 

 平手打ちに恐れをなしたのか、夫婦はお礼の品を差し出してきた。男は腫れ上がった頬に手を当てつつ、何かの果実煮込みをテッポに渡した。

 

「あの、これ、つまらないものですが……」

 

 テッポははしゃいだ。

 

「あっ! この香り、マックスドリアンね! やったぁ、私マックスドリアン大好き! ありがとう!」

 

 喜ぶ少女を見てホッとしたのか、男はバナーヌにも同じ果実煮込みを差し出した。

 

「あの、あなたにも差し上げます。どうかお納め下さい……」

 

 ぷんと、忌々しい香りがバナーヌの鼻についた。彼女はドリアンが()()()好きではなかった。気づいた時には、またもや彼女は鋭い平手打ちを男へ向かって繰り出していた。

 

「ふん!」

 

 膨れ上がった男の頬に、再度強烈な衝撃が走った。男はマックスドリアンの果実煮込みを空中に放り投げてしまった。

 

「ごべらっ!?」

 

 ぶっ飛ばされる夫を見て、女が叫んだ。

 

「あぁ、あなた!」

 

 テッポも叫んだ。

 

「ああっ、もったいない!」

 

 テッポは先程もらった果実煮込みの皿を左手で持つと、しなやかな両脚で空中へ軽やかに跳んで、落ちてくるもう一つの皿を右手で華麗にキャッチした。彼女は即座に皿の中身を確認した。多少こぼれていたが、問題はなかった。彼女はほっとため息をついた。

 

「バナーヌ、本当にマックスドリアンが嫌いなのね……」

 

 誰にも聞こえないように、テッポは一人で呟いた。そんな彼女の視界の端では、バナーヌが男に首刈り刀を突きつけて、バナナかルピーかを要求していた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ここでの出来事は誰にも口外しないように、と夫婦に固く念を押してから、バナーヌとテッポは煙のようにその場から姿を消した。

 

 無言で二人は走った。バナーヌはもとから無口な性格であるし、テッポはさすがに連戦の疲れが出てきていた。さきほどもらったマックスドリアンの果実煮込みを一気に二皿食べたことも、彼女に影響しているようだった。

 

 しばらく、二人は街道を進んだ。日がやや傾いていた。このまま走り続ければ、日暮れ前にはハイリア大橋に到着するものと思われた。

 

 だが、意地の悪い運命は、どうしても二人に行く手にもう一波乱を起こさないではいられないようだった。

 

 ちょうど、一つの丘に差し掛かろうとしているところだった。

 

 黙々と走っていたバナーヌが、急に足を止めた。疲労感と満腹感のせいでなかば無意識に足を運んでいたテッポは、バナーヌが止まったことに気づくのが少し遅れた。それでも彼女はすぐに立ち止まった。そして、彼女はバナーヌに言った。

 

「どうしたの、バナーヌ?」

 

 バナーヌは、何かを注意して聞こうとしているようだった。ややあって、バナーヌは言った。

 

「……何か聞こえる」

 

 テッポは思わず言った。

 

「何ですって?」

 

 テッポはウサギのように耳をそば立たせた。すると、彼女の耳にも何か妙な音が聞こえてきた。音にはリズムがあった。どうやらそれは、歌のようだった。しかしテッポは首を左右に振って、言った。

 

「いえ、歌じゃないわね、これは。何かの鳴き声のような……でもリズムがある。変ね。こんなの聞いたことがない。いったい何なのかしら?」

 

 腕を組み、同じく音を探っていたバナーヌが、ポツリと言った。

 

「これは、リザルフォスの鳴き声だ」

 

 そう言われると、テッポにも思い当たることがあった。

 

「あっ、そうかも」

 

 バナーヌは歩き出した。

 

「遠くない。行こう」

 

 鳴き声は丘の反対斜面から聞こえてくるようだった。二人は街道を行かず、ほぼ駆け足に近い早足で、丘の外周部の右側へ回り込んだ。彼女たちは、草の茂みからそっと街道方向を窺った。

 

 しばらくして彼女たちの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。二人はほぼ同時に声を漏らした。

 

「えっ」

「なっ」

 

 呆然とした表情をテッポは浮かべた。バナーヌも表情には出さないながらも、滅多にないほどの驚愕の感情を心中で抱いていた。

 

 テッポが言った。

 

「な、なにあれ……?」

 

 バナーヌは低い声で答えた。

 

「……知らん」

 

 魔物たちは、いずれもリザルフォスだった。前に二匹、真ん中に五匹、後ろに一匹がいた。魔物にしては秩序だった隊列を彼らは組んでいた。ただのリザルフォスと比較すれば、そのことだけでも驚くべきものであると言えた。

 

 しかし、それ以上に変わっていることがあった。それは、リザルフォスたちが輿(こし)を担いでいることだった。

 

 輿を担ぐリザルフォスたち! まさしく前代未聞であった。髑髏(どくろ)の紋章があしらわれた木製の大きな輿を、四匹の緑リザルフォスが担いでいた。輿の上には、一匹の大きな白銀リザルフォスがでんと腰を据えていた。

 

 白銀リザルフォスがリズムを取るように、その長い舌をビュンと伸ばしてまた引っ込めた。それに合わせて、輿を担ぐ四匹のリザルフォスたちが鳴き声を上げた。

 

「ゲッ・ゲッ・ゲゲゲ・ン・ゲ」

「ゲゲーゲ・ゲゲゲゲ・ゲーゲーゲー」

 

 白銀リザルフォスが、突然下にいる仲間をぶん殴った。

 

「グギャア!」

 

 殴られたリザルフォスが悲鳴を上げた。

 

「ギョごぇっ!?」

 

 白銀リザルフォスは、仲間の歌う歌に気に食わないところがあるようだった。三又リザルブーメランで、白銀リザルフォスは死なない程度に仲間を殴り続けた。殴られたリザルフォスは悲痛な叫びを上げ続けた。

 

 一方で、前衛を務めている二匹の青リザルフォスは、至極気楽そうにぶらぶらと歩いていた。彼らは重い輿を担ぐ必要もなく、歌うことも強制されていなかった。彼らは時折舌を伸ばして、飛んでいるアゲハやヤンマを捕食していた。

 

 一番悲惨だったのは、隊列の後ろを歩いている一匹の緑リザルフォスだった。彼は見るからに痩せ細っていた。彼は傷だらけで、手足は枯れ木のようだった。彼は弱々しい足取りで、フラフラと隊列に付いて歩いていた。彼は薄汚れていて、その体色は緑というよりは茶色に見えた。

 

 彼は前を歩く二匹の青リザルフォスと、輿を担ぐ四匹の緑リザルフォスの武器をすべて抱えていた。時折、彼は手に持っているリザルスピアや双頭リザルスピアをポロリと地面に落とした。そのたびに、彼は輿の上の白銀リザルフォスに怒鳴られていた。

 

 未だに驚愕から覚めないままのテッポは、大きな目を更に大きく見開いていた。彼女は眼前で繰り広げられている、あり得べからざる光景を目に焼き付けようとしているようだった。

 

 やがて、テッポはバナーヌに言った。

 

「ね、ねえ、バナーヌ……? あなた、今までにあんな魔物見たことある?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「……ない」

 

 テッポはまた言った。

 

「あれの倒し方、分かる?」

 

 バナーヌはまた答えた。

 

「……さあ?」

 

 しかし、奴らはなんとしてでも倒さなければならない。バナーヌはそう思った。奴らが向かっているのは自分たちと同じ方向、つまりハイリア湖だ。何が目的かさっぱり分からないが、ここで奴らの進行を阻止しなければ、輸送馬車の安全は確保できない。

 

 バナーヌは、思案した。何だか得体の知れない連中だが、どうやら指揮を執っているのは輿の上の白銀リザルフォスのようだ。他の奴らはいずれも緑リザルフォスと青リザルフォスで、はっきり言えば雑魚敵だ。その行動を見るに、さして知恵も回るまい。

 

 考えているバナーヌの隣で、テッポが声をあげた。

 

「あっ」

 

 バナーヌは考え続けた。つまり、第一に仕留めるべきは白銀リザルフォスである。奴を後回しにすると、妙な指揮をされて思わぬ苦戦をするかもしれない。逆に、奴さえ最初に仕留めることができれば、たとえ残りの魔物が輸送馬車に到達したとしても、大した脅威にはならないだろう。

 

 考えているバナーヌに、隣からテッポが声をかけた。

 

「ねぇ、バナーヌ」

 

 バナーヌは考え続けていた。だが、どうやって白銀リザルフォスを倒す? 奴は輿の上にいる分だけ、広い視界を持っているだろう。迂闊に爆弾の投擲距離まで接近すれば、気取られるかもしれない。自分は隠密と潜伏に自信がある。だが、テッポの潜伏の腕前はまだよく分からない。二人で近づかなければ戦力不足だが、二人で近づくと察知されかねない。彼女は唸った。

 

「うーむ……」

 

 唸っているバナーヌに、テッポがさらに言った。

 

「ねぇ、バナーヌったら」

 

 バナーヌは唸り続け、考え続けた。いっそのこと、この際リザルフォス達はいったん無視をして、先に大急ぎで輸送馬車の仲間たちに合流するべきか? 増援を得て正面から攻撃したほうが安全な上に確実ではないだろうか? いやしかし……それはイーガ団としてはあまりに消極的に過ぎる。

 

 テッポがまた声をあげた。

 

「ねぇ、バナーヌ! ちょっと聞いて!」

 

 バナーヌは、いくら頭を働かせても最善策が思いつかなかった。運を天に任せて二人で接近し、テッポの爆弾の援護のもとで真っ直ぐに輿の上へ斬り込もうか? 考えなしの強攻だが、一番それが手っ取り早い気がする……

 

 テッポが大きな声を出した。

 

「バナーヌったら! 聞いて!」

 

 ついにバナーヌも気が付いた。

 

「うわっ」

 

 突然肩を掴まれた上に、耳元で大きな声を出されたことで、バナーヌの心臓は一瞬だけ早鐘をついた。ほんの僅かに不機嫌そうな表情を浮かべて、バナーヌはテッポへ氷のような眼差しを向けた。彼女は言った。

 

「なに?」

 

 テッポが囁くように言った。

 

「あっ、あのね、私にいい考えがあるんだけど……ちょっと耳を貸して。えっと、こういう作戦なんだけど……」

 

 ゴニョゴニョとテッポは言った。バナーヌはそれを聞いて、得心したというように頷いた。

 

 やがて二人はそっとその場を離れ、作戦の準備に取り掛かった。

 

 街道上を、狂気のパレードが進んでいく。

 

 ハイリア湖まで、距離はあとわずかだった。




 才能はあってもテッポはまだまだ小さな女の子です。そして、戦闘とはいつでも過酷なものです。輿に乗ったリザルフォスのイメージは、私の中学時代の友人の話がもとになっています。その頃、私はピクミンにハマっていました。私はピクミンの楽しさを盛んに友人へ吹き込んでいたのですが、その友人が言いました。
「ピクミンは、隊長ピクミンを出して、そいつを輿に乗せて、あとは仲間がワッショイしてたほうが絶対に面白いはずだ」
 割と意味不明な言葉ですが、なぜか今に至るまで、その言葉はさながら棘のように心に刺さって残っています。
 今回は他にも色々ネタを密かに混ぜました。と言っても二つ三つですが。

※加筆修正しました。(2023/05/08/月)


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第二十七話 美々しき策謀

 いったい人間は、この素晴らしくも残酷な世界に発生して以来、どのようにしてそのひ弱な生を長らえてきたのだろうか。細い二本の腕に力はなく、二本の足の歩みは遅い。その皮膚は薄く、破れやすい。人間は飢渇(きかつ)に苦しみ、風雨に苛まれ、本来ならば大地に恵みをもたらす太陽光にすら責めたてられる。人間こそは、その身体的特徴のみに注目するならば、間違いなく最弱の生き物であろう。

 

 しかし、この世の支配者となったのは、人間であった。気の遠くなるほどに長い歴史的な過程を経て、人間はその貧弱な肉体と生命とをいわば元手(もとで)として、次第に自然に適応し、自然を利用し、自然を支配するようになった。広大な森林を伐採し、山を削り川を埋め、城壁と都市と王城を建設した。大地の恵みを収奪し、鳥を落とし獣を狩り、ついには身に数倍する魔物すら倒すことが可能となった。

 

 なぜ、そのようなことが可能になったのだろうか。信心深い者や宗教家は、「これこそ女神様の賜物である」と説く。その一方で歴史家は、「それは人間に与えられた歴史的使命ゆえであった」と説く。しかしながら、観念の上ではなく現実の上で人を動かし人を統べる、王や貴族たちは、そのようには考えなかった。

 

 彼ら支配者たちが人間に固有の力と(たの)んだものは、武器と軍隊であった。

 

 なんと、つまるところ人間の力というものが武器と軍隊に過ぎないとは? あまりにも感傷的な夢想家たちは、これを聞いて何を思うだろうか? 悲哀か、義憤か、諦観か? だが、そのような独りよがりの考え方は、この武器と軍隊という二つが有する威力の前にあって、砂糖菓子のように脆くも粉砕される。

 

 ある人間の群れがある。これは、野獣や魔物の群れと同じではない。なぜなら、この人間の群れには、命令一下整然と機械的に作動するための、ある原理が仕込まれているからである。その原理とはすなわち、規律と号令である。これに上級者への絶対服従の観念と、血が(たぎ)るような国を愛する心とが合わされば、その群れはもはや単なる集団ではなくなる。それは戦闘集団、すなわち軍隊となる。

 

 軍隊が一個の有機的存在であるならば、その鋭い爪と牙になるのは武器である。切れ味の鋭い剣、早く遠く飛ぶ弓矢、長くしなやかな槍、頑丈な盾、敵対者の戦意すら両断する大剣……強力な軍隊は、強力な兵器を飽くことなく欲する。そしてその欲望は、この世が滅び去るまで決して消えることはない。

 

 だが、軍隊と武器とが絶対の力ではないことを人間に思い知らせる事件がかつてあった。

 

 ある時代、ある王の御世のハイラル王国のことである、大きな戦があった。突如、魔物の群れが中央ハイラル地方を脅かした。その群れの長は、ボコブリンともモリブリンとも違う、筋骨隆々の体躯をした緑色の怪物だった。怪物は水牛のように長い二本の角を頭部に生やしており、その手足は丸太のようだった。怪物の胴体は石柱のように太く頑丈だった。大猪にまたがり、戦斧(せんぷ)を軽々と振り回すその怪物は、自ら「キングブルブリン」と名乗った。

 

 キングブルブリンは各地の魔物を糾合(きゅうごう)し、仲間に食を与え馬を与え、武器を与えた。彼は自分たちの「軍隊」を作り上げた。それは今までの単なる寄り集まりではない、確固たる組織構造を有した正真正銘の軍隊であった。装備する武器も、彼らは日々改良を怠らなかった。彼らは各地の武器庫を襲い、人間の鍛冶屋を拉致し、鉱山を占拠した。彼らは既にある種の国家を持っていた。

 

 その魔物、キングブルブリンがなぜそのような高い知能を持っていたかは分からない。なぜ彼が、あえて人間の真似をしてまで地上の覇者たるハイラル王国に戦いを挑んだのかも分からない。しかし、キングブルブリンの戦略は、確かに効果があった。長き平和で士気が弛み、たかが魔物の群れと侮ったハイラル王国軍は、各地で手酷い敗北を被った。

 

 ある大会戦に勝利した後、魔物の王はこう言ったという。「魔物ノ国ヲ作ルノダ。魔物ノタメノ、魔物ダケノ国ヲ」

 

 これは、人間を絶滅させるまで戦いを止めないという、彼の確固たる意思表示だった。ここに至ってハイラル王国は、眠っていた本来の力を発揮した。真に優秀な人材が指揮官に登用され、軍隊は鍛え直され、都市は武器を山のように生産した。

 

 人間の力と、魔物の力が激突した。激戦に激戦が続いた。屍山血河が築かれた。火花と血しぶきを迸らせて、両者は完全に拮抗した。だが、戦争がもはや数十年に及ばんとした時には、流石に両者ともに疲れ始めていた。ハイラル王は講和の可能性を探り始め、魔物の側も、戦いの止め時を見極めようとしていた。講和の機は熟していた。

 

 使者が何度か両陣営を行き来し、無数の書簡がやり取りされた。その結果、講和会議がついに開かれることになった。両軍の境界線の中間地点に場が設けられ、ハイラル王国側からは主席大臣が、魔物側からは、なんとキングブルブリンが本人が出席した。一書によれば、キングブルブリンが出席することを魔物たちは涙を流して諫めたが、彼は「オレハニンゲンニ会イタイ。オレハ、ニンゲンガ好キニナッテキタノダ」と言ったという。

 

 張り詰めた緊張感に包まれた会場で、ハイラル王国と魔物との会談は始まった。史上初の、人間と魔物との会談であった。しかしその事実の割には、なぜか人間側の随員は少なかった。大臣が一名、補佐官が一名、書記が三名に過ぎなかった。たったそれだけであった。キングブルブリンは、特に信頼している屈強なモリブリン三名の他、一個小隊もの護衛部隊を率いていた。

 

 当初は先行きが危ぶまれた会談であったが、大臣の話術とキングブルブリンの大きな度量によって次第に打ち解けた雰囲気となった。ついに両者の講和の意図がはっきりと確認された。そして、今後の具体的な進展について話し合いがされたあと、記念の祝宴が執り行われた。

 

 キングブルブリンたちは、人間たちの用意した上等な料理と濃い酒に熱中した。それまで彼らは粗末な食事に耐え忍んでいたからである。キングブルブリンも、護衛のモリブリンも、護衛部隊も、すっかり上機嫌になって満腹の腹をさすっていた。彼らは酩酊し、座にどっかりと身を沈めて動かなかくなった。

 

 いつしか、楽隊の演奏が止んでいた。そして、人間たちの姿も見えなくなっていた。だが魔物たちは、安心しきっていた。これで戦いは終わる、これで俺たちだけの国ができる、これでもう、ニンゲンに脅かされることはなくなる……

 

 突然、祝宴の場は大爆発を起こした。巨体を地面に横たわらせていたキングブルブリンは爆風によって空中に放り上げられ、続いて起こった二回目の爆発で、肉体は四分五裂し、木端微塵になった。モリブリン達も同じ運命を辿った。護衛部隊も、突入してきた騎兵隊によって一切の仮借(かしゃく)なく皆殺しにされた。

 

 言うまでもないだろう。その地下には、超大型の地雷が何発も周到に準備されていたのだった。ハイラル王国の指導者層は、最初から魔物の国など認める気はなかった。

 

 人間たちにあって、魔物達になかったもの、それは陰謀と策略だった。信義を餌にし、友情を仮面とし、にこやかな表情の裏で刃物を研ぎ、火薬を混ぜ合わせる。これは、魔物たちの知らない「力」だった。

 

 そう、陰謀と策略こそ、剣よりも弓よりも大砲よりも、ガーディアンよりも神獣よりも、どんなに強力な武器よりもさらに優れる、人間の持つ最大の武器である。

 

 騙し討ちにしてキングブルブリンを葬り去ったハイラル王国は、余勢をかって魔物の軍勢を殲滅した。こうして、王国を脅かした一大勢力は、たった一つの策略によって、春の夜の夢のように地上から消え去ったのであった。

 

 陰謀と策略を駆使したこのような例は、事の大小を問わなければ、ハイラルの歴史においては無数にある。そして、実に悲しいことではあるが、その内訳としては、魔物に対して人間が策を仕掛けた例よりも、人間が人間に対して仕掛けた例が圧倒的に多い。

 

 それでは、魔物が人間に策を仕掛けたならば、いったいどうなってしまうのか? 人間は魔物の策略に打ち勝つことができるだろうのか?

 

 その答えは、百年前の大厄災で端的に示された。人間は魔物に完敗したのである。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌとテッポがハイリア湖へ向かってひた走っていた、その日の昼過ぎのことであった。

 

 カルサー谷のイーガ団のアジト、上級幹部のウカミの部屋に、三人の女性の姿があった。

 

 薄暗い室内では上質の(こう)()かれていた。馥郁(ふくいく)たる香りが部屋に満ちていた。じりじりと音を立てて、燭台に細い火が(とも)っていた。

 

 音楽が奏でられていた。それは琴の音だった。若く瑞々しい、しかしどこか棘を持った音曲(おんぎょく)が、室内にいる三人の聴覚を刺激していた。

 

 しばらく耳を傾けていたウカミは、やがて、感嘆したように声を上げた。その声はどこまでも(なま)めかしいものだった。

 

「ふぅ……なかなか良い演奏じゃない、サミ。腕を上げたわね。ああ、ノチ、もうちょっと右側をお願い。うふふ、とっても上手……」

 

 ウカミはノチに背中を揉ませていた。サミとノチは口々にウカミに対して礼を述べた。

 

「ありがとうございます」

「あっ、ありがとうございます!」

 

 衣服をすべて脱ぎ去って、ウカミは絹の(しとね)にうつ伏せになって横たわっていた。彼女はきめ細かな肌の、美しい白い背中を晒していた。れっきとした上級幹部の一人である彼女は、下っ端のノチの手によるマッサージを堪能していた。愛用の蜂蜜色をしたバナナオイルは、ノチの小さな手でたっぷりと背中に塗り込められ、肌は怪しげな色気を放って輝いていた。以前ならば、その役目はサミのものだった。だが昨日から、それはノチが担当するようになっていた。

 

 サミは、自分の主の言葉に違和感を感じた。おかしなこともあるものだ、ウカミ様が自分の演奏を褒めるなど。いつもならば、一つや二つ駄目出しをされるところだが、今日のウカミ様は奇妙なまでに優しい。彼女はそう思った。ノチはいつもウカミから褒められているが、サミはあまり褒められたことがない。違和感はなおさら大きかった。

 

 端正な顔に怪訝そうな表情を浮かべたサミに、ウカミはどこか気だるげに言った。

 

「さっきね、あの人に怒られちゃったの。『最近バナナがマズくなってるが、管理はどうなってるんだ!』ってね。じきにフィローネ支部から補給が届きますって伝えても、なんだかご機嫌斜めだったわ。『あんな連中、信用できるものか』って」

 

 ウカミの背中の上にいるノチは、息を呑んだ。総長とウカミとの会話の内容を聞くなど、下っ端の自分に許されることなのだろうか。ノチはそう思った。彼女のあどけない顔に緊張が走った。冷や汗が彼女のひたいに(にじ)んだ。

 

 だがそんなノチに構うことなく、ウカミとサミは会話を続けた。サミは琴の演奏を止めて、やや吊り目勝ちの涼やかな目をウカミに向け、いつも通りの冷静な声で言った。

 

「しかしながら、バナナの輸送をフィローネ支部に命令したのは他ならぬコーガ様ではありませんか。ウカミ様はその実行を命じられただけです。しかもウカミ様は作戦遂行のために日夜邁進しておられます。私ごときが申し上げるのは些か分を越えておりますが、コーガ様のおっしゃりようはあまり理が通っていないと思われます」

 

 サミの慰めるような言葉を真面目に聞いているのかいないのか、ウカミは軽く欠伸をした。彼女の眠たげな目から、涙がほんの少しこぼれていた。ウカミは言った。

 

「ふあぁ……うん、まあね……そうよね。サミの言うとおりだわ。あら、ノチ。ちょっと手の動きが固くなっていない? うふふ、私たちのお話に緊張しているのかしら。安心しなさい。これはあなたの勉強にもなることよ。さあ、次はもっと、そう、背骨のほうを揉んで頂戴」

 

 ノチは返事をした。

 

「はい!」

 

 返事をすると、ノチはウカミの背骨に沿って力を入れた。ウカミは満足そうな声をあげた。

 

「んーん……いい感じよ、とっても上手……ふぅ、あんまり胸が大きいのも考え物ね。あの人は喜んでくれるけど、肩が凝って仕方がないわ。もう少し小さくても良かったのに」

 

 初心(うぶ)なノチは、ウカミのあけすけな言葉を聞いて顔を赤くした。それでも言いつけ通り、彼女は手を休めずにウカミの玉の肌をさすり続けた。その豊満な見かけによらず、皮膚の下にはしなやかな筋肉があった。ノチは手に伝わる感触からそれを悟った。

 

 ウカミはなおも話し続けた。

 

「あーあ……私、いつも一生懸命頑張ってるのに。そう、サミの言うとおりよ。あの人ったら、いっつも適当なことしか言わないの。昨日は『あれをやれ』と言ったのに、次の日には『それはやるな』なんて言うの。そんなことばっかり。それにどんなに頑張っても、あの人が私を褒めてくれたことなんて数えるくらいしかないのよ」

 

 サミは琴から離れて、ウカミのもとへ飲み物を持ってきた。飲み物はよく冷えたバナナシェイクだった。一本のストローが刺さっていた。

 

 それを恭しく差し出した後、サミは口を開いた。

 

「私もウカミ様から褒められたことなど、数えるほどしかありませんが」

 

 どこか()ねたような言葉を聞いて、ウカミは微笑んだ。彼女は横になりながらバナナシェイクを一口味わうと、優しい口調でサミに話しかけた。

 

「でも、さっきは褒めてあげたでしょ? 今日から私、今まであの人から褒められなかった分だけ、逆に人を褒めてあげることにしたの。ほら、ことわざでも言うでしょ? 『愛と真心こそは何にも優る策略と知恵』って」

 

 サミは言った。

 

「では、私を褒めてくださるのも策略の一環ということですか」

 

 ウカミは少しだけ声をあげて笑った。彼女は言った。

 

「あらやだ、私は本心からあなたを褒めるのよ。サミ、あなたはいつもよくやっているわ。サミだけじゃない、ノチ、あなたも褒めてあげる。あなたのマッサージ、本当に上手ね。身も心も溶けちゃいそうだわ」

 

 ノチは感激して、答えた。

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 ウカミは身を起こした。今まで潰されて平たくなっていた大きな白い両の乳房が、はっきりとした形をとって、燭台の僅かな光に照らし出された。その長い艶やかな黒髪は肌に張り付き、得も言われぬ色香を発散していた。

 

 ウカミはノチの方へ体を向けると、彼女は両胸を手で示して、言った。

 

「次は、()()()のほうをお願いしようかしら」

 

 ノチは脆くも動揺した。

 

「え、ええ!? でもそれは、あの……」

 

 ウカミはからかうように言葉を続けた。

 

「あら、恥ずかしがってるの? ふふ、可愛いわね。でもいつもバナーヌにはしてあげてるんでしょう? こっちのマッサージは」

 

 ノチの言葉はしどろもどろだった。

 

「あ、いえ、そんなことは……」

 

 ウカミとノチは、しばらくはしゃぎ合った。そんな二人から視線を外すと、サミは立ち上がった。彼女は琴の前に戻り、再度(げん)をポツンポツンと(はじ)き始めた。

 

 ここ数日で、ノチはすっかりウカミに惚れ込んでいた。サミはその純粋さに半ば呆れ、半ば憧れを抱いていた。実に単純だが、その単純さが好ましい。彼女はそう思っていた。

 

 早くに両親を亡くしたサミをウカミは引き取り、手ずから教育と躾を施し、一人前のイーガ団員として育て上げた。そんなウカミに対して、確かにサミは例えようもないほどの尊敬の念と恩義とを感じていた。ウカミのためならば水火も辞さず、身命をなげうって奉仕をする気構えが彼女はできていた。死ねと言われれば、即座に死ぬことができるだろう。

 

 だが、ウカミを母とも思い師とも思い畏れ敬う気持ちはあっても、サミとしてはどうしても彼女に対して、無条件に愛情を抱くことができなかった。

 

 琴の音が、わずかに乱れた。サミはその柳眉をひそめた。だが、それが聞き咎められることはなかった。ウカミは相変わらず、ノチをからかって遊んでいた。

 

 サミは、そっと溜息をついた。

 

「ふぅ……」

 

 彼女がウカミに愛情を抱くことができないその理由は、(おそ)れであった。あまりにも大きすぎる(おそ)れだった。

 

 ウカミの内奥に、漆黒の鱗を持つ毒蛇のごとき謀略家としての姿が潜んでいることを、サミは知っていた。

 

 まだサミが修行に明け暮れていた頃から、ウカミは彼女に「仕事」の話をしたものだった。食事中に、湯浴み中に、散歩中に、もしくは寝物語の代わりに、サミはウカミから陰謀と策略の術を教え込まれた。時には断片的に、時には最初から最後まで、ウカミはサミに、人が人を陥れ破滅させる物語を語った。ウカミはそれを、まるで食事や化粧の話であるかのように語った。

 

「最も麗しいものは、愛と友情よ。だからこそ、それを信じる者を陥れるのは簡単だわ。彼らは情念の泥沼にはまりながら、最後まで光を見つめていた。希望に満ちた目が絶望に塗り替えられていく様は、ちょっと滑稽だったけど、美しくて悲しかった。結果は上々だったわ。今でも忘れられない大切な思い出よ……」

 

 今回のバナナ輸送についてもそうだ。どことなく、陰謀と策略の香りがする。サミはそう思った。カルサー谷は今、バナナの補給の話題でもちきりである。どうも様子を見るに、ウカミ様はまた何か別の意図をそれに込めているようだ。決して表には出さず、総長にすらそれを秘匿しているようではあるが……長年侍女として(そば)仕えをしているサミには、なんとなくそう感じるところがあった。

 

 輸送馬車護衛計画の素案がウカミのもとへ上がってきた時に、サミは後学のためということで、それを見せてもらった。ウカミは彼女に意見を求めた。

 

「どう? あなたの目から見て、何か言うことはないかしら?」

 

 サミは言った。

 

「前回の失敗を鑑みて、今回は護衛部隊の数を倍増し、カルサー谷の精鋭をできる限り動員して事に当たるべきではないでしょうか。場合によっては馬車に頼らず、臂力(りょりょく)による担送(たんそう)も視野に入れるべきでは」

 

 ウカミも、表面上はサミの意見に同意するようだった。

 

「ふんふん……なるほど、そうね。私もまったくあなたの言うとおりだと思うわ」

 

 だが実際に護衛としてカルサー谷から派遣されたのは、あの「パシリの」バナーヌただ一人だった。しかも、バナーヌの上役に聞いたところ、それはウカミ自身による指名だったという。

 

 意を決して、サミはウカミに質問をした。あのパシリのバナーヌたった一人で、いったい何ができるのですかと。

 

 ウカミは、こともなげに言った。

 

「そうね……私が思うに、フィローネ支部はもう少し苦労をしたほうが却って彼らのためになるんじゃないかしら。そう、言うなれば、これは私なりの愛と真心というやつよ。それに、バナーヌだって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それなのにウカミ様は、他の子飼いの部下を走らせて、何か別の動きもしているようだ。サミは不可解な気持ちだった。仲間たちは、どうやら砂漠を抜けて中央ハイラル方面へ行ったらしい。サミはそれを察知していた。

 

 いったい、ウカミ様は輸送作戦を成功させる気があるのだろうか? 自分の主人の思惑が奈辺(なへん)にあるのか、サミには全く見当もつかなかった。

 

 ふと、サミは顔を上げた。仰向けになったウカミに、顔を真っ赤にしたノチがまたがり、懸命にオイルを塗り込んでいるのが見えた。

 

 ウカミはうっとりとした声をあげた。

 

「ああ、気持ち良いわ……あら、ノチ、ちょっと手が当たってるわ。もう、そんなに私の胸に興味があるの?」

 

 ノチは慌てて答えた。

 

「いっ、いえ! そんなことは! そっ、それよりウカミ様、どうかこれ以上動かないでください! 手が、手がどうしてもお胸に当たっちゃって……」

 

 ウカミは微笑んだ。

 

「うふふ、いっそのこと、もっと触ってみる? 柔らかさとハリにはまだまだ自信があるのよ……」

 

 サミの指の運びが乱れた。琴が、悲鳴を飲み込んだような音を立てた。

 

 

☆☆☆

 

 

 天の頂きで神々しいばかりの存在感を放っていた太陽は、徐々にその輝きを失っていた。太陽は、次第に地上へと力なく落ちつつあった。冷涼な夕方の風が吹き始めていた。

 

 その付近に、醜悪な魔物たちの大合唱が響き渡った。魔物たちの傍若無人な行進(パレード)に、鳥や獣はただ逃げ惑うだけだった。

 

 奇怪なパレードだった。不揃いな隊列だった。四匹の緑リザルフォスが気息奄々(きそくえんえん)として掲げる輿(こし)の上に、その白銀リザルフォスは鎮座していた。

 

 彼はリズムを取るように長い舌をビュンと伸ばしてまた引っ込めた。それに合わせて、下の四匹が鳴き声を上げた。

 

「ゲッ・ゲッ・ゲゲゲ・ン・ゲ」

「ゲゲーゲ・ゲゲゲゲ・ゲーゲーゲー」

 

「グギャア!」

「ギョごぇっ!?」

 

 叱責と共に、白銀リザルフォスは三叉リザルブーメランで下の手下を殴りつけた。この馬鹿共は、どうしてこういつも音程を外すのか。彼はそう思った。まあ良い。馬鹿な子ほど可愛いものだ……

 

 彼は上機嫌だった。今だけではない、ここ数か月、彼はずっと上機嫌だった。今回の旅は順調そのものだった。自分の足も使わず、邪魔も入らず、悠々と輿の上でバナナやリンゴを齧っていれば勝手に進む旅行は、今までに経験したことがないほど楽しかった。

 

 もともと、彼はラネール湿原のコポンガ島の縄張りのヌシをしていた。彼は今から少し前に、ある知らせを受け取った。ハイリア大橋に拠点を構える遠縁の親戚が、褐色の肌と赤い髪をしたニンゲンの群れに襲われ、ほとんどが戦死するという大打撃を受けたという。やせ衰えて、ボロボロになった使いの緑リザルフォスは、どうか逆襲のために力を貸してくれと懇願した。

 

 もちろん、白銀リザルフォスは快諾した。しかし彼としては、素直に援軍になってやるつもりなどなかった。そのままニンゲン共を蹴散らした後は、元々いた連中も追い出して、そこを自分の新たな拠点の一つにしよう。彼はそう考えた。

 

 以前ならば彼は、コポンガの拠点から離れて外の世界へ足を踏み出そうとは考えもしなかっただろう。だが、最近の彼はなぜか妙に調子が良かった。寝て、食って、殺して、また寝るだけで、力がいや増しに増してくるのを彼は実感していた。その体色も、いつしか白銀に輝くようになっていた。原因はどうあれ、強くなったという実感は彼を気宇壮大(きうそうだい)にした。

 

 ギャオギャオと、彼は笑った。彼は傍らからバナナを摘まみ上げて、皮を剥かないでそのまま牙の生えた口に放り込んだ。彼はグチャグチャと下品な音を立ててバナナを咀嚼し、グビリと嚥下した。

 

「ギャ?」

 

 一瞬、彼は殺気のようなものを感じた。気のせいだろう。彼はそれを黙殺した。この隊列に敢えて挑んでくる馬鹿もおるまい……

 

 一方、隊列のリザルフォスたちは空腹のまま旅を続けていた。先払いを務める青リザルフォスの二匹は白銀リザルフォスの古くからの仲間で、重い輿を担ぐという重労働からは解放されていた。だが、彼らは手持ちの食料を考えなしに貪り食ってしまったため、いまや虫を食べてわずかに飢えをしのがねばならなかった。

 

 輿(こし)を担ぐ四匹はさらに哀れだった。もちろん、彼らは食事など満足にとっていなかった。さらに悲惨だったのは、後方で武器を運ばされている緑リザルフォスだった。

 

 緑リザルフォスは、また双頭リザルスピアを取り落とした。彼は焦ってそれを拾おうとした。すると、また別のリザルスピアを落としてしまった。

 

 怒声が浴びせられた。

 

「ギャギャギャ! ギャギャゴゴ!」

 

 怒声の主は、白銀リザルフォスだった。白銀リザルフォスは彼の失態を見逃さなかった。白銀リザルフォスは彼を口汚く罵ってきた。仲間たちも彼を嘲笑った。フラフラとおぼつかない足取りで、彼は武器を拾った。

 

 その武器運びの緑リザルフォスは、今回の旅の発端となった知らせを持ってきた、あの使いのリザルフォスだった。白銀リザルフォスが手下たちに「ハイリア大橋の拠点乗っ取り」を宣言した後、彼は猛烈に抗議したのだが、やはり多勢に無勢で、彼は袋叩きにされてしまった。彼は全身に怪我を負った。必死に命乞いをした結果、彼はなんとか殺されずに済んだ。だがその代償として、荷物運びとしてこき使われることになってしまった。

 

 むろん、彼は食事も水も与えられていなかった。彼は夜中にそっと逃げ出そうとしたこともあった。しかし、そのたびに見つかっては袋叩きにされてしまった。彼は、もはや身も心も奴隷そのものになっていた。

 

 そんな荷物運びを一瞥(いちべつ)して、白銀リザルフォスはフンと鼻を鳴らした。あんな情けない奴だから、大事な拠点をニンゲンなどに取られたのだ。だが俺は違うぞ。俺は最強のリザルフォスだ。ニンゲンなどモノの数ではない……

 

 突然、手下たちが騒ぎ始めた。何か、興奮しているようだった。

 

「ギャオギャオ! ギャオギャオ!」

「ギョギョギョ!」

 

 物思いにふけっていた白銀リザルフォスは、いきなり上下に揺れ始めた輿の振動によって、意識を現実へと強引に引き戻された。何が起こっているのかと、彼は視線を前方へ走らせた。

 

 そこには、食べ物があった。道からやや外れた草原の中に、ツルギバナナとマックスドリアンと焼きトリ肉、それに焼きケモノ肉が山積みになって置かれていた。前を歩いていた二匹の青リザルフォスが、それに駆け寄った。輿を担ぐ四匹のリザルフォスたちも、足を速めてそれに殺到しようとした。

 

 輿の上の白銀リザルフォスは、内心で舌打ちをした。ここは、ヌシとしての統率力を見せなければ。彼は一声(ひとこえ)叫んだ。

 

「ギャオ!」

 

 鋭い叫びを聞いて、手下たちは硬直した。白銀リザルフォスは、威厳ある態度で輿から飛び降りた。そして、彼はノシノシと歩いて食べ物の山に向かった。彼はマックスドリアンを取り上げると、それに齧り付いた。

 

 美味い! こいつはご馳走だ!

 

 それを見て、手下たちはもうじっとしていられなかった。全員が食べ物の山の周りに集まった。めいめいが食べ物を手に取って、ガツガツと意地汚く咀嚼音を立てて食べ始めた。

 

 白銀リザルフォスは山を掻き分けて、もっと大きくてもっと美味しそうな食べ物を探した。この緑色の果物は一口食べたら飽きてしまった。やはり肉が食べたい、肉!

 

 目当てのものは、山の一番下にあった。血の(したた)るようなミディアムレアの焼きケモノ肉、おそらく若いヤマシカのもも肉があった。彼はそれを持ち上げて、大口を開けて齧りついた。やはり美味い! 彼は叫んだ。

 

「ギャオ! ギャオ!」

 

 こういう美味いものは、やはり高いところで食べるに限る。偉くなった気分がして最高だからだ。白銀リザルフォスは地面に置かれた輿の上に座ると、手下の食事を中断させて、またそれを担ぎ上げさせた。ただ、彼なりの恩情として、食べ物の山の側まで寄ることを手下には許してやった。

 

 四匹の緑リザルフォスたちは片手で輿を担ぎ、もう片方の手で食事をした。すると、その中の一匹が、何か妙なものを見付けた。肉を取り除けた地面に、何か黒いものが埋まっていた。

 

 固そうな、金属でできている、球形をした黒い何かが、一個、二個、三個……

 

 シュッ、と音を立てて何かが飛来した。その次の瞬間だった。

 

 食べ物の山は、猛烈な大爆発を起こした。リザルフォスたちは爆風に吹き飛ばされた。輿は白銀リザルフォスを乗せたまま打ち上げられて、天高く勢いよく昇っていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 離れた茂みから様子を窺っていたテッポが歓声を上げた。

 

「やった! 作戦大成功よ! バナーヌ、見た!? あの青いやつ、十メートルはぶっ飛んでいったわ!」

 

 それをバナーヌは(いさ)めた。

 

「油断するな」

 

 バナーヌの手には、弓と矢があった。

 

 つまり、それはバナーヌとテッポによる仕掛け爆弾だったのである。

 

 がっちりと隊列を組んだ魔物に対して正面攻撃をすれば、なにがしかの損害を受けるのは必定である。かと言って、隊列がハイリア湖のすぐそばまで来ている以上、援軍を呼ぶのは時間的に厳しい。必然的に待ち伏せ攻撃を選択することになるが、二人だけでは兵力はまったく足りない。ならば爆弾を有効に使うしかない。そしてそれは、地雷という形で用いるのが望ましい。

 

 輿に乗ったリザルフォスとその隊列という光景の印象の強さに、当初テッポは面食らった。だが、冷静になってその様子を観察してみると、魔物の隊列の歩みはとても遅かった。青リザルフォスはしょっちゅう虫を食べているし、輿を担ぐ連中はどこか疲弊していた。テッポは、魔物たちは食べ物に飢えているのではないかと考えた。

 

 テッポはバナーヌに言った。

 

「食べ物で誘って、地雷で一掃しましょう。イーガ団流戦闘術『オ・クノテ』の一つ、火攻『キーク・ライーン』よ。これでどうかしら」

 

 バナーヌは即座に頷いた。

 

「そうしよう」

 

 彼女たちは大急ぎで先回りをして、地雷を埋めた。街道上から少し離れた所に彼女たちは罠を設置した。その爆弾の数は、合計十二発だった。その地雷の上に、囮として果物と肉を置いた。果物は手持ちのものから、肉は道中の戦闘でボコブリンたちから奪い取ったものを使用した。

 

 バナナを置くことにバナーヌは難色を示した。だが、テッポがドリアンを置くのを見て、彼女もしぶしぶながらポーチからバナナを取り出した。バナーヌはどこか情けない声を出した。

 

「……うう」

 

 テッポはバナーヌを慰めた。

 

「ほら、バナナならまたあとで買ってあげるから、ね?」

 

 バナーヌはしぶしぶ頷いた。

 

「……うん」

 

 あとは簡単だった。敵が密集したのを見計らって、火矢を打ち込むだけだった。(やじり)におがくずを巻き付けて、火打石で火花を飛ばせば、簡単に火はついた。

 

 吹き飛んで身動き一つしなくなったリザルフォスたちに、彼女たちは近寄った。バナーヌは脅威度の高い青リザルフォスに優先的にとどめを刺した。テッポも今日一日の一連の戦闘によってすっかり慣れた手つきで、倒れている緑リザルフォスたちの喉を素早く切り裂いた。

 

 突然、テッポが声を上げた。

 

「あっ!」

 

 バナーヌは言った。

 

「どうした?」

 

 身を翻して、バナーヌはテッポの方へ向いた。そこには、痩せ細った緑リザルフォスが、放心したようにテッポの前に佇んでいた。魔物はそれまで手に持っていた武器をすべて取り落とし、光のない目でぼんやりとテッポを見つめていた。

 

 バナーヌは軽く跳んでテッポとリザルフォスの間に立つと、首刈り刀を構えた。

 

「テッポ、さがれ」

 

 テッポはすぐに言われたとおりにした。

 

「了解」

 

 リザルフォスはまったく動かなかった。武器も手に取らず、鳴き声すら上げなかった。だが、バナーヌとしては見逃すつもりはなかった。

 

 冷たい風がその場を吹き抜けた。バナーヌの金髪のポニーテールがふさふさと揺れ動いた。

 

 その時、急に影が差した。テッポが叫んだ。

 

「バナーヌ、さがって!」

 

 魔物の悲鳴が響いた。

 

「ギョゴエ!?」

 

 テッポの叫びを聞くや否や、バナーヌは反射的に後ろへ跳び退いていた。直後、空からなにやら巨大なものが降ってきて、轟音と共に哀れな緑リザルフォスを真上から圧し潰した。

 

 落下の衝撃で吹き上げられた砂塵が、あたりに垂れ込めた。

 

 バナーヌとテッポは油断なく構えた。

 

「グギュルルル……」

 

 目の前に現れたのは、白銀リザルフォスだった。彼は粉々になった輿の上で堂々と屹立していた。彼は先ほど輿ごと天高く飛ばされて、そして今無事に帰ってきたというわけだった。その目は殺気で赤く燃えていた。その手には、夕陽を鋭く反射する三叉リザルブーメランがあった。

 

 テッポが緊張した声を発した。

 

「バナーヌ、こいつは……!」

 

 バナーヌは短く答えた。

 

「分かってる」

 

 陰謀に打ち勝つのはいつでも、意地の悪い運命の女神なのかもしれない。




「リンク! アイツ…… 喋れたんだな……」
 なお、冒頭のキングブルブリンとトワイライトプリンセスのキングブルブリンとは何らの関係もありません。あの時のミドナ様の反応可愛かったな。
 書けば書くだけ、まだまだブレスオブザワイルドについて自分は何も知らないのだと思い知らされます。ただ漫然とプレイしていても面白すぎるくらいに面白いのがブレスオブザワイルドですが、いざ取材してその成果をお話として纏めようとすると、ビックリするくらい何も見ることができていなかったことに驚きます。例えばリザルフォスの生態だったり、動きだったり、鳴き声だったりです。自然学者のような鋭く注意深い観察力を持たなければ、私の書きたい理想には届かないようです。
 とか言ってますけどね! 楽しんで書いてますから!

※加筆修正しました。(2023/05/08/月)


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第二十八話 少女の変容

 この世の中には、ある種の刺激に対してまったく無反応である人間もいれば、その反対に、過剰なまでの反応を示す人間もいる。

 

 端的な例としては痛みがある。痛みに強い人間、あるいはその反対に痛みに弱い人間を、我々は必ず二人か三人は知っている。ナイフで指先を切っても顔色一つ変えない母がいれば、痛風に呻吟する父がいるし、崖から落ちて血塗れになってもヘラヘラと笑う幼馴染がいれば、箪笥の角に小指をぶつけて悶える手習いの師匠もいる。普通に生きていれば、人間の苦痛に耐える力には個人差があるということに、大抵の人は自然と気がつく。

 

 この困難な時代にあって、一般的に、痛みに強い人間は尊敬され一目置かれる傾向がある。痛みだけではない。寒風や酷暑、飢えと渇き、怪我と疾病、別離と喪失、ありとあらゆる「不快」に対して、それを耐え忍び、何ということはないと痩せ我慢をし、それに対する感覚器官をこの世に生まれたその当初から持ち合わせていないような顔をする、そういう人間が「まるで勇者のようだ」と褒め称えられるのだ。

 

 だがかつての時代、大厄災の以前には、ある種の「不快」に対して、耐え忍んだり無関心を装ったりすることを、逆にこの上なく不名誉であると見なす人々がいた。

 

 その「不快」とはすなわち、侮りであった。その人々とはすなわち、王国騎士であった。彼ら王国騎士は、毎日火の出るような練磨を続け、戦場にあってはあらゆる艱難辛苦(かんなんしんく)に雄々しく耐えた。市民社会にあっては、彼らは至極自制的に、道徳的模範として見劣りのしないように、身を厳しく律していた。

 

 そんな彼らも、ただ唯一、侮りに対してだけは、さながらデスマウンテンの火山噴火のように憤怒の感情を爆発させた。彼らは自らを侮った者に対して決して容赦をしなかった。

 

 彼らの複雑な精神構造を幾分か簡略化して示すならば、以下のようになる。

 

「ハイラル王国騎士たる我は、ハイラル王国の不朽の名誉を護り、栄えさせねばならぬ使命を負っている。ゆえに、騎士たる我に対する侮蔑は騎士団への侮蔑となる。騎士団への侮蔑は騎士団長への侮蔑である。騎士団長への侮蔑は国軍への侮蔑であり、国軍への侮蔑とは畢竟(ひっきょう)、国王と王国への侮蔑である」

 

 騎士たちは、自分たちへ向けられた侮蔑には、たとえそれがどんなに些細なものであっても決して許しはしなかった。城下町の酒場で品のない者が酒で舌を滑らせ、王国と姫君を馬鹿にしようものなら、たとえば「姫の眉には毛虫が二匹」などと言おうものなら、その場で静かに飲んでいた騎士は(にわ)かに立ち上がり、鍛え上げた鉄拳を酔っ払いのならず者の頬にめり込ませたものだった。

 

 新聞記者や講談師も気をつけなければならなかった。記事や講談に少しでも騎士を侮辱するニュアンスがあったならば、彼らはいち早くそれを察知して、必ず何らかの報復を行ったからである。事実のみを伝えるならば何も問題はなかったのだが、読者や聴衆はいつでも過激な喧嘩腰の内容を好むものであったから、記者たちはバランスをとるのに並大抵ではない苦労をすることになった。

 

 このように騎士たちにとって、侮蔑に対して何もやり返さずに沈黙を守ることは最大級の恥とされた。二つの例を上げよう。一つは、騎士と猿の話である。ある王国騎士は森で狩猟をしていたところ、大きなオスの白猿と遭遇した。白猿は熟れ過ぎた桃のように真っ赤になった尻を騎士に向けて叩き、森中に響き渡る良い音を立てた。おまけに白猿は顔を騎士へ向けて、いわゆる「あかんべぇ」の仕草をした。

 

「なんと、()しからぬ奴よ!」 騎士は激昂した。たとえ野生動物であっても、騎士は決して容赦はしない。彼は白猿を追いかけ、森の奥へ奥へと進んでいった。騎士は白猿に矢を射掛け、木に体当たりをし、剣を振り回して怒鳴りつけたが、白猿は嘲るのをやめなかった。いつしか騎士は、日の光も届かない、暗い深い森の中にいた。それでも騎士はなおも森の奥へと突き進んでいった。あの猿め、目にモノを見せてくれる……

 

 騎士は結局、帰ってこなかった。彼は森に飲まれたのだと人は言ったが、これはむしろ森ではなく彼自身の怒りという情念に飲まれたとでも言うべきだろう。

 

 二つ目は、騎士と逃げる花の話である。ある騎士がハイラル軍演習場へ向かっていた時のことである。騎士の耳に、ふと奇妙な笑い声が聞こえた。カラカラ、コロコロという、子どものような笑い声だった。声がするほうへ彼が目をやると、一本の黄色い花が崖に生えていた。

 

 騎士は花を見つめた。すると、またもや笑い声がした。笑い声は、その花から発されていた。「なんと、()しからぬ花よ!」 騎士は人を笑う花を手折ろうと、崖に手をかけた。肉体を鍛え上げていた彼はすいすいと崖を登り、黄色い花に手をかけた。その瞬間、なんと花はふっと姿を消し、さらに崖の高い場所に姿を現した。

 

「おのれ、騎士たる我を侮るか!」 騎士はさらに登っていき、再度花に手を掛けた。また花は姿を消してさらに頭上に姿を現した。騎士はさらに登った……こんなことが何度か繰り返された。騎士のスタミナ(がんばり)は、とっくの昔に尽きていた。騎士は無様に落下し、街道にその重い身体を叩きつけた。幸い騎士は一命は取り留め、騎士団の病院に収容された。だが、彼を待っていたのは騎士団長からの叱責の言葉だった。

 

「なにゆえ汝は辱めを受けたまま生きて還ったか。恥辱に塗れた生を生きるよりは、むしろ死を選ぶべし」

 

 後世の我々がこの話を聞けば、おそらく大抵の人はその理不尽さを笑うか、それとも怒りを抱くかのどちらかであろう。だが、ここで我々自身が「侮り」に対してどれほどの耐性を持っているのかを自問してみれば、果たしてどうであろうか。

 

 我々は猿や花を追い掛けた騎士を笑うことなどできるのだろうか。恥辱に耐えて悶々と座を温めていることなどできないのではないだろうか。どんなに些細な侮りであっても、我々はそれを実に詳細に記憶しているのではないだろうか。

 

 実に、知的認識能力を持つ生命体にとって、一番の刺激物となり得るものは「侮り」に他ならない。それは、魔物にとっても同じである。観察すれば分かることであるが、知能の低いボコブリンですら恥辱に対しては敏感であるし、それを(そそ)ごうとして必死の行動を見せることがある。

 

 こうも考えられる。厄災ガノンがあれほどの怨念と瘴気を撒き散らしているのは、実は人間がガノンを嘲った結果なのではないかと考えられる。一万年前に完封した方法を以てすれば、ガノンなぞゾーラ川の氾濫以下の脅威でしかないと、神獣やガーディアンがあれば、ガノンなぞただの野獣に過ぎないと、我々人間は白い歯を見せてガノンを嘲った。それをガノンは恨みに思っているのではないか。

 

 ガノンは人間共の侮りを耐え難く思い、あれだけの大厄災となり果てたのではないか……?

 

 残念ながら、それを確かめる術は存在しない。

 

 

☆☆☆

 

 

 時間はやや遡る。バナーヌとテッポがハイリア湖へ向けて走り出した、その日の昼のことだった。

 

 ポカポカとした穏やかな陽気だった。澄んだ空気の中で鳥のさえずりが響いていた。馬やロバの長閑(のどか)な鳴き声がしていた。平原外れの馬宿は、平和そのものだった。

 

 馬宿の中、その寝台の一つに、サクラダ工務店の社員であるカツラダが、ぐったりと力なく横たわっていた。その両目からは涙が流れた跡があった。

 

 すぅ、すぅという安らかな寝息がカツラダから漏れるのを聞いて、寝台の側で様子を見ていた棟梁サクラダと社員エノキダは、安心したようにため息をついた。サクラダは言った。

 

「ホント、手間のかかるコだワ。いい加減マモノエキスくらい慣れてほしいものなのに」

 

 その言葉にエノキダが異を唱えた。

 

「いえ、問題は別でしょう。社長がいちいち口移しをするのが原因かと」

 

 エノキダの言葉に、サクラダは心外だというような顔をした。

 

「あらヤダ。エノキダがそんなこと言うなんて。良い? 私は棟梁、カツラダは社員。社員を守るのは棟梁の仕事。だから、社員が薬を飲むのを嫌がるなら、棟梁のアタシにはなんとしてでも薬を飲ませるという義務があるのヨ。口移しはその方法の一つに過ぎないわ」

 

 エノキダはこれ以上反論しないことにした。彼は微妙に言葉を濁した。

 

「それはまあ、そうでしょうが」

 

 そう話しながら、二人は外へ出た。柔らかな日の光に二人とも目を細めた。散歩をするには絶好の日和だった。

 

 サクラダがエノキダに目配せをした。

 

「少し歩きましょう」

 

 エノキダはのっそりと頷いた。

 

「はい」

 

 二人は馬宿の周りをぐるりと歩いた。その後は少し足を伸ばして、二人は闘技場跡地を望めるところまで行った。そこは小さな森だった。

 

 サクラダが、木に巻き付いた蔓草(つるくさ)をもてあそんだ。彼は言った。

 

「まあ、なんだかんだでカツラダの回復は早いワネ。若いって素晴らしいことだワ」

 

 エノキダは軽く頷いた。

 

「あの分ならもう二日で完全に復活するでしょう」

 

 そこへひどく陽気な、独特な(ふし)のついた歌声が聞こえてきた。二人が木々の奥へ目をやると、そこにはバナナの行商人がいた。行商人は臙脂色(えんじいろ)をした敷物に黄色いバナナを並べて、盛んに口上を述べ立てていた。

 

「さあさあ買った、さあ買った、バナちゃんの因縁聞かそうか! 生まれは南国フィローネで、親子諸共もぎ取られ、箱に詰められ牛に乗り、ゆらり揺られて道千里、着いたところが平原外れ! さあさあいくらで売ったろか!」

 

 それを見たサクラダは、何かを思いついたようだった。彼は顎に手をやって考えた。彼は言った。

 

「ちょうど良いワ。カツラダのお見舞いに、バナナを何本か買おうかしら」

 

 エノキダは賛同した。

 

「良いですね。カツラダもきっと喜ぶでしょう」

 

 二人は行商人に近付こうとした。その時だった。突然二人の背後に音もなく、ひとつの人影がぬっと現れた。二人はそれに気づいていなかった。

 

 まるで亡霊が霧のかかった(ふち)から呼ぶような声で、その人影はサクラダとエノキダに話しかけた。

 

「あのー……」

 

 不意を突かれた二人は飛び上がらんばかりに驚いた。

 

「キャッ!?」

「なんだ!?」

 

 それでも、二人はすぐに混乱から立ち直った。大工はみんな、豪胆な性格をしているものである。サクラダは体の向きを変えて、声をかけてきた人物を真っ直ぐ見つめた。それは男だった。まだ若い男だった。男は色黒の肌をしていた。男はボロボロのシャツにヨレヨレのズボンを身につけていた。擦り切れたサンダルを男は履いていた。男の表情には生気がなく、目つきにはまったく力がなかった。

 

 男はサクラダの無遠慮な視線にもめげずに、言った。

 

「すみません、何か食べ物を……」

 

 意外な申し出に、サクラダとエノキダは首を傾げた。サクラダが言った。

 

「なんですって? 食べ物?」

 

 エノキダが尋ねた。

 

「腹が減っているのか?」

 

 二人の言葉に、男は何度も頷いた。この世の終わりのような深刻な表情の割に、男の要求は至極単純だった。サクラダは呆気にとられた。

 

「まあ、その程度なら良いワよ、別に……」

 

 サクラダは身銭を切って行商人からバナナを買った。サクラダは買ったバナナを男に与えた。男は猛然とそれを(むさぼ)り食った。男は息もつかずに十本を腹に収めると、先ほどとは打って変わった爽やかな笑顔を浮かべた。そして、これまた爽やかな声で男は言った。

 

「二人ともどうもありがとう! おかげで飢死寸前から救われたさー! 俺はガノレー。ほうぼうを歩き回ってお宝探しをしている、トレジャーハンターの端くれさー!」

 

 エノキダは腕を組み、ガノレーと名乗る男を静かに見つめていた。だが、エノキダが口を開く様子はなかった。代わりに、サクラダがガノレーに質問をすることにした。

 

「ところでガノレーさん。そのお国言葉を聞くに、どうやらアナタはウオトリー村出身だとアタシは思うんだけど、そのウオトリー村の人が、どうしてこんな辺鄙な場所で行き倒れ寸前になってたのかしら?」

 

 それを聞いたガノレーは、俯いてしまった。しばらく耳に痛い沈黙があたりを包んだ。数十秒間にわたって地面を見つめた後、ガノレーはおもむろに言葉を発した。

 

「俺は……俺は……」

 

 サクラダはその言葉の先を促した。

 

「俺は? どうしたのかしら?」

 

 ガノレーは叫んだ。

 

「俺は、泳げないんさー!!」

 

 その大きな声のせいで、鳥たちがバサバサと羽音を立てて飛び去った。

 

 サクラダは詳しく事情を尋ねた。ガノレーは話した。サクラダが推測したとおり、彼は漁村として有名なウオトリー村出身であった。だが、ウオトリー村出身であるにもかかわらず、彼はまったく泳ぐことができない。漁師の一家に生まれながら、彼は漁師として生計を立てることができなかった。

 

 ガノレーは憤懣のこもった口調で話し続けた。

 

「村にいた頃は、ゴミ拾いをしてなんとか生活してたさ……でも、みんな俺を馬鹿にしたさー! カナヅチだの、穀潰(ごくつぶ)しだの、イシロックだの……馬鹿にされ続けて、もう生活に嫌気がさしてきたさー! ついに俺はウオトリー村を離れて、トレジャーハンターになることにしたのさー!」

 

 しかし当然のことながら彼にはトレジャーハンターとしてのノウハウなどなかった。彼はたまに街道をゆく荷馬車の護衛をしたり、他のトレジャーハンターの荷物持ちをしたり、ちんけな廃墟を漁ったりして、なんとか露命をつないでいた。そういう話を彼はした。話を終えた彼は、肩で息をしていた。

 

 ガノレーを見かねて、エノキダが口を開いた。

 

「意地を張らずに故郷に帰ったらどうだ。そんなに無茶な生活を続けていたら、そのうち本当に死んでしまうぞ」

 

 エノキダの心はガノレーに通じなかった。ガノレーは顔を真っ赤にして怒鳴った。

 

「いやさー! 俺の先祖は王国海軍の提督だったさー! 軍人は名誉を尊ぶものさー! 俺もトレジャーハンターとして成功して、金持ちになって、村に凱旋して、今まで馬鹿にしてきた奴らに目にものを見せてやるさー! その目途が立つまでは絶対に村に帰らないさー!」

 

 サクラダが呆れたように言った。

 

「いや、現実を見ましょうヨ? アナタ、死ぬワよ?」

 

 その後もサクラダとエノキダは、ガノレーにあれやこれやと帰るよう説得した。だが、ガノレーは「恥を雪ぐ」だの「見返してやる」だのと言うばかりだった。結局、ガノレーは何処(いずこ)かへ去っていってしまった。

 

 去っていく後ろ姿を見送りながら、エノキダがサクラダに低い声で言った。

 

「あの男、大丈夫でしょうか」

 

 サクラダは、もうガノレーへの興味を無くしているようだった。

 

「さあ? トレジャーハンター未満に甘んじる人生も、結局は本人が望んだ人生でしょう。アタシたちの出る幕じゃないわね。どうすることもできないワ。それよりも……」

 

 サクラダは、視線を闘技場跡地へとやった。その壁面には、黒と赤の「怨念の沼」がへばりついていた。サクラダは言った。

 

「ああいう行き場を失った憤りを彼が変な方向で爆発させないか、それが心配だワ。なんか、変な事件とか起こすんじゃないかしら、彼」

 

 木立の中を、一陣の風が吹き抜けた。二人はバナナの包みを抱えて、カツラダの寝台へと帰っていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 時刻は夕刻になった。その場所は、ハイリア湖付近の街道だった。オレンジ色の残照が、草原の草花をぼんやりと照らし出していた。

 

 街道は、魔物の死体で(あふ)れていた。バナーヌとテッポが地雷で仕留めたのは、青リザルフォスが二匹に、緑リザルフォスが四匹だった。魔物の醜悪な隊列は、脆くも壊滅したかのように思われた。しかし、まだ敵は残っていた。

 

「グギュルルル……」

 

 テッポが緊張した面持ちで言った。

 

「バナーヌ! こいつは……!」

 

 バナーヌは答えた。

 

「分かってる」

 

 二人の目の前に現れたのは、白銀リザルフォスだった。魔物は粉々になった輿(こし)の上で堂々と屹立していた。地雷が爆発した時、輿(こし)は爆風の直撃を受けた。だが、輿は破壊されなかった。輿は爆風に乗って天高く飛び、そして今になって無事に地上へ帰ってきたというわけだった。

 

 落ちてきた輿の下敷きになった荷物持ちの緑リザルフォスは、もはやピクリとも動かなかった。それとは対照的に、白銀リザルフォスは、その目を殺気で爛々と赤く燃やしていた。夕陽を鋭く反射する三又リザルブーメランを魔物は力強く握っていた。

 

 バナーヌは、内心舌打ちした。運の良い魔物だ! あの爆発ならば魔物の中で最上位の強さを誇る白銀種であっても、木端微塵にできたはずだった。

 

 首刈り刀を構えて白銀リザルフォスと対峙しつつ、バナーヌはなおも考えた。しかし、白銀リザルフォスが生き残ったのは予想外だったとはいえ、状況は依然としてこちらに有利だ。こちらには自分とテッポの二人がいるし、爆弾という強力な武器もある。それに対して、相手は最強の白銀種とはいえ一匹だ。こちらが数の力を生かして挟めば、問題なく倒せるはずだ。彼女は短く言った。

 

「テッポ」

 

 バナーヌは空いている手の指先で、背後にいるテッポへ信号を送った。それは、「ヤツの背後にまわれ」という意味だった。テッポは答えた。

 

「了解」

 

 後ろのテッポが音もなく動き始めたのがバナーヌには分かった。テッポは全速力をもって走った。彼女は白銀リザルフォスの左側から回り込もうとした。

 

 魔物が叫んだ。

 

「ギャッギャッ!」

 

 白銀リザルフォスはテッポの動きと意図に気づいたようだった。魔物はテッポの迂回を阻止しようと、体を動かそうとした。

 

「こっちだ」

 

 次の瞬間、二本の矢が鋭い金属音を立てて、白銀リザルフォスの背鎧(せよろい)に突き刺さっていた。

 

 バナーヌが二連弓を構えていた。矢は、彼女が牽制のために放ったものだった。白銀リザルフォスは怒りの叫びを上げた。

 

「グギャオォオオ!!」

 

 魔物は地団駄を踏んだ。魔物は乱雑に鎧から矢を引き抜いて、それを地面に叩き付けた。

 

 このできごとの間に、テッポは魔物の背後へと、あともう少しのところまで迫っていた。あともう少し! テッポの心臓は早鐘をついていた。背後を取ったら、距離に注意をしないと。それでその後は、バナーヌと連携してコイツを囲んで叩くだけ。爆弾の使用に注意しないと。距離を間違えたら爆風にバナーヌを巻き込んでしまう……テッポは高速で頭脳を働かせていた。

 

 すると、その時だった。バナーヌと睨み合っていた白銀リザルフォスが、急にテッポの方へと顔を向けた。そして、その長い喉から何か白い液体状のものを大量に、あたかも大きな水鉄砲のように勢いよく、テッポへとふりかけた。

 

 妙に生温かく、妙に生臭いその液体を浴びて、テッポは地面に倒れ込んだ。テッポは悲鳴をあげた。

 

「きゃあああっ!! なによこれぇ!!」

 

 バナーヌは叫んだ。

 

「テッポ!」

 

 思わずバナーヌはテッポの方へ駆け寄ろうとした。だが、彼女はそれを思いとどまった。今は、目の前の魔物を倒すことを優先しなければならない! テッポを助けようとすれば、大きな隙を生んでしまう。

 

 またもやバナーヌは矢を放った。これ以上白銀リザルフォスがテッポに対して妙なことをしないよう、牽制するためだった。

 

「ゲゲッ!!」

 

 しかし、白銀リザルフォスは動じなかった。魔物は最小限の動きで飛んできた二本の矢を(かわ)すと、それを手で捕まえて、バナーヌに見せつけるかのようにして音を立てて両手でへし折った。

 

 内心、バナーヌは舌打ちした。こいつ、戦い慣れしている!

 

 白銀リザルフォスは得意げな表情を浮かべた。その口角の端が上に引き攣っていた。魔物はへし折った矢をバナーヌへと投げつけると、醜悪な鳴き声を喉から発した。

 

「グッヘッヘ……」

 

 バナーヌは言った。

 

「魔物が笑うか」

 

 魔物が、人間を挑発していた。お前など大したことはない、時間の無駄だ、さっさとかかってこいと、魔物が言っていた。しかし、バナーヌはまったく動じなかった。彼女はその性格からして「侮り」に対して鈍感なほうであった。それに、長年の経験と勘が、ここで挑発に乗って迂闊に近づけば手痛い反撃に遭うことを予告していた。

 

 それに今は、もっと大切なことがあった。それは、向こう側にいるテッポの状況を把握することだった。バナーヌは、普段あまり上げることのない大きな声を出して、テッポに呼びかけた。

 

「テッポ! 無事か!?」

 

 返ってきた言葉は、困惑と焦りに満ちていた。

 

「バナーヌ!? こいつの水鉄砲、なんか変よ! すごくネバネバしてて、体にへばり付いて取れないの! なんていうか、その、とにかくすごくネバネバしてて粘着質なの! う、動けない!」

 

 二人は知る由もなかったが、この白銀リザルフォスがコポンガ島の主となれた理由の一つに、彼の特技があった。リザルフォスは通常、まあまあの威力の水鉄砲を放つ特技を有しているのだが、この白銀リザルフォスはその水鉄砲で、相手の動きを封じるための、天然の粘着液を発射することができたのだった。

 

 テッポはまんまとその技を食らってしまった。綺麗なぬばたまの黒髪に白く濁った液体がかかり、戦闘服から露出した玉のような褐色の肌にも粘着液がねっとりとこびりついていた。テッポが振り払おうと身動きするたびに、液体はさらに粘度を高めて、彼女の細く幼い体の動きを封じるのだった。

 

 テッポは、この液体の威力に恐怖した。もし、これがバナーヌにも当たったら……! 彼女は叫んだ。

 

「バナーヌ、気をつけて! こいつの水鉄砲、当たったら身動きできなくな……ひぅっ!!」

 

 テッポは、警告の声を中断せざるを得なかった。彼女の柔らかな頬に、何やら異様な感触のモノが張り付いたからだった。

 

「グッヘッヘッヘヒャアッ!!」

 

 それは、白銀リザルフォスの舌だった。長い舌を伸ばして、白銀リザルフォスはテッポの端正ながらも幼い顔面を丹念に舐め回し始めた。テッポは情けない悲鳴を上げた。

 

「ひっ!」

 

 ベロベロと顔の至るところをテッポは舐め回された。その口の中にまで魔物の舌は侵入しようとしてきた。想像を絶するおぞましさだった。だが、テッポは対抗する術を持たなかった。彼女は叫ぶだけだった。

 

「うわっ、このっ、やめ、やめなさいよっ! この変態! やだ、最低! 気持ち悪い、やめて! やめなさいったら!」

 

 次第に彼女は元気を失っていった。彼女は、すすり泣きのような声を漏らした。

 

「うぅ…… やめて、やめてよぉ……!」

 

 魔物がテッポを舐め回していたのは、ほんの数秒であった。その間に、バナーヌは憤怒していた。

 

「ぶっ殺す」

 

 バナーヌは一声叫ぶと、首刈り刀を手にして、白銀リザルフォスの懐へと一気に接近した。

 

 だが、それこそが白銀リザルフォスの狙いだった。バナーヌが背後から接近してきたところを狙って、魔物は振り返りざまに三又ブーメランを見事なアンダースローで放ってきた。

 

 その距離は、わずかに一メートルだった。だが、類稀な身体能力と豊富な実戦経験を持つバナーヌは、間近に飛来するブーメランを間一髪で回避することができた。

 

 バナーヌは一瞬、驚きの念に打たれた。リザルフォスという魔物はブーメランを多用するが、これほどまでに完璧なフォームで投擲し、これほどまでに完全にコントロールすることができるリザルフォスなど、彼女はこれまで見たことがなかった。奇怪な水鉄砲といい、このブーメラン捌きといい、やはりこの白銀リザルフォスは容易い相手ではない。改めて彼女はそう感じた。

 

 勢いもそのままに、バナーヌは白銀リザルフォスの喉元へ潜り込もうとした。リザルフォスには数多くの長所がある。他の魔物と比較して体格が大きく、動きは俊敏である。リザルフォスは環境に即座に適応することができ、擬態(カモフラ)能力もある。それだけではない。リザルフォスは鎧で身を守っており、生命力にも優れている。では、その短所は何か? それは、敵が懐に飛び込んだ時には、ほとんどなす術がないということである。その体の大きさがあだとなるのだ。

 

 リザルフォスと戦う時は、とにかく距離を詰めて、その喉元を切り裂くべし! イーガ団の戦闘教義にもそう書かれている。バナーヌはそれに従った。

 

 数秒、数瞬の攻防が繰り広げられた。バナーヌは、白銀リザルフォスの懐に飛び込むと、半月を描くようにして、その喉元へ向かって首刈り刀を振った。

 

「ふんっ!」

 

 しかし、敵もさるものだった。魔物は短く鳴き声をあげた。

 

「ギョッ!」

 

 魔物は、バナーヌのその動きを予想していたようだった。白銀リザルフォスは後方へと大ジャンプをすることでそれを避けた。その上、魔物は後ろへと下がりながら、今度はバナーヌに向けて例の水鉄砲を放ってきた。

 

 バナーヌはそれを冷静に避けた。彼女の隣の地面に、ビチャビチャと音を立てて白濁した液体が着弾した。

 

 彼女は、ふっと頭を下げた。その直後、鋭い風切り音と共に三又ブーメランがバナーヌの頭上を飛び去っていった。もし避けなければ、彼女の首はそっくりそのまま地面に落ちていたことだろう。

 

 目を上げて、バナーヌは魔物を見た。白銀リザルフォスは、返ってきた三又ブーメランを得意げにキャッチした。魔物は、今度は何を企んでいるのか、背鎧の下から何かを取り出そうとした。バナーヌは牽制で矢を放った。しかし、それも軽いサイドステップで(かわ)されてしまった。

 

 魔物は鳴き声を上げた。

 

「ギョギョギョ!! ギョギョギョ!!」

 

 魔物が取り出したものは、あまりにも巨大なブーメランだった。夕陽を受けて鈍く輝くそれは、確かにブーメランの形をしていたが、その作りはあまりにもぶ厚く頑丈で、立派過ぎた。とても人の手で扱えるとは思えないものだった。

 

 そう、人の手ならばきっと扱えない。だが、扱う者が魔物であるならば、そのビッグブーメランは、さながら冬の雪山の吹雪の如き威力を発揮するのだった。

 

 白銀リザルフォスは、大きく振りかぶって三又ブーメランを投げたあと、さらにビッグブーメランを両手で抱えて、全身を使ってそれを空中へと放り投げた。

 

 身動きの取れないテッポは、叫ぶしかなかった。

 

「バナーヌ! ()けて!」

 

 バナーヌに、二つの鋼鉄の殺意が飛来した。彼女は短く掛け声を発した。

 

「ふっ!」

 

 バナーヌは軽くしゃがんで高速で飛んでくる三又リザルブーメランを避けた。次に彼女は大きく垂直に跳んで、重々しい音を立てて飛んでくるビッグブーメランをやり過ごした。

 

 そして、彼女のほうも行動を起こした。彼女はポーチから疾風のブーメランを取り出すと、それを無造作に放り投げた。彼女は何らかの考えに基づいて、予め決めておいたポイントへとそれを投げたようだったが、そこは白銀リザルフォスにも、白銀リザルフォスが投げた武器からも、遠く離れたところだった。

 

 テッポは叫んだ。

 

「どこに投げてるの!?」

 

 しかも、なんということであろうか、バナーヌはポーチからバナナを取り出し、ムシャムシャという音も立てずに、大量に早食いを始めた。

 

「ギョッ!?」

 

 奇怪な行動に白銀リザルフォスは首をかしげた。

 

 テッポも見かねたように言った。

 

「バナーヌ! 何こんな時にバナナ食べてるのよ! 次が来るわ、避けて!」

 

 しかし、バナーヌは動かなかった。バナナをもう一本食べ終わった後、彼女は目を閉じた。手に印を結んで、彼女はじっとそこに佇んでいた。

 

 バナーヌの背後に大小二つのブーメランが迫った。しかし、なおもバナーヌは動かなかった。

 

 テッポが悲痛な声で言った。

 

「バナーヌ!」

 

 次の瞬間、三又ブーメランがバナーヌの首を、ビッグブーメランがバナーヌの胴体を真っ二つにした。白銀リザルフォスは快哉の叫びをあげた。

 

「ギャオオオオオオ!!!!」

 

 テッポは絶望の悲鳴を上げた。

 

「バナーヌ!!」

 

 テッポの頭脳は、混乱の渦中にあった。まさか、強かったバナーヌがこんなにあっさりやられちゃうなんて……! あんなに無残に首と胴体を両断されて……えっ、両断……?

 

 もう一度、テッポはバナーヌが死んだ場所を見た。そこには人間の首も胴も、血痕すらもなかった。そこには、今までなかったはずの青リザルフォスの残骸が散乱していた。

 

「あっ!」

 

 そう叫んで、テッポはバナーヌが先ほど白いブーメランを投げた先を見た。そこには、バナーヌを殺した後に飛んでいったはずの三又リザルブーメランとビッグブーメランが、何かの気流に捕らえられたかのように、いつまで経っても地面に落ちずに空中でぐるぐると飛んでいた。

 

 テッポは声を漏らした。

 

「まさか!」

 

 今度は、彼女は白銀リザルフォスを見た。ちょうど、彼女と魔物の目が合った。

 

「ギャオ……」

 

 ひとしきり勝利の雄叫びを上げたあと、白銀リザルフォスはテッポににじり寄って来た。今度こそ魔物は、テッポの幼く柔らかい肉を心ゆくまで堪能するつもりらしかった。魔物は大きな口を開けた。牙が光っていた。

 

 その背後に、いつの間にかバナーヌが立っていた。彼女は言った。

 

「食らえ」

 

 バナーヌは首刈り刀を横薙ぎに払った。白銀リザルフォスの両足は、中ほどから真っ二つに切断された。直後、その巨大な体躯は地面へと墜落した。

 

「ギャオオォォッ!?」

 

 突然の激痛に襲われた白銀リザルフォスは、声も枯れ果てんばかりの大絶叫を上げた。それでも、生意気な敵対者にせめて一矢報いんとして、彼は両腕を使って立ち上がろうとした。

 

 バナーヌは、いつの間にか彼女の手のうちに戻ってきていた疾風のブーメランを、もう一度投げた。三又リザルブーメランとビッグブーメランが滞留している空間に疾風のブーメランは再度速やかに到達すると、風の檻からそれらを解き放って、持ち主の元へと返してやった。

 

 バナーヌが死刑宣告のように感情を込めない声で言った。

 

「トドメだ」

 

 魔物の喉から声が漏れた。

 

「ゲッ」

 

 白銀リザルフォスは目を大きく見開いた。ヒュルヒュルという風切り音と共に帰ってきた三又リザルブーメランは、白銀リザルフォスの両腕を切り裂いた。同時に帰ってきたビッグブーメランが、その太い胴体の腰を見事に切り裂いた。

 

 白銀リザルフォスの胴体から、青黒い血液が噴水のように噴き上がった。

 

「グェエエエッ!!」

 

 断末魔の叫びの後、魔物はばったりと地面に倒れた。バナーヌがつま先で魔物の顔を蹴飛ばした。長い舌を口から伸ばしたままぐったりと、白銀リザルフォスはピクリとも動かなくなった。

 

 短く感情を込めない声で、バナーヌは言った。

 

「戦闘終了」

 

 テッポは、呆然とそれを見ていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 テッポは興奮していた。彼女は捲し立てるように言った。

 

「さっきの戦闘、一体なんだったのよ! バナナ食べたり、変な道具を使ったり、いきなりヤツの背後にいたり……お願い、説明して!」

 

 テッポに張り付いた粘着液を水筒の水で丁寧に洗いながら、バナーヌはぽつりぽつりと質問に答え始めた。

 

 粘着液を放ってテッポの動きを封じ、こちらの数の上での有利を奪ったところからも見ても、白銀リザルフォスが戦闘慣れしているのは明らかだった。それゆえ、長期戦になるとこちらに損害が出かねないとバナーヌは判断した。

 

 ゆえに、奇策を用いた上で、早めに決着へ持って行く必要があった。そうバナーヌは言った。テッポは感心したように言った。

 

「それで『変わり身』と、瞬間移動術の『ゾタエ・オチノリ』を使ったのね。じゃあ、バナナを食べたのはなんで?」

 

 平然としてバナーヌは答えた。

 

「油断を誘うためだ」

 

 本当かなぁ、とテッポは思った。本当はただ、バナナを食べたかっただけなんじゃ……その時、液体を拭うバナーヌの手拭いが、テッポのなだらかな胸の膨らみの先端に当たった。テッポは変な声をあげてしまった。

 

「きゃあっ! ちょっ、そこは良いから! そこは自分でやるわ!」

 

 恥ずかしさをごまかすように、テッポはまた質問した。

 

「それから、あの白いブーメランはなんなの?」

 

 バナーヌは短く答えた。

 

「不思議アイテムだ」

 

 バナーヌは多くを語らなかった。それはどうやら、風を操るブーメランのようだった。あれだけの気流を操作できるアイテムなんて……テッポはそんなアイテムの話をこれまで聞いたことがなかった。

 

 今度は、テッポの膝の間へバナーヌの手が伸びた。バナーヌは言った。

 

「ここを拭けば、もう終わり」

 

 テッポは変な声をあげてしまった。

 

「ひゃうっ!? ちょっ、ちょっと! やめて! はず、恥ずかしいじゃない! 自分でできるから! もう!」

 

 テッポはまた顔を赤らめた。彼女は、甲斐甲斐しく自分の体を清めてくれているバナーヌの横顔を見つめた。戦闘の後だというのに、バナーヌは汗一筋も流していなかった。その氷のような美貌は無表情で、長いまつげに守られたサファイア色の両目は不思議なほどに綺麗に澄んでいた。ふわりと、金髪のポニーテールが風に揺れていた。

 

 テッポは、なんとなく口にしていた。

 

「綺麗ね……」

 

 バナーヌは答えた。

 

「何が?」

 

 バナーヌの返答に、テッポは慌ててごまかしの言葉を返した。

 

「な、なんでもないわよ! それより、ほら、もう動けるようになったわ! ありがとう! それで、あともう一つやらないといけないことがあるわね……」

 

 そう言うと、テッポは右手に首刈り刀を持ち、左手にヒンヤリメロンほどのサイズの爆弾を持って、胴体を切り裂かれて瀕死の状態になっている白銀リザルフォスのもとへと近寄っていった。

 

 テッポは恨みの感情のこもった低い声で言った。

 

「こいつ……よくも私を……」

 

 テッポは、血塗れの白銀リザルフォスを見下ろしていた。だんだん先ほどの恐怖と屈辱を思い出してきたのだろうか、テッポの頬は上気して赤く染まった。彼女の目は潤んでいた。

 

 白銀リザルフォスが、力なく声を上げた。

 

「グ、グェエエエ……」

 

 その声を聞いて、テッポはビクリと肩を震わせた。だが、次の瞬間には彼女は白銀リザルフォスを睨みつけていた。彼女は言った。

 

「さっきは、よくも私を舐め回してくれたわね……魔物の分際で、よくも私を辱めてくれたわね……」

 

 テッポの体が小刻みに揺れていた。溢れ出る怒りの情動が彼女の全身を動かしていた。しかし、その目には涙がいっぱいに浮かんでいた。

 

 僅かに声へ怪訝な調子を含ませて、バナーヌが言った。

 

「何をする気だ」

 

 テッポは、白銀リザルフォスの頭を思い切り蹴り飛ばすと、爆弾を持った左手を振りかぶって言った。

 

「こうするのよっ!」

 

 リザルフォスの胴体にぱっくりと口を開けている裂傷に、テッポは爆弾を押し込もうとした。魔物が悲鳴をあげた。

 

「グェッ!!」

 

 しかし、バナーヌは腕を掴んでそれを止めた。バナーヌはテッポに、諭すように言った。

 

「もういい。こいつは(じき)に死ぬ」

 

 テッポは答えた。

 

「……うん。うん」

 

 しばらく、(すす)り泣くような声があたりに小さく響いた。バナーヌは、優しくそっとテッポの背中を撫でてやった。

 

 涙を拭うと、テッポは白銀リザルフォスへ視線を向け、そしてまた視線をそらした。テッポは言った。

 

「行きましょう、バナーヌ」

 

 だが、バナーヌは首を左右に振った。彼女は言った。

 

「いや、ダメだ。最後まで確認しろ」

 

 昼までは赤ボコブリンたちの死にも心を揺るがせ、一般人たちをも助けようという優しい心を持っていたのに、恐怖と屈辱を受けただけで、幼い少女が傷口に爆弾を押し込むような残虐な真似ができるようになるのか? バナーヌは、一瞬そんなことを考えた。

 

 だが、バナーヌはその考えを打ち切った。この時代と、この時代を生きる方法、そして所属し忠誠を誓う組織、それらによって、人の生き方は否応なしに変わるものだ。テッポの態度は、イーガ団員としては至極まっとうだ。テッポは非の打ち所のない、将来有望な、理想的なイーガ団員だ。そう、イーガ団員としては……では、人間としては? バナーヌには、その答えは出せなかった。

 

 ほどなくして、白銀リザルフォスの目から光が消えた。その体は黒ずんで風化し始めた。

 

 テッポが、溜息をついた。

 

「……終わったわね……さあ、行きましょ」

 

 バナーヌは軽く首肯した。

 

「ああ」

 

 二人は静かにそこから立ち去ると、ハイリア湖へ向けて歩を進めた。

 

 街道には、リザルフォスたちの夢の跡が広がっていた。日は、すでに地平線の下へ姿を消していた。




 今回もかなりの難産でした。もっとバナーヌとテッポとが連携を取り合って白銀リザルフォスを翻弄するような戦いを描きたかったのですが、最終的にこのような形になりました。
 ガノレー君は前から出したいと思っていたキャラです。明らかに死への一直線を辿っているのに不思議と死なない彼は、いつも平原外れの馬宿付近でボコブリンに襲われています。ブレスオブザワイルドの楽しみの一つとしてランダムエンカウントの旅人たちがいますが、ガノレー君はその中でも特に私のお気に入りです。

※リザルフォスのブーメランの投擲について修正しました。(2018/08/05/日)
※加筆修正しました。(2023/05/08/月)


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第二十九話 狂気

 一人、山野を行く。太陽を背に受けて、細い木の枝を杖にして、とぼとぼと悲しげに、その旅人は孤独な旅路を黙々と行く。

 

 晴れ渡る曠野(こうや)にはヤギや野馬が悠然と闊歩し、小鳥が楽しげにさえずっている。しかし、そこにいる人間は、ただその旅人が一人だけである。

 

 黄金の三大神によって世界が生まれた直後の人間の姿とは、つまるところ、こういったものであったのかもしれない。仲間も友もおらず、仕えるべき主君も、己に(かしず)く下僕もいない。孤影は悄然とただ歩を進める。あてどもなく人は彷徨(ほうこう)し、いつしか力尽きて、ほろほろ滅びゆくその時まで歩き続ける。

 

 時たま、その人は他の人と出会うこともあっただろう。しかし、そんな時に発する言葉は二つしかなかった。「こんにちは」、そして「さようなら」 会釈し、手を振って、互いに背を向けて彼らはまた黙々と歩き始める。

 

 寂しいと思うだろうか? 孤独だと思うだろうか? 人に友はなく、連れもなく、美しい朝日を前にして誰かと共に(たん)じることもない。人は誰かと一つの果物を分け合うこともなく、寒さをしのぐ寝床で共に抱き合って温もりを交わすこともない。

 

 これを孤独といわずして何というのか?

 

 だが旅人たちは、同時に自由でもあった。なぜなら、彼らは彼らのために生きていたからである。彼らの足は彼らのための道を歩み、彼らの手は彼らのために水を(すく)い、彼らの心は彼らのことのみを考えていた。

 

 次第に世界は広がり、人はその数を増やした。地に満ちよ、地を覆えよ、人は地にて生き、地にて死ぬ者なり。神々は、そう言っているようだった。

 

 いつしか、人は群れるようになった。人は肩を寄せ合い、共に(すき)(くわ)を振るい、食べ物を分け合うようになった。人は同じ言葉を話し、同じものを見つめるようになった。

 

 いつしか、人は(あい)争うようになった。人は人と隊伍を組み、弓矢を射掛け、剣と槍で魔物を、時には人を切り刻むようになった。勝者は(ほしいまま)に敗者を陵辱した。敗者は奴隷となって命を繋ぐようになった。

 

 戦に勝ち、隷属を免れるために、人は優秀な指導者を求めるようになった。神々と心を通わせ、暦を作り、生贄を捧げ、法と律を定め、そして何より、敵を滅ぼし、勝利を得ることができるような存在、それを心の底から求めるようになった。

 

 人を統べること、人を支配すること、他人の自由を我が物とすること、これらはまさに、指導者の特技にして特徴であった。それはあたかもパン屋がパンを焼き、鍛冶屋が鋼を鍛えることと同様であった。

 

 その特技に操られて、人は、指導者のために自由を投げ出すようになった。その足は命ぜられるままに動くようになり、その手は自分が口をつけることは決して許されぬ盃を運ぶようになり、その心は指導者の言葉で満たされるようになった。

 

 彼らは嘆いただろうか? 自由を失って誰か他人の、なかんずく指導者のために生きなければならなくなったことを、彼らは「取り返しのつかないことになった」と言って、泣き叫んだだろうか?

 

 そうではなかった。人は、喜んで自分の自由を差し出したのに違いなかった。人が生まれながらにして持っている、決して侵されることのない、いかなる金銀財宝よりも貴い財産であるはずの自由を、人は指導者へ喜々として差し出したのだ。

 

 それは、ある種の狂気であったといって差し支えないだろう。

 

 命と同等に貴重なものを、晴れ晴れとした表情で他人に譲り渡す。それを狂気と呼ばずして何と呼ぶのか?

 

 そして、狂ったからこそ、人はこの地上に王国を作ることができたともいえる。自由を侵されまいとして指導者を求め、逆にその指導者へ自由を差し出し、あえて狂気に堕ちることによって、人は、独力では到底不可能な大事業をいくつも興した。ついに人は、魔の一族と厄災すら、永劫とも思える一万年の長きに渡って地の奥底へ封じ込めることができた。

 

 百年前、王国は滅び去った。狂気は去り、人は、正気に戻った。人はまた、自由を己のためだけに用いるようになった。人はもう誰かの定めた道を歩くことも、誰かの荷物を運ぶこともない。自由で、孤独で、ちょっと寂しい旅を人はする。時に厳しく時に優しい、野生の息吹に満ちた自由な旅に、人は身を投じる。

 

 たとえその旅の終着点が、姫巫女の力が尽き、大厄災が再復活することでもたらされる決定的な滅びであるとしても、人がその歩みを止めることは決してない。

 

 だが、いつの時代でも流行に遅れた「(ニブ)い」者たちがいるものである。自由な足取りで軽やかに弾みつつ進んでいく旅人たちを後目(しりめ)に、ひたいに汗を流して荷物を運び、上位者の罵声に耐え、生きることも死ぬことも自分では選ぶことすらできない、哀れにも狂気にとらわれた連中が、今、ハイリア湖畔で何かを密かに運ぼうとしている。

 

 彼らが己の自由と正気とを引き換えにして運ぶものは、黄金に輝く生命の果実である。それはすなわち、輸送馬車三台分のツルギバナナ、一万本のツルギバナナである。

 

 

☆☆☆

 

 

 オレンジ色と紫色の見事なグラデーションがほどこされた夕焼けの空のスクリーンは、主役の太陽が舞台を去ったことで、星々が(きら)めく夜空のスクリーンへといつの間にか交換されていた。

 

 肌寒い風が吹き抜ける薄暗い街道を、二つの影が音もなく走っていた。先頭をゆく大きな影はバナーヌであった。後方を走る小さな影はテッポであった。

 

 白銀リザルフォスたちとの戦いから半時間ほどが経っていた。黙々と、会話もなく、二人は脇目も振らずに走り続けた。

 

 だが、ここに来てバナーヌが急に立ち止まった。

 

「ふぎゅっ!?」

 

 ピッタリと後ろについて走っていたテッポはブレーキをかけるのが間に合わず、走っていた勢いそのままにバナーヌの背面へと追突した。バナーヌの臀部(でんぶ)にボヨンと弾き飛ばされて、テッポは情けない声を上げた。

 

 だがバナーヌはテッポがぶつかった衝撃に対して、微動だにしなかった。彼女はちらりと後ろを振り返ると、短く、あまり興味のなさそうな声で、テッポへ言った。

 

「大丈夫か」

 

 ぶつかって赤くなった鼻を抑えながら、薄く涙目になったテッポは抗議をした。

 

「いたた……もう、大丈夫じゃないわよ! 急に止まるなんて、もうちょっと後方への注意と気遣いをして欲しいわ! あいたたた……もう、このせいで鼻が低くなったらどうしてくれるのよ……」

 

 ぶつぶつとテッポは文句を言った。それを聞いているのかいないのか、バナーヌは前方へ指をさした。彼女は言った。

 

「あれを見ろ」

 

 鼻をさすりながらテッポが答えた。

 

「あれって何よ……あっ!」

 

 テッポが喜びの感情の混ざった声を上げた。

 

「あれはハイリア大橋の塔門! やった、ここまで来られたのね!」

 

 二人は共に視線をやや上にあげて、ハイリア大橋の入り口を成す、やや崩れかかった塔状の巨大な建造物を眺めた。テッポは溜息をついた。

 

「ふぅ……」

 

 テッポはバナーヌへ顔を向けた。その顔は、今までの疲労や不満もなんとやらというように、安堵の色をありありと浮かべていた。テッポは言った。

 

「ああ、長かった……やっとここまで辿り着いたわ。昨日の夜にシーカー族を追いかけた時は、暗かったし興奮していたしで周りの様子がよく分からなかったけど、こうして改めて見てみるとハイリア大橋ってその名前のとおり大きいのね」

 

 テッポはじっくりと橋を観察し始めた。一方、バナーヌはさして橋に興味を持っていなかった。その無表情とは裏腹に、彼女の心の中はある疑念が渦巻いていた。

 

 輸送馬車は、いったい何処(どこ)にいるんだ? 見たところ、この近くのどこにもいないが。

 

 朝、グンゼから聞いた情報では、輸送指揮官サンベは負傷した馬の替えの調達を部下に命じ、グンゼにはテッポの捜索と平原外れの馬宿への連絡を命じたという。代替の馬をどこから調達するのかは分からないが、それにはそれなりに時間がかかるはずだ。いずれにせよ輸送馬車は、今この時間になっても未だ万全の状態ではないだろう。それは彼女にも予想できた。

 

 だがそれでも、まったくその場から動けないということはないだろう。彼女はそう思った。十二頭の馬のうち、行動不能になったのは三頭とのことだ。動力の四分の一を失ったとはいえ、それでも四分の三は残っているのだから、まったく馬車が動かせないということはないはずだ。

 

 だから、バナーヌとしては、輸送馬車はとっくにハイリア大橋を渡ってこちら側に来ているだろうと思っていたのだった。そういう目算があればこそ、白銀リザルフォスたちにテッポと二人だけで攻撃をかけたわけだし、連続する戦闘でかなり疲労した体をおして暗い街道をひた走ってきたのである。

 

 それが、ここに来ても輸送馬車の車列はどこにも見えない。バナーヌの疑問は尽きなかった。いったい、サンベとかいう指揮官は何をしているのだろうか? まさか襲撃を受けた地点から一歩も動いていないのでは? いやいや、まさか……もしそうだとしたら、サンベはグンゼの話から想像できる以上の、とんでもない大馬鹿者なのではないか……?

 

 思わずバナーヌの口から、疑念が声となって漏れ出た。

 

「むぅ」

 

 それを聞いたテッポが、不思議そうな顔をしてバナーヌを見た。テッポは問いかけた。

 

「どうしたの? なにか気になることがあるの?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「いや」

 

 バナーヌは、考えを打ち切った。まあ、とにかく、ハイリア大橋を渡れば良いだけの話だ。それに、サンベが優秀か、それとも優秀ではないかという問題など、直属の部下ではない自分がいくら考えたところで無意味である。

 

 彼女はテッポに向かって口を開いた。

 

「行こう」

 

 テッポは頷いた。

 

「ええ!」

 

 二人は、ハイリア大橋入口に通じるゆるやかな坂道を、駆け上がり始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ハイリア湖。随一の面積と貯水量を誇り、「ハイラルの水瓶(みずがめ)」と呼ばれるこの大きな湖は、かつては王国一の水運と漁業の拠点であった。また、この湖は、古くから様々な伝説や言い伝えの舞台となってきた。

 

 例えば、ゾーラの姫君の物語がある。悪しき者によってゾーラの里を氷漬けにされた姫君は、故郷と民を救うために、自らの危険も顧みずに元凶の巣食う水の神殿へ乗り込み、勇者と力を合わせてそれを成敗したといわれている。その物語は、現在でもゾーラ族の間で連綿と語り継がれている。

 

 他には、巨大な光る虫の伝説がある。ゾーラの姫君の物語とは別の時代の、別の勇者が、呪いによって姿を狼に変えられつつも、湖上で襲いかかってくる巨大で醜悪な光る虫を打ち倒したと伝えられている。

 

 だが、この時代にあって、それらの話よりももっと頻繁に人々の話題に上がり、もっと広くひろまっている言い伝えがある。

 

 それは、龍の伝説である。

 

 言い伝えによれば、その龍は日が暮れてから湖に現れる。龍は、神々しく光る黄金の鱗に身を包んでおり、烈風と電光を纏っている。龍は、その力強く巨大な体を空中で優雅に踊らせて、フィローネの夜空を泳ぎ回る。その大きさは人間の三百倍はあり、山を七巻きするほどに長い。だが、それほどの大きさであるにもかかわらず、その龍を見ることができるのは、幼い者や心が澄んでいる者、もしくは勇者のように心が正しい者に限られる。そういう言い伝えだった。

 

 王国が健在だった頃、この龍の伝説はしばしば、ゴシップ記事を書く記者たちや一獲千金を狙う山師たちの、格好のネタとなった。

 

 ゴシップ記事の記者たちは話術巧みに地元の漁師を騙して誘導し、彼らが望んでいるとおりの証言を引き出した。あるいは彼らは、そもそも存在すらしていないゾーラ族の証言を捏造するなどした。そして、彼らはその証言をもとにして、盛んに三文記事を量産したのだった。

 

 記事の見出しは以下のようなものだった。

 

「ついに出た『ハイリア湖の龍』実在の決定的証拠! これがその(うろこ)だ!」

「漁師が証言! 『おらの舟百艘分はあっただ』、『戦列艦よりも大きい』 漁労長立ち会いのインタビュー!」

「ゾーラ族の神父、神に誓って証言! 『龍ハ、存在シマース。確カニ、私ハ、ソレヲ見タカラデース』」

 

 記事の内容は以下のようなものだった。

 

「昨今、王国を悩まし騒がしている一つの噂がある。それは、『ハイリア湖の大龍』の噂である。識者の間では、その龍は『フィローネ地方に古くから棲まう勇気の泉の使者』であり、また『雷の精霊』であるともいわれているが、今回の目撃者によるとその姿は巨大にして醜悪であり、とても精霊などと呼べるものではなかったという」

 

「……(中略)……地元漁師のクンチル氏(35歳独身)は語った。『おぞけをふるいましただ。その日は大漁だっただもんで、片付けが夜になっちまったんだけど、ふと強い風が吹いてきたんで、そっちへ目をやったら、そこには空飛ぶドでかいトカゲがいただ。おらもうびっくりしちまって、食われるんじゃないかと思うと、もうクルリンパッとブルブル体が震えて……』」

 

「……(中略)……読者諸君! もし(くだん)の龍が識者の先生方の仰るとおり、神聖なる勇気の泉の使者であるというのならば、なぜこの素朴にして善良なる漁師クンチル氏は(おびや)かされなければならなかったのだろうか? 人に危害を加えようとする存在は、決して神聖な存在とはいえないのではないか? この、邪悪であるとまでは言えないとしても、少なくとも有害ではあると言える存在に対して、政府と大臣が手をこまねいているのは明らかに職務怠慢である。それは、ひいては、王国と国王陛下に対する侮辱と言えないだろうか?……」

 

 三文記事は、どれも似たり寄ったりだった。

 

 一方で、山師たちは違うアプローチから龍の伝説を利用した。彼らは城下町の大道の脇に立って、「ハイリア湖を脅かす謎の大龍」を捕まえてみせると豪語し、人々からの募金を集めた。無論、その大半は捕獲キャンペーンの名を借りた一種の寸借(すんしゃく)詐欺だった。だが、中には本気の者も何人かいた。

 

 本気で龍を捕まえようとする山師は、募金によって用意することのできた自作の捕獲装置だの、特製の武器だのを、まずは華々しく城下町の住民に披露して、それから勇躍して南へと馬車の進路をとって、「ハイリア湖の世紀の大捕物(おおとりもの)」に臨んだものだった。彼らは言った。

 

「ご覧ください! これこそは新型の半自動式投網機械であります! ゴロン族の大砲の技術と、ゾーラ族の漁具製造技術とを、ハイリア人の知恵で融合させた、まさに最新鋭の秘密兵器であります! 砲弾として発射される網は空中で一瞬にして広がり、どんなに大きな獲物も決して逃すことはありません! 事前の実験では捕獲成功率九十四パーセントを達成しています! 次に皆様のお目にかけるのは、龍を湖底から追い出す新型の音響発生機材であります……」

 

 そのいずれもが失敗、ないしは山師の逃亡という結果に終わったのは言うまでもない。残されたのはガラクタの山だった。

 

 龍に興味を示したのは、なにもゴシップ記者や山師たちだけではなかった。歴代の王や貴族の中には、「純粋に学問的な興味として」、龍の実在を確認しようとする者たちもいた。

 

 ある時代、王立アカデミーは大規模なハイリア湖調査隊を編成した。王軍は調査隊に協力して、多数の舟艇をかき集めてハイリア湖へ送り込んだ。漁師と漁船までもが動員された。長い期間にわたって龍は探し求められた。

 

 一書によるとその有様は、以下のとおりであったという。

 

「……ハイリア湖のあらゆる水面を舟が覆い尽くした。ある舟は測量をし、ある舟は鉤爪の付いた長い棒で水中を掻き混ぜ、ある舟は水中バクダンを何個も投下して盛んに爆発を起こした」

 

「(……中略……)ハイリア湖の水運は完全に麻痺し、漁業も一時的に停止された。それによって生じた経済的な損失は計り知れないものがあったが、王国の科学水準向上のためという大義名分のもとに、壮大だが無益な調査は強行された」

 

 王国と王立アカデミーの暴挙を糾弾する意図から、上の記述にいくらか事実の誇張が含まれているのは確かだろう。だが、それにしても龍の伝説がここまで多くの人を狂わせたという事実は、他の伝説と比較してもひときわ異彩を放っているといえる。

 

 龍の伝説に関連するものとして、痛ましい事件が一つ記録されている。

 

 ある男がいた。男は山育ちで腕っぷしが強く、城下町に出てきてからは数々の武術大会で優勝した。その才能を見込まれて、彼は王軍に勧誘された。彼は王軍に加わった後、周囲の期待に応えるように実力を向上させ、ついに王国騎士にまでのぼりつめた。

 

 しかし、いつの世にもその実力に比して(ねた)みや(そね)みだけが強い人間はいるもので、そういう連中にとってこの男はまさに目の上のタンコブだった。練兵場で、王城の廊下で、あるいは舞踏会の控室で、男と、男を目の仇にする連中との(いさか)いは絶えなかった。

 

 ついにある日、男にとって決定的な事件が起こってしまった。その発端そのものはいつもどおりの口論だったのだが、その内容が問題だった。

 

 もともと、男は怪異や伝説の類を信じていなかった。そんな彼はその日、普段から彼を公然と侮辱してやまない騎士が、訓練場の休憩室で同輩相手に得意げに、以下のような話をしているのを聞いてしまった。

 

「僕が思うに、伝説や言い伝えというものは、集団幻覚か流行り病かで正常な判断力を失った庶民共が、ただ『確かに見た』と一途に思い込んで話を作り上げ、それに後から尾鰭(おひれ)がついて大仰(おおぎょう)になったものにすぎないと思うのだよ。いわば、物語化された狂気というやつだね。なに、僕は信心深いよ。女神様の起こした奇跡の数々も確かに信じている。でもね、湖の龍などという民間伝承を端から信じるほど、頭が単純にできているわけではないのさ……」

 

 男は、この騎士の何もかもが気に入らなかった。男は、彼の言うこと為すことのすべてを否定しないではいられなかった。

 

 思わず、男は騎士の前に飛び出した。男は騎士へ、こう叫んでいた。

 

「龍はいる! ハイリア湖の龍は確かに存在する! 信仰心が足りないから、貴公は龍の存在を否定するのだ! 俺がこれから湖に行って龍に矢を射かけ、その(うろこ)を一枚でも十枚でも剥いで御覧に入れる!」

 

 何を馬鹿なと最初は笑っていた騎士だったが、信仰心が薄いと言われては黙っていられなかった。「それならやってみろ」と騎士は言い、それだけではなく秘蔵の「王家の弓」を男に渡した。そして騎士は男に、「もし龍の鱗を持ってこれなかった場合は騎士の身分を捨てて山に帰ると誓え」と迫った。

 

 仲裁に入る者がいないでもなかったが、結局、男と騎士は互いに言葉を引っ込めることはなかった。その日のうちに、男は全速力で王城からハイリア湖へ向かった。雷雨の中、従者も連れず、男はたった一人で「龍退治」へ行ってしまったのだった。

 

 男が出発してから、三日経ち、五日経ち、一週間が経った。男は帰ってくるどころか、知らせのひとつすら寄越さなかった。(くだん)の騎士は、「どうせ龍が見つからなかったから逃げ出したのだろう」と嘲笑っていた。

 

 だが、十日目になって事態は意外な展開を見せた。男は死んでいた。男の死体が、漁師によって湖の水中から見つけ出されたのであった。

 

 投網に絡まって水上へと引き揚げられた男の死体は、不思議なことについ先ほど死んだかのように、綺麗なままだった。男は腰には短剣を下げていたが、矢筒の中は空だった。持っていたはずの王家の弓はどこにも見当たらなかった。

 

 さらに不可解だったのは、男の死因であった。医師が検死をしたところ、服の下の男の皮膚には全身焼け爛れたような傷が走っていた。それは電気の矢で射られた場合の傷と酷似していた。また、男の肺に水は入っていなかった。したがって、死因は溺死ではないと判定された。おそらく男は、強い電気の力を受けて心臓の活動が停止し、そのまま湖に落下したものと推定された。

 

 この不思議な死の噂は、瞬く間に城下町中に広まった。お定まりのパターンで、あることないことが付け加えられて話はどんどん膨らみ、しまいには「男は龍の祟りで死んだのだ」ということになってしまった。

 

 噂話は、時の国王の耳にも届いた。事情を調べさせた国王は、これ以上優秀な騎士が言い伝えの真偽の確認などというつまらぬことで事故死をすることを(がえ)んぜず、「ハイリア湖の大龍は精霊の一種であり、人が干渉することは許されない」という解釈を神官団から引き出して、この一件の始末をつけてしまった。

 

 以来、大厄災に至るまで、龍の噂を確かめようとする剛毅(ごうき)な者は一切いなくなったという。

 

 

☆☆☆

 

 

「……ナーヌ……」

 

 声がした。優しくて、懐かしい、小鈴を転がしたような可愛らしい声だった。

 

「……バナーヌ。ねぇ、バナーヌ」

 

 はっとして、バナーヌは目を見開いた。視界に飛び込んできたのは、抜けるような青さの大空と、瑞々しい緑の大樹だった。彼女は背中に湿った土の感触を覚えた。若草の青臭さが彼女の鼻をついた。どうやら、彼女は仰向けで横になっていたようだった。

 

 また声がした。

 

「バナーヌ! やっと起きてくれた」

 

 彼女は隣を見た。そこには、ノチがいた。ノチの可愛らしい顔は柔らかな日差しに照らされていて、薄暗い木陰の中でもはっきりと見ることができた。

 

 ノチは、背中を大樹の幹に預けていた。桜色のワンピースに、真っ白なエプロンをノチは身に着けていた。ノチは大きなバスケットを両腕で抱えていた。バスケットの中には、飲み物や食べ物の包みが入っていた。ノチの綺麗な短い黒髪には、いつ何処(どこ)で手に入れたのか、黄金のバナナの房があしらわれた(かんざし)が刺さっていた。

 

 どういう状況だ、これは? バナーヌはそう思ったが、とりあえず彼女はノチにいつもどおり挨拶をすることにした。

 

「おはよう、ノチ」

 

 しかし、声がおかしかった。いつもよりも少し高いようだった。まるで、何年か前の自分の声のような……? そういう違和感をバナーヌは覚えた。

 

 ノチがにっこりと笑って答えた。

 

「おはよう、バナーヌ」

 

 ノチは目線でもって、バナーヌにその体を確認するよう促してきた。彼女は自分の体を見た。すらりと細長かった手足は短くなっていて、肌は更に幼く白くなっていた。大きかったはずの胸はいくらか小さくなっていた。

 

 ああ、そうか。バナーヌは悟った。これは、夢だ。まだ幼かったいつかの日、休みのときに、ノチと一緒にピクニックへ行った時の記憶だ……

 

 いや、待て。バナーヌは考え直した。そんな日など、そんな記憶など、本当にあったっけ? 小さかった頃に、二人だけで遊びに出掛けたことなど本当にあったっけ? ピクニックに行く自由なんて幼い頃の自分たちにはなかったはずだし、今もない。今見ているのは、幻覚かなにかなのではないだろうか? バナーヌは疑問を抱いた。

 

 その時、バスケットを脇に置いたノチが、子猫のようにバナーヌに擦り寄ってきた。花の香りのように快い匂いが、バナーヌの鼻をくすぐった。

 

 ノチはすぐ隣に寝転ぶと、甘えるように頭をバナーヌの右腕に乗せた。ノチはその手をそっと、バナーヌの腹の上に乗せた。ノチは言った。

 

「ふふ。バナーヌったら、食いしん坊だね。あれだけの量をあっという間に食べちゃった。たから、眠くなっちゃったのかな? せっかく一緒に遊びにきたのに、私を残してひとりだけお昼寝なんてひどいよ」

 

 それはひどい話だ、とバナーヌは思った。バナーヌは謝った。

 

「ごめん」 

 

 ノチはバナーヌの腹を人差し指でちょんちょんとつついて言った。

 

「もう、本当にごめんって思ってないでしょ! 一人だけで寝ちゃうの、今回が初めてじゃないし……」

 

 やっぱりノチには勝てないな。バナーヌは、また謝ることにした。

 

「ごめん。今から一緒に遊ぼう」

 

 すると、ノチは手を上げて、空に浮かぶ雲へ指をさした。ノチは言った。

 

「じゃあ、連想ゲームをしましょ! 雲の形が何に見えるか、バナーヌが答えてね」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「よし」

 

 記憶がなくとも良い。これが幻覚でもかまわない。こんな穏やかな時間を、親友と一緒に過ごせるのならば、幻覚にだって身を任せよう。バナーヌはそう思った。

 

 二人の少女は、睦まじく寄り添いながら、他愛もないゲームに興じ始めた。ノチが雲を(ゆび)さして、尋ねた。

 

「あれは?」

 

 バナーヌはすぐに答えた。

 

「ツルギバナナ」

 

 ノチは別の雲を()した。

 

「それじゃ、あれは?」

 

 バナーヌは数秒だけ考えてから答えた。

 

「粗悪品の焼きバナナ」

 

 ノチは感心したような声をあげた。

 

「ふーん、なるほどねぇ。じゃあ、あれは?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「高級ツルギバナナ一房、五本」

 

 ノチはちょっとだけ首を(かし)げた。

 

「えー、そうかなー? うーん、じゃあ、あれは?」

 

 バナーヌはだんだんネタ切れになってきているのを感じていた。それでも彼女は答えた。

 

「バナナの果実煮込み」

 

 ノチは首を左右に振った。

 

「私にはあげバナナに見えるなー。それじゃあ、他には……あっ、あの細長いのはどう?」

 

 バナーヌは目を凝らした。その雲は細長かった。かと言って、特にひ弱な感じでもなかった。むしろその雲は生き物のように力強くて、おまけに頭からは長い角が伸びていた。胴体には腕と脚が生えているように見えた。

 

 少し考えたあと、バナーヌは言った。

 

「あれは……龍みたいなバナナかな」

 

 ノチは、ぷっと吹き出した。

 

「あっははは、バナーヌったらおかしいね! 龍みたいなバナナなんて! なんでもかんでもバナナに見えちゃうなんて、もしかしたらバナーヌは、バナナの神様に魅入られてるのかもね……」

 

 急に、ノチが半身を起こした。彼女は寝そべっているバナーヌの顔を覗き込んできた。

 

 優しく言い聞かせるような口調で、ノチは言った。

 

「……そろそろ起きて。テッポが呼んでるよ」

 

 バナーヌは、疑問に思った。なぜノチがテッポという名前を知っているんだ? だが、彼女は何も言えなかった。彼女の喉から声は出てこなかった。

 

 声ばかりではなかった。金縛りにあったように、彼女の全身はまったく動かなかった。頭も、わずかに左右に振ることすらできなかった。

 

 視界は、いつの間にか黒い闇に沈んでいた。青空も白い雲も、バスケットも緑の大樹も、もはや何も見えなかった。すぐそばに居てくれたはずのノチすら、もうどこにも見えなかった。

 

 突然、洞窟の中で反響しているような、何かの声が聞こえてきた。

 

「……ナーヌ……バナーヌ……バナーヌ……!」

 

 バナーヌは、体に衝撃を感じた。どうやら誰かがゆさゆさと、彼女の両肩を揺さぶっているようだった。また声が聞こえた。

 

「……バナーヌ! バナーヌ! 起きて! 起きなさい!」

 

 バナーヌは視線だけを動かして空を見上げた。暗黒の空には、紫色の雲が高速で渦を巻いていた。その周りに、無数の黄緑色の稲妻が走っていた。不思議なことに、風の音と雷鳴は聞こえなかった。

 

 その大嵐の中を、大きな大きな、見たこともないほどに長いバナナが、天高く昇っていった。バナーヌは気付いた。いや、あれはバナナではない。あれはバナナのような、大きな龍だ。あれだけ大きなバナナだったら、きっとものすごく食べ応えがあるだろうが……

 

 その瞬間、龍が頭を巡らせた。龍はバナーヌを睨んできた。剣のように鋭い眼光が、彼女の網膜を貫いた。

 

 またもや声が響いた。

 

「バナーヌ! 起きなさいったら!」

 

 バチッと静電気の爆ぜるような音を立てて、バナーヌの意識が覚醒した。

 

 彼女の目の前には、心配そうな顔をしたテッポがいた。

 

 

☆☆☆

 

 

「バナーヌ! バナーヌ! 起きて、起きなさい!」

 

 テッポは焦っていた。意識を失って倒れているバナーヌを抱きながら、テッポは必死になって呼びかけ続けた。テッポはバナーヌの肩を掴んでゆさゆさとゆさぶり、ペチペチと頬を叩いた。

 

 ひたいを流れる一筋の冷や汗を手の甲で拭くと、テッポは誰にともなくひとりごちた。

 

「ああ……どうして、なんでこんなことになったのかしら……」

 

 つい十分ほど前までは、順調そのものだったのだ。ここまでの道のりと同じく、バナーヌが先頭になりテッポがその後ろに付く形で、二人は一気にハイリア大橋を駆け抜けようとしていた。

 

 橋の上は逃げ場がない。それに加えて、今は夜だった。曇りがちだが、月は明るかった。可能性は低いが、もし魔物が潜んでいたり、シーカー族が待ち伏せなどをしていたら、二人とも手もなくやられてしまうだろう。

 

 だから橋の上は全速力で、何があっても立ち止まることなく走り抜けよう。そのように二人は取り決めたのだった。

 

 それなのにバナーヌは、途中で立ち止まってしまった。そこは橋の中ほど、噴水の遺構がある辺りだった。

 

「ふぎゅっ!?」

 

 ピッタリと後ろについて走っていたテッポはブレーキをかけるのが間に合わず、走っていた勢いそのままにバナーヌの背面へと追突し、臀部(でんぶ)にボヨンと弾き飛ばされて情けない声を上げた。

 

 思わず、テッポは抗議の声を発した。

 

「ちょっ、バナーヌ! あなた、なんで立ち止まってるのよ! ここは真っ直ぐ走り抜けるんでしょ?」

 

 だが、バナーヌはそれに答えなかった。それどころか、微動だにしなかった。バナーヌは視線を右手方向の湖面へと向けたままだった。彼女は、何かを食い入るように見つめていた。

 

 何かあるのかしら? テッポも同じ方向を見た。しかし、暗く闇に閉ざされた湖面には、何も見えなかった。テッポはバナーヌに尋ねた。

 

「どうしたのバナーヌ? 何かいるの?」

 

 この時、雲間から月が姿を見せて、バナーヌの顔を冷たく照らし出した。その表情は、まだ付き合い始めて三日にもならないテッポにすら判別できるほどの、異様なまでの緊張感を(みなぎ)らせていた。

 

 テッポは、ぶるりと身震いした。バナーヌがこれほどまでに緊張するとは、もしや、敵では? 少しばかり震えた声で、テッポは再度バナーヌに尋ねた。

 

「バナーヌ、そっちに敵がいるの?」

 

 だが、バナーヌの返事は、テッポの予想だにしないものだった。

 

「バナナだ。バナナが水から出てきて、空を泳いでいる」

 

 テッポはどこか間の抜けた声を上げた。

 

「えぇ?」

 

 テッポは初め、バナーヌが冗談を言っているのかと思った。彼女はバナーヌの顔をもう一度しっかりと見た。その真面目すぎる表情を見るとテッポは、バナーヌが冗談を言っているとはとても思えなかった。テッポは、強いて明るい声で言った。

 

「ああ、もう……おかしなことを言わないで。バナナなんてどこにもないじゃない。ねぇ、冗談はやめて、もういきましょう?」

 

 しかし、バナーヌはその場から凍りついたように動かなかった。その視線は、見えない何かを追いかけるように動いていた。バナーヌは、それを決して見逃すまいというような、ある種の殺気を放っていた。尋常な様子ではなかった。

 

 テッポは言った。

 

「ねえ、バナーヌ?」

 

 なにかに憑りつかれたような声をバナーヌは発した。

 

「バナナが、バナナが」

 

 その言葉を聞いて、テッポは(にわか)に恐怖した。バナーヌが発狂した! 彼女はそう思った。テッポは叫んだ。

 

「ねぇ、バナーヌしっかりして! 正気に戻って! ねぇ!」

 

 テッポの必死の呼びかけは、バナーヌに無視された。それどころかバナーヌは、まるで「発狂」という考えを裏付けるかのように、二連弓を構えると虚空へ向かって素早く矢を連射し始めた。

 

 異様な行動を目にして、テッポの恐怖は高まった。彼女はさらに叫んだ。

 

「何してるの!? そこには何もいないわ! ねぇ、やめて! やめてよ!」

 

 バナーヌの細い腰を掴んで、テッポは懸命に揺り動かした。しかし、全ては無駄だった。テッポはいまや、荒い呼吸をしていた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 弓のがビュンと鳴る音、放たれた二本の矢が空気を切り裂いて飛翔する音、テッポの荒い息遣い……それ以外は、何も聞こえなかった。

 

 バナーヌはなおも矢を撃ち続けていた。気が狂ってしまったように、壊れてしまったカラクリ細工のように、バナーヌは飽きもせず同じ動作を、何度も何度も繰り返していた。

 

 テッポの恐怖は、最高潮に達した。テッポは絶叫した。

 

「もうやめてぇええっ!!」

 

 恐怖に耐えかねたテッポは、朽ちた噴水の近くに落ちていた棒切れを手に取った。テッポは涙目だった。彼女は垂直に飛び上がると、バナーヌの脳天に向かって棒切れを力いっぱい振り下ろした。

 

「ぐふっ」

 

 バナーヌは、意外なほどにあっさりと意識を失った。

 

 それから十分間近くにわたって、テッポは気絶したバナーヌの意識を呼び戻すために、別の苦労をすることになった。

 

 

☆☆☆

 

 

 首を傾げながら、バナーヌが言った。

 

「頭が痛い」

 

 テッポがどこか憤然とした様子で答えた。

 

「ふん、当然よ。余計な心配をかけさせた罰だわ!……ねぇ、あなた。本当に何も覚えてないの?」

 

 テッポの問いかけに、バナーヌは短く答えた。

 

「何も」

 

 大きなたんこぶができた頭を軽く(さす)りながら、バナーヌはテッポと並んで歩いていった。彼女の頭頂部はヒリヒリと痛んだ。確か、ここはゲルドの戦士に殴られたところだったっけ? 何かの拍子で痛みが再発したのだろうか? バナーヌは(いぶか)しんだ。

 

 奇妙なのは、頭の痛みだけではなかった。バナーヌは、ハイリア大橋を走り始めてからつい数分前までの、その間の記憶が一切なかった。すっぽりと欠落していた。

 

 バナーヌはテッポにそのことを尋ねた。だがテッポは「不可抗力よ、不可抗力!」とか「バナナの食べ過ぎが原因よ!」とか、今ひとつ要領を得ない回答しか返さなかった。

 

 沈黙が、歩いていく二人を包んでいた。虫の声もカエルの声も、何も聞こえなかった。

 

 一旦、雲間に姿を隠していた月が、またそろそろと這い出てきた。月は淡い光線を下界へと振りまいた。

 

 バナーヌは、声を発した。

 

「……あれは」

 

 テッポが言った。

 

「どうしたの?」

 

 光を浴びてキラリと輝く何かを、バナーヌの視覚が捉えていた。歩を早めてバナーヌはそれに近づいた。テッポも、無言でバナーヌについてきた。

 

 かすかに輝くその何かは、橋の真ん中に落ちていた。その輝く何かはちょうど、手のひらをいっぱいに広げたような大きさだった。

 

 バナーヌはそれを拾い上げると、月光に透かすようにして眺めた。それはこの世のものと思えないほどに美しく、繊細なものだった。

 

 一緒になってそれを見ていたテッポが、口を開いた。

 

「なにかしら、これ。金属片みたいな、でも、なんというか、魚の(うろこ)みたいな……でも、こんなに大きな鱗を持つ魚なんているわけがないし……」

 

 バナーヌは、テッポにそれを手渡した。テッポは言った。

 

「軽いのにとっても硬いわね……それに、不思議な手触り……でも、透き通ってて、すごく綺麗ね」

 

 テッポは、壊れ物を扱うような手つきで、そっとバナーヌへそれを返した。テッポは言った。

 

「なんとなく、この(うろこ)はあなたが持っていたほうが良い気がするわ」

 

 バナーヌは答えた。

 

「そうか。そうしよう」

 

 バナーヌは忍びスーツを少しはだけさせて、(うろこ)を懐へ収めた。鱗は彼女の大きな胸にぴったりと張り付いた。ひんやりとしていて、それでいて熱を帯びているような、不思議な感触が素肌を通して感じられた。

 

 いつしか二人の前に、巨大な建築物が闇を纏って姿を現していた。その奥で、オレンジ色の焚き火が二つ三つ、仄かに光を放っているようだった。馬の嘶きが響いた。

 

 テッポが声をあげた。

 

「あっ! あれはサンベたちかしら?」

 

 ようやく、バナーヌとテッポは輸送馬車に辿り着いたようだった。




 狂気の沙汰もバナナ次第。
 ハイラルドラゴンズにはいつも苦戦します。大きすぎて遠近感が今ひとつ掴めないのが原因です。
 そして近づきすぎて電気ビリビリ。お約束です。
 
 先日、ありがたくも柴猫侍様より支援絵を3枚も頂きました。自分の作品に絵を描いて貰えるなんて人生で初めてでもう誇張抜きに狂喜したわけですが、それをいざここに表示するのに些か手間取っております。柴猫侍様から許可は頂いているのですが、画像アップの方法を完全に把握するのに睡眠不足の脳みそがあまり追いついていない状態です。休養をとってビールでも飲んでリラックスすれば大丈夫だと思うので、そうなったらこの後書きに絵を載せたいと思います。

※追記(2018/08/16/木、18:00)
 自分の作品に絵を描いて貰えるということが、これほどまでに嬉しくて、気力活力の源になるとはまったく想像だにしておりませんでした。新鮮な驚きと喜びを改めて噛み締めております。
 柴猫侍先生、本当にありがとうございました!

一枚目 このちょっと悪そうな感じ!


【挿絵表示】


二枚目 可愛いのう


【挿絵表示】


三枚目 腰付きがセクシー! 今度から腰回りの描写にも気を遣おうかしら。


【挿絵表示】


※加筆修正しました。(2023/05/09/火)


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第三十話 ホモ・ルーデンス

 かつてのある王の御代の話である。

 

 一人の有能な男がいた。名を、リーキュといった。彼は城下街の富裕商人の三男として生まれ、幼いうちから父の書斎に入り浸って本を読み、勉学に精励した。長じて学校に入るや、彼はたちまちのうちに学問的才能を開花させた。

 

 その王は、ハイリア王家によくいるタイプの大度量の持ち主で、家柄や年功にこだわらず、能力と才能のみに着目して人材登用を行った。そのため、ハイラル開闢以来の天才と(うた)われたリーキュが、学校卒業直後に王たっての所望(しょもう)で政務補佐官として任用されたのも、至極当然なことであった。

 

 後に主席大臣となるこのリーキュについて、有名なエピソードがある。

 

 任用されたリーキュは、王より「城下町南の治安状況を改善し、経済の活性化を図れ」との命を受けた。当時のハイラル王国は、折しもゾーラ川の大氾濫に見舞われ、流域に大被害が生じていた。生活の場を失った難民たちが、城下町南に押し寄せていた。

 

 難民たちは狭い住宅地にひしめき合っていた。難民たちは路地に粗末なテントを張り、日雇い労働やゴミ拾いなどをして、糊口(ここう)をしのいでいる有様だった。城下町南の衛生状態は悪化し、物取りや殺人、誘拐などの犯罪が横行した。他の地域の住人から、城下町南は「ハイラルの()()め」と呼ばれるようになった。

 

 歴史書によれば、リーキュはこの見るに耐えない惨状を、ある突飛な方法を用いて劇的に改善したという。

 

 彼は自ら城下町南に乗り込み、数週間をかけて下調べをした後、王につぶさに現状を報告し、今後の方策として「ある施設」を建設することを具申した。

 

 その献策のあまりの非常識さに、周囲の宮廷貴族や大臣たちは「なんとも破廉恥な!」と憤慨した。もしくは「所詮は世間知らずな若造の妄言よ」と嘲笑った。しかし王は、即座にその施設を建設するよう命じた。

 

 その施設の建設工事は急速に進められた。リーキュは自ら総監督になると、用地の確保から住人の立ち退き指示、資材の搬入、建設業者の選定、はては設計に至るまで、非常にキメの細かい丁寧な仕事を行った。

 

 一体何を作るのかと、難民たちは日に日に完成に近づく建物を見つめていた。様々な噂が流れた。刑務所だろうか、それとも衛兵の詰所だろうか? もしくは、収容所だろうか? しかしそれにしては建物は小さかったし、建築材は石材や木材などの平凡なもので、なんら特別なようには見えなかった。ただ、その外壁は、ヴェールに隠れていてよく見えなかったが、どうやら色とりどりな絵で飾られているようだった。それがより一層、不思議さを増していた。

 

 建物落成の一週間前になって、難民たちに布告が出された。「二十ルピーの資産がある者は、指定された期日に新施設まで赴くこと」

 

 その当日になった。布告が出されていたにも関わらず、集まった難民たちはごく少数だった。その日暮しをしている彼らにとって、二十ルピーという金は少額とはいえ大金だった。また、これまで何ら有効な施策を打ち出せずにいた政府に対する根強い不信感が、難民たちにはあった。

 

 難民たちは衛兵の指示に従い、施設の中へぞろぞろと入っていった。二十ルピーを係員に納めると、彼らにはあるものが渡された。

 

 それは、鉄とブリキと歯車とゼンマイでできた、からくり細工の青いネズミだった。五匹の青いネズミを、彼らは渡された。それは、王軍の工兵隊から払い下げられた自走爆弾、通称「ボムチュウ」だった。

 

 ざわめく人々へ、リーキュがメガホンを片手に叫んだ。

 

「これから皆さんには的当てゲームをしてもらいます! そのボムチュウを走らせて、奥に開いている穴に命中させれば、豪華賞品をプレゼント! さあみんな、遊んで遊んで!」

 

 リーキュが建てたのは、監獄でも兵舎でも収容所でもなかった。彼は、公営の遊技場を建設したのだった。

 

 思いがけない状況に面食らった難民たちは、当初はおずおずとボムチュウを走らせていた。だが、そのうち彼らは、この新しい遊戯に夢中になった。評判が評判を呼んだ。訪れる人間の数は日ごとに増した。さらには、他の地域の城下町の住人まで城下町南のこの遊技場へ遊びに来るようになった。

 

 後年、回想録においてリーキュはこう述べている。

 

「……(中略)……何もかもが欠けていた。視察したところ、城下町南の難民たちは仕事もなく、娯楽もなく、家すらなかった。彼らは日々を無為に浪費していた。私は彼らの欲望を方向づけ、なおかつそれが公共の利益となるような方策を考えなければならなかった。そして私に与えられた資金は、任務に比してごく僅かなものであった。財務大臣の密かな干渉があったものと、私は今では確信している」

 

「……(中略)……監獄を建て、衛兵を増員し、職業訓練場を建てるといった通常の方法を用いることが不可能であることを、私は早期に悟った。そこで私は、ハイリア人の特性に注目することにした。我らハイリア人は勤勉であり、かつ忍耐強いが、それ以上に大変な遊び好きであることを、私は学校時代に経験的に学んでいた……」

 

 この遊技場は、非常に繁盛した。賞品や賞金目当ての客も多かったが、何よりウケたのは、それが純粋に遊びとして面白かったからであると言われている。住民たちの証言が多く残されている。

 

「ボムチュウの爆発は、日頃の鬱屈した思いを発散するうえで、控えめに言っても効果絶大だった。爆音と共に、嫌な気持ちがすべて吹き飛ばされる思いがした」

 

「今から思えば、ボムチュウも賞品もすべて払い下げ品や中古品だったのだろうが、遊びの質自体は非常に高く、十回通っても飽きが来ることが決してなかった」

 

「それまでのサイコロ博打やカード遊びよりも、このボムチュウの的当ては非常に遊び甲斐があった。料金は安く、しかし見返りは大きい。生活用品や衣類、果ては医療品まで手に入ったのだから、老いも若きも、男も女も、みなこの遊びに夢中になったものだった」

 

 収益はすべて城下町南の経済振興のために回され、汚れた街並みや劣悪な設備は急速に改修された。難民たちは、ほどなくして城下町の立派な「住人」となった。他の地域の住人との交流も盛んになり、治安もそれに伴って改善された。城下町南はその後、ハイラル随一の商業地域として発展していくことになる。

 

 無論、この夢物語のような大成功の影では、非合法の賭場の一斉摘発や反社会的暴力組織の覆滅作戦の実施など、流血を厭わぬ強硬策が密かに採られていたのであるが、犯罪者たちを除けば誰もそれを気にする者はいなかった。

 

 ただ、思い違いをしてはならないのは、この公営遊技場という方策が有効だったのは、当時の状況の特殊性に大きく依存しているということである。難民たちは洪水によって生活を奪われただけのいわゆる「良民」であり、もとより勤労意欲と社会への帰属意識は高かった。彼らは、反社会的な活動に対しては正当な嫌悪感を抱く、善良な人々であった。

 

 ゆえに、難民たちが遊びにかまけて生業(なりわい)をおろそかにするようなことはなかった。彼らの生活が安定するにつれて、公営遊技場の人入りは次第に減少していった。事実、後世において、経済振興策の一環として遊技場がもう一度建てられたことがあったが、それは完全なる失敗に終わっている。成功の表面的な理由だけを見た結果であった。

 

 それにしてもリーキュがハイリア人の「遊び好き」に着目したのは、まさしく卓見であった。シーカー族が学問とテクノロジーを得意とし、ゾーラ族が漁業と建築に長け、ゴロン族が採掘に長じているように、ハイリア人は遊びの天才なのである。

 

 ハイリア人はその長い歴史において、ありとあらゆる遊びを考案した。それは軍事訓練にも活用されている。例えば流鏑馬(やぶさめ)は、その主目的は優秀なる軽騎兵を育成することにあったが、一説によるとこれは博労(ばくろう)たちの遊びが元になっているといわれている。また、盾サーフィンは、兵士たちの間で自然発生的に興ったものが、民間に浸透したものであるといわれている。

 

 そして、あの大厄災の後でも、ハイリア人たちの遊びは滅びはしなかった。しかし、過酷な時代の状況を反映してか、その内容は強烈なまでに過激になった。特に、「ハイラル王国が滅んでしまった」という絶望感が世の中にまだまだ色濃く満ち溢れていた頃は、まさに「命がけのゲーム」がいくつも考案された。

 

 例を挙げよう。ハテノ砦周辺をはじめ、各地に大量に野ざらしにされているガーディアンの残骸の中には、比較的長い年月が経過しているにも関わらず、いまだに部分的に機能を保っているものがある。

 

 人々はそれを見つけだし、遊びの一つとして利用した。俗にいう、「オクタおどり」である。挑戦者は下着一枚の恰好になって鍋蓋(なべぶた)を一枚だけ持ち、飛んでくるビームを紙一重でかわし続ける。連続して何回避け続けられるかで挑戦者の優劣が競われる。マナーとして、見物人たちは挑戦者が成功しようが成功しまいが、大声で笑って挑戦者を讃えなければならない。かわし続けるその体の動きがまるでオクタのように見えることから、「オクタおどり」という名がつけられた。

 

 さらに命知らずな遊びとして、飛行型ガーディアンを利用したものがある。これは「リトの英傑ごっこ」と呼ばれた。華麗なる弓術の使い手であったリトの英傑にちなんだ命名である。下準備として、ゲームの参加者たちはまず、飛行型ガーディアンの周回ルートを把握する。次に、そのルートに沿って退避壕を掘る。挑戦者は弓と矢を手にしてわざとガーディアンのサーチライトに当たる。後は単純で、ビームを避けながら矢を何本当てられたか、退避壕に逃げ込むまでにどれだけ頑張れたかで優劣が競われる。

 

 これらの遊びに参加したのは、主に大厄災を生き残った兵士たちや王国騎士たちだったと言われている。守るべき城、国王、王女、そして民を失い、故郷を追われ、日々挫折感と無力感に苛まれていた彼らは、せめてもの慰めとして、そして場合によっては死に場所を得るため、遊びと笑いという諧謔(かいぎゃく)を纏って、命がけのゲームに興じた。

 

 世代が下るにつれて、これら「オクタおどり」と「リトの英傑ごっこ」などの遊びは、禁忌として封印された。ハイリア人の精神状況が明らかに退廃していくのを見かねたシーカー族の長インパが、この手の遊びをすることを強く戒めたからだと言われている。

 

 我々は命の大切さを身にしみて知っている。我々は命を賭して世界の危機に立ち向かった英傑たちや戦士たちの尊さを知っている。我々が、命知らずの無謀な遊びに興じた者たちを愚かだと断じることは容易い。

 

 確かに、彼らは愚かであったかもしれない。だが、残酷苛烈な現世においていかに「楽しく愉快に」生命力を発散させるかについて考えた、彼らなりの真剣な態度をそこに見出すことはできないだろうか? 遊びの面白さとは人間に独自のものであり、人間の文化の根幹たる美的形式を支えるものである。ハイリア人の文化は遊びのなかで生まれ、遊びの中で育まれ、そして発展してきたのではないか。

 

 先述のリーキュは言う。

 

「ハイリア人の強さとは、経済的営為にかける情熱の強さでも、戦場にあって艱難辛苦に雄々しく耐える勇敢さでもない。我々の強さとは、いかなる状況にあっても常に物事を楽しむ心意気、いうなれば、困難を遊びへと変える心の余裕にあるのではないか。私が施策をする上で心掛けたのは、いかにして民衆たちの心の余裕を生み出し、至難な事業でも彼らが『遊び半分で』『楽しく』推進していくような状況を作り出せるかという、この一点にあった……」

 

 実に、遊びとは人間の真なる行為に他ならず、余裕とは人間の真なる財産に他ならない。畢竟(ひっきょう)、生きることとは余裕を以て遊ぶことであり、死ぬこととは人生を余さずに遊び尽くすことに過ぎないのではないか。

 

 この荒廃した大地がいつか厄災の(くびき)から解放された暁には、ハイリア人たちは余裕を取り戻し、新たな遊びをいくつも生み出すであろう。それは命を懸けない、安全で、スリリングさに欠けたものとなるかもしれない。ただ、一つ確実に言えるのは、その遊びは、滅びの時代における「当たり前」を見直したものであるのに違いないということだ。

 

 そして、その豊かな余裕と、遊びの文化とに浴することができるのは、明日と希望を信じて戦い抜いた者たちだけだろう。魔王を信奉し、その手先となり、大地に陰謀と策略を巡らせ、闇から闇へと暗躍する者たちは、真なる遊びを決して知ることはない。

 

 彼らは遊ぶことを知らない。彼らは遊びを遊び以上のものと考えることができない。彼らには、勝敗という目的しか存在しないからだ。目的しか知らない人間は、決して楽しむということを知ることができない。

 

 いつか、彼らも真なる遊びを知るのだろうか? それとも、知らぬままに朽ち果てるのだろうか?

 

 それが判明するその時は、ゆっくりと、しかし着実に近づきつつある。

 

 

☆☆☆

 

 

 輸送指揮官サンベは、絶え間なく腹部を襲う鈍い痛みに一人耐えていた。

 

「あーいてぇ……クソ……いてぇ……」

 

 サンベはまだ若かった。だが、もはや若くはなかった。彼は結婚はしていなかった。彼の血色は薄く、神経質な目つきは常にぎょろついていた。醜男揃いとカルサー谷の連中から揶揄されるフィローネ支部の男性団員の中では、顔かたちは秀でているほうだと、彼は思い込んでいた。鼻が陰気に尖っていて顎が細長いのを美形というのならば、彼の考えは正しいといえるだろう。彼は日々の鍛錬にはそれなりに熱心だったし、そのうえ、幾度も実戦に参加していたため、筋骨は鍛えられていた。だがそれも、彼の小うるさい上司の幹部ハッパと比較すると見劣りするのは否めなかった。

 

 先ほどまで夜空を覆っていた雲は晴れていた。煌々(こうこう)たる月が、限りなく光をあまねく地上へ降り注いでいた。虫たちの涼やかな鳴き声が聞こえてきた。今のサンベにとっては、それすらも耳障りだった。

 

 腹を押さえながら、一人、サンベは虚空へと毒づいた。

 

「クソ……クソ、クソ、クソ……なんでこうも上手くいかねぇんだ……」

 

 腹痛はいっこうに収まる気配がなかった。彼は強いストレスを覚えていた。彼はイラついていた。月光によって三台の輸送馬車がぼんやりと照らし出されていた。彼は馬車を見た。馬車の惨状を見ると、彼の焦燥と憤懣はますます募った。それがなおさら腹の不快感を増幅させた。

 

 三台の輸送馬車は、湖へ向かって傾斜している斜面に、一列縦隊で停めてあった。街道に停めていないのは、言うまでもないが、魔物の攻撃を防ぐためであった。

 

 街道は、魔物どもの射線の管制下にあった。魔物どもはこの二晩にわたって、飽きもせずに遠矢(とおや)を射かけてきた。そのほとんどは馬車に到達する前に地面に落ちたが、魔物どもはそれにも構わず、少しでもこちらが動きを見せると手当たり次第に乱射してきた。馬車を移動させるなど、思いもよらない状況だった。

 

 痛みをごまかすように、サンベは叫んだ。無意味な行為であると知りながらも、彼は叫ばずにはいられなかった。

 

「この、(くさ)れボコブリン共がっ!」

 

 彼の叫び声が響くと、それに答えるように、遠くで魔物たちがフゴフゴ、ギャオギャオと鳴き声を上げた。その数秒後には、何本かの矢が飛んできた。鋭い矢じりが月光を反射してキラキラと光り、こちらへと真っすぐ飛んでくるのがサンベには見えた。

 

 サンベは首を引っ込めた。鋭い唸り声を上げて矢が彼の頭上を通過していった。

 

 その途端、激しい腹痛の波が打ち寄せてきた。あまり愉快ではない音が彼の腹から漏れた。彼は呻いた。

 

「クソ! クソ……あ、いててて……」

 

 腹を押さえて彼は(うずくま)った。土の匂いが妙に彼の鼻についた。彼の気に入らないのは、なにも防御態勢を取ることを余儀なくされている輸送馬車や、しつこく嫌がらせをしてくる魔物たちだけではなかった。

 

 身を隠しているこのタコツボ、これも彼の気に入らなかった。彼はすべてが気に入らなかった。

 

 なぜこのような逼塞した状況となってしまったのか? サンベは腹痛を忘れようと、あえて思考にふけった。

 

 明け方、サンベは部下たちに、馬の調達と行方不明のテッポの捜索を命じた。彼は馬の調達には二人の部下を送り出し、テッポの捜索にはグンゼを送り出した。彼は、残った部下の一人ヒエタと三人の馭者と共に、遅れがちな行程を少しでも取り戻そうと馬車を出発させようとした。

 

 そこで、彼らは再度、魔物の襲撃を受けたのであった。彼らは口々に叫んだ。

 

「まただ! また左手の高台から来るぞ!」

「馬を守れ! 斜面に隠れろ!」

「指揮官殿! ご命令を!」

 

 これ以上馬が減るのは何としてでも避けねばならなかった。サンベは部下たちと共に、必死になって矢を払った。まさに獅子奮迅の働きだった。それ自体は褒められるべきものだった。しかし、そもそも事前に偵察をして魔物の動向を探っていれば、戦力を分散させた上に奇襲を受けるという失態など犯さなかったはずだった。サンベは戦術常識と判断力と指揮能力に些か欠けていた。本人はそのことを決して認めようとしない。

 

 彼らは、何とか馬と馬車を無傷で守りきった。彼らは馬車を攻撃を受けない地点まで移動させた。その後、サンベは怒りに任せて「魔物のいる高台へ攻撃をかける!」と言った。

 

 その得物(えもの)鬼円刃(きえんじん)とエレキロッドを両手に持って、彼は怒号を上げた。

 

「魔物どもに目にモノを見せてやるぞ! おいヒエタ、それにお前ら! 武器を持って集合しろ!」

 

 頭に血が上っているサンベに対して、部下のヒエタはいつもどおり冷静だった。シツゲンスイギュウの大角から削り出した特注の仮面を日光で輝かせて、ヒエタは呆れたようにサンベに言った。

 

「ええ? そりゃ無茶ですよ。考え直してください。ボコブリン共は高所にいて、しかも数が多い。こちらの動きは常に敵に丸見えですよ。攻撃したって上手くいきっこない。それに万が一馭者がやられたら、馬車が動かせなくなる。やめといたほうが良いと思いますがねぇ」

 

 三人の馭者たちも、ヒエタの言葉に乗った。

 

「そうだそうだ!」

「指揮官殿、もうちょいわしらを労ってくださいよ!」

「わしら、戦闘は本務じゃないんで!」

 

 サンベはキレた。元から堪え性のない男であった。

 

「貴様ら! 反抗する気か! 命令不服従で処刑するぞ!」

 

 その時であった。高台から一本の矢が、激昂して喚き散らすサンベの横顔へ向かって一直線に飛んできた。「あっ」とヒエタが声を上げた時には、サンベの自慢の(まげ)に矢が突き刺さっていた。

 

 落雷を受けたヤシの木のように、サンベの髷は真っ二つに裂けた。しかも、サンベはそれに気がついていなかった。

 

 密やかな笑い声が漏れた。

 

「髷が……サンベ殿の髷が……」

「真っ二つ……カッコ悪……ぷぷぷ……」

「しかも、まだそれに気づいてねぇし……」

 

 ヒエタと馭者たちは笑いを堪えて身を捩らせた。その様子を見て、サンベはさらに怒りを募らせた。

 

「貴様ら! 何がおかしいんだ!」

 

 そうサンベが一声(ひとこえ)叫んだ、その瞬間、嫌な音を立てて彼の足元に矢が二本突き刺さった。はっとしてサンベが高台を見ると、仲間を呼び集めて大勢になったボコブリンたちが、こちらに弓矢を向けていた。

 

 一斉射撃が行われた。サンベを目掛けて無数の矢が殺到した。サンベは狼狽して声を上げた。

 

「なっ……!」

 

 突如、不快な音が鳴り響いた。それは腹から鳴っていた。鋭い痛みも腹に走った。激昂と緊張と、そして死の恐怖によって、サンベは脆くも腹を壊した。

 

 それからは、攻撃など到底不可能になってしまった。サンベはヒエタに命じてタコツボを掘らせた。彼は、常備していた薬を飲んで、じっと体調が回復するまで耐えていた。しかし、彼がタコツボに(こも)っている間にも、貴重な時間は空しく過ぎ去っていった。太陽は東から西へどんどん天空を行進し、次第に日が暮れて、そしてついに夜になってしまった。

 

 無為のままに時間が経過するのに比例して、サンベの余裕はますます失われていった。ヒエタが魔物の射撃の合間を縫って、夕食の「バナナの果実煮込み」を持ってきても、彼は一匙(ひとさじ)すら口にしなかった。

 

 派遣した部下が一人として帰って来ないことも、サンベの腹痛をさらに深刻にさせた一因だった。彼はタコツボにヒエタを呼び寄せて状況を尋ねた。

 

「代替馬を取りに行った、モモンジとヒコロクはどうした。もう帰って来ても良い頃じゃないのか」

 

 ヒエタは、あまり関心のなさそうな声で答えた。

 

「さあ……? 案外、手間取っているのかもしれませんね。ここらで良質な馬を手に入れられるのは、フィローネの支部以外だと高原の馬宿しかないですからね」

 

 サンベは怒りの混ざった声で言った。

 

「なんだと、高原の馬宿!? なんでそんなに遠いところへ行くんだ! もっと近いフィローネに行けばいいじゃねえか!」

 

 呆れたようにヒエタは答えた。

 

「そりゃ『フィローネに戻るなよ』と言ったのは、指揮官殿、あなたでしょう。『支部の連中にバレると厄介だ』とか、なんとか言って……もうちょっとこう、自分で自分の発言に責任を持って……」

 

 ヒエタの言葉を搔き消そうとするかのような大きな声をサンベはあげた。

 

「ああ、ああ! そんなことはどうでも良い! ヒエタお前、ちょっと行ってモモンジとヒコロクの二人を探してこい!」

 

 ヒエタは冷たい声で答えた。

 

「日が暮れてて、魔物に半包囲されてて、こんな状況でこれ以上さらに戦力を分散させるんですか? ちょっと意味が分かりませんね。腹痛で冷静な判断力を失っているんじゃないですか? お薬、もっと飲みます?」

 

 仮面越しに鼻をつまむような仕草をして、ヒエタはタコツボから去っていった。タコツボが臭気芬々(ふんぷん)たる便壺(べんつぼ)であるかのように、ヒエタは思っているようだった。

 

 サンベは、目でヒエタの去った先を追った。ヒエタは三人の馭者たちと談笑しながら、新鮮なバナナの皮を剥いていた。

 

 余裕を楽しむような、サンベを完全に埒外(らちがい)に置いた様子だった。サンベはまたもや毒づいた。

 

「クソ……どいつもこいつも、俺の言うことを無視しやがって……命令不服従は処刑だぞ、処刑……」

 

 痛みはやや和らいでいた。激しい痛みと、それが嘘のような平穏の繰り返しだった。サンベは脱力したようにタコツボの壁にもたれかかった。

 

 サンベは、何としてでもこの任務に成功しなければならなかった。

 

 前回の任務、(みずうみ)研究所の襲撃は、はっきり言って完全な失敗だった。襲撃へ出発する時、サンベは幹部たちに言った。

 

「必ずや任務を遂行し、フィローネ支部へこれまでに類を見ないないほどの多大なる貢献をすることを約束する」 彼は、何ら成果を得られずに帰った。その時に幹部たちが浮かべた表情を、彼は屈辱と敗北感と共によく覚えていた。

 

 幹部たちは口を揃えてサンベを無能と罵った。下級団員たちも、表には出さなかったが、幹部たちと同じ思いであるようだった。だが、サンベは反省のそぶりすら見せなかった。彼は見栄を張った。ありもしない剛毅さを誇示するために、彼は襲撃作戦に参加した部下たちを、ねぎらいのバナナパーティに招いた。だが、参加者の誰一人として喜んでいなかった。やや勘の鈍いサンベでも、それはよく分かった。

 

 今回の任務にはサンベのプライドだけではなく、支部長のメンツもかかっていた。周囲の反対を押し切ってまでサンベを指名した支部長のメンツがかかっている。いや、フィローネ支部の独立性すら、この作戦にはかかっているのだ。もし失敗したら、支部は「取り潰し」になるかもしれなかった。

 

 ぎゅうとサンベの腹が鳴った。ふと、彼はテッポのことを思い出した。彼は恨みのこもった声を漏らした。

 

「テッポめ、いったいどこに消えやがったんだ……勝手に敵を深追いしやがって……面倒なやつめ……」

 

 サンベがテッポの行方を案じていたのは、つまりは自己保身のためであった。テッポは、あのいけ好かない幹部ハッパの大切な一人娘である。ハッパは有能で、高潔で、厳格で、それでいて面倒見が良い。ハッパはカルサー谷の本部から単身、ほぼ敵地と言っても同義なフィローネ支部に派遣されてくると、すぐに支部長の信頼を得て、他の部下たちからも愛されるようになった。サンベにとっては、ハッパはどうしても気に入らないやつだった。

 

 そんなハッパが、もしテッポが失われたと知ったらどうなるか?

 

 出発前、密かに呼び出された時に、ハッパが見せた物凄い形相をサンベは思い出した。ハッパは物凄い形相で、物凄い声を出した。

 

「よいか、初陣で経験不足のテッポに何かあったら、それは全て指揮官たるお前の責任だぞ。このことを忘れるなよ、決して。決して。決して忘れるなよ……」

 

 サンベは身震いをした。もし、このままテッポが戻ってこなかったら? もし、シーカー族に生け捕りになどされてしまったら? きっと俺はハッパに殺されちまう! それは予想ではなく、もはや確信だった。喉元にぴったりと突き付けられた、金属質な冷たい確信だった。

 

 突然、ぐずぐずと考えに沈んでいるサンベの耳を、ヒエタの鋭い声が貫いた。

 

「雷鳴!」

 

 少し舌足らずの少女の声が、それに呼応して響いてきた。

 

「スイートスポット!」

 

 サンベの喉から、虫のようにか細い声が漏れ出た。

 

「あれは……あの声は……」

 

 少なくともサンベは、幹部に殺されるという懸念からは解放されそうだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 闇と溶け合った湖水は夜空の無数の星々を映し出していた。かすかな波は、白い月の光を受けて微細な輝きを放っていた。

 

 見えざるバナナに向けてバナーヌが弓を乱射するという異常事態を潜り抜けて、二人はついに、ハイリア湖の対岸に辿り着いた。

 

 馬の嘶きを聞いたテッポが、嬉しそうな声を上げた。

 

「やっぱり、あれはきっと輸送馬車よ! さあ、行きましょうバナーヌ!」

 

 だがバナーヌは、駆けだそうとするテッポを手で押さえて言った。

 

「待て」

 

 バナーヌは訓練されたイーガ団員である。それゆえ彼女は、ハイリア大橋の塔門の向こう側に輸送馬車らしき気配を感じても、即座に駆け出すようなことはしなかった。

 

 逸るテッポを押さえて、バナーヌは辺りの様子を窺った。朝方にグンゼから聞いたとおり、輸送馬車はその場から動いていないようだった。これは、やはりなにかあったということだ。敵襲を受けたと考えるのが妥当だ。彼女はそう思った。

 

 そう考えて、バナーヌは高台の方向へ目を凝らした。暗闇の中で、多数の何かがうごめいていた。バナーヌに倣って索敵をしていたテッポが、小さく呟いた。

 

「あれは……魔物ね。ボコブリンかしら。数が多いわね。いち、にい、さん……」

 

 バナーヌは言った。

 

()っていこう」

 

 月は明るすぎた。その上、魔物たちが警戒していた。二人は隠密に長けたイーガ団員であるのだから、そのまま通り過ぎても何も問題はないかもしれない。だが、不明確な状況下においては、念には念を入れるのが重要である。臆病なくらいに慎重を期すのが生存の秘訣である。そのことをバナーヌは、これまでの経験により身に沁みて知っていた。

 

 匍匐して、二人は前へと進んだ。先頭はバナーヌで、後方はテッポだった。じりじりと音を立てず、眠っている虫すら起きないような静穏さで、二人は焚き火と輸送馬車の方へと近づいていった。

 

 そこに、突然、若い男の声が聞こえてきた。

 

「雷鳴!」

 

 テッポが反射的に答えた。

 

「スイートスポット!」

 

 誰何(すいか)をした若い男は、テッポの声を聞いて驚いたようだった。

 

「おお、テッポか! よく戻ったな。こっちに来い。ここら一帯は魔物が狙ってるから、姿を晒さないように、静かにな……」

 

 それから数分後、二人はついに輸送馬車に辿り着いた。テッポはどこか決まりが悪そうだった。それに対して、バナーヌはバナナを食べながら三台の輸送馬車を眺めていた。

 

 ヒエタと三人の馭者が、二人をどこか感心したように見つめていた。あたかも遠い土地の親戚が危険を冒して訪ねて来てくれたかのような、そんな感慨を彼らは抱いていた。

 

 しばらく沈黙が続いた後、ヒエタがテッポに話しかけた。

 

「テッポ、よく戻ってきたな。作戦中の合流はもう無理じゃないかと思っていたぜ。もしかしたらシーカー族に返り討ちにされたんじゃないと思っていた。心配させやがって。ところで、途中でグンゼには会ったのか?」

 

 テッポは頭を下げた。

 

「ヒエタ、それにみんな。心配をかけてごめんなさい。グンゼには会ったわ。あのね、あの襲撃の後なんだけど、私は……」

 

 話を続けようとするテッポを、ヒエタが手で制した。彼は言った。

 

「おいテッポ、待った、待った! 俺たちより先に、指揮官殿に帰隊を申告しろよ。指揮官殿は今日一日、お腹を痛めてうんうん唸りながらテッポの行方を心配してたんだからな」

 

 馭者たちが合いの手を入れた。

 

「心配してたのは自分の首じゃて。ハッパ殿にスッパリとやられる瀬戸際だったからな」

「首じゃなくて腹を心配してたのかもな。臭いがここまで漂って来やがるわ」

「頭だけではなく腹まで(ゆる)いと来てる。うちの指揮官はまっこと行き届いたお(かた)よ」

 

 明らかに指揮官を侮辱する言葉に、テッポは憤然とした表情を浮かべた。口をとがらせて彼女は言った。

 

「ちょっと、口が過ぎるんじゃない!? サンベは私たちの指揮官でしょ!?」

 

 ヒエタが仮面の下で苦笑を浮かべながら、テッポをなだめた。

 

「まあまあ、そう(りき)むなって。余裕を持ちなさいよ、余裕を……ところでテッポよ」

 

 ヒエタは言葉を区切ると、また口を開いた。

 

「さっきから俺たちの会話に参加もせずに、バナナを食いながら馬車ばっかり見てるこの綺麗なお姉さんは、いったい誰なんだい?」

 

 バナーヌはテッポたちに背を向けて、じっと馬車を眺めていた。

 

 テッポは髪をかきあげてから、答えた。

 

「彼女はバナーヌ。カルサー谷からの援軍よ」

 

 男たちは口々に驚きの声を上げた。

 

「バナーヌ!? あの『パシリの』バナーヌか! ほう、こいつが……」

「バナナみたいな金髪のポニーテール、噂の通りだわな……」

「バナーヌといや、パシリの天才なんだろ? 今回もパシリなのかいな」

「いいケツしとるなぁ……」

 

 バナーヌはむっとした。彼女は声をあげた。

 

「おい」

 

 彼女はポニーテールを揺らして振り返ると、そのサファイア色の鋭い眼差しで男どもを睨みつけた。月の光のような美貌に無表情が張り付いていた。男たちは静かな迫力に()されて、一斉に口を(つぐ)んだ。

 

 無粋なやつらめ、とバナーヌは思った。彼女としては、もう少し感傷に浸っていたかった。ようやく、やっとの思いで、輸送馬車に着いた。カルサー谷からここまで長かった。輸送馬車は、確かに目の前にある。その荷台には、自分の給料の何十年分かに相当する、大量のツルギバナナがぎっしりと詰まっている。カルサー谷の仲間たちが夢にも待ち望む、新鮮で滋味の豊かな、生命の源のバナナが詰まっている……

 

 視線を男たちから外すと、バナーヌは腕組みをして、再度馬車を眺め始めた。彼女はもう一本バナナをポーチから取り出して、皮を剥いた。

 

 今はこの感動を大事にしたい。面倒なことは後回しにしたい。彼女はそう思っていた。

 

 テッポが咳払いをした。

 

「じゃ、じゃあ、私たちはサンベに申告に行くから。で、サンベはどこにいるの?」

 

 ヒエタが親指で指し示した。

 

「あそこのタコツボだ。俺がわざわざ指揮官殿のために掘ったんだ。戦闘の指揮が執りやすいように、最前線にな。ああ、指揮官殿は今、だいぶご機嫌斜めだからな。気を付けるんだぞ」

 

 テッポは答えた。

 

「ありがとう。さ、バナーヌもいきましょう」

 

 バナーヌは行きたくなかった。どうせ面倒なことになると彼女は思った。だが、小柄なテッポに引きずられるようにして、結局彼女はその場から離れていった。心なしか、ポニーテールが悲しげに揺れていた。

 

 それを見て、ぼそぼそと声量を落として男たちは話し合った。

 

「テッポが無事で良かった。しかし、バナーヌってのは随分変わり者なんだな。無口だし」

「あの目を見たか。宝石みたいに青かったぜ」

「それに、金髪だしな。まるで、ハイリア人みたいだったな」

「でも強そうだな。歴戦の風格がある。余裕たっぷりって感じだ。胸の膨らみもな」

 

 あっ、とヒエタが声を漏らした。

 

「そういや援軍っていってたが、もしかしてカルサー谷からきたのは、あの女一人だけなのか?」

 

 どうしても認めたくない事実を前にして、男たちはただ黙り込むしかなかった。




 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。

※まことにありがたいことに、『ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック』も三十話目に到達いたしました。バナーヌをカルサー谷から旅立たせたのが2018年1月末ですから、既に半年以上が経過したわけです。そして、今回ついに、ようやく、彼女は馬車に辿り着きました。作者としては少しホッとしております。これからもお見捨てなく『ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック』をお楽しみいただければ、作者として何よりの喜びでございます。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

※加筆修正しました。(2023/05/09/火)


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第三十一話 悪意への処方箋

 悲しいかな、至高の善は形而上学的に想定し得るのに対し、人間の底なしの愚かしさは測るに(すべ)がない。

 

 だが、この愚かしさなるものを知ることは、より善く生きていく上で必要不可欠である。

 

 公的な歴史書には、輝かしい記録のみが書かれている。そこに登場する人々は、伝説の勇者や姫巫女ほどではないにせよ、何かしら偉大な功績を残した人々である。寡兵(かへい)にて魔物の大群を殲滅した大将軍や、住民の福利厚生の向上に著しく貢献した官吏、暴れる河川に見事な土木工事を施した技術者……こういった偉大なる人々について読んでいると、ハイリア人は全員、善良で穏健で、思慮に富んだ存在であると錯覚してしまう。愚か者は歴史書に書かれないのだ。

 

 したがって、愚かしさの「伝説」を探求するには、当たるべき史料と採るべきアプローチを変える必要がある。公的な記録、ボロボロの記念碑、御用学者による伝記、(かび)の生えたような神官の説教集……そんなものは役に立たない。

 

 栄光の影で、闇から闇へと葬られた、見るに()えないほどに悲惨な愚か者たちの伝説を、ここで一つ紹介しよう。

 

 その時代、ハイラル王国は平穏のうちに繁栄を謳歌していた。しかし、健康な肉体を持つ人間が突発的な病魔に苦しむことがあるように、ある問題が王と民を悩ますようになった。

 

 ある時、峻険な山々と永久の氷雪に閉ざされたヘブラ地方に、魔物の軍勢が興った。魔物たちは強大だった。魔物たちは村を襲い、人々を拉致し、街道を封鎖した。数ヶ月も経ずして、ヘブラ地方は魔物の王国と化した。

 

 駐屯地から中央へ早馬が飛び、討伐軍の派遣が要請された。だが中央は動かなかった。それは所詮、中央ハイラルから遠く離れたヘブラ地方での出来事、敵はたかだか魔物であり、そしてヘブラ地方は貧しい。戦利品は期待できない。実入りは少なく、出費ばかりが増えるだろう……軍を率いる立場にある貴族たちは、なかなか討伐軍の指揮官として名乗りを上げなかった。

 

 しかしこの状況下で、奇貨(きか)居くべしとばかりに、ある男が颯爽(さっそう)と名乗りを上げた。その男の名は、マトートと言った。マトートはヘブラ地方の貧乏貴族の四男だった。彼は、貴族社会において顧みられることのない、いかにもぱっとしない男だった。彼の軍歴は、軽騎兵の一個中隊を指揮して魔物を討伐したことくらいしか、特筆すべきことがなかった。大軍を指揮する能力も識見(しきけん)もない。そう思われていた。

 

 マトートの名乗りは、通常ならば一笑に付されるだけだった。だが、運命はどこまでも悪意に満ちたものであった。あたかも運動競技者が障害物を軽やかに飛び越えていくように、マトートは常にない熱弁と行動力を発揮して王と軍と貴族たちを説き伏せ、ついに彼は討伐軍の大将の座に収まってしまった。

 

 王は、ハイラル王家の血筋に違わぬ聡明な頭脳の持ち主だった。王は、この風采の上がらぬ男のうちに、秘められた才知の輝きがあることを見抜いていた。

 

 しかし、貴族たちの思惑は違った。彼らの眼差しは悪意に満ちていた。彼らとしては、このマトートが大失敗をして討伐軍が壊滅することを期待していたのである。そうなれば、賢い王は二度と軍を興そうとしないだろう。したがって、自分たちはこれ以上軍役(ぐんえき)を負わなくて済む。そういう考えだった。

 

 様々な思惑が宮中を飛び交う中、市民たちの歓呼の声に送られて討伐軍は進軍を開始した。寄せ集めの兵たちは指揮官マトートに対して、まったく期待を抱いていなかった。だが、指揮官マトートは事前に十全なる準備を整えていた。彼は行軍中に何度も戦闘訓練を行った。のみならず、彼は険しい道にあっては自ら荷車を押すなど、積極的に率先垂範の態度を示した。次第に討伐軍の士気は高まり、兵たちは精強となっていった。

 

 マトートの軍は無数の魔物の小拠点を攻め落とし、村々を奪回し、包囲機動と迂回を繰り返した。マトートの軍は、次第に魔物の群れを決戦地へと追い詰めていった。

 

 そしてついに、雪深い北タバンタ雪原で両軍は対峙した。

 

 ここで「討伐軍によって魔物の群れは殲滅された」と書くことができるならば、どんなに嬉しいだろう。しかし、運命は男たちに残酷無惨な結末をもたらしたのだった。

 

 魔物を率いていたのは、容貌魁偉(かいい)な半人半獣の魔物だった。雪原の戦闘に熟知し、かつ魔物を戦闘集団として纏め上げるカリスマ性を持っていたその魔物は、マトートを将帥(しょうすい)として格段に上回っていた。

 

 両軍は昼頃から夕刻まで激しく戦った。その結果、マトートの軍は潰走(かいそう)した。

 

 マトートは決して諦めなかった。彼は崩壊した戦列を立て直し、敗走してくる兵たちを収容すると、素早く進路を南に取り、タバンタ村へ向けて退却した。

 

 マトートには勝算があった。戦闘の終盤、乱戦の中で「かの魔物の長に深手を与えた」という報告があったからである。しかし、兵は少なく、糧食は底を尽きかけていた。ここはタバンタ村に籠城し、中央へ援軍を要請して再起を図るべきだ。増援を得たならば、必ずやタバンタの魔物たちを殲滅できよう。彼はそう考えた。

 

 彼は伝令を出した。魔物たちの重囲を潜り抜けて、決死の伝令数騎は重き使命を身に受けて街道をひた走った。一週間を経たずして、中央ハイラルは即座に状況を把握した。

 

 だが、どうしようもなく世界は悪意に満ちていた。大臣と貴族たちはマトートの援軍の要請を黙殺したのであった。さらに致命的だったのは、折り悪く、最期の頼みとしていた国王が急病に倒れたことだった。王は人事不省だった。

 

 貴族たちは、見殺しを選択した。増援など送れば、あの矮小な男の大手柄となるのは確実だ。ここは屍を雪に埋めてもらおう。

 

 愚かなる者どもよ! 知を(たの)み、策を弄し、巧言令色を事とする者どもよ! 決して(そそ)ぐことの叶わぬ大罪によって汚れた汝らに比して、かのマトートの軍の兵士たちの、なんと雄々しく偉大であったことか!

 

 マトートとその男たちは、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末に全滅した。討ち取られたマトートの首は槍の穂先に刺され、高々と掲げられたという。糧食のない兵士らは木炭を齧り、雪を口に含み、魔物の肝さえ糧として、弓折れ矢尽きながらも最後の一兵となるまで奮戦した。魔物の手にかかって死んだ者よりも、飢えによって命を儚くした者のほうが多かったと言われている。

 

 これまでに述べてきた悲劇は、マトートの軍に所属した兵士の一人が、その最後を迎える前日まで淡々と書き続けていた日記に依っている。公式記録には、この戦いは以下の僅か数行しか書かれていない。

 

「ヘブラ地方に起こった魔物の争乱に対し、急遽マトートを指揮官とする討伐軍が派遣されたが、補給計画の不備と連絡の不手際により、タバンタ雪原における決戦でマトート軍は敗北した」

 

 さて、この物語において、愚か者として(そし)られるべきなのは、いったい誰であろうか? 指揮官のマトートだろうか? 確かに、マトートはその身を焦がす野心の赴くまま、兵士たちを酷寒の地へ導き、全滅の憂き目に遭わせた。マトートは身の丈に合わぬ欲望により破滅した、実に愚かしき男と言えるかもしれない。

 

 しかし、真に愚かであったのは、やはり貴族たちであろう。彼らは国益を考慮せず、ただ自己保身と理財にのみ汲々としていた。悪意に満ち満ちていた彼らは、伝令が血と共に吐き出した援軍要請を、無下に拒否した。

 

 そう、ただ悪意によって、彼らは援軍を拒否したのだ。

 

 貴族たちの口の端は、悪意に歪んでいただろう。その吐息は腐臭を放っていただろう。あのマトートは実に生意気だった。そのまま朽ち果ててしまえば良い。木っ端のごとき兵卒の命など知ったことではない。愚か者が減って、ハイラルの大地がもっと住みやすくなるはずだ…… 

 

 悪意、これこそ真なる愚かしさではないか? 悪意こそ、人間の持つありとあらゆる愚かしさの極致であり、いわば目に見えぬ黒い毒薬である。これに比べれば、知能の低いこと、職務において有能ではないこと、教養の薄いことがなんであろうか。

 

 そして、いざ我が身を見てみれば、今まで生きてきた中で悪意に身を任せたことが一度ならずあることに、我々は慄然(りつぜん)とする。豪雨により住処を流された民を見て、「土台を安上がりに仕上げたからだ」と悪罵(あくば)したことはないか? 魔物に襲われ子を失った母を見て、「なんと不注意な馬鹿者だ」と嘲笑ったことはないか? 路上を徘徊する乞食を見て、「怠け者はそのまま野たれ死んでしまえば良い」と、冷ややかな視線を向けたことはないか? いずれも悪意によって発された言葉ではなかったか?

 

 だが、ありとあらゆる物事は表裏の面を備えている。それは、あたかも蝶番(ちょうづがい)が回転するように、反転する。愚劣は賢明へ、悪意は善意へと、我々は心を入れ替えることができる。

 

 悪意に凝り固まった頑なな心も、いつかは春の柔らかな日差しに氷解する残雪のように、穏やかで善に満ちた心へと変化する。

 

 そう信じなければならない。さもなければ、地獄に堕ちるだけである。自分自身で作り上げた、この世の地獄に、我々は堕ちることになる。

 

 

☆☆☆

 

 

 雲は移り気だった。先ほどまでハイリア湖岸を薄明るく照らしていた月の光は、今は雲の厚いヴェールに阻まれていた。付近は闇に包まれていた。

 

 バナーヌとテッポが輸送指揮官サンベの元へ報告に行った後、ヒエタと馭者(ぎょしゃ)たちは「成り行きやいかに」と耳を澄ませていた。

 

 初めは、ボソボソと呟くように交わされる会話が聞こえてきた。そして次第に、サンベの声量が大きくなった。最後には、はっきりとした彼の怒声を聞き取ることができた。

 

「……だからお前は……! どうせ俺のことを見くびって……! 親父の権威をかさにきてんだろう……! 舐めるな、俺だって……!」

 

 ヒエタたちは博打の札を弄びながら、会話に興じていた。至極面倒そうに札を切りながら、ヒエタが言った。

 

「あの様子じゃ、テッポは相当、指揮官殿に油を搾られたみたいだな。ああ、可哀想に、可哀想に」

 

 ヒエタによって配られた札に目をやりながら、馭者たちが口々に言った。

 

「指揮官殿はやはり小物よ。殴れる相手なら女子供にだって躊躇しないが、上役相手にはいつもへらへら(こび)を売るような人だからの」

「確かに深追いしたテッポには責任があるがの。しかし可愛らしい娘じゃ。ここはひとつ手心を加えるってのが人間らしい心ってもんじゃないかね。おっ、良い札が来たわい」

「俺たちの中で一番指揮官殿を尊敬しているのはテッポだってのに、指揮官殿はそれが分かっておらんようじゃ。それにテッポがハッパ殿に密告(チンコロ)したらどうするつもりじゃ。下手するとぶち殺されるぞ。ちっ、札が悪い」

 

 札を並べ替えたヒエタは仮面の下で、その幸先の良さに表情を緩めた。この手なら楽勝だ。彼はポーチからバナナを取り出すと、先端に指を押し込み、器用につるりと皮を剥いた。ヒエタはバナナを食べながら言った。

 

「組織に属するってのは、上役の際限のない悪意に耐え忍ぶってことだ。テッポも良い勉強になったろう。指揮官殿のそれは少しばかり強烈だがな」

 

 馭者たちがせせら笑った。

 

「それでテッポが上役になったら、また部下を虐めるんですかい。まるで終わりのない憎しみの連鎖だわな」

「へっ、(さかし)げな! 坊さんみたいなことを言うなや。それに、俺だったらテッポみたいな娘に罵倒されるのは結構楽しいほうだと思うわ。『このバカー!』なんてな」

「はは、そんな悪趣味なのはお前だけじゃわ」

 

 男たちのとりとめのない会話は、そこで終わった。

 

 バナーヌとテッポが戻ってきた。闇が深いせいで男たちにはよく見えなかったが、バナーヌがいささかも表情を変えていないのに対し、どうやらテッポは怒っているような、泣き出すのを我慢しているような、今にも崩れ出しそうな無念の表情を浮かべているようだった。

 

 車座になっている男たちの前に、二人が立ち止まった。しばらく沈黙が満ちた。全員の視線が絡み合った。だが、テッポだけはじっと暗い夜空を見上げていた。その目尻には、かすかに涙が浮かんでいるようだった。

 

 ヒエタがいつもどおりの軽薄な調子で、テッポに話しかけた。

 

「おう、テッポ。指揮官殿のご機嫌はどうだった?」

 

 テッポは、すぐには答えなかった。二回か三回、浅く呼吸をすると、彼女はその鳶色の綺麗な瞳を潤ませて、短く無感情に言った。

 

「指揮官殿に帰隊を報告しました。疲れたのでこれから少し仮眠します」

 

 そう言うと、テッポはその場から一人去っていった。テッポは離れたところに停めてある輸送馬車の、その傍らの草地に身を横たえた。彼女は顔の上に片腕を乗せて、じっと口を閉じた。

 

 ヒエタはバナナを食べながら、どうでも良いとばかりに無造作に口を開いた。

 

「あーあ、テッポめ。ふて寝しちゃったよ。こりゃ、指揮官殿から相当嫌なことを言われたかな? ねえ、どうだったのさ、カルサー谷のバナーヌさんよ」

 

 バナーヌは、即答しなかった。彼女はすっと、右手をヒエタに差し出した。ヒエタはその動作の意味を理解した。ヒエタはポーチからバナナを一本取り出すと、バナーヌに放り投げるようにして渡した。バナナをそのように扱うなど、あまり程度の良い振舞いとはいえなかった。だが、バナーヌはそれを咎めなかった。

 

 バナーヌはバナナの皮を剥いた。彼女は言った。

 

「アイツはご立腹だった」

 

 ヒエタは頷いた。

 

「うんうん。それはそうだろう。テッポは、指揮官殿の心配の種だったからな。で、アンタにはなんて言った?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「『向こうへ行け』と言われた」

 

 ヒエタはまた頷いた。

 

「ああ、そうか、なるほどな。アンタは援軍とはいえ、カルサー谷から来た『よそ者』だからな」

 

 バナーヌは言った。

 

「よそ者?」

 

 へっ、とヒエタは鼻で笑った。そして、彼は勝手にベラベラと喋り続けた。

 

「カルサー谷出身ってだけで、俺たちフィローネ支部の人間からすればよっぽど恵まれているように感じられるのさ。カルサー谷は総長コーガ様のお膝元で、人員はたっぷりいて、資金も沢山にあって、休日もあれば残業手当もある。それに柔らかい寝床に美味い飯だ。それに比べちゃあ、フィローネ支部なんてまさしく『リトとキース』さ。安い給料に臭い飯で、仕事といっちゃあカルサー谷の下請けばかり。自分たちが食えもしないバナナを、ヒイコラ言いながら運ぶんだからな。なにも、指揮官殿だけじゃない。フィローネ支部の連中は、多かれ少なかれカルサー谷には憧れとやっかみが入り混じった気持ちがするんだよ。ま、憎悪ってほどではないが、悪意はちょっとあるかな」

 

 喋り続けるヒエタを、バナーヌは青い眼差しでじっと見つめていた。そして、彼女はポツリと言った。

 

「じゃあ、お前は?」

 

 ヒエタはバナーヌのほうを見ていなかった。彼は一枚の札を隣の馭者と交換すると、舌打ちをした。どうやら良くない札のようだった。やがて、彼は言った。

 

「俺か? 俺は模範的なイーガ団員さ。どこの奴でも仲間だったら大歓迎だよ、大歓迎。特に、アンタみたいな美人だったらな。なあ、こんな辛気臭い話してないで、アンタも俺たちと一緒に遊ばないか?」

 

 ヒエタに便乗するように、馭者たちも口々に言った。

 

「おお、男ばかりでウンザリしてたところなんじゃ。アンタみたいな綺麗どころと一緒に博打(ばくち)ができるなんて最高じゃ。さあ、ここに座れや」

「へへ、そんなブ男じゃなくて、俺の隣に座れよ。俺が優しくフィローネ流の博打術を教えてやるぜ」

「どうだ、カルサー谷の博打の手練手管(てれんてくだ)を見せてくれや。あと、俺に椰子酒の酌をしてくれ」

 

 だが、バナーヌは身じろぎ一つしなかった。にべもなく彼女は言った。

 

「断る」

 

 バナーヌは腕を組んで、冷ややかに男たちを眺めた。やがて、彼女は背を向けて、テッポの方へと静かに去っていった。

 

 ヒエタがヒューと口笛を吹いた。

 

「いやぁ、良いねぇ。美人な上に物静かだってのは! うちのカアチャンとは大違いだよ」

 

 ぐびりと一杯、ヒエタは椰子酒を喉に流し込んだ。そして、何もかもを忘れて、博打に没頭し始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 馬の息遣いが聞こえた。冷涼な湖の風に、ほのかに臭気が漂っていた。それは馬の臭いだった。動物特有の臭いだった。夜露に湿った草が、忍びスーツ越しにテッポの背中をくすぐった。

 

 テッポは、眠れなかった。先ほどサンベに言われたことが、ぐるぐると彼女の頭の中で残響音を伴って駆け巡っていた。

 

 一日ぶりに会ったサンベの顔はやつれていて、おまけに青ざめていた。腹が痛むのであろうか、夜目(よめ)にも分かるほどの脂汗を顔中に浮かべて、サンベは帰隊を申告するテッポを睨みつけた。テッポは嫌な予感がした。

 

 最初は物分かりの良いような、いかにも「良い指揮官」であるかのような調子で話していたサンベだったが、そのうち気が(たかぶ)ってきたのか、彼は怒声をあげてテッポを(なじ)り始めた。

 

「まったく、幹部様の娘っていうのは恵まれてるよな! 身のほど知らずに深追いをしたなら、シーカー族に(むご)たらしくぶっ殺されるってのが筋なのに、なぜかお前は助かっちまった! それだけじゃねぇ、今お前は俺の目の前で、のうのうと元気な(ツラ)して『帰ってきました』なんて(のたま)うんだからな! こちとら、一日中お前の行方を心配して、グンゼまで派遣して探し回ったってのにな! お前は、そんな俺の苦労も知らずに、今ここで平然としてそのツラを見せたってわけだ!」

 

 テッポは消え入りそうな声で指揮官に答えた。

 

「申し訳ございません。深く反省しています」

 

 だが、サンベの悪態は留まるところを知らなかった。彼はさらに言った。

 

「『申し訳ございません、深く反省しています』だってよ! ふん、俺の知らない間に、随分と偉くなったもんだ! もしそうなら、少しは申し訳なさそうな顔をしたらどうだ? ああ、そんなことはできないか。なんせ、お前はお偉い幹部ハッパ様の一人娘だもんな! 俺みたいな下っ端相手に表情なんて作りたくないってか! 『蝶よ花よ』と育てられたお嬢様は、下っ端の俺と口をきくのも嫌なんだろ! おい、なんで黙ってる? なんか言ったらどうだ……?」

 

 他にも、テッポはサンベから色々と言われた。いずれもテッポの幼い自尊心を傷つけるには十分過ぎる威力を持った、悪意に満ちた言葉だった。

 

 実のところを言えば、テッポは恐れと同時に、少し期待してもいた。父ハッパからは日頃、「任務にあたっては敢闘精神こそが重要で、何事も元気いっぱい体当たりで遂行することが肝要だ」と彼女は教えられてきた。サンベからは叱られるかもしれないけど、その心意気だけは褒めてもらえるかもしれない……彼女は、そんな幼稚な思惑を抱いて、サンベのもとへ報告にいったのだった。

 

 それが、この叱責であった。否、叱責ではなかった。上役が部下に対して行う叱責とは、仕事上の欠点を指摘し、その具体的な改善策を明確に教え示すことが含まれるはずだが、サンベのそれは単なる憂さ晴らしだったからである。

 

 決して反論してこない、そして虐め甲斐のある少女を、サンベは言葉の暴力によってしつこくいたぶった。テッポがこれほどまでにひどいことを言われたのは、生まれて初めてだった。

 

 テッポはまた、指揮官から慰めてもらいたかった。シーカー族を深追いして、いつの間にか本隊とはぐれてしまったことに気づいた時は、彼女はただの少女のように狼狽(ろうばい)した。彼女は闇の中で、人知れず涙まで流した。身に着けた技術も積み上げてきた鍛錬もまるで役に立たなかった。暗夜の街道を狂ったように走っていた時、彼女はこの世に一人だけになってしまったかのような、そういう絶望的な孤独感を味わわされた。

 

 だが、決して慰めを求めてはならない人物というものが、この世には存在する。そのことをテッポは思い知った。その代償として、彼女の心は深く傷つくことになってしまった。

 

 とどめとばかりにサンベが言い放った言葉が、横になっているテッポの耳管(じかん)の中でその時もなお反響していた。

 

「お前みたいな役立たずの足手まといは、死んだほうがマシだ!」

 

 指揮官の前では、テッポは泣かなかった。その時になって初めて、彼女の目から涙が零れた。ぽろりぽろりと、そして次第にとめどなく、透き通るような涙が、しとどにテッポの顔を濡らした。彼女が何度も拭っても、涙は止まらなかった。

 

 その時ふと、テッポは傍らに誰かが座っているのを感じた。慌てて彼女は、それまで脱いでいた仮面を、薄く顔に被せた。泣き出しそうになるのを必死に(こら)えながら、テッポは気丈に言葉を発した。

 

「何しに来たのよ、バナーヌ」

 

 バナーヌが、いつの間にかテッポの傍らに腰を下ろしていた。野卑な男たちには決して醸し出すことのできない、美しく静謐な雰囲気を、彼女は纏っていた。

 

 バナーヌは何も言わなかった。テッポは、そっと彼女の表情を窺った。雲は再び月に場を譲っていた。月は煌々と光を発していた。

 

 バナーヌの怜悧な顔立ちが白く輝いて見えた。金髪のポニーテールが優しく揺れていた。テッポにとっては驚いたことに、普段は殺気に近いような鋭い眼光を放つそのサファイアの瞳が、その時は秋のハイリア湖のような穏やかさを(たた)えていた。

 

 テッポは、目をそらした。彼女は横向きになって、背中をバナーヌに見せた。

 

 しばらくの間、沈黙が二人の間に舞い降りた。だが、いつまでも黙っていられるほど、テッポの心は落ち着いていなかった。彼女は言った。

 

「何? 用がないなら向こうへ行って。今は一人になりたいの……」

 

 突然、バナーヌがテッポに手を伸ばしてきた。テッポは一瞬、体を震わせた。しかし次の瞬間、彼女は、バナーヌの手が自分の背中を優しく撫で始めたのを感じた。テッポは戸惑ったように言った。

 

「ちょっと、何のつもり……? 私、わたし、別にそんなことをされる必要なんてない……ないわ……私、わたし……」

 

 テッポの言葉は、乱れていった。バナーヌは何も言わなかった。ただ優しく、癒すかのように、バナーヌはテッポの背中を撫で続けた。

 

 いつの間にか、テッポの頭からサンベの言葉は完全に消えていた。その代わりのように、テッポの心の中には、今日というたった一日の短い時間の中で鮮烈に目に焼き付いたバナーヌの姿の数々が、思い浮かんでいた。

 

 バナーヌ。テッポの中で、その名前が優しく響いた。初めて出会った時は同士討ちをしてしまって、さらには「ダンコー・クニ」で危うく殺しそうになった。でも、バナーヌはまったく怒らなかった。すぐに許してくれた。

 

 バナーヌ。無口で無表情で、バナナジャンキーで、マックスドリアンが嫌いで、外で裸になって水浴びをする変わり者。でもすごく強くて、敵を相手に一歩も退かない。いつも凛としていて、決して取り乱すことがない。

 

 バナーヌ。爆弾で魔物を殺して、その無惨さに動揺していた時に、「よくやった」と褒めてくれた人。魔物の大群をこともなげに退けて、自分を無事に仲間のところまで導いてくれた人。

 

 バナーヌ。とても綺麗な人、とても優しい人……

 

 突然、バナーヌが静かに、月に(うそぶ)くようにテッポに語りかけてきた。バナーヌは言った。

 

「テッポ。あなたと会えて、良かった」

 

 熱い涙が、テッポの両目にあふれた。テッポは叫んだ。

 

「バナーヌ!」

 

 テッポは衝動に身を任せて起き上がり、バナーヌにしがみついた。彼女はバナーヌの胸に顔を埋めた。幼子が母親を求めるように、彼女はバナーヌをその両手で、力いっぱい抱きしめた。

 

 泣きながらテッポは言った。

 

「バナーヌ、私、わたし……」

 

 バナーヌが答えた。

 

「泣け。泣いて良い」

 

 テッポは泣いた。テッポは安心して、泣いていた。バナーヌも、そっとテッポを抱きしめ返した。

 

 月が二人を優しく照らしていた。ここまでの長い旅路を越えてきた二人を祝福しているようだった。そして、これからの困難な旅路に幸あれと祈っているようだった。

 

 いつの間にか、嗚咽は止んでいた。バナーヌの腕の中で、テッポは穏やかな寝息を漏らしていた。バナーヌはそっと彼女を地面に横たえた。彼女は馬車から毛布を持ってきて、あまりにも小さな身体にかけてやった。

 

 しばらく、バナーヌはテッポを見ていた。その次の瞬間には、彼女の瞳から先ほどまでの温もりが消えていた。その目はある種の決意と、そして怒りの色を帯びていた。

 

 バナーヌは、博打に興じているだらしない男たちへ目を向けた。行動を起こさねばならない。彼女は歩き始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ヒエタは、今夜の博打の成果に満足していた。だが彼は、入手したルピーとバナナの多さに対して満足したのではなかった。博打の手練れたる三人の馭者たちの鼻を明かしてやった。そのことが、彼の自尊心をくすぐっていた。

 

 彼の背後に、バナーヌが音もなく現れた。博打の最中、ずっと椰子酒の杯を重ねていたヒエタの顔は、赤くなっていた。彼は仮面を外して顔を拭うと、そのふやけた表情を彼女に向けた。彼は言った。

 

「おう、お嬢様はもうお休みかい? そんなら、どうだ、ここからはひとつ大人の時間ってことで、アンタも一杯椰子酒をやらないか……」

 

 聞く耳を持たないとばかりに、ぴしゃりと打つようにバナーヌが言った。

 

「話がある」

 

 それでもヒエタはへらへらと笑っていた。彼は言った。

 

「それはなんだい? 儲け話かい?」

 

 バナーヌは言った。

 

「任務についてだ」

 

 彼女の燃えるような眼差しに射抜かれて、ヒエタは浮ついた気分が急速に冷めていくのを感じた。手に持っていた酒の杯を地面に置くと、彼は大儀そうに立ち上がった。彼は、手を腰にやった。

 

 馭者たちは、張り詰めた雰囲気を察して黙っていた。

 

 ヒエタは相手を探るような目をして、軽薄さに少しばかりの警戒感を混ぜつつ言った。

 

「ふん……任務。任務ねえ。あんたはどんなことが知りたい? 俺たちの指揮官殿は腹痛で動けないし、怪我をした馬の代わりを探しに高原の馬宿へ行ったモモンジとヒコロクは一日経っても戻ってこないし、街道は魔物の弓矢で制圧されているし、俺たちはとっくにやる気を失ってて指揮官殿には愛想を尽かしてる、ってこと以外なら、特に教えることはないな」

 

 バナーヌは無表情ながら、熱心にヒエタの言葉を聞いていた。しばらく考えるようだったが、やがて彼女は静かに口を開いた。

 

「街道を強行突破することは可能か?」

 

 ヒエタが律儀に答えた。

 

「無理だね。四頭立ての馬車は速度が出るが、出足(であし)が遅い。街道をノロノロと走り始めたら、たちまち魔物の矢でハリネズミになっちまうだろうさ。おまけに車軸が歪むくらい荷物(バナナ)を積んでるし、馬は各三頭しかいない。どうしたって離脱する前にやられちまうだろうな」

 

 バナーヌは、また問いを発した。

 

「発煙弾で遮蔽するのはどうだ」

 

 ヒエタは答えた。

 

「たとえ何十発も発煙弾を焚いたとしても、大きな馬車を三両も隠し切るのは難しいだろうな。それに、ここは風が強い。煙幕はすぐに消えちまう」

 

 バナーヌは言った。

 

「では、魔物を排除するしかない」

 

 ヒエタは乾いた笑い声をあげた。彼は言った。

 

「ハハハ……それができたら苦労はしないさ。考えてみろよ。俺とお前と、腹痛の指揮官殿と、半人前のテッポの四人。その四人で、魔物が待ち構えているあの高台へ攻めあがる。それはちょっと無謀じゃないですかね? あ、この馭者たちは戦闘に参加させないからな。こいつらがやられちまったら、馬車が動かせなくなる」

 

 数瞬の沈黙があった。バナーヌはヒエタの顔を見据えると、言った。

 

「モモンジとヒコロクを迎えに行く」

 

 ヒエタは驚いた。彼は目の前の女団員が、そこまで自発的に行動をする類の人間だとは思っていなかった。バナーヌの無表情の裏に固い決意があることを、ヒエタは遅まきながら察した。彼はわざと、おどけたような声をして言った。

 

「そりゃあの二人が合流すれば、高台の魔物どもなんてイチコロだろうさ。だが、ここから二人が今いるはずの『高原の馬宿』まではけっこう距離があるぜ? まさかアンタ、走っていくつもりか?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「馬を使う。足が速いのを一頭よこせ」

 

 ヒエタは肩をすくめた。

 

「なるほど、ご名案だな。でも、ここから馬に乗って出るのは一苦労だぞ。魔物どもは昼も夜もなく俺たちを見張ってやがるからな。この斜面から姿を現した瞬間には、矢の雨が降り注ぐことになるってわけさ。一発でも矢が当たれば、その馬はもう馬車を牽くことができなくなる。そして俺たちは、もうこれ以上使える馬を減らすわけにはいかないのさ」

 

 喋りながらヒエタは、ひたいに冷や汗をかいているのを感じていた。この女、有無を言わさぬ妙な迫力がある。そこまでしてバナナを運びたいのだろうか。ここでふと、ヒエタは妙なことを考えた。いやまさか……もしかするとこの女、ただの援軍と見せかけて、カルサー谷の本部が俺たちに送り込んだ督戦隊なのでは……?

 

 ヒエタの胸中を知ってか知らずか、バナーヌはポツリと言った。

 

「策ならある。今から言う物を用意しろ」

 

 ごくりと喉を鳴らして、ヒエタは頷いた。

 

 バナーヌは言った。

 

「音響弾に、発煙弾三発、夜間用の信号花火三発、それから、バナナの皮」

 

 続けて、バナーヌは言葉少なく策の詳細について語った。それを聞いて、ヒエタと馭者たちは忍び笑いをした。

 

「そいつはいいな! 最高だよ!」

「愉快そうだな、是非やってくだされや」

「あいつの驚く顔が目に浮かぶわい」

「なに、ちょっとした悪戯(イタズラ)じゃ。やってもバチは当たらんよ」

 

 嬉々として、男たちは準備を始めた。

 

 バナーヌは、ふとテッポのほうへ目をやった。そこには、毛布だけが落ちていた。

 

 凛とした声がバナーヌの傍らから聞こえてきた。

 

「話は聞いたわ。私も一緒に行く」

 

 そこには、晴れやかな表情のテッポがいた。テッポは言った。

 

「発煙弾と花火なら任せて。馬車に積んである物の中から、とびきり性能の良いものを選ぶから」

 

 バナーヌは頷いた。テッポはもう大丈夫だろう。彼女は言った。

 

「任せた」

 

 にわかに一行は活気づいた。しかし、指揮官のこもるタコツボは、未だに沈黙を守ったままだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 サンベは、久しぶりに腹痛から解放されていた。彼はタコツボの底深くに身をひそめていた。彼は腹を(いたわ)るように両腕で抱いていた。彼は心地よい微睡(まどろみ)に精神を揺蕩(たゆた)わせていた。

 

 テッポが無事に帰ってきたのは、実に良いことだった。これであのハッパに殺される心配はしないでよくなった。それに、あのいけ好かない幹部の大切な一人娘を思う存分罵ってやったことで、鬱屈した心が一気に軽くなった。それだけで、どんなに薬を飲んでも収まらなかった腹痛が軽くなったのだから、そういう点ではあの役立たずの小娘もちょっとは有用だったわけだ……サンベはそう思った。

 

 夢現(ゆめうつつ)のままに、サンベは都合の良い妄想を巡らせた。どうせ明日になったら、テッポと同じような感じでモモンジとヒコロクは帰ってくるだろう。二人が帰ってきたら、高台の魔物どもに逆襲だ。部下共は、特にあのヒエタは、俺のことを明らかに軽蔑しているからな。ここらで一つ、魔物どもをできるだけ(むご)たらしくぶち殺してやって、未来のフィローネ支部長が本来持っている(すご)みというやつを見せつけてやらねばならない……

 

 それに、とサンベは考えを続けた。あのカルサー谷からの援軍の女は、あくまで勘だが、危険だ。パシリのバナーヌの噂は以前どこかで聞いたことがある。だが、ただのパシリが単身で長駆カルサー谷からここまで来るわけがない。あの佇まいと雰囲気からも、あの女はただの下っ端団員ではないだろう……

 

 サンベは考え続けた。きっとあの女は、例のウカミとかいう上級幹部がこちらに寄越した隠密、密偵に違いない。あの女はなんだかんだとこちらの粗探しをして、良くない報告を本部に上げるつもりだろう。

 

 そうなる前に、何とかして俺の隊から追い出さなければ……そうだ、高台を攻撃する時に、俺たちの先頭に立たせれば良い。魔物にやられてくれればそれで良し、そうでなければ、俺がこの手で背中を……

 

 そこまで考えた時だった。

 

 サンベの頭上で突如、大爆音が響き渡った。それは周囲数キロに響き渡った。静かな夜には、まったく似つかわしくない爆発音だった。

 

 サンベの聴覚は一時的に失われた。甲高い耳鳴りがしていた。彼は狼狽しながら叫んだ。

 

「うお、なっ、なんだっ!? なんなんだっ!? 敵襲かっ?」

 

 何か重量感のあるものが、穴の壁面を跳ねながら落ちてきた。

 

「むっ?」

 

 目をこすった後、サンベは穴に落ちてきたものを確認した。なんだ、なんだ? さっきの爆発音に驚いた野ネズミでも、俺のタコツボに逃げ込んできたのだろうか……?

 

 野ネズミなどではなかった。

 

 それは、黒々とした輝きを放つ爆弾だった。

 

 サンベは叫んだ。

 

「なっ!」

 

 彼は慌ててそれを掴み、外へ放り投げようとした。だが、爆弾は手の中で破裂した。案外、弱い爆発だった。それは軽い音を立てて、爆竹のような弱々しい衝撃を放った。

 

 直後、それは濛々(もうもう)と、灰色の濃い煙を盛大に吹き上げ始めた。

 

 その煙を吸い込んでしまったサンベは、途端に激しく咳き込んだ。

 

「ゴホッゴホッ……! ゴホッ……! なんだ、これは!? おい、なんで発煙弾がここにある!?」

 

 だが、その叫びが終わらないうちに、さらに爆弾が投げ込まれた。爆弾はさきほどのものと同じように破裂し、同じように煙を出し始めた。呼吸すら困難になるほどの濃密な煙がタコツボに充満した。サンベはさらにむせた。

 

 そこへ、赤青黄色の無数の火花を撒き散らす信号花火が加わった。それはタコツボの狭い空間を所狭しと飛び回った。バチバチと火薬の爆ぜる音を立てて、火花が座り込んでいるサンベに襲い掛かった。サンベはついに悲鳴を上げた。

 

「うっ、うわぁあああっ!」

 

 サンベはタコツボから脱出しようとした。彼は穴のふちに手を伸ばした。彼は両手に力を込めて、その全体重を持ち上げようとした。

 

 しかし、彼の手は思いきり滑った。彼は叫んだ。

 

「なっ、なにぃいいっ!?」

 

 予想だにしない事態にサンベは混乱した。穴の中に何かが落ちてきた。

 

 それは、バナナの皮だった。

 

「ゴホッゴホッ! クソ、ふざけた真似を! ゴホッ!」

 

 何度も何度も、サンベは脱出しようとした。そして、何度も何度も彼の手は滑った。飛び跳ねる信号弾のせいで、サンベの腕や脚に無数の火傷ができた。

 

 どうやら、穴のふちには隙間なく、大量のバナナの皮が敷き詰められているようだった。サンベは言った。

 

「クソッ! 誰だこんなことをしたやつは! ぶっ殺してやる!」

 

 絶望的な努力をサンベは繰り返した。だが、それも一分か二分の間に過ぎなかった。ついにサンベは、タコツボの外へと身を乗り出すことに成功した。

 

 彼を、無数の矢が待っていた。騒ぎを聞きつけて高台に集結した魔物たちが、一斉にそれを放ったのだった。

 

 サンベは、声を漏らした。

 

「あっ」

 

 嫌な感触がした。その時サンベの下腹部で、何か決定的な事態が発生した。

 

 この騒ぎの間に、一頭の馬が別の煙幕に隠れてそこから走り去っていった。馬は大きな影と小さな影を乗せていた。

 

 サンベも魔物も、それに気づかなかった。




「例外は許されている」
「指揮官が無能の場合だ!」
 戦場で死ぬ指揮官の五人に一人は味方による故意の殺害なんてのはよく言われます。兵士の回顧録を見ると「そんなこともあるかなー」と思いますが、その一方で「まさかそんなことはないだろー」とも思います。想像を絶する困難な状況下、その場にいる人間にしか分からない心理があります。ただ、想像するしかありません。
 今回は少し長くなりましたが、二十二話からの一連のエピソードのしめくくりという感じです。これ以上長くするのは私の技量的に限界なので、次回からは文量を抑えると思います、たぶん。

※加筆修正しました。(2023/05/09/火)


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第四章 桃髪の密林仮面剣法伝承者
第三十二話 騎士リンクのメモラビリア


 バナーヌとテッポが輸送馬車に辿り着き、そして新たな作戦を開始した、その夜のことであった。

 

 平原外れの馬宿は、相変わらずの(ひな)びた雰囲気に包まれていた。干し草と馬糞の臭いが漂っていた。台所には薄いスープの皿と粥の鍋があった。馬やロバのどこか寂しげな鳴き声が聞こえてきた。ジリジリと燈心(とうしん)が焦げて、薄暗い照明を放っていた。とろ火に熱されて、薬缶(やかん)がカタカタと鳴っていた。

 

 人々は、思い思いの夜を過ごしていた。店員たちはそろそろ片付けをして一日の業務を終えようとしていた。用心棒のウドーは寝台に横になっていて、なにやら分厚い本を熱心に読み耽っていた。バナナの行商人は、つい数分前に「星座を観察してくる」と言って、馬宿の外へ行ってしまった。

 

 そんな中、サクラダ工務店デザイナー兼社長兼棟梁たるサクラダは、テーブルを前にして椅子に浅く座り、一人呻吟(しんぎん)していた。

 

「あーでもない、こーでもない……ああ、もう! アタマに来るワ、こんな仕事! 辞めてやろうかしらっ! アーッ!」

 

 サクラダは奇声を上げるとテーブルを両手で叩いた。その衝撃を受けて数枚の紙片がふわりと舞い上がった。それは、彼が描き散らした建築設計の新コンセプトのメモだった。

 

「アラッ、いけないワ! 大事なメモが……」

 

 床に落ちたメモをサクラダは一枚一枚拾い上げた。その間も、彼のブツブツとした独り言は止まらなかった。

 

 しかし宿の人々は、そんな奇怪な光景にはとっくに慣れてしまっていた。どうやら、大工やデザイナーというものは変わった生き物らしい。ちょっとした挨拶と言って変な踊りを始めるし、仕事となれば何時間でも、それこそ朝から夜までぶっ続けで机に向かうことができるようだ。邪魔をせず食事と水を与えておけば、時々叫ぶ以外は無害らしい……店員たちはサクラダをそっとしておいた。

 

 メモを拾い椅子に戻ったサクラダは、なおもブツブツと呟いていた。彼は手に持っているメモを眺めた。それには、多種多様な球体ばかりが描かれていた。

 

「天体論的に球形が最上最高の理想形であるのは間違いないのヨ……でも何故かしら? 何故、このハイラル各地に残っている建物や遺構は球形を追求していないのかしら……? ゾーラ族たちは建築と彫刻と夜光石の装飾を見事に調和させていたケド、球形の建築物はまったくなかったし、カカリコ村の建築はアタシたちの設計思想とは根本的に異なっていたから興味深かったけど、やっぱり球形の建物なんてなかったし……インパさんの屋敷には素晴らしい光る玉があったけど、触ろうとしたら怒られちゃって調べることはできなかった……おまけにあのパーヤとかいう娘には本気で怖がられるし、そもそも『建築にはこの宝玉はまったく関係ない』とインパさん本人からきっぱりと言われちゃったし……昔の人が建築で球形を追求しなかったのは、やっぱり建造の工数と費用との兼ね合いが問題だったのかしら……? アアアッ、ダメダメッ! そんな俗っぽい理由付けをするなんて! 仮説がチープ!」

 

 そこへ、エノキダがのっそりとした動きで茶を盆に載せて運んできた。茶はヒンヤリハーブのハーブティーであった。エノキダはサクラダに声をかけた。

 

「社長。随分とお悩みのようですが。これを飲んで一息入れてはどうでしょう」

 

 サクラダはエノキダへ顔を向けた。心なしかその目は落ち窪んでいた。目の下にはうっすらとクマまでできていた。サクラダは答えた。

 

「あら、エノキダ。気が利くじゃない、ありがと。そうネ、あまり(こん)を詰めても駄目ネ。アイデアというものは農作物と一緒。無理に育てようとしても却って枯らしてしまう。じっくりと様子を見ながら探求していきましょう」

 

 サクラダはカップを手に取り、ハーブティーを一口飲んだ。その途端、彼の顔に不快そうな表情が露骨に浮かんだ。彼は声を上げた。

 

「なにこれマッズ……熱いのにヒンヤリしてて舌が馬鹿になりそうだし……ていうか何? あっ何これ!? えっ何なのこれ!? 頭がキーンとする! 氷菓子を一気食いした時みたいに頭がキーンとする! でも熱い! でも冷たい! そして熱い!」

 

 そうやって大騒ぎをするサクラダに、寝台で寝ていたカツラダが夢の中から抗議をした。

 

「社長うるさいッスよー……近所迷惑ッスよー……村長のクサヨシさんにまた怒られるッスよー……」

 

 部下からの諫言(かんげん)が却ってサクラダの(かん)(さわ)ったようだった。サクラダは言った。

 

「何ヨ! カツラダのくせに生意気ヨ! ていうかエノキダ! アナタなんてものアタシに飲ませてくれてるのヨ!」

 

 エノキダはあまり表情も変えずに答えた。

 

「いえ、社長のためになると思ったので」

 

 サクラダの周辺は漫談のように騒がしかった。

 

 そこへ、小さな影が近づいてきた。影がサクラダたちに言った。

 

「そのハーブティーはお気に召さなかったようですな。わしが特に茶葉を選んでお出ししたのじゃが……」

 

 そう言ってサクラダの近くの椅子に腰掛けたのは、馬宿の老店員トーテツだった。老人は小さな目をしょぼしょぼとさせて、サクラダとエノキダを交互に見つめていた。

 

 サクラダは、毒気を抜かれたようだった。「オホン」と咳払いを一つすると、棟梁兼会社経営者としての風格たっぷりに、彼はトーテツに向かって語りかけた。

 

「アラごめんなさい、トーテツ、さんだったかしら? そうよネ。少し考えを纏めるのに手間取っていて、それで苛ついちゃって、部下にもお茶にも当たっちゃったというワケなのヨ。決してアナタの御厚意を無下(むげ)にしたワケではないのヨ」

 

 老人はホッホッホッと笑った。

 

「いえ、いえ。お気遣いは結構ですじゃ。この老人、生まれてこの方(うん)十年、やることなすことすべて中途半端でしてな。茶の一つも満足に淹れられないのはよう承知しておりますわい」

 

 サクラダはハーブティーをまた口に含んだ。彼は、今度は騒ぎ立てるようなことはしなかった。彼は言った。

 

「アラ、ご老人。年配の方に意見するようですけど、やることなすこと中途半端なんて言うのはあまり良くないことヨ。人はそれぞれ何らかの才能や適性を授かってこの世に生まれてくるものだワ。それを見つけ出すのに苦労する人もいるし、才能をわがものとするのにとても長い時間が必要な人もいるけど、でもいずれ人は才能を開花させるものヨ。だからアナタも何か才能がおありでしょ? やることなすこと中途半端というのはあり得ないはずだワ」

 

 老人は、サクラダの些か無遠慮な言葉にもまったく気分を害した様子もなく、ニコニコと微笑みながら答えた。

 

「いやまったく、若い方というのは素晴らしい。特にあなたのような、理想に燃えている若い方というのは素晴らしいものです。わしなぞ、持つべき理想も、燃やすべき情熱も、磨くべき才能もないまま、この大地で細々と生を長らえてきただけですじゃ。できることと言ったら昔話くらいなものでして……」

 

 昔話、と聞いたサクラダがピクリと眉を動かした。彼は隣に立つエノキダに視線を送った。

 

「……そういえば、ここら一帯の古老のお話は収集してなかったわネ……エノキダ、メモの準備をなさい!」

 

 エノキダは答えた。

 

「合点!」

 

 いそいそと、エノキダは筆記具を背嚢(はいのう)から取り出した。サクラダはトーテツへ身を乗り出すと、抑えきれぬ好奇心を顔面いっぱいに表しながら、ずいと頭を近づけて言った。

 

「申し訳ないけどトーテツさん、アナタ、少しお時間よろしいかしら? アタシ、昔話を聞きたいの」

 

 迫力のあるサクラダの顔にもまったく怖じず、トーテツは平然と答えた。

 

「ホッホッ……この老人、時間だけなら死ぬまでの分だけ有り余っておりますからのう。いくらでもお話できますじゃ」

 

 サクラダは得たりとばかりに表情を緩めた。その隣にエノキダが座り、メモを取る体勢を整えた。サクラダは老人に言った。

 

「じゃあここらへんの有名な建築物……そうね、デグドの吊り橋とか、あの闘技場跡地とか、そこらへんの昔話をお願いできるかしら? ア、そうそう、ちゃんとお礼はしますから」

 

 トーテツはサクラダにそう言われて、しばらくふーむと唸って天井を見つめていた。二回か三回、その真っ白なあごひげを指先で弄んだ後、彼は「それでは」と言って居ずまいを正した。

 

「博識なサクラダさんならば大抵のことはもうご存知でしょうから、デグドの吊り橋とか闘技場の由来について今更お話はしますまい。少し建築から話題は逸れますが、吊り橋に纏わる昔話をわしのおじいちゃんから聞いております。それを今からお話ししましょうか……」

 

 サクラダは期待に喉をゴクリと鳴らした。エノキダも、ペンを持つ手に知らず知らずのうちに力が入った。

 

「そう、あれは百年以上前の話ですが……」

 

 老人トーテツは、ポツリポツリと話し始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 今となっては想像をすることすら困難になってしまったが、百年以上前、つまり大厄災に見舞われる前のハイラル王国において、魔物は一般人にとって縁遠い存在だった。

 

 各地に駐屯しているハイラル王国軍は定期的に討伐作戦を実施して魔物が拠点を構えるのを許さなかった。精鋭で鳴らす王国騎士たちは名声と誉れを得ようと挙って魔物退治に赴いた。そのため辺境はいざ知らず、中央ハイラルにおいて魔物はほぼ駆逐されていた。一般人はその影すら目にすることなく生活することができた。

 

 人々は安全に街道を行き来し、商売に精励し、平和裡にそれぞれの生業(なりわい)に勤しむことができた。そういう時代だった。まことに羨むべき時代だった。

 

 そんなわけだから、あの時のあの事件が現在のここら一帯に与えた衝撃の強さは、本当に計り知れないものがあった。

 

 なんと、デグドの吊り橋を魔物の群れが占領したのである。

 

 最初の犠牲者はチーズの卸売業者だった。ゲルド地方へ商品を運ぼうと朝靄(あさもや)をついて出発した彼は、まったく無警戒のままにデグドの吊り橋に差しかかり、そして馬車ごと犠牲になってしまった。

 

 そこにいたのは、モリブリンやボコブリンといった辺境では馴染みの魔物だった。加えて、異様な影がそこに蠢いていた。

 

 それは、身の丈五メートルを軽く超す単眼の巨人の魔物、ヒノックスだった……

 

 突然、トーテツの話に割り込む声があった。

 

「ちょっと待った!」

 

 サクラダが言った。

 

「なにヨ、ウドーさん。話を(さえぎ)るなんて無作法よ!」

 

 寝台で横になったまま、用心棒のウドーが眼鏡を光らせてサクラダたちの方へ顔を向けていた。ウドーは言った。

 

「ヒノックスっていう魔物には単独で行動する習性があって、しかも縄張り意識が強いから、他の魔物とは徒党を組まないとモノの本で読んだことがあるぞ。だからその話は辻褄が合わない」

 

 サクラダは溜息をついた。

 

「なにも、そんな枝葉末節に(こだわ)らなくても良いじゃない! それにヒノックスが魔物たちのリーダーになるのだって、別にあり得ない話じゃないワ。たまたまそういう個体がいたのかもしれないし……」

 

 話の腰を折られても老人は意に介さないようだった。老人は言った。

 

「はいはい、話を続けますぞ」

 

 ヒノックスとその一党は、こともあろうにデグドの吊り橋のど真ん中に拠点を構え、通行人や輸送馬車を片っ端から襲い始めた。先に述べたチーズ業者だけでなく、ゲルド地方へと宝石の行商へ向かうゴロン族や、逆に中央ハイラルにヴォーイハントをしに行くゲルド族など、その日だけで合計八人の人間が犠牲になった。

 

 魔物出現の報は直ちにハイラル王国軍に伝えられた。早馬(はやうま)がコモロ駐屯地へと走り、討伐の要請がなされた。駐屯地司令官は単独行動を好むはずのヒノックスが魔物の群れを率いているという話には半信半疑だったが、その一方で彼はデグドの吊り橋の軍事的経済的重要性について重々承知していたため、とりあえず彼は歩兵一個中隊を現地へ派遣することにした。

 

 だが、派遣された中隊の隊長の足取りは重かった。

 

 行軍の最中にも続報が頻々(ひんぴん)と中隊長に伝えられた。交通規制をかけたため犠牲者はその後出ていない、中央ハイラルとゲルド地方との物流は完全に停止している、魔物は何やら建物を建て始めた様子である、吊り橋の下の湖ならば通れるだろうと船を出した者がいたが、上からの落石攻撃で沈められた……

 

 馬上の中隊長は、これだけ事の重大さを告げる情報を耳にしておきながら、今ひとつ真剣な心持ちになれずにいた。平和が長く続いたハイラル王国軍特有の慢心というのも一つの原因ではあったが、より大きな要因は、彼の出自にあった。

 

 中隊長は貴族出身だった。彼の家は、三代前までは王城に許可なしで出入りできるほどの、それなりに家格の高い羽振りの良い貴族だった。だが二代前、つまりそれは彼の祖父にあたる人物なのだが、それが大失敗をした。

 

 中隊長の祖父は、ツルギバナナの先物取引に手を出した。その結果、全財産を失った上に莫大な借金まで背負うことになった。

 

 かつて違法とされたバナナの取り扱いは、その時代では規制緩和されて合法となっていたが、それにしても印象は良くなかった。貴族ともあろうものが投機事業に手を出し、しかも「魔王の果実」たるバナナのために破産したとあっては、もはや宮廷社会に居場所はなかった。彼の家はみるみるうちに没落した。

 

 傾いた身代(しんだい)を何とか立て直そうと、中隊長の父親は先代に似ぬ堅実さを発揮して、子どもの教育に力を入れた。特に父親は、長男には大きな期待をかけて多大な学費を投じた。反面、父親は次男以下の子どもを早々に家から追い出して、自活の道を得るように促した。中隊長は次男であった。

 

 早い話が、単なる口減らしであった。アッカレ地方の寒村の貧乏農民ならいざ知らず、三代前までは国王に親しく声を掛けられ、王女殿下には自作のピアノ曲を直接披露することもできた名門貴族が、食うに事欠いて子どもを口減らしとして家から追い出したのであった。情けない話であった。

 

 そんな過去が泥のように纏わりついているおかげで、中隊長は何事にもやる気を覚えることがなかった。どうせ仕事に励んだところで没落貴族の次男坊だ、金脈も人脈もない以上、どんなに頑張っても連隊長にはなれないだろうし、社交界に復帰するなんて夢物語だろう。それにどうやら、自分は駐屯地司令官にどこか嫌われているようだし……彼は吊り橋に向かう間、そんなことばかりを考えていた。

 

 頑張ったところで社会の上層へ行けるはずがないのだから、何事につけても彼の力が入らないのは当然と言えば当然だった。だが、そんな無気力さで乗り切れるほど事態は甘くなかった。

 

 デグドの吊り橋に到着した中隊長は、異様な光景を目の当たりにした。

 

 いつの間に建てたのか、浮島のそれぞれに不格好な(やぐら)がいくつも林立していた。そこに弓矢を手にしたボコブリンの群れが屯していた。

 

 橋の上は長い槍を持ったモリブリンたちが闊歩(かっぽ)していた。どうやらボコブリンが狙撃、モリブリンが接近戦というように、役割分担をしているようだった。

 

 だが、そんなことは些細なことであった。中隊長を(おび)えさせたのは、魔物たちの長、ヒノックスだった。

 

 なんと、そのヒノックスは二匹いたのである。

 

 突然、トーテツの話に割り込む声があった。

 

「ちょっと待った!」

 

 サクラダが言った。

 

「なにヨ、ウドーさん。またもや話を遮ってくれちゃって!」

 

 先ほどと姿勢を変えず、寝台で横になったままのウドーが眼鏡を光らせて言った。

 

「さっきも言ったがヒノックスっていうのは単独で行動する習性があって、しかも縄張り意識が強いから、他の個体と一緒に行動する事はあり得ない。ヒノックスがコンビを組むなんてことはなおさらあり得ない。その話はやっぱり辻褄が合わないぞ……」

 

 トーテツはウドーを適当にいなした。

 

「はいはい、話を続けますぞ」

 

 二匹のヒノックスは湖の真ん中の一番大きな浮島で、大きな腹を(さら)け出して仲良く並んで高鼾(たかいびき)をかいていた。なんとも仲の良さそうな二匹だった。その手足はエルム丘陵産の木材よりも太く、身の丈は城下町の城壁に匹敵するほどで、体色はいずれも炭のような黒色だった。

 

 中隊長は、怖気づいた。どう考えても歩兵一個中隊でどうにかなる話ではなかった。あの数、あの陣容を相手に戦うのは、まるで城攻めをするかのようだ。装備はないし、兵士たちの士気も低いし、何より自分自身に戦術的な才能がまったくない……

 

 彼は戦う前から負けたような気分がしていた。しかし、ここで自棄(やけ)になってはいけなかった。少し時間が経つと、彼は冷静さを幾分か取り戻した。彼は、その唯一得意とするところの作文力と言い訳を駆使することにした。彼はコモロ駐屯地へ「現有戦力での討伐作戦実施は不可能である」旨を報告した。

 

 駐屯地司令官からは、すぐに返事が戻ってきた。部下に当てた書状ながらその文面は非常に丁重だった。その丁重さが司令官なりの罵倒であることを中隊長は知っていた。しかし、罵倒よりも彼を困惑させたのは、末尾付近に添えられた奇妙な一文だった。

 

「貴官の報告に基づいて議論をした結果、司令部では少数精鋭による夜間襲撃が有効であると判断した。それにつき、司令部はコモロ駐屯地司令官の名において、王国近衛騎士団に対し、特に大型魔族討伐に秀でたる技量を有する騎士の派遣を要請した。要請は受諾され、現在、選抜されたる近衛騎士がデグドの吊り橋へ急行中である。以後、貴官の中隊は、かの近衛騎士への支援・援護に徹するべし」

 

 おかしな話だと中隊長は思った。彼のイメージとしては、近衛騎士は濃紺のベレー帽に金の縁取りの制服を着た、色白で美形のお人形さんのような連中に過ぎなかった。日々、おままごとのような訓練と婦女子のようなお茶会ばかりしている奴ら、そんな軟弱な奴らがわざわざこんなところまで足を運んできて、しかもありがたいことにヒノックス討伐まで引き受けてくれるとは? そんなことがあり得るのか? 彼には到底考えられないことであった。

 

 じりじりとしている内に、早くも二日が経ってしまった。通行止めされている一般人たちから「役立たず!」だの「グズ!」だの「税金どろぼー!」だのと呼ばれ続けて、中隊長の堪忍袋の緒はそろそろ切れそうになっていた。

 

 だが、その日の午前、(くだん)の近衛騎士は現れた。

 

 精悍(せいかん)な栗毛の馬に跨り、朝の爽やかな風にマントを翻して颯爽と到着したその騎士は、なんと未だ幼さを顔に残した、少年期を脱した直後らしき男の子だった。

 

 普通ならば、「子どもを寄越された!」と落胆する事態であった。しかし、中隊長が最初にその騎士を見て感じたのは、軽蔑でも失望でもなく、ただその美への純粋な感嘆の念だった。

 

 その少年騎士は、美しかった。

 

 少年騎士は、刈り入れを待つタバンタ小麦の畑の波を思わせる金髪だった。金髪はキラキラと陽光を受けて輝いていた。その目は、雲ひとつない快晴の夏空を想起させる、どこまでも透き通った青色だった。その顔立ちはあどけなさを残していて、ともすれば女子に間違われそうなほどに可憐だった。少年騎士はハイリア人特有の長い耳に、王国軍ならば禁止されているはずのピアスをつけていた。それが彼をより印象を深くしていた。

 

 少年騎士は寡黙だった。彼は無表情ながら中隊長にただ一言、自身の名前を告げた。 

 

「私の名はリンクです」

 

 衝撃から立ち直った中隊長は、しどろもどろになりながら名乗り返した。そして彼は、部下に用意させておいた食事の席に少年騎士を招待しようとした。だが、少年騎士は言葉少なに、しかし決して礼を失さずにそれを断った。少年騎士は連れてきたただ一人の従者を伴って、中隊の陣容の確認と敵陣の偵察へ向かった。

 

 中隊長は慌てて後を追った。「まずはお食事を」と声をかけても、騎士リンクは沈黙していた。彼は止まらなかった。無口の中でも相当の無口らしい。それともただの恥ずかしがり屋なのか。これでは仕事にならんぞ……中隊長は内心毒づいた。

 

 騎士リンクは、小柄だった。同年代の男子と比較しても、彼の身長はやや低めであった。しかし、彼の体幹のぶれぬ足運びと音を立てぬ俊敏な歩行は、その小柄な肉体に計り知れないほどの戦闘技量が秘められていることを暗示していた。

 

 騎士リンクはあっちに顔を出しこっちに顔を出し、あたかも好奇心旺盛な子犬のように中隊の陣立てを見て回った。その表情は真面目そのものだった。そして、中隊側で見るべきものがなくなると、彼はそのままの勢いで今度は魔物が蔓延(はびこ)るデグドの吊り橋へと足を向けた。

 

 中隊長は狼狽した。彼は呼び止めるべく声をあげようとした。だが、それは騎士の従者に止められた。

 

「大丈夫、まだ斬り込みはしませんよ。単なる偵察です。それに、天地がひっくり返ったって、魔物どもがあの人を傷つけることなんて不可能ですから」

 

 その従者もまた、中隊長をして美しいと思わせる容貌をしていた。従者は騎士リンクよりもやや年上であるようだった。従者もまた、長い金色の髪の毛だった。金髪はポニーテールになるように纏め上げられていた。その目は深海のような青さだった。従者の顔立ちは少年らしい元気さに溢れていた。従者は少女のようにきめの細かい肌をしていた。

 

 寡黙で表情を変えない騎士リンクに対して、その従者は明るくおしゃべりな性格だった。従者は中隊長に話した。その話によれば、今回騎士リンクが派遣されてきたのは命令によるものではなく、本人たっての希望であったという。

 

 同年輩の者の従者をすることに思うところはないのか、という中隊長の問いに対して、彼は、近衛騎士団の中で最強の男の従者になったまでです、と答えた。そして従者は、いかがですか、とポーチから何か細長いものを取り出した。それはバナナだった。丸々と実ったツルギバナナが一本、うやうやしく中隊長に差し出されていた。

 

 中隊長は思わず身震いをした。バナナなど、食えるか! バナナこそ、彼を現在のこの苦境に追い落とした遠因であった。彼はバナナを断った。バナナはクソッタレな爺さんの(かたき)だ。それに、魔物が好んで食べているという噂もあるし……食えるか! 彼はそう思った。

 

 バナナを断られた従者は、それなら失礼して、と言ってその場で無遠慮にバナナを食べ始めた。既に高くなった日の光を浴びて、従者のポニーテールの金髪が、あたかもツルギバナナのように光り輝いた。

 

 そうこうしているうちに、騎士リンクは戻ってきた。そして、少し従者と相談することがあると言ってその場を離れていった。

 

 中隊長のもとに、部隊の古参兵がやって来た。あの「子ども騎士」は信用できるのですかと、古参兵は胡散臭そうな顔をして尋ねた。それについては俺のほうが知りたいと中隊長は言いたかったが、何とかそれを我慢した。

 

 十数分ほどして、騎士リンクと従者は戻ってきた。そしてなんとも驚くべきことに、騎士リンクは「直ちに単独で攻撃を開始する」と中隊長に告げた。

 

 突然、トーテツの話に割り込む声があった。

 

「ちょっと待った!」

 

 サクラダがげんなりとしたように言った。

 

「……いい加減反応するのもアレだけど、なにかご意見かしら、ウドーさん?」

 

 先ほどと姿勢を変えず、寝台で横になったままのウドーが眼鏡を光らせて言った。

 

「さっきから聞いてればおかしな話ばかりだ。ヒノックスだの、超美形の少年騎士だの、美形の従者だの、バナナだの、それに単独攻撃だの……特に単独攻撃ってのがおかしい。戦闘のプロである近衛騎士がそんな無謀な作戦をとるわけがないだろう。頭の悪い三文小説じゃあるまいし。そんな話はあり得ない……」

 

 トーテツは適当にウドーをいなした。

 

「はいはい、話を続けますぞ」

 

 攻撃の意図を中隊長に伝えるや否や、騎士リンクは弓も矢も盾も持たず、ただその手に(いささ)か古臭い、青く光り輝く刃の長剣をしっかりと持って、まっしぐらに吊り橋へ向かって突入していった。

 

 あっと中隊長は叫んだ。静止する(いとも)などなかった。騎士リンクはしなやかな肉体を大型の肉食動物のように跳躍させて、一目散に敵陣めがけて駆けていった。

 

 中隊長も、中隊の兵士たちも、周りで成り行きやいかにと見守っていた通行人たちも、その無謀な行動に驚き、そして呆れた。しかし、あの可愛らしい騎士がやがて魔物に打ち倒され斬り刻まれて、湖に死体を投げ込まれるであろうことを想像すると、皆一様に顔色を蒼白にした。ただ一人、騎士リンクの従者たる若者は、平然とした様子でバナナを食べていた。

 

 中隊長はなるべく前方に出て、騎士リンクの行方を目で追った。一直線に吊り橋へと走っていった騎士リンクはほどなくして、吊り橋の上を歩いているモリブリンにその存在を気づかれたようだった。

 

 モリブリンは槍を振りかぶった。それに対して騎士リンクは減速することもなく、そのままの勢いで魔物へ突き進んでいった。

 

 ああ、数秒後にあの美しい童顔は挽き肉になるのか……そのように想像した中隊長は、しかし次の瞬間、目を見開いた。

 

 騎士リンクは、一刀のもとにモリブリンの首を()ねた。それはビリビリヤンマが羽虫を仕留めるが如き、目にも留まらぬ早業(はやわざ)であった。

 

 それから展開された光景は、見守る彼らにとってまさに信じがたいものだった。

 

 浮島に建てられた(やぐら)から騎士リンクに向かって驟雨(しゅうう)のように矢が降り注いだ。だが、彼は矢を払いもせず、あたかも玉遊びでもしているかのように軽やかなステップを踏んで避け続けた。そして、彼は一匹ずつ順番に、吊り橋上のモリブリンを倒していった。彼はその身に一つの傷も負っていなかった。どうやら呼吸一つ乱していないようだった。

 

 やがて騎士リンクは、中央の一番大きな浮島に辿り着いた。しかしそこにいるのは、魔物の長である二匹の黒ヒノックスであった。中隊長は息を呑んだ。これまでは奇跡的に怪我もせずに戦ってきた少年騎士であるが、はたして彼だけで二匹の巨大魔物に勝てるのだろうか……?

 

 そう思っていた中隊長の肩を、誰かが激しく揺さぶった。はっとして彼が振り向くと、そこには例の古参兵がいた。古参兵は叫んだ。このままあの騎士殿を見殺しにするわけにはいきません、我々も突入して王国軍の兵士たる務めを果たさなければなりません、なにを躊躇しているんですか、隊長に誇りはないんですか……古参兵は語気激しく、中隊長に詰め寄った。

 

 見れば、他の中隊員も一様に鬼気迫る顔をして、中隊長を取り囲んでいた。ここに至って、やる気のない中隊長も腹を(くく)った。彼は腰に下げていた長剣を引き抜くと、緊張と恐怖で奇妙に裏返った声を上げ、突撃の号令をかけた。

 

 やめておいたほうがいいですよ、という従者の静止する声も聞かず、中隊長と中隊は地響きを立てて吊り橋と浮き島へ殺到した。正確な狙いのもとに飛来するボコブリンの矢に倒れる兵士も幾人かいたが、損害にかまわず中隊は遮二無二(しゃにむに)あちこちの(やぐら)へと突進し、()じ登り、ボコブリンを斬り殺して、櫓に火を放った。

 

 中隊長もまた、叫喚を上げて兵士と共に突撃した。もはやなりふり構ってはいられなかった。戦闘時に特有の、あの興奮が彼の全身を支配していた。彼のあらゆる感覚が遅鈍になり、また鋭敏になった。手近な櫓は既に炎上していたので、彼は遠くの櫓に目標を定めると、吊り橋の上を全速力で走り始めた。

 

 遠くに、騎士リンクの姿が見えた。二匹の巨人の攻撃は熾烈だった。だが、騎士リンクは避けて跳んでバック宙をして、あたかも元気の良すぎる大型犬と楽しげに遊ぶように、二匹の巨人魔物を軽くあしらっていた。

 

 その手並みは、芸術的なまでに見事だった。騎士リンクは繰り出された拳に飛び乗って腕を駆け上がると、ヒノックスの頭部に簡単に取り付き、その大きな黄色い血走った単眼に思い切り剣を突き立てた。

 

 ヒノックスは激痛に悲鳴を上げた。そんな仲間を見て、もう一方のヒノックスは怒りに燃えた。相方の魔物はこれまた芸のない力任せの正拳突きを放ったが、騎士リンクは軽やかに空中へ飛ぶと、今度は相方の肩へ飛び乗り、首筋を鋭い太刀筋で斬り裂いた。

 

 中隊長は、その光景をぼんやりと見ていた。彼は全力疾走しながら、がくがくとぶれる視界の中へ懸命にその光景を収めようと努力していた。彼は、今自分の見ているそれがどうにも現実離れし過ぎているように思った。あんなに強い人間がこの世にいるのか? あんなに小さいのに二匹のヒノックスを手玉に取れる人間がこの世にいるのか? 彼にはまったく信じられなかった。

 

 唐突に、中隊長の記憶はここで途切れた。

 

 トーテツの話に声が割り込んだ。

 

「ちょっと待った! せっかく良いところなのに場面暗転って、昔話的にそれってどうなんだ!?」

 

 ウドーの叫びに、サクラダも微かに頷いた。

 

「……アタシもまあ、そう思わなくもないわね」

 

 トーテツは言った。

 

「申し訳ありませんが、そういうお話なんです。まあ最後まで聞いてください」

 

 目が覚めてみると、中隊長は天幕の中で横になっていた。ボコブリンの狙撃を兜に食らったとのことだった。矢は貫通しなかったものの衝撃は強く、それで意識を失ったのだと部下が言った。

 

 だが、中隊長は最後まで話を聞かなかった。彼は天幕を飛び出した。彼の心の中には、ただ一つのことだけがあった。

 

 騎士リンクはどうなった!? 勝ったのか、それとも負けたのか!? 辺りを見回して、彼は思わず叫んだ。

 

 騎士リンクよ、汝は何処(いずこ)にありや! 

 

 しかし、あの残酷なまでに強く美しい、あどけない少年騎士は、もはや何処(どこ)にもいなかった。

 

 部下は中隊長に言った。騎士リンクはヒノックス二匹を単独で難なく討伐した。彼は一匹を執拗に斬り刻んで、その目玉を(えぐ)り出して倒した。すると、もう一匹のほうは意気消沈して、戦意を喪失してしまった。おそらく、それは彼の計算の内だったのだろう。幼い顔の裏で、冷徹な戦術眼を働かせていたのではないか……部下はさらに話し続けた。言葉少なに中隊と中隊長へ礼を述べた後、騎士リンクは栗毛の馬に乗って、従者と(くつわ)を並べて、王城へ帰っていった……

 

 去りゆく馬上、午後の柔らかな黄色の日差しを浴びた彼は、神々しいまでに美しく、山百合(やまゆり)のように可憐だったという。

 

 中隊長は、その光景が見れなかったのを、心から残念に思った。

 

 その後、中隊長は作戦成功の功績を認められた。彼は昇進することになった。しかし、彼はそれを固辞した。そしてほどなくして軍を退役すると、彼は退職金で馬車を購入し、こじんまりとした運送業者として働き始めた。彼はそうして生き、そうして死んだ。

 

 

☆☆☆

 

 

「というのがまあ、わしのおじいちゃんの話なんじゃ。言うまでもないでしょうが、この中隊長こそわしのおじいちゃんその人でしてな……」

 

 老人トーテツはいかにも話し疲れたというように、水さしの水をコップで一杯飲んだ。そして、じゃあこれで、と言って彼はその場を去っていった。

 

 一方、サクラダは難しい顔をしていた。というよりも、どこか不満そうな顔をしていた。サクラダは言った。

 

「……なるほど。建築は全然関係なかったケド、まあ、興味深い話だったワ」

 

 エノキダが言った。

 

「どのあたりが興味深かったのですか」

 

 長時間メモを取っていたせいで、エノキダはすっかり手が疲労してしまった。彼は手をぶらぶらとさせていた。そんな彼を横目で見ながら、サクラダが言った。

 

「その騎士リンク、おそらくだけど百年前のハイリア人の英傑、その人ヨ。たぶんまだ無名の新人だった頃の話じゃない? 英傑について調べている研究者に教えたら涙を流して喜ぶ話じゃないかしら。貴重なお話ヨ。でも、建築は全然関係なかったケド」

 

 エノキダは頷いた。

 

「なるほど。あの大厄災の時にハテノ砦で奮戦してくださった、あの英傑様ですか。確かに、村の連中に話したら喜びそうですね」

 

 サクラダが言った。

 

「そう、その英傑様よ。まあ、お話と建築とは全然関係なかったケドね。ああ、ほんと、建築とは全然関係ない話だったワ。まあ面白くはあったわネ。建築全然関係ない話だったケド!」

 

 サクラダは、大きな欠伸(あくび)をした。すでに時刻は深夜を回っていた。そろそろ眠りにつかなければならなかった。

 

 ふと思い浮かんだことを、サクラダは口に出した。

 

「眠りか……」

 

 エノキダがその呟きを拾った。

 

「眠りが、どうかしましたか?」

 

 サクラダは、なんでもないというように手を振った。

 

「大したことじゃないワ。その英傑様は実は今でも生きていて、長き眠りの中で傷を癒やしている、という話をどこかで聞いたのよ。あんな長話を聞いた後だから、ちょっと連想しただけ。さぁ、エノキダももう寝なさい」

 

 エノキダは頷いた。

 

「はい」

 

 サクラダは寝台に身を横たえると、すぐに目を閉じて、心と体を意図的に弛緩させた。こうすれば安眠間違いなし。魔物エキスも飲んでいるから、悪夢の心配もない……サクラダの意識は次第に溶けていった。

 

 薄れゆく意識の片隅でサクラダは何かの会話を聴いたような気がした。だが彼は、あえて抵抗することなく、夢の世界へ落ちていった。

 

 会話は続いていた。

 

「おう、トーテツじいさん。夜中に悪いが、コイツに軽く食事を出してくれないか。俺の古い友達でね、シタークって名前なんだ」

「おや、バナナ売りのゴンローさん。どうでしたか、星座は見れましたか?」

「いや、微妙に曇ってて駄目だったよ。おい、シターク。ここの名物はがんばりハチミツクレープだぜ。それでも食べて、ちょっとバナナと馬車の話でもしようや……」




 三十二話目にして、ようやく原作主人公リンクさんの登場です(でもちょっとちっちゃい)。時期的には彼がマスターソードを抜いてからそれほど時間が経っていない頃を想定しています。『マスターワークス』には、リンクさんがマスターソードを抜いたのは十二歳から十三歳と書かれています。
 余りある魅力と色気と茶目っ気を持っているリンクさんですが、自分でいざ書くとなると、その魅力と色気が十分表現できているか不安になります。難しい課題ですが、しかしやりがいのある課題でもあります。死ぬぅ。
 ウドーの「ちょっと待った!」は、例の教育テレビのヒゲ◯いをイメージしていただければ幸いです。

※追記 ヒ◯じいは教育テレビではなくN◯K総合でした。謹んで訂正いたします。(2018/09/29/土 12:52)
※加筆修正しました。(2023/05/10/水)


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第三十三話 ハイウェイ・トゥ・バナナ

 人間は、「速さ」というものに異常なまでに執着する。そして、人間がこの「速さ」を一つの価値基準として採用したことは、火の使用や鉄器の使用といった人間の為したあらゆる革新の中でも、とりわけ重要な意味を持っている。いうなれば、「速さ」が文明化の度合いを測る物差しとなっているのである。

 

 少年時代を思い起こしてみるが良い。私たちが友人たちと明けても暮れても夢中になって遊んだ遊びは、いずれも速さを競ったものだっただろう。単純な駆けっこに始まり、崖上り、どんぐりの拾い集め、ガンバリバッタとり、ゴーゴートカゲ狩り、あるいは海や川での泳ぎ、それらの遊びにはすべてが速さという要素が含まれている。

 

「あの子は村一番の駆けっこの名人だよ」 少年にとってはこれほどまでに誇らしい賛辞はない。この名誉は彼が死ぬまで存続する。老人は孫ににこやかな表情で語る。「どうだい、今ではこうして寝台の上で寝起きしかできないが、昔はハテノ村からハテノ砦まで半日もかからず駆けたものさ」

 

 子どもだけではない。年を重ねて大人になっても、いや、大人になればなるほど、人間は速さを追い求める。その傾向は、特に大厄災以前において顕著だったようである。

 

 例えば、職人たちは質の高い品物を他の職人に「先駆けて」完成させようと日夜努力を重ねた。職人たちは「はやい分だけ」品物の価値が上がることを知っていたからである。「俺の方が先にあの盾を考案したし、現にこうして完成させたのさ。リザルスピアだって折れちまうような頑丈な盾だぜ? ああ、あいつ? あいつは同じ職人でも、単なるうすのろさ」

 

 また、大工たちは他の組よりも早く建築物を完工させようとしたし、そのために怪我をすることも厭わなかった。ある棟梁は以下のような言葉を残している。

 

「流れ早く水塩辛(しおから)いエン川を前にして、さしもの我々も怪我人を少数ながら出しました。ですが、軍の御用仕事たるこの架橋工事をこれほどまでの短時間で終わらせることができたのは、疑いようもなく我々の誇りとするところであります」

 

 本来ならば部下の健康と安全を気遣い、何よりも無事故(むじこ)で仕事を終えるのが最も誇らしいことなのだとよく知っていたはずの棟梁たちも、名誉というエサが鼻先にぶら下げられた途端に、目の色を変えて速さを追求したことが、この言葉からは窺える。

 

 書類仕事を主な仕事とする書記官や役人にしても、目の前の仕事をどれだけ早く片付けることができるのかをまず計算した。仕事の完成度の高さよりも、彼らが重視したのは時間の節約、つまり速さだった。

 

「あいつは頭でっかちなシーカー族の中でも、突出して書類を捌くのが早い。それだけで評価に値する」

 

 実際のところ、速さのためには精度が犠牲になった。それは多々あった。だがそれを修正するのは、愚図でのろまだが几帳面な他の連中であった。

 

 だがそんな彼らよりも、よりいっそう速さを重視した者たちがいた。それは商人と軍人であった。商人は競合者に先駆けて品物を安く仕入れ、また他者に先駆けてそれを高く売ろうとした。速さが金を、それも莫大な金を生み出すことを、彼らは知っていた。

 

 商人たちは、速さのためにあらゆる権謀術策を張り巡らした。彼らは絶えず情報を仕入れ、時には罠を張り巡らせた。愚鈍な競争相手を落とし穴に嵌めることなど、彼らにとっては至極当然な戦術だった。例えば、ツルギバナナ発見からその販路が確立するのに、わずか数か月しかかからなかった歴史的事実を我々は知っている。彼らはそれほどまでに速さを追求したのだ。

 

 商人よりも切実に速さを求めたのが、軍人であった。敵に打ち勝ち、味方の損害を軽減するためには、何よりもまず奇襲による他ない。その奇襲を成立させるもの、それこそが速さであることを軍人たちは知っていた。相手の速さの概念を、こちらの「より速い」速さの概念で追い抜き破壊すること、それが奇襲成立の第一の要件である。彼らはそう心得ていた。

 

 古代シーカー族の言葉に「彼を知り己を知れば百戦殆ふからず」という金言がある。この「彼を知る」とは、つまるところ敵の速さを知ることに他ならない。優秀な将帥は常に軍事演習を欠かさなかったが、これは兵を鍛えるという目的以上に、「麾下(きか)の部隊がどれだけの速さで作戦展開を完了するか」ということを把握するために行われたのである。

 

 速さを最も強力な武器として活用した、ある将軍の話をしよう。将軍の名は、バオといった。かつての時代、突如としてサトリ山の(ふもと)に広がるニーケル平原において魔物が蜂起した。魔物たちはハイラル王国軍に挑戦した。魔物の数は少なくとも一万を超えた。しかもその数は日々刻々と増えていた。名将との誉れ高かった将軍バオは、即座に動員可能な一個連隊三千名を率いて進発した。彼は強行軍に強行軍を重ねた。そのおかげで、彼は敵に奇襲攻撃を仕掛けることに成功し、大勝を収めることができた。

 

 将軍バオはその回顧録において述べている。

 

「……兵士たちにはたいまつ以外何も持たせず、身一つで中央ハイラルからニーケル平原まで駆け足をさせ、昼夜兼行で行軍させた。糧食と武器、鎧、資材は手配が済み次第、高速馬車に搭載して、部隊に追及させた。私は速さこそがすべての救いと信じていた。また私は、魔物は個々としては人間よりも素早く動けるとしても、大軍となれば素早く動くことができないことを知っていた。結果として、我々は迅速にヒメガミ川を渡河し、サルファの丘を確保することができた。それが戦いにおいて決定的な意味を持った……」

 

 しかしながら、このように速さを重視するというこの心的傾向は、ハイリア人が本来もつものではなかったようだ。どうやら、大昔のハイリア人たちはもっとのんびりした性格をしていたらしい。古代の有名な諷刺(ふうし)詩の一つに、「どこへ行くのかポストマン、そんなに速く走っても、届け先は逃げてはいかぬ、もっとゆっくり歩くがよい、どうせ死すべき人間だもの、焦って走って汗流し、息を切らして駆けっこしても、そんなのなんの得にもならぬ、わけても死からは逃げられぬ」というものがあった。この詩こそ、そのことの例証である。

 

 そんなのんびり屋のハイリア人たちに「速さ」の重要性を教えたのは、大空を自在に飛び回る、あのリト族たちだったと言われている。

 

 一般的なハイリア人が何週間もかけて峻険な山谷を進んでいるその頭上で、リト族たちは疾風を身に纏い、羽毛に覆われた鋭い翼端をきらめかせて、あたかも隣の家へ鍋を借りに行くかのような気軽さで、長距離を苦もなく移動した。それでも、ハイリア人はその飛ぶ姿の美しさを褒め讃えはしたが、その速さに憧れることはなかった。

 

 状況が変わるきっかけとなったのは、ある時に開催された親善交流であったという。リト族の代表団がハイラル城へ訪問し、同盟が締結された際、親善交流の一環として記念の競技大会が催された。その時の記録が断片的に残されている。それによるとハイリア人たちはどうやら、リト族の持つ「速さ」に深い感銘を受けたようだった。

 

「……王の指名で、『王国随一の馬術の手練れ』として名高い騎士が選抜された。彼は栗毛の駿馬(しゅんめ)にまたがった。彼はその全身に覇気を(みなぎ)らせ、リト族との競争に臨んだ。一方のリト族は、王の御前であるにも関わらず不遜(ふそん)にも、その代表団において最も若輩で小柄な少年を競争者として指名した。『空を駆けるリト族とはいえ、これでは勝敗は目に見えている』と王は側近に語った。だがその結果は、まことに残念なことに、我々ハイリア人の完敗に終わった……」

 

 この競技会以来、騎士の訓練として乗馬競走が最も重要視されるようになったと一般的に言われている。速さが一つの価値となったのだった。

 

 リト族のみならず、他種族との交流はハイリア人の速さへの傾倒をますます加速させた。ゾーラ族から水運の技術を学んだハイリア人は、よりはやい水運によって彼らを凌駕しようとした。ハイリア人は、砂漠においてはスナザラシの運用をゲルド族から導入した。そして、より速くスナザラシを走らせようとした。ただ、ゴロン族からは、ハイリア人は速さについて学ぶところはほぼなかった。ゴロン族はのんびりとした種族的な性格をしていたからである。

 

 ともあれ、大厄災以前のハイラル王国が、猛烈なスピードによって回転していたことは確かである。天文学者は天体の運行を計算し、その結果を基にして神官たちは暦を作成した。大聖堂や神殿の鐘楼(しょうろう)は一分一秒の狂いもなく鐘を鳴らして時を告げた。人々は厳密な時間割に沿って生活を送っていた。人々は早さと速さに憑りつかれていた。仕事だけではなく娯楽も、たとえば競馬、馬車競争、徒競走、ボート競技、盾サーフィン、リト族のエアレース観戦などといった娯楽のいずれも、速さを主軸に据えたものであった。

 

 大厄災の後、速さは失われた。速さは価値を持たなくなった。辺境に住み、日々村内で自給自足のための足掻きを続ける人間たちにとって、速さは何の意味も持たない。

 

 ある意味で、ハイラル王国は速さのために自滅したのだとも考えられる。厄災を封殺した古代技術を発掘し、それを「迅速に」戦力化しようとした結果、ハイリア人はそれらの持つ危険性を充分知る前に、逆にそれらによって滅ぼされてしまった。あの尊い姫君は「早く覚醒せよ」、「早く力を振るえ」と求められたが、その早さが彼女にとっての呪いとなってしまった。彼女はハイラル城の奥へと消えていってしまった。

 

 だが現在、この大地では「速さ」を問い直す動きが、徐々に芽生え始めている。それは他愛のないマラソン競技や障害物競争といった形で現れている。人を追い詰め人を極限まで酷使させる速さの概念ではなく、自由で豊かでバリエーションに富んだ、いわば「それぞれの人にとっての速さ」が、今一度考え直されるようになっている。

 

 その一方で、未だに速さの奴隷となっている集団が存在する。

 

 彼らは切実に速さを求めている。彼らの胃袋と欲求はもはや限界に達している。

 

 はやくバナナを! 新鮮なバナナを! 一刻もはやく新鮮で滋味豊かな、大量のバナナを!

 

 それにもかかわらず、彼らが心待ちにしている輸送馬車はまったく動けないままである。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌには、彼女自身でも不思議に思うようなことがいくつかあった。十歳以前の記憶がないことも不思議なことの一つであったが、それ以外にも「どうしてこんなことが自分にできるのか?」と思うことが色々とあった。

 

 例えばそれは、早食いに早着替えという彼女の特技であった。練習した覚えもないのに、彼女が気づいた時には特技と言えるほどに熟達していた。もったいないからそんなことは滅多にしないが、彼女はアツアツのあげバナナを火傷なしに瞬時に飲み込むことができた。寝巻から忍びスーツへ一瞬で着替えることだってできた。

 

 他には、疾風のブーメランやアイアンブーツ、パワーブレスレットといった、不思議アイテムが使用できるということがあった。彼女は手に入れるまでこれらのアイテムを見聞きしたことがなかったが、手に入れた直後から自然と使いこなすことができた。長年使い込んでいる首刈り刀のように易々(やすやす)と、彼女はそれらを扱うことができた。

 

 さらに、もうひとつのことがあった。それは乗馬であった。バナーヌは、なぜか乗馬を得意としていた。

 

 乗馬に必要なものは、馬と(ルピー)と訓練である。時間に余裕がある金持ちしか、乗馬をすることはできない。

 

 バナーヌは、一般的なイーガ団員である。一般的なということは、とりもなおさず彼女が貧乏であることを意味する。最低限の衣食住は保障されており、給料もわずかながら支給されているが、それはバナナを購入するために費やされて、すぐになくなってしまう。貯蓄などということは夢想に過ぎないし、そもそも彼女自身にその意図はない。

 

 だから、(ルピー)のかかる乗馬などというものを、彼女はやったことがなかった。

 

 そういうわけだから、バナーヌが馬を乗りこなせるというのはかなり奇妙なことであった。馬を持ってないのに馬に乗れる。訓練を受けていないのに馬に乗れる。イーガ団員は何よりも隠密行動を心がけるものであり、それゆえ目立つことこの上ない乗馬など、滅多にしない。イーガ団の教育において徒歩行軍は重視されていたが、乗馬は等閑視されていた。

 

 どうしても理屈に合わないとバナーヌは思うのだった。それと同時に、乗れるのだったら別にそれでも良いかとも彼女は思った。

 

 彼女が初めて馬に乗ったのは、背も体格もまだまだ小さな頃だった。それは、ようやく単独任務という名のパシリを命じられ始めた頃だった。

 

 ある時、カルサー谷の上役が友人に贈り物をしようと考えた。友人はリバーサイド馬宿で常駐連絡員として苦労していた。上役は「心ばかりの励ましの品」として、特上のツルギバナナを友人に贈ろうと考えた。その使いとして、少女を脱したばかりのバナーヌに白羽の矢が立った。

 

 贈り物は、丸々と()え太った見るからに上等そうなツルギバナナの房が三つだった。バナナは、紫に染色されたタバンタ(あさ)の風呂敷に包まれていた。ごくりと生唾を飲み込むバナーヌに、その上役は言った。

 

「いいか、絶対に送り届けるんだぞ! つまみ食いとかしたらぶっ殺すからな! そのバナナ一包みだけでお前の給料一年分に匹敵するぞ! 一週間以内に必ず送り届けろよ! ボヤボヤしてるとスイートスポットで真っ黒になっちまうからな! あいつはそれが大嫌いなんだ! 分かったらとっとと行け! ほら出発!」

 

 バナーヌは、今と変わらずその時も一般的なイーガ団員であった。というのは、彼女は組織内における権威・服従関係をしっかりと内面化していたからである。コッソリと別のバナナにすり替えて食べてしまうなんていう悪知恵は彼女に働かなかった。何より、その頃の彼女は今よりも幾分か真面目で、使命感らしきものも抱いていた。

 

 旅は順調だった。カルサー谷からハイラル平原東に流れるハイリア川までの道のりは長かった。しかし敵はおらず、天候も良かった。若く瑞々しい体を弾ませて、バナーヌは足取りも軽く進んでいった。やがて彼女はリバーサイド馬宿近くの平原に到達した。

 

 事件が起きたのは、その日の正午頃であった。彼女は朝からの雨をあえて(おか)し、小高い丘を越えようとした。

 

 そこを下ればリバーサイド馬宿という所で、彼女はふいに騎馬ボコブリンと遭遇してしまった。まだ経験不足で、索敵の重要性を身に沁みて知っていない彼女であった。こんもりと背丈以上に茂った(やぶ)を抜けた彼女の目へ真っ先に飛び込んできたのは、まだら色をした馬の尻と、赤ボコブリンの背中だった。思わず、彼女は声を漏らした。

 

「あっ」

 

 馬に乗ったボコブリンが振り返った。

 

「ブヒッ?」

 

 可憐なサファイアの瞳と、血走った醜悪な赤い目が合った。一瞬、静寂が満ちた。(かす)かな木擦れに、ガンバリバッタが跳ねる音、ポカポカアゲハの羽ばたきの音が聞こえた。

 

 だが、それも束の間だった。先に動いたのはバナーヌだった。彼女は間髪入れずに首刈り刀を鞘から引き抜くと鋭く一閃を放ち、ボコブリンの弓手(ゆんで)を切り落とした。火の出るような日頃の鍛錬がモノを言った形であった。

 

 ボコブリンは苦痛に絶叫し、(もろ)くも落馬した。彼女は容赦しなかった。とどめを刺そうと彼女は一歩踏み込んだ。

 

 そこで、彼女の第六感ともいうべき危機察知能力が働いた。彼女は体を動かした。体勢を急激に変えて、彼女はその場から跳んだ。直後、彼女がそれまでいた場所に、三本の矢が突き刺さった。

 

 彼女は矢が飛来した方向を見た。そこには、仲間の窮地を救おうと駆けつけてくる、三匹の騎馬ボコブリンがいた。

 

 バナーヌが任務において最初に死を覚悟したのはこの時だったかもしれない。戦力的には彼女は圧倒的に不利であった。しかし逃げようにも、敵は騎乗していて追いつかれるのは確実だった。不思議アイテムだって、この頃の彼女は一つとして持っていなかった。

 

 それからは、まさに死に物狂いの戦いだった。

 

 訓練において、彼女は戦闘教官から「騎馬ボコブリンの騎射(きしゃ)は非常に正確で、常に位置を変え続けなければ必ず被弾する」と教えられていた。その教えに従って、彼女は()んで()ねて地に伏せて、次々と飛来する矢を避け続けた。一方のボコブリンたちは、彼女を中心として円を描くように馬を走らせた。魔物たちは決して彼女に近寄ろうとはしなかった。相手が消耗するのを待っているのだった。

 

 バナーヌの息が荒くなり、筋肉が悲鳴を上げた。泥だらけになり、汗まみれになりながらも、彼女は懸命に攻撃をかわし続けた。しかしいつか体力は尽きる。彼女は追い詰められていた。

 

 その時、あたかも天啓(てんけい)を受けたかのように、彼女の脳内でひとつの考えが閃いた。なぜ馬に対して馬で対抗しないのか? こちらも馬に乗れば良いではないか。彼女はそう思った。

 

 なぜそう考えたのか彼女には分からなかった。窮地に陥った精神が「ここはあえて不可能なことを可能なことと考えよ」と彼女に促したのかもしれなかった。彼女の体は、迷うことなく動き始めた。

 

 最初にバナーヌが斬りつけたボコブリンは片腕を失いながらも、必死になってまた馬に乗ろうとしていた。彼女は周囲からの矢が途切れた一瞬の隙をついて、そのボコブリンを背中から袈裟(けさ)懸けに斬り捨てた。そして彼女は、魔物の所有物であったまだら色の馬に、勢いよく飛び乗った。

 

 通常、まったくの素人が乗馬をこなすようになるには、一日数時間の訓練を一ヶ月間近く積む必要がある。落馬の痛みに耐え、手に豆ができてそれに血が滲むほどに手綱捌きの練習をしなければならない。体に新しく「乗馬という身体動作」を沁み込ませるには、それだけの訓練が不可欠である。

 

 バナーヌが飛び乗った馬は(くら)(あぶみ)蹄鉄(ていてつ)もつけてない裸馬(はだかうま)だった。手綱すらなかった。乗馬の専門家でも、裸馬(はだかうま)を乗りこなすのは容易な技ではない。本来ならば、絶対に乗りこなせるわけがなかった。

 

 しかし、バナーヌは完全にその馬を操ることができていた。

 

 彼女にとってはそれは正真正銘初めての乗馬で、そして正真正銘初めての騎乗戦闘だった。それにもかかわらず、彼女の心は平静そのものだった。最初、彼女は少しだけまごついた。だが、数回の呼吸の後には、彼女は思うままに馬を動かしていた。まるで、今まで気づかなかっただけで、本当は熟練の騎手として訓練されてきたかのようだった。そういう鮮やかな乗馬だった。

 

 しばらく矢を避けつつ駆け回った後、彼女は一匹の魔物に急接近して首刈り刀で首を斬り落とした。そして、もう一匹を弓矢で射落とした。彼女自身、こんなことができるとは思ってもみなかった。彼女は最後の一匹を仕留めるべく、馬首を巡らせた。魔物は叫んだ。

 

「ブヒッ!」

 

 しかし、そのボコブリンは既に逃げ腰だった。知能低劣な魔物ではあっても、相手との実力差を正確に判断できるだけの本能は備わっていたようだった。魔物はバナーヌに背を向けて、脇目も振らずに逃走を始めた。

 

 バナーヌは一息ついた。どうやら危機を脱したようだ。安堵の念と共に彼女はもう一度、走り去っていくボコブリンへ目をやった。

 

 その魔物の腰に、紫色の包みが下がっているのが見えた。それはバナーヌのお使いの品、高級ツルギバナナの贈り物だった。

 

 どうやら彼女は、矢を避けるために転げまわっている時にそれを落としていたようだった。それを、あのボコブリンは目ざとく拾い上げていた。

 

 一瞬、バナーヌの頭の中が真っ白になった。上役の「ぶっ殺すぞ! お前の給料一年分だぞ!」の言葉が、残響音を伴って脳内で再生された。給料一年分なんて、気の遠くなるほどのルピーだ! 彼女は叫んだ。

 

「まずい!」

 

 弓を鞭代わりにして一声(ひとこえ)馬へ気合いを入れると、バナーヌは猛然としてボコブリンを追跡し始めた。両者の距離はすでに弓矢の射程外になるほど離れていた。だが、ボコブリンの馬術が拙いのか、それとも彼女の腕が良いのか、その差はみるみるうちに縮まっていった。

 

 逃げられれば任務(パシリ)は失敗となる。そして、大変なお仕置きを受けることになるだろう。そういう緊迫した状況だというのに、バナーヌの心はなぜか弾んでいた。その心は、彼女がまだ少女の頃、ノチと一緒に他愛もない遊びに興じたり、一緒にバナナ料理を作って楽しんだりした時に感じた喜びに満ちていた。暗い影を一切伴わない光り輝くような歓喜の感情に、馬上にいる彼女は包まれていた。

 

 馬が加速し、風の音がびゅうびゅうと彼女の耳を打った。冷たい空気が彼女の口の中に否応なしに入り込んだ。

 

 馬上のバナーヌはその時確かに、速さに魅せられていた。

 

 ボコブリンはたびたび振り返って追跡者を確認した。その目は恐怖で赤黒く血走っていた。バナーヌもまた、その青い瞳でボコブリンと自分との距離を絶え間なく確認し続けた。

 

 ついに射程に入った。彼女は冷静に二連弓に一矢を(つが)え、深呼吸をしてボコブリンの頭に狙いをつけた。彼女は必殺の気迫と共に矢を放った。

 

 矢は、ものの見事に魔物に命中した。頭部に直撃を受けたボコブリンは、もんどり打って落馬した。

 

 そして、紫の包みも宙を舞った。バナーヌの口から声が漏れた。

 

「あっ」

 

 その声が虚空へと消えたその瞬間、紫の包みはびちゃりという嫌に耳に残る音を立てて、泥溜まりの中へ無惨にも落下した。

 

 幸い中身は無事だった。だがリバーサイド馬宿にいた届け先の者からどこか白い目で見られたのは言うまでもない。

 

 カルサー谷に帰還してから、バナーヌはノチにこのことを話した。

 

 なぜかノチのほうがバナーヌよりも得意げな顔をした。彼女は言った。

 

「カッコいい! まるでハイラル王国の騎士みたいにカッコいい! あっ、『ハイラル王国の騎士がカッコいい』なんて、こんなことはイーガ団員として言っちゃいけないんだった……えっ? 驚かないのかって? だってバナーヌだもん! バナーヌだったらなんでもできるんじゃないかって、私いつもそう思うの。でも、怪我がなくて良かったね、もう少しで死んじゃうところだった……もう無理はしないでね……」

 

 

☆☆☆

 

 

 夜の静寂を纏った冷涼な大気、それにすっぽりと包まれていたハイリア湖南岸は、突然の喧騒(けんそう)に眠りを破られた。

 

 街道の脇に掘られた一つのタコツボから、盛大に白煙と色とりどりの火花が噴出していた。爆発音が連続した。絶望し、怒り狂った男の絶叫も聞こえてきた。それに触発された魔物たちが放つ矢叫(やたけ)びは、地の底に身を潜める地虫たちすら呼び起こさんとする猛烈さだった。

 

 それを後にして、バナーヌとテッポは去っていった。彼女たちは一緒に一頭の馬にまたがっていた。彼女たちの馬は煙幕に身を隠しつつ、魔物の弓矢の管制下にある地帯を一気に突破した。

 

 このまま街道を進んで、フィローネ樹海入口へ行く。バナーヌは手綱を捌きながらそう考えていた。樹海入口に到達した後は、道を南にとってアラフラ平原方面へと抜ける。例のモモンジとヒコロク、その二人を見つけ出して合流するのに、あまり時間をかけるわけにはいかない。魔物たちがいつ高台を降りて一斉攻撃を仕掛けてくるのか分からない。そういえば、あのヒエタは「速さこそがすべての救いだな」と言っていたっけ……

 

 バナーヌの後ろに小柄なテッポがちょこんと座っていた。テッポはひしと両腕をバナーヌの細い腰に回してしがみ付いていた。彼女は落馬しないように懸命にバランスを取っていた。

 

 バナーヌの冷静な声がテッポへ飛んだ。

 

「テッポ、(りき)み過ぎ。もっと力を抜いて、馬の動きに体を合わせて」

 

 それに対して、テッポの声は内心の動揺を隠しきれていなかった。

 

「そ、そんなこと言ったって……これ、けっこう揺れるじゃない! それに高いし、風圧が凄いし、ちょ、ちょっとこわ……」

 

 バナーヌは言った。

 

「怖い?」

 

 テッポは大きな声で答えた。

 

「こ、怖くなんかないわよ! ただ、馬がこんなにも速いなんて想像もしてなかっただけ!」

 

 しばらくの沈黙が二人の間に舞い降りた。軽快な(ひずめ)の音を立てて、二人を乗せた馬は街道を快速で駆けていった。

 

 馬のたてがみが揺れていた。バナーヌのバナナのような金髪のポニーテールも、テッポのぬばたまの長い黒髪も揺れていた。雲間から降り注ぐ月明りに照らされて、精悍(せいかん)な馬とそれに騎乗したバナーヌとテッポの姿が真皮的な美しさを放っていた。二人はあたかも、金色と紅色で彩色された装飾写本の一ページからそのまま抜け出してきたかのようだった。

 

 後ろに座るテッポが力を緩めたのを、バナーヌは感じた。さすがは幹部の愛娘(まなむすめ)だと彼女は思った。数々の英才教育によって養成され高められたテッポの身体能力は、不慣れな乗馬にも即座に適応しつつあるようだった。

 

 ふふっ、とテッポが笑い声を漏らした。それを聞いて、バナーヌは言った。

 

「なに?」

 

 テッポは笑いつつ答えた。

 

「ふふ……いえ、指揮官殿には気の毒なことをしちゃったな、なんて思ったのよ。決して『いい気味だ』なんて思ってませんから。これは『私たちは作戦上必要なことを実行しなければならず、指揮官殿はその職責上辛い役目を担わなければならなかった、だから気の毒だ』という意味だから。ほんと、『いい気味だ』なんて私は思ってないわ。そう、いい気味だなんて思っていません!」

 

 バナーヌは安心した。どんなに早熟で秀でた技能を持っていても、テッポはまだまだ子どもだ。サンベに悪罵されて落ち込んでいるのを見た時は心配したが、こうして軽口を叩けるのならば、もう余計な気遣いはいらないだろう……

 

 そう考えていたバナーヌがふと右方向へ目をやると、一頭のヤギが彼女たちと並行して走っているのが見えた。なぜか、ヤギは全力疾走していた。ヤギはこのハイラルではごく一般的な、なんの変哲もないセグロヤギだった。

 

 なにか、変だぞ。バナーヌはそう思った。彼女はテッポに声をかけた。

 

「おい、テッポ」

 

 しかし、テッポはその奇妙な光景に気づかないようだった。軽口は叩けても、未だテッポは強烈な風圧には耐えられないようだった。テッポはバナーヌの背中に顔も体もぴったりとはりつけていた。だから彼女は周りを見ることができなかった。声をかけられたことにも気づかず、テッポは話し続けた。

 

「だいたいサンベは前から評判がすごく悪いのよ! 独断専行する割に能力が伴ってないし、指揮官としての責任観念も希薄だから、『独立任務に投入するには不安しかない』ってお父様も仰っていたわ」

 

 テッポが一人で喋っている間に、ヤギが四頭に増えた。いずれも口から泡を吹き、ぜえぜえと荒い息を漏らして、必死になって走っていた。

 

 まるで、何かに追われているようだ。バナーヌは嫌な予感がした。なにか、変だぞ。やっぱり変だ。

 

 バナーヌは、今度は左方向へ目をやった。そこには、立派な大角を持った(おす)のヤマシカが一頭と、それより小さな(めす)のヤマシカが四、五頭いた。いずれのシカもヤギたちと同じく必死になって、彼女たちに追いすがるように走っていた。

 

 明らかに、何かが起こっている。何か、異常な事態が起こっている。バナーヌの嫌な予感は大きくなった。

 

 彼女は後方へと意識を向けた。そこには、何かザワザワとした奇妙な気配があった。何か、黒くて、大群で、キィキィと耳障りな鳴き声を発する連中の気配……バナーヌはまたテッポに声をかけた。

 

「おい、テッポ」

 

 しかし、テッポはまたもや気づかなかった。どうやら彼女は体の動きこそ乗馬に合わせることができていたが、恐怖感までは消し去ることができず、それをごまかすためにお喋りをしようとしているようだった。彼女はさらに話し続けた。

 

「それにしてもバナーヌ、あなた、乗馬がすごく上手(じょうず)じゃない! こんな特技があったなんて思わなかったわ! これならすぐにモモンジとヒコロクのところにも行けそうね!」

 

 もうこれ以上お喋りをさせているわけにはいかない。バナーヌはそう決意した。彼女は手綱を引き締めると馬の腹に拍車を当てて、走る速度を上げさせた。きゃっ、とテッポの小さな悲鳴が漏れた。

 

 少しだけ語気を強めて、彼女はテッポに後方を確認するよう促した。

 

「おい、テッポ、後ろを見ろ。真後ろ」

 

 テッポは周りを見て、言った。

 

「えっ、なに? 後ろ? ってなにこれ!? ヤギとシカが走ってる!……ああっ!?」

 

 テッポが息を呑む音が聞こえた。バナーヌは声をかけた。

 

「どうした」

 

 テッポが叫んだ。

 

「キ、キースよ! キースの大群が追いかけてくる!」

 

 バナーヌも、できる限り体を回して後方へ視線を向けた。

 

 それは、異様な光景だった。こうもり型の小型魔族、キースの真っ黒な大群がそこにいた。しかも、ただの大群ではなかった。キースの群れが幾つも連なって大梯団(だいていだん)を組んでいた。キースたちがバナーヌとテッポと、馬と、ヤギとシカを追いかけていた。

 

 ギラギラとした無数の黄色い単眼が闇の中で光っていた。それは敵意と食欲に燃えていた。キースたちは、下界を突っ走る血と肉の詰まった革袋を食らい尽くさんとしているようだった。

 

 テッポが動揺した声を上げた。その声には怯えの感情も見え隠れしていた。

 

「ど、どうしようバナーヌ! あんなにすごいキースの大群は初めて見たわ! どうやったら追い払えるのかしら!? ていうかこれ、追い払うよりも逃げるほうがいいかしら、でも逃げ切れるの!?」

 

 バナーヌは静かに答えた。

 

「……ちょっと待って。今、考えてる」

 

 あれだけの数のキースに襲われて無傷でいられるとは思えない。どうにかしなければならないが……バナーヌは考えたが、なかなか名案は浮かばなかった。

 

 その時、一頭のヤギが石に躓いて転倒した。ヤギは哀れっぽい鳴き声を上げた。

 

「べえええ!」

 

 バナーヌとテッポの声が重なった。

 

「あっ!」

 

 次の瞬間、転倒したその哀れなヤギに、キースの群れの一つが大梯団から離れて一斉に急降下すると、さっと暗幕を掛けるように覆い被さった。小型魔族たちの猛烈な食欲の犠牲となったヤギの断末魔の叫びが聞こえたと思ったその数秒後には、肉の欠片のこびりついた骨だけが道に転がっていた。

 

 衝撃的な光景に理解の追いつかないテッポが、半ば茫然(ぼうぜん)としながら、特に意味もないことを呟いた。

 

「へ、へー……キースって牙で噛みつくだけじゃなくて、ちゃんと肉を喰い千切るのね……勉強になったわ……」

 

 バナーヌがテッポに声をかけた。

 

「テッポ、フィローネ樹海入口まであとどれくらいだ?」

 

 バナーヌの落ち着いた声がテッポを現実へと引き戻したようだった。周囲へ視線を巡らせて地形を確認すると、テッポは気を取り直したように前髪をかき上げて、バナーヌに答えた。

 

「この速さだったらあと半時間もしないうちに樹海に入れるわ!」

 

 バナーヌは頷くと、冷静な声で言った。

 

「樹海に入ればキースも追ってこないだろう。行くぞ」

 

 馬を止めて、キースの大群へ反撃することもバナーヌは考えた。それが一番手っ取り早く、簡単で確実な方法であるのは間違いなかった。キースの群れは好戦的だが、一撃を加えるだけであっけなく退散していくのが常だからである。バナーヌが首刈り刀を振り回して、テッポが適当に何発か爆弾を投げつければ、いかに常軌を逸した規模の大梯団とは言え、ひとたまりもなく離散消滅するだろう。

 

 しかし、今の彼女たちにはどうしてもそれができない理由があった。それは、今彼女たちが乗っているこの馬であった。この馬は高台の魔物の射撃から生き残った九頭の馬のうちの一頭で、しかも特に馬車を()くのにも乗馬をするのにも秀でた逸品である。名前は「バナナ・ゴーゴー」といった。

 

 アラフラ平原でモモンジとヒコロクがどれだけの数の代替馬を用意できるのかは分からないが、ここでこの馬を失うわけにいかないのは確かだった。もしバナーヌとテッポがキースと戦えば、その隙をついて別のキースがこの馬を骨にしてしまうかもしれない。そうなれば、ただでさえ完全に遅延している輸送作戦に大きな支障が生じるだろう。それは目に見えていた。

 

 ここはこの馬の脚の速さを信じて、森に逃げ込むしかない。バナーヌはそう結論した。昼なお暗い草木生い茂る密林ならば、キースの大群はきっと入ってこられないだろう……

 

 突然、テッポの叫び声がバナーヌの耳を貫いた。

 

「あっ、しまった! バナーヌ、気をつけて! ここら一帯は……危ない!」

 

 テッポの言葉を全部聞き終わるまでもなく、バナーヌの危機察知能力が自然と彼女の頭を下げさせていた。

 

 その上を、子どもの頭ほどの大きさのある岩塊が、鋭い唸り声を上げて飛び去っていった。

 

 バナーヌの氷の美貌に冷や汗が一筋つたった。その鋭い視線は、地面へと急速に潜行する緑色のブヨブヨとした物体を捉えていた。その周囲にも、似たような気配が潜んでいた。彼女は言った。

 

「森オクタか……」

 

 テッポが申し訳なさそうに言った。

 

「ごめんなさいバナーヌ、事前に伝えておくべきだったわ。ここら一帯は森オクタの大繁殖地なの。これからフィローネ樹海入口に入るまで、道の両側から森オクタの岩が飛んでくるわ。三日前にここを通った時に全滅させたはずだけど、まだまだ生き残りがいたのね……」

 

 後方にはキースの大群がいる。それから逃げようと速度を上げれば、森オクタの弾幕に突っ込むことになる。

 

 まさに「前門の歩行型ガーディアン、後門の飛行型ガーディアン」であった。

 

 それでも、いつもどおりの澄んだ声で、バナーヌは言った。

 

「行くぞ」




「こうもりさん、こうもりさん」
 今回、バナーヌが初めてなのにも関わらず馬を乗りこなすシーンを書きましたが、作者自身、一般的な人間が馬を乗りこなして馬上戦闘をこなせるようになるまで、どれだけの期間どういう訓練が必要になるのか、いまひとつ分かっていません。参考になるのはおそらく各国軍の騎兵の訓練課程なのでしょうが、ちょっと調べる時間がありませんでした。
 たしか、作家の伊藤桂一の『兵隊たちの陸軍史』に騎兵の訓練の様子について書いてあったような気がしないでもないですが、手元に本がありませんでした。「隊列後方の誰それの蹄鉄が外れそうだ」というのを音だけで判断できるようになって初めて騎兵下士官を名乗れるとか、そういう記述を読んだ気がします。
 いずれ判明したら該当箇所を書き直すかもしれません。
 ボコブリンたちは裸馬を乗り回しているわけですが、考えてみればこれは驚異的なことです。現実の世界史では、鐙(あぶみ)が発明される前、乗馬という技術は本当に限られた人間にしか開かれておらず、そのため生まれる時も馬の上なら死ぬ時も馬の上というスキタイ人たちをはじめとした騎馬遊牧民たちが猛威を振るったという話があります。鐙がないと馬上で踏ん張れないのですね。だから矢も射れないし剣も振るえないわけです。スキタイ人たちは両足で馬の腹を締め上げる方法を体得していたとのことです。
 キースの大群を全部やっつけようとして爆弾矢めっちゃ外しまくったのは私だけではないはずです。

※加筆修正しました。(2023/05/10/水)


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第三十四話 哀しき熱帯

 哀しい。実に、このハイラルの天地は哀しみに満ち満ちている。あの山、この谷、かの川、すべてに涙と苦悩が染み込んでいる。

 

 空は晴れ、雲は流れ、日は高く輝くが、吹き抜ける風は蕭蕭(しょうしょう)としてうら寂しく、野を行く孤人に寒々と吹きつける。

 

 街道には朽ちた馬車がある。その車軸は折れていて、車輪は二度と回転しない。各地に村の跡地、町と砦の遺構が残されている。人の気は絶えていて、魔物と野獣がそこここに跋扈(ばっこ)している。かつての壮麗さを誇った建築物は今や(こけ)むした廃墟となっている。それらは雨に打たれて、次第に崩れていく。

 

 この哀しみは何処から来るのか? 我々が街道を旅し廃墟に露営し、朽ちた馬車を壊して薪を取る時に、ふと訪れるのだろうか? それとも、我々が粗末な寝床に身を横たえ、残り火に照らされた残骸を見て、かつて地上に(さん)としてまた(げん)として君臨したハイラル王国の残影をそこに見出す時に、ふと訪れるのだろうか?

 

 いや、哀しみとはそれほどまでに詩的なものではない。少なくとも、かつてのハイリア人にとってはそうではなかった。虚空に漂う幻影を言葉によって再構築し、韻律に乗せて口ずさむような、そういう風雅な哀しみは、この滅びの時代にあって新たに出現したものである。

 

 大厄災前の哀しみとはもっと具体的なもの、五感に迫るもの、目から涙を流させる力を持つものであった。

 

 作者不詳の有名な戯れ歌「哀しさ」は以下のように歌っている。

 

「哀しさは、日々のパンにも事欠いて、(みじ)めたらしくルピーを乞うこと。哀しさは、女房子どもが腹空かし、寒さに震えて身を寄せ合うこと。哀しさは、大風(おおかぜ)大水(おおみず)に押し流されて、故郷がまるごと消え去ること……なかでも一番哀しいことは、夫と息子が戦場(いくさば)で魔物の手にかかり、名誉の戦死を遂げること!」

 

 そう、ハイラルのいついかなる世代にも共通する哀しみとは、やはり戦争と闘争によるものだった。

 

 思えばこのハイラルの天地は開闢(かいびゃく)以来、正しき心を持つ者と、邪悪な野望を滾らせる者との、闘争と争覇(そうは)の連続によって歴史を紡いでいる。なんとなれば、ハイラル王国の歴史は、太古の昔から幾度もガノンという名の厄災に見舞われてきた歴史だからである。

 

 兵士たちは隊伍を固く組み、武器を高く掲げて、戦友と歩調を合わせて前進する。地の底から湧いて出た地を埋め尽くすほどの魔物の群れ、その大海のような大勢力に、兵士たちは(おく)さずに立ち向かう。選ばれし者と姫巫女が厄災を封じるその時まで、彼らはその身と命を以て、大津波の如き魔の勢力への防波堤たらんとして奮戦する。

 

 やがて、彼らは勝利する。大地は魔物の黒い血潮と兵士の赤い血潮を吸い込んでいる。折れた刀槍や破れた軍旗が、打ち(こぼ)たれた砦に散乱している。魔物たちと兵士たちの物言わぬ亡骸の数々が、折り重なっている。

 

 生き残った兵士たちは高らかに勝ち(どき)を上げる。その目尻には涙が浮かんでいる。彼らは勝利の喜びと生存の哀しみを、精一杯の声を張り上げて表現しようとする。

 

 ああ、遂に生き残ってしまった! 彼らはそう叫ぶ。

 

 兵士にとって勝利とは、光輝く黄金色に彩られた栄光でも、鈍く輝く銀色の勲章に(あらわ)された不朽の名誉でもない。兵士たちにとって勝利とは、ただ哀しみをほんの少しだけ忘れさせてくれる、いわば酒や歌のようなものでしかない。

 

 彼らの心中を満たすのは哀しみである。決して(おもて)に出すことのない、心の深奥にしまい込まれる冷え冷えとした哀しみである。親にも兄弟にも最愛の人にも知られることのない、孤独なる哀しみである。

 

 ハイラルのありとあらゆる場所で、闘争と戦争があった。そのたびに無数の命が失われ、無数の勝ち鬨が上げられた。無数の哀しみと無数の涙が、ありとあらゆる場所に染み込んだ。ハイラルの天地はどこまでも哀しい。それは、ハイリア人が勝利を重ねてきたがゆえである。

 

 では、ハイラルの全史を通じて、闘争と戦争には哀しみしかなかったのだろうか? 父母より語り継がれ、誇りとし、子らにまた語り継がれた勝利と誉れは、哀しみを覆い隠す仮面に過ぎなかったのだろうか?

 

 そうではない。闘争を楽しみ、勝利を歌い、哀しみを笑いの向こうへと追いやった、一つの奇妙な例が存在する。

 

 その歴史的事件は、「スペ=スマの大乱闘」と呼ばれている。ある時、様々な種族の戦士が「スペ=スマ」なる丘に集結し大乱闘を繰り広げたことがあった。

 

 大厄災前においては人口に膾炙し、文化の一つとして認識され、数々の芸術、創作、演劇等の題材とされたこの事件は、実は詳細が判明していない。

 

 話の概略は以下の通りである。

 

 遠い昔、まだハイリア人やシーカー族、ゾーラ族やゴロン族、リト族やゲルド族が、互いに互いのことをよく知らなかった時代のことである。あるところに「スペ=スマ」と呼ばれる丘陵地帯があった。丘と言われているが、実際のところそれは山ほどに高く、その壁面は垂直で、あたかも寸胴の鍋をひっくり返したような形をしていた。

 

 ここに、どういう経緯かは判然としないが、六つの種族の六人の戦士(ファイター)が集結した。すなわち、ハイラル王国軍の騎士、シーカー族の戦忍(いくさしのび)、リト族の弓使い、ゾーラ族の槍使い、ゴロン族の腕自慢、そしてゲルド族の剣術家の六人である。

 

 一説によると六人がこの丘に集まったのは、財宝を得るためであったという。「スペ=スマ」の丘の頂上には財宝が埋まっているという噂があり、各種族はそれを手に入れるために種族の中で最強の戦士を派遣したという。また他の説によると、そんな噂などは存在せず、六人はただ偶然そこに集まっただけであるともいう。また、ある神官の説によれば、ある時女神が「ハイラルの大地に棲まう諸種族の中で最強はどれか」と思い、この地に戦士(ファイター)を呼び集めたともいう。

 

 数々の異説の真偽はともかく、六人の戦士(ファイター)たちは「スペ=スマ」の丘に辿り着くと、一斉に登り始め、そしてほぼ同時に登頂した。そして、顔を合わせるや六人は即座に大乱闘を始めた。

 

 ハイラル王国の騎士は剣を持ってゲルド族の剣術家に挑みかかり、双方は白刃を振るって激闘を繰り広げた。リト族の戦士は空を自由に舞い、ゾーラ族の槍使いに矢を乱れ撃ちに浴びせかけた。シーカー族の戦忍(いくさしのび)はゴロン族の腕自慢が放つ一撃必倒の岩砕きの横薙ぎを避け、小刀と鉄糸を振るって反撃した。

 

 乱闘は三日続いたという。ちょうど円形のステージのように平たい丘の頂上から、ダメージが蓄積したファイターは次々にぶっ飛ばされて落ちていった。「スペ=スマの大乱闘」を描いた演劇では、ぶっ飛ばされるファイターに合わせてコーラス隊がそれぞれの部族をイメージした歌を歌ったという。

 

 戦いは終わった。戦士(ファイター)たちは序列をつけ、優勝者は勝利の舞いを披露した。彼らは頂上にあった財宝を分かち合い、互いの健闘を拍手で讃え、三日三晩の祝宴を張ったという。

 

 問題となるのは、結局この大乱闘で誰が勝利したのか、という点である。この「スペ=スマの大乱闘」は先述したように、確固たる史料や文献といった史的証拠があるわけではなく、各種族の口伝によって代々受け継がれてきた話であるため、誰が勝利者となったのかについてはそれぞれの種族で異なっている。

 

 例えばハイリア人は、当然のことながら、ハイラル王国の騎士が乱闘に勝利したと言った。すなわち、最初に彼はゲルド族の剣術家をぶっ飛ばし、次に返す刀でゾーラ族の槍使いを背後からぶっ飛ばし、次に空中のリト族の弓使いを撃ち落とした。ふらつきながらも華麗な空中跳躍で復帰してくるそのリトの戦士を再度ぶっ飛ばすと、騎士は、たまたま丘をよちよちと歩いていた爆弾(ボム)兵を投げつけてシーカー族の戦忍(いくさしのび)をぶっ飛ばした。そして騎士は最後に、ゴロン族の腕自慢を、これまた丘に偶然落ちていた「ホーラムン棍棒(バット)」を用いてぶっ飛ばした。このようにハイリア人は説く。

 

 同様に、シーカー族においてはシーカー族の戦忍が、リト族ではリト族の弓使いが、ゴロン族ではゴロン族の腕自慢が……というように、各種族はこの伝承にかこつけて、勝利の栄光に彩られたページを自らの歴史に追加した。

 

 この話の解釈は実に多様である。ある学者はこれを、「太古の昔に勃発した種族間戦争の寓意的表現である」と説く。別の学者によれば、「大乱闘という闘争形式は太古の人間にとって一種の宗教儀礼であり、それゆえ『スペ=スマの大乱闘』は各種族の合同祭儀が形を変えて伝承されたものであると見なすことができる」という。中には、「『スペ=スマの大乱闘』という事件は本当のところは実在せず、実際は古代シーカー族の戦士の鍛錬法たる『ブラ・スマの百人組み手』を下敷きにした作り話に過ぎない」という説を提唱する者もいる。

 

 丘の場所についても議論は尽きなかった。伝統的に「スペ=スマの丘」は「始まりの台地」に存在すると言われていたが、「始まりの台地」には伝承の内容に合致する丘はない。他の見解としては、「その名前はシーカー族に由来するものであるから、その場所はカカリコ村近く、例えばナリシャ高地やボヌール山地ではないか」というものもある。だがその説にしても考古学的な裏打ちはなされていない。

 

 解釈がどうであれ、「スペ=スマの大乱闘」は、話の内容自体は暴力と流血に満ちているにもかかわらず、民衆には「至極明るくて愉快な昔話」として受け取られていた。

 

 例えば、この事件をもとにしたいくつもの慣用句がある。「スペ=スマのように喧嘩をする」という言い回しは、「正々堂々正面から戦うこと」を意味する。「スペ=スマの勝利者」は「寛大で気前の良い人」を指し、「スマッシュ兄弟(ブラザーズ)」とは「喧嘩仲間」のことを意味する。「ホーラムン棍棒(バット)が折れた」は「頼みの綱が切れてしまった」ことを意味し、「歩いてくる爆弾(ボム)兵」は「降って湧いた幸運」を指す。これらの慣用句こそ、「スペ=スマの大乱闘」を民衆がどのように見ていたかを示す端的な証拠である。

 

 兵士たちの日記や回想録にも、この大乱闘はしばしば登場する。ある兵士は以下のように書き残している。

 

「戦争が『スペ=スマの大乱闘』のように楽しく、簡単で、分かりやすい形で行われれば、私達のような兵卒が泥水を啜ることもないのだが……実際には戦争など所詮はただの血みどろの殺し合いであって、とても『スペ=スマの大乱闘』のようにはいかない」

 

 それにしても、「スペ=スマの大乱闘」とはいったい何だったのだろうか。ある意味でそれは、人々の夢だったのだといえる。争いはいつか誰も傷つかない形で終結し、一人の優勝者のもとに秩序が敷かれる。各種族は互いを尊重し健闘を称え合い、財宝を均等に分け合う。誇りと希望を胸に抱いて、戦士(ファイター)たちは故郷へと去っていく……

 

 現実の戦場が醜く、過酷で、哀しみに満ちていることを痛いほどに知っているハイリア人であればこそ、この歴史的事件に特別の価値を見出したのではないか……そのように考えることができるだろう。

 

 残念ながら、もはや現今(げんこん)のハイラル世界において、愉快な大乱闘は発生し得ない。戦士(ファイター)としての矜持(プライド)を持たない魔物たちを相手にしての闘争は、いわば血で血を洗う生存競争であり、そこに楽しさや滑稽さは微塵もない。

 

 人々は、完全に滅ぼされるか、それとも完全に滅ぼすか、いずれかの時を迎えるまで戦いをやめないだろう。哀しみは引き続き大地に堆積するだろう。

 

 新たな「スペ=スマの大乱闘」が生まれるのは、当分先のことになるだろう。

 

 

☆☆☆

 

 

 後方からは追いすがるキースの大梯団(だいていだん)、前方からは無数の森オクタから放たれる弾幕、周囲には懸命になって走る数頭のヤギとシカ……バナーヌとテッポの状況は緊迫していた。馬を傷つけてはならず、しかし逃げ込む先のフィローネ樹海入り口に到達するには、少なくともあと三十分はかかる。

 

 危機的な状況にありながら、バナーヌとテッポの二人は冷静に打つべき手を考え続けていた。バナーヌの手綱を握る手はあくまでも柔らかかった。彼女の呼吸は平静で、その耳は後方より迫るキースの群れのざわめきを捉えていた。

 

 振り返りもせず、バナーヌは後ろに座るテッポへ尋ねた。

 

「キースとの距離は?」

 

 テッポが緊張感の滲んだ声で答えた。

 

「およそ二十五メートル!」

 

 空を飛ぶ生物の例に漏れず、キースは素早い。二十五メートルとは、少しでもバナーヌが速度を緩めれば追いつかれる距離であった。道が平坦で真っ直ぐな今のうちに、馬へ鞭を打って拍車を当て速度を稼ぐ必要がある。バナーヌはそう思った。だが、状況はそれを許さなかった。

 

 鈍い音を立てて、一発の森オクタの岩がバナーヌとテッポの頭上を飛び去っていった。二人は声を上げた。

 

「……むっ」

「危ないっ! ちょっと(かす)ったわ!」

 

 夜の闇の中を突進してくる岩塊は、実際には赤子の頭ほどの大きさでしかなかったが、光線の加減でそれ以上の見た目と迫力を持っていた。

 

 オクタという魔物は耐久力が低く、木の枝であろうが錆びた剣であろうが一撃を加えれば脆くも爆散する弱い魔物であるが、真に恐るべき能力を持っている。それは、隠蔽(カモフラ)能力と偏差射撃能力である。

 

 たとえ馬が全速力を出して突っ走ろうとも、オクタの射撃から逃れることはできない。魔物たちはその不気味に輝く黄色い両眼をもって正確に距離を測定し、吐き出す岩の速度を計算すると、対象の未来位置へ寸分違わずに射弾を送り込んでくる。ゆえに、少しでも真っ直ぐ走ろうものなら、たちまち被弾することになる。

 

 徒歩戦闘ならば、オクタはまったく大した敵ではない。盾や遮蔽物を用いて岩から身を守り、徐々に距離を詰めて、間合いに入ったならばおもむろに剣を抜いて一撃を加えれば良いだけの話である。イーガ団の基礎戦闘訓練でも、オクタは格好の教材とされていた。

 

 だが、走り続けなければならない馬上においては、その対処の難易度は跳ね上がる。

 

 バナーヌは心中苛立ちを覚えていた。雑魚敵も群れれば脅威となる。キースもオクタもそうだ。その上、倒すこともできずにただ回避に専念しなければならないのは、正直に言ってかなり神経を消耗する。

 

 とにかく動きをランダムにするしかない。直線的に動かず、ジグザグに走り、歩を早めかつ緩めて速度を常に変化させ、森オクタの狙いを狂わせる。このことによってのみ岩を避けることが可能である。

 

 そのことをよく理解しているバナーヌの手綱捌きは、端的に言って見事なものだった。むしろ、日常的に乗馬をしない人間としては神業(かみわざ)に近いものであるといえた。バナーヌは、危険を回避しようとする馬自体の本能的な動きをよく把握していた。かつ、彼女はそれに自分自身の意を加えていた。彼女はほとんど人馬一体の境地に到達していた。

 

 尋常の競馬や障害物競走ならばハイラル全土でも上位に食い込むであろう走りを、彼女はその時見せていた。だが当然、回避運動を織り交ぜている限りはキースの大梯団との距離は拡がっていかない。むしろ、徐々に徐々に両者の距離が縮まりつつあった。その証拠に、ざわざわというキースの鳴き声が大きくなってきていた。

 

 意を決したようにテッポが叫んだ。

 

「このままじゃ追いつかれるわ! ちょっと爆弾を使って追い払ってみる!」

 

 バナーヌは短く答えた。

 

「できるか?」

 

 テッポは頷いた。

 

「導火線の調定と投げるタイミングさえ合えば可能だと思う……バナーヌは走ることに集中して!」

 

 テッポは腰の爆弾袋を(さぐ)った。出発前、テッポは輸送馬車に積んであった予備から爆弾の補給をしておいた。そのため、袋の中身はたっぷりと詰まっていた。

 

 距離は、先ほどより少し詰まって二十メートルほどになっていた。テッポの膂力(りょりょく)でも十分に爆弾を到達させられる距離だった。彼女は慣れた手つきで素早く導火線を切った。岩が飛来してきたのを、彼女はすんでのところで避けた。彼女は点火すると、一発の爆弾を投擲した。

 

 だが、地上と馬上とでは勝手が大きく異なった。思わずテッポの口から声が漏れた。

 

「あっ!」

 

 鳶色の美しい目をテッポは大きく見開いていた。テッポの放った爆弾はキースの群れの手前で爆発した。そのため、一匹も仕留めることができなかった。キースの代わりに哀れなヤギが爆風に巻き込まれて転倒し、即座に別のキースの群れに襲われて、夜目に鮮やかな白骨を数秒後に晒した。テッポは声を上げた。

 

「ああ、ヤギが……! ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけど……まあいいわ、気を取り直してもう一発いくわよ!」

 

 続けてテッポは爆弾を投げた。一発は群れの頭上を通り越して爆発し、一発は飛んできた森オクタの岩を避けることに気が向いていたために狙いが右に逸れ、ようやく勘が掴めたと思って投げた一発は、投げる直前に唐突に行われた馬の回避運動によってあらぬ方向へと飛んでいった。

 

 空しく爆音が連続した。ままならぬ戦闘に、テッポが憤然として声を上げた。

 

「ああ、もう! 全然上手くいかないわ! もし任意のタイミングで起爆できる爆弾があれば、あんな連中イチコロなのに!」

 

 もちろん、そんな便利な爆弾などこの世に存在しない。そのことを爆弾の専門家であるテッポはよく知っていた。テッポはここで一度攻撃を中断した。このままではバクダンが何百発あったとしてもキースの群れは倒せない。彼女はそう思った。いやいや、さすがに何百発もあれば倒せる自信はある。だけど、そんなことを考えてもなんの意味もない……何か、戦術の転換が必要だ。

 

 しかし、馬上戦闘の経験もなければ訓練を受けたこともないテッポにとって、そのための知恵はどうしても浮かんでこなかった。彼女は声を漏らした。

 

「どうすれば……」

 

 彼女が迷っている間にも、キースたちは距離をじりじりと詰めていた。

 

 テッポは考え続けた。バナーヌから弓矢を借りる? でも、自分はまだ弓矢を上手く扱えない。じゃあ、交代して私が手綱を取って、バナーヌに追い払ってもらう? いやいや、そんなことは絶対にできない。自分が馬に乗ったのは今回が初めてだ。そんな自分が馬を乗りこなして、しかも森オクタの射撃を回避するなんて絶対に無理。じゃあ、足を止めて迎え撃つことにする? そんなことをすれば、たちまち馬に森オクタの岩が降り注ぐだろう……八方ふさがり、という言葉がテッポの脳裏をよぎった。そんな馬鹿な! テッポは頭を振った。なにか打開策があるはずよ……

 

 その時、黙って馬を走らせることに集中していたバナーヌが、静かに口を開いた。

 

「テッポ。走っている馬の上から、走っている目標に攻撃を当てるのは難しい」

 

 思考に吞み込まれていたテッポは、バナーヌの声にはっとした。

 

「えっ!?」

 

 バナーヌは続けて言った。

 

「走っている馬の上から、停止している目標に当てるのは比較的容易だ」

 

 テッポはなかなかバナーヌの言っていることが理解できなかった。彼女は言った。

 

「停止している目標って……どういうこと?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「すまない、また忙しくなった」

 

 そう言ってからバナーヌはまた沈黙し、手綱捌きに集中し始めた。森オクタからの射撃が一段と激しさを増してきたからであった。

 

 テッポは体を(ひね)り、頭を屈めて岩を避けつつ、さきほどバナーヌが言ったことを改めて考えてみることにした。

 

 なるほど、これまでの爆弾の投擲で分かったが、揺れる馬上から空中を飛ぶのキースに爆弾をぶつけることは至難の業である。よしんば爆弾が群れのど真ん中に投げ込まれたとしても、導火線が適切に調定されていない限り、爆発のタイミングがずれて有効弾とはならない。ゆえにキースの群れに対して直接爆弾を投げる戦法は、まぐれ当たりの僥倖(ぎょうこう)を期待するのでもない限り、絶対に効果はない。

 

 テッポは考え続けた。バナーヌは「止まっている目標ならば当てるのは容易だ」と言った。つまり、キースの群れが停止していれば自分の腕前であっても爆弾を命中させられる可能性はあるということだ。でも、乱舞するキースの群れが突然止まるなんて、そんなことはあるのかしら……?

 

「あっ」

 

 テッポの脳裏に、ある光景が浮かび上がった。石で転ぶヤギ、爆風に転ぶヤギ、そこへ舞い降りるキースの群れ、成人男性の叫び声のような断末魔の悲鳴……それがヒントになりそうだった。

 

 彼女は周囲を見渡した。そこには、(あえ)ぎあえぎ必死になって脚を動かしているセグロヤギが三頭に、ヤマシカの(おす)(めす)が四頭、合計七頭の獣がいた。テッポは呟いた。

 

「……これしかないわ」

 

 父ハッパから受けた教育をテッポは思い起こした。

 

「イーガ団員たるもの、弓矢や刀槍(とうそう)だけに頼ってはならない。また、術や道具だけに頼ってはならない。地形地物を観察し、よく敵の動向を見極め、天より与えられた状況を最大限に利用して戦闘を遂行するべきだ。これと思いついて、なおかつ確信が持てたのならば、それがどんなに突飛な考えであったとしても、臆せず即座に実行に移すべきだ。要するに、冷静さと大胆さを兼ね備えてこその戦士(ファイター)だということだよ。分かったかい、テッポ……?」

 

 テッポは叫んだ。

 

「お父様、今こそテッポはお父様のお教えを実行します!」

 

 次の瞬間、テッポはバナーヌの腰のポーチに手を伸ばしていた。テッポはその中から黄金に輝くツルギバナナを一房取り出した。テッポはバナーヌに言った。

 

「良いことを思いついたの! バナーヌ、ちょっとバナナを貸して!」

 

 思いもよらぬ行動に、バナーヌは思わず抗議の声を上げた。

 

「テッポ、いったい何を」

 

 無断で他人のバナナを拝借するとは、イーガ団においては喧嘩の号砲と同義であった。それに、このような緊迫した状況でバナナを必要とする理由が分からない。バナーヌは戸惑って、さらにテッポに言った。

 

「ちょっとテッポ、ちょっと、やめて」

 

 テッポはその声に構わずに房から一本をもぎ取った。彼女は素早くバナナの皮を剥き、そしてその甘く柔らかい、栄養のある身を口に入れた。

 

 バナーヌはなおも抗議の声を上げた。

 

「テッポ! それ、私のバナナ!」

 

 食べながらテッポは答えた。

 

「もぐ……ごめんバナーヌ、今だけはちょっと黙ってて! もぐ……」

 

 テッポは大急ぎでバナナを食べた。だが、必要とするのはバナナのエネルギーではない。テッポは食べながら呟いた。

 

「もぐ……一頭につき三つってところかしら。だからあと二十本ほど……もぐ……」

 

 バナーヌはどこか絶望したような声を出した。

 

「そんなに食べるのか」

 

 テッポはひたすらバナナの皮を剥き、猛然と食べ続けた。その鬼気迫る食べっぷりは、前を向いて手綱を捌いているバナーヌにも伝わったようだった。何かは分からないながらも、どうやら策を思いついたようだ。そのように感じたバナーヌは、不承不承ながらもポーチの中身をテッポに明け渡した。

 

 しかし、テッポは未だに幼かった。いくらバナナを天使と(あが)め、バナナを命の源とするイーガ団員であっても、そう何本も連続して食べ続けることは物理的に可能なのだろうか? テッポは苦しくなった。彼女は苦しそうな声を上げた。

 

「もぐ……こ、これで……四本目……もぐ……」

 

 バナーヌが彼女を気遣って声をかけた。

 

「無理をするな」

 

 次々と押し込まれる大量の果肉のせいで、テッポの口の中から水分が失われていた。水筒は腰に下がっている。しかし、ここで水を飲んでバナナを胃へと流し込もうというのは、イーガ団ではない人間の発想である。それはイーガ団の教えに反する。テッポの頭の中で、教えの言葉が蘇った。「ツルギバナナを貪食(どんしょく)し、己の限界を超えて食べ続ける者は、必ずや災いがあるだろう」「水を飲んでバナナを胃の腑へと流し込むことをしてはならない。それは冒涜(ぼうとく)である』 こういう状況でも、教えは教えであるがゆえに守られねばならなかった。

 

 テッポは何とか四本目を食べ終えて、五本目に手をかけた。だが、ここでついに彼女の肉体が悲鳴を上げた。

 

「五本目……うぷっ……」

 

 その声の不吉な響きを聞いて、バナーヌは声を上げた。

 

「大丈夫?」

 

 テッポはじっと、手に持っている五本目のバナナを見つめた。食べないと。しかし、どうしても彼女の手は動かなかった。おまけに、彼女はなんだか吐き気まで催してきた。

 

 ここに来てテッポは、生まれて初めての乗り物酔いに陥っていた。テッポは沈黙した。

 

 黙ってしまったテッポに、バナーヌが声をかけた。

 

「テッポ」

 

 その声はいつものように澄んでいたが、どこか気遣わしげな感情が見え隠れしていた。テッポは何か答えようとした。だが、出てくるのはどこか危うい吐息だけだった。

 

「う、ぅぷ……」

 

 またバナーヌが声をかけた。

 

「大丈夫か?」

 

 テッポはこみ上げてくる不快感を強いて忘れようと努めた。その努力は功を奏した。テッポは少しだけ落ち着きを取り戻した。彼女はバナーヌの背中にぴったりと張り付いた。そして、彼女はバナナの皮を剥くと、バナーヌの背後からその口元に向けて果肉を差し出した。テッポは言った。

 

「……もう、無理……もう、これ以上は食べられないわ……バナーヌ、あとはあなたが食べて。私が代わりに皮を剥くから……」

 

 バナーヌは答えた。

 

「分かった」

 

 次の瞬間には、バナナはもう消えていた。テッポの手には黄色い皮だけが残っていた。それをテッポは自分のポーチへ戻した。皮はこれから必要だった。

 

 二人は岩を避けながら、ひたすらバナナを食べ続け、また食べさせ続けた。

 

「次」

「はい」

「次」

「ちょっと待って……ほら」

「次」

「ちょっと、まだ準備できてないわ! ほら……ていうかあなた、一体どんな体の構造しているのよ……?」

 

 驚異的な速度でバナナの皮が生産された。あっと言う間に、テッポが必要とする量ができあがってしまった。

 

 二人はフィローネ樹海入口に接近しつつあった。ここから先の道は、雨のせいで路面状況があまり良くない。策を実行するなら今しかない。テッポは決意した。幸い、ヤギもシカも未だ元気に走り続けている。彼女は強い意志のこもった口調で言った。

 

「いくわ……」

 

 テッポは爆弾を用意し、導火線を長めに設定した。そして、真っ直ぐこちらの後ろにつけて走っている一頭のヤギに狙いを定めると、彼女はポーチから三枚のバナナの皮を取り出し、ヤギの前方に落ちるように投げた。

 

 ヤギは悲鳴を上げた。

 

「べええっ!?」

 

 ヤギはバナナの皮を踏んで、滑って、勢い良く転倒した。

 

 そんなヤギを見たキースの群れが、ざわざわと音を立てて間をおかず舞い降りてきた。

 

 テッポは短く叫んだ。

 

「今よ!」

 

 テッポは、呆然として地面に膝をつきキースの餌食になるのを待っているそのヤギに向かって、爆弾を投擲した。今度は狙い違わなかった。爆弾は正確にヤギに到達した。

 

 停止している目標に対してならば当てやすい。なるほど、確かにそのとおりだわ。テッポはそう思った。

 

 半秒後、大爆発が起こった。爆音に続いて、無数のキースの悲鳴が聞こえてきた。結果やいかにと固唾を呑んで爆煙の向こうを見透かしていたテッポは、快哉の叫びを上げた。

 

「やった!」

 

 キースの群れはもはや存在していなかった。新鮮なケモノ肉の周囲には、翼や目玉など、バラバラになった黒い小型魔族の残骸が散乱していた。

 

 計略は見事に的中した。バナーヌが首尾を尋ねてきた。

 

「どう? 上手くいった?」

 

 テッポは得意げな顔をして答えた。

 

「ええ、もう心配はないわ。後は任せて」

 

 テッポは左手にバナナの皮を三枚持ち、右手に一発の爆弾を持った。今度の目標は、左後方を走る(めす)のヤマシカだった。テッポは精神を集中して狙いを定めた。ヤマシカは目前に迫る生命の危機に気付かず、ただ前を向いて無心に走り続けている。哀れな感情がテッポの胸に満ちた。彼女は言った。

 

「……ごめんね」

 

 いつの間にか、テッポの乗り物酔いは収まっていた。彼女はヤマシカへ向かって、バナナの皮を放り投げた。

 

 それからしばらくの間、街道で爆発音が連続した。

 

 

☆☆☆

 

 

 約半時間後に、バナーヌとテッポは無事にフィローネ樹海入口に辿り着いた。無理な走行を続けたために、馬は疲れ果てていた。二人は馬から下りた。

 

 テッポが優しく馬を撫でながら言った。

 

「『バナナ・ゴーゴー』もよく頑張ったわね。ありがとう。さすがは支部長の自慢の馬だわ」

 

 テッポがバナナを剥いて差し出すと、馬は満足げに鼻を鳴らしてそれを食べた。

 

 二人は警戒態勢を解かなかった。彼女たちは馬を連れて森の中を歩いた。森ではたまに頭上からチュチュが降ってくることがある。森のチュチュはどれも小振りで、冷静に対処すればまったく脅威にならない存在ではあるが、馬に万一のことがあってはならない。それに、さきほどまで見飽きるほどに見てきたキースも、森では大木のウロから出現することがある。ごくたまにだが、電気を纏ったエレキースがやってくることもある。決して油断はできなかった。

 

 懸念したとおり、森の中には敵がいた。二人は戦った。テッポが叫んだ。

 

「バナーヌ、そこに一匹いるわ!

 

 バナーヌが答えた。

 

「分かってる」

 

 二人は、音もなく老木の(こずえ)から落ちて体当たりを仕掛けてきたチュチュ三体を、首刈り刀で処理した。テッポが汗を拭いながら口を開いた。

 

「ふぅ……これで片付いたかな? ところで、さっきの戦闘なんだけど……」

 

 バナーヌは答えた。

 

「うん」

 

 テッポは話を続けた。

 

「ほら、あの『スペ=スマの大乱闘』っていう昔話があるじゃない? かつてイーガ団のご先祖様も参戦して、他の種族を圧倒したっていうあの戦いよ。あの時ご先祖様はバナナの皮を使って、自分よりも遥かに大きなゴロン族を転ばせたっていうわ。私、それを応用してみようと咄嗟に思いついたのよ」

 

 バナーヌは静かに言った。

 

「……そういえば、『マリ=カオートの戦い』でも似たようなことがあった」

 

 テッポが頷いた。

 

「ああ……侵攻してくるハイラル王国軍の騎馬隊を、大量のバナナの皮をばら撒いてやっつけたっていう話でしょ? 本当に、ご先祖様の知恵には感謝しかないわ」

 

 バナーヌも頷いた。

 

「確かにな」

 

 テッポは言った。

 

「わたしも弓矢が使えればバナナの皮なんて使わなくても良かったんだけどね。でも仮に弓矢が扱えたとしても、初めての馬上戦闘だと上手くいかなかったと思うわ」

 

 バナーヌはどこかそっけなく答えた。

 

「なるほど」

 

 テッポは大きな声で言った。

 

「だからね、あなたのバナナを使ったのは仕方のないことだったのよ。もう! いい加減その怖い目つきをやめてよ!」

 

 バナーヌは暗い目を伏せて、残念そうに呟いた。

 

「……バナナ」

 

 悪いことをしたな、とテッポは思った。テッポはつい直前までのことを思い出していた。

 

 最初のキースの群れを爆弾で撃破した後、テッポは同じことを繰り返して、ついには夜空を覆い尽くすほど大量にいたキースをすべてやっつけてしまった。哀れなヤギとシカは、すべてが(デコイ)として命を散らした。生きるためだもの、可哀想だったけど、仕方ないことよ……テッポはそう自分に言い聞かせた。

 

 最後に群れを爆破した時には、二人はもうフィローネ樹海入り口に差し掛かっていた。森オクタからの射撃は、結局一発も当たらなかった。幸運もあったが、ひとえにバナーヌの馬術が優れていたおかげだとテッポは思った。

 

 これなら、苦労してバナナの皮の計略など用いなくても良かったのでは? テッポはそう思ったが、それは結果論だと思い直した。貴重なバナナを大量に消費した手前もあり、彼女はバナーヌにその考えを打ち明けることはできなかった。

 

 樹海に入り、森オクタの姿も見えないことを確認すると、バナーヌは馬を降りて、すぐさまポーチの中身を確認した。そして、わずかに眉を曇らせると肩を落とし、トボトボと手綱を持って歩き始めた。バナーヌは明らかに、手持ちのバナナが減って落胆しているようだった。

 

 テッポは短い回想から意識を戻した。テッポは咳払いをしてから、気を取り直したように言った。

 

「……無事にここまで辿り着けて良かったわ。本当に、あなたの乗馬が上手だったおかげよ。お礼に私の大好物のマックスドリアンをあげても……」

 

 バナーヌがにべもなく答えた。

 

「いらん」

 

 テッポはめげずにまた言った。

 

「あ、ああ……そういえば、あなたはマックスドリアンが嫌いだったわね……じゃあ別のものをあげるわ。なにが欲しい?」

 

 バナーヌは即答した。

 

「最高級のバナナを買ってくれ」

 

 テッポは耳を疑った。

 

「えっ? か、買う? バナナを買うですって?」

 

 バナーヌは頷きつつまた言った。

 

「買ってくれ」

 

 そりゃ、そう言うなら買うけど……テッポは言葉に出さずに思った。バナナなんて、わざわざルピーを出して買うものだっけ? フィローネ支部の人間にとっては、バナナは確かに尊重すべきものであり、またご馳走ではある。だが、なにも金を出して買うまでもないという意識も同時にある。バナナなんて、そこらの樹海の奥に行って樹から(むし)り取ってくれば良いものじゃない。それを買うっていうのは……? カルチャーギャップという概念がこの世に存在することを、テッポは知らなかった。

 

 それでも、テッポはバナナを買うことにした。父はかつて彼女に言った。「贈り物には気持ちとお金の両方をかけないといけないよ、気持ちだけを込めるのは子ども同士に限った話だよ」 彼女はバナーヌに言った。

 

「……分かりました。この任務が終わったら初めてお給料が貰えることになってるから、それであなたにバナナを買ってお贈りします」

 

 ようやく、バナーヌの曇った顔が晴れた。彼女は言った。

 

「良し」

 

 本当はお父様に贈り物をしたかったんだけど……まあ、バナーヌ相手ならいいか。テッポはそう思った。

 

 二人はしばらく歩いた。やがて二人は、木立が途切れた所に出た。そこで道が二手(ふたて)に分かれていた。東に進めば樹海スグラント方面、南に進めばアラフラ平原である。アラフラ平原にモモンジとヒコロクがいるはずだった。

 

 テッポが辺りを見回してから言った。

 

「この場所、いつもだったらフィローネ支部の見張りが常駐してるんだけど……やっぱり誰もいないわね。今回の輸送作戦で人員が出払ってるから」

 

 バナーヌは答えた。

 

「そうか」

 

 バナーヌは夜空を見上げた。月はすでにかなりの行程を消化していた。

 

 二人がアラフラ平原に到着するのは、夜明けと同時になるものと予想された。




 スマスペでブレスオブザワイルドに興味を持った方々が、この年末にかけてブレスオブザワイルドにドハマリする事態にならないかなーと思ったりしています。
 それにしても前回の更新からかなり時間が経ってしまいました。続きを待っていてくださった皆様には大変申し訳ありません。

※加筆修正しました。(2023/05/10/水)


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第三十五話 「こんな夜中にバナナかよ」

 バナーヌとテッポは、アラフラ平原へと向かっていた。そこで代替馬を手に入れようとしている二人の仲間、モモンジとヒコロクに合流するためだった。

 

 馬が手に入らなければバナナ輸送馬車はカルサー谷に到達することはおろか、ハイリア大橋を渡ることすらできない。彼女たちは無事に馬を入手できるのだろうか。カルサー谷のイーガ団アジトの命運は、今や彼女らの双肩にかかっていた。そう言っても決して過言ではなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ところで、馬について次のような寓話(ぐうわ)が伝えられている。

 

「昔々、大昔、まだまだハイリア人の数が少なく、住んでいるところも狭く、あまり他の種族と交流のなかった時代のことです。一人のハイリア人の男が、馬に乗ってラネール地方へと旅に出ました」

 

「男が道を進んでいくと、向こうから見たこともない人がやって来ました。その人の肌は奇妙な暗い緑色でした。全身がウロコで覆われていました。頭はちょうど魚のような大きさと形で、腕からはヒレが垂れ下がっていて、目は鋭く、手は長くて地面につきそうなほどでした。男は知りませんでしたが、その魚のような人はゾーラ族という種族の一人でした」

 

「二人は挨拶をしました。男がゾーラ族に言いました。『どうやらあなたは歩いて喋る魚の種族らしいが、こんなに埃っぽくて乾いた道を歩くのは大変でしょう』 ゾーラ族が答えました。『確かに、里を出てからここ数日、道を歩いていると体が乾いて仕方がありません』 ゾーラ族は続けて男に言いました。『あなたは足が四本あって、歩くのがとても楽そうですね。羨ましいです』 男は仰天しました。『いいえ! 私の足は二本ですよ!』 しかしゾーラ族は首を左右に振りました。『だって、現に四本の足で大地に立っているではありませんか』」

 

「そう、そのゾーラ族は、馬を知らなかったのです。男は、相手が馬すら知らないのを残念に思いました。彼は馬から降りました。ゾーラ族は仰天しました。『なんということを! 自分から下半身を捨てるなんて!? あなた、大丈夫ですか!? 血は出ていませんか!?』 騒ぐゾーラ族を(なだ)めるのに、男はとても苦労しました」

 

「話すうちに意気投合した彼らは、互いに贈り物をしてお別れをすることになりました。男は、ゾーラ族に馬をあげました。ゾーラ族は男に『しずむルアー』をあげました。故郷に帰ると、男は『しずむルアー』を使って毎日たくさんの魚を釣り上げました。ついには、男は王国一の漁師として名声を得ました。『これは良い贈り物をもらったわい』と男は思いました」

 

「一方、馬をもらったゾーラ族も大喜びをしました。これで陸を歩くのが楽になります。男と別れた後、彼はすぐに馬に乗ることにしました。ですが、彼は大変な目に遭いました。まず乗るのに何回も失敗して、傷だらけ泥だらけになりました。涙を堪えて、彼はやっと馬にまたがることができました。ですが馬は得体の知れないものを背中に乗せるのを嫌がったのか、それとも魚のような生臭いにおいに我慢できなかったのか、暴走を始めてしまいました」

 

「ゾーラ族は、振り落とされまいと必死に馬にしがみつきました。馬はますます猛り狂いました。馬は脚の赴くままに駆けに駆けて、そのうちゾーラの里にやって来てしまいました。背中のゾーラ族は、もう息も絶え絶えでした。ちょうど里の広場では、新しく出来上がった夜光石の王妃様の彫像の除幕式が行われているところでした。そこに暴れ馬が乱入したので、大変な騒ぎになってしまいました」

 

「馬はひとしきり暴れました。馬は逃げ惑うゾーラ族をはね飛ばし、背中にしつこくしがみついていた彼も振り落としました。最後に馬は王妃様の彫像に体当たりをして、それを粉々に砕いてしまいました。そして馬は何処(いずこ)へともなく走り去ってしまいました」

 

「王は、彼があのような怪物を連れて帰ってきて、しかも自分の深く愛する王妃様の彫像を破壊したことに大変怒りました。哀れな彼は罰を受けました。彼は寒いラネール山に連れて行かれて、そこで氷漬けにされてしまいました」

 

「教訓 何かを欲する時は、その欲しいものが本当は何なのか、よく考えること。よく考えて充分に分かった上で、それを欲すること。そうすれば『しずむルアー』を手に入れることができる。よく考えなかったら『暴れ馬』を手に入れることになる」

 

 この寓話はムリグー兄弟が編纂した『ハイラルの子どもと家庭のためのメルヘン集』の一篇「しずむルアーと暴れ馬」に収録されている。

 

 この童話については、様々な批判がなされた。例えば、「ハイリア人だけが思慮が深くゾーラ族がそうではないという描かれ方は、ハイリア人が自らの文化水準の高さを誇るための一種の捏造である」と主張する者がいる。他には、「霊峰ラネールをゾーラ族が処刑場として使うのはあり得ない。そのような描写は、ゾーラ族の文化を野蛮なものとして見る偏見を内包している」と説く者もいる。さらには、「この寓話(ぐうわ)がハイリア人の側にしか存在せず、ゾーラ族側のバージョンが存在しないのは、とりもなおさず、ハイリア人によるゾーラ族への根深い蔑視があり、そのひとつのあらわれとしてこの物語が書かれたことを示している」と主張する研究もある。

 

 文化的優越や種族間差別といったすぐに結論の出ない問題はいったんおく。ここで我々が注目すべきであるのは、やはり馬そのものだろう。

 

 この寓話は太古の昔から、それこそ異種族との交流さえなかったようなそのような大昔から、ハイリア人が他のどのような種族よりも上手に馬を乗りこなし、馬と共に旅をしていたことを伝えている。確かに、ハイリア人の特徴は何かと問われれば、「それは馬術である」と答えざるを得ない。それほどまでにハイリア人とハイリア人の生活は馬に依存している。

 

 神々によるハイラルの大地開闢(かいびゃく)以来、人間は数多くの人間以外の友を得てきた。例えば、それは牛でありヤギでありコッコであり、そして、馬であった。

 

 これらの家畜の中でも馬は最も性質が穏やかでよく人に馴れる。そして、あまり危険ではない。牛には太く大きな角があり、暴れ始めれば小さな納屋などたちまち破壊してしまう。ヤギもその突進をもろに喰らえば、人間は簡単に命を失う。コッコの危険性については、いまさら言うまでもない。彼らにちょっかいを決して出してはいけないし、ましてや暴力など絶対に振るってはいけない。コッコの報復は目を覆いたくなるほどの惨状を現出させる。その点、馬は何も持っていない。太く大きい角も、突進するほどの激情も、コッコのような憤怒も、馬は持っていない。イノシシのような尖った牙もなければ、熊のような鋭い爪も持たない。

 

 まさに馬は、人間の友となるべく生まれてきた種であるといえる。

 

 その背は広く、人一人を乗せるに充分足りる。その口にハミと手綱を通し、その背に(くら)(あぶみ)を載せれば、人は自由自在に馬と意を通じ合わせることができる。さらに調教がなされれば、馬は人を乗せて障害物を飛び越えて走ることはもちろん、馬車を()いたり、農具を牽いたり、装甲を纏った騎士を乗せて戦場を駆けることもできるようになる。

 

 伝説によると、ハイリア人の祖先たちは天空に浮かぶ大地で生活していた時、大きな鳥を馬のようにして扱っていたという。動物を乗りこなすことができる能力が血に乗って、悠久の歴史の中を連綿と受け継がれてきたのだろうか。

 

 ハイラルの大地もまた、馬たちの友であるかのようだった。より正確に言えば、ハイラル平原こそは、まさに馬が活動するのにうってつけの土地だった。広大な平原には真っ直ぐに通った街道が幾筋も作られ、荷物を満載した馬車は軽々と道を越えていった。

 

 なにより、ハイラル平原には、軍馬(ぐんば)の突撃を遮るものが何一つとしてない。王国の誇る精強なる騎士団は戦いの度に、立ちはだかる敵を完膚なきまでに叩き潰したものだった。馬に騎乗した騎士たちは分厚い全身鎧に身を包み、ギラリと鈍く光る騎士の槍を林立させて、横一列に並んで突撃をした。騎士たちが叫喚を上げて殺到すれば、どのような魔物であっても粉砕された。その大瀑布(だいばくふ)がごとき一斉突撃の威力は、ハイリア人がまさに中原の覇者であることの証明であった。

 

 だが、それは馬の機動力が充分に発揮されるハイラル平原に限った話であった。辺境の峨々(がが)たる山脈や溶岩を噴き出す火山、深い谷や急な河川、暗い密林や大豪雪地帯といったところでは、ハイラル王国自慢の騎馬軍団も物の役に立たなかった。ハイラル王国は、ある意味では、その最も愛する友である馬によって、王国の領分というものを決定されてしまったのかもしれない。

 

 ある記録は、黒き砂漠の民の王であり、魔盗賊であった男の言葉を伝えている。その男は、王国近衛騎士団が魔物の群れを粉砕する様を観戦して、以下のように言ったという。

 

「実に素晴らしい。だが、これは戦争ではない」

 

 男は、ハイラル王国が誇る騎士団は真なる意味での「戦争の術」を知らぬ、と述べたのであった。

 

 なるほど、その男のいうとおり、騎士たちはよく武装されており、よく訓練されてよく鍛え上げられてはいた。だが、彼ら騎士団には戦闘組織に不可欠なある種の「有機的な結合」が欠けていた。それをかの男は見抜いたのであった。男には、騎士たちが個人的な武名を上げようとバラバラに戦っているようにしか見えなかった。騎士たちは無秩序で、戦争の術たる陣形を知らぬ。男はそう考えた。さらに言えば、騎士たちは良好な環境と優秀な軍馬に胡坐(あぐら)をかいていて、戦術の考究を怠っていた。仮に戦術があったとしても、それをごく大雑把なものとしてしか捉えていない。そのように男は思った。

 

 黒き砂漠の民の王は、後にハイラル王国に反旗を翻した際、自らが作り上げた秩序ある軍団を率い、練り上げた新戦術を以て、栄光あるハイラル王国近衛騎士団を粉砕した。

 

 ともあれ、このような辛酸を舐めつつ、ハイラル王国の騎士団は長い時間をかけて成長していった。

 

 あの百年前の大厄災の際、王と王城を失った騎士団たちは最後まで戦意を失わなかった。彼らは避難民たちを守るべく、文字通り肉の壁となった。彼らは古代の自動戦闘機械が発する真っ白な光線を受けて灰となった。彼らは勝ちに乗じた魔物の群れに取り囲まれ、切り刻まれた。押し寄せる歩行型ガーディアンの軍団に対して彼らは華々しくも無惨な突撃を敢行した。ついに長き歴史を誇る騎士団は玉砕したのであった。

 

 騎士と馬の二つによって発展してきたハイラル王国は、やはり騎士と馬の二つによって幕引きを彩ったのだと言えよう。

 

 人間の争いに巻き込まれた馬たちは、ある意味で人間たちよりも悲惨だった。あの大厄災の際、人間に劣らぬくらい数多(あまた)の馬の命が失われた。それまで平原のあちこちで見られた野生馬は、ほとんど見られなくなってしまった。王国は滅亡する時に、王国にとって最良の友を失っていたのである。

 

 およそ百年が経過した現在、ようやく馬たちがふたたび人間の前に姿を見せ始めている。彼らは睦まじげに肩を寄せ合い、柔らかな草を食んでは、歌うように平原を駆けていく。

 

 だが、歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目はさらなる悲劇として。真の滅びの途上にあるこのハイラルで、馬を戦いに利用せんと暗躍する漆黒の影が蠢いている。

 

 

☆☆☆

 

 

 フィローネ地方は中央ハイラルの南に広がる、広大な緑の海原のごとき草原地帯である。日光によってハイリア湖から蒸発した水分が、豊富な雨となってフィローネの草と樹木を育む。その植物が、虫、鳥、獣など、ありとあらゆる生命にとっての揺りかごとなり、食料庫となっている。

 

 アラフラ平原は、そのフィローネ地方に無数にある平原地帯の一つである。ハイリア湖南岸の樹海フィンラス、そのさらに南方にアラフラ平原は位置している。

 

 アラフラ平原は、平原というよりも、一種の箱庭的な「高原」といって差し支えはない。地図上では、その周辺にバルーメ平原やグチニザ平原、西に目をやればテトラ平原などの文字が読み取れるが、それらのどれともまったく違う景色をその平原は有している。

 

 アラフラ平原と樹海フィンラスを結ぶ道は一本だけである。道の両側は高い崖となっている。道は、樹海側から平原側へ向かって、急激な登りの坂道となっている。

 

 その坂を登れば即座に視界が開けるというわけではない。平原とはいえ、アラフラ平原はまったく平坦な地形ではない。小規模な丘陵をその平原は有している。平原に繁茂している草は膝上までの高さがあり、時として胸の上にまでそれは達する。平原を歩く際の見通しは良くない。

 

 アラフラ平原の地形的特徴として、その南西部にあるハラヤ池と、東部にある疎林が挙げられる。ハラヤ池は特に魚も()まないごく浅いこじんまりとした池である。その水は澄んでいて飲用に適している。疎林は、人間がこの地に定住する際に必要とする木材を提供するだけの規模がある。また、容易に馬を乗り入れることができないほどには、木々が生い茂っている。

 

 上記のごとき地形的特徴により、アラフラ平原は(いにしえ)より、ハイラル王国にとってある重要な役割を担ってきた。それはすなわち、軍馬の供給である。

 

 高原特有の薄い酸素と澄んだ空気により、アラフラ平原産の馬の心肺機能は、他の平原産のものよりも格段に優れている。豊富な草と飲用水により、アラフラ平原の馬たちは放し飼いにされているだけで他の地方のどんな馬よりも頑健強壮に育つ。自由で豊かな環境で育った馬たちは、自由でのびのびとした性格をしている。

 

 優れた運動能力と、人間の指示をよく聞く従順な気質という、およそ使役(しえき)馬に望み得る最高の要素二つを兼ね備えているのがアラフラ平原産の馬であるといえる。

 

 かつては王城から派遣された軍馬徴用官がアラフラ平原の奥、現在の「高原の馬宿」が建っている場所に居を構えていた。軍馬徴用官は毎日、自身で馬を駆っては部下と共に野生馬を追い回し、軍馬としての適性があるもの、馬車や砲車を牽くのに適しているもの、あるいは農耕馬として適当なものなどを見分け、選別していた。

 

 ある時代の軍馬徴用官が王城へ送った報告書には、アラフラ平原で捕獲した野生馬七百九十六頭のうち、軍馬として実用に適するものは四百八十九頭、輓馬(ばんば)としては二百五十四頭、農耕馬としては五十三頭が計上されている。農耕馬は、一般的に軍馬や輓馬と比較して能力が劣り、また輓馬も軍馬に及ぶべくもないところから、仮に軍馬を一等級の馬とすると、アラフラ平原における野生馬のおよそ六割が一等級相当となる。

 

 同時期のハイラル平原のロンロン牧場では、一等級の軍馬の割合はおよそ二割であった。このことを併せてみても、アラフラ平原の六割とは驚異的な数字である。ハイラル王国軍の一個騎兵連隊は五個中隊およそ五百騎で編成されていた。ゆえに、アラフラ平原産の馬だけで優に一個騎兵連隊を賄えた計算となる。

 

 王国の軍馬徴用官だけではなく、近衛騎士たちも、自らの乗用馬を求めてしばしばこの地に足を運んだという。騎士たちはアラフラ平原のさらに南にあるマーロンの泉へ行って大妖精に祈りを捧げた後、軍馬徴用官の館に泊まりながら、彼らは時間の許す限り自分の好みに合う馬を探し続けた。馬の取り合いに熱が入りすぎ、ついには騎士同士の流血沙汰にまで発展したこともしばしばあったという。

 

 かの有名な勇者の馬エポナも、地元の人間が主張するところによれば、もとはこのアラフラ平原で産まれた馬であったという。エポナは当歳馬の時にハイラル平原のロンロン牧場へ送られたということである。だが、この説はよくある行き過ぎた郷土愛からくる事実誤認の一種として、研究者からは否定されている。

 

 大厄災の後、アラフラ平原の馬も、他の平原と同じように、その数を著しく減らした。ハイラル王国の対大厄災戦はごく短期間で終結し、新たに馬が徴用されることはなかったので、戦争が減少の直接的な原因ではなかった。かといって自然環境が激変したわけでもなく、また、生き残った人間が乱獲したわけでもない。では、現象の原因はいったい何であったのか。

 

 原因は、魔物であった。ボコブリンがこのアラフラ平原に棲みつくようになってから、馬たちはその数を減らした。ハイラル王国健在なりし頃は、この平原での生存はおろか接近すら許されなかった魔物たちは、大厄災後は誰からも邪魔されることなく、大手を振って、大挙してこの平原へと雪崩(なだれ)こんだ。

 

 魔物の中でもボコブリンは特に知恵がない。ボコブリンたちは、馬を優しく(いたわ)り、調教し、太らせ、優秀な仔馬を産ませるといった、畜産的な技術や知見を何一つ持ち合わせていなかった。当然のことながら、魔物たちはアラフラ平原の「馬」という資源を乱獲し、食い潰してしまった。数年を経ずして、アラフラ平原に棲む野生馬の数は最盛期のおよそ三割を下回るようになった。

 

 人間たちも、この状況を指を(くわ)えて見ていたわけではない。特に、ハイラル各地で馬宿を経営する馬宿協会は、伝統あるこのアラフラ平原が魔物の跋扈(ばっこ)する地と成り果てたことに、強い不快感と懸念を抱いていた。なんとしてでも魔物を駆逐して、アラフラ平原を再び馬たちの「楽園」としなければならない! そう決意した馬宿協会は、その資金力と情報力と人脈とを生かして、アラフラ平原奪回のための義勇軍を募った。義勇軍は苦戦を重ねつつも、次第に魔物の勢力を弱らせていった。ついに人間側は、アラフラ平原のおよそ七割をふたたび支配下に収めることに成功した。

 

 しかし、魔物たちも義勇軍のそれ以上の前進を許さなかった。魔物たちは逆襲を繰り返し、多少押し戻すこともした。戦況は完全に膠着(こうちゃく)してしまった。

 

 これが、ここ十年間にこの平原で起こった話である。今でも魔物たちは馬に乗って人間を襲い、高原の馬宿に襲撃をかけるなど、活発な戦闘行動を続行していた。

 

 イーガ団フィローネ支部に所属するモモンジとヒコロクが、代替馬を求めてわざわざ向かったアラフラ平原とは、実に上述のような複雑にして苛烈な戦いの(ちまた)だったのである。

 

 

☆☆☆

 

 

 アラフラ平原の東部に、その疎林は、あたかも小さな膏薬(こうやく)を大地にぺたりと貼ったように存在していた。

 

 フィローネ支部所属の団員の一人であるヒコロクは、(こら)えきれないうめき声を何とか圧し殺そうと努力していた。彼は、先ほど腹に負ってしまった大きな傷口に、消毒用の蒸留酒を吹きかけていた。

 

 損傷した細胞と切断された神経が、酒の持つ強烈なアルコールによって容赦ない打撃を与えられた。彼はほとんど悲鳴のような声を上げた。

 

「クソぉ……コイツぁ、沁みるぜ……!」

 

 だがこれで良い。こうしなければならないのだ。ヒコロクは痛みで朦朧(もうろう)としながらそう思った。俺の婆さんも掠り傷だとか言って強がって傷をそのままにしていたら、あっという間に全身が紫色に膨れ上がって死んじまった。こうして酒で消毒しないと、俺もオクタ風船のように膨れ上がって、最期は婆さんのように……彼は少しだけ身を震わせた。

 

 ヒコロクはまだ若かった。彼は、数年前に同じフィローネ支部の女性イーガ団員と結婚したばかりだった。子どもはまだいなかった。欲しいとは思っていたが、彼は最近忙しくて、ゆっくりと家庭で過ごすことができなかった。

 

 カルサー谷から「野獣と魔物の巣窟」と揶揄されるフィローネ支部において、ヒコロクは明らかに平均以上の容貌を有していた。その涼やかな目と、筋の通った鼻梁と、血色の良い唇はつとに有名だった。「器量良しの妻を得たのも顔のおかげであろう」と、彼は他の団員からやっかみ半分に言われた。

 

 だが、本人としてはそう思っていなかった。ヒコロクが自身の最大の長所とするところは、やはり戦闘能力であった。特に、彼は弓矢の腕前を自慢としていた。

 

 パックリと腹部に大きく開いた傷口からは、未だに真っ赤な血液が溢れ出ていた。簡易的な手当てはしたが、流血は容易に止みそうになかった。

 

 ポーチから取り出した真っ白なさらしを、ヒコロクは力任せにぐるぐると傷口に巻いた。なんとも、戦闘者としては恥ずかしい姿だ。彼の口から思わず愚痴がこぼれた。

 

「まさか、才能に溢れたこの俺が、こんな有様になるとはな……!」

 

 楽観的な性格をしている彼でも、自分の傷が相当重いことを意識していた。これでは自慢の弓も満足に引くことができない。彼は苦々しくそう思った。

 

 彼は暗澹たる気分のまま包帯を巻き終えた。その時、疎林の外からヒコロクに向かって、黒い影が一直線に走り込んで来た。

 

 思わず、彼は傍らの地面に置いてある首刈り刀を手に取った。しかしその影の正体に気づくと、彼はホッとした。その弛緩した気持ちを隠しながら、彼は低く抑えた声を影に向かって発した。

 

「……おい、モモンジ! 真っ直ぐに俺のところに来たら、魔物どもに俺の居場所がバレちまうじゃねーか。俺は今、怪我をしてるんだぜ? ただの怪我じゃない、はっきり言って重傷だ! 奴らがここに来たらロクに抵抗もできずに(なぶ)り殺しにされちまうんだぞ」

 

 モモンジと呼ばれたその黒い影は、低い怒声を受けて、ビクリと怯えたように体を震わせた。モモンジは直立不動の姿勢を取り、逆さ涙目の紋様が刻まれた白い仮面を取って、深々と頭を下げた。モモンジは、若い娘に特有の甲高い声を上げた。

 

「も、申し訳ありません、ヒコロク先輩! 次からは気をつけますっ!」

 

 モモンジの謝罪の言葉は疎林中に響いた。ヒコロクの神経は、またもや余計な心配で掻き乱された。敵に気づかれるかも。彼は言った。

 

「バカッ。大声を出す奴がいるか! 敵に気取られるだろ……ほら、俺のそばに来て、今度は声を小さくして、偵察の結果を知らせろ!」

 

 そこまで言ってから、彼はモモンジの顔を見た。モモンジの歳の頃は十四か十五、まだ小娘だ。焦げ茶色の瞳が彼を見つめていた。その目は涙ぐんでいた。目尻はやや眠たげに垂れていた。その顔は綺麗に整ってはいるが、どちらかといえば美しさより可愛らしさを感じさせる。せっかく可愛い顔をしているのに、疲労と緊張で引き()っている。気の毒だな、と彼は思った。

 

 モモンジの白い肌は土と草露でくすんでいた。頭巾から覗く彼女の桃色の髪は、前日より打ち続く戦闘によって汚れていた。椰子の木のように結い上げたその髷が、「もう駄目です」と言わんばかりに力なく垂れ下がっていた。

 

 そんな憔悴(しょうすい)しきったモモンジの様子を見て、ヒコロクは喉から出掛かっていた言葉を引っ込めた。彼はこう言おうとしていた。「お前、『次からは次からは』といつも言うが、その次が来たことは一度もねぇじゃねーか!」 だが、そんな罵倒文句を言って何になる? 彼は溜息をついた。

 

 こんな小娘を相手にして、ムキになるのも馬鹿馬鹿しい。彼は急に力が抜ける思いがした。まだ立ったままのモモンジに、彼はやや声のトーンを落として呟くように言った。

 

「まあ、座れ。お前も疲れただろ」

 

 モモンジは一礼すると、周囲に目をやって一応状況を確認してから、ヒコロクのそばに腰を下ろした。

 

 ゴン、と鈍い音がした。モモンジが腰から下げている刀の鞘袋(さやぶくろ)が石に当たった音だった。

 

 その刀は大きかった。細身でかつ長かった。今は鞘に収まっているその刀身は、あたかも二匹の蛇が絡み合っているかのような複雑な造りをしていた。刀の名は「風斬り刀」といった。熟練者が精神統一した上で振り抜けば、真空の刃すら生み出せる、そういう業物(わざもの)であった。イーガ団においても特に技量優良な者のみが帯刀が許される、特別な刀だった。

 

 そんな大拵(おおごしら)えの刀を、若くて背の低いモモンジが持っていた。風斬り刀はどう見ても彼女の手に余りそうな代物だった。だが、そのことについてヒコロクはどうこう言うつもりはなかった。むしろ、それがなければ自分たち二人は死んでしまうと思っていた。今は風斬り刀と、なによりモモンジの剣技だけが頼りだった。

 

 この娘は剣術馬鹿だからな。ヒコロクはそう考えた。その馬鹿さに今は賭けるしかない。彼は顎を軽くやって、モモンジが発言をするよう促した。

 

「そんで、どうだった? 偵察の結果は?」

 

 モモンジは自身の胸に手を当てた。ピッタリとした忍びスーツ越しでもはっきりと分かるほどにふっくらとした大きな胸だった。手を当てながら、彼女は小さな声で話し始めた。

 

「……はい。疎林を出たところ、すぐに哨戒中の三騎の騎馬ボコブリンに発見されました。どうやらこちらが疎林から出てくるのを待ち受けていたみたいで……ボコブリンはいずれも青色で、弓矢を装備していました。ボコブリンたちは矢を放ってきました。私は、刀で矢を払いながら草むらに飛び込んで隠れました。しばらく隠れた後、馬宿方面へ抜けることができないか試みました。ですが、もう少しで抜けられるというその時に、二匹の黒の騎馬ボコブリンと出くわしたんです。たぶん、青ボコブリンが呼んだ増援だったんでしょうね……」

 

 彼女の声は小さすぎて聞き取り辛かったが、ヒコロクはもう多少のことには目を(つむ)ることにした。彼は、さきほど傷口に振り掛けた蒸留酒をチビチビと(あお)りつつ、モモンジの報告を聞いていた。負傷時に飲酒は厳禁であることを彼もよく知っていた。だが彼は、そうでもしないとやってられない気持ちだった。これが飲まずにいられるか。馬鹿にしやがって。

 

 ヒコロクは呟くように言葉を漏らした。

 

「……ふん……それで?」

 

 モモンジは胸から膝へと両手をやると、その膝頭を握りしめた。彼女は言った。

 

「黒い二匹のボコブリンは私に接近戦を挑んできたので、叩き斬ってやりました。万全の調子なら馬ごと斬れたんでしょうけど……」

 

 ヒコロクはそれを聞き流した。()()()()()()()()()、この娘ならば普通にやり遂げるだろう。重要なのは、その後のことだった。彼はまた言った。

 

「そんで、高原の馬宿と連絡は取れたのか? ジューザとは会えたのか?」

 

 モモンジは、残念そうに首を左右に振った。

 

「いえ、駄目でした。馬宿の周囲はガッチリとボコブリンたちに囲まれていて、ゴーゴーガエル一匹這い出るだけの余裕もありませんでした。私は、二匹の黒ボコブリンを斬り倒した後、何とか囲みを突破しようと突撃したんですけど、あの、その……えっと……あの……」

 

 急にモモンジはもじもじと言い淀んだ。その理由をヒコロクは既に察していた。彼は言った。

 

「分かるぞ。『腹が減って力が出なくなった』んだろ?」

 

 ヒコロクがそう言った直後、グゥーと、腹の鳴る音が聞こえた。モモンジは夜目にも分かるほどに、顔面を赤くした。彼女は恥ずかしそうに言った。

 

「……はい、その通りです……だからここまで撤退して来たんです……本当にすいません……」

 

 ヒコロクは深く大きな溜息をついた。

 

「はぁ……」

 

 溜息と共に生命力まで抜けていくかのような錯覚をヒコロクは覚えていた。前から分かってはいたことだが、このモモンジという娘は燃費が悪すぎる。そして、その欠点がこんなところでもろに影響するとは。

 

 彼は腰のポーチを探ると「駄目でもともと」という気持ちで、その中身をモモンジに差し出した。

 

 それは黄金に光り輝く、一本のツルギバナナだった。彼は言った。

 

「どうだ、食えるか?」

 

 モモンジはそれを見て、ヒッという悲鳴を呑み込んだ。彼女は震える声で答えた。

 

「あ、あうぅ……バ、バナナ……私、バナナは駄目なんです……ごめんなさい、ヒコロク先輩ぃ……」

 

 チッとヒコロクは舌打ちをした。これだよ、この女の難儀なところは。このモモンジは、イーガ団員でありながらバナナが食べられない体質なのだ。なんて面倒くさい体質だ。そのくせ人一倍、いや人二・五倍は飯を食う。もっと成長すれば人三倍は軽く食べるようになるだろう。ヒノックスか何かだろうか。そして、燃費が悪い。訓練されたイーガ団員ならバナナが三本もあれば二十四時間は連続で動けるのだが、こいつはバナナ以外の食事を一日に三食、たっぷりと食べないと満足に働けない。

 

 単なる個人的な好みで甘えを言っているのだろうと、前に支部長が無理やりバナナをモモンジに食べさせたことがあった。口にバナナが詰め込まれた直後、彼女の全身に蕁麻疹(じんましん)が出来た。そのうち呼吸まで停止してしまった。医者が診察しても、結局モモンジがバナナを食べられない原因は不明のままだった。そのうち、「これはそういう体質なんだろう」ということになった。

 

 だがこの娘は、バナナの神から見放されたような壮絶な欠点を抱え込んでいるが、剣の腕前だけは本物だ。ヒコロクはそう思った。正面での戦いならば魔物に負けることは絶対にない。さすがはフィローネ支部随一の剣術特練生ではある。ちょっと頭が悪いのと、燃費が悪いことなどは、この才能の前では大したことではない。

 

 だが、イーガ団員でありながらバナナが食べられない。そのことを考えてみると、やはりモモンジは才能と欠点とのバランスが取れていなかった。むしろ欠点のほうへ傾いている。ヒコロクはそう思った。

 

 ここでヒコロクは、モモンジがじっと彼を見つめていることに気がついた。咎めるように彼は言った。

 

「おい、なんだよ」

 

 モモンジは申し訳なさそうな顔をして答えた。

 

「……本当に申し訳ございません、ヒコロク先輩……私を(かば)ったばかりにこんな深手(ふかで)を負って……せめて、私に配給された分のバナナまで食べて元気になってください……」

 

 そう言うと、彼女はポーチから一房のツルギバナナを取り出し、うやうやしい態度でヒコロクに差し出した。たとえバナナを食べることはできなくとも、イーガ団員たるものはバナナを常に携帯していなければならない。彼女は団の教えに忠実だった。彼女は自分の食べられないバナナを、せめてもの罪滅ぼしとしてヒコロクに提供しようとしているのだった。

 

 健気(けなげ)なやつめ。ヒコロクは、わざとらしく鼻で笑った。

 

「はっ! こんな夜中にバナナかよ。いや、俺だってバナナは好きだが、実はお前が偵察に出ている最中にバナナを食っていたんだ。さすがにこれ以上食うと傷口からバナナが飛び出てきそうだから、今はいらん。それはお前が持っておけ。バナナは幸運のお守りでもあるんだからな。持っていれば良いことがある」

 

 ヒコロクの言葉を聞いたモモンジの両目から、綺麗な大粒の涙が(あふ)れ出てきた。

 

「ヒ、ヒコロク先輩……!」

 

 その時だった。平原の北の方から、一発の鋭い爆発音が響いてきた。爆音はそれから短時間のうちに連続した。心なしか、爆音は次第に疎林へと近づいてくるようだった。

 

 ヒコロクは、思わず首刈り刀に手を伸ばした。彼は言った。

 

「なんだ、あの爆音は?」

 

 モモンジも刀に手をやって、中腰(ちゅうごし)の体勢を取った。彼女はしばらく考えるようだった。だが、やがて思い至るところがあったのか、どこか明るい声で彼女は言った。

 

「あっ、あの爆音は、あの爆音はもしかして……? あの、ヒコロク先輩、あの爆音は、もしかしたらテッポ殿の爆弾ではないでしょうか?」

 

 そう言われて、ヒコロクにもハッとするところがあった。確かに、爆音はいつも支部の訓練場で派手に鳴り響いているテッポの爆弾の炸裂音と酷似していた。

 

 彼は、口元をニヤリと歪めて言った。

 

「確かにコイツは、テッポ殿の爆弾だな。これは、運が向いてきたのかも知れねぇぞ……おい、モモンジ!」

 

 彼はポーチから油紙に包まれた大きな肉の塊を取り出した。彼はそれをモモンジに投げてよこした。彼は言った。

 

「こんなこともあろうかと、虎の子として保存しておいたチカラ極上岩塩焼き肉だ。冷えてても美味いぞ。モモンジ、お前はそれを食って気合い入れ直して、テッポ殿を迎えに行ってこい!」

 

 モモンジの顔に生気が戻った。彼女は答えた。

 

「はいっ!」

 

 大きな肉の塊に(かぶ)りつく小柄なモモンジの姿が、沈みかけの月の僅かな光に照らし出された。最後の一片まで食べ終わると、モモンジは風斬り刀を抜刀して肩に担いだ。彼女はマックストカゲの如き俊敏さで疎林を飛び出していった。

 

 爆音は、なおも続いていた。




 およそ二ヶ月ぶりの更新、そして新キャラ登場でございます。モモンジの活躍については、次回以降に是非ご期待ください。
 軍馬の徴用について今回は触れてみました。執筆にあたり、アーサー・フェリル『戦争の起源 石器時代からアレクサンドロスにいたる戦争の古代史』(鈴木主税、石原正毅訳、ちくま学芸文庫、2018年)がかなり参考になりました。イメージを膨らませるにはやはり読書が一番です。興味のある方は是非ご一読下さい。

※加筆修正しました。(2023/05/10/水)


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第三十六話 ワイルドホーセズ・バナーヌ&テッポ

 強者がいる。弱者がいる。それは戦場における厳然たる事実である。

 

 したがって人は言うであろう。「強者とはいわば捕食者であり、弱者とはいわば被捕食者である。弱者は強者にとっての養分に過ぎず、戦場という生態系の最底辺で這いずり回る存在でしかない」

 

 だが歴史を(かえり)みれば、この考えがいかに誤謬(ごびゅう)に満ちているかが実感として理解できる。強者とは決して絶対的存在ではなく、弱者とはまったくの被捕食者ではないのだ。

 

 戦争と戦場にまつわる歴史は、強者が弱者を当たり前のように蹂躙・撃砕(げきさい)してきた歴史であるのと同時に、目も当てられないほどの弱者が強者を打ち倒し、奇跡的な逆転勝利を収めてきた歴史でもある。

 

 このハイラルの大地において、強者とはすなわち「騎兵」であった。重装騎士、騎乗兵士、軽装騎士、その種類は多々あるが、その戦略機動性と戦術的打撃力の高さは、あらゆる兵種のそれを懸絶(けんぜつ)していた。騎兵こそ、まさにハイラル王国軍の花形であった。鈍色に輝く鋼鉄の軍勢は幾度となく魔物の群れに突入し、粉砕し、その軍旗を血潮で染めたものだった。

 

 だが、その圧倒的強者たるハイリア騎兵が、取るに足らない圧倒的弱者に無惨に敗北した過去がある。

 

 ある王のある時代のことであった。東ハテール地方で魔物が軍勢を興した。軍勢といっても、(いわお)の如き軍律も、磨き抜かれた武具も持ち合わせてはいなかった。敵は単なる寄せ集めの、群衆のごとき集団だった。つまりそれは、いつものよくある、魔物の大量発生の一つに過ぎなかった。

 

 その場所は東ハテール地方の中央、すなわちヒメイダ山、東のツカイエ台地、南のテルメ山を擁する山岳地帯だった。急峻な隘路(あいろ)がうねうねと山間を走っていた。たまに存在するやや幅のある土地には、トヒキ池やクハン池といった沼沢地帯が広がっていた。そこは、要するに軍事行動をとるには著しく不便な土地といえた。

 

 魔物たちは山々に拠点を築き、見張り台を建て、鹿砦(ろくさい)と柵と門を巡らした。魔物たちはたまに大挙して出撃し、人間の牧場や畑を襲って家畜や穀物を略奪した。警備隊が駆けつけると、魔物たちは一目散に拠点へと逃げ込み、あたかもマックスサザエが(ふた)を閉じたようにして、(がん)として守りに徹した。

 

 当時のハイラル王国は、東ハテール地方にさほど軍勢を駐屯させていなかった。それまで魔物は小規模の警備隊でも充分に対処可能な数しか姿を現さなかったからであった。

 

 そこに、このような異常事態が勃発した。このままでは魔物の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)のままに、豊かな東ハテール地方は荒廃の一途を辿るであろう……そのように懸念した東ハテール軍司令官は、すぐさま中央ハイラルへ援軍を要請した。

 

 要請を受けた中央政府は、その精強さで鳴らすハイリア王国軍騎兵第一連隊の出動を検討した。中央は、最強の戦力で魔物を鎧袖一触(がいしゅういっしょく)すれば、時間も、戦費も、そして被害も低く抑えることができるだろうと判断した。

 

 これに対して、軍人から数多くの反対意見が出された。軍人たちは、「戦場は山岳地帯で騎兵が通行可能であるのは狭い道だけである。沼沢地帯の湿気は馬の健康を害するであろう。(まぐさ)にも乏しい。なにより、山間の魔物の砦の数々を攻略する「攻城戦」を遂行するには、騎兵はまったく不向きな兵科である」と述べた。彼らは騎兵ではなく、歩兵を派遣するべきであると主張した。

 

 軍議は白熱した。議論は進み、最終的には「騎兵ではなく二個の歩兵連隊を派遣すべきである」として話が纏まりつつあった。だが、運命と神々は残酷であった。結局、数々の論理的な反論が押しのけられて、騎兵連隊の派遣が強行されることになってしまった。

 

 その理由は、騎兵連隊の隊長の孫娘二人が、魔物の砦へ拉致(らち)されたことにあった。魔物たちは中央ハイラルが軍議に明け暮れている最中に砦を出撃して長駆ハテノ村を劫掠(ごうりゃく)した。その際、老騎兵連隊長が溺愛する二人の孫娘が、哀れにも魔物に囚われてしまったのであった。

 

 老連隊長は国王に直訴した。「なんとしてでも自らの手で愛する者を救出したい」と彼は国王に言った。また、「伝統あるハイラル王国の騎兵の名誉にかけて、不埒千万(ふらちせんばん)な魔物の群れを撃滅せずにはいられない」と彼は言った。彼は()まず(たゆ)まず、その年老いた顔を真っ赤にして、また汗を滝のように流して、なんとかして騎兵連隊出撃の許可を得ようと必死になって、連日国王に働きかけた。

 

 情に厚い性格というものは、為政者にとって時に致命的となる。その国王は温厚で、臣民の苦しみに深く共感する性格の持ち主だった。国王は、理屈の上では騎兵派遣は決して許してはならないと分かっていたが、孫娘救出に(はや)る老連隊長を前にしては、それをひっこめざるを得なかった。国王は出撃を許可した。老連隊長は涙を流して国王に感謝の言葉を述べ、「誓って醜敵(しゅうてき)を撃滅する」と宣言した。

 

 かくして、騎兵連隊は出撃した。だが、その戦闘結果については、言うまでもないだろう。騎兵連隊は、大敗北を喫した。騎士五百名、従士千五百名、合計およそ二千名からなる連隊は、作戦終了時点で半数以下にまで数を減らしていた。当然、その作戦目的を達成することはできなかった。

 

 当初、老連隊長は(みなぎ)る戦意と決死の覚悟を秘めて、己が半生をかけて鍛え上げた部下たちを率い、歩武(ほぶ)堂々と東ハテール地方へ進軍した。精悍な馬にまたがった鋼鉄の軍勢が、続々と街道を進んでいった。彼は山岳戦に対応した作戦計画も怠りなく準備した。そこまでは順調といえた。

 

 しかし、これからいざ山間部へ侵入という日の前の晩になって、老連隊長が突然倒れてしまった。彼が倒れた原因に関しては諸説ある。「宿営地を出て偵察がてら馬を慣らしていたところをリザルフォスに狙撃された」とか、あるいは「脳卒中に襲われた」とか、もしくは「孫娘二人がすでに殺害され、死体が砦の門前に晒されていると聞いて卒倒した」などという説がある。いずれにせよ、もはや彼には指揮能力がなかった。

 

 翌日、作戦は予定通りに決行された。老連隊長に代わって指揮を執ることになった副隊長は、貴族出身の若く熱意に溢れた男だったが、いかんせん実戦経験が不足していた。彼は致命的なミスを犯した。彼は斥候(せっこう)も放たぬままに全部隊を隘路(あいろ)に入れて、縦一列で進軍させてしまった。それは愚劣極まりない指揮であった。大渋滞を起こしている縦列を目にして、魔物たちは出口に障害物を設置すると通行不能にした。さらに魔物は入り口側にも障害物を素早く設けた。こうして、騎兵連隊をまるごと山中に閉じ込められてしまった。

 

 両側は急峻な崖であった。超人的な身体能力の持ち主でもなければ、登ることなど思いもよらなかった。ましてや、騎兵が馬を捨てることなど許されなかった。包囲を脱出するためには、どうしても入り口か出口の障害物を破壊しなければならなかった。幾度となく突撃が繰り返された。そのたびに騎士たちは魔物から雨のように矢を射掛けられた。そして、彼らがどれだけの死体を積み上げ、大地を赤い血で染めても、状況はまったく好転しなかった。

 

 数日が過ぎ、数週間が過ぎ、一ヶ月が経過した。兵糧(ひょうろう)は枯渇していた。その代わりに死体袋が増えた。騎士と兵士たちは飢えていた。彼ら以上に、馬たちも飢えていた。

 

 それから更に一ヶ月が過ぎたあと、ようやく解囲(かいい)部隊が到着し、二ヶ月の戦闘で半壊した騎兵連隊の救出に成功した。包囲された連隊の馬はほとんどが死に絶えていた。騎士たちの甲冑は泥と(さび)によって醜く黒ずんでいた。兵士たちはスタルボコブリンのように痩せ細り、血走った目だけが動いていた。彼らはもはや戦闘部隊ではなくなっていた。

 

 彼らはなぜ敗北したのか? 魔物が知恵において人間を上回ったからであろうか? そうではなかった。魔物たちに知恵や軍略があったわけではなかった。ただ魔物たちが知っていたのは、人間の強さ、なかでも騎兵の強さであった。それゆえに魔物たちは進軍してきた騎兵たちに恐怖を抱き、正面からの戦闘を避けた。魔物たちは、「怖い相手は、閉じ込めてしまえば良い」と考えた。彼らはそのとおり実行した。

 

 それが、数々の要因が複合したとはいえ、至弱(しじゃく)の存在が至強(しきょう)の存在を打ち倒すという結果に繋がったのだった。

 

 この歴史的な大敗北の後、ハイラル王国軍は騎兵以外の兵科を増強しようと努力した。軍は特に、国土の半分以上を占める山地での戦闘に対応した山岳部隊の育成に力を入れた。この軍事改革は、後にゲルド地方のカルサー谷のイーガ団アジトを攻略する作戦において、失敗こそしたものの実に有効に働いた。

 

 戦いの技術とは、弱者が強者を打ち倒すことによって発明される。敗北した強者は、その発明された技術を学習する。技術は広く用いられるようになり洗練されていく。このサイクルこそが、戦いの歴史の原動力といえるかもしれない。

 

 最後に、一つの逸話を紹介しておこう。山間部で魔物に包囲された騎兵連隊は、ついに最後の一粒まで兵糧を食べ尽くしてしまった。彼らはゴーゴーハスの実や木の根、チュチュゼリー、ゴーゴートカゲ、ガッツガエルに至るまで、その地で得られる食べ物はなんでも食べてしまった。

 

 そして、ついにそれらすらも消え果ててしまった時、副隊長はある決断を下した。「馬を殺し、それを(かて)とせよ」と彼は部隊に命じたのだった。

 

 命を繋ぐためには、それしか方法はなかった。しかし、ハイラル王国開闢(かいびゃく)以来、馬は人間の友とされていた。ましてや、彼らは騎兵であった。彼らは馬とはまさに一心同体の存在だった。いくら飢えているからといって、愛馬に(やいば)を突き立てて皮を剥ぎ、肉を焼くなどというのは彼らにとって思いもよらぬことだった。

 

 しかし、やはり飢えとは恐ろしいものであった。飢えとは、人間からありとあらゆる人間性を容赦なく奪い去るものである。ついに飢えに負けて、無二の友である馬を殺してその肉を食べる者が現れた。その数は日を追うごとに増えていった。ある生存者の証言によると、「隠している者もいるかもしれないが、その場にいたほぼ全員が何らかの形で馬の肉を口に入れた」とのことである。

 

 戦いの後、生き残った副隊長はアラフラ平原の軍馬徴用官付きの監査役に任命された。つまるところ、それは左遷であった。彼は、軍馬徴用官に対して以下のように言った。

 

「私は取り返しのつかない過ちを犯しました。伝統あるハイラル王国騎兵の誇りを失墜させ、軍旗を汚泥(おでい)(まみ)れさせました。それは、決して許されざることです。ですが一つだけ、たった一つだけ、この私にも誇れることがあります。それは、部下を餓死から救ったことです。友である馬たちは実に気の毒な目に遭いました。私が馬たちを殺したのです。それは、部下たちを救うために必要なことでした。馬の神は、はたして私を許してくださるでしょうか、それとも許さないでしょうか……?」

 

 その数ヶ月後のことであった。アラフラ平原の奥にある馬神湖の水面に、一人の男の死体が浮かんだ。それは、あの副隊長だった。その死に顔は恐怖と絶望で奇妙に歪んでいたという。その前日、彼は「馬神湖を越えた先にある、馬の大妖精マーロンの泉に参詣する」と言っていたという。彼は足を滑らせて橋から落下したのか、それとも魔物の攻撃を受けたのか、結局、その死因は分からずじまいだった。

 

「その副隊長は天罰を受けたのではないか」と、ある手記は述べている。「一度友と信じ、生死を共にすると誓った相手を、いくら己の生存のためとはいえ、殺して肉を剥ぎ喰らうとは、馬の神と大妖精マーロンの激怒を招いてもおかしくはない」とその手記の著者は言う。

 

 それは真実かもしれない。現在、ハイリア人が馬の肉を口にすることはない。

 

 

☆☆☆

 

 

 虫のざわめき、(こずえ)のざわめき、風のざわめき……どれもカルサー谷では聞くことのできない、水気(みずけ)と活力を伴った瑞々しい響きだった。夜のフィローネの大気は、その響きで満ちていた。

 

 馬上で手綱を捌きつつ、周囲を警戒しながら、バナーヌはそれを楽しんでいた。自然の何気ないおしゃべりやため息が、彼女にとっては心地良かった。彼女の好きなものはまず第一にバナナだったが、彼女はアジトの部屋で本を読むことと同じくらい、野生の息吹を直に感じることも好きだった。

 

 だが、その楽しみは突如として終わりを告げた。バナーヌの後ろで行儀良く(くら)に腰掛けていたテッポが、彼女へ静かに語りかけてきた。

 

「バナーヌ、もうすぐ日が昇るわ。そろそろアラフラ平原に到着よ。着く前に、あなたと情報を共有しておこうと思うの。私の話を聞いて。質問はいくらでも挟んでくれて構わないわ」

 

 バナーヌは答えた。

 

「分かった」

 

 テッポは髪をかきあげて、目の前のバナーヌを見つめた。二連弓を背負ったその背中は鍛え上げられた筋肉が隆起していた。バナーヌに戦闘者として一流の力量があることを、テッポは改めて感じた。彼女は言った。

 

「アラフラ平原は、昔から馬の産地として有名なの。私達フィローネ支部も馬の確保は重要視してて、支部はアラフラ平原の『高原の馬宿』に人員を送り込んでいるわ。他の馬宿には常駐連絡員しか派遣されてないけど、あそこの馬宿ではそうではなくて、イーガ団員の一人が店員になりすまして潜り込んでる。それがジューザよ」

 

 バナーヌは静かに話を聞いていた。彼女は答えた。

 

「うん」

 

 バナーヌの目線はチラチラと周囲へと走っていた。どんな時でも、警戒は些かも怠らない。それがイーガ団員の鉄則であった。

 

 同時に、彼女はバナナを一本だけ腰のポーチから取り出して、食べ始めた。どんな時でも、バナナは食べなければならない。それがイーガ団員の鉄則であった。

 

 テッポも周囲への警戒をしながら話を続けた。

 

「ジューザは馬の専門家でね。フィローネ支部が必要とする馬の調達と調教を一手に引き受けてるわ。私達が今乗ってるこの『バナナ・ゴーゴー』も、ジューザが手ずからアラフラ平原で捕まえた子なの……と、話が()れたわね」

 

 バナーヌは先を促した。

 

「続けて……むっ?」

 

 バナーヌは怪訝な声を上げた。突然、金色のカブトムシが飛んできて、彼女の右肩に止まったからだった。その虫はマニア垂涎(すいぜん)の希少昆虫、ガンバリカブトだった。テッポはそれに素早く手を伸ばすと、いとも容易く捕まえてしまった。彼女はどこかおどけた声を上げた。

 

「じゃじゃじゃじゃーん! 『ガンバリカブトを手に入れた!』……なんてね、はぁ。馬鹿馬鹿しい。話を続けるわ」

 

 わしわしと六本の脚をばたつかせるガンバリカブトを細い指先で(もてあそ)びながら、テッポは淡々と説明を続けた。

 

「とにかく、高原の馬宿にはフィローネ支部の保有する馬が預けられてるの。かなりの数よ。あそこにいけば確実に代替馬は調達できる。だから、サンベがヒコロクとモモンジを派遣したのは間違いではなかったと思うわ。たとえ魔物が出てきても二人とも強いから、たぶん大丈夫だろうって判断だったんじゃない?」

 

 実際のところ、ヒコロクとモモンジがアラフラ平原へ向かったのは彼らの独断であった。サンベはただ「替えの馬を持ってこい!」と命じただけであった。そのことをテッポは知らなかった。

 

 バナナを食べ終えたバナーヌが、テッポへぽつりと質問した。

 

「その二人について教えてくれ」

 

 テッポは頷いた。

 

「分かった」

 

 そう答えつつ、テッポは元気良く暴れるガンバリカブトを目の前に垂れている金髪のポニーテールにくっつけた。別に深い意図があったわけではなく、彼女はなんとなくそうしたのだった。ガンバリカブトは一瞬戸惑ったようだったが、そこを安住の地と見出したのか、脚を僅かずつ動かして、てっぺんへ向かって登り始めた。

 

 ガンバリカブトがバナナを登っていく……なんか、面白いわ。そう思いながらテッポは、バナーヌの質問に答えることにした。

 

「ヒコロクは、まあ優秀な団員よ。彼は既婚者で、顔立ちが良くて、首刈り刀の扱いが上手いわね。あと、状況判断力に優れてて、機転が利くわ。長期間の単独行動を命じられてもまったく問題ないでしょう。それで、もう一人のモモンジのほうなんだけど……」

 

 テッポは言いよどんだ。バナーヌは声を発した。

 

「どうした?」

 

 バナーヌはさきほどから自分のポニーテールに何らかの違和感を感じていた。虫でも這っているのか? だが、それよりもそのモモンジという人物について彼女は気になった。

 

 やがて、テッポが言った。

 

「モモンジはね、フィローネ支部の剣術特練生(とくれんせい)なの。彼女は綺麗な桃色の髪をしていて、とっても可愛くて、まだ若いわ。モモンジは、私とは歳が二つか三つしか離れてないんだけど、剣の腕前は一流よ。古代から伝わる密林仮面剣法の流派『オド・ルワ』の継承者ということらしいわ、その真偽は不明だけどね。もしかしたら、私のお父様より剣技は上かもしれない」

 

 バナーヌは感心したように答えた。

 

「すごいじゃないか」

 

 しかし、テッポは低い声で言った。

 

「でもね、彼女にはちょっと問題があって……あの子、剣の腕は立つんだけど、ちょっと頭が悪いの。いえ、頭が悪いというのは彼女に失礼ね。頭が悪いんじゃなくて、戦いとかで興奮状態になると、頭に血がのぼるせいか視野が狭くなるの。端的に言うと彼女、状況判断が苦手なのよ」

 

 テッポは言葉を切ると、また話を続けた。

 

「これはヒコロクから聞いた話なんだけど……前に一度、二人でリザルフォスの拠点を攻撃した時、モモンジは抜刀したまま正面から拠点に突撃したらしいわ。彼女は十匹以上の敵に囲まれたんですって。でも、モモンジはそのすべてを斬り倒したんですって。大したものだと思うけど、でもイーガ団でありながら正面攻撃をするなんて、私としてはどうかと思うわ。ヒコロクも『あんな視野狭窄ならそのうち大怪我するぞ。悪くすりゃ死ぬ』って嘆いていたわ」

 

 バナーヌは短く言った。

 

「そうか」

 

 彼女には、テッポの話を聞いて思うところがあった。つまり、ヒコロクとモモンジが組まされてアラフラ平原へと派遣されたのは、モモンジ単体では独立任務を遂行できず、かと言ってヒコロク単体では戦闘力に不安があるからだろう。それだけ、アラフラ平原では戦闘が起こる可能性が高いということだ。他の土地と同じく、アラフラ平原にも魔物が跋扈しているに違いない。

 

 これは、平原に入る前に一度馬から降りて、徒歩で偵察をする必要があるかもしれない。バナーヌはそう思った。突然騎馬ボコブリンかなにかに遭遇して矢でも撃ちかけられたら厄介だ。この馬を失うわけにはいかない。

 

 そのことをバナーヌが言おうとした矢先に、テッポが「あっ!」と叫んだ。その声に驚いて、今やポニーテールのてっぺんまで登りつめていたガンバリカブトが、耳障りな羽音を立てて飛び去っていった。

 

 バナーヌはテッポに言った。

 

「どうした」

 

 テッポはしばらく「うーん……」と唸っていた。言うべきか言わざるべきか、あるいはどのように言うべきか、彼女は迷っているようだった。やがて、テッポは言った。

 

「……うーん……やっぱり、バナーヌには話しておきましょう。大事なことだし」

 

 テッポは言葉を続けた。

 

「バナーヌ。あなたは、この世にバナナが食べられない人がいるって聞いて、そのことを信じられる? その『食べられない』っていうのはね、好みとか経済的な理由とかそういうのじゃなくて、身体的に受け付けないという意味での『食べられない』よ。あなたはバナナが食べられない人間の存在を信じられる?」

 

 バナーヌは即答した。

 

「信じられない」

 

 バナーヌは、この広いハイラルの大地でバナナほど優れた果物は存在しないと思っていた。バナナは栄養に溢れ、生命力に溢れ、美しさに溢れている。限りなく完璧で、限りなく万能な食物、それがバナナだ。それに、バナナの神は魔王様と同じくらい偉い。それほどまでに恵まれたバナナを食べられない人間が存在するわけがない。

 

 より正確に言うと、そんなにも不幸な人間が存在するわけがない。人間とは大なり小なり不幸を抱えた存在であるが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を抱えた人間などあり得ないはずだ。彼女はそう考えた。

 

 だが、テッポは驚愕すべき事実をバナーヌに告げた。

 

「でもね……バナナが食べられない人はこの世に存在するのよ。モモンジが、その『バナナが食べられない人間』なの」

 

 思わずバナーヌは手綱を引いていた。馬が(いなな)いて、脚を上げた。突然の急ブレーキにテッポは声を上げた。

 

「うわっ、うわわっ!」

 

 テッポは姿勢が傾き、(くら)からずり落ちそうになった。彼女はバナーヌの細い腰に手を回して、なんとか転落を免れることができた。

 

 そんなテッポに構わず、バナーヌは強い調子で尋ねた。

 

「詳しく聞かせてくれ」

 

 テッポは、はぁ、と溜息をついた。彼女は言った。

 

「モモンジはね、本当にバナナが食べられないの。本人が言うには、小さい頃は大のバナナ好きだったそうよ。『一日に三十本は食べていました!』とか、そんなことを言ってたわ。でも、彼女の父親が亡くなって、彼女が密林仮面剣法『オド・ルワ』の継承者となってからは、急にバナナが食べられなくなったらしいの。『食べると蕁麻疹ができて、顔が腫れ上がって、呼吸が詰まってしまうんです』って言うのよ。ある日、サンベが『そんなのは嘘だ、単にバナナ嫌いなのをごまかすために嘘をついてるんだ』って騒ぎ立てて、支部長を動かして、彼女に無理やりバナナを食べさせたことがあったの。でも……」

 

 バナーヌは相槌を打った。

 

「どうなった?」

 

 テッポは、力なく首を振りつつ言った。

 

「バナナを食べさせられたモモンジは、心肺停止したわ。モモンジにとって、バナナは毒物以外のなにものでもないみたい。その時はエレキロッドで心臓マッサージをして、それからモリブリンの(きも)から抽出した催吐(さいと)剤を投与して胃の中を空っぽにしたから、彼女はなんとか助かった。でもやっぱり、その時のことがトラウマになってるみたいで……可哀想にモモンジは、今でもバナナを見ると悲鳴をあげるわ」

 

 そこまで聞いて、バナーヌはそのモモンジという女団員に心から同情の念を抱いた。彼女は嘆息するように言った。

 

「そうか……」

 

 イーガ団員として生まれながら、バナナが食べられないとは! それはなんと悲しいことだろう。それはまるでゾーラ族として生まれながら水に濡れると皮膚がかぶれてしまうようなものではないか。もし、自分が彼女の立場だったら、三日間も生きていられるだろうか? バナーヌはそう思った。

 

 バナーヌは、何よりもバナナが好きである。以前、彼女はノチから訊かれたことがあった。

 

「もしもね、もしもの話よ? 私とバナナの神様の二人が崖っぷちにぶら下がっていて、バナーヌが助けなきゃならないってことになったら、バナーヌはどっちを先にする?」

 

 可愛い顔をしたノチは究極の選択をバナーヌに突き付けてきた。バナーヌはしばらく悩んだ。彼女は相当悩み、悩み抜いた末に答えた。

 

「バナナの神、かな」

 

 そう答えたくらいには、バナーヌはバナナ好きなのであった。ちなみにバナーヌとしてはその時、次のように考えていた。自分には膂力(りょりょく)があるから、バナナの神様を助けたあと、すぐにノチを救うことなど容易い。ノチは優しいから後回しにされても決して怒らないだろうが、バナナの神様は後回しにされたら怒るかもしれない。それで祟りでもあったら大変だ……だが、彼女は結局ノチにポカポカと叩かれてしまった。

 

 バナナの神は、どうしてそのような不幸な人間をこの世に生み出したのだろうか? バナーヌはモモンジについて、そう思った。彼女は一人、バナナの神の恩寵と祝福の平等性について沈思黙考した。

 

 そんな彼女に対して、テッポは話しかけた。

 

「というわけでバナーヌ、彼女に会ってもバナナをあげるのはやめてちょうだい。バナナを贈り合うのはイーガ団員の(たしな)みだけど、モモンジには不要だわ。というより、お互いのためにならないから。お願いね」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「分かった。ところで……」

 

 彼女はテッポに、アラフラ平原に到着した後にとるべき行動について話し始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 それから、半時間が経った。二人は無事にアラフラ平原に辿り着いていた。

 

 二人は乗ってきたバナナ・ゴーゴーを安全なところに置いた。そして二人は、その身に染み付いた隠密技術を十全に発揮して、背の高い草むらの中に潜伏した。

 

 隠れつつ、バナーヌとテッポは状況を確認していた。しばらくして、テッポが口を開いた。

 

「黒ボコブリンが一騎に、青ボコブリンが四騎……徒歩のボコブリンも四匹ほどいるわね。それに、ここからは見えない向こう側にも、たぶんもう数騎がいるでしょうね」

 

 その声には緊張感が滲んでいた。

 

 古代シーカー族の兵書によると、「騎兵は平地において歩兵八人分の戦力を発揮する』と述べられている。この文言をどう解釈するかはさておき、それだけ騎兵は歩兵にとって脅威なのだ。

 

 できれば魔物たちとは戦わずに、迂回して高原の馬宿へ行きたい。でも、そうするわけにもいかない。そうテッポは思った。彼女はバナーヌに言った。

 

「ヒコロクとモモンジは、きっとあの騎馬ボコブリンたちと戦ったのね。いえ、今もどこかで戦っているのかも……二人とも、魔物がいなければ馬を連れてとっくの昔に戻って来ているはずだもの。あるいは……」

 

 そこまで言ってから、テッポは嫌な想像にしてその小さな体を震わせた。いや、きっと無事のはず。ヒコロクもモモンジも強い。いくら敵の数が多いといっても、命を落とすなどということはないはず。きっとそうよ……彼女はそう考えなおした。

 

 バナーヌの冷静な声が響いた。

 

「あの敵は排除しなければならない。馬が襲われる」

 

 テッポは鳶色の瞳をキラリと輝かせて、バナーヌに答えた。

 

「それは当然ね。奴らを皆殺しにしてから、私達はヒコロクとモモンジと合流して、代替馬を手に入れる。それが既定路線よ。それで、何か作戦はある?」

 

 うーむ、とバナーヌは腕組みをして、しばらく唸った。草原を吹き抜ける夜風が、彼女の金色のポニーテールを撫でつけていた。

 

 やがて、バナーヌの中で答えが出たようだった。彼女は言った。

 

「テッポ、少し危険だが……」

 

 バナーヌは低い声で話し続けた。その作戦案を聞いたテッポは、力強く頷いた。彼女は元気に満ちた声で言った。

 

「分かったわ、それでいきましょう。ひとつ、やってやろうじゃない!」

 

 会話を終えると、二人は地面に(ひざまず)いた。困難な戦いを前にした時、イーガ団員はバナナの神に祈りを捧げることになっていた。彼女たちはポーチからバナナを取り出すと、地面に安置した。彼女たちはそれに向かって両手を合わせた。二人は(こうべ)を垂れて、祈りの言葉を(つむ)ぎ始めた。

 

「……バナナの神よ、我、汝の他に望みなし。汝はくすしき形と色と味を以て、かつて我らに示し給う、『この(しるし)によりて汝らは勝利すべし』と。今また、我は(いくさ)に臨まんとす。願わくばバナナの神よ、どうか我に力を授け給え……」

 

 

☆☆☆

 

 

 静寂に包まれていたアラフラ平原に、突如爆音が響いた。

 

 馬に乗ったボコブリンたちは、一斉にその頭上に「?」の文字を浮かべた。ボコブリンたちは何事かと疑うような表情を浮かべていた。その大きな耳をバタバタとはためかせて、鼻をフゴフゴと鳴らしていた。

 

 再度、爆音が響いた。今度は、その後に「おーい!」という声が響いてきた。声はニンゲンのものだった。若い(メス)の声だった。若い女ならば、その肉はきっと柔らかいはずだ。単純な思考力しか持たない魔物たちは、そんなことを考えていた。考えている間にも、若い女の声は続いていた。

 

「おーい! 知能低劣なイノシシのなり損ないどもー! あんたたちのところに、イーガ団フィローネ支部幹部ハッパの一人娘、テッポがわざわざ来てやったわー! 早く出てきて私の相手をしなさーい! 皆殺しにしてやるからー!」

 

 それを聞いて、ボコブリンたちは声のする方向へ馬を走らせ始めた。疎林の中に逃げ込んだ大人のオスと若いメスのニンゲン二匹は後回しだ。早くしないと、仲間が先に新鮮な肉を取ってしまう。魔物たちはそう考えた。それに、言っている意味はよく分からないが、あの叫びはなんとなく自分たちを馬鹿にしている……魔物たちは馬を走らせた。

 

 今度は、魔物たちの目に閃光が見えた。その次に赤い炎が見えた。そして、黒煙が噴き上がるのが視界に入った。直後に、また爆音が響いてきた。

 

 火が、草に燃え移っていた。それはあたかも炎の壁となって、騎馬ボコブリンたちの行く手を阻んでいた。

 

 炎の輝きと熱に馬が怯えた。魔物たちは舌打ちをした。クソッ、こっちには行けないぞ。

 

 魔物たちが炎に目を奪われているうちに、何かが草むらの中を走っていった。魔物たちはそれに気が付いた。今度こそ逃すまいと、彼らはそれを追いかけた。

 

 再度爆発が起こった。そして、新たな炎の壁が立ちのぼった。若いメスの声が相変わらず響いてきた。

 

「おーい、おーい! こっちよ、この間抜けどもー!」

 

 いつの間にか、ボコブリンたちは一箇所に集まっていた。声を追い、爆発を避け、炎の壁に沿って馬を走らせていたら、なぜかこんなことになっていた。だが、彼らはそんなことを気にしなかった。ついに彼らの目の前に、探し求めていた獲物が姿を現していた。

 

 獲物が声をあげた。哀れっぽい声だった。

 

「あー、かこまれちゃったー。あーあー、どうしましょー、あー」

 

 獲物は、彼らの予想よりもだいぶ小さかった。ぷにぷにとした褐色の肌だ。肌のツヤと輝きからみて、たぶん病気ではない。というより、健康そのものだろう。きっと、肉は極上の旨さだろう。極上ニンゲン肉を手に入れるチャンス到来だ。ボコブリンたちは舌なめずりをした。

 

 恐怖のためだろうか、その若いメスはへなへなと地面にへたり込んだ。若いメスは追い詰められたヤマシカのように、身をブルブルと震わせていた。若いメスは口を開いた。

 

「や、やめてー。さっきのは冗談、じょうだんだったのよー。た、食べないでー。わたし、きっと馬糞ばふん()みたいな味がするわー」

 

 魔物たちはその四方を囲むと、じりじりと距離を詰めた。それぞれがトゲボコ槍や、トゲボコこん棒や、弓矢を手にしていた。だが、彼らはそれを使わなかった。じわじわと追い詰めて、恐怖で動けなくなったアイツに、生きたままかじりつく。それが良い。それが一番だ。踊り食いはなによりも美味しい食べ方だ……彼らの口の端から汚い涎が垂れた。

 

 あと七メートル、五メートル……新鮮な極上ニンゲン肉まで、あと少し……彼らは近づき続けた。

 

 突然、若いメスは声を上げた。

 

「はっ!!」

 

 若いメスは声と共に、何かを地面に投げつけた。直後、夜目にもはっきりと分かるほどの灰白色(かいはくしょく)をした煙が、濛々(もうもう)とその若いメスを包み込んだ。

 

 畜生、見えなくなった! 魔物たちは口から泡を飛ばし、叫び声を上げて狼狽した。

 

 その時、煙の中のニンゲンが、鋭く叫んだ。

 

「今よ! バナーヌ!」

 

 突如、空を切り裂いて飛来した二本の矢が、騎乗した一匹の青ボコブリンの後頭部と頚椎(けいつい)を貫いた。魔物は悲鳴を上げた。

 

「ぶぎぃいいっ!?」

 

 叫び声を上げて青ボコブリンは落馬した。それを仲間が見届ける(いとま)もなく、別の青ボコブリンの背中へまたもや二本の矢が突進していた。矢は必殺の意志を纏っていた。半秒後に矢は青ボコブリンの肉を貫き、骨を砕いた。

 

 忌々しい灰色の煙幕の中から、黒いものが三つ四つ飛び出した。それらは丸く、紐のようなものがついていて、紐の先端には小さな火が着いていた。

 

 若いメスの声が響いた。

 

「これでも食らいなさい!」

 

 黒いものは、空中で爆発した。馬に乗っていないボコブリン二匹が爆風によって即死した。騎乗していた青ボコブリン二匹も、炸裂した爆弾から唸り声をあげて飛んできた無数の鋭利な破片によって、全身をズタズタに切り裂かれた。

 

 馬の悲鳴、魔物の断末魔の叫び、爆音……数分前まで惰眠(だみん)を貪っていたアラフラ平原は、一瞬にして戦いの(ちまた)へと変貌した。

 

 

☆☆☆

 

 

「よし、作戦成功ね!」

 

 向こうで手を振るバナーヌを見て、テッポは会心の笑みを漏らした。こうまで上手くいくとは、自分たちはよほど運に恵まれているのに違いない。もしくは、バナナの神が祈りを聞い届けてくれたのだろうか? テッポはそんなことを考えた。

 

 事前に彼女たちが立てた作戦は、シンプルそのものだった。まず、テッポが爆弾を使って騎馬ボコブリンの注意を引きつける。それと同時に、バナーヌは草むらに身を潜めつつ魔物たちに接近し、その背後を取る。テッポは逃げながら爆弾を使って草に火を放ち、魔物たちが一箇所に集まるように誘導をする。あとは、煙幕を使ってテッポが身を隠したあとに、バナーヌが弓で敵を撃ち落とすだけ。

 

 対騎兵戦において最も重要なことは、相手の機動力をいかにして奪うか、これに尽きる。かつてハイリア騎兵たちが魔物を相手にして無惨な敗北を喫したのも、山中で包囲されて機動を極端に制限されたからである。イーガ団の戦闘教義にも、対騎兵戦については「……充分な障害物を予め整備して敵の機動に掣肘(せいちゅう)を加える。射撃に際しては騎乗者ではなく馬を狙う……」とある。足を止めた騎兵は単なる「大きな標的」になるのだ。

 

 テッポはひとりごちた。

 

「お父様も仰っていたわ……『騎馬ボコブリンは目が良く、遠くからこちらを見つけてすぐ駆け寄ってくるが、その馬術は大したものではないし、何より頭も良くない。奴らを相手にする時には、頭を使え』……さすがはお父様だわ。今回もお父様の教えに助けられた……」

 

 向こうで、またバナーヌが敵を仕留めた。それは徒歩のボコブリン二匹だった。テッポは言った。

 

「これで討ち取ったのは、騎馬の青ボコブリンが四匹に、徒歩のボコブリンが四匹……」

 

 ゾワッと、テッポの背筋に冷たいものが走った。まだ一匹、倒してない! 騎馬の黒ボコブリンは何処(どこ)に行った!? そう思った瞬間、彼女は半ば反射的にその首刈り刀を腰から抜いて、咄嗟に頭上に掲げた。

 

 直後、彼女の両腕に凄まじい衝撃が伝わった。耳を貫く甲高い金属音がし、魔物の叫び声が聞こえた。

 

「ぶぎぃいあぁっ!」

 

 醜悪な叫び声を上げてテッポの背後から槍を振り下ろしたのは、ひときわ体格の立派な、竹炭のように真っ黒なボコブリンだった。

 

 白と茶のまだらの馬に跨った魔物は、最初の一撃が防がれた後、その場に立ち止まることはしなかった。魔物はそのまま前方へと駆け抜けて、鋭く馬首を返すと、今度はテッポの正面から突進してきた。その槍はどこで拾ったのか、立派な造りの騎士の槍だった。あんなもので突かれたらひとたまりもない。やっかいね……テッポは舌打ちをした。

 

 バナーヌの叫ぶ声が聞こえた。

 

「テッポ!」

 

 バナーヌは二連弓から矢を放った。それは正確に騎馬ボコブリンへ飛んでいった。だが、魔物はクルクルと騎士の槍を回転させると、矢を叩き落としてしまった。

 

 テッポはそれを見て、思わず毒づいた。

 

「ちっ、厄介な奴ね……いいわ、やってやろうじゃない!」

 

 戦意を漲らせて、テッポは首刈り刀の(つか)を握り締めた。テッポは立ち上がると、構えを取った。この距離と相対速度では、爆弾はもはや役に立たない。刹那(せつな)の攻防、決死の接近戦こそが、自分の運命を拓くただ一つの道だ。テッポは覚悟を決めた。

 

 両者の距離が見る見るうちに縮まった。テッポの目に映る騎馬ボコブリンの姿がみるみるうちに大きくなった。血管を浮かべ、目を血走らせ、口から泡を吹いている馬が見えた。目を赤く光らせ、ピタリとこちらの心臓に向けて槍を構えているボコブリンが見えた。倒せるかしら? テッポはふとそんなことを思った。倒すのよ、とテッポは思い直した。

 

 その時だった。テッポの背後から、気迫のこもった声が響いた。

 

「テッポ殿、伏せてください!」

 

 即座にテッポは地面に腹這いになった。その頭上を、なにかが飛び越えていった。それは影だった。空中で影が叫び声を上げた。

 

「でやぁああっ!」

 

 その影は、長く繊細な造りをした大太刀(おおたち)を構えていた。影は正面から突進してくる騎馬ボコブリンに飛び掛かると、その次の瞬間には、騎乗者の胴を水平に真っ二つに斬り裂いていた。影の顔面に装着された白い仮面に、魔物の体液がびちゃりと音を立ててかかった。仮面には涙目の逆さ紋様が刻まれていた。

 

 テッポが叫んだ。

 

「モモンジ!」

 

 影は、モモンジだった。モモンジは風斬り刀を脇構(わきがま)えに構えると、テッポに向かって深々と頭を下げた。彼女は言った。

 

「テッポ殿、モモンジがお迎えに参上しました! ですが、まだまだ敵がこっちに来るようです。ここは私にお任せください!」

 

 遠くからまた新手の騎馬ボコブリンがこちらへ駆けてくるのがテッポに見えた。モモンジが自信満々な声で叫んだ。

 

「さぁ、魔物共! 密林仮面剣法『オド・ルワ』の正統継承者、モモンジが相手をつかまつるわ!」

 

 戦いは、ますます混迷を極めつつあった。




 密林仮面戦士オドルワさんって、言うほど剣技凄いですかね? 変な踊りをして虫を呼び出すくらいしか特技がないような……(暴言)
 モモンジの活躍はまた次回ということになってしまいました。今回はバナーヌとテッポを久しぶりにたっぷり書けて満足です。

※加筆修正しました。(2023/05/11/木)


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第三十七話 モモンジ、見参!

 モモンジは、猛り狂う騎馬ボコブリンを一刀のもとに斬り捨てた。今また新手の敵を迎えて、彼女は戦意を全身に充溢(じゅういつ)させた。彼女はいかなる技を用いても醜敵(しゅうてき)を殲滅せんと決意していた。より正確に言うなら、「全力で、敵をぜんぶやっつけてやる!」と彼女は思っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 俗に言う。「戦争と闘争こそは新しい技術を生み出し、発展させ、深化(しんか)させ、またさらに新たなる技術を生み出すものである」

 

 この言葉は、確かに一面においては正しい。今更言うまでもなく、一万年以上の太古の昔、厄災ガノンに対抗するべくハイリア人はシーカー族と手を相携え、勇者と姫巫女の助けとするべく、自動戦闘機械の大群を生み出した。それのみならず、彼らは巨大決戦兵器たる四神獣を建造した。それらは、当時の最新の研究成果と最高の技術を結集した、いわば壮大なる智の結晶であった。

 

 今では呪いと恐怖の対象となり果ててしまったが、単眼多脚の歩行型ガーディアンや、単眼三翼の飛行型ガーディアンも、ガノンという脅威なくしては決して生まれることはなかったであろう。それは疑いようもなく、戦争という状況が技術革新を促進させた、ハイラルにおける最も顕著な例である。

 

 しかし、それならば技術というものは、戦争という差し迫った状況下でなければ、革新も進歩も起こらないものなのだろうか?

 

 答えは、否である。なぜならば、平時においても技術というものは、そのペース自体は戦時と比較してまことに緩やかであるにしても、着実に向上し、新たな成果を生み出し、次世代へより洗練された形で受け継がれていくものだからである。

 

 むしろ、平時における技術の発展は、戦時のそれよりも穏当で、健全で、成長可能性に満ちているといって良い。差し迫った状況では、費やされる知能も資金も時間も、ある一局面に対してのみ、すなわち戦闘に関するもののみに集中される。だがそれは人間で例えるならば、腕の筋肉や大胸筋のみが鍛えられているようなものであり、肉体全体はいびつな形となってしまうのと同じである。

 

 かつてのハイラル王国は、この単純な事実を見落としていた。あまりにも強大な自動戦闘機械を目の当たりにし、その膨大な戦果に圧倒されてしまった時の支配者たちは、古代シーカー族のカラクリ技術を却って「あまりに卑小なものとして」捉えてしまった。

 

 戦争によって兵器開発技術は進歩したが、それは喫緊(きっきん)の課題に対応するべく産み出された、いわば「鬼っ子」のようなものだった。本来ならば、より人々の生活を豊かに、便利にするためのカラクリ技術は、平和な時代を迎えてますます発展することは間違いなかった。しかし、ハイラル王国はこの鬼っ子を恐れ過ぎてしまった。

 

 その結果が、古代シーカー族の迫害と、カラクリ技術の放棄であった。技術発展の道は閉ざされた。人々はその後一万年の長きに渡って、ほぼ同じ形態の生活を続けざるを得なくなった。

 

 この歴史的事実を指して、歴史家の中には以下のように論説を垂れる者もいる。すなわち「ハイリア人は他種族と比較して保守的である。新技術に対してあまりに鈍感で、さらに言うなら、軽蔑する傾向すらある」

 

 この言葉の正当性を裏付けるかのようないくつかの発言が、百年前の大厄災当時の軍関係者たちによってなされている。ある騎士は以下のように日記に書いている。

 

「……太古の遺物など、何ほどの事やあらん! 言い伝えは言い伝えに過ぎぬ! 我らが信ずるのは弓馬と剣の腕、そして王国への忠誠心だけである。カラクリ技術など、戦場においていかなる役に立つものか? あのシーカー族とかいう影深き一族の手慰みなどに、我ら騎士の(はがね)の肉体と鍛錬とが、遅れを取るわけはない!」

 

 また、当時のハイラル王国軍参謀本部次長は手記において以下のように述べている。

 

「……今日、三体目の神獣が発掘された。それはなんとも異様で、そして巨大であった。確かに復活しつつある厄災に対して、神獣は有効に働くかもしれない。だが、シーカー族の技術者によれば、この神獣を一日稼働させるのに必要な費用(ルピー)は、歩兵一個連隊が一週間に消費するそれにほぼ匹敵するという。それならば王国は、神獣など使わずに、歩兵を増やすべきではないのか? 私だけではない、参謀本部においても神獣は『シーカー族のカラクリオモチャ』と呼ばれている。カラクリには忠誠心がない。それに、熱く(たぎ)る名誉心もない。……我が軍は決してカラクリ共に遅れを取るまい。国王陛下と姫殿下がシーカー族の甘い言葉を聞き入れずに、迷妄から覚めて下さることを祈るばかりだ……」

 

 このように、旧来の軍事体系と技術に属する軍人たちは、概して新技術というものに否定的な態度であった。

 

 それでは、一般人たちはどうだったのか。どうやら彼らはそれを珍しがり面白がりはしたが、進んで取り入れようとはしなかったらしい。「シーカー族に任せておけば良いだろう」というような言葉が、当時の城下町の住人の日記には散見される。

 

 だが、ここで心に留めておかねばならないことは、ハイリア人たちが「新技術」に対しては保守的な態度を取っていたとしても、やや矛盾するようだが、「技術そのもの」に対しては非常に真摯に取り組んでいたということである。農耕、灌漑(かんがい)、採掘、造船、建築、都市設計などに関する技術は、百年前の段階で非常に高度な水準にまで到達していた。

 

 では、剣の技術はどうであったのか。他の技術と同様に、ハイリア人が最も誇りとし最も身につけたいと渇望した技術である「剣術」もまた、長き時に渡って多種多様な進歩を遂げていた。

 

 ハイリア人は、伝説に語られる勇者のその鮮やかな戦いぶりに、常に羨望の眼差しを向けていた。「剣を持つ者は勇者のごとく、弓を持つ者は勇者のごとく、馬を駆る者は勇者のごとくあらねばならない」と彼らは信じていた。

 

 ハイラル王国における剣術は、戦時ではなく、逆に平時にあって長足の進歩を遂げた好例だろう。

 

 かつてはどんな小さな村にも必ず礼拝堂と剣術の道場が存在した。各地には独自の剣術の流派があり、無数の剣術自慢たちが日々鍛錬を重ねていた。剣術家たちは時には山奥に分け入って魔物と一対一の勝負をし、時には他の道場へ出向いて他流試合をし、時には闘技場へ足を向けて、王国一の剣術家としての名声を得ようと躍起になった。

 

 平和な時代であればこそ、彼らは広大なハイラルを自由に障害なく修行遍歴(へんれき)することが可能であった。また、平和な時代であればこそ、彼らは純粋に剣という技術を醸成する時間的・資金的余裕を確保することができた。

 

 貴族たちは有名な剣士を抱えることを一種のステータスとしていた。王国も、直属軍に登用するなどして在野の剣士たちの野望を叶えようとした。「この剣士はまさに勇者の再来である」という言葉は、剣術家にとって最大の名誉であった。

 

 一つのエピソードを紹介しよう。ハイリア人たちが(たの)みとし、文化の精髄とまで称揚していたこの剣術が、得体の知れない闖入者(ちんにゅうしゃ)によって、なんとも無惨にも打ち破られたという話が残されている。

 

 それは、城下町の道場で起こった出来事だった。

 

 その道場は、ハイラル王国一の伝統と、規模と、門下生の数を誇っていた。その道場は闘技場での優勝者を幾人も輩出していた。道場主は代々、王国軍の剣術指南役として登用されていた。

 

 ある日、道場の門を叩くものがいた。応対に出た門下生は、その者の姿を見て仰天した。

 

 その者は、異様な風体をしていた。背はゴロン族のように高く、筋肉はゲルド族よりも分厚かった。その腕は膝の下まで優に届き、脚はガンバリバッタのように細長かった。その全身には、びっしりと複雑な紋様の刺青が施されていた。

 

 なにより目を惹いたのが、その者が顔につけている仮面だった。仮面は茶色だった。裂けた口と怒った目が彫刻されていた。髪を模した三つの飾りには毒々しい色彩が施されていた。

 

 その者は、奇妙にくぐもった声で言った。

 

「道場主に、教えを賜りたい」

 

 その言葉には、どこかフィローネの密林地方特有の訛りが感じられた。

 

 あまりにも異質な雰囲気に怯えつつ、門下生は尋ねた。

 

「して、貴殿の御流派は?」

 

 その者は答えて言った。

 

「我は太古より連綿と受け継がれし密林仮面剣法『オド・ルワ』、その正統後継者なり」

 

 老齢の道場主は日頃から、「もし三日後に月が落ちてきてハイラルが滅びるという事態になっても、何も案ずることはない。わしが真っ二つに叩き斬ってみせるわい!」と豪語していた。しかし彼は、密林仮面剣法『オド・ルワ』の後継者を名乗るこの者の異様な風体と、その満身から放たれる異常な迫力に怖れをなした。彼は三人の代役を立てることにした。いずれも王国剣術指南役に(あずか)る腕利きであった。

 

 だが、代役たちは次々と倒された。その道場破りは、「イヤンホィッ!」とか「アアンホィッ!」とかいう、耳障りで奇怪な叫び声を上げて長大な剣を振るった。道場破りは踊るようにして、立て続けに代役達を打ちのめしてしまった。

 

 このままでは道場の沽券(こけん)に関わると、最後には門下生全員が一斉に飛び掛かった。だが、道場破りは身体を軸にして大剣をグルグルと回転させると、ものの数秒で彼らを全滅させてしまった。

 

 これを見た道場主は、掛け軸の裏に隠された秘密の小部屋に逃げ込んだ。彼は頭を抱えてブルブルと身を震わせ、「わしには無理じゃあ、無理なんじゃあ!!」と泣き叫んだ。

 

 道場破りはその姿を見てひとしきり哄笑(こうしょう)したあと、道場が一番の宝物としていた、王室から下賜された「王家の大剣」を一刀のもとに両断して何処(いずこ)へともなく去っていった。

 

 その後も、奇妙な噂がハイラル全土を駆け巡った。仮面の怪人が各地の道場を荒らしまわり、腕利きたちを倒し、そして必ず道場伝来の業物(わざもの)を破壊して去っていくという噂だった。

 

 しかし、何の理由によるものか、ある日突然、その怪人の噂はぷっつりと途絶えてしまった。

 

 ハイリア人は、自分たちの剣技がいまだに発展途上にあることを思い知らされた。以後、各道場はますます他流試合に励むようになり、ますます剣術は進歩を重ねた。

 

 だが、その剣術の歴史も百年ほど前に一人の若き金髪碧眼の天才剣士が出現したことによって、終焉を迎えることになった。

 

 

☆☆☆

 

 

 殺気に満ちたアラフラ平原に、一陣の風が吹き抜けた。草原が潮騒のような音を立てた。疎林の木々がざわめきを発した。

 

 空がだんだんと白んできていた。どうやら夜明けが近いようだった。

 

 フィローネ支部所属のイーガ団員、密林仮面剣法「オド・ルワ」正統後継者モモンジは、先ほど一撃で斬り捨てた黒ボコブリンの死体へ一瞬、目をやった。胴を水平に真っ二つにされた魔物は、離れ離れになった上半身と下半身を別々に動かしてしばらくもがいていた。だが、それらはそのうち動きをやめ、黒ずんで風化していった。

 

 モモンジは、内心独り言ちた。よし、剣の冴えは絶好調! ヒコロク先輩に貰った焼肉のおかげだ! 彼女はまた、思った。それに、テッポ殿が見ている……ここで私が頑張るところをお見せして、お褒めのお言葉を貰うんだ!

 

 彼女は長く繊細な造りをした大太刀(おおたち)「風斬り刀」を脇構えにすると、遠くから駆け寄ってくる新手の騎馬ボコブリンに対して、高らかに名乗りを上げた。

 

「さぁ、魔物共! 密林仮面剣法『オド・ルワ』の正統継承者、モモンジが相手をつかまつるわ!」

 

 駆け寄って来たのは、騎乗した青色のボコブリン二匹だった。魔物は前後に組んでまっしぐらに進んできた。先頭の一匹は黒の単色の馬に跨っていて、トゲボコ槍を手にしていた。

 

 テッポが励ますように、幼くも鋭い声をモモンジにかけてきた。

 

「モモンジ、気を付けて!」

 

 モモンジは、力強く答えた。

 

「ご安心ください、テッポ殿! モモンジの手並みをそこから見ていて下さい!」

 

 テッポは頷くと、言った。

 

「分かったわ、モモンジ! 思う存分戦って! 私は援護に徹するから!」

 

 ボコブリンはあっという間にモモンジの間合いに侵入してきた。魔物は槍を振り回し、よだれを飛ばして、醜悪な叫び声を上げていた。

 

 長い槍が、モモンジの右側頭部へ向かって唸り声を上げて旋回した。魔物は叫んだ。

 

「ぶぎぃいいっ!」

 

 モモンジは声を発した。

 

「遅い!」

 

 彼女は軽く首を傾げて槍を回避した。そして、彼女はそのまま斜め前方へと跳躍した。彼女は通り抜けざまに魔物へ鋭い一閃を放った。

 

 青ボコブリンの首は、次の瞬間()ね飛んでいた。何が起こったのか分からないというような表情を、空中の首は浮かべていた。

 

 だが、モモンジにその死を見届けている(いとま)はなかった。この一瞬の攻防の間に、先ほどの魔物の後ろについていた別の一匹がモモンジの後方に回り込んでいた。魔物は弓を手にし矢をつがえ、猛然としてまだら色の馬を駆けさせた。

 

 魔物は必中の確信を得たのか、モモンジの背中に狙いを合わせると、必殺の一矢を放った。

 

 だが、モモンジは叫んだ。

 

「見えてるのよ!」

 

 モモンジはあたかも後ろにも目がついているかのように、正確に飛来する矢を認識していた。彼女は振り向きざまに刀を払うと、それを弾き飛ばした。

 

 魔物は、一瞬驚きに打たれたようだった。この敵は手ごわいと見るや、魔物はすぐに馬首を返した。今度は、魔物は彼女の周囲をぐるぐると回り始め、また弓を引き絞った。しっかりと風斬り刀の射程外になるように、魔物は距離を保っていた。

 

 これは、騎馬ボコブリンの常套戦術であった。この戦術は、逃げ回るイノシシやシカを集団で追い回し捕殺するという狩りの技術から派生していた。騎馬を得意とする魔物たちは、みなこの戦術を心得ていた。敵が剣を振るってもそれは届かない。敵が弓を引こうと足を止めるならば、それを狙い撃つことができる。単純だが効果的な戦術だった。

 

 しかし、モモンジは動じなかった。彼女は刀を上段に構えると、彼女の周囲を駆けまわる魔物に向かって、常に正面を見せ続けた。涙目の逆さ紋様が刻まれた仮面の下で、彼女は呼吸を整えて、精神を集中させていた。

 

 ついに、魔物の弓から矢が放たれた。皮鎧(レザー・アーマー)ならば容易に貫通する威力を持つそれを、モモンジは刀を振り下ろすことで簡単に叩き落した。

 

 そして、下ろされるのと同時に、風斬り刀から目に見えない(やいば)が飛び出した。神速の如き勢いで、その刃は敵対者へ向かって飛んでいった。

 

 これこそ、イーガ団において特に剣術に優れる者のみが放つことができる「真空刃(しんくうば)」であった。それは紛れもない大技であった。

 

 真空刃はあやまたず、魔物の弓手を斬り落とした。

 

「ぶぎぃいいっ!」

 

 激痛におめき叫んで、青ボコブリンは脆くも落馬した。そこに、小さな黒い影が駆け寄った。それはテッポだった。テッポが首刈り刀を手にして、腕を失って地面でじたばたと暴れる魔物に向かい、勢いをつけて跳躍していた。テッポは叫んだ。

 

「トドメよ!」

 

 肉を(つらぬ)き刺し通す音と、首刈り刀の繊細な(やいば)が骨を斬り折る鈍い音がした。次の瞬間、青ボコブリンの首は無念の色を浮かべて地面を転がった。

 

 鮮やかな手並みを見せられて、モモンジは感嘆の念を思わず言葉にしてこぼした。

 

「おおっ! テッポ殿、お見事です!」

 

 モモンジからの称賛の言葉を聞いても、テッポは動きを止めなかった。彼女はそのまま前転して身を屈め、モモンジへ緊迫感に満ちた声をかけた。

 

「まだよ! モモンジ、あれを見て! 前方より黒ボコブリンが三騎、接近してくる!」

 

 その言葉を聞き終えるのを待つまでもなく、モモンジも新たなる敵を認識した。内心、彼女は毒づいた。まったく、アラフラ平原の魔物たちは際限がないな!

 

 しかもその新手は、今までとは少し違った様子を見せていた。三騎は三角形の陣形を組んでいた。その手綱捌きには迷いがなく、各々の間隔はまったく乱れることがなかった。しかも、一般的な騎馬ボコブリンが裸馬に跨っているのに対して、新手の魔物たちは立派な(くら)(あぶみ)といった馬具の整った馬に乗っていた。おそらく、馬は馬宿から略奪されたものであった。なんだか、向こうだけズルいなぁ。モモンジはそう思った。

 

 テッポは警戒感を露わにして、鋭い声でモモンジに注意を促した。

 

「モモンジ、奴ら、今までとはちょっと違うみたい! 注意して! 私も援護する!」

 

 確かに、これは強敵だ! モモンジは気を引き締めた。彼女は(つか)を握っている手の、その小指に力を込めた。

 

 でも、これはチャンスかも? モモンジは心のどこかでそう思ってもいた。いかにも強敵っぽいあいつらを首尾よく、カッコよく倒したら、テッポ殿の私に対する評価は「ゾーラの滝登り」のように上がるのでは? その評価はテッポ殿のお父上である幹部のハッパ殿のお耳にも伝わって、そして、ゆくゆくは、全イーガ団が流派「オド・ルワ」を模範とするようになるのでは……?

 

 埒もないことを考えるモモンジを余所(よそ)に、ぐんぐんと速度を上げて三匹の魔物たちは殺到してきた。魔物たちは、テッポには目もくれていなかった。モモンジの持つ風斬り刀の輝きが、彼らの目を惹いているようだった。あるいは、彼女の桃色の(まげ)も目立っていたのかもしれない。

 

 いけない、変なことを考えちゃった! モモンジは再度気を引き締めた。今は、この強そうな魔物たちを倒すべき時だ! そうだ、この程度の敵ならば何とかなる! 彼女は叫んだ。

 

「行くわ!」

 

 モモンジに、敵を迎え撃つ考えはなかった。彼女は先手必勝とばかりに敵に向かって飛び出した。彼女は刀を肩に担ぎ、地を這うようにして、マックストカゲもかくやと言わんばかりの速度で地面を疾駆した。「策や知恵より気合と根性」「迷ったならば攻勢に出よ」「思考は後で、身体を先に」 精神に染み付いた流派『オド・ルワ』の教えの数々が、些か軽率ともいえる突進行動へと彼女を促した。

 

 魔物の叫びが彼女の耳に聞こえた。

 

「ぶぎぃいいっ!」

 

 先頭の黒ボコブリンが、鈍いきらめきを放つ騎士の剣を振り回していた。魔物の掛け声には気迫がこもっていた。敵を前にして興奮しているのかな? モモンジはそう思った。だが、その半秒後に彼女は本当の意味を悟った。

 

 魔物がさらに叫んだ。

 

「ぶぎっ! ぶぎぎぃっ!」

 

 その声を聞いた後方の二匹が、拍車をかけて一気に速度を上げ、前方へぐんと進み出た。二匹の魔物はモモンジの左右へと包み込むように回り込むと、同時に矢をつがえて弓を引き絞った。

 

 それを見たモモンジは、その口から内心の動揺を漏らした。

 

「あっ、これはマズいかも……」

 

 つまり、この魔物の三騎は囮戦術を使ったのであった。最も戦意に溢れる先頭の黒ボコブリンが体当たりの勢いで敵と激突し、敵がそれに対処するスキを衝いて、左右の騎射に優れるボコブリンが敵を射殺する。魔物にしては手の込んだ作戦だった。

 

 魔物たちは、自らの三騎を「黒い三連星」と自称していた。彼らがこの戦法で殺し切れなかった敵はこれまで存在しなかった。

 

 テッポが甲高い声で叫んだ。

 

「モモンジ!」

 

 モモンジにはその声がどこか遠く感じられた。絶体絶命であった。あと数秒も経てば、モモンジは正面の騎馬の(ひづめ)によって踏み殺されるか、あるいは剣によって首筋を断たれるか、それとも左右からの矢に両脇腹を射抜かれるかだった。

 

 しかし、この程度の敵に(おく)れを取るようなモモンジではなかった。彼女は、一万年以上の長きにわたって密林の奥深くで連綿と受け継がれてきた、密林仮面剣法「オド・ルワ」の正統なる後継者であった。戦闘時に特有の脳髄すら沸騰しそうなほどの興奮と、全身を燃え上がらせるような膨大な熱量を覚えながらも、彼女はこの状況における最適解を自然と導き出すことができた。

 

 モモンジは、それまで肩に担いでいた風斬り刀を、今度は右手だけでしっかりと握った。彼女は一切の予備動作なしに、裂帛(れっぱく)の気合いの叫びと共にそれを振り回し始めた。

 

「でやぁあああっ!」

 

 彼女の体を軸として、鋼鉄リザルシールドをも難なく切り裂く長大な風斬り刀が回転を始めた。彼女は一つめの回転を終え、二つめの回転を終えた。その間には、瞬き一回ほどの時しか経っていなかった。三つめの回転の時に、風斬り刀の(やいば)は、正面から驀進(ばくしん)してくる魔物に到達した。

 

 二匹の蛇が絡まり合ったような造りの、冷厳(れいげん)な輝きを放つ(やいば)は、まず馬の首のぶ厚い皮膚を切り裂き、次にしなやかな筋肉を切り裂き、その次には(かし)の木よりも固い骨を切り裂いて、最後には血管と神経を切断した。馬は悲鳴すら上げずに絶命した。

 

 刃は、魔物にも届いた。魔物が妙な声を上げた。

 

「ぶぎっ!? ぶこへっ……」

 

 刃は馬の首だけでなく、魔物の首をも、あたかもヒンヤリメロンをサクリと叩き切るように()ね飛ばした。

 

 ほぼ同時に、馬の長い首とボコブリンの短い首が宙を舞った。生命を失った馬が崩れ落ちかけた。だらりと下がった首の断面から、血液が奔流となって噴水のように噴き上がった。

 

 それがモモンジの仮面に盛大に降りかかった。彼女の視界はゼロになってしまった。狼狽して彼女は声を上げた。

 

「わわわっ!?」

 

 首と騎乗者を失った馬の肉体は勢いのままになおも動くことを止めなかった。馬は惰性で進み続けた。モモンジは目が見えない中、それを間一髪のところで避けた。直後に、左右からの矢が飛来した。それすらモモンジは、視界を失ったまま風斬り刀を回転させ続けて叩き落とした。

 

 追い詰められたモモンジが放ったこの大技こそ、流派「オド・ルワ」の奥義、「大回転斬り」であった。昔、遥か昔、城下町の道場で多数の門弟に囲まれた際、たった一人だけの継承者はこの大技を用いて、鎧袖一触とばかりに敵を一瞬で葬り去った。大回転斬りは流派の精髄の一つであった。

 

 この技は、ただの剣ならば発動することができなかった。用いるべき剣は身に余るほどの大剣で、かつ斬れ味が鋭く、そして重みのあるものでなければならなかった。そういう剣でなければ、大回転斬りは威力を発揮しなかった。鍛え抜かれた筋肉が生み出す遠心力と、刀身そのものが持つ性能を合わせることによって、強大な敵対者を正面から粉砕する。それが大回転斬りが奥義とされるゆえんである。

 

 テッポは一瞬鳶色の大きな瞳を輝かせて、モモンジが繰り広げるその光景に見とれていた。彼女は叫んでいた。

 

「モモンジ、すごいわ!」

 

 だが、その次には彼女はまた表情を引き締めた。まだ弓矢を持つ二匹の魔物は健在だ!

 

 大回転斬りは、奥義であるがゆえにやはり消耗を強いるものだった。技を終えた後、モモンジは地面に膝をついて荒い息を吐いていた。そのモモンジに、テッポは叫んだ。

 

「モモンジ! まだ来るわ! はやく動いて! 囲まれる!」

 

 仲間の一人がやられても、敵は(いささ)かも戦意を阻喪(そそう)していなかった。むしろ、魔物たちはその目を憎悪で溶岩のように赤くし、鼻息をますます荒くしていた。魔物たちは明らかに激昂していた。

 

 二匹の魔物はモモンジを取り囲み、片方は時計回りに、もう片方は反時計回りに馬を走らせて、彼女を弓で狙い始めた。

 

 対してモモンジは、その場から動かなかった。いや、彼女は動けなかった。無我夢中で発動した大回転斬り、そのせいでスタミナ(がんばり)が尽きている。しまったなぁ。彼女はそう思った。正統後継者とはいえど、まだモモンジは若かった。その技は完成されていたが、彼女の肉体はいまだに発展途上にあった。

 

 それに加えて、技を終えたその時になって、彼女は自分の視界がゼロになっていることに改めて気が付いた。彼女は混乱した。真っ赤で、何も見えない。それに、ひどく生臭い。鉄の味と匂いがする。すごく息苦しい。テッポ殿の叫び声も聞こえる。周囲からは馬がドドドと駆け回る騒音もする。

 

 あれ、なんだっけ? 何をしてたんだっけ? 彼女は混乱し続けた。そうだ、敵が突っ込んできて、大回転斬りを喰らわせて……そうだ、馬の首ごと敵を斬った。そのあとは、なぜか目が見えなくなって……

 

 混乱が頂点に達したモモンジは、叫んだ。

 

「見えない、見えない! 何も見えない! まっかっかで何も見えないわ!」

 

 一度に大量の情報が脳内神経になだれ込み、それに興奮が加わったことで、彼女の思考は活動を停止してしまった。ヒコロクが言うところの状況判断力の欠如とは、つまりこれだった。

 

 それでも身を助けるのが技術であり剣術であった。己の魂に染みつき、一部と化したある種の習慣(ハビトゥス)である技術、それが自身の容れ物である肉体を守るべく、自動的に運動を開始した。

 

 魔物が叫んだ。

 

「ぶぎゃああっ!」

 

 二匹のボコブリンは、同時に矢を放った。その刹那、モモンジは力を振り絞って、あたかも古代のバネのように空中に飛び上がった。彼女は身を(ひね)り、回転し、命中寸前だった二本の矢を紙一重で回避した。

 

 そして、その跳躍が頂点に達した時、彼女は気配を感じる方向へ向かって、刀を振り下ろした。空を斬り裂いて、不可視の刃が時計回りに走っていたボコブリンへ突進した。

 

 馬の悲鳴が響いた。真空刃は騎乗者には当たらず、馬の腹を深く切り裂いたのだった。馬は棒立ちになって、背中の主を振り落とした。ボコブリンは弓を放り出して落馬した。

 

 テッポはそれを見逃さなかった。彼女はすかさず三発の小型爆弾を爆弾袋から取り出した。彼女は導火線に点火すると、落ちた衝撃と痛みに耐えかねて地面でもがく魔物に向かって、冷静に狙いをつけて放り投げた。

 

 テッポは短く叫んだ。

 

「食らえ!」

 

 閃光と、爆音と、爆風が起こった。爆弾の直撃を受けた黒ボコブリンは即死した。これで残るのは一匹だ! テッポはもう一方の敵を見た。

 

 反時計回りをしていた黒ボコブリンは、さすがに不利であることを悟ったようだった。魔物は馬にひとつ鞭を当てると、全速力で逃げ出し始めた。テッポはそれを追おうとした。しかし距離もあれば速度の差もあった。追いつけない! でもここで逃がすわけにもいかない! どうしよう!? テッポは(ほぞ)を噛んだ。

 

 一方モモンジは、まだ混乱の渦中にあった。さきほどの跳躍も回避も真空刃も、彼女の意志によってなされたものではなかった。血の滲むような日々の練磨、幼い頃から積み重ねてきた鍛錬の数々、優しくも厳しい、師であった父からの教え……そういったものが彼女を突き動かしたに過ぎなかった。

 

 ある意味で、武芸者にとって最も理想的な境地、つまり無念無想の境地、それに近い状態にモモンジはあった。

 

 それゆえ、その次の行動も、モモンジが考えて起こしたものではなかった。彼女は真っ赤になっていて見えない視界をぐるりと回転させると、聴覚が教え導く方向へ向かって、半ば無意識に、再度、真空刃を放った。

 

 魔物が声を上げた。

 

「ぶごっ!?」

 

 真空の刃は、逃走する騎馬ボコブリンの背中に命中した。もんどりうって魔物は落馬した。しかし、その傷は浅かった。魔物には受け身を取る余裕があった。

 

 即座にボコブリンは立ち上がった。魔物は思った。今度はもう、逃げるような真似はしない、仲間の仇を討ってやるぞ! 怖れを敵愾心が凌駕した。魔物は弓を引き絞ると、刀を正眼に構えたまま動かないモモンジに向かって、殺意に満ちた目で以て正確に狙いをつけた。

 

 テッポは悲鳴に近い叫びを上げた。

 

「モモンジ、伏せて!」

 

 その時、びゅんっと音を立ててどこかから飛来した二本の矢が、黒ボコブリンの後頭部と頸椎(けいつい)に突き刺さった。それとほぼ同時に、魔物の弓から最後の力を振り絞った一矢が放たれていた。

 

 魔物の矢は、モモンジの心臓目掛けて突進した。それを彼女は、軽く刀を振るうことで払った。これも、一種の無念無想がなした技であった。

 

 だが、払われた矢はまだ勢いを失っていなかった。どういう神々の計らいによるものか、矢は払われたことで狙いが逸れて上方へ向きを変えた。矢はモモンジの仮面のひたい部分にぶち当たった。矢は貫通しなかった。鈍い音を立てて、矢は虚空へと弾き飛ばされていった。

 

 仮面が装甲の役目を果たしたおかげで、モモンジは僅かな傷すら負わなかった。だが、その命中の衝撃は彼女の脳を大きく揺さぶった。

 

 モモンジの口から声が漏れた。

 

「あうっ!?」

 

 突然の脳震盪(のうしんとう)、過度な興奮、緊張、大技を連発したことによる気力の消耗……それらが複合したために、モモンジの意識は闇の世界へと落ちていってしまった。

 

 自分の最後の足掻きが不成功に終わったのを見ると、魔物は力なく大地に崩れ落ちた。魔物は死んで、その死体は次第に黒ずんで風化していった。

 

 死んだ魔物の背後に、誰かがいた。その誰かはツルギバナナのような金髪のポニーテールに、氷のように怜悧(れいり)そうな青い双眼を有していた。誰かは忍びスーツを身に纏っていた。先鋭なシルエットだった。

 

 テッポが、半ば抗議するような声を上げた。

 

「バナーヌ、遅いわよ!」

 

 その誰かであるバナーヌは、いつもとなんら変わらない涼やかな声で答えた。

 

「すまん、遅れた」

 

 そんな二人のやり取りを余所(よそ)に、モモンジはただその場に佇立(ちょりつ)するだけだった。なかなか彼女の意識は戻ってこないようだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 テッポとモモンジの二人が戦っている最中、バナーヌは何をしていたのか。

 

 当然、彼女は無為のままに、ぼんやりと様子を見守っていたわけではなかった。彼女は彼女で、別の敵と戦っていた。

 

 バナーヌはテッポに突進する黒ボコブリンに矢を浴びせた後、すぐに助けようと動き始めた。しかし、臙脂色(えんじいろ)の忍びスーツを身に纏い、白い仮面を被り、風斬り刀を携えた人物が、魔物に飛び掛かって一刀のもとに仕留めたのを見ると、彼女はテッポへ駆け寄るのをやめた。

 

 あれはテッポが話していた、モモンジとかいう女団員だろう。彼女に任せておけば、テッポはきっと安全だ。彼女はそう思った。

 

 それにいつの間にか、彼女は周りを十匹ほどの徒歩のボコブリンに囲まれていた。

 

 アラフラ平原は馬が豊富であるとはいえ、魔物のすべてがそれを乗りこなせるわけではなかった。馬に乗れない不器用な魔物は、徒歩(かち)立ちとなって戦いに参加するしかなかった。ちょうど百年前のハイラル王国軍の騎兵連隊が、五百騎の騎士と千五百人の歩兵で構成されていたように、アラフラ平原の魔物たちも騎馬ボコブリンと徒歩(かち)ボコブリンとに分かれていた。

 

 バナーヌは、ボコこん棒やボコ槍、ボコ弓などで武装した赤や青の徒歩の魔物たちを、時には首刈り刀を振るい、時には疾風のブーメランを使って、一匹ずつ確実に仕留めていった。

 

 その様は、見る人が見れば一幕の上質な演劇のように思われたであろう。それほどまでに、バナーヌの戦闘技術は洗練されていた。

 

 それでも、彼女がすべての魔物を仕留めるのには時間がかかった。彼女が怪我を恐れずに強攻すればもっと時間を短縮できただろうが、彼女はこのようなつまらない敵に対して余計な傷を負うわけにはいかないと考えていた。

 

 バナーヌはちらりと向こうを見やった。テッポたちに、手強そうな黒の騎馬ボコブリン三騎が突っ込んで来ていた。彼女は、早くテッポたちの援護に向かいたいと思った。だが、徒歩(かち)ボコブリンたちは妙に戦意が旺盛だった。魔物たちは死ぬまで彼女に立ち向かってきた。きっちり殺し切らないといけない敵というのは、なまじ技量のある敵より厄介なものである。彼女は少しばかり手を焼いた。

 

 ようやく最後に残った青ボコブリンの首を()ね飛ばしてから、バナーヌはテッポたちのほうを見た。その時、棒立ちになっているモモンジに向かって、黒ボコブリンが弓を引いているのが見えた。

 

 バナーヌは、慌てず二連弓に矢をつがえ、よく引いてから放った。あっさりと矢は魔物に命中した。

 

 今、彼女の目の前では、テッポがモモンジの腰をゆすぶっていた。身長が足りないテッポは、モモンジの肩にまで手が届かないのだった。テッポはモモンジに声をかけていた。

 

「モモンジ、モモンジ、しっかりして! ねえ、意識が飛んでるの? もう敵はいないわ! はやくこっちの世界に戻ってらっしゃい!」

 

 だが、モモンジは沈黙したままだった。バナーヌは小さく声を漏らした。

 

「ふむ……」

 

 改めてバナーヌは、フィローネ支部随一の剣術使いと言われている女団員、モモンジを見つめた。

 

 カルサー谷の本部では、風斬り刀を扱う者はみな筋骨隆々で肩幅の広い、堂々たる体躯を誇る者が多い。そういう体格でなければ長大で重い風斬り刀を振るうことができないからだ。それに対してこの女団員は、女性にしてはやや上背(うわぜい)があるほうかもしれないが、やはり小柄であった。

 

 だが、その体に搭載された筋肉は、忍びスーツ越しに分かるほどに力強く隆起していた。その忍びスーツは、南国仕様の露出度の高いものではなく、カルサー谷と同様の普通のものであった。

 

 そして、その胸も隆起していた。やわらかそうに胸は隆起していた。とてもふっくらとしていた。オルディンダチョウの卵とまでは言わないが、カエンバトのような鳩胸(はとむね)であった。

 

 バナーヌは、内心呆れた。この様子ではこのモモンジ、普通の下着を着用しているようだ。イーガ団員は外見から性別を判断されてはならないというのに。彼女はそう思った。バナーヌなどは、そのために胸にさらしをきつく巻いて誤魔化しているというのに、なぜこのモモンジは胸が盛り上がるままに任せているのだろうか。

 

 しかしバナーヌ自身、ここ数日の間に自分の性別を一般人に知られることが多々あった。そのことを思って、彼女はそれ以上の追及を打ち切った。

 

 バナーヌはモモンジの仮面を見た。それは、馬の返り血で真っ赤に染まっていた。ひたいの部分には(みぞ)のような矢の命中(こん)があった。それにしても、随分と派手に返り血を浴びたものだ。バナーヌは、傍らの地面を見た。そこには、首を失った馬の死骸が横たわっていた。モモンジが殺した馬だった。太い馬の首を刀で切断するとは、テッポの話の通り、このモモンジの剣技は並々ならぬものらしい。バナーヌは感心した。

 

 返り血に染まった仮面からさらに推測できることは、どうやらモモンジが視界ゼロの状況で戦ったのであろうということだった。これだけでも尋常なことではなかった。

 

 以上の情報を総合してバナーヌはモモンジを、少し規律に緩いところがあるが、高い戦闘能力を持つ優秀な団員であると判断した。

 

 そんなことを考えているバナーヌをおいて、テッポはなおもモモンジに声をかけ続けていた。

 

「起きて、モモンジ、起きて! ねえ、さっさと起きなさいったら!」

 

 テッポはモモンジをゆすぶっていた。だんだん、バナーヌはじれったくなってきた。さっさと起きないものだろうか。彼女はモモンジに近寄った。彼女は彼女なりのやり方でモモンジを起こすことにした。それに、血まみれのまま微動だにせず、沈黙を保ち続けているというのは、なんだか不気味だった。バナーヌは言った。

 

「私が起こす」

 

 バナーヌはモモンジの仮面を剥ぎ取った。モモンジがふやけた声を出した。

 

「……むにゃ……」

 

 仮面の下から出てきたのは、可憐な少女の寝顔だった。モモンジは安らかな寝息を立てていた。

 

 テッポが呆れたように言った。

 

「ね、寝てたのね……あんな激戦の後に寝るなんて、いったいどういう精神の構造をしてるのかしら……?」

 

 バナーヌも同感だった。これはちょっと、気合いを入れてやらねばなるまい。戦場で寝るなど言語道断だ。

 

 彼女はポーチから一本のバナナを取り出して、モモンジの鼻先へそっと差し出そうとした。こうすれば、イーガ団員ならば必ず飛び起きるはずだ。バナナを前にしたら、イーガ団員は死体になっていても飛び起きる。

 

 テッポが、それを見てバナーヌに釘を刺した。

 

「あっ、バナーヌ! モモンジにバナナはダメよ!」

 

 バナーヌは、ここに来るまでにテッポと交わした会話を思い出した。そうだ、モモンジにバナナは厳禁だった。彼女は考えを変えた。彼女はテッポに言った。

 

「そうだった。ならテッポ、アレをくれ」

 

 一瞬、テッポは考えるようだった。

 

「アレ?……そう、分かったわ!」

 

 了解すると、テッポはポーチから「アレ」を取り出して、小刀で器用に半分に割った。バナーヌはそれを、再度モモンジに差し伸べた。

 

 モモンジの小さな、それでいてすっと筋の通った形の良い鼻が、それの香りに誘われてひくひくと動いた。

 

 その次の瞬間だった。

 

「イヤンホィッ!?」

 

 モモンジは、何とも形容しかねる奇声を上げてそのまま後ろへとひっくり返った。

 

 テッポはいかにも残念そうな声を漏らした。

 

「えー……なによ、その反応は……たぐいまれなほどに良い香りをしてるでしょ、マックスドリアンはさぁ……」




Wikipedia、「ドリアン」の記事より
「……可食部は甘い香りとともに、玉ねぎの腐敗臭または都市ガスのような強烈な匂いを放つ。ドリアンの香り成分として分かっているだけでも、エステル、アルコール、アルデヒドに属する26種類の揮発成分、および8種類の硫黄化合物が存在する」
 玉ねぎの腐敗臭とは……これは強烈でしょう。さらに記事によると、ドリアンの本場のタイでも近年は「Mon Thong(モントーン)というにおいを抑えた改良品種が作られ流通している」のだそうです。日本人が臭わない納豆を作るのと一緒でしょう。
 ブレワイのマックスドリアンのにおいが現実のドリアンと同じなのか、それとも違うのかは分かりませんが、この作品では「玉ねぎの腐敗臭」ということにしておきます。
 今回はようやくモモンジの活躍をお見せすることができました。スピーディかつ緊迫した戦闘描写はやはり難しく、神経を使うものですね。

※加筆修正しました。(2023/05/11/木)


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第三十八話 外すこと叶わぬ仮面

 物質的充足、快適な生活環境の享受、使い切れぬほどに潤沢な富と財……これらのことは文明社会の成熟度を示す尺度であり、同時に、社会の上層階級に属する人々の人生と生活の必須の構成要素である。

 

 王族、貴族、高級官僚、富裕商人、投資家……彼ら上層階級は「持てる者」である。しかも、圧倒的なまでに「持てる者」である。下層階級は生産性の低い労働で汗水垂らして終日動き回り、その見返りとして僅少(きんしょう)な報酬を得て、辛うじて糊口(ここう)をしのぐ。その一方で、上層階級は(ぜい)を凝らした豪邸に住まい、数多くの使用人を(はべ)らせて、立派な四頭立て四輪馬車を乗り回し、暖衣飽食(だんいほうしょく)を貪っている。

 

 下層階級、平民たちは嘆く。「ああ、俺たちにもルピーがあったら! そうすれば毎日極上ケモノ肉の焼肉とマックストリュフの付け合わせのご馳走を食べられるし、こんな擦り切れたボロのハイリアの服を着ることもないし、病気のお母さんを馬車に乗せてやることができるのに……きっと、金持ちには悩みや心配ごとなんてないんだろうなぁ……」

 

 否、否、それは誤解である、と上層階級は言うであろう。我々には我々なりの苦しみ、悲しみ、生き辛さがあるのだ、と。平民共には決して理解できないであろう、ある種の「高貴な悩み」が、我々を日々苦しめているのだと、彼らは言うであろう。

 

 資産家にして、その美文と鋭い現実認識によって名高かった作家モンテニは、その作品『仮面をつけた病人たち』において、その「高貴な悩み」について以下のように述べている。

 

「……神官たちは言う、(いつわ)るなかれ、と。偽りこそは健全なる魂を蝕み、光を(かげ)らせる悪であると。だが、どんな子どもでも心得ているこの格率を破らないことには、我々は宮廷社会や社交界において生存すらできない。己を偽らなければ、居場所はすぐに失われる。我々はまず道徳律と生存欲求との葛藤によって苦しみ、次に道徳律を真正面から破ってしまったという罪の意識に悶え、そしてさらに、これからも道徳律を無視し続けなければならないという現状を認識して、なお悩むのである……」

 

「……(中略)……我々は仮面を被っている。内には癒すこと叶わぬ精神の病を抱え、外には悪臭を放つ皮膚と脂肪を纏っている。我々は『社会的役割』と『社会的人格』によって造形と彩色がなされた仮面を被っている。平民たちが決してつけることのないこの仮面を、我々は内面の腐敗と矮小さを偽り隠すために、何より生存するために、常に着用しなければならない。決して外すこと叶わぬ仮面、肉と霊とに癒着した仮面。それは(こら)えようのない痒みをもたらす……」

 

「そう、我々の『高貴な悩み』とは痛さでも寒さでもなく、実に『痒み』である」

 

 続けてモンテニは、「この人格の偽装とそれによってもたらされる『痒み』という不快は、物質的窮乏以上に精神を(むしば)むものである」と述べている。

 

 モンテニの論説のやや悲観的な現状認識が妥当であるかどうかはさておき、偽装というものが上層階級全般に共通する「生の苦しみ」であったことは、各種の手記や日記、回想録から看取することができる。

 

 アッカレの地方領主の娘として生まれ、長じてからはその美貌で特に王宮に召し出され、女官として一生を送った女性リセは、手記において次のような嘆きを漏らしている。

 

「生まれ故郷のアッカレは貧しかった。自然は豊かだったが、海風は冷たく、土壌は痩せていて、農民たちは細腕を振るって田畑を耕していた。しかしそこには、真心と笑顔があった。人々の真の感情があった。宮廷は違う。ここで私が苦悶と恥辱のうちに学んだことは、いかにして自分をごまかすか、いかにして自分の本当の願いと望みを隠すか、そしていかにして『決して自分ではないが、そうであるように望まれている自分』を演出するか、ということだった。私の仮面は分厚く、重く、息苦しいものだった……」

 

 このように、上層階級にあって偽装と仮面は「忌まわしい必要不可欠事」として認知されていた。

 

 それをある意味で逆手に取った作品がある時代に登場し、一世を風靡したことがあった。

 

 作者不詳のその作品は『アンジュとカーフェイの結婚』という題名を持っていた。そのジャンルは「勇者冒険譚」に分類される。その内容は「異世界に紛れ込んだ勇者が、冒険の最中、様々なお面を駆使して難題を解決し、魔物を討伐し、人々に幸福と安寧をもたらし、巨悪を滅ぼす」というものであった。そのクライマックスでは、その題名のとおり、「引き裂かれた婚約者の二人、アンジュとカーフェイの結婚を勇者が仲立ちする」様子が描かれている。

 

 勇者はお面を被る。しかし、それは己と他者を偽って安全と利益を確保するためではない。勇者は、彼が信じる正義と果たすべき使命のために、「肉体と能力すら変貌させる魔性のお面」を被る。勇者は仮面を被って、無私の精神のもとに冒険を続ける。時には醜悪な「デクナッツ」という半人半植物の種族になり、時にはゴロン族にもゾーラ族にもなり、勇者は誰からも「本当は何者であるか」を知られることなく、一人黙々と戦い続ける。勇者は戦い抜いて、世界に平和をもたらす。

 

 従来、この『アンジュとカーフェイの結婚』が巷間(こうかん)で人気を博した理由について、それを「その完成度の高さや『異世界』という内容の斬新さ」に求める見解が大勢を占めていた。あるいは「恋愛描写の清純さと華麗さ」に理由を求める見解もあった。

 

 しかし、これまで議論してきたように、これらの見解には「お面(仮面)」という言葉・要素がその当時の社会でどのような意味を持ち、どのような扱われ方をしてきたかという、社会史的・文化史的考察をまったく欠いていると指摘できよう。

 

 己を苦しめ、収まりのつかない「痒み」をもたらす仮面を、勇者は自由自在に操っている。読者は、特に上層階級の読者は、それが創作であり現実はそうはいかないということを重々承知しておりながらも、そこに「しあわせのお面の形」を見出したことであろう。創作物の効果は、受け手に精神的浄化(カタルシス)をもたらすことにこそある。

 

 百年前の大厄災に、あの無慈悲な破壊と殺戮に、何らかの善きものを見出そうなどというのは、それだけで身震いのするほどおぞましいものであるが、あえてそれを推し進めて考えるならば、大厄災は上層階級を苦しめ続けていた「偽装」と「仮面」をこの世から根こそぎ消し去ったと言えるかもしれない。それは、少なくとも悪いことではなかっただろう。滅びを迎えつつある天地で、人々は「痒み」を覚えることなく、自由に人と交際し、自由に己をさらけ出すことができている。

 

 だが、否、否、それは誤解である、と横槍を入れる者たちがいるだろう。その者たちは臙脂色(えんじいろ)の忍びスーツを身に纏っている。彼らは暗殺のための凶器を持っている。彼らは闇から闇へと飛び回り、「逆さ涙目の白い仮面」を被っている。

 

 彼らは偽装する。彼等は仮面を被っている。己のために、組織のために、魔王のために、あるいは平和を脅かすために、利益を独占するために、彼らは仮面を被っている。

 

 なにより、ツルギバナナを(むさぼ)り食うために、彼らは仮面を必要としている。

 

 

☆☆☆

 

 

 (きら)めく星々は、次第に空から退場しつつあった。どうやら夜が明けたようであった。しかし、薔薇色をした朝日の輝きは、日の出直後に空へと忍び寄ってきた灰色の厚い雲によって意地悪く阻まれて、下界にまで及んでいなかった。

 

 それでもアラフラ平原は、朝特有のあの平穏に包まれていた。つい先ほどまでそこが魔物の叫喚と馬の悲鳴と、爆音と矢叫(やたけ)びによって満たされ、混沌の坩堝(るつぼ)と化していた場所とは到底思えないほどだった。

 

 早朝に草原を駆け抜ける涼やかな風が、テッポの長く(つや)やかなぬばたまの黒髪を撫でていた。彼女は未だに目を回している僚友のモモンジに、気遣うように話しかけた。

 

「どう、モモンジ? 少しは落ち着いた?」

 

 モモンジは、やや目尻の垂れた大きな目をしばたたかせた。彼女はふらつきながら、存外はっきりした声で答えた。

 

「は、はい、テッポ殿! ちょっとまだ鼻の奥に刺激臭が残ってる感じはしますけど、まあ何とか、意識はだいぶはっきりしてきた感じがします!」

 

 テッポはジロリとモモンジの顔を見やった。彼女は言った。

 

「し、刺激臭って、なんたる言いぐさ……あのね、マックスドリアンはとってもいい香りでしょ?」

 

 モモンジは、しまったというような顔をした。彼女はしどろもどろに答えた。

 

「ああ、あの、はい、そうですよね! あの、あれですよね、マックスドリアンの香りは、一種独特な(おもむき)のある香りですよね!」

 

 そんな二人をバナーヌは何も言わず、ただ静かに佇んで見ていた。

 

 戦闘後、立ったまま眠っていたモモンジの鼻先に、バナーヌは真っ二つに切ったマックスドリアンを差し出した。その「生ものが腐ったような」強烈なにおいを直に嗅がされたモモンジは、奇声を上げた後、またもや意識を失いかけた。だが、今度ばかりは彼女は自力で立ち直ったのだった。

 

 テッポとモモンジは無邪気にお喋りを続けていた。

 

「『一種独特な趣のある香り』ですって……? なんか、含みのある言い方ね。あのね、バナナは言うに及ばず、マックスドリアンは最高の果物なのよ! マックスドリアンは滋養強壮で栄養満点、味も香りも最高級、果物の王様なんだから! もう、なんでみんなしてこんなに、マックスドリアンを嫌がるのかしら……」

 

 モモンジは慌てたように答えた。

 

「べ、別に、私はマックスドリアンが嫌なわけじゃないですよ、テッポ殿! むしろ好き、いや大好きなくらいですよ!」

 

 テッポは顔を輝かせた。

 

「そう!? なーんだ、やっぱりモモンジもマックスドリアンが好きなんじゃない! 良かったわ。そうだ、この任務が終わったら、マックスドリアンパーティをしましょうよ! みんなでマックスドリアンを持ち寄って、料理鍋を囲んで……」

 

 テッポの口が邪悪な催しものについて話すのを聞いて、モモンジは変な声を上げた。

 

「うげっ、マックスドリアンパーティ!? そんなのパーティじゃなくて拷問……あっ、いや……へ、へへ、それは楽しそうですねテッポ殿!……はぁ」

 

 本来ならば、こんなところで会話に興じている場合ではない。バナーヌはそう思った。残敵がいないか確認し、置いて来た「バナナ・ゴーゴー」を呼び戻し、モモンジに状況説明を求め、速やかに次の行動に移らねばならない。

 

 だが、バナーヌはしばらくそのままにしておくことにした。

 

 戦闘とは、それがどんなに実力の劣る敵を相手にするものであっても、心身を著しく消耗させるものである。全力疾走のマラソンを終えた直後は、いきなり立ち止まるのではなく、しばらく歩き続けるのが良いとされている。そのようにして心身の興奮を冷却する必要がある。

 

 先ほどの戦いは、やはり激戦だった。バナーヌはそう思った。テッポにとっては初の対騎馬戦闘であったはずだし、初めて会ったこのモモンジも、その腰に下げた長刀を思う存分振り回して奮戦したであろう。僅かな時間であっても一息入れる必要はある。若い二人にはなおさらだ。 

 

 かまびすしい目の前の二人から視線を外して、バナーヌも思案を続けた。

 

 このアラフラ平原、戦闘前に予想したとおり、魔物が相当な勢力を張っているようだ。徒歩(かち)のボコブリンの数の多さもさることながら、騎馬ボコブリンたちの戦意の高さと戦闘技量は相当なものだった。しかも、今はあちこちで静かに草を食んでいる、騎乗者を失った馬たちも、その中には立派な馬具を装備しているものがある。馬具をつけた馬ということは、それはおそらく馬宿から魔物たちによって略奪された馬だろう。馬宿は無事だろうか? 馬宿に行けば簡単に代替馬が調達できるという話ではないようだ。

 

 どうやら状況は思った以上に厳しいらしい。バナーヌは考えた。ヒコロクとモモンジに合流し、輸送馬車を()くための馬を早々と調達し、遅くとも午前中までに車列に戻るつもりでいた。だが、もし馬宿近辺にまだ魔物が残っているのだとしたら、もう一つ戦闘をこなさないといけないかもしれない。その可能性は非常に高い……

 

 そこまで考えて、バナーヌははたと気づいた。そう、ヒコロクだ。どうして彼はここにいないのだろうか?

 

 バナーヌは視線をテッポとモモンジにやった。彼女が見ていない間に、なぜかテッポはモモンジに馬乗りになっていた。テッポはマックスドリアンを無理やりモモンジの口に押し付けていた。モモンジの大きな胸がテッポの細い身体に圧迫されて、柔らかくその膨らみの形を変えていた。テッポは大きな声を出していた。

 

「ほら、マックスドリアンを食べなさい! さっきの戦闘でお腹が空いたでしょう!? あなたの燃費の悪さは知ってるんだから! それにバナナとは違って、マックスドリアンが食べられないってことはないでしょう!? あなたのためなのよ! ほら、マックスドリアンを食べて!」

 

 モモンジは抵抗した。

 

「い、いえ、テッポ殿! けっこうです! 私、今は全然お腹減ってないですし! むしろ満腹ですし! あーあー! 近い、近いです! やめて、やめてください! 私、今は満腹ですから!」

 

 テッポは憤然として言った。

 

「嘘をおっしゃい! さっき、お腹鳴ってたじゃない! あっ! ほら今もお腹が鳴ったわ! 遠慮しないで食べるのよ! ほら! マックスドリアン! ほら……!」

 

 頃合いだろう。バナーヌは静かに、しかし威を込めて、じゃれ合う二人に声をかけた。

 

「そこまでだ、テッポ、モモンジ。次の行動に移る」

 

 ハッとして、二人はバナーヌに視線を向けた。テッポの顔は興奮して赤みを帯びていた。モモンジは目尻に涙を浮かべていた。二人はそそくさと起き上がると、どことなくバツが悪そうな顔をして、それでも姿勢良く背筋を伸ばした。

 

 そんな照れ隠しに頓着せず、バナーヌはモモンジに向かって話しかけた。

 

「私はバナーヌ。カルサー谷からの援軍」

 

 モモンジは頭を下げた。

 

「はじめまして! 私はフィローネ支部所属のモモンジです!」

 

 モモンジの桃色の(まげ)がふわりと揺れた。下っ端の団員として序列は同格であるはずだが、バナーヌの氷のような美しさを持つ容姿と、その身に纏う雰囲気を見て、モモンジはバナーヌを「敬意を払うべき相手」だと察したようだった。二人の力関係は、ここで確定した。

 

 バナーヌはすぐに言葉を続けた。

 

「詳しい状況が知りたい。ヒコロクはどこ?」

 

 その名前を聞いて、モモンジは「はうっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。彼女はありありと動揺の様子を示した。

 

「しまった、ヒコロク先輩! まだ林の中にいるんだった! 早く戻らないと!」

 

 テッポが訝しげな顔をして首を傾げた。彼女は周囲をきょろきょろと見わたした後に言った。

 

「そういえば、ヒコロクがいないわね。何かあったの?」

 

 その言葉を受けてモモンジは、彼方(かなた)の疎林を指さした。彼女は言った。

 

「実はヒコロク先輩、負傷してて……本人は『命に別状はない』とか言ってたんですけど、明らかに重傷で……テッポ殿の爆音が聞こえたので、私だけが押っ取り刀で駆け付けたんです。早く戻らないと……!」

 

 テッポは息を呑んだ。

 

「そんな、大変じゃない! 早く行って手当てしてあげないと! モモンジ、状況説明は向こうで聞くわ。早く行きましょう……」

 

 そこでバナーヌが口を挟んだ。

 

「待て、『バナナ・ゴーゴー』を呼ぶ」

 

 テッポは唸った。

 

「むぅ……まあ、確かにそのほうが良いわね。バナーヌ、笛をお願い」

 

 バナナ・ゴーゴーは戦闘の前にアラフラ平原入口の安全な場所に置いて来たが、流石にこれ以上放っておくわけにはいかなかった。ヒコロクの怪我は気になるが、これ以上馬を失うようなことがあってもならなかった。バナーヌは忍びスーツの胸元を少し開くと、胸の谷間から一本の小さな笛を取り出した。彼女は独特な調子をつけて、それを吹いた。音が響いた。

 

 その時、空からポツリと、一しずくの雨粒が、彼女の長い睫毛(まつげ)に落ちてきた。

 

 テッポも手を(かざ)していた。その顔は曇っていた。テッポは言った。

 

「ああ、今日は雨模様なのかしら……嫌だなぁ。お父様と私の二人で作った特製の爆弾でも、雨だと不発率が高まるのよね……」

 

 雨は本降りになるのでもなく、しかし弱まるのでもなく、陰気にポツポツと大地に水滴を落としていた。

 

 モモンジは遠くに見える疎林になおも目をやっていた。

 

「ヒコロク先輩、大丈夫かな……あの時は結構元気そうだったけど、あの人けっこうやせ我慢する性格だから……奥さんもそれを心配してたし……」

 

 呟くようなモモンジの言葉に、テッポが相槌を打った。

 

「そうね。お父様もそれを心配していたわ。『ヒコロクは(つら)さや弱さを()いて隠す癖がある』って……奥さんのためにも、はやく何とかしてあげなくちゃ……」

 

 ふと、モモンジは自分の身に纏う忍びスーツに目をやった。彼女は驚いたように言った。

 

「ああっ!? 私の忍びスーツと仮面、返り血で真っ赤になってる! 新調したばかりなのに……」

 

 テッポが呆れたように、しかし慰めるようにモモンジに言った。

 

「ええ……? あなた、今になってそれに気づいたの……? 馬の首を正面から切断したんだから、当然返り血は浴びるわよ。そんなに気落ちしないで、今度一緒に洗濯してあげるから……」

 

 その時、(いなな)きと共に、元気よく三人に向かって一直線に走ってくる馬の影が見えた。バナーヌの笛の音は、しっかりと馬に届いていたようだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 薄暗い疎林の中、そのほぼ中央の、少し窪んでいて草むらで隠されている地面に、ヒコロクは仰向けになって静かに横になっていた。彼の右手には首刈り刀があり、顔には白い仮面があった。彼の胴体には、包帯替わりのさらしが乱雑に巻かれていた。さらしには痛々しいほどに真っ赤な染みが浮き出ていた。

 

 真っ先に、テッポがヒコロクに声をかけた。

 

「ヒコロク! 大丈夫!?」

 

 ヒコロクは一瞬、上体を起こして刀を構えようとしたが、傷の痛みに仮面の下で顔をしかめた。そして、声の主がテッポであることに気づくと、彼は脱力するようにまた横になった。彼は言った。

 

「ああ、やっぱりあの時の爆音はテッポ殿だったんですな。無事で良かった、ハイリア湖で、一人で敵を追っていっちまった時はどうなることかと思ったが……モモンジ、お前も良くやったな……」

 

 モモンジは涙ぐんでいた。彼女は言った。

 

「ヒコロク先輩、本当にごめんなさい……さっきは強がっていただけだったんですね……こんなに弱って……」

 

 テッポが二人の会話を(さえぎ)った。

 

「喋っちゃ駄目よ! そのままじっとしてて! 今、手当てをしてあげるから……」

 

 三人はヒコロクの周りに集まった。テッポは頭の方に、モモンジは足元についた。バナーヌはヒコロクの(かたわ)らに膝をついた。バナーヌは、ヒコロクの負傷の程度を鋭く観察した。その衰弱の具合と、さらしに(にじ)み出ている血液の多さから、彼が相当な重傷を負っていることが窺えた。

 

 バナーヌはポーチから薬と予備の白いさらしを取り出した。彼女はその青い瞳をヒコロクにじっと向けて言った。

 

「一度、包帯を取るぞ」

 

 ヒコロクはかすかに頷いた。彼は言った。

 

「ああ、そうしてくれ。何とか応急処置はしたんだが、さっきからどうにも痛みが増しててな……それはそうと、アンタは誰だい?」

 

 バナーヌは言った。

 

「後にしろ。テッポ、体を起こせ。そっとだ」

 

 ヒコロクの包帯が取り除かれた。その間、ヒコロクは苦悶の声一つ漏らさなかった。バナーヌは密かに感心した。カルサー谷の者たちは、フィローネ支部の人間を「軟弱だ」とか「愚か者だ」とか言って馬鹿にするが、この男はなかなかの剛の者だ……

 

 その次の瞬間、三人は呻き声を漏らした。

 

「これは……」

「うっ……」

「ヒコロク先輩……」

 

 三人の目に飛び込んできたヒコロクの傷口は、予想よりも酷いものだった。腹の右上から左下にかけて、(へそ)の上を経由して、腹筋を横断するように鋭い斬り傷が走っていた。その深さは、小指の先がすっぽりと入りそうなほどだった。幸いなことに、傷は内臓まで達していないようだった。それでも、出血量は多かった。

 

 バナーヌは、即座に決断した。彼女は言った。

 

「縫う」

 

 テッポとモモンジが驚きの声を上げた。

 

「えっ!?」

「マジですか!?」

 

 その間にもバナーヌは針と糸をポーチから取り出していた。彼女は消毒用の蒸留酒で針と手を清めた。彼女は言った。

 

「テッポ、モモンジ。お前たちも手を消毒しろ」

 

 ヒコロクはそれをじっと見ていた。やがて、彼は観念したように言った。

 

「まあ、そうなるよな。ここは縫うしかない。そうしないと出血が止まらんだろう。滅茶苦茶痛そうだが、ひと思いにやってくれ」

 

 バナーヌは無言で頷いた。彼女からは自信が感じられた。針穴に糸を通す手つきも手慣れていた。

 

 緊迫した空気に耐えかねたように、モモンジが口を開いた。

 

「バナーヌ先輩、すごいなぁ。こういうのに慣れてるんですね」

 

 ポツリと、風に呟くようにバナーヌは答えた。

 

「いや、傷を縫うのは初めてだ」

 

 テッポとモモンジが驚き呆れたような声を上げた。

 

「ええっ!?」

 

 声こそ出さないが、ヒコロクも仮面の下で表情を引き攣らせた。マジかよ、大丈夫かな。彼の心は不安感で満ちた。

 

 そんなヒコロクを安心させるように、バナーヌは冷静そのものの声音で言った。いつもより言葉が多かった。

 

「任せろ。カルサー谷のバナナ工芸展ではいつも入賞している。針仕事は得意なほうだ。傷を縫うのもお手の物だろう、たぶん」

 

 他に方法はなかった。この際、手先が器用で度胸も据わっているバナーヌが適任なのは間違いなかった。グズグズすればするほどヒコロクの血液と体力は(うしな)われていくことになる。

 

 テッポはヒコロクの傷口の周りを拭きつつ、諦めたように言った。

 

「バナナ工芸って……まあバナーヌなら何とかしてくれるでしょう、たぶん……」

 

 バナーヌは言った。

 

「麻酔はない。相当痛みがあるだろう。テッポ、お前はヒコロクの両腕を押さえろ。モモンジは両足だ」

 

 ヒコロクも、覚悟を決めたようだった。

 

「俺も覚悟を決めたよ。やってくれ。いずれにせよ、この仮面を被ったからには、俺たちは怖れ知らずの不屈の戦士になるしかないんだ。でも、まあ、できるかぎりお手柔らかにお願いするよ……」

 

 幸い、降り続いていた小雨はいったん()んでいた。

 

 それから数十分にわたって、疎林の中にチクチクという針と糸の動く静かな音が満ちた。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌはひたいを拭った。彼女は手を洗った。疲れを吐き出すように溜息を一つ吐くと、彼女はポーチからバナナを取り出し、丁寧に皮を剥いてから黙々と食べ始めた。心身共に消耗した時は、やはりバナナを食すに限る。彼女はそう思った。

 

 テッポもモモンジも、脱力したように姿勢を崩して座っていた。一方で、ヒコロクは体力を使い果たしたのか、安らかな寝息を立てていた。

 

 縫合処置は成功した。バナーヌが本来的に有している器用さと、ヒコロクの忍耐強さによって、施術は何らの障害もなくスムーズに遂行された。

 

 バナーヌは傷を縫い合わせて、蒸留酒を使って殺菌をした。彼女は、携行していた薬を厚く傷口に塗布して、丁寧に包帯を施した。出血は未だに続いていたが、その量は目に見えて少なくなった。これで命の心配はないはずだ。

 

 バナーヌは内心、新たに見出した自分の才能に驚いていた。

 

 工芸品の作成や針仕事は、もともとノチから教わって始めたものだった。最初、バナーヌはただの暇つぶしとしてそれをやるつもりだった。だが、ノチは意気込んで「私の技術のすべてをバナーヌに教えてあげる! バナーヌには見込みがあるもん!」と言った。ノチはその言葉に違わず、バナーヌに非常に熱心な指導をした。あの時のノチはちょっと怖かった。バナーヌは少しだけ身震いをした。

 

 最初、バナーヌはノチのものと比べると(つたな)く大雑把でとても作品とは言えないような何かばかり作っていた。だがそのうち、彼女は熟達した。ノチのものとも遜色のないものを、彼女は作り上げることができるようになった。

 

 工芸展で入賞した時、ノチは満面の笑みを浮かべてバナーヌを祝福してくれた。

 

「やっぱり私が見込んだとおりだったね! それにしても、バナーヌは本当になんでもこなしちゃうなぁ……」

 

 そういうわけだから、バナーヌは針を使うということに関していっさい不安はなかった。だがそれにしても人命がかかった状況で、これほど上首尾に傷口の縫合ができるとは彼女自身思ってもみなかったことだった。

 

 二本目のバナナを食べ終えた後、バナーヌは二人に声をかけた。

 

「所詮は、素人の応急処置だ。専門家による治療が必要だ」

 

 テッポは頷いた。バナーヌに倣って、その手にはバナナを持っていた。彼女は言った。

 

「私もそう思うわ。バナーヌが手際よく傷を縫ってくれたからひとまず安心したけど、ヒコロクの消耗は依然として激しい。それに、天候も安定していない。このままだと体が冷えてしまうわ。一刻も早く馬宿で本格的な治療を施さないといけない」

 

 そう言ってから、テッポはモモンジのほうへ顔を向けた。

 

「それにしても、ヒコロクほどの練達の団員が魔物ごときに不覚を取ったなんて信じられないわ。モモンジ、いったいどうしてこんなことになったの?」

 

 モモンジは俯いていた。彼女は言葉を濁した。

 

「あ、あの、えーっと、そのですね……」

 

 バナーヌもモモンジに言った。

 

「状況を説明してくれ」

 

 二人から視線を注がれて、モモンジは顔を上げた。彼女はしばらく、何をどう筋道を立てて話すべきか思案しているようだった。やがて、彼女は静かに話し始めた。

 

「……ヒコロク先輩が傷を負ったのは、私のせいなんです。あの、ちょっと長くなりますけど、順を追ってお話ししますね……」

 

 

☆☆☆

 

 

 ハイリア湖南岸、ハイリア大橋の入口付近で、輸送馬車はシーカー族と魔物の襲撃を受けた。襲撃によって輸送馬車を()く馬に被害が生じた。テッポは行方不明になった。指揮官サンベはグンゼにテッポの捜索を命じた。またサンベは、代替馬を調達するべくヒコロクとモモンジをアラフラ平原の「高原の馬宿」へと派遣した。

 

 高原の馬宿はイーガ団フィローネ支部が所有する馬を預かっている。高原の馬宿の宿長(やどちょう)は、馬宿協会に潜入しているイーガ団員のジューザである。話一つで用件は済むだろう。二人はそう思っていた。

 

 ヒコロクもモモンジも道は知悉(ちしつ)していた。その上、二人の戦闘技量は高かった。よほどの強敵に遭遇しない限りは、二人は何の障害もなく迅速に馬を連れて戻ることができたはずだった。

 

「アラフラ平原に到着した頃には、昼過ぎになっていました。ここに来る途中、森オクタの射撃に悩まされたので、それで少し時間を食ってしまったんです」

 

 宿長のジューザは事情を聞くと、ひとしきりサンベの指揮の拙劣(せつれつ)さを口汚く罵った。それから、ジューザは威勢よく店員たちに声をかけた。店員たちはイーガ団員ではなかったが、ジューザ自身が選びだした「その手のことに向いている」連中であった。彼は店員たちに、馬を六頭厩舎(きゅうしゃ)から引き出すように命じた。

 

「そこで『ちょっと飯を食って休憩してから出発しようぜ』とヒコロク先輩が言いました。私もお腹が空いてましたから、テーブルの前に座りました。いざ食事となったその時に、店員さんが飛び込んで来たんです。『騎馬ボコブリンの大群が攻めてくるぞ!』って店員さんが言うんです……」

 

 魔物来襲の知らせを聞いて、モモンジは誰よりも早く外へ飛び出した。空きっ腹を抱えていたが、そんなことを言っていられる状況ではない。彼女は状況を確認した。アラフラ平原の西側、ハラヤ池方面から、(おびただ)しい数の騎馬ボコブリンと徒歩(かち)のボコブリンが馬宿へ接近してくるのが見えた。

 

「『あいつらまた来やがったか』とジューザが言いました。ここ最近は魔物の襲撃の頻度が増しているとのことで、その分だけ対処には慣れているとジューザは言います。それで、どうするのかとヒコロク先輩が尋ねたら、ジューザは『籠城する』って言うんです……私たちは反対しました。確かに、大軍を相手にするなら、籠城するのが一番安全で確実ではあります。ジューザの話によれば、『魔物たちは五、六日間馬宿を囲むが、そのうち食糧が尽きるし、それに飽きが来るから、自然と包囲は解ける』とのことです。でも、こちらとしては一日だって時間は惜しいです。籠城なんて、そんな悠長なことは言っていられません。私たちは出撃を主張しました」

 

 半ば口論のような議論が続いた。結局ジューザは折れた。だが、その折れ方は中途半端なものであった。ヒコロクとモモンジの二人が出撃し、馬宿側は守備を固めるという、なんとも曖昧な作戦になってしまった。

 

 この作戦は、しかしなかなか上手くいった。二人は馬宿の近くで戦い、ジューザと店員たちによる支援射撃を受けることができた。モモンジが前面に立って風斬り刀を振るい、ヒコロクは首刈り刀と弓矢で以て彼女を援護した。魔物たちは彼女らを攻めあぐねた。次第にその数を減っていった。日没頃には、魔物たちは平原東の疎林の方向へ退却しつつあった。追撃をかけるべきだった。

 

 二人は頃合いを見て馬宿に戻り、またジューザと話し合った。

 

「ここでまた意見が割れたんです。ジューザは『深追いするな』って言うんです。『奴ら、近頃妙に知恵をつけてきているから、退却はもしかしたら罠かもしれない』と……でもヒコロク先輩は、『ここで完全に叩いておかないと、帰り道にまた襲われるかもしれない』と主張するんです。私としては、その……恥ずかしいことにその時お腹が空いてて、頭が回らなくて……わぁっ!? すみませんすみません! でも何も食べずに半日も戦い続けるなんて初めてだったんですよ……」

 

 すでに日は完全に暮れて、平原を夜闇が包んでいた。ヒコロクは戦闘続行を決意した。イーガ団員ならば夜戦は得意とするところであり、むしろ昼間よりも有利ですらある。それに、敵の実力はそれまでの戦闘で把握していた。それほど強くはない。万が一、魔物たちが一計を案じているとしても、それを踏み破るだけの実力がこちらにはある。彼はそのように判断した。

 

 例によって馬宿の守りをジューザたちに任せると、二人は魔物たちを追って再度出撃した。

 

「戦闘の合間にハイラル草の山菜おにぎりを二つ食べただけだったので、その時の私は本当にお腹が空いていて、目が回っていて……でも、任務ですから文句も言えないですし……ヒコロク先輩はバナナを食べたから元気いっぱいでしたけど」

 

 疎林の近くで、二人は敵集団と遭遇した。

 

「そこで、奇妙な敵と遭ったんです」

 

 その敵は、明らかにボコブリンではなかった。

 

 それは、明らかに人間だった。その人間は馬に跨り、魔物たちを率いるように集団の先頭に位置していた。

 

 魔物たちはその人間によく従っていた。魔物たちは後方に控えていた。

 

「ボコブリンの……なんていうんでしょう、あれ……マスクっていうものでしょうか。その人間はそのマスクを被っていて、でも服装はシーカー族の忍び装束なんです。腰には長い刀を差していて……あれは、野太刀(のだち)ですね」

 

 ヒコロクは冷静に状況を分析した。突如、自分たちの目の前に現れたこのシーカー族は、おそらく、昨日湖南岸で輸送車列を襲った一味に違いない。こいつは、忌々しいことに自分たち二人を密かに追跡してアラフラ平原に来たのだろう。こいつは、こちらが代替馬を用意しようとしているのを見るや、それを妨害しようとした。こいつはそのためにボコブリンマスクを被って魔物に偽装し、奴らをこちらへ(けしか)けたのだろう……そんなふうに彼は考えた。

 

「『一旦、距離を取れ』とヒコロク先輩は言いました。『得体の知れない奴だから、もうちょっと出方(でかた)を窺うべきだ』とヒコロク先輩は言うんです。でも……ああ、私ってなんて馬鹿なんだろう!……私、空腹のせいもあったと思うんですけど、元から頭に血がのぼりやすい性質みたいで……その時の私は、相手がシーカー族っていうだけで頭の中が戦うことでいっぱいになっちゃったんです。私は風斬り刀を抜いて、ヒコロク先輩の制止も聞かずに、一直線にそのシーカー族に斬りかかりました……」

 

 シーカー族は、なぜか動かなかった。魔物に下知(げち)するでもなく、馬首を廻らすでもなく、シーカー族はモモンジが接近してくるのをただ見ていた。不格好で無表情なボコブリンマスクは、ピクリとも動かなかった。

 

「『これは行ける!』と私は思って、間合いに飛び込むとすぐに横薙ぎに一閃しました。そしたら、そのシーカー族は私の攻撃を受け止めたんです。いつの間にか、敵は大きな造りの野太刀を抜いていて、それで私の刀を防いでいるんです」

 

 必殺必倒(ひっとう)の攻撃を防御された。モモンジのその一瞬の心の動揺を()くように、敵は野太刀を振るって彼女を()ね飛ばした。

 

 モモンジはすぐさま起き上がった。彼女はなおも斬りかかろうとした。

 

 だがその時、敵は意外な行動に出た。

 

「そのシーカー族は、私に向かってツルギバナナを投げて来たんです。それも何本もバラバラと……私たちイーガ団員がもれなく一種のバナナ中毒者(ジャンキー)だってことを、敵は知ってたんでしょうね。イーガ団員がバナナを見ると『ウホッ』って言って、ウホウホホイホイ釣られちゃうって、敵は知っていたようです。でも……」

 

 イーガ団員でありながら、モモンジはバナナが食べられない。それどころか、バナナは恐怖の象徴ですらあった。端的に言えば、見るだけで身がすくんでしまうほどであった。

 

 しかもなお悪いことに、勢いよく飛んできたツルギバナナの一本が、モモンジの仮面に真正面から直撃した。バナナはよく熟れていたようで、ぐちゃりと嫌な音を立てて果肉がべっとりと仮面に張り付いた。

 

「あの、恥ずかしい話なんですけど……バナナの匂いを嗅いだ時、私の気が遠くなりました。後で確認したら鼻血が出てました。足にも力が入らなくなって、その場に(うずくま)ってしまって……」

 

 敵はその機会に乗じて急速に間合いを詰めた。その場に根が生えたように動かないモモンジに向かって、鈍く輝く野太刀が振るわれた。

 

「それを、ヒコロク先輩が身を挺して助けてくれたんです」

 

 間一髪のタイミングでヒコロクは間合いに割り込み、首刈り刀を構えてモモンジの盾になった。しかし、敵の野太刀の一撃は重かった。彼は完全に攻撃を受け流すことができなかった。彼は地面に膝をついた。

 

 続けてさらなる斬撃が放たれた。ヒコロクは腹部を斬られてしまった。

 

 絶体絶命の状況であった。しかし……

 

「そのシーカー族は、私たちにトドメを刺さずに、馬首を廻らせて彼方(かなた)へと去っていったんです。本当に不可解でした。シーカー族の族長のインパは人殺しが嫌いで、配下の戦士たちにも不殺を命じているとは風の噂で聞いたことがありますが、それにしても私たちを気絶させるでもなく、捕らえるでもなく……実に中途半端でした。まるで、私たちに傷を負わせることだけを目的としていたような、そういう気持ち悪さがありました……」

 

 シーカー族が去ると同時に、魔物たちは正気を取り戻したように二人へ一斉に襲い掛かった。

 

 ヒコロクは重傷にひるむことなく、直ちにモモンジに対して「疎林へと退却しろ」と言った。馬宿までは距離があった。疎林ならば騎馬ボコブリンは追ってこれない。ヒコロクはそう考えたのだった。モモンジはヒコロクに肩を貸した。二人は退却を始めた。時には敵を斬り払い、敵を斬り伏せ、時には馬ごと敵を両断し、二人はなんとか逃げることに成功した。

 

「ヒコロク先輩をこの疎林まで連れて来た後、私は馬宿方面の偵察に出ました。でも、森を出たらすぐに魔物に襲われました。でも、なんとかそれをやっつけて、私は馬宿の近くまで行きました。馬宿は魔物によって、がっちりと完全に包囲されていました。チュチュ一匹這い出る余裕もない有様でした。どうしようもなかったので、私は疎林に戻って先輩に報告しました。そしたら……」

 

 話に聞き入っていたテッポが、ここでようやく口を開いた。

 

「私たちの戦闘騒音が聞こえて、駆け付けてくれたってわけね。説明をありがとう、モモンジ。状況は理解したわ」

 

 ポーチを探ると、テッポは油紙に包まれた焼き上トリ肉を取り出した。彼女は優しく言った。

 

「これをお食べなさい、モモンジ。お腹が空いてるでしょ?」

 

 モモンジは目を輝かせた。

 

「テッポ殿、ありがとうございます! いただきます!」

 

 美味しそうな音を立ててトリ肉を頬張るモモンジを余所(よそ)にして、テッポはバナーヌに話しかけた。

 

「どうする、バナーヌ? 私が思うに、やることは一つしかないと思うんだけど」

 

 バナーヌは腕組みをして目をつむり、静かに話を聞いていた。彼女は、ゆっくりと頷いた。

 

「包囲を解こう」

 

 美しく澄んだ声で紡がれたその言葉には、固い決意が秘められていた。それを聞いたテッポは、そのあどけない顔に不敵な笑みを浮かべた。




 ブレスオブザワイルドに限らず、ゼルダシリーズにおいて、感染症対策はどの程度まで進歩しているのでしょうか? その点、今回書いていてなかなかに悩ましいところでした。そもそも菌の概念があるのか……?
 アラフラ平原は実際にプレイするとごくこじんまりとしたフィールドだということが分かりますが、『バナナ』においてはちょっと拡大しております。ここに限らず、『バナナ』では道を長くしたりあるいは短くしたりなどして、距離と時間の観念を調節しようとしております。

※加筆修正しました。(2023/05/11/木)


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第三十九話 作戦名「オド・ルワの饗宴」

 幸せな光景を想像しよう。それはたとえば仲の良い家族が食卓を囲み、睦まじく夕餉(ゆうげ)をとる光景である。父と息子が協力し、狩猟で上ケモノ肉の塊を一つ、二つ手に入れる。母と娘はそれに岩塩をまぶし、新鮮なハイラル草をそえ、丁寧にといだハイラル米をも加えて調理する。その間に祖父母の二人は、ハテノ村で綺麗に桃色に染められた織物をテーブルに掛けたり、一輪挿しにしのび草を生けたりする。家族全員で料理を分かち合う光景は幸せの原風景だ。

 

 あるいはまた、満天の星空の下、夜風に吹かれながら、見ず知らずの旅人たちが共に料理鍋を囲む光景は、幸せなものとはいえないだろうか。めいめいが食糧袋から材料を取り出して分け合い、協力して火を起こす。彼らは水を汲み、肉を切り、調味料を合わせる。料理ができあがる。誰かが入れたヨロイダケのせいで、それはカチコチな料理になっている。湯気とかぐわしさが立ち昇っている。彼らは汁を啜り、歓談する。君は、あなたは、お前は、いったい何処(どこ)から来て、何処(どこ)へ向かうのか? 遠くに、赤く黒いデスマウンテンの噴煙が夜空にたなびいている。料理鍋を囲みながら、彼らは互いに互いを知っていく。この世を孤独にさすらうのが、自分一人だけでは決してないこと彼らは知っていく。

 

 囲むこと、それは確かに幸せを想起させる。だがこの言葉はもう一つ、その反対側の(きょく)を指し示してもいる。

 

 囲むこと、それは、包囲戦である。あらゆる戦の残酷さの極致、戦術的巧緻の極致、そして、戦争が有する劇的なるものの極致が、「包囲し殲滅する」という戦闘形態に体現されている。

 

 悠久の歴史を紡ぐハイラルにおいて、この包囲戦は規模の大小を問わず、それこそ無数に行われてきた。包囲戦は無数の命を奪い、無数の栄光と無数の悲劇を生み出してきた。

 

 史書や兵書を紐解く時、我々は驚く。かくも多くの死が包囲戦によって(もたら)されたことを、我々はにわかに信じることができない。

 

 包囲、それは容易なことではない。なぜならば、包囲こそは軍略をこととする者にとっての夢であり、かつ悪夢だからである。徹底した現実主義者である軍略家を、まるで夢見がちな乙女のように悩ませるこの「包囲」という夢、この乳の如き甘美な夢を現実において再現することがどれほど困難であるか、また、この泥濘のような悪夢から覚めることがどれほど困難であるか、いまさら言うまでもないだろう。

 

 包囲、それは戦いの究極にして基本でもある。どれほど幼い子どもたちであっても、戦いの素人たちであっても、いや、知恵無き魔物であるボコブリンたちであっても、「敵対者を包囲することが勝利を確実にする」ことを知っている。

 

 たとえば、子どもたちである。そう、大厄災後の子どもたちはかつてより大人しくなった。今の子どもたちの遊びといえば追いかけっこやかくれんぼ、あるいはごっこ遊びに過ぎない。料理をする子どももいれば、旅人に武器を見せるようせがむ子どももいるが、しかし今の子どもたちは決して「喧嘩」をしない。かつての子どもたちは、しょっちゅう「喧嘩」をしていた。その喧嘩とは、ぽかぽかと殴り合うような可愛らしい喧嘩ではなく、徒党を組み、列を組んで対峙し、集団で一斉に行う「喧嘩」であった。

 

 百年前のハイラルの子どもは、「喧嘩」となればその地区の餓鬼大将のもとに男児女児を問わずに参集した。子どもたちは会議をし、作戦方針を決定した。それに基づいて、子どもたちは敵対的なグループに対してよく抗争を仕掛けたものだった。彼らは決戦の地を定めると対峙し、石を投げ合い、時には木の枝で殴り合いをした。大人の行う合戦となんら変わりない、命を賭けた真剣勝負がそこでは行われていた。

 

 かつて、若くして近衛騎士に取り立てられた男がいた。城下町南の出身である彼は、その名をニーオンといった。ニーオンは魔物の拠点を覆滅する軍功をいくつも打ち建てた。彼は巷間(こうかん)に「(いま)セバスン」の綽名(あだな)で知られたほどの剛の者であった。ニーオンは自身の回想録において以下のように述べている。

 

「私はいわゆる餓鬼大将だった。私は他の貧民街の子どもたちを集めて『ボンバーズ』という名のグループを作っていた。ボンバーズはバクダン屋の資材置き場を集会所にしていた。私たちのグループは、暇さえあれば隣接地域に喧嘩を仕掛けたものだった。私の体格は優れており、近所に住む天文学者からの耳学問のおかげで、だいたいの喧嘩において勝利を収めるほどの知恵もあった。大人も子どもも私のことを『怪物』と呼んでいた」

 

「その日、私は仲間たちと共に決戦の地へ赴いた。たしか、それはマズラ橋近くのハイリア川の河原だったと記憶している。そこを喧嘩の場所として、私たちは相手のグループと対峙した。喧嘩の理由についてだが、それはたしかロマーニ平原の『りんごの森』の占有権を争ってのことだったと記憶している。その頃、団員手帳には毎月のように『りんごの森』に関する案件が書き込まれていた。大人と同じように私たち子どもにも利害関係があり、それを巡って交渉があった。交渉が決裂すれば、武力衝突になった」

 

「……(中略)……戦いは昼前から始まった。相手の数は私たちよりも遥かに多かった。私たちは序盤から苦戦を強いられた。石つぶては絶え間なく飛んできた。相手は数の多さを生かしてこちらの側背面に回り込もうとしてきた。私は包囲されないように采配を振るうのに必死だった。何も知らない子どもでも、『包囲されたならば一巻の終わり』ということはよく知っていた」

 

「結局、あともう少しで完全に包囲される、というところになって、私が先頭に立って血路を拓いた。私たちは脱出し、惨めな袋叩きを逃れることができた。『りんごの森』を巡っての喧嘩はその後も何回か起こったが、この時ほど苦戦したことはなかった」

 

「……(中略)……運命というのは不思議なもので、この時の喧嘩を遠くから観戦していた(かた)がいた。その(かた)はこのハイラルの大地で最も高貴にして古き血を受け継がれる方であった。その頃はまだその方は離宮におられた。その方が数人の近侍(きんじ)をお供として遠乗りにお出かけになられていたところ、私たちの戦いを目撃されたそうである」

 

「その方は供の者に、『子どもながらあの戦いぶりは天晴れである。戦術の巧みさもさることながら、冷静沈着に包囲を突破するその胆力が気に入った。是非近衛騎士に召し抱えて、父上の喜びとしたい』と仰せになった。そのようなわけで、喧嘩から数週間が経って、貧民街の私のもとへ濃紺の制服を着た近衛騎士がやって来た……」

 

「……(中略)……後年、王子殿下の率いる軍が、不運にもキタッカレ高原で魔物の群れに包囲されたことがあった。誉れ高きことに、この私が突破部隊の先鋒として抜擢された。その時、殿下は『かつての餓鬼大将の勇姿をまた余に見せてくれ』と、親しく私にお声をかけられた。私が感奮(かんぷん)したのは言うまでもない。幸い、私たちの軍は一人も損なうことなく包囲から脱出することができた。私の生涯で包囲という悪夢を振り払ったのはこれと、あの幼少期の戦いの二回だけである……」

 

 包囲を戦いの理想形とするのはハイリア人に限った話ではない。例えばゲルド族は、一対一の戦いを名誉とし、そのための武技の鍛錬を日夜欠かさないが、その実、彼女たちの戦闘教義はスナザラシを用いた高速機動と迂回・包囲を基本としている。ハイリア人の(ヴォーイ)たちに広く信じられているゲルド族の「モルドラジーク単騎狩り」も、実のところは滅多に行われるものではない。モルドラジークの狩猟は通常、陽動、包囲、待ち伏せ等のそれぞれの役割を担った複数のチームが協力することによって行われる。「ヴォーイハント」がたった一人だけのゲルド族で行われるのは、我々にとって幸運だったと言えるかもしれない。

 

 否、上述の如き例を引かずとも、我々ハイリア人には、それこそその霊魂の奥底にまで浸透した、ある勝利の記憶がある。そう、包囲し、殲滅し、完全に勝利したというあの記憶である。その記憶はすでに色褪せており、錆びついており、朽ちる寸前になっているが、それは確かに我々の精神性を何かしらの意味で規定している。

 

 その記憶とは、一万年前に行われたという、厄災ガノンの封印である。

 

 伝説によれば厄災を封じたのは、退魔の剣に選ばれし剣士と、封印の力を受け継ぐ姫巫女との二人であった。厄災、剣士、姫巫女の三者によりハイラルの歴史は展開し、また繰り返され、闘争の輪廻は永遠のように続いた。

 

 一万年前の賢人たちはどう思ったのだろうか。古代シーカー族はどのような意図を持っていたのだろうか。彼の意図と考えは歴史の地層奥深くに、もはや掘り起こせないほどに埋没している。それゆえ、それを正確に知ることなど到底不可能である。

 

 だが結局何が起こったのかを見れば、彼らの意図はある程度推察できる。彼らは望んだのだ。厄災を完全に封印し、永劫にわたる闘争の輪廻を断ち切ることを、彼らは望んだのである。

 

 そして、それを可能にする力と技術が彼らにはあった。後にハイラル王と王家をも震撼させ、そして猜疑(さいぎ)させたほどの、高度に洗練され緻密に体系化されたカラクリ技術がそれである。人工的に風と火を起こし、水を汲み上げ、地盤を掘り進め、馬もロバもなしに荷を運ぶ……そのようなことに用いられていたカラクリ技術を、彼ら古代シーカー族は戦闘目的へと転用した。

 

 かくして生み出されたのは、大地を埋め尽くすほどの多脚単眼自走兵器の群れであり、空を覆い尽くすほどの三翼単眼飛行兵器の群れであり、王城を金甌(きんおう)無欠の殺戮陣とした自動砲台群であった。

 

 彼らのカラクリ技術の極めつけは、超巨大、超質量、超火力の「神獣」と呼ばれる四体の決戦兵器であった。神獣から放たれる青白い光の奔流は、たとえ遠く離れていても厄災の致命部を正確に射抜くほどであった。

 

 剣士と姫巫女、そしてこれらすべてのカラクリ兵器が、一万年前に厄災を完全に包囲した。小型の自走兵器は勇者と姫巫女を守るべく盾となって攻撃を防ぎ、あるいは死体に集るクロアリのように群がり寄って攻撃を加えた。四神獣は咆哮と共に青白い光線を放ち続けた。

 

 どのような戦いだったのだろうか? それは一方的だったのだろうか? それとも、それだけの鉄桶(てっとう)の陣容を以てしてもなお、厄災は容易ならざる敵だったのであろうか? それは分からない。

 

 しかし、その後一万年という山も海も形を変えるほどの長き時に渡って、怨念と憎悪の権化たる厄災は復活しなかった。その事実を見れば、古代シーカー族は立派にその歴史的使命を果たしたのだと言ってよいかもしれない。

 

 だが、いかにも我々は愚かであった。それは遺物を再び大地から掘り起こし、戦力化しようと試みたことではない。あるいは、神獣を討伐の(かなめ)の一つとし、ハイラルの英傑をその繰り手としたことでもない。

 

 包囲され、完膚無きまでに叩きのめされた厄災ガノンが必ず抱くであろう、溶岩より熱く煮えたぎった憎悪と、永久氷塊のように冷え固まった殺意、加えて、真正に純粋なる屈辱感……それらに想像力を馳せなかったゆえに、我々は愚かだったのである。

 

 百年前に復活した厄災ガノンは、今度は逆に我々を包囲した。我々と我々の王国は、怨念によって乗っ取られ、その色と力を纏った古代遺物たちによって包囲され、殲滅された。それは逃れることのできない(おり)であり、無慈悲なる処刑場であった。王国は滅び、人は死んだ。かくして厄災ガノンは存分に屈辱を(そそ)いだのであった。

 

 奇跡によるのか、それとも単なる僥倖であるのか、あるいは祈りによるものか。厄災ガノンは、まるで何らかの力によって囚われているように、いまだに王城から離れない。

 

 それでも、厄災にとってはそれで充分である。未だにハイラル全土は厄災の包囲下にある。瘴気と怨念と、魔物と遺物であるガーディアンと、そして何より、破滅の運命に、ハイラルは包囲されている。

 

 この包囲を突破する者は未だ、深い眠りに落ちたままである。彼は、ある台地の祠で、魂すらも溶かしたように眠っている。

 

 その目覚めはおそらく、近い。だが、目覚めの使者はいまだに彼を訪れない。

 

 

☆☆☆

 

 

 腹ばいになって草むらに身を隠していたバナーヌが、独り言のように呟いた。

 

「……雲が濃くなってきたな」

 

 それを、彼女のすぐ(かたわら)にいた、ぬばたまの黒髪のテッポが受けた。

 

「ええ、そうね……雨になるかもしれないわ……」

 

 二人は空を見上げていた。フィローネ地方の草原地帯、アラフラ平原は、早朝を迎えていた。麗しき薔薇色の夜明けの太陽を覆い隠していた鼠色の空は、いよいよその険悪さを増しつつあった。それまでは遠慮がちに、一滴、二滴と(しずく)をこぼしているに過ぎなかった黒雲は、風を受けて次第に渦を巻き始めた。のみならず雲は濃さを増して、いまや一人前の雨雲へと成長を遂げつつあるようだった。

 

 遠く右手方向に見える、鏡面のように澄んだ水面を持つハラヤ池も、折からの風を受けて白く波立っていた。早馬のように吹き抜ける風に草原は音を立てた。バナーヌとテッポが先ほど出てきた、今は重傷のヒコロクとそれを護るモモンジがいる疎林は、その(こずえ)をゆらゆらとロウソクの火のように揺らしていた。

 

 この分だと、かなり強い雨になるかもしれない。テッポはそのいたいけな顔をやや不快そうに歪めた。腰の爆弾袋を()(さす)りながら、彼女は言葉を漏らした。

 

「忌々しいことだけど、雨だと爆弾は使えなくなる。ただでさえこちらは数的に劣勢なのに、そのうえ火力面でも劣勢になったら、包囲しているボコブリンたちを一匹残らず皆殺しにするのは相当難しくなると思うわ。ねえバナーヌ、もうすこし馬宿のほうを見てみましょう」

 

 バナーヌは軽く頷いた。

 

「うん」

 

 バナーヌとテッポは、馬宿方面の偵察を再開した。

 

 高原の馬宿はアラフラ平原の南東にあった。そこは、かつて王国の軍馬徴用官の居館があった場所であった。さらにその前の時代においては、そこは遊牧民たちのキャンプ地であった。馬宿の両側面は小高い丘で守られていた。馬宿の背後には、馬神湖とイバーラ高地へと通じる道が走っていた。

 

 そして馬宿の前面には、魔物の大群がいた。本来ならばその場所は、長旅に疲れた旅人とその愛馬をあたたかく迎え入れ、料理鍋と飼葉桶(かいばおけ)でもてなす場所であった。馬宿は包囲されていた。

 

 (うまや)には一頭も馬がいなかった。乳を得るために飼育されているシロヤギも、その姿はどこにも見えなかった。どうやら、家畜たちはここからは見えない馬神湖方面へと逃がしてあるようだった。

 

 バナーヌはその(きら)めくサファイア色の双眼を働かせて、素早く敵を数えた。

 

「……赤ボコブリンが十八匹、いや十九匹。青ボコブリンが五匹、黒ボコブリンが五匹……」

 

 テッポが声を上げた。

 

「合計、二十九匹ね。あっ、見て! 今、あそこの木箱の影から白銀ボコブリンが出てきた!」

 

 バナーヌは無感情な声で訂正した。

 

「……合計三十匹」

 

 バナーヌは内心、数えるたびに数を増していく魔物たちにうんざりしていた。だが、それを(じか)に表情や声音へ出す彼女ではなかった。

 

 魔物たちは(くつろ)いでいた。魔物たちは自分たちの馬をそこここに放し飼いにしていた。彼らはトゲボコこん棒やトゲボコ槍、兵士の剣や盾、弓などといった武器を地面に置いていた。魔物たちは焚き火を囲んでいた。あるものは手足を乱雑に振り回して踊りをし、あるものは居眠りをしていた。また、あるものは丘上にある黒い祠をぼんやりと眺めていた。

 

 テッポが「ちっ」とひとつ舌打ちをしてから言った。

 

「ああ……! うちの支部の人間が十人でもいれば、あんなだらけきった連中はものの数分で皆殺しにできるのに!」

 

 その毒づき方はいかにも堂に入ったものだった。育ちの良い者であっても悪態のつき方は他の人間とさほど変わらないようだと、バナーヌは何とはなしに思った。

 

 偵察においては、敵の所在、数、配置、兵器など確認しなければならないことが多々ある。彼女たちにはもう一つ、重要なことがあった。敵の指揮官の所在はどこか? 敵を率いている、例のボコブリンマスクのシーカー族は?

 

 目を凝らして魔物の群れを観察していたテッポが、やや安心したような声で言った。

 

「モモンジが言ってた、ボコブリンマスクの謎のシーカー族、あれは今のところ、どこにもいないわね」

 

 バナーヌが頷いた。

 

「そうだな」

 

 彼女らが怖れていたのは、ヒコロクに重傷を負わせた、あの謎の敵の存在だった。いかなる理由かは知らないが、やつは一時的に姿を消しているようだ。それが再び舞い戻ってきて魔物たちを指揮するようになったとしたら……? そうなれば包囲を解くのは著しく困難になるだろう。バナーヌはそう思った。

 

 だが、今はいない。どうやら、いない。また戻ってこないとも限らないが、しかしアラフラ平原に到着した直後の戦闘にも介入して来なかったところを見ると、その可能性は低いだろう。

 

 何とか、これで戦いの目途は立ったとバナーヌは思った。後は馬宿の宿長、ジューザと連絡が取れれば良いのだが……彼女は馬宿を見た。こちらの攻撃に呼応して馬宿内部から彼らが出撃し、敵を逆に包囲する形に持っていくことができれば、こちらは損害を負うことなく、ほぼ一方的に魔物を殲滅できるはずだ。彼女はそう考えた。

 

 予め用意しておいた通信文を、バナーヌはひときわ出来の良い矢に結び付けた。この矢ならばよく飛ぶはずであった。そんな彼女を見て、テッポがやや眉をひそめて言った。

 

「バナーヌ。確かに戦術常識から言えば挟撃が最良の形なのは間違いないわ。でも、はたしてジューザがそれに応じるかしら。私は怪しいと思うわ。お父様がよく言ってたのよ。『ジューザは戦いを好まず、馬とルピーにしか関心のない男だ』って……たとえ仲間が危機にあるとしても、ジューザが出撃するとは思えない」

 

 モモンジは疎林で語っていた。昨日、盛んに出戦(しゅっせん)を主張したヒコロクに対して、ジューザの態度は最初から最後まで消極的だったと、彼女は言った。「包囲されるのはいつものことで、あえて戦いを挑まずとも、魔物は一週間経てば勝手に帰っていく」と彼は言っていたという。今、現在も、馬宿は入口に木箱や大盾をおいて、あたかもマックスサザエが(ふた)を閉じたように、ひっそりと静まりかえっていた。

 

 通信文には、早期決戦の必要性についても記載してあった。これ以上時間をかけるわけにはいかない、代替馬を早急に手に入れなければならない、重傷のヒコロクは一刻も早く馬宿で休み医者に診てもらう必要がある、これらの目的のためにはどうしても魔物を一匹残らず殲滅する必要がある、こちらの攻撃に呼応して出撃せよ。了解したならば赤の狼煙(のろし)を、拒否するならば白の狼煙を上げるべし……そんなふうに通信文には書かれていた。

 

 バナーヌは単なる下っ端である。ゆえに彼女は専門的な戦術論を体系的に学んだことも、人数を率いて戦闘を指導したこともなかった。しかし、彼女のそれまでの豊富な経験とその天性の勘の良さは、彼女にあることを告げていた。「解囲作戦というものは、包囲された側と解囲する側の両方が息を合わせなければ、必ず失敗する」 そのようなことは戦術論の教科書に必ず書かれている。教えられずとも、彼女はすでにそれを知っていた。

 

 そのことを(わきま)えず、また、ヒコロクの生命の危機にも心を動かさずに、ジューザが頑なに戦いを避け続けるならば……? テッポはそのことを危惧していた。

 

 バナーヌは軽く首を横に左右に振って、テッポの懸念を否定した。彼女は言った。

 

「やってみなければ分からない。それに……」

 

 バナーヌは矢文(やぶみ)を弓につがえた。彼女は、馬宿の入口を塞ぐ大盾に狙いをつけ、大仰角を取ってキリキリと引き絞った。

 

 テッポが言った。

 

「それに……何かしら?」

 

 次の瞬間、バナーヌの弓から音を立てて矢文が勢い良く空中へ飛び出した。矢文は狙った場所へまっしぐらに飛翔した。バナーヌは言った。

 

「やつが出て来ないならば、他にやりようはある」

 

 矢文は(あやま)たず、音を立てて大盾に深々と突き刺さった。その音は大きかった。すぐに馬宿の中から浅黒い腕が伸びてきて矢文を引っこ抜いた。矢文を掴んだ腕は、また暗闇の中へと戻っていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 雨はいよいよ激しくなっていた。この分では、今日一日は終わりまでずっと雨になるだろう。バナーヌはそう思った。物事の良し悪しはそれぞれの人の立場によって異なるが、この雨が恵みの雨となるかそれとも天罰となるか、それは魔王とバナナの神のみぞ知ることだ。バナーヌは空を見上げた。雨が目に落ちてきたので、彼女はすぐに顔を背けた。

 

 葉を叩き、地面を打つ雨音に混ざって、テッポの声が鋭く疎林に響いた。

 

「まったく! ジューザって男は本当に同じイーガ団員なのかしら! 薄々予想はしていたけど、こうまでも薄情な人間だとは思わなかった!」

 

 テッポの幼いながらも可憐な声には、いかにも憤懣せんやるかたなしといった調子が込められていた。モモンジが、力のない声でそれに答えた。

 

「狼煙、真っ白でしたね……ああ……」

 

 そんな二人に対して、バナーヌとヒコロクは沈黙していた。バナーヌは沈思黙考していた。ヒコロクは深く眠っていた。

 

 矢文を撃ち込んでから数十分後に、バナーヌとテッポは疎林に戻った。今、バナーヌは腕を組んで瞑目していた。テッポは俯いていたが、その表情には怒りの色が浮かべられていた。モモンジは、いまだ昏々(こんこん)と眠り続けているヒコロクのために、膝枕をしてやっていた。モモンジは困惑したような顔をしていた。その桃色の(まげ)は力なく垂れ下がっていた。

 

 あの後、雨の空に打ちあげられた狼煙(のろし)は、無情なまでの白色だった。ジューザはそれによって明確に出撃を拒絶することを示したのだった。

 

 テッポは首刈り刀の手入れをしながら、なおも不満をぶちまけた。

 

「ジューザにも馬宿の長としての立場があるから、『万が一出撃して失敗したら馬宿を失うかもしれない』と危惧するのはまだ理解できるわ。でも、傷ついたヒコロクのために立ち上がらないというのはどういうことよ! ヒコロクは仲間じゃない! 仲間の命がどうなっても良いのかしら! はやく医者に診せないといけないって、あれだけ矢文(やぶみ)にも書いたのに!」

 

 モモンジもテッポと同じく、自身の得物である風斬り刀を点検していた。払暁の戦闘で刀身が傷みはしなかったか、彼女は確認していた。彼女はヒコロクの頭を膝枕に乗せたまま、刀の手入れをしていた。「膝枕をする」と言い出したのはモモンジ本人だった。疎林の地面は落ち葉が積もっており、湿っていて冷たい。重傷のヒコロクを地面に寝かせたままだと身体が冷えて、さらに体力を消耗してしまう。せめて膝枕でもしてあげて、少しでも体温を保たせないと……そのようなことをモモンジは言っていた。

 

 そんなモモンジが、「あっ」と声を上げて、なにかを思い出したかのように答えた。

 

「あの、テッポ殿……そういえば話しそびれてしまってそのままになっていたのですが……私が見たところ、昨日のジューザはどことなく苛立っているような、それでいて何かを怖れているような、そんな様子でした」

 

 テッポがふんっと鼻を鳴らした。彼女は言った。

 

「えっ、なんですって? ジューザが何かを怖れている? それは魔物を怖れているんでしょうよ! それに決まっているわ! なにせ、この期に及んでもまったく馬宿から出ようとしないくらいですものね!」

 

 自分の発言がテッポの怒りの炎に油を注いでしまったのを見て、モモンジは大急ぎで言葉を続けた。

 

「い、いえ! あの、そうではなくてですね……なんだか『そろそろソエの婆さんが帰ってくる』とか、『また馬宿を燃やされたら今度こそソエの婆さんに殺される』とか、そんなことをジューザは言ってたんです。その、ソエの婆さんっていうのが誰かは分かりませんが……」

 

 新たに出て来た謎の人物の名前に、テッポはふわりと黒髪を揺らして小首を傾げた。テッポは言った。

 

「ソエの婆さん? ソエ、ソエか……うーん、その名前には心当たりがないわ……」

 

 だが、そのソエの婆さんなる人物について憶測を巡らせても、ジューザが出撃しないことは変りなかった。

 

 もう頃合いだろう、とバナーヌは思った。彼女は常と変わらぬ澄んだ声で二人に話しかけた。

 

「作戦を立てよう。私、テッポ、モモンジ、この三人だけで敵を殲滅する」

 

 テッポはハッと我に返ったような表情をした。モモンジもバナーヌの声を聞いて、思わず居ずまいを正した。その時、膝枕からヒコロクの頭が落ちそうになった。モモンジは慌てて彼の頭を押さえた。

 

 しばらく沈黙があたりに満ちた。最初にそれを破ったのはモモンジだった。彼女は元気良く手を上げて言った。

 

「はいはいはい! モモンジ、意見を具申します」

 

 テッポが言った。

 

「モモンジ、どうぞ」

 

 モモンジは言った。

 

「さすがに三十匹もの数の魔物は私でも手に余ります。だけど、今はバナーヌ先輩にテッポ殿の二人がいるから大丈夫です! ここは正面攻撃をかけて、一気に敵を撃砕するべきだと思います!」

 

 

 テッポが、何か信じられないことを聞いたような声を出した。

 

「ええっ?」

 

 それを気にせず、なおもモモンジは話し続けた。

 

「攻撃の先鋒(せんぽう)は是非、このモモンジにお任せ下さい! 真っ先駆けて突撃して、私はこの風斬り刀を力の限り振り回します! 万が一、この刀が折れてしまったら、その次は敵からトゲボコ槍でも奪い取って、それを振り回します! 敵の武器がなくなったら徒手空拳で戦います! 腕も脚も()えて動かなくなってしまったら、歯と爪を使います! そんな感じで暴れれば、私だけでも敵の半分は倒せるでしょうか。でも、私も死にたくはないので、バナーヌ先輩とテッポ殿には私が死なないように援護をお願いします……」

 

 モモンジは滔々(とうとう)と不可能事を述べ立てた。彼女の話はさらに続きそうだった。テッポがそれを()めた。

 

「ちょ、ちょっとモモンジ、待ってちょうだい、ていうか落ち着いて」

 

 モモンジは首を傾げた。勇壮にして無謀極まりない作戦を語っている間に興奮したのか、その可愛らしい顔はやや薄紅(うすべに)色に上気していた。彼女は言った。

 

「何ですか、テッポ殿? 私はこれが最良の作戦だと思いますけど……」

 

 テッポはふぅと一つ溜息を()いた。そして、懇々(こんこん)と教え諭すように、彼女はモモンジに語り始めた。

 

「良いこと、モモンジ? あなたの考えた作戦は本当に敢闘(かんとう)精神に満ち溢れたものだと、私も思うわ。一般のイーガ団員の心構えとしては確かに理想的だと思う。でもね、私たちが立てないといけないのは『作戦』なの。ここにいる三人が傷を負うことなく、かつ敵を殲滅して、馬宿の包囲を解くための具体的な戦いの筋道、それが作戦なの。それを組み立てないといけないのよ。モモンジの言っていることは作戦ではないわ。あなたが言っているのは『自分の得意とする戦い』、あるいは『自分がそうしたい戦い方』なだけ。それは作戦ではないわ……」

 

 テッポは言葉を区切ると、また口を開いた。

 

「そうね、仮に、あなたが真っ先に突撃するとしましょう。すると、あなたは真っ先に敵に囲まれることになる。そうなると私たち三人は分断されてしまうでしょう。分断されてしまったら、そのあとは数の暴力で押されてしまう。私たちは敗北するしかない。あなたが敵を皆殺しにするより、明らかにこっちのほうが皆殺しにされる可能性が高いと思うんだけど、どうかしら?」

 

 モモンジはテッポの話を聞いているうちにだんだん項垂(うなだ)れてきた。彼女は元気のない声で答えた。

 

「うう……はい、テッポ殿、よく分かりました……うう……」

 

 どうやら、モモンジは自分の知恵の回らなさにガッカリしたようだった。こんなことならただ一言「おバカ!」と叱ったほうが良かったかもしれない、と内心テッポは後悔した。それをグッと心の奥底へ押し込むと、彼女は今度は自身の考える作戦について語り始めた。

 

「ジューザにはまったく期待できない。フィローネ支部に援軍を呼ぶ時間もない。どうしてもこの三人で、戦力差一対十の殲滅戦をやらないといけない。それなら、そうね……やっぱり、奇襲攻撃しかないんじゃないかしら。『()(もっ)て衆を制するには、夜戦と、待ち伏せ攻撃と、奇襲の三つしかない』とかつてお父様から教わったわ」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「うん」

 

 そもそもイーガ団の戦闘教義では「寡を以て衆を制す」ことは不可能であり、もし少数で多数の敵と対峙した場合は戦いを避け、増援を要請し、有利な地形に引きずり込むべきことを説いている。だが今回の場合、逃げて増援を要請することは論外であった。テッポの言うとおり、奇襲攻撃しか選択肢はないようにバナーヌには思われた。

 

 テッポが話を進めた。彼女は話しながら考えを深めているようだった。

 

「やはりここは奇襲しかないでしょう。でも、戦いの場は平地で、視界が開けている。この雨だから、隠れて接近すれば第一撃には成功するでしょう。でも、その後はただの正面対決になってしまう。つまり、問題なのは第一撃以降の展開よ。こちらとしては何とかして第一撃目の奇襲から乱戦に持ち込んで、こちらの数が少ないことを魔物に悟らせないまま戦いを進めないといけない……」

 

 うーんとテッポが唸った。乱戦。それは相手を混乱状態に陥れることで成立する。しかし魔物が混乱することと言えば……? テッポは言った。

 

「知能低劣で凶暴なボコブリンたちは、強敵に(あい)(たい)しても、どんなに重い傷を負っても、決して最後まで(ひる)むことはない。でも火攻(かこう)だったら……? そう、火攻なら効果がきっとあるわ。火攻といえば……爆弾の連続投射による爆風と炎の壁……いえ、それは、無理ね。この雨じゃ爆弾は不発になるでしょう。ああ、雨が恨めしいわ……うーん……でも、他に火攻の手段は……?」

 

 テッポは(うつむ)き、じっと考え込んだ。

 

 その横で、バナーヌはポーチをゴソゴソと(さぐ)ると、何か光り輝く大振りな棒状のものを取り出した。彼女は言った。

 

「実は、こんなものがある」

 

 テッポは目を輝かせて言った。

 

「えっ、なになに!?」

 

 そう言うと、テッポはバナーヌが手にしているものに視線を移した。そして絶叫した。

 

「わきゃあっ!? それ、メテオロッドじゃない! やめて! 私にそれを近づけないで! 火気厳禁、わたし火気厳禁なの! わたし、爆弾娘(ボンバーガール)だから!」

 

 バナーヌは即座にメテオロッドを引っ込めた。珍しいことに、彼女はかすかにバツの悪そうな顔をしていた。申し訳なさそうに彼女は言った。

 

「ごめん、軽率だった」

 

 いつの間にか、テッポはバナーヌから三メートルは距離を取っていた。安全を確認すると、彼女はおずおずとした様子で、また元いた場所に戻った。乱れた呼吸を整えつつ、テッポは言った。

 

「ハァ、ハァ……ふぅ……ごめんなさい、取り乱したわ。私たち爆弾使いにとってはファイアロッドもメテオロッドも非常に危険なの。ほら、知ってる? 二十年前にあった事件よ。アッカレ地方にあった旧ハイラル王国軍の弾薬庫が大爆発した事件があったでしょ。あれは、冒険者が(あか)りの代わりにメテオロッドを使ったのが原因らしいわ……メテオロッドの火なら雨にも雪にも風にも負けない、だから良い灯りになるって、そう考えたんでしょうね……」

 

 そこまで話してから、テッポはようやくバナーヌがメテオロッドを取り出した理由について理解したようだった。彼女は言った。

 

「あ、そうか! メテオロッドの火球なら、たとえ豪雨や雷雨の最中でも絶対に消えない。それに、一度ロッドを振れば三発は火球が出るし、連射もできる。爆弾の代わりにこれで火攻ができるわね。でもバナーヌ、あなたはいったいどこで、いつそんなものを手に入れたの?」

 

 バナーヌは言葉少なく答えた。

 

「ここに来るまでに、ちょっと」

 

 バナーヌは多くを語らなかった。特段、大したことではない。なかなか腕の立つウィズローブ二体と戦い、勝利して奪い取っただけのことだ。あれから数日しか経っていないが、思えば遠くに来たものだ……彼女はそう思った。

 

 彼女のポーチにはメテオロッドの他にファイアロッドもあった。それに頼ることができるだろうか。だが、彼女は言った。

 

「ロッドはそれほど長持ちしない。これだけに頼って戦いを組み立てるわけにはいかない」

 

 なにしろ敵は三十匹もいる。それだけの数の敵を混乱させるには、休みなく火球を撃ち続けなければならない。そうなると、あっという間にロッドに込められた魔力は尽きるだろう。あとはボコこん棒以下の、ただの繊細な棒が二本できあがるだけだ。バナーヌにはそのことが目に見えていた。

 

 それに、彼女はメテオロッドに別の役割を期待していた。だが、バナーヌはあえてそのことについてテッポとモモンジには話さないでおいた。言えばきっと反対されるだろう。彼女はそう考えた。

 

 またバナーヌにはロッドの他に「不思議アイテム」がある。それを使わない手はない。この場合、使えそうなものは疾風のブーメランだろう。ゲルドキャニオンでの戦闘で、疾風のブーメランは敵の武器を剥ぎ取るのに大いに役立った。今回の戦いでも大いに役立つはずだ。だが、いくら疾風のブーメランであっても、敵をずっと混乱させ続けることはできないだろう……彼女は静かに言った。

 

「あと一手、何かが必要だ」

 

 バナーヌはそう言ってから、視線をモモンジの方へ向けた。それまでモモンジは静かに話を聞いていた。だが、彼女はここに来て何故か体をもじもじとさせていた。彼女の視線は泳いでいた。

 

 モモンジは何か、策を考えているな。バナーヌは直感した。彼女はモモンジに声をかけた。

 

「モモンジ、策があるのか」

 

 モモンジは変な声を上げた。

 

「えひゃいっ!? あ、はい! そうですとも! あ、違う! いいえ! 私は別に何も、何も考えていません……」

 

 モモンジの返答は支離滅裂だった。しかし、その心中に何か期することがあるのはその態度からして明白であった。

 

 すると、意外なところから声が上がった。それは、モモンジの柔らかな膝枕の上から発せられていた。声の主はヒコロクだった。

 

「おい、モモンジ。さっきから話を聞いていたが、お前には『アレ』があるじゃないか。とっておきの『アレ』がよ。なんで躊躇してるんだ。ほら、テッポ殿とバナーヌに教えてやれ」

 

 モモンジは再度驚いた。彼女はヒコロクが起きていたことに全く気付いていなかった。そして彼女は、ヒコロクに膝枕をしているのが急に恥ずかしくなってきた。今更止めるわけにもいかなかったので、彼女は我慢した。彼女は言った。

 

「ヒコロク先輩……起きてたんですね……お加減はいかがですか……?」

 

 ヒコロクは叱るような声を出した。

 

「バカ、そんなこと言ってる場合か。はやく『アレ』について話すんだよ。お前が『アレ』をぶちかませば、勝利は間違いないさ。それに……」

 

 ヒコロクはわざとらしく頭をぐりぐりと動かして、モモンジの若い柔らかな膝の感触を楽しんだ。彼は、わざとらしいふざけた声で言った。

 

「うちの女房のそれにゃ数等落ちるが、お前も将来有望な脚をしてるぜ。お前の膝枕、結構居心地よかった。ちょっとは回復したよ。少なくともお前たち三人がこれから戦いに出ている最中に、『哀れなヒコロクはひっそりと寂しく命を落としてました』なんて事態にはなるまい。ありがとよ」

 

 モモンジは涙ぐんだ。

 

「うう、ヒコロク先輩……」

 

 のんきなやり取りだった。それを見ていたバナーヌは「なんというか、モモンジはよく気を付けておかないと悪い男に騙されそうだな」と思った。

 

 テッポが口を開いた。

 

「それでモモンジ、その『アレ』ってなんなの?」

 

 モモンジは、すぐに答えなかった。彼女は二、三度、口を開いたり閉じたりを繰り返した。やがて、彼女は言葉を発した。

 

「……はい、テッポ殿。その『アレ』はですね、私の流派『密林仮面剣法オド・ルワ』の奥義の一つでして…………でもそれ、やるとなるとすごく恥ずかしいんですよね……まずは、これを顔に被るんです」 

 

 モモンジはポーチから何かを取り出した。それは仮面だった。その仮面は、イーガ団の逆さ涙目の紋様が刻まれた白い仮面ではなかった。それとは別の、凝った意匠の仮面だった。モモンジはそれを顔に装着した。

 

 その仮面は、異形そのものだった。テッポが息を呑んだ。

 

「うわ……その仮面、すごい迫力ね……」

 

 モモンジは「アレ」について説明を始めた。

 

 その数分後、テッポの表情は戦意に燃えていた。テッポは言った。

 

「良いわ、これなら完全勝利間違いなしね!」

 

 バナーヌもその青い瞳に闘志を宿らせていた。彼女は静かに、だが決然とした口調で言った。

 

「作戦開始は一時間後。軽く食事にしよう」

 

 モモンジが遠慮がちに口を開いた。

 

「せっかくですから、なんかこう、作戦名が欲しいですね」

 

 テッポが手をポンと叩いた。

 

「それもそうね……じゃあモモンジ、あなたの奥義にちなんで、作戦名は『オド・ルワの饗宴(きょうえん)』にしましょう!」

 

 

☆☆☆

 

 

 高原の馬宿の中は、一切の照明を落としていた。室内は薄暗く、物音一つなかった。店員たちは寝台で寝たり、矢を削ったり、弓に(つる)を張ったりしていた。

 

 宿長のジューザはテーブルの前に腰かけていた。彼は一人で考えに(ふけ)っていた。彼の手には、先ほどの外から撃ち込まれた矢文(やぶみ)があった。

 

 彼もまた、一個のイーガ団員であった。できることなら、仲間は救いたい。彼はそう思っていた。だが、彼の冷徹な利害計算能力は、仲間一人の命よりも馬宿のほうをより重く見ていた。仲間を見捨てようが、それによって不名誉を(こうむ)ろうが、馬宿を失うよりははるかにマシだ。彼はテーブルを指でこつこつと叩いた。

 

 ここ最近、ジューザは馬宿協会から疑いの目で見られるようになっていた。ソエの婆さんが密告(チンコロ)したに違いない。彼はそう考えていた。ソエの婆さんは、馬宿協会の本部に「ジューザは素性(すじょう)定かならぬ客に特別に便宜を図っており、『利用客に公正で平等なサービスを提供する』という協会の理念をないがしろにしている……」とかなんとか、そういう手紙を送ったのだろう。

 

 あの婆さんは遊牧民の血を引いているらしい。若い頃は女だてらに魔物を討伐して回っていたそうだ。油断のできない婆さんだ。なんでそんな婆さんが俺の馬宿にいるんだ。ジューザは内心で毒づいた。

 

 さすがに、彼がイーガ団員であるいうことはまだバレてはいないようだった。だが、それが露見するのも案外近いのかもしれない。ジューザは苦々しく思った。ソエの婆さんは腰痛が悪化したために、今はオルディン地方の温泉へ息子たちと湯治に出かけている。運が良かった。もしこんな時に婆さんがいたら、きっと俺は宿長不適格者として馬宿から追い出されただろう。それはイーガ団フィローネ支部のメンツを潰すことだ。そして俺のキャリアも終了する。

 

 ここは何としてでも「事なかれ主義」を貫かねばならない。下手に戦いを挑んで馬宿に損害を出すわけにはいかないのだ。つけ入れられる隙を生んではならない……可哀そうだが、あのはりきり屋のヒコロクと、剣術馬鹿のモモンジは見捨てよう。

 

 そこまで彼が考えた、その時だった。彼の聴覚はその時、何か異様な音を聞き取った。その音は馬宿の外と、馬宿の入口あたりで響いていた。

 

 彼はそれとほぼ同時に、外から響いてくる魔物たちの叫び声を聞いた。どことなく、悲鳴のような叫び声だった。

 

 また、入口付近から音がした。ぶーんぶーんという、どこかで聞いたことのあるような、ゾワゾワと肌を泡立たせるような不快な音だった。

 

 彼はちょっとだけ考えた。そして、彼はすぐに気が付いた。これは羽音だ!

 

 ジューザは勢い良く椅子から立ち上がった。彼は近くにいる店員に鋭く声をかけた。

 

「おい! なんだこの羽音は! おい、お前、ちょっと外を見てこい!」

 

 店員は答えた。

 

「へいっ!」

 

 店員はおっかなびっくりという風に歩いていった。店員は、入口を塞いでいる大盾から顔を覗かせた。そして「あっ!」と一声叫ぶと、店員は後ろに倒れた。

 

 次の瞬間、馬宿の中へ何か無数の小さなものが一丸(いちがん)となって侵入してきた。それは瞬く間に馬宿内部の狭い空間に充満した。

 

 ブンッと飛んできた何かが、ジューザの二の腕を刺した。彼は焼け火箸(ひばし)を押し付けられたような熱い感触を覚えた。

 

 これは、間違いない……! 怖れの混ざった声で、ジューザは叫んだ。

 

「なんでガンバリバチがこんなにいるんだっ!?」

 

 馬宿の内部を、ガンバリバチの大群が所狭しと乱舞していた。虫たちは(いかり)り狂っていた。

 

 静穏に包まれていた高原の馬宿は、瞬時にして阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷と化した。




 今回の話を書くためにブレワイを起動して色々なことを確認しに行きました。
 雨の中で火薬樽は爆発するのか、しないのか。雨の中で火薬樽にメテオロッドで火球をぶつけても爆発するのか、しないのか。雨の中でバクダン矢は爆発するのか。
 いずれも「確か爆発しなかったはず」と覚えていたのですが、しかしこういうところでのディティールが甘いと完成度が低くなってしまいます。私はバイクに乗り、火薬樽のある各地を巡り、雨を待ち、降らないから他の地域へワープをし、タバンタヘラジカを狩り、ライネルとバトルし、イワロック先輩からお金を引き出し、新婚旅行中の若奥様に焼きリンゴを押し売りし、コログを探し回っていました。当初の目的はすっかり忘れられました。
 結局、一番検証に適していたのはサイハテノ島でした。あそこは定期的に雷雨が来ます。そこで判明したのは、やはり雨の中では火薬樽は投げても爆発せず、また雨の中で火薬樽に火球を放っても爆発しない、という事実でした。
 ここで火薬樽が爆発するのなら、テッポが火のついていない爆弾をバラまき、それにバナーヌが火球をぶつけて爆発させる、なんて作戦が考えられるのですが、原作でそれができないなら、やはり『バナナ』においてもできません。

※加筆修正しました。(2023/05/12/金)


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第四十話 モモンジは服を脱いだ

 言うまでもない。百年前の大厄災により、各地の神殿は滅び去った。学識ある神官は消え失せ、清らかな祈りを捧げる巫女たちは姿を消した。

 

 だが、ハイラル開闢(かいびゃく)の神話は未だに滅んでいない。その文言は今もなお人々の記憶のうちに存続している。

 

「世に(ことわり)なく、命未だ形なさず。混沌の地ハイラルに黄金の三大神、降臨す。三大神とはすなわち、力の女神ディン、知恵の女神ネール、勇気の女神フロル。ディン、その炎の(かいな)を以て地を固め、耕し、創造し、ネール、その叡智を大地に注ぎて世界に(のり)を与え、フロル、その豊かな心によりて法を守りし全ての命を創造せり」

 

 そう、神々は大地と、この世を動かす(ことわり)にして法則である(のり)と、なにより命を、我々に与え(たも)うた。それは、ハイラルに生きるありとあらゆる生命が互いに手を取り合って、安寧と協和と慈愛のうちにまた新たなる生命を産み、育むことを願ってのことであっただろう。

 

 事実、ハイリア人は、また他の種族は、この大地が生み出すありとあらゆる生命を利用し、また新たなる生命を生み出していった。たとえば、人は野を走る馬に(くら)手綱(たづな)とハミをつけたことで「速さ」を得た。人は、平原でのっそりと草を食む野生のウシやヒツジやヤギ共を柵で囲い、飼料を与え、乳と肉を得た。人は、ほうぼうに点々と生えていた果樹を植え替え、交配させ、甘く大きな果実を楽しむようになった。

 

 動物も植物も、いや魚までも、すべてがハイリア人のために存在しているようだった。より正確に言えば、ハイリア人がそれらを()()()()()()()()()()()改良・改造したのだった。

 

 では、と訊く者があるかもしれない。虫はどうだろうか、と。ヤンマ、アゲハ、バッタ、カブトといった虫はどうであるか。大地に跋扈(ばっこ)し、地を這い空を覆い、鮮やかな体色と繊細な体構造で人々の目を楽しませる虫たちを、ハイリア人はどのように利用してきたのだろうか。

 

 なるほど、虫も神々が作り給うた生命に違いない。そして我々はこれまで虫を利用して生きてきたし、今も利用している。

 

 それどころか大厄災以降、ますます人が虫を利用する度合いは増している。かつては城下町や村々に必ず薬局があり、そこには専門的な修練を積んだ薬剤師たちがいた。それらが消え去った今、我々は自分たちの力と知恵で薬を調達しなければならない。冒険者を志す者にとって、一番に学ぶべき事柄は剣と盾を自在に操ることであり、二番目に学ぶべき事柄は虫と薬の調合の知識である。

 

 しかしながら、ハイラルにおける虫利用の歴史を見てみると、それは断絶と復活の連続であったように思われる。

 

 もはや神話と言っても良い時代、我々の祖先が天空に浮かぶ都市に住まい、過酷な地上と凶悪な魔族たちから難を逃れていた時代のことであるが、祖先たちは実によく虫を活用したと伝えられている。王立図書館が保管している古文書の中にはクスリ調合のレシピについて書かれたものがある。例えば、あの有名な騎士セバスンが愛飲したと伝えられている滋養強壮薬「ガンバオール」について、アリン著『クスリ調合に関する覚書』は以下のように述べている。

 

「……瑞々(みずみず)しく色つやの良いがんばりの実を十個収穫し、丁寧に皮を剥いてサイコロ状に切る。切ったものを大鍋で三日間、とろ火で煮詰める。適宜(てきぎ)新鮮な水とコショウを加えること。煮詰めた液を壺につめ、二週間冷暗(れいあん)所にて保管する。こうしてガンバオールの原液ができあがる。これに、いずれも羽根をむしったマグテントウを三匹、ロフトクワガタを二匹、ゲルドオニヤンマを二匹、フィロホッパーを一匹を加え、また大鍋で煮詰める。火は強火にすること。常にかき混ぜること……なお、調合には体力を必要とするため、調合者が夜泣きをする赤ん坊を抱えている場合には、日中の仕事のための体力をいかにして確保するかが重要な問題となる……」

 

 ガンバオールの値段は、資料によって異なるが、だいたい二十ルピーから五十ルピーだったようだ。かなりの安値であるといえるが、素材となる昆虫は調合を依頼した者が持参する必要があったので、いずれにしても薬を手に入れるのは容易ではなかっただろう。

 

 また、他の古文書によると、ある天空の島には虫だけを集めた「虫の島」があったとも伝えられる。かのセバスンと騎士学校において同窓だったオストと呼ばれる人物は、虫の収集に尋常ならざる興味を持ち、天空に浮かぶ島を丸々一つ虫のための場所として開拓し、いわば巨大な虫駕籠としたという。

 

 オストは、単なる好奇心とコレクション欲からではなく、虫が人々の生活にとってより役立つものとなるように、自身の知的能力を働かせた。(もっと)も、そんな彼も学生時代はただの収集家に過ぎなかったとも一書にはいう。ともあれ、彼は地上に降りた後、ハイラル各地を巡り昆虫を収集した。彼は昆虫の標本を作成し、昆虫の生態と構造を観察した上で、それらの体系的な分類法を発明した。彼はその研究の成果を『大地世界における昆虫の生態と分類』という大事典として纏めた。残念ながらこの書は現在においては散逸し、断片という形でしか残存していない。

 

 このように、天空時代において虫は大いに利用され研究されていたけれども、しかしながらハイリア人が大地に降りて王国を建設し、そしてそのまま時代が下るにつれて、ハイリア人は次第に虫を薬として扱わないようになった。虫は装飾や造形や絵画のモチーフとして、また鑑賞用として、もしくは釣り餌として大いに利用されたが、天空時代の薬学の伝統と知識は忽然と姿を消してしまった。

 

 その原因は定かではないが、一説によれば「キノコの発見」がその一因であるという。ハイリア人が大地に降りた時、彼らを驚かせたのは小さな鳥たちであった。天空都市には人が乗れるような大きな鳥、ロフトバードしか鳥類がいなかったからである。だが、それよりも彼らを驚かせたのは、地を埋め尽くさんばかりに乱れ生える大きなキノコであったという。彼らはさっそくキノコを食べものとして、また薬として利用し始めた。キノコの胞子を利用した薬の調合は、虫を使った場合と比較して時間的にも費用的にも、また素材収集の労力的にも遥かに容易であった。ゆえに、王国の薬学は自然の流れとして虫ではなくキノコを基礎としたものとなった、とその説はいう。

 

 実際、天空時代以降の薬剤師のシンボルは「大釜(おおがま)と毒々しい色合いのキノコ」となっている。虫はそこに描かれていない。むしろ虫は、キノコを食害する悪しき存在として迫害されていた(ふし)もある。

 

 しかし、歴史とは継続的、持続的、段階的な発展をするものではない。歴史とは衰退と復活、断絶と再発見の繰り返しによって展開するものであるのだ。このことは虫利用の歴史に特に当てはまる。

 

 虫がリバイバルを果たしたのは、ある女性研究者の手によってであった。その女性研究者の名はアゲハといった。彼女は、その幼少期においては「虫さん王国のプリンセス」を自称していた。それほどまでに彼女は虫好きであった。彼女こそはハイラル王国史上初の女性昆虫学者であった。彼女は、天空出身の昆虫学者オスト以来断絶していた、体系的な昆虫研究を復興させた。

 

 伝説において、アゲハは勇者との関係によって特に有名である。勇者は彼女のためにハイラル各地でひっそりと生息する黄金の虫を集め、莫大なルピーをその引き換えとして受け取っていたと言われている。勇者を影で資金援助した彼女の功績は数々の歴史書において触れられている。しかし、彼女の昆虫研究についてはこれまでほとんどの歴史研究者から等閑に付されてきた。

 

 アゲハは膨大な標本のコレクションを残した。また、彼女は昆虫の新分類法を考案した。それらもさることながら、彼女の一番大きな功績は、「虫の薬学的価値」を再発見したことである。

 

 アゲハはハイラル城下町にたった一人で住んでいたと言われている。彼女の両親については一切が不明である。幼少期にして彼女はすでに莫大な資産を有していた。そのことから、彼女は貴族か大商人に連なる血筋だったのではないかと推測されるが、定かなことは分からない。

 

 彼女には友人らしい友人もおらず、日の出から日没まで城壁の外で一人昆虫採集をする日々を送っていた。そんな彼女に、ある日、転機が訪れた。当時、ハイラル全土に店舗を出店していた「ショップ王」マロより、高品質の薬品を安価かつ大量に生産することについて彼女は相談を受けたのだった。

 

 マロの相談は、実のところは城下町随一の資産家であるアゲハに、製薬という新事業のための融資を依頼するものであったらしい。だが彼女が興味をそそられたのはルピーについてではなかった。マロが何気なく放った一言、「新技術として昆虫を活用した製薬を導入する計画を立てている」という言葉に彼女は関心を持った。マロは読書家としても知られていた。彼は事業経営の傍ら王立図書館の蔵書を読み漁り、新たな商売のタネを熱心に探究する人物であった。どうやら彼は、例のオストの大事典の断片を読んでいたようだ。

 

 融資に関しては冷淡な態度を取っていたアゲハだったが、マロのその言葉にはいたく興味を刺激された。彼女はその場で協力を約束した。彼女は新設された「マロマート製薬部門」所属の研究者として、昆虫研究に従事するようになった。彼女の膨大な昆虫研究の成果のほとんどは、このマロマート所属時代に生み出されたものである。このマロマートこそが、ハイラル全土に再び昆虫製剤を広めたのであった。

 

 これまでの歴史学者は昆虫製薬の復興という功績をマロという傑出した経営者と、マロマートという巨大企業に()していたけれども、マロマート製薬部門の研究記録を丹念に読めば、真の功労者がアゲハであることは一目瞭然であろう。

 

 そしてもう一つ、アゲハが残した偉大な遺産がある。それは養蜂技術である。

 

 アゲハにとっては昆虫すべてが素晴らしかったものであったが、そんな彼女が「最も素晴らしい昆虫の一つ」として称賛したのが、ガンバリバチであった。奇矯な文体の彼女の日記には、折に触れてガンバリバチの有用性について書かれている。

 

「……ああ、ガンバリバチさん、ガンバリバチさん。あなたたちのその蜂球(ほうきゅう)で蒸し焼きにされてみたい……(中略)……かねてよりハチミツの栄養学的・薬学的価値については指摘されているが、その供給源であるハイリアオオスズメバチさんは非常に危険な存在である。ハイリアオオスズメバチさんの性質は凶暴そのもので、その針は鋭く、毒も極めて強い。一方、ガンバリバチさんは比較的性質が穏やかで、巣から収穫できるハチミツの量も多い。マロ氏には次の会合の際、ガンバリバチさんを用いた養蜂技術の開発について提案するつもりだ……」

 

 この日記の記述から数年後に、マロマートは王室へ養蜂で得たガンバリバチのハチミツを献上している。以来、ハイラル全土ににわかなハチミツブームが到来した。マロマートの巧みな宣伝戦略により、ハチミツは天然の滋養強壮剤として人々から見なされるようになった。ハチミツは皮膚病から(かたな)傷にまで使える万能薬であり、蘇生薬であり、さらには毛生え薬としても使える……そのように称揚された。

 

 ハチミツクレープ、ハチミツアメ、ケモノ肉のハチミツ焼き、ハチミツミルクティー……ハチミツを用いた料理が数多く考案され、人々の舌を楽しませた。

 

 その贅美(ぜいび)な生活で有名であったある大臣は、毛髪の薄いことを唯一の悩みとしていた。大臣はガンバリバチのハチミツが増毛に効果的である話を聞くと、大金を投じてハチミツを買い集めた。彼は毎日ハチミツを頭部に塗って登城したと伝えられている。

 

 これらのハチミツブームは、アゲハがいなければ決して起きなかった。彼女はまさに、ハイラルにおける養蜂の母といって良いだろう。

 

 百年前の大厄災以前のハイラルにおいてもなお、養蜂事業は盛んであった。中央ハイラル地方では、メーベの町が養蜂の拠点として特に有名であった。また、寒村の多いアッカレ地方の数少ない高級輸出品の一つがハチミツであった。だが、他種族へと養蜂技術が伝播(でんぱ)する前に、ハイラル王国はあの惨事を迎えてしまった。養蜂技術も壊滅した。

 

 今現在、養蜂技術は失われたままである、それでもガンバリバチのハチミツを求めて各地を放浪する者が後を絶たない。キビ砂糖よりも強烈に甘く、ガンバリダケよりも猛烈なスタミナ源となるハチミツは、まさに天然のご馳走だ。平原外れの馬宿においてはガンバリバチのハチミツのクレープがサービスの目玉となっている。また冒険者にとってハチミツは、高価であるが、あらゆる困難を乗り越える原動力となる食材として珍重されている。

 

 しかし、誰が知るであろうか、このハチミツを生み出すガンバリバチが隠している、もう一つの事実を。あの小さくて愛らしい、脚を花粉と蜜でまっ黄色にしてせかせかと飛び回る生き物たちは、厄災の眷属(けんぞく)にして尖兵たる凶暴なボコブリンたちを、問答無用で恐慌状態に陥れるのだ。

 

 決して人間に靡かないが、最も人間の役に立つ昆虫、それがガンバリバチだといえるかもしれない。

 

 

☆☆☆

 

 

 その者は、そっと遠くから高原の馬宿を窺っていた。その者は草むらに伏せていた。伏せつつも、しかし視界が得られるような高所にその者は潜んでいた。

 

 天候は雨だった。夜明け頃からポツポツと降り始めた小雨は今では本降りとなっていた。その者が身に纏うシーカー族の忍び装束を雨はしとどに濡らした。忍び装束の(そで)から滝のように水滴が落ちていた。

 

 丈高い草の葉の裏に、巣に戻り損ねた一匹のガンバリバチがしがみついていた。健気な虫は灰色の空から襲い掛かる大粒の雨を必死に耐えていた。

 

 その者は、ふと、あの奇怪な顔と体をした魔物研究者の言葉を思い出した。

 

「……そのボコブリンマスクですが、まだ試作品です。完璧ではないのです。形と色を完璧に再現できなかったのです。ボコブリンの肝から抽出した香料でごまかしてあります。万が一、そのにおいが薄れたら、ボコブリンたちはあなたが偽モノであることに勘づくかもしれません。まあ、あなたはマスクなしでも魔物をどうにかできる力がありますが、それでも雨の時にはマスクを脱いでおいた方が賢明でしょう……」

 

 そっと、音を立てずにその者はマスクを脱いだ。マスクの下から最初に出てきたのは、黒く長い(まげ)だった。その次に、顔が出てきた。その顔貌(がんぼう)は端整そのものだった。しかし、目つきは斬るように鋭かった。なにより、右頬から首筋にかけて走った刀傷の跡が、凄愴(せいそう)な雰囲気を醸し出していた。傷跡によって、顔は却って美しくなっていた。

 

 その顔を見る者は、はたしてその者が男であるのか女であるのか、容易に判断がつかないであろう。男にしても美しく、女にしても美しい。しかし、その肌の色ときめの細かさ、そしてその桃色の唇の鮮やかさと繊細な鼻筋を見れば、その者が女であることが分かるだろう。だが、その顔を見てしまった者は、女によってたちどころに命を奪われるであろう。

 

 彼女は微動だにしなかった。マスクをポーチにしまった後も、彼女は相変わらずその鋭い視線を馬宿と魔物たちへ注ぎ続けて、観察をしていた。

 

 彼女に授けられた任務は二つだった。一つは、フィローネ支部のバナナ輸送を適宜(てきぎ)妨害することであった。しかし、「輸送が不可能になるほどまでには追い込まないこと」とも彼女は命令されていた。

 

 彼女はもう一人の仲間と共に、ここ数日の間それを忠実に実行してきた。彼女はシーカー族の忍び装束を身につけ、ハイリア大橋付近で輸送馬車の車列へ向かってクナイを投げつけた。彼女はさらに、車列へ魔物を(けしか)けた。フィローネ支部の輸送指揮官は面白いように狼狽(ろうばい)した。だが、彼女はまったく面白くはなかった。面白がって任務をするような習慣は、彼女にはなかった。

 

 車列を守っていた小さな黒髪の団員が、もう一人の仲間を追っていった。小さな団員と仲間はハイリア大橋を渡って向こうへ行ってしまった。それを見届けた後、彼女は密かにその場に留まって、輸送車列の損害状況を確認した。馬が何頭か傷ついているのが彼女には見えた。おそらく彼らは、フィローネ支部の馬供給地であるアラフラ平原の「高原の馬宿」へ代替馬を調達しに行くだろう。彼女はそう考えた。その前に先回りして、ひとつ魔物たちを手懐けておかねばならない……彼女は平原へと走った。

 

 アラフラ平原には、ちょうど魔物たちが大挙集結しているところだった。もともと魔物を操ることにかけては随一の腕前を持つ彼女であった。この任務の前に調達したボコブリンマスクが、仕事をさらに容易にした。ほどなくして、魔物たちは彼女の意のままに従うようになった。

 

 彼女は準備を整えた。彼女は、威力偵察を兼ねて高原の馬宿を魔物たちに襲撃させた。馬宿の中から、イーガ団員が二人飛び出してきて、元気よく戦い始めた。情報によれば、あれはフィローネ支部の一般団員ヒコロクとモモンジだ。彼女はそう思った。予想したとおり、馬を調達に来たのだろう。

 

 それにしても、「輸送任務遂行が不可能にならない程度に」力加減をするのは難しかった。雨を浴びつつ、草むらの中に潜んでいる彼女は、溜息をついた。彼らには馬を手に入れてもらわなければならない。しかし、それが非常に困難になるようにこちらが手を加えて調整しなければならない……結局、彼女が採った手段は単純だった。彼女は、「二人のイーガ団員のどちらか片方を戦闘不能に追い込む」ことを選んだ。

 

 その日の夜になって、彼女に立ち向かってきたのはモモンジとかいう団員だった。モモンジは、(はた)から見ても分かるほど素晴らしい剣の技量を有していた。真っ向から戦うのは少し危ないと彼女は考えた。彼女はバナナを投げつけることにした。イーガ団員ならばバナナを目にして動きを止めないわけがない。その隙をつこう。彼女はそう思った。

 

 しかし、モモンジが見せた反応は予想外だった。バナナを目にしたモモンジは、バナナに飛びつくわけでもバナナを食べ始めるわけでもなく、なぜかその場に立ち尽くしてしまった。それでも、隙は隙だった。彼女はモモンジに斬りかかった。それを、ヒコロクとかいう若い男の団員が身を挺して庇った。彼女にとってはそのことも予想外だった。だが、彼女は目的を達した。ヒコロクは腹部を斬られた。

 

 まったく、彼らを褒めてやりたい。彼女はそう思った。任務に精励し、魔物の大群と戦い、命がけで仲間を(かば)うとは! カルサー谷の仲間のために遠くフィローネの密林からツルギバナナを、艱難(かんなん)辛苦の数々を乗り越えて届けようというとは、まったく、褒めてやりたい! 彼女は少しだけ口の端を歪めた。

 

 本当に、()()()()()()()()()()誇らしい!

 

 彼女は、任務を言い渡された時のことを思い起こした。あの方、あの美しくも恐ろしい上級幹部であるウカミ様は、あの日、自分ともう一人の仲間を呼び出した……そして、ウカミは彼女ら二人に二つの任務を授けた。

 

「ご苦労だけど、これから二人ともちょっとカルサー谷から出かけて、フィローネ支部のバナナ輸送馬車に軽く『ちょっかい』を出してきてちょうだい。彼らがウンザリするくらい徹底的にちょっかいをかけるのよ。そう、『もうこんな任務なんて嫌だ、カルサー谷の奴らのために、なんで俺たちがこんなに苦労をしないといけないんだ』って思わせるほどに、彼らを滅茶苦茶に妨害してやるのよ。でも、皆殺しにしたり、馬車を破壊したりしてはダメ。バナナは運ばれなければならないわ。()()()も新鮮なバナナを欲しがっているし、それにカルサー谷のみんなも、そろそろバナナ欠乏症で限界に近いしね」

 

 ウカミの意図が奈辺(なへん)にあるのか、彼女には皆目見当がつかなかった。なぜ、わざわざ味方を妨害しなければならないのか? 何も分からないまま任務に出るわけにもいかなかった。彼女は意を決してウカミにそのことを訊ねた。ウカミはうっとりと見惚れるような、そういう柔和な笑みを浮かべて、言った。

 

「これはね、フィローネ支部の忠誠心を試すためなのよ」

 

 ウカミはそれ以上のことは言わなかった。彼女は考えた。数々の妨害にめげずに輸送任務を完遂するならば、それはフィローネ支部の忠誠心が高いということの証明になる。それをウカミ様は知りたいのだろうか? しかし、それならばもっと他に穏当なやり方があるだろう。なぜ、わざわざ彼らの憎悪をかき立てるようなことをするのか? おそらく、別に何らかの意図が込められている。たぶんに高度な政治的な意図が、きっとそこにある。しかし、それが具体的に何であるのかまでは分からない……そもそもウカミ様が何を考えているのか、側近のサミでさえ理解できないらしい。

 

 それに、そんなことを忖度(そんたく)する必要はないのだ。彼女は考え直した。彼女は自身を、主であるウカミの目であり耳であり、そして首刈り刀であると思っていた。感覚器官や道具が、その持ち主の思考や感情を理解できるわけがない。彼女はそう思っていた。

 

 なおも彼女は雨に打たれつつ馬宿を観察した。その入口は大盾で塞がれていた。内部の照明は落とされていた。馬宿は、誰もいないかのようにひっそりと静まりかえっていた。一方で、馬宿を囲んでいる魔物たちは雨を浴びて喜んでいた。何が楽しいのか、輪になって踊り出している魔物もいた。馬鹿なやつらだ。彼女はそう思った。だが、馬鹿であるからこそ操りがいがある……

 

 次に、彼女は遠くの疎林へと目をやった。あそこには、手傷を負わせたヒコロクとその仲間モモンジがいる。それから、その二人を救援するためにやってきた、フィローネ支部幹部ハッパの娘であるテッポと、それからバナーヌがいるだろう……

 

 そう、あのバナーヌがいる! 彼女の目が激情によって輝いた。忍ぶ者としては鮮やかすぎるほどに美しい金髪のポニーテール、湖面のように澄んだサファイアの碧眼、均整が取れつつも女性的な魅力に溢れた肢体……あの女、高い能力を持ちながらそれを生かすことなく、つまらないパシリの地位に甘んじている、あの女がいる! 彼女は奥歯を嚙み締めた。

 

 彼女は、バナーヌを観察しなければならなかった。彼女がウカミから授けられたもう一つの任務は、それだった。バナーヌの行動をよく観察し、細大漏らさず報告せよと、彼女は命じられた。

 

 ウカミの言葉が彼女の脳裏をよぎった。ウカミはあの時彼女へ、聞くものを陶然とした気持ちにさせる甘い声で言った。

 

「輸送馬車妨害以外に、もう一つあなたたちにやってもらうことがあるわ。今回の輸送作戦だけど、カルサー谷からは援軍としてバナーヌを送ることになったの。そう、あなたたちもよく知っている、あのバナーヌよ。真面目な彼女は、きっといつもどおり一生懸命、任務遂行に邁進(まいしん)してくれると思うんだけど……あなたたちには、彼女の様子をよく見てきて欲しいのよ。彼女の戦いぶりとか、仲間への接し方とか……そう、一番大事なのは彼女が使う『不思議アイテム』よ。彼女、このあいだの相撲大会でも『不思議アイテム』を使っていたでしょう? 重いブーツとか、ブレスレットとか……あれが、任務においてどういうふうに使われているか、それを見てきて欲しいのよ。どんな些細なことでも良いから、私に報告してちょうだい……」

 

 その理由について、彼女はウカミに問いかけた。ウカミは答えた。

 

「えっ? 『なんであの娘をそんなに気に掛けるのか』、ですって? あらやだ、あなたも可愛いわね。ふふふ……嫉妬してるんでしょ? えっ、違う? あら、それは残念ね……そうね、実を言うと私、最近あのバナーヌのことを考えると、なんだか胸がドキドキするのよ。ふとした時に、彼女の綺麗な金髪のポニーテールが脳裏をよぎって……もしかしたら、これは恋かもしれないわ。だからね、私はあの娘のことをもっとよく知りたいのよ。あら、大丈夫よ。たとえ私がバナーヌに恋をしちゃったとしても、あなたたちのことはずっと大好きなままだから……」

 

 疎林から視線を外すと、彼女は思案のためにそっと目を伏せた。バナーヌと彼女は、知らない仲ではなかった。むしろ、彼女はバナーヌをよく知っていた。幼い頃の過酷な養成訓練において、彼女はバナーヌと成績を競い合ったものだった。彼女の未熟な過去を知っているのは、バナーヌだった。

 

 夜明け前に行われたあの戦闘では、モモンジとテッポが水際(みずぎわ)だった戦いぶりを見せた。だが、その一方でバナーヌはもっぱら弓矢での援護に徹していた。バナーヌはあの時、「不思議アイテム」をまったく使わなかった。

 

 しかしその時は近いだろう。彼女はそう考えた。バナーヌたちは必ず、あの馬宿の包囲を解きにやって来るはずだ。その時バナーヌは必ず、何らかの形で「不思議アイテム」を使うだろう。それを絶対に見逃してはならない。ウカミ様のために、すべてを見なければならない。ウカミ様に、失望されるわけにはいかない。それは死よりも恐ろしいことだ……

 

 すると突然、馬宿から騒音と悲鳴が聞こえてきた。彼女は思考に沈んでいた意識を、瞬時にして現実へと戻した。

 

 彼女が目をやると、馬宿周辺は大混乱に陥っていた。ボコブリンたちに、濃密な黒い(もや)のようなガンバリバチの大群が襲い掛かっていた。魔物たちは情けない悲鳴を上げて、狂乱を極めて逃げ回っていた。ガンバリバチは馬宿の内部にも侵入しているようで、中からは人間の叫び声が聞こえてきた。

 

 そこから少し離れた場所に、桃色の髪の毛のモモンジがいた。モモンジは醜怪な造形の仮面を顔につけていた。その体には、奇妙な紋様が描かれていた。モモンジは、曰く形容しがたい奇妙な踊りをしていた。

 

 次の瞬間、黒い影が二つ、モモンジの両脇からマックストカゲが疾走するように飛び出した。

 

 間違いない。バナーヌたちが行動に出たな。彼女は一段と目を鋭くさせた。これから起こることを、一つとして見逃すまい。彼女は改めて気を引き締め直した。

 

 

☆☆☆

 

 

 時間は、やや前に(さかのぼ)る。疎林の中でバナーヌとテッポは、ヒコロクが「勝利確実」と言うところのモモンジの「アレ」について、説明を受けようとしていた。

 

 テッポが口を開いた。

 

「それでモモンジ、その『アレ』ってなんなの?」

 

 モモンジは答えた。

 

「……はい、テッポ殿。その『アレ』はですね、私の流派『密林仮面剣法オド・ルワ』の奥義の一つでして…………でもそれ、やるとなるとすごく恥ずかしいんですよね……まずは、これを顔に被るんです」

 

 モモンジはポーチから仮面を取り出した。その仮面は、イーガ団の逆さ涙目の紋様が刻まれた白い仮面とは別のものだった。その仮面は凝った意匠だった。

 

 凝っているというよりも、それは、明らかに異様だった。仮面はどことなく(うるお)いを帯びていて、まるで生きているような質感があった。仮面の上部には、頭髪を模したと思われる三本の飾りがついており、それは赤、青、黄、緑の四色の段々模様に彩色されていた。目が刻まれていた。目は半月形で、急角度を描いて吊り上がっていた。怒っているような、同時に悲しんでいるような、そんな印象を与える目だった。目の下には黄色の顔料で二筋のドーランが塗られていた。口はわなないているように開かれていた。口には牙がギザギザ模様に刻み込まれていた。

 

 なにより目を惹くのは、両頬の辺りにある突起部だった。その先端には、銀ルピーのような宝石がつけられていた。耳を模したものであった。

 

 テッポはその仮面を見て息を呑んだ。バナーヌも表情には出さなかったが、内心では非常に驚いていた。各地でいろいろなものを見てきた彼女も、このような仮面は見たことはなかった。

 

 仮面はその見た目に違わず重いようだった。モモンジは「よっと」と軽く声を上げると、首を軽く捻り、あたかも潜り込ませるようにして仮面を顔面に装着した。彼女は言った。

 

「ふう……やっぱりこの仮面、圧迫感が凄いな……これはですね、私の流派『密林仮面剣法オド・ルワ』の正統継承者が、代々大事に受け継いでいる仮面なんです。名前を『オド・ルワの亡骸』といいます。父からは『偉大なる開祖の亡骸だから大切に敬え』と言われましたが……まあ、たぶん嘘でしょう。これは仮面であって、亡骸ではありません。私はそう思っています。でも、大切な仮面です。というのは、この仮面を被らないと私は()()奥義が使えないからです……」

 

 話し続けるモモンジを、バナーヌとテッポは見つめていた。仮面は、まるで密林が抱え持つ暗黒の闇と熱のある殺気を具現化したようだった。その仮面の下から、モモンジの可愛らしい声が聞こえていた。仮面の上方からは、桃色の(まげ)がヤシの木のように飛び出していた。

 

 なんとも、アンバランスな有様だ。バナーヌはやや呆れた。仮面は、モモンジに全然似合っていなかった。バナーヌは言った。

 

「それで、奥義とはなんだ」

 

 バナーヌの問いに対して、モモンジが顔を向けてきた。凄まじい迫力だった。バナーヌは圧倒されるものを感じた。どんな魔物でもこの仮面を見たら逃げ出すのではないだろうか、などとバナーヌはぼんやりと思った。

 

 モモンジは答えた。

 

「その奥義の名前は、『ムシ・ゴウロ』というんです。術者がこの『オド・ルワの亡骸』を顔につけて特殊な舞いをすることで奥義は発動します。虚空から無数の虫を召喚して、敵に纏わりつかせるという奥義です。開祖はこの奥義を用いてフィローネの密林奥地で勇者を翻弄(ほんろう)した、なんていう伝承がありますけど……」

 

 テッポが口を挟んだ。

 

「虫を召喚する奥義なの? それって、凄い技だとは思うけど、でもただ虫を喚び出すだけじゃ『勝利確実』とは言えないんじゃない? 魔物たちはびっくりするかもしれないけど……」

 

 テッポが言い切る前に、バナーヌがそれを(さえぎ)った。

 

「いやテッポ、ガンバリバチだ」

 

 それを聞いて、テッポはポンと手を叩いた。

 

「あっ、そうか! 『ムシ・ゴウロ』でガンバリバチを呼び出せば、きっとボコブリンたちは大混乱するでしょうね! それは間違いないわ! あいつら、ガンバリバチ相手には手も足も出ないから!」

 

 モモンジが頷いた。仮面の両側から垂れている宝石が、ぶらぶらと揺れた。彼女は言った。

 

「そのとおりです、テッポ殿、バナーヌ先輩。『ムシ・ゴウロ』でガンバリバチを呼び出せば良いんです。この奥義では、術者が思い浮かべる虫を自在に喚び出すことができますから。私がガンバリバチを召喚して、それをボコブリンたちに襲い掛からせれば、それはまぎれもない奇襲になると思います。ただ欠点もいくつかあって……」

 

 テッポが言った。

 

「どんな欠点なの?」

 

 モモンジは答えた。

 

「一つは、奥義を発動するのに少し時間がかかるんです。決められた舞いをひとさし舞わないと、虫たちは出てきません。まあ、舞いそのものは恥ずかし……いえ単純なものですから、敵さえ近づけなければ問題はないと思います」

 

 テッポが言った。

 

「大丈夫、あなたが踊っている最中は私とバナーヌがあなたをしっかり守るから。他には?」

 

 モモンジは静かに話を続けた。

 

「もう一つは、この奥義が膨大なスタミナ(がんばり)を消費することです。一回虫を召喚するだけで、大回転斬りを限界まで発動した時と同じくらいのスタミナ(がんばり)を使います。その一回で出てくる虫の数は……そうですね、ガンバリバチなら小さな巣を落とした時とほぼ同じ数でしょうか……だから、三十匹のボコブリンたちをすっぽりと包み込むだけのガンバリバチを出すには、どうにかして途中でスタミナ(がんばり)を補給しないといけないんです」

 

 テッポは真剣に話を聞いていた。

 

「なるほど、スタミナ(がんばり)の補給ね……」

 

 テッポは腰のポーチに手を伸ばすと、その中から水色の紙で包装された何かを取り出した。彼女はそれをモモンジに差し出して、言った。

 

スタミナ(がんばり)の補給については問題ないわ。これは、ガンバリバチのハチミツアメよ。お父様がこの任務の前に持たせてくれたの。全部で十個はあるから、量としては充分じゃないかしら」

 

 モモンジは明るい声を上げた。

 

「あっ、ありがとうございます、テッポ殿! これだけあるならきっと大丈夫です!」

 

 しかし、テッポは疑問を口に出した。

 

「でも、その仮面をつけたままで口にアメを入れることができるの? いちいち仮面を脱がないといけないんだったら大変じゃない?」

 

 モモンジは答えた。

 

「その点については心配ご無用です。ほらこのとおり」

 

 そう言うなり、モモンジは手早くアメの包装を剥いた。剥き終わるや、彼女はあっという間に白いハチミツアメを口元に運んでいき、仮面の割れ目に押し込んでしまった。彼女はうっとりとしたような声を上げた。

 

「うーん、甘くて美味しい……脳が(とろ)けるほど甘いなぁ……あれ? テッポ殿、どうしましたか?」

 

 テッポが肩を震わせていた。テッポは幼い声で怒鳴った。

 

「モモンジのおバカ! 貴重な補給源を戦闘前に食べる人間がいますか! 貴重品なのよ!」

 

 モモンジは慌てたように答えた。

 

「はぅっ!? ごめんなさい、ごめんなさい! つい、いつもの癖で……」

 

 モモンジは何度もテッポに向けて頭を下げた。仮面の迫力とまったく釣り合わないその情けなさにテッポは毒気を抜かれた。気を取り直してテッポは言った。

 

「……まあ、いいわ。残った分でも充分足りるでしょう。懸念事項はこれで全部かしら?」

 

 モモンジは少し首を(かし)げながら言った。

 

「そうですね……そういえば、『あまりやり過ぎるな』と父からは言われました。『この奥義は、やり過ぎるととんでもないことになる』って……でも、『やり過ぎ』っていうのは具体的にどのあたりから『やり過ぎ』になるんでしょうね? それに、今は四の五の言ってられません。たぶん大丈夫でしょう、きっと」

 

 テッポは怪訝そうな表情を浮かべた。

 

「たぶん大丈夫って、そんなアバウトな……まあ、でも、本人がそう言うならそうなんでしょう。それで納得することにするわ。じゃあ、次は攻撃の段取りを……」

 

 ここで、黙って話を聞いていたバナーヌが疑問の声を上げた。

 

「いや待て、テッポ。まだある」

 

 テッポが答えた。 

 

「どうしたの、バナーヌ。なにか気になることがあるの?」

 

 バナーヌはモモンジの方へ顔を向けて言った。

 

「モモンジ、何か隠していることがあるだろう」

 

 バナーヌの青い視線を受けて、モモンジは狼狽(うろた)えたような声を上げた。

 

「えっ!? あの、バナーヌ先輩、その、それはですね……」

 

 テッポも口を開いた。

 

「そう言われれば……確かにそうね。そういえば、あなたは随分とこの奥義について話すのを渋っていたわ。『恥ずかしい』ってあなたは言っていたわね。さっき話してくれた二つの欠点は、話すのを渋るほどのものではなかった……ねえ、モモンジ。あなた、まだ何かを隠しているでしょう。いったい何を隠しているの?」

 

 心中を言い当てられたためか、モモンジはさらに動揺した。彼女は言った。

 

「ひぅっ!?……あの、えと、その……」

 

 仮面の下の彼女は表情は、おそらく青ざめているのに違いなかった。それでも彼女はなかなか口を割らなかった。

 

 ここで、モモンジに助け船を出す存在がいた。それは、先ほどからずっとモモンジの膝枕で休んでいたヒコロクだった。彼は言った。

 

「……まったくモモンジ、お前というやつは本当にしょうがねぇな。まあ、お前が恥ずかしがるのも分かるさ。俺もお前の立場だったら、お前と同じようにギリギリまで隠そうとしただろう。だが今は俺の命がかかっているんだ。俺の命だけじゃない、輸送馬車の命運もかかっている。一刻を争うんだ。頼むよ、二人に話してやってくれ」

 

 モモンジはなおも逡巡した。彼女は呻くような声を上げた。

 

「うう……」

 

 テッポがモモンジに優しく語りかけた。

 

「モモンジ、今はあなたの奥義だけが頼りなの。私たちイーガ団員は、目的のためならどんな屈辱にも耐えてみせると魔王様とバナナの神様に誓約をしているじゃない。だから、勇気を出さないといけないわ。さあ、私たちに話して。でも、それがどんなに恥ずかしいことであっても私たちは決して馬鹿にしないし、笑ったりもしない。仲間なんですから。だから安心して」

 

 テッポの言葉に同意するように、バナーヌも頷いた。

 

「うん。笑ったりしない」

 

 モモンジは、ついに決心したようだった。

 

「……はい、わかりました。二人とも、お心遣いありがとうございます。私も覚悟を決めました。ではヒコロク先輩、少しだけ向こうに行っていて下さい」

 

 ヒコロクは答えた。

 

「おう。お前の膝枕はもうおしまいか。ちょっと残念だな」

 

 モモンジはヒコロクを抱き抱えると、少し離れた木陰へ彼を運んでいき、横たえた。そしてモモンジはまた元の場所に戻った。彼女はおもむろに仮面を外し、大きく深呼吸した。

 

 そして、モモンジは服を脱いだ。白い肌がさらけ出された。

 

 テッポが素っ頓狂な声を上げた。

 

「ええっ!? なんで脱いでるの!?」

 

 理由の分からない行動にバナーヌも目を見開いていた。テッポは同じ言葉を繰り返した。

 

「モモンジ、なんで脱いでるの!? いや、なんで脱いでるの!? どうして脱いでるの!?」

 

 モモンジは申し訳なさそうに言った。

 

「すみませんテッポ殿。でも、服を脱ぐのはどうしても必要なことなんです」

 

 モモンジは忍びスーツを脱いだ。彼女は下着をも脱いだ。下着は彼女の髪と同じく、桃色だった。彼女の上半身は今や完全に素肌を露わにしていた。服の上から分かるほどに盛り上がっていたその胸部は、裸になるといっそう存在感を増していた。カエンバトのような見事なまでにふっくらとした胸だった。

 

 太陽光線が強く降り注ぐフィローネ地方に住まう人間でありながら、その肌は血管までもが透き通るように白く、きめ細やかで、まさしく玉の肌と形容し得るものだった。

 

 テッポが(ほう)けたように呟いた。

 

「お、大きいわね……形も良いわ……そして白い……」

 

 次にモモンジはポーチから小箱を一つと、巻物を一つ取り出した。手慣れた手つきで彼女は巻物を解いた。その動きによって、その大きな白い胸がチュチュゼリーのように揺れた。

 

 モモンジは、拡げた巻物をバナーヌとテッポの二人に示した。巻物には人間の上半身の表側と裏側が描かれていた。それぞれに、赤・青・黄・緑で彩色された複雑な図案が示されていた。

 

 モモンジは言った。

 

「隠していたのは、これです。奥義『ムシ・ゴウロ』の発動のためには、『オド・ルワの亡骸』を被り、踊りをすることに加えて、この巻物に描かれているとおりの紋様(もんよう)を体に描かなければならないんです。父はこの図と同じ紋様を体に刺青(いれずみ)していました。でも父は、私に刺青(いれずみ)を許しませんでした。父は『刺青でなくても化粧をすれば同じことだ。それに、この刺青(いれずみ)は入れる時に死ぬほど痛い。俺は自分の娘にそんな(つら)い思いをさせたくない』と言いました……」

 

 テッポはようやく得心したように頷いた。

 

「分かったわ。紋様を描くために上半身は裸にならないといけない。しかも異形の仮面をつけて、敵の前で踊らないといけない。男ならいざ知らず、女の子の身としてはこれはたしかに恥ずかしいでしょう」

 

 そんな気遣うような言葉に、モモンジは首を左右に振った。彼女はどこか力強い声で言った。

 

「いえ、テッポ殿。私も覚悟を決めました。それに今となっては、さっきまでこのことをお二人に隠そうとしていた自分が腹立たしく思えるんです。テッポ殿が言ったように、私たちイーガ団員は絶対的な忠誠を誓っています。私も恥ずかしいからと言って任務から逃げ出すようなことはしません。それに、ヒコロク先輩の命もかかっています……」

 

 普段は眠たげにやや目尻が垂れ下がっているその焦げ茶色の目は、強い決心の色で煌めいていた。モモンジはいったん言葉を切ると、力強い口調でバナーヌとテッポに言った。

 

「やります! 私、奥義『ムシ・ゴウロ』をなにがなんでもやり抜きます!」

 

 二人も、力強く首肯した。

 

「良いだろう」

「いいわ、やりましょう!」

 

 その時、疎林の中をひとつの冷たい風が吹き抜けた。突如襲い掛かった寒さに、モモンジは両腕を胸に回して身体を抱き締めた。その大きな白い胸がチュチュゼリーのようにふんわりと形を変えた。

 

 彼女はブルブルと震えて、可愛らしいくしゃみをした。

 

「……くしゅっ! うう、寒い……あの二人とも、このように覚悟は決まりましたので、どうかその図案のとおりに、私の体を化粧してください。この小箱に化粧のための筆と顔料は入ってますので……」

 

 モモンジの差し出す小箱を、二人は受け取った。二人は言った。

 

「ああ、うん……分かった」

「なんか、その、ごめんね……さあ、やりますか」

 

 それからしばらくの間、疎林の中は妙な空気に包まれた。三人の会話が響いた。

 

「あ、バナーヌ、そこ違うわよ! そこは緑色じゃなくて、黄色! それに、もっと鋭角に印をつけないと」

「こうか。ああ、分かった。一度拭き取って、描き直そう」

「ひゃぅっ!? もっと優しくしてください……そこ、敏感なところなので……」

「……うん。あっ、テッポ。その箇所は青色じゃない、緑色だ」

「あっ、間違えた……やり直さないと……拭きましょう」

「あうっ!? もうちょっと優しく拭き取って下さい……そこ、敏感なんです……」

「この模様は、他の部分よりも太い線で描かれてるわね。ちょうど大事な部分を隠しているし、力を入れて、こう、グイっと……」

「わひゃあっ!? あうう……そこ、そこは特に敏感な部分なんです……優しくして……」

「……胸は終わり。次は腹だ」

「だんだん慣れてきたわ。この分なら思ったよりも早く終わりそうね」

「うう……風邪をひきそうです……」

 

 三人から離れた場所にヒコロクは横になっていた。彼はわざと(いびき)を立てて寝入ったふりをしていた。

 

 風に嘯くように、彼は独り言ちた。

 

「良かったな、モモンジ。毎日毎日修行()けな上に、同年代の友人がいないから心配していたが……良い友達ができたじゃないか……」

 

 彼は言った。

 

「……勝ってくれよ」

 

 準備万端整えた三人が疎林を出たのは、それから小一時間ほどが経過してからだった。




 四十話に到達しました。これもひとえに読者の皆様の温かい応援と励ましがあってこそです。感謝申し上げます。
 虫が好きなアゲハ様が昆虫を薬学的に研究するようになるのか? かなり悩みましたが、虫のことならなんでも探究したいと願っているのが彼女ではないでしょうか。一つの解釈ということで大目に見ていただければ幸いです。
 今回執筆するに際してオドルワさんの亡骸と体の模様についていちいち参照しなければなりませんでした。しかし苦労して参照したことが生かされているかどうか……やはり絵を文章で表現するのは難しいです。

※加筆修正しました。(2023/05/13/土)
※タイトルを「素肌のモモンジと「オド・ルワ」の紋様」から「モモンジは服を脱いだ」変更しました。(2023/05/13/土)


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第四十一話 乱戦

 ダンスは歴史を動かすことができるのか。このことに関して、手がかりを与えてくれる伝承が残されている。

 

 それは、他種族と比較して文字と書物という記録媒体をさほど重視しないゴロン族の中にあって、一万年以上前の太古の昔より今日に至るまで伝えられている。

 

 伝承はゴロンの族長とハイリア人の少年について語っている。ゴロン族はデスマウンテンに住み、岩を食し、岩をくり抜いて住居とし、バクダン花を栽培して生活していた。彼らの生活は穏やかで平和だった。しかし、彼らはハイラル王国とはやや疎遠の仲であった。中でもゴロンの族長ダルニアはハイリア人に対して嫌悪感とまではいかないまでも、多少の不信感を持っていた。それは当時、ハイリア人が内戦に次ぐ内戦を繰り返しており、同族間での殺し合いで大地を血で汚していたからであった。「キョーダイ同士で殺し合いをするやつらなんで信用できないゴロ」というわけであった。

 

 ゴロン族の外交方針は「平和主義」という言葉ではっきり規定されるほどのものではなかった。それでも、とにかく族長ダルニアは戦争に明け暮れるハイリア人に対して、たとえそれが王家の使いであっても冷淡な態度をとっていた。彼は他種族の戦争に加担することを避けていた。無論これには、黒き砂漠の民によって彼らの食糧供給地であるドドンゴの洞窟が封鎖され、一族が食糧難に喘いでいる現状に彼が苛立っていたことも関係していただろう。

 

 ともあれ、巨岩の如く頑なな態度をとり続けるダルニアのもとに、ある日、一人の少年が王家の使者として訪ねてきた。緑の帽子と緑の服を着た少年は、優しい春の日差しのような柔らかな金髪をしていた。その青い目は可愛らしくも(りん)としたものであった。彼は青い燐光を放つ妖精と共にあった。その所作は、その年齢の子どもらしくどこか落ち着きのないものではあったが、それでも礼を失することはなかった。

 

 少年は誇り高きゴロンの族長ダルニアと対面し、要求を伝えた。当初、ダルニアが態度を改めることはなかった。むしろ「子どもを使者として寄越すとはハイラル王家はゴロン族を愚弄しているのか」と怒ったという。

 

 このままでは交渉どころではなかった。しかし少年は、弁明するでも逃げ帰るでもなく、おもむろにその懐から白く小さなオカリナを取り出した。少年は族長の前でオカリナの演奏を始めた。その音楽は軽快で、緑の生命力に溢れつつもしかし幾分かの寂しさを感じさせる、森の民の歌であったと伝えられている。

 

 音楽を聞いたダルニアは、自然と踊り出していた。彼は手を振り足を振り、全身を激しく揺り動かし、しかめ面だった顔を歓喜で満たした。少年の演奏に合わせて彼は満身でリズムを刻んだ。少年が連れていた妖精も二人のまわりをくるくると舞い踊り、美しい鱗粉を振りまいた。

 

 演奏もダンスも、そう長かったとは思えない。せいぜい半時間にも満たなかっただろう。それでも、その短い演奏の間に族長ダルニアの中で熱いビートが波打ち始めていた。やがて演奏が終わった時には、彼の冷え固まった溶岩のようなわだかまりは溶けて消えていた。

 

 かくしてダルニアは少年に心を開いた。また彼は、少年がドドンゴの洞窟を解放した後には、その勇気と豪胆とゴロン族への献身を讃えて少年を「キョーダイ」とまで呼んだ。さらには、その後に生まれた自分の息子に少年と同じ名前までつけたと伝えられている。その後のゴロン族がハイリア人に対して友好的な態度をとるようになったのは言うまでもないだろう。

 

 この伝承が象徴するように、ダンスこそは、種族の文化の精髄にして精華である。それは千軍万馬の大軍よりも、あるいは山のように積み上げられた色とりどりのルピーよりも強い力であり、財宝だった。

 

 実際、ハイラルに住まうすべての種族が、何らかの形でこのダンスという力と財宝を有している。例えばゾーラ族の王家の婚礼は、水中舞踊によって執り行われるのが伝統となっている。王女は自らの白いウロコを編み込んだゾーラの鎧を婚約者に贈り、婚約者はそれを着用する。結婚する二人は神父に誓約をしてから水中に入り、手を取り合いながら水中で優雅にダンスをし、最後には大きな滝を共に登る。滝登りは「これから二人を待ち受ける大きな困難すらも共に乗り越える」ということの象徴である。婚礼は再度の水中舞踊によって締めくくられる。

 

 またリト族は、元来詩歌(しいか)管弦(かんげん)に長けた種族であるが、彼らもまたダンスをする。戦士が一人前として認められる儀式の一環として、彼らは緊密な編隊を組み、そして編隊のままで空中を際どくも美しい軌跡を描いて飛行する。彼らはこれを単に「ダンス」と呼んでいるが、また他にも「ダンス」がある。それは求婚の作法に関するもので、男性女性を問わず求婚者はそれぞれの家に伝えられている舞いを空中にて披露する。あるハイリア人の著述家によれば、それは「王宮で催される舞踏会よりも素朴で、質素であるが、天空を駆ける種族としての誇りと生命力に溢れ、なにより愛情に満ちている」ものであるという。

 

 ゲルド族は(うたげ)の席にて、主催者自らが(つるぎ)の舞を披露することを最高のもてなしとしている。百年前のゲルドの英傑ウルボザは特にこの道に長じていたと伝えられている。また、シーカー族にも収穫の豊穣を祈念する伝統舞踊が存在する。開放的な木組みの舞台が特別に用意され、その上で若い娘が仮面をつけて、囃子(はやし)を供として荘重な舞いを披露する。

 

 このように、ハイリア人に限らずあらゆる種族がダンスという文化を有している。ゾーラ族においては婚礼の一様式であり、リト族においては通過儀礼であったりと、それぞれの種族のダンスはその内容と形式において違いはあるが、ダンスが各種族の伝統と同一性を保つ上での文化的コードという役目を果たしていることは共通している。

 

 では、魔物はどうであろうか? あの凶悪、蒙昧(もうあく)猛悪(もうあく)の権化、貪婪(どんらん)で醜怪な魔の一族は、我々のようなダンスという文化を有するのであろうか?

 

 魔物たちもそれを有している。ある研究者は魔物の生態を研究するため、ハイラル各地のボコブリンやリザルフォスの小拠点に潜入し、魔物の一日の行動を事細かに観察した。その調査の結果、「ボコブリンには明確にダンスと呼び得る行動様式があることが判明した」という。

 

 ボコブリンは狩りで獲物を得たあと、それを焚き火に掛けてワイルドに直火焼きをする。魔物たちはその収穫を祝うかのように火を囲んで一斉に踊り出すとその研究者は言う。また、川辺に棲むリザルフォスたちは漁を行う前と後で仲間と一緒に奇声を上げつつダンスのように身体を上下させ、気力を湧きたたせ、喜びの感情を露わにするともいう。

 

 このように見てみると、我々の種族であれ、または魔物であれ、あらゆる生命体は何らかの形でダンスをするものである、とまとめることができるかもしれない。

 

 だが惜しいかな、他種族はいざ知らず、ハイリア人のダンスの文化は今やこの大地と同じく滅亡の危機に瀕している。少なくとも、王宮の大広間で毎月催されていた舞踏会という伝統は、とうの昔に歴史の地層に埋もれてしまっている。かつての村々や集落でのカーニバルには、職業的なダンサーの一団が欠かせないものであった。村人たち自身もカーニバルにおいては時間を忘れて一日中踊り明かしたものだった。それも今では見る影もない。ダンスどころか、そもそもカーニバルそのものも祝われなくなってしまった。僅かにウオトリー村には大漁祈願と大漁感謝のダンスが存在するが、それも現在では後継者不足に喘いでいると伝えられている。

 

 ダンスとは、動作を用いて、その身体に秘められた生命力を表現する形式である。そうであるならば、ハイリア人からダンスが消え果ている今の状況とはまさしく、このハイラルから生命力が失われつつあることの証明ではないだろうか?

 

 もし、このハイラルに救いの導き手が降臨して、王城を取り囲むあの赤黒い怨念の密雲を払ったとしても、ハイリア人にダンスが戻ってくるまでは真に我々が復興を果たしたとは言えないのかもしれない。恐怖もなく、憂いもなく、焦燥感もなく、あたかもかの族長ダルニアが無邪気に少年の奏でる森の民の歌に身を任せたように、人々が歓喜の表情を顔に浮かべて、愛する者と手を取り合って踊り狂う。そういう光景を見ることができて初めて、我々は救われたのだと、我々は再生を果たしたのだと、胸を張って言うことができるのかもしれない。

 

 そして逆に、魔物が焼きケモノ肉を前にして踊り狂っている限り、また、厄災と魔王に忠誠を誓っている者たちが、そう、人々を恐怖と猜疑の渦に叩き落し、大地の恵みを不当にも収奪する者たちが、今はこの世の栄華を極めたと言わんばかりに、山盛りに盛り上げたツルギバナナを前にして踊り狂っている限り、このハイラルに真の平和と生命の歓びは絶対に戻ってこない。

 

 二つのダンスのうち、どちらかが必ず滅びる。その時はきっと近いうちにやってくるだろう。

 

 そして今、アラフラ平原にて、一人の若い女が邪悪なダンスのまさに最初のステップを踏みつつあった。

 

 ダンスが歴史を動かすことはないかもしれない。だが、少なくとも戦場は動かし得る。彼女はそう信じているかのようである。

 

 

☆☆☆

 

 

 モモンジの身体へ、無数の冷たい雨粒が刺さるように降り注いでいた。草原の冷涼な風はもはや寒風といってもよかった。油性の顔料で紋様を描いた彼女の肌に、寒風は容赦なく吹きつけた。

 

 だが、そのようなことは彼女にとっては些事(さじ)であった。彼女は精神を集中させていた。

 

 今、彼女は高原の馬宿のすぐ近くの草むらに身を隠していた。ここからは見えないが、彼女から少し距離を置いた左右にはテッポとバナーヌが伏せているはずだった。二人ともモモンジが踊り出して、奥義「ムシ・ゴウロ」が発動されるのを待っていた。

 

 モモンジは、顔に装着した重い「オド・ルワの亡骸」を再度(かぶ)り直した。ギザギザに刻まれた口の部分から彼女の白い息が漏れていた。気温は相当下がっているようだった。

 

 決戦の前だというのに、彼女は奇妙に落ち着いた気持ちになっていた。彼女はその心の奥底で、あるイメージを見つめていた。それが彼女に安心感をもたらしていた。

 

 それは、彼女の亡き父のイメージだった。厳しくも優しく、無口でぶっきらぼうだが、愛情に溢れていた父、全身にびっしりと刺青をした密林仮面剣法の先代にしてたった一人の師匠、たった一人の肉親、大好きだった父のイメージ……今回の作戦のためには父のイメージではなく、ガンバリバチのイメージを思い浮かべなければならなかった。モモンジはそれを分かっていたが、彼女の脳裏に浮かぶのは父のことばかりだった。

 

 ふと、モモンジはある出来事を思い出した。それは彼女がまだ幼児を脱したばかりの頃、ようやく木刀が持てるようになった頃のことだった。彼女が父から剣の稽古をつけてもらうようになってからほどなくして、その出来事は起こった。

 

 その日モモンジは、「ひたすら樹海の樹々を木刀で叩いて回れ」と父から言われた。彼女は持ち前の明るさと元気の良さを発揮して、忠実にそれに取り組んだ。密林仮面剣法の要諦(ようてい)は変幻自在の太刀筋にある。それは迷路のように入り組んだ樹海を走り回りつつ、剣をあたかも腕の延長のようにして木々を叩いて回ることで鍛えられる。そのように彼女は父から言われた。

 

 彼女が森の中を走り回っている間、父の姿は見えなかった。だが、父はどこかに隠れて彼女の様子を窺っているようだった。それはいつものことだった。彼女が川に落ちそうになればどこからともなく父は現れて拾い上げ、リザルフォスが彼女の目の前に現れれば、父はどこかから出てきて瞬時に斬り倒す。父は言葉数の少ない人であったが、その行動によって娘に対する愛情の深さを表現する人であった。 

 

 猿のような、あるいは極楽鳥のような、そんな奇声を発しつつ、モモンジは折れよとばかりに木刀を樹の肌に叩きつけて回っていた。半時間ほどして、彼女はようやく疲れてきた。それでも隠れている父から「やめ」の声はかからなかった。彼女は愚直に稽古を続けた。

 

 さらに半時間が経った頃には、もうモモンジは疲労困憊していた。そんな状態だったからだろうか、幼いとはいえ普段ならば絶対にやらないようなミスを彼女は犯してしまった。

 

 彼女は、ヤシの実ほどに大きい、特大のガンバリバチの巣がぶら下がっている樹を叩いてしまった。

 

 ボトリ、という嫌な音がした時には、モモンジの眼前に怒り狂ったハチの大群が殺到していた。ガンバリバチの毒と針はボコブリンすらも葬り去る威力がある。即座に逃げ出さなければ、幼い彼女の命は危うかった。モモンジの眼前に黄と黒の毒々しい体色のハチが迫った。ハチたちは鈍い音を立てて羽ばたいていた。ハチたちはわきわきと脚を動かしていた。複眼が輝き、鋭い針が光っていた。

 

 しかし、彼女の足は動かなかった。目の前で起きた突発的に起こった事態にうまく対処できないのは、彼女の持って生まれた性質だった。

 

 あと数瞬もすれば、モモンジはガンバリバチに真っ黒にたかられてしまっただろう。だがその時、何か大きな影がサッと彼女の傍らへ降ってきた。その影は、(かし)の木よりも固く(たくま)しい両腕でモモンジを抱きかかえた。影はモモンジと共に一目散にその場から駆け出した。

 

 モモンジは叫んだ。

 

「お父さんっ!」

 

 父は短く言った。

 

「喋るな、舌を噛むぞ」

 

 モモンジと父はしばらく走った。だが、父はこのままでは逃げ切れないと悟ったようだった。父は朽ちかけた大樹の根元に出来た穴にモモンジを押し込むと、その前に立ちはだかった。そして父は、小刀を振り回してガンバリバチを撃退し始めた。

 

 物の数分で父とハチとの戦いは終わった。だが、モモンジにはその短い時間が永遠のように感じられた。父の「もう出てきて良いぞ」という言葉を聞いて、彼女は恐る恐る外へ這い出てきた。

 

 彼女が見たのは、ボコボコに腫れあがった父の顔面だった。

 

 モモンジの両目から涙が溢れ出した。彼女は父に抱きついて泣いた。

 

「お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 そんな娘の背中を優しく撫でながら、父はなんということはないように言った。

 

「これでガンバリバチの恐ろしさが分かっただろう。密林で警戒すべき敵はリザルフォスやエレキースだけではない。ハチに限らず、毒虫やヒルも脅威となり得る。帰ったら図鑑を開いて復習をしておくように」

 

 そして、滅多にないことに、その腫れあがった顔に微笑を浮かべて言った。

 

「無事で良かった」

 

 あの時の父の表情と言葉を思い出したモモンジの意識は今、草原に戻った。彼女の精神の内奥で、抱くべきイメージが音を立てて固まった。モモンジは叫んだ。

 

「よし、いける!」

 

 モモンジは立ち上がった。その右手には抜刀した風斬り刀があった。しかし左手は脱力して、ぶらりとさげられていた。彼女は気合いの声を上げた。

 

「はぁああっ!」

 

 気合いを入れつつ、彼女は両足を上下させる。出来の悪い操り人形が、不慣れな操り手によって踊らされるように、モモンジは奇妙でいびつなステップを刻み始めた。彼女は奇怪な叫び声を発した。

 

「イヤンホィッ!! イヤンホィッ!!」

 

 次に彼女は刀を持っている右手と何も持っていない左手を振り上げた。彼女は上体を大きく後方へと逸らし、全身を小刻みに揺らし始めた。彼女の豊満な胸がふるふると震えた。だが、彼女はもはやそれを気にしていなかった。

 

 そしてモモンジは、歌うような嘆くような、曰く形容しがたい、まるで密林の闇の中から魑魅魍魎(ちみもうりょう)が呼びかけるような声を、アラフラ平原全体に響くような大音量で叫び出した。

 

「ヨッセハーイ!! ヨッセハーイ!! ヨッセハーイ!!」

 

 ここに至って、魔物たちも異変に気付いたようだった。魔物たちは一斉にその頭の上に「?」マークを浮かべたような顔をして、モモンジのほうを窺っていた。中には、はやくもそれが敵だと気付いて、武器を取りに駆け出していく者もいた。

 

 でも、もう遅いわ! モモンジは内心ほくそ笑んだ。奥義は発動した! さあ、喰らいなさい! 彼女はなおも叫び続けた。

 

「ヨッセハーイ!! ヨッセハーイ!! ヨッセハーイ!!」

 

 モモンジの背後から、ガンバリバチの大群がどこからともなく一斉に出現した。ハチたちは魔物の群れへ向かって突進を始めた。

 

 それと同時に、彼女の両脇から先鋭なシルエットが二つ、音もなく飛び出した。

 

 左側の小さな影は涙目の逆さ紋様が刻まれた白い仮面を被っており、その手には首刈り刀を持っていた。それはテッポだった。テッポが叫んだ。

 

「行くわ、モモンジ! 『オド・ルワの饗宴(きょうえん)』の始まりよ!」

 

 モモンジは口にガンバリバチのハチミツアメを放り込んだ。失われつつあった彼女のスタミナ(がんばり)が即座に回復した。彼女はアメを舐めながら叫んだ。

 

「もごもご……ヨッセハーイ!! ヨッセハーイ!! ヨッセハーイ!!」

 

 モモンジによって、続々とガンバリバチの大群が召喚された。ハチミツアメが無くなり、そのスタミナ(がんばり)が尽きるまでモモンジは奥義「ムシ・ゴウロ」を続けなければならなかった。それが完全なる勝利へと至るための大前提であった。

 

 でも、やっぱり……モモンジは思った。やっぱりこれ、すごく恥ずかしいなぁ……

 

 

☆☆☆

 

 

 戦闘が始まった。 

 

 テッポと同時にマックストカゲの疾走の如く駆け出したバナーヌは、首刈り刀を正面に突き出しつつ魔物の群れの只中(ただなか)に突入した。彼女はさっと一瞥して状況を確認した。

 

 周囲の魔物たちは大混乱に陥っていた。魔物たちは地面に置いた武器も手に取らず、そこここに放し飼いにしている馬たちに跨ることもなかった。魔物たちは逃げ惑っていた。中には、一体何が起こっているのか判断もつかないままに、ぼんやりと成り行きを眺めているものもいた。

 

 いまだ召喚される数が少ないため、三十匹にも及ぶ魔物たちすべてを覆い尽くすほどにはガンバリバチは戦場に出ていなかった。だが、それも時間の問題だろう。バナーヌはそう思った。

 

 すでに、ハチにたかられて腰を抜かした赤ボコブリンの二匹が、針によって刺されるがままになっているのがバナーヌの視界に入った。数分もしないうちにあれらの生命は断たれるだろう。以前読んだ本では、ガンバリバチの毒はボコブリンに対して、どういう仕組かは分からないが即効性があるとのことだった……彼女は走りつつ軽く頷いた。

 

 仲間が凄惨な目に遭っているのを呆然と眺めている三匹の赤ボコブリンがいた。そこへ、ぬばたまの黒髪の美しいテッポが、ナミバトに襲い掛かるシマオタカのような勢いで突進し、通り抜けざまに一匹の首へ鋭く斬りつけた。テッポの殺気のこもった声が響いた。

 

「そこっ!」

 

 悲鳴を上げて魔物は倒れた。しかしテッポは、立ち止まってトドメを刺すようなことはしなかった。テッポはそのまま駆け抜けて、別の赤ボコブリンの群れへと迫っていった。残った二匹はやっと気付いたようにテッポの方へ顔を向けたが、次の瞬間襲い掛かってきた別のハチの群れに追われて、醜悪な叫び声を発しつつ逃げ惑い始めた。

 

 よし、作戦通りにやってくれている。手近な一匹の青ボコブリンを無造作に斬り捨てながら、バナーヌはそう思った。

 

 モモンジが奥義「ムシ・ゴウロ」でガンバリバチを召喚し、その混乱に乗じてバナーヌとテッポが全速力で敵に突入する。バナーヌは(あらかじ)め、攻撃目標を分担しておいた。

 

 テッポは体格が小さく膂力(りょりょく)も弱い。ゆえに彼女の攻撃目標は赤ボコブリンに限定する。数日前に初陣を迎え、いまだ実戦経験では不足しているテッポだが、これまでの旅路で赤ボコブリン程度ならば苦も無く倒せる技量にまでは成長している。そのようにバナーヌは見ていた。なにしろテッポは幹部の父から徹底的な英才教育を受けた身であるし、生まれついての才能にも非常に恵まれている。たとえ悪天候で爆弾が使えなくとも、テッポは首刈り刀で敵を倒すことができるだろう。

 

 それでも三十匹に及ぶ敵勢のうち、赤ボコブリンはおよそ三分の二を占めている。ガンバリバチの援護があるとはいえ、足を止めていたら即座に敵に囲まれてしまう。バナーヌはテッポに、一撃離脱に徹するように指示しておいた。一撃を加えて即座にその場から離脱し、一匹ずつ確実に赤ボコブリンを始末する。それを繰り返して数を減らす。それがテッポの使命だった。

 

 一方のバナーヌは、五匹の青ボコブリン、五匹の黒ボコブリン、そして一匹の白銀ボコブリンを担当することになった。テッポが雑魚の赤ボコブリンの数を減らしてくれている間に、バナーヌもまたテッポと同じく一撃離脱に徹して、なるべくその場に留まらないように立ち回りながら、赤ボコブリンより遥かに体力と攻撃力で優越する敵十一匹と戦う。難しい戦闘になりそうだった。それでも彼女は怯まなかった。どうにかなる。彼女はそう思った。これまでもどうにかなると思ってやってきたし、それでどうにかならなかったことはなかった。

 

「ヨッセハーイ!! ヨッセハーイ!! ヨッセハーイ!!」

 

 バナーヌの後方からモモンジの声が聞こえてきた。どうやら、まだまだガンバリバチの数は増えそうだった。すでに馬宿周辺には、雨音を掻き消すくらいのハチの羽音が充満していた。

 

 そのハチの一群が馬宿の内部へ侵入していくのを、バナーヌは見た。おそらく内部では魔物たちと同じく、ジューザたちが恐慌状態に陥っているだろう。これも作戦通りだった。

 

 バナーヌは甘い考えを持っていなかった。彼女は、「いくらマックスサザエのように閉じこもっている連中でも外で大々的に戦闘が起こったならば加勢に来るだろう」などという楽観的な予想は立てていなかった。連中の(ケツ)を蹴り上げるには、何か物理的な手段と圧力が必要だと彼女は考えた。ガンバリバチならば、その点においてまさに適任であった。ガンバリバチを送り込んで、それで連中の(ケツ)を刺す。馬宿内から出てこないならば、馬宿内にいられないようにしてやれば良いのだ。

 

 それでもなお出てこないならば、それでも良いとバナーヌは思っていた。元々、彼女たちは加勢を計算に入れないで作戦を立てた。もちろん、連中が加勢に出てくるのならば戦闘は多少楽になる。だが、出てこなくても自分たちが魔物を殲滅するのには変わりない……彼女は表情をさらに引き締めた。

 

 そう、今は勝つこと、殲滅することが重要だ! 一匹残らず魔物は皆殺しにしなければならない!

 

 バナーヌがかく考えて、走り回り、敵を斬り伏せているうちに、いつの間にか彼女の目の前には兵士の剣と盾を持った黒ボコブリンがいた。魔物は逃げることなくガンバリバチに立ち向かっていた。魔物は盾でハチの突進を防ぎ、剣をまるで子どものチャンバラごっこのように振り回して、必死になって天敵(ガンバリバチ)の猛撃を凌いでいた。

 

 バナーヌは短く掛け声を発した。

 

「ふっ!」

 

 バナーヌは魔物の背後をとると首刈り刀を振るい、首筋へふいうちを喰らわせた。研ぎ澄まされた殺意による一撃は容易に敵の太い頸椎(けいつい)を切断した。魔物は声もなく地面にくずおれた。

 

 次の瞬間、鍛え抜かれた彼女の戦闘技術と天性のセンスが、自然と彼女の身を屈ませた。彼女の頭上を何かが飛び越えていった。魔物の叫びが聞こえた。

 

「ブギィイイッ!」

 

 それは別の黒ボコブリンだった。その手には何も持っていなかった。魔物は素手だった。魔物は仲間の背後にニンゲンが近寄るのを見つけて、ガンバリバチに襲われる危険も顧みずに徒手空拳で飛び掛かってきたのだった。

 

 その勇敢な仲間思いの黒ボコブリンはバナーヌに攻撃を(かわさ)されると、勢い余って地面に突っ込んだ。魔物は豚鼻を地面にめり込ませた。しかし、魔物はすぐに両腕に力を入れて跳ね起きた。魔物は、仲間の仇を討とうとその獰猛に赤く光る目を周囲に走らせた。

 

 魔物は右を向いた。ニンゲンはいなかった。魔物は左を向いた。ガンバリバチの群れがいた。

 

 瞬時に、魔物はガンバリバチにたかられた。数秒も経たずして、魔物の体に無数の毒針が刺突され、大量の毒液が注入された。魔物の意識は朦朧となった。

 

 ふらつく魔物の首筋が、背後から断たれた。今度もまた、バナーヌがふいうちでそれを仕留めたのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 雨のアラフラ平原には突風が吹くようになっていた。その強い風の中で、半裸になったモモンジは踊り続けていた。モモンジの奇声が響くたびに、ガンバリバチの大群が召喚された。羽音を立ててハチたちは飛び、飛ぶたびにボコブリンの悲鳴が響いた。テッポの短い掛け声が聞こえた。剣戟(けんげき)が閃いた。馬が嘶いていた。

 

 まだ、作戦開始から僅かに十分も経過していなかった。だが敵は、その数を急速に減らしつつあった。バナーヌとテッポは縦横無尽に敵陣内を走り回っていた。彼女たちは必殺の一撃を加えては離脱し、また接敵し、一撃を加えていった。テッポは既に十二匹の赤ボコブリンを仕留めていた。バナーヌは三匹の青ボコブリンと、三匹の黒ボコブリンを倒していた。これで彼女たちは半数以上の敵を仕留めたことになった。だが、敵はまだまだ残っていた。

 

 全身を虫に刺されて地面に倒れた青ボコブリンに、バナーヌは走り抜けざまに介錯の一撃を放った。彼女はそこで、敵の新たな動きに気が付いた。

 

 敵の首魁(リーダー)と思われる白銀ボコブリンが、金切り声を上げて仲間に呼びかけていた。どうやらそれは、混乱を収拾しようとしているようだった。その白銀ボコブリンは、どこで手に入れたのか、群青(ぐんじょう)(つか)と金の装飾が美しい「王家の剣」を持っていた。魔物はまた、世が世なら騎士の軍馬になるであろう、立派な馬格の黒い馬の手綱を引いていた。どうやら魔物は、それに騎乗して仲間の指揮を()ろうとするようだった。

 

 バナーヌは一瞬、考えた。このまま当初の作戦通りに一撃離脱で戦い続けるか、それともここで足を止めて白銀ボコブリンに戦いを挑むべきか……?

 

 一瞬でバナーヌは状況を確認した。彼女はまず、音と声を聞こうとした。そういえば、モモンジの「ヨッセハーイ!!」が聞こえて来ない。バナーヌはモモンジのほうを見た。すると、モモンジはその桃色の(まげ)を力なく垂れさせて(うつむ)き、ぜえぜえと肩で息をしていた。どうやら奥義「ムシ・ゴウロ」はこれで終了のようだった。奥義を発動させた後は順次戦闘に突入するよう、バナーヌはモモンジに指示しておいた。だが、あの様子では回復するのにもう数分はかかるだろう。バナーヌはそう思った。

 

 バナーヌはさらに、周囲の光景を見わたした。ハチに追われて馬宿の柵の中へ逃げ込んだ赤ボコブリンたちが、テッポに追撃されていた。しかし、その魔物どもの周囲には、もうガンバリバチの姿がほとんど見えなかった。今は戦闘時に特有のあの昂奮(こうふん)が、ただでさえ乏しい判断力を鈍らせているのだろうが、ほどなくして魔物たちも天敵が姿を消したことに気が付くだろう。

 

 そして彼女は、白銀ボコブリンを見た。魔物は今にも馬に跨ろうと(あぶみ)に足をかけていた。その周囲には生き残った一匹の青ボコブリンと2匹の黒ボコブリンがいた。彼らは自分たちの首魁(リーダー)と同じように馬に乗ろうと駆け出していた。

 

 戦闘の局面は変わった。バナーヌはそう結論した。そして、彼女は決断した。作戦を第二段階へ移行させる時だ。

 

 彼女は迷うことなくポーチから二振りの赤く輝くロッドを取り出した。それはメテオロッドとファイアロッドであった。ロッドにはいまだに充分に魔力がこめられていた。この作戦をやり切るだけの魔力があった。

 

 彼女は短い掛け声を発した。

 

「ふっ!」

 

 右手に持ったメテオロッドを、バナーヌは勢い良く振った。振られたロッドの先端から、鋼鉄をも()くほどの火球が発射された。高熱の火球は三発同時に出た。各々の火球は転々とボールのように跳ねながら草原の草花を燃やしつつ突進した。火球は、白銀ボコブリンが今まさに騎乗し終えたその馬に直撃した。

 

 甲高い馬の嘶きが周囲に響いた。突然襲い掛かった炎と高熱に馬は驚き、醜悪な白銀の騎乗者を振り落とすと、一目散に駆け出していった。落馬した白銀ボコブリンは叫び声を上げた。

 

「ぶぎぃいいいっ!?」

 

 脆くも落馬した白銀ボコブリンに、バナーヌはさらに六発の火球を放った。これで倒せるとは彼女は思っていなかった。だが、少なくとも牽制にはなるだろう。彼女はそう考えた。白銀ボコブリンが炎にまかれてもがいているその間に、彼女は別の馬に乗ろうとしている連中に対処しなければならなかった。

 

 メテオロッドは一時的に魔力を使い果たし、リチャージ時間に入った。バナーヌはその代わりとして、今度はファイアロッドを取り出した。彼女は青ボコブリンと黒ボコブリンの乗ろうとしている馬を狙った。刀を振るうように、彼女は三回、ファイアロッドを力強く振った。ファイアロッドはメテオロッドよりも火力投射量で劣るが、放たれる火球になんらの問題もなかった。ボコブリンたちが自分たちの馬に行きつくより前に、連続で放たれた合計三発の火球が各々の目標に到達した。

 

 炎を浴びて、馬たちは悲鳴を上げて逃げ去った。青ボコブリンはその時、逃げる馬に()ね飛ばされて宙を舞い、地面に落ちた。魔物はそのまま動かなくなってしまった。どうやら魔物は、すでにガンバリバチのせいで相当体力を消耗していたようだった。黒ボコブリンたちは逃げた馬を追いかけようとしたが、続けて飛んできた六発の火球によって行く手を阻まれた。それはメテオロッドから放たれた火球であった。リチャージは完了していた。

 

 バナーヌは、ここでさらに敵の混乱を助長するために、別の場所に立っていた他の馬たちにも火球をぶつけた。馬たちはおめき狂って敵陣を駆けまわった。馬たちは力尽きて地面に横たわっている黒ボコブリンや、瀕死の青ボコブリン、それにようやく正気を取り戻して武器を手にし始めた赤ボコブリンたちを、体当たりしては踏みつけ、()ね飛ばし、馬蹄(ばてい)で踏みにじった。

 

 単純な火攻よりも、こうして馬を利用するほうが効果的だろうと、バナーヌは戦闘前に予測していた。いくら魔力で作られた火球とはいえ、この雨の中では効果は半減するだろう。ただ単に敵の群れに向かって火球を撃つだけでは、花火ほどの威力にもならない。しかし、そこに馬を介在させればどうなるか? 火球によって奔馬(ほんば)(けしか)けることができればどうなるか?

 

 たった一頭の奔馬(ほんば)のせいで、戦場が大きく掻き乱され全軍の勝敗に影響した事例は、このハイラルの歴史上に無数にあった。ならば、それを再現してやれば良い。彼女はそう考えた。だが、馬を狂奔させるにしても、弓矢では悪くすれば即死させてしまうし、疾風のブーメランでは射程でやや劣る上に素早い攻撃ができない。

 

 最適なのは、やはりメテオロッドとファイアロッドだった。それにこの際、折からの雨が味方した。雨は火球の威力を馬が死なない程度まで、相当に減衰してくれた。

 

 バナーヌはなおも二本のロッドを振るい続けた。彼女は馬を狂わせ続けた。馬は魔物を()ね飛ばし続けた。

 

 やがて、ロッドは二本とも煙すら出さなくなった。どうやら魔力を使い果たしたようだった。次の瞬間、繊細なガラス細工を石造りの固い床に落としたような音を立てて、二本のロッドは粉々に砕け散った。

 

 だが、ロッドによって再度敵を混乱状態に陥れることに成功した。バナーヌは、最後の仕上げに取りかかることにした。白銀ボコブリンは、どうやらひと際あの黒い馬に執着心があるようだった。魔物は逃げ惑う「愛馬」を追いかけて右往左往していた。彼女はこの隙を利用して、残った二匹の黒ボコブリンを仕留めることにした。

 

 ザザザと音を立てて草むらを掻き分け、バナーヌは全速力で突進した。白銀ボコブリンの側近を務める二匹の黒ボコブリンは、接近してくる金髪のメスのニンゲンに早くも気付いたようだった。一匹は騎士の槍を持っており、もう一匹はただのボコこん棒を持っていた。魔物たちは威嚇するように声を上げた。

 

「ブギィイイッ!」

「ブゴゴゴッ! ゴアアアッ!」

 

 鳴き声だけは立派だったが、二匹は連携が取れておらず、動きに精彩を欠いていた。バナーヌはまず、ボコこん棒を持った一匹に近づくと、正面から首刈り刀で鋭い一撃を加えた。魔物はボコこん棒でそれを防いだが、即座に振るわれた二撃目を凌ぐことはできず、あっさりと右腕を斬り落とされた。魔物は悲鳴を上げた。

 

「ブギィッ!?」

 

 だが、バナーヌはそれにトドメを加えなかった。その代わりに、彼女はすぐ膝を曲げて地面にしゃがみ込んだ。

 

 直後、彼女の頭上を鋼鉄製の騎士の槍が通過していった。隣にいたもう一匹の黒ボコブリンが、槍を旋回させたのだった。バナーヌによって(かわ)されたその槍の穂先は、さきほど右腕を失った黒ボコブリンに直撃した。槍は魔物の右頬から左頬にかけて貫通し、頭骨を砕き、衝撃で頸椎(けいつい)を粉砕しながら、左側方へ向けてぶっ飛ばした。

 

 同士討ちであった。無論、バナーヌはそれを意図していた。黒ボコブリンは戦い慣れしており、仲間が一対一で戦う際には必ず敵の背後を取って挟撃しようとしてくる。それを彼女は予期していた。彼女はちょうど良いタイミングで屈み、敵の同士討ちを誘った。それは奏功した。仲間を殺してしまった黒ボコブリンは叫んだ。

 

「ブガァッ!!」

 

 地団駄を踏んで、騎士の槍を持った黒ボコブリンは悔しがった。だがそれは、仲間を誤殺してしまったことに対してではなかった。魔物は、敵を仕留め損なったことに対して怒っているだけだった。

 

 そして、その隙を見逃すほどバナーヌは甘くなかった。彼女は軽やかな身のこなしで三回、後方宙返りを繰り返した。そうやって彼女は距離をとった。次に彼女は腰のポーチから疾風のブーメランを取り出した。彼女はそれを、黒ボコブリンの手元に向かって放った。戦場に吹く血なまぐさい風とは違う、清らかな乙女の息吹のような風が吹いた。清浄さと春の嵐のような激しさを持った突風を纏って、疾風のブーメランは目にも止まらぬ回転を続けながら敵の手元へと突進した。

 

「ブギィ、ブギギッ!? ブゴアァッ!?」

 

 疾風のブーメランはあやまたず黒ボコブリンに到達した。疾風のブーメランはその風の力で魔物の手から無理やり騎士の槍を引き剥がした。騎士の槍は宙を舞った。ブーメランの風が直撃して目を回している魔物を後目(しりめ)に、バナーヌは戻ってきた疾風のブーメランをしっかりとキャッチした。キャッチすると同時に、彼女はいまだ空中にある騎士の槍に向かって跳んだ。

 

 次の瞬間、魔物は間抜けな声を上げていた。

 

「ブゴ……ブゲッ!?」

 

 黒ボコブリンは脳天から会陰部(えいんぶ)にかけて、縦に槍で貫かれていた。空中で槍を掴んだバナーヌが、その落下の勢いのままに魔物に必殺の一撃を加えたのだった。

 

 二匹の強敵は死んだ。その死体は黒ずんで風化を始めた。これで残るは白銀ボコブリンだけだった。

 

 ふと、バナーヌの心が緩みそうになった。だが、彼女はそれを無理やり引き締めた。彼女は槍を抱えたまま、右側方へ向かって全身を投げた。

 

 魔物の叫喚が響いた。

 

「ゴアアッ!!」

 

 彼女の金髪のポニーテールの先端が斬られた。直後、蹄の音も荒々しく白銀ボコブリンが駆け抜けていった。その手には王家の剣があった。まさに間一髪のところでバナーヌは魔物の攻撃を避けたのだった。

 

 避けたそのままの勢いで前転して起き上がると、彼女はその前方に馬首を鋭く廻らせる白銀ボコブリンの姿を見た。その怨念と憎悪と殺意に煮え滾った赤い眼光で、魔物はバナーヌを睨みつけていた。

 

 すでに彼の「軍勢」は破滅していた。側近の黒ボコブリンは全滅していた。戦力の中堅を担う青ボコブリンは残骸を残してこの世から消え去っていた。兵卒の赤ボコブリンは散り散りになっていた。それでも、白銀ボコブリンにはまだ残っているものがあった。

 

 それは、強烈なまでの敵愾心だった。このニンゲンだけはぶち殺す! 魔物はそう決めていた。殺して皮を剥ぎ、毛を焼いて血を啜り、肉を喰らってやる!

 

 白銀ボコブリンは、皮が裂け肉が弾けるほどの勢いで馬に鞭をぶち当てた。馬は悲鳴を上げた。馬は騎乗者の殺気にあてられてその四本の脚を狂ったように動かした。あたかも空中を行くような猛スピードで、騎乗した白銀ボコブリンはバナーヌに向かって突撃を開始した。

 

 彼女にはもう、弓矢を構えている時間はなかった。メテオロッドもファイアロッドも、もうその手にはなかった。疾風のブーメランを投げたとしても、それが届くころには敵は王家の剣を彼女の首筋に振るっているだろう。

 

 とるべき手段はひとつしかなかった。バナーヌは腰を落とし、両手でしっかりと槍を持った。そして、彼女はやや上方へ向けて槍を構えた。そうして彼女は迎撃の構えをとった。彼女は馬を狙った。だが、彼女が狙うのは馬のひたいではなかった。そこは強固な頭蓋骨で守られているため、槍であっても有効打は与えられない。彼女は馬の下顎の直下、頸溝(けいこう)を狙った。そこは馬の急所である。

 

 彼女の澄んだサファイアの瞳に、燃えるような闘志が宿った。彼女は言った。

 

「来い」

 

 瞬時に両者の距離が詰まった。地面を踏みつける馬蹄(ばてい)の、乱雑なティンパニーの連打の如き轟音が響いた。馬上で王家の剣が鈍い輝きを放ち、ゆらめいた。ハチに刺されてボコボコに腫れあがった、白銀ボコブリンの醜い顔面が、怒りの形相を浮べていた。チラリと、魔物の口から鋭い牙が姿を覗かせた。

 

 一秒か、それとも三秒か。勝負は、あと二回も呼吸しない間に決着するであろう。

 

 その時だった。突如としてバナーヌの後方から、二人の人間の声が聞こえてきた。

 

「バナーヌ! 伏せて」

「バナーヌ先輩! 伏せてください!」

 

 それはテッポとモモンジだった。バナーヌは躊躇することなく二人の声に従った。それでも、彼女はただ従うのではなかった。彼女はこれから二人がやろうとしていることを予想した。伏せろということは、二人はたぶん自分の上を行くつもりなのだろう。ということは、とにかく体勢を低くしさえすれば良い。彼女は前方へスライディングすることにした。そうしながら彼女は、抱えている槍をそのまま馬に向け続けた。

 

 二つの影が連続して彼女の頭上を飛び越えていった。一つめの影はモモンジだった。モモンジは「オド・ルワの亡骸」を顔に装着したままだった。彼女はまた、上半身裸のままだった。彼女は空中で風斬り刀を縦に振るった。彼女は叫んだ。

 

「どりゃああっ!!」

 

 空中から放たれた真空刃はあやまたず、王家の剣を握った白銀ボコブリンの右腕を斬り飛ばした。

 

 その次の瞬間には、バナーヌの構えていた騎士の槍が、馬の頸溝(けいこう)を貫いていた。バナーヌはちょうど、馬の真下に滑り込む形になった。バナーヌの姿が消えた。

 

 それを見たテッポは、てっきりバナーヌが(ひづめ)に踏み潰されたと思った。彼女は絶望と怒りで、その綺麗な鳶色の瞳を濁らせた。テッポは憤然と言った。

 

「よくもっ!」

 

 テッポの言葉の直後、槍が貫通した馬が脱力した。テッポは、力の抜けた馬が首を下げたその瞬間を狙った。黒髪を振り乱しながら彼女は、首刈り刀を大きく振りかぶった。そして、満身の力を込めて、彼女は白銀ボコブリンの脳天に向かって刀を叩きつけた。彼女は殺意を爆発させたように叫んだ。

 

「思い知れぇえっ!!」

 

 魔物は悲鳴にもならない声を上げた。

 

「ぶごほっ」

 

 魔物の頭頂部に鋭利な刃が深々と突き刺さった。テッポの首刈り刀は魔物の頭蓋骨を貫通し、柔らかな内部にまで食い込んで脳組織を破壊した。白銀ボコブリンは眼と鼻から紫色の体液を噴出させた。

 

 ここ数日の連続戦闘に耐えてきたテッポの首刈り刀は、ここで本来の使用意図から大きく外れた使われ方をしたために、ついに折れてしまった。

 

 馬はその首元から噴水のように真っ赤な血を噴き出していた。その鞍壺(くらつぼ)から、白銀ボコブリンは冬の枯れ木から最後の木の葉がはらりと落ちるように、地面に落下した。

 

 二人の声がした。

 

「あ、(いた)っ!?」

「あっ、テッポ殿!?」

 

 テッポは着地に失敗して尻もちをついた。モモンジは上手く着地し、テッポに声をかけていた。テッポはすぐに起き上がると、叫ぶようにモモンジに言った。

 

「私は平気! それよりバナーヌ、バナーヌはどうなったの!?」

 

 モモンジもはっとしたように言った。

 

「そうだ、バナーヌ先輩!」

 

 二人はバナーヌに駆け寄った。バナーヌはいまだに地面に横たわっていた。テッポが声をかけた。

 

「バナーヌ! 大丈夫!? 怪我してない!?」

 

 モモンジもテッポに続いて声を発した。

 

「バナーヌ先輩! お怪我はないですか!?」

 

 だが、二人が声を掛けてもバナーヌは動かなかった。

 

 二人は最悪の事態を予想した。まさか、いやそんな、バナーヌが魔物ごときにやられるなんて……? テッポとモモンジの表情が凍り付きかけた。

 

 だが、バナーヌはあっさりと起き上がった。彼女は声を漏らした。

 

「ふう」

 

 テッポとモモンジが歓喜の声を上げた。テッポが言った。

 

「バナーヌ! ああ、良かった……ねえ、本当に怪我してない?」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「大丈夫」

 

 モモンジが口をとがらせて言った。

 

「バナーヌ先輩! もう、なんであんな無茶をしたんですか!?」

 

 バナーヌは頭を下げた。

 

「すまん」

 

 なんという魔王の意志か、それともバナナの神の配剤か? それとも単に彼女の運が良かったのか? 馬の四本の脚と四つの蹄は、奇跡的にすべてバナーヌの体を()れて、彼女の両脇数センチの地面に足跡を残しただけだった。バナーヌは傷一つ負っていなかった。

 

 バナーヌとしては、二人の意図を察したあの時、ここで退くわけにはいかないと思った。馬の突進力をなんとかして潰さない限り、モモンジはどうにかなるとしてもテッポは大怪我をすると、彼女は瞬間的に計算したのだった。だから彼女は無茶をした。そして、やはりなんとかなったのであった。

 

 テッポとモモンジはバナーヌの体を撫で(さす)っていた。二人は、彼女が本当に負傷していないのか疑っているようだった。テッポがまたバナーヌに言った。

 

「本当に? 本当に怪我してない? 本当に?」

 

 モモンジが言った。

 

「あー、この分なら大丈夫っぽいですね! いやぁ、それにしてもバナーヌ先輩って、割と不死身なんですね!」

 

 ついでとばかりに、モモンジはバナーヌの胸まで触ろうとした。バナーヌはそれを軽くたしなめた。

 

 バナーヌがよく見ると、テッポの目尻に涙が浮かんでいた。それを見てバナーヌは、ふっと微笑んだ。

 

「もう、大丈夫」

 

 テッポとモモンジが驚いたように声を上げた。

 

「あっ! バナーヌ、もしかして今、ちょっとだけ笑った?」

「確かに、バナーヌ先輩、今ちょっとだけニッコリとしたような……」

 

 だが、バナーヌはそれに答えなかった。彼女の視線は、ある方向へ向けられていた。その顔は、いつもの氷のような無表情に戻っていた。

 

 彼女は無言で首刈り刀を抜くと、冷静な声音で二人に言った。

 

「まだ生きている」

 

 モモンジが声を上げた。

 

「えっ!?」

 

 テッポも言った。

 

「えっ!? あっ! あいつ、まだ生きてるの!?」

 

 魔物の弱々しい声がした。

 

「……フ、フゴ……」

 

 三人の視線の先には、あの白銀ボコブリンがいた。その脳天には折れた首刈り刀が突き刺さっていた。眼と鼻からはべっとりと、粘性の高い体液を流していた。口からはゴボゴボと体液の泡が出ていた。魔物は、今にも折れてしまいそうな枯れた(あし)のようになっていた。

 

 魔物は右に左によろめきつつ、モモンジの真空刃に斬り落とされた自分の右腕を拾った。魔物は、右腕が握り締められていた王家の剣をもぎ取ると、左手に持ち替えた。

 

 モモンジが静かに声を発した。

 

「テッポ殿、バナーヌ先輩、私が奴の介錯(かいしゃく)をします」

 

 二人は頷いた。テッポが言った。

 

「モモンジ、お願い」

 

 モモンジは風斬り刀を下段に構えると、()り足で魔物に近づいた。彼女は大上段に刀を振り上げた。

 

 白銀ボコブリンの眼に、もう光はなかった。意識すらハッキリしていないようだった。モモンジは、魔物とはいえ哀れな気持ちになった。「そういう感傷を捨てない限り、剣術家としては大成しないぞ」と父から言われていたことを彼女は思い出した。それでも、やはり魔物は哀れだった。

 

 一刀で首を刎ねよう。これ以上の痛みは与えないように……モモンジは刀を振り下ろした。

 

 高原の馬宿を巡る戦いは、魔物の全滅という形で決着した。三人はしばらく、戦いの後の場を眺めた。

 

 ややあって、向こうから男の声が聞こえてきた。

 

「……おーい、おーい……」

 

 誰だろうか? バナーヌの疑問に答えるようにテッポが言った。

 

「あれはジューザよ、バナーヌ。あなたが戦っている間に、ジューザたちも馬宿から出撃して私と一緒に戦ってくれたの」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「そうか」

 

 突然、モモンジが奇声を上げた。彼女は慌てていた。

 

「はうっ!? どうしよう、このままだと私、ジューザたちに裸を見られちゃう……」

 

 テッポも慌てた。

 

「ああ、大変! バナーヌ、なにか着るもの出して、着るもの! モモンジに何か着せないと!」

 

 バナーヌはポーチを探り、そして中身を出して言った。

 

「すまん、これしかない……」

 

 結局、モモンジはバナーヌの持っていた予備のさらしを胸に巻くことになった。なんとか胸を隠すことができたが、胸の肉が少しだけ、さらしの上下からはみ出ていた。モモンジは半泣きだった。




 ようやくアラフラ平原編が実質的に決着しました。長きにわたったモモンジのデビュー戦もこれにて一応終結です。
 それにしても今回は前半を書いている最中、頭の中でオドルワさんの奇声が鳴り止みませんでした。

※加筆修正しました。(2023/05/14/日)
※タイトルを「乱戦、死の舞踏」から「乱戦」に変更しました。(2023/05/14/日)


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第四十二話 生命の洗濯

 たとえば、時代と歴史について思いを廻らせ、論文や書籍を読んだり、数々の史料を照らし合わせる時、我々が最も衝撃を受けるのは、現代の精神と過去の精神との懸隔(けんかく)であろう。つまり、「あの時代にはアレがなかった」という物質的な事柄よりも、むしろ「あの頃の人々はそのような精神性・感性を有していたのか」という精神的な事柄に対して、我々は最も興味を惹かれるのである。

 

 確かに、歴史を読む際にその物質的な側面に着目することは重要ではある。我々の祖先が物質的窮乏にどのように立ち向かい、そしてどのようにそれを克服したかを知ることなしには、我々は現代において享受している数々の物質的恩恵の真の意味を知ることができないからである。

 

 日々、当たり前のように使用している井戸、排水路、灌漑(かんがい)設備、橋梁(きょうりょう)、倉庫、製粉用風車等から、鍋と釜、かまど、木のオタマとナベのフタ、(すき)(くわ)、荷車から馬車に至るまで、我々の文明的な生活を形作っているそれら大から小までの物質的恩恵の一つ一つは、言うまでもなく、ハイラルの天地開闢(かいびゃく)以来からこの世に存在していたわけではない。それらは人間が、そう、神々ではなくまさに人間が、営々脈々と築き上げてきた知恵と技術の結晶なのである。

 

 この事実に関しては、誰もが「それはまさにそのとおりであって、いまさら言われるまでもない」と言うであろう。なぜなら大厄災以降、文明という生命維持装置を失った辺境の人間たちは、過酷な自給自足生活を強いられているからである。祖先の叡智と技術を継承することの重要性を嫌というほどに思い知らされているゆえに、我々にとっては却って過去と現在との物質的差異はさしたる驚きではない。

 

 歴史を紐解いて、「大厄災以前にはこんなモノがあった、あんなモノがあった」と騒ぐことがあったとしても、それは驚きというよりもむしろ、「百年前の人たちはこんなにも豊かな生活を送っていたのか……私もこんな生活ができたなら」という、一種の憧れの念に近いものである。たとえばかつて王家の姫君がお召し上がりになったといわれる、今は失われたフルーツケーキに思いを馳せるように……

 

 だが、「感性」という精神的事柄になると、我々の心は純粋なる驚きに支配されることになる。

 

 疑いようもなく、我々は今や物質的に窮乏している。確かに、食はある。衣服もあれば家もある。しかし、我々は余剰食料を大規模な車列に載せて他所へ運ぶことはできない。また、華麗に染め上げた衣服を各地方へ大々的に売ることもできない。家は新たに建てるよりも、古びたものを取り壊すことのほうが多い。

 

 我々がそういったことをすることができない原因はただ一つである。つまりそれは、魔物が至るところに跳梁跋扈し、人間が逆に数を減らしていることである。年々、人間の村は消滅を続けている。逆に、魔物の拠点は数を増している。

 

 我々は衰退している。我々の生命の領域はどうしようもなく縮小を続けている。我々の「時代の感性」はまさに、「逼塞(ひっそく)窮迫(きゅうはく)、欠乏、緩やかな破滅」といえるだろう。

 

 ではここで、現在と過去の「時代の感性」を比べるならば、いったいどのような違いが見えてくるであろうか。

 

 単純に考えれば、こうなるのではないだろうか。

 

「百年前の大厄災以前、王国には精強な軍と勤勉な民がいた。王国軍は魔物どもを駆逐し、王国の民は各々の生業(なりわい)に励んでいた。街道には荷物を満載した荷車が絶えず行き来していた。商店では品物が陳列棚から零れ落ちんばかりに溢れかえっていた。王国は四周の異種族たちと良好な関係を結んでおり、外敵の憂いはなかった。気候は穏やかで、田畑はよく耕されており、空は抜けるような青さと眩い黄金の太陽を抱えていた……」

 

「現在とは違って、かくほどまでに物質的に恵まれた過去の人々ならば、その時代の感性もまた、現世肯定的なものであったであろう。繁栄、拡大、充実、進歩、安寧といった感性が当時の人間を形作っていた……」

 

 ところが、事実はそうではない。廃墟の中にわずかに残された市民たちの日記や、大臣の手記、半ば崩れかけた公文書館に保管された文書類を分析すると、驚くべきことに、百年前の時代の人間の感性は、現代の我々が想像するものとはかけ離れたものであることが分かる。

 

 例えば、当時随一の文筆家として知られ、数々の著作を残したサグモは、日記に以下のような記述を残している。

 

「現代の歴史学者たちは、ある種の偏見と独断により自家中毒に陥っている。彼らは、ハイラルの歴史は段階的発展を続ける『進歩的』歴史であるとする。それは彼らの言うところの『進歩史観』である。『ハイリア人は歴史的段階を常に上昇し続ける歴史的宿命を担っているのだから、保守・反動・懐古主義は断固として退けるべきである』と彼らは主張する。そういうわけで、王国のシーカー族の再雇用と重臣への抜擢、古代技術の発掘といった政策に対しては、彼らは非難の大合唱を続けている。『それらは古きものであり、進歩にはそぐわない』からと彼らは言う……」

 

「……(中略)……私としては、彼らの論法は王国の政治と実利にとって有害であり、そればかりか、あまりにも一般民衆の感性と乖離していると言わざるを得ない。書物に囲まれ、終日石造りの頑丈な建物の中にいる学者先生方には分かるまいが、今民衆たちの心を支配しているのは、『進歩』などではなく、その対極とも言える、一種の『破滅願望』である……」

 

「……(中略)……無論、すべての民衆がそうであるとは言わない。だが城下町の、特に恵まれない者たちが住む地区では、この『破滅願望』は強固に根付いているように思われる。彼らは実りなき日々を送っており、望みなき未来へ向かって歩いている。彼らは、彼らの置かれた状況の過酷さを認識しており、そこからできるならば脱出したいと思っているが、その方法が分からな。漸進(ぜんしん)的な社会改革などという言葉は、彼らのうちには存在しない。彼らは『あの(うわさ)されている厄災ガノンが復活して、この世のありとあらゆるものを破壊してしまえば良い』とさえ思っているのだ」

 

「これは私の妄想などではなく、実際に私がこの耳で聞いたことである。貧民たちの集う酒場で聞こえてくるのは、『厄災ガノンさんとやら、来るならば早く来てくれ、そして早く俺たちを違う世界へ連れて行ってくれ』という言葉である。そのくせ、彼らは同じ口で王国の安寧と王の聡明さと姫君の美しさを褒め称えるのだ。一見、明らかに矛盾しているように思われる彼らの感性であるが、彼らにとってはなんら不思議なことではないようだった。彼らは厄災ガノンによる破滅と姫君の麗しさを、同時に心に秘めるという奇妙な感性を有しているのだ……」

 

 物質的に恵まれた過去の人々が実は「破滅願望」に取り憑かれていたという事実は、我々の心を揺さぶる。

 

 別の記録を挙げよう。ある大臣付き書記官はその日記に以下のような記述を残している。

 

「……本日午後、城下町南の行政担当官より報告を受ける。『住民たちが厄災ガノン復活を祈願する奇祭(きさい)を計画し、風紀を乱す仮装をし、かつ怪しげな像を押し立てていたため、衛兵を率いてこれを鎮圧し、住民を解散させ首謀者を逮捕、像は破壊した』との由……」

 

「……尋問によれば、首謀者は『厄災ガノンが復活すれば王国の秩序はひっくり返る。そうなれば俺たちが貴族や大臣になって、お前たちが俺たちみたいな貧民になってもおかしくはねえ』と悪態をついたとのこと……」

 

「……私は、一部の国民の間で『破滅願望』が支配的になりつつあるこの状況を深く憂慮している。大臣閣下が国王陛下にご報告申し上げたところ、『早急に人心刷新のための策を練るように』とのお言葉を賜った……」

 

「……実は、民だけではない。一部下級貴族の間でも、此度(こたび)の厄災ガノン復活の可能性に影で快哉(かいさい)を叫んでいる者が多いという。破滅願望は庶民たちに特有のものではない。現状に不満を覚えながら現状を変えることができずに鬱屈している者、絶望感を抱えながらも死ぬこともできずただ生きている者、目的もなく王宮の片隅で無意味に日々を塗りつぶしている者、そういった者たちが、厄災復活を望んでいるようである。まことに憂慮すべき事態である……」

 

 これらの記述を信じるならば、我々の祖先はなんと愚かで、なんと無思慮であったのかと思わざるを得ない。その愚かさの代償はあまりにも大きかった。いや、これが歴史の必然的な帰着であったというのならば、その過酷さはなんと重く後の世代の我々にのしかかったことか。

 

 彼らの破滅願望とは、つまるところ真の破滅願望ではなかった。(つら)い現世からの脱出のために自分の破滅を願うのではなく、実のところは、全てが破滅する中で自分だけが都合よく生存して、その後の世界で自分だけがより良く生きていくことを、彼らは願っていたのである。

 

 破滅願望は、厄災信仰と言って良いだろう。破滅を絶対的な救いと信ずるならば、それは、破滅をもたらす存在である厄災ガノンを信仰することと同義だからである。

 

 厄災復活の兆しありとの報が流れてから大厄災勃発までのごく短期間の間に、当局に摘発された「厄災ガノンを本尊とする新興宗教団体」の数は城下町だけで八を数え、王国全土を合わせると二十一にも及んだと言われている。

 

 その中でも最も大きな勢力を有していたのが「はぐれ者たちの教団」と呼ばれる宗教団体だった。かの団体の信者たちは獣の仮面を被り、「むんじゃら〜もんじゃら〜むんじゃら〜もんじゃら〜」という謎の呪文を唱え続けた。呪文を唱えることで身を清く保てば、(きた)る厄災ガノン復活に際しても彼らは無事に生き残ることができ、その後の世界で支配的地位を得ることができる。それがかの団体の主な教説であったとされる。

 

「はぐれ者たちの教団」は結束力が強かった。教祖の指導力は高く、教団員の信仰心も篤かった。摘発時はこん棒と槍を応酬する流血沙汰になったと記録は述べている。

 

 そして、そういった新興宗教団体以上に厄介だったのが、あの謀略と暗殺を事とする集団、イーガ団であった。イーガ団に関しては詳しい資料が残されていないため推測によるほかないが、この時期にイーガ団は大量の新入団員の確保に成功したと伝えられている。大厄災後のイーガ団の目に余るほどの跳梁には、この新入団員たちが大きな役割を果たしたと推測されている。

 

 当時のイーガ団は活動を活発化させており、ゲルドの街へ行啓(ぎょうけい)した姫君をその途上において襲撃する大事件を起こした。その際はお付きの近衛騎士の働きにより事なきを得たが、イーガ団はさらに活動を活発化させた。彼らはゲルドの街への偵察活動を強化し、それだけでなく、密かに城下町へ人員を送り込み、新興宗教団体への資金・技術援助、勧誘活動と破壊工作、風説の流布などを行っていたとも考えられている。

 

 雨後のキノコのように続々と生まれた新興宗教団体は、決して彼らが望んだ形ではなかっただろうが、すべてが破滅した。しかし、もっとも破滅するべき存在であるイーガ団は、大厄災よりおよそ百年が経った今になっても生き残っている。

 

 彼らは歯を剥き出して笑っている。彼らはバナナを(むさぼ)っている。彼らは明日を信じている。

 

 彼らは繁栄している。彼らの生命の領域はどうしようもなく拡大を続けている。

 

 彼らの感性は、繁栄、充実、進歩、安寧……彼らは厄災が再復活するのを心待ちにしている。

 

 

☆☆☆

 

 

 しとしとと、アラフラ平原に陰気な雨が降り続いていた。散らばったボコブリンたちの残骸は、あるいは風に飛ばされ、あるいは泥水に浸り、あるいは雨粒に洗われてその色を鮮やかにしていた。打ち捨てられた武器の数々を顧みるものは、もう誰もいなかった。

 

 黒雲に阻まれて太陽は見えなかった。昼というにはまだもう少し時間がかかろうかという時刻であった。あの熾烈な戦いから、まだ半時間ほどしか時間は経っていなかった。

 

 バナーヌ、テッポ、モモンジの三人はまさしく獅子奮迅の活躍をし、激闘を制した。アラフラ平原の支配権は、ふたたび人間側に戻ったのであった。

 

 馬宿の空間は、仄暗い照明とボツボツという単調な雨音に包まれていた。その中で一人の少女が、(ひん)良く背筋を伸ばしながら椅子に座っていた。それはテッポだった。

 

 その知的な鳶色(とびいろ)の瞳は、先ほどから何回も(まぶた)によって閉ざされそうになっていた。うつらうつら、こっくりこっくりと、テッポはしばしば姿勢を崩した。そのたびに彼女はハッとしたように姿勢を直した。

 

 そんなテッポを見かねたバナーヌが声をかけた。

 

「テッポ、大丈夫?」

 

 バナーヌの声を受けて、テッポはビクッと体を震わせた。彼女はバナーヌの方へ顔を向けると、なんということはないというふうに答えた。

 

「ありがとう、大丈夫。私は平気よ。ヒコロクがここに来るまでねりゅ……ゴホン、寝るわけにはいかないわ。それに、ジューザにはどうしても言っておかないといけないこともあるし……」

 

 そう言ったそばから、テッポはまたもや眠気と疲労との戦いを再開した。木こりに切り倒される直前の杉の木のような動きを、彼女は一定のリズムで繰り返した。

 

 休憩を取らせる必要がある。バナーヌはそう思った。テッポにも、モモンジにも、そして、自分自身にも、休憩が必要だ。

 

 そういえば昨晩は、ロクに睡眠を取らないで輸送馬車の車列から出発したのだった。バナーヌは思った。キースの大群とオクタと格闘しながらアラフラ平原に行き、平原に着いた後は間髪を入れずに魔物たちと戦闘をした。戦闘の後には、ヒコロクに手術をして治療と看護に当たった。それが済んだと思ったら偵察に出なければならなかったし、最後にはあの大激闘をしなければならなかった。バナーヌは誰にも聞こえないような小さな溜息をついた。

 

 体力的に余裕がある自分でも、今はかなりの疲労感を覚えている。成長途上にあるテッポが戦闘の緊張感から解き放たれた今、もはや限界を迎えているのは、仕方のないことだ。むしろテッポだからこそ、ここまでよく戦い、よく生き残ることができたのだろう。並の実力のイーガ団員ならば三回は死んでいるはずだ。

 

 バナーヌがそんなことを考えていると、馬宿の入り口から若い女性の声が聞こえてきた。それはモモンジの声だった。モモンジはバナーヌとテッポになにやら呼びかけていた。

 

「テッポ殿、バナーヌ先輩! ヒコロク先輩を連れてきましたよ! さあジューザ、早く運び入れて……段差があるから気をつけてください……」

 

 そう言いつつ、モモンジが室内に入ってきた。戦闘後、彼女は裸の上半身にさらし巻き付けたあられもない姿をしていたが、今はしっかりとイーガ団の標準忍びスーツを身に纏っていた。

 

 モモンジの次に入ってきたのは、担架を運ぶ二人と、担架に横たわる一人だった。担架を運んでいるのは馬宿の店長にしてイーガ団員であるジューザと、その手下のロクロだった。担架で運ばれているのはヒコロクだった。

 

 ジューザとヒコロクの二人が軽口を叩き合っている。ジューザが言った。

 

「疎林の中で雨に打たれているかと思って心配したが、木の枝ぶりが良かったおかげでほとんど濡れてなかったな」

 

 ヒコロクが言った。

 

「お前たちがすぐに迎えに来てくれたから、あれ以上濡れずに済んだんだ。それにしても、迎えに来たモモンジの姿が天使に見えたぜ」

 

 モモンジは恥ずかしそうに言った。

 

「そんな……天使だなんて……」

 

 モモンジはわずかに顔を赤らめていた。そんな彼女を後目(しりめ)に、ジューザとヒコロクの二人はなおも会話を続けていた。担架は馬宿奥のふかふかの寝台の側へ寄せられた。ジューザが一緒に担架を運んでいるロクロに声をかけた。

 

「よし、ロクロ、そっと持ち上げろ。よし、ベッドに乗せるぞ……いち、にぃ、さんっと! よし……うまく移せたな。どうだヒコロク、傷は痛まないか?」

 

 ヒコロクは答えた。

 

「お前らしくもねぇな、ジューザ。どうも浮ついてるぜ。『傷は痛まないか』なんて、そんな殊勝なことを言うなんてよ。俺たちを見捨てて自己保身に走ろうとした奴の口ぶりだとは、到底思えないぜ……」

 

 ヒコロクの言葉を聞いたジューザの顔が少しばかり苦しげに歪んだ。だが、その次に彼はわざとらしい軽薄な笑顔を浮かべた。

 

 そんなジューザを見たバナーヌは、ヒコロクと同じ感想を持った。どうにも浮ついている。まるで、(ばつ)が与えられるのを予想しておきながら、いつもまでたってもそれが与えられず、かといってその罰を(こら)える覚悟ができていないのをごまかそうとするような……罪悪感からそんな態度をとっているのだろうか? だが、そんなものを、この男も一人前に持ち合わせているのだろうか?

 

 ジューザは相変わらずの軽口をヒコロクに言った。

 

「それだけ憎まれ口を叩けるのなら、これ以上、傷の心配はしないでも良いかな」

 

 だが、ヒコロクは(たしな)めるように言った。

 

「この馬鹿が。お前に必要なのはもっと別の種類の心配だろうが。せいぜいあの三人娘に(こび)を売っておくんだな。お前の今後のために……」

 

 ジューザは顔を曇らせた。彼は答えた。

 

「ああ分かってる、分かってるさ……」

 

 寝台に横になったヒコロクのほうへ、バナーヌとテッポが近寄ってきた。それを見たジューザは、そっと一歩分だけその場を離れた。

 

 寝台の周りに三人の娘たちが立っていた。テッポがその細い眉を心配そうに寄せてヒコロクに尋ねた。

 

「ヒコロク、傷の具合はどう? 痛くなったりしてない? 雨の中を長い時間待たせてしまったから……ごめんね」

 

 ヒコロクは薄く笑って手を軽く振ると、テッポの懸念を打ち消した。

 

「心配御無用ですよ、テッポ殿。そこのバナーヌさんの処置が良かったおかげか、今も痛むには痛みますが、人生を投げ出したくなるほどの痛みではありません」

 

 テッポは明らかに愁眉を開いたようだった。彼女は言った。

 

「そう……それなら良かった……よく休んでね」

 

 次に、モモンジがヒコロクに話しかけた。

 

「ヒコロク先輩、何か食べたいものはありませんか?」

 

 ヒコロクはぷっと吹き出した。

 

「モモンジ、本当にお前はいつも食欲に取り憑かれているな! 別に今は食欲はねーよ。食欲が湧くのはもっと時間が経ってからだろう。お前こそ、腹は減ってないのか?」

 

 そうヒコロクが言った直後、モモンジの腹部から可愛らしい音が鳴った。モモンジの顔が瞬時に赤くなった。ヒコロクが笑って言った。

 

「ハハハ、やっぱりそうじゃねーか! この腹ペコ仮面戦士め!」

 

 モモンジは顔を真っ赤にした。

 

「くぅう……恥ずかしいです……」

 

 ヒコロクは優しい目をモモンジに向けた。彼は言った。

 

「まあ、お前もよく頑張ったな。ありがとよ。せいぜい美味いものでもたらふく食べさせてもらうんだな……」

 

 そんな他愛もない会話が続くのを、バナーヌは腕組みをして見守っていた。やがて、彼女はその場から離れて、先ほどから思案げな顔をして俯いているジューザの近くへと寄った。

 

 バナーヌはジューザに短く質問を発した。

 

「医者は呼んだのか」

 

 突然バナーヌから声をかけられたジューザは、驚いたように目を見開いた。だが、次の瞬間には彼は平静を取り戻して、ぶっきらぼうに答えた。

 

「ああ。ヒコロクを連れてくる前に、ジーロを馬に乗せて医者を呼びにやらせたよ。この雨だからここに到着するには少し時間がかかるかもしれないが、馬宿には薬もあるし包帯もある。医者がいなくとも、できる限りの看護はするつもりだ……」

 

 すると、そのすぐ(そば)から声がした。(りん)とした、はっきりとした意志を感じさせる声音だった。それはテッポの声だった。

 

「ジューザ、話があります」

 

 バナーヌが目をやると、テッポが腰に手を当ててジューザを見上げていた。テッポは憤然とした内心を強いて隠そうとしているようだった。幼さに似合わぬ迫力のある眼光と、語気の鋭さから、彼女の内心は明らかだった。

 

 ジューザは直立不動の姿勢をとった。ジューザは真面目な口調で答えた。 

 

「はいっ、テッポ殿」

 

 大の大人が少女に気圧(けお)されていた。だが、それも不思議ではないなとバナーヌは思った。テッポは未だに、さきほどまでの戦場での殺気を纏っていた。

 

 テッポは語り始めた。

 

「ジューザ、あなたの立場は私も理解しています。この高原の馬宿の店長としては、馬宿と馬を守ることが第一の任務でしょう。ですから昨晩あなたがヒコロクとモモンジの積極策に賛同せず、馬宿から出撃しなかったのも、一理あると私は思います。また私は、『ヒコロクが重傷を負ったのは、あなたが出撃しなかったからだ』などという短絡的なことは言いません。ヒコロクが負傷したのは、第一に不覚をとった彼とモモンジの責任ですから、そのことに関してあなたの責任を問うのは不当でしょう。ですが……」

 

 テッポの言葉は続いた。不思議といえば不思議な状況だった。テッポの言葉は、馬宿内部の空間を完全に支配していた。寝台に横たわっているヒコロクも、どうなることかと思ってハラハラとしているモモンジも、(かたわ)らで静かに聞いているバナーヌも、当事者のジューザも、他の店員たちも、みんなテッポの語る内容に耳を傾けていた。テッポはまた言った。

 

「ですがあなたは、私たちが矢文(やぶみ)でヒコロクの傷が重いことを告げたのにもかかわらず、出撃をしなかった。あなたは私たちの出撃要求を拒絶しました。そのうえ、あなたは戦闘の終盤になるまで馬宿から出てこなかった。なぜですか? なぜあなたは、出撃をしなかったのですか? もし、あなたが『店長としての務めを果たすためには、このまま持久策を採って魔物たちが包囲を解くのを待つのが最善だ』と考えたのならば、それは間違いだったと言わざるを得ません。なぜなら……」

 

 ここまで話してからテッポは、微かにふらついた。疲労感が募っているようだった。しかし、彼女は足に力を入れてぐっと(こら)えると一回深呼吸をし、また話を再開した。

 

「なぜなら、あなたは、馬宿の店長である前に、イーガ団員だからです。あの時、あなたは、負傷した仲間のために、店長としての務めを一度()いて出撃するべきだった……それがイーガ団員としての義務ではありませんか。あなたは誓約をたてて、魔王様に忠誠を誓った者でしょう。あなたはイーガ団員なのです。確かに、あなたは戦闘の終盤になって、店員たちを率いて戦いに参加してくれました。そのことについては感謝します。ですが、そのことを()ってしても、あなたの出撃拒否を見逃すわけにはいきません」

 

 ジューザはうなだれていた。テッポは目つきをさらに鋭くし、ジューザを見据えて言った。

 

「ここではっきりと言っておきます。あなたは仲間を、負傷したヒコロクを見殺しにしようとしたのです。だから、まずは、ヒコロクに謝るべきではないのですか? イーガ団員として恥を知っているのならば、ヒコロクに対してどんな言葉をかけるべきか、あなたにはわかるでしょう」

 

 しばし、沈黙があたりを包んだ。その場にいる全員の視線が、ジューザに集中していた。馬宿の天井を打ち続ける単調な雨の音が、どこか遠く聞こえた。

 

 ややあって、ジューザが動いた。彼はヒコロクの寝台の(そば)に行くと、背筋を伸ばした。彼は静かに、頭を深々と下げた。彼は言った。

 

「ヒコロク、申し訳なかった。俺は誤った判断をして、お前の命を危険に晒した。俺は、同じイーガ団員を見捨てようとした。許されるとは思っていないが、どうかこの謝罪の言葉だけは聞いて欲しい……」

 

 またもや、しばしの沈黙がその場に訪れた。血を失って蒼白になったヒコロクの顔は、ジューザの謝罪を聞いている時は真面目に引き締まっていた。

 

 だが、やがて、ヒコロクの表情は弛緩した。彼は朗らかな声を響かせた。

 

「良し、許す!」

 

 モモンジが驚いたような、呆れたような声を上げた。

 

「ええー……そんなに軽く許すんですか……もっと、こう、なにか、この場にふさわしい言いようってものがあるんじゃ……」

 

 モモンジに向かって、ヒコロクはニヤリと笑った。

 

「こうやって許すのが一番良いのさ。もし、ここで俺が許さなかったら、ジューザの立つ瀬がない。それに、テッポ殿は怒り(ぞん)になる。テッポ殿の顔に泥を塗るわけにはいかん。それに、うちの嫁さんも、俺の美点は恨みを持たないことだと言ってた。いまさら恨みを持つってのも俺の(しょう)に合わねぇ」

 

 一方のジューザは、困惑しているようだった。彼は戸惑ったように言った。

 

「良いのか? 本当に俺を許してくれるのか? 俺はお前を見捨てようとしたんだぞ」

 

 面倒くさそうにヒコロクは答えた。

 

「うるさいやつだなぁ。許すって言ってんだから許すんだよ。ねっ、テッポ殿? 俺が許したんだから、この件はこれでオシマイですよね?」

 

 テッポは満足げに微笑んだ。彼女は言った。

 

「ええ、ヒコロクが許したんですから、この件はもう終わりよ。良かったわねジューザ、ヒコロクの心が広くて。ちゃんと謝ることができて偉かったわ……あっ……」

 

 そこまで話した時、テッポはガクリと脱力して床に膝をついた。バナーヌが即座に駆け寄り、テッポを抱き抱えた。彼女はテッポに声をかけた。

 

「テッポ、大丈夫か」

 

 テッポは、バナーヌの腕の中で、絞り出すように声を出した。

 

「うう、バナーヌ……私、もう疲労の限界よ……今、ものすっごく眠いの……」

 

 バナーヌは優しい声で言った。

 

「そうか、寝ろ」

 

 ただでさえ消耗していたところに慣れないお説教をしたせいで、テッポは体力の限界を突破してしまったようだった。バナーヌはテッポを横にして抱き上げると、近くの寝台まで運んでいった。

 

 テッポは子犬のように温かく、羽毛のように軽かった。こんな小さな体で戦い続けたのか。バナーヌは感心するのと同時に、少し悲しい気持ちがした。悲しい? イーガ団員であるならば戦いは当然のことなのに? 彼女はちょっとだけ考えた。そして、やっぱり悲しいものは悲しいのだと思った。

 

 そんなバナーヌの内心も知らずに、抱かれているテッポを見たモモンジが能天気な声を上げた。

 

「あっ、それっていわゆる『お姫様だっこ』ってやつですよね! いいなあテッポ殿、私もお姫様だっこ、やってもらいたいなぁ……女の子の夢ですよね、お姫様だっこは……」

 

 ヒコロクは呆れた顔をして言った。

 

「いったい何を言ってんだお前は……お前も疲労と眠気でだいぶ頭がおかしなことになってるんじゃないのか? なんか妙なこと口走ってるぞ」

 

 だがモモンジは首を左右に振った。彼女は言った。その口調はどこかふにゃふにゃとしていた。

 

「いえ、今は眠気よりやっぱり食い気ですね。私、もうお腹が減ってしまって……いえ、食い気より眠気? そう考えてみるとやっぱり眠い感じもしますね、ああ、ねむい……」

 

 ヒコロクは言った。

 

「本当にしょうがいないやつだな、お前は。ほら、お前もちゃんと寝台に横になって、寝ろよ」

 

 モモンジとヒコロクの会話を聞き流しつつ、バナーヌはテッポをふかふかの寝台に横たわらせた。テッポはすでに、静かな寝息を立てていた。

 

 バナーヌは、先ほどのテッポの説教について思い返していた。まったくテッポは人を率いる術をよく知っている。話をするということは、人を率いる基本だ。父親の英才教育のおかげかそれとも天性の才能かは分からないが、まったく大したものだった。あそこでジューザに説教できるのはテッポだけだった。テッポはフィローネ支部の幹部ハッパの一人娘であるし、それにいわゆる「幹部候補生」の立場にある。テッポだからこそジューザも話を聞いたのだ。

 

 いや、それだけではないとバナーヌは思った。テッポには「まっすぐさ」という美点がある。純粋で不正を憎む彼女だからこそ、あの説教には説得力があったのだ。幼いながらもあそこで凛として声を上げたのは、本当に偉かったと思う。

 

 ジューザには、この後にも色々と仕事をしてもらわなければならないのだ。彼には代替馬を用意してもらわないといけないし、それにヒコロクの看護もしてもらわないといけない。場合によっては、輸送馬車まで馬を連れていく役目まで果たしてもらうことになるかもしれない。そんなジューザに、感情的なしこりを残したままでいさせるのは危険なのだ。

 

 テッポはあの時、あえて怒ることで、ジューザに気持ちを整理させることを促した。いわばテッポは、生命の洗濯をしてやったのだ。バナーヌは頷いた。そうだ。イーガ団員であることと馬宿の店長であることとの板挟み、そして、仲間を見殺しにしかけたという罪悪感……こういった負の感情を洗い落とすことなしに、今後も充分な仕事などできるはずがない。

 

 それにおそらくテッポは、ヒコロクがすぐに許すであろうことも知っていた。だから、問題は早く決着するだろうと予測していたのだろう。

 

 バナーヌは、テッポが示した才能に改めて感心した。この()は、ただのマックスドリアン好きの爆弾娘ではない。この()は、適切な態度とふさわしい言葉遣いで人を率いることができる。この()は真っ直ぐな性格をしていて、人を正しく導くことができる力を持っている……無口な上に世間ずれしてしまった性格の自分には、とても真似のできないことだ……バナーヌはそう思った。彼女はテッポの髪を少し撫でた。

 

 すると突然、テッポの目がぱっちりと開いた。艶ややかな長いまつげの奥で、眼差しがぼんやりと光っていた。案外ハッキリとした口調で、テッポはバナーヌに話しかけた。

 

「バナーヌ、私、いつまで寝てて良いのかしら?」

 

 バナーヌは、また優しくテッポの頭を撫でてやった。さらさらだった黒髪は、戦闘を経てざらついていた。彼女は言った。

 

「風呂が沸いたら起こしてやる」

 

 テッポの顔が(ほころ)んだ。テッポは甘えたような声を出した。

 

「そう、ありがとう……ねぇ、バナーヌ……」

 

 テッポがそんな声を出すのをバナーヌは初めて聞いた。彼女は答えた。

 

「なに?」

 

 次第に消え入りそうになる声で、テッポは言った。

 

「さっきの私……あれで良かったかな? 私、ジューザにあんなことを言う資格があったのかな……」

 

 バナーヌは、軽く頷いた。

 

「ああ、あれで良かった」

 

 その言葉を聞いたのか聞かなかったのか、テッポはすでに(まぶた)を閉じていた。彼女は可愛らしい寝息を立て始めた。

 

 しばらくテッポの寝顔を見つめた後、バナーヌも寝台で横になることにした。少しでも寝て、体力を回復させておかねばならない。彼女は思った。敵の大群を撃破することができた。どうにか代替馬は確保できそうだ。だが、これからもまだまだやるべきことが残っている……それをこなすためには、さしあたって睡眠と、入浴と、食事が必要だ。

 

 私たちだって、生命の洗濯をしないといけない。それは大仕事なのだ。

 

 ジューザがなにやら店員に声をかけているのが聞こえた。どうやらジューザは、「風呂の準備をしろ」と言ったようだった。店員が馬宿を出て、裏手にある風呂へと行く気配がした。

 

 普段は煩わしい雨音が、今だけは自然の子守唄となっていた。バナーヌは、バナナのように甘い微睡(まどろみ)の中へ落ちていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 モモンジが言った。

 

「あのー、テッポ殿。私たち、こんなにのんびりして良いんですか?」

 

 テッポが怪訝そうに答えた。

 

「なに、モモンジ? どういうこと?」

 

 モモンジが言った。

 

「いえ、だってですね、サンベ殿たちはたぶん、一刻も早く私たちが代替馬を連れて帰ってくるのを待ってると思うんですよ」

 

 テッポは頷いた。

 

「そうね。指揮官殿は首を長くして私たちを待っているでしょうね。それで?」

 

 モモンジはさらに言った。

 

「それなのに私たちは今、お風呂にゆっくりと入ってのんびりとしている。それがなんだか、申し訳ないという感じがしてですね……」

 

 テッポが答えた。

 

「あら、モモンジ、あなたはバナーヌから聞かなかったの? バナーヌの話では、『戦闘の前に逃がしておいた馬たちを集めるには、最低でも五時間はかかる』のですって。そうジューザが言っていたそうよ。雨だから時間がかかるらしいわ。だから、私たちは五時間も休むことができるのよ。さっきのお昼寝で私たちは一時間半くらい寝た。だから、あと三時間半はゆっくりできるわね」

 

 モモンジが驚いたような声を上げた。

 

「えっ!? これから三時間半もお風呂に入るんですか!? さすがにそれはちょっと……そんなに長くお風呂に入ったら茹でオクタになっちゃいますよ……」

 

 テッポは呆れたような声で言った。

 

「なに言ってるのよ、もう……そんなに長くお風呂に入るわけないでしょ! ほら、あなたに描いた紋様(もんよう)を消してあげるわ、こっちに来て」

 

 狭く薄暗い浴室に、白い湯気が垂れ込めていた。明り取りの小窓から空が見えていた。空は濃い灰色一色に塗りこめられていた。雨雲はあいかわらず、細かな水滴を地上へ無限に落とし続けていた。

 

 何よりも甘美な睡眠を、テッポとモモンジはつかの間だけ味わうことができた。二人は今、高原の馬宿の裏手に建っている湯殿(ゆどの)にいた。そこには二人しかいなかった。バナーヌはいなかった。彼女はジューザと今後の行動について軽く打ち合わせをしてから風呂に入るとのことだった。

 

 もともと、高原の馬宿に風呂は備わっていなかった。ある時、ジューザがイーガ団員を接待するという名目で風呂を作らせた。その作りは伝統的なカカリコ村様式だった。湯船は遠くラウル丘陵から運ばせた上質な杉材で出来ていた。貴重な真水と薪炭(しんたん)を大量に使うこの手の風呂は、大厄災後のハイラル世界においては、ささやかだが最大級の贅沢の一つかもしれなかった。

 

 手拭いと石鹸を手に持ったテッポが、モモンジの後ろに立った。テッポは行儀良く湯浴み着を身に纏っていた。モモンジは一糸纏わぬ裸体を晒していた。

 

 カラス共と揶揄されるフィローネ支部所属でありながら、モモンジの肌はまったく日焼けしていなかった。その健康的で(つや)のある白い肌は、あたかも鏡面のように磨き上げた白大理石のような美しさだった。それはテッポの肌とはちょうど対照的だった。モモンジは普段から暑さを(こら)えて、露出の少ない忍びスーツを着ていた。彼女はなるべく日光を浴びないように心がけていた。彼女の白い肌はその努力の成果だった。それはファッションのためではなかった。いざ体に紋様を描く時にはそれが彩り良いものになるようにという、密林仮面剣法の正統伝承者としての心がけのためであった。

 

 モモンジは、その豊かな桃色の髪を湯浴みのために結い上げていた。彼女はどこか気遣わしげな声を発した。

 

「油性の顔料のおかげで雨にも負けずに耐えてくれましたけど、この紋様、ちゃんと消えるんでしょうか……?」

 

 この後も、必ず戦闘はあるだろう。そのためには紋様は残しておいたほうが良いかもしれない。風呂に入る前に、モモンジはバナーヌとテッポにそう言った。だが、二人からは「いざとなったらまた描いてあげる」と彼女は言われた。彼女は、もったいないという気持ちがしつつも、紋様を風呂で洗い落とすことにしたのだった。

 

 モモンジと同じように豊かな黒髪を結い上げているテッポが、薄い胸をことさらに張って答えた。

 

「大丈夫よ! 石鹸をたっぷり使うから、きっと油性の顔料であっても落ちるはず! さあ、洗って洗って洗い倒すわよ!」

 

 あっ、とモモンジが声を上げた。

 

「その石鹸、もしかしてフィローネ支部特産の、例の『バナナ石鹸』ではないですよね……? あの、申し訳ないのですが、あれだけはやめてくださいね……? 前に何も知らないで使ったら全身のお肌がかぶれちゃって……」

 

 テッポは答えた。

 

「大丈夫よ、その点も抜かりないわ。この石鹸はハテノ村産の牛乳石鹸だから。さあ、ごしごしして綺麗にしましょうね」

 

 モモンジは言った。

 

「は、はあ……ではあの、ふつつか者ですが、よろしくお願いします……」

 

 テッポは手拭いに石鹸を塗りつけた。また、彼女はモモンジの背中にも直接石鹸を塗りつけた。それから彼女は力を込めて、丹念に紋様を拭き始めた。

 

 手を動かしているうちにテッポは、モモンジの肉体がしなやかで強靭な筋肉を持っていることに気が付いた。大振りな風斬り刀を手足のように扱い、魔物の腕を斬り飛ばし、真空刃を発生させ、馬の首を切断する……そういったことを可能とする膂力を生み出しているのがこの筋肉なのだということを、テッポは実際に手で触れて知った。

 

 テッポが呟くように言った。

 

「私も筋力を鍛えたほうが良いのかな……」

 

 モモンジはその言葉を聞きもらさなかった。彼女は言った。

 

「えっ? テッポ殿、筋力トレーニングに興味がありますか? それなら良い方法がありますよ。うちの流派に代々伝えられている筋力の鍛錬法があって……」

 

 テッポはどこか投げやりな感じで答えた。

 

「やっぱり止めとくわ。たぶんついていけない気がする……」

 

 浴室内は次第に淡く繊細な無数のシャボン玉で溢れかえっていった。

 

 モモンジがいかにも気の抜けたような声音で言った。

 

「ああー、テッポ殿は洗うのがお上手ですねぇ……すごく気持ち良いですよ……」

 

 手を休めることなくテッポがそれに答えた。

 

「そう? ちょうど良い塩梅(あんばい)かしら?」

 

 その言葉を聞いてモモンジが笑った。

 

「ちょっ、テッポ殿、『塩梅』って……ふふふ、若い娘がそんな言葉遣いしますか?」

 

 テッポも首を傾げた。すでにモモンジの背中の紋様はほとんどが消えつつあった。彼女は首をかしげながら言った。

 

「確かに、若い娘が『塩梅』なんて言葉を使うかしら? なんかおばあちゃんみたいね。まあ、いいか」

 

 気を取り直したようにテッポはまた言った。

 

「さあ、モモンジ。次は前よ、前! こっちを向きなさい!」

 

 モモンジは慌てたように言った。

 

「い、いえ、テッポ殿! 前は良いですよ、前は! 前を洗うのは自分でやりますから!」

 

 だが、テッポはなおも言った。

 

「ダメよ! 私があなたの体を洗うの! それにあなたの体、なんかごしごしするのが楽しいのよ! 脂肪の柔らかさと筋肉の固さがちょうどよい塩梅というか……あ、また塩梅って言っちゃった……とにかく、もっとごしごしさせなさい!」

 

 モモンジは悲鳴を上げた。

 

「そ、そんな……お、お助けー!」

 

 しばらく揉み合うような気配がした。ややあって、先ほどとはトーンの異なった会話が聞こえてきた。

 

「お、大きい……やっぱり大きいわ……それに白くて形も良いし……なによ、この柔らかさ……この柔らかさ、いったいなによ」

「しくしく……」

「バナーヌには流石に負けるけど、モモンジ、あなたもすごくすごいモノを持ってるわ……すごいわこの柔らかさ、なにこれすごい」

「しくしく……ひどいです、テッポ殿……」

 

 テッポは手を動かしていた。モモンジは泣くふりをしていた。二人は他愛のないじゃれ合いに興じていた。それは、失われた生命を取り戻すための、一種の儀式だった。戦闘で磨耗した精神、損なわれた霊魂、魔物によって汚された感情……それらを回復し、洗い直し、もとの純白さを復元させるための儀式を彼女たちは執り行っていた。それは真なる意味での、生命の洗濯だった。

 

 ふと、モモンジが首を傾げた。

 

「そういえば、テッポ殿はバナーヌ先輩の裸を見たことあるんですか?」

 

 テッポは頷いた。

 

「あるわ。つい先日、あなた達とはぐれた次の日の朝にね……バナーヌったら、誰も見てないからってお外で水浴びをしたのよ……あれには驚いたわ」

 

 揉まれるに任せていたモモンジは、そこで急に姿勢を正した。彼女は不思議そうな顔をして言った。

 

「テッポ殿とバナーヌ先輩、ぴったり息が合ってるからなんとなく長年の付き合いなんだと思ってましたけど、考えてみればお二人が出会ったのはここ数日の話なんですよね。バナーヌ先輩の性格のだいたいのところは、今回の戦いで私も把握したつもりですけど……いったい、バナーヌ先輩って何者なんですか?」

 

 そう問われたテッポは揉むのをやめて、腕を組むと考え始めた。テッポは言った。

 

「……うーん、そう言われてみると……私も彼女のこと、まったく知らないわね……私の年齢くらいの頃のバナーヌって、どんな子だったのかしら……私、彼女の好きなファッションとか、好きな本とか知らないわ。彼女が好きな食べ物も私は……いえ、それはバナナね、間違いなく。バナーヌはバナナ好きだわ。あと、本人はそう言わないけど、マックスドリアンが嫌いみたい。なんでマックスドリアンを嫌うのか、理解に苦しむけど」

 

 モモンジがテッポの考えを引き継ぐように言った。

 

「バナーヌ先輩は冷静沈着で、すごい戦闘巧者だと思います! あの華麗な体捌(たいさば)きもそうですけど、何より戦術眼がすごいですよね! あとは……」

 

 手拭いを持ったテッポが、今度はモモンジの胸の紋様を消し始めた。モモンジの胸は面白いように形を変えた。それに苦戦しながらも、テッポは先を促した。

 

「あとは?」

 

 モモンジはぐっと握りこぶしを胸の前で作った。彼女は断言するように言った。

 

「バナーヌ先輩は、とても優しい人だと思います!」

 

 テッポは小さな妖精のように微笑んだ。

 

「そうね。バナーヌはとっても優しいわ」

 

 その時突然、ガラリと浴室の木戸(きど)の開く音がした。

 

 二人が振り向くと、入り口に全裸のバナーヌが立っていた。彼女は白い手拭いを手にさげていた。

 

 二人の視線は順にバナーヌの身体の各部を辿っていった。どこまでも白く、深雪を思わせるような肌だった。芸術的なまでに均整の取れた肢体だった。腰は美しくくびれていた。

 

 そして、それを見て、二人は同時に声を発した。

 

「お、大きいわね……」

「お、大きいですね……」

 

 バナーヌは、サファイアの瞳にやや疑問の色を浮かべて、僅かに首を傾げた。




 これにて第四章は終了です。第四章は新キャラであるモモンジの登場をメインテーマとした話になりました。アラフラ平原に関する考察、馬に関する知識、寡で衆を撃破する戦闘の構築、迫力ある戦闘描写、女の子の肌の質感など、書き終えた後は「もう少し勉強してから書きたかったなぁ」という気持ちになりましたが、書けるだけのことは書いたので満足感もあります。

※加筆修正しました。(2023/05/15/月)


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第五章 カルサー谷からの長い手
第四十三話 剣士リンクのメモラビリア


 時間は半日ほど(さかのぼ)る。場所は遠く(へだ)たっている。アラフラ平原に到達したバナーヌとテッポが、モモンジと共にボコブリンたちをひとまず退け、疎林にてヒコロクの重傷を治療していた、まさにその頃のことである。

 

 暗い青紫の東方の空に、緋色の可憐な衣を纏った太陽がはにかむように姿を現した。その日もハイラルは朝を迎えていた。

 

 ゲルド地方の奥また奥にあるカルサー谷のイーガ団のアジトは、この百年間ずっとそうであったように、穏やかで、いつもと何もかわり映えのしない日常を開始した。

 

 砂漠地帯特有の、朝の冷涼な空気と風が大気を満たしていた。墨染(すみぞめ)の山の()を、昇りかけの日の光が薔薇色に染めていた。だが、新しい一日の始まりに相応しい、可愛らしい小鳥の鳴き声は聞こえなかった。

 

 そのかわりに聞こえてくるのは、矢叫(やたけ)びだった。矢叫びに様々な音が唱和していた。ギリギリと弦が引き絞られる音、ふっと一瞬息を呑む息遣い、放たれて猛烈な勢いで空中を突進する矢の飛翔音、的に矢が突き刺さる鈍い音……それぞれの音は渾然一体となって、その空間に満ちていた。

 

 そこはイーガ団アジトの弓術訓練場であった。イーガ団の中でも特に射撃の腕に優れる者たちは、朝に眠りから覚めて寝台からおりると、すぐに支度(したく)を整えてここへ来ることになっていた。たっぷり一時間は弓の訓練をした後、彼らはバナナ付きの朝食を食べて、一日の活動を開始するというわけだった。

 

 だが、今日はいつもと少し様子が違った。彼らはいつも通り訓練を行っていた。だが、その注意は弓矢と的に対してではなく、その場にいる、ある三人の人物に向けられているようだった。

 

 三人は、いずれも女性であった。若い女の声が響いた。

 

「サミ、頑張ってねー。あ、ノチ。ちょっとお茶を持ってきてちょうだい。運動前には水分を摂っておかないと」

 

 その若い女の声に、さらに若い女の声が答えた。

 

「は、はい、ウカミ様! ただいまお持ちいたします!」

 

 その三人の女は、訓練場の真ん中に位置を占めていた。一人の女は、弓に矢を(つが)えて佇立(ちょりつ)していた。女はその鋭い目で、四十メートル彼方(かなた)にある円形の的を見やっていた。もう一人の女は絹の(しとね)にゆったりと腰を下ろし、柔和な顔つきで弓矢を手にする自分の側近を見つめていた。最後の一人は、二人のやや後方におり、その手には手拭いや水筒を、そして(かご)に盛られたバナナを抱えていた。

 

 弓を持った女の目は、いまや空から獲物を探すタカのようであった。猛禽類のごとき鋭いその視線は標的を射抜いた。女の体は、積み上げられた鍛錬の通りに理想的に動いた。女から息が漏れた。

 

「ふぅ……はっ!」

 

 弓を構えていた女はサミであった。サミは自分の(あるじ)からの視線を受けながらもそれに(おく)することなく、至極冷静に、普段通りの動作と息遣いで矢を放った。ムカデのような装飾が施された二連弓から放たれた二本の矢は、あたかもそれ自体が意思を持つ生き物であるかのように空中を駆け抜けた。矢は数秒も経たずして的に命中した。

 

 それを確認するまでもなく、サミは間を置かずに次の矢を放った。二回目、三回目、四回目……そのすべてが命中した。恐ろしいばかりに高い射撃技量であった。だが、当の本人であるサミはこの程度どうということもない、という表情を浮かべていた。その証拠のように、彼女はまったく息を切らしていなかった。

 

 的の近くに控えていた判定員が結果を叫んだ。

 

「サミ様、八本中八本命中! お見事でございます!」

 

 的にはサミの放った八本の矢が、どれも円の中心のごく近いところに林立していた。弓術特練生でもこのような結果を残すのは難しいだろう。絹の(しとね)の上に座っていた、イーガ団上級幹部のウカミは、判定員の報告を聞いて相好を崩した。彼女は嬉しそうに言った。

 

「すごいわ、さすがはサミね。あなたの弓の腕は、紛れもなく技量『特甲』だわ」

 

 サミは深々と頭を下げた。彼女は言った。

 

「もったいないお言葉でございます」

 

 ウカミはニコニコと笑っていた。その口元を扇子(せんす)で隠しながら彼女はサミに言った。

 

「うふふ……サミは本当に素晴らしい娘だわ。ねえ、こっちにいらっしゃい。ご褒美に頭を撫でてあげるから」

 

 サミは、やや顔を赤らめた。首を左右に軽く振ると、彼女は呟くように言った。

 

「また御戯(おたわむ)れを……」

 

 そう言いつつ、サミは後ろに下がった。彼女は自分の座に腰を下ろした。

 

 まったく、いつもどおりだ。サミはそう思った。的に矢が全部命中することも、ウカミ様がからかってくることも……ただ、この場にノチがいることだけがいつもと違う。それを除けばいつもどおりだ……

 

 ウカミは朝に訓練場で軽く汗を流し、その後に入浴する。入浴後にウカミはたっぷりと時間を掛けて化粧を済ませ、バナナをはじめとしたフルーツ主体の朝食を摂る。それがウカミの朝のルーティンであった。朝の訓練の時、ウカミはだいたいいつも剣術訓練場のほうを利用するが、ごくたまに弓術訓練場へ足を向けることもある。今日がその「たまに」の日だった。

 

 今朝、ウカミを起こしに行ったサミは、ウカミから「今日はノチも連れて弓術訓練場のほうへ行くわ」と告げられた。自分の主のノチへの熱心な入れ込みように内心で溜息をつきながらも、サミはそれに従った。サミはだらしない寝顔をして寝台で寝入っているノチを叩き起こして、弓術訓練場へ連れてきたのだった。

 

 あどけない顔をしたノチが、サミに手拭いと水筒を差し出してきた。花が咲いたような満面の笑みでノチはサミを称賛した。

 

「サミ様、お見事です! サミ様がこんなにすごい弓術の腕前をお持ちだったなんて、私、知りませんでした!」

 

 サミは手拭いを受け取った。主に対する態度とは対照的に、彼女はごく無感動に、ややもすれば冷淡とも取れるような態度でノチに答えた。

 

「別に、こんなことは大したことではないわ。あなたのような子からしたらすごいように見えるかもしれないけど、これくらいのことはウカミ様のそば近くお仕えする者として出来て当然なのよ」

 

 ノチはしゅんとなった。彼女は落ち込んだように言った。

 

「あ、はい……そうですよね……」

 

 そんなノチを一切気に掛けることなく、サミは手拭いでその白く細い首回りの汗を拭っていた。ノチのことなどどうでもよいといわんばかりの態度だった。

 

 一方で、ノチの気分はずるずると落ち込み続けた。弓術は、イーガ団員にとっては当たり前にできること。それにサミ様のように、ウカミ様という素晴らしい方にお仕えする人にとっては、「技量特甲」などというのは「イシロックをひっくり返す」ように簡単なことなのかもしれない。私の称賛の言葉なんて余計なことだったのかな……そのように考え込むほどに、ノチの顔つきは暗くなっていった。

 

 そんなノチに、いつの間にか近くに寄っていたウカミが優しく語りかけた。

 

「あらあら、可哀そうなノチ。でも安心してね。サミは冷淡なように見えて、ただ照れているだけなのよ。あなたに冷たくするのは、ただの照れ隠しなの。この子、他人からの純粋な好意に弱いから。特に、あなたのように純真無垢な子から褒められると、嬉しくてたまらなくなっちゃうのよ」

 

 主の言葉を聞いて、サミは途端に顔を赤くした。自分の主は、自分が秘めておきたい性格的特徴をいつも簡単に暴露してしまう。本当に困ったものだ。サミは言った。

 

「照れてなどおりません。何度も言うようですが、あの程度のことはイーガ団員として当たり前にできることでございます」

 

 寵愛する側近の健気な反撃に対して、ウカミはニヤニヤとした笑みを浮かべていた。ウカミは言った。

 

「その当たり前ができるようになるまで、サミはずいぶん苦労したわね。まだあなたが今の半分くらいの身長しかない頃に、私が手取り足取り弓矢の使い方を教えてあげて、それからはどんどん上手くなっていったのよねぇ……」

 

 ウカミの言葉を聞いたサミの顔からは、すでに照れは消えていた。それにかわって、隠し切れない誇りの感情がその表情に(にじ)み出ていた。サミは(りん)とした声で答えた。

 

「はい。今日(こんにち)の私の戦闘技量のすべては、ウカミ様ご自身のご指導によってその基礎が作られました。未熟だった私を親鳥のように育ててくださったこと、まことに感謝の念に()えません」

 

 控えて話を聞いていたノチが、驚いたように声を上げた。

 

「えっ! サミ様にもそんな未熟だった頃があったのですか!?」

 

 サミはノチへジロリと視線を向けた。彼女は茶を一杯口に含んで飲み干すと、どこか嫌そうな声で言った。

 

「昔の話よ。まだほんの子どもの頃の話。私だって未熟な頃はあった。イワロックだって初めはイシロックなのよ」

 

 すると、ウカミが音もなくすっくと立ち上がった。ウカミは言った。

 

「さてと、次は私の番ね。頑張るわ」

 

 サミが何も言わず、すっとウカミに近寄った。彼女は恭しい態度でウカミに弓を差し出した。その弓はイーガ団の標準装備の二連弓ではなかった。それはシーカー族が用いるぬばたまの黒い弓、「一心の弓」だった。

 

 遠く的場(まとば)の方では、他の団員がキビキビとした動きで的を交換していた。その的は、先ほどサミが射ったものとは異なっていた。的はさらにもう一回りほど小さなものだった。

 

 ウカミが位置に立った。ウカミは、先ほどまでは縹色(はなだいろ)と金色の豪奢(どうしゃ)打掛(うちかけ)を羽織っていたが、今はそれを脱いでいた。一般団員が身に纏うのと何ら変わらない、標準の忍びスーツが露わになっていた。

 

 ノチはその姿を見て、息を呑んだ。ウカミは美しかった。

 

 まず最初に、バナーヌ以上に豊満で大きく突き出た胸部がノチの目についた。しかし全体的な印象としてはむしろ、ウカミはしなやかで強靭な筋肉を搭載した肉食獣のようであった。これまでに何回かノチは、(おそ)れ多くもウカミの一糸纏わぬ素肌を目にしていた。だが、忍びスーツを纏った彼女を見るのは、ノチには初めてのことだった。

 

 忍びスーツ姿のウカミは、まさに理想的な女性の容姿であった。また、理想的なイーガ団員の姿であった。後光が差しているかのような圧倒的な美だった。それを目の当たりにして、ノチは()も言われぬ多幸感に心の中が満たされていくのを感じた。

 

 だが、それと同時に、ノチの脳裏にバナーヌの姿がふっとよぎった。それはウカミの美に触発されて、ノチの記憶中枢にある美のイメージの代表であるバナーヌが引きずり出されてきたからかもしれなかった。あるいは、ノチは敬愛するウカミの美と親友のバナーヌのそれとを無意識のうちに比較しようとしたのかもしれなかった。いずれにせよ、ノチは自分自身の心的な動きを自覚していなかった。彼女はただ呆然として、ウカミを見ていた。

 

 ウカミの口から声が漏れた。

 

「……ふっ!」

 

 ウカミは無造作に矢を(つが)えると、矢を放った。放たれた矢はあやまたず、五十メートル先にある小さな的の、その中心に命中した。

 

 おお……とノチから溜息が漏れた。それも束の間だった。ウカミはさらに矢を放った。一発、二発、三発、四発……矢色(やいろ)はまったく衰えなかった。矢風(やかぜ)は凄まじかった。それぞれの矢は、あたかも自動機械人形のような精確な動きによって放たれた。瞠目(どうもく)すべきことに、それぞれの矢は、前に放った矢の尻の部分、矢筈(やはず)に命中して突き立っていた。威力も凄まじいのだろう、一発目から三発目までの矢は縦に裂けていた。

 

 上級幹部による絶技を見せつけられた遠くの判定員が、狂喜したように叫んだ。

 

「お見事にございますウカミ様! お見事でございます! すべて命中です!」

 

 ウカミは判定員へ軽く手を振った。それから彼女は、(かたわ)らにいるサミとノチの二人に微笑みかけた。サミはいつもながらのクールな表情だったが、その頬は上気してほんのりと桃色になっていた。ノチに至っては、ポカンと口をあけて放心していた。ウカミは(たしな)めるように言った。

 

「あらあら、ダメよノチ。女の子がそんな顔をしちゃ。おくちを開けたままだとキースが飛び込むわ」

 

 ノチはハッとしたように答えた。

 

「は、はひっ! 申し訳ございません!」

 

 ウカミはノチの頬を優しく撫でた。撫でながら彼女はサミへ顔を向け、ニッコリと笑った。彼女は言った。

 

「サミが『出来て当たり前』って言ってたから、失敗したらどうしようとハラハラしていたのだけど、案外うまくいったわね。ああ、ホッとしたわ」

 

 サミとノチは口々に称賛と感嘆の声を上げた。

 

「さすがはウカミ様です。これほどの弓の腕前、古今において右に出る者はいないでしょう」

「すごかったです! あの、その、何と言ったらいいか……とにかくすごすぎて言葉で表現できません!」

 

 だが、ウカミは、軽く首を左右に振った。彼女は言った。

 

「あらあら、あなたたち、ちょっと褒めすぎよ。別に私の腕前が良いわけじゃないわ。これはね、私が使ってる『一心の弓』のおかげなの。この弓を構えて精神を集中すると、遠くのものがはっきりと、大きく見えるようになるの。だから、ある意味これはズルなのよ。弓の性能に頼っただけなんだから。そう、ズルばかりするシーカー族が使う弓だから、やっぱりズルい弓なのね。それに、この世の中には私よりも遥かに上の技量を有する人が沢山いるのよ。それと比べたら私なんて……そう、『井戸の中のガッツガエル』のようなものね」

 

 ウカミはサミに一心の弓を渡した。彼女はノチから打掛(うちかけ)を受け取って、それを羽織った。ウカミは控えの間へと歩いていった。サミとノチはウカミに続いた。

 

 控えの間でウカミは二人に言った。

 

「ちょっと休憩をしましょう。少し昔話をしてあげるわ。バナナとお茶を楽しみながら、ね? リラックスして、私の話を聞いてちょうだい」

 

 狭い部屋の中で、ウカミは絹の(しとね)になよやかに腰掛つつ、冷たい茶の入った(わん)を手にして、話を始めた。

 

 それは、大昔に存在した、ある剣士の話だった。

 

 

☆☆☆

 

 

 それはおよそ百年ほど前、王国の占い師が「厄災復活の予兆あり」との警告を発する以前の話である。その頃のハイラル王国は(げん)として地上に秩序と支配を確立していた。王国は繁栄を謳歌していた。

 

 中央ハイラルの南西部にひとつの湖がある。馬蹄型のその湖は、名をアクオ湖といった。その湖に取り囲まれるようにして、ひとつの建造物があった。建造物は巨大だった。その建造物は、闘技場だった。闘技場は連日賑わいを見せていた。

 

 この闘技場は、かつてハイラル王家が体育競技を振興するために巨費を投じて建設したものであった。それによって優秀な士卒を抜擢するのが目的であった。建設当初、闘技場は王家による直営であったが、時代ごとにその所有者は代わった。この話の頃には、闘技場は王家からの委託を受けた民間の業者によって運営されていた。

 

 イーガ団員である彼、ムケリは、闘技場運営スタッフの一員としてそこに潜伏していた。

 

 時のハイラル王、ローム・ボスフォレームス・ハイラルは非常に聡明な人物であった。王は、この闘技場を民間に委ねるにあたり、相当厳密なチェックを入れた。王はそれによって不逞(ふてい)の輩や山師の類、なかんずくイーガ団員が闘技場に潜入するのを防ごうとしたのであったが、しかしやはりと言おうか、イーガ団は狡猾にも人員を潜り込ませることに成功していた。

 

 彼の仕事は、表向きには出場者たちの世話役、つまりマネージャーである。その裏では、闘技場へやって来る王国内の腕利きたちの情報を集め、また、超レートの違法賭博を裏で取り仕切り、イーガ団にとってはバナナの次に貴重な外貨を稼ぐことを生業としていた。

 

 イーガ団員ムケリは、もう二十年は闘技場にいた。彼は闘技場に関わるありとあらゆるを知っていた。運営の実態はもちろんのこと、剣士たちの常套戦術から住所、家族構成に至るまで、彼は調べ上げていた。また彼は、違法賭博に精を出している貴族たちや高級官僚らの名前と、賭け金の多寡、さらにはそれらの負う借金の金額すら把握していた。これら大から小に至るまでの様々な情報がカルサー谷へ送られ、(きた)る決起の日のために戦略を練る上層部の思考の材料となっていたのだった。

 

 その一方で、ムケリはイーガ団員でありながら、闘技場のスタッフという仕事に明確に愛着を抱いていた。彼はベテランの剣士を応援し、新人の剣士を気にかけ、それとなく差し入れをしたり、時には贔屓(ひいき)の選手に対戦相手の情報を横流ししたりするなどしていた。そんな彼を選手たちもまた信頼していた。彼は「闘技場に来たならば最初に会うべき人物はムケリだ」とまで言われるようになった。彼は満足していた。彼はやりがいをもって仕事にあたっていた。そんな生活をムケリは送っていた。

 

 ある日、新人の剣士がムケリのもとへ挨拶にやってきた。彼が新人と会うのはいつものことだった。彼は新人に闘技場のルールとならわしを教え、怪我をしないコツ、もしくは生き残ったりするためのコツを教えたりしていた。こうすることで、彼は有望な新人の情報をいち早く手に入れることができた。また、彼はその情報を裏賭博の連中に横流しして、大枚(たいまい)のルピーをせしめることもできた。

 

 その時も彼は、それがいつもどおりのままに終わると思っていた。だが、その新人は彼が今までに会ったことのないような青年だった。

 

 新人の歳の頃は、十代半ばのようだった。あるいは、それより二、三年は過ぎているだろう。おそらく、二十歳前だと思われた。

 

 新人の青年は灰色のフードを被り、地味なベージュのシャツとパンツを身につけていた。その姿を見れば、身の程知らずにも田舎からやってきて、剣技らしきもので身を立てようとしている思慮の浅い若者だという印象を受けた。

 

 だが、青年がフードを脱いだ時、ムケリは思わず息を呑んだ。

 

 美が、そこにあった。少なくとも、彼の感性はそう告げていた。

 

 青年の髪は、刈り入れを待つばかりの穂を満々と実らせたタバンタ小麦の畑を思わせるような金髪だった。その耳は、神々の声をより正確に聞くためにと言わんばかりに尖っていた。眼は磨き抜かれた大粒のサファイアのようだった。その容貌は少女と見紛うばかりの美しさだった。それでいて、その白い肌の下に若き熱い血潮が力強く、しかしひそやかに流れているのが感じられた。

 

 青年は、同年代の剣士たちと比べると小柄だった。青年は筋肉が少ないように見えた。その骨格も女性のように華奢なように一見思えた。だが、ふとした拍子に青年が見せるその身のこなしは、彼がただならぬ力量を秘めていることを暗示していた。

 

 なによりムケリの目を惹いたのは、青年の背にある長剣だった。長剣は、小柄な青年が扱うには(いささ)か大造りであった。長剣は上質な黒革の鞘に収められていた。その柄には、これまで多くの業物(わざもの)を見てきたムケリでも初めて見るような、見事な意匠が施されていた。鞘から剣を抜けば、魂まで魅了されてしまうような白刃が(きら)めくであろう。そう思われた。

 

 これは、一波乱ありそうだ。そう考えつつ、ムケリは青年に名と出身地を尋ねた。青年はただ一言だけ答えた。

 

「名はリンクル。ハテノ村出身」

 

 リンクルとは、おそらく偽名だろうとムケリは思った。いくら女性的な雰囲気を醸し出しているとはいえ、リンクルなどという女性そのもの名前であるはずがない。ただ、彼はそれを追及しなかった。この闘技場に来る連中は、だいたいが「ワケアリ」だ。なにか、名前を伏せないといけない事情があるのだろう。彼はそう思った。

 

 続けてムケリは青年に、どのような武器を得意とするかについて尋ねた。得意とする武器によって出場するプログラムが変わってくるため、その質問は必須であった。青年は、意外な返答を返してきた。

 

「剣、槍、斧、大剣……すべて一通りは扱えます。ですが、弓矢は少し苦手です」

 

 ムケリは、彼の言葉を信じた。普通ならば、若者特有のホラ話と思うところだろう。新人たちの中には、実力を誇張するためにこの手の答えをする者がいる。この歳にして武芸十八般(じゅうはっぱん)であるはずはないのだ。

 

 だがこの青年の口ぶりは、あたかも「読み書き算術ができる」と言うのと同じような、ごく自然なものであった。いや、そんなはずはないだろうという内心の反問のほうが、却って嘘らしく聞こえるほどだった。

 

 その青年は、無口だったが、話すべきことは明瞭に話した。自分はハテノ村から城下町へ出て、どこか名のある貴族に仕官することにした。だが、自分は僻地(へきち)出身で家柄も低く実績もないため、どこも紹介状を書いてくれない。そこで、まずはこの闘技場で名を上げることにした。ここでの実績が紹介状の代わりになるだろう。また、今後の生活のことを見越して少し纏まった金が欲しい。戦闘には自信があるから、新人だからといって簡単なプログラムに出すことはせず、いきなり最高難易度に挑戦させてほしい……

 

 それを聞いて、ムケリは少し考えた。それは、青年の要求を断るためにどんな言葉を使うべきかについてではなかった。彼としては、もう青年を出場させる気になっていた。他の連中がどう言おうが、この青年は大きな力を秘めている。圧倒的な力をこの青年は持っているだろう。長年選手を見てきた自分だからこそ直感的に分かる。この青年は、きっと闘技場の新たなるスタァとして君臨するだろう……

 

 ムケリには、その光景すら思い浮かべることができた。青年が表彰台の上で大きな黄金の優勝杯を抱え、その頭に月桂樹の冠を被り、クールな無表情を浮べたまま大会主催者から寿(ことほ)ぎを受けるその光景を、彼は想像した。

 

 それに、とムケリは考えた。この青年をスタァに仕立て上げることで、きっと裏賭博は大いに盛り上がるだろう。いつものようにうまいこと情報を操作して馬鹿な貴族共を騙すことができれば、大量の金ルピーをせしめることができる。そうすれば俺もバナナが食べ放題になるし、上層部からの覚えもめでたくなる……

 

 問題は、闘技場の規則であった。新人はまず、新人だけで構成された五人のチームで、ボコブリン十匹と戦わなければならないという決まりになっていた。二十年ほど前、実力を偽って申告した者が最高難易度にいきなり挑んだことがあった。結果、その者は成す術もなく魔物に八つ裂きにされて無惨な死を遂げた。あろうことか、それは国王臨席の試合でのことであった。国王は心を痛めた。その事故を受けて特別立法がなされ、新人は必ず最初に、上記のようなプログラムに参加すべきことが定められた。

 

 そのことをムケリは青年に説明した。

 

「……ということなんだが、えーと、リンクル君だっけ? すまないが、最初の一戦だけはそうしてもらえないかね。規則は規則なんでね」

 

 青年は、意外なほどに素直だった。彼は答えた。

 

「決まりならば、そうしましょう」

 

 そう答える青年のサファイアの瞳の奥に、一瞬だけ獰猛(どうもう)な戦闘者の眼光が垣間見えた。ムケリは人知れず身震いをした。

 

 

☆☆☆

 

 

 リンクルと名乗る青年が闘技場にやってきてから、早や三日が経った。青年のデビュー戦の時がやってきた。ムケリは控室に行くと、新人たちにプログラムの内容を説明した。

 

「敵は十匹のボコブリンだ。九匹が赤ボコブリンで、一匹だけが青色だ。赤ボコブリンの武器はいずれもボコこん棒にボコ槍。青ボコブリンは兵士の剣と盾を持っている。だが、心配することはない。しっかりと盾を使って、仲間同士で気を配って連携すれば、難なく倒せる敵だ……」

 

 説明しつつ、ムケリは新人たちを観察していた。彼らは緊張で顔を強張らせ、ともすると足すらがくがくと震わせていた。だが、例の青年だけは、熱心に聞き入っているようでありながら、どこか超然とした雰囲気をしていた。

 

 その後、出場の時まで、ムケリは新人チームに付き添っていた。一人が緊張に耐えかねて、その朝に景気づけとして食べたのであろうマックストリュフ添えの上ケモノ肉ステーキを盛大に床に吐いた。それまで木刀で素振りをしていた青年は、それを見るとすぐさま近くに寄り、優しく背中を撫で(さす)ってやった。吐いた新人は青年に言った。

 

「あ、ありがとうリンクルさん……俺、やっぱり怖くて……」

 

 青年は静かに言った。

 

「気にするな。最初はみんなそういうものだ」

 

 その瞬間、チームの中で誰が一番頼りになるのか、全員が理解したようだった。

 

 プログラムは呆気ないほど短時間で片が付いた。しかし、観客たちに与えたインパクトは絶大だった。

 

 戦いが始まるや否や、青年はチームに指示を出し、円陣防御の陣形を取った。四人が盾を構え、青年はその中に立って弓矢を手にしていた。意外だな、とムケリは思った。青年は陣の中から敵を狙撃しようというのだろうか? ムケリとしてはてっきり、青年が有無を言わさず敵の只中(ただなか)に突入して、その長剣で敵を斬って回るものだと予想していた。当てが外れて、彼は少し呆気にとられた。

 

 観客からもブーイングが起こった。あまりにも戦意に欠ける戦いぶりだ。赤ボコブリンなど、「村一番の力持ち」であるなら容易に倒せる程度の敵だ。そんなものに怖気づいて初手(しょて)から円陣を組むとは……やる気があるのか!

 

 しかし、次の瞬間であった。青年は、控室で嘔吐していた新人の肩にパッと音もなく飛び乗ると、そこからさらに高く空中へ身を躍らせ、そして弓を構えた。

 

 一呼吸ほどの間、瞬きすらしていなかったはずのごく僅かな時間だった。見逃すはずはなかった。だが、いつの間にか、敵のボコブリン十匹のひたいに、それぞれ一本ずつの矢が深々と刺さっていた。

 

 弓を手にした青年が、闘技場の石畳にふわりと着地した。そして、青年は一声(ひとこえ)かけて仲間たちに指示を出した。四人の新人たちはおめき叫んで剣を振り回し、脳天に致命的な一撃を喰らって激痛に悶え苦しむボコブリンたちへ向かって突撃していった。

 

 狂乱しながら赤ボコブリンを斬って回る仲間たちを後目(しりめ)に、青年は一人、青ボコブリンのもとへ走り寄った。そして、いまだに矢の一撃でふらついている敵に対して、彼は至近距離からもう一発の矢を放った。青ボコブリンは剣も盾も使うことができなかった。魔物は瞬時に絶命し、死体を黒く風化させた。

 

 試合時間は、僅かに三分だった。一人が興奮して自分の足を誤って斬ってしまった以外、新人チームに怪我人はいなかった。

 

 闘技場は、大歓声に包まれた。その中を青年は、まるで何も聞いていないかのように平然と歩いていた。青年は一緒に戦った仲間をねぎらい、怪我をした者に肩を貸して、控室へと戻っていった。

 

 ムケリの隣にいた、でっぷりと太った商人が興奮冷めやらぬといった風に彼に語りかけてきた。

 

「おい、見たか、あの金髪の小僧を! なんという弓の腕前だ! しかし何が起きたのかさっぱり分からなかった。ムケリ、アンタは分かるかい!?」

 

 ぽりぽりと頬を掻きつつ、ムケリは答えた。

 

「彼はリンクルという名前のハテノ村出身の剣士でしてね、つい先日ここに来たばかりです。いや、それにしても鮮やかな戦いぶりでした。ですが彼は私に『弓矢は少し苦手だ』と言っていましたが……」

 

 商人の目が輝いた。隣に侍らせている着飾った若い女性に、商人は気負いこんで話しかけた。

 

「おい聞いたか!? あれで弓矢が苦手なんだそうだ! とんでもない新人が現れたな、本当にな! よし、これからはあのチンクルだかリンクルだかいう青年に大金を賭けるぞ! お前も賭けるがいい! 何? ルピーがない? そんなことはわしに任せておけ……」

 

 若い女は苦笑いをしていた。しかし、その商人のまわりにいる人間は、一様に商人と同じ表情をしていた。これからの賭け事は、きっと面白くなる。彼らはその目を欲望でギラつかせていた。その黄ばんだ肌には脂の含んだ汗を浮かべていた。

 

 ムケリはそれを見てほくそ笑んだ。よし、筋書き通りに進んでいるな。あのリンクルは、俺の見立て通り、確実にスタァ選手になるだろう。大儲けのチャンス到来だ……

 

 自然とニヤついてくる表情を何とか抑えながら、彼は将来の大スタァの待つ控え室へと向かった。

 

 

☆☆☆

 

 

 かくして、夜空の流れ星の如き鮮烈な登場(デビュー)を、青年リンクルは果たした。だが結局、彼が大スタァになることはなかった。彼はある一戦を境に、突如として闘技場から姿を消してしまった。

 

 そして、青年が消えたのと同時に、闘技場の違法賭博は壊滅した。ムケリは間一髪のところで当局の摘発を免れたが、すべてを捨ててカルサー谷へ逃げ帰ることしかできなかった。

 

 青年はあの初戦の後、いくつかの中難易度のプログラムにたった一人で出場した。彼は背中の長剣を振るうこともなく、自ら苦手としている弓矢だけで難なく敵を撃破していった。ビッグブーメランを操るリザルフォスのチーム、騎馬ボコブリン、鎧兜(よろいかぶと)にチェーンハンマーを持ったモリブリンの群れ、ボコブリン百人組手など……彼はそのすべてにおいて圧勝した。

 

 剣を抜かざる剣士、新たなるスタァ選手の登場だった。闘技場のみならず、中央ハイラル全体がそれに熱狂した。闘技場は連日満員御礼だった。売買される食物や飲物の総額は、通常時の三倍になった。

 

 そして、ムケリが関わっていた違法賭博も、過去最高の盛り上がりを見せた。ただでさえ高率だったレートは青天井のように吊り上がった。違法賭博は無数の成金とそれ以上の数の貧乏人を生み出しつつあった。

 

 そんな状況下で、あの最後の戦いがやってきたのだった。

 

 ムケリはいつものとおり、明日行われる大一番(おおいちばん)のプログラムについて青年に説明していた。青年には個別の控室が与えられていた。控室の机の上には花束だの贈り物の紙箱だの、手紙だのが山盛りになっていた。手紙のほとんどはファンレターだった。中には、うら若き乙女たちからのラブレターもあった。そして、賭博で失敗した者の怨嗟(えんさ)の手紙も混ざっていた。

 

 ムケリは青年に言った。

 

「明日、君が戦う相手はヒノックスだ」

 

 青年は、一瞬頭の上に「?」という文字を浮かべたようだった。彼は答えた。

 

「ヒノックス、ですか?」

 

 微笑みながらムケリは言った。

 

「そう、ヒノックス。紛れもないヒノックスさ。ああ、君の疑問も分かるよ。『どうやって、そんな大型魔族をこの闘技場に運び込んだんだ』ってことだろう? 実は数年前、デグドの吊り橋で一匹の黒ヒノックスが捕獲されてね。本来なら、そいつはハイラル城の騎士訓練場へ標的として運ばれる予定だったんだが、そいつは妙に大人しくて戦意がまったくない。これでは使い物にならないということで、騎士訓練場は受け取りを拒否した。だから、そいつはこの闘技場に引き取られることになったんだ。今は、そいつはここの地下の(おり)に閉じ込められている」

 

 一瞬、青年の顔に驚くような表情が浮かんだ。しかし、熱を入れて話を続けるムケリは青年の表情の変化を気にも留めなかった。彼は説明を続けた。

 

「明日は、その黒ヒノックスとリンクル君との一騎打ちというわけさ。何、心配することはない。さっきも言ったように、そのヒノックスはハテノウシみたいに大人しいやつだから、明日もきっと簡単に君に倒されてくれるはずさ。一応、戦いを盛り上げるために、やつの手足には鉄製の鎧をつける予定だが、肝心の弱点の目玉は剥き出しのままにしておく。君のお得意の弓矢で目玉を虐め続ければ、すぐにでも勝敗は明らかになる。やってくれるね? もう明日のことでハイラル中が大騒ぎなんだ」

 

 賭博のこともあるしな、とムケリは内心で付け加えた。この戦いが終われば、彼のもとに少なくとも十万ルピーが入ってくる計算になっている。小型のスループ艦が一隻買えてしまうほどの大金だ……

 

 珍しいことに、青年は少し考え込む様子を見せた。まさか、この()に及んで断るのでは? 一抹の不安がムケリの心中をよぎったが、次に聞こえてきた青年の返答はいつもどおりだった。

 

「分かりました、やりましょう。ではまた明日に」

 

 次の日の正午になった。天候は雲一つない晴れだった。気温はやや高かったが、日差しは強くなかった。優に数千人は収容できる闘技場の座席は満席であった。通路には立ち見の客が溢れていた。係員たちは、階下へ零れ落ちそうになるほどの観客の群れを誘導整理するのに必死だった。

 

 勝負は、正午から十分が経った後に始まった。

 

 青年は、いつも通りのフードとくたびれたシャツとパンツ姿であった。晴れの舞台なのだから少しは着飾って欲しいとムケリは言ったが、彼は「目立つから」という理由でそれを断った。いまさら目立つとは何を言うのかとムケリは笑ったが、青年は真剣な面持ちを崩さなかった。

 

 黒ヒノックスは、地下からエレベーターで地上に上げられてきた。巨大な魔物は力なく、ぐったりと座り込んでいた。その全身には無数の傷跡が刻まれていた。その体色は上質の木炭のように真っ黒だった。その手足はエルム丘陵産の木材のように太く逞しく、重厚な造りの鉄製の装甲を纏っていた。見る者すべてに怖気を震わせるその黄色い単眼には、今は目隠しがされていた。目隠しは、試合開始と同時に紐で引っ張って外れるようになっていた。

 

 なぜかそのヒノックスは、首から白い包みを下げていた。その丸みから見て、包みの中にはなにか球体のようなものが入っているものと思われた。

 

 黒ヒノックスが完全に姿を現した瞬間、観客たちは一斉に静まり返った。何しろ、当時の平和なハイラル世界では滅多に見ることのない大型魔族であった。こんなに巨大で、堪えがたいほどの獣臭を放ち、なによりも醜悪な外見をした魔物がいるなどとは思ってもみなかった。そんな連中が大半だった。

 

 耳障りな声のアナウンスが終わった後、青年は静かに弓矢を構えた。それと同時に係員が魔物の目隠しを外した。いよいよ試合開始であった。

 

 ヒノックスは、突然単眼に差し込んできた日光を受けて、眩しそうに二、三回(またた)いた。次にヒノックスは、その大きな頭を左右に振り、キョロキョロと辺りを見回した。そして最後に、魔物は、目の前にいる小さな金髪の人間の姿を認めた。

 

 さて、今回は何分で片が付くかな。ムケリは考えていた。闘技場の裏賭博において重要なのは、誰が勝つかではなく、誰が「どのくらいの時間で勝つか」である。それによって賭け金がまた変わってくるからだった。

 

 だがそんな彼の皮算用は、次の瞬間響き渡った魔物の咆哮によって頭から吹き飛んでしまった。

 

 闘技場が崩壊するのではないかと思われるほどの鳴き声だった。観客たちは、魂すら消し飛んでしまいかねないほどの衝撃を受けて放心状態となった。

 

 魔物に詳しい者ならば分かったであろう、黒ヒノックスは、対戦者に対して激怒していた。

 

 それも、ただの激怒ではなかった。あらゆる怨念と憎悪を極限まで高めたような、呪詛に近いほどの激情を魔物は発していた。今や魔物は完全に立ち上がっていた。魔物はその単眼を真っ赤に染めて、腕をグルグルと振り回していた。魔物は青年に襲い掛かった。

 

 一方の青年は、そんな咆哮を真正面から受けながらも、まったく動じないでいた。彼は冷静に距離をとると、素早く弓矢を構えて、いつもながらの目にも止まらぬ早業でヒノックスの目玉に矢を撃ち込んだ。

 

 地響きを立てて、ヒノックスは床に尻もちをついた。ここで青年は初めて、デビュー戦以来決して抜くことのなかった背中の長剣をスラリと抜いた。

 

 その刃は、冷厳(れいげん)な輝きを放っていた。霊妙な青白い光が刀身全体を覆っていた。それを見る者の精神をぐっと引き込むような一種の魔力が感じられた。

 

 青年は長剣を構えて、痛みに悶えているヒノックスへ突進した。青年は魔物の股下に到達すると、鮮やかな回転斬りを放った。マネージャーは、そのような斬り方では脚の鎧に阻まれてしまうだろうと思った。だが、聞こえてきたのは分厚い肉を斬る鈍い音だけだった。金属音は一切しなかった。

 

 鎧と鎧の隙間を狙って、青年は剣を振るったのだった。それも、これまで誰も闘技場で披露できなかった大技である回転斬りを使って、青年は魔物を斬ったのだった。

 

 ヒノックスはしばらく斬られるに任せたままだった。やがて魔物は一声(ひとこえ)叫ぶとまた起き上がった。魔物は、今度はその巨大石柱のような右腕で、青年に向かってパンチを繰り出した。青年は鮮やかなバック宙を打ってそれを回避した。標的を逃した拳はそのまま石畳を直撃し、無数の石片をぶちまけた。

 

 ヒノックスの腕が伸び切っているその瞬間を狙って、青年は再度攻勢に出た。青年は魔物の腕を駆け上がり、そのまま敵の肩に乗った。ムケリは青年の凄まじい戦いぶりを見て、なんとなく「やり慣れているな」と思った。

 

 敵が肩の上に乗っていることに、ヒノックスはさらに怒りを募らせた。魔物は乱雑に体を揺すり、石畳を踏み砕く勢いで地団駄を踏んだ。さらに、魔物は両腕を振り回して肩の上の人間を振り落とそうとした。少しでも青年がバランスを崩せば、一巻の終わりであった。

 

 しかし青年は驚異的なバランス感覚を持っているようだった。彼は落ちることなく、しかも長剣を振るって、ヒノックスの単眼を執拗に攻撃し始めた。

 

 肉を斬る音が響き、紫色の体液が飛び散った。ヒノックスが絶望的な咆哮をあげる中、なおも青白い刀身は振るわれ続けた。

 

 時間にして十分だろうか、それとも一分も経っていなかったかもしれない。黒ヒノックスは、重要器官が詰まっている頭部と、なによりもかけがえのない単眼を集中的に切り刻まされたために、ついにダウンした。

 

 自身が流した体液によって、ヒノックスの足元はどうしようもないほど不安定になっていた。ヒノックスは足を滑らせた。魔物は背中から地面に倒れた。その衝撃は、観客たちを座席から浮き上がらせるほどだった。

 

 その時、魔物が首から下げていた白い包みが、コロコロと床を転がった。

 

 勝負はついた。青年の完全勝利であった。彼の着衣は今や魔物の体液で紫色に染め上げられていた。だが、その呼吸はまったく乱れていなかった。

 

 それでも、青年は魔物にトドメを刺そうとしなかった。彼は、(かたわ)らに転がっている白い包みに注目していた。

 

 青年は、剣先で包みを解いた。その中から出て来たのは、黒い球体だった。

 

 一方、観客たちは一言も漏らさず壮絶な戦いを観戦し続けていたが、やがて青年が勝利をわがものとしたことを認識すると、ぼつぼつと、ある言葉を連呼し始めた。

 

「……せ!……せ!」

 

「……ろせ!……ろせ!」

 

「殺せ! 殺せ!」

 

「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」

 

 闘技場は、たちまち異常な殺意に溢れた。魔物を殺せ! その巨大魔族を殺せ! 確実に殺せ! 今すぐ殺せ! 歯を剥き出しにし、目を血走らせ、口から泡を飛ばして、観客たちは殺せと絶叫し続けた。

 

 彼らは今になって初めて知ったのだった。魔物の脅威を、人間を喰らい、ハイラルの大地を汚す魔族の本当の姿を、その暴威(ぼうい)狂猛(きょうもう)業悪(ごうあく)を、彼らはその時初めて知ったのだった。

 

 その熱気に当てられたように、ムケリもいつしか叫んでいた。殺せ、殺せ! 今すぐ殺せ! どうした、なぜ殺さない……!

 

 しかし、青年は動かなかった。彼は相変わらず、白い包みから出て来た黒い球体を見つめ続けていた。やがて、彼はつい先ほどまで自分が切り刻んでいた魔物を一瞥(いちべつ)すると、長剣をサッとひと振りして血潮を払い、鞘に収めた。

 

 そして、狂気を孕んだ怒号の嵐を無視するかのように、青年は静かな足取りで控室へと帰っていってしまった。

 

 ムケリはそれを見て、なんとなく青年が悲しんでいるのではないかと思った。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウカミはそこまで話すと、ふぅと溜息をついた。彼女は冷たいお茶の入った椀をそっと口に運んで喉を潤した。熱心に話に聞き入っていたサミとノチに、ウカミは優しい眼差しを投げかけつつ言った。

 

「はい、これで昔話はおしまいよ。でも、話してる間にちょっと主題がずれちゃったかしら? まあ、それでもいいわね。お話というものはそういうものよ。ところで、この昔話には色々な謎があったと思うのだけど……そうね、ノチ、あなたの感想は?」

 

 いきなり指名されて、ノチは電撃に打たれたかのように体を震わせた。

 

「はひっ!? 私ですか!?」

 

 ウカミは見る者を陶然とさせる笑みを浮かべていた。ウカミは言った。

 

「そうよ、ノチ。私、あなたの感想が聞きたいわ。あなたはどう思った?」

 

 音を立てて、ノチの思考回路が全速力で稼働した。数秒して、彼女は言うべきことを整理できたようだった。彼女は口を開いた。

 

「えーっと、そのリンクルとかいう青年は、私が思うに、あのリンクですよね。あのハイリア人の英傑のリンクではないかと思います。リンクルという偽名からしてそうですし、その長剣はかの退魔の剣だと思われるので……でも、近衛騎士のリンクが、なんで闘技場なんかにいたんでしょうか?」

 

 ウカミは満足げに頷いた。そして、彼女はサミのほうへ視線をやった。その意味に気付いたサミは、ノチの疑問に答えた。

 

「かのリンクは、いわゆる(おとり)捜査をしていたのだと推測できます。おそらく、奴が闘技場に現れたのに前後して、王国の捜査官が他にも何人か潜入していたのでしょう」

 

 ノチはそれを聞いて、ハッとしたようだった。

 

「そうか! リンクが大活躍をして闘技場を盛り上げれば、違法賭博の規模も大きくなる。そうなれば尻尾も出やすくなって、捜査官としても摘発するのが容易になるわけですね!」

 

 サミが静かに頷いた。

 

「かのハイラル王は、不良貴族や汚職官僚、またそれらと結託する大商人たちを弾圧し、王権の強化を図ったと言われています。闘技場での違法賭博にそういった連中が絡んでいることを察知した王家が、配下の近衛騎士と捜査官を走らせて、一網打尽に取り締まろうとしたのでしょう」

 

 そこまで聞いたウカミは、ぱちぱちと手を叩いた。

 

「はーい、二人とも大正解! 闘技場の未完のスタァ『リンクル』はかの英傑リンクで、その目的は違法賭博の一斉摘発にあったのでした! 正解した二人にご褒美をあげるわ。頭をなでなでしてあげる。二人ともこっちにおいで。」

 

 サミとノチは明らかに狼狽した。上級幹部に頭を撫でてもらうなど、畏れ多いにもほどがあることだった。なんとかして話題を転換しようと、ノチがさらなる疑問を発した。

 

「あっ、あの、その! そのリンクですけど、なんでヒノックスにトドメを刺さなかったんでしょうか? あの冷酷非情で残忍無比なリンクが、魔物の命を奪わなかったなんて不思議でなりません」

 

 サミもそれに追従した。

 

「そうです! なぜリンクはそこまで魔物を追い詰めておきながら手を下さなかったのでしょうか? それに、その白い包みと黒い球体とはなんだったのでしょうか?」

 

 ウカミは人差し指を顎に当て、うーんと唸ってしばらく考えた。彼女は言った。

 

「……そうね、白い包みについては分からないけど……たぶん、英傑リンクはとても優しい人だったんじゃないかしら。魔物にも哀れな気持ちを抱いてしまうくらい、とても強くて、とても優しい人だった。だからトドメを刺さなかった。そんな理解で良いんじゃない?」

 

 サミが叫んだ。

 

「そんな! ウカミ様ともあろうお(かた)が、かの男をそのように評価するなんて! あの悪鬼が『優しい』など、そんなことがあろうはずがございません!」

 

 そんなサミを見て、ウカミは微笑んだ。

 

「ふふ、サミったら純情ねぇ。ねえ、二人ともよく聞いて。これは重要なことなんだけど、優しいというのは、必ずしも肯定的な意味を持たないのよ。あなたたちがもう少し歳をとって、今よりもうんと人生経験を積んだらきっと分かるようになるわ。優しさというのは弱さの裏返しで、時にはさらに転化して、傲慢にもなり得るということを、あなたたちはきっと知るはずよ」

 

 そこで、ノチが怖々(こわごわ)と手を上げた。ウカミが言った。

 

「あらノチ、どうしたの?」

 

 ノチは恐る恐るというふうに言った。

 

「あ、あの……ウカミ様は私たちにとても優しくしてくださいます。だから私はその、優しさが弱さに繋がるというのが、よく理解できなくて……」

 

 それを聞いたサミが、無言でノチのわき腹を肘で突いた。ノチが「ひゃうっ」と悲鳴を上げた。

 

 ウカミは笑みを崩さなかった。彼女は言った。

 

「そうね、ノチが言うとおり、私は優しいわ。たぶんコーガ様よりもずっと優しいでしょう。ノチ、あなたよりも私はもっと優しいし、あなたの大好きなバナーヌよりも私はもっともっと優しいと思うわ。私はそれだけ弱くて、傲慢な人間なのよ」

 

 思いがけない言葉に、二人は息を呑んだ。だが、ウカミは(いささ)かも調子を変えずに言葉を続けた。

 

「だから私、あなたたちに助けてもらわないと生きていけないの。優しくて、弱くて、傲慢だから、助けてもらわないと生きられない。だから二人とも、これからも私を支えてね。あなたたちだけが頼りなの」

 

 サミとノチは言葉もなく、平伏した。

 

 そんな二人を見やるウカミの眼差しは、どこまでも優しかった。どこまでも純粋な眼差しだった。

 

 しばらくして、ウカミはポンと手を叩いた。彼女は、いかにも今思い出したというふうに言った。

 

「あら、いけないわ! ずいぶんと長い時間おしゃべりをしてしまったわね。もう朝ごはんの時間じゃないかしら?」

 

 サミが顔を上げた。

 

「ウカミ様、お食事の前にお湯浴みをお召しになってください」

 

 ノチも口を開いた。

 

「そ、そうですよ! それに、お化粧もまだですし……」

 

 ウカミは薄く笑った。

 

「それじゃあ、三人で一緒にお風呂に入りましょう? あら、ノチ、恥ずかしがってるの? あなたと私の仲じゃない、いまさらお風呂くらいで恥ずかしがることなんてないわ……」

 

 次第に、弓術訓練場から、三人の声は遠ざかっていった。

 

 その日のカルサー谷も、きっといつものように過ぎていくのだろう。




 リンク「所詮遊びだ」
 今回から新章突入です。改めてよろしくお願いします。
 四十三話にして気づいたことですが、やはりリンクさんは書いていて楽しいですね。
 今回はやたらと「スタァ」という語が出てきましたが、誤記ではありません。トワプリのアレに従っただけです。下に剣山を植えやがって! 絶対に許さんぞ!

※加筆修正しました。(2023/05/16/火)


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第四十四話 この世はでっかい夢をみる島

 眠りは単なる睡眠以上の意味を持つ。なんとなれば、眠りは一種の義務だからである。

 

 すべての知性ある被造物は、本来ならば夜の世界で活動することを許されていない。闇が呼吸し、蠢き、その長い(かいな)(あまね)く地上に差し伸ばす暗黒の世界では、昼に生きるべく定められた被造物は沈黙しなければならない。

 

 鳥は空高く飛び、魚は水に棲まい、獣は大地を駆ける。魚が大地を駆け、獣が空を飛び、鳥が水底で卵を抱くことは決してあってはならない。それと同様に、昼を生きるものは夜かならず眠らねばならない。それが黄金の三大神降臨以来のこの世界の(ことわり)である。

 

 親は子に子守唄を歌い、恋人たちは睦言(むつごと)を交わし、夫婦は枕を並べて、まどろみながらより深い眠りの世界へと落ちていく。毎夜毎夜、生きている限り、我々は瞑目(めいもく)して自らを仮死状態へと追い込む。それは、生理的要求にただ従っているからではない。そうではなく、我々は眠りという義務を果たすことで、この世の理を守らねばならないからである。

 

 ゆえに、眠るべき存在でありながら夜を行く存在に対して、我々は怒りと嫌悪感を抱く。課せられた義務を果たさない者に対して、赤熱する銑鉄(せんてつ)のような感情を我々は抱く。我々は夜眠らないものを、税を納めず、戦線に背を向け、労役から逃れるものと同じだと、魂の奥底で知っている。

 

 あらゆる怪我や病気にもまして我々が不眠症を怖れるのも同じ理由による。不眠症への恐怖は、理から外れ世界から落伍するかもしれないという恐怖そのものである。我々が毎夜、誠実に義務を果たそうとするのは、疲れを癒し、翌日の仕事や勉学や遊びのための活力を得ようとするためではなく、根源的には、この恐怖から逃れんがためである。

 

 しかしながら義務は常に重く、そして往々(おうおう)にして人はその重みに耐えられない。重みを厭わしく思う気持ちが恐怖を凌駕することもままある。加えて、人が社会という理をこしらえて、それを世界の理よりも重視するようになれば、眠りはさらに軽んじられるようになる。

 

 大厄災前のハイラルでは、睡眠に関する商品やアイテムが数多く流通していた。その大半は、乾燥させたしのび草を刻んだものを詰め込んだ「快眠まくら」や、ゾーラ族の神父が一つずつ丹念に祈りを込めたという触れ込みのアイマスク、あるいはリト族の羽毛を用いた高級羽布団や、神殿の巫女お手製の導眠のお香など、眠りという義務を少しでも楽にしようとする、無害で他愛のないものばかりだったが、しかし中にはとんでもないものも含まれていた。

 

 各種記録を総合して物語風に再構成すれば、そのとんでもないものにまつわる事件は以下のようになる。

 

 それを作った男の名は、クワーサといった。クワーサは東城下町の物見塔近くに住んでいた。そこは城下町の中でも特に陰気で、水捌(みずは)けが悪く、空気の澱んでいる地区であった。

 

 役所に登録されたクワーサの職業は野菜や果物や魚などの食料品の仲買いであった。だが、実際のところ彼が荷車を引いたり市場を歩き回ったりすることはほとんどなかった。

 

 クワーサはいつも自宅の部屋にこもっていて、彼は各地からルピーをかけて取り寄せた珍しい素材や出所(でどころ)定かならぬ怪しげな薬品を混ぜ合わせていた。つまり、クワーサの本当の職業は、モグリの薬剤師であった。それでも彼自身は自らを「科学者である」と称していた。

 

 王城と城下町という大消費地にあって、薬品は常に不足気味だった。風邪薬から二日酔いの薬、胃薬から鎮痛剤に至るまで、その需要は高かった。だが、供給は至って不足していた。学校を出て国家資格を得た正規の薬剤師や、森のほとりに居を構える魔女たちが生産するだけでは到底賄いきれるものではなかった。

 

 ゆえにモグリの薬剤師という稼業が成立したのであった。ちゃんとした薬剤師が作る薬は手に入りづらいし、とても高い。一方で、安い薬があり、効能も「最新の研究に基づいた製薬!」だの「ゲルド族も認めた大効能!」だの「王家御用達!」だのと謳われている。それなら、きっと効くのだろう。それに、あまり人に言えない恥ずかしい病気もあるし……無知な人々はこうして騙されていった。

 

 ハチミツと砂糖を溶かした水を赤く着色したものを赤いクスリとして売ったり、ハイラル草を岩塩とガンバリバッタと一緒に煮込んだものをがんばり薬として売ったりするのはモグリの中でもまだマシな部類だった。酷いものになると、パンを丸めて細かい木屑をまぶしつけたものを「歯痛退散丸薬」として一粒五十ルピーで売り付けたり、ただのリンゴ酒のラベルを貼り替えて百五十ルピーのスタミナ薬と偽ったり、甚だしいものになると、ただの炭酸水を「青春に悔いなきエッチ ツー オー水」として一本百ルピーで売ったりしたというのだから、その手口の多彩さには呆れる他ない。

 

 だが、例のクワーサはモグリの中でも一風変わっていた。他の連中が実質的には詐欺師だったのに対し、彼は本当に良い薬を生み出そうという熱意に溢れていた。

 

 クワーサの不幸は、熱意が先行するばかりで、それを具体的な成果へとつなげる方法論や学術的知識にまったく欠けていたことだった。またそれ以上に、どうしようもない自尊心があったことがクワーサの救い難い欠点だった。一念発起して学校に入るなり、名のある薬剤師の弟子となって研鑽(けんさん)を積めば良かったのに、彼は「独立独歩」という幻想を抱いていて、なんとしてでも独力で画期的な製薬法を生み出してやろうという妄執(もうしゅう)にとらわれていた。

 

 そんなわけで、クワーサの薬学研究は行き当たりばったりの、脈絡のない、独りよがりのものとなってしまった。彼が作る薬はどれも効果がなく、むしろ有害で、それでいて高かった。彼は次第に闇業者からも見放された。

 

 こんな話は人間社会にはよくあることである。だから、この世の善なる法則を信じる者はきっと、クワーサは度重なる失敗によって早々に自滅したと思うだろう。だが彼に舞い込んできたのは破滅ではなく、幸運だった。破滅以上に破滅的な幸運が彼のもとへやってきたのだった。

 

 借金苦に喘いでいたクワーサは、自宅の一室を密輸業者の倉庫として貸し出していたのだが、ある日、そこに南国の果実が大量に運び込まれた。その果実は黄金に輝いており、甘い香りを放っていた。果実は美しい形の実が連なってひとつの房となっていた。それはツルギバナナであった。

 

 当時は、王国内でのバナナの取引を禁じる「バナナ勅令」が下されてから一世紀ほどが過ぎようとしていた。密輸業者にとって、バナナは黄金のルピーと同じだけの価値を持っていた。

 

 後にまとめられた調書によると、当初クワーサは契約に忠実に、倉庫のバナナには一切手を触れないでいたという。しかしある晩、彼は空腹と好奇心に負けて、コッソリとバナナを食べてしまった。そしてたちまち、彼はバナナの魅力に取り憑かれてしまったという。

 

 どんなに見どころのない人間でも、何かしら他より秀でたものを必ず持っている。クワーサにもそれがあった。彼は「ツルギバナナを薬として利用できないか」と思いついたのだった。それだけで価値があるものにあえて手を加えて、より良いものを作ろうとする意志、それだけを見れば、彼は立派な科学者だった。

 

 試行錯誤の末に、クワーサはついにそれを生み出した。その名も「眠らなくてもダイジョーブな薬」といった。クワーサはツルギバナナの筋力増強効果と興奮作用に着目した。調書によれば、彼は「魔物がバナナを好んで食べるという話から着想を得た」と述べている。彼はゾーラ族から教わった魚類乾燥法を援用して、ツルギバナナを主原料とした粉末薬を開発することに成功した。

 

 後に王立アカデミーが分析したところ、「眠らなくてもダイジョーブな薬」にはツルギバナナだけではなく、ツルギソウ、ツルギダケ、ボコブリンの肝、キースの目玉、硝酸カリウム、赤色硫化水銀などが含まれていた。

 

 薬の値段は十回分で八百ルピーであった。原料を考慮すれば安いとは言えなかった。だが、この薬には値段に見合うだけの効果があった。この薬を服用した者は、猛烈に、強烈に、激烈に興奮した。持続時間は八時間から十二時間だった。一回薬を服用すれば一晩中起きていられる計算であった。

 

「眠らなくてもダイジョーブな薬」は瞬く間に城下町にひろまった。生産的な人間にとっても、享楽的な人間にとっても、眠りとは納税と同じく「厭わしい義務」であった。この薬を飲めばそれから解放される。売れないはずがなかった。キャッチコピーの「人生を二倍以上豊かに!」という文言も、人々の購買意欲を極端に(あお)った。

 

 ほどなくして、一般庶民だけではなく貴族たちもこの薬を好むようになった。いわゆるパーティードラッグとして貴族はこの薬を買い求めた。たとえば、ある貴族が出した仮面舞踏会の招待状には「各種の珍品(ちんぴん)酒肴(しゅこう)はもちろん、()()()()()()()()()()()()()()()()ご用意いたしました」と書かれていた。王立アカデミーの研究者たちは早くから危険性を訴えていたが、もはや「眠らなくてもダイジョーブな薬」は社交界において欠かせない存在となっていた。

 

 社会的な悪影響はほどなくして現れた。薬がデビューしてから一年後、城下町の暴力事件や殺人事件等の凶悪犯罪件数は前年比の約六倍となり、交通事故、詐欺、自己破産等の件数も激増した。因果関係の分析については種々異論があるが、大方は「眠らなくてもダイジョーブな薬」が原因であったと認めている。

 

 その終焉は、王城でのある事件がきっかけだった。ある朝、若い貴族の男が異常な興奮状態で王城の大食堂に乱入して槍を振り回し、多数の死傷者を出す事件が起こった。取り押さえられた貴族の男は、その日のうちに心臓破裂で死亡した。調査の結果、貴族の男は前夜に例の薬を推奨量の百倍服用していたことが判明した。

 

 それからの流れはあえて詳述する必要はないだろう。数年間の逃亡生活の末、「眠らなくてもダイジョーブな薬」の生みの親であるクワーサは逮捕され、裁判の後、アッカレ地方のチクルン島に終身遠島(えんとう)となった。

 

 ここで一つ、興味深い話が残されている。東城下町のクワーサの自宅からは大量の試料と研究ノートが押収されたのだが、「眠らなくてもダイジョーブな薬」の製法そのものを記録した文書はついに見つからなかったというのである。クワーサは取り調べにおいて「もともと文書は作成しておらず、関連するメモも焼却した」と供述したが、これが後に様々な憶測を呼んだ。

 

 いわく「当局が秘密裏に回収したのだ」とか「いやそうではない、王立アカデミーがすでに高値で買い取っていたのだ」とか、あるいは「さる高位の貴族へ製法は売られていたのだ」といった憶測である。いずれも確たる証拠はない。

 

 有力な説としては、製法が反王国の武装勢力であるイーガ団に渡ったというものがある。イーガ団の工作員らしき者がクワーサの支援者の中にいたこと、クワーサ逮捕の数年後にゲルド地方で「眠らなくてもダイジョーブな薬」と酷似した粉末薬が出回ったこと、イーガ団員が異常にツルギバナナを好むということ、そういったことからこの説は一部研究者に熱烈に支持されている。だが、やはり確証はない。

 

 ともあれ、眠りという義務から解放されるという幻想は、いや夢は、(あぶく)のように消え去った。その後も多くのモグリの薬剤師が「眠らなくてもダイジョーブな薬」を再現するために無益な努力を続けた。

 

 しかし、大厄災後のハイラルの大地には、未だに眠りという義務に反抗し続ける者たちがいる。闇に溶け込み闇に蠢く彼らは、この世の(ことわり)を蔑視し、踏みにじる。彼らはツルギバナナを貪食(どんしょく)する。彼らは夜を(した)って太陽に背を向け、嬉々(きき)としてこの世を滅ぼす邪悪な意志に従っている。

 

 もしかすると、本当にイーガ団はあの薬を受け継いでいるのではないだろうか? 眠りという義務を果たさずして、夢という権利だけを享受する彼らこそ、あの薬を好むはずであるから……

 

 

☆☆☆

 

 

 午後になると雨は上がった。空はいまだに雲に覆われていた。時折、雲の切れ間から顔を覗かせる太陽は常と変わらぬ強さの光線を放っており、湿った大地に熱と活力を惜しみなく注いでいた。

 

 アラフラ平原と樹海フィンラスを南北に繋ぐ街道を、数頭の馬と幌付き馬車が進んでいた。先頭の馬は一際(ひときわ)馬格が良く、簡素ながらも機能的な馬具を纏っていた。騎乗者は馬宿協会の制服を着ていて、後方に続く六頭の馬と二頭立ての馬車を率いていた。それだけを見れば、それはただ馬宿の店員が他の馬宿へ馬を移しに行く光景であるように思われた。しかし、それにしては、馬に乗る者の眼光は鋭すぎた。騎乗者は異様なまでに物々しい雰囲気を纏っていた。

 

 騎乗者が後方へ、もう何回目になるか分からない声かけをした。カケスのようにその声はしわがれていた。

 

「おい、ロクロ! なにも異常はないか? 問題なくついて来てるか?」

 

 一人で六頭の馬を連れている男、ロクロは、少しばかりウンザリしたような口調で返事をした。

 

「へい、店長。さっきと変わりなく、なにも問題ありませんぜ。こいつらもご機嫌で、俺もご機嫌でさぁ」

 

 騎乗者である店長のジューザは、しっかりと頷いた。彼は、今度は馬車の方へ声をかけた。

 

「ヨンロンはどうだ、馬車に異常はないか?」

 

 だが、馬車の御者台から返事はなかった。ジューザが見ると、御者のヨンロンはこっくりこっくりと舟を漕いでいた。ジューザは思わず声を荒らげた。

 

「おいっ、てめぇヨンロン! なに居眠りなんかしてやがるんだ! とっとと起きやがれ!」

 

 ヨンロンは飛び起きた。

 

「ウワッ!? て、店長、スンマセン!」

 

 ヨンロンは気を取り直したように居ずまいを正し、しっかりと手綱を握り直した。

 

 その様子を見て、ジューザは密かに溜息をついた。まったく、俺の手下共はブッたるんでやがる。あれだけ出発前に「今度の仕事は絶対に失敗できないぞ」と気合いを入れてやったのに……天気が良くなってきたらすぐに眠ろうとしやがる。

 

 しかし、不甲斐ない手下に対するジューザの苛立ちはすぐに消えた。それも仕方のねぇことか。なにしろ、俺たちは前日からろくに休んでねぇ。前夜は外を包囲する魔物に対して警戒態勢をとっていたし、午前中は戦闘もした。戦いが終わったら終わったで、雨の中を走り回って馬を集め、風呂を沸かし、食事を用意して、出発の準備に大忙しだった。俺だって、こうして気を張り詰めていなければ、この雨上がりの陽気に眠気を誘われないとも限らねぇ……

 

 そこまで考えてから、ジューザは首を激しく振った。彼は言った。

 

「いや、そんなことがあるか。俺たちよりもテッポ殿たちの方がよっぽど苦労してるじゃねぇか」

 

 ジューザは再度、馬車へ目をやった。あの(ほろ)の中には、幼くも凛々しいイーガ団フィローネ支部幹部ハッパの一人娘テッポがいるし、桃髪の剣術家モモンジがいる。それに、あのよく正体が掴めないバナナのような髪をした女バナーヌがいる。彼女たちが前日から繰り広げていた激戦を思えば、自分たちの苦労などガンバリバッタの一ジャンプくらいでしかないだろう……

 

 あの時テッポから説教されて、ジューザは改めて己がイーガ団員であることの意味を考え直した。

 

 高原の馬宿の店長となって以来、彼は馬を飼育すること、馬格を改良すること、優れた野生馬を捕獲することにばかり熱中していた。ふとした時に彼は「このまま本当に馬宿の一員になってしまおうか」と考えさえもした。口うるさいソエの婆さんは煩わしかったが、それでも彼にとって馬宿での穏やかで生産的な日々は、組織の一員としての息詰まるような堅苦しい生活よりも確かに魅力的だった。

 

 その安逸(あんいつ)さに(ほだ)されて、彼は重要なことを見失いかけていた。本来ならば、いくら幹部の娘とはいえ、あのように幼い娘の叱責などで彼がその心構えを一新することなどないはずだった。そうなるには彼はあまりにも歳をとっていたし、そこまで素直な性格を持って生まれたわけでもなかった。

 

 それでもなお、ジューザがテッポの言葉をすんなりと受け入れることができたのは、これまで彼がいつも心のどこかで「こんなはずではない」と思っていたからかもしれなかった。店長とはいえ、所詮は支部内での出世競争に敗れた末の身の上である。その落胆と失望が、馬宿の職務への愛着を生み出したのだろう。それは愛着というよりも、一種の逃避かもしれなかった。

 

 たぶん、自分は夢を見ていたのだろう。ジューザはそう思った。義務から逃れて、甘い夢を見続けていたのだろう。どこまでも甘く、非現実的な夢を……今回の仕事は、そんな自分をイーガ団員として更生させるのにちょうど良い。

 

 あの時、風呂から上がってきた彼女たちを見て、ジューザの中に強烈な思いがこみ上げた。

 

 彼女たちは、美しかった。

 

 泥と汗と魔物の血潮に(まみ)れ、戦闘の緊張と疲労でやつれた姿は、たっぷりとした温かい湯と石鹸できれいに洗われ、一新されていた。

 

 ジューザが風呂上がりの彼女たちを見た時に抱いた気持ちは、単に見目(みめ)麗しい女性を見る時に感じるそれと同じではなかった。ジューザは、湯上りで顔を上気させたテッポに、またモモンジの溌剌(はつらつ)とした表情に、そしてバナーヌの光り輝く金髪に、最初に憧れ忠誠を誓ったイーガ団の、その団員としてのあるべき姿を見出していた。

 

 自分も、あのようになりたい。たとえもう歳をとりすぎているにしても、せめてほんの少しでも近付きたい。彼はそう思った。これだって甘い夢だが、少なくとも馬宿の店長云々(うんぬん)より現実的ではある。

 

 ジューザはまだ馬車を見ていた。彼女たちは今、馬車の中で何をしているのだろうか? きっと、次の作戦のための打ち合わせを(おこな)っているに違いない。彼女たちは、プロだ。アラフラ平原における一連の戦闘は見事だった。馬宿が定期的に雇用する冒険者たちや傭兵まがいの連中では、決してあのようにいくまい。ヒコロクは気の毒だったが、あの程度の怪我で済んで良かったとも言える。それに、彼は今、医者の本格的な治療を受けているのだから心配はない。本当のプロフェッショナル、戦闘の専門家、理想的なイーガ団であるからこそ勝利を収めたのだ。

 

 若い女たちにできて、自分にできないはずがない。若い女たちがやっているのに、自分がやらないでいられるはずがない。

 

 ジューザは、再度気を引き締めた。樹海フィンラスでは樹の上から落ちてくる魔物に気をつけなければならない。エレキースも飛んでくるかもしれない。そうだ、茂みからボコブリンが飛び出してくるかもしれない。樹海を抜けたらオクタに警戒しなければ……モモンジの話によれば、奴らは街道沿いにうじゃうじゃいるらしい。

 

 なにより、あの魔物のマスクを被った正体不明のシーカー族も出てくるかもしれない。とにかく、最初の目的地であるバルーメ平原の登り口まで、彼女たちを無事に送り届けなければ……

 

 ジューザは空を見上げた。太陽が雲間から見えていた。あと半時間ほどで樹海に入れるものと思われた。順調にいけば、登り口には夕刻前に到着するだろう。彼はそう予想した。

 

 

☆☆☆

 

 

 三人は割と限界だった。三人は馬宿で風呂に入り、食事をした。だが、絶対的なまでに睡眠量が足りていなかった。

 

 テッポの、どこか気の抜けた声がした。

 

「いただきまーす」

 

 それを聞いたモモンジの顔が、サーっと青ざめた。彼女の視線は隣のテッポが手に持つ、緑色をしたトゲトゲの果物へと釘付けになっていた。モモンジは慌てたように言った。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいテッポ殿! もしかして、今からそれを食べようとするんですか? えっ、あのっ、マジですか? それ、マックスドリアンですよね? それをこの狭い車内で食べる? 正気ですか?」

 

 今にも小刀をマックスドリアンに突き立てようとしていたテッポは、意外な横槍に首を傾げた。

 

「あら? なんでいまさらそんなこと訊くのかしら、モモンジ。無論、私はそうするつもりだけど? だって、馬宿だとデザートを食べる時間がなかったんだもん。デザートのない人生なんて考えられないわ。それに、食べなきゃ力が出ないじゃない。マックスドリアンは果物の王様、食べれば力がビンビンに湧いてくるわ。ね、だから私が今ここでこれを食べても何も問題はないでしょ?」

 

 モモンジは言い淀んだ。

 

「ええ……で、でも、マックスドリアンってその、あの、においが、その……」

 

 その言葉に、テッポは不可解そうな表情を浮かべた。

 

「におい? でもあなた、前に『マックスドリアン大好き』って言ってたじゃない。『病みつきです』って言ってたじゃない。『マックスドリアンは良いにおいです』とも言ってたし……あっ! もしかしてモモンジ、本当はマックスドリアンが嫌いなの? 私に嘘をついたの?」

 

 モモンジは猛烈な勢いで首を左右に振った。椰子の木のような桃色の(まげ)が、大風に煽られたように激しく揺れた。彼女は言った。

 

「い、いえ! 私もマックスドリアン大好きです! 好き好き、ホントに好きですよ! 大好きですとも!」

 

 テッポは小刀を握り締めた。

 

「じゃあ、遠慮なく」

 

 モモンジは叫んだ。

 

「わーっ! 待って待って! 待ってください! それだけはダメですって!」

 

 そんなかまびすしい会話を、二人の対面に座るバナーヌは、どこか遠く聞いていた。

 

 モモンジが焦るのはよく分かる。マックスドリアンは、本当に凄まじいにおいを放つ果物だ。果肉は甘くて美味いらしいが、においがすべてを台無しにしている。それにしてもテッポはなんであんなものを喜んで食べるのだろうか。果物の王様と言っているが、そんなことを言うならバナナは果物の神様、いや魔王様だ……バナナを食べろ、バナナを。彼女はそう思った。

 

 だが、バナーヌが抗議の声を上げることはなかった。彼女は今、魂すら溶けるような微睡(まどろみ)の中にいた。道のデコボコを馬車の車輪が乗り越える時の振動が、彼女を羽毛のような心地のする眠気へと着実に誘っていた。それにそもそも、彼女は少し前にちょっと食事をとり過ぎていた。

 

 彼女は思った。バナナを食べ過ぎてしまった。高原の馬宿にあったバナナをほとんど食べてしまった。それに、しのび山菜おにぎりに、岩塩焼肉に、バナナに、甘露煮キノコに、野菜オムレツに、バナナに……あの時の自分を見るジューザと手下共は、あたかもバケモノの食事でも見るような目をしていた。失礼なやつらだ。私よりもモモンジのほうがよく食べていたではないか……

 

 テッポとモモンジの声が一際大きくなったようにバナーヌには思われた。その次に、彼女の鼻先に独特の腐敗臭が漂った気がした。だが、それもどこか遠い世界での出来事のように彼女は感じた。とにかく、彼女は眠かった。

 

 眠りは質量のないバナナ菓子。

 

 いつの間にかバナーヌは、違う場所にいた。いや、まったく違うという訳でもなかった。そこは馬車の中だった。先ほどまで彼女とテッポとモモンジが乗っていた、簡素な造りに使い古しの粗布(そふ)(ほろ)の馬車ではない、もっと立派な内装をした馬車だった。

 

 窓には透明度の高い、大きなガラスがはまっていた。バナーヌはガラス越しに暖かい日光を感じた。彼女は外へ目をやった。外には長閑(のどか)な田園風景が広がっていた。バナーヌはその景色を見たことがなかったが、その一方で彼女はその景色をどこか懐かしく感じた。

 

 彼女は周囲に視線を巡らせた。黒く硬い上質な木材でできたキャビンに彼女はいた。よく磨かれた青銅製の手すりがあった。座席は車内の両側に、縦に四つずつ並んでいた。座席には柔らかな赤いクッションが張られていた。バナーヌは左側の、前から二番目の席に座っていた。

 

 これは、乗合(のりあい)馬車だ。バナーヌはそう思った。大厄災前のハイラルで、全土を網の目のように走る路線を忙しなく行き来していた公共の交通機関、それが乗合馬車だ。本の中でしか知らないはずの、かつて文明が誇った高速輸送手段、その中で自分は静かに腰掛けているようだ。

 

 どうやらここは、夢の中らしい。彼女はようやく納得した。

 

 しかし、なぜこれが乗合馬車であるとすぐに分かったのだろうか? 彼女は疑問に思った。その名前と概念しか自分は知らない。実物を初めて見るはずなのに、それをそれとしてすぐに認識できるのはおかしいではないか。

 

 だが、まあ、夢とはそういうものだろう。バナーヌはすぐに結論を出した。夢の中では、知らないはずのものを知っていて、できないはずのことができるということがよくある。以前、夢の中で読めもしない古典をスラスラと音読したことがある。できもしない難しい刺繍をすいすいとやっていたこともある。コーガ様を、理由は分からないが、思い切りぶん殴ったことだってある。だから、知らないはずの乗合馬車を知っていても何もおかしくはないのだ……

 

 ふと、バナーヌは車内に自分以外の誰かがいることに気づいた。その誰かは、彼女の真向かいの座席に腰掛けていた。正面に居たのに、いまさら気づくということがあるのだろうか? まあ、そういうこともあるだろう。なにせ、ここは夢の中なのだから。彼女はその誰かに改めて視線を向けた。

 

 その人物は、静かに本を読んでいた。その人物は、臙脂色(えんじいろ)のイーガ団の標準忍びスーツを身に纏っていた。小柄だった。胸に膨らみがあった。女性だった。本を読んでいるその目は黒目がちで、形良く整っていた。柔和で優しげな顔つきだった。

 

 そこでようやくバナーヌは、その人物が自分のよく知っている存在だということに気づいた。

 

 それはノチだった。バナーヌは声をかけた。

 

「ノチ?」

 

 しかし、ノチはなんら反応を示さなかった。

 

 おかしい。バナーヌは首を傾げた。私が声をかけてノチが反応しないなどということはあり得ない。どんなに集中して本を読んでいる時でも、ノチは私が話しかければ嫌な顔一つせずにニッコリと答えてくれる子だ。寝てる時でも声をかけられたら寝言で返事をするような子なのに……

 

 念のために、バナーヌはもう一度ノチに声をかけた。

 

「ノチ」

 

 先ほどよりもはっきりと、大きな声で彼女は名前を読んだ。だが、ノチは目線を本に落としたままだった。

 

 ここでバナーヌは、新しいことに気が付いた。彼女は声を上げた。

 

「あっ」

 

 ノチの両耳にバナナが詰まっている!

 

 黄色い皮を中ほどまで剥いたバナナが、ノチの耳の穴の中へ入っていた。白くて柔らかそうな果肉を押し潰しつつ、バナナはすっぽりとノチの耳に()まり込んでいた。

 

 なるほど、耳にバナナが詰まっているのならば、こちらの声は絶対に聞こえないだろう。だが……バナーヌはまた首を傾げた。

 

「……なんで?」

 

 そうだ。問題なのは、なぜノチがバナナを耳に詰めているのかということだ。さらに言うと、なぜノチは乗合馬車に乗っていて、一心不乱に本を読んでいるのだろうか? いや、夢の中なのだから別にノチが馬車に乗って本を読んでいてもなんらおかしくはない。そうだ。繰り返すが、やはり問題なのはなぜノチが耳にバナナを詰めているのかということだ。夢の中だとなんだか考えがうまく纏まらないが、とにかくそれが問題だ。バナーヌはそう思った。

 

 夢だとしても、あまりにも奇妙奇天烈すぎる状況だった。

 

 彼女は考えた。以前読んだ本で、夢とは「起きている間の記憶の整理のあらわれ」だと書かれていた。夢の内容とは、それがどれだけおかしなものであっても、現実に見たこと、聞いたこと、覚えたことを(もと)にして成り立っているのであると、本にはそう書かれていた。

 

 では、自分は今までにノチが耳にバナナを詰めたのを見たことがあるか? まさか。絶対に見たことはない。そもそも、そんな冒瀆(ぼうとく)的な行為をノチがするはずがないではないか。

 

 ならば、こう考えてみたらどうだろう。夢とは「何らかの願望の反映である」とも本は言っていた。起きている時に強く願ったことが、自然と夢へと反映される。だから夢の達人は、自由自在に見たい夢を操ることができるらしい。

 

 じゃあ、ノチがバナナを耳に詰めているのは、それを自分が強く願ったからだろうか? そんなことはなおさらあり得ないだろう。

 

 重々しく車輪が鳴り、馬の蹄が乾いた音を立てていた。車内は沈黙に包まれたままだった。状況は何も変わらなかった。

 

 そのうち、バナーヌは()れてきた。この夢は、決して悪夢ではないが、かと言って良い夢でもない。きっとたくさん食べた後に寝たものだから、消化不良を起こしているのだろう。こうなったら、さっさと起きてしまうに限る。バナーヌは意識を覚醒へと持っていくべく、精神を集中させた。

 

 しかし何も起こらなかった。

 

 すると、どこかから声が聞こえてきた。

 

「……一緒にお風呂に入った時にふと思ったんだけど、あなたもバナーヌもなんでそんなに胸が大きいの?」

「……えー、テッポ殿、いくら暇だからってそんなことを訊くんですか……?」

 

 声は続いた。

 

「だってしょうがないじゃない! バナーヌに色々質問しようと思ってたのに、彼女寝ちゃったんだもん。私もなんだか眠たくなってきたし……あえて馬鹿馬鹿しい話題を出して、眠気を追い払おうと思ったのよ」

「あー、なるほど」

 

 声はまだ響いてきた。

 

「で、なんでそんなに大きいの? 教えなさいよ、ほらほら」

「特に秘訣とかないんですけど……ていうか、私の胸ってそんなに大きいんですか? バナーヌ先輩と比べたら小ぶりだと思うんですけど」

 

「バナーヌのは別格よ! そもそも比較対象にならないわ」

「それもそうですね……うーん、私はよく運動をして、よくお肉を食べて、よく寝てますけど、他には特に何もやってないです」

 

「あー、そういえば、私も前に『体格を良くするには睡眠が大事』って聞いたことがあるわ。『寝る子は育つ』って言うじゃない? 三年(さんねん)()ゴロンとか」

「三年寝ゴロンはちょっと違くないですか? でも今もバナーヌ先輩はよく眠ってますね。だから大きくなるのかなぁ?」

 

「けっこう可愛い寝顔よね。あ、そうそう、お父様が前にお話ししてくれたの。昔のイーガ団では『寝なくてもヘーキな薬』だったか、『眠らなくてもダイジョーブな薬』っていうのを使っていたらしいわ。それを飲むと何日でも不眠不休で働き続けることができたそうよ」

「え、なにそれ! すごいですね。私も欲しいです」

 

「それがね、その薬を使ったら、みんな寿命が縮んでしまったそうよ。大人が使ったら心臓麻痺を起こしたり、病気になったりして、子どもが使ったら身長が伸びなくなったりして。使用者はもれなく早死にしたそうよ」

「えーっ!? それ、劇薬じゃないですか!」

 

「というより、むしろ毒薬ね。主原料はツルギバナナとか水銀だったらしいわ。『バナナを変に(いじく)った天罰だろう』ということで、そのうち使用禁止になったみたい」

「へー……ところで、もともと何の話をしてたんでしたっけ?」

 

「そうよ! 胸の大きさの話をしてたんだった!」

「ああ、そうでした! でも、ホントに秘訣とかないんですよ」

 

「いっそのこと、バナーヌ本人に訊いてみるのはどうかしら」

「うーん……訊いたところで話してくれますかね? バナーヌ先輩、こういう話題には乗ってこなさそうな雰囲気がありますけど」

 

「うーん、そうね……あ、そうだ。それじゃあ、彼女の体に訊いてみましょう」

「は?」

 

「直接揉んでみるのよ」

「えーっ!?」

 

「確かにバナーヌには悪いけど、ちょっとでもあの境地に私は近づいてみたいのよ! あなたもそう思わない?」

「……もしかしてテッポ殿、ものすごく疲れてたりしません? 言ってることが滅茶苦茶なんですけど……」

 

「そんなこと自覚してるわ! そうよ、私ものすごく疲れてるの! あとものすごく眠いの! ちょっと刺激的なことでもしないと次の作戦に疲れと眠気を持ち越すことになりかねないわ!」

「あー……」

 

「だから揉むわ。私は揉む。断固揉む。揉み揉みする。あなたも揉みなさい。共犯者がいたほうが罪悪感が少なくて済むから……」

「ちょっ、やっぱりダメですよ……!」

 

 なんだか雲行きが怪しくなってきたのをバナーヌは感じた。このまま目覚めずにいたら、テッポとモモンジに胸を好き放題されてしまうだろう。別に、あの二人になら胸を揉まれても構わないとバナーヌは思った。だがその一方で、ノチにも揉まれたことがないのに二人にタダで揉ませるのは、それはそれでもったいない気もした。

 

 そうだ、ノチだ。バナーヌは考え直した。どうにも、この夢から醒めるには目の前のノチをどうにかするしかないような気がしてきた。

 

 とりあえず、ノチの耳に詰まってるバナナをどうにかしなければ。そう考えたバナーヌは、思い切って大声を出すことにした。

 

「ノチ!」

 

 ノチはバナーヌのほうを向かなかった。耳の遠い老人を相手にするように、バナーヌはさらに大きな声を出した。

 

「ノチ!!」

 

 ようやく、ノチは顔を上げてくれた。ノチはなんだか不思議そうな顔をしていた。彼女は言った。

 

「あれ、バナーヌ? どうしたの?」

 

 どうしたの、ではない。バナーヌはそう思った。耳にバナナが詰まっているノチのほうがどうかしている。彼女は言った。

 

「ノチ、耳にバナナが詰まってる」

 

 ノチは訊き返してきた。

 

「えっ?」

 

 やはり聞こえづらいようだ。そう思ったバナーヌは、今度は一語一語をハッキリと区切って言った。

 

「ノチ、あなたの、耳に、バナナが、詰まってる」

 

 ノチはまた訊き返してきた。

 

「えっ? バナーヌ、なんて言ったの?」

 

 バナーヌは滅多に出すことのない大声を出した。

 

「ノチ! あなたの! 耳に! バナナが! 詰まってる!」

 

 ノチはまたまた訊き返してきた。

 

「えっ? なになに? ごめん、バナーヌ、聞こえないよ!」

 

 あたかも、奇跡でも起こらない限り倒せないような強敵を相手にする時に出すような、そういう決死的な大声をバナーヌは出した。

 

「ノチ!! あなたの!! 耳に!! バナナが!! 詰まってる!!」

 

 ノチは悲しげな表情を浮かべて、いかにも申し訳なさそうに答えた。

 

「ごめんねバナーヌ。バナーヌがなんて言ってるのか、全然分からないの……だって……」

 

 ノチはいったん言葉を切った。そして彼女は悲しそうに言った。

 

「だって私の耳、今、バナナが詰まってるから……」

 

 ガックリとバナーヌは項垂(うなだ)れた。万事休すだ。もうノチの両耳のバナナをどうすることもできない。

 

 先ほどから彼女は胸に違和感を感じていた。くすぐったいような、こそばゆいような、ちょっと痛いような……そういう感触がした。揉まれているなと彼女は思った。どうやらすべてが遅かったようだった。

 

 その時なんの脈絡もなく、男性の低い声がした。

 

「いかがなさいましたか? 気分が優れないようですね。あまり顔色が良くない。空気が悪いのかもしれません。少し窓を開けましょうか」

 

 バナーヌは目を上げた。先ほどまでノチが座っていたところに、人品卑しからぬ紳士が座っていた。紳士は糊の利いたシャツに、上等な黒い布地の上着を着ていた。紳士はメガネをかけていた。メガネの奥の目は知的な光を(たた)えていた。

 

 バナーヌは返事をしようとした。だが、彼女の喉から出てきたのは、彼女のものではない声だった。落ち着いた、成人した女性の声だった。

 

「……お気遣いありがとうございます。おっしゃるとおり、あまり気分が良くないのです。なにしろ、こういった乗り物に乗るのは生まれて初めてでして……」

 

 紳士は微笑んだ。

 

「こういった乗合馬車には向き不向きがある。まして、ヘブラから中央ハイラルまでの遠い道のりです。初めての乗り物ならば気分が悪くなって当然でしょう。私が御者に一声かけるから、しばらく外で休憩するというのはいかがですか?」

 

 夢とはいえ、自分のものでない声が自分から出てくることにバナーヌは困惑していた。だが、そんな彼女に構うことなく、声は自動的に発せられた。

 

「いえ、私の勝手で馬車を止めるわけにはいきません。あなたの御迷惑になります。私としても、はやく城下町へ行きたいので……大丈夫です、そのうち治ると思います」

 

 気丈で健気な言葉だった。紳士はそれに心を打たれたようだった。紳士は(かたわ)らの水差しをとってガラスのコップに水を注ぎ、バナーヌのほうへと差し出してきた。

 

「では、少し水をお飲みなさい、気分が良くなるはずです。それにしても、ずいぶんと旅路を急ぐのですね。何か急用でもあるのですか」

 

 ここで、バナーヌの視界が急速にぼやけてきた。乳白色のもやが一面にかかり、紳士の姿が見えなくなった。聞こえてくる音も、まるで水中にいるかのように、ぼんやりとしてはっきりと聞こえなくなった。

 

 いくつか、会話が挟まれたようだった。そのいずれも、バナーヌはまったく聞き取ることができなかった。

 

 それでもなぜか、最後に聞こえてきた女性の声は、バナーヌの耳に妙に残った。

 

「王城に勤めている家族に会いに行くんです。今はもう、私の故郷に身寄りはいませんから。そうだ、あなたは近衛騎士についてご存知ですか? 城下町についたら、まずはそこを訪ねろと言われていて……」

 

 突然、光が溢れた。現実世界へと、バナーヌの目が開いたのだった。数秒して、その網膜と視神経によって彼女は視覚情報をもたらされた。

 

 バナーヌが見ると、モモンジが彼女の胸を思いっきり良く揉んでいた。モモンジの両手の白い指が大きくて柔らかい胸に埋もれていた。

 

 テッポとモモンジが気まずそうな顔をしていた。テッポが言った。

 

「あ、起きた……」

 

 バナーヌはモモンジをじっと見つめた。モモンジはなおも胸を揉みつつ、慌てたように言った。

 

「ひぇっ!? あ、あの、バナーヌ先輩、これはですね……その……へ、へへへ。すごく柔らかいですね。あの、ごめんなさい」

 

 バナーヌはモモンジの手を軽く払った。彼女は言った。

 

「別に、気にしてない」

 

 しばらくの間、車内を沈黙が支配した。

 

 ややあって、テッポが言った。

 

「……ところで、バナーヌ。なんでさっき、あなたはあんなことを言ったの?」

 

 バナーヌはわずかに首を傾げた。

 

「何が?」

 

 モモンジがテッポの代わりに答えた。

 

「さっき、一言だけバナーヌ先輩が寝言を言ったんですよ。それがちょっと変わったものだったので……」

 

 表情をいささかも変えず、バナーヌは言った。

 

「どんな寝言?」

 

 テッポが、なんということはないというふうに言った。

 

「あなた、寝言で『リンク』って言ってたわ。百年前の英傑を寝言で呼ぶなんて、あなたどんな夢を見てたの?」

 

 バナーヌは、聞こえるか聞こえないかの小さな溜息をついた。彼女は答えた。

 

「……耳にバナナが詰まってる夢」

 

 馬車はそろそろ、樹海を抜けるところだった。




 Switch版「ゼルダの伝説 夢をみる島」やはり最高でした……
 ブレスオブザワイルドにも「夢をみる島」の地名がけっこう出てきますよね。サイハテノ島のコホリト台地とか、コポンガ沼とか……ここ掘れワンワンもそうですし、巨大な化石もかぜのさかながモチーフですよね(たぶん)。
 今回はけっこう小ネタをばらまいてみました。耳にバナナが詰まっているの話は、伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』で紹介されていたジョークです。実は連載当初からいつ出そうかとずっと考えていたネタでした。

※追記(2019/10/13/日 23時)
 本当にありがたいことに、柴猫侍先生からまたしても支援絵をいただきました! ご本人のご許可を頂いたので、この場を借りて公開したいと思います。自分の小説に絵をつけてもらえるのは、この世で最も幸せなことのひとつかもしれませんね。
柴猫侍先生、本当にありがとうございました!

一枚目 忍び装束バナーヌ

【挿絵表示】


二枚目 淑女の服バナーヌ

【挿絵表示】


三枚目 まーたバナナ食べてるよ

【挿絵表示】


※加筆修正しました。(2023/05/17/水)


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第四十五話 ハイラル世界のパイデイア

 遠い昔の、ある王の御世のことであった。

 

 金の麦穂の波麗しきタバンタ地方に大いなる災いが降りかかった。突如として翼と鉤爪を持つ魔物の群れが空を覆い尽くした。空飛ぶ魔物は町や村や田畑を荒らしまわり、無辜(むこ)の民に襲い掛かった。

 

 魔物たちは、醜悪な鳴き声を発する怪鳥カーゴロックや、剣と盾を持ち鱗を纏う空飛ぶ蜥蜴(とかげ)ガーナイルたちであった。魔物たちは氷雪と極低温の世界、ヘブラ地方の山岳地帯の洞窟から湧いて出た。封印の役目を果たしていた永久氷塊が異常気象のために溶け、暗き眠りを貪っていた魔物たちが一斉に解き放たれたのであった。

 

 傍若無人に空を乱舞する魔物の群れに、人間たちは恐怖し、絶望した。頑健な肉体と豪勇を誇る益荒男(ますらお)も、自らの顔に向かって飛び込んでくる小さな甲虫や羽虫に怖れをなすことがよくある。ただの人間の身では空の脅威に対しては無力そのものだった。兵士はもとより問題ではなく、地上では無敵を誇る騎士たちも、何らなす術がなかった。

 

 事態が容易ならざることを悟ったハイラル王は、丸一晩執務室に(こも)って熟考した。王は、他種族に援軍を求めることにした。王は、その頃はまだハイラル王国と交流も少なく疎遠であったリト族に使者を送ることにした。王はリト族に共闘を呼びかけたのであった。空の覇者たる猛禽類よりもさらにヒエラルヒーの上位に位置するリト族、あの剽悍(ひょうかん)なる空の戦士たる彼らならば、かの魔物共であってもたちどころに勝利を収めるであろう。王はそう考えたのであった。

 

 親書をもたらされたリト族は即座に承諾した。彼ら自身、空の魔物の害に脅かされていたというのもあるが、決定的な理由は、ハイラル王自身が軍勢を率いると宣言したからであった。猛き戦士たちは勇ある者を尊ぶ。身分は問わない。

 

 宮廷の群臣は王の出陣を諫めた。しかし王は雄々しくも玉座から立ち上がった。王は黄金造りの鎧を身に纏い、王家の剣を腰に差して、白馬に跨って魔物覆滅の親征軍を率いた。

 

 かくして激戦が繰り広げられた。数にして百倍にならんとする空の魔物たちを、リト族の戦士たちは精妙なる弓矢の腕を存分に発揮して叩き落した。王の軍勢はリト族の援護を受けながら、険しい雪山を踏破して敵の本拠地たる洞窟に突入した。暗い洞窟の中、王自身も血刀(けっとう)を振るって奮戦した。近衛騎士たちの死をも厭わぬ勇猛果敢な働きもあって、ついに王とその軍勢は勝利を収めることができた。

 

 その戦いの後に、リトの村で戦勝祝賀会が催された。そこで、ある出来事が起こった。

 

 戦勝祝賀会はごく和やかな雰囲気をもって始まった。夜空には満月が昇っており、無数の星々がきらめいていた。そして、空にはもう魔物はいなかった。豊富な肉と酒が供された。宴もたけなわとなった頃、ある一人のリト族の戦士が余興として詩を吟じた。リト族では詩歌はもっぱら女たちの領分であるとされているが、しかし男たちも詩を知らないわけではなかった。彼は情感豊かに今回の戦いについて詩を詠んだ。詩は見事な六脚韻(ヘクサメトロス)で、それも、まったくの即興によるものであった。

 

 さらに他の戦士たちが楽器を取り出した。彼らはその即興詩にメロディーをつけた。戦士たちはさらに、ピッタリと息を合わせて合唱を始めた。リリトト湖に響き渡る歌声はハイラル王と騎士たちの胸に染み入り、自然と目から涙を零れさせた。

 

 やがて戦士たちの合唱が終わった。王は、こちらも返礼をするべきだと思った。王は(かたわら)にいた一人の近衛騎士に「こういう場に相応しい余興」をするように命じた。その騎士は、筋骨隆々の仲間たちの中にあってはごく小柄で、優しい顔立ちをしており、美しい金髪で、爽やかな声音を持っていた。王は、この者ならば詩をも歌をも知っているであろうと考えたのであった。

 

 畏まって命を受けた騎士は、近くに生えていた一本の大木のそばまで歩いていった。騎士は木の下に立つと、目を閉じて静かに佇んだ。

 

 リト族の戦士たちは抑えきれぬ好奇心を強いて隠しつつ、それを見守った。そんな中、騎士は「やっ!」と声を上げて行動を起こした。騎士は剣を横薙ぎに振るい、突然木を切り倒したのであった。

 

 リト族の戦士たちは唖然(あぜん)とした。それを尻目(しりめ)に、騎士はさらに剣を振るって木をいくつかの薪の束にしてしまった。騎士は薪を火にかけられていた料理鍋へ次々に放り込み、料理を始めた。やがて、一皿の「硬すぎ料理」ができあがった。それは薪の煮込みであった。

 

 そして顎の力も逞しく、騎士はその「硬すぎ料理」をボリボリと噛み砕き始めた。リリトト湖に響き渡るその固い咀嚼音は、はたしてリト族の戦士たちの胸に染み入ったのかどうか……?

 

 ややあって、食べ終えた騎士は言った。「(たわむ)れなれば此度(こたび)はただ一皿にて」

 

 周囲の近衛騎士たちはゲラゲラと子どものように笑い転げ、拍手喝采した。王は知る由もなかったが、「到底食べられないものを無理やり料理して平らげる」という余興は、当時の近衛騎士たちの間では宴会芸の「鉄板ネタ」であった。その余興をやれば必ず笑いが取れるということになっていた。

 

 しかし、リト族の戦士たちはニコリともしなかった。戦士たちの目はどこまでも険しかった。

 

 ハイラル王は大いに嘆いた。

 

「ああ、(ちん)の騎士たちは古今無双の武勇を誇るが、なんと悲しきことかな、これほどまでに野性(ワイルド)に溢れ、これほどまでに教養に欠けているとは……」

 

 この事件より三十年ほど時代が下った頃に著された別の一書によると、この祝勝会の後、ハイラル王国軍はリト族との間で戦争状態に陥ったという。

 

 その書によれば、騎士が余興の際に切り倒した木は、あろうことかリト族が最も大切にしている聖なる木であったという。太古の昔、リト族の始祖がハイラルの大地へ飛来し、初めて翼を休めたのがその木であった。以来リト族は大切にその木を守ってきた。だが、その「御神木(ごしんぼく)」はハイリア人に切り倒されて、しかも食べられてしまった。彼らは憤怒を爆発させた。帰国の途に就く王軍を彼らは空から徹底的に追撃し、ほぼ壊滅させてしまったという。

 

 しかしながら、ハイラル王国側の資料にも、また当のリト族の資料にも、そのような追撃戦に関する記述は見当たらない。そもそもリト族には、確かに「御神木」は存在したのであるが、それはこの戦いの遥か以前に落雷で失われたとされている。それゆえ、この書は多分に虚構を含んでいるものであると見なさなければならない。

 

 だが、この書が持つ資料的価値は別の側面にある。虚構であっても、その虚構にはそれが作られた当時の人々の心性、つまり人々のものの考え方や感じ方が込められているからである。以下に引用する、追撃から辛くも逃れた王が発した言葉にこそ、その書の著者の最も主張せんとするところが示されているのであり、後世に生きる我々はそれに注目しなければならない。

 

(ちん)の騎士たちがリト族の風習について知っており、彼らの信仰を理解しておれば、御神木(ごしんぼく)を切り倒すなどという愚かな行為は決してしなかっただろう。これからの騎士たちは剣と盾、槍と弓矢を持つように、教養を持たねばならぬ。書物に親しみ、竪琴を奏で、詩を詠じて、猛き心に叡智の光をもたらさねばならぬ。そうなれば、無用な(いくさ)をすることもなくなるであろう……」

 

 王の言葉に端的に表されているように、この書の作者はまさに教養の重要性を訴えているのである。騎士の持つべき新たなる資質としての教養である。現在の我々からすればごく当たり前のことを言っているように感じられるかもしれない。だが、それでも当時にあっては、この「教養を重視する」ということが革新的な考えであったということをまず理解しなければならない。

 

 事実、王城に帰還した王は、大臣に命じて国中の優れた詩人たちを呼び寄せ、勅撰(ちょくせん)の詩歌集の編纂事業を興した。王はまた、近衛騎士の訓練課程に「詩歌」を組み入れた。これらの事実は複数の文書によって明確に記録されている。完成した詩歌集は近衛騎士の必須教養とされ、これを覚えることなくして近衛騎士を名乗ることは禁じられた。ハイラル王国の文教政策において教養について明確に目標を定めたのは、これが最初のことだとされている。

 

 批判的な歴史家の中には、「王が教養の習得という目標を文教政策において導入したことは、つまるところリトの村で晒した醜態と恥辱を糊塗するためという矮小な理由から発しているのであり、かつ国王がそう命じたことで、必然的に教養が『国家主義的な』色彩を帯びることになってしまったのは、王国の臣民にとって不幸なことであった』と述べる向きもある。

 

 しかしこれを機会として、騎士たちの性情が(やわ)らげられ、後世の我々が想像するような「文武において秀でたる」騎士が出現するようになったのは認めなければならない。

 

 それまでの騎士たちは、魔物相手であれば面白半分に嬲り殺し、拠点を劫掠(ごうりゃく)するのが常であった。戦う相手が人間であっても、時としては激情のままに捕虜を虐殺し、敵対する町や村を焼き討ちすることも少なくなかった。騎士たちは手づかみで食事をとった。騎士たちは文字が読めなかった。騎士たちは暴れ馬を城下町に放って遊ぶなどした。その蛮性は目も当てられないほどであった。このどうしようもない状態を、仮にそれが「国家主義的な」命令によるものであったとしても、教養によって改善したというのはそれだけで評価に値するのではないだろうか。

 

 それからのハイラル王国で「教養を身につけること」が爆発的に広まったわけではない。だが、徐々に騎士たちは変わって行った。時には「猛き戦士の心を涵養(かんよう)するのに教養などという軟弱なものは不要」と考える為政者によって、騎士の訓練課程から詩歌が削除されることはあったが、それでも教養そのものが消え果てたわけではなかった。次第にハイラル王国に文学という新たな創作形式がもたらされ、小説という新たな精神運動が勃興すると、騎士たちも(こぞ)ってそれに参入していった。

 

 騎士たちから一般庶民、または騎士たちから貴族層への教養概念の浸透、あるいは相互作用という歴史的過程に関しては、未だに研究途上であり詳細は明らかになっていない。だが、それでもハイラル王国全体が次第に詩歌と文学を重んじるようになり、教養にかけがえのない価値を置くようになったのは確かである。健康、財産、自由と並んで、教養が無上の地位を占めるようになったのである。

 

 どの町や村にも必ず学校が作られた。城下町には無数の学寮(コレージュ)が建てられた。図書館には書物がはち切れんばかりに収められた。印刷所は昼夜休まず新しい書物を印刷し続けた。あの忌まわしき大厄災、その直前のハイラル王国は「(むら)不学(ふがく)の戸なく、家に不学の人なし」と断言できるまでに、詩歌と文学、教育と教養が沁みわたっていた。

 

 なんと羨むべき時代だったことか。もっぱら学問を修めるためだけに、人生で最も貴重な期間である青春時代を人々は学校で過ごすことができた。この滅びの時代にあって我々が教養を得るには、魔物が跋扈(ばっこ)する荒野を彷徨(さまよ)って隠者に教えを乞いに行かねばならない。書物を得るには、廃墟を漁って朽ちた書物を拾うほかない。子どもといえども学びのみに時間を費やすわけにはいかない。大人は日々の糧を得るための仕事に忙殺されており、学ぶことなど思いもよらない。

 

 そして、何にもまして嘆かわしいことがある。それは、この緩やかな滅びの中にあってこそ教養が燦然(さんぜん)と輝くということである。

 

 やがて確実に来る絶対的な破滅、それを迎える前に我々は、我々自身の鎮魂歌と墓碑銘を用意しなければならない。だが、それを為すのに必要な教養を得ることが我々にはできないのだ。これほどの悲劇があるだろうか。我々は教養の欠如によって、自分自身の最後の葬儀すらも執り行えないのである。

 

 教養はどこにもない。あるのは、ただ野性(ワイルド)のみである。かの騎士のように、木を切り倒し、薪を料理し、咀嚼するという、あの野性のみが我々を満たしている。

 

 もし滅びの宿命から解放され、再生の途に就くのならば、また我々は野性を()めるために新たな教養を求め、生み出すのだろう。

 

 だが、その日はいつやって来るのだろうか?

 

 

☆☆☆

 

 

 東ハテール地方、ハテノ村に事務所を構える、サクラダ工務店社長兼棟梁にしてデザイナーであるサクラダは、この時代のハイラル王国にあっては一、二を争うほどの教養人であった。また彼は、それを自負していた。

 

 日々のルピーにすら事欠く下積み時代でも、サクラダは毎月一定額を書籍の購入代に費やしていた。彼はあちこちの蔵書家に手紙を送っては貴重な書物に触れる機会を得ようと努力した。

 

 建築家として成功し名声を博するようになっても、サクラダはそれに一切甘んじることなく、常に教養の摂取と自己研鑽に勤しんだ。彼のこじんまりとした事務所には特別に書斎が設けられており、本棚にはぎっしりと自慢のコレクションが収められていた。建築学に偏らず、哲学や歴史、古典、文学と詩、生物学や天体学に至るまで、彼は幅広いジャンルの書物を所有していた。それはまるで、彼の頭脳の中身を表しているかのようだった。

 

 ただ、サクラダの教養観は一般的なそれとは(いささ)(おもむき)を異としていた。大抵の教養人が教養そのものを無批判に善きものとし、ただ「それが教養であるから」という理由だけで教養を求めるのに対して、サクラダは至って合目的(ごうもくてき)的であった。すなわち、彼は「己の理想を具現化する材料を得るため」、ただそれだけのために、教養を求めるのだった。

 

 それでも、サクラダもまたこのハイラルの大地に生きる者の一員として、世間の一般的な傾向から完全に自由であるわけにはいかなかった。自身の教養を誇る者が必ず抱く「無知なる者に己の持つ教養を教える」という使命感を、程度は多少落ちるが彼も抱いていたのであった。事務所を構えて部下を持つようになってから、彼の使命感は当然のように強さを増した。

 

 社員教育とは、仕事において有能な存在にするべく育てるということだけではなく、一個の人間として望ましい教養を授けることでもある。サクラダはそう信じていた。

 

 ゆえに、中央ハイラル地方の南西部の外れにあるこの平原外れの馬宿においても、サクラダは使命を放棄しなかった。たとえその相手が全身に包帯を巻き、ベッドに横になっている若手社員であったとしても、彼は手を緩めなかった。

 

 時刻はちょうど、バナーヌたちが高原の馬宿で命の洗濯をしていた頃であった。まだ昼には時間があった。

 

 ベッドのかたわらに椅子を置いてなよやかに腰掛けつつ、サクラダはその一種独特な色気を持つ声で、ベッドの主に諄々(じゅんじゅん)と説いて聞かせた。

 

「いい、カツラダ? 人間には、若いうちにどうしても出会って読んでおかなければならない本というものがあるのよ。若さっていうのは未熟であると同時に成長可能性も意味する。それになにより、若い精神は柔軟で吸収力が良いの。そういう若い時にどれだけ素晴らしい本を読んだかで、今後の人生と仕事が大きく変わってくるのヨ」

 

 そこまで言うとサクラダは、ふぅと一息ついた。彼は右手に、表紙が桃色の一冊の本を持っていた。彼は言った。

 

「だから、あなたのような若者が愚にもつかない通俗小説なんて読んじゃダメなの。なによこの本、『スカートの中身に興味津々の勇者に執着されてドキドキしちゃう天才魔法少女アイリンちゃん!!』って。知性の欠片も感じられないタイトルね」

 

 ベッドに横になっているカツラダが絶叫した。

 

「ぎゃあああああああああああっ!? 大きな声でタイトルを言わないでくださいッス!!」

 

 桃色のイヤリングをつけた長い耳を、サクラダは思わず覆った。彼は言った。

 

「ちょっと、大きな声を上げないでヨ! 馬宿の店員さんに迷惑じゃない、まったく……まあ、百歩譲ってこの『スカートの中身に興味津々の勇者に執着されてドキドキしちゃう天才魔法少女アイリンちゃん!!』を読むのは許してあげるとしても、それは休憩とか息抜きの時に読むべきものよ。貴重な時間を無駄にしてはダメ。本来なら、あなたは建築学の本を読むべきなのよ。サクラダ工務店の一員ならね」

 

 サクラダは本をパラパラと(めく)った。彼は文章に目を走らせると、またもや溜息をついた。彼はおもむろに音読を始めた。

 

「……『リンクは見ている。見つめている。凝視している。パンツを見ている。どういう物理法則の結果なのか? アイリンの丈の長いローブの(すそ)は知らぬ間に(まく)れ上がっていて、内奥に秘していた純白が外界に姿を晒していた。リンクはなおも見つめている。アイリンは彼の青い瞳に、自分の下着の色が鮮やかに映り込んでいるのをハッキリと見た』……うっわ、何これ。これ、そういう系の小説かなにかかしら?」

 

 カツラダはまたもや絶叫した。

 

「うわぁああああああああああっ!? やめっ、やめてくださいッス!! ま、マジでやめろぉ!!」

 

 サクラダは言った。

 

「ちょっと声が大きいワ!……っていうか、そこまで恥ずかしがることないじゃない!」

 

 そう言いつつ、サクラダはカツラダに対して少しだけ哀れな気持ちを催していた。この恥ずかしがり方は、少し異常だ。彼はそう思った。なにやら、決してやってはならないことをやってしまったのかもしれない。埋め合わせというわけではないが、この本を読むくらいだったら許してやっても良いだろう。内容的には大したことはないが、害にはならないはずだ……

 

 泣き喚きつつ、ギッシギッシとベッドを軋ませて右に左に苦悶するカツラダに、サクラダは本を返してやった。

 

「悪かったワ、カツラダ。確かに療養中の無聊(ぶりょう)を慰めるのにこういう本は必要よね。でも、元気になったらちゃんとした本を読むのよ。そういえばあなたは、プト・レマの『天体論』は読んだのかしら? この旅行に出る前に課題図書として渡しておいたはずだけど……」

 

 サクラダのそばへ、のっそりと一つの影が姿を現した。影が言った。

 

「社長、少しいいですか」

 

 それはサクラダ工務店のベテラン社員、エノキダだった。サクラダがカツラダの本について追及を始めた時、エノキダはこっそりとその場を離れていたのだった。

 

 突然自分を呼びかける声に、サクラダの意識は即座にカツラダから離れた。サクラダはエノキダに言った。

 

「アラ、どうしたのエノキダ?」

 

 エノキダは、自身の隣に立つ人物を示しながら言った。

 

「こちらの方がお話があるとのことで」

 

 サクラダが見ると、むさくるしい顔をしたエノキダの隣に、馬宿の店員が立っていた。店員は言った。

 

「どうも、サクラダさん。お世話になっております。今は、少しお取込み中でしたか。だとしたらすいません」

 

 その店員は、サクラダ一行がこの馬宿に来てからなにくれと面倒を見てくれている、あの純朴で誠実な店員だった。

 

 サクラダは椅子からすっくと立ち上がった。彼は背筋をしゃんと伸ばした。そして彼は言った。

 

「ちゃお~~~♪ どうぞお気になさらないで店員さん。別に取り込み中とかそういうわけではないワ。単に社員教育をしていただけですカラ。それで、ご用件は何かしら?」

 

 その言葉を聞いて、店員はなにやらぎこちない笑みを浮かべた。馬宿協会の社員教育もなかなか厳しいが、しかし絶叫して苦悶するようなものではなかった。それを「単なる社員教育」とは。東ハテールの人とは根本的に文化が違うのかもしれない……店員はそう思った。

 

 だが、店員はそういう考えをおくびにも出さなかった。彼はサクラダに用件を切り出した。

 

「カツラダさんは順調に回復されているようで何よりです……ところでですね、お話がありまして。それは他でもない、建築家であるサクラダさんにしか相談できないものでして……」

 

 サクラダの目の色が変わった。

 

「ほう……詳しくお話してくださらないかしら」

 

 店員は詳しい話を始めた。

 

 話は、この「平原外れの馬宿」の各種設備のリノベーションに関するものだった。馬宿協会は大厄災後のハイラルにおいて最も力のある組織であるが、それでもルピーの問題は常に付き纏う。会計報告と監査に基づいて毎年予算配分が行われるが、利用者の多いゲルドキャニオン馬宿やタバンタ大橋馬宿へ比較的潤沢な運営資金が提供されるのに対し、ここのような場末の馬宿には必要最低限の資金しか与えられない。

 

 店員は溜息をつきながら言った。

 

「何とか()り繰りしてはいるんですけどね……」

 

 サクラダが言った。

 

「どうして協会は独立採算制を導入しないのかしら? その方が収益性が向上すると思うんだけド」

 

 店員は答えた。

 

「『馬宿協会の組織全体の秩序と同一性を保つため』というのが本部の見解なんです。それに、我々のような場末の馬宿からしたら、独立採算制なんて悪夢そのものですよ。採算なんてとれるわけがないですから」

 

 彼は話を続けた。削減できる無駄はできる限り省いているが、それでも設備は時間が経つにつれてどうしても劣化する。それを更新・補修するためのルピーがどうしても足りない。おまけに、この馬宿は純粋な善意からデグドの吊り橋の補強を、店員からの拠出(きょしゅつ)金を用いてまで(おこな)っている。それは「旅をする者に奉仕すること」を第一の目的とする馬宿協会の理念にも沿うためであったが、しかし不思議と協会本部から理解を得られたことはない。そんなわけでルピーは全然足りていない。

 

 店員は揉み手をして、やや卑屈とも取れるような笑みを浮かべて、話を締めくくった。

 

「というわけで、大変お恥ずかしい話なのですが、サクラダさんのお力をお借りしたいのです」

 

 サクラダは小さく声を漏らした。

 

「……ふむ……」

 

 サクラダは考えた。なるほど、ハッキリと口に出して言ってはいないが、要するに「格安でこの馬宿の設備改修を請け負ってくれ」という要求なのだろう。彼は言った。

 

「うーん……そうネェ……なるほど……理解はできるワ」

 

 随分と虫の良い話ではあった。だが、サクラダは言下(げんか)に拒否することもできなかった。彼は考えた。この馬宿には随分世話になっている。着いた早々に悪夢に悩まされた時は、馬宿はマモノエキスをタダで提供してくれた。カツラダが大怪我をしてここに運び込まれた時も、店員たちは総出で治療をしてくれたし、今も看護をしてくれている。カツラダの治療用のマモノエキスも無料だ……

 

 そういったこちらの「弱み」を充分に計算に入れた上で、この店員は話を持ち掛けてきたのだろう。足元を見られているようで、サクラダはそれなりに(しゃく)に障った。だが、それ以上に、彼には何か感じるところもあった。

 

 サクラダは、了承することにした。彼は言った。

 

「良いでしょう。あなた方が少ない予算を割いてデグドの吊り橋を補強しているということにすごく漢気(おとこぎ)を感じたワ。うん、すごく漢臭(おとこくさ)い。分かったワ、工事を請け負おうじゃない」

 

 店員は、明らかに愁眉を開いたようだった。

 

「本当ですか!? ありがとうございます! いやぁ、本当に助かりますよ!」

 

 エノキダがこっそりとサクラダに耳打ちした。

 

「良いんですか、社長。明らかに足元を見られていますが」

 

 サクラダは静かに首を左右に振った。

 

「こうなったのも女神様のお導きってやつヨ。それにね、企業というのは利潤を追求するのと同じくらい、公共に奉仕しなければならないのよ。まあ馬宿協会も企業といえば企業だから、それに協力するのが公共への奉仕なのかはビミョーなところだけど……今回はあまり深いことを考えないでおきましょう。それに、宣伝にもなるワ」

 

 社長の決定に否やというエノキダではない。彼は頷いた。

 

「分かりました」

 

 サクラダはやや声を低くしてエノキダに言った。

 

「本当のところを言うとネ、今は少しでもルピーが欲しいのよ。あのバナナ娘に財布を盗られちゃったから、今後の路銀が心配なの。ここでちょっと仕事をして、資金を確保しておきましょう」

 

 エノキダは答えた。

 

「はあ、なるほど」

 

 ちょうど、外はよく晴れていた。絶好の工事日和だった。

 

 サクラダは舌なめずりをした。

 

「さてと……腕が鳴るわ~」

 

 

☆☆☆

 

 

 改修すべき箇所は多岐にわたった。宿の内装、外装、馬小屋、飼葉桶、雨水タンク、資材置き場、井戸、倉庫、調理場、柵……そのすべてを改修しなければならない。

 

 サクラダは一時間ほどで見積もりを出した。これでも彼としては時間をかけたほうだった。彼は昼食を待たずして工事を開始した。彼はエノキダと一緒に道具を振るい始めた。

 

「エノキダ! アナタの中の(おとこ)を見せて!」

「合点!」

 

 ホッ! ハッ! フンッフンッ! フリャホリャハッ! エィッ! テリャッ! エイリャッ!! ハァアアアアアアッ! タァアッ!

 

「エノキダ、(けだもの)よ! 仕事の獣になって!」

「合点!」

 

 ホッ! ハッ! フンッフンッ! フリャホリャハッ! エィッ! テリャッ! エイリャッ!! ハァアアアアアアッ! タァアッ!

 

「アタシの本気……見せてあげる。サクラダ工務店社訓! ペンキは七色……」

「気分は春色!」

 

 ホッ! ハッ! フンッフンッ! フリャホリャハッ! エィッ! テリャッ! エイリャッ!! ハァアアアアアアッ! タァアッ!

 

 店員は思わず声を漏らした。

 

「す、すごすぎる……」

 

 驚異的な工作精度とスピードの建築技術だった。抜群のセンスのデザインだった。ピッタリと息の合ったコンビネーションだった。汗と熱気と漢気(おとこぎ)が飛び散っていた。みるみるうちに数々の設備が改修されていった。店員は言葉を失った。

 

 サクラダこそは紛れもなくハイラル一の建築家だろう。店員はそう思った。本来なら、このような超一流の業者に依頼すれば、工事の総費用は五万ルピーを下るまい。それを、こちらの計算づくだったとはいえ、十分の一以下で請け負ってもらった。サクラダ工務店一行がこの馬宿に投宿したのは、まさに女神様の配剤と言っても良いのでは……?

 

 店員は考えに耽っていた。すると、街道の北のほうから声が聞こえてきた。若い男たちの声だった。店員が顔を上げると、よく顔の似た二人の男が歩いてきているのが見えた。どうやら兄弟であるようだった。その服装や装備から察するに、どうやら兄弟はトレジャーハンターのようだった。

 

「おや、馬宿は改修工事中か。しかしあの魔物研究家、そんなことは言ってなかったが……」

「大丈夫かなドミダク兄さん、今晩はちゃんと泊まれるかな?」

「心配するな弟よ、なるようになるだろう。万が一、泊まることができなかったら、その時はゴネてゴネてゴネまくるまでだ」

「それもそうだね、兄さん。ゴネ得が一番だよね。それに、今回は久しぶりに大きな仕事するんだから、よく休まないとね」

「うむ。だが忘れるな弟よ。俺達の本当の目的はラムダの大秘宝だ。久しぶりの大きな仕事ではあるが、こんなものは所詮、俺たちの踏み台に過ぎん」

「うん、そうだね兄さん……」

 

 今度は街道の南の方から声がした。店員が首をめぐらせると、女と男の二人連れが馬宿へ向かって歩を進めているのが見えた。二人はなにやら話をしていた。

 

姐御(あねご)、あそこが平原外れの馬宿っす」

「ようやく到着かい、足がくたびれたよ。それにしてもあのヒルトンだかミルトンだかいう奴、本当にアタイたちにデカい仕事をやらせるつもりなのかねぇ。なんだか怪しいような気がしてきたよ」

「でも姐御、闘技場跡地のお宝なんて、きっとすげえ価値っすよ。やるだけのことはありますよ」

「ま、なんにせよ今は馬宿で冷たいリンゴ酒を一杯やりたいねぇ……って、なんだい。馬宿は今、工事中なのか」

「なんだあの大工さんたち……やべぇっすよ……爆速(ばくそく)で動いてるっす……」

「ヤバいくらいの爆速だねぇ……」

 

 なんと、この辺鄙な馬宿に一気に四人も客が来るとは。店員はほくそ笑んだ。こんなことはここ数年なかったことだ。もしかしてサクラダは、幸せを運ぶ(たくみ)なのではないだろうか……

 

 次の瞬間、店員は無意識のうちに揉み手をしつつ客たちへ向かって歩きだしていた。彼は言った。

 

「ようこそ、ようこそ! 遠路はるばるよくぞお越し下さいました! 平原外れの馬宿は現在リノベーション工事中ですが、平常通り営業しております! さあ、どうぞどうぞこちらへ……」

 

 もし店員に教養があれば、この時、暗い予感が訪れたかもしれなかった。「月に叢雲花に風」とシーカー族はしかつめらしく言う。良いことずくめの裏で、女神は不運をもたらす企みを意地悪く練っているものだと、そのことわざは言っている。

 

 店員はこの後、心底悔やむことになった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ジューザが先導する馬車が、ハイリア湖南岸に広がるバルーメ平原の、その登り口に到着したのは、午後をかなり回ってからのことだった。

 

 バナーヌたちは絶え間なく襲い来る睡魔と戦いつつ、ゴツゴツとした岩場を登って平原に進入した。彼女たちは休憩も挟まずに即座に行動を起こした。彼女たちは次なる作戦のための偵察を(おこな)った。途中、彼女たちは緑のリザルフォス三匹と遭遇した。だが、いくら眠気が凄まじいとはいえ、その程度の魔物は彼女たちの敵ではなかった。

 

 一時間が経って、偵察が一段落した。日没まであと三時間ほどだった。

 

 バナーヌたちは、地面に横になっていた。バナーヌは体の右側を下にして横向きになっていた。モモンジは仰向けに横になっていた。テッポはうつ伏せになっていた。バルーメ平原の地面は岩盤が剥き出しになっていて、その表面を薄く草が覆っていた。草のにおいが彼女たちの鼻についた。直に横になると凸凹(デコボコ)とした岩が体に突き刺さるが、この際彼女たちは文句を言えなかった。それほどまでに彼女たちは眠気に圧倒されかけていた。

 

 曇りがちだった空はやや晴れて、うろこ雲が天に浮かんでいた。バナーヌが、誰に言うでもなく呟いた。

 

「……夜は雨が降るかもしれない」

 

 それを聞いて、隣に寝そべっていたモモンジが不可解な表情を浮かべた。彼女の眠たげな垂れ目に、少しだけ光が戻った。彼女は言った。

 

「……なんでそんなことが分かるんですか、バナーヌ先輩……」

 

 テッポがバナーヌの代わりに声を上げた。

 

「さっきは空に巻雲が出ていて、今度は巻積雲(けんせきうん)が出てきたでしょ。だから、この後は悪天候になる可能性があるってこと。観天望気(かんてんぼうき)ってやつよ」

 

 先ほどまでピクリとも動かなかった割には、テッポのいたいけな声は存外ハッキリとしていた。

 

 それに対するモモンジの声は、あたかも夢の世界の住人が現世(うつしよ)に呼びかけてくるような、そういう不明瞭な声だった。

 

「……カンテンボーキ……?……なんだか、美味しそうな名前ですね……」

 

 テッポは呆れたように言った。

 

「なんで美味しそうな名前になるのよ……観天望気(かんてんぼうき)よ、観天望気。一種のお天気占いのこと」

 

 テッポはむくりと起き上がると、モモンジをその鳶色の瞳で見つめた。モモンジはその顔にイーガ団員の証である白い仮面を薄く被せていた。そうやってモモンジは日光が(まぶた)を刺すのを防いでいた。モモンジは得物(えもの)である風斬り刀を胸に抱いていた。獣革の袋に包まれた鞘が、モモンジのカエンバトのように大きく膨らんだ胸に挟まれていた。敵が来ても、たちどころに抜刀できる態勢だった。

 

 どんなに疲れている時でも、こういった剣術家としての心がけを忘れないところが、モモンジを密林仮面剣法伝承者たらしめている所以(ゆえん)なのかもしれないわ。身についた習慣がそうさせるのかもしれないけど、それよりもモモンジは生まれつき真面目なのね。そういうところが、やっぱり可愛いんじゃないかしら……テッポは睡魔によってぼんやりとしている頭で、どこか遠くそのように思った。

 

 そんなテッポの内心も知らず、モモンジはようやく得心(とくしん)が行ったというふうに言った。

 

「……ああー、お天気占いですね。それなら私も知ってますよ……」

 

 今度はバナーヌが答えた。

 

「……どんな?」

 

 今まで閉じていたバナーヌの両目は、薄く開いていた。真面目なモモンジは、気力を振り絞ってなんとかそれに答えた。

 

「……えーっとですね……ガンバリバチが地面から這い出して来たら大雨で、ゴーゴーガエルが顔を洗うと(ひょう)になって、スナホリスズメが鳴くと雷雨で、オルディンダチョウがタマゴを産んだら隕石が降るらしいです……」

 

 あたかも酩酊者(めいていしゃ)()ね上げた粘土細工のようなことをモモンジは言った。テッポは呆れてしまった。テッポは言った。

 

「滅茶苦茶なことを言うんじゃないわ、モモンジ。正しくは、ガンバリバチが低く飛ぶと雷雨で、ガッツガエルが鳴くと雨で、アオナミスズメが低く飛ぶと雨、でしょ。オルディンダチョウの話は知らないけど……」

 

 バナーヌが静かに口を開いた。

 

「……オルディンダチョウの話は聞いたことがある」

 

 テッポが答えた。

 

「えっ、ほんと? 本当に隕石が降るの?」

 

 バナーヌは言った。

 

「……そう。前に何かの本で読んだ」

 

 テッポが答えた。

 

「へぇー、知らなかったわ……オルディンダチョウが卵を産んだら、隕石がねぇ……」

 

 モモンジが大気に溶け込むような声で言った。

 

「……二人とも物知りですねぇ……あーあ、私も教養が欲しいなぁ……」

 

 その言い方にはあまりにもしみじみとした情感がこもっていた。テッポは思わず溜息をついた。

 

「モモンジ、この程度のことは教養とは言わないわ。せいぜい雑学といったところよ」

 

 モモンジは、健気にも反論した。

 

「……えー、でも私からすると雑学も教養もあまり違わないように思えますよぉ……物知りだってことには変わらないんですから……」

 

 その言葉には意外な鋭さがあった。テッポは首を傾げた。

 

「言われてみればそうね。雑学と教養って、どういう違いがあるのかしら」

 

 テッポが考え込む(いとま)も与えず、モモンジが新たな話題を提供した。

 

「……教養と言えば、サンベ殿はハッパ殿から怒られてましたね……」

 

 テッポが答えた。

 

「えっ? お父様が指揮官殿に怒った? お父様はサンベになんて言ってたの?」

 

 モモンジはふにゃふにゃとした声で言った。

 

「……えーっと、たしか、『お前は野心ばかりが先行していて、下級幹部として必要な教養が足りてない』とか、何とかかんとか……私はたまたま近くでそれを聞いてたんですけど、聞いているうちにだんだん私も一緒に怒られているような気になっちゃって……」

 

 テッポが言った。

 

「ああー……お父様ならそう言いかねないわね。それで、サンベはどんな様子だったの?」

 

 モモンジは言った。

 

「……あとで、腹を立ててました……修練場で物に当たってました……」

 

 テッポは溜息をついた。

 

「うーん、サンベはまあいつもどおりとして、お父様もお父様ね。そんな言い方をしたら反感を買うっていうのも分かっていそうなのに……いえ、お父様のことだから、きっと分かった上で言ってるのでしょうけど……」

 

 バナーヌは二人の会話を聞きながら、ぼんやりと考えを巡らせていた。

 

 教養も雑学も、知識という範疇に含まれるのは同じだ。それでも、教養と雑学とはやはり異なっている。それはつまるところ、「教養が自己を相対視する材料を与えてくれるのに対して、雑学が単なる無駄知識に過ぎない」という点だろう。前に何かの本でそう書かれているのを読んだはずだ。とにかく、本を読んだり、詩を詠んだりするというのは、教養の本質ではない。学問的に裏付けのある考えではないし、その相対視なるものが具体的にどのようなことを意味するのか未だによく分からないが、とにかく教養とはそういうものだ。そのようにバナーヌは考えた。

 

 以前、ノチがバナーヌに対して言った。

 

「バナーヌ、この前、私、ドゥランさんの奥さんと赤ちゃんに会ったの。奥さんから『赤ちゃんを抱いてあげて』って言われたから、私、抱っこしてあげたんだけど……その子、すごく嫌がって泣いちゃったの。てっきり、『私の抱っこのやり方が悪いからこの子は泣いてるのかな』って思って、奥さんにごめんなさいって謝ったの。そしたら、奥さんがね、こう言ったの。『謝らなくて良いのよ。この子、抱っこされるのがもともと嫌いなの。ノチならあるいはって思ったんだけど、やっぱり嫌なものは嫌なみたいね』って。私、驚いちゃった。だって赤ちゃんってみんな、抱っこされるのが大好きだと思ってたから。当たり前だと思っていることって、本当は当たり前じゃないのかもしれないね……」

 

 あの時のノチは間違いなく、一つの教養を得たに違いないのだ。彼女は当たり前のことが当たり前ではないことに気づいたからだ。バナーヌはそう思った。

 

 今、隣でぐったりとしているモモンジだって、教養と言えば教養だ。バナーヌはまた、そう思った。モモンジはバナナが食べられない。イーガ団員でありながらバナナが食べられないという、ほとんど万に一つもあり得ないような事実をモモンジは抱えている。つい先日、アラフラ平原に向かう馬の上でテッポからそのことを聞くまで、そんな人間がこの世に存在するなどとは思ってもみなかった。

 

 思ってもみなかったことが思えるようになる。それこそ教養なのではないのか? バナーヌはそう考えた。

 

 これまでのバナーヌは、孤独だった。パシリとしての任務は、彼女をただ独りでハイラル世界の荒野をさすらうことを強要した。たった一人で、生死を賭けた過酷な戦いを繰り広げているうちに、彼女は、生き残るためには「思ってもみなかったことを思えるよう」にならなければならないと、おぼろげながら気づくようになった。自己を相対視しなければ、この野性溢れる大地を渡り歩くことができない。そのために必要なのが教養ではないのか?

 

 そんなバナーヌであるから、彼女はサンベの指揮能力を強く疑っていた。テッポの父親ハッパはサンベに、「お前は教養がない」と言ったそうだ。つまりサンベは「思ってもみなかったことを思えるようにする」力がないということだ。しかし、千変万化する戦場の状況に対応するには、その力こそが不可欠なのではないか? それに、サンベは傲慢な性格だとも聞く。傲慢とはつまり、自己を絶対視しているということだ。相対視とは対極だ。

 

 事実、輸送馬車がシーカー族の急襲を受けて、続けて魔物に矢を射掛けられた時、サンベは終始狼狽(ろうばい)してなんら有効な手立てを講じなかったという。おそらくサンベは、襲撃を受けるなどとは思ってみなかったのだろう。

 

 薄暮を期して、バナーヌたちは魔物たちの拠点に攻撃を仕掛けることになっていた。バナーヌたちが搦手(からめて)から、サンベとヒエタが正面の大手(おおて)から攻める。二手に分かれての同時攻撃だ。ジューザにその旨を伝えるよう頼んでおいたが、はたしてサンベはちゃんとこの作戦の意義について理解してくれるだろうか。彼が己の正しさを盲信してあの小さなタコツボに籠り続けることを選ぶなら、この作戦は半分失敗したも同然だ……

 

 バナーヌが考え込んでいる間に、テッポとモモンジの会話が聞こえなくなっていた。バナーヌが見ると、モモンジに寄り添うようにしてテッポが眠っていた。すうすうという可愛らしい寝息を立てて、二人は仲の良い姉妹のように安らかな眠りについていた。

 

 バナーヌは言った。

 

「……少し寝よう」

 

 考えても仕方がない。どんなに上司に恵まれなくとも、状況が悪くとも、任務は果たさなければならないのだ。それがイーガ団員たる者の宿命だ。バナーヌはそう結論した。

 

 やがてバナーヌは、睡魔に意識を譲り渡した。たっぷり三時間寝れば、気力も体力も元通りになるだろう。その後は、戦いだ……

 

 穏やかな風が、彼女のツルギバナナのような金髪のポニーテールをふっと撫でた。彼女はいとも安らかに眠りの世界へ落ちていた。




謎の老人「ちょっ、それ食べるの? 薪の煮込みだよそれ? お腹壊すよ? ピリ辛山海焼きにしときなって」
リンク「ボリボリ」
 剣の試練の時には薪を料理した「硬すぎ料理」にはお世話になりました……戦闘が下手な私にとっては割と生命線でした。
 今回の冒頭に関しては、最初は別の観点から教養について書いていたのですが、どうしても論理的整合性が取れず、また書いてて面白くない上に読んでも面白くないという致命的な欠点を持っていたので、4,500字を削除して新たに書き直しました。

※柴猫侍先生より、ありがたくもまたもや支援絵をいただきました! 本当に感謝しかありません! 許可をいただきましたので、この場を借りて紹介させていただきます。改めて柴猫侍先生、本当にありがとうございました!

・超かっこいいバナーヌ(柴猫侍先生曰く、アメコミ風の塗りを意識したとのこと。痺れるぜ)

【挿絵表示】


※加筆修正しました。(2023/05/18/木)


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第四十六話 バナナまみれの大攻城戦

 優秀な同盟者を得ることは繁栄の必須条件である。ハイラル王国もその例外ではなかった。

 

 大地の熱き血潮が噴き出す灼熱のオルディン地方、その中心部に、ハイラルの空を割るようにして、黒煙を噴き上げるデスマウンテンが屹立(きつりつ)している。特別の備えを持たぬハイリア人ならば数分とて生を長らえること叶わぬその過酷な地に、この広大無辺のハイラルにおいても他に類を見ない特殊な種族が住んでいる。

 

 それは火山と岩石の民、ゴロン族である。

 

 彼らの体は岩石のように硬い。それでいて彼らは若鳥のようにしなやかな筋肉をも持っている。その皮膚は火も熱も通さず、業物(わざもの)刀槍(とうそう)も、鋭く速い弓矢も傷一つつけることはできない。彼らは岩を食し、溶岩をスープとする。我々からすると奇妙そのものに見える食生活であるが、彼らはそれによって栄養と滋養を得て、頑健な肉体を養っている。彼らの肉体は無双の怪力を発揮する。また、彼らは手先が器用で、大型の大砲や鉄路、トロッコなどを開発する。彼らは知能も高く、それを活かして繊細な技術が要求される坑道建設や資源の採掘を行っている。

 

 もしゴロン族が好戦的な性格で、全ハイラルに覇を唱えんと侵略の軍勢を興したならば、無敵を誇るハイリア人の騎士たちもおそらく苦戦は免れぬところであっただろう。しかしハイリア人にとって幸いなことに、そのようなことはハイラルの一万年以上の長きにわたる歴史において、一度たりともなかった。

 

 というのは、ゴロン族は総じて至極善良な性格をしているからである。彼らは大人しく、人が良く、なによりのんびりとしている。そんな彼らが侵略の軍勢を興すなどというのは、おそらくデスマウンテンが山体を完全に崩壊させるような大爆発を起こして地上から消滅する時まで、決して起こらないだろう。

 

 もちろん、ゴロン族も戦いはする。しかしその戦いは、生存権を賭けた血みどろの闘争というものではない。ましてや、敵対者の富や財を収奪せんとするものでは決してない。彼らの戦いは多分に遊戯的な性格を有しており、それ以上に、名誉を重んずるものである。

 

 例えば、ゴロン族は「スモウ」という運動競技を好む。地面より一段高く設けられた円形の「ドヒョー」と呼ばれるステージの上で、ゴロン族は一対一の素手での格闘を行う。「スモウ」のルールは単純である。ドヒョーから先に落ちた者が敗者となる。太古の昔より、ゴロン族は己の肉体を唯一の武器とするこの純粋な肉体勝負を好んだと言われている。

 

 伝説によれば、かの勇者もこのスモウをとったという。勇者がデスマウンテンに乗り込んだ時のことであるが、ゴロン族は勇者に「スモウ十番勝負」を挑んだ。勇者は対戦者のゴロン族のことごとくを投げ飛ばして見事に勝利し、ゴロン族の聖地への入場を許可されたという。その時のゴロン族の言葉として「ただのニンゲンのくせしてオラたちを負かすなんて、なんかズルでもしたんじゃないかゴロ」というものが残されている。ゴロン族は名誉を尊ぶゆえ、勇者とはいえただの人間にあっけなく敗北したことを悔しく思い、負け惜しみを言ったのであろう。

 

 無論、ゴロン族にも戦士と呼ばれる者が存在する。戦士たちは巨大な体を持つゴロン族たちの中にあってもひと際優れた体格を持っている。戦士たちは日々鍛錬に励んでいる。鍛え上げられた武技と、人間が扱うには重すぎ大きすぎ大雑把すぎる岩砕きという大剣を駆使して、戦士たちはどんなに堅固な防御で身を固める敵であっても、その正面から粉砕する。

 

 戦士たちの任務はゴロンシティと鉱山を脅かす魔物たちを駆除することである。その姿勢は多分に専守防衛的と言える。彼らは敵が来れば攻撃し撃砕(げきさい)するが、敵を探し出し追い詰めて絶滅させるということはしない。

 

 ゴロンの戦士たちは、戦士同士でスモウをとるが、また武技と大剣を用いる模擬試合をも好む。いずれの場合も名誉に(かな)った戦い方が称賛され、汚い戦法をとる者は嘲られる。百年前のかのゴロンの英傑ダルケルは、スモウでも模擬試合でも常勝不敗であった。彼はどんな時でも名誉と礼を重んじる最高の戦士であったと伝えられている。今でも彼の勇姿はゴロンシティを囲む岩壁に彫られた巨大なレリーフに見ることができる。

 

 このように、ゴロン族は限りなく戦争に向いた種族でありながら、まったく戦争を好まなかった。そんな彼らではあったが、歴史書を仔細(しさい)に当たってみると、彼らが戦争へ参加した記録が確認できる。それは、もちろん彼ら自身が軍勢を興したのではなかった。ハイラル王国からの援軍要請を受けて彼らは参陣したのであった。だが、彼らのような種族からするとこれはもはや歴史上の一大事件と言っても良かった。

 

 その事件のあらましは、以下のとおりである。

 

 ある王の御世のこと、ハイラル王国に一大危機が出来(しゅったい)した。例によって魔物が軍勢を興したのであった。魔物の軍勢は、白銀のウロコに覆われた年老いたリザルフォスに率いられていた。魔物たちは、中央ハイラル北西部にある終焉の谷から突如湧いて出た。彼らはたちまちその西側に位置するハイラル丘陵と、北側に位置するマリッタの丘を制圧した。村々は焼かれ、作物は奪われ、人間たちは成す術もなく逃げ惑うばかりであった。

 

 代官からの急報を受けた王国は直ちに討伐軍を派遣した。マリッタの丘周辺は重要な穀倉地帯であったため、王国はそれを失うわけにはいかなかった。またその付近に位置するマリッタ交易所は、タバンタ、ヘブラの産物や、リト族からの輸入品を扱う重要な経済拠点であった。また、マリッタの丘は王城と城下町からは比較的近距離に位置していた。いわば、王国は喉元に匕首(あいくち)を突き付けられた形となったのであり、彼らが素早い反応を見せたのも当然であった。

 

 討伐軍の騎士たちは歩卒を率いて急行軍し、敵が体勢を整える前に鎧袖一触(がいしゅういっしょく)蹴散らしてしまおうと気負いこんだ。マリッタの丘は緩やかな丘陵地帯であり、馬の行動は容易で、騎士たちの得意とする乗馬突撃が最大限の効果を発揮し得る土地であった。

 

 伝説の厄災ならばいざ知らず、単なる魔物の群れならば簡単に片付くであろう……そのように考えていた騎士たちの前に立ちはだかったのは、なんとも信じがたいことに、城塞(じょうさい)だった。

 

 マリッタの丘に城塞が、妖気を纏って傲然(ごうぜん)(そび)え立っていた。その城は、(ほり)こそないものの、巨大な石垣と城壁を有していた。城壁には射撃用の胸壁まで設けられていた。その城は、無数の見張り塔を備えた正真正銘の城であった。魔物たちは手に手に武器を持ち、かがり火を煌々(こうこう)と燃やし、醜怪な意匠の軍旗を掲げていた。魔物の戦意は極めて高いようだった。

 

 かの地には城塞はおろか、廃城すらなかったはずである。ならば、あれは明らかに魔物が建てたものに違いない。それならばいつの間に、またどうやって、魔物たちはあのような城を建てることができたのだろうか? この短時間にあれだけの戦闘用建造物を用意するなど、知能低劣な魔物どもに可能なことなのだろうか? 騎士たちは議論をしたが、結論は出なかった。

 

 ともあれ、騎士たちはこの前代未聞の事態に(おく)することなく突っ込んでいった。歩卒たちは城壁へ向かって突撃し、城壁を()じ登った。魔物たちは矢玉を降り注ぎ、時には交易所から奪った爆弾矢すら撃ち下ろして、兵たちをまったく寄せ付けなかった。無念の屍が地面を覆い尽くした。そのような壮絶な状況の中、騎士たちも、城には必ずあるはずの城門を探して周囲を走り回った。城門さえ打ち破れば落城したも同然であるから、騎士たちがそうしたのは戦術常識としては当然だった。

 

 だが、騎士たちは愕然とした。城門がない! 巧妙に隠蔽されているのかと、矢玉が届く範囲にまで騎士たちは馬を進めて確認した。だが、城門はどこにも見当たらなかった。

 

 第一回目のハイリア王国軍による総攻撃は、結局、死傷者多数を出して失敗した。生き残りの騎士と兵たちは城から響いてくる魔物たちの凱歌を聞いた。彼らは屈辱と怒りに打ち震え、涙を流した。

 

 総攻撃失敗の報を受けて、王国は対応に本腰を入れることにした。しかしここに至って、ある事実が王国を苦しめることになった。それは、ハイラル王国軍に本格的な攻城戦の経験がまったくないということであった。王国は王権の象徴とも言えるハイラル城を始め、アッカレ地方の一大軍事拠点であるアッカレ砦など、各地に無数の城塞を有していた。だが、それらはもっぱら魔物の襲撃を防ぐためのものであり、人間同士の戦争に用いられたことはなかった。

 

 過去数百年の歴史においても、大がかりな攻城戦が行われたことはなかった。つまり当時のハイラル王国軍は、籠城側として攻め寄せる敵と戦う経験は多かれど、攻城側として城に籠る敵と戦う経験にまったく欠けていたのであった。特に、このような大規模な要塞と戦うという経験が、王国軍には明確に不足していた。

 

 攻城戦に必要な軍勢の適正規模、必要資材の調達と集積、攻撃陣地の選定と構築などといった問題から、より細かな戦術、戦法に至るまで、何もかもが彼らにとって未知であった。

 

 大臣と将軍たちは国王臨席のもと、連日連夜にわたって対策会議を開いた。しかし、その間に事態はまた動いた。

 

 なんと、魔物たちの城が移動し始めたのであった。伝令は、地響きを立て、無数の巨大な岩塊が列を成して行進するという、悪夢そのものの光景を伝えてきた。その報告を受けた将軍は「戦時における誤報は軍法により処罰する!」と叫んだ。しかしそれは事実であった。

 

 その城はマリッタの丘から移動し、終焉の谷に入り、ヒメガミ川西岸にまで達した。川を越えれば、そこは城下町近くの採石場であった。「魔物の軍勢、さらに王城に接近!」の報が知れ渡るや、住民たちはパニックを起こした。地方へ避難する者が続出し、街道は混雑を極めた。

 

 魔物の軍勢の長である老白銀リザルフォスは、まさに(いくさ)の天才だった。彼は移動城塞という驚天動地の戦法を考案し、それを実行したのであった。

 

 それは、ごく単純な方法を用いていた。魔物たちは城の素材して、イワロックとイシロックを用いたのであった。当時の終焉の谷には多数のイワロックが生息していた。王国はこれらをあえて刺激することを避けていたのだが、魔物はそれを有効活用した。魔物たちはイワロックが城壁となるように、また無数のイシロックが胸壁や塔となるように、それらを調教したのだった。ひとつの戦いが終われば、魔物たちはまたイワロックとイシロックを歩かせ、次の目的地でまた城塞として組み立てた。

 

 ある騎士はこの移動城塞に「リザルの動く城」と名付けた。

 

 このままでは、魔物たちはいずれヒメガミ川を渡河し、王国の心臓部へと到達するに違いないと思われた。イワロックとイシロックを組み合わせれば、橋を架けることは容易であった。王国側は魔物を阻止するため、再度攻撃を開始した。しかし、第二回、第三回の攻城戦も成果はまったくなかった。無数の屍が残され、魔物は前進を続けた。切り札として、王国は当時の最新兵器である大砲すら使用した。だが、砲弾はイワロックの体にごくわずかな凹みを残すだけで、まったく効果はなかった。それどころか、魔物たちは大砲に触発されたようにイワロックの新たな運用法を編み出し、一部を投石攻撃に転用するようになった。王国軍の損害はなおさら増えた。

 

 万策尽きた王国は、ここで起死回生の一手を打った。王国はデスマウンテンに使者を送り、ゴロン族に協力を求めたのであった。ハイラルにおいて、最も岩石に精通しているのはゴロン族である。岩石の魔物たるイワロックにも必ずや有効な手立てを講ずるに違いない。そのように王は考えたのであった。

 

 その当時のゴロン族の族長の名は、ダルマーニ五世といった。ダルマーニ五世は高潔な性格で、人情に篤かった。なにより、彼は優れた戦士だった。彼は王国の要請を受けるや、直ちに部隊を編成し、装備を整え、一路終焉の谷へと向かった。彼らはその時に初めて本格的な軍勢を興したのであるが、彼らは立派に軍隊を運用することができた。彼らは無事に戦地に到着した。

 

 そして、「リザルの動く城」にあっけなく最期の時が訪れた。ダルマーニ五世が率いるゴロン族は、彼らが鉱山採掘でいつもやっているように、まずは坑道を掘った。坑道を敵の城の地下にまで到達させると、彼らは大量の火薬樽を設置した。坑道作戦を進めるのと並行して、ゴロン族は長い距離を苦労して運んできた三門の新型砲を放列に敷いた。彼らは敵に向かって盛んに砲撃を浴びせかけた。イワロックの投石攻撃の射程の遥か彼方(かなた)から撃ち出される砲弾の雨は、イシロックでできた胸壁と塔を次々と撃砕した。そのたびに、それを見守るハイラル兵たちが歓声を上げた。その間もゴロン族たちは黙々と坑道を掘り進めた。

 

 季節外れの暴風雨で坑道が水没したり、一門の大砲が自爆したりといったアクシデントには見舞われたが、三週間後にはすべての準備が終わった。一斉に点火された地下の火薬樽は、大爆発と共に地上のイワロックたちを粉砕した。魔物の城塞は崩壊した。それと同時に、ハイラル王国軍の騎士と兵士たちが突撃を敢行した。イワロックの弱点はいまや剥き出しになっていた。弱点は次々に打ち砕かれ、イワロックは爆散して無数の鉱石を撒き散らした。戦闘はわずか半日で終了した。魔物は全滅した。魔物の軍勢の長である老リザルフォスは、ダルマーニ五世が自らの岩砕きで討ち取った。

 

 ある兵士は言った。「ついにリザルの動かない城になったな」 それを成し遂げたのは、明らかにゴロン族たちだった。

 

 ダルマーニ五世はゴロン族にあっては珍しく、戦術戦略の研究を日課としていた。彼は毎日丹念に戦史に当たった。そして彼は「ゴロン族が戦争状態に巻き込まれた際、最も有効に戦うことができるのは攻城戦である」と予め確信を得ていた。それが今回の勝因であった。

 

 このエピソードが示すように、攻城戦には入念な準備と、専門的な技術と、なにより膨大な資源と兵員が必要となる。講談や物語において「リザルの動く城」は雲つくような超巨大要塞であるとしばしば描写される。実際のところは、それはアッカレ砦などとは比べるべくもない、魔物が百匹ほど収容できるだけの中規模なものだったらしい。そんな城塞を攻め落とすのですら、ハイラル王国軍はこれだけの犠牲を払ったのだった。

 

「リザルの動く城」との戦いの後、ハイラル王国において「ゴロン族侮りがたし」という観念が生まれた。それは、一種の尊敬の念でもあった。それまでゴロン族は、鉱山採掘のみに従事するぼんやりとした種族として、少しばかり軽侮されていた。だが、この戦いを境にして、ゴロン族は攻城戦のエキスパートと見なされるようになった。ゴロン族は一躍ハイラル王国の対等な同盟者として、その地位を向上させたのであった。

 

 (いくさ)(えにし)となって、ゴロン族とハイラル王国との政治的、経済的関係は一層密度を増した。「厄災復活の兆しあり」とされ、王国が各地に協力者を求めた際、ゴロン族は即座に協力を申し出た。その理由も淵源を辿ればこの戦いに行きつくのである。

 

 大厄災後の世界においては、王城と城下町は無念なことに殺人兵器の大軍に支配されてしまった。各地の砦は崩れ落ち、魔物たちが居座っている。いくらゴロン族といえども、もはや攻城戦を行うことは不可能であろう。

 

 だが、城を攻め落とすことはできなくとも、城に忍び込むことは可能なはずである。忍び込むには高度な技術と、細心の注意と、なにものをも怖れぬ豪胆さが必要になる。しかし、それはたった一人で事足りる。あの、影に生きて影に死ぬイーガ団は、かつてしばしば王城に潜入して、数え切れぬほどの悪事を働いたものであった。

 

 イーガ団のように狡猾で、ゴロン族のように高潔な勇者は、いったいどこで眠っているのだろうか? その勇者が囚われの姫君を救出するその瞬間を、我々は今も待ち望んでいる。

 

 

☆☆☆

 

 

 日が暮れた。空からはしとしとと陰気な雨が降り注いでいた。視界は悪く、すぐ近くで雄大に広がるハイリア湖も見ることができなかった。

 

 バナーヌたちの戦いはまだ終わらなかった。いや、本来的なことを言うならば、彼女たちの戦いは始まったばかりであった。確かにバナーヌは行方不明だったテッポを見つけ出した。彼女はテッポを輸送馬車の車列まで送り届けた。彼女はまた、輸送馬車に必要な輓馬(ばんば)を高原の馬宿から連れてきた。しかし、そういった仕事はアクシデントによって生じた混乱を収拾するためのものであり、「バナナ輸送」という本来の任務はまだ始まってすらいないのだった。

 

 次なる戦いを終えることで、ようやく馬車の車列はカルサー谷へ向かって動き始めるだろう。バナーヌたちは、イーガ団員の生命の源、なにものにも代えがたい財宝、黄金よりも貴重な黄金の果実、ツルギバナナ一万本を、一刻も早く届けなければならなかった。総長のコーガ様はここ最近は毎日のように「バナナがマズい!」と駄々をこねており、それを(なだ)めるウカミの言葉はそろそろネタ切れに近づいていた。

 

 バナーヌの次なる戦いの地は、一見したところ単なる小高い丘であった。全体が岩に覆われているバルーメ平原の例に漏れず、その丘も暗い灰色の硬い岩石でできていた。その有様を例えるならば、焼きすぎて表面に無数の亀裂が入ってしまった固パンのようであった。

 

 見ようによっては、その丘は(とりで)のようにも思われた。丘の頂上からは亀裂が、すなわち細い通路が迷路のように四方に走っていた。通路はあたかも塹壕のようであった。通路の両側は岩壁で、どこも人が二人肩を並べて歩くことができないほど狭かった。主要な通路の一本は、丘の脇を通っている街道に通じていた。そこにはサンベとヒエタがいた。もう一本の通路は南の平原側に通じていた。そこにはバナーヌたち三人がいた。

 

 いや、その丘は「砦に思える」というものではなかった。事実、その丘は砦であった。魔物たちがこの丘を砦にしていた。彼らは丘へせっせと資材を運び込み、障害物を構築し、盾を並べていた。彼らは逆茂木(さかもぎ)を植え、射撃台を設け、落とし穴まで用意していた。

 

 その丘に名前はなかった。だがこの無名の丘は、無名でありながら古くから知られていた。古代シーカー族の著した兵要地誌(へいようちし)においては「城塞建設に適したる丘」と記されていた。ハイラル王国も、ハイリア湖一帯の開発を本格化させた際に、それと同様の見解を示していた。

 

 小高い丘からは湖を一望のもとに監視することができた。丘によって街道を完全に管制下に置くことが可能であった。ハイリア湖防衛の任に当たる水軍の司令部を設置する場所として、また、ハイリア大橋を防衛する軍事施設を構築する場所として、その丘はまさに理想的であった。加えて、非常時には丘は南岸の住民たちの避難所にもなり得た。

 

 このようなわけで、幾度もこの丘に本格的な砦を建設することが議論されてきた。特に、ハイリア大橋竣工後はその防衛の必要性が声高に叫ばれたため、丘に砦を建設することが真剣に検討された。一時(いちじ)は設計図まで作成されたという。

 

 だが、ここでも浮上してきたのが物質的な問題であった。それはつまるところルピーの問題であった。それを解決できなかったために、結局、計画は立ち消えとなってしまった。そもそも王国がハイリア湖にハイリア大橋を建設したのは、フィローネ草原開発という大目的のためであった。原野のまま手つかずの状態にあるフィローネ草原を開拓し、広大な農地として新たな穀倉地帯を創出する。ハイリア大橋は、開拓に必要な資材を輸送するためのいわば動脈として、また、新たに生み出されるであろう穀倉地帯から中央ハイラルへ穀物を輸送するためのいわば静脈として、建設されたのだった。

 

 そしてハイラル王国の国庫は、ハイリア大橋を建設した時点で空になっていた。丘に砦を建設するためのルピーは、緑ルピーひとつ分も残っていなかった。もともと、フィローネ草原の開発計画は壮大に過ぎた。当局者の間でもそれを巡っては賛否両論が渦巻いていた。はたして莫大なルピーを投入したとして、それに見合うだけの成果が得られるか? 大方の意見は否定的であった。

 

 それに加えて、もはや国政における恒例行事という観もするゾーラ川の大氾濫がまたもや発生した。予算は治水事業に配分されることになり、フィローネ草原開拓計画は無期限中止となってしまった。そういうわけで、「ハイリア湖の城」という夢は日差しを浴びた朝露のように消え去ってしまった。

 

 もし丘の砦が完成していたならば、それはハイラル有数の難攻不落の要塞となったに違いない。バルーメ平原の岩盤は砦に良質な基礎を提供したであろう。丘は大軍を展開しづらい立地であるから、もし包囲されても、湖の水軍と連携すれば、数ヶ月でも数年でも籠城を継続することができたであろう。アッカレ砦のように砲台を整備すれば、より攻撃的な拠点としても活用できたであろう。大厄災の後も、この丘は城塞マニアたちの間で密かな人気を博していたが、それはこのような理由からであった。

 

 

☆☆☆

 

 

 この丘の砦は、長らく幻のままだった。その幻を、不完全ながらも実際に築き上げたのは、一匹の白銀ボコブリンだった。

 

 その魔物は、以前はフィローネ海にほど近いテホタ湿地一帯に勢力を張っていた。彼には十匹ほどの仲間がいた。彼の群れは大して規模が大きくなかったが、外敵らしい外敵はいなかったためそれで問題はなかった。彼らは毎日、湿地で獲れる魚をたっぷり食べていた。彼らはまことに安逸(あんいつ)な、満ち足りた暮らしを謳歌していた。

 

 その状況が変わったのは、この一年以内のことであった。ある日、唐突にその白銀ボコブリンの縄張りに、侵入者が現れた。容貌魁偉(ようぼうかいい)な半人半獣のその侵入者は、彼が今までに見たことも想像したこともない強力な大剣と弓を持っていた。半人半獣の魔物は、己以外にはなにものも存在せぬとばかり、悠然と彼と彼の群れの縄張り内を闊歩(かっぽ)し始めた。

 

 その白銀ボコブリンは、一般的なボコブリンと比べて知恵があった。彼は考えた。他の群れに舐められないために、侵入者には戦いを挑むべきだ。しかし、自分たちの実力では、あの半人半獣の魔物には天地がひっくり返ったって勝てっこないだろう。ならば、ここは思いきって遠くに引っ越すべきだ。彼はそう判断した。彼は仲間を引き連れ、新天地を求めて放浪の旅に出た。

 

 旅の途中、彼はアラフラ平原を縄張りにする大きな群れから勧誘された。だが彼はそれを断った。小さくても、彼は群れのリーダーで居続けたかった。彼はやがて樹海を抜けてバルーメ平原に辿り着いた。そして、彼は小高い丘に拠点としての価値を認めた。それは魔物としては驚異的な頭脳であると言えた。彼は仲間と共に、ここを新たな縄張りとすることにした。

 

 彼と彼の群れが丘で暮らしているうちに、いろいろなことが起こった。リザルフォスの仲間が加わったり、近くにあったニンゲンの大きな建物が謎の大爆発を起こしたりした。赤い髪と褐色の肌の強そうなニンゲンのメスたちが大挙してやってきたり、それをやり過ごしたりした。概ね平和な日々だった。

 

 変わったことが起こったのは、その日の昼前のことだった。その日、彼らは(タコツボ)(こも)ったニンゲンのオスに向かって、からかい半分に矢を射掛けた。その後に、妙にひょろっとした一匹のボコブリンがどこかからやってきたのだった。

 

 その来訪者はなぜか白い服を着ていた。腰には長い刀をさげていた。そして、その顔は破滅的なまでにブサイクだった。あまりの怪しさに、彼は何度も鼻をフゴフゴと鳴らして確かめた。だが、微かにニンゲンのメスの匂いがするだけで、他に怪しい点はなかった。

 

 その来訪者は身振り手振りで伝えた。

 

「敵がここに攻め込もうとしている。備えなければならない」

 

 奇妙な迫力に気圧されて、彼は仲間たちを集めて防衛の準備に取り掛かった。必要な資材はいくらでも手に入った。このあいだ爆発したニンゲンの大きな建物から持ってくるだけで良かった。その建物が以前は「(みずうみ)研究所」と呼ばれていたとは、彼は知る由もなかった。

 

 日が暮れる前に準備は終わった。来訪者は色々と彼にアドバイスをしてくれた。アドバイスは依然として身振り手振りによるものだったが、彼はそれを理解することができた。来訪者は、彼だけではとても思いつかないような素晴らしい罠をたくさん考案した。彼は、たとえあの自分たちを追い出した半人半獣の魔物でも、この拠点に足を踏み入れたら生きては帰れないだろうと思った。ただ、美味しそうなバナナをたくさん罠に使うのには、彼は首を傾げた。来訪者は「きっとバナナが効果を発揮する」と言ったが、なぜバナナが罠になるのか、彼には理解できなかった。

 

 雨が降っていた。昼はあんなに晴れていたのに、空は彼らを裏切った。彼はそう思った。彼は雨が嫌いだった。ここに来るまでに、彼は仲間とともにずいぶんと冷たい雨に打たれたものだった。

 

 それでも、今の彼にはそれ以上に大きな楽しみがあった。

 

 鈴の音を転がしたような、可愛らしくも凛々しい女性の声がした。

 

「あーあ、どうしてこんなことに……」

 

 そう、最近手に入れたこの「オモチャ」で遊べば、陰鬱な気分も少しは和らぐというものだ。彼はそう思った。彼がそう思っている間にも、女性の声は続いた。

 

「里のみんなは、今頃何をしているのかなぁ……」

 

 その丘の頂上、彼の寝床があるところに、一つの木製の檻が置かれていた。檻の中には赤い影があった。彼はそれに近づいて、フゴフゴと舐めまわすように匂いを嗅いだ。

 

 檻の中の赤い影は悲鳴を上げた。

 

「うっ、うわっ! や、やめてください! 匂いを嗅がないで! (けが)らわしい!」

 

 このオモチャは、ニンゲンの言葉を話している。彼はじっくりとそれを観察した。このオモチャは、ニンゲンのメスのように胸が膨らんでいる。しかし、ニンゲンではない。肌が赤かったり白かったりして、頭と手足にはヒレがある。なにより、少し魚っぽいにおいがする。オモチャはなおも言葉を漏らした。

 

「うう……もう何日も水浴びをしてないわ……はやくゾーラの里に帰りたい……」

 

 彼は手を伸ばして、その鋭い爪でオモチャを()っついてみた。こうしてやると、このオモチャは必ず悲鳴を上げる。それがとても面白い。

 

 予想通り、オモチャは悲痛な叫び声を上げた。

 

「いっ、痛いっ!! やめてっ、やめてくださいっ!!」

 

 声による反抗を意にも介さず、彼はブヒブヒと愉悦の声を上げながらオモチャを(つつ)き続けた。オモチャは叫んだ。

 

「やめて! やめっ……あっ、もしかして、こちらの言葉が難しすぎて意味が伝わってないのかしら? それなら、じゃあ……ほ~ら、やめまちょうねぇ~、いたがってまちゅよ~、こわがってまちゅよ~、ただちにやめまちょうねぇ~……はぁ、とっとと地獄に堕ちてください……」

 

 だが彼は()めなかった。彼は(つつ)き続けた。

 

 彼はひとしきり遊んだ。最初は身を(よじ)って精一杯の抵抗を見せていたオモチャも、最後になるとへたり込んで動かなくなり、なにやらブツブツと呟くだけになった。

 

「……ああ、そもそも相手は魔物なんだから、こちらの言葉が通じるわけがなかったわ……それにしても、シド王子のご命令とはいえ、まさかこんなことになるなんて……たしか、果実栽培用の新型魚粉肥料に関する資料だったかしら……ていうかハイリア人って魚を肥料にするの……? 魚は食べ物でしょう常識的に考えて……せっかく届けに来たのに、(みずうみ)研究所は跡形もなくなってるし、挙句の果てにはボコブリンに捕まるし……こんなことになるのだったら、部屋にこもって議事録の整理でもしておくのだったわ……」

 

 その時だった。突如として、あの訪問者がそこに姿を現した。闇から突然飛び出てきたような、何の脈絡もない登場の仕方だった。白銀ボコブリンは驚いた。だが彼は、その次に訪問者が身振り手振りで伝えた内容を目にして、ニタリとした獰猛(どうもう)な笑みを浮かべた。

 

 敵が来た。侵入者だ。街道側から二人、平原側から三人来るらしい。オモチャで遊ぶのはまた後だ。今夜はもっと面白いことが待っている。今度こそ、絶対に侵入者に負けたりしない。必ず皆殺しにしてやる。

 

 白銀ボコブリンは得物(えもの)の竜骨ボコこん棒を手に取ると、バタバタと乱雑な足音を立ててその場を離れていった。後には檻に入ったオモチャだけが残された。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌ、テッポ、モモンジの三人はたっぷり三時間ほどの睡眠をとった。彼女たちはすっかり元気を取り戻していた。気力は充溢し、思考は冴え渡っていた。手に持つ武器は羽毛のように軽く感じられた。彼女たちの若き肉体は一切の音を立てず、しなやかに動き始めた。

 

 その時は日没の直後だった。だが、彼女たちが没する太陽へ惜別の情を述べることはできなかった。すでに黒雲が空を覆っていたからであった。

 

 薄暮奇襲(はくぼきしゅう)、それは隠密をこととするイーガ団員にとって、基礎的な戦術常識であった。暗殺する際も、隊列を襲撃する際も、建物に侵入する際も、イーガ団員は払暁(ふつぎょう)薄暮(はくぼ)かのいずれかの時間帯を念頭に置くものであった。人間でも魔物でも、太陽が支配する昼の世界と、月と星が支配する夜の世界が切り替わる時には、どうしようもなく精神が緩むものである。そのことをイーガ団員たちは知っていた。

 

 テッポが言った。

 

「でも、城攻めにも、はたして薄暮奇襲が通用するかしら」

 

 モモンジが疑問の声を発した。

 

「えっ? 城攻め? どういうことですか、テッポ殿? 城なんてどこにもないじゃないですか」

 

 テッポが呆れたような声を上げた。

 

「もうっ、モモンジったら! さっきの説明をちゃんと聞いてた? この丘は城みたいなものなのよ! ねっ、バナーヌ?」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「うん」

 

 偵察の結果から、この丘に魔物たちが手を加えて、ある程度の防御能力を付与していることが彼女たちには分かっていた。無論、彼女たちは中に入って直接それを確かめたわけではなかった。だが、魔物たちがせっせと丘へ物を運び、忙しく立ち働いて工事をしている様子は、外からでも見て取ることができた。

 

 テッポがそれまでの復習とでも言うようにモモンジを諭した。

 

「城とか要塞っていうものはね、攻め込む側に行動の自由を与えないように設計されているの。だから、私たちがあの切れ目のような細い通路に入るってことは、敵が意図する戦いを強要されて、その一方でこちらの意図はことごとく妨害されるってことなのよ」

 

 モモンジがポンと手を打った。彼女は言った。

 

「あー! だから通路には極力入らないで、壁登りで本丸(ほんまる)直撃をしようと言ってたんですね! でも、今は……」

 

 暗い夜空に浮かぶ雲から、際限もなく雨粒が落ちていた。雨は強くはなかったが、弱くもなかった。雨音が足音を掻き消し、気配を殺すという点では幸運ではあると言えたが、しかし別の点では不運であると言えた。

 

 天を仰いでモモンジが呟いた。

 

「うーん、テッポ殿のカンテンボーキが的中しましたね……雨が降ってるから、壁登りは無理そうです」

 

 そう言うなりモモンジは、目の前のほぼ垂直に近い岩壁に手をかけて、登攀(とうはん)を試みた。モモンジはほんの少しだけ上に行くことができた。だが、それから彼女はズルズルと下に落ちてしまった。

 

 モモンジは、ブルブルと犬のように首を振った。臙脂色(えんじいろ)の頭巾から雨水が飛び散った。彼女は言った。

 

「やっぱりダメですね、これじゃ壁は登れません。残念です……」

 

 長い黒髪を軽くかき上げつつ、テッポが言った。

 

「そうね……雨でなかったなら、この壁を三人で()じ登って、それで一気に丘の頂上に突入して、そこから順々に魔物共を皆殺しにできたんだけど……」

 

 バナーヌが短くテッポに尋ねた。

 

「テッポ、爆弾は使える?」

 

 いかにも残念そうな声音で、テッポはそれに答えた。

 

「いえ、無理ね。アラフラ平原の時と同じで、雨の時はどうしても爆弾の不発率が上がるのよ。それでも何発かは爆発するだろうから、いざとなったら不発覚悟で爆弾を何発も投げれば良いのかもしれないけど……でも、考えてみたら通路のような狭いところで爆弾なんて自殺行為だから、元からあまり問題ではなかったのかもしれないわ……」

 

 しばし沈黙が三人の間を満たした。ややあって、バナーヌは意を決したように言った。

 

「通路に入る。手筈(てはず)通りに」

 

 テッポが短くそれに補足した。

 

「先頭がバナーヌ。殿(しんがり)がモモンジ。真ん中は私ね」

 

 モモンジが風斬り刀の鞘を撫でながら、少し不満そうな色を浮かべて言った。

 

「別に、バナーヌ先輩じゃなくても、私が先頭でも良いんですが……」

 

 テッポはモモンジをやんわりと(なだ)めた。

 

「いえ、モモンジ。決してあなたを軽んじて言うわけじゃないけど、あなたには状況判断力が欠けているわ。突発的な事態が起こった時に先頭の人間が適切な指示を出さないと、三人とも一気に全滅するなんてことになりかねない。ここはいつも冷静沈着なバナーヌが適任なのよ。それに、あなたの風斬り刀は細い通路では取り回しが利かないし」

 

 それを聞いたモモンジは、気を取り直したように力強く答えた。

 

「そうですね……じゃあ、私は背後から忍び寄ってくるかもしれない魔物をばさーっと斬りつけてやります!」

 

 テッポは頷いた。

 

「そうよ、その意気だわ」

 

 そんな二人を静かに見ていたバナーヌが、おもむろに口を開いた。

 

「準備は良いか」

 

 ふふっと、モモンジの口から声が漏れた。どこか場違いな笑いだった。テッポが怪訝な表情をして言った。

 

「なに、モモンジ? どうしたの?」

 

 モモンジがいかにも面白そうに答えた。

 

「ふふ……いえ、あの、えーっとですね……夜に、しかも雨の中、敵の城に忍び込むなんて、なんだか物語みたいだなぁって。まるで『囚われのお姫様を救出しに行く勇者』みたいじゃないですか」

 

 予想外なまでにふにゃふにゃとしたモモンジの返答に、テッポが呆れの感情も隠さずに言った。

 

「もう、戦いを前にしているのに、あなたは何を言ってるのよ! それに、物語というならなら『城で惰眠を貪ってるにっくき姫を暗殺しに行く』ってところでしょ」

 

 二人の他愛のない会話に、バナーヌも幾分毒気を抜かれた。彼女は言った。

 

「……案外、本当に姫がいるかも」

 

 バナーヌらしくもないその低い呟きを、しかしテッポはよく聞き取れなかった。

 

「えっ? バナーヌなんて言ったの?」

 

 バナーヌは静かに首を左右に振った。

 

「なんでもない、行くぞ」

 

 雨が止む気配は一向になかった。

 

 三人は縦一列となって、細い通路に侵入した。入口には何も仕掛けが施されていなかった。その平凡そのものの有様が、魔物側の静かな挑発であるかのように彼女たちには感じられた。

 

 侵入し始めて、およそ三分が経過した。敵に気取られることを避けるため、誰も一言も発さなかった。聞こえるのは陰気な雨音だけだった。

 

 魔物の襲撃もなかった。侵入に気付かれていないのだろうか? この雨ならばそれも当然ではあるが……しかし、バナーヌはそう考えつつも胸中のどこかでひりつくような切迫感を覚えていた。

 

 それは、戦闘時に特有のあの緊張感とは違っていた。これは、胸騒ぎだ。彼女はそう思った。第六感とも言うらしい。この胸騒ぎのおかげで、自分はいつも危機を回避してきた。敵はすでにこちらの存在を察知している。そういうものとして今後は行動しなければならない。彼女は気を引き締めた。

 

 さらに十分が経過した。相変わらず通路は狭いままだった。どこにどう繋がっているのか、三人には見当もつかなかった。実に嫌な感じだった。警戒態勢をとりながら三人は黙々と歩き続けた。

 

 やがて、彼女たちは最初の罠に遭遇した。それは単純な落とし穴だった。バナーヌはすぐにそれを見破った。モモンジが刀の鞘で軽く突くと落とし穴の蓋が落ちた。穴の底には鋭い木の杭が何本も植えられていた。

 

 この程度の罠に引っかかるほうがどうかしている。しかし、まだ序の口だ。バナーヌはそう思った。彼女たちはさらに先へ進んだ。

 

 次に三人が目にしたのは、宝箱だった。少しだけ開けた空間に宝箱がポツンと一個だけ、無害さを装って安置されていた。宝箱は木製の小さなものだった。

 

 あからさまに怪しい。バナーヌは警戒した。しかし、こういう時は、宝箱以外に気を付けなければならない。宝箱はいわば囮で、本命の罠は別にある。そういうことが多い。バナーヌは距離をとって注意深く観察した。ほどなくして、彼女は宝箱から細い線が伸びていることに気付いた。線は両側の壁へと繋がっていた。彼女は慎重に近寄って、罠を解除した。宝箱を開けた瞬間に線が切れて、両側の壁に巧妙に隠されていたトゲ付き鉄球が頭部を直撃する仕組みになっていた。彼女たちは無言のまま、さらに奥へと進み始めた。

 

 異変が起きたのは、その三分後のことだった。

 

 通路の真ん中に、唐突に、何の脈絡もなく、ツルギバナナが置いてあった。

 

「ウッホ」

 

 バナーヌが突然、サルのような声を上げた。澄んだ美しい声で発される「ウッホ」は、奇妙なまでに明瞭に通路に響き渡った。

 

 バナーヌの背中に遮られて前方の状況が把握できないテッポは、小声でバナーヌに問いかけた。

 

「……ねぇ、バナーヌ? どうかしたの?……」

 

 モモンジも異常な事態に気付いて、小声で前にいる二人に話しかけた。

 

「……バナーヌ先輩、どうしたんですか? テッポ殿、何かあったんですか?……」

 

 そんなテッポとモモンジの声も聞かず、バナーヌは普段の氷のような凛々しさもどこへやら、ひょこひょことおどけたような足取りで、前方のバナナへ近づいていった。

 

 バナーヌは屈みこんでバナナを手に取った。彼女はその透き通るようなサファイアの瞳をキラキラと輝かせていた。()めつ(すが)めつして彼女はバナナを見た。うん、これは素晴らしいバナナだ。よく肥えていて、長くて、太くて、行儀よく五本が連なっている。美しいツルギバナナが、丸々一房もある……

 

 さっそく一本食べてみよう。彼女はそう思った。その瞬間、彼女の視界の端に、またしても黄色いものが見えた。彼女は声を上げた。

 

「ウッホ」

 

 通路の先、曲がり角の直前に、バナナがもう一房、雨に打たれて濡れていた。

 

 仕方がない、これを食べるのは後回しだ。可哀そうにあそこで冷たい雨に濡れているバナナを救出してあげなくてはならない。一刻も早く……バナーヌは手にしていたバナナをポーチにそっとしまった。

 

 バナーヌの後ろにいる二人は、なおも状況が掴めなかった。バナーヌの突然の奇行に、二人は戸惑うばかりだった。テッポが言った。

 

「……ちょっと、バナーヌ! 何があったの? 返事くらいしてよ!……」

 

 モモンジも声を上げた。

 

「……バナーヌ先輩? どうしたんですかバナーヌ先輩? うーん、聞こえてないみたい……」

 

 そんな二人の声も聞かず、バナーヌは普段の満月のような冷たさもどこへやら、ノチが見たら泣いて悲しむような足取りで、ふたつめのバナナへと近づいていった。彼女は声を上げた。

 

「ウッホ」

 

 そんなことが五回も続いた。バナーヌはバナナに導かれるままに、くねくねとした通路を進み続けた。テッポとモモンジはそれに付いていかざるを得なかった。

 

「ウッホ」

 

 これで六回目であった。通路は上り坂となっていた。坂の上には木箱が積み上げられていて、坂の中ほどにバナナが置いてあった。バナーヌは相変わらずサルのような声を上げると、奇妙な足取りでバナナへ向かった。

 

 テッポとモモンジは状況に慣れつつあった。気が緩んだ二人は雑談を始めた。モモンジが言った。

 

「テッポ殿、バナーヌ先輩は大丈夫なんですか? なんていうかこう、ちょっと普通じゃない感じですけど」

 

 テッポが答えた。

 

「あー、あれはね、カルサー谷出身のイーガ団員なら普通のことなのよ……私たちフィローネ支部の人間はバナナなんて見慣れてるから平気なんだけど、バナナに常に飢えてるカルサー谷の団員は、地面にバナナが落ちてたりしたら例外なく『ウッホ』ってなっちゃうらしいわ」

 

 モモンジは首を傾げた。

 

「例外なく、ですか? じゃあ、総長様は? 総長様も『ウッホ』ってなるんですか?」

 

 テッポも首を傾げた。

 

「うーん……総長様も『ウッホ』ってなるのかなぁ……総長様はどうか知らないけど、前に一度だけ、お父様が『ウッホ』ってなったのを私は見たことがあるわ」

 

 モモンジは言った。

 

「それじゃあ、テッポ殿は? テッポ殿もカルサー谷出身ですよね?」

 

 テッポは答えた。

 

「そうね、私の出身地はカルサー谷よ。でも私は『ウッホ』とはならないわね……フィローネに来てからたくさんバナナを食べたからかしら? バナナを見てもそんなに『ウッホ』って感じにはならないわね。マックスドリアンならいざ知らず……」

 

 緊張感の抜けた会話を二人は続けていた。そんな二人の前で、バナーヌは今や六個目のバナナをポーチに収めようと、それを持ち上げた。

 

 そのバナナには、一本の線が繋がっていた。ブツッという、嫌に耳に残る音を立てて線が切れた。

 

 音を聞いて、バナーヌはハッとなった。彼女は声を上げた。

 

「むっ!?」

 

 次の瞬間、バキバキッと破壊音がして、坂の上に積み上げられていた木箱の山が粉砕された。三人は同時に叫んだ。

 

「あっ」

「ああっ!」

「あああっ!」

 

 その奥から姿を現したのは、巨大な丸い岩石だった。岩石は木箱を破壊しつつ、通路の幅いっぱいに猛スピードで転がり落ちてきた。

 

 もう一回も瞬きもしない間に、岩石は三人を圧し潰すだろう。

 

 避ける場所は、どこにもなかった。




 イーガ団員はバナナに弱い。これは定説です。
 今回舞台となっているバルーメ平原の丘ですが、ここは原作だと湖の塔が立っているところです。話を書くに当たって何回も実地調査をしました。何度見ても「素晴らしい立地だなぁ」と思います。アッカレ砦もそうであるように、シーカータワーは防衛の要地に設置されていることが多いのかもしれません。
 原作における丘は実際のところ、今回書いたように広くもなければ迷路でもありません(まあ、入り組んではいるのですが……)。しかし、ところどころに防御用の盾や逆茂木が備え付けてあって、砦としての雰囲気は抜群です。ここはひとつ、小説的な脚色ということでご勘弁を願います。

※加筆修正しました。(2023/05/19/金)


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第四十七話 不死なる兵士は存在するのか?

 この世に不死なるものは存在しない。シーカー族のあの有名な問答、「生あるものは、必ず死す。形あるものは、必ず砕けん」を引くまでもなく、我々は不死という観念が単なる臆見( おっけん)に過ぎないことを、生きている間に遅かれ早かれ理解するものである。

 

 例えば、女神から直接その血を受け継いだかのように美しい女人(にょにん)がいて、「これほどまでの美と、完全性と、わけても永遠性を有している存在が他にあろうか」と思われても、歳月という現実はその女人を容赦なく襲う。次第に永遠性は消え果てて、白髪と、シワと、シミが彼女を覆う。数多の男を魅了したその声はしわがれて、湖水のように透き通っていたその瞳は白濁する。

 

 もしくは天才の手になる素晴らしい彫刻があって、それが「きっと一万年の長きにわたって、いや、この世が終わるまで、ずっと人々を魅了し続けるだろう」と思われるほどの作品であっても、しかしそれもいつか人々から忘れ去られ、風化し、欠けて、崩れ去る。彫刻は、あるいは地の奥底に埋もれ、あるいは魔物の拠点の礎石となってしまう。

 

 このことを理解せずに命知らずで無謀な行動をする者を、我々は狂人や愚か者と呼ぶ。ロクな装備なしに峻険な岩山に挑み、命綱なしで垂直の岩肌を登る者を、我々は勇気ある者とは言わない。そうではなく、その者は思慮がなく、無謀であり、狂っているという。その者が「自分はこの程度のことでは決して死なない、私は不死なのだから」と思い込んでいるのならば尚更である。単なる思い込みで命を懸けてしまう者は、成し遂げることがどれだけ偉大であっても、愚か者であるという(そし)りを免れない。

 

 だが、人は何事にも例外を設けたがるものである。不死の観念を抱く者は「例外なく」愚か者であると言ったその口で、別の者を「類稀なる者」として称賛するということを、我々人間は何の躊躇いも疑問もなくやってのける。

 

 我々が称賛するその者とは、兵士である。兵士の無謀は大胆であり、兵士の無思慮は勇敢であり、兵士の抱く不死の観念は狂気の産物ではなく、鍛えられた強靭なる精神のあらわれであると、我々は考えがちである。

 

 その兵士とて、兵士になりたての頃は我々となんら変わりない。恐怖と怯えと強がりがごたまぜになった、ちょっと押されれば脆くも崩れて去ってしまいそうな、そういう凡百(ぼんびゃく)な精神を新人の兵士は持っている。

 

 そのうち、初陣の時には震えていた彼の足も、場数を踏めば力強く地を踏み締めるようになる。恐怖に萎えていたその腕も、そのうち鋭い必殺の一撃を繰り出せるようになる。

 

 それは、彼が単に戦場という非日常的空間と、それが醸し出す異常な雰囲気に慣れたからではない。またそれは、彼が戦列を組み、盾を掲げ、槍と剣を振り回すことに熟達したからではない。そうではなくて、「俺は決して死なない」という不死の観念を抱くようになったからこそ、彼は戦えるようになったのだ。兵営にいて教育を受けていた頃には「戦場に出れば俺はすぐに死ぬ」と怯えていた精神は、浴びた血潮の生臭さと敵の肉と骨を斬る不気味な感触を数多く味わうことによって変容する。

 

 林立する敵の刃、驟雨(しゅうう)のように降り注ぐ矢弾……だが、それらのいずれも俺を殺すことはできなかった! そそりたつ城壁、小山のような砦、いずれも俺を傷つけることはできなかった! 狂猛なる魔物、ボコブリン、モリブリン、リザルフォス……なんのことがあろうか! ましてや鎧兜に身を固めた人間など、まったく取るに足らない存在だ!

 

 兵士は真っ先駆けて突っ込んで、喚き叫んで剣を振るい槍で突き、前へ前へと敵陣を突破する。やっぱり死なない! 今日も俺は死ななかった! そうだ、死ぬはずがない! なぜなら、こんなことで俺が死ぬはずがないのだから!

 

 兵士がこのように考えるのに、さしたる理由はない。偶然と偶然が組み合わさり、無数の「たまたま」が積み重なっただけのことを、人は特別に「奇跡」という名前で呼ぶ。兵士の考えていることはそれと似ている。隣にいる戦友が流れ矢で脳天を撃ち抜かれて戦死したり、敵の砦から落とされた大岩が自分の数センチ脇のところをかすめたり、不覚をとって敵に斬り殺されそうになったその瞬間に味方の助けが入ったり……これら全ては単なる偶然なのであるが、兵士はそれを己の不死性の証明であると考える。「女神様の奇跡が俺には備わっている」と彼は考える。

 

 かくして兵士たちは今日も明日も、これまでと同じように死へ向かって突撃する。それは本質的には命綱なしで岩山に登るのと同じである。それにもかかわらず、不可解にも我々は、その死への跳躍を羨望と感謝の念を持って眺めずにはいられない。

 

 しかしながら、兵士たちの不死性を木っ端微塵に粉砕するものもまた、この世には存在する。

 

 それは、罠である。

 

 たとえば落とし穴という罠がある。巧妙に地面に隠された悪魔の口は、何も知らぬ兵士を突然飲み込み、意地汚く咀嚼する。穴は垂直に深く掘られていて、底面には竹や木で出来た鋭い杭がギッシリと植えられている。落ちたら最後、華々しさとは対極の無惨な最期を遂げることになる。

 

 あるいは毒を含んだ井戸という罠がある。灼熱の太陽と炎熱の大気に焼かれ、疲れ果てて遠路を越えてきた兵士たちが、打ち捨てられた村に辿り着き、井戸を見つける。指揮官の制止も聞かず、兵士たちは群がり寄って井戸に集り、釣瓶(つるべ)を落として冷たい水を汲み上げ、思う存分に喉を潤す。至福の一時(いっとき)を兵士たちは味わう。彼らの全身に多幸感が行き渡る。だが、それも数分の間だけである。兵士たちは嘔吐し、痙攣して、呼吸が詰まる。毒は速やかに兵士たちの生命を肉体から剥ぎ取ってしまう。

 

 ハイラル王国の歴史において、罠が究極の進化を遂げた瞬間が存在した。それは地雷であった。

 

 それまでも火薬は、火砲や火攻めといった戦法に用いられていた。扱いに繊細さと慎重さを要するこの魔法の粉は、それまで戦闘の一局面においてのみ用いられていた。火薬は、危険であるには危険であるが、剣や矢が殺すほどには人を殺さない。そのように考えられていたので、火薬は戦場においては端役としての役割しか与えられてこなかった。つまり火薬は、添え物に過ぎなかった。

 

 そんな火薬を、地雷という無言の殺戮兵器に作り替えた者たちがいた。それは魔物ではなく、悲しいかなハイリア人であった。ハイリア人が同じ血を持つハイリア人を効率よく殺すために、火薬の新しい使い方を生み出したのだった。

 

 ある王の御代、アッカレ地方を治めていたある貴族が、身の程知らずにもハイラル制覇の野望を抱き、中央ハイラルへ侵攻する軍勢を興した。反乱軍は王国防衛の一大拠点たるアッカレ砦に殺到した。王国の討伐軍主力が到着するまでに砦を攻め落そうと、反乱軍は一ヶ月に渡って力攻(りきこう)した。

 

 結局、攻め落とすことは叶わなかった。逆包囲される危機が生じた反乱軍は、奥アッカレの渓谷地帯へと退却せざるを得なかった。ここに至って登場したのが、地雷だった。

 

 それまでにも反乱軍は火薬を用いた戦法を多用していた。現在見られる難攻不落そのもののアッカレ砦とは異なり、当時はそれほどの築城がなされていたわけではなかった。それでもその地が天然の要害だったこともあり、戦術的常識で言えばアッカレ砦攻略には数万単位の兵力が必要とされていた。反乱軍にそれだけの兵を集めることは到底不可能だった。

 

 反乱の首謀者にして指揮官たるその貴族は、兵力不足を火薬によって補おうとした。彼は秘密裏に火砲を調達し、また、ゴロン族から坑道掘削と爆薬製造の技術を取得して、新戦術によって不利を覆そうとした。

 

 誤算だったのは、その年の異常気象であった。雨の少ない時期を狙って侵攻した反乱軍であったが、季節外れの猛烈な雨に見舞われ、また激しい落雷にも悩まされて、彼らは火薬を有効に用いることができなかった。城攻めは失敗した。討伐軍の騎兵部隊に逆襲された反乱軍は、元の領地すら失って奥アッカレで持久戦を行わざるを得なくなった。

 

 奥アッカレに戦線が移動した頃には、天候は回復していた。反乱軍は森や谷にありとあらゆる罠を仕掛けて、討伐軍の来襲を待ち構えた。

 

 かくして、ハイラルの戦史において最も陰惨な戦いが始まった。そして、猛威を振るったのが地雷だった。

 

 戦後にハイラル王国が地雷製造に関するすべての記録を抹殺したため、今日の我々が参照できる情報は極端に少ない。だが、従軍した兵士の手記には地雷の記述がいくつか残されている。それらを総合すると地雷の構造は以下のようになる。

 

 初期の地雷は至極単純な構造をしていた。木製の箱を用意し、導火線を箱の蓋の裏側に取り付ける。人が蓋を踏むと、導火線が火薬に接して爆発する。製造コストは安く、設置にも手間はかからない。欠点だったのは、導火線を用いている以上、踏まれずともいつかは爆発するという点で、犠牲者を数多く出した討伐軍は、何時(いつ)ごろに地雷が設置されるかを入念な偵察によって調べ上げ、自然爆発を待ってから進軍するようになった。

 

 末期になると反乱軍は、新たな地雷を作り上げた。一度埋設すると、踏まれるまでは爆発しないという地雷であった。その新型の地雷は、貴重な出土品である古代の部品を発火機構に用いていたとも言われている。一発の単価は従来型よりも跳ね上がったが、その戦術的効果は甚大だった。

 

 新型が登場した頃には、反乱軍はドクロ岩に設けられた最後の拠点で絶望的な篭城戦を繰り広げていた。反乱軍は火砲と地雷を有効に用いて、その後一年間に渡って抗戦を続けた。最終的に首謀者が病死し、生き残りが投降したことによって戦闘は終結した。

 

 討伐軍のある兵士は以下のように書き残している。

 

「……私は兵士であることを誇りに思っていたし、それまで敵を恨んだこともなかった。同じ兵士として敵に敬意すら抱いていた。だが、この戦いを経て私は変わった。いや、私たち全員が変わった。地雷という卑劣な戦法を躊躇なく用いた敵を私たちは憎悪した。それと同時に、私たちは今まで()り所にしていた何かが失われたことを確かに感じていた。その失われた何かとは、『俺が戦場で死ぬことは決してない』という確信そのものであった。文学的に言うならば、それは不死の観念そのものだった。不死の観念を喪失した私たちは、恐れ、惑い、啜り泣きする矮小な存在になってしまった……」

 

 地雷がなぜ兵士の不死性を破壊したのか。それはまさに、地雷が偶然そのものだったからである。たとえ設置者が殺意と悪意のもとに罠を仕掛けたとしても、地雷そのものには殺意もなく、悪意もない。地雷はただそこに存在し、ただ傷つけ、ただ殺す。偶然という機会を得れば、地雷は感情もなく爆発する。

 

 兵士は、これまで無数の偶然を経験して生きてきた。己を生かし、功績を挙げさせてきたその偶然を、兵士は我が友とも思い、我が救いであるとも考えていた。どんな偶然も、結局はすべて俺に味方する。他の誰が偶然に殺されても、俺だけは偶然に愛されている。あたかも街一番の高慢な美女が、他の男にはつれなく冷淡な態度を見せていても、俺にだけは微笑むように……

 

 地雷は、その甘い思い込みを一変させた。地雷を踏んだ兵士は、ほかの何でもない、偶然によって殺されるのだった。俺は偶然を愛していたのに! 偶然は俺を愛してくれていたはずなのに! 友だったはずなのに! 俺は裏切られた! 無実なる俺は偶然に裏切られた!

 

 信じていたものが崩れ去る。愛されていたはずなのに、本当は愛されていなかったという現実が突き付けられる。抱いていた不死性はただの思い込みだった。己の脆弱な精神性をかろうじて弥縫(びほう)していた観念が転倒した。それは単なる肉体的な損傷よりも、著しく兵士を傷つける。兵士は絶望し、あるいは再起不能になる。

 

 己が不死であると信じていたからこそ、兵士は死の庭を歩き回ることができた。その信念を失えば、彼はもう二度と以前と同じように歩けない。兵士は精神的に廃兵(はいへい)となる。何も知らぬ者たちは、兵士が肉体的な痛みを恐れているからそうなったのだと思い込み、彼を非難する。地雷がなんだ、ただの罠ではないか! 痛みがなんだ、苦しみがなんだ! それは兵士の定めではないか! その非難こそ、人間の残酷さの極致である。

 

 この戦いの後、地雷はハイラルから姿を消した。地雷は戦術の邪道とされた。その記録がすべて抹殺されたのは前述のとおりである。その後もイーガ団がテロリズムとして地雷を用いることがあったが、それも数えるほどでしかなかった。当のイーガ団もアジト攻防戦に投入した形跡はない。王国の情報統制が奏功したのであろうか……?

 

 いや、そうではあるまい。おそらく、人々は理解したのだ。地雷が人間の肉体をどれだけ残酷に損壊するのか、またそれ以上に、どれだけ人間性を破滅へと追いやるのかを、人々は知ったに違いない。

 

 不死なる観念を持つことは罪ではない。それは生きる原動力であるともいえる。罪なのは「自分はこれからも生きていける」という希望を、問答無用に奪い去ることである。地雷はその罪の象徴だった。

 

 かくして、地雷という罠は消えた。だが、罠そのものは消えない。偶然を武器とする罠そのものは、今もなおこの世に存在する。

 

 それでも、兵士たちは歩むことをやめない。もはや偶然に愛されていないとは知りつつも、己は不死ではないと知りつつも、兵士たちは(うめ)きながら戦場へ赴く。彼らは罠を知り、罠を恐れ、それでもなお正面から罠を踏み破ろうとする。

 

 彼らはもはや兵士ではない。今や彼らはそれ以上の存在である。恐れを知りつつも恐れに立ち向かうもの、それを戦士という。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナナ輸送部隊の指揮官たるサンベの性格的な特徴としては、鬱屈、極端なまでの上昇志向、そしてなにより、強固な不死の観念が挙げられるだろう。

 

 彼はイーガ団員でありながら、イーガ団で生を受けたわけではなかった。彼はイーガ団に祖先を持たなかった。彼は捨て子だった。両親の顔も名前も彼は知らなかった。

 

 先代のフィローネ支部長が、ある任務の帰りに密林を歩いていたところ、朽ちた大木の中から小さな泣き声が漏れてくるのを聞いた。彼が見てみると、汚物と泥で茶色く汚れた産着に包まれた、生後数週間も経っていないと思われる赤子がいた。あまりにも赤子は醜かった。一瞬、先代はサルの赤子かと思った。

 

 ウオトリー村の人間が、望まれない子をフィローネの密林に「おかえしする」ということはよくある。この赤子もそのようなものだろうか? 先代は捨ておこうかとも思ったが、彼は直前の任務で多くの人間を殺し、生命の儚さを思い知っていたところでもあった。彼はその子を連れて帰って育てることにした。

 

 その子はサンベと名付けられた。サンベは時には病気も怪我もしたが、それ以上に元気よく健康に育った。サンベは、勉強はまったくできなかったが、戦闘技術は存分に習得した。十歳の頃に彼は初陣を迎えた。それ以降、彼は先代支部長の懐刀(ふところがたな)として幾度も戦闘に参加し、フィローネ支部に貢献した。

 

 ある時、サンベは、輸送馬車の護衛隊員としてカルサー谷へ行った。初めてサンベが見た本部は、豪華で、豊かで、華やかだった。今の総長である若かりし頃のコーガ様にも親しく声をかけられて、サンベはすっかり舞い上がってしまった。サンベはカルサー谷に憧れるようになった。彼は、カルサー谷のためには命を捨てても粉骨砕身努力しようと思った。

 

 彼の性格がねじ曲がってしまったのは、数々の不幸な事情が重なってしまったためだった。

 

 第一の不幸は、先代のフィローネ支部長が頓死(とんし)してしまったことである。

 

 サンベが成人してしばらく経った頃、カルサー谷は突如、フィローネ支部へ命令を発した。「フィローネ支部は部隊を編成して、カカリコ村へ奇襲攻撃を行え」と言うのである。密かにシーカー族の隠れ里に侵入して、族長の屋敷を焼き払う作戦だった。

 

 先代支部長は準備不足を理由に作戦を延期させようとした。だが、結局は押し切られる形で作戦は実施された。滅多にないことに、支部長が攻撃部隊を直接指揮することになった。サンベも作戦要員として選抜された。彼自身は無邪気にも成功を信じていたが、支部長の顔は暗かった。

 

 結果は、大失敗だった。準備不足ということもあったが、それ以上にシーカー族の迎撃が的確かつ効果的だった。里に近づく遥か前に攻撃部隊はシーカー族に捕捉された。彼らは散々に悩まされ、散々に討たれた。数多くの隊員が傷つき、倒れ、逃げ惑った。

 

 先代支部長も重傷を負った。サンベは先代を背負って逃げた。だが、ようやく一息つけるところに到達したところで、サンベは先代の息がとっくに絶えていることに気付いた。敗残という恥辱と、なにより育ての親である先代の死という深い悲しみを抱いて、サンベは泣きながらフィローネ支部に帰った。

 

 帰ってしばらく経った頃に、サンベは妙な(ウワサ)を聞いた。「この作戦は、もとよりカルサー谷は成功するなどと思っておらず、その主眼はフィローネ支部の勢力を削ぐことにあった」のだという。「情報も意図的にシーカー族側に漏らされていた」らしい。「本部で辣腕を振るう女幹部ウカミを中心としてこの陰謀は練られたらしい」とのことで、支部長は背後に渦巻く黒い意図を察知していた故に作戦延期を訴えていたが、カルサー谷への忠誠心を問われてしまってはどうしようもなく、破滅を知りながら自ら出陣したのだという。

 

 先代はカルサー谷に殺されたも同然だ。そう知ってサンベは、悲しみを憎悪に転化させた。いつかカルサー谷に復讐してやる。今は隠忍自重しつつフィローネ支部で力を蓄えて、将来はカルサー谷の本部に総長として君臨し、この陰謀の首謀者たちに然るべき報いを与えてやる。気の遠くなるような道のりだが、必ず成し遂げてやろう。それが亡き先代の望むことでもある……

 

 だが、もう一つの不幸が彼を襲った。それは、フィローネ支部で彼が孤立してしまったことである。そもそもイーガ団は実力主義を標榜(ひょうぼう)しておきながら、その(じつ)、血縁主義的な縁故重視の風潮もあり、イーガ団で生まれた者とそうでない者との間で明確な区別がなされていた。

 

 サンベは捨て子であったところを先代に拾われた。普通、単なる捨て子ならば一生下っ端のままか、下級幹部になるかがせいぜいのところであった。だが彼は、先代支部長という強力な後ろ盾を有していたために、早々(はやばや)と中級幹部に昇進していた。これを周囲の者は恨んだ。「サンベは実力もないのに分不相応な地位についている。先代支部長のお気に入りというだけで。なんとも生意気な奴だ……」というわけであった。

 

 サンベは、次第にフィローネ支部そのものに嫌気(いやけ)が差してきた。最初のうちは、彼も「負けてはならぬ」と修行と任務に明け暮れた。彼は、「自分はお前たちとは違って模範的なイーガ団員である!」と誇示するために、ツルギバナナを貪り食ったりもした。そのうち、どれだけ頑張っても功績は認められず、褒められもせず、尊敬もされないということに気づくと、彼は万事において手を抜くようになった。おまけに、彼はバナナの食べ過ぎでバナナジャンキーになってしまった。

 

 ダラダラと日々を過ごし、何事にも手を抜いておきながらも、サンベの上昇志向だけは消えなかった。彼はあらゆる任務に名乗りを挙げ、熱烈に参加を表明しつつ、だが任務そのものを誠実に果たそうとする努力は欠かすようになった。そんなわけだから、支部の中では「サンベの参加する作戦は(おおむ)ね失敗する」などという風評まで広まる始末だった。ますますサンベは孤立の度合いを深めた。

 

 このようなやる気のない態度で戦いの場に出れば、普通は数年も経たずして死ぬことになる。だが、サンベは強運に恵まれていた。そう、彼の三つめの不幸とは、運が強すぎることだった。思えば先代が戦死したあの作戦でも、彼は傷一つ負うことなく生還した。彼はその後も大きな負傷をすることなく、今日まで身を保っていた。杜撰(ずさん)な計画のもとに「なんとかなるだろ」という根拠なき思い込みをもって作戦に臨んでも、彼自身はなんら傷つかなかった。人間には一生の間に「傷つかねばならない瞬間」というものが必ず存在するが、彼はそれすらも叶わないのだった。

 

 そういうわけで、サンベは四つめの不幸を抱え込むことになった。それは、彼が頑固なまでの「不死の観念」を抱くようになったことだった。「何をやっても死なない、努力しようがしまいが関係ない。修行も学問も意味がない。俺はどうせ死なないのだから」 このような考えを持つに至って、彼は自己革新の機会を放棄してしまった。新たに赴任してきた幹部であるハッパが、「お前はもっと変わらなければならない」と言っても、サンベは余計なお世話だと(うと)ましく思った。むしろ彼は、ハッパを憎んだ。

 

 サンベという男について要約すれば、彼は、カルサー谷を恨んでいるがカルサー谷に君臨する夢を捨てきれず、フィローネ支部で孤立しながらもフィローネ支部から抜け出ることはできず、上昇志向を持ちつつもそのための努力はせず、「どうせ死なないから」と思っているゆえに自分を変えることすらしないという男であった。サンベの性格はまことに屈折していた。

 

「ウッホ……」

 

 そんなサンベは今、ハイリア湖南岸の小高い丘の中で、最大ともいえるような危機に直面していた。

 

 その日の午後、状況を打開するために何かをするでもなく、タコツボにこもってボンヤリとしていたサンベは、突然頭上から投げかけられた言葉に意識を覚醒させた。言葉の主はヒエタだった。

 

「指揮官殿、朗報ですぜ」

 

 ヒエタは話し始めた。聞けば、先ほど高原の馬宿の宿長ジューザが到着し、代替馬を連れてきたということだった。

 

 サンベは狂喜した。その朝まで腹痛に呻いていたとは思えぬほどの喜色を彼は示した。

 

「見ろ、やはり俺はツイている! 何もせずとも状況が勝手に好転するんだ、ガハハ! これも人徳(じんとく)ってやつだな、ガハハ!」

 

 サンベも内心、一時はどうなることかと思っていたのだが、彼はそれをおくびにも出さなかった。

 

 ヒエタはそれに反応せず、淡々と言葉を続けた。

 

「それで、話はそれだけではなくてですな……次の作戦について話がありまして……」

 

 次にヒエタから告げられたことに、サンベは露骨に眉をしかめた。それはあの金髪碧眼のカルサー谷の女団員、バナーヌからの伝言だった。伝言によれば、「薄暮を期してこの目の前にある丘を攻略する」とのことだった。バナーヌたちは別方向から攻撃するから、サンベたちも同時に出撃して欲しいとの要請であった。

 

 ヒエタは言った。

 

「テッポと、モモンジと、あのバナーヌが三人で南側から攻撃するそうです。俺たちも時間を合わせて丘に突入しろと、それがあの娘っ子たちからの注文でして」

 

 サンベは疑問の声を上げた。

 

「おい、ちょっと待て。三人だと? ヒコロクはどうした、ヒコロクは」

 

 ヒエタは答えた。

 

「あれ? 言いませんでしたっけ? ヒコロクの奴、アラフラ平原で重傷を負って戦線離脱だそうですよ」

 

 サンベは少しばかり狼狽(ろうばい)した。

 

「なっ、なんだと!?」

 

 ヒエタはなんということはないというふうに答えた。

 

「まあ、そんなに心配しなくてもいいですよ。命に別状はないらしいですから」

 

 サンベは憤然として言った。

 

「誰もヒコロクの心配なんてしてねぇぞ! まったく、ヒコロクは口ほどにもねぇな。使えねぇ野郎だ……それにしてもどうしたものか……」

 

 戦術的な常識からすれば、バナーヌの作戦計画は至極真っ当である。本来ならば断る理由などない……だが、サンベは渋った。魔物を恐れるわけではない。たしかにここ数日、あの丘の魔物は弓矢でこちらを大いに悩まし、馬を傷つけ、自分をタコツボに押し込めてしまった。

 

 それでも本気を出せば一掃することは容易い。今までは代替馬が手に入るか気を揉んでいたから動けなかっただけだ……考えつつ、サンベは言った。

 

「だが、あのバナナ女の言いなりで動くってのがどうにも気に入らねぇんだよな……」

 

 カルサー谷の、それも下っ端の言うことなど聞けるか。仮にこの作戦が成功したとしても、アイツの手柄になってしまっては業腹(ごうはら)だ。サンベはそう思った。

 

 渋るサンベにヒエタが言った。

 

「しかし、指揮官殿、いつまでもここでウダウダとしてるわけにもいきませんぜ。遅延はそろそろ許されないくらいになってます。積んでるバナナだって青から黄色に()れちまう。バナナが甘い香りを発するようになったら道中で魔物が寄ってきますぜ。それにカルサー谷の連中に難癖をつけられたら、もう言い逃れはできませんぜ。なんせ前回の輸送は大失敗してるし、おまけに(みずうみ)研究所の襲撃も……」

 

 サンベは叫んだ。

 

「うるせぇな、(みずうみ)研究所襲撃は関係ないだろ!」

 

 ヒエタはわざとらしく手で口をおさえた。

 

「おっと、口が滑りました。とにかく、ここは発案者が誰であれ、とっとと目の前の丘を攻略して魔物を排除しないといけませんぜ。それに、指揮官殿が丘の頂上に真っ先に辿り着いたら、貢献度だって第一ってことになりませんか? いくら娘っ子共が強いと言っても所詮は女ですから。指揮官殿が本気を出せば及ぶところではないでしょ」

 

 サンベは少し唸った。

 

「うむ……そうかな。そうかも……」

 

 ヒエタは言った。

 

「それに、俺も指揮官殿と一緒に行きますし」

 

 サンベはまた大きな声を上げた。

 

「当たり前だ! 指揮官だけを戦わせるイーガ団員がどこにいる……! よし、決めたぞ! 薄暮を期して丘を攻撃する! 魔物共は皆殺しだ! ヒエタ、俺の武器を磨いておけよ!」

 

 ヒエタは言った。

 

「はいはい。そんで、指揮官殿はこれから日没まで何をするんです? 偵察はしますか?」

 

 サンベは答えた。

 

「俺は英気を養うために少し寝る! ヒエタ、お前が偵察に行ってこい!」

 

 ヒエタは露骨に嫌そうな声を上げた。

 

「ええー……」

 

 そんなこんなでサンベはたっぷりと昼寝をした。日没頃に、彼はヒエタを引き連れて出陣した。その手にはピカピカに磨かれた鬼円刃とエレキロッドがあった。(まげ)()い直されてピンと垂直に立っていた。

 

 三人の馭者(ぎょしゃ)たちはどこか気の抜けた声援を送った。

 

「頑張れー、ご武運をー」

「胃腸薬は飲みましたかー。もし腹を下したら、その時はヒエタに頼るんですよー」

「ちゃっちゃっと終えて帰ってきてくださいよー。うちらは指揮官たちがいないと丸裸なんですからねー」

 

 サンベとヒエタは丘に侵入した。折からの雨でサンベたちの行動は秘匿されていた。街道側の射撃台にいた魔物たちも、ちょうど交代の時間だったのか一匹も姿を見せなかった。ヒエタは「魔物がいないというこの機会を活かして、馬車を出してしまえば?」と提案した。だが、サンベは言下(げんか)にそれを否定した。一度決めたことを変更するのは疲れる。ただそれだけの理由だった。

 

 通路は狭く、人が横に並んで歩けるだけの幅はなかった。要所要所に盾が置かれており、逆茂木(さかもぎ)が植えられていた。落とし穴すら掘られていた。それでもサンベたちはそれらを一つ一つ着実に乗り越えて、丘の中心部へと進んでいった。

 

 ヒエタが言った。

 

「魔物ども、ずいぶんと手が込んでますな。一丁前に罠まで仕掛けてやがるし……それにしても、姿を一切見せないのが不気味だ。指揮官殿はどう思いますか?」

 

 サンベが答えた。

 

「そんなこと、知るかよ。ちょっと知恵のある奴がいるだけだろ。それともまさか、ヒエタお前、ビビってるのか?」

 

 ヒエタが言った。

 

「ビビっちゃいませんがね、なんかこう、誘い込まれてるような気はしますね」

 

 サンベが大きな声を出した。

 

「それをビビってるって言うんだよ! まったく、どうして俺の部下はみんなこう使えねえ奴ばかりなんだ……」

 

 侵入してから数十分後、予想外の出来事が起こった。三叉路(さんさろ)に来たところで、二人の間に突然大岩が落とされた。彼らは分断されてしまった。

 

 サンベは甲高い声を張り上げた。

 

「おい、ヒエタ! くたばってねえだろうな!?」

 

 ヒエタの声はいつも通りだった。

 

「大丈夫ですよ、なんともないです……あっ、コラ、やめろ! 畜生、敵が出てきた! 応戦します! 指揮官殿は俺に構わず先に進んでください!」

 

 岩の向こうからボコブリンの醜悪な鳴き声と、剣戟(けんげき)の音が聞こえてきた。どうやら二人は敵の罠にハマったようだった。だが、この程度のことで討ち取られるような間抜けなイーガ団員はいない。サンベは呟いた。

 

「まあ、ヒエタなら大丈夫だろ、たぶん」

 

 あっさりとサンベはヒエタを捨て置き、先に進むことにした。どうせ後から追いついてくるだろうし、それにグズグズしていたら女どもに先を越されてしまう。特にあの小娘のテッポに先んじられるわけにはいかない……彼は通路を進んだ。

 

 すると、彼の目の前の地面に黄色いバナナがポツンと落ちていた。

 

「ウッホ……」

 

 サンベは思わずサルのような声を上げた。のみならず、彼はウキウキとした足取りでそれに近づいていった。

 

 フィローネではバナナなどはありふれていて、普通の支部の人間ならば間違ってもバナナを見て「ウッホ」などとは言わない。しかし、サンベはバナナジャンキーであった。

 

「ウッホ」

「ウホッ」

「ウホホッ」

 

 バナナは数メートルおきに置かれていた。明らかに何者かによって誘導されているのに、サンベはそれに気付かなかった。

 

 そして、彼が上り坂の頂上に置かれたバナナに近づき、手を伸ばそうとした、その瞬間だった。

 

 反対側の斜面に、妙な人間がいた。その者は白いシーカー族の忍び装束を身に纏っていて、ボコブリンの顔を模した不格好なマスクを頭に被っていた。

 

 その人間は、坂の頂上に姿を現したサンベに向かって、何かを横薙ぎに振るった。

 

 サンベの口から言葉が漏れた。

 

「ウッホ……なに!?」

 

 その何かは、雨に濡れた鈍色(にびいろ)も鮮やかな野太刀(のだち)だった。それがサンベの首筋に到達するまでに、あと半秒といったところだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 バキバキッと破壊音がして、坂の上に積み上げられていた木箱の山が粉砕された。バナーヌ、テッポ、モモンジの三人は、三者三様の叫び声を上げた。

 

「あっ」

「ああっ!」

「あああっ!!」

 

 奥から姿を現したのは、巨大な丸い岩石だった。岩石は猛スピードで転がり落ちてきた。もう一回も瞬きもしない間に、岩石は三人を圧し潰すだろうと思われた。

 

 しかしバナーヌは慌てなかった。

 

「ふんっ!」

 

 バナーヌは瞬時にパワーブレスレットとヘビーブーツを装備すると、突進してくる岩を真正面から止めた。

 

 目を瞑っていたテッポは、おそるおそる目を開けた。彼女は自分たちが無事であることに気がつくと、放心したように言葉を漏らした。

 

「た、助かった……ていうか、バナーヌ!? あなたどうやって岩を止めたの!?」

 

 モモンジも驚きの声を上げた。

 

「ふええ……死ぬかと思った……ていうかバナーヌ先輩って怪力なんですねぇ……まさか岩を受け止めるなんて。あ、もしかしてあれですか!? バナーヌ先輩には伝説のゴリラパワーが備わってたりするんですか!? 禁じられた力のゴリラパワー!」

 

 そういえば、二人にはまだパワーブレスレットとヘビーブーツを見せていなかった。だが、バナーヌは説明しなかった。

 

「待って、話は後で」

 

 正直、彼女としてもモモンジのゴリラパワー云々には反論したいところだった。だが、今はやるべきことがあった。岩は雨で濡れていたが、持ち上げられないほどではなかった。バナーヌは手と腕に力を込めると、それがあたかも空の大樽であるかのようにヒョイっと持ち上げた。

 

「ブキッ?」

 

 持ち上げた巨岩の先には、竜骨ボコ槍を構えた青ボコブリンがいた。

 

「あっ」

 

 一瞬の間、沈黙があった。その後に響いたのは、魔物の叫喚だった。

 

「ブキィイイ!」

 

 巨岩を受け止め、持ち上げるというバナーヌの予期せぬ行動に驚いたのか、はじめボコブリンは頭の上に「?」を浮かべて困惑する様子を見せていた。だが魔物はすぐに気を取り直し、一直線に勢いよく、その得物(えもの)の槍をバナーヌの胸に向かって()き出してきた。

 

 岩を抱えているバナーヌは一切身動きができなかった。それを救ったのはテッポだった。

 

「危ない!」

 

 テッポはバナーヌの股下(またした)を素早く潜り抜けて前に躍り出ると、手にした首刈り刀で槍の軌道を()らせた。バナーヌがテッポに声をかけた。

 

「テッポ! ありがとう」

 

 テッポは言った。

 

「バナーヌ、ここは私に任せて! ていうかバナーヌは何もしないで! もしあなたが岩を落っことしたら、私死んじゃうから!」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「分かった」

 

 テッポは言葉を繰り返した。

 

「いい? 落とさないでね!? 絶対に落とさないでね!?」

 

 バナーヌはまた頷いた。

 

「大丈夫、落とさないから」

 

 その時、後方でも声が上がった。それはモモンジだった。

 

「テッポ殿、バナーヌ先輩! 後ろからも敵が来ました! 私が迎撃します!」

 

 直後に魔物の叫び声が響いた。どうやら、三匹か四匹はいるようだ。バナーヌはそう推定した。

 

 それにしても、魔物のくせに凝った作戦を組み立てたものだ。バナーヌは内心で舌打ちした。魔物も時には作戦らしきものにのっとって戦闘行動をとることがある。ボコブリンが二匹一組になり、一方が囮になって他方が主攻を担当するとか、モリブリンがボコブリンを投げて距離を急速に詰めたりだとか、リザルフォスが退却するフリをして得意の水場に誘い込んだりだとか……そういう作戦をとることはある。

 

 だが、このような二段構えの作戦は今まで体験したことも聞いたこともない。バナナで釣り、岩を転がす。それだけで必殺の威力があるのにも関わらず、なお受け止められるという事態すらも見越して、前後に兵力を配置しておく……

 

 バナーヌは、この魔物の作戦になんらかの違和感を感じた。()()()()()()。魔物に特有の、あの異常なまでの殺意や憎悪は、いわば荒削りの不格好なもので、威力は高いが洗練さはない。それに比べて、この罠は実によく考えられている。考えられているということは、つまり、()()()()()()()()()()。論理的な思考力を持たぬ魔物ではこうはいかない。

 

 まさか魔物の背後に人間がいるのか? その考えに至った時、バナーヌの脳髄は一つの推定を導き出した。あの、アラフラ平原でモモンジとヒコロクを襲ったという謎のシーカー族、顔にボコブリンのマスクを被っていたという、あの謎の人間、それがこの丘にもいて、魔物を手引きしているのだろうか……?

 

 あり得ない話ではない。バナーヌはそう思った。距離的にも時間的にも、アラフラ平原からこちらへ移動してくるのは、途中で昼休みを少し挟んでのんびりと歩いたとしても間に合う。魔物を殲滅したあの戦いを、例の謎の人間がじっくりと見ていたとしても、迅速に移動すれば問題はない。

 

 しかし、そんなことよりも気になるのは、このバナナを用いた罠だ。バナーヌは考え続けた。そういえば、モモンジがアラフラ平原で対峙した時も、謎の人間はツルギバナナを投げつけて気を()らせそうとしたらしい。もし、その謎の人間が正真正銘のシーカー族であるならば、イーガ団の弱点がバナナであるとは当然承知しているであろうから、そのような手段を用いても不思議ではない。だが、それにしてもこの丘でのバナナはどういうことだろう?

 

 知識として「イーガ団がバナナに弱い」ということを知っているだけで、はたしてこのような罠を構築できるだろうか? 実感としてバナナの持つ魔力を知っていなければ、イーガ団員をバナナを用いた罠にかけることなど不可能なのではないか?

 

 まさか? その時、バナーヌの脳裏に閃くものがあった。いや、そんなはずはない。このハイラルの大地でバナナを知っているのはイーガ団員以外にはあり得ないとしても、まさか「イーガ団員がイーガ団員を罠にハメる」など、そのようなことがあってはならない。

 

 ましてや、あの人が?

 

 そう思いつつ、バナーヌはある人物の顔を思い浮かべていた。その人物の顔には、右頬から首筋にかけて醜い傷跡が走っていた。あの娘は、寂しそうな、しかし時折見せるはにかんだような笑顔が印象的だった。個人的な幸せよりも、他者の幸せを達成するためにこそ自身は存在しているとでも言うかのような、危ういひたむきさをあの娘は持っていた。厳しい養成訓練の最中、あの少女と自分は肩を貸しあった……

 

 彼女は、不思議にも魔物と心を通わせることができた。彼女は自分と同じようにイーガ団に血筋(ちすじ)的な繋がりを持たないながらも、その異能ゆえに上層部に見出された。一介のパシリの地位に甘んじている自分とは違って、彼女は今、数々の重要な任務に就いているらしい。まさか、彼女がこの罠を設けたというのか……?

 

 バナーヌは首を振った。そんなはずはない、そんなはずはない! イーガ団は家族、イーガ団は兄弟姉妹。互いに頼り、互いに助け合い、互いに支え合う。だからこそ今まで生き延びてくることができたのだ。それなのに、イーガ団員が同じイーガ団員を陥れるなど、あってはならないことだ!

 

 バナーヌの思考は次第に拡散し、集中力はまとまりを欠いていった。そんなバナーヌを余所(よそ)に、テッポとモモンジの戦いはそれぞれ苛烈を極めていた。

 

 モモンジが声を上げた。

 

「……よし、まず一匹! テッポ殿、そちらは大丈夫ですか!?」

 

 テッポは答えた。

 

「大丈夫よ、モモンジ。こっちはなんとかなってるわ……あっ!……くっ、なかなかやるわね……」

 

 後方にいるモモンジは複数の敵を相手にしていた。彼女が対峙しているのは三匹のボコブリンだった。魔物の手には兵士の剣やこん棒があった。いずれも赤や青色の、取るに足らない実力の魔物たちであった。だが、この狭い通路ではなかなか危険な相手といえた。

 

 モモンジは呻いた。

 

「くっ、この通路は狭いから……風斬り刀だと戦いづらいっ……!」

 

 モモンジの得物は長大な風斬り刀であった。彼女は決して魔物に(おく)れを取ることはないが、しかしこの隘路では、満足に刀を振るって戦うことはできなかった。

 

 意のままに刀を振るうことのできないモモンジを見て、魔物たちは(かさ)にかかって攻勢を強めた。

 

 そんな魔物たちを見て、モモンジは頭に血が上った。彼女は叫んだ。

 

「ああーーっ!! もう、じれったい!!」

 

 幸いなのは、敵が通路に沿って縦一列に並んでいることだった。モモンジは風斬り刀を構えて呼吸を整えると、一つ大きな気合いの叫びを上げて、機を見て一気に敵に向かって突撃した。

 

「おりゃああーーっ!!」

 

 イノシシの突進もかくやというほどの、目にも止まらぬ強烈な一撃だった。魔物たちは断末魔の悲鳴を連続させた。三匹のボコブリンはモモンジの力づくの突進攻撃を受けて、出来の悪いキノコの串焼きのように、各々が中心部を串刺しにされた。数秒も経たずして、魔物たちは肝や牙や爪を残し、黒ずんで風化していった。

 

 モモンジは勝ち誇ったように言った。

 

「魔物どもめ、思い知ったか! 密林仮面剣法伝承者を(あなど)るからよ!」

 

 後方の危険は取り除かれた。だが、前方においてはいまだに激戦が続いていた。

 

 テッポは幼い手には余るほどの首刈り刀を器用に操って、前方の青ボコブリンと対等に渡り合っていた。彼女は叫んでいた。

 

「このっ! いい加減にくたばりやがりなさいっ!」

 

 テッポは敵の槍を、あるいは払い、あるいは()らしていた。ボコブリンの武器は槍であった。狭い通路では槍を横に振ることはできない。魔物はもっぱら突きに頼ることしかできなかった。

 

 それが体格的に劣るテッポに幸いした。テッポはスキを見て一気に間合いを詰めると、そのままの勢いで対戦者たるボコブリンの首を跳ねた。

 

「トドメっ!」

 

 魔物が声にならない声を上げた。

 

「ブッ!?……ブッ……グ……」

 

 筋力の少ないテッポでは、完全に敵の胴体と頭部を切り離すことはできなかった。それでも彼女は、敵の首筋の半ば以上まで斬ることができた。青ボコブリンはブクブクと口から青紫色の体液を吐き出し、数秒後には黒く風化していった。

 

 テッポは胸をなでおろした。彼女は言った。

 

「よし、これで片付いた……って、危ない!?」

 

 一つの勝利を得たテッポは、しかし安心する間もなく次なる敵の一撃を避けねばならなかった。振るわれた一撃を、テッポは間一髪のところで回避した。斬られた彼女の髪の毛の先が宙に舞った。

 

 青ボコブリンの後ろに控えていたのは、黒いリザルフォスだった。その手には三叉(みつまた)のリザルブーメランがあった。魔物の眼は怒りと憎しみで真っ赤に燃えていた。その体からは音を立てて、夜目にも鮮やかなほどの白い湯気が立っていた。魔物の戦意はこれ以上ないというほどに燃え(たぎ)っているようだった。

 

 テッポは独り言ちた。

 

「新手か……厄介ね……」

 

 しばらく睨み合いが続いた。魔物は目でテッポを威圧してきた。だが、テッポも負けてはいなかった。テッポは叫んだ。

 

「このっ……舐めんじゃないわよ!!」

 

 テッポは臆さずに距離を詰めて、果敢にも接近戦を挑んだ。打ち合い、受けて、避けて、テッポと黒リザルフォスは決死の戦いを繰り広げた。だが、それも数分の間だった。いくら戦意旺盛とはいえ、幼いテッポの有する体力には限界があった。魔物のスタミナ(がんばり)は無尽蔵であり、いつまでも正面から打ち合いを続けることはできなかった。目に見えてテッポの動きが鈍ってきた。

 

 バナーヌはその危険な兆候を見逃さなかった。彼女はテッポに鋭い声を上げた。

 

「テッポ、下がれ!」

 

 このまま戦ったら、テッポはやられてしまう。その前に手を打たねばならない。そのバナーヌの意図を、テッポは正確に察した。彼女は答えた。

 

「了解!」

 

 軽やかなバックステップを打って、バナーヌの真正面へとテッポは後退した。次の瞬間、それまで彼女がいた場所に三叉リザルブーメランが振るわれていた。後退が遅れていたら、テッポは深傷(ふかで)を負っていたかもしれなかった。

 

 テッポは肩で息をしていた。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 これまでの数日間で濃密な戦闘経験を積んだとはいえ、テッポが魔物を相手にして一対一で打ち合いをし、勝利するには、まだまだ歳月が必要なようだった。

 

 下げさせて良かった。そのように思うバナーヌに、突如閃くものがあった。バナーヌは叫ぶように言った。

 

「テッポ、私の下に入れ!」

 

 テッポは答えた。

 

「分かった!」

 

 テッポは素早くバナーヌの股下に潜り込んだ。それは小柄な彼女ならではだった。モモンジならばこうはいかないだろう。

 

 それを見逃す黒リザルフォスではなかった。魔物は一声叫ぶと、三叉ブーメランの白刃をきらめかせ、岩を頭上に掲げたまま動かないバナーヌへ向かって急速に距離を詰めてきた。

 

 バナーヌは、魔物がそうするのを待っていた。

 

「ふんっ!」

 

 バナーヌは、持ち上げていた巨岩を無造作に下ろした。黒リザルフォスはそれを避ける間もなく、「グゲッ」と鳴き声を上げて、岩の下敷きになった。

 

 岩の下から魔物の体液がじわりと(にじ)み出てきた。それを見たテッポは、バナーヌの股下で(うずくま)りながら、ホッとしたように言った。

 

「終わったわね……」

 

 バナーヌも一息ついた。

 

「うん……む?」

 

 岩の下から飛び出ているリザルフォスの手が、ピクピクとわずかに動いていることに、バナーヌは気がついた。

 

「トドメだ」

 

 バナーヌは再度岩を持ち上げると、またそれを元の場所に戻した。ズシンズシンと音を立てて、彼女はそれを二回繰り返した。魔物の腕が黒く風化するのを見届けた後、ようやく彼女は一連の動作を終了した。

 

 後ろで見ていたモモンジが感心したような、呆れたような口調で言った。

「うっわ……バナーヌ先輩ったらパワフルですね……やっぱり、禁断のゴリラパワーなのかな……」

 

 テッポも言葉を発した。

 

「相変わらず、バナーヌは魔物相手には容赦しないわね……ともあれ、これで一段落かしら……?」

 

 バナーヌは一際(ひときわ)力を入れると、持っていた巨岩を通路の外へ投げ飛ばした。

 

 三人は少し休憩してから、また暗くて狭い通路を進み始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌは静かに口を開いた。

 

「はじめに断っておくが、あれはゴリラパワーではない」

 

 モモンジが驚いたような声を上げた。

 

「えっ!? ゴリラパワーじゃないんですか!?」

 

 テッポが言った。

 

「それはそうでしょう。モモンジったら、何を考えていたの? ゴリラパワーなんてあり得ないじゃない」

 

 モモンジが答えた。

 

「だって、あんなに大きな岩を正面から受け止めたのですから、それはもうバナーヌ先輩が、あの『フィローネの森に棲む伝説の聖獣ゴリラ』のゴリラパワーを授かってるとしか考えられなくて……」

 

 テッポが呆れたように言った。

 

「え、嘘っ!? あなた、もしかしてあのゴリラの伝説を信じてたの!? あの話って、どこかの旅行作家が捏造したものらしいわよ。前にお父様からそう聞いたわ」

 

 モモンジが大きな声で言った。

 

「ええーっ!? あれ、ウソ話だったんですか!? うぅ、なんだか、すごくショックなんですけど……ゴリラ……ゴリラパワー……信じてたのに……」

 

 バナーヌがまた口を開いた。

 

「……話を進めるぞ」

 

 暗い通路をなお進みつつ、バナーヌは言葉少なに、テッポとモモンジに自分の不思議アイテムについて説明をした。

 

「……パワーブレスレットとヘビーブーツ。あと疾風のブーメラン。それが私の持つアイテム」

 

 モモンジがいかにも感心したような声を上げた。

 

「へぇー、バナーヌ先輩って不思議なものをたくさん持ってるんですねぇ。私、そんなものがあるなんてこれまで聞いたことすらなかったです」

 

 二人の会話を聞いていたテッポは、髪をかき上げつつ言った。

 

「まるで、あの勇者リンクみたいね」

 

 バナーヌは怪訝そうに言った。

 

「勇者?」

 

 そのように言われるのはバナーヌにとっては初めてだった。テッポはさらに言葉を続けた。

 

「前に、お父様が言ったのよ。『伝説の勇者は多彩なアイテムを使いこなしたが、実のところはさほど強くなかった』って。『勇者は迷宮(ダンジョン)に潜っては多くのアイテムを手に入れ、色々な場面でそれを使ったが、アイテムに頼り切っていたがために、本人自身の実力はさして高くなかった』って。お父様は、『勇者はアイテムがなければ(つの)のないツルギカブトのようなものだった』っておっしゃったわ。『だからテッポも道具に頼るんじゃなくて、基礎体力と剣術を鍛えるように』と言われたわ」

 

 バナーヌは答えた。

 

「なるほど」

 

 テッポが慌てたように言った。

 

「あっ、もちろんバナーヌのことを言ってるわけじゃないのよ! アイテムを使いこなすのが勇者みたいって言ってるだけで、アイテムがなければ役立たずだなんて言おうとしてるわけじゃないから!」

 

 モモンジがテッポに賛同した。

 

「そうですよ! バナーヌ先輩はアイテムなしでもすごく強いのは私たちよく分かってますから! 密林仮面剣法を伝授したくなるくらい強いですから!」

 

 テッポも言った。

 

「そうよ、そう! バナーヌの強さはよく知ってるわ! あなたはアイテムなしでも強い!」

 

 そんな二人の言葉を、バナーヌはやんわりと否定した。

 

「だが、今回はアイテムに救われた」

 

 そう、今回こそはアイテムがなければ死んでいた。死地を切り抜けたのだという実感がいまさらながら彼女の中に湧いてきた。

 

 バナーヌは、自分が不死であるとは毛頭思っていなかった。まだ背も低い少女の頃から戦いを始めて、そして今に至るまで、彼女は真正面から死を見つめてきた。常に「死ぬかもしれない」という、恐れとも諦観ともつかぬ、いわく形容し難い観念と共に彼女は生きていた。

 

 彼女はこれまでに何度も怪我をしたし、罠にハマったことも多かった。その(たび)に、彼女は奇跡的に生き永らえてきた。そして彼女は、挫けることなく次の戦いへと赴いた。敵の罠にはまって負傷した者が不死なる観念を剥ぎ取られ、臆病風に吹かれたと(そし)られながらも、引きこもって二度と戦闘をしなくなるという例を、バナーヌも数多く見てきた。だが、彼女自身がそのようになることはなかった。

 

 なぜ、そうなのか? 彼女には分からなかった。自分自身がそこまで強靭な精神をしているとは彼女は思わなかった。それでも彼女は、死を意識しながらも死地を恐れはしなかった。

 

 なんとなく、バナーヌは「この程度は」と思っていたりもした。遠い遠い過去、気の遠くなるほど過去に、死などどうということもないと思えるようになるほどの体験をした気がする。十歳ごろにイーガ団に連れてこられ、それからずっとイーガ団で生きてきた自分に、そのような体験があるわけはないのだが……だが、彼女はそんな気がするのだった。

 

 罠はある。この先も、きっとあるだろう。ならば、それを踏み破れば良いだけだ。もしかしたら、いつか死ぬかもしれない。でも、死なないように手を打つことはできるはずだ。やれるだけのことをやってから、死を受け入れれば良い……彼女はそう考えていた。

 

 不死なる兵士は存在しないが、生き抜こうとする戦士になることはできるのだから……

 

 彼女たちは口を閉ざすと、しばらくの間、先へと進み続けた。また上り坂になっていた。今度はバナナなどは置かれていなかった。

 

 それでも、三人の心にきざした疑念は強いものだった。バナーヌが言った。

 

「怪しい」

 

 テッポが頷いた。

 

「怪しいわね。何かありそうだわ」

 

 モモンジも頷いた。

 

「坂を登りきったところで何かが待ち構えてるとか、また岩が転がってくるとか、そういうのがありそうですよね」

 

 しばらく相談してから、三人はそろりそろりと気配を消しながら坂を登っていった。

 

 雨は止まず、それどころかますます強くなるようだった。闇は一層深まり、特別な訓練を受けた人間でなければ一歩も動けないほどになっていた。

 

 先頭を歩くのはバナーヌだった。彼女は坂の頂上にたどり着くと、無防備に上半身を晒した。

 

 ビュンと音を立てて、闇の中から何かが飛来した。

 

 鈍い音を立てて、バナーヌの豊かに膨らんだ胸に一本の矢が突き刺さった。




テッポ「イーガ団は兄弟! イーガ団は家族!」
バナーヌ「嘘を言うな」

 明けましておめでとうございます。今年一年の読者の皆様のご健康とご活躍を心よりご祈念いたします。
 なんとか大晦日の間に書き上げることができました。投稿はキリが良いので元旦の0時となりましたが。何しろ大急ぎで書いたものですから、後から修正を加えるかもしれません。8時間で1万8千字書くとは思ってもみませんでした……
 2020年も『ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック』をどうぞよろしくお願いします。
 今年一年もゼルダの伝説シリーズがますますの発展を遂げますように!

※追記 ブレワイ二次創作の新シリーズを始めました。『ハイラルぐでぐで紀行』もどうぞよろしく!
※加筆修正しました。(2023/05/20/土)


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第四十八話 生きて虜囚の辱めを受けるも可なり

 単なる人間に戦闘力を付与するには、それこそ膨大な時間と資金を必要とする。何も知らない一般人を兵士として調練し、兵器を与え、部隊を編成する。規律を課し、命令に服せしめ、死の予感を忘れさせ、ただ勝利に向かって邁進(まいしん)させる。このようにして初めて人は戦う力を得て、戦場にて剣と槍を振るうことができる。歩兵ならば最低でも一年、騎兵ならば三年、貴人と王族を守る近衛兵ならば十年は訓練の時間を要する。資金に至っては言うまでもない、一部隊を新たに設けるには、一つの村を新たに開拓できるだけのルピーを必要とするのが常である。

 

 だが、このようにしてまさに手塩にかけて育てられた兵力も、指揮官の能力が低劣な場合、その真価を発揮することもなく無為に損なわれる。勝利を収めた? 結構、それは指揮官が優れていたからではなく、天運と良き兵士に恵まれたからだ。辛くも勝利を得た? そういうこともあるだろう。それはおそらく、敵が指揮官よりも無能だったからだ。敗北してしまった? 当然だ。悪しき指揮能力で勝利することは不可能に近い。莫大な時間とルピーをかけて養成した戦力も、今では完全に無に帰したというわけだ。

 

 敗北した戦場から、指揮官はいち早く逃走するだろう。精強な護衛兵に囲まれて指揮官は逃げる。彼は「兵が臆病で、参謀が無能だったから負けたのだ」と自己弁護を延々と繰り返す。では、残された兵士たちはどうなるのか? ここからが問題となる。

 

 兵士たちは訓練された通りに、勝利の可能性がもはや消え去ってしまった段階においても、望みを捨てずに最後まで戦う。最後までというのは、文字通り敵の(やいば)が体に食い込み、首と胴が切断されるその瞬間までということである。いや、彼らはむしろそれを欲してさえいる。敗北という不名誉を挽回するには、より大いなる勝利を得るか、さもなければ壮烈な死を遂げる他に方法がないからである。

 

 それでもなお、それを果たせない場合もある。戦い続け、体力が尽き、重傷を負って、人事不省となった兵士には、死を選ぶことすらできない。縄を打たれ、熊手(くまで)でかき寄せられ、投網(とあみ)(かぶ)せられて、彼らは捕虜となってしまう。戦う者にとって最も名誉から遠い状態に追い落とされてしまった彼らには、もはやどうすることもできない。

 

 捕虜になること、それはまさしく兵士にとっての悪夢である。勝者が敗者を思うがままに扱うことができるのが戦場の掟であるなら、捕虜は勝者の慰み者にほかならない。捕虜は武器を取り上げられて、粗衣(そい)を着せられる。彼らはなによりも重要な尊厳すら奪われて、勝者の暴虐に甘んじなければならない。それは、戦場に身を置いて死の危険に身を晒すことよりも厳しい。捕虜たちは捕虜になったその瞬間から、単なる戦闘よりも遥かに過酷な日々を送らなければならなくなる。

 

 そうであるにもかかわらず、兵士ではない者、つまり戦線に出ることのない貴族や富裕商人たち、いやそれだけではなくただの一般市民たちでさえも、一様(いちよう)に捕虜を(さげす)む。いわく、「捕虜となった者たちは戦意に乏しかった」、「彼らは死を恐れ、不名誉に甘んじた」、「王国と国王陛下の御恩顧(ごおんこ)(こうむ)っておきながら、それを忘れた」 彼らは捕虜となった者たちの苦衷(くちゅう)を察することもなく、敵の手の中にあって苦境を懸命に生き抜いている者たちの心情に思いを馳せることもない。

 

 だが、ハイラル王国が捕虜というものについて考えを改める機会が、長い歴史の中で確かに存在した。

 

 それは、雪と氷に閉ざされた酷寒のへブラ地方に魔物が突如として溢れかえり、軍を形成して、周辺の村落を(むさぼ)った時のことであった。魔物たちはへブラ山周辺に跋扈(ばっこ)し、気まぐれに山から下りて村を襲い、気まぐれに殺戮と略奪を繰り返して、また山の中にある根城へと帰っていくことを繰り返した。自警団や義勇兵部隊が組織されてから幾分か被害は減少したが、敵の本拠地を叩かない限り、へブラ地方に平和が戻ることはないと思われた。

 

 王国首脳部は即座に軍を派遣して、暴虐の限りを尽くす魔物たちを討滅せんと衆議一決した。しかし、王国が大規模な軍を送ることはできなかった。輸送路は貧弱であり、寒冷地帯の兵士たちの体温を保つための食料と燃料を大量に補給することは望むべくもなかった。協議の結果、山岳戦に長けた少数精鋭の部隊を新たに編成し、それをへブラ山に送り込むこととなった。

 

 選ばれたのは、山歩きに慣れ、弓矢の射撃に熟達した猟師たちだった。彼らならばきっとへブラ山というおよそ人間の生存を許さぬ過酷な環境にあっても、充分な戦闘力を発揮して、魔物を一匹残らず駆逐するであろう。首脳部はそのように考えた。かくしてハイラル全土に布告が出され、腕利きの猟師たちがかき集められた。

 

 本来孤独を好み、単独で野山に分け入って獲物を狩る猟師たちは、募集に対して当初は消極的な態度を示した。彼らには彼らなりの生活というものがあり、養うべき両親や家族がいた。故郷から離れて遠い戦地へと赴けば、いくら王国から給金や補償金が出るとはいえ、家族を飢えさせることになってしまう。その懸念が猟師たちを躊躇わせていた。

 

 ここで、そんな事態を一変させるべく、王国はある一手(いって)を打った。当時王国において最も著名な冒険家にして狩猟家であったシロスレミーを、王国は山岳部隊の長として登用したのである。代々名前の一部に「スレミー」という語を受け継ぐ猟師の一族の出身であるシロスレミーは、その身の丈が二メートル近くある、筋骨隆々たる堂々とした体格の持ち主だった。彼は当時四十を少し越えた年齢であったが、それまでに単独で、ハイラルにおいて最も獰猛な野生生物であるコウテイヒグマを五十頭仕留めていた。

 

 シロスレミーは深い知性の持ち主であった。彼はよく読書をし、あるいは神殿の神官たちから話を聞いて、自身の知的能力を涵養することに余念がなかった。余暇において彼は盾サーフィンを好み、それ以外の時間では読書と酒を静かに嗜んだ。そんな彼には、「静かなる巨人(ヒノックス)」という綽名(あだな)がつけられていた。

 

 また彼は、冒険と狩猟に関する著作を何冊か公にしており、ハイラル全土で広く人気を博していた。無論、彼は猟師たちからの尊崇も集めていた。彼が「ハイラル一の猟師」であることを疑う者はいなかった。

 

 そんなシロスレミーが山岳部隊の隊長として抜擢された。その報を耳にした猟師たちの反応は劇的だった。彼らはこぞって城下町に赴き、部隊に加えてもらうよう頼み込んだ。彼らが異口同音に「シロスレミーと共にへブラ山で戦い(狩り)がしたい」と言った。こうして総勢三百名の猟師が集結した。山岳部隊は無事に発足した。

 

 短い訓練期間の後、山岳部隊は早速へブラ山に向けて進発した。だが、街道を行くシロスレミーたちの顔は暗かった。それにはある事情が関係していた。いよいよ部隊が出撃するその一週間前になって、突然王国首脳部がシロスレミーを隊長から解任し、代わって副長の地位に任じたからであった。

 

 シロスレミーの代わりに隊長となったのは、とある大貴族の跡取り息子だった。その名はハベラコといった。アッカレ地方の荘園で遊び半分の狩猟をして日々を過ごしていたハベラコは、親の権力と人脈を駆使して、山岳部隊の隊長の座を得たのであった。ハベラコの年齢は二十代前半、その人格と識見は共に未熟そのものだった。ハベラコの性格は陰気ではなく、むしろ楽天的で陽気とも言えたが、それはそれまでの人生において彼が苦労らしい苦労を経験して来なかったからこその性格であり、いざ苦境に立たされた際に彼がどのように豹変するかは、誰にも予想ができなかった。

 

 若き隊長ハベラコには、若者らしい野心が煮えたぎっていた。ひとつは、王国に(あだ)をなすへブラ山の魔物を殲滅して軍事的名声を得ることであり、ふたつめは、それによって家名を高め、王城と宮廷社会における地位を確保することであった。そしてみっつめは、これが一番彼にとって重要だったのだが、シロスレミーという王国一の狩猟家を配下に収め、彼を駆使することによって戦果を挙げ、よってもって自身がシロスレミーすら凌ぐ狩猟の天才であることをハイラル全土に知らしめることだった。

 

 突然のシロスレミー解任劇に山岳部隊は空中分解寸前になった。だが、それを取りなしたのはシロスレミーだった。彼は憤激する部隊員たちを説いて回った。彼は言った。

 

(いくさ)の指揮には若い者の溌溂(はつらつ)さと明るさが必要である。しかし、私は歳をとっていてそれらを持っていない。だから、部隊の指揮はあの貴族の若者に一任し、私はそれを経験と知識によって可能な限り補おうと思う」

 

 シロスレミーはその言葉どおり、よくハベラコを補佐した。山岳部隊はさしたる問題もなく、予定された戦場に到達した。彼らはリト族の支援を受けながらリリトト湖を迂回し、カルーガ峠に到達すると、へブラ山南岳からシャリバ岳に侵入した。彼らは瞬く間に敵の小拠点を二十箇所破壊し、千以上もの魔物を殺害した。言うまでもなく、これらの戦果はシロスレミーの指揮によるものだった。ハベラコは雪山を歩くだけで疲労困憊しており、指揮を執ることなど到底不可能な有様だった。

 

 魔物たちは静かに、だが猛烈な勢いで進軍してくる人間たちを迎え撃つべく、へブラ山の本拠地から全軍を発して、ブリザー谷に陣を敷いた。シロスレミーはその動きを察知し、敵陣の背後に当たるブリザー谷東側へ夜陰に乗じて部隊を移動させると、翌払暁(ふつぎょう)を期して奇襲攻撃を加えた。

 

 奇襲は、完全に成功した。盾サーフィンによって一斉に高台から突撃してくる山岳部隊の猛攻を受けて、魔物たちの陣は見る間に崩壊した。だが、魔物たちもここで退けば後がないことを悟ったのか、奇襲の衝撃から何とか態勢を立て直すと、それからは激烈な抵抗を示し始めた。部隊員たちは魔物の数を着実に減らしていったが、次第に数で圧倒され始め、戦場は混沌の坩堝(るつぼ)と化していった。

 

 戦いが終わった時、戦場を掌握していたのはシロスレミーたちの部隊だった。魔物の残骸と破壊された武器が雪原を覆っていた。しかし、隊長ハベラコの姿はどこにも見えなかった。シロスレミーたちは数時間をかけて戦場を捜索した。はぐれていた部隊員との合流を果たして、ようやくシロスレミーは真相を知った。

 

 隊長ハベラコは興奮のあまり敵陣の只中(ただなか)へと突出してしまい、彼は魔物の群れに取り巻かれて、捕虜になった。それを目撃していたその部隊員は何とか隊長を救出しようと努力したが、やはり彼も多くの魔物に囲まれてしまい、それを果たせなかったという。ハベラコは、へブラ山の敵本拠地へと連れ去られたようだった。

 

 部隊員たちは口々に言った。

 

「不名誉にも捕虜となった者のために、わざわざ危険を(おか)すわけにはいかない。ハベラコは望んでこの戦場に来たのであり、死ぬことも捕虜となることも承知の上だっただろう。今は戦いを終えた直後で矢玉は尽きており、隊員たちは皆、傷を負って疲労している。燃料も残り少なく、食料は一週間分にも満たない。ここは一度下山してリト族の村に身を寄せて戦力の回復を図り、しかる後に出撃して、再度殲滅攻撃を行うべきである」

 

 だが、シロスレミーはそれを言下に否定した。彼は言った。

 

「ここで山を下りること、それはすなわちあの若い隊長ハベラコの死を意味する。いまだかつて魔物が人間を長期間生かしておいた例など、聞いたことがない。おそらく、魔物どもは敗戦の()さを晴らそうとするだろう。次の戦いの勝利のための生贄(いけにえ)として、魔物どもは隊長の生皮を剥いで心臓を抉り出すであろう……」

 

「それに、なにより」と、シロスレミーは付け加えるように言ったとされる。「捕虜となることは不名誉なことではない。捕虜になることは死よりも(つら)いことであるが、しかし、それでもなおその(つら)さに耐えて懸命に生き抜こうとするのは、戦場で名誉の死を遂げるよりも遥かに美しく尊いことである。私はそう考える。私は万難を排してでもハベラコを救出したい。諸君らがそれを拒否するならば、私一人でも救出へ向かう」

 

 こう言われて、なおもシロスレミーの考えを否定する部隊員はいなかった。彼らは重傷者を下山させると、比較的気力体力を残している者を選抜し、時間を置くことなくへブラ山の敵本拠地へと向かった。

 

 幸いなことに、その時のへブラ山の天候は安定していた。彼らはほどなくして敵本拠地へと到達すると、日没を待って最後の戦いを開始した。魔物たちは人間たちが追撃してくるのを予期しておらず、またその数を大幅に減らしていたこともあって、すでに闇が舞い降りつつある中、次々と討ち取られていった。

 

 ついに敵は殲滅された。若い隊長は下着姿にされて、檻の中に幽閉されているのが発見された。ハベラコは凍傷を負い、体温は低下していたけれども、命に別条はなかった。彼は泣いてシロスレミーたちに感謝した。シロスレミーは身に纏っていたリトの羽毛の防寒着を隊長に着せかけると、一晩の休息をし、翌朝部隊をまとめて堂々と下山した。

 

 戦後、シロスレミーはその戦いについてあえて多くを語らなかった。守るべき隊長が捕虜となったことは、たしかに副長である彼の責任であった。いくら大戦果を挙げてへブラ地方の害を取り除いたとは言っても、それを声高に主張することは彼には躊躇われたのであった。

 

 一方で、隊長ハベラコはシロスレミーたちの活躍を大いに世間に広めた。彼は王城に帰還するや王の謁見を受けた。彼は王に、部隊員たちの活躍と、自らが囚われの身となったことを包み隠さず報告した。王は激することなくハベラコが語る言葉に耳を傾け、やがて以下のように述べたという。

 

「過酷な生を送ることは過酷な死を遂げるよりも遥かに難事である。(ちん)は、命を懸けて難事を遂行せんとする者を(よみ)するものである。捕虜となることは、朕の意志に沿うことである」

 

 そのことが巷間(こうかん)において取り沙汰されるようになると、人々の間で「捕虜となることは必ずしも不名誉なことではない」という新たな通念が広まり始めた。邪悪なる魔物に囚われて、なおも生き抜こうとする者がいるならば、全力でそれを救うべきであるという論調が、にわかに沸き起こった。

 

 このことがハイラルの精神史においてどれだけの意味を有しているかについては、また別の考察を重ねる必要があるだろう。とにかく、それまでのハイリア人が有していた「敗者は潔く死すべし」という一種の蛮性(ばんせい)()められたということはたしかである。

 

 残念ながら、百年前の大厄災においては、敗者は生存を許されなかった。厄災とその配下たちは王国を滅亡させ勝者となったが、彼らは捕虜を必要としなかったからである。自動殺戮機械であるガーディアンたちに対しては、人間の言葉も交渉も通用しなかった。また、一部の部隊は追い詰められて魔物の群れに投降しようとしたが、勝利の味に酔う魔物たちは兵士たちを皆殺しにした。その事件を聞いたアッカレ砦防衛隊は捕虜となることを拒絶し、結果として一兵も余さず全滅した。

 

 つまるところ、捕虜とは、一種の取り決めの上に成立するものに過ぎない。自由と権利を奪い、身柄は拘束するが、命を奪うことまではしない。そのような了解が双方の上で成立しているからこそ、捕虜は存在できる。厄災や魔物やガーディアンとの間に取り決めをすることなど、到底不可能な話だった。

 

 では、取り決めをすることができる敵ならばどうだろうか? そう、人でありながら人の生に背を向けている者たち、野獣のようにバナナを貪り、策謀と謀略を張り巡らせ、ハイラルの天地に混乱をもたらすことを何よりの使命とするあの集団、あのイーガ団ならば、捕虜について取り決めをすることが可能なのではないだろうか?

 

 それは、分からない。それはやはり、夜の闇のような暗さの中に留まっている。

 

 

☆☆☆

 

 

 放たれた矢は正確に目標に命中した。少なくとも、その白銀ボコブリンにはそう思われた。すでに闇は深く、(しの)つく雨は視界をさえぎるまでになっていた。そのような状況下で敵を仕留めることができた。だから、やはり俺は力を持っていて、とても強い。白銀ボコブリンは薄く笑みを浮かべつつ、そう思った。

 

 その敵は、坂の下から何も警戒することなく現れた。敵はニンゲンのメスだった。白銀ボコブリンはニンゲンが好きだった。美味いからだ。そのニンゲンのメスは、長い金色の髪を仔馬(こうま)の尾のように纏めていた。それは一本のツルギバナナを思わせた。その胸はハトのように大きく膨らんでいた。どうやらかなり肉付きが良いらしい。

 

 舌なめずりをしつつ、白銀ボコブリンは仕留めた獲物の方へ足を向けた。頭上から止めどもなく落下してくる忌々しい雨粒も、今の彼にはまったく気にならなかった。はやく獲物の皮を剥いで解体し、どこか風雨を避けられる場所で火を起こして、こんがりと肉を焼き上げて食事を楽しみたい。手下共が匂いを嗅ぎつける前に、一番美味い、脂肪がたっぷりと乗った胸の肉にかぶりつくのだ……

 

 だが、食欲に満ちた彼の精神は、その場所に着いた直後、混乱を(きた)した。

 

「ブゴッ!?」

 

 そこにニンゲンのメスの死体はなかった。死体の代わりに、一本の矢が深々と刺さった丸太が転がっているだけだった。

 

 変わり身の術、という言葉こそ白銀ボコブリンは知らなかったが、それが何か一種の詐術(さじゅつ)であることを彼は察知した。()められた! 罠を仕掛けていたのはこちらなのに、ニンゲンは生意気にも俺を()めやがった! 白銀ボコブリンはその豚鼻に開いた二つの穴を醜く(うごめ)かせた。彼は大きな耳をバタバタと激しく動かし、手足を振り回して憤激の情をあらわにした。

 

 白銀ボコブリンは、ある意味で無知だった。このようにして変わり身の術で攻撃を(かわ)された後は、その次に来るであろう奇襲から身を守ることを第一に考えなければならない。だが彼は、身を守ろうとしなかった。彼はただ苛立ち、怒っていただけだった。彼は、ニンゲンが今しも刃を振り下ろさんとしていることに気づいていなかった。

 

 ザクッ、という嫌な響きを、白銀ボコブリンは聞いた気がした。それは彼の背中から発せられていた。彼はその音を今までに何度も聞いていた。ヤギやイノシシ、それにニンゲンを狩り、その死体を解体して肉を得ようとして小刀を刺し込む時の、あの音とまったく同じだった。それが、彼の背中からしていた。

 

 彼が振り返ると、そこには矢を撃ち込んでやったはずのあのニンゲンのメスがいた。その手は半月形に刃が曲がった、奇妙な刀を握っていた。怪しげに(きら)めく白い刃には、べったりとした紫色の液体が付着していた。魔物の血液とそっくりな色だった。

 

 白銀ボコブリンは、そこでようやく自分が斬られたことに気づいた。次の瞬間、鋭い痛みが彼を襲った。彼は絶叫した。

 

「ブギィイイイッ!!」

 

 不意打ちを受けて、戦う前から白銀ボコブリンは甚大なダメージを負ってしまった。それでも彼は、即座に弓矢をその場に投げ捨てると、自身の本来の得物である竜骨ボコこん棒を構え、接近戦の態勢をとった。この丘に来る前、彼はテホタ湿地一帯を牛耳るほどの実力者だった。この程度の傷で戦闘力を失うほど、彼はやわではなかった。

 

 威嚇の意味も込めて、彼は目の前のニンゲンに対して大声を上げた。

 

「ブゴゴッ! ブギギィッ!」

 

 対して、バナナのような髪のニンゲンは動かなかった。ニンゲンはじっと武器を構えて、彼の動きを観察していた。

 

 彼としては、それで良かった。声を上げたのには別に意味があった。それは仲間を呼ぶためだった。数秒も経たずして、彼の周りで他の魔物が鳴き声を上げた。

 

「グギャギャ! グゴッ!」

「ブギギッ!」

 

 青リザルフォスが一体、青ボコブリンが一体、自分たちのリーダーを救うべく、一寸先も見えない闇の中を走ってその場にやって来るのを、彼は横目で確認した。青リザルフォスはトゲボコ槍を、青ボコブリンは錆びた剣を手にしていた。

 

 白銀ボコブリンはニヤリと笑みを浮かべた。三人に勝てるわけがないだろ。数で圧倒するのは戦いの基本だ。いくらこのニンゲンのメスが奇妙な術を使うとはいっても、同時に三方向から襲い掛かられてはどうすることもできないはずだ……彼は鳴き声を上げた。

 

「ブギギ! ブギャッ!」

 

 彼は腰巻(こしまき)の中から、一本のツルギバナナを取りだした。それは罠に使うために用意したものだった。彼はその余りを自分のものとしていた。配下がそのようなことをすれば殴りつけてやるところだが、彼は群れのリーダーであった。何をしようが彼の勝手だった。彼はニンゲンに見せびらかすようにバナナの黄色い皮を剥いた。彼は闇の中でも白く輝く甘い果実にかぶりついた。彼は、くちゃくちゃという咀嚼音をわざとらしく立てながら、それを貪り食い始めた。

 

 突如として、ニンゲンの殺気が爆発的に膨れ上がった。ニンゲンはたった一言だけ呟いた。

 

「ぶっ殺す」

 

 ニンゲンは武器を構えて、白銀ボコブリンに正面から襲い掛かった。鋭い一撃が振るわれた。彼は竜骨ボコこん棒でそれを受け止めると、短い足を前方に突き出し、蹴りを放った。だが、ニンゲンは軽やかな動きで後方に跳んでそれを回避した。そしてニンゲンは、間を置かずに跳ぶと、今度は右側面に素早く回り込んで、彼の首筋を狙って斬撃を繰り出してきた。

 

 激しい雨音の中に、武器と武器が打ち合わされる鋭い金属音が響きわたった。白銀ボコブリンは歯噛みをした。このニンゲンのメス、相当強いぞ! これまで彼が仕留めてきたニンゲンは、彼が威嚇しただけで腰を抜かして命乞いを始めたものだった。だが、まるでそれとはまったく別の種族であるかのように、このニンゲンのメスは戦意に富んでいた。敵は殺意を滾らせ、攻撃の手を緩めなかった。

 

 いったい、援軍に来た青リザルフォスと青ボコブリンは何をしている!? 俺がこんなに苦戦しているのに、どうして奴らは俺を助けようとしないんだ!? 敵の攻撃を(しの)ぎつつ、彼はチラッと左右に目をやって、状況を確認した。

 

 彼は驚愕の鳴き声を上げた。

 

「ブゴッ!?」

 

 そこで彼が目にしたのは、悪夢ともいえる光景だった。どこから、いつ来たのか、ニンゲンが二人も増えていた。いずれもメスだった。一人は黒髪で体が小さく、もう一人は桃色の髪で体がやや大きかった。小さいほうのニンゲンは、青ボコブリンの振るう錆びた剣を軽やかな身のこなしで躱すと、その内懐(うちふところ)に飛び込んで、小振りな刀で喉を切り裂いた。大きいほうのニンゲンは、青リザルフォスが突き出したトゲボコ槍を長く鋭利な大刀で両断し、そのままの勢いで突進して青リザルフォスの心臓を串刺しにした。

 

 戦況は、一瞬にして白銀ボコブリンの不利になった。三人に勝てるわけないだろ。彼はそう思った。しかも、自分はダメージを負っている。金髪のニンゲンのメスは容赦せずになおも刀を振るってくる。竜骨ボコこん棒はそろそろ耐久力の限界を迎えそうだ。あと数合もしないうちに、得物は破壊されてしまうに違いない。

 

 あまり豊かであるとはいえない知能を振り絞って、白銀ボコブリンは考えを巡らせた。目の前のニンゲンのメスに勝てる見込みはない。武器はそろそろ破壊される。よしんば倒せたとしても、まだ二体のニンゲンのメスが残っている。手下はもう来ないだろう。ここに罠を仕掛けろと言ってきた、あの不細工なボコブリンも、夜になってからずっと姿を見せていない。ここには来ないだろう。

 

 よく考えること、それが状況を打開する秘訣であると言われている。だが、普段から考えることをしない者にとって、考えることが逆に不利に働くことがある。今の白銀ボコブリンは、まさにそれだった。様々な想念が濁流のように彼の小さな脳髄の中を駆け巡った。

 

 絶体絶命だ。もう助からない。彼はそう思った。絶望、恐怖、濃厚な死の気配……それらを受けて、彼の精神は脆くも崩壊した。

 

 そして、崩壊した精神が、魔物にはあるまじきある行為へと、彼を走らせた。

 

 白銀ボコブリンは悲鳴を上げた。

 

「ブヒィイイイッ!」

 

 彼は得物(えもの)を投げ出して、その場に這いつくばった。そして彼は、めり込ませんばかりに地面に頭を押し付けた。そうしつつ、彼は腰巻の中にもう一本だけ隠し持っていたツルギバナナを取り出して、震える両手でそれを目の前のニンゲンのメスに差し出した。彼が出せるものといえば、それくらいしかなかった。

 

 それは、命乞いだった。それまでに何度も目にしてきたニンゲンの絶望的な振る舞いを、彼は無意識のうちになぞっていた。

 

 とにかく助かりたい。死にたくない。囚われの身になっても良い。怖い!

 

 中途半端な知能を持っていたその白銀ボコブリンには、他の魔物が決して持つことはないであろう、死の恐怖が根付いていた。以前ライネルに追われてテホタ湿地を後にしたのも、彼の中にあるその恐怖感がなさしめたものだった。ここに来て、それが表面化してしまったのだった。

 

 しばらく、耳に痛いほどの雨の音しか聞こえなかった。いつの間にか、彼の前に三人のニンゲンのメスが立っていた。

 

 メスたちは会話を始めた。最初に口を開いたのは、小さな体の黒髪のメスだった。どこか幼さを感じさせる声だった。

 

「ね、ねえバナーヌ。私の勘違いじゃなければ、もしかして、この魔物、命乞いをしてるんじゃない? これ、『ド・ゲーザ』でしょ?」

 

 それに答えたのは、バナナのような髪のメスだった。冷たく透き通った声で、そのニンゲンは短く言葉を発した。

 

「……そうらしいな。どうしよう?」

 

 数秒間の沈黙の後、一番左側に立っていた桃色の髪のメスが、陽気ながらも幾分か低い声を上げた。それは何かを思案しているような声音だった。

 

「……えーっと、テッポ殿、バナーヌ先輩。ここは一つ、逃がしてやるというのはどうでしょう? 逃がしてやるのが嫌なら、捕虜にするとか……なんていうか、こう、魔物とはいえ命乞いをしている奴をたたっ斬るのは、気がひけるんですよね……」

 

 黒髪のメスの幼い声が、それに答えた。

 

「うーん……イーガ団の掟では、『敵対する者は容赦なく殲滅せよ』と定めているわ。でも『情報を得るに当たって有用と思われる者は、なるべく生かして捕らえるべし』ともしているし……でも、魔物を尋問することって可能なのかしら? 魔物を捕虜にするなんて、お父様からも聞いたことがないし……バナーヌ、あなたは魔物が情報源になると思う?」

 

 しばらく金髪の女は考えるようだったが、やがておもむろに口を開いた。

 

「いや、それよりも重要なのは、こいつがバナナを差し出しているということだ」

 

 桃色の髪の女が、その言葉を聞いて「あっ!」と声を上げた。

 

「そうですよ! 『バナナを(けん)ずる者は尊重すべし、殺すべからず』という掟がありましたね! たとえ勇者であっても、私たちイーガ団にバナナを差し出してくるのならば、一旦(やいば)を収めて対話に応じなければならないとされています……じゃあ、こいつを殺すことはできないんじゃないですか?」

 

 その後、長い雨の後にキノコが地面から一斉に生えるように、会話が連続した。金髪のメスが言った。

 

「しかし、こいつはバナナを腰巻から出した」

 

 黒髪のメスが答えた。

 

「えっ、そうなの? じゃあダメじゃない? 『バナナは敬うべし。不浄なる部位に触れさせるべからず』とされているわ。腰巻の中からってことは、つまりこいつの……その……いえ、魔物にそれはないかしら。どうだろう……」

 

 桃色のメスが言った。

 

「たしかに、なんだか(きたな)そうなバナナですよね……でも、さっき私が言った掟には、バナナの状態についての規定はありませんでしたよ。テッポ殿はどう思いますか?」

 

 黒髪のメスが言った。

 

「うーん……折れてたり、傷んだりしているバナナでも、それを差し出されたら、やっぱり助けないといけないのかなぁ。バナーヌはどう思う?」

 

 金髪のメスが答えた。

 

「……もう、面倒になってきた。殺そう」

 

 桃色のメスが大きな声を上げた。

 

「あっ! ダメですよバナーヌ先輩! 面倒だからって殺すのは! 『イーガ団員たる者は常に掟に従うべし』という基本原則があるじゃないですか!」

 

 黒髪のメスが続けて言った。

 

「そうよバナーヌ。どうせ時間はあるんだから、もう少し考えてみましょう、ね?」

 

 金髪のメスは嫌そうに言った。

 

「……えー……」

 

 白銀ボコブリンは、その場に充満していた殺気が薄れていくのを感じた。どうやら、このまま行けば助かりそうだ。メスたちが話していることは、正直なところ半分以上も分からなかったが、問答無用で殺されるということはなさそうだ……

 

 彼がそう思っている間に、メスたちは結論を出したようだった。黒髪のメスが言った。

 

「うん、やっぱり殺さないでおきましょう。でも捕虜にはしない。ここは、逃がしましょう。それが掟に則った選択だと思うわ」

 

 桃色のメスが言った。

 

「捕虜にしたところで、ずっと捕らえておくわけにもいきませんしね。(おり)もないし。逃がすのが一番でしょう。掟にも抵触しないし」

 

 金髪のメスが頷いた。

 

「決まりだな」

 

 やがて、黒髪の小さなメスが一歩前に出ると、いまだに地面に押し付けられている彼の頭に小刀を突きつけて、(りん)とした声で言った。

 

「魔物よ、私たちはお前が差し出したバナナに免じて、お前の命を救ってやります。速やかにここから立ち去りなさい。武器を持ってはならないわ。それから、目隠しをしてもらいます。千歩(せんほ)歩いたら外しても良い。でも、このことは肝に銘じておきなさい。『私たちがお前を助けるのは同情心や憐みの念からなのではなく、バナナの神と天使と、厄災ガノンの慈悲によるものである』ということを。さあ、立ちなさい」

 

 白銀ボコブリンはふらつきながらもその場に立ち上がった。すると、すぐに自身の両目が何かで覆われるのを感じた。後ろに回ったメスの一人が、彼が立つや否や布地を巻きつけたようだった。

 

 目への圧迫感が増したのを彼は感じた。それと同時に彼は、生き残ったという事実に踊りだしたいほどの喜びを覚えていた。「センポ(千歩)」とかいう、よく分からないことを小さなメスは言ったが、たぶんこいつらの気配が感じ取れなくなったら目隠しを外しても良いということだろう。そこまで行ったら、自分はもう自由だ。

 

 自由になったら、何をしようか? ここに再びやってきて、また拠点を築くか? いや、もう手下はいない。一から集め直す必要がある。また方々(ほうぼう)を回って手下を得て、それからここに戻ってこよう。そして力を蓄えて……ニンゲンに復讐してやる! 彼はそう思った。

 

 金髪のメスの鋭い声が彼の背後からした。

 

「さあ、行け」

 

 直後、彼は背中を押された。その衝撃で彼は二、三度たたらを踏んだ。彼は、負傷と出血によって体力が失われた体を、ふらふらとした足取りで運び始めた。

 

 よし、これで助かった。白銀ボコブリンはほくそ笑んだ。やはりニンゲンは弱い。こうして自分を(にが)したことを、後々(のちのち)後悔するだろう。俺は復活するぞ。手下を集め、拠点を再構築し、武器を蓄えて、またニンゲンの肉を楽しんでやる……彼には、そういったことがあたかも規定事項であるかのように感じられた。

 

 未来は明るいぞ。彼は考え続けた。大敗を喫したが、所詮は一敗に過ぎない。死んだわけではないのだ。一時の屈辱と不名誉は、将来得ることになるより大いなる勝利への投資に過ぎない。いやむしろ、股間から出したバナナ一本でそれを賄うことができたのだから、俺にとってはこの敗北、大勝利と言っても過言ではないではないか……

 

 おぼつかない足取りで歩みを進めていた彼の耳に、突然粗野にして甲高いニンゲンのオスの声が聞こえてきた。

 

「おい、なんだ!? ボコブリンがいるぞ!!」

 

 あのメス共の仲間だろうか。そう考えた彼は、次に発せられた声を聞いて、その背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

 

「ふざけやがって……! 薄汚い魔物は皆殺しだ! 死ね!」

 

 瞬間、白銀ボコブリンの全身が激しく痺れた。バチバチという耳障りな音と共に、彼は自身の肉体が焦げ(くさ)いにおいを発しているのを感じた。彼の肉の一片、血液の一滴、皮膚の隅々に至るまで激烈な電流が駆け巡っていた。彼の意識は遠くなった。

 

 やがて、彼は倒れた。倒れた彼は、自分の肉体が崩壊していく音を聞いていた。

 

 ニンゲンめ、助けてやると言ったくせに、どうしても俺を死なせないではいられなかったらしい。もし生まれ変わることができるのなら、こいつらはきっと皆殺しにしてやる。薄汚いニンゲン共め、もう騙されないぞ。今度は俺が奴らに命乞いをさせて、それを冷たく拒絶してやる……

 

 白銀ボコブリンの肉体は寸時の間に腐った果実のように黒ずむと、軽い爆発音を立てて四散した。肉体から飛び出した紫色の(きも)と、(つの)(つめ)は、彼に電撃を放ったニンゲンのオスによって踏み潰された。残骸は何も価値がないゴミ屑のように地面に散らばった。

 

 断末魔の魔物の怨念を聞いていたのか、それとも聞いていなかったのか、暗い天は大地に向けて、ちっぽけな事件の痕跡を洗い流すかのように雨を降り注いでいた。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌは、そこに現れた男を見て、自分がある種の可笑(おか)しみを覚えていることを自覚した。

 

 男の(まげ)はちょうど中ほどから真横に断ち切られていた。それは、ここから遠いハイラル丘陵にあるチナガレ湿地帯に林立している、あの竜血樹(りゅうけつじゅ)の姿を彼女に連想させた。もちろん、それは完全な竜血樹ではなく、成長不良の出来(そこ)ないの竜血樹だった。

 

 男は、せっかくバナーヌとテッポとモモンジが知恵を出し合って助けることにした白銀ボコブリンに対して、その手に持っているエレキロッドから電気玉を放つと、無慈悲にトドメを刺してしまった。

 

 その男、イーガ団フィローネ支部バナナ輸送部隊指揮官であるサンベは、無抵抗のままに電撃を受けて崩れ落ちた白銀ボコブリンを一瞥(いちべつ)すると、わざとらしく唾を吐いた。そして彼は次に、それをどこか呆れた目で眺めていたバナーヌら三人へ、ことさらに虚勢を張るように大声を上げた。

 

「おう、テッポにモモンジ、それからカルサー谷のバナーヌとかいう女! なんで白銀ボコブリンを逃がしやがったんだ! 魔物は皆殺しにするのが常識だろうが! ちゃんと敵は全部倒したんだろうな!? まったく、手間をかけさせやがって……!」

 

 バナーヌは鼻白んだ。この男は、やはり好きになれない。いや好きになる必要などどこにもないのだが、一緒に仕事をこなす仲間がこれほどまでにつまらない男では、やる気が著しく削がれる。カルサー谷のイーガ団本部には、到底好きになれないような一癖も二癖もある人物ばかりが揃っているが、こんなにも面白くない男は初めてだ。

 

 そのようなことを思っているバナーヌの横で、モモンジが耐えかねたように吹き出した。

 

「ぷっ……ぷふふっ……サンベ殿の(まげ)、大事な髷があんなことになってる……何あれ、滑稽役者(コメディアン)か何かですか……カッコ悪い……ぷふふっ……」

 

 モモンジの隣に立っているテッポが、それに続けて小さな声で言った。

 

「ちょっとモモンジ、(こら)えなさいよ……サンベが聞いたらきっと烈火のごとく怒るわよ……ぷふふっ、あははは……! なにあれ、めちゃくちゃカッコ悪いわ……」

 

 テッポも、どうしても笑いを抑えきれないようだった。バナーヌも二人と同じく、サンベの不格好な髷を笑いたい気持ちになった。だが彼女は、それを表情に出すまでには至らなかった。

 

 聞こえていたのか、それとも雰囲気から察したのか、サンベはいきなりキレた。

 

「てめぇら! 何を笑ってやがる! いい加減にしろ! 今は任務の真っ最中だぞ!……まったく、どいつもこいつも使えない奴らばっかりだ、俺がいないと何もできやしねぇ……」

 

 (まげ)はバナナと同じく、イーガ団員の命であった。女性の団員に関しては比較的大目に見られているが、男性の団員は髷を綺麗に整えなければならなかった。それが「一人前の」イーガ団であることの必須条件とされていた。その髷を戦闘とはいえ敵に斬られたのであるから、本来ならばサンベは恥じ入らなければならなかった。それなのにサンベは強がっていた。まるで最初から髷には何も問題はなかったと言わんばかりに、彼は居直っていた。

 

 無言のまま、しかし隠し切れない嘲笑を送ってくる三人の女性団員に対して、サンベは肩を怒らせて、しばらく白い仮面越しに睨みつけていた。やがて気を取り直したように肩の力を抜くと、彼はテッポに顔を向けて言った。

 

「それで、テッポ。これで敵は全滅というわけか? もうここに敵はいないんだな?」

 

 テッポは姿勢を正した。これ以上笑ったりすれば余計な軋轢(あつれき)を残すだけだった。彼女は言った。

 

「はい、指揮官殿。敵は全滅しました」

 

 サンベは頷くと、エレキロッドを指揮(じょう)のようにして、三人に指示を出した。

 

「念のために周辺を調べろ。敵が残っているかもしれん。なにか使えそうなものがあったら回収しろ。変なものを見つけたら、必ず俺に報告するんだぞ! 忘れるなよ、お前らの指揮官はこの俺だからな!」

 

 その言葉は(むな)しく(あた)りに響いた。だらしなく髷を斬られた男の言うことに、説得力は欠片もなかった。それでも三人は静かに頷いた。誰かがあえて折れてやらねば、組織は機能しない。それに、サンベはフィローネ支部長が正式に任命した輸送指揮官でもある……彼女たちはそう思った。

 

 だが、モモンジだけは違った。彼女は持ち前の明るさで、サンベが今一番訊いて欲しくないと思っていることを質問した。

 

「それにしても指揮官殿、随分と激戦だったみたいですね! イーガ団員にとって一番大切な髷を斬られるなんて、実力者である指揮官殿に似つかわしくない失敗です。いったい、髷を斬ったのはどんな敵だったんですか? それは倒したんですか? そんなに強い敵がまだ残っているなら、私たちも警戒しないといけないんですけど。あっ! あと、腹痛はもう(なお)りましたか? 私とヒコロク先輩が出発する時、とても苦しんでおられたので心配していたのですが。雨でお腹が冷えてないと良いんですけど。胃腸薬はありますか? なければお貸ししますよ……」

 

 サンベは、何も言わなかった。彼はモモンジに対して顎で動くように命じた。彼は右手に鬼円刃、左手にエレキロッドを持って、無言のままにそこから立ち去った。

 

 もちろん、モモンジに悪意は一切なかった。彼女は純粋に指揮官のことを心配していた。だからこそ、彼女は先ほどのようなことを言ったのだった。だが、悪意がない分だけ却って彼の心を深く傷つけるということを、未熟な彼女はまったく考えていなかった。

 

 テッポは、サンベの姿がそこから消えたのを見届けると、バナーヌとモモンジに対して口を開いた。

 

「ねえねえ。たしかにサンベはろくでもない団員だけど、でも実力だけは大したものよ。そんな実力者のサンベの(まげ)を斬るなんて、ただの魔物にできると思う? あの様子からすると、サンベは髷を斬った敵を倒し損ねたみたいだわ。敵はまだ、どこかにいるはずよ。ここは、三人で固まって行動するべきだと思う。それならきっと、敵も襲ってこないだろうし」

 

 モモンジは即座に同意の声を上げた。

 

「テッポ殿の言うとおりだと思います! なんだかこの戦いは、始まった時から目に見えない巨大な敵と対峙し続けていたような気がするんです。張り巡らされた罠にしてもそうですし……」

 

 バナーヌも静かに頷いた。降りしきる雨の中、三人は歩き始めた。歩きつつ、バナーヌは考えを深めていた。

 

 バナナの罠に引っ掛かり、坂の上から岩が転がってきた時に感じた、あの違和感。この岩場に隙間なく罠を仕掛けた敵と、アラフラ平原に出現してヒコロクに重傷を負わせたという敵が同じではないかという推測。その敵が、あるいは自分が知っている、カルサー谷のある女性団員ではないかという直感……

 

 証拠はないが、サンベほどの実力を持った団員の髷だけを斬るというのは、やはり同じイーガ団員でなければ成し得ないのではないか? そう彼女は思った。

 

 テッポとモモンジが、油断なく武器を構えながら雑談をしていた。テッポが言った。

 

「それにしても、サンベの髷を見た? あれじゃせっかくの空威張(からいば)りも台無しよね」

 

 モモンジが言った。

 

「指揮官殿、いろいろとカッコ悪いですよねぇ。あれなら、いっそのこと髪の毛を全部剃り落としたほうが、まだ体裁(ていさい)が保てますよね」

 

 テッポが口調を改めて言った。

 

「ところで、ヒエタの姿がどこにも見えないけど……彼はどうしたのかしら? まさか、やられたわけではないと思うけど……」

 

 モモンジが能天気な声を上げた。

 

「ああー、ヒエタ先輩ならきっと大丈夫ですよ。ヒエタ先輩は、どこかちゃっかりとした性格をしてますけど、指揮官殿以上に生存力豊かな人ですから。生存力というか、逃げ方が上手いんですよね。敵に囲まれて死ぬか降伏するしかないとなっても、あの人ならば誰にも気づかれずにその場から抜け出しそうな印象があります」

 

 モモンジが言った。

 

「イーガ団員にとって、敗北は死しかあり得ないからね……ヒエタはたぶん一人で馬車に戻って、馭者(ぎょしゃ)たちと一緒にお酒でも飲んでいるのでしょう。博打(ばくち)でもしながらね……」

 

 突然、誰のものでもない声がその場に響いた。

 

「あのー、すみませんが……」

 

 唐突に聞こえてきた声は、まるで幽霊のようだった。三人は耳を疑った。その声は、大きな岩が折り重なるようにして形成された空間から流れてきたようだった。空間は、彼女たちの目の前にあった。

 

 テッポが軽く身震いをした。

 

「ね、ねえ……なんか聞こえたんだけど……モモンジ、あなたは何か聞こえた?」

 

 モモンジは、戸惑いと恐怖を覚えていた。

 

「は、はい、テッポ殿。なにか、声が聞こえました。声というか、なんというか……も、もしかして、ゆ、ゆうれ……」

 

 モモンジの言葉を最後まで言わせないように、テッポが大きな声を張り上げた。

 

「ゆ、ゆうれっ……? いえ、オバケなんてこの世に存在しないわ! オバケなんて嘘よ! 良いわね!?」

 

 モモンジが答えた。

 

「は、はい、テッポ殿! ゆ、ゆうれ……いえ、オバケなんて嘘ですよね! この世に存在するのはバナナの幽霊だけです!」

 

 テッポが驚いたような声を上げた。

 

「ちょっと、バナナの幽霊って何よ!? 私、そんなことはいま初めて聞いたわ!」

 

 モモンジが答えた。

 

「え、御存じないんですか? フィローネ支部の倉庫跡にはバナナの幽霊が出るそうですよ。昔、失火で倉庫が焼け落ちた時に、中に保管されていたバナナ一万本が真っ黒に燃え尽きて……それ以来、無数のバナナの幽霊がそこら辺を漂うようになったとか……」

 

 テッポが息を呑んだ。

 

「ひぇっ……って、それは嘘よ! そんな話なんて私、信じないわ! 第一、私、そんな幽霊に今までに遭遇したことないし!」

 

 モモンジは首を左右に振った。

 

「それはテッポ殿がマックスドリアンを好んで食べているからでしょう。幽霊もきっとマックスドリアンのにおいが苦手なんですよ」

 

 テッポが怒ったように言った。

 

「あーっ! あなた、マックスドリアンをバカにしたわね……!」

 

 かまびすしく言葉を応酬する二人を置いて、バナーヌは鞘から首刈り刀をスラリと引き抜いた。彼女はただ一人、目の前の闇へ向けて歩みを進めた。

 

 幽霊でもなんでも、とにかく確認する必要がある。彼女はそう思った。敵ならば斬るだけだし、幽霊ならばバナナの神に祈りを捧げれば良い。それで退散するはずだ。以前、ノチがそのように言っていた。

 

 テッポが声を上げた。

 

「あっ、バナーヌ! ちょっと、置いていかないでよ!」

 

 モモンジも言った。

 

「わあ! バナーヌ先輩、待ってくださいよ!」

 

 二人の声を後ろに聞きながら、バナーヌはその闇の中へ足を踏み入れた。

 

 そこにいたのは、彼女にとって予想外の存在だった。

 

「……すみません。もしよろしければ、ここから出していただきたいのですが……ずっとこんなに狭いところに押し込められて、もうお肌はカサカサになるし、ヒレもカチカチになっちゃって……」

 

 バナーヌは思わず息を呑んだ。赤い肌、優美なヒレ、どことなく気品を感じさせる顔立ち……美しい曲線で構成された体格は、普通のハイリア人にどこか似ていながらも、やはりそれとは別の種族であることを強く示していた。

 

 バナーヌは言った。

 

「ゾーラ族?」

 

 ゾーラ族が、なぜこんなところにいるのだろうか? なぜゾーラ族の若い女性が、狭い檻の中に閉じ込められて、捨てられた子犬のような哀れっぽい目つきでこちらを見つめてくるのだろうか?

 

 バナーヌの後ろに、テッポとモモンジが来た。テッポが言った。

 

「……バナーヌ、無警戒に入っちゃダメよ。もしオバケがいたらどうするの……って、ゾーラ族?」

 

 モモンジが言った。

 

「あれ? ゾーラ族の人だ。不思議ですね、なんでこんな辺鄙(へんぴ)なところに?」

 

 ゾーラ族の女性は、静かに口を開いた。

 

「はじめまして……私はゾーラの里の王室直属書記官、フララットと申します」

 

 フララットと名乗るゾーラ族の女性は頭をさげようとして、檻の中で頭をぶつけた。彼女はぶつけた箇所を撫でた。彼女はまた口を開いた。

 

「我らが英明なるシド王子の命を受けて、私はお使いの旅に出たのです。しかし途中で魔物に捕まってしまい、丸二昼夜もここに閉じ込められていました。もしよろしければ、私をここから出していただけないでしょうか。ゾーラ族の名誉にかけて、きっと厚くお礼を差し上げます。三百ルピーとか、ダイヤモンドとか……」

 

 少なくともオバケではないと分かって、テッポは落ち着きを取り戻した。彼女はフララットに対して、丁寧な物腰で話しかけた。

 

「こんばんは、フララットさん。魔物に捕まるなんて、酷い目に遭いましたね。お気の毒に……色々と訊きたいことがありますが、あえて尋ねないでおきます。ねえ、バナーヌ、モモンジ。私としては、この人をすぐに檻から出してあげたいんだけど……ほら、早くしないとサンベがここにやって来ないとも限らないし……」

 

 バナーヌには、テッポの心情が痛いほど理解できた。すでに輸送作戦は当初の計画から大きく逸脱している。この丘の敵を一掃することは果たしたのだから、早く街道に戻って馬車を出発させないといけない。さもなければ荷台の一万本のバナナは腐りきってしまう。なぜこんなところにゾーラ族がいるのか、どういう経緯で魔物に捕まったのか、その詳細を明らかにしたいところではあるが、それは輸送作戦とは関係のないことだ……

 

 バナーヌは、さらに考えた。サンベは、虚栄心の強い男だ。任務を忠実に果たすよりも、何か余計なことをして上役の歓心(かんしん)を得ようとする傾向がある男だ。もしここにゾーラ族がいることが分かったら、「このままカルサー谷の本部に連れていって、コーガ様に献上する!」などと言い出すのではないか。いや、きっとそのように言うだろう。

 

 三人の意見は「なんでよりにもよってこんな時にゾーラ族と遭遇したのだろうか、面倒なことこの上ない!」ということで完全に一致していた。

 

 バナーヌの内心に沿うかのように、モモンジも声を上げた。

 

「テッポ殿に賛成です! はやくこの人を檻から出してあげるのが、作戦遂行にとっては一番だと思います。急ぎましょう。サンベ殿がやって来てロクでもないことを言うかもしれない……」

 

 男の声がした。

 

「俺が、やって来るとどうなんだ? いったいなんなんだ? また悪だくみか?」

 

 ぎょっとして、三人は後ろへ振り返った。そこには、今ここに一番来て欲しくない張本人が静かに立っていた。その手にあるエレキロッドから漏れ出る黄色い魔力が、暗い空間をおぼろげに照らし出していた。

 

 ほどなくしてサンベは、三人が囲んでいるものの正体を見極めた。彼は、喜悦の感情が色濃く反映された甲高い声を張り上げた。

 

「おっ! そこにいるのはゾーラ族のメスじゃねえか! これはすげえ掘り出し物だ! お前たち、でかしたな! まったく、ロクでもない任務だと思っていたが、これでようやく運が巡ってきたっていうもんだ! おい、こいつをここから運び出せ! このままカルサー谷の本部に連れていって、コーガ様に献上するぞ!」

 

 ゾーラ族のフララットは悲鳴を上げた。

 

「ひええっ! 一難去ってまた一難とはこのことですか! もうヤダ、これだから宮仕えは大変なんです……! はあ、こんなことならキャリアウーマンを目指すのではなくて、大人しく父の防具屋を継ぐのでした……」

 

 いつの間にか、雨は止んでいた。カエルの歌声が痛いほどにバナーヌの鼓膜を刺激した。

 

 はたして、本当に自分たちはバナナを運ぶことができるのだろうか?

 

 誰にも聞こえない溜息を吐きつつ、バナーヌは暗澹(あんたん)たる気分に沈んだ。




 三百六十五日ぶりの更新とかマジですか! 冗談きついぜ!
 今年こそは更新頻度を上げていくつもりです……! どうぞよろしくお願いいたします。

※追記 四十八話が二重に投稿されているという謎の事態だったので、いったん削除して上げ直しました。後でまた手直しするかもしれません。
※加筆修正しました。(2023/05/21/日)


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第四十九話 王室書記官フララットの災難

 その時代、その年代において特に知力に優れ、鋭い観察力を有し、数々の偏見から解き放たれている人間が世間一般でいうところのいわゆる「学者」となる。その学者たちが種々の記録を残す。そして、後の時代の優れた人間たちがそれに基づいて歴史を編纂する。この点で、歴史は学問であるといえる。

 

 その一方、歴史には別の側面もある。過去の人間がどのように考え、どのように行動したのか。史料をただ受け継ぎ、編纂するだけではなく、「解釈」を加えることで、歴史というものが新たに生み出されていく。その点でいえば歴史とは、鉱石のように実際に手に取って分析できるような物質的実体を持つものではなく、むしろ解釈という精神的な営みに基づくフィクションであると見做すことができる。

 

 はたして、歴史は学問であるのか、それともフィクションであるのか。

 

 相反(あいはん)する両義性を歴史というものは有している。それでも、歴史をただ単に学問として捉えるだけではなく、フィクションとして見ることには大きな意味がある。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 私たちは「学問」というと、それが無謬(むびゅう)であり、普遍の真実を教えてくれるものと考えがちであるが、一方、フィクションにはある種の虚偽、(こしら)え事が含まれていることを経験的に知っている。そうであろう。例えば、学術書と文学が同じように真実を含んでいると考える者がどこにいるだろうか。文学もまたある種の真実を人間に教えるが、その真実と学術書の教える真実とは自ずから性質が異なる。

 

 それでは、歴史からフィクションは排されるべきなのか? 実は一概にそうとも言えない。歴史を学問として捉えると往々にして、「歴史は変えることのできない真実であるから、それは無批判に継承されるべきだ」と考えてしまう。それに対して、「歴史はフィクションであり、ある種の虚偽を本質的に含むものである」と捉えると、そこには思考と解釈の余地が生まれる。

 

「そこに語られている物事には、虚偽が含まれていないか?(いや、おそらくは含まれているはずだ)」、「その時代の人間はそのように考えたが、そこに誤解はなかったのか?(むしろ誤解だらけなのではないか)」、「歴史はこのように語るが、実際のところどの程度まで真実が述べられているのか?(まったく真実が述べられていないかもしれない)」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。人間の知力や思考力というものは、まさに疑うという行為から発し、疑うことによって鍛えられ、増大していく。

 

 絶対的な規範や正統性を被支配者へ強制する支配者たちにとって、学者や知識人たちがことさらに疎ましいものとして感じられるのは、彼らの知力や思考力がまさに疑うという精神によって生み出されているからである。ひとたび疑われれば規範や正統性は絶対性を失い、支配者たちの論理は足元から掘り崩される。一方で、被支配者たちは自由へと歩を進めることになる。

 

 どの程度まで自覚的であったのかは分からないが、代々の支配者たちはこの歴史の両義性をよく認識していた。彼らは歴史の学問的な側面を重視し、利用し、自らの支配に役立てた。しかし逆説的なようだが、支配者たちがそのようにしたのは、歴史というものがフィクションとしての側面を持つものであると、彼ら自身がよく理解していたからである。

 

 支配者たちは被支配者たちが疑い、考えることを望まない。支配者たちは必ずといって良いほど、その時代における最高の頭脳を集めて、自らの歴史を作り上げたものだった。それは、歴史によって自らの支配の正統性を裏打ちするためであった。疑う余地のない学問としての歴史をあらかじめ提示することで、批判的精神と、それによって生まれる自由を封じようとしたのである。

 

 そうであるからして、彼らはその歴史を、疑う余地のあるフィクションとして見なされるのを嫌う。支配者たちにとって、歴史は絶対的なまでに疑いようのない「真実の体系」でなければならない。

 

 いや、実のところをいえば、支配者たちにとって、歴史の両義性などどうでも良いことだった。彼らにとって重要なのは、被支配者たちが歴史を「真実の体系」であると思い込むこと、その一点だけだった。そうでなければ君臨し、統治することができない。彼らはそのような歴史を作り上げることに血道を上げ、最初期の段階ではかなりの程度、それに成功した。

 

 ハイラル王国が生まれて時間が経ち、民の数が増加し、次第にその領域を拡大していくにつれて、この歴史という問題は支配者たちの頭を悩ませるようになった。

 

 なぜかといえば、国土の拡大につれてハイリア人以外の異民族との接触が増加したことで、被支配者たちが支配者による歴史を疑うようになったからである。ハイリア人の被支配者たちは異民族たちと交易し、交流し、文化と思想を交換した。その結果として、被支配者たちは自分たちが信じている既存の歴史と異民族たちのそれとが、大きく異なっていることを知った。

 

 例えば、ゴロン族である。当初ハイリア人にとって、ゴロン族は「知的なる人々」だった。ゴロン族は一種の岩石生命体であり、見ようによってはイワロックやイシロックと変わらない。ゴロン族は岩を食べ、溶岩に湯浴(ゆあ)みし、高熱に耐える。ハイリア人とはまったく異なる身体能力と生態を持つゴロン族がどうして知的な種族として見なされていたかと言えば、それは単純に、王国の歴史において一番初めに登場するゴロン族たちが学者だったからである。

 

 ハイラル王国の歴史において最初に登場するゴロン族の名は、マルゴとケンブンの二人である。マルゴは考古学者であり、ケンブンはその弟子であったといわれている。マルゴは魔物が支配する地上をくまなく歩き回り、女神の残した遺産を発掘し、伝承と照らし合わせた。彼はその労苦を厭わぬ数々の研究によって勇者を導いた賢人とされている。ケンブンもまた考古学者であったが、彼は頭脳派のマルゴとは異なり、主に発掘作業に従事する肉体派であったとされる。

 

 ハイリア人たちは長らくこのことを信じ、「ゴロン族とはおしなべて知的であり、研究に従事し、新たなる知を生み出す種族である」と見なしていた。

 

 ところが、ハイラル王国の支配領域が拡大し、今までは遠く眺めるに過ぎなかった噴煙たなびくデスマウンテンの(ふもと)にまでハイリア人たちが居住するようになると、彼らは自分たちの歴史と、実際のゴロン族との間の甚だしいまでの相違について違和感を覚えるようになった。ゴロン族の中には、確かに採掘技術の発明に寄与するような知的な者たちもいたが、大半は気が荒く、頭脳よりは腕っぷしの強さを誇るような、直情(ちょくじょう)径行(けいこう)型の性格をしている者たちだった。

 

 初めの頃、ハイリア人たちは文字と文書をもってゴロン族たちと交渉をしようとした。王国の歴史によれば、ゴロン族は知的な種族であるはずだった。しかしゴロン族たちは文字を解することはなく、ツルハシを振り上げて「つべこべ言うなゴロ、欲しいのならいくらでもその宝石(マズい石)を持っていけば良いゴロ」と言い放った。

 

 ゴロン族たちは文字だけではなく、計算というものすら知らなかった。彼らはただ肉体を動かすことだけが目的であるかのように採掘作業に従事していた。その暮らしぶりはあまりにも学者的なイメージからかけ離れていた。ハイリア人たちは驚くと同時に、自分たちの歴史に疑いを持つようになった。

 

 疑いようのない真実の体系である歴史が、今や疑われるようになった。歴史の検討は、ハイリア人とゴロン族、その両者の言い伝えを比較することから始まった。ハイリア人の商人にして著述家であったカナマナドは、貧弱な装備にもかかわらず高温地帯を単身で突破し、ゴロンシティに独力で辿り着いた先駆者の一人だった。彼はゴロンシティにおいて、ゴロン族に対し綿密な聞き取り調査を行った。

 

 彼の関心の焦点はもちろん、ハイラル王国の歴史において「賢人」として讃えられているマルゴとケンブンが、当のゴロン族においてどのように伝承されているかということにあった。

 

「その結果は実に驚くべきもので、ある種の落胆すら感じた」と、カナマナドはその著『ゴロン族の歴史序論』において述べている。彼によれば、マルゴとケンブンは「ゴロン族にとってはほとんど忘れ去られた人物」であり、その代わりに同年代の人物として「トロゴ」なる者が記憶されていたという。

 

 彼による聞き取り調査によると、ゴロン族にとってマルゴは採掘作業に従事しない「怠け者」であり、ケンブンはマルゴほどではなかったにせよ「真なる意味で『掘る』ことを知らない愚か者」であったが、トロゴは「初期の偉大なる技術者にして健全なる肉体労働者」であった。

 

 トロゴはゴロン族の中で初めて「機械の威力」を正しく認識し、それを「トロッコ」という形にした。「トロッコ」という現在私たちが知っている乗り物の名前は、まさしくトロゴに由来するという。トロッコを発明したトロゴは当初、自らそれを生み出しておきながらそれを有効に活用する方法を知らず、ハイリア人相手の遊戯設備(アトラクション)として提供していたが、やがて彼は重量物の運搬という利用法を思いつき、デスマウンテンの採掘現場へと導入した。その際、トロゴは自ら溶鉱炉を建造して鉄のレールを作り上げ、ハンマーを振るってレールを敷設(ふせつ)したという。このゆえにトロゴはゴロン族の間で「偉人」として伝承された。

 

 カナマナドは、ハイラル王国とゴロン族との間でなぜこのような違いが生じてしまったのかについて考察を述べている。彼が言うには、「おそらく決定的な要因は、神官や貴族たちといった、ハイラル王国の支配者たちの側にある」 なぜなら、「王国開闢(かいびゃく)の祖の一人である勇者の歴史こそが王国にとっては重要であり、ゴロン族もその点においてのみ歴史に登場する意味がある」 マルゴとケンブンは、ゴロン族の中では明らかに異端者であった。異端者であったからこそ、勇者という外部の人間と接触することができた。

 

「勇者と交流した岩石の種族は、()()()()()()()()()()()『善良で、勤勉で、なにより知的な者として』記録されねばならなかったのだ」とカナマナドは述べる。「光輝溢れる勇者と関わりを持った異種族が、文字も数も知らない野蛮な種族であっては不都合が生じるからである」

 

 挑戦的ともいえるこの考察のゆえに、カナマナドは王国から追われた。彼は終生ゴロンシティに住むことを余儀なくされた。

 

 その悲劇的な末路にもかかわらず、カナマナドはハイラル王国における比較歴史学の先駆者となった。その後、多数の追従者がカナマナドと同様の手法を用い、ハイラル王国の歴史を再検討し、解体し、新たな知を生み出していった。例えば、リト族の歴史を研究したブリーオ、ゲルド族の伝承を蒐集したタクカス、ゾーラの里に住み込んで研究を続けたサイタンボなどが挙げられるだろう。

 

 支配者はこの動きに対抗し、御用学者や神官を用いて新たな歴史を生み出した。被支配者側に立つ研究者たちはまたその歴史を批判し、解体していった。もはや歴史は学問と呼べるほどには真実を含んでいるとは言えず、かと言ってフィクションであると言い切れるほど拵え事のみによって構築されているものでもなくなった。

 

 歴史は両義性を超越し、絶えず検証され、更新され続けるものとなったのだった。

 

 サイタンボによる研究は、その意味で注目に値する。ゾーラ族の由来に興味を持った彼は、ハイリア人によるものとゾーラ族によるものとの区別をつけず文献を集め、聞き取り調査を行い、ゾーラの里周辺に多数設置されている墳墓や石碑に刻まれている碑文を丹念に写し取った。

 

 彼は研究活動において、まずゾーラ族たちとの友好関係を深めることを決意した。彼は服装から食生活に至るまで、すべてを「ゾーラ化」したという。彼は川魚を生で食し、川魚の皮によって作られた服を着用した。その精力的な活動がゾーラ族の元老院に認められ、彼はゾーラ王族所蔵の古書・稀覯本(きこうぼん)を参照することが可能になった。それが彼の研究に大いに寄与したことは言うまでもない。

 

 サイタンボはハイラル王国の歴史が語るところのゾーラ族の由来に対して、大胆に異論を唱えた。王国の歴史はゾーラ族の由来を、いわゆる「川ゾーラ」に求めていた。川ゾーラは現在のゾーラ族とは似ても似つかない容姿を持つ。巨大な眼球と鋭い牙を持つ凶暴な顔つきをした、口から火球を吐く水棲(すいせい)の種族である川ゾーラは、川沿いを歩く人間を襲ってはその肉を食らうという、ほぼ魔物と言っても過言ではない存在とされていた。

 

 川ゾーラは、サイタンボの時代においては遥か昔に絶滅した種族だったが、王国の歴史はこの川ゾーラから現在のゾーラ族が生まれたと記述していた。サイタンボはゾーラ族を愛する者として、義憤を覚えたようだった。

 

 記述を検証したサイタンボは、「川ゾーラから現在のゾーラ族が生まれたという説は完全に誤っている」と結論づけた。彼は、「(そのような説は)かつて川沿いに居住していた土着のハイリア人系水賊とゾーラ族とを混同したもの」であり、「その混同はある程度意図的なものであった」とする。

 

「水運と治水において古来より傑出した能力を持つゾーラ族の由来をあえて(おとし)めることで、ハイラル王国は歴史的・思想的にゾーラ族に対して優位に立とうとした」と彼は論じている。

 

 さらに続けて、彼は、「そもそも川ゾーラなるもの自体が存在しない可能性もある。川ゾーラの最たる特徴である『火球を吐く能力』を、現在のゾーラ族はその片鱗すら有していない」と述べた。「このことから見ても川ゾーラを現在のゾーラ族の祖であると見なすのは、政治力学的に構築された虚構(フィクション)に過ぎない」

 

 ここまでは見事な考察といえた。では、ゾーラ族の真なる祖先は何か? ここでサイタンボは、王国の歴史研究者の間で物議を醸すことになる、ある大胆な仮説を提示した。

 

 彼は言った。「ゾーラ族の祖先はクラゲである」

 

 そのクラゲは「名前をパラゲ族と言い、王国開闢の頃にフロリア湖に棲息していた」と彼は述べる。「パラゲ族は水中を自在に泳ぎ回る力を持ち、水龍を神として崇め、独自の祭儀体系を有するほど知能が高かった……(中略)……年月の経過による地形変動によってフロリア湖の水中から出て生活することを余儀なくされると、パラゲ族は地上を歩けるように独自に肉体を変化させ、手足を持つようになった」

 

 このことは「ゾーラ族の王宮に所蔵されている資料に明記されている、疑う余地のない歴史的事実である」と彼は断言した。

 

 この仮説に対し、神官らといった支配者側だけでなく、研究者たちからも反論が巻き起こった。研究者たちの見解はそれぞれ異なっていたが、ある一点においては共通していた。それは「その王宮資料によってゾーラ祖先パラゲ族説が立証されているのならば、その資料を検証可能なように公開せよ」ということだった。

 

 サイタンボはこれを拒絶した。「私がかの資料を参照することができたのはひとえに私がゾーラ族との間に(つちか)った友情によるものであり……(中略)……ゾーラ(キング)は私と結んだ交誼(こうぎ)のゆえに私に王宮秘蔵の資料を見せたのであって、それはハイリア人一般に公開できる性質のものではない。あえて検証の場に供する必要を私は認めない」

 

 これは無理のある反論だった。第三者による検証が不可能な学説を、学説と認めることはできない。サイタンボの時代では既に、歴史研究における検証可能性は共通認識となっていた。それでもサイタンボは自説を曲げなかった。研究者たちから半ば追放されるような形で王国を離れた彼は、その後ゾーラの里に改めて居を定め、そこで死んだ。

 

 後の時代、歴史研究における自由の重要性を説いた思想家ミナハズキは、以下のようにサイタンボの研究を総括している。

 

「要するに、サイタンボは王国によって強制された歴史を覆し、その正統性に疑義を呈そうとして、かえって別の陥穽(かんせい)(はま)り込んでしまったのだった……(中略)……彼はハイラル王国の権威を憎み、そこから自由になろうとするあまりに、ゾーラ王族という権威に対して無邪気なまでに無批判だった。彼が深く信頼し、そして参照したゾーラ族による歴史もまた、ゾーラ王族がその支配と権力の正統性を裏打ちするために構築したものであることを、彼は意識していなかった……(中略)……彼は自由を得ようとして、自ら別の牢獄へ入り込み、結局出られなかった」

 

 ミナハズキによれば、このような例はなにもサイタンボに限ったものではないと言う。

 

「歴史というものは、ハイラル王国に限らず、リト族とゴロン族、ゲルド族やゾーラ族においても、なにかしらの権力によって生み出される。歴史が権力によって生み出されるフィクションである以上、歴史に対してだけではなく、歴史を生み出す権力そのものに対しても考察と批判を重ねないことには、私たちは自由を得ることができない。支配者の権力によって安全な生活がもたらされ、生命の保証がなされている現代においては、それは一層重要である」

 

 彼ははっきりと言う。「庇護と安寧を約束する権力を振り払って、私たちは自由の荒野へと踏み出さねばならない」

 

 今や王国は燃え尽きた。権力は消滅し、支配者と被支配者という力関係も消え去った。私たちはみな、自由の荒野を旅している。歴史に両義性があることなど、もはや誰も意識していない。かつて最高の知能を持つ者たちが精魂を傾け、ただ真実へ近づくために努力した歴史は、いまや(かび)に覆われ、廃墟に打ち捨てられた本の中にしか残っていない。

 

 だが、なにもかもが失われたからこそ、新たなものが生み出されるということもある。歴史は消滅しつつあるが、知恵ある者たちはいつの時代にも生まれてくる。自由を求める者もまた同様である。彼らは彼らだけの、彼らの時代ならではの歴史を生み出そうとしている。彼らは自由の荒野で灼熱の太陽に焼かれることを恐れたりなどしない。

 

 それでもなお、自由の荒野を憎み、仄暗い洞穴の中で太陽を呪う者たちも依然として存在する。

 

 彼らは支配を望んでいる。支配を確実にするような、絶対的な「真実の体系」としての歴史を、彼らは後生大事に守っている。

 

 おそらく、彼らの歴史書は黄色の表紙を持っていることだろう。そう、おそらくそれは()()()()()()()()()であるはずだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 山紫(やまむらさき)に水清きラネール地方はハイラルの東部に位置している。その地方の峻険な山々の地肌は、夜光石を含んで妖しくも美しい輝きを放っている。青く清き水を絶えることなく大地に注ぐ、慈母の如きゾーラ川は、ベールのような濛気(もうき)を常に立ち昇らせて、その地に住まう善良な生き物たちを守っている。

 

 豊富な水量を誇るゾーラ川には、無数の魚たちが群れて泡と共に歌う。緑の針葉樹林に覆われた山と谷には獣たちが悠々と闊歩する。時折雷鳴を伴って激しく降りしきる雨を浴びて、カエルたちは生命の讃歌を合唱する。虫たちは驟雨(しゅうう)の後にやってきた優しい日差しを受けて、その小さな(はね)を宙に踊らせる。

 

 幾重にも張り巡らされた水蒸気のベールを掻い潜り、人の侵入を拒むかのような険しい山道を越え、時には流れ速き川を渡り、目も眩むような高所を進んで、ようやくラネール地方の中心部に辿り着くことができる。

 

 まず、旅行者の目につくのは夜光石を彫刻した優美な造りの長い橋であろう。その橋を渡り、ひとたびそこへ足を踏み入れれば、旅行者は驚嘆の念を禁じ得ないであろう。ルピーに換算したならば、おそらくは億兆に達するであろう壮麗な大建造物が、その目の前に現れる。この場所こそ、ゾーラの里である。

 

 ゾーラの里は、様々な都市機能を有している。まずもってそこには、ゾーラ族の(キング)御座所(ござしょ)を定める王城がある。そして、その忠実な臣民たちが夜に憩うプールがあり、屈強な兵士が槍を磨きつつ(たむろ)する兵営がある。元老院があり、託児所があり、学校があり、工房があり、商店があり、宿屋がある。そのすべてが夜光石によって造られており、一流の石工職人によって彫刻が施されている。

 

 ゾーラの里は、ゾーラ族そのものであると言えた。繊細にして豪壮であり、優美にして力強さを誇る。そこはまさしく水の都だった。

 

 ゾーラ王室直属の書記官であるフララットが生まれたのも、当然のことながらこのゾーラの里においてであった。

 

 フララットはかの大厄災から数年後に、防具屋の一人娘としてこの世に生を受けた。寡黙で、日々職人としての仕事を果たすことに専念している父と、防具屋の店員と会計役を兼務する母は、一般に愛情深い性格を持つとされるゾーラ族の例に漏れず、娘であるフララットに多くの愛を注いだ。

 

 幼い頃のフララットは、ごく大人しい性格をしていた。他の同年代の子どもたちがグループを作り、棒を振り回して走り回ったり、水に飛び込んで歓声を上げて泳ぎ回ったりしても、フララットはそれに加わることがなかった。誘われれば一緒にごっこ遊びに興じたし、泳ぎの勝負を挑まれれば拒否することもなく素直に応じたが、彼女が自分から、何かしら他の子どもたちに働きかけることはなかった。

 

 それは、彼女の知的能力が他の子どもたちに比して高かったためであろう。頭の良い彼女は、遊ぶことよりも、学ぶことのほうが好きだった。同年代の子どもたちと一緒になって遊ぶことも学びの一種であるが、彼女にとっての学びは唯一、本を読むことだけだった。彼女は本を愛していた。

 

 フララットは美しい声をしていた。それは透き通るような、聞く者の心を安らかにさせる優しい声だった。彼女の父と母はその声を好んだ。父は毎日、背を曲げて黙々と板金(ばんきん)を曲げたり、素材を染めたりして防具を作っていたが、仕事が佳境に差しかかると幼いフララットを呼んで、本を音読するように頼むのだった。

 

 毎回のように、ゾーラ族の英雄譚が読むものとして選ばれた。その職業柄ゆえか、父はそういったテーマを気に入っているようだった。フララットは父を喜ばせようと、いつも真剣な面持ちをしつつ本を開き、ページをめくった。彼女は全身全霊を込めて、その美しい声で英雄たちの物語を読み上げた。読めない箇所や、言い間違いなどがあると、横から母がそっと小声で正しい読み方を教えた。

 

 いつも穏やかな空気が防具屋に満ちていた。フララットの幼少期は、確かに幸せそのものだった。

 

 フララットの音読を聞いた父は、決まって作業の能率を上げた。そのようにして出来上がった防具は、非常に品質の高いものだった。だが、買い手は常に少なかった。父が主に作っていたのは、「ゾーラのすねあて」と呼ばれるものだった。ゾーラ族の兵士は軽装であり、鎧といっても簡単な胸甲しか身に着けない。無論、すねあても着用されることはなかった。重装備は水中での機動力を妨げるからであった。すねあてはゾーラ族にとって無用の長物といえた。

 

 そのすねあてがなぜ作られていたのかといえば、それがゾーラの里を訪れるハイリア人によく売れたからであった。遥か昔、ゾーラ族とハイリア人とが協力して巨大なダムを建造した時、その友好の証としてすねあてが作られた。その歴史的経緯ゆえに、すねあてはハイリア人が里を訪れた際に必ず購入する、いわば目玉商品となった。ゾーラの里の兵士たちに需要がなくとも、ハイリア人を相手にしていれば防具屋は決して廃れることがないはずだった。

 

 だが、大厄災がすべてを変えてしまった。大地には魔物が蔓延(はびこ)るようになり、ゾーラの里を訪れるハイリア人はめっきりとその数を減らした。フララットの父の防具屋に客が訪れることは稀になった。

 

 時折、父はフララットに愚痴をこぼした。

 

「昔はうちの防具屋も繁盛していたゾラ。ハイリア人の変わり者の研究者、サイタンボが、本の中でうちの店を紹介して、『ゾーラのすねあてを買うならばこの店以外はあり得ない』とまで言ってくれたゾラ。『引きも切らずに客が訪れたもんだ』と、父さんの曾祖父(ひいじいちゃん)がよく自慢していたゾラ……」

 

 防具屋の経営は思わしくなかったが、両親はフララットを学校へやって学問を積ませることにした。むしろ、防具屋の先行きが見えていたからこそ、両親は娘を別の道に進ませようとしたのかもしれなかった。

 

 学校でフララットはよく勉強をした。彼女はますます本を読んだ。彼女の成績は抜群で、特に歴史と音楽において秀でていた。彼女は歌も上手かった。

 

 学校を卒業する時、フララットはドレファン王から賞状とメダルを授与され、「王宮直属の書記官として勤務せよ」との御沙汰(ごさた)を賜った。彼女に否やはなかった。本当のところをいえば、彼女は学校を終えた後も在野の研究者として歴史を研究したいと思っていた。だが、その一方で、キャリアウーマンとして生きていくのも悪くないと彼女は思った。

 

 また、家の経済事情が彼女の進路に影響した。彼女が学校を卒業する数ヶ月前に、父が防具屋を閉店すると言い出したのだった。

 

 その日、学校の寄宿舎から帰ってきたフララットに、父は「もう防具屋は閉じるゾラ」と言った。彼女は特に驚かなかった。彼女は経営状況が危ういことを母から聞かされていたし、父の仕事への熱意が年々冷めつつあるのを娘として敏感に悟っていた。

 

 彼女はむしろ喜んだ。窮屈にヒレを折り畳んで実りのない仕事を続けるのは父の心身の健康にとって良くないことだと、彼女は常々思っていた。彼女は、父が思い切って防具屋を閉じるのは英断であるとも感じた。

 

 父は言った。

 

「在庫は全部売り払うことにしたゾラ。売れるかどうかは分からんが……金にはなるだろう。代々続いた店を自分の代で閉じるのは心苦しいゾラ。しかし、このまま借金まみれになってヒレが曲がらなくなるよりは、思い切った決断をしたほうが良いと父さんは思うゾラ」

 

 父の隣に立っていた母が頷いた。

 

「ええ。それに店舗と土地も売れば、借金も返済できて、お釣りがくるゾラ。だからフララット、おうちのことは心配しなくても大丈夫ゾラ。私とお父さんの二人が今後も慎ましく生きていく分だけのお金は確保できるゾラ」

 

 父と母が娘を見つめる視線には、力が込められていた。その目の輝きを見て、フララットは両親が気休めや嘘を言っていないと確信した。

 

 それでも、彼女には娘として言わなければならないことがあった。

 

「でもお父さん、お母さん。これからは何をして暮らすの? お金の心配は要らないと言っても、やっぱり仕事はした方が良いと私は思うわ」

 

 父は仕事一筋のゾーラだった。そんな父が仕事をしなくなったら、急速に耄碌(もうろく)するかもしれない。今までずっと父は父のままだとフララットは思っていたが、こうして改めてその顔を見ると、老いが確実に父へ忍び寄っているのを彼女は感じた。

 

 やはり何かしらの仕事は続けた方が良いのではないか? 彼女が懸念していることは、まさにそれだった。

 

 気遣うような娘の言葉に、父は突然表情を明るくさせた。そして常にないことに、胸をどんと叩いて言った。

 

「それについては心配は無用ゾラ。父さん、これからは『ヒッププ=ホップル』で()っていこうと思うゾラ!」

 

 父の言ったことをフララットが理解するのに、数十秒かかった。やがて、彼女は震える声で尋ねた。

 

「……えっ? 何? お父さん、今なんて言ったの……?」

 

 父はまた胸をどんと叩いた。その顔には笑みが浮かんでいた。どうか自分の聞き間違いであって欲しい。そう思いつつもフララットは、自身の鋭敏な洞察力が父が次に言うであろう言葉を正確に予想しているのを自覚していた。

 

 父はまた言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 寡黙な父が妙に多弁になって、娘に対して熱く「ヒッププ=ホップル」について語り始めた。

 

 曰く、「ヒッププ=ホップル」は古代シーカー族が発明した音楽の一形式で、既存の権威から自由になるためのいわば「総合的な芸術による抵抗」としてかつて流行したものである。()んで()ねる激しい舞踊(ブレイクダンス)と、「ラププ」というリズミカルな歌唱、色彩に富んだ路上絵画(ストリートアート)、その場面の演出(ディージェー)などの四つの要素からなる、単なる音楽に留まらない豊かな表現内容を持つ「ヒッププ=ホップル」は、時の支配者たちによる度重なる弾圧にもかかわらず若者の間で人気を博し、ある歴史書が伝えるところによればかのローム・ボスフォレームス・ハイラル王も耽溺したという……

 

 思わずフララットは口を挟んだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってお父さん!」

 

 その話の内容の突飛さよりも、父がまるで別種の生き物になったかのような変貌ぶりが、彼女には恐ろしく感じられた。

 

 語りを強制的に中断させられた父は露骨に不満そうな顔をした。

 

「なにゾラ? なにか質問があるかゾラ? あっ、ハイラル王がどんなラププを刻んだか気になるのかゾラ? それは……」

 

 フララットは言った。

 

「ち、違うわ! そうじゃなくて、その……あの……」

 

 フララットは俯き、そして思案した。明らかに、父は何かとんでもない方向へ進もうとしている。かつて隆盛を誇ったと父が言う「ヒッププ=ホップル」なるものがどういうものかは、学校でよく歴史を学んだ彼女も知っていた。跳んだり跳ねたり回転したりして、奇妙な節回しで歌を歌うという「ヒッププ=ホップル」は、どう考えても若者固有のものであって、父のような年齢の者がやるものではないと彼女には思えた。

 

 フララットは父に言った。

 

「お父さん、たしか『ヒッププ=ホップル』は激しい動きをするのよね? 跳んだり跳ねたりして」

 

 父は頷いた。

 

「そうゾラ」

 

 フララットは尋ねた。

 

「お父さん、ダンスに自信はあるの?」

 

 父は答えた。

 

「もちろんあるゾラ。お前は知らないだろうが、父さんダンスは得意ゾラ。昔は暇さえあれば踊り狂ったものだったゾラ。実は母さんを射止めたのもダンス会場だったゾラ……」

 

 フララットはまた尋ねた。

 

「じゃ、じゃあ……歌の方は?」

 

 父は答えた。

 

「歌はあまり歌わんが、そのことについても懸念には及ばんゾラ。フララット、お前は本当に良い声をしているし、歌も上手い。だからその親である俺にも、きっと歌の才能はあるゾラ。それに、下手だったとしても練習すれば良いだけゾラ」

 

 フララットは言った。

 

「『ヒッププ=ホップル』の伝統は途絶えて久しいと聞くわ。お父さん、実際のところ『ヒッププ=ホップル』がどういうものなのか、ちゃんと知ってるの?」

 

 父は答えた。

 

「それは目下(もっか)のところ研究中ゾラ。ちゃんと本を集めて調べているから、そのうち全容が明らかになると思うゾラ。それにお前は歴史が得意ゾラ。だから、父である俺にも歴史の才能がきっとあるゾラ。良いか、『ヒッププ=ホップル』は王国や部族の支配者たちによって弾圧を受けながら、かえってそれが形式の洗練と深化を生んだ。例えばゲルド族の……」

 

 フララットは大きな声を上げた。

 

「ちょ、ちょっと待ってお父さん! ストップ、ストップ!」

 

 語りを強制的に中断させられた父はまたもや露骨に不満そうな顔をした。

 

 思った以上に固い父の決意を目の当たりにし、フララットは愕然とした。どうやら、父は父なりに真剣に「ヒッププ=ホップル」について研究を重ねているらしい。フララットは自分の表情が固くなるのを感じた。

 

 熱意があっても、それだけで父と母の二人が今後も食べていけるとは思えない。老年に差し掛かった父がいまさら芸術の道を志しても、到底成功できるとは考えられない。

 

 いや、そうではなく……なんかこう……

 

 とにかく「ヒッププ=ホップル」だけはやめて欲しい! 彼女の思考はまとまりを欠いていたが、その思いだけは明白だった。

 

 自身のうちに湧き起こった理由のない強烈な抵抗感を分析することができず、フララットは顔を曇らせた。彼女は顔を上げて自分の母を見た。母は現実感覚に富んだ性格をしているから、きっと父を止めてくれるに違いない。そう思って、フララットは母へ視線を送った。

 

 だが、母が奇妙なまでに明るい表情を浮かべているのを見て、彼女の思いは脆くも打ち砕かれた。母は言った。

 

「どうしたゾラ、フララット? お父さんのお話を遮っちゃ可哀想ゾラ。最後まで聞いたほうが良いゾラ。お父さん、仕事の合間に本をたくさん読んで、『ヒッププ=ホップル』の歴史の研究をしていたんだから……」

 

 フララットは唖然とした。どう見ても母は父の味方をしている。自分が何を言ったところで、この二人は聞こうとしないだろう。

 

 しばらく、沈黙が三人の間に満ちた。父は話を再開したくてうずうずしているようだった。母はそんな父に慈しみに満ちた目を向けていた。

 

 生来優しい性格をしているフララットは、なるべく良い方向で「父が『ヒッププ=ホップル』で食べていくこと」について考えることにした。

 

 ゾーラ族は「食っていく」ことに関してあまり気を遣わなくて良い種族である。フララットはその明晰な頭脳で論理を組み立て始めた。川に行けば魚がいくらでも捕まえられるから食費に関しては問題ない。店舗は売り払うことになるが、持ち家ならばある。もし家を失うことがあっても、里中央に設けられている共同のプールはいつでも住民を受け入れている。その他に必要となる雑費に関しても微々たるものだ。

 

 こう考えると、たとえ父が「ヒッププ=ホップル」で成功しなくても、食っていくことは充分に可能なのではないか?

 

 フララットは改めて父を見た。彼女が見ていることに気付くと、父はにこやかな顔をした。口の端に小じわが寄っていた。青色の(うろこ)もくすんで錆びたような色をしていた。

 

 ここに至ってフララットは、自分の抱いた抵抗感の根本的な理由を見つけ出した気がした。たぶん自分は、父がその年齢に似合わず、未知なる世界へ踏み出していこうとするのが不安だったのだ。父は自分だけの歴史を自由に探究し、それで新しい人生を始めようとしている。それが心のどこかで心配でもあり、また羨ましくもあったのだろう。

 

 自分は他の女の子たちと比べて、精神的に成熟しているほうだと思っていた。だが、それは違ったようだ。自分もまた普通の小娘のように、父はいつまでも父であって欲しいと思っていたのだ。フララットは自分の顔に笑みが浮かんだのが分かった。父が今までの父でなくなり、新たな父になる。それを今や受け入れねばならない……

 

 彼女は父に言った。

 

「えっと……その、良いと思うわ。お父さんが『ヒッププ=ホップル』で食べていくの。素敵なことだと、私は思う……」

 

 父は答えた。

 

「本当かゾラ!? お前もそう思うかゾラ!?」

 

 喜色満面の父に、フララットはことさらに力強く頷いた。

 

「お父さんだけの『ヒッププ=ホップル』を自由に追い求めて欲しい。私、応援しているわ」

 

 その後、研究の成果だと言って「ヒッププ=ホップル」を披露し始めた父を見て、フララットは、やはり自分が先ほど覚えた抵抗感を大切にすべきだったのではないかと思った。

 

 床の上で呪文のような何かを口にしながら跳ね回る父は、断末魔の苦しみにのたうち回るツルギゴイのようにしか見えなかった。呼吸が苦しいようで、父は口をパクパクとさせていた。

 

 そんな父を、母は慈愛に満ちた目で見ていた。フララットは悄然(しょうぜん)として寄宿舎へと帰った。数ヶ月後に彼女は学校を卒業した。

 

 王室書記官になってから、フララットは忙しいながらも充実した日々を送っていた。彼女はその精勤ぶりにより、特に英明なるシド王子の信任を得た。

 

 父と母はすでにゾーラの里を離れていた。「ハイラルの各地方に残る伝承を集めて、『ヒッププ=ホップル』の在りし日の姿を再現するゾラ!」と言い残し、両親はいつ終わるとも知れない旅へと出たのだった。

 

 それは決して、ゾーラの里で「ヒッププ=ホップル」が受け入れられなかったからではないゾラ。父はそう言った。ゾーラの英傑ミファー様の石像の前でゲリラ的に「研究の成果」を披露した時、医者と衛兵が同時に呼ばれたのは、「ヒッププ=ホップル」がまだ未完成だったからであって、決して正気を疑われたわけではないゾラ……事件の後、フララットは数日間寝込んだ。

 

 優秀なる王室書記官として認められ、強いて何かを忘れ去ろうとしているかの如く日々仕事に没頭していたフララットが旅を命じられたのは、つい先日のことだった。

 

 シド王子は彼女に、ハイリア湖畔にある「(みずうみ)研究所」へ、ある資料を持っていくように命じた。それはかつてゾーラ族の研究者がハイリア人と共にまとめた、果実栽培用の新型魚粉肥料に関する分厚い論文だった。これが実用化されれば、果実の収穫量が数割増しになると予想された。特に、ツルギバナナの栽培に効果的であるとのことだった。

 

 シド王子は以前より研究所と書簡を交わしており、今回、王宮図書館に収蔵されていたその貴重な論文を提供することにしたのだった。

 

 ですが、メッセンジャーならば私の他に適任者がいます。屈強な兵士が川を泳いでいけば、ほんの数日で用事は終わることでしょう。そのように彼女は意見を具申した。だが、シド王子は「君には休養が必要だ! この際だから思いきりヒレを伸ばしてくると良いゾ!」と、白く美しい歯を見せて答えた。

 

 フララットは一人で行くことにした。シド王子はありがたくも「護衛を付けるゾ!」と(おお)せになった。だが彼女は、たかだか資料を一つ運ぶのにそれは大袈裟過ぎるでしょうと固辞した。

 

 本当のところ、彼女は一人になりたかった。護衛の兵士と一緒に旅をすると、たぶん気疲れする。彼女はそう思った。それに、彼女はこの際だから自由にハイリア湖周辺の史跡を見て回りたかった。

 

 王宮勤めは安定した生活を彼女にもたらしたが、仕事は彼女の趣味である歴史研究の時間を奪っていた。職務のついでとして、自分の好きなことをしよう。それが「ヒレを伸ばす」ことになる。そうであるなら、自分が一人で旅をすることは王子の御意にも(かな)うことだ。たぶん。彼女はそのように考え、旅装を整え、ゾーラの里を出発した。

 

 旅は順調だった。道中、彼女が危険な目に遭うことはまったくなかった。川の中にいる限り、陸上にいるボコブリンだのモリブリンだのといった敵は恐れるに値しなかった。リザルフォスや水オクタといった水棲の魔物と遭遇しても、ゾーラ族の泳ぎの速さならば簡単に振り切ることができた。

 

 フララットはゾーラ川を下ってラネール湿原を通り抜け、北へ泳いでハイリア川に達し、また南下して、やがてハイリア湖に辿り着いた。目まぐるしく変わる景色を楽しみ、時折川から出て遺跡を探索しながら、彼女は自分の精神が解き放たれていくのを感じていた。

 

 それも、ハイリア湖に辿り着くまでのことだった。(みずうみ)研究所は完全に崩壊していた。呆然として廃墟の前に立ち尽くしていた彼女が、後ろでブヒブヒという醜悪な鼻息が聞こえると思った時には、もう遅かった。彼女は魔物に捕らえられた。彼女は頑丈な木の檻に閉じ込められてしまった。

 

 数日間も檻の中にいたフララットは、全身がコチコチになっていた。だから、闇の中で黄金のような(きら)めきが出現した時、彼女は、ついに自分に救済が訪れたと胸を震わせた。その煌めきは、一人の女性の金髪から発していた。

 

 それゆえに、単に自分の身柄が魔物から新たなる正体不明の敵へと移ったに過ぎないことが判明した時、彼女が覚えた落胆の度合いは著しかった。

 

 雷に打たれたヤシの木のような変わった髪型をした敵が言った。

 

「おっ! そこにいるのはゾーラ族のメスじゃねえか! これはすげえ掘り出し物だ!……おい、こいつをここから運び出せ! このままカルサー谷の本部に連れていって、コーガ様に献上するぞ!」

 

 フララットは悲鳴を上げた。

 

「ひええっ! 一難去ってまた一難とはこのことですか! もうヤダ、これだから宮仕えは大変なんです……! はあ、こんなことならキャリアウーマンを目指すのではなくて、大人しく父の防具屋を継ぐんでした……」

 

 店を継ごうにも、それがすでに「ヒッププ=ホップル」に心を奪われた父によって閉じられていることを、彼女は充分に認識していた。認識していたが、彼女はそう叫ばずにはいられなかった。三人の女性たちによって檻ごと運ばれながら、彼女は己の人生のままならなさを噛み締めていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 車列はもう一台の馬車が加わり、合計で四台になっていた。新たに加わった馬車は、高原の馬宿の宿長であるジューザのものだった。四台の馬車は一列に連なっていた。前の三台にはツルギバナナが満載されていた。檻を運ぶのであれば、ジューザの馬車を使うしかなかった。

 

 まったく、サンベは余計なことを考えたものだ。バナーヌはげんなりした。いちはやくバナナを輸送しなければならないのに、この上ゾーラ族を生かしたままカルサー谷へ運ばねばならないとは。無事に高台の魔物の拠点を覆滅することはできたが、また問題が生じてしまった。作戦は遅延に遅延を重ねている。この調子で問題が増え続けるとなると、荷台に積まれているバナナはすべて真っ黒になってしまうかもしれない。

 

 真っ黒になったバナナなど、イーガ団の誰が好んで食べるだろうか。バナーヌはそう思った。あ、ノチがいたか。彼女はどんなバナナでも喜んで食べる、模範的なイーガ団員だから、きっと食べるだろう。

 

 空はそろそろ白みつつあった。幸いなことに、薄暮(はくぼ)からしつこく降り続いていた雨は止んでいた。もうそれほど時間も待たずして、広大なハイリア湖の東側に朝日が昇るはずだった。湖面に照り映える旭光(きょっこう)はさぞや美しいことだろう。バナーヌはそう思いつつも、おそらく自分がそれを見ることはあるまいとも感じていた。

 

 たぶんこの檻を運び終えたら、自分は寝る。バナーヌは内心で言った。疲れた、本当に疲れた。肉体的な疲労ではなく、精神的な疲労だ。

 

 骨の髄から疲労を覚えているバナーヌの前で、モモンジが明るい声を上げた。

 

「ああ、やっと馬車まで辿り着いた! テッポ殿、バナーヌ先輩、あともう少しですよ! 頑張ってください! 檻を運び終えたら食事をとりましょうね! お肉を食べましょう、でっかいお肉を!」

 

 テッポが感心するような、呆れるような声を発した。

 

「あなた、相変わらず元気ね……私はもう、疲労困憊で食欲もないわ……まったく、なんでサンベは自分で檻を運ばないのかしら……そう、あなた、たしかフララットさんっていったっけ? あなたは大丈夫かしら?」

 

 健気にもテッポが気遣う声をかけると、フララットはか細い声で答えた。

 

「……はい、私は大丈夫です。この檻から逃がしてもらえば、もっと大丈夫なんですけど……」

 

 テッポは苦渋に満ちた声で答えた。

 

「それは……無理ね。ごめんなさい」

 

 フララットは沈黙した。バナーヌはそれを気の毒に思った。ハイリア人に比して大きな肉体を持つゾーラ族がこのように小さなところに閉じ込められているのだから、その疲労度は想像するに余りあった。

 

 できれば逃がしてやりたいと彼女は思った。だが、ここで独断をもってゾーラ族を逃がしたならば、現在サンベとの間に生じている軋轢がさらに大きくなるのは明白だった。

 

 後で、新鮮な水と生きた魚を差し入れることにしよう。しかし、水は良いとして魚はどうしようか……? ハイリア湖で捕まえる? 誰が? 私か? 逃げ惑う魚を泳いで追いかける自分の姿をバナーヌが想像している間に、三人と檻は車列に辿り着いていた。

 

 バナーヌたちが檻を運んでくるのを見ると、馬車の近くに立っていたジューザはいかにも驚いたような顔をして言った。

 

「おっ、みんな無事なようだな、流石だ……って、テッポ殿!? その檻はいったいなんですか……おい、そりゃゾーラ族じゃねーか! 珍しいな、どこで捕まえたんです?」

 

 息せき切って喋るジューザに、テッポは疲労が滲んだ声で言った。

 

「今は訊かないで……あとでサンベにでも尋ねてちょうだい。ジューザ、檻を荷台に載せるわ。手伝って。けっこう重いのよこれ……あ、ごめんなさいフララットさん! あなたが重いっていう意味で言ったんじゃないのよ、檻が重いっていう意味であって……」

 

 フララットは疲れ切った声で答えた。

 

「分かってます、分かってますわ。良いですよ、捕虜に対してそんなに気を遣っていただかなくても……」

 

 掛け声と共に持ち上げられて、檻は馬車の中に収まった。車軸と車輪が軋む音が嫌にバナーヌの耳に残った。

 

 そういえば、とバナーヌは思った。ここまで(おも)(おも)いをして檻を運ばなくとも、自分が持っている不思議アイテムの一つ、パワーブレスレットを使えば良かったのではないか? そうすれば檻を運ぶのも幾分か楽になっただろう。思いもかけぬ場所でゾーラ族に遭遇したという衝撃で、そのことを失念していた。やはり自分は疲れているようだと、彼女は思った。

 

 息をつくバナーヌたちの横合いから、陽気な声が響いた。

 

「けっこうな戦利品だな、テッポよ。それ、いったいどうしたんだ?」

 

 そこにはヒエタがいた。その声音からして、彼が仮面の下で薄ら笑いを浮かべているのは容易に想像できた。テッポはただ首を左右に振るだけだった。ヒエタはそれですべてを察したようだった。

 

 彼は、訊いてもいないのに勝手にそれまでのことを話し始めた。

 

「いやね、俺も指揮官殿と一緒に拠点に攻め込んだのさ。はじめはけっこう順調に進んだんだが、途中で岩を落とされてな。ちょうど岩が指揮官殿と俺の間に落ちて、分断されちまった。しかも、それに合わせて魔物まで襲ってきたから、指揮官殿と合流するどころの話じゃなかった。魔物をやっつけた後、別に道はないかと探したんだが、どうにも見つからなかったから馬車に帰ってきた。いや、サボろうとしたんじゃない。優秀なお前さんたちと指揮官殿なら、なにも俺ごときの力添えなんてなくても立派に魔物を全滅させられるって信じてたんだ……ところで、その(とう)の指揮官殿はいったいどこに行ったんだ? まさかくたばったってわけはあるまい。いや、くたばったなら嬉しいが。そのゾーラ族だって、どうせ指揮官殿が捕まえろって言ったんだろ?」

 

 あからさまに不機嫌な声が、延々と続くヒエタの話を遮った。

 

「悪かったな、俺がくたばってなくて」

 

 暗闇の中から、ちょうど輸送指揮官であるサンベが現れた。腰にさげられたエレキロッドが時折黄色い閃光を放っていた。サンベはバナーヌたちに檻を運ぶよう命じた後、何処かへ姿を消したきりだった。モモンジは「たぶんどこかで(まげ)を直しているんですよ」と言った。

 

 モモンジの推測通り、サンベの髷は元通りになっていた。幾分か短くなっているが、見た目的には何も問題はなかった。彼はヒエタに向かって言った。

 

「おいヒエタ、休息は充分とれただろ。馭者(ぎょしゃ)共を集めろ。これから輸送再開の打ち合わせをする。夜明けと同時に出発だ。おい、テッポ。それからモモンジに、カルサー谷のバナナ女! お前らはゾーラ族に適当に(エサ)でもやっとけ! 死なせたら承知しないぞ!」

 

 サンベとヒエタは連れ立ってその場から去っていった。テッポが「はぁ」と大きな溜息をついた。

 

「二人とも向こうに行ったわね……打ち合わせには時間があるでしょうし、私たちもちょっと休みましょう」

 

 モモンジが言った。

 

「それにしても、どうして指揮官殿っていつも怒ってるんでしょうね。いい加減、嫌になりますよ」

 

 モモンジはいつの間にか仮面を外していた。なぜか彼女は、焼きトリ肉が盛られた木の皿を持っていた。彼女はトリ肉を手に取ると、大きな口を開けて齧りつき、盛んに咀嚼した。脂がたっぷり含まれた肉汁が地面へと垂れた。

 

 モモンジは立て続けに焼きトリ肉を二つ平らげると手拭いで口を拭いた。彼女はテッポとバナーヌに言った。

 

「テッポ殿とバナーヌ先輩も何か食べた方が良いですよ。疲労を回復させるには良質なたんぱく質と睡眠、これに限りますからね。ジューザたちが簡単な料理を用意してくれています。馬車に行ったらもらえますよ」

 

 テッポは軽く頷いた。雨で濡れた黒髪が美しく月の光を反射していた。

 

「そうね。食欲はないけど、無理をしてでも何か食べたほうが良さそうね。でもその前に、フララットさんに何か食べさせてあげないと」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「そうだな」

 

 そんな二人を見て、モモンジはしまったというような顔をした。

 

「あっ、そうですよね……先にあの可哀想なゾーラ族の女の人に食べ物をあげるべきでした……私ったら、自分だけ焼きトリ肉を食べちゃって……そうだ!」

 

 そう言うと、モモンジは半分ほどの量になってしまった焼きトリ肉の皿を持って、檻が積まれた馬車へと向かった。テッポとバナーヌもそれに続いた。三人が(ほろ)に覆われた車内を覗き込むと、薄闇の中でフララットの白い肌がぼんやりとした光を放っていた。

 

 モモンジは檻へ木の皿を差し出して、励ますような声で言った。

 

「あのー、フララットさん。お口に合うか分かりませんけど、これをどうぞ! さっき焼いたばかりのトリ肉です。どうせ魔物たちはあなたにろくな食事を与えなかったのでしょう? この際ですから、たくさん食べて元気を出してください」

 

 フララットは軽く首を左右に振った。黄金に輝く目が、悲しそうに濡れていた。

 

「……せっかくのお申し出ですけど、遠慮させていただきます。ゾーラ族にトリ肉やケモノ肉を食べる習慣はございませんので。シカが肉を食べないのと一緒で、ゾーラ族は魚以外は食べられないんです。いえ、無理をすればなんとか食べられると思いますけど、この状況で無理をするのはあまり気が進まないというか……」

 

 モモンジは言った。

 

「そうですか……すみません……」

 

 モモンジは力なく俯いた。

 

 そんな二人の様子を見て、バナーヌは腰のポーチの蓋を開けた。彼女はその中から黄色いバナナを一本取り出すと皮を剥き、フララットにそっと差し出した。バナーヌは言った。

 

果物(くだもの)なら、食べられないか?」

 

 フララットは少しだけ目を見開いた。

 

「……ええ、確かに。果物ならばトリ肉やケモノ肉よりは食べられます。里では魚の付け合わせとしてゴーゴースミレのサラダをよく食べますし。でも良いんですか、それをいただいても?」

 

 バナーヌは頷いた。フララットはバナナを受け取って食べ始めた。ゆっくりと、品位を保ちつつ、フララットはバナナを食した。気品のある女性だとバナーヌは感じた。綺麗にバナナを食べる者は尊敬に値する。敵である自分たちに対する喋り方も丁寧であるし、この人はゾーラ族の中でもかなり身分が高いのかもしれない……

 

 フララットが言った。

 

「ありがとうございます、美味しいです」

 

 人がものを食べているのを見つめるのは、あまり行儀が良いとは言えなかった。それでもバナーヌは観察を続けた。その職業柄ゆえに身についてしまった習慣によるものだった。

 

 そんなバナーヌの不躾な視線も気にせず、フララットはほどなくしてバナナを食べ終えた。彼女はおずおずと言葉を発した。

 

「もう少しだけ、バナナをいただけますか?」

 

 バナーヌはまたバナナを差し出した。フララットはさらに四本を食べた。そして、彼女は満足したように腹部を軽く(さす)った。彼女は透き通るような声で言った。

 

「ああ、とても美味しかったです……すみません、最後にお水をいただけると、とても嬉しいのですが……」

 

 今度はテッポがそれに答えた。

 

「分かったわ。これを飲んで」

 

 差し出された水筒を手にすると、フララットは目を瞑ってその中身を夢中で飲み始めた。どうやら飢えよりも渇きの方がつらかったらしい。

 

 テッポが言った。

 

「ごめんなさい、最初にお水をあげるべきだったわね」

 

 同情するような視線を向けていたテッポが、「あっ」と声を上げた。バナーヌは嫌な予感がした。短い付き合いだが、テッポがこのような声を発する時には必ず「アレ」が登場するのが彼女には分かっていた。

 

 テッポがごそごそとポーチを探りながら、明るい声をしてフララットに言った。

 

「そうだ、フララットさん! バナナが食べられるなら、きっとこれも食べられるはずよ! だって、()()()()()()()()

 

 バナーヌの予感は的中した。テッポはポーチからゴツゴツとした緑色の丸い果物を取り出した。

 

 どうやらその正体をフララットは知らないようだった。彼女は期待に淡く目を輝かせていた。

 

「まあ、いったいどんな果物なんでしょう。楽しみですわ」

 

 テッポは自信満々に答えた。

 

「滋養強壮、栄養満点、食べれば即座に体力が全快する奇跡の果物よ。さあどうぞ!」

 

 テッポは果物をフララットの前に掲げると、小刀を突き立てて真っ二つにした。

 

 瞬時に、馬車の中でタマネギが腐敗したような強烈な臭気が爆発的に放散された。

 

 フララットは悲鳴を上げた。

 

「ひっぷほっぷっ!?」

 

 フララットは白目を剥いて気絶した。バナーヌが指でつついても、彼女はぴくりとも動かなかった。

 

 バナーヌは独りごちた。

 

「どこかで見たような展開だな」

 

 意識を失ったフララットの姿を見たテッポは目を見開いた。彼女は、弱り果てた表情をしてバナーヌとモモンジに顔を向けた。

 

「どうしよう!? もしかして、ゾーラ族にマックスドリアンは毒だったのかしら……!?」

 

 モモンジが苦笑いをしながら答えた。

 

「いえ、たぶん大丈夫だと思いますよ。マックスドリアンは良い果物です。ちょっと匂いが強烈なだけで……」

 

 テッポは罪悪感を声に滲ませた。

 

「悪いことをしちゃったわ……」

 

 慰めるようにモモンジが言った。

 

「ちょうど良いじゃないですか。フララットさんにも睡眠が必要でしょうし。私たちも出発まで、少しでも良いから寝ることにしましょう。ほら、夜がもう明けます」

 

 テッポは檻へと目をやり、苦渋に満ちた表情をした。

 

「本当にごめんなさい、フララットさん。せめてよく寝てね……」

 

 テッポをよそに、モモンジは焼き鳥をトリ肉を頬ばっていた。モモンジはバナーヌに言った。

 

「ところで、『ひっぷほっぷ』ってなんですか?」

 

 バナーヌは首を傾げた。

 

「さあ……?」

 

 バナーヌは東の空へ目をやった。モモンジが言うとおり、空が白んでいた。それは長い夜が明け、待ち望んだ朝がやってきた証拠だった。

 

 ついに馬車が出発する。

 

 マックスドリアンの香りが妙に鼻につく。これ以上何事も起こらなければ良いが。あくびを噛み殺しつつ、バナーヌは心の底からそう思った。




 フララットさんには不幸が似合う。異論はもちろん認める。
 大変長らくお待たせいたしました……およそ一年半の間に一回も更新できなかったとか、我ながら呆れます。ブレワイ続編もたぶん来年の春ですし、ここからはギアを一つ上げていきたいと思います。少なくとも第一部だけでも終わらせるつもりです。
 今回書いていて頭を悩ませたのはゾーラ族の食生活です。彼ら(彼女ら)は、魚以外のものも食べられるんでしょうか? 厄災の黙示録だとミファー様は魚以外の料理を食べていますが……『バナナ』においてはこういうことになっていると、そのように読んでいただければ幸いです。

※加筆修正しました。(2023/05/22/月)


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第五十話 ウサギずきんの継承者

 一万年以上の長きにわたるハイラル世界の歴史において、ハイリア人が体験し得たスピードの極限がせいぜい馬のそれでしかなかったことは驚愕に値するであろう。馬宿協会の記録によれば、最も速く走る馬は時速にしておよそ七万五千メートルを発揮したとされている。大厄災の二年前に開催された千四百メートルの短距離レースにおいて、「ゴロンゴンゴン号」がその記録を達成したという。無論、馬は常にそれだけのスピードを維持できるわけではない。馬たちの全力疾走は一分ほどしか続かない。続かないというのは、それ以上走ると馬は呼吸器系に甚大なダメージを受けるからであり、端的に言うと死ぬからである。つまり人間が味わうことのできるスピードの極限もまた一分ほどしか続かないということになる。

 

 それは他種族に比較すると、まことに貧弱なスピードといえる。ハイリア人以外の種族はみな優れたスピードを有している。空の覇者であるリト族を例に挙げると、彼らの最高速力は時速四十五万メートルに達するとされている。高空から低空へ一気に急降下することによって、彼らはそれだけのスピードに達するのである。リト族の戦士たちは弓矢と詩歌の腕前を競うが、また同様にスピードも競う。彼らが高く飛べるように日々鍛錬を重ねるのは、高く飛べば飛ぶほど急降下による加速の恩恵が得られるからであり、恐怖を感じないように日々精神を練磨するのは、急降下によってみるみるうちに眼前に迫る広大な大地に対して最後まで目を開いたままでいられるようにするためである。かのリト族の英傑リーバルは一説によると「音よりも速く飛んだ」と言われている。字義どおりに受け取れる説ではないが、そのような形容がふさわしいほどに彼は速く飛ぶことができたということであろう。

 

 見た目が鈍重そのものであるゴロン族も、ハイリア人と比較すれば遥かに優れたスピードを有している。ゴロン族は岩のように丸まって転がることができる。転がるスピードは馬のそれに匹敵する。彼らが高い山に登るのは、登ったのちに山頂から転がり落ちることで彼らなりに最高のスピードを味わおうとするからである。かつてゴロン族には「ゴロンレース」と呼ばれる悪名高い催しがあった。転がることで峻険な山谷を駆け抜けるという単純にして豪快なレースであった。このレースにおいて、参加者たちには体当たりといった実力行使が許されていたため、負傷者や死者が出るのは毎回のことであったと言われている。あまりにも多くの犠牲者が出たためゴロン族はレースそのものを廃止してしまったが、今でも彼らは転がることをやめない。

 

 ゲルド族にはスナザラシラリーと呼ばれる伝統的な競技がある。これもスピードを競うものである。ゲルド族は広大な砂漠を移動するのにスナザラシという動物を利用する。スナザラシは砂の中を自由に泳ぐことができ、その速度は砂漠の王者であるモルドラジークに匹敵するか、それを凌ぐ。スナザラシを良く操り、速く走らせることのできる者が、族長に次いで尊敬を集める。ハイリア人以上にゲルド族はスピードを追い求める傾向が強いが、それは砂漠の暑熱と無関係ではないだろう。スナザラシを走らせることで、ゲルド族は涼風を感じることができるからである。ゲルド族は涼感を得るためにはどのようなことでもする。

 

 ゾーラ族についてはあえて多く言及しない。彼らが水中を矢の如く泳ぐということを言えばそれで充分である。

 

 以上のような他種族に比べると、ハイリア人が味わえるスピードはまことに貧弱である。馬以外にスピードを発揮する乗り物といえば船があるが、これもゾーラ族とは比較にならない。例外としては、ただラインバック七世の体験が挙げられるだけである。ハイリア人の船乗りラインバック七世は小型帆船でアッカレ地方沖の外海を航行している最中、猛烈な嵐に巻き込まれ、一晩の間にローメイ島南岸から遠くカエデ半島沖まで吹き流されたと伝えられている。彼の手記によれば「風は夜半にかけて一番強くなり」「最高速度はおそらく時速五万六千メートルに達した」という。「船が分解しなかったのは幸運だった」と彼は述べている。「帆船はそれほど速く走るように設計されていない。帆船においては瞬間的に速く走ることではなく、遅くとも走り続けることが重要だからである」 彼はまた言う。「ゾーラ族のように速く泳ぐ必要はない。ゾーラ族より遠くへ泳げれば良いのだ」 

 

 ラインバック七世のこの言葉は、なにも帆船にのみ当てはまるものではない。ハイリア人において、スピードとは主に「瞬間的な最高速度」ではなく「経済的な巡航速度」として考えられてきた。言い換えれば、ハイリア人はスピードそのものに関心があったのではなく、スピードを持続的にもたらす要素、つまりスタミナ(がんばり)に関心があったのだと言える。

 

 たとえば騎兵たちにとっても、軍馬として最も望ましい資質はスピードではなくスタミナであった。重装騎兵の場合、軍馬は、鎧兜に身を固め武具を手にした騎乗者を乗せるだけではなく、馬自身も鎧を身に纏わねばならなかった。重装騎兵は戦闘の最終局面において「決定的一撃」を加えるために投入されることが多く、それは必然的に待機時間が長くなるということも意味したため、なおさらスタミナが重視されたのであった。いくら脚が速くとも、長時間立ち続けることができなければ話にならないというわけである。

 

 騎兵、軍馬のみならず、歩兵においてもスタミナが重視された。歩兵たちには速く走るのではなく、走り続けることが求められた。また、はやく剣を振るのではなく、剣を振り続けることが求められた。それは歩兵たちが主に相手にする敵が、人間ではなく魔物だったことに由来するのであろう。人間と比較して遥かに体力で優れる魔物に勝利するためには、長時間粘り強く戦い続けられるだけのスタミナが必要となる。魔物は膂力(りょりょく)に優れ、瞬間的なスピードにおいては人間はおろか熊すらも凌駕するが、それと比較して知能は至って低く、したがって効率的にスタミナを配分することができない。人間側としてはここにつけ入る隙がある。

 

 ハイリア人歩兵の訓練は、主に走り込みから成っていた。十五歳の時に一兵卒として入隊し、数々の戦闘において武勲を立て、最終的アッカレ砦守備隊副司令官にまで昇進した伝説的兵士ロットキャの手記によれば、彼が受けた最初の訓練は「とにかく走ること」であったという。

 

「私たちは司令官からの訓示を聞いた後、配属された各中隊ごとに整列した……被服と物品を受け取り、私たちは兵舎に入った。訓示を聞いている時から『とんでもないところに来てしまった』という気持ちがしていたが、この後よりいっそう『とんでもないところに来てしまった』と私は思うようになった。私たちがお喋りをしているところにベテランの兵長が現れ、『外に出ろ!』と叫んだ。手に棒を持っていて、グズグズしている者の臀部を叩いて外へと追い立てる。私たちは訳が分からないまま外へ出され、それから延々と走らされた。兵舎を出た時は朝十時頃であったが、帰ってきた時には昼食の時間から一時間以上が過ぎていた」

 

 それから毎日、ロットキャとその仲間たちはハイラル大森林の南、ラウル丘陵の東の麓にあるハイラル軍演習場の近くを走らされることになった。「地形は決して平坦ではなく、登り坂と下り坂ばかりで、どんなに体力の優れた者でもコースを一周し終えた時には息を切らしていた……(中略)……私たちは演習場を出た後、ラウル丘陵一帯を走り、西に達した後は南へくだってラウル村に入る。村人たちは疲労困憊している私たちに向かって生温かい笑みを投げかけてくる。『兵隊さん、がんばれ!』と声がかけられる。それを励みにして演習場への最後の道を駆け抜ける。こんなことが一ヶ月繰り返されたが、その頃にはハイラル王国軍兵士として最低限必要なスタミナ(がんばり)を身につけることができていた」

 

 兵士たちだけではなく、一般人もまた、こぞってスタミナ(がんばり)を争う競技に精を出した。ハイラル城下町で刊行されていた各種のパンフレット、雑誌、告知を調べてみると、定期的に「マラソン大会」なるものが開催されていたことが分かる。大厄災の五十年前に開かれたマラソン大会の告知文によれば、大会は「ハイラルで一番スタミナ(がんばり)のある人間を決める」ことを趣旨とし、「優勝者には二百ルピー、二位には百ルピー、三位以下の入賞者には三十ルピーの賞金」が支払われることになっていた。

 

 スタート地点は城下町西門で、走者たちは砕石場を南へ通り抜けた後、グスタフ山を右手に見ながら更に南下し、巨人の森とダフネス山を通過、風見の平原に達した後は交易所を経由して進路を西へとり、最後はアクオ橋を渡って闘技場に入ることになっていた。闘技場の内部に設けられたコースを一周して、ようやくゴールとなる。なお、この時のレースの参加者は総数三百二十一人で、完走者は二百五十三人、傷病者が三十四人、死亡者が三人であったと記録されている。

 

 表彰式は闘技場で行われた。優勝者には賞金、トロフィーと賞状が授与されたが、その他に記念品として「ウサギずきん」が贈呈されたという。これはハイラル史において伝説的マラソンランナーとされている「マラソンマン」が被っていたずきんにちなんだものであった。

 

 マラソンマンは全ハイリア人マラソンランナーの理想であり、一種の神格化がなされていた人物であるが、彼について分かっている事実はごく少ない。ハイラル平原を一日で十周するほどの脚力の持ち主であり、かの勇者とも親交があったという。マラソンマンはある日、勇者と足の速さを競い合い、勝利した。勇者はその記念として「ウサギずきん」を彼に授けたと伝承は言う。

 

 さらに、他の伝承は以下のような話を伝えている。勇者とのマラソンに勝ち、「ウサギずきん」を贈られたマラソンマンは、その世界において比肩するものがないほどのスピードを得るに至った。「ウサギずきん」には神々の力が込められており、被る者の脚力を三倍に高める効果があったからである。彼の足の速さは馬をも凌ぎ、魔王の軍勢すらも置き去りにするほどであったが、流石の彼もそのうち老いを感じるようになった。老いから逃れるために彼はさらに走り続け、ついには死すら置き去りにした。死を置き去りにした彼は、次第に肉体と魂が分離し、それぞれが競い合うようになった。魂には重さがなかったため肉体よりもスピードで優ったが、肉体には肉と骨と血液があったためスタミナ(がんばり)で優っていた。

 

 魂はますますスピードを増し、その速さが極限に達したため、ついにこの世界を離れて走り去ってしまったという。一方の肉体には無限のスタミナがあったため、地形が変わり種族が入れ替わるほどの時間が経っても走り続けた。最終的に、彼の肉体はデスマウンテンの奥深くへと走り、消えたという。今でも時折大地が鳴動するのは、火山の中を走り続けているマラソンマンがたまに地表に近づくためであると言われている。

 

 大厄災後の世界においては、スタミナ(がんばり)はさほど重視されなくなった。いくらスタミナがあったところで、地上に跋扈する魔物の群れをすべて討滅することなどできない。魔物に対してはスタミナで戦うのではなく、スピードによって逃げるのが基本となった。ここに至ってスピードが復権したのである。魔物の縄張りから一刻も早く離脱できるだけのスピードが今や重視されている。馬たちはもう鎧を纏うことも、鎧を纏った騎士を乗せることもない。旅行者が街道で不意に魔物と遭遇した時、即座にその場を走り去ることができるスピードが馬には求められている。

 

 かつて人間はそのスタミナ(がんばり)を以って、獲物を地の果てまで追い詰めることができた。そのようにして人間は、足が速くとも走り続けることができない獣たちを押しやって、この世の頂点に君臨したのである。また、力強く戦うことができても粘り強く戦うことはできない魔物たちを、人間はそのスタミナで打ち破ることができた。今では違う。人間は追われる側となったのだ。今では、人間は頼りにならないスピードを唯一の手段として、惨めにも地上を逃げ回る敗残者に過ぎない。

 

 それでもなお、追う者がこの世から消え去ることはない。追われる者がいるのならば、追う者もまた存在する。荒廃したこの世界において、追う者たちはみな邪悪である。彼らはスピードの害を知っており、ただスタミナ(がんばり)を信奉している。スタミナもまた、追う者を裏切らない。追う者たちは今後の世界においても、スタミナの祝福を受けて、追う者であり続けるだろう。

 

 では、そのスタミナをもたらすものはいったい何なのだろうか? おそらくそれは、黄色いバナナであるに違いない。追う者たちはいつも、黄色いバナナを食べているのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 車列はそろそろと、慎重に、あたかも穴だらけの薄氷の上を行くかのようにして動き始めた。

 

 前夜に降り続いた雨は道を軟弱なものにしていた。ところどころに水たまりができていた。馭者(ぎょしゃ)たちはそれが気になるようであった。やがて数分が経過し、どうやら通常のペースで進ませても良いことが判明すると、馭者たちはそれまでのおっかなびっくりという感じの操縦をやめ、いつもの自信を取り戻して馬車を進ませ始めた。

 

 四両の馬車によって車列は構成されていた。先頭と、二番目と、三番目の馬車は、四頭の馬に牽かれた四輪の大型車両であった。車体は頑丈な木材が四角く組み合わされたもので、黒い塗料が塗られていた。荷台には分厚い帆布(はんぷ)製の(ほろ)がかかっていた。車軸は太く、音を立てて回転する四つの車輪はまるでこの世を()(ひし)ぐ運命をそのまま形にしたかのような迫力だった。馬車には大量の木箱が積載されていた。木箱には「ツルギバナナ」という字がスタンプされていた。逆さ涙目の紋様が描かれた護符がごてごてと貼り付けられており、それが木箱に威厳めいたものを付与していた。

 

 車列の最後尾を行く馬車は、前の三両と比較すると小柄で、弱々しい外見をしていた。その馬車は、四輪である点は他の馬車と同じであったが、それを()く馬は二頭だけだった。しかし搭載物がさほど重くないため、馬たちは苦もなく足を進めることができた。馭者のジューザがときおり「ハイ!」とか「ホウホウ!」とかいう掛け声を発していた。ジューザの声には張りがあった。声には仕事に対するやる気が感じられた。

 

 バナーヌは、それをどこかぼんやりとした心地で聞いていた。彼女は四両目の馬車の荷台の中で、静かに横になっていた。幌に覆われた荷台の中は薄暗かった。中央には大きな木製の檻が置かれており、その中には囚われの身となったゾーラ族の王室書記官フララットがひっそりと座っていた。

 

 檻を挟んだ向こう側にはテッポがいた。テッポは行儀よく正座をしていた。彼女は目を閉じて、静かな呼吸をしていた。どうやら眠っているようだった。あるいは完全に眠っているのではなく、半醒半睡という状態なのかもしれなかった。

 

 今は任務中であり、本来ならば眠ることは許されない。しかし、バナーヌはテッポを起こさなかった。眠りそのものより、まどろみの方が甘美でしかも疲れを癒すものであることを彼女は知っていた。テッポはまだ幼く、体も未発達だ。初めての任務で心身共に消耗しているだろう。これまで激戦続きだった。よく無事に戦い抜いたものだとバナーヌは思う。休めるうちに休めば良い。

 

 車輪が道の窪みを越えたり、小石を踏んだりすると、馬車は大きく跳ねた。しかし誰も声を発さなかった。振動は、むしろ眠気を助長した。

 

 バナーヌは頭を上げて、幌の隙間から車外を見た。馬車の傍をモモンジが歩いていた。車列の護衛のため、彼女は馬車を降りていたのだった。目に鮮やかな桃色の髪が一本に纏められて、微風に葉先を揺らせるヤシの木のように動いていた。モモンジは油断なく周囲を見回しつつ、馬車に遅れないように早足で、しかし音も立てずに歩いていた。事が起これば腰にさがっている風斬り刀をすぐに抜けるようにしているのが、バナーヌには分かった。

 

 空はまだ明るさを取り戻していなかった。ちょうど車列はハイリア湖にかかるハイリア大橋の門に差し掛かったところで、湖の東の空には柔らかな乳色の薄膜に包まれた太陽がようやく姿を見せていた。今はまだ無害で可愛らしい太陽であるが、数時間も経たないうちに凶暴に成長し、街道一帯に強烈な光と熱を撒き散らすのであろう。そのことを思うとバナーヌは多少うんざりとした気持ちになった。雨は厄介なものだが、陽の光はさらに厭わしい。特にイーガ団のように、闇に生き闇に死ぬ者にとっては……

 

 だから、今のうちに休んでおくに限るとバナーヌは思った。ルピーやバナナと同じように、スタミナ(がんばり)というものもまた有限だ。いつどこで辛抱を強いられるか、スタミナを要求されるようになるか分かったものではない。無駄遣いしてはならず、大切にしなければならない。そのためには、眠っておくのが一番だ。そう、今そこでまどろみの中に沈んでいるテッポのように。

 

 バナーヌは目を閉じて、自分も眠ろうとした。しかし、彼女は眠れなかった。ある想念が彼女の入眠を妨げていた。しつこく訴えかけ、決して去ろうとしない想念が、ますます形と声を伴って彼女の精神の中を徘徊していた。

 

 いったい、敵は誰だろうか?

 

 アラフラ平原でモモンジとヒコロクを襲い、ヒコロクを戦線離脱させたという敵。確証はないが、あの丘の魔物たちを手引きして罠を張り巡らせ、難攻不落の砦とした敵。その影が今もどこかで蠢いているのを、バナーヌは感じていた。

 

 その影から、バナナの匂いがする。仲間たちの匂いがかすかに漂っている。まさか、と思う。しかし、とも思う。しかしあり得るのだ。仲間が仲間ではなく、実は仲間を装った敵であるというのは、このイーガ団においてはさして珍しいことではない。

 

 バナーヌは眼前にある人物を思い浮かべていた。その人はバナーヌとほぼ同い年で、彼女と同じころに新米団員として訓練を受けていた。その人は小さい頃、とても可愛らしかった。しかしその可愛さにはどこか陰影を伴っていた。いつも寂しそうな顔をしていて、それでいてたまに見せる笑顔が印象的な娘だった。

 

 なぜ見えない敵を考えようとしているのに、あの娘を思い出してしまうのだろうか? そのことを疑問に感じつつも、バナーヌはさらに過去の記憶を手繰った。

 

 そう、まだイーガ団に入って間もない頃、彼女たちはしょっちゅう走らされたものだった。彼女たちは常に走らされた。「どんなに無能でも走ることはできる」というのが訓練教官の言い分だった。「無能ならばせめてスタミナ(がんばり)を身につけろ」 イーガ団では無能が無能でい続けることは許されなかった。バナーヌたちは無能から脱出するために走らされた。

 

 走る場所はその時々によって違っていた。柔らかい砂に覆われたカルサー谷を一日中走ると、必ず彼女たちの足指に水疱(すいほう)ができた。夜は真っ赤になるまで熱した針でそれを(つつ)き、潰した。最初は耐え難いほどの苦痛であったが、そのうち彼女たちは慣れてしまった。その潰れた水疱の上にほどなくしてまた新しい水疱ができた。そんなことが続いているうちに、水疱はできなくなった。

 

 あの娘は、体があまり頑丈ではなかった。バナーヌはある日のことを思い出した。走ることの基礎を叩きこまれた後、次は呼吸器を鍛えられることになった。イーガ団のアジトの裏手には万年雪に覆われたゲルド高地が広がっており、そこは高地トレーニングに最適だった。寒気が刺すように身に沁みた。冷たい空気は肺を凍らせるようだった。

 

 その日はゲルド高地の一角をなす、オルパー台地を走ることになった。バナーヌたちは隊伍を組み、一団となって雪の中を走り続けた。体格と体力に優れ、熱烈な忠誠心を持つ者が先頭を走った。先頭の者は隊旗を持っていた。隊旗には逆さ涙目の紋様と、バナナが描かれていた。バナーヌの体格と体力はその者と比較しても決して劣るものではなかったが、忠誠心に乏しいと判断されたため、彼女は集団の最後方に配置された。

 

 しばらく、彼女たちは走り続けた。そのうち、バナーヌは隣から荒い呼吸が聞こえてくるのに気付いた。隣にいるのは特に体力がなく、いつも教官から「いつ死んでくれるのか」と言われている娘であった。見ると、その娘がふらふらと、しかし必死になって足を動かしていた。

 

 今にも倒れそうだった。もし倒れたら、もう一度立ち上がることはできないだろう。周りの者たちはまったくそれを気にしていなかった。気付いていないのか、あえて無視をしているのかは分からなかった。娘がちょっとだけ顔をバナーヌに向けた。子ども用の小さな仮面の向こうに、助けを求めている顔が見えたように思われた。

 

 バナーヌは一瞬迷った。しかしその迷いは一歩を踏み出す間に消え去った。彼女はごく自然に、娘に肩を貸していた。この広大な雪原のオルパー台地で落伍すれば絶対に助からない。だが、だからといって落伍する者を助けようとすれば、その者もまた体力を失って落伍することになりかねない。死体が一つから二つに増えるだけである。それでもバナーヌはその娘を助けた。

 

 娘は最初、戸惑うような様子を見せたが、そのうちバナーヌの助力を受け入れた。「ごめん」という小さな声が聞こえた。バナーヌは何も言わなかった。彼女たちは今や二人一組になって、集団から遅れて走り始めた。集団は彼女たちを嘲笑うかのように一段と速度を上げ、雪煙を立てて先へ先へと進んでいった。

 

 二人は置き去りになった。それでも黙々とバナーヌは足を進めた。次第に疲労感が募ってきた。肩を貸している娘の呼吸がさらに乱れた。バナーヌにもたれかかる重さが増した。それでも彼女たちは二人一組を崩さずに走り続けた。とっくにスタミナ(がんばり)は消えてなくなっていた。

 

 それでは今、何が自分たちを走らせているのか? バナーヌには分からなかった。

 

 彼女たちはコースを走り終えた。奇跡的なことだった。あるいはバナーヌが奇跡を引き寄せたのかもしれなかった。骨の髄まで疲労し、生ける屍のようになって彼女たちは帰ってきたが、前を走っていた仲間たちはそのことにまったく言及しなかった。彼女たちは無視をされたが、走り終えた後に供されることになっているバナナだけはいつもどおり与えられた。

 

 娘がバナーヌにバナナを一本差し出した。娘はバナーヌに「食べて」と一言だけ言った。仮面を脱いだ娘の顔は、バナナのように輝いていた。バナーヌはバナナを受け取り、よく噛んでそれを味わった……

 

 教官はいつも「いつ死んでくれるのか」と言っていたが、結局その娘は死ななかった。その後もバナーヌたちはオルパー台地を走らされた。回を重ねるごとに娘はたくましくなっていった。娘はもはやバナーヌの助けを必要としなくなった。むしろ、娘は強くなっていくにつれてバナーヌを避けるようになっていった。単なる羞恥のためか、それともバナーヌを己の未熟な過去の象徴とみなしたからであるのか、それは判然としなかった。バナーヌもあえて娘との交わりを深めようとは思わなかった。

 

 娘は成長し一人前になると、魔物を操るという特殊能力を上層部に認められ、特別な任務をこなすようになった。一方で、バナーヌは一山いくらの使い走りという地位に転落した。

 

 なんという名前だったっけ? とバナーヌは思った。「いつ死んでくれるのか」と言われていた娘は最終的に「同期の星」となり、年間最優秀団員として表彰されるようになった。今ではイーガ団の中でも特に秘密の任務を任される集団に属しているという噂を聞く。バナーヌにはどうしてもその名前がはっきりとしない。奇妙なまでにすっぽりと、彼女の記憶の中からその名前が抜け落ちていた。

 

 なんだっけ、「ホロ」だっけ? いや、ホロではない。でも「ほにゃらら『ロ』」だったような気がする。「ボロ」? いやいや、ボロなんて酷すぎる。いくら闇に生きて闇に死ぬイーガ団員でも馬糞を意味する「ボロ」なんて名前はあり得ない。なんだっけ? ロロ? クロ? シロ? うーん……

 

 考えているうちに、バナーヌは自分が眠りの世界に落ちつつあるのを感じた。これではいけない。自分が真面目な性格をしているとは思っていないが、任務中に眠りこけるのはちょっとどうかと思う。何かきっかけが欲しい。何か、自分の眠気を追い払うようなきっかけが。バナーヌはしばらく様子を見ることにした。気合いを出せばきっかけなどなくとも瞼をこじ開けることができるが、それをやるとたぶん疲れる。だるさが後を引く。もう少しだけ待ってみよう。そう、これは一種の賭けだ。自分自身に対する賭けである。

 

 バナーヌは賭けに勝った。前方から大きな声が聞こえてきた。

 

「とまれー!」

 

 馬がいななき、馬車が音を立てて止まった。止まった時の強い衝撃で馬車が大きく揺れた。「キャッ!」という声が檻の中から聞こえた。

 

「なにかしら?」とテッポが言った。テッポは目を擦っていた。

 

「何かあったようだ」とバナーヌが答えた。「誰だ!」とか「なんだお前!?」などと馭者たちが騒いでいるのが聞こえた。「てめぇ、邪魔だ! あっちに行け!」と叫ぶサンベの声が響いて来た。

 

「テッポはここで待ってて」

 

 そう言うとバナーヌは素早い動きで身を起こし、馬車を降りた。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌは車列を通り抜けて前方へ向かった。モモンジが彼女についてきた。モモンジが言った。

 

「いったいなんなんでしょうね?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「さあ」

 

 車列はちょうどハイリア大橋の中ほどで止まっていた。そこには往時の国家的威信を象徴するかのような大きな噴水があった。しかし今では水は枯れ、彫刻は砕け、石の破片が散乱しているだけだった。

 

 その上に誰かが立っているのを、バナーヌは見た。朝日が逆光になっているため、その姿はしばらくはっきりしなかった。やがて目が慣れてくると、その者が中肉中背の男で、白い半袖のシャツと短ズボンを身に纏い、頭に何か妙な被り物をしているのが見えた。

 

 被り物はウサギのずきんだった。黄色い二本の耳が天を向いており、風に揺れていた。

 

 男は腕を組み、堂々と、壊れた噴水の上に立っていた。先頭の馬車に乗っていたサンベがしきりに男へ罵声を浴びせていた。

 

「てめぇ、いったいなんなんだ! 向こうにいけ! 消えろ!」

 

 だが男は何も答えなかった。特に目立った特徴のないその顔は冷静そのものだった。その視線は鋭く車列を貫いていた。

 

 バナーヌとモモンジは少し離れたところからそれを見ていた。モモンジが溜息をついてから言った。

 

「うわぁ。変な人が出てきちゃったなぁ。見てくださいよバナーヌ先輩。あれ、普通じゃないですよ。いい年をした大人がウサギのずきんを被ってるなんて。追い払いましょうか?」

 

 バナーヌは言った。

 

「もう少し様子を見よう」

 

 サンベは男に向かって叫んだ。

 

「おい! そこから消えねぇんだったら痛い目に遭わせるぞ!」

 

 サンベはその得物(えもの)の一つであるエレキロッドを取り出すと振りかぶり、今にも電気の玉を発射するという態勢をとった。粗暴な性格をしているサンベが即座に実力行使に訴えかけるのではなく、威嚇という態度をとったのは特筆すべきことであった。サンベはなおも叫んだ。

 

「おい! 聞いてんのか! 黒焦げにしちまうぞ!」

 

 唐突に、ウサギずきんの男が口を開いた。

 

「私はすでに焼かれている」

 

 その声音にはどこか威厳が漂っていた。サンベと、サンベの周りにいる者たちはあっけにとられた。「ああ? なんだって?」とサンベが言った。男はまた口を開いた。

 

「私はすでに焼かれている。私はすでに焼かれているのだ。いつまでもつきまとってやまない欲望が、太陽のように熱く月のように冷たい理想が、足を前へ前へと進ませ続ける信念が、この私の心身を内側から焼いている。焼き続けているのだ」

 

「物狂いかな?」とモモンジが言った。「私、ああいう物言いをする人はこれまでに何度か見たことがありますよ。剣術を極めようとしてちょっと心を損なってしまった人とか。瞑想のやりすぎで言葉がおかしくなっちゃった人とか。そういえばあの人、雰囲気がそっくりですね。()()()()()()()()()()()()()()()()と」

 

「物狂いではない」と、そのウサギずきんの男は答えた。モモンジはビクッと体を震わせた。距離が離れているのに、男が自分の言うところを正確に聞き取っていたことに驚いたのだった。

 

「ウサギのずきんを被っているから」とバナーヌが言った。「耳も良いのかもしれない」

 

 モモンジが不思議そうに言った。

 

「そんなこと、あるんですかねぇ」

 

 男は滔々と、饒舌に語った。語るというよりは、それは独白に近かった。

 

「あるいは私は狂っているのかもしれない。私は常に狂気を求めている。身も心も忘れ、ただ高みへと至らんとする者は、正常という世界に留まることは許されない。私は狂気に導かれてこの世界を離脱し、真理へと至らんとする者である。狂気は我が導き手である。だが、自覚して狂気を求める者ははたして狂人と呼べるのであろうか」

 

 サンベが叫んだ。

 

「わけのわからねぇことをごちゃごちゃ言ってんじゃねぇ! おい、テメェら! こいつをそこから引きずり下ろせ……!」

 

 その言葉が終わる直前に、ウサギずきんの男は大きく跳躍した。見事な動きといえた。男はしばらく滞空した後、軽やかに地面に降り立った。意外な挙動にサンベたちは少し気圧される形となった。誰も動かなかった。しばらく沈黙があたりを満たした。

 

 ややあって、男はまた口を開いた。

 

「狂気に憑りつかれた者に名乗るべき名などない。しかし名は認識を促す標示(ひょうじ)でもある。ゆえに、あえて私は名乗ろう。我が名は『マラソンマン』 大地を駆ける者である」

 

 マラソンマンは自分の周りに立ち尽くす者たちを眺めた。彼は一人ひとりを吟味するように見た。バナーヌは、面倒くさい気持ちが湧いてやまないのを感じていた。そして、嫌な予感がしてならなかった。自分はよく変人だと言われる。そうかな、と思うし、そうではない、とも思う。だが、変人に目を付けられることはよくある。非常によくある。彼女は今回もそうなるような気がしてならなかった。

 

 不幸なことに、バナーヌの予感は的中した。マラソンマンはバナーヌに顔を向けた。彼の眼光がいっそう鋭さを増したように思われた。彼は言った。

 

「素晴らしい。そこの女よ。そこのバナナのような髪をした女よ。私は今、お前を求めている。お前は狂気をもたらす者であろう。私のもとに来い。私の真意を伝えよう」

 

「呼ばれてますよ、バナーヌ先輩」とモモンジが肘で軽く突いてきた。バナーヌはうんざりした気持ちになった。モモンジがまた言った。「ほら、はやく行ってきてください」

 

 バナーヌは歩き、マラソンマンの前に立った。マラソンマンは改めてバナーヌをじっくりと見た。頭から足の先まで彼は味わうように見た。彫刻品を鑑定する美術家のような眼差しだった。バナーヌは全身が痒くなった。男は言った。

 

「バナナの女よ。私とマラソンをしよう。私はマラソンマン。走ることで己を高めんとする者であり、天空と大地と時の女神たちの伝令である。私とマラソンをしよう。私はそれ以外何も望まない。ただ私と走れ」

 

 バナーヌは答えた。

 

「やだ」

 

 にべもない拒絶だった。だって、気色悪いし。どうして任務の最中にこんな得体の知れない者とマラソンをせねばならないのか? スタミナ(がんばり)というものは有限である。大切にしなければならない。

 

 そんなバナーヌの心を無視して、サンベは乱雑ながらもいつもより低い声音で言った。

 

「……おい、カルサー谷のバナーヌ。お前、こいつと走れ。こいつも気が済んだら勝手に消えるだろ。いつまでもここで時間を潰してるわけにはいかねぇ」

 

 バナーヌはサンベを見た。不思議なことに、サンベからはいつもの粗暴さが消えていた。彼からは恐れのようなものが感じられた。

 

 バナーヌはその時、初めてサンベという男の本質を見たような気がした。つまるところ、こいつはただの臆病者なのだ。自分の知っている範囲のことに関しては強気に出られるが、未知のもの、得体の知れないものに関しては臆病になる。このマラソンマンは、図太い性格をしているバナーヌですらあまり関わり合いになりたくないと思う(たぐい)の人間である。サンベがさっさとこの状況を終わらせたいと思っているのは明白だった。

 

 サンベは言った。

 

「走れよ、なあ」

 

 バナーヌは答えた。

 

「了解」

 

 こんな男でも指揮官ではある。イーガ団員は命令には絶対服従である。バナーヌは走ることにした。マラソンマンは頷いた。

 

「実によろしい。さて、マラソンにはコースというものがある。コースがなければマラソンとは言えない。私はこれから天望の丘の北の麓、東の宿場町跡地入口まで走る。バナナの女よ。私と競う必要はない。ただ私と走れ。私と肩を並べて走れ。そうすれば私は満たされる。私は真理へとまた近づくのだ……」

 

 バナーヌはその言葉が終わるまで待たなかった。

 

「うるさい」

 

 そう一言漏らすと、彼女は勢い良く走り始めた。彼女は走るのには慣れていた。彼女のこれまでの人生はもっぱら走ることで占められてきた。体の重心を丹田に置き、手首と足首はあくまで柔らかく保つ。小鳥を掴むようにそっと手を握り、上体は自然の動きに任せる。胸郭を狭めないこと。胸郭の動きが制限されると呼吸が浅くなり、疲労する……

 

 後ろから、サンベの慌てたような声がした。

 

「あっ、コラッ! いきなり走り出すやつがいるか! おい、てめぇら! さっさと持ち場に戻れ、出発だ……!」

 

 バナーヌは最初からハイペースを保つことにした。彼女はストライドを大きくし、飛ぶような勢いで走った。

 

 しかし、いつの間にか彼女の隣にはマラソンマンがいた。呼吸も乱さず、彼はその呟くような口調で言った。

 

「なるほど、素晴らしい走りだ。訓練されている。走ることが一種の習慣(ハビトゥス)となっている。これほど見事な走りをすることができる者は、今のハイラル世界においてごく少数であろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 バナーヌは横目でマラソンマンを見た。彼の走るフォームは完璧だった。バナーヌが飛ぶように走るのならば、彼は滑るように走っていた。足音すら立てず、息の音を漏らさず、マラソンマンはバナーヌとまったく同じペースで走り続けていた。

 

 後ろから馬車が追従してくる音が聞こえた。このスピードは、通常の馬車の走行よりも幾分か速かった。バナーヌは少し心配になった。馬たちはバテないだろうか? このペースで走り続けたら、馬車の馬たちは東の宿場町跡地に辿り着いた時には疲労しきってしまうかもしれない。それは避けたい。

 

 それでも彼女の足は速度を緩めることがなかった。なんというか、ここでペースを落としたらこのウサギずきんの男に負けたような気がする。バナーヌはマイペースな性格をしているが、それでも人並みに負けん気というものは持っている。というより、弱みを見せたくない。特に、見ず知らずの人間に対しては。

 

 そんなバナーヌの内心を読んだように、マラソンマンが静かに言った。

 

「君は私に負けまいとしている。それは走る者に特有の心性である。だが」

 

 マラソンマンは淡々と言葉を続けた。その言葉は妙に長ったらしかった。

 

「いったい、負けとは何か? 勝ちとは何か? 競争や勝負というものは、いったい何を基準として勝敗を分けるのであろうか? 競争というものは、ある一つのものを巡って行われるものであると定義できるかもしれない。そしてその場合、その一つのものとは、常に恣意的に決定される。決して形而上学的に決定されるものではない。人は言うかもしれない。競争とは常に『一位』を目指して行われるものであると。最初にゴールを通った者が一位であり、一位を獲得した者を勝利者と呼ぶと、人は言うかもしれない。だが、順位を以て競争を定義することはできないと、私は考える。なぜならば、一位を争う競争と同様に、『二位を争う』という競争もまた成立し得るからだ。『一位ではなく、二位を取った者を優勝とする』ということは、恣意的に決定できるのだ。競争者に一位を取らせるように仕向け、己は二位を狙う。それには技巧があり、技術がある。戦術がある。思考が働いている。かつてのハイラルにおいては、レース文化が爛熟していた。二位を得た者を優勝者とするというレースもまた行われた。同じように、三位をとった者、四位をとった者、五位をとった者を優勝者とするレースがあった。最下位の者を優勝者とするレースも存在したという。ゆえに、順位によって競争という概念を定義することは妥当ではない……」

 

 バナーヌは言った。

 

「うるさい」

 

 初めてバナーヌの中にこの男に対する敵意が湧いた。それはごく薄っすらとしたものであったが、確かに敵意であった。うるさい。なにやら哲学めいたことを言っているが、うるさい。哲学をする者たちは哲学こそが人を生かすものであると思い込んでおり、確かにそういうこともあるかもしれないが、しかし哲学とはうるさいものなのだ。今は走ることに集中したい。

 

 バナーヌは足を早めた。マラソンマンはまだ何かブツブツと言っていた。彼女は街道周辺に目をやった。定期的に視線を変えることが長く走る上でのコツだ。視線が固定され、目に入ってくる情報が変わらなくなると、精神は疲労を覚え始める。精神の疲労は筋肉を萎えさせる。丈の高い緑の草が一面に生い茂っていた。バッタが跳ね、小さな羽虫の群れが塊となって漂っていた。白い花に赤い花が重なっていた。花にハチがとまって蜜と花粉を集めていた。おそらくガンバリバチだろう。彼女はそう思った。集められた花の蜜はハチミツとなる。ハチミツはスタミナ(がんばり)を生む。

 

 いつの間にか太陽が高く昇っていた。もはや幼い太陽ではなかった。空は晴れていて、凶暴な太陽光が大地に降り注いでいた。気温は三十度近くまで上昇しているだろうと、バナーヌは思った。昨日までの雨が嘘のようだった。水溜りはすでに乾き、泥がひび割れていた。息が上がりつつあるのを彼女は感じた。

 

 こんな天気では、みずみずしいバナナもすぐにカラカラになってしまう。バナーヌの脳裏にそんなことがよぎった。バナナがカラカラに……そんなバナナはバナナといえるのか? それはバナナではない。バナナのミイラ(ギブド)だ。地下に埋もれた古代の遺跡に大量のミイラ(ギブド)がいる。バナナのミイラ(ギブド)が包帯を纏って整然と横たわっている。ミイラ(ギブド)たちは起き上がり、口を開く。「どうしてカラカラになるまで放っておいたのか……」

 

 いかん、とバナーヌは頭を振った。彼女は少しペースを落とすことにした。走ることに集中しなければならない。

 

 またマラソンマンが言った。またしても彼女の心の内を読んだかのような口ぶりだった。

 

「順位を争うことが競走の、いや競争の本質ではないように、報酬もまた競争の本質ではないのではないか? はたして報酬を得ること、つまり何らかの成果を得ることは競争の本質を成すのか。私は、それが競争の本質を成すとは考えない。競争において、ある競争者が成果を得る場合、その時には必然的に成果を得られなかった競争者も存在する。換言すれば、成果を得るには、成果を得られない者の存在が前提となるのだ。ゆえに、成果を得られない者なしには競争は成立し得ない。従って成果を得るという観点から競争を定義することもまた妥当ではない。では競争とはなんであるのか?」

 

 バナーヌは言った。

 

「うるさい」

 

 ぶん殴りたい、とバナーヌは思った。ぶん殴って黙らせてやりたい。今はっきりと分かった。こいつは走ることに集中していない。なにがマラソンマンだ。それに、ちゃんと全部話を聞いていたわけではないが、こいつの喋る内容はなんとなく厳密性に欠けているような気がする。

 

 もしかしてこいつは、厳密な哲学的議論をしたいわけではなく、なんとなく()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのではないか? ハイリア大橋で、モモンジは「そういうふうになっちゃった人」と言った。こいつは「そういうふうになっちゃった人」ですらない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

 それが事実であるか分からない。もしかしたらこいつは本当に哲人ランナーの類なのかもしれない。しかしそのように思うことで、バナーヌの心は落ち着きを取り戻した。本当の哲人が隣で走っているかもしれないと思うのは、かなりのプレッシャーとなるのだ。魔物と走るのとさほど変わらない。彼女はまたペースをあげ始めた。マラソンマンは苦もなくそれについてきたが、彼女の心が乱れることはなかった。

 

 黙々とバナーヌは走り続けた。マラソンマンは喋っている時以外は、じっと口を閉じていた。右手の丘陵地帯へ彼女は目をやった。天望の丘は、もう中ほどを過ぎていた。あと一時間も経たずに東の宿場町に到達するものと思われた。

 

 だんだんスタミナがなくなってきているのを彼女は感じていた。そろそろ走り終えたいと彼女は思った。

 

 ふと気になって、バナーヌは後ろを振り返った。いつの間にか馬車は遠くなっていた。随分とはやいペースで走ったようだ。彼女は空を見た。太陽は中天から少し降りたところに位置していた。走っている間に昼が過ぎていた。

 

 こうして時間を忘れて走ったのはいつ以来だろう?

 

 マラソンマンが口を開いた。どこかその口調は荘厳だった。

 

「競争というものは、競争を忘れたその瞬間に真なる意味で競争となるのだ。最初、人は臆見(ドクサ)に囚われ、順位を求め、成果を求めることに専心する。それが競争であると思い込んでいる。思い込みつつ、それを極めていく。ついにそれが極まった時、人は没我の境地に到達する。その時、人は自分が競争しているということを忘れる。競争を意識している自我が消えたその没我の境地に達して、ようやく人は()()()()()()()()()()()()。その時はじめて人は解放される。人は時間の奴隷だからだ。競争によって、人間は時間という枠組みをはみ出し、より大いなる生命を生きることになる。スピードもスタミナも、その時は意味を持たなくなる。スピードもスタミナも、時間なしには成り立たないからだ」

 

 いったん言葉を切ると、沈黙を挟み、最後にマラソンマンは締めくくるように言った。

 

「時間に打ち勝つ。これが競争の本質なのだ。分かったかね」

 

 バナーヌは言った。

 

「うるさい!」

 

 バナーヌはマラソンマンをぶん殴った。気持ちの良いほどに勢いのある一発の拳がマラソンマンの頬にめり込んだ。マラソンマンはぶっ飛ばされ、茂った草むらの中へ姿を消した。衝撃で彼の頭からウサギずきんが外れ、ふわふわと空中を漂った後、街道の少し先に落ちた。

 

 速度を緩め、しばらく惰性で進み、バナーヌはようやく足を止めた。荒い呼吸は数秒で元に戻った。彼女は足元に落ちているウサギずきんを拾った。

 

 こうして手に取って見ると、ウサギずきんは実に愛らしいデザインだった。黄色の耳と、黒い目が鮮やかなコントラストを描いていた。

 

 どこかから、声が響いた。

 

「それは君に差し上げよう。今回のマラソンの記念だ」

 

 バナーヌは周囲を見回した。声の主はどこにも見えなかった。また、声が響いた。

 

「時間に追われている限り、君は時間の奴隷に過ぎない。君はスタミナ(がんばり)に優れているようだ。だが、これからは()()()()()()()()()()()()()()()()()。そうすれば君は時間から解放される。私も未だ、時間の奴隷に過ぎない。今のところは、だが。さあ、もう行きたまえ。私も行く。君と走るのはなかなか楽しかったよ……」

 

 しばらく、バナーヌは耳をすませた。声はもう聞こえてこなかった。彼女はウサギずきんをしばらく見つめた。

 

 (かぶ)ろうか? いや、やめよう。

 

 彼女は現在地を確認した。周囲の丘の形と前方遠くに見える森の様子から、いま立っているところが東の宿場町跡地、東西の街道と南北の街道との結節点にほど近いことが彼女には分かった。

 

 彼女は街道の脇にある大きめの石に腰かけた。

 

 マラソンマンは、これまで対峙してきた敵の中で最もうるさいやつだった。彼女はそう思った。なにが「スタミナを超えたスタミナ」だ。こっちの忍耐力(がんばり)はとっくの昔に切れている。バナーヌは無性にバナナが食べたくなった。

 

 涼やかな風が吹き渡った。草木が潮騒のような音を立てた。傾いた陽の光は今や柔らかだった。

 

 馬車は半時間ほど遅れてやってきた。車列の前にはテッポがいた。テッポはバナーヌの姿を見つけると、元気良く駆け寄ってきた。

 

「ああ、バナーヌ! 心配したのよ! 爆速(すごいスピード)で走っていって姿が見えなくなったってモモンジから聞いて……」

 

 バナーヌは言った。

 

「ありがとう」

 

 バナーヌとテッポはしばらく見つめ合った。テッポの目は優しかった。

 

 やがて、テッポが口を開いた。

 

「ところでマラソンマン、だっけ? どこに行ったの? ここにはいないみたいだけど」

 

 バナーヌは答えた。

 

「ぶん殴ってやった。うるさかったから」

 

 テッポは呆れたような、納得したような顔をした。

 

「ああ、そう……そうね、うるさいやつはぶん殴ってやるのが一番ね……」

 

 二人は連れ立って歩き始めた。四両の馬車がその後についてきた。

 

 ほどなくして、バナーヌたちは交差路に辿り着いた。

 

「あれ?」とテッポが言った。「こんなところに岩なんてあったっけ?」

 

 目の前には大きな岩があった。納屋ほどに大きな岩が、街道の真ん中に鎮座していた。

 

「いや、こんな岩はなかった」とバナーヌが言おうとした、その瞬間だった。

 

 岩が生き物のように動き始めた。波のように大地が揺れた。




 ウサ耳ゼルダ様! ウサ耳ゼルダ様!
 いや、ウサ耳リンクも良いな……
 続編ではウサギずきんが出てくると良いな……なんて……

※加筆修正しました。(2023/05/23/火)


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第五十一話 テッポ VS イワロック

 古のシーカー族の導師、フォノ・セクンは「敵からも利益を得るのが理知的な人間のあり方である」という言葉を残している。

 

 なるほど、確かに人間はこれまでその知恵を以ってありとあらゆるものを、それこそ敵をも利用してきた。たとえ人間の知恵が、その原初の形態においては「それが味方であるか、敵であるか、あるいはそのどちらでもないか」を判断するだけの単純なものに過ぎなかったとしても、人間は時間をかけて知恵を発達させ、分節化させてきた。これによって人間は他の生き物を圧倒し、ついには大地の支配者となったのである。

 

 たとえば、現代の人間は動物を利用し、中には家畜として飼いならしているものもある。その動物も当初は、まさに人間の敵として認識されたに違いない。野生のヤギやウシは鋭い角を持ち、その性質は凶暴である。イノシシには二本の牙があり、人間に対して積極的に襲い掛かる。オオカミやコヨーテの類に関してはいまさら言及するまでもない。

 

 未だ家を持たず、街を持たず、木と森を住処とし、様々な危険の中を掻い潜るようにして生きていた人間にとって、動物たちは紛れもなく害をもたらすものであった。中には無害なもの、鳥やリスといった小動物もいたが、それらも味方と呼ぶには程遠い存在であった。味方とは、こちらに対して積極的に利益を与えるものであると定義できるが、それらの動物は害も与えなければ利益も与えなかったからである。

 

 それでも人間は、それら敵としての動物を観察し、分析し、膨大な試みを繰り返して、最終的には己に利益をもたらすものとして作り変えることに成功した。人間は柵を設けてヤギとウシを囲い、餌を与えて飼育し、望ましい性質を持つ個体を掛け合わせ続けた。その結果、ヤギとウシは温順になり、角が丸くなり、肉と乳という利益を人間に提供するようになった。森に棲む凶暴なイノシシには罠を仕掛け、槍で突き、弓矢で射る。その肉の美味さは家畜に劣らない。狩りの方法を改良し、オオカミやコヨーテを仕留める。その毛皮は最高の素材の一つとして利用される。

 

 敵を利用するという知恵があればこそ、人間は生活の質を向上させ、社会を発展させることができた。その上なお、人間の知恵は決して進歩をやめなかった。ほとんどすべての点において有害で手に負えないような敵、つまり魔物に対しても、人間は「どこかに利用価値がないものか」と観察を続けた。

 

 だが残念ながら、ごく一部の例外を除いて、人間は未だに魔物という敵を利用することに成功していない。

 

 ハイラル世界において最も一般的な魔物であるボコブリンは邪悪にして凶暴で、決して飼いならされることはない。武器を操ることができ、簡単な道具ならば自作することができるほどの知力も有している。感情があり、おぼろげながら理性らしきものがある。

 

 このような魔物を家畜化することは、やはり不可能であった。少なくとも、ヤギやウシを家畜化した時に用いたような手段では、ボコブリンを飼いならすことはまったくできなかった。たとえ家畜化することができたとしても、その肉は臭く、血には毒があり、毛皮は薄く柔軟性に欠けるため、ほとんど得るところはない。わずかにその牙、角、肝などが薬用として利用され得るに過ぎない。

 

 家畜として利用するのが不可能であるのならば、労働力として用いれば良いのではないか。ある時、一人の知恵ある人間がそのように考えた。その人間の名はサンテイといった。彼はフィローネ地方できび砂糖を栽培している農家であった。サンテイの経営するきび砂糖畑は大規模なもので、常に労働力を必要としていた。きび砂糖の植え付け、収穫、圧搾、さらには新規の農地の開墾には、それこそ無限に労働力が必要であり、その労働力はできる限り安価なものでなければならなかった。しかしその労働内容は過酷であり、よほど経済的に追い詰められた人間でなければ、志願してその職に就くものはほぼ絶無であった。

 

 ボコブリンならば、この労働に適しているのではないか。サンテイはそのように考えた。寒暑に耐え、病気になることもなく、膂力(りょりょく)に優れており、なにより無銭で使い捨てることができる。条件だけを見れば、ボコブリンはうってつけのように思われた。彼はさっそくその考えを実行に移すことにした。しかし、予想されたことではあったが、それは難航した。

 

 まず、ボコブリンを捕獲すること自体が困難であった。ボコブリンは魔物であり、魔物というものはその本来的な性質からして人間を嫌悪しているため、戦闘においては文字通り死ぬまで戦う。ボコブリンと戦う者に、「捕獲するために手加減をする」という余裕はなかった。運良く捕獲することに成功したとしても、ボコブリンを無害化することがまた難しかった。サンテイは当初、ボコブリンの手足の(けん)を切断し目を潰すことで、魔物の力を削ごうとした。だが、そのようなことをすれば当然、ボコブリンが労働をすることは不可能となる。また、ボコブリンの生命力はサンテイの予想を上回っていた。腱を切られ、目を潰されたボコブリンは、ほんの数日以内に元通りに回復してしまうのが常だった。

 

 それでもなお、サンテイはボコブリンを労働力として組織することに執念を燃やした。もしその試みに成功すれば労働力をただで、かつ無限に手に入れられるということもあったが、おそらく彼は試みを重ねるうちに当初の目的から逸脱し、「魔物を飼いならすこと」それ自体を追究するようになっていったものと思われる。考えられる限りのありとあらゆる手段が用いられた。薬物による精神操作、電気ショック、報酬と罰を用いた条件づけ……そのいずれも上手くいかなかった。数年にわたって実験は継続されたが、やがて伝染病が発生してきび砂糖畑に大損害が発生し、サンテイが破産すると、実験そのものも放棄された。

 

 ボコブリンより体格と力に優れたモリブリンも労働力としての可能性を見出され、サンテイと似たような考えを抱いた者たちによって実験が行われたが、結果はボコブリンと同様だった。

 

 アッカレ地方の鉱山での実験がその象徴的な例である。その鉱山では古代シーカー族のカラクリ技術を転用し、ある種のヘッド・ギアを開発した。これをモリブリンの頭部に被せ、魔物が暴力的な行動をとった場合に直接脳へ電気ショックを加えることにした。結果、モリブリンの凶暴性はある程度抑制された。ヘッド・ギアを装着したモリブリンは単純な力仕事に従事することが可能となった。

 

 だが、不幸なことに、ある日の大嵐の際、空電によってヘッド・ギアの回路が破損した。労働を強いられていたモリブリンたちは監視の人間数人を殺傷すると、すべて逃亡してしまった。これ以降、モリブリンを労働力化する試みが行われた形跡はない。

 

 敵である魔物を利用するという試みは、このように失敗の連続であり、ほとんど益のないものであった。しかしながら、いついかなる時でも幸運な例外というものが存在する。

 

 興行師であったハイリア人ビタタマの魔物利用は、一種の伝説と化している。伝えられるところによれば、彼はある時、巡業旅行の最中に巨大な岩石の魔物であるイワロックと遭遇した。辛くもイワロックを退けることができたビタタマは、巨大魔物が死んで爆発四散する際に、無数の宝石をまき散らしたのに気が付いた。これまでにもイワロックがその死の際に宝石を放出するということは報告されていた。しかしイワロックは魔物の中でも有数の強敵であり、また倒すには大量の火薬が必要であったこともあって、積極的な「狩り」の対象とは見なされていなかった。

 

 ビタタマはイワロックに「儲け」の臭いを嗅ぎ取った。もしイワロックを安定して、かつ安全に倒すことが可能になるなら、もはやデスマウンテンのゴロン族から宝石を輸入する必要はなくなる。いまや、ビタタマの目にイワロックは脅威として映っていなかった。彼はその時すでにイワロックを巨大な「宝箱」と見なしていたのである。しかし、その鍵をこじ開ける方法については、これから見つけ出す必要があった。

 

 彼はイワロックを観察することから始めた。古文書を漁り、文献を集め、辺境警備隊の兵士たちや各種族の戦士たちから話を聴いて、そもそもイワロックとはどのような魔物であるのかを知ろうとした。それに留まらず、彼はしばしばイワロックの生息地へ足を運び、その目で直接イワロックの生態を観察した。

 

 また、彼は興行師としての技能と人脈を活かして、各地から無数のイシロックを集めた。イシロックはイワロックの幼体であるという言い伝えがあった。それを観察し分析することは必ずやイワロックそのものについて解き明かす上で大きな意味を持つはずであった。

 

 ビタタマは調査に励み、数年後に一応の結論を得た。イワロックは巨大な岩石の魔物であるが、その大きさまで成長するには百年単位の時間が必要であることを彼は確認した。他にも貴重な知見を彼は得た。イワロックの幼体はやはり言い伝えどおり、イシロックであること。イシロックは地中に埋まり、大地の養分を吸収して成長すること。養分としてもっとも望ましいのは、魔物の臓物と血から製造される「マモノエキス」であること。地熱がイシロックの成長を促進すること。理想的な条件を満たせば、イシロックは数年でイワロックへと成長すること……

 

 かくして、イワロックを「養殖」する目途が立った。そして彼は、イワロックの養殖にある程度成功したらしい。詳しい記録はビタタマが死去した際にすべて破棄されたためもはや参照することができないが、他に伝えられている断片的な記録によれば、彼はチュチュの養殖業者から具体的な方法に関して多大な示唆を得たようである。チュチュは、他の魔物とは異なり、かなり早い段階から養殖技術が確立していた。土壌を調整することでチュチュを人工的に育成することが可能であった。チュチュゼリーは製薬材料としての需要があり、養殖業者は各地に存在していた。必要な技術の蓄積はビタタマの時代にすでになされていた。

 

 問題は、養殖したイワロックをどのようにして「収穫」するかであった。このことに関しても記録は乏しい。わずかに残された記録を総合すると、どうやらビタタマはかなり後ろ暗い行為に手を染めていたようである。彼はハイラル全土から人間をかき集めた。食い詰めた者たち、借金を背負った者たち、あるいは退役軍人や、引退した闘技場の選手、もしくは世間知らずの若者たちを集め、バクダンとハンマーを持たせてイワロックと戦わせたようである。

 

 イワロックの養殖場は中央ハイラルから遠く離れたタバンタ地方の辺境にあり、人の目に触れることはなかった。どれだけ多くの人命が損なわれたのかは想像する他ないが、少なくともただの興行師にすぎなかったビタタマが城下町随一の「名士」となるほどの宝石が生み出されたのは確かである。

 

 ビタタマには、確かに「敵からも利益を得る知恵」があった。だが、その知恵を無償で他に広めるほど、彼はお人好しではなかった。彼は死を迎えた際、すべての記録を破棄し、養殖場も大量の爆薬で完全に破壊したという。

 

 このビタタマの伝説的エピソードに関しては、異論もある。そもそもビタタマはイワロックの養殖になど成功していなかったというのである。「イワロックの養殖」は投資を集める名目に過ぎず、彼はそれを私的に横領した。最終的にその詐欺行為が露見し、ビタタマは中央ハイラルから逃亡して惨めな死を迎えたと、異説にいう。彼が木賃宿にて客死した記録がヘブラ地方の寒村に残っていると言われている。

 

 人間は知恵のある生き物である。その知恵は敵にすら利用価値を見出し、これまで数々の利益をもたらしてきた。しかしながら結局、繁栄が絶頂に達した大厄災前のハイラル世界においてすら、人間は魔物という最大の敵を利用し尽くすというところまでには至らなかった。

 

 魔物はどこまでいっても魔物に過ぎない。当面の間、人間はその影に怯えて生きていかねばならないだろう。

 

 だが、もし、魔物を自由自在に操ることができる者がいたならば? もし魔物を手駒のように扱い、意のままに動かし、存分に利益を得ることができる者がいたならば? そのような者がいるとは到底思えない。

 

 しかし、いるのだ。その者の姿は見えない。その者は影すら踏ませない。しかし、いる。確かにこの世にその者は存在していて、敵対者に魔物をけしかけている。

 

 その戦いは、凄惨なものとなるであろう。

 

 

☆☆☆

 

 

 そのイワロックは、長い間そこに埋まっていた。

 

 彼がこの世界に発生し、意識を持ち始めたのがいつであったのか、それを正確に知ることはもはやできなかった。あまりにも長い時間が経っていた。それは当のイワロック自身の記憶を薄れさせるのに充分なほどだった。

 

 だが、記憶が薄れていようが今を生きることはできる。魔物にとって、過去や過去の記憶などといったものはまったく重要ではない。魔物にとっては今しか存在しないからだ。彼らには寿命などという、天地の理によって強制的に割り当てられた時間の制限はなく、ゆえに過去を顧みる必要もなければ未来を想う必要もない。

 

 彼もやはりイワロックであるから、その初めはほんの小さな石から出発したのであった。石は宿場町の中、宿屋が立ち並ぶ通りのすぐ脇に落ちていた。その宿場町は古くから栄えていた。ハイラル王国発祥の地として名高い始まりの台地へと向かう旅行者たちが、引きも切らずその宿場町を訪れた。石は、その旅行者たちに踏みつけられた。蹴とばされ、馬車に轢かれ、気まぐれに投げ飛ばされた。しかし、石がそのことについて何かを感じることはなかった。その頃の石は、まだ単なる石に過ぎなかったからであった。

 

 いくつもの季節が巡り、去ってまた来た。その間に、石はたっぷりと人間の情念を吸収した。宿場町では、様々な人間模様が繰り広げられた。出会い、別れ、恋、喧嘩、誕生と死、およそ人間の社会において起こり得るすべての出来事がその町の中で生じた。

 

 石は、今や単なる石ではなくなっていた。情念を吸収した石は、意識を持つようになっていた。

 

 また時間が経った。石はますます成長し始めた。次第に、石には手と足が生えた。石はその手足を動かしてみた。「何かを動かすことができる」というその実感が、さらに石の意識を拡張させた。石は、今や単なる石ではなくなった。石は魔物となった。それは一般的に、イシロックと呼ばれる魔物であった。

 

 単なる石かられっきとした魔物として生まれ変わったイシロックであったが、まだまだ彼は弱かった。金属製のハンマーならば、容易く彼を破壊することができただろう。そのことを自覚していたのか、イシロックはいつまでもじっと動かなかった。あるいは、彼は魔物とはいえやはりその本質は石であったので、動くということにさほどの重きを置いていなかったのかもしれなかった。その頃の彼は土に半ば埋もれながら、時折もぞもぞと手足を動かすだけだった。

 

 彼には他のイシロックとは異なった点があった。彼は攻撃性に乏しかった。他のイシロックならば、人が接近するや否や起き上がって、その小さな石の手足を振り回して襲い掛かるのが常であるが、彼はそうしなかった。彼は人が近づいても動くことはなく、その身を踏まれるに任せていた。

 

 彼の攻撃性が乏しかった理由は分からない。しかし、いずれにせよそれが彼を救った。彼は魔物ではなく単なる石と見なされていたため、いつまでもその命を保ち続けることができた。彼はますます大きくなっていった。

 

 彼はまだ宿場町の中にいた。彼はだんだん、宿場町が嫌いになっていった。そこはあまりにもうるさい場所だった。人間はいつまでも消えることがなく、いつまでも同じことを繰り返していた。いつまでも同じ情念を振りまいていて、それがいつまでも彼に降りかかってきた。人間と、その人間模様は、彼にとってあまりに煩わしかった。

 

 ある日、ふと思い立って、彼は宿場町を離れることにした。彼はやはり他のイシロックとは異なっていて、賢明だった。彼は人目につくことのない夜を利用して、少しずつ移動していった。彼は一ヶ月をかけて数メートルを移動し、一年をかけて数十メートルを移動した。それはまことに遅々とした移動だった。だが、イシロックである彼には無限の時間があったため何も問題はなかった。そして人間たちは、変わり映えのしない人間模様を繰り広げるのに忙しかったため、夜ごとに石が少しずつ動いていることに気付かなかった。

 

 ついに彼は宿場町の外に出た。彼はなおも移動を続けた。そして彼は、ある丘の上を安住の地として見出した。そこはまことにけっこうな場所と言えた。丘には穏やかな風が吹いていた。全体を丈の高い緑の草が覆っていた。宿場町からは適度に離れており、人はまったく寄り付かなかった。時々キツネがふらっと姿を現すだけだった。彼はそこで地面に埋まり、また長い時間を過ごすようになった。

 

 日が昇り、日が沈み、それが繰り返されて時間が経った。いつの間にか人間はいなくなっていた。いつでも喧騒に包まれていた宿場町は荒廃し、骸骨のような廃墟と残骸を一面に広げていた。宿場町を離れた時にはまだほんの小さなイシロックに過ぎなかった彼は、今や小屋よりも大きくなっていた。今では彼は丘の一部ではなく、丘そのものであった。彼はイシロックではなく、イワロックになったのだった。

 

 彼の表面には苔が生え、その苔を足がかりにして雑草が根を伸ばしていた。彼は、自分の背面に何か大きなものが生え、成長しているのを感じていた。それは植物ではなかった。それは彼の内側から発生したものであった。それは鈍く輝く、青黒く光った鉱床であった。鉱床は奇妙な形に尖っていて、まったく異質な存在感を放っていた。まるで岩にできた吹き出物のようだった。

 

 もちろん、彼はそれを見ることができなかった。彼の体はあまりにも大きかったし、そもそも彼には振り返る首がなかった。彼はそれで構わなかった。背面の鉱床の成長を感じ取ることができるだけで彼には充分だった。鉱床は日々大きくなっていった。鉱床は彼に、こそばゆくも心地良い感覚を伝えてきた。彼は鉱床を、もはや自分の一部とは見なしていなかった。鉱床は一部ではなく、全体と化していた。ここに、自分の存在と命のすべてが詰まっている。彼にはそう感じられた。

 

 いつまでも大地に埋まり、鉱床が成長するのを感じ続ける。彼にとってはそれで充分だった。もし敵が来れば魔物としての本能に従って戦うだろうが、これほどまでに成長して大きくなった自分にとって敵と呼ぶに値する存在がまだ残っているとは考えられない。彼は静かに大地の中で眠り続けていた。

 

 だがその日、彼の平穏な生活は突如として終わりを告げた。

 

 その日はよく晴れていた。前日、天は雨を注いで彼の体の表面を潤し、苔と雑草の生育を促したが、今日はその同じ天が、強烈な陽ざしによって彼の体を焼いていた。

 

 彼は、何かが音もなく近づいてくるのを感じた。それは、一人の人間だった。奇妙なマスクを被っていた。それはボコブリンの顔を模したブサイクなマスクだった。その腰には長い刀をさげていた。人間の手足は細長く、しなやかだった。人間は素早い動きで彼の上へと登った。そして、低い声で言った。

 

「起きろ、イワロック。お前にはひとつ仕事をしてもらう」

 

 彼は起きなかった。近頃ではまったく見かけなくなった人間であるが、やはり彼にとってわずらしいものであることに変わりはなかった。言うことを聞いてやる必要はまったくない。どうして自分のことを岩ではなくイワロックであると見破ったのかは少しばかり疑問ではあったが、結局のところそれもどうでも良いことだ。彼はそう感じた。

 

 沈黙を保ち続ける彼に対して、ボコマスクの人間はまた口を開いた。冷ややかな口調だった。

 

「その気がないのならば、こちらとしても考えがある」

 

 そう言うと、人間は懐から一枚の札を取り出した。札の中央には涙目の逆さ紋様が描かれており、その周囲にびっしりと謎の文言が書かれていた。人間はそれを、彼の表面に貼り付けた。

 

 人間は両手をぴったりと組み合わせて印を結ぶと、唸るような声でなにやら呪文を唱え始めた。人間からオレンジ色と黄色の色彩を持つ魔力が放出され、札に注ぎこまれていった。

 

 その途端に、彼の中に何か痺れるような感覚が走った。それはまるで落雷のようだった。札から電流のようなものが流れ出て彼の体の中枢を侵し、さらに彼が大切に成長を見守ってきたあの鉱床にまでそれが届くのが感じられた。

 

 このままでは、大変なことになる。彼はそう思った。具体的にどう大変なことになるのかは分からなかった。とにかく彼は体を持ち上げた。地面が波のように揺れた。起き上がった彼は、家一軒を遥かに凌ぐ大きさだった。彼は身を揺すって、自分の上に立っている不埒な人間を落そうとした。しかし人間は平然としていた。人間は言った。

 

「無駄な抵抗をするな。もう逃れることはできん」

 

 人間はさらに札を貼った。一枚を追加し、二枚を貼り、三枚を重ねるようにした。そのたびに彼の感じる苦痛はより激しくなった。彼は身を(よじ)った。札はいまや、数えることができないほど彼の表面に貼られていた。びっしりと札に覆われた彼は、そのうち考えることも、感じることもできなくなった。彼の意識は茫洋とした。彼は、自分が単なる石に戻ったような気がした。

 

 人間はそんな彼の様子を見て、微かに頷いた。ボコマスクの向こうからまた声が発せられた。

 

「イワロック、ここから移動しろ。移動して、街道の合流点へ行け」

 

 その声に操られるように、彼は動き始めた。彼の足取りはおぼつかなかった。岩の足が一歩一歩を踏むたびに大地が振動し、草が折れ、花が散った。虫たちが追われ、草むらに隠れていたキツネが逃げ去った。

 

 やがて、彼はそこに到着した。人間は言った。

 

「地面に埋まれ」

 

 彼は言われたとおりにした。そうせざるを得なかった。というよりも、そのようにすることがごく自然なことであるように感じられた。今やその人間は、彼の代わりに物事を考えてくれているかのようだった。土煙が巻き起こり、彼は地面に潜った。

 

 彼が地面に潜っていくのを、人間はじっと見つめていた。ボコマスクの作り物の目が、まるで生きているように輝いていた。人間は言った。

 

「ここで待て。そのうち馬車が来る。馬車が来たら戦え。おそらくお前は死ぬだろうが、戦いはきっと楽しいものになるだろう」

 

 また印を結ぶと、人間は短い呪文を唱えた。呪文が終わると、彼の体表を覆っていた札のすべてが音を立てて燃え上がり、一瞬で灰となって消えた。

 

 人間はその場を去った。彼は、これまで過ごしてきた長い時間の中で一度も経験したことのないある情念が、自分の中で湧き起こるのを感じていた。

 

 それは殺意だった。

 

 彼は馬車を待った。しばらくして、地面が振動を伝えてきた。それは、何両かの馬車がこちらへと走ってくることを意味していた。

 

 その時、彼は生まれて初めて、人間を殺してやりたいと思った。強くそう思った。思う存分、殺してやりたかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 突如として姿を現した敵を前にして、テッポは少なからず動揺した。

 

 この宿場町跡地に来たのはわずか数日前だ。その時はこんなところにイワロックはいなかった。絶対にいなかった。それなのに、どうして? なぜ今、目の前にそれがいる? 巨大な岩石の魔物は、今では完全にその身を起こしていた。未だ実戦経験に乏しいテッポであったが、そんな彼女でも眼前の敵が強い殺意を抱いているのは分かった。

 

 隣に立つバナーヌに、テッポは思わず声をかけていた。

 

「バナーヌ! どうしよう!?」

 

 テッポはバナーヌの顔を見た。バナーヌはイワロックを見つめていたが、テッポの声を聞いてちらりと視線を向けてきた。その顔は冷静そのものだった。バナーヌは何も言葉を発さなかったが、その澄んだ青い目で「落ち着け」と言っているのが分かった。テッポは頷いた。まずは心を平静にしなければならない。

 

 心と呼吸には強い繋がりがある。テッポは深く息を吸い込み、吐いた。それを何回か繰り返しているうちに、テッポは自分の精神が研ぎ澄まされ、集中力を取り戻していくのを感じた。そう、大丈夫だ。テッポは自分に言い聞かせた。奇襲(ふいうち)された形になったが、相手はただのイワロックだ。イワロックは確かに強敵ではあるが、それは一般人にとっての話だ。自分たちのように、戦闘の訓練を積んでいる者にとっては大したものではない。

 

 テッポは改めてイワロックを眺めた。思わず声が漏れた。

 

「大きいわね……」

 

 イワロックは大きかった。平均的な個体よりも一回りか、二回りは大きかった。倒せるだろうか? テッポは自分自身に問いかけた。倒せるはずだ。自分はそのための訓練を受けている。

 

 父の教えを思い出すことにテッポは努めた。イーガ団フィローネ支部幹部である父、ハッパは、娘であるテッポにイワロックに関してなんと言っていたのか。

 

「イワロックは所詮岩石に過ぎないから」と、かつてハッパはテッポに言った。

 

「我々が岩石を除去する時に用いる道具が効果的だ。これからイワロックとの戦い方について教えてあげよう」

 

 ハッパは魔物図鑑を指し示しながらテッポに説明を続けた。

 

「魔物には必ず弱点がある。イワロックの場合は、ここだ。この鉱床だ。イワロックには例外なく鉱床が生えている。ここを重点的に攻撃すれば良い。攻撃するにはハンマーが一番良いが、ハンマーでなくとも攻撃は通る。鉱床は岩と比べて柔らかいからな。ただし、刃物を使う場合は刃こぼれに気をつけないといけない。矢を撃つのも良いが、あまり効率的ではないだろう」

 

「でも、お父様」とテッポは父に尋ねた。

 

「弱点をつくにも、まずは相手に隙を作ることが肝要だと思います。敵はきっと戦闘中、弱点を晒すまいとするはずですから。それにはどうしたら良いのでしょう?」

 

 ハッパは嬉しそうな顔をした。利発な娘を愛らしく感じているようだった。

 

「そうだ、お前の言うとおりだ。戦闘においては相手の隙を窺うだけではなく、こちらから働きかけて隙を生じさせることも重要だ。だが、イワロックの場合それは容易い。特に、私とお前にとっては特に容易い。なぜか分かるかな?」

 

 しばらくテッポは考えたが、答えはおのずと分かった。「分かりました!」とテッポは言った。「爆弾を使えば良いんですね!」

 

 ハッパは頷いた。

 

「そうだ。イワロックには爆弾、その他爆発物が非常に効果的だ。まずは爆弾を使い、イワロックの腕を破壊する。やつらの腕はあまり頑丈ではない。一発の爆弾で簡単に壊すことができる。イワロックは腕を破壊されると必ず体勢を崩す。その隙をついて、上部にある鉱床を攻撃すれば良い……」

 

 一通りの解説を終えると、ハッパはテッポに向かって締めくくるように言った。

 

「テッポ、どんな時でも冷静に、平常心を保て。そうすれば必ず勝てる。もし一人では手に負えないと思ったら、その時は仲間に頼りなさい。仲間に頼ることができない者は、一人前のイーガ団員とは言えないよ……」

 

 テッポが父の教えを思い出して反芻するのには、ほんの数秒もかからなかった。その数秒の間に、モモンジがやってきていた。モモンジは長大で鋭利な風斬り刀を鞘から抜き払い、脇構えの形をとった。強敵を前にしているにもかかわらず、どこか能天気な声でモモンジは言った。

 

「なんでこんなところにイワロックがいるのかなぁ。でも、私たち三人でかかれば瞬殺(しゅんころ)ですよ。ね? テッポ殿、バナーヌ先輩?」

 

「そうね」とテッポは言った。「相手はただのイワロック。私たちの手にかかれば瞬殺よ。こいつがここにいる限り、私たちは前に進めない。さっさと倒して先に進みましょう」

 

 しかし、バナーヌは首を左右に振った。

 

「テッポとモモンジがイワロックを。私は、あれの相手をする」

 

 バナーヌは別の方向へ目を向けていた。テッポは彼女の視線の先へ目をやった。そこには高い旗竿が立っていた。破れて半ば朽ちた旗が幽霊のようにはためいていた。

 

 その旗竿の上に、何かが逆光を背負って立っていた。それを見たモモンジが「あっ!」と声を上げた。

 

「あっ、あのボコマスクを被ったあいつ! あいつがアラフラ平原でヒコロク先輩を……!」

 

 モモンジは身構え、今にもその敵に向かって駆けだそうとした。バナーヌはそれを手で抑えた。モモンジが抗議の声をあげるまえに、バナーヌは言った。

 

「モモンジはテッポをサポートしろ。やつはお前の弱点を知っている」

 

 そのとおりだった。アラフラ平原で戦った際、あの敵はモモンジにバナナを投げつけ、その隙をついて斬りかかってきたのだった。単純な剣術の技量ならばモモンジも決して劣らないだろうが、戦闘という観点から見ると、向こうが一枚上手(うわて)なのは間違いなかった。

 

「ぐぬぬ……」とモモンジは唸った。数秒唸った後、モモンジは言った。

 

「分かりました、ここはバナーヌ先輩にお譲りします! ちゃんとあいつをやっつけてくださいよ! さあ、テッポ殿、行きましょう!」

 

 モモンジの言葉が終わるのと同時に、三人は別々の方向へ走り始めた。バナーヌは一直線に旗竿へ、モモンジは刀を持ってイワロックの正面へ。テッポはイワロックの左側面へ回り込んだ。イワロックは大地を揺らして体の向きを変えようとした。どうやら魔物は、同時に向かってくる二人の敵のうち、どちらに対応しようか迷っているようだった。

 

 そして、イワロックはまずモモンジを標的に定めた。イワロックは左腕を振りかぶると、勢い良くモモンジに向かって振り降ろした。モモンジは軽く横方向へ跳んでそれを避けた。岩の腕が地面をえぐり、土と泥が飛び散った。

 

 その間にもテッポはイワロックの側面を取るべく走っていた。彼女はちらりとバナーヌの方へ目をやった。バナーヌは旗竿の下に辿り着くと弓を構え、上にいるボコマスクの敵を撃とうとした。敵は旗竿の上から飛び降りた。バナーヌはそれを追っていった。二人は宿場町跡地の奥へと走って消えた。

 

 バナーヌなら、たぶん大丈夫だろう。テッポはそう思った。彼女の実力ならこれまでの戦いでよく知っている。テッポは腰の爆弾袋に手を伸ばすと一発の爆弾を取り出し、導火線に点火してそれを投げた。一連の動きは流れるような手つきで行われた。爆弾はイワロックに飛んでいき、その右腕に命中すると爆発した。

 

「命中!」とテッポは叫んだ。岩の破片が周囲にまき散らされた。

 

 イワロックは腕を粉砕され、体勢を崩した。瞬間的に重量バランスが変化したことで姿勢を保てなくなったのだった。轟音を立ててイワロックが地面に倒れ込んだ。

 

 モモンジが叫んだ。

 

「もらった!」

 

 モモンジは走り、イワロックの体の上に駆け上がった。だが、彼女は叫んだ。

 

「あれ!? 弱点がない!? 弱点はどこ!?」

 

 テッポもそのことを認めた。おかしい。普通、弱点である鉱床はイワロックの上部に生えている。その上部に、なにも生えていない。しかし、弱点のない敵など存在するわけがない。彼女は素早く視線を動かし、イワロックの全体を観察した。ほどなくして、テッポはそれを見つけた。テッポは叫んだ。

 

「モモンジ! 弱点は背中にあるわ! 背中の下の方!」

 

 モモンジが驚きの声を上げた。

 

「えっ!?」

 

 ほどなくして、モモンジも弱点を見つけたようであった。鉱床は、実に攻撃しにくい位置にあった。テッポは父の言葉を思い出した。

 

「まれに、本当にごくまれにだが、鉱床が背中に生えているイワロックがいる。そういうイワロックを相手にする時には、長い武器を用いなければならない。こちらがイワロックの上に乗ることができても、武器が届かないからだ」

 

 だが、モモンジの得物は風斬り刀であった。それは、このハイラル世界に存在するありとあらゆる武器の中でも、特に射程の長い武器として知られていた。イワロックの上に立ったモモンジは、刀を上段に構えた。しかし、彼女はすぐに刀を振り下ろさなかった。彼女はどこか弱ったような口調で言った。

 

「それにしても、岩か……岩を斬ると刃毀(はこぼ)れするんですよね……どうしよう……?」

 

 テッポが叫んだ。その声音は叱責する調子を帯びていた。

 

「この()に及んでなにを言ってるの! あなたは密林仮面剣法の継承者でしょ! 岩くらいどうってことないはずよ! ヤギのバターみたいにぶった切ってやりなさい!」

 

 モモンジははっとしたようだった。「分かりました!」と答えると、「はああっ!」と掛け声を出し、彼女は風斬りを振り下ろした。その直後、ガラスとガラスが擦れるような音が響いた。モモンジの斬撃は流石に鋭いものだった。刀は鉱床の中ほどに傷跡を残した。傷跡は水平で、一直線だった。体勢を立て直しかけていたイワロックはモモンジの斬撃を受けて、また地面に崩れ落ちた。

 

「おっと、危ない」と言うと、モモンジは軽くジャンプして衝撃をいなし、また風斬り刀を振り始めた。数秒の間に五回も攻撃が繰り返された。それまで美しく、しかしどこか暗さを伴って輝いていた鉱床は、今や無数の傷跡をつけられていた。鉱床から宝石が飛び出した。それは夜光石だった。夜光石が血液のように地面に落ちた。

 

 モモンジの桃色の髷が揺れていた。彼女は的確に、そして冷静に攻撃を繰り返していた。その様子をテッポは油断なく見ていた。攻撃されるがままだったイワロックが体勢を立て直そうと腕に力を入れるのが見てとれた。テッポはモモンジに叫んだ。

 

「モモンジ! 跳んで!」

 

 即座にモモンジは跳んで、イワロックの上から地面へと降りた。モモンジが跳んだ直後、イワロックが大きく体を揺らし、腕を振り回した。あとほんの半秒でも遅れていたら、モモンジはなにがしかのダメージを受けていたであろう。

 

 また、状況は睨み合いへと戻った。それは一見すると単に元に戻っただけのようだったが、その実テッポたちは今や圧倒的に優勢の立場にいた。イワロックはかなりの体力を失っており、鉱床はボロボロになっていた。その足取りは弱々しくなっていた。

 

 モモンジが明るい声でテッポに言った。

 

「この分なら、あと一回か二回同じことを繰り返せば倒せます! さあ、テッポ殿、爆弾をもう一発……」

 

 モモンジの言葉が終わる直前、甲高い悲鳴が響いた。

 

「きゃあああっ!」

 

 それは若い女性の悲鳴だった。それは馬車の方から聞こえてきた。テッポとモモンジは驚いて、そちらへ目をやった。

 

「あっ!」とモモンジが声をあげた。テッポも息を呑んだ。意外な光景がそこに広がっていた。車列は襲撃を受けていた。赤ボコブリン、青ボコブリン、赤モリブリン……無数の魔物たちが手に手に武器を持ち、車列に向かって押し寄せていた。

 

「てめぇら! この魔物共が! とっとと死にやがれ!」

 

 輸送指揮官のサンベが、丸い刃の鬼円刃と電光を発するエレキロッドを振り回して、魔物たちを相手に奮戦していた。サンベの隣ではヒエタが首刈り刀を持ち、指揮官の背後をとろうと接近してくる敵を防いでいた。普段は冷笑家的な態度をとっているヒエタも、今はその表情に決死の気迫を漲らせて戦っていた。しかしその口調はいつもどおりだった。

 

「いや、いやいや! ちょっとこれは数が多すぎるな! 手に負えんぞ」

 

 あるいは、ヒエタはいつもどおりなのかもしれなかった。サンベを援護するという(てい)で正面から魔物と戦うのを避けているのだと見れなくもなかった。彼の決死の形相も、その真意を隠すために装っているものであるのかもしれなかった。それでもヒエタは戦っていた。それで今は充分だった。

 

 サンベとヒエタだけではなく、馭者(ぎょしゃ)たちも弓矢を手にして馭者台から魔物たちを狙撃していた。馭者たちもイーガ団に属する者たちであるから、その腕前は正確だった。降り注ぐ矢のせいで、魔物たちは馬車に近づけずにいた。だがそれもいつまでもつか分からなかった。このまま乱戦が続けば、戦線が突破されて魔物が馬車に到達するかもしれなかった。

 

 また、悲鳴が響いた。

 

「きゃあああっ! 誰か助けてーっ!」

 

 その声の主が誰であるかを悟って、テッポは叫んだ。

 

「フララットさんだ!」

 

 ここからは見えないが、おそらく車列の最後方にある馬車が襲われているのだろう。その中には檻に囚われたゾーラ族の女性、フララットがいる。テッポはそう思った。

 

「助けなきゃ!」とテッポは言うと、そこから駈け出そうとした。しかし、彼女は足を止めた。

 

 フララットさんを助けないといけない。でも、イワロックを放っておくわけにもいかない。どちらをとるべきか? これからモモンジと協力してイワロックを大急ぎで倒し、それからフララットさんを助けに行こうか? でも、あの悲鳴は本当にギリギリという感じがする。イワロックを倒している間に、フララットさんは魔物に殺されてしまうかも……

 

 でもでも、とテッポはさらに考えた。だからといってここでフララットさんを助けに行ったら、今度はイワロックを放置することになる。敵がいなくなったイワロックは悠々と馬車を攻撃するだろう。そうなったら一巻の終わりだ。馬車は粉砕され、馬は殺され、バナナは潰れて地面にまき散らされる……

 

 人間の精神はさほど強靭にできていない。それによってここまでのし上がってきた人間にとってはまったく皮肉なことだが、人間の弱点はまさに精神にある。人間の精神は繊細にして霊妙であるが、突発的事態に対して充分な備えを有していない。特に、二者択一を迫られるような、突発的事態に対しては脆弱である。

 

 だが、テッポは違った。彼女は幼いながらも充分な訓練を受けていた。彼女には切迫した事態に直面しても適切に対処ができる心構えがあった。また、彼女には天分があった。彼女の心は生まれつき豊かだった。その豊かさのおかげで、彼女は緊急事態というショックに動じることがなかった。

 

 彼女は決断した。彼女はモモンジに言った。

 

「モモンジ! あなたはフララットさんを助けにいって! 私はイワロックを倒す!」

 

「ええっ!?」とモモンジが声をあげた。「いくらテッポ殿でも、さすがに一人でイワロックを倒すのは……!?」

 

 モモンジの懸念はある程度正当なものだった。テッポとイワロック、あまりにも大きさに違いがありすぎる。しかし、テッポはさらに言った。

 

「でもモモンジ、爆弾が使えるのは私だけなのよ! さあ、はやく行って!」

 

 そうまで言われてはモモンジにとっても(いな)やはなかった。モモンジは言った。

 

「分かりました! さっさと向こうを片付けて、またこっちに戻ってきます! テッポ殿、くれぐれも無理はしないでくださいね!」

 

 モモンジは一つの影となってその場から去った。その影に向かって、イワロックは腕を振り上げた。それは岩を飛ばして攻撃しようという構えだった。

 

「あなたの相手はこの私よ!」

 

 テッポは爆弾を投げて、それを妨害した。爆弾はまたもやイワロックの腕を破壊した。イワロックは姿勢を崩した。テッポは長い黒髪を風に靡かせ、倒れているイワロックへ走り寄ると、その小さな手足を駆使してよじ登り始めた。

 

 イワロックの表面には苔が生えており、手で掴もうとするとぬるぬると滑った。それでもテッポはよじ登ることに成功した。彼女は自分の得物である首刈り刀を抜いた。弱点の鉱床は彼女の真下にあった。予想されたことではあったが、やはり距離があった。ここから首刈り刀を振っても届かない。そう判断した彼女は、鉱床そのものに乗ることにした。鉱床はイワロックの背面から空中に突き出すようになっていた。彼女は飛び移った。

 

「食らえ!」と叫んで、彼女は足元の鉱床へ刀を振るった。だが、すでにモモンジから攻撃を受けてダメージを負っていたとはいえ、鉱床はやはり岩であることに変わりなかった。テッポの首刈り刀は、音を立てて弾き返された。傷ひとつついていなかった。まったく攻撃が通っていないことに、テッポは内心で舌打ちをした。

 

「硬いわね……」

 

 テッポは何度か斬撃を繰り返した。結果は変わらなかった。テッポの膂力(りょりょく)ではどうしようもなかった。イワロックが体を揺らし、テッポを振り落そうとするのが感じられた。テッポは跳ぶと、地面に降り立つと数歩駆けて、距離をとった。彼女は言葉を漏らした。

 

「首刈り刀は通じない……よく考えないと……どうやって倒す?」

 

 彼女の頭脳は高速で稼働した。必ず手立てはあるはずだ。これまで自分は、ありとあらゆる状況に対応できるように父から教育を受けてきた。こういう時、自分の手に負えそうにない敵をどうしても自分の手で倒さなければならない時について、父はなんと言っていたか?

 

「もし一人では手に負えないと思ったら、その時は仲間に頼りなさい。仲間に頼ることができない者は、一人前のイーガ団員とは言えないよ」と父は言った。

 

 その時、テッポは父に尋ねた。

 

「でもお父様、その仲間に頼ることができない時はどうしたら良いのでしょう? 常に仲間が傍にいてくれるとは限りません」

 

 そんな問いを投げかけたテッポに対して、父はニッコリと笑った。そして言った。

 

「その時は、爆弾を使いなさい。一発の爆弾が通じないなら、十発の爆弾を使いなさい。爆弾が通じないなら、爆弾が通じるようになるまで爆弾を投げ続けなさい」

 

 父はテッポの頭を撫でた。大きくて、分厚くて、暖かい手だった。そして、今度は揺るがぬ確信を込めたように、父は力強く言った。

 

「そう、()()()()()()()()()()()()

 

 テッポは目を見開いた。そして叫んだ。

 

「そうよ、()()()()()()()()()()()()

 

 ちょうど、イワロックが岩を飛ばしてきたところだった。テッポは右方向へと横っ飛びに跳んだ。彼女は爆弾を投げた。今度は二発、左腕と右腕に着弾するように彼女は投げた。二発の爆弾はほぼ同時に爆発した。腕は粉砕され、イワロックは倒れた。

 

 テッポは走った。彼女は走ってイワロックへと飛び乗り、さらにその上でまた跳んだ。彼女は垂直方向に跳んだ。彼女は高度を稼ごうとしていた。彼女は空中で札を取り出すと指に挟み、両手を組み合わせて印を結んだ。彼女は短い呪文を唱えた。その瞬間、軽い音を立てて、彼女は姿を消した。花吹雪のように札の破片が舞った。

 

 テッポが姿を消していたのは、ほんの瞬き二回ほどの時間に過ぎなかった。次に姿を現した時、彼女はさらに高いところにいた。沈みかけた太陽が、空を舞う彼女の黒髪を朱色に照り染めた。今や彼女はリト族のように空を飛んでいた。

 

 彼女は叫んだ。

 

「これで終わりよ!」

 

 すでに彼女はその両腕に大量の爆弾を抱えていた。彼女はイワロックに爆弾を降り注いだ。その狙いは正確だった。爆弾はすべてイワロックの鉱床に命中した。猛烈な爆発が連続し、鉱床は粉々に爆破された。

 

 イワロックから、これまでとはまったく異質な音が響いた。それは、彼の本体にひびが生じた音だった。それまで鉱床が存在していた箇所から本体にかけて、縦に一本の太いひび割れが走った。そこからあたかも植物が根を張るように、無数の小さなひびが縦横に向かって伸びた。イワロックは苦痛に耐えかねたかのように、その巨大な体を(よじ)った。その動きがかえってひび割れを助長し、彼の残り少ない生命力をさらに消耗させた。

 

 テッポが地面に降り立ったその時に、イワロックは脆くも弾け飛んだ。その瞬間、イワロックが何を感じていたのかは分からない。爆風が生じ、イワロックの中に詰まっていた宝石がボトボトと音を立てて周囲に落ちた。それはコハクだったり、オパールだったり、夜光石だったりした。宝石たちはキラキラと、しかし無意味に光っていた。

 

 これまで長い間生き続けてきたイワロックの生命の価値は、つまるところ宝石数個分でしかなかった。

 

 強敵を独力で仕留めたという感慨は、テッポにはなかった。それよりも彼女は、これまで練習を重ねてきた術を実戦で成功させられたことに、深い満足感を覚えていた。イーガ団戦闘術のひとつ「ゾタエ・オチノリ」は魔力を用いた瞬間移動の技であるが、これと爆弾を組み合わせた爆撃殺法「キキ・ゲクバ」は、父ハッパの独創によるものだった。テッポはそれを受け継いでいた。

 

 テッポはそれまでイワロックが存在していたところへ目を向けた。もう何もいなかった。宝石だけが転がっていた。テッポにとって、宝石はやはり何の価値もなかった。

 

「お父様に助けていただいたわ……」

 

 彼女はそう独り言を言った。夕方の風が吹き、その場に立ち込めていた硝煙を払った。風が、彼女の後方から戦闘の音を運んできた。

 

「いけない!」

 

 テッポは我に返った。まだ、馬車の方では戦いが続いていた。テッポは走って車列へと向かった。その手には首刈り刀が握られていた。彼女は仲間たちに加勢しなければならなかった。

 

 バナーヌは、大丈夫かしら……? いえ、きっと、絶対に、大丈夫。

 

 走りながら、今もひとりで戦い続けているであろう金髪の仲間のことをテッポは想った。




 あと一ヶ月で続編が来るというこのワクワク感! たまりませんね。
 なにげに今回初めてテッポ視点で書いたかもしれません。次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/05/23/火)


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第五十二話 お前の任務はまだ終わらない

 どの時代、どの土地、どの状況においても偉大な人物というものは必ず生まれてくる。偉大な人物は人々の上に立ち、リーダシップを振るい、利害関係を調整する。彼は戦列の先頭に立ち、敵を粉砕し、共同体に勝利と栄誉をもたらす。彼は物語に語られ、共同体の共有記憶に保存されることによって、さらに偉大な者となっていく。

 

 歴史の原動力は、まさにこういった偉大な人物たちである。彼らは燦然と輝いており、今後も輝き続けるであろう。偉大な人物なき歴史は存在せず、偉大な人物によらずして歴史を描くことは不可能である。少なくとも、そう思える。

 

 しかし、偉大な人物だけが歴史を生み出し、歴史を動かしてきたわけではもちろんない。一人の偉大な人物の周りには、偉大ではない無数の人々が存在している。ひとつの巨大な恒星の周囲を複数の惑星が取り巻き、それによってひとつの星系が構成されているように、歴史もまたひとつの星系であると見なすのならば、偉大なる人物という恒星と同じくらい偉大ではない人々という惑星も重要である。

 

 無論、歴史を記す者たちもそのようなことは理解していた。彼らは常に語り方、書き方を工夫してきた。彼らは、偉大な人物について語ること以上に、偉大ではない人々が果たした役割を正当に評価し、適切な地位を与えることに腐心してきた。彼らが天文学を必須の教養とみなしていたのは、単なる趣味や知的優位性の確保のためではない。星々の配列と動きを学び、観察することで、より正確な歴史を記す上での参考にしようとしたためである。

 

 だが、そうした営々たる努力にもかかわらず、どうしても語られない者たちもまた存在する。それは語るのに価値がないとみなされたから語られなかったのではない。そうではなくて、語る上で必要な材料、つまり事実や証拠といったものがあまりにも少ないためにそうなってしまったのである。

 

 隠密(おんみつ)が、その例の筆頭である。隠密、スパイ、特殊工作員といった者たちは、これまでの歴史においても確かに存在した。歴史に刻まれる偉大なる人物も、こういった者たちの存在なしにはその功業を打ち建てることは不可能であった。彼らは闇の中で生まれ、闇の中で仕事をし、そして闇の中で死んでいった。彼らは同時代においても知られることがなく、従って記録されることもなく、記録されることがなかったために記憶されることもなかったのである。

 

 ゆえに、隠密に関して書かれた記録は貴重である。そして、貴重であるがゆえに考察する上ではより一層の慎重さと入念さが必要となる。他と比較照合することができないため、そこに書かれたことが真実であるかどうかが分からないからである。

 

 その上なお、彼ら隠密の歴史を研究する上で私たちを悩ませるのは、彼らの生きた世界と彼らのなした仕事が、私たちの想像とあまりにもかけ離れていることである。彼らは本質的に一種の神秘性を纏っているのであり、その魅力はあまりにも強い。物事から神秘性を引き剥がすのを本務とする歴史学者にとって、彼らは真なる意味での強敵といえる。

 

 まず、隠密とはどのような人物であったのか。これが最初の問題となる。隠密とは隠密であるがゆえに、社会に完全に溶け込んでいる。彼らは一農民であったり、一兵士であったり、一商人であったりした。彼らの仕事は平凡であり、ことさらにひっそりとしているわけではなかったが、やはり目立つこともなかった。そのような人々は社会に無数に存在している。その中から隠密を見つけ出すにあたっては、直接的な証拠に頼ることはできない。状況的な証拠に頼らざるを得ない。

 

 だが、なにごとにおいても例外は存在する。ある人物の歴史が、隠密とはいかなるものであったのかを私たちに教えてくれる。

 

 リト族の歴史において、この上ないほどの変人、奇人として記録されている人物がいる。その名はジリボンと言った。この奇妙な響きの名前は彼の奇行にちなんだ一種のあだ名であり、本当の名は「ワカー」という。

 

 ジリボンはリトの里で詩人一族の次男として生まれた。彼は詩人としての教育を受け、ある時長男が不慮の事故で死亡してからは、一族の正当なる後継者として見なされるようになった。

 

 ジリボンは大変聡明な若者であったという。彼は記憶力に優れており、一度その詩を聞けば、たとえそれがどれだけ長く難解なものであっても完璧に再現することができた。成人するまでに彼はリトの里に伝えられているすべての詩と歌を習得し、かつあらゆる楽器を演奏できるようになった。彼は礼儀正しく、生活態度は明朗そのもので、年長の者を敬い、弱者に対する労りを忘れなかった。

 

 また、彼は数多くの自作の詩を残した。現代にも彼が作ったと言われている詩が何編か保存されている。特に有名なのが「族長の娘の婚礼を祝う歌」と、「遠征から帰還した戦士たちを讃える歌」であり、これらは今でも折に触れてリト族が朗誦する。その韻律は高度な数学的計算によって構成されており、伝統を受け継ぎつつもオリジナリティに溢れている。詩の文言はいささかの哀調を帯びているが、基本的には生の尊さと喜びを歌ったものである。

 

 詩人として最高の素質を有していたジリボンは、戦士としても優れていたと言われている。弓矢の腕前は五十メートル離れた標的の中心に三本連続で命中させることができたほどで、弓術に限らず、ある時の槍術の大会では決勝戦まで進み、惜しくも二位となったものの、その槍さばきの流麗さは優勝者のそれを凌いだとも言われている。彼は数々の戦闘に一戦士として参加し、そのたびに戦果を残した。

 

 かくほどまでに優れたリト族の詩人・戦士であったジリボンが、なぜ「ワカー」としてではなく、奇人「ジリボン」として知られるようになったのか。

 

 ある日を境にして、彼は完全に別人になったかのように変貌した。

 

 ジリボンはその時まで、詩人として各地を巡っていた。彼は砂嵐吹き荒れるゲルド地方の砂漠から、溶岩が絶え間なく噴出するデスマウンテンの火口、さらには何もないことで有名なアッカレ地方まで翼を伸ばし、存分に詩人としての才腕を振るっていた。彼は他種族にもその名を知られるようになり、ついにはハイラル王に招かれて王城にて詩を披露することになった。彼はハイラル王の御前にて見事に詩を歌い上げ、王だけでなく、宮廷の貴族たちをも魅了したという。

 

 一躍時の人となったジリボンは、約一年間もハイラル城に留まった。その間に何が起こったのかは分からない。城からリトの里に戻ってきた時、彼の性格は一変していた。酒嫌いだった彼は、里に帰ってから酒に溺れるようになった。のみならず、粗暴な言動を繰り返すようになり、また生活そのものも乱れがちになった。

 

 当然、里の者は彼に対して苦言を呈した。それに対して、ジリボンはこう返したと言われている。「王城での生活は良かった。みんな親切で、食べ物も酒もたっぷりあった。俺は一生あそこで歌を歌って暮らしても良かったんだ。だが俺は、その安逸な生活を捨ててこの里に帰ってきた。それはお前たちが俺に早く帰ってこいと強く言ったからだ。俺はお前たちの要求に応えてやった。今度はお前たちが俺の言うことを聞く番だ」

 

 ジリボンはますます放蕩を繰り返すようになった。戦争に参加することもなく、楽器を弾くこともなく、詩を作ることもない。初めのうちは、彼を擁護する声もあった。しかし、ジリボン自身がそれを強く否定した。彼は、彼を罵る声に対してはさして反応を見せず、むしろせせら笑うことすらしたが、彼を擁護する者に対しては不思議なまでに攻撃性を剥き出しにした。かくして彼を弁護する者は一人もいなくなった。

 

 彼には婚約者がいたが、ほどなくして婚約は破談となった。里一番の詩人「ワカー」は里一番の厄介者「ジリボン」となり、次第に彼の周りから人が消えていった。彼にはそれまでの仕事で得た莫大な資産があったが、それも瞬く間に蕩尽し、借金を繰り返すようになった。彼はその生活を楽しんでいるようであった。彼は酒を飲み、里の者に罵声を浴びせ、他の詩人の楽器を壊して回ることまでした。

 

 ジリボンは破滅的な生活を送りつつ、しばしば旅行をした。里の者はそれを「借金取りから逃れるための飛行」であると噂した。主に彼が飛んだ先はハイラル城であった。冬が終わりかける頃に彼は飛び立ち、春に城に着くと、そこで歌を歌ってルピーを得、夏はまた豪勢な生活を送り、秋になるとリトの里へ戻ってきた。

 

 不摂生が祟ったためか、ジリボンは寿命を全うせずに死んだ。一段と寒さの厳しかった冬のある日、自宅の寝台で冷たくなっているジリボンが発見された。遺書の類はまったく残していなかった。わずかに残された財産はすべて債権者に分配された。葬儀は簡素なものであり、参列者は数人しかいなかったと言われている。彼の波乱に満ちた生涯を哀れに思った一婦人が私財を投じて彼の墓所を設けた。彼は今もそこで眠っている。

 

 ジリボンは長らくリト族が生んだ一大奇人として記憶されていたが、ハイリア人の歴史研究者コンダイによって再評価がなされた。コンダイによれば、「ジリボンは隠密であった」という。彼は族長直属の隠密であり、情報収集をはじめとした特殊工作によってリトの里の安全保障に貢献していたのだとコンダイは分析する。

 

「ワカー、つまりジリボンがリト族の隠密であったという直接的な証拠はないが」とコンダイは言う。「数々の状況的な証拠がその事実を裏付けている。ひとつは、彼は族長の三女と婚約を結んでおり、それは彼の不行状ゆえに結局破談となったが、その後も彼は族長の屋敷への出入りを許されている。また、族長が彼に宛てて寄越した書簡が何通か保存されており、そのいずれもが『屋敷にて詳しい話が聞きたい』というものであって、彼を叱責するものはない」

 

 コンダイはまた続けて、「ふたつ目は、ハイラル城側の記録である。ハイラル側は表向き彼を歓迎していたが、裏では彼のことを『隠密の可能性がある』として見なしていた。王室警備隊情報部の報告書にはしばしば彼の名前が登場しており、『動向に注視する必要がある』と述べられている」

 

 さらに、「三つ目には、彼の資金源が挙げられる。彼はほとんど何も残さなかったと伝えられているが、ゾーラ族の金融機関には彼の死んだ兄名義の口座があり、彼がそこから定期的に出金を繰り返していたことが記録されている。入金者はリト族の族長の女婿であり、それは年額五千ルピーにも達した」

 

 以上の状況的な証拠からコンダイは以下のように結論する。「ジリボンが隠密であったことはほぼ疑いようがない。当時、リト族は中央ハイラルとの間で国境問題を抱えており、散発的な紛争がいっそう両者の緊張関係を深めていた。ジリボンが里から王城へと『逃走』している間に行われたハイラル軍によるタバンタ地方への出兵は、すべてリト族の戦士団によって出鼻を挫かれ、失敗している。軍はしばしば中央に対して情報が漏洩している可能性を指摘し、対応を求めていた。結局、ジリボンが生きていた間、リト族は兵力において劣勢であったのにもかかわらず国境において優勢を保つことに成功している」

 

 コンダイはこのように研究を結んでいる。「リト族の詩人ワカーは最後まで隠密として行動し、それを誰にも悟らせないまま奇人ジリボンとして死んだのであった」

 

 隠密ジリボンはハイラルの歴史を動かしたのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。彼はただの一変数に過ぎず、その影響力は限定的であった可能性もある。

 

 おそらく、ジリボン自身は歴史を変えようとは思わなかったはずである。彼の念願はあくまでリト族の繁栄にあった。それは彼が残した詩から窺える。彼が晩年に残した詩に、「翼が萎え、羽抜け落ちた老鳥も、その眼は燃えている。翼ではなく、眼にこそリトの魂が宿る」というものがある。その粗暴な言動とは裏腹に、彼がリト族に対して深い愛着を抱いていたことが推測できる。だが、これも状況証拠でしかない。

 

 彼ら隠密の歴史は、通常の歴史とは本質的に異なっているのだ。それは「歴史として語られない歴史」と言うことができる。彼らは始まりから終わりまで誰にも知られることがない。そして知った時には、彼らはすでにこの地上から消えてなくなっている。

 

 誰かに知られたい、誰かに知って欲しいという感情は、知恵ある生き物に固有なものである。隠密は、その感情を押し殺す。その点において、彼らはその心のあり方からして普通の人々と異なっているようにも見える。

 

 だが、知られずにいられることを心の底から願う生き物など、本当に存在するのだろうか? 彼らの心は、私たちのそれと本当に異なっているのだろうか?

 

 

☆☆☆

 

 

 その日のゲルド砂漠は朝から猛烈な砂嵐に見舞われていた。この時期にこれだけの風が吹き、これだけの砂が舞うのは特に記録に値することであった。ゲルドの街の住人は窓を閉じ、隙間に布を詰めて、暴風となって吹き荒れる砂漠の息吹に備えた。商店は軒並み休業を余儀なくされた。放牧されていたスナザラシたちは、みな厩舎へと戻された。

 

 そのような砂嵐にも、カルサー谷は苦しめられることはなかった。ゲルド砂漠の北、その奥に位置するカルサー谷は、雪に覆われたゲルド高地から吹き下ろす冷涼な風に守られていた。骨すらも焼く炎暑も、岩すらも削り取る嵐も、カルサー谷は無縁だった。だからこそイーガ団はそこにアジトを築き、それが不落のものとなるように営々たる努力を重ねてきたのであった。

 

 カルサー谷のアジトはその日も厳として揺るがず、そこにあった。だが、そのアジトは今、恐慌状態に陥っていた。恐慌といっても、決して取り乱したような空気ではなかった。右往左往する者もいなければ、絶望の言葉を叫び散らすものもいなかった。しかし、確かにアジトのイーガ団員たちは平静を失っていた。

 

 彼らは食料箱を開き、その中身を確認し、また蓋を閉じるということを十分おきに繰り返していた。彼らは一縷(いちる)の希望を持って貯蔵庫に行き、そこに相変わらず何もないのを認め、「ああやっぱり」という諦めの気持ちと、「まだなのか」という憤りの気持ちとが相半ばした溜息をつく、そのような行為を飽きることなく続けた。アジトの日常の業務は停滞しつつあった。無気力感と、それに矛盾するかのような焦燥感が、団員たちの精神を蝕んでいた。

 

 実際のところ、食糧ならばあった。塩漬けにされた肉、乾燥野菜、ゲルド高地から収穫してきた野生の果物、各地から収奪してきた穀物、パン、飼育している家畜から得られるバター、ミルク……それらを食べている限り、彼らの肉体は健康を保ったままでいられるはずだった。

 

 だが……バナナがない! そう、バナナがないのだ!

 

 すべては、バナナがないことが原因だった。アジトのバナナはすでに枯渇しつつあった。食糧ならば潤沢にある。しかし、バナナがないのだ。言うまでもなくイーガ団員にとってバナナは紛れもなく食糧以上のものであった。バナナは彼らの精神を満たすものであり、彼らの活力と気力とを生み出すものであった。バナナは彼らの信仰の対象であり、より正確に言うならば、信仰そのものであった。

 

 ゾーラ族にとって水のない生活が考えられないものであるのと同様に、イーガ団にとってバナナのない生活は考えられないものであった。彼らは窒息しつつあった。彼らは、バナナが豊富だった頃を懐かしく思い出すようになっていた。ほんの一週間前まではそうだった。あの頃に食べたバナナ、飽きるほどに食べたバナナ、ただなんとなく習慣にしたがって、ろくに味わいもせずに食べたバナナ、そのいずれもが彼らの前に幻影として現れ、粗略な食べ方をしたことを無言で詰問するようになっていた。

 

 それでも、豊かな者というのはいつでも存在する。欠乏の海のただなかに、豊饒(ほうじょう)の島が浮かんでいる。漂流者が荒波に呑まれ、もがいているその最中にも、豊饒の島の住民はのびやかな気持ちで食卓を囲み、音楽に興じ、荒れる海を眺めてその様子を詩として詠んでいる。

 

 それは、支配者が本来的に有する特権である。いや、それは特権であること以上に、義務ですらある。なぜなら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 イーガ団総長であるコーガ様は、恐慌状態に陥ったアジトにおいても、相も変わらず義務を遂行していた。だが、いかに力量に優れた人物であっても、義務を果たすには誰かの補佐を必要とする。かくして支配者の周囲に支配層が形成される。

 

 そしてその層の筆頭が、上級幹部の一人であるウカミであった。そのウカミの周囲にもまた、層が形成されていた。その層には、ウカミの側近であるサミと、近頃ウカミに目をかけられているノチが含まれていた。

 

 それはちょうど、バナーヌとテッポ、モモンジの三人たちが街道の結節点でイワロックら魔物と交戦している時だった。ハイラル世界の西に位置するカルサー谷は、早くも夜を迎えていた。朝から砂漠一帯に吹き続けた砂嵐は未だに収まっていなかった。アジトの高台からは、カルサー谷の入口付近に砂の塊が滞留している様子がよく見えた。

 

 闇の中に、三人が浮かぶように立っていた。その中でひときわ優美な影を持つ者が、長い黒髪を夜風に靡かせていた。その人、ウカミが言った。

 

「砂漠が砂嵐に見舞われている時、この谷の空は澄んでいる。ごらんなさい、サミ、ノチ。星が綺麗だわ。よく輝いている。まるで私たちに何かを物語ろうとしているみたい」

 

 ウカミは、黒の布地に金糸でバナナの模様が刺繍された上掛けを羽織っていた。上掛けは絹製であった。彼女は、自身の背後で控える二人の少女に向かって、指で夜空を示した。早々と訪れた夜の大気は澄み渡っており、無数の恒星の瞬きを余すところなく伝えていた。ウカミは、また言った。

 

「ねえ、星々はどんな物語を聞かせてくれるのかしら。サミ、あなたはどう思う?」

 

 サミが静かに口を開いた。

 

「私には天文学の知識はありませんので、残念ながらウカミ様のお気に召す話はできかねますが……」

 

 ウカミは笑った。彼女は、サミがそのような返答をするのを予想していたようだった。

 

「本当にサミは真面目ねぇ。こういうのは知識の問題ではないのよ。想像するだけで良いの。想像して、それを言葉に乗せて物語にする。それは知恵のある生き物にだけ許された特権よ。じゃあ、サミじゃなくて、ノチ。あなたはどうかしら?」

 

 後方で息を潜めるようにして立っていたノチは、唐突な問いかけに対して奇妙に裏返った声を返した。

 

「ひゃいっ!?」

 

 この数日においてウカミと多くの時間を過ごしてきたノチは、一般に言われているほどにはこの上級幹部が冷酷ではなく、むしろ優しさと愛情に溢れた人であると思うようになっていたが、それでも問いに対しては緊張を禁じ得ないのであった。

 

 ノチはさらに言葉を続けようとした。何か言わなければならない。しかし、彼女の意志に反して、言葉は明確な形を纏わなかった。

 

「あの、その……えっと……星は、その……あの……」

 

 ノチの言葉にならない言葉を聞いて、ウカミは笑った。妖艶な笑みであったが、それには親しみの念も込められていた。

 

「あらあら。ノチ、ちょっと落ち着いて。ほら、そこにあるものでも食べて、気分を落ち着かせなさいな」

 

 ウカミはノチに木の台を示した。無数の札がベタベタと貼られた台には、夜闇の中でも黄金に輝く果実が山積みにされていた。それはバナナだった。ノチは激しい勢いで首を左右に振った。

 

「そ、それはいけません! 私がバナナをいただくなんて……」

 

 (ひら)の団員、アジトの最底辺、ただの小間使いである自分が、今アジトにおいて最も貴重なものとなっているバナナを食べるわけにはいかない。私もみんなと同じように、この窮乏に耐えるべきだ。ノチはそう思い、恐懼した。

 

 そんなノチに対して、サミが咎めるように言った。

 

「食べなさい、ノチ。ウカミ様の(おぼ)()しです」

 

 ウカミも微笑みつつノチに言った。

 

「いいのよ、ノチ。あなたはいつもたくさんお仕事をしているもの。これは私からあなたにあげるご褒美よ。他の団員に気兼ねする必要なんてないわ。さあ、たくさん召し上がれ」

 

 それでも少しだけ、ノチは迷った。ウカミの顔とバナナとの間で、幾度か視線が往復した。やがて彼女は決心したかのように、大きな声で言った。

 

「それでは、いただきます!」

 

 ノチはバナナの房を手に取ると一本を千切り、丁寧に皮を剥いて食べ始めた。ノチの食べ方は控えめで、穏やかだった。

 

 可愛らしい咀嚼音が薄闇の中で響いた。ノチはほどなくしてバナナを食べ終えた。脳が痺れるような甘さと美味さだった。バナナはやはり、ノチにとっても食べ物以上の何かであった。そんなノチを目を細めて眺めつつ、ウカミはさらに言った。

 

「一本だけじゃ足りないでしょう。もっと食べなさいな。ほらほら、もっともっと」

 

 ノチは答えた。

 

「は、はいっ!」

 

 ノチはさらにバナナを食べ始めた。今さら彼女に拒否などできるわけがなかった。ノチは今や、このアジトでは総長のコーガ様だけに許されている「バナナだけで腹を満たす」という贅沢に溺れていた。

 

 ウカミはサミに言った。

 

「サミ、あなたも食べなさいな。ノチだって一緒に食べる人がいないと寂しいでしょう」

 

 サミは答えた。

 

「ははっ」

 

 サミもバナナに手を伸ばして食べ始めた。ノチは懸命な表情を浮かべ、その一方でサミは涼しい顔をしていたが、ともかくも二人はバナナを食べ続けた。台の上のバナナはなかなか減らなかった。二人はその時、間違いなく豊饒の島にいた。

 

 やがてノチは満腹になった。血糖値が急上昇し、彼女の頭脳をぼんやりとさせた。だがそれ以上に彼女は、ウカミから許されたとはいえ、本来自分が許されていない贅沢に手を染めてしまったという事実にショックを受けていた。バナナを二十本は食べてしまった。ニ十本! 信じられない量だ。他の団員は、黒ずんで腐りかけたバナナを日に一本でも食べられれば良いほうなのに。それは罪の意識だった。彼女はその場に立っていたが、足元はふらついていた。

 

 ウカミはノチを見て満足そうに頷いた。

 

「お腹いっぱいになったみたいね。良かったわ」

 

 彼女は音もなくノチに近づくと、その小さな体を両腕で優しく抱え上げて、地面に敷かれた畳に横たわらせた。畳はサミが用意したものであった。ウカミもまた畳に腰をおろし、膝の上にノチの頭を乗せた。

 

 ノチの頭を撫で始めたウカミは、子守唄を歌うように言った。

 

「眠りなさい、眠りなさい……バナナの(いと)し子、かわいい子。夢のお空は青い空。お空にバナナが浮かんでる、たくさんバナナが浮かんでる……」

 

 ウカミは温かく、柔らかかった。良い香りがした。ノチはすでに半ば眠りに落ちていたが、それでも団員としての義務感からウカミに対して返事をしようとした。

 

「ウカミ様……」

 

 ここで眠るわけにはいかない。彼女は懸命に(あらが)った。そんな彼女にウカミはほんの少しだけ眉を寄せてから言った。

 

「眠りなさい、眠りなさい……良いのよ、ノチ。眠りなさい。とってもかわいい子。さあ、私に体を預けて。星もあなたに言っているわ。眠りなさい、眠りなさいって……」

 

 ほどなくして、穏やかな寝息が聞こえてきた。ノチは豊かな気持ちと共に、あっけなく眠りの世界へ落ちてしまった。

 

 ウカミとサミはしばらくそれに耳を傾けた。サミは少しだけノチのことを見直していた。大人しく、ひ弱で、チュチュほどの力も持たないのに、ウカミ様の膝の上で眠ることができるとは。この娘は見かけによらず、豪胆なところがあるのかもしれない……少なくとも、自分にはできないことだ。

 

 サミがそんなことを考えている間に、ウカミは自分が羽織っていた上掛けをノチの体にかけていた。そして音もなく立ち上がると、ウカミはしばし星空を眺めた。彼女は口を開いた。

 

「星々はなんでも知っているわ。過去に偉大なる人々が存在したこと。今、偉大なる人々が生きていること。そして将来、偉大なる人々が生まれるであろうこと。星々は時の監視者。その(きら)めきの一瞬に、膨大な記憶を(たた)えている……」

 

 その場を風が吹き抜けた。夜の風は冷たく、刺すようだった。サミはウカミに言った。

 

「フィローネ支部からのバナナ輸送が遅れています。皆、バナナの欠乏で禁断症状に陥っています。このままではアジトは自滅することになります。いかがでしょうか、ゲルド高地の秘密貯蔵庫を開放して、緊急の備蓄を放出するというのは……」

 

 その秘密貯蔵庫にはバナナが大量に蓄えられていた。ただし、すべてが冷凍されていた。味としては生のものよりも数段劣るが、禁断症状は緩和できるはずだった。

 

 サミの言葉に対して、ウカミはなんら反応を見せなかった。ウカミは風に(うぞぶ)くように言った。

 

「……でも、星々ですら知らないことがあるわ。星々は偉大な人も、偉大ではない人も知っている。でも、知っているのはその行為と結果だけ。()()()()()()()()()()()()()。偉大な人は、本当に偉大だったのかしら? 偉大な人は、本当に偉大なことだけを考えていたのかしら。その心はまったく偉大ではなかったのに、たまたま偉大なことができたから、偉大な人として記憶されているだけなんじゃないかしら」

 

 サミは何も言わなかった。彼女は頭脳を働かせて、自分の主が何を言わんとしているのかを察そうとしていた。ウカミはさらに言った。

 

「偉大ではなかった人も、本当は偉大なことを考えていたのかもしれない。その行為と結果は偉大ではなかったかもしれないけど、その心は偉大だったのかもしれない。星々は時の監視者。その煌めきの一瞬に、膨大な記憶を湛えている……でも、人の心までは知らないのよ」

 

 サミは口を開いた。

 

「しかし、ウカミ様はご存じであるはずです。ウカミ様はコーガ様と共に、我がイーガ団の支配を司っておられます。そうであるならば当然、私たち団員の心もウカミ様はご存じのはず……」

 

 ウカミは笑ってその言葉を打ち消した。

 

「いいえサミ。私も心までは知らないのよ。心そのものは誰にも分からない。そう、その心の持ち主でさえ、それがどんなものであるのかは知らない。私が知っているのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけなの。私は、その人が本当に偉大な心を持っているか分からない。でも、偉大なことをするようにさせることはできるわ。そして、もちろんその逆もできる。私にとっては、それで充分なの」

 

 その言葉を聞いて、サミはようやくウカミの真意の一端を知った気がした。おそらく、この方はあの二人について考えているに違いない。隠密をこととするイーガ団の中でも特に隠密といえるあの二人について、今この方は言っているのではないか。

 

 イーガ団にとってはまったく偉大なこととは言えない任務に、今あの二人は従事している。あの二人は何を思っているのか? どんな心でいるのか? それは分からない。確かなことは、今もあの二人が、フィローネ支部からの輸送馬車を妨害していることだけだ。

 

 だが、それだけだろうか? サミは考え込んだ。なぜ、ウカミ様はあえてバナナの到着を遅らせるようなことをするのだろうか?

 

 それも、心と関わっているのだろうか?

 

 サミの横で、ウカミが言った。

 

「支配の要諦とは、心をどう動かすかにあるわ。でも、物や金が心を動かすのではない。心を動かすのは、豊かさという感覚なの。満たされているという気持ちは人の心を豊かにして、同時に愚かなものにするわ。豊かさによって、かたくなな心も他愛のない、可愛らしい愚かさへと傾いていく。その(おろ)かさは、支配する者にとってどこまでも都合が良い」

 

 ウカミは畳の上で眠り込んでいるノチへ視線を注いでいた。そして、彼女はまた言葉を続けた。

 

「そして、豊かさ以上に、欠乏という感覚は心を支配する。これが肝心なことよ」

 

 サミははっとしてウカミの顔を見た。

 

「それではウカミ様は……」

 

 そのように言おうとしたサミの口に、ウカミはそっと人差し指を当てた。

 

「賢い子ね。そうよ、そのとおり。与えることしか知らない支配者に、支配者を名乗る資格はないわ。欠乏を知らずして、欠乏を与えずして、真に支配をすることはできない……」

 

 その後も二人は星々を眺めていた。何も知らない星々は、傲慢にも輝き続けていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌは走った。大地を揺らす巨大なイワロックを相手にして、テッポとモモンジが戦っている音が後ろから響いてきた。彼女はほんの少しだけ不安を覚えた。あの二人だけでイワロックという難敵を退けることができるだろうか? 不安はほんの数秒しか残存しなかった。できる。あの二人ならば問題はないだろう。

 

 今、自分がなすべきことは、あのボコマスクの敵を倒すことだ。バナーヌは走りつつ、これから相手にしなければならない敵について考えていた。前方に高い旗竿が立っており、破れて半ば朽ちた旗がはためいていた。そのてっぺんに、敵が立っていた。敵は駆け寄ってくるバナーヌに目を向けていた。残光によって実体と影が混ざり、その様子をはっきりと見ることはできなかったが、バナーヌは敵から意識を注がれているのを感じていた。

 

 旗竿の下に辿り着くと、バナーヌは流れるような手つきで二連弓を取り出し、矢をつがえて敵に向けて発射した。敵は、その動きを読んでいたようだった。敵は旗竿の頂点から跳び、木の葉が宙を舞うように回転すると、音も立てずに着地した。敵は宿場町跡地の中へ逃げ込んでいった。

 

 いや、逃げたわけではあるまい。バナーヌは考えた。あれは、明らかにこちらを誘っているのだ。その誘いに乗るべきだろうか? こちらとしては行くしかないだろう。放置しておけば、また車列に妨害を加えられるのは明白だ。敵は、どういう手段に依ったのかは分からないが、イワロックまで持ち出してきた。次は何を連れてくるのか分かったものではない。なんとしてもこの場で倒さなければならない。これまで姿を見せなかった敵が、今は戦いを挑んできている。これは紛れもないチャンスなのだ。逃す手はない。

 

 それに、あのマスクの下にある顔が自分の予想しているものと同じであるかどうか、確かめたい。バナーヌはそう思った。

 

 それでも、バナーヌには懸念があった。目の前には宿場町跡地の廃墟が広がっていた。崩れて天井が抜けた建物は、まるで骸骨のようだった。いや、見ようによってはこの宿場町跡地自体がひとつの大きな骸骨であった。おそらく敵はこの骸骨の中に予め数多くの罠を仕込んでいることだろう。その罠に踏み込んでいかねばならない。

 

 バナーヌは嫌な気持ちになった。罠そのものは大した脅威ではない。自分ならば問題なく突破できる。そうではなくて、彼女は敵の意図に乗せられているのが嫌だった。誰かに誘導されているのが分かっており、しかもその誘導に従わなければならない。それは彼女がもっとも嫌うことのひとつだった。

 

 それでも、行かねばならない。バナーヌは宿場町跡地へ踏み込んだ。そこここで瓦礫が積み重なっており、暗がりには蜘蛛の巣の残骸が分厚く堆積していた。半ば植物と一体化した寝台と寝具が、差し込んでくる夕陽によって奇妙な色合いを醸し出していた。あまり愉快な絵面ではなかった。

 

 バナーヌは敵の気配を探った。気配はどこにも感じられなかったが、それが却って敵が存在することを強力に暗示していた。バナーヌはひとつの建物を抜けるとそれに隣接する建物に入り、それを繰り返して、ひと棟ずつ丁寧に、素早くクリアリングしていった。

 

 珍しく天井の残っている建物に入ったその時、ふと、目の前に何かが落ちているのにバナーヌは気が付いた。思わず彼女の口から声が漏れた。

 

「ウホッ」

 

 それは黄金に輝いていた。それはしなやかで美しい曲線を持っており、芳醇な香りを空間に振りまいていた。バナナだ。見間違えるはずがない。バナーヌはバナナにふらふらとした、しかしどこかおどけたような足取りで近づいていった。

 

 バナナに抗うことができるイーガ団員など存在しない。バナーヌはバナナを拾い上げて、丁寧に皮を剥いて食べ始めた。彼女の食べ方は控えめで、穏やかだった。

 

 瞬く間に一本を食べ終えると、またその目の前にバナナが落ちていた。それを見たバナーヌの口から、また声が漏れた。

 

「ウホッ」

 

 バナーヌはまたバナナに近づいた。バナナは広い客室の中央に置かれていた。彼女の意識の九割(がた)はバナナに向けられていたが、残りの一割は「これは間違いなく罠だ」と彼女に告げていた。それでも彼女はバナナに吸い寄せられてしまった。彼女はバナナを拾うと手に取り、その黄色い皮を剥こうとした。

 

 その瞬間、轟音を立てて天井が落ちた。巨大な石材が雨のようになってバナーヌに降り注いだ。濛々たる土煙が巻き起こり、石材が乱雑に積み重なった。

 

 それでもバナーヌはまったく無事だった。彼女の腕には茶色のパワーブレスレットが嵌められていた。それが怪力を発揮し、落下してくる巨大な質量を難なく受け止めさせたのであった。彼女は頭上に抱えている石材を放り投げると、軽く跳んで廃墟の上に立った。

 

 彼女は激怒していた。バナナを食べるのを邪魔された! まことに許しがたい行為である。バナナを罠に使うのは、まだ良い。それは理解できる。バナナはまさに罠の材料としては最適だからだ。しかし、バナナを食べるのを中断させるのは言語道断である。なぜ、こちらがバナナを見つけた直後に天井を落下させなかったのか? あるいは、せめてこちらがバナナを食べ終えてからそうすべきである。今まさに食べようとしているその瞬間を狙ったのは許せない。高まる敵愾心を視線に込めて、彼女は周囲を見回した。

 

 敵はそこにいた。隣の建物の上に立っていた。今度は敵の姿がよく見えた。敵はボコマスクを被っており、シーカー族の忍び装束を身に纏っていた。その腰には鞘に収められた長大な野太刀がさげられていた。敵はマスク越しにバナーヌの行動をじっと観察していた。

 

 もしかすると敵は、自分がパワーブレスレットを用いて罠を破ることを予測していたのではないか? バナーヌはそう感じた。どうにも、今までの敵とは勝手が違うようだった。

 

 しかし、敵はもう手の届くところにいる。バナーヌは大きく跳んで敵へと向かった。敵もバナーヌとほぼ同時に跳び、廃墟から地面へと降りて、さらに奥へと駆けていった。バナーヌは後を追った。二人は影となった。

 

 やがて二つの影は広場に達した。そこには噴水があった。当然のことながら、噴水は機能を停止していた。バナーヌは噴水を挟むようにして敵と対峙した。

 

 睨み合いは一分も続かなかった。先に動いたのは敵の方だった。敵はマスクの下に両手の人差し指を差し込むと、鋭い指笛を一声(ひとこえ)発した。それは魔物を呼ぶための笛だった。数秒も経たずして、廃墟のあちこちから魔物たちが姿を現した。魔物は主にボコブリンだった。赤ボコブリンが大半で、青ボコブリンが数体混ざっていた。

 

 体力と戦闘力に優れた黒ボコブリンがいないのは幸いだったが、いかんせん数が多かった。魔物は叫び声をあげて四方から群がり寄ってきた。バナーヌは包囲されないように走った。魔物たちが手に持っている得物(えもの)が、沈みかけている日の光を浴びて鈍く輝いた。錆びた剣、錆びた槍、旅人の剣、兵士の槍、木のモップ……

 

 魔物たちはちゃちな武器しか持っていなかった。それがバナーヌの戦意を高めた。こんな敵にやられてたまるか! 彼女は自分の持っている不思議アイテムに頼ることにした。

 

 彼女はポーチへと手を伸ばそうとした。その時、(ふところ)に何か硬いものが入っていることに彼女は気が付いた。

 

 あれ、なんだったっけ、これ? ほんの半秒だけ彼女は考えた。やがて、それが何であるか彼女は思い至った。ああ、これはハイリア大橋の上で手に入れた「何かの(うろこ)」だ。ひんやりとしていて、それでいて熱を帯びているような不思議な感触がする。それが彼女の大きな胸部に貼り付くようにしてそこに存在していた。

 

 だが今は、こんなものは何の役にも立たない。彼女は頭を軽く振った。魔物たちは目の前に迫ってきている。再度意識を集中すると、バナーヌはポーチから不思議アイテムを取り出した。それは疾風のブーメランだった。バナーヌは狙いをつけると、それを手から放った。猛烈な突風を引き連れて、薄緑を纏った白いブーメランは敵の群れを()いだ。

 

 その勢いは凄まじかった。魔物たちの手から武器が飛び、音を立てて落ちた。敵は目を回していた。バナーヌは戻ってきたブーメランをキャッチすると、今度は腰の首刈り刀を抜き、敵に対して斬りかかった。わずか十秒ほどの間に、敵は脆くも全滅した。

 

 敵を処理している間にも、バナーヌはずっとその脳内に疑問符を浮かべたままだった。なぜ、あの敵はかかってこないのか? 自分を討つならば、魔物共を相手している今が絶好のチャンスのはずである。しかし、敵は来ない。またもや、バナーヌは先ほどと同様のことを感じていた。もしかすると、()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()() 先ほどのパワーブレスレットと同じく、()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その意図は分からなかった。どうしてそのようなことをする必要があるのか? まるで敵はこちらを倒そうとしているのではなく、むしろ情報を引き出そうとしているようだ……そこまで考えたバナーヌであったが、彼女は考えを打ち切った。

 

「ウホッ」

 

 彼女の目の前に、またもやバナナが落ちていた。バナナは建物の(かど)に落ちていた。バナナは淡い光に包まれていて幻想的な雰囲気を放っていたが、同時に強い存在感をも示していた。

 

 間違いなく、罠だ。バナーヌも愚かではなかった。思わず「ウホッ」と言ってしまったが、もう騙されない。彼女は慎重にそこへ近づいていった。もしまたバナナを手に取ったら、その時こそ敵はきっと、何か決定的な態度を示すであろう。

 

 あの建物の角の向こうに、敵が待ち伏せしている。バナーヌはそう直感していた。だからこそ、彼女はあえてそれに乗ることにした。彼女は「ウホホッ」と声を上げて、バナナに近づき、角から身を出してそれを拾おうとした。決してバナナが食べたいわけではない。決して。これは誘ってくる敵を逆に誘い返すためにやっているのだ。

 

 そう考えつつ、バナーヌが身を屈めようとしたその瞬間だった。

 

 何かが空気を切り裂く音を立てて飛来した。それは一筋の矢だった。矢はバナーヌの豊かに膨らんだ胸に直撃し、突き刺さった。

 

 やられた、とバナーヌは思った。まさか、あえて弓矢を使ってくるとは思わなかった。てっきり、(かど)(かたな)を構えて待ち伏せしているものと思っていたのだ。その方が待ち伏せの効果があがるし、確実性も増すからだ。

 

 衝撃は強かった。バナーヌは姿勢を崩した。倒れながら、彼女は咄嗟に矢の飛んできた方向へと目をやっていた。そこには、あのボコマスクを被った敵が、シーカー族が好んで用いる「一心の弓」を手にして立っていた。距離は二十メートルほど離れていた。敵は、いわゆる「出待ち」の戦法をとったらしい。

 

 バナーヌは倒れた。矢の突き刺さった胸が、炎で焼かれているように熱かった。彼女は目を閉じ、呼吸を止めた。

 

 敵はしばらく、様子を窺っているようだった。やがて、胸部の動きからバナーヌの呼吸が停止していることを察すると、敵は近寄ってきた。どうやらトドメを刺そうとしているようだった。敵は鞘に収められた野太刀を引き抜いた。鋭利な刃が薄闇の中で輝いていた。敵はすり足で歩き、動かなくなったバナーヌの体にさらに近づいてきた。

 

 バナーヌの顔に敵の影が差した。バナーヌの顔からは血の気が失われており、ただでさえ白く美しい彼女の顔は今や透き通るほどになっていた。それが死を感じさせた。敵は野太刀を振りかぶった。そして、振り下ろす勢いで彼女の首を胴体から切断しようとした。

 

 突然、バナーヌが動いた。彼女はいつの間にか、手に疾風のブーメランを持っていた。刀が振り下ろされるその直前に、彼女はブーメランを放った。

 

 ブーメランは敵に直撃した。暴風が吹き荒れ、敵を苛んだ。しかし、敵は流石に魔物とは違った。敵はなかなか武器を手放さなかった。

 

 ブーメランはなおも敵の周りを飛び回った。やがて、風の圧力に抗しかねたのか、敵の手から野太刀が飛んだ。ほんの少しだけ、敵が戸惑うような気配を見せた。バナーヌはその隙を逃さなかった。胸に矢が突き刺さったままの彼女は敵の懐へ瞬時にして飛び込むと、右手に拳を作って、それをボコマスクに叩き込んだ。

 

 鈍い音が響いた。ボコマスクがある程度(こぶし)による打撃を吸収したようだった。それでも敵はよろめいた。バナーヌは間を置かずにさらなる拳を繰り出した。そのいずれもが敵に命中した。顔と腹部に多数の拳がめり込んだ。致命部に矢を受けたはずのバナーヌがそのような肉弾攻撃を行うことができたのは驚異的なことであった。

 

 実際のところは、まったく驚異的なことではなかった。バナーヌはいっさいダメージを受けていなかったからであった。矢は、彼女の胸を守るようにして貼り付いていた「何かの鱗」によって阻まれていた。

 

 いくら敵がこちらの不思議アイテムのことを知っていようとも、旅の途中で得たこの「何かの鱗」のことまでは知るまい。バナーヌの読みは的中した。そこに彼女が得意とする戦闘術のひとつ、「フリシ・ニ」を加えれば、結果は約束されたようなものだった。

 

 やろうと思えば首刈り刀を振るうこともできたバナーヌがあえて拳の打撃にこだわったのには、理由があった。彼女はまた疾風のブーメランを取り出すと、今度は敵のボコマスクに向かって投げた。敵はバナーヌの意図を察したようで、ブーメランが周りを飛び回る中、手でマスクを抑えようとしていた。それも無駄な努力に過ぎなかった。

 

 ブーメランがボコマスクを剥ぎ取った。

 

 その下から出てきた顔を見て、バナーヌは言った。

 

「……ウロ」

 

 一種の懐かしさと共に、彼女はその名前を口にしていた。

 

 その敵、ウロは、バナーヌを睨みつけていた。頬に走った一筋の刀傷(かたなきず)相俟(あいま)って、ウロは凄愴(せいそう)なまでの美しさを示していた。黒髪の長い(まげ)が夕方の風に揺れていた。

 

 しばらく、二人は無言で睨み合った。ウロには敵意があった。だが、バナーヌはもはや敵意を持っていなかった。

 

 彼女にはただ、疑問の念だけがあった。半ば予想はしていたとはいえ、なぜウロがここにいるのか? 最優秀団員の一人で、今は上級幹部の「隠密」として働いていると噂されているあのウロがなぜ、フィローネ支部からのバナナ輸送を妨害しているのか?

 

 バナーヌは声をかけようとして口を開きかけた。そして、口を閉じた。問いなど意味のないことだ、特にイーガ団の隠密に対しては。隠密とは、決して胸の内を明かさないものなのだ。たとえ肉を焼き、骨を溶かすような炎によって責められても、隠密は決して白状しない。岩石や植物を拷問にかけるようなものだ。それは無意味であり、無駄である。

 

 でも、なにか言ってやりたい。バナーヌはだんだんイライラし始めた。思えば、ここまで長い道のりだった。その道中に数々の困難があった。そのほとんどは、この目の前にいるウロがもたらしたものなのである。いや、決定的な証拠があるわけではないが、たぶん、きっとそうだ。

 

 おそらく、上層部には何らかの思惑があるのだろう。下っ端のバナーヌには思いもよらないような、そういう思惑が。ウロはその思惑を果たすために仕事をしている。そうに違いない。その立場はある程度理解できる。

 

 だが、それでも……なにか言ってやりたい。そして、できるならもう一発殴ってやりたい。こちらばかり物分かりが良くてたまるか。

 

 そうだ、ぶん殴ってやる。

 

 バナーヌがそう考え、ついになにか言ってやろうと口を開きかけたその瞬間、ウロの方が言葉を発した。

 

「パシリのバナーヌ。お前は私に勝った」

 

 バナーヌは少しばかり目を見開いた。それは意外な言葉だった。バナーヌは思わず声を上げた。

 

「おい、訂正しろ。私はパシリじゃ……」

 

 バナーヌの言葉が終わるのを待たず、ウロはさらに言った。

 

「だが、お前は私の心までは知るまい。私の心を知っているのは、ただ一人のお(かた)だけだ。言っておくが、私はここで敗北しなければならなかったのだ。私は今、ひとつの任務を終えた。だが、お前の任務はまだ終わらない」

 

 隠密にしてはずいぶんとよく喋るな、とバナーヌは思った。おそらく、ここで自分に対して素顔を晒して何かを言うこともウロの任務のひとつなのだろう。そう思っている間にも、ウロはまだ話し続けた。

 

「お前は不幸だ。お前の任務はいつまでも終わらない。これからも私はお前を見ているぞ」

 

 その口ぶりから、ウロがこの場から去ろうとしているのがバナーヌには感じられた。彼女は言った。

 

「待て、消える前に一発殴らせろ」

 

 突如、軽い爆発音が起こり、閃光があたりに満ちた。バナーヌの視界は煙幕によって閉ざされた。

 

 煙が晴れ始めたその時にはもう、ウロの姿は消えていた。

 

 バナーヌは胸に突き刺さったままだった矢を引き抜くと、それをまだ残っている煙に投げつけた。彼女は歩き始めた。

 

 私の心までは知るまい、だって? 彼女は歩きながらそう考えた。

 

 知ってたまるか。どうせろくなもんじゃない!

 

 車列からは未だに戦闘騒音が響いていた。彼女は足を早めた。




 これにて第五章はおしまいです。次章で第一部が終わります。なんとかここまでこぎつけました……ちなみに「ウロ」という名前は仏教用語の「有漏」(うろう)からとっています。

※加筆修正しました。(2023/05/24/水)


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第六章 得るに時があり、失うに時がある
第五十三話 これからも使い倒してやるからな


 人々はなぜこれほどまでに伝説に惹かれるのであろうか。王国が滅亡し、文明が崩壊し、社会が荒廃したこの大厄災後のハイラル世界においてなお、人々は伝説を捨て去ってはいない。どんなに辺鄙な田舎においても、家々の書棚には薬草事典や家庭用医学事典と並んで、必ずハイラルの伝説について述べられた書物が少なくとも一冊は収められている。夜、暖炉の前に腰をかけて、親は子にゆっくりと伝説を読み聞かせる。子はさらにその子へと伝説を語り継ぐ。次第に書物は古び、表紙が破れページが欠け、もはや書物としての体裁を保てなくなるが、伝説そのものは決して滅びない。伝説は人々の心の中で常に新しいものとして存在し続ける。

 

 いや、聞き、語り継ぐだけではない。人々は実際に伝説をその目で直接確かめようとすらする。彼らは安全な故郷を離れ、魔物が跋扈する平原を抜け、峨峨(がが)たる山脈を踏破し、暗く深い沼沢地を泳ぎ渡って伝説の地へと向かう。その地で彼らは、もはや伝説が姿を消し去っていることを目の当たりにする。そこには崩れ落ちた遺跡しか存在しない。あるいは、遺跡すらも存在しない。そこは密林であるかもしれず、海であるかもしれず、一面を岩と砂が覆っている砂漠かもしれない。それでも人々はその地に辿り着くと、満足の溜息をついて腰を下ろす。彼らは胸にそれぞれの思いを抱きつつ、その地をじっくりと眺める。

 

 そして、出発した時から大事に背負ってきたツルハシやシャベルを取り出して、地面を掘り始めるのだ。美しく澄み渡って、どこか崇高な色さえも湛えていた彼らの目は、今や脂ぎった欲望で怪しく光っている。彼らは汗水を垂らして道具を振るい続ける。

 

 彼らは宝を探しているのだ。

 

 彼らは愚かであるといえるだろうか。一概にそうともいえない。

 

 なるほど伝説は豊かな精神的遺産である。伝説は実に様々な人々の物語を伝えており、生きた知と経験を教えてくれる。知恵、力、勇気の三徳(さんとく)が、どれだけ人間を人間らしく生かすものであるか、その教訓を示してくれる。

 

 しかし、それだけではない。伝説には確かに、より実利的な面での重要性がある。人々が伝説に惹かれるのは、それによって()()()()()()()()豊かになれるかもしれないと考えるからである。

 

 人々が伝説をそのように見做してしまうのも不思議ではない。なぜなら、ハイラルの伝説とは様々な人々の物語であるのと同時に、様々な(アイテム)の物語でもあるからだ。たとえば、魔物すらも倒すパチンコ、鎧をも貫通する弓、遠くに投げても手許に戻ってくるブーメラン、フックショット、ハンマー、ミラーシールド、ロッド、スピナー……詳細が分かっているものもあれば、いったい何にどう用いたのか分からない、名前だけが伝わっているものもある。

 

 これらの(アイテム)が、ハイラル世界の伝説を、特にハイリア人の伝説を、他に類を見ないほどに特徴的なものとしてきた。

 

 伝説が語り継ぐ勇者たちは、その全員が勇気に溢れ、剣技に秀でた者たちであったが、それ以上に(アイテム)を求め、宝を得て、宝を使いこなすトレジャーハンターでもあった。勇者たちは宝によって迷宮を突破し、困難をくぐり抜け、強敵を撃破した。もしそれらの宝がなかった場合、はたして勇者たちは勇者として語り継がれるような存在となり得たのだろうか。勇者と宝との繋がりはかくほどまでに強い。

 

 勇者たちはその時代においてその役目を終えると、いずこへともなく消えていった。宝もまた、勇者と共にどこかへ消え去った。だが、それは確かに存在したのであり、やはり今もこの広いハイラル世界のどこかに存在しているに違いない。いつの頃からかは分からないが、そのように考え、その考えを証明するために精力的に活動する者たちが出現した。いわゆるトレジャーハンターの誕生である。

 

 彼らは宝探しに命を懸けており、実際に命を落とすこともしばしばであったが、やはり何らかの成果をあげた。彼らは決して勇者の宝を見つけることはできなかったが、その副産物として数多くの財宝やルピーを獲得した。

 

 初めは人々から「正業に就かない社会不適合者」「所詮は山師の変種」と見なされていたトレジャーハンターは、次第にれっきとした職業のひとつとして認識されるようになっていた。のみならず、トレジャーハンターは人々の憧れともなり、話題の的ともなっていった。一度の探検で莫大な富を得たトレジャーハンターは、闘技場の花形選手に劣らぬ名声を博するのが常であった。

 

 いわば彼らトレジャーハンターは、勇者なき時代の勇者であった。彼らが得たものは紛い物の宝であったかもしれないが、彼らが宝を得ようとして敢行した探検は、勇者のそれに見劣りのしない偉業であった。少なくとも、同時代の人々はそう見ていた。

 

 しかし、最初はどれだけ純粋な気持ちから始められたものでも、時代が経つにつれて不純さを増し、輝きを失うというのが歴史の法則であろう。トレジャーハンターもこの法則から逃れることはできなかった。

 

 時代が進むと、個として活動していたトレジャーハンターたちは集団を形成するようになった。彼らは企業として、会社としてトレジャーハントを行うようになったのである。当初は不安定な生活を保障するための組合としての色彩が強かったが、そのうち彼らは投資を募り、人とモノと金を集めるようになった。そうすることでより大規模なトレジャーハントをすることが可能であると、彼らが気付いたからであった。

 

 こうして数多くのトレジャーハント会社が設立された。そのほとんどは成果をあげることもなく倒産した。ごく少数の会社だけが高い収益をあげることができたが、往々にしてその経営手法は非道徳的で反社会的なものであった。詐欺と横領は日常茶飯事であり、社員の奴隷労働は常態化していた。

 

 トレジャーハント会社は利益のために遺跡を破壊することも厭わなかったが、その所業は歴史学者や考古学者たちによって激しく糾弾された。法による規制がたびたび行われた。それでもなお百年以上にわたって企業としてのトレジャーハントは存続し、その悪名を轟かせ続けたのである。

 

 トレジャーハント会社全盛期の代表的人物の名としては、やはりバツタキカが挙げられるだろう。

 

 バツタキカは城下町で靴職人の息子として生まれた。彼の家は決して経済的に恵まれているとは言えず、両親はバツタキカの利発さ、頭の良さをよく承知していながらも、彼を学校へ通わせることができなかった。稼ぎ手であった父親が流行り病によって死去してからは、一家はより一層の窮乏生活に甘んじなければならなかった。彼は母と弟妹たちを養うために懸命に働いた。

 

 しかし一向に経済状況は好転しなかった。彼の自伝によると、この貧乏によって彼は「コツコツと仕事をしているだけでは運命は拓けない」という確信を得るに至ったという。

 

 彼が十八歳になった頃、城下町において新しくトレジャーハント会社が設立された。会社は主にフィローネ地方の密林での探索を事業目的としており、成果に応じた分だけのボーナスを支払うことを謳って社員を募集していた。バツタキカは応募し、採用された。彼は荷物運び人として、トレジャーハンターとしてのキャリアを始めた。彼の同期は五十人いたが、彼の自伝によれば「自分以外の全員が入社一ヶ月後に姿を消した」という。

 

「……業務内容は過酷で、危険に満ちていた。私たちは背骨が曲がるほど重い荷物を担いで延々と歩いていかねばならなかった。私たちが運んでいたのは、主に食糧だった。それは会社の主力である精鋭のトレジャーハンターたちが道中で飲み食いするためのものであった。肉、パン、乾燥野菜、果物、酒などを私たちは担いだ。私たちは決してそれらを口にすることはできなかった。重労働に喘ぐ私たちに食事として提供されたのは、薄い粥と、ほとんど塩の塊のようになっている干し肉の一欠片だけであった。私たちはトレジャーハンターではなく、ただの奴隷にすぎなかった……(中略)……朝になると、必ず誰か一人が姿を消していた。夜の間に脱走したのである。その者が残していった荷物は、他の誰かが余計に背負わなければならなかった」

 

 そんな仕事に彼は五年間も耐えた。ある時、探検隊は密林に埋もれた遺跡で数万ルピーもの財宝を発見した。探検隊は大いなる収穫を得て中央ハイラルへの帰途に就いたが、バツタキカはその一部を盗んで脱走をした。「それは今後の人生を賭けた博打だった」と彼は言う。

 

 そして、彼はその博打に勝った。数年の潜伏生活を送った後、彼は盗んだルピーを元手にして自分だけのトレジャーハント会社を設立した。彼の会社は大成功を収めた。その経営手法はしばしば「過酷にして悪質」と告発されたが、彼によると「トレジャーハンターというものはただ窮乏によって鍛えられるものであり」「すべては従業員を一人前のトレジャーハンターにする上で必要なもの」であった。自前で養成した優秀な従業員を使って、彼は次々と利益をあげていった。

 

 バツタキカは伝説を好んで読んだという。彼によれば「それが宝の在処を明確に教えてくれた」からであり、「また、勇者といえども所詮は宝の魅力に憑りつかれた一人のトレジャーハンターに過ぎないと教えてくれる」からであった。

 

 ある時、彼はひとつの伝説に目を付けた。それは「キタノ湾での埋蔵金」に関するものであった。ハテール海のキタノ湾には数億ルピーにもなる古代の勇者の埋蔵金があり、今もそれは手つかずのまま残されているという。彼は、さすがに数億というのは誇張であるとしても、少なくとも数千万ルピーはあるだろうと推測した。一度の探検でそれだけの金額を稼いだ業者は存在しなかった。「金額以上に、その事実が魅力的だった。会社の主であるとはいえ、私もまたトレジャーハンターの一人であった」と彼は言う。

 

 バツタキカは一年をかけて準備をし、意気揚々とキタノ湾での探検に乗り出した。折しもハテール海では百年に一度の暴風が予想されており、海に出るのは自殺行為であると言われていたが、彼は探検を強行した。結果として、彼の所有するサルベージ船の四割が沈没した。死者が出なかったのは不幸中の幸いといえた。

 

 ここで終わっていれば、バツタキカは損失を出しただけで済んだかもしれなかった。しかし彼は諦めなかった。彼は更なる投資を募った。一年後に再度サルベージ船団を用意して、彼は二度目の探検を敢行した。

 

 どのような神々の計らいによるものであるか分からないが、この時もまた百年に一度の暴風が予想されていた。彼は「百年に一度の事態が二年連続で起こるわけがない」と判断し、船団を出発させた。

 

 船団は一応の成果をあげた。それらしい岩礁を発見したのである。彼らはさっそく調査とサルベージに取り掛かった。作業は難航したが、ついに彼らは宝箱と思しきものを捉えた。だが、その日の午後になって強い風が吹き始めた。時間が経つにつれて風は勢いを増した。直ちに船団を退避させるべきであったが、彼はサルベージを続行させた。勇者の埋蔵金を手に入れるのはもはや目前であった。

 

 結局、船団は壊滅した。九割の船が沈没し、多数の溺死者を出した。生きて帰ったバツタキカは猛烈な非難に見舞われ、やがて当局によって逮捕された。判決が下され、彼はアッカレ地方沖のチクルン島監獄で終身刑に服することとなった。彼はそこで自伝を書き、その十年後に死去した。

 

 自伝において彼は言う。「私は従業員を奴隷扱いしたことはただの一度もない。私は彼らを最初から最後までトレジャーハンターとして扱った。キタノ湾においても、私は彼らのトレジャーハンターとしての意志を尊重した。彼らの全員が『あえて嵐の危険を冒すべきだ』と主張していた。私への『利益のために従業員の命を危険に晒した』という非難は不当である。また、私が守銭奴であるという批判も不当である。確かに私はルピーを求めたが、それは私が豊かになるためではなかった。私は、私なりの方法で伝説の真実性を証明したかっただけである。埋蔵されたルピーこそかつての勇者の活躍をあからさまに証明するものであると私は信じていたし、今も信じている……」

 

 バツタキカの会社は滅び、彼もまた死んだ。しかし、彼の意志だけは形を変えつつも未だに生き残っている。大厄災後のこの荒廃した世界において、トレジャーハンターたちは遺跡を巡り、廃墟を漁って宝を探し求めている。彼らは欲望に身も心も焼かれており、焼かれることで生きる実感を得ている。

 

 だが、彼らはトレジャーハントという行為そのものが呪われているということを知らない。そうであろう、そもそも王国は百年前、遺物という宝を掘り出してしまったために滅亡したのではなかったか? 国を挙げてのトレジャーハントは、いったいどういう結果を招いたのか? しかし、これほどまでに端的な呪いの証明を、彼らは決して受け入れようとしない。

 

 彼らは愚かであるといえるだろうか。それは、これから明らかになる。

 

 

☆☆☆

 

 

 平原外れの馬宿は、かつてないほどの賑わいを見せていた。

 

 ちょうど、宿場町跡地でバナーヌがイーガ団特殊工作員ウロとの死闘を制した頃であった。宿の外には夕方の風が吹いていた。涼しく、乾いた風が木々の梢を静かに揺らし、微かな葉擦れが鳴った。葉の間から、巨大な闘技場跡地の影が見えた。闘技場の建物には赤と黒の「怨念の沼」がべっとりと張り付いていた。もう百年以上も「怨念の沼」は闘技場を汚し続けているのだった。

 

 室内には熱気が満ちていた。いつもならば必ず半分以上は空席となっているテーブルと椅子にぎっしりと客が座っており、客たちは盛んに会話を交わしていた。店員たちは忙しく立ち働き、料理と酒を給仕して回っていた。店員たちの顔は明るかった。このような場末の馬宿で勤務を始めて以来、彼らはようやく働き甲斐のようなものを得ることができたのであるから、それも当然であった。

 

 彼らの表情が明るかったのには、それ以外にも理由があった。先日、店は完全なリノベーションを果たしていた。逗留者の中にハテール地方からやってきた工務店の社長と社員がおり、その二人が格安で仕事を請け負ってくれた。彼らの仕事ぶりは凄まじいものだった。通常ならば最低でも一ヶ月はかかる仕事を、彼らは人智を絶した猛スピードを発揮して一日でやりおおせてしまった。店内には新しい木材の香りが満ちていた。それが店員たちの鼻腔を満たし、彼らの気分を新鮮で豊かなものへと変えていた。

 

 陽気な喧騒が馬宿を支配していた。客も店員も、全員がまったく暗さのない悦楽に浸っていた。

 

 しかしながら、ゴンクは、その光景をどこか冷めた目で見ていた。彼はイーガ団員であり、この平原外れの馬宿の常駐連絡員であった。ゴンクは普段「ゴンロー」という変名を用いており、バナナの行商人として働いていた。バナナを売りながら情報を収集し、この近辺で活動するイーガ団員たちに必要な物資と資金を提供する。それが彼の任務であった。

 

 面白くない、とゴンクは思った。彼はリンゴ酒の入った素焼きのジョッキを傾け、一口だけ飲んだ。微妙な強さの炭酸が彼の喉を焼いた。彼はさらに酒を飲みつつ、考えた。面白くない。この重要な時期に、どうしてこう面白くない状況が発生するのか? 店員たちも客たちも、みんな面白そうな顔をしている。それが彼の癇に障った。俺としては、まったく面白くない。もしかしたら、お前たちのせいで俺たちの計画が台無しになるかもしれないじゃないか。俺たちは目立つわけにはいかないのに。

 

 人が多すぎるというその単純な事実が、どうしても気に食わない。ゴンクは自分の対面に座っている壮年の男へと目をやった。男は静かにそこに座っており、悠然とした態度で酒を飲んでいたが、やはりその目はゴンクと同じくどこか冷ややかなものだった。ゴンクは男に小声で声をかけた。

 

「グンゼ……いや、『シターク』よ。なんで今日に限ってこんなに客どもが多いのか、お前分かるか?」

 

 シタークという変名を持つイーガ団員グンゼは、わずかに首を動かして「否」と示した。グンゼはゴンクに言った。

 

「いや、私には検討もつきませんな、ゴンローさん。私はここよりも更に田舎のフィローネの人間ですからね。いつもここで働いているお前さんに分からないのならば、私が分からないのも当然ではないですか」

「まあ、それもそうだな」

 

 ゴンクはまた酒を飲んだ。ジョッキの酒はなくなった。それを見計らったように、店員が声をかけてきた。

 

「どうですか、ゴンローさん。リンゴ酒のおかわりは?」

 

 こいつ、俺のことを見てやがったな、とゴンクは苦々しく思った。こっちが酒をいつ飲み干すか観察していたのだろう。だが俺は、見るのは好きだが見られるのは好きではない。彼はそう思った。それはイーガ団員としての基本的な心性だった。そのことをおくびにも出さず、ゴンクは愉快なバナナの行商人ゴンローとして返事をした。

 

「ああ、気が利いてるね。そんなら、もう一杯頼むよ!」

「はい! ただちにお持ちします」

 

 ゴンクは店員が離れる前に、素早く口を挟んだ。

 

「ところで、今日はどうしてこんなに人が多いんだい? いったいこの連中は何者なんだい? 俺もここでバナナを売り始めてから長くなるが、この馬宿にこれだけ多くの人が集まるのは初めて見るよ」

 

 店員は答えた。

 

「ああ、この人たちはトレジャーハンターですよ」

「トレジャーハンター?」

 

 そう返事をしつつ、ゴンクは改めて客たちを眺めた。確かに、そう言われてみればそのような人相をしている。客たちには男もいれば女もいたが、全員が一筋縄ではいかない雰囲気を持っていた。正業らしい正業に従事しない、山師じみた、一種のはぐれモノたち、そういう連中に特有の、どこか小汚い空気感があった。

 

 どうしてこれまで気付かなかったのか、ゴンクは自分で自分のことを疑問に思った。クソ、俺も随分と安逸に暮らし過ぎたらしい。彼はトレジャーハンターたちの服装を素早く観察した。連中はその腰にロープ、(くさび)、小型のハンマーといった仕事道具をさげていた。

 

 俺も焼きが回りつつあるのかもしれない、とゴンクは思った。以前の俺ならば、一目見ただけで連中がトレジャーハンターであることを見抜けたはずだ。お手軽な仕事ばかりしていると、精神までお手軽になってしまうらしい。

 

「そうそう、そういえば」という店員の声に、ゴンクの意識は現実へと引き戻された。「なんだい?」とゴンクが答えると、店員は言った。

 

「なんでも、彼らは今日ここで重要な会合を開くとのことです。これまでに類を見ない、まったく新しい仕事をやるのだとかなんとか。そろそろ始まるはずですよ」

 

 ちょうど店員の言葉が終わるか終わらないかの頃に、宿の中へ誰かが入ってきた。思わず、ゴンクの目はそれに吸い寄せられた。

 

 入ってきたのは一人の女だった。

 

 女の背は高く、燃え盛る炎のような髪の毛をしていた。女は美しい顔立ちをしていた。顔からは知性と落ち着きが感じられた。着ているものがまた、女の美を引き立たせていた。女は上質な素材の真っ黒な服を着ており、肩から小さな革のバッグをさげていた。バッグの細い革紐が女の大きな胸を一段と強調していた。

 

 大した美人だな、とゴンクは思った。いや「大した」という言葉は適切ではない。より正確に言うなら、「ものすごい」美人だ。きっとここらの人間ではあるまい、とゴンクは思った。こんな辺鄙な地に美人などいるわけがないのだ。ここら一帯では人間よりもシカの方がよっぽど美しい。

 

 しかし、どこか変だ。ゴンクの直感がそう告げていた。この黒い服の女は美しいが、どこか美しすぎる。不自然なまでに美しい。ゴンクは、今や室内の中央に立って客たち全員の視線を集めている女の全身を、改めて眺めた。素晴らしく均整の取れた体つきだった。

 

 どうも、俺たちと同類のような感じがする。ゴンクはそう思った。あのカルサー谷のパシリであるバナーヌ、あの女と似ている気がする。

 

 ゴンクはグンゼの方へ視線を投げかけた。グンゼは微妙に頷いた。どうやらグンゼも何らかの違和感を覚えているようだった。彼らは黙って黒い服の女を見ていた。

 

 突然、女がゴンクの方へ目を向けて、そしてまた目を背けた。ゴンクは身震いした。視線が向けられたのはほんの一瞬だったが、それには明らかにあるメッセージが込められていた。「黙っていろ」と女の目は言っていた。目は緑色だった。迫力のある緑色だった。

 

 この女はきっと、裏社会の人間だろう。ゴンクは確信した。そうであるなら、やはりこれから女が何を言い、何をするのか、よく見ておかねばならない。ゴンクは気を引き締めた。

 

 やがて、自分に充分な注目が集まったのを確認したのか、黒い服の女はおもむろに口を開いた。

 

「はじめまして、トレジャーハンターの皆さん。私の名前はロッキョーと申します。あなた方のマネージャーを務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いします……」

 

 綺麗な声が柔和な顔から発せられた。女は優雅に頭をさげて一礼した。トレジャーハンターたちは盛んに拍手をした。

 

 ロッキョーか。おそらくは偽名だろうとゴンクは思った。ロッキョーという名には、ハイリア人にいそうでいない響きがある。女は話し続けた。

 

「今日ここにお越しいただいた皆様は全員が優秀なトレジャーハンターであるとお聞きしています。この荒廃しきったハイラルの大地において、魔物の脅威すらも意に介さずただひたすらお宝を探し求めるトレジャーハンターたちは、まさしく勇者なき時代の勇者たちと言っても過言ではありません」

 

 お世辞のような黒い服の女の言葉に、トレジャーハンターたちはただでさえ酒によって緩みがちだった表情を更にだらしないものにした。女はやや語調を改めて、また言葉を続けた。

 

「しかしながら、今回の仕事は多大なる困難が予想されます。そう、これまでとはまったく異なる類の困難です。おそらく個としてのトレジャーハンターでは、この仕事を完遂することは不可能でしょう。それをあえて乗り越えるために、こうして皆様にお集まりいただいたのです」

 

 女はいったん言葉を切ると、トレジャーハンターたちをゆっくりと眺めた。どこか値踏みをするような視線だった。少なくとも、ゴンクにはそう感じられた。この連中はアホそうだから気付いてなさそうだが、どうも女の方は言葉ほどにはこの連中を買っていないようだぞ。彼はまた酒を飲んだ。彼の喉はいつの間にか砂漠のように渇いていた。

 

 また、黒い服の女は口を開いた。

 

「かつての伝説的トレジャーハンター、バツタキカのことはもちろん皆様ご存じでしょう。あなた方にとって偉大な先人の一人である彼、バツタキカはたった一人でトレジャーハント会社を興し、大成功を収めました。最盛期の彼の資産はハイラル王のそれを凌いだと言われています。それだけの富を得るのは、決して個としてのトレジャーハンターでは不可能だったでしょう。私たちも、彼に倣わなければなりません。今こそ旧態依然たる個々別々のトレジャーハントから脱却して、集団として纏まるべき時です。それによって初めて私たちは、トレジャーハントの新たなる地平へと到達することができるのです」

 

 女は締めくくるように言った。

 

「そう、『企業としてのトレジャーハント』が、今はじまるのです!」

 

 歓声と共に拍手が響いた。だが、一人のトレジャーハンターは不機嫌そうな顔をして黙っていた。それは女のトレジャーハンターだった。彼女は黒い服の女が現れてから、ずっと不機嫌そうだった。彼女の髪は灰色だった。彼女の険しい表情は、それまで彼女が味わってきた辛酸の数々を端的に示しているようだった。

 

 女のトレジャーハンターは言った。

 

「大した演説だねぇ。でも、アタイはこんな訳の分からないどこぞの馬の骨たちと一緒に仕事をするつもりはないよ。素性の知れない奴らに背中を任せるわけにはいかないからね。それまでは仲の良いふりをしておいて、いざお宝を見つけたその瞬間に背中をグサッとやられるなんてことになったらたまらないしね」

 

 彼女の隣に座っていた若い男のトレジャーハンターが慌てたように言った。

 

「ちょ、ちょっと、トンミ姐さん! 言い過ぎっすよ!」

 

 トンミという名の女トレジャーハンターは「うるさいニルヴァー、黙りな!」と言った。

 

 それを見ていた黒い服の女は、にっこりとした笑みを浮かべた。ゴンクは、その笑みに底知れぬ迫力のようなものを感じた。女はまた口を開いた。

 

「今回はおひとりにつき三千ルピーの参加報酬をお支払いします。参加していただくだけで三千ルピーです。これに、発掘したお宝の価値に応じて追加の報酬が支払われます。危険手当も加算されます。万が一怪我を負った場合は、入院費と治療費も支給されます」

 

 それを聞いたトンミの目が怪しく輝いた。彼女は叫ぶように言った。

 

「なんだって!? 三千ルピー!?」

 

 黒い服の女はにこやかな顔のまま答えた。

 

「はい、そのとおりです」

 

 どよめきがトレジャーハンターたちの間に波のように広がっていった。トンミは半信半疑という顔をして黒い服の女に言った。

 

「どうも話が美味しすぎるねぇ……怪しいよ。いったいその報酬は誰が払うんだい? 私たちをここに呼んだ、あのキルトンとかいう気色の悪いやつかい? でもアイツにそんなにルピーがあるようには思えないけどね」

 

 黒い服の女は笑みを崩さずに答えた。

 

「魔物研究家のキルトン氏はたしかに今回の事業の出資者の一人です。ですが、さらに資金力に優れた方が他におられます。その方が共同出資者となっています。これでもなお疑問が解消されないのでしたら、今この場で半金を前払いいたしますが……」

 

 そう言うなり、黒い服の女は肩からさげているバッグに手を伸ばし、中からひとつの白い袋を取り出した。袋はずっしりとしていて重そうだった。袋にはルピーのマークが染められていた。女は袋をトンミに向かって差し出そうとした。

 

 トンミは「待ちな!」と言い、手を前へかざしてそれを制した。トンミはさらに言葉を続けた。

 

「ふん、舐められたもんだね。アタイだってトレジャーハンターの一人だ。誇りがある。半金なんかいらないよ。アンタ方の意図までは分からないが、そこまで大量のルピーをかけてこの仕事をやろうっていうならアタイだって覚悟を決めるさ。可能性に賭けるっていうのは、トレジャーハンターの専売特許だからね。おい、ニルヴァー」

 

 隣に座っている仲間にトンミは声をかけた。仲間のニルヴァーは答えた。

 

「なんすか、姐さん?」

 

 トンミは顎で黒い服の女が持っている袋を示した。

 

「あの半金はお前が受け取っておきな」

 

 ニルヴァーは「ええっ!?」と大きな声をあげた。「俺だって姐さんと同じくトレジャーハンターっすよ! 誇りがある! 姐さんが受け取らないって言うなら俺だって……」

 

 仲間に抵抗されて、トンミは物凄い顔をした。彼女は叫んだ。

 

「黙れ、この万年半人前の小僧が! アタイが受け取れっていうならアンタは何も言わずにさっと受けとりゃいいんだよ……!」

 

 なかなか、トレジャーハンターというのも一概に愚かではないようだなと、ゴンクは思った。あのトンミとかいう女はしっかりとリスクの管理をしているようだ。他のトレジャーハンターたちはどこか間の抜けた顔をしているが、トンミだけは危機的状況に陥ってもしれっと脱出しそうな雰囲気がある。案外、「背中からグサッと」やるのは彼女の方なのかもしれない。それにしてはどこか人の良さそうな感じもするが。

 

 ゴンクがそんなことを酒を飲みつつ考えているうちに、場はいつしかそれぞれの自己紹介へと移っていた。トンミがまず口を開いた。

 

「アタイはトンミ。トレジャーハンター歴十五年。十歳の頃から年がら年中お宝を探してる。で、こいつはアタイの弟分のニルヴァー。こいつの自己紹介は聞く価値なし。半人前だから。次のやつ、さっさと自己紹介しな」

「そ、そんな……ひどいっすよ姐さん……」

 

 トンミとニルヴァーの隣のテーブルには、二人組の男たちが座っていた。二人の顔はよく似ていた。特に、その鋭い眼差しと鋭角な両の眉はほぼ同一と言って良かった。二人のうち、顎髭を長く伸ばした男が口を開いた。

 

「俺の名はドミダク。トレジャーハンターさ。この稼業を始めてもう十年以上になる。今回のヤマには期待してるぜ、ロッキョーさんよ。で、コイツは弟のブリセン」

 

 顎髭の短い男がドミダクの言葉を受けて名乗った。

 

「ブリセンだ。兄さんと一緒にトレジャーハンターをやってる。俺たちの目的はあの伝説の大盗賊ラムダが残した秘宝を見つけることで……」

「おい、弟よ! 話し過ぎだぞ!」

 

 兄に窘められて、弟のブリセンはカタツムリのように体を縮めた。

 

「ご、ごめんよ兄さん。うっかり話し過ぎた……すまん、みんな。俺たち兄弟が伝説の大盗賊ラムダの秘宝を探しているっていう話は忘れてくれ……」

 

 兄がまた叫んだ。

 

「おい、話し過ぎだぞ!」

「ご、ごめんよ兄さん……」

 

 こいつらはダメそうだな、とゴンクは思った。バカすぎる。トンミとその弟分であるニルヴァーのコンビとは違って、この兄弟コンビはリスクの管理がなっちゃいない。兄の方が弟よりも分別があるというような顔つきをしているし、口ぶりも達者だが、おそらく危機に直面した時は兄の方が先にやられるだろう。弟を助けようとするからだ。ゴンクは酒を飲んだ。ジョッキの中のリンゴ酒は炭酸が抜けており、ぬるくなっていた。

 

 最後に残ったのは、浅黒い肌の瘦せた男だった。男は一人だった。男はそれまで静かに、というよりも人目を忍ぶようにひっそりと椅子に座って酒を飲んでいた。その目はおどおどとしていて、落ち着きがなかった。

 

 ついに順番が回ってくると、男は覚悟を決めたように勢い良く立ち上がり、捲し立てるように言った。

 

「お、俺はガノレー! ウオトリー村出身さー! トレジャーハントの経験はあまりないけど、俺には海で鍛え上げた肉体がある! それに、俺の先祖はハイラル王国海軍の提督だったさー! 俺には勇気があるし、どんなに大胆なことでも平気でこなすたんりょ……胆力(たんりょく)があるさー! 今は貧乏だけど、この仕事できっと大金持ちになってみせるさー! 期待していて欲しいさー! きっとよく働いてみせるさー!」

 

 こいつはダメだな、とゴンクは即座に判断した。立っているガノレーの足は緊張で小刻みに震えていた。たぶん、現場に行くことすらできずに死ぬタイプだ。ガノレーの体は枯れ木のように細かった。なにが「鍛え上げた肉体がある」だ。薪の代用にもなりゃしないほどに貧弱な体つきではないか。栄養不良なのがはっきりと見て取れる。半分浮浪者みたいなものだ。ウオトリー村の出身と言っているが、本当に海に出て漁をしていたのだろうか? それすらも怪しいものだ。ゴンクはグンゼに目をやった。グンゼは目を伏せた。どうやら彼とまったく同じ意見であるようだった。

 

 他のトレジャーハンターたちも、ガノレーを見て声をあげ始めた。

 

「おい、なんだよコイツは。誰がこんなやつを連れてきたんだ! アタイはこんなやつとは仕事しないよ!」

「姐さん、言い過ぎっすよ! 確かに見るからに未経験っぽいですけど、荷物運びくらいはできるかもしれないじゃないっすか!」

「俺もこんなやつと一緒に仕事するのはごめんだね! おい、ガノレーとかいうやつ! お前、剣くらいは扱えるんだろうな! 魔物に出くわしたらどうするんだ!」

「俺も兄さんと同じ意見だ。伝説の大盗賊ラムダとまでは流石に言わないが、せめて人並みに戦えるやつじゃないと話にならない……」

「おい! 伝説の大盗賊ラムダの話はするなって言ってるだろ!」

「ご、ごめんよ兄さん……」

「とにかく、このガノレーっていうのがどうしても一緒に行くっていうのなら、アタイはこの仕事から抜けるよ! 何が『企業としてのトレジャーハント』だい、馬鹿馬鹿しい」

 

 無数の非難を浴びつつも、しばらくガノレーは黙って耐え忍んでいるようだった。だが突然、ガノレーは猛然とキレた。辛抱強く穏やかだが、怒る時は爆発的に怒る。それがウオトリー村の人間の特徴であった。ガノレーは叫んだ。

 

「言わせておけば、おのれらいい気になりやがってさー! 俺を舐めるなさー! 俺はちゃんと戦えるし、酒だってお前らの三倍は飲めるさー! おい、店員さん! 酒を持ってくるさー! 俺の実力を見せてやる!」

 

 ガノレーは店員に大ジョッキで蒸留酒を持って来させると、一息でそれを飲み干してしまった。彼はそれを二回も繰り返した。トレジャーハンターたちは目を瞠った。実際のところ、どれだけ酒が飲めるかはトレジャーハンターとしての資質になんら関係しない。それでも、ガノレーは大した飲みっぷりだった。煽られたかのように、他のトレジャーハンターたちも酒を飲み始めた。

 

 喧騒は爆発寸前にまで大きくなった。酔っぱらったトレジャーハンターたちは喚き、叫び、泣いていた。そしてなおも酒を飲み続けた。馬宿全体が揺れていた。もはや誰が何を言っているのか分からなかった。黒い服の女はその光景を静かに眺めていた。ゴンクもグンゼも呆れ果てた心地で眼前に広がる醜態を見ていた。

 

 突如として、甲高い声が室内に響いた。

 

「ああもう、うるさいワ! 死ぬほどうるさい! うるさーい!」

 

 トレジャーハンターたちは一時的に狂騒から醒めた。

 

 そこにはサクラダ工務店社長兼棟梁にしてデザイナーであるサクラダが立っていた。サクラダの禿げあがった頭部は茹でたオクタのように真っ赤になっていた。

 

 サクラダは憤怒していた。憤怒の色を隠さずに彼は言った。

 

「安眠妨害ヨ、安眠妨害! かつての王国では安眠妨害罪は死刑だったってこと、アナタたち知らないノ!? アタシたち、今日はずっとこの馬宿の改修工事のために働いたからものすごく疲れてるのヨ! 夜くらいは安眠させてちょうだい! バカ騒ぎなら余所(よそ)でやって! この集団安眠妨害野郎共! 現行犯でとっ捕まえるわヨ!」

 

 そんなサクラダに対して、トンミが冷ややかな口調で言った。

 

「アンタ、誰なのさ?」

 

 虚を突かれたような表情をサクラダは浮かべた。彼は言った。

 

「えっ? 知らないの? ハイラル一の工務店であるサクラダ工務店、その社長にして棟梁にして主任デザイナー、建築学研究者であるこのサクラダをご存じない?」

 

 トンミが冷たく答えた。

 

「知らないねぇ」

 

 無礼な返答に対して、サクラダは深く長い溜息をついた。そして、口を開いた。

 

「そんなら、今この場で『サクラダ工務店』と『サクラダ』という名前を覚えなさい。ほら、教えてあげるからよく見てなさい。いくワヨ」

 

 そう言い終えるなり、サクラダは奇妙な節回しの歌と共に手足を動かして踊り始めた。

 

「新築 減築 解体 外構〜

 家の 事なら なんでも ございっ♪」

 

「その名も サクラダ

 DADADA サクラダ工務店〜」

 

「さくらだっ DADADA さくらだっ♪」

 

「フワフワ」

「シャキーン!」

 

 サクラダは踊り終えた。その場にいる全員が呆然としてその踊りを見ていた。黒い服の女もサクラダを見ていた。トンミが「ええ……?」と言葉を漏らした。ゴンクもまったく同じ気持ちだった。

 

 サクラダは満足したようだった。彼は言った。

 

「はい、これで覚えたでしょ? じゃあ、おやすみ」

 

 彼はベッドに戻って横になると、数秒も経たないうちにいびきを立て始めた。大きないびきだった。森の猛獣のようないびきだった。

 

 もし、あの男がトレジャーハンターになるなら、とゴンクは思った。おそらく伝説的な存在になるのではないか。なんというか、そういう凄みがある。

 

 沈黙の中で、サクラダのいびきだけが響いていた。黒い服の女が涼しげな声で言った。

 

「それでは、今日はこのあたりでお開きということで……明日は皆様のご活躍を期待しております。それでは、おやすみなさい」

 

 トレジャーハンターたちの宴は、ほどなくして散会となった。

 

 

☆☆☆

 

 

 完全に日が沈んだその後になっても、しばらく戦闘は継続した。魔物たちは実にしぶとく戦った。個々バラバラの魔物の寄せ集めにしては異様なまでの戦意の高さだった。もしかすると積み荷から発せられる芳醇な香りが、魔物たちを強く刺激していたのかもしれなかった。

 

 だが、流石にバナーヌたちはれっきとしたイーガ団であった。彼女たちは集団で戦い、戦線を張るということを知っていた。彼女たちは戦線を維持し続け、魔物たちを的確に撃破していった。

 

 やがて、魔物たちは深まりつつある夜の闇を嫌ったのか、車列から離れて退却していった。バナーヌたちは即座に車列の損害状況を確認した。奇跡的なことであったが、馬にも車両にも被害はなかった。ただ時間だけが失われた。なによりも貴重で、取り返しのつかない時間が失われたという事実は、輸送指揮官サンベの神経を逆撫でした。

 

 サンベは苛立ち紛れにバナーヌに言った。

 

「おい、カルサー谷のバナナ女! 何をぼさっとしてるんだ! さっさと魔物の掃討へ行ってこい! 連中はまだこのあたりに隠れているだろ! ほっといたらまた襲撃されるぞ!」

 

 続けて彼は、バナーヌの隣にいたモモンジにも声をかけた。

 

「それからモモンジ! お前もバナナ女と一緒に掃討に行ってこい! 一匹たりとも討ち漏らすなよ!」

 

 バナーヌとモモンジは「了解」と答え、すでに夜闇に包まれた空間の中へ歩み出ていった。命令には絶対服従である。それに、この状況においては「否や」というわけにもいかない。何かとあっては的の外れた指揮しかできないサンベではあるが、ここで掃討戦を命じるのは道理に適っていた。

 

 そういえば、これまで輸送を妨害していたのは特殊工作員のウロであったことを報告し忘れた。バナーヌはそう思った。戻って報告するべきか? いや、ここはそのまま掃討をした方が良いだろう。それに、あの無能極まるサンベにその事実を告げたところで、どうにもならない気がする。しばらくは胸の内に秘めておこう。彼女はそう決めた。

 

 二人は油断なく闇の中を歩いていった。バナーヌは首刈り刀を手に持っており、モモンジは鞘に収められた風斬り刀の柄に手をやっていた。いつ敵が出てきても即座に対処できる構えだった。

 

 草むらの中では、虫たちがうるさいまでの鳴き声をあげていた。星明りが大地を薄く照らしていた。白い光の中で時折虫たちが飛び立ち、いずこへともなく消えていった。金属質な地虫の唸り声が聞こえた。どこかの森ではシカたちが鳴き交わしていた。

 

 バナーヌとモモンジは闇の中で十体近くの魔物を仕留めた。いずれも先ほどの戦闘で傷を負っていた魔物たちは、地面に身を横たえて体力の回復に努めていた。そのような無防備な敵を倒すのに何らの支障もなかった。そもそも、夜はバナーヌたちイーガ団の世界である。太陽から見捨てられたこの時間、この世界において、イーガ団に勝てる者は存在しなかった。

 

 もう、この近辺に敵らしい敵は存在しないだろう。バナーヌはそう判断した。しかし、念のためにもう少しだけ辺りを見て回る必要がある。どうやらモモンジも同じ考えのようだった。モモンジはバナーヌに対して口を開いた。

 

「あらかた片付いたようですね、バナーヌ先輩。もう心配しなくても良いでしょう。それにしても、指揮官殿もこの数日で多少は学習したようですね」

 

 バナーヌは頷いた。

 

「うん」

 

 モモンジが言っているのは、おそらくテッポに関することだった。テッポは夕方の戦闘において単身でイワロックを撃破し、その後も魔物の群れを相手に奮戦した。彼女はまったく負傷しなかったが、疲労が著しかったために今は馬車で休んでいる。おそらく、眠っているだろう。バナーヌは思った。あの、ゾーラ族の女性フララットが捕らえられている檻のすぐそばで、テッポはその小さな体を丸めて眠っているに違いない。

 

 サンベがテッポに対して掃討戦を命じなかったのは、おそらくは幹部の娘をこれ以上の危険に晒してはならないという打算と保身の考えに基づいたものであろうが、しかしその一方で彼は彼なりに戦力のローテーションということを考慮してもいるようだった。仕事をさせることだけが指揮官の能力ではない。仕事をさせないというのも指揮官には必要な能力である。

 

 モモンジはさらに言った。

 

「今回はバナーヌ先輩のおかげで助かりましたよ。あの、不思議アイテムでしたっけ? あれがなかったらきっと馬車は大変なことになってました」

 

 バナーヌは答えた。

 

「うん」

 

 モモンジが言っているのは、疾風のブーメランのことだった。バナーヌは腰の武器ポーチを撫でた。これのおかげで、先ほどは危ういところを免れることができた。

 

 あの時、車列を攻めあぐねた魔物たちは、何を思ったのか弓矢を持ち出してきた。そして、あろうことか炎の矢をつがえ、それを雨のように車列へ向かって降り注がせた。馬車の(ほろ)は見る見るうちに炎上した。消火するにも、水などどこにもなかった。雨も降る気配がなかった。サンベたちは動揺し、慌てて、布を叩きつけるなどして火を消そうとした。それでも火の手はますます大きくなっていく一方だった。

 

 そこへ、ウロとの戦闘を終えたバナーヌが戻ってきたのだった。彼女は状況を見てとると疾風のブーメランを放ち、すぐさまその強烈な風の力で火を消してしまった。結果としては、幌が少し焦げただけで済んだ。このようなことは損害のうちにも入らなかった。だがバナーヌとその不思議アイテムがなかったら、車列が脆くも壊滅していたのは疑いようもなかった。

 

 モモンジが言った。

 

「すごいお宝ですよねぇ……思えば、アラフラ平原での戦いでもバナーヌ先輩はそれを使いこなしていましたね。いったいどこで手に入れたんですか?」

 

 バナーヌはごく短く答えた。

 

「森で手に入れた」

 

 それでモモンジは納得したようだった。

 

「なるほど、森で、ですか。たしかに、森にはいろんなものがありますからね」

 

 モモンジはそれだけ言うと、また口を閉じた。彼女は密林仮面剣法の正統伝承者として、森というものが本来的に有する神秘性を信じているようだった。そう、平原や山や湖には何もないかもしれないが、森にならばなんでもあるだろう。不思議なブーメランが森の奥深くに眠っていたとしても、何もおかしくはない。彼女はそう思っているようだった。

 

 モモンジがそれ以上詳しく訊かなかったことを、バナーヌはありがたく思った。善良な性格をしているモモンジに対してならば、友人のノチを相手にする時と同じとまでは言えないにしてもけっこう打ち解けて会話することができるだろうが、やはり話というものは苦手だ。

 

 二人はさらに闇の中を進んでいった。まだ数体の魔物の生き残りがいた。彼女たちは手早く着実に、敵の命を奪っていった。やがて、本当に敵がいなくなったことを確認すると、モモンジはバナーヌに明るい声をかけてきた。

 

「これでおしまいですね! 馬車に帰って休みましょう」

 

 バナーヌは答えた。

 

「そうしよう」

 

 モモンジの声には多少の疲労感が滲んでいた。自分の声も、ちょっと疲れた感じかもしれない。バナーヌは思った。今日は本当にいろいろなことがあった。マラソンマンとかいう変なやつ、隠密のウロとの戦闘、それに馬車の炎上……そのいずれも、なんとか切り抜けることができた。

 

 それができたのは、自分が特に優れた能力を持っているからではないだろう。馬車に向かいつつ、バナーヌはそう考えた。今日なんとかなったのは、自分に不思議アイテムがあったからだ。これまでもそうだった。過去にも、バナーヌは幾たびか絶体絶命の危機に陥ったことがあった。その時も、それまでの任務でいつの間にか手に入れていた数々の不思議アイテムが、彼女の命を救ってくれたのだった。

 

 間違いなく、自分の持っているものは「お宝」だろう。だが、自分は決してトレジャーハンターではない。バナーヌは思った。トレジャーハンターは宝を求める。しかし、自分は宝を求めたことなど一度もない。そう、これまでにただの一度も、「お宝が欲しい」などと念願したことはないのだ。

 

 ふと、バナーヌの脳内に、ある考えが閃いた。もしかすると、それこそが宝を得る上で重要なのかもしれない。宝を手に入れるには、逆説的なようだが、宝を求めてはならないのだ。いや、むしろ……彼女の考えはとりとめもなく広がっていった。むしろ宝の方が、そういう人間を持ち主として求めているのではないか? 宝のほうが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことは、バナーヌにはできなかった。今、彼女が持っている不思議アイテムはすべて、まるで向こうのほうがこちらを選んだかのような経緯で所有することになったものである。パワーブレスレットも、疾風のブーメランも、ヘビーブーツも……

 

 伝説に語り継がれる勇者たちも、あるいは自分と同じだったのではないか? バナーヌはこれまでに読んできた本の内容を思い出した。勇者たちは、宝を欲したから迷宮へ入ったのではない。()()()()()()()()()()()()()()()、彼らは迷宮へと踏み込んだのだ。宝はそんな勇者たちを助ける、いわば協力者だったのではないか?

 

 それなら私の不思議アイテムもきっと、私の協力者なのだろう。バナーヌは武器ポーチを優しく撫でた。

 

 いつもありがとう。これからも使い倒してやるからな。

 

 そんなことを考えているうちに、バナーヌとモモンジは車列へと戻っていた。馬たちが草を食み、どこかから汲まれてきた水を桶から飲んでいた。

 

 二人はサンベに報告を終えると、最後尾の小さな馬車の中へと入っていった。




 今回から新章スタートです。はたして第一部は無事に終わるのか!?

※加筆修正しました。(2023/05/25/木)


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第五十四話 もし私が億万長者になったら……

 いまさら言うまでもないことであるが、ルピーには魔力がある。それはファイアロッドやアイスロッドといった魔法的なアイテムのそれと同等同質ではないにしても、やはりある種の魔力を有していると言ってよい。それは、「ありとあらゆるものと交換をすることができる」という魔力である。どのように珍奇で希少な魔法アイテムであっても、ルピーが有するこの魔力だけは発揮することはできない。このハイラルにおいて最もありふれているが、しかし稀有な能力を持つ魔法アイテム、それがルピーであると言えるのかもしれない。

 

 十ルピーあれば一食分の食べ物を得ることができる。二十ルピーあれば馬宿のベッドで一泊することができる。百二十ルピーあれば旅装として用いることのできる、新品のハイリアの服を手に入れられる。三千ルピーもあれば田舎の一軒家を所有することも可能である。大厄災によって既存の秩序が崩壊した後の世界においても、ルピーはかくほどまでに強大な魔力を保持し続けている。

 

 このルピーの魔力に魅せられ、破滅した者たちの話はハイラルの歴史においてそれこそ枚挙にいとまがない。そうであるからこそ、神殿の神官たちや賢者たち、あるいは説話作家たちは、ルピーへの欲望を戒める教訓話を営々と、無数に作り上げてきた。

 

 ハイラルにおける説話文学作家の代表者であるニーズッキもまた例に漏れず、ルピーに関する数多くの話を書き残している。そのひとつとして有名なのは「スタルチュラハウスの一家」の話である。

 

 その一家は長年に渡って困窮した生活を余儀なくされていた。一家の主は人一倍ルピーに対する欲望が深かった。しかしながら、彼がルピーを得んとして欲望を募らせれば募らせるほどに、ルピーは彼からますます離れていった。どういうわけかは分からないが、彼は完全にルピーから見放されていた。彼は村で一番の貧乏人と蔑まれていた。どんなに懸命に働いても、彼は決して彼の家族の空腹を満たすことはできなかった。

 

 ある日のこと、彼はついうっかり、せっかく得たルピーを村の井戸に落としてしまった。井戸は深く、暗く、満々と水を(たた)えていた。貴重な稼ぎの詰まった袋は今や井戸の底にある。どうしても諦めきれなかった彼は、何度も釣瓶(つるべ)を水へと落とし、何回もそれを上げてルピーを回収しようとした。しかし、すべては無駄だった。何度やっても桶の中には水しかなかった。ついに彼も諦めて井戸から去ろうとした。

 

 その時、暗く低い声で彼に話しかける者がいた。それは井戸の底に潜んでいる悪霊であった。悪霊は彼に囁きかけた。ルピーが欲しいか? 彼はその声の邪悪な響きに(おのの)きつつも、そうだと答えた。悪霊は彼に取引を持ちかけた。お前がルピーを得るには、二つの選択肢がある。ひとつは、お前が先ほど井戸に落としたルピーを私から受け取ることである。そのルピーはお前の働きと労苦によって得た正当なものである。そのルピーはお前を幸せにはしないだろうが、これ以上不幸にもしないだろう。

 

 ふたつめは、お前が先ほど落としたルピーを私に払うことで、私からある秘法を得ることである。その秘法は、支払った以上のルピーをお前にもたらすであろう。使いきれないほどのルピー、貧乏を忘れるほどのルピー、一匹の貧乏人、この地上を這いずり回るだけの卑しいお前を、この世の支配者以上に強大にすることができるルピー、それほどまでに莫大なルピーを秘法によって得ることができる。どちらを選ぶか?

 

 悪霊が提示した二つの選択肢を前にして、彼は一瞬も迷わなかった。彼はルピーを悪霊に支払って秘法を(あがな)った。悪霊は彼に言った。毎日、天と地の光と影が溶け合う、太陽が沈む頃に、クモを一匹見つけて殺せ。殺す時は必ずその脚を一本ずつ、左上から左下へ、次に右上から右下へもぎ取り、最後に火で顔を焼き潰せ。殺したクモの死骸を、お前の家の中心部、その床下に埋めよ。そうすれば、お前はルピーを得ることができる。

 

 悪霊は彼に秘法を伝えると、また井戸の底へと戻っていった。彼は白昼夢でも見ていたかのようにぼんやりとしていた。折しも、その時まさに日が沈もうとしていた。我に返った彼はクモを探し、言われたとおりに脚をもぎ、火で顔を焼き潰し、家の床下に埋めた。

 

 その次の日から、彼と彼の一家の生活は文字通り一変した。彼には大量のルピーがもたらされるようになった。日雇い人として畑の雑草取りをすれば地面に埋まった金のルピーを見つけ、どぶを(さら)えば泥に埋もれた銀のルピーを見つけた。雇われの羊飼いとして野に出た時は地面に開いた穴に落ち、中にいた隠者の老人から「ナイショダヨ」と言われて三百ルピーを渡された。彼が何をしても、たとえどんなにくだらなくてつまらないことをしても、まるでその報酬であるかのように必ずルピーが得られた。

 

 彼の一家は一年も経たないうちに村一番の大金持ちになった。彼は村で最も重んじられ、そして怖れられる人物となった。彼に借金を申し込む者は後を絶たなかった。それまで彼を蔑み、ほとんど無視をしていた者たちが、友人になるべく腰を低くして彼の家へとやってきた。彼はルピーを貸してやった。友人になりたいと申し出てくる者を拒まなかった。彼はルピーを大いに使ったが、ルピーは決してなくなることがなかった。むしろ、彼の資産は増え続けた。三度人生をやり直しても決して使い切ることができないほどに、彼の財産は膨らんでいた。

 

 そんな生活が三年ほど続いた。ある日の黄昏時、彼はいつもどおりに一匹のクモを見つけ、それを殺そうとした。それはちょうど一千匹目のクモだった。そのクモはそれまでのクモとは異なっていた。そのクモは二回り以上も大きく、黄金の外殻を身に纏っていた。外殻は人間の髑髏(スタル)にそっくりだった。目の部分が怪しげな赤い光を発していた。

 

 黄金のクモは彼に言った。我はスタルチュラ(クモ)、黄金のスタルチュラである。お前はこれまでに九百九十九匹の我が同胞を殺した。そしてお前は莫大な富を得た。その所業はまことに許しがたいが、あえて許しがたいものを許すというのが我が種族の教えであり、掟である。お前には今、二つの選択肢がある。ひとつは我を殺さずに見逃し、そして今後もクモを殺さぬことである。お前は富を失うであろうが、命はまっとうすることができるであろう。

 

 もうひとつは、ここで我を殺すことである。我を殺せば、お前の富は今後いかなる災厄が世界を襲おうとも盤石なものであり続けるが、お前とお前の家族はみな我が一族の呪いを受け、人間としての生命をまっとうすることはできなくなる。

 

 どうするのか? 人間としての生命をとるのか? それともルピーをとるのか?

 

 彼はふたつめの選択肢を選んだ。彼にとって、もはやルピーは生命以上に捨てがたいものとなっていたからである。彼は黄金のスタルチュラの脚をもぎ、顔を焼き潰した。その夜、彼と彼の一家は巨大なクモへと変身した。一夜にして、彼と彼の一家はハイラルにおいて最も富貴な存在から最も呪われた存在となった。

 

 彼らは未来永劫にわたってクモとして生きなければならなくなった。それまで引きも切らずに人が訪れていた屋敷には誰も来なくなり、いつしか「スタルチュラハウス」として怖れられるようになった。

 

 結局、彼と彼の家族は救われた。かの伝説の勇者が百匹の黄金のスタルチュラを討伐して彼の一家にかけられた呪いを解いたからである。彼は返報として勇者に大量のルピーを贈った。それは魔王討伐の一助となった。

 

 ニーズッキは、物語の最後に以下のような言葉を書き添えている。

 

「まことに神々の叡智は偉大なものがあり、それは人智の及ぶところではない。すべては神々の御計画であったのだ。神々は井戸の悪霊をして彼に働きかけさせ、彼は呪いを受けつつもルピーを蓄えた。勇者は呪いを解くという功業を成し遂げ、魔王討伐のために必要な実力とルピーを得た。だが、神々の叡智の前にあっては、ルピーの力などどれほどのことがあろう。ルピーを追い求めることは愚かであるが、その愚かさすらも神々の御計画に含まれているのである」

 

 だが、ハイリア人の文筆家にして警世家であるギリトーソーは、『随想』において、ニーズッキのこの話を評して皮肉交じりにこう述べている。

 

「なるほど神々の叡智はまことに偉大なものがある。ただしそれは、うんざりするほどに迂遠で、まどろっこしく、回りくどい」

 

 ニーズッキは他に、「城下町のジョバンニ」という説話作品も残している。

 

 城下町のジョバンニは商人の家の一人息子として生まれ、何不自由なく育った。彼は善良な性格をしていたが、知力と思慮に乏しく、欲望にすぐ負けた。また、その容貌は優れたものではなく、人間というよりはボコブリンに近い姿形をしていた。それはまったく彼の責任ではなかったが、人々は彼を蔑んだ。

 

 両親が亡くなると、若い彼は財産のすべてを相続した。動産、不動産を含めて、相続した財産は一億ルピーにもなる莫大なものであった。だが、それは次第に減っていった。というのは、彼は友人たちに対していつも大盤振る舞いをしていたからである。彼は自らの容貌の醜さを知っており、そんな自分が友情を繋ぎとめるためにはルピーの力に頼らざるを得ないと信じ込んでいた。友人たちは彼に代わるような形で、彼の財産のほとんどを蕩尽した。

 

 十年近くが経過した。若さと共に、ジョバンニの財産も消え失せていた。この時になってジョバンニは初めて恋をした。彼にとってその女性は人生の伴侶として迎えるのに充分な魅力を持っているように感じられた。彼は熱烈に好意を寄せた。女はジョバンニの好意を受け入れた。彼らは恋人同士となったが、女はジョバンニに対して事あるごとにルピーを要求した。女は未だにジョバンニが城下町でも有数の資産家だと信じていたからである。

 

 ジョバンニは女のためにわずかに残っていた財産をすべて使い果たした。のみならず、彼は借金を重ねた。彼は自分の邸宅すらも抵当に入れた。返済の期日が迫り、いよいよ明日には家を出なければならなくなったその夜、困り果てた彼のもとに六十人の悪魔が訪れた。悪魔たちはルピーを司る者たちであった。ルピーの悪魔たちはジョバンニに対して、魂を売ればそれに見合っただけの財宝を与えると約束した。彼は悪魔に魂を売った。

 

 悪魔たちは彼の家を金貨と宝石で満たすと、彼の肉体から魂を引き抜き、大鎌を振るって六十個に分割した。魂を失った彼の体は、黄金の人形へと変じた。彼はルピーと引き換えにして、人間としての生命を失ったのであった。

 

 彼もまた伝説の勇者によって呪いを解かれたが、彼の愛した女性はすでに他の男と結婚して街を去っていた。ジョバンニはその後酒に溺れる日々を送り、使いきれないほどの財産を抱えたまま死んだ。

 

 話の最後に、ニーズッキは言う。

 

「まことに神々の御思慮は完全にして無欠である。神々はルピーの悪魔ですらもその掌中に収め、意のままに操られたのである。勇者が巨悪を討伐するためには、六十ものルピーの悪魔を倒して実力を養う必要があった。勇者はすべての悪魔を倒してジョバンニを救った。ジョバンニは貪欲にルピーを求める愚か者であったが、彼のその愚かしさすらもハイラル救済のために神々が立てた御計画のうちに含まれていたのである」

 

 このニーズッキの言葉に対して、またギリトーソーは『随想』において言う。

 

「もし悪魔たちがルピーを司っているなら、神々はルピーを司っていないことになる。つまり、神々は貧乏ということになる。世の中においては貧乏であるがゆえに余計な手間がかかるということがよくある。神々の御計画がすべて迂遠で、まどろっこしくて、回りくどいのは、ひとえに神々が貧乏であることを原因としている」

 

 ギリトーソーはまた、別の箇所で以下のように述べている。

 

「……ニーズッキをはじめとした説話作家や神官たちは、ルピーが本来的に有する魔力について非常に巧みに述べている。彼らによればルピーとは破滅の元凶であり、諸悪の根源であり、悪魔の属性である。彼らはルピーを純粋に邪悪なものとして見なしている。私も、確かにルピーにはそのように思わせるだけの力があると考える。しかしながら、この世をより良いものとし、住みやすくし、楽しみを増やし、苦しみを減じさせてきたのも、またルピーではなかったのか? 賢明な彼らがこのことに関して決して述べようとしなかったのはまことに不可解である……」

 

 さらにギリトーソーは述べる。

 

「善い行いをして得たルピーも、悪い行いをして得たルピーも、同じように輝いている。どれほど理屈を捏ねても、結局のところルピーはルピーでしかないのだ。ルピーとは、()()()()()()()()()()()()()『交換可能』という魔力を持っている。この奇妙な循環論法を理解した者だけがルピーを支配することができる。ルピーを邪悪なものとして遠ざけている限りは、あるいは『ルピーは邪悪なものである』という物語を信じている限りは、私たちはルピーの魔力に囚われたままである。ルピーを支配しない限り、私たちは()()()(私はここであえて『()()()』という副詞を用いる)、賢明で豊かな生活を送ることはできない」

 

 だが、物事の本質を理解する者はいつの時代でも常に少ない。ルピーの魔力はいつまでも愚かな人々の心を惑わし続けるだろう。この荒廃しきった今の時代においても、ルピーの輝きはまったく色褪せていない。人々は命を懸けて儚いルピーをかき集めるために這いずり回り、そして、己の全人生をかけてまで追い求めたそのルピーとは結局何であったのか理解することもなく、ひっそりと死んでいく。

 

 ルピーはいつまでも輝き続ける。ギリトーソーの言うように、その輝きに眩惑されない者のことを、おそらく富豪と呼ぶのであるのに違いない。

 

 今も富豪はいるのだろうか? そう、きっといるだろう。なぜなら、物事の本質を理解する者はいつの時代でも常に少ないが、しかし少ないながらも確実に存在するからである。だが、彼らにも彼らなりの苦しみがあることを知っている者は、より少ない。

 

 

☆☆☆

 

 

 青白い月が天球に刻まれた航路をたどって昇り、無数の星々が無分別に輝き、一筋の黄色い流れ星が走るように光る。それは夜という偉大な生き物の生理的反応であると言えなくもなかった。

 

 夜は刻一刻と成長を続けていた。闇が深まり、息吹は強くなっていた。どこまでも黒くてしなやかな(ひだ)は、昼の痕跡をすべて覆い隠そうとしていた。やがて夜も老い、朝日に看取られて死ぬのであろうが、それにはまだ時間があった。

 

 一両の馬車が、平原外れの馬宿近くの街道に止まっていた。馬車は街道そばの丈高い草むらの中に隠れていた。馬車は純白だった。昼には目にも鮮やかなその白さが、夜闇の中ではあたかも幽霊の衣装のようであった。馬車は頑丈な造りをしていた。それでいて凝った意匠の彫刻が施されていた。実用性と芸術性という相反する二つの要素が、その馬車においては矛盾なく両立していた。

 

 二頭の白い精悍な馬が(くびき)から解き放たれて、馬車の近くで草を食んでいた。白い馬たちは無論、白い馬車に合わせて選ばれたものであった。馬たちは大人しく、落ち着いていた。馬たちの隆起した筋肉が夜露に濡れていた。夜空から降り注ぐ微光が濡れた馬たちを照らし出し、馬たちの若さと健康と、力強さを際立たせていた。

 

 馬車も馬も、大厄災後のハイラル世界では滅多に見ることができないほどに上等で高価なものであった。馬車の内装もまた同様だった。天井から吊るされた夜光石のランプが、緑色の光を広いキャビンの中に放散していた。窓には高価な分厚い一枚ガラスが嵌っていた。ガラスの透明度は高かった。座席はリトの羽毛が用いられた柔らかなソファーだった。ソファーの表面を、しっとりとして柔らかな仔牛の革が覆っていた。

 

 キャビンの中に、一人の男がいた。

 

 その男、ハギは、座席の上で両腕を組み、物思いに耽っていた。彼の肌は浅黒かった。彼は見事に太っていたが、その分厚い脂肪の下にはしっかりとした筋肉があった。彼は金髪だった。しかし髪は少しくすんでいた。彼はゆったりとした上質な絹の衣服に身を包んでいた。彼の目は細く、鋭かった。目は闇の奥、さらにそのまた奥を貫こうとしているかのようだった。その目が、彼の風貌全体に緊張感を纏わせていた。

 

 夜はますます深まっていたが、ハギに眠気はまったくなかった。このところ、彼は夜に眠気を覚えたことがなかった。そして彼は、それに関して特段の痛痒(つうよう)を感じなかった。むしろ彼は、夜に眠るのは馬鹿者のやることだと思っていた。馬鹿者たちは夜の使い方を知らない。夜こそが(ルピー)の源泉であるのに、それを知らないし知ろうともしない。夜には眠るものだと疑いもせずに信じ込んでいる。だから彼らはいつまで経っても馬鹿で愚かなままであり、結局はその一生をつまらない有象無象のひとつとして生きることになる。彼はそう思っていた。

 

 ハギは目の前のテーブルに置かれたワイン瓶へと手を伸ばし、それを掴んで傾けると、そのルビーのように赤い液体をクリスタルの杯へと注いだ。杯はゾーラの里の工房で作られたものだった。彼はちょっとだけ口をつけた。苦みと渋みのある味だった。彼はそれをあまり美味いとは思わなかった。彼は独り言を言った。

 

「つまらないですねぇ……所詮、酒は酒に過ぎないということでしょうか」

 

 それでもハギはワインを飲み続けた。飲みながら、彼はこのワインはいくらだったかと考えていた。このハイラル世界において、ブドウで作られたワインは稀少である。これを持ってきた商人は、ワインを得るには廃墟の中から苦労して発掘するより他にないと言っていた。商人は吹っ掛けてきた。確か、この一本だけで一千ルピーはしたはずだ。一千ルピー、それは彼にとって大した金額ではなかった。彼は言われた通りの金額を払ってやった。

 

 ハギは瓶の半分ほどまで飲んだ。そこで彼はじっと耳を澄ませた。何も聞こえない。夜は、ありとあらゆるものに沈黙を強いているようだった。彼にはそれが心地良かった。少なくとも、ワインを飲むよりは快であるといえた。少しだけ彼の口の端が緩んだ。

 

 しかし、それもほんの数秒に過ぎなかった。ハギの聴覚はある異音を聞き取った。それは馭者台から聞こえてきた。馭者がいびきを立てていた。ハギは眉をしかめた。馭者台で、馭者が毛布に包まって眠っている。馭者もまた、夜だから眠るという一匹の愚か者であった。ハギはうんざりしたように言った。

 

「うるさいですねぇ……」

 

 一度意識してしまったいびきは、次第にとてつもない雑音として彼に感じられるようになってきた。この旅行が終わったら、馘首(クビ)にしてやる。彼はそう思った。一流の馬車に、一流の馬、それを操るのは一流の馭者であるべきだ。夜だから眠り、眠っているのだからいびきを立てるというような凡庸な馭者は、私に相応しくない。彼はまたグラスからワインを飲んだ。

 

 馘首(クビ)を宣告してやったら、馭者はどういう顔をするだろうか。「チミはもう、馘首(クビ)です」 ハギはその時の馭者の表情を容易に想像することができた。まず驚き、次に怒りが浮かび、最後には卑屈になる。卑屈な態度で懇願し、職にしがみつこうとする。だが、決して恥じ入ろうとはしないだろう。なぜなら、馭者は自分が正しいと思っているからだ。それどころか、こちらのことを職を奪う極悪人だと思うだろう。そもそもその職を与えたのが、目の前の当人であることを忘れて。

 

「ふん、煩わしいですね」

 

 だから庶民というものは嫌なのだ、とハギは思った。奴らは貧乏で、愚かで、卑しい。それなのに自分はいつも正しいと思っている。いつまでも学習しないし、学習してもすぐに忘れる。経験から原則を引き出すことができない。自分を変える努力をまったくしない。庶民という最底辺の地位から脱出するための試みをいっさいしない。奴らは開き直っていて、それどころか庶民であることに誇りを持ってすらいる。

 

 だから庶民というものは嫌なのだ。()()()()()()()()()()()。ハギはワインを飲んだ。ワインの味は彼の苦々しい思いとそっくりだった。

 

 だが、その気持ちは分からなくもない、とハギは思った。庶民という地位にいつまでも甘んじていたいという気持ち、薄汚い「成金」になるくらいだったら清貧な庶民のままでいたいという願望、それは分からなくもない。なぜなら、弱い者でいるということ、弱さのうちに留まっているということは、安心感をもたらすからだ。失敗し、敗北し、損害を負うことになっても、「自分は弱者であるから仕方がない」と言い訳をすることができる。常に言い訳をすることができる。それが安心感の(もとい)となっている。

 

 それでも私は、その安心感を振り捨てたのだ。ハギは窓の外へ目をやりつつ、そう思った。馬車の外は漆黒の闇で満ちていた。私には強い意志があった。私は金持ちになりたかった。強い者となり、ルピーを支配し、ルピーによってヒトとモノを支配したかった。そのためには、なんとしてでも弱者という境遇から脱出しなければならなかった。安心感こそが弱者を弱者たらしめているのであるならば、それはまったく不要だった。不要であるどころか、有害ですらあった。だから私はそれを捨てた。

 

 しかし、何かを捨てたからには、何かを得る必要があった。安心感に代わる、何か人生の軸となるような考え、いうなれば哲学のようなもの、そういったものが必要だった。自分のこれまでの人生は、ルピーを得ることよりはむしろ、その哲学を得るために費やされてきたのかもしれない。ハギはそう思った。

 

 ハギは瓶を傾けた。瓶の中身はもうなくなっていた。彼はテーブルの下の小箱から、また一本の瓶を取り出した。これも確か、一千ルピーはする貴重なシロモノのはずだ。こういう平凡な夜に一人で飲んで良いものではない。

 

「まあ、飲みますけどね」

 

 だからこそ、一人で飲む価値があると言える。ハギはそう考えた。自分は庶民から成金と呼ばれている。愚かな庶民にしては、正しいことを言うものだ。確かに自分は成金である。成金であるから、ルピーを湯水のように使うことができるのだ。ただの金持ち、資産家だったら、こんなふうにルピーを使うことはできない。やつらも結局のところはルピーの奴隷に過ぎないからだ。ハギはまた独り言を漏らした。

 

「ですが、私はルピーを支配している」

 

 ハギはワインを一口飲んだ後、テーブルに頬杖をついて、物思いにふけった。父と母は貧しい庶民だった。ただの庶民ではなかった。庶民であることを誇っている、いわば一流の庶民だった。元の血筋を辿ればアッカレ地方の大貴族か何かに連なる家系らしいが、父も母も日常そのようなことは一切口にしなかった。父も母も、貧しいということを何か尊いことであるかのように見なしていた。

 

 父はよく、あの説話作家ニーズッキの本を自分に語り聞かせたものだった。ハギはその時の光景を思い浮かべた。暗い夜、雨が降っていて、破れかけた天井から水滴が落ちている。小さなランプの灯りの下で、父がニーズッキのありがたい説話を読みあげる。父のお気に入りは「スタルチュラハウスの一家」と「城下町ジョバンニ」の話だった。

 

 ルピーこそが人生を破滅させるものだと、父は心から信じていた。だが、幼い私は幼いなりにその話に反感を覚えていた。ハギは思った。その反感こそが、自分にここまでの富を抱かせた出発点だったのだろう。

 

 歳をとり、成長をし、一人の若者となったハギは、つまらない仕事をして日銭を稼いでいた。こつこつと真面目に働いているのならば、たとえ貧乏でルピーとは無縁の生活を送るとしても恥ではない。父と母からはそう教えられていた。生きているだけで人間は尊いのであり、尊くあるためにはルピーは余計だ。ルピーは人を卑しくする。ルピーを持つことは恥そのものだ。そういう教えだった。

 

 しかし、その教えが正しいものであるとは彼にはどうしても思えなかった。父は病気で死んだ。ルピーがなかったために、薬を買うことができなかった。母は怪我で死んだ。ルピーがなかったために、医者にかかることができなかった。二人の葬式を出すルピーもなかった。両親の死を悼む者は誰もおらず、墓穴は息子であるハギ自身が掘らねばならなかった。

 

 自分の死を飾るためのルピーがないこと、それは死に至るまでに送ってきた生のすべてをないがしろにすることではないか? 墓標もない、ただの土の盛り上がりに過ぎない父母の墓の前に立つと、ハギはいつもそう思ったものだった。

 

 父と母は、ルピーを持つことは恥であると言った。だが、生をないがしろにすることこそ、真なる意味での恥ではないのか? 父と母の墓は、恥さらしの末路の象徴であるように彼には思われた。

 

 ハギは、生を謳歌したいと念願するようになった。(ぜい)を極め、豪奢(ごうしゃ)な生活を送ること。使いきれないほどのルピーを集め、湯水のように消費すること。そうやって生を飾る。そうすることで初めて、死を飾ることができるのではないか? 死を飾ることができたならば、その者は恥のうちに生きたとは言われまい。

 

 父と母は間違っていた。人が人として死ぬためには、やはりルピーは必要だ。

 

 ハギは猛然と努力した。ルピーを得るために必要な考え方、教え、哲学、そういったものが彼には必要だった。仕事をしながら、彼はよく本を読んだ。彼が好んだのは、あの皮肉屋の警世家、ギリトーソーの著作だった。説話作家ニーズッキを攻撃するギリトーソーの筆致は、彼にとって痛快そのものだった。ギリトーソーはルピーを得ることが善であること、ルピーを支配することで初めて人間は人間らしい人生を送れることを教えてくれた。彼はギリトーソーに依拠しつつ、次第に彼なりの哲学を構築していった。

 

 私は努力を重ねた。ハギはワインをグラスになみなみと注いだ。努力が形になるには数多くの幸運が必要だったが、その幸運すらも私の努力によって引き寄せたのだと思わなくもない。ハギはワインを飲んだ。酔いつつあるのを彼は自覚した。彼の思考はとりとめもなく次々と続いていった。

 

 私はルピーを得た。私は成金になった。私は生を贅沢に飾るようになった。ワインで濡れた彼の口の端が、奇妙な形に歪んだ。その時、彼は確かに喜悦を味わっていた。すべては、私が哲学を得たからだ。それは私が考えて、私が鍛えあげた哲学だ。

 

 彼の心に湧いた喜びも、ほんの一瞬だけだった。彼はまた、もとのむっつりとした不機嫌な表情へと戻った。しかし、と彼は思った。所詮、()()()()()()()()()()()()()()。自分は自分なりの哲学に従って、ルピーを得て、ありとあらゆるものを手に入れた。すべてを手に入れてしまったと言っても良い。

 

 だからこそ、自分の哲学にはどこか欠陥があったと思い知ることになったのだ。

 

 それに気付いたのは、彼の妻であるハルリが娘を産んだ時だった。娘は彼によく似ていた。彼は娘にハーニーという名前をつけた。ハーニーを抱き、乳をやりながら、ハルリは彼に言った。

 

「これであなたは、本当の意味ですべてを手に入れたことになるのね」

 

 彼は問いを返した。

 

「どういうことですか」

 

 ハルリは幸せに満ちた顔をして答えた。

 

「だって、いくらお金持ちのあなただって、いつかは死ぬでしょう? でも、あなたの命はこの子を通じて未来に繋がっていく。あなたはこの子のおかげで、永遠の命を得たのよ。ルピーでは決して手に入れることのできない、永遠の命を……」

 

 そんなはずはなかった。彼は自分の娘をみた。娘はどこまでも(いと)おしく、可愛らしかった。彼は自分が娘に対して(いだ)く愛情の深さに戸惑った。そして、こんなにも小さい娘が、自分がこれまでに営々と蓄え、築いてきたルピー以上のものであるわけがないと彼は思った。彼の哲学によれば、この世にルピー以上のものがあるわけがなかった。だが彼の父親としての直感が、娘がルピー以上の何かであることを告げていた。彼は戸惑いを深くした。

 

 やがて娘が成長し、そして奇妙な病気を持っていることが判明すると、彼の直感が正しかったことがますます証明されるようになった。彼は娘の病気を癒すために、莫大なルピーを注ぎ込んだ。だが、娘は治らなかった。これまでルピーで得られないもの、手に入れられないものはなかった。しかし、娘は治らなかった。

 

 今も治らないままだ。娘ハーニーは今も、母親のハルリと共に家にいる。

 

 娘の健康と命こそ、彼にとって最も買いたいもの、これまでの人生で最も強く買いたいと思ったものであった。それをルピーで買うことができない。娘は、彼の構築してきたルピーの哲学をあっさりと粉砕してしまった。

 

 いや、()()()()()()()()()()()()、実のところをいえばハギにとっては()()()()()()()()()()()()()()、ハギにとっては()()()()()()()()()()()()

 

 それは、娘によって破壊された哲学に代わる新しい哲学を、どうしても手に入れることができないということであった。

 

 今後も続くであろううんざりするほど長い人生、それをなんとか生きていくための哲学が、どこにもない。

 

 ルピー以上のものがあると知った以上、もはや自分はルピーに頼ることはできない。だが、父母が示したように、ルピーをすべて捨てることも間違っている。どうすれば良いのか? 自分はルピーをどう扱えば良いのか? 自分が新たに依るべき哲学は、いったいどんなものであるべきなのか?

 

 おそらく、そんなものは見つかるまい。ハギはそう思った。私はすでに、手遅れな状態に落ち込んでいるのだ。虚無という底なしの泥沼に自分は嵌ってしまった。妻子を捨てて旅に出て、湯水のようにルピーを使うのも、すべては悪あがきにすぎない。

 

 私は何も信じられなくなった。今後も何も信じないだろう。一番信じていたルピーに裏切られてしまったのだから。ハギは溜息をついた。胃の腑に溜まったワインが、彼の吐息に独特の臭気を付与していた。

 

 その時、ドアがノックされた。誰かが窓の外に立っているのが感じられた。おそらく、あの女だろう。黒い服で真っ赤な髪の、あの女だ。ハギは酔いの回った頭脳で、ぼんやりとそう思った。おそらく、()()()()()について、その算段がついたことを報告しに来たに違いない。面倒くさい、という気分が先に立った。

 

 確かに、自分はキルトンに言った。「私の面白いと思うものは、人が死んだり傷ついたり、裏切ったり裏切られたり、殺し合ったりする、いわば最高級の演劇なんですよ。命のやり取り、その生命力の迸り。そういったものが見たいんです。すべてを手に入れた私にとって、()()()()()()()()()()()()……」

 

 だが実際は、そんなものが楽しいとはまったく思っていない。ハギはまた溜息を漏らした。

 

 それでも、自分はその催し物を見るだろう。あの闘技場で、宝を目当てにして集まったトレジャーハンターたちが阿鼻叫喚の地獄絵図を繰り広げる様を見て、私はきっと歓声をあげるだろう。それが、私の抱える虚無を一時でも忘れさせてくれるなら、私はそれを見る。

 

 あの時、キルトンは言った。「あなたこそ本当の魔物かもしれませんね! 魔物以上に魔物的だ!」

 

 魔物であるわけがないと、ハギは思った。私は魔物ではなく、人間だ。

 

「そうです。私ほど人間らしい人間など、他にいるわけがないのです」

 

 すべてがくだらない。()()()()()()()()()()()()()()、決して面白いとは思わない。

 

 ハギは窓の外を見て、闇の中に立っている人物を確認すると、気怠そうな動作でドアを開けた。

 

 

☆☆☆

 

 

 狭い馬車の中で、バナーヌはぐったりと横になっていた。なよやかで優美な曲線を持った彼女の肉体は今や疲れ果てていて、見ようによっては房からもぎ取られて時間の経った一本のバナナのように見えなくもなかった。

 

 彼女はぼんやりとした視線を周囲に巡らせた。馬車の中には、テッポと、モモンジと、木の檻に閉じ込められたゾーラ族のフララットがいた。

 

 それまでに充分に眠って休むことができていたテッポは、黙々と装備を点検していた。ランプの仄かな灯りが彼女の幼いながらも凛々しい顔を薄く照らしていた。綺麗な鳶色の瞳は真剣さに溢れていて、手に取っている爆弾や導火線へと一心に向けられていた。

 

 モモンジが、木の檻を挟んだ向こう側に座っていた。モモンジもまたテッポと同じく、武器と装備の点検を(おこな)っていた。モモンジは風斬り刀の手入れをしていた。鋭利で、独特の刃紋を持つ刀が、オレンジ色に光っていた。

 

 だがテッポとは異なり、モモンジの目は眠たげだった。ただでさえ普段から眠そうに垂れている彼女の目は、今や閉じる寸前になっていた。桃色の長い髷が眠気に煽られて前後に揺れていた。大嵐に見舞われたヤシの木のようだった。

 

 危ない、とバナーヌは思った。刃物を扱う時は細心の注意を払わねばならないのに。彼女は声をかけようとした。しかし、その前にテッポが声を発した。

 

「モモンジ、しっかりして! そんな調子じゃ怪我をするわ!」

 

 モモンジは声を上げた。

 

「は、はい!?」

 

 声をかけられて、モモンジは弾かれたように肩を動かした。彼女はぶんぶんと頭を振って、眠気を追い払おうとした。だが、眠気は消えないようだった。それでも彼女は手を休めようとしなかった。

 

 テッポは呆れたような、しかしどこか労りの感情のこもった口調で言った。

 

「そんなに眠いのなら眠れば良いじゃない。大丈夫よ、ここには私とバナーヌがいるんだから。安心して眠って」

 

 モモンジは答えた。

 

「い、いえテッポ殿。私は毎日必ず、刀を手入れしてから眠ることにしているんです。どんなに疲れていて眠かったとしても、これだけは欠かすわけにはいきません」

 

 テッポは首を傾げた。

 

「そうなの?」

「そうです。刀を大事にしないなんて密林仮面剣法伝承者の名折れですからね」

 

 モモンジは健気にもそう言った。テッポは微笑んだ。二人とも沈黙し、また作業へと戻った。バナーヌは、そんな二人を好ましく思うのと同時に、自分も二人に倣って装備の手入れをしなければならないと思った。だが体は動かなかった。めんどうくさい。とてつもなく、めんどうくさかった。

 

 それもこれも、昼間に働きすぎたせいだ。バナーヌはそう思った。イーガ団は夜に生き、夜に仕事をするものである。だから、基本的に昼間はひっそりとして、体力を養っておくべきなのだ。それなのに今日の昼は変なやつとマラソンをしたり、強敵のウロと戦ったりしないといけなかった。魔物の掃討もしなければならなかった。

 

 バナーヌは、自分のことを決して怠け者だとは思っていないが、働き者であるとも思っていなかった。ほどほど、そう、自分はほどほどな感じのイーガ団員である。だが今日は、仮に自分が働き者のイーガ団員であったとしても、やはり働きすぎだった。彼女はそう思った。仮に怠け者ならば過労死しているであろう。

 

 訓練生時代に、ある教官が言い放ったことをバナーヌは思い出した。教官は言った。「一日は二十四時間しかない。だから夜を使え」 夜を使え、か。なんて馬鹿なことを言ったものだろう、と彼女は思った。昼も働いて、夜も働く。じゃあいつ休めば良いのか。昼に働くのだったら、夜は休む。夜に働くのだったら、昼は休む。それが当然の道理であろう。

 

 それなのに、なぜか世の中の賢者の類は「寝る間も惜しんで働け」と言うのだ。おかしな話である。眠気に支配されつつある頭脳で、バナーヌは以前読んだ本を思い出していた。確か、ニーズッキとかいう大昔の作家の本だったと思うが、それには「勇者は一日をどう過ごしていたか」という話が書かれていた。

 

 それによると、勇者はまったく眠ることがなく、それでまったく健康上問題はなかったという。世界を救うためには眠りなど不要だったというのだ。信じがたい話である。それどころか、勇者は「太陽の歌」などという邪術を心得ていて、不要な夜が来るとその歌を演奏し、無理やり太陽を昇らせて朝にしてしまったらしい。とんでもないやつだとバナーヌは思った。しかし、ニーズッキは勇者を褒めているのだ。その上、みんな勇者を見習えとまで言う。

 

「なるほど、魔王を討伐できるのは勇者だけである。誰もが魔王を倒すという偉業を為せるわけではない。しかし、勇者のように夜を厭い眠りを避けることができれば、富貴な身分になることはできる。富める者たちを見るが良い。彼らは常に努力を重ねている。無一文の状態から身を起こした者も、親から財産を受け継いだ者も、みな昼と夜の区別なく働いている。なぜ怠け者は眠り続けるのか? 眠りさえしなければルピーを得られるというのに。ルピーがあれば、人は幸せに生きられる。家族を養える。いつも満腹でいられる……」

 

 いや、どうだったかな、とバナーヌは思った。なんか怪しいぞ。本当にニーズッキはそんなことを言っていたっけ? バナーヌの思考は乱れ始めた。確か、別の箇所でニーズッキは「人生においてルピーはそんなに重要じゃない」と言っていたような気がする。「スタルチュラハウスの一家」の話か何かでそう言っていたはずだ。

 

 だとしたら、ニーズッキの言っていることはとんでもなく矛盾していることになる。ルピーを求めるな。でも、ルピーがないと幸せにはなれない。やっぱりおかしいのではないか? バナーヌはそう思った。そのうち、「生きろ、でも死ね」とまで言い出すのではないか、このニーズッキとかいうやつは? あるいは「バナナを食べるな、でも食べろ」と言うかもしれない……

 

 きっと、このニーズッキというやつは夜に眠らなかったせいで頭がおかしくなってしまったのだろう。バナーヌはそう結論付けた。ニーズッキはおそらく、寝る間も惜しんで本を書いたに違いない。だから色んな箇所で相互に矛盾しているようなことを平気で書くことができたのだ。

 

 夜に眠らないやつはみんな頭がおかしい。バナーヌはそう思った。思い返してみると、あの「夜を使え」と言った教官はいつも言動がおかしかった。それに、そもそも夜に生きるイーガ団員は全員どこかしら頭がおかしいではないか。少数の例外、そうテッポとか、モモンジとか、それにノチとか、そういう例外はいるにしても、やはりみんなどこか頭がおかしい。いや、もしかするとテッポもモモンジもノチもおかしいかもしれない。この自分も……

 

 考えがまとまらない。バナーヌは内心で毒づいた。それもこれも全部寝不足のせいなのだ。やはりろくでもない。もし、イーガ団員が朝に起きて、昼間に働いて、夜はしっかりと寝るようになったら、きっと今よりもっと仕事ができるようになるはずだ。

 

 もっと仕事ができるようになったら、もっとルピーが増える。もっとルピーが増えたら、もっとバナナが食べられる。それは幸せなことだ、間違いなく……

 

 やはり、眠ることがすべての鍵なのだ。バナーヌはそう思った。もし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そいつはきっと起きた後にとんでもない量の仕事をして、とんでもない量のルピーを稼ぐに違いない。百年間も眠り続けるなんてことができる人間がいるとは、到底思えないが。

 

 思考の渦に飲み込まれて、バナーヌは眠りの深遠へと落ちかけていた。しかし、彼女の意識はまた現世へと戻ってきた。モモンジが自分へ話しかけているのに気付いたからであった。

 

「……先輩、ねえバナーヌ先輩。バナーヌ先輩はどうしますか?」

 

 聞こえてしまったからには無視するわけにもいかない。バナーヌは短く答えた。

 

「なにが?」

 

 ぼやけたままの視界の中で、モモンジがその大きく膨らんだ胸をさらに大きく張っているのが見えた。モモンジは言った。

 

「いえ、ですからね。もし億万長者になったらなにをするかって話ですよ!」

「うん?」

 

 バナーヌは曖昧な返事をした。どうしてそんな話になったのか、彼女には見当もつかなかった。テッポがそんなバナーヌを見て、補足するように言った。

 

「ごめんね、バナーヌ。私がモモンジに話を振ったのよ。モモンジ、とても眠そうだったから、おしゃべりでもしたら眠気覚ましになるかと思って……」

 

 テッポに続いて、モモンジが言った。

 

「ちなみに私がもし億万長者になったら、剣術道場を建てますね。フィローネの密林の中でも特に険しい土地を選んで、そこに総板張りの立派な道場を建てます。使う木材は全部千年樹から切り出した上等なもので、道場の横には弟子たちが生活するための寮も併設するんです。全部個室にして、お風呂とキッチンもつけます。身体づくりのために食事にも気をつけます。毎食必ずお肉をつけて……あ、もちろんバナナも出しますよ!」

 

 テッポが言った。

 

「でも、あなたの流派の密林仮面剣法は一子相伝なんじゃなかったの? そんなに立派な道場を建てて多くの弟子をとるのはあなたの流派的にアウトなんじゃないかしら」

「いえ、それは大丈夫です!」

 

 モモンジは目を輝かせて言った。

 

「たくさん弟子をとって、弟子たちの間で争わせるんですよ! たぶんその争いは血で血を洗うものとなるでしょうけど、まあ後継者選びのためには仕方ないですよね。そうこうしているうちに最強の弟子が出てくるでしょうから、そいつに跡を継がせます!」

 

 バナーヌはぽつりと言った。

 

「なんか聞いたことのある話だな」

 

 しかしその言葉をモモンジは聞いていないようだった。やっぱりモモンジもイーガ団員だけあってどこか頭がおかしいなとバナーヌは思った。

 

 次にテッポが口を開いた。

 

「もし私が湯水のようにルピーを使えるようになったら、まずはフィローネ支部の生活環境の改善を目指すわ。今の支部は色々なところが古びていて生活しづらいから。まずは設備を全面的にリノベーションする。その次は、団員のための保険制度と、老後のための年金制度を作ろうかしら。小さい子たちのために学校を建てるのも良いかもしれないわね。学校と一緒に研究所も建てて、そこでバナナの新しい栽培方法とか、新しい肥料とか、あと爆弾に使う火薬とかを開発させる……」

 

 モモンジが感心したような声をあげた。

 

「へええ……すごいなぁ……」

 

 モモンジはさらに言った。

 

「流石に幹部の娘ともなると私とは発想が根本からして違いますねぇ……じゃあ、個人的なことにルピーを使うならどんなことに使いますか?」

 

 テッポは答えた。

 

「えっ? 個人的なこと? そうね……特に欲しいものもないし、貯金するとか?」

 

 モモンジが呆れたような声を出した。

 

「貯金するなんていう答えはこの手の話題にとっては禁物ですよ、テッポ殿。私たちはルピーがあったらどうするかという夢の話をしているのであって、貯金なんていう現実の話を持ち出してはいけません」

 

 モモンジからそのような理路整然とした言葉が出てくるとは、バナーヌにとっても意外だった。テッポが戸惑ったように言った。

 

「そ、それもそうね……モモンジの言うとおりだわ。じゃ、じゃあ、投資するとか?」

 

 モモンジが言った。

 

「さっきよりはだいぶ夢寄りの現実になりましたね。じゃあ、何に投資するんですか?」

 

 テッポは少し唸った。

 

「うーん……」

 

 テッポはしばらく考えた。そして「あっ!」と叫ぶなり手をポンと打ち、言った。

 

「そうよ! マックスドリアンの温室栽培!」

 

 バナーヌとモモンジはほぼ同時に驚きの声を上げた。

 

「えっ!?」

 

 そんな二人を余所に、テッポは勢い込んで話し始めた。

 

「もし私が億万長者になったらハイラル全土に温室を作るわ! 全面ガラス張りで嵐にも負けない立派な構造の温室よ! そこでマックスドリアンを大量栽培するの! それで、全世界の人間が毎日毎食マックスドリアンが食べられるようにするわ! かつては本当の大富豪しか食べられなかったマックスドリアンが、この私の手で一般家庭でも食べられるようになるのよ! 素晴らしいわ! ハイラル全土がマックスドリアンの芳醇で濃厚な香りに包まれるのよ! そう、私はマックスドリアンの母になるの! すごい! 最高……!」

 

 バナーヌがぽつりと言った。

 

「温室で栽培するのだったらドリアンではなく、バナナだろう」

 

 バナーヌの言葉をテッポは聞いていなかった。テッポは熱に浮かされたように喋り続けた。やっぱりテッポもイーガ団員だけあってどこか頭がおかしいなとバナーヌは思った。

 

 突然、亡霊のような声が響いた。

 

「もし、私が億万長者だったら……」

 

 テッポもモモンジも、バナーヌもぎょっとした。

 

「もし、私が億万長者だったら……」

 

 また、同じ言葉が響いた。氷の結晶のように美しく、繊細で、それでいて冷たい声だった。

 

 それは、車内の中央部に置かれた木の檻の中から発せられていた。声の主は、囚われの身となっているフララットだった。

 

 フララットは続けて言った。

 

「数億ルピー出しても良いですから、コップ一杯のお水をもらいます。もう喉が砂漠みたいにカラカラなので……砂漠に行ったことはないですけど……」

 

 今にも消え入りそうな声だった。慌ててテッポが口を開いた。

 

「ご、ごめんなさい、フララットさん! あなたにお水をあげるのをすっかり忘れていたわ! はい! これ、お水!」

 

 テッポはフララットに水筒を差し出した。バナーヌとモモンジもテッポにならった。フララットはそれがあたかも極上の甘露であるかのように、喉を動かして飲んだ。

 

 バナーヌは、潤いを取り戻しつつあるフララットを見ながら、もし自分が億万長者になったら、いったい何にルピーを使うだろうかと考えた。

 

 そして、たぶんバナナを買って食べるだろうなと彼女は思った。

 

 ルピーに魔力なんてない。バナーヌは思った。もし魔力があったとしても、きっとバナナを買うだけの力しかないだろう。たとえ億万のルピーがあったとしても、夜空に浮かぶ星を手に入れることなどできないのだ。

 

 バナナを買うだけの力、それで充分だ。バナナさえ買えればそれで良い……

 

 夜は更けていった。バナーヌたちは「おやすみ」と声をかけあって、やがてまた来る明日のために静かな眠りに就いた。

 

 彼女たちが眠り始めて、数分が経過した頃だった。

 

 夜空から何かが降ってきた。それは星だった。星が地表に落ちると大きな爆発音が起こった。この世の終わりのように大地が揺れた。




 金だ! 空から金が降ってくるぞ! やった!!!!
 続編発売が間近に迫ってまいりました。生きましょう。

※微修正しました。(2023/05/26/金)


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