早坂さんは明かしたい (パン de 恵比寿)
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早坂さんは明かしたい

本作は、かぐや様は告らせたい83話「かぐや様は阻止したい」を見て、
衝動的に書きたくなったお話です。
一応、白銀×早坂になる予定……。

表現等で拙いところも多くありますが、最後まで読んで頂けると幸いです。
注:Pixivとの二重投稿。需要があったら続きます!



『演じない私の方がいいって言ってたよね

  だったらーーー本当の私を見せてあげる』

 

 

 耳に残るのは、他ならぬ自分の言葉

 

 きっと、どうかしていたのだと思う

 無茶な命令ばかりする主人への苛立ちが積もりに積もったか。或いは、一時の熱にでも浮かされていたのか。

 酷く軽率で、浅はかな行動であったと。冷淡にも己を見返すもう一人の自分がいる。

 

 ……だったら、この話はこれで終わりだ

 未来に活かすために必要な反省点だけを汲み上げたなら、あとは忘却の岸へと流し去ってしまうべきこと。

 一時の気の迷いと。魔が差したというのならば、二度と同じ過ちを侵さぬよう戒めれば良い。

 

 あの言葉も所詮は、彼を籠絡せんがために告げた演技でしかなかったのだと……

 

 

 

 そう……認めてしまえば楽だろうに。

 

 私の心は、未だ迷いを引きずったままでいる。

 

 本当の自分を明かしたいなどと、誰にも、何にも、そんな望みを抱いたことなどなかった

 人は演じることでしか愛されることはないのだと。

 そう信じるままに、本当の自分を隠し、騙し、強い姿を演じてきた。

 

 それなのに、何を今更……

 

 窓の向こうの青空に真っ直ぐに伸びていく飛行機雲。ガラスに映る自身の顔を二つに分かつように。

 

「私は……」

 

 どうして欲しかったのだろう

 

 本当の私を見せて

 ありのままを曝け出して

 

 認めて欲しかった?

 それとも否定して欲しかった?

 

 

 私はいったいーーー彼に何を明かしたかったのだろう

 

 

 

 

 

 識者は語る。曰く、心ほど不確かなものはないと

 

 

 

 

 

【早坂さんは明かしたい】

 

 

 

 

 

「早坂さんの様子がおかしい?」

 

 放課後の生徒会室。夕日が差し込み、窓からエイオーと響く部活生達の声を片隅に、藤原千花はハテと首をかしげた。

 

「いえ。ただ最近少しボーッとしてることが多いというか」

 

「かぐやさん、早坂さんと仲いいですもんねー」

 

 エヘーと笑う藤原書記に、対する四宮かぐやはそうですね、と微笑みを返しながらも内心冷や汗を流す。

 ほんとうに、この娘はいったいどこまで知っているのか。

 

 早坂愛は修学中のかぐやをサポートすべく秀知院に送られた、いわば陰の付き人。

 万が一にも互いの関係を公に悟られぬようにと、不良生徒……品行方正な生徒会とは真逆の立ち位置を演じる早坂であったが、何故か藤原書記は彼女の存在をよく知っていた。

 

 その上、先日二人でカラオケ店にて一緒にいる姿を見られてしまい、現在、彼女の中で二人はマブ☆ダチの仲であると勝手に認識されてしまった。

 ……まあ実際は主人とその専属侍従というさらに深い間柄ではあるのだが。

 

 相手はあの暴走戦車。下手な否定や隠し事をすれば更なる悪状況に陥ることもあり得る。

 だからこそかぐやは誤解をそのままに。ならばせめて利用してやろうと冒頭の相談を投げかけたのだった。

 

 

「ぼーっと、かぁ。確かに早坂さん、いつもはすごく明るいのに、時折 人が変わったようにミステリアスな空気醸し出してることありますもんね!」

 

「そ、そうですね。最近は特にそれが多いというか……会長の話を持ち出すと、決まって遠い目をするようになって」

 

「最近って、いつぐらいからなんです?」

 

「先週の金曜……ほら。藤原さんをカラオケに誘ったでしょう?その時からですよ」

 

「会長……カラオケ……」

 

 結びつく単語に、血の気が引いたようにサーッと顔を青くする書記

 

「ああ、そうか……早坂さんも聞いちゃったんですもんね、会長のナマコボイス」

 

「ナマコ……?以前にも聞いたのですが、会長の歌声というのはそんなに……?」

 

「下手なんてものじゃないです!アレは聞いているだけで段々と正気を失って、SAN値がゴリゴリ削られていくんですよ!もうー種の邪神レベル!」

 

 懐から取り出したダイスを何故かコロコロと振っては、迫真の表情で迫る書記。

 そのまま、うーんと苦悩するように項垂れたかと思えば、よしっと勢いよく顔を上げ、廊下へと駆け出していく

 

「私、早坂さんを探してきます!思いっきり抱きしめて慰めてきます!」

 

「え、えぇ……」

 

 まるで慈愛に満ちた聖母のような表情を浮かべ、廊下へと消えていく藤原書記。

 一人とり残されたかぐやは、しばらく呆気に取られたように立ち尽くしていたが、フムと思案に暮れるように顎に手を当てた

 

 

「会長の、歌……ですか」

 

 微かに眉間に寄る皺。今しがた得た情報を頭の中で反芻する一方で、どうしても自身のイメージと結びつけることができずにいた。

 

 想像に浮かぶのは、絢爛たるホールの中心で情熱的なオペラ熱唱する白銀の姿。

 その口から、かの少女たちが語ったような、汚物にも劣るような音色が生み出されるとは想像もつかない。

 

 そも、以前に校歌を歌っている姿を拝聴した時だって、多少ぎこちなさは感じたもののしっかりと歌えていた。

 何より会長の低く、それでいてどこか艶やかな声色に知らず頬が熱くなったのも確かだ。

 

『アレを聞いているだけで段々と正気を失ってーー』

 

「まさか、早坂……」

 

 先日のカラオケ謀反(かぐや命名)にて、再度会長を落としにかかった早坂。前回の敗北がよほどショックだったか。

 元々プライドの高い性格ではあるとはいえ、彼女にしては珍しく固執する姿を見せた。

 結果は今回も失敗に終わったが、僅かばかりの時間とはいえ、会長と早坂があの暗く密接した空間で共にいたことは確かだ。

 

 確かに、会長は他の有象無象(おとこたち)に比べれば、顔付きも良くかっこいいと言える部類かもしれない。

 性格を挙げても質実剛健で、『利己の為に他人を傷つける行為を許さない』という、誇り高く優しい信条持ち合わせている。

 妹さんを始め家族に対する愛情も深く、将来を共にする仲になればきっと幸福な家庭をーーー

 

「ーーコホンッ」

 

 閑話休題

 会長の人間性については、日頃から彼の身辺調査を命じている早坂も知るところだろう。

 けれどあの早坂にかぎって、まさか会長に恋するなんてことは……。

 

「そもそも、ナマコみたいな声ってどんなものなんでしょう。ナマコの味……」

 

 ふと湧いた疑問に、携帯を取り出しては検索してみるかぐや。

 調べもの友である広辞苑が手元にないため、以前 後輩の石上くんに教えてもらった「うぃき」なるサイトを利用してみる。

海鼠(ナマコ)」、無脊椎、棘皮動物門、ナマコ綱に分類される動物。学術的な知識はあっても、調理における味という分野にまでは理解が及んでいなかった。

 

「えっと……旬は初冬。日本では酢の物として食べることが多く、コリコリとした独特の食感を楽しむ食べ方をされる。

 味は淡白ながらも海鮮類特有の風味を持ち、特に内臓である『このわた』はゼラチン質がネットリと甘く、塩辛として調理されることがーーー」

 

 そのワードを目にした途端、携帯を持つ手がピクリと揺れる

 

 

 淡白ながらもネットリと甘くーーー

 

 

『ナマコの内臓のような……』

 

 

 ネットリーーー

 

 

『アレを聞いているだけで段々と正気を失ってーー』

 

 

 甘いーーー

 

 

 

 

『ーー早坂』 ネト甘ボイス

 

『白銀、くんーーっ』 恋に落ちた瞬間の顔

 

 

 

 

「早坂ぁ!?いまどこにいるの!返事をなさい早坂ぁー!!」

 

 

 夕暮れの生徒会室。

 そこからは部活動に励む生徒達に負けないくらい大きく威勢に満ちた声が響いていた。

 

 

 ********

 

 

「どったのハッシー。最近元気ないじゃーん?」

 

「ナニー?カレシとでも別れたー」

 

「……そんなの居ないしー。最近シフトがきつくってさー」

 

「あぁ、前言ってたバイト?」

 

「働きすぎー」

 

 放課後の学園に黄色い声が木霊する。

 ハッシーと呼ばれた少女と共に連れ歩く二人の女生徒。その格好は、伝統と重んじる衆知院の校風に似つかわしくない、酷く浮ついたものばかりだ。

 授業を終えた生徒達の多くが部活動へと励み行く中、彼女達だけは真っ直ぐに下駄箱並ぶ昇降口へと向かっていた。

 

(ハッシー、か……)

 

 先を行く二人の背中を眺めながら、自らにつけられた渾名を独り言つ早坂。

 個人的には安直で少し可愛さに欠けると思う呼び方も、今ではすっかりと慣れ親しんでしまった。

 

 彼女達と過ごす時間は嫌いではなかった。

 年相応に羽目を外して、オシャレなんかもして。

 呼び出しがあれば直ぐさま主人の元へと馳せ参じなければならぬ立場ではあるが、それなりの自由も満喫できている。

 友人として、彼女達と結ぶ信頼が心嬉しくもあった。

 

 

 ーーーだけど

 

『本当の私を見せてあげる』

 

 ああ、また。胸にはしる傷み。

 

 彼女達に見せる表情も。言葉遣いも。

 全ては秀知院学園に溶け込むために被った偽りの仮面。彼女達を騙し偽り続けていることに変わりはない。

 何度も誘いを断って。嘘を重ねて。

 それでも共に居てくれる彼女達に感謝を抱きながらも、胸奥には罪悪感が募っていく。

 

 いっそ、非情になれれば良かったのだろう

 騙されていることも知らぬ愚かな輩と見下せてしまえば、幾らか楽になれただろうにーーー私の心はその情を捨てきれないでいる。

 

 だからこそ、哀しいのだ。

 彼女達が親しみ、求めてくれているのは本当の私ではない。

 完璧に演じるほど。それを認められるほどに。

 本当の私が薄れていくようで……

 

 

「……ッシー」

 

「……」

 

「ちょっとハッシー!なにボーッとしてんの!」

 

「え?」

 

 

 呼ばれる声にふと我に変えると、先を歩いて居たはずの二人が廊下の横道に身を隠しているのに気づく。

 同時に、視界の奥からズンズンと歩み来る一つの影。栗色に揺れる長い髪と、腕章に書かれた「風紀委員」の文字がーー

 

「げっ」

 

 

 ああもう、失態だ

 

 

 

 

 

 

「貴方たちはいったい何度言えば分かるんですか!この神聖なる学び舎で、そんな浮ついた格好をして!」

 

「あーはいはい。分かってますってー…」

 

「全然分かってない!ほらブレスレット外して!ああもう、耳にピアスまで開けて!」

 

 廊下に響き渡る快活ながらも凛とした声。

 衆知院学院生徒会役員会計監査 兼 風紀委員取締役補佐でもある伊井野ミコ。

 品行方正を地で行き、たとえ先輩だろうと決して物怖じしない彼女に捕まってしまった3人は、そのままお説教を受けるハメになっていた。

 

「早坂先輩もです!ほら髪どめ外して!学校の指定は黒色って決まってるんです!」

「そんなこと言ってー。生徒会の書記ちゃんだってしてるじゃない」

「あれは極黒リボンだからいいんです!」

「極……?」

 

 髪留めを取られ、肩まで伸びる長い髪がぱさりと落ちる。

 それはまだいい。問題は髪留めに内臓されたかぐや様と繋がる通信装置まで一緒に取られてしまったことだ

 

 そして噂をすればというか、間が悪いというか、チカチカと受信の光を放つ通信機。

 色はオレンジだからそれほど緊急の用事ではないようだが、何度も繰り返し信号が送られてくる様は心臓に悪い。

 遅れたら後で小言を言われるのだろうなと思うと、余計に気が重くなるのを感じた。

 

「ねー?もう十分反省したからさー。今回は見逃してくんない?ウチどうしても急ぎの用事がーーー」

「そんなこと言って、目を離したらまた直ぐいつもの格好に戻ってるじゃないですか!今日という今日は絶対に逃しませんよ!」

 

 普段から散々煙に巻かれている反動か、必死になって食らいついてくる伊井野。

 これでは拉致があかない。多少強引な手でも、この場を切り上げる方法を頭の中で画策していると

 

「ーーーあ、白銀会長!会長も手伝ってください!」

 

 間の悪い時というのはとことん重なるものなか、廊下の奥から、白銀御幸が顔を見せていた。

 途端、早坂の表情に緊張がはしる。

 

 

「どうした伊井野」

「どうしたじゃありません!ほら!見てください彼女たちの格好を!」

「ん」

 

 言われるがまま、女性徒たちの姿に目を滑らせる白銀。相も変わらず悪い目つき。もっとも、その表情はあまり乗り気ではなそうだ。

 妹や親しい相手ならまだしも。普段から生徒会長が持つ権限を悪戯にひけらかそうとしない彼としては、他人を高圧的に叱るような行為は慣れていないのかもしれない

 

「……あー、ちょっち。そうじっと見られると恥ずいんだけど」

 

「ねー……」

 

 おちゃらけてばかりの彼女達も、珍しくどこか照れた顔を見せている。

 そして、中でも特に動揺を見せるものが一人

 

「ちょっとハッシー、アタシの背中に隠れようとしないでよ。キャラじゃなくない?」

 

「ひょっとして、会長にホの字だったー?」

 

「……?ハッシー?」

 

 小首を傾げ覗き込んでくる白銀に、なんとか視線を合わせまいと努力する早坂。

 彼とは先週の金曜日にカラオケ店にて顔を合わせたばかり。まして髪を下ろされ変装が完璧ではない今、正体がバレる危険性は十分に在った。

 

「もー、そんな訳ないしー☆会長目付き怖いから苦手なだけでー☆」

 

 だからこそ、いかに別人を装えるかが疑いを打ち消す鍵となる。

 一般人擬態(ギャルモード)全開(フルカウル)

 今まで演じてきたどの人格よりも高く黄色い声を上げては、清楚さ(ハーサカ)とは程遠いおちゃらけた雰囲気を醸し出す。

 

 そうだ。以前、会長が教室を訪ねてきた時にだって、直接会話を交えても気づかれなかったのだ。

 今回も大丈夫ダイジョーー

 

 

 

「……ハー、サカさん?」

 

 

 

 ああもう、ほんと最悪

 

 

 

「会長さん何言ってるしー☆ウチ早坂だよー?名前間違えるなんてひっどぉーい☆」

 

「は……?いや、ハーサカさんだよな?この前カラオケで……」

 

「えー、何々それってアレ?この前 会ったよねてきな?」

 

「うっわー、会長 手ぇ古ッ!」

 

「でもちょっと大胆〜」

 

「なっ!?生徒の見本たるべき会長が、注意するどころか白昼堂々ナンパ!?この俗物っ!」

 

「違ぁう!!」

 

 なお諦めぬ早坂の一点攻勢。浮き立つ女子3人を味方につけ、白銀を孤立無援の窮地に追いやる。

 人心掌握のプロである早坂にとって各々の思考パターンを読み、場を支配することなど造作もない。

 

(このまま騒動(ドタバタ)に紛れて、疑いを有耶無耶に出来れば上々)

 

 時間さえあれば、早坂とハーサカが別人と証明するための偽装工作を練ることもできる。

 何としても、かぐや様の関係者であると知られることだけは、絶対に避けねばならなーーー

 

「早坂さーん!」

「ーーーっ!?」

 

 だがその時、後方からから聞こえてきた声に、全身に悪寒がはしる。この声、気配は間違いない

 

(対象(フジワラ)--!?)

 

 早坂が最も恐れる天敵の姿がそこに合った。

 予測不能、解読不能。知らず知らずのうちに場をかき乱すド天然。

 このままでは折角出来かけていた白銀会長包囲網も木っ端微塵に破壊されてしまうと。焦る早坂の気も知らず、藤原書記は一直線に駆け寄ってくる。

 

「会長!早坂さんから離れてください!嫌がってるじゃないですか!」

 

「え……書記ちゃん?」

 

 だが抱いていた警戒とは裏腹に、まるで早坂を守るように会長との間に割って入る藤原書記。その表情は分かりやすいくらいに、私怒ってます、な顔だった

 

「なっ。いったい、どうしたと言うんだ藤原書記」

 

「どうしたじゃありません!まったく、少し人並みに出来るようになったと思えば、すぐ調子に乗って!それで人様に迷惑かけるなんて、私そんな風に育てた覚えはありませんよ!」

 

「え。なになに、何の話?どーゆう展開?」

 

「藤原先輩、流石です……会長相手にまるで聞き分けのない息子を叱る慈母のよう」

 

「聞いてないし」

 

 会長に詰めかかる藤原書記の背中を見ながら、思考を巡らす早坂。

 よくは分からないが、彼女がこちらの味方になってくれていることは間違いないらしい。

 ……ならば、ソレを利用しない手はなかった

 

「書記ちゃーん、ウチ怖かったようー」

 

「もう心配いらないからね!大丈夫?耳鳴りとか吐き気とか、夜な夜なシューベルトの『魔王』が何処かから聞こえてきたりしてない!?」

 

「え、いやそれは分からないけど……ちょっと保健室に行きたい気分かも」

 

「ミコちゃんお願い!」

 

 ビシッと敬礼で応える伊井野に連れられ、そのまま逃げるようにいそいそと保健室へと向かう早坂。

 白銀会長は未だ書記ちゃんに足止めされている。

 予期せぬ展開ではあったが、何とか窮地は脱することができそうだ。あとはこの間に、会長の目を欺く準備を整えることができれば……

 

「まったく早坂さんばかり虐めて何が楽しいんですか!猛省してください!私は怒ってますよ!」

 

「だから話が見えん!いったい何を言って……」

 

「とぼけるんですか!この前の金曜日のこと、忘れたとは言わせませんよ!」

 

「金曜…?」

 

「っ!?書記ちゃん待っーー!」

 

 危険ワードに咄嗟に制止を呼びかける早坂。

 

 だがそんなもので止まるはずもない。

 ああ、やっぱり。彼女が現れた時点で、自分は既に詰んでいたのだ

 

 

 

「早坂さんをカラオケに連れ込んでは、盛大にジャイ◯ンリサイタルやらかしたでしょうがぁーー!」

 

 

 

 ******

 

 

 

 

「…お待たせしました」

 

「いや……」

 

 

 夕日の傾く西の空。一般生徒は立ち入り禁止の学園屋上にて、白銀と早坂の二人は合っていた。

 先ほどの騒動(ドタバタ)鎮圧(あとしまつ)を終え、二人の顔には色濃い疲れの表情が残っている。

 

 藤原書記の特大ボイスにより為された暴露。

 それは『ハーサカ=早坂』の事実を白銀に知らしめる以上に。カラオケで逢引していた事実により、周囲に二人が恋仲ではないかという噂を拡散させた。

 

 この不穏な噂が、あの人物(・・・・)の耳に届いてしまえばどうなるか。利害が一致した二人の行動は早かった。

 

 方や刻苦勉励の修羅。方や人心掌握のエキスパートの二人が手を組み、本来無理と言われた人の口に戸を立てることを成し遂げたのだ。

 特にゴシップ大好きな早坂の友人ふたりを言いくるめるのは相当な骨であった。

 

「ん」

 

「いただきます」

 

 労いの意味も込めてか、差し出された缶コーヒーを素直に受け取る早坂。

 風が冷たくなってきたこの時期、手に伝わる暖かさはありがたかった。

 

 コーヒー片手に屋上から見下ろす運動場。

 白球を追いかける部活生たちを眺めながら、両者の間には沈黙が流れていた。

 

 かける言葉が見つからなかったのだろう。

 当然だ。白銀の身からすれば、知り合いだと思っていた相手……ましてや以前にこっぴどく振ってしまった少女が、全く別の姿で目の前にいるのだから。

 いったい どうして。いつから。

 平静を装う顔の下にはいくつもの疑問がひしめいていることだろう

 

 だが気まずいのは早坂とて同じ。どう弁明すべきか。どう話を切り出せばよいのか。彼女にしては珍しく言葉に迷っていた。

 

 沈黙を破ったのは白銀から。意を決したように口を開く

 

「……結局、ハーサカさんでいいんだよな?」

 

「もう、確証は得ているのでしょう?私の正体も……」

 

 もはや言い逃れができるとは思っていなかった。まして、相手があの白銀御幸ならば、だ

 小さなため息の後、白銀へと向き直り。着崩した制服姿には到底似つかわしくない恭しい所作でお辞儀をする早坂。

 

「改めまして。四宮家使用人の早坂愛と申します。かぐや様には専属侍従として。円満な学園生活をお送りいただけるよう、奉公させていただいています」

 

「……なるほど、それで…。色々と氷解した」

 

 はじめ驚きの表情を浮かべていた白銀だが、流石の聡明さと言うべきか。静かに目を閉じ、納得したように頷く。

 

 なぜ四宮のメイドが秀知院の生徒に化けているのか。

 その上で、なぜそんなおちゃらけた格好をして。四宮との関係をひた隠しにしているのか。

 それらの理由についても、彼の頭の中では既に結論が導き出されているのだろう。

 

 ただ一点、疑問を残すとすれば……

 

「先に訂正させていただきますが、私が『ハーサカ』として貴方に近づいたのは、私個人の意志によるものです。

 生徒会という狭い枠の中とはいえ、貴方がかぐや様の上に就く者として相応しい人物たるか……『四宮』に仕えるものとして見定めさせて頂きました」

 

 浮かべるのは四宮家仕様人としての厳しい表情。

 いかに正体を見破られようとも、全てを明かすつもりなど毛頭ない。主人が守りたい秘密はその身に変えても隠し通すのが侍従の務めだ。

 

 白銀とかぐやの間で行われる恋愛頭脳戦。早坂がハーサカを演じて白銀に言いよったのも、結局はその延長によるものだった。

 幾度も交際のチャンスを得ていながら、いつまでたっても会長を落とせない かぐや。ならば、早坂になら会長を落とすことができるのか、と。

 

 ……だがその事実を明かすことは、白銀に四宮かぐやの恋情を明かすことにも繋がる。

 

 や。ぶっちゃけ周りから見ればお互いの気持ちなどバレバレであるし、いつまで経っても頑なに素直になろうとしない彼らには内心どうしようもないと思っている。

 

 だがそれでも、己が犯したミスにより戦いの決着がつくことだけは、良しとはしなかった。

 かぐやの。そして早坂自身のプライドが許さなかったのだ。

 

「じゃあ…。こっぴどく振られて傷ついたというのも……」

 

「嘘です。いえ、振られたという事実には少し傷つきましたが……主に自尊心が。

 その……申し訳ございませんでした」

 

 ぐっと渋い顔を浮かべる白銀に、素直に頭を下げる早坂。

 彼がハーサカをフったことに随分と負い目を感じていることは知っていたし、その気持ちを利用までしたのも確かだ。騙したことを含め、謝りたいという気持ちは本心だった。

 

「ですから、その、私が言えた義理ではないのですが。……もう会長さんが気負う必要はないんです。

 あれは全部演技だったのですから。ハーサカという人間も、最初から何処にも……」

 

 存在しなかった。そう続く言葉を、早坂は詰まらせてしまった。

 

 ただそう言ってしまうこと。認めてしまうことが、また……あの胸奥に走る痛みを強く思い出させたのだ。

 

 

 ふと。キイィィと周囲に響く重い振動音に空を見上げる。遥か上空には真っ白な尾を引き駆けていく飛行機の姿があった

 

 

「ーーーそれで」

 

「?」

 

「ソレが、前に君が言っていた『本当の私』なのか」

 

 

 静かに息を飲む。

 

 彼が、あの夜の言葉を覚えていたことに、ではない。

 

 ああ……そうか。そう納得してもらうことも出来るのか、と。

 

 

 今 浮かべる侍従としての顔は、会長に初めて見せるものであり。今迄の嘘を明かした姿でもある。

 ならば彼にとっては、今見せている顔こそが『本当の私』なのだろう。

 

『演じない私の方がいいって言ってたよね

  だったらーーー本当の私を見せてあげる』

 

 あの日、言い果たせなかった告白。

 会長の想像を絶する歌唱力の低さ……いいや。彼がマイクを持つと性格が変わるタイプであることを見抜けなかった失策か。

 手痛い反撃をくらい、曖昧な形で終わってしまったが、今となってみれば、それで良かったとも思っている。

 

 合コンという慣れないの空気にあてられていたのか。

 早坂は主人の命令を逸脱して会長に迫り。

 会長もまた、昔から歌うことを抑圧されてきた反動か。普通に人前で歌えるようになった喜びに、少なくともまだ苦手なラップに挑戦しようとしてしまうくらいには舞い上がっていたのだろう。

 

 そう………お互いに浮かれていたのだ。

 

 だから、この話も、これで終わらせるべきだと。

 

 

(……ただ、そうだ、と頷けばいい)

 

 

 演じればいい。いつもと同じように、心に蓋をして

 

 ……それなのに

 

 

 

「ーー違いますよ」

「え?」

 

 驚いたように顔を上げる白銀。

 長く白い飛行機雲。空に引かれた白線はしかし、いつ迄も形を留めてはいない。

 輪郭は徐々に曖昧になり、周囲の青色へ溶けていく。

 夕日に照らされる早坂の表情は、不思議と憂いとも寂しさとも云えぬ不思議な色を帯びていた。

 

 

「……今の貴方に、私はどう映りますか?演技を、しているように見えますか?」

 

「……まあ、そうだな。少しだけ」

 

「でしたら……そういうことなのでしょう」

 

 早坂は云う。四宮の従者を演じる自分も、『本当の私』ではない。数ある仮面の中の一つでしかしないのだと

 

「どういうことだ?演じているなら、自分で分かるものじゃないのか?」

 

「--演技の根幹は、その役になりきること。己を隠し。記憶を騙し。心から別人に変わらなければ真に迫る説得力(リアリティ)は生まれない。

 ……けれど。そうして己を偽っていくうちに段々と、自分の本心が分からなくなっていくんです」

 

 どこか哀しさの混じる笑み浮かべる早坂。その姿は、白銀が今迄に会ったどの『彼女』とも違って見えた。

 

「胸に抱く思いの丈が大きくなるほどに、境界はより曖昧になっていく。

 この想いは本心からくるものなのか。仮初めの感情が作り出した虚構でしか無いのか……薄れいく自己に、時折、自分の心さえ見失いそうになる」

 

 

 そう。それは、今も。

 

 分からなかった。

 どうして自分は、彼にそんなことを打ち明けているのか。

 

 あの夜のことだってそう。

 彼を落とそうというのなら……演じなければ愛されないというのなら。

 何故私は、ありのままの姿を彼に明かそうとしたのか。

 

 

 

 演じない方が良いと言ってくれた人だから?

 

 氷のようだった主人を変えてくれた人だから?

 

 

 

 ーーーそれはきっと、正しくも違う

 

 

「人は演じなければ愛されない。それは紛れも無い本心です。

 逆を言えば、『本当の私』というのは、それほど取るに足らない存在なんです。

 強く見せなければ……良く演じなければ、誰も振り向いてくれないほどに」

 

 

 ただ、そう。思ったのだ

 

 私と彼はーーー

 

 

「それでも……そんな私でも。貴方は『本当の私』が良いと言ってくれますか?」

 

 

 

 

 

 

 

「早坂ぁ!」

 

 バァン!と。乱暴な音で開かれる屋上入り口の扉。

 驚き振り返れば、そこには四宮かぐやが珍しくも息を荒げた様子で仁王立っていた。

 

 

「し、四宮?」

 

「会長!?」

 

 

 思わぬ人物がいることに驚いたのか、恥ずかしげには身なりを整える四宮。

 だが、白銀の側に早坂が立っているのに認めるや否や、張り付いたような笑顔を浮かべながらツカツカと歩み寄ってくる。

 

 

「お取り込み中のところ申し訳ありません、会長。少し彼女……早坂をお借りしていってもよろしいでしょうか?」

 

 花の咲くようような笑顔を浮かべながら、ゴゴゴゴと有無を言わさぬオーラを纒い微笑みかけてくる四宮。

 可愛い。だからこそ怖い。

 

「あー……わかりました。白銀会長もよろしいですね」

 

 気がつけば、早坂の表情は使用人としてのソレに戻っており、どこか白けた瞳で白銀に「合わせて」と目配せしてくる。

 

「む…あ、ああ……」

 

「では失礼します」

 

 そのまま四宮に背中を押され、せかせかと屋上を後にする早坂達。

 遠くなっていく二人の後ろ姿を、白銀はただ呆然と見送ることしかできず、手にはコーヒー缶の温もりが残滓のように残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「ーーーへ?会長の誤解を解いていた?」

 

 再三の呼び出しにも応えず、会長と屋上で何をしたのかと。怒り心頭の顔で詰め寄ってきた主人に、早坂はシレっとそう返した。

 

 

「そうですよ。ハーサカであることがバレそうになって……詰め寄って来る会長さんの誤解を解こうと身動き出来ずにいたんです。

 ……そもそもの話。かぐや様が私を合コンなんかに送らなければこんな事には――」

 

「そ、そんな……でも侍従であることは隠し通せたのよね?」

 

「……いいえ。あそこでかぐや様が出張って来ちゃったから、もう確実にバレたと思います」

 

「な――っ!?」

 

 

 羞恥と絶望に染まる主人の顔を、猫のような細く冷ややかな瞳で見下ろす早坂。

 

 実際には、ハーサカである事実はかぐやが顔を出す以前からバレていたのだが、非難を上手く躱すためにも敢えて口に出さない。

 主人への不敬を責められそうなものだが、正直、怒っているのは早坂も同じだった。

 

 人が散々思い悩んだ末。意を決し、今度こそはと本心を明かそうとしていたら、またしても邪魔に入られてしまったのだから。

 

 

「大丈夫ですよ。かぐや様が会長を好きだってことは明かしてませんから」

 

「好っーー!?誰が好きだなんて言いましたか!私は会長を人間として尊敬しているだけであってーーー」

 

「………はぁ…」

 

 

 もう何度聞いたかも分からぬ言い問答に、ため息を零し窓の外を眺める早坂。

 沈んでいく夕日に、今日という一日を想い返す。

 

 

 

(結局……また明かせなかった)

 

 行き場を失った想いの波。半端に開け放たれた心が寒さに震えるように、胸奥に牴牾しさが広がっていく。

 

 早坂の存在が会長にバレたことで、互いの関係もまた変わっていくだろう。

 もう、ハーサカの顔を使うことはできない。学園の外、他校の女性徒として会うことも叶わないだろう。

 心馳せの深い会長のことだ。変にお互いを知ってしまった仲、わだかまりが生まれぬよう。私の業務に支障が生じぬよう、距離を置くようになるかもしれない。

 それを残念と思ってしまうのは……早坂とハーサカ、どちらの想いなのか

 

 

 

(けれど、わかったこともある)

 

 

 何故自分が、彼に。

 

 

 白銀御行にだけ、本心を明かそうとしたのか

 

 

 

 

 

(似ているんだ……会長と私は)

 

 

 

 

 

 だからこそ、私は彼を赦せないのだ

 

 

 

 

 

 

 

 ■本日の勝敗□ 

 

 『早坂の敗北』 会長に本心を明かすことができなかったため

 

 ■□

 

 

 

 

 



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早坂さんは認めたい

 

「もういい加減にしてください会長」

 

 呼び出された学院の屋上。寒空の下で待っていた早坂は開口一番そう言い放った。

 

「な、なんのことだ」

「なんだじゃありません。会長さんの私に対する態度です。一体どういうつもりなんですか」

 

 戸惑う白銀に対し、早坂は益々語気を強めズイっと詰め寄ってくる。いつもの演じがかった雰囲気などまるで感じない、本心から怒気を感じた。

 

「待ってくれ、話が見えない。一から説明してくれ」

「……はぁ…。私が以前、この場所で明かしたこと。覚えていますね?」

「ああ。四宮に仕える専属侍従だと。それで、目立たないように四宮と離れた関係を演じてるとも。だから……」

「ええ。会長が私の立場を案じて、無関係を装おうとしてくれていること、感謝しています。

 ですがーーー下手すぎる」

「は?」

「演じ方があまりに下手すぎです!

 私が視界に入ったり、廊下ですれ違う度!平静を装おうとしてるつもりでしょうが、意識しすぎて逆に挙動不審さが増してるんですよ!その悪目立ちっぷりといったら……周りでどんな噂が立とうとしてるか知ってますか!?」

 

 

『あの白銀会長が、めっちゃビクビクしてんぞ』

『ギャルっぽいあの子に?昔虐められてたんじゃね?』

『親が不倫関係とか複雑な事情があるのかも』

『なんか前、二人だけでカラオケ行ったとかいう噂立たなかったっけ』

『まさかの元カノ?』

 

 

「そんな噂で立つたびに、揉み消す私の苦労がわかりますか!?」

「そ、それは……だが待ってくれ。普段の俺は、そんなに不審な態度を取っているのか」

「まだ認めませんか!……いいでしょう。でしたら証拠をお見せします」

 

 自身を落ち着けるように溜息を吐いたのち、おもむろに携帯(スマホ)を取り出す早坂。

 最新機種。白銀の持つそれより3割ほども大きな画面に、いくつかの動画が映し出されている。

 

「これは?」

「学院内の各所に設置された防犯カメラ。その記録映像を拝借したものです」

 

 そんなものが……と驚く白銀の隣。恐ろしく慣れた手つき液晶に指を滑らせていく早坂。再生ボタンを押すと同時、音声とともに映像が流れ始める。

 昼時の学院内。白銀もよく通る見慣れた廊下を行き交う生徒たちの姿が映し出されていた。

 

「ここで、会長と私がすれ違います」

 

 指をスワイプし画面が拡大されると同時、廊下の奥から白銀御幸が姿をあらわす。目つきの悪い、分厚い本を片手に憮然とした表情で歩く姿は、いかにも近寄りがたい雰囲気を醸し出している。

 

 怖っ。普段の自分はこんな風なのかと知らず気が落ち込んでくるのと同時、えー、マジー?と黄色い声が聞こえ始める。早坂を始めいつもの女生徒たちが、白銀と反対方向から歩いてきていた。

 

 ……ああ、この時のことは覚えている

 確か移動教室の際にすれ違ったのだったか。だが、あの時も、互いの関係を悟られぬよう自分は普段と変わらぬ表情(てい)を装っていたはずだ。

 

『……』

 

 事実、ほら。映像の中の自分は、5mほどの距離にまで近づいているのに、別段変わりない表情でいるではないか

 

「早ーー」

「いいから黙って見ててください」

 

 言い出そうとする声を、猫のような細く冷たい目が封じる。その間も縮まっていく両者の距離

 

 距離2メートル

『……』

 1メートル

『……』

 0メー……

『(しゃくれ)』

 

 

「出来てないし!!」

「!?」

 

 ダンっ!とすぐ足元で地面を踏まれ、ビクリと体が跳ね上がる

 

「全然出来てないし!どこの世界にすれ違うだけでク◯キングパパになる人がいるし!?それともイ◯キ!?これからはアントン会長とでもお呼びしましょうか!?」

「……げ、元気があればなんでも」

「出来てないし!!」

 

 再び踏まれる地面。溢れる怒りに口調が混ざってきている。初めてあった時とは真逆の雰囲気に白銀もタジタジであった。

 

「兎に角。このままでは私の業務に支障がでます。会長に恐れられる影の女番長なんて呼ばれた日には、かぐや様にお暇を言い渡されかねません」

「う、ぐ……。だが具体的に何をすれば」

「会長には、私と会い、仮に会話しようとも無関係を装えるほどの演技力を身につけていただきます」

 

 重みのある低い声と共に、懐から何かを取り出す早坂。赤く細長い布帯。

 見覚えのある『おに鉢巻』。

 

「な!?まさか、それは!?」

「誰にも知られていないとでも思っていましたか?四宮の密偵を甘く見ないことです」

 

 再び携帯を操作する早坂。同時に、聞き覚えのある声の数々が記憶と共に流れ始める。

 

『ママに任せて!』

『俺がこんなみっともない姿みせられるのは……お前だけだから』

『じゃあ……一回だけですよ……?』

『あうふっ!おひぃいぃい!?』

『どうしても食べるというなら私を食べてください〜!』

 

「ぁ……うぁ……」

 

 音の出所である小さな機械から慄き後退る白銀。

 というかなんか編集に悪意がないか。

 

「断ると言うのなら、貴方と書記ちゃんの赤裸々な動画を公表させていただきます。全校に。全国に。もちろん、かぐや様にも」

「ーーー!!?」

 

 オオォオと背後に湧き上がるオーラを携え、口では見目麗しい微笑みを作っているが、目は全く笑っていない。

 

「では放課後、体育館で。私は書記ちゃんほど優しくはありませんので、覚悟しておいてください」

 

 パクパクと鯉のように口を開け閉めする白銀を残し、優雅にも背を向ける彼女。

 冬時の屋上。吹き付ける風はどこまでも冷たかった。

 

 

 

【早坂さんは認めたい】

 

 

 

 日の沈み始めた夕刻の体育館。

 普段は室内スポーツや全校朝礼などに使われ、衆知院学園の生徒全員が入ろうとも余りある広さを誇る館内には、しかし現在、運動用のジャージを着るたった二人の少年少女だけが声を響かせていた。

 

「はぁ、はぁ……。どうだ早坂、この演技力。あまりの迫真さに言葉も出ないーーー」

「あまりの醜さに人の言葉を忘れていただけです」

「っ!?」

「私、『失意に沈む少年』を演じてって言いましたよね?何で膝を故障したカンガルーがコンタクト探して這いずり回ってるんですか」

 

 落胆とか失望とか通り越して、恐怖さえ宿す瞳で見下ろしてくる早坂。

 ぐっ、と項垂れる白銀は、今度こそ失意に沈む少年の姿であった。

 

「……いいですか会長。先にも言いましたが演技の基本は、表情、表現、発声の3つです。

 それら全てが同じ意志、同じ感情を得ることで、初めて説得力というのが生まれてくるのです。会長のは全てがバラバラ……というか、別方向に全力で振り切れてしまっているので、見る側からすれば困惑しか覚えません」

「っ、そんなに酷いのか。俺は……」

「泣く子も鼻で嗤うほどには。なぜその演技力で、今まで会長の立場を演じて来られたのか不思議でなりません。もはや基礎からの矯正が必要なレベル。そもそもセンスが絶望的でーーー」

「わかった!認める!だからこれ以上傷口に塩を塗り込むのはやめてくれ!」

 

 歯に衣着せぬ言葉に奥歯を噛む白銀。同時に、藤原書記は優しかったのだなぁ、と得も言われぬ哀愁の念が湧いてしまう。

 

「……」

「……?どうした?」

「いいえ。なんでもありません。ではまず基礎の基礎、発声の練習から始めましょう」

 

 

 

 

 

 所変わって。生徒会室

 

 

「なんだか私のアイデンティティが奪われてる気がします!」

「先輩どうしたんですか突然」

「どうせ、いつものことでしょう」

「それもそうですね」

「うえーん、二人が冷たいー!」

 

 

 戻って。体育館

 

 

「会長、次、『苦しい』ですよ」

「む……ふっーーつーーっ!」

「それじゃ、ただ力んでるだけです。もっと顔を眉間に皺を寄せて。息遣いも交えて表現してください」

 

 2時間にも及ぶ発声練習を終え、定期的にカフェインを摂取しなければ眠ってしまう白銀のこともあり、休憩を挟む二人。

 

 だがその間にも訓練は続いている。早坂の手に握られたカードの束。5分ごとにその一番上をめくり、書かれた感情を演じていくのだ。

 

「……まだ表情がぎこちない。普段から難しい顔ばかりしている表情筋が固まってるんですよ。何より目つきが悪すぎます。それじゃ、どんな顔しても怒って見えますよ」

「っ、好きでこうなっているわけではーー」

「反論は聞きません。次、『酸っぱい』。

 ……誰が火男(ひょっとこ)に成れって言ったし!?」

 

 またグイっと押し付けられる手鏡。

 発声練習の間も、何度も表情を確認させられたが、今までの人生、これ程自身の顔を眺めたことがあっただろうか。

 

「会長に教えることが、まさかこんな苦行だったなんて……。初めて書記ちゃんを尊敬しました」

「なかなか酷いことをいう」

「一番酷いのは会長だって自覚あります?」

「ぐっ……だ、だが表情や感情なんて、結局は本心からしか生まれでないものだろう。そう簡単に自分の心を騙せるものか?」

「それを為すのが技術というものです。何度も言うようですが、常に自分の表情を意識してください。そしてイメージすることです。本当に『そう』なった時、自分はどんな顔をするか。こんな風にーーー」

 

 ふっ、と息をはいたかと思うや、次の瞬間には『酸っぱい』の顔になる早坂。

 ギュッと耐えるように片目を閉じ。窄められた唇、額には微かに汗まで浮かび。その説得力たるや、見ているこちらにまで酸っぱさが蘇り、唾液が出てくるほどだった。

 

「……すごいな」

「四宮に仕える者ならば当然の技術です。まして、かぐや様の侍従ともなれば」

「相当な努力を重ねたんじゃないか」

「……自分で、望んだことですから」

 

 厳しく、どこか俯いた表情で呟く早坂。

 話題を逸らすようにめくられたカードには『真剣』の2文字が書かれていた。

 

「『真剣』……しんけん……。

  まさか『真剣』について真剣に考えさせられる日が来るとは」

「まあ、会長さんはニュートラルが真剣顔ですけど。表情を作るのが難しいのなら、台詞等で表すのも一つの技術ですよ」

 

 ふむと顎をかく。真面目な話をすれば自然と表情も追いついて来るわけか

 暫しの思案ののち、口を開く白銀。

 

「ーーそういえば、まだ礼を言ってなかった」

「?」

「花火大会の時だ。早坂さんだったんだろ?鍵付きだった四宮のツイアカ。その承認を送ってくれたの」

「ああ……」

 

 思い出すように目を細める早坂。

 

 夏休みの終盤。皆で行くことを約束していた花火大会に、四宮かぐやは行くことができなかった。

 四宮の令嬢としての体裁や本家の意向に従わされ。だがその胸奥では、皆で花火を見ることを切望していた。

 

 その本心が語られた、たった一つのツイート。

 あの呟きがあったからこそ、白銀はかぐやの想いを知ることができたのだ。

 

「……あの時は驚きました。会長さん、(かぐや)を見て館に乗り込んでくるかと思えば、すぐさま正体を見破って引き返していくんですから」

「そうか。やっぱり、あの時。窓際で四宮に化けていたのも、アンタだったんだな」

「……まあ、あの時は急ごしらえで変装も完璧ではありませんでしたからね。万全だったら決して見破れはしなかったでしょう」

「何を悔しがっているんだか」

 

 くっくと笑う白銀につられるように、微かに口元を溶かす早坂。

 

「夏休みは碌に外にも出られず、本家から無理な呼び出しもあったりと酷く心を痛めていましたから……あの子も随分と救われたと思います」

「まあ夏休みはこっちも……。あの子、か」

「……?なにか」

「いや、やっぱり四宮の話をしている時が、一番自然だと思ってな。専属侍従だからか?」

「それは……」

 

 言葉に迷うように口籠る。

 また一枚。めくったカードに書かれる『追懐』の2文字に、思い馳せるように目を細める。

 

「……あの子は、私にとって妹のようなものですから」

 

 早坂家は代々、四宮家に忠誠を誓う家系。

 かぐやの名付け親である父。母はその乳母として。共に本邸で生まれ、7つの歳の頃から共にあり続けてきた仲だ。単なる主従関係ではない、お互いに猫を被らず本心を明かせる数少ない存在でもある。

 

「……どうりで。風邪の見舞いで訪ねた時、アンタの四宮に対する態度に遠慮がないと思った」

「あの子の面倒臭さと言ったら本当に昔っからなんです。体もそんなに強くないから風邪を引くこともしょっちゅうで、その度アホにーーー」

 

 演技がそうさせるのか。ポツリポツリと過去の思い出を語る早坂。どこか愚痴の混ざる物言いも、浮かべる表情は柔らかく、優しさを感じるものだった。

 

「……少し、安心した」

「え?」

「いや。以前、屋上で話した時、アンタは演技することを嫌っているように聞こえたんでな。だから四宮にも……嫌々仕えているのかと思っていた」

 

『そうして己を偽っていくうちに段々と、自分の本心が分からなくなっていくんです』

 

 かつて自分が明かした言葉。確かに、これではまるで……

 

「けど今日話を聞いて、違うとわかった。演じることにも。四宮に仕えることも。どちらにもアンタは真剣で……誇りを持っていて……だからかな、不思議と安心してしまったんだ」

 

「……」

 

 白銀の言葉に、何も返さず顔を俯せ、カードをめくる早坂。

 垂れる前髪に表情は見えないが、その姿は照れているようでもーー

 

「わかったような口を、聞かないでください」

「……え?」

 

 響いた低く思い声に思わず顔を上げる白銀。

 目に映るのは、今朝と同じように、滲み出るような怒りの表情を浮かべる早坂。

 カードに記されていたのは『激怒』の二文字。

 そのまま休憩は終わりとばかりに立ち上がり、演技用の台本を取りに行ってしまう。

 

 しかし言い放たれた言葉が、演技と本心のどちらなのか。

 白銀は結局最後まで、知ることができなかった。

 

 

 

 

 

 

「かぐや様の送迎があるので、今日のところはここまでとします。……というかこれ以上は私の身と心が持ちません」

「そ、そうか。じゃあ……」

「明日も。また同じ時間に行います」

「な、まだ続けるのか!?自分で限界だとーーー」

「当然でしょう。未開の先住民がなんとか大根役者の足下に至ったレベルでどうして納得できますか。私に教わる以上、中途半端は許しません」

 

 ピシャリと言い放っては、3冊もの分厚い本を押し付けて来る。

 

「明日までにこの本で学習しておいてください。勉強は得意でしょう?」

「ぐ……うむ…」

 

 何か言いたげに口ごもりながらも、結局は渋々頷いて本を受け取る白銀。

 同時に取り出されるスケジュール帳。後ろから中を盗み見れば、国際討論大会や期末試験が近いこともあるのだろう、1日の大半以上が勉学に染められ、睡眠時間は3時間を割っていた。

 

 それでも拒否の言葉を口にしない以上。彼はきっと更に睡眠時間を削ってでも、勉学を重ねて来るのだろう。

 

「……本はあくまで予習に。軽く目を通すだけで結構です。お疲れ様でした」

「え?あ、ああ。こちらこそ」

 

 頭を下げ、体育館を去っていく白銀の背中に、微かに息をこぼす。

 

 ああ……いけない。

 彼の前に居る自分は、どうにも感情的になり過ぎている。

 平静を装えるよう演技を習わせておきながら、教える側がコレでは立つ瀬がない。

 

『わかったような口をーーー』

 

 言い方なんていくらでもあっただろうに。胸に沸き立つ想いを抑えることができなかった。

 

 かぐや様の……四宮家の専属侍従ともなれば、その地位を望むものは全国に掃いて捨てるほどに居る。その役に至るため積み重ねた努力。払ってきた犠牲は、決して小さなものはなかった。

 その苦労、刻苦を、軽々しく語って欲しくなどなかったのだ。

 何も知らない人が。

 なんの苦労もしていない貴方に、どうしてーーー

 

(……いいえ)

 

 頭に浮かんだ言葉を、自身が否定する。

 そう、それは違うと。

 

 私は知っていた。

 

『白銀……もう生徒会やるつもりはないって言ってなかったか?』

『そのつもりでした。だけど……一生に一度、根性見せる時が来てしまったみたいで』

 

 あなたがかぐや様のため。ただその為だけに、多忙極まる生徒会長の任を続けたこと。

 

 勉強一色に染められたスケジュール帳。目に染み付いた色濃い隈。学年一位を守るため。天才と呼ばれるかぐや様に並ぶために。勉学というただ一つの武器を手に、貴方がどれほどの犠牲を払っているのかも。

 

 常に求められる完璧は、一人の肩には重すぎる。

 期待に応え続ける重圧。失敗は許されない恐怖。

 

 私はーーー私だけは、知っていた。

 

 

 

(……私と貴方は似ています)

 

 努力で塗り固め、本当の自分を隠す様も

 かぐや様の側にいるため、身を削る姿も

 

(そして……だからこそ赦せなかった)

 

 かと思えばカラオケでは容易く醜態を晒し。

 素直に人に教えを請い、尚、自分への自信を失っていない。

 その姿が恨めしくも羨ましく。

 

 何よりーーー氷のようだったかぐや様を救ってくれたのが、幼い頃から側にいた私ではなく、貴方だったこと。

 

 

 それが幼い嫉妬心であることなんて、初めから分かっていた。

 

 ……ただそう。

 

 認めてしまうのが悔しかっただけで。

 

 

 

「これでは、もう『お可愛い』なんて言えませんね」

 

 盛大なため息とともに、遠い記憶に笑みをこぼす早坂。けれど認めてしまえば、胸に抱えていた蟠りが微かに軽くなったように感じた。

 

 明日からはきっと、またいつもの私を演じることができるだろう。

 会長も、筋は悪いが今日1日だけでも着実に演技の基礎を身につけている。このまま根気強く教えていけば、いずれは名役者に成長するかもしれない。

 

 そうすれば、またいつもの日々が戻ってくる。

 我儘な主人の要望に応える、あの面倒くさくも面白可笑しな日常がーーー

 

 

 

 

 

「………?」

 

 その時ふと、懐から伝わる振動に目を落とす。普段使用する携帯とは別の、黒く無骨なデザインの携帯。コレが繋がる相手は決まっていた。

 

(四宮……本邸から?)

 

 着信ボタンを押し、電話に出る少女。

 だが携帯を握る手は、知らず震えている。

 そう。コレが鳴る時はいつだってーーー

 

 

 少女は忘れていたのだ。

 自分が常ある日常。

 その日々もまた、容易く崩れ去ってしまうものだということを。

 

 

 

 

 

 次回 最終話【早坂さんは愛されたい】に続く

 




次回 最終話【早坂さんは愛されたい】に続く


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早坂さんは愛されたい 前

投稿が遅れ本当に申し訳ありません!

執筆が遅すぎて、その間にかぐや様のケータイがスマホになってしまった(汗
本作ではまだガラケーだったり設定に所々違いがありますが、作者の拙い妄想とどうかご容赦くださいorz

ブックマーク、お気に入り登録、感想ありがとうございます!本当に励みになります!


 

 

 

 

  多くの人に愛されて、同じくらい、多くの人を愛せる子に育って欲しい。

  そんな願いを込めて、両親は私にこの名前を授けてくれたのだという。

 

  まだ物心ついて間もない頃。仕事の忙しい両親に段々と会える時間も少なくなって、甘えたがりだった私は二人の腕の中、聞かされた自身の名前の由来に大喜びしていた。

 

  与えられる想いが温かくて。寄せられる期待がただ嬉しくて。だからどうか、両親の願いに応えられる自分でありたいと、そう心に強く望んだのだ。

 

  けれど……当時の私には分からなかった。

『愛する』とはどういうことなのか。単なる『好き』とはどう違うのか。

  不思議そうに問う私に、父は困ったように。けれどとても嬉しそうに笑いながら私の頭を撫で、母も私の手を大きく広げては、掌に人差し指で文字を書く。そして決まってこう言うのだ。

 

『忘れないで。愛という字は、心を受け入れる、と書くの。あなたが心を開き、もしその全てを受け入れてくれる人がいたなら……その人はきっと、あなたを愛してくれているのよ』

 

  優しく笑う母の横顔。今も夢の淵に思い出す暖かな記憶。けれどやっぱり母が話す言葉も、真意も、子供だった私にはまだ難しくて。答えは分からぬまま、いつか大人になれば自然に知っていくのだろうと思い描いていた。

 

 

 ーーーけれど。幼い頃の希望とは裏腹に。

 答えは歳を重ねるほどに見えなくなっていく。

 

 人は己を偽る生き物だと。

 そう知って。学んで。己の力として身につけるなかで。幼い頃は当たり前にできた、素直になるという行為が、次第に理性によって拒み、妨げられるようになっていく。情動のままに振る舞うのは悪徳であると、感情を押し殺すことばかりに長け、本心を明かす術を見失っていった。

 

 もはや体の一部と言えるまで、身に染み付いてしまった演技の習慣。それが誰かに褒めて欲しいと。皆に愛されたいと始めたものだったのか。

 両親に会えない寂しさ、従僕となるべく課せられる数えきれぬほどの薫陶の日々に、怯え震える自分を偽るためのものだったのか。

 

  切っ掛けを思い出すことはできないけれど。私はずっと、強い己を演じることでしか自分の価値を顕すことできなかった。虚勢を演じて。自分の心にさえ嘘をついて。誰にでも愛される自分を思い描いては、演じることに邁進してきた。

 

  虚栄の自分が認められるほどに、分厚く塗り固められていく仮面。弱い自分は、弱いままに。だからこそ、覆い隠した本心を明かすことが堪らなく恐ろしくなっていく。

 

  人は演じないと愛してもらえない。

  ありのままの自分が認められること……愛される事なんて絶対に無いのだと。

  そう学んで、思い知らされて、今日という日までを生きてきたのだ。

 

 

『あなたが心を開き、もしその全てを受け入れてくれる人がいたなら……』

 

  遠い母の言葉。胸に残る温かな記憶。

  けれど今の私には、その言葉さえ素直に受け入れられない。これまで培ってきた想い。自身を支えてきた信念が、大好きな母の言葉を否定しようとする。理想でしかないと割り切ろうとしながら、それでも憧れだけは捨てきれない。

  正しくあって欲しいのか。間違いで合ってほしいのか。胸の中で混ざりせめぎ合う相反する(ふたつの)心。

 

  そう。心とて、決して一つではない。

  時に強く、時に脆く。移ろいやすくて目には見えない、私の胸の中にもある(もの)

  その全てをさらけ出して、ありのままを受け入れてくれる人がいたなら……それはきっと素敵なことなのだろう。

 

  けれど、それも遠い夢なのだと知る。

 

  嘘ばかりを貫き通してきた自分。

  こんなにも弱く、不確かな心を持つ私が、ありのままの本心を明かせる日など、本当にくるのだろうか。

 

  私はまだ、(じぶん)を知らない。

  母の言う愛の意味も、まだわからない

 

 

  誰かと解り合うということがーーーこんなにも眩ゆい。

 

 

 

 

【早坂さんは愛されたい】

 

 

 

  鳥の囀りが響く早朝の衆知院学院。赤レンガと大理石で飾り作られた豪華絢爛が体をなすような廊下を、白銀は一人歩いていた。

 その手に握られる全国討論大会のパンフレット。本日正午より、まさにここ衆知院学院で開催されるディベートコンクールに向けて、スケジュールの最終確認に取り掛かっているところだった。

 

  掲げられる様々な論題をめぐり、参加者が賛成派と反対派に分かれ討議力を競う大会。互いに主義主張や質疑応答を行うなかで、いかに説得力のある結論を導き出せるか。培ってきた論理学と修辞学の成果が試される場である。

 

  衆知院の生徒達にとっては、体育祭から学園祭までの繋ぎとして知られる恒例イベント。討論の様子は一般にも公開され、期間中、学院内は他校の生徒や観客達の存在により一種のお祭りのような賑やかさに包まれる。ディベート自体に興味が薄くとも、活気ある雰囲気を楽しみにしている生徒は多い。

 

  全国各地の学園から選りすぐりの代表者が集うこの大会には、生徒同士の親睦を深める目的もある。

  だがそこは歴史と実績を重んじる衆知院学院。昨年は惜しくも優勝を逃し、これ以上その名に傷が付くことがあってはならないと、フランス姉妹校から以前懇親会でも会った『傷舐め剃刀』の異名を持つべツィーを呼ぶあたり、教員たちの本気ぶりが伺える。

 

  まあ、それはともかくとして。代表選手ではなく、舞台に立つ予定でもなかった白銀が足を急がせる理由は別にあった。

  またもあの毎度のごとく無理難題を押し付けてくる学園長からの使令、討論大会の司会進行役を務めるよう抜擢されたのだ。それも僅か7日前に。

 

  司会役ともなれば、大会のルールや主旨の把握は勿論のこと、答弁においては参加生徒の国籍ごとに語学の知識も必要となってくる。幸い、本大会の参加者は殆どが日本勢だが、諸外国からの留学生がいることも事実。

 白銀はこの1週間、もともと舞台準備を任されていた生徒会の仕事に加え、普段の倍以上の勉学に追われてきた。目の下に浮かぶ隈と眼光の鋭さは普段にも増し、学園生徒達からはより一層怯えられ、逆にうちの副会長は何故か興奮気味であった。

 

 

(スピーカーとマイク……照明の方ももう一度点検しておいた方がいいな)

 

  今日という日に向けて、出来得る限りの準備はしてきた。人事を尽くせばあとは天命を待つばかり。

  本番、他校の生徒や一般の観客達という普段とは違う顔触れを前に あがらないかが心配ではあるが、今の白銀はとある事情により、こと平静を演じることに関しては絶対の自信をもっていた。

 

  ーーーと

 

  前から歩いてきた一人の女性徒を避けるために、脇に道を開ける白銀。

 準備のためにかなり早朝から出てきたこともあって、周囲に見える教員や生徒の姿は少ない。いるとすれば朝練に励む部活生ぐらいか。その一人であろう女性徒がぶつかることなく横を通り過ぎていったのを確認し、もう一度スケジュール帳へと目を落とす。

 

 

「ーーー四宮?」

 

  だがその途中、今しがた通った生徒がよく知る人物であったことに気づき、振り返る。呼ばれて足を止める少女。背中まで伸びる長い黒髪を揺らし向き直る。

 

「会長?どうされたのです、こんなところで」

「いや、機材の確認をしに体育館へな。四宮こそ……どうした」

 

  白銀がかすかに言い澱むのには理由があった。目の前に立つ四宮かぐや。その普段は束ねられている長い後ろ髪が、今は降ろされているのだ。

 

  風に揺れる黒く艶やかな髪。合間に覗く真紅の瞳。その風貌は一年前……まだ氷の令嬢と呼ばれていた頃を思い出させる。すれ違い様に彼女だと気づけなかったのも、纏う雰囲気があまりに違って見えたからだ。

 

「ええ。実は髪留めが壊れてしまいまして……。こんな大事な日に、間の悪いことです」

「大丈夫か?まあ、別に髪型は今のままでも」

「いいえ。淑女たる者、身嗜みは大事です。早坂が替えを持っているそうなので。校門まで受け取りに行くところです」

 

  琥珀色のひび割れた髪留め手に、それでは、と頭を下げ去って行く四宮。よほど急いでいるのか、その足取りは普段の優雅さに比べれば慌てているようでもあった。

 

  副会長として司会の補佐を務める彼女にも、色々と準備することがあるのだろう。今は清閑としているこの廊下も数時間後には生徒や保護者、それを守るSP達で溢れかえることになる。

 誰かに会うならば、今のうちがいい。

 

  自分もやるべきことをやらねば、と再び体育館へと足を向ける白銀。だが頭の隅では、今しがた見た四宮の姿を忘れられないでいた。

 

  髪を下ろした四宮は本当に久方ぶり。初心に帰るというか、逆に新鮮で。髪型一つでこうも印象が変わるのだな、と感心する一方。その姿を『懐かしい』と思えることに、共に過ごしてきた時間の長さを垣間見るようで、どこか温かい気持ちを覚える。

  ……というより。彼女の姿や一挙一動でこんなにも心動かされてしまっている自分に、平静さに自信があるなんてどの口が言うのかと、自嘲したい気分に駆られた。

 

(しかし……なんだな)

 

  それと同じように、胸奥に湧き上がる微かな違和感。何かを忘れているような。何かを見過ごしているような。そんな得体の知れない不安感にざわざわと胸が震えるのを感じる。

  はて、自分は何か四宮に言い忘れたことでもあっただろうか。

 

「………?」

 

  思案に沈みかけていた白銀、その意識を呼び戻したのは、中庭に見慣れぬ影を捉えたからだった。

  様々な観葉樹が立ち並ぶこれまた豪華な中庭。その木々の合間に隠れるように、女性が一人、青銅製のベンチに腰掛けている。

 

  生徒でも、教師でもない。

  長い黒髪と紫のシックな外套に身を包んだ妙齢の女性は、しきりに携帯電話ーーーにしては少しゴツい見た目の機器に向かって何事かを呼びかけている。

 

  始めはどうするか迷った白銀だが、生徒会長を務める者として、その責務に準ずることにした。

 

「すみません。一般の方の来場は、まだご遠慮いただいているのですが……」

「ーーーっ、」

 

  遠慮がちに声をかけた白銀に、女性は酷く驚いたように顔を上げた。紫のグラデーションがかかったロングウェーブの黒髪。唇許を濡らす淡い紅色のルージュといい、一目見ただけで気品の良さを感じさせる。

 

「ああ、ごめんなさいね。学園の外から眺めているつもりだったのだけれど、見ているうちについつい懐かしくなってしまって」

「卒業生の方ですか?」

「ええ……。と言っても、もう20年も前のことなのだけれど」

 

  申し訳なさそうに笑みを零しながら、女性はふっと息を吐き中庭を見渡す。

 

「懐かしいわね。この中庭は何も変わっていない。こうしてベンチに座って、友人や部活の先輩達と昼御飯を食べていたのが、つい昨日のことのように思い出せる。あの頃はまだ子供で……大人になるなんて、遥か遠い未来だなんて思い抱いていて……あら?貴方」

「…?自分がなにか?」

「その金の刺繍……そう。貴方が、噂の混院生徒会長さんだったのね。どうりで若いのに、しっかりしている子だと思ったわ」

「あ、いえ……ありがとうございます。噂になっているんですか?」

「ふふ、そうよ?そもそも混院の生徒会長からして珍しいのに、貴方は二期も続けて当職しているんだもの。私たちの代でも混院の生徒会長は一度生まれたのだけれど、3ヶ月もしないうちにカンボジアに飛ばされていたわ。……皆、あの偏屈な学園長がよく認めているものだって驚いているのよ?」

 

  くすくすと楽しそうに笑う女性に、照れると同時になんとも言えないアンニュイな気分になる白銀。サラリと怖いことを言われた上に、今もまさに、その学園長から与えられた無理難題に振り回されているところなのだから。

 

「……けれど、大変じゃない?まわりは名家のお嬢様や御曹司ばかり。その横暴さや曲者ぶりと言ったら、混院の……何の後ろ盾も持たない貴方が相手するには、荷が勝ち過ぎていると思うわ」

「そんなことは……」

 

  ない。と言いかけた白銀だが、先日また行われた部活連予算案会議。警視庁総官の息子や、どこぞの国の王子候補までもが雁首を揃え論争を繰り広げるあの場の空気を思い出して、知らず言葉を詰まらせてしまった。そんな内心を見透かしてか、女性はまた口元に手を当てては笑みを零す。

  ……だが

 

「まして……あの『四宮』が副会長に就いているんですものね」

「っーー」

 

  終始こちらを心配するようだった女性の空気が一転、その名前を口にする時だけは、重く暗い気配を帯びるのを感じ、知らず寒気のようなものを覚える白銀。

  時を同じく、鳴り響く携帯のコール音。女性は「失礼」と一度断りを入れると、その華奢な手には大きすぎる携帯電話を耳に当てる。

 

  所在無げに中庭端に立つ時計台へと目を移せば、針は既に8時を回っており、知らず長話をしていたことに気付かされる。

 

「とりあえず、守衛所に向かってください。そこで立入り許可証が貰えますので」

「わかったわ。御免なさいね、長く引き止めてしまって。」

 

  どこか深妙な顔立ちで電話を切った女性に、頭を下げ立ち去ろうとする白銀。女性はまた微笑むように口元に手を当てる。

 

「……それと貴方。いくら校内が安全だからといって、護衛もつけずに一人出歩くのは危ないわよ。特に今日みたいな日はね」

「いえ、私は庶民なのでそういうのは……」

「そうーーー」

 

 

 

「それは良かった」

 

  その口端が、歪むように釣り上がるのが見えた瞬間。驚愕よりも早く、喉奥から漏れ出た息が悲鳴をかき消す。

  白銀の腹部に突き刺さる、太く隆々とした腕。突如、木々の合間から音もなく現れた黒いスーツの男、その鍛えられた丸太のような腕が、白銀の腹を深々と殴打していた。

  両足が地面から引き剥がされるほどの衝撃。肺の底から奪い去られた空気に、白銀の意識は瞬く間に混濁していった。

 

「ご無事で?」

「大丈夫。……目標は校門に向かったわ。時間がない、確実に捕えなさい」

 

  重々しい女の声が、遠く響く。

  倒れ伏した地面の冷たい感触。霞みゆく白銀の脳裏には、最後に廊下で出会った少女の姿が思い浮かんでいた。

 

 

 ーーーー

 

 

 

  体を揺らす微かな振動に目を覚ます。

  開いたはずの瞼。それでも視界は薄暗く、自身が車の中にいることに気づくのに数秒を要した。喉奥から履い上がる強い嘔吐感、未だ強く残る薬品の匂いに目覚めたばかりの頭が苛まれる。

 

「あら、お目覚めかしら」

 

  呻く声に気づいたのか、助手席に座っていた影が振り返る。声からして30〜50代ほどの女性か。フロントガラス以外はほぼ全てプライバシーガラスに覆われ、トンネルの中でも通っているのか、光の乏しい車内では表情さえ読み取るのが難しい。

  だが顔は見えずとも、向けられる視線、発せられる言葉には、隠しきれぬ敵意が滲み出ていた。

 

「……不気味なくらいの落ち着きようね。自分の置かれた状況、まだ理解できてないのかしら」

「っ……」

 

  分からない筈がなかった。

  硬い縄で縛られ、一切動かすことの出来ない手足。本来の用途など構うこともなく両側から伸びる固く引き絞られたシートベルトは、自身を後部座席に磔にしている。両隣に座る漆黒のスーツに身を包んだ屈強な男達からは、常に監視の目が浴びせられていた。

 

  『誘拐』と。そう断じてしまうに余りある状況。

 

  不意に、フロントガラスから一斉に差し込む光。トンネルを潜り抜けた先、車外に映る街並みは元いた衆知院学院から遠く離れたものであった。そんなにも長い間眠らされていたのかと、次々と突きつけられる現状に、焦りと鬱屈した恐怖ばかりが胸の奥に広がっていく。

 

「…五篠家」

「っーー」

 

  ポツリと。囁くように少女が告げた名に、車内に緊張が走る。

  光により露わになった女性の顔は見覚えのあるものだった。驚き、憎悪。そして微かな憐れみを宿す女の瞳が、縛られた少女を見下ろす。

 

「意外ね。貴方のような人間が、目下の者の顔を覚えているだなんて……そうよね。所詮は貴方も籠飼い鳥。恨むのならば父親を恨みなさい。私の家を取り潰した貴方の父を」

 

  静かな怒りの声と共に、女は再び口へと布を押し付けてくる。饐えたような薬品の匂いが喉奥にまで広がり、また意識が遠のいて行く。

 

「四宮かぐや。貴方には、私たちの復讐に付き合って貰うわ」

 

  朦朧と薄れいく意識の狭間、垣間見えたサイドミラーに揺れ動く小さな影。最後に耳に届いた名前に、少女は静かに目を細めるのだった。

 

 

 ーーーー

 

 

「早坂さんの様子がおかしい?」

 

  衆知院学院生徒会室。開催まであと3時間を迎えた討論大会に向け、生徒会役員達は慌ただしくも準備を進めていた。その最中、役員の一である藤原千佳は、はて?と首を傾げる。

 

「なにか、前にも同じこと言われませんでしたっけ?」

「ええ……ただ以前にも増して、心ここに在らずといいますか。話している間は普通なんですけれど、それでもどこか余所余所しい空気を感じるんです」

「どうしたんでしょう……。会長のラップはもう直した筈なのに……」

「ラップ?」

 

  口に手を当てなにやら一人ブツブツと考え始める藤原書記。そんな様子にため息をこぼす少女、四宮かぐやは、おもむろに携帯を取り出しては、その画面を注視する。

 

  「2%」と真っ赤になったバッテリーマーク。幾ら機械に疎くとも、それが意味することくらいはわかる。毎朝 早坂から手渡され、普段ならばその時点で満タンにまで充電されている筈の携帯電話は、先ほど取り出してみればこの有様であった。

 

  昨晩、充電するのを忘れたのか……あの子らしくもない。早坂を信頼し、状態を確認しなかった自分にも非はあるが、先のことと言い、給仕への散漫さが目立ってきている。

 

  ただ気になるのは。その気配が彼女だけでなく、別邸に勤める他の使用人達からも感じること。普段と変わりない体を装っているが、どこか緊張した雰囲気を漂わせているのだ。

 

  彼らが意味もなく、そんな振る舞いをするとは思わない。それでも かぐやとしては隠しごとをされているようで、疎外感も似た寂しさを感じていた。

 

「先輩の携帯はだいぶ型が古いですからね……。コレに合う充電器は僕も持ってないですよ」

「そう、ですか……」

「大丈夫ですよ!生徒会同士の連絡なら、すぐに私が伝えに行きますから!」

 

  ギュッと抱きついて来ようとする藤原さんをヒラリといなしては再び携帯に目を落とす。バッテリー残量1%。すでに風前の灯火と言えるほどに消えかかった電源に、どこか哀愁のような思いを感じながら画面を閉じた。

 

「……ところで、なんですけど。会長 どこに行かれたか知りません?」

「会長?体育館に資材を確認しに行くって行ってましたけど……そういえば、全然帰って来ないですね」

 

  時計を目にまた小首をかしげる藤原書記。大会開始までまだ時間があるとはいえ、事前に打ち合わせが必要なこともある。そのためのミーティングを計画した本人が、5分前になって現れないのはどうしたことだろう。時間を蔑ろにするような人ではないことは、この場にいる皆が知り得ている。

 

「ーーっ!?」

 

  そのとき、かぐやの手の中で鳴り響く携帯。噂をすればなんとやらか、電話先の表示には「白銀御幸」の名前が浮かんでいた。ただ……

 

「わ、待って待って」

 

  既にかぐやの携帯は消えかけの蝋燭。わたわたと慌てて携帯を開いては急いで通話ボタンを押す。

 

「会長!?」

『四宮か!いまーーー』

 

 プーッ プーッ プーッ

 

「あーっ!!!」

 

  だがやはりというか、案の定というべきか。通話は途中で切れ、はよ充電せいと言わんばかりに、巨大なバッテリーマークだけが画面に残った。

 

  なんてタイミングの悪い。会長から電話をかけてきてくれること自体珍しいというのに、またと無い機会を逃してしまった。

  会長からすれば突然、それも一方的に電話を切られたと思うかもしれない。失礼な奴だと反感を抱かれはしないか。そもそも原因がバッテリー切れ。充電を忘れ、携帯の管理一つまともに出来ないガサツな女だなんて思われたらーーー

 

  あぁぁぁと机下に項垂れていく かぐやを他所に、自身の携帯を取り出しては電話をかけ始める石上。

 

「……会長、出ませんね。通話中になってます。まだ四宮先輩にかけようとしてるんですかね」

「ミーティングに遅れるって連絡かなぁ。かぐやさん。会長どんな様子でした?」

「どう、って……」

 

  のそりと顔を上げるかぐや。

  一瞬、ほんの一言二言、声を聞いたくらいなので詳しくは分からなかったがーーーひどく切迫した。それで、とても荒いだ息をしていた。まるで走りながらかけているかのような

 

  ………なんだろう。交わした言葉はほんの僅かだというのに、胸の奥に得体の知れない不安が広がっていく。

  会長、貴方はいま何処に……

 

「ちょ、ちょっと待ってください!学外の人が生徒会室にはーー!」

 

  思案を断ち切るように、生徒会室外に続く扉の向こうから、後輩である伊井野ミコの声が響く。遅れてドタドタと、急くように廊下を鳴らす複数の重い靴音。それは かぐやにとって聞き覚えのあるものだった。

 

「お嬢様!」

 

  扉を勢いよく開け放ち、現れる漆黒のスーツを身に纏う男達。四宮別邸に仕え、討論大会中の護衛として手配したかぐや専属のSP達だ。

 

  だが、彼らには有事の際をのぞいて生徒会室に近づくことを禁じている筈。学内への連絡は、全て早坂を通すよう言い聞かせていたのにーーー

 

「な、なんですか あなた達!」

「お叱りは受けます。ですが緊急の用事ゆえ、ご容赦をーー」

 

  膝をつき、それでも真摯な瞳をかぐやに投げかける男達。その震える口元が、言葉を紡ぐ。

 

「落ち着いてお聞きください。……早坂がーーー」

 

「ーーーえ?」

 

 

  確かに、耳に届いた筈の言葉。

  けれど かぐやには、その意味を聞き入れることができなかった。

 

 

 

 ーーーーーーー

 

 

 

 

 

「う……っーー」

 

  口内にはしる鋭い痛みに目を覚ます。

  明けゆく視界と同時、口に広がる濃い鉄の味。布を押し当てられる直前、自ら噛みつけた舌の傷が覚醒を促したようだ。

 

  微睡む思考を無理矢理覚ましては、車外の景色に目をやる。多くの車が行き交う公道、幸いと言うべきか、映りゆく街並みに大きな変化はない。体は変わらず磔にされたまま。助手席に座る女は、携帯にしては大きい、トランシーバーのような機械に向かってしきりに話しかけている。

 

「妙な気を起こすな」

 

  途中、グッと。自らを縛るシートベルトが固く引き絞られ、呻き声を漏らす少女。こちらの覚醒に気づいたのか、隣に座る男が威嚇するようにベルトの端を引っ張りあげていた。見下ろされる冷たい瞳。それを睨み返すように、少女は、カラーコンタクトの奥に秘めた蒼い瞳に力を込める。

 

  ーーーだが、そこで気がつく。

 

  車の内装が変わっている。

  大きさ、型式に至るまで。意識を失う位前とは、全く別の車に乗り換えられている。

 

「万が一。貴方が攫われる瞬間を目撃した者がいたとしても、車種やナンバープレートが変わってしまえば捜索は至難」

 

  薄い笑みを湛え振り返る女。歪んだ目元はまるで少女の動揺を楽しんでいるようだった。

 

「加えて。いま都内には、乗り換える以前の車も含め、同じ型、同じナンバーを付けた囮の車が6台走っている。警察はもちろん、四宮の力を持ってしても特定は難しいでしょうね」

「っーー」

 

  ぐっと奥歯を噛みしめる少女。

  確かに。女の言う言葉が事実ならば、今頃、四宮家の護衛陣は多大な混乱を強いられていることだろう。罠を張り誘い出したつもりが、相手の掌で踊らされている現状。これ程の物量と周到さ……没落したとはいえ嘗ての名家が裏で手を引いているなど想像もしていなかった。

 

  ……それでも

 

「……生意気ね。怯えたふりをして、目の奥では希望を失っていない。まだ誰かが助けに来てくれると信じている」

 

  女の細く冷たい指が、首筋から登り、少女の長い黒髪を梳くように撫で上げる。伝わる感触、背筋を走る悪寒に知らず目を閉じていた。

 

  四宮家との交渉、脅迫を目的としているなら、無闇に人質を傷つけるような真似はしない。それでも、女の暗く狂気を孕んだような瞳が、少女の冷静を揺さぶった。

 

  もし……ここで。

  自身に人質としての価値もないことが知られてしまえば、私はーーー

 

  怯えに染まる少女の顔に満足したように、女は笑みを浮かべると、そのまま頭にあるヒビ割れた琥珀色の髪留めを抜き取っていった。

 

「髪留め。制服の第3ボタン。靴裏踵部の隠し収納」

「なーーっ」

 

  初めて感情を露わに驚き目を見開く少女。

  女の告げた場所。それら全てが、少女の隠し持つ発信機の位置を正確に言い当てていたからだ。

 

  緊急時の対策として、所有者の位置情報をリアルタイムで送信する四宮家私製の防犯システム。全国各所の電波塔、専属の通信衛星をも利用した独自回線により対象が全国どこに行こうとも居場所を暴き出す……いわば誘拐犯罪に対する切り札(ジョーカー)だ。

  暗号化された信号。巧妙にカモフラージュされた意匠は決して常人に見破れるものではなく、その存在を知る者とて使用人の中でも僅かの筈ーー

 

「……ふふ、ようやく余裕顔が崩れきた。彼のこともこんな風に痛ぶっていたのかしらね。 ……内通者?そんなものを疑うくらいなら、貴方はもっと周りに優しくあるべきだった」

 

  暗い笑みとともにバックミラーを動かす女。写りこむ運転席に座る男の顔に、少女はハッと息を飲む。

 

「思い出したかしら?2年前、貴方が散々にいびり倒しては、辞職にまで追い込んだ元使用人の顔。……酷いことするわ。彼ほどの優秀さなら本邸勤務も夢ではなかったでしょうに。やっぱり、貴方にも父親と同じ血が流れているのね」

 

  ミラーに映る男の痩けた白い顔。眼鏡の奥に潜む、記憶にあるものより遥かに鋭く憎悪に満ちた視線が少女を射抜く。

 

「足取りを追わず、早々に監視を解いてしまったのは失敗だったわね。警備担当ではなかったから油断したのかしら?辞める直前、彼は貴方に対する警護体制を必死で調べ上げていたのよ。いつか貴方に果たす、復讐の想いを胸にね。

  感謝しなさい。もし彼を隣に座らせていたら、今頃貴方どうなっていたか分からないわよ?」

「ーーーっ……どうして」

「?」

 

  終始沈黙を守っていた少女が絞り出すような声を上げるのに、女は首を傾げて応える。

 

「なら、どうしてそんなに余裕でいられるんです。その髪留め……発信機ある以上、私たちの居場所は四宮家に筒抜け。車を変えたところでーーー」

 

  言いかけたところで、声は遮られた。それまでにないくらい大声で笑う、女の声に掻き消されたからだ。

 

「どうして?なら、どうして貴方はまだ捕まったままでいるの?貴方を攫って2時間、なのに四宮の追っ手の気配すらないのは何故?……貴方、どうして私がこんなに大きな無線機を使っているか、まだ分からないの?」

 

  見せつけるように、その華奢な手に収まらぬほど長大な機械を翳す女。訝しかげに眉をひそめる少女も、女の意図を理解した瞬間、凍りつかせるように頬を強張らせた。

 

「………っ!?」

「ーーご明察よ。この車は特別製でね。一定の周波数以下の電波は通さないよう出来ているの。通常の携帯電話は勿論、衛星通信の信号さえ届かない。貴方が持つ発信機の周波数なんて、とっくに把握済みよ」

 

  まるで価値のないガラクタのように、髪留めを指で弾いては投げ返す女。口元を一層歪に歪ませ、少女の耳元へと唇を寄せては、囁きかける。

 

「さらに悪いニュース。四宮家ご自慢の発信機……貴方が靴裏に隠していた一つを、別の車に載せて走らせているわ。勿論、私達のとは違って何の改造も施していない普通の車にね。

  ……今頃、四宮家の護衛達は、私たちと正反対の方向に走る車を必死になって追いかけていることでしょうね」

 

  耳奥に響く女の言葉、その一言一言が血の気を奪うように、少女の顔を蒼く染め上げて行く。

 

  発信機の存在は……少女と四宮家とを繋ぐ最後の希望だった。囚われの身の中、なお平静さを演じえてこられたのは、発信機を頼りにあの子が助けに来てくれるのを信じていたからだ。

 

  頼るものが大きいほどに、奪われたときの絶望は計り知れない。

  孤立無援。逃げることも叶わず。救出の望みは絶たれ、纏っていた仮面も剥ぎ取られた。ただの独りであることを思い知らされた心は、溢れ出る感情の渦に飲み込まれていく。どこまでも暗く冷たい、恐怖の色に。

 

「もう分かったでしょう。助けは来ない。

 そしていい加減に自覚なさい。今の貴方には四宮の後ろ盾もなければ、何の力もない……小さく怯弱な、ただの子供でしかないってことをね」

 

 

 

 

 

 



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早坂さんは愛されたい 後

「ママー。見てひこうきー。」

「はいはい、危ないから窓から顔出しちゃダメよ。

 天気予報じゃ曇りって言っていたけど、ほんと良く晴れたわねぇ」

「ああ、絶好のドライブ日和だ。これで渋滞さえなければ、言うことないんだけど」

「けど良かったの?せっかく取れたお休みだったのに」

「家でゴロゴロしているだけじゃ、あっという間に時間が過ぎていくからね。それに今日の大会は、以前からずっと見てみたいと思ってたんだ。

 今の世代を代表する選りすぐりの選手たちが集う大会。僕たちみたいな庶民が、あの秀知院学園の中に入れるってだけでも凄いことだと思わない?」

「それはそうだけど……。あなた、本どころか新聞だって読まないじゃない。討論大会なんて、見ていて楽しめるの?」

「うっ……まぁそれは……」

「ママー。見て見てー」

「はいはい、今度はなぁに?」

「ばいくー」

「バイク……?あらほんと、凄い速さねぇ。

  ………あら?でもあれバイクじゃなくて―――」

 

 

 

 

【早坂さんは愛されたい 後】

 

 

 

「……妙ね」

 

 車外に映る景色に目を細めながら女は訝しげに呟く。先刻まで少女を苛んでいたとは思えない、沈思と剣呑に満ちた面持ちだった。

 

 ……車の通りが多すぎる。時刻10時02分。平日の朝とはいえ通勤時間帯(ラッシュ)も終わり、交通量も少なくなってきて良い頃合い。事前の調査でも、特別道が混むような場所ではなかった筈だ。

 だが現実は真逆、車道を往来する車の数は益々と増え、渋滞とは行かずともスピードを大きく制限される形になっている。出せて時速40km前後。予定ではとうに郊外へと逃げ果せている筈が、想定外の足止めを受け、車内には焦りと苛立ちの空気が広がりつつあった。

 

「……秀知院で開かれる討論大会(イベント)の影響でしょうか」

「それにしたって数が多すぎるわ。学園に向かうのであれば、郊外へ(くだり)の道まで混むのはおかしい」

 

 ……四宮が動いていると考えるべきか。思案を巡らせながら、女はチラリとバックミラーを見やる。

 

 後部座席の中央に縛り付けられた少女、四宮かぐやは、浮かべる表情に力もなく、縋るような目でサイドミラーを見つめている。先刻の責め苦が余程堪えたか……だが、鏡には尾行するような車の姿も、最も警戒した空からの追っ手の気配もない。

 

 蟻のような行列を為す車の群々は、互いの距離が近いがために車種や運転手の顔も覚えやすい。この交通量での車の尾行はかえって困難。学園からここまでの道をつけ追う車があれば気づかないはずがない。

 

 一方で、こちらが車道を利用している以上、ヘリコプター等で上空から追われれば、トンネルに身を隠しでもしない限り追跡の目を逃れることはできない。その危険性を熟知していたからこそ、車内の部下にも、また街内に潜ませた多くの仲間たちにも、街内上空の様子には細心の注意を払うよう言い聞かせていた。

 

 幸いというべきか、仲間からの無線によれば、四宮家護衛陣の中でも相当な混乱があり、捜索に遅れが生じているのだという。磐石に見える警備体制も、一度崩れて仕舞えば脆いもの……否、その磐石さを崩し得るだけの準備を此方は行ってきたのだ。

 こちらが人質を車内に捕えている限り下手な手出しはできない筈。部下の手前 注意を呼びかけはしたが、計画の要である四宮かぐやを手中に収めた今、『四宮』に対する警戒は微かに薄まりつつあった。

 

 今むしろ危惧すべきは―――

 

「わかったわ、ありがとう。……進路変更よ。次の交差点を左に。山道を通って迂回します」

「……また、ですか」

「ええ……警察の動きがヤケに早い」

 

 苛たしげにハンドルを切る運転手の隣、膝上の通信機に目を落とし眉をひそめる女。

 

 これで、5度目か。路上に設置された検問を避けるため、進路変更を余儀なくされたのは。

 

 四宮家に限らず警察の存在もまた、計画を阻む大きな障害だ。

 特に誘拐事件が発覚した際、彼らの手によって設置される臨時検問。車という移動手段を用いている限り、道路を封鎖されてしまえば突破は容易ではない。警察とて闇雲に犯人を探しているわけではないだろう。検問を敷くに至ったかぎり、人質や犯人についてある程度の輪郭を掴んでいる筈。

 

 

(やはり誰かに見られていたか……早めに車を変えて正解だったわね)

 

 だが楽観はできない。万が一警察の目にとまり、車内を捜索されでもすれば人質を背負う我々に逃げ場はない。その危惧が有ったからこそ、事前に逃走ルートを幾通りにも練り、進行先を仲間に監視させては、検問との接触を確実に避ける策を労してきたのだ。

 

 進路を変えたことで、また計画に遅れは出るが、背に腹は代えられない。

 

 ……しかし四宮の護衛陣とは対称に、警察の動きの迅速(はや)さはどうしたことだろう。

 都心から郊外へと伸びる無数の道、それら全てに検問を敷くことは時間や人員的な目から見ても不可能である。国道や大通りといった、ある程度の箇所に絞って配置するのが定法。こんな場末の山道にまで手が伸びるのは些か展開が早すぎる気がする。

 

 ―――警察だけならばまだ良い。

 

 気になるのは、3度目、4度目の進路変更時に現れた謎の黒服たちの存在。

 発見した部下からの報告によれば、黒服に身を包んだその5、6人の男たちは、道を通る車を一台一台止めては、中の様子を覗き見ていたのだという。

 その止め方というのが、先ず一人が車道の真ん中に仁王立ち。運転手が慌てて車を止めたところを、残りの数人で取り囲むという、まるでチンピラ紛いの方法。断片的な情報を聞いただけでも、マトモな連中ではない。

 

 何故そんな存在が、この時間、このタイミングで私たちの進行先に現れたのか。疑問は絶えず、しかし正体を確かめると向かった部下からは以降の連絡が取れず、不気味な存在感のみを残すこととなった。

 

 

「……嫌な気分ですね」

 

「ええ……想定外のことが多すぎるわ」

 

 

 見えない手にじわりじわりと首を締め付けられているような。

 

 あるいは、後ろに座る少女……四宮かぐや本人なら何か知っているのではないか。まだこちらの知らぬ情報を隠し持っているのではないかと揺さぶりをかけたが、生憎とその成果も得られなかった。

 いたずらに苛むような言動、こちらの計画(カード)の一部を明かして見せたのも、少女の心裏を暴きだすため。

 希望を失ったように怯え揺れる少女の瞳。その様は、とても嘘をついているようには思えない。………思えないのだが、この少女からは常に何処か芝居掛かった雰囲気を感じており、それが女の猜疑心を擽っていた。

 もしこれが全て演技だというなら大した役者である。

 

 その時、再び膝上の通信機が震えだす。

 思案を乱され、また検問を敷かれたのかと苛たしげに通話に出た女は、しかし報告を聞き入れた途端、表情を凍りつかせた。

 

「………。次のトンネルで、車を停めなさい」

「は?停めて、よろしいのですか?」

「囮の車が捕まった……この車と同じナンバーの車が」

 

 それが一体何を意味するのか。驚き目を見開く運転手を横目に、女は縛られた少女を睨みつける。

 

 ……あり得ないことだ。少女には明かさなかったが、万全に万全を期して、車の交換は二度にわたって行ってきた。それでもナンバーがわれる(・・・)ということは、乗り換えの瞬間を二度とも見られるか、やはりこの少女が何らかの方法で外と連絡を取っているとしか考えられない。

 

「こいつはまだ何かを隠している。それを吐かせるわ」

 

 替えの車は用意することはできる。だがその前に、禍根は絶っておかなければ。

 殺気にも似た視線を浴びせられながら、それでも、少女の潤んだ瞳は、変わらずサイドミラーに浮かぶ陽炎のような影を追い続けていた。

 

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 

 別段……演じることに特別な才能があったわけではない。

 

 どんなに素質があろうとも、何かを修めるために必要な努力、習熟までに歩むべき長い道のりの全てが無くなってくれるわけではない。

 

 修めるものの位が高いほど、道のりはより長く険しく……それが、この国の頂点に連なる『四宮』の近従となれば尚更のこと。課せられる数々の薫陶に、私は幾度となく自身の無力と不器量を思い知らされてきた。

 

 

『早坂の娘が、こんなことも出来ないのか』

 

 

 浴びせられる心無い言葉。繰り返される叱責は未熟な心を容易く蝕んでいく。

 どんな才能も、子供を大人にしてはくれない。

 

 それでも、臆病な私には逃げ出す勇気も無く

 何より、寄せられる両親からの期待を裏切ることだけは、絶対にしたくなくて……

 だから何でもなく、誰にでもなく。一番初めに嘘をついたのは自分の心。

 

 哀しいという想いに蓋をして。淋しいと嘆く心を押し殺して。幾重にもガラスの仮面を被り重ねては、弱い己をひた隠してきた。ガラス越しに映る世界は色褪せて見えたけれど、浴びせられる叱責に傷つくのが仮面だけならば怖くはなかった。

 

 そうして歩いてきた長い道のり。

 年を経るごとに広まっていく視界、幼いころには遠い頂だと見上げていた場所が、今は足元にあることを感じながらも、道は終わりなく続いていることを知る。

 ふと呼ばれた声に振り返れば、使い棄てた幾つもの仮面が転がる道を、影のようについて来る一人の女の子。どれだけ走ろうとも離れない。裸足で傷だらけの足、朧げな顔はもう思い出すことも難しいけれど……それでも声だけはハッキリと、泣きそうな声で問いかけてくる。

 

 

 

 

 ねぇ、本当にこれで良かったの――?

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ、―ぁ――」

 

 コンクリートの壁に強く打ち付けられた背中。痛みに漏れ出た声が、長く薄暗いトンネル内に木霊する。

 車を降り、少女を取り囲むように壁際へと追いやる男たち。その中心に立つ女が、滲むような怒りを湛え声を上げる。

 

「いい加減に答えなさい。いったいどうやってナンバーを伝えたの」

「なん、の……ことですか」

「まだシラを切る気……?意地を張ったところで、なんの為にもならないわよ」

 

 また、渇いた音が響く。両腕を後ろで縛られまま、強く頬を打たれた少女は、支えも取れずに地面へと膝をついた。伝うアスファルトの冷たい感触。痛みのせいだろうか、意思に問わず滲み出でる涙、歪む視界向こうには、思い出したくもない情景が浮かび上がってくる。

 

 

『―――最近のお嬢様の振る舞いは、目に余るものがあります』

 

 

「貴方たちこそ……いったい何が目的なんですか」

「……何ですって?」

「私を人質に、お父様を脅迫するつもりですか。だったら、私を攫っても……」

「無意味、だと言うの?」

 

 コクリと。悔しげに頷く少女に、女は冷めた瞳で見下しながら息をこぼす。

 嘲笑と哀れみ。そんな想いが入り混じる表情(かお)だった。

 

「確かに貴方……四宮かぐやは、人質としての価値は低いという意見もあったわ。

 その生い立ちや、本家から受ける冷遇ともとれる扱い……四宮家総帥である雁庵への脅迫材料(カード)としては不十分だとね。

 ……私自身、あの男に人並みの愛情があるなんて思っていなかった」

 

 響く言葉に、グッと目を細める。何を言い返すこともできず、悔しさと悲しさを噛みしめるように。そんな少女に、女は視線を合わせるように膝を折ると、静かに言葉を付け足す。それでも、と。

 

「それでも、血を分けた娘よ?

 本当に何の愛情も無い子なら……わざわざ別邸を与えて、其処での生活を許すと思う?

 無関心なような扱いも……親族同士の権力争いや嫉妬に塗れた本邸の環境から、少しでも遠ざけるためだとは考えなかった?」

「っ―――」

「あの男の真意なんてわからない。復讐の相手に情愛の有無を求めるなんて皮肉な話だけれどね。それでも貴方が、父親の庇護のもとで育てられてきたことは事実。

 愛情や親切心も……結局は捉え方次第。解釈を変えるだけで幾らでも意味を違えてくる。

 覚えておきなさい。愛って字は心を受け入れると書くの。相手の心を知らなければいつまでたっても愛情は見えてこない。

 ……分からないわよね。今ある日常も、余りある幸福も、全てが当たり前に在るものだと思っている貴方には……」

 

 全てを諦めたように、冷たい瞳で見下ろしてくる女。どこか苦しげな表情は、遠い過去の自分を罵倒しているようでもあった。

 

「……でも、それももうお終い。貴方は戻ることはできない。幸せな日常にも。愛し、愛される人達の輪の中にも。さあ、時間稼ぎはもう十分でしょう?いい加減 明かしなさい。

 何を隠している。これ以上話さないというのなら―――」

 

 掴まれた頭をコンクリートの壁へと押し付けられ、痛みと眩暈が広がる。右顳の濡れた感触は血がにじみ出ているのか。それだけではない、歪む視界の先からは、あの男にじり寄ってくる。

 かぐや様(わたし)への怨みを募らせ、銀色に光る眼鏡の奥、狂気さえ宿したあの男が―――

 

 

 

 

 ―――そう。きっと罰が降ったのだ

 

『元来、お嬢様の我儘を抑えるのは使用人の責務。かぐや様の素行はお前たちの怠慢が招いたものではないか』

 

 かぐや様の姿を偽り。その名で賊をおびき出しては、己が功績のために捕らえようとした罪。

 全ては保身のため。かぐや様の近従として、その地位と卑しく小さなプライドを守るために……私はあの子を利用した。

 

『お前の代わりなどいくらでもいる。証明できるのか?情愛や因縁に頼らず、かぐや様にとってお前が如何に有益たるか。それができないようであれば、お前は……』

 

 だから……これは受けて当然の報い。

 大切な人にさえ嘘をついて。

 嘘ばかりを貫き通して。

 そんな私が、どうして救いを望むことができるだろう。

 自分からは何一つを明かそうともしない私を――いったい誰が分かってくれるというのだろう。

 

 それでも。もう戻れない日々の情景。

 この一年で随分と柔らかくなったかぐや様(あの子)の笑顔を想うほどに、目の奥から熱いものがこみ上げてくる。

 

 ―――そう。プライドなんて、本当はどうでもよかった。

 私は、ただずっと、あの子の傍で……

 

 

 

『―――ねぇ。本当にこれで良かったの?』

 

 

 

「……けて」

 

 

 辛いのなら、そう叫べばよかった。

 

 寂しいのなら、ただ愛してほしいと訴えるだけでよかった。

 

 そんなこと一つ、恐れと怯えに、貴方に明かすことのできなかった私だ。

 

 ……ねえ。そんな私を――

 

 

 

 

「助けて―――」

 

 

 

「了解」

 

 

 

 どうして貴方は、救いになんてきてしまうのかな。

 

 

 

 

 

 不意に。トンネルに響いた声に、驚き振り返る。

 光の差し込む入り口、自転車に跨ったまま壁にもたれるように立つ、一人の少年の影。

 逆光に見えぬ姿を捉えようと目を細める女は、しかしその顔を認めた途端、唖然と口を開けた。

 

「あな、た……」

 

 まだ記憶に新しい、ほんの今朝学園で遭遇した少年の姿。だがそれ以上に、彼の放つ風貌に驚愕を覚える。

 

 冬どきにしてはよく晴れた空、燦々と降り注ぐ日差しが加わったとはいえ、その額に浮かぶ汗の量は尋常ではない。

 遠く離れていても感じる荒々しい吐息。時折苦しげに顔を顰めるのは、喉の奥から酸っぱいものが込み上げているのか。浮かぶ苦悶の表情は真夏の炎天下を走るマラソンランナーのソレであった。

 朦朧と揺れ動く瞳が眼差すのはただ一つ、組み伏せられた黒髪の少女。

 まさか―――

 

「まさか、追いかけて来たというの?学園から此処までの距離を……自転車で?」

 

 自ら口にした言葉に、あり得ないと首を振る。逃走を始めて2時間以上。山道を含め、いったいどれだけの距離を走ってきたと思っているのか。

 だが現に、目の前にいる少年。その満身創痍な出立ち、迫真に満ち溢れた形相が、想像に偽りがないこと訴えかけてくる。

 なにより

 

「――そう……貴方、だったのね。私たちの車のナンバーと行先を、警察に伝えていたのは」

 

 頭の中で氷解していく疑問に合点がいくと同時、忌ま忌ましげに顔を歪ませる。

 警戒の目を空に集中しすぎたのが悪因か。否、そもそも自転車で追いかけてくるなんてこと自体が想定外なのだ。

 こんな力業が……。長い期間をかけ懸命に企てた計画が、こんな子供に邪魔されるなんて……

 

 

「とんだジョーカーね……。でも、だからどうしたというの?

 必死に追いついた貴方は、けれどたった独り。そんな満身創痍の体で、私たちを相手に如何にかできると思っているの?」

 

 嗤う女の合図と同時、少年と少女の間に割り入るように壁を作る黒服の男達。

 その手には刃渡り15cmほどのナイフが握られ、怯むような気配を浮かべた少年に、男達は不穏な笑みを浮かべながらにじり寄っていく。

 

「多勢に無勢。貴方はもう少し頭の良い子だと思っていたのだけれどね……。私が言ったことを覚えていなかったのかしら?貴方は混院でなんの」

「なんの力もなければ、後ろ盾も持たない」

 

 遮るように少年が放った言葉に、女は目を見開く。

 銀色のナイフが迫り来る中。だというに、少年は胸ポケットに手を忍ばせては、携帯電話を取り出していた。

 暗闇に光る通話中の画面。連絡の相手は―――『天文部部長』

 

「それでも、俺は秀知院学園生徒会長。

 伊達に―――日頃あの面倒な連中を相手にはしていない」

 

 

 グオンッ!!と、突如として轟いた轟音に耳を塞ぐ。

 音圧で肌が震え、鼓膜が痛みを訴えるほどに出鱈目で粗暴なマフラー音。威嚇するようにエンジン音を響かさせながら、トンネル奥の暗闇に身を潜めていたソレらは、ゆっくりと顔をだした。

 車道を塞ぐほどに並ぶ幾台もの黒塗りのセ〇チュリー。ナンバープレートの数字は全てゾロ目。前進する車の前には、頬や額にいくつもの傷跡を携えた黒服の男達が立ち並び、皆血走った眼光を瞳に浮かべている。

 スーツの胸元に刻まれた家紋は、思い出す必要さえない。この街、いや全国においてさえ、知らぬ者はいない、広域指定暴力団―――

 

 

「龍珠()――!?」

「おどれらか お嬢のご学友攫おうなんざ不逞な輩はあぁぁ!!!」

 

 トンネル内に轟く怒号の叫びに、身構え後退る犯人たち。

 ――それだけではない。遥か遠く、何処かから聞こえてくる甲高い音に、首謀犯の女は顔を強張らせた。

 まだ微かにしか聞こえない、しかし今最も聞きたくはない警察車両(パトカー)のサイレン音。それも一台や二台ではない。幾つもの音と車両が重なり列を為しながら、この場所へと近づいてきているのが分かる。

 

「あなた……いったい何をしたの」

 

 国家権力と反社会勢力(アウトロー)。この国の抱える相反する2大勢力が、トンネルを隔て一手に集まろうとする異常事態に、震えの混ざる声を零す女。

 彼らを呼び出したことだけではない。何らかのコネで連絡を取ったにしても、渋滞状態において召集までのこの早さはいったい如何いうことか。

 事前に、我々がこのトンネルで停まることを予測していなければ、とても―――

 

 

『……進路変更よ。次の交差点を左に。山道を通って迂回します」

 

(まさか……誘導されていた?

 誘拐犯(わたしたち)の足が止まり、少女を安全に救出できる『乗り換え』のタイミングを狙い打つために―――)

 

 

「早坂!」

 

 受け入れがたい事実を飲み込むより早く、少年の手から投げ放たれた何かを、思わず目で追う。頭上に舞う、「対・全国討論大会」と描かれた分厚い手帳。

 それが陽動と気づくまでにかかった時間は秒にさえ満たなかったが、それでも名を呼ばれた少女は一瞬の動揺(スキ)をつくように、女の手を振り払っていた。

 

「痛っ!?しまっ―――」

「奥方!さがってください!」

 

 追いかけ伸ばした手は、しかし、一介の令嬢とはとても思えない体捌きで駆け出す少女を捕らえることも叶わず、背後から来る衝撃に阻まれる。何事かと振り返れば、視線の先、少女の離脱を合図としたかのように、猿叫のような叫び声を上げながら飛びかかってくる強面の男達。

 その勢いやまさに鉄砲玉、ナイフでの威嚇など一切怯むことなく、むしろ拳一つで此方をのそう(・・・)と襲い掛かってくる彼らと、それに応戦する部下たちによって、トンネル内は瞬く間に混沌の息へと包まれていった。

 

 

 怒号が飛び交うトンネル内をひた走る少女。

 薄暗く覚束ない足元。両手を後ろで縛られた不安定な態勢のままの疾駆に、危うく転びそうになった体を、少年の腕が抱き留めた。

 

 

「悪い―――遅れた」

「会、長……」

 

 

 見上げる碧眼。凭れかかる腕の中、早坂は少年の全身汗ばんだ服など構いもせず、胸へと額を寄せる。

 

「気づいて……いたんですね」

「誰に演技を教わったと思っている。………いいや。途中まで完全に騙されていたがな。

 言いたいことはあるが後だ。走れるな」

 

 交わす言葉も短く、急くように手を引いては光の溢れるトンネル出口へと駆け出していく白銀達。数え切れぬ野次と怒号が飛び交うトンネル内。ナイフを取り落とされ、いつしか拳の殴り合い(ステゴロ)に発展している抗争は、黒スーツばかりに身を包む男たちのせいで、どちらが優勢なのかも分からない。

 

 

「―――待ちなさい!」

 

 だがその中、走る白銀たちの背を追いかけるように女の声が響いた。

 もう追いつかれたかと顔を顰め、振り返った白銀は、しかし映った光景に目を見開く。

 

 女が静止を呼びかけたのは、白銀たち相手にではなかった。

 歪んだ銀のフレーム。割れたレンズの向こうに血走った目を浮かべた男が、猛然と迫り来ている。

 その胸元には既にナイフが構えられ、正気を失った瞳が一点に早坂を捉えているのを視た瞬間、白銀は庇うように少女の前へと乗り出していた。

 

 

「会長!?」

 

 策があったわけではない。

 ただ、両手の利かない少女では防ぐ手立てもない。そう思い抱いた瞬間、体は動いていた。

 刺突の傷害を僅かにでも抑えるように、胸前で腕を交差させる。それが気休めに過ぎないことは、白銀自身が一番よくわかっていた。

 

 酷くゆっくりに感じる時間。恐怖に閉じそうになる瞳を必死に堪え、刻一刻と迫りくるナイフの先端を見捉え―――

 

「ガッ!?」

 

 だが、その切っ先が突如揺れた。

 衝撃に崩れる男の体。ナイフは白銀の顔のすぐ横を通り抜け、縺れる様に姿勢を崩してはそのまま固いアスファルトへと倒れ込む。

 

 衝撃の正体。男の背後から突進を浴びせた女は、取り零されたナイフを直ぐさまに拾い上げては、頭上高くへと振り上げる。

 紫のグラデーションが掛かった長い黒髪、その合間に覗く揺れる瞳が、真直ぐに早坂を見下ろしている。

 

「っ―――!何故っっ!」

 

 啼泣にも似た声を女へと叫ぶ男。

 それは白銀達も同じ想いだった。女の真意が分からず、極度の緊張に白熱した頭が、助けられた事実を未だ受け止めきれずにいた。

 

「その子は、四宮かぐやじゃない……!他人を手に掛けて、無意味に罪を負うような真似はやめなさい!」

「っ、ですが―――!」

「私達が憎むのは『四宮』だけよ!どんなに身を落としても、恩人の子を傷つけるようなことはしない……っ!」

 

 絞り出すような声に、手に持ったナイフを遠くに投げ捨てる女。

 その姿、女の眼差しに男は打ちのめされたように顔を歪ませると、言葉にもならぬ呻き声と共に、地面へと首を擡げた。

 

 何度も何度も地面へと振り下ろされる拳。次第に薄れていく熱気のなか、後には男の哀しい慟哭だけが残った。

 

 

「……ほんと、やられたわ。」

 

 囁くような呟き。

 余程に慣れぬ運動だったのか、女は緊張の糸が切れたように、その場にへたり込んでしまう。

 

「まさか最初から騙されていたなんてね……。貴方も、番狂わせ(ジョーカー)ではなく、ただの付き人(ジャック)だったということね」

 

 なんて忌々しい子たち。そう零す女の表情は深い諦めと……けれどどこか憑き物が落ちたかのような、淋しげな笑みが浮かんでいた。

 近づいてくるサイレンの音。視線を移せば、山道を縫うように幾台ものパトカーが登ってきている。あと数分もしないうちに此処へとたどり着く……だというのに女は逃げる素振りも見せぬまま、懐から白いスカーフを取り出しては、未だ血の滲む早坂の額にそっと当てる。

 

「……ごめんなさいね。貴方を巻き込んでしまって。

 ううん。四宮に歯向かう時点で、早坂の家にも禍災が及ぶことは分かっていた。今更謝る資格なんて、ないわよね」

「……どう、して」

 

 何を問うべきことも分からず声を零した少女に、女は徐に通信機を取り出すと、伝え聞かせるように少女へと差し出す。

 

 

「今頃は、囮の方(あちら)も大騒ぎね。車一台を追うのにヘリを8機も出撃()されて……使用人に過ぎない貴方を、必死になって取り返そうとしている。

 どうやら貴方のご主人様は―――私の知る『四宮』とは少し違うようだわ」

 

 

 悲しさとも嬉しさともいえる微笑を零す女。

 その後も。パトカーが辿り着くまでの間もずっと、女は早坂の傷の手当てを止めようとはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、初めから分かっていたのか。四宮が狙われることは」

 

 数分後、二人は四宮が用意したのだろうか、見るからに高級感漂うリムジン車に乗り、衆知院学園へと向かっていた。煌びやかな内装に加え、後部座席から運転手側が見えない構造は、狭い部屋に二人きりでいるような、どこか閉鎖的で気恥ずかしい気分を覚えさせられる。

 

 しかし早坂の方は気にした素ぶりもなく、落ち着いた様子で淡々と事の顛末を説明する様子は、良くも悪くも、見慣れた四宮の侍従の顔だった。

 

「分かっていたと言っても、具体的な確証があったわけでありません。ただそういう動きがあること……かぐや様を狙い、誘拐を企てる何者かの集団がいることは、以前から掴んでいました。彼らが、人々の往来が増える討論大会(きょう)という日を狙い定めていることも………けれど、それだけの情報をおさえておきながら、別邸(わたしたち)、本邸の護衛陣でさえも、首謀者の尻尾を掴むことができずにいた。 ……だから私たちは、罠をはったんです」

「罠……?」

 

 元来、鼠一匹通さぬほど厳重厳戒な警備網。そこに敢えて蟻の子が通れるほどの隙を作り、賊を誘き出すための謀計を画した。一度入れば2度と出られぬ堅牢。獲物を引き込むための餌、計画中、万が一にもかぐや様に危害が及ぶことなきよう、囮役には影武者である早坂が名乗り出た。

 

「………それで、四宮に化けていたのか」

「はい……。けれど賊側はこちらの想定を遥かに上回る物量で押し入ってきた。空いた穴をまるで鑿岩機で押し拡げるかのように……。本来誘拐なんて手は、力のない者が追い詰められた果てに取る、最後の手段なんです。力ある家ほど、四宮の恐ろしさもより知ることになるから……。五篠が四宮に弓引くなど想像もしていませんでした」

「……あの女性(ひと)、知り合いだったのか?恩人がどうと言っていたが……」

「いいえ、私も詳しくは……。ただ以前、学生時代からの友人の一人が五篠家に居ると……そんな話を、母から聞いたことがあります」

 

 

『―――懐かしいわね。この中庭は何も変わっていない』

 

 学園で交わした会話。どこか遠く、もう戻らない日々を思い出すような姿は、白銀に憐憫にも似た想いを残した。

 

「秀知院に着き次第、私は護衛陣に報告に向かわねばなりません。会長も、どうかお休みを取ってください。私を助けるために、きっと酷くお疲れでしょうから……気分が優れないようであれば、すぐにでも信頼できる医師を呼びますので、仰ってください」

 

 どこか沈黙を嫌うように、言葉をまくし立てる早坂。気丈な振る舞いは、とても先ほどまで攫われていた身とは思えない。

 ……四宮の近従とは、あのような危難さえも、何変わらぬものとして受け止めなければならないのだろうか。

 揺れる黒髪にそんな想いを馳せながら、白銀はふと膝の上で重ねられた彼女の両手へと目を移す。

 トンネルで繋いだ時には か細く震えていた、白磁のように美しく、強く握れば容易く壊れてしまいそうな手のひら。

 

 ―――だが、その手は今もまだ震え。重ねたもう片方の手で必死に覆い隠そうとしている姿を見た瞬間、白銀は彼女の手を掴み上げていた。

 

「アンタ……こんな時ぐらい演技やめたらどうだ」

 

 どうして気づけなかったのか。

 平気でいられる筈がないのだ。万全な策を企していたと言うのなら、拐われることは彼女にとって完全な想定外だったはず。

 いつ正体を見破られるかも分からぬ恐怖、謀られたと憤る犯人がどのような凶行に走るか想像せずにいられた筈がない。敵意と悪意に満ちた視線に晒され、たった一人、来る見込みも無い助けを願い待つことが、どれだけ心細かったことか。

 

 繋がれた手を、弱々しくも振り払おうとする早坂。だが白銀がそれを許さなかった。

 

 この手を離せば、彼女はきっとまた仮面を被ってしまう。自分を騙して。哀しい気持ちも、辛いと思う心も、全てを押し殺して。

 そうして独りになって、初めて泣くのだ。

 誰に弱さを明かせぬまま。誰一人、慰めてくれる者もいないまま。

 

 そんな事を続けていれば、彼女はきっと壊れてしまう。確信にも似た思いが、白銀を突き動かしていていた。

 

「………」

 

 固く握られた手を、揺れる瞳で見つめる早坂。

 初めて少年から向けられる怒り。けれど不思議と怯えの色は浮かんでこなかった。

 人の心をよく知る少女だ。それが誰の為を想い怒ってくれているのかも、確と理解していた。

 

「……ありがとう、ございました」

「は?」

 

 唐突に溢れたお礼の言葉に、怒気が混ざりながらも素っ頓狂な声を上げてしまう白銀。

 

「ずっと、追いかけてきたくれたことです」

「……言っておくが、助けたことに対する礼なら聞く気は無いぞ」

 

 目の前で友人が攫われるのを見て、何もせずにいられるほど、白銀は薄情でも蒙昧な人間でもない。

 それでも彼女が謝るのというなら。自分には助けられる価値すらなかったと云うのなら―――

 

「それでも、です」

 

 目を伏せ、首を振る早坂。掴まれた手を両手で握り返しては、囁くように声を零す。

 

「ありがとうございました……ずっと追いかけてきてくれて……ずっと、諦めないでくれて」

 

 サイドミラーに映る小さな影。

 遠く、今にも消えてしまいそうな姿をずっと探し続けていた。

 苦しげに歪む表情、滝のような汗を滲ませ息を荒げる姿は、抱える刻苦の大きさを言葉以上に伝えてきて………それでも、たとえ何度遠く突き放されようとも、必ず追いついて来てくれる貴方の姿を、ずっと請い求めていた。

 

 貴方は知らないのだろう。その姿にどれだけ救われたか。どれほどの勇気を貰っていたか。

 貴方がいたから私は―――あの暗く狭い檻の中、恐怖に塗りつぶされそうな心を、必死に奮い立たせることできたのだ。

 

 

 頭を下げ、繋いだ手を大切なもののように額へと寄せる少女。肩を震わせ、今にも泣き出してしまいそうなその姿に、白銀はバツの悪そうに小さく息を吐いた。

 

 

「……聞いていいか。どうしてあんな無茶をしたんだ。囮なんて、危険なこと」

「………っ」

 

 びくりと揺れる少女の肩。

 それは自転車で追う最中にも、ずっと胸に巣くっていた疑問。

 安否を確認するため四宮に繋いだ電話は、突如バッテリー切れにより途切れた。その時は四宮自身に特に慌てた様子もなかったことから、拐われているのが早坂だという確信を得るに留まったが………。

 後になって思えば、あのタイミングでのバッテリー切れは、何者かが四宮との連絡を阻もうとしているような、そんな策謀染みた気配を感じさせた。

 

 四宮の携帯に干渉できて、謀略が得意な人物は誰か。その意図を感じ取ったからこそ、白銀は救援の手を四宮ではなく、知り合いである部長たち(彼ら)に求めた。

 

 そう――四宮は知らされていなかったではないか。計画のことも……早坂が囮になることも。

 

「いくら犯人を捕らえるためだからといって、アンタが危険に晒されるようなことを四宮が許すとは思えない。だからアレは―――あんた達が独断で行ったものなんじゃないか」

 

 口を開かずとも、白銀が問うたびに増していく手の震えが、答えを代弁してくれている。

 

 そう。何よりこの手。白銀には、目の前の少女が拐われていたこれまで(・・・・)のことにではない………むしろ四宮に報告を行うこれから(・・・・)に怯えているように思えてならなかった。

 

 

 暫し、流れる沈黙。

 いいやその間にもどれだけの葛藤があったのだろう。少女は幾度も震える口を開いては、何も言えず、苦しげに閉じることを繰り返す。

 ソファに降ろされる繋がれたままの右手。白銀は急かすようなことはせず、少女が自身の口から真実が語られるのを待った。

 長いようで短い時間が過ぎ、そして―――

 

 

「……辞令が、くだったんです」

「辞令?」

「かぐや様からではありません。私たち使用人全ての人事を取り決める本邸から。私の……かぐや様の近従の任役を解雇()く辞令です」

「な―――」

 

 

 驚愕に口を開く白銀の隣、追憶に沈むように早坂は目を伏せた。

 

『最近のお嬢様の振る舞いは目に余るものがあります』

 

 召還された四宮家本邸。待ち構えていた本邸家従たちは、ぞっとするような重い声で、糾弾の言葉を投げかけてきた。

 

『元来、お嬢様の我儘を抑えるのは使用人の責務。かぐや様の素行はお前たちの怠慢が招いたものではないか』

 

 ―――分かっていた。彼らの目的が、かぐや様を昔の姿に戻そうとしていること。

 氷のように何の感情も抱かず、問題も起こさない。ただただ家の格に沿った振る舞いを行う美しくも触り難い日本人形。それが、彼らが かぐや様に臨む在り方だったから。

 

 いかに本邸家従であろうとも、令嬢であるかぐや様本人に言及するには限界がある。だからこそ、その矛先は使用人である我々へと向いた。そして、一番始めに白羽の矢が立ったのが

 

『何より、早坂。幼少より側で仕え、安易に気を許せるお前の存在があるからこそ、お嬢様の甘えを助長しているではないか』

 

 今まで幾度にも本家の意向からかぐや様を守ってきた私という盾が、どれほど彼らに疎ましく思われているか。四宮から多大な信頼を受ける早坂家……そこにどれだけの嫉妬の念が渦巻いているかも、よく識っていた。

 

 積もり積もった反感の仇。かぐや様の専属近従であろうと、所詮は数いる使用人の内の一人。人事権の一切を担う彼らに辞令を言い渡されれば、私に抗う術などない。

 

 ……それでも

 

『……否定。そんな言葉を並べたところで、意味がないことは分かっている筈だ。口だけなら何とでも偽れる。重要なのは実利。―――示せるのか?情愛や因縁に頼らない、貴方自身の有能さ。お前の持つ技能がかぐや様にとって如何に有益であるか。それができないようであれば、お前たちには……別邸の勤務から離れてもらう』

 

 

「………っ、」

 

 少女の声に耳を傾ける最中、白銀は知らず痛みを覚えるほどに拳を握りしめていた。

 

 なんだ、その勝手は。

 四宮が早坂に向ける親愛も。早坂が、近従となるべく重ね続けてきた努力も。全てを蔑ろにするような本家の言い様に、心の底から怒りが湧き上がって来る。

 姉妹同然に育って来た二人にとって、それがどれだけ残酷な仕打ちか。どれだけ―――早坂のプライドが傷つけられたことか

 

「それで………アンタはそれを受け入れたのか。出来た筈だろう?有能さを示すことなんて……今までずっと、側で四宮を支えて来たアンタなら」

「……いいえ」

 

 願うような少年の言葉にも、少女は顔を伏せ悲しげに首を振る。

 

 かぐや様の身の回りの世話も。その我儘(ねがい)を聞き届けることも。四宮の使用人ともなれば出来て当然のスキル。代わりはいくらでも居る、そう彼らが告げたように、私固有の価値には成り得なかった。

 

 私が唯一秀でたもの。かぐや様と長い年月を掛けて築き上げて来た信頼は、しかし、それに縋ることを許されない。

 主人と使用人との間に親愛関係など不要。

 『四宮成らば、人を愛すな。成らば、は無い』

 四宮の訓えを忠実に遂行(まも)ろうとする彼らにとって、私達の関係はどうしようもなく煩わしいものに過ぎず………私がかぐや様の寵愛を頼りに、側に在り続けることを決して赦しはしなかった。

 

「結局、私は自分で探すしかなかった。自分に出来ること……私にしか示すことのできない『利』を」

「……その、答えが」

 

 コクリ、と頷く少女。

 その拍子に揺れる黒髪に、改めて少女の風貌を凝視する。

 赤色のカラーコンタクトに秀知院学園の制服。装飾、雰囲気、佇まいに至るまで、その姿は四宮かぐやを完璧なまでに模写している。

 極め付けはその髪。ウィッグやカツラに頼ることなく、地毛を染め上げて再現した黒髪は、しかしあの美しかったブロンドを炭の底に沈めてしまったようで……。囮に賭ける早坂の想い、その痛ましいまでの心中を垣間見るようで、白銀に強い悲壮感を抱かせた。

 

 本邸の護衛陣ですら掴むことのできなかった誘拐犯の正体。

 仮に、囮となった早坂達の功績によりそれを捕らえることができれば、かぐや様を護る使用人としての確かな『利』を示すことが出来るのではないか。

 磨き上げて来た演技の技術を、本邸の家従達にも認めさせること出来れば―――

 

 

「そんな……」

 

 そんな、穴だらけの策に縋るしか無かったのか。

 そんな稚拙な希望に頼らざるを得ないほど―――彼女は追い詰められていたのか。

 

 きっと早坂は全てを隠し通すつもりだったのだろう。自身が囮になったこと。本家から糾弾があったことも。一切のことを胸に秘めたまま、事を終わらせるつもりだったのだ。

 それも全ては―――

 

「……けれど、結果はこの(ザマ)です。愚かにも賊に拐われ、護衛陣だけでなく かぐや様にまで多大な煩虜を負わせてしまった失態。ましてそれが、かぐや様に無断での行動ともなれば、責任は免れません……。そう遠くないうち……私は別邸の勤を(はな)れることになるでしょう」

「………」

 

 それで、いいのか。問おうとした声は、意味を持たなかった。

 黒髪に隠れた表情は見えずとも解る。真っ赤になるほど固く握られた手。悔しさ、哀しさ、侘しさ。抑えられえぬ感情に震える掌は、どんな言葉よりも鮮明に、彼女の心根を表していた。

 

 

「ソレを……四宮には話したのか」

「言えるわけが、ないでしょう……っ!」

 

 ひときわ大きな悲鳴が車内に響く。

 剥がれかけた仮面。その奥に覗く濡れた瞳が必死に訴えている。

 

 どうして、そんなことができよう。

 自らの失態、後ろ暗い失錯を勧んで明かすことなど。私はかぐや様の名と御姿を利用した。賊を捕らえる功績のために、なんの相談もできないまま、独断で事を推し進めた。それは言い逃れようのない事実だ。

 

 全ては保身のため。かぐや様の近従としての地位、その卑しくも小さなプライドを守るために、私は……

 

 

(―――違う……)

 

 そんなもの(・・・・・)、本当はどうでもよかった。

 いくら汚名を着ようと。どんな不遇な扱いを受けようとも。

 私が本当に怖かったのは……

 

 

 ―――あの子は気付くだろう。

 周囲から信頼する従者ばかりが左遷されて。使用人だけではない。白銀会長や藤原書記、生徒会メンバーを始め他の学友との干渉も禁じられるようになって。

 

 それが、誰の我儘を矯正(ただ)そうとしたのか。

 誰の行いに対する罰だったのか。

 

 周りがどれだけ欺こうとも、聡明なあの子は、きっと気がついてしまうのだろう。

 

 再び囚われた冷たい鳥籠の中、けれどその悲哀は、外の世界を知る以前とは比較にならない。心を許せる人は一人もなく……許せば、その人はまた遠くへと居なくなってしまう。

 私達を巻き込んでしまった後悔に、自分を追い詰めて……。

 自由など初めから望むべきではなかったのだと、心を押し殺して……。

 あの子はまた、昔のように心を閉ざしてしまうのではないか。

 

 私が7歳のとき。本邸で再会したあの子は、以前とは別人のように変わり果てていた。四宮の訓えに染まりきり、何も信じない、何にも期待しない、氷のように冷たい眼。

 

 また……あの子にそんな顔を浮かべて欲しくなかった。

 俗悪な本家の物言いなんかに、自分自身を否定して欲しくなかった。

 

 あの子が笑えるようになったのは、決して一人の力なんかではない。

 白銀会長に藤原書記、生徒会メンバーや学園の友人……そして、その中にはきっと私も。

 多くの人との出会い、奇跡にも似た偶然の数々が、あの子を変えてくれたのだ。

 

 何より―――あの子自身が、変わりたいと努力してきたから。

 

 

 私はただ……守りたかっただけだ。

 従者として。ずっと傍で見守ってきた姉として。

 あの子が必死に築き上げてきたもの。

 あの子自身が結んできた繋がりを。

 

 後悔して欲しくなかっただけだ。

 時に弱く、時に脆い。明かすことさえ恐ろしい心。

 それでも、誰よりも臆病で傷つきやすかった貴方が、誰かに心を開こうとした想いは―――

 

 決して、間違ったものではなかったんだって

 

 

 

 

 肩を震わせ俯く早坂。

 それでも、涙だけは頑なに見せようとしない彼女に、白銀は小さく息を零すと徐に懐から携帯電話を取り出した。

 

「ひとりで抱え込みすぎだ。アンタは」

 

 何を、と。不安げに顔を上げる早坂を他所に、連絡先から目的の人物を見つけては、電話をかける。

 2、3度のコール音が響き……

 

「――ああ、石上か?急ですまないんだが……四宮、近くにいるだろう?代わってくれないか」

 

 愕然と目を見開く早坂。携帯から耳を離した白銀は、勇むような瞳をぶつけてくる。

 

「四宮の傍を離れたくないんだろう?だったら、残る手は一つだ。四宮に全てを明かし、令嬢である四宮(アイツ)の口から、本邸に異議を申し立ててもらう。……それしか、アンタの異動を取り消す方法はない。」

 

「……やめて、ください……あの子にそんな事をさせられる筈がないでしょう……っ!

 貴方は知らないんです。かぐや様がどれほど本邸の執事達を恐れているか……」

 

 ……そう。あの子にとって、本家からの言いつけとは父親である四宮巌雄の意思と同じ。

 認められたいという願い。失望されたくないという想い。父へと抱く、敬愛と畏怖の入り混じる複雑な感情は、そのまま代弁者である本邸執事たち(カレら)への怯えへと現れ……これまで令嬢の身でありながら、一度とて反発することもしてこなかった。

 たとえ、それがどんなに厳しい躾であろうと、父から向けられた僅かな関心(・・)、人一倍家族からの愛情に飢えるあの子が、蔑ろに出来る筈がない。

 

 求めども満足に得ることの出来ない温もり。私にとって、母と交わした連絡帳がそうであったように……か細くも朧げな繋がりに縋る切なさは、痛いほどに知っていたから―――

 

 

「……確かに、俺は四宮の家については何も知らない。アイツが本家からどんな扱いを受けているのかも」

 

 早坂の必死な訴えに、白銀は微かに目を伏せ応える。

 何も知らないくせに、わかったような口をきかないでください。ふと、以前彼女に言われた言葉が脳裏に蘇る。

 それでも

 

「……それでも、アイツが一番大切なものは側に置いて離さないこと……。本当に大切な人が傷ついているのを黙って見ているような奴じゃないってことだけは知ってる」

「っ―――」

「弱いだけじゃないだろう。怖くて、頑固で、優しくて……それが俺たちの知る、四宮かぐやだろう」

 

 言い圧すような言葉、確信に満ちた意志を宿す少年の瞳に、息を詰まらせる早坂。差し出された携帯電話、受話口から漏れ出た微かな声が、少女の心を揺らした。

 

『会、長――?』

 

 聞き慣れた筈の声。けれど事件(あんなこと)の後だからだろうか、それは酷く懐かしく聴こえて……ただ耳に届いただけで目の奥にジワリと暖かいものが広がる。その声をも聞きたいと、気がつけば、震える手は携帯を自身の耳へと運んでいた。

 

「かぐや、様……」

『、早坂っ!!?』

 

 耳が痛むほどに大きな声は、驚愕、心配、歓喜、様々な感情が入り混じり、実際に目にしたわけでもないのに、瞼の裏にあの子の姿を思い浮かばせてくる。

 

 大丈夫か。どこも怪我をしていないか。誘拐犯に酷いことをされなかったか。矢継ぎ早に成される質問の数々は、けれどいつまで待とうとも、あれ程恐れた叱責の言葉は出てこない。

 いったいどれだけ不安だったのか。微かに混ざる息は、あの子が泣いているのだと教えてくれた。

 

『大丈夫なのね?ちゃんと、帰って来れるのよね?どこにも………行ってしまったりなんてしないわよね……?』

「かぐや様……」

『良かった……。本当に、良かった……』

 

 ポタリと。涙が溢れ落ちる音は、電話の向こうからではなかった。震える伝わる吐息。たったそれだけのことが―――幾重にも被り重ねた仮面を容易く剥ぎ取っていく。

 

 

 ああ――私は何て、愚かだったのだろう。

 

「ごめん……なさい」

『早坂?』

 

 何に対する謝罪か。不思議そうに聞き返すかぐや。

 それでも、一度解き放たれた想いの瀬は、留めどなく溢れ出して行った。

 

「ごめんなさい……っ」

 

 

 あなたに嘘をついて。

 

 こんなにも、哀しい思いをさせて

 

 何が姉だ。

 

 何が守りたいだ。

 

 本当に弱かったのは私のほう。

 

 本当に離れたくなかったのは、私のほう。

 

 ただ私が―――

 

 

 ずっと あなたの傍に 居続けたかっただけなのだ。

 

 

 

 

「あなたに……明かさなければいけないことがあるんです」

 

 

 少女は語り始めた。

 抱えてきた秘密。胸に隠してきた咎の全てを。

 零れ落ちる涙、ポツリポツリと啜り泣き呟く声は、今にも消え入ってしまいそうだったけれど……かぐやは聞き返すことも、責めるようなこともせず、ただただ彼女の話を聞き受けていた。

 時折、自ら語る咎の大きさに、逃げ出したくなるのだろう。ギュッと、握る力を増す手のひら。繋いだままの手、伝わる震えと恐れに、白銀は彼女を勇気づけるように、握られた手を同じ強さで握り返すのだった。

 

 今の早坂は、白銀の知る彼女の姿からは遠くかけ離れている。

 臆病で泣き虫。握り離さない手は、親から逸れまいと必死に怯える子供のようだ。

 

 ……けれど、だからだろうか。

 白銀には、きっと今の姿こそが、彼女の言っていた『本当の私』なのだと……

 

 

 なんとなしに、そう思うのだった。

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 

「早坂……っ!」

 

 辿り着いた秀知院学園。正門で待っていた四宮は、早坂が車から降りる姿を認めるや、駆け寄り抱きついていた。腕の中まるで子供のように泣き噦る四宮を、抱きしめ返す早坂。

 時刻11:30。正門は既に討論大会の見物客で賑わい、行き交う人々は皆何事かと驚いたように目を向けていたが、そんなこと気にも止めず、二人は再会の喜びを分かち合っていた。

 

 ……だがその空気を引き裂くように、冷たく嗄れた声が響く。

 

 

「それまで」

 

 

 決して大きくはない、しかし腹の底にずしりと響く声に、四宮たちはもちろん、白銀も正門の方へと振り返る。

 オールドシルバーの髪に、貴賓と厳格さを纏う漆黒の執事服。左目にモノクルを携えた初老の執事は、冷たく無感情な目線を少女たちへ投げかけていた。

 

 

「衆目環視の間。これ以上、四宮家の令嬢たる御方が、痴態を晒すのはおやめください。………早坂もいったい何をしている。護衛陣への報告がまだであろう」

 

 

 モノクルの奥に覗く瞳がギョロリと動き、早坂を射抜く。一切の温もりも宿さぬ冷たい灰色の眼。小さく、悲鳴にも似た息をもらした早坂は、弾かれたように四宮から手を離し―――

 

 

「黙りなさい」

 

「——、なにか?」

 

「黙れと言ったのです。今まで隠れてコソコソと。よくも私の大切な近従を虐めてくれましたね」

 

 

 離れかけた手を力強く握り返す四宮。

 威圧する言動、氷のような冷たい気配に、老執事は目尻を上げ、早坂もまた不安げに少女を見つめ返す。ただ1人、傍らから見守る白銀だけは微かに口元を緩めていた。

 この物言い、この威圧感は恐ろしくも懐かしい。それは白銀が記憶する中で、最も打破が難しいと知る人の貌だった。

 

 

「………嘖むなどと。我々はただ巌雄様の意志に従い、お嬢様の身を案じているのです。

 頂点(たかみ)に立つ者、その寵愛は万人に等しく注がれねばなりません。特定の個人が愛顧されれば、必ずや其処には軋轢が生まれる。四宮の訓えを覚えておいででしょう。

 『四宮成らば――』」

 

「『人に貰うな。成らば奪え』」

 

「っ……、」

 

「それも、訓えの一つでしょう?……嫉妬に溺れた貴方達の言葉なんて聞くも煩しい。そもそも、お父様が本気で早坂を取り上げるつもりなら、私が反感を抱く間さえ許されず、早坂はとうに左遷されてしまっている筈」

 

 

 違う?そう冷たく問い質す声に、老執事の浮かべる鉄仮面の端、微かに身表れる苛立ち。今まで従順を保ってきた少女が、これ程の反発を見せることなど、予想もしてなかったのだろう。

 四宮はなおも一歩踏み出して言い放つ。

 

 

「……今までの私は、ただお父様に与えられるまま、大切なものを守ることもしてこなかった。……けれどこれからは違う。

 何度でも言ってあげます。早坂は私の近従です。もしお前たちがそれを阻もうと言うのなら―――たとえその首を落としてでも、全力で奪いに行きます」

 

 

 

  一切の恐れも、怯えもなく本邸家従へと言い放つ四宮の姿に、早坂はまた目の奥に熱が帯びていくのを感じ、顔を伏せる。

 

 

「……会長の、言うとおりでしたね。

 あの子は私が思うよりもずっと強くかった。ただ私が忘れて……あの子を、信じてあげられなかっただけで……」

 

「四宮が怒っているのも、強くいられるのも、早坂のためだからだろう。………アンタだって、誰より四宮(あいつ)の弱さを知っていたから、たとえ一人でも本邸家従に抗おうとした。

 弱さを見せられるということは、甘えと信頼の裏返し。……正直、俺はその関係が羨ましいよ」

 

 

 慰めなのか、あるいは単なる本音なのか。俯く少女の頭に手を置く白銀。しかしその手は、突然眩暈に襲われたようにくらりとたたらを踏む姿により、すぐに離れた。

 やはり相当に疲れているのか。早く保健室に……そう告げようとした早坂だが、その背に不意に声がかかる。

 

 

「ハイ、ミユキ シロガネ」

 

「―――っ!?」

 

 

  呼ばれた本人以上に驚き振り返った早坂の目に映ったのは、長い口髭を手で玩び、のほほんと笑みを浮かべ立つ学園長の姿だった。隣には生徒会メンバーの一人、石上優が立ち、どこか居た堪れない表情でマイクと数本のコーヒー缶を手に抱えている。

 

 

「オ手柄デしたね。……デスが、まだ仕事が残ッテますよ」

 

「……分かっていますよ」

 

 

 特に驚いた様子もなく「ナイスだ石上」なんて返しては、早速コーヒーを飲み始める白銀。余程喉が渇いていたのだろう、缶3本を瞬く間に飲み干してしまうと、そのままマイク片手に体育館へと歩き出していった。

 

 

「―――ま、待ってください」

 

 

 その時になって、ようやく学園長の言う「仕事」の意味を思い出した早坂。白銀の背を追いかけ、咄嗟に彼の手を握り止める。

 

 

 事件のことで忘却していたが、会長は討論大会において司会を務めることになっていたのだ。だが彼は、既に早坂(わたし)を追うために満身創痍。今だって平然を装っているが、それが如何に無理を通したものであるか、演技を教えた早坂にはありありと見て取れた。

 

 

「誰か……他の人に頼むことはできないんですか?」

 

「皆、(すす)んでやりたがる役ではないし、時間もない。………何より」

 

 

 四宮の前で、そんなかっこ悪い姿は見せられない。疲労の浮かぶ土色の顔で、なおもそんなことを言う彼に、早坂はぐっと目を伏せる。

 

 

「どうして……」

 

 

 胸に湧き上がる、悔しさにも似た情動。

 どうしてそんな無茶ばかりをするのか

 一人で背負い過ぎだと言うのなら、それは貴方の方だ。

 

 

 貴方が今日という日に向けて、どれだけの苦労を重ねているかも知っていた。進行役(ロール)の修練、語学の習得……けれどそれが望んだ苦労でないのなら、誰かに代わってもらえれば其れに越したことはない。

 

 自分の代わりが居るのなら、それで―――

 

 

  そう思い抱いた途端、ハッと息を飲む早坂。

 実際にそう(・・)言われて。突きつけられて。一番悔しさに震えていたのは誰だったか。

 

 

「別に………アンタと同じだよ」

 

「……え…?」

 

「自分がどれだけ出来ない奴かなんてことも知ってる。けれど だからこそ………頑張ったなら認められたいだろう。上手くいったなら、ちゃんと誰かに見て欲しいだろう。そう願うことは……別に、我儘なことではないんじゃないか」

 

 

 呟くように残し、再び体育館へと歩き出していく白銀。離れていく手のひら、僅かに残る温もりを胸に抱いたまま、遠くなっていく背中を早坂は見つめることしかできなかった。

 

 

「……早坂先輩。これ」

 

「……?」

 

 

 名も知らぬ感情が胸に広がるなか、ふと呼ばれた声に振り返れば、石上会計が何かを手渡してきていた。銀色に光る小さな円盤。100円玉硬貨2枚。

 

 

「コーラ買ってきてください」

 

「え……。え?」

 

「石上くん。あなた私の早坂を使い走ろうだなんて、随分と剛毅になったものですね」

 

「えっ!?いや違っ……!会長のために買ってきてあげようと……!」

 

「会長……?コーヒーじゃなくていいんですか?」

 

 

 いつの間に這い寄ってきていたのか、地の底から湧き出るようなオーラを放ちながら、背後から顔を出すかぐや。途端に涙目になる石上だが、早坂からの問う声に自分を落ち着けるように咳払い一つ、真っすぐに向き直る。

 

 

「確かに会長はコーヒー好きのイメージがありますけど……本当に頑張った後の自分へのご褒美は、いつもコーラって決めてるんです」

 

「私も会長に賄賂(おねがい)するときはコーラを持ってきますよ!」

 

 

 エヘンと胸を張る藤原書記。突然出てきて何を口走るのだろう この子は。

 

 

「こういう大きなイベントの時は、いつもは僕から用意しておくんですけど……今回は、先輩の手から渡した方がいいと思ったので……」

 

「………」

 

 

 手のひらの硬貨へと目を落とす早坂。握りしめればジワリと、自身の体温が溶け込んでいくのが分かった。

 

 

「お金は……返します。ちゃんと自分で買って……私の手から渡します」

 

「……。わかりました」

 

「いまカラ買っても、渡す頃にはヌルくなってしまいますヨ」

 

 

 

 割り込んできた声に振り返れば、学園長が体育館へとエスコートするように、手招きしている。

 

 

 

「さあ、まもなく開演デス。褒美のハナシは後。

 いまはシッカリと彼の勇姿を見届けてあげるコトが大切でショウ?」

 

 

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 ―――その後、行われた全国討論大会は多くの人々に記憶に残すこととなった。

 

 

 全国からより集められた選りすぐりの選手達。体育館常設の巨大スクリーンには、グラフや年表を始めとした多種多様の資料が掲示され、確固たる理論と裏付けの元、互いに一歩も譲らぬ論議が繰り広げられていく。

 

 

 選手たちの手腕もまた様々。相手側の矛盾点を捉えるのが特段に上手い者。話術とジェスチャーを合わせ、より深い説得力を生み出す者。資料に敢えて隙を作り、相手側に突っ込ませることで強引に自分の論理(ペース)に持っていくような猛者もいた。

 

 

 そして白熱する舌戦の中で、同じくらいに存在感を放っていたのが、司会役の白銀である。

 複雑な専門用語が立ち並び、傍聴者側が置いてきぼりになりやすい討論大会。加えて、会話を主とする競技形態は互いの意思疎通が何より重要となり、選手だけに任せていては解釈の飛躍や話の脱線も起こりやすい。それが言葉の異なる他国籍の生徒も参加してくるなら尚更のこと。

 だからこそ、互いの主張を逸早く読み取り、選手間だけでなく観客側にも分かりやすく伝達(アウトプット)する白銀の存在は、試合進行を支える重要な柱となっていた。

 

 

 極め付けは決勝戦。勝ち上がった秀知院学園チーム、「傷舐め剃刀」のべツィーによってなされる徹底的な人格否定に、マイクさえ握れなくなるほど泣き崩れてしまった選手を、司会役の白銀が懸命に励ましながら討論が続くという、なんとも異様な試合展開。いつしかべツィー1人を相手に一丸となって議論に挑んでいく様は、大会方式としては極めて逸脱したものだったが……自分の学園のチームと敵対することになっても、他校の生徒を助ける姿。その心意気は、参加選手だけでなく観客達にも、白銀の……延いては彼が会長を務める秀知院学園の徳の高さを知らしめることとなった。

 

 

 健闘むなしく、大会は結局べツィー率いる秀知院学園チームが大勝。それでも試合後、決勝で共に壇上に上がった選手は、涙を流し何度も頭を下げては会長と握手を交わしていた。

 

 

 ………その姿。流す汗に光を弾けさせ、声を張り上げる試合中の雄姿も。

 観客席に座る早坂は、買ったばかりのコーラを握りしめたまま、片時も目を離すこともなく見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 

 

  拝啓、白銀御行様。

 

 

 

  ゆく秋の寂しさ身にしみるころ、いかがお過ごしでしょうか。

  月日が経つのは早いもので、あの事件から早7日。先ずはじめに、この7日間、貴方に一切の連絡が取れなかったこと。学園に顔を出せず不安を抱かせてしまったことを、お詫びさせてください。

  あの事件の後、事後処理の関係により暫く別邸を離れていましたが、私は今も変わらずかぐや様の近従として仕えさせていただいて―――』

 

 

「……(かった)い」

 

 使用人用の私室にて一人、自らが書き記す手紙の内容に、重い溜息を零す早坂。

 取り出される新たな用紙。カリカリと鳴る万年筆の音。『拝啓 白銀御行様』。この文頭で書き始めるのも、これで21回目か。机横のゴミ箱は既に半分近くが、紙くずで埋め尽くされてしまっていた。

 

 一体全体、どうしてしまったというのだろう。

 あの日以来、ふつふつと胸の奥から湧き上がってくる感情の波。心を制御することなんて、今までは意識するまでもなく出来ていた筈なのに、焦れったいような……擽ったいような……自分でもよく分からない情動に振り回されてばかりいる。

 

 この手紙だってそうだ。記したい内容、伝えたい事はハッキリしている筈なのに、遅々として筆が進まない。もっといい文章はないか。これで 感謝の気持ちはちゃんと伝わるか。そんな想いばかりが急いては、筆を空回りさせる。この手紙を実際に会長が手に取り、読んでいる姿を想像するだけで、どうしようもなく思考が熱を帯び、手を震わせるのだ。

 

 ―――あれから。

 

 討論大会を終えた会長は、そのまま電池が切れてしまったかのように眠りに落ちてしまった。

 石上会計に肩を担がれ、いったい何時の間に呼んでいたのか、書記ちゃんの用意した車に乗り、妹さんと一緒に自宅へと送迎されていく白銀会長。私とかぐや様は看護に名乗り出る間さえなく………用意していたコーラも、結局渡せずじまい。あの図ったかのような手際(タイミング)の良さ。あの時だけは、かぐや様が書記ちゃんを呪おうとする気持ちが少し分かった気がした。

 

 あの日渡せなかったコーラ缶は、今も大切に自宅の冷蔵庫に保管している。新しく買うことも出来たが……それでは意味がないのだと、自分でもよく分からない拘りにあの一本を手放せずにいる。手紙だってそう。連絡を取るだけならラインや電話一つで出来るというのに、頑なにそれを拒んでしまう自分がいる。

 ほんとうに、らしくもない。非効率というか、非論理的というか―――

 

 

「あーもうっ」

 

 バンッと机を叩き、年甲斐もなく……いやまるで年相応の少女のような声を上げ立ち上がる早坂。

 こんなモヤモヤとした気持ちでいてはまた1日を無駄にしてしまう。要リフレッシュ。いざお風呂場へと向かうべく、棚から入浴剤の箱と用具一式を持ち出しては、廊下へと躍り出るのだった。

 

 

「…………」

「…………」

 

 だが、タイミングが悪かった。勢いよく開けた扉の先、丁度廊下を通り過ぎていた老執事と目が合う。

 ヒュッと細くなる息。休暇真っ最中といった早坂の様相に、老執事はギラリとモノクルを光らせ、より一層眉間に皺を増やしては、何事かを言おうと口元を歪める。

 

 だが、その言葉を遮るように突如響く電子音。

 見れば彼の胸元、かぐや様が使用人呼び出しの際に用いる通信機からであった。発せられる色は赤。『緊急性高し』『とにかく早く来なさい』の意。

 一瞬顔を顰めた老執事だが、自制を効かせるように咳払い一つ、すぐに無表情の鉄仮面を被ると、足早に廊下奥へと歩き去って行った。

 

「…………ふう」

 

 薄れていく重圧にほっと撫で下ろす肩。何をされたわけでもないのに、嫌な冷や汗をかいてしまったと思う。

 

 

  あの一件以来、かぐや様の決死の申し出により、私達、別邸使用人の異動に関する案件は、全て白紙に戻った。

  早坂以上に自分の身の回りの世話を出来るものはいない。そう声高に豪語する かぐや様に対して、しかしそこで引き下がっては本邸家従の名折れ。断言するのはせめて我らの働きを見てからにしてほしいと、本邸家従達は二週間の期間、別邸で給仕に就くことを申し出た。

 

 ………だが、かぐや様の我儘ぶりは、明らかに普段に比べて5割増し。私への仕打ちに対する仕返しも兼ねているのだろうが、その横暴ぶりに翻弄される本邸家従の姿は、見ていて同情さえ抱くものだった。彼らの長たるあの老執事も、この一週間で随分と老け込んでしまったように見える。

 

 対して私の方は、彼らの働く期間、事件後の療養も兼ねて休暇を戴くことになった。家事ダメ。給仕ダメ。とにかく安静にしていなさいと。かぐや様の言い付けは、其れは大袈裟なものだったが、心配してくれている気持ちわかったので素直に頷くことにした。

 

 ……が、最近ではそれもちょっと後悔もしている。

 

 そも突然のお暇。休むことに慣れていない私の休日は、まずどう休憩を取るべきか、何がしたいかを箇条書きすることから始まり。そしてそれらも、持ち前の要領の良さのせいで、大抵をやり終えてしまっていた。あと残るは会長へ手紙を書くことのみ。

 

 加えて、先の本邸家従達の奔走ぶり。彼らが必死に働いている中、手紙を書くことにばかり時間を使っている我が身を省みると、なんとも申し訳ない気持ちが浮かんでくるのだ。

 

(……なんか、この歳でワーカホリックみたいで嫌だな……)

 

 入浴剤二箱を浴槽にぶちまけながら独り言ちる早坂。実はかぐや様に内緒で、こっそりとかの老執事に給仕の手伝いを申し出たこともあったのだが……

 

『施しは結構……我々にも矜持というものがある』と一蹴されてしまった。

 

『……何より…フフ。この我儘ぶり……。母君にお仕えした日々を思い出します……。やはり血は争えませんなぁ……フフ…フ…』

 

 疲労の浮かぶ顔で虚ろに笑う老執事に、素直に頷くことにした早坂。というか、ちょっと気持ち悪くて引いた。

 あまり無理をし過ぎて、あの誘拐犯の男のように潰れてしまわないことを願う。

 

(……そういえば)

 

 ふと浮かんだ男の顔に、以前にも一度、今と同じように かぐや様が使用人にキツくあたる時期があったことを思い出す。

 

 勤務実績も優秀とされ、本邸への栄転も確実と評価されていた当時の彼。

 ………だがその実は、異常な出世欲と顕示欲を隠し持ち、他者を蹴落とすために、同じ使用人同士でも給仕の粗探しや妨害、時に失敗の捏造まで行うような男であった。

 

『早坂の娘のくせに、こんなことも出来ないのか』

 

 未だ耳に残る嘲笑。その鉾先が、かぐや様の近従である私に向くのもまた当然の成り行きだったのかもしれない。執拗なまでの虐めは、私の心に決して小さくはない影を落としていた。

 

『珍しいわね。早坂がこんなミスをするなんて』

『……申し訳ございません』

『何かあったの?』

『いいえ。かぐや様のお手を煩わすような事は、何も』

『………。そう。ならいいわ。下がりなさい』

 

 まだ氷の令嬢と呼ばれていた頃のかぐや様。

 手元の本から目も離さぬまま、私の様子になどまるで興味もなさそうだったけれど………思えば、彼への当たりが強くなったのは、それから少し経ってから。

 きっと、あの時も……

 

 

(やっぱり……会長の、言う通りでしたね)

 

 

 今も昔も変わらない。かぐや様は、怖く、強く、優しく―――そしてずっと私を、守ってくれていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「くぷぇ―――ほ」

 

 浴室に立ち込める白い湯気。47度にまで茹だった湯船に首深くまで浸かれば、体の輪郭がぼやけてくるような、心地よい浮遊感に身を包まれていく。

 

『演じない私の方がいいって言ってたよね。だったら―――本当の私を見せてあげる』

 

 熱に溶け微睡む頭が思い出すのは、かつて自分が告げた言葉。まだ会長に正体を明かす前、私が“ハーサカ”として振舞っていた頃の記憶。

 

『人は演じなければ愛されない。それは紛れも無い本心です。逆を言えば、「本当の私」というのは、それほど取るに足らない存在なんです。強く見せなければ……良く演じなければ、誰も振り向いてくれないほどに。それでも……そんな私でも。貴方は「本当の私」が良いと言ってくれますか?』

 

 当時の私には分からなかった。

 自分が彼に何を明かしたかったのか。

 本当の私を見せて。ありのままを曝け出して。

 それを認めて欲しかったのか。それとも否定して欲しかったのか。

 時に強く、時に弱い、形を持たぬ心の在り処に迷い揺れていた私。

 

 けれど―――それも今なら分かる気がする

 

(結局私は、どちらも(・・・・)認めて欲しかったんだ)

 

 仮面を被ることでしか、弱く臆病な己を隠しきれなかった私。

 それでも、たとえ演技であったとしても。

 かぐや様の専属侍従となるべく……あの子の側にいたいと、積み重ねてきた努力の数々は、決して偽りのものなどではなかった。

 

 演じることに偽ってきた弱い私も。

 演じることで頑張ってきた強い私も

 そのどちらもが『本当の私』で……

 

 片方だけを認めることも、片方だけを否定するなんてことも、して欲しくはなかったのだ。

 

 

 ―――嗚呼。思い至ってみれば、何で子供らしい。

 稚拙で我儘な願いなのだろう。

 

 ………だけど

 

『別に………アンタと同じだよ』

 

『え……?』

 

『自分がどれだけ出来ない奴かなんてことも知ってる。けれど だからこそ………頑張ったなら認められたいだろう。上手くいったなら、ちゃんと誰かに見て欲しいだろう。そう願うことは……別に、我儘なことではないんじゃないか』

 

 

 ブクブクと、潜るように湯船の中に沈んでいく。こんなにも頭が火照っているのは、のぼせてきているのか。

 それでも湯から上がる気はしなかった。上がってはきっと……この火照りに対する言い訳が出来なくなってしまう。

 

 

 

「………しい」

 

 白湯気の漂う天井にポツリと呟く。それはかつて、この浴場で1人零した言葉。そして……

 

 

 忘れないで。『愛』という字は、心を受け入れる、と書くの。

 

 

「………うらやましい」

 

 

 あなたが心を開き、もしその全てを受け入れてくれる人がいたなら

 

 

「一度くらい。私もあれくらい誰かを好きに―――」

 

 

 その人はきっと、あなたを――――

 

 

 

「――――」

 

 

 

 

 口にした名前は………しかしそれはまた泡となり、声になることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 




■ あとがき □

最後まで読んでいただきありがとうございました!GWには書き上げると言っておきながら2ヶ月近い遅刻、本当に申し訳ないです(泣)

さてさて、ぶっちゃけ終盤のお風呂シーンを書きたかったがために始めたこのシリーズ。実際に恋仲にならずとも、似た者同士、早坂さんに会長を意識して欲しかったというのが、私の希望でした。終わり方としては中途半端な感じに……。

けどそこに至るまでは本当に長い道のりで、会長と早坂さんを仲良くさせるにはどうしたら良いか。完璧超人の早坂さんに心を開かせるには?など、一人悶々と構想と妄想を重ねては、結果的に早坂さんには誘拐されていただくことになりました(笑) 。
追走中の心理戦や、白銀会長による救出シーンとかは、もっと格好良く描きたかったのですが、作者の知識と実力不足のせいであんな脳筋な解決法に………すまぬ……すまぬ。なのでせめてもと、救出シーンには分かる人は分かるネタをぶっ混んでおります。Ibを……魔女子さんのその後を早く……アカ先生ッ!

最初は会長が早坂の本心を暴き出す予定だったのですが、書いているうちに二転三転、やっぱり早坂さんの本音を聞き出せるのは かぐや様だけかなぁ……と。あと かぐや様にも格好いい見せ場作りたかったので、この顛末に。剣道部部長や天文部部長については完全に妄想。誘拐役の女主人さんについても、チョイ役のつもりだったのが、途中からやたらと感情移入してしまって、裏設定を付け足したり根っからの悪人にすることができなかったりと……オリキャラが苦手だった人はホントごめんなさいね。でも後悔はしていない。

……で、ここからが恥ずかしい裏話。実はこのssを描き始める当初、会長と早坂さんは従姉弟同士なのではと疑っておったんです。同じ青色の鋭い瞳、圭ちゃんと早坂さんの似たような言動、三人ともかぐや様大好きなところとか。まだ早坂さんの両親が未登場だったので、早坂母と白銀父が兄妹で、早坂家に嫁いだ妹が厚意により白銀父を誘うも、親から継いだ工場を守るために白銀父がコレを拒否。結果2人の不仲が進み、互いのことを知らされていなかった……なんてバックストーリーを勝手に妄想していました。今の会長と圭ちゃんの関係が更に拗れてしまった感じ。
もし白銀御行の名前に『J』が由来しているところがあったら、愛(I)・御行(J)・圭(K)の並びが出来るんだけどなぁ、などと考えながら、本作でジョーカーやらジャックやら、やたらJに因んだ単語を会長に押し付けているのはその名残です。いつか後日談として早坂さんと圭ちゃんの話も書いてみたい。

さて 語りたいことはまだまだありますがこの辺で。もっと文章量減らして、読みやすい文章書けるよう精進していきます。そすれば投稿ペースも増えますからね。

ではではアデュー!




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