第二次平将門の乱 (フリート)
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始まり

プロローグなので短めです。


 窓の外では雷が鳴っている。

 雨は降っていないが、風はびゅうびゅう窓を叩き割らんばかりに吹いていた。どす黒い雲が天に広がっている。轟々と雷鳴が響き渡り、雷光が刹那の輝きを放った。

 変わらない。『あの日』とまったく変わらない――思わず陸奥は声もなく笑った。

 坂東鎮守府提督室。鎮守府の長たる提督が執務を執る部屋である。現在、この部屋にいるのは陸奥を含めて二人。後の一人は、言うまでもなく提督である。

 

「何がおかしい」

 

 提督が突然笑った陸奥を睨みつけた。

 気丈に振る舞ってはいるが、声は上擦っているし、身体は震えている。この提督の様子がおかしかったのか、今度は声をあげて笑った。

 

「おかしい? ああ、おかしいとも」

 

「何?」

 

「変わらん、変わらんなぁ……時代を経ようともお前たち中央の人間は何も変わらん。その反応。誇りだけは一丁前だ。それがおかしくて笑ったのよ」

 

 妖艶な容姿や格好とは裏腹に、陸奥は呵々と笑う。それが不思議とよく似あっていた。

 そんな陸奥を訝し気に見る提督。彼女の発言の意味を捉えようとしているのだ。

 陸奥もそれは分かっているが、意味を教えることはない。言ったところでどうにもなるものではないし、信じてもらえないだろう。また、信じてもらう必要もない。

 どうせ、この男はこれから黄泉の国へ旅立つのだから。

 

「さて、そろそろ死ぬ覚悟は出来たか?」

 

 折れよとばかりに陸奥は右手に力を込める。持っているのは薙刀だ。あいにくと自前のものがないので、借り物である。提督を殺すだけなら武器は要らない。縊り殺せばよいのだから。しかし、首を刎ねるとなれば、刃物は必要である。

 提督が二歩後ろに下がった。怯えが見てとれる。二歩しか下がらなかったのは、壁に阻まれたからだ。

 

「お、俺を殺すのか?」

 

「そう言っておるではないか。聞こえなかったか? では、もう一度問う――死ぬ覚悟は出来たか?」

 

「どうして俺を……」

 

 驚き呆れかえることを言う。死を間際にして痴呆したかと陸奥は鼻を鳴らした。

 

「分からぬ筈もあるまい、他ならぬお前がな。あれほどの圧政、苛政……この言い方はおかしいであろうか、まあ良い。お前の所為でどれほどの娘たちが苦しみの声をあげ、涙しておると思うか。天が見逃し、聞き逃そうとも、この俺は黙っておらんわ」

 

「こんなことをして只で済むと思うのか?」

 

「済まんだろうな。そして只で済ませる気はこちらにも毛頭ない。最悪も予定の範囲内だ」

 

 さらりと陸奥は答えた。

 そして言葉を交わすのはもう良いだろうと、陸奥の身体から刃のような戦気が放たれる。

 薙刀を両手に構えると、再び轟音。

 雷鳴だ。雷は神鳴りと言う。『あの日』の雷は、陸奥に対しての怒りのものだった。今にしてみれば、自分でもそう思う。けれどもこの雷は嘉しているのだ。

 此度の義挙を神は応援してくれている。天だって、見逃しも聞き逃しもしないのだ。

 

「だ、誰か! 誰か助けてくれ!」

 

 突如、恥も外聞もなく提督が喚き出した。目を剥き、歯を剥き、狂ったように泣き叫ぶ。恐怖がちっぽけな誇りを呑み込んでしまったのだ。

 何と情けない。時代を経ても変わらないと言ったが前言撤回だ。昔の方がまだマシであった。まだ強い男であった。

 

「黙らんか! お前も武士(つわもの)であるならば、屹然としておれ!」

 

 陸奥が吼える。

 聞かず、提督はわあわあと首を横に振り、顔を歪めて、涙を垂れ流す。

 これ以上は聞くにも見るにも絶えない。陸奥は眦を裂けんばかりに見開くと、次の瞬間、鈍い音が提督室に響いた。

 提督が宙を舞う。いや、提督の首だけが宙を舞っている。恐怖に歪んだ表情を浮かべて宙を舞い、ごろりと地面に転がった。

 

「おお、雨が降ったわ」

 

 そう言う陸奥の視線は窓の外を向いていない。首のなくなった提督の身体に向いている。その首のない提督の身体から、確かに雨が降っていた。

 

「運が良ければ、再び現世に蘇ることもあろう。俺が証人だ」

 

 雨で真っ赤に濡れた提督の首に話し掛けると、むんずと左手で髪を掴み持ち上げた。

 

「最早、これで後には退けん。上手く行けば俺の首一つでどうにかなるだろうが……艦娘――船が人の姿を得た存在。彼女たちは喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、そして泣く。変わらぬ。坂東の民とも、蝦夷とも何も変わらぬ。だからこそ、俺が救わねばならぬ」

 

 天上の神々にか、あるいは自分にか、決意を語ると、陸奥は首を持ったままに、提督室を後にするのであった。

 



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艦娘
その①


 風が吹いている。

 穏やかで、柔らかい、心地の良い風だ。

 

「海とは、良いものだな」

 

 風と同様に柔らかい声音だった。どことなく甘く、そして張りのある声でもある。外で呟いた独り言でも、通りが良い。戦艦・陸奥の声だ。

 陸奥は艦娘である。肌を晒すような軽装と、その肉付きの良い身体つきは妖艶の一言に尽きるが、引き締まった表情に見える瞳は硬質なものだ。だが、冷たさはない。子を見守る父のような瞳で、緩やかに揺れる海を眺めている。

 

 隣で陸奥と同じ光景を眺めるのは、長門だった。陸奥の姉である。髪の色も違えば容姿もさほど似通ってはいない。言われなければ姉妹だと気付かれることはないだろう。ただ、時折表情に宿る凛々しさだけは、姉妹の似通ったところであった。

 海を眺める陸奥の横顔に、長門は微笑み掛ける。

 

「お前は、暇さえあれば海を眺めているな」

 

「ああ。俺にはとんと縁がないものだった。見たことないわけではなかったがな。幼い頃、川ではよく遊んだものだったが、やはり、川と海はまったく違うものだ」

 

 まるで母上と共にあるような、そのような気持ちになれる。長門への返答を、陸奥はそう締めくくった。

 艦娘とは、軍艦が人の身を持った存在のことである。故に海に馴染みがないという陸奥の言葉は、いささか首を傾げざるを得ないところだったが、理由はある。

 陸奥は、確かにその身は戦艦・陸奥のものであったが、その魂は違う。平小次郎将門。桓武天皇五代の裔であり、平安の世にあって関東に覇を唱え、時の朝廷に反旗を翻した武者である。陸奥は、その将門の転生した姿だった。

 実を言うとそれは正確ではない。一人の武者である将門の後、艦娘・陸奥の前にもう一つ転生した身体がある。ただその時に将門としての自我はあまりなく、漠然と違う肉体を持って蘇ったという認識しかない。

 将門が将門として自我をはっきりと宿したまま転生したのは、陸奥が最初だ。だから、陸奥は将門の最初の生まれ変わりという認識で問題ない。

 

 この事実を知るのは、現在、陸奥の姉である長門ただ一人である。この事実を知りながらも、長門は惜しみない愛情を陸奥に注いできた。そんな長門に対して、陸奥は心の底から姉として親しみを抱いていた。

 

「海は母上のようなものだ。しかし、時に荒れ狂う姿は父上にも似ている。父上は勇者だった」

 

 父上とは平良持のことである。陸奥鎮守府将軍として剛腕を振るい、息子将門に負けず劣らずの勇将だった。陸奥として生まれ変わった今でも、その敬慕の念は途絶えていない。

 父のような武者になる。将門の頃に抱いた夢は、陸奥になっても引き継がれていた。

 

「母上にも父上にも似るその姿は、まるで神の如し」

 

「お前はそんなことを考えていたのか? やれやれというところか」

 

 長門が困った様に表情を崩した。

 

「別に構わんだろう、俺が何を考えていようと。ならば訊ねるが、姉上は海にどのような思いを抱いているのだ?」

 

「私か? そうだな……」

 

 沈黙する長門。たっぷり一分ほど時間を費やしてから、重々しく口を開いた。

 

「私にとっては、海など墓場でしかない」

 

 陸奥が持っていない記憶。鋼鉄の身体だった時の記憶。長門にとっては、海など殺し合いの舞台で、人間や自分たちの墓場でしかなかった。一体どれほどの魂が、この広大な海に漂っているのか。軍艦の頃に体験した忌々しい戦争の記憶は、長門から海への好感情を奪い去っていた。

 

「この思いはきっとこれからも変わることはないだろう。こうして艦娘として生まれ変わった今でも、やはり戦争があって、やはり墓場だ。海は、私の大切な人々の魂を奪っていく。実に忌々しいなぁ」

 

 知らず知らずのうちに、長門は拳を握っていた。

 

「左様か」

 

 長門に答えたわけではない。こちらも意図せずの独り言であったが、長門にはしっかりと聞こえていた。

 

「左様だ」

 

 長門はそう返してから口を閉じた。陸奥も口を開かなくなった。お互いの思いを胸に、ただただ海を見つめる。

 姉は海に良い感情を持ち合わせていないようだが、やはり陸奥にとっては母なる、あるいは父なる海だった。瞼を閉じ、安らぎを感じる。

 暫くしてから、陸奥は肌で海の風を感じながら、閉じた口を開いて長門に話し掛けた。

 

「時に姉上、俺に何か用があったのではないか」

 

「ああ、すっかり忘れていたよ。私はお前を探してここに来たのだった」

 

「ふむ。して、どのような用件だ? 面倒ごとか?」

 

「違うぞ。そして用があるのは私ではない。加賀だよ、お前に用があるのは」

 

 加賀。その名を聞いた瞬間、陸奥は瞼の裏に一人の女性を思い浮かべた。彼女が自分を呼ぶということは、用件は一つしかないだろう。のんびりと海を眺める時間もこれでおしまいだ。

 陸奥は名残惜し気に海をもう一度見た。それから大きく息を吸って吐く。

 

「さてと、参るとしようか」

 

「おう、行け行け。可愛い可愛いお前の妹分が待っているぞ」

 

「言われずとも、無駄に待たせる趣味は持ち合わせておらぬ」

 

 言って、陸奥は海を背に歩き出すのであった。

 

 



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その②

 長門と別れた陸奥の姿は的場にあった。そして的場にいる以上、その手には弓が見受けられる。昔取った杵柄と言うべきか、きりりと大きく引き絞られる弓、背中に回り込むように左右へと開かれた両の肩は、一切の歪みがなかった。流石の構えである。

 陸奥の視線は、これから射るつもりであろう的をしっかと捉えて離さない。瞬間、陸奥の手から矢が解き放たれた。矢はひゅうひゅうと唸りながら真っすぐ突き進む。

 力強い音が静寂の中で響いた。的は見事に射抜かれている。それを視界に収めた陸奥は、ゆったりと弓を倒した。

 

「お見事です」

 

 敬意の念が込められた声を、陸奥は聞き届けた。振り返れば、そこには一人の女が姿勢を正して座っている。加賀という者で、陸奥と同じ艦娘だ。陸奥がこの的場で弓を握っている理由を作った女でもある。

 

「次はお前の番だ」

 

 陸奥は加賀の言葉には答えずに、その場から離れた。

 すると、立ち上がった加賀は、先ほど陸奥が立っていた場所まで歩を進め弓を構える。引き分けを大きくし、ぴんと上体を伸ばしてから、無心の内に矢を放った。

 結果は陸奥と変わらない。

 

「おう、成長したな」

 

 射った本人以上に、陸奥は満足気な様子を顔に表した。

 それもその筈で、陸奥は加賀の弓術における師である。弟子の成長を目の当たりにすれば、これに喜ばない師はいない。

 師に褒められて、加賀のきつく見える瞳が嬉しさに緩んだ。滅多に表情を変えない加賀であるけれど、陸奥の前では子供のようになってしまう。

 加賀にとって、陸奥は師であると同時に姉であった。素を出して甘えられる相手だ。

 

「陸奥さんのお陰です」

 

「お前の努力の賜物だ。自分を誇るが良い。よし、このまま終わるのも味気ない。もう少し続けよう」

 

 陸奥の提案で、二の矢、三の矢を交互に放った。ズバンズバン、と的を射る音が続き、十の矢をもってキリが良いということで終わった。

 二人は息を整えると、向かい合ってその場に座り込む。数秒互いの瞳を覗き込んでから、おもむろに陸奥が口を開いた。

 

「加賀、弓というのはな、恐ろしい武器だ」

 

 加賀は何を今更というような顔をした。

けれども陸奥は、今更だからこそ話しておかなくてはならないと思っていた。成長著しい弟子が、弓という武器の本質を、弓を扱うことの意味を取り違えないよう、師として、姉として教えておく必要がある。

 空気が変わったのを理解し、次第に加賀の表情には真剣みが出て来た。その表情の変化を見据えながら、陸奥は言葉を続ける。

 

「よく聞け、加賀。弓はな、人を、生き物を殺せるのだ。遠く離れた位置から、どんな生き物でも殺傷してしまう恐ろしい武器、これが弓だ。俺が、お前がこうして何気なく扱っているものがそういう恐ろしいものであることを、再度しっかりと認識しろ」

 

 加賀の視線が左わきに置かれた弓に移る。理解してはいたが、こうして言葉にされると、また重みが違った。弓を持ち上げてみると、加賀はいつもよりもずっしりと弓が重たい気がしていた。

 

「認識したな。では、その上で俺はお前にこう言おう。弓を扱うのなら、殺人の上手となれ」

 

 殺人の上手。あまり気持ちの良い言葉ではなかった。どことなく蔑みが入ったような、少なくとも純粋な誉め言葉のようなものではない、と加賀は感じていた。

 そんな加賀の疑念に、陸奥は答える。

 

「この言葉はな、都の貴族どもが武士を蔑む時に使っていた言葉だ。自分の手も汚さずに、忌々しい奴らめ。今、思い出しただけでも腹立たしいわ」

 

 陸奥は乱暴に吐き捨てた。堪えきれない怒りが口をついて出て来たというような感じである。

 怪訝そうに加賀は怒れる陸奥を見た。貴族と武士がいた時代など、艦娘が軍艦であった頃よりももっと昔の時なのに、まるで自分が言われたかのような反応だ。

 

「実際に言われたわけでもないのに、どうしたのですか?」

 

「ふふ、実際に言われておったからな、と言ったらどうする?」

 

 怒りを抑えた陸奥は、揶揄うように白い歯を見せて笑う。

 

「もう、相変わらず冗談ばっかり」

 

 加賀が赤く染まった頬を膨らませる。

 無論のこと、陸奥にとって冗談ではない。前世において幾度となく言われたものだ。だが、そのことを加賀には教えない。ことさら、人に言う必要があるとは思えないからだ。長門のように気付かれでもしない限りは、平将門という前世の話をする気はない。

 

「ははは、許せ、性分だ。まあしかし、そういうことだ。蔑みの言葉ではあるものの、真理はついている。弓を扱うということは、人殺しの武器を扱っており、その腕前が上達すればするほど殺人の腕が上がっている。そのことの自覚は必要だ」

 

「……はい、肝に銘じておきます」

 

 自分なりに陸奥の言葉の意味を考えて、加賀は深々と頷いた。加賀の頷きを見て、陸奥も頷き返す。

 

「うむ。お前は筋が良いからな、これからもっと鍛錬に励めばどんどん上達していくだろう」

 

 言われて少し複雑な心境の加賀である。殺人の上手の話を聞く前であれば素直に嬉しかったのだが、された後だとどうにも喜びは少ない。殺人鬼や殺し屋、暗殺者ではないのだから、殺しの腕前が上がるとか言われても、正直、と言ったところだ。

 そんな加賀に陸奥は一層破顔してみせる。

 

「俺も油断していると、こうひゅっとやられてしまいそうだな」

 

 とんとんと中指で、陸奥は眉間の辺りを叩く。

 この冗談は流石に面白さの欠片もなかった。何で、師や姉と慕っている人物に矢を射かけなくてはならないのか。ムッとしながら、加賀は陸奥の顔を睨みつける。

 

「流石に頭にきました。いつも面白くない冗談ばかりですが、今のは輪に掛けてひどいです」

 

 それからしばらくそっぽを向いていた加賀であったが、陸奥の反省した様な雰囲気を見て、陸奥の方に視線を戻そうとする。その時、虫が鳴いた。ぐるるると猛獣が牙を剥き出しに獲物と対峙した時のごとき声で、静かな空間だからなおのこと響いた。

 一瞬加賀の動きが止まり、次いで、陸奥が大口を開けた。

 

「わははは、まあ恥ずかしがる必要はない。生理現象だ。それだけ、熱心に弓の鍛錬をしておったということであろう。加賀、飯だ、飯にするぞ」

 

 加賀は今日一番熱くなった頬を両手で抑えて、おずおずと首を縦に振るのであった。

 



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その③

「陸奥」

 

 大和の声がした。

 美しい女である。透き通るように色白な肌、はっきりと大きく開かれた瞳、豊満で実りの良い身体つきで全体的に大柄なのだが、小顔であどけなく可愛らしい女だった。

 鎮守府の秘書艦、実質の二番目の地位にいながら傲慢さは欠片もなく、気立ても良い。陸奥と話をする時は、いつも真っすぐ、その涼し気な目を合わせて話して来る。陸奥も一目置いており、未だ男のままであれば是非妻にと思ったものであった。

 その大和が、陸奥に話し掛けて来たのだ。朝も早いうちに、就寝中の陸奥を起こしてだ。重い頭を動かして、陸奥は大和を見遣る。

 昨日のことである。加賀と弓の技術を高め合ってから食事を摂った後、幼い駆逐艦娘を相手に教師の真似ごとをやっていた。勉学を教え、外で走り回って遊んだのである。夜になれば姉の長門と一緒についつい遅くまで杯を交わした。頭が重いのはその所為である。

 大和はそんな陸奥の様子を気にすることなく、涼し気な瞳同様に清涼感のある声を発した。やはり陸奥の瞳を真っ直ぐ見据えていた。

 

「鎮守府が一つ、滅びました」

 

 重たい口調で包まれた言葉に、陸奥は強い衝撃を受けた。別の意味で頭がどっしりと重たくなる。

 詳しい内容の説明を陸奥は求めた。

 

「どういうことだ?」

 

 大和は首を横に振った。

 

「陸奥が求める情報の全容を明かすことは出来ません。まだ分かっていないのです。分かっているのは、滅びた鎮守府が私たちの鎮守府に近しい場所にあることと、その鎮守府を滅ぼした敵の次なる狙いは、恐らくここであろうこと、それだけです」

 

 それだけと言うが、それだけ分かっていれば陸奥にとっては十分である。

 油断ならない話だった。滅ぼされた鎮守府のことを陸奥はよく知っているが、それなりに戦力は充実化していた筈だ。そこを滅ぼしたとなると、敵の深海棲艦は侮り難い者たちということだろう。深海棲艦は、何ゆえか人類に牙を剥く知的生命体のことである。

 

「近々出撃の要請がくだるかもしれません。用意はしておいてください」

 

 大和はこれを伝えたかったらしかった。

 

「承知した」

 

 陸奥が大きく頷くと、大和は用が済んだとばかりに振り返り、早足に去っていた。重たい頭を抱えながら、その後姿を陸奥は見送る。

 それから二日もしない内に出撃の要請が下った。鎧や具足、太刀や箙の代わりに砲塔を身に纏って、埠頭へと向かう。

 

「遅かったな。お前が最後だ」

 

 埠頭へと向かうと、やはり砲塔やそれぞれの武器を帯びた艦娘たちの姿があった。数こそは十と少ないものの、整然と並ぶ姿はなかなか見惚れるものがある。この十の中には、長門と加賀の姿があった。最後にやって来た陸奥に声を掛けたのは長門だ。

 今回は彼女たちと一緒に出陣するらしい。頼もしく安心感がある。

 

「待たせたわね」

 

 陸奥が来てから数分後、藤原提督が悠然と歩いて来た。右斜め後ろに大和を従えている。

 女性であることを加味しても、ひょろりと木の枝のように細い身体、目も同じように細くきつく、底知れない冷酷さを感じた。陰湿な謀略家のようで、人間としての温かみが感じられず、陸奥は彼女のことが苦手であった。

 藤原は集まった艦娘たちの顔を一人一人確認してから、陸奥を見た時、視線の動きを止めた。冷ややかな眼差しだ。いつものことである。陸奥に心当たりは一切ないのだが、彼女はどうも陸奥のことを気に入らないようなのであった。

 陸奥が視線を逸らすと、藤原は鼻で笑ってから言った。

 

「大和の指示に従いなさい。出撃」

 

 先ず、大和が藤原の後方より歩み出て先頭を切った。それに他の艦娘たちも続く。陸奥も逃げるように大和の後を追った。一刻も早く藤原の近くから離れたい気分であったのだ。藤原が発する冷たい空気の中で、沈んでしまいそうであった。

 海に出る。海の水と潮の匂いを含んだ風が心地よい。少し冷たくはあったが、藤原と比べると確かな温かみを感じる。母の、あるいは父の温かみだった。やはり海は好きだ。

 海に出ると、計十二人の艦娘は二つの隊に分かれた。陸奥の隊には、大和と長門がいた。

 列を成して海の上を滑るように駆けていると、長門が少し陸奥の方へ寄った。普段通りの声で会話が出来そうな距離だ。

 

「お前とこうして肩を並べて出撃するのも、随分久しぶりだな」

 

 実はそうなのである。この鎮守府に陸奥が赴任してからだいぶ月日は経つのだが、その間出撃した回数は片手で数えきれるほどだ。

 理由は単純明快で、藤原の意思だ。赴任した当初、藤原は陸奥に対してそこまで厳しいあたりではなかった。寧ろよく気に掛けているとまで言っても良い。しかし二ヵ月も経てば態度は一変する。心の芯から凍えるような視線を向けられるようになり、事あるごとに嫌味を言われるようになった。どうしてなのかまったく分からない。

 とにもかくにもそういうわけで、陸奥は久方ぶりの出撃なのであった。

 

「それにしても、今回の戦争は一体いつになったら終わりを迎えることやら。終わりが見えないというのは、何だか辟易としてくるものだ」

 

 長門の表情に憂鬱の色が浮かんだ。

 これも陸奥には分からないことであった。深海棲艦との戦争はもう何年と続いているらしいが、終わる気配は一切ない。そもそもこの戦争は、深海棲艦が始めたものであった。彼女らは突如として襲い掛かって来たらしい。

 話は通じる。彼女たちの一部はこちらの言語を用いて会話が出来る。だが、話し合いに応じようとはしないのだ。であるから、深海棲艦が戦う理由は不明だ。こちらもこちらで、襲われるから守るという単純な受け身を取るしかなかった。理由が分からない戦いが長い間続いていれば、それは辟易とするものだろう。

 陸奥も別段戦いが好きなわけではない。やらないに越したことはないし、和平に持ち込めるのならそうしたい。ただそれが出来ないから、仕方なく弓矢を交えているだけである。

 

「むっ」

 

 声を漏らした陸奥が、遙か頭上に視線を向けた。空気を切り裂きながら、重く鋭い音を発して何かが通り過ぎていく。どうやら加賀の航空機らしかった。大方斥候であろう。

 暫く海上を進んでいると、斥候から連絡が入った。深海棲艦を発見したようだ。数はこちらと同じ十二体はおり、そのうち三体は姫と呼ばれる存在だった。この姫は、深海棲艦の中でも言語を使える者たちである。そしてそれは、強力な力を持つ証でもあった。

 おもむろに、大和が陸奥を呼び寄せた。

 

「陸奥、頼りにしています」

 

 わざわざそれだけを言ってきた。頼りにしていると言われて嬉しくないわけではないが、どんな意図があるのか。何やら分からないことばっかりだ。

 次第に、深海棲艦を見つけた場所との距離が近付いて来た。もう、目と鼻の先であり、陸奥の身体を緊張が駆け巡る。グッと力を込めて、緊張を抑え込んだ。

 深海棲艦の姿が見え始めた。そもそも人型ではないものもいたが、大抵は青白い肌に宝石を埋め込んだような瞳をしていて、それが人間とは違っていた。

 

「全艦、攻撃用意」

 

 大和が指示を下すと、加賀を含めた空母たちが航空機を発艦させた。航空機は藍より青い空を駆けて、深海棲艦に向けて爆弾を投下する。轟音と一緒に黒煙が上がった。その黒煙はまるで戦闘開始の狼煙のようであった。

 黒煙がはれると、あちらこちらに傷を負った深海棲艦の姿が見える。十分な距離を縮めてから、間髪入れない砲撃で反撃も許さず撃滅してしまおうと陸奥らは砲塔を向けた。

 深海棲艦が陸奥らの姿を捉える。だが、どうにも様子がおかしかった。彼女たちは悪意も敵意もなく立ち尽くしている。また、分からないことだった。

 

「何が何だか分かりませんが――」

 

「待て」

 

 動かない深海棲艦に、今こそ好機とばかりに攻撃しようとする大和を押し止めて、陸奥は大和の視線を遮るように前に出た。

 深海棲艦の視線が陸奥に集中する。不思議な感覚だった。深海棲艦たちが陸奥を見る視線には、好意の色があるのだ。さらに、畏敬の念も感じ取れた。

 困惑する陸奥を余所に、深海棲艦はスーッと陸奥の前までやって来て、次の瞬間には海上に膝をつけて首を垂れていた。

 陸奥は呆気にとられ、助けを求めるように周りに視線を向ける。しかし陸奥を助けることが可能な者はいない。長門も加賀も大和も、他もろもろの艦娘たちも、陸奥と同じように呆気にとられている。どうなっているのやら。

 深海棲艦は跪いたまま微動だにしない。まるで、陸奥の言葉を待っているかのようであった。思わず陸奥は深海棲艦たちの後頭部に、鋭く吐き捨てるように言った。

 

「退けっ」

 

「ハイッ!」

 

 姫の一人が顔を上げて返事をすると、そのまま他の深海棲艦を連れて陸奥の視界から離れて行った。

 

 



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その④

 陸奥の後ろで事態を見守っていた大和は、目の前で起きた出来事に知らず知らず身体を震わせた。これは現実のことなのであろうか。

 深海棲艦たちに傅かれる陸奥は、艦娘を超越した何かのようだ。少なくとも、自分と同じ艦娘とは到底思えない。

 大気を切り裂かんばかりの鋭い声が発されると、大和の背筋が固まった。同時に、深海棲艦たちはその場を離れて行く。まるで規律ある軍隊のように、きびきびとした動きだ。

 大和は、異様な光景に息を呑む。

 他の艦娘たちは、瞳を輝かせて陸奥に群がった。誰も彼も陸奥を褒め称えるばかりである。ひと際感激しているのは、陸奥の弟子である加賀だった。

 

「もう驚く以外にありません。まさか、言葉一つで深海棲艦を撤退させるなんて。そればかりか、深海棲艦たちはまるで家臣のように跪いていました。陸奥さんの威光は、深海棲艦にも通用するのですね。私は、貴女に指導されていることが本当に誇らしいです」

 

「そうほめ過ぎるな。俺もどうなっているのかさっぱり分からんのだ」

 

 眉を顰めながら陸奥は言った。

 それを謙遜の言葉と受け取った加賀は、ますます声音を高くする。今までに大和が聞いたこともないような声で、そうとうに興奮しているらしい。これでもかと陸奥に黄色い声を送る。

 

「過ぎるということはありません。本当に素晴らしいです。大和もそう思いますよね?」

 

 加賀に声を掛けられて、大和の固まった背筋がようやくのこと解れた。はっ、と打たれたように反応し、おずおずと頷いた。

 

「そ、そう……ですね」

 

 あまり芳しくない大和の返事も、興奮している加賀は特に気にすることもなく、頻りに、そうでしょう、と同意を促す。

 確かに、陸奥の行ったことは史上初めてのことであり、驚嘆に値することなのは間違いない。大和はそこに異論は挟まない。

 ただ、恐ろしかった。驚嘆する以上に、陸奥に対して不気味さと恐怖があった。

 心が幻覚を見せているのだろうか、陸奥の姿が見上げるほどに大きく見える。このまま踏みつぶされてしまいそうだ。

 

「このまま各地の深海棲艦を陸奥が従わせてしまえば、戦争は終わるな。戦わずに終わるのならそれが良い。そうなると、陸奥は深海棲艦の王となるのかな?」

 

 冗談めかして、長門は破顔した。

 大和はその冗談に戦慄する。本当に冗談で終わってしまう言葉なのであろうか、悪寒が身体中を走り回った。

 ふと、藤原のことが頭をよぎる。彼女がどうして陸奥を冷遇するようになったのか、秘書艦である大和も知るところではない。だが、今回の一件は、繋がりがあるように思える。

 陸奥は、危険な存在なのではないか。

 この時、大和の心には陸奥に対する疑念が生まれたのであった。

 

 

 帰投した大和は、一目散に藤原の執務室を訪ねた。

 書類に目を通していた藤原は来客の姿を認識すると、書類を机の上に放り投げ、来客に視線をやった。相も変わらない陰険面である。机仕事に入る時に掛けている眼鏡の奥の瞳が、怪しげな輝きを放っていた。

 報告をしろ、と藤原は目で語る。

 大和は、先ほど起きたことを包み隠さずに全て話した。話している途中、陸奥への恐怖が面に出てしまったが、藤原は気にも留めない。話の内容に聞き入っている。

 

「そんなことがあったのね」

 

 報告を聞き終えた藤原は、眼鏡を外し机に置くと、眉間を三度、右手の親指と人差し指で揉んだ。機嫌が悪い時や、気分が優れない時の、彼女の癖である。

 大和の話は、藤原にとって頭の痛い話だったようで、大きくため息までついていた。

 藤原は、大和の目を夢据えて言う。

 

「今回の一件で、疑念を抱いたのが貴女だけ。これって、異常なんじゃないかしら。話だけ聞いてる私ですら、色々と訊きたいことがあるもの。それなのに、直に目撃して疑念や恐怖を抱いたのが貴女だけしかいない。他は、盲目に称賛の声をあげるばかり。これって、おかしな話よね」

 

 藤原は言う、これが陸奥の恐ろしさだと。

 異常なまでの求心力なのである。

 陸奥は人を惹き付けるのだ。藤原も惹かれた人の一人だった。一目見て、神秘的と評するべきか、ともかく摩訶不思議な感覚に包まれたのだ。

 この神秘的な感覚を放つ艦娘を、傍に置いておきたいと思った。

 

「けれども、そんな気持ちは二ヵ月もすれば真逆のものになったわ」

 

 陸奥の傍には、常に誰かがいた。

 姉の長門、教え子の加賀や諸々の艦娘たち、彼女たちも皆、陸奥に惹かれていた。陸奥が鎮守府にやって来て僅か二ヵ月で、殆どの人心を掌握したのだ。それも無意識にである。

 このことを理解した時、藤原の中で陸奥は恐怖の対象に変わった。出来うる限り関わり合いになりたくなくなった。顔を見る度に暗い感情を隠せなくなった。

 そうしてそれが、陸奥に対する冷遇へと続くのである。

 

「今日だって、本当は彼女を出撃させるつもりはなかった。出来れば、無駄飯ぐらいにしておきたかったわ。だけど、万が一のこともある。彼女の力は、私も素直に認めるところよ。だから、今回は例外だった。でもまさか……」

 

 言葉を途中に藤原は口を噤んだ。

 大和の脳裏には、藤原が後に続けようとした言葉が鮮明に浮かんで来る。よもや、異常なまでの求心力で深海棲艦までも虜にするとは、誰が想像出来たであろうか。

 ぽつりと、藤原は呟いた。

 

「このままにはしておけないわね」

 

 藤原が何かを決意したようであった。

 その何かとは、陸奥を排除するということであろう。大和には藤原の心の中が痛いほど分かる。恐いのだ。陸奥が恐いから、もう恐くて我慢が出来ないから、排除してしまいたいのだ。近くに居たくない。

 

「どうするのですか?」

 

 排除すると言っても、直接的に殺してしまうなんてことは出来ない。一番手っ取り早い方法ではあるが、陸奥を合法的に殺せる理由がないのだ。よもや、貴女は恐ろしい人だから死んでくれ、と言って殺すわけにはいかない。

 大和の問いに対して、藤原はニィっと口角をあげた。何かいい方法があるのか、普段は病人の様に青白い肌を紅潮させて、大和に言う。

 

「あそこに行ってもらおうかしら」

 

「あそこ」

 

 大和は鸚鵡返しに口にしながら、一体どこのことだろうかと考える。すると、一つだけ思い至るところがあった。もしそこだとすれば、高い確率で陸奥を排除出来るだろう。

 しかし確実ではない。どころか、下手をすれば最悪の結果を招くことになる。

 

「それは危険ではないですか? 虎を野に放つようなものです。もし、陸奥を頂点にまとまってしまえば、この国を揺るがす事態になるかもしれません。御考え直しを」

 

 藤原は怪しく瞳を輝かせながら、大和の不安を鼻で笑った。

 

「心配することはないわ。あそこの艦娘たちに反抗心なんて存在しない。陸奥を担ぎ上げて謀反だなんてことはあり得ないわね。そんな気があるのなら、当の昔にあそこの提督は八つ裂きにされてるわよ。見ていなさい、早ければ一か月もしない内に、猛獣の牙が抜かれるか、危険だと判断されて狩られるわよ」

 

 きつく細い目をさらに細めて、藤原は言い放つ。

 

「組織というものには、必ず腐敗が存在する。でも、毒に使い道があるように、腐敗も役立てようと思えば、しっかり役に立つものよ。今回がまさにそれよ」

 

 立ち上がる藤原を、大和は目で追った。

 藤原は大和に背を向けて立ち止まる。身体は東の方角を向いていた。

 

「それじゃあ、決定ね。陸奥には、坂東鎮守府に移動してもらう」

 

 一末の不安はあった。それで本当に良いのか、もっと別の方法があるのではないか、と頭の片隅で探る。けれども目先の恐怖が遠ざかることを実感した今、大和は不安を超える安心感を得ているのも事実であった。

 

 

 

 

 



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いざ、坂東!
その①


 平将門として生きていた頃から、千年以上の時間が経っている。それだけの長い時間が経っていれば、故郷も随分と様変わりしていることだろう。名残すら微塵もなく、そこは見たこともない異国と何ら変わりはない。きっと、昔のように馬に乗って、自由に大地を駆け回るようなことさえ出来ない地に様変わりしているだろう。

 杯を傾けながら、陸奥はそんなことを思っていた。

 百人以上は軽く入れるような大部屋には、鎮守府に属する者たちが集結して思い思いにはしゃいでいる。大声で歌を歌っている者がいれば、部屋の中をうろうろと彷徨する者もおり、下手くそな踊りを披露する者もいる。

 今夜は無礼講の宴であった。始めてから一時間もしない内に、部屋全体に酔いが回っている。

 その宴の主役は、狂乱騒ぎを肴にしながら一人、故郷のことを脳裏に張り巡らせていた。今日の宴は、別の鎮守府への移動が決まった陸奥の別れの宴である。

 

「坂東鎮守府……か」

 

 あまり気乗りのしない移動命令だった。坂東という名前が記す通り、自分の故郷、あるいはその付近に存在する鎮守府であろう。だが、どうにも里帰りというような気分はない。勿論、栄転と思うこともない。あるのは、異国、あるいは異世界に赴任するという気持ちだけだ。出来れば、長門や加賀とずっと一緒にいたかった。

 

「陸奥さん、あまり食事が進んでいないようですが」

 

 給仕役に徹していた艦娘が、酒のおかわりの継ぎ足しに陸奥の下へやって来た。陸奥の取り皿に汚れが見受けられないのを見て、表情に不安の色を浮かべている。

 この艦娘は、宴の食事を用意した者の一人だった。何か粗相をしてしまったのではないか、と不安なのだ。また、主役があまりにも静かなことに心配している様子でもあった。

 

「今から食べようと思っていたところだ」

 

 別に食事に不満があるわけではない。まだ食べてはいないが、食べたことがないわけではなかった。普段の食事でよく口にしているから、味に関して信頼は十二分にある。

 ただ、移動することに関して先行きの不安があって、食事を摂る気にならなかっただけだ。とは言え、折角自分のために作ってもらったのだからまったく食べないわけにもいかない。

 陸奥は左手に杯を持ち換えてから、右手で箸を掴み目前の料理を摘まんだ。煮魚であったが、よく味が染みていて美味い。自然と表情が柔らかくなる。

 

「流石だな」

 

 たった一言であったが、それだけで満足だったのだろう。給仕の艦娘も表情に笑みを浮かべて、別の艦娘の下へと向かった。

 陸奥はしばらく料理の方に集中した。煮魚だけでなく、一口サイズのステーキ、カレーライスにサラダ、どれもこれも美味い美味いと感想しながら食べる。食べていると、幸せな気持ちで胸が一杯になって、変わり果てたであろう故郷のことを忘れることが出来た。

 

「向こうに行ってしまえば、これも味わうことが出来なくなるのか」

 

 ふと、憂鬱な気持ちが戻って来た。

 行きたくない。箸を置きながら、陸奥は心の中で呟いた。子供のように駄々をこねたところでどうしようもないのは分かっている。分かってはいるがこねざるを得ないのだ。

 誇らしい姉がいて、自分を慕ってくれる可愛い弟子がいて、美味い食事があって、その他諸々の心地よい環境が揃っていて、離れたくなくなるのも不思議はない筈だ。

 

「童に帰ったような気分だ、この俺ともあろうものがなあ。よもや行きたくない、行きたくないなどと」

 

「でしたら、派手に喧嘩でもして向こうの提督に嫌われてくれば良いのではないですか? 出て行け、と追い出されてここに帰ってくれば良いのです」

 

 そんなことを、あっさりと言って来たのは加賀だった。

 明らかに酔っている様子である。頬に赤みが目立つし、声がいつもより甲高く、そもそも素面でこんなことを言う人物ではないのだ。目も据わっているし、水でも飲むかのようにしこたま飲んだのであろうか。

 陸奥が返答せずにいると、加賀は酒をコップ一杯に呷ってから視線を別に集めた。視線の先には藤原と大和がいる。彼女たちは彼女たちで楽しくやっているようだったが、二人を見て加賀は不愉快そうに鼻を鳴らした。

 

「陸奥さんを鎮守府から追い出せて随分とご機嫌なようですね」

 

 不穏な空気を纏い始めた加賀を陸奥が止めた。

 

「これ、不躾なことは止めぬか」

 

「陸奥さんは頭に来ないのですか? 今回の移動命令は陸奥さんを恐れたあの二人の陰謀だと、もっぱらの噂です。特に藤原提督は陸奥さんを嫌っていますから、中々信憑性が高いと思われますが」

 

 みるみると加賀の頬の赤みが増していった。この赤みが酔いの所為にしろ別の所為にしろ、このまま放っておくと碌な事にはならないだろう。

 陸奥も確証を得ているわけではないが、話だけは聞いている。坂東鎮守府への移動は、陸奥の人望を恐れた藤原と大和による陰謀であると。それが本当のことなのか、戯言であるのかは定かではない。この宴も、陸奥を送別するための宴ではなく、陸奥が居なくなることを祝福するための宴だという話も出ていた。

 そういう話が出ているのだから、加賀がやけ酒でもやるように酒を呷る理由も、藤原達に対して黒々とした感情を抱くのにも説明がつく。

 だからと言って、折角の宴で血なまぐさい光景を見たいものではない。加賀が酔いの勢いでとんでもないことをしでかす前に、彼女を止めるべきだ。

 そう判断した陸奥は、彼女を抱き寄せた。

 

「はえ? む、陸奥さん?」

 

 呆けたような声を加賀は出す。

 陸奥はそんな加賀の背中を、赤子でもあやすように叩き始めた。ようにと言うよりはまさにと言った方が適切やもしれない。気持ちよさそうにうとうととしている加賀の様子は、それこそ赤子そのものであった。加賀は次第に安らかな寝息を立て始め、陸奥の肩を枕に眠りに入った。

 酔っぱらいの世話は手慣れたものであるし、なにより子供の親であった経験がある陸奥だ。人一人を寝かしつけるのは造作もないことである。とにもかくにも、加賀が大人しくなってくれて一安心と言ったところか。

 

「見事なものだな」

 

 陸奥が加賀の枕を自分の肩から膝に替えていた時、長門の姿が視界の横端に映った。長門は、加賀が足を伸ばしている方向とは逆の方に腰を下ろす。

 一時の間、長門は微笑まし気に表情を崩して、寝ている加賀を眺めていたのだが、突然険しい顔で藤原達へと視線をやった。

 勘弁してくれ、と陸奥は思った。長門まで血なまぐさいことをやろうというのだろうか。ほんのりと桜色をした頬は、長門が酒を嗜んだことを教えてくれているが、加賀のように酔いが頭にまでいっているとは思えなかった。

 すると、長門は吊り上がった目尻のままに陸奥へと言った。

 

「陸奥、気を付けろ。坂東鎮守府というところは、どうもきな臭いところらしい。詳しいことは知らないが、今回の移動命令はただ事じゃないようだ。お前ならば大丈夫ではあろうが……」

 

 血なまぐさいことをやらない代わりに、きな臭い話を長門は持って来た。歯切れが悪そうに話を区切るとスッと立ち上がる。足はおぼついているようだから、やはり前後不覚になるほど酔ってはいないようだ。しっかりとした足で二歩前へ進んだ長門は、陸奥の方へ振り向く。

 

「お前は私の妹の陸奥だ。そしてお前は――平将門だ。そのことを努々忘れるな」

 

 どういう意味だと陸奥が問い掛ける前に、長門はさっさと居なくなってしまった。

 陸奥は言葉の意味を下手に考えないようにした。こういうことは後になって意外なことで見つかるものである。姉が妹に向ける贈り物だと思って胸の内に刻んでおこう。

 甘えるように自身の膝に顔を擦り付ける加賀の頭を撫でながら、長門の言葉を心の中で二回、三回と繰り返した。

 

 

 



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その②

 翌早朝、陸奥は出立の準備を整えるや鎮守府の門を出た。

 今にも雨を降らしそうな鈍色の雲に覆われた空の下、陸奥を見送るために鎮守府一同が整然と横並びに列を作っている。昨日の酒が祟ったのかちらほら顔色が悪い者がいるが、それでもこうしてきっちりと見送りに来てくれるのはありがたいものだ。

 胸がほんのりと熱くなって来る。いつまでも浸っていたくなるような快さで、朝の風がもたらす肌寒さを忘れさせるようであった。

 不意に、加賀が歩み寄って来た。

 陸奥の目前に立った加賀は、口をせわしなくもごもごと動かす。言いたいことがあるけれど、言葉にすることが出来ないといった様子である。

 にこりと陸奥は破顔した。

 

「俺がいない間も鍛錬を忘れるなよ。次に会った時、今よりも数段上達した腕前を披露してくれ」

 

 頷いた加賀は、ようやくのこと言いたかった言葉を陸奥に届けた。

 

「行ってらっしゃい、姉さん」

 

 言ってしまって恥ずかしくなったらしく、加賀の視線は足元の方に移る。

 その様が随分と可愛らしい。込み上げる衝動を我慢せず、陸奥は加賀を抱きしめる。鍛えているからかしっかりとしながらも、女のなよやかさもある身体を。

 加賀もおずおずと陸奥の背中に手をまわした。

 

「姉さん、何かあっても絶対に無理をしないで下さい。何もなくても無理はしないで下さい。武勇伝とか勲功話とかは聞きたくありません。ただ、無事で元気であるとだけ、風の便りがあれば幸いです」

 

 耳元で震える声に、今度は陸奥が頷く番であった。

 陸奥の知っている加賀は、いつも冷静で気丈な振る舞いを見せる女だ。だが、ここにいるのは大切な姉と離れることを寂しがり、不安に思う一人の女の子である。

 妹の不安よ消えてしまえとばかりに、抱きしめる腕に力を込めた。

 しばし抱き合っていると、長門が呆れるような眼差しを向けて来る。

 

「おいおい、何時まで抱き合っているつもりだ?」

 

「出来れば、何時までもこうしていたいものだな」

 

「ふむ。だったら妹たちよ、この私も雑ぜてくれ」

 

 長門が陸奥と加賀の二人を自分の胸元へ収めると、みな、我も我もと駆け寄る。

 押し潰されそうになりながらも、陸奥は心の中で幸せを噛み締めた。

 

(ここが俺の新しい故郷、この者たちが俺の家族だ)

 

 ふと、自分を取り囲む一団より離れた場所にいる藤原と大和の姿が目に入った。苦々しいという様相を隠そうともしない二人に陸奥は笑いをこぼす。そうして、俺は必ずここに、家族がいる故郷へと帰って来るぞと意思を新たにした。

 空はさらに深く鉛の色を濃くしていく。不吉と言われれば不吉な空模様であったが、そのようなことはお構いなしに、陸奥の心は晴れやかであった。

 

 

 

 ごちゃごちゃと騒々しいな、と陸奥は思った。

 これから向かう先のことを考えれば憂鬱さを無くせるものでもなかったが、せめて気を紛らわせようと道中の景色を眺めていたのだ。結果、紛れるようなものではなかった。寧ろため息の量が増えるばかりである。

 電車やバスにも初めて乗ったのだが、馬の方が良かった。もっとのびのびと、自然の風を身に受けながら行くのが好みである。移動するだけでドッと疲労に襲われた。

 そうこうする内に目的地に辿り着く。看板に『坂東鎮守府』の文字が記されてあるのを確認すると、陸奥は息を呑んだ。

 

「俺は地獄に戻って来たのだろうか」

 

 鎮守府は不気味に静まり返っている。人が生活をしている空間とは思えないほど活気を感じ取れない。故郷の空とは違った青空の下だからこそ、余計に坂東鎮守府の異質な雰囲気が増しているように思う。建物の所々の赤さは、朱色と言った鮮やかなものではなく、黒に近いものがあった。何と言うか、おどろおどろしくて暗い。

 鎮守府の門前で唖然と立ち尽くしていると、つかつかと一人の少女が近寄って来た。

 この少女は白かった。雪で化粧を施していると言われても疑問にならないほど、真白い肌である。桃の色をした髪と並ぶと、その白さはさらに映え渡った。

 案内役であろうか。陸奥が口を開く前に、少女が口を開いた。

 

「鬼怒だよ。案内するからついて来て」

 

 鬼怒と名乗った少女は、言うや素早く振り返ってさっさと歩き出してしまう。陸奥がついて来ているかどうかなど一切確認しない。

 このままでは見失ってしまいかねないと、陸奥は慌てて鬼怒の後を追った。

 それにしても案内役とは到底思えないこの態度。いや、案内役云々の前に人としてどうなのかという態度だ。怒りを通り越して呆れしかなかった。

 

(ここは本当に坂東なのであろうか。変わっていることは重々覚悟の上であったが、ここまでとは考えていなかった。姉上、加賀、みんな、別れてばかりで何だが、俺はお前たちの下に帰りたい)

 

 既に故郷へ帰ることしか考えられなくなって来た。異質な雰囲気を放つ鎮守府と少女、これだけの判断材料だが、この地で上手くやっていける気がしないのだ。

 鬼怒の後ろに続いて建物の中に入ると、陸奥はうっと呻いた。空気が重たい。息苦しいという意味もあるが、身体を押さえつけられているという意味の方が強かった。

 足を止めずに歩んでいると、坂東鎮守府に赴任している艦娘たちとすれ違った。誰もが鬼怒と同じように無機質な表情で、まるで陸奥が視界に入っていないとばかりに無視をする。

 とうとう我慢が出来なくなった陸奥は、溜まったものを吐き出すように呟いた。

 

「随分と陰気なところだな」

 

 聞き取った鬼怒が振り向きもせずに言った。

 

「直ぐに慣れちゃうよ」

 

 坂東鎮守府はそれなりに広いらしく、暫くの間、鬼怒の案内が続いた。やがて案内先に着くと、鬼怒はドアを指さしてから感情の籠らない瞳を陸奥に向けた。

 

「ここだよ。無礼なことだけはしないでね。貴女はどうなっても良いんだけど、鬼怒たちに飛び火しちゃうからさ」

 

 陸奥は忠告とも言えないその言葉を無視して、ドアの奥にいるだろう人間に自身の存在を声で知らせた。入れ、と一言だけ返事が返って来た。

 許可をもらった陸奥は、先ほどまで鬼怒がいた場所に案内の礼だけをしてから部屋の中へと入る。部屋の中は豪華な調度品で満たされていた。掛け軸や龍の置物は金や緑、朱の極彩色で作られており、嫌なぐらい絢爛と輝いている。

 そして部屋の主は、机を挟んで向こう側、豪華な椅子にもたれかかるように座っていた。座っているから正確には分からないが、それなりに長身な男性である。如何にも軍人らしい胸の厚い良さげな体格であったが、強そうな印象はない。それはこの男性が、先ほどの鬼怒のように色白な肌で、垂れた目に凛々しさが感じ取れないからの印象だった。

 男性的な体格だが、顔の作りは女性のようである。

 陸奥が部屋に入って直ぐ行ったのは、眉を顰めることだった。男性の肌は白いので、赤くなると分かりやすい。鼻腔をくすぐる臭いを念頭に置けば、何の赤であるのかは一目瞭然だ。

 軍人でありながら無駄に煌びやかな部屋、漂う酒の臭いは、陸奥の不快感と不信感を煽るには十分だった。

 

(姉上はここをきな臭いと申しておったが……なるほど、こいつは臭いな)

 

 空気も建物も人も何もかもが臭い。

 陸奥は表情で自分の感情を悟られまいと、膝をついて首を垂れた。

 この陸奥の行為に、男性は嬉しそうな声をあげる。地声とは思われない甲高い声だ。

 

「ほう、お前は自分の立場という奴を分かっているじゃないか。嬉しいな、本部はやっとお前みたいに賢いのを用意してくれたんだな。それに美しい。気に入った。俺は源衛(みなもとまもる)だ。早速だが飲もうじゃないか、美味いのがあるんだ」

 

 ハハハ、と男性の笑いが部屋に響き渡る。

 

「ははっ」

 

 陸奥は答えながら、何としても早く帰らなければ、と決意を固めるのであった。

 

 



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その③

 酒が不味いと感じたのは初めての事だった。

 陸奥は、酒が大好きである。酒を飲んで心地よく酔うのが好きなのである。身も心もとろとろに溶けてしまうような、宙を舞っているような感覚は堪らない。その感覚を味わいたくて、事あるごとに杯を傾け、喉を鳴らした。酒はなくてはならないものだ。

 それがどうだろう。あれだけ楽しい筈の酒が、今は見るのも不快になっていた。こんなことは初めての事だが、さもありなんと思う。一緒に酒を飲む相手が相手であるからだ。

 

「艦娘というのはつくづく度し難い生き物だな。少しばかり人間より頑丈なだけで、我が物顔で地上を跋扈している。そも、元は人間が作った軍艦じゃないか。それがたまたま、人間と同じ姿を持っただけのくせして、図々しくも人間の真似ごとをし、人間と対等の立場を要求している。猿の方がまだ可愛げがあると言うものさ」

 

 先ほどからこの調子であった。陸奥と酒を一緒にする源提督は、嬉々としながら艦娘を侮蔑、差別する内容の言葉を垂れ流し続けている。聞くに堪えないことだ。

 あまり、どころか全然嬉しくないことだが、陸奥はこの男に気に入られてしまったらしい。そうして、不本意極まりないことだが、酒の席を一緒にする事になってしまったのだ。

 源提督はよく飲んで、よく酔っていた。呂律は回っておらず、しつこく同じ話を繰り返している。陸奥にとってただただ不快なだけの話を。

 

「まあ、見た目だけはそこら辺の女より優れているから、慰み程度には使える。それに、軍艦一隻を建造するのと比べると、遙かに安上がりだ。ダッチワイフを使い捨てにするだけで、世界が救えるんだ。そう考えると、悪いもんでもないのかな」

 

 こんな話をもう小一時間も続けている。飽きもせずに表現や言い方を変えて、これでもかと艦娘をこき下ろすのだ。いい加減鬱陶しい。

 陸奥は嫌々としながらも、努めて表情には出さないように応対していた。時々、同意を求めてくるから、その時は、

 

「左様ですな」

 

 とか、

 

「心中お察しいたします」

 

 などと、機嫌を損ねさせないように気を付けながら返した。

 それにしても気持ち良さげに艦娘を罵倒しているが、その話を聞かせている陸奥も艦娘だという事をきちんと分かっているのだろうか。同族の悪口など聞いていて誰が面白いのだろうか。その辺りの配慮をこの男に求めるのが酷なのは、この短い付き合いだけで分かってはいるけれども。

 似ているのだ、陸奥の嫌いな人種にこれでもかとそっくりなのである。

 

(一目見た時から嫌な既視感があった。あまり思い出したくもないので、記憶の奥底に封じておったが、こいつのくだらん話を聞いておると嫌でも思い出すわ。朝廷の人間に似ておるのだ。蝦夷を化外の獣と称し、我ら坂東武者を血に狂った殺人鬼などと呼びならわした、あの軟弱者どもに、似ておるのだ)

 

 陸奥の瞳に映る源提督と、記憶の中に映る都の人々の面影が重なりあう。蝦夷や坂東武者を蔑視した都の人々と、艦娘を見下す源提督は似ている、ではなく同じと言っても過言ではなかった。時を経ても、坂東のように変わるところもあれば、変わらないものもあるようだ。

 

「……酔えぬな」

 

 頭が嫌な意味で冴え渡っていた。気持ちの良い感覚は、諦めた方が賢明なようだ。

 まだ、源提督の話は続いている。放っておくと何時までも続きそうだが、体よく終わらせるなんて出来はしない。機嫌を損なわせてしまえば、どうなることやら。自然に話が終わるのを待つ他はないらしかった。

 すると、ドアがトントンと二回なった。どうやら、何者かが自身の来訪を知らせるため、ドアを叩いたらしい。話の邪魔をされて機嫌を悪くした源提督が、おざなりに入室を促す。

 

「失礼します」

 

 聞き覚えのある声だった。部屋に入って来たのは、先ほど陸奥を案内してくれた鬼怒である。彼女は、傍から見れば仲良さげに酒を酌み交わす陸奥と源提督を見て、一瞬困惑の表情を浮かべ、直ぐに元の無表情へと戻す。

 陸奥は内心安堵した。これでやっと話も終わると思ったのである。ついでに酒の席自体も終わってくれないだろうか、とも思った。一縷の望みを込めて、傍らに酒の入ったコップを置く。

 次の瞬間である。

 

「てめえ!!」

 

 怒声と続くように鈍い音。源提督が鬼怒にコップを投げつけたのである。中身の酒が鬼怒の顔や服を濡らし、砕けたコップの破片が地面に散らばった。何事かと考える間もなく、源提督は動き出していた。

 

「ふぐぅ……」

 

 鬼怒が呻き声をあげた。

 立ち上がった源提督は鬼怒の襟首を掴んだかと思うと、そのまま地面に叩きつけたのだ。

 叩きつけられた鬼怒は顔を足蹴に踏み回される。コップの破片で顔を切ったのだろう、陸奥の視線の先に血の色が見えた。驚いて声が出せない。途端の凶行にではなく、その凶行を行った男の変貌にである。

 源提督の瞳は赤く染まっていた。鬼怒の肌より流れ出る血よりも、黒々と濁っている。息を荒くして、踏みつけては蹴り、蹴っては踏みつけるという事を一心不乱に止めない。尋常ではなかった。あるいは狂っている。

 

「い、いかん! 見ている場合ではない!」

 

 遅れて陸奥も立ち上がると、背後から源提督を羽交い絞めにした。立場上無礼な行為であるし、止め方なんて他にいくらでもあったが、矛先を自分に向けるために敢えて実力行使に出たのである。考えるより先の行動だった。

 男と女であるが、人間と艦娘である。生物学上男の方が力があるとは言え、人間と艦娘では話が違った。さらに艦娘の中でも剛力を誇る陸奥だから、その陸奥に抑え込まれてしまえば、どんな男でも身動き一つとれない。じたばたと癇癪を起こした幼子のように必死の抵抗を見せた源提督だが、どうしようもならないと分かると、一切の動きを止めた。

 

「離せ」

 

 言われた通り、陸奥は両腕を離しそそっと後ろに下がると、頭から膝までの位置を低くした。額を地面につける体勢で、この後訪れるであろう打擲を待っている。

 気に入られていたが、これで台無しであろう。不本意ではあったが、気に入られていないより、気に入られていた方がマシだ。いや、早急に元の古巣に帰る事を加味すれば、寧ろこれで良かったのかも知れない。また、少女があのような酷い目に遭っているのに、何もしないわけにはいかなかったのだ。一武士として、後悔はない。

 だが、待っていても予想された打擲はなく、そればかりか意外な展開へと続くのであった。

 

「陸奥、お前は慈悲深い奴だな。こんなのに情けをかけるなんて」

 

 至って優し気な物言いだった。陸奥が顔を上げれば、源提督の瞳の濁りはどこへやら、狂態も忘れたように穏やかな顔で陸奥を見ている。

 続けて源提督は言った。

 

「それとも、こいつが気になってるのか? 艦娘ってのは、同じ艦娘で乳繰り合うことが多いらしいが、お前もその口か? だったらプレゼントだ。こいつはお前にやるよ。好きに使うんだな。どうだ、嬉しいだろう? 泣いて喜んで良いぞ」

 

 下品にもほどがあるというものだが、陸奥は口を挟まない。どういうわけか機嫌が直っているようなので、下手に刺激する必要はなかった。

 その機嫌の良いままに、源提督は陸奥に背を向ける。それから、あからさまに倒れている鬼怒の背中を踏みつけながら、部屋を出ようとした。その際に、もう一言があった。

 

「お前、俺の秘書艦な。期待してるから、よろしく頼むぞ」

 

「身に余る光栄と存じます。全身全霊を賭して忠勤に励む所存です」

 

 わなわなと震える身体に力を込めながら、陸奥は答えた。

 答えに満足したのか、ニコニコと笑みを浮かべながら、源提督は部屋を後にする。残るのは、血濡れで赤くなっている鬼怒と、怒りで赤くなっている陸奥の二人だ。

 急いで陸奥は、鬼怒の介抱に掛かった。

 

「無事か? 直ぐにでも手当をしてやる。それにしても、なんと酷いことをするものだ」

 

 話を中断されたからか、あるいは酒の席に入られたからなのか、どちらにせよここまでやるような事ではない。今の今まで、このような暴虐が続いているのだろうか。だとすれば、鬼怒や他の艦娘たちのあの無機質な表情には、深い意味があるのではないだろうか。

 暴虐に晒され続け、感情が摩耗してしまったのかもしれない。同情と憤怒の感情が陸奥の心を支配する。人を率いる立場の者が、あるいは男たるものが、女相手に何をやっていると言うのだろうか。隠しもせずに、感情を面に出した。激情家なところがある陸奥だから、特に怒りの感情を表す時は凄まじいものがあった。

 その様子に、部屋に入って来た時と同様、鬼怒は虚ろな瞳に困惑の色を浮かべていた。どうしてこの人は怒っているのだろうか、という疑問が顔に書かれている。次第にその疑問は、どうしてなのかは分からないが、自分のために怒っているのだと分かった、というものに変わる。それから、彼女が源提督の暴力を止めてくれたのを思い出すと、注視しなくては見落としてしまうほどに、僅かに口角を上げた。

 

「ありがとう」

 

「構わぬ。それに俺の方こそ礼を言おう。お陰で胸糞の悪い話を聞いて、一日を過ごさずに済んだわ」

 

 今度は、鬼怒の言葉を、陸奥は無視しなかった。

 

 



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その④

 雨は、時として人を鬱屈とした気分にさせる。雨によって生み出されるじっとりと腐ったような生温い空気が、そうさせるのであろうか。陸奥もまた例外ではなかった。

 坂東鎮守府に着任してより二週間、五月に入った現在は、梅雨と呼ばれる季節であった。

 この二週間で、ため息の量ばかりが増えたように、陸奥は思う。憂鬱だった。外の天気と同じように、心も雨雲に覆われているような、そんな感覚だ。無論のこと、そのような感覚に陥っている理由は、雨だけではない。

 

「あいつは人間じゃないよ」

 

 陸奥の居室に敷かれた布団の中で、鬼怒は身体を震わせていた。

 ぶるぶると震える鬼怒の身体を、同じ布団の中に横たわる陸奥が抱きしめる。すると、鬼怒は安心したように震えを止めて、もぞもぞと陸奥の腕の中から抜け出すと、語り出した。

 

「あいつは鬼怒たちを化け物だって呼ぶけど、あいつこそよっぽど化け物だ。これは一年ぐらい前だったかな。生きたままの艦娘を斬って、身体の中を確かめたんだ。人間と同じような見た目をしているけど、中身はどうなんだって。それも一人じゃないよ。艦種ごとに一人ずつ。とても普通じゃない。気狂いでももう少しまともだと思うよ」

 

「そうか」

 

 とんでもない話を聞かされた陸奥は、一言そう返すだけが精一杯だった。なにせ、これだけじゃないのだ。着任してから今まで、同じような話を何個も鬼怒から聞いている。

 一応のこと、着任初日の源提督の発言で、陸奥の所有物もとい部下になった鬼怒は、朝から晩まで陸奥と一緒に生活を送っていた。当然寝る時も一緒で、寝る前に布団の中で、源提督のこれまでの所業を一日一つ、寝物語として陸奥に語っていたのだ。

 初日からなので、今日の話で十四個目である。一個目、二個目の時は憤慨を露わにしていた陸奥だったが、十四個目ともなると、返す言葉もないというものだった。

 そして、この源提督の凶行話こそが、憂鬱の主たる原因でもあった。

 

「とんでもないことだな」

 

 今までの十四個の話を全て思い浮かべてから、陸奥は呟いた。

 源提督の所業が、ではない。それもないことはないが、鬼畜外道の行いを平然とやるような男の部下になったことが、とんでもないことだった。また、そんな輩が現代の武士であるということが、ただただ恐ろしい。

 陸奥は背筋に冷たいものを感じた。

 

「国は何をしているのだ」

 

 自然と言葉が出て来た。中央の人間がこれらの悪逆をしらない筈がない。にもかかわらず、こうして坂東鎮守府の提督のままだということは、行為を黙認していることに他ならない。こんなことがまかり通っているというのは、本当にとんでもないことだ。

 

「鬼怒たちは、所詮人間じゃないから」

 

 諦めと切なさの混じった声音だった。

 その言葉に、陸奥はグッと胸を締め付けられるようであった。

 艦娘は蝦夷と似ていると、鬼怒の言葉を聞いて思う。遙か昔、平安の時代にあって、蝦夷は蔑視の対象であった。彼ら自身は蝦夷であることに誇りをもっていたが、そもそも蝦夷という言葉自体が蔑称だった。また、王朝に帰順した蝦夷は俘囚と呼びならわされ、やはり人としての扱いではない。人と同じ姿をした化け物である。

 馬鹿馬鹿しいことだ。蝦夷とも、そして艦娘ともかかわりをもっている陸奥にしてみれば、王朝の貴人や、国の人の方がよっぽど化け物だ。姿とかの話ではなく、その精神性がだ。

 

「鬼怒、そのような悲しいことを申すな。誰が何と言おうが、お前は、お前たちは人間だ。この俺がそれを認めよう」

 

「ふふ」

 

 鬼怒がクスリと笑った。

 何かおかしなことを言っただろうか、と陸奥が怪訝そうにする。

 

「いや、同じ艦娘の陸奥さんに認められてもねえ、と思ってさ。でも、とっても不思議。何だか、陸奥さんにそう言われると、根拠もなく自信が沸き起こって来る。自分は人間なんだって胸を張れるんだよ。それが何かおかしくて」

 

 ありがとう、と鬼怒は言葉を続けた。

 

「陸奥さんのお陰だよ。この二週間、陸奥さんのお陰でこの鎮守府は驚くぐらい平和だ。平和って言っても、まだそれなりに危険があることはあるけど、でも、陸奥さんが来る前と比べたらこんなの可愛いもんだよ。全部、陸奥さんのお陰だ、本当にありがとう」

 

 部屋の明かりが消えた中で、眩く輝くような笑顔だった。

 陸奥は瞑目した。

 二週間前ならば決して見ることが出来なかった笑顔、陸奥はふと、自分がこの鎮守府を去った時のことを考えた。それこそ二週間前であれば、何の躊躇いもなく故郷に帰るなり、別の場所に異動するなりしただろう。でも、今は違う。

 陸奥は鬼怒を見捨てることは出来ない。この坂東鎮守府の艦娘たちを見捨てて、一人逃げ出すことに羞恥心や嫌悪感が生まれていた。

 

(鬼怒は、よく感情を面に出すようになった。鬼怒以外の艦娘たちも、少しずつだが、感情を取り戻しつつある。それは、この俺がいるからと言うのは、過言ではあるまい。この俺が抑止力となることで、彼女たちは安心感が芽生えているのだ。どういうわけか、あの男は、俺の諫言には耳を貸している。俺が一言口を出せば、艦娘たちへの危害は止まり、あるいは無くなる。しかし、俺がいなくなればどうなる?)

 

 そんなことになれば、二週間前の坂東鎮守府に逆戻りである。下手をすれば、もっと酷い状態になるかもしれない。多くの艦娘たちの悲鳴と怨嗟の声が天を覆いつくすだろう。そうと分かっていながら、誰が見捨てられようか。

 武士の道を志す身として、断じてそんなことは出来ない。本来武士とは、名を重んじ、弱きを救う存在である。強いだけの存在ではない。

 

(済まぬな、加賀。お前の下に戻るのはもうしばらくかかりそうだ。まあ、姉上たちとよろしくやっておいてくれ)

 

 自分が戻って来るのを今か今かと心待ちにしている、妹分に心の中で謝罪すると、目を開いた。開いた先には、鬼怒の目が待っていた。何度か開閉を繰り返し、とろんと眼差しが垂れ始めて来ている。どうやら、眠たいらしい。

 

「ふむ、夜ももう遅い。今宵はこれまでにして、就寝しようではないか」

 

 陸奥がそう言うと、鬼怒はゆったりと頷き、陸奥の方に身体を寄せる。やれやれしょうがないとばかりに、陸奥は鬼怒を抱きとめて、背中を一定の間隔で叩き始めた。二人で寝る時はいつもこうである。

 鬼怒は気持ちよさそうに瞼を閉じると、ごにょごにょと言葉をもらした。

 

「陸奥さんはやっぱり不思議……お母さんとお父さん、二人と一緒にいるみたい」

 

 そうして鬼怒は寝息を立て始めた。

 安心しきった子供のような寝顔に、陸奥は思わず表情を綻ばせた。それから、この寝顔を守らなければならないという決意を新たにする。憂鬱になっている場合ではないと思った。いつの日か、それが近い日か遠い日か分からないが、この坂東鎮守府を解放しよう、そんなことも考えた。そうすることが、鬼怒たちを助けるということに繋がるのだ。どういう風に解放するかの具体的な方法は、この時は敢えて考えなかった。

 陸奥は、父母が愛する我が子にそうするように、耳元で優しく囁く。

 

「良い夢を見よ。いずれ、その夢が現実のものとなろう。その日がいつの日になるかは分からぬが、なに、暫くの辛抱よ。だからそれまでの間は、夢の中だけでも、幸せにな」

 

 言い終えると、大きな欠伸をしてから陸奥も眠りに入った。

 

 

 



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火種
その①


 銃声が聞こえた。梅雨が明けて然程の時間が経っていない、快晴の日だった。

 その時陸奥は、秘書艦として自室以外に与えられた執務室で、書類に目を通しているところであった。銃声が聞こえると、陸奥は書類を机の上に置いて、眉間を揉み解す。別段、文字を読み過ぎて目が疲れたわけではない。ただ、別の疲れではあった。

 またか、と言いたげな表情を浮かべ、実際に「またか」と呟く。銃声の原因はある程度想像がついた。どうせ、源提督が乱心しているのであろう。最近、彼の趣味は鳥に対して拳銃を放つという、ある種の狩りのようなものになっていた。

 

「艦娘に対しての火遊びでないから別に良いが、もう少し大人しくなれぬものか」

 

 特に気に留める様子が、陸奥には見られない。陸奥とて、昔は野の獣に向けて矢を放って狩っていた時期があるのだ。鳥にとってみれば酷い話だが、陸奥にとってはどうでも良いことである。鬼怒から寝物語を聞かされてる身としては、話題にする話ですらない。気になることがあるとすれば、銃声が煩いことぐらいだ。

 

「やれやれ、さて、もう一仕事やるとするか」

 

 銃声のことは意識から外し、再び書類に目を通そうとした時、廊下をバタバタと駆け回る音がした。ドアに目を向ける陸奥。何かあったのだろうか、嫌な予感がする。

 瞬間、一人の艦娘が駆け込んだ来た。鬼怒であった。

 鬼気迫るという顔だ。何かあったのだ。それも尋常ではない何かが。もしかしたら、先ほどの銃声が事件を引き起こしたのやもしれない。陸奥は鬼怒の言葉を待った。

 

「扶桑さんが、撃たれた」

 

 陸奥に強い衝撃が走った。

 必死の形相と重たい口調の鬼怒に、嘘ではないことを理解する。そうと分かれば、こんなところで書類に目を通している場合ではない。陸奥は、椅子を倒しながら、勢いよく立つ。

 

「鬼怒、案内しろ」

 

「うん」

 

 鬼怒が背を向けて走り出すと、陸奥も後に続く。

 埠頭まで出ると、そこには十数名の艦娘たちが円となって何かを取り囲んでいた。円の中央からは、すすり泣く女性の声と、呻き声をあげる女性の声が聞こえる。

 その円に陸奥が近付くと、艦娘たちが陸奥の名を呼びながら円を解いた。そして陸奥が見たのは、左胸を押さえながら苦しむ戦艦扶桑と、扶桑の姿に悲痛の声をもらす姉妹艦山城の姿だった。陸奥に気付いた山城が、嗚咽と共に言葉を吐き出した。

 

「助けて……お、お姉さまを、助けて……陸奥」

 

 無論のことだ。

 扶桑の下まで向かい、陸奥は片膝を地につける。

 痛々しい姿だった。白の着物だからか、左胸の血染めが大層目立つ。その左胸を押さえている右手も、赤々としていた。顔には玉のような無数の汗が浮かび、美しい黒髪がべたりと貼り付いている。だが、陸奥は安心していた。

 致命傷ではない。当たり所が良かったのだ。これならば、艦娘の身体能力を念頭に置けば命に別状はなかった。もう少しずれて、心臓部をやられていれば危なかったが。

 その旨を話すと、山城の顔に笑顔が出て、様子を見守る艦娘たちの間にも安堵の空気が流れる。とは言え、何時までもこのままにはしておけない。

 

「誰ぞ、扶桑を医務室まで連れて行ってやれ」

 

 名乗りを挙げたのは、当然と言えば当然の山城と、他二名の艦娘。彼女たちは扶桑を励ましながら、医務室へと向かって行った。

 扶桑たちを見送ってから、陸奥は居並ぶ艦娘たちに鋭い視線をやった。

 

「何があった?」

 

「私が話すわね」

 

 一歩前へ進み出たのは、軽巡洋艦の龍田だった。感情を面に出すようになってからは、いつもおっとりと破顔している彼女であったが、今回の件には苛立ちが隠せないらしい。手に持つ薙刀を、折れよとばかりに握り締めている。

 

「あなたのことだから、ある程度は想像ついていると思うけど、犯人はあの男よ。理由なんて知らないし知りたくもないけど、あの男は、突然山城さんに拳銃を向けたのよ。それを扶桑さんが庇った。私はその様子を見てるだけしか出来なかったわ」

 

 龍田は陸奥を見つめて、まばたき一つせずに言い切った。

 この時、陸奥は不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。油断していたのだ。自分が鎮守府に来てから、大きな事件など起こっていなかった。自分がいれば一先ず問題は無いなどと、甘い考えを持っていたことがつくづく馬鹿らしい。そんな馬鹿らしさの所為で、みすみす扶桑という犠牲者を出してしまった。自分の甘さが恥ずかしいばかりだ。

 陸奥は、もう一度ずらりと艦娘たちに視線を向けた。

 皆、憤りを隠せない様だった。陸奥が鎮守府に来る前であれば、日常のありふれた光景として終わっただろう。しかし、感情を出すようになった今は、そんなこと出来ない。

 拳を握りしめる者、歯を噛み締める者、鼻息を荒くする者とそれぞれ怒りが面に出ている。鬼怒もまた、地面の血痕を睨みつけていた。

 

「許さない。絶対に許さない。もう、我慢出来ない」

 

 誰かが言った。

 思いは同じなのか、同意を示すように頷く艦娘たち。不穏な雰囲気を放ちながら、示し合わせたように陸奥に視線が集まる。

 陸奥は、深い恐怖を覚えた。彼女たちは自分に何を言いたいのだろうか。自分に何を言わせたいのだろうか。分からないわけではない。いや、分かる。望まれている答えを返すことは簡単だ。その答えは、この坂東鎮守府に安寧と秩序をもたらすだろう。

 でも、それは敢えて考えないようにしていた答えだ。その答えを、彼女たちは言わせようとしている。冗談ではない。誰が軽々しくそんな答えを口にするものか。

 鬼怒を見る。

 

「陸奥さん、決断の時だよ」

 

 彼女がそう言っているように、陸奥には思えた。

 まだだ。まだ、その時ではない。もっと他に、穏便な方法がある筈だ。それまで、それまで辛抱していてくれ。心の中で陸奥が言う。

 陸奥は身体ごと振り返ってから、逃げるように歩き出した。その後を、鬼怒たちの視線が矢となって追った。ぐさりと強烈に突き刺さる。許さないという怨念が、陸奥に向けられているような、そんな気さえしてしまう。無我夢中で、陸奥は歩いた。

 われを取り戻した時、陸奥は自室の中に入っていた。呼吸が乱れていたので整える。整えながら、先ほどの鬼怒たちの様子を思い出す。

 

(鬼怒は近いうちに、俺に謀反を起こせと言うに違いない。しかし、それは無謀と言うもの。あの男一人ではない。この国全てを敵に回すのと同義。暫く待て、別の方法がある筈なのだ。暫く待つのだ)

 

 暫く、暫く、と陸奥は自分に言い聞かせるように呟き続けた。

 

 

 



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その②

 事件より一ヶ月が経った。この一ヶ月、特に大きな問題はなかったものの、日ごとに不穏な空気が流れているようには感じる。扶桑を傷つけた源提督の蛮行に、これまでの遺恨を含めて報復してやろうという動きが、艦娘たちの間で出ているようだった。

 そんな艦娘たちを、陸奥はそれとなく抑えてはいた。彼女たちも、後ろ盾の陸奥に止められてしまえば強行に及ぶ気はないらしい。表面上大人しくはしていた。

 そんな緊張の日々が続く中、陸奥の姿は家族向けの飲食店にあった。何をするためかと言えば、無論食事をするためだ。この日は珍しく休暇だった。別に行く予定はなかったのだが、事件以来交流の増えた山城と龍田が是非にと言うので、だったらと訪れたのである。

 広い店の中は、昼食時とあって人が多い。家族連れは勿論、恋人、友達、はたまた一人で食事をしている者も多くいる。この賑わいには、陸奥も感心するばかりだった。

 店員に連れられた席に座って、食事を注文する。後は頼んだ食事が来るまで時間を潰すだけである。無料の水を飲みながら待っていると、山城と龍田が陸奥をじっと見ていた。

 

「どうした?」

 

「今日は付き合ってくれてありがとう。こうやって、あなたとゆっくり食事をしたいと思ったから、時間を貰ったわ。本当にありがとう」

 

 山城が恐縮とばかりに頭を下げた。倣って龍田も頭を下げる。

 

「そのように頭を下げることではない。俺とて、お前たちとの飯は楽しみなのだ。今日は堅苦しいことも、日ごろの疲れも忘れて、美味い飯を堪能しようではないか」

 

 実のところ、陸奥は二人に誘われて嬉しい気持ちでいっぱいだった。彼女たちが自分からこういう行動に出るようになったことが、嬉しかったのだ。

 どうせだったら、鬼怒や他の艦娘たち皆で食べたかったが、彼女たちは仕事中だ。悪いが三人だけで楽しむことにしよう。そんなことを思っていると、龍田がムッと唇をすぼめた。

 

「陸奥さ~ん、今、別の女のことを考えてなかったかしら?」

 

 龍田の意図が伝わったのか、山城も便乗する。

 

「私たちという女がありながら、ね」

 

 拗ねたような物言いを受けて、陸奥はたじたじとなった。

 別にお前たち恋人や妻ではないのだから、俺が何を考えてようが勝手ではないか。いや確かに、食事をしようという時に別の女のことを考えられるのは面白くないのか。そもそもなぜ、俺が鬼怒たちのことを考えてるのが分かったのだ。頭の中でぐるぐると思考を駆け巡らせていると、龍田と山城が悪戯成功とばかりに声をあげて笑った。

 

「ふふ、陸奥ったら真剣に考え過ぎだわ。冗談よ、冗談」

 

「そうよ。もう、陸奥さんたら、まるで男みたいに反応するんだもの。揶揄い甲斐があって、とっても面白いわ~」

 

 二人してあまりにも愉快そうにするものだから、陸奥も馬鹿にされたと怒るより楽しい気分になって笑い声を上げた。

 

「お前たちは酷い女だな。いつか、とんでもない目に遭っても俺は知らんぞ」

 

「陸奥さん以外にこんなことしないも~ん」

 

「ほほう?」

 

 陸奥がおどけたように言うと、三人はまた声を出して笑った。

 ひとしきり笑ったところで、店員が注文の食事を持って来た。テーブルの上に並べられた三人分の食事から、湯気が立ち昇る。

 陸奥は先ず、香りを目一杯鼻で吸い込んだ。焼き鮭や、焼き栗、茸の香りを嗅いでいると、昔の事が脳裏によみがえる。どれもこれも、蝦夷に馳走してもらったものばかりだ。彼らは、自分の子供のように可愛がって、良くしてくれた。その記憶が鮮明によみがえって来る。  

 香りを楽しんだ陸奥は、続いて味を楽しむことにした。舌鼓を打つと、やはり懐かしい味が飛び込んで来た。味付けはまったく違うが、それでも懐かしい。

 

「それにしても、暢気なものよね」

 

 ふと龍田が、食事の手を止めてそんなことを言った。

 

「私たちが命懸けで戦っている間、この人たちはこうしてのんびりと平和な日常を満喫してるんでしょ? ほんと、暢気よね~」

 

 吐き捨てる龍田の口元に、歪んだ笑みが出る。陸奥はその口元から、底知れない冷たさを見て取った気がした。ほんの数分前に、自分に向かられた温かさは一切ない。

 仕方のないことだと思った。源提督という存在がある以上、人というものに対して、良い感情を持てないのは必然であろう。陸奥は龍田を咎めるようなことはしなかった。

 

「あら、龍田。そんな暢気な彼らのお陰で、こうして美味しいご飯が食べられるんだもの。別に良いじゃない」

 

 山城が冷ややかに言った。

 彼女も彼女で思うところがあるようだ。

 こういう食事の席だ。多少の不満は外に出した方が良い、と二人に好きなよう言わせていた陸奥は、偶然、背後の席から漏れて来た話を聞き取った。

 

「深海棲艦も恐いけどよ、俺は艦娘ってのも恐いと思うね。考えてもみろよ。ミサイルとかでも倒せない深海棲艦を倒しちまうんだぜ。しかも、深海棲艦と違って陸でも普通に生活が出来る。もしも、深海棲艦がいなくなったら、矛先がこっちに向いてくるかもしれねえ。ちょっと機嫌損ねたら、大砲や爆弾が飛んで来るぞ。どころか、一発ぶん殴られただけでやばいんじゃないのか? このままじゃ、俺たち人間は、艦娘たちの御機嫌伺をしながら生きて行かなくちゃいけなくなる。下手をしたら、国を乗っ取られるんじゃないのか? そしたら、人間は皆殺しか、奴隷だな。俺はやだぜ、そんなことになったらよ」

 

 この会話は聞き逃してはならない。そう直感した陸奥は、一言一句聞き逃さないようにと、耳を立てる。すると、男の話を冗談だと思ったのだろう、友達らしき者が軽口を叩いた。

 

「アニメか漫画の見過ぎだって。そりゃあ、深海棲艦とか艦娘とか現実の話とは到底思えないけどさ。現実じゃないと言えば、艦娘って、皆美人ばっからしいじゃん。良いなあ、誰か一人ぐらい俺の所に嫁に来てくれないかなあ。艦娘は俺の嫁ってか、はははは!」

 

「俺は別に笑い話なんかしてねぇって。マジで真剣に考えろよ。人類の危機だぞ」

 

「えっ? 美人の奴隷になるんだったら良いんじゃね? 寧ろ感激しちゃうかも。冴えねえおっさんやおばさんなんかにぺこぺこしてるより、美人のお姉ちゃんの方が良いじゃん」

 

 友達が真剣になってくれないからだろう。男はこれ以上話を続けようとはしなかった。

 ただ、友達は真剣にならなかったが、背後の席で聞き耳を立てていた陸奥は、真剣にならざるを得なかった。雷に打たれたような衝撃が、彼女の身体を刺激していた。

 これは拙い話だ。この話の意味するところ、それは、源提督をどうにかしたところで、坂東鎮守府に平和は訪れない、ということである。そればかりか、深海棲艦を撃滅、あるいは和解しても、艦娘の戦いは終わらない。始まりだ。艦娘の生存を賭けた戦いの。

 一般市民の中に艦娘を嫌悪する者がいるというのは、そういうことなのだ。陸奥は、自身を悩ませる問題が、さらに根の深い場所にあることを悟った。

 

「これはいかん」

 

「何が?」

 

 無意識の陸奥の言葉に、山城が反応した。随分と箸が進んでいないから、どうしたのかと怪訝に思っていたらしい。

 龍田も不安そうにしている。

 どうもない、とは言えなかったが、二人に男の話を聞かせるのは愚策も良いところだ。話をしたら、人への悪感情を増して、しまいには、望み通り殺してやるとか言い出しかねない。話は胸の内に秘めておくことにして、

 

「提督のことよ。このままではいかんな、と思ってな」

 

 そう、誤魔化した。

 山城と龍田は、これ以上何も聞かなかった。折角の食事だもの。辛気臭い話は止めて、楽しもうじゃないかと思ったのだ。

 以降は三人、食事を存分に楽しんだ後、街へ出て他の艦娘たちへの土産を買ってから、鎮守府へと戻った。

 

 



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その③

 源提督は酷く機嫌斜めであった。と言うのも、陸奥に用事が合ったのに、その陸奥が鎮守府を留守にしているからだった。彼女は休日だとあって、同じく休日の山城と龍田と一緒に遠出をしているらしかったが、源提督にとってはそんなこと関係ない。休日だろうがなかろうが、俺が来いと言っているのに来ないのはけしからん、と憤っているのだ。

 憂さ晴らしに艦娘の一人や二人をやってしまおうか、と拳銃を弄りながら陸奥の帰りを待っていると、陸奥が鎮守府に戻って来た。

 

「おい、陸奥を呼んで来い」

 

 陸奥の帰りを知らせて来た艦娘に命令し、さらに待つこと数分。源提督の前に陸奥が姿を現したのだが、その佇まいに驚かされた。

 何と言うか、覇気がないのである。顔も前を向いて、背筋はきっちりと伸びてはいるものの、瞳に輝きがないのだ。いつもは研ぎ澄まされ、澄んだ眼差しだと言うのに。

 これは、遠出をした際に何かあったものと思われた。珍しいことがあるものだと、先ほどまでの憤りもどこへやら、ウキウキ、ニヤニヤとなって来る。

 

「陸奥、ただいま参上仕りました」

 

 陸奥が深々と頭を下げる。

 

「そんな挨拶はどうでもいい。何かあったんだろ? 俺に話してみろ」

 

 言われた陸奥は、一瞬何のことかと疑問であった。が、直ぐに、昼食の際後ろの席で男が話していたことが思い浮かぶ。そして、源提督に気付かれない程度に、嫌そうな表情をした。

 あの話をしたところで、この男を笑わせるだけである。ここは適当にやり過ごしてから、とっとと本題に入ってもらうべきだと、顔を上げた。粘着質な視線が、陸奥に纏わり付く。

 

「面白い話ではございません。お耳汚しになるだけかと」

 

「面白いかどうかは俺が決めるんだよ。話せ、命令だ」

 

 源提督の瞳の奥で、鋭い光を放つものが見えた。話さなければ話さないで面倒なことになりそうだったので、陸奥は話すことにした。

 

「では、お話いたします」

 

 そうして、陸奥は今日の出来事を話した。

 話を聞き終わった源提督は、案の定笑った。しかも嘲る様な嫌らしい笑いである。どうしてそんな下らないことで悩んでるんだ、と笑いで語っている。ただ、その対象は陸奥ではなく、話の男の方であった。

 

「馬鹿なことを言う奴もいるもんだな。艦娘が恐い? 艦娘に傷つけられる? 挙句には、艦娘が人間を支配するだって? ふんっ、馬鹿ばかしいったらありゃしねえな。そんなことあるわけねえよ。あいつらが人間様に逆らうような度胸があったら、俺はとっくに殺されてるっつうの。そんな度胸がねえ、根っからの奴隷根性だから、今があるんだろうがよ。おかしくって腹が痛くなりそうだぜ」

 

 自分がその艦娘に殺されそうになっているとは露知らず、源提督は上機嫌に語る。

 陸奥の瞳が侮蔑の色を伴った。度胸がないとか奴隷根性だとかは知らないが、心優しい艦娘たちに提督の抹殺を決断させるまで苦しめ続け、このような発言を恥ずかしげもなく晒す、この男が憎たらしい。汚らわしい奴め、と胸の内から燃え上がるものを感じ、

 

(お前が殺されておらんのは、俺が止めてやってるからに過ぎん。それもお前のために止めてやってるのではない、艦娘の未来のためよ。今に見ておれ、お前のような悪鬼は、遠からず天の裁きが下る。いや、この俺が下らせてやるわ!)

 

 拳を握った。

 そこで、はてなと小首を傾げる。胸の内に滾るどうしようもない感情といい、声出さず叫んだ言葉といい、握られた拳といい、自分は、まったく意識していなかった。ただ、無意識かと問われれば、それも違う気がする。不思議な感覚だ。

 この時、唐突に鬼怒の顔が思い浮かんだ。

 

「陸奥さん、ようやく決断してくれたんだね」

 

 鬼怒がそんなことを嬉しそうに言う姿が見えた様な気がした。

 

(何を考えていたのだ、陸奥。しっかりしろ! お前まで怒りの矛先が赴くままに、短絡的な結論を出そうと言うのか。艦娘の未来が掛かっているのだぞ、もっと冷静になれ!)

 

 陸奥は自分で自分を窘めた。大した効果はなく、このままでは取り返しのつかないことになりそうであったので、咄嗟に別のことに意識を飛ばす。

 

「話はこれまでに、それよりも、何か御用件があったのでは?」

 

「ああ、そう言えば、そうだったな。まあ、何だ、ちょっと山口の方に用事が出来たんでな。ほら、藤原は勿論知ってるだろ。あいつが、俺と会って話がしたいって言うんだよ。本来だったらあいつがこっちに来る予定だったんだが、俺さ、自分の家に他人を入れたくないタイプなんだよね。ってことで、俺があいつの鎮守府に行くことになったんだ。それでよ、何かお前と適当に四、五体ぐらい艦娘を連れて来いってことらしいから、お前、来い」

 

 思いもかけないことで、早々と陸奥の意識がこちらに飛んだ。

 先ずは嬉しさである。ここのところは、鬼怒たちの存在もあって寂しさはなかったのだが、故郷に対する思いが消えたわけではない。帰りたいという気持ちもまだあるし、一度帰って故郷の空気を堪能したかった。姉は元気にしてるだろうか、弟子の弓はさらに上達したのだろうか、思いは馳せて行くばかりである。

 けれども、その嬉しさは、驚きによってさっさと引っ込んでしまった。

 一体この男は何を言っているのだろうか。どうしてわざわざ顔を合わせて会う必要があるのだ。今の時代は電話というものがあるのだから、それを使えば良いのではないか。

 一応提督であるこの男と、秘書艦である自分が同じ時間帯を留守にするということですら問題なのに、さらに四、五名の艦娘も一緒。鎮守府の守りはどうすると言うのだ。

 非常識極まりないことを言って、源提督も藤原も軽はずみなことをぬけぬけとする、藤原の秘書艦である大和の奴は何をしてるんだ、と思ったし、これでは姉の長門や妹分の加賀に久々に会えると素直に喜べないではないか、とも思った。

 

「ご用件のほどはよく分かりました。しかし、提督と私の二人が鎮守府より不在となるのは危険ではございませんか。指揮を執る者がいないと言うのは、また、四名ないし五名までもとなると、少々考え直した方が宜しいのではないかと」

 

 源提督は、両腕を組んで思案する素振りを見せてから、大きな欠伸を一つ。

 

「気にしすぎだっつうの。そもそも今日、お前と他の奴らがいなかった時も問題無かったし、大体、過半数がいなくなるわけでもねえし、お留守番ぐらい出来るだろうよ。とにかく、もう決まったんだよ。用はこれで終わりだ。ごちゃごちゃ言わずに、準備をしろ。後、連れて行く艦娘はお前が適当に選んでおけ」

 

 これ以上問答する気はないらしい。話を強引に切り上げられてしまった陸奥は、もう何を言っても覆ることはないだろうと説得を諦め、源提督に背を向け、部屋を後にした。

 部屋を出てから廊下を歩いていると、陸奥は鬼怒の姿を見つけた。幻や気の所為ではない、本物の鬼怒だった。鬼怒は早足に陸奥との距離を縮める。

 

「陸奥さん」

 

 陸奥の名を呼びながら、控えめに鬼怒は微笑んだ。

 さっき、故郷のことを思い出したからだろう、鬼怒の姿が故郷の誰かに似ていると感じた。そうしてすぐ、加賀に行き着いた。

 どこが似ているのかと言われれば、明確に答えは出て来ない。試しにポンと鬼怒の頭に手を置いて撫でてみると、恥ずかしそうに身動ぎする。加賀と同じ反応だった。加賀も頭を撫でた時は、恥ずかしそうに顔を赤らめ、でも嬉しそうにするのだ。そっくりだ。

 まるで、姉妹のようだった。

 

(決まってしまったものはしょうがない。今は素直に、皆に会えることを喜ぶことにしよう。ふふ、加賀に紹介してやらねばな。お前に新しい妹が出来たと)

 

 同行させる艦娘の一人を陸奥は決めると、他の面子はどうしようか、鬼怒の頭を撫でながら考えるのであった。

 



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