みだらふしだら (K-Knot)
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みだらふしだら

この世界よりも


 

 

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 最初は俺だってまともに生きたかったよ

 でも世界のほうが俺のことをいらないって言ってくるんだ

 同級生が優しい父親と一緒に風呂に入って将来の夢を語っているとき

 同室のあいつは先生にベルトで引っ叩かれてた

 これでも俺たちは恵まれているんだって

 地球の裏側の子供達のこと引っ張り出されて比べられた

 

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 一年を通して毎日必ず夕方に熱された油絵の独特なにおい。舞い上がる埃までもが嗅覚を刺激する。

 手探りで拠り所を求めて椅子の脚を掴むと踏み躙られた手の甲が酷く痛んだ。

 目隠しで視覚を封じられる前に耳を思い切り蹴られているから聴覚までもがまともに働いていない。

 ただ嗅覚を頼りに前へ前へ。

 

「無様ね」

 キーン、という耳鳴りを突き破って四つん這いの竣の上から聞こえる白銀の鈴の音のような声。

 徹底的な軽蔑が空気に染み渡っていくよう。竣は屈辱の中に微かな喜びを見出していた。

 自分はいつだって世間に打ち捨てられて見下されて使い捨てにされる立場だったから、その相手を選べることは――――命を使う相手を選べることはそれ自体が喜悦の源だった。

 目隠しから透明な涙がこぼれた。

 

 

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 この世界に俺たちはいらないと突きつけられているのに

 そんな世界は愛さないと言うと

 どこからともなく気持ち悪い正義が沸き上がってきてありがたい説教かましてきやがる

 それでも世界を愛しなさいって、汚い金を腹に溜め込んだアバズレどもが

 

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 這い進んでようやくたどり着いたのは彼女の足許。

 鋭い視線が頭の後ろに刺さるのを感じる。きっと椅子に座って脚を組んで、冷酷に見下しているのだろう。

 それでいい。欲望を愛で包んだ腐肉なんていらない。優しさなんていままで貰ったことがないから分からない。

 怒りでも侮蔑でも憎しみでも、彼女の心を自分で満たせるならそれでいい。

 

「はやくしなさい」

 耳のそばでことりと何かが落ちる音がした。

 彼女が上履きを脱いだのだろう。

 かすかなボディーソープの香りに混じって履き潰した上履きの中で熟成された汗のにおいが鼻先に突きつけられる。

 はやくはやくと指を広げたり閉じたりしているのを空気の動きで感じる。その動作に苛立ちはない。彼女自身も初めて覗く世界にわくわくしている。

 

 

 

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 尊い犠牲と清い努力がいまのへーわな世の中を作ったのだから

 この世界を愛してよりよくしていく義務があって

 どんな人間もこの世界で生かなきゃいけないって

 

 幸せでよろしゅうございますね

 どうか苦しんで苦しんで破滅してくれないか

 引きずり降ろされた最下層でもう一度同じことをのたまってみろよ

 

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 いままで異性に唇を付けたことなんて一回もない。

 そうしてみたかった、そんなこともしてみたかった。少なくともまだ夢があった頃はそれくらいは許されるはずだって思ってた。

 初めて口を付ける異性の身体がタイツ越しの爪先だなんて、小学生の自分が知ったらきっと泣くだろう。

 でも、いつかそんなことを喜んでする日が来るんだって悪意を持って言ってやりたい。子供の頃の自分でさえも仄暗い絶望に叩き込んでやりたい。

 想像しながら開いた口は満面の笑みのようで、少しだけ開けていた窓から秋風がざぁっと吹き込んだ。

 

「竣、ねぇ。口の中ってあったかいね」

 いま何をしているのかを一瞬忘れそうになるくらい優しい口調だった。

 塩辛い汗を味わわせていた親指が一気に喉まで押し込まれた。

 

「あはっ。あはははは!」

 そのまま脳天を蹴り上げるかのように振り上げられ、竣は足を口に突っ込まれたまま仰向けに倒れる。

 彼女の笑い声は初めて遊園地に来た幼子のようだった。ぐりぐりと無遠慮に口の奥まで押し込まれ、逃げようにももう片方の足で髪を掴まれて頭をまともに動かすことも出来ない。

 

「げぼっ、がはッ!!」

 命令があるまでは絶対にそのままでいるべきだったのに、身体の反射には逆らえず咳き込んで口を離してしまう。

 彼女は責めることなく無造作に竣の腹の上に腰を下ろした。一瞬呼吸が止まる。

 度重なる嘔吐の要求を脳が送るが、朝も昼も何も食べていなかったので飛び出たのは酸っぱい胃液だけ。

 何も着ていない上半身に触れる床の冷たさが変に心地よかった。

 

 

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 誰の犠牲も認めずに一致団結し断罪

 敗者と悪の死体の上で作り上げた平和に乾杯

 俺もいつかは骸の山の一つに

 

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 目隠しがとれた。

 不思議なのは外されたのではなく、重力に逆らえずそのまま落ちるかのような取れ方をしたことだった。

 

「これね、うちに飾ってあったんだけど」

 秋風になびく亜麻色の髪。強烈な欲望を内包した赤瑪瑙の瞳。優れた顔貌にはただそこに在るだけで燦然と人の上に立つ資質が表れているかのようだ。

 夕陽を反射するいかにも高級そうなナイフを、最底辺の生まれの自分に生まれながらの女王が突き付けていた。

 文字通り彼女の尻に敷かれている自分を、壁に飾られている肖像画の老女が諧謔を見るかのような目で眺めていた。

 

「高いからかな、やっぱり」

 男子にしては長すぎる竣の髪を彼女がつまむ。

 ナイフで撫でるとまるで最初から切れていたかのように落ちた。

 あのナイフで目隠しも切ったのだ。

 

「すごくよく切れる」

 ああ、もったいない――――東欧の絹のような彼女の髪までも遠慮なく切ってしまう。

 撒いた髪が自分のそれと混じってただのゴミと成り果てるのを見ている自分の感情は理解不可能だ。

 

「長い人生なのにただただ退屈に朽ちていくだけ……なら、一度くらい、一度くらいは」

 ぷちぷちとブラウスのボタンを外して脱ぎ捨てた。

 下着姿に見とれたのも一瞬、汚れるから脱いだのだとすぐに分かって首の後ろ辺りが冷える感じがした。

 

「もちろんいいよね?」

 溶けたバターに挿し込むかのように、彼女の欲望の刃が竣の胸に突き立てられた。

 

「――――ッ!!」

 ずずずっ、と刃が進んでいくのに従って燃え上がりそうなほどの熱と耐え難い痛みが湧き上がる。

 悲鳴を止めるために口を押さえるが止まらない歯ぎしりが美術準備室に響き渡った。

 血で湿った音と彼女の興奮の吐息が神聖なはずの学び舎を異空間に変える。

 

 

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 悪よ咲け、咲け!

 陰より陽の下で狂い咲け

 混沌の権化よ世界を飲み込め

 抑圧する秩序を破壊しろ

 太陽は沈め

 星は砕けろ

 花は枯れろ

 血は逆巻け

 泥土に掻き臥せろ

 鋼鉄の錆よ、より赤く染まれ

 

 千年の夜と曼珠沙華咲き誇る世界の夢を見せて

 蓮の葉の上に座すは山羊頭の淫欲

 

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 永遠にも思えた時間は、数にしてみれば5分も無かったようだ。

 無限に流れたと感じた血は僅かに床に垂れる程度。皮とほんの少しの肉が切れただけ。

 それでも竣は痛みと恐怖のあまり過呼吸になっていた。食いしばりすぎて痺れた口に大量の涙が伝う。

 

「ちゃんと声我慢できたね。えらいね、男の子だね」

 

「いっ……た……」

 項垂れた彼女の髪が傷に触れて血で汚れた。滲む痛みが胸に彫られた文字の正体を伝える。

 

「あーあ、もう。最後にあたしのことどれだけ無茶苦茶にすること出来ても。そこから先の人生終わりだね。好きな子できても、抱くことすらできない」

 彼女が爪の腹で刻まれた傷をなぞった。Karen――――彼女の、華怜の名前がはっきりと残ってしまっていた。

 普通にプールに入ることも出来ない。鏡を見るたびに、風呂を入る度に華怜のことを思い出す。いや、思い出せと言っているのだ。

 

「ふふふ。あはっ。あはははははっ!!」

 痛みと苦しみを暴風雨のように叩きつける華怜の表情は法悦の果てにある。

 二人は命を賭けて互いを壊し合う。そういう約束をしたのだから、それでいいんだ。

 それでもまだ60日もある――――と思うべきなのに。

 もう60日しかないのか、と思う自分がそこにいた。

 

 

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お前らがなんか言わなくたって

俺は、俺たちは勝手にぶっ壊れていくよ

 

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   YOU & I VS. THE WORLD

 

 

 

 

 

 

 この世界は誰のものだ。

 人によって答えはそれぞれだろうが『みんなのもの』だとか『誰のものでもない』という解答はあまりにも無知が過ぎる。

 煙の上がるゴミ捨て場を漁ってようやく1日1ドル稼ぐ一家の視線の先には成金たちのビルの群れ。100円のパンを万引きして捕まった孤独な老人の二件隣には将来有望な医学生が住んでいる。

 この世界は金持ちのものだと言って誰が否定できようか。もっと分かりやすく言えば強者のものなのだ。

 

 そして動物と同じく、人間にも生まれながらの弱者と強者がいる。

 この国の強者はもっとも分かりやすい。家から出てバイクに乗って学校に着くまでに100個は目にする家紋と名前、『霊九守』『TAMAKUMO』『タマクモ』と、嫌というほどにこの街が誰のものかということを無言で強調している。

 真円を中心に掲げて周囲に炎という太陽のような高貴な家紋は駅にまで掲げられ、極めつけはこの街には似合わない天を突かんばかりの商業ビルだ。

 霊九守の名は1000年以上前から歴史に度々登場し、財閥解体後もこの国のありとあらゆる産業・工業に携わっている。実質的な日本の支配者一族と言っていい。

 噂ではこの国どころか世界の根幹にも関わっているというが今更誰も驚かない。世界を裏から支配してきた秘密結社や財団も、元々は支配者一族から生まれたものだったのだから。

 

 そんな一族に生まれた子供は誇張抜きに生まれながらの強者と言っていいだろう。

 霊九守華怜は女王そのものだった。

 教師はおろかどんな大人ですらも彼女に逆らうことはない。

 傍若無人、悪虐の女王。ただそこにいるだけで、支配し君臨する。

 

 それなのに、日本ならば最底辺と言い切っていい生まれの竣は華怜を見た瞬間に思ってしまったのだ。

 どうしても、華怜を手に入れてみたいと。

 その逢魔は果たして猿猴捉月となるか。沼の底から星空を見た日のように、衝動は止められなかった。

 

 

 

 その日も教室に入った瞬間からいつもどおりといった光景だった。

 黒板に描かれた下品な落書きのターゲットは明らか、主犯も明らかだ。クラスの誰もが、担任ですらも恐らくは把握している。だが止めることは出来ないのだ。

 

「…………」

 そして竣もいつも通りに席に着いた。このクラス、この学校において竣は幽霊未満の存在だ。

 誰とも喋らず、予鈴ギリギリに登校し放課後は一人で帰る。誰とも関わらない。もしかしたら教師ですら誰ひとりとして竣の宗像という名字すら覚えていないかもしれない。

 ターゲットの女子生徒が入ってきた。黒板が目に入った瞬間に心臓が縮んだかのような息を漏らして俯いた。

 教室の空気は張り詰めており最悪だ。これがよくある女子同士のハブ程度だったのなら、ホームルーム前のこの時間なのだからそれなりに騒がしいだろうに。

 

「…………」

 女王が黙っているからクラスも静かなのだ。華怜が全てのルールだ。彼女が話せばクラスのみんなは話していいし、不機嫌になれば誰もが黙らなければならない。

 結局担任が入ってくるまで華怜は退屈だと身体中から示すかのように腕を組んで黙ったままだった。

 誰も彼女の暴虐を止めようとしない。漫画やアニメ、あるいは創作の世界なら。ヒーローが助けに来るし、助けられる側は美少女だがそんなことはまったくない。助けようなんて浮かんだことすらない。

 

(俺は今日……)  

 というか一切まったくこれっぽっちも興味がない。

 それで死のうが生きようが、キレようが訴えようが全てがどうでもいい。

 何が楽しいかも分からないし、理解する気もない。

 だが、きっと今日。この教室の空気は変わるだろう。

 幽霊未満の自分の行動によって。

 

 

 

 放課後はほとんど毎日バイトをしている。

 部活動もせず、友達も作らずに黙々と。

 そんな竣は初めてバイトを休んだ。

 夏休み明けで部活動に励む生徒の活発な声が開け放った窓から聞こえてくる。

 それに混じって聞こえてくるのは女子トイレから響く異質な音。放課後にこんなことをしているのはあまりにも時間の無駄だと思うが、人の価値観はそれぞれだ。好きな音楽を鑑賞するよりも弱者を踏みにじる方が楽しいのならばそれもいいだろう。

 髪の下に隠れたピアスに決意を確かめるように触れたあと、べきべきと指の骨を鳴らした竣はずかずかと女子トイレに入っていった。

 

「ちょっと! な――――」

 

「どけ」

 唐突にいるべきではない場所に男子が乱入してきた。そんな状況に当然批難の声をあげようとした女子を突き飛ばす。

 たとえば金魚でも弱った個体を他の個体が突き回すことはあるが、水槽に人間が手を突っ込んだだけでどの個体も平等に逃げ回るだけになる。

 いまの状況と同じだ。

 

「…………?」

 主犯、あるいは中心のはずなのにターゲットの閉じ込められた個室を壁にもたれながらつまらなそうに見ていた華怜は突然の闖入者を見ても特に騒ぎはしなかった。

 ただその退屈そうな赤みがかった瞳で竣のことを見ているだけだった。

 いきなり排除を命じなかったのは幸いだ。邪魔な人間を押しのけて個室のドアを無理やり開けるとずぶ濡れの女子生徒がそこにいた。

 

「さっさと帰れ」

 

「えっ、えっ?」

 助けに来たとは誰もが思えないほどに乱暴に引きずり出し廊下に出す。

 感謝よりも困惑が強く顔に浮かんでいる。多分、まず自分が誰か分かっていないのだろう。

 クラスメイトで自分のことを知っている人間なんかほとんどいないのだから。

 

「早く行け!」

 平静を保っているが、昨日頭の中で作り上げた計画通りに進めるだけでいっぱいいっぱいだ。時代遅れのパンクロッカーのように長い竣の髪の下は既に嫌な汗で蒸されている。

 とにかくさっさとどこかに行ってほしかった。目的はただ、華怜と二人で話すことそれだけなのだから。

 

「誰? あんた」

 来た――――ただの同い年のクラスメート、言ってみればそれだけのはずなのに華怜が口を開いたとき、覚悟を決めずにはいられなかった。

 気に入らない、邪魔、死になさい。そのどれか一つでも華怜が口にすれば自分はこの街にいることすら出来なくなる。

 だとしたら華怜が冷静に考える前に行動に移さなければ。

 

「?」

 いきなり肩を掴まれても華怜はまばたき一つしなかった。

 恐怖を感じるとか以前にそんな想像が頭に無いのだろう。

 

「あとで教室に来い」

 

「……ふーん?」

 これで来なかったらそれで終わり、それだけだ。どちらにしろ大した未来の待ち受けていない自分なのだからもうどうだっていい。

 何あいつ、頭おかしい――――そんな囁きを背に受けながら竣は教室に向かった。

 

 

 

 普通だったら来ない。

 普通だったら、だ。

 誰だって知っている、華怜は普通じゃないことを。

 そしてあの答え方。来い、と言った時に退屈に沈殿していた華怜の瞳が僅かに光ったのを見逃さなかった。

 絶対に来る――――もはや確信に近かった。

 

「思いだした。そういえば同じクラスだったね。端っこで勉強だけしているヤツかと思ってた」

 

(やっぱり来た)

 もしかしたら想像もつかない恐怖が待ち受けているかもしれないというのに、華怜は扉を開けて平然と入ってきた。

 話があるのは自分なのだろう、と言わんばかりに他に誰も連れてきていないのはさすが女王だ。あまりにも堂々としている。

 

「つまらない話だったら来なかったんだけど。なんか、面白いこと言う予感がしてね」

 

「…………」

 いい勘をしている。要するに、プリント運ぶの手伝ってとかあなたのことが好きなんですなんていう退屈極まりない話ではないと察したと言っているのだろう。

 たしかに、そんなことを伝えるのならばあんな行動を取る必要はない。

 

「で、何の用?」

 何か言葉を間違えば、指先一つの動きでも過てばお前の人生それまでだ。そう言われているのかと思うほどに何気ない言葉に圧力があった。

 あの教師気に入らないの一言で教師は退職に追い込まれ、駅前のトイレが汚いというだけで毎日清掃業者が入り神経質なほどに磨いている。

 自分にとって害のある存在だと思われれば冗談でもなんでもなく殺されるだろう。

 だがどうせ。どうせ俺は人生を捨てているんだ――――20歳にもなっていない子供が思うべきではない言葉に背中を押され、竣は口を開いた。 

 

「三ヶ月間、君のいうことをなんだって聞くから、そのあと一日だけ君のことを好きにさせてほしい」

 その時、初めて華怜は竣を見た。少なくとも竣はそう思った。

 赤みがかった瞳は夕陽を直に受けていっそ更に冷酷に赤く光っていた。

 

 生まれたその日から女王である華怜の眼は退屈に満ち満ちていた。右手を上げろ、カラスは白い、あれは私達の敵――――返ってくる答えは全て是。

 果たして自分はこの世界を真っ当に生きているのだろうか――?

 

 あまりにも斜め上すぎる竣の言葉は魂の奥深くで同質である華怜の心を興味という鍵で開くことに成功したのだった。

 

「はっ。なにそれ。あんたと話したこととかあったっけ。好きにって、何?」

 

「もちろん××××する。○○○○○○○だってするし、なんでも遠慮なくする。思いついたことを24時間の間に全部するつもりだ」

 華怜との初めての会話は卑猥な言葉に埋め尽くされていた。もちろん竣の心臓はきゅうきゅうと痛いほどに騒いでおり、生まれて初めて口にする言葉達に脳細胞がやられてしまいそうだった。

 よく考えたら女子との会話なんて数年ぶりかもしれない。それでも仕方がないじゃないか。もう行動は起こしてしまっていて、華怜を一目見た時に滅茶苦茶に犯してみたいと思ってしまったのだから。

 

「3ヶ月あたしの人形になるってこと? 窓から飛べって言ったら?」

 

「飛ぶ。絶対に3ヶ月後まで生きるけど」

 会話を続けてくれているということは1%でもこの話を受け入れてくれる可能性があるということだ。

 本気であるということを示すためにも竣は迷わず即答した。

 

「……あたしの命の価値はあんたの90倍あるってこと?」

 

「それ以上に決まってる」

 竣には親はいない。児童養護施設で育ち、日々の暮らしもバイトバイトで既に生きることに精一杯だ。そんな馬の骨以下の自分の価値を華怜と比べることすらもおこがましい。 

 だが、期間をもっと伸ばしたところで飽きるだろうし、学生なのだからやらなければならないことも出て来る。これくらいがちょうどいいはずだ。

 

「あー……なら……どっかに……あった」

 自分のものではない机を勝手に華怜が漁るが、たとえそれを授業中にやっても止める人間はいないだろう。

 それにしても何を――――と考えたと同時に机から出てきたのは少し錆びたハサミだった。

 

「はい。どこでもいいけど、お腹とかに刺しちゃダメだよ。それで終わっちゃつまんないから」

 ぞっとするような言葉とともに刃を向けてハサミを差し出された。目の前で自傷行為をしろ、と命じたのに華怜は落ち着き払っている。

 覚悟を決めろ。戸惑うな、喜べ。華怜は受け入れたのだ――――受け取ったハサミはなんの変哲もない誰でも持っているような普通の文房具だ。

 なのに、それを刃物として捉えると、人を殺傷せしめる凶器として見るとただそれだけでこめかみを冷や汗が伝った。

 

「三ヶ月だ」

 痛みを想像するな、過去も未来も考えるな。

 どうせ自分には何も無いのだから――――今までの全てにさようならを告げるかのように、竣は太ももに向けてハサミを思い切り振り下ろしたのだった。

 

 

 

 

 今となっては分からないのは、なんで自分はあんな行動に出たのだろうということ。

 あまりにも衝動的過ぎるその行動は常識的に考えてうまくいくわけがない。

 

 だがもっと分からないのは。華怜がどうしてそれを受け入れたのかということだった。

 ただ、彼女がいつもそこはかとなく退屈そうに見えたことに理由があるような気がした。

 

 

 

 

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 思えば最初から華怜に遠慮は無かった。

 死んだら終わりだが、死なない程度ならどれだけでもいいのだと理解した華怜はまるで監獄実験のように3日で全く本性を隠さなくなった。

 あれを盗んでこいなんて命令はしない。金はあるから。誰かを殺せとも言わない。そんなことをしてしまえば竣は逮捕されて一瞬で楽しみは終わってしまうから。

 つまり感性の赴くままに実行される苛烈な嗜虐的行為を受け止め続けなければならないのだ。予想はしていた。覚悟もしていた。だがそれでもやはり、たったの1ヶ月で竣の身体はかなり傷んでしまっていた。

 

(今日は何も無しか……)

 帰りのホームルームが終わって、華怜は取り巻きに囲まれながら眉一つ動かさずに佇んでいる。

 聞き耳を立てるにまた取り巻き達はくだらない生産性のない行為をしようとしているようだ。そのうちの一人と目が合う。華怜を呼び出した日に突き飛ばした少女だ。

 

「…………」

 だが目が合っただけですぐに逸らされた。華怜にあんな無礼な態度を取ってなお一見無事でいる自分に関わりたくないのだろう。

 そしてその話題が万が一地雷であれば無事で済まないため、彼女たちも華怜に何も訊かない。

 今日は何も無いのは当たり前だ。明日はテストなのだから普通の高校生は知識の詰め込みに必死になる。

 華怜も華怜で、たぶん国公立以外のどんな大学でも家の力でねじ込めると思うがプライドが高いのだろう、彼女の成績はほぼ完璧に近い。

 学校では華怜に話しかけるなと言われている。携帯に何も来ていないなら、今日は久々に身体を痛めずに済む。

 

「いてっ……」

 立ち上がると爪を剥がされた右足の親指が傷んだ。最初の一週間にされたことなのに、あれから三週間以上経った今でも痛む。

 剥がされたその日は歩いて病院に行くだけでも悪夢のような時間だったのだ――――華怜がこちらを見ていた。注視しなければ分からない程に冷酷な薄い笑い。きっとどこがどんな風に痛んでいるのかも分かっているのだろう。

 無理やりナイフで刻まれた文字は正しく処置したため痛みはもう無いが、何をどうやっても痕は残るだろう。

 

(いいさ)

 終わる頃にはもう自分はまともにこの世界を生きていけない身体になっているかもしれない。まだ死なれちゃ困る、程度の加減しかされていないのだから。

 あらゆる代償を払って手に入れるのが一夜の夢。だが人生は何かを追い求める旅だと竣は考えている。ならばこういう生き方も正解でいいはずだ。

 痛みを深い思考で誤魔化しながら竣は校舎の外に向かった。

 

 

 

 物心ついた時から竣は年齢も名前もばらばらの子供達と一緒に暮らしていた。

 親がいるのが普通、ということを知ったのは使い古しのランドセルと色あせたシャツを着て小学校に通い始めてからだ。

 竣の周りの大人には愛情などはなく、子供を虐待するのが趣味の先生と金の亡者の施設長。

 三つ上の少年がベルトで先生に一時間以上引っ叩かれるのを震えて見て育った竣は、自分が中学に上がったくらいの時期に先生が施設を出た少年に集団で襲撃されて殺された時も特に感想を抱くことは無かった。

 間違いなくこの国で最底辺の環境で育った竣の感性そのものがもう殺されきってしまっていた。

 

「また来たのか。ほらっ、やるからさっさとどっか行っちまえ」

 ぶくぶく太ったイボガエルみたいな施設長が竣の姿を見て痰の絡んだ声を出す。

 いい思い出など一つもない場所だが、施設を出て一人暮らしをしている今でも月に一度は必ず訪れなければならない。

 名前の上では竣はまだここに入っていることになっている。だが高校一年生の間にバイトで必死に金を貯めた竣は名前だけ置いたままここを出て、新しい子供が代わりに入っている。

 決して慈善の心などではなく、入っている子供の数に応じて国からの支援金が決まるからだ。

 細かい矛盾点をどうやり繰りしているのかは知らないがそうして施設長は私腹を肥やし、代わりに竣は施設長にアパートの保証人になってもらい更に月々に僅かながらの金を貰っている。

 

(こりゃ近いうちに死ぬな)

 ますます肥えた施設長はどう見ても生活習慣病をダース単位で抱えてる。

 金を貯め込んだところで寂れた風俗街で安い女を抱いて度数だけやたら高い酒を呷るくらいしかやることが無いだろうにまだ欲望の赴くままに生きている。

 

「まだ死ぬなよ」

 さっさと死ねばいいと思っているが、いま死なれては困る。自分が生きていけないからだ。

 もしかしたらいつかの先生のように、最悪の環境で育った餓鬼のような子供達に解体されるかもしれないが。

 

「お前も卒業まで死ぬんじゃねえぞ」

 思っていることはお互い様だった。せいぜい金を生み出せと言っている。

 ついでに煙草を一本貰った竣は電信柱に唾を吐いて施設を後にした。

 よく見るとここにも霊九守の家紋がある。

 まるで太陽や地面のように生まれた時から当たり前にあったから疑問にすら思わなかったが、こんな島国で世界の根幹に関わる何をしているというのだろう。

 なんて少し考えてみるが、日本には他にも世界的な自動車産業やらなにやらがあるし、あまり興味もない。

 明日を生きていくための希望と、金金そして金だ。ドブ板の隙間に煙草を捨てて竣はバイクに乗り次の目的地へ向かった。

 

 

 

 

 長くぼさぼさの髪を結い上げ、タオルを頭に巻く。

 それでも汗が流れるのは目の前で絶えず熱を出す鉄板のせいだ。

 5時から6時半までの短い間だが、竣はこのスーパーの前のたこ焼き屋でアルバイトをしている。

 

「3つください」

 

「1200円になります」

 1パック6つ入りで500円。3パック買うと1200円の安い商売だが、たった1時間半で竣は5000円という金が貰える。

 たこ焼きが馬鹿みたいに売れているとかそういう訳ではない。

 熱々の商品を持って去った主婦の視界から隠れるように無精ひげを生やした男がカサカサとこちらに歩み寄ってきたのを見てピンとくる。

 

「おい、おい! これ!」

 一枚の紙に挟まれた一万円札を竣の手に押し込み男はすぐに去っていこうとする。

 

「待って。確認するから」

 広げるとそこには汚い文字でいくつかの数字が書いてあった。

 小腹を空かせた主婦や学生向きの屋台というのは表向き。ここは地元の暴力団によって運営されているノミ屋なのだ。

 競馬や競輪などの券を普通よりも安く売っているが、ここで注文されたものを買いに行くわけではない。

 当たれば自腹で払わなければならない代わりに、外れることも多いのでその分の売上をそのまま暴力団の懐に入れるという違法行為だ。

 ここを利用する客も暴力団の資金源、違法だと分かっていながらも安く買えてしまうため利用がやめられない。

 

「大丈夫。行っていい。たこ焼き食うか?」

 

「いらねえ」

 男はすぐに逃げるように走り去っていった。

 こんなところで高校生から馬券を買うほどに落ちぶれてもなお賭け事がやめられない哀れなギャンブルジャンキー。

 最後の最後まで搾り取られて終わるだけの人生だろう。

 

(来たな豚野郎)

 客足が途絶え、今日の売上を確認しながら煙草を吸っていたら会いたくない人物がやってきた。

 図書館のパソコンで仕事を探してた竣に声をかけてきた暴力団の下っ端だ。似合っていない金髪に派手な色をしたジャージ、BMI28は超えていそうな肥満体型。

 見ているだけで嫌悪感が湧き上がる。だが何故かこういう連中は自分の同類を嗅ぎ分けるセンスだけはあり、金と職に困っていた竣は断ることが出来ずにここで働き始めたのだ。

 

(くそっ)

 自然と同類と思っていたことに対して舌打ちする。

 確かに自分は最底辺の生まれだが、死んでもこんな豚野郎と同類にはなりたくない。

 なりたくないのにずるずるとこんなことをしている。ゆっくりとピアスに触ると少しだけ冷静さが戻った。

 

「なんや、あのオッサンまた来たんかいな」

 

「今日はあいつしか来なかった。ほら」

 

「……こりゃ当たらんわ。センスまったくあらへんなー」

 豚野郎こと高島は渡した紙ごと金をポケットの中にぐちゃぐちゃと入れた。

 ポリバケツの上にどかっと腰掛けて煙草を吸い始めた高島はヤスリで爪を磨き始めた。

 いつものパターンだ。これから女に会いに行くから身だしなみを整えていると言うが、その前になんとかするべき部分がありすぎるだろう。

 まぁこんなのに引っかかる女なのだから、と言えばそれまでかもしれないが。

 

「うん、うん。ほら、今日の分や」

 

「ああ」

 指を舐めて売上金を数えた高島が5000円を渡してきた。違法行為を肩代わりしているからこその高給だが、それでも未来ある高校生に対して安すぎると思わずにはいられない。

 こいつの唾が付いた金など財布に入れたくないので後ですぐにジュースでも買って崩してしまおう。

 パックの酒を飲みながらスマホをいじる高島は女に気色の悪いメールを送っている。

 そろそろ店じまいなので軽トラで屋台の骨組みを持ち帰りに来たのに普通に酒を飲んでいるあたり、アウトローなのが分かりやすい。

 にたにたと笑いながらスマホをいじっていた高島の顔色が変わった。

 

「はい! はい。えらいすんまへん」

 シャキッと立ち上がり即電話に出たあたり、上の人間から電話がかかってきたのだろう。

 下っ端根性がよほど染み付いているのかたこ焼きを作っている竣の後ろでペコペコと頭を下げながら下手くそな敬語で話している。

 

「親父から駅まで送れ言われてしもうたわ。この時間は片付けやって分かっとるはずなんにな」

 べたべたの関西弁の中にあった『親父』という単語は本物の父親では無く、その暴力団の組長のことだ。

 どんなに理不尽な命令でも下っ端は従わなければならない。前に貰った名刺にどんな組だったか書いてあったと思うが破り捨ててしまったのでもう忘れた。

 

「もう5000円やるからあと一時間待っててくれや」

 

「……」

 

「なんや、嫌なんか?」

 

「別に」

 不服そうな顔をした竣に高圧的に財布から金を差し出した高島から目を逸らす。

 趣味の悪い革財布の中には札束が入っているが、知っている。あれは札束に見えるメモ帳、ただのジョークグッズだ。キャバクラに行って自慢するために入れているのだ。

 下っ端も下っ端のドチンピラのくせに見栄だけはいっちょまえに張るのだ。まるで下品が服を着て歩いているみたいだ。

 

「さっき鬼ころし飲んでたろ。大丈夫なのかよ」

 

「二駅くらいなんてことないやろ。なんや、お前。真面目くさったこと言いよって」

 

「…………」

 確かに真面目ではないが、お前らクソヤクザと一緒にするな。

 そう反論する前に豚野郎は重たい身体に鞭打って駐車場まで走っていってしまった。

 金が手に入るのはいい。だが、そうしたらこの後飯が食えなくなる。

 竣は空きっ腹を抑えながらもう一時間踏ん張った。犯罪に加担して手に入れた1万円をポケットの中で強く強く握りしめて。

 

 

 

 

 週3のノミ屋代理と月々の施設長からの横流しでもまだ9万円だ。

 一人で生きていくにはまだ必要なのだ。とかくこの世は大人だろうが子供だろうが容赦なく金がかかった。

 生きていくために命そのものである時間を削らなければいけないという矛盾に今日も胸まで浸る。

 

「あとマイホ2つな」

 

「申し訳ありません、番号でお願い致します」

 成長期ゆえに栄養を欲してぎゅるぎゅる鳴る腹に力を込めながら竣は機械のようにいつもの言葉を繰り返した。

 20時から22時まで週3コンビニで働いて月々二万円。更にダメ押しとばかりに週3回ほど登校前に弁当工場で働いてようやく15万行くか行かないかだ。

 

「マイホープ2つだってんだろ!」

 

「すみませんが番号で」

 高校生でもやることは変わらないのに、バイト代が安いなんて狂っている。

 こんなハゲ散らかしたいかにもダメ親父といった風貌の中年に怒鳴られてようやく一時間900円なんてグレたくもなる。

 

「26だよ!! さっさとしろ!!」

 子供のように地団太を踏む中年にタバコを渡し金を受け取る。

 ほとんど毎日この中年を、ほかのクソ客を殺してやりたいと思っているし、何度も何度もレジの金を盗もうと考えた。

 

「陰気臭い顔しやがって……」

 

「ありがとうございました」

 レジ袋をひったくった中年が後ろ足で砂をかけるように言葉を吐き捨てて去っていった。

 陰気臭くて反撃もしないサンドバック程度にしか思っていないのだろう。

 このバイトをやめたら帰り道に半殺しにして髪を全部抜いてやるつもりだ。

 そんなことを考えているうちにクソ客二番投手がやってきた。

 明らかに水商売の女といった風貌の態度の悪い客。

 経験上、悪いことは重なる。これはまだまだ嫌な客が来るな――――そう思いながら竣は努めて何も考えないようにした。

 

 

 

 

 

 

 

 エンジンの調子までもが悪い250㏄のバイクを駐車してふらふらと部屋に入る。

 そのまま電気も付けずに竣は万年床と化している布団にダイブした。

 

「つかれた……つかれたよ……」

 月々32000円1Kの部屋に虚しく独り言が響く。高校生の部屋とは思えないほどに何もない。テレビもゲームも漫画も、本棚すらもない。中古の教科書は部屋の端に山積みにしてある。

 お疲れ様、と言ってくれる人間がいないことはもうとっくに慣れてしまった。

 それでも心の中をいつも肌寒い空っ風が吹きすさぶ。顔を洗わなくては、飯を食わなければ風呂に入らなければ、明日の朝は工場だから早く寝なければ。

 分かってはいるが心の燃料が底をついていた。

 

「おなかすいた……」

 帰りに買った、自分が値引きのシールを貼ったエクレアを袋から取り出し一気に口の中に押し込む。

 人工的な冷たさと、こんなものをありがたがっている自分があまりにも惨めで目尻に涙が溜まった。

 

「あ……あまいものもっとたくさん食べたいなぁ」

 鏡を見ると『お前は下賤な生まれだ』と言わんばかりに口の周りにクリームを付けた暗い顔の自分が映っている。

 だがその時、ふと上品に昼食を食べる華怜の姿を思い出して涙が引っ込んだ。

 少しだけ戻った元気を拳にして枕元に置いていたCDラジカセに叩きつけると今日の朝も聴いていたパンクバンドの曲が流れだした。

 

「…………」

 施設内で窃盗は日常茶飯事だった。

 竣の物も随分盗られたし、竣も色んな物を盗んだ。

 このCDも施設に落ちていたのをかっぱらったものだ。施設を出た誰かが置いていったものかもしれないし、誰かの大事な物だったのかもしれない。

 

(でもこの人もCD万引きして逃げたって歌ってる)

 街で耳にする音楽に比べてこのバンドはかなり下手糞だと思う。

 演奏も雑だし、歌もまったく上手くない。なのに聞いているとなんだか元気が出てくる。

 まったくもって完璧じゃない自分もまだ生きていいのだと。

 

(華怜……)

 薄暗い部屋の中で膝を抱えてぼんやりと華怜を思い出す。

 いままではずっと盗み見るだけだった彼女と、歪んでいながらもここまでの関係になれた。

 あと少し、ほんの少しで自分の物にできる。妄想の中でしか出来なかったあれやこれが全部できる。

 その頃には目が潰れているかもしれない。指が足りないかもしれないし、歩けなくなっているかもしれない。

 でもそんなことはどうだっていい。どうせ見たくもないモノばかり見る目だ。レジ打ちしか出来ない指だ。歩いたって行くのは不燃ゴミみたいなバイト先だ。

 

「もうちょっとだけ頑張るから」

 華怜の遠慮ない暴虐は竣の身体をあっという間に半壊にさせたが、それ以前からもう心身ともにボロボロだったのだ。

 むしろ華怜からの無慈悲な欲望を叩きつけられている時のほうが、心は休まった。

 厳しい生活をずっと続ければどんな人間もいつかは破裂するものだ。

 それでも自分の破裂は珍しい方向に向かったなと思いながら竣は風呂に向かった。

 

 

 

 

 

*******************************************

 

 

 

 やったやった、と竣は心の中で大喜びした。

 テスト期間が終わるまでの間なにも無く内心しょげていた竣のケータイに、放課後待っているようにと華怜からメールが届いたのだ。

 幸いにも今日は朝の弁当屋のバイトしか無かったので夜まで時間がある。

 身体のあちこちに刻まれた傷も治るくらいの時間なにもしていなかったから、今日は過激なことをされるだろう――――と思っていたのに。

 

「ねぇ、あんたさ。バイクで学校に来ているでしょ」

 竣の机の上に座った華怜が脚を組みながら全く予想もしてなかった言葉を口にしていた。

 

「うん? うん」

 学校の近所に違法駐車しているのが見られたのだろうか。

 だとしたら少しまずい。当然学校に許可を取っていないし、万が一にでも免許没収なんてことになったら生活にかなり支障が出る。

 

「免許あるの? 見せて」

 

「はい」

 なんだろう、何をするつもりなんだろう。

 無免許運転だとでも思っていたのか、受け取った華怜は意外そうな顔をしてまじまじと見ている。

 脚を組み替えた華怜の白い太ももが目の前にあり心臓がきゅっと痛くなった。

 

「どうやって取るの? これ」

 

「え? 免許センターに通って、ちゃんと勉強すれば……」

 

「そういうのって通わないとダメなの? 乗りたいんだけど。乗せてよ」

 自分は教習所も通わず一発で取ったが、それは同じ施設にいた人間から夜中にいくらかの金を払ってバイクを借りて何度も練習したからだ。当然違法である。

 結果としてかなり安く済んだが正直そこだけはかなり運がよかったと思う。事故車を中古で買ったため18万円という安値で買うこともできたし、大嫌いなことだらけの世の中だがバイクで走ることは気に入っている。

 だが普通に金持ちの華怜なのだから、もしも興味があるとしてもちゃんと普通のルートで取って新品のバイクを買った方がいいに決まっている。

 

「ダメだよ! そんなことしたら俺も華怜も一発停学だ」

 

「……まぁ、停学は困るかな」

 

「あっ、でも原付なら事前に勉強して試験を受ければ10日前後で取れるよ」

 

「ふーん。じゃあそれ。それに乗りたい」

 

「…………」

 自然と考えることは華怜が二輪車を制服姿で転がしている姿だった。

 想像の中でしか無いが、とても似合っている気もするし、すごく不自然な気もする。

 窓枠から漏れている赤い夕陽に光る手がハンドルを握っているところは純粋に見てみたいと思えた。

 

「だから教えてよ。何をどうすればいいのか」

 

「……いいけど、なんで?」

 

「はぁ?」

 まったく想定していなかった願いに疑問を口にすると小動物程度なら死に至りそうなほどの圧力のある声で返された。

 

「だって、今日は久しぶりなのに。それに時間はどんどん減っていってるのに、そんなことに使って」

 

「そんなことってなによ。なんでも言うこと聞くんでしょ?」

 

「けど」

 

「あたしが欲しいって言っているの!」

 

「わ、分かった」

 そんなこと別に自分に頼まなくてもいいことなのに。

 竣はそう思ったし、きっと過激なことをされるだろうと考えていたから少し肩透かしを食らった。

 だがこれもワガママはワガママに違いないが、今までのそれと違ってこの願いは、華怜が竣のパーソナリティに興味を持ったという点で違っていた。

 天と地ほどにも育った環境の違う二人だが、二輪車に乗りたいと思った理由が実は全く同じだなんて二人とも気付いてすらいなかった。

 

 

*****************************************************

 

 

 少し奇妙な気分だった。

 自分よりも遥かに頭も良く育ちもいいはずの華怜に教えられることがあるなんて。

 それもこの国で育てば誰もが自然に知っていくことを教えるなんて。

 

「二段階右折ってなに? 普通に曲がっていくバイク見たことあるけど」

 

「原付はそうやって曲がらないとダメな道とかあるんだよ。そうしなくていいとこもあるけど」

 

「ふーん」

 竣が昔使っていた免許取得用の交通法規をまとめた本に線を引いて教えていく。

 流石に飲み込みが早い。免許が欲しいと言ってからまだ5日も経っていないがもう少し教えればすんなりと取得できるだろう。

 自分にあった金の問題など彼女には無いわけだし。

 

「あんた時間は大丈夫なの?」

 

「そろそろ帰ったほうがいいかも」

 自分がみなしごであること、バイトを掛け持ちしていることは華怜に軽く伝えてある。

 基本的にワガママでこちらのことなど一切考えていないが、たとえばバイトをやめろとか生きていくことに支障が出るような命令はしてこない。むしろ気を使ってくるくらいだ。

 優しさなのか、となると少し違うような気もするが。

 もう使うこともないのでお古の本を全部渡して二人で教室を後にした。

 

 今日はノミ屋のバイトは無いが、コンビニでまたバイトをしなければならない。

 本当は残りの時間を全部華怜に使ってあげたい。

 誰もいない薄暗い廊下をかつかつと音を鳴らして歩く華怜の後ろ姿を見て思い返す。

 前に提案したことがあるのだ。いくらかの貯金があるから、バイトなんかやめてもいいと。

 そうしたら余計なお世話だと怒られた。

 華怜のプライドの琴線は竣にはとても理解し難いが、それでも少しだけ分かる気がする。

 自分のような人間に気を使われること、それ自体が屈辱なのだろう。

 そんなことを考えている内に砂だらけの下駄箱に到着した。

 

「雨……」

 玄関口から伸ばした華怜の手が濡れる。

 予報外れの雨が外でポツポツと降っていた。

 傘は持っていないのか、と目が言っている。

 

「ほら、俺の傘あるから使って」

 玄関に置きっぱなしにしていた200円の透明な傘には自分の名前がマジックペンで書いてある。

 華怜が赤みがかった目で冷たくこちらを見てくる。普通の女子に比べてかなり背が高い華怜は174cmの自分と目線がそう変わらない。ただ見てくるだけで背中に嫌な汗が出てくるような圧力がある。

 中2から使っているダサさ極まる傘など華怜には似合わないがこの際仕方ないだろう。

 

「そんなものあんたが持ちなさい」

 

「え、だって」

 

「近くのバス停まででいい」

 傘持っていないんでしょ、と言おうとしたら更に意外な言葉で返された。

 送れと言われていることに気が付いた竣は軽く混乱する。

 じっと見てくる華怜の視線に半ば操られるように傘を開くと彼女は平然と横に入ってきた。

 

「…………」

 誰かといる時は話しかけるなとまで言っている人間と相合傘をするなんて、女の子はなんて奇妙な存在なのだろう。

 ちらと横を見ても色素の薄い睫毛しか見えず、何を考えているか分からない――――腕を引っ張られた。

 

「変な気を使わないで。風邪ひいたら困るでしょう」

 接近を求めていたはずなのに、どこか心は引け目を感じていたのか。

 竣は右肩がかなり濡れるほどに傘から出てしまっていたのだ。

 こんなところを誰かに見られたらどうするの、と言おうとしたが見られたところで華怜に何かを言ってくる人間などいないだろう。

 

「あんたバイクはどうしたの? 雨が降るって分かってたから?」

 

「いや、なんか調子が悪いから……今日バイトが終わったら修理しようと思ってたんだ」

 

「ふーん……あら……あらら」

 通り雨なのだろうか。更に更に雨足は激しくなり交差点も見えないくらいになってしまった。

 どちらとも無く閉店した惣菜屋の屋根の下に入る。それでもまだ強い雨は遮れない。

 もう日が落ちるのも大分早く、外はかなり暗い。

 

「これならたぶんすぐに止むと思う」

 

「そうね」

 華怜が竣の胸元に手を突っ込んできた。

 何かいたずらをしようとするわけではない。竣の制服の内ポケットに入っている煙草が目当てなのだ。

 

「なにか文句でも?」

 

「いや……」

 竣は自分から自分のことを話したことは無いがそれでも訊かれたらなんでも答えた。

 たとえば孤児であること。たとえば本当の自分はクラスの端っこで勉強だけしているただの陰気なやつではなく、友達と遊んでいるどころではない人間であるということ。

 そして、喫煙者であるということ。

 

「火が付かない」

 

「貸してみて」

 百円ショップで4本セットで買った安いライターは湿気と風の中では着火しづらいようだ。

 火の大きさを調整していると華怜が傘をそっと持っていき、代わりに咥えたままの煙草を指差した。

 

(悪いことしているよな)

 傘の下に隠れて暗闇に火を灯すように煙草を手で覆ってから火を付ける。

 なんてことをしているんだろう。コートを着ているとはいえ、スカートを見ればすぐに高校生だと分かるのに。

 しかも間違いなく日本一のお嬢様が。自分も吸ってみたいと言うものだから断ることも出来ずに煙草なんて教えてしまった。

 

「…………」

 紫煙を燻らせる華怜の纏う退廃的な雰囲気はどこか高貴な空気を醸し出している。

 自分が道端で煙草を吸っているといかにも社会の落伍者なのに。

 それでも彼女の表情を見るにもしかしたら、もしかしたら華怜は『こっち側』の人間なのかもしれない。

 

「雨は空から地面に降る。川は山から海に流れ、砕けた宝石は元に戻らない」

 

「?」

 

「少なくとも、人間の目から見て秩序だったものは放っておけば崩壊し散らかり混沌になるのが自然」

 

(エントロピー増大の話かな)

 雨を眺めている華怜がその支配者の目で何を見て、何を思っているのかは理解できない。

 だが分かるのは、華怜は決して秩序や平和など望んでいないということ。

 正義よりも悪、秩序よりも混沌の人間なのだ。

 

「平和な方が得する誰かが悪意に正義のコンドームつけて世界を支えてる。なんて気持ち悪い平和だろうって、思わない?」

 

「俺もそう思う」

 少なくとも自分が孤児で得する人間が何人もいるこの状況。

 つまるところ竣一人にババを引かせて多数が得をしているというのは世界の縮図そのものだ。

 少数に不運を押し付けて大多数の安寧を守っている。そしてそのみかじめとして、更に少数の『正義』という概念を構築している誰かが利益を啜っている。

 世の中に不満しか無かったから竣は爆発してしまったのだ。

 もうこれくらい生きてくれば流石に分かる。自分はかなり運が悪い人間だと――――明らかに法定速度を守っていない車が竣と華怜に思い切り水を撥ねていった。

 

「…………」

 これだもんな、と竣が溜め息を吐く前に華怜が真顔で車の写真を撮っていた。

 

(こえぇ)

 あの車の運転手がどうなるか想像もしたくない。

 そういえばさっき、道路の水は撥ねた方に責任があると教えたばかりだ。

 

「ほんっとしょうもない!」

 

「ちょっと、何してんだ!」

 竣よりも多めに水を浴びてしまった華怜が土砂降りの中に飛び出した。

 慌てて傘を持って駆け寄る竣に華怜は泥で汚れたブーツで水を蹴り上げてくる。

 

「いまさら傘を差してなんだっての!」

 不運に見舞われたはずなのに華怜はむしろ楽しそうに右へ左へ逃げて水をかけてくる。

 楽しそうなのは結構だがこれで怪我でもされたら華怜はよくてもこちらはよくない。

 

「危ないから! あ――――!!」

 言わんこっちゃない。滑って転びそうになる華怜の腕をなんとか捕まえる。

 そのまま体勢を立て直そうともしない華怜が何を考えているのか分からない目でこちらを見てくる。

 まるで雨以外の時間が止まったかのよう。なんとなく、この瞬間をずっと覚えているのだろうなと思った。

 とりあえず傘を華怜の方にやると腕を振り払われてしまった。

 

「はー、寒い」

 華怜の綺麗な形をした鼻梁を水滴が伝う。

 よくあんな土砂降りの中に飛び出して煙草の火が消えなかったものだ。

 

「帰ったらすぐに風呂入るんだよ」

 

「うっさい」

 ぐずっと鼻をすすりながらも更に水をかけてくる。

 だが竣の目には不機嫌どころか相変わらず楽しそうに映った。

 

(こういうところあるんだなぁ)

 理不尽で暴力的で突発的なところは変わらない。だがそれを自由奔放に自分の身体にも解放していた。

 それは女王でなければならない普段の抑圧の裏返しに見えた。

 

「はー……バイト何時からなの?」

 

「今日は7時から。明日の朝は5時から」

 

「そんなバイトバイトって。竣はなんでこの高校に来たの?」

 一応竣がどういう状況かは分かっているはずだがそれでもやはり境遇が違いすぎるからか、今ひとつ子供が一人でこの世界を生き抜くということがどういうことか理解できていないようだ。

 

「バイトが出来るから」

 

「ああ、校則ゆるゆるだもんね」

 変な話で、偏差値でいうところの40~60くらいの学校が一番校則がキツく、それ以上か以下は校則なんてあって無いようなモノになってくる。

 竣と華怜の通っている高校は県下で一番の偏差値を誇る公立高校であり、そこでもトップの成績を維持している華怜は文句なく完璧な人間だった。

 

「バイト何個掛け持ちしているの?」

 

「……3つかな」

 ノミ屋のあれはバイトというより犯罪なのだが、一応時間に対しての金を得ているのでバイトでいいのだろう。

 それに今更犯罪行為をして金を稼いでいます、と言ったところで華怜はそれを咎めたりしないとも思った。

 

「3つ? 成績は?」

 

「真ん中くらい」

 

「バイト3つもして……? よくあんた」

 華怜の目が見開きあまりにも予想通りの言葉を口にしようとする。

 分かっている。そんな反応は中学生の頃から何度も貰ってきた。

 

「お願いだから」

 

「!」

 

「哀れまないで。俺は俺なりに手持ちのカードで必死に生きているんだ」

 中学の頃、同級生が高い金を払って一年生から塾に通いそれなりの進学校に合格した一方で、竣は一人で黙々と教科書と中古の参考書に齧りついてこの高校に来た。

 だが合格しても、竣が孤児だと知る同級生はむしろ哀れんだ目で見てきたのだ。それは素晴らしいけど、どうせ君は――――と。

 担任ですらも言葉を濁し、まぁ頑張れよと裏に何が隠れているか透けて見えるような言葉を卒業の日にくれた。大学は行けないだろうし、就職するのもままならないのに無駄に賢くて可哀想に、と。

 本当は非常に高い能力を持って生まれた竣だが育った環境によって才能を活かすための自尊心はもうずたずたになっていた。

 

「そう」

 切り捨てるように華怜は煙と共に短い言葉を吐いて捨てた。

 その無慈悲な対応はむしろ竣にとっては救いだった。

 下手くそでいたずらに傷付けるような優しさが無いからこそ、こうしてここにいる。

 

「そのカードで出せる最大の役が、あたしを一日手に入れることだったの?」

 

「うん」

 竣の即答。はっ、と華怜は冷酷に笑った。

 まるで近い将来の自分の身体のことすら無関心であるかのように。

 

「手を出して」

 

「? あ゙っぢっ!!」

 つまらない話を聴かせてもらった代金だと言わんばかりに掌に煙草を押し付けられていた。

 真っ赤な火傷の痕を急いで濡れた看板に触れる。鬱憤と苛立ちと欲望が入り交じった華怜の灼熱を受けとめて、どんどん身体中に苛烈に刻まれていく。

 それでいいんだ。自分が望んだことなのだから。

 

「帰ろっか」

 いつの間にか、雨は上がって雲の隙間から真っ白な月が覗いていた。

 嘘つき天気予報と暴走車にかき乱されたのに何故か華怜は楽しそうだった。

 

 

 

 

 

 不調なバイクの修理代をケチってなんとか直すことが出来た。

 口にずっと懐中電灯を咥えていたので顎がカクカクだし、バイトの疲れも酷い。

 もうこのまま風呂も入らずに寝てしまいたかった。

 

(なら明日の準備だけ……――――?)

 早朝に風呂に入るとしても教科書の準備くらいはしようと考えていたら華怜からメールが届いた。

 来いと言われたらどれだけ疲れていても行かなくてはならない。

 

(ナンパ避けかな)

 よくされる命令だ。ナンパしてくる男が鬱陶しいからそばで盾になれ、と。

 普段は声をかけてくる男などいない。どんなに見てくれがよくても華怜の名字を知っていればそれだけで手を出そうなんて考える人間はいない。

 だが街に出るとどうしてもそんなことを知らない男に声をかけられるのだという。

 あんな性格だ、いちいち適当にあしらうのにも苛ついて変に体力を使ってしまうのだろう――――脱ぎかけた服を着ながら特に何も思わずメールを開いて、竣はその場で引っくり変えるほどの衝撃を受けた。

 

「なんっ、なっ、なに考えてんだ」

 じっくり見たことなかったでしょ。好きに使っていいよ――――そんな文と共に下着姿の華怜の画像ファイルが添付されていた。

 瀟洒な姿見を前にして、上下に赤く花弁の刺繍のなされた下着を着た華怜の姿。

 鏡を前に自撮りをしたことがないのか、スマホの画面に目線が集中しすぎて顔が一部隠れてしまっているのが普段の華怜と打って変わって初々しい。

 

「…………」

 意味不明過ぎる行動に力が抜けて竣は布団にへたり込んでしまった。

 抱え込むようにしてもう一度スマホの画面をまじまじと眺める。

 妄想の中で何度も犯した華怜の下着姿が夢ではなく本当にそこにある。

 好きに使っていいよ、ということは考えるまでもなくそういうことだろう。なのに。

 

「あれ……なんで……」

 じゃあ好きに使ってやる、と頭の中では強気に言っているのに身体は全く反応してくれない。

 きっと華怜のことだから感想も早ければ明日には訊いてくるだろうに、へたり込んだまま何も出来ませんでしたなんて情けなさ過ぎる。

 分かってはいるのに、焦燥感使命感に駆られれば駆られるほどに無反応極まり、結局竣はその晩寝不足になっただけだった。

 

 

 

******************************************************

 

 

 

 結局それから一週間後、暇を縫って華怜は原付免許を取得したようだ。

 これでもかと言わんばかりに家の力があるお嬢様なのに、かなり喜んでいたのが竣には不思議でしょうがなくて――――

 

(……可愛かったなぁ)

 原付免許を自慢げに見せてくる華怜は普段とは違って無邪気で可愛かった。

 今頃どこかにでも出かけているのかもしれない。自分も免許を取った時はそうだった。

 暇な時間を見つけては遠出したものだ。そんなことを考えながらぼーっとしているとレジに派手な髪の色をしたおばさんが来た。

 

「カードでね」

 

「ご一括払いとなりますがよろしいでしょうか?」

 

「当たり前でしょ?」

 

(……俺にはカードなんか一生作れないんだろうな)

 こんな変なクソババァにも作れるのに、と普段なら棚の整理でもしながらもやもや考えるところだが、明日は本当に珍しくバイトが何も被っていない上に休日なのだ。

 竣には趣味と言えるほどに毎日続けていることはない。それでもあえて一つあげるなら、バイクを買った時から翌日にバイトがない日を狙ってしていることがある。

 楽しいか楽しくないかと問われれば別に楽しくはないのだが、心をリセットする竣なりの方法であり結構この日が来るのを心待ちにしていた。

 

「あら」

 

「あ」

 レジの後ろを整理をしていたら聞き慣れた声が聞こえる。

 振り返るとそこに華怜がいた。

 

「ここでバイトしていたんだ」

 

「うん」

 腕にヘルメットをかけており、レジに持ってきたのは温かい缶コーヒーを一つ。

 普段の完璧なファッションとメイクに比べて大分ラフで身体を保護するような格好をしている。

 本当に想像通りあちこちに行っているようだ。

 こんな無邪気な一面が出るというのなら、免許のとり方を教えてあげてよかったかもしれない。

 

「……高校生だし、もう終わるよね」

 

「あと10分くらい」

 

「待っているから急ぎなさい」

 

「いっ……分かった」

 有無を言わさず命令してくるところは相変わらずだ。

 仕方がない、そういう約束なのだから。

 せっかく準備してきたんだけどな、そうは思うものの華怜と過ごせるならそれはそれでいい。

 そう言い聞かせながらやるべきことを手早く済ませてタイムカードを押し外に出た。

 

「ベスパに乗ってるんだ」

 

「そう。可愛いでしょ」

 

「うん」

 ピンク色のレトロなデザインの原付だが、見た目に反して性能は非常によく、新品で買うとなるとそれなりの値段がする。

 こんなものを即決でぽんと買えてしまうあたり、やはり育ちが違いすぎる。

 

「さぁ、じゃあこれから暇だしどうしようかな」

 

「う……」

 女王でなければいけない取り巻き連中といるよりも、自分をさらけ出せる竣と一緒にいた方が気が楽なのだろう。

 別に過激なことをしない時も、連れ回すことは多々ある。信頼されているのとはまた別だと思うが、それはそれで嬉しい。

 やりたいことがあったのだが――――仕方がない、諦めるしか無い。

 

「なに? なにか用事でもあったの?」

 

「そういう訳じゃ……ないこともないんだけど」

 

「はっきりしなさいよ」

 

「……。これから山に行って、天体観測しようと思っていたんだ」

 シートを開いてバイクに括り付けられた荷物と一緒に見せる。

 中学の頃に施設で貰える小遣いを貯めて買った道具達だ。

 別に星が好きだとか、宇宙飛行士になりたいわけではなかったが、買えば嫌なことだらけの世界を抜けて綺麗な星空が見えると思ったのに、施設からでは眩しすぎてまともな星一つ見えなかった。

 それもバイクを買った理由の一つだ。ようやく暇な時間を見つけて天体観測が出来るようになった。

 

「……。…………。山?」

 意外なほどに興味津々に眺めたり手にとっていた華怜が短く疑問を口にする。

 答えるまでの間にもずーっと携帯コンロを弄ったりレンズを覗いてみたりしている。

 まるで未知のおもちゃを見つけた子供みたいだ。

 

「あの山」

 

「あら。あれうちの所有地ね」

 

「そうなの?」

 都心からそう遠くはないとはいえ、多少の田舎だから見える場所に山だの川がある。

 この辺で一番高い山を指差すとまぁそうだろうな、と言うような答えが帰ってきた。

 そこらのビルや川にすら霊九守の名前が付いているのだから今更不思議でもなんでもない。

 

「立入禁止じゃなかった? あたしも絶対に入るなって親に言われてたんだけど」

 

「看板あったね」

 

「大丈夫。あたしが許可するわ」

 

「……ん?」

 それは結構なことだと思ったが言い方に何か妙な意図を感じる。

 もしかしなくても――――

 

「あたしも連れてって」

 

「……天体観測に?」

 

「そう」

 

「たぶん、思ったよりも動きとかなくてつまんないと思うよ」

 

「しつこい」

 

「はい」

 是非もない。なんでも言うことを聞くということはそういうことなのだ。

 正直楽しむために行っているわけではないから本当に楽しくはないと思うのだが、と悩みながらヘルメットを被る。

 

「で。何も言ってこなかったけど、あたしの下着の写真どうしたの?」

 

「!!」

 竣のバイクにしなだれかかりブレーキをきつく握ってくる。

 話を聞くまでは意地でもどこにもやらないだろう。

 いたずらっぽい視線から察するに、むしろこの話を聞くために竣にあんな画像を送ったのかもしれない。

 

「教えてよ」

 

「……。何も出来なかった」

 

「嘘。ちゃんと正直に答えて」

 

「本当だよ。俺だって華怜が思っている通りのことをしようとしたんだ。でも何も出来なかった。しなかったじゃなくて、出来なかったんだよ」

 またもや竣の胸元から取り出したライターで遊びながら、華怜は竣の目をじっと見てくる。

 疑っている、というよりは竣の言葉を信じた上で不思議に思っているようだ。

 こんな深い色をした目で見つめられれば誰だって嘘を上手く言えなくなってしまう。

 

「ふん……まぁ、楽しみは後に……つまみ食いはしない方がいいもんね」

 

「……うん」

 実際は全然そんな理由じゃない。ただ本当に、何か心の動きが働いて身体が動かなかっただけなのだ。

 だが、闇が裂けたかのように仄暗い華怜の微笑に対してもう何も言うことが出来ず、竣はバイクのエンジンをかけた。

 

 

 

 立入禁止なのに入ったのは何も竣がアウトローだからというわけではない。

 道路は無いにせよ轍があり、草むらも刈られた跡がありなんなら誰かがキャンプをした痕跡すらもある。

 結構な人が入っていることを知っているからここに来ていたのだ。

 

「この辺。ごめん、荷物持ってもらっちゃって」

 

「いい。来たいって言ったのあたしだし」

 たどり着いたのは川の岸の倒木がある場所だった。

 竣の知る限りこの倒木はもう5年以上前からあり、恐らくは何百人もの人間から椅子代わりに使われている。

 赤いビニールテープで加工した懐中電灯で照らした倒木にブランケットを敷く。

 

「ほんとだ。凄い星がよく見える。知らなかった」

 

(……連れてきてよかったかも)

 携帯コンロで水を温め、望遠鏡を設置しながら思う。

 川のせせらぎと相まって空を眺める華怜は星降る青い夜を泳いでいるようだ。

 

「写真って撮れるかな」

 

「あっ、だめ!」

 竣には珍しく少し強めの語気で注意すると華怜は意外にも素直にスマホを出すのをやめる。

 

「どうして?」

 

「暗闇に目を慣らしたのが無くなっちゃうから。これ、赤い光なら大丈夫なんだけど」

 

「そう」

 倒木の上に座った華怜にブランデーを垂らしたココアを渡す。

 ただのココアでも、人工的な光のない川沿いで飲むだけで格段に美味しいのだ。

 勧められるままに一口飲んだ華怜は満足気にうなずいた。

 

「今日はよく見えそう」

 いつもなら調整をしたらそのままじーっと何十分も眺めているのだが、そうもいかない。

 木星にピントを合わせるとすぐに華怜に譲ってあげた。

 

「へー……ミルク入れたコーヒーみたいな色してる」

 存外楽しんでいる。これでつまらないとか騒がれたらどうしようと考えていたが杞憂だったようだ。

 獣避けのラジカセの準備をしながら竣は少しだけ笑った。なんだ、一人で来るよりもずっと楽しいじゃないか――――と。 

 

「あっ、なになにあれ? 木星のそばになにかある」

 

「ガニメデかな。太陽系の衛星の中では一番大きいやつ」

 

「あんた変なこと詳し……どうしたの?」

 ラジカセから音楽を流していることに対してやや不満そうだ。

 自分だって本当は静かな環境で天体観測に集中したいが、この山にはテンや狐はたまた猪まで出る。

 

「獣避け。そんなに大きくしなくて大丈夫だから」

 要するに熊よけの鈴程度に音を鳴らして人間がいるということを獣に知らせればいいのだ。

 ずっと鈴なりなんなりをしゃんしゃんと振っていてもいいのだがそれはあまりにも間抜けなので自然とこうなった。

 

「このアーティストのCDかなりあるね。好きなんだ?」

 うるさいと言うと思いきやそちらにも興味を示し、鞄の中のCDを漁り始める。

 5枚ほど出てきたCDは全部同じアーティストの物だ。

 

「この一枚は施設に落ちてたからかっぱらった。他のは買った」

 

「このアルバムでどれよく聴くの?」

 

「それ」

 何故かお気に入りになってしまったアルバムの8曲目は何度も何度も狂ったように聴いた。

 引き絞るような、張り裂けるような男性ボーカルから急に透き通った声の女性に変わった。

 

「叶わない恋の曲……? こんな感傷的なの聴くなんて似合わないね」

 

「……」

 自覚はしている。かなり寡黙なのに――――というよりも寡黙だからこそ過激な曲を聴いているのかもしれない。

 だがそれも結果論で、かっぱらったCDが別の物だったら別のアーティストを聴いていたかもしれない。

 

「でも、もしこういうのが好きなら」

 

「?」

 

「竣は想像よりずっと純粋なのかもね」

 ラジカセの前でしゃがんだまま華怜はこちらを見上げてそんなことを呟いた。

 言われてみれば街中で聴く音楽を気に入ったことなんかない。

 コンビニの有線で流れているお洒落野郎グループの曲なんて興味すら湧かない。

 自分のことを純粋だと思ったことはないのに――――

 

「土星は? 土星、輪っかは見えるの?」

 

「見えるよ」

 子供のようにはしゃいでいる華怜の姿を見ると自然と自分も嬉しくなってくる。

 思い返してみれば彼女は自分の想像の中ですら笑ったことはない。学校で笑顔を一度も見たことがないからだ。

 普段は冷徹そのもので威圧感の塊なのに、顔をくしゃっとして笑うと年相応の女の子に見える。

 

 華怜が星を観て、竣が華怜の笑顔を見ているうちにあっという間に一時間近くが過ぎてしまった。

 星と月以外の全てが暗い中で川のせせらぎと小さな音楽を聴いていると、まるで宇宙に二人ぼっちで放り出されてしまったかのようだった。

 

「こんなことしているんだよって誰かに話したことあった?」

 

「ない」

 二杯目のココアを大分ゆっくり飲む華怜はとても満足したようだ。

 いつも自分がそうしていたように、倒木の上に座ってぼんやりと赤い瑪瑙の瞳を空に向けて曲を聴いている。

 

「……いい曲だね。なんて曲名?」

 

「東京」

 昔、といってもほんの二、三年ほど前までは東京への漠然とした憧れがあった。

 あの都会に出て頑張ればきっと何かが変わるんじゃないか。大人になってこの街を飛び出すんだ、と。

 バイクも天体観測もどこか遠い世界への憧れが形となって表れたものだった。

 

「……。似合わない、似合わないのにどうしてこんなことをしているの?」

 

「考えたくもないことをたくさん考えちゃうから、ここでリセットするんだ。……でもいつしか、華怜のことで頭がいっぱいになってて、もうどうしようもなかった」

 

「いきなり話したことも無いやつに詰め寄られるあたしの気持ちは考えなかったの?」

 

「考えてなかった」

 

「でしょうね」

 

「でも……今は華怜の気持ちをよく考えている」

 

「……考えたくないことって?」

 

「……本当はもう小学校に上がる頃には気付いていたんだ。自分は普通の家庭で育った普通の子供じゃないって。だから雨風にさらされないように身体を丸めて過ごしていたのに、馬鹿なクソガキが俺をむやみやたらに突くんだ」 

 つまらないはずの話なのに、華怜は真剣に聴いている。

 いかにも性格のきつそうな目が続けろ、と言っていた。

 

「いじめられてたの?」

 

「……シセツシセツ、って。俺は悪くない。親がいないのも、施設育ちなのも、遊戯王カードを一枚も持っていないのも俺のせいじゃないから。そいつは身体がでかくて、とても力じゃ敵いそうになかったけど、どうせ俺には怪我をしても心配してくれる人なんかいないから沢山殴ったよ」

 いじめられていたかと問われるとそれは違う。からかわれてはいたが、感情のコントロールの出来ない幼少期にそんなことをされて竣はたった数日で我慢の限界を迎えた。

 小学生にはあってはならないほどの流血沙汰になってしまうほどに竣は激怒していた。その時は。

 

「…………」

 暗さも相まって、華怜の感情が表情からあまり読み取れない。

 だが同情しているような顔には見えなかった。

 

「先生に怒られるんだ。どうしてあんなことしたのって。でも、俺のことを心配している言い方じゃなくて……面倒なことを起こしやがってって目で見てきて……それでも言うしか無いじゃないか。施設育ちってからかわれた、俺のせいじゃない、いいもの全部たくさん持っているあいつが羨ましい、全部ぶんどってやりたいって」

 よく考えてみると、生まれと育ちは普通じゃなくてもそれ以外の自分は普通の感性をした子供だった。

 それなのに押さえつけられて抑圧されて、こんなことになってしまった。

 子供にとって育つ環境というものがいかに大事か分かる好例だろう。

 

「俺は施設長に引き渡された。先生はもう何も言わなかった。これ以上は面倒なことになりそうだ、もう何も言わないようにしようという目をしていた。施設長も舌打ち我慢しているみたいな感じで……気付いたよ。俺は世界に必要とされていない。いてもいなくてもおんなじユーレイ未満の人間以下の名付し難いナニカなんだって」

 我が身も顧みずクラスのいじめっ子を半殺しにしてからは小学校で誰も話してくれなくなった。

 そして竣から話すこともなかった。ほとんどが顔見知りの中学校でも状況は変わらず、一週間誰とも口をきかないなんてこともあった。

 

「俺は中学を出てバイトを始めて二年生、今年の春に施設を出た。ようやくお金を手に入れて……でも、あれだけ欲しかったあれもこれも、別に欲しくなかったんだ」

 

「生きてて楽しかった?」

 ざくっ、と。刀で切り込むように華怜は冷たい目で訊いてくる。

 竣はそんな華怜の反応にどこか安心しながら首を横に振った。

 

「生きづらい、生きていても何もいいことなかった。死にたくないけど生きていたくない。寝たらそのまんま目が開かなきゃいいのに朝が来やがる。生きてくだけで精一杯だ。銀行の口座一つ開くだけでも親の許可が無いと出来ないとか言われて、いないって言うとややこしくなってさ」

 

「好きな子とかいなかったの?」

 

「好きって、なに?」

 

「えっ?」

 華怜は何気なく訊いただけだけだったから、その驚きも当然だろう。

 竣は華怜のことが好きだからこそあんな行動に出てなんでも言うことを聞いているのだと、誰が見てもそう思うはずだ。

 なのに当の本人は好きが分からないと言っているのだ。

 

「好きな子……好き……かどうか分からないけど、小学生の頃ちょっと可愛い子がいて、少し気になった。話しかけたら、ごめんね、お母さんに話しちゃだめって言われてるのって」

 その保護者の指導は正解なんだろう。

 施設の子供は大概非常に暴力的で不安定であり、子供も保護者も安全かどうかなんて見抜く方法を知らないのだから一律シャットアウトするしかない。

 実際に竣はいま世間一般から見たら関わっちゃいけない部類の人間に両脚を膝まで突っ込んでるのだから。

 皮肉にも、そのゾーニングが正解だと理解できるくらいには竣は賢かったからこそ、瞬時に絶望が訪れた。

 およそ小学生の子供が世界に抱いてはいけない感情。

 僕はこの世界にいらない、という帰結だった。

 嫌な思い出が羽虫の群れのように脳裏でざわめき心が軋む。

 

「好きな子なんて、誰かを好いたり愛したりする余裕なんか無かった。自分が生きていくことで精一杯だった」

 

「…………」

 目を見開いて驚いている、華怜には珍しい表情。

 流れ星が一つ、瞳を切り裂くように映った。

 

「誰かを好きになってなにか救われるの? それで明日の晩飯が少しでも増えるってんならこの世界まるごと愛してやる」

 だが、そんなことでは実際腹が埋まらないから。

 バカなオッサンに頭下げて、豚みたいなヤクザの下で働いて、金の亡者の施設長の不正の手伝いをしてる。

 

「待ってよ、じゃあなんで、それじゃあ竣は――――」

 

「でも」

 

「!」

 

「なにが欲しいかも分かんないけど、華怜だけはなんとしても手に入れたいと思った」

 砕けた心を血と肉で固めて再び一つにした歪な塊を投げつけるようにして、話を締めくくる。

 雑に扱えばすぐにでも壊れて消えてしまうそれを受け止めた華怜は、最初はまばたきも出来ずに動きを止めていたが、やがて噛み砕くことが出来たのか静かに目を閉じて石ころを蹴り上げた。

 本当に久しぶりに心をむき出しにした気がする。華怜がそうしろと言ったから――――と横を見ると、いつもよりも近くにいる気がする。

 手袋と袖の僅かな隙間から見える白い肌が冬の訪れを告げているかのようだった。

 

「聴くだけでいいからね。返事とかしないで」

 

「……?」

 あの話を聴いてどんな話を返そうと思ったのだろう。

 頭の中にあることをまとめているようで、膝に肘をついて頬に手を当てて白い息を吐き、30秒ほど考えて口を開いた。

 

「兄がいるの。燈(ともす)って名前のね。14個離れているんだけど、そりゃあもう親に可愛がられていたわ」

 

「……!」

 竣の話も人生も環境も、結局の所は親がいなかったことに行き着く。

 そして華怜は自分の親の話を始めた。これはただの話ではないと勘付き、竣は集中して耳を傾ける。

 

「幼稚園から私立で大学は海外の……どこだっけ。忘れちゃった。で、いまは三十代にして既に会社を任されているからね、大したものよね。実際鬼みたいに優秀だしね。さて、ここで違和感を感じない?」

 

(なんだろ)

 別に話を聴いた限り何も不思議な事はない。

 日本一の金持ちの家なのだから息子に贅沢に金をかけて育てました、優秀に育ちました、立派な跡取りとなりました、なんて普通過ぎる。

 

「じゃあなんであたしは小学校から公立の学校に通っているのでしょうか」

 

「あれ……? たしかに、なんかおかし――――」

 

「黙って聴く!」

 疑問形で訊いてきたのに言葉を返すとかなり強めに戒められた。

 何度も頷きながらふと思い至る。華怜はいま、恐らく人生で誰にも明かしたことのない内に秘められた感情を言葉に乗せて届けてくれようとしてくれているのだと。

 でもそれがどんな反応になるのか分からなくて怖いから、恥ずかしいから黙っていろと言ったのだと。

 

「最初はね、腹違いの……妾から生まれたからだと思ってた。その母親もなんか色々汚い手を使って金だけ掠め取って父にあたしを押し付けたとかで会ったこと無いし、燈の母親はあたしが生まれる前に死んじゃってるけどね。歳だったし。で、なんだっけ……ああ、そうね。あたしの話ね」

 

(妾……)

 さらりととんでもないことを言った。

 つまり華怜は正式な霊九守の家の子供ではなく、愛人から生まれたのだと。

 それを引き取られただけ――――そこからの話のおおまかな予想が出来てしまった。

 

「うちの家系はね、女はみんな忌み子なんだって。なんでかは知らないけど……戦前までは女の子が産まれたら即座に殺してたって。だから生かされているだけでも感謝しないといけないのかもね。……たとえそこに愛情なんか一切なくても」

 

「…………」

 

「欲しかった時期もあるね。親の気を引きたくて、たとえば家にあった燈のピアノを完璧に弾きこなしてみせたりもしたのに、一瞥もくれない。あれが欲しいって言えば好きにしろ。公立高校に受かったから行こうと思う。ああ、好きにしろ。ねぇ、無関心過ぎて結局こんなんなっちゃったよ」

 

「…………」

 まるで他人事のように淡々と華怜が語る一方で、竣の心は締め付けられるように痛み、無意識に胸元をぎゅっと握っていた。

 まさかそんな、と思ってしまった。天と地ほどに生まれが違うと思っていた華怜にこんなにも強烈なシンパシーを感じるなんて。

 

「父は知らないけど、少なくとも祖父母は忌み子の話を信じているみたいね。自然と態度は伝搬して、一族で誰もあたしを見ないのに一族以外のみんなはあたしに霊九守の名前を見る。本当の自分がどこにいるかなんて、とっくの昔に分からなくなっちゃった」

 月が天の頂まで来た。川に反射する光が華怜の瞳にそのまま赤い天の川を作っている。

 話は終わり、値踏みするかのように竣を見ている。次に口にする言葉で全てが変わるかもしれない、それは分かっているのに。

 

(……あれ? あれ? なんだこれ……?)

 先程まで痛みに悲鳴を上げていた心が今度は加速して別の痛みを滲み出している。

 高価な宝石のような赤茶色の目に射抜かれるように見つめられて視線を逸らせない。

 愛人の子がなんだってんだ、こんなに綺麗じゃないかずっと綺麗だった、ときっと正解ではない言葉ばかりが頭を巡る。

 早鐘収まらず、結局何も言えず、竣が川に視線を避難させたときだった。

 

「聴いてくれてありがと」

 頬に柔らかい何かが触れる。

 それが華怜の唇だと気が付いた時、一瞬で全て真っ白になった。

 本当に、本当に真っ白になった。ごちゃごちゃしていた頭の中全部が吹き飛びシンプルな棒人間になった自分がそこいるのかと錯覚するほどに。

 どうして何故一体そんなことを、叫んでしまいたい。でもそんなことしたら自分みたいな弱い人間はそれだけで死んでしまいそうだった。

 ただただ、目を泳がせてたったいま華怜の唇が触れた頬を指でなぞることしか出来なかった。夢じゃなく、たしかに湿っている。

 

「いやだった?」

 

「そんなっ、全然そんなこと、!!」

 ずっ、と座る位置をずらした華怜は何を考えているのだろう、そのまま軽い頭を竣の肩に乗せてきた。

 真っ白はさらに真っ白になり、視界の中で弾けたスパークルが脳に焼き付く。

 自分は『これ』を手に入れられるほどの辛く険しい道のりを超えてきたのか?

 そんなはずはないのに。

 

「しっ! 騒がない。泰然自若としてなさい」

 

「むっ、無理だ」

 ぎぎぎ、と油の切れたブリキ人形みたいに首を右に向けると亜麻色の髪が竣の肩の上でふんわりと形を作っている。

 何か、竣の人生に圧倒的に不足していたものが流れ込んでくるようで何故か涙が滲んでいた。

 

「たまたまそういう気分なの。たまたまあんたが横にいたからこうしてるの」

 

「…………」

 ナイフで遠慮なく人の肌を切り刻むような女の子が、つまり甘えたい気分だと言って本当に自分にゆっくりと甘えてきている。だってあんな表情で苛烈に自分を傷付けたじゃないか。なんて色んな顔を持っているのだろう。

 誰かに甘えたいときなんて、そりゃ自分の人生にだって何度もあった。でも出来たことなんてないから、どうすればいいのか分からなかった。

 

「少しだけ嘘。誰でもはよくないよ」

 

「わ……い……、うん」

 そんなにめちゃくちゃ寒いという訳でもないのに、そんな言葉一つでぞくぞくと鳥肌が走った。

 その言葉も嘘で、竣だからこうしていると分かってしまったからだ。

 

「……あたしにあんなこと言ったのって。あたしが霊九守だから?」

 

「そんなこと興味ない。ただ綺麗だと思っただけ」

 たとえば世の中には高貴な女性ほど汚してみたいと感じる性癖があることは知っている。

 霊九守の娘を征服したとなればそれはこれ以上無いくらいの快感をもたらすだろう。

 だがそんなことは全くもって頭になかった。

 

「あんたが興味なくても知ってはいたでしょう?」

 

「何かを手に入れる為には何かを捨てなきゃダメだ。俺には俺の身体と人生以外、差し出せるものがなかった」

 その理屈なら刑務所に入る覚悟で物置にでも引きずり込んでしまえばよかった。

 なのにどうしてか、心の中の言葉に出来ない部分が譲ってくれなかったのだ。

 それじゃだめなんだと。正しく華怜を手に入れないと意味がないと。

 なんの意味なのかは分からないし、正しいのかも分からないが。

 

「そう。正しいね。あんたみたいなのに言い寄られたらそれだけで人生の汚点だから、何か対価を差し出すってのは正解」

 普通の人間が普通の状況でそんなことを言われれば激しく傷心するだろう。

 だが竣は普通の人間ではないし、何より普通の状況じゃない。

 こんなに寄りかかって甘えながら言ってきたところで傷の一つも付かない。

 それが本心なのだとはなんとなく分かるが。

 

「……華怜はほとんどお互い何も知らない頃から華怜って呼んでって言った。その時から、本当になんとなくだけど分かってた気がする」

 親しみを覚えたからという訳ではないのは確実だった。そうなると、名字が嫌いという理由しか無いだろう。

 事細かい事情は知らなかったにせよ、話を聞いて引っくり返るほど驚くようなことはなかった。

 

「けっこう賢い野良犬」

 ぴったりな表現だな、と笑ってしまう。

 野良犬など所詮餌を求めて這い回る能力さえあればいいのに、竣は野良犬の分際で身分も弁えず星を摑んでみたいと思ってしまった。

 

「俺たちは鬱憤の塊の掃き溜めで、この世界が大嫌いで、だから……」

 似たもの同士だから引き寄せられたのかも、と言おうとしてやめる。

 引き寄せられたなんておこがましい。自分が勝手に暴走して突っ込んでいっただけじゃないか。

 

「一緒にしないで」

 

「ごめん」

 

「…………。そうかもね」

 夜よ明けないでくれ、とラジカセからひび割れた音が静寂を突き破って山に響く。

 本当に夜が明けなければいいのに。やがて竣の肩が華怜の体温と同化し痺れてきた頃になって、華怜は離れてしまった。

 

「前から思ってたけど、ピアスなんかつけてるのね、あんた」

 

「うん」

 要するに自分は早く大人になってしまいたかったんだと思う。

 世界が自分にとって生きにくいのは子供だからだ、と決めつけて。

 中3の頃に耳に穴を空けたが、耳たぶに飾りがつくくらいしか変わらなかった。

 

「結構洒落てるね。これ、ちょうだい」

 

「……? いいよ」

 華怜の目利きは確かで、実はそれなりの値段がする。

 周りの施設の子供達がお小遣いを貰うたびにお菓子や漫画を買う中で我慢して貯めて買ったものだ。

 右耳からピアスを取っていった華怜は満足気に鼻から息を吐いた。

 

「こっちもいただくが、いいかね?」

 川辺に座っていた小柄な老人がまだ余っていたココアをカップに注いでいた。

 どうせ残しても捨てるしか無いしいいだろう。

 

「ブランデー少し入れるといいよ」

 

「そりゃどうも」

 ブランデー入りのココアは気に入ったのか、今どき珍しいボロの和服を纏った老人は皺くちゃで面長の顔を笑顔でくしゃりと歪めた。

 その時だった。近くの茂みががさがさと動いたのは。

 

「!」

 

「な……獣避けになってないじゃない」

 気のせいじゃなく本当に揺れたし、今も揺れている。

 茂みの高さから見るに人ではなく獣なのは間違いない。

 

「こりゃいけない。ワシャこれで失礼させてもらうよ」

 

「ああ、気をつけて」

 ライトから赤いビニールテープを外す。更に光度が上がるので大抵の小さい獣は追い払えるはずだ。

 老人は膝を叩いたあと慌てているのかのんびりしているのかわからない速度でふわふわとどこかへ飛んでいってしまった。

 

「いままでこんなことは……華怜!」

 

「何か……なんか頭が……」

 危ないから近づくな、と言う前に華怜がふらふらと茂みに向かってしまう。

 イタチ程度だったら人間の姿を見ればどこかへすっ飛んでいくが、人工的な音を耳にしてもなお近づいてきたということは小動物の可能性は低い。

 熊や猪だったら最悪だ――――追いかける前に鞄を漁って撃退スプレーと棒切れを取り出す。

 まだ悲鳴も獣の声も聞こえてないから大丈夫なはずだ――――と茂みに向き直る。

 

「竣……これ……」

 

「え……?」

 茂みから普通に華怜が出てきた。その手に白い何かを手にして。

 

「狐だよね、これ」

 

「なんだこいつ……?」

 華怜が腕に抱えていたのは月夜にぼんやりと輝く白い毛皮をした子狐だった。

 弱っているのか、あるいは元気が無いのか人間二人に囲まれても物憂げに見てくるだけで声もあげない。

 

「アルビノの子狐?」

 

「……こんな見た目だから親に捨てられちゃったのかな。震えているな」

 とんだトラブルだ。今まで20回以上ここに来て獣に遭遇すること自体初めてだったのに。

 見つけてしまった以上は無視しておく訳にもいかない。血のように赤い狐の眼に急かされるように毛布を取ってくる。

 

「ねぇ」

 

「ちょっと、待って。この毛布で」

 

「さっきのお爺さん誰?」

 

「さっきの? 一体何を――――」

 華怜から狐を受け取り毛布で包みながら急に違和感が浮かんでくる。

 

(なんだあのジジイ!!?)

 いつの間にかいて、いつの間にかココアを飲んでいた。

 夢ではないことを示すようにカップは空になっている。

 不審者が乱入してきた、なんて簡単な話ではない。

 

(俺らの意識に滑り込んでいた……!? 何者!?)

 そこにいることを自然と受け入れていたのだ。長らくの友人のように。

 見た目もよく考えてみれば普通の現代人ではなかった。

 害はなしてこなかったが、妥当な線で考えれば妖怪や幽霊の類ということになる。

 バカバカしい、と思ったが実際の目の当たりにしてしまったのだから。

 

「その子、お腹空いているんじゃない?」

 

「…………そうかもしれない」

 過ぎたことはとりあえずいい。今は目の前のことのほうが大事だ。

 人差し指を狐の口元にやると母の乳を飲むかのように吸ってきた。

 

「飲むかな?」

 未使用のカップに、ココア用の牛乳を入れた華怜は狐に差し出す。

 ひとしきりにおいを嗅いだ狐は恐る恐る牛乳を舐め始めた。

 

「子供じゃないぞ。まだ赤ん坊じゃないか」

 眼は開いていてもまだよく見えていないようだ。

 嗅覚を頼りに華怜と竣のにおいを確かめている。

 もうこの狐がこの場に来てからそれなりの時間が経つが、親狐どころか他の生き物の気配すら無い。

 

「あんたのアパートじゃ無理よね」

 

「何が?」

 

「あたしがこの子を飼う」

 

「!?」

 こういう獣を飼うのは許可がとか、狐は人に懐かないとか。

 竣の発したあらゆるネガティブな言葉はうるさいの一言で全て却下された。

 逃げたりしないのかなと思ったが、地面に置いても毛布の上から離れようとせずおまけに華怜に懐いてしまったようだ。

 懐かないなんて嘘じゃないか、と言われてしまえばもう何も言えない。

 なんだか妙なことになったな、と思いながら片付けを進めるのだった。

 

 

 

**********************************************

 

 

 

 

 ある日世界が終わればいいのに。

 そう思ったことのない人間なんかいないんじゃないか、と思うほどにこの世界を取り巻く人間が作り上げた整合性は気持ち悪い。

 どこかで誰かがどんな目にあっても、テレビでさらりとやって次のニュースは政治家の不倫だの新生アイドルだのと、世界は実際のところは平和なんですよと言ってくる。

 目をおっぴろげてよく見ろ、と言いたい。どう見たら世界は平和で幸せな人だらけなのかと。

 

「…………」

 金が普通より多くもらえるとはいえ犯罪行為に加担して豚みたいなヤクザの元で働かなければならないこの時間は苦痛だ。

 後ろで高島が違法サイトで漫画を読みながら煙草を吸っている。

 自分もこうして腐りきって生きれば楽なのに、半グレになりながらも釣り合わない変なプライドがあるから生きにくい。

 

(なんだありゃ)

 ハロウィンはとっくに終わったはずなのに仮装した人間がスーパーの前を歩いている。

 赤い外套を纏った何かが、衣の下から極太の腸のようなものを垂らして地面に粘液の跡を残しながらレジ袋を持ってだらだらと歩いている。

 あまりにもリアルだったので一瞬大騒ぎしそうになったが、スーパーから出てきた主婦に頭を下げて雑談しながらどこかへ行ってしまった。

 近所にそんなコスプレイベントみたいなものがあっただろうか。記憶にないが。

 

「今日は誰も来やんなー。不景気か?」

 

「そういう日もあるだろ」

 煙草を吸い終わり暇を持て余したのか、高島が絡んでくる。

 たしかに今日は一人もノミ屋を利用する客は来なかった。

 その代わりたこ焼きの売上が好調だな――――と思っていると。

 

「!」

 スーパーから出てきた人物と目が合う。

 レジ袋をぶら下げて取り巻きに囲まれた華怜だった。

 たこ焼き屋にいるのがクラスメートだと気が付いたのは華怜だけだ。長い髪をタオルで纏めているからだろう。

 何しているんだろう、こんな安さと品揃えで売り込んでいるボロスーパーで。

 答えはすぐに訊けそうだった。取り巻きたちを帰らせた華怜がこちらに向かってきたのだ。

 

「そう。たこ焼き屋って、ここで働いていたのね」

 

「うん。何していたの?」

 高島は客と目を合わせないように屋台の影でしゃがんで煙草を吸っている。

 それでいい。どう見てもまともな仕事をしていない見た目の人間の元で働いているところなど見られたくない。

 慌てて新しいたこ焼きを作り始める。

 

「ゴン太の餌を買ってたの。その辺じゃ猫や犬の餌しか売ってなくてね」

 

「ゴン太…………あの狐の名前?」

 いっそ神々しいほどの白い狐に対してゴン太とは、なかなかぶっ飛んだセンスをしている。

 まぁ飼っているのは華怜なのだからそれは勝手なのだが。

 

「……へぇ」

 

「どうしたの?」

 やはりというか、たこ焼きが出来上がるのを待っている華怜が竣の顔を見て感心した声をあげる。

 腕の動きを見てその声を出すなら分かるが、今更顔を見てなんだと言うんだろう。

 なんでもない、と言う華怜に出来たてのたこ焼きを渡す。自信作だ。

 

「美味しい。こういうのって初めて食べたかもしれない」

 

「そっか」

 祭りなどに行くタイプには見えないし、ましてや普段屋台で買い食いなど考えもしないだろう。

 ソースで唇を汚した華怜に褒めてもらえて素直に嬉しかった。

 

「もう一個ちょうだい。ゴン太にあげる」

 

「狐ってそういうの食べるか?」

 一回で作れるのは6個よりも遥かに多いので、同時に作っていたものを容器に詰めていく。

 レジ袋を覗き見るが、狐用と書いてあるものは一切入っていない。

 

「食べるでしょ。狐って雑食だし」

 

「そうかな……ソースとかはかけないでおいたほうが…………あれ? もう食べるようになったの」

 そんな馬鹿な。まだ目も開いていなかったのがつい先週の話だ。

 もう固形物を食べられるようになっているなんて異常な成長速度だ。

 だが華怜は特に疑問を感じていないようで、財布から千円札を取り出していた。

 

「いやお金は」

 

「奢るにしろ相手を選びなさい」

 ばんっ、と台の上に札を叩きつけられる。言っていることは分からなくもない。

 同い年とはいえ貧乏生活に喘いでいる自分なんかに奢られたくないのだろう。

 ありがたく代金を頂戴すると華怜はさよならを言うこともなく大股で去っていった。

 

(ゴン太…………ごんぎつねか?)

 なんでゴン太なんだろう、としばらく考えていたが思い浮かんだのは小学生の国語の教科書にあった話くらいしか無かった。

 だとしたら中々に謎なセンスだ。

 

「……ありゃ霊九守のとこの娘やないか。どうなってんねん」

 華怜が去ったことを確認した高島が訊いてくる。

 こんな下っ端ヤクザにまで顔を知られているあたり、霊九霊の家が裏で何をしているか推して知るべしと言ったところか。

 

「……同級生」

 

「同級……? なんやお前、やけに賢しいこと言いよるガキやと思うたら、ほんまに頭良かったんやな」

 

「…………」

 

「意味あらへんけどな。ずいぶん親しげやったけどそれも無駄や」

 

「うるせえ」

 意味がない、無駄なのは自分が一番分かってる。

 それでもなんとか今日まで生きてきたんだ。

 こんな腐れヤクザに諭されたくなんか無い。

 

「卒業したらうちにくればええやんか。親がおらん奴もうちにはおるで。どいつもろくな人生送っとらん」

 

「勧誘は他のやつにしてくれ」

 少子高齢化に伴う売り手市場はどうやら裏世界にも来ているようだ。

 こうして誘えば来そうな若者を彼らは巧みに誘惑しようとしてくる。

 

「うちにくれば、少なくとも親父がいるしな」

 

「誰が行くか」

 下っ端の中の下っ端なので自分よりも下が欲しいのだろう。

 正式にヤクザになってこの豚の顎でこき使われるなんて寒気がする。

 

「せめて生まれた国が違えばってか。アメリカなら粗悪品のドラッグのディーラーやな。中国なら銀ダラの密輸人やろ。お前は生まれたときからまともになれへんツラしてるわ」

 例えるなら借金に塗れた女を風俗に落とすための言い方だというのは分かっている。

 お前にはまともな道は生きれないから、俺らの言うとおりにするのが一番いいと洗脳するやり方だと。

 それでもやはりイラッとする。

 

「俺、そんなに人相悪いか?」

 

「お前の家には鏡もないんか。どう見たって駅前掲示板に貼られてる顔やろ」

 

「…………」

 華怜に言われる気持ちが悪い、とクラスの女子連中がオタクグループに言っている気持ちが悪いは意味合いが違う気がする。

 どうやら自分は高校生にして完全に不審者の見た目となっているらしい。

 こんな男の言うことなど一つも耳にしたくないが、それは一理ある。

 かと言ってどうしたらいいんだ――――と悩んでいたら、転機は次の日に訪れた。

 

 

 弁当工場で安値で買った弁当を一人で黙々と食べている昼休み。

 突然ポケットの中の格安スマホが震えた。

 バイト先の人間と華怜しか登録されていない。

 

『今日この髪型にしてきなさい』

 単純な一文と共に画像が添付されているメール。

 開いてみると左側を刈り上げ残った右側も眉の上まで切りパーマをかけてアッシュに染めている男だか女だか分からない人物が出てきた。

 

『色も?』

 確かに今の髪型は汚らしいだろう。

 散髪代をケチって理髪店なんか一年に二回くらいしか行かないのだから。

 

『色も。あんたの顔ならこれが似合う』

 

(そっか、昨日のアレか)

 よく考えてみればだらしなく肩近くまで伸ばした髪の下を見られたのは昨日が初めてだ。

 だが顔をよく知る高島でさえ人相が悪いと言っていたのに、こんな髪型にしたらいよいよ誰も近づいてこなくなる。

 

『そんなのにしたら学校もマズイよ』

 

『やれ。後で店まで着いていく』

 命令は命令だ。そう言われれば従うしか無い。 

 いかにも安い味のとんかつを口に入れながら取り巻きの間で食事をしている華怜の方を見ると、携帯をポケットに入れて髪を耳にかけていた。

 右耳に付けているその星型のピアスは、あの日竣が華怜にあげたもので、もうそれ以上は何も言えなかった。

 

 

 カットだけで5000円以上する美容院に入ったのは初めてだった。染めるとなると軽く1万円は超えてしまう。

 というか、駅前のこんな洒落た美容室なんて視界に入れたことすら無い。

 なのにいきなり一万円を握らされて叩き込まれた。

 

「うん、そっちの方が全然タイプ」

 

「…………」

 店員にはよく似合っていると言われた。自分でもそうは思った。

 だがどう見ても学生服を着ている人間がしていい髪型じゃない。

 隠れていたピアスも丸見えだ。ひっそりと勉強をして静かに生きてきたはずが、とうとう自分もチンピラの仲間入りだ。

 

「いいね、特にその……誰も信じてない目」

 言われてすぐに自分の瞼に触れる。

 少なくとも、まだ黄色い帽子を被っていた頃は希望に輝いていた時もあったはずだ。

 だが今は。今は濁りに濁りって腐り果ててしまった。

 高島が言っていたのは人相の話ではない。この目から生まれや育ちを見抜かれてしまったのだ。

 

「でも……」

 

「?」

 

「華怜のことは信じている」

 酷いこともされたし、散々玩具にされた。

 今日のように理不尽で逆らえない命令もあった。

 だからこそ、華怜は裏切らないというある種の信頼があった。

 事細かに理由を説明するのは難しいが、それでも。

 

「それでいいよ」

 腰を曲げてにんまりと竣を見上げるその笑顔。

 ふと、いつもそうやって笑っていればいいのにと思ってしまった。

 ただただ最初は華怜を赴くままに好きなようにしてみたいと考えただけだったのに。

 人間以下の少年が、自分が人間らしいことを思い始めていることに気が付いた瞬間だった。

 

 

 

 とにかく学校が心配だった。

 バイトはまだそんなに格好に拘るタイプのものじゃないからいい。

 このまま登校すれば良くも悪くも教師や生徒に目を付けられる。

 そんなことを華怜が望むとは思えないのだが。

 

「あらー。なんだか高校生みたいね」

 大変身を遂げた次の日。弁当工場のロッカールームで同じ時間に上がりのおばちゃんにそんなことを言われて驚いた。

 そう言えば自己紹介をしたこともない。

 

「高校生です、俺」

 

「えっ、そうなの? フリーターだと思ってたわ。ごめんねぇ」

 

「いや、別に……」

 フリーターか、と思った。

 言われてみれば自分は顔がキツめの造形ということもあり、あんな髪型じゃ金に飢えたフリーターに見えてもしょうがない。

 だが学生だと思われてすらいなかったとは驚きだ。

 普段目線すらも合わせないバイト先のおばちゃんですらこの反応だ。

 クラスメートはもしかしたら。

 

 

 当然のこととして、校舎に入ってから下級生はおろか上級生にも廊下で避けられじろじろと見られた。

 校則が緩いのは、規範から外れるような生徒がいないという想定からだ。きっと自分はこの高校創設以来最悪の生徒なのだろう。

 特に問題を起こしている訳でもないのに。いや起こしているか、と教室に入り席に着いて考え込む。

 クラスメートも目をまん丸くして見てくる。そんな状況に全く慣れていない竣は窓の外のほとんどの葉が落ちた桜の木に目を向けるしかなかった。

 

「どっかで見たと思ったら、それエクスギアのボーカルの髪型だろ!」

 

「???」

 

「お前だよ、宗像に言ってんの!」

 振り返ると授業前や昼休みに次の時間の準備も惜しんで体育館でバスケをしているような、つまり竣と正反対のタイプの男子生徒たちがいた。

 話しかけられることは初めてどころか彼らの名前すら知らない。

 

「えと、エクスギアってなんだ?」

 

「は? これだよこれ! これの真似したんじゃないのか?」

 

「…………誰それ」

 男子高校生の携帯待ち受けになるくらいには10代に人気のグループらしい。

 見てみると確かに似ている。この髪型にしろと華怜に言われた時のモデルとは違う人物だが、その髪型が結果的に竣の顔と相まって洒落ているなら華怜の目が確かだったということだろう。

 

「どこでカットしてもらったん?」

 

「なんで突然変身したのお前」

 

「あ……駅前のechoってところ。その、気分かな…………、!!」

 聖徳太子クソくらえと言わんばかりに投げつけられる疑問の言葉にしどろもどろに返答していると、不意に華怜と目が合い背筋が凍りついた。

 机の端を握りつぶすのかと問いたくなるほどに力の入った手、視線で人を殺すと言われても違和感ないほどの怒り。

 赤い熱視線が竣の脳の動きを止める。震えた携帯には『放課後裏門で待っていろ』とだけ書かれていた。

 

 

 寒風凄まじいと言えるほどの冷え込みなのに、それも一切気にならない程に華怜は怒っていた。

 まだ何かを言われたわけではない。何も言っていないし言われていないのに、怒りを感じるなんて相当だ。

 下級生が自転車に乗って裏門から出ていくとき、怒気溢れる華怜を見すぎて電信柱にぶつかっていた。

 

「いったいどうしたの?」

 怒らせることをしたか、以前に華怜が怒るのは初めてだ。

 だからこそ何の地雷を踏み抜いたのか分からない。

 頭の中で整理している言葉を噛み砕くかのように華怜の眉根と鼻に凄まじい皺が出来ていた。

 

「なに、あれ」

 

「あれってどれ?」

 

「楽しかった? あんなに人気者になれて」

 

「……え?」

 もしかして朝と昼に男子達に質問攻めにあったことに対して怒っているのだろうか。

 そんなバカな。意味が分からな過ぎる。人気者というよりはただの見世物ゴリラだったし、正直嬉しくなんて全く無かった。疲れ果てた。

 その上怒られているのだから理不尽極まる。嫉妬しているにしても相手は全員男だったのだから尚の事おかしい。

 

「だから……! その、つまり!」

 

「…………」

 華怜も華怜で理不尽なことを言っているということは理屈では分かっているようだ。何しろ他でもない華怜の指示で竣は変わったのだから。

 だが感情の部分で許せない部分があるらしい。

 どんっ、と華怜が裏門を拳で叩くと裏門を飾る桜の木の枯れ葉は全て落ちてしまった。

 

「竣は普通になっちゃダメ!」

 

(……なにを……言ってるんだ)

 と、普通なら思い距離を置くところ。

 なのに何故か、本当に何故か。華怜の怒りもその言葉も感性の深い部分で理解できてしまった。

 自分が華怜にシンパシーを感じたように華怜も自分に感じており、即ち同類だと思っているのだと。

 抜け駆けしないでくれ、という魂からの叫びなのだ。

   

「明日!! 終わったら美術準備室に来なさい。あんたの正体を教えてあげる」

 

「分かった」

 理不尽でもいい。自分は納得している。

 いつの間にか身体に傷や痛みが残るようなことはされなくなっていた気がする。

 だとするならば、怒りも相まってかなり過激なこともされるかもしれない。気が付けば残り二週間しかないのだから、時期的に考えてもおかしくない。

 ならば自分はいっそ晴れやかな心でその罰を受けよう、素直にそう思えた。

 竣と華怜の間だけで伝わる不文律、心の繋がりは純粋な不純と暴力。それがなければ自分たちはきっと話すことすら無かったのだから、それでいいのだろう。

 何よりも――――完璧だと思っていた華怜が弱い部分を見せてくれたのが嬉しかった。

 

 

*****************************************

 

 

 

 ここの窓から見る葉はまだ紅葉、鮮血の色をしている。華怜の目の色だ。

 華怜は美術部に入っている。そして彼女が今まで何をどうしたのかは知らないが、美術準備室は事実上華怜の自由に使えるようになっており、壁には華怜が描いたいくつもの絵が飾られている。

 巨大な手で顔を握りつぶされても直立しているスーツの男。手脚が枝になり髪は焼け焦げた喪服の女性を囲う額縁の下には『Just Like Honey』と、どうしたらそうなるのか理解の外のタイトルが添えられている。 

 学生らしくないという理由で決して評価はされないような絵達が恨めしげに鈍く光っている。

 竣と出会うまでの華怜が一人で何を想い爆発させキャンバスにぶつけていたのかがありありと浮かぶようだ。

 

「…………」

 美術準備室の真ん中に一つだけ置かれた椅子に座らせた竣を窓枠に寄りかかった華怜は煙草を咥えながらただじっと見ている。

 これだけならモデルの模写を始めようとしているのだと思えなくもないが、絵の具も何も用意していない。

 何をされるか全く予想が付かない。

 

「あっ、なにを!」

 竣が止める前に華怜は自分の左手に煙草を押し付けていた。

 熱くないはずがなく、その証拠に華怜の瞳孔が少し小さくなる。

 それでも唇を引き絞り声の一つもあげない。

 

「……たかがこれくらいがなに?」

 煙草以外何も持っていなかったように見えたのに、いつの間にか華怜の右手にはあのナイフが握られていた。

 またアレで刻まれるのか――――竣が目を細めた時だった。

 

「い――――ッ!!」

 

「何してんだ!!」

 刃を手の平に向け、左手で思い切りナイフを握り始めたのだ。

 あのナイフの切れ味はそれこそ痛いほど知っている。

 竣が驚きに身体を強張らせている間にも真っ赤な血がナイフの精緻を極めた装飾を伝い手首へ、そして制服を染めていく。

 

「座ってろ!」

 

「…………!」

 痛くないはずがない。今の怒鳴り声ですら震えていて、がちがちと歯を噛み鳴らして大きな目いっぱいに涙を溜めている。

 ぎゅうぎゅうにナイフを握りしめて悲痛な声が漏れ聞こえるがそれでもこっちを見ていろと涙で歪んだ目が言っていた。

 

「あぁああ゙ああぁああ゙あぁッ!!」

 まるでとどめを刺すかのように思い切り引き抜いたナイフは、多感な十代には刺激的過ぎる赤い曲線を夕陽に描いて床に落ちる。

 痛みに思わず身を屈めてナイフをぽとりと落とした華怜は声にならない声をあげながら左手首を掴み、更に血が吹き出た。

 

「どう……?」

 急激な出血にふらつきながらも血を流す手の平を太陽の光を遮るようにこちらに向けてくる。

 赤黒い切り口は深い地獄の底だ。

 

「なんてことを……」

 眼前で氷の女王が絶叫しながら自傷行為をして傷口を見せてきたのだ。顔面蒼白にもなる。

 だが華怜はそんな竣を見て何かのスイッチが入ったのか、顔を火照らせ何故か恍惚に微笑んでいる。

 赤く溜まっていた涙が消え、華怜が歩み寄ってきた。

 

「動くな」

 何をするのかと思いきや、親指で拭い取った血を竣の顔に塗りつけてきたのだ。

 ただ触れるだけでなく、ぐっと顔を掴み強く塗り込んでくる。輪郭を伝う生温い血が怨念と共に肌から染み込んでくるようだ。

 いまの自分はまさしく華怜の欲望のキャンバスなのだろう。神が蚤を振るって作ったかのような華怜の美しい顔が目の前にあった。

 

「そうしたいんだったら、俺を切ればよかったじゃないか」

 

「意味がない。黙っていなさい」

 それはどういう意味か、と問う前に唇の周りにも無理やり塗られ、華怜の頬が高揚に赤くなっていく。

 ふと、論理的な思考をふっ飛ばして、華怜は自分自身の血で塗りたいのだと分かってしまった。

 

(…………あれ……?)

 そう気付いたとき、どうしたことか竣は鼻の奥がつんと痺れるほどに照れていた。

 ある種の所有欲だと分かったからだ。この少年はずっと異常であり、他の誰でもない自分だけの物だ――――と痛みを以て塗りたくっているのだと。

 私の人形、私の玩具、私の物。何度も言葉で言われてきて、そこに嘘はなかった。

 高価な麦のような睫毛の奥、燃えるような瞳が隠しきれない必死さで今も目と目で伝えてきている。

 あまりの恥ずかしさに目を逸らそうにも、華怜の熱意が許してくれなかった。

 長いようで短かった八分の間で完成したようだ。華怜が机の上に最初から置いてあった手鏡を持ってきた。

 

「これがあんた」

 血が滴る真実を映す鏡に映っているのは、痩けた頬までも雑な大きさの牙が見え隠れしギラギラと目を光らせているイヌ科の肉食獣のようなメイクを施された竣自身だった。

 何が悲しいのか血の涙を流しており顎が喉まで裂けて獲物よりも抽象的な何かを欲している。

 

「華怜にはこう見えているの?」

 

「そう。人間の世界で生きられない獣でしょう」

 

「…………」

 人間の作った人間のための世界で這い回る竣よりも、血も肉も満たされるほどに喰らい尽くしているのにまだ足りないと泣くその獣は、よりイデアに近いと思える。

 華怜の願望が映し出されている姿でもあるのだろう。だが、それ以上にそれは竣の本当の姿に感じられて、鏡の中の獣が笑い血が洗い流した。

 

「見て。痛い」

 鏡を床に置いて蹴った華怜は傷口をこちらに向けてくる。

 相当に深い傷に思えたのだが、実際は防衛本能が働いたのか肉までは傷ついていない。

 これくらいの怪我なら竣もバイトの荷運びの時にしたことがある。適切に病院で治療すれば10日ほどで治るはずだ。

 

「舐めて」

 傷口が淫靡な暗喩のように開く。

 鼓動と共に蠕動し充血した肉が粘った血を垂らしていた。

 

「痛いよ、そんなことしたら」

 

「獣は舐めて治すでしょう」

 大昔に施設で読んだ漫画に、医者の家の軒下に入り込んだ獣が怪我した子供を必死に舐めて治そうとしている話があった。

 あれは最後にどうなったんだっけ――――口元を掌に近づけて竣の鼻が華怜の細い指に当たる。

 

「――――っ!」

 恐る恐る舌先で傷口に触れると華怜は小さく声をあげた。親に叱られた獣のように萎縮するが、華怜を包む空気の全てがやめるなと言っている。

 極度に緊張しているのに何故か溢れる唾液を無理やり飲み込んで舌を更に出し、舌の腹で傷口に触れると錆びた鉄の味がした。

 見ていなくても感触で分かる、ただの肌の部分とぎざぎざに切られた部分が痛々しい。

 肌の下の肉は更に温かく、そして確かに唾液に僅かながら治癒効果があるようで華怜の顔から痛みが引いていった。

 

「こっちも」

 血が大分止まりそのまま消毒をすれば痕は残ってもちゃんと治るな、と思えるくらいになって華怜は反対の手も差し出してきた。

 

「そっちは怪我してないんじゃ……?」

 

「汚れている」

 真っ赤な右手で狂気に浸された美術準備室の空気を掴むと固まった血がひび割れる。

 黒をベースに星を描いたマニキュアの下までも血に犯されている。

 口紅を塗るように親指を唇に擦り付けてくる。雲に隠れて糜爛な夕陽を背にし全てが影となった華怜の赤い瞳だけが妖いのように光っていた。

 

(のどが痛い……)

 どろどろとしながらも刺々しいという、華怜そのもののような血は口腔や鼻腔はおろか喉にまで張り付き刺さり異常な乾きを生み出していた。

 それこそ乾きの元凶である血で乾きを癒したいと思ってしまうほどに。

 

「ほら、足りないもっと足りない全然足りないってなっている」

 時計のように血が断続的に滴る左腕をだらりと下ろして冷酷な顔で告げてくる。

 舌に感じる僅かに塩気の混じった凶悪な血液が脳にまで入り込んでくるようだ。

 座っている自分が差し出された指を舐めている姿は、檻の中のモルモットが給水器から栄養食を貪っている姿にも似ていた。

 純度100の麻薬に溺れたかのように全てを忘れかけた時、白と赤の混じり合った両手が竣の顔を包み込んできた。

 

「うわっ、っぷ!」

 ぐりぐりと両の掌の濡れた唾液と血を顔に塗りたくられる。

 当然繊細に描かれていたメイクは全て消えてしまう。

 そんな格好で出歩けないことは分かっていても、どうしてかもったいないと思った。

 

「顔を洗ってきなさい。誰かに見つからないようにね。あとモップも持ってきて」

 竣をどかした華怜は椅子に座って足を使い器用に鞄から医療品を取り出している。

 指先を舐めるその行動が、ただの癖なのか今だからこそしているのか分からず心臓が縮んだ。

 

「写真とか、撮らないんだ」

 

「何の意味があるの、それ」

 せっかく作ったのに――――と言う前に竣にも理解できた。

 永遠にそこに存在し続けるものを額縁に収め真っ白な壁に飾ることはよい。

 だが、その一瞬に自分の為だけに在ったものをほんの少しでも誰かに見られる形で残したくなかったのだろう。

 もう無いからこそ、この記憶の価値は極限にまで高まるのだと。

 かなり自分の思考は毒されている――――そんなことを思いながら竣は静かに廊下に出た。

 

 

 竣がモップで汚れた床を掃除している間、華怜は器用に片手で包帯を巻いていたが素人目にも完璧に映った。

 あるいはこうすることは分かっていたのだから事前に調べていたのかもしれない。

 掃除している床や壁に少し赤い染みが残ってしまうが、絵の具ということでごまかせるだろう。

 

「竣」

 

「え? ――――!!」

 いつの間にか隣に立っていた華怜が、竣の左手の小指を握りいきなりへし折ろうとしてきた。

 本能的に左手を引っ込めるが、曲げてはいけない方向に力を加えられて小指がずきずきしている。

 

「…………」

 

「……避けないほうが良かった?」

 薄く目を開き何を考えているか分からない華怜にまだ折れてはいない左手を差し出す。

 もう残り時間も少ないので、後戻り出来ない怪我を負わせられるかもしれないとは考えていたが急に来るとは。

 だがそれも華怜の勝手だ。いまからやりますよ、なんて予告されたこともない。

 少なくともあと14日はこの体は華怜のものなのだから。

 

「……痛み、痛い、痛い……恐怖」

 包帯で巻かれているとは言え、動かさないに越したことは無い左手を握って開いてうわ言を呟いている。

 異常な空気に当てられた脳のトランスが論理的思考の過程をぶっ飛ばしてまた何かおかしなことを弾き出しているようだ。

 

「他人から与えられる痛みは、怖い?」

 

「……。怖いよ」

 施設にいた頃に同室の少年が先生から受けていた暴力は今でもトラウマだ。

 たとえ自分は受けていなくとも暴力はそれだけで人を変えてしまう。

 

「あたしは今まで誰にも殴られたことがない」

 

「そうだろうな」

 親には放置され学校では諍いを起こすことすなわち社会的な死を意味するような少女だ。

 一体誰が彼女を直接攻撃などできよう。いま理不尽な暴力を与えた相手が目の前にいるというのに悠然と椅子に座っているところからも、彼女は常に暴力を与える側だった事が分かる。

 

「あたしの事を殴ってみて」

 

「え……なに……?」 

 聞き間違いではないその言葉が理解できた時、急激な悪寒と共に胃が痛んだ。

 命令とは真逆に、今まさに圧倒的な力に脅かされているかのように竣は痺れる左手を胸元に引き寄せて不安な顔で聞き返していた。

 

「生意気でしょう、あたし」

 

「い、いやだ……」

 

「ここを思い切り平手打ちして」

 

「そんなことしたくない」

 殴れと言っている。座っている。そんな相手が恐怖そのものであるかのように竣は左手を抱えたまま後ずさる。

 

「嫌なの」

 

「いやだ」

 

「……なんでも言うことを聞く、って言葉……嫌がることをさせるためにあるんじゃないの?」

 言われて初めて気付いた。この命令は今までで一番嫌がっているのだと。

 何が嬉しくてこの綺麗な顔を傷付けないといけないのだろう。

 だが、嬉しくないやりたくないことだからこそ、その強制的な命令に価値があることは理解できる。

 

「やれ」

 姿勢正しく椅子に座るその姿はこれから男に殴られるというのに自信に満ち溢れている。

 90日間過激なことを遠慮なくしてくる、その代わりその後何されても文句は言えない。

 つまり全てをやり返されることを最初から受け入れているのだとしたら、疑いようのないサディストの華怜の裏側には壊滅的なマゾヒズムが隠れているということに他ならない。

 美しい容姿の一皮剥けばそこはパラフィリアで固められた怪物だ。むしろ今まで理性で抑えていたのを竣と出会って赴くままに解放できるようになってしまったのかもしれない。

 

(いやだ……)

 ずるずると足を引きずりながら華怜の元に進んでいく。

 背中にはYシャツが張り付くほどの汗が流れ、今にも泣き出しそうだった。

 俯いていた顔を上げると、華怜はそんな竣を虫かごの中の昆虫を観察するかのような目で見ていた。

 力仕事を繰り返してゴツゴツとした自分の手を見つめる。コレを華怜に振り下ろす日が来るなんて。

 

「利き手と違う手で顎を持って。そう」

 震える左手で華怜の顎を持ち上げる。座っている彼女を殴るために人形のように軽い顔を摑んでいる筈なのに、どうして震えているのは自分ばかりなのだろう。

 もう冬だというのにもみあげから熱い汗が地面に垂れ、犯罪行為を自首するかのように弱々しく右手をあげる。

 どうしたって、思い切りやれるわけがない。

 

「うあ……」

 頭から血液が完全に失せたかのように、夕陽に染まる赤い華怜の姿が涙で滲む。

 分かっている。こうなるからこそ、この命令には何よりも価値があるということは。

 それでももう右手はまともに動きそうにない。

 

「手加減したら、もうそれまで」

 

「…………!」

 顎を掴む手が汗で滑る。酷い頭痛が体中の油を抜いたかのようだ。

 お願い、怒らないで、しっかりやるから――――幼少期のトラウマの声が、遠くの音楽室から響く『主よ、人の望みの喜びよ』と混じり合い脳細胞を死滅させる。

 きりきりと振り上げた手が華怜の柔らかな頬に向けられた。

 

「やれ!」

 

「うぁあああああああ!!」

 初めてギロチンのボタンを押した死刑執行人はきっとあらゆる残酷な想像を叫んで振り切ったのだろう。

 こうして、必要以上にあらん限りの力を叩きつけたに違いない――――華怜の軽い身体は椅子ごと吹き飛び置きっぱなしにしていたモップとバケツを巻き込んで壁まで転がっていった。

 

「華怜!!」

 

「来るな……!」

 乱れた髪で華怜の表情は見えない。

 今までの人生で触れることも無かったであろう床に両手をついて揺れる身体を支えている。

 竣の右手から発せられる痺れがバッハの旋律と融合し絶望に脱力させた。

 女の子に――――しかも華怜に暴力を振るってしまった、と。

 

「痛っ……」

 面を上げた華怜の頬には大きな紅葉の痕が広がり、唇は切れている。

 指が鼻先を掠めたのか、鼻血が垂れている。せっかく完璧に処置した左手にバケツの汚水が滲んでいるが、脳震盪でそれも分かっていないのかふらふらとしていた。

 男と女でこうまで違うものなのか、まるで大人と子供じゃないか――――トラウマが精巧に脳内で再現され竣の脚までも覚束なくなった。

 たっぷり一分以上の時間をかけて華怜は這いずりながら椅子に戻っていた。竣は、その場から動くことすら出来なかった。

 

「今日生理だし……流石に貧血気味」

 白い手で雑に顔を拭うと初雪を汚すように血が付着した。

 どうして、そんな姿で自信に満ちていられるのだろう。

 

「顔、真っ青だね」

 

「…………」

 華怜を殴った手で顔に触れると、触れたのも分からないくらいに顔から血が引き痺れていた。

 

「はっ」

 ポケットティッシュを小さな鼻に詰めて冷笑した華怜の頬はまだ真っ赤だ。

 何故殴られても綺麗なままでいられるのか。華怜は鮮烈な美しさと共にずっと謎のままだった。きっと永遠に。

 

「ごめん」

 血を綺麗に拭き取り、また新しく包帯を換えている華怜の髪はぐしゃぐしゃだ。

 単にビンタするにしてももっとうまいやり方があったはずなのに。

 謝ってから少し経って、謝る場面ではなかったと気が付く。

 だが華怜はそんな竣の性格を理解しているのかしていないのか、斜め上の事を口にしようとしていた。

 

「髪、触って。強くはダメだよ」

 赤い鼻をしてまたそんなことを言い出すものだから、混乱はあっという間に頂点に達した。

 もう結構な時間華怜と一緒にいるが、未だに理解不能だなんて。

 

「俺の手汚いよ」

 廃棄の弁当をまとめて、油焦げた調理器具を洗い、いっそすがすがしいほどに汚されたトイレを磨いて。

 十代とは思えないほどに汚れた手。そんな汚い物が高級な絹のような髪に触れていいわけなかった。

 

「あたしの気はすぐ変わるよ」

 目の前に出されたお菓子をやっぱやめた、と言われたかのように慌てて前言撤回する。

 汚いなんて、今更そんなことを気にするはずがないのに。

 

「早くしなさい」

 まっすぐと椅子に座っている華怜は顔を赤く腫らしてもなお高貴そのものだ。

 いざ触れるとなると先ほどとは別の意味で動悸が止まらない。 

 顔が熱く、余計なことばかり思い出してしまう。血の気が引いたり血が上ったり、脳の血管までもぼろぼろだろう。

 華怜はそんな竣を見て満足気に笑っていた。

 

(あぁ…………綺麗――――)

 乱れた髪も恐る恐るに触れた指を通すだけで抵抗もなく真っ直ぐになっていく。

 頭皮に近い部分の髪は温かく、艶麗に揺れる髪が魅惑的な芳香を散らしている。

 次の吹奏楽部のコンクールはバッハがテーマとなっているのだろうか。『G線上のアリア』が西に沈む太陽に送られている。

 自分はいつこんな夢と見紛う世界に迷い込んでしまったのだろう。

 

「…………」

 人嫌いの猫が不意に見せた人懐っこい瞬間のように、感情の分からない目を細めてこちらを見てくる。全てが彼岸花のように赤かった。

 右耳のピアスに痛む小指が触れ、ふいに現実に戻った時、華怜にそっと手を払われた。

 

「あたしはほっぺたにキスしてあげたのに、竣は平手打ちなんて酷いと思わない?」

 

「……!!」

 

「今日はよく眠れそう」

 純粋無垢で掛け値なしの紛うことなき十代の少女の笑顔。

 どうしてこんな嗜虐と被虐を内包した怪物になってしまったのだろう。

 もしかすると自分は、とんでもないトリガーを引いてしまったのかもしれない。

 常識良識を剥がせば人間は誰しも怪物――――幼い頃からそれは分かっていたのに、それでもなお竣は混乱に陥るばかりだった。

 

 

 

 竣が何を感じようと華怜はあれで喜んでいた。

 それでも華怜を力の限り殴り飛ばした痺れは未だに右手に残り、このままバイクを運転すれば事故を起こしてしまいそうだった。

 

(すこし家で休もう)

 今日はたこ焼き屋のバイトは無い。

 コンビニバイトまでは時間があるから、一回家で風呂に入るべきだ。

 しっかり流したはずなのに身体中から血のにおいがする。素人の点検しかしてないためにきぃきぃと異音を立てるバイクを押して歩いていると。

 

「!? いっ!? !?」

 ナニカにぶつかってバイクごと転んでしまう。

 そんな馬鹿な。半分上の空で歩いていたとは言え、歩きスマホと違って前を見ていたのに。

 顔を上げるとそこには何も無く、人どころか虫一匹いなかった。

 

「いったい何に……あでっ!?」

 立ち上がり前に進むと額がまたナニカにぶつかる。

 完全透明で目に映らないモノが本当にそこにある。

 

「なんだっ、いったいっ!?」

 自分が違法駐車している普通の何度も通った路地のはずだ。

 なのに手で触れてみると見えない壁がある。まさかまださっきの夢の中から抜け出せていないのか。

 哲学者のように正気を疑いながら目の前の壁を確かめて跪き、地面と壁の境目をなぞろうとすると今度は手が思い切り空振った。

 

「……!? あれ……?」

 そこには何も無かった。本当に何も無かった、いや無くなっていたと言うべきか。

 練習中のパントマイムのように空中に手をかざすが何も無い。だがバイクを見ると硬いところにぶつかったことを示すかのように一部が僅かに凹んでいる。

 夢にしては痛みまでもリアル過ぎる――――ぶつけた鼻っ面を手の甲で擦ると華怜の血のにおいがまだ残っていて、やはりまだ夢のような気がした。

 まだ華怜も竣も、気が付いてはいなかった。地獄の蓋を開いたカオスのパンデミックに。

 

 

*********************************

 

 

 

 最初はコンビニバイトもそこまで嫌じゃなかった。

 というのも、竣を採用した店長が良い意味でも悪い意味でもバイトに無関心な人だったからだ。

 他人に無駄話をされるのが嫌いな竣はその環境が心地よかった。

 

 だがオーナーの意向で前の店長は新しく開くコンビニに飛ばされた。

 新しく入った店長がとにかく最悪だった。

 大学中退してコンビニバイトからの正式採用はまぁいいとして、自分は優秀なはずだと思っており前途ある若者が嫌いで、パワハラ・セクハラ常習犯でバイト全員から嫌われている。

 特に履歴書の家族構成欄から孤児であることを知った竣を事あるごとに徹底的にバカにしてくる。

 度重なるパワハラに、実際気が長いほうじゃない竣はもう限界が近かった。

 

「お前しかいないだろ、どう考えても!!」

 ダンッ、と店長が事務所の机を叩く。

 何故かレジ違算が発生しているらしい。それも三万円という微妙な額だからこそ竣が疑われている。

 無能なのはまだいいにしても無能なことを他人のせいにしないで欲しい。

 

「知らないです」

 

「今どきお前だけなんだよ、給料手渡しなんてよ!!」

 

「盗んでないです……」

 すぐにこれだ。店に何か問題がある度に自分が孤児ということで原因を竣に決めつけて自分のことは棚にあげて脂汗を撒き散らしながら攻撃してくる。

 拳を握ると一昨日華怜に捻挫させられた小指が傷んだ。

 

「だいたいお前――――」

 

「お疲れ様でー……店長、なんスか一体」

 

「じゃあ俺レジ行くんで」

 このバイトに入った時からいる売れないバンドマンが出勤早々激昂した店長に出くわしてしまった。

 店長はこのチャラついたバンドマンも嫌っているし、バンドマンもバンドマンで嫌っている。

 そっとなすりつけて竣は事務所を出た。

 

 

 だが悪いことは重なるもので、どういうことなのかそれと同時に店員を見下すタイプの客も増えたのだ。

 今日も今日とていつものようにクソ客が来る。

 

「マイホのメンソ! カートンで!」

 

「番号でお願いします」

 いつも半ギレのハゲ親父がやってきた。いつも頼んでいるものとは違う。こういう変化球を投げてくるからこそ番号で言ってほしいのに。

 よれよれのスーツに汗ジミの出来たYシャツ、この時間に帰宅とは恐れ入るがそのストレスを店員にぶつけないで欲しい。

 

「いつものだろうが!!」

 

「番号で」

 いつもと違うじゃねえか、とは言わない。だが死んだ魚の眼の下では既に燃えるような怒りがある。

 こんないかにも社会に絞られるほどに使い倒されている人間にも見下されるほどの――――最底辺ってことか、という怒り。

 

「これだ! 使えねえなテメエは」

 店長が後ろから突き飛ばすようにカートンを背中に突き付けてくる。

 こめかみがひくひくと動く。お前は獣だ――――華怜の言葉とあの日見た本当の自分が脳内に蘇る。

 いつまで、いつまでこんなギリギリ人間でいられているような屑達に見下されながらはした金を稼がなければならないのだろう。

 成人雑誌コーナーの前にいる手脚どちらもない車椅子に乗った女性にまで笑われた。 

 最近の車椅子は随分進化したんだな、なんて感心する余裕もない。

 

「しょうがねえ×××が」

 店長が自分にだけ聞こえる声で超えてはいけない一線を踏みにじった。

 この店長がどういう人間か、経歴も全て知っている。でもそれを口に出して愚弄したことがあったか?

 人間以下は人間以下らしく、獣らしく生きているだけだと言うのに――――いつかは来ると思っていた限界は真っ赤な視界と共に訪れ、気付けば店長を締め上げていた。

 

「盗ってねえって言ってんだろうがァアア――――ッ!! なんでこんなケチくさい金盗んなきゃなんねぇんだァアア――――ッ!!」

 両手で思い切り締め上げた店長の襟からボタンがブチブチと外れ締まった首に太い血管が浮き上がる。

 苦しいのかクリームパンのような手でタップしてくるが無視して小さい体を持ち上げるとドブのような口臭が漂ってきて更に苛立ちが募る。

 ハゲ親父が転がるようにして店外に逃げていった。

 

「やめろ宗像!!」

 制服に着替えたバイトリーダーのバンドマンが竣を店長から引き剥がす。

 だがもう遅い。両者の溝は完全に明らかになり最早修復不可能となった。

 

「店長も! ちょっと酷いじゃないっスか! こいつもう2年近く働いているんスよ! やるならもっと前にやりますよ!」

 今までほとんど口を利いたことも無かったのに意外にもバンドマンはかばってくれている。

 面倒事を避けたい一心かもしれないが。

 

「髪をいきなりそんなんにしたのも店の金盗って消えようと考えてるからだろ!!」

 

「もっかい数えろよ!! 自分の無能を人に擦り付けんな!!」

 

「店長! 宗像やめろ!! 殴ったら終わりだぞ!!」

 

「はんっ、そいつ頼れる人間もいねえで一人で生きているんだからいつ金に困ったっておかしくないだろ」

 

「てめぇ!! ぶっ殺してやる!!」

 外からサイレンの音が聞こえる。ここから歩いて五分のところに交番があるのだった。

 ああ、とうとう自分も警察に世話になる身になってしまったのか。

 分かっている。あの豚ヤクザの言う通り半グレの親無し子で、こんな奴にも見下されるくらいには未来の無い存在だ。

 それでも生きている。生まれた時からほとんど何も無かった中で、他の人間がポイ捨てするような塵芥をありがたがってかき集めて自分の人生を生きている。

 バイトリーダーに押さえつけられている竣を今も店長が安全圏から罵倒し、入り口から警官が入ってきた。

 予想通りに、当然に絶望が未来に待ち受けている人生。それでも、それでもこんな人生を精一杯生きているのはきっといつか自分にしか手に入れられないものをこの手に抱きしめる為だった。

 たとえこんなブタしか無いカードの人生でも――――

 

「俺はお前に馬鹿にされるために生きているんじゃない!!」

 

 

 

 

 

 バイトはクビになった。

 警察に事務所で事情聴取をされ、お互いに原因があったということでブタ箱にぶち込まれるようなことにはならなかった。

 ちなみに売上の計算が間違っていたのはボロのレジの奥に万札二枚が引っかかっていたのと店長の計算ミスだったらしい。

 それでも店長は謝らなかったし、もう自分があそこで働けないことは明らかだった。

 結局竣にできたのは、今日までのバイト代を日割りでそのまま貰うことだけ。

 傷付いたプライドも、明日からの生活ももう滅茶苦茶だった。

 

「…………」

 貯金残高、未来、心、全てが身体中を腐らせていく。廃棄の弁当もかっぱらえないから明日からの飯すらも困る。

 電気も付けないで部屋の中一人、頭を抱えながら体育座りをして何も浮かんでこない頭で考え込む。

 

「………………」

 あんなもん全部はいはい、って聞き流してりゃよかったんだ。

 あるいはどうせクビになるんならそれこそ半殺しにしておけばよかったんだ。

 終わったことがいつまでも空回りする頭を勢いで持ち上げると壁に後頭部をぶつけた。

 

「っ…………」

 ぶつけた部分を押さえたまま壁にずるずると音を立てながら横になる。

 生きるために最も必要な心のエネルギーが完全に切れて、『痛え』と言うことも出来なかった。

 このままでは本当に元店長にキレたのが蝋燭の最後の輝きになりそうだった。

 

(…………? 俺は……何を……)

 気が付けばどうしてか華怜に電話をかけていた。

 今まで自分からなんてメールすらも送ったことはないのに、自分で何をしているのかもよくわかっていなかった。

 

『なに? いきなり』

 僅か3コールでいつもの刺々しい声が電話口から返ってくる。

 どうしてか、それだけで燃料が少しずつ戻ってくる。

 

「俺……バイト、クビになっちゃって……」

 

『は? それだけで電話かけてきたの?』

 

「……うん」

 死にそうな声で何かが伝わったのか、しょうがないなと聞こえてきそうなほどの溜息が届く。

 呆れられてはいても嫌がられてはいないようだ。

 

『お風呂入ったばっかりなのに……うち分かるでしょ?』

 

「分かるよ」

 霊九守邸なんてもうインターネットで調べれば一番上に出るくらいには有名だ。

 脳が死んでいたので、家に来いと言われていることに数秒遅れて気づく。

 

『家の前に公園あるから急いで来なさい』

 

「…………」

 ぶつっ、と雑に切られたがそれは華怜も急いで支度をするからだろう。

 さっきまでは座ることすらもままならなかったのに、まだ夕飯すらも食べていないのに、すくっと真っ直ぐに立ち上がることが出来た。

 たぶん、きっと。頑張れとかドンマイとか、そんな言葉は貰えない。

 でもそれでいい。自分にしか手に入れられないものは、たとえゴミみたいなバイトをやめたところでもう目の前にあるのだから。

 

 

 

 いつの間にこんなに冬が侵略してきたのだろう。

 バイクでやや速度違反しながら来たせいもあるかもしれないが、霊九守邸前の公園は異常な冷え込みだった。

 朝から何も食べていないこともあって体温低下にガタガタ震えていると白い光が見えた。

 

「死にそうな顔」

 ゴン太を抱えた華怜だった。明らかに赤ん坊の大きさだったのに本当にちょっと見ない間にかなり大きくなっている。前までは片手で抱えられたのに今では両腕でも余るくらいだ。

 白い光はゴン太の毛皮に反射した街灯だった。成長期なのか、こんな寒さの中でもぐうすかと寝ている。

 

「華怜……」

 

「ほら、そこで買ったから飲みなさい」

 

「……ありがとう」

 温かい缶のココアを胸に押し付けられる。

 小さい頃に食べたくても食べられなかった反動から、竣はもうしばらくすれば18になるというのに甘いものが好きで好きでしょうがない。

 きっと好物だということを、天体観測の日に覚えられたのだろう。

 自分の好物を華怜が覚えてくれている――――ただそれだけで身体が温まるかのようだった。

 

「話しなさい。ちょっとだけなら聴いてあげる」

 

「勢いでムカつく店長締め上げちゃって、そうしたらクビになった」

 

「……そんなことで? 呆れた、あんた小学生の頃から進歩してないのね」

 本当に一息でしか話してないのに、華怜はどうして竣が怒ったのかまでも見抜いて小学生の頃の話を出したのだろう。

 まったくその通りだと、情けない自分を華怜にさらけ出して竣は笑ってしまった。

 

「……どうして、あたしに電話を?」

 目が覚めたゴン太を華怜が降ろす。

 かなり懐いているのか、首輪すらも付けていないのに華怜から離れる素振りも見せずに今更竣がいることに気付いて大あくびした。

 なんて肝の座った動物なんだろう。

 

「やめちまったら……もうほとんど何もなくて。頼れる人もいなくて。そしたら急にひとりぼっちなのが怖くなって――――」

 認識できたのは華怜が腕を肩の可動限界まで振り上げていたところまでだった。

 次の瞬間には、お返しとばかりに強烈なビンタが突き刺さり竣はココアごと公園の地面を三回転していた。

 

「あっっぢ! あぢっ!!」

 両手にモロに被ったココアをズボンではたくという愚行をしている竣を華怜は仁王立ちしてただ見下ろしている。

 この為にゴン太を降ろしたのか。

 

「孤独結構! 孤高に生きなさい」

 圧倒的に白銀の月光の下、華怜はそれこそ孤高に胸を張って誇り高く立っていた。

 その言葉はまさしく華怜そのものだった。

 

(綺麗――――)

 他を断絶した絶景、全てを捧げるほどの人間性、世界をひっくり返すほどの財宝。

 そんなものを目の前にした人間の脳は不思議なもので、その時の状況も身体の状態も忘れてただ感動に打ちひしがれ魅入ってしまう。

 熱々のココアを被った手も頬の痛みも全て忘れて、独り立つ華怜に見惚れていた。

 ゴン太が慰めるように竣の手を舐めるまで意識はこの世界から遠く離れた場所にあった。

 

「とはいえ。あんたにはあたしがいるでしょ」

 

「……ありがとう。元気出た。バイトはまた探せばいいや。ゴン太もありがとうな」

 よく見ると慰めているのでなく、手に付いたココアを舐めているだけだった。

 食い意地の張った狐だ。よくブラシを入れられているのか、つやつやの頭を撫でようとした時におかしなことに気が付く。

 

「……? なんか尻尾が二本ある?」

 機嫌不機嫌は分からないがパタつかせている白い尻尾がどう見ても二本あるのだ。

 自分のことを言われていることに気が付いているのか、ゴン太は目やにを溜めた目を何度もしばたかせながら耳をピコピコと動かしている。

 

「そうなのよね。最初にお風呂に入れる時に気付いたけど」

 

(そうだったっけ……?)

 最初にゴン太と遭遇した時も尻尾は二本だっただろうか。

 猫又なんていうのは簡単な話で、人間の多指症と同じく奇形だったりあるいは幼い頃に怪我をして裂けた尻尾がそのまま伸びただけなのだ。

 だとするとゴン太も元々そうなのだろうか。思い出そうにも、あの時はかなり暗かったので尻尾まで見えなかった気がする。

 

「寝る」

 人間の言葉がかなり分かるのか、ゴン太はその一言で華怜の元に駆け寄っていく。

 まぁ考えたところでどうかなるものでないだろう。

 

「おやすみ」

 今更になって頬の痛みがひりひりとしてきた。

 きっと今日は遅くまで眠れないだろう。だがそれでいい気がした。布団の上の夜更かしはきっと若者の特権なのだから。

 その晩はバイクのマフラーから響く音までもが軽く、雲一つ無い夜空を突き破っていった。

 バイトをクビになった日なのに、世界が美しく見えた。

 

 

 

 

****************************************

 

 

 どんなことをするのであれ、自分に見せる飾らない華怜は綺麗そのもので、だからこそ痛みも苦しみもなんてことなかった。

 それでいいと思う。華怜がずっと笑って、綺麗でいられるのなら。そう思うからこそ理解できないこともあった。

 

(またあんなことしてる)

 朝登校してきた時には既にその状態だったからいつそんなことをしたのかは知らない。

 いつだかに自分が助け出した女子生徒への陰湿ないじめ行為は、その日から一週間くらいは止んでいたがいつの間にかまた始まっていた。

 女子生徒の机の上に雑に置かれた体育着は墨汁をぶち撒けられ黒く染まっている。

 基本的に快活で全員が仲の良い男子達も、いったんそれが始まると地蔵のように表情を固めて黙ったまま俯いて携帯をいじりだす。

 関わりたくない、関わってはいけないと分かっているからだ。

 

(やめればいいのに、あんなこと)

 女子生徒が教室に入ってきて、机の惨状に気づく。

 唇を噛み締めながら体育着をしまい、泣きながら机を拭いている。

 声を上げないのは誰に言っても解決できない問題だからだ。

 ウケる、あの顔見た――?

 小さな囁き声が異様に静かな教室に反響する。

 取り巻きたちがクスクスと笑う中で、華怜は完全に無表情だった。

 自分に見せるものとまったく違う顔。鉄のように冷たく動かない凍りついた感情。

 楽しんでいないのは分かる。楽しくないなら、意味ないと思っているならやめてしまえばいい。

 

(綺麗なのに、綺麗じゃない)

 竣の机の上にあるバイト求人誌はあの日綺麗な華怜がいなければそこになかった。

 これは物凄く自分勝手なわがままなのだとは分かっている。

 だがどうしても、綺麗な華怜にはずっと綺麗なままでいてほしかった。

 

 だからこそ、そこまで考えているならもう少し華怜に歩み寄って考えてみればよかったのに。

 華怜は何を思っているか、華怜は自分のことをどう考えているのかと。

 

「いま、なんて言った?」

 ぼっ、と音がしたと思ってしまうほどに華怜の瞳に火が灯る。

 今日も教室に残れと言ったからには何かをするつもりだったのだろう。

 

「あんなことやめたほうがいい」

 

「そんなにあの子のことが気になるわけ?」

 知っている。どんなに威圧感があってもこの身体は見た目以上に華奢で、平手打ち一発で倒れて動けなくなるほどに弱い女の子なのだと。

 だがそれでも蛇に睨まれた蛙のように心が縮み上がる。

 

「違う。別にあんなヤツどうでもいい」

 

「じゃあどうしてあんたはそんなことを言い出したのか、納得の行く説明をしてもらおうじゃない」

 言葉を間違えば丸呑みにする。そう思えるほどの灼熱が華怜の目の奥にある。

 良識や常識なんかに訴えるつもりはない。ただ華怜自身も知っていることに訴えるだけなのだから、きっと間違っていないはずだ。

 怯える心を奮い立たせて竣は口を開いた。

 

「あんなことしてる華怜は綺麗じゃない」

 それは活火山の噴火にも似ていた。

 カーッ、と一気に顔を赤くした華怜はその場で数度床を砕かんばかりに地団駄を踏んだ後、大股で教室を出て行った。

 

(間違えた……?)

 自分が美しいことを言うまでもなく知っているはず。だからその美しさを損なうことをしない方がいいと、それだけだったのに。

 華怜は普段金属のように保っている冷静さを完全に失うほどに激怒していた。

 間違ったことは言っていない自信はあるのに――――竣が追いかけようとした時、華怜は戻ってきた。その手にバケツを持って。

 次の瞬間には、バケツにたっぷり入っていた水が眼前に迫っていた。

 

「あ゙ッ!?」 

 氷直前の冬の水は確かに冷たかった。

 だがそれだけで声を上げたのでない。怒りに任せて投げつけられたバケツが右目にクリティカルヒットしたのだ。

 

「死ね!!!」

 ずぶ濡れの竣に華怜が投げつけてきたのは竣があげたピアスだった。

 言葉にもならない怒りはそこに全て表れている。

 間違えた――――それも一番いけない間違い方をしてしまった。

 たった一言でこれまでの関係をも終わりにさせてしまうほどの間違いを犯してしまったのだ。

 感情が凍りついた竣の目に映るのは、同じく絶望しているようにも見える華怜の顔。

 歯をぎりぎりと食いしばって言いたいことを飲み込むかのように頭を横に振った華怜は鞄を持って外に走っていってしまう。

 竣にはそれを追う元気も、気力も無かった。

 

 

 

 どうして、何を間違えたのだろう。

 孤高に咲く華怜は美しかった。あんな有象無象と群れて弱い者をいたぶるなどそんな美しさと真逆にあるはずだ。宝石のような美しさに泥をぶっかけるような愚行だ。

 ただそれを言いたかっただけなのに、伝わらなかったのか。

 保健室で貰った眼帯に真っ赤に腫れた右目を塞がれて、距離感を間違えて下駄箱にぶつかる。

 

(寒い……)

 雪でも降るのだろうか。

 重く迫ってくるような雲が、ジャージを着ている竣にのしかかる。

 玄関口にあるゴミ箱にバイト求人誌を叩き込む。もうバイトを探す気力もなかった。

 明日からどうやって生きていけばいいんだろう。今になって分かった。華怜との関係こそが自分がこの世界で生きる理由そのものだったと。

 足をうまく上げることも出来ず、ずりずりと砂に跡を残しながら俯いて校門に向かう。

 これ以上何かショックを与えられたら即死しそうだった。

 歩く死者のまま校門を通り抜けた時、袖が何かに引っかかった。これ以上俺の心の燃料を使わせないで――――

 

「竣……」

 竣の袖を遠慮がちに摘んでいる華怜がいた。

 その萎縮しきった表情は言うまでもなく、先程の衝動的な行為に対する心の表れだろう。

 悪いのは俺だからそんな顔しないで――――と言うよりも先に、この寒風の中で30分以上自分を待っていてくれたという事実に心がついて行けなかった。

 

「ごめんなさい。死ねなんて嘘。痛かった?」

 あの華怜が謝っている。痛いことなんてもっとしているのに、たかがこんな事で。

 それくらいには、自分の行いは悪いことだったと思っているのだろう。そんな普通の感性があるなら、どうして普通に生きられないのだろうとも考えてしまう。

 

「……うん。大丈夫」

 きっと生まれて初めて謝ったんじゃないか。そう思うほどに華怜は不器用にもう一度、ごめんねと呟いた。

 謝られるだけで心が痛むなんて初めての経験だった。

 

「竣の言っていることね、正しいと思うよ」

 

「そんな、華怜そんなこと……」

 

「……。あたしが今まで、誰かを蹴ったり殴ったり、嘲ったりしたところ……見たことある?」

 

「え……?」

 どちらともなく、二人の二輪車が止めてある場所へ歩き出す。

 今更なんだその質問は、と答える前に不意に違和感が湧き上がってくる。

 華怜はいつもその場の中心にいただけだ。何も言っていない、何もしていない。笑ってすらもいなかった。

 誰もが中心人物、主犯だと思ってはいるが実際に何かをして嘲笑しているのはいつも周りの少女たちだった。

 

「そうでしょう?」

 

「どうしてそんなことに」

 

「物心ついたときからそう。あたしの周りいつもああなるの」

 ああなる。そうするつもりはなくてもそうなる、と言っているのだ。

 とてもではないが理解できない。

 

「なんで?」

 

「集団に入った瞬間から畏れ敬われる。霊九守の名前がそうさせる。生徒も、教師も……きっと本能ね。ここに丁度よい生贄を用意しました、だから自分のことは狙わないでって……女王への供物」

 到底敵わない捕食者に追われた動物は生贄を差し出す。老いた個体や弱い子供、時には自分の産んだ卵まで。

 動物にとってはまず何よりも自分の命が優先なのだ。

 こんな行動を繰り返す人間のどこが知的生物と言えるのだろう。

 

「俺が間違えてた。ごめん」

 

「もう、いい」

 ふっ、と華怜に目を逸らされてしまう。怒ってはいない。

 だが今までで一番深く華怜を傷付けてしまったと理解した。自分は間違いなく華怜の世界一の理解者のはずなのに、そんな単純なことも見抜けずに周りの人間と同じく色眼鏡を通して華怜を見てしまっていたのだ。

 あの突発的な噴火のような怒りは、分かってくれていると思っていたのに、という華怜らしからぬ不器用なややこのような怒りだったのだ。

 竣が歩みを止めても、華怜は竣が止まったことに気付いたのに歩いていってしまった。

 自分は華怜の信頼をも裏切ってしまったのだ。何もかも上手くいかない。悪いことは本当に重なる。少し持ち上げて落とすから最悪だ。

 明日明後日とせっかくの休日なのに、どこかに行く気すらも起きない――――罪を覆い隠すような雪が降ってきた。

 

 

 

******************************************

 

 

 偶然良いことが重なるなんて無いのに、悪いことは万分の1の確率をも超えて重なる。

 それがいつ終わるかは分からない。だからいま自分は悪い流れにいると知った時、あがくことよりも覚悟を決めて耐えることのほうが大事だ。

 万年床の上でラジカセから適当に曲を流し続けて微睡んでいた竣は不意に目が覚めた。

 

「……?」

 まるで世界が巨大な心臓の内側にあるかのように、透明ながらも強大な鼓動の波がどくんどくんと伝わってくる。

 窓の外を見ても降りしきる雪が映るばかりで何も異変はなかった。

 いま感じた感覚が本物ならば外から騒ぎが聞こえてもおかしくないのに。

 

(気のせいか?)

 耳を澄ませようとしたが、あれは聴覚に訴えかけるような感覚ではなかった。

 もっと、なんというか魂を呼び起こすような――――少なくともいま聞こえた携帯の音は気のせいではなかった。

 

『駅前に買い物に行きたいからついてきて』

 何事もなかったかのように華怜からメールが来ていた。

 よくある命令だ。それでも夜の繁華街は寄ってくる馬鹿が多いから盾になれ、と。

 待ち合わせ場所をわざわざ書かなくてもどこで待っているか分かるくらいには、何度もあったことだった。

 

(何事もなく……は俺の願望だ)

 そんなはずはない。普通の人間も、普通でない人間もただの買い物くらいならこの雪の中に出ていこうとはしないだろう。

 華怜は華怜で気にして悩んで、また呼びつけたのだ。

 まだ華怜と一緒にいられる。手の中に握っていたピアスが喜ぶかのように震える。

 それでも華怜の心を不要に傷付けてしまったのは心残りだ。もう一度ちゃんと謝ろう。

 普段の癖でバイクのキーを持って飛び出した竣は、一秒後に傘と持ち替えて再び夜の街へと飛び出していった。

 

 

 

 

 細雪がちらついている程度とはいえ、こんな中で工事をしているとは頭が下がる。

 バイクに乗っているときなら舌打ちの一つも出ようものだが、今日は徒歩だ。

 明るく照らされた工事現場を避けて駅前繁華街である表町と裏町を繋ぐ路地に入る。

 

(もう来ているかな)

 携帯を開くがまだ何も連絡は入っていない。

 華怜の性格的に一分でも待たされた時点で怒りの言葉が飛んでくるから、まだ着いてはいないのだろう。

 竣も分かっているし華怜も認めていることだが、生まれた場所や育った環境は違えど自分たちは似た者同士だ。

 だから、待ち合わせ場所に辿り着く前にぱったりと会ってしまうことも多々あった。

 急ぐ必要はないかも――――じゃくじゃくと反響する雪を踏む音の速度が落ちた時だった。

 

「あっ」

 

「おい、気を付けろよ」

 やや横に広がって歩いている集団にぶつかってしまい携帯を雪の上に落としてしまう。

 片目の上に暗い路地裏で歩きスマホなんてこうなって当然だ。浸水して壊れていないか心配だ。

 だが意外にも竣が拾う前に、ぶつかった相手の方が拾ってくれた。

 

「ちゃんと前を見――――」

 キィーン、と。また魂と頭が激しく揺さぶられる感覚が夜の帳を突き破って竣の耳に届く。

 そのせいか、親切にも携帯を拾ってくれた男の声がちゃんと聞こえなかった。

 

「すいませ…………!!」

 体育会系出身なのだろうか、酒臭くガタイのいいサラリーマン三人組。

 ただ、違うのは――――どうりで男の声が聞こえないワケだ。

 竣に携帯を差し出している男の頭は、何をどう見ても声など発せるはずもない巨大なゴキブリの頭だった。

 ゆらゆらと揺れる頭部で感情を感じさせない眼が鈍く光り、地面に届くほどの触手が伸びている。

 受け取ろうとした携帯の上で触れた指までも茶色い虫の脚の形をしていることに気が付き、また携帯を落とした。

 

「――――! ――――!!」

 

「うぁああっ、こっち来んなっ、バケモン!」

 怒っているのか、きっと人間には聞こえない鳴き声を出しているゴキブリ人間から遠ざかろうと本能的に腕を振り、後ろにあった中華飯店のゴミ箱をぶちまける。

 半分腐った生ゴミが男のスーツにかかり、顔色は分からずとも激昂しているのが分かった。

 

(なんだこいつら!?)

 真ん中の奴だけ明らかに人間ではないが、不思議なことに残りの二人はまともに見えるのに怪物になった男に反応しないで、竣の胸ぐらを掴む男を囃し立てているのだ。

 仲間だとするなら、この二人も変身でもするのだろうか――――その思考は、竣の首元を掴んでいる茶色い脚に生えた毛を間近に見てしまい遮断された。

 

「ぐっ!!」

 細く見えるのに強烈なパンチが竣の身体を濡れた地面に転がす。

 頬が生暖かい。出血している。あの昆虫の脚に生えた毛はひっかき傷ももたらすらしい――――なんて考える暇もなく、まだ小指も治っていない竣の左手が思い切り踏まれた。

 

「ヤクでもやってんのかクソガキ」

 

「…………!?」

 酔っていて加減を知らないのか。今の痛みは骨までいっているかもしれない。

 だがその痛みも吹き飛ぶほどの衝撃が視界から飛び込んでくる。

 今の今まで怪物だった男が、普通の人間に戻っているのだ。他の二人のサラリーマンはゲラゲラとアルコールに目を回しながら笑っている。

 右手で頬に触れると、確かにひっかき傷から血が出ているのに――――さらに頬に何か液体がかかった。

 

「目上を敬わねえからな、最近の子供は」

 頬の傷口にちょうど当たった酒臭いその液体が唾であると分かると同時に、急激な心臓の加速が竣の視界を収縮させた。

 竣は耐える生活をしてはいるが、決して気の長い方ではない。

 

「ちくしょう、てめぇ、俺は」

 自分の頭がおかしくなってしまったのか、世界がおかしいのか、華怜は今どこなのか。全てが頭から吹っ飛び屈辱と怒りだけが残った。

 例えるならそれはもう、獣の憤怒のようで――――

 

「バイトもやめちまったんだぞ!!」

 自分でも何を言っているのか分からぬまま、右腕を振りかぶる。

 どうせこの体勢じゃ大した威力にならないことは分かっていても一矢報いずにはいられなかった。

 ただそれだけしか考えていなかったのに。

 

「痛がぁ!?」

 男の脚に三本の線が表れ、そこから雨のように大量に出血が起こる。

 目をまん丸くして見た右腕に、正常であるはずの自分の腕に灰色の毛が生え長い爪が脚を切り裂いていたのだ。

 と、認識できたのも束の間。瞬き一回の時間で竣の腕は普通に戻っており――――

 

「――――!! ――――!!」

 男は脚から血を流したまま、またゴキブリ人間になっていた。

 本当に一体どうしてしまったのだろう。

 つまみ食いしたたこ焼きの中に高島が間違えて入れた麻薬でも入っていたのだろうか。

 だが徐々に混乱は無くなっていた。恐怖は打ち勝てない物にこそ起こる。

 バケモノだろうが人間だろうが、大人だろうが自分の手による攻撃で痛がっているならそれで十分だ。

 だんだんと粒の大きくなってきた雪が沸騰していた竣の頭を冷やしていく。

 

「てめぇ、キモい見た目だけで勝てると思うなよ」

 立ち上がり痛む左腕をかばうために右肩を前にして拳を握る。

 これでも最悪な環境の中で生き残ってきた。力仕事もしてきたし、喧嘩には自信のある方だ。

 

「ゴミ箱にたたっこんで――――」

 喧嘩口上を言い終わる前にサラリーマン二号に背中から蹴られていた。

 なんて卑怯な野郎共だ――――と思ったが目の前でコイツがバケモノになったこと以外はよく考えなくても最初から最後まで全部自分が悪い。

 もう一度、かなりいい角度で竣の顎にパンチが入った。

 

(くそっ、俺は獣じゃねえのか)

 後ろから蹴り込んできたサラリーマンに羽交い締めにされ、前から思い切り腹を蹴られ胃液を吐く。右腕で防いだつもりでも虫の力ゆえか威力が貫通してきた。

 頭が痺れてくる。さっきの幻はなんだったというんだ。せっかく勢いよく勝てそうだったのに。

 悪いことは重なるとはいえ、こんな意味不明なことまで流星群のように降り注ぐなんて――――この世界は大人みたいに理不尽だ。

 竣が覚えているのはそこまでで、ストレス発散にしては派手すぎるパンチをもう二発ほど顎に貰う頃には気を失っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちかちかと薄く開いた瞼から光が入ってくる。

 目を閉じてもう一眠りしようにも寒すぎる。寝返りをうつと、どこからちゃりっと心地よい金属の音が聞こえた。

 それに混じって華怜の声も聞こえる気がする。もう一度、金属の音が聞こえて我に返った。

 

(そうだ、ピアス! 返さないと!)

 ポケットの中のピアスが擦れて音を出したのだ。

 寒いはずだ、雪の中で寝ていれば。どんどんと頭が冴え、待ち合わせしていたこと、訳の分からないバケモノに絡まれて殴り倒されたことも思い出し目を開いた。

 

「なにしてるのよ、あんたたち!」

 

「まぁまぁまぁ、いいから、なんでもないから」

 

「大丈夫、大丈夫。あれ彼、ほら、友達だから。酔って寝ちゃったんだよ」

 

(華怜!)

 道端でぱったり出くわすかも、なんてここに来る前に考えていたがやっぱりだ。同じ道を通ってきたんだろう。

 そして偶然にも情けないことに殴り倒された自分を見つけて、酔っ払ったサラリーマンに絡まれていると。

 どんどん悪いことばかり呼び寄せやがる、自分の人生は。

 

「それよりもダメだよ~、こんな時間に一人で歩いてちゃ。ね、タクシーいま呼んであげるからさ」

 

「離しなさい、離せ!」

 

「ぅ……ぐ……」

 腕に力を入れて立ち上がろうとしたが両手とも真っ赤に腫れている。

 だが、自分の腕をこうした犯人はもう人間に戻っており華怜に巻き付くように抱きついていた。

 他の二人もラッキーだと思っていることが丸わかりな表情で手を撫でるように握ったり肩に触れたりしている。

 絶対に殺す――――酒で酔っていました、覚えてません、なんて許さない。

 だが人生でも頂点に入る怒りだというのに、今すぐにでもあの三人を殺し華怜を抱えて夜の街を飛び越えたいのに、先程のように変身することは出来なかった。

 

 

 ただ、華怜と目が合った。

 なぜだろう。視線が合う、それだけなのに。

 華怜が次に何をするか分かってしまった。

 

「……あんた達……あたしは――――」

 なんて情けない。華怜はいま、プライドを捨てようとしている。こんな野良犬の自分を助けるために。突然襲いかかった不運にすら対応できない弱虫の自分なんかのために。

 似た者同士じゃないか俺たちは。世界が嫌いなんだろう。生きたくてこんな場所で生きているわけじゃないんだろう。

 この街を飛び出したくて、でもそれが出来ないからせめて夢を見てみようとしたんじゃないか。

 それでいい。現実なんか見るもんか。現実なんか知るもんか。世界が俺たちを見捨てるってんだから、俺たちの方から世界を見捨ててやるんだ。

 だからお願い――――

 

「名前を言うな!!」

 誰かに言葉を届けるために叫んだのは、ひょっとしたら生まれて初めてかもしれない。

 人生最初の叫びは、神にも祈らない竣の絶叫は、狼の遠吠えのように雲を突き破り月に、華怜に届く。

 ここから状況を好転させる方法なんて知らない。それは華怜も分かっている。だがそれでも、華怜は力強く頷いた。

 

「おぉい、なんだぁ、何してんだあんたら!」

 天からの使いはなまった声の汗臭そうなおじさんだった。

 すぐ近くで工事をしていた作業員達が、竣の叫びを聞いて様子を見に来たのだ。

 慌ててサラリーマンが華怜から手を離す。

 それだけを見届けて、体力を使い果たした竣は今度こそ完全に気絶したのだった。

 

 

 

 

****************************

 

 

 羽田空港からフライトしたSL0388便はシドニーに向けて飛んでいく。

 視界は良好、特に何の問題も無いいつも通りの空の旅だった。

 

「うっ……くっ……ぐっ」

 

「機長? どうかされましたか?」

 苦しげな声を上げる機長に副操縦士は思わず声をかける。

 脈動する世界の衝撃が二人の、乗客の魂を呼び起こす。

 

「ぶっ、ふふぶぶ……」

 またか、と副操縦士は呟いた。

 機長の顔色が灰色を通り越して黒くなり鼻がどんどん伸びていく。

 あっという間に機長は夢を喰らう化物、獏に成り果てた。

 

「これじゃあこの飛行機は――――」

 『は』の形のまま固定された副操縦士の口から滑った何かが飛び出す。

 際限なく飛び出すそれはすぐに副操縦士の体格以上となり操縦室を埋め尽くす。

 目から、鼻から、口から出てくる半固形のその生物は超巨大なナメクジだった。

 質量保存の法則が夢であるかのように飛び出し続けたナメクジはやがて扉をぶち破り、同じく悪夢に取り込まれ変身していく乗客を飲み込み窓を割り、飛行機全体を包み込む。

 コントロールを失ったSL0388便は突如として表れた金色のスーパーセルに突っ込み、そのまま太平洋に墜落した。

 このまま行けば近年稀に見る、原因不明の飛行機事故――――になるはずだった。

 

 飛行機の墜落した海が逆巻き輝く。

 そのまま海水を退けて炎の渦が天を貫いた。

 即死した数十の命は混じり合い、転生し、巨大な火の鳥となり旅客機よりもずっと速くシドニーへと飛んでいった。

 

 

 

 

 アメリカ、ルイジアナ州では異様な大きさの満月が観測された。

 しかしその異常気象を騒ぐ人間はもういなかった。

 州の外れの貧しい農家の軒下の地面が盛り上がる。

 かつて人間が見せた差別意識の極地、白い悪夢を纏った人間が蘇ったのだ。

 軒下だけでなく、湖から、冷蔵庫から、墓から飛び出し鍬や鎌を死人のような手で握る。

 人間の声とは思えない叫びが一体となり向かった先の木では、脳の肥大化した人間のような何かが奇妙な果実のようにぶら下がっている。

 白装束の非人間たちが一斉に木に括り付けられた人間もどきに噛みつき血を啜り始めた。

 ルイジアナは一晩にして、朝も夜もないヴァンパイア・エンパイアと化していた。

 

 

 浮かび上がったエッフェル塔が核ミサイルのようにロシアに飛んでいく。

 ソマリアの海賊の歌が島よりも大きな烏賊を召喚する。

 鮮やかなターミネーションが全てを奪い去っていく。

 竣と華怜が虚を空けた世界が。

 

 

「…………」

 何かとても悪い夢を見ていた気がする。

 10時間たっぷり寝たときのように、目はぱっちりと覚めて竣は現実に帰還した。

 両腕に包帯が巻かれ、顎が固定されている理由も、ここが病院であることも直ぐに分かるくらいには頭が冴えていた。

 

「本当に、親いないんだね」

 私服姿の華怜がベッドの隣で林檎の皮を剥いていた。

 時計を見ると、4時を回ったくらいだ。日付も表示されている。

 どうも一日ほど気を失ってしまっていたようだ。

 

「うん。いない」

 

「……あんなのでも親っていた方がいいのかな」

 

「俺に訊かないで」

 林檎を切り終わった華怜がナイフと皿を置く。

 あのナイフ、あんな使い方も出来るんだなぁとおかしな感想しか出ない。

 かなり固められて動かない手でなんとかポケットを漁る。入院するような傷ではないから服は着替えさせられてはいないようだ。

 壁にかけられたジャンパーも汚れた跡はあるものの一応は綺麗に拭かれている。

 目当てのものをなんとか取り出した竣は、痛む顎を動かすことも出来ず無言で華怜に差し出す。

 中学生の自分には大出血だった流れ星のピアスを黙って受け取った華怜は、それが完璧な角度だと知っているかのように首を傾げて微笑む。

 見惚れている間に魔法使いのような白い手が耳に一等星を輝かせていた。

 

「喉乾いた?」

 

「乾いたかも」

 ベッドの上で十数時間じっとしていた割には言われるまで、水分を欲してすらいなかった。

 正直今も喉自体はあまり乾いていないが、華怜が髪で耳を隠してしまったのはきっと恥ずかしくて話を逸したかったのだろう。

 テレビの横に置いてあったレモンティーのペットボトルを華怜が手にしたので受け取ろうとすると拒否された。

 

「持てないでしょう」

 キャップを外して口元に近づけてくる。こんなにも誰かに優しくされたのは本当に初めてなので、感動でなにも言えなかった。

 久しぶりのぬるい水分が身体に染み渡っていく時に、気が付いてしまう。

 

「これ、華怜の……」

 

「それがどうしたの?」

 嫌じゃないのか、という言葉はペットボトルを飲み干した華怜を見て喉の奥に引っ込んでしまった。

 今度は自分が恥ずかしさから話題を変える番だった。

 

「なんか俺さ、いやちょっとおかしくなったのかもしれないけど……変なバケモンを――――」

 話題を変えるも何も、全てに優先して話すべきことだろう。未だに頬のひっかき傷はあるのだから決して夢ではない。

 だが華怜は言いたいことは全て分かっているかのように己の唇に人差し指を当ててテレビを付けた。

 

『太平洋に消えたSL0388便 行方不明者数71人』

 

「なん……だ……こりゃ……」

 テロップからどこかで飛行機の事故が起こったことは分かる。

 だが、それを読み上げるべきニュースキャスターの首からは頭の代わりに蛸のような触手が生えており、喋ることもせずに揺れているばかりなのだ。

 こんなの即座に『しばらくお待ち下さい』に切り替わるべき場面なのに、生放送であるはずのスタジオは静寂を保っている。悲鳴の一つもない。

 切り替わったチャンネルでは、普通の力士とミノタウロスが相撲をとっているが行司は真剣そのものの顔だ。

 悪夢から目覚めるようにテレビの電源が消された。

 

「分かるのは」

 

「…………」

 

「あたし達じゃどうしようもないってことね」

 

(最初のあのジジイも、見えない壁も……)

 今まで見てきた化物は全部幻覚ではなく現実だった。

 目に見えて分かりやすくなったのが昨日今日というだけで、かなり前から始まってはいたのだ。

 だが、そうなると問題なのは世界と同時に自分までも変わってしまったことで――――

 

「でもね、こっちの方が退屈せずに済みそう」

 

「…………」

 西日差し込む世界はむしろこの方が綺麗に見える。

 たとえ遠くの山の方でビルほどの高さの巨大ムカデが見えても、病院の前の道路をペストマスクを着けた亡霊が首なし犬の散歩をしていても。

 どうしてか心はずっと落ち着いていた。

 

「林檎、食べるでしょ」

 

「あ、うん。……いててっ」

 どうせ気にしてもどうしようもないし、誰かが具体的にどう危険だとも説明していないから頭の中でどんどん世界の優先度は下がっていった。

 だが、せっかく華怜が口元に持ってきてくれた林檎を口に入れようとしても、顎が痛んで上手く口を開けない。

 幸いにして腹は減ってはいないが、少なくとも今日明日はまともな飯は食べられそうにない。

 

「あらら、これ食べてさっさと病院出ようと思ったんだけどね」

 竣の口の中に少し入った林檎をそのまま口にする華怜に困惑する。

 自分たちは、いつここまで距離が近くなったのだろう。

 つい先日華怜を傷付けたことすらしっかり謝れていないのに――――竣の顔が華怜の両手で優しく挟まれた。

 

「…………」

 

(え?)

 こんなに近くに華怜の顔がある。そういう色素なのか、睫毛の色まで亜麻色で、炎が飛び出しているかのように燃える赤瑪瑙の瞳。

 いつもよりも赤いのは気のせいではなく、今から何かを、決定的に自分たちの関係を変える何かをするぞという意志を示しているように思えた。

 急激な緊張に、ベタにも唾を飲み込むために口を閉じようとしたら親指を差し込まれて強制的に開きっぱなしにされた。

 

「!!」

 唇が触れるか触れないかの隙間を空けて、どろどろに噛み砕かれた林檎が流れ込んでくる。

 細い血管が破裂するほどの甘酸っぱさが唾液に包み込まれて更に竣の髪を逆立てさせる。

 華怜の口の中でよく噛まれた林檎を己の舌で奥歯に擦り付けるとまだしゃりしゃりと音がした

 そんなに見ていて面白いのか、華怜は僅か5cmの距離で目を細めながらこちらを見ていた。

 ただの口移しです、なんて絶対に嘘だ。この行為には親切心よりも遥かに大きい意図が多数絡み合っている。

 耳元に心臓があるかのような、背中がぞわぞわするような時間ももう終わると、林檎の代わりに垂れてくる唾液が教えていた。

 

(まだ7個……――――!)

 終わりじゃない、切り分けた林檎がまだまだある。

 心臓がもたない――――そう思った瞬間に触れた唇が、本当に心臓を止めた。

 偶然触れたのではない。思わず動かしてしまった手が華怜の手で押さえられている。

 顔にかかる静かな鼻息と押し込まれる舌が理性をも持っていく。

 生まれて初めての唇付けは果実の味で、まだ華怜の口の中に残っていた林檎の欠片と一緒にしっかり覚えるようにと言わんばかりに口の中全体に擦り込まれていく。

 ああ、そうか。まだ残っていたから全部持っていけということか――――なんてそんな訳がない。 

 それならこんなに唇で唇を甘噛みする必要も、舌を絡めてくる必要もない。

 ちかちかと光る視界が沈みかける夕陽を真っ黄色に染めた。

 

「変わっていく……世界も、あたしたちも」

 今までもっと苛烈なことをしているというのに、ただのこれだけで頭が燃え尽きてしまいそうだった。

 生きている意味が全く感じられなかった人生の全てが、報われた感覚だった。

 

「な……今の……どうして?」

 そっと自分の唇に触れると互いの唾液で指が滑る。

 数秒前までそんなことをしていたなんて自分のことなのに信じられない。

 

「こぼれそうだったから口移ししたほうがいいと……」

 

「…………」

 

「嘘……キスしてみたかっただけ……」

 キスだと言い切ってしまった。

 照れきって顔を赤らめうつむく少女は、何者にも侵せない無敵の価値がある。

 そんな表情だけで、泥沼ヘドロの竣の心の底に映った月のように全てをまばゆく光らせる。

 

「誰かとキスするの初めてなんだ」

 今の自分の顔を鏡で見たらぶち割りたくなるだろう。何故か泣きそうになってしまっている。

 きっとキスなんて母親とすらしていない。病院じゃなくてどっかの駅のトイレで生まれてそのまんま捨てられたんだろうと思っているくらいだ。

 

「……もう一個食べる?」

 口を覆い隠すように当てた手の中から漏れ聞こえた呟き。

 何を意味しているかなんて、あからさまだった。

 

「…………」

 

「はやく! うんとかはいとか言いなさい!」

 

「はい!」

 今度はもう隠すこともしなかった。

 食べる、と言ったのに林檎の皿には目も向けずに華怜は竣に覆い被さってきたのだ。

 患者にこんなことしているところを見られたら看護師に何を言われるか、なんてこんな世界では不要な心配だった。

 少しだけ癖のある髪が竣の顔にかかり、間髪入れず理性を破壊する薫香が消毒品のにおいを押し退けて竣を包み込んだ。

 あの艷やかな唇が触れている、血色のいい肉厚の舌を入れてきている。学校の、あるいは世界の誰もが知らない顔をして。

 曲がりなりにも入院しているというのに若いというか青いというか、元気なもので竣は敏感に反応して勃起してしまっていた。

 どうかバレないでくれ、とは思っても全然収まらずに掛け布団を持ち上げており、投げやりに目を瞑って何かに飢えているかのように与えられ続ける刺激に呑まれるしかなかった。

 

 まだ関わってから3ヶ月も経っていない。赤ん坊ならまだはいはいも出来ないくらいの短い時間だ。

 物語で言えばせいぜい6、7万文字くらいだろうに自分たちはキスをした。

 一体いつの間に華怜の心を摑んでいたのか。

 人の心の機微に疎く、人間関係の経験が少なすぎる竣には全く分からなかった。

 

 ただ、残り時間が少ないことだけを思い出した。

 

 

 

 

**********************************

 

 

 

 休みが明けて、竣はどうするべきかと悩んでいた。

 こんな世界をどう生きていけばいいのだろう。

 相談する相手だって華怜しかいないが、訊いてみたら『面白そうだから学校に来なさい』とだけ返ってきた。

 華怜がそう言うならそこが地獄だろうが悪夢だろうが飛び込まなければならない。

 ガソリンの量が心配なバイクのキーを持って、竣は瘴気渦巻く外へと踏み出した。

 

 すれ違う生徒の半分は異形と化した学校で、なんとか教室に辿り着く。

 だがそこにも安心などは一切なかった。

 

「どうしたのその大怪我。大丈夫?」

 

「あ、ああ……ちょっと転んだだけ」

 後ろの女子生徒が両腕や顔を怪我した竣に声をかけてくる。

 彼女はまともな見た目だし中身もまともなようだが、もっと大丈夫かどうか見るべきところがあるだろう。

 教室を見渡すと一番前の席にはネズミが数十匹集っているし、竣の斜め前には手だけが浮かんで本を捲っている。

 

「まじやめろって服部」

 遠く離れた席に座る男子生徒が後ろの男子生徒から何かいたずらをされたようで、笑いながら暴れている。

 だが服部と呼ばれた生徒は既にまともな見た目ではない。口から人間の両脚が太ももまで飛び出しており、その足で前の男子生徒の顔を掴み親指を無理やり両目に押し込んでいる。

 

「あとにしろよお前ほんとさ~」

 

(後にってなんだよ……)

 確実に失明していると言い切れるくらいに眼窩に指がねじ込まれているのにどちらも笑っている。

 見ているだけで気絶しそうな光景だ。

 

(華怜……!)

 そこだけはいつものように、華怜が扉を開けたら教室は静まり返った。

 普段ならば無表情でつかつかと自分の席まで歩いていくが、流石にそうはいかないようだ。

 見知った顔までも変わり果ててしまったのを見て表情が歪んでいる。

 竣と目が合い、頷いて自分の席へと向かった。

 

(……! あの子は……)

 クラスでいじめのターゲットとなり誰にも助けてもらえなかった哀れな女の子が教室に入ってきた。

 暗い性格を象徴するように真っ黒な髪が長かったことは確かに覚えている。

 だがあそこまで長くは――――見間違いだった。

 首から鎖骨にかけての黒さを髪と間違えたのだ。よく見ると肌に出来た無数の窪みに黒い何かが埋まっているのだ。

 それはまるで蟲の卵のように見える。

 俯きながら歩いていた女子生徒は顔を隠している黒い髪をかきあげた。

 

「うっ……」

 右目を中心に小動物に齧られたかのように肉が露出し穴が空き、そこに何匹もの大型の蜂が蠢いていた。

 高熱の時に見る悪夢そのものだ。

 ホームルームのベルと共に校庭からズンッ、と重たい衝撃が響いてくる。

 

「!!」

 悲鳴を上げそうになるのをなんとか堪えたのは勇気があるからじゃない。

 化物の集団を前にして叫べばどんな映画でもその瞬間にそいつは飛びかかられるから、という半ば本能だった。

 果たして衝撃の原因は竣の左隣、ベランダにあった。

 手すりをその体重でひん曲げて、体長10mはあろうかと言うほどのがしゃ髑髏が腰掛けていた。

 席が埋まっていないのは教室の真ん中の一個だけだから、あそこに座っていた生徒がこんな姿になってしまったのだろう。

 

「おっ、今日は全員いるな。元気でよろしい」

 まだ変化していない教師が入ってくる。顔がひきつっているのは自分と華怜だけだった。

 

(どこが元気なんだよ)

 服部から飛びだした脚に目をほじられていた生徒は笑顔のまま動かなくなっている。

 誰がどう見たって死んでいる。

 生徒の死体がそこにあるというのに、出席確認を始めた教師を見て竣は受け入れるしかなかった。

 この世界はぶっ壊れてしまったのだと。

 

 

 

 午後の授業はまともに受けられたもんじゃなかった。

 物理の教師は宙で舞う白いボロきれになって黒板の前で浮かんでいるだけだし、音楽なんて人間の声よりも化物共の好き勝手な声の方が大きくてピアノの伴奏も聞こえなかった。

 

「酷かったね。古典とか、もう勉強する意味あるのかな?」

 

「……華怜、これからどうするの?」

 

「家に帰るけど。そうするしかないじゃない」

 

「そう……だよな」

 大変だ大変だ、と大騒ぎして走り回ったところで夢を叶える道具が出てくる白いポケットもない。

 竣はなんの力もない見た目チンピラ中身陰気のただの少年なのだから。

 バイクを違法駐車してある場所まで着いてしまう。確認してみるとそろそろ本当にガソリンが切れそうだった。

 

「…………」

 

「…………?」

 よく磨かれたピンクの原付に寄りかかったまま華怜はキーも挿さないで何か言いたげに竣の顔を見ている。

 やはり流石に不安だから送ってほしい、とかだろうか。

 

「あんたからキスはしてくれないの?」

 

「えっ」

 世界はこんな状況なのに。あるいはこんな状況だからこそか。

 少女にとってはそれが一番優先すべき事のようで、言葉の裏に隠された感情を理解すると同時に顔に火がついたかのように熱くなった。

 

「ていうかそれくらい言われなくてもしてよ」

 

「いいの……?」

 当然あの日から今日この瞬間までの数十時間、あのキスを何千回と思い返していた。

 もう一度したい、もう一度したいと少年の頭はほとんどそれに埋め尽くされていたが、異常極まる現実が許してくれなかった。

 だいたいそんなこと言ったって、いきなりしたらたぶん絶対ぶん殴ってくるだろうに――――と行動よりも言い訳ばかりがぐるぐると回る。  

 華怜はそんな竣に手鏡を取り出して見せてきた。

 濁った沼みたいな目が浄化されたかのように輝き、火を噴いてるかのように顔が赤い。

 本当に現金なもので、こんな世界でも女の子から『キスしよう』と言われるという、ただそれだけで頭の中の不安も全て吹き飛ぶかのようだった。

 

「人に見られるかも」

 

「人? 化物でしょう……?」

 小さく震える手を肩に置いても華怜は拒否の素振りすら見せない。あの日のことは殴られすぎておかしくなった自分の幻覚ではなかった。

 もう一度この薄く光る桃色の唇の感触を確かめられる、舌でなぞることが出来る。

 だが――――目の前にあるのに、少し動くだけでいいのに妄想ばかりが先行して動くことが出来ない。

 

「もういい」

 

「いたっ!!」

 べちっ、と鼻っ面を掌で叩かれた。

 あんまりにも悠長にしすぎて空気が逃げてしまったようだ。

 呆れた顔の華怜がエンジンのキーを回し――――ドォン、と巨大戦艦一発大破級の音が響いた。

 

「ダメよ~ここ私有地だから怒られるわよ~」

 のんびり間延びした中年女性の声が頭上から響く。

 そこに巨大な影を作っていたのは灰色の鱗を持つ龍だった。あの龍が民家に着地した音だったのだ。

 デカイ骨が歩くんだから龍のババァが飛んでたっておかしくないなんて、そんなことあってたまるか。

 

「ごめんなさい。すぐ動かします」

 竣が龍の青い目に怯えているのに対し、華怜は平気そうに謝っていた。

 龍は首を僅かに動かし華怜の方を見ると口を開き鋭い牙を見せた。

 

「ところで郵便局ってどこだったかしら。おばちゃんちょっとど忘れしちゃってね~」

 

「その……そこの通りに出てまっすぐ信号4つ超えたあたりで左に……」

 

「そうだったかしらね。分からなかったらまた人に訊いてみるわ」

 太陽にまで届きそうな翼を広げて龍は竣の指差した方向に飛び去っていった。

 自分たちに尋ねるより飛んで探したほうが100倍早かったと思うのだが。

 緊張の糸が切れてその場にへたり込む。

 

「郵便局に入れるといいね。竣は帰るの?」

 

「あ……バイトだ」

 

「そう。あたし家でやることあるから」

 こんな世界になってまでやることってなんだ、と訊く前に華怜は30km/hを遥かに超える速度で大通りに出ていってしまう。

 ぽつんと取り残された竣は、俺だってこんな世界なのに律儀にバイトに行こうとしているなんて、と自虐を呟いた。

 

 

 

 

 ちらと覗いたハンバーガーショップのレジでは白ヤギが精算機に頭突きしているし、客は客で金を払う手がない化物になっているものもいた。

 世界が混乱に陥った時に火事場泥棒で金品強奪、なんてのはよくある話だが果たしてこの世界で金なんて意味あるのだろうか。

 

「なんだありゃ」

 たこ焼き屋に向かったら高島はいなかった。

 代わりに王冠を被った豚が二足で直立してたこ焼きを作っている。

 たぶんこれバイト代貰えないな――――とは思いつつも声をかける。

 

「おい、交代だろ」

 

「…………?」

 縮れた導線のような尻尾をぴこぴこさせて聞いているのだか聞いていないのだか分からない顔でこちらを見てくる。

 これは本当に高島なのだろうか、と思ったが吸ったばかりの煙草の跡がある。

 

「豚野郎。交代に来たぞ」

 

「ブガっ?」

 全く話が通じておらず、頭に手をあてて天を仰ぐ。

 豚野郎がまさか本当に豚野郎になるなんて、面白すぎて呆れ返る。

 だが人間の姿よりもこっちの方がずっと好感が持てる。

 見上げた空はミルフィーユのように何層もの分厚い雲に覆われていた。

 

「……たこ焼きくれ」

 

「ブブッ」

 なんとなく言ってみただけだった。

 それなのに豚と化した高島は指が二本しかない豚足で器用にパックにたこ焼きを詰めて渡してくれる。

 なんだかこっちの世界のほうが好きかも――――なんて思ってしまう。

 

「ほら、五百円」

 

「?」

 台の上に500円玉を置くが大きな鼻でにおいを嗅いで顔をしかめるだけだった。

 裏側を覗き込んでみると、売上を入れるタッパーに一円も入っていない。

 

「金……いらねえの?」

 ぶひぶひ言っているだけの高島からたこ焼きを受け取るが、つぶらな瞳を煙にしばたかせているだけで何も言わない。

 これで竣に対してすることは終わったと言っているかのように新しいたこ焼きを作り始めた。

 

「…………」

 勝手にマヨネーズとソースをかけて口にする。

 屋台に寄りかかって見上げた空はいっそ清々しいほどに禍々しい。

 新しい客がやってきた。羊のような身体に肉食獣よりも凶悪な牙と曲がった角のある人の頭を持った化物が行儀よく並んでいる。

 

「じゃあな」

 交代だと言っても話が通じていない。

 それならまだしも、一円たりとも儲けを出していないのだから、もうここで働く必要がない。

 

「まぁ、お前の作るたこ焼きはマジで美味かったよ」

 ヘルメットを被りながら東の空を見ると先程道を尋ねてきた龍が空で火を吐いている。

 郵便局に入れなくて苛ついているのだろうか。

 これが収穫なのかどうかは分からないが、一つ分かったことがある。

 あらゆる生物や物が変身しているが、人の姿を失ってもまだ自分を人間だと思っている者と、まだ心は失っていない者がいる。

 

 時間の問題だな、と思った。

 自分も獣になりかけていた。まだ人の姿を保っているのが不思議なくらいだ。

 きっと幾許もしないうちに自分は心まで獣になる。

 人の心を失い犯罪者として刑務所に入れられる末路は想像していたが、まさかこんな未来になるなんて。

 世界の全てが先にぶっ壊れるなど誰が想像しようか。

 だがそれでもいい。

 3日後まで自分が自分でいられるなら。

 

 

 

 

 

 

 

 今日の霊九守邸は一部の使用人を除いてほとんが留守となっていた。

 霊九守一族だけではなく、各業界の会長社長や政界の重要人物などのほとんが今日の夜、霊九守ビルに集まっている。

 一族の頂点に立つ霊九守燈の32歳の誕生日だった。きっと華やかな食事と豪奢なオーケストラに囲まれて燈は楽しんでいるだろう。

 一族全て、つまり父も『母』も出席しているのに自分は出ていない。

 燈との仲自体は悪くなかったが、父に幼い頃に霊九守の名前で公の場に出てはいけないと言われたからだ。

 

「……好都合とはこのことね」

 父の部屋の金庫から鍵を見つけ、百年は開かれていなかったであろう倉庫の地下から見つけ出した古紙の巻物。

 華怜は少しだけ読んでから風呂に入り、もう一度自室に籠もって読み始めた。

 竣に教えてもらった美味しい作り方に倣って作ったココアは混乱する頭を急速に癒やしていく。

 煙草に火を付けるとそれだけで心はかなり落ち着いた。

 

(……元々は貴族でもなんでもない……ただの商人一族……)

 そこに記されているのは霊九守の歴史の全て。

 口伝とはいきなり矛盾するのが、室町時代まで霊九守一族は『霊九守』という名前ではなかったということ。

 1000年以上前からこの国を牛耳ってきたということになっているのに。

 少なくとも平安時代は『九(いちじく)』という名字だったそうだ。

 

「なるほど……」

 劣化していて文字が読めないところや現代語訳が分からないところを飛ばしつつではあるが、一族に生まれた女性も最初は忌み子なんかではなく普通の子供だったらしい。

 ただ、一族に生まれた女はみんな厄介な体質を持っていて、数え年で10歳になる前には発狂して死んでしまったという。

 座布団の上でぷぅぷぅと寝息を立てて寝るゴン太をちらりと見てから、A4の紙に大事なことを書き記していく。

 

「……まるでおとぎ話の世界ね」

 しかしその体質こそが大事だったらしい。

 今からおよそ8~900年前頃に起こった保元の乱に巻き込まれて、若くして退位させられていた崇徳天皇は讃岐に追いやられた。

 崇徳天皇の側についた公家や武士は全て斬首され、その怨念を全て背負ったまま流刑地で死んだ崇徳天皇は煮詰めた怒りと恨みを固めた最強の怨霊となった。

 そして日本は騒乱の時代を迎えた。民は口々に崇徳天皇の祟りだと口にし、相応の力を持った当時の霊能力者も次々と呪い殺されたという。

 どこまでが本当のことかは分からない。誰だって知っている卑弥呼ですら鬼道なんていうあまりにも非科学的な力を使って邪馬台国を統治したと記録に残っているのだから。

 やがて時代は流れ崇徳天皇の名は日本最悪の怨霊として名前は広まったものの、その呪いはぱったりと止んでしまったという。

 不思議に思い讃岐の地を訪れた坊主がそこで見たものは――――

 

「…………。……忌み子、か」

 そして九一族の娘はそこに送られて、全ては収束した。

 返ってきた娘は発狂こそしていなかったものの、既に尋常ならざる存在となっていた。

 娘はそのまま生贄に捧げられ、当時の九一族の当主は時の天皇から霊九守の姓を与えられた。

 以降、霊九守の一族に生まれた全ての女は忌み子となり、生まれれば即座に殺され死体は念入りに燃やされ灰は海に撒かれたのだという。

 そこより先はさして面白くもない、霊九守一族の隆盛の歴史だった。

 

「…………」

 ふっ、と溜息混じりの笑いが出る。

 1000年生きる人間はいない。どんな動物も記憶を忘れていく。

 口伝は形を変えていく。霊九守の一族はそんな伝説をも忘れ、ただの夢物語だと思うようになり、そして華怜は殺されることなく育ってしまった。

 あまりにも愚かな世界の黄昏は、想像力の欠如した人間によってもたらされたのだ。

 

「ゴン太、おいで」

 煙草の火を消し声をかけると鼻提灯の割れたゴン太が眠そうな顔で華怜の膝に乗ってきた。

 やたら懐くな、とは思っていたが懐くはずだ。こんな体質では。

 

「ねぇ、あたしどうしたらいいかな」

 着信と発信の履歴は竣ばかりだ。携帯の画面をゴン太に見せても首をかしげるだけで特に鳴き声の一つも上げなかった。

 普通に考えれば、今すぐにでも竣に電話して教えなければならないのに。

 

「あたしはずるい女だから教えてあげない」

 とうとう『6本』にまで増えてしまったゴン太のふわふわの尻尾を触りながら華怜は破滅の微笑をした。

 電話の画面を切り替えて竣に一言、『ヒーローになりたいと思ったことはある?』とだけ送信して。

 

 

 

 

*************************************

 

 

 ヒーローになりたいと思ったことはあるか。

 正義の味方になりたいか。英雄になってみたかったか。

 そんな問いかけをしなければならない程に世の中は悪で溢れ人間は救いようがないのか。

 少年少女だけじゃない。この世界に生きる誰もが昔は純粋にそんな存在になってみたかったはずだ。

 己が正義だと信じ、己と対立する悪を打ち倒すヒーローに。

 

「ヒーローにだと……」

 一昨日の夜に華怜から来たそんなメールをバイクの隣で読み返す。もう竣はこの世界になってからヘルメットも被っていなかった。

 どうしたのか、と返信しても『明日は用事があるから学校に行かない』と会話になっていない返事が戻ってきた。

 こんな世界で学校に行く意味なんかあるもんか。そう思った竣は昨日学校を生まれて初めてさぼった。

 今日はもう時間的には放課後だ。華怜から『放課後ちょっとだけ学校を見に行ってみよう』と言われて来たのだ。

 

(ヒーロー……か……)

 施設の小さなテレビの前でみんなで集まって見たっけか。

 怪人を倒し街を救う仮面を被った正義の味方を。

 最悪の生まれの子供達でも、純粋に憧れたものだった。

 

(でも今は――――)

 だがヒーローは、正義の味方は施設の職員に虐待される子供達を助けに来てくれず、彼らは捻じ曲がったまま成長して職員を惨殺した。世間の誰もが彼らをまともに育たなかった悪の因子だと叩いた。

 賢く生まれた竣も、いつしかヒーローの存在など信じることがができなくなり、ただ自分の足で踏ん張って生きることしか出来なかった。

 もしも今、自分がヒーローになれるなら。それを喜ぶことは出来るのだろうか。

 

「さぁ、行こうか」

 気付かぬ間に、原付に乗った華怜がいた。

 当然のようにノーヘルでなんだか笑ってしまう。

 ふかしている煙草の煙とショールが風になびいているその姿は早くもこの世界に馴染んでいるかのようだ。

 

「制服じゃないの?」

 ロングコートの下から学校指定のスカートが見えない。

 袖からもブレザーが覗いていない。これから学校に行くのに。

 

「あんたこそ、なんで制服なの?」

 

「……そっか」

 壊れた世界、意味をなさない学校の為に着る制服になんの意味があるのか。

 華怜の言葉に合わせて学ランを脱いでみるが、その下もYシャツだしいい加減12月の風が寒かった。

 

「バイクをそこに駐めておく必要もないでしょ」

 

「そうだな」

 座席を開いて学ランをしまう。

 なんとなく、もうこれを着ることはないかもと思ってしまった。

 キーを回して先に行ってしまった華怜を追いかける。

 学校への道中、とうとう普通の人間の姿は一つも無かった。

 

 

 

 土足で校舎に踏み込む華怜に着いていく。

 静か過ぎる。テスト期間でもないのだから、普通に部活動をやっていてもおかしくないのに校庭に誰もいなかった。

 なんの生物もいないのか――――と思っていたら廊下を歩くかぎしっぽの黒猫と目が合った。

 

(あれは普通の猫……か?)

 竣と目が合ったまま、ぴたっと動きを止めているのは野良猫の反応として正しい。

 だが華怜が気にせずに前に進むと黒猫は逃げてしまった。壁に向かって。

 

「……普通なワケないか」

 黒猫は壁をすり抜けてどこかへ行ってしまった。

 ここは三階なのにちゃんと着地出来たのかなんて考えるのは無意味だろう。

 

「はっ。何アレ」

 二年七組、自分たちの教室に辿り着く。

 華怜が気が付くのと同時に竣は全身に鳥肌が立った。

 前の扉をぶち破って出ているのは太すぎる木の根っこだ。

 教室の壁はひび割れており、中で何かがあったに違いない。

 もしも普通に登校していたら自分も――――引き止める前に華怜は教室に入ってしまった。

 

「誰もいない……! あはーっ!」

 華怜が気持ちよさそうに笑う気持ちも分かる。

 嵐でも起きたのかと思うほどに散らかった教室の端では血溜まりの中に指が落ちており、黒板は砕けている。

 床から生えている木はあちこちに根を張り聖なる学び舎を腐食させている。

 

(とうとうか)

 自分が人間であることも忘れてしまったモノたちの百鬼夜行。

 竣が登校した日だって笑いながら生徒が殺されていた。

 生徒のほとんど全てが変身し、人の心を忘れて大暴れしたのだろう。

 ベランダへと出る窓も割れており、半壊したベランダから――――学校指定の鞄が外へと放り投げられた。

 

「あーっ!! 俺の鞄!!」

 

「もう使わないでしょ、あんなもの」

 竣の肩に手をかけた華怜が楽しそうに、竣の視線を踊るように避けながら竣もくるくると回す。

 本当に楽しそうだった。張り詰めた生活と無感情を強制される学校がこんな姿になってしまって愉快で仕方がないのだろう。

 

「財布入ってたのに……」

 

「お金! どこで使うのそんなもの!」

 初めてディスコに連れてこられ、下手くそで覚束ない踊りをするような竣の襟首を掴んでくるくると回す華怜は、自分よりもずっと軽いのに華麗に翻弄してくる。

 そのまま机にぶつかった竣は結構な数の机と椅子を巻き込んで転んでしまった。

 

「あはっ。それでいいの、よっ!」

 まだ倒れていなかった机までも勢いよく蹴飛ばし倒してしまう。

 一瞬止めようかと思ったが、その衝動は竣にも理解できてしまう。

 

「ほら、そこの椅子! どっか……あそこへ投げちゃえ」

 

「あそこって、扉じゃないか」

 

「こうやるの!」

 言うやいなや、華怜は倒れていた椅子を掴んで開いていない後ろの扉に向かってぶん投げた。

 ガラスが割れる音とからからと笑う華怜の声が響く。

 世界に不満があったのはお互いに同じだ。

 だが、最悪の生まれで鬱憤の塊の自分にはこんな衝動はないのに、世界有数の金持ちの家に生まれて何不自由無い華怜にこんな衝動があるなんて分からないものだ。

 

「あー……あつい」

 しばらく蹴ったり投げたりと好き放題暴れることを続けて流石に疲れたようだ。

 せっかくの綺麗な髪が乱れ、額から珠のような汗が流れている。

 自分も教室をぶっ壊してみようかな、と思ったが意味がない。

 女は意味のないことをするのが好きだ――――とどこかで聞いたようなセリフを思い出していたら華怜がコートを脱いだ。

 

「!!?」

 なんでショール外さないでコートだけ先に脱ぐんだ、と思いながら見ていたらいきなりブラの紐が見えた。

 上を着忘れているのか、と言う前にコートが床に落ちる。

 着忘れているのではない。コートの下は本当に下着だけだった。

 黒と白の高級そうなブラは汗に濡れて透き通る肌に映え、茶色いガーターベルトがタイツに繋がっている姿は艶めかしさそのものだ。

 竣の反応は予想していたのか、十代の危うい笑みをこちらに向けて華怜は何も言わずにいた。

 日常なんて一皮剥けば非日常、そんな言葉が下着姿で立っているかのよう。

 

「竣も脱いじゃえ。教室のど真ん中でこんな格好でいるのって、気持ちいいよ」

 

「いやっ、待ってっ」

 気持ちは分かる。堅苦しい制服に身を包んで、じっと座って退屈な授業を受けなければいけないはずの教室で半裸でいるのは得難い快感だろう。

 だがそれはせめて人がいない時にすることじゃないか。蠱惑的な微笑みを浮かべてこちらに近付いてくる華怜から後ずさると倒れた机に肘がぶつかった。

 

「こうして!」

 栄養状態良好で揺れる大きな胸に視線を吸い込まれていたらYシャツのボタンを千切られベルトが取り上げられた。

 痩せぎすの竣の腰から制服のズボンが落ちる。学ランはバイクの中にしまいっぱなしだからYシャツとパンツだけだ。

 流石に寒すぎる。機嫌良さそうにベルトを振り回した華怜は黒色が混じってきた竣の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

 その時、俯くばかりだった竣の目に妙な物が映った。

 

「あ……れ? それは……」

 

「あー……」

 華怜のタイツに何か引っかかっている。数秒間、それが何か分からなかったのは見たことが無かったからだ。

 それはどう見てもコンドームの帯だった。一体いつから?

 

「竣が我慢できなくなって襲ってきたら、せめて使ってって言うために持ってたんだけどね」

 何事も叶わない日常退屈鬱屈憂鬱世界に抑圧されていた魂が燃えるように華怜の瞳が赤く光る。

 竣は華怜の中身を知っている。世界の誰よりも。だからこそ、その準備から導き出される解答は一つしか無かった。

 

「俺にそうされることを待ってる?」

 結構前から、もしかしたら華怜が受け入れた日から分かっていたことだ。

 竣が華怜からの嗜虐的な行為を内心喜んで受け入れていたように、華怜もいつかそうなることを待ち望んでいたのではないのかと。

 

「かもね」

 なんて歪んだ笑顔なのだろう。十代の少女がしていいものではない。

 華怜はカフカの小説のように変身などしなくても、最初から十分怪物だった。

 

「……もし、俺が本当にそうしたら華怜はどうしたの?」

 待っている、望んでいるとはいえそれだけで済むはずがない。

 本当にただ望んでいるだけならいくらでも命令する時間はあったのだから。

 

「そうしたら……? そしたら? 殺してやる。絶対に!」

 

「……ははっ」

 それはむしろ信頼のようにも聞こえ、竣は笑ってしまっていた。

 華怜のことを歪んでいる、怪物だなんて思っておきながらこんな解答を聞いて笑ってしまうなんて自分も十分歪んでいるじゃないか。

 そうだ、きっと少年少女は見た目が普通なだけでその中身は誰も彼もがいびつな形をしているのだ。

 

「あは――――っ! ぶっころしてやる――――っ!」

 叫んだ華怜がブーツに引っ掛けた机を投げ飛ばすとロッカーの上の濁った水槽が割れて魚とも生物とも言い難いぶよぶよとした何かが水の上で息絶えた。

 舞踏家のように、湖畔の上をつま先で走るカモシカのように下着姿のまま華怜はベランダへと向かっていく。

 

(ああ)

 この姿がずっと見たかった。

 鉄仮面の華怜が学校で心から笑う姿。

 でも華怜が華怜である限り、世界が世界である限りはあり得なかった。

 

(本当に)

 ショールを振りかざして天女のように舞う華怜の向こうで天駆ける麒麟が曇天の空を突き破り、太陽の光が雲の隙間から天国への梯子のように漏れる。

 麒麟が現れるのは吉兆だと言うが、世界にとってこれがよいことなのだろうか。

 

「この日が素晴らしき日でありますように!」

 

(世界は終わっちゃったんだなぁ――――)

 少なくとも華怜が華怜のままで笑える世界になったのだから、自分たちにとってはこれで良かったんだろう。

 華怜が腕から糸のように飛ばしたショールが偶然にも竣の首にかかり、解放された華怜の香りに包まれた。

 

「楽しそうだね」

 

「あんたはもっと楽しそうだけどね」

 

「え?」

 

「ずっと笑っているんだよ。気が付いていないかもしれないけど」

 確かめるまでもない。竣は先程からずっと笑顔だった。

 世界がこんなことになってしまってから随分感情豊かになった。

 それこそ生きているのが楽しいと感じるほどに。

 おいでおいでとするベランダの華怜の元へと小走りに駆け寄る。

 

「綺麗なもんだなぁ」

 冷たい手すりに寄りかかって世界を見る。

 ところどころ穴の空いた雲から光の漏れる中、地上では化物がお互いに食い合い街を破壊しているのが見える。

 最早まともな人間など一人もいない。戦っていないモノもこの世の生き物とは思えない姿をしながら街を徘徊している。

 今まで生き延びられたのが奇跡に思える。正気を失ってどこかで死ぬのが先か、人間のまま死ぬのが先か。

 残酷な想像をしているのに不思議と気分は晴れやかだった。

 どうしようもないけど、今日はどうしようかと考えていると背中から華怜が体当たりするかのように抱きついてきた。

 

「華怜、ちょっ、ちょっと」

 

「動くな!」

 慌てた竣をぴしゃりと一言で停止させて、親を亡くした子猫のように鼻を背中に擦り付けてくる。

 殺してやると言って一分も経たない内にこれなのだから、華怜の行動を予測するなど不可能なのだ。

 こうして世界を眺めると、比喩でも何でもなく世界にふたりぼっちみたいだった。

 

「おしっこしてみてよ」

 

「は? え? なに?」

 こんな風に、華怜はいつまで経っても言動が全く読めないのだ。

 何度考えてみても意味不明だ。

 

「外に向かってしてみて。朝からトイレ行ってないでしょ」

 どうしてそのことを知っているんだろう。

 今朝から膀胱が膨らむ感じが全くせず、今日はトイレに一度も行っていないのだ。

 そういえば昨日の夜も行っていなかった気がするが。

 

「なんでそんなことを?」 

 

「世界がおかしいなら、あたしたちもおかしくならなきゃ損だって。はやく! 下は見ないでおいてあげるから」

 

「…………」

 やれと言われたらやるしかない。

 竣は引きつった笑いのまま、祈るように目を閉じたあとに性器を出した。

 

「……すごい! ねぇ、どんな気分?」

 竣の肩の後ろから顔を出した華怜が幼い子供のような歓喜の声を上げた。

 校庭にばら撒かれていく小便が虹を作っている。

 背徳に背徳を叩きつけているような爽快な気分だった。

 とてもではないが、口で説明できるような開放感ではない。

 

「うわっ!」

 もうそろそろ出し終わる、という時になって背中を強く叩かれた。

 絶対にわざとだ。おかげで左手の指に少し小便がかかってしまった。

 

「どうしたの?」

 

「手を洗いに行かなきゃ」

 少々恥ずかしいが、濡れた薬指を見せる。華怜だってこれを見れば原因は自分だと分かるはず。

 なのに、一向に華怜はどいてくれなかった。

 

「へぇ」

 手首を掴んでまじまじと見てくるが、そうしている間にも水滴は下へと垂れている。

 下着姿の華怜を見ていると未だに慣れずに心臓が痛くなる。

 激しく運動したからか、ブラの紐がずれているのに目が行って――――

 

「何してんだ!」

 竣が悲鳴を上げる頃には、縁日で買ったフランクフルトのように華怜は指を口に入れていた。

 いつだかに言った概念的な汚さではなくもろに汚いからこそ離れようとするが、足が踏んづけられて動けない。

 

「…………」

 目を白黒させる竣を見るのがそんなに楽しそうなのか、更に深くくわえ込む。

 とんでもないことしているんだぞ、恥ずかしいことしているんだぞと目で伝えてもまばたき一つしない。

 根負けして空を見上げると巨大な無重力カバが逆立ちして月に向かっていた。

 なんちゅう世界だ、と考える前に首を手で強制的に曲げられまた華怜の目を見ることになった。

 

「も、もうやめ……いててでっ、いだいいだいっ!」

 口の中のぬくい感触に集中できなかったのはこうなるのが予想できたからだ。

 凶暴な華怜の口の中に指を入れて噛まれない訳がない。吠えまくる犬よりも確実だ。

 ガジガジとたっぷりと噛まれてからようやく解放された。

 抜いた左手薬指は根本までたっぷりと濡れ、何か意味があるかのように歯型の輪を作っていた。

 

「なんてことを……」

 

「うるさいなぁ。今更指がなんだっての? ほら! ほらほら!」

 ぼやく竣の口に今度は華怜の指が突っ込まれた。これは予想外だった。

 細長い指が三本、暴れるように突き進んできて口内を蹂躙してくる。

 

「げほっ、がふっ!?」

 手で顔を押すように軋んだベランダの端まで追いやられる。

 手すりに体重がかかり過ぎて砕けた床の破片が下へと落ちていってもまだ止まらない。

 一通り竣の歯の形を確かめて、人差し指と薬指で舌を摘んで中指を喉の奥まで突っ込んでくる。

 きっとこの美しい指を口にしてみたいと思った人間は男女関わらず数え切れないほどにいるだろう。

 だが実際はそんな夢のようにはいかず、こうなるのだ。

 あからさまに竣が苦しんでいるのを楽しんでいる表情だ。どうして同じ行為をやり返しているのに主従は崩れないのだろう。

 

「なにこれー。竣のよだれって変なの。こんなに伸びるんだ」

 口から抜かれた指は唾液に濡れ、尋常じゃないくらいに糸を引いている。

 華怜が指を開いて閉じてを繰り返しても切れるどころか伸びる糸が増えてしまった。

 

「喉まで指突っ込まれれば誰だってそうなる」

 咳き込むと喉に絡んでいた痰がとれた、と思ったらそれも唾液だった。

 理屈は知らないが、口の中に異物をずっと入れられていると粘り気の強い唾液が出るのだ。

 

「あたしにもしてみてよ」

 

「!!」

 さっきしたじゃないか、とは言えない。それとはまた違う。

 言い訳する前に――――きっと華怜は行動するのが早いと知っているのだろう、口を開けてしまった。

 華怜がこんなに口を大きく開けているのを始めて見た。歯並びは模型のように整っているが、とんがった性格を象徴するかのように少々八重歯気味だ。

 歯茎の色も健康な赤色をしており、虫歯どころか色がくすんだ歯すらもない。きっとこんなに華怜の口の中を見た人間は歯科医以外にいないだろう。

 早くしろと目で言う華怜は風で髪が流れて口の中に入るのも気にしていない。

 高級な家具のような色をした髪が桃色の舌に着地した。

 

(あの舌が……)

 ついこの間自分の口の中に入ってきたなんて、記憶を疑ったほうが早いくらいに非現実的だ。

 なのにもっと非現実的な事をしようとしている。冬の風がその魅力を奪い去るよりも前に、指先で華怜の舌に触れた。

 

(うわ……)

 きっと世界最高のスポンジはこんな感触なのだろう。指で圧力を加えるとじんわりと唾液が滲んでくる。

 たぶん、たぶんだけど人差し指だけじゃダメだよな――――と考えていたら蝿取草のように他の指ごと咥えられて口を閉じられた。

 

(……あったかい)

 まるで体温が10万度あるかのようで、指先が圧倒的な熱によって溶けていく。

 指を動かしても溶岩のような柔らかく熱い口内に当たって逃げ場所がない。

 自分は華怜と話す前の世界で、教室の机に突っ伏しながら学校の支配者である華怜を押さえつけてこの口に×××を突っ込む妄想をしていた。

 馬鹿馬鹿しい、対価を差し出して許可を得なければ実際はそんなことをする勇気もないくせに。

 こうして、喉の奥まで――――

 

「がふっ、ぐっ」

 いくら華怜でもこうされれば汚い音を立ててえづくものらしい。

 よく考えてみたら自分の方が当然指が長いのだから、華怜と同じように入れたら華怜がしたよりも奥に入るのは当たり前じゃないか。

 酷いことをしていると気が付き、指を抜こうとしたら腕を爪を立てた手で掴まれた。

 普通は逆だ。抜いてくれ、とすべきなのに抜かないように腕を押さえている。

 

「え゙っ、あ゙っ!!」

 それどころか更に奥に入れようとしてくる。

 聞いてて痛々しい悲鳴を上げて、目尻に涙を溜めながらも竣の目を凝視して。

 思わず動かしてしまった指が喉を引っ掻いてようやく華怜は大量の唾液と共に指を吐き出した。

 

「あー……」

 だらだらと顎を伝って伸びる唾液は胸まで達しても切れない。

 竣の指には巨大な蜘蛛が巣を張ったかのように唾液の迷宮が出来上がっていた。

 

「……ほら。誰でも――――」

 華怜の唾液まみれの手が、竣の唾液に汚れていた手を握ってきた。

 あえて液体を混ぜるかのように指も絡めてきた――――どきっとする暇もなく、ずっと竣の目を見つめていた華怜が口を開けたまま顔を近づけてきた。

 

「――――!」

 そのまま唾液を塗りつけるように竣の唇に噛み付いてくる。

 竣が口を開けてなかったのが不満だったのか舌をねじ込むよりももっと直接的に、指で口をこじ開け舌を引っ張り出してからもう一度噛み付いてきた。

 何も言わずにいきなりキスをされて、ついさっきまで思い出の中の妄想にいた竣の頭の中で超新星爆発が起きた。

 はだけたYシャツの下に肌を押し付けるようにくっついてくる。だが冷えた肌の柔らかい感覚ですら頭を冷ますことは出来ない。

 これあげるからそっちもちょうだい――――べろんと舐められた舌と舌の上で、刺激されて押し出された互いの粘っこい唾液が絡み合い口と口に橋をかける。

 二人の肌に唾液がぼたぼたと落ちていくことを気にもせずに唇で唇に蓋をしてきた。

 

(死ぬ! 死ぬ!!)

 きっと困惑しきっている自分の目に映る瞳の赤は発情の色をしている。

 どろどろの唾液は更にどろどろになり、頭よりも下半身に血液が流れ込む。

 半ば本能で華怜の腰に腕を回そうとしたら強めに引っ叩かれた。

 身勝手で狂暴な手の付けられないむき出しの愛は無邪気なテンプテーションだ。

 終わりを迎えた世界の壊れた校舎の中で、若い二人がすることがよりによって半裸でキスすることなんて。

 

「ん゙――――ッ!!」

 ベランダから突き落としたいのかと言うほどにぐいぐいと身体を寄せてくるから手すりに背中が当たって反り返る。

 それなのに、むしろ身体は元気になったからますますなのか、痛いほどに勃起してしまっている。

 ズボンは脱いでしまっているからパンツ一枚では隠しようもない。

 

「あはぁ」

 完璧にバレた。当たり前だ。ぴったりとくっついている華怜のへそに当たっているんだから。

 きっとその時の華怜の顔は何度も夢に見るのだろう。世界の何もかもから解放されて、残ったのは本能だけしかない人間以下に堕ちて蕩けきった顔。

 わざと膝を竣の股に入れてぐりぐりと押し付けてくる。

 外へと身体が半分放り出された竣の顔を遠慮なく掴んだ華怜は上から竣の口に向ってくちゅくちゅと口の中で音を立てて絞り出したよだれを流し込んできた。

 

「痛っ、痛い!」

 もうそれはキスにすらなっていなかった。

 一方的な欲求の押し付けは加速し、竣の歯を唇ごとがちがちと噛んでくる。

 雲の奥に輝く月が見える。まだほんの少しだけ人の心を忘れていない生徒がいるのか、どこからか『月光』のピアノソロが聞こえてきた。

 錠剤5錠くらいなら軽く飲み込めそうなほどの量の唾液の交換をしてようやく華怜は満足したのか口を離していった。

 

「もう、もう」

 心も身体も満たされていっぱいいっぱいだ――――月を仰いだ華怜が竣の手を握ったまま感極まった声を出している。

 

「もう死んで! あたしとしたことの記憶、全部持って、死んで!! そこから飛び降りて頭ぶっつけて死んじゃえ!!」

 

「…………」

 最高に美しい思い出を手に入れたけど、解放された自分の姿を誰にも知られたくない。

 自分とのキスを最後の思い出に今までの記憶全部を抱いて死んでくれ。自分勝手な言葉。

 だけど、その思いが理解できてしまうから、竣は今日まで華怜のいうこと全てに従ってきた。

 そうしろというならそうするさ。戸惑いは無かった――――のに、握った手を離してくれない。

 

「………って、最初の頃はそう言おうと思っていたのに、もうだめなの」

 

「…………?」

 先に人の心を失ってしまったのではないか、と思えるほどに支離滅裂な言葉。

 飢えた獣みたいにぐちゃぐちゃの口元の唾液を拭うこともせずだらだらと垂らしっぱなしにしている。

 完璧に整えられて理路整然とした姿と対極にあるのに、今までの華怜の中で一番美しい――――竣の隆起した一物に何かが当てられた。

 

「動くな」

 月光に輝くそれは何度も二人を傷付けたナイフだった。

 尻の方から取り出すのを確かに見た。

 ショーツにコンドームとナイフを隠しているなんて、性と暴が同居している華怜らしかった。

 

「まさかいまさら嫌だなんて言わないよね」

 華怜が口元から好き放題に流れている粘ついた唾液をパンツに垂らすと、布地が中身に張り付き分かりやすく形が浮かび上がる。

 こんなにも熱い液体を口から流し込まれていたなんて。恐怖よりもその興奮のほうが強く、全く縮み上がらなかった。

 というよりも、恐怖なんてもう全く感じていなかった。

 君は知らないだろうけど、いま俺は君が死ねと言ったから死のうとしたんだ。

 

「華怜の為なら死んでもいい!」

 絶対に生き残ってやると思っていたのに、たった90日で心の全てが変わり果ててしまった。

 華怜の願いを、欲望を叶えるためならこんな身体も命もいらなかった。

 だってもう、華怜の記憶の中に残っているから――――月よりも無慈悲に笑った華怜がナイフを振り上げた。

 

「あ……」

 血が飛び出て耐え難い痛みが襲ってくると思ったのに。

 華怜はその場でくるりと回って教室の壁に向かって思い切りナイフを投げていたのだ。

 回転したナイフは偶然にも刃の部分から当たり、もう意味をなさない大学偏差値ランキングのポスターに突き刺さった。

 

「あーあー……あーあーあ……」

 しなやかな身体を猫みたいに伸ばして大あくびをしながら華怜は薄暗い教室に入っていく。

 そのままひっくり返った机の山に腰掛けて思い切り背筋を伸ばした。華怜は女王だった。たとえ世界が変わってしまっても。

 大きく伸びをした華怜は今まさに永遠の中の一瞬と言っていいほどの完璧な身体をこれでもかと見せつけてくる。

 垂れた唾液は身体を伝って輝いており、少し汗をかいた腋に伸びきって縦になった綺麗な形の臍、身体の動きにあわせて弛む胸。

 竣の目には眩しすぎた。

 

「目を逸らすな! もうすぐ竣のものになる身体でしょう?」

 こんな世界だからこそ、私以外の何も見ないで――――そんな主張が見え隠れする言葉。

 ずれたブラ紐を直した華怜は、ピアスが出るようにサイドを纏めていたヘアゴムを乱雑に外して投げ捨て、丁寧に梳かれていた髪を額からぐちゃぐちゃにかき乱す。

 そして股ぐらに腕を突っ込み百獣の王のように警戒心ゼロでもう一度大あくびをした。

 

「ねぇねぇ」

 その言葉通りに指をくいくいっとしてくる。

 もう誰もいないのだからそこで話せばいいのに、と思いながら近づくと華怜は腕を差し込んで閉じていた脚を広げ、そのまま広げた股間を指差した。

 

「!!」

 そこは色の濃いタイツの上からでも分かるくらいに濡れていた。

 竣だって未だに勃起収まらないくらいなのだから、華怜だってそうなってもおかしくない。

 ただ、男と違って言わなければ分からないのにわざわざ教えてくるなんて。

 

「なんでかな?」 

 

「し、知らない!」

 それだけでは飽き足らず、びりぃっとタイツを破きクロッチをずらそうとしたところで限界を迎えて目を逸してしまった。

 唐突にそんなものを見せられたらきっとショック死してしまう。二人しかいないがゆえに静かな世界で、『ぬちっ』と何をしたか聴覚だけで分かってしまう音が鳴った。

 

「あー……すごい。こんなになるの初めてだなぁ。なんで?」

 

「知ら――――」

 

「なんであたしたちだけ普通なの?」

 

「え?」

 華怜は突然核心に触れた。

 視線を戻すと、至って真面目な顔の華怜がそこにいた。

 

「この世界で、あたしたちだけが『普通』を覚えている」

 

「あれ……なんで……?」

 崩壊する世界を止められなかったのは、誰も騒がなかったのは。

 世界も自分も変わっていることにすらみんなが気が付いていなかったからだ。

 そんな中で普通の世界を基準にして変わりゆく世界を見ていたのは竣と華怜だけだった。

 自分たちにはどうしようもない――――華怜は前にそういった。

 大嘘じゃないか。どうしようもないどころか、これは恐らく自分たちが当事者に違いない。

 混乱する竣を見て薄く笑った華怜は『うちにおいで』とだけ言った。

 

 

 

******************************************

 

 

 曇りの夜なのに黄金の月の周りだけ雲が一切ない。

 こんなにおかしな世界で人間の作り上げた文明の利器であるバイクがまだ動くなんて事自体不思議だった。

 

「!」

 

「うぉお!!」

 道のど真ん中で何かのグロテスクな死体を発見して急ブレーキをかける。

 不気味なのは、その死体がぐちゃぐちゃと音を立てていることだ。

 

「高島……?」

 そこで解体されていたのは豚だった。そばに王冠が落ちている。

 この場所で何かに殺されたのだ。

 

「知り合い?」

 

「いや……――――!」

 犯人は高島の臓物の中に埋もれていたのだ。

 けたたましい笑い声を上げながら血の中から飛び出してきたのは4歳位の黒い帽子を被った少女だった。

 豚野郎、お前子供に殺されたのかよ――――なんて突っ込んでいる暇もない。

 

「きゃはは――――!!」

 少女が玩具のように引きずり出した腸が見る見るうちに固まって銀色の大剣になった。

 幼稚園児が木の枝を振り回すように、身の丈に合わない剣をぶん回すと直線上の家が真っ二つに斬れ雲まで裂けた。

 

「逃げろ!!」

 害意しかない視線が二人を射抜く。

 大剣が振り上げられる前にバイクを転回させて大急ぎで逃げる。

 とうとう自分たちを殺そうとするモノに出会ってしまった。

 分かってはいたことだが、もうこの世界に安全な場所などどこにもない。

 それなのに華怜は顔面蒼白の竣と違って割りと平気そうなまま竣を先導し霊九守邸に向かった。

 

 

 冗談みたいな大きさの家。

 小さい頃から何度もこの道を通ってはこんな家に住む人ってどんなんだろうと思ったものだ。

 まさか自分がその家に足を踏み入れることになるなんて。

 

「これね、父」

 

「父って……」

 玄関の入り口に素人目にも純金だと分かる狸の像があった。

 父がどうのと言う前に生物じゃないじゃないか、と言おうとすると華怜が像を小突いて倒す。

 

「…………」

 だが、像は竣がまばたきをした瞬間にまた無言のまま直立していた。

 最早生き物なんだか無機物なんだかすら分からない。だが竣が靴を脱いで上がると目玉だけが竣を追っていた。

 

「燈はね、なんか脚が三本ある烏になってどっか飛んでっちゃったし、使用人はみんなおかしくなっていなくなっちゃった」

 

(そんな……)

 家族ってもっとお互いを尊重して大切にするものじゃないのか。

 こんなに淡々と変わってしまった家族のことを語れるものなのか。

 動揺しながらも廊下を行く華怜に着いていく。

 

「ここ、あたしの部屋」

 

「……和室なんだ。意外……いっ!?」 

 本棚の前の座布団の上でゴン太が鼻提灯を揺らして寝ている。

 だが、明らかにおかしいのはあの日2本だった尻尾がどう数えても7本あることだ。

 

「なんだ!? ゴン太!? お前も変身しちまったのか?」

 大騒ぎする竣を片目だけ開いたゴン太がうるさいな、と言いたげな目で見てくる。

 獣にこんなことを言うのも変だが、理性の光がある。

 華怜はただ黙って見ている。

 

「おいで……どうしたんだ一体……!? ない! ちんちんがない!?」

 眠たげにこっちに歩いてきたゴン太はもう小学校卒業直前の子供くらいの大きさがある。この前まで赤ん坊だったのに。

 そして抱き上げてまた衝撃を受ける。ちんちんがない、と言ったが性器そのものがないのだ。先天的に無いなどではなく、白く輝くこの獣はまるで神のようなアンドロギュノスに思えた。

 

「……その上、ゴン太は排便もしない。なんでもよく食べるけどね」

 

「あ……?」

 今の口ぶりはこの世界が変わる前からそうだった、と言っているかのように聞こえた。

 だとするならば、ゴン太は変身するまでもなく化生の者だったということになる。

 

「ねぇ、竣。ここ一週間くらいでいいんだけど。お腹は空いた? 喉は乾いた?」

 

「あれ…………?」

 訊ねられて初めて思い返す。最後に食事をしたのは一昨日のたこ焼きじゃなかったか?

 水なんかその日に帰ってうがいをしてから口にしていない。

 

「病院で10時間以上寝てたのにトイレに行こうともしなかったよね」

 

「……知っていたのか」

 学校で小便をさせる行為の前に言っていた言葉。

 あれは勘などではなく、自分もそうだから、そして竣がそうなったのも知っていたからこその言葉だったのだ。

 

「あたしは三日前から何も食べてない。死んだはずの燈の母がいつの間にかこの世界にいた、平然といた」

 食事も水分補給も排便も必要ない。死んだ人間もこの世にいて、物理法則は捻じ曲がっている。

 この世界を包み込む混沌がゴールの一つにたどり着いてしまったのだ。

 

「生死の境目が……」

 

「ぶっ壊れたのね」

 まさか龍に願わずとも不死を手に入れられるなんて。

 不死、というよりは死すればあの世に行くはずの魂がそのままここに残りまた姿を変えるということなのだろう。

 死人は蘇りこの世の者は変身し、天国地獄現世が混じり合ったカオスの世界が生まれた。

 

「……狐憑きって知っている?」

 当然、そんな言葉を聞けば視線はゴン太に誘導される。

 緊張感の無い奴だな――――座布団の上で腕枕をして寝息を立て始めたゴン太を見てそんなことを思ってしまう。

 視線を戻すと華怜はコートを脱いでいた。いや、それは自室なのだから当然だ。

 だがその下は下着だと分かっているのだろうか。破けてしまったタイツをゴミ箱に捨てて、5秒もあれば裸にひん向ける姿になってしまった華怜から視線を外す。

 

「狐に憑かれた人のこと……だよな」

 

「そう。霊九守の家に生まれた女は更に厄介な体質……狐寄せと言われた。それ、机の上のやつ読んでおいて」

 

「狐寄せ? 読んでおいて?」

 言葉のまま狐を寄せ付けてしまう人間のことだ、と示すように襖を開いた華怜にゴン太が着いていく。

 そんな格好で何処へ行くんだろう。

 

「お風呂入ってくる。身体汚れちゃったし」

 

「ちょっとそんなことしてる場合――――…………マイペースだな……」

 絶対自分の反応の方が正しいと思うのに、どうしてああものん気というか無為自然でいられるのだろう。

 ゴン太と一緒に風呂に行ったのだろうが、足音が聞こえなくなってしまった。どれだけ広い家なんだ。

 

(…………)

 机の上の汚い紙とA4の紙数枚なんかよりも華怜が脱ぎ捨ててまだ温かいはずのタイツに目が行ってしまうのは年頃の男子だから仕方のないことだ。

 こんな世界だが、こんな世界だからこそ今のうちに欲望のままに生きてみたい。

 手にとってみたい。匂いを嗅いでみたい。顔を埋めてみたい。洗って破けたなんていうB級品ではなく、一日穿き倒して汗と愛液に濡れたS級品だとこの目で確かめた。

 だがそんなことをすれば間違いなく華怜に即座にばれるだろう。華怜のことだ、自室で竣が悶々と悩むことすらも想定しているのかもしれない。

 もしもこのタイツを手にとったことが知られた時、どんな顔をするのか――――

 

「……やめておこう」

 華怜は自分をどちらの意味でも信頼している。ならば、人間的にマシな方の信頼に答えたかった。

 やっぱり変態じゃないか、なんてこんな状況で言われたら逃げ場所もない。

 それよりもやれと言われたことを華怜が風呂から上がるまでにすべきだ。

 

「……霊九守家の歴史……か?」

 古典はかなり得意な方だがそれでも読み辛いのは中々教科書や問題で出てこない単語が使われているからだ。

 だが華怜の走り書きメモのおかげで何が書いてあるかの大筋は掴める。

 

「なるほど……狐寄せ……」

 昔、霊九守という名前でなかった頃から一族に生まれた女は狐に取り憑かれて発狂し死んだという。

 獣憑きというのは狂犬病の別名だとどこかで読んだ記憶があるが、こうまで世代を超えて女児ばかりが死ぬならばなるほど、そう結論付ける理由も分かる。

 

(……何故昔の人間はこんなにも……)

 怪奇の存在を当然のものとして受け入れているのだろう。

 神事はまだしも、妖怪や呪いの話までもしれっと書いてある。

 源氏物語にすら恋のライバルを呪い殺した人間が普通に出てくるあたりに科学の発展以上の何かを感じてしまう。

 そして実際に、たったいま世界はおかしくなっているのだから、間違っているのは――――あるいは何も分かっていなかったのは科学の方で、正しかったのは今の人間に見えないものを見ていた昔の人間なのだろう。

 考えてみれば当たり前だ。科学が全てを解き明かしたなんて傲慢が過ぎる。宇宙の95%は人間に観測できていない物質とエネルギーで満たされているというのだから。

 

「……絶へず出ずる災ひ世を惑わしたり…………」

 怪奇怪異、そして災いと呪いはこの星最大の生き物である地球から止めどなく吹き出していたのだという。

 『続日本紀』に由来するという大雑把な日本地図の絵もある。華怜のメモ書きを見ると元号は天平と書かれていた。つまり軽く1000年以上前の地図だ。

 そこにいくつもの小さなバツ印と巨大なバツ印が一つある。

 

(! この街じゃないか……?)

 雑な日本地図にグラウンド・ゼロだと言わんばかりに記された大きな×は気のせいじゃなければ丁度この街がある場所に置かれている。

 一体何を示しているマークなのだろう――――なんて悩まなくてもすぐに分かった。

 

「溢れる混沌か!」

 書かれていることをそのまま読むならば、民を惑わすあやかしに対抗するため、征夷大将軍である源頼朝に時の天皇が己の名の下に命じたのだという。

 世に安定もたらすべし、と。そして場所も老若男女も問わず、今でいう霊能力のある人間は動員され地球の罅とも言うべき災厄の溢れ出る穴を塞がせたのだという。

 時には異国の大陸から運んできた封魔の道具で。時には高僧百人の命を捧げた封印の札で。

 記されている道具の中には草薙の剣など、歴史がそんなに得意ではない竣でも聞いたことのある道具の名まである。

 だがそこまでしても、一番巨大な穴はどうしても塞がらなかったのだという。

 

(……おとぎ話だな)

 華怜と全く同じ感想を抱きながら読み進めていく。

 曰く、最早地獄そのものであるその穴は、普通の人間は愚か相当の霊能力を持った人間だけでも近付くだけで発狂し変身してしまったのだという。

 他の穴を封印できたとしても、そこをなんとかしなければ結局溢れた混沌は日本全土に広がっていくのだから意味がない。

 世代を超えて受け継がれる禁忌の地は歴代の征夷大将軍及び天皇の悩みの種であった。このままではどれだけ上手く国を収めようと、待ち受けるのは羅刹国なのだから。

 そして時は流れ崇徳天皇の呪いが日本に襲いかかり、ある時を境に消えて無くなる。

 讃岐に確認に行った坊主の見たものは――――

 

「……ああ……そんな……」

 荒れ果てた貴族の流刑地に孤独な王のように座す、白い毛皮を持つ九本の尾の狐だったのだ。

 どこからやってきたのか、その狐は崇徳天皇の生み出した瘴気をもただそこにいるだけで吸い込み、地面から生まれた亡者を触れることもなく浄化させる。

 人間を脅かすあらゆる怪異怪奇を触れただけで打ち砕き、好んで食す。

 神話の時代から求められていた絶対的な退魔の力はあやかしが持っていたのだ。災厄を打ち払うためになんとしても、なんとしても人間が手に入れたい力が!! 

 …………狐寄せの体質を持つ娘がその場に送られた。

 

「…………」

 竣の想像の中で、会ったこともないその娘が華怜の姿をしているのは仕方のないことだった。

 たった八歳の娘は世界で一番信頼していたであろう親に命じられて一人、異形のモノ渦巻く山へと九尾を連れて入っていき地獄の穴へと身を投げた。

 そして一族はこの地に移り住み、『九尾の霊を守る一族』――――霊九守の名を授かった。

 九尾の妖狐は現代も語られ、数多くの作品で最強の妖怪として登場している。

 だが事実は、人を脅かす存在とは真逆の救世の神だったのだ。

 またまたこんな作り話を、なんて言えるはずがない。

 首元を伝う汗を拭うと乾いた華怜の唾液が粘ついていた。

 

(続きは……)

 もしも放置したのならば、際限なく出続ける混沌は世界を包み込み人々も動物もあるべき姿になり、心を忘れやがて白痴を迎えただろう、と。

 あくまで予想で書いていたらしいが、今の世界を見るに当たっている。

 日本だけの話しか書いてなかったが古紙の後半、1800年代に入ってからは世界の似たような事実についても少しだけ書かれていた。 

 中国で、エジプトで、アメリカで、イギリスで、ありとあらゆる場所で人間の作り出す秩序と自然のもたらす混沌の戦いがあり、人は勝利し混沌は封じ込められたと。

 そして人間は地上に取り残された化物共を狩り尽くし、文明の光が世界を照らした。

 

「やがてって……あっという間になっちまったじゃねえか……」

 数百年抑え込んでいたのが一気に飛び出したんだからそうなるのも当たり前か。

 今にも爆発しそうな量の毒液の入ったボンベにいくつもの穴が空いていたとしよう。中に入っている毒液は次から次へと気化し毒ガスとなり溢れ出てくる。

 そのボンベにガムテープをぺたぺたと貼り付けて修繕し、外に漏れ出した毒ガスを浄化して部屋は綺麗になった。

 だが一箇所のガムテープが剥がれるだけで全てのテープは無意味になる。むしろ今まで抑えられていた分、そこから強烈に噴出することになるだろう。

 

「なんて、こんな話をどう信じろって――――」

 

「信じられない? でも世界中に言葉が生まれる前からも、たとえば壁画や像として人は残してきた」

 扉の開く音が聞こえなかった。

 後ろにいつの間にか頭からほくほくと湯気を出す下着姿の華怜と、やっぱり眠たげなゴン太がいた。

 白と桃色の清楚なイメージが先行するような下着なのに、華怜が身に着けているとそれだけで極限まで色気が溢れている――――なんで普通に下着で戻ってくるんだ。

 タイツをいじくってやらしいことをしなくてよかった。この感じだと絶対自分がパンツを降ろしている時に部屋に戻ってきていただろう。

 

「空想の産物だとされていた彼らは本当に全て人間の妄想が生み出した物だったの? 世界中にあんなにあるのに全て? それこそあり得ない。消されて、忘れ去られたんだ。本当の禁忌は語られずに人々の記憶から消えていくものなのね」

 

「だとしてもこんな、混沌の溢れ出る穴を塞いだなんて話――――」

 

「よく記憶を巡らせてみなさい。世界のいたるところにそんなおとぎ話や伝説があったはず」

 いやこんな話初めて聞いたよ、と言葉を返す前に落ち着いて考えてみる。華怜がそう言うからにはデタラメではないはずだ。

 押し込められた災厄。開いて飛び出すのは混沌。そんな話なんて――――

 

「パンドラの匣……!」

 ○○はパンドラの匣だ。彼はパンドラの匣を開いてしまった。

 なんて、島国の日本人でも好んで使う表現なくらいに知られている。

 もちろん神話の全てが本当だとは思わないとしても、事実を元に肉付けした話だとしたら。

 

「開けちゃったみたいね。あたしが。……結構簡単な鍵なのね」

 

(簡単なもんか!)

 確かに華怜にとっては山に入っただけで封じられていた妖狐を呼び寄せてしまったのだから簡単どころか勝手にという感想だろう。

 だが、女児は生まれ次第殺されていたのが事実ならば17年前までその鍵は存在すらしなかったのだから、簡単なはずがない。

 家や国を傾けるのは常に女であると賢者は言った。

 だが、ここにいるのは傾国の美女をも超えた世界を崩壊させる者なのだ。

 

「……穴の奥深くにあった九尾の魂はあたしに引き寄せられ、転生体が生まれた……」

 毛の奥にまだ残っている水分が気になるのか身体をぶるぶると振っているゴン太は確かにまだ子供だ。

 だが、他でもないこの幼狐の影響で自分たちは避らぬ変身を免れあまつさえ変わりゆく世界に気が付いているのだから、その力は伝承と違わず本物だろう。

 

「ま、結局そこまでして封印に成功しても、その後人間同士が争っているんだから無意味って話よね」

 敷きっぱなしにしてあった布団に身を投げた華怜の無防備さを極力頭から追い払い、言葉の真意を考える。

 理性ある人間を変身させて化物共が出てくる穴をなんとか全部塞いだ室町時代。地上に残ったあやかしも徐々に徐々に駆除されていき日本は人間の国になった。

 しかし訪れる南北朝時代、戦国時代――――誰もが知る日本全土で血が流れた時代は、他でもない人間の手によってもたらされたのだ。平和を求めて混沌を消し去ったはずの人間の手で。

 

「…………」

 どの国もそうだろう。たとえば魔術なんてものがあったのかどうかは知ったことではないが、魔女狩りで平和は訪れただろうか。

 正義と平和を求めて戦うという矛盾にどうして人間はいつまで気が付かないフリをしているのか。

 こんな終わってしまった世界の上で少年が考えても仕方のないことだった。

 

「あんたもお風呂入ってきたら? 身体汚れているでしょう」

 

「そんなのんびりしていていいの?」

 

「何を慌てることあるの? 誰か急かす人でもいる? 水道なんていつまで使えるか分からないんだから」 

 

「…………」

 

「出て左に行けば電気付けっぱなしのところあるから分かると思う」

 華怜は話を打ち切りタンスを開いた。服を着ていると細身に見えるのに、前かがみになるとやはり女の子だからかお尻が大きい。白地に桃色の刺繍が入った下着が尻の形を強調するかのように皺が入っているのが生々しい。

 衝動的な欲望を努めて抑える。どうしてこうも――――まるで竣は絶対に手を出さないと確信しているかのように無防備だ。

 着替えるからさっさと出て行け、と言いたげな目で睨まれた竣は逃げるようにして廊下に飛び出ていった。

 

 

 色んな液体がかかって乾き、パリパリに固まったパンツを脱いで風呂に入る。

 ワガママを言えば着替えが欲しいが仕方ない。タオルってもしかして、ここにかかっている生乾きの――――華怜が使ったものを使うのだろうかと考えて悶々としてから風呂の扉を開いた。

 

「広っ……」

 洗面所だけで竣の寝床より広かったのに、その三倍の広さがある。

 シャワーは3つあるし湯船なんか軽く8人は入れそうな上に二つある。

 

(……ゴン太も風呂に入ったんだな)

 軽くシャワーで身体を流し、湯船を見ると白い毛と亜麻色の髪の毛が浮いている。

 のろのろしていても仕方ないので一気に入ると湯船から華怜の匂いが湧き上がった。

 しかし水を手で掬って鼻を近づけても何のにおいもしない。風呂場全体に振りまかれた女の匂いはどこに染み付いたものなのだろう。

 普通なら、女の子がさっきまで入っていた風呂に入っているという事実にいてもたってもいられなくなるが、残念ながら今の状況でははしゃぐことも出来ない。

 

「パンドラの匣……」

 あくまで他に知っている例を挙げるならば、ということだ。

 だが一般に知られているパンドラの匣は本来の神話とは異なっている。

 パンドラの匣を開けたら混沌が飛び出す、というのはよく知られている部分だし正しい。

 違うのは、その匣は既に好奇心旺盛なパンドラの手によって開けられて中身が一つを除いて飛び出しているということなのだ。

 開いたが最後、この世のありとあらゆる災厄が飛び出しパンドラは慌てて閉じた。

 最後に匣の中に残ったものは何なのかということを普通の人は知らない。だが竣は偶然にも知っていた。

 そして、古文書に書いてあった通りならば、事態を収束させるには――――

 

「行かなくちゃ……」

 狐寄せの少女と、それに引き寄せられてしまった九尾の妖狐の不完全体が世界を破壊した。

 世界がこうなったのは立入禁止の場所に華怜を連れてしまった自分が原因なのだから。

 

 

 

*************************************************

 

 

 抑え込まれていたモノが解放されて世界が生き生きと脈を打っている。

 全てがあるべき姿に生まれ変わるカーニバルの夜がたけなわを迎えた。

 

「やばいやばい、あれはやばい……!」

 真っ白い満月に龍が飛んでいく。宇宙にまで飛ぼうというのかと思った時、いきなり中心が裂けた月から伸びた肉肉しい舌が龍を捕まえ飲み込んでしまった。

 デザートなのか、雲を舐め取って空を綺麗にしている。

 見ているだけで遠近感まで狂って頭がおかしくなりそうだ。

 世界が脈打つリズムと同調して裂け目の周りに黒い線が浮き上がり、血管のような形になった。

 誰も慌ててないからまぁいっか、で済ませられる段階はとうに超えてしまった。

 

「急ぐぞ!!」

 バイクから飛び降りた竣は背中に背負っていたゴン太を地面に降ろし華怜の手を引いて山へと入っていく。

 竣にしては非常に珍しく自主的に動いているその背中に華怜は黙って着いてきていた。

 

(分かる……クソっ、なんで気が付かなかったんだ)

 ここまで来ると明らかだ。頭が、人間性や理性が引っ張られる感覚がする。

 握っている手を離した瞬間に狂ってしまいそうだ。竣には想像もつかない強力な霊能力を持った人間までもが変わり果ててしまったという地獄の顕現に近付いているのだ。

 

「……どっちに行けばいいんだこれは」

 とりあえずいつも天体観測している場所まで来たが、そこまでだ。

 ゴン太はこの場所まで華怜に引き寄せられて来たのだから、彼に訊くしかないがもちろん話せない。ただ値踏みするかのような目で竣を見ている。

 スマホの光で照らしても木々が生い茂るだけで何も分からない。

 

「こっち」

 

「こっち……?」

 狐寄せとは言うが、それ以外はなんの能力も無いはずなのに迷いなく華怜は進んでいく。

 そこには人が一人通れるくらいの獣道があった。

 

(……刃物で切った痕跡じゃないか)

 中途半端な長さの枝はよく見ると鋭利な何かでつい最近切られた断面があった。

 となると、華怜は――――

 

(昨日来たの?)

 用事があるから会えないと言っていたのは、ここに来たからか。

 ならばどうして、わざわざその日は引き返して竣を連れてきたのだろう。

 どうしてそこだけは歴史をなぞらないのだろう。確かに竣も原因の一つではあるが。 

 

「……俺たちが世界をこんなにしてしまったなんて」

 

「違う。確かに鍵を壊しはしたかもしれないけど……あたしが前に話したこと覚えている?」

 

「この前?」

 草木を掻き分け進んでいく。脳みそが引っ張られる感覚がどんどん強くなっていき、もう目を開かなくても方向が分かるくらいだ。

 

「至高の芸術品もいつかは朽ちて、美しい花は枯れ、星は砕ける。この世界は放っておけば崩壊に向かうはずなのだと。それが自然なのだと。混沌こそがこの世界の向かうべき道。だとするならば――――」

 

「……ゴン太が正しく混沌そのものと言うことか」

 真っ直ぐ進むことにすら苦労している人間を7つある尻尾で遊びながらこちらを見てくるゴン太は、そこにいるだけでどんどんと瘴気を浄化している。その浄化というのも常識に囚われた人間の視点だ。

 世界の向かうべき道は生死までもが入り混じり生まれた理性すらも消える混沌、それが『自然』。だがその自然をただそこにいるだけで全て破壊し尽くしているのだから、九尾の妖狐は真の混沌と言えるだろう。

 最強の名に恥じぬ化生の者だ。

 

「世界が向かうべき道……昔の人はこの『普通』になっていく世界に何も思わなかったのかな」

 

「恐らくその時はまだ理性や秩序を混沌は飲み込んでいなかったから、なんとか食い止めようとしたんでしょうね」

 華怜がぺきっと枝を地面に放ると、地面に落ちた枝が細かく震えて小さな蛇になり山奥へと消えてしまった。

 こうなることに、昔の人間はまだ違和感を持っていた。

 いや、これはおかしいのではないか――――と。自分たちのような理性ある人間が生きる世界ではないと。

 だが、封じ込められていた混沌は解放され爆発的に混じり合い違和感を感じる前に融合を果たして『自然』となってしまった。

 

「なら……なら……あの日見たあれが……俺の本当の姿……」

 空を見上げると月に開いた裂け目の中にも血管のような山脈が浮かび上がっている。

 あれは眼だ。旧態依然としていた世界崩壊を見届ける上位者の眼。

 

 頭が酷く痛み光の中へ引っ張られる感触がする。感覚、ではなく腕を引っ張られる感触だ。

 引っ張られていた腕を見ると肘より先の皮膚が乾いてひび割れておりとても痒い。

 少し剥がれている左手の指の皮膚をめくると血が出てきた。

 右腕はもっと酷かった。剥がれた皮膚はまるでゆで卵の殻のように少し浮いてしまっている。

 もう全て剥がした方がいいに決まっているが、少し間違えば健康な部分まで剥がしてしまい大量に出血するだろう。

 かといってためらって途中でやめて壊死した皮膚を千切るのも怖い。

 放っておくのも出来ないくらいに痒み傷みが酷い。

 エアダスターが落ちていたので拾って、フロンガスを皮膚の下に吹き付けて剥がそうとすると、乾燥してガサガサの皮膚が浮いてその下から湿った新しい皮膚が見えた。

 見なれた黒子の位置まで同じだ、やはり剥がさなければならないがガスが吹き付けられるだけで痛むこの肌を空気に晒さなければならないなんて。

 

 それよりも、いつの間に入り込んだのか。

 壊死した皮膚と新しい皮膚の間に人工的な何かがある。

 敏感な新しい皮膚に痛みを感じさせないように小指でそっと突っつくと、それはプラモデルのパーツの枠だった。

 ガキの頃に施設の子供が作っていたのを羨ましく見ていたプラモデルの欠片が入り込んで俺を壊していたのか。

 

 取り出そうとすると目を背けたくなる事実に気が付く。プラスチックのバリには無視できない量の砂が張り付いている。

 当然、湿った新しい肌にも付着し鋭い痛みを突き付けた。痛みが指の細かい動きを失わせて、更に皮膚の奥に潜り込ませてしまった。これではもう取れないではないか。

 嫌な記憶をずっと形として身体に埋め込んでいかなければならないなんて――――人生最大級の鳥肌から灰色の毛が生えてくる。

 絶叫し、もはや自分の腕とも思えないその腕を振り回すと大木がへし折れ吹き飛んでいった。

 

「!!」

 汗ばんだ肌を急速に冷ますような冷たい風が吹いている。

 右手が華怜に掴まれてゴン太に触れさせていた。

 まるで悪夢のように支離滅裂で自分のコントロールが出来ない世界にいた気がする。

 近付くだけで発狂する――――左の方を見ると木が折れて遥か遠くの崖に突き刺さっていた。

 世界中の人間がこんなことになっているのか。

 自分が自分であることも忘れ、意識は幻の世界に、身体は現実の地獄の世界で彷徨い続けている。

 

「そりゃ……こんな世界……阻止するわけだな……」

 昔の人々は身近な人間が変身して発狂していくのをずっと見続けてきたのだろう。

 生贄の一人や二人捧げてでも止めなければならないと心に決めるのも当然だ。

 

「本当にそう思う?」

 

「だって、こんな……いま俺は自分がどこにいるのかも分からない悪夢の中で暴れていた。誰かがこうなるなら、明日突然隣人が変身してしまうなら、止めるだろう?」

 さてどう説明したものか、と考えているような顔で竣の手を離す。

 華怜が破滅主義者、半ば狂人であることを竣は知っているが、それ以上に華怜は普通の感覚も知っているからこそ学校で常に無表情で自分を出さなかったのだ。

 説明も何も、こんなの納得させようとする方がおかしい。

 その間からも山の奥からはざわざわと獣のものとも鳥のものとも分からない本能を刺激する音が届いていた。

 

「あたしと燈は別に普通の仲だった。小学生の頃には少しだけ一緒に遊んだりもしたわ」

 

「…………」

 八咫烏になってどこかへ飛んでいってしまったという兄の話を何故こうも平然とした顔で話せるのか。

 竣には分からなかった。

 

「チェスをやっている時に燈が言ったの。一番偉いのは誰だ、って。当然あたしはキングを指差したわ」

 

「なにを当たり前のことを……」

 どちらともなく前へ前へ、地獄穴に向かって進んでいく。

 最早教えられなくてもどこからこの瘴気が来ているのか分かる程度に濃かった。

 

「……でもそれは違った。竣になら分かると思う」

 恐らくは知識の問題を言っているのではない。

 自分の生まれや育ちを指して、竣ならば分かると言っているのだろう。

 最悪な生まれ、最悪の育ち、最悪な世界で這いずり回りながらなんとか生きてきた。

 富める者は更に富み、貧するものは更に窮し、ぽんと100万円の買い物をする高校生と時給900円のバイトで口糊を凌いでいる高校生が同じ場所で生きている。

 気持ちが悪くて生きにくい『平和』な世界だった。

 

「ここ」

 

「…………俺が……」

 たどり着いたのは石を蹴飛ばせば転がり落ちていくくらいには急斜面の洞窟だった。何重にも奥に奥に続いている紙垂のかかった注連縄は全て千切れて朽ち果てている。

 闇、瘴気、狂気がその底では凝縮され冥界のように薄暗く光を放っている。見ているだけで気が狂いそうだ。こんなもの、ちっぽけな人間にはどうすることも出来るはずがない。

 圧倒的な絶望、津波や地震も下らないほどの超自然。竣は全身から力が抜けてその場に膝をついていた。

 自分はなんてことをしまったのだろう。普通に犯罪行為に加担し、普通に盗みをして、立入禁止の場所に普通に入って生きてきた。

 やるなと言われていることをし続けたツケがこんなにも大きいなんて。

 だが仕方が無いじゃないか。まともに生きていくことが出来ない人間は、多かれ少なかれルールから逸脱して生きている。

 だってそうでもしないと生きていけないほど、この世界は歪なルールで出来上がっているから――――

 

「……盤の製作者。チェスのルールを作った人」

 生まれた時から感じていたことがそのまま、華怜の質問の答えだった。

 やってはいけないこと、やるべきことを決めた人間は誰なんだって、こんな世界を作ったのは誰なんだってずっと思っていた。

 

「キングもルールに従っているだけだ。支配者は、ルールを作る者だったんだよ……」

 いかにもこの国の支配者らしい教育ではないか。

 たかがボードゲームを通じてこの世の真理を教えるなんて。

 支配者たるもの、従うのではなくルールと世界を作る側に回るのだと。

 

「……きっと、その時の一族の当主は泣く泣く世界の為に娘を行かせたんじゃないと思うの」

 

「秩序が、このままの世界の方が都合がいいから! 殺したんだ!!」

 

「…………そうね」

 支配する側にとって統治しやすい世界を保つ為に娘を差し出し、生まれる女を全て殺した。

 それが事実かどうかなんて、この国の経済を霊九守一族が支配している今を見れば疑うまでもない。

 気持ちの悪い平和も秩序も支配者の都合のいい形で意図的に作り出されたものだったのだ。

 きっとこの国だけでなく、この地球のどこもかしこも。

 本当に平和を求めているならば何故金を持つ国は己の支援している国に武器を送り紛争を悪化させる?

 何故すぐに仲裁せずに介入する企業までも決めて悪化するまで待つ?

 

「竣」

 

「…………」 

 洞窟の奥から吹きすさぶ風がまた竣を『自然な形』に作り変えようとする。もう華怜の声も耳に届かない。

 びきびきと身体中の骨と肉が動き、心の中に湖の底から沸く泡のように獣性が湧き上がってくる。もう、それでもいいのかもしれないと思ったのに――――

 

「大好き」

 あまりにも予想していなかった言葉が、悪夢に飲み込まれかけていた竣を現実に引き戻した。

 人間のまごころの言葉が竣を人間に戻したのだ。

 妄想はずっとしていた。華怜が自分の、自分だけのものになってその言葉を言ってくれたならと。

 きっと想像もつかないくらいに心は澄みきるだろう――――そう思っていたのに、竣は困惑するばかりで振り返って見た華怜は鉄のような無表情だった。

 

「なに、それ? なんでそんなことを言うの? 華怜? 華怜?」

 まるで最後に言い残したことのように口にした言葉。それもこんな場面、こんな場所、こんな時間に。

 そう、『時間』だった。止まった振り子のように華怜の手にぶら下がっていた腕時計は、シンデレラの魔法が解けたかのように0時ぴったりを指していた。

 

「三ヶ月」

 華怜の奴隷であった90日は、終わっていた。

 今この瞬間に立場は逆転した。あの短い針が二回りするまでは華怜の全てが竣のもの。

 ここで服を脱げ。愉快に踊れ。笑え。どんな命令だって従うだろう。

 竣が今までそうしてきたのだから。

 

「どうして……」

 やけにのんびりしているな、という感想は正しかった。このために、この場所に辿り着く時間に0時になるようにしたのだ。

 どうしてそんなことをするの。どうして最後にそんな言葉を渡して全てを丸投げするの。

 俺に何をしろと言うんだ。何を求めているんだ。この三ヶ月君の命令だけで動いてきたのに、いきなりここからどうすればいいんだ。

 卑怯じゃないか。話し合う時間はいくらでもあった。こんなの自分の一存で決めていい話じゃない。

 ああ、違う。

 華怜の全てを24時間竣にあげるという約束が本物だからこそ、彼女は自分に全てを任せたんだ。

 やっぱり違くない。華怜は本当に卑怯だった。

 分かっているくせに。そんな勇気がある人間なら、自分の全てを捨てても華怜の全てを手に入れたいと思った日に自分はその場で華怜を×××していた!!

 華怜の瞳が地面に手をついたまま泣きそうな竣を見下ろして闇に冷たく燃えていた。

 

『ヒーローになりたいと思ったことはある?』

 

「あ…………」

 どうしてか、いつも突発的な華怜の行動の裏側にある理由が急に理解できてしまった。

 あの日、世界が決定的に崩壊した日に送られてきた意思疎通不可能なメール。

 ヒーローになりたいか。英雄になりたいか。正義の味方になって、闇や悪と戦い世界を救いたいか。

 

(なりたかった! なりたかったよ!!)

 誰だってまともに生きられるなら生きたい。

 困った人を助けたい。弱い人を守りたいし、愛されて愛したかった。

 だけど世界がそれを許してくれなかったんだ。困っているし弱っていたのにどこまで行っても自分しかいなくて、愛なんかひと欠片も貰ったことが無かった。

 でもようやくそのチャンスが巡ってきたのだ。野良犬のような人生に世界の闇を開く栄光を手に入れる機会が。

 目の前にいるのは自分の言うことは本当になんでも聞くこの世界の鍵だ。

 

 飛び込め。

 そう言うのが『正しい』。

 その化け狐を抱いて飛び降りちまえと言うのが正しいんだ。

 混沌を元に戻すんだ。

 正義のために。

 平和のために。

 秩序のために。

 

 世界のために。

 

(世界……)

 施設の小さなテレビの前で、色あせた古着を着た子どもたちは身を寄せ合って見た。

 人質になった子供が勇気を出してみんなを救うために仕掛けられた爆弾ごと崖から飛び降りたんだ。

 でも、そこに正義のヒーローが飛んできて。

 誰かが犠牲になっていい平和などない、と叫んでその爆弾を引きちぎって遠くへ投げて。

 全てが円満に解決した。夕陽をバックにタイトルが流れてきて俺は気持ち悪さに泣いた。

 幼心に違和感しか感じなかった、血反吐が出そうなほどの偽善。

 世界、偽善、欺瞞の平和。人は自分の知っている世界だけで生きている。

 

 俺はいつだってヒーローを待っていたしヒーローになりたかった。

 だけど誰も助けになんか来ない。そして俺は所詮まともに生きることの出来ない獣だった。

 

 何度も正義は、偽善は、俺の存在の全てを踏みにじってきてくれた。だからこそ――――

 

「あぁ――――」

 貼り付いたような無表情は、その手を引くと薄氷がひび割れ中から溶岩が噴き出るような満面の笑みに変わった。熱く、熱く、涙が闇夜にきらりと出そうなほどに。

 その笑顔の意味を教えられる前に竣は華怜の手を引き穴に背を向けて走り出した。

 

 偽善よ、ありがとう。

 お前たちは正しい教育をした。

 本当にありがとう。

 お陰で俺は――――

 

「正しいことを選択できるよ」

 誰も犠牲にしない。こんなくそったれの世界の為に世界でたったひとつしかない『竣』と『華怜』を投げ捨てることなんてないんだから。

 

 竣は走った。つまずいてもまた走った。なんて、なんて清々しいんだろう。

 絶対にしなければならないことから、女の子の手を引いて逃げて逃げて、逃げ出した。ひたすら逃げて山を駆け下りた。

 我欲の果ての独善あるいは悪が、眼を見開く黄色い満月の下に二つ咲いている。

 妖狐は月に向かって遠吠えをしていた。ゴン太の鳴き声を聞くのは初めてだった。

 

 

 

 

****************************************

 

 

 全てが空き部屋と表示されているボードのボタンに拳を叩きつけると吐き出されるように鍵が出てきた。

 蠢く木の根がはみ出ている関係者以外立ち入り禁止の部屋の横を通り抜け、エレベーターを無視して階段を駆け上がる。

 一秒でも待つことが嫌だった。たった24時間しか無い。

 蹴破るように扉を開けて抱いていたゴン太を降ろす。

 

(ラブホテルって初めて入った……)

 大きなベッドは整えられており、想像していたよりもずっと綺麗な部屋だ。

 意味がないと思うが食事や飲み物、服まで注文出来るらしく初めて入った世界にくらくらしてくる。

 天井を見上げると天窓から口を開いた満月の中の眼球と目が合った。ああ、本当に逃げてしまった――――竣はいきなり華怜にベッドへ突き飛ばされていた。

 

「あたしは死にたくない。あたしは死にたくない! 永遠に!!」

 今にも涙が零れそうな顔で竣の上に乗ってきた華怜は自分のコートを脱ぎ捨て竣の学ランも剥ぎ取り理性のように床へ投げ捨ててしまった。

 そりゃ泣きたくもなるだろう。本当にそのままの意味で華怜は先程生死の境目にいたのだから。

 

「好き。好き!!」

 好きってなんだ。好きってそんなに心が引き裂かれるような顔になってしまうものなのか。もっと、幸せそのもののような形をしていると思っていたのに。

 ここまで来ても何をどうすればいいかも分からない竣の心を汲み取るように華怜はたっぷり熱の籠もった唇付けをしてくる。

 夢にまで見たこの瞬間、この時間。自分の人生はこのためにあった。

 舌を伝って口内に直接唾液が流し込まれてくる。美味しい、美味しい!

 今すぐに子供を作れと少年の脳内本能が爆発する。常識も理性もごっそりと削ぎ取るようにぽってりと肉厚の舌が口内を舐め取っていく。

 どうしてか、溶けて消えていく理性の中から小さな戸惑いが出てきた。

 この軽い身体を抱き寄せるためだけにある腕なのに、何故かそれが出来ない。

 

「……ぷあっ」

 鼻から出る呼吸までも混じり合い、酸欠になりかけたところでようやく唇は銀の橋を架けながら離れていった。

 だが唾液を拭い取ることもせず、ボタンが弾け飛んでいたYシャツを開いて華怜は首筋に甘噛みしてきた。

 

「うあぁっ」

 噛み付かれている、攻撃されているはずなのになんなんだこの未曾有の快感は。

 激しく痙攣した竣の腕に思い切り力が入り血管が浮かび上がった。

 綺麗なんてくそくらえ、ぐちゃぐちゃのしっちゃめっちゃかにしたいなりたい――――華怜の行動に全て感情が表れている。

 思い切り歯型を残した華怜は光る唇を肌の上で滑らせながら、傷付いた胸の奥にあるひび割れた竣の心に届けと言わんばかりに熱烈なキスをして真っ赤な印を残した。

 

「走っちゃったからかな、汗の味がする。でも、どうでもいいよね」

 

「……!」

 なんであんな状況で風呂なんだろう、とは思っていた。

 時間を潰す目的もあっただろう。だが真の目的はこのためだったのだ。

 0時を回っても自分が生きていたならこの少年と××××するのだから綺麗な身体にしておこう、なんて。

 想像だけで目の前に星がちかちかと散った。

 

「服、脱がさないの?」

 

「月が見ている」

 華怜のように欲望のままに服を剥ぎ取る勇気は出てこず、そんな言葉が出てくるばかりだった。

 本当にどうして勇気が出てこないのだろう。

 

「だからなに?」

 最早暴走は止まらない。

 ことごとく、最後の選択までもハズレを選んできた人生。

 だがそれこそが華怜にとっては正解だった。今までのハズレが全て正解にひっくり返ったのだ。

 さぁ、と手を取られ服に触れさせられる。

 脱ぎ捨てられた華怜のコートの上に横になり、眠そうな目で所詮下等生物である人間のまぐわいを見ているゴン太の尾は8本まで増え、白い毛皮の上に隈取のように赤い模様が浮かび上がっていよいよ神聖な存在になりつつある。

 

「こんなもん脱がし方分からねえ!!」

 妄想の中でどれだけ思い通りに動けても現実では童貞の竣に、制服ならまだしもこんなやたらめったらボタンが付いた複雑な服などスムーズに脱がせられる訳がなかった。

 夢の中ではなんでも出来たのに、現実ではその目で見つめられるだけで身体が痺れて何も出来ない。

 

「…………」

 何故か嬉しそうに笑った華怜は裾を掴んで乱雑に一気に脱いでしまった。

 弾けそうな程に甘い蜜が詰まった胸も、柔らかな曲線を描く腰も、全部が全部自分の物。

 

「そう、あなたのもの」

 竣に対する呼び方までも変えて理想の女の子を演じきろうとしている。

 徹底して夢の世界を作り上げている。

 

「しないの? なにも?」

 腕を広げて待っている。受け止めてあげるから飛び込んでおいでと言っている。

 90倍の濃度で24時間の内に自分の身体を使い切ろうとしている。

 

「おっぱい見たいなら見せてあげるよ。触っていいし好きにしていい。×××だって○○○だってひろげて中まで見せてあげる」

 綺麗な顔から笑顔で紡がれる卑猥な言葉がこの空間を更に非現実的なものにしていく。

 夢の中ですら、華怜はそんなことを言わなかったのに。

 

「◎◎◎も好きなだけしてあげる。初めてだからうまくやれるか分からないけど、△△も残さず飲み込む。この日がいつか必ず来るって知ってたから、心の準備はしてきた」

 もはや現実が夢を超えていた。竣の欲望と乱暴を全て受け止めてあげるなんて、あの高潔な華怜が言っているのだ。

 だからこそ、夢と現実の乖離は耐え難く――――

 

「そ――――」

 

「?」

 

「そんなこと言わないで……」

 竣はベッドの上で項垂れてぼろぼろと大粒の涙を流していた。

 竣が妄想の中で作り上げた華怜は気高く、美しく、完璧で、自分のようなゴミ虫には絶対に振り向かない――――のに、現実が竣の閉じこもっていた妄想の殻をぶっ壊してしまった。

 想像の崩壊と淫靡な囁きが心のバランスをおかしくする。華怜はそんなことを言わない、と叫んでしまわないようにするだけでいっぱいいっぱいだ。

 

「……綺麗でいてほしい?」

 

「俺、なんの準備もしてないや……この日が来るなんて夢だと思っていたから……」

 信じてはいたが、あんまりにも夢みたいな話だからどこか現実感がなくて掴めていなかったのかしれない。

 道具の準備もそうだが、それ以上に心の準備が全く足りなかった。

 

「準備なんて必要?」

 なんだって演じきってみせると言った華怜の瞳には隠しきれない期待が浮かんでる。

 カタルシスの解放を彼女も望んでる。今までの全ての行いが一日分に凝縮されて己の身に叩きつけられることを。

 

「お願い、待って」

 

「どうして? この日のために我慢したんでしょう? お金も時間も一体どれだけ私の為に使った?」

 

「そうだけど……」

 

「あなたの上で腰振って淫婦になりきればいいんでしょう?」

 

「そうだ。そうなってくれって……思ってたんだ……」

 

「さぁ、なんでも言って。竣は何をしたいの?」

 竣は受動的で華怜は能動的なのは立場が逆転しても変わらなかった。竣は自分から願いはなんですか、と聞いたことなどないのに華怜は今も溶けるほどの情愛を持って肌に触れてくる。

 人生を捨てた実験は成功したのだ。どんな人間も、たとえ悪虐に満ち満ちた女王でも全てを捧げれば手に入れられるのだ。

 

「したいよ。どろどろに××××がしたい。めちゃくちゃに犯したい。この日のために、この日を待っていたんだ。でもそれと同じくらい華怜を宝物みたいに、夢みたいに大事にしたいんだ……」

 もう自分でも何を言っているのか分からなかった。相反する二つの願望を叶えるなんて神様でも出来るはずがないのに。

 きっと、なんでも言うことを聞くという約束すらも華怜を大事にしたいという欲望から生まれたものなのだろう。

 一心不乱なまでに与え続けられた手加減なしの苛烈な行為は、むしろ全てが純粋な思い出のようにも思えて。

 透明なものには当然透明なものを返したくて。

 触れようとするだけで恐ろしくて震えてしまう。

 自分の透明がなんなのか完全に分からなくなってしまった情けない竣を見て、それでも華怜は全てを受け入れる聖母のように微笑み口を開いた。

 

「わたしはまぼろしなの」

 歌うように、ではなく本当に歌っている。

 どくんと心臓が揺れる。

 

「あなたの夢の中にいるの」

 その歌はあの日、禁足地で二人一緒に空を眺めながら聴いた曲だった。

 幼い頃に狂ったように聴いた、人生で一番好きな曲を華怜が細く高い声で歌っている。

 一発で歌詞を覚えたなんてそんなはずがない。

 

「触れれば消えてしまうの」

 華怜は本当に竣の理想になりきっている。

 そこに想いが無ければ出来るはずがない。

 きっとこの曲だってあの後慣れないCDショップで一人で買って、聴いてみたのだろう。

 ああ、いい曲だ――――彼はこんな曲が好きなんだな、と竣に想いを馳せながら。

 

「それでもわたしを抱きしめてほしいの」

 触れれば消えてしまう夢の中の幻。

 そうに違いない。今までのことが全部夢で、この瞬間に目が覚めてもただ泣くだけだ。やっぱりって。

 それでも抱きしめてほしいと言っているんだ。もしもこれが夢ならば覚める覚悟で。

 

「つよく……?」

 頬を伝って雨のように落ちる涙がシーツを濡らす。

 歌と混じり合った華怜の言葉を聞き終わり、竣は聞き返した。

 

「つよく!」

 

「つよく……!」

 瞬間響き合い心交わり、あらゆる感情を超えた忘我の果て。

 まぼろしでも、消えてしまうとしても構わない。ただひたすらに抱きしめたくて、竣は世界の全てを忘れて華怜の身体を抱きしめていた。

 

「やわらかい……」

 竣の腕が閉じる前に胸に飛び込んできた華怜は、同じくらいの背の高さなのになんて小さくて儚いんだろう。

 いい匂いで、どこもかしこもやわらっこくて、たまらなくて。

 なんでもできるというのに、ただただぎゅっと強く抱きしめて頭に鼻を乗せるだけで胸がいっぱいになってしまった。

 

「まぼろしだった?」

 

「……ここにいるよ。本当にいる」

 歯を食いしばって耐えていた時に本当は流すべきだった涙の分まで取り戻すかのように涓滴がこぼれ落ちる。

 刹那的な欲望なんて所詮懲役数年以下のガラクタだ。だが、この瞬間この空間に、生まれてからずっと願い焦がれていたものがあり、もう手放すことなんて恐ろしくて出来なかった。

 

「なんでも、なんでもしてあげたい。竣の願いを叶えたい」

 夢よりも夢だった現実が全ての妄想を破壊した。

 最後に残ったものを拾い上げてなんとか言葉にしていく。

 

「なら……お願い、うそはつかないで。本当に……華怜がいまなにを思っているのか教えてほしい」

 涙でぐじゅぐじゅになった言葉はちゃんと届いただろうか。

 弱いのは知っていたが、まさか自分がここまで弱い生き物だったなんて。

 

「世界が全部私たちのせいでめちゃくちゃになって。なのにほったらかして逃げて。せっかくの我慢も全部台無しにしたいって、目の前の男の子に言われたあたしが?」

 

「うん。知りたいんだ。まぼろしじゃないから」

 

「幸せ」

 シンプルな一言を紡いだ華怜はそのまま顔を胸に埋めてくる。

 信じられない。

 こんなにも、自分の全部を受け入れてくれる存在がこの世界にあるなんて。

 どんな世界だって、この子がいるなら生きていける。

 ようやく分かった。擦れきってぼろぼろだと思っていたはずの自分の心の中に確かに、どうしようもないくらい純粋な部分があると。

 小さな子供のまま時間が止まった部分が、彼女を夢みたいに大切にしたいと言っている。

 

「華怜のわがままをもっと沢山聞きたかったな……」

 最後はほとんど壊れる世界に振り回されていたし、自分にもっと余裕のある人間だったらしょうもないバイトなんかに時間を使わずに華怜のために全てを使えたのに。

 どうせもうすぐ自分が自分じゃなくなると分かっているならどうしてそこにある常識を投げ捨てられなかったのだろう。

 

「……私はあなたとキスがしたいな。裸を見てほしい。乱暴にしてほしい」

 胸に顔を埋めた華怜から心臓に直接響くような欲望が届く。

 全部嘘じゃないだろう。理想を演じているだけではなく、心からの欲求だ。

 それは分かっているし自分だってそうしたい。

 悲しみや痛みばかりを感じる七面倒な心が竣を引き止めてしまう。

 

「分かっている……華怜がそうされたいこと、俺がそうしたいってこと。でもダメなんだ。今日だけじゃなくて明日からの心も永遠に欲しいんだって思ってしまったから」

 

「どうして? 好きだよ、うそじゃないよ」

 それだって分かっている。90日の間に華怜に振り回されて、お互いの中身を知って関わっていくうちに華怜は竣の中身そのものを本当に好いてしまったのだと。

 だからこそもう不純な物は持ち込みたくないのだ。

 

「今日は魔法だから……出来るなら契約とか命令とか約束とか関係なく、心から俺のことを受け入れてほしい」

 

「…………」

 支離滅裂な言葉でしか説明できていないが、華怜も竣が何を思ってこんなに戸惑っているのか分かってしまったようだ。

 叩きつけられるような華怜の欲望の熱が引いていく。

 

「だから、今日じゃだめなんだ。今日は夢だから、魔法だから、本当に幻だから。たとえ華怜がいいよって言っても、今日は魔法が混ざっている」

 本当に心から本気だった。

 なんでも言うことを聞くから、その代わりなんでもさせろと、真剣に言っていたし嘘じゃない。嘘じゃないから華怜は受け入れた。きっと彼女を手に入れる方法は他に無かっただろう。

 なのに、たった3ヶ月。

 たかが90日は、今まで過ごしてきた全ての時間が芥子粒に思えるほどの宝物で、大切な思い出になってしまって。

 見た目だけに駆られたはずなのに、その理解不能な中身までもがまぶしく思えてしまって、身体よりももっとずっと心が欲しくなってしまったのだ。

 

「俺だって死にたくない。俺だって死にたくない! 俺が俺じゃなくなるのは嫌だ!! なのに、華怜のためなら死んでもいいって思ったんだ」

 華怜の細い肩を掴んでありったけの剥き出しを伝える。

 それこそ華怜がしてきた90倍の濃度で。

 自分は今までこんなにも自分の中身を誰かに叩きつけたことはあっただろうか。

 自分の殻に籠もってなんとか生きていた人生で。そんな経験があるわけなかった。

 

「華怜のことをめちゃくちゃにしてみたくて、でも宝物みたいに大事にしたくて」

 この少女が一緒に生きてくれるならどこまでも行ける、なんでも出来る、死んでも構わない。

 なんでもすると言ったあの日から、最後には華怜の願いを叶えるためなら命すらも捨てていいと思ってしまった。

 

「どうして、何もかもを捨てても私の全てがほしいの?」

 

「だって、もう……」

 それってつまりどういうことなんだろう。

 華怜のためならこの先の世界を見られなくても構わないと思って、そして本当に世界を捨ててしまった。

 

「もう……君のことが……」

 死とは世界との断絶だ。死んだらどこかへ行くのか、あるいは完全に消滅するのか。

 どちらにしろ、いま自分が捉えているこの世界はぶつっと途絶えることとなる。

 たとえそれでも華怜がひまわりの咲く世界の上で心から笑ってくれるなら、構わなかった。

 

「この世界より」

 世界よりも華怜だと心から思っているのは、もう。

 その答えは自分自分で凝り固まった竣の理屈論理をぶち壊して、魂の奥底から噴火のように――――

 

「好きだから」

 ようやく、ようやく。

 普通の人間が持っているものを全てかなぐり捨ててやっと竣はその感情を手にした。

 好きって、世界よりも重たいものなんだ。どうりで好きがずっと分からなかったはずだ。

 自分の世界は、閉じこもっていた自分の殻だけで出来ていて、自分のことが嫌いだったから世界のどこにも好きが無かったんだ。

 好きは、恋は、本当に痛くて苦しくて、甘くてとろけるようで――――たった二文字を口にしただけで竣の脆い魂はガラス玉のように砕けてしまいそうだった。

 

「……好きだから……ただ、抱きしめて終わりにするの? そんなことに使っちゃうんだ……あなたの1日を」

 白い月明かりの下で、竣の生まれて初めての完全に透明な魂を受け取った華怜は一撃で感情を破壊されたかのように涙を流していた。

 目の前のあんまりにも馬鹿で幼稚な少年に対するあらゆる感情が入り混じった涙。

 きっと華怜も自分と同じだったのだろう。

 好きだと伝えて命を丸投げにしたのは、この世界のどんなことよりも好かれているのだと感じたかったから。

 それ以外の全てが無意味なんだ。汚物まみれの泥沼世界に生きていて、僅かに輝くその光を追い求めないことになんの意味があるのだろうか。幻なのはこの世界の方だったのに。

 全てを持っていた華怜も、何も持っていなかった竣も、たった一人の人間と真剣に向き合った果てに作られる『それ』を手にするのは初めてで、17年間生きて構築された大人になりかけの自分が全部壊れてしまっていた。

 

「時間がどんどん無くなっていく……ねぇ、日付が変わったらあたしは夜が明ける前に逃げてしまうよ」

 飾りを全部外した華怜はやっぱりちょっぴりわがままでいじわるだった。

 心は通じ合っている。裸の心臓をお互いに渡して自分の胸の中に入れたのだから分かる。

 明日も明後日もずっと一緒にいるつもりだったのだろう。

 でも、今日は約束という名の魔法がかけられてしまっているからどんな言葉も100%本当にはならない。

 1%の嘘と演技が混ざってしまう。だから、完全に心が欲しいならば今日はだめなんだ。

 

「逃げればいいさ……」

 華怜の肩を掴んでいた手が震えて大きくなっていく。

 陶器のような爪は伸び、灰色の毛が伸びていく様はまさしく危険そのもの。

 顔がひび割れる感覚がする。せっかく華怜に教えられてちょっとはお洒落になったのに、顔は醜く崩れて整えた髪もどんどん伸びてしまう。

 24時間よりも先に、もう限界が訪れてしまったのだろう。

 お願い、自分から離れて、見ないでくれ。そう言わなければならないのに言えない。

 残り時間がもう数秒しか無いのが分かる。なのに竣は言いたいことをとにかく伝えようといっぱいいっぱいで、華怜も肩に置かれた竣の手に己の手を重ねたまま見届けるかのように動かない。

 

「たとえ……獣になって……しまって……全てをわすれても……」

 視界が赤く染まり無性に腹が減る。そんなことをしたくないのに、力が入ってしまう手から伸びた爪が華怜の肉に食い込もうとする。

 それだけは――――頭が本能で埋め尽くされるのに必死で抵抗して華怜を傷付けることだけは踏みとどまろうとしたとき、華怜に触れている部分から雪のような灰が散った。竣の手がぼろぼろと崩れているのだ。

 珍しく寝ておらずに尻尾を逆立てて自分に威嚇しているゴン太と目が合い、理解してしまう。

 もう、人間の竣はほとんど消えて無くなってしまっていて、化物になったからには九尾の狐憑きである華怜に触れただけで消えて無くなってしまうのだと。

 最後の言葉、時間の終わり。華怜はこれでもう自分の目の前から消えていくだろう。それでいいんだ。

 偽物の今日も愛もいらないから。

 

「きみにあいにいくから」

 大きな鏡に映る自分の姿は完全に獣に成り果てていた。

 黄色く殺気立った眼に、耳まで裂けた口から覗く牙。

 全身を被う白と灰色の毛はヤマアラシの針のよう。

 本当の自分は、人間にも獣にもなりきれない人狼だったのだ。

 親に捨てられる訳だ。でももう、どうでもいいさ。欲しかったものは手に入れた。

 

「さよなら」

 人間性が消えていく、忘れていく。

 だけど、華怜のことだけはきっと絶対忘れない。

 笑った顔も、泣いた顔も、17年しか無かった人の生の中で一番の宝物だったから。

 

 完全に人狼に成り果てた竣に向かって立ち上がったゴン太が牙を剥いて飛びかかってくる。

 もうこの世界に死はない。この夢が消えてもまたガラスの道を涙が伝って別の夢のカタチの囚人となり、この魂は別の身体を手に入れて別のナニカとして再構築される。

 またどこかで。

 

(会いに行くよ)

 無抵抗の人狼は九尾の浄化の牙をその首に受け入れた。

 深く突き刺さった痛みが今までの苦しみの記憶を全て消し飛ばし、黄色い西の空。最後の走馬灯は最初のキスの思い出だった。

 獣人の叫びは魂を打ち砕く音となり、天窓にひびを入れ鏡を割り、重たいドアを吹き飛ばす。

 この身体も記憶もすべて消えてなくなっていいから、この思い出だけは――――人狼の身体中に赤い隈取のような模様が表れまるで血脈のように混沌が吸い取られていく。

 赤い視界の中で華怜も赤く輝いていて、その肩を掴む手が消えて無くなって――――人間の手があった。

 

「あああぁああぁぁぁああッ!!」

 ミントのお菓子を食べて鼻がすうっとなるような感覚が全身を貫いて、はっきりと意識がこの世界に戻ってきた。

 間違いなく獣になっていた腕は人間のそれに戻っており、赤い入れ墨のような模様が滲んで肌の中に消えていく。

 それと同時に、竣の人間帰りを見ていた華怜の肌にも同じ現象が起きていた。

 

「まだ人間のままでいてもいいよって」

 世界一尊い物語の終わりを見たかのように華怜が泣きながら笑って言った。

 首に思い切り噛み付いていたゴン太が甘えるように鼻先を顔に擦り付けてくる。

 九尾の妖狐と同じく神聖な模様が自分たちにも印された。

 本能的に、心通じ合った二人は同時に狐憑きになったのだと気が付いて――――華怜が大きな狐と竣とを一緒に抱きしめてきた。

 仰向けに見た月は舌打ちをしているようにも見えて、ざまみろと思った。

 どんなものも、自分たちの世界を変えられはしない。

 

 

 

 

 やわらかく握り合って繋がった二つの手の上でゴン太が離しちゃだめだよ、とでも言いたげに狸寝入りをしている。狐のくせに。

 夜が一番深くなって、世界が眠りについたのにこの部屋はまだみんな起きていた。

 

「結局さ、竣からは一度もキスしてくれなかったね」

 まだまだ寝かせないぞ、とからかうような言葉に顔から火が出そうだ。

 抱きしめるだけで勇気を限界まで振り絞ったのだから、そこから先はもうかすかすだった。

 

「それは、その……勇気が出たら、する……」

 明日からまた0からやり直して、今度こそ対等な関係で心を手に入れるんだ。

 だとしたら、自分から華怜を抱き寄せて唇付けを出来る日はいつになるやら。

 

「世界を見捨てる勇気よりも、あたしにキスするほうが勇気がいるんだ?」

 

「……言わないで」

 誰ともまともな人間関係を築けていなかったのに、いきなり好きな女の子とまともな関係を築けるほど器用な人間じゃない。

 そんなことは華怜も分かっているからからかってくるんだ。

 

「…………。いつからかな。なんとなく気付いちゃったの」

 

「……?」

 

「ああこの人は、他の人が思っているよりもずっと純粋で、きっとあたしが嫌がる事を無理やりする事なんて出来ないって」

 

「どうして華怜のほうが……」

 俺より俺のことを分かっているんだろう、と言おうとして口を閉じる。

 好きだから、それしかないだろう。竣だって華怜のことが好きだから、他の誰よりも華怜のことを分かっていた。

 分かっているから、華怜も今の竣の言葉に答えたりしなかった。

 

「だから、叩いたり蹴ったり踏んづけたり、そういうことも絶対にしないって分かったから……叩いてって言ったの。命令しなきゃ絶対に貰えないものは、これだって分かったから」

 きっとそれが正解なんだろう。

 これから先も竣はどんなわがままも聞くだろう。

 だが、華怜を傷付けることは自分の命や世界を引き換えにしても許せなかったのだから。

 

「みだらなことも、ふしだらなことも、きっと竣は出来ないって。酷いことだと思ってしまうことを、あたしが許してもしないんだって」

 自分が、まさか自分が。どこの生まれとも分からない馬の骨の自分が。

 この皮を剥いで肉を削ぎ骨を削り取り出した心臓すらも握りつぶして出てくるあめ玉ほどの大きさのそれが、こんなにも純粋だったなんて。

 世の中の人間誰しもが悪意を偽りの善意で覆って、純粋な人間に見せかけることに必死だったのに。 

 最悪の生まれの自分なんかが、純粋を不純で着飾って隠していたなんて乾いた笑いしか出てこない。

 

「だから、日付が変わるまでずっと手をつないでいてあげる」

 

「うん」

 同じ枕に頭を乗せた華怜が、赤い瞳で竣をずっと見ていた。

 どこにも行かないから、と。

 どうしてこうなったんだろう。

 歪極まる関係だったのに、こんなにも透き通った繋がりになるなんて。

 こんなにも混沌とした生き物が作る世界だ。混沌としてるのが自然だったんだ。

 

「いま、この世界で手を繋いでいるのはあたしたちだけ」

 一円以下の世界と引き換えに手に入れたものが、確かにこの手にある。

 竣と華怜はずっとずっと、壊れた世界の上の夢の中でただ手をつないで寝っ転がっていた。

 秩序が支配する世界で不純そのものだった二人の関係は、混沌に飲み込まれる世界とは対照的に純粋な関係になってしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「竣のことが」

 

「この世界よりも好き」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***************************************

 

 

 

 

 世界は完全に崩壊した。

 竣と華怜を除いて理性のある人間はもう残っていない。

 人類が数千年かけて築き上げた文明はたった数日で全て消えて無くなり、もう意味をなさない建造物が街には溢れている。

 変わり果ててしまった元人間の化物たちは好き勝手に動き回り、眠り、戦い、死んでもまたどこかで生まれてあらゆるしがらみから解き放たれこの世界を駆けていた。

 

「これでいいかな」

 小さな鏡で化粧を確認した後に、いつものように右側の髪をヘアゴムでまとめてピアスを外の空気に晒す。

 後ろを見ると畳の上でいくつもの布団を贅沢に使って竣とゴン太がぐうすか寝ていた。もうとっくに起きてもいい時間なのに。

 

 数カ月ぶりにこの街に帰ってきた。

 どこに泊まるか、という話になって母校にはOBの寄付金で作られた比較的新しいセミナーハウスがあることを思い出したのだ。

 運動部や吹奏楽部の合宿や天文学部の泊まり込みのために沢山の布団があるじゃないか、と。

 それはいいが、何重にも重ねて使う布団がそんなに気持ちよかったのか竣もゴン太も、華怜が起きてからも一時間以上目が覚めない。

 鼻から大きく息を吐いた華怜は枕を掴んで大股で竣の元に歩み寄った。

 

「起きなさい!!」

 大口を開けて寝ている竣の顔面に割と硬い枕を叩きつけると布団から垂直に飛び上がった。

 

「っだ!? っで!? 痛い!!」

 転げ回る竣の隣でゴン太が大あくびをしている。

 9本ある尻尾を含めれば体長は2m半はあるだろうか。この世界一高級と言い切っていい毛皮に抱き着いて寝ると絶対的な安眠が得られる。

 高貴な赤い模様が呼吸と同じリズムで輝いており、現世の生き物ではないことを無言で示していた。

 

「さっさと行くよ。時間どれだけかかるか分からないんだから、明るいうちに」

 

「………はい」

 痛がっていたのもほんの数秒。

 今日もまた華怜と一緒にいられると、それだけで竣は元気になった。

 ぐしゃぐしゃの寝癖も直さないまま背中の筋肉だけで立ち上がる。

 

「いつも思っていたけど、絶対に化粧するんだね。もう俺達しかいないのに」

 毎朝起きると、華怜は化粧が終わっているか化粧をしているか。

 こんな世界でも常に綺麗であろうとする華怜が竣にとっては疑問だった。

 誰もいない店の扉を蹴破って華怜が最初に探すのは化粧品だ。荷物になるから――――とは言わない。

 自分で選んで自分で持っているから。

 

「ほんっとに全っ然なにも分かってないね。女は誰かの為に綺麗になるんじゃない。自分の為に綺麗になるんだよ」

 

「わ……わかんない」

 なんせずっと一緒にいるんだから当然風呂上がりのすっぴんなんかも見ている。

 そのままでも十分綺麗だったのに、何を言っているかさっぱり分からない。

 

「この調子じゃまだまだ先になりそうね」

 

「……顔洗ってくる」

 全てが崩壊した世界の上、今度は対等な関係で最初からやり直し。

 だから、ずっと一緒にはいるがまだまだ恋人未満とすら呼べない関係だし、基本的に華怜に怒られてばかりだ。

 でもいつかは難攻不落な華怜の心を捕まえてみせるんだ。自分はちゃんとした人間なんだから。

 

 

 荷物を手にして外に駐めてあるバイクに向かう。

 もう駐停車禁止場所だとか煩わしいことを気にせずに盗んだバイクで好きなところに駐めるのは気分が良かった。

 

「もうさ、バイクじゃなくて車のほうがいいんじゃないか」

 

「うーん。その通りなんだけど、なんか二輪車のほうが思い入れがあるのよね」

 華怜の乗っている400ccのバイクには念の為のキャンプ用品が積んであるし、竣のバイクなんかは750ccのサイドカー付きのイカつい大型バイクだ。

 だったらもう適当な車をパクったほうが早い気もするが、華怜の言葉も分かる気がした。

 今やこの地球全てがツーリングに最適な大地となったのだから。

 

「……ならまぁ、しばらくこのままでも」

 

「しっ!」

 華怜が黙れ、と合図をした。

 近くに敵性生物がいることに気が付いた時によくする行動だが、ゴン太は反応していない。

 疑問に思いながらも聞き耳を立てていると何かが耳に届いた。

 

「……何か聞こえ…………? 卒業式の歌……! そうか、今日は卒業式だったのか」

 体育館から聞こえる合唱は校歌が終わって卒業式の定番の曲となっていた。

 いつの間にか冬は終わって春が来たな、と思っていたらそんな時期になっていたのだ。

 腕時計を見ると25と書いてあるから3月の25日ということか。

 

「行ってみようじゃないの」

 

「うん」

 表口の大扉を開けようとして少し背中がぞわっとした。

 裏口へ行こう、とジェスチャーして向かう。

 安全に生きていこうと思えば危険を全て避けることも出来る。

 だが自分たちの求めているものは一秒でも長く安全に生きることなんかじゃないから、刹那的に好奇心の赴くままに適当に。

 

 不死なのは間違いない。

 食事も飲み物も排泄もないのだから。自分たちが楽しむ為だけに食事をして、酒を飲んで煙草を吸う。

 学校も試験もなんにも無いなんて気楽なもんだ。

 

 しかし。

 二人とも不死になっているということはつまり、九尾の浄化の力があってもなおこの世界を包むカオスに取り込まれているということだ。

 いずれ自分たちのこの意識は全て消えてなくなり白痴となりこの世界を彷徨い続けることになる。

 だがそれはあの息苦しい世界でも同じだったじゃないか。苦しみながらも生きて生きてその先は、小さな墓に入るだけだったのだから。

 元々の世界が大嫌いだった二人の考えは完全に一致していた。

 

「……亡霊たちの卒業式ね」

 

「俺達が三年生になるはずだったのになぁ」

 裏口から入り壇上に上がって驚いた。

 ピアノは勝手に鍵盤が沈んでは浮かんで曲を演奏し、誰が並べたのか綺麗に整列した椅子の前に白いモヤのような人形が立っている。

 この世界では誰もが、どんな生物もが悪夢まがいの現実の中で、夢を見続けるのだ。

 

「みんな散り散りになっても戻ってきたのね」

 

「……混沌に飲み込まれても、やっぱりどこか人間なんだな」

 在校生代表のように壇上から眺めているが、卒業の曲も歌い終わり亡霊たちは行儀よく座り始めた。

 体育館の高い窓からははらはらと散っていく桜が見える。

 

「あっ。逃げないとかも」

 

「……やばそう」

 保護者席に座っていた亡霊の一人が形を変えていく。

 長いボロ布で出来た黒いスカート、包帯で出来た身体にはあちこちに鈴がぶら下がって不気味な音を立てている。

 何を思ったのか、スカートの中にあった小宇宙に周りの亡霊を吸い込み始めた。

 

「待って。やってみたい」

 

「まじか。まじか……絶対に意味ないと思うけど……」

 華怜が構えたのは自衛隊の基地から盗んできたアサルトライフルだ。89式5.56mm小銃の弾倉には20発入る。既に何度も試し撃ちしているし、竣も護身用の拳銃を持っている。

 今までもああいうのに弾を撃ってみたが結局無駄だった。実弾というか、物理的な攻撃が効くタイプと効かないタイプがいるがあれは明らかに後者じゃないか――――有無を言わさずレート650超えの銃声が体育館中に響き渡った。

 

「無理ね」

 

「だから言ったじゃないか! 逃げろ!」

 5.56mm弾は椅子を吹き飛ばし、床に穴を空けるだけで全くヒットしなかった。

 それどころか化物は目の無い顔をこちらに向けてかなりのスピードで追っかけてきた。

 二人して猛ダッシュで外に逃げる。卒業式で保護者が卒業生を殺し在校生は銃を乱射なんてどっかの国顔負けだ。

 

「あーあ。弾無駄にしちゃった」

 

「後で地図で弾を手に入れられるところ調べ……なんで笑っているの?」

 ゴン太の側にいれば絶対に安全だからか、煙草に火を付けた華怜は愉快そうに笑っている。

 校舎を背にバイクに凭れて小銃片手に煙草を咥えている華怜は、どう見ても前の世界よりこちらの世界の方が性格的に合っている。

 

「学校で銃とか撃ってみたかったのよね」

 

「……。そうだな」

 ゴン太に一番小さいサイズのヘルメットとゴーグルを被せて抱き上げ、サイドカーに乗せる。

 しかし随分重くなった。60kgはあるんじゃないか。

 華怜くらいなら乗せられるかもしれない。それはきっと凄い絵になるんだろうな――――と笑いながら竣はエンジンをかけた。

 

 

 

 海のない県なのにカモメの群れが太陽の下を横切った。

 桜が満開なのにカモメだなんて季節感滅茶苦茶だ。でも確かに暑い気がするから、運転しながらペットボトルの水を一口飲むとうまくもなんともない。

 そういえば喉が乾いていないと水ってこんな味だったっけ――――前方不注意の自分が悪かったのだろうか。

 竣のバイクは気付いたら宙に浮いていた。

 

「なんだァァア――――ッ!!」

 

「きゃ――――ッ!!」

 華怜には非常に珍しい女の子らしい悲鳴を上げている。

 後ろを見ると華怜もバイクごとぶっ飛んでいた。

 いま走っていた道を見下ろしても何もない。

 見えない壁なんてものがあるんだから見えないジャンプ台があってもおかしくないってか。ふざけるな。

 

「落ち――――うぅわっ!!」

 物理法則はまだ結構普通のままなのがタチが悪い。

 重力に従って落ちていく――――となった瞬間に空中でピタッと静止した。

 

「…………ワフッ」

 

「ゴン太! お前こんなこと出来たのか!」

 

「ワフッって……狐ってそんな鳴き声だっけ」

 空中で何をのん気なことを言っているんだ、と叫びたいが何も出来ない。

 自分たちは宙を歩くゴン太の周りで衛星のように浮いているしか無い。 

 ぼーっと待っていると近くで一番高い建物である霊九守ビルの屋上に降ろされた。

 

「あーあ……こんなんになっちゃったのね」

 

「街が……」

 学校はまだ比較的荒れてはいなかったが、高いところから見下ろすと分かりやすい。

 真っ二つに切られた家や、焼け落ちたスーパー、倒壊した社屋に、形容し難い不気味なスライムに飲み込まれている公園。

 極めつけは街のど真ん中で振動している見たこともない巨大な山だ。この街に帰ってきた時から二人でなんだありゃ、と言っていたが近付いてみてもなんだありゃとしか言いようがない。

 

「あらら。あらあら」

 

「うー……わー……」

 山が動き出した――――のではなく立ち上がった。

 身体に樹々が生い茂り軽く万を超えそうな数の野生生物を乗せているそれは身長数キロメートルはありそうな大巨人だった。

 なんせこのビルが足首までの高さしか無い。一瞬だけ大型船くらいの大きさがある目がこちらを見たが、視界に入らなかったのかどうでもいいのか、背を向けて北に向って歩き出してしまった。

 

「ていうかあれ……あたしの家……」

 

「えっ!?」

 確かに場所的には霊九守邸だが、もう欠片も残っちゃいない。

 

「地下にあんなの眠ってたなんてね。いい場所に住んでたってことなのかしら」

 

「いやいやいや、家ぶっ潰れちゃったんだからもっと言うべきこと、イテテ、痛いって」

 慌てる竣が鬱陶しかったのか、ゴン太が尻尾で顔を何回もはたいてきた。

 

「懐かれているね」

 

「俺に懐いているのかなー、これって」

 華怜にはそりゃもう懐いていると思う。だが同じ狐憑きになったというのに、竣の言うことはあまり聞かない。

 人間の言葉を完全に理解していて華怜の言うことには素直に従うというのに。

 しゃがんでゴン太と目線を合わせると長い舌を出してきた。

 

「うわうわっ、うわっ」

 尻尾で捕まえた竣の顔をこれでもかと言うほどべろべろと舐めてきた。

 愛情表現には間違いないが、人間がそれを嫌がることを分かってやってる賢い動きだ。

 

「なに遊んでいるの? 行くよ」

 

「バイクは?」

 

「こんなところに降りたらもうどうしようもないでしょ。また適当なところで手に入れればいいじゃない」

 そう、二人は当てもなく世界を徘徊している訳ではない。

 こんな世界でも生きる意味を見つけるために目的を決めて、そのために行動しているのだ。

 必要最低限の荷物だけを持った二人は目的地へと向かった。

 

 

 

 華怜の言うとおりに午前中から行動しておいてよかった。

 ぶっつけ本番だからどれだけ時間がかかるかも分からなかったのは当たり前なのだが、まさか3時間以上かかるとは。

 だがとにかくこれで終わりだ。

 

「よし、全部繋がっている。問題ないと思う」

 二人はまたあの山に来ていた。それも全ての元凶だったあの洞窟に。

 噴出してた混沌は今は落ち着いてるが、単に世界に満たされ尽くしたというだけの話だろう。

 

「これもう火を付けちゃダメなの?」

 やるなら徹底的に、と華怜は言った。その言葉に同意した竣はまず地方を巡って発破解体用のダイナマイトを集めたのだ。 

 その傍らに作っていた通電装置も上手く取り付けた。後は遠く離れた場所で起爆するだけだ。

 これでもう、誰もこの穴を処理することは出来なくなる。

 徹底的にこの世界を破壊してやるのだ。

 

「ダメだよ! まじでぶっ飛ぶぞ俺ら!」

 

「そんなこと言ってもさ。あたし達不死なんだからそれくらい平気なんじゃ――――」

 

「うわっ!!」

 ここに来て突然ゴン太が邪魔してきた。二人を尻尾で掴んで飛び上がったのだ。

 ゴン太だってこの穴には数百年も封印されて相当に恨みが溜まっているだろうに、どうしてと思っていたら。

 

「「ゴン太!!」」

 二人で叫んだ。大きく息を吸い込んだゴン太が口から極大の炎の球を吐き出したのだ。

 お前こんなこと出来たのか――――本日二度目の言葉は大爆発にかき消されて、ズゥンッ、と空中にいたのに直下型の超大型地震のような衝撃が響いてきた。

 この街は海無し県にある。なのに、北を見ても南を見ても遠くの空に海が盛り上がっているのが見える。

 まさか、あんな高さまで上がる津波が来るくらいの地震なら地球が割れている。

 地上を見ると摩天楼である霊九守ビルが浮かび上がっているのが見えて気が付く。

 これは地震が起きて津波が発生したのではない。あの波はバケツに石を真上から落としたかのように垂直に空まで上がっている。

 

「日本が!!」

 

「沈んだぁ!?」

 日本がいきなり5m程沈んだのだ。

 その証左のように山にあった木が根っこごと宙に浮き空を飛ぶ二人を大量の桜の花びらが包み込む中で、竣は離れないようなんとか華怜の手を掴む。

 空を覆うような巨大な鳥たちが大慌てで飛んでいる。地獄の穴を完全に解放して、日本を沈めてしまった。

 やったやった、やっちまった。心の中で湧き上がる達成感に笑いを抑えきれないでいると、同じく心の底から笑っている華怜と目が合った。

 

「おっとっと」

 

「いてっ!! ゴン太!!」

 倒壊したビルの上に軽やかに着地した華怜と違って竣は思い切り転んでしまう。

 確かに器用な方ではないが、今のはゴン太の降ろし方も悪かっただろう。ゴン太に怒っても知らん顔をして尻尾を噛みながら毛づくろいしていた。

 遥か遠くの方では先程見かけた大巨人もずっこけて頭から瓦礫に埋まっている。

 日本を襲った衝撃の中でも恐らくは歴史上一番のエネルギーだっただろう。目につく全ての家が半壊し窓ガラスは粉々に割れている。

 ぼんやりと眺めていたら空からゆっくりと二人の目の前にバイクが降りてきた。

 このままエンジンをかければ滑り落ちるように気持ちいいスピードで発進できそうだ。

 

「……へー。ゴン太もまだバイクがいいんだって」

 

「……お前結構自己主張強いんだなぁ」

 自分からサイドカーの中に入ったゴン太を見てなんとなく溜息が出る。

 そういえば最初からこの場所を気に入っていたっけか。きっと妖怪だとて風を感じて走るのは気持ちがいいのだろう。

 

「……よし! 次はどこだっけ」

 

「中国の……四川省かな」

 徹底的に世界を壊すならこの場所だけでは足りない。

 歴史上に日本以外でもここと似たようなことをしていた場所を見つけて解放するのだ。

 いまや二人でこの世界を完全にぶっ壊すために旅をしている。

 

「うんうん。本場の肉まん食べたいね」

 

「売ってはいないだろうけど……道具さえあれば作れると思う」

 ここから北関東まで走り、船を見つけて海を行くことになるだろう。

 食料や飲料水の心配はいらないが遭難したらどうしよう――――なんてのは無用な心配だ。

 自分たちは生き延びるために生きているんじゃない。

 

「その後はグリニッジだっけ。ついでに天文台も、望遠鏡も見てみたいなぁ」

 

「そうそう。イギリスだな」

 中国に辿り着いて目的を達成したら今度はまたバイクを拾ってシルクロードを渡りつつ徐々にロシア方面に逸れなければならない。

 そしてフランスまで無事に辿り着くことが出来たなら、また船を拾って海の上を行く。

 長い長い世界崩壊ツアーだ。ロンドンに辿り着くまでに2,3年はかかるかもしれない。

 その間に自分たちはどれだけ成長するだろう。この関係はどれだけ進展するだろう。

 

「そしたらね、どっか……それこそ、あたしですら見たことないような綺麗な場所を見つけてそこでしよう」

 

「?」

 何をしたいというのだろう。だが、二人ならきっとなんだって出来る。

 なんせ二人は人類をも滅ぼしてしまったのだから――――やましいことなんかじゃないんだ、と身体中で表すように腕を広げて天を仰ぎ、華怜はあらん限りの声で叫んだ。

 

「セックスしよう!」

 17歳の女の子が、こんな太陽が真上にある時間から街のど真ん中でそんな言葉を叫んでいる姿に竣は腰が抜けてバイクに寄りかかってしまった。

 こだましたその言葉の感覚が嬉しかったのか、華怜はけたけたと笑っている。

 

「そんな、開けっぴろげに言うようなことじゃ」

 認め合い惹かれ合っている若い二人なんだから、いつかはするだろう。

 だけど、こういうことはもっと夜に静かに、二人だけの秘密みたいに――――

 

「だからなんだってんだ! この世界には! 華怜と竣しかいないんだぞ! 参ったか! 世界なんか死んじまえ!!」

 お嬢様然とした服装とは程遠いツーリングに適したライダージャケットに煙草で膨らんだポケットのジーパンを身に着けて、華怜はこの世界にはもうない社会とやらにどこまでも中指立てるように叫んだ。

 

「セックスしよう!!」

 青空を突き抜けて太陽にまで届くような声が魑魅魍魎が跋扈する世界にこだまする。

 華怜の背徳の叫びは霊九守邸から出てきた巨人の尻に当たり、再び巨人は動き出した。

 お前はどうなんだ、と太陽に輝く赤い目が言っている。

 助けを求めてゴン太に目を向けると全部聴いているくせに知らんぷりをしていた。

 そうだ、助けなんか求めてどうする。これから前に進むんだ。他でもない自分自身が華怜の心と身体を手に入れるんだ。

 

「華怜とセックスするぞ!!」

 普通の世界なら絶対に叫べない言葉を朽ち果てた街に向かって叫ぶ。

 霊九守の支配下にあった街の真ん中で、お前んとこの娘を犯してやるんだぞと宣言することの爽快感は晴天貫く霹靂よりも真っ白だ。

 言ってはいけない言葉が何だってんだ。そんなもん全て消えてなくなった。

 すっ、と胸の内側に滑り込むように勇気が出てきた。きっと今日の夜こそ自分は、自分から華怜にキスが出来るだろう。

 もう一つの太陽のように笑う華怜もきっと待っている。

 

「……! うわ! うわうわ! あれはやばい!」

 竣と同時に華怜も気が付いたようだ。道のずっと向こうで、脚が無く両腕が鎌で出来ている化物が全てを切り裂きながら高速でこっちに向かってきている。

 支配者の娘を俺のものにしてやるんだ、という叫びは早速激怒したあれこれそれを呼び寄せてしまったようだ。

 異形の者の攻撃は自分たちに一切効かないとはいえ、あの鎌で倒壊した建物に巻き込まれたりすればただでは済まない。

 

「逃げろ――!!」

 二人でバイクのエンジンをフルスロットルにし、爆音を立てながら急発進する。

 この街を飛び出そう、永遠の旅に出よう。

 二人でぶっ壊した世界の果てまでも。

 

 

 

 全てを捨てたことを一瞬たりとも後悔したことはない。 

 何もかも、全てを陳腐にする単純な答えがそこにあった。

 

 

 

(だって俺は君のことが――――)

 この世界よりも好きだから。

 

 



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