刀使ト修羅 (ひのきの棒)
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胎動編
1話


 

 深更――。

 

 異形の少年が、いた。

 

 欄干の上ただ微動することもなく、居る。

 

 

 ワザとらしく贋作の鼻孔をクンクン、と動かし嗅ぐマネをする。

 

 「荒魂か」

 

 義眼の右がギョロリ、と動く。

 

 無造作に後ろ髪を束ねた黒い髪が、強風にあおられ風に流れる。

 現在の気温は四度ほど――。薄着の少年は、浅葱色の着流しを身につけているだけで、傍から見ている方が寒々しく感じられた。

 

 ……ヴォォ――ヴォ……――ゴォオオオ――……

 

 そう遠くない距離で声がする。

 

 『ヴォオオオオオオオオオオオ』

 

 金属同士が擦り合わせたような耳をつんざく不快音が周囲に木霊する。橋の中心で大きく蠢く百足の如き形状の荒魂がいた。巨体が跳ねるたびに、橋全体が軋む。

 

 しかし、人影はおろか気配すらない。すでに橋は封鎖されており、少年と荒魂のふたりだけがいた。

 

 両側に整然と並ぶ街灯の光が青白く、所々点滅を繰り返す蛍光灯があった。

 

 少年はニィ、と口角を釣り上げ、自らの左手首を口元に運びその侭噛む。

 

 スラリ、と肘から徐々に刀が姿を現した。

 

 「よぉ、化物さんよォ……会いたかったぜ」

 

 自らの手を銜えながら、喋る。

 

 その侭、左の腰に佩いた太刀を右手で抜き、素早く欄干を走る。風がビュ、ビュ、と頬を通り過ぎてゆく。

 そして、少年は一瞬で消えた。

 

 と、同時に――ガチッ、と金属の激突するのが聞こえた。

 

 少年の繰り出した太刀が百足荒魂の前肢を幾つか切断した。が、百足荒魂は激昂したように周囲へ巨大な頭を振り回しながら、橋のハンガーロープを喰い破る。橋桁が大いに揺れた。

 

 どうやら、自らの肉体を削った不埒ものに反撃を試みているようだ。

 

 鋭利な杭に似た足がヒビだらけのコンクリートに食い込み、無数に暴れ、粉塵が撒かれる。

 

 少年には一切臆する様子はない。

 

 寧ろ、

 

 「遅いッ……!」

 

 と、注文をつける始末。

 

 巨大な荒魂の捻じ曲がった胴体部分に太刀の切先を突き刺し、柄の部分を足場にすると、空高く舞い上がり――抜き身の左腕を振りかぶる。

 

 荒魂は片方の赤い瞳で小さな人の影を捉えていた。まるで、漆黒の死神のように訪れる疾風……それを恐れた荒魂は己の消滅を拒み、

 

 『ヴォオオオオオオ』

 

 絶叫した。

 

少年は体を大きく捻って反動をつけると、透明な正中線を脳裏に思い描き、直接荒魂の巨頭に向かい、その通りになぞり切り裂く。

 

容易く真っ二つに分割された巨体は、コンクリート舗道の上に崩れ落ちた。

 

 

 華麗に着地した。

 

 周りには死によって齎された静けさに支配される。

 

 そんな微細な空気の変化にも頓着せず、

 

 「終わりッと」欠伸を噛み殺しながら、少年は呟く。その辺に投げ捨てた腕の鞘を拾い、抜き身の左腕に被せる。ブルッ、と指、掌、手首全体が痙攣した。少年は左掌を眺める。

 

 しかし、少年の顔は晴れやかではなかった。

 

 

 何かを期待してしばらくその場に佇んでいたが、結句何の変化もないと分かると、路上に唾を吐き、

 

 「チッ、コイツも外れか……」

 

 冷淡な闇に半分埋まった顔が、云う。いつの間にか風が止んでいた。もう、ここに用は無いとでも言いたげに素足の踵を返し、再び少年は全身を橋の向こう側、暗闇の中へと身を投じた。

 

 

 

 ……後に荒魂退治に駆けつけた刀使たちは、呆然とした。荒魂の姿形は無く、ただ橋の上は静寂が戻っていた。新聞やテレビ、ネットなどのメディアはこの不可思議な事件を小さく報道はしたが、すぐに人々の記憶からは忘れ去られた。

 

 

 

 ――これは、荒魂によって全身48箇所を奪われた少年、二代目百鬼丸と刀使の物語である。

 



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2話

 篠突く雨が社の本殿戸や軒を激しく打ち付け、固い音が室内に反響した。その雨の中、壮年の男が重い戸の錠を壊し乱暴に開いた。

 ぐっしょり、と濡れた顔を更に雨に濡れた手で拭う。

 その爛々とした眼を動かし、懐中電灯の粉っぽい灯りで本殿を照らしだした。

 

 幾つもの小さな箱形がそこに安置されていた。

 

 ――ノロ、と呼ばれるものを封じ込める為の箱である。本来は日本津々浦々で保管されているのだが、この社では四十八も置かれていた。

 

 ノロとは珠鋼を精製する過程で生ずる負の神性を帯びた不純物。また、ノロは一箇所に集中することで結合し、『荒魂』と化す。早い話が、化物と成り果てる。

 

 「それが、四十八もある……」

 男は唸った。その、一種壮観な光景にしばらく、生唾を呑み眺めていた。

 

 汚れた靴のまま、男は本殿の中央に座り、

 「聞け、ノロ……いや、古の呪われし神よ!」

 

 ピカッ、と雷鳴が迸った。青白い光が一瞬戸口から夥しく這入りこんだ。

 

 「我が生命をかけて最高のひと振りを創造させ給えッ! 願わくば……」

 再び激しい雷霆が轟き渡り、肝底を震わせた。男の願いは掻き消えた。

 

 しかし、一向に心が動じる様子もなく喋り続けた。

 

 「我が肉体、その他全てをくれてやろう! どうだ?」

 

 蒸し暑い暗闇は、嘘のように、しんっ、と静寂を湛えていた――いや、正確に云えば外の礫に似た雨音だけが聞こえた。

 

 「ふっ、これでは不服か? では、我が子供の肉体をくれてやる? どうだ?」

 

 ドドドドドッ、とそれまでに比類ない激音と共に本殿はまるで昼間のような明るさに包まれ、封印の箱たちが暗部から現れ、再び闇中に沈んだ。

 

 男は目を瞠り、

 

 「あははっは、そうか! 分かった! では今度生まれる子を供物としよう!」

 

 狂った顔に、喜悦が満ちた。

 

 

 と、同時であった。

 

 この狂乱人の頭上に、天井を破る稲妻が落ちた。

 

 再び彼が目覚めたとき、額には十字の印が刻まれていた。

 

 「なんだ、この傷は?」

 

 指で何度も傷をなぞりながら、狼狽した。

 

 思わず箱たちの方向に振り返った。丹塗の上品な入れ物たちは、ただ無表情に並ぶだけである。しかし、それでも飽き足らず、凝視した。

 

 「そうか! 契約は成立したな……はははっはは」

 

 突然脳内に声がした。

 

 『タギツヒメ――我が名はタギツヒメ。貴様はよくよく、この名を覚えておくがよい……』

 

 男は自然とその声を受け入れ、そして深く首肯する。

 

 悪魔と契約した男はしばらくそのまま、笑っていた――

 

 外界の雨は尚も降り、尚止む気配がない。

 

 1

 初春の黄昏時。

 

 はぁ、はぁ、と短い間隔で吐かれる呼気。上下に揺れる艶やかな黒髪。

 

 「――っ、なんでっ」

 

 戦慄する脣で、少女は無意識に呟いた。

 

 ……その日、六角清香は己の不幸を呪わずにはいれなかった。

 景観を隔てる三笠山の中腹に突如、荒魂が発生。それと共に、『平城学館』の刀使に討伐の出動命令が下った。その日の当直は清香と他二名。事前情報によれば、簡単な任務になる筈だった。

 

……ハズだった。

 

小型の荒魂が数匹と聞いていたが、

 

「全然違うっ」

 

 夕暮れの射す鬱蒼とした森には死へ誘う気配に満ちている。

 

 清香の目前には大蛇の如き荒魂が、群立する樹木を薙ぎ倒しながら暴れていた。目測でも十メートルはゆうに超えている。しかも、相手までの距離は約三〇メートルしかない。その距離が、恐怖心を加速させ、脂汗と吐き気が絶え間なく湧き上がった。

 

 不意に、清香は視線を周囲に移す。ボトルグリーンの制服を身に纏う少女達が二人、地面に転がっている。彼女たちは無論、清香の同僚であり同じ討伐隊であった。しかし、現在はボロボロの状態である。攻撃をうけたようだが幸い、《写シ》を張っていた為、生命の危機は無い。

 

 が、気絶をしていれば《写シ》を張る事は不可能。

 

 (どうすれば……)

 

 季節は春だが、ガタガタと柄を握る手が定まらない。

 

 自分が二人を助けねば、彼女たちは死ぬだろう。しかも、巨大な荒魂相手にしながら上手く立ち回らなければならない。――戦闘の下手くそな自分が……

 

 清香の視界が次第に涙に滲み、御刀を握る両手が小刻みに震えて気を抜けば足元から崩れ落ちそうだ。

 

 荒魂は上体を起こし、周りを窺っている様子だった。夕日に当たる荒魂の巨体に刻まれた割れ目は、まるで溶鉱炉から生まれたばかりの橙色のように輝き、鮮烈だった。

 

 息を呑む。

 とにかく、二人を助けてとりあえず本部と連絡をしなければ……と、清香は考え海老茶色のローファーを半歩退かせた。

 

 と、耳ざとく荒魂がはるか下の小柄な少女の姿を捉える。

 

 「……ひっ」

 

 心臓が凍る。巨頭を大きく擡げた荒魂は、その凶悪な口を開いて、曲げた様にみえた。まるでちっぽけな人間を嘲笑ってるかのようにさえ、みえた。

 

 清香は、目のない怪物と目線が合った気がした。

 

 それと同時に、大蛇の荒魂は一矢の如く、健気に佇む少女へと殺到した。

 

 『ゴゴオオオオオオオオオオオオ』

 

 その時、初めて荒魂の声を聞いた。まるで、列車の通過したのかと錯覚され、足が萎えた。昨夜の雨に泥濘んだ地面に足と尻を汚す。

 

 次々と涙が零れて頬を濡らしながら、

 

 「あぁ……」死を覚悟した清香は、「……ぃや」

 

 

 数語呟き、目を瞑る。清香は短い生涯を後悔した――ハズだった。

 

 

 「ヴぉおおおおおおおおおおおおおおおお」

 

 二度目の耳をつんざく音は、空気を切り裂く悲鳴だった。

 

 (えっ? 悲鳴?)

 

 どうして自分がそう思ったのだろう? 

 

 湿った長い睫毛を開くと、大蛇の荒魂が巨頭の半分が削られており、激痛に驚き天空を仰ぎ見ている。

 

「うそっ……」

 

 息ができなくなった。有り得ない、あの猛烈な速度で一体誰がどうやって?

 

 しかし、その疑問はすぐに氷解した。

 

 真横に人の気配がする。そちらに小頭を向けると、

 

 少年がいた。

 

「よォ、お姉さん。元気か?」場違いに飄々とした声。

 

 乱雑に伸びた髪、ボロボロの着物姿、長い手足。場違いな時代劇の格好はコスプレだろうか。それとも、何かしらの事情が……

 

「ん? 錯乱してるのか?」

 

 不思議な少年が乱雑な前髪を手で払い、不敵な面構えを出す。

 

 「えっ?」清香は少年の顔をみた瞬間、刀使の直感からか、その全てがどこか人間味を感じなかった。

 

「あ、あの……貴方は?」

 

 小さな声で訊く。

 

 「あ、おれ? おれは百鬼丸だ」

 

 そう、少年は名乗った。

 



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3話

 「お姉さん、危ないからそこの二人を連れて逃げなよ」

 そう、少年が言った。

 

 「あ、は、はい」

 清香は戸惑いながら頷いた。

 

 「あの、ありがとうございます」

 

 正直、清香は安堵していた。仮に刀使でなかったとしても、この場に誰かがいる事が心強かったのだ。

 

 少年は困ったように、

 

 「うーん、いや。お礼はいいよ。ホレ、早いきな」と肩を竦める。

 

  清香は、しかし、現状をまだ上手く認識できず、少年に一瞥をやる。

 

 痩身の、虚ろげで猫背気味の少年。

 

 (本当に、あの荒魂をこの人が……? そんなまさか――)

 眼前に蠢く大蛇の荒魂を一刀のもとに斬り伏せたのだろうか。だとするならば、剣術の技倆は化物としか言いようがない。

 

 (とにかく、ここから離れないと……)

 

 仲間を安全な場所へと移動させようとした途端、

 

 「ヴォオオオオオオオオ」

 

 荒魂が怒り狂う。悠然とほくそ笑む百鬼丸に対し、憎悪の絶叫で威嚇し、半分になった巨頭を低く構える。

 

 はぁ、と落胆の息を吐き、

 「また同じ手か……いい加減学習しない奴だ」

 トン、と馬鹿にしながら右肩に刀の峰を置いた。

 

 「なあ、そういえばタギツヒメ――っていうのを聞いたことがあるか?」

 百鬼丸は目の前の荒魂に向かい、訊ねた。

 

 当然だが、相手は人語を理解するハズもない。

 (タギツヒメ? どこかで聞いたことが――)

 後ろで聞いていた清香が眉を顰める。

 

 「ん? なんだお姉さん。聞いたことがあるのか?」

 首だけが振り向き、百鬼丸は尋ねた。

 

 「え!?」

 

 一言も喋っていないのに、どうして心の内が?

 

 「今、思ったこと口にだしてないのに……」

 

 驚愕に固まる少女の様子に、苦笑しながら、

 

 「あははは。そうか。おれは人の心が読めるんだ」

 

 と、云った刹那――大蛇の荒魂が地面スレスレに突進を敢行した。削れた半顔を地面に密着させ、もう片方の獰猛な口と牙で百鬼丸を咬み殺す算段らしい。

 

 清香は思わず、

 

 「危ないっ」と咄嗟に叫んだ。

 

 が、百鬼丸は不敵な笑みを口元に湛えたまま、その場を動こうとしない。

 

 ただ一言だけ、「知ってるよ」と答えた。

 

 距離を縮める荒魂の巨躯が周囲の外気を圧縮し、一挙に突撃方向へと放出する。全身を纏う風速一五メートル以上の暴風がふたりを襲う。

 

 ――死んでしまうッ、と清香は目を強く瞑った。

 

 五秒、いや十秒ほど経っただろうかーー?

 

 

 ……だが、いくら待っても強烈な衝撃が来ない。やがて皮膚の感覚から暴風の勢いが次第に衰えるのが分かった。

 

 恐る恐る目を開くと、荒魂の巨躯は美しく切断されており、縦に長く美しい断面によって荒魂の内部器官の構造がみえた。そして、その縦の切れ目の中心部に百鬼丸が佇んでいる!

 

 「……うそっ、凄い」

 己の臆病で目を逸らした……しかし、あの少年は一人で荒魂を討ち取った。清香は刀使としての自身の未熟さと、眼前の百鬼丸への憧憬の念と複雑な感情の混ざった眼差しで暫くの間、眺めていた。

 

 

 未だ黄昏時――森には本来の静寂が戻っていた。

 

 2

 「それで、お姉さんに聞きたいんだが〝タギツヒメ〟を知っているんだよな?」

 

 百鬼丸と清香は、気を失った刀使たちを安全な場所まで移してやり、本部の救援が来るまで太樹の木陰で対座していた。

 

 「……はい、あの……でも、正確に言うと私じゃなくて、三年の十条先輩が、いつだったかそう呟いていたことがあって」

 

 太樹の下の岩に腰を落ち着け、指を組み換えながら話す。

 

 「ふーん、その十条センパイ? とやらは今どこにいる?」木の幹に背中を凭せ掛けながら訊く。

 

 「えっ……? 今は御前試合で関東の方に向かったはずです。ここにはいません」

 

 「ちっ、そうかありがとう。しかし、無駄足にならずに済んだ。助かった、じゃあ」

 

 この場を足早に立ち去ろうとした百鬼丸を清香は思わず、

 

 「あ、あの、待って下さい!」

 

 と、足止めをした。

 

 「ん? まだ他に何か用か?」

 

 「い、いえ――貴方のおかげで助かりました。でも、普通、刀使じゃないと荒魂は討伐できないのに、どうして貴方は倒すことが?」

 

 特別祭祀機動隊の公開資料にも、男性で荒魂を討伐した人間の記録など存在しない。清香はふと、その資料の中に荒魂討伐者不明の欄を思い出した。

 

 「もしかして、最近荒魂討伐者不明の正体って……」

 

 百鬼丸は鼻で軽く笑い、

 

 「ああ、おれかもしれん。だが一々面倒だろう? 事後処理なんぞ。それにおれとしても世間に正体を知られたくない。だから、悪いがお姉さんには俺のことは黙っていて欲しい」

 

 「えっ、無理ですよ! あの大型荒魂なんて私一人で倒したことになっちゃうし――」

 

 

 「構わん。手柄が欲しいワケじゃない。おれは、おれから全てを奪ったタギツヒメをぶっ殺してやらねばならんのだ。ま、それ以外にもおれから奪った荒魂どもを殺さねばならんのだがな」

 

 

 これ以上、何を言っても聞かないだろう。清香はそう思い、素直に頷いた。

 「分かりました。……でも、もし今度会う機会があればなにかお礼でも」

 

 「ああ、分かった。そのゴゼンジアイって場所に行けばいいのだな?」

 

 ガクッ、と清香はずっこけた。

 

 「えっ? あの、失礼ですけど、御前試合は場所の名前ではなく……」

 

 百鬼丸は目を点にして、

 「ほう、そうなのか。すまんが、色々教えてくれ」

 

 本部の増援が到着するまでの約四〇分間、清香は様々な社会に関するレクチャーをするハメになった。

 

 (ほんとに、この人大丈夫なんでしょうか?)

 

 恐ろしく世間知らずな目の前の少年と、先程の荒魂退治に活躍した百鬼丸が同じ人間には思われなかった。

 

 

 粗方の説明が終わると、

 

 「よし、とにかく東へ向かえばいいのだな?」

 

 と、確認すると素足の侭に、

 

 「じゃあ、助かった。ええっと、名前は……」

 

 「六角清香といいます」

 

 

 「ああ、それじゃ、清香。重ね重ね助かった、それじゃ」

 

 手を気安く挙げ、裸足の侭駆け去った。

 

 「……は、はぁ」

 

 返事もきかず、その侭消えた。あまりの淡白な反応に戸惑いながら、背中を見送る清香。

 

 鳥啼が樹間を伝い、幾重にも木霊する。

 

 すーっ、すーっ、と寝息をたてる同僚の刀使たちを見守りながら、清香は昏くなる空を待った。

 



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その男、名を『ステイン』

 

血だ。血液の濃密な金臭い香りが鼻腔に充満している。

 

 深夜、裏路地に設置された弱い街灯に照らされた一個の影が俄かに動き出す。その闇に濡れた顔をゆっくりと光側へと向ける。顔は包帯に巻かれ、血の様に赤いバンダナとマフラーが夜闇の中からでも目立った。

 

 細く長い裏路地の舗道と、壁面間に伸びる無数の排気管が延々と張り巡らされており、闇に蠢く鋼鉄の血管のように不気味だった。管の内一本が破れているようだ。シュ、シュ、と間欠泉の如く噴出するスチームは霧に似て、且つドブに混ざった白い蒸気が強く周囲に四散した。

 

 男は笑う。

 

 鋭利な顎から出した舌を引っ込め口を苦く歪める。

 

 「ヘッ……チッ、糞め」

 

 取り繕った空笑いを消し、代わってやり場の無い怒りがふつふつ男の胸中を犯す。雑魚相手に一瞬でも期待した自分が馬鹿馬鹿しく思えた。

 

 ――彼の名は『ステイン』

 

 ヒーロー殺しとして名を馳せた男である。その独特な思想哲学が他のヴィランと彼を区別させた。

 

 ステインの思想とは即ち「真のヒーロー」を求める事であり、常に他利的行為こそがヒーローたらしめる真理だと考えていた。だが、昨今のヒーローと呼ばれる連中は自己的な行為原理に依って働くに過ぎない愚者ばかり。

 

 金儲けにかまけるヒーロー達。

 

 彼……ステインがこの現状を看過する筈がないことは明白だった。

 

 ホウキを逆立てた様な髪をかき上げ、

 

 「潰す……俺の理想の為に、死ねッ」

 

 マフラーを風に靡かせ吐き捨てるようにしてステインは言う。彼の足元に血まみれで身を伏せたヒーローのひとりが呻きながら辛うじて呼吸をしている。

 

 先程、偶然遭遇したヒーローは名乗りって攻撃を仕掛けてきた。が、もう名前は覚えていない。一分も経過せずステインは叩き伏せた。……今、屈み込んで首をひと捻りしてやれば軽く死ぬだろう。

 

 だがこんな奴の命を奪う程格は落ちてはいない、そして何より余りの弱さに興が削がれた――そう戒める様、ステインは鋭い眼で足元を一瞥すると即軍用ブーツの踵を返した。

 

 放置しても勝手に死ぬ。

 

 最早、足元のヒーローは活動すること自体難しいだろう。それで十分だ。これで偽物は『死んだ』

 

 と、背中を向けたステインは数歩進んだ所で立ち止まる。同時に肩を大きく震わせ、

 

 「本当のヒーローはいねェのかッ!」

 

 壁面を左の拳で叩き思わず叫んだ。壁に無数の亀裂が奔る。

 

これまで手にかけてきたヒーローの殆どが出来損ないの紛い物ばかりだった。右手の太刀を背中の鞘に戻すと、長い舌で先程舐めとった血の不味さを思う。

 

 (俺を倒す本当のヒーローが欲しいッ……)

 

 ステインは心底自身の求めるヒーローを渇望した。ふと、目を細めて天を見る。

 

 綿雲が点在して浮かぶ夜空に、不気味なほど真紅に染まる三日月が掛かっていた。

 

 と、彼の背後五メートル後ろに直径1・8メートルほどの黒々とした「穴」が出現していた。空中に浮遊する球体のように裏路地の路上に、今、存在する。

 

 「アア? なんだ、この穴は?」

 

 普段の彼であれば、絶対にこの「穴」に興味なぞ持たないだろう。……だがこの日の彼は違っていた。理由は明白で、雑魚の相手に疲れてしまった。何の信念もなく、また理想に伴う実力のない連中が騙る「正義のヒーロー」という偶像に。

 

 だから、戯れにステインは「穴」を潜った。

 

 一歩、また一歩と確実に進み、穴の深部にまでゆき――やがて、世界から姿を消した。

 

 

 

 2

 前代未聞の御前試合中に起こった、刃傷沙汰事件。

 

 その当事者である十条姫和と、同伴する衛藤可奈美。ふたりはひたすら逃げていた。

 

 姫和は先程《折神家》の当主、折神紫にひと太刀浴びせようとしたのだ。当然、日本中から二人を捜索する手が伸びていた。

 

 「……なぜ、追ってくる?」

 

 不機嫌に姫和が吐き捨てる。

 

 一方、冷たい言葉を天真爛漫な笑みで受け流しながら可奈美が、

 

 「だって、なにか理由がありそうだし――あっ、そうだ! お腹減らない?」

 

 微笑んだ。

 

 なんだこんな時に、と姫和が言いかけたとき、奇妙な違和感を感じた。今度は並走する可奈美が、

 

 「どーしたの?」

 

 怪訝に眉をひそめ訊ねる。

 

 「いいや、なんでもない……とにかく休息できる場所までいくぞ」

 

 「うん!」

 

 

 二人の少女の影は街中へと溶けてゆく。

 

 

 3

 

 「チッ、どーなってんだこれ?」

 

 百鬼丸は御前試合の開催されている折神家の巨大な施設の御門前に居た。いや、正しくは彷徨っていたと言う他ない。周囲には折神家の私設親衛隊の連中や、警察、機動隊が周囲を固めている。しかも、伍箇伝の生徒たちもチラホラと門の周辺に居る。

 

 生憎、この施設の内部へゆくには、多くの人間の目を掻い潜って行かねばならない。

 

 「はて、困った……」

 

 いや、百鬼丸は右の言葉を吐きながら、その実大して困った様子でもない。ただ面倒だなぁ、という単純な意味合いであるようだ。

 

 と、そんな彼に対して突如凛々しい声で、

 

 「おい、そこの奇妙な着物のお前、そこで何をしている?」

 

 百鬼丸は呼ばれた。

 

 キョロキョロ、周囲をワザとらしく見るも無意味だった。

 

 「そこの挙動不審なお前だ!」

 

 「おれ?」

 

 「それ以外に誰がいる?」

 

 尊大に腕組みをする、猛禽類に似た鋭い眼光の少女が機動隊の隊員を抜け、足早にやって来る。

 

 香染に近い髪色をした少女だった。冷徹な印象を与える顔も、もう少し柔和さがあれば良いものも、険しさ故に王子と形容するに相応しい風体である。更に、白い上着の羽織り下から出た腕は筋肉質で良く引き締まっている。

 

 だが、どんな外面かも頓着せず、

 

 「アンタ誰?」百鬼丸は問う。

 

 一瞬、無礼な態度により、不機嫌に目を細めたが息をひとつ飲み気持ちを鎮め、

 

 「折神家親衛隊第一席、獅童真希だ」

 

 身に纏う錆利休色の親衛隊制服には、塵一つ付着していない。余程の自負心と誇りがあるようだ。

 

 「へー、んなことより十条姫和って奴知ってるか?」

 

 真希の表情は呆気にとられた様子だった。

 

 「なぜ、今奴の名を口にする? もしや、連中の関係者か?」

 

 「おれが一々知るかよ」

 

 ふぅ、と呼気を整えると真希は御刀に手をかける。

 

 「民間人にこんな手を使いたくなかったが、もう一度訊く。十条姫和に何か関係しているのだな?」

 

 (関係って、そりゃタギツヒメについて聞きたいしなぁ……)

 

 「ま、多分そうだろうな」

 

 鋭い眼光はより一層強さを増し、口は真一文字に結ばれる。

 

 「……分かった。その返事だけで十分だ。貴様を半殺しにしてから事情を聞こう」

 

 そう言うが早いか、全身が透明な膜に包まれ……かつ親指で鍔を弾き、正眼に構える。

 

 「へぇー、御刀ってそう使うのな。なんだっけ、ああ《写シ》だったな」

 

 と、百鬼丸は真面目な顔つきで頷く。まるで、馬鹿にされているように真希は感じられた。

 「もう御託は十分だ。……黙れ」

 

 白い敷石の玉砂利が真希の足元から四散する。

 

 《迅移》即ち、高速移動により百鬼丸の背後に回り込み、峰で一撃加える……筈だった。

 

 「な、馬鹿なッ!」

 

 異常な加速に乗った視線、その前から百鬼丸の姿が忽然と消えた。

 

 冷や汗が真希の頬を滑り、虚空を斬る刀身は外気を大きく流れる。

 

 「あははは、可愛いもんだな刀使も……」

 

 前のめりになった真希のすぐ真下、百鬼丸は屈み込み、右の掌底を突き上げ顎を撃ち抜く。激しい脳失神が、真希を襲う。

 

 《写シ》を貼っていなければ、最悪死んでいただろう。

 

 「――っ!?」

 

 否、写シが剥がれている! パリィン、という甲高い硝子の玉が砕けるに似た音が響く。真希がそれに気がついた時、意識は朦朧として視界は霞んでいた。

 

 全身を覆った《写シ》は消滅していた。

 

 

 4

 

 その場で真希を気絶させた百鬼丸は、今の一瞬で彼女を倒したことを遠巻きの人垣が気づかない間に退散したいと思った。

 

 心を静め、周りの人々の意識へと集中する。

 

 ……無反応。

 

 まだ、誰も先程の事態を把握していないようだった。

 

 一応の確認のため、地面に丸まった真希の脈をとり、頬や首筋などを数箇所ほど触診した。恐らく、彼女が起きてしまえば面倒事になるだろう事は容易に想像がついた。

 

 

 「ま、こんなもんだろ。多分ここに十条姫和はいないようだから、探すしかないなぁ」

 

 百鬼丸は憮然と佇み、肩をすくめて歩き出そうとした――

 

 

 「おぉ~、おにーさん、すっっっごく強そうっ♪ ね、勝負しよ~よ~っ」

 

 甘ったるい声が、百鬼丸を呼び止める。

 

 背後を振り返る。だが、人の影も形もない。

 

 「ん?」

 

 返事をする暇もなく、唐突に前方から胴を薙ぎ払う刃が、素早く百鬼丸めがけ奇襲をかけた。

 

 はぁ、いい加減にしてくれ……と言いたげな顔で攻者の方角を見やる。

 

 「えへへっ、すごーいっ、どうやって死角から察知できたのかなー♪」

 

 近い距離からくる反応。強烈な一撃を放つ人間にはそぐわない、弾んだ声音で尋ねる。

 

 すごーく、嫌な予感を感じながらも、しかし一応聞かねばなるまい。そう決心し、

 

 「キミは誰だ?」

 

 頬に冷や汗を流しながら言った。

 

 えへっ、と嬉しそうに熱い息を洩らし、

 

 「燕結芽――折神家親衛隊第四席だよ。あ、四席でも一番強いけどね~」

 

 背筋がぞくり、とする程の甘く、そして毒々しい雰囲気が漂っていた。

 

 

  

 

 

 



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5話

 

 「ねぇ、おにーさん……」

 

 二撃目の切先は繊細な弧を描き、反転切り返しの運動を行った。実戦中でも余程の熟練者でなければ行えない判断。

 

 (まだ子供みたいな奴が――)

 

 目を眇め、百鬼丸は刃の軌道線上に左腕を差し出した。

 

 「――ッ!?」

 

 まさか腕を差し出す馬鹿がいると思わなかったのだろう。結芽の操る刀《ニッカリ青江》の動きが鈍る。しかし、それにも構わず腕に刃を喰い込ませた。

 

 「奥の手っ、一個目!!」百鬼丸が秀でた眉をひそめて呟き口を歪める。

 

 肘から勢いよく腕を振り抜き、胴前へ陽光に燦く疾い白の軌跡を残す。

 

 まずい、と判断したのか結芽は相手が肘を振り抜く動作に入ったタイミングで無理やり刀身を百鬼丸側に押して反動をつけ、三メートル程の距離を作る。

 

 長い撫子色の髪が腰元の辺りで翻りながら人差し指を淡桃色の唇をなぞり、

 

 「やっぱり強いね……お兄さん、もっと愉しませてくれそう」

 

 息を弾ませて言う。

 

 「あはは、そりゃどーも」

 

 全然嬉しくない、内心そう思いながら百鬼丸はこの場から退却する算段をする。

 

 ふと、結芽は視線を自らの御刀にやる。と、柄にかかる重量から百鬼丸の左腕半分が刃に食い込んでいるのを目に捉えて分かった。

 

 「あっ、やっぱり義手なんだね♪」

 

 くすくす、と鈴を転がしたように軽やかに喉の奥で笑い、やがて両目を細める。

 

 おもむろに、結芽は《ニッカリ青江》に喰いこむ腕に接吻をした。

 

 「なにしてんだ……?」

 

 状況をつかみかねて百鬼丸は尋ねる。

 

 結芽は相手の狼狽する様子を窺い、うっすら微熱の帯びた頬を緩めた。

 

 「おにーさんみたいに強い人、今まで会ったことないから……」

 

 と、言葉を区切り、刀身を勢いよく振り抜く。

 

 一直線に百鬼丸めがけて義手が放たれ、危うく顔面衝突の所で掴み取った。

 

 「もっっっと、遊ぼうよーっ♪」

 

 義手を囮に右斜め上に《迅移》で跳び距離を詰め、結芽は大上段の構えから斬りかかる。先程の覚悟不足で斬り損ねたが、今なら確実に仕留め切れるだろう。

 

 「えっ!?」

 

 だが、結芽の剣尖は何者をも捉えることはなかった。

 

 陽炎の揺めきに似た痕跡が、百鬼丸の居た外気を濁した。

 

 

 

 「迅移が刀使の専売特許だと思うなよ」

 

 百鬼丸は結芽のはるか後方、御門郭の道を挟んだ防風林に逃げていた。

 

 結芽は顔を悔しさに顰め、

 

 「なんで、遊んでくれないの?」子供っぽい言い分で怒鳴る。

 

 

 

 はぁ、と精神的な疲労に溜息を吐き、百鬼丸は左腕の刀を義手の鞘に収める。

 

 「もう二度とごめんだ」

 

 言い捨てて松林の蔭に溶けていった。

 

 「あ~あ~、つまんな~い~」

 

 今更追った所で彼を見つけるのは恐らく困難だろう、と結芽は結論づけて刀を鞘に収める。

 

 (でも、もし今度会ったら……)

 

 先程の戦闘を反芻し、興奮の余り親衛隊の制服スカートの股間に手をあてがう。脊椎から秘部を貫く衝撃的な感覚にうっとり、蕩けた貌になる。

 

 

 

 2

 

 「っ、危なかった――」

 

 百鬼丸は燕結芽という少女の『才』を思った。

 

 あのまま戦っていれば、確実に押されて負けていたかもしれない。

 

 今まで対人戦など想定せず、ひたすら荒魂との戦闘のみに特化した戦闘スタイルを改めねばならぬ、と反省する。

 

 「……とはいえ」

 

 折神家の広大な敷地の森を抜けたはいいが、この先の行くあてが無い。

 

 どうしたものか、と思案しているとぐぅ~、と腹の虫が鳴る。

 

 如何せん、空腹には古来の英雄も抗えぬと聞く。そう自己弁護して飯を食える場所を探すことにした。

 



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6話

おれの中には獣が棲んでいる、それも獰猛で凶悪な……『殺意』という名の獣を。

 

 逃れようもない衝動につき動かされ、おれは森を彷徨っていた。

 

 恐らく、おれは正気ではなかった。だが、間違いなくおれの暗い一面が顔を覗かせているのも感じていた。どうしようもなく、それはおれだった。

 

 血の滴る左腕の刀身には人間を斬った独特の白い脂が付着していた。

 

 付近で《殺人》現場を目撃した少女が絶叫する。

 

 『化物っーー!!』

 

 その声だけがいつまでも、おれの鼓膜にこびりついて離れない。

 

 もしも、神様がいるのだとしたら、一度聞いてみたいことがある。

 

 ――なぜ、おれをこの世に生み出した?

 

 そしてなによりも、人間が憎かった。異端者を排除する連中が憎くて憎くて仕方なかった……。

 

 なぜ、おれは普通の人間と違うのだ、と。

 

 

 昔のことを思い出していたようだ。

 

 湿った壁に背中を預けていたが、背中が痛くなり姿勢を変えた。

 

 百鬼丸は森から出、人目のつかないように深夜まで待つため、下水道にてしばらく休むことにした。悪臭漂う場所だが、こんな所だって慣れている。

 

 ただ、時々思う。

 

 〝普通の人間〟ならば、こんな生き方をしないだろう、と。

 

 おれが四十八箇所を奪い返したとしても、普通の人間には戻れないのではないかと。

 

 「チッ、糞が!」

 

 我慢できずに怒鳴る。構内に反響した声が、どこまでも闇の奥にまで伝わった。

 

 頭を乱暴に掻いて、再び眠りにつこうと試みる。

 

 だが、一度目が冴えると睡魔は忽ちに霧散した。

 

 (どうする、歩いて移動でもしようか……いや無理だ。迅移を使った影響で暫くまともに行動できない。それに、腹も減っている)

 

 すこしだけ歩いても問題ないだろう、と考えマンホールの蓋を外す為に上へ登り始めた。

 

 普段の百鬼丸であれば絶対にこのような状況で人前に出ようなぞとは思わなかった筈だが、疲労の蓄積と空腹により脳みそが錆び付いてしまっていた。

 

 

 

 2

 

 美濃関学院中等部二年の柳瀬舞衣は、親友の失踪に困惑していた。

 

 御前試合の最中、折神家の当主に刃を向けた平城学館の十条姫和。その時は驚きこそしたが、それで終われば舞衣にとっては単なる事件でしかなかった。が、親友の衛藤可奈美が犯人である十条姫和を庇い、逃亡を幇助した。

 

 (――なんで可奈美ちゃん)

 

 と、訳のわからない悔しさに苛まれていた。

 

 現在、御前試合に参加した刀使は無論、その周辺関係者にも箝口令が敷かれ、行動の自由にも制限が設けられた。

 

 が、舞衣に限っていえば事情がやや異なる。

 

 大財閥の娘という立場がある。その力を権限を最大限に利用し、親友の行方を探っている最中であった。無論折神家の敷地を出ることはできないが、その範囲内でなにかできることを考えていた。

 

 先程、折神家〈親衛隊〉の第一席と四席が騒動の渦中にあった場所を訪れて確かめ、犯人と思われる人間が逃走した経路の森を進んでいる途中――

 

 森から数十メートル先の公道の側溝近くのマンホールから人影がおもむろに現れた。

 

 (えっ、うそっ!)

 

 御刀の柄を握りながら、小走りで駆け寄ってみることにした。そのときには恐怖心よりも可奈美の行方の心配が勝り、気が付けば行動を起こしていた。

 

 3

 

 「貴方は、先程折神家の御門で騒ぎを起こした犯人ですか?」

 

 単刀直入に問いただす。

 

 一定の距離を保ちながら、納めた御刀の鯉口を僅かに煌めかせた。

 

 「折神家? ごほっ、ごほっ、すまん……待ってくれ」

 

 舞衣は眉根を顰めた。それもその筈である、悪臭が体中に纏わせた不審者に他ならない。黒い髪を後ろで乱暴に束ねただけの髪も、今時珍しい着物姿も、そしてなにより無気力だがどこか油断できない危うさを秘めた顔。

 

 半ば、舞衣は確信していた。

 

 (やっぱり、犯人はこの人だ。……もしかしたら、可奈美ちゃんについてなにか知っているかも)

 

 淡い期待を持ちながら、

 

 「もう一度聞きます。貴方は――」

 

 「百鬼丸、おれの名は百鬼丸だ。恐らく門の前で問題を起こしたのもおれだ。だが、相手が先に仕掛けただけでおれは正当防衛を行使したまでだ」

 

 ぶっきらぼうに、言い訳がましい口調で喋る。

 

 「本当にそれだけですか? 逃走した十条姫和、それから衛藤可奈美についてなにか知っていることがあれば、教えなさい」

 

 語調が幾分厳しくなるのは、普段の舞衣であれば有り得ないことだった。それだけ焦っている証拠である、と自身でも嫌という程判る。だが今はなりふり構っている暇はない。

 

 百鬼丸は舞衣の方を一瞥すると、強い眼差しで一言、

 

 「……なにか、食物をくれ」

 

 と、みっともなく土下座した。

 

 「――は?」

 

 舞衣は目をぱちくり、とやり暫く固まった。

 

 「何も食ってないんだ。三日前から。なにか食物があればくれ。必ず恩義は返す。だから……」

 

 情けない風体で、少年は土下座をしている。

 

 

 4

 

 「はぁ~」

 

 頭を抱えながら舞衣は、目前でクッキーを貪り喰らう少年を窺う。

 

 百鬼丸と名乗る彼の年齢ころは十代だろうか。大人びた顔立ちだが、どこか作り物めいた顔立ちや、体の動かし方のちぐはぐな感じが、どことなく違和感がある。

 

 (それにしても、本当、美味しそうに食べるなぁ)

 

 親友の可奈美を思い出す。

 

 食べかすを頬につけながら、親指を立てて「舞衣ちゃん、すごく美味しいね」という。あの太陽のような笑顔。

 

 舞衣の頬は自然と緩む。

 

 「もぐ、もぐっ。うまい、うまいな……ええっと、貴殿の名前は?」

 

 袋の中のクッキーを全て食べ終わり、百鬼丸が訊く。

 

 「え? わたしですか? わたしは美濃関学院の柳瀬舞衣と言います」

 

 「ああ、なるほど舞衣殿。空腹から救って頂いた恩義は絶対に返す。間違いなく」

 

 ある種の尊敬の眼差しを舞衣に注ぎながら、深く頷いた。

 

 「そう、ですか」困惑の色を浮かべながら、苦笑いをする。

 

 「舞衣殿が言っていた二人の行方だろう。生憎おれは知らない――」

 

 やっぱり、と舞衣は落胆した。だがなんとなく予想もしていた。

 

 「――だが、おれにいい案がある」

 

 糞尿の饐えた匂いを漂わせながら、百鬼丸はいう。

 

 本当は鼻を摘みたいのを堪えながら舞衣は「というと?」疑問を口にする。

 

 「おれの心の目で探す」

 

 「心の目って、武術でもよく使われる用語としての心眼でしょうか?」

 

 「いいや、文字通りの意味だ」

 

 「……?」

 

 理解できない、というか百鬼丸の言いたいことを推量しきれず、舞衣は首をかしげた。

 

 「……まあ、詳しい説明は省くが、相手の心や記憶が読めるんだ、おれ」

 

 「まさか」と言いかけたのを舞衣は喉元の所で言葉を飲み込んだ。

 

 だが、声に出さずともその所作の端々から疑う様子が窺えた。

 

 

 「もしや、疑っているのか? さっきおれがクッキーを食っている時にその様子が可奈美という少女のように一心不乱に食っているのを思い出してニヤニヤとやましいことを考えていた……」

 

 「か、か、か、考えていません!!」

 

 顔を真っ赤にして、反論する。――いや、事実だ。紛れもない事実だ。しかし、なるほどこれで能力について嘘は言っていない。

 

 だが、

 

 「でも、その心の目が使えたとしても二人の行方の痕跡をどうやって?」

 

 「相手の思考の残香を辿っていく。そう時間もたっていなければ、まだ可能」

 

 「そ、それじゃ――」

 

 と、言いかけた所で、舞衣の携帯端末が震えた。

 

 「はい」

 

 端末を耳に当てると、通話の主は折神家の捜査を担当する部署であった。

 

 『柳瀬舞衣さん、お手数ですがこれから折神家の御門前までお越し下さい。衛藤可奈美についてのお話をお伺いしますので』

 

 言葉こそ穏健だが、その実舞衣に拒否権は無く、また無言の圧力を与えてもいた。

 

 舞衣はちらっ、と近くに座した百鬼丸に視線をやる。

 

(もし今、この人のことを連絡したら……)

 

 あるいは、可奈美の後の処遇について穏便になるような手土産になるのではないか、という損得の打算が生まれた。

 

(ううん、違う。それだときっと可奈美ちゃんがわたしを許してくれない)

 

 「はい、分かりました」

 

 と、会話を終え百鬼丸に向き直る。

 

 「可奈美ちゃんを見つけるのに協力してくれるんですよね?」

 

 真剣な眼差しで尋ねる。

 

 百鬼丸は、

 

 「ああ、間違いない。空腹を救ってもらった恩義がある――ただ、一つ、もしよかったらでいいんだがお願いがある」

 

 「……? はい、なんでしょうか」

 

 「オートバイを一つ貸してくれると助かる」

 



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7話

 レッドカラーのカワサキNinja250が、首都高の湾岸線を疾駆する。

 

 鎌倉を出、押上方面へと百鬼丸は赴く。

 

 現在時刻は午後五時。

 

 (遅くなったなー)

 

 バイクを調達する、と簡単に言っても鎌倉周辺を秘密裏に厳戒態勢を敷いた警察などの目を抜けるのである。容易ではない。なんとか舞衣の協力を得て、折神家の直轄支配地域を切り抜けた所だ。

 

 

 事実、首都圏に近づくにつれて警戒のヘリコプターが空に散見された。

 

 

 そういえば、舞衣と別れる直前に、

 

 『百鬼丸さんは自動二輪の免許を持っているんですか?』

 

 唐突に聞かれた。

 

 「いや、ない。だが安心してくれ。世の中には無免許医でも凄腕がいる」

 

 と返事をしたら舞衣は落胆した調子だった。だがおれは気にしない。

 

 柳瀬家の男性執事が簡単なレクチャーをする。それを三分くらいで飲み込んだおれは、

 

バイクに跨り、地面を軽く蹴りながら準備を済ます。しばらくして、グリップを思い切りひねる。エンジンの激しい排気を受けて、後輪が回転を強め、地面を振動が伝うと同時に発進した。

 

 

 エンジンの心地よい小刻みな震えが全身を包む。すると最早、柳瀬家の執事を後方に置き去りにし、景色は流れ出したようで体に風が激しく吹き付けた。

 一台のオートバイが連続する車列間を縫い、東京湾に沿った地形の湾岸を駆け抜ける。

 

 

 今日は日没が遅いらしく、右手にみえる水平線の夕日で、世界が茜色に染まっていった。

 

 

 

 ちなみに、百鬼丸が去ったあと舞衣は内心、

 (えぇ~、全然安心できない……)

 と思ったという。

 

 1

 

 墨田区……定住人口約二十五万以上の首都圏でも有数の立地にある。

 

 単独で世界一の電波塔であるスカイツリーは、かつて御伽噺や神話にあったような「バベルの塔」に似て、雲を貫き聳えている。

 

 夕刻。展けた関東平野を見下ろす塔を仰ぎながら、

 

 「おぉ~、みて姫和ちゃん。すっごく大きいね」

 

 子供のように指を差す無邪気な可奈美が隣りの少女……十条姫和にいう。 

 

 「おい、そんなことを言っている場合か。このままではマズいから身を隠す方法を……」

 

 「だったらさ、変装とかしない?」

 

 可奈美の提案に対し怪訝に眉根をひそめ、

 

 「変装……? どいうことだ?」

 

 「うぅ~んと、制服のままだとすぐ見つかっちゃうでしょ? だから、まず上着だけでも……あ、できれば御刀を隠せるとベストかも」

 

 単なる能天気な奴ではない、と姫和は頷いた。

 

 ふと、視線を斜向かいに移すと二人の誂向きに衣類量販店があった。

 

 

 

 店独特の耳に残るジャズ風のBGMを聴きながら、二人は売り場で品定めをする。

 

 「あっ、ねぇ姫和ちゃん! 見てみて、これ」

 

 そう言って可奈美が目前に突き出したのは、禍々しいキャラをプリントしたTシャツだった。

 

 「……な、なんだ、これは?」

 

 「これはね、地獄天使マーベラスちゃんっていうアニメに出てくる『爆炎天使ファビュラスさん』だよ! でも、このアニメ低視聴率でなぜか打ち切りになったんだよ~」

 

 それだけ言うと、唐突に悲しそうに表情を曇らせる。

 

 姫和は内心「当然だろう」と思った。

 

 シャツを一瞥し溜息を零すと、

 

 「で、これをどうするつもりだ?」尋ねる。

 

 満面の笑みで可奈美は、

 

 「もちろん、保護しないと! それに提案なんだけど、これ一緒に着ない? 多分姫和ちゃんも似合うと思うよ~」

 

 「正気か、この悪夢に出てきそうなキャラを着るのか? 却下だ、却下」

 

 「えぇ~ひどいよー姫和ちゃん。こんな可愛いのにー」

 

 「どこがだ! 明らかに、目がイッてるし全体から滲み出る気持ち悪さが不愉快だ。こんなものを着て外を出歩いてみろ。絶対に怪しまれるどころか、警察に補導されるのがオチだ。そんな馬鹿な理由で捕まるワケにはいかない」

 

 姫和は腕を組んでそっぽを向くと、ふん、と鼻を鳴らす。

 

 「うぅー。ごめんねファビュラスさん。私にもっと力(お金)があれば保護してあげれたのに」

 

 悲しそうに俯く可奈美を横目に姫和は、

 

 (なんだ、この言いようのない罪悪感は……)

 

 そんな内心の葛藤を知ってか知らずか、ちら、と上目遣いで可奈美が、

 

 「だめ……?」

 

 と甘く囁くように訊く。

 

 「ダメだ」

 

 「こんなに可愛いのに?」

 

 「だから同じことを言わせるな。ダメなものはダメだ」

 

 「ほんとに?」

 

 「…………しつこい」

 

 眉間に皺を寄せて口端を釣り上げる。

 

 ――分かった

 

 悲しそうに可奈美は渋々ワゴンにTシャツを置いた。

 

 

 

 

 結局二人は無難にレディースのアウターパーカーを買った。

 

 可奈美の濃紺と姫和の黒色のパーカーは昏れる街中に上手く溶け込んでいた。

 

 「ごめんね、姫和ちゃん。あとでお金はちゃんと返すから」

 

 「ああ」

 

 ――と返事をした……しかし。

 

 (おかしい、パーカー二着分の値段になぞの一着分の値段が計上されている)

 

 レシートを眺めながら、姫和の手元は震えた。

 

 「……はぁ」

 

 可奈美は後ろで口笛を吹く真似をしながら、目を泳がせていた。

 

 

 

 「あとは御刀を隠す……」

 

 「楽器屋さんがあるし、ギターケースとかでいいんじゃないかな?」

 

 適当に呟く可奈美。

 

 「……。」

 

 姫和は無性にムカついた。一々冴える提案をされて、ムカついていた。無論、八つ当たりである。

 



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8話

キャラ崩壊してますが、許してください。


 追跡する二人の残留思念が途切れた、その場所が丁度『押上駅』周辺だった。それ以上に詳細な思念の読み取りは不可能であった。大勢の人間の中に埋もれてしまい、二人のものと判別するのが難しい。

 (こうなれば、足で探すしかないかな……)

 百鬼丸は思った。

 バイクを道端に乗り捨て、ナンバープレートを腰に佩いた刀で切り刻んだ。それから心置きなく街を歩きだした。

 が、暫くしてから気がつく。

 「と、その前にこの体から漂う異臭をなんとかせねばなぁ……」

 軽くボヤいた。

 先程からすれ違う人々が百鬼丸をジロジロ見ながら鼻を摘んでいる。

 「風呂かぁ……いやだなぁ。恐らくおれのご先祖様に風呂嫌いな奴がいたに違いない」

 腕を組んで独り合点する百鬼丸。

 周りを見回すと、すでに夜の時刻といえた。街灯があちこちで降り注ぎ目が痛くなる。山奥で暮らしていた百鬼丸には耐え難いものだった。

 「しかも、なんというかガスの匂いがするな」

 新鮮な空気が欲しくなっている始末。

 

 (それに、着物姿だとこの辺りでは悪目立ちするようだな……)

 百鬼丸はおもむろに、懐に手を入れて茶封筒を取り出す。

 「いくらあるか知らんがとにかく、服を買うのが先か」

 面倒事が増えたなぁ、と思いながら百鬼丸は思念を探りながら街を彷徨う。

 

 (――ん? この服屋の近くから思念が強くなっているな)

 

 贋作の鼻をクンクン動かし、歩き出す。

 と、店先で何やらもめている騒がしい娘ふたりが居る。

 「~~~~っ、この馬鹿もの!」

 「ひどい、姫和ちゃん! 」

 (姫和? まさか……)

 こんな簡単に見つかっていいのだろうか? 百鬼丸は突然の発見に嬉しさよりむしろ呆気に取られていた。だが千載一遇の機会である。言い争うふたりの元まで近づき、

 「もし、すまんが十条姫和は君か?」

 指をさしたのは、いわゆる黒髪ロングの姫カットの少女だった。生真面目に切り揃えられた前髪の下には意思の強く鋭い両目が覗く。

 「……貴様、何者だ?」

 冷たい声で誰何する。

 「おれは百鬼丸だ。聞きたいことがある、そもそも君たちの敵ではない」

 少し困ったように説明した。しかし姫和は警戒の色を強め、腰に装着された特殊ベルトに手を滑らせ、左腰元に佩いた垂直の御刀の柄に手を触れる。

 臨戦態勢をとる。

 (……いや、参ったなぁ)

 ふと、意識を別のもうひとりにやると、こちらの少女は僅かに驚いた様子だったが、それ以上には反応をしていない。

 「ええっと、君は……そう、衛藤可奈美であってる?」

 甘栗色をした髪をショートボブで整え、左側頭を髪で短く束ねている。まるで尻尾のように可愛らしく揺れていた。人懐っこい表情と愛らしい顔立ちをしており、姫和とは受ける印象が対照的である。

その可奈美が、

 「あ、はい。そうです。美濃関学院二年の衛藤可奈美です」

 一応、礼儀正しく挨拶を返した。

 「よかった。実は、舞衣殿が君を探していた」

 「――舞衣って、もしかして、まいちゃ……ごほん。柳瀬舞衣のことですか?」

 「そうだ、心配していた。ここに来るのも彼女の助けがあってきた。もし、よければ連絡をして迎えにきてもらえばいいだろう」

 その言葉に可奈美は表情を硬くして、

 「ごめんなさい、百鬼丸さん。私まだ帰ることができないんです」

 怪訝に首を傾け、

 「なぜだ?」

 「私は姫和ちゃんと一緒に行くことに決めたんです」

 と、そこへ横槍が入る。

 「いいや、可奈美。いい機会だからお前だけでも戻れ。そもそも、これは私自身の問題だ。お前に付き合ってもらう義理はない」

 厳しく切り捨てた。

 「……で、でも」

 可奈美が一歩、踏み出して続ける。

 「姫和ちゃんひとりだと、結構はやく捕まる気がするよ。だって、ここまで短い間一緒に行動したけど、意外におっちょこちょいだから親衛隊とか本気だせばすぐ見つかりそうだし……」

 「は?」

 こめかみに青筋を浮かべ、攻撃対象を百鬼丸から可奈美へ変更したようだ。

 「だって、道結構間違えてたし――」

 「それはお前も同じだろう!」

 「それに、スキあらばチョコミント味のアイスとかお菓子に釣られるし……」

 「当然だ、美味しいに決まっているものを逃せるか! それより、お前の狂った審美眼ではあの『爆炎天使ファビュラスさん』なる、明らかに薬をキメた感じのキャラを可愛いとするその感性が理解できない。あんなもの、邪教の神だと言われた方が納得するレベルだ」

 「あ、ひどい! 私はいくら悪口言われてもいいけど、あの子たちを悪くいうのはいくら寛大な私でも許さないよ!」

 「なんだと、この感性の方向音痴め」

 「姫和ちゃんの味覚音痴、ばか」

 

 ふたりの不毛極まるやり取りを目の前に百鬼丸は、

 (なんだコイツら……。はやく帰りたい)

 出会って五秒、心が挫けた。

 

 2

 結局、数十分に及ぶ小学生以下の口喧嘩を百鬼丸は仲介しておさめた。

 「とにかく落ち着いてくれ。いや、そもそも、君らはおれの話をきけ」

 窶れ切ったように、呟く。

 「……あはは、ごめん。言い合ってて百鬼丸さんの存在忘れてた」

 「え」

 「ああ、お前まだ居たのか。それで話とはなんだ?」

 え、なに二人共ひどくないか? 内心ショックを受けながらも「ゴホン」と咳払いを一つして落ち着く。

 「話す前に、おれは服を調達して風呂に入りたいんだ。それからでいいか?」

 目を瞑り、腕組みをしていた姫和が片目を開き、

 「構わないが、宿を決めねば話にならんだろう。生憎、こちらの逃走資金はそんなに無いから……」

 「だったら、おれのをやるよ。どうせ、金はあんまり使わないしな。いや、そもそも金をあまり使ったことがない」

 再び、懐から茶封筒を取り出す。

 明らかに分厚い。姫和は眉を顰め、

 「悪いが、お前に逃走の手助けを受けるつもりはない」

 「なぜだ?」

 「当然だろう。私は私自身のやり方でこの復讐を完結させるつもりだ。なぜ、突然現れたお前に手助けされなければならないんだ」

 「まぁ、別にそれでもいいけど……。あ、でも折角だしさっき話していたチョコミント? とやらを奢らせてくれ」

 片耳がピク、と動いた。

 「なに? それは本当か?」

 「え? ああ、まあ。それにこの封筒の中の金は君たちにも必要になると思うんだがなぁ……」

 可奈美が、

 「まず、服を買ってから銭湯にみんなで行かない?」

 提案する。

 「その方がよさそうだな。ウム、分かった」百鬼丸が首肯する。

 

 

 3

 百鬼丸は四肢の仕掛け上、いつでも戦えるような服装を求めたが、結局街中に溶け込むことを主眼として服を選んだ。

 下は分厚いブーツに、スタンダードジーンズ。上はタンクトップに、腕の微妙な長さを隠す為に本革のジャケットを買った。

 それから、銭湯で十分に悪臭を洗い流し、数十日ぶりの入浴に開放感を感じた。筋肉が弛緩していくのが判る。先程買った衣服を身にまとい、着物は丸めて道端に落ちていたビニール袋の中に入れる。

帰りがけに銭湯の主人に呼び止められた。

 「ああ、お兄さん。今日は商店街の抽選会だからこれ、引換券持ってって」

 「どうも」

 頭を下げて、受け取る。

 その後、女湯から出てきたふたりと合流し、楽器屋に行くハメになった。

 

 楽器屋の店内には、数多くの名も知らぬ高額な楽器が並んでいた。

 「ギターケースで偽装するから……あ、このケース可愛い。ね? 姫和ちゃん」

 「……お前は御刀を隠すのに、なぜ可愛いいなどと――」

 姫和も、なにか気になるものがあるのか、視線を先程から頻繁に移動させている。

 「百鬼丸さんは……」 

 「おれ? おれは適当でいい」

 「え~だめだよ。百鬼丸さんのソレは普通の刀だけど、でも粗末な扱いは可哀想だよ」

 うむむ、と唸った百鬼丸は可奈美の謎の説得力に押されて渋々適当なものを買うことにした。

 三人の会計は全て百鬼丸のポケットマネーで賄われた。あとで返済するとふたりは言ったが、別にそれは百鬼丸にとって、どうでもよかった。

 会計を終え、宿を探そうとしたとき、ふと思い出した。

 

 「少し、寄り道したいがいいか?」

 

 「「?」」

 ふたりは顔を見合わせた。

 

 4

 抽選会では、参加賞の「おたま」と「菜箸」が当たった。

 くじ運のなさに、がっかりしながら民宿のある方角へと三人は向かう。

 

 台東区と荒川区の丁度、区の境に位置する宿に着いたのは、夜の九時近くだった。

 

 「いらっしゃい。お客様は三名さま?」

 人の良さそうな四、五十代の店番の女性が聞く。

 「ええ」

 姫和は頷きながら、帳簿に記入をしていた。

 「ふーん、お客さんたちはどういう関係の人たち?」

 何気ない世間話から、なにかを怪しんでいるような目線で訊かれる。おそらく家出かなにかと間違われているのだろう。

 「えーっと、それは……」 

 困ったように可奈美は視線を宙に彷徨わせ、不意に気まずそうな姫和と顔を見合わせる。

 百鬼丸は助け舟を出そうと口をひらく。

 「おれたちは、『ばんど』なるものを組んでいる」

 「バンド? ああ、楽器をやっているのね。それで、お兄さんはなにを担当しているの?」

 ん? という間抜けな顔をする百鬼丸。

 「お兄さんたち本当に楽器やってるの?」

 「と、当然だ。おれは……」

 先程の抽選会で当たったおたまと菜箸が右手に握られている。

 (これだ!)

 「おれは、おたまと菜箸を担当している」

 「「「えっ?」」」

 三人がびっくりした声をあげる。

 その反応から、百鬼丸は得意げにもう一度、

 「だから、おれはバンドのおたまと菜箸担当だ」

 それをきいた姫和が振り返り、

「アホかお前は! その素っ頓狂な回答に戸惑って聞き返したのだ」

 容赦なくツッコむ。

 「……な、なんだと! ああ、そうか。君らがそういうつもりなら、今日限りでこのバンドは解散だ。いわゆる、音楽の方向性の違いというやつだ」

 ぷい、と顔をふたりから背ける。

 可奈美が困ったように眉をハの字に曲げ、

 「……百鬼丸さん、多分それ音楽以前に道具の方向性の違いだと思う」

 

 そんなこんなで、三人は民宿で一泊をすることになった。

 



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9話

説明回です。


 

 

 「俺は一体どこに来たんだ?」

 ステインはその鋭い眼差しを左右に彷徨わせ、一人つぶやいた。

 

 ――日本標準時23時8分。

 横浜港。

 深夜の貨物コンテナを吊るクレーンが、巨大な彫像のように幾つも聳えている。小山がいくつも並ぶ正体は、積載貨物を満載した貨物船とコンテナ群である。

 春の海風は殊更に冷たく乾いていた。

 三白眼を細め、ステインはこちら側に近づく人影を敏感に察知した。

 背中に交差させた刀をふた振り、柄に手をかける。

 こつ、こつ、と軽やかな靴音はステインの半径10メートルほどの所で停止した。

 「……誰だァ?」

 低く渋い声で誰何する。

 周囲を囲むのは無機質な四角形のコンテナばかり。頭上を強烈な外灯が白く皓々と照るばかりである。

 遮蔽物の角から華奢な影が出る。

 「わたしは折神家親衛隊所属、橋本双葉。貴方こそ何者? スペクトラムファインダーに反応があったから来たけど、荒魂に取り憑かれた人間?」

 「ああ? 荒魂だと……?」

 ステインは腰を低く、警戒態勢を崩さず相手を見やる。

 「知らないの? 変わった人。どこから来たの?」

 少女は生気の失せた瞳で問う。

 ――双葉、と名乗った少女はまだ年頃が一三、四ほどでミディアムヘアの後髪を適当に手で払う。

 「娘、ひとつ訊く。この場所に〝ヒーロー〟はいるか?」

 大の男からヒーローという単語を聞くとは思わなかったようだ。双葉は一瞬ポカンとした顔だったが、やがて相手の意を理解すると、

 「ふっふふふふ。なにそれ、おじさん本気?」

 ひとしきり腹を抱えて嗤ったあと、無機質な面に戻り「馬鹿みたい」と吐き捨てる。

 「……一応きくがお前に〝個性〟はないんだよな?」

 「こせい? 人格てきな意味で?」

 ステインは失望したように頭を逸らす。

 その反応をみて双葉は肩を竦めて、溜息を漏らす。

 「あーあー最悪。変なおっさんにまさか端末が反応するなんて」

 踵を返した……その瞬間。

 

 ――迅、と凍てつく外気を縫いステインは双葉の背中を目掛けて二刀を抜き放ち、袈裟斬りにする。

  その筈だった。

 

 「――あっぶな。おっさん、刀使に普通の刀剣で闘い挑むって頭オカシイね。結芽さんなら喜びそうだけど」

 刀身の幅が広く、太い御刀が斬撃を受け止めた。

 『小豆長光』

 それが、双葉の御刀の名である。かつて、戦国大名上杉謙信が愛用したことで有名なひと振り。

 「ほぉ……面白い」

 口からはみ出す長い舌をちらつかせる。

 

 (なんなの、このおっさん)

 双葉はしかし、内心焦っていた。

 確かに反応こそしたものの、《写シ》を貼る前だった。下手をすれば死んでいた。

 「ちっ、はーーっ」

 鍔迫り合いの最中だが息を整えると《写シ》を貼る。

 体表に貼られた透明な膜は、刀使にとって最大の防御である。

 それをみたステインは目を眇め、笑う。

 「ほぉ……それがお前の個性か」

 「だから、さ。なんなのソレ」

 御刀でステインを弾き返し、相手に向かい正眼に構える。

 「って、あれ? いない?」

 双葉の視界からステインが消えた――

 「ハズレだ」

 (下? しまっ……)

 屈んだステインは双葉の真下から突き上げるようにキザギザの刃で頭を貫こうとした。

 「まずっ」

 右腕を盾に、なんとか頭を守り刀の軌道を変えた。だが代わりに右腕が消えた。

 「ほぉ、面白いな、その個性は」

 言いながらステインは反対の腕でもう一筋、攻撃を繰り出す。

 (まじで速いッ!!)

 左手に持ち替えた御刀でなんとか防ぐことに成功こそしたが、意識が朦朧とし始めた。ひとえに、写シを破られた影響である。

 「片手で俺を倒せるとでも?」

 ステインは回し蹴りで双葉の脾腹を撃ち抜く。

 「……っ、ぐはっ」

 スキを衝かれた、と咄嗟に思った。

 写シは完全に剥がれ、地面に転がる。

 ステインは倒れた双葉の腕を切先で軽く切る。うっすら、服の下から覗く白い皮膚の上から線が浮かび、真紅の液が溢れる。

 刀身に付着した血を長い蛇の如き舌で舐めとる。

 「ひとつ、お前にいいことを教えてやる。お前がこの世界について全て俺に教えるまで動けない……いいな?」

 睥睨しながら、命ずる。

 (うごっ……けない?)

 体中が凍りついたように、指先一本動かせない。

 ひどく動揺した双葉は視線だけを上に持ち上げ、今更危ない人物と出会ってしまった不運を感じた。

 

 

 「……そこまでだ、犯罪者」

 凛呼とした響きが、湾内の一角に広がる。

 ステインは肩越しにその方角に視線を投げる。

 「残念だが、お前には折神家まで同行してもらう……」

 「誰だてめぇ」

 「折神家親衛隊第一席、獅童真希。後から援軍で全員揃う。その前に降伏しろ」

 真希、と名乗った少女が身から放つ威圧により実力の程を示す。

 (チッ、分が悪い)

 すぐさま納刀すると、逃げる為の算段をするべく周囲をみた。

 だが、コンテナ群の上から声が降る。

 「申し訳ございませんが、貴方に逃げ場なんてありませんわ」

 ワインレッドの髪を後ろに結び、頬から肩先にまで緩やかにウェーブする毛先が激しい風に煽られている。

 「親衛隊第二席、此花寿々花、推参」

 コンテナから飛び降り、流星のように夜闇に紛れ、青い筋の刃だけが空から滑るように落ちてくる。

 寸前のところでステインは身を躱す。

 「あはは、すごーい♪ おじさん、強いね♪ 次は私と遊ぼーよ」

 背後から別の凶刃が襲う。

 早業で納刀した一本の鯉口を切り、応戦する。

 「誰だテメェ……」

 流石に疲労の色が混ざった口調でいう。

 「第四席、燕結芽―――私、退屈で死にそうーもっともっと、遊ぼうよ、おじさん」

 今まで対峙してきた相手のどれとも異なる、異様な鋭さを誇る斬撃がステインの肝を冷やす。

 何度も結芽の攻めを避け続けた。

 青白い火花が何度も舞い散りる。

 が、

「チエックメイト、ですわ」

 不意を衝かれ寿々花の御刀《九字兼定》がステインの喉元に伸びる。

「あ~あ~、つまんないーーー」

 真横から子供っぽい文句が聞こえる。

 「どうする、犯罪者」

 真希が淡々とした口調でステインを問い詰める。

 深い溜息を洩らしながら、

 「なにが目的だ?」

 己の不利を悟り、手にした武器を地面に投げた。

 「それは紫様が決めることだ。大人しく従え」

 すっかり意思沮喪した。

 不意に、ステインは地面に転がる双葉の手元をみた。彼女の携帯端末から援軍要請を示す画面と共に、位置を発信していた。その抜け目なさに対して僅かに感嘆する。

 真希が、

 「貴様の名前を教えろ」

 尊大な物言いで訊ねる。

 「――俺か? 俺はステイン。別名〝ヒーロー殺し〟だッ!」

 独特の威圧感とも迫力ともつかぬ圧力に、包囲した筈の親衛隊の面々は背筋がゾッ、とした。

 (コイツ、もしやわざと捕まったのか?)

 真希の見立ては正しかった。

 

 ステインはこの「ヒーロー」無き世界に来てしまったことに、一種の絶望を感じていたのである。

 かくして、《ヒーロー殺し》ステインが折神家の陣営へと連行された。

 

 

 

 

 2

 

 ちゃぶ台を境に、対座する百鬼丸と可奈美と姫和。

「それで貴様の話が本当だったとして、それを信じろ……と?」

 民泊の一室、畳で正座をした姫和が腕を組んで睨みつける。

「ああ。だが信じろとは言わない。信じるもなにも、それは君らの自由だ」

二〇年前の相模湾岸大厄災から六年後に、荒魂を含むノロの完全消滅を図る為の御刀が秘密裏に製造され、かつ完成していた事――。また、その刀鍛冶は数振りも製造をしていたということ。

「有り得ない。仮にそれが事実だったとして、その《消滅》という定義はどうなる?」

 百鬼丸の顔を見ながら、彼の目前に《小烏丸》を突き出す。

「それにもう一つ。これはその大厄災のとき、母、十条篝が使用した御刀だ」

 ……鉾両刃造の珍しい刀身の小烏丸は、古代日本の真剣と刀を合わせたような特殊な形状をしている。刀の先端から中程までを両方に刃がついている。

「なぜ、御刀ではノロまで祓うことができずにいる? 説明がつかない」

 

 百鬼丸はしばらく考えたが、

「いや、言うより見てもらう方が早いだろう」

 と、言いながら口で噛んで左手の肉鞘を抜いた。

「「……っ!?」」

 可奈美と姫和のふたりは驚いた。

 小太刀よりはやや長い刀身が、百鬼丸の左腕から現れたのだ。人体を利用した仕込み刀。

 (まさか……)

 姫和は呆然としながら、百鬼丸の顔を窺う。

 飄々としながらも、その表情には憂いを帯びているように思われた。

「もとは、普通の太刀ほどの大きさがあったんだが、川に流す時、無理やり棺桶に詰めたもんで、水に浸かって結局、この長さにまで折って短縮したのさ」

 可奈美が、

「え? どうして刀を棺桶に詰めて川に流すの?」純粋に聞く。

 百鬼丸は皮肉な笑みを口元にたたえ、

「赤子のおれを一緒に流すときに、何らかの餞別として詰め込んだのさ」

「そんな……」

 可奈美は言葉を失った様子で俯く。

「おれは四十八箇所を荒魂どもに奪われている。だから……ホレ」

 百鬼丸は目を見開き、指を瞼の裏側にまで突っ込み目玉をほじくり出す。

 ゴロン、と大きな飴玉ほどの眼球がちゃぶ台の上に転がる。

「……っ、こ、これは?」

 普段では絶対にみせない明らかに狼狽えた姫和。

 「おれは完全に目が見えていない。これはあくまで脳の電気信号で微弱に視界を確保する為の道具だ。それに……」

 百鬼丸は自らの四肢すらも、作り物であることを教えた。

 「この右手も左同様。ただ、この義手は便利でさ、活性細胞を皮膚に利用しているから、普通の人間の皮膚と遜色がない。あとは、手足を動かす際には、脳の微弱な電気信号によって自由に指先と足先を動かすことができる。足の武器は……まあ、追々教えるよ。」

 「で、でも耳とか声とかは大丈夫なんですよね?」

 「いいや、全部《心眼》とテレパシーだ。だから、直接君たちの心と対話をしている状態だ」

 ふたりは百鬼丸の過酷な境遇を知った。

 

 「……それで、私たちはお前にどう協力すればいい?」

 幾分戸惑いの消えぬ瞳で、百鬼丸に向き直る姫和。

 「いいや、別に協力ってほどでもない。それに、おれから体を奪った連中を仮に他人がぶっ殺しても、おれの肉体は帰ってこないらしい。直感で判る」

 「う~んと、それが分からないんだけど、なんで荒魂を他人が討伐しちゃダメなのかな?」

 可奈美が百鬼丸の左腕の刀に改めて興味しんしんにいう。

 「一言で云えば、おれの肉体は荒魂連中にとって最高の依代なんだと。連中がこの現し世で活動するときは何らかの制約がかかってくる。だが、おれの肉体は隠世との親和性が高く、かつこの世で棲む限り荒魂連中の力を増殖させる特異体質らしい」

 「……そんな」

 「つまり、他人が倒した所で荒魂連中から吐き出されるのはおれの骨か脂肪くらいだろうな。あくまで、おれがおれ自身で、この《無銘刀》で斬らない限り意味が無い」

 そう言って可奈美の前に差し出した左腕の刀身には、奇妙な文字文様が刻まれていた。

 視線を下に可奈美は、

 「百鬼丸さん、これは?」

 「これは、荒魂のノロを分離させておれの肉体だけを抽出する文字らしい。そもそも、おれも詳しくは知らん。だが、この刀の作用は絶大で、コイツに斬り伏せられた荒魂で四散しなかった奴はいない。無論ノロも、だ」

 

 姫和がひと呼吸置いて、

 「つまり、お前の体を取り返す際に発生する何らかの反作用によってノロも同時に消えるという事だな?」

 「概ね正しい。しかしおれにも正確なことは分からん。ただ直感と経験に従っているからな」

 「だが、大変だな。もし他の刀使に四十八体倒されれば」

 「そうだな。まぁ、〝タギツヒメ〟っていう奴をトップに四十八の荒魂どもは色々とやっているみたいだ。だから……」

 言葉を引き継ぐように姫和が、

 「扇の要であるタギツヒメを中心にしている荒魂どもを殺す。そのために一緒に行動をしたい、だろう」

 片眉を上げ、百鬼丸に答えを促す。

 「ご明察」



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10話

「しかし、忌々しい奴だな……」 

 姫和はひとりごちに、窓の枠に片肘を置いて外をみる。夜に昏れる街並みから絶え間なく車や人声などの騒音が聞こえた。

 可奈美と百鬼丸は食べ物の買い物に外出した。姫和が外へ出ればそれだけで親衛隊の捜査網にかかる危険が高くなる。それを避け敢えて部屋に一人残った。また、心理的にもその方が楽だった。

 

 ――おれは、必ず目標を達成させる

 

 別れ際、百鬼丸の言葉を無意識に反芻する。

 

 (なにが、目標を達成させる……だ。馬鹿馬鹿しい。あんな奴に一体なにができる? 私は母の仇をとる為に、一人で折神紫を討つまでだ。あの二人とはどこかで別れたほうが賢明だな)

 そう自分に言い聞かせる。

 だが、尚も言いようもない気の昂ぶりを鎮めるように、姫和はしばらく物思いに耽った。

 見慣れない建物群。弛んだ五線譜のような電柱の電線。路上を流れる多くの人々。

 随分と遠い所にきてしまったのだ、と改めて認識する。

 故郷とは異なる空、土地の風景、匂い……全てが違う。

 二〇年前の母も、「あの事件」で異郷の地に赴いた際に似たようなことを考えたのだろうか?

 手近に置いた《小烏丸》の鞘を掴み、身に引き寄せる。

 「お母さん……か」

 記憶の中だけにある人。その柔和な笑みを思うだけで、現在でも胸がチクリと痛む。

 

 1

 宿を出て数分。繁華街の街中を歩きながら、

 「百鬼丸さんは、いくつなの?」

 可奈美が訊く。

 隣りを歩く百鬼丸は目線をやや下にやり、

 「十四だ」正直に応える。

 「えっ、うそ!?」

 可奈美は人一倍大きな目を更に大きく見開き叫ぶ。

 「……本当だ」

 バツが悪そうに百鬼丸は念押しする。

 「え~、でもそっか。百鬼丸さんはなんていうか、年齢不詳な感じがするし、うん。大丈夫だよ」

 グッ、と親指を立てなんのフォローにもならない発言をする可奈美。

 それを横目に百鬼丸はガク、とズッコケそうになった。

 大体、何が「大丈夫」なだろうか。色々言いたいことがあったが結局、

 「何か食いたいものはあるか?」

 腹の虫が勝ち、話題を変える。

 「う~んっと……あ、そうだ。折角だしお肉食べたい! お肉!」

 「肉? 肉か……いいなぁ」

 百鬼丸もうん、うん、と頷いた。

 「牛丼にハンバーガー、焼き鳥もいいかなぁ……」

 百鬼丸は涎を垂らしながら街の目につく店たちを眺め一つに決められない。煩悩を振り払うように革ジャンの袖で口端を拭う。

 「……ねぇ、百鬼丸さん」

 「ん?」

 「焼肉~♪」

 可奈美の指さした一角から、肉の焼ける香ばしい匂いが嗅がれた。

 「や き に く……だと!!」

 なんて魅惑的な響きなんだ、と思った。そして悩んだ。百鬼丸はひたすら悩んだ。

 金は勿論ある、

 約一名ほど置き去りにしている罪悪感がないわけではない。

 「しかし姫和には悪い気がしないでもないしなぁ……」 

 すると可奈美も、

 「確かに……」

 じゃあ、行くの辞めようか……と、どちらかが言わねばならぬ雰囲気になった。

 (でも肉食いたいよなぁ)

 百鬼丸は思った。

 (たしかに姫和ちゃんには悪いけど……お肉が魅力的で……)

 可奈美も思った。

 二人の視線は交錯した。

 問題は――何もない。そうだ、阻むものなんて何一つないではないか! 百鬼丸は独り合点する。

 百鬼丸が意を決して、

 「行くか、焼肉」と云う。

 「うん、行こう焼肉っ」可奈美は満面の笑みで応じる。

 ふたりから罪悪感が消えた瞬間だった。

 「「焼肉~♪ 焼肉~♪」」

 可奈美と百鬼丸はお手々を繋いでルンルン気分にスキップしながら入店した。

 

 このあと、可奈美と百鬼丸は滅茶苦茶に肉を喰った。

 食べ放題九〇分間で次々と肉を消費した。

 

 2

 「……で、お前たちだけで焼肉を喰った、と」

 姫和のおでこに青筋が浮かんでいる気がした。相当ご立腹でいらっしゃる事は明白だった。

 ――しかし。

 「「行ってません!!」」

 二人は仲良く声を揃えて否定した。それはもう、美しいほどの白々しさ全開に押し出して否定した。

 「お前たちから漂う焼肉の香りはなんだ?」

 早速きた指摘事項にぎくっ、と可奈美が体を固くする。

 その様子を見逃さず姫和は、さっ、と視線を横に移して、

 「お前も、何か弁明はあるか?」

 百鬼丸にいう。事実上の死刑宣告だった。

 「おお、神よ。どうかお慈悲を……」

 「ない」

 無情にも、姫和は即答する。

 「チッ、この人でなし。薄いのは胸だけじゃなくて情にも薄いとは……」

 百鬼丸は悲しげに首を左右に振る。

 「―――――は?」

 今までにない無機質な表情の後、鬼をも裸足で逃げ出す形相で《小烏丸》の鍔を弾き刀身を顕にする。

 あ、今なんかヤバイ地雷踏んだな、と確信した百鬼丸は、

 「ヒエッ……やっぱり、どうかお慈悲を……」手を合わせて命乞いした。

 姫和は口角をニィ、と釣り上げ、

 「無駄だ。死ね」

 この後、開始された鬼ごっこは、街を含めた広範囲に及び二時間かかったという。

 なお、鬼(少女)は御刀を構えて追いかけていた……と、後日SNSで話題になった。

 

 3

 一方その頃。

 「……案外簡単に見つかりましたね」 

 柳瀬舞衣は呆れたような口調でいう。携帯端末に続々と溢れる『情報』から、十条姫和と思われる少女と百鬼丸が映っていた。……しかも追いかけっこの状態で。

 (いったい何の意味があるんだろう?)

 本気で首を傾げながら、なんだか情けなくなった。

 しかし、ふたりが見つかったという事は必然的に考えて可奈美もいるという事だ。

 舞衣は早まる胸の鼓動を抑えて、

 「……待っててね、可奈美ちゃん。可奈美ちゃん可奈美ちゃん、可奈美ちゃん。可奈美ちゃん可奈美ちゃん、可奈美ちゃん。可奈美ちゃん可奈美ちゃん」

 彼女の瞳から光が失われていたのを、執事の男性は見ないふりをした。

 

 

 4

 

 

 「……えーっと、これで完全に居場所バレなかった?」

 可奈美は困ったように肩を落としていう。

 「コイツが悪い」

 姫和は拗ねた態度で口を尖らせる。

 百鬼丸は散々ボコボコにされた。

 その彼が、

 「……しかし、上手くいったな」

 と、腕を組んで笑った。

 「「……?」」

 姫和と可奈美は目を合わせ、頭に疑問符を浮かべる。

 「そもそも、お前はこの現代社会に順応できてないだろ」

 姫和がツッコむ。

 百鬼丸は頬を指で軽く掻きながら、

 「さっきも説明したけど、おれの《心眼》は相手の記憶も追体験できる。何より多くの心象操作くらいはできる」

 「……ってことは、今さっき追いかけっこしてた理由って」

 「そうだ、捜査網の攪乱が目的だ。そもそも、御前試合の件に関しては箝口令が敷かれて、公安を含めた警察権力は表立って行動ができない。今、君たちを追っているのは伍箇伝と折神家がメインだ。その限られた人員で荒川区と台東区の街に現れる。……それに合わせて、SNSに流れる情報はおれの情報操作が加わる。恐らく、この場所を見つけるのは時間がかかる筈だ……ただ一人を除いてな」

 長い百鬼丸の説明をうけた後に可奈美が、

 「それって誰?」

 息を呑む。

 「……柳瀬舞衣だ」

 

 

 

 

 



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11話

 東名高速道路を走行する一台の護送車。

 その中にひとり、拘束具に身体の自由を縛られ頭は麻の袋で覆われる男がいた。その名はステイン。かつて、元の世界にて人々を恐怖に陥れた者。彼を乗せ、車はトンネルへと入る。

 時刻は午前4時。

 道路を走る車の数も疎らである。

 (チッ、つまらねぇ……)

 一種の燃え尽き症候群を患ったように、双眼は虚ろに濁り体中の気力が萎えた気がしていた。

 ……折神家

 日本でも有数の名家であり、政財界でも強い発言力を有している。

 その現当主、折神紫の命令により「ステイン」は横浜港から鎌倉の屋敷まで送られる途中であった。

 (荒魂? 刀使? 一体ここは何なんだ?)

 座席シートの背もたれに上半身を預けながら、ステインは考える。少くとも、元いた世界では聞き馴染みのない単語。

 となると――

 (やはり、あの穴は異世界へと通じるものだったらしい……)

 小さく鼻から息を洩らし、酒か煙草でも欲しくなった。

 さて、これからどうなるだろうか……と、ステインが目をつぶった瞬間。

 

 キィィィィ、とけたたましい摩擦音がトンネル構内に響き渡る。

 それから、車体は大きく左に傾き、護送車は横になって一五メートルほど減速せずに道路を滑った。

 その間に車内では激しい揺れに見舞われ、運転手はアチコチ体をぶつけたらしく、失神していた。

 ステインは縛り付けられた車壁のおかげで、目立った怪我をせずに済んだ。

 (何が起こった?)

 そう思う暇もなく、護送車の後部扉が思い切り切り裂かれる。

 バン、と扉を蹴破る乱暴な音のあと、

 「ほぉ、君が〝ステイン〟君だね」

 渋い男の声が聞こえる。

 「誰だ、テメェ」

 吐き捨てるようにいう。

 男は肩を竦めて苦笑いする。

 「君を助けたのはこのボクなんだがね。まあいいさ。それより、その拘束具くらい自力で外せるんだろう?」

 チッ、なんでもお見通しかよ――そう内心毒づくステイン。

 そして、事実彼は簡単に拘束具を腕力ひとつで破った。

 麻の袋を取ると、目前には壮年の男が佇んでいる。

 「やあ、始めまして。レイリー・ブラット・ジョー。それが現在のボクの名前さ」

 純白のスリーピーススーツに身を包んだ男。彫りの深い顔立ちからも判る通り、西洋人である。白銀の頭髪を後髪で軽く束ねている。綺麗に整えられたあごひげを触りながら、

 「君を我々の勢力に加えたいが、どうだろうか?」

 と、ジョーが唐突に提案する。

 まだ頭が混乱したステインは軽く頭を左右に振る。

 「意味がわからねぇ。第一、お前らは何者だ?」

 真っ暗な車内にうっすら、乱暴に破られた扉の隙間から流れ込むオレンジの原色光。

 ジョーはムネポケットのシガーケースを取り出し、葉巻の先端を爪で丸く切り落とす。

 「君にとってそれが重要な事かな?」

 銀色のジッポライターで葉巻に火を点ける。美味そうに煙を口腔一杯に頬張り、鼻から煙を抜く。

 一々洗練された動作を眺めながらステインは、

 「答えろッ」

 恫喝する。

 男は「やれやれ」とでも言いたげに後頭部を掻いた。

 「いいだろう。我々は《サマエル》だ。人々に知恵を与え、そして堕落させた蛇の名前さ。――どうかな? お気に召すといいのだが」

 サマエル、即ち赤き蛇。旧約聖書の創世記にてアダムとイヴに知恵の木の実を食うようそそのかした張本人。

 (それを組織の名前に……か。おもしれぇ)

 ステインは孤高の仕事を好む。しかし、この眼前にいるジョーのどこか人間離れした雰囲気に興味を持った。

 「ああ、悪くねぇ。だが、いいか覚えておけ。俺は他人とつるむ気はない。合わないと判断すればいつでもテメェらとは袂を分かつ。いいな?」

 ジョーは満足したように呵呵と笑い、

 「いいだろう。では改めて。ようこそ、悪名高き〝ヒーロー殺し〟のステイン君。我々《サマエル》は歓迎するよ」

 恭しくお辞儀するジョー。

 ステインは首を左右に二三回傾け、バキバキと骨の軋む音を立てる。彼の癖である。仕事前、それも上物を獲物とした時にのみ現す癖だ。

 「この世界にもヒーローはいるんだろうな?」

 ジョーは目を点にして、それから不意をつかれたように大笑いする。

 「……ああ、いるとも。名前は……《百鬼丸》というんだが。ま、詳しい話は後だ。とにかくこの場を立ち去ろうではないか」

 ステインは口を裂いて、邪悪な笑みを零す。

 「百鬼丸……百鬼丸か……おもしれェ……血が滾る」

 三白眼を細め、

 「おい、俺にも一本くれ」

 葉巻を指さした。

 「ああ、どうぞ」

 一本の葉巻を受け取りながらステインは密かに思った。

 (まるで、ゲーテのファウスト博士にでもなった気分だ。すると、さしずめこのジョーという男はメフィストか?)

 今度は皮肉な笑みで、ステインは乱暴にホウキを逆立てたような髪を掻き毟る。

 

 2

 朝。電線に並ぶ雀の鳴き声を聞きながら、可奈美は目を覚ました。

 「ふぁ~っ。おはよ~」

 眠い目を擦りながら、可奈美は不意に、あぐらをかいて壁に寄りかかり、刀を抱えて眠る百鬼丸に目線をやる。すでに彼は起きていた。

 「寝てないんですか?」

 「いいや、眠っていたさ。ただ、この格好じゃないと眠れないんだ。それに、おれは一日二、三時間ほどの睡眠で十分なんだ」

 「へぇーっ、凄いですね!」

 「どうかな? いつも誰かに命を狙われる生活をすると安眠することができないだけかもしれんからね」

 百鬼丸は珍しく苦笑いをした。

 「……私も起きているぞ」

 姫和が不機嫌そうな声で布団の中から言った。

 「よく眠れたか?」百鬼丸がおどけた口調で尋ねる。

 「……お陰様でな」

 皮肉の混ざった言い方で応じる。

 相変わらず可愛げのない娘だな、と内心百鬼丸は思いながら「やれやれ」と肩をすくめる。

 「それで、今日の予定はどうする?」

 「――予定?」可奈美が鸚鵡返しにいう。

 「ああ、まさかこのまま一箇所に潜伏するワケにもいかんだろう?」

 「……ですよねー。ね、姫和ちゃんは何か考えとかある?」

 布団から顔半分だけを出した姫和は不機嫌そうな目つきで、

 「ない」

 と、即答。

 「そもそも、御前試合の後なんて考えてなかった。それに、お前たちと行動する予定もなかった……」

 弱々しくなる語尾。

 そんな姫和の態度が面白かったのだろうか、意地悪く微笑む百鬼丸。

 「昨日の夜の話だけど、やっぱり舞衣ちゃんはこの周辺を見つけ出していると思ったほうがいいよね?」可奈美がダメ押しできいた。

 「ああ、何よりおれが借りたバイクの回収に男執事がくる予定だ。あのバイクにはGPSがつけられている。ここの宿がバレるのも時間の問題だ。それに昨日のSNS情報だ。状況証拠、物証が揃えば当然、バレる」

 「……舞衣ちゃんには会いたいけど、今はまだ――」

 「そうだよなぁ……」

 百鬼丸は困ったように天井を見上げる。

 可奈美は両頬をパンパン、と叩き眠気を覚ます。

 「だったら、行きたい所があるんだけど……いいかな? 姫和ちゃん、百鬼丸さん」

 「構わんよ」

 「……私も異存はない」

 「それじゃ、決定だね!」

 可奈美は満面の笑みだった。

 三人は宿をチェックアウトし、コンビニで適当な朝食を摂ると、都営バスに乗車した。

 まだ、早い時間ということもあり通勤通学ラッシュに巻き込まれずに済んだ。

 

 「これからどこに行くつもりだ?」

 姫和はつり革を握りながら隣りにきく。

 「んー。それは着くまで秘密かな」

 にこっ、と笑みを零す。

 (それにしても、よく笑うやつだ)

 不思議な生き物でも見るように、姫和は目を細めた。

 「ん? どうかした?」

 「……いいや別に」 

 百鬼丸はふたりから離れた場所で、

 (不安だなぁ……) 

 溜息をついた。

 



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12話

  地下構内というのはどの世界でも共通のアジトなのだろうか?

 ステインはそう思いながら、地下へと続く長い階段を下ってゆく。ひんやり、と冷たい空気が次第に強まる。

 先導していたジョーが階段の途中で足を止めて、

 「では、改めてどうぞ」

 招き入れる仕草で先の道をステインに譲る。

 「ああ」

 頷きながらゼリー状の暗闇が広がる無限の空間へと進んでいった。

 

 埼玉県東部に存在する――《首都圏外郭放水路》

 国道一六号線の地下五〇メートルに建設された施設である。中川、倉松川、大落古利根川などから溢れた水を流入路に沿い、この《首都圏外郭放水路》立坑に貯水。その後に排水機場ポンプの稼働と共に江戸川へと排水される。

 この地下構内は内径が約一〇メートル、そこに巨大な柱が林立している。

 「わざわざ、こんな所を拠点に?」

 肩越しにステインはいう。半ば呆れが含まれていた。

 「いいや、今日は特別だ。雰囲気があるだろ?」

 「フン」

 冗談を相手に無視されジョーは肩を竦めた。それから顎を前にしゃくる。

 その先には、数人ほどいた。

 奥には数人ほどの老若男女が佇んで居る。

 「……この連中は一体何なんだ?」

 苛々とした様子で腕組みをして柱に背中を預ける。まだ信用のできぬ連中に背を見せるのは命とりだ、と判断した為である。

 それを眺めながらジョーは溜息をつき、

 「はは、全く落ち着きのないお方だ。では説明させてもらおうか――」

 狡賢い表情で口を歪めた。

 

 2

 竹下通り。

 原宿駅から明治通りにかけて緩やかな下り坂にある通りで、全長三五〇メートルには若者向けのファッション・ブティック店を中心に軒を連ねる。

 「……それで、なぜここなんだ?」

 十条姫和は額に怒りの青筋を浮かべて言う。

 「人が多い場所ってここしか知らないもん」

 可奈美が得意げに胸を張る。

 「だからって、観光にきたワケじゃないぞ」呆れた姫和は肩を落とす。

 「私たちくらいの子とか、制服の子も多いし見つかりにくいんじゃない?」

 確かに可奈美の言葉通り、若者が目立って多い。

 御前試合が金曜だとすると今日は……

 「日曜か。通りで人が多いわけだ」

 狭い雑踏を多くの喧騒が犇めき合っている。

 「あれ? そういえば百鬼丸さんがいないけど、何処かに行ったのかな?」

 「ああ、奴なら『少し離れるけど、すぐに戻る』と言っていた。全く、どうやって合流するつもりなんだ……」

 「ねぇ、姫和ちゃん。そんなところで立ってると目立つから」

 と、可奈美は姫和の腕をとり雑踏の中に紛れる。

 「普通に楽しそうにしたほうが自然だよ」

 ふたりはとりあえず、街を満喫することにした。

 

 

 

 

 

 

 (近いはずなのだが……)

 百鬼丸はバスを降車してすぐ、荒魂が近づいてくる感覚がした。

 彼の肉体の霊力に引き寄せられているのだろう。あのまま人ごみで行動していれば、大勢の人間を巻き込みかねない。

 ――とはいえ

 「この辺りに人のいない場所なんてないよな」

 頭を掻いて諦める。最悪の場合、人目についてでも退治する他ない。だが、しかし。先程から荒魂の気配が霧散し、辿ることが出来ない。

 (……妙だ。荒魂の気配が途中で消えるなんて今まであり得なかった)

 「チッ、仕方ない。一度ふたりと合流するか……」

 

 

 3

 「あ、百鬼丸さん。ここだよー」

 可奈美が、カフェのテラス席から大きく手を振る。

 「……お、おう」

 人ごみに戸惑いながら、百鬼丸はなんとか声のする方向へと進んでいく。

 ……三分後

 「……ッ、はぁ、はぁ。人ごみは嫌いだ」

 げっそりとした顔で百鬼丸は呟く。

 すると、

 「珍しいな。お前と同感だ」

 姫和も首肯する。

 「あははー。二人共まだまだだね。剣術の修行だと思えば全然平気だよー」

 「「それはお前だけだ」」

 これもまた珍しく、ふたりの意見が揃った。

 「それで、百鬼丸は何か飲む?」

 「お……おれは、カフェは来た事がないから……任せる」多少吃った。

 百鬼丸は丸テーブルの、丁度可奈美の真向かいに座り、椅子の背もたれに寄りかかって天を仰ぐ。疲労が一気に来た気がする。

 「うぅ~ん、百鬼丸さんはどんな味でも平気なの?」

 可奈美がメニュー表を眺めながらいう。

 「三ヶ月前に味覚を取り戻したんだが……そうだな。甘いのが好きかな」

 「あ~そっかー。うん、じゃあブラックコーヒーだね」

 百鬼丸は目線を前に戻し、

 「おい、人の話を聞いてたのか」

 「あはは、冗談だよー」 

 「頼むぞ……」

 更に疲れた顔で頭を垂れる。

 (完全に可奈美のおもちゃと化したな……)

 姫和はカップを手にコーヒーを啜りながら思った。

 

 

 

 「それで、荒魂の気配が消えた……と」

 百鬼丸の話を聞き終わると、眉を険しくする。

 「なんでだろうね? 姫和ちゃんのスペクトラム計にも反応がなかったけど」

 「恐らく連中……普通の荒魂と異なり、おれの体を奪った連中は何らかの偽装を図っているだろうな。尤も、今回の荒魂がおれの体を奪った連中とは限らんが」

 

 「でも、そんなに賢かったかな、荒魂って……私の知ってるのは殆ど乱暴なのばっかりだったから。イメージ的には野生動物に近いのかな?」可奈美は腕を組んで「うーん」と唸る。

 「……おれの体を奪った奴らは『知性体』だ。その名のとおり、通常の荒魂と異なり、知性を有している。それも高度の、だ。知性は人格に……人格は自我を芽生えさせ、思考思想を持つようになる。人間と殆ど変わらん」

 「厄介だな」

 姫和が目を眇めつぶやく。

 「ああ、厄介だ。そして狡猾だ。残忍だ。冷徹だ。だが、この知性体にも二通りある――ひとつは長い年月をかけて知性を発達させた種類。もう一つは、他の知性体と『共食い』をして高度な知性を短期間で習得したもの。おれが会いたくないのは後者だ。確かに、一体を倒すだけで体の数パーツが揃う。反面、最も狡くて賢い。だから相手にしたくない」

 自然と語るたびに拳に込める力が強くなる。

 「……そっか。百鬼丸さんの力になるか分からないけど、私たちも協力するよ。……ね、姫和ちゃん」

 話を向けられた姫和はムスッ、と不機嫌な顔になり、

 「まぁ、お前とは共通する敵がいる間だけ協力をしてやらなくもない……」

 明言を避けた。しかし、断らないことからすると、協力してくれるらしい。

 「助かる」

  素直に感謝を伝える。これほど長く共に行動した人間はいなかった。ふたりには感謝の意味も込めて頭を下げる。しかし一方で、百鬼丸はこれから対峙する『知性体』との戦闘を思った。

 (……連中がどうくるか。それが問題だ)

 冷静な思考の自分が敵を殲滅する方法を無意識に考えていた。

 

 4

 「それで、これからどこに行く?」

 微笑みながら可奈美が尋ねる。

 昼下がりの竹下通りは更に人の数も増える。三人は歩きながら、今後について話し合っていた。

 隣りを歩く姫和は気もそぞろに、そして何かに視点を固定して足を止めた。

 「寄っていこう。今後の対策について話し合ったりする必要がある」

 彼女の視線の先には、アイスクリームを販売する移動車があった。

 「えっ、うん……? 百鬼丸さんは?」

 「ああ、おれも構わない。だが、アイスクリームとは噂には聞くが食べたことはないなぁ」

 「だったら丁度いい。いくぞ」

 普段よりテンション高く、姫和が歩き出す。

 

 数分後。

 百鬼丸は後悔した。

 アイスクリームを食べたことのない彼は味を決める際に店頭で、

 『何がいいかな……』

 と、悩んでいた。

 すると、横から『チョコミント、チョコミント一択だ』という囁きが聞こえた。

 『チョコ……ミント? うまいのか?』

 『当然だ。私が保証する』

 『本当か、可奈美?』

 『ウン、ソウダネー。トッテモオイシイヨー(棒読み)』

 その言葉に騙されて百鬼丸はチョコミントを選んだ。

 

 ――そして現在

 

 「なんだコレは!! 歯磨き粉じゃないか!!」

 百鬼丸は一口舐めただけで、飛び上がった。

 すかさず、

 「ばか! チョコとミントのアリかナシかでその例えは言い尽くされている。禁句だ」姫和が反論する。

 「歯磨き粉」

 百鬼丸が口を尖らせ、あてつけにいう。

 「おい、貴様もう一度言ってみろ。またいつぞやの追いかけっこをするハメになるがいいのか?」背中に隠した御刀を取り出そうとした。

 「……スイマセン」

 謝罪しながら恨めしそうに百鬼丸は可奈美のオレンジ味のアイスを眺める。

 「どうせだったら、コッチの味にしておけばよかった。なぜ騙した可奈美」

 「えへへー」照れ笑いで誤魔化す。

 なんてひどい奴らなんだ、と先程カフェでの感謝を撤回したい気分になる百鬼丸だった。

 

 「要らないんだったら、もらうぞ」

 

 と、百鬼丸のアイスを横からぺろり、と桜色の舌を出して舐めとる。

 「う、うをい……」素っ頓狂に小さく叫ぶ。

 突然目の前に突き出てきた少女の華奢で、小さく、柔らかく丸みを帯びた頭部の気配に驚いた。黒の艶やかな絹糸に似た髪が、さらり、と微風に梳かれた。

 「なんだ?」

 怪訝に眉をひそめる姫和。

 「突然出てくるので、びっくりした。それだけだ」

 目を逸らして、から笑いをする百鬼丸。

 

 「なんだ?」

 百鬼丸の脳裏に強烈な違和感がきた。

 

 「――ッ、いる。こちらに、また向かってくる」

 突如、百鬼丸の脳みそに雷光のような閃きがはしった。

 

 荒魂だ。荒魂の反応を察知したらしい。

 「すまんが、少し荒魂を退治してくる」

 そういうと、人ごみを掻き分けて百鬼丸は走り去った。

 残されたふたりは顔を見合わせ、

 「とりあえず追うよね?」

 可奈美が立ち上がった。

 「ああ」

 と、頷く姫和。

 しかしスペクトラム計は反応していない。まさか、それより早く荒魂を発見したとでもいうのか? 疑念は拭えなかったが、とにかく彼の後を追うことにした。

 

 5

 曇天。

 「っ、はぁ、はぁ。いないね、百鬼丸さん」

 両膝に手をつき、息をする可奈美。

 全力で疾駆しながら探したが、百鬼丸の姿を見つけることができなかった。

 「もう一回、探してみようよ……って、あれ? どうしたの?」

 後方で足を止めた姫和。

 言いにくそうに顔を背けながら、

 「やはり、私たちが荒魂退治をしていれば折神家や他の刀使と出会う可能性がある。だから……」

 「このまま、荒魂を退治しないの?」

 「い、いやだから百鬼丸が退治するだろう……」

 「このまま逃げるの? 捕まるのが嫌だから荒魂を放置するなら、姫和ちゃんがご当主様に斬りかかったことも、おかしくなるよ。それに、さっき百鬼丸さんに協力するって言ったよね?」

 「……」

 

 

 

 6

 明治神宮で、悲鳴が上がった。

 その方角にゆっくりと歩き出す影があった。

 「へっ」

 百鬼丸は久々の獲物を前に、興奮した気分で唇を舐める。

 「よォ、糞野郎。久しぶりだな……」

 多くの民間人が逃げ出す中、百鬼丸はただ一人、その流れを逆行してほくそ笑む。

 『ギヴォオオオオオオオオオ』

 悲しい、鳴き声のような咆哮をあげる荒魂。鋭く巨大な前肢二本は昆虫のように不気味で、後脚の間に伸びる長い尾がユラユラ左右にふれる。

 頭部はT形状をしており、さらに左右には巨大で歪な翼が生えている。

 「んじゃ、いくぞ」

 本革の上着を地面へ脱ぎ捨て、包帯でぐるぐると巻かれた腕が顕になる。それを両掌でつかみ合って、一気に抜き放つ。

 腕が二つ、地面に叩きつけられた。

 両腕から伸びる銀色の鋭利な輝き。

 そのまま、百鬼丸は無表情に走り出す。

 『ギヴォオオオオオオオ』

 威嚇するように大きく裂いた口を前面に押し出す。

 ――が

 「相手が悪いぞ」

 百鬼丸は皮肉めいた口調で挑発する。

 人語を理解していないはずの荒魂だが、躍起になったように翼を羽ばたかせ、後方へと飛び上がり、そして一気に急降下して百鬼丸めがけて強襲する。

 「……ったく、頭の悪い荒魂だ」

 避けるモーションを一切行わず地面を蹴って跳躍した。体が宙に浮きながら、百鬼丸は体を左にグルグルと竹とんぼの如く旋回させた。荒魂との接触の瞬間、ギィギギギギと硬い体表の殻を削り破る音が鳴り響く。

 高速の両腕プロペラが荒魂を切り裂き削った。削られた部分は、ノロの橙色が生々しく露出した。

 高速回転した百鬼丸の体は途中で止まり、

 「トドメだクソ野郎」

 宙で激痛に悶えながら飛空する荒魂の背中に降り立ち、刃を交錯させ袈裟斬りにする。

 『ギヴォオオオオオオオオオオオオオ』

 長い絶命をたてながら、地面へと落下する。その前に百鬼丸は飛びのき、地面へ軽やかに着地する。

 悲鳴も終わる、わずかの余韻。

 《無銘刀》の両手を眺めながら百鬼丸は、

 「せめて、静かに眠れ」

 告げてから、荒魂の残骸へ向け切先を突き刺す。みるみるうちに、荒魂の胴体から無数のヒビがはしり、やがて外気に遺灰のように細かく溶けていく。

 ……ノロすら残さずに、である。

 俄に雨が降り出した。

 濡れた前髪が、百鬼丸の顔を隠す。

 「……ハズれだ」

 虚しく呟いた。

 

 

 これまでに回収した肉体の部位、およそ十一箇所。残り、三十七箇所。



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13話

 「あ、いた……」

 可奈美は安堵の息を漏らす。それに遅れて姫和もついてきた。

 明治神宮の鳥居のすぐ近くに、雨に濡れた痩身の少年が全身を濡らしながら佇んでいた。しかし、遠くからでは俯く表情までは読み取れない。

 「って、舞衣ちゃん!?」

 その鳥居の真下に人影――柳瀬舞衣を発見した。

 「可奈美ちゃん? 可奈美ちゃん!!」

 親友に気がついた途端、喜色を浮かべながら舞衣は駆け寄ろうとして……足を途中で止めた。

 「……っ、はぁはぁ」

肩を大きく上下に呼吸する少女。可奈美の後ろからやって来た姫和をみつけた。

 舞衣は御刀を抜き、切先を姫和へと定める。

 「美濃関の追っ手か?」

 苦虫を噛み潰した顔をしながら、《小烏丸》を正眼に構える。

 そんな剣呑な雰囲気にひとり、可奈美は慌てながら、

 「まって、姫和ちゃん。舞衣ちゃんは私の親友で……どうして、ここに?」

 様々な疑念や疑問が、一気に去来して頭が混乱していた。

 「スペクトラムファインダーに反応があったから……それに、百鬼丸さんの乗り捨てたバイクの周辺位置から大体の逃走経路は割り出したの」

 冷静に、冷徹にその分析眼で語る様子はまさに美濃関一の秀才といえた。

 「荒魂はもう百鬼丸さんが退治してくれたみたいだけど。ノロが無い現場なんておかしい。ねぇ、百鬼丸さん?」

 その疑念を向けられた百鬼丸だったが、脱力したように肩を落として何も応えることがない。

 「それよりも、先程可奈美が親友と言っていたが、なぜ親友なのに御刀を向けている?」

 姫和は、じり、と足摺をして距離をはかる。

 「〝可奈美ちゃんの〟親友だから、助けないと」

 「二人共、お刀を収めて」

 可奈美の言に、

 「相手にその気はないようだ」

 両者の間に目に見えない静かな殺気が漂う。

 「聞いて可奈美ちゃん。いまここで一緒に帰ればお咎めはなしだって……だけど、条件は……十条さんを捕まえること!」

 《迅移》を行使した舞衣は一気に姫和との距離を詰めた。

 それからパチィン、と剣戟の衝突する共鳴音が響き渡った。

 「十条さん。貴女は確かに鋭いですが、真っ直ぐでいなし易い……」

 再び、《迅移》を使用すべく太腿に力を込め、体を疾い速度の中へ流れた……

 相手の正面から勢いで畳み込もうと御刀を振り抜いた瞬間。

 舞衣の一刀は百鬼丸の右手刀で易易と受け止められていた。その目の前を遮る少年が、

 「少し黙れ」

 圧の凄まじい喝を周囲に木霊させる。

 百鬼丸は横目でチラリ、と首を左右に傾げ流し目をした。

 無機質な表情。

 虚ろなハズの瞳の奥から、肝が冷えるような、強い意思の籠った眼差しが舞衣と姫和に注がれる。

 (な……に、これ……?)

 まるで蛇に睨まれた蛙の如く、背筋に寒いものがはしって小刻みの震えが止まらない。

 ふと、姫和をみると彼女も同様に目を瞠って動けないようだった。

 御刀を握る手の力が弱まる。

 「ごめんね、舞衣ちゃん」

 ただ一人、可奈美だけが《迅移》で舞衣の手から御刀を抜き取り、地面に投げる。

 御刀が地面で半回転するのを見届けた百鬼丸は疲れたような表情になって一言、

 「……お願いだから、〝人間同士〟で斬り合いなんてするな」

 細く小さく本心を吐露した。

 

 「聞いて舞衣ちゃん。私みたの、御前試合でご当主の背後に良くないものが見えたの……」

 「でもご当主様は大荒魂討伐の英雄で……」

 険しく眉間に皺を寄せた姫和が、

 「違うッ。奴は――折神紫の姿をした大荒魂だ!」

 腹底の怒りをぶちまけて叫ぶ。

 翡翠の色に似た瞳を微動させて相手の言葉をうまく飲み込めずにいた。

 「……そんな、まさか折神家も刀剣類管理局も、伍箇伝も」

 「その全てを荒魂が支配している……」

 断固とした姫和の口調。そこに虚偽を挟む余地も態度もみえない。

 戸惑いの表情を浮かべる舞衣を見据えて、

 「――だから、私は姫和をひとりにできない。だからお願い舞衣ちゃん」

 本気なんだね、と聞こうとして口を閉じた。

 無言のままに、可奈美は真剣な眼差しで頷く。

 一度決めたら絶対に退かない芯の通った意思。その真っ直ぐさに舞衣は、

 「わかった」

 親友として信じることを選ぶ。それが現在できる唯一の役割だと思ったから。

 ちら、と隣りの姫和と百鬼丸を捉え、

 「可奈美ちゃんをお願いしますね」

 と伝えた。

 姫和は真剣な様子で「ああ」と返事をした。百鬼丸は少しおどけたように笑い、「はいよ。それと、さっきは脅かしてすまんかったな」と謝罪をした。

 「いえ。それはもう別に……」

 「そうか」

 踵を返した百鬼丸――の肩を強い握力が襲う。

 振り返ると、舞衣が耳元で小さく囁いた。

 (もし、可奈美ちゃんをゴニョゴニョすると殺しますよ?)

 ゴニョゴニョの部分をうまく聞き取れなかった百鬼丸だが、柔和な笑みの奥にある舞衣の尋常ならざる雰囲気にただ従う他なかった。

 そして、乱暴に百鬼丸の肩を離すと可奈美に駆け寄った。

 「あ、それから可奈美ちゃん。これ……」

 先程の態度とは変わって優しい声音でクッキーの入った透明な袋を手渡す。

 「ありがとう。舞衣ちゃん」

 可奈美に名前を呼ばれた瞬間の「うへぇー」と蕩けた顔をしたヤベー奴が現れたのを百鬼丸は発見したが、敢えて見なかったことにした。

 

 

 2

 「報告はきいた。それで、護送車を襲ったのは例の連中で間違いないな?」

 折神紫は手元の資料越しに、怜悧な目で尋ねる。

 「……はい。間違いありません。《サマエル》と名乗る集団の首魁、レイリー・ブラッド・ジョーという男の顔がトンネルの監視カメラに映っていました」

 「ご苦労だったな。夜見」

 ……夜見、と呼ばれた少女は乏しい表情のまま機械的な一礼をすると退出した。

 

  隠世の来訪者、ステイン。

 この現世の人間よりも遥かに強力な連中。

 一体ステインという男がどんなものか、見定めるためにも一度監視し、尋問をする予定だった。

 (計画が狂ったな……)

  紫の脳内に童女のような声が響く。

 忌々しげに眉を歪めた紫は、マホガニー材の執務机に肘を置き精神を鎮める。

 それにもう一人――百鬼丸。

 彼の存在は現在の紫にとって、予測不可能な存在となっていた。

 「無視はできん……な」

  そう言いながら、紫は己の手を凝視していた。

 

 3

 立川駅のバスロータリー。

 紺のパンツスーツ姿のメガネをかけた女性が傘をさしながら、

 「ごめんね、迎えが遅れて。わたしは恩田累。羽島学長に話は聞いてる……けど、そこの顔色の悪そうな君、名前は?」

 と聞いた。

 百鬼丸は階段に凭れかかりながら、高熱にうなされていた。

 駅の階段半ば蹲る少年の姿があった。その彼が、

 「……百鬼丸」小さく呟いた。

 驟雨に濡れながら、肩で息をしている。

 「さっきから、様子がおかしくて。もしかしたら風邪かも……」

 可奈美が不安げな様子で、百鬼丸を窺う。

 「いや……風邪ではない。肉体の一部が戻ってきたんだ……あの、鳥居の傍で退治した荒魂は、おれの一部を奪っていたようだ。詳しい部位までは生憎分からん」

 累は驚きながら、

 「わかった。それじゃ、車に乗って……詳しい事情はあとで聞くから」

 青の乗用車が舗道脇に駐車していた。

 

 

 高層マンションが建ち並ぶ一角。

 そこに彼女、恩田累の部屋がある。

 「どうぞ、入って。あ、君、一人で歩ける?」

 百鬼丸は意識朦朧とした目を左右にさせながら、

 「今のおれには触らないで欲しい」

 と、注文をつけ玄関先で座り込んだ。

 「大丈夫? 肩貸すよ」

 心配そうに眉を八の字に曲げて可奈美がいうと、百鬼丸の目線の高さまでしゃがみこんだ。

 「…………だから、平気だ。あと、その位置からだと、パンツがみえる」 

 事実、スカートのおかげでパンツ丸見えではないが、ギリギリ白い布が見え隠れするのがみえた。

 「へっ……?」

 視線を下に這わせた可奈美。そして、現実を受け入れると――

 「っ、ばかーー! 百鬼丸さんの変態!!」

 さっ、と立ち上がり大声で百鬼丸を批難する。頬の皮膚は羞恥のために紅潮していた。

 「仕方ないだろう……本当のことなんだから」

 「仕方ないって、それは……そうかもだけど……でも、やっぱり変態っ! 最低っ!」

 若干涙ぐんでいる。

 (この子達、おもしろいなー)

 累は「あはは」と笑いながらそう思った。

 

 

 「とにかく、百鬼丸くんは和室で寝かせたけど……一体どんな関係なの? まぁ言いたくなかったら別にいいけど」

 累は襖越しに眠る少年に視線をやる。

 「……」

 「……」 

 しかし可奈美も姫和も顔を合わせ、何をいうべきか困っていた。

 

 

 4

 視界一杯に広がるどこまでも沈鬱な樹海。

 その中をただ一人、歩いている。

 ああ、いつもの『夢』だ……百鬼丸は自覚していた。いつもみる夢だった。

 腐葉土の濃い匂いが鼻腔に執拗に絡みつく。蒼いヴェールの霧が空気を染める。今が夜か早朝かも分からない。時間の感覚が狂っている。

 「ああ、百鬼丸か……」

 懐かしい声。

 目前には膨れた鼻が特徴的な、髭が顔の三分の一を覆う男が振り返る。

 「とうさん――?」

 「どうした今更、なにかオカシイか?」

 破顔した男は、百鬼丸の肩を軽く叩き、

 「ん? どうした? そんな素っ頓狂な顔をして?」

 「い、いえ……」

 「まるで亡霊でもみるようだな?」

 「え?」

 男はただ黙然として面から表情を消す。

 「お前がその手で殺した男が目の前に現れたような顔だな……? おい、どうしたなんとか言えッ」

 「ち、違う! とうさん!! おれは――ただ、ねぇ、聞いてとうさん!!」

  百鬼丸の心臓は凍った。偽物であるハズの血管も心臓も、まるで本物のように鼓動をはやめ、早鐘のように緊張に促されて叩かれる。

 「せっかく、貴様にその人工の肉体を与えたのに……」

 「ちがう……とおさん!!」

 百鬼丸は頭を左右に振り、その男から引き下がり始めた。

 すると、樹海の奥から人声が幾重も木霊して聞こえる。

 

 『人殺しッ、化物め、出て行け!!』

 『出て行け!』

 『化物が人間のフリをするな』

 『お前なんか早く死ね!! 化物』

 

 この声は全て、今まで荒魂から助けた人々の声だ。

 (違う、おれは人間なんだっ、間違いがない。ただ今は荒魂に体を奪われて……おれは…………とうさん……)

 

 5

 「っ……はぁ……はぁ……ぐっ」

 そこで目が覚めた。胃袋の底からとてつもない吐き気が襲う。ぐっしょり、悪寒の汗で衣服が濡れていた。それらを我慢しながら見知らぬ天井を仰ぎ見る。脳からの電気信号が十分に伝わっていないようだ。視界がボヤけて仕方ない。偽の右腕を伸ばして指を動かす。

 もにょっ。

 「へ?」

 指先になにか、触れている気がした。それを確かめたくて掌を軽く包むように曲げる。

 「んなっ……おい、貴様っ……」

 これは聞き覚えのある声だ。

 「あれ?」

 ようやく目の前が鮮明になると、布団に眠る百鬼丸の顔を窺う姫和の顔があり――彼女の柔らかな頬を撫でていた。

 「ど、どういうつもりだ?」

 初め驚きに目を見開いていた姫和は、次第に言い知れぬ感情がこみ上げ、唇をアワアワと開閉させる。

 「いや、特に……それよりも、お姉さんは何をしているのですかね?」

 ぎこちない口調で百鬼丸は訊く。

 「わ、私はただお粥をつくって持ってきただけだ」 

 頭を左右に微動させる。長い、艶やかな黒の髪が垂直に垂れて、百鬼丸の枕元に大小の渦をつくる。

 「それより、いい加減手をどけろ」

 切り揃えられた前髪の下に隠れた線の強い眉が、ピクリと動く。

 「あ……あはは。すまん」

 百鬼丸は腕をどかして、気まずい空気を吸う。

 (なんだ、この状況は……)

 今までに感じたことのないプレッシャーを味わっていた。

 



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14話

 六畳半ほどの和室を見回しながら、

「えっと、しかし随分と病人の対応とか手際がいいな」

 気まずい空気を破り、視線を宙に浮かせる百鬼丸がきいた。

 布団の傍、畳に端座した姫和がちらり、と百鬼丸の方向に一瞥をくれる。

「別に。私の母も長患いだったから、その習慣だろう」

「――ああ、そうか。お母さんが、ね。それで今は?」

一瞬表情を硬くしたが、すぐに平素の顔に戻り、

「去年亡くなった」

 淡々と言う。

「あ……」

 さらに空気が重くなった。余計な詮索などしなればよかった、と百鬼丸は悔やんだ。

「す、すまん。余計なことを聞いて……」

「いいや、平気だ。それより、粥が冷めるからはやく食べろ」

「ありがとうございます……」

 百鬼丸は改めて姫和を横目でみる。

「……? どうした?」

 不審そうに目を細めた。

「い、いや~。おれ今四肢が上手く動かせないから犬食いになっちまうんだよ。だから、それは流石に恥ずかしいから、部屋を出てって欲しいな、と思いまして、ね」

 アハハ、とから笑いしながら羞恥を誤魔化す。

「犬食い?」

「えっと、だから器にそのまま顔突っ込んで喰うんだよ。下品だが仕方ないだろう」

 こんな事を説明させるのは、一体なんて羞恥プレイだ、と百鬼丸は思った。

 しかし姫和は、はぁーっ、と大きく溜息を漏らす。

「なんだ、そんなことか」

「い、いやそんなことって……他人に見られるのは結構な勇気がいるぞ」

 だから、今すぐ部屋から出てってくれ、と言おうとした。

 ……だが。

「だったら、私が匙で掬って食わせてやるから口を開け」

「へっ?」

 突然の申し出に驚きを禁じ得ない。マジマジと相手を凝視する。

 トンデモ発言をした張本人はきょとん、とした表情で首を傾げている。

「……どうした? 要らないのか?」

 膝の上に木盆と小さな土鍋が置かれていた。彼女が蓋を開くと、軽い白湯気が上がる。

「い、いや。お腹は確かに減っているから……ありがたく頂くよ」

「そうか、じゃあ口を開け」

 そのセリフ、一度も行ったことはないが歯医者さんみたいだな、と百鬼丸は思わず連想した。

 「まじですか?」

 目線を逸らしながら、確認する。

 「当然だ、はやくしろ」

 相手はどうやら真剣そのものらしい。木匙で粥をひと掬いしている。う~ん悪意がない分よりタチが悪いぞ、と百鬼丸は思いながらも空腹には抗えずに、観念して口を開いた。

 「よし、いいぞ」

 半開きになった百鬼丸の口に木匙を運ぶ。上唇に当たり口端に粥の溢れた一筋が残った。

 「おい、もっと大きく開け」

 すぐにティッシュで百鬼丸の口を拭うと、短く叱責した。

 「あ、はい」

 咀嚼しながら百鬼丸は渋々頷いて指示に従う。

 (そういえば、病人食なんて久々に食べたなー。なんというか介護? されている老人の気分だな)

 別の感慨を持ちながら飲み込む。

 「塩加減はどうだ?」

 「ん? いや特に問題ないです……」

 「そうか」

 (いつもと、雰囲気が違ってやりにくいなぁ……)

 そう思いながらも、咀嚼して飲み込む。この繰り返しをしながらあることに気がついた。飲み込み終わったあと余裕をもって粥がくるのだ。完全にこちらのタイミングを見計らっているようだった。

 「やはり、随分手馴れていらっしゃいますね」

 「なぜ、敬語なんだ?」

 「いや~なんとなく」

 なんだそれは、と百鬼丸の言葉に呆れた。それから、手元の匙を途中で止めた。

 「……先程、母の事を話したが、病気の末期になったときに丁度食事の補助もしていたんだが、まさかこんなところで役に立つとはな。お前のおかげで思い出した」

 苦笑い――というには余に寂しそうな声音だった。

 百鬼丸は何もいうべきではない、と悟った。けれど自然と口をついて喋っていた。

 「――本当に助かる。以前は、肉体が戻る時は暫く人目につかない所で隠れてやり過ごしていたから、なんというか……誰かに助けられる経験というのが新鮮で、な。多分、お母様も助かっていたと、おれは思う」

 素直な感想だった。

 一瞬、姫和は大きく瞳を見開いたが、やがて肩から息を少しずつ抜いて脱力する。

 「そうだといいな……」

 複雑な様子だったが、それでも僅かに追憶するその目に喜色が浮かんでいた。

 「それにしても、へんな奴だ」

 ぷっ、と吹き出す。

 「よく言われる」

 百鬼丸も応じた。

 がらっ、と襖が開かれた。

 「あっ、百鬼丸さん起きたんだ! よかったー。そういえば私重要なこと聞いてなかった」

 「なんだ?」

「百鬼丸さんの流派って何? 荒魂を討伐する時に見せてくれればよかったのにーって後悔してて」

 目を輝かせて可奈美が饒舌に喋りだす。

 「おれ? おれは我流だ……。先代百鬼丸もそうだったらしい。といっても四〇〇年前だけどな」

 「四〇〇年前、っていうと丁度荒魂の発生時期と同じなんだね」

 「だな」

 「へーっ、そっか。我流なんだ。ねぇ、一度手合わせして欲しいけどいいかな?」

 「えっ? 構わんがおれは今まで荒魂退治専門でやって来たから対人戦は苦手なんだ」

 「なーんだ、だったら私が教えるから、ね?」

 「……わかったよ、本調子に戻ったらな。その時はよろしく頼む」

 「うん! あ、そうだ、私も食べさせてあげるね」

 ふたりの様子を眺めた可奈美が無邪気に提案した。

 「え?」

 そういうと小走りで台所からスプーンを持ってきた可奈美が、布団の傍まできて畳に膝をついた。

 「はい、百鬼丸さん。あーん」

 ビュン、と素早く円形が口の中に突っ込まれる。

 「おい、可奈美、なにしてる?」

 姫和が咎めた。

 「えっ? なにかまずかった?」

 少し考える様子だったが、

 「いや」

 即否定。

 そして二つ同時に匙が百鬼丸の口の中に突っ込まれる。

 「もぐっ、ごがっ………ごほっ…………ごほっ」

 当然むせた。

飲み込み終わると、

 「おい、君たち! いいか、人間は普通両腕があっても両手でお箸をもって食事する奴がいるか? 両手でスプーンをもって飯を食うか? どっちも居ないだろそんな奴! おれを殺す気か! なぜ、どちらか片方が譲らない」

 思わず突っ込んだ。

 しかし、

 「そうか」

 「ふーん」

 百鬼丸渾身の演説は無視。ふたりは無関心そうに匙を百鬼丸の口の中に再び突っ込む。

 (なんだ、この地獄は!)

 目を白黒させて百鬼丸は食事を終えた。

 終えてから、

 「悪夢だ」

 百鬼丸はげっそりとした顔で呟いた。

 

 2

 「ただいまーっ、てあれ? 部屋が綺麗になってる?」

 恩田累が帰宅早々に驚きの声を上げた。

 台所で皿洗いをしていた姫和と可奈美が顔を見合わせる。

 「ふたりで片付けたんです」

 可奈美が元気溌剌に答える。

 「……っと、あの和室に転がってる少年は?」 

 累は奥の襖の開いた部屋を見ながらいう。

 「ふたりで片付けたんです」

 可奈美が再び答える。

 「えーっ、そうか」

 どう反応していいか分からず曖昧に相槌をうつ。

 思わず、

 「おい……その言葉に違和感をもて……」

 百鬼丸が丸まった背中で弱々しく叫ぶ。

 「あ、テーブルに食事が! おいしそうね!」

 無視。

 累は上着を脱ぎながら、弾んだ声をあげる。

 「おれの扱いひどくない……?」

 百鬼丸は精神にもダメージがまわった。

 そんな彼をお構いなしに、

 「姫和ちゃんがつくったんです」

 「すっごーい、女子力高いのね」

 「……別に」

 なにやら、雑談が始まった。

 その会話を聞きながら、百鬼丸は「オマエラ、女子力(物理)の方が高いだろ」と言い添えた。当然、姫和にケツを蹴っ飛ばされた。

 

 食事を終えてから、お茶を啜った累が、

 「そうだ。あとでみて欲しいものがあるの。襖の奥の君も動ければでいいけど」

 視線の先の百鬼丸は布団に丸まったまま動かない。

 「――なにか、嫌な気配がくるな」

 突然、その百鬼丸が真面目な口調でいう。

 「追っ手か?」

 姫和が訊ねる。

 「……まだ分からん。荒魂の可能性もある。とにかく気をつけろ。おれもあと少しで動ける」

 「わかった」

 累が、

 「じゃあ、二人共ちょっと付き合ってね」

 と言って廊下の奥の部屋へとつれていった。

 

 部屋にひとり残された百鬼丸は、

 (妙だ。あの親衛隊といい、気分の悪い感覚を纏っている……何なんだ?)

 目を眇めながら奥歯を噛み締める。……怒りによって。

 



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15話

 真っ暗な部屋の中、室内に設えられた五面のPCモニター。

 その正面一つのモニターに、チャットが映っていた。

 可愛らしい忍者動物のマスコットから、会話の吹き出しが出た。

 「ようこそ、グラディのご友人たち……」

 可奈美がたどたどしく読み上げる。

 ローマ字で記された名前はファインマン。

 椅子に座った姫和は問たわしげに累の方へ振り向いたが、「なんでもいいから会話してみて」と促されるままキーボードを打つ。

 

 FORM グラディ:あなたは?

 FROM Fine Man:Ally

 FROM Fine Man:たった二人の謀反者達

 FROM Fine Man:手紙は持っているな

 FROM Fine Man:立ち向かう覚悟はいいかね?

 FROM Fine Man:Yes/No

 

 矢継ぎ早に出る文字。姫和は手紙、という部分に反応しながら……当然のようにキーボードを押す。

 

 FORM グラディ:Yes

 FROM Fine Man:今日という日は完璧になった!

 FROM Fine Man:以下の場所へ

 

 FROM Fine Man:石崎郎へ……添付ファイル

 

 それをクリックしようと手を動かした――そのタイミングだった。

 

 窓ガラスが派手に砕けて散った。

 「「!?」」

 可奈美と姫和は即座に反応した。百鬼丸の忠告通り敵方の奇襲があった。

 小雨のように砕けた硝子の破片がカーペットの上に撒かれる。

 「可奈美ッ」

 いち早く反応したのは姫和だった。《小烏丸》を半分鞘から抜き出し、敵の攻撃を受け止めていた。

 薄暗い室内に投じられた青白いモニターの光。

 寂光を浴びて敵が照らし出された。

 一撃を受け止めながら姫和は考えた。

 (……あの制服は見覚えがある、確か、)

 「鎌府の……」

 しかし、そう呟くのが精一杯だった。

 鎌府の制服を着た『誰か』は室内を素早く虹の燐光でも撒くように剣技を繰り出す。

 《迅移》である。

 姫和は無意識に《写シ》を貼り、応戦する。

 (なんだ、この速さは!)

 一口に《迅移》といっても、レベルがある。これは今まで体感したことのない速度。

 (くっ、このままでは……)

 姫和は室内での戦闘を不利と判断し、割れた窓ガラスを一瞥する。攻撃をなんとか躱しながら、ベランダまでゆく。

 夜風が長い髪を浚う。

 高層マンションのベランダはゆうに数十メートルはあるのだが、迷わず姫和は背後から飛び降りた。

 

 紅い瞳が追ってくる……

 

 そう錯覚すらした。

 よく見ると、敵も躊躇なくベランダから飛び降りて追撃を行う。

 ゴォオオオオオオオオオオオオと耳をつんざくような凄まじい風に煽られながら、駐車の地面に着地する。

 正眼に構えた敵の姿。それを見据えながら、姫和も応戦の構えをとる。

 (一瞬ではなく持続的に迅移を……?)

 ならば、と姫和も《迅移》を使用する。

 地面を蹴り上げ、一気に間合いを詰める――筈だった。

 しかし実際は相手も《迅移》を使い、逆に間合いをとるタイミングを誤った。結果として、左斜めからの斬撃が一閃、姫和を襲い《写シ》を引き剥がす。

  斬られ際、後ろへ大きく飛び退いて、片膝をつく。

 「まだだ……」

 苦痛を堪えながら、姫和は再び《写シ》を貼り《迅移》を試みる。

 「ならばこちらも!」

 黒髪を翻し、宣言する。

 余裕綽々に正眼に構える敵。 

 今度こそ間合いを詰めるタイミングを間違えない、そう思いながら加速する。

 正面から縦に御刀を振るう。

 が。

 相手は虹色の残光を曳いたまま、大きく旋回して姫和の背後をとる。

 「もっと、もっと深く!」

 《迅移》の性質上、より加速を行うためには潜らなければならない。異能の力を得るには、異界の扉を叩かねばならぬのだ。

 姫和の視界は狭窄に陥った。虹のゲートの中心に敵がいる。

 加速。加速。加速。――加速。

 右斜め下から、小烏丸の切先が敵を斬る。

 パリィン、と硝子が割れたような繊細な響きが聞こえた。

 《写シ》を斬ったのだ。

 これで敵の出方は封じた……そう思った矢先。

 あの不気味に輝く赤銅色の目がゆっくりと姫和を見る。

 ――そして

 まるでロボットのように、機械的に攻撃を仕掛ける。しかも、《迅移》を用いながら。

 「まさか、写シなしで闘う気か!?」

 困惑が口をつく。

 (斬るしか……ない!)

 覚悟を決めた矢先だった。

 「だめっ、姫和ちゃん!」

 可奈美の声が駐車場に響く。

 

 2

 「やっぱり来たか……」

 不愉快な感覚が百鬼丸には感じられた。

 廊下から足音がくる。そして、襖を開き、

 「ねぇ、百鬼丸くん」

 累が慌てた様子で言った。

 「敵襲ですよね?」

 冷静な声で訊ねる。

 「え、ええ」

 戸惑いながらも、頷く。

 (体の調子は……まぁ、いいところ六割くらいかなぁ)

 内心でボヤキながら包まっていた布団から抜け出す。

 「助かりました。あとは任せてください」

 百鬼丸はニィ、と口角を釣り上げると、ぽん。と累の肩を叩いて外へ向かった。

 

 

 一方、駐車場では可奈美と姫和――そして、敵の鎌府の学生が対峙していた。

 「お前に奴を斬る覚悟があるのか?」 

 姫和が厳しく相棒である可奈美にいう。

 「ううん、斬らないよ」

 そう答えたとき。

 鎌府の少女が可奈美へ真正面に斬りかかった。

 はやい太刀筋を簡単に逸らして、いなす可奈美はどこか、怪訝な表情だった。

 (この子、前と違う)

  数合打ち合いながら、可奈美は徐々に疑念が確信へと変化した。

  と、もう一個の強烈な存在感が背後から歩み寄ってくるのを、可奈美は知覚した。

  それは対峙する相手も同じだった。

 「……よォ、その目はなんだァ?」

 突然の聞き馴染みのある声。だが、その威圧的な口調は普段の穏やかさはない。

 「百鬼丸!」

 姫和が思わず叫ぶ。

 わずか一〇メートルをゆっくりと歩きながら、不穏なまでのオーラを体から放出している。

 (なんだこの威圧……以前感じた鳥居の下での戦闘以上だ)

 姫和はあの時のことを思い出していた。

 だが現在の「百鬼丸」はそれ上に恐ろしい。

 自然と足が震えていた。

 その百鬼丸が、

 「なんだ、お前……その目、お前……アア、ソウカ。コイツハ人間ジャナイノカ」

 一瞬だけ、彼の横顔が外灯に照らされた。

 

 鬼。

 いや、鬼より恐ろしい『殺意』の仮面で顔を塗り固めた百鬼丸。

 打ち合っていた可奈美と相手も思わずその方向に釘付けとなる。

 心なしか彼が歩む度に、見えない殺意の透明なオーラが揺らめく気がした。

 彼は左の手に握った通常の刀を抜き出し反対の手に持ち変える。

 「オマエヲ……」

 カタコトの口調で刀身をギラつかせる。直感でその場の皆が理解した。完全に殺しにかかっているのだ、という事を。

 と、

 「だめ、百鬼丸さん」

 可奈美がいち早く制した。――否、制しながら気を奪われた相手の御刀を低い体勢から柄を握り、地面へと投げ捨てる。

 「武器を奪った……」

 姫和はただ驚くより他にない。

  武器を奪われた鎌府の少女は、その瞳から不気味な色を消した。その場でヘタりこんだ彼女は年相応のあどけなさが残っていた。

 

 「百鬼丸さん、待って……」

 凛然とした様子で背後の百鬼丸にいう。

 「私に任せて」

 優しい声音で、振り返りながら微笑む。

 

 笑顔にほぐされるように、百鬼丸は渇いた喉に二三の唾を飲みこみながら、次第に理性を回復させた。

 「――ああ。そうだな」

 気力を少しずつ抜くように、百鬼丸は呼吸をする。

 (まさか、コイツ……)

 姫和は苦い顔をしながら、しばらく少年が通常に戻るのを待った。

 

 3

 結局、襲撃の犯人は糸見沙耶香という、御前試合で可奈美が対戦した者だった。

 彼女には聞きたいことが山ほどあったが、口下手なのかそれとも中枢のことを知らないのか得られた情報はほぼゼロだった。

 だが一応の収穫もあった。

 累の部屋までつれてきたあと、百鬼丸が理性を保ちながら、沙耶香を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。おもむろに彼女へと近寄って偽物の鼻でクンクンと匂いを嗅いだ。

 「……?」

 尋問でも受けるものだと思っていた沙耶香は不思議そうに百鬼丸と相対していた。

 少女の匂いを嗅ぐ少年。

 外見だけみればただの変態。

 当然、女性陣のゴミを見るような冷たい視線に耐えながら続けた。

 「――ん?」

 百鬼丸は沙耶香の色素の薄い白の髪に隠れた細い首筋から強烈な『ナニカ』を感じた。

 「少し失礼する」

 うなじの髪の中へ鼻を突っ込んだ。

 

 

 「んなっ!」

 その様子を遠目から見ていた姫和は、唐突なセクハラに声をあげた。

 可奈美は「うわぁ」と更に目を細めて軽蔑した。

 

 (やっぱり)

 「あっ……」

 擽ったいのだろうか、沙耶香が可愛らしい悲鳴をあげる。

 「やっぱりだ。そうか……わかったぞ」

 百鬼丸が振り返る。

 ジト目で睨む可奈美と姫和。

 それらを面白そうにスマホのカメラで撮影する累。

 「っておい! 人の話を聞け」

 「黙れ変態。地獄へ落ちろ」

 「百鬼丸さんって、やっぱり相当な変態だったんだ……」

 「あははは。ほんと、君たち面白い」

 

 そんなこんなで馬鹿なやり取りを数分続けた後。

 「っで、ノロの匂いがする……違うか? ええっと、名前は」

 「沙耶香」

 「ああ、そう。沙耶香……」

 暫し躊躇ったようだが、この状況でシラを切ることもできないと合理的に判断したように頷く。

 「……そう」

 やっぱりか、と百鬼丸は軽い調子でいった。だが彼の握られた拳が震えている。

 激怒していた。

 理性で堪えながら、人体へノロを取り込むという愚劣な行為に憎悪していた。

 ふと、百鬼丸が沙耶香の顔をみる。

 「……あの、あんまり近寄らないで」

 百鬼丸を遠ざけようとした。しかも顔が赤い。

 「当然の反応だ、その変態に触られるとどんな行為をするか分からん」

 姫和が追撃する。

 「結構、気持ち悪いよね、百鬼丸さん」

 笑顔で毒を吐く可奈美。

 「っええええええええええええ! 今までおれの説明きいてた? あと累さん。パシャパシャパうるさい」

 

 

 百鬼丸の肉体はノロにとって最高の餌であり、最高の依代。

 即ち、人体に取り込んだ場合ノロが活性し、百鬼丸自身が近づくことによって様々な作用を肉体に及ぼす。

 ノロが百鬼丸の肉体を欲する……つまり、催淫効果が無条件に発生する。

 「……はぁ……ぁ、近寄らないで」

 機械のように表情に変化のない筈の沙耶香の頬は上気する。

 なお、現段階でその効果について全くの無知な百鬼丸は、

 「やはり、ノロが活性化しているのだな?」

 名探偵風に推理してみる。

 半分正解なのだが、半分不正解な事柄を自信満々に叫びながら、沙耶香のおでこを触る。触診して体調を判断しようとした、いわば全くの親切心である。

 ……このタイミング以外であれば百鬼丸は、あるいは「いい男」として名を上げただろう。タイミングさえ間違えなえれば。

 「……ぁぅ」

 恐ろしくはやい鼓動。持続的な興奮状態。

 小さく悲鳴を洩らし、潤んだ瞳のまま腰を抜かした。フローリングに尻餅をついた。

 「あ〜」

 累が色々察したらしい。百鬼丸の後髪を掴んでグイグイと沙耶香から距離を遠ざける。

 「もう心配しなくていいから、ね」

 可奈美が苦笑いしながら、手を差し伸べる。

 「う、うん」

 急速に取り戻す理性の感覚を沙耶香は感じていた。

 その傍で姫和が、「あの変態、ついに女子に触るだけで妊娠させる方法でも……」と百鬼丸の方向を睨みつけながら文句を述べていた。



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16話

 夜気が著しく、一時の激しい驟雨のあと、山全体には俄に冷えた空気が満ちていた。

 南伊豆、石崎郎――

 そこへ赴くべく人気の少ない山間部ルートを選び移動をしていた。

 一台のステップワゴンが九十九折の車道を走行している。強烈なヘッドライトが投げかけられた脇道に茂る木々は克明な影を刻んだ。

 「こりゃ、合流地点まで時間かかりそうだなぁ……。検問、検問、検問。いい加減飽きた。この先には無いといいなぁ。心眼も面倒だしなぁ」

 百鬼丸はハンドルを握りながら、ぼやいた。

 後部座席に乗る二人から返事がない。ちら、とバックミラーに映るのは、爆睡する可奈美と、思案げに車窓を眺める姫和だった。

 

 

 つい、数時間前。

 襲撃者である沙耶香を適当な所で開放し、累の車で西の方角へ向かっていた。

 が、途中の道路から検問を行う警察車両が増え始めた。

 「ありゃー、これはNシステムでこの車もバレてるかもね。それじゃ、悪いけどここで降りてそのまま目的地まで向かって……」

 累の言葉に三人は頷いた。

 車を降りて、警戒の目を縫うように移動を開始した。

 とはいえ、徒歩移動にも速度の限界がある。

 「車さえあればなぁ……」

 百鬼丸がいう。

 「お前、免許を持っているのか?」

 「いいや、持ってない」

 「おまっ……」

 「仕方ないだろ。それにおれは、存在自体がこの国に規定されないモノなんだ。今更法律云々は当てはまらん。何より、おれは大抵のことはすぐにできるから走行自体に問題はない。安全運転だ」

 自信満々に鼻を膨らます。

 「へぇー、百鬼丸さん運転できるんだ」

 「問題ないぞ」

 異様にテンションの高い可奈美と百鬼丸はワイワイと会話をはじめた。

 (大丈夫か、コイツら?)

 怪訝な眼差しでふたりをみる。

 だが事ここに至っては、最早良心の呵責や遵法精神などとは言っていられない。諦めて、合流地点まで向かうことにした。

 

 

 それから五十分ほどで、山に通じる道にきた。人通りも殆どなく店も閉まっている。唯一、コンビニの明かりだけが、外まで光を漏らして眩い。

 その駐車場に二、三台ほど車が止まっていた。

 「おぉ、丁度いい」

 百鬼丸がそれらを見つけて呟いた。

 (何が丁度いいんだ?)

 百鬼丸は「少しここで待って」と言い残してコンビニの駐車場へと駈けていった。

 一抹の不安を感じながら姫和は黙って見送った。

 可奈美はというと、

 「あ、百鬼丸さん。私アイス食べたいから買ってきて!」

 と、謎の注文をつけた。

 それに応えるように左手をヒラヒラと動かす百鬼丸。

 

 

 数分後。

 百鬼丸は一台の白塗りのステップワゴンを入手していた。運転席の車窓を下ろして、

 「お二人さん、はよ乗りな」

 サムズアップしてご機嫌にいう百鬼丸。

 「――お前、ひとつ聞くがどうやって手に入れた?」

 疑念がMAXを突破した。

 「ああ、それなら〝金〟で解決した。すぐに欲しいから札束渡した。快く車をくれたぞ」

 「えぇ……」

 姫和は一体いくら払ったのか――いいや、そもそも金でホイホイと他人に車を差し出すだろうか? となると、心眼を使った? 

 (ええい、今はどうでいい)

 敢えて百鬼丸の事には深く踏み込むまいと思い乗車する。

 と、隣りに座った可奈美が、

 「百鬼丸さん!」

 「ほい」

 「アイスちょーだい!」

 「ほいよ!」

 運転席からポーン、と放物線を描き白のビニール袋が投げられた。

 「わーい、ありがとう!」

 弾んだ声で可奈美は袋をあさり、アイスを食べる。

 「ちっ、全く……」

 今後のことを思うと、色々と不安しかない。そもそも、逃亡劇というのはこんなにお気楽なものだろうか? これではピクニックではないか? 

 「……はぁ、ひとりで考えるのも馬鹿らしいな」

 ひとりごちに姫和は言って目を瞑る。少しでも体力を回復させねばならぬ、と判断した為である。

 いつの間にか、姫和自身も深い眠りの底へと落ちていた。

 

 

 再び目を醒ましたとき、軽い倦怠感を味わいながら目を擦った。

 「……っ、ここは?」

 周りを見回した。だが車窓の全面は夜闇に閉ざされ、現在位置が分からない。

 「ん? まだ到着には時間がかかるから眠っていていいぞ」

 百鬼丸が鼻歌交じりに、運転席からそう告げる。

 「――ああ、助かる」

 はぁ、と息をついて座席に身を深く沈める。横目で可奈美を窺うと、まだ熟睡しているようだった。

 しかも、姫和の右肩に頭をもたげて口端に涎を垂らしている。

 「んー、むにゃむにゃ」

 「おい」

 涎を服に付けられてはかなわない、と思い起こそうとしたが、幸せそうな寝顔を見ていると怒りも失せてしまった。もう少し寝かせてからでもいいだろうと思い、浅く目を閉ざす。

 「なぁ、百鬼丸」

 「はい?」

 「ひとつ聞きたいのだが、あの時……鎌府の糸見がノロを受け入れたことを知ったとき、なぜ、理性を失っていた? 常軌を逸しているようにみえる。それに、ノロを受けれる個体差云々についても……」

 「ひとつじゃないのか?」

 百鬼丸が苦笑いする。

 「……うるさい。お前と出会ってから、色々と整理がつかない事ばかりが起こっているんだ」

 薄目をひらき、前方をみる。

 肩をすくめた百鬼丸は、

 「そうだな。答えられることには応える。……まぁ、ノロに関してだが、おれが思うにあの糸見沙耶香は恐らくノロを受け入れてから時間が経過していない」

 「なぜ分かる?」

 「ある程度、自分の意思で制御できるからノロを受け入れる筈だろ? だが、あの戦闘の様子と普段の様子の違いから見るに、上手く制御しきれていないようだ。一度、親衛隊の獅童真希と燕結芽とかいう奴らと戦ったが、あの連中はノロをよく制御していた。自由意思のもと、だな」

 「では、あの興奮状態に陥ったのは?」

 「恐らく、彼女の肉体ではノロの作用が、興奮状態に陥る効果になったまで……だと思う。多かれ少なかれ、おれが近寄るとノロを受け入れた連中は正気を失う筈だからな」

 「そう、か。ではもし今度あの糸見と接触した場合でも今回ほどのことは起こらないと?」

 「うん。だろうな」

 姫和は一息つく。

 「だったら、二度とお前はそのノロを受け入れた連中とは接触するなよ」

 「なんでだよ!?」

 「理由は明白だ。お前が変態だからだ」

 「答えになってねぇ!!」

 ふっ、と軽く鼻で笑って再び姫和は眠りにつく――ある決意を固めながら。

 

 2

 山頂付近の休憩所に気配がする。この深夜とも早朝ともつかぬ時間には珍しいことだった。

 「さぁー、薫。行きマスヨー」

 豪華な長い金髪を翻しながら、長身の少女……古波蔵エレンは宣言する。しかし、その傍で気怠そうな雰囲気を満々に出した者がいた。

 「あぁ~、やっぱオレ面倒だからパスするわ。あのクソババアにも伝えてくれ。病欠だ病欠。積ゲーの消化とか深夜アニメの視聴とか重要な任務あるからオレはパス」

 薫、と呼ばれた少女は面倒そうに言い募る。

 益子薫は生来の怠け者である、と長船女学園ではもっぱらの噂であった。

 困ったように眉を曲げたエレンは、

 「うぅ~ん、分かりました。紗南センセーに薫が『ババァ』と言っていたと伝えておきますネ」

 ガバッ、と頭をあげた薫が慌てた。

 「おい、バカやめろ。そんなこと言ったらまたオレだけ任務が増える。それだけはヤメロ」

 「うんうん、それでこそワタシの薫デス」

 ぎゅー、とエレンが背丈の低い薫を抱きしめる。長身の彼女が、薫の身長一三五センチを押し包む形となっていた。

 「うぐっ……苦しいっ」

 豊満な形の良い胸部が薫の顔をぶるん、ぶるん、と覆う。

 「ねねーっ」

 薫の頭頂部から小さな影が、突然エレンの豊かな谷間へと飛び込んだ。

 「あはははは、くすぐったいデスよー、ねね」

 ちょこん、と巨乳から顔を出したのは小さな生物だった。

 大きさでいえば、デブなハムスターか生まれたての子猫ほどのサイズである。

 「おい、コラねね。お前また胸に飛び込みやがって。一体なんでこんなにスケベに育ったんだ……」

 「やっぱり、飼い主に似たんじゃないデスカ?」

 エレンの批評に、

 「どういう意味だ、コラ」

 薫が反論する。

 そんな、なんでもない日常の一コマだった。

 

 夜が白むまでには、まだ時間がある。

 折神家を中心とした警察機構が本格的な行動を開始していた。

 

 

 



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17話

 静岡県伊豆市と賀茂郡川津町の境――天城峠。この天城越えで知られる天下の難所も、現在は朝靄の中に包まれていた。周囲を囲繞する山々があり、新鮮で澄んだ空気に満ちていた。この天城、道の駅に停車した。

時刻は午前六時前。

走行中唐突に、

 「休憩しよう」

 と、姫和が提案した。

 まるで図ったかのようなタイミングである。

 ――ああ、と承知しながら百鬼丸は車を道の駅駐車場の一角に止める。

 曇り空は、危うく雨でもきそうな空模様だった。

 「うぅ~ん。よく寝たぁ~」

 下車したあと可奈美が背伸びをする。ひんやりと肌を撫でる冷気は、凝り固まった筋肉には気持ちが良かった。

 先に降りた姫和は肩越しに、

 「……丁度いい機会だ。ここで別れよう」

 と言った。

 突然の言葉だった。

 「え? なんで……」

 急なことに可奈美は動揺しながら、運転席の百鬼丸へと一瞥をやる。

 その百鬼丸も僅かに驚きの色をみせていた。

 「この先も姫和ちゃんと行くって――」

 可奈美が言いかけた言葉を姫和が遮るように「無理だ」と口を挟む。

 「……一緒には行けない。」

 「どうして?」

 不服そうに訊ねる。

 「昨夜のことで分かった。私の剣は斬る剣。――対して可奈美は守る剣だ。この先は斬る剣しか必要がない」強く言い切った。

 「そんなの勝手に決めないで。姫和ちゃんが勝手にそう思っているだけだよ」

 エビ茶色のローファーの踵を返して、

 「可奈美。お前は人を斬ったことがあるのか?」

 正面を向いた姫和が双眸に意思を溜めて尋ねる。

 「えっ」

 小さく戸惑いの声を洩らした。

 「お前は実際に〝人を斬ったこと〟があるか?」

 念を押すように深く姫和が問う。

 琥珀色の目を瞠りながら可奈美は、

 「《写シ》じゃなくて――?」

 理解が追いつかず答えに窮した。

 「ああ。もしくは、荒魂化した〝人間〟を、だ」

 「ない、けど……」

 語尾が弱々しくなる。普段見せる明るい彼女とは異なる、死にかけの魚のように鈍い反応だった。

 そんな様子を眺めながらひと呼吸置いて姫和が語り始める。

 「近年、人が荒魂化する事例はほとんどない……だが少し前、それこそ私の母の時代などは珍しいことじゃなかった」

 そう言いながら、運転席の百鬼丸へ視線を投げかける。

 「荒魂化した人間は最早〝人〟じゃない。そうだろ、百鬼丸」

 話を突然振られた百鬼丸は、なんとも言い難い表情で二人の少女を見返す。

 「…………」

 「そうか、何も語るつもりもないのだな。――なぁ可奈美」

 「うん」

 「希に荒魂化した人でも、記憶を理解し、言葉を話す個体もあるが《荒魂》は《荒魂》だ。御刀で斬って祓う。それしか〝救う〟手段はない。私たち刀使は人々の変わりに祖先からの業を背負い、鎮め続ける巫女なんだ」

 改めて《刀使》という役割の残酷な運命を突きつけられた可奈美は、やや俯いて、

 「分かってるよ」

 と返事をした。

 しかし、尚可奈美より深く俯いた姫和は胆から声を絞り出す。

 「私がこれからやろうとしている事は、荒魂退治だ。だが限りなく人斬りに近い。私は折神紫を斬る。それを阻む者も……だ。それも限りなく私怨に近い形で、だ。――だが、お前には斬れない。だからここで別れる」

 再び踵を返して歩き去る姫和。

 その後ろ姿を追いかけようと、可奈美が袖を引こうとした――瞬間。

 パチィン、と金属同士の衝突共鳴音が木霊した。

 姫和の放った一撃を可奈美が防いだのである。

 「……やはり、甘いな」

 鋭い眼窩から放たれる視線に、呆然とする可奈美。

 切先同士が一点で交錯していた。だが、その状態も長くは続かず《小烏丸》を納刀すると姫和は、「百鬼丸。お前には確かに私の成そうとしている事に必要な人材だ。だが、お前も、ナニカを隠しているな。それを咎めるつもりはない。だが、信用もできない。残念だ。それから――」「可奈美、お前は戻れ。戻って、人々を荒魂から守れ」と言い残した。

 それは己が邪道……殺人の道を歩むのをたったひとりで背負い込む宣言をしたかのように。

 剣を抱えてただ、緑の制服の背中を見送る事しかできない可奈美。

 ふいに目線を離れた百鬼丸に向かわせると、彼は硬い表情だった。

 

 

 2

 鎌府、学長室。

 執務机の前を往復する女性がいた。

 誰であろう鎌府女学院学長、高津雪那。

 彼女の秘蔵っ子とも言うべき存在の糸見沙耶香が今朝方、警察に保護されたとの連絡が入った。――ひどく憤りを覚えた。

 それは、逃亡者二人に奇襲を仕掛けるよう差し向けた自身の面目を潰されたに等しいことであった。

 その不満はピークに達していた。

 「敵の所在を知り、奇襲しておきながら失敗、それでおめおめと帰ってくるとは。……どうやら、あなたを過大評価していたらしいわね」

 と、目前で直立不動に佇む少女、糸見沙耶香に毒を吐いた。

 「任務の遂行率百パーセント、それがあなたの価値だったの……」

 組んでいた腕を解き、沙耶香の左腰の御刀――《妙法村正》を抜き、その尖先を無表情な顔の鼻先に向ける。

 かつて、刀使だった頃を思わせる素早さであった。

 「……少し、過保護に育て過ぎたかしら」

 毒々しい紅の唇から、怒りが撒かれる。

 珍しく、沙耶香が何かを言おうと口を動かした。

 「あら、言い訳でもあるのかしら?」

 嘲りにも近い笑みで、そう尋ねる。

 「――相手は二人じゃなくて、三人で……」

 そのとき、高津雪那の目に危うい光が差した。

 「言い訳でもするのなら少しは聞くけど、あなたに限って嘘ということもないでしょうし――」

 彼女の内心の愉しみは寡黙な少女の悩む姿だった。

 ……だが、意外にも朴訥ではあるが沙耶香が語りだしたのは「百鬼丸」という少年についてのことだった。

 まず、ノロを受け入れた事実が露見したこと。それに応じて、彼に近寄ると肉体に及ぼす興奮作用など。

 最後の話の辺り、これまた珍しく口ごもる沙耶香に「はっきり報告しなさい」と命じた。

 ――すると、皮膚接触によって興奮状態が持続して腰を抜かしたことを仔細に説明した。

 更に、「これは一体どういうことなのか?」と純粋な疑問とも不安ともつかぬ眼差しで見られた高津雪那は狼狽した。

 (まさか……そんな相手がいるなんて……しかも、なんで腰を抜かしたかまで説明を求められるとは……)

 彼女にもイレギュラーというものがある。

 それは今だ。

 秘蔵っ子の沙耶香は、余に任務に忠実であるあまり純粋で無垢に育った。

 それがまさか、こんな形で自身を苦しめるとは、と後悔した。

 「……ノロを受け入れたのと、関係が?」

 無垢な上目遣いで訊ねる沙耶香。

 「うぐっ……」

 完全にどう答えたらよいか分からないまま渋面になる。

 

 こんこん、とタイミングよく扉が叩かれた。

 「空いてます!」

 心の中からこの救いに感謝した。

 このままでは、危うく話が脱線して保健体育の講義を始めるハメになるからだ。

 そんな救い主は扉から姿を現した。親衛隊三席、皐月夜見だった。彼女もまた沙耶香と同じく感情の起伏に乏しく、何を考えているか分からず薄気味悪い……そんな相手だった。

 「紫様がお呼びです」

 と、だけ簡略に伝えた。

 

 

 3

 「可奈美、西方の空がなんだか騒がしくないか?」

 百鬼丸は真剣な口調できいた。

 「西? ううん、分からないよ」

 目線を西の山々にやるものの、特に何も感じる気配はない。

 「すまんが、おれは西の方に行く」

 そう言って車から降りてそのまま走りさてしまった。

 「えっ、ちょっ、百鬼丸さん―――?」

 だが一切振り返らず、何かに追われるように百鬼丸は駈けていた。やがて朝靄の中へと埋没して影すら判別不能となる。

 「あぁ~あ、行っちゃった」

 可奈美はひとりになってから、姫和の言葉が甦る。

 ――お前の剣は守る剣だ

 御刀の《千鳥》を両手に持ち、それを半ば呆然と眺めながら可奈美は思う。

 もし、仮に姫和の言うことが正しければ、先程の彼女の剣もまた『守る』側だということが理解できた。口では強がってはいるものの、その実、御前試合を除いて殺気など籠っていなかった。

 ただ、剣に宿る意思の重さのみが本物だということを、なんとなく理解できた。

 (やっぱり、姫和ちゃんを追わないと……)

 新たに決意を固めた可奈美。

 走り出そうとした矢先……

 

 「みつけマシタぁーーーーー」

 カタコトの日本語が大きく聞こえ、かつ距離を異常な速度で縮めていた。

 「――っ!?」

 

 4

 森に深入りするにつれ、赤黒い蝶の群れに似た荒魂が木々の間を縫い、群舞するのがみえた。

 (荒魂か。しかし、妙だ)

 まるで百鬼丸だけを誘い込むように、先導されながら深入りしている気すらした。

 低潅木をかき分けながら進んでゆく。遊歩道から外れた山道は坂が増え、蝶の荒魂は三〇メートル先で停滞して蟠る。

 朝靄は濃いミルクのように空気に溶けて、時間が経過するごとに純白の濃度を増す。

 ――だが、その荒魂の舞う一角、坂の上だけは異様に明瞭にみえた。

 気流の微妙な変化を肌で感じながら、百鬼丸はいやな予感がしていた。

 荒魂の舞う辺りに人影が、ある。

 「……だれ、だ?」

 思わず呟いた。一般人であれば荒魂から逃げるハズだ。刀使であれば、斬り伏せるハズだ。だがどちらでも無い。

 その人影は親衛隊の錆利休色に身を包んでいた。

 なおも歩を進めながら、嫌悪の念を強めざるをえない百鬼丸。

 ふと、その影が百鬼丸のいる下の方角に気がついたようだった。

 長い沈黙のあと、おもむろに声がする。

 「……久しぶり、かな? にいさん……」

 その凍りつくような、憎悪に燃えた二つの瞳。

 その一言が確信に変わった瞬間だった。

 「双葉――」

 無意識に相手の名前を言っていた。

 橋本双葉が、百鬼丸の目の前に居る。しかも、荒魂を操りながら。

 百鬼丸の呆然とした様子を見ながら、くすくす、と笑い声をあげる。

 「ああ、この荒魂は夜見さんのを借りたの。いい子たちだよ。命令に忠実で……おかげでにいさんを見つけることができたし」

 歪に曲がった口。双葉はゆっくりと百鬼丸を睨めつける。

 「わたしに会いたくなかったでしょ? でもわたしは違う。わたしは会いたくて、殺したかった。ずっと、ずっと前から、ね」

 一息つきながら、自身に釘付けとなった百鬼丸にトドメの一言を放つ。

 「――わたしのお父さんを殺した人殺しめッ!」

 

 



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18話

 「……なんで、お前がノロを操れるんだ?」

 百鬼丸は頬に冷や汗を流しながら訊ねる。――その狼狽した様子が可笑しかったのだろうか、双葉は黒い瞳を赤銅色に変えて口を更に歪める。

 「ノロを体内に受け入れたからに決まってるでしょ?」

 百鬼丸は血管が凍る気がした。

 今、彼女はなんと言っただろうか? ノロを受け入れた? まさかありえない!

 その言葉を信じようとせず、百鬼丸は乾いた笑みを浮かべた。

 「嘘、だよな?」

 「ううん、本当。にいさんを殺すために……」

 喋りながら御刀を抜き、剣先を百鬼丸に合わせる。

 「――ええっと、夜見さんに聞いたんだけど、体内に飼っているノロを荒魂に顕現させるには、皮膚を切った方がいいんだって」

 楽しげに語る双葉は自らの背中に刃を回して、そのまま服の上から縦に御刀を振り下ろした。背骨付近の皮膚が赤く滲み、その傷口から大蛇のような形状の荒魂が数十匹うねりだした。

 「わたしの飼ってる荒魂だよ」

 そう言いながら、人差し指を百鬼丸に指す。示された方角に向かい蛇たちは百鬼丸のか体へ殺到した。

 「――っ、くおぉ」

 反応が遅れた、百鬼丸は完全には躱しきれず太腿や脇腹など数箇所を喰い破られた。

 ガハッ、と口から血を吐きながら坂の上に居る双葉をみた。

 彼女は不愉快な表情を浮かべながら、

 「なんで本気でかかってこないの? こんな攻撃、にいさんなら全部叩き伏せれるでしょ?」

 舐められているとでも思ったのだろう。双葉は更に自らの爪先で傷口を広げ、大蛇の可動範囲を大きくした。

 「やめろッ、双葉ッ!」

 百鬼丸が叫ぶ。しかし、彼女にとっては逆効果だった。

 「うるさいッ! 黙れっ」

 耳を両手で掩いながら、髪を左右に振る。

 「お父さんの仇をとるから……」

 燃える溶鉱炉のような橙色の荒魂たちが、百鬼丸へ次々と攻撃を仕掛ける。だが百鬼丸は敢えて応戦せず、回避行動をとっていた。

 「ねぇ、どうしたの? なんで反撃しないの? それで終わり?」

 双葉は理由のない焦燥感に駆られていた。激しい動悸が、その感情に拍車をかける。

 「もうやめろ、双葉。おれの腕でこの荒魂を斬れば、直結しているお前の命も削ることになる――だから、こいつらを収めてくれッ!」

 「はぁ? 敵のわたしに温情でもかけてるつもり? ありえない。気持ち悪い、なにそれ? 自分だけが特別で恵まれて……」

 二匹の大蛇が百鬼丸の両肩を、厳しい顎で捉えた。燃えるような牙が百鬼丸の肉体に喰いこむ。

 「――――ッ」

 苦痛に顔が歪む百鬼丸。

 「あははははははは、その顔が見たかったんだよにいさん……いつも、お父さんに可愛がられてたのはにいさんばっかり。だから、決めたの。ここでにいさんを殺して、あの世でお父さんに褒めてもらうの、わたし。どう? 素敵でしょ?」

 改めて双葉は眼下の百鬼丸を睨めつける。

 低潅木や杉、樅の梢に血を点々と濡らしながら佇む少年。

 百鬼丸は俯いてなにも語らない。

 表情は上手く窺えないが、恐らく虫の息だろう。そう解釈した。

 トドメだ、とでも言わんばかりに八匹の大蛇が百鬼丸に牙を剥いた。

 

 激しい閃光が周囲を染め上げた。

 網膜を焼かれる錯覚を受け、双葉は目を覆った。

 数秒してから再び激しい光へと目線をやると、双葉の繰り出したハズの荒魂大蛇の頭部のみがゴッソリと抉れて溶けていた。

 「安心しろ。頭部だけを攻撃しただけだ――」

 百鬼丸は頭を上げた。

 「……っ」

 双葉は驚愕した。彼の顔面には鼻がなかった。まるで抉られたように鼻の部分だけが空洞の三角のみが存在していた。

 「とおさんのお手製の荒魂専用の爆弾だ。しばらくそいつらは動けんだろう」

 百鬼丸は自らの両肩に食いついた大蛇の頭部だけを掴んで捩じ切った。

 

 「双葉」

 百鬼丸が優しい声音でいう。

 動揺がおさまらぬ中、彼女は百鬼丸を眺めている。荒魂が攻撃をうけた影響で双葉の体中は痺れるような痛みが襲い暫く動けない、という理由もあった。

 「とおさんは〝荒魂〟になっていたんだ……今のお前みたいに」

 その言葉を百鬼丸自身から告げられた。その事実が双葉にとって、衝撃であり古傷に触れられる時の痛みに似ていた。

 「うるさいッ! お父さんを殺したのには変わらないだろうがッ」

 憎悪の瞳で百鬼丸を睨む。

 百鬼丸は血まみれの体を微動もせず、

 「ああ、そうだ」

 首肯する。

 

 (クソクソ、クソクソ、糞がッ! なんだ、なんであんなに平然としていられるんだ? なんでそんなに余裕なんだよっ!)

 双葉は御刀を持つ手が震えた。

 明らかに力の差が歴然としている。

 それだけではない。

 自分がこの期に及んで、百鬼丸に対して親愛の情を持っていることが悟られた。

 冗談ではない、このまま頭部のない荒魂たちで押しつぶしてしまえばよいではないか?

 うねうねと胴体を波立たせながら、大蛇の荒魂たちは百鬼丸と対峙している。

 

 

 ……と、森の奥から生物のようなうめき声が木霊した。

 

 二人はその方向をみた。

 一頭の大猪に似た荒魂が、四脚を疾駆させてきた。

 全長だけでも八メートルはあろうか。

 双葉は思わず、

 「ちっ、こんな時に」

 と、吐き捨てた。

 大蛇たちを一旦体に収納させ、大分動くようになった体で《写シ》を貼り、戦闘を行おうとした。荒魂退治を優先した。

 だが、百鬼丸が双葉に一瞥を加えると、

 「動くな。おれが片付ける」

 そう言い残して左の指を噛み、《無銘刀》の姿を現す。

 朝靄は僅かに薄がらき、天空から差し込む線のような光が幾条も膨らんだ。

 《無銘刀》は七色に輝いた。

 「ふぅーーーーっ」

 息を深く吐いて、中腰になると百鬼丸は痛む四肢を無視して眼前に迫る大猪の荒魂を視界に捉えた。

 目を瞑る。

 三秒後、目を開く。

 猪は巨木を次々となぎ倒しながら近づくのだが、一向に百鬼丸は回避すらしない。

 猪の牙とわず五メートルの距離。

 「去れ、荒魂」

 百鬼丸は左に大きくターンステップを踏んで大猪の巨躯に刃をすべり込ませる。

 華麗な太刀捌きにより、大猪の荒魂は天に哭くように上体を苦痛に突き上げ二本足立ちとなり、身をうねらせて絶命した。

 《無銘刀》に刻まれた文字が光輝き、猪はノロすら残さず、灰のように粉状になると霧散した。

 

 (なんでっ!)

 双葉は、百鬼丸の圧倒的な強さを改めて魅せられて、嫉妬とも羨望ともつかぬふくざつな感情に捕らわれた。

 その百鬼丸は肩を大きく上下に息をつき、しかも紅血が四肢から溢れている。

 青白く窶れた顔で双葉に向くと、

 「怪我はないか?」

 とだけ、尋ねた。思わず双葉も頷いた。

 そうか、と軽く笑いかけると百鬼丸は「可奈美んとこに戻って姫和を探さないとなぁ……」と言った。

 あの百鬼丸が他人と行動を? 

 双葉はそのことが知りたかったが、しかし憎しみがそう簡単に消えるはずもなく、わだかまりを心に残しながら、

 「今度、必ず殺すッ」

 御刀を納刀し、踵を返した。

 己の不甲斐なさに悔しさで唇を噛みながら……。

 

 

 

 双葉が去った後百鬼丸は暫くの間、疲労と軽い失血により意識が朦朧としていた。

 「はぁ……はぁ……まずいかな?」

 ブナの木の根元に腰を下ろし、空を仰ぎ見る。

 鉛色のいかにも雨の振りそうな予感がした空に、なにかがみえる。

 この義眼でも捉えることのできるのだ、相当距離が近いだろう。――ふたつの飛翔体はそのまま高度を下げながら、近隣の場所に墜落した。

 どぉーん、と腹の中まで揺さぶられる衝撃があった。

 「こんどはなんだ、また」

 百鬼丸は呆れながらいう。

 このタイミングで、この落下物。

 (恐らく、あの二人関係だろうなぁ……)

 問題を起こすのが大好きな二人のために動かないとなぁ、と百鬼丸は痛む体に鞭を打ち、立ち上がる。

 「さて、もうひと頑張りしますかな」

 左腕の鞘に収めると、衝撃の方向へと駆け出した。

 

 3

『おい、主役メカの活躍シーンだろうがぁーーー!!』

益子薫が叫んだ。

衛藤可奈美と十条姫和の戦闘レベルを測る最後の仕上げにわざわざS装備まで用意したのだ。それを、闘うかと思えばとっとと《迅移》で二人は逃げてしまった。

「おーう、薫。困りましタネ」

薄いオレンジ色のバイザーから、古波蔵エレンは困り顔でいう。

「うぅむ……仕方ない、こうなりゃヤケだ。探し出すぞ」

「おぉ~、珍しく薫がやる気デス」

「当たり前だろうが、こんなとこまで駆り出されておいて帰るのもなんだか腹が立つからな。あのおばさんにも怒られるし」

エレンが目を細めながら、

「多分その発言の方が紗南センセーは怒ると思いマス」

そんなやり取りをしていると、木々の奥から葉音が騒がしくなるのが分かった。

薫とエレンは顔を見合わせた。

気配が近づく。仮に荒魂であればこのまま対処しようと考えていた。

――だが。

「ごほっ、ごほっ、なんだこの砂埃……」

木々の奥、闇の中から姿を見せたのは少年だった。

しかも血まみれであり、両肩から血を流している。窶れ切った顔も、傍から見れば重傷者だった。

「だ、大丈夫デスか?」

思わずエレンが心配になり声をかける。

そう問われた相手は、

「……あ、ああ。大丈夫だ」

苦笑しながら木に寄りかかる。

 「どうも、そうは見えんぞ」

 何より、鼻が無い。というか抉れている。恐らく相当な事故に巻き込まれたのだろうと薫とエレンは推察した。

 その薫が寧々切丸を地面に突き刺し、近づこうとした。

 しかし、百鬼丸は右手を前に出して薫の行動を制した。

 「君たちに質問だが、ここに可奈美と姫和が来なかったか?」

 再び薫とエレンは顔を見合わせた。

 「えーっと、それってつまり、二人の同行者の百鬼丸か?」

 薫がバイザーに映し出された文字を読み上げる。

 「ああ、そうだ」

 「マジかー。めんどくせぇ。さっき二人と戦ったばかりなのに、舞草の情報共有システムにあっただけで……」

 ブツブツと文句を言い始める薄桃色の髪をツインテールに結んだ少女……いいや、外見では童女と形容したほうがよいだろう。それほどに身長が低い。

 「薫、薫、多分――」

 一方、豪華な金髪をしたスレンダーな美女とも言うべき人物は手足が長くバイザーの奥には青い瞳をしていた。そして何よりも、豊満な胸が動くたびに揺れた。

 エレンが、

 「さっき〝戦ったとき〟」

 と、曰く有りげな単語を言った。

 (戦った……? どういうことだ?)

 「つまり、君らも追っ手なのか?」

 百鬼丸は顔を険しく、問うた。

 「ええ~っと、デスネ」

 エレンが困ったように、視線を泳がせる。

 「……そうだ、と言ったらどうする?」

 薫が代わりに挑発的な態度でいう。

 (まっ、こんな状態の奴なら普通は、戦わないで降参するだろうし、そんであとで二人を追いかけてネタばらしをすれば、オレは楽ができる)

 にんまり、と薫は笑った。

 

 「分かった、ならここでお前らを倒す」

 百鬼丸が言った。

 思わず薫が、

 「しっ、正気かお前!!」

 絶叫した。ありえない、ただでさえ重態のような外見で、しかも二対一。

 「お前、コッチはS装備だってあるんだぞ?」 

 脅した。

 が、百鬼丸は首を横に振る。

 「関係ないね。とりあえず、お前らを倒してから二人を探す」

 聞く耳を持たず、戦闘態勢に入っていた。

 ――――薫はようやく自身の失態を悟り、頭をポリポリと掻いた。

 「マジか。こんな脳筋を相手にするのか」

 半ば呆れたように呟く。こうして、薫にまた仕事がひとつ付与された瞬間である。

 



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19話

 「貴女には斥候の役割のみを与えたはずです、双葉」

 皐月夜見が咎めるように言いつけた。

 山中の遊歩道の途中で合流した双葉は、先程起こった事の顛末を話した。

 ――すると、夜見は、

 「ええ、全部知っています。貴女に貸した荒魂も貴女が暴走しないように監視するために放ったものですから。それに、あの大猪の荒魂も〝こちら〟で放ったものですから」

 冷然と言う夜見。その顔を見つめながら双葉は小さく息を吐く。

 「そう、だよね。席次を与えられてないわたしには、そういう対応だよね……」

 事実を認識し直してわずかな感傷に浸る。

 だが、夜見は静かに首を振る。

 「いいえ。貴女はよくやっている方です」

 「でも、力だって全然足りてないのに……」

 「親衛隊でも、あのお三方は特別です。それより、少し休息をとった後、再び斥候と偵察の仕事に戻ってもらいます」

 「え? あ、はい」

 ぽかーん、としたまま双葉は頷いた。

 (夜見さんは慰めてくれたの、かな?)

 改めてまじまじと夜見をみる。

 「……?」

 首を傾げて、双葉の視線の意味を解しかねる様子だった。

 

 

 2

 祢々切丸の巨大な刀身が地面を容赦なく削り取った。

 「うぉらーっ」

 そんな掛け声と共に打ち出される質量のある攻撃は、土埃を上げながら襲いかかる。

 (正直、ボロボロの奴を痛めつける趣味はないんだよなぁ……)

 心の中で薫は毒づく。

 ちら、と横のエレンをみると彼女もどうやら同じ心境らしい。

 「なぁ、お前。ほんとに辞めにしないか?」

 再三の忠告である。

 しかし、痩身の少年は首を振り両手を構える。見たところ武器らしいものはひとつも所持していない。

 「全力でこい。じゃないと、君たちを壊す可能性がある」

 百鬼丸の挑発に薫はカチンときた。

 「ほぉー、そんなボロボロの奴に心配されるとは、随分舐められたもんだな。なぁ、エレン」

 「薫……」

 困ったように肩をすくめて、御刀を構えるエレン。

 

 (だが、百鬼丸のいうとおり奴の実力は本物らしいな)

 薫は歯噛みした。百鬼丸から放たれる周囲のオーラは、対峙した者にしか分からない。彼の極限にまで張られたテンションは危うさすら感じられた。

 「全力で行くぞエレン」

 その指示と共に、エレンが素早く反応した。

 S装備によって飛躍的に向上した運動能力を活かして、百鬼丸の背後をとった。微動すらしない百鬼丸。

 《写シ》を貼れない一般人相手には格闘術による気絶を優先させるべきだ、とエレンは考えた。

 甲冑で云えば籠手に当たる、腕を覆うS装備のオレンジ色のパーツが色濃く輝いた。

 その長い手足を鞭のようにしならせて百鬼丸の顎を狙う。脳震盪を起こそうとした……が、

 「甘いよ、お姉さん」

 目を眇めながら、百鬼丸は嗤う。

 それは覚悟の不足故の嘲笑だろうか? 或は、判断力の鈍りを嘲笑ったのだろうか?

 エレンの蹴り出した右足を左手で掴むと軽々と人間ひとりを投げ飛ばした。

 「えっ!?」

 突然に全身を襲う風圧。

 木々の間を縫うようにエレンは豪華な金髪を靡かせながら、飛ばされた。

 「う、嘘だろッ」薫は思わず声が出た。

 S装備を着用した人間を片手で軽々と……それも、攻撃をまるで読んでいたかのように対処した。

 (まずいな……)

 二対一の優位を失い、ひとりで近距離に秀でた相手と闘うのは得策ではない。それは薫自身がよく理解している。

 しかし百鬼丸は尚、不動。

 「気味が悪いな」

 本音が漏れる。つまりS装備の優位すら無い状況だった。

 「ねね~っ!!」

 薫の頭上で威嚇の鳴き声を上げるねね。

 「はぁ~、お前って奴はスケベなくせに……まあいい。やれるだけやろうか」

 

 祢々切丸を八相の構えにすると、薫は敵との距離を目視で測る。

 六メートルあるかどうか。

 約二メートル一六センチの祢々切丸でも距離が足らない。とはいえ、こちら側から動けば隙が生じ、やられるのがオチだ。いくらS装備で身体強化されていても、所詮百鬼丸相手には付け焼刃だ。

 そう結論づけると、

 「おい、今更ビビってんのか?」

 挑発。

 いくらなんでも安っぽい手だと彼女自身も思う。しかしそれより他に手が無い。

 百鬼丸は鼻の無い顔で笑うと、

 「分かった。いくぞ――」

 と、厚い靴底で地面を蹴り上げた。

 異様な加速だった。

 真正面から向かってくる筈の百鬼丸の姿は、その速度の疾さ故に体の輪郭線全てが荒く変化し、目視での距離を見誤らせた。

 「くっ、きぇーーーーーッ」

 切羽詰まった薫は祢々切丸を予定よりはやく振り下ろした。今度の掛け声は薬丸自顕流の特徴である「猿叫」であった。その名のとおり、猿の叫び声に似た掛け声と共に必殺の一撃を与える為であった。

 上手くゆけば百鬼丸にダメージを与えられるだろう。

 が、一瞬で肝心な百鬼丸の姿が四散した。

 振り下ろした祢々切丸を持つ手に更に加重のかかるのが分かった。

 「んなっ!?」

 祢々切丸の巨大な刃の上に百鬼丸は佇み、地面と接触するタイミングで駆け出し、薫へ攻撃を加えようとしていた――刹那。

 「まだ終わりじゃないデス~!」

 明るい声と共に、弾丸の如く一閃の煌きが薫と百鬼丸の間を遮った。

 「え、エレン!」

 頼もしい長身の少女は肩越しに、

 「遅れマシター」

 ペロ、と舌を出す。

 「ったく、おせえよ」

 祢々切丸を再び持ち上げ、再戦を開始しようとした。

 だが無情にもS装備の可動限界時間が近づいてしまった。予想以上の出力を強いられたようで、バイザーにも警告マークが表示される。

 「ちっ、とっとと決めるぞ」

 「了解、薫っ~」

 弾んだ声でエレンが応じる。

 

 百鬼丸は一旦背後へ飛びのき体勢を整える。

 オレンジ色の軌跡を大気中に描いた薫とエレンのふたりは、左右から同時に攻撃を仕掛けるようだった。

(そう来たか)

 百鬼丸は首をひねり、左腕に意識を集中させると《迅移》を使用した。

 「なっ!?」

 「ワーオ!」

 ふたりは驚いた。刀使にしか使えない《迅移》を軽々と使用してのけたのだから。

 「しょうがない、S装備をパージするぞ」薫が素早く指示する。

 その直後――事件は起こった。

 

 S装備をパージしたあと身軽になった二人。

 

 

 そこでまず、祢々切丸を百鬼丸に投げた薫は、その場で崩れるようにして尻餅をついた。

 生身で《迅移》を使用した百鬼丸はギリギリの所で二メートルの長物を躱すのが精一杯だった。

 「隙アリィーーー」

 エレンがそれを見逃さず、一気に斬りかかる。

 だが…………思った以上にエレンの肉体にも疲労が溜まっていたらしい。薫と動揺にエレンもまた急速に衰える筋力を自覚した。

 「あっ……」

 中腰のまま肩で息をした百鬼丸に自然覆いかぶさる形でエレンは倒れ込んだ。

 このとき、百鬼丸の人生でも有数の命の危機が生じた。

 

 すなわち、《乳殺》である。

 ――説明しよう、乳殺とは古代中国から伝来した最古の暗殺術のひとつである。男が仰向けになった状態で豊満な女性の胸のどちらかでまず、鼻と口の呼吸器官を閉塞させ、残りの片乳で喉を圧迫する。そのことにより、一分半以内に呼吸困難に陥る。乳殺はその使用される胸が大きければ大きいほど、威力を増す。即ち、胸の圧力と地球の重力にしたがって威力は二乗されるのだ! この技はおもに室町時代末期の戦乱時代に使用された! とくに、くノ一の閨房術として知られるのだ。巨乳にのみ許された技であり、貧乳には不可能である。すなわち、貧乳は人にあらず!(民民書房より引用「四〇〇年の閨房術《乳殺》の歴史について」)

 

 この《乳殺》を喰らった百鬼丸は苦しさに呻いた。

 まず、鼻のない三角の鼻の孔にエレンの乳がジャストフィットし、さらになお余りある胸の弾力が口の半分を塞ぎ、もう片方の乳がさらに半分の口と喉を圧迫した。

 「oh…、すいまセン」

 イテテ、としたたかに百鬼丸の上に倒れ込んだために、膝など数箇所をぶつけた。

 「ダズゲデ……」

 胸の下から声が聞こえる。

 「あっ、」

 エレンは制服の布越しに伝う微動が、胸部全体を擽られるような感覚に陥り、艶かしい声をあげた。

 

 それを遠くで見ていた薫は一言、

 「こいつ、このまま倒せるんじゃね?」

 と呟いた。

 

 事実、百鬼丸はあと数秒であの世行きとなる所だった。そして、以後百鬼丸は巨乳恐怖症を患うことになった。

 



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20話

 山容が俄に蠢動する気配があった――。

 逃走中の十条姫和と衛藤可奈美を追跡し、確保すべく折神家主導のもと警察組織と連携して天城峠周辺を捜索する専用の野営テントが張られた。

 そこに、特殊装甲車輌が数十台以上並ぶ。4WD走行の米国レンコ社製品である。その厳しい車輌の容姿は汚れた緑色に塗装されていた。

 機動隊から応援で六部隊が参加していた。恐らく、時間が経つごとに人員は増すだろう。

 

 捜索本部、野営テント。

 ここでは簡易であるか会議室が設えられていた。

 折り畳み式の長机が「コ」の字形に配置され、パイプ椅子が数十脚ほどある。そこに、二つほど人影があった。

 「はぁ~っ」

 分厚い電話帳ほどの資料を見つめていた獅童真希が深い溜息をついて、パイプ椅子の背もたれに身を預ける。

 「あら? 珍しくお疲れのご様子ですわね」

 此花寿々花は茶化すように言う。

 「あのなぁ……ボクだって、疲れることはある。この資料をつくったのはボクだからね」

 天を仰いで目を揉みながら、愚痴をこぼす。

 「そうでしたの。どうりで計画がタイトだと思いましたわ」

 ワインレッドの深色の髪を指先で弄びながら、皮肉な口調で返す。

 それに釣られて真希は、

 「……そ、そうか?」

 肩を回しながら、改めて捜索資料に目を通す。

 「――ええ。第一、計画立案者の真希さんご自身が休まれていないでしょ?」

 「ボクは……そんな暇はない」

 ふいに、右掌をぎゅっ、と強く握り締める。

  御前試合直後、大門で出会ったあの少年に不意打ちではあるが、大敗した。今まで己の強さを誇っていた真希にすれば、耐え難い屈辱となっていた。

 「世の中には猛者が多い。ボクにはやるべきことがあるんだ」

 はぁ~、と寿々花は落胆する。まるでダダをこねる子供を叱る気分で、

 「いいですこと? 休息も立派な任務のひとつですわ!」

 顔をずん、と真希の眼前近くまで迫り出して言いつける。

 気迫に押された真希はただ、「わ、分かった」と頷いた。

 その焦った態度が可笑しかったのだろうか、寿々花は俯いて小刻みに肩を震わす。

 ――それから、

 「約束……ですわ。どの道、十条姫和も衛藤可奈美も実力でねじ伏せなければならないのなら、今を有効に活用すること」

 片目を瞑り、真希の鼻頭を人差し指で突く。

 「キミには敵わないなぁ、寿々花」

 疲労の混ざった爽やかな笑みで応える。中性的な顔立ちの真希の笑みに、

 「なっ、なんですの急に――」

 驚愕半分と、照れ隠し半分に頬を紅潮させながら寿々花は背を向けた。

 

 2

 《乳殺》から開放された百鬼丸。その後、改まった長船女学園の二人。

 「んじゃ、改めて自己紹介するぞ。オレは長船女学園後頭部一年の益子薫だ。んで、隣りのコイツが……」

 傍の長身少女が、勢い良く挙手した。

 「はいはい、ハイ! 同じく長船女学園高等部一年、古波蔵エレンでス!」

 百鬼丸の前には、見るからに不均衡な二人組が居た。

 「……ん? 同い年なのか? えっ?」

 自己紹介を受けて、百鬼丸は驚きで薫とエレンを見返す。

 「イエース、ねっ、薫」

 言いながらエレンは胸元へ薫を抱き寄せる。豊かな胸に抱かれながら薫が、

 「おい、今お前オレに対して失礼なこと考えただろ? こう見えてもエレンとオレは同い年なんだ。そこんとこ、間違えんなよ」

 ビシッ、と擬音がたちそうな勢いで人差し指を伸ばして強調する。

 

 言われてから改めて、二人を見直す。

 薫は、明らかに背丈が低く百鬼丸の胸板よりさらに下に頭がくる。その髪色も特徴的で、薄桃色の長い髪をツインテールに黒のリボンで結んでいる。

 一方のエレンは、薫とは何から何まで異なっていた。そもそも、体型が同世代の十代と比較しても(薫は除く)、色々育ちすぎている。長い手足は無論、腰元まで伸びた眩いほどの金髪。なるほど、先程の戦闘で見せた剣術にプラスした蹴りなどタイ捨流を存分に活かしている。

 ……だが百鬼丸は知っている。それは真に恐ろしいことではない。

 「ん? どうしマシタ?」

 ジロジロ眺めるような視線にエレンが怪訝に問う。

 ぼよん。柔らかな双丘が動く。

 「ひっ……」

 百鬼丸は思わず鳥肌がたち、一歩、足を後退させた。

 と、その胸元から突如、

 「ねねっ~~!!」

 茶色い小動物が谷間から顔を現す。

 「おおわっ! なんか生まれた!」百鬼丸は叫ぶ。

 ジト目で薫が、

 「アホか。それはオレのペットのねねだ」

 「ねね~」

 百鬼丸には理解できなかった。

 「そいつ、もしかして荒魂か? だったら退治しないとマズいだろ」

 「ったく、お前もそう言うのか。いいか、コイツはな四〇〇年ウチのペットだったんだ。今更何なんだ」

 憤慨した様子で薫は腕を組む。

 (確かに、おれの肉体を奪っているような気配もなければ、ノロ独特の負の神性も感じないな……)

 珍しい存在に出会った好奇心から、百鬼丸はねねに指を出してみた。

 「ねねッ」

 怒っているような鳴き声で、首を振り、エレンの胸に顔の半分を埋めた。

 「あっ、ねね……擽ったいデス」

 豊満な胸を抱えるように腕組みをする。――同じ腕組みでも、薫とは異なり抱え込んだ腕からでも柔らかなバストは溢れそうになっていた。

 そもそも、長船の制服は黄色を基調としているのだが、明らかにデザイン上巨乳を対象にした仕上がりとなっている。そのいい例が薫だ。

 百鬼丸はもう一度、薫をみる。

 「ん? なんだ?」

 長船の制服が肩からずり落ちそうになるほどの幼児体型。ち~ん(笑)という効果音が脳内で鳴り響くほど虚しい。

 「おい、お前っ! 今すっっごく失礼なこと考えただろ?」

 「カンガエテナイヨ」 

 「なんでインチキ外国人みたいな口調になってんだよ」

 「ホントホント、カンガエテナイヨ。虚しいチチだとか思ってナイヨ。あと安心スルヨ」

 「んだと? せっかくエレンの乳圧から助けた恩人になんて言い草だ、コイツ!」

 その言葉にエレンが、

 「オーウ、さっきはごめんなさいデス」

 百鬼丸に近づこうとした。

 「へっへへへへへ、平気だ!」

 薫は冷ややかな目で、

 「その割にはお前、めっちゃ足元震えてるぞ」

 「むむむ、武者震いだ!」

 「いや、無理有りすぎだろ」

 ったく、と頭をポリポリ掻きながら溜息をつく。

 「お前は何者なんだ? そもそも、コッチの情報にもお前の名前と映像しか流れてこなかったが……それに映像も、全部うっすらとしか撮影されてないし、一瞬影かと思ったぞ」

 「おれか? 名前は百鬼丸で……ま、簡単に云えば荒魂殺して肉体を取り戻している最中だ」

 「色々飛ばし過ぎだろ! そこらへんの説明しろよ! 一気に話が飛んで訳わかんねーぞ」

 「えぇ~めんどくせ」

 目を細めて口を「3」の形にする百鬼丸。

 きらん、と薫の瞳が光った。その場合大抵が悪知恵だ。

 「おい、エレン。そいつを抱きしめてやれ」

 「え? なんでデスカ?」

 「いいから」

 「了解っ~~」

 大手を広げて真正面から百鬼丸を抱きしめる。身長が数センチ低い百鬼丸は自然と胸元に顔面が埋まる状態となった。

 「わわっわわわっわ分かった! 分かったから、詳しく話すから許して!」

 「んん~、このくらいの年頃の男子を抱きしめるのはハジメテですが、まるまるは結構体鍛えてるんデスね」

 「おい、エレン。ソイツはやく離してやれ。じゃないとソイツそろそろ失神するぞ」

 「えっ? なんでデスカ?」

 事実、百鬼丸は青白い顔で失神の一歩手前を彷徨っていた。

 

 

 数分後、語り終えると百鬼丸は疲労困憊していた。

 これまでの簡単な生い立ちと、旅の目的。それから二人と逃走したときの話など。

 聴き終わって第一声に薫が、

 「へ~っ、大変だったな」

 耳を小指でほじりながら答えた。

 「おい、人がせっかく話したのになんつー態度だチビ」

 「あっ? なんだと、コイツ! ぜってぇ後で覚えておけよ」

 「まぁ、まぁ、二人共。こちらも敵ではない証拠にイロイロ説明しなきゃダメデスヨ薫」

 親友の嗜めにはぁ~、と肩をおとしながら薫が面倒くさそうに口を開く。……曰く、反折神紫勢力としての舞草、更にその同志集めの一環として可奈美と姫和と戦ったこと、などなど。

 

 「んでもお前の話から総合して、その《知性体》ってのが今まで刀剣類管理局でも話題に上がらなかったのはなんでなんだ?」

 いつの間にか頭に戻ったねねを指先でいじる薫が訊ねる。

 「――簡単な話だろ。そもそも折神紫や歴代の内閣が秘匿していたんだ。ま、連中も狡猾だろうから上手く尻尾を隠してきたってのも一因だろうが。でも、近頃は隠れることすらやめたみたいだがな」

 「理由があるンデスカ?」

 「それは分からん。けど、間違いなく何かを裏で計画してるってことだけだ」

 「なるほどな、最近は人の荒魂を聞かなくなったのと関係がありそうだな」

 薫はうんうん、とひとり頷く。

 

 と、

 《ミツケタ、お前ヲミツケタ……》

 

 唐突に百鬼丸の脳内に声が響いた。

 

 ――そう、この感覚は《知性体》だ!

 

 「すまんが、お二人さん。ちょっと席外すから可奈美と姫和でも探してくれ、んじゃ」

 と言いながら、走り去った。

 

 残された二人は、

 「なんだったんだ、あいつ」

 「うぅ~ん、ワカリマセン」

 呆然と見送るしかなかった。

 



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21話

 ――一体なにが血を滾らせているというのか?

 

 百鬼丸の肩周りは自身の肉体であるが、脚部は太腿からが義足である。この人口皮膚・筋肉には排熱器官がなく、そのため水冷式(つまり血液で冷却)する目的と、神経伝達の精度を上げるため毛細血管に神経を繋いでいる。

 このため、百鬼丸の脚部から溢れる血は常人のソレより高温である。

 しかし、血液中の鉄分もまた義手義足には多分に含まれており彼専用の鉄分による膠着を促すスプレーを吹きかけるだけで傷口は閉塞する。

 「……っ、イテテ」

 顔を顰めながら、百鬼丸はベルトに差したスプレー缶で肩と太腿に吹きかけた。

 傷口の辺りを手で触れると、硬質な膜に覆われていた。しばらくすると活性細胞の皮膚と同化してしまうだろう。

 

 《知性体》との戦闘の前には必ず準備を整えなければならない。

 

 両手を握り締めて開く運動を繰り返す。

 準備は万全のようだ。

 

 

 

 既に時間は夜を迎えていた。都合ここに丸一日も逗留していた計算になる。

 百鬼丸は研ぎ澄まされた感覚を駆使してソナーのように周囲を探った。深い山の中では一寸先は闇であり、命取りになりかねない。

 (近いな……)

 斜面を下りながら、思った。

 実際に山の斜面を下り終わると九十九折の道路に出た。

 外灯が僅かに点るほどで、延々と続くアスファルト舗道のみがあるだけだ。

 首を小さく動かして気配の方向をより精密に手繰り寄せる。

 ――いる、確実に近い!

 百鬼丸は背後を振り返った。

 

 「……アアアッ、ああああああ、ああああ、ミツケタ……新しい宿主……百鬼丸……ミツケタ」

 五〇メートル後方に居たのはスーツ姿の男性だった。一般的な三〇代のサラリーマン男性という印象しかない、何十にもねじ曲がった首を除けば。

 男は口から血泡を吹き出しており、白目を剥いている。黒縁のメガネは斜めにズレ落ちている。

 「あーあ、ご愁傷様だな。こりゃあ」

 時々発生する、《知性体》の人間との融合の失敗。

 その理由は様々であるが、単純に荒魂やノロを受け入れるキャパシティ不足などが挙げられる。一番いい肉体は刀使である少女であり、それ以外の年齢はたいして変わりない。

 もし、肉体が不一致だった場合《知性体》は次々と宿主を変えて生きながらえる。

 百鬼丸は一目で悟った。

 あの宿主の男は助からない。

 足も内股で歩行しているのだと勘違いしていたが、よくみると針金のようにグルグルと捻れていた。首と同様に……。

 あの肉体では限界が近い。

 

 「チッ、やるしかないか……」

 左腕を噛み――銀閃を煌めかせる。

 摩訶不思議な文字の刻まれた刀身は、外灯の光に震える。

 

 「ア、ア、ア、肉体……ほしいィ」

 剥き出しの歯茎には膿が溜まっている。恐らく何度も強く噛み締めた影響で歯が歯茎に埋まり、あるいは砕けた影響だろう。

 百鬼丸は目を瞑る。

 義手を地面に投げると、地面に落ちる寸前で飛び出して駆けた。

 五メートルほどの距離に詰めたとき、更に百鬼丸の背後に嫌な予感がして大きくバックステップを踏む。

 彼の予感は正しく、サラリーマンの《知性体》との間に「徐行」の標識で遮られた。

 突然現れた標識は無論、本来そこにあったものではない。誰かが投げたのだ。

 百鬼丸は振り返ると、もう一体《知性体》が居た。

 「あははは、二体同時とは……めんどくせ」

 もう一体の《知性体》は、力士や相撲取りのようにガッシリとした体格の男だった。現場作業に従事してきたような風貌でもあった。

 この男も、頭部の額半分がめくれあがり、脳みそが半分赤黒く見えていた。事故で瀕死の所を乗っ取られたのだろう。

 白のタンクトップから大粒の汗を流しながら、分厚い唇から、声がする。

 「お前、百鬼丸だな?」

 意外にも人間らしく会話できるようだ。

 「――ああ、そうだ。だからなんだ?」

 「お前に提案がある」

 「へぇ」

 意外だった。知性体とはこれまで戦いはしてきたが、このように提案をされるのは初めてだ。

 「なんだ、言ってみろ」

 肉だるまのようなデブ男はいう。

 「俺と共同であいつを殺そう」

 「は? つい今しがたおれを殺そうとした奴の言葉とは思えないな」

 デブ男は首を振り、

 「ちがう。最初に戦っていたのは俺の方だ。……まあいい。とにかく頼む」

 百鬼丸は怪訝に眉をひそめた。明らかに嘘だろう。それを信じるほどお人好しではない――

 「お前の目的はなんだ?」

 「……この肉体の持ち主の男の家族の元に一度帰る」

 「はぁ? バカかお前。もうそんな状態で帰って……ああそうか。家族を今度の寄生先にする気だな」

 目を細めて百鬼丸は中腰になる。さっさと片付けるのはこのデブの方だった。そう思い直した。

 だがデブ男は慌てて首を振り、

 「ちがう。この肉体の宿主の子供が今日……誕生日なんだ。それに遅れたくない。本当はこの男は三日前に死ぬ寸前だったが、俺と結合して一命をとりとめている」

 「よくも言えたな、クズ野郎。おれの体を奪っておいて今更善人面かよ?」

 と、唐突に質量のある風が頬を掠める錯覚がした。否、錯覚などではなく実際に先程の「徐行」の標識が投げ飛ばされたのだ!

 避けろ、という暇もなくデブ男は真横に倒れるようにして避けた。

 「ア……ア、ア、あ体くれふぃ」

 最早言葉ですらない。

 百鬼丸は目を眇め、つま先に力を込めると一気に弾丸の如くサラリーマンの《知性体》の首を切り落とした。ゴロン、とボーリングの玉が地面に転がるような音がした。

 すれ違いざまに百鬼丸は《知性体》の首を刎ねたのだ。

 「まだだ、心臓を貫け!」

 デブ男が叫ぶ。

 「チッ、言われなくても……!」

 歯を食いしばり、踵を返してトドメの一撃を左腕にこめて叩き込む。

 白いワイシャツに真っ赤なシミが徐々に広がりをみせて百鬼丸の左腕を生暖かい温度が満たす。

 

 ――と、その瞬間。

 百鬼丸の脳裏に、刺し貫いたサラリーマン男の記憶が一気に流れ込んだ。走馬灯のように誕生から入学、卒業、入社……嬉しかった事、辛かった事、怒った事、驚いた事、家族、友人、恋人。

 それらの顔が一々、サラリーマン男の感情と共に実感された。

 

 

 そして、最後に映る映像には《百鬼丸》自身によって、自らの生命を終わらせる映像だった。

 百鬼丸は思わず、

 「あああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 吐き出すように絶叫する。

 

 時間にすればわずか三秒もなかっただろう。

 しかし、百鬼丸は久々に味わう胸糞悪い感覚に犯されていた。精神が音もなく底の方から崩れていく感じがしていた。

 止めどなく溢れる罪悪感に、今すぐにでも首を吊りたいとすら思えた。

 左腕は勢いをつけて引き抜く。

 胸に穿たれた細長い刀傷から鮮血が空中に吹き出し、百鬼丸の頬を濡らす。

 どさり、と地面に崩れ落ちた男は穏やかな顔だった。

 「くそっ……」

 右手を握り締める。喪失感というか、絶望感が体全体に満ちてくる感じがした。

 そして、予定通り、遺体は灰となって山谷の風に流された。

 

 「百鬼丸くん、だったね……頼む、俺を見逃してくれ」

 デブの男は声をかけた。

 いつのまにか頭にタオルを巻いて怪我を誤魔化していた。

 渇いた喉に生唾を飲み込んだ百鬼丸は、

 「……お前はなんで他の知性体と違うんだ?」

 縋るように百鬼丸は相手に語りかけていた。普段では絶対にありえない態度だった。

 デブ男は困ったように、

 「俺もさっきの《知性体》みたいに渡り鳥だったが――だんだん人間社会に馴染むにつれて、俺も人間を理解してきたつもりだ。記憶も体験も宿主と共有するから当たり前だよな。……けどよ、ハッキリいうが、《知性》なんて持たない方がよかったと後悔している。俺が宿主を蝕む度に悔やむのも一個の人格を有したからだ。――なぁ、百鬼丸。俺の望みである、この男の家族に出会わせてくれれば、あとはお前に肉体を返す。それでどうだ? 頼む」

 デブの男は土下座をした。作業ズボンからでっぷりとはみ出したぜい肉には、既に死者の肌色を覗かせながら……。

 彼を一瞥しながら百鬼丸は、

 「もしそれが嘘だったとしても、今のおれは判断がつかない。だから、おれの前から消えるんだったら、はやく消えろ――そして、もう一度姿を見せたときはお前を殺す」

 血のついた左腕を掲げる。

 威嚇のつもりだった。

 だが、デブ男は顔を上げて柔和な笑みを浮かべた。

 「ありがとう……ありがとうよ……なぁ、必ず約束だ!」

 彼はそう言いながら、遠い街の方角に続く夜闇の道路を走り出した…………だが、それが完遂されることはなかった。

 

 バァン、と炸裂音が響いた。

 

 一歩、二歩、足を踏み出したデブ男はその場で崩れ去った。

 「えっ?」

 百鬼丸は呆気にとられ、暫く動けずにいた。

 

 

 「あぁ~、残念残念。デブの豚ちゃんには、鉛玉を頭に命中させるつもりだったけど、散弾銃では、まともに遠距離からは当たらないよなぁ」

 陽気な声をあげながら、声の主は百鬼丸が来た道の斜面から下ってきた。

 白銀の髪を後ろに束ねた男。

 「てめぇ……」

 その姿を百鬼丸は知っている! 義父の死ぬ間際に一度姿を現した男であり、二度と見間違える筈のない姿だった!

 「ジョー!てめぇ、殺してやるッッ!」

 百鬼丸は《無銘刀》を眼前に翳して、迅移を発動させる。

 超人的な加速と共に、周囲の景色が溶け出してゆく感覚。

 (いける!)

 確信をした百鬼丸。――が。

 「おっと、すまないねぇ」

 ジョーが意地悪くほくそ笑む。

 なんと、百鬼丸の繰り出した刃は別の刃、即ちギザギザの太刀に遮られた。

 「よォ、てめぇが百鬼丸か?」

 男の声は低く、しかしある種の意思の強さを秘めた響きをしていた。

 目元の布切れの間からみえる三白眼が、激しく誰何する。

 「だれだ、お前」百鬼丸は半ば混乱しながら訊ねる。

 男は赤いマフラーを靡かせながら口元を歪める。

 「俺? 俺はステイン……ヒーロー殺しのステインだッ!!」

 剥き出しの歯から快活に応える。

 

 「まぁ、まぁ、ステインくん。今日は殺しちゃだめだよ。挨拶に来たんだから……ああ、それにあの裏切りモノの《知性体》の回収もしなきゃなぁ」

 ステインの背後に控えたジョーは嬉しそうに語る。同胞の《知性体》にすら容赦のない物言い。

 ジョーは散弾銃を右手にソフト帽を左指先でつまみながら鼻歌を歌う。

 デブ男の倒れた場所までやってくると、彼の首根っこを掴んで元来た道を戻る。

 老いているが整った顔立ちのジョーは不気味にすら思えた。

 「さ、ステインくん。ここらでオサラバしよう」

 退却らしい。だが、

 「フン、貴様ひとりで帰れ。俺は久々の好敵手に会えて血が騒いでいるんだ……」

 長いベロを口からはみ出しながら、嗤う。

 ホウキを逆立てたような髪がそよぐ。

 ふぅ、とステインの背中から溜息が漏れる。

 「――この先再戦の機会はいくらでもある。ホレ、撤退だよ」

 ギリギリの鍔迫り合いを演じていた百鬼丸とステイン。

 

 不意に百鬼丸は、ステインとジョー以外の誰かに見られている気がした。その視線の先を辿ると、デブ男がうつ伏せの状態から僅かに顎を持ち上げ、百鬼丸を眺めていた。

 (あいつ、生きてたのか……)

 てっきり心臓を狙い撃ちされたのかと思った。心臓を撃たれれば、少なくとも、人間という脆い容器は動かなくなる。頭部も同様である。よって、《知性体》の活動は停止する――

 「オイ、てめぇどこをキョロキョロしてんだッ!」

 唐突に左から強烈な痛みが入り視界が揺れた。ステインの殴打により、百鬼丸は大きく転がり、ガードレールに体を叩きつけた。

 「がはっ」

 血反吐を周囲に撒き散らした。

 ――しまった、敵を前に油断した

 どんな達人でも熟練者でも、油断という魔の手からは逃れられない。そして、油断は生と死の境界線にいつも潜んで手ぐすねをして待っている。こんな当たり前のことを忘れてしまっていた。深く、深く後悔した。

  背中をガードレールに任せながら、朦朧とした頭で何かを思考する。が、無意味であった。

 「おい、もうコイツを殺していいか?」

 ステインはつまらなそうにジョーに訊ねる。

 そのジョーは困ったような声音で、

 「うーん、もう少しまってくれると助かるけどなぁ。彼は役立つからね」

 ロクでもない会話をしていた。

 (おれって、ここで死ぬのかな……?)

 額が切れていたらしく、義眼の視界を血濡れが満たす。

 呼吸を整える。……死ぬなら死ぬでもいい。

 (可奈美にも姫和にも挨拶くらいしとけばよかったかな……)

 口を苦く曲げて、小さく肩をすくめる。

 

 と、その時だった。

 

 「うぉおおおおおおおおお」

 男の雄叫びがした。

 

 呆気にとられた百鬼丸が霞む視界を必死に絞ると、ジョーに首根っこを掴まれていたデブ男が一瞬の隙をつてジョーの手から逃れ、さらにステインの脇を抜けると百鬼丸の元まで駈けてきたのである。

 「ひゃ……き……まる……くん」

 脳漿を染み付かせたタオル頭から、途切れ途切れの声が聞こえる。

 「――キミに、返すよ」

 すでに瞳孔がひらき、青白い肌のデブ男は、太い両腕から百鬼丸の右腕を握ると……そのまま己の胸に刃を突き立てた。

 深く喰いこんだ刃は、確実に心臓を貫いていた。

 「え……」

 百鬼丸は急な出来事に理解が追いつかない。

 他人の走馬灯が駆け巡る。――否、これはデブ男だった人間本来の記憶だ! 

 

 そして百鬼丸は知った。

 このデブ男は、車の転落事故により瀕死となっていた。天城峠で彷徨っていた《知性体》に最期の希望を託し、己の肉体を捧げたのだ。

 自らの子供との約束を守るために。

 (――嘘じゃなかったのか)

 目前で粉状に溶け始めたデブ男の表情は、穏やかだった。

 「……すまない、助かる」

 それだけを伝えた。

 

 

 俯く百鬼丸。――自身のこれまでしてきた事が、奔流のように罪悪感が充溢する。

 なぜ、いつもこうなのだろう。

 一度として《知性体》と簡単に殺し合いを終わらせたことはない。

 おればかりどうして、こんな辛い目にあわないといけないのだろうか? 昔から自問自答してきた。だが答えなんて出るはずがない。

 いつも潰れそうな気持ちを落ち着かせるので精一杯だった。

 

 「あははは、面白いものがみれたね。――どうだいステインくん。ワザとやったらこんな茶番がみれたよ」

 ジョーは拍手しながら上機嫌だった。

 しかし、ステインは興が削がれたように舌打ちをする。

 「うるせぇ、帰るぞ」

 踵を返して冷ややかな視線を百鬼丸に向けながら、歩き出した。そのあとに続いてジョーも歩みだす。

 最後の去り際ジョーが、

 「キミにはまだ利用価値がある。ではさらばだ、我が救世主くん」

 と言い残した。

 

 強い無力感に苛まれた百鬼丸にはどんな言葉も届かない。

 二人が去って暫くしたあと、百鬼丸の肉体に異変が起こった。まず、鼻、そして左目。まるで神経を灼かれるような強烈な激痛、そして激痛。

 

 「ぐぁああああああああああああああああああああああああ」

 鼻の部分は皮膚がプツプツ、お湯のように沸騰しながら鼻骨から全てを形成してゆく。同時に左目の義眼が地面にぼとっ、と転がり脳みそが引きずり出されそうな痛みと共に、眼球も形を成し始めた。

 痛みにのたうち回りながら、内心ではどこか安堵している気がしていた。

 今現在の精神的苦痛から逃げるには肉体の苦痛による誤魔化しが一番である。それは経験で知っている。

 だから今だけは思い切り悲鳴を上げる。いついかなる時も弱音も、悲鳴もあげない百鬼丸はこの時ばかりは十四歳の少年らしく泣き喚いた。

 

 2

 山々は朝を迎えた。眩さに目が自然と覚める。

 百鬼丸は左頬に当たる光に懐かしさを感じていた。目を開くと、朝日が山と山の間から昇っていた。

 蜜色の照は山容を優しく包んでいた。

 「これが、本物の目か……」

 百鬼丸は自らの肉眼で風景を捉えていた。初めてみる世界はどこまでも美しく、澄んでいた。

 「あれ?」

 自然と左頬を濡らす感覚がして、右指で触ってみる。

 〝涙〟だった。

 義眼では作用することのなかった涙腺は、本来の眼球を取り戻したことにより、涙までも取り戻したのだった。

 「おれは泣けるんだな……」

 なんでもないことだが、百鬼丸は己が人間であるという実感に打ち震えていた。

 昨夜の出来事を反芻しながら、なんとか気持ちの整理をつけると立ち上がった。

 「行かないとな」

 ばんばん、と両頬を叩き自分を鼓舞する。

 ズボンについた土埃を払いながら歩き出すと自然と歩行速度があがった。

 

 

これまでに回収した肉体の部位、およそ十三箇所。残り、三十五箇所。

 

 3

  五十九号線の車道の道半ば。

 「百鬼丸さん!?」

 聴き馴染みのある、懐かしい声。

 九十九折の山道を歩いてゆくと、前方から三つの影がみえた。それは紛れもなく見慣れた連中だった。

 「可奈美か……」

 やつれきった表情に微笑みを浮かべ、百鬼丸は手を振る。

 「どうしたの?」

 固着した頬の血などを眺めながら驚きの声を上げる。

 「気にするな……あ、チビ」

 ふと、姫和の隣りにいる薫に視線を投げる。

 「おい、誰がチビだオイ!」

 しかし、出会った時に一緒だったエレンの姿が無い。

 「あの……でかい胸の奴は?」

 すると薫は不機嫌そうに、

 「あ? エレンならいない。それよりお前も石崎郎にいくぞ」

 無表情に言い捨てた。

 どういうことか、という目線を可奈美にやると、可奈美は困ったように眉を曲げた。

 桃色のツインテールを振り返りもせず、

 「多分、敵の本拠地にいるだろうな」という薫。

 しかし、そう言いながら助けにいく素振りもなく石崎郎まで残り六キロの道のりをゆこうとしていた。

 一方、

 「ねね~!!」

 可奈美の右手に尻尾を絡ませエレンのいる方角へ誘導しようとするねね。

 「おい、ねねやめろ。はやく合流地点に向かうんだ」

 静かにねねを叱りつける。

 まるで、現状の理解ができない……肩をすくめる。

 「どういうことだ、姫和?」

 それまで黙っていた姫和が口を開く。恐らく事の推移を見計らっていたのだろう。

 「つい今しがたまで私達は敵と斬り合っていた……」

 



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22話

「私達は先程まで、折神家の親衛隊と交戦してきた……」

 姫和は僅かに声を硬くしていった。

 その内容によると、親衛隊第一席と二席が直々に手を下しにきたようだ。しかも、薫は三席と戦ったらしい。

 「ふーむ、そうか……」

 百鬼丸は暫く考え込んで相槌をうつ。

 「なんだ、お前もなにかあったのか」

 薫に聞かれた百鬼丸は「いいや、特に」と首を横に振る。

 ――そうか、とだけ呟くと再び薄桃色の低い背丈が先を進み出す。祢々切丸という巨大な御刀を担ぎながら……。

 「なぁ……だから、どこに行くんだよチビ助」

 ぴたり、と小さな靴が止まった。ツインテールが大きく跳ねる肩越しに、

「だから、先を急ぐんだって言ってるだろうが!」

 激しく怒鳴った薫。

 しかしその表情はどこか頼りなく、迷いの色がつよい。

 「助けに行かなくていいのか?」

 「時間がない」

 「そうか?」

 「そうだ」

 「だったら、なんでお前迷ってるんだよ」

 「えっ?」

 虚を衝かれたように、口をぽかーんと開けた。

 「な、んだと……?」

 何故、今の気持ちがタイミングよく見透かされているようだった。

 百鬼丸は意地悪く微笑みながらいう。

 「お前の気持ちでは、あのエレンって奴を救いたいと思ってるんだろ? 悪いけど心眼で心を覗かせてもらった」

 (心眼……あの時に説明されたことか)

 心中で納得した薫は大きく息を吐いた。

 「あ〜、そうだよ。悪いか!」

 観念したように頭をガシガシと掻く。結局どう言い訳しても取り繕っても、意味がないのだと理解できた。相手の心中を察した百鬼丸はヘッ、と口を曲げて、

 「いいや、全然。生憎おれは時間が有り余ってて暇してたんだ。ちょうど一人助けにいく時間くらいならあるかもな」

 言い切ってから破顔した。

 ――ったく、お前は変な奴だよ

 小さく、微かに薫は呟いた。

 「ああ、分かった。ちくしょう、んじゃエレンを助けに行くのに協力してもらうぞお前ら」

 視線を可奈美と姫和に流す。

 「うん、もちろん!」

 天真爛漫に親指を立てて微笑む可奈美。

 「……まぁ、そうだな。悪くはない」

 姫和は腕を組んでそっぽを向く。彼女なりの照れ隠しなのだろう。

 お前らお人好しだな、と薫は困ったような、しかし悪くはない気分だった。

 「にしても、お前はなんでそんなに助けることにこだわるんだ?」

 薫は不意に少年に問う。

 大きく肩をすくめると百鬼丸は薫の目をしっかりと捉える。

 「誰かを助けられるなら、助けるべきだ。目の前でまだ終わってない命なら絶対にどんな奴でも救う……って、格好良い理念だろ? つーか、格好良いのはおれかな?」

 自慢げに笑う。

 「ったく、お前はイロイロと台無しだな……だがまぁ、そうだな。お前が言わなきゃ格好良いと思ったよそのセリフ」

 だな、と頷きながら百鬼丸は自分の左掌を強く握る。まるで、なにか重大な「ナニカ」を取りこぼさないように、しっかりと指を丸めて握り締める。

 

 

 2

 「ひっー、ふぅーっ」

 規則正しい呼吸をしてみる。実際にやってみて、きちんと成果があるのか試さなければ気が済まない性分なのだ……これは両親と祖父からの遺伝だろうか? とエレンは思った。

 「あら? どうかされました?」

 「いいえ、ただの眠気覚ましデス。ご飯を食べた後は眠くなるノデ」

 そう、と指先でワインレッドの毛先を弄ぶ親衛隊二席、此花寿々花は興味なさげに相槌をうった。

 ここは、可奈美と姫和を追跡するためだけに設えられた野営地の本拠地であり、その中枢である会議室に現在居る。

 「――それで、なにか話す気になりまして?」

 「うぅ~ん、さっきのハナシで聞かれたコト以外はサッパリ、デスね」

 先程からの話の内容と云えば簡単な略歴とこれまでの行動、あとは南伊豆方面に射出された飛翔体の正体について、などなど。だがどれも確信を持って尋問している様子でもないため、誤魔化し切れるとエレンは判断していた。――が。

 「……そう、あくまでシラをきるおつもり」

 冷ややかな声で低く囁いた。一瞬灯った鋭い眼光……寿々花は間違いなく切れ者だ。エレンは迂闊な発言をしないよう内心で戒める。

 パイプ椅子から立ち上がった寿々花は外へと去り際、

 「そうそう。貴女のご友人の益子薫ですが、コチラの皐月夜見に御刀を向けたそうですわね」

 「っ!?」

 初耳だ、なぜ薫が〝人〟に対して御刀を?

 そもそもなんの理由もなく、彼女がそんなことをするだろうか。

 初めて見せたエレンの戸惑う顔に寿々花は確信を深めた。

 「――尤も、貴女や益子薫が舞草であろうとなかろうと、御刀を親衛隊に向けるということはどうなるかくらいご存知でしょ?」

 言外に脅しているのだ。折神家に喧嘩を売った、そう暗に仄めかしているに過ぎない。

 「……薫はどうなりマシタ?」

 さぁ、と寿々花は小さく首を振ると、

 「またお話しましょう」

 意味ありげに言い残し、その場を立ち去った。

 

 

 

 3

 (外が騒がしくなってキマシタネ)

 エレンは両手首を後ろに縛られ、走行車両に乗せられていた。次々と駐車された装甲車が出発するのをみるに、薫たちの居所がバレた可能性が高い。

 「お!」

 小さな車窓から、親衛隊第二席の此花寿々花を乗せた装甲車が過ぎ去るのを発見した。

 「――では、そろそろ行動開始デスかね」

 そう呟きながらエレンは靴の踵に仕込んだ刃物を手に取ろうとした……そのとき。

 こんこん、と軽やかに車両の扉が叩かれた。

 (まさか、こんな時に尋問なんデスカネ)

 しかし、対応ははやいに越したことはない。素早く刃物を元の位置に隠し、

 「はぁ~イ、中に乗ってマスヨ」

 陽気に返事をしてみる。さて、今後どうしたものか、時間との戦いだろうか。物思いに一瞬沈むエレン。

 が、彼女の予想は大きく異なった。 

 車の扉を開いた人物は、

 「失礼しますね。エレンさん。助けに参りましたよ」

 柔らかな声音でそう告げた。ソプラノの耳心地のよい声だった。

 車に半身を入れた人物はほっそりとした輪郭線だった。

 黒髪の艶やかな色は、昼間の日差しを浴びて輝いている。あの緑の制服は平城学館のものだ。

 「わぁ~オ、知らない人デスネ」

 すると、謎の人物は、

 「しぃーっ、大声だとバレてしまいます」

 片目を瞑りながら、口元に人差し指を立てて静かにするようジェスチャーを送る。その謎の人物の顔立ちは可愛らしさと凛とした佇まいの同居した〝少女〟だった。

 顔を半分覆うくらいの豊かな髪を煩わしそうに何度も手甲で払いのけながら、小首を傾げる。まさに、美少女のお手本的な動作だった。深窓の令嬢という形容が一番当てはまる。

 「……で、本当は誰なんですカ」

 真剣味を帯びた口調で詰問する。答えによっては実力行使も必要だと考えていた。

 だが、相手は意外にも「はぁ、マジかよ」と不満をこぼす。

 「あれ、その声はまるまるっ、まるまるじゃないデスカ!」

 謎の少女はぎくっ、という擬音が似合うような格好で固まった。

 相手は面倒くさそうに頭をガシガシと掻き一拍置いてから、

 「――ああ、そうだよ。おれだよ。なんか文句あるか?」

 簡単に自白した。しかも少年の声に一瞬にして戻った。そして不貞腐れた態度で腕を組む。

 エレンは目を横に逸らしながら、

 「まさか、助けに来るのが白馬に乗った王子様じゃなくて、お姫様だったトハ――しかも、男の娘――ナニカに目覚めそうデス」

 「目覚めんでいい!」

 ったく、と女装した百鬼丸は盛大に精神的疲労の息を吐く。

 「あ、だったら早くこの手の拘束を外して下サイ」

 背中を向けるエレン。手首に巻かれった荒縄をみる。

 「あーはいはい。了解」

 渋々、ナイフで拘束を解いた。

 ふと、エレンは疑問に思ったことを口にする。

 「そういえば、どうしてまるまるが女装して助けにきてくれたんですか?」 

 ナイフで縄を切ながら不機嫌に、

 「話せば長くなるが、まぁ簡単にいうと、貧乏くじを引いた」

 遠い目でいった。

 

 4

 「んじゃ、まずエレンを助ける人間だが、百鬼丸で決定だな」

 「なんでだよ!」

 唐突な宣告にただただ、ツッコミを入れるしかない。

 ちっ、と薫は舌打ちしながら、

 「んじゃ、そっちの二人に異存は?」

 話題を振られた可奈美と姫和は同時に、

 「「なし」」と声を揃えて返事をした。

 「えぇ~、なんでだよ!」

 不服そうに百鬼丸が口を「へ」の字に曲げる。

 「いいか、まず敵地に乗り込む時には顔バレしてないかが重要なんだ。その点、逃走中の二人じゃ無理だな。んで、オレも皐月夜見と交戦した。だから、本部にいるだろう敵に再会するのはマズい。……だとしたら、顔のバレてないお前が一番いいな」

 薫の説明になんとなく説得されかけた百鬼丸だったが、首を大きく振った。

 「だけどよ、おれがこのまま行っても門前払いか……最悪不審者だろ?」

 その言葉を聴き、薫の瞳はきらん、と光った。大抵こんな時は悪知恵が働いたときである。

 「いいや、お前を女にしてやるぞ!」

 幼女体型の胸をぽん、と拳で叩いて自信満々に鼻を膨らます。

 

 ~~~~数分後。

 

 黒髪を後ろに束ねただけの百鬼丸は、その束ねていた紐を解き、ボサボサの髪は一度飲料水で洗い流して、櫛で梳かす。そしてどこから取り出したか分からないメイク道具を薫は持ち出して、

 「おい、動くなよ」

 意地悪い笑みで、百鬼丸の顔に化粧を施す。

 実に見事に仕上げたようで、薫は「我ながら天才かもしれん」と呟いていた。

 手鏡を受け取った百鬼丸は、

 「単におれの顔は改造しやすいからじゃないか?」と言うと薫は百鬼丸の膝に蹴りをいれた。

 「いてっ、なんでだよ!」

 「ちっ、うるせーやつだな。なぁ、ねね」

 「ねね~!」

 機嫌よく小動物が薄桃色の髪の上で跳ねる。

 「んじゃ、あとは制服だが……」

 ちらり、と可奈美と姫和を一瞥する。

「よし、エターナルぺったんこの制服を着ていけ」

 指さされた姫和は、

「おい貴様。なぜこちらを指差している? そしてそのエターナルぺったんことはなんだ?」

 青筋をこめかみに浮かべながら、御刀を握り締める。

 (あっ、これは一触即発の感じだ)

 百鬼丸は話題を逸らすために咄嗟に、

「な、なんで姫和の制服なんだ?」 

 薫はむぅーっ、と目を細めながら喋る。

「いいか、まずオレの制服では背丈が合わない。そして可奈美の美濃関の制服は露出が多くてお前のギミックを隠すのには不都合だ。――とすると、平城の制服が一番しっくりくるだろ? あ、あと可奈美は胸の発育がいいから制服の胸にへんな空洞ができるけど、そこのエターナル胸ぺったんこにはそんな心配はないからな」

 ぐっ、と姫和は拳を握り締める。

 顔を真っ赤にしてご立腹のご様子。

 「ゆ……許さんぞ!」

 今にも斬りかかりそうな彼女の抑えるため百鬼丸は、

 「ま待て。可奈美は……その、どうだ?」

 そう聞かれた可奈美は、

 「えっ? 薫ちゃんのいうとおりかな、って思ったよ」

 笑顔で答える。

 天使のような笑顔で一番えげつない方法で死体に蹴りを入れる可奈美。……まさに鬼だった。

 「うぅ~ん、確かに胸の辺りは一理あるかもね」

 美濃関の制服を上から触りながら、胸の盛り上がりを手触りで確認する可奈美は、隣りに姫和がいることを忘れているらしい。

 「おい可奈美……貴様も同じように潰してやるぞ」

 可奈美は「えっ?」と隣りの存在に気がついたらしい。視線を自分の胸部と姫和の胸部に交互に移す。――それから。

 「あっ、ごめんね。傷つけちゃったかな?」

 マジトーンの心配した声で聞き返す。

 

 グサグサグサ、と姫和の心にナイフが突き刺さりまくった。黒ヒゲ危機一髪状態だった。

そんな様子を見るに見かねた百鬼丸が、姫和の肩をぽんと叩く。

 「……まぁ、どんまい」

 女装した美少女の百鬼丸が、優しく微笑む。

 「――っ、な、なんだ急に」

 急に耳元を真っ赤にして、顔を逸らす。図らずも、少女の百鬼丸に胸がときめいた。

 「……? なんだよ突然」

 わけが分からん、と言いながら百鬼丸は準備をしようと、

 「んじゃ、服脱いでくれ姫和」

 少年の声で告げる。

 「……おい、変態、死ね!」

 強くビンタされた。

 

 余談だが、少女の声で再び同じセリフを吐いたところ「ま、まぁ仕方ないか」と応じた。

無論着替えは別々のところで行った。姫和は黒のパーカーに百鬼丸のズボンを借りた格好となる。

その後には、少女らしい仕草レクチャーをうけた。指南役の薫は半笑いで「いいか、オレが今からいうことを完全にマスターしろよ」と念押しした。百鬼丸は真面目に口調から動作まで全てを完璧にしたところ、可奈美と姫和は小刻みに震えていた。

 

 あとで聞いた話だが、全て仕草も口調もデマだった。

 

 なお、此花寿々花との出会い頭でのやり取りの成功は偶然の産物に過ぎなかったが、それについては後日語る。

 とかく、百鬼丸はこの時間を目一杯玩具にされた。

 

 5

 拘束を解いたと、逃げる段階にはいった時、エレンが百鬼丸の肩を叩く。

 「あの~御刀を取られたので、取り返しに行きたいデス」

 「えっ? ああ、御刀なら取り返しておいた。ホレ」

 越前康継を手にしたエレンは瞳を輝かせた。

 「うぅ~ん、会いたかったデス。マイスイート康継っ。アリガトウ、まるまる」

 抱きつこうとしたエレンのほっぺを押さえて制しながら、

 「ひっ……ゴホン。分かった、分かったから落ち着け。――そんで他に用事は?」

 「ふぁりますフォ」

 

 

 野営テントの一角に、救護所がある。

 薬品の詰まった棚の辺りをエレンは金髪を靡かせながら、探る。

 「えーっと、あっ、ココにありマシタ」

 手にしたのは携帯端末だった。

 「なんだそれ?」

 携帯端末の画面に映し出されていたのは、親衛隊の制服に身を包んだ少女がおもむろに、ノロの入った円筒状の注射器を手に取り首筋に突き刺す。

 「……まじかよ、これ」

 百鬼丸は自分から進んでノロを受け入れる〝刀使〟を初めてみた。そういえば、あの糸見沙耶香の首筋から漂った妙な気配の正体も……。

 ――その時。

 背後に嫌な気配を感じ、百鬼丸はすぐに左腕を抜き放つ。

 銀閃が煌くと、赤黒い蝶が一刀両断されていた。

 「お前か、自分からノロを摂取したバカ野郎は」

 女装百鬼丸が問う。

 目前の、少女皐月夜見は乏しい表情から静かに、

 「紫様に仇なす者に容赦はしません」

 無機質に言い放つと、左腰から鍔をきった。

 

 



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23話

 「オーウ、大変なことになりましたネ」

 エレンが頬を引きつらせながら、笑う。

 完全同意しながら、

 「だな……こんなときは薫に教わった通りいくぞッ!」

 男らしい声で叫ぶ百鬼丸。

 

 「逃げるんだよぉおおおおおおおおお」

 盛大に叫ぶと百鬼丸は猛ダッシュする。噬臍(ぜいせい)する素振りも見せずに……。

 「まるまる、カッコ悪いデス」

 エレンは呆れながら、追いかけるように《迅移》を発動させてテントから外へ出た。

 夜見は逃亡者の背中を一瞥し、

 「はぁ……」

 躊躇なくふたりのあとを追跡した。

 

 

 2

 ……いつの頃だろうか? 私が本気で剣術を楽しめなくなったのは。

 ううん、厳密には現在(いま)でも楽しい。楽しくてたまらない。だけど、心の底ではいつも強い相手と闘えないもどかしさで物足りない感じがしていた。

 御前試合でもそうだった。――結局、姫和ちゃんとは決着がつけれなかったから、こうして一緒に逃げているんだ。

 自分の掌を見つめながら、また「夢」の中でスッキリとするしかないかなぁ、と落ち込んでしまう。そんな今が正直、息苦しい。

 

 「おい、どうした可奈美?」

 姫和ちゃんが、怪訝に眉をひそめる。

 長い間、私は考え込んだみたいだ。

 「ううん、なんでもないよ。それより百鬼丸さん上手くいったのかな? 結構可愛いし男だってバレないと思うけど」

 「知らん、あんな変態」

 姫和はそう言いながら、そっぽを向いた。

 「ねぇ、薫ちゃんはどう思う?」

 私より年上なのに小さくて可愛い先輩に尋ねた。

 「あ? 大丈夫だろ。あのバカエレンを連れ戻してこいってオレが命令したから大丈夫だ」

 そう言いながら、薫ちゃんは不敵な笑みを浮かべた。

 「――うん、そうだよね」

 「なんだ、可奈美。そんなに心配か?」

 「……うん、心配だよ」

 咄嗟に私は嘘をついた。本当に心配しているのは、百鬼丸さんと戦えなくなることだ。実はそれを先に心配してから自分の非情さに驚いてしまった。

 (でも、戦いたい……)

 胸の奥の辺りが燃えるみたいに、カッ、と熱くなるのが解る。

 偶然、百鬼丸さんの放った殺気の雰囲気に触れたときに、ワクワクしてしまった。それほど魅力的な強さだった。

 戦いたい……戦いたい……戦って……それで勝ちたい!

 拳を胸の前でぎゅっ、と握ると剣術の練習がしたくなる衝動を怺えることができた。

 

 ――ん? すごく遠くから声が聞こえる気がする。空耳かな?

 でも、なんだろう。この、なんとも言い難い絶叫は……

 

 「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 雄叫びを上げながら、コチラに走ってくる緑の制服。

 

 「えっ? ひ、百鬼丸さん!? それにエレンちゃんも!」

 エレンちゃんが《迅移》を使っているのは分かった。だけど、百鬼丸さんはふつーに、全力疾走しているだけだった。……

 

 「おい、すまん。敵に追われている!」

 女装した百鬼丸さんが後ろを指差す。

 

 凄い後ろから、親衛隊の刀使が《迅移》を使って追ってきていた。

 

 その時、ぞくっ、と私の全身を押し包む感覚がきた。

 この感覚の名前を私は知っている……「興奮」だ。親衛隊の人と戦った時もそうだったけど、ここ最近は本当に退屈しないで済む。

 「任せてっ」

 私は大きく返事をすると、《千鳥》の鍔を親指で弾き抜刀する。

 《写シ》を体に貼って正面に御刀を構えた。

 

 (あれが、薫ちゃんの言ってた親衛隊の三席――)

 赤黒い蝶の群れが、霧みたいに溢れていた。

 「可奈美、お前には二人を頼む。薫と私で足止めする」

 姫和ちゃんがそう言うと、《迅移》を使って蝶の霧の中に突進した。

 「――んじゃ、あのバカエレンにお灸をすえてやろうか」

 二メートル超えの祢々切丸を担いだ薫ちゃんも、すぐにあとを追った。

 「う、うん。分かった」

 返事はしたけど、本当は戦いたかった……仕方なく御刀を鞘に収める。

 「百鬼丸さん、エレンちゃん。こっちだよー」

 手を振る。

 

 

 「はぁ……はぁ、疲れたぞー」

 木の根元に腰掛けながら百鬼丸さんが息を喘がせて言った。

 「うーん、まるまるはなんで戦わなかったデスカ?」

 「当たり前だろ、皐月夜見はあのテント周辺でもお構いなしに荒魂を発生させようとしてたんだぞ……奴の目に躊躇がなかった。無関係な奴も殺す目だった」

 そのとき、遠くでパリィン、と硝子珠が砕けたような甲高い独特の音が響いた。

 「ふたりの写シが破られた音だよ! 助けに行かないと!」

 ――私は手の震えが来たのに驚いた。恐怖? ううん、違う。

 全身を流れる血液が沸騰しそうなほど熱いんだから。

 地面を蹴った私は、もう一度《写シ》を貼り、千鳥を掴む。心臓の鼓動が自然と高まるのを感じながら。

 

 

 ゆっくりとした足取りで、不気味なオーラを放つ人影。

 (あれが、親衛隊の皐月夜見、さん?)

 さらに距離を縮めると、赤黒い蝶がまるで触手のように周囲を固めていた。

 「こっちだよ」

 思わず叫ぶ。

 ノロを操った人影がこちらに意識を向けたみたいだ。

 「私が相手をする」

 八相の構えで、私は挑発する。

 運動靴の底を摺りながら、間合いを見極める。私が自分の得意な方法で勝つために……『後の先』をとる為に。

 

 「お覚悟を……」

 そう言いながら、私に向かって大量の赤黒い蝶が押し寄せてきた。目くらましを狙ったのだろうか? それにしては攻撃が単調すぎる。

 私は千鳥をしっかりと握ると、視認できる速度でまず蝶たちを切り捌きながら、相手の出方を窺う。

 わくわくする……純粋な剣術だけだと味わえないこの高揚感。

 と、瞬間。

 白い髪が正面から躍り出た。――しかも《写シ》なしの状態で。

 「くっ!」

 物凄い力の斬撃だった。私はそれを鍔で抑えるのが精一杯だった。

 「もっと……もっとノロを……」

 相手はそう呟きながら、生気のない瞳で私をみている。

 右目の辺りから、禍々しい角のようなものが生えていた。しかも、その角は真っ赤な目玉が素早くギョロリと動いていた。

 

 「斬れ可奈美! そいつはもう人間じゃないぞ!」

 

 姫和ちゃんがそう叫ぶ。

 

 ああ、そうか。あの時、姫和ちゃんが私に向かって聞いた「人を斬る覚悟があるのか?」っていう質問はこれのことだったんだ。

 

 ……でも。

 

 五感をさらに研ぎ澄ませて、私は千鳥を振るう。

 あの人の攻撃は重いけど、すごく単調でいなしやすい。それに、目隠しみたいに現れる赤黒い蝶も、パターンさえ認識すれば怖くはなかった。

 

 右、右、左……解る、全部解る。

 剣を握りながら、私は切先をガラ空きの胴体か喉元へと突き立てようとして――戸惑った。剣の速度が鈍った。覚悟が明らかに足りてなかった。

 無意識に足が後ろに引いていた。

 相手の刃は乱暴に千鳥の刃先を弾き、私の体ごと押し返した。

 「あっ」

 と、短く声をあげながら、足元から滑って倒れた。視界には、花曇りの空がみえた。

 

 3

 可奈美が、夜見との交戦中に転倒した。だが、転倒前までは完全に可奈美は圧倒していた。

 百鬼丸は目を眇めながら、

 「あいつには、そーゆーの、無理だからなぁ」

 とぼやいた。

 近くで聞いていたエレンは「まるまる?」と問たわしげな視線を投げかける。

 しかし、それを敢えて無視して百鬼丸は一目散に助けに駆け出した。

 

 (あいつらに、人殺しの後味の悪さなんか体験させたくねーよな)

 脳裏には《知性体》との対決が浮かんでいた。

 

 百鬼丸は平城学館の制服のまま、《迅移》を発動し、両腕に力をこめて肉鞘を抜く。

 まるで銀翼にも似た《無銘刀》たちは、曇り空から射し込むわずかな光を反射していた。

 

 ゆらり、と前屈みになった夜見は大の字に倒れた可奈美へ馬乗りになり、トドメを刺そうとしていた。

 

 「この大馬鹿野郎! ノロを入れすぎだッ!」

 百鬼丸は怒鳴りながら、素早く夜見の角部分を《無銘刀》で切り落とした。〇・六秒の出来事だった。

 

 長い黒の髪を翻しながら、百鬼丸は夜見に足払いをして地面に倒した。それから、足だけで組み伏せると、暫く息を整えた。

 「はぁ……はぁ……まじか、コイツ。あんだけノロを受け入れてるのに、自我を保ってやがるな……」

 驚愕に目を瞠る。

 夜見は荒魂の角を斬られた影響で意識を完全に失っていた。

 気道を確保しながら、百鬼丸は一安心という表情で組み技を解除した。

 「おい、可奈美……大丈夫か?」

 義手を拾いながら、後ろを振り返る。

 まだ大の字に倒れた可奈美は、しかし、〝笑って〟いた――。

 今まで、死線をくぐってきた百鬼丸も一瞬の間に彼女の異常性を察知した。

 (こいつ、いままで命の危険に晒されてたのに……なんつー顔してんだよ)

 「おい、可奈美大丈夫か?」

 「えっ? あ、ごめん。百鬼丸さん助けてくれてありがとう」

 静かな興奮から覚めたように、可奈美は普段通りの顔に戻っていた。……だが、明らかに可奈美は「死闘」に対し、憧れをもつようになっていた。

 しかし、その可奈美の顔近くに屈んだ百鬼丸は、彼女のおでこにデコピンを一発喰らわせた。

 「いてっ、ひどいよ百鬼丸さん!」

 涙目で訴えかける。

 「お前はよくも悪くも純粋だからな――強すぎるんだよ、強すぎる」

 可奈美に向かい、百鬼丸は苦笑いをした。

 

 

 3

 南伊豆沖。夕刻に空が染まる頃、巨大な水飛沫が上がった。

 シーウルフ級原子力潜水艦が日本の海上に姿を現した。すでに米国で退役した潜水艦だが、「なぜか」この伊豆半島沖合を航行していた。

 その潜水艦付近に停止した小型ボートがある。

 「えっ!?」

 可奈美と姫和は目を丸くした。

 「あのー、ホントですか、これ」

 百鬼丸も同様に驚いていた。

 約一〇七メートルの巨体が突然眼前に現れたのだ。驚かないはずがない。

 「だから言ったじゃないですカ~」

 嬉しそうに笑うエレンはまるで、サプライズが成功した子供のようだった。

 

 つい、数時間前。

 「これからどうする? すぐに他の親衛隊が駆けつけるぞ」

 黒くノロで濡らした地面を踏みながら、姫和は長船女学園の二人に問う。

 「問題ない。エレン」

 「はい、了解デス! タクシー一台至急手配願いマース」

 気楽な口調でエレンは携帯端末にむかって言った。

 「タクシー?」

 姫和は不信な目線で周囲をみた。森の奥にまでやってくるタクシーなどあるのか? いいや、そもそも舞草はどこに自分たちを連れて行こうというのだろうか?

 

 

 「なるほどな。そういう意味か」

 疑問が氷解した。

 そして半ば呆れたように姫和は呟いた。黒鉄に輝く体表は鯨を思わせる威容だった。潜水艦をみるのは初めてだったが、舞草の力というのは侮れないようだ、と内心納得していた。

 「「舞草の拠点までお客様ご案内~」」

 潜水艦に乗り込む際に、エレンと薫が声を揃えて歓迎してくれた。お友達を自宅の誕生会に迎えるノリだった。

 



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24話

一台のロールスロイスが東名高速道路を走行している。

 車窓は微かにひらいていた。

 ささやかな微雨の匂いを嗅ぎながら、ジョーは機嫌よく葉巻に火を点ける。

 「ステインくん。君は性善説と性悪説のどちらを支持するかね?」

 不機嫌に腕を組んだステインは重い瞼を上げ、「アア?」と恫喝する。浅い眠いりを妨げられた怒りだった。

 ハンドルを握る白銀髪の男に向かい、

 「知るかッ」

 と吐き捨てた。

 苦笑いで応じながらジョーは話を続ける。

 「ボクは、ね。人間は性善説でも性悪説でもないと思うんだ」

 「はァ?」

 「ボクは人間という巨大な現象だと考えている。それも、反復不可能なまでの現象だ。類似形式はあっても同一形式はない、オリジナルの現象だ」

 唐突なお喋りにステインは付き合ってられない、とばかりに腕を組み、足を車のフロントガラスの方向へ足を伸ばした。――しかし、それを無視しながら話を続ける。

 「悪というのはね、主観に過ぎないんだよ。善も悪も無い。もっと云えば客観なんて言葉すら嘘だと思っている。結局、主観と客観らしい主観しかないのかもしれないね」

 ステインは苛立ち紛れに、ジョーのシガーケースを奪い取り、葉巻を吸う。車内に紫煙が燻りながら、ジョーは陽気に喋る。

 「悪というのは必ず正義に退治される役割だがね。いいかい? 正義は単体では存在できない。なぜなら、悪がいて初めて成立するのさ。でも、悪は違う。それ単体で存在可能なのさ。だから、正義とは悪の寄生虫なのさ。いつも計画を練り行動するのは悪。そしてそれを阻害阻止するのは正義。この構造は父と子の関係だとは思わないかい? ……正義はオイディプスコンプレックスでも患っているようにすらみえるよ」

 ステインは大きな咳払いをすると、

 「もうお前の御託は聞き飽きた。それで、これから計画している内容について教えろッ!」

 怒鳴りつけた。

 ジョーは肩をすくめながら、座席の脇から資料をよこした。

 受け取ったステインは大きな封筒から資料と写真を眺めた。

 「――これは?」

 「それは今度の計画の重要な場所だ。我々《知性体》の聖地になるかもしれんぞ」

 意味ありげに嗤うジョーの横顔は純粋な〝悪〟の色が映っていた。

 

 

 体全体を震わす小刻みな振動。

「ん……?」

 夜見は沈殿した意識から覚めた。気だるい上半身を無理やり起こすと、右側頭が痛み手で額をおさえる。こんな痛みは久々かもしれない。

 「あっ、起きましたか?」

 装甲車の後部座席で膝枕をしていた双葉が少し困ったように笑いかける。

 「ここは?」夜見は苦痛を堪えながらきく。

 「えーっと、とりあえず野営本部に行く車の中です。夜見さんが持ってた携帯端末から位置情報を確認してから助けに行きました。……その、ノロを暴走させたってコトが露見するのはマズイので、わたしが事後処理をしたあと、運びました」

 夜見は自身の失態を悟り、かつ、その時の記憶が曖昧であった事実を認識した。内心の悔しさを覆い隠しながら、

 「ありがとうございます」

 静かにそう囁いた。

 普段無口な先輩がお礼を述べた。――双葉は面を食らったように頭を大きく振り、

 「い、いえ! あの、そんな……わたしにお礼とかいいですよ別に」

 慌てて手をふった。

 「……? ですが、こうして助けて頂いた訳ですし」

 「あの……それはそうなんですけど、でも――わたし、夜見さんに救われたっていうか……弱いわたしでも、居場所があるってことを教えてくれたから」

 索敵時に、暴走しかけた双葉を窘めた一件のことを言っているのだろう。そう夜見は領解して「――いいえ、あの時の言葉は事実です。貴女はよく頑張っていると思います」と言い添えた。

 なんの飾り気もない夜見の雰囲気を、双葉は好きだった。

 「あ、あはは。ありがとうございます」

 しかし、夜見は普段には見せない暗い翳りを横顔に湛えながら、

 「……もし、力があれば。生まれ持った才能や力があれば、と思うのはごく自然なことだと思います。たとえ、天才には適わなくても……足掻くことに意味はあるはずですから……」

 小さく微かに呟いた夜見の言葉は、確かな熱量と実感を帯びていた。それはまるで自分自身に言い聞かせるようにも思われた。

 座席に座りなおすと、ズキズキと痛む頭を我慢して夜見は居住まいを正す。

 双葉はそんな彼女を凝視しながら、苦く口元を綻ばせ反対の車窓に顔を向けた。

 「だから、多分、わたしはそんな夜見さんが好きなんです」

 夜見には聞き取れないほどの音で、確かに言った。

 

 3

 深海を航行する一個の潜水艦。

 名を「ノーチラス号」という。なんとも悪趣味であり、小説の海底二万海里の元ネタだったとしても、現状においてはむしろ「ピークォド号」の方が似合ってそうだ。

 百鬼丸は女装姿を解除するように着替えると、普段のズボンと黒いタンクトップ、本革のジャケットに戻った。

姫和に制服を返す際に洗濯しておいて正解だった。この潜水艦には洗濯機も完備されていて助かった。

そういえば、姫和も百鬼丸の服を返すときに洗濯しようとしたのを制して無理やり着替えたのだったが――

『お、おい! まだ洗濯してないから服を奪って着用するな!』

『ん? 大丈夫へーき、へーき。おれは気にしないから。……ん? なんつーか、やっぱおれの服から女の匂いが少しするかなぁ……ま、いいか』

襟を掴んで執拗にくんくんと鼻を動かす百鬼丸。

その様子を半ば唖然として眺めながら、突然火が付いたように、

『っっ、このバカ者! 変態、やっぱり返せ! 人の体臭を嗅いで喜ぶ変態との衣服交換なんてしなければよかった!』

と、散々喚き散らされた。

百鬼丸は慌てて取り繕うように、

『い、いや待て待て! おれはこの匂いが嫌いじゃないし……いいや、むしろ好きかもしれないな、うん』

紳士然とした口調で親指を立てる。

すると、耳元まで真っ赤にした姫和が、

『~~~~~この、大馬鹿者ッっっっ!!』

暫く百鬼丸は胸倉を掴まれ、ボコボコにされた。……それでも服を脱がなかったことから「匂いフェチ」の称号が与えられた。

 

 

 4

 ノーチラス号の細長く狭い通路を歩きながら、

 「それにしてもおっきなタクシーだね、」と可奈美が言った。

 隣りを歩く姫和の足が止まった。……人の気配が近い。

 前方から、

 「お会いできて光栄だよ、たった二人の反乱者」

 突然の声に「ん?」と可奈美も足を止める。

 「――まさに、今日という日は完璧だ!」

 通路の扉から現れたのは、西洋人の初老くらいの男性だった。白髪に、古紙のように幾つも刻まれた皺、柔和な目元。

 「もしかして……」

 「貴方がファインマンか?」

 姫和の問かえに対し、自慢げに鼻を鳴らす。

 「ファインマンとは世を忍ぶ仮の姿。……しかして、その実体は……」

 通路の後柱から姿を見せたエレンが、

 「リチャード・フリードマン」

 言葉を引き継ぐ。「S装備の生みの親で、ワタシのグランパで~ス」

 一瞬驚いた様子だったフリードマンは大仰に腕を広げ、

 「おお、ネタばらしとはひどいことをする、我が愛しの孫よぉー」

 孫娘と固く抱擁していた。

 

 この意味不明なまでのハイテンションに、二人を除く一同が「なんだ、これ」という顔をしながら暫くやり取りを眺めていた。

 

 

 



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25話

今回は説明回なので、嫌な方はスルー推奨です。


 S装備――約二〇年前に起こった相模湾岸大災厄以後に大きな開発のブレイクスルーを迎えることになった。この装備は従来の荒魂退治に対して防御手段が《写シ》のみであった現場での危険性を軽減させる兵器となった。

 その設計開発に携わった生みの親、リチャード・フリードマン。

 「それを、エレンちゃんのお爺ちゃんが?」

 S装備のパーツを眺めながら驚嘆する可奈美。

 爽やかに笑いながら、

 「……いいや、多くの技術者の力もあってのことだ」首を横に振る。

 目を横に流しながら、

 「それよりも、なぜ海外の研究者が舞草として行動をしているんだ?」

 素直な疑問を口にする。

 事実、反折神紫勢力として存在する舞草と一見なんの関わりもないように見える。

 しかし、フリードマンは、

 「無論、誰よりも折神家を近くで見ていたからだよ。太平洋戦争後、まもなく米軍と折神家でのノロの軍事転用によるS装備の共同開発が行われた。しかし、研究開発はすぐに暗礁に乗り上げた。……そんな時、あるブレイクスルーが起こった。今から二〇年前のことだよ」

 可奈美と姫和の顔が固まった。

 ――二〇年前、模湾岸大災厄以後にて折神家の当主となった紫は、反対勢力を排除して全国各地に祀られていた「ノロ」を折神家での一極集中する管理体制へと移行させた。

 それと時を同じくして、S装備開発現場での停滞していた技術は飛躍的な向上を迎えた。

 まもなく完成したのが、S装備である。

 フリードマン曰く、S装備とは現行、人類が到達するはずのない技術であった。

 「時期やタイミングからして、ノロの一極集中がもたらす技術の向上……偶然だと思うかい?」

 「まさか――」

 姫和は初めて告げられる事実に、暫く口が膠で固められたように動かなくなった。

 「それで、とある人物と舞草を指揮することになった」

 その言葉が気になったのか、可奈美が「とある人物?」と小首を傾げる。

 まだ、明かせないのだろか、フリードマンはそのまま話を進める。

 「――以降我々は折神紫に反抗の機会を窺っていた。そして姫和(キミ)の母にも助力を乞うていた。あの時の英雄の娘たちに出会えるとは、光栄だよ」

 話を終えたフリードマンは、いままで黙っていた少年に視線を向ける。

 「ま、娘さんたちは怪我もしているようだから、部屋に案内して手当でも……エレン、救護室の場所は解るね?」

 唐突に肩を叩かれたエレンは怪訝に眉を歪め、

 「……? どうしたんですカ、グランパ」

 「いいや、少しそこの少年――百鬼丸くんと言ったかな? お話をしよう」

 意味深な雰囲気を察したエレンは、可奈美と姫和、薫を連れて部屋を出た。

 

 暫く黙っていた百鬼丸は腕組みを解くと小さく細い溜息をこぼす。

 

 2

 「キミに関する大方の経歴はエレンに聞いてるよ。その無銘刀というのは十四年前にできたんだろう? それに、キミは《知性体》などを専門に狩る刀使……いいや、狩猟者なんだろう? ならば知っているね、《サマエル》と名乗る集団を。そして、レイリー・ブラッド・ジョーを」

 その名前を聞いた途端、百鬼丸の人相は変わり、地獄の底から舞い戻った責め苦の鬼の如き表情をしていた。

 「まあ、まあ、少しある男の話を聞いてくれ」

 

 フリードマンが語りだしたのは、まだ戦前の頃。

 激化する太平洋戦争中、ある大学院で研究していた一人の青年、ジョー・ベルグ・シュタインという研究者だった。

 彼はドイツ系ユダヤ人とアイルランド系移民を両親にもつ青年だった。

 当時、マンハッタン計画という「原子力爆弾」の研究開発を行っていた。最高の頭脳と潤沢な予算を背景に進めた計画だった。

 ジョー青年は、優秀な頭脳をかわれマンハッタン計画に参加した。原子核から「質量」そのものまで、およそ哲学的ともいえる内容の物理世界に対して、いかに効率よく「大量殺戮」を果たせるか、という回答を導き出すのを日々の仕事としていた。

 

 「普通、自分のつくった兵器を落とした敵国を歩きたいとは思わないだろ? ところが、ジョーは違った。彼は戦争が終わってから日本を訪れるようになった。もちろん、戦争の惨禍に興奮しながら、そしてノロという呪われた存在に魅了されていったんだ」

 

 フリードマンも、一介の研究者として仕事をすることになったのは、このS装備の頃からだったという。

 ノロの軍事転用は無論、米国本国からの強い指示だった。冷戦を見据えた、「より効率のいい兵器」開発を求められていた。

 「彼と仕事をして、分かったことがある。彼は天才だ。文句なしの。だが、欠点があった。それは――彼には倫理観が欠如していた。人体実験や生物実験は無論、ありとあらゆる残虐な行為を彼は是としていた。極端な進化主義者だった。そして、あのノロを大量にタンカーに乗せて本国へ持ち帰ろうと計画立案したのもジョーだった。彼があの大事件を引き起こした張本人だ!」

 フリードマンは拳を握り締めながら、唾を飛ばす。

 「……まさか」

 白髪にかかる数本を手で払いのけると、

 「そうだ。あの《サマエル》の首魁レイリー・ブラッド・ジョーは、ジョー・ベルグ・シュタインだ!」

 「奴はなぜ、捕まらない?」

 フリードマンは深く息を吐く。

 「彼は表向き死んだことになっている。あのタンカーの爆発で死んだ、と。だが事実は違う。荒魂と魂まで融合した、最悪の悪魔となったんだ! それに彼が今でも生きていれば、日米両政府には都合が悪い。だから責任を全て彼に押し付けて死んでもらうことにしたんだ」

 「……だが、待ってくれ。だったら、あの男が《知性体》を指揮する? 単なる荒魂だったら……いいや、そもそも、《知性体》自体はその大災厄から六年後だ。計算が合わない」

 「そうかい? 最初に荒魂を取り込み、あとから《知性体》と結合したと考えれば自然ではないだろうか? 彼が本来の人格かどうかなんて分からない。あくまで推測だが――」

 

 3

 「S装備の基本構造から設計をしたのはボクだよ」

 ジョーは鼻歌交じりにいう。

 ステインはすでに助手席で眠っている。しかし、それに構わず喋る。

 「あのタギツヒメに技術のことなんて解るかい? 答えはNOだ。だがこうして荒魂や《知性体》と結合して隠世の存在を確かめると、アイディアが沸いてきて勝手に開発が進んでいた。あのフリードマンという男は頭がいいから、すぐに人間でも扱いやすいように調整してくれるだろうと思っていた。彼は頭がいい……無論、ボクの次に、だがね」

 あははっはは、とバカ笑いをしながらクラシックを流す。

「まさに、人類に知恵の実を与えた蛇よろしく《サマエル》素晴らしいネーミングセンスだと思わないかい?」

 強くハンドルを握り、喜悦に満ちたジョー。

 ロールスロイスはそのまま、高速道路の夜闇の果に消えた。

 

 4

 「――まさか」

 百鬼丸は暫く俯き加減だった顔を上げた。

 「フリードマンさん。あんたは橋本善海を知っているか?」

 一瞬驚いたような顔をしたフリードマンは、しかし頷く。

 「ああ、彼もノロを利用した医学療法を模索した医師だね。分野は違うが知っているよ」

 「それが、おれの義父です」

 「なるほど、ね。……キミの体も?」

 「ええ、義父善海のおかげです。だから、《サマエル》とか名乗るゴミ野郎どもをぶっ潰すのが使命です」

 フリードマンは暫く百鬼丸を眺める。

 「もし、神がいるならキミはあまりに重たい十字架を背負っている。はっきり言おう。なぜ近年人に憑依した荒魂が出現しないか。それはキミ、百鬼丸が全部倒しているのだろう? S装備の討伐グラフでもここ数年は異常に低下している。それに比例して謎の討伐事例も上がってきた。これは誰かが意図的に行動しなければ起こらない。なぜ、キミはそんなことをする?」

 

 「決まってる。おれの体を取り戻すためだ……」

 「それはおかしい。だったら、《知性体》のみを討伐するのが筋だ。――本当はわかっているよ。他の刀使に罪悪感を背負わせない為だろう? 我が愛すべき孫娘のエレンもそうだが、人を殺した、という認識になるとPTSDにかかる。無論二〇年前の刀使にも多くいた。」

 百鬼丸は押し黙ったまま、バツが悪い顔で、

 「何か文句でもあるか!」

 と唐突に怒鳴った。

 フリードマンは深刻な顔をして、

 「ありがとう」

 深々と一礼をして、貪るようにして百鬼丸の左手に握手をした。

 「キミのおかげで多くの人びと、刀使が救われている。そして無論、エレンも。キミに多くを背負わせてしまっているが……」

 「勘違いするな! いいか、おれはおれの為に戦っているんだ! だからなんだっていうんだ……おれはずっと一人で戦ってきた……だから、おれは……」 

 自信なさげに、百鬼丸は臍をかんだ。

 「お礼をされる立場じゃない――なあ、フリードマンさん、この事実は黙っててくれないか? 他の連中には聞かれたくない」

 フリードマンはにこっ、と笑った。

 「その為にこの部屋から出したんだよ」

 



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26話

――折神家邸

 プライベートというより政治家や財界人などが多数出入りするため、公共的な場所といえるだろう。

 折神家親衛隊とは、即ち折神紫を直属で護衛するのが主目的である。が、最強と名高い刀使の紫自身に護衛が必要という訳もなく、内実は雑務や紫の仕事の補佐が主である。

 

 夜に煌々と輝くシャンデリア。

 「キミには、今後後方での勤務を命じる」

 親衛隊第一席、獅童真希はそう冷ややかに告げた。

  どこかヴィクトリア調を思わせる室内の椅子、長机などの家具類。華麗さの中に実務性を有した執務室。親衛隊の席所有者にのみ与えられた一室である。

 椅子に腰掛け、机に両肘をついて指を組む真希。

 その執務机を前に佇む橋本双葉は反射的に、

 「な、なんでですか? 今回はお役に立てるように索敵から偽装工作も行いましたし、何か間違いでも――」

 「ええ、貴方は命令を守れなかった。ご自身で理解しているでしょう?」 

 真希の傍でワインレッドの髪先を弄ぶ此花寿々花は、つまらなそうに視線を投げかけて、追い打ちをかける。

 「我々が命じたのは、夜見と共に索敵。貴方が交戦する、そんな命令を出した覚えはありませんわ。それに緊急時は必ず近くにいる親衛隊の者に連絡。それも満足にできていない貴方には、甘すぎる処分だと思いますけど?」

 呆れとも叱責ともつかない口調。

 「……っ、で、ですが」

 真希の目が光った。

 「言い訳かい? 確かに、キミの義兄……百鬼丸と言ったかな? 色々あるのはわかる。だが、組織の中で行動する以上、身勝手な行動は他人を巻き込む。分かったか。話は以上だ」

 静かな声音で、秘めた怒りを多分に含んでいた。

 「はい……」

 下唇を強く噛んで頷く双葉。

(きっと、この人たちはわたしが弱いのを疎んじているんだ。……本当はわたしだって、強くなりたいのに……)

 悔しくて、悔しくてたまらない。もし、自分を切り刻めるんだったらそうしたい。湧いてくる様々な後悔。

 手慰みに御刀の柄を触りながら、

 「失礼しました」

 頭を下げて足早に退室した。

 

 その逃げるように走り去る哀れな双葉を見送る二人は同時に溜息をついた。

 「寿々花には嫌な役割を押し付けたね」

 真希はちらり、と隣りの寿々花に視線をやる。

 寿々花は肩をすくめながら苦笑いで応じる。

 「――いいえ、こういう役割は真希さんには似合わないでしょう? でも、双葉さんには少し言いすぎた、と思ってしまいますわね」

 「そうだな。彼女も今は力が足りない、そう自覚的だからこそ貪欲に責務をこなしている。決して無能ではない。だから、紫様も親衛隊への入隊を許可した。――だが、あの百鬼丸という男のことになると、歯止めがきかないみたいだ」

 「あら? そういえば、真希さんも一度お会いしたのではなくて?」

 苦虫を噛んだような顔で、

 「そうだ。あの男には不意打ちだが、一度敗れている。でも分かる。奴は強い」

 他人を素直に賞賛する真希――そんな珍しい光景を目の当たりにした寿々花は目を見張り、「くふっ」と吹き出した。

 「な、なにかおかしいか?」

 「いいえ。ただ、真希さんはお優しいんですのね」

 「どういう意味だ? 寿々花?」

 すっ、と目を細めて髪先を手放す。

 「今度の舞草殲滅作戦では必ず百鬼丸と対峙することになるでしょう? 兄妹での対決を回避させる心配りを忘れないお優しいお方ですのね」

 真希は椅子に身を預けて、溜息を漏らす。

 「キミは随分皮肉がうまいんだな。別にそんなつもりじゃない」

 「あら、そう――」

 物思いに耽るように、寿々花は少し俯いた。

 

 

 

 (わたしが弱いからいけなんだ……弱いから誰からも必要とされないんだ――もっと、もっと強くならないと……早く強くならいと……)

 ノロがほしい、もっと打たないと……。

 今にも泣き出しそうな熱い目頭を我慢しながら、双葉は分厚い赤絨毯の上を足早に歩く。自身の失敗と、能力不足。たった二つのことすら克服できない。握る拳が痛いくらいに力がこもる。

 と、長い廊下の向こうから人の気配がする。

 双葉は頭を上げると、燭台に似た灯りが廊下の両側に配され、その光の輪が滲む。尚も凝視すると、薄闇の奥から皐月夜見と燕結芽が並んで歩いてきていた。一方的に喋る結芽に黙って相槌をうつ夜見。

 思わず、

 「夜見さん」

 と言いながら歩く速度をあげて夜見に飛び込むように抱きついた。

 「……? どうかされましたか?」

 突然の出来事に理解できないようで、夜見は表情を変えず、しかし声を潜めてきいた。

 「あの……わたし……ひっく……ごめんなさい」

 呂律がうまく回らず、自然と嗚咽を漏らしていた。こんな筈ではなかった、と恥じれば恥じるほどに、涙は止めどなく溢れて、夜見の胸元を濡らす。

 「落ち着いて下さい」

 宥めながら、双葉の肩に手を回そうとした双葉を、憎々しげに目を眇めた結芽。抱きついた双葉の体を強引に押して夜見から引き剥がすと、その侭御刀を抜き切先を喉に突きつける。

 「ねぇ、私の夜見おねーさんを取らないでくれる?」

 壁際に追い詰めながら、結芽が吐き捨てる。まるで玩具を取られた幼児のように純粋な怒りだった。

 「あっ……ご、ごめんなさい」

 袖で鼻水と涙を拭う様子が、かつての自身と重なった結芽。彼女の心中に、まるでかつての自分に対する怨嗟でも吐くように、

 「ねぇ、知ってる? 弱いと誰も助けてくれないんだよ? 双葉ちゃんも弱いから真希おねーさんとかに怒られたんじゃないの? 弱いと誰からもいらないって、言われるんだよ?」

 嫌味っぽい口調だったが、明らかにその言葉を吐き出しながら、結芽自身も傷ついていた。

 「燕さん」

 結芽の左肩を強く掴む夜見。

 「夜見おねーさん?」

 いつもと同じ無表情の中に、潜む強い憤りの色。それは付き合いの長い結芽には分かった。大人しく御刀を収めた結芽。

 そんな二人をしゃくりを上げながら、交互に眺めた双葉は、

 「あ、あの失礼しました……」

 足早に駆け去った。

 

 そんな小さい背中を眺める夜見に、結芽が抱きつく。

 「なぜ、あんなひどい言葉を言ったのですか?」

 目を下げて嗜める。

 撫子色の髪が胸元に埋まりながら、拗ねた声で、

 「だって、双葉ちゃんはこの先も、皆と過ごす時間があるもん――私には今しかないの。夜見おねーさんとも、真希おねーさんとも、寿々花おねーさんとも、紫様とも今しか一緒にいれないんだもん」

 その言葉はどこまでも、悲しく響いていた。

 夜見は静かに小さな頭を撫でた。

 

「次に会った時には謝るべきです」

「…………うん」

 潤んだ瞳を瞬き悲しみを堪えると、顔を上げた結芽は不服なのだろうかぷくーっ、とほっぺたを膨らましていたが、小さく頷いた。

 

 

 

 



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27話

 上弦の月はやせ細りはしているが、なお残影を留めている。

 浮揚した潜水艦は、うら寂しい港の沖合に姿を現した。

 夜明け前、まだ人びとが眠りにつく頃。漁船さえ影形もない。――舞草の有する港であることはひと握りの人間しかいない。今日は特別、海上に濃霧が蟠る。

 潜水艦の出入り口ハッチが重厚な音を奏でて開く。

 「うぅ~ん、よく眠れマシタ~~」

 甲板に出た。

 金髪の華麗な線を靡かせながら、エレンは長い自慢の手足を惜しげもなく伸ばす。

 海は凪いでいるが、潮の香りは濃密にする。

 「へいへい、そーですか」

 顔面をボコボコにされた百鬼丸はその後を、恨めしそうな顔つきで出てくる。

 「あははハ……」

 苦笑いしながら、エレンは頬をかるく掻く。

 

 

 つい、数時間前。フリードマンと会話の終えた百鬼丸は救護所に向かい、その扉を叩いた。

 「おーい、入るぞー」

 ガチャン、と音をたて分厚い扉を開けた。

 「……んなっ」

 百鬼丸は扉前で固まった。

 「あっ、まるまる! グランパとのお話は終わりましたカ?」

 エレンがあぐらをかきながら、大きく手を振る。……それ自体は大した問題ではない。問題は、制服のシャツの下が何も纏っていない点だった。厳密には、豊満な胸を包帯で巻いてはいるものの、より危ない感じのする印象を受けた。

 「えーっと、あああ、そ、そうだな。手当してたんだったな……」

 踵を返して帰ろうとした百鬼丸。

 と、

 「百鬼丸さんも怪我とかはしてないの?」可奈美が背後から声をかける。

 その方向に振り返る。可奈美は右足のニーソックスを脱ぎ、脛の辺りを姫和が包帯で巻いているところだった。

 よく引き締まった太腿は、筋肉質だが白い柔肌で一見厳しい印象を受けない。しかし、足裏などをみると、生々しいマメやタコの潰れて消えたあとの皮膚が変色している。

 余程の剣術鍛錬に時間を裂かなければこうはならない。

 

 何よりも、剣士は下半身が重要である。見事な太刀捌きは、下半身の支えがなければ発揮されないのである。まだ少女、という年頃の可奈美は一体どれほどの研鑽を積んできたのだろうか?

 百鬼丸はふと、そう思った。

 「おい、先程からなぜ可奈美の足をジロジロいやらしい目でみている? 変態」

 姫和が怖い顔で百鬼丸を睨めつける。

 「えっ、ああ、すごく(剣術に特化した)いい足だと思って、惚れ惚れとしていたところだ」

 素直な感想を述べる。

 「えっ!?」

 「なっ!?」

 同時に驚愕する可奈美と姫和。

 それを面白げにニヤつく薫。

 「えぇ~っと、ありがとう?」

 足を褒められた可奈美は複雑な顔だった。一方姫和はしばらく、口をパクパクとさせて、「貴様は匂いフェチだけでなく足フェチも……そこまでの変態だったとは」と呟いた。

 

 「――ん? おれは変なことを言ったのか、チビ助?」

 薫に目線をやると、

 「おい、チビ助いうな、変態野郎。まぁ、それより聞いてくれ。そこのエターナルぺったん女がオレのペットのねねを虐めるんだ」

 がばっ、と立ち上がった姫和は、

 「おい、誰が虐めているだと?」

 額に青筋を浮かべていた。

 「お前だ、貧乳。なぁ、ねね」

 話題を振られたねねは「ねね?」と首を傾げる仕草をした。

 「貴様っ、いい加減に……」

 憤る姫和をなだめようと、

 「まぁまぁ、包帯の件はワタシが使いすぎたのがいけなんですカラ」

 ぼよん、と包帯から溢れんばかりの乳を揺らしてエレンが擁護する。瑞々しい張りのある肌に、凶暴なまでの乳の揺れ。

 薫と姫和にはないものだった……。

 

 悲しきかな、貧乳は人にあらず、南無三。

 

 貧乳シスターズは二人揃って「ぐぬぬ」と迫真の顔つきで巨大な胸を食い入るように、しかし仇のように睨みつけていた。

 

 「まぁ、まぁ、落ち着け」

 百鬼丸が言いながら、毛糸のように包帯で絡まったねねを地面から拾って助けてやる。

 ねねの絡まった包帯はエレンの胸包帯に繋がっていた。

 ……と。

 「わーオ」

 エレンに巻かれていた包帯がまるで、林檎の皮むきのようにするする解けていった。しまいには、包帯は解けて、シャツの下は裸になってしまった。シャツには乳頭の形のいい輪郭がうっすらと、確認できた。

 エレン本人は単に驚いた様子だった。

 「……え、これはおれの責任か?」

 このあとの展開を予想しながら、冷静に現状を分析する百鬼丸。

 「貴様という奴はつくづく……」

 「なぁ、ねね。その変態野郎から離れてろ」

 百鬼丸は逃げ出した! 自由のため、未来のため、無実の罪から逃れるため! ……しかし、逃げきれなかった。

 ――このあと、無茶苦茶折檻された。

 

 

 2

 小型ボートに乗り換え岸に上陸する。その後、更に山々の辛なる奥地へと車で移動した。ここが一体どこなのか、それすら分からない。

 

 舞草の拠点。

 

 そう告げられた時、周囲を改めて見返した。

 「単なる鄙びた田舎じゃないか」

 と、百鬼丸はいった。

 事実、舞草という秘密組織が拠点とするには余にのどかな山村だった。

 「皆様ご到着されたようですね」

 三〇代前半の女性の淑やかな声が聞こえた。

 百鬼丸は身構えて、相手に向かい合う。

 「アンタ、誰だ……?」

 警戒した色を察知したのだろうか、相手は苦笑しながら、「あなた方の敵ではありませんよ」といった。

 「名前は?」

 「……折神朱音、そう申し上げると?」

 試すように百鬼丸を見つめる朱音。

 

 ひぅーーーーーー、と息を吐いて吸い込む。相手の思考の残滓を辿る。

 一瞬の閃きの後。

 「そうか」

 構えを解いて肩を落とし自然体となった。

 「ま、敵じゃないのは確かだ。姫和も構えを解け」

 すぐ斜め後ろで《小烏丸》を構えていた姫和を、百鬼丸が制した。

 



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28話

 真っ赤な絨毯のような布に、曼荼羅絵が描かれている――。これが制作された時代は今から約四〇〇年前。

 初代百鬼丸の頃のものだという。

 宗教的、というには余に生々しい絵だった。

 他にも、地獄を描いた図画などが数多く庫裏の中に蒐集されていた。

 明治期以前、まだ神仏が混淆して祀られていた時代。

 

 人類は古来より、生贄を必要としてきた。

 西洋東洋を問わず、人身御供には若き乙女が供されてきた。

 ……また、刀の製造においても、人間を炉の中へ投げ込む儀式も存在していた。実際に人体に含まれるリンなどの化合物が、刀の精度を上げるのに欠かせなかったと言われている。しかし、それは科学的実証ではなくあくまで「経験」から得られた知識だという。

 人間が仮に、犠牲なく文明を構築することができるか? と問われればまず無理だと応える他ない。

 

 刀使とは、要するに「少女」という無垢故に生贄として供されてきた存在と、その生贄を糧にして生成された「刀」の邂逅といえる。

 

 

 1

 舞草の拠点となる村で、しばらく休息をとることにした。夕刻には舞衣と沙耶香も合流するという。

 それまで空いた時間で、百鬼丸は初代百鬼丸の手がかりを探していた。舞草は歴史的な文化遺産も保護しているのだという。

 昔、一度だけ森を彷徨っていたころにであった琵琶法師に、おれとまったく同じ境遇の漢の話を聞いたことがある。だが、余にも荒唐無稽な話でそのときは信じることができなかった。

 折神朱音からこの保管庫である庫裏に入る許可を得ていた。

 ……なんでも、ここに所蔵されている四割は折神家の所有品だという。しかし、現在は鎌倉の邸では紫が全てを仕切っているために「何らかの理由」で、この舞草の隠れ里に避難させたのだとか。まぁ、おれには関係ないが。

 

 埃っぽい空気の中、軋む床板の音だけが響く。

 書棚には、古文書らしい紙の束が積まれていた。おれは、四〇〇年前の出来事を記録した刀使に関する書物から、歴史的人物の希少な証言記録などをどかして、和紙が綴られた一つの束を手に取る。直感で解る。これは、初代百鬼丸についての書物であることを。

 達筆な文字で記された内容を無論、おれは読めない。だが、『心眼』を利用することで執筆者の思いを理解することは可能だ。

 神経を集中させ、おれは紙束を額に当てる。

 

 百鬼丸は考えていた。

 ずっと、昔から己の存在意義を。

 

 仏教における、六道には「修羅道」というものがある。ここでは、阿修羅が住まい、己を戦いの渦中に投じ続ける場所だという。その戦いの苦しみは自らに起因する。

 

 盲目の琵琶法師にこの話を聞いたとき、百鬼丸はまさに自分自身のことだと思った。だが、その苦しみとなる戦いとは――なんの意義があるのだろうか?

 

 この書物を読めば解るのだろうか?

 

 

 2

 長いこと眠っていた影響だろうか? 全身が気だるい。よくよく考えれば、昨夜からまともに休息をとっていなかった。

 柳瀬舞衣は、隣りで穏やかな寝息をたてる糸見沙耶香を一瞥して、安堵の笑みを浮かべる。鎌府学長高津雪那から逃れてきた沙耶香は、舞衣に助けを求めた。

 しかし、親衛隊の第四席燕結芽の襲撃を受け――辛くも難を脱した。

 美濃関の羽島学長の支援で舞草の拠点へと向かう車中でぐっすり眠っていたようだ。

 微睡む目で、車窓の無限をみる。見知らぬ山道の曲がりくねった道をひたすら進む。

 

 

 それからほどなくして、車は停車した。

 「お嬢様、到着致しました」

 長年柳瀬家に仕えた年配の執事が声をかける。

 「ええ、ありがとう」と礼を言いながら、軽く沙耶香の肩を揺らす。

 「――ん? 舞衣?」

 しょぼしょぼとさせた目で、沙耶香は頭を斜めに擡げたままいう。

 「ふふっ、着いたよ沙耶香ちゃん」

 色素の薄い髪を撫でながら、耳元で優しく囁く。

 「うん」小さく頷きながら沙耶香は、舞衣の豊かに発育した胸元に顔を埋めてから目覚める。柔らかな双丘から返ってくる優しい弾性が、枕のような作用を果たすようだった。

 「もう……」

 困ったように眉根をひそめ、翡翠色の瞳を目下にやる。だが、沙耶香のあどけない顔をみると咎める気も失せた。

 

 

 車の外に出ると、新鮮で澄んだ空気が鼻から肺を満たす。

 巨龍が伏せたように隆起した形状の山々に陽が落ちかかっている。

 夕日を浴びながら克明な陰影を刻む雑木林の梢。空には真鍮色の巨大な雲にも茜に滲んでいる。

 微風が枝を揺らし葉音を奏でた。

 「舞衣ちゃーん!」

 山の遊歩道の奥から懐かしい、弾んで陽気な声が飛んでくる。

 「可奈美ちゃん」

 甘栗色の髪が勢いよく駆け寄って胸に飛び込んでくる。

 鼻腔に広がるのは懐かしい匂いだった。腕や肩の部分部分は筋肉が発達しているのに、それ以外は華奢で抱きしめると女の子らしい柔らかさを感じられる。本当に懐かしい感覚だ、と舞衣は思った。

 

 「ねぇ舞衣ちゃん! 私舞衣ちゃんに話したいことたくさんあるんだよ!」

 息も切らさず、上機嫌で顔をくしゃくしゃにして拳をぶんぶんと上下に動かす可奈美。

 まるで子犬のように愛らしい。

 「うん。私も可奈美ちゃんに話したいことがあるんだよ」

 ふと、可奈美は傍の沙耶香に気がついた。

 「沙耶香ちゃんも一緒なんだ!」

 荒々しい握手で沙耶香は困惑した様子だった。

 遊歩道からさらに気配が感じられた。

 「よぉ、遅かったな」

 薫とエレン、そして姫和がやってきた。

 「十条さん……」

 まさかこのタイミングで再会するとは両者とも思わなかった。

 しかし、その姫和は周囲をキョロキョロ見回しながら、

 「あのド外道変態はどこだ?」

 薫が振り返り、

 「あ? あの変態ド腐れ野郎か? さぁ、姿を見てないな」

 沙耶香の手を離した可奈美が、

 「あれ? そういえば百鬼丸さん居ないね」

 

 (えぇ……今の罵倒で誰のことか解るの可奈美ちゃん)

 笑顔が引き攣る舞衣。

 

 すると、遊歩道の奥から車が一台やってきて停車した。

 車窓をぐーっと、運転席から下げて、

 「おいお前ら! おれの悪口を散々言いやがって……」

 百鬼丸は悔しげに顔を顰める。

 と、その車の助手席からすらり、と人影が降りる。

 「ようこそ舞草へ。若い刀使たち」

 折神朱音がそう告げた。

 

 

 

 3

 書物を読み終わるころには、時間が大分たっていた。

「お時間よろしいでしょうか?」

 戸口に立つ折神朱音は、しずかにそう言った。

 驚いた百鬼丸は、

「折神さん、あんたたちは……」うろたえた。

 その様子がおかしかったのか、

「ふふっ、そこまで他人行儀でなくても結構ですよ。気安く朱音、と呼んでください」

百鬼丸は年上の女性にそう言われ「はぁ……」と曖昧に頷いて気恥ずかしさを隠した。

「ごほん。えーっと、その二〇年前の事件の前線にいたんだろう?」

 朱音は真面目な顔つきで「ええ、あの時確かに相模湾岸での大厄災の前線にいました」と語る。

 

 

「あの時、確かに荒魂を討伐した刀使は英雄といえるでしょう。ですが、まだ若い乙女たちの遺体が担架で運ばれてゆく光景が今でも忘れることはできません。勿論、知り合いも何人か亡くしていますが、あの時、あの場で刀使であるという覚悟を持って戦いに挑む、そんな現実が肌身で恐ろしいと思いました」

 

 相模湾岸大厄災、この事件は荒魂を討伐しえる唯一の存在、刀使が数多く投入された。結果として多くの犠牲を払いながら事態の沈静化に成功した。

 

 「…………おれは、この肉体と力がどうしておれ自身に宿ったのか、そればかり考えていた」

 朱音は事前にフリードマンから知らされていた百鬼丸の簡単な経歴を知っていた。

 「ええ、貴方も随分苦労されたのですね」

 「してない! おれは、おれの目的の為に生きている。だから、関係はない」

 なんと、頑固な少年だろう。朱音はそう思った。それと同時に彼は人に同情されるのをひどく嫌っているようにみえた。――全てを自分の中で抱え、ひたすら自分を傷つけながら進む姿を想像した。

 

 「貴方を舞草に迎えたのは、正直な話をしますと〝百鬼丸さんの力〟に頼りたくてお連れしました」

 それは嘘ではない。最初から打算の部分を打ち明けなければ公平ではないと思っていたからだ。

 

 「――ああ、それでいい。あんた達に利用されるならおれはいくらでも力を貸す。おれは、闘うしか能のないんでね」

 強気な口調とは裏腹に、表情はどこか頼りなく一抹の寂しさがあった。

 

 「そんなことはありません! あなたはご自分を削りながら人型の荒魂討伐にご尽力されているではなんですか? なぜ、そのようにご自分を卑下されるの――」

 

 「うるさいッ! なんであんたがそのコトを知っている?」

 

 「……舞草の責任者として、不可解な討伐数は把握しています」

 

 「チッ、そうですか。――いいや、すいません。このことは黙ってて下さい」

 

 「ええ、フリードマン教授からもそう聞いています」

 

 「でも、これだけは覚えておいて下さい。今の貴方は一人ではない……その事を」

 

 しばらく黙った百鬼丸だったが、

 「――いいや、おれはずっと一人でいい。おれの近くにいられると邪魔くさい」

 見るからに嘘だった。

 地獄に続く道を、たった一人で歩く覚悟をした少年の目には、悲愴なまでの強い覚悟があった。

 

  その場を立ち去ろうとした百鬼丸の背中に、朱音は思わず、

 「刀使を――願わくば、もう二度とあの時のような事が起こらないように……刀使を守って下さい」

 情けない大人の一言だった。権力や名声がどれほど高まっても、もう子供達を守ってやれない。だから、あんなにも傷ついている少年に刀使たちの生命を守れ、と言っているのだ。朱音は己の非力さに嫌気がさした。

 

 ――だが、少年は振り返る。

 「……はいはい、りょーかい」

 気だるげな声だったが、振り返った眼差しだけは闘志の滾る漢の顔つきだった。

 

 もし、二〇年前にこの百鬼丸がいたならもっと刀使の命は救われたのだろうか? ふと、そんな仮定をしてしまう。それほどに現在の百鬼丸は魅力的な漢に映った。

 

 

 と、唐突に足をとめた百鬼丸は、

 「…………そろそろ、到着する二人を迎えにいく時間みたいだが、一緒にいきますか?」

 気恥ずかしそうにそう呟く。

 なぜ、彼がそんな提案をしたのか――それは分からないが、恐らく彼なりの気遣いかもしれない。一瞬呆気に取られた朱音は、

 「ええ、ではご一緒させて下さい」

 強く頷いた。

 だが朱音は同時に、気恥ずかしさに口をもにょもにょと動かす年相応の横顔の百鬼丸に安堵も感じた。

 



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29話

アニメ8話をなぞった説明回なので、めんどいと思われる方はスルー推奨です。


 1

 二〇時を回ったところで、村の集会所にくるよう伝えられていた。

 六人と百鬼丸は点在する石灯籠の灯りを頼りに夜の畦道を歩く。

 「ふぅ~、久々にイワナを食えた」

 百鬼丸は満足そうに食事で出されたものを喜んだ。元来、山奥で生きてきた彼にとって山の幸は馴染み深いのだろう。

 

 「そうか? 田舎の料理はほとんど鍋にしちまうからな。オレはまだジャンクフードの方が好きだけどな」

 

 薫が頭の後ろに手を回しながら反駁する。

 百鬼丸は「はぁ~」と目線を下に、憐れむように溜息をつく。

 

 「いいか、今回出されたイワナはな、天然ものだ! 養殖と天然ではイワナの口先に違いが出る! まず、尖っているのが天然もの。丸いのが養殖。しかも、天然には牙みたいにギザギザの歯がみえる。身が引き締まっていて、およそ川魚とは思えないほどの旨みが凝縮されてるんだ! みょうがやすだちを添える場合もあるが、天然ものは塩だけで十分だ。いいか、イワナは雑食だがほぼ肉食にも近い。それなのに、臭みが全然ない! だが、川釣りではまず、希少で釣ることすらできない。なぜなら、人の足音が地面に伝、水面に波紋を広げる。その水面の揺らぎだけで逃げ去る。だから釣り場にきても、イワナの姿は見えない。……あと、日本昔ばなし風に根流しすっぺ、なんてやるなよ? 根流しの根は人体に害はないが、イワナのいた川の汚染をして生態系が狂うからな? あと、イワナと一緒に出てきた山菜の天ぷらも最高だったな。わらびに、ぜんまい……この季節柄だとタラの芽も最高だな! 炊き込みご飯にしてもよし、まさに山菜は万能だ! だが、あまり山奥で取りすぎるなよ? クマとか猪のテリトリーを犯したと判断されて、攻撃を受ける。なにより、奴らの貴重な糧を奪うな。あくまで少し分けて頂く、という精神が必要だ」

 

 饒舌に山の食材について語る百鬼丸。

 薫はドン引きで「お、おう。そうだな」と返事をするより他なかった。

 そして薫は何となく、百鬼丸にこの話題をふらないようにしよう、という決意をさせた。

 

 

 村の集会所、畳の大きな部屋にはフリードマンと折神朱音が待っていた。

 「やぁ、皆待っていたよ」

 フリードマンは気安く手を振って笑いかける。

 「今日、君たちには二〇年前の真相を語ろうと思う」

 隣りに正座した朱音はおもむろに口を開く。

 あの時、あの場所で何が起こったかを……。

 

 2

 教科書で教わる「相模湾岸大厄災」とは、現在の折神紫と伍箇伝の学長五名による大荒玉の討伐――そう記されている。世間一般でも共通の認識だった。が、事実は大きく異となる。

 「あれからもう二〇年の歳月が流れたのですね」

 しみじみ、というよりは苦いものでも吐露するように朱音はいう。

 と、突然襖が開いた。

 「あっという間、だったな」

 スカートスーツの上から山吹色のどてらを羽織る理知的な女性が言葉を引き継いだ。一見敏腕女弁護士か、大企業の幹部、と言われても遜色のないほどの雰囲気があった。

 

 「紗南センセー!」

 ぴょこん、とエレンが反応した。

 長船女学園の学長、真庭紗南。無論彼女もあの事件に参加した刀使の一人である。

 「あの日のことは昨日のことのように思い出せる」

 遠い目をしながら呟いた。

 紗南に目配せして、ですが――と、朱音は一旦言葉を区切る。

「ですが、大荒魂討伐から名前を抹消された二名の刀使がいました……柊篝と、藤原美奈都。つまり、十条さんと衛藤さんのお母様方です」

 

 「なっ!?」

 姫和は瞠目した。

 (藤原美奈都が可奈美の母だと!?)

 思わず声を荒らげて、

 「なぜ言わない!」可奈美を問いただした。

 

 少しむっ、とした様子で可奈美は、

 「だって、聞かれなかったし……それに、藤原は旧姓で、今は衛藤美奈都だし……」

 抗弁した。

 

 呆れながら薫が、

 「自分の母親のことだろうが。大体、刀使だったころについて何も聞かなかったのか?」

 

 可奈美は一瞬考え込んだが、「だって、お母さんとそういう話したことなかったんだもん」と困惑ともつかぬ口調で自信なさげにいう。

 「――でも、そっか。お母さんが」

 母が大勢の人を救った、その事実が知れただけでも可奈美には嬉しかった。幼いころに触れ合った強くて優しい母の像と実像が一致した気がした。

 

 舞衣が、「あれ? 可奈美ちゃんの剣の最初の師匠って……」

 

 「うん。そうだよ。お母さんだったんだ。ちっちゃい頃から毎日しごかれてた」

 懐かしそうに言い添える。

 

 そして、本当の英雄――あの時、命を文字通り削って役割を果たした篝と美奈都に対し、何も報いることのできなかった、と悔いる紗南。

 

 現状、二〇年前の大荒魂より力を増している。可奈美が御前試合のとき目撃したのは折神紫に憑依した、そのときの大荒魂。名を『タギツヒメ』

 江ノ島から消えた巨大な荒魂は、完全には消えず、タギツヒメは奥津宮に隠れた。しかし、その事実は折神紫により隠蔽された。

 

 その後、伍箇伝の学長に就任した「元英雄」たち。しかし、そこに二人の名前はなかった。その頃には篝も美奈都も家庭をもち、子をなしていた。

 

 折神紫は、刀剣類管理局と特別祭祀機動隊の統制と強化を図った。さらにそこから、新技術の発達がめざましく、現在に続く礎となった。

 

 それからほどなくして、美奈都が亡くなり、篝に連絡をしたとき、違和感を覚えた。電話口で篝が悔恨し美奈都に赦しを乞うていた。なぜ、そんなにも悲痛な様子になってしまったのか?

 朱音はひとり、書庫から折神家に伝わる内容を紐解いた。

 

 それによると、篝の命と引き換えに荒魂を隠世に引きずり込むという方法。

 

 この方法は現実的だったのだろうか?

 刀使とは、『写シ』などを御刀から隠世の層から力を引き出している。迅移とは、その隠世の層の異なる時間を移動して加速し行う技である。深層にゆけばゆくほどに加速する。

 

 だが、加速も無制限ではない。限界値まで加速すれば、隠世の深淵にたどり着く。すると一瞬が永遠となり、時間の概念が溶ける。

 

 時間とは不可逆であり、一定の方向にしか流れない。しかし時間がなくなれば当然外界全ての現象から切り離される。二度と人の世に戻ることはない。

 

 この技を行える人間はひと握り……篝のみが行えた。

 

 篝は、しかし無事にあの時の事件から生還をしている。

 それは美奈都がギリギリのところで引き止めたのだった。

 

 ……では、疑問が残る。現在の折神紫自体は誰か? 結論は簡単だった。その討伐された筈の荒魂「タギツヒメ」である、と。

 

 つまり、人に巣食う荒魂は、人の器を持った化物である。

 

 フリードマンが、

 「その協力者が《サマエル》のレイリー・ブラッド・ジョーだろうね。二〇年間動けない間に、彼はタギツヒメの協力者として裏工作や、その六年後に発生した《知性体》を統率し、組織化した。彼の目的は分からない。だが、ロクでもないことを考えているのは確かだろうね。厄介なことに、現在の彼は隠世の深淵を覗いたとしか思えない。でないと、S装備を始め、あの技術群の数々は生み出せないだろうからね」

 

 今まで黙っていた百鬼丸は、

 「厄介だな」

 柱にもたれかかったままの腕組みを解き、吐き捨てる。

 

 「――ああ、厄介だ。タギツヒメの復活の日までは、同盟関係を構築し、この社会を蝕み続けていたんだ」

 同じ技術者として尊敬はする……が、それ以外に彼に対する感情は嫌悪だった。

 

 ふと、紗南は柱に佇む少年に気がつき、

 「ああ、君が例の百鬼丸だな?」

 鋭い眼光を無理やり押さえ込むような表情の少年を一瞥する。なんとなく、全体的にちぐはぐな印象を受ける少年だった。

 黒い髪の毛を乱暴に後頭部で束ねて結び、秀でた眉の間には皺が刻まれている。

 想像以上に、アンバランスな風体だった。年頃は十四だと聞いていたが、その横貌には一切の甘さも幼さもなく、鍛え抜かれた刃を思わせるものだった。

 

 「――ああ、はい。そうです」

 (やはり、《サマエル》という単語を聞くだけであの様子か。危なっかしい子だ。まるで、むき出しの刀だな)

 大きく首を横に振り、紗南は息を吐く。

 「ま、追々君の力も借りるだろう。よろしく頼む」

 「……ええ、分かってます」

 百鬼丸は幾分落ち着いたように頷く。

 

 二人のやり取りに目線を向けていた朱音は、目前に単座した姫和に意識を戻し、

 「篝さんに送った手紙を読んだのですね?」

 そう姫和に尋ねる。

 「……っ」

 彷徨わせた瞳は、しかしまっすぐ目の前を捉える。

 無言で頷く姫和。

 

 この手紙から、全てが始まった。

 

 御前試合の決勝から折神紫への攻撃……

 

 百鬼丸は左の肉眼で、正座する姫和の後ろ姿をみる。漆のように黒い髪は流麗に腰元まで垂れている。

 

 この少女も、己と同様に『タギツヒメ』を追っていた。――運命の螺旋が、衛藤可奈美を惹きつけ、百鬼丸や、薫エレン、舞衣、沙耶香を巻き込み……そしてこの場に集結した。

 

 運命論者ではない百鬼丸でさえも、この時ばかりは運命というか、宿命を感じざるをを得なかった。

 



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30話

庫裏の天井窓際から青い三日月の光が射し込む。

静かな夜が来た……。

 久々の静寂に、百鬼丸は意識を先鋭化させてゆく。

 

 あの、皐月夜見が打ち込んでいたノロのアンプル――どこか違和感があった。そういえば、以前原宿駅周辺で荒魂の反応を探知できなくなったことがあった。

 (……だとするとあのアンプルに関係があるんだろうか?)

 夜道を歩きながら、百鬼丸は考える。しかし答えは出ない。

 

 大部屋での話の後、刀使の六人は宿泊所に向かった。百鬼丸は一人、庫裏の書庫で泊まることにしていた。

 

 それを話すと朱音は、

 『さすがに、貴方を野宿のような状態にしてしまうのは……』と、渋った。

 百鬼丸は頑なに懇願すると、呆れながらも許可が下りた。

 

 六人と別れ際――可奈美が何かを思い出したかのように歩み寄ってきて、

 「ねぇ、百鬼丸さん。朝に付き合ってくれる?」

 小声で囁いた。察するに、剣術の稽古だろう。

 「はいよ」

 気軽に頷いた。

 「おれは、村の東側にある庫裏に泊まっているから何か用事があればきてくれ」

 そう伝えた。

 可奈美は「庫裏……あ、あの大きな蔵みたいな建物だね?」夜闇の中を指差す。

 大体の方角は一致していたので百鬼丸は「そうだ」と頷いた。

 

 「じゃあ、また明日だね、百鬼丸さん」

 陽気に弾んだ声音で別れた。

 

 (ああやって、笑ってたら普通の女の子……なんだよな)

 百鬼丸は背中を向けて歩き出した。

 

 

 

 それからわずか数時間後。

 「――で、なんだこの状況は?」

 頭を抱えながら、百鬼丸は嫌気のさした眼差しで自らの左肩に擡げる小さな頭を眺めた。甘栗色の――左側をひとつに結んでいる尻尾のような髪。

 見まごうことのない、可奈美の頭だった。

 

 百鬼丸が目覚めたのは早朝の四時ころだった。一日三時間しか眠れない彼には特別早起きではない。しかも、昔からの習慣から横になっては眠れず、柱や壁などに背中を預け、あぐらをかいて眠る。

 

 四月の山は肌寒く、毛布の一枚に包まって眠っていたのだが、いつの間にか、自分以外の他人の温もりを感じていた。

 どうやら、勝手に百鬼丸の眠っていた所に気配を殺し、毛布の中まで忍び込んだらしい。

 すぅ、すぅ、と可愛らしい寝息をたてながら可奈美は口端に透明な涎を垂らしていた。

 

 (そういえば、殺気以外は眠ってたら気がつかないんだよなぁ)

 一人旅の頃は悪意と殺気に敏感だった。だがここ最近は、感覚が弛んでいるみたいだった。

 「お前らのおかげ……かな」

 久しぶりに人間らしい生き方ができているのだと実感できる。

 ふと、隣りをみる。小動物のような可愛らしい動作で、可奈美は「うぅ~ん」と唸る。

 百鬼丸は暫く眠らせておきたかったが、いたずらもしたくなった。小鼻を摘んでやった。

 すると、

 「むぅ~~っ」

 苦しそうに呻いた。

 その顔も声も面白くてもわず、

 「くっ……あはははは」笑ってしまっていた。

 ――だが、それでも起きない可奈美に百鬼丸は、ひとつの疑問を持った。

 

 (この娘は余に強すぎる……)

 今まで自戒してきたが、彼女の強さの根源を知りたくなった。心眼は本来、緊急時や相手に許可を得て使用することにしていた。が、今は可奈美の一種異質な存在故の好奇心に負けて、心眼を使う。……これまでは人に深入りすることを恐れ、決して行わなかった事だった。

 

 可奈美の、むきたてのゆで卵みたいにすべすべした肌に自らの額を当てて《心眼》を発動する。

 

 2

 ……柩の前に立つ幼い娘。

 参列者も、皆悲しみに包まれていた。

 啜り泣く大人たちの中で柩を、ただ普段通りの顔で見つめる娘。

 

 (これは可奈美の……記憶か)

 

 百鬼丸はまだ幼い可奈美を、半霊体の透明な体で葬儀の場に佇み見守っていた。

 剣術の最初の先生だった母――美奈都。

 

 百鬼丸は後悔した。この《心眼》はランダムで相手の記憶の中を彷徨う。

 そもそも、他人の記憶は好奇心から土足で踏み入ってよいものではないのだ。

 それ故、自戒してきた。……だが、もっと可奈美や姫和、他にも色んな人間のことを深くしりたいと思ってしまった。

 

 (その結果がこれかよ)

 自らを嘲るように内心で呟く。

 

 と、視界は唐突に暗転した。

 

 再び焦点が定まったとき、濃い霧か霞が漂う長く広い石段の半ばに百鬼丸は立っていた。

 

 「……ここは、どこだ?」

 周囲を見回すが、視界の色は失せてモノクロの世界観だけが広がっていた。恐らくどこかの山奥の神社だろう。だが正確なことは分からない。上の方向に辛うじて鳥居が見えるため、そう判断した。

 

 「アンタさ、乙女の記憶の中に勝手に入ってくるってどういう料簡してるわけ?」

 強い叱責が背後からきた。百鬼丸は思わず身構えた。

 

 そこに立っていたのは、先程の葬儀の遺影に飾られていた……そう、可奈美の母、美奈都だった。だが、遺影の頃より大分若い。

 乱雑に髪を頭の後ろに束ねている。

 黒い制服に白のスカート。モノクロ世界だから目立っていた。

 「なに? 人の顔をジロジロみて。あっ、もしかして美人だから見とれてた……とか? あははは」

 男勝りで快活な性格のようだ。ひと目で解る。

 

 百鬼丸は、

 「貴方は可奈美の母で間違いないな?」

 と尋ねた。

 しかし、

 「いんや、違うよ。正確には未来の自分(美奈都)かな?」

 美奈都はそう言いながら、頬を軽く掻く。

 「あっ、違う違う。だから、可奈美の記憶とか頭の中に勝手に入るな、って警告してるの」剣呑な雰囲気でいう。

 

 なるほど、確かに最強の刀使というに相応しい風格だった。

 

 百鬼丸は躊躇わず、左腕を噛む……が、腕が抜けない。

 

 「あれ?」

 もう一度噛む。だが、腕に丸い歯型がつくだけで意味がない。

 美奈都は不審そうに百鬼丸を眺めながら、

 「なにしてるの? 早くかかってきなよ」

 と告げた。

 百鬼丸はいつの間にか握っていた太刀を何の疑問もなく正面に構え、地面を蹴る。

 

 美奈都の口が釣り上がる。

 「なるほどね。君、相当いい体と反応してるよ……殺人剣では達人かもね。けど、対人ではまだまだあまちゃんだね」

 快活に言い切り、正面から飛んでくる轟々と音を裂く軌道を避け、百鬼丸の下腹部を狙い撃ちにする……筈だった。

 それに反応して、鋭い一撃を避けると、美奈都の脾腹へ打ち込もうと横に素早く薙ぐ。

 この動作を待っていたかのように美奈都は剣先をくるっ、と回転させ百鬼丸の小手をしたたかに打つ。

 

 手の甲が痺れるが、剣を手放さず体勢を低く落とし、美奈都の胸囲の領域に潜り込むように動いた。

 だが、最後の審判のように百鬼丸の喉元には太刀の剣尖が当てられていた。

 

 「……アンタ、相当バカだね。自分の手みてごらんよ。確かに夢の中とはいえ、本物の太刀で斬られて、手の甲から血が流れてるのにも構わず次を仕掛ける。たしかに戦士としては正しいよ。でも剣士としては失格。自分を護ることが出来てない。まるで狂戦士。手合わせをしてきた中で一番不愉快かも」

 美奈都は厳しく冷たい声でいう。

 と、そこで美奈都は気がついた。百鬼丸の刃先も彼女の喉元に届く寸前で止まっていた。

 初めて美奈都は瞠目して、にぃ、と笑う。

 「……ごめん。やっぱ訂正。アンタ相当強いわ。でも、そんな戦い方を続けてたらきっとすぐ死ぬよ」

 百鬼丸は強い光のこもった双眸で、

 「構わない。この身がいくら傷ついてもおれは、必ず勝つ」

 美奈都はどうやら手抜きをしていたようで、それがさらに百鬼丸を苛立たせた。

 

 心底馬鹿にしたように美奈都が「はぁー」と息を吐く。

 「ねぇ、君本当にバカでしょ? ――はぁーーーーっ。よし分かった。これから、君には護るための対人戦は今の私と可奈美が教える……久々に見込みのある人材だもん」

 美奈都は言いながら、百鬼丸の顔をみる。

 「……まぁ、可奈美をお嫁にするなら最低限、可奈美に勝てないとねぇ」

 いやらしい笑い方で口を歪めた。

 

 「…………そこで、なんでおれをみるんだ」

 

 「いやーーだって、実際問題あの子に勝てる男子はおろか人類はいないでしょ? でも、目の前にその候補がいるとあれば――まず、親の私が見定めないとね」

 

 「でもさっき、自分は母親じゃないって……」

 美奈都は不機嫌に、

 「それはそれ、これはこれ。いい? ……ああ、それと、可奈美はここの夢のことは起きたら覚えてないから、君もそのつもりで。それにあの子可愛いでしょ? 私ににて」

 「ああ、そうだ。……あんたに似て可愛いよ」

 真顔でいう百鬼丸に一瞬驚きとも恥ずかしさともつかぬ震えた声で、

 「現実ではあの子にはここでのことは内緒だから。いい?」

 

 ああ、と頷いたとき、現実に引き戻されるような感覚がした。

 

 3

 目を覚ましたとき、目の前には可奈美の琥珀色の胡乱な瞳が現れた。

 長い睫毛が戸惑いがちに瞬き、淡い桜色の唇の上に珠の輝きがうっすら跡を曳いた。しかも、本物の嗅覚が反応したようで、柑橘系のように甘く爽やかな香りが鼻腔に伝う。

 

 百鬼丸は、

 「……え~っと、オハヨウ」

 カタコトで挨拶を述べた。

 可奈美はその態度が不服だったのか、

 「ねぇ、百鬼丸さん。朝から稽古するって言ったよね?」

 もちみたいにぷくーっ、と柔らかな頬が膨らむ。

 (この変な状況より、剣術か)

 内心、戸惑いながら百鬼丸は、

 「ああ、そうだな。――いいや、違う。可奈美。なんでおれの寝てる毛布の中に入ってきた?」

 未だおでこを突き合わせたまま、尋ねる。

 「えっと、驚かせようと思って?」

 自分自身のことなのに、なぜか語尾が疑問形。

 「それより、なんで百鬼丸さんは私のおでこにおでこ当ててるの?」

 意外な反撃。

 「えーっと、それはおれの寝相だ。うん、そう。ホント。本当」

 「う~ん、そっか」

 

 「…………。」

 「…………。」

 

 気まずい沈黙。わずかな時間が、永遠にも思えた。

 「えっと、そろそろ離れてくれるかな、百鬼丸さん」

 その返答に弾かれたように百鬼丸は「お、おう。任せろ」とどもりながら、可奈美の繊細な両肩を掴んで自らの身を離す。

 

 奇妙な心臓の脈拍が擬似の耳元まで鳴る。

 



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31話

 早朝。舞草の里は静かだ。薄い霧が低回している。爽やか、というより寒いくらいの気温だ。目が冴えるような空気感。肌の産毛が一本一本逆立ちそうなくらいだ。

 

 おれと可奈美はあくびを噛み殺しながら、手近な練習場所を見つけた。

 

 

 小川の流れるすぐ傍の川原の土手沿いの開けた場所で、おれは木刀を正面に構え可奈美を見据える。

 透明で新鮮な空気を肺いっぱいに詰め込んだように、

「百鬼丸さん、全力でかかってきて!」

 弾んだ声で瞳をキラキラと光らせる可奈美。

「あ、あいよー」

 両手で強く握り、おれは地面を蹴った。一直線になんの衒いもなくただ真っ直ぐに飛び出す。所詮おれには小細工は似合わない。可奈美にはおれの全力を受けてもらう。

 

 

 こちらを捉え続けた可奈美の視線は、一瞬だけおれの纏う暴風に驚いたようだったが、怯む様子もなく、無表情に体を横に躱す。

 

 ……それは正しい判断だ。

 おれと真正面にぶつかれば、いくら剣術に秀でていても、トラックにぶつかって、吹き飛ばされるようなもんだ。

 

 が、おれも回避は予想していた。簡単に方向を変えることは不可能。――だから、仮に可奈美が横から一撃を打ち込めば対応はできない。

 

 勿論、普通の人間であれば……である。

 

 靴底が川原の小石の上を滑りながら、驀進する勢いを上に――宙に逃した。両腿の人工筋肉は引き締まり、高熱を溜め込む。無理な負荷故のことだ。

 宙に舞ったおれの体は、そのまま可奈美の背後の位置に着地した。体感では1・5秒ほどの間の出来事だった。

 

 

 可奈美は直進するおれの体に一撃を与える機会を窺っていたようだが、突如不可解な動きを目敏く反応し、木刀を止めた。

 

 

 ――だが、彼女は馬鹿ではない

 むしろ、剣術においては天才だ。空中から次の攻撃パターンを瞬時に理解し、背後からおれの気配を察知し、冷静に踵を返して横一閃に薙ぐ。

 おれは危うくのところで相手の刀身を受け止める。しかし、可奈美は鍔迫り合いをするつもりもなく、すぐに刀身を己の身に引き寄せる。

 おれとの力比べは結果が歴然としている、そう判断したのだろう。

 (思った以上に強い――)

 普段の陽気で天真爛漫な雰囲気とは異なる……醒めた目で、しかし静かな青い炎が可奈美の瞳の奥に宿っている。

 

 

 「ふぅ」

 可奈美は小さく息を吐く。

 眉は微動もせず、おれを半眼で捉え続けている。

 正面に構えた木刀は通常の正眼の構えより大分位置が下げる。しかし、刀身は鶺鴒の尾のようにぴん、ぴん、と上下に動く。

 リズムでもとっているようだ。

 

 

 「おもしれぇ」

 おれは思わず叫ぶ。

 今まで荒魂としか戦わなかったおれは、相手という存在をみてこなかった。体の体積の数十倍以上もある相手でも、おれは潰してきた。

 だが、おれより小さい可奈美の方が何倍以上も強い。

 おれは自然と足が動き出し、可奈美を木刀で袈裟斬りにしようと打ち込んだ。

 それをまるで予測していたかのように、見事な足捌きで躱しおれの小手を狙う。だが、それは美奈都の一戦で学んだ。

 おれは木刀の柄の部分から手を刀身側にスライド移動させ、可奈美の攻撃避けると、柄の部分で可奈美の一撃を弾き返す。

 その予想外の反応に可奈美は一瞬驚いたが、また冷静さを取り戻し、肩の位置を落とした。

 

 なるほど、確かに可奈美の戦闘スタイルは『後の先』を得意とするようだ。

 

 だから、『先の先』を得意とするおれは相性が悪い。

 

 「強ぇな、可奈美」

 おれは久々に手応えのある相手に出会えて喜んでいるようだ。自分でもこんなに血の気が多いのか、と戸惑うくらいである。

 

 そこで、初めて可奈美が「うん。とっても楽しいよ」と喋った。……だが、どこか浮かない表情でどこか哀しげな顔だった。

 

 おれが正規の剣術で戦っていないからだろうか?

 それは仕方ないだろう、と内心で言い訳しながら勝負を決めるために木刀を持ち直し、再び可奈美の前へ突撃する。

 

 いくら相手の行動パターンを探っても解るはずのないのなら、いっそ自分から攻撃パターンを絞らせることにより、単純な戦闘へと移行させる狙いがあった。

 可奈美もそれを理解したようで、今度は避ける素振りも見せず、鶺鴒の尾のように上下に微動した刀身が反応した。

 

 可奈美の剣先がおれの左肩を強かに叩き込む。

 「くっ」

 鋭い骨の芯にまで響く斬撃。

 が。

 「へへへっ」おれは口を苦く歪め、笑う。

 可奈美のほっそりと華奢な喉元に剣先を寸止めさせていた。

 

 

 と、緊張の糸が切れたようで、肺が新鮮な酸素を求めた。

 「はぁ……はぁ……」

 限界だ。人工筋肉の熱量がひどく、早く外部冷却したい。

 「引き分け……いいや、おれの負けかな」

 おれは悔しいが、対人戦の敗北を口にする。

 

 だが、可奈美は「ううん。私の負けでいいよ」冷たく言い放つ。

 

 おれは全身から血の気が引いたようにショックを受けた。

 「なんでだよ? おれが正規の教育を受けてない戦い方をしたからか?」思わず怒鳴る。

 しかし、可奈美は髪を大きく揺らすように首を横に振り、

 

 「――違う、全然違うよ。百鬼丸さん。なんで、私が悲しいか解る?」

 唐突に「悲しい」という単語を呟いた。

 

 おれは突然のことに理解できず、「すまない。分からない」と俯いた。

 可奈美は木刀を胸元の前に引き寄せ抱くようにして、

 

 「――百鬼丸さんは、すごく自分勝手。剣を合わせて分かったんだ。ずーっと、自分が傷つくことを厭わないで、相手を壊す、潰す、それだけを目的に剣を振るっている。普通の人だったら、まずそんな戦い方できない――色んな死線とか、実戦の経験を活かしているんだと思う。でも、百鬼丸さんは辛くないの?」

 

 可奈美の言葉の一々が、おれには深く刺さった。

 「し、仕方ないだろッ? もう今更こんな戦い方を変えることだって、生き方だって……」

 

 火照った頬に、涼やかなミルク色が溶け込んだ微風が撫でる。

 

 「ううん、違うよ百鬼丸さん。百鬼丸さんも姫和ちゃんみたい……全部自分で抱えて、それで誰も傷つけてないと思い込んでる。でも――私はそう思わない」

 ふと、おれは可奈美の潤んで震えた声に視線を上げる。

 人一倍好奇心旺盛な琥珀色の瞳の端から、大粒の涙がこぼれていた。

 たかだか、剣を合わせただけだろ、そうからかおうとして、おれは口を開き――噤んだ。

 

 川のせせらぎが、不意に大きく聞こえる気がした。

 

 「百鬼丸さんの剣はとっても悲しい。百鬼丸さんの〝殺人剣〟が自分も傷つけてることがわかってない……でも、その悲しさを全部背負って生きてきた百鬼丸さん自身がそのことに気がついてないことが一番辛いよ」

 

 「おれは辛くない! なぁ、可奈美! おれは全部、おれの責任で生きてきた! この運命を受け入れてきた! もし、お前がおれに剣を教えてくれないのなら仕方ない――」

 そう言って背中を向けたおれは、場を立ち去ろうとした。

 

 

 おれは悔しさに唇を噛み締めた。それは、不甲斐ないおれ自身に対してだった。

 と、不意に背の肩甲骨辺りに自分以外の高い体温を感じた。

 

 「……私が守る、百鬼丸さんを守る」

 背中の布越しに伝う温かな湿り気と同時に感じた、小さい呟きの言葉。

 

 可奈美の両腕がおれの胴を抱きしめている。おれの異様に高い体温も構わないで……自分以外の心臓の温かな鼓動を背中に確かに感じる。

 

 白く繊細な手で、おれを必死で掴んで離さない。

 「……可奈美は強い、な」

 皮肉ではなく、本心からおれはそう思った。そして、おれは情けなくなった。なぜ、こんなに、この少女は強くて優しいのだろう。

 

 「なんで、おれなんかを守ってくれるんだ?」

 目を逸らす。急に恥ずかしくて、冗談めかして訊ねる。

 「なんか、じゃないよ。百鬼丸さんは大切な人だから……姫和ちゃんも舞衣ちゃんも、薫ちゃんも、エレンちゃんも、沙耶香ちゃんだって……ううん、舞草の人たちだって美濃関の人だって、みんな私に関わっている人全部守りたい、って思う」

 

 ぐっ、とおれの拳に力が入る。

 おれは可奈美が背後から抱きとめているのをゆっくりと解き、向き合う。

 「……おれも誰かを守る、そう思って戦ってきた筈だったんだ。最初は。だけど、結局こんな道にしか進めなくなった……」

 義手の左掌を開く。

 

 今まで、どれだけ多くの命を殺めてきたのだろう? この手で……

 可奈美は涙と鼻水を乱暴に袖で拭うと、おれの無骨な手を小さな白い手が包む。

 「――守ってくれてたんだよね。多分、この手に救われた人もいると思う。分かるよ、剣を合わせれば。悲しいけど、とっても優しい百鬼丸さんの剣。それに、私は百鬼丸さんが、居なくなったら、いや」

 

 天城峠で出会った『知性体』のデブ男の顔を思い出した。

 彼の散り際は、果たして知性体だったのか、人間だったのか分からない。けれど、あの笑顔を反芻すると胸が詰まる。

 「おれは……」

 初めて誰かに存在を認められた。初めて誰かに必要とされた――

 

 「可奈美、ありがとう。おれを必要としてくれて……おれをここに居ていいって言ってくれて。そして、すまん。おれにも誰かを守る剣を教えてくれ」

 

 おれの左掌を握っていた可奈美は、甘栗色の薄い陽の光に反射させた髪から顔をぐっと見上げて、

 「うん。〝活人剣〟――百鬼丸さんには人を活すための剣を教えるね!」

 すごく楽しそうに、いつもの快活で陽気で花が咲いたような微笑をおれに向ける。

 

 もしも、誰かを守れるなら……今度は奪われずに済むのなら、おれは守りたい。そう思った。

 

 



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32話

 

俺の中で獰猛な衝動が猛り狂っている。それを必死で抑えてきたが、そろそろ我慢の限界だ。

 「おい、早く俺にあのガキと戦わせろッ!」

 C-4(プラスチック爆弾)に細工を施すジョーに向かって訴えかけた。

 「ああ、もうそろそろ準備が出来次第いこうか。といっても、最初のフェーズに移行したらあとはノンストップだよ」

 愉快そうに口端を曲げ、ジョーは鷲鼻をヒクつかせた。

 「爆弾もいいだろ?」

 彼の工作台の上には、殺戮兵器とは思えないほどの工具類が並べられていた。

 「プロはその場で用意する、とはよく言ったものだ。ボクの頭脳をもってすればホームセンターは武器庫になるからね。でも、通常兵器も捨てがたい。テロリズムは、その意志律がある限り決して絶えることはないだろうね」

 ……テロリズム

 俺は、俺が元の世界で行ってきたことを、「テロ」だと定義されてきた。

 「ステインくん、君も仕事道具には愛着があるようだね。ナイフに仕込み刀、スパイクに至るまで全部きちんとした手入れを欠かさない。まさにマイスターという奴だね」

 からかう様に笑うジョー。

 「チッ」鋭く舌打ちすると、俺は外の空気を吸おうと地下室を出た。

 扉のノブに手をかけた時、

 「……いいかい? 君とボクたちは一蓮托生だ。この世界は君の世界ではない。だが、君は――」

 俺は言葉を引き継ぎ、

 「俺は〝悪〟だ!」

 そして正義に倒される役割の……な、と加えようとしてやめた。あの男に言わなくても理解しているだろう。

 

 冷えたビル風が猛烈に吹き付ける。

 屋上に続く野外の階段を上りながら、疼く殺意を必死に抑えた。

 赤いマフラーを翻しながら、俺は遠い夜に埋没した町並みを見下ろす。航空障害灯が、いたずらに建物の頂きを浮き彫りにしている。

 結局どこの世界も退屈で、それでいて偽善に満ちている。息が詰まりそうだ。

 夜空の展らけた屋上について、タバコを銜える。町並みは穏やかというより凡庸だ。

 薄い白光の半月が空の中天にかかっている。

 煙に目を細めながら、俺は来るべき百鬼丸との対決に意識を高める。

 初めて出会った時、俺は理解した。あの男はオールマイトと異なる――まるで、キリストやブッダの系譜に連なるタイプの自己犠牲を厭わない男だった。

 もし、ヒーローの定義を「強さ」のみに置くのであれば、強い「悪」すらもヒーローたりうるだろう。だが、あの男は確かに、自己犠牲の中に強烈な使命感を帯びた双眸を有していた。

 今まで出会ったことのない種類の男だった。

 「早くやりてぇな……」

 俺という「悪」がどの程度なのだろうか? それは鏡のような存在である百鬼丸と対決すれば解る。

 この世界は退屈しないで済むかもしれない……

 「ふっ、はははは」

 楽しくなって、俺は笑う。

 この醜くて、反吐が出そうな世界も、そう悪い場所ではないのだと知れた。

 「待っていろ、百鬼丸……」

 

 

 1

 こんなはずではなかった――、百鬼丸は開口一番そう釈明しようとした。

 露天風呂、濃い湯気の中に温暖な水音が聞こえる。

 

 タオルで胸から腰元を隠した舞衣は明らかに侮蔑した視線で、

 「……ねぇ、これって一体どういう状況?」

 百鬼丸へにっこりと微笑みかける。しかし、そこから受ける印象は朗らかなものでなく、氷柱のように冷ややかで剣呑なものだった。

 「ええっと――、突然抜かれてびびったんだよ!」

 百鬼丸は反駁した。

 へぇ、と舞衣は笑顔の仮面を外さない。寧ろ固まったままの笑顔に能面のような怖さすら感じる。

 「抜かれた? 抜いた? なにしてたの? 沙耶香ちゃん?」

 女教師のように指名する。

 その指された沙耶香は、四つん這いの百鬼丸の下、まるで押し倒されたように仰向けになっていた。

 「……百鬼丸に(転んで滑った所を助けてもらう形で)押し倒された」

 プロパンガスにバーナーをブチ込む発言だった。

 驚いた百鬼丸は、

 「ええええええ!? えっ、えっ? なに? おれを殺そうとしてるの? そうなの? スパイだったの?」

 まさか味方だったはずの援護射撃が、バンバンと裏切りの殺戮射撃に変化した瞬間だった。

 「……それに、百鬼丸の(左腕)を抜いた」

 完全にチェックメイト。言い訳不可能なレベルの誤解だ。

 「えーっと、もう、そういうコトをしてたって事でいいのかな? 百鬼丸さん? ……ううん、変態さん」

 なぜだろう? 笑顔に殺意が含まれているように感じるのは。

 百鬼丸は慌てて反論しようとして、真下の沙耶香に目をやる。

 色素の薄い髪が湿って、長い前髪が半分顔を覆っている。ハの字に眉を曲げ、困ったような表情をしていた。どこか、小動物っぽくて保護欲がわくように身を竦めている。

 百鬼丸は……深く溜息をついた。

 

 (仕方ないな。ここは男を見せる場面だな)

 ぎこちなく背後を振り返り、

 「ああ、そうだ! もうなんやかんや、おれの責任だ!」

 爽やかな笑顔で言う。やりきった、なんか知らんけどすごく大切なものを失った気がするけど、後には退けない。

 百鬼丸はたっぷり息を吸い込み、

 「女子中学生はサイコーだぜ」

 ぐっ、と親指をたてる。

 

 「――そう、分かった。じゃ、死にましょうか」

 舞衣から死刑宣告を受けた。

 

 このあと、百鬼丸は想像を絶する折檻を受けた。

 

 2

 なぜ、こんなことになったのか……少し、時計の針を戻す。

 

 可奈美との朝の鍛錬を終え、百鬼丸は舞草の里を単独で調査することにした。

 (ここは、余りにも守りが脆弱だ)

 と、思ったからである。

 舞草の拠点といっても、普通の山村に変わりがない。これでは一度敵襲にあえばすぐに陥落するだろう。百鬼丸が住んでいた頃の山はもう少し険しく、四方を崖が囲んでいた。

 「少なくとも、時間稼ぎくらいできるようにしたいなぁ」

 百鬼丸は、ノロのアンプルに対する昨日の違和感に予想がついた。

 あのノロのアンプル自体が、おれたちを追う追跡用の囮だった――しかも、あのアンプルが出す固有の周波数が百鬼丸自身の放つ心眼のテレパシー周波数と相殺しあって、以前も原宿での荒魂を辿れなくしていたのだ。あくまで、推測に過ぎないが……

 

 ……折神紫、という人物は相当隠世に深入りしているらしい。

 百鬼丸は手近な木の幹に八つ当たりの拳を叩きつける。みしぃ、と軋む音がすると木に亀裂が入った。

 「あくまで推測のいきをでない。取り越し苦労になるといいなぁ……」

 青く雲の少ない空を見上げながら、百鬼丸は冷静さを取り戻して舞草の里をみる。

 

 2

 結局、百鬼丸の施した対策案というのはごく簡単なものだった。

 まず、北側は狭隘な岨道の続く谷間。西には森が広がり、東は単なる斜面。――そして南は山の入口に繋がる道。

 

 (西も東も南も、守るには明らかに弱い)

 木を利用したトラップを用いるにも、限界がある。

 ――とすれば、岩場の巨大な岩で道を塞ぐしかないだろう。

 

 「まぁ、そうだよなあ。そうそう素晴らしいアイディアなんてあるはずないし、そういう簡単なものの方がかえって厄介だしな……」

 独り言をブツブツ言いながら、百鬼丸は涼やかな夕暮れを迎えていた。

 

 カナ、カナ、カナ、と蜩が鳴く。哀愁の漂うその鳴き声は、懐かしさとか寂寥の感情を呼び起こす。

 蜩は気温が低ければ鳴き始める。逆に暑ければ、沈黙をする。山間部には生息するが、一般的な街などには生息しない理由である。

 

 百鬼丸は目を眇めながら、

「露天風呂にでも入るか」

 そう言いながら、体をあちこちを点検する。

 人工筋肉は、普通の人間と同じく凝り固まる。血流が悪くなれば動作にも影響が出る。無理な運動や、隠しギミックなどを使用しなければ、異常な高温にならない。寧ろ、最近は足のギミックを使っていないので、内部機器が降温状態にあり、今日くらいは温めようと判断した。

 

 

 

 この里は湯脈が豊富らしい。

 湯は透明に透き通り、地熱に温められたタイプの温泉だ。百鬼丸が好んでいるのは、硫黄の香りのする白く濁った風呂である。普通の人間ならば、匂いや白く濁っているために避けるのだが、慣れると普通の温泉には戻れない。

 

 「とはいえ、久々だなぁ」

 舞草の里の外れに湧く温泉は、簡単な脱衣所など入浴設備が数箇所ある。

 山で潜んで暮らしていた頃は他人がこれない場所で温泉や山の幸を味わっていた。

 脱衣を済ますと、男湯の風景の悪さに不満を感じた。

 「なぜ、なぜこんなに風景が悪いんだ……露天風呂の醍醐味を殺しているぞ」

 全裸で怒る。

 しかし、文句も長く続かず涼やかな微風を全身に受けながら入浴した。

 「あ~、生き返るぞーーー」

 体の毛穴が開いた感じがして、その刺激がたまらない。

 人は誰もおらず、貸切状態。

 露天風呂の広さも中々ある。

 「泳ぎたい」百鬼丸はつぶやいた。

 と、

 「あはははは。ダメだよ百鬼丸くん」

 嗄れた老人の声――フリードマンが手ぬぐいで一部を隠しながらお湯に浸かりにきた。

メガネを外さないから曇っている。

 フリードマンは体でも鍛えているのだろうか。そんなに体はたるんでない。

 「あれ? なんでまたここに来たんですか?」

 「偶然だよ。いやーそれより、百鬼丸くん。君の体に興味があってね」

 唐突な発言に」ふぁっ!?」と百鬼丸は驚いた。

 「君の体はゼンカイの最高傑作なんだろうね。どうだい、少し見せてくれないか?」

 百鬼丸はじじいに言い寄られる現状に「なんだこの状況は」と当惑した。

 

 しかし、フリードマンは遠慮することなく百鬼丸の腕や足、目や様々なギミックを一々調べていた。

 「君のこの腕は……そうか、幹細胞から培養してより増殖を促すように改造された活性細胞なんだな。……これは、人工筋肉か。なるほど、点検しやすいように透明なんだな。これは……」

 

 「はぁ~」

 百鬼丸はげんなりした。癒されにきたのに、これでは落ち着かない。が、フリードマンの気の済むまでは付き合うことにした。

 

 

 

 「いやいや、すまなかったね」

 大分時間を取られて、落ち着かなかった。結局、フリードマンは調べるだけ調べると、すぐに帰ってしまった。

 「なんだ、あのじーさん」

 ふっ、と口に笑みがこぼれる。昔、義父の善海もあんな研究熱心だった。懐かしい記憶がよみがえってきた。

  

 「別の風呂にでも入るか……」

 

 3

 山の風呂は混浴が多い。その例に漏れず、この温泉群にも多数の混浴風呂がある。

 「やっかり、高台の開けた位置からだと眺めが違うなぁ」

 百鬼丸は全裸で「がはははは」と高笑いした。

 ここも貸切だった。

 

 「ふぅーーーい。生き返る。極楽極楽」

 目を細めながら息を抜く。何度も温泉に浸かるのは最高だ、百鬼丸は弛緩しきった表情で首や肩を回す。

 「敵か……」

 不意に双葉のことを思い出して、苦い顔つきになった。

 もし救えるならば救いたい……でも今の自分ではどうすることもできない。いいや、自分だからこそ、救えないのではないか? 百鬼丸は自問自答していた。

 

 ――と、ぴたっ、ぴたっ、と誰かの足裏が歩いてくる音がした。

 「……またですか、フリードマンさん?」

 げんなりとした口調で訊ねる。

 しかし、相手は途中で足を止めた。

 (あれ? フリードマンさんじゃないの?)

 冷え込んできた気温が、温泉から出る湯気を濃くした。

 「ふりーどまん? ……違う」

 湯の濃い濛気の中から否定がきた。――この声は聞き覚えがある。確か……

 「い、糸見沙耶香!?」

 百鬼丸は驚いて立ち上がった。

 湯気の中の小柄な人影は「ひっ」と怯えたように、一歩後退した。

 

 怖がらせてはいけないと考え、

 「ま、まあああアレだ。せっかくだし風呂に入れよ。裸の付き合いだぜ(?)」

 慌てていたとはいえ、失言だった。百鬼丸は逃げ去る退路を自分で断ち切ってしまっていた。

 「――わかった」

 しかし、拒否するだろうと予想した相手は何の躊躇もなく、ちゃぷん、と足先から湯に浸かった。

 しかも自分で言っておきながら百鬼丸は「あれ?」と困惑していた。

 

 

 (なんだこの状況、なんだこの状況。マズイ絶対マズイ。もう誤解とかのレベルじゃなく薫と姫和にはボコボコにされて、可奈美は軽蔑した目でおれをみて……うん? いや待て! それはそれでご褒美ではないだろうか)

 

 一人で考えていると、沙耶香が百鬼丸の傍まで近寄って肩が触れ合った。

 「――ふぁっ!?」

 驚いた百鬼丸を上目線で、

 「……裸の付き合いって言った」

 「ああ、そういう事ね……って、おれのばかぁあああああ。さっきのおれすごくばかぁあああああ」

 頭を抱えて悶絶した。

 一瞬びくっ、となった沙耶香。

 「……大丈夫? どこか痛いの?」

 「良心が痛いです……」

 

 

 

 4

 「……。」

 「……。」

 気まずい。沈黙がこんなにも苦しいとは思わなかった。

 おれは風呂から上がろうにも、チン様が見えないか心配であがれない。

 「しかし、珍しいな。一人風呂が好きなのか?」

 背中を向けながら百鬼丸は訊ねる。

 「……ううん。さっき、舞衣と一緒にこの露天風呂に入る約束をしてた。だから舞衣はあとからくる」

 

 「うぬぅううううううううううう?」

 間違いない、これは誤解ルート一直線だ。

 

 おれは、はやくこの場から逃げねばならない。いくら混浴とはいえ、数々の誤解がおれを変態大王たらしめている。その上、この現状では言い訳は不可能。

 

 と、沙耶香が珍しく自分から口を開く。

 「……ねぇ、どうして可奈美は強いの?」

 純朴な疑問だった。

 おれは横目で沙耶香を見ながら、

 「あの夜、可奈美と対決したときか」

 「……うん」

 「なんでおれに聞く?」

 迷う素振りもなく、

 「……百鬼丸も強いから」

 「おれは強くないよ」

 「……ううん。強い。すごく強い。あの時の殺気も怖かった」

 ノロを体内に取り込んだと知った時、激昂して暴走しかかった。それを指しているのだろう。

 「その節はすまないです」

 「……別に気にしてない」

 「そもそも、お前――沙耶香は、自分の意志でノロを受け入れてないんだろ?」

 「……うん。どうしてわかるの?」

 おれの視界に沙耶香が入ってくる。それを見ないように目をつぶりながら、

 「心眼……心の中を読まなくても解る。沙耶香は自分で今まで考えて動く事ができなかったんだろ?」

 確信を衝いたようだ。暫く、口ごもる様子だったが、

 「……そう。今まで人に言われるように動いてきた。それで皆が喜ぶから」

 消え入りそうな声音でぽつぽつと語る沙耶香。

 (似てるなぁ……義妹のアイツに似てる)

 だから、放っておけないような感じがしたのか。おれは独り合点がいく。

 目を開いて沙耶香に向き直る。

 「おれも可奈美は強いと思う。対人戦ではおれでも勝てない。正直、おれも戸惑っている」

 おれの告白を心底意外そうに見開いた瞳でみる沙耶香。

 「……百鬼丸は強いのに?」

 「ええっと……そうだな、強いのに、だ」

 「……どうして?」

 今のおれの気持ちを自然に吐露する。

 「多分、可奈美が強いのはそれだけ魂というか心があるんだと思う。おれの剣は自他を問わず傷つける刃物だ。だけど可奈美は誰かを守る、一緒に悩んで進む覚悟の寄り添う剣なんだ。それが一番難しいと思う。力があれば誰かを害することしか考えられなくなるからな」

 「……私は、強くなれないかもしれない」

 毛の色素が薄く色のない髪が夕色に染まる。俯いて長い前髪が表情を隠す。沙耶香は今まで才能という存在を意識してこなかったんだろう。「神童」ゆえに。

 (ああ、コイツは――)

 「おれと同じだな」

 思わず口をついて言っていた。

 「……?」

 おれの言葉に興味をもったのか、顔をぐっと持ち上げる。

 「おれは沙耶香と違って、勝手におれの進む道に入り込んで抜け出せなくなっていた……自分勝手な勘違いだけどな。その点は沙耶香と同じだった。だけど、可奈美と剣を合わせて分かった。今持っている自分の力は一体なんのために使うか――沙耶香は誰のために力を使いたい?」

 長い沈黙。

 そりゃそうだ。誰だって、剣を握っていれば眼前の勝負で頭がいっぱいだ。むしろ、いままで勝ち続けた奴がいきなり手痛い敗北を喰らえば、スランプにも陥る。

 「……考えたこともなかった。自分で考えるのは苦手だから」

 「――そうか? 沙耶香は自分の意志で舞衣を頼ってここまで来たんだろ? もう十分自分で行動できるし、考えられるだろ? それに可奈美に負けて悔しい。だったら、お前はこれからも強くなれるぞ」

 おれと違って、道を引き返せる、そう思った。

 修羅道はおれの宿命だ。

 だが、沙耶香は何度でもやり直せる。

 

 「……でも」

 おれはカチンときた。どうして、自分の力を、価値を信じてやれないのだろうか?

 「おい、なんで迷ってやがる。迷う悪い口はこれか? おん?」

 沙耶香のほっぺたをお見切り引っ張る。きめ細やかな瑞々しい肌が伸び縮みする。――昔、双葉にしたことを思い出した。

 「……いふぁい」

 うっすら涙目になりながら、訴える。

 「ふっははは。そうだ、痛いだろ? 痛いって言ってるだろ? 痛いっていえるじゃねーか。難しく考えることなんてないんだ。お前は強くなれる。これからもっと、もっと。だから悩め。この強いおれが言うんだから間違いない! 自分を信じろよ」

 髪の毛をくしゃくしゃにして揉む。

 肩を思い切りすくめて沙耶香は目をぎゅーっ、と瞑り頬を紅潮させる。

 再びおれを上目遣いで見上げながら、

 「……うん。百鬼丸がそういうなら信じてみる」

 おれは呵呵と笑った。

 沙耶香はおれから目線を逸らしながら、何かを呟いた。

 

 「まぁ、でも妹を想い出したよ。沙耶香をみていると。あ、そろそろ逃げねーとな。んじゃ」

 おれは思い出したようにザバァン、と立ち上がり、さっさと退散することにした。

 脱衣所かおうと風呂から上がり、石のタイルを歩いていると背後からおれを追う気配があった。

 「……待って」

 「おい?」

 振り返ろうとして、おれの左手首を掴まれて引かれた。

 「あっ、ちょ――危ない!」

 無理におれの左手首を引いたからすっぽりと半分ほど腕が抜けてしまい、しかも体勢が崩れた。

 このままでは沙耶香に刃が刺さるかもしれない。

 おれは倒れゆく少女を庇うために、思い切り体をねじり重心と体勢を変えた。そして、抜けかかった腕に戻すように同一方向に地面に倒れゆく。

 問題なく刀身は収まった。

 「あっぶな」

 思わず呟いた。

 頭を打ち付けないように、おれは右を沙耶香の後頭部に手を入れてクッションにして、腰には左手をいれて地面との直接衝突を防いだ。

 「はぁ……はぁ……あぶねーだろ。どうした?」

 真下の仰向けになった沙耶香を一瞥して……おれは「ぶっ」と鼻血を吹き出しそうになった。

 そりゃそーだ。タオル一枚が胸から股を隠しているだけで、それ以外は生まれたままの姿だから。

 「……ごめん」

 眉をハの字に曲げて謝る。なんというか、小動物を連想する仕草だった。守ってやりたくなる感じだ。

 「いいや、いいよ。それよりどうして……」

 と、おれが言葉の途中で感じた気配。

 

 『沙耶香ちゃん。ごめんね、遅くなって。湯加減はどうかな?』

 優しく穏やかな声音。

 聞いたことがある、間違いない。

 遠くで衣擦れのする音。

 間違いない。

 

 四つん這いのおれは天空を仰ぎ見た。

 

 おれは今から辞世の句を考えていた。

 




刀使ノ巫女最終回面白かった(小並感)


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33話

 早朝の澄んだ空気の川原に、瞑目直立で佇む可奈美。

 脳裏に浮かぶ、筋肉の躍動する陰影から打ち放たれる太刀の軌道――闇から無数に閃き消えゆく刀身たち。

 

 可奈美の頭の中にイメージされるのは、無限に等しい可能性の剣の軌跡。

 瞑目しながら、半ば興奮と半ば冷徹な心の審美眼で腑分けする。

 足さばき、力を込める体勢。

 

 握る木刀の手が更に強まる。

 「ふぅーーーーっ」

 柔らかな唇から漏れる呼気。

 葉の一枚が、ひらり、と枝を離れ宙を舞う。

 一瞬弛緩したように掌から力が抜けたかと思うと、木刀の刀身が漂う葉を真っ二つに切り裂く。可奈美は目を開く。まだ眉間から鼻先の辺りを舞う葉は二枚に分かれていた。

 

 醒めた瞳で、それを眺める。

 肩を落とし息を吐く。

 剣術も自然界の摂理と同様、変幻自在である。水も形を定めず、常に流れる。

 二三度、瞼を瞬くころには普段の可奈美の表情に戻っていた。

 

 それを離れた所でみていた舞衣は「すごいっ――」と思わず声を漏らした。

 

 人の気配に気がついたようで、

 「……あれ? 舞衣ちゃん。どうしたの?」

 その人懐っこい表情で微笑む。

 土手の斜面の階段を降りながら、舞衣は小さく手を挙げた。

 

 

 

 1

 最近は変態――もとい、百鬼丸さんとの鍛錬が可奈美ちゃんを上機嫌にしている。美濃関にいた頃、わたしにはみせてくれたことのない、満足そうな表情だった。

 

 

 「うん。あと少しで集団フォーメーションの練習をする時間だから呼びにきたんだよ」

 「あっ、そっかー。ありがと、舞衣ちゃん!」

 「お礼なんていいよ、別に……」

 少しだけ寂しかった。もちろん可奈美ちゃんが喜ぶ顔をみるのは幸せだ。……だけど、可奈美ちゃんの隣りに並べないわたし自身に対しては悔しさがつのる。

 「百鬼丸さんとの鍛錬はどう?」

 「うん? とっても楽しいよ! 教えたことをすぐ覚えて応用してくれて! だから、剣を合わせたら色んな反撃連携のアイディアが浮かんで攻め手が読みきれないんだよ! だってね……」

 饒舌に話す可奈美ちゃん。

 どうして、わたしは可奈美ちゃんにこんな風に笑う顔にさせてあげれなかったんだろう。

 

 「可奈美ちゃん、汗かいてない?」

 う~ん、と目線を宙に浮かせながら、

 「そうだね。少し汗かいたかも……あはは」

 わたしはこんなこともあろうかと、手ぬぐいタオルを持ってきていた。

 

 「汗拭かないと風邪ひいちゃうよ、可奈美ちゃん」

 スタスタと歩いて、可奈美ちゃんのおでこからほっぺたを丁寧に拭う。ほんのりと、柔肌に赤味がさしている。わたしが拭うたびに擽ったそうに顔をくちゃくちゃにしている。

 

 

 (~~っ、可愛い! 可奈美ちゃん本当に可愛い! さっきまでのクールな可奈美ちゃんもよかったけど、子犬みたいな可奈美ちゃんが本当に可愛い!)

 

 

 できることなら、頭から食べちゃいたいくらいに好き。この世にこんな可愛くて強い生き物がいていいの? 反則なまでに可愛い!

 

 「――くすぐったいよ舞衣ちゃん。ん? どうしたの、ぼーっとして?」

 

 「えっ? あっ、ううん。考え事してて……ごめんね」

 

 不思議そうな顔をしていた可奈美ちゃんだったけど、「そっか」と納得してくれた。

 「ねぇ、舞衣ちゃん。タオルに私の汗が染み付いたでしょ? あとで洗って返すよ」

 「だめ、お願い絶対にやめて!」

 

 

 突然のわたしの大声に驚いたように可奈美ちゃんが「う、うん。なんかごめんね……タオル使っちゃって」と申し訳なさそうな顔をした。変な誤解でもしたのかな。――ああ、そんな顔をしないで。

 

 

 「ちっ、違うの、可奈美ちゃん! わたし、可奈美ちゃん好きだから!」

 「えっ? えーっと、ありがとう?」

 

 突然の告白を困ったように可奈美ちゃんが返事をする。全然わたしの気持ちに気付いてないけど、それでもいい。……あと、タオルはジップロックに入れて、可奈美ちゃん成分を補給する宝具にしよう。今日の日付を書いて冷蔵庫保存して……ふふっ、楽しみが増えてよかった♪

 

 「そ、そろそろ皆と合流しようよ、舞衣ちゃん」

 「――うん、そうだね」

 ぁああああ、悲しい。寂しい。もっと、ふたりっきりで一緒にいたかったのに……。

 「あっ、ねえ可奈美ちゃん。お腹減ってない?」

 「うん。小腹空いたかなぁ~」

 「だったら、クッキー焼いてきたの食べて」

 

 

 可奈美ちゃんは目を輝かせながら振り返って、

 「ほんとっ!? やったー。舞衣ちゃんのクッキーだー」

 無邪気にはしゃいでくれている。ふふっ、本当に可愛い。

 

 

 透明な小袋を差し出す。

 可憐で細い可奈美ちゃんの指が、わたしの焼いたクッキーをひとつまみする。

 サクッ、といういい音がした。

 

 

 「うん。本当にいつも美味しいね」

 眩しい笑顔で親指を立て褒めてくれる。――ああ、尊い。可奈美ちゃんの笑顔が尊い。

 

 

 

 本当は惚れ薬を柳瀬グループの力を使って開発させようと思った。だけど、どこで聞きつけたのか、父が開発を止めさせた。

 その計画が露見した日の夜。

 『舞衣、一体何を考えているんだ? まさか、好きな人でもできたのか?』

 『はい』

 『……べっ、別にそれは構わないがいくら相手を好きだとしてもだな、こういうのは男として良くないと思うぞ。相手の男性もだな』

 『……? 男性? どうしてわたしが男性を好きだと思われたのですか?』

 『えぇ……!?(ドン引き)』

 目を逸らしながら父は「まぁ、そうか……うん」と気まずそうな顔をしていた。

 ――どうしてかな?

 

 

 

 2

 

 「はぁ……」 

 フォーメーションの訓練は散々な結果だった。

 リーダーのわたしがもっとしっかりしなければいけない場面で、判断が遅れてしまった。エプロンの紐を締め直して、

 「はぁ……」

 もう一度溜息をついて、泡立て器で手元のボールの中身をかき混ぜる。いい感じに黄色く混ざっている。

 

 

 落ち着かないとき、落ち込んだときによくわたしはクッキーをつくる。

 寄り合い所というか、公民館のような所の台所を借りて、わたしはお菓子づくりをさせてもらっている。ダメもとで聞いて正解だった。

 

 落ち込んで俯いていたわたしが、無意識に泡立て器を動かしていると、誰かの足音が聞こえた。

 

 (誰だろう? 可奈美ちゃんか、沙耶香ちゃんかな?)

 気になってわたしは廊下に繋がる扉を開くと、

 「――ん? 甘い匂いがすると思えば」

 変態――じゃなくて、百鬼丸さんだった。彼は玄関先で靴を脱いでいる途中だった。

 

 

 

 「泥だらけですけど、なにをしてたんですか?」

 上着を丸めて、どかり、と椅子に座る百鬼丸さんに、淹れたての紅茶のカップを置きながら聞いた。

 

 

 「うん? 今は秘密だが、後々になると重要になる。うん。それより、集団戦術はどうだった? 可奈美曰く『すごく楽しかったよ!』だけだったから、イマイチ理解できなくてな」

 あはは、と苦笑いする百鬼丸さん。

 

 (はぁ~、全然わかってない。可奈美ちゃんは天才肌から理解しないで、感じないと)

 わたしは可奈美ちゃん学を履修してない百鬼丸さんを憐れに思った。

 

 「……リーダーのわたしがミスをして、全然ダメでした、もっと皆の動きを把握しながら状況を対処しないとダメだったんですけど」

 「確か、荒魂専用のフォーメーションだよな?」

 「ええ、そうです」

 

 ふーむっ、と唸りながら百鬼丸さんは腕組みをする。

 「そうか、大変だな。おれは一人で退治してきたから正直、そのアドバイスもできんのだ」

 「……そうですか」

 心中、がっかりした。もしかしたら何か掴めるかもと期待してしまった。でも、百鬼丸さんと刀使であるわたしたちでは、基本戦術からして違う。

 

 

 「ま、でもさ。舞衣殿も……」

 「そんな、舞衣でいいですよ」

 恐らく、襲撃事件に渡したクッキーの恩義を感じているのかもしれない。

 「ごほん、舞衣は可奈美と今まで剣を合わせてきたんだろ?」

 百鬼丸さんは軽い湯気をたてる紅茶を啜りながらいう。

 

 

 「……そうですね。追いつくために出来ることはしてきたつもりです。可奈美ちゃんは強いのに強さに驕ることなくって、努力を惜しまないんです。本当に楽しそうで……」

 気が付くと、わたしは可奈美ちゃんとの思い出を語り出していた。

 話し出すと自分でも歯止めがきかないくらい、夢中になっていた。

 

 それを静かに頷きながら聞く百鬼丸さん。

 初めて本心から可奈美ちゃんのことについて話している気がした。

 可奈美ちゃんに羨望の眼差しと同時に抱く劣等感。

 本当は自分に自身がなくて、それでも柳瀬家の長女として恥ずかしくないようにしてきた努力も、気が付くと弱音まで吐露していた。

 

 「――って、わたしはなにを話しているんでしょうね」

 急に恥ずかしくなって、取り繕うように笑ってみた。

 「そういえば、可奈美に聞いたんだけど、北辰なんちゃら流っていうのは舞衣の流派だろ?」

 「……? はい、そうですけど」

 顎を軽く掻きながら百鬼丸さんは言葉を続ける。

 「最初、可奈美と剣を合わせたとき、鶺鴒の尾っぽみたいにピンピン、と上下に微動してたんだ。あれは舞衣の流派のものだろ?」

 「ええ、そうですね。でも、流派の違う可奈美ちゃんがどうして――あっ、もしかして」

 「ん?」

 「推測ですが、わたしの流派は現代の剣術の基礎に大きく関わっているんです。だから、恐らく可奈美ちゃんはその基礎基本になる北辰一刀流を合理的に剣術の基礎を学ばせるために使ったのかも……」

 

 可奈美ちゃんだったらありえる。

 「ふふっ、可奈美ちゃんらしいなぁ……」

 何気ない心遣いができて、向日葵みたいに明るい笑顔。可奈美ちゃんは本当に天使。

 

 

 百鬼丸さんはわたしの顔を面白げに眺めながら、

 「そっかー。何だかんだ、舞衣を信頼してるんだな」

 「そっ、そんなことないです」

 「そうか? 沙耶香のSOSに気づいてやれたのも、舞衣だからだと思うぞ」

 

 ――沙耶香ちゃん

 

 「きっと、わたしじゃなくても良かったんだと思います。でも、もう二度と沙耶香が悲しんだりする顔はみたくないから……かも知れません。だから力になれると思って」

 「なんでそこまでしたがるんだ? 言っちゃ悪いが、舞衣にはそこまでする理由はないだろうに」

 言われてみて、確かにそうだと気づいた。

 

 

 「ですよね。でも、わたしお姉ちゃんだから。下に妹たちがいて、その世話をしてきたから……その延長っていうのも変ですけど、守ってあげたくなったんです。たぶん、それがわたしがここに居る理由です」

 

 十条さんみたいに確固たる信念もないし、可奈美ちゃんみたいに強くなくて、舞草の古波蔵さんや益子さんみたいな背景もない。――でも、わたしが、ココにいる理由は、本当はこんな単純だったんだ。

 「ふふっ、百鬼丸さん。ありがとうございます」

 「ん? うん? よく分からないけど、どういたしまして?」

 百鬼丸さんの認識を改めよう……少なくとも、変態だけど悪い人じゃないみたい。

 

 

 「可奈美は確かに天才だけど、それも努力があってこそなんだな」

 「――そうですね。わたしが知る限り、美濃関でも可奈美ちゃんほど剣術で努力してる人はいないと思います。でも、それ以外の授業とかは居眠りで怒られて……ふふっ。あっ、ごめんなさい」

 

 百鬼丸さんは口を軽く歪ませながら、

 「そうか。でも、舞衣はよく可奈美をみて、そんでよく頑張ってきてるんだな」

 「えっ?」

 初めてそんなことをいわれて、わたしは戸惑った。

 肩をすくめながら百鬼丸さんは、

 「そこまで観察して自分を高めるために、努力するってのは中々できねーぞ。おれだったら諦めてるかもな」

 「……自分のできることをやるので精一杯です」

 「それでも十分だ。まぁ、無理はすんなよ。……沙耶香もそうだが、意外と舞衣みたいな奴も心配なタイプだからな」

 わたしの肩を優しく叩いた。

 「――はい」

 気恥しいくてわたしは俯いた。

 …………可奈美ちゃん、沙耶香ちゃんが百鬼丸さんに興味をもつ理由も少し解る気がした。

 

 

 ちらっ、と百鬼丸さんは周りを一瞥しながら、

 「しかし、お菓子づくりか。いいなぁ。そうだ、冷たい飲み物が欲しいなぁ、すまんが冷蔵庫を開けるぞ」

 百鬼丸さんはそう言いながら、冷蔵庫を開け――

 (まずいっ! 冷蔵庫の中には今朝の可奈美ちゃんの汗が染み付いたタオルを保管しているジップロックの袋が……)

 「ひ、ひひひ百鬼丸さん!」

 「うん? どうした?」

 「今日は暑いですね」

 「そうだな。だから麦茶を……うん? なんだこのタオルの入った袋は? えっと、なになに? ○月×日可奈美ちゃんの汗タオル? うん? これは一体むごっ……」

 「ごめんなさい、百鬼丸さん!」

 わたしは以前に読んだことのある『実録乳圧の恐ろしさ――記憶の奪い方について(民民書房)』を思い出す。

 

 説明しよう、乳圧とは豊かな女性のバストで思い切り顔面を押さえつける新技である。乳殺の亜流でもある。

まず頚椎を抑えながら、一気に胸を男の鼻と口を塞ぐように圧迫する。乳殺と異なり、成功率は低いが、簡単お手軽な方法のため、よく西洋の舞踏会では都合の出来事を忘れさせる方法として婦人たちの間で流行した。……ただし、貧乳では鼻をへし折る事故が起こるために、貧乳が乳圧を行えない法律が施行された。

 『実録乳圧の恐ろしさ――記憶の奪い方について(民民書房)』より引用

 

 

 わたしは屈んだ百鬼丸さんに飛びつき、そのまま壁に押さえつけた。

 「……むごごっ、ぐるじいぃいいい」

 ジタバタと狼狽える百鬼丸に「ごめんなさい、すぐ終わりますから」と囁いた。正直、自分の大きな胸はあまり好きじゃないけど、今は感謝している。

 「――んっ、あっ……暴れない……んっ……でください……」

 百鬼丸さんが必死にわたしの胸の谷間で暴れている。

 でも、ここで可奈美ちゃんタオルの存在がバレては一大事だ。……奥の手を使うしかない。

 

 

 「百鬼丸さん、ごめんなさい。えいっ」

 わたしは胸を思い切り寄せて、百鬼丸さんの鼻を完全に挟んで窒息させた。

 「むごごごごごごご(おれなにかした?)」

 最後の断末魔のあと、次第に白目を剥いてきた。ジタバタした足もやがて床に静かに伸びた。

 「ふぅーーっ」

 わたしはひと仕事終えたあとの達成感に浸っていた。

 

 

 3

 百鬼丸は目覚めたとき、クッキーの甘く香ばしい匂いと、淹れたての紅茶をぼんやりと視界に入った。

 

 「あれ? おれは何をしてたんだっけ?」

 確か、舞草の里の侵入経路の遮断工作をして、そのあとこの公民館で……

 「百鬼丸さん、起きたんですか?」

 舞衣は安堵した様子で、翡翠色の美しい瞳を光らせながら、微笑した。

 「あ、ああ。そうか、クッキーをもらって食べてたんだよな……それで、冷蔵庫を」

 「開けてません」

 「え?」

 舞衣の笑顔が怖い。

 「百鬼丸さんは何もみてない……いいですね?」

 優しく左手を握り、そう告げる。

 心なしか、エプロンの下に隠れた丸味を帯びた双丘の輪郭が、たぷん、と揺れた気がする。

 

 

 ゾゾゾ、と百鬼丸の背筋が寒くなる。

 「あ、ああ。そうだな。なんか思い出したらマズイ気がするからな、うん」

 にこっ、と微笑みながら舞衣は、

 「そうですよ、百鬼丸さんったら、ふふふっ」

 「あははは。そうだ、この手前のクッキーをもらうぞ」

 「はい、どうぞ。それトリカブト入りです」

 「それ死ぬよね? おれを完全に殺しにかかってるよね?」

 「もう、冗談ですよ……半分」

 「なんで最後だけ小声でボソッと言うの!? つーか、半分は冗談じゃねーんだろ? やべーじゃん! 完全におれを仕留めにきてるじゃん!」

 

 4

 H鋼、質量五〇〇kgを数本ほど用意した。

 クレーンでなければ、まず人間が単独での運搬は不可能である。

 それを五本軽々と運んで、地面に突き刺した百鬼丸は、自然と地面に腰を下ろして落胆していた。

 理由は単純である。

 

 大きな胸が怖い。

 

 エレンや舞衣の胸をみるたびに怖くて仕方ない。しかも、この舞草の拠点は長船女学園の管理にあり、胸の大きな刀使がそこらへんをウロウロしている。

 「なんってこった! このおれがたかだかおっぱいに恐れをなしているなんて」

 百鬼丸は自身の不甲斐なさに、自信喪失していた。

 今までどんな強敵にも感じなかった恐れ……まさか、おっぱいに恐れるとは……

 

 

 

 百鬼丸が頭を抱えていると、不意に頭の上に何やら、小さな生き物の乗っかる感覚がした。

 上目遣いで百鬼丸は確認しようとした。

 「ねね~♪」

 薫のペットのねねだった。

 (なんで、こんなところにいるんだ? コイツ)

 「おい、なんだねね。おれは今深刻な悩みがあって忙しいんだ――」

 「ねね?」

 首を傾げるねね。

 「おれは、今おっぱい恐怖症を患っているんだ!」

 「ねねー(ほんと?)」

 

 

 百鬼丸は、ねねの言葉のニュアンスを理解できるようになっていた。それもそのはずである。普通の人間よりも、荒魂に近しい存在の百鬼丸は、荒魂であるねねの言葉もなんとなく理解できるのだ!

 「ねね、ねねねねねねねねね。ねねーねね(おっぱいは恐ろしくない、おっぱいを怖がるのはおっぱいの深淵を覗いてないからだよ。おっぱいを覗くとき、おっぱいもまた君を覗いているんだよ! おっぱいは怖くない!)」

 

 百鬼丸は俯いた顔をあげ、

 「おっぱいが怖くない……だと?」

 「ねね(そうさ!)」

 「そんな、嘘だ! おれは怖くて怖くて……」

 「ねねーー」

 小さな前足で百鬼丸はビンタされた。

 

 「だっ、だって……」

 「ねね! ねね、ねねねねね!(おっぱいの恐怖はおっぱいでしか解決できないんだ! どんどんおっぱいに埋もれて克服しよう! 一緒に頑張ろう!)」

 

 百鬼丸はその瞬間、天啓を得たような錯覚がした。まるで霧のようにモヤモヤした気持ちが晴れた気分だった。

 

 「そうかねね! いいや、ねね師匠! おれは間違えていた! おっぱいは怖くない! そう怖くないんだ! おれが一方的におっぱいを恐れて、本当のおっぱいをみれていなかったんだ! ありがとう、ありがとう、ねね師匠!!」

 

 「ねね!」

 

 百鬼丸とねねは固い固い握手を交わした。これは男(?)同士にしか分からない熱い友情の握手だった。

 

 「おい、そのクソみたいな決意と宣言はなんなんだ、こら」

 それを間近で、ゴミでも見るように吐き捨てて言う薫。

 

 「――あっ、チビ助いつからいたんだ!?」

 百鬼丸は驚いて腰を抜かした。薫は深い溜息をつきながら、

 「ねねがお前の頭に乗っかったとこからずーーーっと居たぞ」

 「な、なんてコッタ……」

 百鬼丸は蒼白な顔で、首を振る。

 

 おっぱいロードの道は険しいらしい。ねねに視線を投げると、「ねね?」と純粋そうな獣を演じていた。とっくに、淫獣だとバレたのにこの図々しさ。

 「おれもおっぱいロードを諦めないぜ」

 百鬼丸は爽やかに笑った。

 

 最早醒め切った顔で薫が、

 「……一言いいか? くたばれ」

 中指を立てた。

 




最初に謝ります、すいません。舞衣ちゃんの性格がかなり変わりました。クレイジーサイコレズお姉さんになりました。

……むしゃくしゃしてやった、記憶はない(現実逃避)


ごめんなさい!


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34話

 露骨な留守番命令に不満を感じないわけではなかったが、双葉は午前の書類関係の整理を終わらせると、午後から別の作業の準備をしていた。その途中、ふと執務室からみえる窓の無限に目を逸らす。

 層積雲の広がる蒼穹がみえた。

 

 折神家は舞草拠点の突入作戦の準備で大忙しだった。

 今も、STTと背に印字された防弾ジャケットを羽織った厳しい機動隊員が廊下を闊歩していた。

 

 中庭では資材物資の運搬作業の光景をみる度に、双葉に焦りを与える。

 

 (――わたしも、本当だったらこの作戦に)

 

 いくら悔やんでも、過ぎ去ったことは仕方ない。

 

 「……はぁ。事務仕事か」

 

 机の上に聳える紙の小塔群を一瞥して、呆れの息を吐き出す。これでは便利屋ではないか。せっかく親衛隊というエリート集団に選ばれたのに。

 

 いや、本当は義兄があの拠点に居るのに……。

 

 懊悩しながらも、根が真面目な双葉は再び執務椅子に座り、仕事を始める。

 と、ボールペンを動かした矢先に扉を軽く叩く音がした。

 

 「はい、どうぞ」

 

 紙面に目を通しながら応じる。恐らく機動隊の人間だろうか。物資の運搬予定数や、事前連絡の類でも聞きにきたのだろう。

 

 そう独り合点していた双葉だった。

 

 ――が、予想は裏切られた。

 

 「やっほ~、双葉ちゃん。げんきー?」

 

 扉の陰から姿を現したのは、第四席の燕結芽だった。

 

 「えっ? 燕さん? どうしてここに?」

 

 にこにこ不気味なまでの笑顔で入室する。

 

 撫子色の髪が、ふわりと舞う。毛先は青味がかっており二層のグラデーションが綺麗に分かれていた。

 

 小さく華奢な体つきは一二歳という年齢故である。軽い足取りで執務室の床を歩きながら双葉の問に、

 

 「うぅ~ん、なんでだっけ?」

 

 唇下に人差し指を当て、目線を室内に彷徨わせる。

 

 同性からみても、本当に可愛らしいと思う。イメージでいえば小悪魔というのが適当だろう。双葉は漫然と目の前の彼女を眺めていた。

 

 「ど、どうしたんですか? えっと、お金なら持ってませんよ……?」

 

 カツアゲにきたのだろうか? 最近ハマっている謎のマスコットキャラ商品を揃えている結芽だから、あるいは――

 

 怯えながらも失礼な勘違いをする双葉を見つめて、

 

 「むぅ~、いま酷いこと考えてたでしょ?」

 

 眉間に皺を寄せ頬を膨らませる。

 

 「えっ? い、いえ。ぜんぜん、そんな事ないです。まさか、カツアゲにきたとか思ってません!」

 

 あっ、マズイ。つい本音が漏れた……。双葉は後悔した。

 

 その本人に目をやると、案の定、膨をらませて、その白い肌を薄赤くして怒っていた。年相応のあどけなさに、

 

 (あっ、可愛いな)

 

 と、見惚れた。

 

 その発言に結芽は、

 

 「そんなことしないし! せっかく出発前に謝りにきたのに!」

 

 小さな踵を返してずんずん、大股の不機嫌な足取りで退出しようとした。

 

 「――可愛い……っ、じゃなかった。燕さん! 待ってください。あの~、よかったら貰い物の期間限定のイチゴ味のチョコレートでも……」

 

 双葉は執務机の脇に置かれた紙袋からお菓子の箱を取り出す。

 ぴたり、と結芽の足が止まったかと思うと、そのまま一歩、二歩と後退して再び踵を返す。

 

 「ふぅーーーん、全然お菓子に興味なんてないけど、双葉ちゃんがどうしても食べて欲しいっていうなら、せっかくだし貰ってもいいけど……?」

 

 腕組みをし、片目を瞑り見ないように努力しているものの、もう片方の目が開かれてチラチラとお菓子の箱を窺っている。明らかに食べたそうだ。

 

 (そういえば、動物園のうさぎの餌遣りみたい――)

 

 可愛らしく滑稽な所作に思わず「ふっ」と噴出してしまった双葉。

 

 「な、なに? 別に欲しくないから」

 

 目敏く双葉の反応を察知し、必死に否定する。

 

 「……ふふっ、あっ。えーっとですね、どーーーしても、燕さんに食べて欲しいです。美味しいらしいですよ」

 

 高級な包装紙を破り、箱を開くと甘いイチゴとチョコレートの香りが二人の鼻腔に漂う。

 

 「うぅ……し、仕方ないな~。そこまでいうなら食べてあげてもいいよ」

 

 瞳を輝かせながら、結芽は双葉の傍まで近寄り口を開く。

 

 双葉はチョコの銀紙を剥がし、

 

 「はい、どうぞ」

 

 そのまま、小さな口に放り込む。

 

 (文字通り、燕の雛みたい)

 

 もにゅ、もにゅ、と嬉しそうに咀嚼する結芽がそうみえた。

 

 

 箱の半分以上を食べてから結芽は唐突に思い出したようで、

 

 「おいしい~、じゃなかった。双葉ちゃん」

 

 餌遣りの手を止め、

 

 「――はい?」

 

 正面の結芽を見据える。

 

 「……めん」

 

 本当に小さく微かな声で聞き取れない音量で結芽は囁く。

 

 「えっ? すいません。もう一度お願いします」

 

 「…………だ~か~ら~前のことはごめんなさいって言ったのぉ!」

 

 半ばヤケクソ気味に叫ぶ。

 

 はて、と双葉は考える。

 

 (あ、もしかして廊下での一件かな?)

 

 確かに驚きはしたが、実際に親衛隊内で最弱は自分だ。結芽の言うとおりだ。そう納得しているから、悔しさこそあるものの恨みはない。それに泣いている場面を思い出す方が恥ずかしくて、何を言われたか正直きちんと覚えてない。

 

 「ああ、前のことだったら全然気にしてません。むしろ事実ですから、もっと頑張ろうって思いました」

 

 結芽はふと、双葉の首筋に青痣に似た注射痕を視認した。

 

 「……ふ~ん、そっか」

 

 急に瞳は暗く表情は翳る。

 

 「はい、そうです」明るくいう双葉。

 

 「……ねぇ、双葉ちゃん。私たち、もう戻れないよ」

 

 珍しく、結芽が後ろ向きな発言をした。

 

 「ええ? そうですね」

 

 「――でも、他に方法がなかったら、選ぶしかないよね」

 

 まるでなにかを確認するように、強く念押しするようにいう。

 

 「そうですね……」

 

 深い虚無感の張り付いた表情の結芽。

 

 らしくない結芽に少し憤りを覚えた双葉は、

 

 「あっ、謝りにきて下さったなら、ひとつわたしのお願いきいてくれますか?」

 結芽の小さな両手をとり、握る。

 

 「……なぁに~」

 

 反応の薄い顔で、双葉を見返す。

 

 「えーっと、ですね。五分間だけ頭なでなでしていいですか?」

 

 「どうして?」

 

 「なんとなく?」

 

 えぇ~、と結芽は渋面をつくったものの拒絶はしなかった。

 

 以前のことで言いすぎた、と自覚しているのか、双葉の要求を呑んだ様子である。

 

 「…………いいよ、別に」

 

 俯き、素早く双葉の手元からお菓子箱をひったくると、むしゃむしゃと食べはじめた。

 

 「では、遠慮なく!」

 

 堂々と宣言して双葉は柔らかな撫子色の髪を撫で始めた。枝毛もないなめらかな手触りで、指の間から砂のようにサラサラと髪束が流れてゆく。

 

 「最高っ」

 

 ニヤケながら呟いた。

 

 このあと、結芽を抱きしめ、ぬいぐるみ扱いをして至福の五分間を味わった。……当然そのあと本人に滅茶苦茶、怒られた。

 

 

 

 

 

 結芽の帰り際にふと、

 

 「そういえば、久々の出撃大丈夫ですか?」双葉は尋ねた。

 

 彼女の体では、正直長期移動もままならないではないのか、心配や不安がよぎった。

 しかし扉の陰から結芽は頭の覗かせて、

 

 「うん♪ ぜんぜん大丈夫~♪ もしかしたら、双葉ちゃんの百鬼丸おにーさんを倒しちゃうかも~」

 

 にひひ、と口を曲げて快活に笑った。

 

 その言葉に双葉は一瞬驚いたが、すぐに平常心を取り戻し、

 

 「……そうだと嬉しいですけど、兄は、百鬼丸は強いですよ。たぶん、本気の百鬼丸は強いです」

 

 偽らざる答えだった。

 キョトン、とした結芽は瞬きをするとシュシュで結んだ髪を揺らめかせ、

 

 「へぇ~、じゃあ百鬼丸おにーさんを倒したら皆は褒めてくれるかなぁ? 前に戦ったけど、正直私が本気出したらスグ倒しちゃうかも~」

 

 「――ええ。皆さん褒めてくれると思います。頑張って下さい」

 

 わかったーー、と元気に扉から出ていく結芽。その小さな背中を見送りながら双葉は冷たい醒めた目で暫くその場に佇んだ。

 

 (にいさんはわたしが必ず……)

 

 拳を強く握った。

 

 

 

 

 2

 「……んで、なにか用事か、チビ助」

 

 百鬼丸は不貞腐れていた。

 

 「あ? チビ助いうな、殺すぞ」

 

 「あー、はいはい、分かりました。それより、薫はあれか? 今度は年長組かな?」

 「おい、もういちど言ってみろ、祢々切丸のサビにしてやるからな、オイ待ってろ!」

 

 うぉりゃーーと怒鳴りながら、拳を握り腕をブンブンと回して突撃する薫の薄桃色の頭を掴んで、

 

 「おお、こええな」

 

 口端を曲げる百鬼丸。

 

 暫く両者は睨みあったあと、

 「……んで、すまん。だから何か用事あるんだろ? すまん」

 

 百鬼丸が詫びた。

 

 ふんっ、と百鬼丸の手を払い除け腕組みをする薫。

 

 「そうだな。連日里の近くで歩き回る男がいて、そいつは建築資材と巨岩を道の端に集めてるって噂になってんだ。だからオレが様子をみにきたってワケだ。……まぁ、犯人はお前って分かりきってたけどな」

 

 鼻を膨らませ堂々と胸を張る。

 

 ありゃー、と百鬼丸は頭をガシガシと掻いて苦笑いする。

 

 「――んで、一体どう言う料簡なんだ? これは? どーせ、お前のことだ。何も考えてないわけはないんだろ?」

 

 チラ、と横目で百鬼丸を窺う。

 

 顎を触りながら百鬼丸は首を傾げる。

 

 「うーん、まぁ、色々だ」

 

 思わず薫はカチン、ときた。

 

 「おい、お前いまの状況わかってるのか? 舞草の里は、半分以上が民間人だ。舞草の里であることを知らない人も多い。ただでさえ隠さないといけない事が多いのに――それにお前だって、人に白い目で見られるのは嫌だろ?」

 

 まくし立てて言う薫は、普段の気だるげな雰囲気ではなく、真剣味をおびていた。

 

 たじろぎながら、百鬼丸は「まぁ、まぁ」と手で制する。

 

 「――悪いがいまは言えないし、おれの勝手な憶測だけで周りを混乱させたくない。それに、おれは人に嫌われるのには慣れてるからな、あははは」

 

 ヘラヘラとした言い方。薫は、眉間に皺を刻み思い切り腕を伸ばして百鬼丸の胸倉を掴んだ。

 

「おいコラ、お前なんでヘラヘラしてんだ! ……お前のやっていることは多分オレには分からないけど、お前なりの考えがあるなら、オレはフォローする。――だけどな、お前がオレたちのためにやってて、そんでお前だけ悪者扱いされてて気分が悪いんだ! それにヘラヘラして、挙句に『人に嫌われても構わない』だ。ボケ! かっこつけすぎだ! ……いいか、二度とそんな愛想笑いするな」

 

 吐き捨てた薫は、きっ、と百鬼丸を睨んだ。

 

「……おう」

 

 気まずい顔で百鬼丸は頷く。

 

 

 百鬼丸は思い出していた。

 九歳のころから、人里に現れた荒魂を退治してきたことを。正体がバレないようにマントローブで姿を隠しながら人目を避けて退治してきた。――だが、人が襲われる場面に幾度も遭遇してきた。その度に無慈悲に荒魂を討伐してきた。

 ……だが、助けたはずの人々は百鬼丸に礼や感謝を述べるどころか、口々に「化物」や「気味が悪い」「荒魂を引き連れてきた張本人」などと陰口を叩かれ、挙句、犯人扱いとして通報もうけてきた。酷いときには、人々に石を投げつけられることもあり、唾を吐きつけられた。

 

 そのときは、正直なんの為に人を助けたのか分からなくなり、憔悴した。ひどく虚しく、自暴自棄になった。

 

 ……確かにおれは化物なのかもしれない

 

 手も足も、全て偽物だ。目も耳も無い。

 だけど、「心」は普通の人間と変わらないはずなのに……幼い百鬼丸は嘆いた。

 だが、涙は出なかった。いいや、出せなかった。涙腺が機能しなかった。ただ、嘆いた。声帯が無いから、心の底から哭くしかなかった。

 それでも、人を助ける為に荒魂の退治を辞めなかった。

 誰かが傷つけられるのを、黙って見ていれるほど冷淡になりきれなかったのかもしれない。あるいは、真の大馬鹿者なのかもしれない。――多分後者だ。

 その偽物の体が無意識に動いていた。

 百鬼丸は謗られる覚悟で、次々と討伐した。

 案の定、人々の無知と悪意に晒された。

 それでも、誰かが死ぬより、よっぽどマシだと思った。

 

 

 胸に標榜したのはいつも養父の口癖の「誰かを助けれるなら助けるべきだ」という言葉だった。傷ついた時はいつも胸の辺を掴んで、この言葉を口ずさむ。

 ――それが唯一、「化物」である自分ができる、「人間」らしく、「人間」でいられる方法だったからだ。

 

 

 

 「おい、大丈夫か……?」

 

 心配そうに薫が百鬼丸を見上げる。少し言いすぎた、と小声で反省していた。

 

 過去の苦い経験に顔を歪めていた百鬼丸は取り繕うように笑う。

 

 「お、おう元気! 全然元気だぜ!」

 

 薫は百鬼丸の隠し事をしていることに気がついたが、深い個人的な問題だと認識したように「はぁ~」と大きく溜息をつく。

 

 頭の後ろをガシガシと掻いた。

 

 それからおもむろに、

 

 「――あ~、えーっと、オレの、益子の家について聞いてくれ」

 

 薫が話しを切り出す。

 

 「益子家は代々この荒魂の〝ねね〟を使役してきた。んで、オレのポリシーは荒魂だからと言ってただ斬ることを良しとしない」 

 

 「なんでだ? 荒魂は始末すべきだろ?」

 

 「じゃあ、お前はねねを斬るのか?」

 

 百鬼丸は足元のねねを眺める。

 

 「――」

 

 躊躇の色を読み取った薫は優しく微笑む。

 

 「いくら荒魂でも、色んなやつがいる。人に害をなす奴もいればねねみたいに無害――いいや、コイツはスケベだから有害か」

 

 すかさず足元のねねが、「ねね!」と抗議の怒りを示す。

 

 ふっ、と笑いながら薫は続ける。

 

 「オレが言いたいのは、自分で考えろってことだ」

 

 百鬼丸の脳裏には、養父を刺した時の事を思い出していた。

 

 「――もし、もしも殺したくない相手でもそうなった場合は? 薫はどうする?」

 

 目を細め、

 

 「斬る。……仮にもし、ねねが荒魂として人々に害をなすなら、オレがこの手でけじめをつけないといけない。仮に、だがな。――でも今まで益子の刀使はそうして大切だったモノも斬ってきた」

 

 「辛くはないのか? せっかく仲良くなれるかもしれない荒魂とも、そのけじめを自分自身でつけないといけない……ってのは」

 

 薫は手を開き、百鬼丸にかざす。

 

 「……だからこそ、生ぬるい『自分で考える』ってことが実践できんだ。いいか、理想論は机上の空論じゃダメなんだ。全部自分で背負う。その覚悟があって、初めて生ぬるい理想論を掲げられるんだ」

 

 百鬼丸は初めて、自分がしてきた事の意味のひとつを知った気がした。

 

 「……そうか。おれは、おれも……」

 

 両手のひらの義手をぐっ、と力を込めて握り締める。

 

 「薫、ありがとな。散々茶化してすまない。おれが進む道のヒントになった気がする。そして、救われた。ありがとうな」

 

 「お、おう。なんだ急に」

 

 初めて薫、と名前で呼ばれた気がして驚いた。

 

 「よし、お礼だ。高い高いしてやるぞ」

 

 「――ちょっ」

 

 戸惑う薫を無視して百鬼丸は薫の両脇を掴んで「高い高いー」と宙に浮かせて上下させてやった。

 

 「ば、ばかやめろ」

 

 顔を赤くして薫は抗議した。

 

 「遠慮すんなよ」

 

 「してないぞ、ボケ」

 

 むきーっ、と敵意をむき出しにしながら薫は怒っていた。

 

 だが対面する百鬼丸の顔が爽やかで、落ち着いているのを認めると、少しだけ安堵した。まだ隠し事を打ちあけない奴だけど、それでも彼なりに苦労しているのだ。

 

 薫は肩を竦めて、小さく「ばかだな、お前」と微笑した。

 



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35話

 縁日、というのはどうも性に合わない。

 百鬼丸は頻繁に視線を左右にやりながら、気まずそうな顔で華やぐ人々と喧騒を抜ける。まるで酢でも呑んだような表情で百鬼丸は足をはやめる。

 社殿に続く石畳道の両側に整然と並ぶ屋台。

 昼ごろには、縁日の準備をする賑やかさは最高潮に達した。

 

 「……さて、どうしたもんかね」

 人ごみを抜けた百鬼丸は所在なさげに、しばらく周りを観察した。

 彼らは人としての営みの中に身を置いている。人としての充実した生活を送るだろう。どの人にも笑顔や、親しみの様子が百鬼丸の瞳に映る。

 この、日々を生きる人々の生命を脅かす異形の怪物から「刀使」が守ってきた。

 仮に異形の化物が消滅したとしたら? 

 この世のどこかに、おれの居場所はあるだろうか? わからない。しかし、いくら考えたところで、今更おれはこの安寧の輪には入れないことは間違いない。

 百鬼丸は歩き出した。

 「ぶぇっくちっ」

 と、突然くしゃみが出た。

 「誰かうわさ――は、されてるだろうなぁ……」

 背筋がぞわっ、とした百鬼丸。彼はまだ知らない……彼の居ないところで、露天風呂の衣服を盗んだ変態犯人として勇名を馳せていることを。無論、百鬼丸は無実で、冤罪である。

 

 

 

 そして、彼が仮に現場に居合わせたならば、こう釈明するだろう。

 『なにィ? おれが犯人だと? ……そう怒るな。おれは悪くないし、無実だ。無実だが、お前たちの怒りを鎮めるため仕方なく、仕方なく殴られてやる。さぁ、ボコボコにしてくれ。いいか、手加減するなよ? おれは犯人じゃないし、無実だけど、疑われれば仕方ないから、ボコボコにしてくれ。気を晴らすための行為だ。さぁ! ぶってくれ!』

 

 もはや取り返しの付かないド変態と化していた。彼はあまりに調教され過ぎたのである。

 

 

 1

 琥珀色の瞳が、

 「あれ? 百鬼丸さんいないね?」

 人を探していた。

 可奈美たち六人は浴衣に着替え、境内に続く涼やかな林道をゆく。下駄の音をカラン、コロン、と響かせて歩いていた。

 薫が、

 「――さぁな。あのクソ変態ペド野郎がどこにいるか気になるのか? 可奈美はそんなにアイツが気になるのか?」

 そう問われ、「うぅ~ん」としばらく唸ったあと、

 「せっかくだから、お祭り一緒にまわりたいと思ったけど……」

 あはは、と少しだけ寂しそうに微笑する。

 隣りの姫和は目を細め、

 「あんな変態……」と渋い表情でいった。

 「まるまる、散々な評価で可哀想でス」肩をすくめ、首を振るエレン。

 「……百鬼丸、村の外れでみた」

 沙耶香が足をとめ、呟いた。

 「えっ? 沙耶香ちゃん、それ本当? ……じゃあ、もしかして昨日、泥だらけだったのって何かしてたのかな?」

 

 

 2

 山に入る道すがら、ずっと彼は考えていた。

 百鬼丸には二つの課題があった。

 

 一つ、人を殺さず足止めすること

 二つ、三方の守りを行う際にどの地点を重点的に防護すること

 

 殺してよいのならば、様々なトラップが考えつく。――しかし、あくまで相手は人間だ。

 しかも、たった一人でゲリラ戦を展開しなければならない。

 刀使は主力戦力ではあっても、工兵などの補助戦力ではない。

 (時間が……時間がない……全く無い)

 籠城とは援軍を期待するか、籠城による時間稼ぎの二つの意味合いがある。今回は後者だ。攻め手は豊富な人員と物資を背景にした戦力である。

 「……こりゃ、無理かもな」

 たった一人の籠城。

 その単語が浮かび、バカバカしさに鼻で笑おうとした。

 『刀使を守って下さい……』

 朱音の言葉が不意に思い出された。

 

 「――チッ、あんなこと約束しなけりゃよかったな」

 後ろ髪を縄で結んだだけの頭をガシガシと掻いて、肩を一度落とす。

 両頬をバシバシ、と叩き、

 「よぉし、やるかッ!」

 決意をあらたにした。

 

 

 

 3

 舞草の刀使の詰所である社殿の小屋に赴いた百鬼丸は、長船女学園の二人を発見した。

「ええっと、米村孝子と小川聡美だな?」

 呼び捨てにされたひとり――孝子は、耳元辺まで伸びた黒髪の勝気な少女だった。

「なにか用でも?」

 舞草での訓練で百鬼丸に痛い目にあって、やや不機嫌である。

「確実に敵がくる……こんなギリギリに伝えて悪い、防御に時間がかったからだ」

 突然の物言いに戸惑ったのは、聡美だった。彼女は大きな三つ編みを左肩から垂らしている。

「……そんな、証拠は?」 

 百鬼丸はただ無表情に首を振り、「証拠はない……だが、人体投与されたノロ特有の感覚が近づいてくるんだ」朴訥に言い放つ。

「信じられるかっ、大体お前はなんの権限があって、この村の三方向を塞いでいる?」

 孝子は激昂気味に返す。

「別に信じてくれなくてもいい。……ただ、準備だけはしてくれ。もし、仮に敵がきたらおれは、必ず東から時計回りに移動している……覚えておいてくれ」

 そう言い残して、詰所を出た。

「孝子……多分、あの子は嘘をついてないと思う」聡美は心配そうな視線で百鬼丸を見送った。

 苦虫を噛むように、

「わかっている……だけど、確証がない」

 まさか、百鬼丸の「勘」を頼りに行動するほど、組織の実働部隊を預かる孝子にとって判断に苦慮するものはない。個人的であれば信じることも可能だ。いいや、信じてやりたい程の誠実さを感じていた。

「ちっ」

 百鬼丸という少年を信じてやれない立場の自分が歯がゆく、舌打ちをした。

 

 

 

 4

 「それは、本当ですか?」

 朱音は目を瞠り、しばらく声が出せずにいた。

 「――ええ、本当です」

 百鬼丸は社殿奥で、祭事の準備を手伝っていた折神朱音を見つけると、人気のない境内裏に呼び、事情を説明した。

 

 

 一通り聞き終わったあと朱音は、

 「でも、どうして」疑問を口にした。

 百鬼丸は右の義眼を動かし、

 「ノロのアンプルです。エレンの持ち帰ったアレが位置情報を特定するシロモノになったんだと。おれの荒魂を探知する思念のソナーと同程度の周波数で位置を知らせるんだ。もうココの場所がバレてると思ってもらっていい。だが、信じてくれなくてもいい。おれは二日でできる限りの妨害はつくった。フリードマンと朱音さんを逃すだけの時間はつくった。……何だかんだ、舞草でおれが自由に動ける権限を与えてくれていたのは、アンタ……朱音さんだろ? 感謝してる。だから、アンタたちを助けたい。恐らく敵は夜陰に乗じてくる。夜山の行動範囲は限られるからな」

 

 

 矢継ぎ早に与えられる情報に、朱音の脳内はショート寸前だった。

 「ま、待って下さい……では、これからどうすれば?」

 百鬼丸は迷いの無い目で、

 「……できるだけ、人を傷つけずに妨害する」

 「相手が人間であれば命を奪うようなことは……」

 「約束はできない」

 「えっ?」

 慄然と百鬼丸の顔を見返した。

 「相手の対応次第だ。もし、相手が危害をくわえるなら、命を奪わないまでも、ある程度の報いは受けてもらう」

 「――ですが、相手の方々も仕事として」

 反論を試みようとする朱音の言葉を遮り、

 「そうだ、相手も仕事だ、任務だ。――だが、この国には職業選択の自由がある。そして、仕事だからと言ってどんな酷いことをしていい理由にはならない。命を奪うような行為をするなら、その仕返しも覚悟しなきゃならん。それが――仕事だろ?」

 暗い瞳の百鬼丸。歴戦の死線を超えた者のみが有する独特の醸し出す雰囲気を感じた。

 朱音はこのとき、百鬼丸少年という正体の一端を知った気がした。

 

 

 

 「……分かりました。敵襲は今日なのですね?」

 決意の固まった声で、訊ねる。

 「ああ、今日しかない。準備と移動距離で割り出すと今日だ」

 

 

 

 顎に手をやり考え込んだ朱音。

 「今から下山して陸路で移動するには、恐らく包囲網ができているでしょうね」

 「ああ」

「となると潜水艦ですか」

 《ノーチラス号》だけは、舞草の一存では決められない。米海軍所属のため、フリードマンの交渉が必要となり、また許諾がおりるまで時間もかかる。

 必然、出発は夜になる。

 朱音の苦悩を読み取った百鬼丸は、

 「……まぁ、おれがもっと早く言ってればよかったんですけどね。おれ自身も確証がもてるのは敵が近づいて来るしかないんです。それにおれ一人が喚いても信頼されるわけないですしね」

 おどけた調子で百鬼丸は笑う。

 

 しかし、その様子がひどく物悲しく朱音にはみえた。

 「なぜ、そこまでしてくれるのですか?」

 堪らず聞かずにはいれなかった。

 少年は、

 「おれを信じてくれた人がいる限り……絶対その相手は守ります。それに、貴方が刀使を守ってくれって言ったじゃないですか? 約束は確実に履行されないといけない。おれは、おれ自身が嘘つきにならない為に、絶対に刀使を守る」

 言い終わると同時に、楡の木が大きくざわめき、擦れあう無数の葉音がきこえた。

 エメラルドグリーンの光が枝の間を縫い、射し込む。

 

 

 

 

 点々と葉影を貼り付ける百鬼丸を一瞥し、

 「今日は祭事があります。露店もあって、楽しいですよ。百鬼丸さんもいかがですか?」

 朱音は無意識に、少年を年相応の子として扱ってやりたくなった。――非力な自分ができるのは、こんなことくらいしかない。

 百鬼丸は驚いたように口を半開きにし、

 「――ええっと、どうも。その……提案は嬉しいです。けど、おれはいいです。おれは、人の中にいると落ち着かなくて」

 はにかんだ。

 「そうですか。無理なことを強いてすみませんでした」

 「い、いえ。ではもう行きます」

 百鬼丸は駆け出した。

 残された朱音は、大人としての立場からしか彼と触れ合えないもどかしさを感じた。本来であれば、彼のやることは止めるべきなのだろうが、現状は彼のとる行動が最適解のだ。

 すなわち、「防護の準備をしつつ待機」である。

 「情けない……ですね」

 子供にばかり負担を強いる自身に対して愚痴をこぼす。

 

 

 

 

 5

 笛太鼓の音色を遠くで聞きながら、百鬼丸は最後の準備を終えた。

 小川の流れる付近の斜面に膝を突き立てて、衝撃波を与える。

 「――まぁ、こんなものだろう」

 ある程度でいい――膝を地面から離して、樹林から射した陽の光を浴びた。

 セミが鳴いている。

 涼やかな微風が、濃密な腐葉土の香りを運ぶ。

 切り出した杉の木を積んで、先端の削り出し加工を終えていた。あとは、無断で拝借する予定の自動車を数台。

 これだけで、合計一時間近くは……いいや、刀使の協力を得ても30分が限界だ。

 「殺さないなら、上出来だろ」

 百鬼丸はぼやいた。

 精神を落ち着ける。

 「あとは、待つだけだ」

 百鬼丸は無理やりに眠り込むことにした。体力が必要だ。馴染み深い山だ。眠れる。安眠ができるのだ……

 

 

 6

 午後七時すぎ頃、舞草の拠点となる山村の哨戒任務に当たっていた長船の一人の刀使が、詰所に血相を変えて地面に転がり込んだ。

 半ば悲鳴のように、

 「米村隊長!」

 叫ぶ。

 その刀使の胸には杭のように長い棒が突き刺さっていた。

 「……ど、どうした? それは?」

 その心配に返事をする暇もなく、

 「いま、村の四方を特別機動隊が包囲しています! わたしが、事情を聞きに行った際に、実弾と共に喰らいました。《写シ》を剥がさないように……皆に伝えてください」

 

 

 つい数分前。

 百鬼丸の予想通り、南側の哨戒に当たっていた長船の刀使二人は、無数のヘッドラインの明かりに驚いた。

 この先は村に続く道である。

 車両から降車した特別機動隊員は列をつくり、盾で防護を固めた。

 そこに事情を問おうと近づいた。

 だが。

 ――発射しろッ

 という鋭い言葉と共に実弾と別のナニカを発射した。

 

 咄嗟に長船の刀使は《写シ》を貼った。しかし杭のような一撃を胸に受けた。

 (早く知らせないと……)

 その使命感だけで、詰所まで赴いた。

 

 そう言い終わると、失神寸前の様子だった。このままでは写シが剥がれると判断し、孝子はすぐさま、杭状のものを抜いた。この子は想像以上にタフな精神力を持っていたようだ。

 

 「……これは、ボーガンの矢?」

 実弾とセットで射撃したとなれば、刀使を殺しにきている。

 そのとき、不意に百鬼丸の顔が浮かんだ。

 あの、彼の一言一句が全てこのときの瞬間を予見していたのだ。そして、全て的中してしまった。

 「――くそっ」 

 改めて、己の判断ミスを悔いるしかない。

 それを慰めるように肩に手を優しく置いた聡美は、

 「それで、百鬼丸くんは?」

 報告にきた刀使は、意識を失う寸前の最後の余力で、

 「……いま、前線の……刀使数人を率いて、防戦を展開して……います……」

 

 

 7

 その言葉通り、百鬼丸は特別機動部隊の展開すると予測される場所、ルートを選別していた。

 彼が駆けつけたときには、すでに一人手負いになっていた。

 話し合いで決着がつくならいい、そう思っていた百鬼丸の期待は見事に裏切られた、そしてブチ切れた。

 「…………キサマら、許さんぞ」冷徹に言い放つ。

 先鋭化した木材と鉄鋼を抱えた百鬼丸は、前面に展開した隊列の特殊機動部隊をわずか三分で単独制圧した。

 

 

 ――恐らく敵の大義名分は「特別災害予定区域」という名目からバリケードで囲い、舞草と民間人を見極める魂胆だろう。

 

 であれば、話は簡単だ。

 装甲車両の進入を阻むために、村に続く山道を人工的に発生させた土砂崩れを発生させればよい。これにより、特別機動隊(STT)の連中は徒歩での移動を強いられる。

 さらに、補給部隊となる後続車両から「催涙弾」を奪う。

 前方と土砂崩れにより寸断された状態であれば、百鬼丸単独で制圧は可能だ。

 また、相手もまさか補給部隊を狙うとは思っていないだろう。あくまで、「刀使」を想定しているのだから。

 

 そのために必要なことは、山の地質調査と地下水の確認、そして人工林の有無である。

 

 幸い、この山は全ての条件が揃っていた。

 そもそも温泉がある時点で、地下水も人工林も、クリアできると予想していた。地質に関しては、周囲との山の条件が重なり、クリアしたことになる。

 

 村の東から侵入するはずだったSTTの隊員たちは戸惑った。本来ならば想定通り、ここの斜面はなだらかな樹林のはずだった。最近は雨も降っていないはず……しかし、隊員たちの膝は泥濘に埋まっていた。

 いわゆる流砂現象である。

 地震の際に発生する地面の沈殿化だが、まず通常時ではありえない。

 地層の土砂の構造配列が変化しなければ不可能である……。

 隊員の一人がふと夜を見上げた。

 シュポン、シュポン、と気の抜けた音が天空から落ちてくる。細く白い煙の尾を引いて……

 「まずいッ、催涙弾だッ!」

 そう警告したときには、すでに遅かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 遊撃のため急ぎ駆けつけた聡美は、現状をうまく理解出来ずにいた。

 百鬼丸の言葉通り、東から順番に四方を回ったが、どこの方面も敵の侵入を阻んでた。

 一巡し終わると、最初の地点に戻ってきた。

 東側に佇んだ百鬼丸は無表情にSTTの隊員たちを眺めながら、聡美の気配に気いた。

 「ああ、きましたか」

 と、まるで待ち合わせでもしていたような態度だった。

 付近に煌々と燃える篝火に、横頬を照らしながら自若泰然としている。

 落ち着きはらった、不気味なまでの余裕。これが、あの頼りなさそうな、人を嫌う風の少年と同一人物だろうか?

 「君は一体なんなの?」

 肩から垂らした三つ編みを揺らし、思わず口走る。

 百鬼丸は肩ごしに、

 「おれは単なる〝化物〟ですよ――人間とは違う、ね」

 皮肉っぽい口調で答えた。

 味方ながら得体のしれない少年を、半ば呆然と眺める聡美。

 しかし、そんな彼女をお構いなしに、

 「さ、次に行きましょう。南――つまり正面。ここを抑えないと」

 足早に百鬼丸は山の夜闇を進んでゆく。

 「……わかった」

 大人しく従うことにした。

 

 8

 南は最も機動隊の人員が多く、かつ開けた場所であり攻めやすく守りにくい地形である。

 「もう朱音さんとフリードマンさんは逃げたかいな?」

 とぼけた調子で、後ろ斜めを歩く聡美に尋ねた。

 「ええ、孝子が護衛をしているから恐らく――大丈夫だと思う」

 百鬼丸は無言で頷くと、

 「足元に気をつけろ。細竹槍を無数に地面に埋めている。連中の分厚い靴底を貫くほどの威力はなくとも、人間は自然と足元に恐怖心を覚える」

 言葉通り、薄闇の地面には斜めに突き立てられた細い竹槍が巧妙に地形を利用していた。

 目視で50名ほどの隊員たちが、足元を気にしながら、前進する。

 

 敵との距離は約70メートル。

 「……よし、やるか」百鬼丸は呟く。

 軽自動車二台、軽トラ一台が後輪片側を木製の直角三角形の上に置いた。

 タイヤと台座の間には瓦礫の破片を挟んでいた。後輪の持ち上がった部分のタイヤの上部は刳り貫かれ、円筒状の中に瓦礫が詰まっていた。

 「これは?」

 不安そうに問うた聡美。

 百鬼丸は無言で、足元に置いたピアノ線を屈んで引く。すると、同時に三台の車の後輪が回転し、挟まれた瓦礫は猛スピードで特別機動隊の透明な盾に衝突した。

 時速八〇キロから一〇〇キロほどの回転から生み出される速度の弾丸。

 ゴン、ゴン、と猛烈な衝突音がした。しかも、機動隊は実弾の発泡を行おうにも地面の不安定性と飛来する瓦礫の弾丸に怯んでいた。

 一歩間違えば重症か、死亡する危険性すらあった。

 それをなんの躊躇もなく、百鬼丸は実行している。

 「……あと五分後には、あんたたちも逃げてくれ。あくまで、この工作はおれ一人の仕業だ。後々こんな工作してた――ってバレるのはよくないだろ?」

 初めて振り返り、悪戯っ子ぽい顔でいう。

 確かに、彼のいうとおりかもしれない。けれど、彼のおかげで労せず機動隊の侵入を阻んでいる。

 「……あとは、お手製のバンブースリングで隊列の横から十字砲火にできる。あの竹槍地面のあとはバレバレの落とし穴……を囮に二段構えの落とし穴だ」

 一体この二日間で彼はなにをしていたのだろうか?

 背後を振り返ると、H鋼が六本、直立で道を塞いでいた。しかも、電線がその六本に繋がれているため、高圧電流の紫が、H鋼に帯電している。この電線の配線は実に巧妙を極め、地面に電流が拡散しないよう、H鋼に巻きつけ、かつ侵入経路の道を遮る工作がなされていた。

 

 これはまるで、戦争……

 

 思わず聡美は声に出した。

 

 百鬼丸はただ口端を釣り上げ、

 「おれもここまでする予定じゃなかった。だが、連中が刀使を……あんたたちを殺しにかかってきてるから、おれも容赦はしない。自分たちのしていることと同等の苦痛を与えてやる」

 

 この日、舞草の拠点制圧に向かった特別機動隊五六〇名は不運に見舞われた。

 装甲車両六台大破。

 補給物資のうち、催涙弾を全て奪取される。

 村の突入から僅か一二分で七七名が負傷した。

 彼らは文字通り、訓練を受けたプロである。しかし、彼らは小細工とも思えるブービートラップに苦戦していた。

 

 ……のち、彼ら隊員の証言によると一番恐ろしかったのは、H鋼を小脇に抱え、それを振り回した「鬼」だったという。

 黒髪を大きく振り乱し、「お前たち、命が惜しければこの先進むべからず」と絶叫していたという。いくら、射撃しても、H鋼を全面に押し出し盾にする。さらに、二本目のH鋼が突き出される。質量五〇〇キログラムが飛び出すのだ。いくら機動隊の盾で防いでも、衝撃で腕や肩が複雑骨折する。

 

 上半身は裸に、二本のH鋼を抱えた百鬼丸は肩を大きく息をつき、壮絶な顔をしていた。汗が滝のように垂れて、引き締まり鍛えあげられた筋肉の皮膚を滑る。

 夜闇の冷気に、体表の湯気があがる。

 

 百鬼丸は文字通り「鬼神」の如き活躍をしていた。

 

 南側は膠着状態に陥った。

 

 西も同様である。

 

 北は一六メートルの岩が道を塞ぐ。

 

 全てが、全ての戦線が、膠着した。

 機動隊は恐れをなして、退却の気配をみせた。

 

 それを眺め、幾分冷静さを取り戻した百鬼丸は汗に塗れたまま鉄骨を地面に叩き落として、

 

 「あとは撤退だけだ。任せた」

 頑張れよ、と聡美の肩を叩き百鬼丸は再び夜の中に姿を消した。

 

 

 9

 その後、尚も戦線に留まる人員の士気を削ることにした。

 百鬼丸は体育座りの姿勢になった。両膝小僧の空洞に、催涙弾を詰め、村の四方を見下ろせる位置につくと、瞑目して落下位置を予測して間接射撃を行う。追撃砲のように膝小僧の銃口から放たれる催涙弾は、的確に効果を発揮した。

 

 心眼で確認すると、機動部隊の人々の煙に咽ぶ感覚がいくつも知覚できた。……だが、まだだ。まだ足りない。

 催涙の煙幕が消えると同時に絶え間なく発射した。

 奪取した内の千発をわずか十三分間で消費した。

 

 ――百鬼丸の脚部は、加速装置と銃砲を兼ねて備えている。

 

 加速装置の場合使用した後のデメリットがあり、普段は使わない。だが、衝撃波を放つ場合――例えば、加速時の全身に負担される衝撃を敢えて、今回のように地面に逃すのであれば、デメリットは無い。

 それに比して、銃砲はかなりの頻度で使用する。

 

 

 無慈悲に、容赦なく、百鬼丸は侵入者を悉く痛めつけた。

 

 特別機動隊の立場からいえば、奇襲の予定だった。しかも、敵は「ノロ」に蝕まれた刀使が仮想敵だったのである。

 まさか、事前情報にない反撃を受けるとは思っていなかったのである。

 

 

 10

 

 舞草の里の上空を旋回するヘリの無線から、現場指揮官の苛立つ声と共に燕結芽の投入の一時的な延期を伝える旨がきた。

 

 後部座席に足を組んでスナック菓子をかじっていた結芽は、形のよい眉を顰め、

 「えぇ〜!? こんなんじゃ全然楽しめないよぉ〜!!」

 不満を爆発させた。せっかく暴れられる機会を失うハメになりかねない。窓の遥か下を見ると、神社の社殿があり、その周囲に篝火が焚かれてい、長船の刀使たちが集結している。

 「ふぅ〜ん、そっか。やっぱり、それしかないよね」

 ひとりごちに、胸元に抱えた御刀の《ニッカリ青江》にぶら下がるマスコットキーホルダーに焦点を合わせ、意地悪い笑みを浮かべる。

 

 月光は冷ややかに、雲間は絶え間なく流れた。

 この日の夜はまだ長く続きそうである。

 




スイマセン、色々ご都合展開ですし、色々「無理あるんじゃね?」ってところはスルー推奨です……スンマセン。


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36話

 海上に面した洞窟には、停泊した原子力潜水艦《ノーチラス号》がその黒い巨体を優雅に横たえていた。

 夜の海は凪いでいる。

 この時期にしては珍しい生温い風が、汗ばんだ頬に髪先を張り付かせる。

 潮の匂いが執拗に鼻に絡みつく。天井から染み出した水滴が、時折地面にピタ、ピタ、と滴り落ち、一定のリズムを奏でている様だ。

 天井に灯る巨大な照明器で最大の明るさになるまで時間がかかるようだ。

 薄暗い中を、舞草の一行はゆく。

 

 

 

 「……くそっ」

 歩調を緩めずに米村孝子は小さく、悔恨の念を漏らした。

 あの少年――百鬼丸のいう通りに従えていれば、どれほどの事態を防げたのだろう。

 だが全てが遅すぎた。敵が迫ってようやく、事の性急性に気が付くというのはなんとも、お笑い種だ。

 御刀の柄を強く握る。

 

 

 「隊長、追っ手は未だこの地点までたどり着いていません」

 斥候に向かった部下の刀使が、早速戻って報告する。

 「ええ、分かった」

 頷いてから、奇妙な視線が奥から注がれるのが感じられた。……一体いつから居たのだろう? 蛇に睨まれたような錯覚の後、背筋が凍った。

 「誰だッ」

 自らを鼓舞して叫び、御刀を抜く構えをする。

 

 ……明らかに、折神家の尖兵であろう。

 

 朱音やフリードマン、そして六人の刀使たちがまだタラップを渡っている最中だった。ここで彼女たちは逃げ切れさえすればいい。 ――最悪の事態、それは、舞草首脳の捕縛。

 これだけは避けなければならない。……薫やエレンたち六人はまだチームとしては荒い部分はあるが、個々人は間違いなく強い。いずれ、もっとチームでも強くなるだろう。その彼女たちが残れば、まだ希望の光はある。

 

 逡巡しても始まらない、そう吹っ切ると孝子は御刀を抜いた。

 

 

 「あぁ〜あ、バレちゃった。えへっ。まだ、機動隊のおじさん達が来てないけど、別にいいよねっ。私の凄いところ、みせてあげるっ♪」

 

 隠し通路の角の陰から、すっ、とナニカが現れた。

 

 なんと華奢な影だろう――素直に、孝子は驚いた。

 「子供?」無意識に口にした。

 しかし、その孝子の言葉に気分を害したのだろう。影から次第にスポットライトを浴びるように照らされる者は、長い撫子色の髪と青色の毛先のグラデーションをふわりと大気に翻した。

 「……私、子供じゃないんだけどっ!」

 甘ったるい、子供っぽい口調。

 

 (どういうこと?)

 

 尚、闇に目を凝らすと背丈の低い少女がまるでダンスのステップでも踏むような足取りで、こちらに迫ってくる。

 

 「名前を名乗りなさいッ!」

 孝子は知らず知らず、冷や汗を頬に流していた。

 (この子は強い……)

 写シを貼った。

 

 

 剣を握る者同士ならば解る、特有の圧迫感。まだこんな幼い子が、老練した達人のような雰囲気を醸し出すとは思えない。否、信じられないのだ。しかも、明らかに実力差がある。――一種、暗澹たる気分が孝子の胸を満たす。

 

 しかし、弱音は今、必要がない。

 

 周囲を確認すると、六人の刀使がいる。勝算がないわけではない。

 孝子の反応を感じ取った少女は、嬉しそうに三日月型に口を歪め、

 「おねーさん、怖いの? だよね。折神家親衛隊第四席、燕結芽……四席でも一番強いけどね、私」

 承認欲求の強い自己紹介に、孝子は思わずイヤミの一つでも言いたくなった。

 「あら? そう。でも残念だけど荒魂に頼っているような刀使に負けはしない」

 左側をシュシュで結んだ髪が、一度揺れた。

 「――――あっそ」

 結芽が冷徹に言い放つ。

 

 その直後。

 

 

 《迅移》により加速した結芽は、孝子を除く六人の刀使を斬り伏せた。

 「くっ」

 あまりの速度に、呆気にとられていた。

 

 ――まるで燕

 

 そう、あの自由に外気を滑空する燕に似ていた。

 孝子の視界には、あの小さな襲撃者は映らない。全身の血管が凍る気がした。 

 気が付くと、結芽の刃は背後から一突きで肩甲骨の間から胸郭を貫いていた。

 

 

 「ぐっ……」

 激痛に悶絶しながら目を後ろに動かす。しかし、そこに敵の姿は無い。

 灼けるような感覚は続いて腹部を襲った。前方に刃を突き立てられていた。孝子が呻く暇もなく、今度は真横から強烈なひと突き。

 

 合計で三度の突き技を喰らった。

 

 疾すぎて認識すら追いつかない。

 気が付くと、膝から地面に崩れ落ちていた。

 孝子は次第に朦朧としてゆく意識の中、

 『私、戦いに荒魂なんて使ってないもん。―ー全部、私の実力だから』

 憎しみきった両眼を細め、御刀の刃を孝子自身の肉体から引き抜く光景。

 

 『神社に残ってた、おねーさんたちの中でも、この人まだマシだったかな』

 そう言うと、足元に捨てていた御刀を握り、ワザと孝子の目の前に転がした。

 

 (あれは……聡美の……御刀?)

 急速に力が萎えて《写シ》が剥がれると同時に意識を失う。

 

 俯いた結芽は、巨大スクリューの回転する音に注意を向けた。

 既に《ノーチラス号》は遠く海へと沈んでいた。

 ワザと逃がしたとはいえ、鬱屈の澱が胸に溜まる感覚がして不完全燃焼だった。

 

 

 

 

 2

 百鬼丸は、神社に倒れた聡美を含む刀使たちを発見した。

 疲れを振り払うように節々に力を込めて、精神を明瞭に保つ。

 「はぁ……はぁ……なんだ、これ?」

 渇いた喉に生唾を呑み込む。

 この村には誰ひとり近づけていない筈である。一体どこから侵入を……?

 と、遠ざかりつつあるプロペラのローター音を夜空の片隅にみつけた。

 「チッ、クソッ」

 天空に吼えた。激昂が細胞の全てから湧き上がる。

 庫裏でみつけた村の古地図に記された、いくつかの脱出ルートを教えるためにこの神社を集合地点に決めたのだが、無駄となってしまった。

 (誰だ? 誰が……)

 荒い神経を研ぎ澄ますように、目を閉じる。肩を上下に大きく、珠の汗を流したままにする。

 

 ――ノロの残滓?

 

 ああ、成程。これは、おれが探知していたノロを受け入れた奴の匂いだ。

 百鬼丸は冷静な頭で現状を理解した。

 「絶対に潰す」

 鋭い歯を剥いて、左腰に佩いた通常の刀を掴み、ノロの匂う方角へと駆け出した。

 (あのヘリは誰かを探している……)

 岸壁に沿ってサーチライトを当てているようだった。

 ――海だ

 古地図には洞窟があった。

 もはや迷う必要すらなかった。

 

 

 

 

 3

 「あぁ〜つまんない〜。千鳥のおねーさんとも戦えばよかったぁ〜」

 倦怠感が結芽に鬱屈とした感情を募らせる。

 周囲に倒れ伏す長船――否、舞草の刀使たちには興味もくれず歩き出す。

 と、その時だった。

 結芽の胸――肺に錐で突かれたような痛みがはしり、喉を遡行して「ぐ、ゲッホッ……」と血塊を吐瀉した。

 コンクリートの地面には血の染みが広がった。 

 憎々しげにそれを眺め、靴で踏んづける。

 「……まだ、まだ私の凄いところ全然みんなに見せつけれてないもん――」

 口端に垂れた血筋を手の甲で拭う。

 煌々と灯る照明器が眩く、天井を不意に見上げる。

 白。

 視界一面が真っ白だった。

 どことなく似ている気がした。あの「病室」に。

 

 

 

 ヘリを探して、結芽は洞窟を出て再び地上の社殿に繋がる崖に沿った道を歩く。穏やかだった風も波も、荒々しくなり結芽の頬に海水の飛沫を数滴当てた。

 (まだ。まだ死ねない。もっと、もっと強い人と戦って勝たないと)

 胸に秘した悲愴なまでの思いを一つ抱え、一歩一歩と石段を上がる。

 登り終わると、鬱蒼と茂る林道が広がっていた。

 あとはもと来た道順通りにゆけば良い筈だった……

 

 

 だが、社殿に続く道の奥には「誰か」の影が一個ある。

 

 

 結芽は目を眇め、口を釣り上げる。

 自然と足取りが速まる。

 「そこにいるのは誰かなぁ〜?」

 青い月光が数条、地面に射して闇中に薄いヴェールを曳く。涼やかな風が妙に熱っぽい頬を鎮めてくれて心地よい。

 

 

 「――――よォ、クソガキ。久しぶりだな」

 

 肩の位置を思い切り落とし、直立する男。

 

 雲間が移ろい、斜光が彼の顔を照らし出す。

 

 結芽は知っている。

 チグハグな印象だが、そう悪くない顔立ち。乱雑な前髪から覗く不気味な瞳たち。うしろ髪もまた乱雑に結っているだけだ。

 その顔を、結芽は知っている。あの日、御門の前で一度だけ刃を交えた関係……。痺れるような感覚。あの日、あの時、あの瞬間だけは自分自身が生きているのだと実感を与えてくれた大切な人。

 

 「百鬼丸おにーさん、久しぶり♪」

 声が自然と弾むのが自分でも理解できた。

 橙と黄の二色のグラデーションを絶妙に織り交ぜた鞘を触りながら、高まる衝動を堪える。

 ゆら、ゆら、と御刀にぶら下げたマスコットが揺れる。

 「百鬼丸おにーさんと本気で戦えるか心配だったけど、その必要はなさそうだねっ」

 相手を見据えるその視線には、喜びが溢れていた。

 

 

 百鬼丸は刀使にしか使えない《写シ》を体表に薄白く貼っていた。

 上半身を裸体が晒しているが、名工が刻んだ彫刻の如く筋肉が闇の中にも浮き彫りとなっていた。周囲に漂う気魄が、余人には計り知れぬ圧力を放っていた。

 

 

 ……その彼がなぜ、《写シ》を使えるのか理由は、結芽には分からない。けれども、理由なんてどうでもいい。ただ心置きなく斬り合いたいだけなのだ。

 

 

 「ねぇ、百鬼丸おにーさん。本気できて……」

 哀愁と艶やかさを綯交ぜにした湿った声音で、結芽は誘う。――誘いながら、御刀の唾を親指で弾き、《ニッカリ青江》をヘソの位置に留めて、刀身を真横にする。

 

 

 彼……百鬼丸はただ無表情に、秀でた眉を落とし、単なる普通の刀を抜く。

 以前戦った時は、左腕の刀もあった筈だ。

 結芽にはあの時の、強烈な印象が忘れ難かった。

 「ねぇ、本気出さないと私すぐおにーさん倒しちゃうよ」

 林道に激しい風が吹き抜けた。木々のざわめきが、馬群の嘶きのようにすら聞こえ、耳を聾する。

 

 

 ニィ、と口角をあげて百鬼丸は初めて表情らしい表情を頬に浮かべた。

 「こいよ、クソガキ。なんならノロの力でも取り込んでからにするか?」

 嘲笑するようにいう百鬼丸。

 

 (まただ……また……)

 

 

 結芽は、激しい憤りに駆られた。

 「ねぇ、何度も言ってるけど私ノロの力なんて戦いの中で一ミリも使ってないんだけどッッ!!」

 胆から絞り出すように怒りをぶちまける。

 少女の中で、何らかの糸が切れた。

 

 《写シ》を貼った。

 

 

 両脚が、地面を蹴る……というより、飛ぶように加速する。《迅移》といえども、限度がある。深さもそうだが、その加速に対応できる巧妙な体捌き。

 小さな燕が、一気に両者を隔てる七〇メートルを縮める。

 

 

 右足を軸に、百鬼丸の左側面に回った結芽はそのまま背後を取るか、このまま貫くかの位置にいた。

 

 ――が。

 

 百鬼丸はただ嘲笑う。

 まるで、最初からその位置を把握していたように。

 

 御刀ですらない刀が結芽の目前に一閃、青稲妻のような斬撃が迸る。

 剛腕から打ち放たれる一撃は重く疾く《ニッカリ青江》を易々と弾き、結芽の体を吹き飛ばす。

 数メートル飛ばされながらも、なんとか靴底で地面にブレーキをかける。

 

 「うそっ……」咄嗟に驚愕が漏れた。

 結芽は眼前に佇む百鬼丸の認識を間違えていたらしい。――彼は、人ではない。

 

 「どうした? こいよ?」

 鋭利に細められた目が、結芽を捉えて離さない。

 

 




ここから、オリジナル展開します。


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37話

遅くなりましたが、毎回の誤字脱字修正ならびに感想ありがとうございます!

大変助かっております。


 『ねぇ、百鬼丸さん。活人剣って、どういう意味かわかる?』

 以前、朝の鍛錬終わりに可奈美がそうきいてきた。

 汗に塗れたおれは、疲れておりノロマに首を横に振る。

 『人を活かす剣、だから活人剣なんだよ。……これには二つの意味があって、ひとつは人を生かす、っていう文字通りの意味と、もうひとつは『人を活用』すること。つまり、相手を自分の思うように動かすんだよ』

 そう言いながら、可奈美は正面に構えた木刀の切っ先をみやり軽く素振りした。

 

 ……相手を自分の思うように動かす

 

 なるほど、確かにその通りだ。

 

 だから『後の先』でも『後の後』でも、余裕で相手を倒すことができる。

 

 1

 燕結芽は焦っていた。――どれほどの強者でも、六秒以内には倒れている筈……なのに、この百鬼丸は未だ立ち続けている。

《迅移》で虹色の光彩を放つ残影が、より数を増して百鬼丸に殺到する。

 だが、いくら猛攻を仕掛けても躱され弾かれ全く攻撃が通用しない。

 

 (なんで……なんで……こんなんじゃ、全然私が凄いトコロなんて魅せれない!)

 

 時間と共に焦燥で身を焼かれそうになっていた。

 その結芽を冷静に捉えた百鬼丸はワザとらしく首を振って失望を表現する。

 「なんだ、こんなもんか。結構期待してたんだけどな、お前との戦い」

 言いながら百鬼丸は肩をすくめる。……彼は気づいていた。燕結芽という少女と出会った時から、この「天才」の弱点を。

 

 (精神に安定性がない)

 

 確かに多彩な剣技も、身軽な体も、速度も全てが「才」によって裏付けられている。だが、彼女に足らないものは不安定な精神であった。

 可奈美の言葉を借りるなら「相手を活用」しやすい、絶好のカモといえる。

 斬り合いはスポーツではない。

 負けた者が弱く、勝った者が強い。単純明快で残酷な摂理。言い逃れのできない真理。どれだけ言い訳しても、負ければ死ぬのだ。

 どんな手段を用いても「勝つ」=生きる、ことが重要なのだ。

 百鬼丸は遠慮なく、弱点を衝かせてもらうことにした。

 

 

 大粒の汗を流し、肩が不規則に上下に動く少女は普段の茶化したような余裕が無い。あるのは、凄愴な瞳の色と猛獣のように勝利に飢えた飢餓感だった。

 百鬼丸の恐怖を払い除け、なおも自己の強さのみを執拗に誇示しようとする、一種異様なまでの態度。

 

 百鬼丸は睨み合ったまま不敵に嗤う。

 「なんだ、もうおねむの時間か?」

 

 ぐっ、と結芽は柄を握る手を強くした。

 「…………」

 しかし返事をする余裕すら失われていた。

 

 刃を振れば殆どの人間が倒れ伏している、それが当たり前だった。

 だが眼前の彼――百鬼丸は微動もせず、全くの隙がない。どこから打ち込んでも、倒せるイメージが湧かないのだ。

 

 結芽は地面を蹴り上げ、ドリフトでもするように百鬼丸の周りを時計方向に移動し、側面から喉笛、肋骨、太腿を三段突いた。神速とも言うべき迅さだった。

 敢えて囮としての打ち込みだった。必ずしも仕留めれる算段はなかったが、隙をつくることならできるはずだ。僅かに生まれた隙に、渾身の剣技を叩き込む。

 

 ……が。

 

 「――ッ」

 浅縹色の瞳を動揺させ、結芽は強く下唇を噛む。

 全て百鬼丸は刀身で「突き」を受け止めていた。正確に、寸分の狂いもなく受け止めていた。

 まるで、思考を読まれているような気がした。行動の先がバレている。

 剣を合わせて楽しむ、というより百鬼丸との対決は文字通り「殺し合い」だった。鳥肌がおさまらない。こんなことは今までなかった感覚だ。

 

 「百鬼丸おにーさん……」

 「なんだ? もう怖気づいたか? だったら……」

 百鬼丸は結芽を窺うも、前髪が表情を隠しどんな状態か判断できない。

 

 「百鬼丸おにーさん、最っ高ッっっっ!!」

 見上げた彼女の顔は喜びに彩られ、再び平晴眼に構える。

 この平晴眼は、天然理心流の基本の構えであり突き技が崩された後にも対応できるものである。

 結芽は、突き技を撥ね退けられた。通常であれば命がない。

 確かに剣士としてのプライドは傷つけられた。――だが、それ以上に百鬼丸の強さに打ち震えていた。

 剣から伝う百鬼丸の意思。

 五感を刺激するほどの強烈な気魄。

 有り体に言えば、結芽は百鬼丸の「力」に屈服させられていた。しかも、悔しさはなく寧ろこの時間を長く共有したいとすら思っていた。折神紫とは異なる強さの持ち主。

 

 その彼は、

 「は?」

 当惑していた。

 流石にこの反応は百鬼丸も予想していなかった。写シを剥がしてプライドをへし折るくらいのことを考えていたが……

 (こんな剣術馬鹿は美奈都と可奈美くらいしか思いつかん)

 みれば見る程、確かにあの親子にどことなく雰囲気が似ている気がする。

 「なんでお前退かないんだ?」

 思わず、訊ねた。

 

 頬を薄赤く染めながら、八重歯をのぞかせて微笑する。

 「だって、こんなに凄い百鬼丸おにーさんを倒したら、私本当に強いって示せるでしょ?

そしたら、みんなに褒めてもらえる――みんなの記憶に〝私〟を刻めるんだよ」

 結芽の狂気じみた眼差しの中に、激しい覚悟が宿っていた。

 

 ――ああ、そうか

 

 百鬼丸は毒気を抜かれた。

 (こいつも、おれと……修羅道の中にいるんだ)

 その宿業を背負う彼女が、急に哀れに思えた。彼女を支える「才」には理由がある。元々生まれ持った「才能」にくわえ、彼女の力はより先鋭化し研ぎ澄まされていったのだ。

 

 

 「ねぇ、百鬼丸おにーさん。もっと、しようよっ!」

 白のニーハイタイツに泥を点々と汚しながら、息を弾ませている。

 

 「なぁ、クソガキ――お前の名前、もう一度教えてくれるか?」

 突然の言葉に結芽はキョトン、と目を丸くした。

 ――それから「ふっ、あははははは〜、なにそれ〜。……いいよ。何回でも教えてあげる。折神家親衛隊第四席。燕結芽。もちろん、一番強いのが私」細い指先で自らを指差す。

 

 「燕結芽。そうか、覚えた。――そして結芽に謝る。お前は本当にいい剣士だ。これからも強くなれるだろう。だが、悪いがここは、おれが勝たせてもらう」

 言いながら、亀裂の入った刀を地面に投げ捨て、両腕関節に巻いた包帯をスルスルと解いて、片方ずつ犬歯で噛む。

 両腕から、刀身が現れた。

 妖気の漂う腕の刀たち。

 

 「なにそれ〜、すっっごい!」

 興奮した眼差しで結芽は足を擦る。片方腕が外れるのは知っていた。だが両腕とは知らなかった。

 

 百鬼丸は脇を締めて、上膊を胴体に密着させて体をコンパクトに畳む。腰の重心位置を落とし、膝を軽く曲げた。――本来的に言えば、百鬼丸は剣士というより拳士という方が正しいかもしれない。彼の戦闘スタイルは拳士的な戦い方に剣士の型を流用したオリジナルのものである。

 だから、剣士の可奈美も戸惑っていた。

 

 靴先で立つ。

 下腹部に力を込めると、百鬼丸は弾かれるように動き出した。

『先の先』の真髄を発揮するためである。

 左右交互に繰り出す銀閃が瞬き続け、青い月光の加護を受け刀身は自在に輝く。

 

 「百鬼丸おにーさん、最高、最高サイコーーーっ」

 御刀で百鬼丸の攻撃を受けながら結芽は叫ぶ。剣戟の火花が、激しさ苛烈さをまして弾け飛び、両者の間に線香花火にも似たもので彩を加える。

 

 「よくここまで防げるな」

 素直に百鬼丸は褒める。木々がざわめき、付近の海嘯が鳴り響く。夜陰は重苦しい雲を押しのけ、月は天に尚も昇っている。

 

「当然っ、もっともっと遊ぼーよ」

 褒められたことが嬉しいのか、結芽は華麗な足さばきで体勢を変えながら百鬼丸との戦いを楽しんでいる。

 

 純粋な闘争本能が、二人を更に深い場所へと導く。修羅道をゆく者同士の意気投合。

 

 人の世に生きるには、不要なまでの欲求。

 

 それを今、全力でぶちまけている。

 

 自然と百鬼丸も愉快な気分になっていた。

 

 「――そろそろ終わらせるぞッ」

 百鬼丸は腕を広げ、「大」の字に体をひらくと一気に《迅移》を用い両腕を交え、結芽を通過して遥か後方にまで突き抜けた。

 陽炎のような揺めきが、外気を乱す。

 

 百鬼丸が振り返ると、渾身の一撃を寸前で受け流した結芽が佇んでいた。

 

 「えへへっ、どーおっ? 私凄いでしょ? もっともっともっと……ゴボッッ」

 と、言葉の途中で吐血した。それも、生々しい嘔吐にも似た音。胃袋でも全部吐き出すように結芽の小さな口から鮮血が地面を濡らした。

 

 「!?」

 百鬼丸は急な事態に、身を固くした。

 

 結芽の体から写シは剥がれ、地面にへたり込んだ。身を丸めて激しく咳き込む。

 「お、おい! 大丈夫か? って、大丈夫な筈ないだろっ、おれのクソボケ」

 構えを解き、地面に転がした義手で腕を戻すと、結芽との距離を縮めた。

 

 「――ゴボッ、ゲホッ……百鬼丸おにーさん……近づかないで……ゲホッ、ゲホッ」

 激しく咽せながら、結芽は憎々しいげな眼差しで百鬼丸を制止する。

 

 「な、なに言ってんだ馬鹿。はやく医者にみせないと……」

 すると、大きく頭を振り拒絶する。繊細な撫子色の髪が、ふわっ、と地面に揺めき琴糸のような毛が一本一本収束してゆく。

 「……お願いだからゴホッ……百鬼丸おにーさんと……もっと戦わせてッッ」

 吐血しながら、何度も口を手の甲で拭い懇願する。

 

 「なんで、そこまでするんだ――」

 激痛に顔を歪める少女を凝視しながら訊ねる。彼女を、そうまでして突き動かす信念が理解できなかった。

 

 しかし結芽は声にならない掠れた声で、

 

 ……私には剣しかないから

 

 微かに血に濡れた唇を動かし、必死に伝える。

 

 孤独の影が支配した結芽の表情。しかし、その絶望の中にあっても彼女は御刀を大事そうに抱え、離さない。それが唯一の希望の光でもあるように。

 

 「…………結芽、お前は本当にクソ馬鹿だ」

 百鬼丸は口を真一文字に結んで、大股で歩き出す。

 

 

 来ないで、と胸の痛みを堪えながら鋭い視線を向ける結芽。まるで、他者の同情など欲しくないような態度。

 

 ――その態度を、百鬼丸は知っていた。

 

 そうだったんだな……

 

 「お前も修羅道の側だったんだな。本当似てるよ、おれたち。お前はおれだ」

 紛れもなく、百鬼丸自身の頑なさだった。哀れで滑稽で、それでも必死な部分が百鬼丸には痛いほど理解できた。

 

 「もっと、もっと……はぁ……はぁ、ッ、私の凄いところを……みせなきゃ、嫌なの」

 涙が目端に滲み、可愛らしい鼻を赤くさせながら、水っ洟が流れている。

 立ち止まった百鬼丸は少し困ったような微笑を湛え、屈むと義手の親指で口端の血筋を拭ってやる。

 

 

 「ああ、お前は凄い。絶対にこれからも、結芽を誰かの記憶に刻むことができるだろーな」

 

 戦いの中でしか、自己証明をする術を知らなかった馬鹿者。

 他者の優しさを足蹴にする馬鹿者。

 誰かの優しい眼差しを跳ね除ける馬鹿者。

 

 できるなら、助けてやりたい気がしていた。他人事には思えなかった。でも今はやるべきことが山積みだ。

 

 ――だから。

 

 「また今度やろうな。それまでおやすみなさい、だ」

 結芽の華奢な肩を優しく叩き、朦朧と百鬼丸を見るため持ち上げた生気の失せたような青白い頬を撫でる。

 

 「……うん」

 涙を目一杯に溜めたものが、大粒の雫になり、瞼を嬉しそうに閉じる。

 荒く膨らんだ胸郭も、穏やかに正常な動きを取り戻した。

 

 百鬼丸は一度地面に俯きながら、吐血された血の量に驚き、溜息をついた。

 

 「……さて、これからどーしたもんかね」

 

 眠る結芽の指先の爪を月光に透かした。青いマニキュアをしていた。百鬼丸は爪が薄く肌の気色の悪さに、彼女の病状の重さをしった。

 

 2

 百鬼丸は山を下っていた。

 背中には、穏やかな寝息をたてる燕結芽を担いで。

 

 結局、舞草の里は放棄することにした。村で右往左往していた恩田累を見つけると、百鬼丸は、『マイクロバスを動かせるか?』と訊ねた。

 『うん。動かせるけど……なんで?』

 『今から指示するルートで、怪我した舞草の刀使を引き連れて逃げてくれ。このルートなら車両でも行ける。もうそろそろ、機動隊が再攻撃を仕掛ける』

 戸惑いながらも、首肯した累は不意に百鬼丸の背中に居る小さな襲撃者をみつけた。

 『その子って親衛隊の制服着てるけど……』

 『親衛隊のやつだ。今から、おれはコイツを運ぶ。だから、はやくしてください』

 そう言い残して、百鬼丸は混乱する村人をかき分け、獣道に向かって歩き出した。

 

 あとに残された累は、

 『えぇー!? またこんな役割―――!?』

 頭を抱え、累は己の不運を呪った。

 

 

 3

 燕結芽がいったい、いつ頃から自分が「普通と違う」のだと自覚したのだろうか。御刀に最年少で選ばれた時だろうか? それとも、通っていた道場で年上の子に何度も勝った時だろうか? ……いいや、多分両親が、そんな結芽を褒めてくれて、優しく抱きしめてくれた時だ。抱きしめられながら、耳元で「あなたは特別な子供」だと伝えてくれたときだった。その時は嬉しくして仕方がなかった。

 

 剣術の試合で勝てば、年上の子やその親、師範も驚愕し、感嘆し、口々に「特別な子」「神童」「天才」という言葉が鼓膜に踊った。

 

 ――私は特別なんだ

 

 だから、剣を握るのが楽しかった。みんなが笑顔だった。うれしくてたまらなかった。

 

 あれは、特別な祭事のときだったと思う。

 大きな神社で、奉られた御刀に触れた時、自分の中にナニカが流れ込んでくるような奇妙な感覚がした。気が付くと、体に薄白い膜みたいな、温かな感じがした。

 見物人を含める人々は、びっくりしていた――それが、御刀《ニッカリ青江》との出会いだった。

 嬉しくて後ろを振り向くと、パパもママも笑顔だった。

 だから、私はもっと嬉しくなった。

 

 それから私は、綾小路武芸学舎に入学した。

 最年少で入学した。……刀使になれた。

 ――だけど、そこまでしか幸せが続かなかった。

 

 入学式が終わって、いつものように大人たちに囲まれていた。みんなが、自分をみてくれている。傍らに立つパパもママも「自慢の娘」「この子は大事にしたい」と話していた。

 校内に咲き誇る桜の巨木から、淡い花弁の吹雪が空気に浚われて遠くの景色に溶けてゆく。

 ぼんやり、それを眺めていた。

 唐突に肺が苦しく、錐で突かれたように鋭い痛みにとらわれた。気が付くと、喉をせり上がる熱い感じがして、トロリと血を吐いていた。最初は驚きよりも、「これは一体なんだろう?」という疑問だった。

 朦朧とする視界。みんなの影が大きく揺れて、消えてゆく気がした。

 

 

 目を醒ますと、知らない白い天井と照明が眩かった。腕を点滴で繋がれ、心電図の耳障りな音が大きくきこえた。

 気だるくても無理して頭を動かした。

 (そっか。私、倒れたんだ)

 乾いた唇で、パパとママを呼んだ。小さな病室には誰の気配もしなかった。窓の外はとっくに夜だった。……夜に、家以外でお泊りするのは初めてだったから、少し楽しみにしていたのかもしれない。

 だけど、その日パパとママは病室に来なかった。

 来るのは、お医者さんと看護師さんだけ。あとは誰もきてくれなかった。多分、みんな忙しいんだ。そう、言い聞かせていた。

 パパもママも忙しいんだ。でも、はやく会いたいなぁ、と窓の外をみていた。時々病室の扉に通る人影に期待もした。

 何時間も、何日も、何週間も待っていた。

 きっと、次は来る。……ううん。違う。忙しいんだ。

 

 「はやく会いたいなぁ……」

 誰かに聞かれても、恥ずかしくないように小さく呟いた。ママは「結芽も、もう小さい子じゃないんだから」って言うかもしれないから誰にも聞かれないように呟いた。

 

 でも、それでも誰も来なかった。

 あんなに、褒めてくれた道場の師範も、友達も、御刀のときに驚いていた大人の人たちも……それにパパもママも誰も、誰も来なかった。

 「……会いたいよぉっ」

 寂しくて、涙が溢れた。今まで我慢してきた。でも我慢できなかった。萎えた腕で顔を覆って泣いていた。どうして誰もきてくれないんだろう?

 あんなに褒めてくれたのに、みんな居ない。

 「うぅ……ひっぐ……なんで……」

 なんで、誰もいないの? このまま死んじゃうの?

 まだまだしたい事がたくさんあったのに……

 

 気が付くと、いつも寂しくて泣いていた。

 

 泣いて、泣いて、泣いて……それでも、誰も私を気にかけてくれる人なんていなかった。

 

 「疲れちゃった」

 

 気力を失っていた。どれだけ願っても、もう誰も来てくれない。会いたかったパパもママも私を捨てたんだ。なんとなく気がついていたけど、いつも隠していた。

 

 それから、死の恐怖が襲ってきた。

 死が怖くて、でも逃げれなくて寂しくて怖くなった。でも泣けなかった。もう涙が涸れてた。

 

 灰色の毎日がやってくる。

 まるで、水を含んだ真綿でじわじわと首を締められるみたいに、そんな日々が怖かった。時計の針が動くのが怖かった。この針が、寿命を刻む音に聞こえた。

 

 無理やり死から考えを逸らしても、結局、死の恐怖から逃げられなかった。気が付くと夜も朝も怖かった。

 

 

 ……段々と、考えることが苦痛になっていた。ベッドでいつも起きるか寝ているか分からない曖昧な意識の時間だけが増えた。

 晴れた青い空が、病室の窓に広がっていた。私は無意識に腕を伸ばしていた。絶対に届くはずがない空。もう一度だけ、外に出ることができたら、きっと、鳥みたいに動けるのに。まだまだやりたい事がたくさんあるのに……

 

 そんな時だった。

 

 珍しく、お医者さん以外の人の気配がした。

 

 私が少し頭を動かすと、すごく綺麗で御刀をふた振り下げた鋭い眼差しの女の人が、ベッドの近くに立ってた。

 『選べ。お前はこのまま朽ち果て誰からの記憶からも消えるのか、それとも刹那の輝きでもお前を見捨てた者たちに焼き付けるか……』

 そう言って差し出したのは、濃いオレンジ色の小さくて透明な筒だった。

 

 迷わなかった。それがどんなものでも、私は自由になりたかった。

 そして、絶対に私を捨てたみんなと……パパ、ママの記憶に焼き付けるために、ノロを受け入れた。

 

 死んじゃってもいい。でもその前に、誰からも忘れられる前に私は、生きていた証拠をこの世界に残したかった。

 

 

 4

 百鬼丸は結芽を背負いながら、下山していた。夜目は必要なく、全て感覚で障害物や地形を把握している。

 

 先ほどから、強烈な思念が百鬼丸の『心眼』に介入して強制的に結芽の記憶を追体験させられていた。

 

 全てを知ったあと、百鬼丸は肩越しに穏やかな寝息をたてる結芽の顔を窺った。

 「なんつー気持ちよさそうに寝てやがんだよ」

 口元が綻ぶ。

 本革の上着を寒くないように結芽の体に羽織らせている。しかも百鬼丸自身が体温が高く、夜山の冷気は気にならないはずだ。

 「うぅん……パパ……ママ……」

 寝言だろうか。結芽は百鬼丸のいかつい背中に顔を埋めながら、小さくつぶやいた。

 

 「こんなんじゃ、本気でお前と戦えねーぞ、おれ」

 ずり落ちそうな華奢な体を、背負いなおす。

 

 「お前も、助けられたらいいなぁ……とか思うのは傲慢かね」

 独り言を口にする。

 確かに彼女は敵だ。しかも、ノロを体内に受け入れている。でも、どうしても、境遇を知ってしまった。燕結芽はもはや他人ではなくなった。まして、戦う敵として認識できなくなってしまった。

 

 甘い、と言われればそれまでだ。

 「おれもまだまだ修行が足りんのですかね」

 天を仰ぎ見る。闇の色が衰退した、青味かった昏い空だった。

 

 百鬼丸は麓にいる、「もうひとり」のノロの気配を感じ取っていた。

 恐らく相手も百鬼丸を捕捉しているだろう。

 (それでいい)

 百鬼丸はほくそ笑む。それが狙いだった。

 

 九十九折のアスファルト舗道に出た。そこには案の定、一個の影が佇んでいた。

 

 「よォ、お久しぶりだな。皐月夜見」

 百鬼丸は気安く呼びかける。

 

 闇の中からでも解るその強烈なノロを周囲に蔓延らせる気配。点滅する外灯に照らされた夜見は、無表情に百鬼丸を見返す。……見返しながら、御刀を抜き、自らの手首を切ろうとしていた。

 

 「なぁ、皐月夜見。おれと取引しないか?」

 

 「……? どういう意味でしょうか?」

 御刀を止めて、百鬼丸を見据える。

 

 へっ、と笑い、

 「だから取引だ。おれと、舞草の刀使たちを見逃せ。その代わりにコイツ……燕結芽をそちらに引き渡す。どうだ?」

 

 「なぜ、そんなことを私に?」

 淡々とした声音に硬いものが混じる。

 

 「決まってるだろ。いい加減おれも疲れた。現状、お前と戦っても勝てるか微妙だ。だからおれと、舞草の負傷した刀使たちを見逃せ」

 

 「私にそんな権限はありません。残念ですが……」

 

 「だったら、おれをここで殺すか? そうならはやく殺してるよな。でも、お前の握る刃の手が止まってるけどな」

 

 「……」

 無表情に御刀をみる夜見。

 

 「もし、アンタで判断できないなら折神紫にでも連絡してみろ。ダメならここで、燕結芽をアレコレしちまうけどな」

 半ば脅しだった。

 

 夜見は一切表情を変えることはなかったが、周囲に侍らせた荒魂たちの動きを統制しているようにみえた。どうやら、百鬼丸の脅しは効いたようだった。

 

 「――分かりました。では、紫様にうかがいます」

 携帯端末を取り出し、機械的な喋りで応答する。

 

 時間はかからず、通話を終えた夜見は再び百鬼丸に視線を投げかける。

 

 「貴方の要求を全面に受けるように、と命を受けました。ですので、燕さんを返してもらう代わりに貴方と舞草の刀使がこの捜索範囲を離れるまではこちらから手出しはしません。元々、狙いは十条姫和と衛藤可奈美の捕縛ですので」

 

 生気のない口調だった。

 

 「ああ、そりゃよかった。助かる。んじゃ、早速返すわ」

 背負っていた結芽を一度、ゆっくり地面に下ろし、それからお姫様抱っこの抱え方でで夜見に渡そうとした。

 

 「ん? コイツ、おれの上着から手離さないぞ……ぐっぬぬ」

 羽織らせていた本革の上着を細い指が強く握りしめていた。眉をピクピクと動かし、結芽を睨む百鬼丸。

 「これお気に入りなんだぞ……って、まあいいや。やるよ」

 眠っている結芽に語りかけると、そのまま夜見に渡した。

 

 胸元に帰ってきた結芽を眺めていた夜見。普段の無表情さの中に、どこか安堵の色が混ざっている雰囲気があった。

 

 それを一瞥しながら、百鬼丸は、ボロボロのズボンと黒いタンクトップの背中を向けて歩き出した。

 「――んじゃ、そのガキんちょによろしくな。起きたら伝えてくれ。また今度、戦おうぜって」

 ブラブラと手を振ってその場を後にする百鬼丸。

 

 夜の道の果てに姿が消えるまでしばらく夜見は佇んでいた。

 

 胸元ですぅーっ、すぅーっ、と結芽の幸せそうな寝息だけが聞こえている。



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38話

 舞草の拠点を殲滅する作戦は、結果から言えば失敗に終わった。理由は様々あるが、一番大きかったのは、奇襲の失敗であった。特別機動隊の行動を先回りするかのように全ての侵入経路に妨害工作がなされており、およそ一時間三〇分後に村へと機動隊が突入した時には、既に舞草と思われる関係者は逃げていた。

 

 しかも、機動隊五七〇名のうち、二四〇名が重軽傷を負ったために迅速な事後処理すらできずに終わった。

折神家主導の作戦で、このような敗北を喫するのは初めてのことであった。

 しかも秘密裏に、親衛隊最強と名高い燕結芽が一時敵に人質としてとられたという。

 だが、それから一週間。――ほとんど、脱走者側からの行動はおろか反応が分からず仕舞となった。

 

 有り体にいえば、向こう側からの音沙汰なしであった。

 

 鎌倉。

 折神家屋敷では、舞草の襲撃脱走に絡めて全国に捜査網の徹底と共に当主、折神紫への襲撃に備えて屋敷の防備なども強化徹底されていた。

 

 いっそう慌ただしく、殺伐とした雰囲気を感じながら双葉は分厚くなる資料の山に埋もれていた。これから、国会での特別法案で刀使に絡む問題があるそうだ。

 詮索はしないが、あまり深入りしたくない内容だった。

 「はぁ……落ち着くなぁ」

 半ば現実逃避しながら紅茶を啜る。……夜見が勝手に使って良いと言われ、残してくれた紅茶は、独特なものばかりだったが、その中にあったカモミールだけは双葉だけでも知っていた。

 

 その名前を知っている茶葉で紅茶を淹れることにした。

 高そうな白磁の茶器にお湯を注ぐ。

 いい匂いがした。

 白いカップに口をつけながら、ぼんやりと執務椅子に背中を預ける。

 

 この屋敷には今、親衛隊は双葉しかいない。他の席ありの全員が出払っていた。

 

 午前十一時三〇分。

 あと、三〇分で正午だ。朝から事務仕事をしてきた双葉は疲れた目と肩を揉みながら、軽い湯気の向こうに映し出されたTVのモニターを眺めていた。

 本来は、国会の答弁など難しい番組をみるために設置されたモニターも、ラジオ代わりの賑やかしとして、適当につけていたに過ぎなかった。

 

 お昼のワイドショーがやけに騒がしい。

 (さて、もうひと頑張りするかなぁ)

 そう、思って身を起こす双葉。

 

 ――異変は突如として発生した。

 

 『……ただいま入ってきた情報です。現在、各都市の巨大街頭モニターがジャックされているとの報告です』

 緊迫した口調で、男性アナウンサーが表情を硬くして原稿を読み上げる。

 

 突如、テレビの画面が切り替わった。

 

 RECと赤い点で右上に表示された、チープな個人ビデオの画面だった。

 『あーっ、あーっ……映ってるかな? うん? よし、いいぞ』

 最初に響いた声は渋く、しかし陽気だった。

 画面の右側から姿を現したのは、四〇代ほどの西洋人の男性だった。銀髪の髪を後ろでひとつに束ねている。彫りの深い顔立ちは、海外の有名な俳優と言われても遜色のないほど優れていた。

 白いワイシャツに、灰色のズボン。そんなシンプルなファッションも、洗練された印象を受けた。

 その彼はニコニコしながら、

 『どうも。ボクの名前はレイリー・ブラッド・ジョー。君たちにわかりやすく言えば、アレだね。荒魂だよ。……それで、荒魂のボクから、君たち人間に対して宣戦布告をします。ボクたち《サマエル》は、数日以内にこの国を乗っ取ります。それが嫌だったら、今から告げる条件を受け入れてください』

 スラスラと、まるで友人にでも話しかけるようにジョーは喋りまくる。

 

 「……なんなの、コイツ?」

 双葉はティーカップをゆっくりと執務机に置き、目を細める。

 なにか質の悪い悪戯だろうか? それとも、なにかの番組の企画? とにかく、こんなことをしたら、人々が混乱するに決まっているのに笑えない。

 憤りながらも、ジョーの演説に注意をむける。

 

 『この国の全てを《サマエル》に差し出すこと。これが無理な場合は、容赦なく人間たちを殺します。ま、大してさっきの要求と変わらないよね、アハハ……ああ、古き良き時代は終わったのだ! 人が人を殺せる、正常な世界は! これからは、荒魂が人を殺すのだ……! 悲しいねぇ、でも君たちも散々、他の動植物を殺しまくったんだから、お互い様だよね。じゃあ、政府国民諸君、さらばだ。お返事をお待ちしているよ』

 

 それ以外にもベラベラと語っていたが、双葉には主旨のみしか理解できなかった。約六分間にわたるお喋りがあっという間に過ぎ去った。

 

 途端に画面が通常のワイドショーに切り替わった。

 番組では出演者をはじめ、司会の男性も困惑した顔つきで、ジョーと名乗る男の演説に呑まれていた。

 

 双葉は、あのジョーと名乗る男の顔を以前にどこかで見た気がしていた。

「荒魂――? まさか、人間を蝕んだ荒魂が……」

 ありえない、と言いかけて口を噤んだ。いいや、有り得る。現に、双葉自身がノロのアンプルを体内に受け入れているではないか。

 彼もまた、このノロの力で飛躍的な能力を獲得し、あのような世迷言を?

 

 

 いずれにしても、荒魂関連であればこの折神家の管轄内だ。仕事が増える。

 「愉快犯ならいいけど……」

 気が付くとぬるくなっていた紅茶をすすりながら、双葉は胸がザワつくのを感じていた。

片隅の本能が告げていた。

 

 ――彼は危ない、と。

 

 2

 原子力潜水艦《ノーチラス号》は、日本列島付近の太平洋深海を航行していた。

 

 訳も分からず数日、こもっていると、気が滅入りそうになっていた。

 

 「くそっ、あのバカ変態野郎ッ!」

 ドン、と船室の壁を強く叩きながら薫は怒鳴った。これで何度目の八つ当たりか分からない。

 

 「薫……」

 エレンは沈んだ面持ちで、薫の肩を触り慰めた。

 

 船室に居る他の四人も、各々暗い表情で俯いたり苛立ちを感じていた。

 事前に敵襲があるかもしれない、そう折神朱音に伝えられていたが、いざその状況になると、大人たちは現状を把握するだけで精一杯だった。

 

 まして何も知らない六人は気が付くと、潜水艦に乗り脱出をしていた。

 助けてもらった人々を切り捨てて、逃げてしまった。その後ろめたさが、この部屋の空気を重苦しいものにしていた。

 

 「――あのバカ……百鬼丸はなぜ、自分だけで対処しようとしたんだッ」

 姫和は悔しそうに拳を握り憤る。

 寝室としてベッドが設置された船室は狭い。しかし今はこの狭さが、自分にはお似合いのような気が、姫和にはしていた。

 

 「……百鬼丸、朱音様に言ってた。必ず〝刀使〟を守るって。祭のとき、神社の境内で喋ってた」

 沙耶香が、ポツポツと言った。

 あの日、人の多さに疲れた沙耶香は静かな場所を探して神社を歩いていた。そこで、聞き覚えのある声がして、身を隠して話をきいていた。

 

 物思いに沈んでいた舞衣は、

 「待って、沙耶香ちゃん。それが本当なら――百鬼丸さんは最初から私たちを逃がすために残ったって事に……」気がついて顔をあげる。

 ふと、対面の可奈美に視線を投げかけた。

 

 可奈美は目を閉じて瞑想していた。

 薄く目を開き、

 「多分、百鬼丸さんはご当主様――折神紫を止める。そのために私たちを守って逃がしてくれたんだよ。でも、紫様……タギツヒメに会いたかったのは百鬼丸さん自身だと思う」

 淡々とした口調で語る。

 

 ガチャッ、と重厚な船室の扉が音をたてた。

 

 緊張を漂わせた雰囲気のフリードマンが、

 「みんな、大変だ。今アメリカ本国から得た情報なんだが――日本でテロの宣言があった。恐らく百鬼丸くんの肉体を奪った荒魂、知性体の仕業だろうね」

 

 潜水艦での移動中全ての情報を遮断していた。その結果、日本での情報収集が遅れたためである。

 

 

 「ホントですかグランパ!」

 エレンが金髪を乱して、祖父に問う。

 フリードマンは首肯する。

 「異様な事態だ。我々はこれから折神家に奇襲をかける準備をしている……そのタイミングを見計らったように、奴らが動き出した。知性体を指揮するのは、レイリー・ブラッド・ジョーと名乗る元人間だ。奴が仕組んだなら全て納得がいく」

 

 米国で天才の称号を欲しいままにした科学者。

 彼と荒魂が交わることにより、世界への壮大な復讐が始まった。

 

 「そいつも止めないといけないんじゃないのか?」

 薫が苛立ちを隠さずにいう。

 

 間を置かず、「……大丈夫だよ薫ちゃん」と可奈美が答える。

 

 「どういう意味だ?」

 

 「百鬼丸さんは、そのために残ったんだと思う」

 

 ――まさか、と薫は言いかけて百鬼丸の意味ありげな横顔を思い返し、口を噤む。

 

 彼ならば有りうるだろう。

 

 複雑な表情を浮かべた船室内を尻目に、

 

 「私が、必ず成し遂げる」

 

 姫和は小さく一人、誰にも聞こえない決意を呟いた。

 

 

 3

 夜虫の鳴く声が騒がしい。

 潅木の茂みに身を隠しながらおれは、冴えた月明かりを頼りに道すがら枯れ枝を拾った。激しくなる風に、弱々しく灯る種火。仄赤く熾った火が弾けて、次第に勢いが盛んになる。手をかざして、風から勢いを守る。

 

 「こんなものか……」

 おれは、カモシカを山で見つけて狩った。内蔵など腑分けして解体し、食べれる部分を小分けにして、削った木の串に刺した。火に焙られた獣肉から黄金の脂が滴り落ちて、火を更に盛んにする。

 焼けるまでおれは昏い空を仰ぐ。ちょうど、流星群の時だったから夜空に長い尾を曳く星を眺めていた。

 今は一体何月何日だろう。

 逃げた連中は大丈夫だろうか。

 しかし、うろたえても仕方ない。そう自分に言い聞かせる。

 

 大分いい匂いになったな、とおれは串を一本掴んでかぶりついた。口の中で動物性タンパク質が、油っぽくひろがる。二つ、三つ、と咀嚼しながらかぶりつく。味なんて分からない。空腹ならなんでもうまいのだ。

 

 人目を避けて逃げる。だが、情報は欲しい。だから、おれは舞草の村から携帯ラジオをひとつ拝借した。

 

 ニュースはずっと、舞草の捜索と紫を襲撃した二人の行方の追跡。それに終始していた。しかし、何時間前に連中……《サマエル》の情報が入った。

 

 何度も繰り返されるジョーの演説で、おれは悟った。

 

 奴らはおれをおびき出そうとしているのだ、と。

 

 ジョーの演説には、おれへの挑発があった。奴は他の人間なんて興味がない。強く意識しているのは、おれだけだ。――それはおれも同じだった。

 

 奴を抹殺するために、おれはここにいる。

 

 音声だけのジョーだが、彼が一体どんな身振り手振りかは用意に思い浮かぶ。あの胡散臭い笑みがおれを苛立たせる。

 

 「お前を今からぶっ殺しにいくからな……」

 

 おれは肉脂で汚れた口を腕で拭うと、連中《サマエル》をぶちのめす算段を考え始めた。

 

 



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39話

 撮影が終わった後のジョーは、上機嫌だった。

 

 あの日、ステインは《サマエル》と名乗る謎の集団に属した。しかし想像と異なり、あまりの行動の無さに、単独行動を取ろうと思っていた矢先の事だった。

 百鬼丸という、少年に出会った。

 彼はオールマイトと異なり、自らを守る対象以外には頓着しない傾向を有していた。今まで、「正義」「みんなのため」とのたまう嘘つきどもと違う……そのくせ、絶対に自らの信念を枉げない生き様に、ステインは彼を宿敵と決めた。

 

 どんな理由でもいい。はやく戦いたい。

 しかし、それには時間があと少しだけ必要になる。

 元々、他人との行動を好まない一匹狼のステインにとって、ソレは苦痛でしかなかった。けれども、あの少年は必ずジョーを殺しにくる。

 必然、彼との遭遇率は上がる。単純明快で、偽りのない結論。

 

 ステインはひとり、廃病院の片隅の廊下で刀に調整を加えていた。通常の刃と異なり、刃先から鍔にかけて、刀身はギザギザになっていた。無論、ワザとである。

 相手の体を傷つけて、出血させやすくしている。

 ……彼の《個性》凝血には必要なギミックといえた。

 「チッ」

 鋭く舌打ちする。

 この世界、刀使には《写シ》という厄介なシロモノがある。体表に薄白い膜を貼って、防御するのだ。つまり、一度攻撃しただけでは凝血は期待できない。二度、切りつけなければならない。――となると、自然、一刀から二刀流にならざるをえない。

 

 そんな心配をしていた折、ジョーに呼ばれて《サマエル》の武器庫に連れられた。廃病院を利用したこの場所はつい数日前から拠点のひとつとして、されている。

 

 ここでは、ありとあらゆる重火器、刀剣類が修造されていた。

 

 その中に長方形の強化ガラスに何十もの鎖で封印された刀が置かれていた。

 

 「これはなんだ?」ステインは強い眼差しで前方を歩くジョーに問う。

 

 首を後ろに回しながら、

 「これは《無銘刀》だよ。伝説の刀工が鍛えし六振りのうちのひとつ。あとの二つは百鬼丸が持っているね。君には、このひとふりを渡そう」

 理解しかねた。

 なぜ、わざわざジョーが《無銘刀》を持っているのだろうか?

 いいや、それ以前にどうやって手に入れたというのだろう?

 

 疑問が尽きないが、ステインは百鬼丸との闘い以外は余分だと考え、口を閉ざした。

 

 (悪はあくまで、〝悪〟だ。だから、余計なことは考えなくていい……)

 

 彼の矜持であった。

 

 はじめ、ヒーローに憧れ、そして現実に裏切られ、傷つけられた彼にとって、悪とはアンチテーゼとしての役割でしかなかった――最初は。

 しかし、悪に染まるにつれて、己一個の確固たる原理哲学が形成されるようになった。

 

 すなわち、悪とは世界に刻む、悪徳の記憶である、と。

 

 厳然たる、そして、純然たる悪。

 

 何者にも侵されない悪。

 

 この「力」を、悪行に使う。無神論者のステインも、しかし地獄を考えたことがある。もし、そんな場所がるなら自分は真っ先に堕ちるだろう。それに悔いはない。

 

 しかし、己の悪を打ち砕く正義によって、この身を滅ぼしたいと考えていた。

 

 だが、元の世界では死に場所を求めても、それが達せられることはなかった。

 

 であれば、この別世界によって、その目的を達成しようと考えた。

 

 

 己の犯した過ちに言い訳をする気は毛頭ない。罪過についても同様である――

 

 「俺はこの一生を燃やし尽くしても惜しくない、そんな相手と殺し合いたい! そのための力になるのかッ!」

 

 錠を解除したジョーに怒鳴る。

 ジョーは鷹揚に笑い、

 

 「可能だよ、可能だ……君は、いわば我々の剣だ。剣は考えなくてもいい、ただその機能を我々に与えてくれさえすれば、ね」

 

 取り出された刀には、ステインでも解るほどの強大な妖気を放っていた。漆塗りの鞘に収められた刀を無造作にジョーは放り投げてわたす。

 

 鯉口を切ると、刀身には不可解な文字が刻まれていた。

 

 勢いよく抜刀すると、強烈な圧迫感が刀身から迸って使い手の精神を蝕むほど邪悪な感じがした。

 

 「あの小僧はこんなものを二つも……?」

 

 ステインは頬に流れる汗を感じながら、たずねた。

 

 「そうだ。彼の持つ無銘刀は、それ以上に純粋なものだ。だから、精神が崩壊してもおかしくないだろう。どうした? それを捨てるなら今のうちだぞ」

 

 ジョーの挑発に、ステインは口端を曲げる。

 

 「断る。俺には俺のなすべき信念がある。悪は全てを呑み込む。俺はコイツをねじ伏せてやるッッ!」

 

 新たな力に、フツフツと細胞の全てが踊り狂う。

 

 三白眼を細め、箒を逆立てたような髪を片手で掻き毟り、喜悦に満ちる。

 

 「そうか、それはよかった。では、君には期待しているよ……」

 

 2

 

 サマエルの計画は、既に整っていた。

 

 この国に宣戦布告。

 まるでだれも予想しなかった事態。

 綱渡りのようなギリギリの平和を享受し続け、いつの間にかそれが恒久的な状態だと錯覚した家畜のような国民。危険の感受すら忘れた国の指導者たち。

 

 かりそめにも、隠世との接続状態にある世界のどこにも、「平和」という文字はない。あるのは、「勘違い」と「無意識」の狭間にある危うい日常だった。

 

 

 廃病院のロビーに集められた《知性体》は、少なくわずか六人に過ぎない。しかし、ノロに蝕まれた「人」の形状をした荒魂たちは多く六〇名はいるだろう。彼らは赤銅色の目をしているからわかりやすい。

 

 そもそも、人間を拉致して片っ端からノロを打ち込めば、荒魂人間になる。彼らは従順なゾンビのようだった。

 

 ――それから、巨大な一〇メートル級の荒魂が二五体、廃病院の外で身を潜めている。

 

 午後九時。

 ジョーは、そんな部下たちを満足そうに眺めながら、満足そうだった。

 

 「いいね、反逆というのは。いつの時代もこんな風景があるのだろうね。全てが明日、決まる」

 

 ジョーはなおも、歩きながら、荒魂たちに労いの言葉をかける。

 

 「この世界に安寧なんてものはない。目に入っていないだけだ。本当は……」

 

 「「修羅道」」

 

 声が揃ったことに驚いたジョーは背後を振り返る。ステインが佇んでいた。

 

 「君とは、こんなところで気が合うんだな、まったく」

 苦笑いともつかぬ様子だった。

 

 「――充実した死が欲しくば、充実した生を行え」

 

 「だれの言葉かな?」

 

 「知らん。だが、俺の人生の行先は決まっている」

 

 「素晴らしい。君をスカウトして本当によかった」と、破顔するジョー。

 

 ステインは赤いマフラーを翻しながら、背中に交差させた刀の柄を触る。脚部などに収納した短刀やナイフ、軍靴を改造したスパイクも馴染む。

 

 「準備は十分だね?」

 

 「――ああ」

 

 「今までありがとう。楽しかったよ」

 

 差し出したジョーの手を一瞥して、

 

 

 「死ね、くそったれ」

 

 ステインは唾を吐いた。

 

 「あははははは、最高だ、最高だ! 異方の来訪者よ!」

 

 

 運命の日は、刻一刻と近づいていた。

 

 

 だが政府は当初、このジョーの宣戦布告を真面目には受け取らなかった。否、受け取りはしたものの、公共施設、国会議事堂をはじめとする行政機関、インフラ設備などの防護を固めはした。……形式的には。

 

 だが、テロリズムの標的はいつだって、弱い民衆であることを、「平和」だった国は知らなかった。

 

 まして、敵は異形の化物――荒魂である。

 

 

 4

 日本標準時、午前四時。

 

 小高い丘に位置する廃病院の森は沈黙の中にあった。

 

 涼やかな風が腐葉土の香りを運ぶ。

 

 輸送用トラックが、数台停車している。

 

 不気味なまでの静けさが、粛々と行動する「人影」に奇妙な印象を与えた。

 

 長い、長い一日が始まった。

 



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40話

今回の内容は実際の建物、人物、事件、事故とは関係ありません。


 1

 東京都と埼玉県の境に位置する国内最大のショッピングモール。小さな街がすっぽりと収まる程の規模である。ショッピングモール付近には巨大な湖もあり、敷地面積は約二十七万㎡、駐車台数は一万台。四季を問わず賑やかな憩いの場として人々は利用していた。

 

 巨大な湖を「L」字に沿うように建設された構造は、各ブロック八箇所によって構成されている。

 

 休日ともなると、万人の規模の人間がこのショッピングモールに押し寄せる。

 

 午前一〇時三十五分ごろ。

 商品および資材搬入用の通用門に、三台のトラックが停車した。検問を行う警備員は眠たげな欠伸をしながら、運転席を一瞥する。

 この日もいつものように忙しく、そして過ぎ去る同じ「一日」でしかないと思っていた。

 

 しかしトラックの運転席にはガスマスクをつけた男が手を振っていた。丸いプラスチックの目元部分は不気味に笑っていた――

 

 くぐもった声で、

 「やぁ、おはよう。そしておやすみ」独特の挨拶をした。

 このとき、警備員の男は本能から彼が危険だと察知して、咄嗟に机の下にある警報ボタンを鳴らそうと動いた。

 だがその勇敢な行動も無意味と化した。

 バァン、と乾いた破裂音と共に受付窓は蜘蛛の巣状に罅が入り、警備員の男は背後の壁に強く打ち付けられていた。がくり、と頭を垂れて脳漿と血を周囲に撒き散らしていた。

 

 運が悪く死んだ……わけではなかった。

 

 狙いすまされたかのように、しばらく誰も駆けつけて来ない。いや、それどころか防犯カメラすらマトモに作動していないのだった。

 

 次々と通用門から列をなして侵入するトラックは計六台だった。

 

 この大型ショッピングモールの防犯システムは既に、ジョーの手によって陥落していた。いわば、目と耳を塞がれた状態でボクシングを挑むようなものである。

 

 兇弾によって斃れた警備員はこの日の虐殺の記念すべき一人目となった。

 

 2

 この大型ショッピングモールに接続する道路は計六ヶ所あった。――だが、休日ともなると大渋滞が発生していた。一箇所につき三キロほどの混雑となっていた。

 車がひしめき合う中、車列の先頭に位置する大型運搬トラックは微動もしなかった。……むろんこのトラックの前には、車など一台もないのだ。

 

 この奇妙な光景は、後の証言でも得られた。しかも、六ヶ所全てである。

 

 午前一一時五分

 

 全ては計画通りだった。

 

 まず、ショッピングモールに繋がる埼玉と東京側の道路に駐車したトラックが突如、発火したかと思うと、車体が空き缶のように空中を舞った。車列のフロントガラスから、人々はしばらくその異様な数秒に注目していた。

 トラックは頭から道路に突き刺さり、激しい爆炎にその姿を消した。銀色の巨大な箱のような荷台から無数の「なにか」が放出された。

 その「なにか」は周囲に撒き散らされ、十秒以内に全て爆発し始めた。

 最初、渋滞に苛立っていた人々も、トラックが舞い上がり、爆炎を輝かせた頃から異常事態だという現実を受け入れはじめた。

 

 だが中には、相当なマヌケもいた。

 車を捨てて逃げる人々の中にも、携帯端末のカメラ機能で現場の写真や動画を撮影する連中がいた。彼らは無論、この連鎖爆弾の格好の餌食となり、気がついた時には体の肉片を辺に撒き散らすハメになっていた。

 

 現場は酸鼻を極めた。

 

 クラスターボムのように詰め込まれたプラスチック爆弾たちが、次々と破壊の魔の手を広げていった。あまりの勢いの凄まじさに、黒煙と炎が晴れた休日を、地獄絵図に塗り替えた。

 

 

 

 3

 そんなショッピングモールモール周辺の事情がまだ伝えられていない午前一一時一〇分。

今度は通用門から侵入したトラックたちが、各搬入路に停車した。――あとは、外の地獄と同様の地響きを鳴り立てて、激しい爆炎で虐殺の始まりを告げた。

 

 その間、ジョーはモールの空調設備室に立ち寄っていた。

 彼は台車を押しながら、鼻歌を陽気に歌っている。

 右手にはデザートイーグルが鈍い銀色を輝かせて、標的を待つようだった。

 

 『関係者以外立ち入り禁止』

 と、記された扉を我が物顔で開き、警備員らしき人を見つけるたびに、引き金をひいた。撃鉄が落ちて、銃口が火を噴いた。

 

 空気をビリビリと震わす強すぎる衝撃に、平穏だった日常の人々は驚いた。従業員たちはジョーのいる方向を、数秒……白痴のように眺めていた。

 

 映画の撮影だろうか?

 

 そんな、現実逃避も長くは続かなかった。

 

 「諸君、それではまた会おう」

 

 ガスマスクのこもった声が、カラカラと笑いながら空調室に進んでいった。

 

 ジョーを追うように駆けつけた人影が、一斉に通路にたむろする従業員へ射撃を開始した。火箭が眩く、次々と人間たちをなぎ払う。

 

 

 

 虐殺を背にしながらジョーは無機質な扉の前に佇み指を動かす。

 暗証番号を求める電子ロックも既に、ジョーには無意味だった。彼は適当に数字を打ち込む。しかし、電子制御が既に奪われた状態であればデタラメでもよいのだ。

 

 薄暗い、コンピュータの青白い画面だけが並ぶ部屋。

 ショッピングモールの本棟を司る空調室の部屋を見回し、巨大な箱を乱暴に開く。いくつものポリタンクに液体が揺らめいていた。

 

 神経ガス

 

 有名なVXガスとは異なり、大気中に散布されて約二〇分で濃度が薄まる……そんなガスをジョーは簡単に作ってしまっていた。

 

 ポリタンクから嬉しそうに子供を抱き抱えるようにして、ジョーは透明な液体を、通気口の枠へと流し込んでゆく。

 

 この三分後、モールの本棟の通気口や空調機から毒ガスが散布された。

 

 ガスの効果は、ジョーの試算通り二〇分で終わった。

 

 たった一時間以内に、約六百名もの人々が犠牲になった。

 

 この異様な虐殺は、国が始まって以来の事件となった。

 

 4

 

 「どうかな? 我々荒魂のやり口は?」

 

 ジョーは、中央完成制御室にいた。ガスマスクを外して、爽やかな笑みを浮かべていた。まるで七〇年前の原子力爆弾を投下したあとを歩き回った時を思い出すかのように。

 

 「……キサマら人間は下らん」

 

 赤黒いマントに覆われた姿から、いかにもつまらなそうな返事が返ってきた。

 

 「吾レは人間に復讐するためにここにいるのだ! 勘違いするなよ」

 白い着流しに、青色の帯。ボロボロの袖からは赤茶けた肌……黄金の瞳。赤い髪に白い毛先。まさに異形とも言うべき容姿だった。

 

 ジョーは肩をすくめて、

 「スルガ……君には赤羽刀の件で感謝しているんだ。仲良くやろう」となだめた。

 

 「――フン」

 彼の足元にばらまかれた百本ちかくの御刀たちを、スルガは素足で踏み散らかす。

金属同士の擦れあう不快な音がたつ。

 

 「君もこのショーに参加したのは、ボクの描くこの光景が見たいからだろ?」

 「悪趣味な……あの〝ステイン〟と名乗る男はどこだ?」

 おや? という表情でジョーが驚く。

 「彼はどうやら、刀に愛されているらしいな。彼は、今屋上だ。……愛しの彼を待っているんだろうな」

 

 スルガは踵を返して出口へむかう。そして、一度足を止め、

 「その百鬼丸という男、貴様らが執着するほどの者なのか?」

 ノイズ混じりの声に、ジョーは同意の首肯をする。

 

 ……そうか

 

 言い残して、部屋を退出した。

 

 5

 ジョーがスルガを見出したのは、テロを実行する三週間前だった。鎌府の学長高津某の気まぐれで増設された研究室の中にいくつもの廃墟があることが分かった。そこをしらみつぶしに探索していたところ、このスルガ……という、異形の者と出会った。赤羽刀が発生させる荒魂たちを操り、人間社会を混乱に陥れていたらしい。

 

 ジョーは初見でスルガを気に入った。

「君が欲しい……君の力を、人間どもに復讐するため、ボクに貸してくれないだろうか?」

 懇願するわけでもないが、優しい笑みに湛えられた狂気……人ならざる者のスルガをしても、彼の内に秘めた恐ろしさに一瞬押された気がした。

「吾レを? 人間如きが? バカな」

「ボクは人間であって、人間じゃない。君にはボクの正体が分からないのかい?」

 彼の言葉通り、神経を研ぎ澄ますと膨大な霊力が彼には溢れていた。

 

 「――ボクは知性体。荒魂の中でも特別種さ。しかも元の人間の人格を有したままの、ね。どうだい? 協力のほどは?」

 

 スルガの胸には、鬱屈した澱のようなものが蓄積されていた。

 

 しかし、このジョーという危険極まる男にほだされたのかもしれない。理由などどうでもいい。彼といれば、退屈はしないで済みそうだった。

 

 「いいだろう。……お前は吾レにどんな地獄をみせてくれる?」

 それは、初めて味わう他者への「期待」だった。

 

 ジョーは、

 「君の望む以上のモノを……」

 恭しく、紳士然としながら囁く。

 

 この暗く湿った、廃墟の研究棟の砕けた天井からいくつもの光が差し込んだ。

 

 

 6

 この前代未聞の大虐殺をいち早く連絡を受けた折神家では、急遽会議が開かれる……予定だった。

 

 

 しかし現実は不可解な事ばかりだった。

 当主の折神紫は、テロの一報をきいても眉ひとつ動かさず「そうか」と返事をしただけだった。まるで以前から知っていたかのような反応だった。

 それだけならば、問題はない。

 

 今回の事件では、巨大な荒魂の発生も確認されている……あの、モニタージャックをした「ジョー」と名乗る狂人の仕業だと誰もが気がついていた。

 

 だが政府要人を含め、今回の事件には淡白な反応を示すのみだった。

 

 その変化の一端――荒魂の大規模討伐の総指揮に、親衛隊の席なしの双葉が選ばれた。

 突然の命令に、唖然とする他ない双葉は、命令者の獅童真希の部屋に駆け込んだ。

 

 「これは一体どういう事ですか? なんで、席なしのわたしが?」

 

 突然の事態に混乱しながらも、なんとか自らの言いたい要件をいえた。

 

 真希も硬い視線を双葉に向けながら、

 

 「……分からない。今回のテロ事件はSTTの案件だ。その周辺に出現する荒魂の退治が、特別祭祀機動隊の役割だ。が、今回は親衛隊の席ありは皆、紫様の護衛任務を受けている」

 

 「な、なんでですか? ――そんな」

 

 真希は顔を歪めながら、

 「以前、紫様を強襲した十条姫和を含む舞草の残党が紫様を再び狙っている。確証はないが、そんな情報があった。だから、ボクたち親衛隊の席ありは容易に動けないんだ。理解してくれ」

 

 双葉は、生唾を飲み込んだ。

 

 情報では埼玉と東京の境で一〇メートル級の荒魂が暴れているとのことだった。一体でも厄介なのに、数体が同時に暴れている。S装備で多数の刀使を投入したところで、勝てるイメージが掴めない。

 

 そんな双葉の不安を読み取ったように、真希は、

 「大丈夫だ。いざとなれば、ボクたちも一時的に君の支援にいけるハズだ。……だが、問題はその投入できる刀使だが」

 

 小さく溜息をつく。

 

 現在、伍箇伝の状況は複雑だ。折神家率いる直属の刀使……というのは少ない。つまり、伍箇伝を統率することが本来の目的だからだ。

 だが公権力(折神家)に従順といえるのは、京都の綾小路武芸学舎。そして鎌府女学園の二校のみだった。

 

 舞草の拠点制圧作戦に絡んで、美濃関学園と長船女学園には強制捜査を入れていた。あとの平城学館は表向きはことを構えていない。しかし襲撃者十条姫和の件といい、小烏丸の所有者隠しの件といい、十分に警戒する要素となっていた。

 

 ――となれば、現在折神家の持ち駒は二校。

 

 しかも、通常通りの任務でも手一杯な現状、鎌府から動員できる刀使の最大は五〇名が限度。

 

 「……綾小路の支援が必要になりますね」

 双葉は現時点での問題点を整理し、冷静に告げる。

 

 真希もそれを理解していた。だから、

 「ああ、そうだね。もう相楽学長には話をつけてある。京都から四〇名、刀使が投入される予定だ。――あちらも近畿エリアをやりくりしながらだから、これが限度なんだろうね」

 

 鎌府も、関東一円の監視区域としている以上、どれだけ投入できても一箇所につき五〇名。西からの応援で四〇名。

 

 一見多すぎるくらいに思えた。

 

 

 「S装備も導入される……これで、制圧には問題ないだろう」

 

 真希は苦い口調だが、双葉を元気づけた。

 

 様々な責任を抱え込んだ真希の苦悩を双葉は察すると、

 「分かりました。これから折神家親衛隊所属、橋本双葉。鎌府、綾小路の二校の刀使を率いて鎮撫に向かいます」

 固い口調で敬礼をすると、機械的に部屋を出た。

 

 あとに残された真希は深い息を吐いた。

 

 そのすぐ後に扉がコンコン、と叩かれた。

 

 ――どうぞ、と返す暇もなく扉が開かれた。

 

 「ああ、キミか」

 安堵の微笑を漏らす真希。

 

 親衛隊第二席、此花寿々花は意味ありげな顔つきで真希の方に歩み寄る。

 

 「……双葉さんに任せたのは、こんな時の為なんでしょうね」

 

 親衛隊は、時として伍箇伝の刀使を指揮して荒魂の討伐を行う。かつて……二〇年前の反省から、大規模な刀使の集団戦についても一応の訓練もある。

 

 しかし、その指揮権は折神家が有する。それは権力を一元化することにより、命令系統の明確化を図る、という建前があるからだ。本音は、折神家の権力の集中にほかならない。

 

 では翻って、親衛隊の面々をみると、指揮官といえる能力を有するのは、獅童真希と此花寿々花の二人しかいない。

 皐月夜見は、直接の指揮よりもその周辺の索敵から工作に至るまでの支援能力に用いられている。

 燕結芽……に関しては論外といえた。個人の力は秀でていても、他者とのコミニュケーションを必要とされる指揮官には不向きであった。

 

 とすれば、真希と寿々花が仮に現場での対応で不在の場合に誰が大規模な刀使の指揮を行うのだろうか?

 

 双葉に期待されていたのは、この部分である。

 

 軍隊であれば下士官のような彼女もゆくゆくは、このような事態に備えての配属だったのだろう。

 

 そう、寿々花は推察していた。

 

 ……事実、その通りになってしまった。

 

 

 「いったい紫様はどこまでお見通しなんだろうね」

 寂しそうに笑う真希。

 

 まるで、手の届かないものを求め続ける子供のようにすら映った。

 

 「あら? 真希さんが弱音とは珍しいですこと」

 

 「……そうかもしれないね。でも双葉には頑張ってもらわないと」

 

 ええ、そうですわね。

 

 つぶやきながら、寿々花は真希の背後の窓に目線を投げる。非日常の人間社会を嘲笑うような、綺麗な昼の青い空だけが『日常』の風景のひとつとして存在していた。

 

 

 

 

 ◇

  「チッ……はぁ……」

 田村明は舌打ち混じりの溜息を漏らした。

STT(特殊機動隊)に所属する彼は、今年で三一歳になる。四年前に試験を受けて入隊をした。これまでの出動経験では『荒魂』などの異形の怪物だった。

しかし、今回は表向きには「テロリスト」すなわち人間である。

 

今事件で特別に支給された装備の中でも、アサルトライフルのG36があった。普通、この国で治安維持部隊が使用するようなシロモノではない。明らかに火力がある。

 

一応の訓練で射撃を試したが、まさか実用する場面があると思わなかった明は、装甲車に揺られながら、矢継ぎ早に無線で伝えられる惨状に二〇年前の「相模湾岸大厄災」を重ねていた。

二〇年前……相模湾岸付近の祖母の家に訪れていた明は、あの惨状を目の当たりにした。当時十一歳だった彼は、避難誘導に従い祖母を連れて人群の中を行動していた。

真っ暗な雲に紅色の空が禍々しく映った。

大人たちは、異形の怪物に全くの役立たずだった。

いくら文明の利器である「銃」をぶっぱなしても意味がない。そんなことは小学生だった明でも理解できる現実だった。

 

 ――その中でも、刀使と呼ばれる少女たちは懸命に戦っていた。

 彼女たちは、自ら死地に赴き異形の怪物「荒魂」を駆逐していた。避難誘導も率先して行っていた乙女たちの姿を忘れることはなかった。

 勿論、彼女たちの「遺体」がシートに隠され運ばれる様子も。

 事件の後、世間は刀使を英雄として祭り上げた。一方、犠牲者も過剰な悲劇的な演出によりクローズアップされた。

 だが、明は知っている。

 あの時、あの現場では全てが異様な〝日常的〟光景として扱われていたことを。

 避難していた人々や、無力な大人たち……それに、刀使たち自身までが犠牲を当然のような態度で受け入れていた。

 

 子供心に、こんな世間はおかしいと思った。

 

 だから、彼女たちのような刀使の役にたつ仕事をしようと思った。

 

 そして、特別機動隊に入隊した……。

 

 しかし、現実は非情だった。つい数日前に舞草と呼ばれる公権力に反発する刀使集団の殲滅作戦に駆り出されたばかりだった。

 (オレはこんなことがしたくて、この組織に入ったわけじゃないんだッ!)

 内心悔しく歯噛みしたが、結局凡俗な明は、仕事と割り切り出動した。

 刀使を殺すことすら許可されていた作戦に。

 

 

 

 『お前ら、どんなひどいことをしても当然だと思っているのかッ!!』

 

 唐突にそんな台詞が蘇った。

 

 あの時、明たちの前に猛然と嵐のような暴力を振るう鬼――のような少年が絶叫して、機動隊の侵入を防いでいた。――たった一人で。

 

 明は東経路からの侵入部隊だった。――が、進入路となる足元が地面に埋まった。しかも夜空から催涙弾が雨あられのように落下して、呼吸困難になるまで白煙にむせび泣いた。

 

 数分で攻撃は終わった。同僚を含め多数の負傷者を出した(死者は幸い、いなかった)。

 皆口々に「あのクソガキを見つけたらぶちのめす」「殺してやる」などと喚き散らしていた。

 

 だが明は、そんな彼らを尻目に本来の志を思い出していた。

 

 彼……あの鬼のように強く、純粋な少年の姿こそが自らが思い描いていた理想の自分だった。

 

 もしも、自分が刀使を守れるヒーローになれるなら、と漫然と思い描いていた姿が明確に目前に現れたのだ。だから、舞草の拠点制圧が失敗に終わったのも正直、ホッと安堵していた。

 

 「おい、明大丈夫か?」

 真向かいの同僚が、心配そうに声をかける。

 「……ああ、すまん。きいてなかった。悪い」

 「いいや、誰だってこんな大規模テロは不安だよな。本来は自衛隊が出るんだろうが、あくまで国内治安維持はコッチ(STT)の仕事。そうなってるらしいからな。それに、自衛隊の派遣には膨大な時間と国会の審議が必要らしくて、時間がかかる。だからアサルトライフルを支給されたんだ。お笑い種だよな」

 そう言ってコツン、と銃身を軽く叩く。

 いつになく饒舌な同僚も、心細いのだろう。

 

 「今回の件、多分敵は荒魂なんだろうが、外見が人間な以上やりにくいよなぁ……」

 

 「ああ」

 「あと十分で到着だ。それからは、徒歩で移動して現場で待機らしい」

 G36の安全装置を確認して明は瞑目する。

 願わくば、刀使の娘たちに凄惨な現場を目撃させず事を処理できるように、と。

 

 

 2

 綾小路武芸学舎、中等部一年の内里歩は、不謹慎であるが今回の遠征に多少浮ついた心持ちで臨んでいた。

 久しぶりの実家に戻って休日を満喫していた彼女のもとに、緊急招集命令が下った。学長と折神家連名の招集である。ことの重大さが察せられた。

 

 支度を済ませて、数十分後に学校に到着した。

 

 既に校門の広いスペースには数十人の人影が集まっていた。

 

 そこに背広の四十代ほどの男が、鋭い目線で周囲を見回しながら、

 「君たちにはこれから、関東に向かってもらう。事情を知っている者もいるだろうが……」と、声を枯らして連絡事項を繰り返し伝えていた。

 

 だが彼の言葉の続きはわかっていた。ちょうど、昼頃に緊急ニュースとして報じられていた大規模テロに関連した大荒魂の討伐だろう。

 

 

 計四〇名の刀使が集められた。

 京都駅から、特別運行の新幹線に乗り東へ赴いた。旅行で一度行ったきりの関東だったから、歩は緊張半分と期待半分だった。

 親友の田辺美弥も一緒で心強かった。

歩たちは慌ただしく招集され、気が付くと新幹線の座席シートに身を深く沈めていた。

 流れゆく車窓を横目に、

 「これからどうなるのかなぁ……」隣席の美弥が何気なくいう。

 まだ未熟な中等部の彼女たちも、世間では立派な刀使だった。

 「だ、大丈夫だよ。荒魂の討伐さえ終われば、すぐ帰れるよ」

 歩は硬い表情で笑顔をつくり、親友を励ます。

 内心ではあの凄惨な現場を見ずに済むなら普段の任務と変わらない、そう思い込むようにしていた――

 

 その後東京駅に到着し、車両に乗せられ現場へと派遣されることになっていた。

 

 S装備は現場着用を命じられ、車中にて実習で教えられた通りの手順を思い出しながら歩は、次第に高まる緊張の心臓の鼓動を感じていた。

 

 結果論に過ぎないが、内里歩はこの日の事が、まさか今後のゆく末を左右するとは思ってもみなかっただろう。

 

 

 

 3

 ぐっ、と御刀の柄を握る手が強まる。

 歩は細長いヒビの入ったオレンジ色のバイザーから必死に目を凝らす。ちょうど左手側に巨大な淡水の湖を臨み、朔風が水面に小さな漣をたてる。鼻に水の濃い匂いがする気がした。

 

 最初は完璧だった――一体どこで間違えたのだろう。

 

 

 

 

 

 綾小路の刀使が到着して早々のことだった。

 S装備を装着した歩たちはすぐさま、民間人の保護に回された。鎌府と折神家の到着が遅れるとの連絡があった為(恐らく鎌府の刀使が出払い集まらなかったのだろう)、本来は野営本部での待機の筈だった。しかし、大荒魂がショッピングモールの湖側に出没した、との報告がきた。

 

 現場の指揮系統は現在、特別機動隊の指揮官が指示を下している。

 荒魂に唯一対抗できるのが刀使しかいない場合――彼女たちに頼るのが自然な流れだろう。鎌府を待っていては事態が悪化する。そう判断され、たった四〇名の刀使が前線へと送り出された。

 

 現在時刻は午後四時。事件発生から随分時間が経過していた。

 「美弥、大丈夫?」

 歩は、チームを組む親友に明るく声をかけた。

 その彼女は小刻みに震えながら「うん、平気だよ」と口を釣り上げる。それが咄嗟の嘘だとすぐに理解できた。痙攣したかのような親友の笑みに、歩自身にも不安が募った。

 

 等間隔で設置された外灯の鉄柱に備え付けられたスピーカーから、楽しげなジャズ音楽が流れる。全く場違いな印象を受けた。

 歩は携帯端末のスペクトラムファインダーの画面と周囲を交互にみながら、ゆっくりと前進していく。この湖エリアは避難が完了しているという。

 次第に濃くなる夕色が周囲の風景を染め上げる。

 

 一チーム五人で構成された部隊。

 

 この湖エリアは広大で、二手に分かれてまだ逃げ遅れの民間人の探索と討伐を行う予定だった。

 

 湖畔沿いには計三チーム一五人の刀使が陣形を崩さず進んでいた。

 

 

 ……ヴォォオオオオオオオオ、ヴォオオオオオオオオオオオオオ

 

 と、唐突に遠雷の如く地面を振るわす咆哮が、綾小路の刀使たちの体を硬直させた。

這い寄る恐怖心を振り払うように、「写シを貼れ。ばっ、抜刀!」と、隊長が半ば悲鳴のように叫ぶ。

 

 体を守るS装備の鎧も、今の歩には心もとなく感じられた。

 

 ヴォオオオオオオオオ、ヴォオオオオオオヴォオオオオ

 

 また咆哮。

 

 今度は別の方角からだった。ゆうに二体の大荒魂がいる。

 (どこ? どこにいるの?)

 歩はバイザー越しに、怯えに歪む視界を彷徨わせた。

 夕暮れに沈む湖の奥に林立する木々の中だろうか?

 

 もう一体は――

 

 

 「あ、歩っ! 上、上、上に!」

 

 美弥の声の通り天空を確認する。茜色の空が美しく、その遥か彼方に小さな粒ほどのサイズの四脚の異形な姿を確認できた。

 

 まるでスローモーション撮影しているかのように、巨大な荒魂が落下してくる。本能が鈍ってしまった歩は、「えっ」とマヌケな発音で瞬きをするだけだった。

 

 その巨体との距離が近づくにつれて、現実を受け入れた。

 「――歩、逃げて」

 迅移を使わなければ……しかし、足が萎えて力が入らない。徐々に混乱した頭が体を凍らせていった。

 「バカ者ッ!」

 隊長格の綾小路の年長刀使が、迅移で歩の腕を掴んで落下位置から連れ出した。

 

 数秒後――地震のような地面の振動が、刀使たちを恐怖に駆り立てた。

 

 舗道のブロックを吹き飛ばしながら、羽の生えたワニのような荒魂が獰猛な口と歯を剥き出しにする。

 

 「散開して距離を保て!」

 歩の腕を掴む刀使が、声を張り上げて命ずる。

 人形のようにこわばった綾小路の刀使たちは、各々頷き間合いを取り始めた。

 

 「いい? 二度とあんなことしないで。死ぬの。理解して……」

 厳しい口調で、年長の刀使は歩を叱る。

 「……はい」

 半ば夢の出来事にすら思えた歩は、呆然とした調子で返事をした。

 「しっかりして――」

 と、叱責しようとしたところで、『ヴォオオオヴォオヴォヴォヴォ』というけたたましいサイレンのように耳をつんざく荒魂の鳴き声が響く。

 

 ――しかもまた別の方向から。

 

 湖畔から派手に水飛沫をたてて、爬虫類型の一〇メートル級の荒魂が岸から飛び出した。

爬虫類の荒魂は、その長い尾を横に振り周りの刀使たちを吹き飛ばす。次々と硝子玉が砕けたような甲高い響きが鼓膜を震わす。

 

 写シを貼っていたとはいえ、彼女たちは地面に簡単に転がって気絶してしまった。

 

 「「ヴォヴォヴォヴォヴォヴォヴォヴォヴォヴォヴォオオオオオオオオオオオ」」

 

 二体の荒魂が同時に天に向かい叫び上げる。この世の終わりを告げるかのような盛大な音量の絶叫に、残った刀使たちは言葉を失った。

 

 こんな化物を相手にしないといけないのだろうか?

 

 誰しもの胸に、そんな事実が突きつけられた。

 

 

 

 4

 「美弥……?」

 歩は親友が荒魂の尾に弾き飛ばされる瞬間を目撃して、ようやく正気にかえった。理不尽に対する怒りが感情を支配し、腕を掴んだ年長の刀使を一瞥する。

 「すぐに、戦わせてください」

 と、願い出た。

 「そんな事を言ってる場合じゃないでしょ!? まず、気絶した刀使を助けないと……」

 冷静な彼女の口ぶりの裏に焦りが見え隠れしていた。

 

 「ヴォヴォオオ」――という咆哮の直後、歩たち二人を巨大な鉤爪の四本が襲い、強烈な衝撃に吹き飛ばされた。運良く歩は写シが剥がれず済んだが、地面に横たわる年長の刀使に目をやると、写シという守りの加護が消えていた。

 

 バイザーに亀裂が入ってしまった。S装備も万能というわけではないらしい。

 

 歩は冷静になった頭で周りを視認する。一五人いた刀使の殆どが地面に倒れて動かない。死んではいないだろうが、このままだとマズい。

 

 自ら招いた思慮の無さと迂闊さの窮地に、泣きそうになる。

 

 ドシン、ドシン、と巨体をゆすりながら、二体は歩の方へとゆっくりと、確実ににじり寄る。

 

 一瞬襲う眩暈のあと歩は無心でただ祈る――「誰か助けて」と。バイザーの奥の目をつぶる。迫り来る巨大な物質が肌感覚で否応なく理解できる。呼吸が浅く短くなる。

 

 ……もうだめだ。

 

 諦めた。途端に弛緩した筋肉は、肩から順番に力を緩めて、息をたっぷり飲み込んだ。

 

「ヴォオオオオオオオオ……」

 荒魂から吐き出される咆哮が、中途半端で終わった。

 

 (――えっ?)

 

 と、恐る恐る目を薄く開いた。

 

 歩のすぐ目前に濃緑の制服に身を包んだ、少女を認めた。――彼女の年の頃はあまり自分と変わらない。そう歩は思った。

 

 「だっ、大丈夫ですか?」

 その少女――否、刀使は穏やかそうな口調で安否を訊ねる。

 

 「あっ、はい!」

 

 よかったぁ~、と安堵しながら、肩越しに絶妙な剣技を連続して大荒魂に叩き込み続けている。

 

 「調査隊、六角清香……参ります!」

 普段しないような鼓舞のような宣言をして自らを奮い立たせる。

 

 小柄で華奢な体を必死に動かして、荒魂たちの攻撃を躱しつつ、反撃を試みる。的確な一撃一撃が、荒魂たちを翻弄する。

 彼女は相当な剣術の腕前、天才なのだ。否応なく、その力量差を思い知らされた歩は、

 「強い……」

 素直に呟いた。彼女は気が付くと御刀を抱き寄せていた。

 

 「みんなが……来る……まで、我慢……ッ、しないと……」

 清香の頬に汗が流れた。相当辛いのを耐えているのだ。しかし、時間稼ぎのために、この場の刀使を守るために勇敢に巨大な荒魂に抗い続けている。

 

 低い唸りが空気を切り裂き、凶悪な棘を有した尻尾が清香の死角――双方向の斜めから殺到した。

 

 「まだ……我慢っ、しないと……」

 清香は唇を必死に噛んで、呻くように言葉を発する。暴力的な風圧の接近に耐え、後ろへ逃げ場のない状況の中で、涙を大きな瞳に湛えて、逃亡する欲求を堪えていた。

 

 

 「あ、……あっ」

 

 歩は渇いた口内から漏れる単調な声で、清香に「逃げて」と伝えようとした。このままでは、せっかく助けにきてくれた彼女が本当に死んでしまう――

 

 清香と自らの死を、覚悟しようとした時。

 

 『よっしゃああああああああ、よく我慢したなぁああああああああああ!!』

 

 少年の明るく場違いなまでの声が木霊した。

 

 歩はその声のした方向へと目線を動かす。

 

 上半身に白いシーツを巻きつけた人影が、空中でスライディングでもするような格好で夕暮れの空中を滑空しながら、右足を突き出し、爬虫類型の荒魂とワニ型の荒魂を勢いよく蹴って湖面へと叩き落とす。爆発でも起こったかのような衝撃と、滂沱の水飛沫が舗道を激しく濡らす。

 

 「うそ……」

 人間わざではありえない映像が、歩の目前で行われた。あの質量のある荒魂たちをたった一撃の飛び蹴りだけで水底へ沈める――ありえない。

 そのありえない奇跡を起こした白いシーツの人影は、煩わしそうに白布を自らではぐり取った。

 

 長い黒髪を後ろで無造作に束ねただけで、舞い上がる髪は宵闇の迫る空に溶けそうな漆黒をしていた。どこかチグハグな印象を受ける顔には不敵で馬鹿にしたような表情。

 背丈はそれほど高くはないのは、猫背気味だからだろうか。

 両腕は包帯で巻かれている。

 

 「~~~~ひっ、百鬼丸さん!」

 涙に潤んだ声が些か弾んだ調子で、〝その人〟の名前を呼ぶ。

 

 先ほど助けに入ってくれた六角清香は、驚きと羨望の混ざった様子でぽーっ、と百鬼丸を見つめていた。

 

 呼ばれた当の本人は、

 「おう、お久しぶり!」

 悪ガキのように破顔して親指をたてる。

 

 こんな異様な状況でも、彼だけには違う時間が流れているような妙な安心が感じられた。

 

 「あの、どうしてここに……?」

 清香の問いの声に上擦ったような、奇妙な動揺がまざっていた。

 

 「――話はあとだ。まずは、アイツラをお片づけしないとな」

 

 百鬼丸は、肩越しに言いながら、スルスルと腕の包帯を解き、口で次々と肘から指先までの下膊を抜いた。

 

 「えっ!? うそ……」歩は別のショックに目を見張る。

 

 百鬼丸の両腕には、青白い妖気の宿る刃が二つ――煌めいていた。

 

 派手な飛沫を上げた荒魂たち二体も、岸に再び這い上がり、唐突な乱入者に明らかな敵愾心を向けている。

 

 「ちっとは、おねんねしてろよ、クソ野郎」

 ニタッ、と口を歪めて百鬼丸は自然体に近い様子で身構える。

 

 「あの人は、大丈夫なんですか?」

 無意識に、清香に尋ねていた。また、彼も怪我をしないだろうか――

 

 しかし、そんな歩の心配を微笑で返した清香は、

 「平気ですよ。あの人は強いですから」

 全幅の信頼を寄せた言葉は、歩を安堵させるのに十分だった。

 

 夕から宵に落ちかかる境界時間――。

 

 いま、たった一人の鬼が動き出した。



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41話

 百鬼丸の脚部から熱気と共に濛々と蒸気がジーンズの布越しに揺らめいていた。

 

 ――ちっ

 

 と、不機嫌な舌打ちをしながら彼は腰を落として両刃を肩の位置、水平に保ち構える。疾い速度で飛び出し、横並びの巨大荒魂の間を縫うように駆け抜ける。

 

 「「ヴォオオオオオオオ」」

 

 激しい鳴き声と同時に橙色の液体を撒き散らして身悶えする。すかさず百鬼丸は体を翻して右足を折りたたんで曲げると、勢いよく腰を回して二つの巨獣を蹴り飛ばした。

 「く」の字に折れ曲がった荒魂たちは再び水没する。

 哀れな連中は頭をプカプカと浮かべて、水から這い上がろうと試みる。百鬼丸はトドメをさすために湖の浅瀬まで歩き、太腿部分まで着水させる。ジュー、と水に冷やされた足から白湯気が立ち上る。その侭、刃先をワニと爬虫類の異形で巨大な頭部を刺し貫く。

 

 「くたばれ」

 一言告げた。言葉通り――

 

 悲鳴の跡形もなく、灰となって荒魂は消滅した。

 

 

 

 一部始終を眺めていた歩は、「どうしてあんなことができるんですか?」瞬き一つせず、いや、できず清香に訊く。

 問われた彼女は首を振り「わかりません」と答える。

 ノロすら残さない完璧な闘い。一方的に立ち回り、華麗に勝利する展開。

 

 つよくなりたい、と歩は思った。――ただ彼のように人の領域を超えたような強さに近づけるだろうか。不思議な魔力めいた「強さ」に魅入られてしまっていた。

 

 そんな純真な思いが、後の彼女を狂わしてゆくとも知らずに……

 

 

 1

 「んで、なんでここにいるんだよ?」

 浅瀬から上がった百鬼丸が、清香に聞いた。

 

 水に濡れた百鬼丸をぽけー、とみていた清香は「はっ」と正気を取り戻したように、ごほん、と咳払いをする。

 

 「え、えっと……ですね、今は赤羽刀を探す調査隊に所属していまして……」

 両手の指先を絡ませながら、これまでの経緯を百鬼丸に教える。

 

 百鬼丸と別れたあと、様々な人と出会い……自らが不足していた部分を補ってくれる友人たちと出会えたことなどを、一生懸命に語った。

 

 聞きながら百鬼丸は「うん、うん、そうか」と相槌をうち、時折微笑をみせた。まるで父性を感じさせるような雰囲気に、清香は穏やかな心持ちになった。

 

 「――なぁ、清香」

 

 「は、はい!?」

 

 突然名前で呼ばれ、驚いた清香はマジマジと真正面の少年を見ようとして……恥ずかしさで目を逸らして俯く。

 

 「悪いんだけど、義手を拾って装着してくれるか?」

 

 困ったように笑う百鬼丸の視線の先を辿ると、地面に義手が二つ転がっていた。

 

 「……はぃ」

 なぜだろうか。清香はしゅん、と萎むように肩を落として百鬼丸の義手を拾って、装着してやる。

 

 彼の刃を隠すように、腕の下膊が収まってゆく。生々しい手触りと質感はおよそ義手とは思えぬ程精巧にできていた。完全に腕が戻ると、グッ、と掌を握ったり開いたりする。

 

 大きな男性の掌を触っていた清香の手は、突然百鬼丸の開閉運動に指先同士が触れ合った。

 

 「……うん、いい感じだ」

 

 百鬼丸は素直な感想で、「助かった」とお礼を述べる。

 「い、いえ。あの……はやく、腕も戻るといいですね」

 

 「ん? そうだな。そのために今日、ここに来たんだからな」

 

 「…………義手もいいですけど、本物の百鬼丸さんの手も触ってみたい、かな」

 小さな声で、清香は無意識に呟いていた。

 しかし自らの発言を頭の中で咀嚼して、あっ、と驚きを上げながら百鬼丸の顔を正面に捉える。

 

 キョトン、とした様子で百鬼丸は「あ、ありがとう?」と不思議そうな顔をしていた。

 

 清香は自らの耳が熱くなるのを感じた。

 

 2

 「そんで、そこのお嬢さんは大丈夫か? 怪我とかはないか?」

 歩に声をかけながら、ゆっくりと近づく。

 

 「えっ……あ、はい。大丈夫です」

 さきほどから何度も足に力を入れても腰が抜けて立ち上がれない。しかもS装備のバッテリーが切れて、鎧の外殻が普段より一層重く感ぜられた。

 

 百鬼丸はそれを察したように「ああ、なるほど」と頷いた。

 

 「怖かっただろうな。あんなの。普通だったら、逃げ出すぞ……よく耐えたな」

 背を屈めて、百鬼丸は歩の目線の位置に合わせて笑いかける。

 

 「わたしが気を抜いてたから……美弥もみんなも……」

 悔しさに面を顰めながら、次々と涙がこぼれた。……悔しさもある、だが、あの化物と対峙して生き残れた安堵の意味もあった。

 

 一度、涙腺が緩むとあとは流れるままに体を震わせた。

 

 「よくやった。あとはおれに任せろ」

 泣きじゃくる歩の頭を半ば乱暴にぐしゃぐしゃと撫でる――というより、揉むと力強く宣言する。

 百鬼丸の言葉に安心感で満たされた。

 「……はい」

 

 「ほかの転がってる刀使たちは生きてる。パッパと回収したいところだけど、手が足らないからなぁ……機動隊の連中に援護要請を出してくれ。おれは先に進む」

 

 立ち上がると百鬼丸は踵を返した――ハズだったが、左腕を掴まれる感覚がして振り返る。

 

 

 歩が無意識に百鬼丸の手首を握っていた。

 「あれ? っ、あはは……すいません……手が勝手に……」

 窮地を脱したあと、意識不明の仲間の中で一人残されるのが心細いのだろう。指先が未だに小刻みに震えていた。

 

 

 「――分かった。近くに待機している機動隊をみつけよう。幸い、荒魂の気配も周囲にないみたいだから、少しの間だけここに、この娘たちを寝かせても平気だろ」

 百鬼丸は背を向けて屈み、

 「S装備は重いからパージしろよ。背負ってやる」

 

 百鬼丸の提案に、ありがたいと思う反面、この年になって誰かに異性に背負われる恥ずかしさで戸惑いながら……

 「………………お願いします」

 俯いて頼んだ。

 

 

 

 

 3

 安桜美炎は、突然に隊を離れて飛び出した六角清香を探していた。

 「どこに行っちゃったのかなぁ~?」

 ショッピングモールの湖側、ボート乗り場の辺へと駆け出した清香の後を追いながら、殺伐とした異様な雰囲気に不気味さを覚えていた。

 赤羽刀を探して、調査隊を組まれて日にちが経過した。

 ――当初、瀬戸内智恵の助言通り鎌府の廃墟となった実験施設へと赴いた。しかし、そこには誰の姿もなく、「どうして……?」と深刻そうな顔で呟く智慧を不信に思った美炎だった。

 しばらく、赤羽刀の行方を探していた時……この大規模テロのニュースを知った。

 一時的に調査隊は、この大規模テロに連動して発生した荒魂の退治に派遣されることになった。

 

 今のところ、調査隊の面々は人が死んでいる場面に遭遇していないのは幸いだろう。……ただ、野営地の本部に避難してきた大勢の人たちや、怪我で傷ついた人々をみるにつれて、美炎はこんな酷いことをした相手を許すわけにはいかないと決意を固めた。

 

 

 夕刻から夜の境。徐々に色濃くなる闇色の木々を感じながら、

 「連絡では、この周辺に派遣された綾小路の刀使の部隊から連絡が途絶えているようですね」

 木寅ミルヤが冷静な口調で現状を伝える。彼女は北欧人とのハーフというだけあり、日本人離れした顔立ちや、髪の色も、年の割に大人びた雰囲気も威厳と理知的な雰囲気が醸し出されていた。

 

 「あァ? とっとと、荒魂ちゃんを切り刻もーぜ。ワクワクしてて、頭がフットーしそうだぜ」

 ひひっ、と笑う小柄な少女はパーカーの下から覗かせた猛禽類に似た獰猛な視線を隠そうともせずにぎらつかせた。……七之里呼吹、鎌府でも名の知れた〝有名人〟である。主に悪名の方で。

 

 すぐ斜め後ろを歩いていた瀬戸内智恵は呆れた。

 はぁ~、と盛大な溜息をついて頭に軽く手を当てた。彼女は長船女学園の――或は舞草の一人として、この現場に居る。

 長船女学園独特の胸部を異様に強調された制服の、凶暴な巨乳をぶるぅん、と揺らしながら、

 「七之里さん。今はそんなことを言っている場合じゃないでしょ?」言い含めるように咎めた。

 

  その智恵の言葉を引き継ぐように、

 

 「そうだよ! まずは清香を探さないと!」

 穴空きレザーグローブの拳を胸元辺で握り締めて真剣な眼差しで言う。彼女の左腰元に佩いた御刀、加州清光の白い柄を触る。

 いつ、敵が襲ってきても大丈夫なように、警戒は怠っていない。

 この切っ先の完全に削れた加州清光は、《処刑刀》のような形状になってしまっている。だがその切れ味は些かも衰えてはいない。

 

 周囲に生い茂る木々が風にそよぎ、恐怖心を煽るような効果を与える。

 「でもなんで、急に飛び出していったんだろう?」

 おとがいに人差し指を当て、必死に考え込む美炎。

 

 普段の彼女からは想像もつかないような行動……。確かに、剣術はズバ抜けているが実践では気弱でやや頼りない。その彼女がこんな凄惨な現場で真っ先に行動できるとすれば何かしら理由があるハズで――

 

 「ん~っ、わかんない~~」

 ガシガシと髪を乱暴に掻く。

 

 考えていた所で答えは出ない。そもそも、考えるのが性に合わない。

 

 と、ブロックタイルを踏む足音がいくつも近づくのが聞こえた。四人は一瞬緊張した空気に飲まれて身構えたが――

 

 四人を発見すると、喜んで大きく手を振る平城の制服の少女。あれは確かに見覚えがある……

 

 「あれ? 清香と……もうひとりは誰?」

 目を見張ってぱちくり、と遅れて瞬きする美炎。

 

 

 4

 「よかったぁー、突然いなくなるから心配したんだよ」

 美炎は清香の手をとって、いう。

 

 「ご、ごめんなさい」

 

 「六角清香。いいですか、今回貴女らしくもない行動でしたが、現状が現状だけに、身を危険に晒すリスクを考えてください。それに貴女一人だけの問題でなく、調査隊として行動している以上、誰かの命も危険に晒しているのだと自覚してもらわなければ困ります」

 きつい説教だった。厳しい口調で腕を組んだミルヤが、眼鏡を反射させる。

 

 「……はい、反省してます」

 

 しゅん、と項垂れた清香。

 

 それで、とミルヤは視線を隣りに移す。

 黒いシャツにジーンズに長靴を履く気楽な格好の少年。

 「貴方は誰ですか? 民間人ならはやく逃げて……ん?」

 と、彼の背中に背負われた綾小路の刀使を見つけた。彼女は、うとうと眠たげな様子だった。

 「彼女を助けて下さったのですか?」

 少年を再びみると、面倒くさそうな顔つきで、「なぁ、清香。説明頼む」と適当に言い放った。不遜といえば不遜なのだが、妙に堂に入っており、反論の余地すらない雰囲気だった。

 

 押し付けられた少女は、

 「は、はい! えーっと、この人は百鬼丸さんって言って、以前わたしも助けてもらった命の恩人なんです! さっきも、湖に出没した荒魂二体を倒して綾小路の刀使を助けてくれて……」

 

 いつになく饒舌な彼女に驚きながら、美炎は「ちょっと待って」と話を止めた。

 

 「はい?」

 

 「なんで、清香は突然走り出したの?」

 

 「あっ、それなんですけど――百鬼丸さんの気配っていうんでしょうか? それが、ちょうど湖の方角に向かっていて、なんだか嫌な予感がしたんです。前に大きな荒魂と戦った時に感じた……すごく嫌な感じがして……それで」

 

 自信なさげに説明する清香。

 

 「つまり、その前の経験と気配で走り出したってこと?」

 智恵は内容の要点を掴もうと訊く。

 

 「いいや、少し違う。そこはおれが説明する。――おれは、普通の人間と違う。荒魂に体の四八箇所を奪われてる。んでもその代わりに色んな能力を獲得した。その一つが《心眼》だ。まぁ、色々な活用法があるが、今回はおれが近くの刀使たちに向けて荒魂の位置を教えるための信号を送っていた。――んで、以前におれと出会ったことのあるコイツが真っ先に反応したんだと思う」

 百鬼丸は眠りかけの歩を背負い直しながら、声を潜めて喋った。

 

 「……すぐに理解できる内容ではありませんが、ただ一つ言いたいことがあります」

 ミルヤは正面に百鬼丸を捉えて、

 

 「今回は綾小路の刀使を助けて頂き、感謝しています。ありがとうございました。そして非礼をお詫びします」

 礼儀正しくお辞儀した。同校の生徒の命を救ってくれた、その事実だけでミルヤには相手を信用するに十分な意味を持っていた。

 

 

 急に真面目な態度で感謝された百鬼丸は戸惑った。

 

 「い、いや。別に……あ、いや。それよりまだ、気絶してる刀使がいるから、助けて欲しい。機動隊にはおれは面が割れてるから、相当恨まれてるだろうし、あんまり会いたくないんだよ」

 

 頼む、と言いながら少し移動して歩を木陰の芝生に下ろした。

 

 下ろしながら肩越しに、

 「こいつも緊張の糸が切れて、眠りたいんだろう。清香がいなかったら、あの場の刀使が死んでた。だから、そう責めないでくれ」

 

 困ったような口ぶりで、はにかんだ。

 

 

 「そうね、百鬼丸さんのいう通りかもしれないわね」智恵は彼の言葉を肯定した。まだ完全に信じたわけではないが、今までの言動や人見知りの清香が信頼している程の人物だ。悪い人間ではないのだろう。そう判断した。

 

 美炎が意を決したように口を開く。

 「ねぇ、百鬼丸さん? でいいのかな?」

 

 「おう、なんだ?」

 

 「やっぱり、荒魂を退治するためにここに来たんだよね?」

 

 「ああそうだ――が、少し事情が違う。おれの肉体を奪ったのは《知性体》って言って……まぁ、要するに他の荒魂と異なる性質だ。だから、おれの獲物なんだ。……とくに、さっきから黙ってるそこのチビ、聞いてるか?」

 

 腕組みして木の梢に身をあずけた呼吹を一瞥する。百鬼丸は《心眼》で、今すぐにでも呼吹が単独行動をしようとするのを制した。

 

 「あァ? なんだよ。文句あんのか? 荒魂ちゃんはみんなアタシが切り刻む。邪魔するならお前も倒すぞ」

 

 強い嫌悪のようなものに彩られた呼吹が、尖った眼差しで百鬼丸を睨む。

 

 両者の視線がぶつかり、不穏な空気が漂った。

 

 「お前が人間を殺す覚悟があるなら、おれは構わん」ひどく冷たい目で呼吹に問う。

 

 なんで人間なんだよ――と言いかけて、口を閉ざした。人間を蝕む荒魂であれば、百鬼丸の言葉は正しい。

 

 「……チッ」

 返事に窮した呼吹は顔を逸らして苛立つ。

 

 

 「赤羽刀を探すなら、このショッピングモールの本棟には近づかない方がいい。恐らくそこに赤羽刀はないだろう。ノロを引き寄せるその刀の性質からして、多分荒魂が集合しやすいんだろう……だが、本棟は人間を殺す要塞になってる。わざわざ連中がそこに赤羽刀を配置するとも思えん」

 

 眉を顰めたミルヤがすかさず、

「なぜそう言い切れるのですか?」尋ねた。「その証拠があるのでしょうか?」

 

 「簡単だ。連中の目的はおれだ。いいや、正確にはおれの肉体だ。連中にはおれの体は霊力の強い媒介としか思ってないみたいだからな。だから好都合だ。今回の一件はおれがケジメをつけなきゃならん問題だ」

 

 強く深く、百鬼丸は噛み締めるように言葉を紡ぐ。

 

 

 5

 

 橋本双葉が野営指揮所についた頃、既に綾小路の先遣部隊四〇名を突入させたとの報告を受けた。

 

 機動隊の指揮官の報告を聞き終わってから、長机を叩き怒りを露にした。

 「確かに今回の件で貴方を責めるのは酷です。そもそも、こちらの合流が遅れたのが原因です。その点についてはお詫びします。それでも言わせて下さい。わたしたち刀使は消耗品ではありません」

 

 現場指揮官は四〇代ほどの、割腹のよい男だった。彼はこの苦しい状況でもよくやっている方だと思う。だが、いま現在刀使を統率する人間としての感情までは、納得していない。双葉は二律背反の中で懊悩した。

 

 

 機動隊指揮官の男は苦々しく頷き、

 「これより、折神家の現場指揮系統に従います」

 と告げた。

 

 「えっ? どういう意味でしょうか?」

 いきなりの発言に困惑した双葉は、相手に詳しい説明を求めた。

 

 現場指揮官は紙束を渡して話し始める。

 

 「今回の事件の首謀者、レイリー・ブラッド・ジョー率いる《サマエル》が人間のテロリストではなく荒魂のテロリストとして国に認定されました。従って、今回の事件の主導は折神家の――貴方の指揮する事件になりました」

 

 彼の言葉通り、最新の命令書には指揮官に親衛隊の双葉が記されていた。

 

 どうして突然こんなことになったのだろう? 

 

 あまりにもタイミングが悪すぎる。国がどんな根拠で?

 

 「そんな……」

 これまでの単なる荒魂退治とは根本的に異なる、テロを起こす荒魂との闘い。一気に双葉の中に絶望が満ちた。

 

 

 

 



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42話

 ショッピングモール、本棟フロア1F エントランスホール。

 普段であれば人々の喧騒が聞こえそうな円形の巨大な空間には物音が一切せず、吹き抜けの天井に半球状の強化ガラスで構築されたアーケードが回廊へと続いている。

 「――こちらD班。侵入は成功……内部、多数の民間人の亡骸以外に異常はなし」

 無線で現場指揮官と連絡をとる。

 田村明は、部下二五名を率いて裏口となる通路から突入した。事前の偵察では、テロリストの姿がないことから、敵の作戦方針ではこの広大な空間を捨てて、敢えて一部分で応戦するのだろう……そう予測された。

 G36の安全装置を外して、照準を何度も合わせて確認をする。

 引き金を指にかけながら、射線上に人が重ならないよう注意する。

 電気系統は全て相手の手中にあるようで、エントランスホールでも電気が点いている場所とそうでない場所に分かれていた。

 

(防火シャッターが下りている……?)

 

 まるで人々を誘導するように、分厚い防火シャッターが通路を塞ぎ、一方通行の経路を作っていた。

 

 人々の死体が無造作に倒れている。人体が乱れてうずたかく小山と築き、まるで肉畳のように床に大勢の人間が、倒れ伏している。

 

 「班長、あれを」

 背後から部下の声の方向に目線をやると、死体の中に損傷の激しいものがあった。裂傷や、縦断痕など生々しい赤黒い血にまみれていた。時間が随分たったのだろう。

 腐乱臭がひどく、時々部下の誰かが「ヴォエ」と吐き気をもよおす者もいた。

 明自身、吐き気を堪えているが酸鼻極まる現状に、気を抜けば胃袋がひっくり返りそうな程の胃のむかつきを覚えていた。

 

 なるべく死体を踏まぬように、進みながら、周囲の警戒を怠らない。

 

 と、唐突にジリリリリリとけたたましいサイレンが鳴り始めた。熱感知センサーに反応したのだろうか? 通常であれば、火災の場合にしか作動しないサイレンが巨大な空間に木霊して、薄暗く不気味でしかなかった。

 

 「……ッ、一旦退却する」

 明は安全を図るために、ジリジリと後退しようとした。

 だが、どこからともなく強烈な金属をこすり合わせたような――鳴き声だ!

この鳴き声を、特別機動隊のD班全員が知っている!

 

 「マズいッ! 荒魂だ!」

 

 透明なシールドで防護しながら前進していた機動隊の面々はすぐさまシールドを捨てて退却の準備に取り掛かった。その瞬間だった。

 

 バババババッバババ、と連続した破裂音に混ざって空薬莢の地面に転がる小高い響きをきいた。

 

 一番前を歩いていた明は、素早く振り返ると黄白い閃光の粒が部下たちを次々と薙ぎ払われるように殺到していた。血飛沫が空中に飛び交い、悲鳴を上げる暇もなく、屠殺されてゆく。

 

 咄嗟に明は死体の中に飛び込み、射撃を防いだ。彼の上に被さった死体に次々と銃弾が当たり、まるで痙攣したかのようにその死体が上下に動く。

 右手に掴んだアサルトライフルを必死で握りしめて、応戦の機会を窺う。

 

 

 たっぷり一五秒経過して、銃声は咆哮を終えた。

 

 死体の群れから這い出すと、さきほどまで生者であった部下たちは、新たな死者の一員として地面の乱痴気パーティーに混ざっていた。皆、苦悶の表情や呆けた顔、あるいは無感情に、死んでいた。

 

 「――クソッ」

 

 運良く生き残れた明は、自らの不甲斐なさにやりきれない怒りを感じた。先程の荒魂の鳴き声は、巧妙に細工されたダミーだったのだ。こちらの防御を完全に解除させたうえ、殺しにくる。

 

 先に連携して突入した三班も恐らくは、生きていないだろう。

 

 生唾を飲みながら、明は肩の無線機器を触り……やめた。

 

 この常軌を逸したテロリスト集団に己の命をかけて報いることを誓った。普通であれば、一人で退却しながら連絡をして上の判断を仰ぐだろう。――しかし、それでは意味がない。そもそも、組織の集団の上層部の意思決定は遅すぎる。しかも現場の意見を尊重しない。

 

 手榴弾と、アサルトライフル。それにナイフに自動拳銃。

 それが手持ちの武器だった。

 

 

 先程のサイレンは、部外者の侵入を知らせる熱探知センサーだったのだ。銃弾の方向に目を凝らしても、射撃位置が分からない。それほどうまく遠目から小細工をしているのだ。

 

 部下たちの遺体を眺めると、杭のような黒い棒が突き刺さり、防弾チョッキを貫通していた。

 

 銃弾すら囮で――実際は、この杭が部下たちを仕留めたのだ!

 

 相手が上手というよりも、平和ボケしたこちら側の落ち度という他ない。

 

 「潰してやるッ」

 明は銃に取り付けたサーチライトを点灯させ、粉っぽい薄暗い空間を照らしてゆく。重苦しい空気を吸い込み、まとわり付く汗を必死に拭いながら孤独を進む。

 

 

 

 1

 「そういえば、足のソレ……ってなんなの?」

 美炎が指さしたのは、百鬼丸の太腿部分である。先程まで熱を放っていたのだ。

 

 「ん? これは、加速装置だ。迅移と違って、この世界の物理的な加速させる。ただ難点があってな……まず、使用後には熱量が凄まじく放出されること。次に、制御が難しいこと。人体の構造上、無理な加速をさせるんだから、バランスなんて殆どとれない。だから、直線的な運動に終始させてる。んで、あとの問題は……移動中の摩擦熱だ。これで皮膚が焼ける場合があった。だから、シーツで皮膚を守ってたワケよ」

 

 饒舌に説明する百鬼丸の言葉の一割も理解できない美炎は「へぇーなんか難しいね」と返すしかなかった。心なしか頭から蒸気が上がっているようにすら思われた。

 

 そのお気楽な返事に、「へへっ、そうだな」と百鬼丸は応じた。

 

 「――それで百鬼丸さん。赤羽刀のことについてですが……なぜ、そこまでご存知なのですか?」

 

 ミルヤはアホの美炎を無視していう。

 

 「おれがなんでソレを知ってるか、だろ。簡単に云えば、おれの腕に仕組まれている《無銘刀》関連で、知った。というより、知性体との対決に備えて色々調べてた」

 

 瀬戸内智恵は目を細めながら、彼の存在を知らされなかったことに訝った。衛藤可奈美、十条姫和たちが舞草の拠点にたどり着いた、そこまでは知っている。だが、彼の存在を仄めかす単語すら、真庭学長からは聞かされていない。

 

 ……とすると、舞草に紛れこんだスパイを警戒している?

 

 親衛隊三席、皐月夜見が秘密裏に調略を行い、舞草内部を崩壊させる算段をしているのだ、と聞いたことがある。もし事実だとすれば、厄介だ。事実でなくとも、真実でなくとも人間関係は損なわれるのだから……

 

 「本棟には赤羽刀がない、って、さっきの説明だけじゃうまく理解できなかったんだけど、説明してくれるかしら?」 

 

 考えすぎな頭を振り、智恵はきく。

 

 

 「ああ、それだな。本棟が関係ないと思う理由で言いたかったのが、赤羽刀の性質についてだ。あの刀は野良の荒魂も集めちまうだろ? そんだと、ジョーの計画通りに細工をしていたモール本棟での作戦に支障をきたすハズだから、恐らく、陽動として――離れたフロアに配置すると思う。その方が明らかに合理的だからな」

 

 百鬼丸の説明に、ショッピングモールの地図を確認しながらミルヤは首肯した。

 

 「そうですね。貴方のおっしゃるとおり、全ての辻褄が合いますね。その場合、質問なのですが、鎌府と綾小路の刀使はどのように展開すればよいと思われますか?」

 

 ミルヤはこの眼前の少年が、単なる怪力無双のびっくり人間だとは思っていない。少なくとも、今回の《サマエル》と名乗る荒魂集団を潰すことに関しては、彼の知識は得がたいものである。そう理解していた。

 

 「そんなことをおれに聞くのか? あくまでおれは荒魂退治専門なんだけどなぁ……まぁ、普通に考えれば、包囲しながら、赤羽刀のありそうな方向から刀使が戦力を集中させて突破。その突破口から一気に制圧にむかう。それが一番だ。が、」

 

 「ジョーがそれを考えていないはずがない、ですか?」

 

 理知的な目が百鬼丸の像を映す。

 

 「正解。だから、少なくとも、二方面からの突撃が必要だ。それも、数だけ多いと意味がない。一見巨大な空間での戦力展開は有利だと思われるが……あのクソ野郎のことだ。大量に人間を殺す計算をしてると予想するのが自然だ。だとすれば、精鋭でまずは突破口を開いて、その傷口を押し開くようにして一気に制圧する……それが、一番犠牲が少なくて済むと思う。勿論持久戦でもいいだろう。――だとすると、一気に被害者の数が増える。どっちを選ぶかが問題だな」

 

 淡々と恐ろしい事実を吐く百鬼丸に、調査隊の五人は各々の顔を曇らせた。

 

 「……もし、仮に成功しなかったら?」

 智恵は敢えて皆が聞きづらい最悪の〝もし〟を持ち出した。

 

 「簡単だ。このまま南下して連中が都内を中心に虐殺の魔の手を広げるだけだ。そもそも荒魂なんて御刀みたいな特殊な武器じゃないと対応できんだろ。一気に揉み潰されておしまいさ」

 

 レザーグローブを握った美炎が、

 「ねぇ、百鬼丸さん。わたし達調査隊がその赤羽刀の方面に行けばいいんでしょ?」

 

 「へぇ」と驚きながら、百鬼丸は肩をストンと落とした。

 

 「そうだ。君たちに期待しているのは、その赤羽刀のあるであろう方面を潰す……そこから、うまくすれば、通常戦力での大量投入が期待できる。本当は全部の刀使をソッチに回すべきなんだろうが――そうすると、他の場所の荒魂どもが暴れて、結局連中の計画通りだろう。だから頼む。赤羽刀はなんとかしてくれ。けど、もし制圧が不可能だと判断すれば撤退しろ。命あればこそ、だ」

 

 全てを聞き終わったであろう呼吹が、「なぁ、つーことはよ。荒魂ちゃんを切り刻み放題ってことでいいんだよな?」期待に膨らんだ声で訊く。

 

 百鬼丸は静かに、

 「――そうだ。お前さんにもそういう意味では頼りにしている」

 

 任せとけ、とフードの奥から了解がきた。

 

 「…………あの、百鬼丸さんはどこに行かれるんですか?」

 

 清香は上目遣いの不安そうな眼差しでたずねた。

 

 少し考えた素振りをみせた百鬼丸は、しかし断固とした調子で、

 

 「おれはクソ野郎の小細工を全部潰すから正面突破だ」

 

 そう言いながら百鬼丸はしゃがみ込み、再び地面に落ちて泥だらけになったシーツを身にまとった。

 「あとのことは頼む。んじゃ、またな」

 

 太腿から漏れるキィーーン、という甲高い耳鳴りにも似たモーター駆動音が聞こえ、膝小僧の辺に陽炎が揺らめく錯覚の後、百鬼丸は一五メートルの高さがある木に飛んだ。そのまま、太い枝を足場に、一直線に姿を消した。

 

 「……なんか、すごい人だったね」

 美炎は既に闇に染まる空の片隅を一瞥しながら、素直な感想をいった。

 

 

 2

 休日のショッピングモールに集った人々は数万はいたであろう。彼らを収容する安全な施設の確保が最重要課題となっていた。

 

 だが、未だ長い時間が経過したにも関わらず、野営本部に続々と避難してくる人々の並が押し寄せてきた。

 

 双葉はその中で、野営テントを見回し、特別機動隊の現場指揮官と議論を繰り返した。

 「責任はわたしが持ちます、でも実際の指揮は引き続き貴方に任せたいと思います。それではダメでしょうか? 大関さん」

 

 大関、という名の四〇ほどの恰幅のよい男は小さい目を瞬かせて、首を振る。

 「私もできるならそうしたいが、不可能だ。命令は絶対だ。そもそも、この事件で不可解なことが多すぎる。なぜ……」

 と、彼の言葉の途中で、無線のザザザッ、という砂嵐の音が聞こえた。

 

 双葉は口を閉ざし、無線の内容を確認しようと努めた。

 

 「こちら本部の大関。どうした?」

 

 無線機に応答したのだが、反応が薄い。いや、周囲の人声がうるさすぎるのだろうか?

 そう思ったのも束の間、次の無線が入る。

 『大関指揮官! 大変ですッ、モールから避難してきた中にッ、荒魂が潜んでいますッ、至急増援を……民間人に向けて発砲を行ってしまいました!』

 

 切羽詰まった声で、無線機器のむこうから銃弾の連続した音が聞こえた。

 

 ――まさか、人間に憑依した荒魂が紛れていたとでもいうのだろうか?

 

 双葉は御刀の鞘を掴むと、

 「わたしが現場指揮を担当して、刀使を率います。ここをお願いします!」

 一礼すると、双葉は親衛隊の制服を翻してテントを出た。

 

 残された大関は苦しげに息継ぎをしながら、

 「まるで、二〇年前みたいな既視感があるな」と、眉を顰めた。

 

 彼が新人の頃に遭遇した未曾有の大災厄。生々しい記憶と共に、思い出されたようで、大関は頭を抱え、

 「そちらに刀使が向かう。自衛以外での発砲は極力控えろ」

 発砲するな、と命令するのではなく自衛目的で「使用しろ」と命じた。もう後戻りはできない。だが、これが私なりの責任のとりかただ、と大関は内心で決意した。

 

 

 3

 逃げ惑う人々の中に、人の皮を被った荒魂が居ればどうなるだろう?

 

 野外駐車場に長いバリケードを張った機動隊は、人々の避難を制限して混乱を避けていた。テロリストの選別も目的としていたのだ――が、結果としてそれが裏目に出た。

 

 午後五時ごろ。

 西J駐車場区画で、事件は起こった。

 突如、若い男性が検問していた機動隊に向かって走り出し、目前の一人を押し倒すと、そのまま首筋を口で噛みちぎった。

 

 急な状況に、機動隊は混乱した。

 その一人の狂人だけで済めばよかったのだが――次々と襲いかかる人々が現れた。機動隊以外にも、避難中の人々の首筋を噛みちぎる狂気が行われた。

 

 この区画を任されていた機動隊の長は、

 「敵は荒魂に蝕まれた者か?」

 と聞くと、現場から報告にきた血みどろの隊員が首を振る。

 「目が赤銅色ではありませんでした」

 

 荒魂に蝕まれた人間は目が赤銅色になる、そう教えれられてきた彼らにとって、その単純な偽装工作に慌てふためき蹂躙される他なかった。

 

 午後五時三分

 

 ついに、G36の砲声が上がった。

 ババババババババッバ、とけたたましい唸り声が人群に放たれた。次々と人体が地面に崩れていった。この時点で、機動隊は死者を一四名出していた。

 

 現場では冷静な判断よりも、自己防衛を優先させた。

 非常なパニックがさらに現場に追加された。

 

 4

 外が騒がしい。だが、俺には関係ない。

 ステインは屋上の駐車場スペースでひたすら百鬼丸がくるのを待っていた。

 彼の有する《無銘刀》と、背中の《無銘刀》は必ず共鳴しあう。そうジョーに教わった。

 言葉通り、この近くに百鬼丸は居る。必ずジョーの居るところを目指してくる。そこを叩き潰す。

 

 体の疼きを抑えながら、ステインは待つ。

 

 

 



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43話

 重く垂れこめた黒雲が、ねっとりと澱んだ空気を運び空気中の湿度を高める。ぴた、ぴた、警察車輌のフロントガラスを雨滴が貼り付き、徐々に濡らしてゆく。

 

 すでに、駐車場に停車した無数の車の間には死者が散見された。しかも荒魂の仕業ではなく、人間同士で行われた殺人行為に因るものであった。

 

 鎌府から派遣された刀使、五〇名はよく訓練されている。――察するに、死者の出る現場にも出動した経験があるのだろう。

 

 高さ2・5メートルのバリケード越しには、未だ民間人が金網の向こうから手をだして助けを乞うている。まるで、ゾンビ映画のワンシーンのようにも錯覚された。

 

 機動隊はアサルトライフルを肩の位置で構え、硬い表情をゴーグルとマスクの内側に隠している。

 

 S装備の関節を動かすたびに、アシストの機械駆動音が鳴る。

 

 双葉は周囲を確認しながら、

 

 「密集陣形用意っーー」一歩前に出てバリケードに寄り、入り乱れた人声の騒音を縫うように叫ぶ。

 

 「抜刀ッ!」

 鋭い掛け声と共に、腰元に装着された御刀を吊り下げるホルダーから、刀使たちは鞘をはしらせる。

 

 激しくなる北風に混ざって雨粒が頻りにS装備を叩く。

 

 (正直、誰が荒魂なのかなんて分からない……けど、この場で奴らを止めないと……)

 

 全く根拠もなく、この場にいる無責任を抑えながら襲いかかる敵に対し、自衛するより他ない。だからせめて自らを危険の前線に立たせて、精神的負担を軽減させているに過ぎない。

 これが、獅童真希や此花寿々花であれば、もっと上手く対処していただろうか?

 

 「……。」

 

 だが自分は他人ではない。――であれば、自分のできる限りのことしかできないのだ。

 

 

 目前のバリケードはギシィ、ギシィ、と強く撓んで軋み鉄柱が折れそうだった。あと少しで混乱した人々の力が加わることで……バリケードは完全に倒れる。

 

 ごくり、と無意識に緊張の唾をのむ。

 

 ―――――耳をつんざく、耳鳴りに似た駆動音が双葉の鼓膜を震わす。

 

 遠く懐かしく、胸を締め付けられるように懐かしい過去の音。

 

 

 頭を上にやる。

 

 流星のように一筋の軌道を空中に描きながら、驀進する影。

 

 あの姿を、双葉は知っている。

 

 ……大好きだった父の命を奪った、その「鬼」を双葉はずっと求めてきた。

 

 「にぃさん……」

 獰猛に歪んだ眉間の皺と、大きく見開かれた双眸。両手に握る《小豆長光》の柄の感覚すら忘れてしまう程の衝撃だった。

 

 

 

 1

 百鬼丸は空中を、加速装置の加速を利用して滑空していた。体表に巻いたシーツの端から燃えた火の粉の燐光がチラチラと四散する。チラ、と下界に意識がむいた。

 

 大勢の人々がバリケードに押し寄せながら、助けを求めていた。……その中に不穏な〝影〟を認めていた。

 

 (荒魂に蝕まれた人間が……)

 その一瞬で、この災禍の原因を悟った。

 

 百鬼丸は迷わず両脚の加速を促す白煙の尾を曳く――腿部に触れて速度を落とす。下方へ無秩序に放物線を描く軌道を、無理やりに変えて、落下地点をバリケードの柵上に定めた。

 

 空中を浮かんでいた白煙が尻を左右に大きく振りながら、はるか下の細長い金属棒の上に運ぶ。

 

 キィィィィィ、とけたたましい金属と靴裏の摩擦音を響かせて百鬼丸は着地する。

 

 「おれが閃光弾を打ち上げるから、怯んでいない人間を撃てッ!」

 

 素早く背後に控えた機動隊に告げる。彼らは、突然上空から現れた少年を、ぼんやり眺めている他なかった。

 

 錯乱しきった連中に苛立った百鬼丸は、

 「おい! 気を抜くなッ!」

 胃袋を突き刺されるような鋭い怒声に弾かれて、機動隊の連中はG36を構えなおす。

 

 

 彼らが正気に戻ったのを確認して、膝小僧から閃光弾を六発ほど、人波の上へと射出した。五秒後に、眩い球体の出現と鼓膜を貫く針金のような音が谺する。

 

 助けを求めた人々は唐突な閃光弾に驚き、身を伏せたり固まったりした。――だが、視界が遮られた状況では人間は逃走本能よりもその場で身を守る行動を優先させた。

 

 しかも、その防御行動を行う人々が増える程に「正常バイアス」がかかり、次第にその場で身を守る判断をした人間が増えた。

 

 「――うらあああああああ」

 百鬼丸は両手の義手を腰のベルトに挟むと、銀刃を抜いて飛び出した。

 未だ佇む人間が数十人。その中から、荒魂の気配を探るように神経を集中させる。両手をまっすぐに伸ばして、竹とんぼのように体を回転させ、首を刎ねた。滑らかな刃の軌跡が次々と首を断ち切り、ポーン、と頭部を上空にいくつも舞い上げる。

 

 

 「おれが首を刎ねた奴の胴体を狙撃しろッ!」

 

 百鬼丸の命令は、この現場で最も正しいように思われた。機動隊の連中は、わけの分からない彼の言葉の魔力にかかり、狙撃を用意した。

 

 バリケードの隙間に突き出した銃身を構え……

 

 ババッババ、バババババ、ババッババ、と連続して射撃が開始された。

 

 蜂の巣にされた胴体は次々と地面に崩れ落ちて、血だまりをアスファルト舗道に広げた。斜めの角度に降る雨に鮮血が混ざった。

 

 百鬼丸は着地することなく、体を継続して回転させ、佇む人々の中から荒魂を選別して首を斬り落とした。

 

 

 ようやく伏せた人垣の間に着地した百鬼丸は、頬に血を付着させていた。

 

 「ここのエリアの荒魂は排除した。連中は、人間の皮を被っているが、人間らしい動作はヘタくそだ。そこを見極める方法があれば炙りだすことができるぞ」

 

 

 肩越しに教える。体に巻いたシーツの布で血脂を拭い、再びベルトに挟んだ義手に刃を収める。ここに用事はない、とでも言わん限りに駆け出した。大勢の人々の間を一度も衝突せずに両脚が動き、加速していった。

 

 

 

 ゴゴゴゴオ、と天が唸りをあげながら夕を隠す黒雲とその夜が空を支配する。駐車場に残された双葉は、時間にしてわずか二〇秒の出来事の間なにもできず、指をくわえてみることしかなかった。

 

 雲間に稲妻が眩く迸る。

 

 (追わないと……追わないと……)

 

 雷鳴に弾かれるように、半ば使命感に駆られて双葉は《迅移》を発動させ、バリケードを飛び越え、百鬼丸の後を追跡した。

 

 ――途中「た、隊長!」と鎌府学生の誰かが制止するのも無視して、ひたすら《迅移》を使用した。熱病により意識が混濁するみたいに、双葉は一心不乱に百鬼丸の背中を追いかけた。

 

 コンクリートを踏みしめる足元すら覚束無い気がした、夢の中を藻掻きながら進んでいくように双葉は迅移を用いる。

 

 彼女の瞳は赤銅色に光を放つ。……ノロの影響だろうか? 体の細胞全部が酷い悲しみと怒りに染まっていくように思われた。

 

 

 2

 日没により、より暗くなった建物の中で田村明は周囲の警戒を怠らず、一歩々々確実に前進していた。恐らく1Fの罠と2Fからの罠の性質は異なる。――具体的に云えば、1Fでは大量の人間を「処理」することが目的だった。

 

 しかし、2Fでは毒ガスの影響でさほどの罠の設置は必要ないと思われる。

 その証拠に、地面に倒れた人々の死体は殆ど外傷はなく、神経ガスによる影響だと判断できる。もちろん、完全に油断しているわけではない。

 女性モノの衣類店舗を素通りし、靴屋で足を止める。

 距離で云えば57メートルほどの移動にも神経集中が肝要になる。

 顔中に汗で湿り、息が浅くなる。

 

 

 首を振って弱気を追い払い、明は紳士服売り場となる店舗の辺りで不信な物音をきいた。引き金に軽く指をかけながら、生存者か……或は敵か判断するために、

 「動くなッ、手をあげろ!」短く怒鳴る。

 心拍数が跳ね上がるのを感じながら、目を細める。

 

 「――――んだ?」

 明の差し向けるサーチライトの強力な眩さに顔を顰めながら、百鬼丸が不機嫌に反応する。

 

 「……君は、まさか舞草の〝鬼〟か?」

 思わず口をついて、明は問いかける。――そうだ、見間違えるハズがない。あの少年だ。

 

 「ああ、そうだけど……おっさんは、その格好から察するに敵ではなさそうだな。――ふぅん、なるほどね。やっぱり敵じゃないわ」

 《心眼》を使用して、明の心を読んだ百鬼丸は不敵な笑みを湛えて何度も頷く。

 

 「しかし、なぜ君は今、上半身裸なんだ?」

 明の言葉通り、百鬼丸は上半身が裸で、紳士服売り場のベルトを何本もその手に握っている。

 

 「……あ~、なんつーか、準備だ、準備」

 

 そういいながら、床にあぐらをかいて、器用に腹部から鳩尾辺りにグルグルと巻きつけて締め上げる。

 

 「何をしてるんだ、君は?」怪訝に眉をひそめる明。

 

 手元に集中しながら、「これか? ……今から相手にするのは近接戦闘の野郎ばかりだ。だから、万が一にでも腹を裂かれて、内臓とか腸が飛び出して闘いの邪魔にならないように、締め上げてんのさ。それに、内臓の位置を多少ずらすこともできるからな。……問題は、なんも食うことができないが……」

 

 彼の説明通り、黒い皮のベルト三本、茶色のベルト二本を巻き終わった。

 

 「そこまでするか、君は」

 

 「普通だろ? これくらい。おれは内臓が飛び出そうが、腸がはみ出そうが、戦いをやめるつもりはない。……なにより、約束したからさ。〝刀使〟を守るって」

 

 年相応の少年らしい笑顔を見せる百鬼丸は、その壮絶な言葉とは異なる、表情の爽やかさに満ちていた。

 

 「オレは、君に言いたいことがあったんだ」

 

 百鬼丸は最後の調整をしているように、太腿を叩き、肘関節を何度も触りながら「ん? なんだ?」と応じた。

 

 「以前、舞草の拠点を制圧する作戦に参加したオレたちを許して欲しい……オレも昔は君みたいに、誰かを守る、そんな人間になりたかったんだ。あの時、刀使を殺すことを命令されて、半ばオレは仕方ないと思っていた……だけど、君があの場で一人とどまってオレたちを阻んでくれたから、この手が汚れずにすんだ。感謝している」

 

 

 意外そうな顔つきをしながら百鬼丸は「……そうか。アンタがそう思うなら、おれはとやかく言う権利はない」軽く受け流した。

 

 あの時、夜の底から浮かび上がる〝鬼〟と恐れられていた目前の少年は、俯きながら熱心に体のアチコチを点検していた。よく見れば、まだあどけなさの残った横顔に、明はこの少年が体験した過酷な運命に思いを馳せた。

 

 

 「よしッ、準備完了っ、と。んで、おっさん名前は?」立ち上がりながら訊く。

 

 「オレは田村明。STTの隊員だ。よろしく頼む」

 

 「はいよ、おれは百鬼丸だ」

 

 薄暗く、照明が点滅する空間の中で差し出された手を、明は握る。

 

 「――んじゃ、いっちょ、クソ野郎どもをブチ殺すか。明さんはここの図面とか、持ってるか?」

 

 

 「ああ、勿論。オレは覚えたから、君が持っているといい」

 

 腰のファスナーを開き、折りたたまれた紙を差し出す。

 

 「おおう、サンキュー」

 

  図面を開き、仔細にこの巨大なショッピングモールの全容を頭に叩き込んでゆく。

 「……まず、怪しいのは中央制御室に繋がる回廊からエントランスを繋ぐ東側エントランスホールだな」

 

 「オレたちD班が侵入したのは別のエントランスホールで、そこには人がいない代わりにトラップが仕掛けられていた」

 

 「――となると、この東側エントランスホールは《知性体》が配置されてるな。人員の余裕がなくとも、ワザワザ中央制御室に繋がるルートを放置するとも思えん」

 

 百鬼丸の説明に迷いがない。

 

 「そうだな。……もし、戦闘になればオレはどう君に協力すればいい?」

 

 年下の少年ではあるが、死線をくぐり抜けた猛者である彼に聞くのがベストだ……と、明は判断した。

 

 驚いたのは百鬼丸だった。

 

 「明さんは珍しいな。普通、プライドが邪魔しておれなんかの意見を取り入れるなんて思わなかったが……」

 

 「以前の君の戦いぶりと、なにより最大の戦力である君のやり方は彼ら《サマエル》をどう効率よく潰すかに終始していると考えた。それだけだ。オレは部下の仇をとってやりたいんだ」

 

 部下の所有物だったG36を三丁、肩に掛けて持ち運んでいる。

 

 「――わかった。基本は後方支援を頼む。あとは周囲の索敵だ。敵の中には――ステインとか名乗ってたキチガイじみた思想と強さの野郎がいる。そうなると、おれ一人で抑えるのが精一杯だ。別の敵がきた場合はおれに教えてくれ」

 

 ごくり、と喉に緊張をのむ。

 

 「わかった」

 先程までとは異なる緊張が明を襲うが、もう怖くはなかった。この少年、百鬼丸のためにできることをしようと決意した。

 

 3

 橋本双葉は、従業員用の通路からショッピングモールの内部へ侵入した。

 

 通路には壁に凭れかかって死んでいる大勢の人々を目撃した。酸鼻極まる映像に、胃のムカつきを覚えながら、左手で口と鼻を覆い先に進む。

 

 キィーん、キィーん、とモールに入った頃から御刀の《小豆長光》が共鳴するような不思議な感触が双葉に伝う。

 

 

 通路を抜けて食品売り場の西側へと出た。

 

 八相の構えをしながら、双葉はブーツで白いタイルの床面を踏む。

 

 兄、百鬼丸を探しに来たはいいが、全く次の展開を考えていなかった。己の無鉄砲さに呆れながら、しかし目的を遂げるためにここに居るのだから……

 

 

 4

 

 《知性体》――小熊英二というのは、この肉体の元所有者である。

 

 年齢は三十四歳。

 

 身長は百八十センチ、体重が七〇キロ。

 

 格闘技経験のある、サラリーマンだった男。現在では普通のサラリーマンをしている。小熊英二に知性体が侵入したのは、五ヶ月前である。富士山樹海にて、肝試しをしに来た英二を取り込んだ。

 

 ソフトモヒカンの彼は、東側エントランスホールで制御室の防衛を一人で任されていた。とはいえ、暇である。故に英二はパイプ椅子に腰掛けて、三つの巨大な照明が点灯する中、やや虚ろげな表情で、ラッキーストライクを喫する。

 

 すでに、大勢の人間を殺した武器……ハルバードには血脂が付着している。手入れが面倒で、人間を殺した後は放置している。

 

 「暇だなぁ……」

 

 紙コップのアイスコーヒーを啜り、ガラスの灰皿に吸殻を押し付けて潰す。

 

 ――と、その瞬間だった。

 

 

 なにか、猛烈にイヤな予感が迫ってくるような気がした。

 

 英二は、ハルバードを掴んで周りを眺める。

 

 

 円の立柱が周りを囲み、お世辞にも防御しやすい場所とはいえばいえない。故に、柱の陰には罠を仕掛けているハズ……。そう安心しきっていた。

 

 

 ババババババ、と激しい銃声が轟く。

 

 英二がその方向に意識を向けると、柱の陰に設置した起爆装置が一斉に爆発した。人間を殺すためだけの威力なので、円柱にはせいぜい亀裂が少々走るだけで済んだ。

 

 だが問題はこの銃撃がどこの誰がブチこんだか、である。

 

 「動くなッ!」

 

 右斜め前の柱から、機動隊の格好をした男が銃口を向けながら恫喝する。

 

 「へぇ、飛び道具で、ね」

 面白い、と言いかけたところで、彼の顔面を強烈な〝拳〟が襲いかかってきた!

 

 「ぐがっ――」

 

 鼻骨がへし折れるような軋む音が鼓膜に鳴り響く。

 

 激痛を堪えて、飛んできた拳を振り払うと、噴水のように紅血がとめどなく溢れた。

 

 「ドゴだっ……」痺れた舌のせいで、呂律が回らない。

 

 血走った目で探す……と、拳の飛んできた方向から、白煙をあげ、半ば空中を滑空するように突進してくる影を捉えた!

 

 「貴様ッ!」

 脂汗を頬に流す英二。

 

 「百鬼丸様、只今参上っ、と」

 

 右義手を打ち出し、囮にした後、自らは遅れて腕に煌く銀刃を閃かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 「――この野郎ゥッ」

 ハルバードの戦斧を掲げ、百鬼丸の一撃を防ごうと試みた。

 バチィ、と橙色に閃く激しい火花が刃と刃の間に生じた。

 「……へぇ」百鬼丸は感嘆する。

 今の一撃を防ぐというのは、少なくとも肉体との同調律が高い証拠だ。

 重量の乗った刃を無理やりに、戦斧部で押し返す。

 

 百鬼丸は弾かれてバランスが崩れ、左手と両足が地面に接した。

 背後から、

 「――」

 明の放つ銃弾の怒声が空間に木霊する。

 

 ババ、ババ、ババ、と短い間隔で英二の体に穴を開けてゆき、弾痕から血が溢れている。普通であれば失血死レベルの量が床面にばらまかれた。

 

 ……が。

 

 「だよな、通常兵器での攻撃は俺たちの長年の課題だったんだよ」

 

 余裕綽々の笑みで、英二はハルバードを振り回す。まるで傷なんて無いかのように、ひたすら激しい動きで威嚇している。

 

 小熊英二の体から、否、体中に空いた穴からどす黒い粘着質な液体が漏れて、血に混ざる。禍々しい色には、「憎悪」という単語が相応しく思われた。

 

 「もう一度ッ」引き金に指をかけ、明は射撃する。

 

 しかし、ドス黒い液体に覆われた肉体は容易に銃弾を弾き、徐々に体表を覆うように付着して硬化する。

 

 「厄介だな」

 察するに、あのドス黒い液体は物理攻撃を跳ね返す効果がある――とすれば、《無銘刀》の刃も通らなくなる可能性が高い。

 であれば。

 (一瞬で決着をつけなきゃならんのだな)

  すぐに悟った。

 

 腰のベルトに左手の義手を差し込み、英二の首を狙う動作のルートをいくつも想像する。

厄介この上ない相手だ、今まで退治してきたどの《知性体》とも違う。

 

 「ふぅーっ」

 

 くすぶる脚部の煙を纏いながら、百鬼丸は両腕の《無銘刀》にも意識を配る。この世界の自分と異なる別世界の自分をイメージし……それを一気に合わせた。

 

 突然に体表に薄い膜のような加護が来た。

 

 《写シ》である。

 

 燕結芽と戦う以前に、独学で習得した。この《無銘刀》は現世と隠世の狭間を切り結ぶ特異な性質があり、百鬼丸は訓練の末に力を得た。

 

 

 現在の百鬼丸は物理加速と、《迅移》という特別な加速の能力を有している。

 

 

 一切の挙動をやめた百鬼丸を睨んだ英二は哄笑する。

 

 「なんだ、お前。もう動かないのか? はは、案外弱いガキなんだな! まあ、仕方ないが……」自身の安い挑発に興が乗ったように饒舌に喋る。

 

 しかしその一切の言葉は百鬼丸には届かない。

 

 目を伏せて、体内時間をカウントする。

 

 いち、にい、さん……

 

 目を上げた。

 

 外気を一直線に貫く速度で飛び出した――

 

 

 「全く、同じ手は喰らわないっってんだろーが!!」

 唾をとばして叫ぶ。絶対の自信を漲らせて、ハルバードを構える。

 

 百鬼丸の加速した体は一直線に英二の前面に現れ、刃を振りかざす。だが加速というのは所詮相手を惑わす術に過ぎない。位置が分かっていれば、恐れるに足りない。

 

 「……ばーか、お前の脳みそ少なくて助かったぞ」

 

 百鬼丸は不敵な笑みを口端に浮かべ、左肩を前に出し、突如肉体全てが虹色の光彩を帯びたかと思うと、すぐ右側面へと移っていた。

 

 

 「あぁ……」

 馬鹿な、有り会えない、そう喚こうにも脳内の処理が追いつかない。そもそも、奴はなぜ《迅移》を使えるのか? そんな情報をジョーから一切知らされていない。

 

 咄嗟に右腕とハルバードで防ごうと試みる。

 

 しかし、百鬼丸は左足で腕を蹴り上げて喉元をガラ空きにして裸の首筋を目の前に露出させる。容赦なく右腕の《無銘刀》で横薙ぎに一閃、斬り込む。

 

 たった三つの巨大な天井の照明に照らされた生と死が明暗を分かつ。

 

 英二の首に喰いこんだ刃が、その侭、ハムでもスライスするように骨ごと叩き斬る。どす黒い液体に混ざった液体が周囲に、頸部の間欠泉から噴く紅が床を濡らす。

 

 頬に固着しかけた黒い液体を拭うと、刷毛で掃いたような血も混ざっていた。

 

 首のない筋肉質の胴体が、ドサッ、という衝撃を響かせて斃れる。

 

 素早く着地した百鬼丸は、

 「――はぁ、っ、はぁ、っ」

 大粒の汗をかいていた。目に染み込む汗を拭いながら――違和感を覚えた。現在、流れ込んでいる〝人間〟の記憶は「小熊英二」のものではない。

 (まさか……)

 

 ガシッ、と突如百鬼丸の足首を掴む腕。

 視線を流すまでもなく、それは首の無い胴体だった。

 

 

 二体の《知性体》が一つの人間を装い動いていたのだ! この小熊英二というのは元々首のない死体から奪ったのだろう。

 

 己の迂闊さに、歯噛みしながら動こうと試みる……が、首なし胴体は素早く反対の腕からハルバードの尖部を百鬼丸に殺到させていた!

 

 クソッ、

 

 内心でひどく毒づいた。

 

 百鬼丸の首が刎ねられた。薄い体表の膜は消滅し、朦朧とする意識が彼を襲う。

 

 (――マズっ)

 

 写シをはがされた後のフィードバック独特の感覚に慣れていない故に、意識が酷く混濁しているようだった。しかも二撃目が百鬼丸を襲おうとしていた。

 

 「くたばれ、死にぞこないッッ!!」

 

 ババ、バババ、と再び聞き覚えのある破裂音がした。遠い距離から明がハルバードの戦斧部分を狙い撃つ。

 

 予定の軌道を大きく逸れたハルバードは、空気をむやみに漂う。

 

 「うぉらああああああああああああああ」

 

 百鬼丸は、その援護を得て無銘刀を輪切りになった首の辺りに突き刺す。

 

 

 ボロボロ、とクッキーが崩れるように簡単に小熊英二の体躯が遺灰のように消え去った……。

 

 

 大きく上下に肩を動かし、

 「…………ッ」

 醜く顔を歪めて、百鬼丸は呻き始めた。

 

 「だっ、大丈夫か?」と、明は切り離された胴体と首に近づき、G36の弾を叩き込んだあとで、地面をのたうち回る百鬼丸に声をかけた。

 

 

 口から大量の涎と胃液を撒き散らしながら、目を剥いて身悶えする百鬼丸。まるで天に許しを乞うた格好で床面に痙攣する。

 

 「ど、どうした?」

 

 百鬼丸の肩を掴むと、半ば失神したような様子だった。しかし、

 

 「今、しばらくおれは動けないから……」

 涸れた声で必死にそう呟く。

 

 訝しむ明をよそに、百鬼丸の右腕がゴトリ、と大きな音をたてて落ちた。続いて、左足も、ゴトリ、と股関節の辺りから落ちた。

 

 「な、なんだ、オイ、これ……」

 目の前の現象を理解できずに、異様な様子に呆気取られる明。

 

 眺めていると、百鬼丸の右肩関節辺りから骨が突如出現し、それが形作るように指骨までを構築した。そのあとから、筋肉、血管、腱が骨を覆うように伸びてゆき、最後に皮膚が全てを覆い隠す。

 

 「…………はぁッ、ヴォェ」

 

 再び地面にゲロを撒き散らしながら、百鬼丸は左足を抑える。

 

 こちらも腕同様に、再生構築を始めた。

 

 激痛に絶えずうなされながら、百鬼丸は、失神しないように耐えていた。

 

 

 明はそんな、孤独で惨めな受難者から目をそらすように天井を見上げた。巨大な宗教画にも似たステンドグラスから降る照明の辺りから……猛烈な勢いで落ちてくる影を捉えた!

 

 自由落下速度に身を任せながら、

 

 「よぉ、会いたかったぞ、百鬼丸ッッ!」

 ステインは紅色のマフラーをはためかせながら、背中の二つ交差させた太刀を走らせた。

 

 

 

 



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44話

 

 この世には余に偽物が多すぎる……

 

 〝正義〟と名乗り、その実は単に己の自己顕示欲を満たさんがために活動するプロヒーローたち。単に己の《個性》を過信していたずらに暴力を振るうつまらぬ犯罪ども。

 

 こんな糞どものどこにも、己を純化した一個の信念も哲学もない。

 ぬるま湯に浸かりすぎて、今更自己を高める方法すら分からないのだろう……そう、「オールマイト」を除いては。

 

 もしも、この命が尽きる時はオールマイトに戦いを挑み、そして潰える瞬間だ。それ以外にこの生命を精一杯使い果たす方法はないと思っていた。

 

 

 ――――だからこの世界に居た、たった一人の少年を発見した時、俺はこの異世界に感謝した。

 

 ◇

 俺の背中の《無銘刀》が強く共鳴した。

 (近い――それも、すぐ傍に奴はいるッ)

 確信した。最早間違えようもない事実だ。百鬼丸がこの場所に来たのだ! ようやく、あの胸糞悪いジョーの腐った茶番に付き合わなくて済む。俺は打ち震える喜びを堪えて、移動することにした。

 

 

 黒雲がそよぎ、降り続く雨が尚強く肌に粘りつく。

 屋上に設置された給水タンクは雨粒を弾く音が連続し、腐食しかかった柵は風が容赦なく吹き付けていた。

 円筒状の吹き抜け天井と回廊を繋ぐアーケードには母子像をモチーフにしたステンドグラスは数メートル続き、その屋上通路の途中で俺は足を止める。

 

 ……ここだ

 

 強化ガラスの分厚い壁を、一瞥して軽く力を腕に集中させる。

 鯉口を親指で押し出し、二閃、交差させた。

 放射状に入る亀裂が、繊細な軋みをたて、蹴ると容易く崩落した。目元の薄汚れた白布が、烈風に嬲られる。

 「すっーーーー」

 鼻から新鮮な外気を肺に溜め込む。閉じた目をひらく。

 

 充実した死が欲しくば、充実した生を行え

 

 脳裏に浮かんだこの言葉に従い、俺は眼下の鮮やかな色彩で象られた母子像のステンドグラス目掛けて飛び降りた。

 

 

 ◇

 冷風に似た悪寒が絶えず双葉を襲う。気を抜けば、すぐにその場にヘタりこみそうな程恐ろしく、凄惨な光景が薄暗がりの中から浮かび上がっていた。

 食品コーナーを抜け、無数の死体を超えて二階に繋がる階段をのぼった。

 ヌメりけを帯びた床面のせいで、ブーツの裏は粘着質な音をたてて気味が悪い。

 こつ、こつ、こつ、と孤独な足音だけが響くだけだ。

 双葉はテロリスト――もとい、荒魂の退治にきた筈だ。

 そのはずだった。

 気が付けば、義兄……百鬼丸を追ってここに居る。

 我ながら、執着心が半端ではないと思う。双葉は自嘲気味に鼻を鳴らし、早鐘の鼓動を自覚する。

 

 

 バババ、バババ、バババ――

 

 短い間隔で発射される銃声。

 距離はそう遠くない。まさか、先行して突入した部隊が交戦しているのだろうか? だとすれば心強い。双葉は構えを一時的に解き、足早に銃声の方向へと小走りになる。

 鼻で呼吸すれば危うく吐きだしそうな程の腐臭。

 左手で強く鼻をつまみ、進んでいく。

 

 ◇

 「何なんだ、くそったれ!」明は天井に広がる巨大なステンドグラスの絵画に引き金を引き絞った。肩に帰ってくる振動が、明に多少の沈静化作用を与えた。

 

 放埒に伸びてゆく銃弾軌道は、上下左右の無秩序に散り、落下する人影を捉えることができない。

 

 無数の虚空がステンドグラスを穿った。

 ガラスの繊細で華麗な破片たちがその身をこすり合わせて、一斉に崩れていった。硝子粒子の一つまで残さず地面へと殺到しようとしていた。

 ステインは脹脛に収納したナイフを指の基節骨で挟み、俊敏に投擲する。

 

 無数の硝子破片に混ざり鋭利な輝きが、頭ひとつ飛び抜け、明の二の腕に突き刺さった。

 

 「うがッ……」

 苦悶に歪む顔を、こらえて弾切れになったアサルトライフルを放り投げ、背中の銃を構えなおす。安全装置を外して、即座に射撃を再開する。その度に、腕に喰いこんだナイフが骨にまで当たって激痛がはしる。

 

 人影は徐々に象を鮮明にする。

 三白眼の血走った眼。箒を逆立たような髪に、頬まで裂けた口からはみ出した長い舌。尖った顎。

 怪異に等しい容貌といえた。

 

 明は、再び左の……脚部に違和感を覚えた。

 視線を相手から外さず、手を伸ばして違和感を探る。――あった。ナイフの柄であろう、硬い感触が掌に伝う。生暖かい温度は血であろう。まるで寝小便でもした気分になった。

 

 「糞、糞、糞野郎ッ、ぶっ殺してやる!!」

 明はがむしゃらに、痛みを無視して銃撃を加える。しかし、敵はまるで意に返さず迫る。

 

 

 「明さん、逃げろッ、奴がステインだ」

 百鬼丸は未だ続く激痛を耐えた震える口調で、叫ぶ。

 

 (だよな、普通はそう判断するよな)

 彼の言葉はまったく正しい。けれどもこの現状を打破できるというわけではない。

 

 「かかってこい! ステイン!」

 明は、上方一〇メートルに迫った影を挑発する。

 ステインは身を翻しながら、一刀を背中の鞘に戻し、もう一刀を頭上に高く掲げ地上に佇む明を捉えた。

 

 「お前のように力量を見極めれない雑魚に構っている暇はない……邪魔だ」

 

 「ああ、そうかよ悪党が!」

 明は手榴弾の安全ピンを口で外して、痛む左手で投げる。爆風や破片に巻き込まれても構わない……明は覚悟した。

 

 だがそれは無意味であった。ステインは、手榴弾を脇へ蹴り飛ばし、一気に距離を縮めた。

 

 「嘘だろ……」

 超人的な身体能力に唖然とする他なかった。

 

 

 明のつぶやきのあと、爆風が感じられた。

 

 「雑魚は死ね」

 

 その言葉とほぼ同時に、掲げた太刀を振り下ろす。

 

 

 「……えっ」

 

 斬撃というには余に恐ろしい気魄に満ちた剣圧の風が頬を撫でる。

 

 明は自身の右腕が地面に落ち、靴上に跳ねた感覺を味わった。目線をやると、G36を掴んだ右腕が切断されていたのだ。

 

 視界をステインの方に戻そうとして……視界の端に強烈な一撃が映った。

 

 気がついた時には、床に散らばったステンドグラスの破片に身を横たえていた。――蹴られたんだ。そう理解すると、腕の激痛が思い出したかのように、断面から鮮血を溢れさせた。

 

 「うがあああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 

 「……トドメをさすまでもない」

 冷淡に地面に転がる明を一瞥し、ステインは告げる。ギザギザの刀身に付着した血を舐める。保険のために、明を動けなくした。

 

 

 そして、すぐ百鬼丸を発見した。しかし彼は戦う前から満身創痍のような状態であった。

 

 「なんだ、そのザマは……」

 

 苛立ちが募った。あれほど待ち焦がれていた百鬼丸との対戦の、肝心の彼がこんな弱っていては話にならない。己を満たす欲求が風船のようにしぼんでゆく感じがした。

 

 

 「へへっ……今すぐてめぇの相手してやるから待ってろ、くそったれ」

 百鬼丸は脂汗を顔中に流しながら、引きつった笑いをやる。

 

 「弱者の強がりほど惨めなものはない。そうだろ? 百鬼丸。お前はその辺の雑魚とは違うそう思っていた……だが、俺の思い違いだったようだな」

 

 言いながら、背に納刀した《無銘刀》を抜き、二刀で百鬼丸を殺そうと構える。

 

 「最後の言葉くらい聞き届けてやろう」

 神父のように荘厳な口調で、ステインは百鬼丸に命ずる。

 

 近づいてくるステインを見上げながら、百鬼丸はふてぶてしく口を歪めて「タマナシのてめぇのケツに鉛玉でもぶち込んでやりたいぜ、糞」唾をステインの頬に飛ばす。

 

 「そうか」

 

 付着した頬の唾を拭わず、心底軽蔑しきった眼差しで百鬼丸の頭上に太刀を掲げ、振り下ろす。

 

 

 

 ガチッ、とステインの振るった切っ先は肉を捉えず、白いタイルの床にぶち当たった。

 

 三白眼の小さな眸が、百鬼丸の行方を探す。

 

 周りには居ない。

 

 ……真上にも、どうやら居ない。

 

 もう一度、視線を前面に戻した……。

 

 そこに、怪異めいた形相の百鬼丸が、現れた!

 

 「――ッ」

 

 いつの間に出現したのだろう、ステインはありえない出来事に一瞬戸惑った。

 

 「死ね」短く呟く百鬼丸。

 

 左腕から繰り出す《無銘刀》を防ごうと、ステインは二刀で斬撃を受け流そうとした。しかし、余に強力な膂力から繰り出される一撃に、さしものステインですら弾き飛ばされてしまった。

 

 (なんだ、このガキッ、どんな力してんだッ!)

 

 初めてステインは命の危機というものを感じた。

 

 百鬼丸は上半身を裸に晒しており、首筋から肩まで青い筋の血管が浮き彫りにしていた。鍛え抜かれた筋肉から放出される気魄の湯気が漂う。

 

 「どうした? かかってこいよ」

 

 目を眇めて、未だ苦痛に耐えているようだったが、それでも不敵に指を曲げて挑発する。

 

 「おい、逃げろッ」明は、地面にのたうち周りながら、なんとか声を絞って叫ぶ。

 

 百鬼丸はチラ、と明の方をみた。

 

 (血が溢れていない?)

 

 不信に思った。明の右腕は切断されており、通常では失血死を覚悟するレベルの怪我だが、現状は異なり、一切血が流れていない。

 

 

 ――ビュン

 

 と、百鬼丸の頬を短剣が掠めた。「本物」の右腕で傷を確かめる。針のように細く皮膚が裂けている。

 

 「余所見をするな、百鬼丸ゥッ!!」

 

 怨嗟の念を背負っているように、ステインは禍々しいオーラを背負っている。長い舌をチロチロと出して、鍛え抜かれた上腕に力を込め、笑う。地獄の底から這い上がった悪魔のように笑う。

 

 

 (なんなんだ、奴は……)

 

 痛みを忘れ、明はステインの恐ろしい雰囲気に呑まれていた。鳥肌がおさまらない。ヘビに睨まれたカエルの心境が今ならよくわかる。

 

 明は百鬼丸に視線を移す。

 

 ……彼もまた、笑っていた。

 

 百鬼丸もまた、静かに笑っていたのだ。

 

 ステインと同質の、野蛮で本能的に人とは異なる邪悪な笑いだった。魂から惹かれあい、殺し合うための喜びを表しているようにすら思えた。

 

 二匹の野蛮な獣たちは、天井から降りしきる夜雨に打たれながら、睨み合い笑い合う。

 

 人間である明には一切理解できない境地に、目前の二人はいた。

 

 ◇

 

『百鬼丸さんは、自分が傷ついているのが分からないのが悲しい』

 

 可奈美の言葉が唐突に百鬼丸の脳裏に甦る。

 

(――確かに、お前のいうとおりかも知れないよな。多分おれは相当惨めな野郎だと思う。けどな、感謝もしてんだ。おれは、今、全力で戦える相手に出会えたことにだッ!)

 

 

 今まで魂の底に燻っていた、焔が俄に点火した気がした――

 

 未だ痺れる右指先をしっかりと握り、動くことを認識する。熱い血潮が腕を流れる。おれは今まで本物の腕を持ったことがなかった。そして今ならわかる。霊力が尋常ではない量で外気に放出されているのだ!

 

 床に転がったハルバードを足先ですくい上げて、右腕で掴む。

 

 戦斧の尖部をステインに合わせると、

 

 「テメェのおかげでおれも火が付いた」

 

 偽りの心臓が、心拍数を高める。

 

 

 

 両者は同時に地面を蹴り出した!

 

 ハルバードのリーチを活かして、百鬼丸は戦斧部分を横薙ぎに振り回す。ステインはそれを軽々と躱して、戦斧部の上に立ち、そのまま長い柄を走り始めた。

 

 「くそ」と短く吐いて、ハルバードを軽く投げ飛ばした。

 

 ビュン、ビュン、と点と見まごうナイフの先端が百鬼丸に送り込まれる。

 百鬼丸は身を低く全てを寸前のところで躱し、右足の加速装置に力を込める。

 

 後方へ流れゆくハルバードの柄を渡り終えたステインは、二刀を両翼の如く自在に操り、百鬼丸を袈裟斬りの餌食にしようとした。

 

 へっ、と微かに口を曲げて、百鬼丸は体表に《写シ》を貼り、異世界の時間差を利用した加速《迅移》を発動した。

 

 ステインは、左側に刹那で現れた百鬼丸に反応して、身を捻った。

 

 「クソッタレ」

 顔を歪めながら、百鬼丸はステインの鋭利な顎に向かい掌底を打ち込む。霊力の増し、異常な筋力から一点に集中された打ち込みに、ステインの脳みそは容赦なく揺さぶられ、脳震盪を起こした。

 

 ……が。

 

 《無銘刀》の共振により、ステインはすぐさま意識を回復し、鋭くウェイトの乗った蹴りを百鬼丸の脇腹に叩き込む。

 

 「グフッ………」

 血反吐を吐き出しながら、目を白黒させる百鬼丸。バキバキ、と肋骨が何本も折れた音がした。内臓破裂寸前、といったところだろうか。

 

 血反吐の量がさらに増した。

 

 だが、諦めない。

 

 百鬼丸は相手の胸鎖乳突筋を、左腕の銀色に輝く刃で切り裂く。

 

 「……チッ」

 

 初めてステインは苦悶の表情を浮かべた。動脈を切ったようで、鮮血が生暖かく周囲に撒き散らされた。

 

 「「うぉらああああああ」」

 

 同時に暴力的な怒声を放つ。

 肉体の戻った左足と、ステインの右足が同時に蹴り、お互いの鳩尾を貫いた。

 

 二〇メートルほど後方に両者は飛んでいった。

 

 

 ◇

 百鬼丸は地面に撒かれたガラス片に体を転がしながら、なんとか立ち上がった。右脇腹に更なる激痛が加わる。――

 

 相手を見据えると、どうやら相当な手負いを与えることができたらしい。……だが、現状、加速装置は使えない。《写シ》も《迅移》も同様である。

 

 「……けど、おれは馬鹿なんでね」

 自嘲気味に言ってから、オーバーヒート寸前の加速装置に最後の力を込めて、速度を開放する。ステインとの距離を縮める。

 

 眼球の虹彩に映った相手は、

 

 「……はははははっははは」

 

 笑う、悪魔。

 

 百鬼丸は皮膚を突き破り、血まみれの拳を握ってステインの顔面を力いっぱい殴りつける。ステインもすかさず応戦して、百鬼丸の顎に一撃加える。

 

 《無銘刀》同士が衝突し、共鳴する。

 

 青白い火花が点火して、尚も金属同士の甲高い響きが円形の空間に満ちる。

 

 ステインはギザギザの刃先をした太刀を振りかざす……が、その柄を握る指を百鬼丸は、再び掌底の衝撃を打ち込み、中指から小指までをへし折る。

 

 「アハハハハハ」

 脳内麻薬、アドレナリンの過剰な発生で痛みが感じられないステイン。否、百鬼丸も同じく、痛みを超えて、今この瞬間の闘いを楽しんでいた!

 

 折られた指を無視して、ステインは左腕の肘で百鬼丸の鼻を殴打する。

 

 バキっ、と野菜ステックが割れたように気軽に鼻骨が砕かれる。

 

 百鬼丸の視界を赤い霧が一瞬覆う気がした。

 

 

 ステインがガラ空きの百鬼丸の胴体目掛けて鋭利なスパイクの靴先を向かわせた。しかし、加速装置の蒸気を逆噴射させて、視界を隠し、その勢いを利用して後方へと飛んだ。

 

 

 地面にまた、情けなく転がる百鬼丸。皮膚に突き刺さったガラス片を無視して、よろけながら立ち上がる。

 

 未だ、闘志は衰えていない……それどころか、肉体がボロボロになる度に尚一層、精神が高められて、勝利を掴むまで諦めない。百鬼丸の瞳には闘志の宿った炎が、激しく揺らめいていた。

 

 

 ◇

 

筋肉が酸素を求めているのが分かった――

 おれは何度か血痰を床に吐き捨てて、乳酸の溜まった肩の筋肉をバキバキと動かす。呼吸が乱れながらも、おれは眼前で刃を交差させて、可奈美に教わった剣術のいくつかを反芻する。

 (さて、活人剣だが……)

 正直やりにくい。

 

 武器は左腕の《無銘刀》一本のみ。――とすれば、おれができる手立ては、敵が襲いかかったところを、抜刀居合で反撃することのみ。

 

 「けどな」小さく呟く。

 

 居合……と、いえば安直に抜刀術が思い出される。

 

 以前、夢の中で美奈都で教わったことがある。

『百鬼丸、あんたさ、その腕の隠し刀っていうの? それを使う時は抜刀術の方が一番効果発揮できると思うんだけど?』

 肩に軽くトントン、と鞘に収まった御刀を当てながらアドバイスした。

 

『抜刀術?』

 

『そそ、抜刀術。本来は、抜き身の方が断然有利だし、実際抜刀の達人でも、抜き身の刀の方が有利だってみんな言ってるの。だってそうでしょ? 普通に考えて刀をワザワザ鞘に収めて抜き出すより、最初から刀を出してた方が有利だし』

 

 

『じゃあ、なんでおれが抜刀を?』

 

『う~ん、まず第一に抜刀術は相手の次の動きが予測できない……てのが一番大きいメリットなの。肩を前につき出した体勢だと刀を完全に隠すことができるし、足運びからもどこに剣を打ち込むか、全然予想がつかない。第二に、あんたの体の構造と、馬鹿みたいに強い筋力だったら、間違いなく抜刀の難点である速度を補える。だからおすすめしたわけ』

 

 

 ……確かに、アンタの言うとおりだよ美奈都。

 

 百鬼丸は脳内で粗暴な感じの剣の師匠に感謝する。

 

 

 

 「……どうした? かかってこい」

 ヘッ、とステインは折れた歯を二三本床に吐き捨てる。長い舌を最大に伸ばし、最後の気魄を貯めているようにみえた。

 

 

 「もう終わりにしようか」百鬼丸が告げる。

 

 「そうだな」ステインは静かに頷く。

 

 「では俺が、行かせてもらう……」

 三白眼を細め、「最高だ、力は最高だッ、俺は今までまがい物を潰してきた。中途半端な悪も、正義も皆殺しにしてやる粛清対象だった! だが、お前と剣を合わせて理解した! 俺の悪は、お前の正義と同質で、そして間違いではなかったのだ、と! もっとだ、もっと高みを目指そう、この肉体が尽き果てるまで、俺は悪を求めるッ!」

 

 饒舌に喋る。すでに、そんなことをできる余裕もない筈なのに、精神力だけで支えているのだ。

 

 「――こい、ステイン! お前を受け入れて、倒してやる、クソ野郎!」

 

 

 ニぃ、とステインは喜悦した。

 

 

 ステインは折れた左指の手を一瞥して、握った剣を投げた。

 

 右の《無銘刀》を両手で握り、「……行くぞ」とスパイクが床を蹴る。およそ、常人離れした身体能力で、弾丸の如く、百鬼丸に向かった。

 

 

 抜刀術。

 

 やはり、これしかない。百鬼丸は心を決めた。――これこそが、活人剣だ。恐らく相手のステインもおれがカウンター狙いだと承知しながら、しかし己の速度で闘いを挑んだのだ。

 

 であれば、百鬼丸も、同様に鍛えた抜刀術にて応戦することを誓った。

 

 大きく身を左に捩って、半身を隠す。

 足裏に全ての神経を集中させ、頭の中でカウントを始める。

 

 瞼を閉じる。

 

 静かな水面をイメージする。ただ静寂に湛えられた水面。

 

 いち、にぃ、さん……

 

 その水面に小さな波紋と漣が起こる感覺がした!

 

 「いまだッ」

 

 轟、と一閃を大気中に迸らせステインの攻勢に終止符を打つ。

 

 「――ッ!」

 身軽な、曲芸燕のように空中を縫い動き回るステイン。が、突如彼の運動が急速に衰えた。百鬼丸の異常な膂力が反応し打ち出された抜刀。その範囲は胸部から三〇センチまでを領しており、近寄るのは不可能となった。

 

 ステインの胴体に斜めの斬撃が迸り、血が噴き上がる。

 

 静と動。 

 

 今、その二つが明確に対峙をしている。

 

 ……だが、百鬼丸の右耳は削ぎ落とされていた。無論、本物ではないが、それでも激痛は同じ程度感じる。

 

 しかも、ステインは最後のナイフを百鬼丸の背中に打ち込んでいた!

 

 ……当然である。右半身をステインに無防備に晒した代償なのだから。

 

 だが、百鬼丸は嬉しそうに、背中のナイフを抜きだす。

 

 ステインの刃は百鬼丸の首筋をギリギリに捉え、百鬼丸の切っ先はステインの喉元を捉えていた。

 

 「お前、正気か?」ステインは 愉しそうに聞く。

 

 「ああ、正気だ」百鬼丸は片目を開きながら応じる。

 

 ―――生きるとはなんだろうか。

 

 死ぬ、とはなんだろうか。

 その問いかけは現在、両者の間には必要としない。ただ必要なのは幸運を賭ける金貨のみ。生命。精神。肉体。天運――。それら雑多なチップを元手に両者は対峙を果たす。

 「俺とお前は、激突する運命だったようだ」

 「運命論者か、お前」

 「ハッ、抜かせ。どうせこのまま人の世で生きれない俺たちにはお似合いだろ?」

 「――かもしれんな」

 ステインと百鬼丸は、笑いあった。敵同士なのだが、他人には思えないのだった。

 

 

 「個性を使う暇すらねぇ、お前みたいな男を相手にできて、俺は幸せだ! オールマイト、なぁ見てるか? 俺はこの異世界で百鬼丸を見つけた!」

 

 一人、ステインは叫ぶ。まるで、自分はここにいる、ここにいるんだ、ということを証明しようと、胆の底から叫ぶ。

 

 天井から降り注ぐ雨は激しさをまして、二人を完全に濡らしていった。

 

 血だるまになった二人を洗うように、雨が鮮血を洗い流してゆく。

 

 稲光がした。

 

 ステインは左手で殴打をする……素振りをして、右手の刀で決着をつけようとした。

 

 

 打ち出された拳。

 

 足払いされる、膝。

 

 直後に襲う、冷たく鋭利な感覺。

 

 ステインは理解した。今、右肩に一撃打ち込まれたのだ、と。その激痛は今まで味わったことのない、甘美で、最後まで満足のゆく一撃だった。

 

 長い舌をチロチロと動かしながら、百鬼丸に視線を合わせる。

 

 「――終わりだ」

 どこまでも爽やかで、どこまでも透き通った表情の百鬼丸が、微笑を湛えながらステインと視線を絡ませる。

 

 百鬼丸が腕を引き抜くと、ステインは地面に倒れた。

 

 雨の降る夜空がみえた。

 

 

 

 ◇

 

 「この奥にジョーの野郎がいるんだな?」

 

 中央制御室を指差す百鬼丸。

 

 大の字に地面に倒れたステインは、

 

 「ああ、そうだ。だが、その状態でいくのか?」乾いた唇に雨粒が落ちる。

 

 「――ああ、終わらせるためにおれはここにいるんだ」

 

 「そうか」

 

 その言葉を最後に、ステインは気を失った。

 

 

 一部始終を見守っていた明は、

 

 「ま、待て! 百鬼丸! 一度立て直してからでも……」

 止めようと説得しようとした。

 

 しかし、肩越しに振り返った百鬼丸の顔は、ひどく穏やかで、そのくせ一言の制止すら許さぬ雰囲気を醸し出していた。

 

 「……あぁ」

 ただ、頷くことしかできなかった。

 

 百鬼丸は激闘を終えて、尚も地獄の底へと突き進もうとしていた。彼はおよそ大怪我をしている風には見えず、しっかりとした足取りで暗い深部へと進んでいった。

 

 

 ◇

 

 双葉が銃声の方向へ駆けつけた時、現場には男が二人倒れていた。

 

 一人は――そう、ステインだ!

 初めて港でであった時、余の恐ろしさと強さに畏怖すら覚えた存在。その彼が気絶して大の字に倒れているではないか!

 

 「うそ、有り得ない……誰が」

 

 口元を覆いながら、双葉は呟く。

 

 「……お嬢さん、百鬼丸がやったんだ」

 

 もうひとり、STTの戦闘服を着た男が、そう教える。彼は右腕を切断されて、ひどく悶えながらも双葉に伝える。

 

 「だっ、大丈夫ですか?」

 

 「……結構マズイかもしれない。だが、なぁ、オレを、あの通路の奥まで運んでくれ……」

 明の視線の先には、中央制御室に繋がる廊下があった。

 

 半ば戦慄しながら双葉は唇を震わせて、

 

 「そこに百鬼丸がいるんですか?」

 

 

 

 「ああ」

 



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45話

 中央制御室は、ショッピングモールの内部設備にしては良くできていた。

 まず、監視カメラの設置台数。それに火災や地震を見越した設備。しかし、それら全ては結論から云えば、まったくの無用の長物と化した。

 

 何よりも、ジョーによるハッキングにより頭脳を奪わた防犯システムは、むしろ害悪にしかならない。

 

 ◇

 巨大モニターが複数映し出された。

 椅子に腰掛けながら、ジョーはナッツをぽりぽりと口に運んでいた。缶ビールを美味そうに啜り、再びナッツ。口の中で旨みが踊り、気分が高揚する。

 

 「……ハッ、ハッ、ようやく見つけたぞ、ジョー」

 

 犬の乾いた呼吸に紛れて、少年の確かな意思を感じる。

 

 回転椅子を動かし、背後を振り返ったジョー。

 

 そこには、巨大な扉の柱に背を凭れ、息を喘がす――血だるまになった百鬼丸がいた。右脇腹を抑えながら、口端から伝う血筋を手の甲で何度も拭っていた。目は爛々と輝いており、ジョーを捉えて離さない。

 

 「よく来たね、我がメシアよ。ボクは嬉しくて嬉しくて仕方ないのさ。君がここに居て、ボクを殺しにきてくれたことを!」

 

 ジョーは、白いツーピースのスーツを着ていた。まるで、お祝いでもあるのではないか?とすら思えるほどの、違和感のある服装だった。

 

 彼は口に葉巻をくわえ、紫煙を燻らせている。

 「――百鬼丸くん。君は反出生主義というのを知っているかい?」

 

 「……知らねぇよ」

 

 ぞんざいないい口を無視してジョーは続ける。

 

 「いいかい、まぁその主義を簡単に言えばね、〝生まれてくることに反対だ〟と言っているんだよ。それについてどう思うかい?」

 

 怒りの形相で睨みつけながら、相手の出方に警戒して口を閉ざす百鬼丸。

 

「……まぁ、いいさ。君の意見を知りたかったけどねぇ。だってそうだろ? 気が付けば、君は生まれた時から化物だったんだ。人間を恨みこそすれ、助ける理由なんてどこにもないじゃないか。それでも君はメシアのように人を助け続ける。……話が逸れたね。ボクはこう思うんだ。人間なんて、所詮動物なんだ。だからいくら反出生主義を唱えたところで、動物本来の子孫を残すことを本能としてDNAに刻んできたんだ。あらゆる生物は、その環境に適した形質に己を変化させてゆく。できない生き物は淘汰されていく。だから、反出生主義は確かに一面正しいが、一面間違えている。いいや、むしろ本性が動物の癖に、DNAに刻まれている本能がある癖にスカして『主義』と名乗っている方がおこがましい。確かに生まれることは苦痛だよ。辛いね。だけど、それは――所詮ボクらがお猿の延長でしかない証拠なんだ。……いいかい、反出生主義を唱えていいのは、ボクたち荒魂なんだよ。人間どもが勝手に生み出しておいて……この生み出すという営みには、そもそも必要性がない。子孫を残す? 無理だ。我々荒魂のDNAに刻まれているかい? 無いよ! ただ御刀を鍛えた時に不純物として人間どもが排出する、それがボクらの正体だ! おこがましく、そんな主義を唱える前に、君たち人間が他の動植物を食い殺しておいて、挙句その言い草。確かに生まれなければ、そんなことは起こらないだろう。でも、生命を与えられた時点で、ボクらはそこから進まないといけないんだ! それすらせずに、なにが反出生主義だ! 愚かしい! 人間の形質である所詮動物原理の批難をしたいんだろうね。だったら、思考する、という行為すらも動物的原理の上に成り立っていることを理解すべきだね」

 

 長い演説に、百鬼丸は理解できずにいた。

 

 「……お前は、人間が嫌いなんだろ? だからこうして殺してきた! なのに何を憤っているんだ?」素直な疑問だった。

 

 ジョーはビールを一口啜る。

 

 「人間が嫌い? 誰がそんなことをいったんだ? 違う、違う! 逆だよ! ボクは人間が大好きで大好きでたまらない! だから、殺したいと思っているんだ! 愛だよ、愛! 愛とはね、いいかい百鬼丸くん。愛とは相手の存在全てを無条件で肯定するって意味なんだ。だから愛とは尊いんだ! そこを勘違いしちゃいけないよ。人間は、人類は――尊いよ。人間は常に進化できる! 前へ進むことができる! 創造も破壊もできる! そうだよ、人間は素晴らしい! いつだって、前へ、前へ、進む、間違えれば引き返せる! どこにだって行けるんだ! 人類は!」

 

 腕を大きく広げて、深く呼吸する。

 ここまで潔く、二律背反した意見を述べられる狂人がいただろうか?

  

 百鬼丸は、この眼前の男はやはり普通ではないと思った。たとえ、因縁のある相手だとしても演説には一種の説得力を感じた……。

 

 「お前の意味不明な話はおれには理解できない。ただ、これだけは言える。……おれの体を返してもらうぞ、糞キチガイ野郎!」

 

 血濡れた左腕の刃を水平にジョーに合わせ、血痰を地面にペッと吐いた。口腔が切れて痛む。

 

 「ああ、神よ! もしもそんな奴がいるなら、小便を顔面にブッかけながら感謝して祈ろう! 最高だ! 我が最高の剣、ステインを打ち破り、このボクに闘いを挑む救世主に、最大の祝福を与え給え!」

 

 天井の強いライトを仰ぎ見ながら、涙に咽ぶジョー。

 

 

 ◇

 双葉は、百鬼丸の右腕の義手を握りながらSTTの隊員である田村明に肩を貸して細く長く暗い通路を歩いていた。

 

「……はぁ、はぁッ、なんで君はそんなに百鬼丸を恨むんだ?」

 明は、顔を顰めながら、しかし声は穏やかに聞いた。

 

「……」

 横顔は無表示に、口を固く結んでいた。

 

「言いたくない、のか。だけど……」

 

 

「アイツが、百鬼丸がわたしの大好きだった父を、実の父を殺したんです」

 

 「殺した? そんな――彼が、そんなことをするやつには見えない。第一、なにかしら理由があるんじゃないのか?」

 

 「――理由なんて、どうだっていい! ただ、わたしから父を奪った! それだけです」

 

 親衛隊の制服に身を包んだ双葉。

 

 「そうか、無粋だったな。すまない」

 

 「いえ、それより……百鬼丸の装着していた義手を切断された部分に当てがうだけで止血作用があると思います」

 

 そう言いながら、双葉は見事に肩から抉られた明の右に、百鬼丸の義手を装着する。――双葉のいう通り、溢れ出る血液が留まったようだ。

 

 「なんで、君は詳しい……ッ」

 違和感の激痛を堪えて、訊ねる。

 

 「その義手を作ったのも、実父橋本善海なんです」

 

 「橋本善海!? 一時期天才学者として名を馳せた彼が?」

 

 「ええ」

 

 そうか、と明は言いながら壁に手を付いた。神経細胞が生きているようで、義手をかろうじて動かすことができた。

 

 「……オレは平気だ。それより、百鬼丸の後を追ったほうがいい」

 

 冷たく軽蔑したような眼差しで双葉は、

 「わたしがアイツを追えば、必ず殺しますよ?」

 

 ヘッ、と苦笑いしながら明はいう。

 

 「お嬢ちゃんみたいなお人好しが、そうできるならやりゃあいいさ。復讐に誰かの意見を聞く必要はない。けどな、オレをここまで連れてきてくれたってだけで、お嬢ちゃんが本当は優しい子だって分かったぜ、おじさんは」

 

 言いながら、双葉の腕から離れて、廊下の片隅にヘタりこんだ。皮膚は青白い。

 

「……なにそれ。馬鹿馬鹿しい」

 

 ぷいっ、と顔を背けて制御室に赴くため歩きだす双葉。

 

 その小さな背中を見送りながら明は、

 

「お嬢ちゃん、頑張ってこいよ!」

 精一杯叫ぶ。

 

 一切振り返らず双葉は「……必ず戻ってきますから、死なないでくださいよ」と呟いた。

 

 小走りに双葉は駆け出した。

 

 「やっぱり、君たち、兄妹だよ。血が繋がってなくても、ね」

 

 明は瞼を閉じてみた。――深い眠りにつけそうだった。

 

 

 ◇

 

 (どうやったって、ジョーの野郎の隙なんて分からねぇ……)

 苦痛に目を眇めながら、百鬼丸は必死でジョーの隙を窺う。しかし、彼は一見無防備に見えてその実、罠を張っている。それは今までの経験から知り尽くしている。

 

 そんな百鬼丸の逡巡を読み取ったジョーはせせら笑いながら、

 

 「どうした? ボクは逃げないから慌てなくていいよ。もっとも、ボクは君に簡単に殺されることを期待していないんだ。最大限の抵抗をさせてもらうよ」

 

 ジャケットを脱ぎ捨てる。

 

 ビールを飲み干して地面に転がす。

 

 ネクタイを緩め、白銀の髪を左右に手で撫で付ける。

 

 ジョーは足元に置いた、狩猟用の銃を拾い上げ百鬼丸に標的を絞る。

 

 「その離れた位置からどうする? 百鬼丸くん?」

 

 ジョーは勢いよく引き金をひいた……

 

 ――ビュン、と風を切り裂き一閃が空気をはしる。

 

 ヴェォオオン、と激しい炸裂音がした。ジョーの握る銃身の先端に、ナイフが突き刺さっていた。

 

 「ステインの野郎のナイフ、とっておいてよかったぜ」

 百鬼丸は、皮膚の破れた右腕で投擲していた。見事に銃口を二股に割っている。

 

 暴発に指を弾き飛ばされたジョーは、呆気にとられながら――「ふふふっ、いい、素晴らしい」と賛辞を送った。

 

 

 「お前を……」百鬼丸が啖呵を切ろうとした。

 

 その途中で、百鬼丸の背後に続く廊下から誰かが走ってくる音が反響していた。

 

 ◇

 

 意外にも、わたしの探していた人物の背中を簡単に見つけてしまった。

 

 乱暴に髪の毛を後ろで縛っただけの、少しだけ猫背気味の姿。

 

 わたしはこの人を知っている。ううん、昔から知っていた。

 

 この人を――わたしは殺したいと思っていた。

 

 

 ……大きな扉のすぐ傍の柱に背を預けなががら、佇む百鬼丸。

 

 わたしは足音を忍ばせて、息を潜め御刀を八相の構えにして近づく。なるべく、確実に近づき、袈裟斬りに殺す! そう決めていた。

 

 薄暗い廊下から、扉の内に入った。眩い光源がわたしの視界を眩ませた。何度か瞬きすると、制御室の奥にもう一つの影を発見した。

 

 「ジョー」

 無意識にわたしは、奴の名前を言っていた。

 

 日本中の巨大モニターをジャックして、堂々とテロを宣言した男。自身を荒魂と名乗る狂人。いま、この惨禍の原因をつくった張本人。

 

 なぜ、百鬼丸と彼がいまここに居るのか? わたしにはそれが理解できない。

 

 戸惑うわたしは、一つの視線に気がついた。

 

 「ふたば?」

 百鬼丸は驚きの表情で、こちらをみている。

 

 渇いた喉に無理やり生唾を飲み込みながら、

 

 「久しぶり、義兄さん」皮肉と、嫌悪を含めた言い方で返事をする。

 

 改めて百鬼丸をみる。上半身は殆ど黒いボロ切れのような半袖のシャツが素肌に貼り付いているような状態で、夥しく血や吐瀉物がこびりついていた。むろん、ジーンズも同様であった。

 

 ステインとの闘いがいかに壮絶だったかを物語る様子だった。

 

 「どうしてここに?」百鬼丸が動揺しながらきく。

 

 わたしはその態度に腹がたった。なぜ正直にこんな奴に言わなければならないのだろうか。仇であるコイツに!

 「――なんでもいいでしょ。わたしは、アンタを殺せればそれで十分なんだから……」

 そうか、と寂しそうに呟きながら百鬼丸は痛めているであろう右脇腹に当てていた手を放して柱の支えを振り切り直立する。

 

 「おれを殺すのは構わない。だけど、ジョーを潰してからにしてもらいたい。奴は《知性体》なんだ」

 

 腫れた左の瞼の下は細められた目が瞬く。顔も、アチコチ痣や裂傷があり、常人ならば正視に堪えないだろう。――わたしも少しだけ、コイツに憐れみを感じた。

 

 「……そんな体でできると思ってるの?」

 挑発するような口調でわたしは、百鬼丸にいう。

 

 彼――百鬼丸と《知性体》の因縁は誰よりもわたしが知っている。だから今更一々話を聞いてやる気もない。

 

 「だったら、わたしがアイツを潰せばいいんでしょ?」

 

 顎で巨大な部屋の奥のジョーに顎でしゃくり示す。

 

 途端――

 

 「やめろッ! 絶対に奴に近づくな! お前が死ぬぞッ!」

 

 義眼の右目がわたしを射すくめる。突然むけられた剣幕にわたしは背筋が凍った錯覚がした。光の宿らない義眼の虹彩は薄い膜が眼球の上を覆うように不気味だった。昔からこの目が気味悪くて、わたしは大嫌いだった。

 

 「あっそ、だったら勝手にやれば?」

 

 わたしは気力を復活させると、喧嘩腰に言い捨てる。

 

 その言葉に表情を弛めた百鬼丸は、

 「――そっか。約束だぞ、危ないことをするなよ」

 穏やかで優しい口調でわたしに言う。

 

 苛立ちが募ってわたしは顔を逸らして一言「化物の癖に……」と囁く。彼――百鬼丸が最も気にしていることを口にできた事で、優越感が満たされる気がした。

 

 背中だけをみせた百鬼丸の表情は生憎みえない。

 

 わたしの胸には、ただ虚しさしか広がらないことに愕然とした。こんな奴にも、未だに愛着があるとでもいうのだろうか? 馬鹿馬鹿しい。

 

 

 ◇

 

 「もうお話は終わったかな? ああ、君は双葉くんだね。お久しぶりだ」

 ジョーは昔馴染みのような態度だった。

 

 乱入者に対し、しばし不機嫌だったジョーは双葉だと認めると面白そうに二人のやり取りを聞いていた。

 

 「……ま、いいだろう。さて、百鬼丸くんボクの右手はダメになった。それでも戦うかい?」

 

 「お前とはフェアプレーする気はない。とっとと殺す」

 

 百鬼丸は直立不動の侭、《迅移》の為に皮膚上へ薄白い膜を張った。《写シ》である。尋常でない精神力により、異世界の防護術の使用可能となったようである。

 

 (今の状態の奴なら、どんな手を使うか知らんが、速度で殺せる)

 

 ひとりごちに内心で呟きながら、跳ぶ。地面を離れ、一気にジョーとの距離を詰めて決着をつけようとした。

 

 事実、斜め下方になった階段を移動してすぐさまジョーの距離を縮め、左腕の届く範囲にきた! 肉厚の刃が天井から降り注ぐ光に燦き、ジョーの右肩関節を断ち斬った……

 

 迅、とジョーを斬捨てざまに横目で顔を窺った。

 

 「ははは」

 嗜虐的な笑みを頬に浮かべていた。

 (なぜだ!?)

 百鬼丸はこの余裕の意味を解しかねた。

 

 と、本能が冷たく血管を凍らせた。胃袋の底を優しく〝危機感〟という名の手が優しく撫でる感じがした。

 

 直後――百鬼丸の顔面の中心に大きな礫石ほどの拳が叩き込まれた。折れた鼻骨が皮膚を破り、外部に露出する。延髄が強く地面を打つ。

 

 「がはッ……」

 

 赤い霧に覆われた後に暗転する視野、意識を回復しても尚も白く霞んだ外界。

 

 なにが起きたか、全く理解できなかった。

 

 二重に霞む視界を必死に焦点を合わせると、ジョーのツーピーススーツの背中を破る複数の豪腕を視認した。

 

 諧謔的な口ぶりで、

 「君、百鬼丸くんに特別教えてあげよう。ボクは腕が八本あるんだ。だから一本あげてもいいのさ。――おっと!」

 

 ジョーは説明の途中で背中の腕の一本を動かし、双葉の一撃を受け止めた。

 

 「うそ……今ので、なんで判ったの……!」

 油断をしている、絶好の機会だと思った。そして予想は殆ど的中した――筈だった。だのに、こちらを一瞥もせずに刃を受け止めた。

 (有り得ない!!)

 驚愕に見張られた眼は、異形の姿をした悪魔を前に、次第に絶望へと染め上げてゆく。

 

 「邪魔だな」――と、ジョーは双葉の腹部に一撃喰らわせた。《写シ》は容易く破られ、生身になった双葉の細い首をそのまま別の豪腕が掴んで宙吊りにする。

 

 「ゴホッ……ゴホッ……」

 

 胃袋の中身を吐き出す暇もなく、強烈な握力が首を締め上げる。ミシミシ、と首の骨が軋む。

 

 息ができなくて、苦しい。

 

 酷く混濁する意識の中、双葉は右手に握る御刀を振り回そうと腕に力を入れる。

 

 「ふぅん? なるほど、なるほど、百鬼丸くん。君、この娘にアレを使ったんだね? 馬鹿だなぁ。まあ、面白い余興を思いついたぞ」

 

 双葉の右手首を軽く捻り、骨折させる。

 

 「~~~~ッ」

 声の出せない悲鳴が双葉の口端から漏れる。痛みが、裁縫針のように神経をチクチクと貫く。

 

 双葉からもぎ取った《小豆長光》を眺めたジョーは楽しげに口を歪め「百鬼丸くんよくみていろよ」と告げた。

 

 全身痺れて動けない百鬼丸は息を喘がせながら気力を振り絞り、

 

 「やめろ……ッ、やめろ、お前を……殺してやる! 双葉、双葉ッ!!」

 力の抜けてゆく筋肉を叱咤して、宙吊りの双葉へ右腕を伸ばす。

 

 それを無視してジョーは、双葉の左肩に思い切り御刀を突き刺し、捻る。ボドボド、とコップ数杯分の血液が漏れ、切っ先の刃には細く赤い糸のような血筋が絡まっていた。

 

 

 (えっ、嘘……わたし、ここで死ぬの……?)

 

 悪寒が駆け巡った。愛刀で自分は死ぬのだ。そう理解した……

 

 薄れゆく景色の中、脳裏に別の「記憶」のようなものが流れ込む気がした。

 

 

 ◇

 辺鄙な、人里から遠く離れた場所に、橋本善海の研究室があった。

 日本でも有数の頭脳といわれた彼は、つい六年前に発生した「相模湾岸大厄災」の再生治療研究により認められた。故あって彼は、孤独に研究をしていた。

 

 妻がつい先日、娘を生んだばかりだった。彼は幸せの絶頂にいた。

 

 ……この小屋の付近を流れる河は、その昔人身御供信仰のあった人々により、崇められた山の上流からきている。

 

 若い娘たちを生贄にし「巫女」として殺してきた歴史がある。

 

 因習だ、と善海は思った。

 

 所詮科学を知らなかった哀れな連中のやる馬鹿な「因習」だ、と思った。

 

 石の多い河原を歩きながら、小さな柩にも似た木舟を見つけたのは、ちょうど初夏の頃だった。ひぐらしの鳴き声を聞きながら、善海は興味本位に、長い川草の茂った岸に流れ着いた木舟を拾った。

 

 中には絹の布に覆われたこけしのような人形と、ふた振りの日本刀が収められていた。しかし、その日本刀は、木舟が浸水寸前だった為に、水に浸かり半分ほどが赤錆になっていた。

 

 そして肝心の人形を触った。――その感触は、人間の皮膚そっくりな材質で、再生医療を生業にしている善海でも驚くほどの精巧さであった。

 

 

 黒々とした穴が丸い頭部に穿たれて黒々としている。

 

 『ぎゃーっ、ぎゃー』

 

 善海の脳内に直接、赤子の泣き声がきこえた。突然のことに動揺した善海は、周囲を確認した。だが、なにもなかった。

 

 『ぎゃーっ、ぎゃーっ』

 

 手元の、小さなこけしに目をやった。黒い穴だと思っていた一つの穴が動いていた。

 「まさか、そんな……」

 

 言葉を失った。これが人間だとでもいうのだろうか? そんなことは……

 

 「いいや、待て。確か……」

 善海は記憶を手繰り、古い書庫の中に民間伝承をおさめた古書を思い出した。そこに記されていたのは、戦国時代に流浪した琵琶法師が口伝で語り継いだ物語があった筈だ。

 

 その琵琶法師曰く、魑魅魍魎が跋扈する世にあって、人々を助け、敵を容赦なく切り伏せた者の名――そうだ、〝百鬼丸〟だ! 彼もまた、誕生の瞬間からこのような境遇だった! まさか、そんな偶然があろう筈がない! 善海は懊悩した。

 

 (だが、もし本当ならば、なんて残酷な運命だろう!)

 

 この手元の肉感のあるこけしの赤子を哀れに思った。

 

 善海はふた振りの日本刀と、赤子を自らの研究小屋に連れ帰ることにした。

 

 ◇

 やはり、善海の予想通り、このこけしは紛れもなく人間だった。

 

 最初こそ不気味だった、四肢も、目鼻口もない「妖怪」にみえた。だが、そんな恐れは本当に最初だけだった。

 

 お椀に粉ミルクを入れ、ぬるま湯で溶かしたものを赤子に飲ませてやる。善海は、腕に抱いた赤子がゆっくりと飲み干してゆく様を見つめながら、我が娘を重ねた。この子もまた、誰かの子であるに違いない。善海には愛着が芽生えた。

 

 

 それから時間を待たず、この赤子には超能力があると知った。

 

 脳内に直接語りかけるテレパシーによって、自らの言葉を伝えたのである。思えば、最初の泣き声も、このテレパシーによるものだった。

 

 「お前はなんて不運な奴なんだろう」善海は、赤子の頭を撫でた。

 この赤子は、善海に懐いていた。

 彼がどこにゆく時でも必ず後を追った。イモムシのように、惨めな動作で動きながら必死に追いかけた。

 

 善海がまた、飯を与える時、必ずその指に頬擦りをして感謝した。

 

 単身、山奥に篭もり研究をしていた彼にすれば実子よりも長い時間を、過ごしてきた。

 

 「お前の名前はやはり百鬼丸だ。かつていた、その人の名前がふさわしい。お前は人を救う強い人間になって欲しい」

 

 

 その赤子は、確かに外見は他の子とは異なる。だが、確かにある肌の温もりはまごう事なき人間だった。

 

 「お前を少なくとも、人間らしくしてやりたいなぁ」

 

 善海は赤子の頬を撫でた。

 

 『ぼくを、人間に……』

 

 脳内に直接、言葉がきた。

 

「お前、喋るのか?」

 

 赤子の顔を覗いても、全く変化がない。しかし確かにこの脳内の声はいつも聞いてきたものだった。

 

 『うん、とおさんの話している言葉で全部覚えた』

 

 「まさか、ありえん……いいや、でも……そうか! 百鬼丸! お前を今から人並の肉体を与えてやりたい! どうだ?」

 

 善海の言葉の意味までは理解できない赤子は、

 『よく分からないけど、そのほうがとおさんは嬉しい?』

 「ああ、お前をからず立派にしてやる」 

 善海の熱意に促されてた。

 

 ――分かったよ、とおさん

 

 ◇

 その日から善海は昼夜を問わず、自身の再生医療の知識と、それ以外の知識を総動員して百鬼丸に最高の肉体を与える作業を開始した。

 

 そんな時だった、善海はアメリカの科学者レイリー・ブラッド・ジョーと名乗る隠世の研究者と出会ったのは。

 

 彼はワザワザ、辺鄙な山小屋まできて善海に様々な助言を与えた

 

 「貴方は聡明だ。ボクの次にね」

 四〇代ほどの、顔立ちのよい西欧人は笑った。

 

 「貴方のおかげで、加速装置や、様々なことが理解できました。でもなぜそこまで親切にして下さるのですか?」

 

 彼、ジョーは無償で全ての知識を善海に与えた。その知識は現世の人知を超えたものだった。それを上手く言語化したジョーは本物の天才と言える。

 

 「ボクにはね、色々とやるべきことがあるんだ。そのために君を利用しているんだよ」悪戯っ子のように舌を出して山小屋を立ち去った。

 

 

 善海は不眠不休で、完成させた人工器官を濃緑位の液体水槽のガラス越しに眺めた。

 

 そして赤子の百鬼丸に全身麻酔をかけて、手術を開始した。山小屋は、手術室も併設していた。

 

 長い、長い時間を有した手術も無事に終わった。

 

 人工筋肉や活性細胞の皮膚、脚部の加速装置に、両腕の仕込み刀は、刀鍛冶に頼み込んでサイズを縮めた《無銘刀》だった。この刀は百鬼丸と共に流された時に一緒に納められていたものだ。

 

 

 ◇

 再び目覚めた時、百鬼丸は他の子供と遜色のない外見になっていた。

 

 『とおさん……』

 

 手術台で仰向けになった百鬼丸は、腕を伸ばした。

 

 『すごく体が重たい』

 

 その一言に、

 

 「当たり前だ百鬼丸。お前は今から練習をするんだ。人間らしく動く練習を」

 

 善海は厳しく言いつけた。

 

 その言葉通り、百鬼丸は重たい手足を自由に使えるように練習した。いつも、砂利の庭先を気の遠くなるような痛みに耐えながら歩いた。転んでは立ち上がり、転んでは立ち上がり、朝日が昇るときから、影が濃くなる夕暮れまで、泥砂にまみれながら必死になった。

 

 

 その成果があって、すぐに歩けるようになった。

 

 言葉も、テレパシーを使いながら、口を人間と同様に動かしていかにも声帯から音を出しているように訓練した。

 

 季節が四つ巡った――。

 

 気がついたときには、百鬼丸は完全に体を使いこなしていた。

 

 「よくやったな、百鬼丸」

 善海は陰ながら百鬼丸を支えていた。何度も手助けすることを躊躇して心を鬼にして百鬼丸を信じた。その結果、彼は普通の子供以上な身体と頭脳を勝ち得た。

 

 「とおさん、ありがとう」

 子供の声だが、大人びた口調がいかにも不釣り合いだった。

 「ああ、お前のためにできることを全部やった」

 

 「――とおさん。なんでぼくの腕に刀があるの?」

 

 人よりも長い手を義眼で眺めながら、百鬼丸はいう。確かに、普通の子供のようにするならば、刀は不要である。

 

 しかし。

 

 「いいか百鬼丸。お前は普通の子供じゃない。――お前を襲う荒魂っていう怪異と戦わなければならないんだ」

 

 「どうして?」

 

 「お前の体を狙って食べにくるんだ。オレも本気にしていなかったが、ジョーという偉い人が教えてくれた。確かに、ここは人里から離れているが、最近は荒魂が人間を襲う事件も多発している。それに……」

 

 と、善海が小屋の奥から持ち出したのは、橋本家伝来の御刀『小豆長光』だった。

 

 「この御刀がお前に反応するんだ。普通、刀使にしか反応しないんだが……あの人の言葉もそうだが、なにより御刀がお前に興味があるらしい。だから、もし襲われるようなことがあれば、自衛できる手段があればいいと思ったんだ」

 

 聴き終わってから、

 

 「――ぼくが、荒魂をやっけるの?」

 

 「そうだ」

 

 「どうして?」

 

 「お前は、人を助けるんだ。誰より人の痛みを知っているお前が、人を助けるのさ。強い奴はその力を困ったり弱ったりしている人間に使うべきなんだ」

 

 小さな百鬼丸の肩に善海の肉厚な掌が置かれた。

 優しく強い眼差しを注がれた百鬼丸は強く頷いた。

 

 「わかった。ぼくは、誰かを助けられる人になる!」

 

 ◇

 

 五つ目の初夏を迎えた百鬼丸は、あるとき小屋に訪れた女の子に驚いた。

 

 朝に車で山を降りた善海は夕方、小屋に再び戻ってきたとき、ひとりの女の子を連れてきた。

 

 「とおさん? この子は?」

 

 善海の足にしがみつき、隠れた女の子は百鬼丸を睨んでいた。

 

 「この子は双葉。実のオレの娘だ」善海が困ったようにいう。

 

 優しく双葉の頭を撫でる善海を眺めながら、百鬼丸は胸が痛んだ。ぼくは、偽物なんだ――。底の無い悲しみが心を蝕んだ。

 

 「お父さん」

 舌っ足らずな声で、善海を見上げる双葉。

 

 「ん? どうした?」

 

 「この子、へん! なんか気持ち悪い」

 

 言い終わると、指をしゃぶる。

 

 「おい、双葉! 謝りなさい! お前の兄さんになる人になんて事をいうんだ!」

 

 「やだ、こんな変な人お兄ちゃんじゃないもん!」

 

 「ぼくは変じゃない!」

 

 「へん!」

 

 「変じゃない! 甘えん坊!」

 

 善海の足の陰に隠れた双葉は、むっ、とした様子で百鬼丸に近づいた。

 

 「甘えん坊じゃないもん! ばか!」

 

 「ばかっていった方がばか」

 

 「…………双葉、ばかじゃないもん」

 

 大きな瞳に涙を溜めて、「ばかじゃないもん」と呟きながら大泣きし始めた。

 

 これが、兄妹二人の最悪の出会いだった。

 

 ◇

 

 善海は、それから数日で仲良くなった兄妹が庭先で戯れる様子を小屋の窓から眺めるようになっていた。

 

 病弱だった妻が、数日前に亡くなった。娘を押し付けて五年もここで別の赤子を育てていた贖罪の意識があった。娘も妻が亡くなったときは、ふさぎ込んでいたが、百鬼丸と一緒に生活するようになって、明るさを取り戻したようだった。

 

 

 「まるで、本当の兄妹だな」

 

 双葉を精神的に支えてくれるように、百鬼丸に兄という役割を押し付けたのだが、あの子は賢い。その役割を全うしてくれていた。

 

 

 

 「ねぇ、おにーちゃん! おにーちゃん! あにアレ? うんち? うんち?」

 

 木の梢のセミの抜け殻を指差しながら、双葉はジャンプする。

 

 「違うよ双葉、セミの抜け殻」

 「セミ? セミって?」

 

 「ミーン、ミーン、とかジジジ、とかうるさい虫」

 

 「ふぅーん、そっか。なんでも知ってるんだね。おにーちゃん!」

 

 「そうかな」

 

 「うん! おにーちゃん、足はやいしなんでも知ってるし!」

 

 出会ったときとは違う、尊敬の眼差しで双葉は百鬼丸を慕っていた。

 

 だからどこに行くときも百鬼丸の後を追って歩いた双葉。服の裾を握って、絶対に離れないようにする妹を煩わしく感じるときもあった百鬼丸は、しかし善海の教えを守った。

 

 自分より弱い人間や困っている人間を助ける。

 

 そして、自分は兄だ。

 

 決して血が繋がらなくてもこの妹を守らなければならないと誓っていた。

 

 

 ◇

 ――だから、あの日がきた時にこの幸せな時間が崩れ去るんだと悟った。

 

 あれは冬だった。

 

 双葉が突然熱を出して寝込んだ。風邪だろうと百鬼丸は思っていた。だけど違った。診察する善海の顔に苦悩の色が刻まれるのが見て取れた。

 

 「とおさん。双葉は大丈夫だよね?」

 双葉の部屋にお粥を運んだ百鬼丸はきいた。

 

 善海は振り返らず一言、

 「ああ、大丈夫だ。必ずオレがこの命に代えても助ける」

 そう呟いた。

 あとで百鬼丸は知った。双葉は、風邪ではなかった。

 

 百鬼丸は孤独を埋めるために、独学で闘いを学んだ。冬の自然界は様々な闘いが繰り広げられている。それを学びながら、百鬼丸は雪原の中で必死に腕を振るい、自己を高めた。以前なら百鬼丸がひとりで冬の外を出歩くことを怒った善海も、現在は研究室にこもっている。双葉は全然よくならなかった。

 

 

 ◇

 春が訪れたとき、再びあのジョーという男が小屋にやってきた。

 

 百鬼丸はこの男がなんとなく、嫌いなのに懐かしい気分がしていた。まるで他人とは思えない気持ちだった。

 

 ジョーと善海は研究室で長い時間会話していたようだった。

 

 そのジョーが帰り際、百鬼丸を一瞥し、

 

 「君には、期待しているよ」

 と、ウィンクした。

 

 その意味がその時は分からなかった。

 

 

 その日の夜に久しぶりに善海と向かい合わせでシチューを食べていた百鬼丸。

 

 「……なぁ、百鬼丸。お前に頼みがあるんだ」

 

 久しぶりにみた義父の顔はやせ衰え、凄愴な容貌をしていた。

 

 「うん、なんでもやる」

 

 「お前が頑張ってくれれば、双葉は助かるかも知れないんだ!」

 

 「うん、双葉を助ける!」

 

 シチューを食べ終わったあと、百鬼丸は双葉の部屋に向かった。

 

 

 小さな寝息が聞こえる。

 高熱を解熱剤で抑えているのだろう。上気した丸いほっぺたの双葉を見つめながら、幼い手で百鬼丸は彼女の頭を撫でる。

 

 「――双葉、お兄ちゃん頑張るからな、待ってろよ」

 

 ◇

 

 翌日、百鬼丸は自身の異常な認知センサーを発揮し、荒魂を探した。この山奥には無数の荒魂がいた。しかも、現在進行形で人里に攻撃を加えようとしていた。

 

 百鬼丸は駆け出した! 

 

 鬱蒼と生い茂る針葉樹の森を抜け、ほど近い村に出た。

 

 案の定、四脚の獣の荒魂が民家を焼き払いながら、暴れていた。

 

 幼い百鬼丸は震える指先を制止しながら、腕に隠した刃を抜いて闘いを挑んだ。本当は怖くて怖くて仕方ないのに、双葉や善海の喜ぶ顔を思い浮かべると自然とその恐怖は薄らいだ。

 

 「うぉおおおおお」

 

 四脚の荒魂は簡単に百鬼丸の攻撃を避けて、逆に強烈な尻尾の一撃を与えた。

 

 激しい衝撃で気を失いそうになりながら、燃え盛る人家を背景に百鬼丸は立ち上がる。

 

 「負けるもんか! お前なんかに負けるもんか!」

 

 銀刃を振りかざしながら、戦う。

 

 百鬼丸は獣の顎貫き、地面に組み伏せる。

 

 「まだだ!」

 背中に担いだ、身の丈ほどの御刀『小豆長光』を鞘から引き抜き、胴体に突き刺した。

 

 ギャオオオオオ、という悲鳴をあげながら荒魂は消滅した。

 

 御刀と《無銘刀》に切り払われたあとには、ノロが残されていた。

 

 ◇

 

 家に戻り、善海にノロの入った透明な入れ物を渡した。

 百鬼丸は日に日にやせ衰える善海を不安げな眼差しで見つめながら、その人の変わったような目に睨まれた。

 「よし、この調子だ百鬼丸!」

 

 ボロボロの姿の百鬼丸を気に掛かる素振りも見せず、ノロのアンプルを眺めていた。なにかに憑依されているみたいだった。

 

 百鬼丸は悲しくなったが、それでも善海を慕っていた。この体をくれて、生きる道しるべを与えてくれた善海を本当の父だと思っていた。

 

 ふと、廊下の角に隠れた人影を見つけた。

 

 「双葉、調子はいいのか?」

 

 おずおず、と角の陰から出てきた双葉は熱で真っ赤になった顔で姿を現した。

 

 「……うん、平気。おにーちゃん。ぼろぼろ。だいじょうぶ?」呂律の回ってない口ぶりで聞いてきた。

 

 「うん、大丈夫。ぼくは強いから。双葉のおにーちゃんだからな」

 

 強がっていた。子供のちっぽけな……それでも、確かな強がりだった。

 

 「うん、双葉のおにーちゃんは強いもん」

 

 ぼーっ、とした目線をしながらも双葉は頷いた。

 

 ◇

 何度も荒魂を退治する度に、命の危機を掻い潜るたびに、自分が成長していくのが分かった百鬼丸。

 

 人々に正体がバレないようにマントで姿を隠し、人里に現れる荒魂を退治した。みんなの為に戦っていることが、寂しい毎日に勇気を与えてくれる気がした――

 

 けれど、人々は逆にマント姿の百鬼丸をが荒魂を引き連れる元凶だと思い込んだ。皆、百鬼丸が姿を現す度に石を投げたり、罵声を浴びせたりした。

 

 (……化物なんかじゃない!)

 

 泣きながらも、荒魂を退治し続けた。

 

 胸が張り裂けそうな思いを堪えて、刃を振るう。その先に妹の為になるのだと信じて。

 

 日に日に弱ってゆく双葉が、一向によくならないことに、百鬼丸はとっくに気がついていた。

 

 

 確か九歳の時だったと思う。

 

 いつものように、人里に現れた荒魂を退治しようと駆けつけた時、若い女の人たちが御刀を構えながら、荒魂と戦っていた。

 

 百鬼丸は身を隠しながら、闘いの行方を見守っていた。

 

 五人いる女の人たちは、大きな体のクマみたいな荒魂相手に苦戦していた。三体を相手にしているからだろうか?

 

 皆、顔が青ざめていた。

 

 よく見ると、大勢の荒魂が女の人たちを囲んでいた。

 

 百鬼丸は、いてもたってもいられず、御刀と左手の刃を抜き、駆け出した!

 三〇秒もせずに、全ての荒魂を退治した。多くのノロが地面に揺れた。気が付くと、全身にノロを付着させていた。

 

 人里を背中にした女の人たちは、自分たちを「刀使」だと名乗った。

 

 「ねぇ、そこの小さいマントの人。ありがとうね。わたし達を助けてくれて」

 

 刀使のうちの誰かが、百鬼丸にそう語りかけた。

 

 初めて感謝される言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる気がした。

 

 「あ、ねぇ待ってよ! ……聞いてくれないか。あ、でも、無理しちゃダメだよ。……って、いくら弱いわたし達に言われなくても分かってるよね」

 

 喋りかける彼女たちを無関心に装いながら、嬉しくてにやける顔をフードに隠して走り出した。

 

 その背後では村人たちが「さすが刀使さんだ」「あなたたちが来てくれてよかった!」と口々にはやし立てる声が聞こえたが、そんなものはどうでもよかった。

 

 ただ、自分を認めてくれた人がいた、それだけでよかった。

 

 ――刀使

 

 覚えておこう。

 

 幼い百鬼丸は熱い鼓動を感じながら、胸を強く掴んだ。

 

 

 ◇

 

 小屋に帰ると、善海が玄関先で出迎えた。

 

 「なぁ、百鬼丸。ついにとおさん、完成させたぞ! ああぁ、最高だ! ついに研究が報われるんだ!」

 

 異様な様相の善海に、ただ唖然とするしかない百鬼丸。

 

 「……どうしたの、とおさん?」

 

 「とおさん、決めたよ……双葉を救うって」

 

 「う、うん」

 

 「だからジョーさんに、《知性体》のアンプルノロアンプルを分けてもらったんだ」

 

 善海の手には、ノロのアンプルの入った注射器があった。

 

 「どうするのとおさん?」

 

 「決まってるだろッ!」

 

 自らの首筋に注射器を打ち込む。

 

 

 善海の目の色が赤銅色に変化した! 最早、目前の相手は父ではなく、単なる荒魂と化していった。

 

 うそだ、うそだ、ねぇ、とおさん!

 

 叫ぶ暇すら与えてもらえなかった。

 

 

 「ああああああああ、最高だ! 百鬼丸、手始めにお前を……」

 

 善海は近づく。恐ろしい形相で、百鬼丸に近づく。

 

 「嘘だ、うそだよとおさん!」

 

 あの優しい面影を失った善海を見つめながら、首を振って現実を否定する。

 

 ……と、その時だった。

 

 「…………うぅん、お父さん? おにーちゃん?」

 

 長患いの双葉は、ふらつきながら、目を擦って廊下から玄関先までやってきた。大きな物音が気になったのだろう。

 

 「く、来るな双葉ッ!!」

 

 警告虚しく、荒魂となった善海は振り返り、双葉に向かって駆け出した。そして自らの娘を押し倒し、小さな細い首を絞める。

 

 

 「アハハハハハア、人間を喰らってやろうか。アア? 生きた人間だ!」

 

 百鬼丸は躊躇しなかった!

 

 背中に担いだ御刀を引き抜き、一気に大きな背中の善海に突き刺す。

 

 普段退治する荒魂と異なり、肉の繊維質な感触が柄を伝う。ついで、尚暴れる善海の腹部に自らの左手を口で引き抜き、突き刺す。

 

 「死ね、死ね、死ねッ、荒魂めッ!」

 

 血まみれでのたうち回る善海を、流せない涙を堪えて、突き刺し続ける。あれほど愛した義父をこの手をかけて汚していたのだ!

 

 馬乗りの父の血を浴びた双葉は、そのまま気を失った。

 

 ◇

 

 「――百鬼丸か」

 正気を取り戻した善海は呻くように、いった。

 

 「うん」

 

 「お前に頼みがある」

 「うん」

 

 「――オレの体内にある《知性体》のノロアンプルを取り出して双葉に注射して欲しい」

 

 「助かるの、双葉?」

 

 苦悶に顔を歪めながら、躊躇いがちにいう。

 

 「知性体とは、ジョーさんの言葉によれば、百鬼丸……お前の肉体を奪った荒魂らしいな。そいつを誰かに注射する、ってことはお前の肉体が一時的に失なわれるゴホッ、……ゴホッ、らしい」

 

 バン、とドアを蹴破る音がした。

 

 背後を振り返る百鬼丸。

 

 そこには、ジョーと名乗った、白銀の髪の男が立っていた。

 

 これで現状が把握できた。この男がすべてを仕組んでいた。だから、今タイミングよく出てきたのだ。

 

 「それはボクが説明しよう。隠世と現世を繋ぐ特異体質の君、百鬼丸くんの肉体の一部は非常にレアな存在なんだ。だからこの世の摂理を超越する。ただ、代償もある。もしかりに誰かの命を救うために寿命を与えれば、その肉体は……そうさね、この世の座標値を固定し続ける意味も込めて五年、五年だ。《知性体》のノロアンプルを打ち込む代わりに五年寿命を与えれる。だが代償は君の寿命と肉体だよ。百鬼丸くん。それでも、君は双葉ちゃんを救いたいかね? まあ、安心していいよ。もし、病が治る方法がなければ、五年以内だったら青ノロのアンプルを取り出せる。逆に言えば、五年過ぎれば君の寿命は削れる。肉体は戻らない。どうだい?」

 

 ジョーの試すように嗤う顔に見下されながら、百鬼丸は怒りと動揺の綯交ぜになった視線で頷く。

 

 「やってやる! やる! 双葉におれの寿命でも、肉体でもやる! だから、だから――」

 

 百鬼丸は迷いなく答えた。しかも「その方法を教えろ」とジョーを怒鳴りつけた。

 

 

 「いいだろう、若きメシアよ。君の為に教えよう。まず、御刀でノロを取り出し、《無銘刀》で穢のみを払う。そうすると、青いノロが生まれる。それを注射器で打ち込むのだ。簡単だろう」

 

 百鬼丸は前方に視線をやる。すでに虫の息の善海が微かに眉をひそめる。

 

 「すまない……許してくれ……双葉のために、お前を、百鬼丸をこんな形で利用する、汚いオレを……いいや、恨んでくれていい……だから……双葉を」

 

 涙ながらに最後の意思を伝える善海。

 

 それは、肉体すべてが戻らない可能性を暗示していた。そして寿命を削るリスクを犯すことすら示唆していた。

 

 ……だが、そのすべてを受け入れて百鬼丸は頷いた。

 

 「とおさん、ありがとうございました。おれに体と名前、そして愛情をくれて……」

 

 そう言いながら、百鬼丸は廊下の壁に凭れたせた善海の鳩尾を御刀で貫き、ノロを排出させる。そののち、左手の無銘刀でオレンジ色のノロを斬り払い、穢のみを浄化した。

 

 ……強い人間は誰かの為に力を使う

 

 その言葉が蘇り、百鬼丸は強く祈った。もし自分が強い「人間」ならば、双葉を助けてやりたい! と。

 

 ◇

 

 双葉が目覚めた時、血まみれに刀傷を負った父善海を小さな体で背負い引き釣り、歩き出す百鬼丸を見つけた!

 

 「……なんで、おにーちゃん。なんで?」

 

 「…………」

 

 無言で歩み去る百鬼丸。

 

 理由のない怒りが胸底に湧いてきた。

 

 「人殺し! お父さんを返して! 人殺し!」

 

 咽び泣きながら、双葉は遠ざかる百鬼丸に怨嗟を吐き出し続けた。

 

 

 2

 

 

 (どうして、なんでこんな前のことが……?)

 

 困惑した双葉。

 

 ジョーの豪腕はいつの間にか解かれ、地面にヘタりこんでいた。

 

 

 五年前の失われていた記憶が補完するように、すべて理解してしまった。

 

 

 「なんで、わたし……おにーちゃんとの記憶まで、大切な事まで忘れてたんだろう……」

痛む左肩を抑えながら、双葉は呆然と呟く。

 

 

 「アハハハ、そうか。思い出したんだな。いいことを教えてやろう」ジョーは興がのったように饒舌に語る。

 

 「君の御刀《小豆長光》が、記憶を封じたんだよ! そして、君の記憶の封印を開く鍵はこの御刀さ! そこの百鬼丸くんが細工でもしたのだろうね!」

 

 痛む左肩を庇いながら立ち上がる双葉。

 

 仰向けで血まみれになりながら、虚ろな表情の百鬼丸。

 

 

 

 

 「――なんで、なんで!」

 

 どうしてこんな事をしたんだろうか?

 

 ハッ、と明らかにばかにしたように嘲るジョー。

 

 「ボクは分からないけど、君に罪の意識を与えたくない……とか、下らない理由だろうね。馬鹿馬鹿しい」

 

 彼――百鬼丸が去り際に残した唯一の父の形見、《小豆長光》を頼りに今まで復讐を誓って生きてきた……その生きる意味すら、義兄に与えられていたのだ!

 

 

 

 ジョーは軽蔑しきった眼差しで切り取られた右肩から禍々しいトゲのような硬質な物体を生み出していた。

 

 

 

 

 

 「まず、百鬼丸くんから死んでもらおうか。さようなら」

 醒めた口調で躊躇なく、地面に横たわる百鬼丸に殺到した!

 

 

 

 

 ◇

 気絶しかかった百鬼丸は、殺到するトゲを眺めながら、自分が死ぬのだと理解して覚悟した。

 

瞼を閉じて、死を待った。

――――熱い血潮が顔を濡らす。

 

えっ?

 

痛みの感覺がなく、目を開く。

 

 眼前には、大の字で百鬼丸の前に立って自らを盾にする双葉の姿があった。

 

 双葉の右の目と脾腹が、槍に酷似した黒刺に刺し貫かれていた。

 しかし、それでも尚も体を大の字に広げ、背後の百鬼丸を庇っていた。

 「……おい、やめろ……やめろッ! 双葉ッ、なにしてんだよぉおおおおお」

 地面に這いつくばったまま、百鬼丸は腹の底から怒鳴る。

 ――だが、激痛を堪えながら肩越しに双葉ははにかむ。

 「えへへっ……にいさん……ごめんね……ずっと、ずっと恨んでて……わたしを守ってくれる為にずっと、ずーっと、守ってくれてたんだよね。あの時から……ありがとう」

 か細くなる声。それでも必死に絞り出している。

 「だから、今度はわたしがにいさんを守る番なんだって……だから、勝ってよ……ずっと、ずっとわたしのにいさんでいてね」

 途切れ途切れの言葉から、紡がれる双葉の本心。左目から一筋、涙がこぼれる。

 

 「ふ た ば?」

 百鬼丸は呆然と義妹に視線を注ぐ。

 

 黒刺は引き抜かれ、その反動で大きく地面に崩れる双葉。

 空中には薔薇の花弁に似た血飛沫が漂う。

 どさり、という音で弾かれたように百鬼丸は無心で動き出した。

 地面に伏した双葉の濡れた頬を撫でる。

 「なんで……どうして、こんなことを……」

 黒々と貫通した空洞の右眼窩をみつめる百鬼丸。

 小さく口元を歪め、

 「もう一度、昔みたいに……戻りたいから……」

 「ああ……」

 「にいさんは……きっと、多くの人を助けてくれる……わたしみたいに……」

 「ああ……」

 だから、勝って――

 そう呟いた気がしたが、双葉の声は掠れて聞こえない。

 そして、ゆっくりと持ち上げられた右手に掴まれたひと振りの『御刀』

 双葉の目が訴えている――この御刀を使え、と。

 百鬼丸はその御刀と双葉の手を同時に包んだ。

 

 背後で「あはははっはは」と下品に嗤う。

 「それで、美しいお別れはおしまいか? あぁ?」

 喉の奥でくつくつ、と未だ嘲笑が収まらないようだった。

 

 俯いた顔をあげ、立ち上がる百鬼丸。彼の顔には一切の表情が無い。まるで悟りを開いたような、しかし、周囲に纏うオーラは透明で――鋭く冷たい。

 凍えるほどに冷たい。

 

 

 

 

 

 (先程とは雰囲気が違う……)

 ジョーはは初めて焦った。

 「ハッタリだろうが――」

 と、ジョーはそこで言葉を中断した。否、させられたのだ。

 「ひゃ…………?」

 耳が削ぎ落とされている! 痛みすら感じる暇がない? ジョーは混乱した。

 突風が彼の頬を掠めた。

 斜め後ろから気配。

 「貴様は斬る。確実に仕留める……!」

 肚を震わす激情。

 百鬼丸の双眸から真っ赤な光が宿り、それが動くたびに紅い残光の尾を曳く――。

 「今のは警告だ。次は仕留める」

 未だ余力を残す百鬼丸にイラついたジョーは、

 「よろしいいいいいいいいいいいい」

 大量の黒刺を剣山のように百鬼丸に殺到させる。隙間なく密集した刺の壁。

 「しねえええええええ」

 男は勝利を確信した。視界を覆うほどの刺。これで生きているはずがない。

 ニチャ、と歯をチラつかせた。

 

 ……終わりか? 

 

 背後からの問いかけ。

 「なに?」

 素っ頓狂に口を開くジョー。

 首を後ろにやろうとねじり、大きく頭部が天井に跳ね上がった。一拍遅れて、首は切断されたことを思い出したかのように、大量の鮮血を噴射させた。

 ホースで撒いたように周囲に血が飛び散る。

 その紅に横顔を濡らしながら、百鬼丸は冷徹な目で前を見据える。首なしの胴体が足元に転がった。下に一瞥して、

 「大人しくしてろ、クズ野郎」

 血痕を斬り払い、納刀する。

 

 

 しかし、刎ねた首から再び頭部が生えてくる。

 

 

 「最高だ、最高だ! ボクを切り刻むまで終わりはないよ! 百鬼丸くん! その妹が死ぬ前に雌雄を決しようではないか!」

 

 百鬼丸は冴えた眼で、

 

 「上等だクズ」

 

 血痰を吐き捨て手の甲で口元を拭う。

 



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46話

誤字脱字は、後々修正します! スンマセン。


あと話数の編成を変えたりしてます……スンマセン。


  百鬼丸は緩やかに息を吸う。

最早、この体に〝痛み〟というものを感知するほどの繊細さは失せていた。――それに代わって、鼓動の高鳴りと熱い闘志が燃え滾っていた。

 

 

 ゆっくりと立ち上がったジョーは、血まみれのシャツを自ら剥ぎ取るように破り捨てた。金剛力士像のように鋼の均整のとれた胴体に、背中から生えた腕たちは無骨だった……

 

 「君と遊ぶには、この腕では物足りないねぇ」

 

 言いながら、ジョーは右腕のトゲを槍状に伸ばして左手で掴む。一気に引き抜くと、そのまま一本の武器のように扱い、背に生えた全ての腕を切り離した。

 

 生きた魚が地面をのたうち回るように、厳つい腕が飛び跳ねる。

 

 「さぁ、見てくれ! 君と遊ぶための腕だ!!」

 

 肩甲骨と背骨に沿うように、鍛え抜かれた格闘家のような腕が皮膚を突き破って発生した。粘着質な液体に濡れた腕。

 

 ジョーは槍を天井に投げて、スプリンクラーを作動させる。ジリリリ、とけたたましい警告音が巨大な室内に反響する。

 

 一気に、燃えるように熱い皮膚にシャワーが降り注ぐ。百鬼丸は秀でた眉の下に滴る水を拭わず御刀を構える。奇妙に穏やかな気分。冷やされてゆく体温。柔らかな空気。まるで白い霞がかかったように、スプリンクラーが両者の間に薄い紗幕をひいた。

 

 ジョーの生えたての腕は、蛹を終え誕生したばかりのカブト虫に似ていた。下膊の輪郭がボヤける。……これが狙いだろう。

 

 両者の距離、三〇メートル。

 

 腫れてろくに見えもしない左目。右の義眼もほぼ同様である。その二つを瞑る。ただ佇む、それだけで良い。余分なことは考えない。五感を研ぎ澄ます。その一拍に第六感が宿るのだ!

 

 ヴォン、と強烈な風圧と共に弾かれる水飛沫が頬に来る。

 

 目を開き、御刀と左手の刃を自在に流す。漆黒の六槍の禍々しい穂先が全て防がれ、虚空を貫く。

 

 ジョーが「ぬゥ」と唸り繰り出す不意を衝いた二撃……すら、切り返す刃たちが斬り飛ばす。

 

 濡れた黒髪。顎を少し動かして水を振り払う。

 「ジョー、てめぇは確かに天才の学者かもしれない。けどな、いいことを教えてやる。お前は闘者じゃない。戦闘レベルはせいぜい素人だ」

 百鬼丸はふてぶてしい口調で告げる。

 

 「……そうかい」

 

 「ああ」

 

 いつの間にか、ジョーの右腕は復活していた。しかも、肘の辺りには漆黒のトゲが突き抜けていた。あそこから槍を取り出しているのだろう。

 

 「――どうした、もう終わりか?」

 

 大きく肩を上下させて息を喘がせるジョーを一瞥する。

 

 「くくっ、君はさすがに場馴れしているようだね」

 

 「当たり前だ、ガキの頃から命懸けだったんだ」

 

 「知っているよ」

 

 と、ジョーは応じた途端――

 

 

 「ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 

 渾身の叫びをあげて、無茶苦茶に八槍を多方向から繰り出すジョー。

 

 

 「へぇ」初めて表情らしい貌で呟く百鬼丸。

 

 まるで、最初から分かっていたかのように百鬼丸の足は相手に向かって進む。穂先の点が輝く。

 

 「お前にいいことを教えてやる。目くらましのつもりでスプリンクラーを使ったなら悪手だ。武器、体の動きが全部水を弾き返して軌道を教えてくれる」

 

 余裕。圧倒的王者の余裕によって齎される斬撃。

 

 気が付くと、床に全ての槍が突き刺さっていた――腕つきで。

 

 直後……ミチッ、と肉をしたたかに打つ音がした。百鬼丸は視線を音の方へ投げると、自らの腹部に斜め下から抉るように拳が二つ食い込んでいた。

 

 「グゴッ……」

 既に吐血し尽くした筈なのに、ドス黒い液体が口と鼻から漏れる。目の裏に火花が散る。

 

 あははは、とジョーの高い哄笑がきこえる。

 

 「そうだ、君の言うとおりだ。だから敢えてボクは不利な状況を選択した。なぜ? 簡単だよ、さっき捨てた腕を再利用したんだ! 自立した腕、最高だろ?」

 

 ――先程切り捨てた腕は、未だジョーの神経と接続されており、百鬼丸の死角から拳をいれたのだ!

 

 すぐにその腕を腹部から引き剥がして空中で切り刻む百鬼丸。

 

 「なるほどな、おれもまだまだ……かな」

 

 足元がふらつき、床へ倒れそうになる。脱水症状に、出血多量、内臓破裂寸前……数えればキリがない怪我を背負いながら、それでも尚、気力だけでこの場に立つ百鬼丸。

 

 それは己が化物だからか? 

 

 自問する百鬼丸。

 

 いいや、違う。

 

 己はたった一個のちっぽけな漢に過ぎない。けれども、漢を漢たらしめるのは、そのたった一個のちっぽけな自尊心(プライド)なのだ。これだけで十分なのだ。

 

 

 情けなくともよい、意地汚くともよい、他者に笑いものにされてもよい、だが己が守ると誓った事柄に反することは絶対に許されない! そんなことをしてまで己の生命を全うするつもりは毛頭ない! バカだと笑いたくば嗤えばよい! 愚か者と誹りたければ誹るがよい! ただ、己が信念を突き通すことをせず、一体なにが漢だろうか! 

 

 死地に活路あり

 

 百鬼丸は、わずかな逡巡から醒めた。そして悟った。まだ終わっていない。気力、気魄、魂魄、こいつらを燃料に己をすべて燃やし尽くせ、と。

 

 

 体躯が命ずるのだ!

 

 この偽物の混ざった体が、「生きろ」と命ずるのだ!

 

 (――ありがとう、とおさん)

 

 どん底でも感ぜる温かな〝偽り〟の肉体。

 

 百鬼丸は頬に微かに笑みを浮かべる。

 

 

遺伝子(ミーム)の流れが血管の中で暴走して迸る。……

 

 御刀を杖に再び膝を励まし、屈した姿勢を立て直す。

 

 「おれの体を返せ、ゴミ野郎!!」

 百鬼丸が吼える。

 全身、細胞の隅々まで余すことなく咆哮した。

 まるで燃えるように、強く激しく――

 命の輝きにすら思われるほど、百鬼丸の体躯から霊魂の妖気に満ちた青白いオーラが放出されていた。

 

 「……ったく、よ。おいおい、おれを最後まで怒らせてくれたな、この野郎」

 瞳孔がしかと敵を捉える。

 

 

 ジョーは眼前の現実に否定の首を振る。

 こんな状態で動けるはずがない、しゃべれる筈がない、意識なぞとうにあろう筈がない! 全部計算していたことと違う! こんな奴、いままでみたことがなかった!

 

 

 「ハハハハ、素晴らしいよ君は!」

 ジョーが喜びに打ち震える。

 腕で口端の血筋を拭い、百鬼丸は目を眇めて軽く笑う。

 二本の刀腕を構え、深呼吸をする。

 「があああああああははははっは」ジョーが呻く。

 腕が増えた。

 金剛力士像に似た、筋骨隆々の体に十二本の腕が拳を構え、打ち出す準備をしている。と、地面をなんとなくジョーは眺めた。

 

 その辺に落ちていた黒槍を手に取り、百鬼丸に全ての穂先や切先を向ける。

 「恐ろしいか?」

 「――いいや。全然。ぶっ殺してやりてぇな」

 「あははははっは」

 「あはははっははは」

 二人は睨み合いながら、最後の全力を振り絞る。

 

 

 《迅移》――と、云えばいいのだろうか?

 しかし、その速度は速くもあり、同時に遅くもあった。要するに時間の感覚が溶けてしまったのだ。

 百鬼丸は《無銘刀》で合計十二本の攻撃を俊敏に捌く。

 しかも、冷静かつ正確に。

 数合の打ち合い。剣戟の衝突音。止まぬ金属から生ずる火花。

 

 人間業とは思えぬ。――否、最早現在の百鬼丸は修羅である。

 

 人の道を捨て修羅と成り果て、かつ、人の業を背負うたのだ! 

 「君は最高だ、最高だ……ああ、君に殺さるならどんな手だって使おう! 全力でこい!!」

 ジョーがいう。

 

 

 「うるせぇ、ゴミ野郎」

 百鬼丸が怒鳴る。

 天稟の才能、というなら可奈美や結芽がそれに相応しい。

 

 ……そう、おれは「人」ですらないのだ。この肉体の誕生からおれは人あらざる者だった。社会から疎まれた。蔑まれた。様々な屈辱をうけた。

 だが尚、それでも尚、守りたい者たちが増えた。

 「厄介だな、感情って奴はよォ!」

 胸が高まる。現在のおれには守るべき連中がいる。それがどれほど土壇場で力をかしてくれているか分からない。

 

 

 

ただ一瞬――この一瞬だけ、おれに力をくれれば誰だっていい――おれに……おれに力をよこせッ!!!!

 

 百鬼丸は血濡れの視界を無視しながら、抜刀の要領で左腕を撃ち抜く。

「はぁ……はぁ……」

 肉を打つ質量をもった重い響きが、空間に木霊する。肉踊り血液が乱舞する。

 ジョーの丁度胸の中心部を捉えて刃は貫通していた。

 

 

 

 

この世界はいつだって残酷だ……

 おれが大事にしたいものから、おれ自身で傷つけて失ってゆく

 どんなに泣き叫んで喚いても、二度と戻ることはないと知っているのに

 

 ―でも、それでも

 

 帰らないものを待つのはおれには合わないみたいだ。

 

 

「最期だ、ジョー」

 

 因縁の相手に放つ言葉の呆気なさに、百鬼丸は我ながら驚いた。怨念のこもった一言でも言うべきなのだろうが、それすら思いつかない。――ただ、倒した。

 

 その事実が、左腕の切っ先を通してわかる。

 

 ふと、分厚い胸板から瞳を動かし、ジョーの表情をみやる。

 

 「ああ、最高だ……いままで味わったことのない歓喜と、静かな気持ちで満たされているのだ……百鬼丸くん、やはりボクに死を与えてくれる、最高のメシアだ……」

 

 穏やかな顔だった。あれほど憎んでいた男が、今、穏やかな顔つきで微笑しているのだ。大量の人間を殺しながら、ジョーという男はまるで無垢な子供のように静かだった。

 

 

 ◇

 

銀糸に似た霧雨が、百鬼丸の鼻筋から頬に垂れ流れる。

 掲げた右腕は血にまみれ、握り締められた拳は強く固く天を衝いていた。

 

 おれは勝った……勝ったんだ!

 

 眼下に倒れ伏すジョーの巨躯を一瞥する。

 「お前の青ノロをよこせッ!」

 

 百鬼丸は気力を振り絞り怒鳴る。

 胸の中心に穴の空いたジョーは口から血を噴きながら、笑う。

 「いいだろうボクは複数の知性体を備えているからね……しかし、また君は肉体と寿命を差し出すがいいのかい?」

 

 ああ、と重く頷いた。

 

 「――また君の、その肉体が対価になる」

 

 「だからなんだ。はやくよこせ。おれの肉体を奪った奴から奪い返すだけだ! おれの体をどう使うかはおれが決める!」

 

 

 「……ふふっ、そうか。……いいかい、他の知性体はもう全国津々浦々に逃げてしまった。君は彼らを含めた連中を討伐しなきゃいけなんだ。十二使徒、とも呼ぶべきボクの忠実な輩を、ね」

 

 

 「だったら、地獄の底まで追いかけてやるよ」

 

 百鬼丸は仰向けに倒れたジョーの真上から見下ろし、敢然と言い放つ。

 

 

 よろしい、それがジョーの最期の言葉だった。

 

 彼の計画である「聖地化」とは、未完成による完成というものだった。荒魂が自治権を獲得しようとして、敗北した。その事実さえあればよかったのだ。争いの火種はいつも人の成し遂げるという意思による行動力により実現されるのだから。

 想像力の余白を残すことは、「完全な完成品」であっても「未完成による完成」に劣るのだから……

 

 ◇

 

 既に生気の失せた青白い肌は蝋人形のようだった。……双葉は虫の息である。

 彼女もまた、人工の雨に濡れながら、今、あの世へと向かおうとしていた。

 

 (あぁ……わたし、死んじゃうんだな……もっと、にいさんと話たかったかも……)

 

 重く瞼が下がろうとしていた……

 

 

 ―――誰かが、双葉の近くにかがみ込んだ。

 

 「双葉、もう一回、兄妹をやり直したいんだ、おれ。今度はキチンとしたやり方で、な。五年前の青ノロが切れる頃だったみたいだから、タイミングは最高だな。――できれば、お前は普通に生きて、普通に暮らして欲しいんだ。双葉」

 百鬼丸は優しい声音で、いう。

 

 彼の手元には、自らの肉体を奪った《荒魂》である知性体の穢を切り払った青ノロの詰まった注射器を持っていた。

 

 ――対価は君の肉体と寿命

 

 ジョーはそういった。

 

 そんなこと全然恐ろしいとも思わない。だけど、可奈美たちや双葉たちと共に過ごす時間に短い限りとなる。それだけが心残りだった。

 

 「またな、いまはおやすみだ……双葉」

 

 

 百鬼丸は双葉の首筋に注射器を打った。

 

 ◇

 

 午後七時四十六分――

 

 現場指揮、大関のもとに一報がもたらされた。

 

 彼は肉厚の下顎を持ち上げ、

 

 「分かった、これより最終段階の制圧に向かう。テロリスト首魁、レイリー・ブラッド・ジョーは死んだ! 」

 

 STT隊員と刀使の無線に繋がっていた。

 

 総勢五四〇〇人のSTT隊員たちと刀使は一斉に制圧行動に移った。その五分後、今度は荒魂を引き寄せ続けた区画から、その存在の消滅を示す情報がスベクトラムファインダーに表示された。

 

 美炎たち調査隊の面々は〝スルガ〟討伐に成功したのだ。

 

 長い一日は集結した……かにみえた。

 

 だが、今一方では別の事件が進行していた。

 

 可奈美たち六人による、折神家への襲撃である。

 

 ◇

 

 マスコミは前代未聞の大量虐殺事件を報道するために周辺に群がっていたが、別の情報――つまり、折神朱音が横須賀港にて出頭すると言うのであった。

 

 これには青天の霹靂であった。

 

 マスコミは今回の虐殺事件で報道規制が厳しくなることを知っていたため、大衆の関心事の一つ……御前試合にて折神家当主を襲った刀使を匿った元凶である朱音をさらし者にする算段であった。

 

 

 半分の報道陣がすぐに、横須賀港へと向かった。

 

 しかし、正直な話をすればこんな鼻酸極まる現場なぞだれも報道したくない、否、現状伝えられる情報がない以上、朱音の出頭というスクープでごまかすつもりだったのだ。

 

 

 「まったく、奴らが気の移ろい安い連中でよかったよ」

 大関は苦笑いしながら、机を挟んだ相手……木寅ミルヤにいう。

 

 彼女は目を細めながら、

 「ええ、ですがはやく事件の収束をしなければ」

 

 言いながら、痛む脾腹を抑える。ミルヤ自身、「スルガ」との一戦で怪我をしたのだ。調査隊の他の面々も同じだ。しかし、高い指揮能力を有するミルヤが、双葉の欠けた現在刀使の指揮を執っているのだ。

 

 「本当は怪我をしている君の助けを借りるつもりはなかったんだが……」大関が口ごもる。

 

 ふっ、と柔らかな笑みを零すミルヤ。

 「いいえ、この人数の刀使に指示を与えられる機会も稀ですので、一度経験してみたいと思っていました」

 

 「そうか……いいや、本当に助かる」

 

 と、野営本部で軽口の応酬がいくつかあった後。

 

 不意に、その入口に駆け込む人影があった。

 

 「どうした?」

 

 救護班の腕章をしたSTTの隊員が慌てて野営本部にきたのだ。その彼は、息をつまらせながら、

 

 「大関指揮官、先行して突入したD班、田村明が生存していました!」

 

 そう伝えた。

 

 「まさか! 全員もう助からないと思っていたのだが…そうか」

 

 「――それから」

 

 言葉を遮られた大関は、しかしこの若い隊員を窘めず、先を促す。

 

 「それから、刀使の指揮中行方不明となった親衛隊橋本双葉、生存確認。現在、医療班が保護しています……そして……」

 

 野営本部の出入り口付近に立つ救護班の若い隊員を押しのける血まみれの腕が現れた。

 

 「あとは……はぁ……はぁ……おれが説明する、サンキュー」

 

 そう言いつけて、隊員を追い返す不敵な声。

 

傲慢そのものと言い添えてもいいかも知れない。

 

 「その声……まさか、百鬼丸さん!?」

 ミルヤは痛みを忘れて、座っていたパイプ椅子から飛び上がった。

 

 正体を暴かれた相手は、「へへっ、さっすがー」と軽い態度で応じる。

 

 「……はぁ、……はぁ……悪いんだけど、お願いがあんだわ」百鬼丸が苦しそうに出入り口から姿を現した。

 

 全身血まみれで、赤黒く皮膚が破れて変色している。顔は最初にみた時より倍ちかく腫れ上がって、鼻など皮膚を貫通して骨が見えている。――否、よくみると骨が露出しているところなんていくらでも散見された。

 

 「ば、ばかですか貴方は!! はやく治療を受けないと……!!」

 

 ミルヤは机を叩き、無惨な様子に注意を促す。今まで様々な闘いで怪我をみてきたつもりだったが、これほど酷い状況 (しかも意識があって歩いている)なんて生まれて初めてだ!

 

 それでも、当の本人は他者の心配を意にも介さず、言葉を続ける。

 

 「――おれを、折神家の屋敷に連れてってくれ」

 

 百鬼丸の話の意味を理解できなかった。

 

 大関とミルヤは顔を見合わせる。

 

 「君、百鬼丸くんかい? バカなことはやめてはやく治療を……」

 

 「バカじゃねぇ!! おれを……連れていけって言ってんだ、ボケ!!」

 

 どこまでも真剣な百鬼丸。だれの言葉にも耳を貸すつもりはないらしい。

 

 本当は彼を止めなければいけない筈なのだ。本当は、彼をはや本格的な治療を施すことが最重要な課題である筈だ。

 

 ……でも。

 

 この少年の意思は硬い。純粋で、みている方が痛々しいくらいにまっすぐなんだ。

 

 きっと、自分はどうかしたのだろう。ミルヤは自嘲気味に鼻を鳴らす。

 

 「……分かりました」

 

 「ちょっ、本気かい! 木寅ミルヤくん!」大関は慌てた。

 

 「ええ、本気です……ただし、百鬼丸さん。ひとつ約束して下さい」

 

 俯いた百鬼丸は「あ?」と顎をあげる。

 

 

 「絶対に生きて皆のもとまで帰ってきて下さいね。――それが約束できるなら、今からドクターヘリを準備します」

 

 ミルヤはメガネを中指で持ち上げ、爽やかな諦めの表示を浮かべた。……この少年の望みを叶えてやりたくなったのだ。

 

 

 

 

 ◇

 

 可奈美たちが折神家襲撃する三時間前。

 

 ステインは仰臥していた。

 

 百鬼丸に敗れた後双葉と明も去り、ひとりになった……。

 

 

 彼は仰向けになり、夜雨の去ったあとの澄んだ星空を眺めていた。

 ステンドグラスの裂け目から、雨の残りが滴り落ちる。

 

 (負けた、か)

 

 これほどまでに、渇望していた殺し合いにすら今は興味が失せている。

 

 俺の生きる理由は偽物のヒーローを殺すことだった。

 あの百鬼丸という少年は英雄である。間違いがない。だが、現在はもう脱力感が満ちてこれから、どうするかなんて考えられなかった。

 本物に倒されて、満足した……

 

 〝満足〟

 

 本当にそうだろうか?

 

 俺はまだ、こうして生きているではないか? 俺が望んでいたのはあくまで「殺されること」だ。

 

 だのに、生きている……否、生かされたのだ!

 

 敵に温情を施されたのだ!

 

 それは堪らなく、悔しい。屈辱だ。

 

 「もう一度、だ」

 

 ――未だ、執着の炎の残滓が三白眼の奥で燻りをみせている。

 

 その時だった。

 

 こと、こと、こと……靴音が近寄ってきた。

 

 「アア? 誰だ?」

 この状況で襲われれば、死ぬしかない。覚悟はしている。

 

 夜闇から、

 「……皐月夜見。親衛隊の三席です」

 表情の無い少女が呟いた。

 

 「俺に何の用だ?」

 

 沈黙。

 

 闇の中、不気味なほど気配を感じない。ステインは胡乱な目で声の方向へ意識を投げた。

 永遠にも等しい沈黙のあと、

 「貴方の力が必要です」 夜見はいう。

 

 「俺の力? ハッ、ご覧の有様でか?」

 「ええ」

 (コイツ、馬鹿じゃねぇのか)

 ステインは揶揄ってやろうと思った。

 

 

 「俺は悪だッ! どんな奴でも俺が気に入らなければ粛清対象だ! 殺し尽くしてやる!」

 「ええ」

 「お前もだ! 俺は、この世界にとっての毒だ! 化物だ! 世界から拒絶された獣だ!」

 「――ええ、でしょうね」

 「そんな俺を受け入れるのか?」

 

 闇から浮かび上がった少女――皐月夜見の赤銅色の瞳が地面に転がるステインを見下げる。

 「構いません。私はとうに人間には戻れなくなったのですから……貴方が望めばどんな代償も払いましょう」

 ――思わず、

 「正気か、お前」

 そう聞かずにはいれなかった。

 「正気です……それに」

 と、言葉を一旦区切る。

 口元が妖しく歪み、

 「それに私は、もう、とうに〝毒〟を受けいれていますので。〝あの方〟の今後の計画に貴方の力が必要です。それでは不服ですか?」

 

 迷いのない声音でステインを翻弄する夜見。

 「へっ」――と口を歪めてステインは睨む。「だったら、お前は一体俺になにを差し出す? アア?」

 

 そうですね、と呟きながら親衛隊の制服上着のボタンを胸元から一つ、二つ、外す。シャツから豊かな胸部だと思われる女性的丸味が露出された。

 

 「私はあの方のためなら、この身も魂も、すべて貴方に――すべて捧げます。それでは不服でしょうか?」

 

 彼女の、どこにも嘘偽りを感じ取ることができなかった。ステインはこの、狂った少女を見上げた。

 

 「お前は正気じゃない」

 

 「ええ」

 

 星空から月光が一筋、床面に射し込む。

 

 白い頭髪の毛先はすこしだけ黒い。表情筋の衰えた顔。

 

 しかし、このどん底の中で見上げる少女はひどく美しくみえた。

 

 (これも余興か……死に場所を失った俺の……)

 

 長い舌を伸ばして、

 

 「いいか、覚えておけ! 俺はステインッ! ヒーロー殺しのステインだッッ! 」

 

 血走った目で夜見を捉える。

 

 「――ええ」

 

 契約は成立した。

 

 夜見は携帯端末で何かを囁いた後、すぐに折神家屋敷に戻るように靴の踵を返した。

 

 

 ◇

 

 無意識の淵から目覚めた双葉は、じんわりと重い肉体の感覺に縛られている気がした。虚ろな目で、隣をみると、簡易ベッドの上で同じく呼吸器をつけた男……確か、ステインの近くで腕を切断された男性だ。その彼も、生きている。

 

 (なんで……わたし生きてるんだろう……)

 

 力の抜けた手で、半月状に喰い破られた腹部を触ってみる。とくに、怪我は……ない。ただ、今は右目に包帯を巻かれて、視界が判然としない。

 

 「おにーちゃん……」

 

 双葉は薄れゆく意識をなんとか繋ぎ留めながら、義兄百鬼丸を探した。けれども、周囲は大勢の怪我をした人々で溢れており、どこにもその姿を認めることはできない。御刀で傷つけられた左肩は痛みがない。――しかし、その肝心の御刀が無い。

 

 (そっか、おにーちゃん。まだ戦うんだね)

 

 百鬼丸は未だ、誰かの為に刃を振るうのだろう。それは嬉しくもあり、すこしだけ寂しくもあった。

 

 ――命を救ってくれた兄は、間違いなく双葉のヒーローだった。

 

 (かっこつけすぎ……)

 

 苦笑いともつかない態度で小さく鼻を鳴らす。

 

 どこまでもお人好しで、それでいて誰よりも優しい彼に、今度会ったら文句でも言ってやろう。そして、絶対にお礼を言うんだ。

 

 ありがとう、おにーちゃん。

 

 

 ってね。

 

 逡巡しながら、双葉は深い眠りについた。

 

 

 ◇

 ドクターヘリの中では、百鬼丸に簡易的な治療が施されていた。

 「はっきり言いますけど、百鬼丸さん。貴方はいつ死んでもおかしくない状況だって、理解してますよね?」

 救護をする男性が、ローター音にまけない大声で怒鳴る。

 

 百鬼丸は横になりながら、顔を背ける。

 

 まったく、と言いながら男は手際よく百鬼丸の怪我を塞ぎ止血した。

 

 彼の右手には御刀(小豆長光)が握られていた。

 

 (双葉、すまん。すこし借りる)

 

 「折神家までどれくらい時間が?」百鬼丸が訊ねる。

 

 「あと一時間二〇分。それまでおとなしくしていて下さいよ」

 

 ――はいはい。百鬼丸は素直にその命令に従うことにして瞼を閉じた。

 

 ヘリは夜雲を突き抜けて、折神家へと赴いていた。

 

 すべての始まりの地であり、すべての可能性の交差地点であり、そして終わりの地である場所に。

 

 

 ◇

 可奈美たちが折神家に突入する、一〇分前。

 世間は、折神朱音の告発に再びの衝撃を受けていた。

 

 奇しくも同日、大規模殺人テロが実行されたばかりである。当初、朱音たちが今回の大規模テロに関与しているのでは……世間ではそう騒がれていた。

 

 「くそッ、くそッ、忌々しい……折神朱音!! 紫様に楯突くとは……!」

 親指を噛みながら、鎌府学長高津雪那は憎悪した。

 

 屋敷の待合室。本来であれば、政治家などの偉い立場の人間が利用するのだが、雪那はそんなことには頓着せず利用している。

 

 折角、ここまで計画が円滑に進んでいたのにジョーと名乗る狂人が情勢を狂わせた。しかもそのせいで鎌府の刀使が、朱音の捕縛に使えず、雪那自身も折神家屋敷から動けずにいた。

 

 「あの出来損ないは一体なにをしているんだ……!」

 

 毒々しいまでの紅をした唇を釣り上げた。

 

 コンコン、と重い扉を叩いたあと入室したのは、どこかへ姿を消していた夜見だった。

 

 「こんな大事なときにキサマは一体なにをしていたんだ!」

 大股の足取りで扉の夜見に寄ると、打擲を浴びせた。

 

 赤く染まった頬で夜見は静かに「申し訳ございません」と謝る。

 

 「いいか、お前は出来損ないの無能なんだ、せめて私の言うことを聞いて動けばいいの! ……イヤミのひとつでも言えばどう?」

 

 「……。」

 

 「チッ、薄気味悪い……まぁ、いいわ。お前みたいなのでも手駒として利用する。そして……あぁ、沙耶香。あなたを迎えに行くからね」

 

 まるで母親のように自愛に満ちた口調で、雪那は待合室の窓に視線を流す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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47話

あとで、文章を追加するかもです……。


 ――なんでいまなの……なんで……。

 

 燕結芽は頭の中に巡り続ける焦りが渦巻いていた。身体の熱が次第に時間に奪われてゆくように酷く、凍えるように寒かった。

 

 「……はぁ、……はぁ」

 間隔の短い呼気に、苦い鉄の味が混ざっている。傷だらけの木床に点々と血滴をこぼしていった。

 

 死期が近いことは、なんとなく分かっていた。だから今日が「その日」だったとしても、決して驚くことはないと思っていた。……

 

 千鳥のおねーさんと初めて御前試合で刃を交えたとき、本気で私を楽しませてくれる人なんだと思った。何となく味気なかった世界にも、まだ意味があるんだと楽しくなった。

 

 そのあとに出会った百鬼丸おにーさんは、すごく面白くて、闘うたびに全然違う魅力がみえて胸が高鳴った。

 

 「百鬼丸おにーさん……ゴホッ、か……」

 私は朦朧とする視界を限界まで開きながら、一歩一歩を踏み出す。

 

 さっきまで、二人の長船刀使に足止めされてた。すごく悔しかった。千鳥のおねーさんとせっかく勝負をつけれる所だったのに、邪魔をしたから本当に許せなかった……でも、あの二人の信頼しあった絆のコンビネーションが、本当は凄く羨ましかった。

 誰かを信頼して、信頼される関係性が……私にはなかったから。

 

 じわっ、と目端に滲む涙を拭いながら私は《ニッカリ青江》を抱きしめる。

 私は「天才」で、みんなから褒められる。

 そう、親衛隊でも一番強いのが私……燕結芽。

 

 その筈なのに、いまはとっても寂しい。寂しくて、寂しくて、寒い。引き攣るような呼吸が口から漏れる。

 

 「行かないと……」

 千鳥のおねーさんはきっと、紫様のところにいった。だから追いかけないと……

 

 私はふと、羽織っていた本革の上着を握り締める。

 

 あの、舞草殲滅作戦の翌日。

 

『また、闘おう――と、あなたを運んできた少年がそう言っていました』

 

 目覚めたとき、夜見おねーさんがそう言いながら、私にこの上着を渡してくれた。間違いない、百鬼丸おにーさんのものだ。夜見おねーさんがいうには、眠っていた私が握り締めて離さなかったらしい。

 

 あのとき、浅い眠りから感じた熱い大きな背中は、百鬼丸おにーさんのものだったんだ。

 

 私の胸の奥がじわっ、と温かなものが満ちる気がした。これまでの人生で味わったことのなかった、甘い痛み。

 

 (百鬼丸おにーさん……また会いたいなぁ)

 ボロボロの上着に頬擦りをする。たったそれだけのことで、私の寒さが少しだけ和らいだ気がした。

 

 「うっぐ……うっ……」

 喉の奥から悲嘆のような嗚咽が洩れた。

 

 真希おねーさんと寿々花おねーさんも一緒に、苺大福猫のグッズを買いに行きたい。夜見おねーさんにもプレゼントしよう。紫様は……似合うかな。

 

 千鳥のおねーさんとも、もっと戦いたい。

 

 次々と思い出が溢れて、それらに触れる度に幸せな気分と同時に辛くて、胸が張り裂けそうになる。

 

 ……だって、もうそこの風景に「私」がいないんだもん。

 

 体は無意識に、社殿奥に向かう。

 長い屏風の廊下を渡り、木の渡り廊下を出る。震えて言うことを聞かない足を必死に、一心不乱に進ませる。

 気付くと、社殿奥に通じる大きな木のある中庭にきていた。

 (あと……もうちょっと……)

 

 「うぅ……ぐっ……」

 肺に突き刺さる激痛。苦い、苦い、苦い。

 

 木の手すりに、体を預けながら歩いていく。

 

 ――でも、もう限界だった。

 

 私は木の根元で自分の足元が見えなくなった。足の感覚が急になくなって、地面が突然消えたみたいに膝から崩れた。

 

 

 「‘あ‘あぁっ、ゲホッ……ゲホッ……ぐっ、……」

 

 血塊が、一気に口から溢れて止まらない。鳩尾の辺りが締め付けられるみたいに、息ができない。

 

 「はぁ……はっ……はっ……」口を大きく開いて何度も息をしようともがくのに、なおさら苦しくなっていく。

 

 「――もう、おしまい……か」

 

 目をあげると、社殿に繋がる門が月夜に照らされながらみえる。

 

 「まだ全然足りないのに……もっとすごい私を皆に焼き付けたいのに……」

 

 熱いナニカが頬を両の頬を伝う。視界がじわりとした。

 

 「なんにもいらないから、覚えてくれれば……それでいいんだよ……」

 

 私はいろんな人の顔を思い浮かべて……笑う。悔いがないわけじゃないけど、もうここで休むのも悪くない――そう思った。

 

 御刀から手が離れ、地面に落ちる、直後――。

 

 『バカかお前、なんで自分で自分の生命(いのち)を諦めるんだ』

 ぴこん、と私のおでこを弾く指があった。

 

 (えっ……?)

 

 なんで、そんなまさか。

 

 霞む視界に精一杯焦点を絞ると、ボヤけた向こう側に懐かしい姿があった。

 

 知っている仕草、声。乱暴だけど、本当は誰よりも優しくて温かい人。

 

 「わりい、わりぃ、遅くなった」

 そのふざけ切った態度は、普通なら怒られても仕方ない筈なのに、不真面目だって嫌われる筈なのに……

 

 「うぅっ……」

 

 なんで涙が溢れて止まらないんだろう。諦めた筈なのに。

 

 「いまから結芽を助けるからな、待ってろよ」

 その人は、血まみれのボロボロの大きな掌で無理やり私の頭をくしゃくしゃに撫でる。

 

 

 ◇

 

 

 

中国の古書、准南子に曰く。

 

……昔、斉の荘公の乗る大きな車の路上にカマキリが前脚を上げて威嚇して立ち向かった。そのまま引き潰そうとした従者を荘公は止めて、カマキリを回避して車を進ませたという。

弱者が力量を弁えず、強者に立ち向かうこと言い表す故事成語「蟷螂の斧」の語源となる話である。

 

 そう、カマキリは絶対に背後には退かない。

 

 ◇

 鎌倉。

 折神家屋敷――日本の政財界すら操ると言われてきたこの名家に、六つの飛翔体が打ち込まれた。S装備を運搬する為の射出コンテナである。

 

 可奈美たち六人は、二〇年前の「相模湾岸大厄災」の元凶である荒魂を討伐するため、再び折神家の広大な敷地に足を踏み入れた。御前試合の会場であり、すべての始まりの場所に。

 

 

 この屋敷は、私有地でありながらヘリポートを有している。しかも、輸送機まで受け入れる余裕のある基地コンテナ設備が揃っていた。

 

 ドクターヘリの凄まじいローター音と風が混ざりながら、ヘリポートに着陸する。

 

 本来は許可をとるべきなのだろうが、折神家には緊急搬送として着陸すると虚偽の報告を現場指揮の大関が送っていた。

 

 「……ん、なんだもう着いたのか」

 寝起きのような声で、仰臥した百鬼丸は目覚める。体中アチコチ包帯などで止血され、点滴も右腕にチューブで繋がれていた。

 

 上から覗き込むように、

 「いいか、君を本当はここに連れてきたくなかった。本当は今すぐにでも設備の整った病院にいくべきなんだ……」手当を施した男が、諭す。

 手元で点滴を抜きながら、険しい硬い声だった。

 

 彼なりの職業意識があり、この目前のボロ雑巾のような少年にも強い使命感によって説得しているに過ぎない。

 

 だが。

 

 「ああ、ありがとう。んじゃあ、ちょっと行ってきますわ」百鬼丸は意にも介さず、軽く左腕を挙げて立ち上がる。

 先程まで瀕死状態だったとは思えない足取りで、百鬼丸はヘリを降りる。

 

 (なぜだ、有り得ない)

 

 男は思わず、

 「なぜ、君は一体なにをしに……?」

 聞かずにはいられなかった。

 

 この痩身の少年の一体どこにそんな力と、どんな理由によってその体を動かしているのか全く理解できなかったからである。

 

 肩越しに振り返った百鬼丸はただ一言、

 

 「元凶をぶっ飛ばしにいくんだよ」そう告げた。

 

 「あ、ああ……」

 茫然自失という表情でそのまま、歩き去ってゆく少年の背中を見送り続けた。

 

 

 ◇

 屋敷の裏に聳える丸みを帯びた山も、この家の持ち物だという。

 

 折神家祭殿は、この山中深い所にある。その祭殿は当主以外に入ることができない禁足地である。恐らく大量のノロを貯蔵しえる場所は、祭殿以外には無い。

 

 「順当に考えて、ここしかないだろうなぁ……奴がいるのは」

 百鬼丸は左腰のベルトに佩刀をしていた。

 黒い柄巻を握り、顎を摩りながら進み出す。

 

 以前は門の辺りで逃げたので、こうして内部に侵入するのは初めてだった。

 

 

 周りに人影らしいものも、気配も無い。

 

 地面一杯に敷き詰められた玉砂利を踏みながら、足裏に砂利の凹凸具合が感じられる。いやに明るくて、背後の夜空をみると、御門の上に完全な円盤型の青月が空に掛かっていた。僅かにたなびく雲を透けて月光が地上を照らす。

 

 次第に周囲の闇が霽れるように、建物の輪郭や構造物を浮かび上がらせる。

 

 

 (……ん?)

 

 彼の鼻に微かな血の匂いがした。最初こそ、自らの鼻に溜まっている血膿の匂いかとも思われたが、漂ってくるのは微量なノロの混じった香りだった。腫れて半分ほどが塞がれた視界を凝らして、そのノロが嗅がれた方向につきすすんでゆく。

 

 土足で木目の美しく清掃された縁側に上がり込み、匂いのする方へと赴く。

 

 

 社殿に続くであろう、長い廊下に出た。薄い月光が内部まで染み出していた。それに反射した金粉のあしらわれた襖が伸びる廊下を百鬼丸はゆきながら、徐々にノロの混ざった血の匂いが自分以外の者であることを確信した。

 

 ◇

 木柵と木目の粗い渡り廊下に出た。野外から吹く風が、百鬼丸の髪をさらう。

 森閑とした空気感の中、百鬼丸は高まる確信に苦々しく思いながら、歩幅を素早く広げる。軋む床板を無視して百鬼丸は、走る。

 

 膝小僧の亀裂がさらに広がり、苦痛が百鬼丸の舌に満ちる。

 ペッ、と唾を吐き捨てて走った。

 

 廊下を渡り終えると、遠く闇の奥に古い寺社仏閣風の御門がみえた。そこに繋がる中庭の石階段付近に太樹が植わっていた。

 

 

 不意に、右側の木の手摺に視線を投げる。べっとり、血が染み付いて長い尾を引いている。

 

 再び太樹の根元に目を凝らすと、華奢な人影が崩れるのが認められた!

 

 「んのバカ野郎か」

 

 百鬼丸は弾かれるように、駆け出した。弓から放たれる矢のように、がむしゃらに飛んだ。

 

 まだ、生命の感覚がする。

 

 彼女はまだ生きている。

 

 生きているならば、どんな理由があろうと助ける!

 

 そう誓った。

 

 「動け、このポンコツめ!」

 太腿を乱暴に殴りながら、激痛を紛らわせる。何回も玉砂利に足をとられながら、手を伸ばした。

 

 

 太樹が微風にざわめき、やたらにうるさい。木陰に埋もれた燕結芽は、すでに細い息を途切れさせようとしている。

 

 すでに、人の気配すら察知できないまでに衰えているようだ。

 

 『なんにもいらないから、覚えてくれれば……それでいいんだよ……』

 小さな切なる願いの呟きが聞こえた。

 

 百鬼丸は無性に腹がたった。

 

 ……なにが、覚えてくれなくても? だ! なにがそれでいい? だ! 

 お前みたいな、自己中心的で、わがままで、自分勝手な奴を一体誰が忘れるんだ? 十分お前なんか忘れてやるもんか。

 

 百鬼丸は拳を固く握り締めて、腕を伸ばす。

 

 ぴこん、と結芽の額を弾いてやりたくなったのだ。

 

 

 

 ◇

 双葉は仰向けのまま、眩い照明の天井テントに手を伸ばす。

 

 ――ねぇ、おにーちゃん。知ってる? 昔わたしに読んでくれた「幸福の王子様」って絵本。豪華な飾りの王子様の像がね、ツバメと一緒に苦労してる人とか、悲しんでる人に、自分の体の一部の宝石とか、金箔とかを剥がして分け与えちゃうんだよ。結局、全部なくした王子様は捨てられて、ツバメも南に行けなくて死んじゃうんだ。

 

 あのとき、わたしは王子様とツバメが不憫で「かわいそう」って言ったら、優しく頭を撫でてくれた。――それで「たぶん、王子様もツバメも、なにも残らなくても、感謝されなくても、幸せだったはずじゃないかな」っておにーちゃんが微笑んだの。

 

 

 「今なら、何となく言いたい事わかるけど……」

 

 王子様とツバメたちとは違って、今はもう百鬼丸を心配してくれる人がいるんだって事に気が付くべきなんだと思う。それが分からないんだから、大馬鹿者なんだ。

 

 「でもね。どうしても馬鹿にも幸せになって欲しいって思う人がいることも教えないと」

 ぐっ、と双葉は手を握る。

 

 

 ◇

 ……まず、青ノロのストックはない。

 ジョーの時には、奴の腹をさばいて取り出した。でもそれは現在できない。しかし結芽の体内には細胞レベルで結合したノロがいる。

 

 とすれば、話は簡単だ。

 

 おれの体を切り離して、結芽のノロに食わせてやればいい。

 

 「まじか、ションベンちびりそうだけど……」

 ふと、結芽の羽織っている本革の上着に気がついた。

 「ふっ」と笑みが百鬼丸の口元に零れる。

 躊躇っている暇なんてない。

 幸い、ジョーのおかげで右目が戻った。――手っ取り早く切り離せるのはココだ。

 血の気の失せた肌の結芽の頬を撫でて、

 「――んじゃ、ちょっくら頑張るから待ってろよ」

 おれは、自分の指を瞼の裏に突っ込み、思い切り引きずり出す。

 

 「がぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 痛い、痛い、痛い、痛い!

 

 指先に伝うゼラチン質のぬめりが気持ち悪い。眼球の奥に、筋みたいなのがある。こいつを切らないとダメだ……

 

 御刀に手をかける。

 

 ブチッ、と爪で引きちぎる。

 

 全身が裁縫針で突き刺される感じがしていた。

 

 

 ◇

 「……はぁ…………はぁ」

 汗まみれの百鬼丸は、その場にしばらくヘタりこみながら、結芽を左目でみた。

 

 すーっ、すーっ、

 

 と、可愛らしい寝息をたてている。

 

 腕の包帯を無理やり右目の辺りで止血に使いながら、微笑む百鬼丸。

 

 激痛の対価としては、十分だった。誰かの命を救うことができた。その満足感と安堵で、力が無限に出る気がしていた。

 

 「しばらくまた、右目も義眼か……まぁ、あと五年以内になんとか研究が進めば……」

 

 百鬼丸はブツブツと言いながらも、しかし目前の太樹に背中を預けて眠る少女の頭を撫でる。撫子色の髪は柔らかい。

 

 長い睫毛の先に、涙の雫があった。

 

 口元は、柔和な笑みに曲がっていた。

 

 

 百鬼丸は足元に力を入れようとした……と同時だった。

 

 

 「おい、貴様ッ! 結芽になにをしたッ!!」

 凛々しい声が咆哮した。

 

 肩越しに背後を見やると、石階段の半ばに、獅童真希そしてその傍に此花寿々花が佇んでいた。ふたり共に手負いである。

 

 「もしも、結芽に危害を加えるようなら容赦しませんわ」

 

 剣呑な雰囲気で百鬼丸を威嚇する。

 

 馬鹿馬鹿しくて、百鬼丸は前に視線を戻す。そして――

 

 「あのな、おバカさんたち。いいことを教えてやろう。コイツ、結芽は生きてるしおれは危害なんて加えてない。結芽が安眠してんだぞ。ゴチャゴチャうるせえメスゴリラたちだな、おい」

 

 嫌味を吐いた。

 

 「……なに? 結芽は、それじゃぁ結芽は生きているのか?」

 驚愕に塗り固められた顔面で、真希は前傾姿勢になる。

 

 「自分で確かめろよ。嘘だったらここでおれを殺せばいいだろ」

 

 その自信のある態度に気圧されたふたりは、急いで階段を降りて、結芽のもとまで駆けつけた。

 

 「結芽、おい結芽! あぁ……本当だ。生きてる……なんで、どうしてだ……」

 病で血を吐いていた頃とは異なり血色のよい肌。口元の血筋を拭ってやる。

 

 「百鬼丸さん。あなた、一体なにをしましたの?」

 

 信じられない、とでも言いたげな顔つきで寿々花は訊ねる。

 

 「目ん玉を引っこ抜いた。それだけだ」

 

 「んなっ……それだけって」

 そもそも、なぜ目玉を引っこ抜くと結芽の病が……命が救われるのだろう。いいや、仮に何らかの方法があったとして、麻酔もなくおいそれと目玉を引っこ抜く人間がいるだろうか?

 

 「どうして、そこまでして結芽を助けてくれたんだ……」

 真希は自分の短慮を恥じ入り俯きながら、きいた。

 

 

 「――あ? 簡単よ。おれは刀使を守る、って約束したんだ。だからだよ」

 

 一瞬呆気に取られた真希は、ボロボロの傷だらけの百鬼丸に真正面から向き合い、

 

 「敵対する親衛隊でも、かい?」弱々しい皮肉で訊ねる。

 

 百鬼丸は間髪を入れず、

 

 「当たり前だろ。なにへんなこと言ってるんだ」

 当然とも言いたげに応じた。

 

 

 真希は、無意識に首を左右に振る。

 

 「参ったよ。君は本当にすごい。……結芽を助けてくれてありがとう」

 

 「わたくしからもお礼申し上げます」

 親衛隊のふたりは揃って、百鬼丸に感謝を示した。

 

 突然のことに、百鬼丸は戸惑い……面はゆくて首を巡らす。

 

 「お、おう」

 

 顔に熱を帯びるのがわかる。

 

 ◇

 

 真希と寿々花は、可奈美と姫和と闘い負けた。

 

 そして、折神紫のもとまで向かった。

 

 ふたりの口から、これまでの経緯を聴き終えたあと、百鬼丸はあぐらをかいたまま、左腕を引き抜いた。

 

 「んじゃ、ありがとうな情報」

 

 と、ふたりに笑いかけた。

 

 「一応言っておくが、ボクたちは君の敵なんだけどね……」

 真希は言いながら、百鬼丸の爽やかな態度に関心していた。

 

 「まさか、紫様のもとに向かわれるおつもりですの?」

 

 「ああ、そのつもりでここにきた」

 

 「その左腕で刺殺される……おつもりですか?」

 寿々花は身を固くした。

 

 ――だが。

 

 百鬼丸は、あははは、と破顔しながら手首を振って否定した。

 

 「いいや、おれは殺しはしないさ。とにかく可奈美たちを追わないといけないんだ……」

 

 んしょ、と立ち上がり百鬼丸は義手を装着し直して、御門の視点位置に拳を持ってゆく。

 

 「待ってろ、折神紫! いいや、タギツヒメ! 」

 

 百鬼丸は吼える。

 

 

 

 これまでに回収した肉体の部位、およそ十六箇所。消失三。残り、二十九箇所。

 



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第48話 最終回

誤字脱字訂正は随時行います。


  ――折神家祭殿深部。

 地下坑道と化した内部は、山を刳り貫いた巨大なノロの貯蔵庫となっていた。

 

 

 耳遠く剣戟の金属音が聞こえる。濁った意識を回復させる。

 

 御刀《小烏丸》を握り直して正眼に構える。

 

 「くっ……」

 苦い表情で目を眇めながら、姫和は膝を励まして立ち上がる。

 

 最強の刀使、折神紫。

 

 噂に違わず、強い。

 

 視線を下にやると、エレン、薫、舞衣、沙耶香――そして可奈美も地面に転がって気を失っている。

 

 紫は……否、タギツヒメはこちらが何をするのか行動を全て先取りして動いている。しかも髪から異形の腕が生え、細長い瞳孔の開いた赤い眼光が、いくつも姫和を窺っていた。

 

 「どうした? もうおしまいか?」

 冷え切った声音で、そう問いかける紫。

 

 (残りの体力はすこし……か)

 

 何度も破られた《写シ》を精神力で持続させる。

 

 コンクリート床や壁に滴り落ちる無数の鍾乳石の水滴。遠くには石灯籠の灯火が揺らめいている。

 

 (こんな時、アイツだったらなんて言うんだろうな――)

 

 姫和はふと、ある少年の顔を思い浮かべた。

 

 いつも、飄々としながら肝心なところでヘマをやる少年。誰彼構わず、セクハラをやる少年。

 

 たった数日の出会いだったが、姫和にとっては気楽な日々だったのだと気づかされる。

 

 「焼きが回ったのかもな」無意識に、姫和の口元に微笑が浮かぶ。

 

 

 それから、神経を全身に高める。……「秘術」と呼ばれる方法でタギツヒメを宿した紫を封じる他ないだろう。ロファーの靴底を地面に摺りながら、姫和は頬に冷や汗を流す。

 油断すれば、全てが水泡に帰す。

 

 「――母と同じ秘術でも使う気か? 無駄だ……まずはお前のお仲間から始末しよう」

 

 五本の異形の腕が握る刀が、地面に転がる少女たちに向かい刺殺の速度を増した。

 

 「なっ……」

 意表をつかれた姫和は、思わず構えを解いた。

 

 一度に五人の刀使に殺意を伸ばしたのだ!

 

 (くそっ、なぜ体が言うことをきかない!!)

 

 連戦により、姫和の体が限界を訴えていた。咄嗟の行動すら許されない。臍を噛んで、己の弱さを恨んだ。

 

 「やめろ……」

 小さく、か弱い呟きで仲間を殺すための腕を眺めることしかできなかった。

 

 

 目を瞑った。

 

 ――私は使命を果たしにきたのに、一体どうして……

 

 

 ◇

 

 ガギィン、と耳を聾する衝撃音が鼓膜を震わす。

 

 異変に最初に気づいたのは、誰であろう折神紫であった。

 

 「……何者だ!」

 突然の乱入者へ誰何する。

 

 闇の奥、靴音だけが反響する不気味なその漆黒の深部から、ふてぶてしくニヤける少年が姿をみせた。

 

 彼は首をすこし傾けながら、面白げに周囲を見回し、肩を竦める。

 

 「――よォ、タギツヒメ。十四年ぶりか? まぁ、おれに記憶なんてねーけどな。おれが生まれる前からお前を知ってるぞ。おれを体を荒魂どもに喰わせた畜生め」

 

 左目で、鋭く見据える百鬼丸。

 

 「先程の短刀を投げたのはお前か……百鬼丸」

 

 紫の本体に対して、短刀を投げて異形の腕の行動を止めた百鬼丸は、御刀を抜き出しながら、口で左腕の鞘を抜く。

 

 「ああそうだ。悪いがコイツらはおれの大事なお友達なんでね。つーか、なんだよ。最近はお前といいジョーといい、腕を増やすのが最近の流行なのか? だったら忠告してやる。だせーからやめとけ」

 

 明らかにバカにしきった口調で、二刀を構える。

 

 

 紫は、

 「……ほぉ、闘いを挑むか」標的を変えた。

 

 異形の腕たちが百鬼丸を囲むように伸びて上下左右全てで位置の準備を終えた。

 

 「へぇ……こえーな」

 

 余裕を浮かべながら、百鬼丸は欠伸をする。

 

 

 両者の応酬に一時的に蚊帳の外だった姫和は、

 

 「ば、馬鹿者! なぜお前がここにいる! その怪我では無理だ、逃げろ!」

 弾かれたように大声で叫ぶ。

 

 最初は、百鬼丸の登場に図らずも安堵してしまった自分がいた。だが、彼の瀕死の重傷をみて、考えを改めた。

 

 彼だけでも無事でいて欲しい、そう案じていた矢先でこの有様である。

 

 

 「なぁ姫和……助けて欲しいか?」

 

 紫の繰り出そうとしている腕と、紫を交互にみやりながら百鬼丸は気軽な口ぶりで訊ねる。

 

 

 「馬鹿者、馬鹿者! お前は本物の馬鹿者だ! ――なぜ、なぜ来たんだ……」

 声が上ずって、震えはじめていた。

 

 ――本当は嬉しいに決まっている。いつでも、危機の時は助けてくれる百鬼丸。この絶望的な状況を救って欲しいにきまっている。

 

 

 

 しかし、声帯が錆び付いたように、うまく震えない。

 

 静かな嗚咽を漏らしていた。

 

 呼吸を無理やり整える。

 

 手の甲で口元を隠し必死に百鬼丸に悟られまいと誤魔化しながら、

 

 「……ああ」

 素っ気なく答えた。

 

 百鬼丸は満面の笑みを浮かべて大きく肯く。

 

 「……まかせとけ。荒魂退治の専門家、百鬼丸様がコイツを潰してやるよ」

 

 

 

 不愉快に目を細めて軽蔑の眼差しになった紫は、一言「もう終わったか。最期の言葉だぞ」と言い捨てた。

 

 六本の腕が一斉に百鬼丸の全方位を捉え、襲いかかる。

 

 

 現在の紫は、相手の行動を全て可能性の中から選び最適解をはじき出す戦闘マシーンと化していた。いかに強者であろうとも、人知を超えた能力に対応する術などない。

 

 タギツヒメはすくなくとも、そうタカをくくっていた。

 

 「……ばぁ~か」

 

 百鬼丸は口を歪めて嘲る。

 

 呟きのあと、彼は殺到する全ての刀と腕を斬捌いた。まるで、全ての攻撃の軌道を予測していたかのように、百鬼丸は難なく攻撃を防ぎ切った。否、異形の腕を刈り取ったのである。

 

 「なに……」驚愕に見開かれた紫は、有り得ない、とでも言いたげに怒りの形相に変わってゆく。

 

 「なぜだ、なぜだ! お前の行動は全て把握していたはずだ……全ての可能性の中から……」

 

 尚も現実を受け入れられないように憤る。しかも、百鬼丸は異形の腕は《無銘刀》で斬った為に、再生復活はできない。

 

 「ひとつ、いいやいくつかお前に教えてやるよ。アンタは無限の可能性の中から選び取ったんだな。でも、残念だったな。おれも《心眼》で次の行動わかっちまうんだわ」

 

 ……百鬼丸の得意技、相手の心を読み取る心眼により、相手の行動は全て筒抜けだった。

 

 

 「ならばッ!!」

 

 紫は地面を蹴り、百鬼丸へ二刀を振るう。

 

 俊敏を超えた、神速の領域から繰り出される二天一流の剣技には、常人はおろか、この地上のどのような存在でも、避けることは不可能。そう想われる攻めを続けた。

 

 

 ……だが。

 

 百鬼丸には無意味だった。

 

 百鬼丸は全て紫の攻撃を弾き返しながら、軽々と相手の体を吹き飛ばしたあと、腕を即座に交差させ、抜刀術の要領で腰だめに二つの軌跡を描いた。

 

 「ぐっっ!!」

 

 眉間に深い皺を刻んだ紫。

 

 (今の一撃は予測できていた……いいや、むしろ今の一撃しか見えなかった!?)

 

 困惑に囚われた。

 

 有り得ない。この未来視は無限の可能性を演算するはずなのに、眼前の百鬼丸にはたったひとつの行動しか読み取れなかった。

 

 そもそも、他の可能性なんてなかったのだ。

 

 紫の反応が面白いのか百鬼丸は面白げな反応を示しながら、「もうひとつ教えてやんよ。――そのたっぷり蓄えられて育ったおっぱいを自分で揉んでよく理解しろよ」

 

 百鬼丸は右手の御刀お振りかぶり――衝撃を開放する。

 

 最早、彼の攻撃には剣術という崇高な名前はない。ただ異常な膂力に任せて斬撃を叩き込んでいるに過ぎない。

 

 紫の内部のタギツヒメは焦る他なかった。

 

 

 ただ、一介の少年風情に押し込まれ、あまつさえ体を何度も吹き飛ばされているのだ。

 

 隠世の、それも《神》である自身を遥かに凌駕する力。

 

 半ば怯えにも似た眼差しで百鬼丸を睨みつける。その少年が――

 

 

 「最高の作戦ってのはな……その行動が分かっていたとしても避けられない正面突破ってことさ。小細工なんていらねぇ。ただ正面から突破する。分かってても逃げれないから覚悟しろよ」

 

 指をさして挑発した。

 

 

 「ふっ、あははは、いいだろう。今のところは、この脆い器……折神紫を捨て去りたいところだが……確かにお前は強い……だが、これならどうだ?」

 

 《迅移》で地面に倒れる可奈美の細い首筋を掴み宙に持ち上げた。

 

 精神が完全にタギツヒメに支配されていた。現在の紫の肉体を操るタギツヒメは、残忍な嗜虐的に嗤う。

 

 

 「――ッ、てめぇきたねぇぞ!!」

 予想外の対抗策に百鬼丸は釘付けにされた。ヘタに動くと、写シを貼っていない可奈美が死んでしまう……

 憎々しげに顔を歪め、一切の動作を停止させられた百鬼丸。

 

 「か、可奈美!!」

 姫和も同様に反撃の隙を窺っていたらしく、しかしその算段も意味を無くした。

 

 二人を交互に眺めながら悦にいるような声音で、

 「やはり、大したことがないな……そんなにこの娘が大事か? だったら真っ先にコヤツから膾切りにしてやる」

 

 可奈美の体は一〇メートルほど舞い上がり、自由落下速度で下降する。

 

 「終わりだッ!!」

 紫が……否、タギツヒメが叫ぶ。

 

 二閃が打ち出された! 二天一流の無慈悲な、蟻すら逃れる隙もない連撃。現今最強と名高い折神紫の肉体を操る《神》タギツヒメ。速度はまさに神速と言うべきである。

 

 

 ――が。

 

 タギツヒメの繰り出す二撃は虚しく空中を切り裂くだけであった。

 

 「なに……!?」

 

 思わず驚愕の息を呑むタギツヒメ。

 

 落下したはずの可奈美は《写シ》を貼り軽々と剣戟を躱したのである。しかも、その表情は今までみたことのないような底抜けで明るい表情をしていた。

 

 すとん、と地面に軽やかに着地した可奈美は御刀を肩にトントンと叩かせながら、

 

 「久しぶり、紫」

 まるで、久闊を叙するような口ぶりで笑いかける。

 

 

 その表情、動作、全てを百鬼丸には心当たりがあった。

 

 (藤原美奈都……!!)

 可奈美の母、美奈都の姿と重なった。いいや、あの口ぶり態度。粗忽な感じ、どれをとっても美奈都がそのまま憑依しているようにしか見えない。

 

 折神紫を超える最強の刀使、藤原美奈都。

 

 (どういう事だ?)

 

 

 

 タギツヒメは現実を否定するように「有り得ない、有り得ない、藤原美奈都は死んだはずだ。有り得ない有り得ない!!」激昂した。

 

 ふっ、と息を漏らすように微笑む可奈美。

 

 「ありえるよ」

 

 過日の美奈都の面影を投影した可奈美の姿格好は、薄れゆく紫の精神に作用したようで、頻りに頭を抱える素振りを見せ始めた。

 

 「黙れ!」

 

 《迅移》で加速し、可奈美に向かい右、左と斬撃を打ち込む。

 

 「こんな未来、あるはずがない!」

 未来視によってこの場を支配していたタギツヒメ。

 

 しかし。想定外、予想外の人物の登場により状況が一変した。タギツヒメは虚空を切り裂くばかりで可奈美に一撃も喰らわすことができない。

 

 ビュン、と素早い音だけが虚しく巨大な空洞空間に反響するだけだった。

 

 「……じゃあ、いくよ」

 可奈美は――否、美奈都がいう。

 

 御刀《千鳥》が美しく迸る。

 写シを張ったタギツヒメの右腕を一閃、切断する。続いて繰り出された二撃目を弾き返し、一閃……澄んだ音色でも奏でるように千鳥は左腕を落とした。

 

 写シを貼っていたとはいえ、ダメージは相当受けたであろう。事実、タギツヒメは再び写シを貼り直して苦悶している。

 

 

 「くっ」

 タギツヒメは、百鬼丸に切断された異形の腕の残骸を伸ばして〝美奈都〟を捕らえようとした。だがその悪足掻きすら虚しく、〝美奈都〟は地面を蹴って空中を飛び、強烈な剣の軌跡を描き、紡錘形に膨らんだ紅の目玉を切り裂く。

 

 ……ギャアアアアアアア

 

 という悲鳴が聞こえた。

 

 それと同時に、〝美奈都〟は勢いを失わず地面に転がった。

 

 

 紡錘形をした異形の目玉の集合体が暴れ狂いながら、萼に似た形状を保ち――天井に橙色の光源を打ち放った。一筋の、道のような輝きは祭殿である鍾乳壁を突き抜け、天空へと伸びた。

 

 

 同日、夜。

 この日、相模湾岸周辺の空を覆う「ナニカ」が出現した。これを目撃した人の証言によれば、「異様にでかい触手のようなもの」或は「オレンジ色の血管みたいなものが空に伸びていた」など、現実離れした光景を人々の記憶に刻んだ。

 

 のち、これ以上の災禍を東京上空にもたらす前兆とも知らずに……

 

 

 ◇

 

 「可奈美っ!」

 姫和は倒れた可奈美に駆け寄った。

 

 ちらっ、と横目で百鬼丸を窺うと彼はフラフラとして左ひざを抑えていた。しかも右目の包帯には新鮮な血が滲みているではないか。思った以上の重傷を負っている少年に一瞬足を止めようとした。が、その当の少年がアイコンタクトで「来るな」と否定した。

 

 無言で頷き、屈んで安否を確かめながら頬を撫でる。息をしていた。大丈夫、まだ生きている。

 ほっ、と胸をなでおろしながら、すぐにタギツヒメに視線を合わせる。

 

 荒魂の集合体である、その膨らんだ萼形状の目玉たちは、その瞳からノロを流していた。まるで涙のように「ソレ」を溢れさせていたのである。

 

 姫和は緋色の双眸でそれらを窺い、その瞳の奥に「ある決意」を固めた。

 

 立ち上がりながら、構える。

 

 

 柄の末を握りながら左肘を曲げ、右手は鍔に近い部分に添えている。独特な構え――これこそが、「一之太刀」である。

 

 姫和の母――柊篝から受け継いだ刀使としの能力。

 

 この突きにより、隠世へとタギツヒメごと飛ばすのである。無論、姫和自身も二度とこの世界には戻れない。そのことを承知で、使う。

 

 もう一度だけ、百鬼丸をみやる姫和。

 

 「可奈美を頼む」

 

 現状精一杯の言葉と共に、微笑んだ。その微笑みはどこまでも儚げで、生真面目な彼女に似つかわしくない……可憐な表情だった。

 

 「お、おい……」

 大きく肩で息をした百鬼丸は、そのむけられた顔に戸惑うしかなかった。

 

 

 

 姫和は向き直ると、両膝を軽く曲げて体勢を低く左足を摺りながら伸ばす。

 

 タギツヒメは――否、折神紫は二振りの刀を交差させ、悟りきった眼差しで姫和の一撃を待っていた。かつて、二〇年前に果たせなかった使命をこの場で……柊篝の子、姫和によって果たされようとしている。

 

「ふっ」紫の口が綻ぶ。

 ようやく、二〇年耐え続けた苦痛が終わるのだ。《神》を宿して耐える、この拷問のような時間が終わりを告げる。……紫は、薄れる自我の中で安堵を覚えた。

 

 

 

鳥籠から巣立った小鳥たち。

 舞い戻ったとき、すでに雛だった頃の面影は無い。

 「ふっ……」

 思わず口元に笑みがこぼれた。美奈都や篝と全く異なる娘たちの筈なのに、どこ懐かしい佇まいや仕草が紫を一瞬だけ、過去の「あの時」の気持ちにさせた。

 二天一流……

 ふた振りの御刀を握り直して構え、怜悧な目を細める。

 

 

 ……その紫の澄み切った悟りの表情を読み取る姫和は――――「一之太刀」を発動した。

 

 スパークする青い稲妻。一瞬の間に白の光が姫和を包み込み、その跡には稲光のみが流電するのみだった。

 

 

 

 隠世の、暗く細く長いトンネルを突き抜けながら姫和は驀進する。

 

 《小烏丸》が、紫の胴体の中心を捉えて刺し貫いた。

 

 体勢が「く」の字に曲がりながら紫は、速度に驚愕の目を見張る。……あの柊篝に勝るとも劣らない速度。この娘が荒魂を飛ばす。その使命を果たすのだ。

 

 

 「これがっ私の、真の一之太刀だッッッ!!」

 

 

 御前試合でみせた時とは異なる、極限の突き技。

 

 「見事だ」

 素直に賞賛する紫。

 

 あの時。

 彼女たちを逃がして正解だったと思う。こうして成長し、そしてタギツヒメに蝕まれたこの肉体を隠世に送ってくれるのだから……

 

 「このまま、私と隠世の彼方へーーーーーー」

 

 尚も力強く《小烏丸》を押し付け、さらに加速する。姫和と紫はそのまま、暗い隠世のトンネルの奥深くまで、誘われるように速度を上げてゆく。

 

 「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 

 最後の気合を開放するように姫和は咆哮した。一瞬たりとも気を抜けない、精神力で押し切るのだ。その覚悟で叫ぶ。

 

 虹色の光が隠世の闇から煌く。次元の断層の歪みだろう。

 

 二度と、二度とこの世界には戻れない深さにまで今、潜り込もうとしている。

 

 

 自然と姫和の口元が笑みに曲がる。

 

 もう、誰にも会えなくても、現世でのことは忘れないだろう。僅かな時間だったが濃密な時間を過ごせた。この世界を守る為に、いま別れを告げようとしていた。

 

 

 ◇

 

 

 『だめっ、姫和ちゃん!!』

 

 頼れていたはずの可奈美は、《写シ》を貼り、駆け出す。

 

 訳も分からず遮二無二走って姫和を追いかけた。可奈美は腕を伸ばす。その指先は姫和のスカートの端に触れるだけで、決してその速度に追いつくことができない。

 

 (うそ……もう、届かないの……)

 可奈美は、伸ばした指先が決して姫和に届くことがない――そんな現実に絶望しかけた。距離を離される。本当にこの世界から切り取られるように消え失せる姫和の後ろ姿。

 

 (だめっ……)

 

 心で強く念じた。

 

 あと、すこし。

 

 あと、たった少しだけでいい。ほんの少しだけで姫和に届くはずなのに……。

 

 指先が自然と諦めたように曲がりかけた、瞬間。

 

 「届くさ……」

 

 可奈美の指をとる、誰かのゴツゴツとした手。この懐かしい感触を知っている。

 

 「ひ、百鬼丸さん!!」

 

 相手の名を呼ぶ。

 

 「おう」

 

 左目で肯く百鬼丸。彼は血だらけの体を励まして、この隠世に居る。――どうやって? それは分からない。だけど、この人ならどんな無茶な中でもきっと助け出してくれる。可奈美は嬉しくて、「うん」と頷き返す。

 

 

 舞草の里で、剣を合わせて知った百鬼丸の途轍もなく悲しい感情。それすら、跳ね返して人を助けようとしている。

 

 ……どれだけ無茶だったとしても。

 

 ……どれだけ無謀だとしても。

 

  この人、百鬼丸は絶対に「諦める」ということをしないんだ。

 

 (――可奈美、お前はおれを守るって言ってくれたよな)

 

 「可奈美、今度はおれが約束する。お前たちを救う、おれが救う!」

 

 ◇

 姫和は遠ざかる可奈美の気配を一切無視して目前の相手を隠世に送ることだけを頭にさらに加速をし続ける。

 

 五感が溶けてゆく気がした。

 

 実体が乖離して、幽体のみがこの先へと進んでゆく。

 

 「くっ……」

 

 初めて味わう感覚に頭が狂いそうになる。

 

 (もう、終わりか……)

 

 瞼を閉じ、あとはこのまま体が命ずるまま、次元の果までゆけば良い。達観しつつあった。

 

 可奈美たちと共に逃げた時間。ただ、使命に駆られて周囲を見失いそうになった自分を支えてくれた人々。

 

 (これでいい、これでいいんだ……)

 

 なにより、病に伏せりながらも使命に囚われ続けた母の悲願。

 

 いま、それを実現しようとしている――――

 

 むにゅう、むにゅう、と薄い胸部を揉みしだく感触。

 

 (――ん?)

 

  緋色の瞳を開き、視線を下に向ける。

 

  無骨な、太くて包帯に巻かれた右腕が姫和の貧相な乳を鷲掴みにして揉んでいた。

 

 「……んなっ!!」

 唐突の事態に理解が追いつかず、恥ずかしさに顔が真っ赤になる。

 

 視線を腕の主である背後にやった。

 

 「……よォ、妖怪貧乳娘。お前本当に貧乳なのな……あ、んでも女の体って、すっげー柔らかいのな。ま、貧乳といいつつ、意外とあるじゃん」

 

 明らかにバカにしきった様子で揶揄う百鬼丸。

 

 「き、き、貴様っ! こんな時まで……」

 

 ふと、百鬼丸の左腕に抱えられている可奈美と目が合った。

 

 その可奈美は腕を伸ばして微笑む。「一緒に帰ろう」そう言っているみたいだった。

 

 交互に躊躇いの目線を配する姫和。せっかく覚悟したのに、これでは台無しではないか。憤慨しながらも、しかしどこかでこの「救いの手」を待っていたのかもしれない。

 

 「帰ろうぜ。――」

 揉んでいた手を姫和の腰元に移して、一気に引っ張る。隠世のトンネルから体が引き剥がされるみたいに、五感の感覚が回復してゆく。

 

 

 ……ああ、私は帰ることができるんだ。

 

 

 小烏丸が折神紫の体から抜かれ、紅蓮の炎が彼女の背後から放出された。あとは、異世界の狭間のトンネルは徐々に景色を薄めて、白い光に包まれた。

 

 それが、意識を失う寸前の姫和と可奈美のみた光景だった。

 

 ◇

 天空に伸びる三柱のような巨大なうねりは、折神家の所有する山から相模湾岸の夜空を焦がすような青白い輝きを放つ。さらに三つの流星となって空を流れた。

 

 「分御霊」

 

 その瞬間であった。

 

 

 事件の収束が発表されたのは、この日の翌日であった。しかし、相模湾岸で世界の危機を救った、という事実は誰にも知らされることはなかった。

 

 

 

 ◇

 

 燕結芽は、目覚めたとき白いタイル張りの天井をぼんやりと眺めていた。

 

 (あれ……私、生きてる?)

 

 朦朧とした視界の中で、片目から血涙を流しながら頭を撫でてくれた人を朧げに思い出すことはできる。でも、どうしてもその前後を思い出すことができない。

 

 何度か瞬きをしながら、明るい日差しの射し込む窓をみる。

 

 青空がどこまでも広がっていた。

 

 手を伸ばしてみる。

 

 どこまでも、手が伸びてゆく気がした。あのとき、苦し紛れに伸ばした手じゃなくて、今度は本当にどこまでもゆける気がした。

 

 「……私、生きてるんだ」

 

 視線を戻して、そっと呟く。

 

 同じ病室の筈なのに、全然いまは悲しくなんかない。胸の苦しさも無くなっている。それどころか、体の芯から力が溢れるように生命力で漲っているんだ。

 

 「そっか、私……生きてるんだ」

 そんな事実を噛み締めるように、何度も呟いてみる。

 

 

 「はい、生きてますよ。燕さん」

 

 と、不意に結芽はベッドの左隣から投げかけられる返事に頭を動かす。

 

 「あれ? 双葉ちゃん? どうして?」

 

 患者服を身にまとった双葉が、パイプ椅子に座っている。手元では林檎の皮を果物ナイフで器用に剥きながら、微笑みかけている。右目と右脇腹を包帯で巻いているが、それ以外は至って健康そうである。

 

 「……ええっと、燕さんと運ばれた病院が同じで……まぁ、目覚めたのはわたしが早いんですけどね。あっ、だから差し入れの林檎を勝手に剥ちゃいました。えへへ。――あ、でもでも、燕さんの大好きな〝うさぎ〟にしておいたので、食べれるときに食べてくださいね」

 

 あはは、と気まずそうに笑う双葉。それでも彼女は頻りに「よかった」と呟いていた。

 

 

 「――ねぇ、双葉ちゃん。私なんで生きてるのかな」

 

 一瞬呆気に取られたような表情をした双葉は、しかし、少しだけ悲しそうに微笑む。

 

 「多分、おにーちゃん……百鬼丸が、燕さんを助けたんだと思います。なんとなく、ですけど、わたしみたいに燕さんに生きてて欲しくて助けたんだと思います」

 

 戸惑いがちだが、決して迷うことのない信頼した口調。

 

 その様子に、全ての疑問を氷解させる不思議な説得力と共に安心感があった。

 

 「……そっか。百鬼丸おにーさんが助けてくれたんだ」

 

 むかし、誰からも見捨てられて自分の生きる理由や意味を探すため、そして誰かの記憶の中に強烈に強い「私」を刻むために戦ってきた、その行動だって無駄じゃなかった。

 

 結芽は視界がじんわりと滲むのが分かった。

 

 胸の底が温かくて、でもじんわりと熱い。こんな気持ちは初めてだった。誰からも必要とされなくなって、それでも必死でこの残酷な世界に抗い続けて……ようやく、「百鬼丸」に見つけてもらえた気がした。

 

 ガラッ、とスライド式の扉が動く。

 

 病室の扉が開く音が部屋に反響した。

 

 突然のことに双葉は振り返る。

 

 「あ、相楽学長……」

 

 急な訪問者は、綾小路の学長相楽結月であった。ダークグレーのパンツスーツに身を包んだ彼女は、一見して怜悧な印象があり、常に刺々しい雰囲気を漂わせる近寄りがたい人物だ。

 すくなくとも、双葉はそう理解していた。

 

 その結月の手元には見舞いの花束が抱えられていた。

 

 「結芽……本当に……」

 

 彼女は病室の扉際で、口元を震わせながら目を見張り、首を左右に振っている。

 

 この現実の光景を信じがたい、そう葛藤する様子が手に取るように双葉には分かった。だから、

 「相楽学長。燕さん起きてますよ」

 と、告げた。

 

 バサッ、と色とりどりの花束が床面に落ち、花弁を周囲に撒き散らす。

 

 それも構わずヒールを歩ませ、急いで結月は結芽の病床に走った。

 

 痩せ衰えてはいるが、それでも目を開いて、見返してくれる結芽の瞳。それがなにより、結月には嬉しかった。

 

 ――あのとき、ノロを打ち込むことでしか彼女を救うことが出来なかった己の不甲斐なさを恥る。確かに、最初はノロの実験台として身寄りのない彼女を選んだ結月だった。けれども、時間と共に罪悪感が増してゆき、謝りたかった。そしてできることなら、二度と燕結芽という少女を手放したくない、と思った。

 

 だから生きている。それだけで結月には無上の喜びとなっていた。

 

 「ああ、生きててくれたんだな……結芽……本当にありがとう……結芽、すまない……」

悔恨の念を呟きながら、結月は思い切り結芽を抱きしめる。撫子色の長い髪を腕に感じながら、まだ幼い体の彼女が生きている事実に自然と涙を流していた。

 

 「ありがとう生きててくれて……もう、お前を離したくない……」

 

 結芽の首筋に自らの顔を埋めながら、両腕で抱く。こんな事をする資格がないのは重々承知している。それでも彼女――燕結芽をこれから先守りたいと思う気持ちを偽ることができない。

 

 だから、情けない大人のちっぽけな矜持を満たすだけかもしれない。けれども、彼女を助けていきたい。結月は腕に力を込める。

 

 その相楽結月の急な抱擁に頭の整理が追いつかない結芽だったが、誰かが自分の為に泣いてくれている。その事実を、徐々に理解していく。

 

 「そっか……私……本当に生きてるんだ……誰かの記憶の中に私……いれたんだ」

 

 目頭が熱くなる。これも今まで戒めてきた衝動だった。

 

 「燕さん。強いとか弱いとか関係なく、絶対に燕さんのことなんか忘れませんって。だから、これからも思い出をつくるべきですよ」双葉は意地悪く、どこか楽しげに笑いかける。

 「……ひいっぐ……うん……ふたばちゃん……ひっ……ありがとう」

 嗚咽混じりに結芽は微笑みを返す。

 涙と鼻水の混ざった、様にならない面だったけど、その汚れた感じが一番いい顔をしていると、双葉は思った。

 

 義兄の助けた命。

 

 義兄に助けられた命。

 

 ぐっ、と自らの胸元を掴みながら双葉は義兄百鬼丸のいるかもしれない青空を見つめる。この空の下にならば、きっと何処に義兄がいても繋がっていられると思えるから、蒼穹を眺め続けた。

 

 

 

 

 ◇

 

 あの激動の日々から数日が経過していた。未だに世間を賑わせる二つの事件で世間はもちきりだ。警察も他の官庁も大忙しだろう。もちろん、特別祭祀機動隊……通称「刀使」も含めて。

 

 

 〝タギツヒメ〟を討ち果たしたあと、戻ることのできた可奈美と姫和を抱えて百鬼丸は、ノロの貯蔵庫に戻ってこられた。

 

 

 あとは、彼も記憶がない。――というのも、すぐに気絶したからだ。

 

 ステイン、ジョー。そしてタギツヒメ。連戦で疲労がピークに達し、しかも大量失血によりほぼ死にかけていた。幸い、すぐに駆けつけてくれたドクターヘリの救急隊員がいなければ百鬼丸はお陀仏になっていただろう。

 

 

 大規模な手術を施されてはや数日。

 

 驚異的な回復力をみせた百鬼丸は、二日後には完全回復をしていた。これには、執刀医を含め大勢の関係者が彼の自然治癒能力の高さに驚愕せざるをえなかった。

 

 そんな入院生活の折、真庭紗南学長が百鬼丸の病室を訪れて早々、

 

 『この度は、大変助かった。君に……百鬼丸くんに助けられた。ありがとう』

 

 と、感謝をしにきた。

 

 なんでも今度、この真庭学長は刀剣類管理局の重要な役職を得るらしい。

 

 『はぁ……』

 

 『だがすまない。世間はもちろん、他の刀使にも色々な関係で君の存在は明かせない。今回の事件でも関係者には箝口令を敷いて一切の存在を伝えることを許していない。大人の事情なんだが……一番よく働いてくれた君にこんな仕打ちは心苦しい。だが……』

 

 苦い顔で淡々と事務的な話をする紗南を、手で制する百鬼丸。

 

 『いいや、別にいいです。おれは単におれの目的で働いたに過ぎないんですから。それよりも、くたばった刀使はいないですか?』

 

 『ああ、もちろん。今回の事件では誰ひとりいない。君と折神家に突入した六人も元気だ』

 

 ――そうですか、と含羞む百鬼丸の横が眩しくみえた。

 

 『君は本当に無欲なんだな』

 思わず、紗南は呟いた。

 

 キョトン、とした百鬼丸は首を傾げた。

 

 『いいえ、おれは貪欲ですよ。おれが救いたい人間は誰でもみんな救いたいし、誰か苦しいならそれを取り除いてやりたい。そんでもって、おれから体を奪った連中を殲滅する。……どうです? 貪欲でしょう?』

 

 意地の悪い顔でニヤつく。

 

 紗南は肩をすくめて、この優しい少年の頭を軽く小突く。

 

 『……君みたいなやつを屁理屈こきと言うんだ。覚えておけ。ああ、それとあと一つ』

 

 今度は紗南が極悪人のように口を歪めながら百鬼丸に視線を合わせる。

 

 『君が元気に退院しだい、荒魂の討伐を命じる。刀使には任せられない危険なシロモノばかり選り取りみどりだ。嬉しいだろう?』

 

 百鬼丸は呆然とした様子でしばらく固まったあと、

 

 『……あはは、人使いがすごいですね、おばさん』

 

 百鬼丸はから笑いをした。

 

 『あはは、そうか――お前、死にたいらしいな』

 

 紗南は笑顔の仮面を貼り付けたまま、今度は思い切り拳を振りかぶって百鬼丸の頭をぶん殴った。一切の手加減をしなかった。

 

 

 ◇

 

 江ノ島神社。

 かつて、「相模湾岸大厄災」の舞台となった一角。

 

 現在は事件以前のように復元補修され、当時の傷跡は所々にしか散見されない。

 

 早朝、まだ白靄が外気に低徊し肌寒い。朝独特の青味がかった空気を透かしている。遠くで漣の音が聞こえる気がした。

 

 

 

 江ノ島神社の境内の捧安殿、辺津宮を歩きながら「何らか」の痕跡がないか調べていた。

 

 「ここにはなんもない……か」

 百鬼丸は無地の黒いTシャツにジーンズのラフな格好でぶらついていた。

 

 

 あのタギツヒメが「分御霊」を行い三柱に分裂した。

 

 なぜそうなったか、までは理由が分からず仕舞いとなっていたため、手がかりになりそうな江ノ島神社を探索していた。いいや、正確には退院後に人前から消えようとしていたところを紗南に見つかり「お前がどこかに行くのは構わんが、一つだけ調べて欲しい場所がる」と言われて、この神社にきたに過ぎない、というのが本音である。

 

 「ちっ、全然わかんねーぞおい」

 

 長い黒髪を無造作に束ねた頭をポリポリと掻く百鬼丸。

 

 

 

 「ま、わかんねーもんは仕方ないだろうな」

 踵を返して、そのまま歩き出した。

 

 

 朱塗りの鳥居に向かい階段を降りる。ひんやりとした空気が心地よい。欠伸を噛み殺しながら、百鬼丸は靄の中に見える景色を想像しながら、ひとり微かに笑う。

 

 (しばらく、人前には出れないからなぁ……)

 

 何となく騒々しい日々を思い返す。

 

 まぁ、それなりに悪くはなかったと思う。……正直に言えば、楽しかったといえばいいのだろうか。

 

 妙にセンチメンタルな気分の自分に驚きながら、百鬼丸は頭を振って、そんな軟弱な自分を笑ってやる。

 

 

 鳥居を過ぎた頃、『おい!』と呼び止められる声がした。

 

 図らずも、百鬼丸は気配に気がつかなかったことに、自分の注意力の欠如を悟った。

 

 肩越しに階段の上へ視線を投げると、一際小柄なツインテールの影が映った。

 

 「おい、変態カス野郎。黙ってどこかに行くとはいい度胸だな、おい!」

 腕を組んで怒鳴る薫。

 

 「なんだ、お前か……」

 

 

 「ああ、そうだ。あのオバサンに頼んでお前をここで待っていた。悪いか」

 

 「いいや、別に悪くないけどなんで……」

 

 

 

 「それは、まるまるが勝手にワタシたちに黙ってどこかに行くからデ~ス!」

 金髪を涼風に靡かせながら、元気に横槍を入れるエレンが、挙手しながらいう。

 

 「お、おう」

 

 「薫ちゃん、エレンちゃんだけじゃなくて、私たちもいますよ」

 舞衣が、穏やかな声音でそう告げる。

 

 「えっ?」

 

 百鬼丸が首を巡らす。

 「……百鬼丸、こうやって見送られるの嫌いそう。だから黙って待ってた」

 

 沙耶香が淡々と、しかし、眼差しを百鬼丸に固定していた。

 

 「ご明察……」

 どんな表情をしてよいか分からず狼狽する百鬼丸。

 

 気恥ずかしいやら、嬉しいやらで百鬼丸は口を膠で固着されたみたいに動かない。今すぐにでも逃げ出したくなっていた。

 

 頭を前に戻して足を先に伸ばそうとした、その途端――

 

 

 「おい、逃げるなド変態!」

 

 押し止められた。

 

 

 (あー、やっぱり。このご立腹の声は……)

 

 再び、ギギギ、と油の切れたロボットのように首を回す百鬼丸。

 

 

 強い線の眉に緋色の瞳。漆のように艶やかな黒髪ロング。間違いない――

 

 「お久しぶり、妖怪ぺったん娘」

 

 「おい! 誰がぺったん娘だ! 貴様、いつか殺してやると思っていたが、ほぉ……そうか。今がよかったか。それなら今すぐに殺してやるぞ!」

 

 帯刀した御刀《小烏丸》の柄に手をかけた姫和。

 

 「い、いやーすまんすまん。あのときは不可抗力で揉んだ……いいや、触ったけど、まぁ本当にナイチチじゃないからな」

 手を合わせて、拝むようなポーズで謝罪する百鬼丸。

 

 姫和は顔を真っ赤に染めて「こ、この大馬鹿者!」と怒鳴り散らした。

 

 「ま、まぁ、まぁ……姫和ちゃん落ち着いて……」

 苦笑いを浮かべながら、姫和を制する。

 

 琥珀色の瞳。甘栗色の髪。天真爛漫で、人一倍好奇心旺盛で誰より剣術の大好きな少女。

 

 

 「可奈美、あとはそのヒンヌーを任せたぞ!」

 

 ビシッ、と人差し指で命令する百鬼丸。

 

 可奈美は「むっ」とした様子で百鬼丸に向き直り、

 

 「百鬼丸さん!」

 叫ぶ。

 

 「お、おう!」

 

 珍しい態度に困惑しながらも応じた。

 

 「今度はもっと、もーーーーっと、剣術の稽古しようね! 新しい技の実験台になってよ!」

 

 明るく物騒なことをいう可奈美。

 

 「あはは、こいつマジかよ」百鬼丸は改めてこの剣術大好き娘をまじまじと見つめる。

 

 

 化物じみた力故に、孤独を抱える少女。

 

 その真摯な眼差しに、可愛げを感じて思わず了解するように肯く。

 

 「ああ、また今度。いつか出会ったときに稽古つけてくれよ。師匠さま」

 

 百鬼丸は体の方向を変えて、ぐっ、と拳を握り腕を伸ばす。

 

 少女たちの位置に拳を合わせる。

 

 「うん、絶対に約束だよ! 百鬼丸さん!」

 

 可奈美も距離の離れた百鬼丸の位置に拳を突き出す。

 

 「「約束」」

 

 二人の声が揃う。

 

 それからまた、一巡、六人の「刀使」たちに視線を合わせる。

 

 

 肩を竦めて、この物好きな少女たちに背をみせて歩き出した。

 

 

 「じぁあな、変態やろう」

 

 「おう」

 

 「バイバイです、まるまる」

 

 「おう」

 

 「体に気をつけて下さいね」

 

 「おう」

 

 「……さよなら、百鬼丸」

 

 「おう」

 

 「……ふん、貴様など――――まぁ、たまに姿をみせるくらいはしろ」

 

 「おう」

 

 「じゃあね、百鬼丸さん! また剣を合わせようね!」

 

 「おう」

 

 口々に投げかけられる言葉に返事をしながら、百鬼丸は歩みを止めない。振り返らない。今まで固かった気持ちが、喜びに弾んでいた。

 

 

 すーーーーーっ、と百鬼丸は深く息を吸い込む。

 

 「もし、お前らが本当に助けて欲しいときは、おれに言え。必ず、どこにいたって助けに行く! 必ず、助ける。じゃあな、――あばよ」

 親指を立てながら、背中を向ける。

 一度も振り返らずに、百鬼丸は道の果まで歩んでゆく。確かに一歩一歩、進んでゆく。

 二度と大切な人を失わぬようにしっかりと、前だけを見据えながら歩んでゆく。

 

 鴟尾の上を鳶が円を描き飛空している。蒼穹には一片の雲も無い。

 薄かった太陽光は筋を太くしながら地上に降り注ぐ。

 道を歩く。道を歩んでゆく。

 

 

 取り返した肉体十六箇所。喪失三。残り、二十九箇所。――百鬼丸の己の肉体を取り戻す旅は終わらない。

 永遠の旅人に栄光あれ! ささやかだが、確かなる光あれ!

 

                        《了》

 




ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました!

感想やお気に入りして下さった皆様ありがとうございました!

へったくそな文章にも、辛抱強く付き合って下さった皆様、ありがとうございました!

本当に皆様ありがとうございました! 感謝します。

あと、48話以内で収めれてよかった。(小声)



活動報告も、宜しければご覧下さい。


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波瀾編
序章 凶星たち 


   We are like,(僕たちはまるで、)

 

   It's like a rolling stone――(転がる石のようだ――)

 

  Ⅰ

 

 プラハ郊外を白と赤を基調とした路面電車が緩慢な速度で走行する。宵闇から降り続く糠雨により、御影石に似た舗道タイルは更に黒く濡れた。雨の濃い匂いがした。街灯の古びたアークがスパークして、白光を放っている。

 

 ……時間ならまだある。

 

 男は、シックに着こなした黒で統一されたスーツと外套を翻し、橋の手摺の上にコーヒーの空ボトルを置いた。

 容姿の整った男は、しかし、無感情な顔つきでポマードに固めた縮毛気味の毛先を一撫でする。

 (ここは……どこだ?)

 日本に先程まで居たハズだ。こんな欧州の一隅に身を置いた覚えはない。しかも、自身の内部に備わる感覚が告げる。

 

 『この宇宙はお前の居た場所とは異なる』と。

 

 口内に未だ残る珈琲の苦味の後味を感じながら、切れ長の眼で周囲を眺める。

 

 闇に沈んだ石造りの建物。街灯に照る臙脂色の屋根や、連なる教会群の尖塔が闇の中から浮き彫りなっていた。

 

 やはり、違和感がある。国も違えば宇宙から何もかもの感覚が異なるのだ。

 「まだ、オーブとの決着をつけていないというのに……」

 悔いの滲む表情で、口を歪める。

 彼の手には『ダークリング』と称される、不思議な形状の円形の道具が、禍々しく輝いていた。

 

 

 

 ジャグラスジャグラー

 

 それが、彼を唯一知る手がかりである。

 

 かつて、光に属せし者。

 

 ……そして、闇に見出されて堕ちた者の名。

 

 真紅のワイシャツの首元から覘く喉仏が上下に笑って動く。

 

 「あはははは、なんだこれは? 悪夢か?」ジャグラーは、クレナイ=ガイとの対決機会を逸して異世界の狭間――隠世に紛れ込んだ。結果として、異世界へとたどり着いたのである。

 

 

 「まぁいい……この、不完全燃焼の気分を……」

 

 と、言いながらジャグラーは傲慢な口調で言葉を区切る。そして心中で、

 

 ――戯れに世界を滅ぼしてやる

 

 小さく、確かに呟いた。

 

 東の空を見つめながら、

 

 「日本か……」

 

 ポケットに手を入れた。

 

 とりあえずの目的で日本に向かうことに決めたジャグラーは、プラハを満喫するように歩き出す。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 ――同時刻、チリ・サンティアゴ。

 南米の強烈な日差しが僅かに和らいだ時、町の大衆酒場の一角に佇む「異国」の男がいた。東洋の精悍な顔立ちは、まるで鋭い刃物を思わせて、纏う雰囲気すらも常人ならざるモノを有していた。

 

 ……腑破十臓

 

 彼は、ひたすら酒を呑むわけでもなく酒場の片隅に佇み続けていた。

 『お客さん、注文は?』

 バーのマスターが不機嫌に鼻を鳴らしながら訊ねる。

 しかし、異国の言葉を解せない十臓は相手を無視し、物思いに耽る。

 

 (ここは日本ではない?)

 

 間接照明のみの埃っぽく薄暗い店内を一瞥して、検討する。

 

 『おい、クソ野郎聞いてるのか?』

 店主は堪りかねて怒鳴りつけた。

 十臓はようやく目を上げ、「なんだ?」と呟いた。

 

 十臓の不気味なまでの余裕。店主はその雰囲気に圧倒されながらも、辛うじて強気を保ち『おい、いいか? 何も頼まないなら店を出て行け』と荒い語気で言い捨てた。

 

 ようやく相手のいいたい意味を理解した十臓は無言でその場を立ち去ろうとした――。賑やかだった店内は、しん、と静まり不思議な一介の東洋人に対し固唾を飲んで注視する大勢の客たち。

 

 直後。

 

 ゴロッ、と質量のある落下音が床板を叩き転がる。……先程、十臓を怒鳴った店主の首である。首は鮮血を噴水のように噴き上げながら、胴体は膝からドサッと崩れた。

 

 ――首を刎ねた。

 

 そう理解するまでに、さほどの時間は必要ではなかったようだ。店内は、「ギャアアアアアア」という悲鳴を合図に阿鼻叫喚の様相を呈した。

 

 治安の悪いこの町でも、まさか日本刀で首を突然吹き飛ばすような凶行はなかった筈だ。混乱して慄然とする人々。

 

 

 彼はにわかに口元を曲げて、真紅の刀身の『裏正』にこびり付いた血を払い鞘に収める。顔を朱に染め上げ、濃密な鉄分を含んだ香りを堪能する。

 

 シンケンレッド……志葉丈瑠と決着をつけねば

 

 十臓の頬に残忍な笑みが浮かび、日本へと赴くように踵を返して出口に繋がる階段を歩き出した。

 

 

 Ⅱ

 

 同月同日、千年の都……京都。

 刀使を育成する機関、伍箇伝のひとつ綾小路武芸学舎はここにある。

 

 その、綾小路の校舎の深部。祭殿を司る地下では御簾が鎮座していた。

 

「――時が来たか」

 

 童女のように幼い声音に似つかわしくない、酷く冷徹な印象を受ける物言いが、御簾の奥からきた。

 

 一枚隔てた脇に待機していた女性は、

「姫、いかが致しましょうか?」

 すぐさま反応する。

 

 片時も離れず傍にいる彼女――高津雪那は、現在鎌府の学長を事実上追放された形である。

 

 それを煩わしそうに、「慌てるな」と咎めた。

 

 更に続けて、

 

「いや、まだ行動する必要はない。凶星たちの訪れを今は待つ。……ふふっ、楽しみだな、〝百鬼丸〟よ」

 うっとりとしたように、御簾の奥で忍び笑いが漏れる。

 

 折しも、この時期に観測史上でも珍しい流星群が夜空を鮮やかに彩り滑ったという。長い尾を曳く星たちは淡く夜闇に消えゆく。

 

 美しく、それでいてどこか不吉な印象を与える星たち。各国の天文台では、この時の記録が残っている。

 

 曰く、

「天を一瞬だけ焦がすような紅の星である」と。

 

 

 

 『刀使ト修羅』 波瀾編 

 

 

 




今回は試験的なのですが、教えて頂いたキャラは原作のように忠実ではないので、ほぼ外見をマネたナニカです。あとで本文は消すかもしれません。

色々アドバイスしてもらっても、反映できる部分とできない部分あります。予めご了承ください。


また、あとで文章の追加をします。

合わせて、活動報告をご覧いただくと幸いです。


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50話

 深夜、東京湾岸線沿い。

 首都高に接続する橋架の巨大に湾曲した部分には、数十台の警察車輌が停車して真っ赤なサイレンを点滅させていた。

 

 上空には報道ヘリが飛行している。

 

 規制された橋の上、長大な体躯の荒魂が蛇の如く暴れていた。アンカーボルトが激しく軋み、コンクリの土台部分に放埒な亀裂がはしる。

 

 両側に配された無数の外灯が青白い光を放っている。

 

 

 この荒魂の侵入を防ぐべく特別機動隊が橋の両端を封鎖し、障害物で封鎖している。夜闇にババババ、と実弾の発砲音と閃光が連続した。荒魂は裏の腹をみせながら、身悶えするように大きく天へ体を突き出し左右に身を振る。

 

 ……一時的に進行が停止した。

 

不意に夜の凪いだ海から、微風がそよぎ潮の香りを鼻に運ぶ。

 

 (やらなきゃ……今度は失敗できない)

 

 内里歩は、つい4か月前の〝事件〟を思い出していた。

 

 国内最大のショッピングモールで行われた大量虐殺。その死亡者数だけでも一二〇〇人以上を超えるという。しかも、その事件の詳しい内容はあまり報道されず、《鎌倉特別危険廃棄物漏出問題》へと話題が移行していた。

 

そんな世間をよそに、歩だけは違った。

 

 あの現場で、初めて味わった「死」の危機。

 

 そして、危機から救ってくれた〝人〟を彼女は忘れてはいなかった。否、日を追うごとに関心が高まるばかりだった。

 

 巨大な荒魂をいとも簡単に討伐してのけた、少年の後ろ姿に畏怖すら覚える。

 

 ――刀使のわたしにはマネできない

 

 最近ではそう諦めかけることの方が多くなった。

 

 そんな折に、今回の鎌倉出向命令と討伐任務だ。複雑な気分に加えて、荒魂に対するトラウマ克服の気が焦らないわけがない。

 

 『写シ、用意っ!』

 鎌府の隊長刀使が命ずる。

 

 「――ッ」

 歩は以前のようなドジは踏まず、意識を集中させて目前から迫り来る異様な怪物を見据え、冷静に《写シ》を張る。

 

 真っ黒い牙の間から見え隠れする橙色の光と、そこから漏れ溢れる炎。

 

 巨頭が左右に揺れて、徐々に迫り来る。

 

 ゴクリ、と生唾を呑む。

 

 目線を横に流す。一部隊五人で行動する刀使たち。果たして、こんな巨大な相手をわたしたちだけで討ち果たすことが出来るだろうか? 全くそのイメージが湧かない。多分、前の事件の影響なんだろう。そう独り歩は合点する。

 

 無意識の思考を他所に、

 

「よし、斬り込む」

 隊長は震えた声で、八相の構えをとる。

 

 部隊の面々に緊張がはしる。半ば悲愴な雰囲気が漂う。……誰だってそうだ、死にたくなんてない。

 

 (でも、行かなきゃ……)

 恐れを押し殺し、靴先を半歩進ませた――

 

 

 ――と、荒魂の二角のうち一片が斬り落とされた。ドゥン、という物凄い衝撃と共に砂埃が橋の上に舞い上がる。

 

 

(うそ……)

 目を見張って、歩は眼前の現実をただ眺めるしかなかった。

 

 オレンジ色の発光色を放つ四つのスリット。作動するたびに、ウィン、ウィン、と駆動音がする。間違いない、これはストームアーマーの音だ。

 

 歩は握り締めた御刀の柄を僅かに緩めた。

 

 たった二人の華奢な少女たちが、荒魂を前に立っている。

 

 美濃関の制服を身にまとった少女が、チラと振り返り口を釣り上げる。生憎バイザーで表情までは読み取れないが、まるで「安心して」とでも言いたげな様子だった。

 

 もう一人の鎌府の刀使の子は、迅移を利用した速度で、ムカデのような多脚を刈り取っていた。

 

(うそ……この人たちはわたしと同じ刀使?)

 

 二人だけで、見事な連携をして荒魂を翻弄している。まず、一人が囮になりもう一人が斬撃で敵を削る。それを素早く交代して、優勢へともってゆく。

 

〝百鬼丸〟という、規格外の化物じみた強さを誇る少年とは異なる強さ。

 

 言い換えれば、「刀使」としての本来的な強さ――

 

 『沙耶香ちゃん!』

 さきほど、微笑んだ美濃関の子が掛け声をかける。

 

 息を呑む暇もなく、美濃関の制服が十数メートルを軽々と跳ねて荒魂の頸部を一刀のもとに斬り落とすと豪快に迸る火炎を抜けて着地する。

 

(うそ、うそ……なんでこんなことできるの?)

 

 百鬼丸という、少年の強さに半ば絶望しかけた歩だった。が、今ほど展開された二人の刀使の強さには全く異なる感情――「憧れ」を抱いた。

 

 

 

 ◇

 橋本双葉は、窓際の机で突っ伏したまま外をみていた。

 

 鎌府女学院の制服を着た彼女は授業中というのに、上の空で絶えず外の景色を飽きもせずに眺めていた。

 

 

 

《鎌倉特別危険廃棄物漏出問題》

 

 ……それから四か月。

 

 季節は秋口に入り、過ごしやすい気候になっている。今ではすっかり右目も右脇腹も恢復して通常通りの生活をおくっている。あの時、義兄の百鬼丸が助けてくれなければ死んでいただろう。

 

 「はぁ……」

 

 頭を動かし、教室を一瞥する。

 

 空席の目立つ疎らな教室。今、関東では荒魂の発生率が高い。必然、関東一円を受け持つ鎌府では、常に刀使が出動しているのだ。《鎌倉特別危険廃棄物漏出問題》

を境にして、増加傾向にあるのだという。

 

 事件以後、折神家親衛隊は事実上の解体に追い込まれた。

 

 席ありの四人のうち此花さんは今、ノロの研究治療病棟にいる。燕さんは入院中で、今月中には綾小路に復学するらしい。

 

 問題は、一席の獅童真希さんと、三席の皐月夜見さんだ。

 

 彼女たちの行方は全く分からない。

 

 (なんか、退屈かな……)

 

 双葉は気の抜けた炭酸のような気分だった。あの激動の日々に身を置いたときから、緊張を強いられてきた。それがある日突然、緩んだ日常へと戻されると、その呆気なさに力が抜けてしまうのだ。

 

「おい、橋本。聞いているか?」

 

 女教師が教壇の上から叱責する。

 

 双葉は頬を机から引っペがし、「……すいません」と謝る。

 

 「まったく」と鼻を鳴らした教師も、重症の身から恢復、復学して日も浅い双葉に配慮したようで、それ以上は咎めず教科書の内容を復唱する。

 

 双葉は無意識に机の脇に吊り下げた御刀『小豆長光』の柄を触る。

 

 柄巻には赤黒い血痕が付着している。――これは、義兄百鬼丸のものだ。数々の死闘を繰り広げた彼は、事件の集結と共に、この御刀を双葉に返したのである。

 

 

 ◇

 

 ちょうど、正午だった。スカートのポケットが震えた。教室を出て、人気のない廊下の柱陰に背中を預け小さな画面をみる。

 携帯端末に知らない番号が表示されていた。訝しがりながらも、双葉は電話に出た。

 「もしもし?」

 

 『橋本双葉、で合っているな?』

 

 男勝りの女性の声だった。

 

 (あれ? この声――もしかして)

 双葉は聞き覚えがあった。

 

「はいそうです……ご用件はなんでしょうか? 真庭学長」

 

 相手は長船女学園の真庭紗南だった。一度、入院中に事情をききに双葉と面会をしたことがある。しかし、それ以上の関係ではない。

 

 猶も訝しむ双葉をよそに、紗南は言葉を続ける。

 

『実はお前に頼みがある。――大変言いにくいんだが』

 

 珍しく言葉を濁す相手に双葉は「全然平気です」と言う。

 

『そうか……実は、お前の義兄、百鬼丸を探して欲しいんだ』

 

「義兄を……ですか?」

 

 唐突な申し出に一瞬、頭の中が真っ白になった。なぜ、今頃――四か月も経過して? そんな疑念を持ちながらも、

 

「なんでわたしなんでしょうか? 政府の力で普通に探し出せると思うんですが……」

 

『普通は、な。お前の義兄は普通じゃない。ハッキリいってこの四か月の間、ずっと行方を探していた。私はともかく、政府のお偉方連中はあの〝バカ〟を飼い慣らしておきたいようでね。しかし結果はお手上げ。それで、一番あいつをよく知るお前に白羽の矢がたったというわけだ』

 

 「な、なるほど……。あっ、でも衛藤さんとか、あの時の事件に関わった人たちもいる筈ですが……」

 

 『一応事情は話したが、まぁ、行方を知る手立てなんてあいつらが知る筈ないからな。――嫌だったら、断ってくれても構わないぞ』

 

 最後の紗南の言に触発された。

 

 「いえ、お受けします。元親衛隊、席なし……お役にたてるか分かりませんが、義兄百鬼丸の行方を探します」

 礼儀正しい口調で言い終えると受話器の向こうから『そうか、助かる』と反応が帰ってきた。

 

 相手も相当この提案に苦慮したのだろう。

 

 あと、二三言葉を交わして電話を切った。

 

 

 背後の柔らかな日差しの射し込む窓を眩しげに目を細めて、双葉は見上げる。秋の澄んだ空が無限に拡がっていた。

 

 「義兄探し……か」

 

 この弛緩しきった日常からの出口を見つけた嬉しさと、百鬼丸に会えるかも知れない高揚で双葉の胸の奥の心拍数は上がった。

 



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51話

 旧城下町の遺風を残す町並みの一角に、宿屋が軒を連ねる。

 関東で多発する荒魂の単独討伐をこなす可奈美は、頻発する荒魂の目撃情報をもとに探索を命じられていた。翌日も聞き込み調査を控え、体を休めるため真庭本部長が用意した宿に一晩宿泊した。

 

 

 朝。

 「ありがとうございました!」

 可奈美は咲き誇ったような笑顔で元気よく宿屋のフロントに一礼し挨拶をすると、木戸を閉めて外に出た。半歩進んだ所で、ピンクのラインがはいった運動靴が止まった。

 

 しと、しと、湿った音がする。

 

細い雨が民宿の樋を伝い、地面をしめやかに濡らす。

 折りたたみ傘をさすか迷っていたが結局はその侭路上に出た。灰色をした雲帯が空に二三片、静かに滞留している。

 

 

 可奈美は《千鳥》の白い柄巻を触りながら天を仰ぎ見る。

 頬に無数の雨粒が落ちて顔を僅かに顰めた。

 

 

 未だ、「あの」息苦しさは消えない。

 それどころか、寧ろ酷くなる一方だ。

 

 ――強くなるって、すごく孤独だ。

 

 『気付いてない? 可奈美だけ一人遠いところにいること……』

 

 つい最近、沙耶香に告げられた言葉が深く可奈美の心奥に棘のように刺さっていた。自分自身でも無意識のうちに偽ってきた気持ちを、沙耶香に見透かされていたこと……そしてすぐに否定できず、その一言を内心で肯定してしまった自らの非情さを悔いた。

 

 

 

 「…………」

 迷いと無表情の混ざったような複雑な表情で、見上げた空から視線を前に戻して濡れるのも構わずに歩き出そうとした。

 

 

 「あの、衛藤可奈美さん――ですよね?」

 背後から突然に呼び止める気配があった。考え事をしていたので、可奈美はすぐに気が付かず、「えっ?」と小さな驚きを上げた。

 

 

 振り返ると、黒髪を短く後ろで束ねた少女が透明なビニール傘をさして佇んでいる。

 

 

 「えっと……あなたは?」

 可奈美は戸惑いながら、鎌府の制服を着た少女に訊ねる。

 

 「あ、急にすいません。わたし橋本双葉って言います……百鬼丸の義理の妹でして……」

 気まずそうに、そう語る双葉。

 

 「実は衛藤さんに色々とお伺いしたいことがあるんです。少しお時間いいですか?」

 

 甘栗色の前髪に雨粒を滴らせながら、可奈美は微笑む。

 「百鬼丸さんのことで? ……うん、いいよ」

 

 

 ◇

 

 「ふぅ~ん、そっか双葉さん? は百鬼丸さんを探してるんだね」

 

 可奈美は言い終わると、ジュースのストローを口に咥える。

 

 二人は付近の喫茶店に移動して、話すことにした。小さなテーブルを挟んで改めて対面する。

 

 現役刀使の中でも最強……という噂の名高い衛藤可奈美が、あまり自分と歳が変わらず、しかも可愛らしい少女だったため、多少安心した双葉だった。

 

 

 「あっ、双葉でいいです……。真庭本部長の命令で、というかもっと上の人からの命令みたいなんですけど、探すまえに〝あの事件〟に関わっていた皆さんにできるだけ会って話を聞こうと思いまして」

 

 

 「そっか……双葉ちゃんはあのとき、別の〝事件〟で怪我してたんだよね」

 

 「ええ……そうですね。皆さんは江ノ島で最後に百鬼丸と別れたと聞いたのですが、本当ですか?」

 

 琥珀色のくりっとした大きな瞳を瞬かせて、

 「うん、そうだよ。でもどうして……?」

 小首を傾げる。

 

 「くっ!!」

 

 その仕草が可愛らしく、双葉は思わず鼻を抑えて鼻血が出るのを堪える。

 

 (なんだろう、燕さんといい衛藤さんといい、刀使で可愛さと強さは比例してるのかな……)

 

 などと、くだらない憶測をたてていた。

 

 「どうしたの? 大丈夫?」と心配そうな顔をした可奈美。

 

 

 「ゴホン、大丈夫です。それより、義兄に代わって御礼申し上げます」

 

 ぺこり、と双葉は座ったまま頭を下げる。

 

 「えっ、あの頭を上げてください」

 可奈美は困惑しながら慌てて両手を振った。

 

 視線を上げた双葉は、クスッ、と笑う。

 

 「あの義兄――百鬼丸は、今まで他人と深く関われずにいたので、誰かに見送られる機会があっただけでも、相当嬉しかったんだと思います。だからお礼を」

 

 一瞬、驚いた様子だった可奈美は、双葉の言葉の意味を理解して唇を柔和に曲げる。

 

 「ううん、こっちこそ百鬼丸さんには助けられたから。それにお礼をいうのは、むしろ私たちの方だよ。……それにね、百鬼丸さんと剣を合わせるとどこまでもいけそうな気がするんだよ。あっ、そうだ! 双葉ちゃんの剣術の流派は?」

 

 唐突に饒舌になった可奈美に気圧されながら、

 「えっと……わたしは、北辰一刀流です」

 

 「ホント!? じゃあ、舞衣ちゃんと一緒なんだ! すごい、すごい!」

 「あはは……(一体なにがすごいんだろう?)」

 曖昧な笑みを浮かべながら、可奈美が剣術の話を始めようとするので数十分談義に付き合った。

 

 

 

 それから、双葉はドッと疲れたような顔で本題へと話を移す。

 「――衛藤さんにお伺いしますが、十条姫和さんについてですが……」

 

 姫和の名前を出した途端、可奈美の表情は苦虫でも噛んだようになり、それまで饒舌だった口も噤んだ。

 

 「姫和ちゃんは……」

 

 「事情は存じてます。あの事件以降、刀使を辞めるかどうか迷っている――そう申し出があったと真庭本部長から伺ってます」

 

 「うん、そうだよね。事情は知ってるよね」

 少し寂しそうに微笑む可奈美。

 

 「十条さんにも用があったのですが、最近は連絡もとられていないのでしょうか? もし、連絡をされていれば……と思ったのですが」

 

 「ううん、私からはしばらくしてないかな」

 

 そうですか、と双葉は頷きながら白磁のカップを手に取り紅茶を啜る。

 刀使を辞めるかどうか、悩んでいる相手に気を使っているのだろう。外見の元気娘らしくない、気遣いのできる人なのだと双葉は理解した。

 

 「……そういえば、双葉ちゃんに聞きたいんだけど燕さんは元気なのかな?」

 

 「燕さんですか? ええ、元気ですよ」

 

 そっか、良かった……と、胸をなでおろして安堵する可奈美。

 

 「でもどうしてですか?」

 以前までは親衛隊と対立していた彼女になぜ? と、頭に疑問符が浮かんだ。

 

 双葉の顔をみて察した可奈美が話し出す。

 

 「あの事件のとき、燕さんと剣を合わせたんだ。本当に強くて、最後まで勝負したかったんだ! だから、あとで病気って聞いて――うん、でもよかった。燕さんとまた戦えるんだ」

 

 甘栗色の前髪に隠れた瞳は窺えないが、口元は喜んでいる。

 

 (なんだ燕さんと同じ系統の人だったんだ……)

 

 内心苦笑いしながら、双葉は頭を振る。

 

 「今度会う機会があったら、ぜひ燕さんと勝負してください。きっと、本当に喜びますから。……それに、よかったです。今日衛藤さんに会えて」

 

 「……どうして?」

 

 「義兄が衛藤さんたちみたいな優しい人たちと行動して、色々と他者に対して心を開くことができるようになったんだと思うと嬉しいです、素直に。……それに皆さん可愛いし」

 

 最後の一言は、義兄に対する羨みである。こんな美少女たちを置いて脇目も振らずに、荒魂退治に乗り出す少年を思い浮かべ、らしいといえばらしい態度に半ば呆れもしていた。

 

 「か、可愛いって――そんな」

 可奈美は目をぎゅー、と瞑って否定する。心なしか顔が真っ赤だ。

 

 (あっ、本当に可愛い……)

 

 口端から涎が垂れるのを手の甲で拭い我慢する双葉。

 

 「ゴホン、えっとすいません。本当は色々とお話したいのですが、衛藤さんのお邪魔をしてはいけないので、ここら辺で……」

 

 と、席を立ち上がる。本当は小一時間、可奈美をジロジロと眺めたい欲望に駆られていたのだ。特に、健康的な脚を包む黒のニーハイ。美濃関の赤いスカートと黒ニーハイに挟まれた柔肌の絶対領域なんか、ベロベロと舐めたいに決まっている。

 

 そんな煩悩を心の奥底に仕舞いつつ、

 

 「もし、百鬼丸に伝えたいことがあれば、伝言として承りますよ」

 

 可奈美は「う~ん」と、おとがいに人差し指を当て考え込む。

 

 「あっ、そうだ。だったらまた今度剣術の稽古しようね、って伝えてくれるかな?」

 ぱっ、と咲き誇ったような眩しい笑顔で答える可奈美。

 

 「あーはい。分かりました」

 肩をすくめながら、双葉は目前の剣術バカ少女を心の底から好ましく思っていた。

 



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52話

文章追加しました。


 結局、《鎌倉特別危険廃棄物漏出問題》に関わった六人の刀使のうち直接会えたのは衛藤可奈美だけだった。糸見沙耶香は別動任務で不在、長船の古波蔵エレンは特別希少金属研究所の護衛、益子薫は日本各地を東奔西走である。

 残る二人、柳瀬舞衣は美濃関に戻り、十条姫和は刀使として現在活動をしていない。

 

 手帳を閉じて嘆息する。

 北アルプスでも、滅多に人の寄り付かない地域に向かうため、山頂付近ルートに赴くおんぼろバスに乗り込んだ。

 

 その移動中に携帯端末が鳴った。

 双葉はウインドブレーカーのポケットから、取り出すと「もしもし?」と応じた。

 

 『お久しぶりですわね、双葉さん』

 

 「あっ、どうもお久しぶりです。此花さん。お元気ですか……って聞くのもおかしいですかね?」

 

 随分懐かしく、記憶の中の彼女を掘り出していた。

 

 折神家、元親衛隊第二席――此花寿々花。

 華やかなワインレッドの毛先を常に指先で弄びながら、怜悧な眼差しで他者を射すくめる。名家の令嬢でありながら、親衛隊の頭脳として、また剣士としても一流であった。

 

 〝あの事件〟以降、彼女は進んで志願し、人体とノロを分離させる研究の被験者として申し出た。それは想像を絶する苦痛を伴うものであった筈だが、寿々花は一切の躊躇をしなかった。

 

 ノロを体内に取り込んだ双葉なら分かる。

 

 一度受け入れた「ノロ」は、細胞から蝕んでゆく。自我を文字通り溶かされる感覚に陥るのだ。

 

 幸い、というべきか双葉の場合は百鬼丸の「青ノロ」の効果で一切の苦痛や自我の侵食なく生活できる。更に身体能力もすべてが、飛躍的に向上したままで……である。

 

 

 双葉の無用の気遣いに思わず電話の向こうで苦笑いが漏れた。

『――いいえ、頗る元気ですわ。貴女は百鬼丸さんを探しておられるのでしょう?』

 

「はい、そうです。よくご存知で……って言っても手がかりなんて少ししかないですもん。本当になんでこーなったのか分からないです」

 

『そう……でもよかったですわ。貴女にしかできないことがあるということが』

 

 過日の厳しい叱責を思い返し、口を苦く歪め、

「……ですね。あの、それで用件は?」

 

 双葉の問いかけに、寿々花はワザとらしく咳払いをした。

「そうですわ、すっかり失念しておりました。……貴女に、というより百鬼丸さんに伝言を頼みたい方が今傍にいらっしゃいますの」

 意地の悪い口調でいう。

 

 (誰だろう?)

 

 眉を僅かに顰めながら、首を傾げる。

 

『双葉ちゃん?』

 

 と、電話口から声がきた。

 

「燕さん? あれ、どうして?」

 予想外の相手に混乱する双葉。

 

『~~~~っ』

 悶絶するように、小さく呻いた。

 

「えっ? あれ? 大丈夫ですか? 燕さん? もしもし?」

 

『ご、ごほん……へーき。全然へーきだよ。あの、双葉ちゃん!!』

 

 語尾で突然大きくなった声に驚きながら双葉も反応する。

 

「は、はい! なんでしょうか?」

 

『もし、百鬼丸おにーさんに会えたら、伝えて欲しいんだけど……また、勝負して……って……』

 

「は、はい」双葉は歯切れの悪い結芽を不審に思った。

 

 案の定、電話口の向こうから『本当にそれだけですの?』と茶化す寿々花の声が遠く聞こえた。

 

『う、うるさい! 寿々花おねーさんっ!』

恥ずかしがる結芽と寿々花のやりとりが電話越しに展開されていた。

 

騒音のあと、電話口から再び寿々花に代わっていた。

 

『誰かさんは百鬼丸さんにご執心のようなので――まぁ、用件というのはそれだけでしょうか』

 ふふっ、と上品に忍び笑いする。

 

「そうですか。分かりました……でも、此花さんもよく笑うようになってよかったです。燕さんも体に気をつけてくださいね」

 

『ええ、そうですわね。ありがとうございますわ、双葉さん』

 

会話を終えるとどちらともなく通話を切った。

 

オンボロのバスの車窓に肩肘をつきながら、外を眺めていた。

 

「…………あのにいさんにご執心って、ウソでしょ」

 

 双葉の心に動揺が広がった。

 

 

 

自衛隊市ヶ谷駐屯地にほど近い特別機動隊の本部。

 

つい、数日前まで現場の最高責任者だった男――大関は、その執務室の整理をしていた。彼はつい4ヶ月前の事件で現場指揮をとった。

しかし、指揮官として留まる役職すら離れざるを得なくなった。4ヶ月前の事件をもっと早期に解決できたのではないか、という上層部の人間の圧力があったのである。そもそも、当初は大関は事件の三日後に解任される予定だった。だが現場処理を理由にズルズルと4ヶ月も過ごした。

 

建前上は引責辞任であるが、そんなことはどうでもいい。

――田村明はそう思った。

 

大関のいる執務室にゆくと、彼はにっこりと柔和に微笑む。

「ああ、キミか。どうだい腕は?」

明の切断された腕を心配した。

彼――田村明はステインに右腕を切り落とされた。

「ええ、元気に動きますよ、この義手」

そう言って、前に伸ばした腕は百鬼丸の義手を参考にして製作されたレプリカである。だが完成度は非常に高く、ホンモノの腕と見分けがつかない。

「そうか、よかった」

「ええ、あの少年に感謝です。おかげで腕もホンモノのように動かせますからね。まだSTTで仕事ができますよ」

と、言いながら明は眉を曇らせた。

「大関さんが、ここを離れるのは納得できません」

「まあ、そういうな。後任の人間に悪いだろ。現場ではお前が部下を率いてくれ」

「……今度の後任は。どうせここを腰掛けにしてサッサと上にいくつもりでしょうね。現場を知らない癖にあれこれ難癖だけは一人前の野郎なんて断りですよ。上層部はいつもアホがなるものですから」

 苦笑いしながら、大関は明の肩を叩く。

「そう頑なになるな……とにかく、今は危うい状況だ」

「どういう意味ですか? だって、もう事件は解決して……確かに荒魂の発生率は増えたと聞きましたが……」

 二重顎をたっぷりためて、首を振る。

「詳しくは言えないが、これから大変になる」

 それ以上の追求を許さぬ雰囲気で、大関は再び整理にとりかかった。

 

 

 ◇

 

 微風がそよぐ――。

雨を含んだ緑の濃密な香りが鼻腔に運ばれる。

 遠く湖面に接した赤土の絶壁が、視界から薄く霞んで隠れた。湖を囲繞する森には、アカマツ、イチイ、の針葉樹に混ざって白樺の葉が新鮮な細雨に洗われた。

 静謐な景勝地、というに相応しい風景だった。

 双葉は登山用のザックを背負い、息を絶え絶えに喘がせながら山道を進んでゆく。

 

 

 国土地理院も把握しきれていない廃村――というより、放棄された集落が日本に数十あると言われている。それは事実かどうか双葉には分からない。

 

 

 ただ実父、橋本善海は日本に五つほど小屋規模の研究室を、棄村地域に残していた。

 北アルプスの山嶺にほど近い、この周囲の地域にも一つ研究室を保有していた。

 

 

 昭和期の山村の面影を残した風景を横目にみつつ、双葉は歩く。

 なだらかな坂道を登り、入り組んだ獣道の茂みを分けて入る。鎌府の制服ではなく、登山用の衣服でなければこんな場所を進めない。

 ただ唯一、御刀だけはどんな場合でも肌身離さず携帯している。

 じっとり、雨に湿った衣服に腰にはひと振りの御刀。……重い。すごく重い。ただでさえ、山道なのに御刀は錘にしかならない。

 「さいあく……」

 げんなりとしたように息をついた。

 

 

 ◇

 苦労して登った……というより、踏破した斜面を後ろに眺めて双葉は嘆息する。一体自分はなにをしに来たのだろう? と半ば自問してしまう。

 他のいくつかの小屋の研究室にも出向いたが、そこに百鬼丸の姿はなかった。最後に残った場所こそココなのである。

 

 

 避暑地のロッジに似た趣のある丸太で構築された小屋があった。電気ガス水道は一応通っているだろうが、長年使用していないために現在はどうなっているか分からない。

 双葉が調べたところによると、自家発電機と井戸水があるため最低限の生活はできるだろう。

 

 双葉は小屋に入る前に、外付けされたライフラインのメーターを確認する。使用した形跡があれば、メーターは動いている筈だから。

 

 (ビンゴ)

 

 小さくほくそ笑む双葉。

 自家発電機が稼働している音がした。

 

 ソーラー発電や、微風でも風雨力を得られる風力発電機など様々な趣向の凝らされた機械類をみるに、実父の面影が記憶の底から蘇る。

 

 機械いじりの好きだった実父の自作品である。

 

 感傷に浸るのもそこそこに、

 「さて、入りますか……」

 小屋の扉の前に佇み、呼吸を整える。こんなに緊張したのはいつぶりだろう?

 

 こんこん、とノックする。

 

 …………。

 

 返事がない。単なる扉のようだ。

 

 「そりゃそーか」

変に緊張していたせいで、自分でも訳のわからない思考をしていたようだ。

ドアノブを握り、扉を開く。

 

 

 ◇

 

 ムワッ、という室内に充満した悪臭が開放され双葉の鼻孔を貫いた。

 うっ、と思わず餌付きそうになった。こんなに濃密に鼻に絡みつく匂いは初めてだ。

  「なにこれ?」

  双葉は鼻を右手でつまみながら先を進む。

  ラベルには「大五郎」と印字された透明な四リットルのプラスチック容器が地面に無秩序に転がっていた。酒気が揮発して部屋に澱んでいる。

  双葉は視線をリビングの奥に這わせると、寝転がりながら、頭を片腕で支える背中を見つけた。

 

(――まさか)

 

 思わず己の目を疑った双葉。

 義兄百鬼丸が酒を呷りながら、そこにいたのだ。

 

 堕落しきった義兄を睨めつけながら、

 「久しぶり、にいさん」

 双葉はフツフツと湧く怒りを押さえながら、棘のある声でいう。

 

 百鬼丸は顔を半分後ろに動かし「ああ、双葉か……」と生気の抜けたような虚ろな眼差しを投げかける。

 

 久々の再開にもなんの感動も示さず、淡々と酒を口に運ぶ。

 

 「なにしてるのにいさん?」

 

 近づくと、双葉は部屋の異臭を理解した。

 まず、百鬼丸は垢だらけの格好で、何ヶ月も服を変えていない。しかも、彼の股間部分からは強烈なアンモニア臭と、クリの花に似た奇妙な香りがブレンドされた匂い……本当に酷い有様だった。

 

 「なにこれ?」

 

 双葉は怒りを通り越して呆れてしまっていた。百鬼丸に近づくと、口端に吐瀉物の乾いた白い筋がみえる。しかも、大分時間が経過して固まっている。

 

 察するに、百鬼丸は何十日も同じ格好でひたすら焼酎を呷っていたに違いない。

 

 「なんでこんなクズになったの、にいさん。せっかく、衛藤さんたちとカッコよくお別れしたのに……」

 

 ボソッ、と双葉が呟く。

 

 百鬼丸の瞳は僅かに光を取り戻したように「衛藤? ――ああ、可奈美か」と錆び付いた声で返事をする。

 

 双葉はがっかりしていた。あんなに、カッコよく去った百鬼丸を想像して会いに来たものの、現実の百鬼丸はたんなる酒飲みのクズでしかない。しかも、排泄物すらロクに始末していない程落ちぶれている。

 

 「ほんと、どうしてこうなったの……」

 頭を抱えながら、とにかく部屋の掃除と百鬼丸に喝を入れることから始めなければならない、と決意した。

 

 

 荒れ放題の髪の毛の間からのぞく眼で百鬼丸はすっ、と双葉を視線から外し、呆けた顔で徳利から酒を口に流し込む。

 

 「にいさん! いい? 今から掃除するから――シャワーでもして」

 

 「……ガスは使えないからお湯がない」

 

 「じゃあ、温泉とかないの?」

 

 「歩いて三〇分のところに、温泉がある」

 

 「じゃあはやくいって! すごく臭い!」

 

 義妹の命令に無表情から、僅かに不服そうな色が浮かんだ。

 

 「わかった?」

 無理やり笑みをつくりながら、憤怒のオーラを放出する。ヘタに逆らうとなにを仕出かすか分からないと判断したのだろう。

 

 百鬼丸は渋々、

 「わかった」

 と、了承した。

 

 彼はノロノロと立ち上がり、千鳥足で扉まで歩きそのまま外へと出て行った。

 完全にダメ人間となった義兄の背中を見送ってから肩を落とす。

 

 不意に、電話でやりとりした結芽のことを思い出した。

 「はぁ~、燕さん可哀想……あんなのに惚れて」

 あの話しぶりと態度から察するに、完全に百鬼丸を美化している。しかし、彼女が現状の百鬼丸を見ると幻滅するのではないか?

 

 「つくづく不幸だな、燕さん……」

 素直な感想を、小さく呟いた。

 

 

 

 

 ◇

 

 百鬼丸は一口、酒を呷る。焼酎のストレートに氷塊が転がり涼やかな音色をたてた。呑む。溶けた水分と焼酎が混ざり、胃の腑をカッ、と熱くさせる。――これだ。これが欲しかったんだ。

 マトモな意識でこの世界なんて生きていられない。

 ならば、酔えばいい。そうすれば、退屈なんて紛れるのだから。

 

 器に注いだ焼酎を飲みながら、百鬼丸は次第に混濁する意識と、妙に冴えてゆく己の感覚に笑う。

 

 あれから数ヶ月。

 百鬼丸は通常の荒魂と《知性体》の討伐を目的に全国各地を歩き回っていた。しかし、結果として日々同じ「弱い」荒魂ばかりを相手にするうち、ルーティンワークの繰り返しが百鬼丸の精神を著しく疲労させていった。

 

 今まではこんなことはなかった。

 

(なぜだ?)

 

 と、自問するよりも前に答えは彼の胸の中にあった。

 

 あの日、ステインやジョー、タギツヒメとの闘いで彼は文字通り瀕死の状態にまで陥った。紙一重のところで百鬼丸は命を繋ぎ留めた。

 

 それからだ……それから、百鬼丸は命を限界に燃やすような闘いでなければ満足できなくなってしまったのである。

 

 所謂、「燃え尽き症候群」というものであった。

 

 燻り続ける闘う者としての心意気が絶えず百鬼丸の魂を炙るのである。

 

 だから、日々の退屈を紛らわすように闘う。だがそれでは満たされなくなってしまったのである。

 

だから――酒に逃げた。

 

 

 残り滓のような自分を慰めるために、ひたすら酒を飲んだ。そして賭博にも手を出した。真庭本部長から渡された報酬の前金五〇〇万円をその日のうちにパチンコ、競馬などのギャンブルで使い果たした。

 

 満たされない精神が、常にギリギリの状況を作りたがる。

 

 勝ち負けなぞ、本当はどうでも良いのだ。

 

 ただ、肌の皮膚がヒリつくような危険な勝負がしたいだけなのだ。

 

 無聊を慰めるように、更に飲酒量が増加する百鬼丸。

 

 気が付くと、養父、善海の研究室の一つである小屋に篭もりひたすら酒を浴びるように飲んでいた。

 

 ◇

 

「あぁ……頭いてぇ」

苦悶しながら百鬼丸は緩やかな山道を歩く。温泉まではあと少しだ。

ズキズキと痛む頭を抱えながら百鬼丸は、久々の外界の空気を吸っていた。

 

 

 



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53話

 

(ヒメは一体なにを仰っていたの……)

 凶星が云々……。その意味を解しかねていた。

 

 強い疑念が頭を擡げながら、高津雪那は綾小路武芸学舎の廊下を歩く。

 数歩ゆくと、『特別医務室』とプレートの下げられた部屋の前で立ち止まる。

 扉をスライドさせると、ベッドがいくつも並んでいた。本来は刀使以外の負傷者を収容する場所なのだが、現在は理由があって一時閉鎖していた。

 

 「夜見ッ」

 

 明かりがない暗闇にヒールを進ませながら、雪那は苛立ち紛れに声を張り上げる。

 

 窓際、一番奥の空間から「はい」と返事がきた。

 

 

 「その男は使えるのか?」

 高圧的な物言いで訊ねる。

 

 ベッドを覆うカーテンを引いて、夜見は姿をみせた。

 

 「……はい、大分恢復した様子です」

 

 無感情な目線で振り返る夜見。

 

 背後には、ステインが仰臥していた。――ヒーロー殺しのステイン。かつて、別の世界で人々を恐怖に陥れた思想犯。そして、四か月前の大量殺戮にも関与した男。

 

 その彼をタギツヒメ陣営に向かい入れたのは、ほかならぬ皐月夜見であった。最初こそ雪那は反対したものの、彼の利用価値を考え直し、結局綾小路で匿うことにした。

 

 その彼、ステインは眠っておらずひたすら天井を凝視していた。

 

 (なんだ、この男はッ)

 

 不気味である。

 

 刃物のように危うい雰囲気を漂わせながら、一言も発さない。愚直なまでに口を閉ざし、何事かを思案しているようだった。さながら、禅僧にも似ていた。

 「彼ら隠世からこちらの世界に来た存在は、ノロの影響を直接受けないようです」

 夜見は淡々と説明する。

 

 百鬼丸と死闘を繰り広げたステインは、再起不能なまでに体が壊れていた。

 

 通常のままでは回復は望めない。……であれば方法は一つ。

 

 ノロを注射すること。

 

 その確認をしようと、夜見が説明をすると躊躇せず、

 

 『俺に力をよこせッ!!』

 

 と、怒鳴った。

 

 注射後、彼は一切のノロの影響を受けず超人的な回復を果たした。

 

 とはいえ、4ヶ月もかかった。

 

 身動きのとれないステインの世話を、夜見が受け持っていた。

 

 …………そう、これは契約なのだ。

 

 ステインの「力」を借りる代わり、全ての支払える代償を夜見が賄う。

 

 

 

 その契約すら知らず、雪那は侮蔑の眼差しでステインを睨めつける。

 

 「フン、貴様のように出来損ないの者がヒメに加勢したところで役立たずだ! ――まぁ救ってやった温情を忘れるな」

 

 嗜虐心に火が付いたのか、くどくどとイヤミを述べたてる。

 

 ――が。一切雪那の存在を無視して、ステインは右手を天に伸ばした。

 

 (百鬼丸……か。もう一度、奴と闘いたいッ!!)

 

 

 それ以外は雑事である。

 

 それ以外を考えるのは、全くの無駄である。

 

 ステインはそうやって、生き方を定義した。

 

 かつて、「正義」という名のお題目に固執していた。だが今は違う。少なくとも、存在の全てを賭して闘った百鬼丸。最早「闘い」こそが、正義と等しくなり、この生を満たすのだ。

 

 自己犠牲を厭わぬ、その姿勢。生き様。全てに置いて――オールマイトより、ある意味では完全な理想のヒーローだった。

 

 「俺はまだ死んだないッ! 俗悪な生存に膝を屈するより、死を与えろッ! 百鬼丸!!」

 

 唐突にステインは叫んだ。

 

 長い舌をヘビのように出しながら、体が叫んだ。

 

 「――ひぅっ!?」

 

 急な大声に、雪那は怯んだ。まるで、活火山の噴火を思わせる怒声に足元が竦んだ。先程までイヤミを言った口は震えている。

 

 「よ、夜見」

 

 「はい」

 

 「あ、あとのことはお前に任せる」

 

 それだけ言うと、踵を返して部屋を出た。

 

 ただ、無言で雪那の背中を見送った夜見は改めてステインに向き直る。

 

 「……夜見、今はお前に感謝する。俺はまだ奴と決着をつけていない。俺は〝悪〟だッ! 必ず正義に滅ぼされなければいけない!」

 

 臓腑から本音を吐露しているようだった。

 

 「ええ」

 

 「お前は聞いたな? 俺の強さは何か? と」

 

 「ええ、聞きました」

 

 「教えてやる。俺は……〝執念〟だけでここまでやってきた。執拗なまでの執念だ」

 

 「それだけなのですか?」

 

 「ああ、それだけだ。男として生まれてヒーローを、正義を目指す! 目指さない者はこの世にはいない。必ず、男は英雄になりたい。だが、必ずしも、そうやって生きてゆけない。自らを偽り、社会を欺き、生きていく。それが成長ともいえる。だが妥協とも、諦めとも言える! 俺は、だから悪を目指した――そして、俺は悪であり続けている」

 

 半ば熱にうなされたような口調だった。

 

 「……。」

 

 夜見にはステインの言葉や意味が理解できても、到底納得できる内容ではないと思った。少なくとも、男という生き物の不思議さを感じただけに過ぎない。

 

 「悪であり続けるのは難しい……だが、意味が……相手がいれば別だ! 百鬼丸!」

 今のステインは、長い病床生活とノロの融合により、高熱が発生して少し錯乱しているようだった。譫言のように何度も、百鬼丸の名前を叫ぶ。

 

 ――ただ、夜見はステインが羨ましかった。

 

 こんなにも、自らをさらけ出して己の感情を表現する術を夜見は知らなかった。高津雪那という主に対しての忠誠心はある。ある、のだがその上手い方法を彼女は知らなかった。ただ黙って付き従うだけ。

 

 だからこそ、欲望に忠実なステインのような存在は夜見にとって、殆ど異生物と言ってもよいだろう。

 

 三白眼を閉じたステインの寝顔を眺めながら、夜見はふと口元を苦く曲げる。

 

 「……私は貴方が羨ましいです」

 

 

 窓から吹き付ける乾いた風が、親衛隊の制服の襟に毛先の黒い髪を流す。

 

 ◇

 

 北アルプスの連なる霊峰を眺めながら、百鬼丸は温泉に浸かっていた。

 

 「気持ちいい」

 

 久々の入浴に、泥のような意識が目覚めていくようだった。

 

 ここ最近マトモな食事すらせず、ひたすら浴びるように酒を飲み続けた。その結果が……まぁ、こんな有様だ。

 

 「しかし誰にも迷惑はかけていないからいいだろうに……双葉、なんて厳しい奴に育ったんだ」

 逆恨みめいた言を吐きながら、百鬼丸はお湯を両手で掬い、顔を洗う。

 

 湯面に、百鬼丸自身の顔が映った。

 刮げた両頬、クマの酷い目元。全く覇気の感じられない少年の顔がそこにあった。

 

 肩を落としながら、現在の有様を改めて認識し直す。

 

 「可奈美たちは元気かな……」

 薄暗い雲の空を見上げながら、ポツリと呟く。

 

 

 カッコつけって立ち去ったはいいが、今更彼女たちにどんな顔をして会えばいいのか分からない。気恥しさと奇妙なプライドが邪魔して会いたくないという気分になっていた。

 

 

 しかし、双葉に居所がバレた以上、隠れることはできない。逃げることはできても、ここまできて逃げるのは男らしくないように思えた。

 

 「仕方ない。話だけでも聞くか」

 

 じゃぶん、と頭までお湯に浸かり瞑目した。

 

 

 ◇

 

 温泉から帰ってくると、双葉は掃除もそこそこに、テーブルの上に食事を用意していた。

 

 「おかえりにいさん。まだ掃除は終わってないけど、とりあえず食事しようよ。一応わたしが自分用の弁当で作ってきたサンドイッチとおにぎりがあるから……あとは水筒の麦茶ね」

 

 首を掻いて、百鬼丸は椅子に着席する。

 

 「おお、サンキュー」

 

 まだ痛む頭を抱えながら暖かい麦茶を魔法瓶から注ぎ、口をつける。酒以外の暖かい液体が胃袋に拡がる。香ばしいものが鼻を抜ける。

 

 「食べて」

 

 紙皿の上のサンドイッチを摘み、口に運ぶ。

 

 パリパリとレタスやキュウリの野菜に混ざってハムやトマト、ドレッシングの味が味覚を刺激する。

 

 焼酎以外の味を久方ぶりに味わう。

 

 咀嚼しながら、百鬼丸は呆けた脳味噌に喝を入れる。

 

 浮遊感の抜けない体にムチをいれて、意識を保つ。

 

 あっという間に、一つサンドイッチを食べ終え、すぐに手近なおにぎりに手を伸ばす。なるほど、腹が減っていないと思っていたが、それは勘違いのようだった。

 

 次々と咀嚼して飲み込みながら、徐々に生きかえるような気持ちになった。

 

 「しかし、よく食べるね。相当食べてなかったんじゃない?」

 

 「――ああ、そうかもしれない」

 

 「最後になにか食べたか覚えてない?」

 

 「ない。酒以外は口にしていない気がする」

 

 「……あ、そう」

 引き気味で反応する双葉。

 

 

 彼女は向かいの椅子に座りながら、板チョコを口にしていた。

 

 「ねぇ、にいさん」

 

 「なんだ?」

 

 「率直な疑問なんだけど、どうしてここの研究所に入り浸ってたの?」

 

 百鬼丸は眠たげな目を擦りながら、

 

 「そうだな……確か探していたんだと思う」

 

 「探してた? なにを? まさか《知性体》とか? それじゃ普通過ぎるよね」

 

 苦笑いしながら百鬼丸は首を振る。

 

 「無銘刀だよ」

 

 「無銘刀? なんで? だって……もう持っているでしょ?」

 

 百鬼丸の左腕には《無銘刀》という特別な刀が仕込まれている。

 

 

 双葉は思い出したように、

 

 「そういえば、前に助けた田村さんがいたでしょ? あの右義手に仕込まれてた無銘刀は跡形もなく砕けたんだって」

 

 と、告げた。

 

 しかし百鬼丸は別段驚きもせず頷いた。

 

 「……だろうな。あれは不完全なものだ。この左腕の無銘刀とは違う。いや、おれの探しているのは、もっと完成度が高い」

 

 「……?」

 百鬼丸の言葉の真意を掴みかねて首を傾げる双葉。

 

 「まぁ、ここで勿体ぶる必要もないから教えるが……おれは、この北アルプス周辺にある初代百鬼丸の《無銘刀》を探していたんだ」

 

 

 「えっウソ……あの刀ってまだ存在するの?」

 

 「ああ、その可能性が高いんだ」

 

 百鬼丸はズボンのポケットから古い地図をテーブルの上に広げた。

 

 「これは?」

 地図の図面と義兄の顔を交互に見比べながら双葉は疑問を口にする。

 

 「昔、修行僧が荒行の一つで霊峰の山頂に登り頂上に宝具を供えることがあった。初代百鬼丸の刀も時代を下るにつれて行方がわからなくなった。だが、おれは思うにまだ発見されていないだけだと思う。――しかも、あまり人の寄り付かない場所」

 

 「山ってこと? まさか。登山で人がいっぱいいるでしょ?」

 

 「いいや、荒行で達成された山の多くは入山すら難しい場所ばかりだ。気流も乱れてヘリでも難しいだろうな。細く入り組んでるだろう。おれの直感が告げるんだ。ホンモノの《無銘刀》はこの周辺にある……ってな。この古地図も、今の地図と比べると全然精度は低いだろうが、その分ここに記されている情報が全部無駄とは限らない」

 

 

 「なるほどね。その《無銘刀》なら……強くなれるってわけ?」

 

 「魔祓いの刀はそれだけで価値がある。霊力が尋常ではないんだ」

 

 真剣な眼差しで語る百鬼丸。確かに、説得力のある説明だった。……

 

 「ねぇにいさん」

 

 「ん? なんだ」

 

 「詳しい説明ありがとう」

 

 「どうってことない」

 

 しかし双葉は目を細め、冷ややかな視線を百鬼丸の手元に送る。

 

 「ねぇ、にいさん」

 

 「なんだ?」

 

 「さっきからにいさんの右手が小刻みに震えながら、酒瓶を探してテーブルを彷徨っているんだけど? 知ってた?」

 

 「無意識だ、おれに罪はない」キッパリ、断言する。

 

 …………とんだアル中野郎だった。

 

 無自覚なレベルで、酒を求めてる。救いようのないダメ人間だった。

 

 「はぁ、なんかもう色々台無し」

 

 生気の抜けた百鬼丸を見据えながら双葉は深呼吸する。

 

 「いいにいさん! これから断酒してもらうからね」

 

 ビシッ、と人差し指をさして百鬼丸に命令する。

 

 

ガーン、という効果音が背景から聞こえそうなほどショックをうけた百鬼丸は、アワアワと口を開閉させる。

 

 「な、なんて殺生な妹なんだ! 鬼だ!」

 

 「鬼はどっちかっていうとにいさんの方でしょ?」

 

 「いやそうだけど、でもお前は鬼だ、鬼!」

 

 「ねえ、にいさん知ってる? 仏の顔も三度までって言葉」

 

 「知らん。しらんけど、酒はやめたらおれは生きていけないんだ……双葉、頼む」

 

 「見苦しい、いいからいうこと聞かないと、全部捨てるからね」

 

 しばらく沈黙した百鬼丸は頭を抱えながら、

 

 「わ、わかった……」渋々肯く。

 

 

 「本当?」

ダメ押しで双葉が追い詰める。

 

 百鬼丸は、はぁーーーーーっ、と深い後悔を吐き出しながら「男に二言はない」と承諾した。

 

  ◇

 食事を終えると、窓の外は夕闇から夜に変わっていた。

 

 「無銘刀……か」

 

 正直手に入るか分からない。

 

 酒気を抜くように息をつく。――冷静になれない頭を一度リセットしてから、クリアな思考のできるように意識をつくりかえる。

 

百鬼丸は口寂しく、煙草を求めて辺りを見回したが……これも怒られそうなので、諦めることにした。テーブルの下で貧乏ゆすりをしながら、今後を考える。

 

 ……と、

 

すーっ、すーっ、とテーブルに突っ伏して眠っている義妹の寝息が聞こえて一瞥を加えると苦笑いを漏らす。

 

「ここまで来るのに大分疲れただろうからな……それに掃除もな。悪いことしたなぁ」

 

 罪悪感を覚えながら、

 

(さて、コイツが来たってことは多分おれの力が必要になったってことだよな……だとすると)

 

尚更、無銘刀の発見を急がねばならない。

 

百鬼丸はテーブルの端っこに置かれたスケッチブックを発見した。

「……。」

 

悪いと思ったが、義妹がなにを描いているのか気になった。すぐに戻そうと内心で詫びながら、スケッチブックを手にしてパラパラとめくった。

 

「ほぉ……中々上手いもんだな」

 

鉛筆の濃淡で描かれた絵は、うまいものであった。芸術方面に疎い百鬼丸でも分かる。道中の風景や動植物などがラフスケッチで描き込まれている。

 

パラパラと更にめくると、今度はマンガのようにコマで分割された線で、人物からフキダシまである。

 

「ん? これはどこかで見覚えがある連中の顔だが……」

 

 記憶の中を探る。

 

 「あっ、これは……」百鬼丸は絶句した。

 

 

漫画の登場人物は明らかにモデルがいる……というか、そのまま模写したような感じだ。

 

 「折神の親衛隊連中だな、これ」

 

 双葉の漫画の中では、彼女たちは明らかに女性同士で恋愛をして、しまいには子供には見せられないR―18指定のアレまで行う始末だった。

 

 

 「……双葉さんよ、流石におれもここまでくるとついていけないよ」

 

 行き過ぎた百合漫画を閉じようとすると、最後のページには可奈美のラフスケッチまで描かれていた。

 

 次の被害者のようだった。

 

 「これは本人には見せないほうがいいな……」

 

 百鬼丸はそっと元の位置にスケッチブックを戻そうとした――

 

「……おい、貴様。中身をみたな?」

 

 ガシッ、と百鬼丸の手首を掴んだ双葉。

 

 僅かに頭を上げながら、寝起きらしい雰囲気とは異なる殺意に満ちた目で睨む。

 

 「ハハッ……ナンノコトダイ? (裏声)」

 

 「やっぱりみたな、お前」

 

 ヒエッ、とビビリながら百鬼丸は「チガウヨ、ニホンゴワカンナイ」とインチキ外国人めいた口調で誤魔化す。

 

 「…………感想を一言」

 

 「とりあえず、親衛隊の奴らには見せないほうがいいゾ」

 

 小刻みに体を震わせながら、

 

 「やっぱりみてるじゃねぇーーーーか!!」

 憤怒に駆られながら、双葉は百鬼丸の顔を素早く殴打した。

 

 なんだかんだ、夜は更けてゆく。

 

 



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交わる凶星たち

 ◇

 

 京。

 

 綾小路武芸学舎、祭殿。

 

 

 現在時刻は深夜。

 

 祭壇には当然だが人は誰もいない。……そう「人」は。

 

 その空間の奥に鎮座する御簾の前に土足で近寄る足音があった。闇に支配された空間には一筋の月光だけが微かに射す。

 

 「お前か、俺をこの世界に呼んだのは?」渋い声で男は訊く。

 

 厚底のブーツをとめて睨む十臓。

 

 簾に隠れた人物が動く気配があった。

 「ククク……よくきたな。腑破十臓よ、我に力を貸せ」

 

 ――童女のように幼く、しかし傲慢な口調で十蔵にいう。

 

 

 「どういうつもりだ? 俺は、あの時シンケンレッドと闘い……そうだ、《裏正》だ! 俺の左足に刺さった《裏正》と炎に包まれた!! それなのに何故、俺はこんな世界にいる?」

 

 南米チリから貨物商船に潜んでやってきた十臓は、到着した日本に愕然とした。あの、外道衆とも関係がなく、三途の川の気配すら感じられない……、ただ異形の化物だけが人々を襲う。その光景の奇妙さに、まだ冷静ではいられないようだった。

 

 

 「俺の宿敵、志葉丈瑠はこの世界にはいないのか?」

 

 彼の懸念はただ一つ。

 

 血沸き、肉踊る殺し合いができる相手がいるかどうか……それだけだった。別世界の彼には志葉丈瑠が居た。

 

 「この渇きを癒してくれる、骨の髄までバラバラになる程の相手が……」

 

 果たしているのか? そう問うつもりだった。

 

 

 

 しかし彼の言葉より先にピンク色の脣を曲げたタギツヒメは、

 「むろん、おる。この世界にも貴様の相手は用意しているぞ、十臓」

 

 精悍な顔つきで、御簾を一瞥して十臓は素早く抜刀して御簾の簾を切り落とす。

 「名を教えろ」

 低く恫喝する。

 

 十臓の前には、白い……処女雪のように真っ白に発光した童女のような娘が椅子に足を組んで座っていた。

 

 まるで溶鉱炉のような橙色の瞳を向けながら不敵に微笑む。

 

 「百鬼丸だ。貴様の宿敵にはよかろう?」

 

 「百鬼丸?」

 

 「ああ、そうだ。百鬼丸――会えば分かる。そうであろう?」

 

 ふっ、と十臓は殺意を堪えて《裏正》を納刀する。

 

 「いいだろう。お前の狂言に乗ってやる」

 

 

 

 

 

 払暁、稜線の上に拡がる濃紺と紺碧の層をなす空が、次第に赤味を帯た。

 「はぁ……はぁ……」

 衰えた体に鞭を打ち、百鬼丸は薄着で登山を行っていた。

 白く染まる呼吸を鼻先に掠めながら、登る。

 

 早朝、双葉を小屋に残して最後の調査ポイントである山頂を目指して登っていた。濃霧に包まれた外界でも百鬼丸の物理探知能力にかかれば、問題はない。

 

 常人より高い体温のため、百鬼丸は黒いシャツと厚地のズボンのみでも問題ない。だが現在の気温は零下三度――。

 大粒の汗を流しながら、百鬼丸は目的の山頂に到る。

 黎明は未だ遥か彼方の地平の果てに、蟠っていた。

 

 花崗岩のざらつく手触りを手に感じながら、百鬼丸は腕で顎に滴る汗を拭う。

 「ここに……あるはずだよな」

 目を細めながら確認してゆく。岩肌の間から名も知らぬ草がそよぎ、眼下に雲海の滞留を臨む。

 

 ……初代百鬼丸。

 

 彼は一体どんな人物だったのか、現在となっては知る手掛かりがない。

 文献にも残されない、妖怪退治の武芸者……百鬼丸。彼は各地の口伝により知られてきただけの存在である。

 その彼の用いた「無銘刀」とは、どのようなものなのか?

 遠い過去に思いを馳せながら、百鬼丸はその場に座り込む。

 

 (やっぱり、微調整が必要だな……)

 

 彼の左腕右足は、義手、義足である。しかも脚部は加速装置が内蔵しているため、以前のように簡単にバランスをとることが難しい。

 また、両目も左右で異なる。

 右目の義眼に左の肉眼。

 こちらも慣れるまで随分時間がかかるだろう……。

 

 前に垂れた髪を振る。視界の先……丁度太陽と重なる位置に、照光を浴びた細長い棒状の影を認めた。

 

 (おいおい、まさか――)

 

 百鬼丸は俄かに立ち上がり、近寄る。

 

 岩場の隙間に突き刺すように垂直に存在する刀。

 

 風雨に晒され、ボロボロになった柄巻。塗装の剥げた鞘。腐食しきった鍔。年代物の刀である。

 

 百鬼丸は無意識にボロボロの柄を握り締め、刀を引き抜く。

 

 鯉口から徐々に顕になった刀身は……赤錆だらけの、金属腐食の激しいナマクラ刀だった。

 

「うそだろ……」

愕然としながら、百鬼丸は最後まで刀身を抜ききった。太い幅の刃は、朝の光を浴びながら容易に反射せず、サビの粉が燦いた。

 握った感じは素晴らしく手に馴染む。もし、この刀が全盛期の頃であれば間違いなく名刀だと言えるだろうし、命を預けるのにも心配はない。

 

 「この状態じゃあ、無理か……」

 

 とても懐かしい気持ちがした。この刀が初代百鬼丸の持っていたものだ、と直感的に悟ったのである。

 

 数百年の長きにわたり、山頂で風雨に洗われたのだ。劣化は仕方ない。しかし、もしこの刀が使い物になるなら、是非使いたい。

 

 「持ち帰るか……」

 その時、激しく冷たい風が頬を嬲った。

 

 「――ッ、誰だ?」

 

 百鬼丸は背後に潜む気配に怒鳴り、半身を回した。

 

 「どうも、初めまして。ジャグラスジャグラーと申します……くくくっ、はははは」

 端正な顔立ちの、黒で統一されたスーツに身を包んだ男が挨拶する。まるで、人を小馬鹿にしたような態度からは、その裏に潜む実力の程を伺わせた。

 

 

 「ジャグラー? お前、この世界の住人じゃないな?」百鬼丸は剣呑な眼差しで問い詰める。

 

 直感で理解した。彼は異次元の存在である、と。

 

 ステインからも感じられた雰囲気に酷似しているので、瞬時にわかった。

 

 ジャグラーは喉を鳴らして笑う。

 「おお、怖い、怖い……まぁ、そう怒らないでくださいよ。今日は挨拶に来たんですから。この世界にアイツに似た雰囲気の人間がいると思ったもので、ね。」

 

 縮毛気味の前髪を後ろに撫で付けながら、ニヤつく。

 

 「挨拶だ?」

 

 「ええ。これから闘う相手に対しての礼儀でしょう。それに、そんな赤錆だらけのナマクラ刀で戦っても全然つまらないでしょう?」

 

 「あ? お前なんぞ赤錆で十分だ」

 

 「ま、いつまで強がっていられるか見ものだがなぁッ」

 と、ジャグラーは乱暴に言葉を切る。

 

 次いで、気流の変化を告げる風音と共に一筋の鋭い衝撃の予感が、百鬼丸にきた。

 

 咄嗟に地面へ転がり、衝撃をやり過ごす。

 

 ――ヴォン

 

 と、百鬼丸の背中で空気を切り裂く音がした。振り返ると、眼下に広がった雲海が真っ二つに裂けていた。

 

「…………へぇ」

百鬼丸は、眼前の男の実力を否応なく認めざるを得なくなった。おそらくまだ、先程の斬撃は発展途上であろう。それ故、百鬼丸だけを狙いすまして直撃させることができなかった。

 

 (とはいえ、脅威に違いないけどな……)

 

 ツツ、と百鬼丸の左頬から針ほどの傷口が現れ血筋を流す。

 

 

 「チッ」

 右指で血を確認しながら、苛立つ百鬼丸。

 

 「ま、これくらいでいいでしょう。ではまた――」

 お遊びに満足したのか、ジャグラーは声と共に山頂から遥か下へと飛び降りた。

 

 視線で追っていた百鬼丸は、彼が山から飛び降りて移動したのだと理解した。そもそも、奴は人間じゃない。それは、同じく人でない百鬼丸ならば分かるのだ。

 

 ――であるからこそ、厄介なのだ。

 

 「一体、世間はどーなってんだ」

 

 再び立ち上がると百鬼丸は不愉快に口を曲げた。

 

 



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55話

 ◇

 「荒魂の討伐、終了しました……ノロの回収を……」

 携帯端末で報告を行う鎌府の刀使。

 周囲6人で構成された他校との混成部隊である。

 頻発する荒魂の被害を迅速に対処するため、伍箇伝から派遣を受け関東一円の治安を守っていた。

 夕色に染まり、やがて闇に沈む時間。

 

 高架橋の下、ドロドロに盛られたオレンジ色の輝き――ノロが、揺れていた。

 

 

 「誰だッ」

 と、長船の刀使の一人が怒声を張り上げた。

 皆が背後を振り返ると、小柄なフードとすぐ背後を悠然と歩く影があった。周囲には黄色のテープで進入禁止の措置をとっていたはずだ。それを、無視した。

 

 到底看過できることではない。

 

 「――答えろッ」

 激しく詰問した。

 

 フードの人物は「ククク」と忍び笑いを漏らすばかりで一言も発さない。隣の男……白い袖がボロボロの上着に、赤の襦袢に黒い帯。厚地のズボンに厚底のブーツ。首には指の骨を象ったようなネックレスをした異様な格好だった。

 

 (この人、普通じゃない……)

 と、連絡をしていた鎌府の刀使は急いで「……至急増援を」と言った。直後、男の姿が消えた。

 

 逢魔が時。

 

 素早く左右を確認し始めた刀使たち。しかし、その視界には何者をも映し出さず、ただ地平に染み出す夕の色が濃くなるばかりであった。

 

 ……と、唐突に消失した男が再び現れた!! およそ尋常ではない疾さで《写シ》を貼っていた刀使たちを次々に屠る。

 

 チィン、と金属の収まる音が聞こえた。

 

 「えっ?」

 驚きより、唖然とした鎌府の刀使は固まった。

 

 

 先程まで立っていた刀使たち、しかも出向するほどの猛者たちを軽々と切り伏せたのである。

 

 十臓は長い柄を鞘に納刀しながら、精悍な顔で周りを眺める。

 明らかな侮蔑の表情だった。

 

 「お前も……ダメだ」

 

 鎌府の刀使に一瞥を加え、嘲るよに低くわらう。

 

 恐怖で固まっていた体が一気に熱くなり、怒りに駆られた。間違いない、彼らは敵対者だ。民間人ではない。立派な公務執行妨害だから、法的根拠に従って反撃できる。

 

 「馬鹿にするなぁあああああああああああああああ」

 《写シ》を貼り直し、端末を地面に捨てると、男に峰打ちの右大上段を打ち下ろす。

 

 男は避ける素振りもなく、一撃を肩と鎖骨に受ける。

 

 (これで動けないハズ……)

 柄に手応えはあった。

 

 が、しかし。

 

 痛痒も感ぜぬ男は、首を傾け残照を浴びる。――その半貌に残忍な陰が表面化した。

 淡い期待すらも潰えた瞬間である。

 少女の顔面は無機質に凍りつき、「あ」とも「い」ともつかぬ言語未満の、微かな空気を喉から漏らす。生死を選ぶ場面では皆、萎縮するのだ。

 

 「つまらん」

 興ざめしたように、《裏正》で左大上段から袈裟斬りにする。

 

 パリィン、と耳鳴りにも似た余韻のあと少女は地面に転がった。

 

 このまま地面に向かって切先を突き刺せば、この娘の生涯は終わるだろう。無自覚に手中で柄の方向を下に変え振り下ろし――

 

 途中で止めた。

 

 「つまらん、つまらん――なぜだッ!!」

 人の悲鳴、阿鼻叫喚が聞きたいのであって、このように無反応の人間を切り刻んでも何ら満たされることはないだろう。いやそればかりか、「渇き」が増すばかりだ。

 

 無精ひげを掌で撫でながら、強者を求めた。

 

 凡庸な者など最初から歯牙にもかけない。

 

 十臓はひとりごちに、呟いた。

 

 「なぜ、俺はこの世界にきたんだ……本当に俺は満ち足りることが出来るんだろうな」

 虚空を睨みながら十臓は踵を返して歩き出す。

 

 ◇

 岐阜、美濃関学院――。

 廊下窓から射し込む秋の柔らかな日差しを感じながら、柳瀬舞衣は学長室の前で足をとめてノックする。

 

 『はい』

 

 返事がきた。

 

 「失礼します」

 

 一礼する舞衣。部屋の執務机に腰掛けて画面を眺める人物が、

 

 「柳瀬さん」声をかけた。

 

 「羽島学長、来週鎌倉へ出向する者の名簿をお持ちしました」

 

 「ご苦労様」

 

 この四か月間、関東では異常な数の荒魂が発生し、鎌府だけでの対処が間に合わず、他所の伍箇伝から優秀な刀使とサポートの学生を出向させていた。

 

 テレビ画面では延々と追求される朱音の姿が映し出されていた。それを一瞥しながら、

 「朱音様の証人喚問ですか」

 舞衣は比較的醒めた口調で言った。

 

表向きはあくまで、ノロの大量漏洩――ということになっている。故に、現在国会でも折神朱音が証人喚問を受けている最中だった。

 

 画面を眺めながら羽島学長は、

 

 「新体制になっても、世間から見れば同じ。ノロを大量漏出させた杜撰な組織……」ため息混じりに漏らす。

 

 「事実だと思います」

 明瞭に切り捨てる舞衣。

 

 一瞬、目を大きく開いた羽島学長は肩をくすめ「そうね」と同意した。

 

 事実、刀使に関しての風当たりはこの4ヶ月で大きく変わった。刀使は危険な仕事のため、まだ未成年の彼女たちは刀使を続けるのに保護者の了承が必要である。

 

 ――が、漏出問題に絡み刀使の仕事に世間の目がフォーカスした。結果として、危険な部分が目立ってしまった。無論20年前の事件の前例もあるとおり安全な仕事とは言えない。

 

 従って、伍箇伝から刀使が次々と自主退学する事態に陥った。本人が続けたいと願っても、保護者の許諾がなければ、刀使を続けることは叶わない。

 

 伍箇伝の苦境が羽島江麻の脳裏をよぎり、軽く首を振る。

 

 「あら? 柳瀬さん。あなたも来週鎌倉?」

 

 「はい。三度目ですっ」

 先程とはことなり明るく弾んだ様子で舞衣は微笑む。

 「でも、可奈美ちゃんはずっと向こうですけど……」寂しそうに眉を落とす。

 

 「お母さんを目標に頑張っていましたから」

 それでも努めて明るく言い添える舞衣。

 

 「衛藤さん、素晴らしい任務達成率らしわね。真庭本部長も手放したくないのも分かるわ。本当、美奈都にそっくりね」

 

 「美奈都さん……可奈美ちゃんのお母さんですか?」

 

 

 「えぇ、強い刀使だったわ……」

 

 「…………。」

 

 美奈都は、若くして亡くなった。

 

 相模湾岸大厄災における活躍も、めざましいものがあった。美奈都と肩を並べた羽島江麻は過日の後ろ姿を思い浮かべていた。

 

 「それにね、美濃関預かりだった《千鳥》が衛藤さんを選んでくれて嬉しかったわ」

 

 美奈都に憧れを抱いていた江麻は、親子の因縁を感じさせる御刀《千鳥》に運命を感じていた。

 

 

 「そう、ですか」

 懐かしげに語る学長を見ながら、柔和な笑みを漏らした舞衣。

 

 (学長も、私と同じだったんだ――)

 胸元で軽く手を握る。

 

 ハッ、と意識を整えると、

 「それでは、用件を伝えましたので失礼します」

 翡翠の瞳を瞬かせて、律儀に一礼すると退出した。

 

 舞衣の背中を見送りながら思い出した。まるで若い頃の自分を見ているようで、江麻は苦く微笑む。

 

「おい、お嬢さん。アンタはホントに美濃関の学生か?」

校門付近で服部達夫は怪訝に眉をひそめた。

 

 彼、服部達夫は美濃関学院の高等部三年生の十七歳である。刀剣の手入れや赤羽島の研ぎ出しなどを学ぶ、研師である。

 伍箇伝でも共学の美濃関では、サポート学科も充実していた。

 中でも研師のレベルは高い。

 

 それを聞きつけ全国各地から、民間の依頼も数多く来る。

 必然、学外からの人間もサポート科に出入りする。

 

 が、彼の目前に居るのは同学の生徒らしい。

 佇む少女――美濃関の白と赤を基調にした制服に身を包み、優しく微笑む美少女が、

 「ええ、本学の生徒ですよ。ですから、貴方に刀の研ぎ出しをお願いしております」軽やかなソプラノボイスで応じる。

 

 

 「って言っても、刀使の学科の人間は詳しくないけど、こんな美少女がいれば学内でも有名なんだけどな」

 

 顎に手をやって、摩りながら疑いの眼差しを猶も向ける。

 

 黒い髪は長く、艶やかである。顔の半分を豊かな髪が覆っているが、それでも切れ長の目元は涼やかである。深窓の令嬢という形容が相応しい雰囲気だった。

 「まぁ、美少女だなんて」

 恥ずかしそうに縮こまる少女。

 

 「お、おう……い、いや、それより名前を聞いてなかったけど教えてくれるか?」

 

 「ええ。ナイムネ子です」

 無い、胸?

 

 達夫はその斬新過ぎる名前に、思考が一旦ストップした。

 「えっと、もう一度いいかな?」

 

 「はい、ナイムネ子です」

 

 満面の笑みで答える少女。所作仕草までお嬢様のような雰囲気だが、そんな斬新過ぎる名前だったとは。

 

 「えーっと、ムネ子さん? でいいのか?」

 

 「ええ」

 

 達夫は視線を彼女の胸元に流した。

 

 年齢はおそらく中等部くらいだろう……だが、胸部は同年代の少女よりも多少膨らんで発達している。名前とは違うようだ。

 

 「……? どうかされましたか?」

 

 「えっ? あっ、い、いや――」

 

 達夫は不自然な視線に気づかれないようにワザとらしく「ゴホン」と咳払いした。

 

 「一応、その刀を見せてくれないか?」

 

 頬に冷や汗を流しながら、話題を切り替えれたことに内心安堵する。

 

 「この刀なのですが……」

 

 紫布の刀袋を受け取ると、結び目を解く。

 

 「ほぉ……」

 と、達夫は目を輝かせた。

 

 太い拵え造りの刀。

 

 造りは中々良さそうだ……経年劣化を除いては。

 

 ボロボロの柄に錆びた鍔。鞘に至っては、殆ど崩れており、むしろ鞘の形状を保っていることの方が不思議なくらいだった。

 

 「いかがでしょうか?」

 

 「うーん、この状態は酷いな。ただ、この造りから見るに、古刀の類だな。しかも鎌倉の中期くらいか? もっと解析しないとわからんけど」

 

 達夫は興味深げに眺めている。

 

 「その赤錆は取り除くことができますか?」

 

 「うん? 大分酷い状態だから研いだら砕ける可能性もあるから……一応スキャンして内部も見てみたいなぁ。時間はかかると思うけどいいか?」

 

 「えぇ、結構です」

 

 にっこり、微笑む。

 

 

 鞘から抜き出し、目線と同じ高さで水平に構える。

 

 

 「とは言っても、これだけの刀の損傷だと……本格的な研究機材のあるところで調べてみたいなぁ……名古屋の特別希少金属研究所とかなぁ」

 ブツブツと呟く達夫。

 

 「特別希少金属?」

 

 「ん? ああ、知らないのか。最近民営化した研究所なんだがな。確か柳瀬グループの出資で賄っているハズだったぞ。詳しいことは、同じ刀使の柳瀬に聞いてみたらどうだ?」

 

 

 「柳瀬さんにですね……そうしてみます。教室を探してきますので、一旦失礼します」

 

 そう言い校門付近から歩き出そうとしたナイムネ子は、ふと靴を止めた。

 

 下校する生徒の群れに混じって、物憂い表情の少女――柳瀬舞衣を発見したのである。

 



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56話

 ◇

 ナイムネ子として美濃関にゆくまでに、時計の針を一日前に戻す。

 

 

 1

 「ただいま」

 小屋に戻ったとき、百鬼丸は服に付着した汚れを手で払いながらしかめっ面で玄関マットを踏む。

 

 「その刀どうしたのにいさん?」

 ちょうど寝起きの双葉が驚きながら、訊ねた。

 百鬼丸は頬の傷を拭いながら、「ああ」と肯く。

 「これは多分おれの探していた無銘刀だ……」

 「ウソ、初代百鬼丸の使ってたっていう……」

 「ああ」

 信じられない、とでも言いたげに双葉は百鬼丸の右手に掴まれた刀を眺める。

 「そういえば、ずいぶん砂埃が服についてるけど、登山のソレじゃないよね」

 敏いな、と百鬼丸は内心毒づいた。

 「――さっき、敵に襲われた」

 「敵? でも、全部倒したんじゃないの? 知性体以外は……」

 「そういう類の奴じゃない。この次元の存在じゃない奴だ……しかも、強い」

 「強い……」双葉は義兄から初めて聞く〝強い〟という言葉に動揺した。短い付き合いでも一度として相手に、そんな評価は下さなかった彼が初めて「強い」と断言した。

 

 その実力は相当である、とみて良い。

 「どんな奴だったの?」

 「人を小馬鹿にしたような、性悪野郎だった」

 「なんだ、戦闘時のにいさんじゃん」

 「なに? おれはあんなに人が悪くないぞ。少なくとも、相手に敬意はもっている」

 「はいウソ。ジョーと戦ってた時はすっごく口悪かったじゃん」

 「あ、アイツは例外だ」

 「いろんな人にも聞いたけど、戦ってる時結構暴言はいてるよ、にいさん」

 「……はい」

 しゅん、と肩身狭く百鬼丸は項垂れる。

 はぁ、とため息をつきながら双葉は、

 「で、どうするの? その刀、もしかしたら単なる刀かも知れないけど」

 百鬼丸は顔を上げて否定する。

 「有り得ない。数百年、山の上で野ざらしだった刀ならとっくに折れてる。だけどコイツは違う。キチンと形状を保っている。付属品まである程度形を保っているからな。何かしらの霊力はあるんだと思う。――それに」

 「それに?」

 暫し考えた様子で顎に手をあて、眉を上げる。

 「それに、おれの第六感がコイツは本物だって告げる。それが一番の確証だ」

 まさか、とは双葉は言わなかった。事実、百鬼丸の人間離れした能力の数々が信頼の証であるからだ。

 「でもさ。でも、だよ。だったら今の赤錆だらけの状態だと使い物にならない気がするけど」

 核心を衝かれて、百鬼丸は押し黙る。

 (あっ、マズイ……気まずい空気になっちゃった)

 

 慌てて双葉は、

 「で、でも伍箇伝にもって行けばいいんじゃないかな? 修善とか修復とかしてもらえるかもだし」取り繕うように早口で喋る。

 

 「伍箇伝……なるほど。ここから近いのは」

 「美濃関だね」

 北アルプスから近い場所は当然、岐阜の美濃関学院である。しかも、刀剣の修繕修復は伍箇伝でも随一である。

 

 「なるほど」

 「それに民間からも、特殊な刀の依頼は請け負っているみたいだし……時間はかかるけど」

 「ほぉ、なぜだ?」

 「だって、本来は刀使のサポートをするための学科だからね。必然的に刀使の依頼が優先されるでしょ、普通」

 「そうか……じゃあ、美濃関の刀使になるしかないか」

 

 

 百鬼丸の唐突な発言に双葉は絶句した。

 「……………………は?」

 長い時間のあとに一言、ようやく反応した。

 

 

 「いや、だから刀使になれば問題なかろう」

 

 「いやいや、問題オオアリよ! なに、刀使って女性しかなれないって知ってた?」

 

 「当然だ」

 

 「にいさん、男でしょ?」

 

 「そりゃ、ち○ちんついてるからな」

 

 「っ、そういう話じゃなくて……いゃ、そういう話だけど……」

 顔を真っ赤にして双葉は百鬼丸の下品な発言に戸惑った。

 

 (ホントにこの人はバカなんじゃないのかな?)

 口には出さないが、この大馬鹿者の義兄に呆れていた。

 

 「……じゃあ、仮にね。にいさんが刀使になれたとして、どうするの?」

 

 「ん? 一度女装してサポートの研師を捕まえて、交渉する」

 

 じょ、女装?

 この義兄は正気だろうか?

 「あっ、アル中か……」

 妙に納得顔の双葉に、

 「おい! 今大変失礼なこと考えただろ!? いいか、おれは大真面目なんだ! なにせ、一度女装して潜入したこともあるのだ」

 エッヘン、と胸を張りながら威張る。

 「えぇーー」

 目を細めて胡散臭い、と言いたげに双葉は訝る。

 

 

 「まぁ、待っていろ。うーん、化粧品なんぞもっていないが……」

 

 「一度、下山して生活必需品と一緒に買ってくれば?」

 

 「お前の化粧道具を貸してくれないか?」

 

 「いや。そもそも、登山に持っていくわけないでしょ」

 

 「そりゃそうか」

 

 百鬼丸は小屋の外に駐車しているバイクで下山しようと、再び踵を返して扉を押そうとした。

 

 「あ、待って。にいさんひとりで行かせると酒を買いそうだからわたしも一緒にいく」

 

 「あははは、まさか」

 

 「……それに、お酒の原材料を買って密造しそうだし」

 双葉がキッチンに一瞥すると、コメや芋などの汁が滴る透明な容器が大量に置いてあった。

 

 ギクッ、と身を固くした百鬼丸。

 

 「わかった?」

 笑顔だった。

 

 怖かった。だから百鬼丸は「う、うん」と素直に同意した。

 

 

 ◇

 「では、これからにいさんの女装を行います」

 買い物を終えた二人は再び小屋に戻り、リビングのテーブルで小さな鏡を置いた。周囲には化粧品が無数に林立している。双葉は手術の執刀医の如く両手を上げて百鬼丸の背後に佇む。

 「う、うむ。頼む」

 硬い声で百鬼丸が肯く。

 小さな鏡には、百鬼丸の顔が反映していた。

 「そういえば、にいさんの顔って結構改造しやすいもんね」

 双葉は化粧水を掌でなじませながら、いう。

 「まぁ、おれは、ほとんど改造人間だしな」

 ふっ、と双葉は兄の発言に笑った。

 

 「ゴホン――じゃあ、いきます」

 

 ◇

 百鬼丸が再び目を醒ますと、鏡には少女が映っていた。

 「オヤ? ふむ」

 腕組みしながら百鬼丸は鏡を睨む。

 「どーして睨むの」

 若干疲れたような顔で双葉がいう。

 

 「中々上出来だ」

 百鬼丸の賞賛に、

 「でしょ。正直こんなに改造しやすい顔だと思わなかったからね。外面は完全に美少女だからね」

 「なるほど」

 「それににいさん、元々髪が長いから女の子っぽいし。それに義眼側は髪の毛で隠せるもん」

 左右で若干目の大きさが異なるのも、義眼と肉眼の差である。

 「ふむ、ふむ」

 「あとは美濃関の制服だけだけど……アテがあるから」

 「アテ?」

 「累さん、って知ってるでしょ?」

 「ああ、お世話になったぞ」

 

 可奈美、姫和と共に逃走中に世話になった人物である。

 

 

 「あの人に連絡して、なんとか今日中に間に合わせるから、あとは」

 「あとは?」

 「その声」

 声? と百鬼丸は首を傾げる。

 「そう。どっから聞いても完全に男でしょ?」

 ――ああ、と合点がいった百鬼丸は目を瞑る。

 『こんな感じでいかかでしょうか?』

 と、ソプラノボイスの軽やかな声に変化した。

 

 

 「…………えっ、うそ」

 

 「ホントですよ。もともと、テレパシーで会話してますから、どんな人物の声にでも変化させられるんです」

 

 心なしか口調まで変化している、と双葉は思った。

 

 

 

 (しかも、顔と声が一致してるからゴツイ骨格体さえ見えなければ完全に女の子だ)

 

 双葉のいかがわしい妄想のスイッチが入りかけた。

 

 (まずっ……色々と今のわたしは危ない)

 必死で頭を振る。

 

 「ごほん、ごほん。分かりました。それじゃ、美濃関の制服が届いたら出発だね」

 

 「うむ」

 

 「そういえば、なんて偽名にするの?」

 

 ふむ? と片方の眉根を上げた百鬼丸。

 「決まっている。以前、エレンを助けるときに薫と一緒に考えたんだ」

 「へぇー。どんなの?」

 「ナイムネ子だ」

 

 「……どうしてそうなったの?」

 「姫和の平城の制服を借りた際に命名したんだ。素晴らしいだろう?」

 

 どうだ? と同意でも欲しそうに百鬼丸はいう。

 

 「えっと、率直に言ってダサい」

 

なんだと!!

 

 と、百鬼丸は驚いた顔をした。

 

 「いかんのか?」

 

 「いかんでしょ。バレバレよ、バレバレ。偽名だって言ってるようなもんじゃない」

 

 ふーむ、と百鬼丸は再び腕組みした。

 「おかしいな。此花某には通じたのになぁ」

 

 「えっ、此花って、寿々花さんのこと?」

 

 む? と百鬼丸は反応した。

 「そうだ」

 

 「…………ウソでしょ」

 

 あの理知的で合理主義で、分析眼のある此花寿々花が義兄のアホ過ぎる偽装に騙されるとは到底思えなかったからである。

 

 「信じて頂けませんか?」

 百鬼丸は女の声音で、上目遣いでいう。

 明らかに顔と体のミスマッチ感が否めないが、双葉は思わず「うっ」と興奮した。

 

 (マズイ、このままだと新しい扉を開いちゃう)

 

 

 「わかった、わかったから!! 信じるよ。でも、明日出発でしょ?」

 「うむ」

 「だったらさ、わたしは一度関東に帰って真庭本部長に、にいさんが見つかったって連絡するね」

 

 「そうか」

 

 「あっ、でもくれぐれも、無茶しないでよ?」

 双葉は釘を刺した。そうでもしないと、この義兄は無茶しかしないのである。

 

 「おう、任せろ」

 サムズアップして満面の笑みで応じる百鬼丸。

 

 ……のち、この約束が簡単に破られることを双葉はまだ知らない。

 

 「約束だからね」

 

 「おう、約束だ」

 

 

 ◇

 

 

 「柳瀬さん、お願いがあるのですが今お時間よろしいでしょうか?」

 百鬼丸――改め、ナイムネ子がいう。

 

 下校中の生徒をかき分け、舞衣に声をかけた。

 

 突然現れた謎の少女に驚き、明らかに不審げな眼差しで眺める舞衣。

 「……あの、どちら様でしょうか?」

 醒めた調子で、尋ねる。

 

 「少しお耳を貸していただけますか?」

 

 不審な少女に警戒心を保ったままの舞衣は、

 「どうしてでしょうか?」

 身構える。

 

 そんな様子からナイムネ子は、

 (ありゃ、警戒されたな)

 と、困った。

 

 ……しょうがない、と思い切った。

 

 「おれだ、舞衣。百鬼丸だ」

 小声で、後ろにいる服部達夫にバレないよう細心の注意を払い、伝えた。

 

 「えっ? ――百鬼丸さんなんですか!?」

 舞衣は思わず声を上げてしまった。

 

 「しーっ、しーっ」

 「む、むぐっ」

 慌てて舞衣の唇に人差し指を当てるムネ子。柔らかな唇は湿っており、微かな弾性で指が押し返される気だした。鮮やかな下唇から熱い吐息を感じた。

 

 思いのほか気持ちのいい感触に戸惑いながらムネ子は、

 

 「と、とにかく事情を説明させてくれ」

 頬に冷や汗を流しながら、少女の声でいう。

 



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57話

今更ですが、感想、お気に入り、評価などありがとうございます!




 双葉との電話が終わった後、

「あら、切れてしまいましたわね」

 ワザとらしく、携帯端末から耳を離して肩を竦める。

 此花寿々花は意地悪な笑みを頬に浮かべながらベッドの隣の人物に言った。

 寿々花の視線の先の人物は、

 「むぅ~~~~っ、寿々花おねーさんの意地悪っ!!」

 白く柔らかな頬を膨らませ不機嫌を示した。

 先程まで会話をしていた双葉に、伝えなくてもいい『百鬼丸に執着している』という言葉で、燕結芽はすっかり狼狽えてしまった。

 

 「あら、ではわたくしの推測は間違いで?」

 試すように寿々花は目を細める。こんな表情をするときは決まって、確信のあるときだけである。

 それを知っているからこそ、結芽は反論すらできず、

 「むぅぅぅぅっ!!」

 細い眉を怒らせながら、目端に悔しい涙を浮かべる。

 百鬼丸から貰った本革製の上着の袖を強く握り締めながら、

 「ちがうもん……」

 たった一言だけ、小さく口を尖らせて結芽は否定した。……明らかに、意固地になっている証拠であった。

 

 (少々、おふざけが過ぎましたわね)

 寿々花は息を吐きながら、

 「すいませんわ、結芽」

 優しく微笑み撫子色の髪を撫でる。擽ったそうに目を瞑りながら結芽は俯いた。

 「……ただ、お礼が言いたかっただけだもん」

 

 「…………。」

 あの日の夜、結芽の命は風前の灯であった。ギリギリのところを、百鬼丸が自らの『肉体』と『寿命』を対価に燕結芽という少女の命を救った。

 

 双葉から百鬼丸の代償について後日聞かされた話である。

 

 百鬼丸はあの夜、自らの右目を抉り出した。――殆ど敵対している相手に、なんの躊躇もなく。

 寿々花自身、獅童真希と共にその現場に居合わせた。

 彼のぶっきらぼうであるが、芯のある態度や生き様に感化されたのかもしれない。……自己犠牲とも異なる、百鬼丸という人間性を寿々花自身も知りたくなった。

 ただ、百鬼丸の「与える」という行為が眩しすぎて、自責の念を強めた真希の横顔を追憶していた。

 

 (真希さんはあまりに、真っ直ぐ過ぎですわ)

 もうひとりの少女、獅童真希は百鬼丸という存在を目の前にして己の行動を問い直すように、姿を消していた。

 

 ノロを受け入れ、親衛隊第一席として働いた。それが大荒魂「タギツヒメ」の手足となっているとも知らずに。

 

 その事実を知った直後、真希は責任を感じながら一人行方をくらました。

 

 「一体なにをしているのやら……」

 寿々花はつぶやきながら、ワインレッドの毛先を人差し指で弄ぶ。かつてのライバルであり、特別な関係の少女について考えるのを一旦やめて、周りを見回す。

 

 ――研究病棟の一室、ノロと人体の融合した状態から治癒を目的とした被験者として彼女は現在、臨床実験を行っている。

 

 日々の苦痛は、寿々花にとってさほどのものではない。

 ただ、折神家親衛隊としてまた皆が顔を合わせることを望みにしながら過ごしている。

 「なぜ、人は与えられたもので満足できないんでしょうね……」

 心の声が零れるように呟いた。まるで自戒の念でも篭っているような口調だった。

 ノロを受け入れ、より強い敵を倒す。

 それが、ひいては他者の……多数の幸福に繋がるのだと信じて行動していた。だけれども結局、そうはならなかった。

 人は禁忌と知りながら、その誘惑には勝てない。古代、神話の頃から散々語り継がれた教訓ではないか。

 

 この、目の前の結芽だってそうだ。あのまま死んで荒魂化していれば、自分たちの手でけじめをつける他なかった。そんな危ない橋を渡るのは、もう真っ平御免だ。……寿々花は複雑な表情で結芽を見詰めていた。

 

 「寿々花おねーさん?」

 顔を上げた結芽は、不審そうな目つきで寿々花を見返していた。

 

 「いいえ、何でもありませんわ」

 首を振って否定しながら、ふと、夜見の後ろ姿を思い出していた。

 

 誰よりも、ノロを受け入れ、まるで自らの肉体を道具のように酷使する少女。普段は無口で無表情。だが、それでも深く付き合えば彼女なりの優しさに触れてきた、と思っていた矢先である。

 

 真希と共に、皐月夜見もまた姿を消してしまった。

 

 あれだけ、ノロのアンプルを摂取してしまえば、尋常ではない苦しみが日々精神も肉体も蝕むだろう。それは寿々花自身、身を持って体験していた。

 

 

 

 「ノブレス・オブリージュ(高貴なるものは、それ故の責務を果たす)」

 無意識に、毛先を弄びながら口走っていた。

 

 ……此花家は代々続く名家であった。

 彼女は物心つく頃から、上流階級の生き方を仕込まれてきた。中でも、西洋の概念でいうところのノブレス・オブリージュは、幼い寿々花にとって強い影響を与えた。

 

 高貴なる階級に属する人間は、社会に自発的に還元する行為をすべきである、という考えであった。

 

 人は社会的な動物である。

 人が獣と違うのは、他者のために無心や打算なく、何かを与えられる――それゆえ、持つ者は持たざる者に与える。だから人は尊く、ひいては上流階級というのはノブレス・オブリージュによって高貴なる存在たらしめるのである。

 

 

 (まさか、こんな時に思い出すなんて、考えもしませんでしたわ)

 

 昔からの教育で染み付いた考えに苦笑いする寿々花。――それから、

 

 「結芽は、ノロを受け入れたことに悔いはなくて?」

 思わず、そう訊いていた。

 

 愚問かも知れない。けれども、知りたかった。

 

 「どーしたの、寿々花おねーさん?」

 長い睫毛の下、浅縹色の瞳を瞬かせながら結芽は訝しむ。

 

 「ただ、聞きたかっただけですわ」

 

 寿々花の他意のない言葉。

 

 う~ん、と唸りながら結芽はサッ、と口を三日月型に曲げる。

 

 「ぜ~んぜんっ! だって、そのおかげで親衛隊のみんなにも会えたしっ!!」

  喜色に満ちた満面の笑みを浮かべる。

 

 「……だって、あのとき紫様にノロをもらってなかったら、私のすごいところだって、誰にも見てもらえなかったもん」

 

 その結芽の発言の重さを、改めて寿々花は感じた。

 

 死病に冒されながら、それでも自分の意思を貫こうと懸命にもがいていた結芽。

 

 「それに、百鬼丸おにーさんみたいな強い人にも会えたから悔いなんてないよっ!」

 言いながら、本革の上着の襟を立てて、顔をうずめる。ボロボロで、汗など汚れが染み付いた上着を大事そうに纏う結芽。その両頬は微かな熱を帯びて朱色に染まっていた。

 以前、何度かクリーニングなどで綺麗にするよう注意したが、頑としてそれを拒んだ。

 「結芽にとっては、〝強い〟ということが重要なようですわね」

 呆れともつかぬ言い方で嘆息する寿々花。

 

 「うん! ――でも」

 と、言いかけて口を噤む結芽。

 

 それだけじゃない、と言いたかったのかも知れない。そんなことは寿々花だって百も承知だ。カマをかけたくなったのかもしれない。

 

 「ふふふっ」

 

 自らの悪癖を嘲りを込めて笑いながら、しかし、敢えてその先の言葉を促さずに寿々花はもう一度、可愛らしい妹のような存在――燕結芽の頭を優しく、確かに撫でる。

 

 (きっと、結芽にも単なる力の強さ、という以上に何かを与えたのでしょうね、百鬼丸という少年は。わたくしたちが、決してこの子に教えてあげられなかった大切な事を……)

 

 それに、過ぎた過失を今更消すことはできやしない。

 

 「……願わくば、わたくしのしていることが誰かの役に立つのならば、それがわたくしなりの、せめてもの贖罪になるのですから」

 

 「?」

 不思議そうに寿々花の言葉に疑問符を頭の上に浮かべる結芽だった。

 



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58話

 「死ねば人間なんて、ただの骸だ……」

 そう呟きながら、荒魂討伐用のフード付きのマントを羽織りながら彷徨っていた。

 

白い靄の中、死体を担ぎながらただ歩いていた。

 冷え込んで空気が凝結しているかのように思われた。現在が朝か夜かなんて分からない。まるでこうして歩いている事自体に意味があるみたいに、機械的に足が動いた。

 ひどく冷たくなった人肌。蝋燭のように真っ白で、内蔵から放たれる腐臭がした。――義父、善海の遺体を背負ったまま山中を歩き回った末、柔らかな土の中へと埋めた。

 

 固まった指先でほじくりながら、爪で地面をひたすら掘り進めた。だけど、人間が手で穿つ孔の大きさなんてたかがしれている。それでも、おれは掘ることをやめなかった。それ以外にやるべきことがわからなかったんだ。

 虚ろな瞳で、仰向けになった義父の死相を眺めながら初めて人間が「死ぬ」という意味を理解したのだと思う。死体になってしまえば、無機質で生前の面影すら残さない、唯物的な――肉塊でしかなかった。

 

(おれも死んだら……こうやって普通の人間になれるのかな)

 

 飲まず食わずで掘り続けた結果、大人一人がようやく収まるほどの孔をつくることができた。おれは、義父の遺体の関節を曲げるようにした。死後硬直しているから、殆ど固まってしまった関節を折るように曲げた。バキバキ、という醜い音が鼓膜に張り付いた。

 完全に折り曲げると、孔に埋めて土をかぶせた。

 墓標になるものなんて一切なかった。

 

 ふんわり、と少しだけ膨らんだ地面の土の前で、おれは長いあいだ膝を抱えて座っていたんだと思う。空腹だったけど、なにかを食べたいと思わなかった。喉も渇いていたけど、水だって飲みたいと思わなかった。このまま、栄養失調で死ねばいいと思った。

 

 もう、この世界から消えたいと切望していた。

 

 膝を抱えたまま、足の間に顔を埋めた。なにも見たくなかった。

 

 『ねぇ、そこに誰かいるの?』

 女の人の声がした。

 

 おれは一瞬驚いたが、それでも構わないで欲しかった。だから無反応を貫き通した。

 

 だけど、足音だけが近づいてくる。

 

 『ねぇ……キミ。大丈夫?』

 

 女の人の声が、傍でした。

 

 おれは、苛立って顔を上げた。

 

 『ここでなにしてたの?』

 

 心配そうな声音で、女の人は屈んでおれと目線を合わせていた。おれの義眼は、体力の消耗で、殆ど視界を確保できていなかった。ただおぼろげに人影だけの認識しているに過ぎない。

 

 「おれに構うな」苛立ちを込めて返事をした。

 

 『……泣いてたの?』

 

 「どうしてそう思った? おれは涙なんて出せない……おれは人間じゃないから、涙なんて必要じゃない」

 

 おれは涙腺が殆ど使えないから、人間らしい感情表現なんて不可能だ。そう伝えたつもりだった。――だけど、その女は、むっ、とした口調で、

 

 「そんなことない! キミがそんな寂しそうな表情をしてるのに、人間じゃないなんて自分で言わないで」

 

 強い口調だった。

 

 だけど、すごく胸の奥は温かくなった。それは不思議で今でも分からない。

 

 「おねーさんは、誰? ここでなにしてるの?」

 

 おれの疑問に、困ったように「うーん」と唸りながら考え込む。

 

 『なんでココに来たのか、よく分からなくて。あ、でも私は刀使で……』

 

 「刀使?」

 

 『うん。御刀を使って荒魂を退治するんだ――』

 

 

 この時に、おれは初めて〝刀使〟に出会ったんだと思う。

 

 すごく昔のことで、記憶はひどく曖昧だけど、それでもたった一つ覚えていることがある。

 

 ――それは、おれが命に代えても〝刀使〟を守ろう

 

 そう誓った。

 

 だけど、どうしてそんなことを思ったのかは、全く覚えていなかった。

 

 ◇

 「……んっ?」

 意識が蘇生するように、現実に引き戻された。

 瞬きしながら「はぁ~」とため息をつく。……まどろみながら嘗ての事を思い出していた。

 全くおぼろげな記憶の底に刻まれていた出来事だった。車窓に置いた肘。その手の上に顎を載せた百鬼丸は首を左右に振る。

 

 柳瀬家の高級な黒塗りの自家用車の後部座席に間をあけて座りながら、移動している最中だった。

 

 「どうかされました?」

 隣の舞衣が聞いた。

 

 「いいや、べつに……昔の事を思い出してただけさ」

 ――そうですか、と応じながら翡翠の瞳を物憂げに瞬かせた。

 

 トンネルの中に入った。

 

 等間隔に配置されたオレンジ色の蛍光灯が、車内に射し込む。舞衣の翡翠色の瞳の水晶体に反射した。

 

舞衣は別の車窓を見つめながら浮かない表情をしていた。

 

 「どうした? 久々の実家じゃないのか? なんでそんな憂鬱そうな顔するんだ?」

 

 「えっ?」

 

 「さっきからずーっと、だ」

 

 「やっぱり、分かりますか?」

 

 「おう」

 

 「そう、ですよね」

  膝の上に指を重ね、軽く絡める。

 

 「おれが、その……舞衣の家に本当にお邪魔することで気に病んでいるんだったら、すぐにでも、車を降りる」

 

 と、言った。

 

 舞衣は慌てて、

 「だ、大丈夫ですから――」

 慌てて百鬼丸がダイナミック下車するのを制した。

 

 ◇

 舞衣と共に、彼女の実家にゆくきっかけとなったのは『無銘刀』である。

 

 百鬼丸は、ナイムネ子として女装して美濃関学院に居た舞衣に接触を図った。結果としては怪しまれ、仕方なく正体をバラした。

 

 初代百鬼丸の無銘刀を調査するため、名古屋の特別希少金属研究所に行くべきだという結論に至った。すると関係している舞衣の父、柳瀬孝則に話をつける必要ができた。

 

 事情を聴き終えた舞衣は顎に指を当て暫し考えた後、

 『私と一緒に、実家にきてくれませんか?』

 と、提案した。

 

 無論、百鬼丸にとっては拒否する要素はない――が、しかし。

 

 「いいのか?」

 

 きょとん、とした表情の舞衣は、

 「ちょうど帰省するタイミングでしたから、平気です」

 

 すました顔で答えた。

 

 「いやいや、そういう事じゃなくて……おれは、一応男だぞ?」

 自分の顔を指差しながらいう。女装しておいて今更ではあるが、動揺してしまった百鬼丸。

 

 翡翠色の美しい瞳を人一倍見開いて、鈴を転がしたようにくすくすと笑い始めた。

 

 「すごく今更な気がしますけど……外見だけなら、十分可愛い女の子ですよ。私の家には友達として実家の方に招待します」

 

 と、意味ありげに百鬼丸を見返しながら言った。

 

 ◇

 (どー考えても、裏があるに決まってるよなぁ)

 百鬼丸は黒く艶やかな髪をガシガシと乱暴に掻きながら、口を「へ」の字に曲げる。

 

 「いい加減、教えてくれないか?」

 

 視線を低回させて、しばらく躊躇った後……実は、と舞衣は切り出した。

 

 「今回の帰省で……父に、刀使を辞めるように言われました。だから一度話し合いをするために実家に……」

 

 「ああ、なるほどね」

 百鬼丸はようやく合点がいった。

 

 つい四か月前も、生死をかけた闘いをしたばかりの舞衣。しかも、ここ最近は荒魂の数が増え、刀使の負傷も増加したと双葉から聞いていた。

 

 普通に考えれば、そんな危ない仕事をさせたがる親はいないだろう。しかも良家の令嬢である舞衣なら尚更だ。

 

 「だから、おれを連れていくのに……つまり、同じ学校の刀使として父親を説得するのに協力しろって事か?」

 

 「……。」

 

 目を伏せながら、舞衣は俯いた。

 

 どうやら、正解らしい。

 

 (ありゃー。困ったですな、いやはや)

 

 百鬼丸からすれば、単に無銘刀について知りたいだけだった。――が、まさか人の家の事情にまで巻き込まれるとは思わなかった。

 

 「えーっと、つまり、おれはこれから〝女の子〟として振舞うんだよな?」

 

 コクン、と舞衣は肯く。

 

 「おぅ――」と、百鬼丸は小さく腰を浮かせた。

 

 (そんな長い時間、女装演技したことないぞ、おれ)

 困ったように眉をひそめながら、

 

 「なぁ、舞衣」

 

 「……はい?」

 「おれから一つ、お願いがある」

 

 「なんですか?」

 

 「どうせ、友達役をやるんだったら、今後敬語はナシだ。いいな?」

 

 百鬼丸の意図を解しかねたように小首をかしげた。

 「――それはどういう意味があるんですか?」

 

 「えーっと、気分の問題だ、気分。ほら、いつも可奈美とかと接するみたいに、気安くおれにも絡んでくれ」

 

 そう言いながら、百鬼丸はウィンクする。

 

 「お願いしますね」

 少女らしいウィスパーボイスで囁く。

 

 舞衣は思わずドキリとした。

 

 (可奈美ちゃんと同じように……? 確かに、見た目も声も可愛いし……)

 

 舞衣の中でなにかスイッチが入った。

 

 レザーグローブをした百鬼丸の両手を勢いよく握り締める。

 

 「分かりました――じゃなくて、わかったよ。ムネ子ちゃん」

 自然と高鳴り始めた鼓動。

 

 舞衣は無理やり、豊満に膨らんだ胸元に百鬼丸の両手を自らの胸の辺りに沈める。

 

 「ふぇrfんくぇrfphうぇくいfhうぇq@fへるいghくぇr」

 声にならない悲鳴を上げながら、百鬼丸は目を白黒させた。

 

 そんな様子をおかしく思いながら「ふふふっ」と忍び笑いした舞衣。

 

 ちら、と横目で運転席の方を一瞥し、

 「あの……今の話は、父には内緒でお願いします」

 

 ハンドルを握る白髪の年配執事の男性は柔和な笑みを零しながら頷いた。

 「はい、承知致しました」

 



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59話

 最初はいつだって、期待するものだ……それが、僅かな望みだったとしても、だ。

 

 必ず、選ばれると信じていた。

 

 オレならば、世界から「光」から選ばれるのだと信じて疑わなかった。

 

 ――だのに、奴を選んだ「光」

 

 世界の選択がもし、正しいのだとしたらオレは一体なんの為、生きてきたのだろうか? まったくの道化ではないか!

 

 オレを選ばなかった世界も、「光」に選ばれた奴も憎い! 憎くて憎くて仕方ない! 

 

 「こんな世界なら、ない方がマシだ……」

 

 それが、オレの行動の指針となっていた。

 

 

 ◇

 「ほぉ……貴様か、もうひとりの来訪者は」

 

 タギツヒメは御簾の裏、椅子で足を組みながら目を細める。

 

 綾小路武芸学舎の祭殿室に一種、異様な緊張がみなぎっていた。空気はまるで針のように鋭く尖って呼吸するだけでも痛みを感じるほどだった。

 

 御簾の前、悠然と佇むシックなスーツを着こなした男が口を開く。

 

 「えぇ、お初にお目にかかります。ジャグラスジャグラーと申します。〝タギツヒメ〟様」

 

  優雅に一礼すると、口を曲げる。

 

 「貴様も、世界を滅ぼす……その一念があるのであろう?」

 

 「えぇ、ですが〝この世界〟とは違いますがね。まぁ、どちらだって構いませんよ」

 ジャグラーの不遜な物言い。

 

 御簾の傍に控えた高津雪那は激昂し、一歩進み出る。

 

 「貴様ッ、先程から態度が無礼だぞッ」

 

 しかし毒々しく塗られた口紅から、二の句がつげなかった。

 

 (――なんだ、この男はっ)

 

 ジャグラーはゆっくりと――しかし確実に雪那を見据え、一瞬だけ威嚇した。

 

 「そうですか……失礼しました」

 

 雪那から視線を外して、嘲るように鼻で笑う。

 

 (クソッ、人をコケにしてッ……絶対に覚えていろッ)

 

 自然と震える指先と足元を堪え、苦々しく表情を歪める。……高津雪那は嘗てないほどに慄然としていたのだ、と自身で悟らざるを得なかった。

 今まで対峙して来たどんな奴よりも危ない、実力差というにはあまりに次元が異なる力を有しているのだ、このジャグラーという男は。

 

 一連のやりとりを御簾から窺っていたタギツヒメはつまらそうに目線を動かす。

 

 「やめよ、うぬが相手に出来る者ではない……力量を思い知れ」

 

 厳しい叱責に雪那は更に憎々しげに表情を歪める。

 「……はっ、ヒメ」

 一礼すると、元の位置に控えた。

 

 

 「――――それで、オレはこれからどうすればいいんでしょうか?」

 ふてぶてしく言いながら、ポケットに両手を入れて御簾の奥に訊く。

 

 「まだ貴様の出番ではない……しかし聞くところによると、百鬼丸にはもう挨拶を済ませたと聞いている」

 

 「ええ」

 

 「どうであった?」

 

 その時、ジャグラーの顔色が一気に変化した。

 

 「――ええ、実に殺しがいのある奴だと思いましたね。オレの一番嫌いな奴の顔に似ているので」

 

 静かな青い炎のように、怒りがジャグラーの纏う雰囲気を揺らめかせた。

 

 そうか、と言いながらタギツヒメは嬉しそうに返事をする。

 

 

 「しかし、生憎貴様以外にも百鬼丸に用事のある者共がいるようでな」

 

 ワザとらしい言い草でジャグラーの焦燥を駆り立てる。

 

 「――のう、十臓」

 

 そう呼びかけられた人物は、いつの間にか祭壇室の出入り口扉に背中を預けていた。

 

 気配に気づいたようで、ジャグラーも背後をゆっくりと振り返る。

 

 「へぇ、貴方も百鬼丸を目当てに……?」

 

 腑破十蔵は、腕を組みつまらなそうに俯いていた。

 

 「あぁ……だが、俺は強い相手と闘いたいだけだ。相手なんて誰でもいい。……お前でも構わん」

 

 顔を上げて、猛禽類に似た眼光でジャグラーを見据える。

 

 両者の間に、静かな火花が無数に弾けとんだ。

 

 

 (何なんだ、何なんだ、奴らは何なんだ……)

 

 雪那は、頭を抱えながら、目を大きく見張り、異次元の来訪者たちの言葉の応酬を見守っていた。

 

 

 ジャグラーは肩を竦めて、

 

 「いいえ、今は遠慮しておきますよ。もし、この世界に強い相手がいなくなったなら、貴方の相手もやぶさかではありませんがねぇ」

 

 愉しげに嘲笑う。

 

 十蔵も口端を下げ、

 「――そうか」

 と、満足した風である。

 

 

 この空間に、穏やかな空気が流れ込んだ気がした。

 

 しかし、雪那はただひとり、

 

 (こんな奴ら、早く出て行けッ)

 

 こめかみに青筋を浮かべながら、両者を蛇蝎の如く嫌い抜いた。

 

 

 

 「……それでは、今後、十蔵とジャグラーはそこに控える高津雪那のいう通りに動くのだぞ」

 タギツヒメは無機質に告げる。

 

 

 ガバッ、と御簾を振り返り、

 

 「ひ、ヒメ。……な、なぜです?」

 

 「人間の世で騒乱を起こすのであろう? であれば、その謀を行う貴様が適任であろう? 我の命令ぞ」

 

 つまらなそうに、命ずる。

 

 

 「あぁ……そんな……」

 

 顔面に酷い汗を流しながら、無意識に首を左右に振る雪那。……まるで絶望が表情筋を支配したように凝り固まった。

 

 やおら、意識を化物の来訪者たちに向ける。

 

 

 「えぇ、なるべく言うことは聞きますよ」ジャグラーはとことん人を馬鹿にした態度で応じる。

 

 「俺は強い相手と闘いたい……この渇きを癒す、そんな敵を求めている」

 視線すら合わせず、十蔵は呟く。

 

 雪那は瞬時に悟った。

 

 (こいつら、私の言うことなんてハナから聞く気なんてない……ッ)

 

 胃がキリキリと音を上げて痛み始めた。

 

 ◇

 

 「祭殿の方に向かわれなくてよろしかったのでしょうか?」

 皐月夜見は囁くようにいった。

 

 綾小路武芸学舎の地下、ノロアンプルの研究用地下貯蔵庫に繋がる長い廊下の片隅で、無言で佇む影に問いかけていた。

 

 「ああ、俺が行く必要がないだろう」

 眉間に深い皺を刻みながら、いう。

 

 「それより、お前こそ祭壇の方に行かなくてよかったのか?」

 まるで孤独を犯され、苛立ったような棘のある口調で聞いた。

 

 「――ええ。貴方を監視するのが今、私の役割なので」

 

 

 「それは、俺がお前の手駒だからだろう」

 

 三白眼で威圧するように夜見を見返す。

 

 しかし、少女は一切動揺せず無表情に押し黙る。

 

 「チッ」鋭く舌打ちしながら、ステインは気を削がれた。

 

 この皐月夜見、という少女の得体の知れなさに警戒していたのだ。ステイン自身も以前は殺人にまで手を染めた稀代の悪党である。――その彼だからこそ分かるのだ。

 

 (こいつは、暗い仕事に一切の迷いや躊躇がない……)

 

 それは常人では、行えないことだった。良心の呵責に悩まされるのが常である。――ステインの場合、それは「正義」という理想により自己を保ってきたに過ぎない。

 

 ……では夜見はどうだろう?

 

 「お前は、一体なんの為に汚れ仕事をしている?」

 

  素直な疑問だった。およそ、10代の少女には有り得ない行動の数々。少なくとも、理由くらいあるはずだ、とステインは推測していた。

 

 ……だが。

 

 「…………。」

 初めて、夜見の虚ろな感情の一切篭っていない瞳に、動揺の色が広がった。

 

 まるで、捨てられた赤子のような顔で狼狽え――唇を噛み締めていた。

 

 「……分かりません。私が一体なにをしたいのか、それすら自分で解っていないのかもしれません」

 

 

 「だったら、お前は俺よりよほどの狂人だ。なんの考えもなく、覚悟もなく、汚れ仕事をして暗い道を進み続ける。……なぜ、お前がそんなことをするのか知りたかったが、まぁいい。お前は何者でもなかったようだ」

 

 三白眼の目線を夜見から外して、ステインは瞑目する。

 

 

 「…………。」

 夜見の表情は、悲痛と鎮痛の綯交ぜになった複雑なものになっていた。

 

 (こんな気分……になるなんて)

 

 雪那の為、尽くしたいと思っていた夜見は、初めて自分という存在の「意味」を考えさせられたのだ。……そして、全くの虚無的な存在であることを自覚させられたのだった。

 

 「助けられた恩にお前の手駒として、働く。だが、お前に忠誠を誓った訳じゃない」

 

 ステインは吐き捨てた。

 



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60話

 

 

 ◇

 条件反射的に、家屋に入る際は必ず警戒を怠らない。……敵がいつ襲ってくるかも分からないからだ。

 背を外壁に密着して僅かに顔を覗かせ、内部に異常がないか確認する。

 「異常なし……っと」

 安堵の息を漏らしながら玄関から入る。

 一連の百鬼丸の動きを眺めていた舞衣が、

 「あの~、できれば普通にして下さい」

 微妙な表情でツッコむ。

 まるで意外なことでも聞いたかのように呆けた百鬼丸は瞬きしながら、

 「む? 善処しよう」鷹揚に頷く。

 

 「それ、大体しない人がいうセリフですけどね!」

 「うむ、間違いない」

 「……少しは否定して下さい」大きく肩を落としながら呟いた。

 

 「しかし、なんというか」

 百鬼丸――こと、ナイムネ子は改めて柳瀬家の外観をまじまじと見る。

 「思ったより、豪邸って感じではないな。華美な装飾品とかもなさそうだし。普通の家よりもクソデカイ位か?」

 と、素直な感想を口にした。

 舞衣は苦笑いを浮かべながら、

 「そうですね。確かにイメージされているような柳瀬の家の感じではないですね」

 含羞みながら首肯する。

 

 「ああ、そういえば」

 「はいっ?」

 「わたしに敬語はナシ、ですよ? 舞衣ちゃん――」

 

 微笑みかけながら、〝ムネ子〟は舞衣の両手を握る。

 

 「えっ、……ああ、そうでしたね――じゃない。うん、そうだね」

 伏せ目がちに、ムネ子から顔を逸らしながら了解する。

 

 自らの両手は今、ムネ子(百鬼丸)に包まれている。――レザーグローブを外し、代わりに絹製の女性用ロンググローブで肘までをすっぽり覆い隠していた。

 

 本人曰く、

 『男の手の骨格と女の骨格は全く違う。それに、腕のギミックを隠すには好都合だろ?』とのことだった。

 

 確かに、言われてみれば男らしいゴツゴツとした腕や指先の輪郭は完全に隠れている。

 

 (でも、握ってる掌が……)

 

 歴戦の証なのだろう。硬い皮膚の感覚が柔らかな布越しにも分かる。

 

 「…………。」

 舞衣は複雑な気分になった。

 

 彼女もまた、一介の剣士ゆえに分かるのだ。……どれほどの過酷な体験をすればこのような歪な皮膚や骨になるのだろうか、と。確かに義手である。けれど、その義手ですらイカレるほど使い込んでいるのだ。

 

 「……どうかしました?」

 小首を傾げながらムネ子はいう。顔半分隠れた豊かな黒髪が幾束か垂れて、美濃関の制服の胸元まで流れた。

 

 「い、いえ……じゃない。ううん何でもないよ。それより、ようこそ我が家へ」

 翡翠色の瞳で見返しながら、告げた。

 

 

 ◇

 「あれ~、舞衣おねーちゃんだっ!」

 玄関から真っ先に弾んだ声がきた。

 まるで子犬のように廊下から駆け寄りながら、

 「隣の人はお友達?」

 と、聞いた。――幼妹、柳瀬詩織である。

 不審げな眼差しで、舞衣の隣に佇む人影……ナイムネ子(百鬼丸)を窺っていた。

 

 ワザと眺められている事を遅く気がついたように肩を驚かせて、相手を向き膝を曲げ視線を落とす。

 「初めまして。ナイムネ子と申します。舞衣おねーちゃんとは学校で仲良くさせてもらってます。よろしくお願いしますね」

 にこっ、と柔和な表情でいった。

 

 「ナイ? ムネ? ………う~ん」

 目前の幼女、柳瀬詩織は眉をひそめていた。その様子から察するに「変な名前~~」とでも言いたげである。が、しかし口にしない所は流石に良家の娘であり、しっかりと教育されている。

 

 それを察知し、

 「変な名前ですよね。困らせてごめんなさいね。詩織ちゃん」

 すぐさま詩織に目線を合わせながら、優しく頭を撫でる。

 

 軽やかなソプラノボイスで、畳み掛けるように謝罪したのだ。

 

 目前の美少女(仮)に完璧な態度をとられ、すっかり毒気を抜かれた詩織は、

 「えっ、と……あの……ううん」

 恥ずかしそうに下に俯いた。末妹の警戒心はすっかり無くなった。

 

 ムネ子は詩織の頭を撫でながら、

 (山狗みたいだなぁ……)

 山暮らしで一時期共に行動した山狗を思い出していた。その山狗は、トラバサミのような罠にかかっていた。それを助けて以来よく懐き、群れで行動するより百鬼丸とよく行動していた。……察するに、人の匂いが染み付いた野生動物は一匹で生きねばならなかったのだろう。それ故、彼と共に生活したのだ。

 

 気持ち良さそうに目を細めた詩織。柔らかな髪質。ムネ子はトリップしていた意識を無理やり現実に戻す。

 

 「あ、撫ですぎましたね。ごめんなさい」ムネ子はサッ、と手を引いた。

 

 詩織は「あっ」と未練がましくムネ子の手を目で追いながら呟いた。

 (今のやりとりだけで、懐いたみたい……)

 舞衣は意外なムネ子(百鬼丸)の一面をみた気がした。

 

 左右に頭を振って詩織は気恥ずかしさを誤魔化しながら、

 「あっ、あの舞衣おねーちゃん! 今日は寮じゃなかったの?」

 殊更大きな声で尋ねる。

 

 強調された声に多少驚きながら、

 「うん、ちょっとね」と、曖昧に返事する。「そういえば、美結は?」次妹の居場所を聞いた。

 

 「あ~、美結おねーちゃんなら……」

 言いにくそうに、リビングの扉へ詩織は視線を送った。

 

 

 ◇

 「舞衣姉、おかえりー」

 かなり適当な感じの口調だった。

 

 広いリビングに置かれたソファーに寝そべりながら、うつ伏せで携帯端末を操作する娘が……柳瀬美結であった。

 

 「〝おかえりー〟じゃないでしょ。制服着たままゴロゴロして……」

 呆れのため息混じりに舞衣。

 

 「皺になっちゃうでしょ?」

 

 「う~ん、これ終わってから着替えるよー」

 

 「ほら、脱いで」

 

 「ううん、めんどくさいなぁ~」

 ブツブツと文句を言いながらも、姉のいうとおりに美結はソファーから立ち上がる。

 上の制服を脱がせながら、

 「お父さんが帰ってくるんだから、しっかりしなさい」と叱った。

 

 「あれ?」と、美結は舞衣の背後に隠れてしまった気配を見ようと軀を斜めにした。

 

 「あの綺麗な人だれ?」

 

 「えっ?」

 舞衣はすっかりムネ子の存在を忘れて完全に実家のお姉さんモードになっていたのだ。

 

 「あ、ええっと、あの人は美濃関の刀使の友達かな?」

 

 「なんで疑問形なの?」

 

 妙に鋭い妹に冷や汗をかかされながら、舞衣は困ったようにムネ子に視線を投げる。

 

 詩織に右手を引っ張られながらニコニコしていたムネ子は、舞衣の意思を理解したように小さく頷いた。

 

 「申し遅れました。わたし、柳瀬舞衣さんのお友達で刀使のナイムネ子って言います」

 

 「へぇ~、珍しいお名前なんですね」

 

 「ええ、よく言われます」

 

 「それに刀使ってことは御刀も持っているんですよね?」

 

 

 「ええ……あ、でも今はワケあって使えないんですけどね。普通の御刀とは事情が違うんですよ」

 微笑みながら、左手に持った紫色の布に包まれた細長い棒状の物をみせた。

 

 「へぇ~」

 関心したように目を見開く美結。

 

 好奇心旺盛な妹を横目でみながら、

 「お客様の前でそんな格好してないで早く着替えてきちゃいなさい」

 

 ムネ子の説明をもっと聞きたがった様子の美結は「えぇ~」と不満そうに口を尖らせる。

 

 「は や く」

 

 細い眉の間に皺を刻んで言った。

 

 「わかったよ~」

 気だるげに返事しながら、ポテトチップスをパリパリと齧る。

 

 「あっ、こら。立ったまま食べないのっ!」

 

 舞衣は素早く美結の手からポテトチップスの袋を取り上げる。

 

 「……んっ、はいはい」

 

 

 

 「はい、は一回!」

 

 半眼で姉を不服そうに見返す美結。その眼差しはなにか言いたげだった。

 

 「――ん? どうしたの?」

 

 

 「そんな細かいこと言ってるから舞衣姉は彼氏できないんだよ」

 

 

 と、残酷な一言を言い放った。

 

 その会心の一撃に舞衣は思わず、

 

 「余計なお世話ですっ!」

 珍しく大きく叫んで反論した。

 

 叫んでから、チラ、とソファーの向こうで詩織と戯れるムネ子をみた。

 

 舞衣の視線に気づいたように、

 「どうかされました?」

 と、問う。

 

 「いえ、べつに」

 舞衣は即座に否定した。

 

 

 ◇

 柳瀬家で、全員集まるのは珍しいことらしい。

 特に柳瀬孝則、柊子が揃うことは稀である――と、ムネ子は美結と詩織から聞かされた。

 

 舞衣が料理を振舞うのだといい、リビングのソファーで三人でくつろぎながら、

 

 「でも、そんな家族水入らずの時間にお邪魔するのは気が引けますね」

 と、素直な気持ちを言った。

 

 「う~ん、そうでもないと思いますよ。何となくですけど」

 適当な口調で、気だるさを漂わせながら美結が言った。

 

 思わず、

 「なんですか、それ……」

 と、ムネ子がクスりと笑う。

 

 あまりの姉妹間での性格の違いといい、何といい、おかしくなったのだ。もし、自分にも本当の「家族」というものがあるのだったら、どんな感じなんだろう? と不意にムネ子は逡巡した。

 

 

 「……どーしたの? ムネ子おねーちゃん?」

 ムネ子の隣に座った詩織は上目遣いに様子を窺った。

 

 「ううん、なんでもないよ。詩織ちゃん」

  軽く頭を撫でた。

 満足げに詩織は「んふーっ」と鼻息を荒くした。

 

 「ねぇ、そういえばムネ子さんって普段は何してるんですか? やっぱり、剣術の練習とかですか? それとも、買い物とかどこかに遊びに行ったりとか? あっ、それとも彼氏とデートとか?」

 

 興味深げな様子で、前傾姿勢に美結がいう。

 

 (グイグリくるな、この娘)

 内心毒づきながらムネ子は内心嘆息する。

 

 「いいえ。――そうですね、強いて言えばギャンブルですかね」

 

 

 

 「「ギャンブル?」」

 

 舞衣の妹二人が声を揃えた。

 

 「……ええ、例えば、う~ん、そうですね。手本引きから花札、丁半博打、賭け麻雀、ブラックジャック、パチンコ、競馬、競輪、ボートレース、ですね」

 

 「えぇ……」

 

 「……?」

 

 妹たち各々の反応を示した。

 

 美結は内心、

 

 (あれ、この人外見と違って相当ヤベー人じゃないの? しかも、未成年なのに、刀使って公務員なのに……)

 

 「なんか、滅茶苦茶すごいですね!」

 

 目を輝かせて、ムネ子の肩を掴んだ。

 

 思い切りパンク過ぎる生活を聞かされ、日常に退屈を感じていた美結は刺激過ぎるムネ子に憧れを抱いた。

 

 「……? そうですか?」

 イマイチ相手の反応を掴みかねて苦笑いする。

 

 「じゃあ、せっかくだし今できるやつ教えて下さい!」

 

 

 興味津々な美結の眼差しにあてられて、ムネ子は頷いた。

 

 「だったら、今から丁半博打に……花札、ブラックジャック、とかやってみますか。ああ、それとポーカーも簡単なので」

 

 「トランプとか用意しますから――あ、折角だから何か賭けますか?」

 

 キラッ、とムネ子の目が輝いた。

 

 「いいですよ。わたし、こう見えてすごくギャンブルに強いですから(自己申告)。あとで痛い目をみても知りませんよ」

 すごくムカつくドヤ顔で宣言しながらパット入りの胸を叩く。

 

 「わたしもやるっ」

 可愛らしく、詩織も手を挙げた。

 

 ……このあと、柳瀬家で行われた過酷ギャンブルが開始された。

 

 ◇

 

 「な、なぜだ……」

 思わず、男口調でムネ子が机に突っ伏しながら呟く。麻雀牌を指の間からポロッ、と落とし悔し涙を流す。

 

 「わーい、また勝った~~!!」

 喜び飛び跳ね満面の笑みを浮かべる詩織。

 

 その対照的な両者を横目に眺めながら美結がいう。

 

 「あー、またムネ子さん負けたんですか」

 嘲笑混じりの目線を向けた。

 

 「だって……だって……ブラックジャックも、丁半も、花札も……麻雀だって全部負けるとか……イカサマとしか思えないし」

 ふてくされて、文句を言いまくるムネ子。

 

 「だって、ムネ子さん弱いんですもん。教えるのは上手いのに、なんで自分でやるとそんなにバレバレなんですか」

 

 ギクッ、と痛いところを衝かれて反応するムネ子。

 

 「うるしゃい……」

 年下の女の子に言われたことが余りに本質をついており、反論すらできずにいた。

 

 「ありがとう、ムネ子おねーちゃん!」

 リビングで喜んではしゃいでいた詩織は机に突っ伏したムネ子を背後から抱きついた。

 

 「アハハ……さいですか……よかった……よかった……」

 

 ふっ、とその様子を見ていた美結はムネ子の肩に手を置いた。

 

 「あの、ムネ子さんはギャンブルの才能はないと思いますから今後しない方がいいと思います」

 

 意地悪く微笑んだ。

 

 「にゃああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 あまりの正論に、ムネ子は絶望した。

 



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61話

 ガチャッ、とリビングの扉が開かれた。

 「あ、お父さんだ! お帰りっ」

 詩織は弾んだ声で目を輝かせた。

 

 「はい。ただいま」

 にっこり、と微笑む女性――三人娘の母、柳瀬柊子は夫の隣で返事をした。

 

 「ご飯できたから……」

 ちょうど、キッチンからエプロン姿で現れた舞衣は両親を視認した。

 「お帰りなさい」

 やや、表情硬く挨拶をする。

 

 「ああ、ただいま。舞衣……少し話がある。それに舞衣のお友達の……」

 と、視線を別の方向にやる。

 

 

 「初めまして、ナイムネ子と申します」

 ゆっくりと頭を下げる。

 

 「…………刀使のお友達だと聞いています。君がいてちょうどよかった」

 柳瀬孝則は厳かに呟いた。眉間に深く皺を刻んで、何か別のことを考えている様子だった。

 

 と。

 

ぐぅ~っ、と腹の虫が鳴った。

 

 緊張した空気の中、空気も読まずに鳴る間抜けな音だった。

「あの~、その前にご飯食べたいなぁ~って、あはは」

 美結は苦笑いしながら、お腹を押さえる。

 

 「ふふふっ、そうね。先に舞衣の手料理を頂こうかしら」

 柊子は手を軽く叩いて空気を変えた。

 

 

 「ようこそ、我が家へ。ムネ子さん」

 

 「は、はい……」

 やや気後れしながら、頷いた。

 

 

 ◇

 ご飯はとっても美味しかった。

 そもそも、料理のリクエスト自体が百鬼丸の「カレー、ハンバーグ、スパゲティ」という頭の悪そうな注文のせいだった。明らかに、炭水化物のオンパレードであり、栄養なども重視する舞衣からすれば、到底看過できるものではなかった……が、そこで彼女の無駄な職人気質に火が付いた。

 百鬼丸のリクエストに応えつつ、更にバランスのとれた内容にする。

 そんなワケで、柳瀬家の豊富にストックされた食材から次々と調理を開始する。(なお、この間に百鬼丸が妹二人に賭博のイロハを教え込んでいることは知る由もない。)

 

 柳瀬家団欒の食卓で、ムネ子は一人大はしゃぎで、

 『うまいっ、うまいっ!!』

 と、品もなくがっついた。

 特にカレーは好物らしく、何度もおかわりをした。

 舞衣が「おかわりもある」という前に皿を差し出す。いかに女装しようとも、食欲は男のソレであった。

 『うまいッ! グットです!』

 親指を立てる。

 ……と、なんの賞賛の語彙もなく乏しい感想を伝えた。妹二人はその様子を興味深げに眺め、両親は驚き呆気にとられていた。

 当の調理した本人は恥ずかしそうだったが、嫌がる風はなくむしろ満足げだった。そもそも、上流階級の食卓で、このような珍獣の行動は目立つ。

 

 「さぁ、二人とも上に行なさい」

 孝則は食後、美結と詩織に言った。二人とも素直にその言葉に従った。

 それから妻、柊子にも一瞥する。

 黙って頷き、その侭リビングを出た。

 

 室内には孝則と舞衣、そしてムネ子が残された。

 

 

ムネ子こと百鬼丸は改めて舞衣の父、柳瀬孝則をみる。実直そうな、或は生真面目そうな壮年の男性であった。やはり威厳がある。

 

「話をする前に一つ、お聞きしたい。ムネ子さん。率直に伺いますが、刀使の仕事はどうでしょうか? 娘と同年代の方の意見が聞きたい」

 

 テーブルをはさんで座ったムネ子に語りかける。

 

「そう……ですね。正直に申し上げますと、大変危険な仕事です。もちろんそれは舞衣さんも重々承知の事と思います。怪我だけでなく最悪命の危険、という場面も少なからずありました」

 

 その言葉を聞き、孝則は頷く。

 「……そうですか。舞衣」

 そして娘に改めて向き直る。

 

「美濃関学院を辞めなさい。新しい学校は私たちで決めてきた」

 

 

「話が違います。私が高校を卒業するまでは自由にしていいと――」

 

 

 「事情が変わった事くらい理解できるだろう。……そもそも、刀使は危険な仕事だ。それに四か月から荒魂の発生率が高いと聞いている。また関東に出向するんだろう。今まで黙ってきたが、これ以上は看過できない。なにより、同じ刀使のムネ子さんの意見も重い意味がある」

 

 舞衣はちらり、と横目でムネ子(百鬼丸)を窺う。

 我関せず、という態度で白磁のカップを手に取り紅茶を優雅に啜る。

 

  「お前も随分危険な目にあったそうだな……」

 四か月前、すなわち折神家襲撃までの事を言っているのは明白だった。

 

 「確かに……でも、この孫六兼元は私を選び、刀使になることを選びました」

 御刀に選ばれるのは、少女期の一瞬しかない。しかも、その適合率は極端に低い。御刀に選ばれなければ、そもそも刀使にはなれないのだ。

 

 ――だから。

 「覚悟ならできています」

 舞衣は静かな口調で断固とした意思を示す。

 

 が、すかさず、

 「軽々しく覚悟なんていうもんじゃない!」

 言葉を荒げて、反応した。

 

 初めて見せる父の強い態度に舞衣は目を見張り、息を飲んだ。

 

 娘の視線に気づいたのか、咳払いをして視線を外す。

 

 「舞衣、忘れないで欲しい。お前も柳瀬の家の一員なのだということを――」

 

 舞衣は翡翠の瞳を細める。

 「そんなに、柳瀬の家に刀使がいては体面が悪いですか……?」

 近年の刀使の評判は悪い。柳瀬の家にとってはマイナスに働くことを父は恐れたのだろうか? と、舞衣は卑屈な思考から導き出した。

 

 孝則は娘の一言を図りかねた様子で眉をひそめる。

 

 と、今まで黙っていたムネ子がおもむろに口を開いた。

 「……わたしも、舞衣さんが刀使として活動する事に反対です」

 開口一番、ムネ子は茶を啜ると薄く目を細めて呟いた。

 

 「えっ……?」

 意外な横槍に、思わず舞衣は動揺した。まさか、父を説得する為に一緒に来てもらった筈なのに――強い衝撃を受けながら舞衣は敵愾心をムネ子に向けた。

 

 「どうしてですか? 約束しましたよね? 父を説得するために……一緒に……」

 

 「ええ、そういうお話でこの場にいます。――ですが、お父様の意見を伺って考えが変わりました。冷静に考えて下さい。刀使という役割以前に、わたしたちはまだ子供です。貴女も……わたしも含めて誰かの庇護下にある〝子ども〟なんですよ。お父様の仰るとおりです」

 

 この一言は、嘘だった。百鬼丸自身は全く誰の庇護下にもなく、己の人生を危険という存在と共に生きてきた。――〝化物〟なのだから。しかしあくまで、今は普通の女学生を演じているに過ぎないのだ。

 

 もしも、普通の人間だったなら……そういう仮定の自問自答の繰り返しをしながら、「普通」の人間を演じているのだ。

 

 舞衣は、彼の逡巡を一切知らない。ただ、これまでの生き方を全否定されている錯覚に陥った。……だから、

 「でも、私は今まで甘い覚悟で刀使をやっていたつもりはありません」

 断固とした口調で意見を撥ね付ける。

 

 「でしょうね。貴女の性格からしても、軽々に判断して行動している節なんてありませんでしたから。それに貴女はとても賢明ですからね。……でも、結局それだけです」

 

 「それだけって……」

 

 ムネ子――否、百鬼丸の冷たい論調に憤り……しかしそれ以上に失望と喪失感を味わっていた。確かに彼の言いたい事はよく分かる。だが、それでも感情が納得する筈がない。

 

 「いま、父に媚びてでも成し遂げたいことがあるんですか?」

 反射的に、意地悪く皮肉を吐く。

 

 

 「…………。」

 

 黙ったままなにも反論しないムネ子の態度に、舞衣は胸がチクりと痛む。本意ではないにしろ、相手を傷つける言葉を投げつけた。その愚かさを悔いた。

 

 「……っ」

 だから咄嗟に顔を相手から背けて、下唇を噛む。

 

 舞衣の一瞬の後悔を横目で一瞥してから、真っ直ぐテーブルの上を見つめるムネ子。

 「たとえ、刀使がいなくとも〝わたし〟だけで荒魂の討伐なんて可能です。貴女だけが責任や義務感を感じなくても結構です。特別だなんて思い込まないで下さい。〝貴女は必要ありません〟」

 

 

 「――ッ」

 

 咄嗟にバシィン、と乾いた音が室内に響いた。

 

 重苦しい空気を打ち破る、激しく弾けた音だった。

 

 無意識に舞衣は、ムネ子の頬を打擲していた。

 

 「あっ……」

 

 気がついてから、舞衣は己の無自覚の行動に驚き――頭が真っ白になっていた。 翡翠の瞳から、次々と涙が溢れていた。涙は止めどなく溢れて、呼吸を乱した。

 

 

 「舞衣ッ」

 孝則は怒鳴った。娘の予想外の行動に、彼もまた動揺しているようだった。

 

 「ごめんなさい――」

 右手首を反対の手で掴みながら、混乱した瞳が左右に震えた。

 

 しかし座ったままのムネ子は、「いいえ、平気です」と受け流す。その感情のない瞳を動かして横目で舞衣を窺った。

 

 ジンジンと痛む筈の真っ赤に染まった頬をムネ子は指先で触りながら、

 「……貴女は、別に〝こんな道〟に進んでこなくてもいい存在なのですから」

 抑揚もなく告げる。

 

 

 舞衣は叩いた右手のひらを反対側の手で抑えながら、胸が更に締め付けられる感覚に襲われた。そして瞬時に理解した。……ムネ子、もとい百鬼丸が言いたかった真意に。

 

 (……刀使を守りたいだけなんだ)

 言い方は悪い。表現も悪い。おまけに態度も悪い。全てが相手に伝える方法として最悪なのは間違いがない。――だが、それでも彼なりの理由がある。

 

 

 その優しすぎる相手の意思すら理解できず、頬を打ってしまった。まるで自分が刀使としての存在そのものを否定されたかのように、勘違いして……。

 

 涙で歪んだ視界を手の甲で拭いながら、

 「……っ、本当にごめんなさい」

 舞衣は小さく謝罪した。身を翻してリビングから廊下に続く扉へと駆け出した。去り際、肩越しに百鬼丸へ一瞥を加えた。

 

 百鬼丸が少しだけ肩を竦めて、微笑んでるように見えた。

 

 ◇

 

 深いため息のあと、

 「先程は舞衣が失礼しました」

 「いいえ、平気ですよ」

 

 

 孝則は硬い口調から一変して砕けた様子で喋りかけた。

 

 「刀使を辞めさせる。というのは、親のエゴなんですかね」

 思わず本音が漏れた。

 

 ムネ子は左右に頭を振りながら苦笑いする。

 「そうでしょうか? ……少なくとも、貴方のように娘さんを危険な仕事から遠ざけたいと思って行動されていることに意味はあります」

  意地悪い笑みで応じる。

 

 「どこまでご存知なんですか?」鋭い視線で孝則が言う。

 

 「柳瀬グループの傘下として特別希少金属利用研究所が活動していること。察するに娘さんの身を案じて、研究を支援している相当の親バカの方がいらっしゃること位しか、わたしには分かりませんよ」

 

 悪戯っ子っぽく舌を出す。

 

 「……まったく、君には全てお見通しらしい。ワザとキツイ言い方をされたのも、やはり貴女も娘が刀使であることをやめさせたいのですか?」

 

 「……正直に申し上げます。わたしの実力なら、殆どの荒魂を退治することなんて可能です。でも同時多発的に出現する相手に対して一々対応なんてできないだけです。刀使なんていらないですよ、本当は」

 

 (まるで、自分が刀使ではないような言い方だな……)

 孝則は違和感を覚えつつ、ムネ子の隣に置かれた紫布の包をみた。

 

 「――話が変わりますが、ぜひお願いがあって本日ここに居ます」

 そう言いながら、布を解き、テーブルの上に刀を置く。

 

 「これは?」

 

 「現在、特別希少金属利用研究所は柳瀬家の支援のもと活動していますね?」

 

 「ああ」

 

 「それで、この刀の詳細な調査を依頼したいのです」

 

 「ふむ、なるほど。これは貴女の御刀ですか?」

 

 

 表情を曇らせながら、

 

 「いいえ。でも今はまだ……ですね。ただこれが使い物になるなら、それだけで価値があります」

 

 ……そうですか、分かりました。と孝則は頷いて翌日、研究所まで案内してくれることを約束した。

 

 

 

 

 ◇

 

 殺意の波動を感じていた。

 仄暗く赤い霧のかかったような視界には、魑魅魍魎たちの目玉の海がギョロリと此方を静かに窺う。

 

 ――なんだ、これは?

 

 百鬼丸は得体の知れない感覚に全身から汗が噴き出す。

 

 まるで、地獄ではないか。地獄の釜の底に沈んだ化物たちが怨嗟の悲鳴を吐くように絶えず、遠雷のような呻き声を上げる。……おれは「こいつら」の正体を知っている。

 

 脳味噌を掻き回されるような奇妙な感じ――。

 

 そうだ、これは初代百鬼丸に消滅させられた化物どもだ!

 

 奴らは無銘刀で切り刻まれて、この地獄の底に居る。深く沈んだ連中の強い怨嗟が、おれを責め続ける。

 

(おもしれぇ、おれを殺そってか?)

 思わず、臓腑の震えが来るほどの感情の昂ぶりを覚えた。久しく味わえなかった感情だ。今、この数百、数千、数万を相手にしてもいい。それくらい気分が高揚していた。

 

 (こい、お前らをもう一度地獄へ叩き落としてやるッ!!)

 

 全身の毛が逆立つのを感じながら、夢独特の浮遊から引き剥がされた。

 

 ◇

 「チッ」

 おれは真っ暗な天井を見詰めていた。ふと、口元に指を押し当てると、口端は歪に曲がっていた。ニタッ、と笑っているようだった。

 寝汗をかいてる。

 肌着に汗が密着して気分が悪い。この頃は長く眠ることができるようになったが、それでも以前とは何も変わらない。あぐらをかいて、剣を抱くような格好で眠っていた。

 この無銘刀に残された執念のようなものが、おれに夢をみせたのだろうか。

 (どっちだっていい……)

 おれのなすべきことは、たった一つ。

 敵を倒すことだ。――振り乱れた前髪を振り払い、深く息をつく。

 

 柳瀬家の客室を借りて眠っていた。広い部屋の天井を眺めながら、右腕を伸ばす。思ったより深く眠っていたようだ。

 

 こんこん、と扉にノックがきた。

 「ああ」

 と、短く返事した。

 扉の隙間から、舞衣が不安げな眼差しで此方を窺っていた。

 「あの、大丈夫ですか? うなされていたみたいな声が聞こえて……」

 心配そうに眉を下げる舞衣。

 安心させるように、手を大きく振って否定する。

 「平気だ。……ちょっと夜風に当たってくる」

 そういいながら、窓を開いてベランダに出た。

 

 百鬼丸の後ろ姿は、舞衣にとって初めてみる人間のような印象をうけた。もう一度、きちんと先程の無礼を詫びようとした舞衣は、しかしそれ以上声を掛けることもできずに引き下がった。

 

 

 

 

 研究所は閑散とした山奥にある。名古屋を抜け更に山間部へとゆくと、低い山の折り重なった風景へと変わった。

 車が到着したときに百鬼丸は目が醒めた。僅かな時間でも眠れたことはありがたい。隣に座った舞衣は憂鬱そうな表情で車窓の外をずっと眺めていた。

 

 

 今朝、朝食を摂っていた舞衣に唐突に父が告げた。

 『舞衣、お前も出かける支度をしなさい』

 と。

 昨日の今日で、全く父の意図が理解できずにいた。ちなみに、ムネ子は舞衣の和食メインの朝食をすぐさま食い終わり、リビングのソファーで自由気ままに寛いでいた。

 

 

 

 

 雲雀が空を飛んでいる。

 「ん~っ」

 気持ちよく背伸びをしながら降車すると目の前に建築物の巨大な影があった。改めて見上げると建物の規模に驚かされる。前景にそびえる一棟は灰色の長方形をして、更に奥に控える中小の棟を結ぶ回廊が四重に巡っている。

 

 「でかいなぁ……」

 素直な感想を漏らしながら仰ぎ見る。やれやれ……と首を振りながら顎を戻して、駐車場から周りを見回すと、遊歩道が静かな林の中にまで続いている。

 ふと、隣の舞衣を窺う。

 「…………。」

 硬い表情で黙っている。昨夜の父との諍いが未だ尾を引いているのだろう。

 「…………。」

 孝則も同じく、娘とどう接していいか図りかねているようだった。

 (ここはおれが何か言うべきじゃないよな)

 気まずい空気の中、とにかく研究所へとゆくことにした。

 

 

 ◇

 そもそも、この研究所は珠鋼の利用が御刀だけでなく、それ以外の利用価値を模索するために設立されたものである。

 中でも、珠鋼を媒介として隠世からのエネルギーを引き出す研究所が行われている。これが可能になれば、資源の乏しい日本がエネルギー不足に陥らずに済む。

 

 と、若い男の研究員の話を聞きながら、研究所内部を一望できるエントランス部分に出た。全面が強化ガラスで構築されており、鉄鋼材の組み合わされた柱が塔のように聳えている。

 ガラス面の向こうは、先程みた低い山々の丸みを帯びた山稜と、その緑の森が拡がる。

 

 「ただ、そううまくんですかねぇ……」

 ムネ子は怪訝に口を曲げる。

 

 『理論上は可能です。なぜなら、珠鋼は隠世に影響を及ぼせる唯一の金属ですから』

 若い研究員とは別の声が背後から来た。

 振り返ると、眼鏡をかけた如何にも古典的な研究員という風貌の男性と、隣の短いプラチナブロンドの女性がいた。

 

 ムネ子の様子にも構わず、男性は説明を続ける。

 

 「その珠鋼の性質を利用して、この世と隠世の境界を曖昧にして、これまでにない物質を現出させる。これが可能になれば従来の物理法則を無視した無尽蔵のエネルギー源が取り出し可能になるんですよ」

 

 饒舌に喋る男性に圧倒されながら舞衣は、

 「あの……貴方は?」

 と問うた。

 

 あっ、という顔で反省した表情を浮かべる。

 「失礼。僕はこの研究主任をやっている古波蔵公威と言います」

 「妻のジャクリーンよ。よろしく」

 公威の隣にいたプラチナブロンドの美女が手を差し出す。

 

 「こちらこそ、よろしくお願いします」

 硬い微笑みで舞衣は差し出された手を握る。

 

 「ってあれ? 古波蔵って――」

 

 ジャクリーンはすかさず、

 「ハイ。エレンのママさんとパパさんです」

 ウィンクした。

 

 古波蔵エレンの父と母。まさか、こんな場所で出会うとは。思ってもみなかった。

 

 そんな戸惑いと驚きを隠せない舞衣に更に追い打ちをかけるように――

 

 「マイマイっ、お久しぶりデ~ス」

 舞衣に飛びつき抱きつく人影。

 

 「え、エレンちゃん!?」

 大きく目を瞬かせた舞衣はまだ頭の整理がついていなかった。

 

 久々の再開だった。つい、四ヶ月前までは共に生死を賭けた戦闘の中にあった友人。その懐かしい一人と出会うことができて、舞衣は妙な安心感を覚えた。

 

 スカイブルーの瞳が弾けるように光る。

 「ハイ! エレンちゃんデス。 ん?」

 エレンはチラと横目でムネ子を発見した。

 

 「そちらの貴方もお久しぶりでスね」

 妖艶な顔でムネ子に微笑む。

 

 「――?」

 

 しかし、エレンの意図が掴めないムネ子は首をかしげるばかりだった。

 




刀使ノ巫女のコンセプトワークスくんが再販かかってウレシイ、ウレシイ……。

ただ、刀使ノ巫女が舞台化ってマジかよ……まるで「ネギま」の実写化のようだぁ~(直喩)


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襲撃(ASSAULT)

 京都市。某所、送電塔頂上部。

 

久々の外気を吸い込みながら、ステインは右手の《無銘刀》を軽くスナップを効かせた後、背中の鞘に収める。

 

 彼の体に打ち込まれたノロは、順調に馴染んでいるようだった。それは分かる。

 個性である『凝結』も変化はない。

 

 ――いや、ひとつ変わったことがある。

 

 「おい」

 後ろを振り向かずに鋭く声を掛ける。

 

 「――はい」

 すぐ背後に控えていた皐月夜見は前に歩み出る。

 

 「アレを試す」

 

 「承知しました」

 

 そう言うと、夜見は自らの左腕を差し出し、〝御刀〟水神切兼光の刃先を軽く斬る。血管からは血ではなく、赤黒い無数の蝶にも似た荒魂が夜空に放たれた。

 

 それをすかさずステインが長い舌で舐める。

 

 まるで時間が停止したかのように、大気中に放出された夜見の荒魂たちが一斉に行動を停止させる。

 

 「ヘッ」

 短く唾を吐く。

 

 血走った三白眼で、夜空の一隅を見つめて意識を集中させる。

 

 ――すると、それまで停止していた空中のノロたちが一斉に蝗の如く、夜闇の片隅へと殺到した。

 

 「やはり……か」

 最近になって、ようやくノロの制御ができることを知った。

 いいや、正確には自分の体内を流れるノロと夜見のものだけである。

 

 人体を介したノロは血液と容易に混ざる。すると、ステインの個性が使えるようになったという単純な理由であった。

 

 これを発見したのは、誰であろう夜見であった。

 

 彼女はリハビリ中のステインの命令で、個性の凝結が消失していないか試す為に自らの血液を舐めさせた。

 

 直後、ステインの小さな瞳は赤銅色に染まり、夜見の体内から荒魂を発生させた。

 

 

 

 

 

 

 

過去に思いを巡らす夜見に、

 

 「おい、どうした? なにを考えていた?」

 ステインが刃物のような眼差しで夜見を睨み据える。

 

 「……いいえ、なんでもありません。これで貴方の武器が一つ増えた、と高津学長に報告します」

 

 白い布に隠れた眉が不機嫌に皺を刻む。

 

 「奴に報告するのはやめろ」

 

 

 「……なぜでしょうか?」

 

 「能力を一々誰かに知られるメリットが少ない。そもそも、どこで情報が漏れるか分からない」

 

 「……ですが」

 

 珍しく口答えする夜見。

 

 ステインは目を細めて嘆息する。

 「今はまだ、実用段階じゃない。それでも報告するのか?」

 

 感情のない瞳が少しだけ悲しげに伏せた。

 「……分かりました。報告は先送りします」

 

 ステインはこの皐月夜見という少女が哀れに思えていた。それは以前の彼では絶対に思わないであろう他者への関心であった。

 

 それまでの彼は「正義」か「悪」かの二元論でしか物事を測れなかった。だが、この四ヶ月、そして百鬼丸との闘いにより、他者への関心が芽生えた。

 

 誰かに命令されるまま行動する。どれだけ理不尽な暴力にも耐える。

 傍から見れば馬鹿者にしか思えない。

 (全く不気味だ……)

 日々の彼女の態度は、全くなんの意識すら感じられない。不気味であり、それはまるで毒虫のように、できれば接触したくないとすら思えていた。

 

 哀れみと、軽蔑の二律背反がステインの心中に渦巻いている。

 

 「いつまで俺の近くにいる?」

 言外に「邪魔だ」と言っていた。

 

 しかし夜見は、

 「……ご命令とあれば、いつまででも」

 ややニュアンスが異なって伝わったようだった。

 

 「…………」

 ステインは今更言葉を弄して訂正する気力が失せていた。だから、

 

 「そんなことは別にどうでもいい。……ジャグラーという男が研究所を襲いに行ったのか? 俺はいつ戦うことができる?」

 話題を転換する。

 

 昨日、夜見から聞かされた話では、異世界の来訪者の一人、ジャグラスジャグラーがノロを大量にストックしている名古屋の研究所へと赴いたと聞いた。

 

 「……はい、研究所の襲撃は彼に一任しています。腑破十蔵の実力はタギツヒメ様との行動により実証済みですので。今回は彼の力量と能力の試験という所でしょうか」

 

 

夜風がビュ、ビュ、と冷たく吹き付ける。

 

夜見の白い髪が頬を隠す。毛先の黒は夜闇に溶けて見えない。

 

半月が空にかかっている。

 

星は生憎その姿を消している。

 

「……俺はまだ出番がないんだな?」

 

「はい」

 

「チッ」と、針金のようにチクチクと尖った箒のような髪をガリガリと掻いて首を左右に振る。苛立ちを紛らわせているようだった。

 

 

 

 

 ◇

 研究プラントに置かれた四面体の厳重に保管された「箱」。

 これは、珠鋼とノロを接近させることで反応を調べる実験の壁の役割を果たしているようだ。

 

 『ここでは、ノロを実験材料に使っているのですか?』

 と、その話を最初聞いたときの舞衣の反応は激しい憤りであった。

 曰く、刀使とは本来は巫女であり――負の神性であっても、否、古来日本では畏れ敬うことは同一である。ゆえに「ノロ」も敬う対象であらねばならない、という彼女の思想からすれば到底看過できるものではなかったのだろう。

 

 しかし、その不満にフリードマンは答える。

 

 ノロとは意識があり、自我がある。薫のペット「ねね」、「タギツヒメ」がその良い例であろう。祀られることは即ち無視である。

 ノロの根源的な意識には〝寂しさ〟があるのだという。

 

 寂しさは「穢」を生む。

 常にノロに対し関心を示している、ということを人間側からアプローチする方法があるのだ……とフリードマンはいう。舞草の里での祭祀を例に挙げて。

 

 「ノロはなにをそんなに寂しがっているんですか?」

  真摯な眼差しの舞衣がいう。

 

 「彼らは珠鋼を求めているんだよ。人の手によって無理やり分離させられた分身をね」

 

 あの四角い箱では、ノロに珠鋼を近づけ穢を浄化できるかの実験を行っている。事実、時間と距離に比例して穢を浄化している。……だが、一度分離されたノロと珠鋼は二度と再結合しない。

 

 

「社に奉られるだけじゃなく、ほかにもっといい方法がないか探しているんだよ。ほら、あの今実験をしていた箱の中……仮にニモと名づけているんだ。寂しがり屋のニモ。もし、ニモの声が聞こえれば、どうするのがベストなのか教えて欲しいんだ」

 

 フリードマンの言葉を引き継ぐように、

 

「私はその話を聞いてここへの出資を決めた」

 孝則は静かだが断固とした意思を口にした。

 

 

「…………。」

 煩悶の耐えぬ、浮かぬ顔つきで舞衣はガラス越しの「箱」を凝視していた。

 それは今まで「刀使」としての考え――ひいては価値観を揺さぶられる事柄であり、なにより父の普段見えぬ一面を垣間見た戸惑いもあった。

 

 ◇

 一旦は舞衣、エレンと別れた百鬼丸は、エントランス部で二人の後ろ姿を見送りながら、

 

 「しかし、本当によろしいんですか……」

 フリードマンに《無銘刀》を手渡しながら聞いた。

 

 彼は漆塗りの鞘から赤錆だらけの刀身を抜き出し、興味深げに眺める。数百年も雨風にさらされた金属がマトモな形状を保つことに興味をもったらしい。刀身をしげしげと見つめながら、

 「ああ、構わないよ。君の――ええっと、刀使の頼みだからね」

 眼鏡をかけ直しながらフリードマンは快く引き受けた。

 彼女たちと一緒に行動しなかったのは、ムネ子の正体を知る二人……エレンと舞衣がいると、大人たち三人と色々話しづらいのが主な理由である。

 

 「それにしても、エレンさんがここにいらっしゃるのは、何故でしょう?」

 

 隣にいたエレンの父、公威に問う。

 苦笑いを浮かべながら、

 「実は最近、ノロの強奪が相次いでいるらしいんだ。それで、護衛に、ね」

 

 「でしたら、美濃関が一番近い――ああ、なるほど」

 ムネ子はいいながら悟った。

 このような施設の場合、選ぶ側は管理者……つまり、フリードマンなどに権利が発生する。身内の久々の再開を意図してエレンを刀使として指名したのだと合点がいった。

 

 その素早い理解に、フリードマンは柔和な笑みを示す。

 「君は理解が早い方だね。でも、それは一面とても危うい。もうひとり君のような少年を知っているが、彼も自分がなんでもできると思って、全てを背負う傾向があるんだ」

 

 「……へぇ、そのような方が」

 渋面を必死に抑えながらムネ子は目線をフリードマンから逸らす。

 

 「西洋の言葉にはね。神は才人に暇を与えない、というものがある。……才能というのは、ギフトとも言うが、そのギフトは必ずしも与えられた人間を幸せにはしないだろう。……っと、アハハ、喋り過ぎたかな。ちょっと、この刀を分析機に――」

 

 

 言葉を言い切る前に、激しい揺れと火災報知のジリリリリリというけたたましいベルが鼓膜をつんざいた。

 

 「な、なんだ?」

 公威は驚愕の眼差しで、天井付近に設置されたモニターをみる。

 

 

 研究所のちょうど真東の棟から警告マークが表示されていた。……しかも、その距離はこのエントランス部分からほど近い。

 

 焦りを堪えながら、公威は白衣の襟に付けた小型マイクで、

 「東側近くの職員は急いで身の安全を確保してくれ。訓練ではない」

 館内全てに設置されたスピーカーを通して伝える。

 

 

 エントランスから遥か下を覗いていたムネ子が、

 「フリードマンさん。ここから急いで逃げろ。危ない……」

 少女……の声でなく、百鬼丸自身の声で冷静に告げる。

 

 「そ、その声は……百鬼丸くんか? いいや、そうか。分かった」

 白髪を掻きながら古波蔵夫妻と孝則に目配せする。イマイチ、まだ理解の追いついていない大人たちを尻目に百鬼丸は眼差しを鋭く、緊張を漲らせる。

 

 「緊急避難のために、一度共通の回廊を使おう」

 公威はほうけから醒めたように、スライド式の扉に手をかけ……

 

 「危ないッ、伏せろッ!!」

 百鬼丸が叫びながら、飛び出して公威の胸ぐらを掴んで床面に転がし伏せさせた。

 

 直後――扉から火炎の熱が圧し、空気を一気に灼熱へと変えた。

 

 視界を紅蓮の炎が目一杯に染め上げる。八〇〇度近くの灼熱が一瞬にして廊下を満たす。呼吸すらままならない――まるで、ボイラーの中に叩き込まれたかのように息苦しい。

 照り返す残照だけでも、ヒリヒリと皮膚が灼けるように熱い。

 

 扉は跡形もなく熔けて飴細工のようになっていた。

 

 たっぷり三〇秒経過した後、

 「ゲホッ、ゲホッ、大丈夫か……?」

 ムネ子……改め百鬼丸は背後を振り返りながら訊ねる。

 「ああ」

 孝則、ジャクリーンが床に伏せており、フリードマンは目で頷く。

 どうやら、無事らしい。全員が火柱の射線上に居なかったことが幸いした。

 (よかった……)

 安堵しながら、百鬼丸は火炎の来た方角の廊下に眼をやる。

 

 噴射された火炎は消え失せ、黒煙が濛々と空気に立ち込める。……遅れて、ジリィィィ、と廊下側の火災報知機のベルと共にスプリンクラーが作動する。天井から無数の水霧が噴出した。

 コツ、コツ、と硬い靴音を鳴らしながらフロックコートを羽織った男が悠然と廊下を歩いて来る。

 

 「ハハハハハ、へぇ、ここが……ノロを大量に貯蔵している研究所、か」

 首を巡らしながら、愉快そうに手を叩く。

 

 その男のすぐ背後からノソリ、ノソリ、と地鳴りが絶えず響き渡る。

 

 その化物は荒魂とは異なる、異形の怪物であった。

 

 剥き出しの牙から、唾液の粘着質な糸が口腔に満ちて床面に滴り落ちる。細長い瞳孔が獲物を探すようにしばらく周囲を見回した後、眼前に佇む人影へと意識を向けた。

 金色の細長い瞳が、百鬼丸の姿を映し、激しい敵愾心を募らせた。

 

 「なんだ、お前」

 不機嫌そうに鼻を鳴らして苛立つ。

 荒魂とは違う――否、比較にならない強さを感じる。そればかりではない。先程の火炎といい、動きといい、荒魂の同系統の怪物として認識してはいけないだろう。

 

 「ああ、またアナタでしたか。ええっと……名前は、確か……百鬼丸。だったかな?」

 一瞬で百鬼丸の女装を見破り、悦に入っているジャグラー。

 

 黒いシックなスーツの両ポケットに手を入れて、あの特有の小馬鹿にした態度で悠然と歩く。

 

 (くそッ、また奴か……しかも、今回は化物を引き連れてきやがって……ックソッ)

 冷や汗が百鬼丸の頬を伝う。

 流石に万全の装備でない状態でジャグラーと戦うのは難しい。ただでさえ、無銘刀は左腕の一本だけなのだから……。

 

 ふと意識が地面に転がった《無銘刀》に流れる。

 カチャ、カチャ、カチャ、と鞘に収まった《無銘刀》が小刻みに激しく動き出した。思わず手を伸ばして柄を握る。……掴む掌がじんわりと熱くなってゆく。鳴り止まぬ鍔。

 

 まるで、この狭い檻から出たがっているようだ。

 

 (――暴れん坊ですな)

 

 内心、嬉しく笑いながら百鬼丸は組紐で結んだ鞘と柄を歯で無理やり解き、その侭噛んで漆塗りの鞘を引き抜く。

 

 赤錆だらけの不格好な刀身が、金属の粉を振り撒きながら外気に触れる。

 

 「なんのつもりだ? そんな錆刀なんか持ち出して? あぁ?」

 おちょくられていると思ったのだろう、ジャグラーは激昂しながら叫ぶ。

 

 首を傾げながら、

 「さぁ? どうだろうな。おれもよくわからんが、コイツが出たがっていたから出したまでだ」

 笑う。

 以前のお返しとばかりに、目一杯馬鹿にした顔でジャグラーに答える。

 

 「貴様ッ」

 我慢の限界に達した。ジャグラーは額に青筋を浮かべて睨む。

 

 「キングザウルス三世、全てを焼き尽くせッ!」

 ジャグラーは命ずる。

 

 黒く分厚い皮膚の怪獣は、目測から一五メートルほどある。その巨体を、四足の脚でノソリ、ノソリと胴体を揺さぶる。長い尻尾を揺らめかせ、まるで我が物顔で研究所を闊歩した。

 首は長く特徴的な頭部の二本の尖角は白い。背中から尻尾にかけて扇状のヒレを靡かせる。

 

 廊下を含め、至る箇所で炎が燻っている。

 

 

 「へぇ、来るのか? いいけどよォ」

 言いながら、《無銘刀》を縛っていた組紐を後ろ髪を束ねる為に利用して、乱雑に纏める。頭を微動させて体勢を整える。

 

 「――んじゃ、悪いけど時間稼ぐから逃げてくれ」

 肩越しに、転がる大人たちへ言う。

 

 「百鬼丸くん……」

 初めてフリードマンは百鬼丸の瞳に焦りの色をみた。

 



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襲撃(ASSAULT)Ⅱ

 ――秩父長瀞、宝登山神社。

 

 伝説に依れば東征に出た日本武尊が、遥拝する彼の前に東北方より猛火が進行を阻んだ。しかして突如、巨狗が現れ猛火を鎮めたという。

 これを事実として考えると、約一九〇〇年前の出来事である。関東でも有数の古い社にも「ノロ」を奉る箱が当然、ある。

 四か月前から荒魂出現の頻発する関東一円では、殊に人々が社の周りに近づくことを国が制限していた。

 

 

 行楽地の地としても賑わう山も、今は人影が見当たらない。

 穏やかな秋の澄んだ空と共に鮮烈な空気が山には満ちている。緩やかな勾配の道の上になだらかな日差しが薄い蜜色になって幾条も枝間から斜めに射し込む。

 未だ緑葉が数多く見受けられる初旬。

 

 「ん~っ、気持ちいい~っ」

 背伸びをしながら腕を伸ばすと、不意に薫風に頬を撫でられた。甘栗色の髪が頬を一瞬隠す。葉擦れの音が無数に聞こえる。

 今回の彼女の任務は簡単な周辺調査であった。――特別祭祀機動隊の指揮官も務める真庭紗南の命令により、簡単な荒魂の調査を行っていた。通常、刀使の単独調査は例がない。というのも、荒魂との戦闘は必ず多数の刀使により行われるものであり、単独であれば死傷率が跳ね上がる為である。――が。

 

 衛藤可奈美のみは例外である。

 

 彼女の強さは無類であり、刀使の長い歴史において近似の人物を挙げるのであれば、ただ一人藤原美奈都のみが当てはまる。……可奈美の母である。

 

 「えーっと、もう少しで社に到着するかな?」

 スペクトラムファインダーの画面を眺めながら、きょろきょろと周囲を見回す。特に変わった気配は無い。

 

 「…………。」

 画面をぼーっとした眼差しで見つめながら、可奈美は唐突な虚無感に襲われた。

 

 (何やってるんだろう、私……。)

 全く手応えの無い任務。虚無的な時間の数々……。

 本当は色んな刀使と手合わせをして剣術に磨きをかけたいと願っていた。勿論、世間を安心させる為の大事な刀使の仕事でる事も理解している。……理解してはいるのだが、可奈美の中では煩悶が生まれていた。

 

 『可奈美は強い……。』

 あのとき、風呂場で沙耶香がいった一言。

 

 彼女は無意識に可奈美のひた隠しにしてきた本音を見抜いていたのだった。沙耶香自身も刀使の中では有数の剣士である。しかしその彼女を以てしても尚、比肩せざる実力差があった。

 

 誰も、現在の可奈美の強さに寄り添える者が居なくなっていた。

 

 ……恐らくは、《迅移》に特別な才能を有する十条姫和でさえ。

 

 最早、この強者としての孤独と渇きを理解できる者なぞ周囲には居なくなっていたのだ。そして何より最近では、他者との齟齬を自覚しながら、自らの胸中で本当の欲望を堪える事にも限界を感じ始めていた。

 

 「…………。」

 俯く。甘栗色の長い前髪が可奈美の表情を一切覆い隠す。……サッ、と突風が路上の落ち葉を浚う。前髪が跳ね上がり、可奈美の醒め切って感情の無い表情と、光のない瞳が絹糸のような髪の間から現れた。

 

 

 澱のように心の底に蟠った鬱積が、時々どこかで爆発しそうな気がしていた。

 

 

 脳裏にふと、ある人物の名前が閃いた。

「百鬼丸、さん……か」

飢渇していた欲望に、一縷の望みのようなものが射し込む。灼熱の砂漠に水を見出した人のように淡い期待が徐々に確信を以て、期待の明瞭な輪郭を覗かせた。

 

琥珀色の瞳が次第に光を取り戻し、柔らかな下唇が朱に色づく。瑞々しい唇を撓めて、真っ直ぐ前を向く。

 ばしっ、ばしっ、と両頬を手で叩き精神を明確に保つ。弛緩していた気分を一掃した。

 

 「――よしっ、早く調査終わらせてご飯食べなきゃ!」

 普段通りの明るい顔つきになった可奈美。

 

 ピピピッ、とスペクトラムファインダーに荒魂の出没を知らせるアラームが鳴った。

 長い睫毛を瞬かせ、

 「頑張らないと」

 再び自分に言い聞かせるように呟いて、白とピンクを基調にした色合いのスニーカーを素早く走らせた。

 

 ◇

 山頂、宝登山神社に続く石階段を登り終えると、嘘のように森閑とした雰囲気に包まれていた。

 「はぁ……はぁ……って、あれ?」

 急いで階段を登ったために短い息切れをしながらも、可奈美は余りの空間の静寂さに驚いていた。

 

 (どういうことかな……?)

 荒魂が発生すれば、独特の金属同士を擦り合わせたような鳴き声が、まず最初に聞こえる。次いで障害となる建物や様々な遮蔽物をなぎ倒しながら進む破壊――。

 

 そのいずれもが、無い。

 

 怪訝に眉をひそめながら、小首を傾げる。

 

 不気味なほどに無音で、沈黙というのは余に無機質である。

 

 スニーカーで地面を一歩一歩確実に行きながら、可奈美は御刀を下げる銀色のホルダーへと手を伸ばした。ネジのマイナス部分に似た金属の手触りを感じ、更にその奥の《千鳥》の白い柄巻を感じた。

 

 ……手に馴染む感触。

 

 一気に抜刀して、正眼に構える。

 通常の刀身よりやや短めに拵えられた《千鳥》は、陽光に照らされ明澄な輝きを放つ。

 先程までの可愛らしい顔立ちから醸し出される甘さは消え失せ、代わって鋭い眼差しはさながら鍛え抜かれた猟犬のように尖っていた。

 

 半眼に伏せられた瞼の下の琥珀色は、社の裏手に繋がる柱の一隅へと俊敏に動いた。

 すり足に等しい要領で移動する。

 

 無風。

 

 知らず知らず、鼓動が高まる。

 

 徐々に開けた視界から、ムカデの形状を模したような荒魂の残骸が地面に巨体を広げている光景が飛び込んできた。

 

 「――――?」

 疑問が浮かんだ可奈美は、両手に込める力を強めて《千鳥》を僅かに引き寄せる。

 

 社殿の正面とは異なり裏側は鬱蒼とした樹木の影に覆われ、且つ秋の気候が持つ乾いた空気感に満ちていた。

 

 ムカデ型の荒魂の頭部の部分に、人影が認められた。

 薄暗い中、俯き右手に不思議な形状の「刀」を掴む人。

 

 「あなたはここで何をしているんですか?」

 この状況で、一般人というには余に認識が滑稽と言わざるを得ない。状況から明らかに彼が倒したので間違いない。その証拠に、刀身にはベットリとノロの毒々しいまでのオレンジ色が粘りついている。

 しかも変わった格好をしていた。上着は死装束の長い袖のものを羽織り、下は赤い襦袢を、黒い帯で腰元を締めている。厚地のズボンに厚底のブーツ。

 

 そして何よりも風貌は、放埒に伸ばした黒髪に、口元には無精ひげが生えていた。彼の眼は常人のソレとは異なり、非常に冷ややかな印象をうけた。

 

 「なんだ? 小娘」

 

 突然声をかけられたにも関わらず、男は動揺する素振りすら出さず可奈美の方向へと頭を持ち上げた。

 

 枝を離れた落ち葉たちが、紗幕のように二人の間を流れる……

 

 その瞬間、両者の視線が交錯した。

 

 (――――この人、普通じゃない)

 可奈美は理解した。

 

 荒魂よりも危うい存在と遭遇してしまった事実に……。

 

 

 

 「さぁ~て、まずどうやってお前を料理してやろうか?」

 大きく目を開いて、ジャグラーは大きく首を傾ける。

 

 

 

 侮蔑、憎悪、軽蔑、嘲笑……その他雑多な負の感情を綯交ぜにしたジャグラー。

 

 こんなにも、胸の奥底の昂ぶりを感じたのはいつぶりだ? オレに屈辱を与えた、「あの男」の悔しがる顔をみた時か? いいや違う。

 

 

 目前の少年――百鬼丸は口では強がっているものの、その実は焦燥で苦しんでいる。彼一人であれば、この状況もさほどのものではなかったに違いない。しかし背後に居る人間を庇いながら戦う……

 

 「馬鹿だなぁ。つくづく苛立たせてくれるッ」

 肚が煮えるような気分だった。所詮ザコの人間なんて放っておけば良いものを、わざわざお荷物を増やす。その行動が理解できない。

 

 「なァ、なんでだ? なんで〝お前ら〟はいつもそーーーやって愚かな行動ばかりするんだ? 教えてくれよ」

 ジャグラーは人を小馬鹿にした薄笑いを潜めて、静かな怒りの口調と共に吐き出す。

 

 「なに言ってるんだ、お前……」

 唐突な変わりように、戸惑いながらも、百鬼丸は冷静さを保ち左腕を噛んで首を真横に振り抜く。スラリ、と銀色の輝きが現れた。

 

 

 「ふぅーーーーーっ、クソッ。やるしかねぇよな……」

 美濃関学院の女子制服を身にまとった百鬼丸。

 

 赤いプリーツスカートを翻す。同じく赤い制服の襟に付着した埃を右手で払いながら、首を回して体勢を整える。

 

 目の前に僅か数十メートルしか離れていない状況で、巨体を揺らす怪物。

 

 真正面からやり合う以外に方法が見当たらない。相手の具体的な能力も分からないままやり合うハメになっていた。

 

 (ちょーーーーーっと、キツイかなぁ……。)

 

 ……いいや、嘘だ。認めよう。本当は滅茶苦茶にピンチだ。そんでもって、打開策が無い。にじり寄る怪物の醜悪な雁首が上下に揺れる。クソッ、クソッ、クソッ。

 

 ローファーの靴底を擦って加速の準備体勢を整える。

 

 ちらり、と背後を窺う。エントランス部分と管理棟を繋ぐ通路。非常時に避難できるよう床面にハッチがあり、垂直上に梯子があった――

 

 (まぁ、これで逃げてくれるだろうな。問題は時間だ……)

 

 スーツの男、ジャグラーは交戦する意思がないようだ。

 

 「おい、どうした? もう最期の懺悔は終わったか? まだ時間が欲しいなら、泣きついて頼めば許してやるぞ。あっははははは」

 

 「ああ、どーも。クソみてーに待っててくれたお陰で、テメェの吠え面かかせる算段ができたよ。ああ、そうそう。サビ刀で十分だったぜ、お前なんか」

 

 ――ビュン

 

  と、百鬼丸の頬の皮膚が浅く削られて針形の傷ができた。ツツ、と血が流れた。凶暴な風の正体は、ジャグラーの持つ「刀」のようだった。

 四足歩行の怪物の傍でこめかみに青筋を浮かべながら、ひき攣った顔で睨みつけている。

 

 百鬼丸は不敵な笑みを口元に零す。

 

 「チッ」ジャグラーは気がついた。安い挑発に乗ったのだ、と。〝あの男〟ならば絶対にやらないであろう行為。しかしこの少年は平然と挑発し相手の思考を乱す。

 

 (こんなガキを相手に……)

 

 「いけ、アイツの人生を終わらせろッ」

 ジャグラーはキングザウルス三世に命ずる。黒い牛革のような皮膚が蠢動する。

 

 

 ――まず、負けない。

 

 と、ジャグラーは計算していた。彼にとって予想外なことはいくつかあった。その一つは本来的に怪獣の性質が変わっているということである。元の世界では倍以上の大きさがあった怪獣が、どうやらこの世界ではサイズが限定されるらしい。物理的制約があるようだ。察するに「この世」と「隠世」という二つの世界の干渉によって、異物である怪獣は物理的な制約を受けるのだろう。でなければ、それ以上の巨体では自重(内蔵の重量)によって、自然と歩行が困難になり、死んでしまう。

そしてもう一つ――キングザウルス三世は、本来ウランが主食である。しかし、この世界では負の神性「ノロ」を求めている。推測だがノロによってこの世界に顕現できているのだろう。従って、火炎の際に生ずる放射能は発生せず、単なる高火力の火に過ぎなくなった。

 

 

 そもそも、キングザウルス三世は前世では正面以外の……つまり死角となる上部から攻撃を受けて死んだ。しかし、この研究所の廊下は大規模な機材搬入を想定している為、二〇メートル四方で、このサイズならばキングザウルス三世も動くことが可能であった。

 

 (これで、上部や下部からの攻撃はできない。それに正面で対峙をせざるを得なくなったワケだ……。)

 

 完全に弱点は封じた。

 

 

 ゆっくりと、百鬼丸を窺う。

 

 

 「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 

 ありったけの雄叫びで、百鬼丸は飛び出した。

 

 空中から一気に打ち出す一撃。

 

 左腕の《無銘刀》を思い切りキングザウルス三世の角の間……即ち、眉間を貫く予定であった。

 

 

 予定であった。

 

 

 だが、そうはならなかった。

 

 

 「なにッ……」

 咄嗟に百鬼丸は驚愕を洩らす。

 

 金色の怪獣の双眸がギロリ、と百鬼丸の像を映した。

 

 バチチチチ、とスパークするような響きと共に虹色の半透明な燐光が怪獣の頭部を面状に広がっていた。

 

 「なんだこれはッッ」ーーいくら力を込めても、貫くことは愚か刃が弾かれそうになるのを堪えるだけで精一杯だ。

 

 「あはははっは、おい! さっきの威勢はどうした? ――ん?」

 耳をワザと前に出して挑発するジャグラー。意趣返しができて、スッキリしているようだった。

 

 

 「くっ!!」

 

 焦りが百鬼丸の胸を満たす。

 

 (やっべーーーな、おい)

 

 これまでに戦ってきたどの相手とも違う。異端、異物、どの言葉にも当てはまって、どの概念にも当てはまらない。

 

 『グォオオオオオオオオオオオオ』

 

 キングザウルス三世が吠える。

 

 大型機材のスピーカーを耳元で鳴らされたような迫力があった。臭い粘液の口腔を真っ赤にして開き、更に叫ぶ。

 

 『グォオオオオオオオオオオオオ』

 

 透明な障壁は尚、斥力を強めて《無銘刀》を弾き返した。

 

 そして、四足の股の間から器用に自らの長い尻尾を突き出して、百鬼丸へとブチ当てる。

 

 

 「ぐほっ………ゴボッ」

 

 胴体の真ん中にヒットした。盛大に口から鮮血を吐き出して床面に撒き散らす。そのまま地面に転がり、人形のように百鬼丸は動かなくなった。

 

 

 (どーなってんだ、オイ)

 痺れる頭と白く霞む視界の焦点が絞れるまで、待ちながら微かに頭を持ち上げる。

 

 右手の《無銘刀》は、ハッタリであった。そもそも、こんな刀に心の底から期待なんてしていない。――何より、威力偵察のつもりだった一撃から思わぬ反撃を喰らうハメになった。

 

 転がったままの百鬼丸を見下しながら、

 「もうオワリか? なぁ?」

 喜悦に染まった表情。ジャグラーの端整な顔立ちは歪んでいた。「……まぁ、いい。その不愉快なツラをさっさと消せ」

 瞬間に切り替えて、隣のキングザウルス三世に止めを刺すよう指示する。

 

 

 グォオオオオオオオオオオオオ、と反応する。

 

 

 「ちっと、マズイかな」

 力の抜ける脚を励ましながら、百鬼丸は立ち上がる。

 

 ふと背後に、フリードマンたちの気配が無くなっていた。恐らく無事に逃げることができたのだろう。

 

 (よかった……。)

 

 安堵を覚えながら、目を眇めて怪獣を見返す。

 

 

 (ここで、加速か? それとも――)

 

 僅かな間の逡巡――

 

 

 

 

 『百鬼丸さんっ!!』

 

 『まるまるっ、助太刀デース』

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 バッ、とその方角へ頭をやる。

 

 

 エントランスから斜め上の階の研究棟、その共通回廊に貼られた窓ガラスから舞衣とエレンの姿があった。

 

 「ば、ばか! 早く逃げろ――」百鬼丸は思わず怒鳴る。

 

 

 ――と。

 

 『バカは百鬼丸さんですッ!』

 舞衣は鋭く言い返した。

 

 

 「……え?」

 

 初めて聞く舞衣の怒り。

 

 「昨日、私に言いましたよね? 〝刀使なんていらない〟って。今からその言葉が間違いだったと訂正してもらいます。いいですか?」

 丁寧な口調で怒っていた。

 

 「ま、マイマイ?」

 

 隣に居たエレンも口をポカンと開け驚き舞衣を窺う。

 

 その有無を言わさない圧力に思わず百鬼丸は頷いていた。その間の抜けた表情が余程おかしかったのだろう。舞衣は不意に口元を綻ばせる。それから、笑いを消して、

 

 「――任務を開始します」

 

  真剣な声音で、翡翠色の美しい眼に薄青の光を煌めかせた……。

 

 



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襲撃(ASSAULT)Ⅲ

 研究所襲撃の前……。

 

 綾小路武芸学舎の執務机にうずたかく積まれた資料や書類の山に挟まれ、高津雪那は苦虫を噛み潰したような顔で紙面に目を走らせた。

 

 その時、コン、コンと扉が軽く叩かれた。

 

 「――ちっ、何だ?」

 棘のある声音で返事をする。

 

 雪那の鋭い眼差しの先には、案の定皐月夜見が扉の付近に佇んでいた。人形のように一切の表情が無い夜見の光がない瞳が微かに動いた。

 

 「異世界の来訪者、ジャグラスジャグラーが名古屋の特別希少金属利用研究所に襲撃を仕掛けるようです。また、同じく来訪者の腑破十臓は関東に赴き、ノロの回収をするとのこと。全て事後報告で先程伝えられました。」

 

 夜見の抑揚のない淡々とした報告に危うく聞き流すところだったが、明らかに問題行動だ。十臓はまぁ、いい。問題はジャグラーだ。巨大施設をいきなり攻撃して、今後の計画の足枷にしかならない。

 

 「クッ……あのバカどもがッ!! なぜ、私の邪魔ばかりするのッ!!」

 思わずヒステリックに叫んだ。それから眉間に深く皺を刻み頭を抱える。

 

 「どぉおおおおーーーーして、こうなるのっ!?」

 折角、内閣や刀剣類管理局などにも根回しを図っているというのに、肝心の戦力たちがすき放題に戦闘をおっぱじめている。計画の頓挫すらありえるだろう。そして、このツケは必ず実務を取り仕切る高津雪那の帰するところになるだろう。

 

 この書類の山はひとえに、始末書の類だといえた。

 「くっ……!!」

 胃がキリキリと痛む。目元を顰めながら、右手で腹の辺りを押さえる。最近は特にバカどものおかげで、体の不調が続いていた。

 

 

 頼んでもいないのに、ホイホイと問題を作ってゆく異世界の来訪者たち。タギツヒメから命じられた時から思っていた嫌な予感は悉く的中していた。

 

 

 

 

 ふわり……と、暖かな湯気が雪那の頬を撫でた。

 

 

 

 「なんだ?」

 ふと、目を横にやると夜見がすぐ傍で小盆を持ち、その上に白湯を湛えた杯があった。しかも丁寧に胃薬まで備えている。雪那がひとり逡巡している間に用意したのだろう。

 

 「クッ、忌々しい!!」

 妙に気が回る夜見に毒を吐きながら素早く杯を掴む。二三口を潤しながら、

 「それで、報告は終わりか?」

 

 「はい、今のところ変化はありません。ただ綾小路の相楽学長は未だ〝近衛隊〟の計画に渋っている様子です」

 

 「フンっ、まったく。……どいつもこいつも使えないわね。まぁ、いいわ。……いたたっ……」大声で喋ったものだから、胃袋に痛みがはしった。

 

 「大丈夫でしょうか……?」

 手を差し伸べた夜見。

 

 「だ、黙れッ――、この役立たず!」

 勢いよく叩いて反発した。

 

 

 額に青筋を浮かべながら、雪那は考える。

 (あのジャグラーという男が研究所を破壊することは既定路線とするなら、特別祭祀機動隊の動きにも変化がある。……つまり〝あの男〟の耳にもこの件の情報は入るでしょうね。)

 

 お腹をさすりながら、更に憂鬱の種を思い浮かべた。

 

 「……夜見、もう一杯白湯を持ってきなさい」

 高圧的な物言いで命ずる。

 

 「はい」

 自身の気遣いが無駄に終わらずに済んだことと、必要とされた事に対して、僅かに表情を和らげる夜見。

 

「それから、内閣府情報戦略局の〝あの男〟から電話がきたらすぐ教えなさい」

 

 「はい」

 

 ――――まったく、お前はこんな所でしか役に立たないんだから。

 

 そうイヤミを言う雪那の言葉にすら、夜見は満足感を覚えていた。

 

 

 

 

 ◇

 「げほっ……げほっ……」

 照明は火炎に熔けた。熱気の蟠る薄闇に、埃灰が粉っぽく大気に漂う中を進みながら軽くむせた。袖で口と鼻を覆いながら先に進む。柳瀬舞衣は神経を集中させて視覚と聴覚を研ぎ澄ます――。

 

 刀使の能力の一つに、

 《明眼》

 というものがある。

 

 刀使の特殊能力のひとつであり、視覚の大幅な拡張(暗視、熱探知、望遠……。)などを行うことができる。一説によると、機械よりも確かな精密さを誇るという。しかしこの能力自体を発揮できる刀使の数は少ない。

 

 更に現在、《透覚》を同時に使用しながら。

 

 この《透覚》は、聴覚の能力拡張であり刀使の技の一つである。周囲のノイズカットや集中を意識的に抽出することが可能である。――が、この《透覚》と《明眼》を二つも持ち合わせ、使うことのできる刀使は殆ど稀と言ってよい。

 

 その中で、柳瀬舞衣は幸運にもその両方を兼ね備えることができた。

 

 ……以前、舞草で集団戦闘訓練を行う際に真っ先にこの能力を見込まれて、リーダーになった。殊に集団戦における《明眼》と《透覚》は無類の強さを発揮する。しかも、彼女自身の明晰な頭脳と理論的な戦闘分析により、死角というものが無い。

 

 ――しかし本人の精神的脂質に依る欠点が結局のところ、大きい。

 

 余に優れた才は、時としてその本人をしても制御不可能であることが多い。

 舞衣の場合、自己評価の低さによる能力の無意識下での制限である。彼女は良くも悪くも優等生であり、そして近くにはいつも「衛藤可奈美」という天才が居た……。それ故、己の才能に固執することなく、弛まぬ鍛錬で刀使として鍛え上げてきた。

 

 ……が。

 

 それは反転すれば、自己の欠点が見えすぎてジレンマに陥るという不運を招いていた。

 

 ――柳瀬舞衣、という一人の刀使としてみた場合、その個としての能力はある程度の目測がつく。しかし、「協力」という段階に入った場合――彼女は計り知れない強さを誇る。

 

 そのタイミングが〝今〟であった。

 

 

 ◇

 『百鬼丸さん、私たちが到着するまで生き延びて下さい。どれだけ耐えられますか?』

 珍しく大声で舞衣は、砕けたガラス窓から叫ぶ。

 

 一瞬だけ舞衣を眺める目を丸くした百鬼丸は頭を掻きながら、

 「一〇〇年くらいかな?」

 意地悪く口を曲げる。

 

 ……どうあっても、耐えるつもりらしい。

 「ふっ」と口元に小さく笑みを零して百鬼丸を見返す。

 

 彼は視線を即固定して相手から外さず返事をしていた。

 

 (百鬼丸さんの余裕が無い……本当に強い相手……。)

 

 

 「分かりました。ずーーーーーっと耐えて下さいね?」

 

 困ったように後頭部をガシガシを掻きながら、左腕の刃を掲げて左右に振り「了解」の合図を示す。

 

 《明眼》を発動させながら、舞衣は敵の……荒魂とは異なる四足歩行の〝怪物〟を観察する。角から放出される面状の透明な障壁……想像を絶する火炎。

 必死に解決の糸口をたぐり寄せる。

 

 戦闘のプロである百鬼丸も今は敵の攻撃を躱すので精一杯らしく、思考する暇すら無いようだ。

 

 ――だったら。

 

 「エレンちゃん」

 

 「ハイ? どうしまシタ?」

 

 「この研究所の見取り図はあるかな?」

 

 「イエス! もちろんありマスよ!」

 親指を立てて碧眼をウィンクさせるエレン。――彼女は現在、長船の制服ではなくピンクのフリルが多様されたロングスカートの衣装を身にまとっていた。

 「これデス!」

 フリフリの袖から差し出された携帯端末の画面には詳細な見取り図が映し出されていた。

 

 瞬きして、一時《明眼》を解いた。

 「ありがとう。でも、エレンちゃん……」

 

 「……? どうしマシタ?」

 怪訝に眉をひそめる。

 

 「エレンちゃん、その洋服お父さんからのプレゼントだって聞いたけど、その……」

 

 舞衣の言いにくいそうな様子から察したエレン。

 

 「これでは闘いにくいノデ、こーしマスっ!」

 ピンクのロングスカートのレースから《御刀》で切り裂き、脚の可動部を広くした。

 

 「え、エレンちゃん!?」

 舞衣はその予想外の行動に仰天した。……本当は、エレンは後方へと下がるように説得する筈だったのだ。

 

 それを見抜いていたエレンはウィンクしながら、

 「ワタシも刀使デ~ス! マイマイ、マルマルと一緒に闘いマスよ!」

 陽気な口調と態度から想像できない強い覚悟だった。

 

 舞衣はそれ以上なにも言わず、頷いた。

 

 「分かった。行こうエレンちゃん」

 

 ◇

 エントランス部より一階下の共通回廊。

 人間であれば通行に不自由しない幅の廊下だが、一五メートル級の怪獣であればまず襲ってはこれない。……そう判断した百鬼丸。

 

 エントランスの割れた強化ガラスから飛び降り逃げる。

 「つーか、なんだあの化物」

 廊下を走り、距離を大分とった。

 僅かに生まれた時間的余裕から、先程の状況を整理して対策を練る。

 

 明らかに荒魂とは異なる性質。容貌。能力。

 

 仮に舞衣やエレンを戦力としてカウントした場合、どうやって攻略を……。

 

 「ああぉああああああクソ、クソ。あいつらはカウントしない。おれ独力で倒す。よしッ」

 

 『おいおい、もうおしまいか? 期待したほどでもないなぁー。アイツだったらこんな時にも必ず反撃をするんだが……ま、お前にはムリだな』

 

 大声で叫ぶジャグラー。

 まるで百鬼丸を睥睨するように嘲笑い、ズボンのポケットに両手を入れて悠然と構えている。

 

 「あ!? うっせー、腐れチ○ポ野郎が!」

 

 中指を立てて百鬼丸は挑発する。

 

 

 『なっ、なんだと!?』

 ジャグラーは下品な言葉に少し狼狽えた。

 

 

しかし、その取り乱しを冷静になった頭で「ゴホン」と咳払いすると、

 「まぁいい。お前が逃げ回るなら鬼ごっこだ。この研究所の人間を焼き殺しながらでも追い詰めてやるぞ」

 あはははは、と高笑いする。

 

 (チッ、腐ったヤローだな)

 

 百鬼丸は、目を眇めて必死に次の手を考える。

 

 

 睨みつけながら、上を仰ぎ見る。

 

 

 (……ん? なんだあの……)

 

 百鬼丸は異変に気がついた。

 

 突如、ジャグラーの背後に、黒いローブを身に纏った影が鋭い斬撃を一閃打ち込む。

 

 『隙ありッーーーーーーー』

 凛乎とした声音がエントランスに反響した。

 

 

 

 

 ガギッ、とジャグラーは背後も振り返らずに「刀」を顕現させて、一撃を受け止める。

 

 「おお~危ない危ない。この〝蛇心剣〟がなければ首が落ちてましたよ」

 薄笑いを浮かべ、襲撃者の影を弾き飛ばす。

 

 

 「……どなた様でしょうか?」

 振り返りながらバカ丁寧に問う。

 

 ローブの影は床面に落ちて砕けたガラスの破片を踏みしめながら進み出る。

 フードを、サッ、と取る。

 「元折神家親衛隊第一席、獅童真希だ!」

 



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65話

今回は十臓のオリジナル設定ありです。もし史実にいたらこんな感じかな? と設定してみました。


 「小娘、お前……名前は何と言う?」

 低く老人のように嗄れた声で十臓が訊ねる。

 野放図に伸ばされた髪の間から、切れ長の眦に意思が篭っていた。

 

 無意識に口をついて、

 「衛藤……衛藤可奈美。特別祭祀機動隊、美濃関の刀使です」

 形式的な口調で答えていた。

 

 ブーツを翻して可奈美に向き直った十臓は口元の無精ひげを右手で撫でる。秀でた眉をひそめながら、

 「俺は腑破十蔵。お前は、〝孤独〟を――胸の渇きを感じたことはないか?」

 

 「えっ……?」

 まるで何かを見透かしたかのような鋭い眼差し。可奈美の不満が的確に抉り出されたような気持ちがした。

 

 フッ、と十臓は口に笑みを湛える。

 「その表情……なるほど、お前も感じたことがあるのだな。俺には分かる。お前は強い。志葉丈瑠と同じ匂いがする」

 

 (志葉丈瑠……? 誰だろう?)

 正眼の構えをとりながら可奈美は十臓の言葉に知らず知らず耳を傾けていた。

 

 「俺もそうだった……。とっくに戦雲の夢は覚めて、世は太平無事となった。だが、俺には足らなかった。なぜ、天は俺を戦乱の世に生まなんだ、と呪ったことも幾度となくあった」

 

 ……生まれた時代が悪かった。

 

 もし、この俺が戦乱に生まれていれば身を焦がす闘いすら飽きることなく堪能できただろう。血肉の踊る殺し合いを……望めただろう。

 

 「お前は、俺と同じ匂いがする」

 腑破十臓は首を巡らす。――

 

 ◇

 腑破家は、十臓の代で途絶えている。

 江戸期の武家を詳細に書いた「武鑑」に依れば、元は戦国期の遠州に流れ着いた一族だと云う。森鴎外の渋江抽斎に詳しい、この「武鑑」では腑破家が不可解なまでに抹消されている。

 

 ……思うに、初期幕府は江戸の町を震え上がらせた「人斬り」について隠蔽した痕跡がある。

 

 

 腑破十臓が14歳の頃、九州島原に居た。

 江戸期を通しても大規模といえる内乱に、幕府方十数万を控えて原城を囲んでいた。その陣営に旗本の馬廻り衆として参加していた。

 長い籠城に、堅固な守り。最早戦を知らぬ世代の幕府では想像以上に攻めあぐねていた。

 

 中軍に位置する野営天幕の中に駆け込む一人の若武者がいた。

 「父上、今日は敵勢の首を十二ほど刎ねてきました」

 顔を朱に染め上げ莞爾と頬にえくぼを作る。……濃密な血の香りを嗅ぎながら、十臓は血まみれで脂のこびりついた太刀を、布切れで拭うと無造作に縄で連ねた首を地面に転がす。

 

 父である腑破家の当主は、我が子の異様な能力に困惑した。

 「そ、そうか……よくやった」

 傅きながら、目を爛々に輝かす十臓を気味悪く思った。確かに戦国の頃であれば、彼は名のある人物と言われただろう。しかし天下が定まり、最早この乱が終われば、この息子の才能は不要といえるだろう。

 

 「次、次はもっと多くの人間を刎ねて参ります」

 独断で敵の城に乗り込み、撫で斬りにしてゆく息子が空恐ろしくなっていた。

 

 

 

 島原の乱も、幕府最高の頭脳と名高い松平伊豆守信綱が指揮をとることより、展開が好転した。それまで散発的だった投石と銃撃の音は静まり、まるで死んだように静かだった。

 

 

 薄く黄色い雲の帯が空を漂う。

 寛永十五年、旧暦二月二八日。(現在の四月十二日)

 幕府は総攻撃を原城に仕掛けた。それまでの、包囲による兵糧攻めによって既に城方は虫の息であった。

 弾薬も尽きて、投石の勢いすら弱い。

 郭になだれ込む大勢の兵士が、そこにはあった。

 

 

 「あははははははははッ、そうだ、もっと舞えッ、踊れッ!!」

 武具を脱ぎ捨て、空身の状態で郭の柵にしがみついた十臓は、そのまま口に咥えた刀を手に持ち替え、次々と斬撃を繰り出した。

 

 ――ギャッ

 

 ――ウッ

 

 ――アッ

 

 という、短い悲鳴を聞きながら高まる興奮。男はもちろん、女子供も無慈悲に殺していった。竹槍で攻撃を仕掛けた人間の首を跳ね飛ばし、助けを求める妊婦の腹を切り裂いて、哄笑する。

 まさに殲滅戦であった。

 

 「あははは……ん?」

 死んだ幼い子供の手に握られていた紫石の十字架を見つけ……十臓はその手ごと十字架を踏み潰した。ゴリッ、ゴリッ、という得体の知れない肉の潰れる音と共に、バラバラに砕けた十字架。

 

 悲鳴……悲鳴……悲鳴。

 

 「最高だ……ああ、最高だ……」

 十四の十臓は天を仰ぎ見ながら、人間を斬る喜びに打ち震えていた。血の雨が文字通り十臓を濡らす。

 

 

 ◇

 しかし、十臓の父の予想通り……以後、戦の気配すら無くなっていた。

 

 「ゴホッ……ゴホッ……なぜだッ!!」

 二〇代の半ばになった十臓は病床の中にあった。

 結核に冒された十臓は、普段の素行が悪く腑破の家から勘当された。妻と共に町人長屋の狭い一隅に押し込められていた。

 

 「なぜだッ……なぜ、俺がこのような屈辱を受けねばならんのだ!?」

 あの時、島原の乱では信綱から直々の感謝状を賜った。

 

 (だのに、なぜだ? なぜ世の中は変わってしまった?)

 

 武士は武士ではなくなった。そのような階級が存在こそすれ、実態は単なる文官であり、腰抜けであった。本来の武力による出世は望めず、皆、畳の上で死ぬことを無情の喜びとした。

 

 「ぬるい……温すぎる……」

 いつの頃だろうか。

 日々鬱屈する気分と、あの時に覚えた肉骨を断ち切る感触。悲鳴。それらが十臓にとって忘れがたい快楽を孕ませていた。

 

 

 

 

 橋のたもとで、柳の葉が揺れる。薄墨を流したような夜。

 「なぁ、助けてくれ……金か? あ? 必要ならくれてやるから命――ギャッ」

 助命虚しく、町人の男の首は切断された。

 

 「ゴホッ……ゴホッ……クソッ、足らぬ。足らぬ……足らぬ……」

 気が付けば、十臓は江戸の町を震え上がらせる正体不明の人斬りとして名を馳せていた。

 

 (どうせ、この身が尽き果てるのだ……であれば、好きに生きてなにが悪い?)

 

 腑破十臓は人を斬り続けた。

 一つの辻で出会い頭に無秩序に斬り捨てていった。

 

 やがて、幕府はこの連続する人斬りの正体を十臓と理解した。――外道に堕ちた腑破十臓。

 

 以後、彼の記録及び詳細は語られていない。しかし、現在では都内某所の寺に小さな無縁仏があり、そこに腑破の名が薄く刻まれているという。

 

 推測であるが、腑破家はお家取り潰しの上、一族郎党皆殺しが待っていたのではないかと考えられる。

 

 ◇

 

 「可奈美、といったな。俺と剣を交えろ」

 十臓は『裏正』を構える。

 

 

 

 (――なんだろう、この独特な構え……)

 

 目線の高さに刀身をもってゆき、刀を逆さに持つ。

 

 

 「両刃刀っ……!?」

 可奈美は思わず叫んだ。

 

 ――両刃刀とは、その名のとおり刃と峰に刃が備えられた日本刀のことを指す。さらに峰の部分は、まるでチェーンソーの刃のように露骨に凹凸が激しく、深紅である。

 

 「そんな刀見たことない……」

 その妖しい輝きに、可奈美は琥珀色の瞳を閃かせながら呟く。

 

 (だめっ……今は集中しないと――)

 

 可奈美は思わず頭を左右に大きく振る。

 

 認めたくはないが、この目前の男「腑破十蔵」に惹かれている。その怪しい雰囲気といい、常人ならざる妖気といい、殺気といい今の可奈美を満足させるだけの相手だと本能が知らせているのだ。

 

 「……では、こちらからいくぞッ」短く告げる。

 

 直後、数メートルあった距離は一気に縮み、《千鳥》が逆刃刀の激しい衝突を受け止める。

 

 「くっ」

 目を眇めながら、可奈美は咄嗟に《写シ》を体表に貼る。薄白い膜のようなものが、可奈美を守る。

  

 「ほぉ、それがお前ら刀使の能力の一つか?」

 十蔵は愉しげに笑う。

 

 「せやぁーーーっ!!」

 八幡力を駆使して十蔵との鍔迫り合いから抜け出す。――この《八幡力》とは、刀使の能力の一つであり、通常では考えられない身体能力の向上、例えば筋力などの増強などを図る。

 

 弾き飛ばされた十蔵は首を小さくひねりながら、刀使の力を一つずつ認識してゆく。

 「なるほど……この世界は面白いッ!!」

 余裕な様子で十蔵は一人頷く。

 

 「はぁ……はぁ……」

 予想以上の強敵に、可奈美は既に肩で息をしていた。

 

 (この人の剣の流派は……分からない。だけどすごく原始的な太刀筋で、それでいて闘いの嗅覚が凄い)

 

 柳生新陰流の可奈美は「後の先」を得意とする。

 相手の出方を粗方みた後は、その攻略に入る戦術である。

 

 しかし、この腑破十蔵に限って言えば、まったく事情が異なる。

 (技の出し惜しみなんかしてたら、勝てないよ……ね)

 人差し指から薬指の三本の指を殊更に力を込め、可奈美は運動シューズの裏を浅く削る。

 

 一瞬、瞑目したかと思うと、左に結んだ小さな尻尾のような髪が揺れた。

 

 可奈美の体が消えた――と、十蔵は認識した。

 

 

 が。

  

 それは大いなる間違いであった。

 

 「えいッ!!」

 肚の底から吐き出された叫びと共に、可奈美が十蔵の側面に回り込み突きを繰り出す。

 

 切先が十蔵の肩先を浅く削った。白い上衣が破れた。

 鼻で息を逃しながら、可奈美は狙いを絞りきれずにいた自身の甘さを瞬時に理解した。そしてその逡巡を読み取った十蔵は口を怒りに歪める。

 

 「なぜだ!? なぜ手を抜くッ!?」

 十蔵は不意を衝かれた怒りよりも、可奈美の覚悟不足に怒りを覚えていたのだ。

 

 

 《迅移》により高速加速をした可奈美は文字通り、素早く回り込み不意打ちを喰らわすことが可能だった。

 

 ――が。

 

 「このッ」

 十蔵は《裏正》の刀身で、自身の左肩に伸びた千鳥の鈍色を跳ね返す。

 

 「くっ――――!!」

 強力な膂力によって、可奈美は地面を摺りながら後方へと飛ばされた。

 

 ◇

 

 はぁ、はぁ、はぁ……。

 

 自分でも分かるくらい荒い呼吸。余程緊張してたんだろう。噎せて咳をしながら、口元を制服の袖で拭うと、左手が小刻みに震えている。……多分これは恐怖じゃなくて、筋肉の疲労が原因。筋肉が酸素を求めているんだ――。

 

 「おい、可奈美。お前……笑っているのか?」

 

 目前の男が私にそう問いかける。

 

 ――えっ? 私が笑ってる?

 

 その言葉で頭が真っ白になった。

 

 「うそ……」

 知らず知らず、拭った左の指先で私は自分の顔をなぞる。

 

 頬まで釣り上がった口端、垂れた目尻……。微熱を帯びる耳と頬。

 

 高鳴る鼓動はきっと……ううん。この十蔵っていう人の言う通りだと思う。私はさっきからこの人との斬り合いを楽しんでいるんだ!

 

 だけど……小さく私は首を振っていた。

 「ち、ちがうよ……これは……」

 

 あれ? なんで私、声が上擦っているんだろう?

 

 「だって、ただ……刀使として……そう、刀使として貴方を止めないと……」

 

 ううん。これは嘘。嘘だ。本当は一目見た時からそのオーラで、剣を交えたいと思っちゃってたんだ。

 

 「止めないと……」

 

 

 私がそこまで言って、大上段の構えをとる。

 

 

 だけど、向かい合う男……十蔵は薄笑いを頬に浮かべた。

 

 「一体いつまで自分の気持ちに嘘をつくんだ? 可奈美――お前はとっくに気がついている筈だぞ。お前も俺と同じ〝コチラ側〟の存在であることを」

 どこまでも落ち着いた声音。

 

 その一言が、私の胸を乱した。

 

 「――なんで? どうして?」

 どうして分かるの?

 危うく本音を漏らしそうになった。

 

 だけど、言葉にしなくても十蔵は肩をすくめる。

 「剣を、刃を交えて理解した。お前は……俺と同族だッ!」

 

 喝破されていた。

 

 

 ◇

 

 衛藤可奈美は、間違いなくこの瞬間を愉しんでいた。長い睫毛を微かに湿らせ、桃色の吐息を吐きながら、薄い朱に染まった頬。

 

 闘いが長引くにつてれ、彼女の中の隠された本能と欲望が渾然一体となって、剣に……《千鳥》に憑依している。

 

 未だ、十四のうら若い乙女におよそ似つかわしくない、艶やかな恍惚とした貌で、千鳥を握っていた。

 

 仄かに香る色気の匂い……。

 

 尖った眼差しの半眼が、更に先鋭化する。琥珀の光彩が、一際輝いた。

 

 



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襲撃(ASSAULT)Ⅳ

再投稿にしました。


 ◇

 獅童真希が吼えた。

 鋭い眼差しの先に佇む、不気味なまでに余裕に満ちた男――ジャグラスジャグラーが首を右に傾けた。

 「へぇ、中々可愛らしいお嬢さんだ……が、今の一撃は素晴らしい」

 素直に賞賛しながらポケットから手を出して拍手する。

 

 露骨なまでに不敵な態度に、真希は眉をひそめる。

 「一体なんのつもりだ? お前も……タギツヒメの関係者か?」

 

 「ふふふふっ、まぁそんな所ですかねぇ」

 

 「この施設に襲撃をかけたのも、ノロを狙ってだな?」

 

 「ノロ……ああ、あのドロドロとしたオレンジ色の物質ですね。――ええ、そうですよ。しかし質問の多いお嬢さんだ」

 

 「ふざけるなッ、貴様たちが何の目的があるかは知らないがこれ以上好き勝手にさせてたまるものか!」

 黒いローブの端を翻して、御刀を構える。

 

 〝御刀〟《薄緑》――通称「吼丸」

 

 源氏とゆかりの深いこの御刀は、源平盛衰記などの書物にも顔を出す。「天下守護の勅旨」により製造されたひと振り。その完成におよび命令された源満仲は、刀の出来栄えに満足したという。

 

 ――その来歴の通り、天下を守護する御刀。

 

 (その名に恥じない生き方でなければ、ボクのこれまでの汚名をすすぐことは出来ないだろうね)

 

 鈍色の刀身を眺めながら、左大上段に構えを移す。

 

 獅童真希の操る剣術は神道無念流である。……ことに幕末期に活躍する千葉道場と双璧をなす練兵館の主流流派である。長州藩士もこぞって教えを乞うた練兵館の神道無念流を一言で言えば「力」であった。

 

 その昔、さる剣術家曰く、

 『位の桃井、技の千葉、力の斎藤』

 と評した。

 

 斎藤……即ち、練兵館の道場主を指す。

 

 「獅童真希、推して参るッ!!」

 叫びと共に《迅移》の発動を脚に促し、化物の隣に立つジャグラーへ一撃を打ち込んだ。

 

 しかし、その斬撃は空を斬る。

 

 「……くっ」

 手応えのなさに、真希は眉間に皺を深く刻む。

 左からの袈裟斬りを、音も形もなく避けた……のではない。視界からフレームアウトしたのだ。

 だが今更そのような異常に心を乱される真希ではない。それに刀使同士の闘いでも《迅移》で回避された場面はいくつもあった。

 

 ヴォオオオン、という耳をつんざく斬撃の剣圧が真希の左頬を嬲る。

 素早く背後に意識をにやると、ジャグラーが右手首を回しながら刀を握っている。

 

 「まだ狙いも威力も調整が必要……なるほど」

 

 まるで他人事のように呟くジャグラー。真希など存在しないかのような振る舞い。

 

 「舐められたものだな……」

 真希は半ば呆れ気味に肩をすくめる。

 

 『おい! 黒マントのヤツ!!』

 下の階から、百鬼丸の叫び声が聞こえる。

 

 「……チッ、なんだっ!!」

 ピリピリ緊張した雰囲気をブチ壊されて、機嫌が悪くなった真希。思わず反射的に怒鳴って返事をする。

 

 『お前も一度退却しろッ! コッチに合流だ、合流!!』

 

 横目で下の百鬼丸を眺める。

 

 「あぁ、騒々しい男だ……全く。ふっ、獅童真希? と言ったかな? 逃げる時間くらいは用意してやる――どうだ?」

 蛇心剣を空中に投げ、霧散した。完全に舐めきっている。

 

 (……こんなに馬鹿にされていても不思議と腹が立たないのは、実力差か)

 真希は構えを僅かに緩めながら、深く息を吸う。

 

 「分かった……」

 後ろ髪を引かれる思いだったが、あの虚空を切り裂く斬撃で旺盛な戦意は減衰した。

 

 《迅移》を発動し、後方へ素早く飛び去ったーー。

 

 ◇

 薄闇の無限に続く廊下を百鬼丸は進む。夜の住人であった彼にとってみれば、何ら問題とする所ではなかった。

 「ちっ、……にしても熱いなぁ」

 苛立ちながら、胸元の服を掴んでパタパタと空気を送り込む。

 

 上階を彷徨う巨大な怪物は絶えず火炎放射によって、自らの居所を教えている。一見愚策にみえるこの方法は、「ある目的」があった。

 

 「研究所全体の温度を上げてるんだろうなぁ……」

 床や壁を触りながら、百鬼丸は小さく息を吐く。

 

 八〇〇度以上の火炎放射でも、この施設の人間が近くにいない場合は効力は薄い。……では、襲撃の意味がない? いいや違う。と百鬼丸は自問する。

 

 ……あるとすれば、研究所周辺に出られないように予め防火シャッター(奇しくも、大量殺人を行ったジョーと同じ手口)で、外界との通路を意図的に分断する。しかもショッピングモールと異なり、研究所施設の場合の防火シャッターは、外部へ危険物質の漏洩を完全に遮断するために、綿密に通路の遮断は行われるだろう。

 

 ――とすれば。

 

 「耐熱用の床面に壁……完全に施設そのものを、溶鉱炉みたいにして施設全体を昇温させる。んでもって蒸し焼き狙いか? これ」

 微かな音にも満たない小声。

 

 屈んで頻りに床や壁を指で弾きながら、ブツブツと独り言をやる百鬼丸。

 

 「はぁ……全くキミが何を考えているのか、ボクは分からないよ」

 真希は小さく首を振りながら彼の横に立つ。

 

 「――ん? おお、すまんすまん。あの怪獣を見ただろお前も。アイツが火炎放射で防火設備を作動させて研究員を蒸し焼きにする算段らしい。尤も、前もそんなことしたバカがいたけどな」

 

 「確かに、あの男の傍にいた怪物は厄介そうだな。……それに加えて防火設備を悪用とはまるで例の殺戮事件の応用みたいだ。生憎ボクはあの時、その場には居なかったが……いいや、今のボクが何を言おうと言い訳になるな」

 

 「なぁ、真希……でいいのか」

 

 「ああ、何とでも呼んでくれ」

 

 「んじゃ、真希さんよぉ、一つ聞くが暑くないのか? その黒い上着」

 

 百鬼丸はフード付きのローブを指差す。

 

 キョトン、とした真希は、

 「えっ、いや……まぁ、暑くない……気がする」

 感傷に浸りかけた途端、百鬼丸の素っ頓狂な質問に戸惑った。

 

 

 「ふ~ん、そっか。お前も案外アレなヤツだな」

 

 「あれ? どういう意味だい?」

 

 「中二病……ププッ……」

 

 「なっ……!? そ、そんなワケないだろッ!!」

 薄闇の中、相手の表情こそ明確に判別できないが、明らかに百鬼丸は馬鹿にしている。そう確信が持てた。

 

 「大体キミだって、なぜ美濃関の女子制服を着ているんだ? それこそ、まるで変態みたいだぞ」

 

 「はっ、残念だったな真希。お前さんに教えてやんよ。おれは変態だッ!! それも筋金入りの、だ! 覚えておけ!」

 

 「なっ! なぜ、そんなに堂々と言い張れるんだ!」

 軽い目眩のようなものすら感じられて、額に手を当てる。

 

 (まさかボクが理想として追い求めていた〝英雄様〟の姿がこれとは……つくづくボクは人をみる目がないらしいな)

 小さく鼻で「ふふっ」と笑った。

 久々の緩んだ感情だった。

 

 「……んだよ、急に笑いよってからに。…………ん? シッ、誰か近づいてくるな」

 真剣な口調で百鬼丸は動声を静かにするよう促す。

 無言で頷く真希。

 

 こと、こと、こと――

 

 

 小さな靴音が廊下一杯に反響して、幾重もの足音を奏でた。

  ピリッ、と真希の素肌に激しい威圧を感じた。闇に慣れた眼差しで、傍の百鬼丸をみる。彼は屈んだ状態から、左腕の刃を構え、いつでも飛び出せる準備をしていた。戦闘における一瞬の迷いが「死」に直結していることを十二分に知っているのだろう。

 

 ゴクリ、と生唾を真希は飲み込んだ。

 

 

 

 無限に続く粘着質な闇の奥から、二つの揺らめく人魂のような波動を感じた。青い炎のように、二つの輝きは陽炎のように左右に流れ、確実に近づく。

 

 

 「そこに居るのは、百鬼丸さんですよね?」

 少女の声がした。

 

 釣られて、

 「お、舞衣か! そうだ! おれだ!」即答する。

 

 先程までの激しい威圧の気配は消え失せ、代わって間の抜けた様子で返事をする百鬼丸。別人格かと思えるほどの変わり身に、真希はただただ頭の混乱を酷くすることしかできなかった。

 

 「マルマル? お久しぶりデ~ス!」

 

 「むむっ!? オ、オヒサシブリデス」

 なぜか理由は分からないが、百鬼丸はエセ外国人のようにカタコトになり、若干だが声が震えていた。

 

 (何なんだ、この男は……)

 真希は、それまでに出会ったことのないタイプの人間に不信と好奇心の混ざった視線を投げかけていた。

 

 ◇

 やがて、廊下には非常時用の真っ赤な照明が等間隔に点灯し始めた。

 「なるほど、マキマキも途中から参戦したってワケですネ」

 エレンは、むーっ、と顎に指をやりながら難しげな表情で頭を整理する。

 

 「……マキマキ?」怪訝に眉を曲げる真希は本題に戻すように、軽く咳払いをする。

「ゴホン、ああそうだ。しかしまさか、対立していたキミたちと手を組む日が来るとは思わなかったけどね」

 苦く口を曲げながら呟く。

 

 「…………それよりも今は、あの怪物を倒さないと現状の打破は難しいと思います。親衛隊の実力である獅童さんが参加してくれて助かります」

 舞衣は硬い口調だった。

 

 「マキマキに一つ質問デス」

 エレンが真面目な口ぶりでいう。

 

 「なんだい?」

 

 「最近、ノロの強奪が頻発していマス。もしかして、その犯人は……」

 

 「ボクだ、と言いたいんだろう? 残念だけど違うよ。それは多分タギツヒメだと思う。それに、さっきの男もタギツヒメ側の構成員だと考えていい」

 

 「分かりマシタ。信用しマス」

 

 意外な即答に真希は、

 「案外お人好しなんだね」

 驚きを隠すように、皮肉がかったような言い方になった。

 

 「いいえ、単なるお人好しなワケじゃありません」途中で会話を遮る舞衣。

 

 「どういう意味だい? だってボクの来歴からしてタギツヒメ側だって思われても不思議じゃないだろ? なにせ、親衛隊でキミたちを……」

 

 「それは十二分に理解しています。ですけど、今は此花さんがノロの生態研究の実験で被験者として参加しています。ノロを一度体内に入れた人間が、完全にノロと分離できるようになる為の研究に、です。親衛隊というだけで疑って信用ができないなんて理由になりません」

 冷静に反論する舞衣。

 

 それに思わず、

 「ふふ……ふふふ、あはははは。そうか。ああ、すまない。その寿々花も似たような口調で理詰めに反論するから。つい懐かしくて……あはは、そうか……寿々花は一人で別の闘いをしていたんだ」

 最後は寂しげな声音で、自らの右手を強く握る。

 

 (まるで、ボク一人で世界を背負っていたような勘違いをしていたみたいだね)

 

 「私の父も、エレンちゃんのご両親、お祖父様もこの研究にいます。私たちには刀使としても、個人としても、絶対にあの怪物を止めなきゃいけない理由があります」

 強い意思の篭った舞衣の訴え。

 

 「ああ……微力ながらボクにも手伝いをさせて欲しい」

 礼儀正しく真希は一礼した。これは彼女なりの誠意のつけかたであった。

 

 舞衣とエレンは、予想外の真希の行動に驚き思わず顔を見合わせた。

 

 が、一人百鬼丸だけはそんなやりとりを尻目に「う~ん」と一人唸っている。

 

 「なぁ、エレン」

 

 「ハイ?」

 

 「そのひらひらした服……動きにくくないか?」

 

 父、古波蔵公威からのプレゼントであるピンク色のフリルが多様に装飾された衣装を一瞥して訊ねる。

 

 「確かに戦闘になれば動きにくかもデス」

 父のプレゼントを嬉しく思いながらも、エレンは先程スカート部分を動きにくいという理由で切り裂いて短くしたばかりだった。

 

 「恐らくアイツの火炎に巻き込まれると、フリルに引火する危険性がある……そこで、だ」

 

 「……?」

 エレンは百鬼丸の言いたいことがわからず、意図を図りかねていた。

 

 「おれの、この服を着るんだ。まさか下着で動けとはいわん。……まあ嫌なら別にいいけど。これは男のおれが着れるように特注してあるんだ。手足が長くて背の高いエレンでも、問題はない筈だぞ」

 

 と、言いながら、おもむろに衣服を脱ぎ始めた。

 

 「ちょ、ちょっと、百鬼丸さん!?」

 手で目を覆い狼狽える舞衣。しかし、その指の間は大きく開いており、まるで目隠しの役割を放擲していた。

 

 ……まるでギリシャ彫刻のように、引き締まって均整の採れた肉体。名匠が刻んだような筋肉の陰影が、赤い光に照らされていた。特に背貴肉が見事であり、首筋から血管が伸びている。中々に太い腕。無骨な拳。

 女装していたから、仔細に百鬼丸の体をみたことはなかったが、男らしい体躯に舞衣は心を奪われていた。

 

 「……? どうした? 舞衣?」

 

 「い、いえ……。」

 肩越しに突然振り返る百鬼丸から咄嗟に顔を背けた。

 

 心臓がバクバクと激しく鼓動を鳴らす。

 

 (……新しい扉が開いちゃうぅぅぅ)

 今更、筋肉への憧憬をフェチズムまで昇華させた舞衣。彼女は更に性癖の業が深くなった。

 

 「デモ、本当にいいんですカ? マルマルは……」

 

 「あ? 男なんぞ褌一枚あれば十分事足りる。いいかい、エレン。おれは今、服をきているから実力をだせないことに気がついた。だから、おれは脱ぎたい! つまり? そう、脱ぐんだよォ!」

 「それだと単なる露出狂だッ!」

 我慢できずに真希がツッコミを入れる。

 

 しかしそれにも構わずに、「うぉおおおおおおお」とスカートを脱ぎ捨てて、褌一枚になっていた。腕を組んで満足げに鼻を鳴らす百鬼丸。有言実行のバカであった。

 

 「う~ん、マルマルがそこまで言うなら、分かりマシタ。お言葉に甘えてお借りしマス!」

 百鬼丸が無造作に脱ぎ捨てた衣服をエレンが屈んで拾う途中、

 

 「父親のプレゼント、大事にしろよ」

 と、他の二人に聞こえないような小声で百鬼丸は告げた。

 

 「なんでソレを?」という表情でエレンは顔を上げた。

 

 百鬼丸はなにも言わずに、下手くそなウィンクで口端を釣り上げて犬歯を剥き出しにした。おそらく格好つけたかったに違いない。だが、結論から言えばダサい。不格好だった。

 

 それから、エレンは百鬼丸が《心眼》を使ったことを思い至った。だからこのプレゼントされた服について敢えて聞いたのだろう。

 

 すぐに俯いたエレンは、表情筋の緩みから照れていることを悟られないようにした。

 

 

 ……………数分後。

 

 着替え終わったエレンには、一つ問題が発生していた。

 

 「ムムっ、やっぱり胸の辺りが苦しいデス」

 苦笑いしながら、エレンはぱつんぱつんにはちきれそうな胸元に人差し指を這わせる。美濃関の制服がまるで、メロンを二つぶち込んだみたいに膨れ上がっている。

 

 「あ、そりゃー予想外の助よ」百鬼丸は、震え声で反応した。

 

 一度この巨乳に殺されかけた百鬼丸からすれば悪夢の再来であった。

 

 パツッン、という甲高い音と共に、百鬼丸の額に飛翔体がぶつかった。

 

 「いでっ!!」

 おでこを抑える百鬼丸。その飛翔体の正体は、ボタンであった。美濃関の制服の構造上あまり有り得ないのだが、巨乳によってボタンが吹き飛んだ。

 

 貧乳クイーン、十条姫和では絶対に不可能である「おっぱいボタン弾き」現象である。繰り返すが、貧乳のゴッドでもある十条姫和では不可能なボタン弾きが、エレンの胸で行われたのだ!

 

 おでこをさすりながら、

 「ま、まぁ……その制服のサイズが合えば問題なかろう。うむうむ」

 すぐさま視線を逸らす。

 美濃関制服の胸元はボタンが弾けた影響で、前を止めるものが何もなくなり、惜しげもない胸元の谷間が顕になった。

 「う~ん、困りマシタね、あははは」頬を軽く掻きながらエレンは笑い飛ばす。

 

 豊満な円形が揺れ、胸の下着部分のレースが見え隠れした。

 

 これは、「そもそもブラジャーなんて必要なんじゃないか問題」で有名な十条姫和、あるいは成長期が永遠に延期になった益子薫には全く別世界の話と思われる「ブラジャー」なる聖遺物の問題であり、前述の二人には永久にそのような「サイズ」の問題はないであろう。これは今後の研究でも期待できないお話であった。

 

 「でも、わざわざ気遣ってくれて嬉しいデ~スっ!!」

 大胆に露出された胸元をプルンプルンと震わせて、背中を向けた百鬼丸に抱きついた。

 

 「にゃあああああああああああああああああああああああああああ!!」

 驚きに、悲鳴じみた声をあげる。

 

 ブラのレースの感覚と共に、豊満な胸の潰れる感覚が背中全体に伝う。

 

 「どーしマシタ? もしかして、抱きつかれるのがキライですカ?」

 

 「いいいいいい、いいいや、全然!! おれすげーーーつえーーーもんね(?)」

 

 「本当デスカ!? これからはもっとスキンシップを増やしマスね!」

 「まけしぇとけぇええええええええええええええ」

 口から白い泡を吹きながら、百鬼丸は親指をグッと伸ばす。

 

 ◇

 「よぉし、準備完了っと。あとは作戦通りやるぞ……あ、って言っても基本おれがメインでやるから、お前らは絶対前線にくるなよ?」

 長い廊下を歩きながら、百鬼丸が背後に付いてくる三人に厳しく命じた。

 

 「やっぱり、マルマルは最後まで強情でしタネ、マイマイ」

 エレンは呆れながら、隣に目線を流す。

 

 頑なに刀使三人の前線戦闘を許さなかった百鬼丸は認めなかった。それは刀使を弱いとみなしていたり、信用していなかったりというワケではない。単に目前で怪我をして欲しくないだけ、という理由であった。口にこそ出さないが、エレンも舞衣にも察せられた。

 

 「うん……でも、もう百鬼丸さんが決めたならテコでも言うこと聞かないから」

 舞衣も同様に深々とため息をつく。

 

 「なぁ、百鬼丸。本当にキミ一人で前線を支えるのか? やはり、ボクも……」

 

 真希が後を続ける前に、ぐるっと踵を返す。

 

 「あーーのーーーなーーーっ!! いいか! 何度も言わせるなッ! 確かに支援までは譲歩した! だけど、絶対にあの怪獣とお前らはたたかわせない! 別に信用してないワケじゃない。……任せろ、必ずアイツを倒す。んでもって、舞衣とエレンの家族も、施設の人間全員を救う。それだけは確約だ!」

 

 自信満々な態度の百鬼丸。

 

 「いや、しかし……」

 と、言って反論の協力を求めて舞衣とエレンを見やる。

 

 「分かりマシタ。マルマル、絶対に成功させまショウ」

 

 「ここまできたら、私も全力でサポートします」

 

 だが二人共に困ってはいるものの、どこか安心と信頼のある眼差しで百鬼丸に一任していた。

 

 「はぁ……ま、ここまできたらボクもボクの仕事をするしかなさそうだね」

 

 

 ◇

 

 ジャグラーは苛立っていた。先程から研究所に備え付けのコーヒーメーカーのボタンを連打しながら、コーヒーを飲み続けている。

 

 (なぜだ、なぜだ、早くこい、来るんだ! 百鬼丸ッ!)

 

 ガイならば、何が何でもオレを阻みにきた筈だ。ガイならば、暑苦しいまでの態度でオレを止める筈だ。あの長々とした説教までするんだ。……ガイならば、こんなに時間はかからない。

 

 ジャグラーは永遠のライバルに思いを馳せながら、コーヒーを啜る。

 

 現在、キングザウルス三世には適当に歩かせつつ、火炎放射を命じていた。

 昇温効果を高める為に、研究所の構造上熱源のたまりやすい位置に向け放射させた。

 

 

 エントランス部分から研究所全体を見下ろす。

 

 

 『ぉおおおおおおおおい、このくそったれかかってこい!!』

 

 どこからともなく、少年の叫び声が聞こえる。

 

 

 ◇

 

 薄暗い廊下を歩きながら、

「間接射撃、ですか?」

 舞衣はたどたどしい口調で訊ねる。

 

 「おう、間接射撃だ。敵から見つからない位置で砲撃する方法だ。その観測手を頼みたい。その《明眼》だと精密射撃は特に向いてるみたいだからな」

 

 「でも、私は刀使であって……」

 

 軍人のような訓練を受けていない、と続けたかったのだろう。――それを察して、

 

 「まぁ、心配すんな。おれが全部指示を出す。おれの目と耳になってくれればそれで十分だ」

 

 百鬼丸はサムズアップして安心させるように、爽やかな笑みを浮かべる。

 

 「待ってくれ、百鬼丸。その間接射撃ができたとしても、どうやってあの怪物を倒すんだ? キミの話によると前面にはシールドを展開して、更に火炎放射……巧妙に動く尻尾。まるで欠点が見当たらないぞ」

 真希が素直な疑問を口にする。

 

 「……ああ、だからこそ相手の実力を計測する必要がある」

 

 「……? マルマルには何か考えがあるんデスか?」

 

 「おう、まずあの怪物が火炎放射時と同時におそらくシールドは展開できない。だってそうだろ? 仮に前面にシールドを展開しながら火炎放射をすれば必ず自分の方向に反射することになる」

 

 「――だとすれば、火炎放射をするタイミングで斬り込む、ですか?」舞衣は真剣な眼差しでいう。

 

 「ああ、そうだ。……が、相手の弱点を理解するのにも多くの材料は欲しい。おれのホレ、膝の迫撃砲で煙幕を焚いて視界を遮る。あのジャグラーってヤツは必ずどこかで傍観者を気取ってんだ。そいつに手出しできないように……な。尤も、怪獣とジャグラーが同時にきたらおしまいだ。そんときはお前らは真っ先に逃げろ。いいな?」

 

 

 刀使の三人は硬い表情で頷く。

 百鬼丸の作戦が失敗した場合、民間人だけでも逃す必要性が出てくる。その場合、刀使が率先して事後の処理をせねばならない。

 

 「ギリギリの賭けデスね……」

 エレンには珍しく苦々しい様子で呟いた。

 

 「……ああ、だがボクたちしかいないのならば、やるしかないんだろう?」

 

 

 「おうよ。……ただ、おれの指示がない限りは陽動意以外では危ないことはするな。いいな?」

 

 いつものようにふざけた調子ではない、百鬼丸の低く重い声音。

 

 (百鬼丸さんは本気なんだ……)

 まるで初めて出会ったような印象をうけた。

 

 目線を一同に巡らせ、息を小さく吐いた百鬼丸。

 「――よしッ、んじゃ作戦かいしだッ!」

 

 ◇

 

 ドォン、オドォン、という炸裂した音がいくつも聞こえた。

 

 「ほぉ、一体何を始めるのかな?」

 ジャグラーは嬉しそうに紙コップを握りつぶし、口元を釣り上げた。

 

 エントランスの施設の全てを見渡せる展望部分に佇んだ。回廊の一角に巨体を揺らすキングザウルス。地鳴りにも似た足音が床を大きく震わせる。

 

 そのキングザウルスに向かって、大きく湾曲した弾道が殺到していた。

 

 ――ドォン、ドォン、という爆発と共にキングザウルスに爆炎が纏わりつく。しかしこの程度であれば大したダメージではない。怪獣は目を顰めながら煩わしそうに『ギャアアアアアアアン』と咆哮した。

 

 威嚇のつもりだろう。

 

 しかしそれにも構わず、遠投にも似た砲弾が次々とキングザウルスの背びれ辺りに着弾した。黒い牛革のような皮膚には一切の傷がない。

 

 「ふははははは、どーした? 百鬼丸ぅ? お前の考えはその程度か? もっとオレを楽しませろよォ」

 

 ジャグラーは怪獣の弱点を知っている。……このキングザウルス三世は前世では、首の可動範囲外である上からの攻撃で死んだことを。察するに、あの《御刀》という武器であれば怪獣の皮膚を傷つけることは可能だろう。だが、所詮剣士というのは平面での戦闘である。有り得ない上下位置からの攻撃には、どう対処するのか?

 

 「お手並み拝見といこうか……」

 

 ◇

 

 

 怪獣を見下ろす回廊の上階の角で、

 「次、仰角45度から3度上に修正。……撃て」

 舞衣は《明眼》を発揮しながら、隣の百鬼丸に指示を淡々と下す。自分でも驚く程冷静な気持ちで戦いに臨んでいる、と舞衣は思った。

 

 寝そべりながら右膝を立てた百鬼丸は、指示通りに発射する。

 

 「どうだ? ヤツはシールドを展開したか?」

 

 舞衣は目を細めながら、

 「シールド展開確認。……百鬼丸さんの言った通り、頭部の前面広範囲に透明な障壁を確認。……それ以外にはシールドが見当たりません」

 小さく否定の首を振る。

 

 「そっか。んじゃ、やっぱり予測どおりだったわけか。んま、予測の範囲内ってことで。……あと数十発打ち込んだら、切り込みにかかる。それまで、エレンと真希は陽動の準備を頼む」

 

 『イェス、マルマルを信用して頑張りますヨっ!』

 

 『了解……とはいえ、まさかてテレパシーまで使えるとは……キミはなんでも出来るんだな』

 真希は半ば呆れ気味にいう。

 

 

 二人の返事を聞いてから、百鬼丸は作戦を反芻する。

 

 まず、真希が相手の正面に出て挑発する。相手がシールド解除と共に火炎放射をする。その間にエレンが背後から攻撃を仕掛ける。尻尾の辺りにまで注意の及ばない相手は必ず意表を衝かれて、攻撃タイミングが遅れる。そこに加速した状態の百鬼丸が正面から突破する。

 

 (うまくいくかなぁ……。)

 ふと、百鬼丸が考え込む。

 

 所詮は急場しのぎの作戦だ。

 

 失敗すれば、この三人以外の人命をも危険に晒す。いいや、今だって危険に晒しているではないか? あれだけ後方での支援に……とこだわって説いていたにも関わらず、だ。

 

 ギリギリまで作戦を練り上げた。当初こそ陽動なしの作戦だったが、真希やエレンの能力を加味した場合……そして、何よりジャグラーという存在を想定したとき、完封できる闘いなぞできるわけがない。

 

『陽動であれば刀使の力を発揮できる筈です、百鬼丸さん』という舞衣の冷静な状況分析にやり込められ、渋々陽動を追加した。――が。

 

 (チッ、情けないヤツだなおれは……。)

 

 あれだけ大見得を切って、このザマだ。内心自嘲する。

 

 起き上がり加速装置を起動させながら、目を険しくする。

 

 ……と。

 

 百鬼丸の左手に繊細な指が重ねられた。

 手の方向に顎をやると、舞衣は一切顔を動かさずに、

 「百鬼丸さんの迷いを感じました。……でも、今はこれしかありません。私たちを助けてくれると信じてます」凛とした声で、舞衣は白魚のように滑らかで柔らかな指に力を込めて百鬼丸を後押しする。

 

 一瞬驚いたような顔になった百鬼丸は、しかし無言で頷く。

 

 「…………よぉし、行きますか!」

 

 自らに活を入れながら、百鬼丸は煙幕弾を飛ばす。

 

 

 ◇

 なぜ、ボクはここにいるのだろう? ……そんなつまらない考えが頭を擡げる。だがそれすら即消し去り、御刀を構える。

 

 予想以上の巨大な生物……怪獣。

 荒魂とは異なる、生物的な動き。荒い鼻息。高熱の体温。今更だが震えが止まらない。……刀使の中でもそれなりの強さだと自負していた頃がバカみたいだ。

 

 (こんな相手に勝とうなんて……つくづく、あの百鬼丸というヤツは面白い男だ)

 

 

 真希は、正眼に構えながら憤怒に燃えるキングザウルスの双眸と対峙していた。細長い瞳孔に金色の水晶体。そこに映し出された自らの姿。

 

 (ははは……まったく、顔が強張っているな……ボクはまだまだ修行が足りないみたいだよ。寿々花……。)

 

 透明な障壁が回廊の幅一杯に展開されている。試しに何度か斬撃を放つも、悉く弾き返された。やはり、直接攻撃を仕掛けなくては意味がない。

 

 シュポン、シュポン、という間の抜けた音と共に白い煙幕が幾重も立ち込めた。空気が淀むほどの煙幕は、吸い込むだけで噎せる。しかし、写シの影響でさほど苦しくはない。

 

 『グォオオオオオオオオオオオオ』

 と、大音量で咆哮する。――シールドは消え新鮮な赤鮮色にピンク色の口内。剥き出しの牙は何者をも髪d砕く意思があった。暗い喉奥から、不気味にせり上がる液体の粘着質な音。……真希は本能で悟る。これは火炎放射の予兆だ、と。

 

 (どうする? 今ならまだ避けられる……。)

 二の足を踏んだ。

 

 時間を稼げば、それだけ百鬼丸の突撃は成功する。

 

 と、キングザウルスの動きに一瞬の乱れが生じた。

 

 『ギヴォオオオオ』

 

 まるで予想外の不意打ちを喰らったような……そんな叫びだった。キングザウルスが背後を振り返る。遠く、煙幕の気流の裂け目、尻尾の辺りで激しく波打つ金髪……。エレンがしたり顔で、キングザウルスの尻尾に一太刀浴びせていた。

尻尾を大ぶりに動かし、すぐさま前面の真希を睨み据える。煙幕を破る怪獣。先に真希から始末する算段のようだった。

 

 ゾワリ、と肌に粟がたった。

 

 (ふっ、これまで命を捨てる覚悟でやってきて、今更命乞いとは……。)

 

 歯噛みして、真希はその場に踏みとどまる。

 

 「さぁ、かかってこい!! お前の相手は――」

 

 『このおれ様だぁ、ぼけぇええええええええええええええええええええええ!!』

 

 素早い影が真希の視界の斜めを横切った。キィイイイイイイイン、と鼓膜を聾する音と共に百鬼丸は上階からキングザウルスの頭部に目掛けて飛び込んだ。走り幅跳びの選手が地面に着地する寸前のような格好で、頭に着地し、抜き身の左腕の刀で貫く。

 

 『グゥオオオオオオオオオオオオ』

 苦悶に歪む叫び。

 

 しかし、それでも尚抵抗するようだ。キングザウルスは暴れ狂い、角からシールドをふたたび展開するつもりらしい。

 

 「まずいぞッ、百鬼丸……シールドだッ!」

 真希は《迅移》を脚に促し、加速の用意をする。

 

 だが、当然《迅移》には段階というものがある。深く潜るには段階を踏まなければ、より高速の加速は得られない。

 

 ……十条姫和のように一瞬で深く潜る才能がなければならない。

 

 「うぉおおおおおおおおおお!」

 渾身の力で《迅移》を行い、加速に身を任せる。

 

 

 しかし、帯電したように巨大な頭部の角がスパークし始める。

 

 (しまった……間に合わない!)

 

 このままでは、頭に取り付いた百鬼丸がシールドの展開と共に、胴体が真っ二つにされてしまうだろう。

 

 『マルマルっ――』

 遠い向こう側では、エレンが尻尾の獰猛な動きに翻弄されながら、百鬼丸の身を案じた。

 

 

 「うっるせえええええええええええええええええええええ」

 

 叫びながら、百鬼丸は左腰に佩いた太刀を思い切り引き抜く。赤錆だらけの刀身をキングザウルスの眉間に突き立てる。プシュウウウウ、という擬音が似合いそうな鮮血を迸らせ、硬い皮膚を破る。

 

 鮮血に体を朱に染めながら、百鬼丸は太刀を引き抜き、もう一度違う部分に刀身を埋める。今度は滑らかに肉に食い込んだ。大量の唾液を吐き出しながら、キングザウルスが絶命の咆哮をあげる。

 

 

 ようやく左腕を抜き、百鬼丸は鼻先から宙へ後転して大きく開かれた口腔に入りこむ。

 

 「お、おい!」

 突然の出来事に頭の整理がつかない真希は《迅移》を停止させ、怪獣の口の中に消えた百鬼丸へと腕を伸ばした。

 

 

 

 「――うぉおおおおおお」百鬼丸の絶叫。

 

 生命活動を終えたキングザウルス三世の瞳は濁っており、光彩の輝きは失われていた。

 

 「お、おい……」

 真希は思わずたじろいだ。

 

 

 キングザウルスの鼻から顎までの部分に切れ目が入り、高く上がった首からゴトリ、という重量のある落下が床を小刻みに揺らす。まるで、果物を内部から切断しているような光景だった。

 

 怪獣の顔面半分が切り落とされたのだ! しかも内部から!

 

 「有り得ない……どうなっているんだ」

 真希は怪獣とは別種の恐怖に囚われた。

 

 首と繋がったままの顔面には、粘ついた大量の血液が滂沱な滝のようにあふれていた。全身をその鮮血に晒しながら、百鬼丸が直立している。鈍色に光る左腕と、更にそれより一層強い輝きを放つ太刀――。

 

 獰猛な笑みを浮かべながら、百鬼丸はエントランス部分に佇む影へと意識を向ける。

 

 「よォ、くそったれ。どーだった? あ?」

 大きく目を見開き百鬼丸は右腕を上げて、柄を握りながら中指を立てる。生臭く饐えた匂いを纏いながら、嗤う。

 

 

 ◇

 

 「最高だ……素晴らしいっ、百鬼丸――お前は確かにガイとは違う……だが、ああ……お前を倒したい……そうか……あははははは!! いいだろうッ、お前を認めてやるよ、百鬼丸」

 ジャグラーは高らかに拍手した。異世界の好敵手に向けて……。



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67話

 「高津学長、失礼します――」

 皐月夜見が普段通り機械的に入室した。

 「……っ、痛ッ……どうした?」

 腹部を抑えながら、呻くように返事をした雪那。ここ最近疲労や精神的な理由により胃腸が弱くなっている。その為に胃薬を欠かすことができない。

 執務机の脇に置かれた薬袋とコップを一瞥し、夜見は目を正面に戻す。

 「はい。内閣府情報戦略局の局長……轆轤秀光様が訪ねて参りました」

 「なにっ……それは本当なの!? どうしてもっと早く連絡を――」

 激昂し椅子から腰を浮かせる。

 しかしそれを予め想定していたかのように、夜見の背中から一つの影が現れた。

 「まぁ、まぁ、彼女をそんなに責めないで下さい。私が抜き打ちでやってきたまでですから……。どうも、オヒサシブリですね。高津雪那学長」

 

 穏やかな口調で「案内ありがとうね」と夜見の肩を軽く叩いて席を外すよう言外に告げる。夜見も反抗することなく、一礼すると退室した。

 

 その後ろ姿を見送りながら、肩越しに秀光は口を開く。

 「高津学長――いいえ、元学長になるのですかね」

鎌府の学長職解任予定の件を皮肉っているのだろう。

 

 「……一体なんの御用でしょうか?」努めて冷静に雪那は対応する。

 

 轆轤秀光。最年少で情報戦略局の局長ポストについた。現在四五歳というが外見はどうみても、三〇代前半といった所だ。一八〇センチの長身に、スーツに隠れているが、手からでもうかがい知れる程の鍛え上げられた肉体。役人というよりも、武術家の類の雰囲気がある。しかも、容姿に優れ、鼻梁の通った甘いマスク。

 ……額に大きな十字傷があるが、これも彼の容姿の欠点にはならないだろう。

 

 値踏みするような雪那の目線を受け流すように秀光は微笑んだ。

 「そう怖い顔をしないで下さい。それにあなたの敵ではありませんよ。ただ、国家の情報網を甘く見ない方がいい。それだけは忠告します。あなたがタギツヒメを利用して裏で画策しているのもコチラに筒抜けですからね」

 

 「――なッ、それは……」

 背筋に冷たいものがはしった。全て露見していたというのだろうか? あれほど正体をくらませて努力したというのに……。目の前が真っ暗になった。

 

 雪那の絶望する様子を面白げに眺めた秀光は小さく首を振った。

 「いいえ、今のところその情報は私だけで握っています。部下もごく一部の者しか知り得ません。ご安心下さい」

 

 喉を鳴らして唾を飲む雪那は、口を引きつらせながら、

 「な、なにが目的なの……?」

 

 穏やかな目元の秀光を睨みつけた。

 

 この男の外見に騙されてはいけない。蛇のように一度まとわりつくと逃がさない。彼と一度仕事で関わる機会があったが、その時から雪那はこの轆轤秀光という男の不気味さを感じていた。

 

 「――目的、ですか。今は明かせませんが、私はあなた方の計画を支援したいと思っています」

 

 「どういうつもり?」

 

 「信じて頂けませんか。まぁ、いいでしょう。ですがお忘れなく。あなたがこの綾小路で暗躍していること自体が既に情報局は掴んでいます。私が情報開示の許可を出すだけであなたは捕る。賭けてみますか? 嘘か本当か」

 

 チッ、と内心雪那は盛大に舌打ちをした。彼を信じるより他にない。これが仮に嘘だったとしても、既に彼の術中に踊らされているワケなのだから……しかも現に彼が目前にいるではないか。

 

 (ここで彼を始末するのも最悪の状態を招くだけね……。)

 

 キリキリと痛む胃袋に、背中を丸めて苦痛に呻きながら、

 「分かったわ。あなたの要求をのむ。それでいいでしょう? それでコチラにメリットは?」

 

 「高津雪那学長のままでいてもらう……鎌府の学長権限を更に強化した上で、このまま学校運営に関わってもらいます。いかがですか?」

 

 「はっ……そんなまさか……。」

 

 綾小路と鎌府を手駒にできる。

 そんな美味しい条件を提示しているのだ。タギツヒメを中心として刀剣類管理局維新派として影響力をもたらすには、必ず武力――即ち、刀使の力が必要になる。綾小路一校だけでは心もとない。その点において、鎌府は勝手知ったる古巣である。

 

 この条件は申し分ない。

 「分かったわ。手を組みましょう。轆轤局長様……」

 僅かに勝気で傲慢な笑みが口元に浮かぶ。

 

 秀光も頷く。

 

 「それでは詳しい話はまた後日。本日は失礼致しましたね」

 踵を返して、機敏に去ってゆく。

 

 広い背中を睨みながら、

 (なんなの、せっかく私の出世が……クソッ)

 雪那は親指の爪を噛んだ。

 

 

 ◇

 人生に於いて、運命的な出会いというのはどれ位の確率なのだろうか……? もしも、性質の似通った者同士がこの地上に存在して、その両者を引きつけ合う力――運命の引力は作用するのだろうか。

 

 或は、その運命的な出会いとは同時代人なのだろうか。

 人類史において、過去未来にそのような存在を認めたときは?

 

 衛藤可奈美の場合、多次元の来訪者……腑破十臓がその人であった。

 彼は過去の人である。

 

 剣……というよりも、人斬りに取り憑かれた狂人であった。

 けれども、その研ぎ澄まされた剣筋、悪魔か何かにでも魂を売り渡したように狂った意思。

 

 全てが嫌悪すべき唾棄すべき存在であるにも関わらず、剣を合わせるうちに不思議と精神が深く潜ってゆくような錯覚に陥る。

 

 

 

 

 もう数合も打ち合っているのに、気力や体力は衰えるどころか闘志の勢いを増している。否定しがたい剣戟による快楽。

 

 可奈美は自らの内側にこのように暗い感情が眠っているのか、と改めて恐ろしくなった。剣術は楽しい。習うことも考えることも実際に動かすことも全部が血肉になる。……だけど、それを理解してくれる人はどこにも居なかった。少なくとも今までは。

 

 「どうした可奈美? お前は俺を殺す為に剣を振るっているのだろう? だったら、よそ見をするな!」

 

 無精ひげを生やした十臓が鋭く咎める。

 

 「……くっ、違うッ!!」

 琥珀の瞳を動揺させながら、可奈美は鍔迫り合いを演じる。

 

 八幡力を利用して筋力を増強しているにも関わらず、相手を圧倒できる気がしない。

 

 柳眉をひそめ、可奈美は半眼になる。

 

 仄かに色気を漂わせるうなじに、汗の香りがした。

 

 ――膠着した。

 

 完全な停止である。

 

 十臓も可奈美も、鍔を合わせた侭微動もせずに睨み合う。吐息がかかる距離で、両者は氷のように冷たく鋭い眼差しをぶつけた。

 

 (違う……本当に?)

 不意に可奈美の脳内に、自分の声が響いた。

 

 ――えっ? と危うく声を出しそうになった。

 

 (本当に私はこの十臓って人の言ってることを否定できるのかな?)

 胸の奥がザワつくような甘い囁き。

 

 違う、と否定することだってできる。でも、今までの鬱屈がそれを許さない。あんなに退屈で灰色な毎日じゃなくて、血潮が沸騰するような今の闘いがどれほど素晴らしく世界を色づけているのだろう? 

 

 認めたくないが、しかし事実であった。

 

 「はぁーーーーーーっ!!」

 可奈美は気合の掛け声と共に、十臓の剣『裏正』を弾いた。

 

 「ほぉ……」と、喜びを浮かべながら十臓は後ろに飛び退く。満足げな様子だった。明らかに殺意の篭った動作に変わったのだと理解した為である。

 

 

 「そうだ可奈美。お前はそれでいい。今のお前は美しい――」

 十臓は残忍な笑いで口を曲げる。

 

 

 ……衛藤可奈美は、剣士ではなく狩人の如き殺意を湛えた瞳に揺らめく青白い炎を灯ながら、正眼に構える。

 

 一陣の風が二人の頬を嬲る。

 

 

 「ふっ――」

 小鼻を可愛らしく動かし息を吸い――

 可奈美が動いた。《迅移》を用いて、距離を詰め十臓の懐に飛び込んだ。

 

 「――ッ!!」

 完全に意表を衝かれた。

 

 あのタイミングでは通常、気合を貯めて打ち込むか体勢を整える筈だ。しかし敢えて呼吸のタイミングをずらして肉薄してきた。戦場での駆け引きに長けた者の見事な読みであった。

 

 「はぁああああああああッ!!」

 柔らかな唇から迸る激しい叫び。

 

 《千鳥》の切先が十臓の右肩に食い込んだ。そのまま刃を刺し貫いて、半分ほども刀身が埋まった。

 

 

 ――可奈美は数回瞬きする。

 

 「えっ……?」

 

 われに返って、ただ呆然と全体重をかけた「突き」の型を維持した両腕を見つめる。筋肉を貫く嫌な感覚。刀身が骨に当たって気味が悪い。相手は《写シ》すら貼っていないのだ。

 

 頭が真っ白になった。

 

 どうして? ――どうしてこうなったんだろう?

 

 無意識に否定の首を振りながら、可奈美は目を見開いて、運動靴を二三歩後退させた。

 

 「ふっふふふふ、あはははははは!! よかったぞ、可奈美! 俺の見込んだ才覚のある者だ。やはりコチラ側の人間だったな。お前と戦うとこの胸の渇きが癒されてゆくようだ」

 そう言いながら、十臓は左手で《千鳥》を掴んで、そのまま刃を引き抜いてゆく。一切の苦悶を表さず、そのまま最後まで抜ききった。

 

 どす黒い血が地面を濡らすのも構わず、十臓は右肩の白衣が血痕に汚れているのを満足げに一瞥した。

 

 「今度は、俺の本当の姿で戦おう……なに、この傷を気に病む必要はない。お前はこのまま快楽に身を委ねればいい」

 

 そう言いながら、怯えに固まる可奈美の頬に血に濡れた左手で撫でた。

 

 べっとりと、血の濃密な香りが鼻腔に絡みつく。思わず嘔吐くほどの腥さだった。

 

 ――だが、不思議と可奈美はそれに比例して体の奥から湧き上がる震えを感じていた。

 

 (うそ……私、いま喜んでいる……?)

 

 足元が竦む。こんな経験は初めてだった。

 

 (怖いんだ……私が、私じゃなくなるみたいで……ううん、もうひとりの私の存在を初めて認めたから……怖くて堪らないんだ)

 

 純粋に強さのみを求める、可奈美……。

 

 誰に対しても優しい可奈美……。

 

 相反する二つの性質の狭間で揺れ動き続けた彼女は、強敵であり外道を極めた腑破十臓という規格外の男に遭遇して――新たな己の一面を開花させてしまったのだ。

 

 ようやく、膠着から体が開放されると急いで辺りを見回した。

 

 既に十臓の姿はない。完全に消え失せている。

 

 しかも、地面を濡らした血痕すらない。

 

 「どういうこと……?」

 あまりの事態に理解が追いつかず、呆然と立ち尽くす。

 

 ふと、右の頬を触れた。

 

 まだ新鮮な、粘着質な感触が指先に伝わる。指を離すと、ねっとり、糸のように伸びた。鼻を擽る鉄分の匂い。

 

 「さっきの出来事は夢なんかじゃなかったんだ……」

 改めて自らに言い含めるように呟いた。

 

 「ふぅう」と呼吸を整えながら、可奈美は無意識に口の端を釣り上げていた……。

 



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68話

 エントランスからジャグラーの姿が無くなった。それを最後まで捉えながら、完全に気配が消えたあと、ようやく息がつけた。

 

 

 ◇

「ったく、体中がベトベトだぜおい」

 百鬼丸は文句を垂れながら、体中の鮮血が固まっていくのを感じていた。

 「あれだけ盛大に怪獣を切り刻んだんだから、当然だろう……」

 真希は、不貞腐れる少年にいう。

 

 「なぁ、エレン。ここに体を洗う場所はあるか?」

 

 安否を確かめようと駆け寄ってきたエレンに訊ねる。胸元を大きく露出させた美濃関の制服を身にまとった彼女は、金髪を靡かせて困った。

 

 「う~ん、多分研究所全体のシステムがダウンしているので、シャワールームも使えないカモですネ……」

 眉をハの字に困らせながら答える。

 

 「そうだよな……あ、だったら冷却用の注水プールとかないか?」

 

 「冷却プールですか? チョット待って下さサイね」

 エレンは携帯端末の図面をスライドさせながら、

 「あ、アリました!」

 満面の笑みで画面を百鬼丸にみせて当該を指差す。

 「おお、ちょうどこの真下だな。サンキュー」

 「いえいえ、お役に立てて嬉しいデス!」

 フンス、と鼻息を荒くしてエレン。

 

 「やっぱり、百鬼丸さんは凄いですね。こんな怪物をひとりで……」

 舞衣は改めて、顔面を切断された怪物の亡骸を見上げる。生々しく断面を晒し、巨体を支えた四脚は折れて胴体が地面に伏せている。

 

 そして何より、匂いが強烈である。

 

 荒魂と異なり、生物としての終焉を迎えたのだ。当然の物理現象である。

 ――とはいえ。

 「私は……やっぱり刀使を……」

 辞めるべきだったのだろうか?

 覚悟が不足していたのだろうか。様々な煩悶が舞衣の頭を過る。

 

 「なぁ、舞衣」

 

 「は、はい!?」

 突然名前を呼ばれてドキリとした。

 

 「さっきはサンキューな」

 

 「さっき……?」

 

 「うん、さっきおれが突撃する前に後押ししてくれただろ? やっぱり舞衣はリーダーに向いてる。みんなの顔をしっかりみて、的確に指示を下す。それだけに非情さと優しさがないとできないことだ。――お前は、きちんと自分を悔いて反省できるから強いんだろうな。おれにはできない芸当だ……。」

 しみじみと百鬼丸は言った。

 

 何の衒いもなく、恥ずかしげもなく素直に相手に自分の思ったことを伝える百鬼丸。

 

 「……でも」

 

 なおも心に蟠りのある舞衣。

 果たして、そこまで評価してもらえる人間だろうか? 今回の一件で不安が絶え間なく舞衣を苛んだ。

 

 「柳瀬、ボクからもいいか?」

 

 翡翠の瞳を動かして、小さく頷く。

 

 「ボクもノロを入れた弱い人間だ。……元は、ボクが荒魂討伐の折に、部下に負傷させてしまったことが原因でね……いいや、本当はボク自身の心の弱さがそうさせたんだ」

 

 「…………今なら獅童さんの仰られることが分かる気がします」

 

 ふっ、と口元が苦く笑う。

 「そう言ってもらえると救われる気がするよ。でもね、その時ボクは目の前で蹂躙される部下を指をくわえて見ているしかできなかったんだ。キミは、なぜ刀使をしているんだい?」

 

 

 「私は――」

 

 「もし、キミが当時のボクの立場だったら……」

 

 「軽々に言えません……。」

 

 「そうだね。――でも、この話の間にキミの表情にはボクとボクの部下への慈愛と、理不尽に対する憤りの色が見えたんだが、それはボクの見間違いかな?」

 

 真希は核心を衝く。半ば確信に等しいものが真希の口を動かしていたのだ。

 

 「キミは誰かが困っているときに見過ごすことのできる冷淡な人間じゃない。違うかい? 古波蔵、百鬼丸?」

 

 「イェース、マキマキの言うとおりデ~ス!」

 

 「隣に同じく。コイツは沙耶香を助けるために飛び込まなくてもいい危険に飛び込んだ」

 

 真希は再び視線を舞衣に戻す。

 

 「だ、そうだ。……二人の評価も上々。刀使はそもそも志願制だ。自由意思で決めることだ」

 

 

 そうだ、自分の道は自分で決めるんだ……。父にもう一度伝えなくては……。

 

 「私は刀使を続けます。もし、目の前で助けを求める人がいたなら、助ける力があるのなら――与えられた力の限りを尽くして癒したい、助けたいです。この手の届く範囲でいいから……。」

 

 「んしゃっ、ヨシ。これで覚悟は決まったな。じゃおれはそのまま注水プールで体の汚れを勝手に洗ってきますぜ……」

 

 百鬼丸は近くに転がしていた左腕の義手を拾い上げて、装着する。

 

 「あっ、マルマル。待って下サイ! さっき教えた――」

 エレンは画面をみながら、百鬼丸の血まみれの肩を掴んだ。ヌメリ、と手が滑った。……と、同時に足元にも池のように拡がる血だまりに注意が向いた。

 

 

 「う、うぉ!!」百鬼丸はバランスを崩して、床に転びそうになった。

 

 「あっ……危ないっ!!」

 舞衣はすかさず手を伸ばした。

 

 「えっ、お、おい!!」

 真希は驚いた。

 突然百鬼丸にローブの長い裾を握られたのだ。無意識に掴んだのだろうが、いい迷惑だった。そのおかげで真希もバランスを崩すのだから。

 

 

 ドテン、という盛大な音を響かせながら全員バランスを崩して倒れた。

 

 「いてて……大丈夫むぐぅ――ッ!!」

 ぼにょん、ぼにょん、という柔らかな弾力が百鬼丸の鼻を挟む。……彼はこの感覚を知っている。過去に一度、この「柔らかな悪魔」によって殺されかけたことを……。

 百鬼丸は恐る恐る、手を動かして掴んで確認してみる。

 ぼよん、ぽよん、という……およそ、ひよよんザナイぺったんには存在しえない重量のある肉の感触だった。

 

 「あぁん……マルマル、急にどうしたんデスカ? ワタシの胸にっ……」

 

 ――oh これは、どうやらそういう事らしい。

 今、百鬼丸くんの脳裏に稲妻が走った。

 「あの」トラウマがフラッシュバックした。彼を人生で初めて追い詰め、殺しかけた「おっぱい」に顔面が挟まれていたのである。制服に収まりきらず、盛大にはみ出した大きな胸は、ブラジャーで下半部は隠れているものの、シミ一つないエレンの白い肌に血まみれの顔をうずめている状況は些か猟奇的と言わざるをえない。

 

 しかも百鬼丸は、エレンの左胸を大きく鷲掴みしていた。

 メロンほどの大きさの片乳は、ロングストレートの金糸に似た髪が大小の渦を巻いて胸元まで垂れ、瑞々しい弾力があり掴んでいる指の間から揉むたびに、金髪と柔肉がこぼれそうなほどだった。

 

 「ぐわわわわっ、ぎょめんなしゃあいーーーー」呂律もろくに回らない百鬼丸。

 若干白目を剥き始めた彼からは脂汗が浮かびまくっていた。滅茶苦茶な涙目を浮かべながら、急いで身を起こそうと努めた。

 

 ぼにょん、ぼにょん……という、別の優しい感触が百鬼丸くんの後頭部を圧迫した。

 

 ――oh this is OPPAI

 

 百鬼丸くんの脳内に教科書的な会話が流れ始めた。

 

 例文1

 生徒「これはおっぱいですか?」

 

 先生「はい、これはおっぱいです」

 

 生徒「これは柔らかいですか?」

 

 先生「はい、とても柔らかいものです」

 

 生徒「これは素晴らしいものですか?」

 

 先生「うっせーボケ、一々聞いてくるんじゃねぇよカス。揉めばわかるわ。なんでガキの頃はタダで胸を揉めるのに大人になるとお金払わにゃならんのだ!」

 

 

 

 …………百鬼丸は身の安全を図るために、すかさず背後の「おっぱい」へと手を伸ばす。

 

 

 「えっ……? あ、あの、百鬼丸さん、んっ――それ私の胸っ、……あっ」

 揉んだ。

 重量級のおっぱいだった。エレンほどの爆乳級ではないが、十分に大きい。つまり、百鬼丸にすれば天敵である巨乳級であった。駆逐できるほどの勇気を百鬼丸は持ち合わせてはおらぬ。しかし、かの邪智暴虐のおっぱいを除かねばならぬと決意した。

 …………これは舞衣のおっぱいだった。

 

 「やめっ、て――はやく手を、あぅっ……」

 甘く痺れるような声音だった。普段の清楚で黒髪を後ろで折り返して結ぶ髪を大きく乱した。ーー普段の大和撫子然とした、穏やかで優しげな表情を浮かべる柳瀬舞衣は、いま未知の感覚に襲われた。

 

 しかし百鬼丸はそんな事は気にしない。――それよりも重要な事があった。

 

 (ん? 別の柔らかな感触が首筋に当たっている? だとォ!!)

 

 これにもすかさず反応し、左手で触る。

 

 「お、おい! 貴様ッ、百鬼丸――ちょっ、そんなに揉むんじゃないっ……胸元のサラシが擦れてっ……」

 真希の声がした。

 

 ――えっ!?

 

 「お、お前胸大きいのかよ!」百鬼丸は怒った。

 こんな理不尽はないと思った。普通、こんなボーイッシュな外見だと貧乳だと想像するではないか? 唯一の安全地帯だと思うではないか? それが普通だというものではないか? これではオハナシにならない。獅童真希はおっぱいが大きい。

 こんな不条理が許されるだろうか? 否である。

 おっぱいを少しは姫和と薫におすそ分けすべきである、でなければ貧富の格差は埋まらないではないか!

 

 「なぜ、キミが怒るんだ!」

 乳を揉まれながら真希は、恥ずかしさを誤魔化すように大きく叫んだ。

 

 

 ◇

 ここで状況を整理しよう。

 まず、百鬼丸の目前にはエレンの爆乳一つ。

 そして背後には舞衣と真希のおっぱいが一つずつ。

 

 

 前門の虎、後門の狼である。

 

 いや、前門の爆乳、後門の巨乳というべきである。

 

 これはまさに絶体絶命であった。

 

 「と、とにかく早くどいてくれぇ」

 百鬼丸は冷静になって懇願した。いまにも泡を吹き出して失神するマジで五秒前であった。

 「わ、分かってはいるが……キミが胸を揉んで、んっ、ボクの胸を……体の力が入らない……」

 

 ……しまった!

 百鬼丸は後悔した。以前舞草の里でねねと共に「おっぱい克服」の修行を行っていた。滝に打たれたあと、両腕を前にだして目をつぶりひたすら手を開閉する。おっぱいをイメージして揉む。揉みしだくのだ!

 

 

 余談であるが、この「無意識おっぱいもみもみ拳」は、古代中国の武術が発祥とされている。中でも、意識のない状態での揉む動きは仏教の「空」からの抽象概念に等しい動きと言われ、東洋における重要な位置づけをされている。

    (――引用「中国古代武術乳揉拳」民民書房より)

 

 

 

 優れたスポーツ選手も格闘家もイメージ力が重要である。常に見えない敵と戦うのだ。それと同じく、百鬼丸も「おっぱい」という敵と日夜激しい闘いを繰り広げた。その甲斐あって無意識におっぱいは揉むものだと体に染み込ませることに成功した――そして現在の悲劇が生まれたワケである。

 

 「あっ……おれもうダメだ……」

 素直に降参宣言した。

 

 起き上がるための力も全て抜けきり、再びエレンの豊満に露出された胸元へと顔面をダイブさせる。袖口からはみ出す鎖骨のラインにかけて膨らんだ円形が、菫色のブラのレースに覆われていた。

 百鬼丸の顔が乳肉に埋もれてゆく。柔らかさに惑わされ、意識が次第に失われていった。

 エレンは身動ぎしながら恥ずかしそうに頬を赤らめ、

 「ワーオ、マルマルはずいぶん大胆なんデスネっ」

 碧眼を瞬かせて言った。

 

 「あっ、百鬼丸さん、そんなに強くすると私――ンふっ」舞衣は鼻にかかったような甘い声を漏らした。

 無意識に動き続ける百鬼丸の右手に揉みしだかれた舞衣の胸は先端が固く尖り、美濃関の制服に大きな皺をつくった。

 

 

 「お、おい! ――んっ、いい加減、揉むのを、やめッッ、ろ……」

 真希の抗議も虚しく、百鬼丸は既に意識がない。

 

 かくして、研究所を襲った大規模な襲撃は終わりを告げた。

 

 幸い、この事件での死亡者はおらず、けが人もごく軽傷ばかりだった。……唯一、百鬼丸のみがその例外となったのである。

 

 

 ◇

 「それで、あやつはどうであった?」

 タギツヒメが訊ねる。

 

 「ええ、まぁ気に入いりましたよ。最初に会った時とは別人でしたね。彼の実力もさる事ながら、あの刀……あの力もかなり侮ることができないですね」 

 ジャグラーは嬉しそうに答える。

 

 両者は御簾を挟んで対峙していた。夜の時刻であるが、月明かりが昇って周囲を照らすために随分と明るく感じる。

 

 「……それにしても、貴方はまたどうされたんですか?」

 ジャグラーが出入り口の柱にもたれかかる十臓に問うた。

 

 腕を組み、どことなく満足げな十臓がチラりと視線を上げて、

 「ああ、俺も久々の好敵手を見つけた。これで退屈せずにすむ。まだあの青い果実も、これから何度も斬り合ううちに熟すだろう。その時、本気で俺は『裏正』を振るうことができる」

 嗄れた声で、確実に発音する。

 

 「――はっ、そうですか。まぁ、あなたらしくていいんじゃないですかねぇ。それよりもう一人、確かステインという方は?」

 「さぁ? あやつもキサマら同様気まぐれなやつだ。そのうち姿を見せるであろうな。それより、着々と事が運んでおる。お主らにもこれから協力をしてもらうぞ」

 タギツヒメはやや真剣味を帯びた調子で告げた。

 

 二人の男は各々の反応で頷いた。

 

 ――こうして、長い一日の夜は更けようとしていた。

 




以前指摘されて気づいた。おっぱい要員がいるんだから、活用しないとダメだってね。すごく反省した。だからこうなった。後悔はしていない。でも公開はしている。(激寒)


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69話

 裸の樹木に乾いた朔風が容赦なく吹き付ける。秋も半ば、澄んだ青空に飛ぶ鳥影が散見された。緩やかな稜線の山々には早くも霜がおりている箇所もあった。

 「ふぁ~あっ……ったくメンドクセーなぁ」

 大きなあくびをしながら、益子薫は頭をガシガシと掻いた。連日の東奔西走の荒魂退治も元をたどれば四か月前の「事件」に原因がある。

 今回の山中荒魂捜索も、それに絡んだものである。

 ――とはいえ。

 「まったく、なんでオレばかり働かされるんだ……帰ったらあのおばさんに文句を言って休暇を増やしてもらわないと割に合わないぞ、これ。なぁ、お前もそう思うだろ、ねね」

 ねね、と呼ばれた小動物にも似た生き物が、「ねね?」と首を傾げる。

 薫の頭にちょこん、と鎮座した『ねね』は元々荒魂であった。なぜ、現在かような愛らしい姿になったかは謎であるが、幼時から共に過ごしてきた薫はペット以上の信頼関係を築いている。

 

 

 「うぅ~、さみぃなオイ」

 薫は両手をこすり合わせながら、手元に吐いた暖かい吐息で悴む指先を誤魔化した。

 同世代の平均身長よりも大分低い背の薫の背中には、彼女の二倍もある大太刀――『祢々切丸』を背負っている。その為、山中の斜面移動は相当辛いものがある。

 殊に、北関東の折り重なる山は足腰に負担となる。

 

 「あぁ~。ダメだ。疲れた。もう動けん。ここいらで休むぞ、ねね」

 ちょうど登山道の脇には、腰掛けるのに適した岩を発見した。薫は祢々切丸を地面に置き、岩の上に腰を下ろした。

 「ねね~」

 頭の上でねねが、上機嫌で鳴く。

 「ん? どうしたねね? ご飯のおねだりか? 悪いが、生憎いまは非常食のゼリーしかないぞ?」

 薫はポケットからゼリー飲料の袋を取り出す。

 

 「ねね~♪」

 先程より機嫌よくねねが反応する。

 

 「ん? だからどうしたんだ、ねね」

 怪訝に重いながら薫は上目に窺う。ねねは、遠い向こう側を眺めながら、尻尾を振っている。

 (何かを探知したのか?)

 一瞬、緊張のようなものを感じたが、しかしねねの様子を見るに危険なものではないようだ。

 「一体なんだっていうんだよ」

 薄桃色のツインテールを左右に振りながら薫は嘆息する。

 

 と、タイミングよくポケットの携帯端末が振動した。

 何気なく取り出して画面を見ると、真庭本部長を示す文字が浮かんでいた。

 「ゲッ、またかよ――今度はなんだ?」げんなりとした声で肩を落とす。

 無視するワケにもいかず、端末を耳に当て、

 「……現在この電話は使われておりません……ピーという音が鳴ったら、通信を終わります。ピーピーピー」

 『オイコラッ、薫ゥッ!! フザけてるとまた休暇を削ってもらうぞ』

 「なッ、それは卑怯だぞオバさん!!」

 『あッ? なんって言ったオイ……もう一回言ってみろ』

 尋常ならざる低い脅し声で、ようやく薫は「はぁー」と観念した。

 「はいはい、なんでしょーか、真庭本部長」

 『まったく、お前は素直に電話に出ることもできんのか……まぁ、いい。それよりお前に連絡がある』

 「仕事か? だったら、もうムリだぞ」

 『いや、そうじゃない。ひとり、対策本部に連れてきて欲しい人間がある。お前もよく知っている男だ』

 「男? オレに男の知り合いって言ったら仕事関係のヤツしかしらなぞ」

 『まぁ、そうだな。お前に男をつくる器用さなんてないもんな』

 「おい、おばさん! 言っていいことと悪いことがあるだろうがよぉ!」

 

 ~~数十分後。

 「はぁ……はぁ……んで、本題はなんだよ?」

 

 『はぁ……はぁ……ああ、忘れてた。さっきのお前の知り合いについてだが、本部に連れてこい。もうそっちの方には向かっているだろうから、途中で出会ったら連れてきてくれ。じゃあ頼んだぞ』

 と、一方的に連絡を終えると電話が切れた。

 「まったく、好き勝手言いやがって……忙しいのは分かるが、少しはコッチの事情というものをだな――」

 一人でブツブツと垂れる薫だった。

 

 「ねねー」

 頭上で跳ねたねねは、ぴょーん、と飛び出した。そのまま枯葉の絨毯を駆け抜けてゆく。

 

 突然のことに驚きながら、

 「お、おい待てよねね。急にどーしたんだよ。ったく」

 祢々切丸を持ち上げようと手を伸ばし……近づいてくる誰かの気配に伸ばした腕を止めた。

 

 横目で、チラりと睨む。

 敵であれば、すぐさま横薙ぎに斬る。その覚悟のため見定める。

 

 ゆっくりと、頭を動かした。

 

 落ち葉と枯れ枝を踏みしめる足音に目を細める薫。

 

 「よォ、薫。久しぶりだな」

 …………随分と間の抜けた声だった。やたら聞き覚えのあるヤツの挙動だった。

 

 「って、お前かよ百鬼丸」

 警戒を解いて、肩をすくめる薫。

 

 百鬼丸――と呼ばれた少年の肩には先程走り去ったねねが、彼に頬擦りをしている。

 

 「お前らは一体いつからそんなに仲良くなったんだよ」

 

 「む? おっぱいもみもみ拳法を修行しあった仲だ。――おれたちは固い友情で結ばれているんだぞ」

 えっへん、と胸を張る馬鹿。

 

 アホだった。それも相当なアホである。

 

 「お前は一回くたばれ。………ったく、なにがおっぱいもみもみ拳法だ。そんな汚い友情なんぞドブ川にでも捨てろ」

 

「ば、ばか野郎!!」

 「ねね!!」

 

 一人と一匹は強く抗議した。

 この反応を見るに、どうやら百鬼丸の言葉は正しいらしい。……残念ながら。

 

 「はぁ……まぁ、いい。お前を本部に連れていけばいいんだろ?」

 先程の紗南の伝言を反芻しながら聞いた。

 

 「ああ――そうだ。よろしく頼む」

 「しかし、前回の沙耶香といいお前といい、どーしてこう知り合いと仕事で合うんだよ……」

 ガックリ、と項垂れる。

 

 「……? よくわからんけど、日暮れも近いから下山しないか? 今までの話もしたい」

 百鬼丸はそう言った。

 特に否定するつもりもないので、薫は「ああ」と返事をした。

 

 

 ◇

 …………これまでの経緯を聞きながら薫は、情勢の変化に内心驚いていた。お互いの近況などを話し合いながら、百鬼丸の語る内容の凄まじさに、改めて吟味するように頭を整理する。

 「なんでオレが日本全国を駆けずり回っている間に、そんなことになってんだよ」

 しかも、強敵の情報は更に薫の気分を暗くした。

 「そういや、沙耶香とも仕事をしていたんだろ?」

 「ああ、そうだ……まぁアイツは優等生だからな。心配はないが、オレから言わせてもらえば、アイツは働きすぎなんだよ。まぁ、色々と教えてやったよ」

 悪そうな顔で、ニヒヒと笑う。

 「そっか。しかし、これから厄介な相手を敵に戦うことになるからな。沙耶香も、さっきの話から察するに行き詰まっていたみたいだから、薫と行動できてよかったと思うぞ」

 「お、おう……なんだ急に気持ち悪いな」

 むず痒い。褒められることのない薫は、色々とむず痒さを覚えながら、頬を掻く。

 「つーか、お前に祢々切丸を持たせて悪いな。大丈夫か?」

 「ん?」

 と、眉を上げる。軽々と、まるで傘でも扱うように、2メートル近い大太刀を担いでいる百鬼丸。

 「お前は単なるスケベなアホだと思ってたけど、本当にすげぇな……」

 薫ですら四苦八苦する巨大な鉄の塊を、鼻歌でも歌いながら持ち上げる百鬼丸に対して素直に賞賛を送る。

 「そうか? まぁ、おれが格好良いからかな?」

 アホ面で、口端を釣り下手くそなウィンクをする。

 「あ? 誰がなんだって? 寝言は寝て言え」

 「またまた照れおって、可愛いやつめ」

 「お前は本気でアホなんだな。いい機会だから一度お前の脳天を祢々切丸でかち割ってやろうか?」

 「……遠慮しておきます」

 「――――プッ、あははははは。久々だなお前の反応も」

 「おうよ。こんなやりとりも久々だな」

 

 「そうだな……」

 

 「んで、これからどーするんだ?」

 

 「とにかく今日は温泉街に一泊だ。なんと、刀使の荒魂捜索だから宿泊無料だ! お前もなんとか都合をつけて宿泊できるようにしてやる。……つーか、聞きたいんだが、その研究所で一緒だったエレンと舞衣、それに獅童真希はどーして一緒じゃないんだ?」

 

 「あ~、あれね……」

 百鬼丸は遠い目をしてたそがれた。

 

 内心こう思った。

 (すげーーー話したくない)

 と。絶対に話したら殺される。

 

 「話せば長くなる」

 

 「三行で頼む」

 

 「おっぱいもんだ

  三人の

  おれだけ単独行動」

 

 「ok お前はまずここで解体してやる!」

 

 「なぁーー、待て待て。事情があるんだ! しかし今日は疲れたから、一度温泉に泊まりたい」

 

 薫から向けられる軽蔑の目を感じながら、気まずく下山することになった。

 

 ◇

 

 悪という哲学原理は、我ながら単純明快だと思う。

 悪を成す者にはそれ相応の対価が必要となる。中でも、『個性』である凝結はそれほど強い能力ではない。寧ろ使用効果が限定的に過ぎており、時と場合を考えなければ全くの無意味である。

 

 ――ただ、皐月夜見という少女の血の場合は別である。

 

 彼女の血は「荒魂」という異能の能力と混ざり合っており、使役される荒魂までもを俺は操ることが出来る。この事実は、俺の遠距離攻撃を可能にした。

 

 ……だが。

 

 「これで果たして百鬼丸に勝てると言えるものかッ」

 忸怩たる思いが胸の奥からフツフツと沸き上がる。

 元々の目的は、真の『正義』を行う者を見つけ最終的に己の悪を否定されることを密かな目的としていた。……だが、この世界に来てからの俺は良くも悪くも変化してしまった。

 あの少年――百鬼丸が俺の目前に現れてしまったのだ!

 彼はまさしく俺の求めていた男だった。自己犠牲を大前提とした生き様は、俺を殺してくれる相手として不足はない……どころか、あれほど待ち焦がれた「オールマイト」よりも純粋な「ナニカ」を感じさせた。そこ一切の嘘偽りがない。

 決闘の最後、百鬼丸の見せた爽やかな顔がいまも脳裏を過る。その度、動けなかった四か月ほどが憎くて、己の不甲斐なさが呪わしかった。

 

 ジョーという変わり者に拾われたことも、俺を変えた一因である。

 

 稀代の狂人であった彼は、それまでの俺の悪に対する考え方に別の視点を与えた。

 

 しかし彼は俺に対しては、俺の力のみを求める――剣としての役割と生き方を指し示した。最初こそ反発したものの、今では分かる。

 俺は一個の刃だったのだ。

 この思想も、能力も、俺という一個の刃を用いる者が居て初めて真価を発揮するのだ……。そう気づいた時には、俺は何か一歩進み、素直に悟れた気がした。

 無論幻想であるかもしれない。

 だがもう一度、百鬼丸に相まみえることがあれば、その時は構わず命を散らそう。

 

 それが俺、『ヒーロー殺しのステイン』であるのだから……。

 

 ◇

 ステインは赤いマフラーを大きくはためかせながら、綾小路武芸学舎の屋上に佇み秋風に嬲られていた。ここは本来、誰も立ち入ることを禁止されている場所であった。――そこに、

 

 背後から突然、

 「また今日も、会議の場には参加されないのですか……?」

 静かな声音がきた。

 

 一切振り返らず、ただ一言。

 「ああ」

 とだけ返事をした。それだけで十分だった。

 

 相手は咎める様子もなく小さな軽い嘆息のあとに「分かりました」とだけ返事をする。彼女もこのやりとりにも慣れてきたのだろう。

 

 「なぜ、お前は俺に構う? 夜見」

 初めて三白眼がギロリと動き、肩越しの人影――皐月夜見を捉えた。

 表情の乏しく、瞳の光彩にすら一片の光も宿らない人形の如き少女は、老人じみた白髪を風に靡かせながら、ただジッとステインを見つめる。

 

 「…………貴方は私に似ていたから、かもしれません。たいして理由なんて――」

 

 「思い浮かばないか? 俺の能力以外に?」

 

 「ええ」

 

 ふっ、とステインは珍しく口元に微笑を浮かべた。

 「面白い。……だろうな。確かに俺のような一匹狼を誰が好き好んで扱いたいと思う? ……率直な感想が聞けてよかった」

 年相応の、余裕のある口ぶりだった。

 

 針金のような剛直な逆立つ髪をかきあげながら、ステインは顎を前に戻して物思い耽る。

 

 

 「それでは失礼します」

 夜見はステインの邪魔をせぬよう、踵を返した。

 

 その去際に一言だけ、

 「私は貴方が羨ましかったのかもしれません……」

 どこか寂しげな翳りを目元に湛えながら、呟いた。

 

 〝選ばれた貴方のような存在になりたかった……。〟

 

 その言葉は喉元で飲み込んだ。それを言ってしまえば、いまここに立っている自分がひどく惨めで、存在すら否定したくなるほどの自己嫌悪に陥るからだ。

 

 

 ◇

 ……夜の闇の中、血だけの濃密な臭気を放った木々が生い茂る。そこには、鎌府の制服を着た二人の刀使である少女たちが血を点々と体に貼り付けながら、無表情に眼下に転がる骸を眺めた。

 「これで終わり?」

 「……うん、多分ね」

 骸の数、五体。全ては男性であり彼らは有名な政財界の大物であった。

 御刀に血をべったりと付着させ、月光の青い光が反射した。

 冷ややかな空気が周囲に蟠る。

 

 さっ、さっ、と叢をかき分ける物音がした。

 二人の刀使は動じる様子もなく、一緒に背へ振り返る。

 「――やぁ、遅くなったね。ごめんよ。……お、もう仕事は終わっているみたいだね。よくできたね」

 轆轤秀光は柔和な笑みを浮かべながら、満足げに笑う。

 およそ山中では場違いなスーツ姿の彼を一瞥した少女たちは華やかな表情に彩られた。

 

 「はい、秀光様のお力になる為……頑張りました」

 

 「これで、着々と計画は進んでいるのですよね?」

 

 二人の無垢な少女たちは熱っぽい視線を送る。

 

 秀光はただ「ああ、そうだよ」と頷きながらスーツの内ポケットをまさぐる。

 

 そして一瞬だけ悲しげな顔を浮かべた。

 「だが、残念だ……キミたちとはお別れなんだ……許してくれとは言わない。でも、愛しているよ」憂いを帯びた口ぶりで、秀光は銀色のデザートイーグルを取り出す。

 

 ……しかし、少女たちは向けられた銃口に対し反発も怒りも表さず、むしろ運命を受け入れるように微笑みあった。

 

 「準備はできております」

 「ようやく私たちはお役目が終わるのですね?」

 

 秀光はただ悲しげに「そうだよ。キミたちはこの生き地獄から終わることができる。あとは安心しておやすみ」と言いながら、引き金を引いた。

 

 ピュン、ピュン、ピュン。

 空気を掠める鋭い軌道の音のあと、炸裂音が遅れて周囲に谺した。

 

 ――ドサリ、と重量のある落下が地面を震わす。

 

 最初に言葉を発した刀使の少女の肉体に三発銃弾に穿たれていた。続いて、迷うことなく、隣の少女に三発撃ち込んだ。

 

 秀光は努めて無表情に、それでいて、口の中では祈りの言葉を呟いていた。

 

 全ての銃弾が少女たちの肉体の急所に穿たれていた。

 

 既に絶命して生気のない瞳と肌は、青い月光の降り注ぐ中、不気味に照らされている。

 

 秀光は近づいて、地面に屈むと死んでいることを確認してから深くため息をついて落涙した。

 「……キミたちもこのような死を迎えずに済んだものを……せめて、あの世ではゆっくりとお休み」

 慈愛に満ちた言葉で追悼する。

 

 瞼を閉じてやると、口元を苦く曲げた。

 

 「――――次は、お前だ。百鬼丸。我が息子。お前を始末する」

 

 



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70話

 獣道から登山道に接続する細路まで出ると、既に日没の刻限に迫っていた――。九十九折のアスファルト舗道には未だ日ざかりの余熱が保たれていた。暗く青味がかった空は、透明な星の輝きが点在している。

 「……なぁ、百鬼丸。お前はこの四か月間なにをやってたんだ?」

 薫が頭の後ろで組んだ手を解き、首を後ろにやる。

 「おれか? おれは《無銘刀》を探していた」

 「はぁ? 《無銘刀》か? もう持ってるだろ、んなもん」

 「――あ、違う、違う。左腕のコレの事じゃない。初代の……百鬼丸が持っていた方の無銘刀だ。ホレ、今おれの左腰に佩いているコレがその《無銘刀》だ」

 薫は「どれだよ?」とつぶやきながら、薄闇に目を細めると、確かに黒瑪瑙色の幅の太い鞘があった。

 「へぇ、そんじゃ見つかってよかったな」

 「まぁな。でも、コイツは厄介な代物でな」

 「どういう意味でだ?」

 しばらく視線を宙に浮かせ、思案顔をする百鬼丸。それから、

 「簡単にいえば、コイツは妖魔の血を吸わないとダメな刀だな」

 まさか、そんな馬鹿な……とでも言いたげな表情になる薫。しかしそれを無視して百鬼丸は言葉を続ける。

 

 「なんつーのかな。つまりさ、最初コイツは赤錆だらけのナマクラ刀だったんだ。だけど、例の怪獣が現れてから異変が始まりやがった。そんで、怪獣の血液を吸った頃にはほとんど別物って言っても過言じゃない位に切れ味が鋭くなった。思うに、コイツは、何千何万っていう妖魔を斬り伏せたおかげで、妖刀の類になったんだと思う。……しかも、斬れば斬るほど鋭さが増していくみたいだ。血肉だけじゃねぇ、単に妖魔のいる空気だけでも反応して鋭利になる。恐ろしいヤツだよ」

 

 目線を落としながら、過日の戦闘を反芻する。

 

 「なるほどな。確かにお前のいう通りかもしんねーな、そいつは」

 刀使の用いる《御刀》とは性質を大きく異にする刀――《無銘刀》。その真価を知らされた薫は一つの疑問に思い至る。

 「そういや、初代百鬼丸って言ったな。どういうことだ? お前の前にもいたのか?」

 

 「ああ、おれの先代……って言っても、勝手におれが二代目を自称してるだけなんだがな。でも間違いなく戦国時代におれと同じ境遇の武芸者が存在していた。それだけは間違いない。四十八箇所を化物に喰われた男――百鬼丸。おれはそいつの名前を頂いて、こうして生きてる」

 

 「そうか……」

 その話は初耳だった。彼……百鬼丸は未だ多くを薫をはじめ他の五人にも語っていない。敢えて聞かずにいた部分もあった。それが優しさだと思っていたからだ。

 (だけど、オレは――)

 知りたいと思った。益子薫は、人よりも他人の感情の機微に敏い。ゆえに、一見雑な性格に見られるのは他者が気を使わなくて済むように、敢えて「怠け者」を演じている側面もある。(だが半分は、生来の怠け者である部分もあるのだが……。)

 「なぁ、百鬼丸――」

 「ん? なんだ?」

 温泉街までは徒歩で三十分ほどかかる。薄暗い道路には等間隔で立つ電柱の蛍光灯が斜めに射して、光の紗幕を曳いている。

 「小腹減らないか?」

 「おお、そうだな」

 ――んじゃ、あそこに寄ろうか。と、薫が指差したのは、ポツンと一軒山腹に鎮座するコンビニだった。眩しいくらいに光を放つ店舗を指しながら、

 「少しは奢ってやるよ」

 口端を釣ってウィンクした。

 

 

 ◇

 「ねね?」

 薫の頭に乗っかったねねが不思議そうに顔をする。

 「おい、ねね」

 「ねね?」

 主人の二度目の問に更に大きく首を傾けた。

 「やっちまった……宿に財布を置いてきちまったみたいだ」

 会計レジの前で、薫はスカートのポケットをまさぐりながら蒼白な顔でつぶやいた。ヘンな汗が薫の頬を大量に流れる。

 「あの~、このまま会計を続けてもよろしいでしょうか?」

 五十代の男性店員が気まずそうな口調で訊ねる。

 ピクッ、と小さな肩をはね上げた薫は――

 「あ、あはは……ま、待ってくれ。すぐに取りに帰って……って、それだとサッサと帰った方が賢明だよなぁ」

 じゃあ、いいや。と、会計を諦めた薫がふと外に目をやると、自動ドア付近で祢々切丸を担いだ百鬼丸が、なにかを察したのだろう。二メートル近い御刀を地面に置き、店内に颯爽と入ってきた。

 「お金がないのか?」

 「ああ、宿に忘れてきちまった……」

 「なるほど、な」

 頷く百鬼丸は徐に、足元へと手を伸ばし……靴下の中に手を突っ込んだ。

 「おしっ、これで頼みます」

 百鬼丸はグシャグシャの一万円札をレジに置いた。

 

 「ま、まいど……」

 男性定員は引きつった笑顔で返事をする。彼は、まるで汚物でも摘むように人差し指と親指で一万円を摘み、レジスターの中へとブチこむ。足の悪臭が周囲に充満した。

 

 「ウッ」と、思わず薫も吐き気をもよおした。

 

 「お前、一体なにしたらこんな臭くなるんだよ? つーか、金を靴下の中に入れるな!」

 フツフツと激しい怒りが沸き起こる。

 

 しかし、薫の怒りにピンとこない百鬼丸は「ふうむ?」と言いながら怪訝な様子だった。

 

 (コイツには常識ってもんがないのか……)

 はぁ、と嘆息しながら薫は「まぁ、いい。助かった。ありがとよ。あとで返す」と付け加えた。……鼻を摘みながら。

 

 「いいや、別にいいぞ。それより腹減ったなー」

 能天気に百鬼丸はヘラヘラと笑う。笑いながら、店員からお釣りを受け取り、再び靴下の中へと貨幣紙幣関係なくブチこんでゆく。

 

 「おい!? だからお前ってヤツはだな……はぁ~まぁいいや」

 急にバカバカしくなって怒鳴りを止めた。

 四か月前、最後に別れた百鬼丸の格好良い後ろ姿とこの目前の能天気な少年が、薫の中では同一視できずにいた。

 

 ◇

 「おい、百鬼丸、中華まん食うか?」

 熱い湯気を冷たく乾いた空気に舞い上がらせながら、薫が百鬼丸に訊ねる。

 二人は、店舗のすぐ前に設置された赤色のベンチに腰掛けている。既に夜と言って良い時刻、カラスの遠い鳴き声だけが周囲の山々に木霊する。吹き付ける風も寒く、指先が悴んでしまう。

 「ほれ、食えよ」

 半分に割った中華まんからは、ニンニクと挽肉のいい塩梅の香りが空腹の鼻腔に流れこむ。ぐぅ~、と腹の虫が鳴った百鬼丸は「おう、サンキュー」と答えた。

 

 そして、薫が差し出した方とは逆の手に持った中華まんを手にとって素早く口にした。

 「お、おい! なんでそっちの方を取るんだよ!」

 驚き思わず薫は強い口調でいった。

 

 「うぬ? コッチの方が小さかったからな。どーせ、薫のことだからな。小さい方をねねと半分にして食うつもりだったんだろ? 遠慮せず大きい方くえ。チビだからな、たくさん食えよ。薫に似合わず、気を遣うなんてな。がははは……」

 下品な笑い方で破顔する百鬼丸。

 

 「~~~~っ、い、意味がわからん」薫は咄嗟に俯いて表情を隠した。

 事実を衝かれた衝撃と、図らずも無意識の気遣いを悟られ言語化された恥ずかしさで、死にそうなほど顔面の温度が上がった。

 

 「さっすが~~薫ちゃんは優しいなぁ~~」

 今度はふざけた調子で百鬼丸は薫の頬を人差し指で突いた。

 

 「~~~~~~うっっっせぇ、馬鹿野郎っ!」

 キッ、と釣り上げた目で、百鬼丸の脚を蹴り飛ばす。

 

 「アデッ、イタタ……そこは生足の脛だ! 本当に痛いんだぞ!」

 

 「うるせぇ、天罰だ天罰!」

 中華まんを齧りながら、薫は羞恥心を誤魔化すように乱暴に百鬼丸の脚を蹴った。

 

 「ねね~!!」

 主人が食べ物を一人独占していることにたいして、ねねは抗議の声を上げている。

 

 ◇

 

 「ほぉーー、ここが宿か!」

 百鬼丸は八畳程の旅館の部屋を眺めた。畳の上にはちゃぶ台と、テレビ。襖の向こうはベランダになっている。

 ここは、薫の宿泊用である一室であった。

 「いいとこに寝泊りしてるな。一人でも十分だぞ」

 「まぁ、部屋の大きさからみても十分だな。――おい、それより、さっきのフロントでのお前は何なんだ!」

 「ふうむ? どういう意味だ?」

 「ええい、言葉通りだ。なんでフロントでオレの宿泊する部屋に泊まるとか言い出したんだ。あまつさえ、『刀使の妹と一緒の部屋に泊まります』とかほざきやがって……」悔しそうに薫が歯ぎしりする。

 

 「ああ、それか。刀使の関係者――つまり、家族とか兄弟だと無料で泊めてくれる旅館だったみたいでな」

 

 「あのなぁ、あのおばさん……じゃなくて、紗南にいえば一発でお前も別の部屋に泊めてもらえたんだぞ」

 

 「なに!? そうなのか?」

 

 「ああ、そうだ」

 憮然とした調子で腕を組む薫。不服な様子だった。

 

 「なんで怒ってんだ?」

 

 「オレはお前より年上だ! んで妹なんだよ!」

 

 「そこかよ!!」

 百鬼丸はツッコミを入れた。まさかどうでもいい部分にこだわるとは思っても見なかったのだ。

 

 「んじゃあ、これから『薫おねーちゃん♪』とか呼べばいいのか?」

 気色悪い男の声で言った。

 

 「死ね。お前は今すぐしね」

 

 「おいおい、そいつはひどいだろうがよぉ……ん、なんだこれ?」

 百鬼丸はふと、足元に踏んづけている何かを感じて、下に手を伸ばして拾い上げる。

 

 「ほほぅ……これは布切れですなぁ……そんでこの質感……匂い、ははん。これはパンツだな。しかも使用済みの匂いだ」

 百鬼丸の手の中には、薫の履いていたであろう白いパンツが握られていた。

 

 しかもよく見ると、旅行用トランクケースからは、衣類や私物があふれており、部屋はやや雑然とした様相を呈していた。察するに、朝から晩までの仕事で片付けをする気力がなかったのだろう。

 

 「ほれ、返しとくぜ」

 百鬼丸は男前に微笑み、薫にパンツを差し出す。

 

 俯く薫。

 

 「おい、どーした?」

 

 

 プルプルと小刻みに震えている。

 

 「おい大丈夫かよ?」

 

 「―――――うっせーーー、死ね、アホバカ変態野郎がーーーッ!!」

 薫渾身のアッパーが火を噴いた。素早い閃光に似た右腕が見事に百鬼丸の顎に直撃して、脳みそをグラグラに揺らす。

 

 「ぐへぇええええええ」

 ひどい断末魔を上げて百鬼丸の体は宙を舞った。

 

 百鬼丸はしばらく、薫にマウントをとられて馬乗りでボコボコに殴られていた。

 

 



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71話

 淹れたてのコーヒーの香りを嗅ぎながら、轆轤秀光は小さく首を振った。霞ヶ関の情報戦略局の応接間には、ひとりの無骨な男が無機質な顔で腕を組んで扉の前で佇んでいる。

 「どうして座らないのですか?」

 秀光は軽い口調で座すよう促した。――しかし、相手はその言葉には耳を貸さず、

 「お前の目的はなんだ?」と、だけ冷ややかに問うた。

 腑破十臓、と名乗る男が縮毛気味の前髪の間から鋭い眼差しを送る。

 

 彼が関東で彷徨していたのは知っていた。美濃関の衛藤可奈美と接触を図った事実も、秀光には筒抜けであった。そんな十臓に話を持ちかけるのは容易ではなかったが、なんとか発見して説得、その後にこの部屋にまで連れてきた。

 

 得体の知れぬ男を前に秀光は、愛想笑いを浮かべていた。だがその効果もないと知ると――

 「ですから、先程も言いましたように……いえ。単刀直入に言いましょう。私の側にくるつもりはありませんか?」

 スッ、とそれまで人の良い笑みを浮かべていた秀光が一転して、残忍な笑みで十臓に謀反を持ちかける。

 「――どういう意味だ?」

 「見たところ、貴方は強者を求めている」

 「ああ」

 「で、あればコチラ側について下さるなら、もっと多くの相手をご用意できますが如何ですか?」

 「――この世界では、衛藤可奈美という少女を見つけた。それ以外にもいるのか?」

 十臓は腕組みを解いて、対面のソファーに歩み寄り腰を沈める。高級な材質のクッションが心地よく身を受け入れる。

 秀光は相手の興味を、逐一リサーチしそして心を掴む。情報線の基本の「キ」ができない人間が多い中、秀光は己の権謀術数に長けた才を内心で自嘲する。

 「今、タギツヒメ側から貴方が寝返っても、直接彼らと戦闘をする必要はありませんね。……私の願いとしては、まず〝百鬼丸〟を討つことにあります」

 「その名前は、ジャグラーからも聞いた」十臓が無愛想に言う。

 秀光は苦笑いをしながら、更に続ける。

 「であれば話が早い。……ヤツをおびき出すための罠に協力してもらいたい」

 「……どういう意味だ?」

 「簡単な話です。ヤツが実力を発揮するのは、他者……殊に刀使という少女に関してです。彼は本当の力を発揮する。厄介な存在です。言い換えれば、彼単体ではその真価は見えてこない。……どうです?」

 まるで、人の心の奥底をくすぐるような言い方で秀光は瞑目する十臓に一瞥をくれる。

 暫く黙った十臓だったが、脇に抱えた『裏正』の柄を逆手に握りながら目を開く。

 「俺は一体何をすればいい?」

 答えは決まっていた。

 

 

 嬉しげに目尻を歪めた秀光が、

 「まず、彼の大事なものを奪う……いや、まずは拐うことにしましょうか」

 そう言いながら、ソファーを挟んだ間に置かれたテーブルの上に一枚の写真を投げた。

 

 怪訝に秀光と写真に視線を往復させた十臓が一言、

 「こいつを殺せばいいのか?」

 と、いう。

 闘争心がむき出しで、人の話なぞ聞いていない。秀光は半ば呆れたが表には出さず鷹揚に否定の首を振り、

 「いえ、ですから――誘拐しましょう。百鬼丸をおびき出す餌として」

 と告げた。

 

 ◇

古い趣のある木造の廊下は、改築後特有のニスの匂いと塗り直しの鮮明な色彩を帯びた内装と壁に四方を囲まれている。

 

 『よっしゃーっ!! 張り切って混浴風呂に入っていくぞー、ねね!』と、くだらぬ宣言をした百鬼丸を、まるでゴミでもねめつけるかのように益子薫は蔑した。

 その嫌悪の眼差しに見送られつつ、百鬼丸と薫のペットである荒魂「ねね」は部屋から廊下に出た。明るく照らされる長い奥行の側面には整然と四角の窓が並んでいる。

 数十歩進んだ所で、百鬼丸はふと脚を止めた。

 「…………久しぶりだな、ねね」

 まるで久闊を叙するように、改めて百鬼丸はいう。

 「ねね?」

 栗毛色の毛並みのねねは彼の肩に乗って大きな頭を傾げ、細い瞳孔から百鬼丸を窺う。百鬼丸の意味する所を理解していない様子だった。

 「ふっ」と、百鬼丸は軽く気を抜きながら――相手との言語を用いぬ直接の意思伝達方法である《テレパシー》と相手の心理を読み取る《心眼》を使った。

 

 

 

 

 ◇

 その記憶は、古く未だ緑に覆われた時代の頃だった……。

 鉄の溶ける音と、排出される多量の《ノロ》があった。金属の不純物として出されたノロは、文字通り溶鉱炉から選別され、珠鋼から分離された。

 神聖なる金属――《珠鋼》から切り離された存在である「ノロ」は、当然の如く負の神聖を帯びて具象化し、人界を荒らした。深い悲しみを湛えた彼らはいつしか、独自の「意識」を獲得し、人間たちに対して強い敵愾心を抱くようになった。

 

 おれは「この風景」を知っている。……と、百鬼丸は思った。

 

 …………否、正確に云えばこの気持ちを、知っている。この記憶は紛れもなく、「ねね」のものだった。

 小屋とも言えぬ、粗末な人家を荒らし回る灼熱の四脚の獣――ねね。その巨躯に似合わぬ俊敏さで次々と焔を吐いて周囲を焼き尽くす。

 満たされぬ感情に、増してゆく破壊衝動。

 限りない殺戮と破壊。

 首を巡らし、手当たり次第に踏み潰してゆく。

 

 

 ――――

 瘴気のような薄赤く霧がかった視界の中で、おれの獰猛な殺意のみが膨張してゆくのが解った。仄かに天から差し込む寂光すら、気付いた時には既に消え失せていた。

 ……これもおれだ。「おれ」の一部だった。

 

 〝憎悪〟という原始的な感情。

 

 (これはおれの感情と似てるが、全く違う……。)

 この深い悲しみと孤独感は、「おれ」と同性質でありながら、全く異なる他者の記憶。……

 

 『荒魂が、手こずらせやがって……』

 ハスキーな女性の声が暗闇の中から聞こえる。

 

 歪んだ視界の前には、巫女装束の女性が「コチラ」を見上げている。

 長い黒髪を翻して、燃え盛る炎の中に佇む。

 

 ガラッ、と突然胸に深々と突き刺さった刃……祢々切丸を、あろうことか女性は何の躊躇なく引き抜いた。

 ――そして、手を差し出して微笑んだ。

 

 『またやろうぜ』

 全てを受け入れるような声音で、ただ手を差し伸べる。

 

 

 幾年、幾月、幾日々、時代を超えて祢々切丸を持った〝刀使〟と対峙する。そんな場面が走馬灯のように映像が過る。

 

 どれだけの時代と人を変えても、紡がれ続ける宿命と意思。……いつしか、燻っていた恨みや悲しみは溶けていった。

 

 『うぁ、あああああ』

 赤子の泣く声。まるでかつての自分のように、頼るものもなく、ただ寂しさに叫びを上げる。

 『ねね!』

 赤子に笑いかける。

 その中で初めて生まれた「共存」という手段。

 

 

 ◇

 寒々とした廊下に佇んだ百鬼丸は、ねねと同化した記憶から、不思議と胸の底から熱い感情が迸るのを感じた。

 「ねね?」

 不思議そうにねねは、百鬼丸をみながら首を傾げる。

 まるでかつての凶暴な面影もなく、穏やかな獣となった「ねね」。

 「舞草の時からお前さんとは、親近感があったんだぜ」百鬼丸はそう言いながら、ねねに微笑みかける。

 「ねね~♪」

 ねねも前足を上げて、同意を示す。

 この可愛らしい荒魂もやはり、百鬼丸に感じるところがあったのだろう。人から疎まれ、世の中を呪い――そして、刀使に救われた存在である彼に。

 

 

 と、その時。

 コツン、と腰を小突かれた。

 「おい、変態。なんでまだ廊下に突っ立ってるんだオイ」

 いつも眠たげな様子に不機嫌さを加えた薫が、居た。

 

 「ど、どーしたんだ!?」

 「そりゃ、コッチのセリフだ。やっぱりお前が変態で混浴で誰かに迷惑をかけるのも面倒だ。それに保護者のオレの責任にもなるだろうが。だから、探そうと思ったら……ったく」

 ツインテールに結んでいた髪を解いており、薄桃色の髪は長く垂れている。旅館の浴衣に着替えて寛いだ格好である。

 

 「あはは、そーだな。ねねとおっぱいの話をしてたら盛り上がっちまってな。あはは……」

 

 「馬鹿かお前たちは……」呆れながらため息をつく。

 

 「なぁ、薫」と百鬼丸は不意に真剣味を帯びた声音で聞く。

 

 「ん? なんだ急に」

 

 

 「薫は、さ。前に言ってたよな。大事なものでも自分の手でけじめをつけるって。――もしも、おれが〝おれ〟じゃなくなったら斬ってくれるか?」

 突然のことに薫は目を細める。しかし冗談や軽口の類でもないのは、その語気から察せられた。

 「…………正直、わからん。だがもし、お前が誰かを害するのなら、オレは容赦なくお前を斬る」

 明瞭な発言の裏で、薫は自らの家系の使命の重さを再認識した。

 「大事なものでも、もしも世を乱すなら斬る。……その覚悟はとっくにしている……筈なんだがな。あ~、そのなんつーか……やっぱり、それでもお前もねねも失うのが怖い。……っていうのが本音だ。ダセーかもしれねぇがな」

 気恥ずかしさを誤魔化すように薫は頬を軽く掻きながら笑う。

 「いいや、ダサくなんてない。おれはお前が立派だと思う。チビの癖にな」

 「おい! チビは余計だ」

 「あはは……そうだな。もっと、こうして平穏な日々が送れればいいんだ。闘いが全てだったおれにも、人並みの景色と生き方を教えてくれたお前たちには感謝してる」

 右手に落とした視線。ぐっ、と開いた拳を握る音。

 「…………。」

 薫は無言で、百鬼丸の横顔を見上げた。今の彼に何かをいうのは場違いだと思った。

 (なんでお前はいつも、いつだって何かに苦悩してる時でも喋らないんだよ――)

 後頭部を乱暴に掻きながら、薫はモヤモヤとした気分を募らせた。

 

 …………オレの憧れてたヒーローたちもこんな顔をしていたんだと思う。たとえ作り物でも、否、作り物だからこそ「正義の味方」の苦悩はいつだって、幼心に響いたんだ。

 「なぁ、百鬼丸」

 「ん? どうした?」不自然なほど優しい声音で百鬼丸は返事をする。

 「オレは特撮のヒーローに憧れていたって話したことあるか?」

 「いいや、初耳だ」

 「そっか。じゃあ、今話す。オレは昔から特撮ヒーローが好きだったんだ。誰かの為に闘って傷ついて、時にはその誰かに裏切られても戦うヒーローに憧れてたんだ」

 滔々と語る薫には一切の不真面目さはない。真剣な様子で続ける。

 「オレは昔、益子の家のことが少しだけキライだった。なんつーのか、もっと自由に生きてみたいと思ってたんだ。なんでもっと、他の子供みたいに自由になれないんだ、ってな」

 ――でも、と言葉を継ぐ。

 「ねねや……荒魂が忌むべき敵だとはどうしても思えないのも遠因だった。せっかく仲良くなれると思った荒魂すら、刀使になると容赦なく殲滅する。それが正しい刀使のあり方か解らない上に『自分でよく考えて斬る』っていう趣旨の益子のやり方にも正直ワケがわからん状態だった。……いつだって、辛い思いをするのは御刀を握る本人なのにな」

 薄桃色の髪に、窓から吹く秋の微風が撫で付ける。

 廊下は無機質に静かで、等間隔の照明が突き当たりまで点灯している。廊下には他に誰も居ない。

 「でも、重なったんだ。――昔見ていたヒーローと刀使が。こんな辛い役割でも、きっと希望があるんだって、そう思えたんだ。だから益子の家のやり方も初めてオレの中で氷解したんだ。え~っと、だからな。そのなんつーか……」

 それまで淀みなく言葉を紡いだ薫が珍しく口ごもる。

 「……どうした?」

 「え~っとだから……ちまったんだよ」

 「ん? すまん、少し聞き取り辛いんだが」

 「だーかーらー! オレはお前もヒーローに見えちまったんだよ! あの舞草での一件でも折神家でのお前も! 悪いか!」

 「おおう、そんなに怒鳴るなよ」

 恥ずかしそうにプイッ、と顔を背けながら一言だけ、

 「だからよ、あんまりオレを失望させるなよ……」と呟いた。

 

 ――おれがヒーローに、か。

 正直、そう言われて悪い気はしないが、自分の実態とは大きくかけ離れているとも思う。だけど、薫は恐らくそんなことも承知の上で、こんなことを言ったのだろう。

 

 ひとりで合点がいくと百鬼丸は薫の頭に右手を置いた。

 「あんがとな。舞草の時にもお前には色々と教わったけど、今回もお前に救われた。……おれにもこんな日々を護るくらいの力はある、と思いたいケドな」

 含羞む百鬼丸。

 

 その殊勝な様子に「ふっ」と薫は鼻を鳴らして笑う。

 「ば~か。やっぱり訂正だ。お前なんかヒーローじゃない」

 半眼の眠たげな眼差しで、おちょくる。

 「んだと、このちんちくりんめ」

 ニヤニヤと笑いながら、百鬼丸は薫の髪をくちゃくちゃになるまで撫で回した。

 「お、おいヤメロ。せっかく整えたのに乱れるだろーが、馬鹿野郎」

 つよく抗議したが、百鬼丸は全部無視した。あまつさえ、薫の両脇を抱き抱えて高い高いをした。

 「がぁああ~、ヤメロ下ろせバカ」

 「なに、そう照れるなよ」

 

  楽しげだった百鬼丸の耳に声が鳴り響く。

 『キミには平穏は似合わないなぁ……』

 聞き覚えのある声が、百鬼丸の心臓の辺りから聞こえた。この声の主を知っている。百鬼丸は僅かに翳った表情で内心呟く。

 (ああ、おれだってこんな風景にいつまでも身を置けるとは思ってないぞ、〝ジョー〟)

 かつての仇敵、レイリー・ブラッド・ジョーに対して内心で反駁した。

 

 

 



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72話

 

 

 

午前二時三〇分。

……K市、湾岸沿い。

 無数の巨大倉庫が林立する港では巨大クレーンが肩を並べ、コンテナが積み木のように点在して積み上がっていた。西日本でも有数の規模を誇るこの港でも、密輸や密航が跡を絶たない。――そればかりか、反社会的勢力が「クスリ」などの売買を公然と行う有様だった。無論、これは社会でも公然の秘密であり、特別な光景ではない。

 

 

 F倉庫、と白い剥げたペンキで記されたゲート。

 そのシャッターの一角が半開きになっていた。中から、薄い光が漏れている。

 「なぁ、アニキ。これでクスリの売上も昨年より順調に推移していますねぇ」

 禿頭の若い男が、欠けた歯をチラつかせながら、下卑たわらいを浮かべる。

 ――チラッ、と横目で一瞥した男は深く嘆息した。

 「……まぁ、そりゃあいい。ウチにも利益が出るなら、外人だろうと素人だろうと参加させる。だが、コッチの不利益になるならば容赦なく殺す。それだけだ」

 くすんだ金の長い髪をかきあげながら、ジッポライターの蓋を開閉する。銀色に光るジッポに、一瞬、影が過ぎった。

 

 ……が。持ち主の男を含め、数十人はそのことに対して全く気づいていない。

 「しかし、世間ではやれ『荒魂』だのなんだの、ってもちきりですがねぇ」

 禿頭の男はタブレットの画面でニュースサイトの記事を流しみ読みをしながら、感想を述べる。ごく常識的な意見だった。

 「ハッ、だろうな。だが、まさか刀使さんも――人の敵が化物じゃなく人間だなんて思わないだろうな。人の敵はあくまで人。それは古今東西変わらぬ原則だ」

 ジッポを開き、着火した弱々しい火を見つめながら、金髪の男は口を歪める。左手首の高級時計が時を刻む。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 一定の間隔で靴音が無機質に鳴る。

 

 「だ、誰だッ!!」

 唐突な来訪者の気配に、大の男たちが狼狽えた。

 

 「おいィ、外の見張りは何やってんだッ!!」金髪の男が腰を浮かせ、唾を飛ばしながら怒鳴る。

 銃火器を持った専用の見張りを一体どうやって突破したのだろうか……?

 拭えぬ疑念を無理やりに頭を振って追い出し、周囲の男たちに臨戦態勢をとらせる。

 

 

 『ここで実験か……まァ、いいだろう』

 低く篭った声が倉庫内に反響する。

 

 「て、テメェ何者だ!」

 金髪の男はスーツのジャケット内から、拳銃を慌てて取り出す。

 

 男たちの視線が、声の方向に集中する。

 

 

 ――男は誠に異形の風体をしていた。

 

 

 先程までポーカーに興じていた筈のドラム缶の上に、一個の冷たい影が蟠っていた。夜を連想させる黒い装束に、首に巻かれた赤い布がシャッターから漏れ込む外気にはためく。目元を覆う白い布には、鋭い三白眼が覗いている。

 

 〝恐怖〟―――。

 

 その場の全員をたった一つの単語が全員の思考を支配した。

 

 「う、撃てェ!!」

 上擦った声で、金髪の男が命じた。

 

 火箭が一斉に噴出した。ヴァン、ヴァン、と銃弾が螺旋軌道を描き、不埒な侵入者に殺到する。

 

 無数に交錯する銃弾の軌道たち。……しかし、どれ一つとして「影」を捉えることはない。およそ人間業ではない。

 

 「う、うそだろォ……」

 禿頭の男が掠れた声で呟く。

 ゾワリ、と背筋に悪寒がはしる。胃の腑が優しく冷たい死手に撫でられた気がした。その後は一心不乱に照準も顧みず発砲を続けた。それが唯一の安定剤であったから……

 

 

 『どうした……? もう、終わりか?』

 低く囁く声が、倉庫内部一杯に反響した。

 

 「ど、どこだ! どこにいやがる!!」

 

 「ツラ出せ、オラァ!」

 

 「死にさらせ、クソ野郎!!」

 

 男たちの視線は周囲を異常に注意深く彷徨った。最早、疑心暗鬼ともいえる程に狂気に駆り立てられていた。

 

 『そろそろ終わりだ――薄汚れた、思想なき〝悪〟たち。粛清だッ』

 それが、その影の最後の言葉だった。

 

 ……否、正確には「その言葉を聞いた男たちの」と付け加えるべきであろう。

 

 「はぁ……? へへへ、アニキ。イカレ野郎なんざ……」

 と、禿頭の男が首を回そうとして――顔半分が切り裂かれた。ちょうど、鼻の下辺りから刃が通り、見事な輪切りで顎と頭蓋骨が切断された。

 

 悲鳴を上げる暇すらなく、男の胴体は膝から崩れ落ち、地面に深紅の絨毯を拡げた。

 

 「う、うぉあああああああああああああ!!」

 誰かが錯乱した。

 

 見境なく拳銃の引き金をひき、恐怖を追い払う。

 

 「ヤメロ、馬鹿!!」

 仲間の躰に穴を開けるのにも頓着せず、ひたすら無軌道な発砲を行う。

 ――ギャッ、

 

 という短い悲鳴が聞こえた。錯乱した銃弾に耳を吹き飛ばされたようだった。

 

 

 カチッ、カチッ、と引き金から空っぽの金属のかち合う音がした。

 

 「へぇ……?」

 呆気にとられた顔で錯乱男は、拳銃を眺める。

 

 『キサマには覚悟がない、粛清だ』

 冷淡に耳元に囁きが聞こえる。

 

 ――直後、その男は肉体をバラバラの細切れにされた。キューブ状の肉塊だけがポロポロと床面に散らばった。一拍置いてから、空中に鮮血がホースで撒いたように、周囲に血煙を飛ばす。

 

 

 

 「な、なにがおこっているんだ……?」

 くすんだ金髪の男は無意識に首を左右に振り、姿なき殺戮者にただただ怯えた。

 

 と、ピタリ。殺戮の音が止んだ。

 

 

 ゴクリ、と生唾を呑む金髪男は、眼下に晒された骸の山に意識が向く。皆、みごとな札断面で斬り殺されている。人体が、まるで玩具のようにバラバラに四散した。

 

 知らず知らず、指先に震えが伝う。

 

 「だ、誰か……助けてくれェ」

 喉を絞り、助命を嘆願する。

 

 『お前は今まで、そう言って助けたことがあるのか?』

 影はいう。

 まるで、心中を見透かすように、そう問うた。

 確かに、この影の言うとおり、金髪の男はこれまで一切の躊躇をせず、人を殺してきた。想像を絶する拷問にかけ、女子供問わず殺した。

 

 ――その報い、だとでもいうのだろうか?

 

 金髪の男の脳裏に「死」という文字が過ぎった。

 

 「わ、悪かった……だが、なぁ? 俺はただ上から命令されてただけなんだ? わかるだろ? 俺は悪くない。そうだ、本当に悪いのは上の人間だ! 俺たち下っ端をいい気で遣う連中こそが――」

 

 と、言いかけた所で、男は足に蟻走感がした。目線を落とすと、赤黒い《蝶》のような物体が男の脛辺りまで巻き付き、太腿まで差し掛かっていた。

 

 「な、なんだこれは……なぁ!!」

 怒鳴る。しかし、反応はない。

 

 『思想なく、また自らも報いを受けることを厭う愚者。お前は、粛清だ』

 無機質に、事務的に告げる。

 

 その発言を最後に、赤黒い蝶たちは男を一気に呑み込んだ。蠢く、蝶たちの羽には細長い瞳孔が動いており、人型になった蝶たちの間から「助けてくれェ……ぎゃああああああ」という悲鳴が漏れた。

 

 そして、《蝶》が去った。

 

 残されたのは、白骨化した物質だけである。繊細な人体模型の如き骨は、重力に誘われ、脆く崩れ落ちる。

 

 

 ◇

 「……終わりましたか?」

 少女の無感情な声がする。

 

 鋭い三白眼が、横目でチラリ、とその方向を窺う。

 

 「ああ、終わった」

 ステインはそう言いながら、自らの右腕に集まり始めた《蝶》たちに一瞥をくれる。

 

 ……ステインの新たな力、《吸血蝶》

 

 夜見の血を吸うことにより、自らの脊椎を中心に、五つの花弁に似た形状の暗黒羽が現れる。それは一つ一つが無数の《蝶》の荒魂により形成されており、その五つの花弁から自由自在に吸血の蝶が放たれる。

 

 敵の血を吸い、生命を奪う。

 

 ステインの個性、「凝結」と、夜見の「荒魂」が完全な融合を果たした結果、生まれた禍々しい攻撃方法であった。

 

 

 「これで、私も貴方の〝共犯者〟という訳ですね」夜見は、光のない瞳でステインをみる。

 

 ステインはそれに答えず、「まだ、完全ではないな」と右手を開閉した。

 

 

 (私は、あの方の為に力になれるのなら――)

 夜見は未だ痺れる躰を無理やり動かし、歩き出す。

 

 ステインの能力の性質上、血を舐められた者は動くことができない。――しかし、夜見の場合は少々事情が異なる。彼女本来の血液に加え、荒魂の成分が多分に含まれているために、純粋な血という訳ではない。

 

 従って、夜見はステインの個性の効果を半分だけ受けるだけでよかった。

 

 「夜見、お前にはこちら側の人間じゃない」

 珍しくステインが、夜見に対し明確な意見をした。

 

 「…………。」

 両者の視線は交錯した。

 

 「なぜ、ですか?」

 長い沈黙の後、夜見が尋ねた。

 

 《吸血蝶》を霧散させたステインは、夜見に背中を向ける。一切の表情が窺えない。

 

 「お前にはまだ〝戻る〟選択もできるからだ」

 

 このステインという男の真意が全く解らない、と夜見は思った。全くの無愛想であり、かつ残忍。しかも思想的には一種のカリスマ性すら持ち合わせているのだ。

 

 「いいえ。あの夜、貴方と契約した時から私には選択などありえません」

 言い切る。

 

 事実、夜見には一切の逡巡や迷いがない。

 

 ――そうか。

 

 と、ステインは言い残して酷い有様の倉庫をあとにする。夜見もそれに続き、踵を返した。

 

 深紅の絨毯はゆっくりと、生暖かく広がってゆき、やがて金臭い匂いから内蔵の腐臭が漂い始めた。

 



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73話

 西日の射し込む襖……。

 森閑とした空気が、ある一個の空間に満ち満ちている。秋のひんやりとした温度が、床板に染みている。遠くでカラスの声が聞こえた。

 

 鎌府女学院、修練所――。

 

 刀使を育成する伍箇伝の中でも優先的に配当される予算の関係上、修練所の数も多く、空間も広い。その中央部にふたりの少女が対峙している。

 

 ……衛藤可奈美

 

 ……十条姫和

 

 二人は静かに相手を見据えながら、もっとも基本的な型である正眼に御刀を構える。

 《写シ》を体表に貼った状態で両者は微動もしない。漣ひとつない湖面の如く、ただ静かである。

 

 夕色が影を色濃く、人影を長く伸ばす。

 

 先に動いたのは可奈美だった。

 

 「はぁッ――」

 気合の入った掛け声と共に、《迅移》で加速し突き技を繰り出す。赤いプリーツスカートが翻り、柔らかな肉感を包むオーバーニーソックスが躍動する。

 

 しかし、姫和は左側面へと素早く回避し、あまつさえ斬撃をひと太刀浴びせた。横目で反応した可奈美の《千鳥》が、斬撃の方向へと刃を反転させ、金属の涼やかな衝突音と共に細かな火花を散らす。

 

 可奈美はそのまま、短い刀身を利用し、己の体重全てで《小烏丸》を弾き押し返す。

 

 「くッ……」

 緋色の目を眇め、小さな声を漏らす。

 

 僅かにできた余白を利用し、可奈美は更に《迅移》で姿をくらました。

 

 姫和も同じく《迅移》を更に深化させ、一隅へと移動する可奈美の後ろを追った。

 

 刀使同士の斬り合いにおけるひとつの鉄則と言っても良いのが、この《迅移》による攻撃可能範囲の「入れ替え」である。

 

 通常、剣士同士の闘いは肉薄した剣戟に重点が置かれる。それは当然で、人間が斬り合いをしながら素早く走り去る、ということは不可能である。

 

 ――しかし、刀使の場合、この《迅移》という超人的な加速を用い、攻守の入れ替えを行える。従って、普通の剣術にはない戦闘のスタイルを必要とした。

 

 

 可奈美と姫和は刀をぶつけ合いながら、床を稲妻の如くジグザグに移動し、相手への攻撃を試みる。

 

 

 (ここだッ……!)

 

 渾身の力を込め、姫和は突きを繰り出す。

 

 

 スッ、と可奈美の目が細められた。

 

 体重と速度の乗った重い姫和の突きを軽く右半身で受け流す。《小烏丸》は宙に浮いたまま、姫和は上半身が前傾姿勢になる。

 

 続けざまに可奈美は左足を軸に躰が半弧を描き、容易に攻守の入れ替えを図った。背後からの一撃。

 

 すかさず、姫和は体勢を立て直し、反転した可奈美の影を捉えながら、身を半分躱して《小烏丸》を盾に強烈な一打を受け止めた。

 

 花火のように盛大な火花が飛び散り、《千鳥》と《小烏丸》が共鳴する。

 

 激しい動の世界が、一瞬で静止へと戻る。

 

 襟、スカーフ、スカート、髪。全てが加速世界に弾んでいたが、急速に収束し、両者の間の鋭い睨み合い以外は全て元通りの状態であった。

 

 

 ◇

 

 (以前とは違う……)

 姫和は自分の手のひらを見つめながら、己が強くなったことを確認した。確かに刀使を辞めようと前線を離れていたから、少々勘は鈍っている。――とはいえ、それを差し引いても、可奈美と互角に等しい斬り合いができたのだから、上出来である。

 

 (いや、コイツはまだ手加減をしている)

 と、手を握り締めて可奈美の様子を窺う。

 

 「ふぅ」と息を吐きながら、リラックスする可奈美。まだ余裕のある顔の裏に、何か得体の知れぬものが感じられた。

 

 「おい、可奈美――」

 

 「ん? どうしたの? 姫和ちゃん」

 

 「えっ、いや……なんでもない」

 

 怪訝に首を傾げながら、パッ、と眉を明るく開き、

 

 「そっか。ねぇ、それよりもう一本どうかな?」

 弾んだ声でもう一戦せがむ。

 

 

 ふっ、と笑みを口元に零す。

 「ああ、いいだろう」

 きっと、思い違いだ。と姫和は一人納得した。自分の悪癖で、恐らくは考えすぎに違いない。だって可奈美は以前と変わっていないではないか。

 

 まるで、自らに言い聞かせるように姫和は八相の構えをとる。

 

 ◇

 現在、鎌府女学院は一時的な刀剣類管理局の拠点になっている。頻発する関東での荒魂被害により、自然と伍箇伝からの派遣が行われている。それゆえに、鎌府の各施設には色とりどりの制服が闊歩していた。

 

 

 午後七時半。

 鎌府の食堂には、疎らに座席を占める刀使たちの姿があった。

 

 皆食事が終わったのだろう。各々が寛いでいる。

 

 それらを横目に可奈美と姫和は、軽い疲労の体を落ち着けようと座席を探した。

 

 『カナミン、ヒヨヨン、ただいまデ~~~~スっ!!』

 一際弾んだ声で、前方から人影が現れた。

 

 「えっ!?」

 

 「なっ!?」

 

 豪華な金糸が大気中に毎い上がり、柔らかな感触がふたりの頬を圧した。

 

 「え、エレンちゃん!?」可奈美が素っ頓狂な声を上げる。

 

 エレンが関東に出向するとは聞いていなかった。そのため、意表を衝かれてしまった。

 

 同じく、戸惑った姫和は「おい……」と小さく漏らす。

 

 そんな二人の動揺する様子を楽しげに眺めるエレン。

 

 彼女はにっこり、と微笑みながら二人から素早く離れて、

 

 「皆も一緒デ~ス」

 エレンの腕が示す先には、見覚えのある姿がいくつもあった。

 

 『ただいま』

 聞き覚えのある、落ち着いた口調。

 

 席から立ち上がった少女――柳瀬舞衣が微笑する。つい、先月まで美濃関に帰った筈だったが再び戻ってきたのだろう。同じテーブルには糸見沙耶香と益子薫もいる。

 

 「おかえりーっ!! あっ、ねぇ。美濃関のみんな元気だった?」

 駆け寄りながら、近況を聞く可奈美。まるで子犬のようで、相変わらず可愛らしい――と舞衣は思った。

 

 「うん。相変わらず――あっ、それと可奈美ちゃんの課題預かってきたから」

 

 「えぇ~~」

 あからさまに嫌そうに目を細めて、両腕をだらりと垂らす。

 

 そんな変わらずな様子に舞衣は思わず「ふふっ」と忍び笑いを漏らす。

 

 ここ数ヶ月、刀使としての活躍で忘れていたが、まだ学生であるため学業を疎かにできない。当然と言えば、当然の対応である。

 

 「おお~、頑張れよー」

 他人事のように薫が紙コップに口をつける。

 

 すかさず、

 「薫~、ワタシたちの課題も長船から届いてマスよ~♪」

 なぜか楽しげに追い打ちをかけるエレンだった。

 

 「…………コッチもかよ」

 流れ弾に被弾したように、ガックリと頭を垂れて、盛大にため息をつく。

 

 「散々コキ使われたんだ。それくらい免除しろよ」

 

 「……それとコレとは別」

 淡々と、薫の対面に座る沙耶香が反論した。

 

 「うぅ……」と正論をかまされ、薫は渋い顔になった。

 

 そんなやり取りを眺めながら、姫和は呆れともつかぬ……しかし柔らかな表情で一言、

 「……また騒がしくなりそうだな」

 と、こぼした。

 

 懐かしい光景。

 つい、四か月前。御前試合から逃走し、折神家襲撃までの苦楽を共にしたメンバー。その賑やかなやり取りに居心地のよさを覚えていた。

 これまでは、孤独を気取っていたんだと思う。

 しかし、可奈美をはじめ他の四人とも関係は深まり今では「大切」なものの一部となっていた。

 姫和は何となく、満ち足りた幸福を感じていた。

 

 

 『ねぇ、あれって衛藤さんたちじゃない?』

 

 『うそ、あの事件の?』

 

 『わたし、初めて六人揃ったところみたかも……』

 

 遠巻きに、食堂にいた生徒たちがどよめいた。それもその筈である。つい四か月までは可奈美も姫和も御尋ね者だったのだから。それが一転して英雄となった。良くも悪くも話題性は十分である。

 

 しかしそんな外野の声には頓着せず、姫和はキョロキョロと周囲を窺っていた。違和感を覚えているかのようだった。

 

 その様子を察した薫はニヤリ、と意地悪く口を曲げた。

 「なあ、エターナル。アイツなら今はいないぞ」

 

 「あ、アイツ? 誰のことだ?」

 明らかに動揺している。目線を外して、慌てていた。

 

 「――まぁ、しょうがないよな。何となく当たり前みたいにオレたちの中に溶け込んだ〝もうひとり〟がいたからな。だが安心していいぞ。オレが連れてきてやった。……まぁ、合流は後からになると思うけどな」

 

 「だ、だから誰のことを言っているんだ」

 柳眉をしかめながら語気を荒くする。

 

 薫は面白げに目を細めながら鼻で笑う。

 「百鬼丸だよ、百鬼丸。お前のだーーい好き、ちゅっ、ちゅっ、なヤツだ」

 

 「馬鹿者っ!! なぜ、私があんなヤツを好かねばならんのだっ!」

  いきり立つ姫和。

 

 「えっ、百鬼丸さんも来てるの!? どこ、どこ?」

 怒る姫和をよそに、可奈美が弾んだ調子で百鬼丸の姿を探す。

 

 「あ~、だからウチの学長に呼ばれてココにはいないんだ」

 

 「え~っ、そっか。残念だなぁ~。手合わせお願いしようとしたのに……」

 残念そうに項垂れる可奈美。

 

 「可奈美は相変わらずだな」と薫は苦笑いをした。

 

 

 その時だった。

 

 ぐぅ~~~。

 

 と、盛大にお腹の虫がなる。

 

 「あっ」沙耶香が、自らの腹部に手を当てて小さく驚きの声をあげる。

 

 一同の視線が沙耶香に注目した。

 

 優しく微笑んだ舞衣が席から立ち上がり、

 「じゃあ、そろそろ行こうか」

 と、皆を促す。

 

 「……?」

 沙耶香だけが、理由もわからず目を見張る。

 

 

 

 ◇

 

 「やあ、久しぶりだな。百鬼丸」

 真庭紗南が両肘を置きながら、目前に佇む少年に語りかける。

 

 「あーお久しぶりですね」

 嬉しくなさそうに、気だるげに返事をする百鬼丸。

 

 ビシッ、と脇に唐突な肘鉄を喰らった。

 

 

 「いでっ――なにすんだよ、双葉」

 涙目になりながら義妹に文句をつける。

 

 隣に立つ少女はツン、と澄ました表情で一切耳をかさない。

 

 「ねぇ、にいさん」

 

 「な、なんだ?」

 

 「わたし、薫さんから聞いたんだけど……ううん、エレンさんからも舞衣さんからも同様のセクハラ被害を聞いているんだけど、これってどういうコトかな?」

 満面の笑みで、双葉は百鬼丸を見返す。

 

 「ええっ!? なんだそのことは!!」

 

 「……薫さんには、同じ部屋で朝まで体中をまさぐったり舐めたりしたって報告聴いてるけど?」

 

 「ち、違う。それは布団がひとつしかなくて、仕方なく……昔暮らしてた山犬とじゃれつく癖で間違えてだな……」

 

 百鬼丸の言い訳は苦しい。

 

 軽蔑の眼差しを送りながら、更に続ける。

 「研究所での、エレンさんと舞衣さんへのセクハラは?」

 

 「あ、あれも事故だ事故。なぁ双葉、信じてくれよぉ」

 情けない声をあげて百鬼丸は嘆願する。

 

 双葉は再び笑顔になる。

 

 「い や。死んで♪」

 そう言いながら、首輪と鞭を持っている。

 

 「おおう、神よ! おれを見捨てたのかぁ!!」

 天井に思い切り叫ぶ。

 

 兄妹のやり取りを眺めていた紗南は深いため息を吐き出しながら、

 

 (なんなんだ、この兄妹は……。)

 

 これからシリアスな内容の話をする前にかなりの気力を削がれた気がした。

 

 「なぁ双葉さん! 手加減してくれないか」

 

 「ダメ♪」

 

 百鬼丸は膝を床について、双葉の袖に縋り付く。

 

 「話せば分かり合える」

 

 鞭を肩にトントン、と落としてリズムをとりながら、

 

 「問答無用♪」

 

 私刑宣告を下した。

 

 

 

 

 バシィン、パシィン、という乾いた音と共に男の「あぁ……」という嬌声が暫く刀剣類管理局の指令本部に響き渡った。



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74話

 

 「――なるほど、それで真希を疑っていた訳か」

 真面目な顔つきで百鬼丸は頷く。

 

 一連の事件などのあらましを聴き終えた後、百鬼丸は話を整理した。

 

 ここ最近、刀使を襲った黒いフードの人物として獅童真希がマークされてた。……とはいえ、ここ数週間で事態が急変した。ジャグラー、十臓という規格外の男たち……すなわち「刀使」とは異なる存在が《ノロ》を強奪していった。

 

 「ああ、そうだ。だが研究所の一件でその疑いは晴れた。まぁ、彼女自身がコチラの本部で直接出頭したのも大きいがな」

 

 「だろうな。そもそも、アイツがノロを奪う理由なんてないからな……っ、てアチチ、双葉さん、アツゥイよ! とてーもアツゥいよ!」

 

 「ん? なにかな、ケダモノさん?」

 

 双葉はニッコリと微笑みながら、褌一枚の姿の百鬼丸に問う。彼は四つん這いになって椅子の如き扱いを受けている。

 

 「だから、ロウソク垂らすのはやめてくれ」

 

 「えっ? なになに? 聞こえないよ~」

 双葉は、ぐっ、と百鬼丸の背中で上下にバウンドした。

 

 「あふぅん……」脂汗を流しながら耐える。

 

 目を細めながら、右手に赤いロウソクの火が灯る。そこからポタポタと滴り、蝋が鞭で打った傷口に入り込む。

 

 若干、というか大変喜んでいる百鬼丸を心底軽蔑した眼差しで見下しながら、双葉は頭を上げる。

 「本部長、それでこの変態……じゃなかった、にいさんを呼んだってことは」

 

 「ああ、そうだ。この……刀使とは異なる男たちをお前に止めてもらいたい」

 真面目な口調で紗南は語った。

 

 ……しかし、いかんせん目前では兄妹間でのSMプレイが繰り広げられており、どうにも間抜けな絵面になってしまう。

 

 「やっぱり、厄介な相手……ですか」

 双葉は不安げな声できく。

 

 無言で紗南は背後の巨大ディスプレイに画像を映し出した。

 

 巨大な怪物……。

 

 研究所を襲った一匹である。

 

 「見てのとおり、我々の予想をはるかに超える相手だ。正直に言って百鬼丸に対応してもらう以外に打開策が見当たらない。そして恐らく……高津雪那もこの件に関与している」

 かつて、共に苦楽を共にした戦友であり伍箇伝の学長でもあった人物。

 

 鎌府の学長とは現在名ばかりで、綾小路に身を潜めている。

 

 「……高津学長も、ですか。本当に厄介な事態なんですね」

 双葉は蝋燭を吹き消して、裸椅子の背中から立ち上がろうとする。

 

 

 「――おい、双葉待て! なんでもっと責めないんだッ!! それじゃ、お兄ちゃんは全然反省できないぞ! 分かってるのか? ええ? お兄いちゃんはだな、もっと真面目になるために、仕方なく、本当に仕方なくだよ? お前からの罰を受け入れているんだ! 遊びじゃないんだぞ!?」

 双葉を見上げながら、百鬼丸は真剣に諭す。

 

 最早変態というより真性のマゾである。

 「…………。」

 表情の無くなった顔で真庭紗南は心底見下していた。

 いったい、自分はなんて変態モンスターを呼び出してしまったのだろうか。と今更ながら逡巡する。

 

 

 しかし、そんな他者からの冷たい視線すら気にせず、双葉は邪悪な笑みを浮かべる。

 

 「へぇ~、そっか。じゃあ○○とか××してもいいんだよね?」

 

 「ば、馬鹿野郎ぅ、そんなことしたらおれが壊れちゃうだろ、いい加減にしろ! ……はぁ……はぁ……しかし、その提案もありと言えばアリだな……はぁ、はぁ……ゴホン。双葉。お前は、この全く反省していない義兄に一体なにをしようというのか? ぐへへ……」

 

 涎を垂らしながら、百鬼丸はひたすら興奮している。

 

 パシィン、パシィン、

 

 鞭の鋭い音が本部の室内に盛大に反響した。

 

 『うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! サイコーーーーッ!!』

  

 常識のぶっ壊れた男の雄叫びは、暫く続いたという。

 

 

 ◇

 「よし……これで、これでようやく計画が実行段階に……ふふふっ、やはり私は天才だわ」

 高津雪那はひとり、綾小路武芸学舎の一室で政治家や官僚との交渉を続けながら書類の作成にまで多岐に渡って実務仕事を終えていた。

 しかし、彼女の自信にあふれた言葉とは裏腹に、目の下にはどす黒いクマができており、青ざめた肌、こけた頬などやつれ切った印象しか受けない。

 

 この連日で起こった騒ぎの大半が来訪者たちの手によるものである。その火消しに追われる身にもなって欲しいものだ、と雪那は憎悪を滾らせる。

 

 それもこれも、全て異世界の来訪者たちが勝手に行動しているせいである。我慢の限界に達して一度タギツヒメに直々に文句を言いに行った。

 だが返ってきた答えが、「それは全てキサマに任せているはずだぞ」というもので、一蹴されてしまった。

 

 ……しかし、実力も桁違いのあの連中を止める手立てなど雪那にあるはずもない。

 「もぉおおおおおおおお、どーーーして、こーーーーなるのっ、おかしい! おかしいわ! この私がどうしてこんな目に遭わないといけないのぉ!!」

 

 執務机を激しく叩きながら、頭を抱えて途方にくれる。

 

 そもそも、この綾小路に目をつけたのは鎌府では未遂に終わった「刀使の洗脳」計画を行うためである。ノロの活用の一種に人の精神を汚染して、タギツヒメに完全な忠義を誓う――いわば『近衛隊』のような集団を創設するためにきたのだ!

 

 それを、綾小路の学長、相楽結月は話をはぐらかして全く計画が進展しない。

 

 「まったく、どいつもコイツも無能ばかりね……はぁ。まあいいわ。今、相楽学長も関東に向かってこの学校の責任者がいない状況。思う存分計画の遂行をさせてもらうわ」

 

 ふふふ、と高笑いを始めた高津雪那。

 

 と、その時扉から「コンコン」というノックが聞こえた。

 

 「――誰だ?」

 

 『皐月夜見、ただいま戻りました』

 

 (この忙しい時にどうして、私の傍で雑務をこなさないのッ!)

 

 見当違いの怒りを募らせながら雪那は、

 

 「遅いッ! 遅すぎるっ!」と怒鳴る。

 

 『――申し訳ございません』

 

 「…………ふん、まぁいいわ。それよりさっさと、お茶の準備でもしたらどうなの? まったく気が利かない」

 

 腕組みをしてふてぶてしい態度をとる。

 

 『……はい、ただいまご準致します』

 なぜだか、僅かに弾んだ声で夜見は扉の前から歩き出す。

 

 

 「あの無能にも、それなりの利用価値はあるものだな」

 なんだかんだと言いつつ、夜見の淹れる紅茶に最近ハマりだしたのはストレスとは無関係ではないだろう。

 

 ――と、扉の去り際に夜見が一言。

 

 『報告を致します。先程、ステインがK市の埠頭で反社会組織の数十人を殺害してきました。彼の伝言で『あとの処理は任せる』とのことでした』

 

 そう言って遠ざかる足音を聞きながら、雪那の表情は絶望に塗り固められた。

 

 「ぁああああああああああああ、なんでまた余計なことをおおおおおおおおお!!」

 

 

 

 ◇

 ノロ被験者治療病棟の一室。

 此花寿々花は、午後最後の検診を終えて部屋に戻ったばかりである。殺風景なこの病室には、あまり暇つぶしになるようなモノはない。まぁ、贅沢も言っていられない身分だろう、と重々承知はしているのだが……。

 

 「暇、ですわね……」

 巻き気味のワインレッドの毛先を弄びながら、ポロリと呟いた。

 

 外との接触及び情報の取得も制限されているために携帯端末なども使用は禁止されていた。

 

 (真希さん達は今なにをなさっているのか……。)

 ふっ、と軽く鼻を鳴らして自嘲する。

 いつになく感傷的な気分に陥ったものだ、と少し自戒する。体の不調が精神に影響を及ぼすというのは本当かもしれない。

 

 暫く一人思考の世界に浸っていたとき、

 

 こん、こん……。

 

 と、扉をノックする音が聞こえた。

 

 (こんな時間に検査でも……? まぁ、なんでもいいですわ)

 

 半ば死んだ魚のような気持ちで「どうぞ」と返事をする。時計を一瞥すると、10時に近い。

 

 スライド式の扉を潜って入室してきたのは〝百鬼丸〟だった。

 

 「――よォ、元気か?」

 

 突然の意外な訪問者に、寿々花は身を横たえていたベッドから跳ね起きた。

 

 「な、なぜ貴方がここに……?」

 動揺しながら寿々花は問う。

 

 彼とは『あの夜』以来の再会となる。

 

 しかもさほど深い関係性でもないのに、なぜ?

 

 そんな寿々花の疑問を理解したように苦笑いを浮かべながら百鬼丸は少し真剣な口調で口を開く。

 

 「お前に……此花寿々花にすこし聞きたいことがあるんだ」

 

 「わたくしに、ですか?」

 怪訝に眉をひそめる。

 



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75話

 ――つい二時間前。

 

『お前には、此花寿々花に尋問をして欲しい』

 真庭紗南は硬い口調で告げる。

『はぁ? なんでだよ』

百鬼丸は褌一枚の格好で腕を組み、怪訝に首をかしげる。今更尋問をする必要性がわからなかったのである。その様子をみて察したのであろう。小さく口端を曲げて苦笑いをして、

『まぁ、私もそう思う。だが――刀剣類管理局も含め、現時点では余りに不可解なことが多すぎる。つまり……』と、言い淀む。

『誰が裏切り者で、情報を流してるかわかんないってことか? 元親衛隊のヤツも……ってことか』

 言葉を引き継ぐように百鬼丸はいう。

 無言で頷く紗南。手元に自然と視線を落としているのは、彼女の本意ではなく寧ろ上からの圧力だとみた方がいいだろう。

 『……わかった。ただし、おれのやり方でやる。監視するなりなんなりはソッチでやるんだろ。どーせ』

 

 『そうだ』

 

 間髪を入れずに答えるということは、彼女なりの一切の隠し事を百鬼丸にしないという意思の表れでもあった。

 

 『んで、本題になる用件は?』

 

 紗南は手元の書類から一枚の用紙を抜き出して百鬼丸に差し出す。

 

 受け取った百鬼丸は、

 『これは……ノロの精神汚染について? ふうむ?』

 秀でた眉を曲げて軽く目を通す。

 

 ――要するに、人体にノロを取り込んだ場合における精神汚染と、それを利用した汚染、マインドコントロール研究についての内容である。

 

 『こいつは、なんというか……クソだな』

 

 紗南も同意見だったのだろう。肩をすくめて、ため息を零す。

 

 『その資料は鎌府女学院が管轄する八王子の研究棟から押収されたものだ。――ノロに対する人体実験というのは、鎌府と……旧折神派の連中だ。その研究内容も共同で行われた可能性も高い。そして親衛隊は折神家の情報の中枢にいた。……つまり、これからの尋問のメインはそこだ。ただ、この数ヶ月間で此花寿々花に簡単な事情聴取はしてきた。彼女も協力的な態度だ。――しかし、親衛隊で最も理知的で賢い。ヘタなことはまず漏らさないし、仮に隠し事があっても、完全に隠匿してしまうだろう』

 

『だから、おれの能力で……って訳ですね』

 

『ああ、頼む。私はこれから獅童真希の収監している独房で一度話をしてくる。交渉内容によっては彼女にも戦力となるよう打診してみるつもりだ』

 

『んじゃ、コッチはなんとかしてみますよ』

 踵を返して百鬼丸は歩き出した。

 

 

 ぴた、ぴた、ぴた、と裸足で数歩ゆくところでふと立ち止まった。

 

 『にいさん、服!』

 

 背後から脱ぎ捨てた衣服を、双葉が思い切り投げつける。先程まで二人のやり取りを黙っていた双葉の顔は暗い。……彼女は軽く憂鬱な気分になっていた。以前同じ所属であった寿々花への尋問と聞いていい気分はしない。

 

 『だよな。寒くてさ、なんか足らないと思ってたんだ』

 

 『にいさんに足りないのは常識だったね!』

 

 『お前がいうかよ』

 

 呆れた声音で百鬼丸は肩を竦めながら、床に落ちた衣服を拾い上げて着始める。

 

 そのアホな義兄の様子を眺めながら、双葉はおもむろに喋り出す。

 『わたしも親衛隊に所属していたから実は尋問があったんだけど……すぐに終わったの。多分わたしには正式な席次が与えられてなかったからだと思う。……だけど、実際は燕さんよりも事務的な内容とかも知っていたし、席次はあんまり関係ないんだよね。でも、こうなることも想定して、わたしに逃げ道を用意してくれたのは――此花さんだと思う。だから……』

 双葉はそこで言葉を途切れさせた。次に言うべきことが整理できずに、逡巡してしまった。

 ――その雰囲気を察して百鬼丸は鼻を鳴らす。

 『わかってる。乱暴なことはしない。そもそもおれの《心眼》の前では嘘はつけないからな。安心しろ』

 

 義兄の返答に、微笑を浮かべた双葉は小さく頷いた。

 

 『あとは、一応お前の言いたそうなお礼とかも言っておけばいいだろ?』

 

 『…………まぁね。お願い、にいさん』

 

 『はいはい。任せておけ』

 豪快に破顔する百鬼丸はそのまま、衣服を着用して指令本部から退出した。

 

 

 

 ◇

 「それでわたくしに御用というのは?」

 寿々花は余裕のある微笑を頬に浮かべる。――その表情にはどこか皮肉がこもっているようにも見えた。

 

 百鬼丸はベッドの付近にパイプ椅子を移動させ、あまつさえ付近のテーブルに盛り付けられている果物の籠に手を伸ばして林檎を一個手に取ると、丸かじりを始めた。

 

 「まあ、大体お前さんの予想通り、ノロの精神汚染についての件だ」

 

 「ふぅ」と、寿々花は呆れたようなため息を漏らして僅かに醒めた目で百鬼丸を見据える。何度となくノロ関連について事情聴取をされて疲れているのだろう。

 

 (そりゃそうか。何度も何度も同じ話で疑われるのは疲れるよなぁ……)

 漠然と百鬼丸は視線を病室内に彷徨わせる。

 白を基調とした室内は、塵ひとつない清潔な空間だった。ただ、清潔過ぎてかえって生活感がない。

 ふと、ベッドの傍に置かれた台座の上に数冊の本と、チェス盤を発見した。ほんの暇つぶしの品だろう。

 

 「寿々花はチェスをするのか?」

 百鬼丸は果汁でベトベトになっった手を服で拭いながら、尋ねる。

 

 勝手に名前呼びされた寿々花は一瞬柳眉をピク、と跳ねさせて苛立ちを表したがすぐに冷静さを取り戻す。

 「ええ、そうですわね。ほんの暇な時に……ですが。あと貴方にわたくしの名前呼びを許した覚えはありませんわ」

 

 「んだよ、固いこというなよ。……んじゃ、なにか? 花ちゃんとかって呼べばいいのか?」

 

 「普通に苗字で結構です」

 

 「んじゃ、やっぱり花ちゃん一択だな」

 

 「…………貴方、人の話を聞いておりましたの?」

 

 「ううん」

 

 「即答って……はぁ~、分かりました。なんとでも呼んでいただいて結構ですわ」

 項垂れながら、寿々花は、アホな少年の相手に早くも疲れはじめていた。

 

 「んじゃ、一局相手してくれよ。チェス。おれはこうみえて、ギャンブルでチェスもやったんだぜ?」

 自信満々に百鬼丸はサムズアップする。

 

 胡散臭い、とで言いたげな眼差しで百鬼丸を眺める寿々花。

 

 「おいおい、あとで痛い目に遭いたくなかったら今すぐ、おれに敗北宣言でもしておけよ?」

 

 その言葉にカチン、ときた。

 寿々花は生来の負けず嫌いであった。名家の生まれの子女でありながら、人一倍の努力を惜しまないのも、ひとえにその性格ゆえである。

 

 「別に構いませんが、貴方こそ負ければ何かして下さいますの?」

 巻き毛気味の毛先をクルクルと細い指先で弄びながら訊いた。

 

 ……正直に言えば、この気を許すことのできない空間で過度な退屈と、緩慢な緊張状態に疲弊していたところだった。いい気分転換になるかもしれない、と寿々花は思っていた。

 

 

 ◇

 「――チェックメイト、ですわね」

 

 事も無げに、寿々花はナイトを動かして宣言する。白と黒模様の盤上には殆ど寿々花の駒しかない。

 寿々花は後手の黒駒を操っていたが、本来は先手が有利に働くゲームである。

 とはいえ、それは実力が拮抗していれば、の話である。

 

 「ぐぬぬ……た、タイムを要求する!」

 

 「はぁ~、ですから〝詰み〟だと言っているのが分かりませんの?」

 五回の勝負で、全て寿々花の勝利に終わっている。これで六回目だ。余りに弱すぎる百鬼丸に拍子抜けした初戦から、寿々花は違和感を覚えていた。

 

 それは百鬼丸の戦略である。

 彼は殆ど防御というものをしない。しかも、王自ら前線へと出向いてしまう。通常のセオリーで言えば、王は盤の角などで死角を減らすことを主眼とするが、彼はそうしない。

 

 (なぜ? まったく理解できませんわ……)

 

 確かに、彼の読みは正確な場合もあり……時々は寿々花の上をゆく場面もある。しかし、概して言えばそれは全て無駄であった。

 百鬼丸の場合、大局観というものが存在していない。その瞬間の「勝ち負け」のみにひどく拘っているようにみえた。

 

 しかも、諦めが悪い。悪すぎる。

 〝詰み〟の段階ですら、彼は腕を組み口を「へ」の字に曲げて思考している。

 寿々花はその奇妙すぎる少年を、頬杖をつきながら暫く観察していた。

 

 左右の目の大きさが異なり、一見しても違和感を覚える風貌。長い髪を無造作に後ろ髪で縛っている。指に目線を移すと、節が異様に太い。何度も骨折や脱臼を繰り返した人間のソレであった。

 

 見えない部分には、戦闘による傷痕が垣間見えた。

 

 ――この少年が結芽を救ったのだ

 

 と、寿々花は改めて諒解した。

 

 どこかで、この少年に対する反発があったのだろう。ただ無意識の内に押さえ込んでいた。その反発の理由は明白だった。……救いたい人を救済できる力が彼にはあったからだ。

 どうやったって手の届かない「特別」な力を。

 

 「むむむ……参った。負けだ……。」

 ガックリと肩を落として、百鬼丸は投了する。

 

 その、「特別」な筈の少年は斯も弱かった。

 

 「――はやく降参すればよろしかったのではなくて?」

 意地悪く微笑みながら言った。

 

 「そうかもしれんが……う~む、いやしかしだな……こう、もっと足掻いてだな……」

 

 「いいですこと? チェスも将棋も、殆ど〝詰み〟の状態になるとまずどうやっても勝てませんわ。それをご存知でして?」

 

 「知ってはいるぞ……うん」

 

 「それでよく賭博チェスをしたものですわね。さぞ黒星を積み重ねたのでしょうね」

 

 ぐぶっ、と呻きながら百鬼丸はダメージを受ける。

 「仰るとおりだ……」

 一層落ち込んだ様子で、百鬼丸は深く頭を落とした。

 すこしからかい過ぎた、と寿々花は思った。

 「……なぜ、貴方は必ず王を前線に押し上げるのかお聞きしても?」

 それは大きな疑問だった。まず、セオリーからは大きく逸脱している。

 

 「む?」

 百鬼丸は面をあげて大きく目を見張り、腕を強く組んで唸る。

 

 むむむむむむ、と考えながら結局答えがでないようだった。

 

 「…………わからん。が、」

 

 「が? なんですの?」

 

 「多分、このエラソーな王の駒に感情移入しているんだと思う」

 

 「はぁ?」寿々花は盛大に疑問の声を上げた。

 

 今まで様々な人々と会ってきたし、勿論数限りない人脈も作ってきた。それはひとえに名家に生まれた子女としての責務であるからだ。

 が、その此花寿々花をしても、この眼前の「百鬼丸」という少年はイレギュラー中のイレギュラーであった。

 

 「まったく意味が分かりませんわ」

 

 寿々花のつぶやきに、百鬼丸は思わず苦笑いする。

 

 「……だな。うん、おれはやっぱり変なんだと思う。ただ……そうだな。〝誰か〟を戦わせるのはおれのやり方じゃなんだな、多分」

 

 言いながら、頬を軽く人差し指で掻いた。

 

 (なんなんですの……そんな理由で……たった、そんなおかしな理由だけで?)

 寿々花にはまったく理解できない領域の答えだった。

 

 こんなに弱くて、腹立たしくなるほどに正直だった。そのやり方が寿々花を苛立たせもした。……ただ、一方で百鬼丸という少年が、ひどく純粋で眩くもみえた。

 

 (これが、わたくしの捨ててしまったもの……なのでしょうね)

 全てを合理性と、生産性に主眼をおき過程を無視したやり方を全うしてきた寿々花には、劣等感を否応なく煽るような存在であった。

 

 ……だが、それ以上に百鬼丸という少年に対しての興味を深めた。

 

 この盤上の勝負を提案したのも、恐らく寿々花の警戒心を解くための術……というよりも、百鬼丸自身のあり方を手っ取り早く伝えるための方法だと思えていた。

 

 「――貴方のおかげで久々に気分が軽くなりましたわ。お礼を申し上げます」

 ベッドの上で居住まいを正して、頭を下げる。

 

 唐突な行動に驚いた百鬼丸は「うむ? うむ?」と、目をパチパチとさせた。……彼女の意図は、百鬼丸にはまったく伝わっていない様子である。

 

 人の感情にヘンに敏感であったり、ヘンに鈍感であるのはこの少年の魅力なのだろう。

 

 (だから、恐らく結芽も……ふふっ)

 

 内心に湧き上がるおかしみを堪えながら、改めて、

 

 

 「別に今更隠すこともありませんから、最初からお話はするつもりだったのですが――貴方のお心遣いに感謝したまでですわ」

 

 「ふ~む?」

 

 百鬼丸はやはりまったく、寿々花の言葉を理解していなかった。

 

 少年の二度目の反応に思わず、ガクッ、とズッコケそうになった。

 

 「……ごほん、まぁいいですわ。それで……そのノロの精神汚染云々でしたわね。わたくしもあまり詳しくは分かりませんが、めぼしい話をひとつ記憶していますわ」

 

 「ほぉ、それはどんなものだ?」

 

 寿々花はうっすらと、目を閉じる。

 

 「今から70年ほど昔の東北地方でひとつの村を使った大規模な人体実験ですわ」

 

 ごくり、と百鬼丸は生唾を飲む。

 

 「なんだそりゃ……」

 

 百鬼丸の反応を無視して続ける。

 

 「ときは戦時中で、可能な限りの荒魂の兵器利用を軍部と〝轆轤〟家が研究を行っていた……と、その資料には書いてありましたわ」

 

 

 「その話は、これまでの聴取で言ったのか?」

 

 寿々花は首を縦に振る。

 

 「――ですが、それはすぐにもみ消されましたわ」

 

 「なんでだよ?」

 

 「簡単な話ですわ。――内閣情報戦略局、局長がその轆轤家の当主、轆轤秀光という男ですから当然、過去の不都合な事実は隠蔽してしまうでしょうね」

 

 百鬼丸は真剣な顔つきで、

 「その話をもっと詳しくしれくれないか?」

 

 青みがかった瞳を瞬かせて、

 「ええ、貴方にもお話しますわ」

 まっすぐに百鬼丸を見返す。

 



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76話

 約七〇年前。

 東北地方、寒村部。米国との戦争が激化した昭和一六年。軍部は戦況の劇的な打開策に荒魂を用いた兵器利用を考えていた。

 御刀や荒魂など、隠世の知識経験を豊富に所有しているのは無論折神家である。……しかし、その影となる家があった。すなわち、轆轤家である。

 折神家を光とするならば轆轤家は影であった。暗部の仕事はすべてこの家が取り仕切っていた。

 

 記録から抹消された村は――人口がわずか五〇〇程度の小さな規模である。この村は藁葺きの屋根はのどかな田嬰風景を醸し出し、稲刈りの終わった田んぼは茶色い地面を広げていた。

 ここで行われた実験は、ひとえに「人間の意識を抹消し、完全に忠実な人形になるか」という部分であった。人体にノロを注入すれば必ず、人が荒魂になる。

 ……であれば、どのラインで人間としての形状を保つのだろうか? というい配合比率が重要な点であった。

 記録によると、刀使の場合は普通の人間よりも数十倍以上の5%までが許容範囲であった。(無論、これは最大値である。)

 では、普通の人間の場合はどうか?

0・04%までが許容数値であり、これが自我を曖昧にさせる境界線であった。

この結果を導き出すのにゆうに五〇〇人以上の犠牲を出した。しかし、更に実験は続いた。……つまり、この寒村では全ての村人が「実験のモルモット」になった計算になる。しかも、数年前から続く東北部の飢饉による、村々での口減らし制作により、新鮮な実験マウスの不足には陥らなかった。(勿論、提供されたのはすべて子供である。)

 

 子供たちは親元を離れる不安にあった。それを「満足な食事を与え、しかるべき時期に親元に返す」という約束を大人たちは盛んに教え込み、騙した。

 既に、荒魂と化した人々は轆轤家の刀使が抹殺をしており、生きて、実験村の外へと逃れた者は居なかった。

 

 戦争がより悪化するにつれて、人体実験は激しくなり――終戦末期にはすでに顧みられなくなった。そして、終戦のわずか二か月前……連合軍にこの事実を露見することを恐れた政府の高官は、この村の即時焼却を命じた。

 

 …………だが、この研究結果は後の「相模湾岸大厄災」に繋がるデータの基盤となった。

 

 

 

 ◇

「――というのが、ことの顛末のようですわ」寿々花は静かに言い終える。

 全ての話を聞き終えて、百鬼丸は意外な程の沈黙を守っていた。不気味なまでの無言が否応なく不信感を与えた。

 それを怪訝に思いながら、

 「どうなさいましたの?」と問う。

 まったく反応を見せなくなった彼は、俯いて考え込んでいる様子だった。

 「うん、いいや。何もないぞ。しかし胸糞悪い話だな」

 だが愛想笑いをしながら、百鬼丸は普段のどこか間の抜けた表情に戻った。

 「…………。」

 ええ、と無言で頷きながら寿々花は彼が何らかの隠し事をしていることを見透かしていた。だがその本質を掴みきれずにいた。

 (ですが、それを今言うべきではないのでしょうね……。)

 

 ややの沈黙の間ののち、

 「つーことは、その件と異世界の連中は関係がありそうかな……う~ん、わからん」腕を組んで首をかしげる。

 

 「異世界の?」

 

 「ああ、そうか。寿々花は知らないのか。実は……」

 

 これまでの経緯を簡単に話した。異世界の来訪者であるジャグラーや十臓といった強敵が全国津々浦々で暴れまわっていることを。

 全てを聴き終わった寿々花は硬い表情で頷いた。

 「まだ因果関係はわかりませんが、背後に何者かが居るのはほぼ間違いないででしょう」

 「しかし、七〇年前の事件を知っていると、寿々花は消されないのか?」

 「その憂いは今のところありませんわ」

 「なんでだ? こんな公共機関だからすぐにでも刺客が送られる危険性もあるだろうに」

 「――その心配はありませんわ。今のわたくしは被験者――言い換えればモルモット。とすれば、人体とノロの融合実験を図る彼らにとって、わたくしを始末することは、貴重なサンプルを失うコトになりますわ。……それに、そんな情報を他の誰も信じる筈がない。それに合わせて万が一の為に事前工作をしている。……と、これがあの轆轤秀光という男のやり口ですわ。結局、わたくしが他の親衛隊を含めて、身柄の安全が保たれているのは、轆轤家にとっては取るに足らない存在だと言いたいようですわ」

 

 「そうか。それは良かった」

 「ふふっ、不思議なお方ですわね。つい最近までわたくし達はあなた方の敵でしたのに、おいそれと敵の言葉を信じる理由をお聞きしても?」

 自分でも意地の悪い聞き方だと思う。でも、それでもこんな言い方をせざるを得ない。なぜならば、それがひとつのケジメだから。

 殆ど自傷行為にも似た心境を堪えながら、少年を軽く睨むように見据える。

 彼はやや面を上げながら、長い前髪の間から垣間見える義眼で相手を映す。

 「寿々花は今、おれを敵だと思っているのか?」

 どこか温かな口調で訊く。百鬼丸は一切の曇りのない様子で、寿々花の微かな苛立ちを一瞬で溶かした。

 

 ――そんな聞き方、卑怯ですわ。

 と、内心で思い喉元まで言葉が出かかった。しかし寸前のところで呑み込む。

完全に毒気を抜かれてしまった。

 

 はぁ、と柔らかな吐息の後、

 「まぁ、それはいいでしょう。それよりも、貴方はいつまでここに居るおつもりで?」

 時計をチラっと相手の肩越しから覗いながら、寿々花は意地悪く口角を釣り上げる。

 答えをはぐらかした。……彼はまるで、かつての戦友であり――親衛隊で競い合った少女の懐かしい面影の一部を持っているように見えた。

 とても懐かしい気持ちになった。

 久々の満足感が胸に満ちる。……だから、彼が今この場に居続けられると困るのだ。次に自分が何を言い出すか分らないし、恐らくその少女について聞きたくなるだろう……。

 

 「うん?」と首をあげて、時計に振り向く。

 ああ、と納得した百鬼丸はパイプ椅子から立ち上がり肩をすくめた。

 「悪かったな。おやすみのところを」

 「いいえ、随分久しぶりの気晴らしになりましたわ」

 「そっか。ならよかった……ああ、そうそう。真希なら無事だ。今は一応、身柄は拘束されているが、じきに開放されるだろう。事情聴取なんかがあるけどな」

 ……真希さんが?

 胸の奥が弾んだ。

 「そ、それは本当ですの?」

 狼狽える寿々花。普段の理知的な彼女からはおおよそ、想像もできない様子だった。

 余程おかしかったのだろう。百鬼丸は「ひひひひ」と変な声で揶揄うように笑いながら、深く頷く。

 「おう。開放されたら、すぐにこの病室を教えておいてやるよ。真希も喜ぶだろーからな。んじゃ」

 あばよ、といいながら踵を返して大きな背中を向ける百鬼丸。

 

 

 「まったく……貴方という人は、人が本当に欲しいときに欲しいモノを与えて下さるんですのね……」シーツを強く握りながら小さく呟いた。

 それは、自分が今まで失ってしまった本当に大切なもの。今まで捨てて省みることを、してこなかったもの……。

 (結芽が執着するのは……こんなところですのね)

 

 「ん? なんか言ったか?」

 顎を後ろにそらして聞いた。

 

 「いいえ、なにも」

努めて冷静にいう。 

 

「ああ、それとだな……」

 

「はい? なんですの?」

 

「ウチの双葉が寿々花に感謝してた。取り調べだのなんだのと、そういう責任から遠ざける処置をしてくれて〝ありがとう〟ってな」

 

驚いたように目を瞠った寿々花は、すぐに取り繕うことができなかった。

 「――さぁ。なんのことですかわかりませんわね」上擦った調子でワインレッドの毛先を執拗に弄ぶ。

 

 「んー、そっか。まあいいや。じゃあ――」

 頭を前に戻して、右腕を大きく掲げる。ブラブラと振った手は遠く離れてゆく。

 

 百鬼丸の背中を見送りながら、寿々花は目を細める。

 (まったく騒がしいお人ですわ)

 ほんの僅に、気持ちが前向きになった気がした。

 

 ◇

 病室を出ると、ポケットが振動した。

 「む?」百鬼丸は眉をあげて、携帯端末を取り出す。

 画面を指先で恐る恐る叩くと、電話口から聞き覚えのある男の声がした。

 『やあ、元気か百鬼丸くん』

 

 「ええっと……その声は……」

 

 『あははは、オレだよ。田村明だ。忘れたのか?』

 

 かつて、ショッピングモールの虐殺事件で関わったSTT隊委員である。

 「覚えてますよ、どうしたんですか?」

 

 『いや、なに君がコッチに来たって聞いたからこれから飯でも食いに行こうかなと思ってな。どうだ?』

 

 「ふーむ? 飯ですか。丁度腹も減りましたし、行きましょう」

 真面目くさった声の調子で百鬼丸は誘いに乗る。

 

 『そうかよかった……それに君には聞きたいことが色々あるんだ』

 先程まで陽気だった明の口調が低い真剣なものに変わっていた。

 

 何かを察したのだろう、百鬼丸は電話口で息を吐く。

 ――わかりました。

 



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77話

 研究病棟を出て午後十一時近く。

 黒塗りのワンボックスカーが、路肩に幅寄せしていた。

 「やあ、百鬼丸!」

 運転席から手をぶらぶらと振って声をかけた。田村明は、メビウスを口端に銜えながら目を細めていた。

 車道の両脇に等間隔で並んだ街灯の白い光が、夜気に震えていた。

 百鬼丸は「はい、はい」と適当に頷きながら返事をする。

 駅近くの周辺では、最終の帰宅ラッシュが始まっていた。酒臭い連中や、随分眠そうな男たちが、駅の口に吸い込まれていく。

 それを横目で眺めながら、助手席のドアを開き百鬼丸は肩をすくめる。

 「――まったく、なんの因果かね」

 まるで悪友にでも会ったような口ぶりだった。それに思わず、明が苦笑いを浮かべながら首を小さく振る。

 「お久しぶり」

 

 ◇

 夜の車道は車の数も疎らになり、随分と走行しやすい。

 車内では、洋楽が流れている。

 百鬼丸は車窓に顔を向けながら、頬杖をついている。

 「もう、あれから、五ヶ月になったのかな」

 明がハンドルを握りながら、尋ねた。

 「ええ、まぁ。もうそんなになりますかね」無感情に百鬼丸は呟く。

 「そういえば、君にお礼がしたかったんだ」

 「へぇ?」

 「この右腕だよ。あのステインっていう男に切断されたときはどうなるかと思ったが、君の義手のおかげで生き延びれたし、なにより今もこうして義手で不自由なく生活できてる。殆ど生の腕と遜色ないくらいに、な」

 「そうですか……でもおれは何もしてませんけどね」

 「そう言うなって。せっかく生き残れた者同士、仲良くしていこうぜ」

 はあ、と嘆息した百鬼丸はダッシュボードを勝手に開き、小さな四角を手に握っていた。

 「これ一本もらいますよ」

 言いながら、一本抜き出して百円ライターで火を点ける。直後に紫煙が燻り、車内に煙幕が蟠った。

 「おいおい、君はまだ未成年だろ?」

 「それは人間だったら、の話ですよ。おれは人間じゃない――それに、こんなクソみたいな世界は酒とタバコがなけりゃあ、マトモにやってけない。でしょ?」

 皮肉がかった調子で、百鬼丸はいう。

 

 「まったく、達観しているんだかグレているんだかわからんな、君は」

 窘めようとしたが、彼の存在を思うと、この国はおろかこの世界常識では測れない存在だと思い至った。結局口を噤んで明は短くなった煙草を、灰皿に押し潰した。

 「しかし、真理といえば真理だな」

 「でしょう?」

 「ただ、忠告だ。ソイツらは溺れるまでやると抜け出せなくなるぞ。いいか、これは人生の先輩としての忠告だからな?」

 「ええ、わかってますよ。ただもっとはやく教えてくれないと。酒と賭博っていう奴とつるむようになってから、その味を覚えたもんでね。二度と忘れることはできないですけどね」百鬼丸は、揶揄うような言葉で皮肉った。

 「ふっ、その年で? 勘弁してくれよ……」

 これじゃ近所の不良と大差ないな、と明は思った。

 

 

 ◇

 中華飯店、もといラーメン屋の駐車場に停めた。

 

 扉を開き、中に入ると店内は油でベットリ汚れた床や壁が薄く黄ばんでいた。靴底を歩かせる度に粘ついた音をたてる。

 「ここは量が多いんだ」

 まるで店内の汚さを弁解するように、明は苦笑いしてカウンター席に座った。

 「はぁ……」曖昧に頷きながら、百鬼丸は別段気にした風もなく彼の隣に腰掛ける。

 店内を改めて見回すと、夜遅い時間にも関わらず五六人は居た。壁隅にはテレビモニーターがあり、夜のニュース番組が放映されていた。

 「――なあ百鬼丸くん。改めて君にお礼が言いたい」

 カウンターテーブルに置かれた魔法瓶から、渋茶をコップに注ぎながら明は言った。遠い出来事を懐かしむ口調で、彼は確かに言った。

 「いえ、あのときのことは……」

 「謙遜するなよ。……ただ、オレは後悔してるんだ。あの時、部下を死なせたことを……出来ることなら、奴らを救う手立てがあれば――そう今でも思うんだ」

 明は硬い表情でコップを差し出す。

 どうも、と百鬼丸は小さく会釈しながら受け取り冷たい茶を啜る。一気に舌へ苦味が広がった。

 「あの時のオレはどうしようもなかったんだ……そう自分に言い聞かせてきた。だけどダメだな。やっぱり思い出しちまう。歳を重ねるってことは後悔も一緒に重ねるってことだって――婆さんが昔言ってたけど、アレは本当だな」へへへっ、と肩で笑いながら明もコップに口をつける。

 「…………。」 

 この数ヶ月を彼は、後悔と煩悶で過ごしてきたのだろう。それは百鬼丸にも痛いほど理解できた。

 ――そして、こういう時はただ黙って、似たような境遇の奴に話したいものだということも。

 「ああ、スマン。せっかく会ったっていうのに暗い話になって悪かった。今日はオレの奢りだから好きなのを喰えよ」

 大きな掌でバシバシと百鬼丸の背中を叩く。空気を無意識に重くしてしまったことを反省したようだった。

 「いてっ……あははは……」

 愛想笑いしながら、百鬼丸は危うくお茶を吹き出しそうになった。

 「明さんのおすすめは?」

 「うん? オレのか……この大盛りセットだな。餃子に炒飯、そしてチャーシュー麺が大盛りのセットなんだ。いつも訓練終わりに部下や同僚と食いにくるんだ」

 「へぇ。じゃあ、おれはそれで……」

 「そっか。よし」

 すいませーん、と大声で叫ぶ。厨房の奥で腕組みをして立ちながら眠りかけた中年の男が目をあげて、頷いた。

 

 ……どうやら、明に注文をとる前に理解したようだった。

 厨房の男は、中華鍋に火をかけて、具材を適当に放り込む。ざあああああ、という雨にも似た音で具材が炒められてゆく。焼けるこおばしい香りが、空腹を刺激した。

 

 「顔なじみなんですか?」

 

 「そうだな。高校卒業してだから……もう十何年も通っているかな」

 

 それから、しばらく沈黙がふたりの間を漂った。どちらが先に口を開くか……様子を窺っているようだった。

 

 「今日、おれを呼んだのは……世間話程度じゃないですよね?」

 百鬼丸が先に疑問を衝いた。

 

 「…………実は、まぁそうだ。オレたち特殊班は――ああ、オレは先週から特殊班ってトコに配属されたんだ。今の君になら話してもいいだろう。それに、隠す話じゃないからな。それで――〝タギツヒメ〟ってのを知っているか?」

 明は探りをいれるような調子で百鬼丸の横顔を一瞥する。

 

 「ええ、知ってますとも。それが?」

 

 「なら話が早い。これ以上詳しくは言えないが、まあソイツら関連だ。護衛対象に衛藤可奈美、十条姫和もリスト入りしてるから知り合いのお前にも一応色々聞こうと思ってな」

 

 「スリーサイズですか? それなら知りませんよ」

 

 ふっ、と肩をすくめて明は笑う。

 

 「違う、いやまあ……ああいう美少女は同年代の男にはその気があっても、オレはおっさんだからああいう小娘には興味がないんだ。ロリコンじゃないからな」

 

 「ロリコン? なんです、それは?」

 

 「まあ要するに変態だな」

 

 「おれですか?」

 

 「…………君は変態の自覚があるのか」

 

 「ええ、多少嗜んでおります」

 

 真面目くさった眼差しで明を見返す。

 

 

 「「………………ぷっ、あはははははははは」」

 

 同時にふたりは笑いだした。とても懐かしい気分になった。彼とは、あの一件以来、顔も合わせて居なかったが、どうやら気心の知れた仲間のように思われた。

 

 「それで、百鬼丸……でいいか?」

 

 「ええ」

 

 「誰かに惚れてたりするのか? 刀使はどういうわけか美少女が揃っているから、猿みたいな性欲の年代だと、キツイだろイロイロ」茶化すように明が肘で小突く。

 

 「どーですかね。その辺りのことは自分でもよくわかりませんね。ただ……」

 

 「ただ……?」

 

 「おれは、多分人並みの生き方とか……そういうのとは無縁なんです。それに彼女たちも刀使という役割がほんのひと時のことであることも理解している筈です。彼女たちとおれが関われるのは、ほんの一瞬の時だけです。――間違っても、それ以後の人生に関わるべきじゃないと、おれは思ってます」

 

 「…………そうだな」

 

 明はコップを一口、喉を潤す。

 

 「オレもこんな仕事だからな……いつ死んでもおかしくない。同級生なんざ、アレだ。所帯持ちばかりだが、オレは気楽だぜ? 独身貴族さ……。この仕事をするからには、誓約書を交わす。いつ死んでもおかしくないからな。マトモに女もつくれない。だけど、それはオレが選んだ道だからな……」

 

 コップの氷が涼やかな音をたてる。

 

 「お待ちどう様」

 嗄れた男の声がした。

 

 百鬼丸が顔を上げると、大盛り丼のラーメンがカウンターテーブルに置かれていた。更に餃子、炒飯がある。いい匂いだ、と素直に百鬼丸は思った。

 

 「さあ、食うぞ」

 腕まくりしながら、明はブラックペッパーの缶を手に取る。

 

 「明くん、サービスだ」

 冷えたビール瓶が置かれた。

 

 明は中年の男を一瞥すると、困ったように笑って、

 「オレは今日車なんで――」

 

 

 「ああ、そうかい」

 

 ビール瓶を引っ込めようとする中年男の腕を、百鬼丸がガシッ、と掴む。

 「じゃあ、おれが頂きます」

 

 「ったく、不良少年には出す酒はない」中年男は、そう言いながら腕を振り払い厨房の奥へと消えた。

 

 

 「ああああああああああ、久々の酒だったのに、酒なのに……なぜだああああ」

 軽い絶叫をしながら、百鬼丸は頭を抱える。

 

 「おいおい、ダメに決まってるだろうが。……ったく」

 横目で百鬼丸を覗いながら、首を振る。どこか弟でも見ているようだった。

 仕方なく、割り箸を割った百鬼丸はポン酢を小皿に溜めて、餃子を浸す。

 百鬼丸は一旦箸を置くと、

 「「頂きます」」

 ふたりは揃って、手を合わせる。

 

 アツアツの餃子を口に運ぶと、餡が肉汁を垂れ流す。咀嚼するごとに、ニンニクのたっぷりと効いた餃子に、感服する。

 「ラーメンも喰え、喰え」

 明が急かすように、百鬼丸にいう。

 大判のようなチャーシューを口いっぱいに頬張る。豚肉が、まるで角煮のように味付けされており、その下に隠れていた黄金色の麺たちを割り箸で迎えにゆく。

 ずずずず、と啜る。

 醤油ベースなのに、コクと深みがある。

 丼を両手に持ち、スープを啜る。喉に熱い潤いがきた。しょっぱい味付けは、労働者向きのものだった。

 「明さん、滅茶苦茶ウマイ」思わず、百鬼丸は呟いた。

 

 だろ、とでも言いたげに、明も麺を啜りながら笑いかける。

 

 百鬼丸は続いて、炒飯に手を付ける。専用匙があるにも関わらず、百鬼丸は持ち変える手間を惜しんで、割り箸のまま炒飯をかき込む。ホロホロと、いい具合に炒められたコメたちは、口の中で解けてゆく。卵と、薬味ネギが絡む。

 舌が満足する。

 「明さん、本当にウマイ」

 親指を立てながら、百鬼丸は満足げに鼻を鳴らす。

 

 「――だってさ、おじさん」

 厨房へと明が視線を送ると、新聞を開いていた中年男が「へっ」と照れるように首を振る。

 

 「まあ、たっぷりあるから喰えよ。――しかし、懐かしいな」

 

 「……?」

 

 口いっぱいにモノを頬張りながら、百鬼丸は明を窺う。

 

 「前にきた時は、佐倉も――二口も連れてきたんだ。まだ若くて、高卒から二年目だったかな? ああ、スマン。不吉かもしれんが……」

 

 「――いいえ、全然。関係ないです。そんなクソみたいな不吉とか縁起が悪いっていうのはおれ大好物ですから。この世の中に絶対って言葉がないみたいに、不吉も縁起悪いものもコッチに背負えば、向かうところ敵なしでしょ?」

 

 呆気にとられた明は目を瞠ったが、

 「くくくっ、そうかもな……。ただ、まだいがぐり頭のあいつらを、年長のオレが守ってやれなかった……佐倉も二口も、すまないことをした……」

 指先を震わせながら、明はスープを啜る。

 

 「ああ、ウマイ。もう一度、あいつらも連れてきたかったなぁ……」

 深く俯きながら、明は手で目元を覆った。

 

 「…………明さん、それ以上しょっぱくしても、ここのラーメンの味。変わらないですね」百鬼丸は、穏やかな口調で、明の肩を叩く。

 

 「ああ、本当だ……」

 

 本当にウマイ。

 明は、何度も内心でそう繰り返した。

 




コンセプトワークスくん届いたぜ、ワーイワーイ!!

これは信者力を試されているのかな?(すっとぼけ)


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78話

 「明さん、実は貴方に一つ伝えたいことがあるんだ」

 ラーメン屋を出て道の半ばで立ち止まり、急に胸の中心を指差しながら、そう言った。

 

 「……? どーしたんだ、急に?」目をパチパチと困惑させながら、明は困惑した。

 

 「おれのこの胸……心臓には、ジョーの人格がいるんです」

 

 「ッ!? どいう事だ!! なぜ、君の心臓に?」

 

 「あの時、戦っておれは心臓を取り戻した。ヤツから……。でも、一緒にヤツの人格もトレースされた状態で心臓が戻ってきたんです。理由はよく分かりません。でも、間違いありません――今は眠っているけど、時々ヤツが目を覚ます。そしておれの耳元で何かを囁くんです。コトバか……何か……分かりません」

 

 「なぜ今それを?」

 

 「ヤツをまだ恨んでいて――、殺したいなら、おれは抵抗しません。だから、この《無銘刀》でおれの心臓を貫いて下さい」

 

 百鬼丸は腰に佩いた太刀をベルトから引き抜いて、差し出す。

 

 ……冗談や、軽い気持ちで言っているわけでないのは、彼の目をみればわかる。

 

 火のない煙草を銜えながら、明は目線を柄に落とす。

 (コイツ……正気か?)

 明は柄に手を伸ばし――途中で指先をとどめた。

 「お前がオレの部下を殺したわけじゃないだろう。確かにヤツは今でも憎いが、それでも前に進まなきゃならんおだ。オレ自身が、な。お前がなんでも抱え込む必要はない」

 動悸がはやく、明は呼吸が乱れるのを実感した。

 

 オレはやっぱり、ジョーを恨んでいる。百鬼丸という命の恩人の中に「いる」ということを知ってからは、やはり激情がこみ上げてくるのだ。

 

 拳を握りながら、ライターに火を点ける。

 煙を思い切り吸い込みながら、気分を緩和させてゆく。

 

 「そう……ですか」

 どこか、残念そうな顔で百鬼丸はベルトに鞘を戻す。

 

 「さあ、帰ろうか」

 

 はいはい、と百鬼丸は同意した。

 

 ふと、百鬼丸は夜空を仰ぎ見る。オリオン座のベルト辺り……三連星が光輝を放ち続けていた。吐く息が白くなり、視界が霞む。

 

 「星はいい。必ず、自分の光る場所がわかるんから……」

 

 百鬼丸が言う。

 明も同様に頭を上げた。

 

 「だな。いつまでも変わらない。変わったとしても、オレたちみたいな短命じゃない。消えても、尚、その光はこうして地球に届く――。」

 

 「いつかは消えますがね」

 

 

 「でも、星みたいに嘘の自分で好かれるより、本当の自分で嫌われたほうがいい。昔のロックスターがそう言ってたな――いや、もう随分昔で忘れたけど。とにかくそんなことを言ったやつがいた気がする。ありゃ、カートだったかな?」

 

 「いい言葉ですね」

 また口を閉ざす。

 

 百鬼丸は無言でただ、腕を伸ばして絶対に届く筈のない手で星を掴もうとしていた。彼も届くとは思っていないのは当然だが、それでも伸ばさずにはいられないようだった。

 

 「……こうやって、望みさえしなければ苦しまないことだって多いのに、どうして〝おれたち〟はこうやって、手を伸ばさないと気がすまないんでしょうね」

 自嘲気味に、オリオンのベルトに掌を重ねる。

 

 虚空を掴みながら、百鬼丸は確かに「そこ」にある輝きを手にしていた――。

 

 「明さんは、修羅道……って知ってますか?」

 

 「どうしたんだ、突然……」

 腕を天に伸ばしたまま、少年が悲しげな表情で聞いた。唐突な質問に困惑しながら、明は首を振る。

 「名前だけは聞いたことがあるが、それ以外はサッパリだ」

 

 「そうですか……修羅道っていうのは、簡単にいえば仏教用語なんです。永遠に戦いの中にあって、その戦いによって苦しめられているのに、いつまでも〝それ〟を続ける。そんな亡者共が集まるのが修羅道なんです。おれも、盲目の琵琶法師から聞いたんで、正しい解釈かどうか分かりません。でも、まるで――」

 

 「自分自身みたい、と言いたいのか?」

 

 百鬼丸は明確には答えなかったが、明の言葉に目で頷いた気がした。

 

 「……連中は、タギツヒメ側はもうそろそろ攻勢を強める気がします。勘ってやつですけど、生まれてからこの〝カン〟ってヤツが外れたことがあまり無いんでね――特に悪い方では確実です」

 

 「…………。」明は百鬼丸の意図することが何となく理解できた。

 

 (コイツは、この日常が崩壊する危機を敏感に感じ取っている……。)

 

 「やはり、相手は強いのか?」

 

 コクリ、と首を動かして同意する。それは迷いのない動作だった。

 「間違いなく、ですね。特にジャグラーというヤツは本当に危険だ。初代の《無銘刀》でも完全に操れれば別ですけど、現状は分が悪い。……もしも、おれが……」

 

 と、言いかけて口を歪めてため息をつく。

 

 「どーかしたんですかね、おれ」

 まさか、自分が弱音を吐くとは……そんな雰囲気が百鬼丸から見て取れた。

 

 「君は十分いろんなモノを背負いすぎたんだ。その年で……」

 

 「おれが背負ってる? それは買いかぶり過ぎです。おれは、ただおれのやるべきことを実行しているだけです――」

 

 「だったら、そんなに君は苦しまないんじゃないのか?」

 

 「…………。」

 図星だったようだ。百鬼丸は腕をゆっくりと下ろして、目を伏せる。

 

 「ハッキリ言いますが、これからおれはどーしたらいいか、分らないんです。修羅道に身を置いたつもりだった……でも、戦い以外のことで……おれは、」

 

 その後の、二の句が継げないでいた。言いたいことは沢山あるのに、どれも心象を言いらわすには不適格だった。

 

 (――刀使、か)

 明は、すぐに脳裏に閃いた。

 

 だが、それは言わないでいた。彼は、必死で「刀使」という単語を避けている気がしたからだ。

 

 「くくくっ、しかし君もそんなことで悩むんだな」

 年相応の、というには少々ほど場違いであるが、それでも悩む姿に共感し、また、勇気づけられていた。彼は間違いなく人間だ。それも、まだ幼い少年なのだ、と明は思った。

 

 「そんなこと? ……少なくとも、おれは悩んでばかりですね」

 

 「こんな話は他に誰かにするのか?」

 

 キョトン、と百鬼丸は暫く目を丸くして――それから考え込んだ。

 

 「ない……ですね。明さんが初めてに近いかもしれません」

 少年らしい独特の声音に乗せて言い、秀でた眉の下に薄い苦悩の痕跡がみてとれた。

 

 「そうか。オレを信頼してくれたってことだな」

 

 「ええ、まあ」

 

 「戦力的には君の助けになってやることはできん。だが――最大限の助力はするつもりだ。オレも昔、ヒーローを目指していた男として、な」

 

 なぜ、こんな少年に運命は思い十字架を背負わせたのか? 素直に明は思う。

 

 百鬼丸の詳しい出生からこれまでのことなど一つも知らない。だが、それでも他が為に己が身を犠牲に、戦い続ける彼が痛々しく見えた。

 

百鬼丸が激闘の日々から抜け出す日がくることを望んだ。

 

 (オレは無責任な大人だな……)

 

 無力さに今更打ちひしがれる。

 

 「…………おれでも、何かの役割ができているなら嬉しいです」

 

 百鬼丸は真摯な眼差しで、明を見返す。どこまでも歪で透明な瞳が、百鬼丸の強さの理由だと思えた。

 

 「できてるさ……さあ、帰ろうか」

 

 

 「ええですね……」

 

 「家まで送っていくぞ。どこだ?」

 

 ム? と百鬼丸は片眉を吊り上げて狼狽した。

 

 「えっと……実はよく分からなくて……ですね」

 

 「なにィ? よく知らないって、家だぞ?」

 

 「ええっと……ああ、そうだ! 義妹に聞きます。待ってて下さい」

 

 百鬼丸は不慣れな手つきで携帯端末の画面を操作して、タップしている。まるで老人が初めて携帯端末を触るよな光景に、明は可笑しく感じた。

 

 「――やあ、双葉。夜遅く済まない。ええっと、おれの家は……あるのか?」

 

 電話の向こうで、怒っているのだろうか? 百鬼丸は途中何度も「うむむ、済まない」と謝っていた。

 

 (しかし、この少年には色んな面がある……当然かもしれんが、彼にもこんな日常を送って欲しいもんだ)

 

 ぼーっと、と眺めていると、百鬼丸は通話が終わったらしい。

 端末から耳を離して明に向き直る。

 

 「今から教える住所に向かってもらえますか?」

 

 「ああ、了解。早速カーナビに入れておくか」

 

 明は駐車場の方へと歩き出した。背中を追って百鬼丸も歩き出す。

 夜の底に一尾の彗星の筋が残っていた。

 

 

 ◇

 高層マンションが立ち並ぶ一角に、明の車が一時停車した。

 フロントガラスから暗い空を見上げながら、

 「はぁ~、しかしいいとこに住んでるんだな」

 第一声が、それだった。

 

 事実、富裕層の住む高級なマンションの玄関ホールだった。

 

 助手席からすかさず、

 「いや、おれもここに来るのは初めてです」

 百鬼丸の否定がきた。

 

 

 「えっ、そうなのか?」

 

 「そうです。大体おれは、人目につかない山とかでサバイバルして暮らしてきたので、こんな人の真ん中で生活なんてしたことがなくて、おれ自身が困ってます」

 肩を竦めながら弁解した。

 

 「――そうか、だがまあ住所はここだし、いいよな」

 

 「はい、助かりました」 

 百鬼丸は頷くと、車のドアを開き飛び降りた。

 

 「今日は楽しかったです。明さん、ありがとう」

 

 ハンドルに凭れて前傾姿勢になりながら、明は胸ポケットから一本取り出して、悠々と煙草を銜えて一服する。

 「いや、なに。オレの方こそ気分が楽になった。助かった。――今度は仕事場で合うとはいえ、気が重いな、お互い」

 

 苦笑いしながら百鬼丸も「ですね」と応じた。

 

 「しかし、また時間があれば飯でもいこう」

 

 明は親指を立てる。

 

 つられて百鬼丸も親指を立てて、

 「――ええ、必ず行きましょう。この、こんな日々を……おれは絶対に終わらせたりはしたくないんで」

 ――じゃあ、

 と言いニィ、と不敵な笑みで言うが早いか、踵を返して玄関ホールへと姿を消していく。

 

 (こんな日々……か)

 

 短くなった煙草にも気がつかず、明は暫く物思いにふけった。

 

 ◇

 「確か、この部屋でいい……んだよな」

 携帯端末の画面に表示された部屋番号を頼りに百鬼丸は、扉の前に佇んでいた。

 

 (このインターフォンを押せばいいんだよな?)

 謎の緊張を伴いながら、百鬼丸は震える指先でチャイムを押す。

 

 ピンポーン、という電子音と共に扉の奥から人の歩く気配がした。

 

 ガチャリ、と金属の音が響く。扉が半開きになり、胡乱な片目が百鬼丸を窺う。

 

 「――おかえり、にいさん」

 

 「や、やあ」

 愛想笑いを頬に浮かべながら、百鬼丸は小さく手を挙げる。

 

 「……ここは、真庭本部長が用意したにいさん専用の部屋。今から使い方説明するから、入って」

 眠たげな、不機嫌な声で双葉が告げる。

 

 「う、うむ」と、気圧されながら百鬼丸は自分の部屋へと入った。

 

 

 

 ◇

 一人で住むには大きすぎる、と百鬼丸は第一印象からそう思った。高級な家具や調度品は、すべて支給されたものだろう。間接照明や、ベッドにも似たソファーも中々凝った感じのデザインだ。

 

 戸惑う百鬼丸をよそに、双葉をポケットからカードを取り出す。

 「はい、これにいさん」

 

 「うむ? なんだこれは?」

 

 「カードキイ。これで扉を開けるの。オートロックだから」

 

 「ふ、ふむ?」

 首を斜めに、双葉の言葉を吟味している。

 

 「要するに、鍵。カードの鍵。わかる? おじいちゃん?」

 

 「お、おい! 誰がじいさんだ! お兄さんだろ!?」

 

 「あ~はいはい、そんなことよりわかった?」

そう、と軽く受け流しながら双葉はリビングと直接繋がったキッチンに移動する。

 

 

 「うむ。理解した!」

 偉そうに胸を張る百鬼丸。どこか自身満々でドヤ顔なのが、若干双葉をムカつかせた。

 

 「ま、いいや。それでコッチが台所。電子レンジは、IHの後ろの棚にあるから……それで、洗濯機は……」

 

 「う、うむ? うむむ?」

 百鬼丸は、まるで宇宙人の言葉でも聞くような様子で、更に困惑していた。

 

 「…………はぁ~、にいさん」

 

 「な、なんじゃい!」

 

 「にいさんは原始人かなにか?」

 呆れた様子で双葉はため息をつく。まさかここまで何も知らないとは思わなかったのだ。

 

 「冷蔵庫って知ってる?」

 

 「知らん」

 

 「即答するな」

 軽い眩暈を覚えながら、双葉は義兄のダメさ加減に呆れを通り越していた。

 

 (まさかここまでダメだとは……)

 

 「説明終わったら、わたし鎌府の寮に帰るつもりだったけど予定変更。寮にはあとで連絡するから今日はここに泊まって、にいさんに一から現代の生活を教えるから。いい?」

 

 「や!」

 

 「や! ……じゃないの! にいさんは小さい子供なの?」

 

 「嫌なものはいや!」

 

 つかつか、とフローリングを強く踏みしめながら百鬼丸に近づき、額に青筋を浮かべる双葉。

 「ねぇ、にいさん?」

 優しい声音が逆に怖い。

 

 「な、なんだ?」

 

 「お ぼ え て?」

 笑顔で、百鬼丸の両頬を思い切り引っ張りながら恫喝する。

 

 

 「―――――はい」

 結局、百鬼丸が折れた。妹は強かった。というか恫喝が怖かっただけである。

 

 

 ◇

 「すーーっ、すーーっ」

 リビングの大きなソファーで眠っている双葉。

 壁掛け時計は既に深夜二時を示している。

 

 結局、百鬼丸にはすべて家電から現代生活の基礎を教えた双葉は、力尽きたようにソファーに身を投げて眠りだしてしまった。

 

 こんがらがる頭を整理しながら、百鬼丸は寝ている双葉の足元のソファー部分に腰を下ろして俯いた。

 「現代人は覚えることが多すぎるだろう……」

 危うく目が回りそうだ、と百鬼丸は愚痴った。

 

 しかし、どこか満足げな義妹の顔を一瞥すると、百鬼丸は嬉しく思えた。

 

 かつて、こんな風に普通の兄妹として生活してみたいと空想したことが今実現しているのだから……。

 (おれの寿命でも削った甲斐があったな……)

 微笑みながら、百鬼丸はもう一度あの数ヶ月前の激闘の日々を思い返す。いまでもあの血肉沸き踊る経験をしたいと渇望している。――一方で、こうした生活を続けたいとも願っている矛盾した自分に、百鬼丸は行き場のない蟠りを抱えていた。

 

 「寒そうだな……」

 百鬼丸は寝ている義妹のために寝室から薄い毛布を取ってきて、妹にかけてやった。鎌府の制服を着ているが、恐らく急いでこの部屋に駆けつけたのだろう。靴下は色違いだし、普段はキチンとした制服も所々ルーズになっている。

 

 夜遅くに電話をして呼び出したことを今更後悔した。

 

 「ありがとうな、双葉」

 黒い髪を軽く撫でる。昔と同じように、優しく撫でる。

 

 「うぅん……おにーちゃん」

 緩んだ顔で、双葉が寝言をつぶやく。

 

 むかしの呼び方で、自分を呼んでくれたのだ。

 

 百鬼丸は深く瞑目する。

 

 ――もう、こんな大切な日々を失いたくはない。刀使を傷つけさせたくない。

 

 深く胸の奥に刻まれた覚悟を、改めて口の中で反芻する。

 

 どんな強大な敵であろうと、必ずこの手で葬ってやる。

 百鬼丸は覚悟と共に、己の力に課せられた対価にも思いを馳せて……甘い感傷の類を切り捨てた。その感情は不要だから。修羅道をゆく者にはまったくの不要物であるからだった。

 

 

 

 ◇

 

 「おはよう、百鬼丸。どうだ? よく眠れたか?」

 真庭紗南が、皮肉っぽく聞いた。

 

 本部に朝から呼ばれた百鬼丸は眠そうな顔で、仏頂面で彼女の前に佇んでいる。

 「――元気です」

 明らかに不機嫌な返事をした。

 

 実をいえば、朝に双葉の携帯端末に呼び出しがかかったようで、用件は百鬼丸を本部へと連れてくることだった。朝食は冷凍食品で終わらせたふたりは、そのまま本部へと向かった。(双葉は結局、兄を案内した後は鎌府へと戻った。)

 

 

 「ったく、薫といい、お前といいなんでウチの連中はこんなロクでもないヤツばかりなんだ……まったく」

 愚痴をこぼしながら、椅子に座ったまま紗南は百鬼丸を見上げる。

 

 「今日は――そうだな。お前にぜひ会いたい――という変わったヤツの申し出があってな。心当たりはあるか?」

 

 「ふむ? ないですな」

 

 百鬼丸の案の定の返事に紗南は「だろうな」と小さくこぼしながら、彼の背後へ視線を送っていた。

 

 「……入室を許可します」

 紗南がそういうと、自動のドアが開いた。

 

 

 恐る恐る、百鬼丸は肩越しに目をやると、二つの影があった。

 

 厳しそうな顔の女性が、パンツスーツ姿でドアの境界線辺りに佇んでいた。

 「初めまして――だな。私は綾小路武芸学舎の学長、相楽結月だ……それから、」と、結月は言葉を区切った。

 

 『やっほ~~~~百鬼丸おに~さん! 元気っ?』

 聞き覚えのある声だった。

 

 「お、おう」

 思わず狼狽した。――なぜ彼女がここに?

 

 扉から半身だけ斜めに傾かせた少女。

 

 親衛隊第四席、燕結芽が相楽学長の隣にいた。

 

 「なんでお前がここにいるんだ?」

 事情をうまく飲み込めずに、百鬼丸はただ驚愕するばかりだった。

 

 むぅ~~~~~、と白い肌を餅のように膨らませながら結芽は細い眉を怒らせる。

 「〝お前〟じゃなくて、結芽、って呼んでっ!! 百鬼丸おにーさん!」

 撫子色と、薄青の毛先の二層のグラデーションが美しい髪を外気に翻らせながら結芽は注文をつけた。

 

 「……お、おう」

 少女の謎のこだわりに圧倒されながら、紗南に事情を問うような視線を送ると、

 「事情は後から説明してもらえるそうだ。じゃあ、がんばれ」

 と、無責任に説明を投げ出した。あまりの豪快な職務放棄に百鬼丸は開いた口がふさがらず、イロイロと脳内の処理が追いつかずにいた。

 

 「ねえ百鬼丸おにーさんっ!!」

 弾んだ声音で、軽やかなステップを繰り返して、百鬼丸に近づく結芽。

 

 「な、なんだ?」

 

 ただただ困惑する百鬼丸を、立ち止まって眺める。

 

 (――なんだ、おれがなにかしたか?)

 

 心当たりなんて……昨日、双葉に隠れて酒を飲んでいたことしかない。……うん? それかな?

 

 やましいことしか思い浮かばない百鬼丸。

 

 百鬼丸の胸板より下の華奢な影が、忍び笑いを漏らす。

 「百鬼丸おにーさんっっ!」

 上目遣いで、熱っぽい視線を送る結芽は、頬をほんのりと赤く染めた。

 

 (まずい、バレた。完全に酒がバレた)

 

 百鬼丸は冷や汗をかきながら、ごくりと生唾を飲んだ。

 

 「どどど、どーした?」

 

 「えへへ~、なんでもないよー」

 

 しかし、そんなアホな百鬼丸の葛藤を知らず、結芽の純粋な浅縹色の瞳はキラキラと輝いていた。

 



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79話

 午前零時。

 排気ガス臭い川崎工場地帯の尖塔群の一つ、微かな影が煙に包まれながら――ゆっくりと、激しい風に煽られつつ屈んた姿勢から立ち上がる。まるで無聊でも慰めるように無精ひげを厚い肉の掌で撫でつける。

 生気を欠いた瞳には、強敵を求める飢えた獣の如く暗い雰囲気を漂わせていた。

 腑破十臓は、肩甲骨から脊椎に沿って筋肉の神経を研ぎ澄ます。

 ――外道の力は未だ健在のようだ

 と、彼は思った。

 五指は別の生き物のように動き、『裏正』を求めた。生きた〝肉〟を斬りたい、と切望している。柄から伝う肉の感触は、硬い金属から粘つく生暖かい感触が良く馴染む。

 銀の冷たい星の光が濃密なガスの裏に輝く。

 ボオゥ――と十臓の体躯を紫色の焔が発火し、全体を押し包んだ。

 直後、能の猿面にも似た真っ赤な貌が、夜闇の中から浮かび上がった。二つの卵のような小さな眼窩には、薄い白の膜が目玉の表面に張っているように見えた。

 胴体中央は内蔵が露出したような鮮烈な赤色を、外部を肋骨のような外殻が覆っている。筋肉を突き破り、露になったような……外骨格の白が、十臓の全身に巡っていた。

 

 アア……気分ガイイ……久々ノ感覚ダ……

 

 蛹が外気に初めて触れたようで、透明な飴細工の様な翅と思える歪な体。

 首を一巡りさせて、存分に力を漲らせる。

 背中に担いだ『裏正』の鞘が、肉体の一部のように感ぜられた。長い柄を握り、一閃――引き抜いた。

 刀の半分はチェーンのように凹凸の溝があり、刀身の半分が真紅に染まっている。

 

 戦いの刻は近い……。

 

 十臓は、この『裏正』によって一度消滅するところだった。……だが、それでも十臓はこの異世界に来てもその飽くことのない殺戮の道具に『裏正』を選んだ。

 

 運命という他ない。

 

 

 

 (衛藤可奈美、百鬼丸……。)

 

 この世界のめぼしい敵と、戦う。

 

 愉シミダ……

 

 喉の奥で「くくくくく」と哄笑した。

 

 

 

 ◇

 

 午過ぎの高く昇った秋の日差しが、心地よい。

 

 本部を出て五〇〇メートルほど離れた場所にあるファミリーレストランに入った。繁華街にも隣接しているためか、中途半端な時間でも店内の席に人が点在していた。

 突然連れ出された百鬼丸は頭の上に疑問符を浮かべながらも、渋々相楽結月の後を着いてきた。

 窓際の席には丁度、秋の弱々しい日光がテーブルに射し込んでいた。

 

 「百鬼丸おにーさん、あの席にしよ~っ」

 窓際を指差した結芽は、百鬼丸に抱きついて自らの細腕を絡めながら、そう言った。

 

 「お、おう」

 彼女の積極的な態度にかなり戸惑いながら、百鬼丸は頷く。

 

 「…………はぁ」隣に立っていた結月は憂鬱なため息をこぼした。

 呆れ、というよりも、複雑な感情が混ざったものだった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 「ふぅ……」

 と、百鬼丸は席で腰を落ち着けるなり、

 

 「百鬼丸おにーさん。えへへっ~」

 まるで子犬がじゃれつくように隣に座り、べったりと百鬼丸の腕に華奢な体を密着させる。

 白いレースに黒い帯を基調としたシュシュに束ねられた毛先が、百鬼丸の二の腕をくすぐる。

 

 「あはは……」

 愛想笑いで受け流しながら、百鬼丸はテーブルの対面をみる。

 「――それで、説明してくれるんですよね?」疑り深い眼差しで結月を見据える。

 

 「ああ、当然だ。その前に……今日ここにきた理由を説明させて欲しい」

 

 「こんな場所で、ですか?」

 

 「そうだ。別に守秘義務を履行する内容でもない、まして荒魂と人体の融合を図る研究については、一部情報公開が始まっているからな」

 

 「そうですか。んで、わざわざ京都からなんで関東に?」

 

 鋭い眼差しに、躊躇いの色が現れた。

 「結芽の病状が急激に回復した理由……そして、此花寿々花が今行っている〝治療〟について関係がある。――そして、勿論君にも理由はある」

 

 

 「おれ、ですか」

 

 ――ああ、と結月は言いながら結芽に視線を移す。

 「結芽、なにか飲み物でも持ってきてくれないか?」

 慈愛に満ちた眼差しで、結月は微笑んだ。

 

 百鬼丸の右腕に頬ずりをしていた少女は明らかに不満そうに顔を曇らせた。

 「えぇ~、ど~して~?」

 

 苦笑いを浮かべながら、結月は続ける。

 「結芽、お願いだ」

 なおも優しい表情に根負けした少女は口を尖らせながら、「うぅ~」と名残惜しそうに百鬼丸から離れてドリンクバーの設置されているコーナーへと歩いて行った。

 

 

 結芽の後ろ姿が遠くなると、表情を元に戻し小さな息を漏らす。

 「ああ、すまない。先程の話の続きだが、人体とノロの研究が一番進んでいるのが旧折神派の施設、それから鎌府の研究棟だ。……現状、あの子に起きている身体の変化を診断するにしても、綾小路の研究ではどうにも……長船にも、整った設備はあるが……やはり、実際の人体を利用した研究はコチラの方が進んでいる」

 

 「なるほど……だから、コッチにきてるってワケですか」

 

 「単刀直入に聞くが、君があの子を救ったんじゃないか……と思っている。それも、現段階でのノロ技術とは異なる方法で、だ」

 

 「へぇ、確証はなにか?」

 

 「いや、ない。だが、あの子(結芽)の話では、折神家の襲撃事件の祭、瀕死の淵から君が救い出してくれた――そう聞いている。何より、君の義妹もそれに近い証言をしてくれた」

 

 (双葉め、あんにゃろう~)

 百鬼丸は意外におしゃべりな義妹に困り果てた。

 

 別に隠す内容ではなかったが、とはいえ一々他人に知らせなくてもいいだろう、と百鬼丸自身は思っていた。もちろん、結芽の生命に関わる部分については話そうとは考えていた。……しかし妹がどこまで喋っているかは分らないが。

 

 「…………今、いえることは一つです。燕結芽は今後普通の生活を送れますよ」

 百鬼丸は迷いない口調で確かに言った。言いながら、左の指先で右腕を叩く。必要とあれば、何度でも肉体を切り離して彼女に与えるつもりだった。

――と、同時に自分自身の肉体と寿命を対価にして、という部分は絶対に語るつもりは毛頭ない……。

 

 結月も、少年が何事かを隠していることを察したが、敢えてそれ以上は追求せずに天井へと頭を僅かに上げた。

 「そうか。それが君の判断なのか――」

 つぶやきながら目線を戻して百鬼丸を覗い、目を細める。

 彼女なりに思うことはあったのだろう。しかし敢えて言語化せず、心中で止めた。

 

 「…………。」

 

 「…………。」

 

 両者は沈黙して語らず、気まずい空気だけがテーブルを挟んで流れていた。

 

 

 りん、りん、と《ニッカリ青江》の柄に取り付けた苺大福猫の鈴ストラップが軽妙に鳴る。

 「えへへっ~、お待たせ~」

 涼やかな鈴音と共に、両手にドリンクの杯を持った結芽が元気よく戻ってきた。

 

 「お、おう」

 

 「ああ、おかえり」

 

 気まずい沈黙を破った少女は、こわばった表情の両者を交互に見比べながら「ん~?」と小首を傾げた。左髪を束ねたシュシュの基調をなす長い黒帯部分が、撫子色の柔らかな髪に触れ合いながら、静かに元の位置へと収束していく。

 

 

 



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80話

再投稿です。


〝道徳的に悪であり、審美的に醜悪であり、経済的に害であるものが、だからといって敵である必要はない。〟――引用、カール・シュミット

 

 

 

 1

 国会の証人喚問は、とりわけ刀剣類管理局代理の折神朱音へとその矛先が向けられた。

 春先ごろに問題となった「鎌倉特別危険廃棄物漏出問題」は、特に臨時国会でも話題の渦中にあった。

 連日に渡る厳しい追求にも辛抱強く耐えた朱音だが、この証人喚問以上に厄介な存在を相手にしていた。

 そのことを意識するだけで気が重くなる、と朱音は思った。

 

 

 午前と午後の応酬を終えて、帰路につく車の中。

 「はぁ………」

 息を吐いて、後部座席に深く身を預け目を揉んだ。連日に渡る心身への疲労が重なり、酷く疲れていた。――とはいえ、誰かが責任を取らなければならない。それは「折神家」に生まれた者としての宿命であった。……実姉、折神紫がその問題の原因であるのならば、尚更。

 

 

 

 緩やかな眠気が襲いかかったタイミングでブルブル、と膝上の携帯端末が震えた。画面をみると真庭紗南、と名前が表示されていた。

 ふっ、と口元が緩む。緊張感の漂う世界に身を置くと、気の許せる知り合いの存在というのは有難い。

 「――はい」

 

 『〝特別刀剣類管理局局長代理〟様のお電話で宜しかったでしょうか?』

 古くからの付き合いのある友人の皮肉がかった調子の声に、朱音はクスッ、と小さく噴き出した。

 

 「もう……それより、用件はなんでしょうか?」

 

 『――〝維新派〟の活動がかなりきな臭くなってきたと、密偵の報告がありました』

 いつになく真剣な口調で紗南がいう。

 京、綾小路武芸学舎には依然として配置している舞草の密偵からの連絡で、「鎌倉特別危険廃棄物漏出問題」以後も任務を続けていた。

 

 それには理由がいくつかある。

 ひとつは、学長相楽結月の動向であり――彼女を隠れ蓑にしている高津雪那にも同様の監視が置かれていた。

 

 ふたつ目は、〝タギツヒメ〟である。

 この三女神のうち、最も人間に対して強い憎しみを抱えているタギツヒメこそが最大の脅威と看做しているためであった。

 

 一人思案に耽る朱音をよそに、紗南は更に続ける。

 『維新派――というよりも、綾小路の研究施設関連が〝ノロ融合〟の研究を最終段階まで整え……完成は間近とのこと』

 硬い声で言い終わる。

 

 薄く目を閉じた朱音は軽い眩暈を覚えながら、

 「――分かりました。ありがとうございます。それで、〝異世界の来訪者〟に関しては?」

 

 タギツヒメの最大と手駒といえる異世界の住人たちが、ここ最近になって活動を活発化させているとの連絡がもたらされていた。

 

 『その件に関しては安心していいでしょう。……なにせ〝あの男〟が帰ってきましたからね。ふっ……まぁ、と言っても戦闘技能以外はまったくのダメ男ですからね』

 担任の教師がまるでダメな生徒でも評するかのように、伝える。

 

 (あの男……? もしかして――)

 

 「もしかして、百鬼丸さんが見つかったのですか?」

 

 『ええ。連絡が遅れたのは、彼がコチラに協力してくれるか確認を取るためでしたが――問題はナシ。今後彼はコチラの戦力として期待できるでしょう。特に異世界の来訪者相手には……』

 

 そこまで聞いて、朱音は物憂げな表情になった。

 「彼もまだ少年なのに……また戦場に立たせなければいけないんですね……」

 苦いものがこみ上げてきた。

 以前、舞草の里で彼と会話した時のことをよく憶えている。

 その時の姿は、どこにでもいる傷つきやすい少年――という印象であった。決して彼が化物でもなければ、単なる戦闘兵器でもなく、一個の人間であることをよく知っている。

 

 『…………。』

 紗南も同様に考えているのだろう。

 

 しばしの沈黙のあと、朱音は空気を変えるように切り出した。

 「私はこれから自衛隊の市ヶ谷までいきます。苦労をかけると思いますが……」

 

 『それはお互い様でしょ? 朱音ちゃん』

 

 昔の懐かしい呼び方だった。折神朱音は微笑を漏らすと、「ええ」と頷いた。

 それから、ひとしきり語り終え、通話を終えた。それから流れゆく車窓を無意識に眺めながら、

 

 「もし、これから何があっても百鬼丸さんがいるというのは心強いですね」

 小さく零した。

 

 これから来るであろう、激戦は予想されていた。

 

 そのとき、彼は…………

 

 

 2

 なぜ、ハンバーグを食ってコーラをがぶ飲みすると、臭いゲップが出るのだろう? 百鬼丸は疑問だった。

 ファミレスで注文したチーズハンバーグは、デミグラソースがたっぷりで、思い切り頬張ると口の中を火傷しそうになった。

 「はふっ……はふっ……」

 口から湯気が漏れる。温度を下げるために、冷たいコップを握り、口腔へ流し込む。この瞬間だけは最高だと百鬼丸は思う。特に飯を食うとき動物は本来的に警戒心が弱まる。だからこそ、食事は安心できる空間でないとできない。

 昔の自分では、およそ他人の前で食事をすることなど考えもつかなかっただろう。――

 

 「百鬼丸おにーさん♪ 口にソースついてるよ」

  隣に座っていた元親衛隊第四席、燕結芽が紙ナプキンで口元を拭う。

 

 「ムググっ……痛い、痛い、痛い。力が強い強い」

 

 溢れんばかりの愛情という名の暴力によって、押し付けられるナプキン。その後、口を拭き終わると肘に関節技でも決めるように自らの細い腕で抱きつきながら、

 

 「えへへっ~もう、遠慮しなくてもいいのに~」笑顔で応える。

 

 「!? 話が通じていない……だとッ!」

 危うく鼻水が吹き出しかけた。それを寸前で押さえ込んで、隣の少女のよくわからないテンションに恐れ慄く。今まで色んな敵と戦ってきたが、こんなにやりにくい相手は初めてだった。

 

 そういえば、山に住んでいた頃、山犬や野鳥の鶺鴒と暮らしていたときを不意に思い出す。彼らは普通人間には慣れない。野生と人間とでは住む世界が異なり、決して交わることがないからだ。……しかし、野生からつまはじきになった連中は違う。

 

 同じく、人の世から疎まれた百鬼丸と孤独な野生動物は惹かれあった。

 

 (あいつら、元気かな……)

 ふと、隣の少女を眺めながら野生動物をと過ごした記憶が甦り懐かしくなった。

 

 「――?」

 結芽は、ぼけーっ、と眺める百鬼丸の視線に小首を傾げた。

 

 

 一見、まあ何の変哲もない平和な空間だと思われた――ただ一人、相楽結月を除いては。

 

 「チッ……」

 結月はイライラと、腕組みしながら貧乏ゆすりを激しくしていた。

 先程からこの調子である。百鬼丸には無論その理由がわからない。相手の心を見透かせばいいのだろうが、一々『心眼』を使うわけがない。精神力を使うために非常時以外は避けているのだ。

 

 (まぁ、いっか)

 百鬼丸は対面の女性の鋭い眼差しを無視してフォークで切り分けたハンバーグを再び頬張る。もにゅ、もにゅ、と咀嚼すると気分が高揚する。

 

 撓んだ縄のような口を睨みながら、

 (コイツは小学生か……)

 と、結月は内心毒づいた。いまの百鬼丸は、年齢がひとまわりも幼い子供のようにみえた。

 

 これが、本当に最強の戦闘兵器であり、維新派の最大の障害となる男だというのだろうか?

 

 結月は疑念が払拭出来ずにいた。

 

 今回、百鬼丸に接触したのは他でもない偵察のためであった。刀剣類管理局を改革する、という名目のもと、着々と国家転覆にも似た計画を実行している。

 

 だからこそ、結芽を口実にして百鬼丸に接触したのだった。――しかし。

 

 (私は一体、なにをしているんだろう……これも、あの時の罪か……)

 醒めた目で、手元のコーヒーカップを凝視する。

 

 あの時、人が犯してはならない「人体とノロの融合」という研究に手を出した罰なのだろうか? それとも、何ら罰を受けずにこれまでを過ごした結果だというのだろうか? せっかく、手に入れた平穏を守るために……。

 

 伏せ目がちにコーヒーカップを握る。

 

 ゴクリ、と嚥下させた百鬼丸は、ワザとらしく普段通りの口調で、

 

 「そいで、さっきの話の続きだけどおれは何をすればいいんだ? まさか、会話だけしにきた訳じゃないだろ?」

 

 と、話題を転じた。

 

 「……ああ。結芽は昨日まで三日間と、明日の二日を検査入院の予定になっている。――今日一日は外出許可が出ているから、不本意ながら、本当に不本意ながらだが、貴様の如き薄汚い変態に頼みがある。結芽をどこかに連れて行って欲しい」

 

 「ほほう、でも貴女がどこかに連れていけばいいのでは? おい、つーかなにサラッとおれのことを酷く罵ってるんだよ」

 

 素直に抗議しておいた。変態というのは、自分からいうのはいいが、相手から言われるのは心外というものである。

 

 だがギリッ、と歯噛みしながら、唇を強く噛み締めた結月が百鬼丸を睨みつける。まるで彼の抗議なぞお構いなしに怒気を放つ鬼の形相だった。

 「…………私もそうしたい、いや――本当はそうしたいのだが、予定がある」

 テーブルに置いた拳が小刻みに怒りに震えている。

 

 「…………。」

 百鬼丸はやべーヤツの雰囲気を咄嗟に感じ取って、黙った。

 

 「えへへへっ~、だから今日一日は百鬼丸おにーさんと一緒だよ~♪」

 百鬼丸の右に腕を絡ませながら、上機嫌にいう。

 

 サッ、と百鬼丸が横目で結芽を窺う。……どうやら、少女は嬉しいのだろう。一切、相楽結月の存在など忘れているかのように、べったりと密着している。

 さっ、と正面に視線を戻す。

 

 「チッ、コロスコロスコロス……」と、その様子に呪詛でも唱えるように眉間に皺を刻む結月。

 

 

 ――ん? これって、もしかして絶体絶命のピンチという状況では?

  

 と、背筋に脂汗が流れるのを感じながら、百鬼丸はようやく現状を正しく認識した。

 

 

 

 ◇

 

 食後の重たいお腹をさすりながら、

 「そんで、どこに行きたいんだ?」

 おれは隣を歩く華奢な影に訊いた。

 

 おれ自身、色々とよく分かっていないままなのが本音だ。そもそも、こんなことになったのも、つい数分前――。

 

 ファミレスの出口にて、

 『では、くれぐれも頼む』

 相楽学長が別れ際におれに言った。酷く鋭い眼光で、冷ややかに含みを持たせて言い放ったのだ――と、おれは理解した。

 「…………はい」

 黯然とした気分に陥りながら、深く項垂れる。

 一体、おれが何をしたというのだろうか? 今回は何も間違いなんて犯していないではないか? これは不条理というものではないか? など、噴き出す疑問を飲み込んで肩を落とす。

 

 『結芽に手をだしてみろ。貴様の男根を切り落としてやる』

 と、脅迫してきやがった。

 

 …………おれはなにかしたの? 勘弁してくれ。マトモにションベンできないじゃないか。

 

 おれは気だるい気分を引きずりながら、歩き出す。

 

 「じゃあ、百鬼丸おにーさん行こっか♪」

 元気よくおれの手を引いて燕結芽は走り出した。

 

 「……ま、いいか」

 せっかく、死の影から怯えずに済んだんだ。どんなわがままでも聞いてやりたい。おれは心からそう思った。

 

 

 

 ◇

 「そんで、どこに行きたいんだ?」

 おれは隣を歩く華奢な影に訊いた。

 

 整然と並ぶ街路樹のマロニエの木々の葉が色づいている。秋風は和らぎ、天高く日差しが差し込んで陽気は最高だった。

 平日だからか、歩道は人通りが疎らだった。最高の気分だ。人がいるとおれは落ち着かない。

 思い切り空気を吸い込み、おれは横に目線をやる。

 「う~んっと」

 おれの問いかけに、結芽は深く悩んでいるようだ。

 唇の下に人差し指を当てながら考え込む。大きな猫目に似た瞳をパチクリとさせて、悩んでいる様だった。

 「百鬼丸おにーさんはどこか行きたいところあるの?」

 「いいや、ない……かなぁ」

 「え~っ、つまんなーい!」

 「そう言われても困る……大体、おれじゃなくても他に誰かいないのか?」

 「…………ばかぁ」小声で呟く。

 「む?」

 よく聞き取れずに、思わず聞き返した。

 「ばかっっ!!」

 感情が爆発したのだろうか。唐突に大声で叫びながら怒鳴った。

 「ば、ばかとは!? 突然なんだよ、ひどい」

 なぜ怒っているのか判らない。

 「――私と居るのは……楽しくない?」

 ボソリ、と寂しそうに囁いた。

 いいや、そんな訳はない――のだが、ハッキリ言えば他者と長時間過ごすのに慣れていないだけだ。うん。おれがガキの頃に義父や義妹と暮らした時から数えても十年近く経っている。

 (今更、人付き合いなんてわかんねーよ)

 正直、悲嘆に暮れる。

 だが非常時ならば話は別だ。戦いがおれの中で馴染んでいるから、誰かと居ても平気だ。……だけど、こんな平和な時は本当に苦手だ。

 (でも、こんなこと言っても仕方ないしなぁ……)

 考えをまとめて、おれは隣の少女の頭を犬っころの毛並みみたいに撫でた。

 「そんなことはない……おれは、どうやって過ごしたらいいかわからんのだ。……だから結芽が教えてくれないかな?」

 顔を真っ赤にして怒っていた結芽は、不意をつかれたのだろうか。驚きながらも擽ったそうに目を細める。

 「~~~~っ、卑怯だよ」

 俯く。撫子色の前髪が目元を覆う。甘ったるい匂いが、おれの嗅覚を刺激する。まるでお菓子みたいな匂いだった。

 「へへっ、頼むよ。……こんな日はどうやって過ごせばいいんだ?」

 ワザとおれは間抜けっぽい口調で聞いた。

 しばらく逡巡した結芽だったが、何かを思い切ったのだろう。ガバッ、と頭をあげて組んでいた腕を解いて、おれの前方に立ちふさがる。

 「わかった。百鬼丸おにーさんに、私が特別に教えてアゲル。……退屈しない過ごし方♪」

 手を後ろで組んで、悪戯っ子っぽく微笑む。

 

 子供らしい、素直な表情におれは安堵した。以前のような、どこか死の影の付き纏う不吉な顔は御免だ。――こんな顔が見れるなら、おれは何度だって寿命も肉体も削ってやりたい。それに値するだけの甲斐があったと思える。きっと、結芽はこの先も様々な人と出会い成長していくだろう。

 

 (コイツの人生に、おれは居たらいけない。……コイツの人生は、刀使だけで終わらない。その先も――きっといいものになって欲しい)

 

 「ふっ」おれは思わず、笑みがこぼれた。

 誰かの命を救えた喜びというのが、ようやく実感として湧いてきたからだ。

 「よろしく頼みますぜ」

 「うん、任せて♪」

 

 ◇

 私を助けてくれた百鬼丸おにーさんは、本当に鈍感だと思う。どんなに私がアプローチしても全然気づかない。だって、だって、どれだけ抱きついてもドキドキした顔もしないんだもん。――それに、私をペット扱いするみたいに扱うから……可愛がってくれるのはイヤじゃない。けど、うまく言えないけど、胸の奥がモヤモヤする。

 (前の胸の痛みとは全然違うよ……。)

 痺れるみたいな感じがして、イヤ。

 

 ――誰かの記憶に強烈な私を刻み付けたい

 

 それは、今でも多分変わってないと思う。……でも、本当に焼き付けたい相手は――

 

 『ん? どーした?』

 にこにこしながら、間の抜けたカンジで頭を撫でてくる。

 

 ほら、やっぱりまた子供扱いだ。

 

 でも、それでも……。

 

 「えへへっ……なんでもないよっ♪」

 自分の気持ちを隠して、笑ってみる。

 

 多分、見た目もすごくかっこいいワケじゃないし、鈍感だし、間が抜けてるし……これなら真希おねーさんの方が全然女の子にモテるし! ……でも。

 

 私を覗く右目の義眼を見返す度に、やっぱり胸が苦しくなる。ヘンな痺れるみたいなモヤモヤがずーっと、ずーっと、苦しくさせる。

 

 〝私は百鬼丸おにーさんが好きなんだ〟と思う。

 

 ううん、「思う」んじゃない。大好きなんだ。だから、私だけを見ていて欲しい。

 

 『うん、任せて♪』

 絶対に、私のことを大好きにさせるから。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ファミレスで別れた直後、結月の携帯端末が震えた。

 電話に出ると、聴き慣れた声がした。

 『〝相楽学長〟、本日が近衛隊選抜の期限ですが?』

 イヤミったらしい女の声音が鼓膜にまとわりつく。相手は勿論、高津雪那だ。

 

 「――知っている」

 

 『貴女が牛歩戦術を使うならそれでも構いませんが……轆轤局長の協力もありますからねぇ。ふふふふっ、貴女の最愛の燕結芽の身柄がどうなってもいいと仰るなら、それでもコチラは全然構いませんが?』

 

 「ッ、脅迫するのか!?」

 

 『脅迫? いいえ、貴女の賢明なご判断に委ねているんです』

 へりくだった言い方だが、暗に人質をとる構えだろう。

 

 「……っ、わかった。返事は今日中に出す。それで文句ないだろう」

 

 『本当ですね? ――まぁいいでしょう。あとは鎌府と特別祭祀機動隊の視察、などなど。偵察をお願いします』

 一方的に喋って雪那は電話を切った。

 

 (なぜ、なぜこんなことに……。)

 結月は、携帯端末を握り締めながら、下唇を強く噛んで、忸怩たる思いをにじませた。

 

 「結芽……せめて、お前のために私は責務を果たす」 

 二度と手放したくない……そんな思いに突き動かされながら、かつての仲間を裏切る。

 

 「すまない、本当にすまない」

 脳裏には、既に亡くなった美奈都と篝の顔が思い浮かぶ。



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81話

……自然に、なるべく足音を感づかれないように分厚い絨毯の上を歩く。ある部屋の前で立ち止まると扉に耳を当て、中に気配があることを確認した。肝心なことは、まず扉を素早く開けることだ。――それからは簡単。一気に斬りかかるだけ……。

 

 「えっへへへっ……紫さまに今度こそ本気で遊んでもらわないと」

 親衛隊四席、燕結芽は口元を三日月型に曲げてニヤつく。これまで何度も奇襲を仕掛けては失敗を繰り返した。だが、今回こそは――と、結芽は胸元に小さく拳をぎゅっ、と拳を握る。

 

 御刀《ニッカリ青江》の収まるオレンジと黄色の二層グラデーションが美しい鞘を左手で掴む。ネジのマイナスに似た腰元に装着した金属ホルダーを水平に動かす。

 

 こん、こん……。

 

 手の甲で硬い扉を弾く。ドアノブを握り――

 

 「紫さま~~~~、あーそーぼー♪」

 

 素早く扉を開き上半身を斜めに曲げて室内を窺う。高級な材質の執務机で腕を置き、資料に目を通す折神紫の姿が凛然とそこにあった。

 

 苺大福猫を模した御刀の鍔を左の親指で弾き、刀身を煌めかせる。

 

 結芽は迷わず《迅移》を使用した。

 

 室内の距離を一気に縮めて紫に接近する。……抜刀した後、右大上段から思い切り御刀を振り下ろす。

 

 しかし、手応えがまるで無い。……目前を見ると椅子の背もたれ部分のみが切断されるのみだった。

 

 剣が標的を見失った直後――強烈な一撃が、《ニッカリ青江》を弾き飛ばした。軽い結芽の体は易易と部屋の中央に設置されたソファーに飛ばされ、背中を強打した。盛大に埃を舞い上げ、クッションのスプリンクラーが軋む音が盛大に聞こえた。

 

 緩い眩暈を覚えながら頭を左右に振り意識を整える。

 

 《写シ》を解除して細い眉を顰め、唇を尖らせる。

 

 「あ~も~、あと少しだったのにっ~!!」

 結芽は盛大に悔しがった。

 

 折神紫は悠然と手元の書類の束をめくりながら、窓際に佇み横目で結芽を一瞥した。全く抜刀した形跡すら解らない程、素早い動きで結芽の奇襲を簡単に迎え撃った。

 

 「またか……」

 淡々と呆れた口調で、紫は切れ長な眦を細める。機会があれば必ずこうして襲ってくる少女に対して、まるで悪戯に頭を悩ます親のような態度だった。

 

 「えへへっ~」

 舌を出して、悪戯っ子の笑みを零す。

 

 こんな関係がなるべく長く続けばいいな、と燕結芽は思った。

 

 ………………しかし、それを許さないであろう、「寿命」のリミットに怯えていた……。また誰にも認められず消える恐怖を想いながら、無限に沈んでゆく気分。

 はっ、と気がつき小首を振って臆病を打ち消す。

 その二律背反した感情を抱きながら、往時の夜桜の一片の桜花弁を少女は憶えていた。夜風に流されながら吹雪のように散りゆく徒桜。

 

 ――二度と身を結ばぬ花。

 

 禁忌を犯した体……蝕む《ノロ》

 

 

 ◇

 暗い過去の憧憬を思い返しながら、結芽は薄く閉じた瞼を開いた。

 東京、原宿。

 若者の街としても有名なこの場所で二人は、わざわざ待ち合わせをすることにした。以前、親衛隊の獅童真希と此花寿々花を伴ってやってきた以来である。

 小さな店が軒を連ねる細長い道には、人々が立錐の余地なく舗道を埋め尽くしていた。

 

 

 そんな人ごみの向こう側からは、不機嫌そうに――そして、雑踏に戸惑いながら一人の少年が歩いてくる。

 「うげぇ」とか「うはぁ」とか謎の呻き声を上げながら、やってくる。

 ……正直に言えば、あまり理想的で格好良い男性像ではない。

 だが――

 

 結芽は不思議とイヤな気はしなかった。

 

 むしろ、少年の戦場以外でみせる意外な一面に惹かれていた。

 

 (――百鬼丸おにーさんだ)

 心の中で「その人」の名をつぶやく。胸の奥がきゅっ、と締めつけられるような甘い痛みに襲われた。

 

 

 人波をなんとかかき分けながら危うく転びかけたりしてようやく、

 「よォ」

 げっそりとした顔で肩を落としながら息を吐く。人ごみの苦手な百鬼丸は「なんでこんなに人が多いんだ……」と文句を呟く。

 

 そんな彼の反応などお構いなしに、

 「むぅ~~~~っ、遅いっ!!」

 白く柔らかな頬を膨らませてクレームをつける。約束の時間の三分も遅れているではないか、というのが結芽の言い分らしい。

 

 尤も、ふた駅前で別れて後から徒歩でやってきた百鬼丸からすれば、三分など誤差の範囲内だと思えなくもないが……

 

 「百鬼丸おにーさんのばか!」

 相手はどうやら許してれないらしい。目の前に佇む少年の胸板に向かい、両手の握った拳でポカポカと叩きつける。

 

 しかし少年は何ら痛痒も感ぜぬ風に、まるで飼い猫に戯れられる主人のようだった。

 「いやぁ、すまん。遅れた遅れた。しかし、わざわざ待ち合わせなんて変なこと考えるのな」

 百鬼丸は両手を合わせ苦い微笑を浮かべ軽い文句をつけながらも謝罪する。

 

 「ふんっ……」

 と、鼻を鳴らす。それから小さな拳を止めると上目遣いでの軽い睨みを解く。……分厚い胸板は鋼鉄のように堅く、間近に迫った少年の息遣いが不意に心を乱す。

 

 「…………? どーした?」

 怪訝に見下ろす百鬼丸。

 

 「べ、別にっ……! なんでもない!!」結芽は深く俯いて撫子色の柔らかな風に舞う髪質が、ふわりと表情を隠す。

 

 「うむ、そうか」と百鬼丸は無理やり納得した。「何かあったらすぐに言えよ」と念押しまでする。

 

 子供扱いしないで、と抗議しようとして無意識に頭の角度を上げると、

 「~~~~っっっ」

 結芽の瞳に映ったのは、戸惑いながらも心配そうに眉を落とす百鬼丸だった。彼の困った顔に、どう形容したらいいか判らない胸のわだかまりを感じた。

 

 今までの自分だったら、きっと拒絶してきた『他者からの労わり』が、今では直接心に響くようになっていた。

 

 これまで他人と関わること、群れることが弱さに繋がると思ってきた。

 

 誰かを信頼すれば、必ず裏切られるものだと思い込んでいた。だから、孤独も甘んじて受けいれてきた。

 

 唯一、他人を意識するときは「力」で、才能でみんなの記憶に残ろうと躍起になったときだけだった。

 

 …………だけど。

 

 そんな葛藤なんてお構いなしに、初めて無償の『慈しみ』を与えてくれた、〝彼〟

 

 だからその眩しい眼差しに、

 「うん、わかった」素直に百鬼丸の言葉に従える。

 幸せ、というのはとても主観的なものである。しかし、もしも、「この気持ち」を幸せだと形容するのならば、これは正しく幸せなのだろう。

 

 

 このひと時を逃さないように噛み締めながら、百鬼丸のゴツゴツと厳しい手をとる。

 「じゃあ、行こっか。百鬼丸おにーさん」

 眩しい笑顔の裏には、微かな蟠りの影がチラついていた。

 

 ◇

 同時刻同地、原宿。

 調査隊の久々の休暇ともなれば羽を伸ばしたくなるもので、特に六角清香は息抜きに原宿へと赴いた。――もちろん安桜美炎も一緒に、である。

 他の調査隊の面々はタイミングが合わず、結局ふたりだけとなった。

 

 「はえ~っ、やっぱり原宿はいつ来ても人がいっぱいだねー」

 圧倒されながらも美炎は何度目かの、人ごみに感嘆していた。

 

 「ねぇ、ほのちゃん!!」

 

 「ん? どーしたの?」

 

 「クレープとタピオカジュースをまずは抑えないとね!」

 普段の物静かな文学少女然とした清香ではなく、異常にテンションの高い女子中学生だった。鼻息荒く、両手を握り気合を入れている。

 なんといえばいいのか美炎には判らないが、とにかく圧倒される。

 「あはは……そうだねー」

 困惑しながらも、苦笑いで受け流す。

 どれだけ休日を愉しみにしてたのだろう? とすら思える張り切り具合であった。

 

 

 両側に軒を連ねる店を横目で眺めながら、人々の間を通り抜ける。

 清香は事前に、最新のファッション情報や人気のスイーツ店を調べてきたらしく、饒舌に喋り続けていた。

 「~~~~それでねっ!」

 

 (あっ、この感じ何となく可奈美にそっくりかも……)

 

 美炎は耳を傾けながら、「ふっ」と微笑を零した。

 

 「……ん? どうかしたの、ほのちゃん?」

 

 「う、ううん。ただ、いまの楽しそうな清香見てると可奈美を思い出してさ。……そういえば可奈美たちにも随分会ってないかも。可奈美は特に単独調査でアッチコッチに回されてるからさ~」

 

 「似てるって衛藤さんに?」

 

 「うん、そうそう」

 

 「――あんなに凄い人とは似ていないよ。全然違う」

 

 「そんなことないよ。清香だって、剣術は凄いんだし! それにさ、あの事件からも思ったんだけど、刀使として誰かのために剣を握ることって、大切だと思えた。清香の剣は誰かを守るための剣だと思うもん」

 

 「……そう、かな?」

 

 「うん、間違いないよ。強い」

 

 「え、えへへ……」

 照れながらも、清香は悪い気はしなかった。この短い間に生死を共にした美炎の実力はもちろん、仲間として命を預けるに値すると言われたことに、失いかけていた剣士としての矜持を取り戻した気がした。

 

 「あっ、あのクレープ屋さんかな? 清香が言ってたの」

 美炎が指差した先には、移動販売車にて甘い香りを漂わせる一角だった。

 

 「う、うん……! 多分あそこだよ!」

 目を輝かせて、清香は美炎の制服袖を引っ張りズンズンと人垣を擦りぬける。

 

 「ちょ……ちょっと待って待って、清香歩く速度はやいよ!」

 

 「急がないと売り切れちゃうからっ!」

 美炎の意見すら耳には届かず、歩調を早める。

 

 (あ~ダメだ。聞こえてないよ~)

 軽く人酔いしながら、美炎は諦めた。暴走した乙女、六角清香はそれほど強いのだった。それゆえに、軽く泣きたくなった。……というか、軽く泣いた。

 

 ◇

 「ん~っ、とっても美味しいですっ!」

 クレープを頬張りながら、もにゅもにゅ、と咀嚼する。

 ふたりは店先に設えられた椅子に座り、人の流れを横目にクレープをパクつく。

 クレープの中身はオーソドックスな苺とバナナをトッピングしたものである。シンプルなものほど、意外と食べたくなるものだ。味を冒険するのは、何度か通ったあとでも問題はない。という彼女なりの憶測のもとである。

 

 「あはは……よかったね」

 物凄い勢いで連れ回された美炎は、少々やつれながら、苦笑いをこぼす。しかし美味しそうに食べているのをみると、こちらも空腹になる。耐えかねて涎を拭い「じゃあ、わたしも……」

 はむっ、と柔らかなクレープ生地を齧る。

 「ん~~~~っ、美味しいっ! 最近は携帯食料ばっかりだったから、本当に甘いものが美味しい~~~~っ!!」

 一口食べただけで、美炎は甘味の虜となった。

 刀使として、調査は赤羽刀の捜索と共に山野へゆく機会が多かった。自然と野営に粗末な食事を強いられる。

 「はぁーー、生きててよかったーー」

 苺の酸味と、バナナの甘露さに舌鼓をうつ。すべてを包むホイップクリームも抜群の相性だった。

 くすくす、と清香が背中を丸める。

 

 「ん? どうしたの?」

 

 「ほのちゃん、ほっぺたにクリームつけてる」

 

 「えっ!? う、嘘!? どこどこ……」

 

 「あっ、待って。いま拭いてあげるから」

 清香は手に持っていた紙ナプキンで美炎の頬を拭く。まるで子供っぽい美炎に可笑しみを感じていた。

 

 (そういえば、百鬼丸さんはあれ以来会ってないけど元気かなぁ……)

 

 ふいに、少年を思い出した。

 ショッピングモール事件以来、彼とは会っていない。

 初めて命を救われてから、彼を事あるごとに意識してきた気がする。……恐らく読んでいる恋愛小説の影響だろうか?

 

 最近では、恋愛の妄想に耽る際は必ず相手が百鬼丸に変換されることがあった。その度、毛布に顔をうずめたり、机に突っ伏したりして、平静さを保てない。

 

 (百鬼丸さん……か)

 

 内心で呟く。

 

 また会えたら……。

 

 長い髪を無造作に後ろで束ねて、猫背気味に不敵な笑みをニタニタと口元に浮かべている。一見して小汚い格好はホームレスかとも思わされた。けれども、外見以上に人を惹きつける「なにか」に普通の男性とは異なる魅力を感じた。

 

 (こんなに大勢のい人が居るのに……多分、こんな所に百鬼丸さんは居る筈ない)

 

 ぼーっ、とした眼差しで往来を眺める。

 

 行き交う人々に彼の面影を重ねて……

 

 

 「えっ!?」

 

 長い黒髪を無造作に束ね、不機嫌を絵に描いたような顔つき。お世辞にもカッコイ男性像とはかけ離れていたけど、見間違える筈がない。――そう清香は確信していた。

 

 「なっ、なんで!?」

 

 原宿という一種、個性的な衣装を身にまとう人々が集まる街からでも頭一つ飛び抜けて分かる、異様な雰囲気の少年。雑踏に紛れながら、面倒くさそうに歩いている。

 

 

 「痛いっ、イタタタ、清香っストップ、ストップ! もうクリーム取れたって」

 ゴシゴシと物凄い勢いで美炎の頬を擦っていたようだ。

 だがそれにも気がつかず、清香は更に百鬼丸を目で追っていた。

 

 (うそっ、百鬼丸さんと手を繋いでいるのって――親衛隊の、燕さん!?)

 

 更に理解しがたい光景だった。

 

 どうして? なんで?

 

 様々な疑問が清香の頭に去来した。

 

 あんなに冷酷だと思っていた燕結芽が、あんなに楽しそうに笑いながら、百鬼丸をどこかへと導いている。

 

 「なんで……」

 ショックで、手元のクレープから手が離れた。

 

 「うわっ、危ないっ」

 寸前の所で美炎がクレープをキャッチした。

 

 「セーフ、もうどうしたの?」

 怪訝に友人である清香をみると、血の気の失せた顔色で、歩道の方向を見ていた。

 

 「……? おーい、清香。戻ってきてよー」

 目の前で手を振るも反応なし。

 

 

 「ほのちゃん、わたし用事を思い出した……から」

 椅子から急に立ち上がると、清香は瞳の光が失せた状態で俊敏に歩き出した。

 

 どう見ても普通の様子ではない。

 「えっ!? えっ!? ちょ……ちょっと待ってよ」

 美炎もつられて立ち上がり、まだ食べかけのクレープを二つ持ちながら清香の後を追った。

 

 

 



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82話

 五箇伝のひとつ、綾小路武芸学舎の修練場は、式典用に垂れ幕などの装いを施された。

 もとは、学内の試合用に設営された施設であるが、現在は少し雰囲気が異なる。……現在、綾小路の刀使のみが集められ、新たに創設される「近衛隊」の事前説明がある――そう連絡を受けて数百名以上が招集された。

 

 「ねぇ、これどういうことなのかな? 美弥」

 授業が急遽中断となり集められた内里歩は、周囲を見回しながら、不安げに隣の親友に囁く。

 「わからないよ……相楽学長も今、外出中だし……」

 問いかけに対し、困惑しながら首を振る。

 どうやら二人以外の刀使も突然の事態に困惑の色を隠すことができず、場内なザワついている。こんなことは、数ヶ月前の関東で起こったショッピングモールでの大量殺人事件以来である。

事情がわからぬままに整然と並ぶ刀使の間をカツ、カツ、とヒールの鋭く床を踏む音が聞こえた。

 足音は壇上の方まで行くと止まった。

と、突然……

 「――黙れッ」

 一種異様ともいえる雰囲気の中、その喧騒を割って拡声器から厳しい女性の声が響いた。まるで水を打つように静まり返る室内。刀使たちの視線は最前方の壇上に佇む女性に向けられた。

 

 「私は鎌府の学長、高津雪那だ。今はワケあってここに居る。……貴様らに今回説明をする〝近衛隊〟についてだが――」

 得意げに喋り出した雪那は、自らの傲慢な言動と大仰な仕草で、酩酊しているようだった。……しかし、心なしか窶れているようにも見えた。だが、彼女は言葉を続ける。

 

 「貴様ら、綾小路の刀使は選ばれたのだ――」

次第に興奮から頬を紅潮させて演説する。無論、綾小路の刀使たちはうまく状況を飲み込めずにいる。そんな中、更なる混乱要素の注入によって、より一層不安が高まっていた。

 

 ひどく人を見下した口ぶりで壇上から雪那は喋り続けた。

 

 (この人はなにを言ってるんだろう――?)

 歩は思わず、拳に力が入った。

 

 確かにこの人は20年前の大厄災の英雄の一人なのかもしれない……でも、わたしだって、修羅場は潜った。だからこんなに見下される謂れはない筈だ……と、憤りを覚えた。

 

 「美弥、なにかおかしいよ……これ」小声で耳打ちをする。

 

 「うん……わたしもそう思う」

 頷きながら、眉を顰める。

 

 しかし一層キンキンと鼓膜に鳴り響くヒステリックな声音に刀使たちは、辟易とした。

 

 「――最後にこれだけは伝えておく。あくまで今回は〝志願制〟だ。志の低い者に近衛隊なぞ務まる筈もないからな。……まぁ、実力があればこちらから引き抜くつもりだったが……小粒がいいトコロのようね。……貴様たちには二つの選択肢がある。一つは弱いまま刀使を続けるのか。もう一つは、〝力〟を手に入れ、栄光を手にするのか。よく考えなさい」

 

 そう言い終わると、颯爽と壇上から立ち去った。

 

 

 (――力って、どういうこと?)

 雪那の、最後に放った一言に歩は酷く心を乱された。

 

 ショッピングモールの事件で荒魂に襲われ無力だった自分。――そんなわたしのせいで多くの仲間を危険に晒した。危うく皆殺しになる所だった。もっと、もっともっと、力が欲しいと思った。才能とかそんなのどうでもいい。ただ強い力が欲しい――例えば……うん、そう。百鬼丸さんみたいな……でも、あんなのは刀使の強さじゃない。人間とは思えない強さだった。……刀使の強さというなら……やっぱり衛藤さんだと思う。

 

 美濃関の衛藤可奈美。

 現役はおろか、過去を遡っても類例をみない程に強い刀使――

 

 (もし、高津学長の言うとおり力が貰えるならわたしも衛藤さんみたいになれるのかな? そしたら、衛藤さんにも……ううん、もしかしたら、百鬼丸さんにだって認めて貰えるかもしれない)

 

 歩は、その甘美な誘惑に頭が朦朧とし始めていた。

 

 「――ねぇ、歩。聴いてる? もうみんな帰ってるよ? わたしたちも教室に帰ろうよ」

 美弥が袖を引っ張って動くように促す。出入り口は賑やかにゾロゾロと退出している。

 

 ハッ、と意識を取り戻した歩は「う、うん。ゴメンね」と微笑しながら運動靴を半歩浮かせた。

 

 (………衛藤さんに百鬼丸さん、か。今なにしてるんだろう?)

 ふと、木枠の蒼穹に目を凝らす。同じ空の元に居るであろう彼らに対して憧憬の念をつよめた。

 

 「わたしももっと強くならなきゃ……」

 そう言い残して、内里歩は小走りに修練場を去った。

 

 もう、臆病で弱くて置いていかれたくない、そう決心する。

 

 

 ◇

 「――ねぇ、清香。これって犯罪じゃない?」

 頬に冷や汗を浮かべ、安桜美炎は友に諫言する。

 

 ふたりは電柱や店先の看板などに身を隠しながら、人ごみに紛れる百鬼丸と燕結芽の後を追跡していた。……いわゆるストーキングである。

 

 事も無げにストーキングをしている清香は背後を振り返って、

 「…………ほのちゃんはどっちの味方なんですか? あの燕さんの味方なんですか?」

 瞳の光がない眼差しで尋ねた。

 

 「えっ、いや……そうじゃないけど。なんだか今日の清香すごく怖いよ……」

 肌が粟立つ。ゾワッ、と背筋に悪寒がはしった。――先程までの楽しかった休日はこの瞬間をもって強制終了した、と美炎は悟った。

 

 「コワイ? ふふっ……そんなことより、今はもっと重要なことがあるんです」

 六角清香は明らかに暴走している。しかも時間の経過と共により悪化していた。

 

 (あ~わかった。これはちーねぇとは違うタイプで怒らせちゃいけない人だ)

 美炎は半ば恐怖しながら、無言で何度も頷く。ヘタに刺激してもいいことはない。

 

 友人の意外な一面に畏怖を覚えた美炎を他所に、店先の看板に身を屈めながら遠くに目を細める。

 「あそこは……」清香が前方に注意を向けて呟く。

 

 最近流行りの「苺大福猫」というマスコットキャラクターグッズの専門店であった。ゴテゴテとした装飾の外観に一見して、ファンシーな印象を与えた。

 「百鬼丸さんが自分からあんなトコロにいく筈がない……」

 ギリッ、と清香が歯噛みする。

 明らかに苛立ちの様子で、睨んでいた。

 

 「――こんなことしてる場合じゃない」

 ぼそっ、と呟くと清香はそのまま隠れるのを止めて立ち上がり、足早に二人の消えた専門店へと後を追った。

 

 (ふぇええええ、今日の清香は本当におかしいよー)

 美炎は両手に持ったクレープの甘い香りを感じながら、泣きたくなった。

 

 ――でも、このまま置いていくとマズいことが起きる気がする。

 

 と、内心で思った。そう決意すると、

 

 「待ってよーー」

 動き出す。今の普通じゃない親友を見過ごせない。――そう思うと、美炎は小走りに駆け出した。

 

 絶え間ない人波を縫うように、美炎は体を縦に横に忙しく変えながら、清香の背中に続いた。……不思議であるが、清香は全く誰とも接触することなく、自由自在に体を効率よく角度を変えて目的地まで一直線だった。

 

 こんな下らないトコロで彼女の剣士としての実力の片鱗を拝んだ美炎は、複雑な気分だった。普段のオドオドした彼女らしくもない、現在の淡々とした言動には呆気にとられるより他ない。というよりコワイ。

 

 

 しかし、人が多すぎる。少しでも気を抜けばたちまち目前から友が消えそうな程に人が溢れ、何度も転びそうになった。

 

 「ねぇ、待ってって……きゃっ!?」

 

 美炎は両手が使えず、路端の石に躓き盛大に転んだ。

 

 普段であれば、簡単な体重移動によって体勢を立て直すこともできるが、手がふさがっており、このまま地面にぶつかる……筈だった。

 

 

 ――目を瞑った美炎は、誰かに全身を抱き支えられる感覚に、目を思い切り見開いた。

 

 『おっと、大丈夫ですか?』

 男性の優しそうな声音である。

 

 「へっ……」

 

 珈琲の香ばしい香りに思わず頭を上げると、眉目秀麗な男の顔が眼前に現れた。

 その男は、やや縮毛気味の毛先の黒髪に、野心家的な目の鋭さを持っている。全身黒で統一された服装。

 

 美炎は思わず、彼の優れた容姿に目を奪われていた。――が。

 

 手元の「ぐしゃり」という、不愉快な感触に目線を落とすと、相手のフロックコートに食べかけのクレープが二つとも潰れていた。

 

 「あっ、ご、ごめんなさいっ!!」

 慌てて相手の腕から離れて、謝罪した。いかにも高級そうな外套はクレープの汚れが目立っている。

 

 (あ~っ、もう、わたしのドジ! またやっちゃった……)

 普段から調査隊の面々からも「そそっかしい」だの「ツメが甘い」だのと好き放題に言われているのだが、普段は意に介すこともなかった。

 

 だが、今回はマズい。

 クリーニングで済めばいい、しかし最悪は弁償も……。

 

 不安げな眼差しで美炎は男をみる。

 

 「お怪我はありませんでしたか?」

 しかし、予想外にも男は穏やかな口調で柔和な微笑みを浮かべながら尋ねた。

 

 「は、はいっ! あの、それよりその洋服を汚しちゃってごめんなさい!」

 

 「ん? ああ、コレですか。いいえ、別に構いませんよ。それより貴方に怪我がないことが分かって安心しました。ここは人通りも多いですから、気をつけて下さい。それに、こちらも貴女のクレープを台無しにしたのですから、奢らせて下さい」

 

 「へっ、ぜ、全然そんなことないです! わたしの方が本当は弁償しないといけないのに……」

 

 男はワザとらしく首を傾げて、

 「なぜですか? 貴女のように〝可愛らしい〟お嬢さんにぶつかってしまったのですから……」

 

 美炎は、男の放った「可愛らしい」という部分に耳ざとく反応した。

 

 (えっ、今この人わたしのこと可愛らしいっていった? ちょ、ちょっと待って――今絶対にいったよね?)

 

 生まれて以来、美炎を評する言葉は「男らしい」「がさつ」のいずれかであった。まさか女の子らしい言葉で形容されることに慣れていないのである。

 

 「可愛らしいって、そんな……やっぱりわたしって可愛いですか?」

 

 「えっ? ……ああ、ええ。そうですね……」

 若干引き気味で男は頷く。

 

 (そっか~、わたしも女の子らしいって意味だよね!)

 男から背を向けてニヤニヤしながら、ゴホン、と咳払いをする。それから踵を返して、

 「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

 

 男は目をパチクリとさせて、驚いた。

 「――ええ。オレの……私の名前はジャグラー。ジャグラス・ジャグラスと申します」

 慇懃な態度と言葉遣いで告げる。

 



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83話

 首都高速を走行する一台の、白い高級車があった。目的地は無論、自衛隊の市ヶ谷駐屯地である。秋の空には高く日が昇っていた。晴天である。

 走行していることさえ感じさせない静かな車内で十条姫和は幾分戸惑いの表情をつくった。

 ちらり、と隣りに座る衛藤可奈美を一瞥した。その可奈美が不意に口を開く。

 「……あの、防衛省で護衛って一体なにがあるんですか?」

 戸惑いがちな口調で可奈美はいう。

 彼女の疑問は正しい。……なぜならば、日本の中でも有数の「安全地帯」といえる自衛隊の駐屯地である。――そこに一体なぜ、折神朱音を護衛する必要があるのだろうか?

 膝の上で手を軽く包んだ朱音は目線を下に落としながらいう。

 「これから、ある重要な人物と面会することになっています」

 

 「面会?」姫和は問たわしげに呟く。

 

 「そうです、面会――正直なところ何が起こっても不思議ではない。だから、あなたたちに同行をお願いしたいのです」

 意外にも素直に本音を吐露する朱音に、二人の疑問が深まった。

 

 「私たちでお役に立てるんですか?」

 そもそも、自衛隊の中枢まで来ても護衛をつけなければならない。それで刀使二人が戦力に加わっても意味があるのだろうか? 可奈美は、その疑念を一言で言い表した。

 

 「……貴女たちでなければダメなんです」

 断固とした声で、そう告げる朱音。

 

 「私たちでなければ……」

 そこで、姫和はハッ、と息を呑む。

 (そういうことか……小烏丸)

 脇に置いた御刀へと意識を向ける。黒瑪瑙塗りの鞘が、車窓から射す日差しを反射していた。間違いない。相手はこの「千鳥」と「小烏丸」に関係するものだ……と。

 

 

 ◇

 防衛省――と、掲げられたプレートの衛門には厳重な警備が敷かれていた。分厚いゲートの前には幾人もの自動小銃を携えた自衛官が佇んでいる。事前の連絡があった為、軽い検査を終え、車一台分の幅が生まれた間を車両が通行する。

 

 この国の防衛の要というべき市ヶ谷駐屯地は行政上の関係もあり、いく棟もの建築物が肩を並べている。沿道の街路樹に沿いながら、ある場所で車は停った。

 

 「では行きましょうか」

 そう言うと、折神朱音は車から降りた。

 目前には巨大な建築物があり、その玄関ホールの前に二人のフロックコートを着込んだ壮年の男二人が出迎えた。

 可奈美と姫和は未だうまく事情を飲み込めていない侭、朱音の背中を追った。

 男の一人が、

 「お待ちしておりました。ご案内致します」

 と、先導するように前を歩き出す。

 

 

 吹き抜けの広々とした玄関ホールはガラス張りのエレベーターや、その他遮蔽物全てが透明な壁などによって構築されていた。万が一の場合、姿が四方から見えるように設計されているらしい。

 

 ――おかしい

 

 姫和は素直にそう思った。

 

 それに応呼するように、

「すごいピリピリしてるね」

 と可奈美は敏感に周囲の緊張感を感じ取っていた。柱廊に佇む自衛官たちは皆フル装備で何十人も立ち、その手にはやはり自動小銃が携えられていた。……まるで戦場のようである。

 

 視線を前にやると、長船の制服をみつけた。

 「刀使もいるんだ……」

 可奈美は硬い表情で呟いた。

 明らかに、警戒というにはオーバーな気さえした。だが、裏返せばそれだけ「何者かの襲撃」に対し備えているのだという確信が強まった。

 

 「ご苦労様です」

 朱音がそう告げる。……と同時だった。

 

 「あっ、……孝子さん、聡美さん!」

 可奈美は小走りで駆け寄る。そのエレベーター扉の前に長船の見知った顔に声をかけた。

 以前、舞草の里の襲撃を受けて以来――久々の再開と言えた。

 「お久しぶりです」姫和も軽く会釈をした。

 

 「どうしてここに?」

 可奈美の問に、

 「私たちは昨日付でここに配属されたんだ」

 孝子が静かに応える。

 

 傍らにいた聡美は、大きな三つ編みを肩から垂れ下げた髪を揺らして、幾分声を潜めるように「気をつけてね」と付け加えた。

 

 この先に待っているであろう相手を指していることは間違いない。

 

 「「…………。」」

 可奈美と姫和は顔を見合わせながら、この先に一体なにが潜んでいるのか……覚悟をしなければいけない、と瞳を合わせて確かめあった。

 

 

 ◇

 地下何十階もの電子数字を示しながら、エレベーターは降りてゆく。

 やがて、エレベーターの数字が消えてゴンドラががたん、と音を立てて停止した。

 扉が開くと、細長い廊下が続いていた。床面にまで蛍光灯が設置されており、機械的な壁面を眺めながら、隔壁の前で朱音が立ち止まる。

 

 生体確認をしているのだろうか?

 隔壁の近くに設置されたパネルには彼女の瞳の虹彩から、顔認証……あらゆる確認作業の末にようやく隔壁は切れ目を見せて開きだした。

 

 

 「――行きましょうか」

 背後の二人にではなく、独り言のように自らに言い聞かせているようだ。

 

 隔壁の向こう側には、無限にも等しい巨大な白い空間が広がっていた。まるで、あの世を連想させるかのような、虚無的空間が広がっていた。

 この無限にも等しい空間の中央に鎮座しているのは、古代出雲大社を模したような木造の高床式の本殿があった。

 

 建築学的にいうところの「大社造り」である。

 田の字線と、その線上の交点に九本の柱を建てる建築方式である。

 屋根の頂点はクロスするような置き千木に、それを留める鰹木。珍柱が社を貫くように一本あり、蔀戸があった。

 

 まるで天空を貫く、とまで賞賛された古代の社がなぜこんな地下の空間に?

 益々深まる疑念を真っ先に払拭したのは《千鳥》と《小烏丸》だった。……甲高い金属の共鳴音が御刀が収まる鞘の内部から響いた。

 

 「「――ッ、」」

 二人は咄嗟に御刀の柄に手をかけて、構えをとる。

 以前にも同様の共鳴はあった。……それは、隠世と現し世が接触した四か月前のタギツヒメが活動し始めて以来のことである。

 

 しかし、

 「ふたりとも、構えを解いて下さい」

 静かな語調で咎める。

 

 「拝顔を賜り、光栄です。――タギツヒメ」

 

 「えっ?」

 

 「なっ!?」

 

 可奈美も姫和も朱音の放った単語に衝撃を受けた。

 

 しかし、少女たちの動揺を裏腹に蔀の奥からは女性の声がした。

 「その名前の者は別にいる」

 

 「ではなんとお呼びしたら?」

 

 「タキリヒメと呼ぶことをさし許す」

 

 「……承知しました。私は――」

 

 「折神朱音、そして衛藤可奈美、十条姫和」

 

 出鼻をくじかれた、と朱音は内心で臍をかむ。しかしそれを表には出さずあくまで淡々と会話を続ける。

 「タキリヒメ。率直にお伺いします。貴女は私たちに仇なす者でしょうか?」

 

 「質問は許さぬ。イチキシマヒメを我に差し出せ。お前たちの手にあることはわかっている。人の真の敵はタギツヒメ。そしてイチキシマヒメの理想に人は耐えられぬ」

 

 「だから貴女に従え、と?」

 

 「我はタキリヒメ。霧の中を彷徨う者を導く。人たちの求める最良の価値を見出そう。タギツヒメは力を得ている。時間は限られている。隠世から召喚されし、禍々しい力――」

 

 「異世界の来訪者たち、ですか」

 

 「貴様たち人間には選択の余地などない。我に従うのみだ」

 

 まるで会話にならない。否、そもそも対等の存在だと思ってすらいないのだ。

 

 「最早一刻の猶予などないのだぞ――それを憶えておけ。人よ。騒乱のときは近い」

 

 

 

 ◇

 「ねぇ、百鬼丸おにーさんっ」

 

 「うーむ?」

 店先で腕組みをしていた百鬼丸が片眉を上げる。

 「このストラップ可愛いでしょ?」

 ふんわり、長い撫子色の髪を翻しながら、手に持ったストラップを見せびらかす。猫と苺大福を合体させたマスコットキャラクターの鈴ストラップが左右に小さく揺れる。

 

 「ううむ? 美味しそう、かな?」

 束ねた後ろ髪をボリボリ掻きながら、珍妙な顔をして答える。

 

 「むぅ~~~~っ」ぷっくりと、白い柔らかな頬を膨らませて眉間に可愛らしい皺を作る。どうやら、返答内容を間違えたらしい。

 

 「すまん、訂正する。焼いたらもっとうまそうだな」

 爽やかな笑顔で親指をグッと立てる。百鬼丸からすればパーフェクトな回答内容だったらしく、鼻を膨らませていた。

 

 その態度にカチン、ときたのだろう。燕結芽はつかつかと靴を鳴らして百鬼丸に近づき、思い切り拳を固め胸板を殴った。

 

 「ばか! 美味しそうじゃなくて可愛いもん!」

 

 「あはは、そうかそうか。可愛いんだったな。うむ、覚えた。うむ」

 痛痒すら感ぜぬ風の百鬼丸は、ポカポカと殴りつける結芽の手首を優しく片手で受け止めて、反対の手で頭を撫でる。

 

 「~~~~っ、ばかぁ」

 気持ちよさそうに目を細め、毒気を抜かれた結芽は口を尖らせて罵倒する。しかし言葉の強さとは反対に心地よさに満ちた声音だった。

 

 「百鬼丸おにーさん。店の奥も見てきていい?」

 

 「ああ、いいぞ」

 結芽の手首を開放してやり、百鬼丸は微笑みかける。

 

 「ありがと、百鬼丸おにーさん。大好き♪」

 小悪魔的な薄笑いを浮かべながら、結芽は踵を返して店の中へと消えていった。ロリコンでなくとも、今の表情には蠱惑的なものが漂っており、同性異性関係なく惹かれていただろう。

 

 ――この百鬼丸(馬鹿)でなければ。

 

 「いやはや、楽しそうだなぁ」

 のどかな言い方で、百鬼丸は肩をすくめる。人並みの幸せをこれから取り戻せる少女への純粋な気持ちだった。

 

 …………と。

 

 後方から忍び寄る足音。

 

 『百鬼丸さん、ですよね?』

 

 聞き覚えのある声が背後からした。

 

 「ううむ? そうだが――」

 

 「よかった。本当に〝偶然〟ですね。こんなところで出会うなんて……」

 

 振り返ると、平城学館の緑の制服を身にまとった小柄な少女がいた。

 

 「おお、清香か!? 久しぶりだな。本当に偶然な……」

 

 「〝そんなこと〟よりですね、どうして元親衛隊の燕さんと一緒にお買い物をされているんですか?」

 

 突然の再会に喜び話しかけた最中に言葉を中断させられ、詰問された。

 

 「えっ?」

 

 「答えて下さい」

 顔は満面の笑みだが、明らかに作り物の仮面にしか見えない。ニコニコしている下には明らかに怒っている。……普通の人間ならば気が付く。この百鬼丸(馬鹿)でなければ。

 

 「ああ、預かっているんだよ。今日一日。結芽の好きなとこ……」

 

 「結芽? ずいぶん仲がいいんですね。百鬼丸さんは女の子を下の名前で呼ぶんですか?」

 

 「えっ、うむ? たぶん、そうだが――なあ、怒っているのか?」

 

 「怒ってませんよ。さあキチンと答えてください」

 

 「……う、うむ。基本的にはそうだが」

 清香の威圧に気圧されながら、百鬼丸はしどろもどろに話す。

 

 「じゃあ、百鬼丸さんは燕さんをどう思っているんですか?」

 

 「ど、どうって……そりゃあ刀使だよ」

 

 「ん? 意味が判らないですね。私は燕さんが異性としてスキなのかどうか聞いたつもりだったんですよ?」

 更にニコニコと笑顔が強まる。

 

 思わず、百鬼丸は、

 (ヒエッ、なんだ……今日の清香はコワイぞ)

 頬から冷や汗を流した。

 

 「よ、よくわからんのだ……なあ清香。もう許してくれんか? おれはただ、今日一日をあいつの好きなように過ごさせてやるつもりで付き添っているだけなんだ」

 困ったように眉根を潜めて、懇願する。

 

 きゅん、と思わず百鬼丸の困ったハの字眉に胸の奥が締め付けられた。

 

 (……っ、そんな表情、反則ですっ)

 薄い胸の前で両手を握り締める。

 

 これも、惚れた弱みだろうか。これ以上、こんな困った表情をさせたくないという気持ちともっと彼を困らせたいという二律背反を抱えながら、清香は自らの怒りが沈静化していくのが分かった。

 

 「……………はぁ~っ、分かりました。私も言いすぎました」

 そっぽを向きながら、清香がボソリと呟く。

 

 その様子をみて難を逃れた百鬼丸はホッ、と軽く安堵する。

 「そいつはよかった……ああ、そうだ!」

 突然大声で叫んだ百鬼丸に、少女はビクンと肩を震わせて驚く。

 「どっ、どうしたんですか?」

 「この前、清香が言ってただろ? おれの腕が云々って……」

 

 

 四か月前、ショッピングモールでの虐殺事件の際、百鬼丸の義手ではなく、彼の直接の温もりを感じられる手を握りたいといった覚えがある。

 「……はい、言いましたけど」

 

 「うん、おれの右腕が戻ったんだよ。ほら――」

 差し出された腕はゴツゴツと骨ばって男らしく、皮膚も日に焼けていた。節くれだった指に分厚い掌の皮。……清香は無意識に、その細い指で百鬼丸の生の腕を触っていた。

 

 「あったかいんですね、百鬼丸さん」

 

 「ああ、そうだろ。おれの取り戻した肉体だからな」

 

 あはは、と愛想笑いを浮かべながら清香は続ける。

 「そういう意味でいったんじゃないですけど……でも、よかったです。百鬼丸さんの腕が戻って」

 

 「うむ、だろう」

 

 清香は彼の皮脂から放たれる体臭を嗅ぎながら、右手を自然と自らの頬へ持ってゆき、そのまま頬で彼の掌の熱を感じた。

 

 「このまま、少しいいですか?」

 

 「う、うむ? うむ、いいぞ」怪訝に眉を曲げながらも、頷いた。

 

 剣を握り、巨大な相手と日々を戦い抜いた男の手。この手でどれほど多くの刀使を――少女を救ったのだろうか?

 もしかすると、自分のように彼に惹かれる少女が大勢いたっておかしくない。……たぶん、あの燕さんだって……

 

 清香はしばらく逡巡に耽った。

 

 

 ◇

『ねぇ、百鬼丸おにーさんっ、このアクセサリーとシール可愛いかな?』

 

 店の奥から大量の苺猫大福のグッズを抱えた結芽が声を弾ませながら、百鬼丸の元まで戻ってきた。

 

 

 「――なっ!?」

 結芽は思わず、目前の光景に大量のグッズを床に落とした。

 

 以前、鎌府の実験棟で出会った調査隊のひとり――優れた剣術の使い手、六角清香。彼女は今、百鬼丸の手を握り締めて自らの頬に当てている。

 

 燕結芽はこの瞬間、彼女が抱いている「特別」な感情を悟った。

 

 「清香ちゃん、だよね? 〝私の〟百鬼丸おにーさんになにしてるのかな?」

 



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84話

 「ねぇ、どーして清香ちゃんが一緒にいるのかな?」

 剣呑な眼差しで問い詰める結芽。……自然と、柄にまで手が降りていた。通常の五箇伝所属の刀使ならば無闇矢鱈な御刀の抜刀は禁止されている。しかし親衛隊などに限っていえば例外だった――少なくとも、これまでは。

 折神家というバックがあればこそ、治外法権的なやり方も通用したが現在は事情が大幅に異なる。

 世間からの刀使の風当たりは強く、またさらに五箇伝への規制や監視などを求める声も大きい。

 しかし燕結芽はそんな世間の動向など一切頓着せず、《ニッカリ青江》に触れようとした。

 

 「――ちょうど、私も燕さんとお話したいと思ってました」

 にこっ、と微笑みながら清香も同様に御刀へと触れようとした。尤も、相対する彼女の行動雨原理は至極単純であり、親愛の情を抱く相手との時間を邪魔されたことのみに起因する。

 

 ファンシーなキャラクターグッズが周りを囲む状況で、少女とはいえ一流の剣士同士の牽制が辺りから異様な雰囲気を醸し出していた。当然、この周囲にお客はおろか店員ですら恐れ慄き近寄ろうとしない。

 

 ただひとり、百鬼丸のみが悠然と首を左右に振り、ふたりの様子を伺っていた。

 

 無論、ここで抜刀して斬り合いなぞ演じた日には、重い処罰も免れない。それは、百鬼丸も承知している。

 

 「ふ~む」と、いささか間の抜けた声で顎を撫で付けて片眉を上げる。

 原因が恐らく己にあることは、ふたりの言動から察せられる。とすれば、自分にできることはこの微妙な距離感で生まれる緊張をどこかへ逸らすだけだ。

 

 結芽はくふっ、と三日月に曲げた唇から、

 「ちょうど良かった。あのとき、清香ちゃんの実力が全然見えなかったけど、今なら本気でやってくれそうだから期待しちゃうかも」

 おちょくるように挑発した。

 

 心底醒め切った目で結芽をみやりながら、

 「……そうですか。では、いつでもどうぞ」冷静な口調で、しかしそれ以上に無機質に応じる。

 重苦しい沈黙。

 店内では相変わらず有線のBGMが流れているが、そのキャピキャピした音楽とは対照的に、両者の威圧は高まる。

 

 

 『ヴぁうっくしょん!!』

 と、一拍の間を置いてくしゃみが店内に反響した。

 

 緊張と集中を最高位までもっていったふたりの少女剣士は唐突な音に思わず、肩をビクッ、と跳ね上げて反応してしまった。――その反応を目敏く捉え、口端を曲げる百鬼丸。

 

 ブッ、とそれに続いて臭音が漏れる。

 

 「ああ、すまんスマン。おれの屁の音だった。うーむ、臭いなぁ。あははは!!」

 盛大に笑い、近くにいた清香の肩に腕を回す。

 

 「えっ!? ちょっ……」

 思わぬ方向から不意を衝かれ、すっかり毒気を抜かれた清香。

 

 一方、結芽も同様に目を丸くパチクりと瞬いて予想外の出来事に呆気にとられていた。

 

 いちど断ち切られた集中というのは、回復するまでに相当な時間が必要となる。それも、剣士の本気の集中ともなれば尚更である。しかも、屁とくしゃみでは、馬鹿らしくて争う気力すら削がれて力が入らない。

 

 「ふっ、ふふふふ」

 思わず、清香は忍び笑いを漏らして背中を丸める。

 

 「っっっ、も~~~~!! 百鬼丸おにーさん!! 不潔っ」

 結芽は反対に、本気の闘いを望んでいたようで、百鬼丸が水を差すような行為に怒りを顕にした。

 

 「あははは、すまん。本当にスマンな。悪かった! このとおりだ!」

 両手を合わせて、拝むように謝罪する。

 

 「もうっ、最悪!!」

 唇を尖らせながら、結芽は柄から手を離していた。

 

 「いや、本当にゴメンな」

 困ったような微笑を浮かべる百鬼丸。

 

 ふたりとも、思わず、

 (なんで、こんな人のために争うことになったんだろう……?)

 と、心底不思議に思った。

 

 

 ◇

 流石に、あのまま店内に居座るのも悪いとおもいそそくさと外に出た百鬼丸。

 清香もその後を追うように出てきた。結芽はまだ奥でなにかをしているようだった。

 

 「それで、どうしたんだ?」

 

 「えっ……あの、本当に偶然百鬼丸さんを見つけて……後を追ってきました。ゴメンなさい!」

 お辞儀の見本のように、頭を下げた。

 

 「ああ、なんだ。そんなことか。それだったら清香にも連絡とかしておけばよかったかな。うん? そもそも、連絡先なんて知らんが……まあいいか」

 

 じーっ、と渋面をつくりながら百鬼丸を睨む。

 

 「ど、どうした?」

 

 「いえ。別に。百鬼丸さんはやっぱり百鬼丸さんだって、再認識したところです」

 

 「おれは一分一秒だって変わりはしないぞ――多分」

 

 「私の知らない部分もあると思いますけど、でも……ううん、それでも百鬼丸さんです」

 

 「そうか」

 

 「はい」

 懐かしい気分になる。あの時……荒魂に襲われ、仲間の刀使が負傷した最悪の状況で突然現れた彼は、旋風のようにすぐに姿を消す。捉えようとしても、恐らく無理だろう。

 

 「ん? 休暇ってことは今日は暇なんだよな?」

 

 「えっ? はい……」

 

 「だったら、一緒にこれからどこかに行くか?」

 百鬼丸は善意百パーセントで提案する。本当に悪気のない顔と態度だった。

 

 思わず清香はズッコケそうになった。

 (それだと、燕さんが……)

 と、喉元まで出掛かった言葉を危うくのところで飲み込んだ。先程まで斬り合いをしようとしていた相手だったが、百鬼丸の空気の読めない発言により途端に可哀想になった。

 

 ――きっと燕さんは今日のために色々と楽しみにしてきたんだろう。それは分かる。だからこそ、第三者が……まして同じ感情を抱いた人間がいるべきではない。

 

 清香は短い逡巡から覚めて、首を小さく左右に振る。

 

 「いいえ。あの、私今日はほのちゃんと……美炎ちゃんと遊びにきているので」

 

 「ああ、そうか。それは残念だ」

 

 「あっ、で、でも!」

 

 「うむ?」

 

 「もし、今度時間があったら、……今度は私と二人っきりでどこかお出かけとかしてもらっても大丈夫です……か?」

 上目遣いで、若干涙ぐみながらいった。

 

 だが間抜けそのものだった顔の百鬼丸は一変する。ゆっくりと口角を釣り上げて、

 「モロチン……じゃない、もちろんだ! どこでもいいぞ!」

 親指をグッ、と立てる。

 

 「よ、よかった~」

 ほっ、と胸を撫で下ろすように安堵する清香。

 そして、つまらない下ネタを無視、というより聞き流して百鬼丸の肩越しから現れる、店から出てきた燕結芽を発見し、急ぎ足を引く。

 

 「――じ、じゃあ、私はこの辺で。燕さんに、今日は邪魔しちゃってゴメンなさいって伝えておいて下さい! そ、それじゃあ――」

 と、慌てて六角清香は走り出す。

 途中振り返り、

 「また、こんど」

 というように口を動かして少しだけ寂しそうな笑顔を残していった。

 

 

 「あ……」

 ぽかーん、と後に残された百鬼丸は小さく手を挙げて困惑した。

 何か急用でもあったのだろうか? うんこか? よく判らない。

 首を傾げていると、百鬼丸の肩をトントン、と小さく叩く感覚がした。目線を落として振り返ると、結芽が買い物袋を両手にもって立っていた。

 

 「あれ? 清香ちゃんは?」

 

 「うむ? さっき走ってどこかに行った。なんでも、急用があるらしい。それと……」

 

 「それと?」

 

 「〝今日は邪魔しちゃってゴメンなさい〟だってさ」

 

 

 その言葉を聞いた結芽はどこかバツが悪そうに「そっか――」と呟き俯いた。暗い前髪の陰から、

 「ねぇ、百鬼丸おにーさん」と、呼びかける。

 

 「はいはい、なんでしょうか?」

 

 「もしかしたら、また清香ちゃんに会えるかな?」

 

 「うむ? 大丈夫だろう」

 

 「私も今日は……悪いことしたと……思うから……」

 苦々しい口調で言葉を区切りながら、靴のつま先同士を軽くぶつける。素直に謝ることができなく、それに従って罪悪感に駆り立てられているようにもみえた。

 

 ふっ、と百鬼丸は結芽という少女の成長を嬉しく思った。以前の彼女は、文字通り死に物狂いで闘い、その命を散らす瞬間まで他人に頓着できる状況ではなかったのだ……

 その彼女が、ようやく他者に対して歩み寄ろうとしている。嬉しくない訳がない。

 「そっか、そっか! うむ、えらい! 結芽はえらいぞ!」

 百鬼丸は嬉しそうに破顔しながら、グシャグシャ、と結芽の柔らかな桜の花弁にも似た撫子色の髪を撫でる。

 

 「うぅ~、もう子供扱いしないでよ」

 弱々しい力で反抗するも、気持ちよさそうに目を細めている少女は、このなんとも言えない心地よさがあと少しだけ続けばいいな、と願った。

 

 しかし彼女の意思に反して百鬼丸はヒョイ、と手を引っ込めてしまった。

 

 「あっ……」

 物足りなそうな、切ない表情を浮かべて百鬼丸の腕を目で追った。

 

 「うん? どうした?」

 

 「えっ、う、ううん。全然なんにもないけど!? それより百鬼丸おにーさん」

 

 「はいはい?」

 

 「じゃーん、これなんだと思う?」

 結芽が得意げに手に握り締めた紙切れを百鬼丸に差し出した。

 

 「どれ? 拝見っと……」

 結芽から差し出された紙切れを受け取り眺めると、『遊園地へご招待。二名様』と記されていた。

 

 「これは?」

 「さっき、抽選で当たったんだ~」

 自慢げに慎ましやかな胸を張って言った。

 

 「へぇー、そりゃあ凄いなあ」

 

 「えっへへ~、そうでしょ~」

 

 「うむ!」

 

 「今から行こうよ、遊園地」

 

 「おファッ!?」

 百鬼丸は素っ頓狂な叫びを上げた。

 

 「まさか今から本当にいくんですよね」

 

 「うん♪」

 

 「oh……」

 

 

 ◇

 関東一円には、遊園地を含めたテーマパークは各地に点在している。その中でも、特に集客力が桁違いな世界的キャラクターのテーマパークは、今回の話とは全くもって無縁である。

 神奈川の沿岸部に最近オープンしたばかりの遊園地は、立地や交通も相まってわずか二年目でも莫大な利益を得ているという。

 

 ジェットコースターや、観覧車などの花形アトラクションをメインに、中央の莫大な大きさの広場では四季に応じた催し物をしている。

 今回は『苺大福猫』を含めたキャラクターとのコラボを開催し、更に「鏡の迷宮」という巨大な迷路がある。

 四方八方を鏡に囲まれながら、自力でゴールまでゆく迷路アトラクションである。

 規模が規模だけに、子供はもちろん大人でも楽しめる構造となっていた。

 

 …………無論、現在の百鬼丸には無関係である。

 

 「なんだ……なんなんだ……」

 グロッキーになりながら、百鬼丸はベンチに腰掛けて項垂れる。

 

 電車を乗り継ぎ一時間弱。

 駅と直通のメインゲートをくぐると、結芽はすぐさま百鬼丸の腕を引っ張って、ジェットコースターへと赴いた。

 

 最初こそ「ふっ、俺様に怖いものなんてねーぜ」というクサいセリフを吐きながら、余裕を見せていた百鬼丸だったが、列に並ぶ辺りから次第に顔が青くなっていった。終いには、「やっぱりやめない?」と、情けない態度で、隣りのウキウキとはしゃぐ結芽に懇願した。――しかし、結芽は「えぇ~、百鬼丸おにーさんはジェットコースター怖いの?」と疑わしそうに目を細めた。

 

 百鬼丸はその言葉に対抗心を燃やして、

 「いいや、全然怖くない。むしろ何回でも来いだ!」

 と、余計な一言を零した。

 

 

 ◇

 「ヴェ……うっぷ……気持ち悪い……」

 口元を押さえながら、百鬼丸は吐き気を堪えていた。

 余裕をブッこいた。その結果がこのザマである。

 クラクラと、まるで二日酔いに似た感覚に陥りながら、ベンチでひたすら吐き気と格闘していた。

 結芽とは一旦別行動をとることにした。

 『おれは疲れたから、好きなとこで遊んでおいで。疲れたら、メインゲート近くのベンチに集合だぞ』と言い残して百鬼丸はトイレへとダッシュした。

 

 ……余談だが、犬の着ぐるみをきたおっさんにゲロをぶっかけて平謝りをしたことは、誰にも言えない秘密である。

 

 リン、リン、と手に持った鈴の涼やかな音色が鳴る。

 電車移動中、結芽が『お揃いだよ』と念押しして手渡された苺大福猫のストラップである。招き猫に似ていなくもない――。本当にこのシリーズのキャラクターがお気に入りなんだなぁ、と年相応な少女の趣味に微笑ましく思う。

 

 だが一方で現実はといえば、

 

 あぁ……来るんじゃなかった……情けない……。

 

 現実は非情だった。半ば自暴自棄になりながら、膝の間に頭を埋める。

 遊園地とはゲロを吐きにくるところなのだろうか? と半ば自問してしまう。

 

 『お隣、いいかな?』

 男性の低い落ち着いた声がした。

 

 青い顔を持ち上げ、「えぇ……」と力なく頷いた。

 

 「おいおい、随分と顔色が悪いじゃないか……買ったばかりだから、ほら。水でも飲みなさい」

 男性からペットボトルが手渡された。

 

 「あ、スイマセン」

 頭を下げながら、水を一口含む。冷たい潤いが喉を流れてゆく。

 

 「いやいや、全く。はしゃぎすぎだぞ。ハメを外すのもいいが、ほどほどにしないといけないぞ」男性は、苦笑いしながら窘めた。

 

 「あっ、はい――そうですね」

 百鬼丸は色々思うところがあったが、それを飲み込んで肯いた。

 

 ベンチの隣りに腰掛けた男性は、黒革の鞄から本を二冊取り出して、読書しようとしていた。 

 

 それを横目で窺いながら、

 「あの、改めて水ありがとうございます。お名前を聞いてもいいですか?」

 気分が回復して、呼吸を深くついた。

 

 「ん? 私のかい?」

 

 「はい」

 

 困ったように、首を斜めに傾げ、それから無言で柔和な笑みを零す。

 「私は轆轤秀光だよ」

 

 

 ◇

 百鬼丸と別れてすぐ、原宿の雑踏に紛れながら、清香は重要なことに気がついた。

 

 「あれ? ほのちゃんどこに行ったんだっけ?」

 気まずい冷や汗が頬を滑る。

 



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85話

 「あの、高津学長――」

 内里歩は不安げな顔つきで、廊下をゆく高津雪那に声をかけた。あの修練場での演説から二日。時間が経過するごとに強まる「強さ」への憧憬。もしかしたら、その鍵が見つかるかもしれない。そう思い、親友には内緒で雪那に接触を図った。

 

 「あら? 貴女は――」

 意外にも物腰の柔らかな反応で、歩に返事をした。

 

 昼下がり。等間隔に配置された窓から薄い陽の光が斜めに射し込む。

 

 「わ、わたし一年の内里歩っていいます。前に、近衛隊について……説明があって……その、わたしでも強くなれるのかなって思って……それで、お話を……」

 緊張して途切れとぎれになりながらも、なんとか自分の気持ちを伝えることができた。

 

 険しそうだった雪那の表情は、一転して〝嘘〟みたいに微笑を湛え始めていた。

 「なるほど、貴女も刀使として――強くありたいと、そう願うのね?」

 

 「はい……」

 

 「いいでしょう。ここでは、詳しい説明ができないから後で部屋に来なさい。そこで詳しい説明をするわ。ええっと、名前は……内里歩。いいでしょう。覚えたわ。貴女はなかなか見込みがある娘ね」

 ヒールを鳴らして大股で移動し、歩との距離を縮める。ゆっくりと、顔を近づけた。

 毒々しい赤の唇を曲げ、歩の肩に手を置いた。耳元まで唇を寄せ、

 「大丈夫。安心して。きっと貴女も〝強く〟なれるわ……」

 口端を歪に、彼女はそう言った。

 

 

 

 夕暮れ、雪那の言葉に従い内里歩は応接室の一角に置かれたソファーに座っていた。

 対面には執務机がある。歩は膝の上に拳を乗せて、息を詰めるように体中を緊張で強ばらせていた。

 現在、室内にはふたり以外に人はいない。

 (どうしよう……わたし、美弥に何の相談もなくここに来ちゃったけどいいのかな?)

 一番の親友の顔が思い浮かんだが、すぐに頭を振って雑念を追い出した。

 

 すぐ目先にある執務机から、

 「それで、貴女――名前はなんというの?」

 声がきた。

 

 ごくり、と生唾を飲み込み口を開く。

 「わ、わたし内里歩って言います! 中等部一年生です!」

 元気よく返事できた、と彼女は思った。

 

 雪那は椅子に腰掛けながら、思案するように歩の姿を丹念に眺める。

 「――そう、内里歩。なぜ貴女は私に声をかけたのかしら?」

 

 「えっと、それは――」

 突然、話の本質を衝かれて動揺した。いや、質問こそ予想していたものの改めて聞かれると心臓が破裂しそうな位に混乱してしまう。

 

 そんな歩の様子を見てとったのか、雪那は軽く頭を左右に振ってため息をつく。

 「いいえ、ごめんなさい。そう緊張しないで頂戴。大体の予想はついているわ。近衛隊について、でしょう? 貴女が聞きたいことは?」

 鋭く射竦めるような眼差しで雪那は見据える。

 

 「は、はい……」

  縮み上がってしまいそうなほど怖かった。でも、正直察してくれて助かったと安心もしていた。

 

 雪那は椅子の背もたれに身を預けながら、

 「理由を聞かせて頂戴。なぜ貴女は近衛隊に興味を持ったのかしら?」

 率直に訊いた。単純な疑問のようだった。

 

 (言わなきゃ……わたしの思いを)

 震えていた拳を頑張って落ち着け、喋りだす。

 

 「実はわたし、数ヶ月前にあのショッピングモールでの荒魂討伐に参加していたんです」

 

 へぇ、と雪那は興味を持ったようで背もたれから前のめりの姿勢になった。

 

 「……そのとき、わたしのせいで危うく他の刀使も親友も失う所だったんです。実戦がこんなに怖いだなんて思わなくって……」

 

 「それで刀使が厭になったの?」

 

 「い、いえ!! むしろ逆です! わたしはもっと強くならなきゃダメだと思ったんです。あのとき力があれば、きっと多くの人を助けられたのにって思って……」

 気恥ずかしさを誤魔化すように含羞む。

 

 その少女の様子を見ていた雪那の表情が翳った。

 

 「…………そう、貴女もそうなのね。〝力〟が欲しい、そう思ったのね」

 彼女の脳裏には、約二〇年前の相模湾岸大厄災の記憶が甦っていた。あの時、己の無力さと否応なく対面させられた苦い苦い記憶。

 

 もしかしたら、この「力」に対する執着は自己実現とでもいうのだろうか? 雪那はそう思い至って、軽く鼻を鳴らして自嘲してみせる。

 

 沙耶香を最強の刀使として育成しようとしたのも、同じ『御刀』に見込まれたことを抜きにしても、彼女を嘗ての自分に重ねていたとでも?

 

 …………認めたくはないが、そうなのだろう。

 

 現に今、目の前で緊張しながらも戦場での己の無力さを語る少女が嘗て、戦線を離脱した過去の自分のような気さえする。

 

 改めて確かめるように、

 「貴女は〝力〟が欲しいのね?」

 断固とした言い方で聞いた。

 

 雪那の問に、少女は一拍だけ沈黙した。

 

 だが、緊張がうそのように、背筋を伸ばして歩は雪那を見返す。

 

 「はい! わたし、どんなことをしてでも強くなりたいんですっ! それで衛藤さんにも認めて貰いえるように……追いつけない位強い(百鬼丸)にも一目を置いてもらえる存在になりたいんですっ!!」

 明るくどこまでも無邪気な声音で、歩は瞳を輝かせた。

 

 その、底抜けの明るさに雪那は憎愛の混ざった複雑な感情で歩に視線を合わせた。

 「――そう、わかったわ」

 言いながら、雪那は自然とこの少女にも過去の自分の残滓を感じ取っていた。

 

 

 ◇◇◇

 

「轆轤さん、は今日誰かと一緒に来たんですか?」

 「うん、連れと共に来たんだが、生憎〝奴〟には予定があるからね……ははは。全くこんなところで時間つぶしというのは、私には似合わないんだがね」

 苦笑いを漏らしながら、パタン、と本を閉じて百鬼丸に顔を合わせる。

 「君も誰かと来たのかい?」

 「――はい、え~っと、今はどこでなにをしてるか判らないんですが……一緒に来ました」

 小悪魔的な少女は今頃、どこぞを楽しそうに出歩いているだろう。

 「そうか、君も時間つぶしか」

 「ですね……」

 肩を竦めて、首を振る。疲れきった顔で遠くのアトラクション群を眺めた。日常の人々の憩いを百鬼丸は網膜に焼き付けるように見ていた。

 「時間潰しに私と話でもするかい?」秀光は缶コーヒーを鞄から取り出してトップルを押し開く。香ばしい匂いが周囲に漂う。

 「…………大丈夫ですか?」

 「ああ、いいさ」

 「轆轤さんは何を読んでいるんですか?」

 手に持った一冊を目の高さまで持ち上げ怪訝に眉を潜め、

 「コレかい?」

 と、聞いた。

 「はい」

 青色の表紙のシンプルなデザインの本だった。ツルリとした表面には白い文字でタイトルが記されていた。

 「〝ライ麦畑でつかまえて〟サリンジャーだね」

 「じゃあ、こっちは?」

 百鬼丸はベンチに置かれた一冊を指差す。

 「こっちは〝アルジャーノンに花束を〟だ」嬉々とした口調だった。

 「本が好きなんですね」

 それを見透かしたように百鬼丸がいう。

 頬を軽く緩め「あはは」と秀光は笑って頷いた。

 

 「そうだね。今の――こんな仕事をしていなかったら、自由にどこか別荘でゆっくりと読書でもしたいと思っていたんだ……それは嘘じゃない。ただ、大人には責任も立場もある。いつまでも、子供では居られない。だからこうして本を読むことで毎日をごまかしているのかもしれないね」

 コーヒーを一口啜り、長い余韻を味わうようにしばらく黙っていた。彼の横顔が寂しげだった。

 

 その時、ちょうど遠いレールのジェットコースターから『きゃー』という、女性の楽しげな声が中央広場に木霊した。

 

 断続的に聞こえる楽しげな悲鳴を無視して、

 「いいですね。おれはあまり本を読まないから分からないですけど……その二冊はどんな話なんですか?」訊く。

 キョトン、と目を丸くした秀光は固まった。

 「興味があるのかい?」

 「ええ、まあ……」

 百鬼丸は前屈みから背中を真っ直ぐに伸ばして、本を見る。

 「意外だな……君みたいな若い子は本なんて読まないと思っていたが」

 「おれも、どうしてそう思ったのかわかんないんです。ただ気になって」

 百鬼丸の表情を読みながら、秀光はコーヒーに口をつける。

 ――そうか

 と、一言つぶやき無意識に喋り出した。

 

 

 ライ麦畑でつかまえて……、ホールデンという繊細な少年の一人がたり。

 

 アルジャーノンに花束を……知的障害を背負った男が、新薬によって天才となっていく過程と、新薬の効能が失われ次第に知能が退化する話。

 

 

 と、概要だけを伝えればこんな内容だった。

 だが秀光という男は、それだけでは味気ないと思った。

 

 「君は、他人との軋轢を感じる時はあるかい?」

 

 「軋轢? ですか? ……すいません、よく分かりません。おれは――人と違うのが当たり前みたいなもんなんで」

 

 「ははは、そうか。うん……なるほど。だったら聞き方を変えようかな。君は自分が〝孤独〟だと思ったことがあるかい?」

 

 「――まあ、はい」

 

 「そうか。だったら君はこの二冊を手に取っても後悔はしないだろう」

 

 「どういう意味ですか?」

 

 「昔の人が言ったんだ……〝本当の孤独を味わいたいなら、ひとりではなく、街中の雑踏の中に身を置くべきだ〟とね。そうすると、本当の孤独を味わうことができるんだ。孤独っていうのは、相対的なもので――つまり、誰かと比べることで、より一層それを自覚するものらしい」

 

 「なるほど……」

 百鬼丸は己の掌を開いて、じっと眺めた。

 心当たりがある、というよりも彼の人生の大半は他者との交流をいかに避けるかに費やされたと言ってもよい。荒魂退治に奔走していたのも、この化物としての自分を知られたくないから……だけではない。本当の意味での孤独を感じたくないからだった。

 少なくとも、一人での孤独は苦しくはなかった。

 そして、孤独というのは他者がいうほど悪いものでもなかったのだ。ただ「本当の孤独」さえ知らなえれば。

 

 百鬼丸の物思いを横目に秀光は尚説明を加える。

 「ライ麦畑の方の主人公は、周囲を敵だと思って何でも攻撃してしまう思春期の少年でね。彼は本当の〝無垢〟なもの、イノセンスを追い求めていたんだ。……無力でどうしようもなく弱い自分を自覚したくなくて――本当は自分が臆病なのに、それを誤魔化すみたいに悪態をつく少年でね。それは今の私から言わせてもらえば彼は純粋な少年なんだと思うよ。大人になると、色々と鈍感になるからね」

 

 「じゃあ、アルジャーノンの方は?」

 

 「コッチはまた別の意味で純粋な主人公だね。チャーリーという知的障害者を持っていてね。彼があるとき、ネズミのアルジャーノンに投与された知能を上げる薬を投薬してもらって天才になる――そういう筋書きだね。それまで、周囲から馬鹿にされても分からなかった主人公も、知能の上昇と共に人間の悪意や社会の理不尽を知るようになって、やがて天才になった瞬間、それまで自分を馬鹿にしていた人々は、知的障害のときと同じか、それ以上にチャーリーを忌諱するんだ。……やがて、投薬の効果が切れて徐々に知能が低下していく……」

 

 「悲しいお話なんですね」

 

 「結局、人間は誰かを馬鹿にしたり祭り上げるのも同等の行為で、しかも忌諱される対象者は等しく孤独を感じる。ただ、天才になったからと言って幸せな訳じゃない。知らなくてもいいことだって見えてしまう。〝何か〟を持ちすぎるということが果たして幸せなのか? それは私には分からない」

 

 百鬼丸は秀光の話を聞きながら、不意に口をついて喋っていた。

 

 「特別な力って何なんですかね……おれは、少なくとも欲しくはなかった、と思います。同じ年の奴らみたいに遊んだり、勉強したり、家で家族と過ごしたり……多分そういう生活が本当の〝幸せ〟だと思いたいです。今更、心底羨ましいとは思わないですけど、でもおれも一度でいいから体験はしてみたかったですけどね」

 

 ――特別な力

 

 誰も頼んでやしない。誰も、欲しいと言ってない。

 

 だのに、おれには〝特別〟な力が宿っている。

 

 

 秀光は一瞬、心底軽蔑した冷たい眼差しで百鬼丸の横顔をみやりながら、憎悪に口端を曲げる。だが僅かな時間で表情を取り繕い、微笑む。

  

 「でも、君にもあるかもしれない特別な力は誰かが欲しいものかもしれないとしてもかい――?」

 

 「そんなの、そいつにくれてやりたいですけどね……あはは」

 

 「…………そうか」

 

 「――? どうしたんですか?」

 

 「い、いいや。何でもないよ」

 慌てて否定した秀光だったが、溢れ出る憎悪を堪えるように、口元を手で覆い隠す。今にも咬み殺さん勢いを理性で封じ込めた。

 

 

 「おれにも、もしかしたら普通に生きる人生だってあったのかなあ……」

 ボソりと百鬼丸が遠く、ジェットコースターや観覧車などのアトラクションの構築物を眺めながら寂しげに呟いた。

 

 …………と、その時だった。

 

 ドォオオオオオン、という盛大な爆発音がテーマパーク内に反響していた。地鳴りが酷く、地震とすら錯覚された。しかし地鳴りは一瞬にしておさまり、代わってどす黒い煙幕が天へ入道雲のように立ち上った。

 平日ではあるが、疎らにいる人々が一斉にその方向へと意識を向かわせた。

 

 「――っ!?」

 百鬼丸は急いで、その爆発の原因を探した。

 

 現在地のゲート前から一二〇メートル先の中央庭に設置された『鏡の迷宮』と題された季節限定の迷路だった。四方八方を鏡張りにした古典的な設備だ。しかし、このような迷路で爆発というのは理解できない。発火するような装置など一切取り扱っていない筈である。

 

 「どういうことだ?」

 百鬼丸は嫌な予感がして、ベンチから立ち上がった。

 

 「何かが起こったみたいだね……じゃあ、私は失礼するよ」

 冷静な調子で秀光は荷物を仕舞い、立つとベンチから去ろうと歩き出した。あろうことか、彼は『鏡の迷宮』の方向へとゆこうとしていた。

 

 「だ、大丈夫ですか? 今は混乱していて、轆轤さんも連れの人と一緒に逃げた方が……」百鬼丸は、大声で叫んで制止する。

 

 が、秀光は肩越しに振り返って、

 「いいや。大丈夫だよ。私は大丈夫だ――その二冊は、君にプレゼントするよ、また会おうか……〝百鬼丸〟」

 そう言い残すと、秀光は混乱するテーマパークの職員たちの間を通り抜けるようにして姿を消した。

 

 (百鬼丸……? おれは名乗ってないのに何で名前を知ってるんだ?)

 轆轤秀光という男の残した疑念と言葉と、二冊の本が百鬼丸の思考を混乱させた。だがそんな瑣末なことに構っている暇はない。

 

 百鬼丸は燕結芽を探しに、動き出そうとしていた。

 

 



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86話

 中世の欧州を模した鐘楼は、黄土色の石造りで出来ている。十一月の冬が近い時期、陽の傾きが早まり午後四時半でも夕色に影が濃くなっていた。心なしか肌寒い。

 高い塔の方へ視線を上げると、アラビア数字の時計は鋭い夕日を反射して燦く。

 既に、平日の時間ということもあり、疎らな人々も帰り支度をしていた。インターロッキング舗装の地面は、小さな四角を規則正しい配列によって組み合わさっている。

 低潅木の生垣が、両側に整然と並んでいた。

 太平洋に面している立地上、微風に混ざって潮の匂いが嗅がれた。

 

 「はぁ~」

 燕結芽は、現在は事実上解散状態の折神家親衛隊の制服に身に纏っている。少女は百鬼丸と別れてから、一人……約三〇分をかけて園内を散策していた。本当であれば、閉園まで百鬼丸と共に歩こうと考えていたが、彼は顔色が優れないために結局置いていくことにした。

 

 足元は白いタイツに、トーシューズに似た小靴。靴底を鳴らして、終末感の漂う雰囲気を散歩し続ける。以前、何度か両親とテーマパークを訪れた記憶がある。しかし、それは遠い過去の出来事であって、今では朧げとなってしまい明確に思い出すことはできない。

 昔の思い出よりも、『ノロ』を受けて入れて以後の記憶が強すぎて、過去を思い出すこと自体が少なくなっていたようだ。

 ふとザザザ、と増水の音がする。――目線を落とした。

 舗道の脇にクレーチングの細長い排水があり、そこには肉の薄い落ち葉が濡れながら

詰まっていた。昨日の驟雨の影響だろう。

 

 「…………。」

 急に寂寥感が、胸を満たした。

 死病だった頃にはこんな気持ちは時々襲ってきた。夜、眠る前は怖かった。気が付くと、もう二度と目を覚まさないのではないか――不安で押しつぶされそうになった。だから新しい朝に、親衛隊の面々の顔を見ると心が浮ついて、つい軽口も言った。

 ……この瞬間は、〝いま〟しかないんだ

 そう、胸の奥で呟きながら大切な〝いま〟を噛み締めた。

 

 結芽は細い腕を夕空へ伸ばし、可憐な指先を開いた。積層雲が刷毛で広げたように空のキャンバスを流れ、橙光と陰影が明瞭に区分されている。

 

 

 

 ――義兄さんは、自分の肉体と寿命を切り離してわたし達に命を与えてくれたんです

 

 双葉の言葉が頭を何度も反芻された。

 

 可奈美たちが折神家に襲撃をしてから、一週間後。入院中に何度も双葉が病室を訪れてくれた。そして、相楽学長と共に話をするときは、何度も病室から出ていった。結芽は仲間外れにされた気分だったので、こっそりと彼女たちの後を追った。

 秘密の会話を聞くのは、背徳感があって楽しいものだと結芽は密かに笑う。あとで素知らぬ振りで、真面目な顔をしたふたりを揶揄ってやろうと思った。

 

 息を止め耳を澄ませる。

 病院の廊下の角でふたりは止まり、神妙な顔で話し始めた。

 ――義兄……百鬼丸は、わたしと燕さんを助けるために、自らを対価に差し出しました。

 そう、口火を切った双葉。

 

 (えっ……? 百鬼丸おにーさんが……? どうして?)

 衝撃の事実に暫く頭が痺れて、何も考えられなかった。

 

 しかし、相楽結月に事実を語り続ける双葉は淀みなく百鬼丸の果たした延命術の全てを喋り続けた。曰く、己の肉体と寿命を差し出して命を救ったこと……しかし、五年の制限があり、五年を過ぎれば新たに百鬼丸の肉体を切り離して与えなければ延命できないこと。

次々と残酷な事実が聞かされるたびに、燕結芽という少女には重すぎる負荷となって表情を暗くさせた。

 

 どうして……? どうして見ず知らずの他人にそこまでできるの?

 

 舞草の里を襲撃した際もそうだった。彼は本質的に誰かを傷つけるということをしたくないタイプの人柄だった。――しかし、同時に彼の守りたい者を侵害されたときの圧倒的な冷酷さが、百鬼丸を戦士たらしめているのだ……と。

 『お前は生きれる……』

 朦朧とした意識の中、優しく語りかけられた言葉。……誰に言われたのかも憶えていない。だけど今、双葉の話しを聞いて合点がいった。

 それと同時に百鬼丸という、少年への罪悪感が止めどなく溢れてきた。

 

 

 『あれ? 燕さんもう寝たんですか?』

 会話を終えて病室に戻った双葉と結月は、ベッドの布団が大きく膨らんでおり、眠っているのだと判断して起こさないよう無言のまま退出した。

 

 ふたりの足音が遠ざかったのを確認してから、詰めていた息をゆっくりと吐いた。

 

 「うぅ……ひっぐ……」

 と、呼吸と共に嗚咽が洩れた。

 布団の中で体を胎児のように丸め、左手で口元を塞ぎながら嗚咽を押し殺した。浅縹色の大きな瞳から涙の雫がこぼれた。

 

 今まで、自分の寿命のことばかりが念頭にあって、他者を害し続けてもそれすら省みる余裕がなかった。……そして、心のどこかで可哀想な自分だから、許してくれるだろう……そう思ってきた。否、そう思わなければ生きた証しを「誰かの記憶に刻み付ける」ことができないのだと勘違いしていたのだ。

 

 だが、それは違うのだということを、たった一度刃を交えた少年から教わった。

 

 自分自身が情けなかった。

 確かに寂しさはあった。それでも、生き方として正しいと胸を張っていえることではないだろう。だからこそ、無条件で命を救ってくれた百鬼丸のためにも、できることがないか考えずにはいられなかった。

 

 

 ――――でも、もし私が刀使じゃなかったら百鬼丸おにーさんは私を助けてくれたのかな?

 

だが同時に、小さな疑問が芽生えた。 

 

 

 ◇

 

 「百鬼丸おにーさん、か」

 つま先で舗道の小石を蹴って飛ばし、後ろで指を組みながらため息をつく。

 今日を一緒に過ごしてわかったことがある。

 それは、百鬼丸という少年が、想像していたよりもダメ男であるということに。世間知らずで、人の好意には鈍く、どこかぼんやりとしており、終始どこを見ているのかも分からない。呆けた表情からは何を考えているのかも判らない。これがあの、百鬼丸だろうか? と疑いすら持った。

 

 ……しかし、燕結芽はそれ以上に、「人間」としての百鬼丸という素の状態の彼を知ることが出来て素直に嬉しかった。彼を嫌いになろうと思えば思う程に、彼のことを考えている時間が長くなる自分に気がつき、不思議な気持ちになっていた。

 

 結芽は不意に、御刀《ニッカリ青江》の柄頭につけたストラップを外して、目線の高さまでもっていく。

 りん、りん、と涼やかな鈴の音色が鳴る。

 丸っこい、苺大福猫が左右に揺れた。

 百鬼丸に先程手渡したものとお揃いのストラップである。

 にっ、と思わず唇が緩んで綻ぶ。

 

 こんな日が一日でも長く続けばいいな……、そう思っていた矢先だった。

 

 

 ドォォオオオン、という盛大な破壊音と共に、テーマパークの中心部に位置する『鏡の迷宮』から黒炎が立ち上っていた。その瞬間、燕結芽は本能的に悟った。

 

 …………百鬼丸おにーさんを狙う敵がきたんだ

 

 と、そう確信する。

 

 一直線の道の先に丁度『鏡の迷宮』の入口があった。塵灰が粉状に漂い、袖で鼻と口を覆い隠しながら、結芽は小走りに駆けた。

 

 (百鬼丸おにーさんを守らなきゃ……)

 これ以上彼を戦わせてはいけない、これ以上彼を戦わせればきっと早いうちに、寿命がつきてしまう。

 

 「そんなの、イヤ……」

 無意識に言いながら、足を速く駆けた。右手に握り締めたストラップを胸の前に押し当て、高まる鼓動を堪えた。

 

 

 ◇

 爆発した、というのにテーマパークの職員は誰ひとりおらず、不気味だった。疎らだった客たちも散り散りに逃げており、容易に鏡の迷宮までたどり着くことができた。

 

 入口の前に佇みながら、結芽はイヤな胸騒ぎを感じていた。

 

 異様な圧力が放たれていたのである。……冷気にも似た殺意が、結芽に悪寒を与えた。しかし、それを振り払うように御刀に手をかけながら、結芽はゆっくりと内部へと侵入する。

 

 

 薄暗い、太古の時代を思わせるBGMが幾重も反響しながら、青味がかった照明が下から照射されていた。滑らかな鏡面は、四方八方を囲み、結芽の緊張した面持ちを反映した。

 自身の顔を一瞥した。

「なにこの顔……だっさい」

 緊張を解くように、ワザと軽口を叩いて気を紛らわせる。

 こと、こと、こと……。可愛らしい足音を響かせるたびに、心拍数が上昇する。これまでに相手をしたことのない敵がこの施設内部に居るのだ。

 

 『ほお、貴様の方が来たのか――』

 嗄れた男の声が、木霊した。

 

 声がら察するに、壮年の男であろう。

 

 結芽は反射的に身を固くした。

 浅縹色の美しい水晶体を動かし、索敵する。……自分の呼吸音すらうるさく感じられるほどに、耳を澄ます。余りにも静か過ぎる空間。

 

 

襲撃者は唐突にその姿を現した。

 斜め背後を一過性の、素早い残影。

 不意に、疾風の方角に意識を向けた。しかし当然、その姿は消えて居ない。

 古典的な施設である、通称「鏡迷宮」は数千枚の鏡が配置された施設である。

 その名の通り全方面が合わせ鏡になっており、いくつもの自身の虚像が重なる。薄暗い空間では物音は全て虚しく吸い込まれた。――横目で隣りを一瞥すると、青い鏡面が冷たい光を反射した。

 「へぇ……面白そうじゃん」

 鏡の迷宮の深部、孤独の影を踏みながら不気味さを圧倒する殺気で周囲の気配を探る。

 《ニッカリ青江》の白柄に指をかける。俊敏性が第一必要となる。

 

 『貴様は、成程余程の使い手らしい――ただの小娘かと思ったが、いいだろう』

 男の低く錆び付いた声が、無限に反響するかに思われた。

 

 トーシューズに似た靴のつま先を立て、ゴクリと氷のような一息を呑む。喉にまで嚥下した呼吸を小鼻からゆったりと抜き、精神を鎮める。

 

 居る。

 

 途轍もなく強い相手が、この鏡の内部に潜んでいるのだ! しかも、相当の使い手であることは、放たれる殺気で解る。

 

 「おじさん、相当強いでしょ?」

 思わず軽口が出るほど、心臓の鼓動は高鳴っていた。……今までに味わった事のない種類の感覚である。

 

 苺大福猫を模した金属の鍔に親指をかける。鯉口を僅かに刃の、銀の煌きが溢れた。

 抜刀準備は整った。抜刀しても振り回すには少々手狭だが刀身の短い《ニッカリ青江》ならば斬り合いでも問題はない筈。あとは、敵が来るのを待つだけ……

 細い眉を落とし、長い睫毛を薄く閉じる。

 膝を曲げて腰を僅かに屈め、抜刀専用の体重移動ができるようにした。軽く柄に手を触れさせる。

 

 鏡というのは、如何にこの場面において阻害物であるかを、少女に知らしめた。

 

 四方を無数に反映する結芽の顔。……

 

 漣ひとつ立たない湖面に浮かぶ一つの木の葉を連想した。

 

 剣士にとって最も重要なことは、冷静な頭脳と精神である。常にルーティンによって叩き込んだ無意識から繰り出される剣術。意識下によって組み立てる戦術。

 その両輪を駆動させる為には、頭と精神が常に安定せねばならぬ。

 

 幼いながらも、すべてを剣術に捧げた少女は本能的に理解していた。

 

 ――間違いなく相手は強い、と。

 

 しかも、常人の「ソレ」とは異なる。

 

 一種、異様なまでの暴力的な雰囲気に呑まれないよう平静を保ち、抜刀姿勢から動かない。天然理心流の「突き」技を即座にイメージする。

 初手から繰り出す斬撃はあくまで攻撃による防御の側面がつよい。……従って二撃目の「突き技」による攻撃こそが本来の仕留めにかかる技だ……と、結芽は無数の剣軌道を思い描きながら判断を下す。

 

 靴底を擦る。

 

 (千鳥のおねーさんは……、たぶんこんなのが得意なのかも)

 口端を僅かに上げて笑う。

 

 柳生新陰流の使い手。

 

 数合剣を合わせただけで判る、本当の強さ――。

 

 『後の先』を得意にできるのは、ひとえに実力に依るものだった。いくら強くても先手を耐え凌げねば意味がない。

 

 

 

 「考え事とは余裕だな」

 背後から、男の警告が囁かれた。

 

 ゾワッ、と肌に粟立ちが浮かんだ。

 一拍の間もなく、結芽は銀線を閃かせた。

 空気中に描かれた銀色の剣軌道は、半弧を描き背後の気配を斬り裂いた。――だが手応えがまるで無い。否、無いのではなく背後には何も存在すらしていないかった。

 

 

 

 視線をすぐさま前に戻した。

 

 

 「お前を生け捕りにするには〝本当の姿〟で相手をするしかないな」

 残忍なえみを頬に浮かべ、尖った眼差しを結芽にむける。

 

 「俺の名は腑破十臓。……貴様を捕らえに来た者だ」

 冷徹に、男はそう告げる。

 



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87話

 医療用照明の円が目に眩しくて、思わず眼を細める。――

 (あぁ……わたし、本当に〝受け入れるんだ〟)

 ぼんやりとした頭で考えながら、内里歩は手術の台に仰向けになった。禁忌中の禁忌である《ノロ》を体に受け入れる……そんな事に一切の罪悪感を覚えないのは、何故だろうか? ――きっと、置いて行かれたくないからだ。

 自問しながら、手を照明の方へ伸ばす。

 「高津学長……」

 隣りで、小瓶から注射器へと吸わせ内容物を確かめていた高津雪那は「なんだ?」と冷淡な声音で応じる。

 「ありがとうございます。わたし、強くなりたいんです。もう二度と衛藤さんにも――百鬼丸さんにも誰にも置いて行かれたくて。それに、やっぱり誰かを『守れる』だけの力がないと刀使じゃないって気づかされたんです。つよく……」

 「…………。」

 歩の言葉を聞きながら、雪那は無表情に注射器を眺める。

 本来は自らの手塩にかけた最高傑作である糸見沙耶香へと投与する筈だった《ノロ》を今、別の少女へと打ち込もうとしている。以前の《ノロ》アンプルと異なり、より純度を高め、かつ精神的な安定を図ることに成功した。

 準備は全て整った。雪那は踵を返して少女へと近づく。

 「お前が望むなら、いくらでも強くなるだろう。そして、〝コレ〟を使い私に強さを証明しろ」

 出来損ない――とまでは、言わなかった。否、言えなかった。

 かつて、自ら相模湾岸で発生した大規模な厄災の光景が生々しく脳裏を過る。その度に、己の無力を呪うことしかできなかった。だが今は違う。刀使を正しく、強く導くことができるのだ。

 内里歩は、謂わば嘗ての自分なのだ……

 《御刀》を継承した糸見沙耶香も所詮は、選ばれた遠い存在。彼女を見出した時、その才能に素直に感嘆した。だが、結果的に裏切られた。

 

 ……だったら。

 

 全てをこの手で壊してやる。

 

 雪那の口端に皮肉な笑みが浮かぶ。

 「貴様は、ヒメの忠実なる下僕の最初となるのだ。よく肝に銘じておけ」

 そう言いながら、手術台に横たわった少女の細い首筋を顕にして、柔肌へと注射器を突き刺す。

 「――ッ、」

 一瞬、苦悶の表情を浮かべた歩。

 頚動脈を烈しい動悸が襲う。まるで脳みそを直接掴まれてシェイクされるような強烈な感触が五感を脅かす。朦朧とする意識――徐々に薄れゆく視界。

 (あれ……? わたし……)

 最後に見えた光景は、どこか哀愁の漂う高津雪那の眼差しだった。

 歩の伸ばした腕はガクリ、と垂れ落ちた。

 

 

 

 2

 十臓は半顔で残忍な笑みを浮かべ、もう半分の顔は闇に埋もれている。その闇の中から、赤い残光が長い尾を引いた。

 「卑怯と詰るか? 不条理と嘆くか?」

 軽く挑発するようだった。。冷静な判断力を奪う。それから相手を生け捕りにする算段だろう。

 

 頭を低くしながら、

「私を捕まえるって言ったよね? ふふっ、おじさん。一ついいこと教えてあげるね。――私、すっっっごく強いから!!」

 叫ぶのと同時に、《写シ》を貼り、《迅移》によって超人的な加速を得た。虹色の燐光を放ちながら、半ば影に埋もれた十臓へ突きを繰り出した。

 

 パキッ、という氷に罅が入ったような音がした。

 「――ッ!?」

 結芽は慌てて剣の白柄を握る手を緩め速度を殺した。

 少女の目前には、美しく澄んだ鏡面に黒い線が円形に伸びた。

 

切っ先が捉えたのは実像ではなく淡い幻影だった。

 砕けた鏡面は一気に放射状に亀裂が走り、歪な線は連鎖をして硝子片が周囲に散らばった。氷雨の如く、外気に煌き渡った欠片たちは両者の間を紗幕のように流れた……

 「その程度か?」くぐもった声が真横から囁かれた。

 乱反射し、方向感覚が著しく乱れた空間内において、十臓は一歩も動かず相手の出方に応じて対応していたに過ぎない。法衣のような上衣に硝子片が張り付く。

 十臓は一切物理現象に頓着せず、右の禍々しい腕を伸ばして少女のほっそりとした繊細な首を掴む。その侭、喉元を握りながら背後の鏡面へと叩きつける。

 バキッ、という細やかな音に混ざって重い衝突音がした。

 「がはっ……」

 一瞬で呼吸困難に陥った。刀使の場合、《写シ》と呼ばれる身体防御術が施されているものの、痛覚などは実際の身体と変わりなく、また精神力も著しく消費する。

 「ッッ!!」

 結芽は眼を眇めながら、何かを呻き男の腕に《ニッカリ青江》の刃で貫いた。

 

 

 ……が、しかし。

 十臓は慌てる様子もなく、むしろそれを待っていたかのようにニヤリと軽く邪悪に笑う余裕すら見せた。

 

 「軽いな……軽すぎる……」落胆した声音で低く呟いた。

 

 (軽い――? なに言ってるの?)

 結芽は酸素を求めて口を喘がせながら、必死で抵抗していた。だがこの男の呟きに、胸がザワついた。

 

 

 喉を片腕で締め上げ、宙吊り状態にしながら男は獰猛な双眸を幼き少女へと向ける。

 「失望した。お前ほど剣の才覚があれば、もっと楽しめると思ったのだが……お前には、剣を持つだけの〝理由〟がない。切実さがない――命の煌きを、生死を賭した意思の強さ鋭さが失われている。……いや、正確には〝失われた〟みたいだな」

 虚ろで濁った真っ暗な目が、苦悶に歪む結芽へ固定されていた。

 

 

 「もう一度、機会をくれてやる。今度こそ俺を失望させるな」

 鏡の砕けた壁面に叩きつけた結芽の華奢な体が、無造作に地面へと放り投げた。まるでものを投げ捨てるような素振りだった。

 

 「げほっ……ゲホッ……」

 喉が解放され、思い切り咳き込む。無意識に《写シ》が解けていた。衝撃で御刀を手放してしまった。痺れる手で喉元をさすりながら、結芽は怒りに十臓を睨み上げる。

 

 

 「――――っ!?」

 ゾワッ、と肌が粟立つ。背筋に悪寒が駆け抜ける。

 

 少女の目の前に立っていたのは、人の形をした絶望だったのだ。

 

 凄愴な男の顔は、半分闇に埋もれており今まで目視できなかった。しかし、青い照明が微かに掠めると、猿面のように真っ赤な貌が浮かび上がった。白い……蜘蛛の卵に似た白薄膜の眼球から、紅の光が揺らめき尾を曳いた。

 そして、先程貫いた右腕は太く、不気味なほど真っ白な「骨」にも似た下博は鎧外殻を有していた。一切の傷口が無く、ただ無機質に人殺しをするだけに生まれたような五指の動きに畏怖せざるをえない。

 

 『どうした? この格好が恐ろしいのか?』

 心を見透かすように、せせら笑う。人間の肉声と、ノイズがかかったような、この世の声とは思えぬものが混在した「音」――。

 

 

 禍々しい……余りに邪悪な容貌だった。

 

 技倆の優れた剣士である少女は直感で理解する。

 

 荒魂とも異なる邪悪の存在が――この世の者あらざる事に。

 

 そして、相手の力量もある程度把握した。

 

 (このおじさんには……)

 

 〝勝てない〟

 

 と、冷静な分析から導き出される答えに対し、結芽は臍をかんだ。それを、口にすればきっと心の根元から折れてしまう。最早、二度と立ち向かうことはおろか剣を握ることすらできなくなる……以前の自分であれば、こんな弱気な気持ちは持たなかっただろう。ただ、生死こそが命題であり、それに準じて闘えばいいだけなのだから……。

 

 ――でも。

 

 ぐっ、と震える拳を握り締めて傍に転がった御刀へ手を伸ばす。

 不意にむせた。痛む首を撫でながら、結芽は咳き込む。ゆっくり顔を上げ、不敵に口端を曲げる。

 「へへっ、おじさんに教えてあげる……」

 

 『……?』

 

 

 「大事な人の為に闘うってことが〝強い〟ってこと!!」

 下腹部に力を込め、《写シ》を貼る。曲芸燕のように、軽やかにステップを踏んで一気に《迅移》に依って加速を試みる。細い通路を華麗に美しく少女は燐光を振りまきながら、十臓へと剣戟を打ち込む。

 

 「紫様も!」「真希おねーさんも!」「涼花おねーさんも!」「夜見おねーさんだって!」「百鬼丸おにーさんも、双葉ちゃんだって……」

 剣戟を流星群の如く叩き込みながら、結芽は叫ぶ。彼岸の戦力差は圧倒的であり、不利を承知で刃を動かす。 

 

 「みんな、皆が私を大事にしてくれたもん! 私の方が強いのに――だけど、だから皆を守れるのは私なんだからっ!! おじさんみたいな人に、皆を傷つけられたくない!!」

 

 剣尖が突き、一閃する銀線の刃が燦き、十臓に襲いかかる。

 

 ……だが。

 

 男は片腕の《裏正》で正確に全てを弾き、押し返す。十分な重量で、結芽の軽い体を飛ばした。

 

 ズズズ、と小靴裏を擦りながら飛ばさた衝撃を逃がす。《御刀》を杖に、屈した膝を伸ばして眼を眇める。

 「はぁ……はぁ……っ、絶対に負けたくないから……ひとりぼっちだった私を助けてくれた皆も――百鬼丸おにーさんをこれ以上、いじめて欲しくないから!」

 大粒の涙の雫を目端に溜めながら、上擦った呼気を堪え敵に怒鳴る。

 

 「随分と威勢のいい言葉だな……だが無意味だ。力なき者はただ強者に屈するより他ない。貴様は所詮、才能だけ――殺意が足らん」

 十臓が放つ殺気が痛いくらいに感じられる。

 

 「―――」

 結芽は跳んだ。ニッカリ青江の手に馴染む感触が一層強まり、心と共鳴する。

 周囲を囲む鏡の壁には一切彼女の姿は映らない。

 

 「ふん、甘いッ!! 小娘ッ!!」

 軽く周囲の半円を描き真正面に飛び込む結芽に対し、十臓は化物の腕を大きく振り上げ《裏正》を振り下ろす。

 

 バキィイン、という耳を甲高い亀裂音が聾する。

 

 「!? なに」

 十臓は思わず驚きを上げ、剣を止めた。

 

 大きな鏡の破片がバラバラに砕けて再び地面へと冷雨の如く降り注いだ。

 

 

 

 『おじさん、まだまだだね♪』

 甘ったるい、子供っぽい口調で楽しげに背後から声がした。

 

 肩越しに十臓は、燕結芽を捉えた。

 

 彼の目にも止まらぬ刀の突撃が繰り出された。既に反応できず、十臓は左腕と肩を犠牲にすることにした。

 

 ガリッ、という外殻を抉る音と感触がした。刺し貫かれた肩甲骨の部分は細長い刀傷が穿たれていた……

 

 バキ、バキッ、という二箇所の亀裂が走る音がした。ポロポロと砂の落ちるように地面に外殻の粉が舞う。

 

 「――!?」

 左の眉の辺りと大腿部を同時に穿たれていたのだ!

 

 かつて存在した、幕末の天然理心流天才剣士、沖田総司が行った伝説の技「三段突き」である。一撃の突きに見せかけ、三撃を繰り出す高度な剣技を、まだ少女の燕結芽は土壇場で見せつけたのだ。

 

 

 貫いた刃を素早く引き抜き、結芽は距離をとって地面に着地した。鏡破片が靴裏にパキパキと踏むたびに鳴る。

 

 肩で浅く息をしながら赤らんだ頬、満足気な表情。

 

 「なるほど……訂正しょう。貴様は、確か燕結芽と言ったな? 貴様は俺と闘う相手として相応しいようだ。侮っていた。今の剣技は見たことがない」

 そう言いながら、十臓は慌てることなく首を巡らせ己がなぜ不覚をとったか推測する。

 

 そもそも、燕結芽は「地面を跳んだ」わけではないようだ。先程切り捨てた鏡の破片から察するに、彼女は《迅移》という加速によって鏡壁を足場にして周囲を旋回した。そして、旋回しながら、鏡を両断し、相手の正面へと鏡が飛ぶようにコントールして飛ばし、自分は背後から攻撃を仕掛ける。

 相手の正面は虚像が映って、錯覚を起こす。

 

 (なるほど、機転の効いた戦い方だ……)

 

 戦闘センスも、技倆も、全て幼い少女というには相応しくない。

 

 

 「となれば、こちらも全力でいかせてもらう」

 全身を紫の濃い炎に包まれた。

 

 腑破十臓と云う男の体躯を、全てが化物の白い外殻に覆われた。甲虫が蛹から羽化したように純粋で、毒々しいまでに美しく、そして――殺戮の象徴ともいうべき姿と化していた。

 

 もし、《神》というべき存在があるとしたら、この目前の存在はきっと《神》の破壊=殺戮の部分を司り、具象化としてその姿を現したのかもしれない。

 

 そんな不吉な予感を感じながら、目線だけは外さない。

 

 

 紅の猿面に似た顔貌が刹那、動く。

 陽炎のようなオーラを振りまき、狭い通路から一瞬にして姿を消した。断じて《迅移》などではない……彼、腑破十臓の持つ固有の能力のようだった。

 

 「――!?」結芽は、突如の出来事に眼を瞠る。

 先程の強靭な力とは異なる、そして刀使同士の斬り合いとも異なる超次元的な存在。

 何が起こっても不思議ではない。平正眼の構えで相手の次の襲撃に備え全身を隈なく五感を鋭くした。研ぎ澄ます五感には、集中力が必要であり――先程までの短いやり合いによって体力も精神も著しく劣化した。

 だがここで気を抜けば、必ず仕留められる。

 張り詰めた神経は痛いほどに研ぎ澄まされ、自然口から緊張に喘ぐ呼気が洩れた。

 

 

 と、目前から「腕」だけが現れた!

 

 右腕は結芽の喉を潰さんと凶暴な五指を開き、掴みかかった。

 

 「……ッ、」

 危うくのところで屈んで躱し、一拍置き後方へと跳んだ。

 全く、存在が分からなかった。まさか真正面からくるとは予想もしなかった。視認で頼るだけでは捕まっていただろう。第六感……剣士の「勘」が助けたのだ。

 

 「はぁ……はぁ……」

 体力が限界を迎えていた。

 

 『……お前は、確かに優秀だった。俺の生まれた時代から後の洗練された剣技……それも味わえた。――だがこれで終わりだ』

 冷淡に告げる。

 

 直後――十臓は、腕とは更に別の左斜め方向から躍り出た。肩で大きく息をつく結芽の目前には巨体に映る「白い骨鎧の化物」が、刹那的に一閃を曳いた。その残影のみが捉えられたに過ぎない。

 

 「がはっ……」

 強烈かつ単純な切り上げる袈裟斬りを喰らった。結芽は《写シ》を剥がされ、生身を晒した。

 

 

 御刀につけた苺大福猫のストラップ紐が切れた。可愛らしいマスコットがころん、と地面に転がり落ちた。

 

 結芽は無意識に手を差し出して拾い出そうとした。ーーしかし、十臓はそのストラップを無残にも足裏で踏みつぶす。

 

 ――やめて……百鬼丸おにーさんとの思い出も………消えちゃう……、そう云う暇すらなく視界が暗転した。

 

 しかし、相手は容赦せず、宙を舞う少女の首元を掴み地面へ組み伏せた。そのまま骨が軋るのではないか、と思われる程の力で締め上げた。鮮やかな手並みが、彼の殺戮によって鍛えられた実力の程をうかがわせる。

 

 ギリッ、ギリッ、という感覚ではない。――それは下手くそのやり方だ。

 頚動脈を一瞬で締め上げ、脳へ酸素の補給を途絶させる。意識を一瞬にして奪った。

 親衛隊第四席、最強と謳われた燕結芽はその瞬間、眼を閉じた。完全に意識が奪われ、全身の筋肉が弛緩したようにダラり、と力が抜けていた。

 

 

 『この娘は、いずれ強くなる……その時、再び剣を交えたいものだ、アハハハ……』

 暫時の胸の渇きを癒す闘いを出来たことで、十臓の顔に……正確にいえば、化物の声音に喜悦に混じったものが感ぜられた。

 

 

 仕事は終えた。

 

 十臓は、化物の姿を解除して、周囲に濃霧のようなもので辺りを充たす。……直後に人間の姿で現れ、華奢な少女の抱き抱えると、轆轤秀光と合流すべく出口を求め歩き出した。

 

 

 

 3

 百鬼丸は爆発を察知し、ベンチから腰を浮かせて動き出そうとしていた……だが、体が鉛のように動かなくなってしまった。

 

 (なんだ……これ?)

 

 体の異変に気づき、膝を屈して地面へ倒れこむ。全身の毛細血管が痺れて、全く機能しなくなった。

 

 遠く、去り際だった秀光が肩越しに冷徹な眼差しを送りながら呟く。

 「君は随分と用心深いんだね。せっかくの水も、一口呑んだと思ったら、その三分の一を喉に通しただけで毒見をするんだから困ったよ。化物の君なら少しくらいの毒なら平気だとでも思ったんだろ? 残念。こちらも対策している。」

 饒舌、というより早口に恨みのこもった低い声で秀光はまくし立てる。

 

 (なに言ってるんんだ、コイツ)

 突然の事態に頭が追いつかず、口から涎を流しながら目だけを上にあげて睨みつける。

 

 

「……お前みたいなバケモノをどう殺そうかいつも考えていた。そして分かった」

 

 残忍かつ、兇悪な笑みを口元に湛え、続ける。

 

「お前を殺すには、まず心から折ればいいのだ、と。確かにお前は強い……少なくとも、力ではな。だがその心は脆弱を極める。――そして、決めたんだ。〝刀使〟を、それもお前と交流のある刀使を奪えばいいのだ……とな」

 

 

 その瞬間、百鬼丸は理解した!

 

 この男の目的は最初から「それ」だったのだ、と。

 

 この遊園地の存在も気になっていた。余りに全ての事柄に都合が良すぎたんだ。こんな爆発物の異常事態だって周囲に人の気配すら感じられない。彼の謀略によって自然とこの場所までくるように仕向けられていたのだ。

 

 

 「あが……えが……」

 呂律の回らない舌を必死に動かし、牙を剥き出しにする百鬼丸。己の未熟さが呪わしく、無力さが憎かった。

 

 しかしそんな百鬼丸を嘲るように顔を前に戻し、秀光は歩き出す。

 

 「せいぜい大事なものを奪われるのをお前も体験するがいいさ。……尤も、お前のようなバケモノなんぞ、この世界で誰ひとりとして受け入れる人間なんていないがな。どれだけ綺麗事を吐いても人とバケモノは相容れない存在だ。それをもう一度噛み締めるんだな」

 

 秀光はそう言い残して『鏡迷宮』の方角へと向かっていった。

 

 

 ……やめろ、やめろッ、おれから――また、大事な日常を奪わないでくれ!!

 

 必死に強訴するよう、痺れの満ちた左腕を伸ばしてもがく。

 

 だが時間は無情にも、百鬼丸と秀光の距離を離していった。

 

 

 こつ、こつ、こつ、という舗道を鳴る靴音だけが無情に鼓膜に響く。

 

(お前をここで殺すのは簡単だ……だが、苦しめ。私の味わった地獄をお前にも味わせてやるッ!!)

 

 秀光は炯々とした眼光で足を早くした。

 




感想を下さった皆様、ありがとうございます。返信遅れてスイマセン。
先月に更新したかったのが心残りです……。

あ、でも今月からみにとじ始まったぜ、うれC

みんなも画面の前で全裸待機だよな? な? このままの勢いで2期か映画でもやろう(提案)


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88話

 夕色に周囲が溶け始めた頃。

 「終わったのか――?」男の低い嗄れた声がする。ああ、と頷きながら秀光はチラと十臓が肩に担いだ少女を一瞥した。撫子色の長い髪は、つよい風に吹かれながら美しく舞う。

 ほど近い場所から、潮風の香りがした。

 「そちらも上手くいったようだな。まあ君の実力ならば簡単だっただろう?」

 「いいや。もう少し――この少女に、命を懸ける程の切実さがあれば話しは違ってきた。まるで、その生命を惜しむ気持ちがあった……だから、俺が捕らえることができたに過ぎない」

冷静に戦況を分析してみせる十臓。彼を外道であり、殺しの申し子として存立させるのはひとえに、この客観視に依るところが大きい。

 〝古人に曰く、生きんとすれば即ち死に、死なんと思えば生きん――〟と。

 不意に十臓の脳裏にその教えが浮かんだ。

 

 ほぉ、と彼の説明を聞きながら珍しく驚いた顔をした秀光。

 「さあ、ここに長居は無用。一旦帰ろう」

 ポケットから車のキーを取り出して、すぐ近くに駐車した車のロックを解除する。

 歩を踏みながら十臓の肩に担がれた少女を一瞥し、秀光は鎮痛に眉を潜める。

 「…………大丈夫、今後君に危害は加えない。それは約束しよう」秀光はそう言いながら、深く昏睡したように瞼を閉じる少女に告げた。その慈悲深い囁きは違和感でしかない。

 

 「…………。」

 十臓はこの男の真意を測りかねていた。しかし、それは轆轤秀光という男を知るためでは無論、ない。あくまで単純な疑問だった。

 胡乱な眼差しを感じ、秀光は居心地悪そうに肩を竦め無言で車の方角へと赴く。

 

 

 2

 (くそっ……くそったれ!!)

 百鬼丸は、遠ざかる男の後ろ姿を消えるまで眺めながら、必死に現状の打開策に思考を巡らせた。

 

 いくら悔やんでも足りない慙愧の念。失って始めて思い知る感情。目を食いしばり、痺れる舌で呻く。

 

 《君は馬鹿だな……人工筋肉の神経網を利用して、強制的に脊椎に集中する運動神経を強制的に稼働させればいいじゃないか》

 あっけらかんとした言い草。この声を、百鬼丸は知っている。

 

 (ジョー!? なんでてめぇが!!)

 

 《なんで? おいおい、自分でも理由は知っているだろ? 君の心臓にボクの人格と知識がトレースされたのだよ。――それに、今の君にはボクの言葉を疑うだけの理由があるのかい? 戦争は常に好機を見逃すべきじゃない。そう教わったが、君はその道理も理解できないのかい?》

 皮肉がかった口調でからかう。

 

 チッ……、と内心鋭く舌打ちしながら百鬼丸はジョーという嘗ての宿敵の提案に乗ることにした。

 

 ……まず、左腕と右脚に接続された透明な神経網の筋肉へ意識を集中させ、麻痺した部分を脊椎と脳幹を通じて、強制的に麻痺筋肉へと介入する。

 

 ピクッ、と右腕の指先が動き出した。

 

 呆気にとられながら、百鬼丸は尚も繊細さを要求される作業を続けた。……確かにジョーの言うとおり、呼吸が正常に回復し――意識も、明瞭になってきた。

 

 《なぁ? ボクのいう通りだろ? あはは……全く。人を疑うのはよくない証拠だぞ》

 陽気な笑い声と共に、百鬼丸にいう。

 

 ――悔しいが、この男の知識に救われた。

 

 かつて、なんの罪もない人々を殺戮し、そして義父すらも変貌させた憎むべき相手、レイリー・ブラッド・ジョー。

 彼の助言に百鬼丸は渋い顔をしながら、徐々に回復する肉体に改めて喝を入れる。己の甘さが招いた今回の状況、それに見合うだけの反撃をすべきだ。

 

 否、まずは誘拐された燕結芽を救い出す。

 

 と、そこで百鬼丸は重要なことを思い出した。

 

 (ああッ、クソっ、無銘刀は預けてきたッ……こんなことがあるなら)

 結芽との行動に際して、《無銘刀》は青砥館に預けた。修繕を兼ね、また街中での刀の所持は刀使以外には認められていない。百鬼丸は、よほどの事がない限り左腕の刃一本で事足りると思い慢心していた。

 

 ――だが甘かった。

 

 あの男の目的は全く掴めない。だがとにかく追わなければならぬ。憎悪の炎が肚の底から燃え上がり、百鬼丸の倒れ伏した姿勢から緩慢に立ち上がらせた。

 

 (チッ、足んねえぇぞ、オイ!!)

 

 百鬼丸は、自らの舌を噛んで流血させた。一斉に痛覚が戻り、神経系が復活した。

 

 「プッ……クソ不味いなおい」

 血痰を地面に吐き捨てながら、百鬼丸は左腕で紅を拭う。

 

 「おい、クソ野郎。おれの手伝いをしろッ」

 自らの心臓に拳を叩き、促す。

 

 《アハハ、まったく君という男といるとつくづく飽きないねぇ。いいだろう。ボクも君に協力するとしようか。さあ見せてくれ給え百鬼丸くん。君の力を――》

 

 「ヘッ、抜かせこの野郎」

 何度もゴシゴシと口元を拭いながら、百鬼丸は闘志と気魄に満ちた顔で嗤う。

 

 

 3

 レクサスLS―600の黒色車体が、静かなエンジン音と共に発進した。

 公用車としても名高いこの車種は秀光の個人所有するところではなく、要人護衛の為に用意さたものである。何十もの防弾構造をとっており、タイヤもパンクと無縁の改造を施されていた。通常、エンジンにはスピードを制限する安全装置が取り付けられているが、このような公用車の場合、或はパトカーなどの警察車両にはその例はない。

 川崎から246号線を利用し、高速へとゆく。

 そのために、遊園地から挟道のスロープ状の道路へと出る必要があった。

 秀光はハンドルを握りながら、バックミラーで背後を伺う。

 後部座席には眠りこけた燕結芽と、鋭い眼差しで腕を組み瞑想に耽る腑破十臓の姿があった。

 「君は、島原の乱に参戦したと聞いたが……」

 秀光は、十臓の来歴を調べる折、ふと興味が出てあれこれ独自調査を行った。

 

 ――ああ。

 短く返事をする十臓。

 

 「君を活かす時代ではなかったようだね。だが、武術の指南役なんかもあっただろうに……」

 「いいや、俺は柳生の者とは仲が悪かった」

 

 「なぜ?」

 

 「辻斬りで随分、柳生に指南を受けた者も切り殺し、江戸の町で文字通り血祭りに上げたからだ」

 

 「…………どうしてそんな事を?」

 「天下に名高い武芸者の教えを受けた人間がどんなものか知りたかった。だが、所詮は人間。俺の求める悪鬼羅刹の如き力ではないことを知った」

 腕を組みながら、十臓は記憶が甦る。

 

 

 外道に堕ちる前、まだ彼が「人」であった頃。

 島原の役へ赴く五か月前、彼は愛読していた「史記」の項羽本紀に記された有名な文言、即ち項籍(羽)曰く、「書は以て姓名を記すに足るのみ」という部分に強く惹かれた。

 彼もまったくそのとおりだと思った。

 そして、悲劇の英雄、項籍という男と己をいつしか自己同一視するようになった。父はそれを鼻白んだ。だが、彼は密かに項籍の文言を布切れに墨で書き記し、持ち歩いた。

 項籍は常に飢えていた。

 ――自らを阻む強者に。

 そして、彼は常に怒っていた。己の有り余る力を示すだけの、受け入れるだけの容量がない世界に……。

 

 

 

 原城が掃討戦に入った頃、本営の陣幕で松平伊豆守信綱は椀に湛えた水を飲み干し、口端に流れた水筋を袖で拭う。具足姿のまま、床机に腰掛け遠望しながら戦の趨勢を見守っている。……常の神経質な眼差しが今日は一層強かった。

 戦後の処理を脳裏に思い描きながら、傍に控える立花宗茂へ一瞥くれる。

 老将は、齢七十とは思えぬ威風堂々たる雰囲気を漂わせていた。白髪も鬢も、微風に嬲らせながら、悠然と太刀を杖代わりに握り、瞑目している。

 と、陣営に一つの足音が飛んできた。

 

 「はぁ……はぁ……ッ、腑破十臓、ご報告致します」

 一人の若武者が、異例とも言うべき待遇によって駆け込んできた。十臓は搦手の一番やりを果たし、その戦果と内情を報告しにきた。

 パチッ、と眼を見開いた宗茂は、戦の申し子と言われた直感から彼の異様な才能に気がついた。

 

 十四の十臓は荒縄を束ね、そこに括りつけられた生首の数……およそ五十。しかも、縄が途中で途切れており、その数は今以上であっただろう。――平和な時代であれば、決して用いられることのない才能。

 

 (――天は彼を、この時代に何故遣わした?)

 思わず、内心で吐露する宗茂。

 ふと、隣りを見ると信綱はつよい嫌悪の眼差しで十臓を睨めつけていた。彼は非情な合理主義者であると同時に、潔癖で生真面目な部分を併せ持っていた。彼がこの若武者に与えた感謝状はひとえに厭戦気分漂う陣中の、一種の起爆剤として与えたに過ぎない。

 しかし、それに感激した若武者は尚一層、強く力を振るった。

 「何用だ?」冷淡な声で信綱はいう。

 朱に染めた顔貌をにっこり、とあげて荒縄から連なる邪悪な数珠を差し出す。

 「敵の掃討を行って参りました」

 傅きながら、報告する。

 

 「そうか……ご苦労、もう下がれ」

 その言葉を聞き、意外そうに十臓は顔を上げる。

 「な、なにゆえでしょう? このように……」

 

 「その荒縄には……女子供のものも混ざっている。確かに、邪教の輩だがそれを武勲には数えない。――期待していた働きではない」

 

 意外そうな顔つきで、十臓は頭を垂れる。

 宗茂は立ち上がり、傅く若武者の肩を叩く。

 「なるほど、貴殿は無類の働きを行う武勇のもの。しかし、徳のなき武士は長く続かぬ。敵といえども命あるもの。それは理解しているな?」

 歴戦の猛者の声にしては優しく、しかし厳しい。

 十臓はガバッ、と顔を合わせ肯く。

 「当然です。――己のこの〝胸の渇き〟が癒えるまで、刀を振るい続けたいと思います。確かに弱き者をなで斬りにしたことは反省しております」

 あっけらかんとした物言いに、流石のその場に居合わせた武士たちも虚を突かれた。

 

 「「…………。」」

 一座には妙な沈黙が続く。この、戦の知らぬ首脳陣が始めてみる地獄絵図の戦場において、一際目立つ若武者――。

 いくら、賊徒といえども、哀れを催していた雰囲気の中、純粋な殺意のみを持ったこの十臓という存在はひたすら異彩を放っていた。

 

 しかし、宗茂は彼の肩を再び叩く。

 「……なるほど、貴殿の父上が語ったとおり、乱世の生まれにこそ相応しいな」

 と、いったところで十臓の懐から落ちた一枚の布切れを老将は拾い上げた。

 

 項籍の名高い一文――。

 

 宗茂は長い嘆息の余韻の後……、

 「いずれ、その身を滅ぼす。それが厭ならば刀を手放せ。それが貴殿の為だ……」

 

 言いながら、老将は異教の民に向かい密かに祈りを捧げた。少なくとも、安らかに眠るように……、ただ祈った。

 

 そしてこの老将の付言通り、悲惨な末路が腑破十臓を待ち受けていた……。

 

 

 4

 話しを全て聴き終えた秀光は、苦いものを感じながら、アクセルを踏む。

 湾岸沿いの高速道路の車列へと混ざり、速度を上げる。

 「その才能は必ずしも人を幸福にするとは限らない……昔の偉い人が言った言葉はそのとおりだと想う。――しかし、君ほどの存在は……」と、言いかけて黙った。

 

 轆轤秀光は直感で、何かが近づく感覚がした!!

 

 再びバックミラーを伺うと、白煙を一筋曳く〝影〟を瞳で捉えた……。あの姿は、そう忘れもしない――

 

 「百鬼丸ゥッ、貴様かッ!!」

 追跡者の名を口にする。

 少年……百鬼丸は、疎らに流れる車の上を足場に飛んで次々と距離を縮め、確実にこの車を追ってきた。

 

 執念深いその行動に、流石の秀光も喉を鳴らして呻く。

 

 が、後部座席の男――腑破十臓は違った。

 

 不敵な笑みを口元に零しながら、腕を解き傍らに置いた《裏正》の柄を掴む。

 

 「面白い、百鬼丸。貴様がそのつもりながら手合わせ願おう……」

 黒目の瞳が異様に爛々と輝きを放ち、外道の残忍さをよく現していた。

 



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89話

百鬼丸はすぐさま立ち上がり、網フェンスに沿って走り出した。頬を切る冷風が激しく、束ねた後ろ髪が強く嬲られた。――

 「よォシ、いくぞ」

 遠く、緩慢な速度で動く観覧車やゴンドラの影が地面に繊細に落ちた。それを踏んで、百鬼丸は両脚の速度をはやめる。秀光の思考の残滓を《心眼》によって探る。

 気配を感じた。それに誘われるがまま、遊園地と傍を走る道路の区画を遮る金網フェンスと、なだらかな斜面の芝生へ目を動かす。

 

 ……あそこなら、必ず連中も車で通過する。

 

 既に、《心眼》によって秀光の粗方の逃走経路は分かっていた。背の高いフェンスへ一気に距離を詰め、どこか出口がないか並走しながら探した。

 

 と、目線を斜め下に意識を向けると、黒色のレクサスが山道の緩いスロープ状になった道路から出てくるのが見えた。一刻の猶予もない、百鬼丸は確信すると右足の加速装置に若干の力を込め、跳んだ。靴裏に穴があり、周囲に真っ白な蒸気が噴射される。

 うかうかして居られない。

 左手に沿って4・5メートルはあるフェンスの上部を掴むとそのまま、ハードル障害物を超える要領で飛び越す。

 加速装置の勢いを利用して、車道へと身を投げた。

 

 空中へと大胆に身を浮かせた百鬼丸はそのまま道路へ激突するように、体が自由落下を始めた。

 

 

 ◇

 (――しまっ、た!! 加速後の落下場所を考えてなかった!!)

 勢いよく飛び出した末のことで、全く以後の考えを持っていない。

 

 と、浮遊感を味わっていると左車線に、ちょうど長距離トラックが走行していた。身を大きく逸らして受身をとるように貨物の上部へ転がる。追跡する車の後ろを捉えながら、その侭、腕に巻いた包帯の結び目を噛んで引っ張る。スルスル、と解ける――

 上膊には切れ目があり、乱暴に口で銜え引き抜く。

 白刃が晒された。

 と、同時に激しい風に体も晒された。

 それを加味して滑りをよくする為、舌で刀身を舐める。鋼の甘い味が充ちた。

 「――このド畜生」と、思わず歯噛みした。

 120km/hで走行する車に対し、こちらは80km/hほど。百鬼丸は視線を固定しながら後続車の長距離貨物トラックの荷台で追う形となった。……速度が足らず、標的を追う形となった。……肉の厚い銀刃が、西日に反射する。

 

 眼を眇ながら、腰ベルトに義手を差込み屈んだ姿勢から前進した。

 烈しい風は、耳元で轟音をたてながら絶え間なく襲いかかる。

 しかしそれにも構わず、長方形の荷台を遮二無二進む。

 シュー、シュー、という間欠的な音が聞こえる。

 加速装置の影響だろう。百鬼丸の体が沸き立たつように熱い。大腿部から放熱された湯気を感じる。空冷と共に、循環した人口血液を利用している為、否応なく彼の体内温度が上昇する。

 だが今はそんなことに思考を裂く余地はない。

 そう割り切ると、車影を目視で追い続けた。

 と、突然その車の後部座席のドアが走行中にも関わらず勢いよく開き、半身を乗り出す姿があった……

 

 男の横顔と視線が瞬間、百鬼丸の視線と絡んだ。

 

 「――ッ!?」

 

 『相見えたかったぞ、百鬼丸――』

 無精ひげに紛れた口端が、残忍に歪む。新鮮な殺意の孕んだ眼差しに、彼が常人成らざる人物だと悟らされた。

 

 

 ◇

 十臓は走行中のドアを開いたまま、側道を走る中古車を満載したキャリアカーへと飛び移った。片足と片手だけで器用に移動しながら、車を固定する部品を軽々と《裏正》で壊すと、キャリアカーのクレーン吊り上げ金具を引っ張る。

 そこに片足を乗せると、フロントガラスへおもむろに裏正を突き刺し、腕を大きく振り上げた!!

 

 

 「なっ、正気か、コイツ!?」

 加速装置を準備していた百鬼丸は危うく、驚愕に停止するところだった。

 

 質量のある曲線を大気に描き錐揉みしながら、破砕音を響かせた。道路構内に散々舞い散った鉄くずのスクラップ達は、容赦なく周囲へ落下した。

 

 ◇

 頭上から、不意に異音が聞こえた。

 

 某かの金属の軋む異音が響き渡る。ベアリング(軸受け)部分に亀裂が発生し、空中でバラバラになるのではないかと予想された。

 青い道路標識は、皓々と光を投じている。車線の白い線を何度も越境し、蛇行を始める。頬を切る風が次第に強さを増し、それに比例して苛立ちが募る。百鬼丸は、一時的ではあるが加速装置と左腕から引き出された《迅移》にて、二つの加速効果を得ていた――

 

 しかし、彼はそれで満足はしない。更に隣りを走行していた車両を見、フロントガラスを残忍な刃で貫き、百鬼丸のいる方向へと、軽々と1t近い重量を投げつけた。

 

 危うくのところで躱し続けた百鬼丸は、不快な感覚がして、頭を振りむける。

 眼前、突如空中を浮遊する車輌の影が顔に覆いかぶさった。

 「――チッ」

 舌打ちしながら、運転席に人影を捉える。

 (厄介だッ)

 と、肚の底で怒鳴った。

 《無銘刀》を構え、迷わず迫り来る車輌を真っ二つに切り裂いた! と、同時に運転席の男の首根っこを掴み、救出した。

 「はぁ……はぁ……」息を喘がせながら、右手に掴んだ男をトラックの助手席扉を開き、無理やりブチ込む。

 

 ヴォォン、という熱風と共に、背後で塵灰の舞い上がるのを感じた。肩越しに振り返ると切断された車輌が中央分離帯と無人側道に飛んでゆき、そのまま紅蓮の炎華を咲かせた。

 頬に伝う血に気がついた。……赤黒く重い血滴は額から質量を持って落ち、五セント硬貨ほどの大きさで広がった。

 

 滴る血をベロで舐め取り、百鬼丸は目線を彷徨わせる。

 

 ……獬豸(かいち)の如き形相にて、百鬼丸は十臓を睨みつける。

 

 剥き出しの牙から怒りの程が伝わる。

 

 「返せェ、返せッ!!」

 吼える。

 少年は、ただその一心にて咆哮するのだった。

 

 

 手首でぐるり、と回した《裏正》は怪しい紅を閃かせながら十臓はせせら笑う。明らかな挑発。

 と、傍らを通り抜ける度に標識や電子表示板の柱を斬り裂く。後続の百鬼丸へと槍の如く逼迫して尖り来る……!

 身を躱しながら、百鬼丸は必死に左腕の刃で捌きつつ周囲の車輌を守る。

 

 標識や掲示板の柱は見事に被害を出さず、あさっての方向へと飛んでいった。

 

 

 「フッ、はははは!! そうやって理性を保っているつもりか? それで俺に本当に勝てると思っているのか? なぜそこまで人を守る?」

十臓の問に対し、百鬼丸は、

 

「おれは人なんざ死んでも構わねぇ!! だが刀使の守りたい連中だから守るだけだッッ!!」

吐き捨てる。

 

 

 『お、おい誰だ!? な、なんなんだこの状況!! 誰か上にいるのか?』

 トラックの運転手が怒鳴る。

 

 カチン、ときた百鬼丸は突然前進を始め、フロントガラスに拳を叩きつけた。

 「うるせぇ、あと少しで別の車に移動してやるから我慢しろッ!!」と、逆ギレした。

 

 

 

 

 午後五時三〇分……

 左側に見える海岸線沿いに灯る外灯は点々と光を投じ、ラッシュアワーに混み始める車列を照らし上げた。

 合流車線から接続された部分などは更に混乱を極めた殺人的な混雑に巻き込まれるだろう。東名高速から首都高に至るまでのルートは、夥しいヘッドライトの群れに埋まっていた。

 

 彼らのようなごく普通のドライバーは知らないだろう。

 この道路には現在、二匹の「獣」が放たれた事実に……

 それは、荒魂にすら慣れた生活を送る人々ですら想像も及ばない「破壊」の権化たちであることを……。

 

 百鬼丸と十臓の激闘からはや一〇分後、警察車両が続々と高速道路へと流れ込み始めた。近隣の警察署はもとより、管轄が神奈川県警から警視庁へと移行した瞬間でもある。

 

 

 ◇

 

 僅かな時間――どこにも逃げ場のない状況――後続車輌は停滞し、次々と玉突きの事故を起こした。

 ひしゃげたガードレールが、目立ち始める。

 

 『今すぐ走行を中止しなさい……繰り返す……』

 警察車両から繰り返しの警告が叫ばれた――だが不運なことに、周囲は地獄絵図さながらの阿鼻叫喚にて、サイレンや警告の声すらかき消されていた。五台ほどが百鬼丸と十臓を追跡する格好となった。

 

 

 だが、真っ赤な猿面の顔貌は一切動じることなく、クレーンに掴まり、手当たり次第に切り刻んでゆく。警察車両も、度重なる渋滞と被害に連動して追尾する数が足りていない。

 並走するレクサスの窓を下ろして、

 「こんなに被害を増やされては、隠蔽だってできないぞ」秀光は低く愚痴る。

 それを聞き流しながら十臓は戯れに笑う。

 土面をバラバラと裂くように《裏正》の切っ先を突きたて、走行速度に合わせ舗道コンクリートを抉り取る。無数の亀裂が走った線から崩れてゆき、近づくことも容易ではない。

 『では皆殺しだ』

 と、簡略に告げた。

 

 ◇

 

 (あっちのほうが速度がいいな……)

 百鬼丸は、横を通り過ぎる警察車両を発見し、すぐさまトラックから飛び移った。パトランプをとっかかりに、身を低く屈めた。

 少年は、追尾する警察車両のV字型の赤いランプ部分に平伏しながら、機会を窺っている。……飛び出すタイミングを間違えれば、あの車を追うことすらできない。

 薄暗く、寒い。吐く息も白く凍てつく程だった。しかも、車両の速度に合わせている為に体感温度は尚低い。

 ……しかし百鬼丸は例外である。彼の大腿部に仕込まれた加速装置の熱量は、高温を放つ為、逆に丁度良い塩梅である。

 《で、どうするね?》

 愉しげに笑うジョー。

 目を眇め、苛立ち混じりに舌打ちをする。

 「今、考えているッ」

 呻くように応えたものの、実際はなんの手立てもない。

 

 

 考えろ、考えろ……今、すべき最善のルートを選びとるんだ。

 

 焦る気持ちを抑えて、百鬼丸は自問する。とにかく現状を打破しなくては――

 

 《ボクに一つ、いい考えがあるんだがいいかな?》

 

 「…………。」

 

 《無視、か。まあいい。――それより、彼らの側道に走る車両が何か分かるだろう?》

 

 百鬼丸は意識を前方に頭を向ける。

 車列の詰まった間、視界の端に、楕円形の巨大なタンクを積んだ車両を視界に収めた。

 《液体窒素を積んでいるようだね。……どうだい? アイツを使うのは?》

 

 「あれで奴の動きを封じるのか? でも可能か? ……いや、奴をおびき出してそのまま液体窒素のタンク内部へぶち込めば……或は勝機はある、か」

 腑破十臓は確かに強く、また外道である。それ故、この世界の全てを傷つけることも厭わないだろう。だが同時に、彼には現代のありとあらゆる知識が不足している。

 

 ……と、なれば機会は一回のみ。

 

 加速装置を十分に冷却しながら、膝を曲げ――その反発を利用して加速へと転じる。ジュン、と霧散した白煙は再び放たれた矢の如く一直線に十臓たちを目指した。

 ソニックブームに似た現象が周囲に発生し、走行車両たちの車窓が小刻みに震える。

 

 「うぉらららららあああああああ」

 威勢良く叫びながら、わずか3・5秒の間に距離を縮める。加速を調節しながら、最も十臓に肉薄している警察車両を足場に定め、降り立った。

 更に眼前を前に《心眼》の応用を試み、相手の「次の一手」を先読みした。

 十臓は、クレーンから手を離し別の車両へと飛び込む映像が脳裏を掠めた。――直後、プシュッ、という破裂音と共に唇に生暖かい感触が伝う。

 「!?」

 右手で確認すると、鼻血が吹き出していた。

 

 《ありゃりゃ、百鬼丸くん。君、脳みそを酷使しすぎたようだね。あまり能力の酷使は体に良くないよ》

 

 「うっせぇ、黙れ!!」

 それに構わず百鬼丸は、戦術を組み立てる。

 

 

 ◇

 

 (なんだ、なんだこいつはッ……!!)

 十臓は軽い畏怖すら覚えた。

 次々に障害物を超えて、こちらに確実に近づく。まるで地獄の門番のように執拗で諦めが悪い。――成程、これが噂に効いた〝百鬼丸〟なのだ、と合点がいった。と、同時にこの場で決着をつけたい欲求に駆られた。

 

『秀光、奴とここで決着を付けるぞ』

 脇を走る車窓へ言い放つ。

 

 視線を外さず、そう告げる十臓に最早ため息しか出ない……。

 「ああ、勝手にしてくれ。……奴を始末するもよし。ただ私は先に拠点へ戻るぞ」

 言い残して、アクセルを踏む。

 

 グルン、と《裏正》が大弧を描く。

 (面白い、面白いぞ、百鬼丸ッッ!! ここまで血が滾るのは久々だァ……お前が地獄の使者でも構わぬ。心ゆくまで破壊をしようぞ!!)

 

 再び戯れに十臓はキャリアカーの残り三台を無理やり片腕で引きちぎり、投げ飛ばす。ゴロゴロと車体が回転しながら百鬼丸を目掛けて殺到する。道路に突き刺さり、オイル臭い香りを漂わせたかと思うと、一瞬光が閃いた。衝撃波が空気を震わす。

 天を焦がす紅蓮と黒炎が立ち上った。

 

 つい、暗さに気がついて十臓は空を仰ぎ見る。

 夜空になっていた、天を焦がす煙と炎は烽火のように上へ上へと燻る。

 

 「……あっはははははは、はははは」

 

 横顔を、焔の残照に当てながら十臓は高らかに哄笑する。

 

 「再びの地上を踏んで、殺戮を繰り返す。破壊、殺戮……いい味だ。なぁ《裏正》。お前が俺の邪魔をしたことは咎めはせぬ。だから、その身に多くの血肉を刻んでやろう」

 



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90話

 月下の柳は河川をそよぐ。

 江戸、城下。

 冬の頃、冷えた月光が皓々と地上を照らす。未だ普請の続く町は、絶えず大工や普請の諸国大名お抱えの武士たちの姿が辻を行き交う。……が、丑三つ時の現在は人影一つ無い。

 城下を含め、江戸を恐怖に陥れる謎の「人斬り」の存在が大きい。

 柳生三厳(十兵衛)も御庭番衆を家光より借りて探りを入れていた。

 

 そして、おおよその見当はついた。

 

 (腑破十臓――か)

 島原以後、家を出され町人長屋へと移り住んだと聞いている。その時の活躍の様子は聞き及んでいるが、勇将というに相応しい。特筆すべきは町に潜伏させていた御庭番衆も何人か斬り殺されている。

 馬鹿者でもない。

 いや、むしろその学識は林羅山の塾に通って塾頭代理を務める位だ。知恵者でもある。ただその粗暴な性質が彼の欠点という他ない。噂では、羅山を言い負かしたと言われている。『春秋』の解釈について――特に、公羊伝を以て稠密な理論によって朴訥とした口調だが明瞭に反駁したのだという。羅山は密かに、彼に後継者として期待をしていたという。

 

 「しかし忌々しい。我が門下生が斬り殺されているのは我慢ならんな……」

 隻眼の男……十兵衛は、腕組みしたまま編笠の下から冴えた月を見上げる。両岸に挟まれるように浮かぶ小舟の上、彼は待った。報告によれば、今日この場所にほど近い橋に現れる……そう聞き及んでいた。

 

 

 ぺた、ぺた、ぺた……

 

 と、耳の良い十兵衛は足音がするのに気がついた。

 遠く、夜に霞む橋の上に人影らしき姿があった。丁度、橋のたもとに酒に酔った男が千鳥足で橋へと向かってゆく。

 

 「……チッ」鋭く舌打ちする。

 珍しく粉雪混じりの江戸。

 野太刀を掴むと、十兵衛はおよそ尋常成らざる跳躍で橋の欄干へと降り立つ。義経の八艘飛びを一度やってみたく思い、幼児より訓練した成果が出た。

 「オイ、お前。腑破十臓だな……?」

 十兵衛は回りくどい言い方が苦手だ。だから直接尋ねる。鋭い、猛禽類に似た眼には殺気が溢れている。これに恐れおののく者は、下手人ではなかろう。

 そう判断した。

 

 ――――果たして

 

 人影は、月の斜光に横顔を照らされた。

 「いかにも。お主は……何者だ?」

 無精ひげを生やした男は、凄愴な顔貌で見返す。

 

 これが江戸を恐怖に陥れた人斬りなのか? と、十兵衛は戸惑った。まず彼の装束……即ち、白い襦袢が死装束を意識しているように見えた。

 黒瑪瑙の太い鞘を握り、片目を眇める。

 吐く息が白い。

 十兵衛は悟った。

 ――この男は、ここで始末せねばマズい! 

 本能で悟った途端……先に動いたのは十臓だった。

 

 橋板を素足で蹴り、欄干の上に佇む十兵衛へ横一閃に薙ぎ払った。鋭く研ぎ澄まされた一撃が尋常ならざる剣術の才覚を否応なく感じさせた。

 

 「ほぉ……これは、ウチの門下生でも太刀打ち出来きんなッ」

 宙に体を預けた十兵衛は素早く抜刀し、頭上から一気に打ち下ろす。

 

 

 火花が夜に咲いた。

 

 鋼と鋼の重低音が共鳴しながら、闇に沈んでゆく。

 「ふっ、ははははは……貴様は、柳生三厳だな? その太刀筋、噂に違わぬ! 成程他の有象無象の柳生流と比肩できんものがあるな」喜悦に歪んだ口調で、十臓は叫ぶ。

 

 「あはは……そりゃ、どーも」

 愛想笑いを浮かべながら、冷や汗を垂らした。

 (なんだ、この男の馬鹿力はッ!? 病床にあったと話しを聞いていたが、そんな素振りすらないぞッ!?)

 混乱しながらも、白刃を閃かせる。

 

 「……持久戦かな?」十兵衛は苦笑い混じりに、相手の体力が尽きるのを待った。

 

 ◇

 

 「はぁ……はぁ……どうした、先程から何故手出しせぬ?」

 間合いを遠くとり、一向に剣戟を交えない十兵衛に苛立ちが募る。

 

 結核の病が着実に、十臓を蝕んでいた。

 

 ゴホッ……ゴボッ……

 

 口から多量の血塊を吐き出し、床板へと零す。ドロリと粘土のような質感にて、足元を濡らした。

 

 「さあ、こい!! お前と斬り合いたいのだッッ!! 弱者の血肉ではもう満足できぬ! 強者こそが相手に相応しいのだッ!」

 怒気を交えながら正眼に構える。肩は大きく波打つ。

 

 (そろそろ頃合かな?)

 

 十兵衛は圧力をかけながら、間合いを縮める。

 

 「よしッ、来たか!!」十臓が喜色に彩られる。

 

 ――が。

 

 「甘いッ」

 叱責するように、僅かな隙を突き十兵衛は身を低く屈め足払いをする。

 

 一拍、油断ができた為、十臓は身を背後へ退いた。しかしそれを見逃さず、真下から十兵衛の拳が突きあがる。顎下に直撃し、頭蓋骨の芯を捉えた。

 

 「ガハッ……」

 しかし、未だ闘志衰えずの十臓は迫真の一撃を隻眼の男へと振り下ろした。

 

 

 乱れのない、正確な斬撃。

 

 だが、それ故に柳生の本領が発揮された。

 

 「――おい、忘れたのか? ウチのお家芸をよォ!! 無刀取りだぁあああ」

 十臓の一撃を拝むような格好で両手で受け止める。親指の付け根を深く切ったようで、鮮血が流れ、肘まで流血が伝う。

 

 おいおい、嘘だろ! と驚愕しながら十臓の膂力に驚嘆した。

 

 「腑破十臓! 貴様は殺さぬ。捕縛だ。その平和を乱した罪を償え」

 そう言い残して、十兵衛は正拳突きで鳩尾を貫いた。

 

 ――ガハッ、と盛大に口から全てを吐き出して倒れこむ。

 

 冷たい床板に伏しながら、霞む視界で十兵衛の背後を追っていた。

 

 「なぜ、殺さぬ? ……もう、いちど、殺し合いを、した、い」

 途切れ途切れの言葉に、忸怩たる思いが増す。万全の状態で、本当の殺し合いがしたい、と願っていた。

 

 

 だが、隻眼の男は月光を浴びながら醒めた目つきで見下し一瞥をくれる。

 「ムリだ。……お前はこれから公儀で沙汰を待て。そうさなぁ……お前が本当に戦いたければ、いずれ生まれるであろう柳生新陰流の天才剣士にでも頼むんだな」

 呵呵と笑い、十兵衛は立ち去った。

 

 雪片が十臓の頬に落ち、溶けた。

 

 (柳生新陰流――? ふっ、覚えたぞ、その太刀筋)

 

 外道に堕ちて尚、そのことは記憶せるのだと思った。

 

 ◇

 

 紅の猿面に似た顔貌に、一瞬の間が宿ったように俯き加減になっていた。

 (衛藤可奈美、か。そうか。奴の太刀筋も柳生のソレだったな)

 トンネルのオレンジ色をした構内を通過しながら、《裏正》を握り変える。百鬼丸は警察車両の上で平伏しながら反撃の機会を窺っているようだった。

 

 『さて、決着を付けるか』

 物思いから回復したように十臓はいう。

 

 東名及び首都高における被害状況――死傷者一二六名、火災複数。事故渋滞による物流の影響、不明。

 

 この日、陸路の主要路を襲った事件は各メディアによって速報として伝えられた。

 

 

 2

 時間をやや戻し、原宿。

 「ん~? あれ? 清香と連絡つかないんだけどどうしてかな?」

 美炎は怪訝に眉間に皺を寄せる。

 調査隊として行動して以来、なんだかんだ気心の知れた存在となった。田舎育ちの美炎はどうも人ごみには弱い、と自覚する。

 

 「あはは。お友達とは別れてしまったんですね――ところで、袖を掴むのはやめてもらえると助かります」

 優しい声音で、美炎に語りかける男――ジャグラー。

 彼は、内心忌々しく思いながらも美炎を邪険に扱うことも出来ずに困惑していた。

 「あっ、ゴメンなさい! つい……えへへ」

 愛想笑いで誤魔化す美炎。

 「…………。」

 さて、この小娘をどうしたものか、と彼は考える。

 

 丁度人が多くて助かる。〝怪獣〟の餌に困らないかな。

 

 ジャグラーは、どこからともなく、大気中から『ダークリング』と呼ばれる道具を取り出し、美炎から見えない位置で隠しながら発動の機会を窺っている。

 

 「いえ、心細いのですよね。気がつかずにスイマセン。お許し下さい」

 にこっ、と微笑みかける。

 

 「あっ、えっと……いえ、その……」

 ドキリ、とした表情で美炎は顔を真っ赤に染め俯く。

 

 (なんなんだ人間というのは――)

 益々不可解な感情に囚われながら、ジャグラーはこのタイミングを逃さなかった。

 

 『ダークリンク』を掴んだ腕を天に掲げ、意識を集中する。

 

 「ふっ、あはははは、さああ全てを喰らえ、ニンゲンという最高の餌がいるこの場に降臨せよッ!」

 ジャグラーは、唐突に叫んだ。

 

 「――えっ? はっ!? ど、どうしたんですか?」

 美炎は顔を上げ、ジャグラーの横顔を凝視する。

 

 「…………ふっ」

 しかし、彼は何も答えず口端を曲げる。

 

 不敵そのものだった。

 

 

 ダークリンクから放たれた邪悪で禍々しい光から……〝影〟が生まれた。

 

 「おおっ!」

 ジャグラーは色めきだった。待ちに待った破壊衝動を充たすに足りる存在。

 

 

 その「影」は具象化していくように姿形を構成してゆく。

 

 「ふははははは……ハァッ!?」

 と、ジャグラーは高笑いの途中で素っ頓狂な声を上げた。

 

 『ンン? ここはどこだ?』

 この世の者とは思えぬ声。

 

 原宿の街中に突如出没した不可解な影。

 

 その正体は外道衆の怪人、「アベコンベ」である――。

 

 「だ、誰だお前!?」

 

 『それはこっちのセリフだ!! ここはどこだ?』

 

 くそっ、こんな筈じゃないのに……ジャグラーは予想外の出来事に脳内処理が追いつかず、歯噛みした。

 

 「え~っと、あのジャグラーさん? これはどういう状況なんですか?」

 大きな目をパチくりとさせて美炎は怪人アベコンベを指差す。

 

 「なっ、こ、これはその――」

 勢いよく横へ腕を逸らしたジャグラーは弁解をしようと、取り繕わねば、と混乱していた。……そして、事故は発生した。

 

 もにゅ、もにゅ、

 

 と、柔らかな感触がジャグラーの手の中に感じられた。

 

 「は?」

 戸惑うジャグラー。

 

 「えっ?」

 唐突な出来事に呆気にとられる美炎。

 

 少女は目線を自らの薄い胸部へと落とす。その僅かな胸のふくらみに、ジャグラーの手がすっぽりと収まっていた。

 

 プルプルと小刻みに全身を震わせる美炎。

 すぐさま手をどけると、

 

 「あ、あの、これは違うんですよ――その、オレは別に〝こんな虫刺されみたいな膨らみ〟を揉みたくて揉んだワケではなくて、本当に――」

 ジャグラー必死の懇願はまさに誠実さに溢れる声音と真剣な眼差しだった。

 

 ……だがそれゆえに事態は最悪へと向かった。

 

 「っっっ、最低っ!!」

 顔を真っ赤にして、美炎は大きく右手を横にスイングさせた。

 

 最後にジャグラーの視界に映ったのは涙目の少女が、自らの胸を片手で覆い隠しながら「すごく格好よくて信じてたのにっ」というワケの分からない文言だった。

 



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91話

ごめんなさい、再び時系列は高速道での闘いへと戻ってます。あとで時系列を直しますのでご容赦下さい。


「クク……そうか、衛藤可奈美――これも宿命なのだな」十臓は俯き加減に呟いた。幾星霜も待ちに待った、柳生新陰流の天才と直接対峙する……。

 外道に堕ちるのも悪くないな。こんな運命ならば、バテレンの神の祝福とすら思える。俺は仏に嫌われているからな。」

 一二〇キロで走行する隣りの車両に声をかける。

「秀光、ここで百鬼丸と決着をつけてもいいのだろう? 気が変わったんだ」

 

 唐突な申し出に驚いた秀光だったが、結局頷いた。

 「分かった。アイツは今後の計画の障害になる。始末してほしい」

 

 その言葉を持っていたかのように、十臓はキャリアカーから首都高の防音障壁へと跳んだ。

 

 

 1

 

 

 とある中華飯店。

 

 店のTVモニターには午後五時のワイドショーニュース番組が放送されていた。

 『えーっ、ただいま入りました速報です。現在、東名及び首都高にて甚大な被害が発生している模様。えー、繰り返します。現在……』

 女性アナウンサーの冷静さを取り繕うような逼迫した声音が続く。

 『現在、上下ともに通行止めとなっております。また、死傷者ですが、一二六名。いまだ被害状況は把握しきれておりません。引き続きの情報にご注意下さい……また、これから帰宅ラッシュとなりますが、首都高は使用不可となっております……』

 

 緊急事態のようだった。

 スポーツ新聞で贔屓の球団の記事を眺めていた店主は、チラりと目を上げ画面を一瞥する。

 

 「はぁ……明の野郎、この件にも出動するのかねぇ」

 ボヤきながら、店主は珍しくこの時間に人影のない店内を見回す。恐らくこの事件の影響だろう。会社帰りのサラリーマンはおろか、部活帰りの学生の姿もない。

 

 「いやはや、参ったね……」

 ツルり、と禿げた頭を一撫でする。

 

 女性アナウンサーから話しを引き継いだ男性司会が、甲高い声でコメンテーターに話題を振る。

 

 『いやぁ~、しかし今年は大規模な災害……言い換えれば、人災が多いですね。なんでも話しによると、この高速道の爆破事故なども、人間、というより着ぐるみのようなおかしな格好をした人影と、警察車両の上に映し出された人影が原因だとの情報も入っていますが……』

 

 『―――――そういえば』

 

 と、中年の女性コメンテーターがややヒステリック気味に割り込んだ。

 

 『つい最近、刀剣類管理局でもこのような問題を発生させましたね。今、画面に映し出されている映像を見た限りでも、人間技ではないでしょう? やはり〝荒魂〟関連じゃないですか?』

 

 恰幅のよい男性コメンテーターは、よく日焼けした肌で、神経質そうな目を更に細め、唸る。

 『最近は刀剣類管理局局長、折神紫氏の責任問題となっている〝廃棄〟問題もありますしねぇ……まぁ、確かに刀使というのはこの社会では重要です。ですが、彼女たちはまだ学生。その彼女たちを統率する行政側の職務怠慢がひどい。なにより、国会にも来ない。代理の折神朱音氏も可哀想だ。それに、今仰られたように、これは――荒魂に関連していると言っていいでしょう』

 

 司会の男が、すかさず口を挟む。

 

 『ええ、もしこれが……刀剣類管理局や特別祭祀機動隊の案件であるならば、最早世間からの非難はピークに達しますね。彼女たちはよく市民生活を守ってくれていますが……こうも問題が多いと、一度組織を解体するという可能性も……』

 

 

 

そう言いながら司会は「では、一度街の声を聞いてみましょう」と街頭インタビューへと映像を切り替えた。

 

 

 モザイクのかかった老若男女が次々とインタビューに答えている。

 

 『正直、荒魂だのなんだのって関東じゃ安心して眠れないよ』

 

 『子供がいる身としては、一刻も早くこんな事態を収束させてほしいですね……』

 

 『はぁ? 刀使? 俺よくわかんねぇーや、パスパス』

 

 『おいおい、しっかりしてくれよォ! こっちは血税払ってんだよ。まったくいい加減にして欲しいねぇ!! 二〇年前だって結局さぁ、行政側が……』

 

 

 概して、インタビュー内容は刀使を含む刀剣類管理局への厳しい意見で占められていた。

 

 

 映像が終わると、喧々諤々とコメンテーターたちが喋っていた。

 

 『やはり、特別祭祀機動隊にあんな武装をさせる事がマズいんですよ、自明の理です! 国内法では警察権のみの……』

 

 『理解不能です。そもそも、警視庁の組織の一部としてですね……、いえ、ですから軍隊ではない、我が国では軍隊は〝ない〟んです。えっ? はぁ~、だから』

 

 終始このような平行線のやり取りが続けられていた。

 

 

 2

 

 此花寿々花は、管理病棟の一画に設けられた運動施設で柔軟体操の後、軽い運動を済ませていた。たまたま、室内に設置されていたTV画面からの騒音に柳眉を顰める。

 

 「はぁ……まったく、実情を知らない方々はお気楽なコトで」

 醒めた眼差しでワイドショーを一瞥する。

 

 本来、四か月前を含めても重大な事件事故というのは未然に防げるものなどないのだ。全て事後処理をせざるを得ない。また、初期段階では情報が錯綜し、正しい情報から対処を導き出すというのが難しい。

 

 うっすらと、スポーツスウェットが汗ばむ。

 

 軽く頭を振って、タオルを取ると額の汗を拭う。

 

 

 ガチャリ、と扉を開く音がした。

 『あの~、お久しぶりです』

 聞き覚えのある少女の声だった。意識を向けると、橋本双葉が鎌府の制服を身に付けながら、軽い会釈をして入室してきた。

 

 「あら、お久しぶりですわね。どうかされましたの?」

 

 「ええ、丁度あの番組見てたんですね」

 双葉が指さしたのは、件のワイドショーだった。

 

 嫌悪混じりに首を巡らせた寿々花は、

 「ええ……それがなにか?」

 と、訊いた。

 

 「あの高速道で戦っているのって……ウチのにいさんなんです」気まずそうに、双葉はため息をつく。

 

 その様子はまるで、真希や結芽の後始末を任された嘗ての自分(寿々花)の苦悩に重なった。それゆえ、「ふふっ、そうですの……」と軽く噴出した。

 

 「なっ、どうして笑うんですか、ひどいです……」

 

 「あら、ごめんなさい。ですが、わたくしも貴女同様に色々と面倒をかける方々に囲まれていましたので、つい思い出しただけですわ。――それより、何か御用があって此方に来たのではなくて?」

 

 『それはボクが説明するよ……』

 双葉の背後から凛々しい声がした。

 

 「えっ……!?」

 

 聞き覚えのある声に、寿々花は色めきだった。

 

 

 「……久しぶり、かな?」

 

 親衛隊第一席、獅童真希。

 

 一見して中性的な顔立ちの彼女だが、今の表情は疲れの伴う顔色だった。

 

 「どうされたんですの? 急に……」

 

 

 「キミに話したいことがあるんだ。……数時間前まで留置所、というか専用の個室に居たんだ。それでも開放されてから真っ先にキミに会いたくてね」

 

 「わたくしに会いたくて……? っ、ゴホン!」

 珍しく、狼狽える寿々花の様子に萌えながら、双葉は忍び笑いを漏らす。

 

 「ええっと、今起こっている事件も含めて綾小路の不穏な動きについて……此花さんの母校ですよね?」

 

 不穏なワードに耳ざとく表情を切り替え、頷く。

 

 「……ええ、ぜひお聞かせ下さいません?」

 

 

 

 3

 

 「ボクがひとりで旅をしていた頃……、というよりも研究室を襲った奴を含めてもいい。率直にいおう。いまの綾小路は危ない。あの学校では今、おかしな連中を匿っている。それに現在消息不明の筈だった高津学長の姿も確認されている。この四か月、荒魂だけじゃなく別次元の異形な生命体が各地に姿を表しているんだ」

 

 真希が、努めて冷静に説明する。

 

 寿々花、真希、双葉は病棟の休憩室にある小さなテーブルを囲み、自販機のジュースに口をつける。

 

 一見、少女たちらしい何気ない光景だった。しかしその内容は、重い。

 

 

 いま、この世界を襲う勢力――その中枢に位置する綾小路武芸学舎。かつて通っていた伝統ある母校が現在、騒乱の渦中にあるのだという。

 

 「……看過できませんわね」

 ワインレッドの毛先を指先で弄びながら、呟く。

 

 「ああ、ボクもそう思う。舞草の密偵の情報が正しいならば、綾小路では〝近衛隊〟という組織が編成されているらしい」

 

 「近衛隊? まぁ、随分と大仰なお名前ですこと。それで?」

 先を促す寿々花。

 

 しかしこれ以上は詳しく分からない、とでもいうように真希が首を振る。

 

 「あの~」

 おずおずと、先程まで黙っていた双葉が口を開く。

 

 「……? どうされましたの?」

 

 「その綾小路の内実に詳しい密偵の話しですと、以前……四か月前のショッピングモールを襲った事件対応を行った綾小路の刀使が中心だと」

 

 四か月前、埼玉と東京の中間に位置する巨大民間施設を襲った殺戮事件。その現場対応を主導した双葉は無論、救援に行けなかった親衛隊の二人も表情が硬くなる。

 

 「ますます厄介な事になりましたわね。それに肝心の守る対象というのは……?」

 

 「間違いなく、タギツヒメです。現在、紫様に憑依していたタギツヒメが三柱に別れ、そのうちのひと柱となっています」

 

 「なるほど……状況は芳しくないどころか、以前より悪化していますわね。なんとなくですが、双葉さんのお兄様である百鬼丸さんが今戦っている状況がぼんやりと理解できましたわ」

 

 バラバラの話しから推測し、結論を導き出した寿々花。

 

 その理知的な雰囲気が、やはり親衛隊一番の知恵者として謳われるだけのことはある、と双葉は感嘆した。

 

 「はは……さすがだね寿々花は。ボクは今でも頭が混乱して……今まで償いのために全国を行脚していたのだけどね……」

 

 「そうでしょうか? それはそれで真希さんらしい行動で良いと思いますが?」

 

 

 勝手にイチャイチャしようとする雰囲気の二人を察した双葉が「ゴホン」と大きく咳払いして、話しを戻す。

 

 「……それで、なんですが。綾小路への潜入をする計画があるんです。まさかにいさんが今高速道で闘うとか思ってませんでしたが……大量に刀使が辞める事態になっている現状、潜入は難しくないと思ってます………それで、誠に不本意なんですが……綾小路の生徒に案内を……」

 

 「残念ですが、わたくしは親衛隊の期間が長くてお役に立てそうにありませんが……?」

 

 「あ、いえ……寿々花さんには計画のアドバイスなんかを求めてまして……道案内自体は……南の島に飛ばされていたクッッッッソ変態刀使をですね……あ、汚い言葉失礼しました」

 

 「「……?」」

 

 真希と寿々花は顔を見合わせた。

 

 

 と、双葉のスカートから携帯の音が鳴る。

 

 

 「……はい、もしもし。えっ、今ここどこかって? チッ、病棟の休憩室ですが。は? 塩対応可愛い? ……黙ってはやくこい」

 

 ピッ、と通話を切った双葉は珍しく冷淡な態度だった。

 

 

 「え~っと、協力してくれる人間にその態度はいいのかい?」真希が苦笑いを浮かべる。

 

 

 「あっ、はい。コイツは基本これくらいで大丈夫です!」

 

 「…………それで、その協力してくれる人物のお名前は?」

 

 チッ、チッ、チッ、と舌打ちを連続して双葉は頭を抱える。

 

 「山城由依……です、最低の変態です! セクハラ女です! にいさんといい勝負します!! 最悪です!!」

 

 

 と、タイミングがある意味最高の状態だった。

 

 『んん~っっ、美少女たちの香しい呼吸と体臭が満ちているぅ~っ、最高っっ!!』

 

 明らかに場違いの絶叫が遠くの廊下から聞こえてきた。

 

 双葉の表情は、絶望に陥った人のソレであった。

 

 

 「「…………。」」

 

 真希と寿々花は、再び顔を見合わせながらこれから来るであろう厄介な難事を思った。概ね、面倒くさい方向へと自体は進んでいるのだ、と。

 

 

 




今期はみにとじと「どろろ」が同時に放送していて個人的にとても嬉しいです! でも、妖怪の数が12って……まあ、妥当なんですかね。途中のサメとか亀みたいなの謎退治が無くなるんですかねぇ……。


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92話

 1

 衛藤可奈美は柔らかな息を一定の間隔で吐き、御刀《千鳥》の白柄を握り直す。正眼に構えた剣は想像上でいくつも斬り結ぶ軌道を敢えて予測せずに《千鳥》が「流れたがる」方向へと自然と動かしてやることに注力する――

 大切なことは頭にあるイメージと体の動きが一致すること。

 ………静寂。

 人気のない鎌府の道場の一画。

 突如訪れた無音の世界で孤独に身を置く少女。

 澄んだ神経は、別次元の領域へと導くように脳内の雑念が一切取り払われ、妙に頭が冴える。

 今年で十四になる可奈美は、しかし剣の伎倆に於いては既に現役刀使でもトップクラスだった。自らの流派以外も積極的に取り入れ、更なる剣の高みを目指していた。

 

 日課である剣術の鍛錬の後、ひとり精神統一の意味を込めて道場で御刀を握る。冷静な思考を保たなければ……

 

 ドクン、

 心音ひとつ、高鳴った……。

 

 集中が乱れる。――ああ、またダメだった。

 可奈美は軽い失望を覚えながら、歯噛みする。そして不意に記憶の底から這い出る「人影」……

 

 腑破十臓と名乗った男は、残忍な剣ではあったものの、不思議とその強さに魅せられてしまう自分をみつけ、可奈美は慌てて首を振る。

 

 人の容貌でありながら、既に人でない――

 

 単純な直感だったが、自然と百鬼丸の横顔が瞼の裏に浮かぶ。 

 

 (――百鬼丸さん)

 

 彼と離れて随分と経つ。その間に、彼は薫やエレン、舞衣など他の刀使と共に行動をしたと聞き及んでいる。……会いたくない、と言えば嘘になる。だが今はどうしても彼と顔を合わせたくはなかった。きっと、今会えば自分自身が制御できない衝動に駆られる気すらしていた。

 

 「だめだ……どうして、最近集中できないんだろう……?」

 可奈美は体表の《写シ》を解除して刀身の比較的短い《千鳥》を鞘に収める。ちん、という金属の音が鞘に反響した。

 

 

 「可奈美、ちょっと、いい?」

 

 微かな声音が、道場の出入り口から聞こえた。

 可奈美が振り返ると、糸見沙耶香が華奢な姿で佇んでいた。

 

 「……うん? どうしたの沙耶香ちゃん?」

 取り繕ったような笑顔で振り向き、問いかける。

 

 色素の薄く長い前髪の間から、伏せ目がちに戸惑っていた。

 「あの、ごめんなさい……」

 

 突然の謝罪に、可奈美は一瞬「えっ?」と小首を傾げて反応に困った。一体、なんの事なのだろう。逆に狼狽すらしてしまう。何か言われただろうか――

 

 ……ああ、あのことか。

 

 可奈美は自然と、記憶の糸を手繰り、一つ思い当たる節を探り当てた。

 

 〝気づいてない? 可奈美だけひとり遠い所にいる――〟

 

 以前、綾小路との刀使と共に入浴した際に沙耶香に言い放たれた。

 

 その一言は、可奈美の鬱屈を全て言い表していたのだった。だから「違う」と否定もできず、ただ黙ることしかできなかった。〝タギツヒメ〟との闘い以来、有り余る力が、いつしか「強者」との闘いを求めていることを、本質的に沙耶香は嗅ぎ取っていたのだ。

 

 「この前、可奈美に私ひどいこと言った……しっかり謝りたくてここに来た」

 朴訥な喋りながらも、その誠意は伝わる。

 実際悪気があって言ったのではないだろう、それは可奈美にも解る。

 

 だから、

 「ううん、全然気にしてないよ沙耶香ちゃん。あっ、そうだ! いま時間あるかな? ちょっと練習相手になって欲しいんだけど、ダメかな?」

 いつも通りに振舞う。――多分、これでいい。この『仮面』を被った侭の私もきっと私なんだ。

 

 可奈美は自らにそう言い聞かせる。

 

 〝いつでも明るくて元気な衛藤可奈美――〟を演じるのは慣れている。普段通りにすればいいんだ。

 

 言葉を全て飲み込んで、

 「どうかな?」念押しするように、咲き誇る笑顔で尋ねる。

 

 ポツン、と佇んでいた沙耶香は目を意外そうに瞠り、

 「……うん、わかった」

 と、寂しそうな微笑で頷いた。

 何となく、少女の隠した感情と葛藤を悟ってしまったのだ。

 

 

 (…………可奈美は多分、いま無理してる。前の私みたいに気がついていない)

 なぜだか、ふと沙耶香はそう思った。

 

 現在の可奈美の雰囲気は、まさに元気印の天然娘――という様子である。

 だが、それは上っ面だけ。

浅からぬ関係を持った沙耶香は知っている。いまのように多弁を弄する可奈美は、どこか心ここにあらず、という状態であることを。

  

 まるで、孤高の山脈の巓に憧憬の念を抱く者のような、どこか取り憑かれたような印象すら受けた。

 

 「…………百鬼丸だったら、可奈美の相手、よかったのかな」

 無意識に小声で沙耶香は囁いていた。本当に強く、そしてどこまでも果てのない存在である少年の後ろ姿。彼がいれば、可奈美は満足してくれるのかもしれない。

 でも、自分は百鬼丸じゃない。

 天才、特別な才能がある……そう言ってきた周りの大人たちの媚びへつらいが、現在の沙耶香にとっては、滑稽でしかない。

 本当に強い存在を知った今、迷いながら強くなるしかない自分自身と向き合うことでしか前に進めないのだから。

 

 薫とねねから教わったように「自分の頭で考えて、悩んで斬る」ことを実践できるように。

 

 

 沙耶香の逡巡とは別に、可奈美は沙耶香の言葉に動揺し、

 「…………。」

何も言えなかった。

 耳ざとく、可奈美は沙耶香の小声を漏れ聞いていたが、敢えて聞こえないように、背中を向けて無関心な素振りをした。

 

 ギュッ、と可奈美は膨らみかけた胸元に拳を握り締める。

 甘栗色の利発な髪に西日が差し込み、薄い茜色に染め上げた。琥珀色の瞳は伏せられ、弱い光が彷徨っていた。

 

 

 2

 汐留インターから接続される湾岸線の道路には、午後六時になっても渋滞解除の兆しが見えなかった。ヘッドライトが無数に光る中、夕闇から本格的な夜に切り替わった――。水平線の向こう側は既に真っ暗で、海風がビュウ、ビュウと吹き付ける。

 時折、クラクションの激しいがなり声まで聞こえてくる有様だった。

 予想を遥かに超える被害に対し、警視庁を含む治安維持組織は自体の収束になんら有効な手立てを打てずにいた。

 

 通常、警察部隊――その手に余る場合は、機動隊の投入、もしくはSTT(特別機動部隊)を編成して逐次投入する計画となっていた。日頃の荒魂事件の際はこの方法が確立されており、現場での超法規的対応も視野に入れた行動が可能である。

 

 

 STT先遣部隊のD分隊隊長田村明はマルボロを美味そうに吸いながら青い煙を吐き出す。休暇を潰された恨みを忘れさせてくれる唯一の嗜好品だ。右腕に持った重量物を一度、橋の欄干に立てかける。透明なシールドはアクリル樹脂とカーボンなどの複数の材質によって作られている。しかし、本来は荒魂という化物と対峙した際には、どんな文明の利器ですらも歯が立たない、そう痛感させられる。

 G36の安全装置を確認しながら、肩ベルトをかけ直す。

 防弾チョッキも履きなれたブーツですら、今日はやけに重い。

 明がプッと、煙草を噴き出して足元で踏み潰す。……すると背後から、

 「隊長、民間人の避難がようやく始まったそうです」副隊長の福田がいう。

 「了解。さて、現場はどうなっているのかねぇ……」

 顎をさすりながら、目を細める。

 無線連絡によると、人型らしき異形の影と、警察車両に飛び移った影が破壊の中心だという。……単純なテロ事件ですらない。

 そもそも人間技ではないのだ。

 (となると原因はお前か――百鬼丸)

 ヘルメットの上から無意識に頭を掻く。ふと、限りない足音に気がつき目を横にやる。

 

 黄色いテープの規制線の向こうには不平顔の老若男女が列をなして歩いている。車を放棄させてでも人命を優先――これは正しい判断だ。もっとも、SNSやネットでは非難轟々だろうが……

 

 「市民を守るのも俺たちの努めだからなぁ」

 部下を失った悲劇を繰り返しはしない。今自分にできる精一杯をやるだけだ。

 そう言い聞かせうように、右腕の義手の指先を曲げては伸ばしを繰り返す。

 

 ヘッドセットから、再び通信が入った。

 『えー現在、湾岸線沿いから対象者たちの車輌がD分隊警護区域へ接近中。準備されたし』

 と、簡単な情報と共に伝えられた。

 

 明は、夜空を仰ぎ見る。

 「――マジかよ」

 当分、特別賞与にありつけるな、と自嘲してみせた。

 

 

 



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93話

垂示(すいじに)(いわく)殺人刀(さつじんとう)活人剣(かつじんけん)(すなわち)上古(じょうこの)風規(ふうき)(これ)今時(こんじの)枢要(すうようなり)(しばらく)(いえ)如今(にょこん)那箇(なこか)(これ)殺人刀、活人剣。(こころみに)(こす)(みよ)

 

 

                   ――――碧巌録第十五則《雲門の倒一説》。

 

 

 

 1

 午後六時半。

 東京都、湾岸線沿い。十一月の朔風は殊に激しさを増し、帰宅時の人々に容赦なく吹き付ける。……しかし、この日だけは普段の日とは異なる様相を呈していた。上空には幾つもの報道ヘリが旋回し、サーチライトを照射していた。

 警察庁所属、特務作戦機動部隊が護送車を連ねて首都高の一定区間を規制した。金網の貼られた車窓から鈍色に光る機動隊員のゴーグルが外灯に反射する。

「おや、随分早い登場だな」

 STTのD分隊隊長、田村明は皮肉に口端を歪めて大規模な人員展開を図る彼らを一瞥している。

 元々、STTと特務部は同じ警察組織の所属であるが、警視庁と警察庁の管轄の違いにより微妙に現場でのニュアンスが異なる。時折連絡が行き違いになることが多く、ひとえに行政の縦割りの弊害とも言える……。

 護送車の扉が一斉に開く。

 中から続々と硬い足音が木霊する。

 特務作戦機動部隊の隊員たちは、手に自動小銃を抱えていた。――あれは、M4カービンだろうか? 恐らく米軍との武器供与条約の観点から、与えられた装備なのだろう。

 関東一円を覆う積層雲が急速に発達し、夜の帳を更に濃く深くする。

 

 道路を含む規制は全て終えたようだった。

それを見計らったかのように、

 『用意開始ッ!!』

 という、指揮官風の男の声と共に前列四五名ほどの特務作戦機動部隊の隊員たちが、透明なシールドを重ねて配置し、古代の戦術の……まるでファランクスのように堅固な守りにつく。盾の隙間から銃口が覗いている。

 

 これには、思わず明も、

 (おいおい、奴さんは本気かよ……)

 と戦慄せざるを得なかった。目算でも、二百人近い精鋭の部隊が橋の上に展開している。STTとは全く別種の秘匿された組織に属する連中の洗練された動きに、明も銃把を握る手が強くなる。

 

 「我々はどうしましょうか?」福田が、丸っこい顔で訊く。

 「――うん、まあこっちはD分隊でここら辺の守りを指定されてるからな。奴さんの邪魔にならないように展開するとしようか。フォーメーションはAで……」

 業務を思い出して、明は自分が何故だか惨めな気分に陥った。

 

 2

 ……深海の底に沈んだように、静かで穏やかな心地がする。目を開きたくないと思えるような逸楽の眠りを少女――燕結芽は貪っていた。

 「うぅ……んっ……」

 目を擦りながら、未だ判然としない滲んだ視界を瞬く。

 (ここ……どこ?)

 浅縹色の瞳を凝らして渇いた喉に生唾を飲み込む。小刻みに揺れる座席、窓から去来するトンネルや外灯の光。間違いない、車の後部座席に閉じ込められている。首を巡らして御刀を探すも、手近には無い。

 そう現状を把握すると、結芽は自らの手足の自由が効かないことに今更思い至った。五指には全て結束バンドがされており、手足首には拘束具の金属質をした枷を嵌められていた。

 

 ジャラリ、という枷の鎖が擦れ合う音がした。

 「おや? もう起きたのかい?」

 それに気がついたのだろう。運転席越しに、穏やかな男性の声がする。まるで大事なガラス製品の工芸品を取り扱うような細心の配慮の含んだ態度である。

 

 (何なの、このおじさん――)

 

 幸い口を塞ぐガムテープや猿轡などはされていない。

 一体なんのつもりだろう? 相手の行動に理解ができない。敵である自分を真っ先に排除すべきではないか? 結芽は素直にそう思った。だが、運転手の男はバックミラー越しに穏やかな表情を浮かべるだけで、一切危害を加えるつもりすらないようだ。

 

 「おじさん、悪い人でしょ? ……私を倒したあのおじさんはどこにいるの?」

 

 「ん? 十臓のことを言っているのかい? 彼は今百鬼丸と戦っているんだが――安心してほしい。君の命を奪ったり怪我をさせることはしない。……自由は奪ってしまうが、計画の為だ。少しの間だけ我慢して――」

 

 「そんなこと、どうだっていいよっ!! それより、百鬼丸おにーさんが戦ってるって本当?」無意識に震える口調で、訊く。

 「……ああ、本当だ。だけど君は勘違いしているよ。君が命を救われ、彼に恩義を感じるのは解る。でも、奴は、生まれた時からそうプログラムされていたみたいに、自動的に刀使を救った―ーと言っても過言じゃないんだ。無論、奴にも複雑な事情はあるだろうがね」

 結芽は、秀光の声など一切届いていなかった。急いで、身を起こし車の後部窓を確認する。しかし百鬼丸と十臓の姿は見えない。

 「……どうしようっ、百鬼丸おにーさんがこのまま戦うなんて、だめ」

 撫子色の柔らかな甘い香りを漂わせる髪を振り乱して、首を振る。

 ――どうしよう

 少女は考える。

 もし、双葉の言葉が本当ならば百鬼丸はこの先戦い続けることによって必然的に寿命を縮めざるを得ない。まして、敵は強敵ばかりである。

 

 「くるま……車を止めてっ!!」

 急ぎ食ってかかるように、結芽は運転席の秀光へと怒鳴り飛ばす。

 だが、一切の沈黙を守り、むしろ醒めた眼差しで再びバックミラーで一瞥する。

 

 『奴は、燕結芽という少女を救ったと思っていなんだ。……病弱な〝刀使〟を救ったことに対して満足しているんだ。解るだろう? 君にはその違いが。燕結芽』

 秀光の冷淡だが、明瞭に語られる言葉によって一瞬にして結芽は瞠目の後に沈黙してしまった。

 

 

 百鬼丸おにーさんが?

 言葉の意味を噛み締めるように理解してしまった。

 途端、えっ、という微かな動揺の響きを持った声が無意識に口端から溢れる。氷で胸を突き刺されたような衝撃だった。

 

 「う、嘘だもん……そんなこと……」

 ふるふる、と首を振って酷く動揺を示す結芽。――有り得ない、百鬼丸おにーさんがそんなこと。私を見てくれて、私だけを見て助けてくれたんだから……そうじゃなかったら、あんなに傷ついてまで戦わないから……

 百鬼丸に対しての記憶を辿り、思えば思う程に「疑念」という、蜘蛛の糸にも似た巧妙な不安に駆り立てられる。

 

 少女の内心を読み取ったように、秀光は更に追い打ちをかける。

 「だったら、今日一日で君……燕結芽という一人の人間として彼は取り扱ったかな? 奴はずーっと、君を〝刀使〟としての燕結芽として大事にしてきたんじゃないかな? いいや、君だけじゃない。奴には人間の個人々々の区別が付いていない節がある。個人=個体として認識しても、それは〝刀使〟だからだ。刀使じゃなければ意味がないようだ。嘘だと思うならそれでも結構だよ。奴に直接確かめてみるといい」

 

 すっかり先程の威勢を失った結芽は、静かに座席へと身を沈める。

 

 「思い当たる節があるようだね。……余り心配しなくてもいい。コチラの目的は百鬼丸にあるんだ。それに親衛隊の皆と会いたいだろう? あんな奴よりも、君にはその世界が合っているんだ」

 (……親衛隊? うん、そうだった。真希おねーさんにも、寿々花おねーさんにも、夜見おねーさんにも会いたい。紫様は……)

 次々とフラッシュバックする思い出に懐かしさがこみ上げてきた。今は頭の中がグチャグチャだから、どうしたらいいか分からない。

 

 「みんな……」

 微かに涙に滲んだ声で呟く。光を失った昏い瞳には、脱走の意思がない。

 

 

 その様子を眺めた秀光は、少女に対してやりすぎた、と自戒しつつも百鬼丸という悪しき象徴から彼女の執着心が揺らいだことに対し、満足を覚えた。

 

 ――貴様は刀使という神聖な象徴に近づくべきではないんだ! この私と同じようにッッ!! 

 秀光はハンドルを強く握り、アクセルを踏み込む。

 激しい憎悪の炎を宿しながら、首都高の長いトンネル区間へと車を滑らせてゆく。

 

 

 

 3

 首都高に設置された防音障壁へと飛び、そこを足がかりにして遥か真下の警察車両の上にしがみつく百鬼丸に向かい十臓は壁を蹴って殺到する。

 

 大振りの一閃が百鬼丸の頭上に深紅に燦く。

 考えるよりはやく体が動き、警察車両から離れていた。真っ二つに美しく両断された車両はそのままガソリンが気化し、十臓の握る日本刀《裏正》の放つ火花に引火して派手な火焔を上げた。

 

 なんちゅう規格外な奴なんだ、と百鬼丸は内心思いながら、浮遊する体を路上で停止させる為に右手に握った《無銘刀》をアスファルトに突き立てる。ガガガガガ、と耳ざわりな音を奏でながら、片足のスチームで体の保つ速度を減速させた。

 

 「はぁ……はぁ……今更だけど、奴といいジャグラーといい、異世界の来訪者は全部あんなヤバイやつらばっかなのか?」

 と、軽口のように胸の人格へと語りかける。

 《だろうね。》

 百鬼丸は、束ねた後ろ髪を翻して周囲を素早く確認する。後続車両が一台もないことから察するに、交通規制が完了したとみて良い。……おまけだが、空から時折サーチライトの光が数条差し込んで眩い。

 

 紅蓮と黒炎に塗れた中から、一個の人影が現れる。

 グロテスクな人骨と鎧の中間を模したような、十臓の真の姿。

 焔の残照を浴びながら、悠然とした足取りで百鬼丸へと近づく。まさに殺戮マシーンと呼ぶにふさわしい光景だった。

 

 「なぁ、一つ質問だが液体窒素を積載したタンク車から距離ってどれくらい離れてる?」

 

 《うーむ、そうだね。高速道の目印から察するに7・8キロメートル後方だね》

 ジョーの言葉に耳を疑いたくなった。

 

 「まじかよ、そんなに離れてんのかよ……」

 早く結芽を救出せねばならないのに、こんなところで足止めを食らっている暇はない。臍を噛みながら、百鬼丸は左腕の刃と右手の地面に突き刺さった刀を引き抜き、構える。

 

 「仕方ない、とりあえず相手してやるから掛かってこいッ! 話しはそれからだッ!!」

 そう豪胆に言いながら、脳裏では十臓を倒す為の作戦を練り始めていた。

 

 

 この日の夜は長く、破壊と殺戮の第二ラウンドのゴングが鳴るが如く、車両の焼け焦げる香りが周囲を圧倒した。



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94話

 海風から薄い靄にも似た気体が流動的に橋桁を這って登ってくる。……剣呑な眼差しの侭、百鬼丸はゴクリと唾を呑む。

 《で、どうする? 君は――》

 「決まっているだろ……とりあえず、足が必要だ。おれの脚部加速装置だと断続的な加速しか出来ないから八キロ弱の移動は無理だ」

 そう言いながら、横目で路上に放棄されたバイクに目をつけた。

 

 『セダンボ――ホンダ、CBR1000RR』が、持ち主もなく横倒しに置かれていた。

 四気筒エンジン搭載の安定した加速を実現した車種であり、排気量は999ccである。――百鬼丸は直感で、このバイクを拝借しようと思った。

 

 (と、なると……奴の目を一時的にごまかさないとな……)

 

 接近戦に持ち込まれると、脱出する機会を失う。であれば、遠距離武器で足止めをすべきだろうか?

 短い時間を自問する百鬼丸に対し、胸の奥のジョーは軽くせせら笑う。

 《いいかい? 奴に通女兵器は効果がない。異世界の来訪者なんだからねぇ》

 イヤミったらしく皮肉った口調で諭す。

 ムカつく野郎だが、言っていることは至極正論であり素直に頷かざるを得ない。

 

 「加速装置……、噴射……ああ、成程な」

 悠然と歩を止めない十臓。猿面のような、朱色の骸骨を模した顔貌には一切の表情すら宿らない。だが不思議と十臓が、斬り合いに期待しているようにも見えた。

 

 「――生憎だが、お前と真正面からやり合うつもりはねーぞ」百鬼丸は片目を眇めて呟く。

 その直後に、百鬼丸は前方に足を伸ばして足裏からジェットを噴射した。その急速に生じた速度を利用し、バイクの転がる場所まで距離を縮めた。

 しかも、蒸気による視界の隠蔽によって一時的ではあるが十臓も方向感覚を奪われたのである。

 

 「――よォしッッ」

 粗雑な黒髪を靡かせながら、百鬼丸は浮遊する体で左腕の刃を「鞘」に収めると、空いた腕をハンドルグリップに手を伸ばして引き起こす。本来、大型バイクは簡単に持ち上がるものではないが、百鬼丸の怪力と速度位置によって軽々と立つ。

 

 バイクの持ち主はキーを刺したまま避難したのだろう。

 

 「動けぇえええええ」

 百鬼丸は、体をひねってバイクにまたがると、グリップを回す。

 トルクの激しい脈動。鋼鉄の心臓が命令を受諾し、排気ガスを強かに吐き出す。夜道に大型二輪が躍動する!!

 

 「あばよ!! 追いかけるんなら早い方がいいぜ、クソ野郎がッ!!」

 不敵な笑みで百鬼丸は肩ごしに挑発する。

 

 『…………。』

 遠ざかる百鬼丸の背中を眺めながら、十臓は握る《裏正》の柄を更に強く掴み、姿勢を低く追跡の用意をとった。

 

 

 2

 潮の匂いが心地よい、頬を切る冷風は久々の感覚だ。

 百鬼丸は右手に持った刀を鞘に収めると、湾岸線の路面をイメージする。恐らく、液体窒素を積載する車両は工業地帯で活用されているものに違いない、であれば後方の車両だけでなく、進行方向にもあるのではいだろうか? ……希望的観測ではなく、実利的に考えれば一台だけしか通らない訳がない。交通量から推察しても、可能性はある。

 

 《しかし、奴はこの世の物理法則にも縛られていると考えて――液体窒素で固めたとして、その後はどうするのかな?》

 ジョーが問いかける。

 

 その点はまだ考えていない、と百鬼丸は正直に答えた。事実、あのような能力を有しているのだからそうそう簡単に倒せるとは思っていない。だが、秘策とは言えないが一つの望みもあった。

 

 「この《無銘刀》が――ぶっ殺せるんだったら、恐らくコイツが最適だと思う。なんせ、妖気を吸って鋭さを無限に増すことができる刀なんだからな……奴が強ければ強いほど、コイツが奴の肉体を貫くことだって不可能じゃないだろ?」

 

 眩い外灯に目を細めながら百鬼丸はいう。

 頭上に掲げられた道路標識を一瞥すると、このままゆけば人口密集地に突き当たるようだ。しかも、現在は避難民の発生により首都高を降りることは難しい。

 わずかばかりの逡巡をする百鬼丸に対し、ジョーは容赦ない一言を叩きつける。

 《百鬼丸くん、一つ残念なお知らせがある。君の追っている車両は恐らくだが、現在使われていない地図の場所へと消えた可能性が高いね。》

 「は……? 何言ってるんだ?」

 突然の物言いに百鬼丸は戸惑った。

 《まあ、それは後にしてだがね……もう一つ、残念なお知らせだ》

 「なんだよッ、早く言えッ!」

 はぁーー、という明らかに面倒くさそうな長い吐息のあと、

 《君が今向かっている方向にはね……どうやら、人間様の部隊が展開しているようだ》

 「……なんで解る?」

 ジョーは上空を見上げるように助言した。

 (なんだ、コイツ)

 怪訝に思いながら、百鬼丸は首を軽く上げた。

 

 報道ヘリが放つサーチライトとは別に、もう一機別にヘリが旋回している。しかもそのヘリの照射する強烈なサーチライトは規則的に点滅を繰り返す。

 

 「ありゃあ、どういう意味だ?」

 

 《あれはね、対象がきたと知らせているんだよ。米軍でも時々使用されるタイプの簡単な点滅信号だ》

 

 マジかよ……と、百鬼丸は気が重くなった。

 ジョーという殺戮犯のいうことを全て鵜呑みにすべきではない。が、かといってこの男が嘘をつくメリットはない。百鬼丸の肉体が死ねば、必然彼も死ぬのだから。

 

 「ムカつくが、お前のいうことを信用するぞ」

 かつての仇敵に告げて、百鬼丸は更にグリップをひねる。速度メーターはとっくに一五〇キロを越していた。速度計の針が大きく揺れながら、なおも爆走をやめない持ち主に小さな抵抗を示すように見えた。

 

 

 3

 『各員、戦闘用意』

 短い号令と共に、屈強な男たちが引き金に指をかける。

 彼ら特務作戦機動部隊の実力は未知数である。

 

 

 少なくとも、非常識的な存在である荒魂を相手にしてきた田村明はそう思う。

 STTのD分隊、一五名は特務作戦機動部隊の一時的な命令を受け入れ、後方で控えることになった。

 

 哨戒任務中と言えばいいのだろうが、片隅に追いやられながらも、明の実践で鍛えた勘が告げる。

 これはヤバイ……と。

 

 上空で旋回するヘリが信号を送っているが、あれは察するに百鬼丸か正体不明の敵が迫っている証拠である。であれば尚更危うい。人有らざる者の恐ろしさを彼らは知っているのだろうか?

 

 (準備だけはしておくぞ)

 隣りに控えた副隊長の福田に耳打ちをする明。――相手も「ええ、その方がいいでしょうね」と呟いた。

 

 徐々に濃くなる靄に、高架橋全体が飲み込まれつつあった……。不気味さを増す雰囲気が、死を連想させる象徴のようにすら思われた。

 

 

 

 4

 ……息が苦しい、誰か助けてくれ。

 悲痛な声にならない叫びが、なぜだか聞こえてきた。

 理由は分からない。

 溺死寸前で水面に引き上げられたみたいな……ある種の安堵感と絶望を男たちは味わった。

 

 きぃーん、という金属質な耳鳴りが鼓膜の奥から響く。

 頭を軽く振りながら、明は噎せ返る。

 鉄の味が口内に広がった。どこか切ったようだった。だが、そんなことは瑣末な問題に過ぎない。未だ判然としない視界を無理矢理に明瞭に引き戻し、手近に転がったアサルトライフルG36の銃身を掴む。無機質な兵器の冷たさが、妙に安心を与えてくれる。

 明は、ようやくこの現状を思い出した。

 

 

 白い骨のように純白な外殻の人影が、特務作戦の人間たちを次々と切り刻んでいったのだ!!

 

 その証拠に血袋と化した亡骸が、五体のいずれかを欠損しながら、無造作にアスファルト舗道上に転がっていた。……枝肉のように、食肉加工場のようになんの脈略すらなく。

 

 

 ……つい、三分前。

 前方で人垣をつくっていた特務作戦の連中から悲痛な叫びともつかぬ……呻き声が上がり始めた。最初は何かの間違いかとも思ったが、鮮血が空高くライトに照らされ舞い上がるのを見つけ、確信した。

 明は、「あの日」の体験から体が勝手に動いていた。

 照星に合わせ、片目をつぶり、射撃準備に取り掛かる。部下たちは現状を理解しておらず、明のとった行動に不信を抱いていた。

 

 「死にたくなかったら、銃を構えろッ!」

 無論、気休めなのは理解している。それでも、生き残る確率を上げるのには役立つだろう。

 

 ……次の瞬間だった。

 大型バイクが人垣の頭上を大きく飛び越してゆく光景を。

 次いで、黒髪を無造作に束ねた少年が宙返りをしながら、両腕に鋭い光を翼のように広げてゆく様を……。まるでスローモーション撮影を見ているかの映像に、明は戦慄する。

 

 ヴォォン、ヴォォオオン、という空を切り裂く音が耳を否応なく聾する。

 

 ――ギャアアアアアアアアアアアアア

 

 という、獣じみた悲鳴が周囲に反響した。

 

 

 田村明は知っている。この悲鳴を――この咆哮を。

 人がおよそ、人の死というのに見合わない、まるで人体を玩具同然に扱い、子供が手荒く扱い投げ捨てるようにボロボロになってゆく光景を。

 人頭がポーンと跳ねとんだ。

 

 目を凝らすと、シールドがバターを溶かしたように易易と切り刻まれていた。首のない胴体たちが、膝から崩れ落ちた。

 

 血風の中から生まれたのは、猿面のように紅の顔貌だった。蜘蛛の卵のような小さな白い瞳に返り血の飛沫が点々と張り付いている。

 

 『うぉおおおおお』

 と、特務の隊員がナイフを燦めかせ、半ば狂乱しながら刺殺を試みる。

 

 殺戮の人影の左胸を狙ったようで、見事に命中した――かに思われた。しかし、頑健な外殻を貫くような威力ではないらしく、コツン、という虚しい音がするだけだった。

 

 「ぇっ!?」

 素っ頓狂な声をあげて、呆気にとられた顔をする男。顔を上げ、紅の顔と視線を合わせ……

 

 『ギァアアアアアアアアアア、やめろ、やめろやめ――』

 

 絶命した。

 

 異形の怪物は、首を絞めながら空いた指で両目を突いて素早く引き抜く。どろっ、とした血塊がアスファルトに溢れ、静かに地面が吸い込む。敵の只中にあって、その殺戮の影は大胆にも、刀一本で、悠然と歩いてゆく。

 

 

 「福田、部下を連れて逃げろ、時間は稼ぐから……」

 明は言いながら、肝が冷える思いがした。

 

 何度こんな光景を見ても慣れるものではない。生きていたいと願うならば、この場の最善は、あの少年に託すしかない。

 

 ドォン、という爆風が直後にした。

 

 恐らく先程のバイクだろう。

 

 

 「――はぇえんだよ、クソがッ」

 悪態をつきながら、少年の声が近づいてくる。

 

 

 明は敢えてその方向を一瞥もせず、頬に冷や汗を流しながら、

 「なあ、百鬼丸――コッチでできることはあるか?」

 と、尋ねた。

 

 

 横に人の荒い呼気の気配がした。横目で窺うと、少年は苦い顔をしながら、口端を曲げる。

 

 「ありますよ。液体窒素のタンク車を用意して下さい、ってことですかね」

 妙に場馴れした物言いに対し、明は死の恐怖が薄らいだ。

 

 軽く頷いて、

 「判った……福田、液体窒素の車用意しろッ、命令だッ!」

 

 

 去り際の部下に背中を向けながら、怒鳴った。

 

 「……で、どれくらい時間を稼げばいいんですかね?」

 少年が独特の剣の構えをとる。

 

 

 「とりあえず、閃光手榴弾で一時的に目くらましをするとして……」

 

 明はため息を零す。

 

 男がグチグチといっていても仕方ない。

 

 

 「「やるかッ!」」

 声を合わせると、二人は腕を軽くぶつけて気合を入れる。

 



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95話

 1

 ……腑破十臓との邂逅の数分前。

 

 深くなる靄の中から、黄色く滲む光があった。

 やがて膨らみを増して轟音と共に近づいてくる――。特務作戦部隊の全員が緊張の糸を最大に張り詰め、息を殺す。

 

 『どけ、どけ、どけ!!』

 まだ若い少年の声が周囲に木霊する。切迫した口調と、まだ年端もゆかぬ口調は妙なアンバランスさを生み出していた。

 

 ……が。

 

 「け、警告する! 今すぐ止まれ!!」

 現場指揮官が、拡声器で努めて冷静に伝える。

 しかし、その必死の警告も虚しくガス排気の音が止む気配がない。

 (やむなし、か)

 現場指揮官の男はゴーグルの下で、苦渋の表情を示し……射撃許可の合図を送ろうとした。

 

 靄を振り払うように、大型バイクの前輪が疾駆する。

 『うぉおおおおおおおおおおおおおおおお』

 半ば絶叫するように叫びながら、百鬼丸はハンドルグリップを持ち上げた。前輪が一気に地面から離れてウィリー走行を始めた。後輪が大きく撓んで、スタビライザーが軋みをたてる。

 

 その声に弾かれるように、特務作戦部隊の連中は引き金に神経を集中させる。

 最早臨戦態勢の雰囲気に対し、百鬼丸は「あぁ……面倒くさい」と呟き、豪腕を活かしてバイクの後輪ごと宙返りさせるように腕に引き寄せた車体を更に上に傾けた。

 

 ブロロロロロ、ブロロロロ、ブロロロロオオオオオオ……。

 

 排気ガスの煙幕かとも思われたが、黒い後輪のタイヤ痕によってゴムの焼ける匂いだと理解された。

 

 『今から忠告するッ!! お前らは今すぐこの場を離れろ』

 少年の場違いに若い声に、周囲の男たちは嘲笑混じりの視線を全て〝頭上〟の百鬼丸へと注いだ。……その、半ば超人的とも言える手法によって人垣を超えたのだが、その非現実的な光景はまるで無視するような、一種異様な空気が場を支配した。

 

 

 (チッ、まただ……。)

 

 醒め切った目で百鬼丸は下に隊列を組む人々を軽蔑した。むろん、刀使であれば何の躊躇もなく彼は助けただろう。しかし「一般の」人間であれば、対応は異なる。強いてその命を救う、という能動的な気力は失われて「勝手にしろ」とでも言いたげな視線を流す以外に何も対応はしない。

 

 

 後列の特務作戦の隊員たちは、アサルトライフルを百鬼丸へと合わせ、攻撃の準備をしていた。両者の瞬間的な遭遇はいわば、最悪の形で果たされることとなった。

 やせ衰えた裸の月は、老人のように青く、油雲を孕んだように薄い雲たちが澄んだ夜空の都会を漂う。橋を支えるワイヤーロープがピュン、ピュン、と風に撓り共鳴する。

 

 

 細い月と百鬼丸の姿が重なった、ちょうどその瞬間だった。

 再び、靄の向こうから猛烈な速度で近づく「気配」を、前列に展開した隊員たちは感じとった。……皮膚感覚で解る。

 先程の少年とは比べ物にならない、明らかな血に飢えた獣の到来を。

 

 改めて、一人の隊員がライフルの照星に合わせる為に片目をつぶった。

 

 黒いミニバンの車両が丁度横転するその刹那、フロントガラスに突如、バケツで撒いたように重々しい血液が塗りつけられた。その様子に驚きつつ、尚も凝視すると、車体の上に居た人影が運転席側の車窓から「刀」で人間を突き刺したのだと理解した!

 

 「ひっ……」

 思わず、その手荒い所業に畏怖した。

 

 人とも、幽霊とも属さぬ、およそ醜悪にして美しい矛盾を抱えた外見の「悪魔」が車両から飛び降りると、軽やかに地面に着地し、早い足で距離を縮める。

 「け、警告する! 発砲準備を……」

 唾を飛ばし、誰かが十臓に対して警告を告げる。しかし、異形の存在はまるで頓着する様子もなく首を僅かに傾け、せせら笑うように隊員たちに向かい物を投げ捨てた。

 

 ゴロッ、とシールドの目の前で転がったのは「人頭」だった。

 若い金髪の男が、涙と涎を流しながら絶望に血まみれた表情で、乱暴に転がる。

 

 『う、撃てェ!!!』

 あからさまな挑発行為に対して、一斉に火箭が放たれる。夜闇を切り裂くように一直線に鮮やかなオレンジの軌道が十臓に殺到する。しかし、全てその頑強な外殻を破ることなく、跳弾としてコンクリートを抉る他に成果はない。

 

 「ひっ、ば、化物めェ!!」

 狂乱に近い声で、銃弾がバラ撒かれていた。排出される空薬莢が次々と男たちの足元に転がる。高熱の銃弾はジャイロ効果によって、回転しながら真っ白な体殻を貫く――筈だった。だが距離が縮まる程に、無意味さを露顕させるだけだった。

 

 

 壁のように組まれた盾を、十臓は一瞥し――肩を竦めて『裏正』を握り直す。

 

 ――一閃

 

 たった一撃の横薙ぎによって、特殊素材によって作られた盾が両断された! 断面は熱で溶かされたようにドロドロになり、背後で必死に支えた男たちの腕もろとも弾け飛ばした。

 

 『ギャアアア!!』

 

 『腕がッ……』

 

 『あぁ……あああああああ』

 

 数十人の阿鼻叫喚が連鎖し、よく鍛えられた男たちですら絶望に陥った。

 恐怖の伝播は人間というよりも、動物の本能と言ってよく、どれだけ訓練を積んでも消すことはできない。

 圧倒的な存在の前では尚更である。

 

 大根でも転がすように、次々と地面に手足が落ちてゆく。血骨の混ざる湿った音。人の獣じみた叫び。

 

 『ふっ、ははははははははは……ははははは』

 高らかに哄笑しながら、剣を振るう手を止める気配がない。十臓は明らかに血に酔っていた。地面にのたうち回る人間たち。周囲を敵だらけにしながら、体中を朱に染める感覚。懐かしい、全てが過去と繋がる快い気分になっていた。

 

 

 しかし、これを客観的に見れば単なる「虐殺」でしかなかった。

 人間が蟻を踏み潰すように何の躊躇もなく踏みつけてゆく。一個一個の命すら顧みず、ただ快楽の為に潰してゆくのだ!

 

 首都高速を封鎖した大規模な部隊展開を行った特務作戦部隊も、ものの三〇秒で十数人以上の尊い人命が奪われた。たった一個の怪物の手によって……。

 

 

 その風景に思わず、吐き気を催しながら現場指揮官は、

 「な、何なんだ一体……。」

 一歩、足を下げて戦慄する。

 次々と惨殺されてゆく光景が余りに非現実的で作り物めいて、鉄分を大いに含んだ腥い空気に胃のむかつきを抑えることができない。

 

 『こんなものでお仕舞いか』

 十臓は、首を掴み、宙吊りにした人間を戯れに握力で苦しめながら、つまらなそうに呟く。

 「たすけ……」

 グシャッ、というトマトを潰したような湿った音が響く。

 足元をばたつかせた男は、動きを完全に停止させた。

 

 

 情け容赦のない殺戮。

 現場指揮官の男は今更ながらに、バイクの少年の言葉を反芻し歯噛みした。

 

 と、

 『あんたらは早く逃げろォッ!!』

 と、STTの隊長田村明が叫び閃光弾を投擲する姿が視界に焼き付いた。――まさにそれと同時だった。十臓の足元、地面をのたうち回る特務作戦の隊員が、最後の抵抗を示すように、口で手榴弾の安全ピンを口で同時に数個引き抜く。

 眩い閃光が夜に咲いた。

 

 

 2

 銀色の光沢を放つ、殺意――。

 何千、何万もの妖魔を切り伏せた伝説の武芸者『百鬼丸』が持ったとされる刀。それは一時期であるが、加賀の一向一揆衆などの首魁(正体は不明)の手などに渡ったと云う。しかし、時代と共に山伏の手に渡り、修行の一環として北アルプスの霊峰へと奉納された。

 

 

 その、呪いにも似た刀が再び〝百鬼丸〟と名乗る少年の手に舞い戻ってきたのだ。

 刀身から、血管のように赤い筋が幾重にも伸びている。怨霊の思念とも言うべき禍々しさで刀に絡まる。

 

 

 ――理性を食わせることによって、《無銘刀》に宿る魑魅魍魎が狂喜する。

 百鬼丸は半ば闇の深淵に引きずり込まれるのを感じながら、己を努めて強く保つ。約二〇%を喰わせただけで、この危うさ。

 「全部投げ出したら、ヤバいよな」 

 苦笑いしながら、百鬼丸はひとりごちる。

 

 (何笑ってんだ、お前)

 隣りに佇む田村明は、銃を構えながら小声で百鬼丸に半ば叱責するように云う。

 百鬼丸は、皮肉な表情で首を振る。

 「いいえ、別に。ただ、おれは元からこんな存在なのかもしれないですからね」

 

 目の前での鏖殺が酸鼻を極める状況の中、百鬼丸のみは悠然と表情を一切変えず、黄金に染まりゆく瞳の虹彩と細長くなる瞳孔――、その双眸で敵を見据える。

 

 「おれが先に行きますから」と、百鬼丸は言って明の右肩を叩く。

 

 それと同時に、百鬼丸は加速した。

 地面に転がる人体に頓着せず、土面を蹴りながら、身を翻して右腕に握った《無銘刀》を十臓に向かい叩きつける。

 

 ガギィイン、という金属同士の衝突が響き渡る。

 煤けた体の十臓は、百鬼丸の予想外の攻撃速度に驚嘆しつつ、

 『ほぉ、ようやく来たか』

 と、嬉しげに声を上げた。

 

 「ああ、てめぇの吠え面をかかせるために来てやったぞ!」

 両者は息がかかる程の距離で顔を近づけ、鍔迫り合いを演じた。

 

 必然、左腕の刃が十臓の脇腹を狙う。

 しかし、それを予測していたかのように大きく身を逸らして躱し、質量の乗った蹴り上げで百鬼丸のあご先へ反撃する。恐ろしい速度で反応した百鬼丸は、バックスステップを踏んで距離を拡げる。

 

 その瞬間を狙いすましたかのように、ダダダダ、と連続する銃撃が援護する。

 

 「サンキューですよ、明さん」

 振り返らずに口端を曲げる百鬼丸。

 後方の明も同様に目線を合わせず、頷く。

 

 跳弾はなく、全て十臓は『裏正』で弾いていた。

 

 『成程、お前のその刀……厄介だな。我が裏正の切れ味が落ちたのではなく、力を全てその刀が吸い取っているようだ』

 冷静に分析し、刀身越しに見据える十臓。

 

 

 『まぁ、羽虫は厄介だが……中々楽しめそうだな、百鬼丸』

 首を巡らすと、周囲は既に沈黙に包まれており、十臓の眼前には百鬼丸と明の二人しかいない。遠く、夜景の広がる首都のビルディングの街並みが海面上にも映し出されている。

 

 ――いい風が吹いている、懐かしい。

 かつて人であった頃に感じた風。十臓はそれを外道と化した身に受けながら、短い感傷に浸る。否、その感傷とはかつての宿敵柳生三厳であり、屈辱であった。

 

 しかし、今一方の百鬼丸も内心焦っていた。

 (どこまでだ……今、どこまで売り渡せば、コイツに勝てる?)

 恐らく、今の百鬼丸では勝てる目算は低い。理由は幾つかあるが、一番の理由は周囲の状況である。ここで仮に、能力全ての開放を行えば伯仲することは可能である。だが、ジャグラーと名乗る男、ステインなどの強敵、そしてタギツヒメ……これらの相手を想定した場合、話しは変わる。

 ボロボロになるまで能力を酷使すれば、以後の戦闘で不利に陥るのは明らかだ。

 …………で、あれば。

 〝自分以外のモノを使って、十臓を攻略〟することが肝要となる。

 むろん、闘士として全力でぶつかりたいのだが、それは冷徹な百鬼丸自身の戦略眼の前には無意味であった。

 

 

 

 思索に耽っていると、

 『次は俺の方から行かせてもらうぞ』

 十臓が独特の構えをし、刀身の峰側を閃かせて突撃を敢行する。

 

 百鬼丸は、瞬時に腰に差した上膊へ刃を収める。両手持ちで《無銘刀》を正眼に構えて十臓を迎える。

 

 

 

 上段同士で、剣戟が重なり合う。

 外灯の下を蝙蝠が過ぎ去る。海嘯が低く地霊の呻きの如く絶え間なく鳴り響き、冷風を運ぶ。

 『「うぉおおおおおおおおおおおおおおおお」』

 咆哮も剣戟同様にぶつかり合い、混ざり合い、溶け合う。

 

 百鬼丸の握る《無銘刀》は確実に彼から理性を奪い去りながら、獣性を開放してゆく。初代百鬼丸から奪われた命である魑魅魍魎たちが、手ぐすねを引いて、百鬼丸を化物の道へと引きずりこもうとしている。

 

 (チッ、耐えろ、耐えるんだッ……。)

 脂汗を流しながら、血の渇きを覚える。

 アア、コイツヲ切リ刻ンデヤリタイ。

 コイツノ血肉ハ最高ダロウナァ……。

 

 殺セ、殺セ、殺セ。

 

 脳内に煩いくらいに合唱される化物たちの欲望。

 『ほぉ、俺との斬り合いをよそにお前は随分と余裕そうだな……』

 半ば落胆と失望と怒りの混ざった声音で、十臓は百鬼丸の隙を突いて、膝蹴りを鳩尾に入れる。

 

 隙を生んだ百鬼丸は「ウグッ……」と、白目を剥いて体をくの字に曲げる。

 次いで、十臓の左大上段からの打ち下ろし。気絶の寸前で踏みとどまり、百鬼丸は刀で受け止める。

 重い鉈を打ち込まれたように、重量のある一撃。

 左肩に重くのしかかる《裏正》――。

 「ガハッ……」

 打ち込まれた蹴りが響いて、胃液を吐き出す。

 視界が点滅する中、十臓は容赦なく右から一撃、左斜めから一撃、頭上から一撃……容赦なく襲いかかる。一度噛んだら離さない獣の牙に似て、執拗な責め苦を与え、相手の戦意すら喪失させる程の苛烈さであった。

 

 ……だが。

 百鬼丸は牙のような歯をむき出しに笑い、楽しんだ。

 「オマエヲ、相手ニ選ンダノハ、マチガイナイ……」

 この世の声とは思えぬ発生方法で喋り、挑発する。

 

 (貴様は化物の道に堕ちるのか?)

 興味深く十臓は百鬼丸を見下しながら、視線を送る。

 

 

 

 

 3

 ――ねぇ、百鬼丸さん。知ってる? 活人剣って意味。

 

 ああ、前に可奈美に教わったんだから当然だ。

 ――う~ん、じゃあ質問だね。

 人を守るのは、活人剣かな? それとも、殺人刀かな?

 

 

 どういう意味だ? それは活人剣だろう。

 

 ――うん、そうだね。でも半分正解で半分間違いだよ。

 

 な、なんでだ?

 

 ――だって、ね。剣術の世界には色んな考え方があるんだけど、必ずしも殺人刀を否定するものはないんだよ。人を守る、っていうのは残念だけど強くないと「守る」ことができなんだ。光と闇があって、それが存在して始めて命を奪う刀にも意味が発生するんだよ。

 

 難しい、な。

 

 ――うん、私もそう思うよ。でもね、剣士は自分の「殺意」も自覚しないと必ず道に迷う……って、誰かの受け売りなんだけどね、あはは……。あれ? 誰の受け売りなんだっけ?

 

 なあ、可奈美。だったら、おれが剣術でもっと高みを目指せるように色々と教えてくれないか? ……頼む、可愛い師匠様!

 

 ――可愛いって……あはは、うん、でもいいよ。百鬼丸さんの剣術は泣いているみたいだから。微力だけど、私も力になるよ。

 

 泣いてる? このおれが?

 

 ――うん、誰からも理解されなくて、寂しくて、でも強い。

 

 ……なんだ、そりゃあ。

 

 ――これが私の素直な感想だよ。だからさ……。

 

 おうなんだよ。

 

 ――ねぇ、百鬼丸さん。

 

 うん?

 

 ――約束してほしいんだ。もし、自分を見失いそうになっても、私が受け止めるよ。

 

 

 4

 

 「…………そんな親切なんざいらねぇよ、馬鹿」

 いつだっただろうか。可奈美に剣術を教わっていた頃の会話が脳裏を過ぎった。

 失いかけた理性が急速に回復する感覚がした。百鬼丸から、力が溢れるように《無銘刀》の呪縛から這い上がったように、屈んだ姿勢から徐々に起き上がる。

 

 『ほぉ、この状態から回復するとは……何がお前をそうさせる?』

 十臓は機敏に百鬼丸の変化を察知した。

 

 不敵な笑みを込めて、百鬼丸はせせら笑う。

 「――あ? 知らねぇよ馬鹿が。てめぇをぶっ潰す――」

 

 

 いいだろう、と喉元で答えようとした瞬間だった。

 

 趨勢を見守っていた明が、叫ぶ。それを合図に百鬼丸が頷く。

 

 百鬼丸の背後からクラクションの鳴る音がした。大型車両独特の空気を圧縮して送り込む風圧を感じ、百鬼丸は悠然と立ち上がり、加速装置を最大限に発動させ、バックステップを踏んで大きく宙返りをする。

 

 

 『――ッ!?』

 十臓は慌てて百鬼丸の姿を追うように膝を屈めて地面を蹴った。

 しかし、これが彼の最大の失策となった。余りに勝負に執着するあまりに、冷静な判断に欠いたのである。

 百鬼丸は、宙返りをしながら、大型車の積載するタンクの腹部を刀で切り裂いた。分厚い障壁は容易く破れて、内部に閉じ込められた冷気が噴出する。

 

 『な、ッ、クソッ!!』

 十臓は冷気の紗幕によって本能的に察知した。

 これは、マズい、と。

 

 しかし、その判断は既に遅く百鬼丸は宙返りの姿勢から正面を十臓に合わせると、猿面に似た頭部を掴む。そのままタンクの破れ目に向かい、自由落下速度と共に一気に押し付ける。

 

 圧縮されていたマイナス196℃が十臓に襲いかかる。

 

 「――まだだッ!」

 百鬼丸は尚も攻撃の手を緩めることなく、間欠泉のように吹き出すタンクの破れ目を両腕で押し広げ、タンク内部へと十臓を殴打で叩き込む。

 十臓の体表には上白糖のような霜が付着し、関節部分から凍り始めていた。

 「――ッ、これは何だッ!?」

 思わず、怒鳴る。

 冷たい――という表現では足りない感覚。

 『痛覚』そのものが悲鳴を上げるような、焼けるような激痛。

 この《外道》の体を手に入れてから、五感自体が鈍くなったのだと思っていた。――しかし、実際は違うようだった。極度の変化……この、タンク内部に滞留した「何か」が体を凍らせている。それは間違いない。

 十臓の戸惑いを見逃さず、百鬼丸は深紅の残光を輝かせながら云う。

 「液体窒素、だ。憶えておけよ糞外道野郎ッ!!」

 少年は、十臓の頭部を再び掴み冷徹に肚の底から告げる。

 「たっぷりと味わえよ、お前の為に用意したんだからなァッ!!」

 邪悪な笑みで掴んだ頭を亀裂の入って破れたタンクの内部へと再び押し返す。

 

 

 ――成程、これが現し世の進歩というものか……

 

 十臓は柄にもなく、素直に面白いと感じた。それと同時に凍てつく視界から捉えられる百鬼丸の顔貌の強烈さに、更に戦意が増した。

 

 

 「はぁ……はぁ……これで、お仕舞いだッッ!!」百鬼丸が白く色づく吐息から叫ぶ。

 

 

 遠くで「でかした、福田ッ」という明の声がした。

 

 

 5

 血飛沫が空気中を舞った。

 「――えっ!?」

 思わず、そう叫んだ。

 その血は無論、十臓のものではない。血液はそのまま液体窒素により固体となって何区の内部へと転がり落ちる。

 腹部を焼かれる感覚。

 百鬼丸は自らの腹へと指を這わせる。

 これは、熱などではなく単なる痛覚であった。脳みそが一時的に判断を失敗したに過ぎない。

 視線を刃へ、その元へと這わせる。

 

 

 「悪いが、十臓は回収させてもらう。まだウチの主力として働いてもらう為にな」

 男の低い、冷徹な声。

 

 轆轤秀光、その人である。

 なぜ彼が? 百鬼丸が理解をできずに戸惑う。視線を彷徨わせると、殴打を受けて気を失っている明と福田と呼ばれたであろう、運転手の男が無造作に身を横たえていた。

 タンク車へ半身をいれた百鬼丸だったが、外界との境界線に佇む秀光に息を呑む。

 真っ黒な外套に身を包み、感情のない瞳で百鬼丸を見下す。

 「お前を殺すにも時間がかかる。予定変更を余儀なくされて車で引き返してきたんだ。だからせめてッ――」

 彼の体表には『写シ』とよく似た薄い光に包まれ、百鬼丸を貫く刃は紛れもなく御刀だった。

 「珍しいか? まぁ、いい。不本意だが今はまだお前を殺せない。計画があるからな」苛立ちを押さえつけるように秀光は刃を乱暴に引き抜き、百鬼丸を蹴り飛ばした。

 タンク内部へと叩き込むつもりが、百鬼丸が寸前で身をかわしたせいで、路上へと転がり落ちたようだ。

 

 ――驚くべきことに秀光は《迅移》を使用し、凍りついた十臓を回収して肩で担ぎ上げる。一般人では有り得ない様子だった。

 

 「ゴホッ……ゴホッ……ちくしょう……なんでだ……」

 血塊を口端から溢れさせながら、百鬼丸が怨嗟を吐く。

 あと一歩のところで敵をとり逃がす。あってはならぬ失態だった。

 しかし、液体窒素の影響だろう。百鬼丸の肉体もボロボロであり、しかも熱膨張した脚部の加速装置は温度の急激な変化により故障してしまったようだ。

 

 

 

 薄れゆく意識の中、秀光は百鬼丸を見下しながら、弄ぶように言い放つ。

 「ああ、そうそう。お前の求めている燕結芽なら、そこにいるぞ……」

 秀光の指さした方向には、車が停車しており、その車窓には華奢な少女の姿が見えた。

 

 「……ッ、クソッ、クソッ、クソッ!!」

 地面を這いずりながら、百鬼丸は必死で立ち上がろうと試みる。

 

 「ほら、どうした? そんな惨めな姿をして。流石の化物も油断とは、アハハハ」

 

 百鬼丸は荒い息を吐きながら、失血による悪寒を感じながら、それでも、両手足をもがれた虫のようにコンクリートに血痕を塗りつける。

 

 無銘刀を地面に置いて、素手を伸ばして遠い少女へと手を伸ばす。

 

 尚も抵抗しようとする百鬼丸に対し、苛立ちを覚えた秀光。

 「ほぉまだ抗うか……いいだろう。ならば、お前の精神をへし折ってやる」

 表情のない機械的な顔で、地面に降りた秀光は、そのまま座席へ十臓を投げ込むと、代わって結芽を車から優しい手つきで下ろした。

 

 

 薄い反応の結芽は、俯き加減に目線を遠くへ放つ……。

 「ぁぅ、百鬼丸おにーさん……?」

 喉に鉄球が詰まったように苦しそうに、少女は息を喘がす。

 (聞かなきゃ、百鬼丸おにーさんが、私を……。)

 狼狽する。

 まず、皮膚を凍傷で変色させ、かつ失血している状況に。そして、必死に悲痛に手を伸ばす少年の姿に。あの日、夢のようにおぼろげな意識の中から救ってくれた主が百鬼丸であることを改めて確認する。

 

 しかし、それが仇となった。

 

 「……っめ。結芽」

 百鬼丸は固着した指の関節を伸ばして、気絶から抗う。

 

 

 結芽の両肩を軽くたたき、耳元で「さぁ、拘束具を外すから君の知りたいことを聞いてみるといい」と囁く秀光。

 少女は男の言われるままに頷き、一歩一歩近づいて距離を縮める。

 「百鬼丸おにーさん、どうしてそんなにボロボロになるのに、私を助けてくれるの……?」

 知らぬ感情で呂律の回らぬ様子で、結芽は精一杯に問いかける。

 

 「……お前を助けに……助けるために……」

 

 「うん――」

 

 「お前を、助けるために……」

 

 「百鬼丸おにーさん。私が〝刀使〟じゃなかったら助けてくれなかったの?」

 

 「えっ……」呆気にとられた様子で、百鬼丸は頭を持ち上げる。

 そこで始めて燕結芽という少女を真正面から捉えた。少女は大きな瞳に涙を湛えながら、小さく柔らかな唇を噛み締めて何かを堪えるようにして尋ねていた。

 

 ――どうして、そんな表情をするんだ?

 

 「お、おれは、ただお前を救いたくて……」

 

 「うん、ありがとう百鬼丸おにーさん。とっても嬉しいよ。……でもね。百鬼丸おにーさん。私が、私が刀使じゃなかったら、価値なんて、助ける意味なんてなかったのかな?」

 ボロボロと大粒の雫を頬に伝わせながら、結芽はいう。

 毛先の青白い繊細な髪が夜風に流れる。

 睫毛が痙攣気味に不規則に瞬く。

 

 ……違う、違う、おれは……おれは……

 

 〝刀使じゃなかったら、助けることができただろうか?〟

 

 ふと、百鬼丸自身の精神から疑念が生じた。

 今まで、考え直せば刀使とそれ以外を区別し、殊更に刀使を神聖なものとして取り扱っていた気がする。己を絶望の淵から救ってくれた〝刀使〟。だからこそ、救うのだ。

 

 では、一人の少女としては?

 

 「――――。」

 百鬼丸は、言葉を失った。

 結芽の問いかけに答えるだけの十分な言葉も意思もなく、彼はこの場に惨めに身を横たえているに過ぎない。

 

 「…………そっか。百鬼丸おにーさんも、結局パパとママみたいに私が特別だったから……だから、助けてくれたんだね。……ありがとう、百鬼丸おにーさん。〝大好き〟だったよ」

 撫子色の髪の、シュシュでサイドテールに結んだ少女が別れを告げる。

 

 長い前髪に隠れて一切の感情が分からない。

 

 百鬼丸は地面から必死に手を伸ばして、血反吐を撒き散らしながらも助けようとした……ただ、その行為そのものが現状では欺瞞でしかないことを悟りながら。

 

 

 背後に控えた秀光は、全てを見届けながら結芽に歩み寄る。

 

 「――さぁ、行こうか。少しだけ不自由はさせるが君を悪いようにはしない。安心してほしい」

 優しい声音で諭す。

 そして、百鬼丸へ侮蔑の視線を向けながら呟く。

 「……どこかで、お前が答える気がしていたが、それもなかったか。所詮殺しだけが得意なまがい物め。貴様は――ただの兵器と変わらん。誰を救う? 自己満足でお前の意思を押し通そうとしたのか」

 

 

 ……違う、おれは、おれはただ

 

 〝人を救いたいんじゃなくて、刀使を救いたかったんだな〟

 秀光の言葉が鼓膜に突き刺さる。

 

 

 掠れた視界と意識が、既に限界を訴えていた。

 百鬼丸は滑落してゆく意識の中で……伸ばした侭の腕と指をいつまでも掴もうと藻掻く。秀光に伴われ去りゆく結芽の後ろ姿へと向けながら……永遠に等しい距離を思い、虚無感を味わいながら、掴む。

 

 

 「おれは……おれはただ……」

 

 いつまでも、絶えることのない地面のザラついた感触を頬に味わいながら、気絶するまで煩悶するしかなかった。

 

 

 

 特務作戦部隊はこの日以後、皮肉なことにSTTとの関係強化を図った。またこの数分後に特別祭祀機動隊が派遣された。

 

 死亡者数一二六名。うち民間人は三〇名。

 首都高封鎖はこの一二時間後に解除された。しかし、交通規制区画が多数設けられた。

 

 国は、この事態を重く見て、更なる治安維持への意識を高めた。

 世論は既に疲れきっていた。特別祭祀機動隊を含む国に対する不手際を攻める声が増した。



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96話

 山吹色と白を基調とした制服は、特に胸部を強調するデザインを採用していた。一部界隈では「胸部偏差値高めの学校」として噂されていた。――岡山に所在を置く長船は、現在のところ研究開発部門が大忙しであった。

 というのも、近年の荒魂頻発に応呼する形で進められた兵器開発が更に推し進められる形となった。

 

 

 

 朝の爽やかな風が窓の隙間から流れ込む。近くの木にとまった小鳥の囀りが聞こえる。

 青く澄んだ瞳が瞬きながら、頻りに目線を移している。

 「ワーオ! 薫っ、薫っ、長船からS装備の最新ユニットサンプルが届いたそうデスヨ!!」

 古波蔵エレンが子供のようにはしゃいで騒がしい。鎌府の玄関ホールには試作品であるストームアーマーが届いていた。

 エレンに呼ばれた一際小さな、童女程度の背丈をした少女が欠伸を噛み殺しながら階段を降りてくる。

 「あ~うるせぇなぁ……せっかく遠征から帰ってきた休日だってのに……って、うわぁ!! なんじゃこりゃあ! んで、ストームアーマーが玄関にあるんだよ」

 益子薫は、まず非日常の光景に驚いた。少なくとも寮に運ばれるような代物ではない。いくら刀使関連の学校といえども、ここまで非常識なことはない。

 そのストームアーマーは厳重な管理のもと運ばれてきた様子であり、その装備品は、どれも一点一点が高級なパーツである。

 玄関ホール、特に刀使科の寮に運ばれたのには理由がある。

 「やっぱり持つべきものは素敵なグランパですネ!」

 その答えに目を細めた薫は、

 「……いや、どう考えても私情だろコレ」と呟いた。

 「ん~、でもこれカラ荒魂との戦いでスゴク楽になると思うんデスケド……」

 「いや、だとしてもここに運ぶのは非常識だろ……」

 「アハハ……確かに、そうですケド……これにも理由がアルんですヨ」

 「理由――? なんじゃそりゃ」

 寝癖のついた薄桃色の髪をポリポリと掻きながら首を捻る。

 「――薫は昨日の首都高の事故を知ってますカ?」

 薫の反応に苦笑いしたエレンは少しだけ声を真剣に潜め、訊ねる。

 ……昨日発生した大規模な首都高を含む事故。死者一二六名、負傷者五四〇名。立派な大事故である。しかも報道は生放送での中継で各局が争うように取り上げていた。

 だが不可解なことに、朝からは一転して事故の扱いが小さくなっているのだ。

 関東遠征を終えて夜中に帰ってきた薫も、当然だが送迎用の車のFMラジオで聞いた。幸いなことに、首都高を含む規制路線でなかったために容易に鎌府へと戻ることができたが……。

 「ふぅむ……。」

 考え込むように、顎に手をやる薫。

 「確か過激派テロリストの仕業だと聞いたが……それにしても、事件後に特別祭祀機動隊を出すのは不可解だな。となると……まぁ、順当に考えて荒魂関連だった、と。んで、知られちゃまずい事情があったから、報道規制を敷いた、と」

 眠たげだった目に機敏な光が宿る――。

 エレンは同意するように頷きながら「だから、急いでグランパに頼んで新型試作のS装備を用意してもらいマシタ」と、S装備の機械的なデザインの籠手を両手にとって、差し出す。

 「へぇ……前より少しだけシャープなデザインになって、黒色なんだな。でもあんまり変わった印象は受けないぞ」

 エレンから籠手を受け取りながら、しげしげと眺める。実際、変更部分であるデザインと軽量化――それ位しか薫には分からない。

 ちょい、ちょい、とエレンは手招きをする。

 「?」

 不信に思いながらも、玄関の扉のすぐ傍に簡易に設えられた台座のもとまでゆく。

 (なんつーか、邪魔くさいとこに置きやがったな……)

 などと薫は思いながら、鎧の胴当に相当するS装備のオレンジ色に輝く箇所を一瞥した。

 「コレは従来のS装備と違っテ、バッテリーの消費量が極端に抑えられて長時間の行動が可能なんデスヨ」

 瞳の中に星屑みたいなものがキラキラ光っているような具合で、エレンは饒舌にまくし立てる。

 「――これをオレに自慢しょう……って訳じゃないよな」

 「ハイ……実は、この新型試作品を既に綾小路武芸学舎が大規模に導入シマシタ」

 「はぁ!? 何っ、どういう事だそれは?」

 

 

 エレン曰く、元々新型機の改良は重要な課題であった。

 技術力では長船と鎌府の二大巨頭と言われてきたが、近年は関東での騒動が多く鎌府では開発予算や十分な工期が確保できなかった。とすれば、自然と関西圏――長船と開発を志願した綾小路に任せられる。

 「まさか、出し抜いた形で綾小路が導入した……そう言いたいのか?」

 頬に冷たい汗が伝うのを薫は無視して、問うた。

 珍しくエレンは厳しい表情で首肯した。

 「伍箇伝の学長人事が突如変更されたのも薫は知らない筈デス」

 「ああ、初耳だ」

 「鎌府の代理学長を相楽学長に……公からは姿を消していた高津学長が新たな綾小路の学長に交換人事になったみたいデス」

 「――はァ!? おい、そりゃあマズいんじゃないか……?」

 ただでさえ悪名高い高津雪那を再び学長職に? しかも、綾小路武芸学舎に? 疑念が深まるばかりである。

 「どうやら、今回の首都高の件といい伍箇伝の件といい関連がありそうだな……それで、いち早く新型試作品を取り寄せて、訓練をしようって計算か?」

 「大正解デス薫っ、だから薫は大好きなんデスよっ~~」

 祖父の血統譲りの長い腕を伸ばして、背の低い薫を抱きしめる。

 「うぐっ……あ~だからヤメロ、抱きつくなぁ~~!!」

 必死に抗議するも、メロン大に膨らんだ豊満な胸部に頭を挟まれて声は虚しく巨乳にかき消された。

 

 「ん? 待て、そういやエターナルと可奈美の姿を見てないぞ」

 「ああ、二人なら用事があって今朝方、横須賀に向かったみたいデスヨ」

 頭上に乳置き場の如き扱いを受ける薫の頭。

 「おい、いい加減その馬鹿チチどけろ」

 「う~ん、薫をあともう少し抱きしめたらにシマショウ」と、快活に答えて再び両胸の間に薫を挟む。

 (ちっ、……いつか憶えてろよ)

 ビシバシと右左に頬をぶっ叩く胸を睨みつけながら、薫は怨嗟を内心で吐き捨てた。

 

 

 2

 「…………それで、何か潜入方法で提案があるって聞いたんだけど?」

 腕組みしながら橋本双葉は目前の相手に詰問する。

 獅童真希、此花寿々花とは一旦別れて場所を移した。……目前の相手、山城由依はニヤニヤしながら首から下に下げた一眼レフのカメラの画面を食い入るように見つめている。口端から涎を垂れ流しながら、変態な笑みを浮かべて……。

 ぱっ、と双葉へ意識を戻した由依は「ごほん」と咳払いをしながら真剣な調子で頷く。

 「はい、実はあたし気がついちゃったんです」

 「何に?」

 「実は――あたしが愛読している親衛隊のエロ百合同人誌の作者様が双葉ちゃんだってこと!!」

 

 

 突然の言葉に、

 「――ふぁっ!?」

 全身が凍るような錯覚がした。それは、残酷な宣告だった。

 一体いつバレたのだろうか? 少なくとも彼女の前でボロを出した覚えはない。とすれば……百鬼丸? いいや、有り得ない。この変態とは面識はなさそうだ。

 

 (どういう事なの……?)

 双葉は脳みそをフル回転させながら、しかし表面上は動揺を隠すために無表示を保っている。

 「ふぅん、どんな確信があって言ってるの?」

 冷や汗がダラダラな双葉。

 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、由依は更に続ける。

 「はい。だって同人誌即売会に普通に手売りしてたじゃないですか、〝ツーリーフ〟先生っ!!」喜びを合わすように双葉の両手を握り締める。

 「……ッ、し、証拠は? ねぇ、証拠は? どこ?」

 由依の手を振り払うと、涙目で怒鳴る。こうなればヤケだ。証拠がなければ犯罪ではないのだ。

 

 「はい、これです」

 そう言って由依は、カメラの画面を指差す。……確かに、そこには双葉が大規模同人誌即売会で笑顔で薄い本を手渡している光景があった。

 「っ、だって変装した筈なのに……どうして……」

 「いや~今時、ベレー帽に伊達眼鏡っていうのは変装とは……」と、珍しく由依はツッコミをいれた。

 「そう……わたしがツーリーフ、ツーリーフ!! 何? 文句ある? 仕方ないでしょ? あんな美少女に囲まれてわたしの理性が保てると思う? ねぇ? 抑えきれないリビドーをこうやって発散しちゃいけない法律でもあるんですか~?」

 

 「双葉ちゃん……」

 真剣な眼差しで、両肩に手を置いた由依。

 「な……なに?」

 その雰囲気に思わず、たじろぐ。

 

 俯き加減だった由依は顔をあげて、涙と鼻血を流しながら首を振る。

 「めっちゃ、めっちゃその苦労があたしには分かりますよ!!」

 「――えっ? どういうこと?」

 この変態で有名な少女にすらドン引きされると思っていた。

 「あたしだって、毎日毎日刀使とかいう可愛い生き物に囲まれて、あまつさえ撮影禁止、接触禁止……こんな生殺し状態耐えられない!! だから、盗撮に手を出して性欲――ごほん、リビドーを発散させるに決まってるじゃないですか!」

 

 「う、うそ……そんなの気休め、どうせわたしを慰めるためについた嘘でしょ?」

 

 「じゃあ、これで信じてくれますか?」

 由依は言いながら、カメラの画像切り替えを行った。

 画面に映し出されたのは、瀬戸内智恵のスカート内部、肉付きのよい内股の辺りとパンツが撮影されていた。

 

 ブッ、と鼻血が唇に流れる。

 「――あなた、有能ってよく言われない?」

 双葉は親指を立てながら半泣きで微笑む。完全に同志を見つけ、安堵する様子だった。

 「これで分かってもらえましたか?」

 「うん、信じる。そしてあなたに謝る。……これからは素晴しい協力関係を作りましょう。……いや、違う。――――よく考えたら、綾小路の潜入方法を忘れたわ」

 双葉は今更ながら、首を振って現実にカムバックしてきた。

 

 「ああ、それなら大丈夫。綾小路は個人の部屋に浴室がないから、大浴場があってそこから侵入すれば誰も不信には思わないはずです!」

 由依はサムズアップをしながら、変態的な恍惚とした笑みを浮かべる。

 

 「ごめんなさい、山城さん……あなたは本物……大浴場とか、ほんと尊い……判った。わたしとあなたは一蓮托生。必ず成功させましょう」

 双葉は鼻血をティッシュで拭いながら、覚悟を決めた顔で頷く。

 

 由依も頷き、二人は綾小路潜入作戦を決めた。

 

 この変態的能力の二人が綾小路で色んな意味で大暴れするのは、今はまだ誰も知らない。

 



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97話

 ……眠りの泥濘から、全身を包む小刻みな揺れを感じていた。

 おれは目を薄く開きながら浅く眠りの淵から回復した。頭は鈍器で殴り続けられているみたいに、断続的に鈍痛が襲って容易に身動きがとれない。

 慙愧の念が途絶えぬ中、失意の感情がヒタヒタと浸水するみたいに胸中をドス黒く満たす。救うべき相手が求めた答えすら出せず、おめおめと敗残を晒す。

 (おれはこんなにも弱かったんだな……。)

 求められて手を伸ばし、掴んだと思ったものは虚空だった。そんな虚しさが時間と共に膨らんでゆく。加速する後悔と反省、自傷気味の嘲り。

 糞ッ、

 と、心中で強く叫ぶ。最早いまとなっては遅すぎた。

 ガタガタと体が左右に僅かに動く。意識と無意識の狭間を漂いながら、歯噛みをしつつ一旦思考に区切りをつける。

 「ふぅ……」

 小さく息を吐くと必死で寝返りをうつ為に半身を転がす。

 ふにっ、ふにっ――という、心地のよい感触が首筋に感じられた。

 (――なんだ?)

 怪訝に思いながら、おれは緩やかに首に接触する瑞々しい感触を掌で撫でて確かめる。

 

 「ひゃっ!?」

 可愛らしい声が上がるのが聞こえた。

 内心で、

 (はて?)

 首を傾げたくなった。

 どこかで聞き覚えのある声音である。――懐かしくて、悪い気分がしない。

 正体を確かめるべく、おれは片目を上げた。

 車窓から射し込む微光に重なって、可憐な人影が見えた。判然としない視界を瞬くと今度はしっかりと視認できた――――

 「か、可奈美!?」

 仰天したおれは唐突に声をあげて驚愕した。

 …………よく知っている人物だった。いいや、というよりも、知りすぎている人物でした。

 

 現役刀使の中でも無類の強さを誇る少女、衛藤可奈美。

 

 (幻かな?)

 

 未だ夢の中から脱しきれていないのかもしれない。

 

 

 おれは改めて掌に広がる柔らかで素晴らしい感触を確かめるように一撫でした。無駄な毛が一切ない肌。程よい肉付きの部位。視線を下に向ける。……太腿だ。

 白の素肌とニーハイの黒のコントラストが芸術的である。しかも、この分かれ目は俗に言う「絶対領域」であった。

 五指の先が沈む柔らかな肉の心地よさ。

 ゴクリ、とおれは緊張の唾を呑む。

 現状を整理しよう。

 可奈美さんの太腿を触っている=HENTAI的な状況。……これは非常にマズい。

 「よ、よぉ……」

 おれは気軽に笑いかけながら(多分引き攣った笑いだと思う)、場をごまかす様に会釈する。

 「…………っ!!」

 少女は柔下唇を噛み締め、眉をハの字に曲げながら満面を紅潮させ、くりっと大きな琥珀色の目の端には涙が浮かんでいる。

 「……お久しぶりです」

 苦しい言い訳をするように、おれは勇気を絞り出して挨拶をする。挨拶はキホンで大切である、古事記にもそう書かれている(多分)!

 

 「…………っさんの馬鹿」

 

 「えっ? ごめんないさい。聞こえませんでした」

 「百鬼丸さんのばかーーーーーーーーっ!!」

 

 バシィ、という小気味良い打擲音が響き渡る。

 とても素晴らしい快音だった。おれの視界は思わず白黒しちゃったね、まったく。

 

 

 2

 

神奈川に所在の置かれた横須賀米軍基地(横須賀海軍施設)には、米国の大規模な軍事施設が密集していた。

 比較的穏やかな陽気の神奈川南部、その海岸に面した立地は首都圏を含む防衛拠点としても機能していた。

 日米安全保障条約という外的要因により、日本政府はこの基地において強制権を有してはいない。

 

 簡易ゲート前に、白のステップワゴンが停車して身分確認を行った。

 許可されたあとで、ゲートのバーが上がる。潮風をもろに受ける立地では、うみねこの鳴き声が騒がしく聞こえる。

 車内で百鬼丸はなぜ、可奈美と一緒にいるのかを粗方聞いた。

 話しによれば、昨夜の「事件」で気絶した百鬼丸を発見したのが、後発出動した特別祭祀機動隊……つまり刀使である可奈美であった。

 救命部隊が一応の処置を施したものの、油断できる状態ではなく一時は病院の集中治療室へと運ばれた。――だが、面倒なことに世間の目があったために、生命の窮地を脱した後の百鬼丸が病院に留まることは不可能だった。

 とすれば、移動させる必要がある。

 そんな訳で昨夜から、百鬼丸に付き添う形となった可奈美だった。早朝に車で出発して横須賀へも赴くハメとなった。心なしか目の下に疲労の痕跡がみえた。

 話しを聞き終わってから百鬼丸は、

 「――すまん。可奈美に迷惑をかけた。長い時間悪かった」

 「ううん。私も一度鎌府に帰って支度して戻ってきたから、平気だよ」

 首を小さく振りながら否定する。

 「怪我は……」

 「一応は動ける。だけど、あと少しだけ治療が必要らしい」

 座席に腰を落ち着けながら、百鬼丸は頭を逸らす。

 「可奈美……さん、とはお久しぶりだよな」

 気まずそうに車窓へ目をやりながら、百鬼丸は痛む右の脇腹へ手を添えて尋ねた。

 「うん……そう、だね。大体4ヶ月ぶりくらいかな? ……あはは、あんまり私たち変わってないよね」空虚に明るい笑い。

 「…………ああ」

 「…………。」

 「…………。」

 重く沈殿した、気まずい雰囲気が車内を覆い尽くす。

 たった四ヶ月の間に、二人は本来多くを語るべき事柄があるにも関わらず――いざ相手を目前にすると、どうにも上手く言葉が紡ぐことができない。

 それはなぜだろう?

 (仲がいいからって言っても、可奈美ってどこか冷めてるよね)

 昔、冗談交じりに友人に言われたことがあった。その時は軽く受け流せた可奈美だったが、今になって解る。友人の言葉は本質を衝いていたのだ、と。

 ハの字に眉をしかめながら、膝の上に置いた両拳を固く握る。

 「「あの――」」

 言葉が被った。

 「ど、どうぞ……」

 「い、いやソッチが先でいい」

 「…………。」

 「…………。」

 (いまの私が、百鬼丸さんにはどう見えるんだろう?)

 絶えず胸の奥で湧いてくる疑問を直接、百鬼丸にぶつけたいと可奈美は思っていた。だが、先程の言葉の重なりが、その疑問を口にする気力を削いだ。

 「ねぇ、百鬼丸さんが聞きたかった事って何かな?」

 微笑を浮かべながら、もう一度訊ねる。

 「ああ、姫和は一緒じゃないんだな」

 「姫和ちゃん? いまから合流するんだよ。でもどうして?」

 「いや、アイツに聞きたいことができたんだ」

 「へぇ、どんなこと?」

 「〝タギツヒメ〟について……かな。あの夜も含めてもう一度……」

 車窓に映る百鬼丸の、珍しく弱気な表情を見つけた可奈美。

 ずきん、と少女の胸中が疼いた。

 (――あれ? なんだろう)

 初めて味わう感情。……これまで精神的にタフで、実際に強かった少年が憂鬱と失望の混ざった複雑な面をしている。

 …………落胆したのだろうか。

 あれほど、焦がれていた剣術の相手でもある百鬼丸の戦意が全く消え入りそうな様子に。

 

 (私って、自分勝手だ……本当はまず最初に百鬼丸さんの気持ちを察してあげないといけないのに、どうして最初に手合わせのことが思い浮かんじゃうんだろう)

 可奈美は自分自身の内側に潜む、どこまでも冷徹な己の影に対し、つよい軽蔑を持った。

 

 「って、おい可奈美聞いてるか?」

 突然、目前に現れた百鬼丸の顔が心配そうに、こちらを窺っている。

 「――うわぁっ!! あ、あはは……ごめん、もう一回言ってもらっていいかな?」

 「おいおい、大丈夫か? もしかして、何か悩みとかあるのか、可奈美?」

 「う、ううん。全然ないよ!」

 「本当か?」

 「うん」

 そっか、と百鬼丸はそれ以上言及はせずに頷いて納得した。

 

 「ねぇ、百鬼丸さん。その傷って、あの事件で戦った相手にやられちゃったの?」

 不意に話題を逸らすように可奈美は、迂闊にも事件について問うてしまった。

 言ってから「しまった」という顔で口を抑える。

 しかし、百鬼丸は意外にも「ははは」と苦笑いを浮かべながら、否定する。

 「おれは轆轤秀光っていう野郎にやられた。もっとも、腑破十臓とかいう異世界の来訪者相手にかなり苦戦したんだけどな」

 「腑破十臓……」

 「なんだ、知ってるのか可奈美?」

 「えっ!? ううん、全然。初めて聞いたかも」

 「そうか。とにかく……まぁ、おれは連中を倒す算段をせにゃあならんのだ」

 腕組みをしながら、百鬼丸は憂いを帯びた横顔で俯く。

 「……そっか」

 頷きながら、可奈美は「腑破十臓」と呼ばれた男、というより化物のことを考えていた。

 ずきん、ズキン……と、胸を脈打つ鼓動の高鳴りと、淡い疼きが軽い酩酊感すら与えた。

 

 戦いたい、早く手合わせしたい。

 

 あの神社でのわずかな斬り合いと、血の匂い。

 

 知らず知らず、可奈美は脇に置いた千鳥の白柄を握っていた。それに気がつき、堪えるように成長中の胸の辺りを握り締める。

 

 「…………。」

 百鬼丸は、可奈美の少しおかしな様子を一瞥しながら、何かをいうべきか迷っていた。しかし、結局は黙したまま時間だけがいたずらに過ぎてゆく。

 

 

 3

 

 様々な軍艦が停泊する中でも、一隻だけ場違いに小型のフェリーが肩を並べているのが見えた。

 太平洋の海と、濃い群青の空。朝陽が煌きながら海原を照らし上げている。

  

 眩しさに目を細め百鬼丸と可奈美は軍港を歩きながら、フェリーの前に佇む人影を発見した。

 ふたりはその人物をよく知っている。

 現在、政界で話題の渦中にある人物……、なにを隠そう折神朱音である。

 「お二方ともお待ちしておりました」

 柔らかな物腰と表情で出迎える朱音。

 「あっ、百鬼丸くんと可奈美ちゃんだ! あの時以来だねー」

 隣りにもよく見知った女性――恩田累が大きく手を振る。

 

 あの時……つまり、四か月前の逃走中に匿ってもらっていた時期を指すのだろう。しかし、百鬼丸としては理不尽な思い出しかなく、口を「へ」の字に曲げて不快感を示す。

 「あっ、もしかして怒ったかな? あはははは……君は見かけによらず――」

 

 「ああああああああああ、はいはいいぃいいいい、ストップ、ストップ! わかりました。大変お世話になりました。ありがとうございます!」

 慌てて百鬼丸は声を荒らげて、必死に頭を下げる。

 あの時に不本意とはいえ、色々やらかした。それを、折神朱音の前で晒されるのは心情的には最悪だ。だから遮るのだ。

 

 そんなやりとりを横目に、朱音は「ふふふっ」と口元を上品に覆い忍び笑いをする。ひとしきり笑い終わると、

 

 「では、向かいましょうか」

 と告げた。

 

 

 朱音の言葉に困惑する百鬼丸と可奈美。

 

 「えーっと、どこに向かうんですかねぇ」

 可奈美と顔を見合わせていた百鬼丸はおずおずと質問を発する。

 

 「〝ノーチラス号〟と言えば理解して頂けるでしょうか?」

 そう言いながら、小型フェリーを指差す。

 

 つまり、現在海上で航行しているであろうノーチラス号(原子力潜水艦)の海域までフェリーで移動するというのだ。

 

 「マジか……」

 げっそりとした様子で百鬼丸は、項垂れる。

 ノーチラス号にも理不尽に遭ったおかげで、これまたいい思い出がない。全くひどいものである、と百鬼丸は愈々、口元を「へ」の字に曲げてしまった。

 

 しかし、そんな百鬼丸の不満を横目に可奈美は、新たな人物を発見したようで「あっ」と声をあげて、大きく両腕を振った。

 「お~い、姫和ちゃ~ん!」

 (姫和!?)

 そういえば、先程車内で可奈美が合流云々と述べていた気がする。

 百鬼丸も釣られてフェリーの甲板上、柵で覆われた辺りを一瞥する。

 

 燦く海面の反射に溶けそうな小さな影。

 濡羽色の髪が長く、海風の風に浚われて靡いていた。

 どこか遠くを見つめる眼差しが、その少女特有の雰囲気を纏っている。凛とした佇まいに、深緑の制服――。

 十条姫和は、百鬼丸たちに気がついたように、意識と頭を声の方に向ける。

 途端――、嫌そうな顔で目を細める。先程の眉目秀麗で、クールな佇まいの少女の姿はなく、年相応の表情だった。

 

 「なんだ、アイツの顔……」

 視線がかち合った百鬼丸は思わず、不満を吐く。

 「あはは……思い切り顔に出てるよね」

 可奈美も苦笑いしながら、首肯する。

 

 明らかに百鬼丸の姿を見つけた瞬間にその変化が生じたのだ。

 「普通、ここは感動の再開とかだよなぁ?」

 首を傾げながら百鬼丸はブツブツと文句を言い続けた。

 

 そんな百鬼丸を知ってか知らずか、姫和は遠くから大きく口を開いて何かを語りかけている様子だった。

 

 「おい、可奈美。アイツなんて言ってるんだ?」

 「うーん? えっとね、〝くたばれ、馬鹿者、変態、犯罪者……〟だって」

 「…………軽く悪口どころの騒ぎじゃねーな、おい」

 斯くて、百鬼丸と刀使たちとの再開は果たされた。……もっとも、それは本人たちが望む形ではなかったとしても、である。

 



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98話

 小型フェリーの航路は小笠原諸島沖に進路を取り、十時間以上が経過していた。

 早朝、横須賀から出航した時は明るかった空も、既に夕日に暮れて夜の匂いが近づいていた。どうやら、ノーチラス号は予想よりも遠い海域を航行しているらしい。

 

 

 夕空を渡る海鳥たち。広大な海原に幾つか伸びる黄金の光帯。……潮の濃密な香り。

 いつまでも飽くことなく、甲板上で欄干に肘を預けて遠景を眺める十条姫和。

 わずか四か月前が遠い昔の出来事のようにも思っていた――そればかりでなく、討伐した筈の「タギツヒメ」が未だその影響を残しているのだ。

 そして何より、仇敵だと思っていた折神紫がタギツヒメに憑依され操られていたという事実に愕然――というより、寧ろ困惑が勝った複雑な心境である。

 (どうしたいんだろう、私は……。)

 小烏丸の柄に白い滑らかな細指を沿わせる。

 迷っていた。それでも尚、姫和は刀使として留まり腰に、こうして《小烏丸》を携えていた。母との繋がりを象徴する御刀。二〇年前の過去と現在を結びつける唯一の鍵。

 水平線の向こうの色調は既にドス黒くモノトーンに沈みつつある。

 

 

 

 

 「姫和ちゃん」

 背後から声がかけられた。

 振り返ると、手にマグカップを持った衛藤可奈美が微笑を浮かべている。

 「…………。」

姫和に見つめられている事を不思議に思ったのだろうか? 小首をかしげながら、自然な所作で手に持ったカップを渡す。

 「――ああ、すまない」と、受け取りながら礼を述べる。

 「どうしたの? 考え事とか? ……もしかして、紫様のこと――だよね。もうタギツヒメじゃないって、朱音様は言ってたけど」

 「分かってる」

 「でも、納得はできてないんだよね」

 「…………。」 

 沈黙という反応に対し、快活な少女が苦笑いする。

 「姫和ちゃんらしいな。心が正直で」

 「お前だって人の事は言えないだろう。何より剣術を優先させるじゃないか」

 その言葉に可奈美は困ったように笑いながら「確かに」と首肯する。

 「あぁ~、もう一度紫様と太刀合いたいなぁ……」

 呑気なまでの言い方に半ば呆れながら、

 「あれほど斬り合ったのにか」と、姫和が零した。

 「今度は二天一流の折神紫としてね!」

 キリッ、とした眉と表情で断言する可奈美。琥珀色の虹彩は鮮やかに光を灯していた。

 そんな単純とも言える相手の反応に口元が思わず緩む。

 「分かりやすくていいな、お前は」

 「姫和ちゃんも分かりやすいと思うけど?」

 「――わかりやすくない! お前もブレないな、という話しだ! お前はお前。私は私……」

 「そうだね。私にとってチョコミントは歯磨きの味だし」

 そう言って、笑いかける可奈美は悪戯っ子のようだった。

 「はぁ!? それは――」

 躍起になって反駁する姫和の様子を眺めながら、可奈美はくすっ、と可笑しさがこみ上げてくる。

 この四ヶ月間で、様々に蟠っていたものが少しだけ解消された気がした。

 

 

 2

 フェリー船室には、元親衛隊一席、獅童真希と二席此花寿々花も乗り合わせていた。

 彼女たちもまた、出航前に同乗していたのでる。理由は無論「折神紫」との再会であるが、ただそれだけではない。

 薄闇に沈みゆく船室の丸窓を眺めながら、一人憂鬱な表情を保つ真希。

 普段の中性的で野性味すら溢れる雰囲気は鳴りを潜め、年相応の苦悩する少女らしい姿だった。

 「そうか……結芽が」

 意外にも反応の薄い事に対し、寿々花は戸惑った。

 「どうされましたの? 親衛隊一席とは思えませんわね。もっと、激昂されるものだと思っておりましたのに」

 ワインレッドの緩くカーブした毛先を指で弄びながら、眼を細める。

 もちろん二人は昨日の首都高での事件を知っている。そして、先程百鬼丸から大方の事情は聞かされた。

 現在その百鬼丸は、フェリーの医務室で検査を受けている。

 事情を聞き終わった後から、真希は態度を崩しているように見受けられた。

 

 「紫様が荒魂を受け入れていることは知っていた――でも、タギツヒメだとは思わなかった」

 と、不意に口を開いて語りだした。まるで独り言のように小さく。

 「…………。」

 

 「もし知っていたら……」

 「紫様を斬っていた?」冷徹な皮肉がかった調子で、寿々花が訊く。

 「それはわからないが、少なくとも荒魂は受けいれなかったと思う」

 「――なぜ受け入れる気持ちになったんですの?」

 戦い続ける力が欲しいと思ったからさ、と虚しく呟いた。

 ――どんな光もやがては闇に飲まれて消えてしまう。膨大な闇に立ち向かうには自らも闇を受け入れるべきだ。

 真希は内心を吐露しながら、数年前……まだ親衛隊にも入隊する以前の〝事故〟を脳裏に浮かべていた。関西圏で起こった大規模な荒魂の発生とそれに付随する、大規模討伐作戦――。

 綾小路と平城は無論、応援で長船からの刀使派遣もあり事態は収束した。

 〝多大な被害を受け〟ながら……。

 それまで実力に応じた無意識の慢心を有していた獅童真希という刀使が、この経験を転機にしてしまった。

 だから、荒魂を受け入れた。

 

 だが、そんな事情は寿々花には関係ない。

 「親衛隊一席の言葉とは思えない、案外臆病でしたのね」

 強く凛々しい―――それだけではない事を寿々花は知っている。だからこそ、いまは憎まれ口を叩いても、やる気を出させようと思っていた。

 「臆病……か。あの夜、長船の子にも同じことを言われたよ。ボクは改めて自分の弱さを知ったよ。だから今回の結芽の件は彼を責められないんだ。そもそも、彼は結芽の命を救った――感謝こそすれ、恨む気持ちはない」

 「だけど悔しくない、と言えば嘘でしょう?」

 「ははは……そうだね。寿々花はなんでもお見通しなんだね」

 弱気な真希の微笑に、思わず顔を逸らす。

 「真希さんにだけ――ですわ」ボソっ、と小さく頬を微熱に染ながら嘯いた。

 「ん? ごめん。よく聞こえなかったよ」

 「もう、鈍感」

 眉間にシワを寄せながら頬を膨らまして寿々花は怒った。

 

 「ですが、轆轤秀光という男も含めて、このまま結芽を囚われのままにしておくのは癪ですわ」

 

 「……ああ、そうだね。ボクたちは親衛隊だ。紫様をお守りするだけじゃない。ボクたちから何かを奪ったら、その分の代償も払ってもらわないと気がすまないからね」

 本調子を取り戻したように、真希は足の間に置いた御刀を引き寄せる。

 ――結芽を奪われた、と聞いたときのショックが気持ちを沈ませていたが、冷静に考えれば取り返すことができるのだ。

 死の淵を彷徨ったあの頃の結芽とは違う。

 そう決意すれば、話しは早い。

 「もちろん、親衛隊の頭脳様は何か考えでもあるんだろう?」 

 「ええ、勿論ですわ。……首都高とそれに付随する状況を加味するに、紫様にお会いして幾つかの確認をとれば結芽の居所は把握できますわ」

 自信をのぞかせる口ぶりで、寿々花は勝気な眼差しを真希へ送る。

 

 「ははは、流石はボクが見込んだ相手だ」

 と、軽口とも本音ともつかぬ口調で笑いかける。

 その屈託のない雰囲気に胸が甘く疼いた寿々花は、

 「…………真希さんは、そうやって誰にでも勘違いさせるところ、本当に嫌いですわ」

 再び真希を直視できずに、眼を逸らす。

 

 寿々花の反応に訝りながらも、

 (取り戻すんだ、結芽を――もう一度親衛隊で集結するために)

 真希は己のやるべきことを見定めた。

 

 

 3

 小型フェリーは一応、民間の所属としている。現在の世論では刀剣類管理局を含む公安の対応や動きが逐一監視されている。とすれば、海上保安庁の動きも鈍くならざるを得ない。

 小型フェリーが速度を緩めながら、並走する物体を捉えていた。サーチライトを照射すると半浮上した黒い巨影が白泡の軌跡を曳きながら、隣りにいる。

 原子力潜水艦、ノーチラス号である。

 その甲板上に一人の影があった。

 純白のパンツスーツに肩は金モール、シンプルな服装であるものの峻厳な雰囲気が辺りの気配を圧倒する。海風に嬲られ、純黒の長い髪を靡かせる女性――折神紫その人であった。

 

 

 折神紫、その人である。

 

 

 ◇

 

 無事にフェリーから潜水艦へと移動した可奈美たちはすぐにその足で船室へ向かった。

 

 

 潜水艦の比較的大きな一室で、

 「病院で療養中の局長がまさか、武装した潜水艦の中とは――」

 開口一番、姫和は強い敵意と皮肉を込めた口調で言い放つ。積年の恨みを未だ燻らせている様子だった。

 

 この一室には可奈美と姫和、折神朱音。その対座のソファーに、紫と親衛隊の真希と寿々花、そして累も関係者として居た。

 

 「医療施設を完備してますから、嘘というわけでもないんですよ。現に百鬼丸さんも今は傷口の手当を本格的にできていますし」

 困ったように穏便な調子で朱音は付け加える。

 「でも、紫様はもう荒魂じゃないんですよね?」

 場の雰囲気を読まずに可奈美が明るく問いかけた。

 

 「衛藤さん!?」

 「お前……」

 親衛隊の二人は、元とはいえども、主人である紫に対し不遜な態度をとるような可奈美の発言に度肝を抜かれた。

 

 しかし、可奈美の質問を引き継ぐように累が答える。

 「ええ、何度も検査しましたが局長からは荒魂は検知されませんでした。肉体年齢は十七歳のままですが」

 

 「獅童さんや此花さんの体からは完全に荒魂を除去できなくて……ごめんなさい」朱音は申し訳なさそうに、付け加えた。

 実際、技術の進歩は著しいものの完全に克服する術をまだ模索中の段階であった。

 「紫様はどうやって、荒魂を克服を?」率直な疑問を可奈美がぶつける。

 「克服したのではない、捨てられたのだ荒魂に……」

 半ば自嘲気味に答える。

 「捨てられた?」

 問たわしげに真希が口を挟む。

 「――恐らくですが局長を自らの意思でタギツヒメが排斥したのではないか、と」累が更に補足を加える。

 

 だとすれば、

 「〝あの夜〟ですか?」

 可奈美が思い当たる節は一つしかない。すなわち、四か月前の折神家襲撃事件の夜である。

 「――なにがあった?」

 不遜な物言いで姫和は、目前の折神紫を睨み据える。

 「十条、言葉を控えろ」

 あまりの横暴な態度に噛み付きそうになった真希を、紫が手で制する。

 「――あの夜、タギツヒメと同化していた私はお前たちに討たれた。諸共滅びる寸前だったが、奴はこの肉体を捨て隠世に逃げた。荒魂を撒き散らしたのはその後の追跡を攪乱する為だ」

 全ての事情を聴き終えた可奈美は「ふむ、ふむ」と頷きながら、最後に一言、

 「トカゲの尻尾きり、ですね」

 と、真面目な調子で断言した。

 そのあまりの物言いには、思わず親衛隊の二人も絶句した。

 

 

 「…………可奈美ちゃん、もうちょっと言葉を、ね」

 困ったように累がフォローを入れる。

 

 そのぞんざいというか、大雑把な物言いが、紫を懐かしい気分に浸らせた。

 (やはり、美奈都の娘だな。親子変わらず……か)

 口元を僅かに緩めながら、

 「そうだ。私は切り捨てられた尻尾だ。――だが、そうも言ってられない事態となった」

 

 三女神、タギツヒメは三柱に分裂して現在争っている。

 各地でノロを奪取していたタギツヒメ。

 防衛省に匿われているタキリヒメ。

 残る、イチキシマヒメ。

 

 この三柱を宗像三女神になぞらえていた。荒魂が神を名乗った――西洋の唯一絶来信でもなく、またインドの地から発祥した仏教とも異なり、マニ教、その他の神話とも事情を異にする……日本の神の名を冠する荒魂。

 

 「なぜ、同じ荒魂だったもの同士が争っているのですか?」

 真希は疑問に思った。そうすべき必然的な理由が見えないのだった。

 

 「あなたたちに合わせたくて、ここに連れてきました」朱音が冷静な声音で告げる。

 

 「…………ッ、残りのひと柱、イチキシマヒメが〝ここ〟に居るのですね?」

 姫和は直感的に悟った。どう考えても、それ以外に理由が見当たらない。

 

 朱音は重々しく頷いた。

 

 

 

 

 

 4

 いい加減イヤになるぞ、おればかり隔離して治療巡りとは……。

 百鬼丸は一人、苛立っていた。腹部を含む傷は自然に回復しつつある。それだのに、やたらしつこく検査する必要性を見出せずにいた。

 「折神紫がいる。別に奴には用がない……、タギツヒメだ。あの夜、紫の体を離れたあいつらがなにをしているのかが問題なんだッ」

 姫和の一之太刀を喰らって、分裂した。それを確かにこの眼で確認した。

 一刻も早く事情を知りたい、それに今は燕結芽もタギツヒメ一派だろう轆轤秀光の手の中にいる。

 フェリーに乗り合わせたとき、親衛隊の真希と寿々花に直接昨日の内容を語った。

 真希は百鬼丸を責めることはしなかったが、ただ「そうか……」と、悲痛な表情で頷くだけだった。

 それに比べて寿々花は「貴方が一緒にいながら何をなさっていたの? どうしてあの娘の手を離したんですの? 自分の力量だけを過信されていたのではなくて?」と矢継ぎ早に辛辣な言葉を浴びせられた。

 しかし、百鬼丸としては寧ろ寿々花の態度に感謝せざるを得なかった。真希のように何も言わずに、悲愴な表情を見ることが百鬼丸にとっては、一番精神的にキツかった。

 

 

 椅子がわりにしていた手術台の上、上半身を裸に晒して俯く。

 「…………人じゃない、おれは…………じゃあ、ヒトを――刀使をどう捉えればいいんだ」

 あの夜、少女は目前から立ち去ってしまった。

 命を助けた、たったそれだけで満足していた。

 今までおれは、おれに生きる理由を与えてくれた「刀使」を守ろうと、助けようと思って生きていた。勿論、肉体を取り戻すことも重要だ。でも、それは本能的に動いている部分があるに過ぎない。おれの自意識で初めて決めて動く理由になったのは、間違いなく「刀使」だった。

 

 ――だのに、結局誰ひとりも救えていないじゃないか。

 

 百鬼丸は強く唇を噛む。口端から血が滴り溢れた。鉄分の濃密な味が口腔いっぱいに広がる。

 

 『おにーさんは、私が特別だから助けたんだね』

 脳裏を過る言葉。

 「おれはどうしたら、よかったんだ……」

 人に疎まれて暮らしてきた自身が、今更人と関わるのか?

 考えたこともなかった。考えないように生きてきた。戦うことが、おれ自身の存在証明だったから。

 

 両手をまじまじと眺める。

 

 ――肉体の右手

 

 ――義手の左手

 

 同時に握っては開く。この手で救えたのは、助けることができたのは一体何だったんだろう。

 

 

 「百鬼丸くん、ちょっといいかな?」

 と、突然扉の隙間から中を窺うように顔を出したのは、恩田累であった。

 

 「……はい? ああ、えっと何か用でも?」

 深い思索から覚めたように顔をあげ、マヌケ面で笑う。正直に言えば、可奈美たちと別れてからは気分が楽だった。「刀使」と顔を合わせること自体が、苦しくなっていた。

 

 累は百鬼丸の内心を、敢えて探らず、

 「うん……よかったら、なんだけどさ。君も一緒に来て話しを聞いて欲しいんだけど――怪我の具合は大丈夫かな?」

 

 「はい、問題ありません」

 百鬼丸は頷きながら、手近に置かれた着替えの黒いTシャツに袖を通す。手術台から飛び降りて《無銘刀》を素早く掴み取ってベルトの間に差し込んだ。

 

 足早に扉を出て、通路の向こうへと歩き出す少年の背中はどことなく、思いつめた雰囲気が漂っていた。

 

 薄暗い通路の闇へと消える寸前、

 「ねぇ、百鬼丸くん」

 累が声をかけた。

 「――はい?」

 

 「君は、まだ〝子供〟だからね」

 

 「ええ……」

 

 「難しいことは大人に任せなさい!」

 胸を叩いて断言する。……それが、実際にはどれほど空虚で、彼のような子供を危険に晒していると痛感していても。

 

 

 「あはは……どうしたんですか、急に?」

 

 「君には、この世の中も私たちも何も報いることができていないからね」

 

 「おれは別にそんなもの要りませんよ。ただ肉体を取り戻す過程で、たまたま利害が一致した。それだけの話しです。さ、行きましょう」

 百鬼丸は笑顔で促した。

 

 「…………。」

 累は、何か言葉を探ったが、しかし彼の背中を結局は追いかける。

 

 

 5

 分厚く、重苦しい隔壁に一箇所扉が拵えられていた。

 鋼鉄の血管が張り巡らせるように、非常用の電灯が血潮のように赤く周囲を照らしている。先程の部屋で会話を切り上げ、一同はこの場所まで移動していた。

 

 ゴクリ、と思わず衛藤可奈美は唾を呑む。

 この厳重な設備の向こうに一体何があるというのだろう? 腰に佩いた《千鳥》の鞘を握った。

 

 隣で、

 「スペクトラム計に反応がない」

 と、十条姫和が言った。掌の上に乗せた小さな方位磁石に似た物を一瞥する。

 

 「ごめんね。遅れて。今、百鬼丸くんを呼んできたから……」

 息を切らしながら、累が謝罪して扉の側面に取り付けられた電子ロックキーに数字を入力してゆく。

 

 「傷の方は平気なのか?」

 姫和は一切百鬼丸の方を向かず、聞いた。

 「……ああ、まあご覧のとおり平気ですぜ?」

 ニヒヒ、と笑う。

 「百鬼丸さんも、ってことは何があるんだろう?」可奈美が逡巡する。

 

 

 ピッ、という短い電子音のあと、扉が機密性の高い内部を開いていった。

 

 徐々に、緩慢な速度で隙間を広げる扉の向こうには単なる部屋が広がるばかりだった。――その空間の椅子に腰掛ける〝姿〟を視認するまでは。

 

 「……!? スペクトラム計が反応した?」

 先程までなんの反応も示さなかった計測器が、活発な反応を示していた。

 

 ……と、可奈美と姫和たちの頬を疾風の如き一陣の風が瞬間的に吹き付けた。

 

 「えっ?」

 

 「なっ!?」

 

 二人が突風の方向に意識を向けたが、そこに人影……正確に言えば百鬼丸の姿はなかった。

 

 「ようやく見つけたぞ、タギツヒメッ!! てめぇを膾切りにしてやるッッ!!」

 百鬼丸は左腕の義手を抜き放ち、椅子に座った「何者か」に対し、殺意をむき出しに迫り、その侭移動速度を利用して右腕の肘で喉を潰しながら、壁際に追い詰め左腕の刃を頬へと当てる直前だった。

 

 『……ッ!!』

 室内の何者かは苦悶に呻く声をあげている。

 

 「やめろ百鬼丸っ!!」

 咄嗟に反応し制止したのは、折神紫だった。

 

 「……………なぜ、止める?」

 冷徹な眼差しで、肩ごしに百鬼丸が振り返る。感情を一切宿さない、結晶化した暗闇のような瞳。

 

 その激しい殺意の視線が、背後の一同にゾワリ、と鳥肌をたたせた。

 しかし、紫は臆することなく百鬼丸へと歩みを進める。

 「話しをまずは聞いて欲しい」

 穏当な口調で、再び制止した。

 



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99話

 「少しは落ち着いたか……?」

 腕組みをして、折神紫は未だ荒ぶる少年を嗜めるように聞いた。

 結局、紫の説得の末にようやく刃を収めて引き下がった百鬼丸である。しかし彼は尚も不満げだったが……。

 「――どうだ?」再び紫が問う。

その少年は荒い呼気を幾分鎮めながら「ああ、平気だ」と短く応答した。

 「そうか」と頷き、紫が周囲を見回すと、皆神妙な面持ちで一言も発する気はないようだった。

 「「……………。」」

 先程の百鬼丸の奇襲未遂が尾を曳いており、一室に重たい空気を齎していた。

 

 

 その当の奇襲を受けた相手は、『あぁ……ワレはここで滅ぼされる運命なのだな』と嘯いた。その声質はこの世のものとは思えず、〝声〟自体が幾重もの音素が混ざり込んだような不可思議なものだった。

 「あ――? そんなにお望みなら今すぐここ斬り殺してやるよッ!!」

 と、喧嘩腰の態度で今にも噛み付かんばかりの勢いで肩を怒らせる。

 「や、やめて百鬼丸さん。ね?」

 咄嗟に、隣の可奈美が細腕で押しとどめる。まるで言うことを聞かない犬に言うことを聞かせている飼い主の様にすら見えた。

 「……ッ、チッ」溜息を零して、臨戦態勢を抑えた。

 だが尚も眉間に獰猛なシワを刻みつけ、残忍な眼差しで睨みつけている百鬼丸は、どこか常軌を逸していた。彼の雰囲気は裁縫針のような刺々しさを纏っていた。

 「お前の事情も分かっている。だが、今はとにかく話しを聞いてくれ。ここにいる〝彼女〟はイチキシマヒメだ」

 と、紫が説明する。

 

 

 椅子に腰掛け前傾姿勢を保ったままの〝イチキシマヒメ〟は白い光を薄く体表に纏っていた。恰も刀使の《写シ》の如く。

 その、どこまでも掴み所のない言動が一同を困惑させた。

 渦中のイチキシマヒメは人の感情とはお構いなしに、

 『そうか……お前たちは、タギツヒメの手に渡る前にワレを始末しにきたのだな。アヤツに取り込まれて勝利でもされれば困るであろう……』と、うなだれながら、眼をあげて百鬼丸へ一瞥をくれる。

 しかし、折神朱音は首を静かに振った。

 「いいえ、貴女は我々刀剣類管理局がお守り申し上げます」

 と穏やかな口調で告げる。

 事実、情勢としてその通りであった。

 だが事情が一切飲み込めていない可奈美が眉をひそめながら、

 「あの~、取り込むとか勝利とか、どういう意味ですか?」素直な疑問を口にする。

 朱音は微笑を湛えながら頷く。

 「それにはまず、彼女たちが三つに分かれた所からお話しなければなりませんね」

 と言いながら、累に目配せをした。何かの合図のように累も頷き、「はい」と短く応じた。

 

 

 「では、まずノロについて説明します……」

 そう言いながら彼女は百鬼丸を背にした可奈美たちの更に前へと歩を進める。万が一にも百鬼丸が刺殺することを防ぐ為である。既に百鬼丸は目測で室内の距離とイチキシマヒメとの距離を把握し、いつでも刺し殺す準備をしていた。その証拠に、先程から目線だけが室内の四隅を機敏に眺めていた。……油断できない。

 

 (心配だなー)

 内心彼女は不安だったものの、踏ん切りをつけて語りだす。

 累曰く、ノロのスペクトラム化――ノロ同士は繋がり合うことで脳のようなものを形成する。それに従い高度な知能を有する。この過程で「感情」が芽生え、荒魂となる。彼らの最初に抱く感情は〝喪失感〟である。

 

 「喪失感……?」

 噛んで含めるように、可奈美は呟く。

 

 「そう、喪失感。珠鋼の神性を奪われたことによる喪失感――この飢えにも似た喪失感を埋める為にノロは本能的に結合を求めます」

 累の説明通り、姫和の掌上に置かれたスペクトラム計のノロがイチキシマヒメへと結合しようと活発な動きを見せていた。

 

 それを横目にしながら、親衛隊一席の獅童真希は首肯する。

 「――ああ、今のボクたちならばそれが理解できる。あの渇きには抗いがたい」

 

 真希の言葉を引き継ぐように累は続ける。

 「結合を繰り返し、より知能が発達すると喪失感は怒りに変わります。自分の一部である珠鋼を奪った人間に対する怒りです」

 

「荒魂が人を襲う根本的な理由はそこにあると考えられています」朱音は冷静に言い添える。

 

「――荒魂を生み出したそもそもの原因が、荒魂を倒す唯一の武器とは……皮肉なお話ですわね」

 沈んだ声と眼差しで此花寿々花がいう。親衛隊二席の優秀な頭脳は、ここにきて人間社会の自己矛盾に気がつき、皮肉な事実を知った。

 

 

 『…………そう、全てはお前たち人間が強欲にもワレワレの神の力を奪ったのが全ての原因だ』

 全てを聴き終えたイチキシマヒメが金色の瞳で周囲の人間たちを軽く睨み据える。

 

 「うるせぇ、文句があるならてめえらを滅させてやるよ。人の体を奪っておきながら偉そうに講釈垂れてんじゃねぇ、蛆虫がッ!」激しい言葉で凄んだ。

 百鬼丸が珍しく感情的にいきり立っている。醒めた瞳で、檻に入れたれた猛獣のように絶えず隙を伺っていた。

 

 紫は、溜息交じりに百鬼丸の言動を無視して、言葉を紡ぐ。

 「話しを戻す。私に憑依していた荒魂が三つに分かれた理由だが――」

 

 『知能は高度に進化し、やがて論理矛盾に陥った』

 

 「論理矛盾?」

 寿々花が柳眉をピクン、と跳ね上げて問う。

 

 『人に対する思考が三つに分かれ、それぞれ対立し始めた。〝怒り〟〝怨嗟〟といった感情から生まれたのがタギツヒメ。奴は人への報復を望んでいる。一方、人を支配、管理して導くことを望んでいるのは、タキリヒメ。奴はこの世の神として君臨するつもりだ』

 

 「お前は?」

 イチキシマヒメの説明に対し、すかさず姫和が口を挟む。

 

 『ワレはワレがこの世界に存在する意味を求めた。我々荒魂はこの世界にとって不要な存在なのだろうか……不要なものが存在する意味は? 模索し、やがて見つけた。人と荒魂を融合させる術を』

 そこまで言って、イチキシマヒメは大きく両腕を拡げた。

 

 『人という種を進化させる術を!』

 

 そこまで聞いて、真希が剣呑な眼差しになった。

 「人と荒魂を融合だと?」

 

 「……そうです、荒魂によって人体の強化を図る術をもたらしたのは、このイチキシマヒメなのです」朱音が事実を告げた。

 

 「じゃあ、この力はお前が?」

 真希は大きく動揺した。まさか、これまで親衛隊として利用してきた荒魂のおぞましい力が、この目前のイチキシマヒメによって与えられたことが、生理的に理解を拒絶していたのだ。

 

 『そうだ。ワレは見つけた。この世界に存在する意味を』

 

 淡々とした口調で、このイチキシマヒメは喋る。まるで人の常識など超越したような口ぶりが歪んだ「神」であるかのようだった。超越的な技術と、人を道具のように扱う様が。

 

 『あの夜、鎌倉で紫と分離して隠世へと逃れたワレはもう修復不可能な論理矛盾を解決する為、それぞれの思考を個として分離、独立させた』

 

 三女神は、互いに争い負けたものを取り込む。最終的には隠世にある本体を手に入れる。勝者が本体を手に入れマガカミとなれば、二〇年前以上の大災厄が起こる……。

 

 

 これが、今現在の騒動の根本的な原因だった。

 「――その為にはまずは防衛だ。イチキシマヒメは海中にある限りは安全だ」

 戦いにおいて不向きなイチキシマヒメは、紫――刀剣類管理局への保護を要請した。

 

 『ワレには頼るものがいない。かと言って自分で戦う気にもなれぬ』

 

 「でも、戦ったら強いんですよね?」

 可奈美は口をついて、疑問を投ずる。

 『そこそこ強い。……が、結果のわかりきったことはしない。それより、ワレの側につく気はないか? ゆくゆくは荒魂と人類を結合させ、種としての進化を得る』

 

 言葉を遮るように真希が、

 「……ふざけるな! ボクたちが結芽がどれほど――」

 喰ってかかる。

 

 『寧ろ燕結芽は好意的に受け取ってくれたと認識している』

 

 「その結果どうなった?」

 

 途中から真希も怒りに震えていた。

 

 「よせ、理論を完成させたのはイチキシマヒメだが……実験投与したのは私と、鎌府、綾小路の学長だ」

 紫は敢えて泥をかぶるように言った。……しかし、事実は少し異なる。

 

 米国人科学者レイリー・ブラッド・ジョーと、再生医療分野の橋本善海がかなり早い段階で「実験素体」を有しており、荒魂と人との細胞レベルでの研究は終わっていた。だがこの話しには直接関係がない。

 

 

 ――恐らくタギツヒメは、綾小路を拠点にしています。

 

 最後に、朱音が呟いた。

 

 その言葉を片耳に入れながら、姫和はふと真正面のイチキシマヒメと視線が絡んだ。

 「……?」

 そして、いつの間にか、背後にいた百鬼丸は部屋の外へと出ていた。

 

 

 

 2

 心底、ムカつく。

 今ここで斬り殺すという判断にも間違いはない。

 百鬼丸は喉の奥までせり上がった怒りを飲み込みながら、先程の手術台の上で右足の加速装置を修復する為に、台に足を投げ出し自らの手で解体していた。

 先程のイチキシマヒメとの対話の際に、無理して最後の加速を行った為に内部構造が全てお釈迦となった。

 天井の強力なライトを浴びながら、百鬼丸は自らの手にメスを握り、大腿部の皮膚へと刃先を沿わせる。針ほどの傷ができた。人口血液が溢れ出す。

 既に痛覚神経を切断している為に痛みは感じない。透明な筋肉繊維を指でほじくり返しながら、加速装置のシャフト部分に触れる。生暖かい感触に骨とは異なる金属質の感触。

 幸い、このノーチラス号にはS装備などの研究開発の為の機材があるために加速装置の修復に応用できそうな部品がいくつもあった。

 特別に許可をもらい、百鬼丸は手術台の上で、部品をひろげ、メスからスパナやレンチに持ち替えて作業を行う。

 

 「おい、どう思ったお前は?」

 

 ずっと沈黙を守ってきた胸の中の〝人物〟に対して詰問する。

 

 《おや、珍しい。君から話しかけてくれるなんて……あ、馬鹿違う。そこの部品をまずは外してからだ。あ、下手くそだな。全く。これだから、兵器開発に関わったことのない素人は……》

 百鬼丸が肉を切り開いて、加速装置の修復最中に煩く声を上げる、ジョー。

 

 「チッ、うるせぇな。だったらお前がやるか?」

 

 《おお、本当かい? だったら、君の両腕の神経を一時的に借りてもいいかな?》

 

 「……お前がおれを殺すとも限らんぞ」

 

 《馬鹿をいうな。だったら、ボクだって死ぬだろうが。ボクは退屈なのさ。機械くらいいじらせてくれてもいいだろう》

 

 「…………わかった。だけど変な動きはするなよ」

  百鬼丸は強く釘を刺した。

 

 ――ああ、と胸の奥のジョーは同意した。

 

 百鬼丸は溜息をつきながら、自らの腕の意識をジョーへと渡す。

 

 と、途端に腕が鮮やかな手つきで部品を見繕い、工具を片手に百鬼丸の加速装置の不備箇所をバラしてゆく。

 

 その手際に呆れつつも、百鬼丸が再度問う。

 「お前は知っていたのか? イチキシマヒメとかその辺りの話しを?」

 

 《いいや、まさか三つに別れているなんて知りもしなかったし興味がないからね。でも彼女はとてもクレバーだ。スマートだ。素晴らしい。彼女の意見にはほぼ同意したいね》

 

 「あ? 本気で言ってるのかてめぇ」

 

 

 《あはは、そう怒るなよ。いいかい? 君が彼女を仕留めたいのも解る。でも、人間の形質は全て進化の過程によってもたらされたものだ。人は文明をもった。進化は必然だ。今から動物になんて戻れないだろう?》

 

 「うるせぇ、だったら荒魂をこの世から消し去ってやるよ」

 

 《はぁー、全く君は野蛮だな。まあいい。君とこの話しをしても平行線だと思うから、あとにしてくれ給え。――オヤ?》

 

 と、百鬼丸の腕を操っていたジョーが怪訝な声を上げる。

 

 「……なんだ?」

 

 《一つ、確認なんだがね。君は〝強く〟なりたいのか? それとも〝このまま〟でいたいのか? どっちだい?》

 

 不可解な質問をジョーが投げかけてきた。

 

 「どういう意味だ?」

 

 《いやね。君の足を解体して思ったんだがこの加速装置はおかしいと思ってね。なぜ〝長距離移動用〟のタイプを備えているのか疑問なんだよ。戦闘においては刀使の《写シ》のように中短距離の瞬間的な出力がある方がどう考えても戦闘に有利だと思うのだがね》

 ジョーは言いながら、亀裂のはいって殆ど裂けた細長い棒状の部品を触る。

 

 たしかに彼の言うとおり、その方が合理的だ。

 

 ではなぜ、加速装置が長距離移動の為に?

 

 百鬼丸はこの加速装置を作った義父、善海に思いを馳せた。彼は戦いにゆく百鬼丸に対して一言もかけたことはなかった。少なくとも記憶の中では。

 それは実の娘のために没頭していた、だから失念していた……というだけでは決定的な理由にはならない。

 

 《多分、ボクが推察するに、だがね》

 

 と、ジョーがいう。

 

 《これは逃走のための加速装置だ。長い時間をかけて敵から逃げるための。そうすれば辻褄が全て合う。敵と戦い、負けそうになれば逃げることができる。決して戦闘向きでない加速装置だから、そう判断するのが自然だと思うが》

 

 その言葉を聞いて、百鬼丸はハッ、と頭を上げ――理解した。

 

 義父、橋本善海は百鬼丸を決して見捨てていた訳ではなかった。それどころか、彼が安全に帰ってこれるように敢えて戦闘に向かない長距離の加速装置を彼の両足へと備えた。

 

 その事実に愕然としながら百鬼丸は訳もなく「あはは」と乾いた笑いが口から漏れた。

 

 「……参ったな。今まで何も知らずにおれはこの足を使ってきたんだ。なんつーか、こういうのを親不孝者って言う奴なのかな?」

 

 《さぁ、どうだろうね。ただ一つ言えることは君は選ぶことができるよ。ボクの腕ならば、今から改良して中短距離の加速装置に変更できるし、戦闘向きだ。しかし君の判断に任せるよ》

 

 軽くいって、ジョーは楽しげに解体を続ける。

 

 

 「…………ったく、怒りで頭が一杯だった筈だったのに、とおさんの今更の気遣いに気づくなんて……おれはやっぱり馬鹿だったんだな」

 俯き加減に、下唇を噛みながら、百鬼丸はたっぷりと息を吸う。

 それから、たっぷり一分、二分……五分ほど沈黙する。

 

 突然パシン、という乾いた音が空間に木霊する。百鬼丸が自分の頬を両手で叩いたのだ。一瞬だけ腕の制御を奪われたジョーは「おいおい」と困惑したが、百鬼丸は構わず、赤く染まった頬でしっかりと前をみる。

 

 「頼む。中短距離の加速装置に変更してくれ」

 

 《しかし、いいのかい?》

 

 意外な返事にジョーは聴き直した。

 

 「ああ、頼む。今までとおさんの足でおれは自立してきた。――その気遣いも嬉しい。正直変更するのもイヤだ。だけど、お前の質問に答えるなら、おれは〝強く〟なりたい」

 

 《まだ強くなりたいのかい? 全く、ボクがいうのもアレだが、強さを得るために君は失っている気がするよ》と、半ば呆れ気味にいった。

 

 事実そのとおりである。百鬼丸という少年の破格の強さを支える根底には「失う」という原理が存在している。この物理世界において無から有は生まれない。あるのは、有から有への変質と移動であり、原理原則である。

 

 「…………いいんだ。十分とおさんの気持ちに甘えてきた。だから、今度はおれが自分のやり方で立つ足が欲しい。それに現状強敵ばかりだ。少しでも戦力が欲しい。頼む」

 

 

 百鬼丸の珍しい懇願によって、ジョーは意外そうだが、しかし嬉しそうに応ずる。

 《わかった。では、とびきりの加速装置に変更してやろう。それに、あの善海は兵器開発のプロではないから、不十分な箇所が多いんだ。まったく、直しがいがあるねぇ》

 

 喜々として、百鬼丸の腕を操りながら金属部品を交換し始める。

 

 

 (おれがやるべきこと……さっきのイチキシマヒメの言葉。まだ頭が整理できていないけど、やるしかないよな。)

 百鬼丸はたれた長い前髪から、ひたすら無心になることに集中した。きっと、あがいても仕方のないことが多い。だったら今できることを一つ一つクリアすべきだ。

 強烈な光を上から浴びながら、百鬼丸は足の加速装置が変化してゆく様子をつぶさに終始見守っていた。

 



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100話

 現在の日本の首府は東京であり、それ以前は京都であった。

 千年の王城と呼ばれたこの地は風水によって四門が設けられている。しかも、奇妙なことに、この京の地は軍事学上、攻めやすく守りにくい。この点、対照的な土地は鎌倉であろう。頼朝は早くから天然の要害を利用した都市づくりを構想していたに違いない。

京について、記述がある。

有名な軍記物語「太平記」では楠木正成が一旦京を捨て、別地での攻勢を提案した理由も、そこにある。盆地であり、周囲を囲繞する山々もあり、これでは京に篭っての戦はできない。

 後年の秀吉も山崎を戦場に選んだ理由はここにある。

 

 

 

 ――では、なぜわざわざこの地を都としたのだろう?

 

「貞観政要」という、唐代に編まれた政治に関する書物がある。ここでも王城とは「攻められやすく守りにくい土地にせよ」とある。

 なぜであろうか?

 

 この書に曰く、「王城を攻められるは善政を敷いていない証拠である。そして、滅びるようならば、時代が王を見放したのだ。だから、悪政を敷く王がいつまでも世の中にのさばっては民に苦労を強いる。そんな王は必要ではない、さっさと滅びればよいのだ。しかるに、王城は守りにくい土地にせよ」――と、いう。

 

 もしかすれば、これを参考にしたのかもしれない。

 話は脱線したが、左様な理由に従うと、なるほど合点がゆく。

 大原・鞍馬――嵯峨野・嵐山――伏見宇治――山科醍醐と続いた。

 綾小路武芸学舎の由来は、嘗て平安京の頃の〝綾小路〟という道からとられている。現在の京都市街の中央部東西路である。

 

 

 校舎自体は中央から離れ、舞鶴と福知山に分校として存在している。

 この場所に移動したのは明治であり、それ以前はその名のとおりの場所に存在していた。その理由は明白であり、「神仏分離」という明治政府肝いりの政策が要であった。

 それまで、神道と仏教は同一して拝まれており、曖昧であった。だから仏像を拝む入口に鳥居があっても、何ら不自然ではなかった。――だが、時代が変わった。

 欽定憲法下における国家元首を担ぎ上ぐには理由が必要であり、その理由に神道を用いた。従って、仏教と分離させる……それが、政府の方針だった。これに付随して、荒魂退治を行ってきた刀使たちも、政府直属の下僕となった。

 

 

 これが現代にまで続く経緯である。

 

 

 雨後の冷えた空気は針のように肌に刺さる、と橋本双葉は思った。盆地は自然と乾燥しがちあり、乾いた空気は更なる冷気を呼び込む。

 

 電車が過ぎて、人がまばらになったプラットフォームで、

 「ん~、おかしいなぁ……」

 と、怪訝に眉を寄せる少女が呟いた。

 綾小路の刀使、山城由依である。長い流麗な髪を後ろで束ねたポニーテールが印象的な娘である。

 双葉と由依は、暗躍を続ける綾小路武芸学舎へと潜入する為にこの地へきた。

 

 携帯端末の画面を眺めながら溜息をつく彼女に向かい、

 「どうしたの?」

 普段、人一倍以上に元気な由依の浮かぬ表情に疑問を口にした。

 

 「それが、連絡がとれなくて」

 

 「もしかして、鈴本さん?」

 

 その名前にコクン、と由依が頷く。鈴本葉菜は舞草の諜報員であり現在も綾小路へ潜入し情報を送っている。……その彼女からの連絡が途絶えた。

 ここで詳しい話はマズい、と思い双葉は由依をつれて人気のない場所まで向かった。

 

 

 夕刻の過ぎた神社の境内には、冷たい風が吹き付ける。薄暗さから、夜の隆盛を迎えようとしていた。侘しい電燈の光の下、

 「…………。」

 「…………。」 

 二人は、しばらく無言だった。

 彼女は以前から、優秀な諜報員として正体がバレた事もなかった。また報告も定時に送ってくる。それが今日に限っては、事情が異なる。

 イヤな予感が二人の胸中に去来する。

 まさか、バレたのだろうか?

 双葉は顎に手をやり、考え込む。 

 ――それは十分に有り得る。

 と、簡単な結論に至った。理由は明白である。向こうの陣営には高津学長が居る……となれば、その傍に控えているのは親衛隊の第三席皐月夜見がいる。しかも、情報戦略局の局長、轆轤秀光が舞草側の情報を流しているとみて良い。

 

 

 「もしかしたら、わたし達は泳がされてたのかも……」

 双葉が不意に口をついてつぶやく。

 

 「どういう意味?」

 怪訝な表情から、緊張に傾きかけた様子で由依は訊ねる。

 

 「多分、だけど……わたし達が潜入するのは想定してたんじゃないかな? 事態がかなり悪い方向に行ってる気がする。むかし――」

 と、言いかけて双葉は口を噤んだ。

 

 昔、親衛隊にいた頃、夜見と共に隠密調査で行動することが多かった。その際に彼女から教わったことがあった。

 

 〝正確な情報なんて、ありえません。見たままを報告する場合もあります。それに加えてより多くの情報位を集め、冷静に分析し、そこから得られた悲観的な事柄を繋ぐと大体の事実と符号します。〟

 

 無機質な表情で語る夜見の姿が、思い出されていた。当初こそ気味悪いと思っていても、長い時間をかけて行動を共にすれば、印象は異なる。彼女は優しい、それも「出来ない」と落ち込む人間にとっては……。

 

 「ん? どうしたの?」

 

 由依が双葉の目の前で手を振る。

 

 「あ、あはは……ごめん。ただ一つ言わせて欲しいのは、相手に皐月夜見がいるってこと。多分……ううん、はっきり言ってわたし達は罠にハマっているってこと」

 

 どうして、そこまで皐月夜見を警戒するの? とは、由依は聞かなかった。双葉のこれまでの経験を信頼し、かつ、今まで不気味で他のどの親衛隊の連中よりも不気味な存在に対して由依も警戒感を強めた。

 

 「うん、双葉ちゃんがそういうなら間違いないね。――じゃあ、どうしようか?」

 由依は笑顔で、尋ねる。

 

 その笑顔は確かに変態的な場合が多い。しかし、このようなシリアスな場面には非常に助かる。と、双葉は思った。

 

 「…………潜入しても、多分無駄だから、うーん」

 眉間にシワを刻みながら、思考する。双葉は己が凡人であることを自覚している。たまたま〝御刀〟に選ばれたのも、義兄の百鬼丸のおかげである。それを知っているからこそ、そのコンプレックスを払拭するために、これまで自己研鑽を積んできた。

 

 他の、親衛隊の恵まれた能力と比べれば本当に惨めなものだと落ち込んでいた。

 

 それでも、無言で優しく包んでくれた夜見だけは、双葉も安らぎを覚えていた。

 

 冷静な機械のような判断を下す夜見を相手に一体どうやって……? 歯噛みしながら、「うぁあああ、ちょっとまって。やっぱ詰んでるわ、これ」と頭を抱えて双葉は危うく本音を吐露しかけた。

 

 その時、ふと由依の携帯端末の待ち受け画面に女の子の姿が見えた。

 

 「……って、あれ? 由依のその待ち受けって」

 

 「ああ、これは妹の未久!」

 画面を指差し、どう、可愛いでしょ? とでも言いたげな表情で笑いながら自慢げに胸を張る。

 

 「うん、確かに可愛い。いまは何してるの?」

 

 と、何気ない質問に由依の表情が僅かに翳った気がした。

 「うん、むかしから未久は病気で入院してるんだ。病気を治すのにもすごくお金がかかるから――あ、でもすっっっごく頑張ってる未久のためにも、刀使を頑張ってお給料を貰ってるし! だから、いまのあたしはやる気一〇〇パーセント!」

 「はいはい、どうせ可愛い美少女を舐めわす算段でもしてたんでしょ?」

 「あはは~、やっぱり双葉ちゃんにはお見通しかー」

 

 くすっ、と二人は同時に笑い出す。

 

 双葉も由依の重い事情を知って……それでも、明るい態度に救われた。今の場面では軽口での応酬が心地よい。マイナスの感情が、緩和された気さえする。

 

 

 ――――と、双葉のスカートに小刻みな振動が太腿に伝う。

 

 「ん?」

 携帯端末を取り出すと、非通知の電話だった。

 

 警戒をしながら、通話のボタンを押す。

 「はい」

 

 『お久しぶりです、双葉さん』

 

 その声の主は、皐月夜見本人だった。

 

 双葉の体は一瞬にして硬直し、体に冷たいものが流れ込む錯覚すらした。耳から聞こえる懐かしい声が今では不吉な宣告にすら思えた。

 

 「ど、どうしたんですか今まで行方不明で……」

 

 『端的に申し上げます。貴女と山城由依は今すぐ綾小路武芸学舎の舞鶴校へと来てください。――特に、山城由依の大切な〝もの〟は我々が保護しています』

 

 「えっ……?」

 双葉は、頭が真っ白になった。

 大切な〝もの〟――?

 

 なにか返事をする前に通話は切れていた。 

 「ん? どうしたの、双葉ちゃん?」

  無邪気に聞いた由依に視線を向けながら、双葉は口ごもる。

 

 (どうしよう……本当のことを言えば、絶対に由依は綾小路に行くに決まってる。でも――)

 

 罠だ、しかも完全に準備された罠の中へ入る馬鹿はいない。相当な理由がない限り……。

まず、事実を告げれば確実に由依は飛び出すに決まっている。

 

 ……で、あれば答えは決まっている。

 

 「あああ、もう、最悪っ!」

 と、言いながら、双葉はセミロングの髪をヘアゴムで束ね短い髪束にする。左右に軽く頭を振ると頬を強く叩いた。その頬が赤く染まった。

 

 覚悟を決めた双葉は、急に由依の手をとり、

 「由依、よく聞いて。今から直接乗り込もう――綾小路に」

 ただならぬ瞳の光に射すくめられるように、由依は何度も頷く。

 

 「う、うん……でも本当にどうしたの?」

 

 「さっき、夜見さんから電話があった。舞鶴校にこいって。多分、わたし達の動向も全部バレてる。それに由依の大切な〝もの〟を保護してるって言ってた……」

 

 「えっ……それってまさか、未久――」

 一瞬で、由依の表情が絶望で塗り固められた。

 

 「大丈夫、相手は下手に手出しできない。……葉菜さんも多分相手に囚われていると思っていい。でも、わたしに秘策がある。だから信じて。ね?」

 双葉は宥めるように、首を小さく傾げ微笑む。

 

 その、義兄百鬼丸譲りの窮地に陥れば陥るほどに湧いてくる活力が、双葉自身でも不思議なくらいだった。恐らく、百鬼丸からもらった「生命」が関係しているのだろう。

 

 その双葉の変化に思わず、

 (双葉ちゃんが格好良い……。)

 と、危機的な状況で、しかも肉親が囚われているかもしれない状況で、図らずも双葉に心をときめかせてしまった。

 

 危うく、「格好良い」と口走りそうになった由依はブンブン、と首を振って理性を回復させると、大きく同意した。

 

 「うん、分かった。双葉ちゃんに任せる!」

 

 双葉の握っていた両手に力を込める。握り返された手の力に驚きながら、双葉も目を細めて擽ったそうに笑う。

 

 とにかく、今できることをする。

 

 ――そして、皐月夜見の暴走を止める。

 

 双葉は凡人が凡人としてできる最大の努力をすることにした。

 

 

 2

 

 「なんだ、浮かない顔だな」

 綾小路の執務室の壁に背中を預け腕組みをしたステインが、低い声で尋ねる。

 

 通話を終えて、端末に目線を落とした夜見はやや俯き加減だった。

 「そうでしょうか?」

 現在、タギツヒメの〝近衛隊〟は十数人ほど。いまだ戦力としては十分とは言えない。それゆえに高津学長は焦っていた。折角、秀光の工作により綾小路の学職につけたのだ、早く成果をあげねば……。

 

 その様子を傍でみていた夜見は「ある決意」を胸に秘めながら、独自の行動を起こしていた。先程の「山城由依」の妹を〝保護〟したというのは嘘である。そこまでの行動はとれない。

 だから、揺さぶりをかけた。事前に秀光から得ていた情報では橋本双葉と山城由依が潜入する手筈となっていた。……学内に潜む舞草のスパイ、鈴本葉菜の動向を逐一チェックしながら泳がせていた夜見は、全ての情報を把握していた。

 

 「フン、まあ俺は百鬼丸と対決できれば構わない。お前の好きにしろ」

 鋭い三白眼で睨み据えながら、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

 「ええ、そのつもりです。あの方の為に私にできることは一つだけですから」

 

 己の手を汚す、これまでもそうしてきただろう。

 

 ただ、今回のやり方は血なまぐさくなる。これまでの方法とも違う。それに、親衛隊の頃に行動を共にした双葉がいる。彼女は夜見の手の内を把握しているだろう。厄介な相手だ。

 

 (そうですか……貴女とも、対決する――そういう運命なのですね)

 どこか悟った顔で、夜見は執務室の夜に染まった窓を眺める。時間は刻一刻と進みはじめていた。

 

 

 

 

 




拙作の色々は冗談と嘘でできてますので、本気にしないで下さい!

どろろは2クールだったんですね。知らなかった……嬉しいぜ!


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101話

相楽結月は鎌府女学院の学長に転属となった――。

 (一体どういうことなんだ……?)

 当初の約束では、鎌府の内実調査として出向した筈である。それが、まさか学長職の転任とは……。

 鎌府の所有する道場の裏で電子メールの通知を見、絶句した。

 彼女自身、寝耳に水というべき事態であった。しかも、それ以上に衝撃だったことがある。

 事の事情を詳しく聞こうと、電話で連絡をとることにした。

 相手は無論……国の機密を全て握る独立機関「情報戦略局」の局長、轆轤秀光その人である。彼は穏当な物腰で電話口で応対しながら、転任の話もそこそこに不敵な声色を帯びた調子でいう。

 

 『――ああ、そうですね。貴女の一番の関心事であれば……燕結芽ですね。彼女の身柄は此方で預かっておきますのでご安心を』

 

 携帯端末の受話器越しに、結月の体は固まった。背筋に冷たいナニカが流れたような、不快な感覚がする。

 

 「貴様ッ、謀ったなッ! 最初から――このつもりでッ」

 

 『まさか。ですが、一つご連絡申し上げます。貴女の古巣になる〝綾小路武芸学舎〟は高津学長に頑張ってもらうことになりました。彼女も優秀ですからね。近頃、近衛隊のお披露目ができそうになっていますし。……おや? どうされました?』

 

 

 秀光の言葉は、最早疑いようもない事実と露悪に満ちた暴露であった。

 

 結月はタギツヒメという、人間を呪いこの世を破壊すべきだと怒り狂う女神を守護させる集団をあろうことか『刀使』という、人々を荒魂から守る役割の彼女たちに任せる。こんな馬鹿げたことを拒んできた。一種の抵抗を示す為に牛歩戦術をとって話を先延ばしにしてきた。――その、結果がこれだ。

 

 

 ……くそっ、なぜだ!!

 

 無力感が胸を蝕む。二〇年前からそうだった。人々を救った英雄として偶像になり、本当に命を投げ出した藤原美奈都と柊篝を記録から消し去った。その罪の意識が、『ノロ』を人体と融合させる研究へと向かわせて、高津雪那にも手を貸してしまった

 結月は電話を切り、口の中に広がる後悔を苦々しく噛んだ。

 

 「結局、私たちはどうやっても報いることができない……そういうことなのか、美奈都」

 かつての旧友の名を呼ぶ。

 

 

 「相楽学長、お迎えに上がりました。さ、執務室へとご移動下さい」

 足音もなく、不意に大柄な男たちが前方に三人立っていた。巨木のように太陽を遮る。

 恐らく秀光の部下たちであろう。体格のよい感じが、格闘のプロであることを理解させる。事実上の身柄拘束であった。一瞥しただけで、事情は飲み込めた。

 

 だから、彼女は力なく頷いた。

 

 「――ああ、分かった。ただし、結芽だけは、あの子だけは無事に返して欲しい」頼りない口調で小さく呟いた。

 

 男たちは頷いた。しかし、彼らに差配できる力などないのだ。

 虚無感にうちしひがれながら、相楽結月は鎌府の学長室へと向かった。

 

 

 

 2

 私は、少なくとも〝この二〇年間〟が無駄だとは思わない。

 苦痛は無かった――と言えば嘘になるだろう。だが、美奈都と篝の娘たちが再び《千鳥》と《小烏丸》を引き連れて目の前に現れた時、確信した。

 

 彼女たちが私を討ち滅ぼすのだろう、と。

 

 折神紫という……過去と現在を結びつける忌むべき楔を。

 

 それは、一種の開放感だった。

 

 『何がおかしい?』

 ふと、意識を戻す。テーブルの向こうからトゲのある口調で、気難しそうな娘がいう。

 ……どうやら、私は少しだけ笑っていたらしい。

 

 「いいや。なんでもない――」

 改めて、正面に座る娘に目線をやる。……こうやって、気難しそうに眉根を潜める態度は篝にそっくりだ。ただ、それを指摘するとムキになって否定していた――。

 

 (懐かしい……)

 往時の記憶が止めどなく蘇る。そして、それが二度と戻らぬものと再確認したとき、深い落胆の溝に滑落する気がした。

 

 「御当主様……紫さまは、お母さんたちのことを覚えていますか?」

 別の方向から明るい声がした。

 

 美奈都の娘、衛藤可奈美だ。

 

 どことなく、美奈都の面影はあるものの、どちらかと言えば人懐っこい雰囲気が優っている。美奈都は一見すると豪放磊落だった――かもしれない。だが、彼女の周りにはいつでも人が居た。豪快に見えて、彼女は細やかな気配りをしている証拠だった。無口で、余り人を寄せ付けない私とは真逆の存在だった。

 

 「あの~、紫さま?」

 不審げに、可奈美が視線の位置で手を軽く振る。

 

 …………美奈都も、こうだった。

 

 人付き合いの苦手な私に、何度も話しかけ暇さえあれば絡んできた。

 「済まない、これから話すことについて考えていただけだ」

 

 「あっ、そうだったんですね!」

 安堵の微笑を浮かべる可奈美。

 

こうやって、人懐っこい笑みを浮かべながら美奈都も「あの日」笑って出動した。

 

 「……まだ、私を許せないか?」

 緊張を気取られないように、いつものように冷静を取り繕って語りかける。

 

 「い、いえ……」

 

 「はい」

 

 「えっ!?」可奈美は素っ頓狂な声をあげて隣をみる。

 

 真逆の答えが返ってきた。

 

 黒髪の、綺麗に切り整えられた前髪の下から細い眉と〝憎しみ〟のこもった紅の瞳が此方を睨み据える。

 

 「――貴女が荒魂に憑依されていた二〇年、母は全て自分のせいだと、亡くなるその時までずっと悔やんでいた」

 静かな声音が、逆に彼女の内心を如実に語っていた。紅の瞳の光は、ゆらゆら揺れている。

 

 「十条、衛藤、すまなかった……」

 

 ここで、すべてを――私の知る全ての事柄を伝えようと思った。この二人は御刀に選ばれた。巨大な運命の歯車が彼女たちを容赦なく読み込もうとしている、そんな気がしてならなかった。

 

 小さく、息を零しながら、

 「二〇年前――」

 過去を、語る。いま、こうして死に損なった惨めな自分という肉体をここに置いて…………。

 

 

3 

 手術架台に身を横たえながら、惰眠を盛大に貪っていた。

 おれは、強烈なライトを浴びながら鼾をかいていたらしい。……それほど疲れていたみたいだ。パンツ一枚だけで、右足の加速装置の改造に熱中していたらしい。

 心臓に人格が憑依した大量殺人鬼《ジョー》の力を渋々借りながら、なんとか完成させた。

 「ふぁ~あ。ねみぃなオイ」誰ともなく悪態をつく。

 これからどうしようか?

 相手になるのは、腑破十臓にジャグラー、そして〝タギツヒメ〟……。

 

 「轆轤秀光、てめぇだけは惨殺してやるからな――」

 無意識に口をついておれは、奴の残像を脳裏で切り裂く。奴だけは許さない、何が何でも結芽を奪い返さなくては……。

 

 〝私が刀使だから助けたんだね――〟

 

 

 あの夜の言葉が鼓膜に甦る。

 

 「チッ、糞ッ!!」

 右手に握ったスパナを壁に投げつける。金属のぶつかる重苦しい反響がした。

 あの時、おれはなんて答えれば良かったんだ――。どうして、あのとき結芽はおれの前から立ち去ったんだろう。

 

 

 わからない、人間っていう存在が全くわからない……。

 

 別に、命を助けたからと言って大袈裟に感謝されたい訳でもないし、期待もしていない。結芽に関してはやたらおれに懐いたのも彼女なりの誠意なのかもしれない。

 だけど、おれは彼女にこれ以上どう接すればよかったのだろう。

 

 ――勿論、刀使だから大事なんだ。じゃあ、刀使じゃなかったら?

 

 「…………ダメだ、解んない」

 助ける自信がない。いいや、助けただろう、だがここまで肩入れすることはできただろうか? 自信がない。

 でも助かったんだ、よかったじゃないか――別におれが、例えば結芽をどう思ったって関係ない筈だ。――うん、そうだ。

 

 ……もしも、可奈美や姫和だったら?

 

 助ける。

 刀使だから? イエス。

 刀使じゃなかったら?

 

 ――分からない。

 

「こんな考え方のおれが、異常なのか? 人間さまじゃないから分からないのか?」

 頭を抱えながら、おれは必死で足りない脳みそで考える。

 

 そもそも、どうしておれはこんなにも「刀使」に拘るんだろうか。

 

 

そういや昔、記憶も朧げな時代に『何があっても刀使を助けてくれ』そう、誰かも知らない人間に言われた一言に忠実に従っているに過ぎなかった。

 

 おれの糞みたいな人生でも、生きがいになったのは肉体の回収と、「刀使」を守るために生きる……たったそれだけだった。だから単純明快だったんだ。

 

 

 「ああああああああ、なんでだよッ! 別におれなんかがいなくたってアイツらは……結芽も勿論、可奈美たちだって生きていけるだろうがッ! なにより、刀使としての寿命なんて決まってる! そうだ! おれは、別に難しいことを考えなくていいんだ!」

 おれは半ば逆ギレ気味に室内で怒鳴る。

 

 だって仕方ないじゃないか。おれは戦うための存在なんだから。だから、難しいことなんて考えなくてもいいんだ。おれは他人なんて気にしないし、他人だってそうだ。だから今までやってこれた。他人なんて煩わしいだけだ。

 

 

 『あの、少しだけ宜しいでしょうか?』

 扉の隙間から、女性の落ち着いた、澄んだ声音が聞こえた。

 

 聞き覚えがある、この気配。

 

 「ああ、どうぞ」

 

 重たい扉をひらいて入室したのは折神朱音だった。折神紫の妹であり、お淑やかな見た目と裏腹にかなり豪胆な人物でもある。

 

 「姉が――折神紫が百鬼丸さんにお話があるというのですが、今はお話することができますか?」

 

 

 右足に目を配らせながら、朱音が告げる。

 

 おれは「へっ」と口をワザと曲げて頷く。

 

 「平気ですよ。おれから出向きます。」

 

 「そう、ですか……」不安げな眼差しは、おれを絶えず捉えている。

 

 恐らく、イチキシマヒメとの対面での態度が原因だろう。それは容易に察しがつく。あれは原因はどうあれ、おれの責任だからな。

 

 「心配しないで下さい。少なくとも折神紫……さん? には手を出しませんんよ」

 本音で心配そうな顔に返事をする。

 

 そうですか、と生返事をしたのは朱音だった。

 

 

 

 4

 

 「――んで、アンタのところに来てみれば話ってなんだよ?」

 百鬼丸は態度悪く、テーブルに頬杖をつきながら、片足をソファーに乗せて顔は真横を向けている。

 

 可奈美と姫和に二〇年前の過去の話をした後だった為に、軽い倦怠感が紫を包んでいた。だが彼――百鬼丸とも会話をすべきだと思い、呼んだ。

 

 「わざわざ御足労済まない」

 

 「いいや、いいよ。つーか、アンタは本当にあの夜から人柄つーか雰囲気変わったんだな」

 淡々と、百鬼丸は壁を見ながらつぶやく。

 

 「解るのか?」

 

 「そりゃあ、な。でもまだ信用してはいない。だからアンタに《心眼》を使う」

 

 「心眼? 龍眼とは違うのか?」

 

 「ああ、違う。要するに、アンタの記憶や思考をおれが読み取るんだ。嘘をつけないぞ。もしアンタが未だにタギツヒメと繋がってた場合は殺す。いいな?」

 

 初めて百鬼丸は真正面に向き直り、紫を視界に捉える。

 

 切れ長の眦と、荘厳という雰囲気を纏う折神紫相手に、百鬼丸は睨むでもなく無心で眺めている。

 

 「いいんだな?」

 再度確認をとる。

 

 

 「ああ、頼む。それでお前の疑いが晴れるのなら。そこから話をしようと思う」

 紫は淡々とした口調で了承し、瞑目する。

 

 

 (――チッ、やりにくい。もっと抵抗でもしてくれれば力づくで心眼を使えたのによォ)

 苦虫を噛んだように表情を歪める。

 

 「いいか、もしへんな行動してみろ! アンタの無駄に二〇年で発達したでかい胸でも揉んでやるかな?」百鬼丸は冗談ともつかぬ様子で脅す。

 

 「?」

 紫は首を傾げる。

 

 「貴様の言っている意味が分からないが……まあ、好きにしてくれ。ただ、二〇年間この肉体に関しては十八歳当時のままだが……」

 

 「んファッ!?」

 百鬼丸は、呆気にとられた。

 

 十八でこの成長ぶり? まさか……姫和が今十五だとして……たった数年で果たしてこんなに成長するだろうか? 否、無理である。つーか、逆立ちしたって不可能。

 

 「……ッ!!」

 と、百鬼丸は何故だか、不埒な思考をしていた時に限って、丁度背筋に寒いものを感じた。

 

 ぬり壁……もとい、姫和のことなんて全然連想してないんだからねっ! と百鬼丸は内心で強がる。

 

 

 しかし、軽口でここまで脱線するとは。シリアスな雰囲気を思いもよらぬ脱線に百鬼丸は少々毒気が抜かれたが、頭を振って気持ちを新たにする。

 

 「ゴ、ごほん。冗談だ! 軽口だと覚えておけ! ばーか、ばーか!」

 

「ふむ、そういうものか……」

 紫は妙に納得した様子で顎に手をやる。

 

 

「じゃあ、アンタの額におれの人差し指当てるからな」真剣味を帯びた様子で告げる。

 百鬼丸はそう言いながら立ち上がると、紫の額へと指を伸ばす。

 



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102話

 1

 膝を抱えたまま、燕結芽は椅子の上にいる。

 皮膚は別の感覚に繋がれたように、まるで感触を失っている。冷え切った指先も悴むことを忘れたようになった。

 

 (ここ、どこ――?)

 

 少女が連れられてきたのは、全くの暗闇だった。

 車に乗せられ、荒廃した首都高の風景を車窓ごしに眺めながら次第に意識が薄まり、ある時点を境に途切れる。

 意図的に睡眠作用を齎す薬剤を投薬されたのだろうか? 結芽は考えようとして……諦めた。今は難しいことを考えられない。

 

 

 

 ただ、自分の放った一言に酷く動揺する百鬼丸の顔を反芻するたびに、胸が痛んだ。

 どうして、ひどい言葉を投げてしまったのだろう。この生命を救ってくれた……舞草襲撃のあの夜から、刃を合わせた〝強くて優しかった〟ひとなのに。

 

 肩に抱いた御刀《ニッカリ青江》をさらに身に寄せ、金属の冷たい温度を頬で感じる。

 

 「どうして、大切にしたい人なのに……傷つけちゃうんだろう」 結芽は小さく呟いた。

 頭を背後の壁に沿って傾ける。撫子色の柔らかな髪質がふわり、と揺れ動く。

 

 

 自らがそばにいて欲しくて、自分を思ってくれる人ほど傷つけてしまうのか。やるせなくて、情けない気分で一杯だ。……落胆というより寧ろ、不器用過ぎる自分に苛立つ。

 

 

 薄暗い部屋の扉の前に気配があった。

 

 

 「――だれ?」

 無機質な声で問いかける。

 ガチャ、とドアノブを開いたのは轆轤秀光だった。彼は手元に燭台を持ち、壁にあるスイッチを押す。天井に吊るされた裸電球が灯る。

 粉っぽい黄色い光が空間に薄く射し込む。

 柔和な笑みを浮かべながら、

 「食事がまだだろう? どうだい?」

 彼の手には簡単な軽食を詰めたバスケットがあった。

 結芽は一度もその方向を見ずに否定の首を振る。「いらない」

 「ああ、そうか。食欲がないんだな。済まない」

 「おじさんの――」

 「ん?」

 「おじさんの目的はなに?」

 結芽の質問に、初めて秀光はこわばった表情になった。それは、仮面だったそれまでの彼とは異なる、本音の部分を司る彼の一面だった。

 

 「どうしてそれが気になるんだい?」

 「百鬼丸おにーさんが……」

 嫌いなの、と純粋に聞くつもりだった。だが秀光はそれを先読みする。

 「嫌い、ではないんだ。奴の存在を抹殺しないといけなんだ。この世にいてはいけない存在なんだ。わかってくれ、とは言わないし思わない。だけど、奴を野放しにするといずれこの世が終わる。それも事実だ。だが尤も私はこの世界を滅ぼしたいんだが……」

 二律背反の言葉を吐き出しながら、秀光は簡素な椅子に腰掛ける。

 

 「最大限、君には便宜を図るつもりだ。なにか足りないものがあれば遠慮なく言ってくれ。だが、監視は一応つける。悪く思わないでくれ」

 その言葉を合図に秀光は扉の辺りに向き直る。

 「入ってくれ」

 そう告げると、凍傷を全身に点々と負った腑破十臓が入ってきた。

 「まだ怪我は完治しないみたいだな」

 「…………。」

 十臓はなにかに取り憑かれたように、意識を回復して以来ずっと喋らない。恐らく百鬼丸との戦闘を思い出して、再び戦う際に如何に殺すかを算段しているのだろう。

 

 「ふぅ~」と、ため息をつく秀光。肝心の監視役があまり期待できそうにないのだ。

 苦笑いを浮かべながら結芽に視線を合わせる。

 「と、いうことだから脱走は簡単だ。ああ、でも〝構内〟をむやみに歩かないほうがいい。いかに君が天才でも――今の君では多分、ここを抜け出すのは力不足だろうね」

 不穏な単語を並べた秀光は小さな丸テーブルにバスケットを置くと立ち上がる。

 

 

 「しばらく席を外すが……大人しくしてくれると助かるよ」

 そう言い残して部屋を出て行った。

 

 

 「…………。」 

 ぼーっ、と意識を飛ばした状態で彼の話を聞いていたためにあまり内容を覚えていない。気が付くと、簡易ベッドに腰掛けた人物……腑破十臓の存在に気がついた。

 

 「おじさん、生きてたんだ」

 

 「……俺はマトモな方法では死ねない。いいや抑も死んでいるようなものだ」

 禅宗のような問答を一人で繰り広げながら十臓は膝の間で指を組む。

 

 

 「燕結芽、と言ったな」

 

 「うん」

 

 「お前は衛藤可奈美を知っているか?」

 

 「《千鳥》のおねーさん? うん知ってるよ。すっごく強いよね」

 棒読みのように感情の篭っていない声音で淡々と喋る。あれほど身を焦がした剣術の話も今は脱力感が全身を襲い、情熱が持てない。

 

 「そうか知っていたのか……あの刀は千鳥、そうか。立花の家の……」

 十臓とは因縁浅からぬ関係の御刀に対し、一種運命のようなものを感じる。

 

 「お前はなぜ剣を握る?」

 

 (このおじさん、どうして……)

 そんなこと気になるんだろう、と思った。

 

 だが余りに真剣な尖った眼差しに多少気圧されつつ、薄く開いた目を瞬き考える。

 「本当は皆に覚えていて欲しかった……ううん、皆に褒めて欲しかったんだと思う」

 誰かに愛されたくて剣を握っていた頃。それは素晴らしことなんだと思っていた。

 

 「死んじゃう時間が決まってるなら、誰かに覚えて欲しいって思うの、間違いかな?」

 

 強ければ誰も忘れないだろう。たとえ、皆の記憶から薄れていったとしても、強さだけならば覚えている筈だから。それが「強さ」に選ばれた結芽自身にできる最大限の行為なのだ。

 

 

 十臓は、この娘からかつての自分と似たようなものを感じ、これまでに味わったことのない『共感』にも似た感情を持った。(尤も彼の場合、それによって行動が変わることはないが)

 

 

 「誰しも死を意識した時、その人間に『与えられた天命を悟る。』そう言いたいのか?」

 

 「難しい言い方じゃわかんない――けど、多分そうだと思う」

 

 外道に堕ちた自分が何故このような異世界へと送られたのか……今なら何となく解る気がする。それは衛藤可奈美という、柳生新陰流の使い手であり、千鳥という刀を握る宿命の相手がいたからだった。

 

 

 「運命という言葉は老人の戯言だと思ってきた。だがどうやらそうでもないようだな」

 結核菌に肺を犯され、蹂躙さた時代。

 死を意識するたびに刀は冴え渡り大根や豆腐を包丁で切るように簡単に人を殺すことができた。

 

 確かに強さで言えば、百鬼丸の方が上手である。しかし、そういう事ではない。衛藤可奈美という未知の可能性を秘めた少女を斬殺したい、その衝動が芽生えていた。

 

 「早く本調子に戻さねば……ふふふっ、この世界にも骨のある奴が多い。」

 いつになく多弁な十臓は初めて味わう敗北の味をたっぷりと堪能しながらその悔しさという感情の手触りを確かめ、静かな殺気を貯める。

 

 

 (もう皆に顔、合わせられないな……。)

 結芽は寂寥感の広がる胸を小さな拳で掴み、己の気持ちの淀みの中に溺れた。

 

 

 2

 次元の階層と云うか――或は、世界との連続性の否定を行うのは、神性に付与された行為である。もっと砕けた言い方をすれば、御刀という神性の象徴に選ばれた人間は幸福なのだろうか? 

 

 

 それは、多少の自己顕示欲や承認欲求は満たされるだろう、しかしそれ以上に要求される義務の遂行は、肉体にも精神にも負荷を与える。ゆえに、たった少女時代の一瞬を「刀使」としての役割として決められるというのは案外合理的なのかもしれない。

 

 

 

 百鬼丸は、折神紫の額から指を離して小さく嘆息する。

 彼女は嘘を言っていない。

 「――どうだった?」

 事務的な口調で訊ねる。自身の内心を覗かれて誰もいい気はしないだろう、しかし刀使でも六振りの御刀に選ばれた折神紫という女性は、あくまで鷹揚な態度である。

 

 

 「嘘は確かに言っていない」

 

 「そうか、では信頼してもらえたと思えばいいのか?」

 

 酢を飲んだような顔で、百鬼丸は頷く。先程の敵愾心をむき出しにした己の態度を恥じてしまうくらいに頬が熱くなる。

 

 「それじゃあ、今も刀使……なんだよなアンタ」と、百鬼丸。

 

 「ああ、そのようだ」

 

 「まるで呪いだな、アンタの場合」

 

 ――呪い、そうかもしれない。

 紫は少年の言葉に素直に同意した。

 

 「率直な感想を言わせてもらえば――アンタはよくやったと思う。精神がよくぶっ壊れなかったな、とも思う」

 

 

 「……それは、イチキシマヒメが、」

 

 「いいや、わかってる。それもアンタの心情を追体験したから解る。おれの気持ちとしては奴らを許すことはできない……でも、アンタ、折神紫みたいにイチキシマヒメみたいな奴でも心の拠り所にしていた――それだけの事実なら、おれだって理解はできるさ」

 

 だけど、おれ自身の感情としては許せない部分もある。言外に態度で露骨に百鬼丸は現れていた。それを、眺めながら紫は「ふっ」と噴き出す。

 

 「成程、噂に聞いていた通り君は難しい人物らしい」

 

 「それは褒めているんだよな?」

 

 

 「どうだろうな」

 

 かつての、剣幕の凄まじい折神家当主としての雰囲気は既にない。融けてゆく氷のように一人の人間として百鬼丸の前に、折神紫という人物がいる。

 

 二〇年前のあの時、世界の命運と友の命を天秤にかけて、己の肉体に大荒魂を宿した。なまじ、そのような行為ができるからこそ、世界はかりそめにも平和を手に入れた。

 

 「相模湾岸大厄災……。大勢の人間の命か、大切な人間の一人の命か。よくやるよ」百鬼丸は半ば呆れ気味にいう。それは混じりけのない意見だった。

 

 「私はあの時の判断を――少なくとも、絶対の間違いだったとは思わない」

 だから、柊篝という人間を助けることができ、その娘である十条姫和が目の前に現れたのだから。だが、それでも助けてしまったが故に、却って篝を苦しませる結果になった――

 

 紫の内心の逡巡を悟るように、百鬼丸は珍しく破顔した。

 

 「いいや、アンタの考えは判断は間違いじゃない。おれが保証する。アンタも、姫和のかーちゃんも、あんまし難しく考えすぎなんだ。全部自分で背負い過ぎたんだ、と思う。だから美奈都さんも〝あの場〟に残ったんじゃねーかな?」

 

 「――美奈都が? ふっ、そうか。奴ならそう言いかねない」

 かつての友は、確かにそういう人物だった。

 

 だから救われていたのだ……自分も、篝も。

 あの、衛藤可奈美も思い返せば意思の強そうな眼差しは母親にそっくりだった。

 

 「百鬼丸、お前と話すことができてよかったと思っている」

 

 「――んだよ、急に」

 戸惑い気味に百鬼丸は鼻の下を指で擦る。

 

 

 「そ、それよりもだ! いいか、おれにする話っていうのはなんだ? 生憎心眼で見たのは荒魂関連だったが……おれを呼んだ経緯まではわからんぞ」

 

 

 腕を組んで考え込んだ様子だった紫は、チラと切れ長の眼をあげて百鬼丸を一瞥する。

 「そうだったな。単刀直入に言おう。轆轤秀光についてだ」

 

 「轆轤秀光について――? 奴についてなにか知っているのか?」

 

 紫は頭を振って否定する。

 「まだタギツヒメたちに憑依されている時だったが、奴は一切自分の正体や情報に繋がる部分を消し去っていた。あんなに、己の存在を綺麗に脱色する男も珍しい」

 

 「……アイツについての話なんだよな?」

 

 「ああ、奴は折神家と柊家に隠れた血なまぐさい部門を司る〝轆轤家〟の人間だ。折神家が表、柊家が裏……だが轆轤家はその二つの家が守備範囲とする外側を対象に仕事をしてきた連中だ。私も当主になる前は知らなかった。だが――国の機関とも関わるようになって、奴らの権力の強さや影響力を如実に知った」

 

 

 「おれに関係がある、っていうのか?」

 

 「そこまでは分からない。だが、奴に調べようと折神家の書庫を調べても一切の手掛かりがない。ただ、当主にのみ継承される口伝での話で聞いただけだ。恐らく、轆轤秀光が全ての資料を葬ったと考えていい」

 

 「チッ、じゃあどうすりゃいいんだよ。せっかく奴の手掛かりを掴めたと思ったのに……結芽だって奴の手中にいるのに……」

 

 

 紫はその時、初めて動揺らしい動揺の表情をみせた。

 

 「なに? それは――本当か?」

 

 「ああ、おれの不手際だ」

 悔しくて下唇を噛む百鬼丸。

 

 

 彼の態度と言葉からも、嘘や冗談の類ではいことが容易に察することができる。紫自身、タギツヒメに憑依されていた頃とはいえ、結芽に対するノロを投与させた罪悪感に胸を痛めた。

 

 「そうか。そういう事情なら急いだ方がいいだろう……十条の実家には恐らく轆轤家についての資料があるだろう」

 

 「姫和の家に?」

 

 「ああ、そうだ。柊家は裏だ。もし表に異変があれば必ず補佐する。つまり資料も写しがあるだろう。生真面目な篝のことだ。きっと役割を終えても何か手掛かりがあると思う」

 

 ……姫和の家に、おれのルーツになる資料がある?

 

 百鬼丸は、突然の話にうまく頭が理解できずにいたが、それでも光明のようなものを手触りとして感じ取っていた。

 

 

 「それは姫和に話したのか?」

 

 

 「いいや、まだだ。何よりお前の意思がどうしたいか確認した後に説明を――」

 

 「無用だ、おれが直接姫和にいう。この潜水艦も進路変更はできるだろ?」

 

 

 「ああ。貴様たちが行かないのならば……五条学長に頼む手筈にしていた」

 

 轆轤秀光はまだこの事実に気がついていない、だからこそ弱点となる部分を掴むために根回しをしていたのだろう。さすが、折神家の当主は抜け目ないな、と百鬼丸は思った。だが反面、そうすれば姫和が彼女をより嫌うであろうことも簡単に推察できる。

 

 

 だからこそ、百鬼丸が説得して行動するほうが最善だ。

 

 

 「分かった。助かった。もうアンタも嫌われたくないだろ?」

 百鬼丸は肩をすくめながら、皮肉な調子でいう。

 

 彼の真意を悟った紫は――「ふっ、もうお前には隠し事というものができないな」と零す。

 

 

 この、因果の糸で雁字搦めになった、どうしようもない世界にも一筋の光明があるように思われた。

 



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103話

 

 

 雨雲を告げる、雷鳴。黒く鈍い雲が扁平に空を押し広げて太陽を隠す。

 熊笹が騒がしく揺れる。

 「イヤな雲行きだねぇ……」

 湿り気を帯びた大気の匂い。

 禿頭の、やや後頭部の長い畸形な風貌の老人が山の隘路をゆきながら呟く。彼は盲人であった。その証拠に、開かれた眼は白い膜が張っており瞳は虹彩が失われている。

 彼の右手には竹竿が一本握られており、頻りに地面を叩く。障害物の判断を行っているようだった。

 また、「チッ、チッ」と舌打ちをしながら反響する音で周囲の状況を理解しているようだった。

 この行動は、例えばイルカやクジラの用いるソナー効果と等しい。

 盲目の老人の背中には、琵琶が背負われていた。ボロボロの袈裟から裸の肩が半分出ている。お灸の跡が肩にいくつか点在している。

 

 

 ――祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の響き有り…………

 

 平家物語の冒頭の一節を、飽きもせずつぶやき続ける。

 

 ふと、畸形の禿頭の男はぴと、ぴと、滴る雨が鼻先に落ちたのを感じ、空を仰ぐ。

 「百鬼丸――お前が、このイヤな風を連れてきたんだねぇ……キヒヒ」

 唇を剥いて歯抜けの口で笑う。

 

 

 1

 原子力潜水艦『ノーチラス号』は、小笠原諸島から北上し八丈島を経由して西日本の海域へと赴いた。冬の日本海は殊に海潮が変わりやすく、また荒れやすい。とはいえ、それは海上での出来事であり、深層へと潜るノーチラス号には関係がない。

 

 

 ……余談になるが、日本国の領する海域は世界でも有数であり、四隣を海に接する島国であれば自然漁業が盛んになっている。しかし、近年の日本食ブームを背景とする魚介類への関心は高く、逆に欧米風の食生活に慣れ始めた日本では魚介類の消費は減っている。

 また、一次産業の労働者不足により更に経済規模は収縮するだろうと予想されていた。

 

 

 西日本、例えば古代から中世の近畿地方は豊富な平野と関門海峡を入口とする瀬戸内海から安定した航路で海運の富を齎す。――奈良時代、未だ日本という国が大らかであり、東日本の富士の辺りまでアイヌ人が存在し、富士山が活火山で活発に噴火する頃。

 

 小烏丸と云う鋒両刃造りの刀剣は、かような時代に産声を上げた。伝承によれば、桓武天皇が作らせた、とも言われている。事実は分からない。

 ただ平将門の戦役の際に天皇より拝領を賜る程の刀剣であったことは間違いがない。

 

 西暦四世紀~から一〇世紀は丁度小氷河期に当たり、また現代と異なり寒冷に弱い米などの稲作は収穫を減らした。屡々、このような天変地異を鎮めるために刀剣を神に奉納し、国家的な事業の一つとして寺社仏閣の建立にも捧げられた。

 

 武器――の側面としては、刀剣は役割を「槍」や「弓」へと譲る格好となっていた。それでも人々は刀剣に神性さを見出していた。

 

 弘法大師空海、という日本史史上でも比類ない大天才は水利の事業を得意とした。彼の生きた時代には平安京に遷都途中の平城京での学生生活であった。

 奈良の山麓ではこの時代ごろ作られた、穴ボコのようなものが散見される。これは、穴窯といい、原始的な方法で陶磁器の製造に用いられた。登り窯の登場以前のものであり、単に穴へと薪を焼べて昇温させる、非効率的なものであった。地下水の湧く山では、あまり成功率は低く、また木々の伐採は自然に大きな悪影響を与えた。

 

 これは、すなわち、陶磁器以上に火力を必要とする刀剣の場合においては、窯は関係ない。――だが火の燃料となる供給源は重大な課題であった。

 だからこの時代の刀工たちはまず、材料や燃料の面において苦悩を強いられた。

 

 刀工たちの文化圏を気づきあげた備前長船、美濃関、現在の長船女学園と美濃関学院である。刀使の発祥は諸説あるが、歩き巫女(これは、本来的に売春を生業とした諜報員とも言われている)が各地から御刀を齎すきっかけとして、二つの土地から持ち帰ったのかも知れない。

 

 

 2

 「本当にいいのか?」

 百鬼丸は心配を含んだ声音で訊ねる。

 

 潜水艦の廊下の壁に背中を預けた少女……十条姫和は、薄く閉じた目を横にやって頷く。

 「ああ。お前に何か関係する事柄が解るんだろう?」

 

 「その可能性が高いだけだ。確定じゃない……だが、手掛かりになりそうなんだ」

 己の本当の出自に近づけるような――そんな予感を持ちながら、はやる気持ちを堪えて静かに説明する。

 

 「そうか」素っ気なく姫和は首肯する。

 

 「い、いやでもそんなに簡単に許してくれていいのか?」

 あまりに呆気ない返事に百鬼丸が逆に驚いた。

 

 「なんだ、不満か?」

 目を開いて百鬼丸へ頭を向ける。姫和自身もまた、何か蟠りを残したような顔つきであった。

 

 姫和自身もまた、折神紫という個人と会話を交わしたことで心ここにあらず、という状態になっている。御膳試合の決勝であろうことか折神家当主を斬りつける凶行に及んだ、彼女自身は一歩間違えばテロと変わりない。

 それも、タギツヒメという大荒魂の討伐の為と、使命感に駆られたからに他ならない。

 こんな大目的を果たした――そう思った矢先に、予想外の事実を突きつけられる。気持ちがまだ整理できていないんだろう。

 

 百鬼丸はそう、推量する。

 その証拠に、先程から平然とした様子を装いながらも意識が遠くに置かれているような反応を繰り返すばかりであった。

 

 (参ったなぁ……)

 

 百鬼丸はすっぱり困ってしまい、後頭部を乱暴にガリガリと掻く。

 

 「なあ、ぺった……姫和」

 

 「どうした?」

 「その御刀……小烏丸は、突くことに主眼を置かれた刀剣なんだよな?」

 

 「ああそうだ」

 

 迅移による次元の狭間を利用する高速移動で、荒魂に憑依された人間ごと次元の彼方へと連れ去る…………その為に、突に特化した小烏丸はまさに最良の道具と言えた。

 

 「姫和の母さんはどんな気持ちで、そいつ持ったんだろうな」

 百鬼丸はまるで独り言みたいに、つぶやく。全くなんの意見もない。ただ、純粋な疑問を口にしたのだ。

 

 「…………。」

 その時、姫和は初めて意識を肉体のある位置へと戻した気がした。冷水を浴びたように、皮膚が一瞬冷たくなり、小烏丸を身に引き寄せる。

 

 「その資料の在り処は知らない。だがもし、それを残していれば少しは母の気持ちが汲み取れると思うか?」

 

 左右に静かに首を振る百鬼丸。

 「わからん。そればっかりは直接本人に聞かないとな」

 

 と、百鬼丸は廊下の角に二人とは別の人の気配が感ぜられた。

 

 「出てきたらどうだ?」

 気楽に、威嚇する風もなく百鬼丸は告げる。

 

 廊下の角から出てきたのは、衛藤可奈美だった。

 

 「えへへ~、バレちゃった」

 桜色の舌をぺろっと出して、含羞む。彼女がなぜこの場にいるのか何となく予想はついていた。

 だから百鬼丸は嘆息混じりに、可奈美を見据える。

 「話を全部聞いてたんだよな?」

 

 バツが悪そうに、盗み聞きした事実を少女は俯き加減に頷いた。

 「……うん、ごめんなさい。でも私も姫和ちゃんと百鬼丸さんの力になりたくて……一緒に付いて行ってもいいかな?」

 まるで縋るような眼差しで、百鬼丸を見上げる。

 

 百鬼丸は可奈美の言いたいことも気持ちも理解はできた。――だが。

 

 「無理だ。いいや、多分、世の中の事情が許さないだろうな」

 

 

 「ど、どうしてっ!?」

 目を大きく瞠り、ショックを受けたような表情を浮かべる可奈美。

 

 「お前は、刀使の中でも特別に強い。今、主力で活躍してる刀使の中でも可奈美が一番だ。それに姫和が抜けたらどう考えてもタギツヒメの襲撃に対応できないだろ? 姫和は何とかおれと行動できても、可奈美も一緒には無理だ……」

 

 百鬼丸の冷静な分析に、反論する余地すらない。

 

 甘栗色の、可愛らしい少女は、だから少しだけ口端を悔しさで歪める。――本当はそんなこと言われる前から理解していた。だが改めて他人の口から言われると、疎外感に似たなにかが黒い濁った水のようにポッカリ開いた胸腔の部分から溢れる気がした。

 

 無理やりに頭をあげて、寂しそうに微笑む。

 「うん、そっか……そうだよね。ゴメンね無理言って」

 

 (そっか、私は強いんだ…………。)

 

 自分自身が剣術を好きで、好きで堪らなくて、他の強い相手がいれば技を盗んで改良して……気がつくと周りには、誰の姿も無くなっていた。最近は時々実感する。強くなると、寂しい風景が見えるってことを。

 

 「済まん、可奈美。でもお前にしかできない事なんだ。皆を守る為だから……」

 

 「大丈夫だよ百鬼丸さん。ねぇ、それよりまた今度帰ったら剣術の稽古しようね」

 可奈美は空虚な笑顔で百鬼丸にそう念押しする。

 

 「お、おう。また色々と教えてくれ師匠さま」

 からかい半分に、百鬼丸も応じる。

 

 しかし、両者の交錯する視線は硬く決して本心を見せないようなものが感じられた。

 

 ただ、黙って背後に控えていた姫和は二人の微妙なすれ違いに気がつかず、ただ黙然と手慰みに小烏丸の鍔を弄ぶ。

 

 (――私は、母の本音を知りたい)

 

 その思いで頭は一杯だった。

 



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104話

 地下、実験施設――。

季節外れの藤の花が、植物棚の上に被さるように掛かっている。妖しい花の香りが鼻腔を打つ。整然と並べられた棚にノロのアンプルが安置され、透明な円柱容器に入っていた。

カツ、カツ、カツ……ヒールの鋭い音を響かせながら、邪悪な笑みを浮かべつつ眺める。「人間」を――サピエンス種という動物の一類の枷から解き放ち、変貌を遂げさせようとする〝可能性〟

 

「素晴らしいと思わない? ねぇ、鈴本……ええっと、なんだったかしら名前? まあいいわ。その自我はどうせ消えるのだから」口端を大きく歪める。

 

 

高津雪那の背後には、拘束具に捕らえられた少女が、手術架台の上で強烈なスポットライトを浴びている。

 

少女は、

「んんんんッ、ん―――!!」

 必死に抵抗を試みる。

彼女……鈴本葉菜は、綾小路武芸学舎に潜入した舞草のスパイである。彼女の主な任務は、綾小路で行われている研究(主にノロ関連)を探ることだった。

 

一体どこで正体がバレたのだろう? 今まで、尻尾を掴ませないように努力した筈だったが……そう、葉菜は己の能力に疑問を持ち、落胆を覚える。

 

目線を、自身を縛る拘束具の下にやると、小瓶が転がっている。薬品だ。神経を一時的に麻痺させる神経ガスの作用がある薬物…………、それを惜しげもなく使用したみたいだ。

記憶が混濁していて、その瞬間すら思い出せないが。

 

 

 ヒールの踵を返して、葉菜へと近づく。

「ねぇ、貴女は特別ってなんだと思う?」

雪那は拘束具に抵抗する少女の耳元で熱い含みを持った吐息で訊ねる。

肩を大きく上下させながら葉菜は、横目で雪那を睨めつける。冷酷な印象は受けるものの、整った容姿の彼女は現在、妖しい光を帯びた眼差しで右手に持った注射器へと注がれている。

 

この人は頭がどうかしているんだ……。

葉菜は、一刻も早く報告しなければならない、そう決意する。だが一向に拘束具から逃れる方法が思い浮かばない。

 

「特別……人より優れていることってよく分からないでしょ? 人の世の中では特別は異端扱いされて結局同調圧力で潰されてしまうの。解るでしょ?」

まるで、それが呪いであるかのような口ぶりである。

 猿轡を噛まされた葉菜は、口を唾液にまみれさせながら強い眼差しで更に狂った雪那を威圧する。

 

――その頑なな態度が気にったのだろう。

 

「あははははははははっ、そういい目……。一切情報を漏らすことのないんだから余程優秀な諜報員なのね。舞草もいい人材を育てた。そこだけは褒めるべきかしら?」

 スッ、と鋭く細められた目は冷淡に、機敏に右手が動く。鈴本葉菜という少女のほっそりとした、白い首筋へ注射器があてがわれる。

 

「暴れると、血管を傷つけるわよ」

 脅し、というよりも事実を告げるように言って、左手で愛撫するように少女の頬に触れる。髪の毛がサラサラと手の間を流れる。

 

 「ンンんんんんんっっっ、」

 冷たい感触が首を貫く。

 ――直後。

 ドクン、と胸を打つ強烈な衝撃が全神経を支配する。ボロボロと自我が崩れ去って跡形も無くなるような、そんなイメージが脳裏を過る。

 

 ……いやだ、助けて、お父さんお母さん。まだ消えたくない、消えたくないよ……

 

 急激な感情の不均衡が齎され、視界が曇ってゆく。

 

 「ンンンンンン、ふーっ、ふーっ、んんんんん……………」

 目を大きく見開き、大粒の涙を零す。塞がれた口からは酸っぱい唾液が止めどなく溢れ、拘束具のベルトの金属質なガチャガチャと騒がしい音が、激しくなる。

 

 「死にたくない、そう思うでしょう? タギツヒメ様に貴女は身も心も忠義を誓う。それだけが、生き方になる……」

 雪那の眼差しには、羨望にも等しい何かが宿っている。

 

 「ふっふっ…………んんんん―――――っ」

 両足が痙攣したようにビクビクと弾け、小刻みな身体の揺れが著しく発作を起こしたように架台の上で弓なりに体を曲げる。

 

 もはや、叫ぶ余力を奪われた。

 

 〝死ぬ〟

 

 不吉な一言が、鈴本葉菜という少女の脳内に現れる。

 それも身体的な死亡ではない、精神――自我の消失である。この共に生まれ育った肉体はこの世に残り、培った「自分」が消える。

 

 恐怖であった。

 「ンンン、んんん、んん………。」

 理性が崩落する音がした。葉菜は、まるで助けを求めて縋るような視線で雪那へと頭を向ける。

 

 「!?」

 

 しかし、薄れゆく視界で捉えられた人影の像には能面じみた無表情な「ナニカ」が佇んでいるだけだった。

 

 

 がくっ、と項垂れるように葉菜の頭は大きく垂れ下がった。筋肉が仕事を放棄したように頭と胴体をつなぐ首が弛緩しきって、胸元まで玉を垂れさせる。

 肉体のあらゆる穴から液体が漏れていた。

 

 

 瀕死の状態ではなく、健康な生体からの「己の意思によらない」貴重な実験データがとれた瞬間である。

 

 

 高津雪那は一切の表情を顔に浮かべることなく、冷め切った様子で実験結果を頭に叩き込む。これは始まりでしかない。近衛隊の創設にはまだ人員が必要である。理想に近づくための一歩でしかないのだから。

 

 

 

 1

 荘厳な山々が青の巨影を連ねながら、朝靄の滞留を押し留めている。

 限られた岨道をゆくと流水の裂ける音色がした。水の豊かな匂いが鼻腔に漂う。……山の湿った土壌は、昨夜の雨の名残だろうか。

 

 神秘性というのは主観でしかない。ただ洋の東西を問わず人間は自然によって価値観と行動を規定される。もし、古代の日本人が現在と変わりない風景を見ていたとしても、何の不思議もないだろう。

 

 

 「どうした? 少し速度早かったか?」

 百鬼丸は背後を振り返りながら心配そうに尋ねる。

 

 「はぁ……はぁ……煩い、無用な心配だ」と、前傾姿勢で息をつきながら濡羽色の髪の少女は不機嫌に答える。

 

 「そ、そうか」

 気圧されながらも百鬼丸は、道の側面にある岩伝いに下方へと降りてゆく。二人が移動しているのは未舗装の山地である。

 

 

 敵は刀剣類管理でも「維新派」を標榜し、かつその背後には国の諜報機関がいる。ロクな考えもなしに行動してはすぐに捕まってしまう。

 

 原子力潜水艦『ノーチラス号』は、イチキシマヒメを保護している関係で陸地に接近することができない。であれば、百鬼丸と十条姫和の二名で行動するより他ない。

 ノーチラス号を離れる間際だった。

 

 

親衛隊の二人からは、

 『結芽の手掛かりになるんだったらなんでもいい、とにかく轆轤秀光の尻尾を掴むんだ。頼んだ』と真希が真摯な眼差しでいう。

 

 それを横目に、腕を組んだ寿々花は軽いため息を零す。

 『そう簡単に見つかる、とは思いませんわ。ですが、このままアチラの思惑にハマるのも癪ですし、起死回生の一手を期待していますわ。百鬼丸さん』

 ワインレッドの緩やかなウェーブを描く毛先を手慰みに、押し付けがましくいう。

 

 

 「あーへいへい」と、百鬼丸はなるべく気負わない風を装い背中をみせながら手をプラプラと振る。途中――ブッ、と放屁をする。

 

 真希は、鼻をつまみながら「おい」と強く叱責するような口調で睨む。寿々花は「下品ですわ」と、左手で鼻と口を塞ぐ。……共に嫌悪の視線を百鬼丸に向ける。

 

 せっかくの真剣な会話も、彼の気の抜けた行動で、緊張した雰囲気が弛緩する。

 

 「おお、すまん。すまん」

 苦笑いを浮かべながら両手を合わせて謝罪した。百鬼丸はケツを掻いて照れる。

 

 (よくわからん奴だ)

 

 と、遠目から三人のやり取りを見ていた姫和は複雑な感情で観察していた。ついこの間まで敵だった相手となぜこれほど打ち解けることが出来るのだろう? ……可奈美もそうだ。自分だけがおかしいのだろうか? 不安が姫和の中で頭を擡げる。

 

 

 「――なぁ、可奈美」

 

 「ん? なに姫和ちゃん」

 

 「お前たちはどうして、そんなに感情の切り替えができるんだ。折神紫の件もそうだ。私にはまだ色々と気持ちの整理がつかないのに……」

 

 硬い表情の姫和を一瞥した快活な色の少女は「ふっ」と含み笑いを洩らす。

 

 「な、何がおかしい!」

 恥ずかしさをごまかすような声で、姫和は叫ぶ。

 

 甘栗色の軽やかな毛束が左右に揺れる。

 「ううん、違うよ。勘違いさせたらごめんね。――姫和ちゃんって、すごく不器用だなって思って。百鬼丸さんみたい」

 

 言いながら可奈美は頭を百鬼丸の方へと動かす。彼女の薄い表情をからは、なんの情報も読み取れない。

 

 しかし突然の指摘に、紅の瞳が周りを見る余地もなく憤慨する。

 

 「どこがだ! あんな破廉恥ロクでなしで下品な……」

 と、悪言罵倒の数々を言おうとした姫和は不意に口を閉ざす。

 

 「…………いいや、お前の言うとおりなのかもな。背景は違うが使命みたいなものが人生の方向を決めたんだとしたら、私たちは似ていて、まさにその通りだ」

 目を伏せて、左腰に佩いた《小烏丸》に意識を移す。ガチャリ、と鍔と鞘が鳴る。

 

 

 「うん」と、微笑を浮かべた可奈美はただ頷く。

 「姫和ちゃんに、やっぱり覚えておいて欲しいな」

 

 「何をだ?」

 

 「どんな運命でも、過酷な使命でも……重いんだったら私が半分受け持つ、ってこと」

 くりっとした大きな琥珀色の瞳が、姫和を正視する。

 

 「ああ、覚えておくよ」と、小さく返事をする。

 

 ――うん、と可奈美は首肯しながらも、どこか表情に翳りを帯びていたことを、姫和は見落としていた。

 

 

 

 2

 「本当に私の実家に、轆轤家の手掛かりがある――と信じてるのか?」

 姫和は躊躇いがちな口調で、ひとりごちる。

 彼女の母、篝の旧姓は柊。

 柊家は元々古い家柄であり、折神家の裏方の職務を補佐する役割であった。一方、轆轤家は暗部を司る家柄だったと言って良い。つまり、裏方にも光と影あったわけである。

 「それが未だに信じられん。轆轤という男が折神と柊に関係する家系だったとは……」

 「ああ、おれもまだ信じらんねぇ」百鬼丸は怒りとも困惑ともつかぬ声音でいう。

 あの時、脇腹を刺し貫いたあの男が自分に関係する? 有り得ない。

 譬えそれが真実であったとしても、断じて奴だけは許すことが出来ない。今にも憎悪で腸が煮えくり返りそうだ。

 だが同時に本能的に彼が自身の出生と繋がりのある人物であることも百鬼丸は理解していた。

 ギッ、と自然に握る拳の力が強まる。

 「…………。」 

 姫和はその拳を一瞥し、ただ何も言わず道の先を歩いた。

 (いまの私には奴に言うべき言葉がない……)

 何となくだが、姫和は百鬼丸の内心が解る気がした。今まで信じてきたものが崩れ去る恐怖と戸惑い。根底から覆される真実。それが一度にやってきて、頭の処理が追いつかないんだ。

 「急ぐぞ。夜になると灯りがないんだ」

 姫和は急かすように、背後の彼に告げた。

 ――ああ、分かったよ。

 淡々とした反応が返ってきた。その声音に何故だか、姫和は胸が締め付けられる錯覚がした。

 



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105話

 驚くべきことに、何ら政府は手立てを打てずにいた。

 

 

 十一月中旬、日本国政府は刀剣類管理及び伍箇伝の不穏な兆候を既に察知してはいた――しかし、各省庁及び経済団体に強い影響を誇る「情報戦略局」の手腕により驚くほど事態の沈静化を図られていた。

 

 

 行政遂行の内閣は無論、国会では著しいまでの情報統制によって断片的な内容での議論に終始するより他になかった。……まるで、嵐の前の静けさだ、と誰かが言った。

 確かにその通りなのかも知れない。

 

 

 「はぁ~」

 美濃関学院学長、羽島江麻は深いため息を吐く。

 世間を騒がせる「刀使」という役割の危険性の喚起によって、現在も在校生の転校が相次いでいる。一応、国家機関とはいえ、本人や保護者の意思が第一だ。無理やりに止める権利もないのだ。それに、刀使は危険である、というのは事実である。

 

 軽く額に手を当てながら、執務机に散見される《舞草》経由の資料に目を通す。

 

 ――曰く、綾小路に異変あり。

 

 つい数日前に京都綾小路武芸学舎は高津雪那が学長の就任するところとなった。

 しかも、このレポートには鎌府の学長へと転任となった相楽学長も刀剣類管理局維新派であると断定する文章が踊っていた。実際に証拠はいくつも挙がっていた。

 

 

 かつての戦友が、まさかノロのアンプルを人体へと投与する実験を秘密裏に行っていた、とは信じたくなかった。だが真実は残酷だった。

 

 

 「衛藤さんたちは元気かしら」

 ふと、重苦しい空気を打破するようにポツリとつぶやく。

 美濃関の刀使――いや、日本でも一番と言っても身内びいきではないと断ずることができる甘栗色の髪をした少女。それに、もう一人。頭脳が明晰であり、合理的な……かつ包容力の豊かなもう一人の少女も居る。

 この学校で一二の実力者が今、鎌倉へと出向している。

 ……で、あればこそ尚更綾小路と鎌府が暴走した祭、押さえ込める伍箇伝は限られている。西方は平城と長船。東は……美濃関。

 明らかに不利であった。

 最新の装備と最大の人員を誇る鎌府女学院が一旦箍を外す、と予想すれば必然、止める手立てがない。

 

 

 ……しかも、大事な教え子を再び危険な前線――同じ刀使同士での斬り合いへと投入することになるのだ。

 

 彼女たち子供に大人がなんら報いることがない。それどころか、政争の具として、駒程度に敵も、味方も扱おうとしている。――無論、自分もだ。と、江麻は自嘲気味に口を曲げる。

 

 

 二〇年前から変わってしまった世界と、変わらない「大人」の無力さ。

 あの当時、大人の無能さを横目に事態の沈静化を図った記憶を思い返すと、その無能な大人の中に現在の自分を見つけることができる。

 

 「……どうして、こうも私たちは無力なのかしら」

 あの悲劇を繰り返さぬように舞草の一員として活動してきたつもりだった。だのに、一旦事変が起こると全くの無力だ。

 

 「せめて、大人として」

 責任をとる、それしかできない。だから折神朱音は国会の証人喚問にも応じている。説明を行い、人々の理解を図るために努めた。

 

 (だから、少なくとも私ができることはそれだけ……か)

 

 『――んじゃ、後は頼んだ!』

 不意に、鼓膜の奥に懐かしい声が甦る。

 

 藤原美奈都は、そう快活に云うと、荒魂の残骸をあとに颯爽と立ち去ってゆく。ノロの回収および、警察とのやりとりが面倒で押し付けていた時、いつもそう言って逃げた。

 

 「ふふっ……」

 尻拭いは今に始まったことではない。思えば昔から自分の性分としても、面倒事の処理は受け持ってきたではないか、と江麻は微笑を洩らす。

 

 

 1

 傾らかな日差しが窓の外から射し込む。

 「あ~、クソだりぃ~」

 益子薫は、鎌府の女子寮に与えられた一室のベッドに大の字で寝転がり天井を眺める。薄桃色のツインエールの頭にペットの茶色い獣、ねねが乗っかり寝ている。

 

 「もぅ、薫。そんなコト言って全く提出課題が進んデ無いデスヨ……」

 金髪碧眼の、日本人離れした容姿の少女が不満げに眉を顰める。

 

 「あーはいはい。明日から本気出す、まったくエレンも煩いなぁ」

 エレン、と呼ばれた古波蔵エレンは親友の怠惰な返事に、すっかり頬を膨らまし、不満を示す。

 

 「紗南センセーに怒られてテモ知りまセンよ」

 

 グキッ、と擬音が出るほど動揺した薫は冷や汗を頬に流しながら、

 「へ、へへへ平気だ。オレはここ数ヶ月ずーっと各地で荒魂退治やらされたんだ。おばさんも許してくれるだろ!」と、必死の釈明をした。

 

 「ふーん」エレンは目を細めながら机の上に置かれた携帯端末に手を伸ばす。「じゃあ、紗南センセーに一度確認してミマスカ?」

 

 その死刑宣告にも似た一言に、薫はベッドから起き上がる。

 

 「おい、馬鹿やめろ! そんなことするとオレがまたクソみたいな口実で休みを潰される……お願いしますやめて下さい、エレン様!」

 ベッドの上で、土下座しながら両手を合わせて拝む。

 余りにも恥も外聞もない行動に流石のエレンも呆れた。

 「もう薫、そこまでしなくテモ課題さえやればいいんデスよ」

 まさかここまで拒絶反応を示すとは思わず、冗談混じりだった行動にエレンは罪悪感を持った。

 

 

 「…………。」

 「…………。」

 

 二人は珍しく、重苦しい沈黙に陥った。

 

 その理由は既に明白だった。舞草より齎された情報によれば、この鎌府女学院が相楽結月のもと改革が行われようとしていた。

 ――とはいえ、つい数ヶ月前の鎌倉でのノロ大量廃棄問題によって世間の目は厳しい。あからさまな暴走はしないだろう、と舞草の上層部は考えている。

 

 「薫はどう思いマスか?」

 エレンは鎮痛な面持ちで訊ねる。

 明らかに、この人事はおかしい。問題のある人物として知られた高津雪那がまさか綾小路の学長になる。これだけでも、何者かの暗躍はある。

 

 祖父のフリードマンも、孫娘のエレンには安全でいて欲しいという理由から最新鋭のストームアーマーを送った訳である。

 

 親友の薫は真面目な顔つきで頭を上げ、

 「さぁな。オレたちはエライ連中のいうことを聞くしかない公務員だからな……」

 だけどな、と薫は続ける。

 「個人的な意見だが、オレたちが守るのは民間人だ。もっと言えば、力のない人間だ。やれることだけはやる。あとは知らん」

 ガサツな物言いだったが、普段眠たげに伏せられた瞳が今はしっかり開いている。

 それは紛れもなく益子薫という一人の刀使としての矜持なのだろう、とエレンは諒解された。

 

 だから、

 「ん~~、薫っ、だから大好きなんですヨーーー」

 エレンは勢いよくベッドの薫へと飛びついて抱きしめる。その、十代の少女にはあまりに不釣り合いかつ、暴力的な胸の膨らみを親友の頭に叩きつける。

 「ブッ――や、やめろぉ息苦しいぃ!」

 手足をばたつかせながら必死の抵抗をする薫。しかし、まるで子供をあやす母親のようにエレンはにこやかな笑顔で頭を容赦なく撫でる。

 

 クソでかいおっぱいに頭を挟まれながら薫はふと呟いた。

 「……もしものことがあっても、オレたちにはあの馬鹿がいるだろ?」

 

 薫の上目遣いと視線を合わせながら、エレンは意地悪く微笑む。

 「もしかして、マルマルの事デスカ?」

 「――さぁな」

 

 普段のふざけた言動とは全く想像もできない無類の強さを誇る少年、百鬼丸。彼の存在は自分たちが思っている以上に心強いものなのかもしれない、と薫とエレンは思った。

 

 

 

 2

 時間を少々戻す。

 

 白昼の原宿で、

 「一体どういう事だッ!!」

 ジャグラーは激昂した。……というのも、ダークリングの召喚に応じて呼び出された異形の怪人がすぐさま消えてしまったのだ!

 

 怪人は当初から肉体が透明であり向こう側の風景が見えるほどに希薄な存在であった。

 それがものの一五秒ほどで消えた。

 

 なぜ、こんなことが起こったのか? 頭脳明晰なジャグラーすらも理解できない。元の世界ではこんな異変は一度だってなかった。焦りが、脆い精神の彼を怒り狂わせる。

 

 「ねぇ、今の一体なんなの?」

 美濃関の赤と純白を基調とした制服に身を包んだ少女、安桜美炎が動揺しながら怪人の現れた方向を指差す。

 

 目前に現れた異形のソレは、隣の男の手に握られたリング状の「ナニカ」に反応して召喚されたように見えた。否、禍々しい輝きと同時にあの異形の怪人が出てきた!

 

 しかし、荒魂と異なる雰囲気に対し、美炎の思考を一時的にストップさせる。

 

 (糞っ、この女を変に巻き込んだのが抑もの間違いだったッ!!)

 ここで彼女を殺してしまおうか?

 ふと、ジャグラーの頭に不吉な考えがよぎった。

 

 「ねぇ、今の……手品?」

 

 美炎は戸惑いと一緒に好奇の眼差しでジャグラーを上目遣いで見上げる。

 

 「はぁ!?」

 この反応に驚いたのは当然ジャグラーだった。

 

 「だって、そうだよ! あんなの手品しか無理だよ!」

 謎の自信満々の態度で美炎はジャグラーを問い詰める。

 

 (――コイツ、馬鹿か?)

 

 ジャグラーは焦った。こんな異様な状況でなぜ、こんなにも楽観的なのだ? まるで思考が読めなかった。

 そして、彼の疑いは正しい。

 美炎は馬鹿だった。それも、底抜けの……。

 

 「なんだか、ジャグラーさんって変で変わってて怖いけど、でも本当はなんていうか……根は悪くなさそう」

 

 美炎は言いながらジャグラーの両目を覗き込む。

 

 

 (なんなんだ、コイツは!?)

 得たいの知れない存在に畏怖しながら今後のため彼女を見逃す訳にはいかない。

 

 「ねぇ、もういっか――むぐっ」

 美炎の両頬をジャグラーは左手で挟んで黙らせる。柔肌を触った衝撃で少々動揺しながらも、ジャグラーはなるべく動揺を気取られぬように声を低く意識する。

 

 「お前にはオレと一緒に来てもらう、人質だ!」

 

 三秒、五秒……ジャグラーの睨んだ眼光を恐れることない爛漫な美炎は、「うん分かった!」と元気よく返事をした。

 

 

 「な……に……!?」

 結論から言えば、ジャグラーのほうが焦った。

 



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106話

「どうしたの? 沙耶香ちゃん?」

 

 

 鎌府女学院の道場の中央で御刀を構え、対峙した少女――柳瀬舞衣がふと、訊ねる。 

 普段も特別表情に変化のあるタイプではない、沙耶香と呼ばれた少女は、その普段にも増して浮かない表情を出していたようだ。

 

 ドールの様につくりものめいて、愛らしい顔立ちには一切の表情がない。色素の薄い髪の間から微かに動揺で震える瞳。

 

 よくよく注意して見ても、恐らく解るものではない。

 しかし、刀使として人として鞏固な結びつきを持つ舞衣ならば容易に解る。

 「……舞衣は、強いって意味分かる?」

 「えっ? どうしたの急に?」

 唐突な質問に対し、逆に舞衣の方が戸惑った。いつもならこうして真剣を握り対峙した場合は一切の雑念は振り払う……筈だった。冷静、というよりも〝無〟という形容が似つかわしい糸見沙耶香という少女が心の葛藤を有している事は知っていた。

 

 彼女自身が悩んでいる時にアレコレと口出しをするのは迷惑だろう、と判断し、舞衣は今まで黙ってきた。

 だが、改めて本人の口から告げられると別の衝撃があるように思われた。

 

 

 「もしかして、可奈美ちゃんのことだとかかな?」

 御刀を下ろして微笑を浮かべる。

 舞衣はその侭、白い耳朶の後ろへ艶やかな黒髪をかきあげる。

 「……うん、でも可奈美だけじゃない。今、もっと強い相手がいるのに、私は全然強くなれない。薫にもねねにも〝強くなる〟ってことを教わった。……でも、やっぱり苦しい。こんな気持ち初めてだから……」

 

 以前の自分であれば、こんな感情に囚われなかっただろう。

 高津雪那のもとで庇護下にあり、その技術の全てを吸収し、更に言われたことを規則正しく繰り返す……それだけで、自然と強くなれた。他の同年代の相手はおろか大人にも剣術で負けることは無くなっていた。それが当たり前だと思っていた。

 

 『貴女は特別だから……』

 雪那の優しい口調が耳奥に甦る。

 

 大勢の人間の視線も気にならなかった。白眼視も嫉妬も、憧憬も全部興味が無かった。……いいや、興味がなかった訳ではない。ただ、どうコミニュケーションをとればよいかわからなかっただけだ。

 

 「……舞衣、私どうしたらいいか自分で考えても分からない」

 ポツリ、呟く。言いつつ剣を収めて俯いた。

 

 本当はどうしたいのだろう? 強くなって――それから? その力を人を守るために使う? それだけが役割? 私自身とは、所詮強くなり他者を守り続ける「道具」なのだろうか?

  

 沙耶香は以前の自分を重ね、「道具」であった頃とさほどの違いを見出せぬ現状に息苦しさと、強い嫌悪感を抱いていた。

 

 

 「沙耶香ちゃん……」

 翡翠色の瞳を伏せて、舞衣は御刀を収める。

 彼女の葛藤を柳瀬舞衣もまた知っている。いつも一番強くて優しい少女が衛藤可奈美だった。嫉妬をしなかった、といえば嘘になる。いつも死に物狂いで努力して、努力して……それでも、努力でも剣術に対する愛情でも結局可奈美に勝る部分はなかった。そう自覚した時、寂寥感のようなものに襲われたのを今でも覚えている。

 

 

 いまの彼女になにを言えばいい? どうすれば私の言葉は届くんだろう?

 

 舞衣もまた迷っていた。

 あの時の苦しみを脱却できたのは、ほんのささいな事なのだから。今ではその解決方法すら忘れるほど小さなきっかけ――。考えて考えて、行動して行動して……迷って悩んで……それでも答えが出ない。

 

 (きっと……うん、そうだ……。)

 

 沙耶香は脱皮途中にいる。

 普通の女の子の生活を送っていれば、きっともっと別な悩みをもっていたんだろう。だけど、自分たちは「刀使」だ。

 人々を守るために、巨大な〝荒魂〟という凶悪な怪物を相手に命のやりとりをしないといけない。

 

 甘えや、依存は許されない。

 

 ……だけど、刀使になる娘は分かっている。

 

 「〝自分が足りないと思えることが、それだけでお前がイイヤつな証拠だ〟」

 

 「――?」

 

 突然の舞衣の言葉に、沙耶香は首をかしげて頭上に疑問符を浮かべる。

 

 そんな様子をハッと気がつき、苦笑いを浮かべながら舞衣は続ける。

 「ごめんね、急に――でも、思い出したんだよ。前に怪獣に研究所を襲われた時があったんだ。……その時にね、百鬼丸さんと一緒に行動してたときに言ってたんだ」

 

 

 怪獣に対し、百鬼丸が脚部から関節射撃を行う際に明眼などを使える舞衣を観測手に指名した。……無論、そんなことは今まで一度もやったことがないし、刀使の能力をこのように利用する例もなかった。

 だから最初は抵抗を示した。しかし百鬼丸は、悪態の一つも見せずに笑って答えた。

 

 『自分が足りないと思えることが、それだけでお前がイイヤつな証拠だ。それに失敗してもおれが全部なんとかする。安心してくれ。おれは強いからさ』

 

 イイヤツってどういう意味だろう? そもそも、だからなんだというのだろう? 

 

 そんな冷静な思考すら漂白されるような、救われた気持ちだった。本当は正解も理解できなくてもよかったんだ。誰かが自分を見てくれて、その苦しみを共有できる人物に「大丈夫だ、心配ない」そう言ってもらえることのほうが本当に大事だったのだ。

 

 「ねぇ、沙耶香ちゃん」

 

 「……なに?」

 「ゴメンね。私は沙耶香ちゃんの悩みとか、強さの認識とか全部答えられないし、剣術でも多分分からせてあげられない。可奈美ちゃんだったらできると思う。でもね、私は可奈美ちゃんじゃない」

 

 そう言いながら舞衣は沙耶香に歩み寄る。

 

 「……でもね。私は可奈美ちゃんにできないことを沙耶香ちゃんに教えてあげられるんだよ」

 柔らかく微笑みかけながら舞衣は小動物のような雰囲気を醸し出す沙耶香の頭を優しく撫でる。……妹にもそうしているように、優しく心を込めて。

 

 「舞衣……?」

 怪訝に眉を潜めながら上目遣いで相手を覗き見る。

 

 「……大事なんだよ。今の辛さが。……沙耶香ちゃんの強さの模索とか理想とかは分かってあげられないけど、それでも大丈夫だから。私はずっと沙耶香ちゃんの味方だから。苦しい時はいつでも相談してね。約束だよ」

 

 

 その時、初めて沙耶香は心の蟠りが緩まる感覚がした。

 

 「舞衣も、同じように苦しい時があったの?」

 

 救いを求めるような縋る眼差しを舞衣に送る。

 

 「うん、今でもやっぱり可奈美ちゃんとか十条さんに劣等感を持ってる……かな? それでも、やっぱり私は私だから。あの二人にできないことを私ができるなら私がやらなきゃ。だってお姉ちゃんだもん。こうやって、一緒に寄り添うことはできるよ」

 

 舞衣は繊細で壊れやすいガラスを包み込むように、抱きしめる。

 「……百鬼丸も強かった。可奈美もそう。初めて誰かに置いていかれたくないって思った」

 

 「うん、そっか……」

 

 「このまま、強くない私がいていいか分からなかった」

 「そんなことないよ」

 

 「……舞衣」

 

 「ん? どうしたの?」

 

 「……私は、いつも人形みたいって、なにを考えてるか分からないって言われてきた。でも、特になにも感じなかった。だけど、今は本当に強くなりたい。百鬼丸みたいに強いのに悲しい。なんとかしたい……。可奈美と肩を並べる相手になりたい」

 

 無機質だった声にも、感情の熱がこもる。

 

 舞衣は嬉しかった。胸の奥が温かなもので満たされる感覚がした。……この感情に名前があるのだろうが、敢えてそれを詮索したいとは思わなかった。言葉にすれば壊れるものだってある筈だから。

 

 「……舞衣ありがとう」

 

 「どういたしまして。それに、私は百鬼丸さんのおかげで見失ってた部分を見つけられたから……」

 

 「……うん。もう一度百鬼丸に会いたい」

 

 自分の感情をストレートに語ることができるようになった沙耶香。決して口数が多い訳ではない彼女だが、それでも何も思わず、感じない訳なんてないのだ。少しずつ変わる、それが人間だ。

 舞衣は改めてその、他人と関係する輪郭をなぞったような気がした。

 

 ぐぅ~、と腹の虫がなった。

 

 「……舞衣、クッキー食べたい」

 撫でられた頭を気持ちよさそうに目を細めながら沙耶香は、要求する。

 

 「ふっ、ふふふ……うん、わかった。ちょうど鞄に入れて持ってきてるから食べようか」

 

 



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107話

ふたりが山の獣道をゆく数時間前――。

 

 原子力潜水艦ノーチラス号から海上保安庁所属の巡視船、PLH05「ざおう」に乗り換えた百鬼丸と姫和。和歌山沖海上七〇キロの地点から、更に巡視艇PC124「やえづき」に乗船した。

 

 冬。海は高い波が船体に叩きつけられる。

 船酔い気味の姫和は青い顔をしながら「うぅ……なぜ、こんな目に遭わねばらんのだ」と呪詛のような言葉を洩らした。

 確かに百鬼丸に協力するとは言った……だが実際に加わる苦痛は予想外だった。

 「水、飲むか?」

 百鬼丸は鼻をほじりながら反対の手でペットボトルを手渡す。

 「グップ……い、いらん……」

 弱々しい口調で拒絶する。

 十一月の海は基本的に荒いものだ。一見穏やかに見えても、波が襲いかかる。

 恨めしそうに百鬼丸を睨みながら姫和は口元を手の甲で拭う。

 「き、貴様は平気なのか?」

 「う? まーな」

 平気そうに床面に胡座をかいて瞑目する少年。

 「あとどれくらいで陸地に到着するんだ?」

 「むー、話によるとあと数十分くらいだそうだ」と、百鬼丸。

 

 (そんなにかかるのか……)

 話をする元気もなく、壁に背中を凭れる。こんなにも陸地が恋しい事があるとは思ってもみなかった……。姫和はなによりもまず、この少年をぶん殴ってやろうと思っていた。理由はない。が、とにかく、平気そうにしているからムカついただけだ……。

 

 要するに、八つ当たりである。

 

 「む?」

 そんな少女の内心を知らずに、視線に気がついた百鬼丸は片眉をあげて間抜け面で応じた。

 

 

 2

 紀伊半島最南端に位置する潮岬灯台は北緯三十三度、東経百三十五度にある。

 この灯台の歴史は古く、明治期の条約によって建設されたうちの一基であり、文化的な価値を有した。

 

 

 塔の高さは約二十二メートル、灯火標高は約四十九メートル。

 白光が十五秒毎に一閃する間隔で周囲を照らす。白亜の塔形石造の灯台は、初冬の色調が暗い視界からでも目立っていた。

 先程の時化は嘘のように穏やかな変化を見せた海。

 陸地に近づくには丁度いい。

 沖合には無数の崖を喰む白波の音が聞こえた。百鬼丸と姫和は、強力な光を放つ電灯を頼りに接岸した巡視艇から離れ、行動を開始した。

 

 未だ船酔いの影響だろうか。足元がふらつく。眩暈に似たものが姫和を襲う。

 「……大丈夫じゃなさそうだし、一旦どこかで休むか?」百鬼丸は予め恩田累から手渡されていた軍用の時計を一瞥する。デジタル数字には午前四時、という表示がある。

 なるべく、人目を避けて行動はしたいが、それでも山越えは無理そうか……。百鬼丸は漠然とそう思った。

 「いいや、いこう。私は平気だ……」

 と、言いながらも左右に彷徨していた。

 「おいおい、いかんだろう。そんな状況だと。まあ、幸いに雨は降らなそうだし、まだ夜風の残りの寒さがあるが……休んでいいぞ。運ぶから」

 百鬼丸は少女に近づき、屈んで背中を見せた。要するにおんぶを提案したのだ。

 「…………断じてその提案は拒ませてもらう」頑なな声で拒絶する。

 「意地を張るな、イジを」

 「意地ではない! 貴様のような変態に体を触られるのが耐えられないんだ!」

 「へっ!? この、なんちゅーこと言いやがる! せっかく人の親切で申し出たのにだな……」

 「ダメだ。変態」

 「お前はなんつー頑固者だ」

 「頑固者ではない! これまでの所業でお前の悪行は身を持って体験してきた! だからイヤなんだ」

 「へー、そうですか。おれが一体なにをしたって言うんだよ」

 「お前はあの夜…………、私の胸を揉んだではないか」

 あの夜、とはなにを指すか百鬼丸は少々時間が取られた。そして、数ヶ月前の折神家襲撃のことに思い至り納得した。

 「あー、あの時か。ウム、覚えてない! そしてお前にムネと呼ばる部分は存在しない!」

 「はァ!? なんだと貴様……ほぉ、そうか。この《小烏丸》の刀の錆にして欲しいらしいな……」

 ガチャリ、と革布で覆われた御刀を取り出そうとする姫和。

 

 その剣幕に圧され、百鬼丸は慌てた。

 「じょ、じょ、冗談ですよええ。本当ですよ、本当――」

 

 「……本当か?」

 疑り深げな目つきで百鬼丸を睨み据える。

 

 「ああ。そんなことより早くいこう。時間がないんだ……」百鬼丸は半ば呆れ混じりの息を漏らしながら強引に足元から掬い上げるように背負った。

 

 「――ちょっ、馬鹿者下ろせ! どこを触っている! おい聞いているのか?」

 背中で暴れる姫和を無視して百鬼丸は歩き出した。

 

 百鬼丸は軽い空腹を覚えて、携帯口糧のビスケットを取り出して口にくわえ咀嚼する。なおも暴れるじゃじゃ馬娘は無視した。

 

 「はぁ……はぁ……無視するな……」

 ポカポカと拳を百鬼丸の後頭部に叩きつけるものの、寝不足と船酔いの影響で力が弱い。連続して殴ってもさほどの威力ではないだろう。

 

 「アデデ……痛い痛い。おれの頭はモグラ叩きのモグラ君じゃねーんだぞ」と、ワザとらしく被害を強調したような物言いで文句を吐き出しながら百鬼丸は抗議した。

 

 頭上を薙ぐ光の筋がまだ夜の明けぬ空を貫く。

 どこからか、警笛の声も聞こえた気がした。

 

 

 「はぁ」と諦めて姫和は力んだ肩から力を抜く。「済まないな……」小さく詫びた。

 背中の小さな声を、聞こえないフリをした百鬼丸は腕を回してビスケットを差し出す。

 「食うか?」

 「いいや」首を振る。

 「そっか」

 モゴモゴ咀嚼しながら百鬼丸は歩き始める。荷物も含めるとそれなりの重量なのだが、彼の人間離れした体力と筋力では、重量を感じさせない足取りだった。

 

 揺れるが、心地よい振動。

 ……自然と睡魔がやってくる。姫和はうとうととし始めた。筋骨隆々の背中に体を密着させて、

 「――本当に自分を知りたいんだな。怖くないのか」

 無意識に姫和は呟いた。

 

 「…………。」

 百鬼丸がその時、なんと返事したのかは海から吹き付ける激しい風と、睡魔によって遮られた。本当は何も答えていないかもしれない。――ただ、この時に彼はなんと言ったのかいつか聞こうと、彼女は思った。

 



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108話

 鎌倉。

 午後一〇時、屋敷の前に一台の乗用車が停車した。車から二つの影が降りる。

 

 

 ノーチラス号から鎌倉に到着した親衛隊元一席、獅童真希と二席、此花寿々花である。彼女たちは事前に、折神朱音から屋敷に入る許可を得ていた。

 親衛隊時代ならば顔パスでもよかったが、数ヶ月前の事件以降、親衛隊は事実上解散に追い込まれ、しかも親衛隊隊員の信用が失墜した。……だが、折神家の事実上の家主である朱音の許可があれば、特に屋敷側も拒む理由はない。

 

 

彼女たちの目的は、轆轤秀光に誘拐された燕結芽の救出である。それには、折神家に眠る資料が重要となるのだ。

 

 それに気がついたのは親衛隊の頭脳であり折神紫の事実上の秘書役でもあった寿々花である。

 

 

巨大な正面の御門を潜ると、風の流れが急に緩慢になった。薄闇の向こうには等間隔で小道の左右に配された石燈篭の温かな光が点々と周囲を照らす。

 白い玉砂利の敷かれた玄関口。御前試合の決勝もこの白州で行われた。

 

 ……広大な敷地に囲まれた豪奢な屋敷は個人の所有するものとしては、恐らく最大の規模を誇るだろう。……当然、公共施設として兼用はされていると言っても、この巨大な建物に居住するという事実だけで感嘆に値する。

 

 

 もちろん、獅童真希も最初はそう思った。だがこの建物の光景を外側から――よりも、内側から眺める機会が増えるにつれて、さほど感動することは無くなっていたが……。

 「改めて見ると大きいな……」

 真希は久しぶりに見る折神家の屋敷を前に、懐かしさを込めた口調で呟く。

 「――ええ、そうですわね」と、隣から同意の声がする。

 隣の……ワインレッドの鮮やかな髪質で、緩やかなウェーブのかかった毛先を指先で弄ぶ仕草も絵になる少女、此花寿々花はあまり興味なさげに返事をしたようだ。

 

 

 彼女も、元々は日本でも有数の名家の生まれで、れっきとしたお嬢様だ。規模こそ違え、このような屋敷や邸宅など飽きるほど見てきたのだろう。

 はぁ、と改めて寿々花と認識の違いに溜息を零しながら苦笑いを浮かべる。

 「全く、寿々花は変わっているからなぁ……」

 真希が不意に漏らした言葉に、隣で髪を弄んでいた指がピタリと止まる。

 「あら? どうしてですの?」

 不満げな口調で抗議する寿々花。急な発言に対し、不本意であると態度で示していた。

 「いいや。だってキミは半額弁当で子供みたいに喜んで……ふふ、あははは……」

 つい、思い出して真希は笑う。

 

 

 

 ある日の事だった。

 非番で、外出許可の出た寿々花が珍しく遠出をするという。理由を聞いても曖昧に誤魔化すばかりでイマイチ要領を得ない。常に明晰な答えを返す彼女にしては珍しい。

 そわそわ落ち着かぬ様子に思わず真希が、

 『どこか具合でも悪いのかい?』

 と、訊ねた。

 同僚の気遣いに反応するように柳眉を寄せて憤慨した寿々花は、

 『――い・い・え! 何でもありませんわ。お気になさらず』

 強い拒絶の言葉で会話を切り上げ、部屋の時計を一瞥するとそそくさと退出した。

 「?」

 真希は彼女の具合が悪いものだと思っていた。時刻は午後3時。

 病院にでも行く予定があったのだろうか――?

 あまり個人のことを詮索するのも仕方がないと思い、夜見との警護任務の引き継ぎへと頭を切り替えた。

 

 

 

 ……その夜、午後九時に親衛隊の控え室である一室にこれまた珍しく、警護の任務を一時的に解除された真希と夜見、そして抑もマトモな仕事は荒魂退治以外に無い結芽が、集まっていた。

 偶然、といえば全くの偶然だった。

 

 『…………。』

 専用の架台で御刀の手入れを丹念にする真希。窓際で佇み、人形のように微動もしない夜見。そして、部屋の中央に設えられた高級なソファーに仰向けで寝転がり、チョコレート菓子を口にくわえて携帯端末をいじる結芽。

 

 沈黙。

 それも気まずい他人同士の沈黙ではなく、勝手知ったる仲でのある種の安定的な無音の沈黙だった。

 

 ――と。

 ドン、と扉を勢いよく開く音が室内に響き渡る。

 一瞬、その勢いに驚いた三人は緊張を体に漲らせたが、すぐに闖入者の正体を捉え、一気に緊張を緩和させた。

 

 

 『なーんだ、寿々花おねーさんじゃん』

 つまらそうにソファーから上半身を起こした結芽は呟いた。

 

 はぁ、はぁ、と息を切らした寿々花は、しかし興奮に頬を上気させながら嬉しそうに両手に手提げたビニール袋を持ち上げる。

 『半額弁当、制覇致しましたわ!』

 普段とは全く異なるテンションで、寿々花はそう宣言する。

 

 「「「…………!?!?」」」

 三人の頭の上に疑問符がいくつも浮かんだ。

 

 今、このお嬢様は何と言っただろう? 

 半額弁当を制覇? ――はて?

 

 真希は御刀の手入れを途中でやめて、目頭を揉む。彼女の癖であり、大体が困ったときに出る癖だ。

 

 『え~っと、済まない。寿々花がどうしてそんなに興奮しているのか説明してもらえるかい?』

 この場の一同の内心を代弁して語った。

 

 しかし、寧ろなぜそんな淡白な反応が返ってくるか理解しかねるように首を傾げた。

 『この周辺にスーパーマーケットはありませんわ、それをご存知ですの真希さん?』

 

 『あ、ああ。そうだね』

 

 その返事に「ふふん」とばかりに得意げに胸を張り、自慢げに説明を続ける。

 『ですから、少し遠出して点在するスーパーマーケットに赴きましたわ。狙いは午後八時から半額になる〝お弁当〟です。ご理解頂けまして?』

 

 『…………!?!?』

 ますます混乱する真希。ふと、他の二人にも目線を送ると、結芽は「うぅ~ん?」と困った様子で首を捻り、夜見に至っては「そうですか……」と、半ば投げやりな返答をする始末。

 

 才女として名高く、親衛隊はおろか折神紫という人物の実務をサポートし、細部に至るまで計算し尽くす怜悧な頭脳の持ち主が、いまや単なる奇人であった。

 

 (まさか、親衛隊の参謀さまがこんなおかしいとは……)

 と真希は内心で思いつつ、更に説明を求めた。

 

 『つまり、なにがそんなに興奮に値するんだい?』

 

 『――なっ、まだ分からないんですの!? お弁当が〝半額〟、〝半額〟ですのよ!』

 これでもか、と言わんばかりに控え室に置かれたテーブルにスーパーの袋を置いて丁寧に中身を取り出す。

 

 

 透明なプラスチック蓋にはキチンと「半額」と黄色と赤を基調にしたシールがデカデカと貼られていた。――うん、見慣れた光景だ。

 真希は呆気に取られつつ、弁当が並べられていく様子を一部始終見守っていた。

 

 『……しかし、一時間でこれだけ買えるとは流石寿々花だね』

 最早かける言葉がそれしかなかった。

 

 『ええ、当然ですわ。何人かに協力して頂いて半額弁当を制覇しましたもの』

 と、事も無げにいう。

 

 『…………。』

 真希はそれ以上深く詮索するのはやめた。恐らく彼女のことだ、親衛隊の部下である刀使たちに「何らか」の方法でお願いをして手分けをしたのだろう。

 

 『まさかとは思うけど、〝迅移〟は使ってないだ……』

 

 『ご、ゴホン……。何のことか分かりませんわ』

 明らかに胡散臭い咳払い。しかも、目が泳いでいる。

 

 (間違いない……。)

 

 刀使のみが使用できる高速移動術である《迅移》を使ったな、と真希は確信した。熾烈を極める半額弁当争奪戦を勝ち抜くにはこの方法が一番効率がいい。尤も、軽々しく《迅移》を使うことは基本的に禁止されているのを、寿々花が知らぬ筈がない。確信犯である。

 

 

 『はぁ……まあ、いいさ。今後気をつけてくれ』

 本来であれば軽率な行動はキツく叱る筈の真希も、現在の異常に高いテンションの寿々花を前にすると勢いを削がれてしまう。多分、いまは何を言っても聞こえないだろう。

 

 『それより、真希さんはどれにしますの?』

 

 テーブルに並べられた弁当を指差し、寿々花が訊ねる。

 

 『食べてもいいのかい?』

 

 『――ええ、勿論ですわ。夜食のために集めましたもの』青みがかった瞳を、子供のようにキラキラと輝かせて言う。『ええっと、これが唐揚げ弁当、これが焼肉弁当……』

 

 プラスチック容器を手に持ちながらあれこれ吟味する寿々花を遠目に、呆れながらも可笑しそうに笑う結芽。窓際で人形のように佇んだ夜見は「――くっ」という感じで口端を曲げて少し小馬鹿にした感じで笑いを堪えているようだった。

 

 

 なるほど、このお嬢様は半額弁当という存在を知らなかったのだ。そもそも、スーパーマーケットで買い物もしたことがないのだろう。親衛隊の夜食として購入するという建前のもと、本気でこの近辺で入手できる限りの半額弁当の全種類を制覇した、と自慢していたのだ。

 

 

 『――どうされましたの?』

 一人事情を飲み込めていない寿々花だけが困惑に首を傾げた。

 

 

 「くくくっ……」と、笑いを噛み殺した真希も、首を振りながら必死に平静を保とうと努めた。

 

 『寿々花に半額弁当が手に入ってよかったよ』

 

 『ええ、わたくしが本気を出せば一時間でこんなものですわ』

 心なしか鼻高らかに応じる。なんとも言い難い、ドヤ顔をされると普段のギャップに更に拍車をかける。

 

 『さあ、皆さんで好きなものを選んで下さって』

 

 確かに、半額弁当を入手することもだが、こうやって誰かと弁当を囲んで食べるという状況を楽しみにしていたのではないだろうか――、真希はふとそう思った。

 

 

 



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109話

 

 ……逞しい、引き締まった筋肉を包む皮膚は男独特の体臭を放つ。

 「んっ……」

 長い睫毛を擦り、紅の瞳が開かれる。

 未明前の出立だった事と、ほぼ道のない森林を強行踏破したために疲れが出たらしい。背負われて目覚めるのは、これで二度目だ――。

 「私は眠っていたのか」まだ夢半ばの口調で囁いた。

 背負っていた少年、百鬼丸は後頭部で乱雑に束ねた髪を揺らしながら急勾配の地形を進む。その彼が、

 「お、起きたか」

 気がついた。彼は息一つ上がっていない。しかも、荷物も含めると五〇キロ以上の荷物を背負い何時間も休みなく歩き続けているのだ。

 「お前は疲れないのか?」

 自分ばかりこうして休憩している事に罪悪感を覚えた十条姫和は訊ねた。

 「う? いんや、疲れんなぁ……。しかし山林は懐かしい匂いだな。やっぱりおれは人が大勢いる場所よりもコッチの方が落ち着くな」

 陽気な口調で進み続けた。

 

 

 紀伊半島――熊野三山から接する熊野古道は三重、奈良、和歌山、大阪に接続される。特に六道を以て熊野古道と呼ぶ。すなわち、紀伊路、小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路、大嶺崖道…………。

 このうち、百鬼丸と姫和は紀州の山々の獣道から辺路(吉野と熊野を結ぶ路)に繋がる大嶺山に出た。

 かつての修行道として利用された峻厳な場所として知られ、一〇〇〇~一九〇〇級の峰を踏破せねばならない。本来は「女人禁制」であり、女性が立ち入る事は禁じられていた。

 

 だから、姫和自身も果たしてこの場所を通ってもよいのだろうか? と、一抹の不安を抱えていた。

 それを百鬼丸に伝えると、

 「まあ、そこまで了見の狭い神仏はいないぜ多分。それに、姫和の乳なら男と間違われるからヘーキヘーキ」とのたまった。

 姫和は思い切り百鬼丸を殴打すると黙った。

 

 

 2

 百鬼丸の踏破するペースは尋常ではなかった。夜明け前に出発し、姫和の実家に到着した頃には夕方になっていた。が、普通は徒歩で、しかもこれだけ険しい道のりを休みなく超えることは不可能である。

 

 「うーーーん、よく動いた」と、百鬼丸。

 背伸びをして一切疲れをみせるどころか未だ動ける様子だった。

 

 田園風景が視界いっぱいに拡がる、のどかな場所だった。山の中にある村で、山の斜面を削って棚田にした水田も稲刈りを終え、今は茶色い土面を露出させている。

 坂になった道路の上、茅葺き屋根の古風な民家があった。

 

 「ここか……、姫和の家は」

 「――ああ」硬い声で答える姫和。

 鎌倉出向前は刀使をやめるつもりだった。しかし、まさかこんなにすぐに戻ってくるとは彼女自身考えていない。百鬼丸というオマケつきでの家路は微妙な気分にさせられる。

 

 

 「少し休んでから土蔵を中心に探す方がいい」

 キッパリとした口調でいう姫和は、細い眉を微動もせず瞳だけを横に流す。

 百鬼丸は頷きながら家の方を凝視している。

 「やはり気になるのか……だがまだ、資料が〝ある〟という確証はない」

 「ああ。そんでも、やっぱり気になる。轆轤秀光に繋がる情報はなんでもいいから欲しい。――ま、お前のいうとおり、一旦休憩するか。どうせ、一晩かかって見つかるかどうかの作業だからな」

 何気なく言い放った一言。

 

 ……一晩、百鬼丸と一緒?

 

 しかも実家で。

 「なっ…………」姫和は悶絶した。顔を真っ赤にした。この変態の権化である最低最悪の男と一夜を過ごすのだろうか。果たして、襲われないという証拠でもあるのだろうか? ない! 断じてこの変態男にセクハラまがいのされるに違いない!

 エビ茶色のローファーでバックステップを踏み、距離をとると両腕で自分の身を抱き寄せた。

 「貴様、いいか! 私に指一本でも触れてみろ。たたき斬ってやるかな!」

 睨み据えながら御刀《小烏丸》の柄に手をかける。

 

 「……おいおい、なんでお前を襲うんだよ、おれが。信用してないのか」

 呆れたようにいう百鬼丸。

 

 「と、当然だ。貴様のこれまでの蛮行が物語っている!」

 うー、と低く唸る様子がまるで警戒心の強い犬のようだった。

 

 (しかし、なんでおれはこんなに信用されてないのかねぇ……。)

 頬をポリポリと指で掻きながら思った。

 

 「あー、わかった。分かったよ。姫和さんには一切触れないから安心してくれ」

 

 「…………。それだけか?」

 

 「? それ以外になんかあるのか?」

 

 その言葉に、姫和は暫く考え込むように両腕を組んで首をひねる。濡羽色の艶やかかつ流麗な髪が、夕色に照らし上げられる。茜色に反射した瞳がピカッ、と光を弾く。

 「そうだな……指切りだ」

 サッ、と姫和は片手を出した生真面目な少女は、真剣な眼差しで百鬼丸を見る。

 「う、マジか……。」

 「まじだ」

 百鬼丸も仕方なく右手を差し出して小指を結ぶ。

 「こんなことでいいのか?」

 「――ああ、不満か?」

 いんや、と首を振って否定する。

 「母と約束する時はいつもこうだったんだ……仕方ないだろう」

 今更気恥ずかしさがこみ上げてきたのだろうか、顔を背けて言い訳を述べる。どこか懐しそうな顔で微笑する姫和は、普段とは違って柔らかい雰囲気が漂っていた。

 「ま、いいんじゃないか。」

 と、言いながら百鬼丸は不意に彼女の頭を撫でようとして――止めた。

 

 

 以前のことだが、義理の妹である双葉に言われた事を思い出した。

 

 『ねぇ、にいさん。気安く頭撫でないでくれる? 煩わしいから……』

 冷え切った目で、そう告げられた。

 久々の再開から誤解が解けた折に、かつてやったように頭を撫でた時に、こう言って吐き捨てられた。

 理由を聞いても「それ、全然嬉しくないから。普通にキモイ」とのお返事だけだった。どうやら年頃の少女には腹ただしい行為だという事が分かった。

 

 という訳で、百鬼丸は姫和の頭上にかざした掌を急いで引っ込めた。――しかも、さきほど指一本触れないという約束をしたばかりだ。

 

 「ん? どうした?」

 思い出に浸っていた姫和が、慌てていた少年を見返す。

 

 ブンブン、と首がもげそうなほど振って邪念がなかったことを示す百鬼丸。

 「なななな、なんでもないぞ! うん、あははは……」

 

 「?」

 不思議そうな顔をする姫和。規則正しく切り揃えられた前髪の下から胡乱な目線が向けられたが、結局何も言わずに終わった。

 

 ――その時。

 

 

 百鬼丸は不意に顔を上げて、周りを囲む山々に首を巡らせる。山の中から見知った気配を察知した少年は意識を研ぎ澄ませながらベルトで腰に固定した《無銘刀》を触る。

 「なあ、姫和。少しだけこの辺を散歩してきてもいいか?」

 「もう夜が近くて危ないぞ」

 「おれは昔から人気のない山で生きてきたからヘーキヘーキ。それに、すぐ帰ってこれるから。な?」

 渋々だが、姫和は頷いて許した。

 

 その返事と共に百鬼丸は一気に脇目も振らずに駆け出した。

 

 その背中を見送りながら姫和は溜息をこぼした。

 「いったい何なんだ……」

 

 

 3

 熊笹の上に珠のような露が葉脈に伝って落ちる。

 樹皮に苔が蒸している。長い年月をかけて育ったのだろう、木々の匂いが格別に濃密である。冬が間近に迫りながらも、山はまだもう少しだけ眠りにつかない。

 

 常緑樹以外の木々は紅葉のあと、すでに枝から葉っぱが消えて裸の状態だる。その裸体を無数に晒した木々の中、大きな岩が一つ無造作にある。

 腰掛けるには些か厳しい印象をうける。――しかし、そこにやせ衰えた鶴のような老人が一人だけ薄着の格好で座っている。

 

 「オヤ……珍しいねぇ。どうも知っている気配だ」

 盲目の老人はそうつぶやきながら長い畸形な頭を、気配の先にむける。

 枯葉を踏みしだく音。一定の間隔をもって機械的な足運び。何の迷いもない雰囲気……。

間違いない。こんな面白い気配を放つ存在は一つしか知らない。

 

 「やあ、お前さんかい? 百鬼丸」

 老人は相手に気安くそう叫ぶ。叫びながら右手に荒縄に括った酒瓶をグビリと口に流し込む。口端から酒が溢れ、それを乱暴に反対の腕の袖口で拭う。

 

 

 「――流石ですね。この距離からバレましたか」

 遠く、斜面を駆け上ってきた百鬼丸は驚きながらも破顔した。それは懐かしい知人を発見した時独特の微笑であった。

 

 「お前さん、随分と成長したようじゃないか。このとおり、此方は目が見えないけどねぇ、お前さんの声で分かるよ」老人は唇を剥いてわらう。

 

 「流石に、貴方に隠し事なんてできると思ってませんよ」

 そう言って百鬼丸は老人の足元、岩のすぐ近くに歩み寄る。

 

 「――折り入ってお願いがあります〝師匠〟」

 百鬼丸は真面目な口調で頭を下げる。相手は目は見えていないが、そんな事は関係ない。誠意は行動で示さねばならないのだ。

 師匠、と呼ばれた老人は困ったように「ウーム」と唸りながら困ったように岩の上から飛び降りた。軽やかな身のこなしで、まるで重力など感じさせぬ風に、老人は着地する。

 

 「へぇ、この老人にもう一度頭を下げるのかい?」

 

 「――はい」

 

 「無理だねぇ、無理さ。前にも言っただろう? お前さんは一つ勘違いをしているよ。おれは別に剣の達人でもねぇ。それは前にもいっただろう?」

 

 「はい……。」

 

 「それでもおれを頼ろうってかい?」

 

 「はい」

 

 

 真摯な返答の様子に、流石に盲目の老人の返答を変えた。

 「……じゃあ、明日の朝。またここに来るんだ。そうすりゃあ、お前さんにいいものを見せてやるよ」

 キヒヒ、と不気味に笑いながら老人は青竹の杖を足先に出して、道を確認してから歩き出す。背中には大きな琵琶が担がれていた。

 

 

 すでに、空は真っ暗に染まりつつある。…………

 

 



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110話

 『紫……ワレは、もう疲れた』

 気だるげな前傾姿勢で、椅子に座りながら何度目か分からない愚痴を零す。

 「はぁ――」と、額を軽く押さえながら折神紫は首を左右に振る。「まったく……」

 フリードマンと米国が保有する原子力潜水艦ノーチラス号の深部、鋼鉄の扉によって守られた一室でイチキシマヒメと隣り合う。しかし折神紫は、この厭世的な『神』に辟易していた。口を(正確には口は物理的に開いていないが)ひらけば、消えたい、消える……という言葉ばかりである。

 

 面倒なこと、この上ない。

 

 情勢としては現在、タキリヒメは自衛隊の市ヶ谷基地にて匿っている。

 三女神が再び一つの体に戻る争奪戦の際に真っ先に保護を求めたイチキシマヒメは戦闘には向かない女神であった。

 その為、タギツヒメに居場所がバレてしまえば一番先に潰される。パワーバランスが崩れる。

 (それだけは避けたい……)

 という本音と共に、紫自身は彼女……イチキシマヒメには個人的に好意を持っていた。彼女の存在こそが二〇年近く自我を保てた理由なのだから。

 『なぁ、紫。あの少年――確か百鬼丸だったな。あやつはもう行ったのか?』

 珍しく、イチキシマヒメは紫以外の名前を口にした。

 「ああ――何かあったのか?」

 『ワレは〝あの時〟ただ様子を見ているだけだった。あの小童の肉体に執着していたのはタギツヒメだった。あやつは人間に対する憎悪や孤独でできている。なぜあの少年……いいや、勘違いか。ワレももう少し他人に関心を向ければよかったかもな……』

 自嘲気味にいう。

 これも、イチキシマヒメにしては珍しい発言だった。〝他者について〟考える。単なる悲観的な発言ではなく、過去の遺恨を匂わす物言いに、紫は驚いた。

 「あの日とは一体なんだ?」

 『……ワレはもう覚えていない。だが、誰かが〝肉体を捧げる〟そう申した日のことだ』

 「…………。」

 暫く考えながら、紫は考え込むように俯く。

 「恐らく百鬼丸と轆轤秀光は浅からぬ関係だ。篝も時々轆轤家を訪ねていたらしいから、彼女ならば或は何かを残しているだろう」独り言ちに洩らす。

 ……用意周到な彼女のことだ。轆轤家という不気味な存在を放置する筈がない。紫は、そう半ば確信して姫和と百鬼丸の行く末を案じた。

 

 

 

 

 1

 

姫和は実家のライフラインが通っていることを確認しながら、玄関先に置かれた食料品の入った段ボールを見つけた。そこには平城学館の五条学長からの手紙と共に、差し入れした旨が記されていた。……罠、という訳でもなさそうだ。

一通り内容物や毒物が混入していないか、細心の注意を払って確認した。もしダメでも、真っ先に百鬼丸に食わせれば問題ないだろうと、結論づけられた。

 

 屈んだ姿勢から姫和は立ち上がって、帰ってきた実家をまた一瞥する。

 「ここに奴を泊るのか」

 不安しかない気持ちで、頭を抱える。

 

 

 

土間にある台所は、古民家に見られる形式である。

 そこで、

 「~♪~~♪」

 気軽に鼻歌をうたって、グツグツと煮立った鍋を開いて確認する。幼少の頃から母と肩を並べて料理を習ってつくり、また母が病に罹ってからは一人で食事を作っていた。確かに、苦い記憶でもあった――だが、こうして自分以外の「誰か」の為に作る料理は久々であった。

 だからだろうか?

 心が若干であるが、浮ついている。

 「…………。」

 鍋から煮物の香りがする。

グツグツと煮立った音に具材が踊るようだった。菜箸で味を確認する。出汁からとった懐かしい味は、母から教わった最初の料理だった。

「――うん、おいしい」

まだ母が元気だった頃に、丁寧に教えてもらった。出汁からとった煮物は手間の分だけ、美味しくなるのだという。

『こうやって、料理に手間をかけるのはそれだけ愛情を込めるのよ』と、母が微笑む姿が思い出された。

 

「……母さん」

姫和は寂しげな顔で目を伏せる。

母は、父と自分によく手料理を振舞ってくれた。――こうやって、誰かの帰りを待ちながらこの台所に立っていたのだろうか?

 

「……ん?」

と、姫和はここで一つの事実に思い至った。即ち、手間をかけた料理を作る=愛情を込めるという構図である。その意味であれば、あの百鬼丸に愛情を与える事になるのではないか? という事実である。

 

「………………。この食材のどれかに毒でも仕込まれていればいいのだが」

真剣な顔つきで姫和は、鍋を睨む。

百鬼丸に愛情を込める? ……ハッ、まさか。

それだけは断じて有り得ない。勘違い甚だしいと言われても良い。あのような無粋な男にだけは、弱みを握られるのは癪に障る。

 

菜箸を握る姫和の手は更に、強まる。

 

 

 

そんな折りにタイミング悪く、玄関先の木戸が開けられた。

「えーっと、お邪魔しまーす」

百鬼丸はキョロキョロ内部を覗いながら、入ってきた。借りてきた猫みたいに大人しい様子である。

 

 ガバッ、と顔を上げた姫和は百鬼丸へと視線を移す。

 「なぜ、今入ってくるんだ! 馬鹿者!」

 「ええっ!? なに? どうしたの? なんでおれは怒られたんだ?」

 まったく理解できない百鬼丸は驚いて、戸から一歩下がった。

 「いいから中に入れ」

 「どっちだよ!?」

 今日は無茶苦茶な少女の様子に対し、困惑するばかりの百鬼丸だった。

 

 

 2

 茶の間には今時珍しい卓袱台が置かれていた。その卓上に本日の食事が並べられていた。

 

 「おお、普通にうまそうだな……」

 百鬼丸は素直な感想を漏らした。

 

 土鍋で炊かれた白米。ほうれん草の胡麻和え。わかめと豆腐の味噌汁。キンキ(キチヂ)の甘煮……。そして、一番時間をかけた煮物。

 

 百鬼丸の反応は姫和にとって予想外であり、思わず「そ、そうか……」と照れた。面と向かって褒められると面はゆいものだと思った。

 

 「と、とにかく……食べてくれ」

 百鬼丸の前に置かれた茶碗をひったくって、白米を大盛りにして返した。

 

 「ほら、これくらい食べられるだろう?」

 「あ、はい」

 茶碗を受け取った百鬼丸は、日本昔ばなし盛の如き白米を眺める。

 (な、なんなんじゃい……。)

 百鬼丸は普段とは異なる様子の少女に怪訝な眼差しを送りながら、とにかく料理を口に運んだ。

 

 まず、赤魚のキンキ。十一月の旬の魚である。しかし高価な為にあまり一般の食卓に饗されることは少ない。それを贅沢に甘煮にしたのだ。酒と少量の生姜で生臭さを消している。しょうゆ、味醂などであまじょっぱい味付けとなっている……。

 

 「うまい……」

 身が適度に引き締まっており、咀嚼するたび魚本来の旨みも滲み出す。

 

 「――そうか」

 心なしか、嬉しそうな姫和。

 

 熱々の湯気をたてる味噌汁を啜る。出汁がきいて、うまい。白米をかきこむと、米粒のひとつ一つが粒立っている。

 

 無言になって、ひたすら食事をする百鬼丸。箸を動かす手が止まらない。――そして、百鬼丸は小鉢に入った煮物に手を伸ばした。

 「お、これが一番うまいな!」

 思わず、百鬼丸は箸を持つ手でサムズアップする。

 

 キョトンと目を丸くした姫和は暫くどう返答すればよいかわからず、固まった……が、可笑しさがこみ上げ「ふっ」と口元を綻ばせて笑った。

 「――――そうか」

 肩を竦めて、そう応じた。

 

 百鬼丸に何を言われても無視しようと思っていたが、実際にこうして手料理に舌鼓をうって喜ばれると、案外に嬉しいものだった。

 

 ハムスターのように両頬を膨らませて咀嚼する百鬼丸の様子を眺めていると、幼い子供のようにすら見えた。

 「………もごっ、む? なんだ?」

 見つめられた少年は怪訝に眉をひそめて、首をひねる。

 

 「いいや。なんでもないさ。まだおかわりはあるからゆっくり食べ――」

 姫和の話も聞かずに、バクバクと食事を再開する百鬼丸。

 

 

 (なんというか、落ち着くな……)

 卓袱台に頬杖をつきながら、一心不乱に自分の手料理を貪る少年を眺める。自然と微笑が零れた。

 

 「もごっ、もぐっ……。おかわりを所望する!」

 茶碗を差し出した百鬼丸は口元に米粒をはりつけて、いった。

 

 「ああ、わかった」

 

 「しかし、こんなに作って時間かかっただろ? なんつーか、ここまでして貰うと手間を感じるなぁ……」

 

 茶碗を受け取りながら姫和はピタッ、と動作を止める。

 

 手間をかける=愛情を込める

 

 という、先程の図式が彼女の脳内では構築されているのだ! 従って、彼女の耳には『こんなに手間をかけてくれたんだから、おれに惚れてんだろぉ? グヘヘ……』と聞こえた訳である!

 

 「そんな訳あるか、この馬鹿者! 百年早い!」

 突然立ち上がって、息を巻きながら否定する姫和。

 

 「!? ど、どうしたんだよ急に?」

 百鬼丸は相手の急激な態度の変化に狼狽してしまった。勿論、百鬼丸は彼女の内心を知るよしもないので、ただただ困惑するばかりであった。

 

 「なんでもない」

 プイッ、とそっぽを向いて、しゃもじでご飯をよそう。

 

 

 目をまたたかせながら、百鬼丸は「うーむ」と困った。

 

 「それよりも、さっさと探すんだろう? 母の手記を……」

  

 「ああ、そうだな。明日の朝は予定があるから……まあ、いいや。一旦寝てから決めるさ。それより姫和も食わねーのか?」

 

 「そうだな。頂くとするか」と、いうと手を合わせてから箸をとった。

 

 ――美味しい。

 確かに、百鬼丸のいう通りキンキなどの高級魚も味がいい。五条学長の心遣いに内心感謝しながら口に次々と運ぶ。

 「そういえば、この家で誰かと共に食卓を囲むことは久しいな」

 それこそ、母が病に伏せる以前……だから、随分と昔のことである。

 ふと、俯き加減の頭をあげて少年と目を合わせる。

 「う? いぇーい!」

 美味しそうにご飯を食べる百鬼丸は、なぜか上機嫌に右手でピースサインをつくって、破顔する。

 

 「はぁ……こんな馬鹿者と一緒なのが不満だが。まったく」と、首を小さく振る。

 

 「おいおい、ひどいな! まあ、でもいいさ。ご飯が上手ければ全てよし」

 

 「単純な奴め……しかし、お前は本当に美味しそうに食べるな」

 

 「まーな」

 と、素直に応じる。

 

 「まあ、気が向けば作ってやらんこともないぞ……」

 

 「なに? 本当か? ――あ、でもチョコミントはマズイからそれ以外ならOKだぜ」

 

 「はぁ!? 貴様またチョコミントの悪口を言ったな!? 可奈美といいお前といい、今度という今度は許さんからな!」

 

 「なんで姫和さんはこんなにうまい料理が作れて、あんなにマズイ味を好きになるのかねぇ……」

 哀れみの眼差しで百鬼丸は呟いた。

 

 「このっ、……また言ったな!」

 

 

 「くっ、かはははは……久々だな姫和のその怒った顔は!」

 腹を抱えて百鬼丸は笑い転げた。

 

 「ぐぬぬぬ」と悔しがりながら姫和は百鬼丸を睨み続けた。しかし、心のどこかでこんなに騒がしい食事を図らずも楽しいと思った。そして、この家で誰かといる事が妙に高揚するものなのだ、と自覚していた――。

 

 

 

 2

 結局、満腹になったあとに百鬼丸は「体は行水かドラム缶風呂にしよう!」と張り切っていた所を姫和の「却下――」という無慈悲な宣告により、おじゃんになった。

 代わりに、家に設えられている風呂場を借りることになった。

 浴室は、古民家独特の問題である「水回り」を克服する為に、リフォームがなされていた。ヒノキ材での壁や床板は味わいがある。浴槽も、同様である。

 山に近い関係上、湿気からは避けられない。

 じゃぶん、と全身を湯に浸すと疲労が抜けていく感覚がした。

 「これじゃ、何しにきたのかわかんねーや」百鬼丸は思わず、水面を見ながら言った。

 ここ最近、忙しくて全く落ち着く暇がなかった。だからこういう時間は貴重だと思い知らされる。

 

 

 風呂から上がると、茶の間を隔てる襖の奥にもう一室あった。

 そこには仏壇が備えられており、線香の細い煙が漂っていた。百鬼丸は中に入ることを躊躇したが、意を決して顔だけ入れた。

 「……。」

 仏壇の前に、遺影が置かれていた。

 

 「どうした?」

 姫和は水の入ったコップと果物を乗せた器を乗せたお盆を両手に抱えていた。

 「あ、いや。すまん。勝手に入るつもりじゃ……」

 「――いいや、別に平気だ」

 意外にも穏やかな口調だった。

 

 「その、仏壇の前の写真って、姫和のお母さんか?」

 

 「ああ、そうだ」

 

 「なんつーか、綺麗な人なんだな。それに、すげー似てるな」百鬼丸は写真と姫和の顔を交互に見比べながら言った。

 

 「――そうか」

 どう反応していいかわからず、しかし嫌な気分ではないから微笑を口元に洩らす。

 

 「うん、似てるな……顔立ちといい、雰囲気といい、目の色といい……ん? あれ?」

 百鬼丸は言いながら頭を止めた。

 

 「どうした?」怪訝な表情で姫和が訊ねる。

 

 「…………。」

 少年はある決定的な部分を、違いとして認識してしまった!

 

 胸である! 遺影の母である篝の胸は母性に満ちている。しかし、どうだろうか? その娘は慎ましい、控えめな、何のひっかかりもないスリムすぎる体型である。

 

 百鬼丸は思わず、目頭が熱くなって仏壇の前で正座すると手を合わせる。

 「ぐすん……姫和のお母さん、貴方の娘は確かに立派になりましたよ……立派になりました……でも、その一番大切な部分は控えめで、薄くて、どうしてこの部分が似なかったのか不思議で不思議で。あまりに不憫では……グオッ」

 不意に背後からヘッドロックをされた。

 

 頭蓋骨が軋む尋常ではない痛み。

 「ほぉ……貴様、言うに事欠いて戯言を述べるか、いいだろう」いつの間にか、背後に回った姫和がホールドしていた。

 ツンドラよりもやばい厳しい冷徹さで頭蓋骨を締め上げる。

 

 「あががが……ギブ、ギブアップです姫和さん! 話をしよう、対話をすれば分かる!」

 

 「問答無用――」

 万力金輪みたいに、更に力を強める。

 

 ぎゃあああああ、という百鬼丸の絶叫と共に夜が更ける。

 

 

 

 

 3

 「貴様は寝なくていいのか?」

 布団を敷こうとした姫和は、尋ねた。

 

 

 未だズキズキ痛む頭を抑えながら、

 「うん、おれは普通座っていれば寝られるし、なにより三時間以上は寝れないんだ。ま、仮に敵に奇襲を受けても即座に反応できるからな。お前は安心していいぞ」答える。

 

 じーっ、と百鬼丸の顔面を凝視する。

 「な、なんだよ」

 「いいや。本当だったらお前とは別々の部屋で眠ろうと思っていたがそういう理由なら事情が変わる。私もお前と一緒の部屋で寝ることにしよう」

 そう言うと自らの布団を茶の間に敷いた。

 「――おいおい、本当にいいのか? おれに襲われたりとか云々は?」

 呆気にとられた百鬼丸は、慌てた口調でそういった。

 

 「なに平気だ。お前は私の眠っている間、守ってくれるといっただろう?」

 

 「――はい」

 

 「それを今信用することにした。これで文句はない筈だ」

 

 

 ううむ、と唸った百鬼丸だったが結局その提案を了承した。

 「もう電気を消す。準備はいいか?」

 そう言うが早いか、紐を引っ張って電灯を消す。その後には冷たい夜闇が周囲を支配した。木々の葉擦れが聞こえる。

 

 

 

 …………どれだけ時間が経過しただろう? 五分? 一時間?

 

 時間の感覚は闇の中ではごく曖昧になって霧散してしまう。百鬼丸は腕を組み、刀を抱えながら眠りにつく。背中に大黒柱を配置し、掛け布団を体に覆わせる。

 こうべを垂れ、眠ろうと努力しても、近くに人の気配があると意識して眠れない。姫和は手を伸ばす距離で布団に潜って眠っている筈だ。

 

 

 (もう寝たんだろうな。あと少ししたら山で剣の練習をしねーと)

 百鬼丸は冴える目で、絶えず戦闘訓練を求めた。

 

 

 「なぁ、百鬼丸。起きているか?」

 微かに呼ぶ声がした。

 

 「ん? まだ起きてたのか? それとも起きたのか?」

 

 「眠れないんだ」

 

 「おれが居るから? だったら外に……」

 

 「いいや、そうじゃない。少し話をしたい。いいか?」

 珍しい、姫和の口から会話を求めること自体が稀である。普段は寡黙とも言える堅物少女が?

 「ああ、いいぞ」

 そうか、と安堵したように息をつく。

 「柊の家のことは余り詳しく母に聞いたことがなかった。ただ、刀使の家系だと、漠然と思っていたんだ」

 

 「――ああ」

 

 「別に、努めて知ろうとも思わなかった。ただ、刀使の血筋で、《迅移》に特殊な能力があるとか……それくらいの事だけを教えられたんだ」

 

 「……うん」

 

 「母が亡くなったあと、私は叔父の道場で鹿島新當流を学んだ。この力はいつか大荒魂タギツヒメを当滅する力なんだ……そう信じ必死になった。尤も普通の者より剣術を学ぶのは遅かったが」自嘲気味に苦笑いをする。

 

 ――だが、と言葉を切った。

 

 

 「潜水艦で折神紫と対話した時に思った。彼女を恨んでいたことが、それまでの私の生きる意味だったことに、気がついた。母を失った悲しみを忘れる為に剣を振っていたんだと。勿論、荒魂を討つ決意は変わらなかった。――それでも、折神紫と話して解らなくなったんだ」

 彼女もまた、タギツヒメを二〇年間その身に封印しながら苦痛に耐えていた事を。

 

 

 語り終えたあと、長い沈黙の余韻が空間を充す。――それから、おもむろに息を吸い込む音がした。

 

「…………どうして、運命は母も私も放っておいてくれないんだろうな? どうして……こんな〝力〟を私たちに与えたんだろう? 時々そう思って呪いたくなるよ。父も母も己の責務に殉じた。立派だと思う、娘として私は誇らしくも思う……でも、この孤独な家でひとり思うこともあるんだ。もし、父も母も一緒にここで暮らせていたら――かなわないと知っていながら、空想することは愚かしいことだと知っていても……一度でいいから、一緒に生きていたいと願ってしまうんだ。立派じゃなくてもいい。父と母と、一緒にいたかったんだ。立派じゃなくても、ただ二人がいるだけでよかったんだ……」

 姫和の声は細く震えていた。夜闇の中でも、冴えた目の百鬼丸なら解る。天井へと腕を伸ばし、手を開いている。

 「私は、父と母と平穏に暮らしていたかったんだ。たったそれだけのことすら、私は願うことが許されないのだろうか?」

 

 ぐっ、と開いた手を固く握る微かな音が聞こえた。それは決意……というよりは、「想いを」逃がさぬように留めておくように握る音だった。

 

 ……姫和の父親もまた、職務を遂行中に殉職した。幼い頃だから父との生活した記憶もうまく思い出せない。ただ母からの話では、真面目で、普段はあまり冗談も言わないタイプだったが、優しい誠実な人物だった。そのように聞いていた。

 

 

 

「――正直、今でも私は父と母が共にこの家で暮らしている夢想をするんだ」

 自嘲気味に笑ってみせる。

 

「…………。」

 百鬼丸は無言のまま、顔を上げて襖から漏れる微かな一条の月光が射す冷たい青光に目をやる。

 

 「百鬼丸」

 「ん?」

 「お前は……その特別な力を恨めしく思ったことはないのか?」

 「――ない、と言えば嘘になる。あはは、あるよ。ある。しょっちゅうさ」

 「どうして、お前は強く生きれるんだ」

 「強くなんてないさ。大事なものもマトモに守れずに、今まで全部失ってきた。ロクデナシさ」

 「運命を憎らしく思ったことはないのか?」

 「あるぜ、毎日だ」

 「――だ、だったら何故……」

 と、そこまで聞いて姫和は途中で言葉に詰まった。今更だ、百鬼丸が、何も考えずに生きてきた訳がないのだ。彼はただ黙って何も語らず、それでも飄々としているんだ。

 「いや、済まない。忘れてくれ」

 己の幼稚さ、というか熱くなった感情を鎮めるように、溜息をつきながら目をつぶる。

 

 「おれは、さ」

 朴訥な声が、不意にした。

 

 「――えっ?」

 

 「おれはお前たちが……初めてマトモに行動したのが可奈美と姫和だったな。お前たちに出会えて感謝してんだぜ。今まで生きる理由は体を取り戻すこと、昔だれかに言われた〝刀使を守る〟こと。それだけだった。でも、おれが人として関わる最初がお前たちで本当によかったと思ってるんだ」

 

 

 「さっきお前言ってたよな? どうしておれが強く生きれるかって。おれだって強くない、でも――自分の頭でずっと考えていたんだ。なんでこんなクソみたいな世界を守りたいんだろうって、さ」

 

 「姫和みたいに、目の前で困ってたり泣いてたりする人間を見捨てるのは、やっぱり居心地が悪いからなんだと思う。救いたい奴は救う。ムカつく奴は知るか! 多分おれってこんなに単純な馬鹿だから生きてこれたんだと思うぜ」

 にひひ、と子供っぽく笑う百鬼丸。

 

 「――ふっ、随分と貴様らしい答えだな。でも、そうか。お前はそういう奴なんだろうな。多分可奈美も。――なぁ、百鬼丸」

 

 「はいはい?」

 

 もぞもぞと布団の中で動きながら、布団で顔を半分覆う姫和。

 「その、手を出してくれるか?」

 「手か? 触っていいのか?」

 「あ、ああ。今だけは許す」

 「うーん、生と義手、どっちも選び放題だけどどっちがいい?」

 「馬鹿者っ」小声で恥ずかしそうに、怒る。

 ――どっちもだ、と姫和は付け加える。

 意外そうに目を丸くした百鬼丸だったが、頷いて枕元に両手を差し出す。

 細い滑らかな少女の指先が、両手の指を絡め繋ぐ。

 「しばらくこのままでいさせてくれ」

 「どうしてまた?」

 「昔、私が幼いときに眠れない夜は母に手を握ってもらっていたんだ」

 「ふーん、そっか。いいぞ」

 「馬鹿にしないのか?」

 「ああ、しない」

 苦笑いを浮かべながら、百鬼丸は言い訳のように呟く。

 「今まで刀使を、おれは神性なものだと思っていたんだ。無意識の中で刀使と人を区別していた。ひとり一人の人間として見てなかった。だから、痛い目に遭った。だからさ、今度は真正面から向き合いたいと思ったんだ。……んで、さっきの話で十条姫和っていう人間と今初めて出会えた気がするんだ」

 「そうか……」

 

 「お前の手は温かいな。肉体の指も義手の指も」

 

 母とは違う手なのに……同じ温もりに、姫和は目の奥が熱く潤む気がした。どんな過酷な運命も困難も乗り越えて自らの希望を掴み取ったその「手」は、姫和にとって懐かしさと温かさを与えてくれた。

 

 「父も母も幸せだったのだろうか」

 

 「わかんねーよ。姫和が幸せな方がいいじゃねぇか。おれはそう思う。頼まれてもないのに一々背負い込むなよ」

 「お前はやっぱり嫌いだ……」

 言葉とは裏腹に、自然と頬が緩んで笑ってしまうような馬鹿馬鹿しさが胸の奥から湧いてくる。彼と会話をしていると、どうしても真面目になれない自分を見つけて戸惑ってしまう。同じ重い宿命を背負いながら、某か感情を共有している感覚。

 

 「そっか」

 素っ気なく応じる百鬼丸。

 

 「そうだ、馬鹿者」

 どこか上擦った声に、満足げな感情が含まれていた。

 




どろろの最新話がまさかのギャグ回でした! まさかのオリキャラおこわ(?)ちゃんが可愛い! 反則ですね、オリキャラなのにあの可愛さ。そしてどろろと百鬼丸が面白い! ぜひレギュラーメンバーに……ダメか。


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111話

 青垣の山々には低回する白霧が立ち込めていた。

 朝、と言っても未だ太陽は完全に昇っておらず、夜刻に近い。しかし、東の一隅から滲む茜の微光が木々の梢や山道の路上を照らし上げる。

 

 

 

  複雑な起伏の斜面の中腹。

 

 「……オオ、来たかい」禿頭の老人が、山の僅かに開けた場所から声をかけた。

 竹林、その陰から〝人〟の気配が感ぜられた。

 「――どうも」

 百鬼丸は軽く手を挙げながら含羞む。

 老人はニヤッ、と口元を歪めながら出迎えた。久方ぶりの再開を昨日果たした訳だが、どういう訳だか両者には時間の隔たりは感じられない。

 「それで師匠は……」

 「やめてくれ。おれはアンタの師匠じゃない。琵琶丸、と言えと前から言っているだろう?」

 

 老人の返答に対して困ったように肩をすくめる百鬼丸。

 「だって、貴方はおれに生きる道しるべをくれた人だから……」

 「そりゃあ、お前さんが勝手に見つけたもんだ。困るよ、こんな盲目のロクでなし老人をご大層に持ち上げられても」

 「……はぁ、分かりました」

 頑固一徹、というのは昔からの性分らしい。百鬼丸は感慨深げに、頸を振る。

 「……それより、お前さん。謝礼は分かっているね?」と、琵琶丸。

 まるで、その言葉を予期していたかのように百鬼丸は苦笑いを浮かべた。

 「はい。……お酒と、それから握り飯。これでいいですね?」

 担いでいたバックパックから取り出したのは、アルミホイルで包んだ握り飯と、一升瓶を差し出す。

 クンクン、と鼻を動かす琵琶丸。

 「ああ、よし。後で頂くよ。じゃあお前さんが欲しがっているモノを――そうさねぇ、〝生きる術〟を教えようかねぇ」

 干涸らびた唇を剥いて、歯抜けの歯茎をみせる。

 

 「よろしくお願いします」

 百鬼丸は丁重に頭を下げて、老人に謝意を示す。

 

 

 

 1

 ――俗に云う、『刀圏』を、この琵琶丸は教えるのだと云う。

 

 やや奥まった藪に進む老人の大きく曲がった背中を追ってゆく百鬼丸。珍しく冬蠅が飛んでいる。この時期にもこの場所にいるとは思わなかった。

 

 ピタッ、と足を止めた琵琶丸はおもむろに右手に持った細竹の杖を地面に投げ捨て、背中に担いだ大きな琵琶の鹿頸を握る。……この鹿頸とは、琵琶の涙型の胴体と絃を張る海老尾をつなぐ細長い部分である。

 

 

 その、鹿頸を一気に握ると、抜刀。

 

 ――刹那、振り下ろした右腕が風と共に消えた。

 

 ゆっくりと、何事もなかったかのように、琵琶丸は鹿頸を元の琵琶の胴体へと収める。

 

 刃の残影すら捉えることができなかった。

 

 ゴクリ……、思わず百鬼丸は生唾を呑んだ。余人であれば先程の奇妙な行動は理解できない。しかし、百鬼丸には先程の行動がどんな意味を有するか、即座に理解した。

 

 (冬蠅を真っ二つにしやがった!!)

 

 盲人である琵琶丸が、薄暗い山に漂う羽虫を一撃のもとに斬り伏せた。その証拠に、地面の落ち葉の上に蠅の死骸が縦に切断されて落ちている。

 

 「南無阿弥陀仏」と口で呟きながら琵琶丸は振り返る。

 

 「どうだい? 今、おれがなにをしたか分かるだろォ?」妙に間延びした語尾で、そう訊ねる。

 

 百鬼丸は無言で頷いた。あまりの神技に言葉を失ったのである。単なる抜刀術や居合術ではない、この琵琶丸という老人が固有で持つ、得体の知れない「何か」に恐れた為である。

 その様子は目が見えずとも、分かったらしい。老人は微かに口をひらく。

 「お前さん、今の一撃は単なるまぐれとも思わないだろォ? そうさ。じゃあ、今のワザの正体までは? そう、分からんのだな。ヒヒヒ、いいさ。いちど、その腰の刀で、おれを切り殺してみな」

 と、軽々しく告げた。

 

 「なっ……そんな事できる訳ないじゃないですか!?」

 怒鳴る。

 ……当然だ、百鬼丸が本気で打ち込めばこの琵琶丸は真っ二つに切断できる。その自信があった。

 

 だが。

 当の琵琶丸は飄々とした様子で、肩を竦めて「どうした?」と挑発する。

 

 「本当にいいんですね?」

 

 「ああ、当然さ」

 

 彼の言葉を合図に百鬼丸は、腰に佩いた《無銘刀》を鞘から抜き放つ。微かな太陽の光を反射した刀身は、赤く細い血管のようなものを、生々しく浮き上がらせていた。

 

 正眼に構え、剣先を老人に合わせる。

 

 

 臨戦態勢に入ったことを確認すると、老人は俄に、

 「いつでも、どうぞ」老人はいう。

 

 

 ゴクリ、再び百鬼丸は喉を鳴らす。刃を抜き放ったその瞬間から、彼の体は硬直してしまったのである! 理由は分からない。だが、確かに剣で相手を斬り伏せるイメージをしたのだ!

 

 しかし、構える様子すら見せない小柄な老人一人を相手に、なぜだか百鬼丸は攻撃すらできずにいた。

 

 十秒、二十秒……三十秒。刻々と時間だけが過ぎてゆく。

 

 「……っ、くっ」 

 足裏が杭で磔になったみたいに動かない。脂汗と冷や汗が交互に体を湿らす。呼吸の間隔は短く、浅い。

 知らず、知らず、指先は小刻みに震えた。

 

 「ヒヒヒ……おめえさん。どうしたい? ええ? まさかこんな老いぼれ一人もロクに相手できないのかい?」

 琵琶丸は面白そうに、そう言って嘲笑った。その笑いの中にはなぜ百鬼丸が打ち込めないかも知っていて、皮肉を込めた口調である。

 

 

 この無防備な老人は、盲人である。目が見えないから背後からの不意打ちも、投石ですら可能だ。色々に嬲り殺しにもできるだろう。だのに、指一本動かせない。

 

 この老人へ攻撃を仕掛けようものならば、即座に切り刻まれる自分の「イメージ」が無数に繰り返された! しかも、何度も異なる方法でイメージしても必ず死ぬ。

 

 (なんでなんだ……!?)

 

 剣圧、ともまた違う独特の雰囲気。老人の周囲にまとわり付く空気が、ほかの外気とは異質である。近寄れば裁縫針のようにチクチクと緊張で皮膚が痛み、更に近寄ると確実に仕留められる――そう本能で悟るのだ。

 

 

 …………やがて、百鬼丸は精神的に参ってしまい両膝からがくっと崩れ落ちた。

 

 「どうして、なんで打ち込めなかったんですか」

 弱々しく言った。

 

 情けない、とも思わなかった。ちっぽけなプライドすら浮かばぬほど完膚なきまでに百鬼丸は負けたのだ。

 

 顔を上げると、琵琶丸は「ヒヒヒ……お前さん、優秀だねぇ。わかったかい? 〝コレ〟の片鱗を」

 

 〝これ〟と言った琵琶丸は、纏っていた鋭い空気を緩めた。

 

 「それは一体何なんですか?」

 百鬼丸はよろめきながらも立ち上がった。久しぶりに闘いで恐怖を感じてしまったらしい。

 

 「ム、言葉にするのは難しいがねぇ。そうさねぇ、一言でいえば《刀圏》かねぇ」

 

 「《刀圏》ですか?」怪訝な声で百鬼丸はきく。

 

 

 

 「ウム」と頷いた琵琶丸は先程地面に捨てた細竹の杖を広い、いま立っている地点を固定位置にグルリと一回転する。地面には円形が描かれた。

 

 「? なんですか、それは?」

 

 「ヒヒヒ、お前さんも鈍いねぇ、これが今いった《刀圏》のタネ明かしさ。ここの円から内側はコッチの領分――つまり、どんな存在も切り伏せることができるのさ。まさに必殺の領域だ」

 

 ――その言葉を裏付けるように、冬蠅を両断し、百鬼丸も実際に対峙して分かった。何度イメージしても相手に近づくことすらできない事に。

 

 

 「居合の間合いもあるだろうがねぇ、おれなんかは、主に《音》さ。目が見えない分は第六感……って奴かねぇ? それで補う。目が見えない分も分かるんだよ。この力は、いいかい? 諸刃の剣だ。お前さんならば、すぐに習得できるだろうがね。どう使うか? それが問題さ」

 

 

 

 

 百鬼丸は握っていた《無銘刀》を見やる。禍々しい紅の光を放つこの妖刀だけでも相当な力だ。しかも左腕には別の《無銘刀》が収まっている。やろうと思えば、どんな方法でも思いつく。しかし、彼の言うとおり、自分をつよく持たなければいずれ生き物を無差別に殺し尽くすだろう未来が容易に想像できた。

 

 

 「ま、おれはお前さんには教えないよ。実際に自分で獲得するんだな。――じゃあ、駄賃を頂いて行くとするかねぇ」

 ヒヒヒ、と引き笑いしながら老人はいった。

 

 2

 

 どっと、疲れが百鬼丸の全身を襲う。

 立ち去ったあとの琵琶丸の立っていた場所に実際、自分も立つ。地面に視線をやると半径五〇~六〇センチほど。これが《刀圏》だというのか?

 実際の力を未だ秘めていそうな老人のことだ。あれが本領ではないだろう。

 

 ――お前さんはまずは、その範囲からだ

 

 と、暗に言われたような気がしてならなかった。

 

 『わぁあ! ねぇ、今のすごい! もう一回みせてくれるかな? お願い!』

 

 ふと、可奈美の元気すぎてうるさい声が甦った。

 

 「くっ、……ははは。あいつなら絶対に師匠にしつこくせがむだろうなぁ。あの老獪な顔が迷惑そうに歪むのが見えるぜ」百鬼丸はくくくっ、と肩を震わせて笑った。

 

 剣術の申し子とも言える彼女の事だ。きっと、先程の剣圧をも恐怖と同時に興味をもって立ち向かうだろう。そして必ず自分のものにしてしまう……そんな才能が彼女にはある。

 

 

 

 「…………さて、少し練習したら、帰って手記でも資料でも探すかね」

 百鬼丸は、ポツリ呟いてから鞘に収まった《無銘刀》の柄を握る。腰を低く落とし、膝を曲げて周囲へ神経を張り巡らす。

 

 耳、鼻、口……。皮膚、その他全ての感覚神経を総動員して緊張を高める。

 

 ヴォン、という豪快な音と共に斬撃が空気を盛大に切り裂く。だが百鬼丸は納得できぬ顔で頸をひねる。余りに余分な力が入ってしまい、空気の抵抗を最大限に感じる。あの老人の場合は全く空気と同化しているように見えたのに。

 

 「訓練が必要だな」

 ガリガリと頭を掻きながら剣をチンと収める。

 直後――、先程の斬撃の空気波動によって輪切りになった竹が一斉に地面に落ちて突き刺さる。

 

 

 「チッ、蠅の一匹も満足に仕留められんのか……。」

 鼻先を掠める羽虫を一瞥しながら苦々しくいった。

 



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112話

 十条姫和の実家……、ここに「存在」すると言われる轆轤家の資料を探して、はや二時間が経過していた。

 手始めに土蔵、更に周囲のめぼしい場所を探す。

 だが、資料や手掛かりとなるような物品は一切出てこなかった。そして、再び土蔵――。

 

 

 「しかし、見当たらないな」百鬼丸が腕を組んで、困ったようにいう。

 ひんやりと冷気を充満させた空間は土の古い匂いも嗅がれた。

 盲目の老人――琵琶丸との修行の後、休む間も無く百鬼丸は『柊篝』の残したであろう手記を探し始めた。

 

 その彼に背中を見せて、懸命に土蔵で収納された物品を物色していた姫和が手を止め、

 「……次に文句を言ったら殴る」

 と、肩越しに告げる。

 真剣に探していた時に、アレコレと喋られるのは不愉快なようだ。いかにも堅物娘らしい。しかしそんな内心を理解できない少年は目を点にして、

 「えぇ……。」

 頬に冷や汗を流す。

 百鬼丸は、地雷を踏んだらしい。仕方なく口を「3」にしながら探索を再開する。

 

 「ちぇーーっ、昨日はあんなに殊勝で可愛らしかったのになぁ……どういう心境の変化で……グヘェ!!」

 背後から思い切り殴打がきた。盛大に鼻水をぶちまける。百鬼丸は痛む部分を抑えて背後を振り返る。と、姫和が光のない瞳で百鬼丸を見下しているではないか!

 「キサマ……もう一度言ってみろ。いいや、誰かに漏らしてでもみろ。いいか、殴り殺してから切り刻んで証拠を残さないようにしてやる。覚えておけ」

 無機質な口調で宣言した。

 その威圧に思わず、

 「…………はい」

 百鬼丸は何度も頷いていた。

 

 「ふん。分かればいいのだ」

 と、スタスタ元の場所に戻ろうとした。

 

 

 『あらぁ、大変そうやねぇ……』

 落ち着いた大人の女性の声が、土蔵の入口の方からした。

 聞き覚えのありすぎる声に、姫和は長い濡羽色の髪を翻して声の方向に視線をやる。

 平城学館の学長、五条いろはが佇んでいた。

 和服姿で、細い目は特に印象的な人物である。

 「お、お久しぶりです。でもどうして五条学長が……?」

 戸惑いながらも、疑問を口にする姫和。

 

 「朱音様にきいたんよ、姫和ちゃんたちがコッチに来るって。でも連絡もなんもないし、きっと綾小路の索敵とかから逃れてるかなぁ、とか思ったりで心配やったんやけど――ふふっ、その心配はいらんみたいやねぇ……」

 いろはの目線は、百鬼丸に注がれていた。

 

 「? どーも、初めまして」

 百鬼丸は注目されていることに気がついて、ペコリと頭を下げる。

 

 「ふふっ、そうやねぇ。若い娘さんやし、色々あるやろうけど学生のうちは……」

 

 言葉の途中で遮るように、

 「ち、違います。……学長は勘違いをされています!」

 狼狽した姫和はそのままスタスタ百鬼丸のもとまで近づく。

 「およ? どうし――」

 怪訝に見上げる百鬼丸の言葉も終わらぬうちに、突然彼の胸ぐらをつかむ。そして固めた右手の拳を容赦なく顔面に叩きつける。

 「ゴフッブッ……ウッ、ああっ、マズイきもちい……ゴブッ」

 突然の暴行。

 機械的に打ち出される右ストレートに百鬼丸は暫し酔いしれる。……明らかに、この暴行に性的興奮を示しているようだった。

 

 グロテスクな光景に言葉を失った。

 「あはは……冗談、冗談やしねぇ、そのへんで……」

 流石の五条いろはと言えども、姫和の『絶対殴るマシーン』と化した状態ではヘタにイジることもできないと悟る。

 

 「冗談? ああ、そうですよね。まかり間違っても、この変態とはそういう関係にはなりません」

 姫和は顔面に返り血を浴びながら、ニコッと微笑む。

 まさに「清楚」を絵に描いたような姿だった。ただ、胸ぐらを掴んでいる「百鬼丸」だった肉塊さえなければ……

 その肉塊はピクピク痙攣しながら「あぁ――」と恍惚の呻き声を漏らしていた。

 

 

 

 

 2

 「改めていうけど、お邪魔して堪忍な、姫和ちゃん」

 茶の間で出された緑茶を呑みながら相手をみる。

 姫和は血を拭いつつ、「いいいえ、全然そんなことありません」と否定の頸をふる。

 五条学長の隣りに居るもう一人に、姫和は意識を向ける。

 「……久しぶりだね、十条さん」

 と、平城学館の緑を基調とした制服を身にまとった少女が含羞む。

 岩倉早苗は中等部三年――つまり、姫和と同学年である。

 「どうして岩倉さんがここに?」

 同級生の唯一の知り合い、と言って良い彼女はいかにも人柄の温厚そうな人物である。

 銀を薄めたような、ふんわりとした髪の少女はチラと目線を上げる。

 「えっと……、十条さんがこっちに戻ってきてるって五条学長に聞いて。力になれるかな、と思ってきたんだ」

 正座した膝の上に載せた拳を固めて意を決すると、真正面から姫和を見返す。

 早苗には、刀使を辞めるか相談をしたことがある。……平城学館に入学した頃から色々と世話を焼いてくれた「事件前」からの友人である。

 

 「ほへぇー、いい娘じゃないか!? 姫和にもこんなイイ友達がいるとはなぁー。てっきり学校で一人ボッチかと思ってたぜ。なんせ、こんなキツイ奴だろ? 絶対に友達とか無理無理のカタツムリだ……」

 「ゴホン……。」

 姫和がひと睨みすると、百鬼丸は黙った。

 「おい、いいか。私は敢えて孤独な状況をつくっていたんだ。だから学校でボッチではない。そこを間違えるな」

 「なんつー屁理屈だよ、んじゃあさ、岩倉さん?」

 「はい?」

 「ひよよんは、事件の後に学校で友達とかできたんですか?」

 「あ、あはは……あっ、でも十条さんはクラスでも人気だから……」

 人の良さそうな彼女の口から一言も「友達がいる」とは言われなかった。百鬼丸は「あっ……」と何かを察した。

 

 ガシッ、と百鬼丸の顔面にアイアンクローが炸裂した。

 「おい、貴様。またよからぬ事を考えたな?」

 「イデデ……いいえ! 全然考えておりません!」敬礼する百鬼丸。

 ミチミチ、と骨が軋む音が聞こえる。

 

 

 「ふ、ふふふっ。学校でみせる十条さんより楽しそう」

 思わず、早苗は笑いを堪えながら素直な感想を述べる。

 

 「――ど、どこが!?」

 不満たっぷりな顔で、否定をする。

 

 これまでの、恐らくクラスでも浮いた存在だったであろう姫和を、甲斐甲斐しく世話を焼いてきた早苗ならば分かる。

 人と敢えて壁をつくり、交わることを拒んできた少女の表情と雰囲気は氷のように冷たかった。

 それが、現在ではこのように変わっている。

 

 賑やかなやりとりを横目に、一言、

 「岩倉さんも手伝うってことで頼むわ。姫和ちゃん」言い添える。

 

 

 「…………私としては異存ありません。岩倉さん」

 

 「はい?」

 庵前を突然呼ばれて驚いた。

 

 「その、よろしくお願いします……」

 俯き加減に、目線を逸らしながら他人行儀に姫和がいった。

 

 「……うん」

 満足げに頷いた。これで二度目だ、と早苗は内心で喜んだ。これまで誰にも頼ろうとしてこなかった彼女が、刀使を辞めるか相談して来た時。そして、今。

 何だかんだと言って、人に頼られるのは嬉しい性分らしい、と早苗は思った。

 

 「――ところで、岩倉さん、だっけ?」

 

 「はい?」

 隣りの百鬼丸が口を出してきたので、その方を見やる。

 

 「中々、いい娘だ。なによりこの薄情で味覚がチョコミントに汚染されてて、事あるごとにおれをボコボコにする女とは大違いだ。差し支えなければ好みの男性のタイプなどでも……」

 

 間髪を入れず、ボコ、ボコ、ボコ……。

 

 「いて、いてて、そしてまた、イテェ!!」

 岩倉早苗の手を握った百鬼丸の頭上に三発の鉄拳が落ちる――。

 「……よもや、手当たり次第に女を襲う趣味があるとはな、この変態。ちっ、全く。岩倉さん……悪いが、今から土蔵を調べるのに手伝ってくれないか?」

 一瞥の睨み。

 立ち上がった姫和はそのまま困惑する早苗を連れ出すと、土蔵の方へと向かった。

 

 残された百鬼丸は涙目で痛む頭をこすっている。

 

 「百鬼丸くん、やったねぇ?」

 いろはは、糸のように細い目を百鬼丸の方に合わせる。

 

 「――はい?」

 

 「ありがとうね」

 

 「む? 何がですか?」

 百鬼丸は頸をひねって、疑問符を浮かべる。

 

 その反応を半ば予期していたかのようにいろはは、口元に微笑を浮かべる。

 「姫和ちゃん、ウチの学校に入ってきた時には本当に冷たい感じやったから……あの時から大荒魂討伐を一人でやろう気負ってたと思うんやけど、それでも本当は孤独で寂しかったと思うんよ。岩倉さんがお世話とかしてくれとったみたいやけど……」

 

 「ああ、その事なら多分アイツ……衛藤可奈美ってヤベー位に剣術好きな娘がいるんですよ。アイツのお陰じゃないですかね?」

 

 「ふふ、多分そうかもしれんね。――でも、今のやりとりで解るんやわ。姫和ちゃんは相当百鬼丸くんを信頼しとるみたいやね」

 

 「……どうですかね?」

 鼻で笑って、誤魔化そうとする。

 

 「これは勘なんやけど、百鬼丸くんはワザととぼけた振りをするんやね。だから、さっきも岩倉さんに変なアプローチをかけて怒られて……本当に人の心の機微が解る子じゃないと出来へんことやから」

 

 「――――単なる勘違いですよ」

 

 「ふっ、そうかもしれんねぇ。あ、ただこれは忠告やけど百鬼丸くんあんまり刀使の子に勘違いされるような事をしたらあかんよ」

 

 「勘違い、ですか? ああ、さっきみたいなのですね。分かりました。……おれもまだ斬殺だけは御免こうむるので……」

 恐らく、ほかの刀使にもちょっかいをかければ、間違いなく斬殺される未来が見えていた。百鬼丸は神妙な顔をして、納得する。

 

 これ以上バラバラの肉体をバラバラにされては、細切れ以下の状態だからきっと、「新体験、人体の解剖パズル四八等分以上を実現!!」みたいなおもしろキャッチフレーズつきの雑誌付録になりそうだ。

 

 「う~ん、それもあるんやけど……」

 と、いろははそこで言葉を止めた。どうせ、彼の考えていることは間違いなく浅い。だから余計に勘違いしてくれるだろう。つまり、これから面白くなる。

 そう結論づけた五条いろは学長は忍び笑いをしながら百鬼丸を窺う。

 

 「ん? どうしたんですか?」

 

 「ふふふふっ、いいや……なんもあらへんよっくくく……百鬼丸くん、刀使に好かれるからくくく……」

 

 意味ありげな笑いと共に、目端の涙を拭う。

 

 

(なんだこの人、急に笑いだしたぞ)

 百鬼丸は訳が分からないが、とにかく目前の人物が相当腹黒い人物であることを何となく理解したのであった。

 

 

 

 3

 土蔵の奥深くに仕舞われた漆塗りの重箱があった。しかし、奇妙なことにその中身は空っぽであった。見つけたときこそ、姫和は欣喜雀躍という気分であったが、しかし中身がないのでは意味がない。

 

 

 (――しかし妙だな。一応百鬼丸の奴に見せてみるか)

 

 通常、重箱というのは大切なものを保管する容器である。だが、空っぽのものを土蔵に残したりするだろうか?

 

 その疑問をいち早く解決すべく遅れて土蔵にやって来た百鬼丸の前に差し出した。

 

 「この重箱だけは……私の勘なんだが怪しい気がするんだ。だが中身が空っぽで……」

 三十センチ四方の箱を百鬼丸が一瞥するなり、箱を開いて丹念に眺める。丹塗の美しい箱である。何の変哲もない。……やがて、「ああ、なるほど」と一人合点がゆくと左腕を噛んで、白刃を晒す。

 

 一緒に土蔵で調べていた岩倉早苗は勿論、背後に控えていた五条いろはも、百鬼丸のこの腕の仕込み刀を見るのは初めてだった。

 

 その視線を感じることなく、百鬼丸は無言で箱の角を素早く切り落とした。

 

 「――んなっ!? 貴様なにをす……」と、怒鳴ろうとした所で姫和の声音は段々と低くなった。

 

 なんと、重箱の角から紙切れが見えたのだから。

 

 「どういう事だ?」

 未だ理解できずにいる姫和は百鬼丸の顔を見上げる。

 

 「んー、つまりさ。重箱は空っぽじゃなくて、予め偽装されてたんだよ。こうやって本来の箱の上から僅かに小さいサイズの箱を押し込んで接着させる。そのつなぎ目も分からないように工作するんだな。だから普通は分かんない」

 

 説明しながら百鬼丸は、切り落とした部分を強引に壊して紙切れを引っ張り出す。それは和本綴りのような形状であり、細い文字で詳細に文字が記されていた。

 

 

 ゴクリ、と思わず姫和は唾をのむ。

 

 「……これが母の残した資料、なのか?」

 

 「まだ読んでないから分からん。でもその可能性は高いな」百鬼丸は冷静に応じた。

 

 一ページ、めくり出す。

 



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113話

 第五番書庫、とプレートのかけたれた扉の前で、獅童真希と此花寿々花は足を止めた。この折神邸には公式文書の他、古文書などの書類も収蔵していた。

 「……改めて思うんだが、ボクたちはコソ泥みたいだね」と、肩を竦めた真希がボヤく。

 「あら? わたくし達は朱音様の許諾を得ている時点でコソ泥とは異なりますわ」

 「そうなんだが――心情的にはどうも、ね」

 苦笑いしながら応じる。

 金属のドアノブを掴んで扉を開くと、壁の電気スイッチを点ける。整然と並ぶ書棚が肩を並べていた。圧巻、という他ない。

 この書庫以外にも同様の部屋があると想うと、この家の凄まじさが思い知らされる。

 「――で、寿々花は一体何を調べようっていうんだい?」

 真希は通路を歩きながら問いかける。実際、膨大な数の書物や資料を闇雲に探す訳ではないだろう。――燕結芽を救うには、拉致された場所を特定するのだ。

 「ええ……そうですわね。旧陸軍の本土決戦用の〝帝都要塞化計画〟の古地図と書類を探しますわ」

 「……? それはどういう事なんだい? どんな関係があるっていうんだい?」

 怪訝に眉を寄せる真希を一瞥し、緩やかなウェーブを描くワインレッドの毛先をピヨンと跳ねさせる寿々花。

 「ふふっ……まあ、そう言われると思いましたわ。詳しい説明はあとに回して、一つ真希さんに質問をして差し上げますわ。現在、鎌府の保有する研究施設はどの位置にあるかご存知でして?」

 「ああ、確か赤羽や八王子……他にも都心部郊外の周辺に隣接している筈だが……」

 その説明に軽く頷きながら寿々花は一冊の資料を手に取る。

 「――そう、では次の質問。元々はどんな目的で研究棟が増設されたと思いまして?」

 「それは荒魂の研究の筈で……」

 「ええ、正解ですわ。……ですが、その財源の殆どが国の財源ですわ。国がなぜ大規模に荒魂の研究に資産を投じるか理由がない筈がありませんわ。……真希さんも一度くらい耳にした事がある筈ですわ。先の大戦で〝荒魂〟を兵器として利用しようとしたことを」

 「確かに、一度くらい聞いた。だから二〇年前の大厄災も米軍が荒魂を利用したとか……でもそれが何の関係があるっていうんだい?」

 寿々花は青味がかった右目でウィンクする。手元に抱えた資料を開き、指先をトントンとリズミカルに落とす。

 「……その当時から荒魂の軍事利用の研究と並行して、〝冥加刀使〟の研究が行われておりましたの」そう言って寿々花は資料の一ページを指し示した。

 そこには、細長い蟻の巣にも似た形状の図面が精密に描かれていた。

 「これは?」

 「昔、本土決戦用に掘られた塹壕の一部。そうですわね、地下要塞と言って差し支えありませんわ」

 確かに、図面には軍事用語もあり施設も詳細に記されている。

 「これが結芽と――いや、ここに結芽がいる可能性が高い。そう言いたいんだろう? 寿々花」

 その回答に、寿々花は満足げに頷く。

 「そうですわ。当時、空襲の被害を避ける目的と、地下から反攻作戦を開始する目的で地下要塞化を図っていた施設は現在も都心部から周辺にかけて存在しますわ。ただ問題はその規模ですわ。ヘタをすれば数千キロにも及ぶ地下施設を闇雲に探す事は不可能ですわ」

 なるほど、と真希は図面を見ながら同意する。

 結芽が居る、それだけで安堵の吐息が真希から漏れた。

 「それで、大体の位置は特定できそうなのかい?」

 「――ええ。まず湾岸沿いの首都高から逃走経路を確保した。……と、なればまず疑わしいのは首都高周辺のトンネル。ここからNシステムでも追尾しきれない〝過去の遺物〟を利用する可能性が高いですわ」

 寿々花は現在首都高の湾岸線を通るルートの位置に存在するであろう、トンネル式に構築された巨大地下要塞の図面。

 「本来であれば先遣部隊で偵察しつつ、安全を確保して結芽を捜索したい所ですが、親衛隊に汚名がある以上、我々に余裕はありませんわ」

 渋面をつくる寿々花。その表情には忸怩たる思いに溢れていた。

 「…………ああ、そうだね。ボクたちは行動でしか誠意を示すことも、信頼を回復することもできないのだからね。結芽を救うならボクたち二人だけになるって事だろう?」

 無言で首肯する寿々花は、深い溜息と共に図面に沈鬱な視線を投げる。

 「救出できる目算も可能性も限りなくゼロ――。これに賭けまして?」

 皮肉っぽい口調で顔を上げ、訊ねる。

 真希は考えるより早く、相手の両肩に手を置いた。

 「ああ、キミの作戦だ。ボクは言葉通り命をかけて戦うよ。……そしてまた親衛隊全員で集まろう。ボクはキミを信じているよ」

 真剣な眼差しで告げる。中性的な顔立ち。人を惹きつける凛々しさで、見つめる。

 思わず寿々花はドキッと胸の鼓動が半音高鳴るのを自覚された。

 「ま、まったく。真希さんは単純ですわね。……ですがそこまで信頼されてはわたくしも生半可な覚悟では行動できませんわ」

 指先で毛先を弄びながら目線を泳がせる。……顔色が赤みを帯びていた。

 

 「となると、ここの資料をいくつかコピーする必要があるかもしれないなぁ……」

 真希は改めて両隣に延々と続く資料を眺め、額を抑えた。

 「……いいえ。その必要はありませんわ。あと適当な図面を数冊目を通すだけで事足りますもの」と、澄ました顔で答える寿々花。

 「どういう意味だい?」

 と、真希が疑問を口にする。

 寿々花は面白げにぷっ、と噴出して笑う。

 「わたくしの頭に全部入れておけばよろしいでしょう?」

 顳かみの辺りを人差し指でトントンと軽く叩く。

 

 「…………。」

 超人じみた発言に、真希は暫く呆然とした。

 

 

 

 2

 山城由依と双葉は、神社を離れとりあえず綾小路武芸学舎へと赴く事にした。

 市営のバスは最終のものだった。

 座席は疎らである。皆、疲れた雰囲気を醸し出している。

 二人がけの座席で、窓際に座った双葉はウトウトする由依の横顔を眺める。

 (――夜見さんが、由依の妹さんを人質にしているってことは、確証がないから伝えない方がいいよね)

 不安げな眼差しで暫く黙っていた。

 本当だったとしても、やはり助ける手立てがない。それよりも、相手の同行を探り刀剣類管理局へ連絡する方が優先事項だ。残酷だが、それしか相手を牽制する方法がないのだから。

 罪悪感を覚えつつ、双葉は携帯端末にアラームをセットし、少し眠る事にした。

 

 

 

 

 

 ヴィィィィィン、とスカートのポケットが振動した。

 「うーん」

 双葉は、目を覚ます。目元を擦りながら浅い眠りの息を吐いて周囲を窺うと終点の直前のバス停だった。このバスの行き先は綾小路だからあと十分弱で到着だ。

 ふと、隣りの席にいる筈の気配が空虚な事に気がついた。

 「あれ? 由依?」

 双葉は冷や水を浴びたような気がした。

 隣りの座席に居る筈の由依の姿が居ない。驚きよりも焦りが、双葉の胸に去来した。

 (もしかして、あの話がバレた? ううん。有り得ない。だって……)

 その時、双葉の頭に一つの考えが閃いた!

 

 鈴本葉菜

 

 彼女は、この京都の土地に来るまで連絡が途絶えていたのだ。綾小路の内情調査に放ったスパイである。その彼女の消息の調査も今回の仕事の一つ。

 

 ……どうしよう? 

 

 双葉の内心は焦りで一杯になった。敵はあの皐月夜見だ。完全に此方の行動を予測し、確実に潰してきている。由依がもしも、「妹を人質にしている」という〝情報〟を掴めば恐らく真偽はともかく行動するだろう。

 だとすれば、今自分が行うべきは由依の行方を探すことではないだろうか?

 「ああ、もう!」 

 髪の毛をくしゃくしゃにして、苛立ちを紛らわせる。

 周囲の乗客は姿が殆ど居ない。皆、他のバス停で降りたようだ。

 はぁ、と溜息を洩らすと双葉は頭を振る。そして、これまでの由依との会話で彼女の妹が入院しているであろう病院の名前を必死で思い返す。

 

 「ええっと、海側だっけ山側だっけ? そもそもわたし京都の地理に詳しくないし……」

 愚痴りながらも、それでも脳裏に由依との会話から得た情報をかき集め、推論する。

 

 ――よしっ、

 

 と、覚悟を決めると自分一人だけになったバス内部を見回し通路を歩く。

 「あの、スイマセン」

 運転席の方に行くと、運転手が眠たげな横がが目にうつる。

 「――ん、なんだい?」

 「このまま、綾小路に到着する前に停車してわたしを下車させてくれませんか?」

 突然の申し出に、運転手は鼻で笑う。

 「無理だよお嬢ちゃん。大人しく座っててくれないか?」明らかに面倒くさそうな顔だ。

 (やっぱダメか……。)

 

 双葉は強硬手段に出ることにした。

 スカートのポケットをまさぐると、手帳を掴む。

 「非常事態で、この周辺エリアに荒魂が発生しました。このバスは確か市営でしたね?

わたしは刀使の橋本双葉です。ご協力願います」

 公権力の力を用い、動くことにした。

 実際、刀使の「非常事態」宣言は公安機関の権力行使である。

 ゴクリ、と唾を呑んだ運転手は無言になって、横目で一瞥を加える。

 「お嬢ちゃん、本気かい?」

 「――本気です。お願いします」

 勿論、嘘である。

 だが、相手は荒魂なんぞより余程厄介なものである。双葉は親衛隊で培ったこれまでの経験を活かし、とにかく実力行使に出ることにした。

  

 



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114話

 《拵》――、とは、本来的に刀剣の外装を指した。

 故に、時代の変遷と共にその様相は変化した。特に、この《拵》とは江戸期に一般化された用語である。

 

 

 木寅ミルヤは北欧系のハーフである。

 彼女もまた、刀使として京都綾小路武芸学舎に所属していた。

 趣味、というかライフワークの刀剣類カタログの鑑賞も今は気がそぞろになる。

 理由は所謂、「学長命令」によって綾小路に所属する刀使の非常呼集がかかった。しかも、その学長は人事変更により、更に混乱を加速させていた。

 鎌府から京都に向けての送迎用バスで絶えず考えていた事は、とにかく現在の綾小路の現状を把握すること……それだけに一縷の望みのようなものを抱いていた。

 (調査隊と一旦離れるのは心苦しいですが……、舞草経由の情報では綾小路は完全に孤立している。原因を明らかにしなければ)

 と、事態を憂慮していた。

 

 

 ◇

 一種、異様なまでの静けさが校舎を包み込んでいた。

 余りに静かで、綾小路に存在する刀使科以外の学生たちの姿が見えない。……まず、初めに感じた違和感はそこだった。

 そして、次に感じた違和感は――いいや、不信感は学内の式典用に装飾された様子である。まるで、荘厳な儀式でも執り行うかのように古い校舎を垂れ幕を含め、飾り立てられている。

 「妙、というよりもここまで来ると、嫌な予感が確信に変わりますね」

 メガネをかけ直し、息を吐く。

 白銀に霙のような青系統の長い髪質をなびかせ、理知的な端正な顔を微かに歪める。

 明らかに、学内の様子がおかしい。

 だというのに、時々すれ違う生徒はまるで満ち足りた顔をして挨拶をしてくる。不自然という他ない。

 

 バスでの長旅の疲労は忘れ、とにかく刀剣類管理局への連絡の為に仔細に学校の様子を見聞することに決めた。

 木造の校舎棟は、塗り直したニスの匂いがした。

 時々、廊下の床板はギシィ、と軋む音を立てる。

 と、前方から中等部らしき背丈の初々しい少女の影が捉えられた。

 「あ、木寅先輩ですか!?」

 朗々とした声音は、微笑ましい。

 ふと、俯き加減の顔を上げると好奇心に開かれた大きな瞳の少女がいた。目立つ腰には《御刀》を下げていた。――後輩の刀使であろう。

 納得すると、

 「ええ、私は木寅ミルヤですが……失礼ですが貴女は?」尋ねる。

 誰何された相手はキョトン、として「あ、そっか!」と悪戯っ子ぽく舌を出す。

 「わたし、内里歩って言います!! 噂には聞いてたんですけど、身長が高くて本当に美人さんなんですね!」

 キラキラとした眼差しで、見上げられている。

 「あ、ありがとうございます。貴女は中等部の生徒、いえ刀使ですね?」

 「はい! 木寅先輩もこれから〝面談〟に行かれるんですよね?」

 (面談?)

 歩の放った単語に敏感になった。

 「その、面談というのは具体的に教えていただけませんか?」

 思わず、大きい声で訊ねる。

 その勢いに押され、歩は頷く。

 「確か、学長――あ、今は高津学長なんですけど、面談をして近衛隊に入隊できるかの検査を受けるんですよ。実はわたしも近衛隊に入隊したんですよ! えへへ」

 自慢げに含羞む少女の表情は純粋そのもので、まるでおかしな言動などは見受けられない。

 「綾小路の刀使は皆、検査を受けたのでしょうか?」

 「はい? 詳しくはわかりませんけど、多分……。」

 では、益々自分が除外される意味というのが分からない。適正資格検査範囲は「綾小路の刀使」であろう。で、あれば――。

 

 舞草に関係する人間を特定した、という事以外に理由はない。

 

 不吉な予想が脳裏に浮かんだ瞬間にミルヤは、

 「ありがとうございました。では」

 強引に会話を切り上げると彼女は足早に学長室を目指した。

 (という事は、鈴本葉菜が危うい……。いいえ、もう既に……。)

 メガネが鈍く光を反射した。

 

 その背中を見送りながら歩は、

 「――じゃあ、木寅先輩頑張って下さい♪ ふふっ……」口端を歪めた。

 先程の純真無垢な少女の表情はなく、どこか不気味で妖艶で、残忍な橙の瞳が現れた。

 

 

 

 

 2

 「どうだ、百鬼丸。何か分かったか?」

 不安げに眉を上げながら十条姫和が問う。

 重箱の中から引っ張り出した紙束は、柊篝の残した資料である。

 百鬼丸は軽く紙面に目を走らせながら冷静な視線で、鼻を鳴らす。

 「なんだこりゃあ。おれの勘違いだったみたいだな。単なる業務連絡みたいな内容だな。はは……。」

 百鬼丸はそう言いながら紙束をクシャクシャに丸めてポケットに突っ込む。

 「なっ――、私にもその内容を見せろ。母の残した手掛かりを……」

 少女が伸ばした手を見た途端、

 「姫和!!」

 珍しく百鬼丸が大声で怒鳴る。その、声音の厳しさに他の二人である岩倉早苗と五条いろはも身を固くした。

 長い沈黙。

 その後、ようやく百鬼丸が穏やかな口調で、

 「――あとで終わったらお前に返すからさ、今はダメだ」

 微笑んで、姫和の頭をポンポンと撫でた。

 義妹に嫌われるから止めた方がいいと言われた行為だったが彼は無意識に行っていた。

 だが、そんな些細なことすら気にならない位に姫和は戸惑っていた。

 「な、なぜだ? 私にも関係がある内容ではないのか?」

 「ない。だからこれ以上は言えない。悪いけどおれは鎌府に戻るよ。な」

 ポケットに手を突っ込みながら土蔵の出口に歩き出した。

 「……っ、私はお前の信用に値しないのか!?」

 寡黙になった少年の背中に、必死の問いを投げかける。

 

 

 百鬼丸は木の階段の途中で足止め、肩越しに顔を覗かせる。

 「そういうんじゃねーよ。ただ、これはおれの個人的なお話さ」

 無造作に束ねた黒髪を翻して百鬼丸は歩調を変えず出口から姿を消した――。あとに残された姫和は呆然と立ち尽くし、俯く。

 

 「何なんだ、奴は……」

 下唇を噛み締めながら姫和は呟く。それは、自分を頼りにされないことへの遣る瀬無さと同時に、彼が再び自信のカルマと向き合う孤独で悲愴な決意を知った為である。

 (まるであの時の私みたいじゃないか……。)

 知らず知らず、右手の拳に力が篭る。

 「十条さん」

 早苗は、姫和の肩に優しく手を置く。

 「ああ、済まない。私も取り乱した……」

 その後の言葉が接げずにいた。何かを言おうとしても、結局自分が惨めになるだけだった。初めて誰かの力になりたいと思える相手だった。純粋に使命を果たそうとする姿は共感できたし、これまでも幾度か命を救われた――。

 なのに、肝心な時にはかける言葉一つなかった。

 

 「姫和ちゃん……」

 心配になって声をかけたいろは。

 姫和は顔を上げて、無理に作り笑いをする。

 「皮肉、ですね。嫌いだった特別な力があるから力を憎んでいたのに……今の私はそれに縋ろうとしているんです……」

 開いた掌から感じる血脈。

 二人の心配そうな視線に耐えかねたように、

 「大丈夫です。落ち着いたら私も準備します」微笑む。

 首を振って、普段通りに振舞う。

 

 たった一晩だけ、百鬼丸と過ごした時間が嘘のようだった。それは、相手の真意を理解しようと距離が縮まると思った――だが、彼の抱える何らかの業故に、大きな溝となった。

 

 大丈夫、私は…………。

 

 姫和はひとり、言い聞かせる。複雑に絡み合った感情の糸を丹念に解くように、呼吸する。

 誰かの助けになる、なりたいと思えた。とにかく、今の自分にできる事は刀使としての責務だけなのだ……。紅の瞳に、新たな弱々しい決意が滲んだ。

 たった一晩だけだったが、あの時に交わした会話で流れ込んだ温かな気持ちは、嘘ではないと思う。そう信じることにした。

 

 

 

 

 ◇

 

 《いいのかい? あのお嬢さんに内容を教えなくて?》

 久しぶりに、心臓の辺りから声が響いた。

 レイリー・ブラッド・ジョー。かつて大量殺人でこの世を恐慌に陥れた人物である。彼は現在百鬼丸の心臓にその人格を残すのみであった。

 小高い山々の杉林の梢を足場に新型加速装置の性能を確かめるように、空中を飛ぶように移動していた。連続する短い加速で飛空距離を稼ぎながら躰を慣らしてゆく。空を切る風が心地よく頬も冷たくなる。

 「ああ……。別にアイツにも、アイツらにも教える義理もないからな」

 

 《へぇ、そりゃまたなんでだい?》

 

 「おれが単に嫌なんだ。誰かにおれの問題を背負わせるのも、背負われるのも……。」

 その言葉に偽りはない。ただ、あの別れ際に見てしまった姫和の悲痛な表情だけは、脳裏にこびりついて離れない。胸がチクリと痛む。

 「とにかくダメなんだ」イヤな記憶を払拭するように、弁解するように呟く。

 

 ――誰かが傷つくのだけはもう二度と御免なんだ。

 

 少女は、母の己の身に降りかかる「運命」という巨大な手から逃れたいと思い、半ば諦めてもいた。

 

 

 「こんなクソみたいな運命、おれ一匹で十分なんだ……。」

 

 胸の辺りを右手で握り締めながら、静かにいう。

 

 百鬼丸は鎌府より先、東京を目指す。――否、具体的には東京の地下空間に拡がる巨大な地下要塞に向けて。

 



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115話

 「天は二物を与えず、とはよく言ったものだな」

 と、嘲るように十臓は嘯いた。彼の野性味溢れる横顔から一瞬だけ、憂鬱の影がさした。天井に吊られた裸電球によって顔のパーツは影を勃然と浮き上がらせた。

 「お前も、俺と似たような病を患っていたらしいな……」そう言いながら目前に膝を抱えて座る少女へ視線を投げる。

 

 「――――。」

 少女は、興味なさげに鋭い眼光の方へと無意識的に頭を動かす。

 「おじさんは……どうして戦うの?」

 折神家親衛隊第四席にして、最年少かつ最強……そう謳われた燕結芽は抜け殻のような状態だった。あれほど身を焦がした闘いについて、今は興味すら湧かなくなっていたのだ。

 

 信じたかった相手の真意が結局解らなくなった。それと同時に、自分自信が相手を裏切ってしまった事実に、懊悩が絶え間なく去来し続けていた。

 

 しかし、男はそれには無頓着だった。

 外道の道に堕ちた男、腑破十臓は口端を残忍に曲げて何度か面白そうに頷く。

 「俺は身を焦がすような闘いを生前にできなかった。だから――俺はかりそめの肉体を得た以上、戦う。それが敗北であろうと何であろうと受け入れたい。この血肉が俺に殺し合いを求め命じているんだ」

 「…………。」

 瞳の色彩を欠いたまま、結芽は目を更に細める。

 「俺は強かった。刀であれば誰にも負けるとは思わなかった。殺しであれば恐らく天下でも俺は最強だった。――だが、俺にとって太平の世の中なんぞ呪いだった。なぜ俺より強い相手が……俺の病などなく、思う存分殺し合うことができないのか……そればかりを地獄でも呪い続けた」

 

 

 その語り口こそ素朴だったが、それゆえに真実味があった。

 何よりも、呼吸器関係の病で命の危機を体験した燕結芽であれば尚更である。

 ぴくりっ、と指先が動いた。

 「……私だって、誰かの記憶に〝私〟を刻めればいいってずっと思ってた。あの時、パパもママも誰も来てくれなくて――紫様が来てくれた時に、『ノロ』で自分の最期を決めることができたんだ」

 

 自分自身で生きる期限を設定し、刃を振るう。

 〝ただ己の存在のみ〟を周囲に見せびらかすように。

 

 多くの者を押しのけ、踏み潰しても構わない。それでも、自分が「ここにいた」ことだけを知って欲しかった。恨まれる方が、忘れられるよりも何倍もいいと思っていた。

 

 だが、それが今は違う。

 

 

 ――誰かに、会いたい。

 

 生きる時間を与えられた瞬間、次々と思いが溢れて止まらなかった。

 

 この殺風景な空間に一人取り残されて思い出した。あの無機質な、マッチ箱のように小さな病室に、この部屋も似ていたことを。

 

 あの時も、ひとりぼっちの空間が怖かった。知らない大人が怖かった。

 

 誰も来ない、周りは誰も知らない。誰も、誰も、誰も…………。

 

 

 十臓は少女の懊悩などお構いなしに、前傾姿勢で瞳に青白い底光りを湛えていた。

 「百鬼丸に可奈美。この世界には殺し合うに足る存在が多くて、退屈はしない」と、そう断言する。

 

 「私だって舞草の里で百鬼丸おにーさんと戦ったもん」

 

 そう言った直後、

 「……っ」

 燕結芽は、胸の辺りに襲う締められる痛みを感じた。

 一瞬、病の事が頭を過ぎったが、しかしこの感覚はどうやら少し違う。

 親衛隊の面々、折神紫、その他関係する人々との記憶が蘇る度に、この痛みは増す。――何よりも、自らの命を救うため肉体を対価に支払った少年の、別れ際の顔が瞼裏に浮かぶ。

 饐えた臭い。血みどろに塗れたような汚い姿。

結芽の鈍っていた感情が再び、ゆっくりと動く気がした。

(百鬼丸おにーさん……。)

なぜ、自分はあの時百鬼丸に対して別れを告げてしまったのだろう?

ああして、血みどろになって地面に這いつくばってでも手を伸ばしてくれた少年の顔に嘘偽りはなかった――だからこそ、〝たまたま刀使だから救われた〟という事実がショックだった。

 

(パパもママも私が刀使だったから、〝私〟の事が好きだったんだ……。)

内心でポツり呟く。

 

最年少で刀使になり、しかも強かったからこそ、自分には「意味」があった……。だけど、病気で二度と剣を握れない躰になったとき既に「私」は必要がなくなった……。

刀使だったから〝意味〟があったんだ。

 

そう、あの〝百鬼丸〟でさえ――。

 

 

舞草の里の拠点襲撃当夜、初めて交わした百鬼丸の刃は心の底から痺れた。あの時には「本当に死んでもいい」とすら思えた。

乱暴な剣戟だったが、それでも確かに伝わる力強さ。まだ何者にも侵されない純真無垢な腕力により振り下ろされる刃。

――きっと、こんな人なら私を忘れない

そう強く思うことだってできた。……その筈だった。

 

けれども、今はそれだけでは足りない――と結芽は思う。

 

たった半日だけ過ごした今なら解る。憧れていた百鬼丸という少年は、思い描いていた理想は崩れていった。しかし、等身大の少年としての彼は、常識足らずで無知で、頼りなく、猥雑で無神経な……それでも、そんないい加減だったから目が離せなくなった。

 

「百鬼丸おにーさん、私どうしたらいいの……」

浅縹色の瞳にうっすら潤みが拡がり満ちる。

ぐちゃぐちゃになった感情が、幾度もの後悔と苦い記憶と、煩悶を繰り返す。まるで炙られるような感覚。

 

 もしも、あの時必要とされなくても。

 もしも、刀使だから救われたのだとしても。

 もしも、偶然私だったとしても。

 

 もう一度だけ会いたい、そう痛切に思えた。

 

 〝いまから結芽を助けるからな、待ってろよ――〟

 

 不意に、あの生死の境を彷徨った日に告げられた百鬼丸の言葉が甦った。

あの日の夜、彼の表情はこの上なく柔和で穏やかだった。まるで、失う事に一切の恐怖がないみたいに。

長い睫毛が震えた。

「百鬼丸おにーさん……」

胸の奥の辺りが、曖昧な甘い痛みに締められる。病とは異なる、自覚のある痛み。呼吸するたびに喉の辺りも柔らかな締めつけを味わう。

どうして、大事にしたいと思える人に心無い言葉を言ってしまったのだろう。本当はもっと大切にしたいのに。……こんな筈じゃなかった、っていつも失敗してから後悔するんだろう。

「いたいよぉ……」

裏切られたと思っていた。自分ではなく、刀使という肩書きで助けてくれたのだと思っていた。

 

『よく頑張ったな』

朦朧とした意識の中、唯一覚えている光景は片目から血涙を垂れ流しながら、目玉を自力で抉り出して対価に差し出し、それでも尚微笑む顔だった。

無骨な手で頭を撫でる、その人の姿だった。

 

 

 

刀使という存在だったから――それでもいい。

特別だったからでもいい。

――ただ、それでも痛切に願わずにはいられなかった。

 

「百鬼丸おにーさんに会いたいよぉ……」

無意識に言葉にしていた。

 

また裏切られるのかもしれない。また、悲嘆の底に暮れて過ごすのかもしれない。――孤独な日々を無為に過ごすのかもしれない。

それでも、もう一度会って謝ってまた剣を合わせて……、今度こそ強く「燕結芽」という人間がいたことを強く記憶に刻みつけるんだ。

 

 

 少女の無意識の呟きを聞いた十臓は「ふっ」と不敵に笑みをこぼす。

 「そのためにお前をここに連れてきた。奴は必ずくる。――そして、俺は奴を殺す」

 と、宣言した。

 

 まるで、待ち焦がれるように……。

 

 

 

 両者の間には、それ以後会話はなかった。

 

 沈黙というよりも、犯しがたい無音。不気味な空気の均衡を破ったのは外部者だった。

 

 

 『見張りの交代の時間だ』

 と、扉の向こうから声がした。

 

 「!!??」

 結芽の瞳に光が甦った。焦点の合った眼差しで、扉へと意識が集中する。

 この声は聞き覚えがあった。

 

 気が付くと、結芽は歩き出していた。躰が声の方向へと導かれるようだった。

ドアの把手に触れると、ひんやりとした感触が掌全体に伝う。……

 更にドアの細長い磨硝子から奥部にはもう一つ、扉の輪郭があった。その奥には確かに人の気配が感じられる。

 

 (百鬼丸おにーさん?)

 まさか、有り得ない。そう何度も理性が警報を鳴らすのだが、しかし本能の部分には逆らえなかった。

 扉を引くと目前には「何者か」の気配に満ちていた。

 

 「……脱走しようとしたのか?」

 その声は疑いようもない、百鬼丸のものだった。目線を上げると、新雪のように真っ白な淡い輝きが視界を覆う。

 

 「百鬼丸おにーさん?」不意に口をついて、尋ねていた。

 

 間違いない、顔立ちといい雰囲気といい佇まいといい全てが百鬼丸と同じだった――ただ、真っ白い髪と肌、そして橙色の瞳でなければ。

 

 百鬼丸に似た何かは、首を傾げ、それから「ああ」と気がついたかのように哄笑し始めた。

 「そうか、奴は――あの出来損ないは〝百鬼丸〟と名乗っていたのだな。ふむ。俺は違う。俺は〝贄(ニエ)〟だ」

 

 純白の長い髪の毛の間から覗く双眸には「百鬼丸」という相手への憎悪が溢れていた。

 

 



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116話

 防風林の連なる浜辺で、波の音に紛れて悶絶する声が聞こえた。

 『あぁあああああああああああああああああああああ――――』

 喉を潰さんとする〝音〟

激痛が血管の中で凶悪に暴れまわる……。

 首筋や腕、大腿部に至るまで躰の隅々の血管が青筋を立てて浮き彫りとなっていた。常人では到底失神する殺人的な痛みを堪える少年が、居た。

 「ガァぁああああああああああ、ッ、ッッ、殺してくれェッ!!!!!」

 初めてとも言える種類の痛み。

 普段は弱音を吐かない少年ですらも耐え切れない、苦痛。ただ生きていることを呪い、自らの死を願うほどの即ブツ的な痛み。

 拷問とも思えるような時間を過ごしている。彼の手には《無銘刀》が握られていた。この刀は初代百鬼丸の退治した妖魔の血液が数千数万ともいう数で染み付いている。――当然その怨嗟や恨み呪いも同様である。

 この刀は、相手の妖気や特殊なエネルギーを吸い取る。

 《生命力》を吸い取ることによってこの刃は無限ともいえる切れ味を保つ。この刃に切断できないものなどない――。

 だが当たり前の話であるが、世の中にそんなうまい話などない。

 この妖刀《無銘刀》がなぜ危ういのか?

 結論から言おう。

 持ち主の「理性」や「自我」を蝕む。いずれは『人成らざるモノ』へと変質を促す。

 それ故、凶悪な武器足り得る。

 「がぁ……はぁ……ッ、ゴホッ、ゴホッ……。最低の気分だ」

 脂汗を顔面に流しながら頭を垂れて、呟く。

 これまで味わった激痛とは格段に違う、そして精神にも肉体にも辛い激痛だった。

 以前、研究所をジャグラーという男に襲われた際に、百鬼丸は《無銘刀》に自らの理性や自我の二〇パーセントを惜しげもなく分け与えた。

 そのツケは、日を追う事に増していった。

 まず、自分自身が「百鬼丸」という存在であることの認識が難しくなっているのだ。

 ついで、睡眠をする際にも無意識に躰が動かないように熟睡は避ける。

 魑魅魍魎が絶えず百鬼丸の脳内も体内も、蝕み血肉を啜るように生気を喰らい尽くす。化物を殺すことができなければ、《無銘刀》のお食事は百鬼丸という結論に達する。

 

 

 ようやく激痛が鎮り、大きく肩で息をつきながら百鬼丸は砂浜の砂粒子を頬に貼り付けて立ち上がる。

 酷い吐き気を催した。だが事前に食事などは摂っていない為に、胃袋は水分と胃液だけで満たされている。

 

 吐き出すのはいつも酸っぱくて温かい水だけ――。

 

 

 衣服は満遍なく汗に濡れている。現在は初冬の季節であるが、彼にとっては関係がない。身悶えする程の激痛は季節すら忘れさせてくれるらしい。

 

 「ッチ、糞っ!! 荒魂を無視して急いでたらコイツにむしゃむしゃ喰われるとはなッ!!」

 苛立ち紛れに砂を蹴飛ばす。夜の海は墨を満々と湛えたように暗く何も見えない。

 激しい海風は今、吹き付けてこない。

 代わりに心臓の動悸が激しくなる。

 

 《ははは、全く百鬼丸くんはおっちょこちょいだねぇ》

 

 その心臓の辺りから声が響く。

 稀代の殺人テロリスト、レイリー・ブラッド・ジョーがカラカラと笑う。

 

 「うるせぇ! 冗談じゃねーよ」

 

 《でもまあ、他人に見られなくてよかったとも思っているだろう? あはは、面白いモルモット……もとい、研究対象だ。つくづく自分の躰が失われたことを悔やむよ》

 

 ジョーは、陽気な声で冷淡な内容を告げる。

 

 「……てめぇは今利用価値があるから活かしているんだ。いずれテメェは消す。いいな?」

 

 《ああ、勿論。だが、宇宙の真理を解き明かすまでは消えないけどねぇ》

 不敵な、不遜な態度である。

 

 「…………。」

 このマッドサイエンティスト具合には百鬼丸も閉口するしかなかった。

 

 《しかし、そのちっぽけな男としてのプライドは評価してもいいと思っているよ》

 

 「嬉しくねぇよ別に……」

 まだ、さっき叫んだ影響で喉の粘膜がヒリヒリする。

 

 《しかし不思議だね。キミは刀使なら誰でもいいのかい? 理解できないな。誰かを選別して助ける方法もあるだろうに》

 

 「……いやだ。おれはおれのやり方がある」

 

 あくまで譲る気配はない。

 

 《だとすれば、愚か者だと思うがね。この世の全員を救えないように、キミも全知全能の神ではないんだがね》

 

 「知ってる。おれは化物だ。理解している」

 

 《あははは、滑稽だよ百鬼丸くん!!》

 

 「滑稽だろうがなんだろうがいい! おれは、守りたい相手に弱音を見せたり今みたいな醜態を晒したくないだけだ! 他人がいくらおれのやり方を批判しようが構わん」

 

 傲然と言い放ち、百鬼丸は片足の単発の連続式加速装置の起動を確認する。キィィィン、という耳障りな音色と共に、リボルバー方式の加速装置を手で軽く触れる。

 

 

 長い前髪が顔に垂れる。

 「ダッセェな、おれ……」

 俯き加減にポツリ、呟く。

 

 誰かを救いたいと思ってきた。――だが、その「誰か」も当たり前だが個人である。独立した一人の人間なのだ。それが理解できなかった自分が心底情けない。これまでの経歴をくどくど述べ立てて言い訳する性分ではない。

 ただ、己の過ちを繰り返さないようにするだけだ。

 百鬼丸は、自らに喝を入れるように両頬を思い切り叩く。

 

 「ヨォッし、行くか!!」

 

 百鬼丸という少年は、己に加わる〝痛み〟には耐えられる――そう自分を解釈していた。だからどんな時でも「おれ」は強い、という自負心につながっていた。

 

 ……だれも救えてないじゃないか。

 

 心の奥底では、誰かを救った気になっていたんだ。それが今まで荒魂を退治してきた生き方の根本だった。誰にも頼らず、誰にも支えられない。……それで結構だ。

 人間は薄汚い。すぐに裏切る、自分たちの都合の悪いことは全て隠す。人間社会では同調圧力によって異端は排除される。

 

 正直、人間にいい印象なんてこれっぽっちもない。

 

 百鬼丸はそう断ずる。

 

 ――と、同時に刀使は救う対象である。

 

 それが至上命題だった。彼女たちは普通の人間と一線を画する存在である。

 

 だからどんな痛みだって耐えられる。どんなに人に謗られても構わない。ただ、刀使に――拒絶された時、自分という存在を見失いそうになった。

 

 

 百鬼丸の右手には十条姫和の母、柊篝が記した「手記」が握られている。この内容が事実であれば、誰にも知られたくない……。

 少年は複雑な心境を抱えながらも、口端に残った涎を拭う。

 

 腕を夜空の雲に隠れた月に向け、拳を突き出す。

 「待ってろ、燕結芽。お前を助け出して……そんでもって、ええっと……多分、剣術の相手をして……そんでもって……ううんと……」

 言葉が上手く紡げず、呂律が回っていない。白痴のような語り口調になってしまった。

 

 「と、とにかくだ! おれはやってやる!」

 口を真一文字に結んで、精神を高める。

 

 《あははは……キミにはアジテーションの才能とかもないようだね。安心したよ。キミは誰かを扇動する人間ではないみたいだ》

 「うっせーよバカ野郎」

 急に気恥ずかしくなって、胸の辺りをドンと拳で叩く。

 

 

懲りない奴だ。ゴキブリ並みの生命力と不屈の精神力が彼――百鬼丸をここまで連れてきた。あるいは、強者であるという事は案外簡単なのかもしれない。しかし「強者で」あり続けることは難しい。

 それを事も無げにクリアする百鬼丸には未だ秘密があるだろう、と心臓に寄生した人格体のジョーは思った。

 

 

 

 2

 

 「はぁ……はぁ……ッ、くっ」

 木寅ミルヤは荒い息を吐き出しながら、切りつけられた左腕の止血を試みる。

 溢れる鮮血が掌を温く充す。

 眼鏡の片方のレンズがひび割れていた。綾小路の制服はアチコチ泥で汚れていた。それでも尚、気力だけでミルヤは立っていた。

 

 「――なるほど、もう確信しました。綾小路で高津学長が何をしようとしているのか……」

 右手に掴んだ御刀の重量が普段よりも重く感じる。気を抜くと、倒れてしまいそうだった。

 夜の山、低潅木が足元を塞ぐ。左右に無造作に生い茂った木々。星の薄い光が周囲を仄かに照らす。冷気は冴えて、空気をクリアにする。

 

 『ミルヤさん逃げてばっかりだと、ここから生き残って情報を伝えられませんよ?』

 聞き覚えのある人物の声。

 

 「――洗脳というのは恐ろしいものですね」皮肉っぽく揶揄する。

 

 追っ手は、ミルヤとの距離を縮めようとして足を止めた。

 

 『――――ッ、僕が洗脳されているって本気で思ってるんですか』

 怒気を孕んだ、静かな口調。

 相手の心理を揺らがせた所で、ミルヤは口を苦々しく曲げた。

 

 「こんな事は言いたくありませんが、真実です」

 

 その迷いのない言葉に、追っ手の人物は激昂した。

 「…………いつも、そうやって全部明確に全てが見えるなんて、流石ミルヤさんなんですね」

 木の陰から姿を現したのは、消息を絶った筈の鈴本葉菜であった。彼女は淡々とした声で「どうして、そんなに逃げるんですか? 戦わないと、僕を倒せませんよ?」挑発する。

 

 「鈴本葉菜、あなたとは戦いたくない!!」

 呼気を整えながらミルヤは本心から叫んだ。

 

 

 「ふっ、未だにこの状況でそんな事いうんですね。もしかして刀使としての能力を疑ってるんですか? 諜報員だからって僕が弱いって見くびってますか?」

 その表情は、恨みのこもった怒りで満ちていた。

 

 「――ち、違いま」

 

 「黙って下さい!! 分かりました。僕の本当の実力でお相手しますから……」

 

 少女はむき出しの刃を頭上に掲げる。

 

 

 

 3

 

 整然と並ぶ細長い窓から射す午後の日差し――。

 

 いつもの綾小路の廊下とは違う、不気味な気配――。

 先程の内里歩の言葉が事実であれば、恐らく鈴本葉菜はもう……相手の術中にあるだろう。

 

 ミルヤは、歩きながら最悪の事態を想定していた。

 

 長い廊下、その角に人気がある。

 

 ピタッ、と足を止めて不意に腰の刀に意識を向けるミルヤ。

 

 「あ、ミルヤさん」

 

 その人影は、人懐っこそうに駆け寄ってきた。

 

 「な、なぜここに居るのです鈴本葉菜!!」

 

 舞草の諜報員として潜入し、定時連絡を絶ってから消息不明になった少女。彼女が今、目の前にいる。

 「だ、大丈夫だったのですか?」

 相手の両肩を掴み、怪我がないか確かめる。

 

 「……すいません、連絡できなくて。多分心配させちゃったと思うんですけど……平気ですよ」

 

 (連絡もできないほどに警戒網が厳しい……と。)

 彼女の態度から、おおよその見当をつけた。

 「なるほど、貴女も大変だったのですね」と、安堵の息を洩らすミルヤ。

 

 葉菜は、咲き誇る笑顔で頷いた。

 「――はい」

 

 その余りに裏表のない返答を、おかしいと思うべきだった――ミルヤは、この時の事を思い出す度に後悔した。

 



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117話

 ――海の最強の生物をレヴィアタンだとするならば、陸上最強の生物をベヒモスだという。《神》が創造せし最高の作品であるとも言われるベヒモスは、死ぬまで戦わされ、最後に残った躰を「選ばれた者」によって喰われる。

 

 

 これは、旧約聖書の簡単な逸話だ。

 少なくとも多くの人間はそう思うだろう。〝俺〟以外は――。

 

 

 1

 

 『本日の天気予報は午後から俄雨にご注意下さい。冬も本番の寒さです。日本列島は各地で……』

 と、カーラジオから漏れる情報に耳を傾けながら童顔の男はハンドルを握る。

 「ふぁーあ、ねみーなオイ」

 軽くハンドルを叩きながら目をこする。

 彼――柴崎岳弘。二十八歳、独身。現在フリーランスの記者をやっている。

 つい二年前に東京の三流雑誌社を退職し、半分ニートのような状態で仕事をしている。

 いま運転している車もホンダのシビックだが、これは退職前に先輩から安く譲ってもらったものだ。

 岳弘は、昨日の国際展示場で開催された異文化展示会に取材をしていた。……まあ、実際は会社から縁故でおこぼれの仕事をもらったに過ぎない。

 元々はヤバい潜入取材を得意にしていた雑誌社もめっきり発行部数の減少と共に、記者たちをフリーにしている現状を考えると何とも切ない、と岳弘は思った。

 

 時刻は午前五時三〇分。

 

 未だ暗い空の下を走行する。

 数日前に高速道路をボロボロにされ、現在も首都高の一部区間が工事中との事だ。何でも〝荒魂〟に憑依された人間による犯行なのだという。最近ではめっきり人間に憑依した荒魂なんて話は聞かなくなったが、珍しいこともあるもんだ。

 オレは、薄暗い曇り空から微かに滲み始めた東の方角を一瞥する。

 海風が激しい。

 横なぶりの風は車体をフラフラさせる。

 「チッ、あーあ。マジででかいスクープとかこねーかなぁ……」

 オレの頭ん中は貯金の残だけ。いまはまだ蓄えがあるが、あと数ヶ月で底をつく。その前にドでかいスクープで、一旗あげないと死ぬ。飢え死にだ。

 「チッ、困るよなぁマジで」ボヤきながらブラックコーヒーの缶を手に取る。

 しかし、苦い雫すらも残っていなかった。試しに一口だけ吸うが、やっぱり無駄。

 「PAかSAに寄るかー」

 東名高速を走りながらオレは本日の目的地、名古屋までの距離を数える。……まだ全然遠い。ここはまだ海老名だ。

 

 

 と、ドン!! 

 

 激しい落下音が車両の上に響いた。

 「うぉおお!」

 オレは思わず情けない声で怯えた。夜みたいな視界に強烈な振動と音。怖くない訳がない。

 一瞬だけ「落石か?」と思ったが、誰か人間の気配のようなものを感じた。

 冷や汗が背中を流れる。

 人の心配をよそに、コンコンと車窓を叩く音がした。

 オレは目だけ助手席側にやると、黒髪を激しく靡かせた少年が頭を出して何か喋りかけていた。異常な光景だったが、その時のオレは「――なんだ、人間か」と異常な事態をそのまま受け入れていた。

 窓を下ろすと、激しい風の音と共に少年の声が聞こえた。

 

 

 「今から東京の、海側に向かって欲しい」

 

 突然の申し出に思わず、

 

 「はぁ!?」

 

 オレは声を上げていた。

 

 

 2

 「えーっと、そんでさ。キミだれ?」

 最寄りのSAに車を停めたあと、店舗の前にあるベンチでオレは訊ねた。

 缶コーヒーのトップルを開くと一口啜る。

 ……苦い。

 

 夜風に似た風が吹き付ける。SAの駐車場は大型車両の車影が無数に並んでいる。ヘッドライトの強烈な光が交錯していた。

 寒い、と愚痴をこぼしながらオレは、首を振る。

 

 オレは真横の少年……を恐る恐る覗った。

 少年はベンチに腰掛けながら遠くの風景を眺めているようだった。それからオレの質問が遅れて耳に届いたように、

 

 「あ、おれですか? おれは百鬼丸って言います」と、言った。

 

 意外にも律儀に名乗った。あんな非常識な方法で出会って窓から軽業師みたいに入車してこられた時は警察に電話しようかとおも思ったが、何となく、下品な記者としての根性が思いとどまらせたようだ。

 

 「へぇ、百鬼丸くん――キミはなんで東京に向うのかな?」

 はっきり疑問を口にする。あんな常人離れした身体能力だ、今更普通の回答なんて期待してない。

 

 百鬼丸少年は困ったように笑いながら、

 「ええっと……答えないとダメですかね?」と、ポリポリ頬を指先で掻いた。

 

 「うーんと、まあダメではないけどね。もし乗せていくにしてもだよ、理由が分かんないとね。コッチにも用事がある訳だしさ」

 

 「用事? ですか……。」

 

 「ああ、うん。ホラ前にさ、名古屋の荒魂とかを研究している施設が謎の怪物に襲われた事件があっただろ? ようやく今週から一般の取材OKになったんだよ。なんでも、あの柳瀬財閥の支援で新しくなった直後の事件だろ? んで、取材だよ取材」

 

 百鬼丸少年は「へぇ」と意味ありげに頷き、それから不敵な笑みを口端に浮かべる。

 「なるほど。じゃあ取引しませんか?」

 彼は、そう言いながら前傾姿勢になって、背中を丸く曲げる。

 「取引、だと?」

 

 「ええ、その取材内容ですけどおれにツテがありますから」

 「はぁ? 何を言ってるんだキミは。いいかい? 前の首都高の事件もそうやって民間人がネットに虚実の混ざった情報を垂れ流したお陰で今、捜査機関は滅茶苦茶なんだ。いくらキミみたいな子供でも、言っていいことと悪いことが――」

 

 「首都高? あ、アレですか……」

 その単語を聞いて、百鬼丸少年は表情を翳らせる。

 

 「ん? 何かあったのかい?」

 

 「ええっと……まあ、それなりに……」

 口を噤む。

 

 

 オレはピンときた。……記者のカンという奴だろうか? とにかく、第六感がオレに告げている。

 

 〝――コイツは、何かを本当に知っている奴だ〟と。

 

 「ひとつ、話を聞かせてくれないか? キミはそもそも何者なんだい?」

 

 

 「おれですか?」

 

 「ああ、普通じゃない。悪い意味じゃないよ。でもなんていうのかな……反社会的勢力とかとは違う、本当に危険な臭いがするんだよキミから。なんでかな?」

 

 その言葉に感化されたように百鬼丸少年は、自分の両脇に鼻を近づけて臭いをクンクンと嗅ぐ。

 

 「臭いますかね?」

 

 「ああ勿論。プンプンだ」

 

 実際体臭も獣みたいに臭い。だが、面白いことになりそうだ。

 「喉渇かないか?」

 

 「は? ええ、まあ」

 

 ――待ってろ、と言ってオレは自販機でコーラを買う。すぐに踵を返して戻ると百鬼丸少年に投げた。彼は器用に片手でキャッチして、戸惑った顔をしていた。

 

 「なんですか、これ」

 

 「安いが前払い金だ。いずれ、取材費は払うから……頼む。キミの話をいえる部分でいいから教えてくれ。そしたら、向かう。必ずキミの行きたい場所に連れてく。それでどうだ?」

 

 顎に手をやり暫く考え込む百鬼丸少年だったが、やがて「むむむーー」と唸り首をひねる。

 

 「分かりました。とにかく、行きましょう。あと、行く前に少しだけ準備してからですかね」

 途端に百鬼丸少年の顔色が変わった。まるで歴戦の戦士のような、精悍な顔つき。黒曜石に似た丸い瞳がキラと一瞬青い光を反射する。

 

 ゴクリ、喉を鳴らしてオレは気圧される。

 

 「……あと、聞きたいんだけど、キミは刀使でもないのにどうして刀を持っているのかな?」

 オレは無意識に手を伸ばす。

 

 しかし百鬼丸少年はサッ、と刀を遠くへ置いてオレを強く睨む。

 「これは触らないで下さい。……それも含めて、まあお話できる所はします。ただおれの言うことは絶対に聞いてください。いいですか?」

 厳しい口調。それ以上に、彼の睨みは絶大な効果を発揮した。オレはすぐに発汗作用を起こして、足元がガクガクと震えた。まるで子供に戻ったみたいだ。

 

 「わ、分かった」

 

 戦場カメラマンは、こんな危険な場面にも遭遇するんだろうな、と漫然と思った。

 



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118話

一段落つきました。よかった。


スロープ状の緩やかな道路が重なる首都高――。ある区間にはトンネルがあるが、その直前に中央分離帯があり、その奥にはトンネルの隔壁がある。歩道沿いにしばらくゆくと、暗闇が濃くなる。……地面もそれに従い、下降してゆくのだ。

 

 

 刀剣類管理局の所有する乗用車で現場まできた……。

 折神家の元親衛隊も今となっては権威が消えて皆無に等しい。真庭本部長の指示によってようやく現場にこられた有様である。

 

 (つくづく世の中というのは難しいですわね……。)

 親衛隊元第二席、此花寿々花は内心で愚痴を零す。

 乗用車から降り、小さなバックパックを背負い歩き出した。……古地図の通り経路は変わっていないようだ。軍用の懐中電灯を灯す。

 強烈な、昼間のような白光を放つ。遠く後方で車両の無数に往来する音が轟音のように鳴り響く。まるで怪物の唸り声のようだった。

 

 

 ふと、静かな人物に気がついた。

 「どうされましたの、真希さん」

 寿々花は、無限に続く階段の下に蟠った矩形の闇を覗いながら訊ねた。

 隣に佇んだ中性的な少女は、凛々しい声で「いいや」と弱気を否定する。

 「――もしも、本当にここに結芽が居たとして……ボクたちにできることがあるのか……つい考えていたんだ」

 あら、そうですの――と普段の寿々花は答えただろう。しかし少なくとも現在は違う。彼女もまた真希と同じ気持ちだからだ。

 「でも助けに行かない理由にはなりませんわよね、当然」

 挑発的な口調にはどこか期待がこもっていた。

 「ふ、まったくキミには敵わないよ、寿々花。ああ、そうだ。ボクたちはそれでも助けたい。それだけで理由なら十分だ。……多分、百鬼丸もそう言うだろうね」

 「――不服ですが、まあそうでしょうね」寿々花は若干苦虫を噛み潰したような顔で応じる。

 

 「では準備は宜しくて?」

 片目でウィンクしながら寿々花がワインレッドのふんわりとした毛先を弄ぶ。

 「ああ」と、真希は意志の強い眉の線を厳しく締める。

 「―――じゃあ、行こうか」

 

 

 

 2

 一説には昭和十六年から工事が始まったという、『帝都地下坑道計画』

しかし規模や全容に関しての資料は現在、殆ど散逸してしまい、正確なことが分からない。

 

コンクリで上部半円が塗り固められた坑道の内部は、案外に広い。しかも思ったよりも通気性に優れているようで、時々、吹き抜ける冷たい一陣の風が頬に重なる髪を嬲る。

 埃っぽい暗闇の奥はゼリー状の黒で蟠っているかのようだった。

 赤煉瓦が整然と配列された左右の壁は硬貨一枚も挟む余地が無い。左手の指先でその壁をなぞりながら進む。……白昼の如き放光の軍用懐中電灯の威力は抜群のようだ。

 「……思ったよりも、古びてないんだね」と、獅童真希が呟く。

 七〇年以上も昔の構築物が現存している事実だけでも驚きであるが、それ以上に状態の美しさにも驚かされた。

 「ええ、そうですわね……」

 頷きながら此花寿々花は更に階段の終わり、平坦になった道に靴裏を踏ませる。

 ピト、ピト、ピト、天井から漏水の滴りが「音」としてこの長く無限の暗闇を支配する。丸い光を上にやると、五~六メートルの高さから水が落ちる。

 排水の為に壁の下部わずかな隙間に用水のような細い溝が走っていた。

 不思議と鼓動が高く、緊張に全身の神経が皮膚を通して敏感なのだと訴えかける。

 

 (妙、ですわね――)

 と、寿々花は目を細める。

 

 古地図によれば、ここはあくまで一つの入口に過ぎない。それは良い。問題は、いくら軍事機密の空間とはいえ、その当時に民間の人々が内部を理解する筈がないのは当然として――なぜ、この空間が戦後も秘匿され続けたのか? 理解ができなかった。しかも、占領軍ですらも「ここ」の存在を隠した。

 

 ……一体なぜ?

 

 資料には兵器廠の存在も確認されていない。

 

 「理解しかねますわね」

 軽く左右に首を振る。考えても仕方のない事だ、そう自分を納得させた。

 

 「なあ、寿々花」

 背後から声がする。

 

 「なんですの?」

 

 「ボクたちは間違ったことはしてきてない筈だ……そう思ってきた。だからここにいるんだと……思う」

 弱くなる語調で、真希はポツり独り言を吐く。

 「どうされましたの? まさかここまできて、怖気ずいたとか?」

 「いいや。……ただキミを付き合わせた事には罪悪感がある」

 

 

 その言葉を聞いた寿々花は進ませていた足を止めて、急に踵を返す。

 「真希さん!!」

 

 「な、なんだい!?」

 強烈な懐中電灯の白光が向けられ、目を瞑る。

 「――わたくし達は、〝あの日〟から一蓮托生――そうではありませんでしたの?」

 

 『ノロ』を、肉体に宿す。

 それは、今後の人生においてどのような意味をもたらすか……そのデメリットを知らないで受けいれた訳ではない。まして、結芽と違って生死の問題とも関係ない。単純に「強くなる」ためだけに受け入れたのだ。

 

 刀使という、少女期のみにしか活躍を許されない時間。さらにそこに『ノロ』を受け入れる。人生は刀使であるよりも「一般人」である事の方が長い。

 例えそれでも、受け入れた。

 守れるものが多くなるのならば、刀使以後の人生は余生だと…………自分でそう言い聞かせた。

 

 寿々花の言う〝あの日〟とはノロを受け入れた日の事だ。

 

 「〝もう引き返せない〟んだ。今更な事を言ったかな?」

 肩を竦めて弱く微笑みかける真希。

 

 眩い光を放つ懐中電灯を下に向け、俯いた寿々花は「ズルいですわ」と小さく聞こえないように、言った。

 

 

 そして意を決したように再び頭を上げて真希を正面から見据える。

 「――この先を三キロほどゆくと、恐らく大きなドーム状の空間に突き当たる筈ですわ」

 真剣な眼差しでこの先の構造を教えた。暗に引き返すならば今のうちだ、と言っているのだ。

 

 

 だが今の真希は不思議と精神の動揺がない。

 「うん、わかった。じゃあこの先まで付き合ってくれるかい? ――寿々花」

 と、手を差し伸べた。

 自然と普段やっている仕草だった。こういう習慣(ルーティーン)は、こんな緊張した場面でも出るのだな、と真希は自分でも可笑しかった。

 

 しばらく差し出された手を見つめた寿々花は急に顔を真っ赤に染めて、下唇を強く噛んだ。

 「ひ、卑怯ですわよ真希さん!?」

 「……? なにがだい?」

 「と、とにかく先を案内するのはわたくしの役目ですわ。それに真希さん一人では心許ないことですし……」

 指先で髪を絡めながら、真希の手の上に自らの手を重ねる。

 

 暫くその重ねられた手を眺めた真希だったが、

 「――――じゃあ、行こうか」

 と、威勢良く手を引いた。

 

 「ええ、勿論」

 優雅に寿々花が微笑を零す。

 

 

 

 

 3

 ふいに、

「――来たか」

 ニエが、壁に凭れていた躰を引き剥がして腕組みを解く。

 この独房のような八畳ほどの広さの空間に配置さた簡易ベッドと椅子。それ以外は裸の電球が吊られているのみである。殆ど殺風景な空間だった。

 視線を巡らし、ニエは溜息をつく。

 首を二三回、左右に傾け口を曲げた。癖である。

 百鬼丸と見紛うばかりの外見をしたニエは、全てを純白に彩られていた。微かに放たれる光すらも眩い。

 彼を遠くから覗っていた燕結芽は、おもむろに口を開く。

 「……どーしたの、百鬼丸おにーさん」

 口癖だった。少女は先程から間違いを指摘され続けたものの、外見が殆ど似ている為に意識しても間違えてしまうようだ。

 ニエもまた、訂正することを面倒に思い「もうそれでいい」と一言で片付けた。

 

 結芽の問いかけに顔を向けたニエは、

 「侵入者だ。――お前を救いにきたんだろうな」

 と、短く答えた。

 

 「私を?」

 結芽は固まっていた感情の一部が動き出すような感じがした。

 

 驚いた様子の少女を無視してニエは続ける。

 「正体までは分からんが、まあこんな特異な場所をわざわざ見つけたんだ。お前を救出する目的の連中以外に居ないだろうな」

 

 結芽はその言葉と同時に御刀(ニッカリ青江)を胸元に抱き寄せた。

 ……無意識の行動だった。

 その、動作を眺めていたニエは面白そうに笑いながら「いつでも逃げるなら逃げればいい。だがお前の命は、簡単に消える」

 冷淡に告げながらニエは歩を進ませる。結芽との距離を縮め、腕の届く場所まできた。

 固唾をのんで、見上げていた結芽は相手の力量――即ち、膨大なエネルギーに呆然としていた。

 人……ではない。体外に放出されているオーラ。このような凶暴なまでのエネルギーは類例を知らない。恐らく折神紫ですら比肩できないであろう。

 そのニエが腕を伸ばして、優しく結芽の頭を撫でた。

 「お前はここにいるんだな……でないと、俺が殺すハメになる」

 物騒な物言いとは異なり、囁かれた言葉の調子は優しく人を安心させるものだった。柔らかい微笑みが、さらに言葉の意味を似合わないものにしていた。

 

 だから、思わず結芽も百鬼丸の面影を思い出し、

 「……うん」

 と、小さく頷いた。

 自然と頬が微熱で赤らむ気がして、両手で顔を覆った。触れる頬の指先は確かに熱を感じた。心臓の鼓動は一拍分高鳴る。

 

 

 「大人しくしていることだ」

 背中を向けて、ニエは部屋を出た。

 

 

 あれは、百鬼丸では決してない――頭では言い聞かせるも、本能が彼を百鬼丸だと認識していた。少女はあの不可思議な存在が何者か、知ることができなかった。

 

 

 

 4

 一気に空気の流れが変わった。それまでの通路独特の細長い一方方向の流れから、緩やかな空間に滞留してゆく、充満する感覚。

 真希と寿々花は、懐中電灯で周囲を照らす。ドーム状になった屋根が高く一〇メートル以上はある。空間自体も目測だが、周囲三〇メートル以上の広さはあるだろう。足音が木霊するのも増幅され、音が反響する。

 しかし、二人の少女の足は広い空間に入った瞬間に止まった。

 「「――っ、ッ!?」」

 喉の底から危うく悲鳴に近い声が漏れそうになるのを、理性で咄嗟に押さえ込んだ。

 

 

 暗闇の奥、誰かの気配がした。

 

 『汝ら、何者だ――?』

 嗄れた渋い声がした。……涸れた井戸のような、水分の感じられない声音だった。

 その相手は、のっそりと闇の中から蠢くようにして踵を返したのだろう。視線のようなものが二人に向けられた。

 

 ――と、ほぼ同時に壁沿いに配線された電線に繋がれた電球たちが点灯する。淡い光の輪が広がり、暗闇を仄明るく照らした。黄色っぽい光が粉っぽく大気を浸す。

 

 「……他人に名前を尋ねるなら、ご自身から名乗られては?」

 理性を回復させた寿々花は、敢えて語気を強く反駁した。

 ようやくの抵抗、といった所だった。

 

 (寿々花、相手の正体が分からないのに挑発的になるのは……)

 と、耳元で真希が囁く。

 

 目だけを動かして、寿々花は「いいえ、大丈夫ですわ」と否定する。

 確かに通常の相手――それも、言語を理解する知性を有する敵に対して挑発をするのは悪手である。だが一方で、相手の敵対的な意思自体を寿々花は感じていなかった。

 刀使としての経験上であるが、悪意や殺意には敏感になった。

 だが相手の気配はどうやらそれらと違う。強いていえば、純粋な誰何という辺りであろう。

 

 微かな光の外輪に触れた「何者か」は、僅かに姿を見せた。

 ……陽に焼けたような、赤褐色の肌に逞しい筋肉を内包した皮膚。浮き彫りになる青筋の血管。禿頭には刺青のような線が刻まれていた。それは胸板など躰の部位に見られる。

 体長は二メートル近い。

 腰蓑を巻きつけるばかりで、衣服の類は見受けられない。

 しかし、彼の巨大な両手に握られた青龍刀を模した刀剣の身には橙のゼリー状の液体がこびりついていた。

 

 ……あれは間違いなく、ノロである。

 

 その男は、寿々花の強気な返事に対して首を一度ひねった。

 ――それから。

 「ふふふふ、あはははは……そうか。小生は永らくの間、刀使と会話したことがなかったのだな。ふはははは、そうか。小生には――名前などない。とうの昔に捨てた。しいて言えば――そうさな、番人とでも呼ぶがいい。それこそが相応しいだろう」

 先程の声ではあるが、陽気とも思える言い方で豪快に笑う。

 

 「どうして刀使だと分かりまして?」

 頬に冷や汗を流しながら寿々花は、口角を無理やり上げて問う。

 

 男は、白目だけの眼窩を向けた。

 「貴殿らのような年頃の少女で、刀剣を持つのは刀使以外にいないであろう。それにその足運び、剣術を嗜み、また迅移を行う者特有の歩幅。……違うか?」

 彼の分析は悉くが的中していた。

 

 (――厄介な相手ですわね)

 と、思わず内心で寿々花は舌を巻いた。これまでの敵と異なり、理知的で冷静な相手である。やりにくい、というのが正直な感想だった。

 

 隣で両者のやりとりを見守っていた真希は、

 「……何者なんだ、本当に」

 警戒を怠らずに、敵の不思議な言動を怪訝に思った。

 

 

 

 



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閑話休題、休日の一日。その1

本編と関係ありません。思いつきです。二三日で消します。悪ふざけ回です。


 皆さんはご存知だろうか? 

 この世には二つの種類の人間がいることを。

 ひとつは富める者であり、今ひとつは貧しき者である。持つものと持たざるもの。両者の間には隔絶とした差があるのだッッッ!!

 

 

 ――即ち、この世は不条理であるのだと!!

 

 「手放しタピオカ」という単語をご存知であろうか? 巷で話題のタピオカミルクティーなる飲料物を女性の胸部に乗せて飲む。ただそれだけの行為である。

 だが、これには問題がひとつだけあった。

 

 「貧乳」には不可能である、という現実。

 

 

 ああ、無情!!

 

 1

 『現在、若い女性を中心に話題のタピオカミルクティーの有名店をご紹介いたします。本日お邪魔するのは……』

 

 鎌府女学院の食堂で、テレビ画面から放映されていた情報番組。広い食堂には少年一人の気配しかない。

 

 刀使とは本来、選ばれた少女にしか出来ない存在である。従って刀使を育成する学校の殆どは女子生徒で占められていた。ここ、鎌倉に所在を有する鎌府女学院もそのひとつであり、関東圏を管理する最大規模の学校である。

 

 しかし女学院――とは言い条、例外的に立ち入りを許された「少年」がいた。

 彼、百鬼丸十四歳である。

 

 

 暇を持て余す彼は朝食を食堂で摂り、ひたすらテレビを見ていた。

 

 画面には店舗の外まで連なる行列から映し出され、場面が切り替わり褐色の液体の底に沈殿する球形の粒粒とした透明な物体を撮影していた。

  

 何気なくそれを見て一言、

 「ほ~ん、タピオカか。蛙の卵みたいだなぁ……」

 鼻をほじりながら画面を眺める少年……百鬼丸がいう。彼は、荒魂を退治できる例外的な存在であり、かつ、その能力は計り知れない。その彼は今、椅子で船こぎをして、テーブルに足を乗せていた。誠に行儀が悪い。

 長い黒髪の間から、気だるげな眼差しで画面に映る飲料物とそれを話題にする人々の様子を見ていた。

 

 テレビのスピーカー以外は音がない。

 

 そもそも食堂には人が居ない。休日であり、当番の刀使以外は各々自由にしているのだろう。

 

 (まぁ、平和が一番なんじゃろうなぁ……。)

 

 肩を緩く落とし、息を抜く。久々の休暇というのも良いものだと思った。現在の時刻は午前九時。窓際から注ぐ陽光が穏やかで、気分が安らぐ。

 百鬼丸は、珍しく暇を持て余していた。昨日の荒魂を大規模に狩り尽くした影響であろう。

 

 番組はさらに続いていた。

 『え~、このタピオカミルクティーなんですが、現在SNSを中心に話題になっている〝手放しタピオカ〟という方法をちょっとご紹介いたしますね!』

 若い女性レポーターは、明るくはしゃぎながら豊かに揺れる「胸部」を強調して、そこにプラスチックボトルを置き、太いストローで啜る。

 

 ゴクリ……。

 

 百鬼丸は、やましい視線を送りながら手近にあったチャンネルの音量ボタンを容赦なく上げる。鼻息が荒い。

 

 「ムムム、これはまずい。非常にまずい事態だ。こんなモラルの崩壊したような内容絶対にクレームがくるだろうなぁ、ムムム……。しっかりこの眼で焼き付けないとイカンなぁ、ムムム」

 難しい顔をしながら百鬼丸は目を血走らせて、食入いるように凝視する。

 

 そういえば、以前「突発性巨乳恐怖症候群」に襲われていた彼だったが、益子薫のペットである荒魂「ねね」と共に、巨乳への恐怖症を和らげたことがある。

 ――従って、現在はその反動で巨乳そのものに、意識が集中するのだ!

 

 腕組みをして、百鬼丸は眉間に深い皺を刻む。

 

 

 

 「ふぁ~あ、ねみぃ~」

 と、食堂の入口から人の気配がした。

 眠たげな声音で、目を擦る一際に小柄な人影。薄桃色の髪色をツインテールに束ねた少女、益子薫である。

 喉が渇いて、食堂のウォーターサーバーまで水を取りにきたようだ。

 

 「ヴッッツ!!」

 口と鼻から色んな液体を勢いよく噴出した百鬼丸。

 テレビ画面に夢中で、まったく人の気配を察知できなかったのだ! 南無三。

 

 「「あ……」」

 と、薫は途中で立ち止まった。百鬼丸と視線が交錯する。

 大音量で垂れ流される、胸部の豊かな女性の上に乗っかるタピオカミルクティー。

 「ねねーー」

 薫の肩に載っていた茶色い生き物、荒魂である〝ねね〟が百鬼丸のもとまで駆け寄った。この「ねね」もまた、胸部の豊かな女性に異常な興味を示す。

 

 走り去るペットを無視して、薫はジト目で百鬼丸を睨めつける。

 「おい、お前。朝っぱらからなにを見てるんだ。しかも大音量で」

 薫の冷ややかな非難の声に百鬼丸はプイッ、と顔を逸らして明後日の方向に頭を回す。

 

 「ちがう。これはおれの仕業じゃない。なんか勝手にこうなった」

 

 「ああ、なるほどな。あるある……って、んなわけあるか馬鹿野郎! この食堂にお前しかいないのになんでそーなんだよ! しかもチャンネルお前のすぐ近くにあるじゃねーか!」

 息を巻いて薫は突っ込む。状況証拠だけでギルティだ。

 

 「ちがう。ちがう。全然違う。……うん、なんか勝手に、その、あの……」

 段々と言い訳が苦しくなったように、冷や汗が百鬼丸の顔に流れる。

 

 あくまで否定の姿勢を貫こうとする百鬼丸少年の頑張りに折れたように薫は「はぁ~」と小さい溜息をこぼした。

 

 「なんだお前。本当はエレンみたいに胸がバインバインな女が好きなのか?」

 呆れたように言う。エレン――とは、薫のパートナーである金髪碧眼のハーフ、古波蔵エレンの事を指していた。

 彼女のバストは恐らく現役刀使の中でも一二を争うのではないだろうか、と噂されている。

 

 しかし、百鬼丸は頭を元の位置に戻し、

 「違う。ねね師匠との修行の成果だからだ! な、師匠!」

 と、百鬼丸の腕で頬ずりをしていたねねに視線を落とす。ねねはただ、「ねね?」と不思議そうに首を傾げる。

 

 「ったく、お前らは本当に馬鹿なんだな」

 と、文句をつけた。

 

 言いながら、薫は百鬼丸の対面の椅子に移動して腰を下ろす。

 そのまま、テーブルに細腕で肘を落ち着け頬杖をつく。

 「なぁ、黙ってて欲しいか?」

 悪巧みをする時特有の、意地の悪い顔つきでニヤニヤ笑いながら百鬼丸に問いかける。

 「ムグッ」と、呻き百鬼丸は素早く首を上下に振る。

 「へっ。最初からそーして素直に言えばよかったんだよ。オレは今日非番だから一日中寝てようと思ってたが、予定変更だ。おい、百鬼丸」

 

 「む?」

 片眉を上げて、薫を一瞥する。

 

 「せっかくだ。他に空いてる刀使の連中に連絡して、どこかに食べ歩きするぞ」と、提案した。ニヤニヤの意地悪い笑顔がさらに凶悪になったような邪悪な表情だった。

 

 

 「――ブフッ、な、なぜだ! おれは今からパチンコパチスロして競馬して酒を飲む予定なんだ! 大忙しなんだぞ!」

 

 「悉くクズの一日じゃねーか! 却下だ却下! それともなにか? さっきのお前の行動を色んな奴にバラされたいのか?」

 

 鋭い薫の視線に、思わず百鬼丸はブンブンブンと首を横に振る。

 

 「――よし、じゃあ決まりだ。他に予定の空いてる奴らは……」

 

 携帯端末を取り出し、連絡先の一覧をタップしていた。

 

 (なぜだ、なぜこうなる!?)

 漢百鬼丸、彼は心の中で泣いていた! 大号泣である! 博打を禁止され、飲酒を禁止され、最早彼には楽しみがなくなったのである! 

 

 

 



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閑話休題 休日の一日 その2

 1

 早朝、道場の木床には窓格子から射す青い光が冷たく反射する。

 「すぅぅぅーーーっ、ふっーーーーーっぅう」

 鼻でしっかりと空気を吸い、口で吐き出す。いわゆる腹式呼吸であるが、ある程度のリラックス効果があるらしい。実際、日々の習慣にしてからというもの、頭が冴える気がした。

 「よぉしっ!」

 明るい声でばん、と両頬をつよく叩いて自らに喝を入れる。真っ赤に染まる位に力強くないと弛んでしまう気さえした。

 衛藤可奈美は日々の日課である朝の鍛錬を行っていた。

 サッ、と紺の袴の片膝を立て左側に置いた木刀の柄を素早く手に取る。木質の手触りがよく掌に馴染む。キリッと眉が厳しくなる。

 横に一薙ぎ、無駄なく斬り込んだ。空気を鋭く裂いた音が広々とした道場の空間に一瞬、響く。

 ……静寂。

 道場には人の気配は可奈美以外にない。

 甘栗色の髪と、左側に結んだ黒いリボンが微かに震える。薄く開いた瞼から琥珀色の瞳が迷いなく輝いた。

 

 

 剣術における最も重要視されるもの――「初太刀」

 

 これは、剣士であれば当然知っている摂理である。剣士の最も価値をおき、そして剣士としての生き様を示すための指標といっても過言ではない。

 剣術において、二の太刀以降は流派によって価値観やその他の捉え方が異なるものの、敵と対峙し最初に打ち込む剣を蔑ろにする流派は存在しえない。

 武士が未だ戦士であった頃からこの思想に変化はない。下って江戸期における剣術もまたこの思想を継承している。

 

 「はぁ~」

 可奈美は、急に表情を柔らかく肩から一気に力を抜いて全身の筋肉をリラックスさせる。少女は思うように理想の初太刀が決まらないことに悩んでいた。

 「う~ん、なんでだろう? もっとこう…………無意識から初動の腕の位置を変えた方がいいのかな?」

 困ったように眉を曲げて、立ち上がると両手で木刀を握り正眼に構える。

 ビュン、

 

 ビュン、

 

 ビュン、

 

 と、まるで鶺鴒の細いしなやかな尻尾を連想させる速度であった。

 次々に繰り出される木刀の刀身は機敏に素早く、まるで躰の一部のように自由自在に動く。可奈美のもう一つの腕とでも言える程のコントロール。

 

 しかし、可奈美は一旦真正面に木刀を戻して表情を曇らせる。

 「もっと、こう……一太刀ひと太刀がしっかり決まるためには……」

 一々、自身の足運びや重心位置を確認して不手際がなかったかを丹念に調べる。床をけるタイミング、足裏に感じられる僅かな上体の重量。

 幾千幾万ものイメージを練り上げながら可奈美は、常に変幻自在に身体が反応できるように頭と躰を一致させる努力を試みる。

 

 「うーん……」

 首を捻りながら、可奈美は動くにつれて薄く上気する赤味を帯びた頬に伝う汗を拭う。

 

 

 もっと強く高みを目指す為、剣を振るう。

 この力は大勢の人を守るのだと思うと自然と力が篭る。

 

 ――もっと、集中して。

 

 ――もっと、なめらかに手足を動かして。

 

 ――もっと、もっと。

 

 

 

 どれだけの時間が経過したのだろうか?

 

 不意に、

 『おーい、可奈美。いまいいか?』

 

 開けっ放しの道場の出入り口から少年の声がした。

 

 ――不意に聞こえた声音に可奈美はサッ、と首を回して確認を行う。

 

 

 「――?」驚きに目を見張り可奈美は、眉を開いた。「はぁ……はぁ、……百鬼丸さん!?」

 

 

 荒い息をつきながら垂れ流れる夥しい汗を手の甲で拭い、ひどく困惑した。可奈美の柔らかな下唇は、鮮やかな桃色に染まり艶かしい印象を受けた。

 無論、血の気がよく通っているに過ぎない。

 

 

 2

 「うむ、お疲れ様だな」

 百鬼丸はタオルとペットボトルのスポーツドリンクを渡した。

 裸足の百鬼丸は道場を闊歩しながら落ち着きなく歩き回っていた。

 

 可奈美は道場の壁際に背中を合わせて、

 「あ……えへへ、ありがとう」

 困ったように微笑を浮かべて、会釈するように頭を下げた。

 

 ――と、立ち止まった百鬼丸は、

 「いんや、それは舞衣に渡されたんだ」軽く否定した。

 

 

 

 

 「舞衣ちゃんに?」

 疑問に首を傾げる可奈美。落ち着いたようで壁から離れて床にひかれた白線の辺りまで歩く。

 

 

 「うん、可奈美を探している途中にちょうど舞衣に出会ってな。ほんで話したら納得したみたいで『可奈美ちゃんなら一番人の少ない道場じゃないかな?』って教えてくれながら、おれにタオルとドリンク渡して来たんだ。謎だな、謎……」

 

 

 「うーん、なんでだろう? 舞衣ちゃんはいつも朝の練習終わりに必ず待っててくれてるんだけど……あ、百鬼丸さんの用って何かな?」

 答えの出ない疑問は後で直接本人に聞くことにして、百鬼丸の用事を聞こうと話題を移した。

 

 ズカズカと少女に近づいた百鬼丸は腕組みして、

 「む。そうだ。今日は暇か? 用事とかないか?」

 と、直球で聞いた。

 

 「――予定……って、うん特に予定はないかな。大丈夫だけど何かあったのかな?」

 

 「む? む。薫に言われて可奈美に声をかけたんだ。なんでも食べ歩きとかするらしいぞ。詳しい内容は知らんがな。……別にイヤだった断っていいぞ」

 

 「――どうして? 全然嫌なんかじゃないよ!」

 くりっ、とした大きな瞳を燦めかせて否定した。と、思い出したように、

 

 「あ……今何時かな?」尋ねる。

 

 この道場には時計がない。

 

 

 「うむ? 九時十五分とかじゃないか?」 

 

 「えっ!? うそ、もう九時過ぎてるの――」

 愕然とした様子で可奈美は、百鬼丸の顔を見返す。体感としては三〇分くらいだと思っていたのだ。

 

 肩を竦めて、

「つーか可奈美は何時からここに居るんだ?」

 百鬼丸は訊ねた。本心から呆れている。

 

 下唇の辺りに人差し指を当て、

 「う~んと、起きたのが四時くらいで……そこから準備してすぐに練習をしてたから……」 

 目線をさまよわせる。

 

 「待て、待て待て。なんでそんな早起きなんだ」

 

 「えっ? だって休日だから思いっきり剣術の鍛錬ができると想うとワクワクしてつい……エヘヘ」

 恥ずかしそうに、もじもじとしながら可奈美は両手の指をこすり合わせる。

 

 

 「……マジか。流石だなおれの剣術の師匠は。改めて尊敬するぜ」

 百鬼丸ですらも、若干引き気味で賞賛する。

 

 「いやいや。そうじゃねーや、おれはともかく可奈美はしっかり寝ないと任務に影響あるだろうから寝るんだぞ。いいな?」

 百鬼丸は珍しく他人を気遣う言動を見せた。

 

 「え……百鬼丸さんどうしたの? 急に心配してくれるのは嬉しいけど……」

 急な変化に戸惑ってしまい可奈美は、まったく少年の意図を掴めなかった。

 

 「うむ、可奈美は昔山で暮らしていた頃の山犬に似てて放っておけんのだ。無理をすれば必ず躰を壊す……動物も人も同じなんだぞ」

 百鬼丸は真剣な眼差しで、咎める。

 

 「あはは……ありがとう。でも百鬼丸さんから見ると私も犬みたいってことかな?」

 若干の立腹によって膨らませた頬で疑問を口にする。

 

 片眉をピクと上げた少年は、「――いんや、似てるけどそうは思ってないぞ。ただ最近はおれも〝人間としっかり向き合う〟ことを大切にしようと心がけてるんだ。言い方が悪ければスマン。しかし、どうだ偉いだろう、人を心配することができるんだぞ」

 百鬼丸はえっへん、といった偉そうな感じで胸を張って自慢する。

 

 

 「ワーイ、ウレシイナー(棒読み)」

 氷のように冷たく無表情に可奈美が呟く。

 

 「なんつー顔してんだ、全然嬉しそうじゃねーぞオイ」

ジト目でツッコむ。

 

 ふっ、と表情を緩めた可奈美は、

 「ふふっ。その、――えへへゴメンね。うん、百鬼丸さんありがとう、気持ちだけでも嬉しいよ。本当にすっっっごく!!」

 今度は咲き誇る盛夏の向日葵みたいな、華やかな笑顔で、返事をした。

 

 

 「お、おう……」

 眩しい、と素直に百鬼丸は思った。他意のない素直な言葉と満面の笑みは、正面から向けられたことが余りない為、どうしたらいいのか困ってしまう百鬼丸だった。

 

 後ろで束ねた黒髪を触り、後頭部を掻きながら百鬼丸は居心地悪そうに頭を可奈美から逸らした。――

 

 

 「あっ、あとで舞衣ちゃんにもお礼いわないと……」

 冷えたペットボトルを握りながら可奈美がいう。キャップを取ると、ごくごくと勢いよく飲む。運動によって失われた水分を補給する。

 

 チラッ、と百鬼丸は横目で利発な少女の様子を窺う。

 

 ――汗で湯気だった可奈美の首筋には汗が溢れ、白い道着の襟は大きく開き、細い鎖骨の辺りまで流れていた。白く可憐な喉の辺りは水音で潤されていた。

 

 「ん?」

 じーっ、と見ていた百鬼丸の視線に気がついた可奈美は、首にかけたタオルで汗を拭き取りながら、きゅぽっという可愛らしい音をたてボトルから口を離して、百鬼丸に差し出す。

 「――もしかして、百鬼丸さんも喉渇いてた?」

 唇の上に白い光の珠の尾が曳かれて小さく輝き弾ける。

 

 ボーッ、と少女を眺めながら百鬼丸は適当に相槌をうつ。

 「む? ……むむ、別に喉は渇いてないが……ちょびっと頂くか」

 と、百鬼丸はヒョイッと渡されたボトルを掴んで一口飲んだ。

 

 「はいよご馳走さん。うまかった」

 百鬼丸は言いながらボトルを返した。それを受け取りながら可奈美は、

 

 「そうえば、百鬼丸さんはなんで私の方みてたのかな?」曇りのない顔で言う。

 

 「そりゃあ、うまそうにグビグビ飲むからなぁ。あと、その唇なんか塗ってんのか?」

 

 「――え? ううん全然。でもどうして?」

 もう一度ボトルの飲み口に唇を当てようとする途中だった。

 

 「ああ、なんか色が綺麗だからな」

 

 ピョコッ、と可奈美の結んだ小さな髪が跳ねた気がした。

 

 

 「――――……。」

 可奈美は改めて、ペットボトルの飲み口と百鬼丸の顔を交互に見る。

 

 「む? そんなにイイ男だったか? あはは、ようやく気が付くとはお主やるな」

 普段通りの冗談をいいながらガハハと豪快に笑う百鬼丸。

 

 「え~っと、百鬼丸さん」

 

 「なんじゃ?」

 

 「それって……あの、どういう意味かな?」

 

 「ああ。だから可奈美の唇がいい色だって言ったんだぞ」

 

 「ええっ!?」と、素頓狂な声をあげながら可奈美は気恥ずかしさからか、急速に壁際ギリギリまで後退して、汗を拭いていたタオルで自らの口元を隠す。

 自然、少女の顔中が火照ってあつい。

 

 「――? む、なんで褒めたのにそんな反応なんじゃい」

 

 「えーっと、あはは……」

 歯切れ悪く可奈美が眉を八の字に曲げて、必死に口元を隠していた。素早く目線を百鬼丸から逃がしてゆく。……なんだか、彼女の呼気が短い。

 

 「――!?」

 漢百鬼丸、ここで脳髄に電流が走るッッッ!!!

 

 そう、以前……平城の刀使である六角清香に教えられたことが甦ったのである!

 

 『いいですか、百鬼丸さん。女の子は誰でも一回は壁ドンされたいんですっ!』

 

 『カツ丼? なに卵でとじられたいの?』

 

 『んもう、馬鹿ですか! 壁ドンですっ、壁ドン』

 

 『だから知ってるよカツ丼だろ。あれうまいよな』

 

 『…………いいですか、女の子が何か言いたげでモジモジしている場面なんかに有効なんです! 壁際まで追い込んでドン、って感じで躰を近づけて片手で壁を叩いて言葉を囁くんですよっ! あ、でも誰にでもやったらダメですよ? ――そうですね。試しに私にやっても……』

 

 

 (これか!?)←※絶対に違います。

 

 なんやかんやで、百鬼丸くんの脳みそから最適解がはじき出された瞬間であった! まさにコロンブスの卵、コペルニクス的転回である! 

 

 

 「えーっと、可奈美」

 

 「は、はいっ?」

 上ずった声で可奈美が返事をする。

 

 一歩、一歩と床板を踏みしめて可奈美との距離を縮める百鬼丸。可奈美は慌てて、逃げ出そうとしたが普段の冷静な思考回路ではないために、足踏みで時間を潰してしまい結局退路を失っていた。

 

 ドン!!

 

 と、超至近距離まで間を詰めて百鬼丸が腕を伸ばし背後の壁を掌で叩く。

 驚きと若干の期待の眼差しで、琥珀色の美しい瞳が上を向く。

 

 (しまった、なんか言葉いうんだっけ? え~っと、なんだっけ? 思ったことを言えばいいんだな? ははん、おれはさしずめ天才の部類だな。ええっと……)

 

 「可奈美……」

 

 「あの百鬼丸さん……そんなに近づかれると――私ほら、今汗臭いし……」

 うなじから汗の透明な雫が一筋流れた。

 

 「うぬ? 汗臭い? クンクン……いいや、臭くないな。いい牝の匂いがするぞ。あ、人間の牝は女だったかな? まあ、いい。いい匂いだゾ☆」

 ウィンクして太鼓判を押すアホ(百鬼丸)。

 

 はわわわわ……と、可奈美は訳のわからぬ声を出す。口を撓んだ縄みたいにして、目も渦巻き状にグルグルしていた。

 

 「可奈美――おれと」

 

 「う、うん……」

 俯き加減に頷く。甘栗色の前髪が目元を隠して、容易に表情が覗えない。

 

 百鬼丸はさらに、清香の言葉を思い出す。

 

 (ええっと、確か……うむ、そうか)

 

 背中を丸めて、可奈美の耳元へ口元を寄せて、息を吸った。ビクッと少女は一瞬だけ躰を硬直させたが――最終的には、決意したように目をつぶってしまった。

 

 「おれとパンケーキ? 食べない?」

 

 「……あの、えっと……今はまだあの――えっ?」

 

 「ん?」

 

 「「えっ!?」」

 

 両者は同時に驚きを口から洩らす。

 

 未だ、よく事情を理解していない可奈美が上目遣いに「どういうこと?」と言いたげな視線を送る。

 

 それに答えるように、

 「おれ〝たち〟とパンケーキ食べない?」もう一度念押しのように百鬼丸が告げる。

 

 

 「ふぅ、どうかな?」

 ひと仕事終えた感じでドヤ顔気味に百鬼丸は鼻高らかにいう。

 

 

 「~~~~~っさんの……」

 「なんじゃい、モゴモゴ言ってて聞こえんぞ」

 

 

 『百鬼丸さんのばかーーーーーーッっ!!』

 

 怒鳴るように滅茶苦茶でかい声で可奈美は右のアッパーを百鬼丸の顎にかます。ブゥオンという衝撃音と共に百鬼丸は「グヘェ」と呻き、宙を舞って華麗に地面に叩きつけられた。

 

 

 「百鬼丸さんのばか、ばかバカ!」

 目端に涙を浮かべて出入り口に走り出していた。…………

 

 ピクピク、と痙攣して口から泡を吹いた百鬼丸はしばらくノックアウトされていた。――彼の中で今更のように、数分前に薫からの忠告を思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 『なあおい百鬼丸。今さっき普段のメンバーに連絡を送ったんだが可奈美だけ連絡きてないんだ。可奈美は多分道場だからお前が呼びに行ってくれ。アイツ多分道場だと携帯端末もって行ってねーだろうからな』

 

 『おう任せろ!』

 

 『……大丈夫か? まあいいか。オレは一応色々準備するからあとで合流だ。……いいか、お前は適当に誘うだけでいいんだからな? 絶対にアホみたいな余計なことすんなよ? わかったか? 絶対だぞ?』

 

 『おいおい、任せてくれよ薫ちゃん。おれに不可能はないぜ!』

 

 

 『うっわーー、絶対にコイツしくじるだろ。本当に信用していいんだよな?』

 

 『任せろーー』

 

 

 任せろ、任せろ、任せろ…………連続で聞こえる声。百鬼丸は自分自身の自信満々な言葉が耳奥にエコーで聞こえていたのだ!

 

 

 全然ダメじゃん、おれ!!

 

 百鬼丸は薄れゆく意識の中からセルフで突っ込みをいれた。それと同時にガクッ、と首を垂れて意識不明となった。

 




まったく関係ないんですが、ネット小説を書く人読む人は音楽とか聞くんですかね? 何となくの疑問です!深い意味とかないですよー。


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121話

 「いらっしゃいませー」

 と、入店したコンビニの店内で若い女性店員がいった。

 適当な食料品を買うのであればスーパーに寄るべきなのだろうが時間が惜しい。他にもホームセンターでも買う物があると少年……百鬼丸が言った。

 

 

 海老名から一旦降りて、東京方面へと高速道路を乗り換えた。大井PAから降りて海岸線沿いに出て現在に至る。

 

 清潔な店内をうろつく、黒髪を後ろ髪で乱暴に束ねた少年の後ろ姿を眺めながら、

 (……一体コイツはどこに行くつもりなんだ?)

 不審に思った。

 高速道路で突然現れ、行動を共にすることになったフリーの記者である柴崎岳弘は今更ながら不安を感じていた。記者の勘だけでつれてきてしまった。

 

 軽い疲労の吐息をつきながら、レジでコーヒーと普段は吸わないタバコを買った。

 タバコの箱をポケットに仕舞おうとすると、

 「メビウスですか……おれはラクダが良かったんですけどね」横から百鬼丸が、不満げに呟く。

 「キミは未成年だろ? こんなモノ百害あって一利なしだぞ」

 窘めると、

 「まあそうですね。ただタバコも酒もやる奴らはみんな〝躰に悪い〟って嘯いて結局楽しむんですよ。ま、おれもですけど」大袈裟に肩を竦めてみせる。

 「ははは」

 百鬼丸少年の痛烈な皮肉に思わず笑った。

 確かに――そうかも知れない。もう随分前に死んだ爺さんも似たようなことをほざいていた気がする、と岳弘は思った。

 

 

 ふと、

 「ねぇ、あのお客さんまた――ほら」

 「えっ、ウソ。また……」

 レジの前で先程の若い女性店員とオバさんの店員が何事か話し合っていた。

 彼女たちの視線の先に岳弘が目をやると、成人誌のコーナーに佇む老人を発見した。後ろの辺りだけ白髪が残り、それ以外が全部禿げ上がっていた。

 海辺に近い立地だけあり、乾いた冬の風が外に吹き付けるにも関わらず、その爺は黄ばんだランニングシャツと、色褪せたステテコを履いていた。ゴムサンダルが侘しい感じを漂わせていた。

 大きな鼻からは鼻毛が伸び放題で、口端からは涎が透明に薄く垂れている。

 (浮浪か痴呆の老人か……?)

 風体から推察するに、そんな類だろう。

 岳弘は暫く爺を観察する事にした。まず、老人は成人誌を物色し始め、目当ての表紙を決めると、なんの躊躇もせず開封防止の青テープを剥がす。

 「はぁ!? おいおいマジかよあのジジイ」

 思わず素頓狂な声をあげ、岳弘はレジの方に目を向けた。女性の店員たちは呆れたような顔で店奥の電話から警察に通報する準備をしているようだった。

 

 

 ま、当然か。と思いながら老人に意識を自然と向けていた。

 ステテコの股間部に右手を突っ込み、「アレ」を致していた――。

 

 「…………。もう痴呆老人だな」心底呆れた声で言った。

 岳弘が車に戻ろうとした、丁度その時だった。

 先程まで隣にいた百鬼丸が居ない。首を店内に巡らせると、あの老人に近寄り声をかけていた。

 

 「――あ、ああ」

 岳弘は面倒なことになったな、と頭を掻いて様子を見ることにした。百鬼丸にも何か考えがあるのではないかと推察した為である。

 若干遠い距離があるのと、店内のBGMで音が聞き取りづらいので、仕方なく耳を澄ます。

 

 

 『おい、自慰さん』

 

 『んじゃい!』

 

 『おれの両目を見ろ』

 

 『ええい、黙れこのクソガキがッ……グッ』

 言葉を言い終わる前に、百鬼丸が無造作に爺の胸倉を掴み睨む。その威圧を受けた人間は悉く大人しくなる。――あの老人もまた、同様に動作と止めて百鬼丸の目を、言われたとおり見た。

 

 ――瞬間。

 百鬼丸の瞳孔の辺りに閃光が走った気がした。

 

 百鬼丸には、《心眼》という能力がある。

 簡単にいえば、相手の心を読むことなどができる便利な能力である。逆もまた然りであり、要するに言語を交えず相手との意思疎通を図る方法であった。

 

 三秒……五秒……沈黙と視線の交錯だけが両者の間に流れていた。その異様な雰囲気に気圧され、先程通報しようとした女性店員たちも動きを止め、様子を覗っていた。

 

 「おいおい、どーすんだお前」岳弘は思わず不安を漏らした。

 

 しかし、そんな彼の心配をよそに、百鬼丸は老人の痩せた躰を突き放して不敵に笑う。

 

 「爺さん。アンタ……今から向かう場所まで一緒に来るか?」

 唐突な申し出に、岳弘――より寧ろ老人が怪訝と好奇の混ざった目線を向ける。

 

 「どういう意味だ?」

 

 「言葉通りの意味だ。《帝都地下坑道》って言えば解るか?」

 

 その単語を聞いた瞬間、老人は眠たげだった目をギョロリと開いて、驚愕に表情を固めた。

 

 「おい、貴様ッ!! なぜその言葉を知っている……」

 

 「その様子だと知ってるんだな。……アンタはこの地域を徘徊してるフリをして入口を探してたんだろ?」

 

 百鬼丸が鋭く問うた。心を読んだ為であるが、それにしても核心を衝かれた老人は驚愕から一転して表情を苦々しく変え顔を背ける。

 「……ふん」

 

 意固地になっている相手に百鬼丸は、最後に畳み掛けるように穏やかな口調で告げる。

 「爺さんの探している人があの〝場所〟にいるんだろ?」

 

 その一言が決めてだった。

 老人は無言だったが……最後には折れたように頷き、躰から緊張した力を抜いた。

 「そうだ。……わかった。お前に協力しよう。それで? 何が目的だ?」

 

 「――おれも人を助けに行くんで。アンタの記憶を頼って地下坑道を探索するつもりだ。これでいいか?」

 

 「ふん、まあいいだろう。お前のようなクソガキの癖に纏う殺気は今まで味わったことのないもんだったわ!」

 文句を言って、掴まれた胸倉を乱暴に解く。

 

 「じゃあ決まりだな。今から……」

 

 「まあ、待て」

 

 「なんだよ」

 

 「貴様、名前は?」

 

 「おれは百鬼丸。爺さんは?」

 

 「ワシは松崎虎之助だ。……さ、人に頼みごとをするなら、ワシから申し出る」

 

 「んだよ」

 傲慢な態度になった老人に、面倒くさそうな百鬼丸は先を促す。

 

 

 「このエロ本を奢ってくれ。ああ、そうだ。それから酒も追加だ」

 

 図々しい申し出だったが、百鬼丸は思う存分肺から空気を抜いた。ここまでバカバカしい爺だと真剣に怒ることもできない。

 

 「はいはい。わかったよ自慰さん」

 手をヒラヒラ動かして、頭を垂れる。傍から見ても随分疲れたような印象を受けた。

 

 

 

 

 遠くから一部始終を覗っていた岳弘も百鬼丸同様に呆れてしまっていた。背後を振り返ると女性店員たちも同じ気持ちだったらしい。顔にそう書いてある。

 

 「なんつうか、頭のおかしい連中しか集まってこないのは退屈しなくていいな」

 現実逃避とも言えるような気持ちで、自動ドアの出入り口を見た。もう全部投げ捨てて逃げようか? とも一瞬だけ思った。

 

 

 

 

 

 2

 

『それで、君たち〝元折神家親衛隊〟くんたちは自分たちの立場も弁えずに直訴にきた……と? 自分たちがどれだけの被害を周辺に与えたかも考慮せずに?』

 

 刀剣類管理局、その一角に広がる会議室。

 

 実務などのお偉いさん方が一堂に勢ぞろいしていた。

 

 刀剣類管理局や伍箇伝の関係者、また治安維持組織や政府の役人を含めた数十人が集まる長机に囲まれた会議室の中央で佇んだ此花寿々花は下唇を強く噛んだ。

 隣の獅童真希も、表情こそ普段通りだが、左の拳を強く強く握り締めていた。

 

 本来、彼女たちはこの場で処遇を決められ裁かれる立場であった。事情があり、先延ばしとなってきた。それが、為に発言の立場が弱い。

 

 「全くその通りです。ですが――」真希が反駁の口を開いた。

 

 しかし。

 素早く、発言が遮られて男がマイクから喋る。

 

 『此花くんはともかく、獅童真希。キミは単独行動でタギツヒメのノロ強奪事件に関連していると言われていた。一応の誤解は解消されたと言っても、残念だが疑念は尽きない。それに一度失った信頼というのは、自身でいくら弁護したって誰も信じない。残念だが……この場の誰も、君たちに全幅の信頼を寄せることは不可能だ』

 

 冷淡な現実を、突きつけられた。

 

 

 「……ッ」

 歯を食いしばって、真希は押し黙る。

 相手の言うとおりだった。いくら、折神紫が大荒魂に肉体と精神を支配されていたとはいえ、――それを知らずに付き従っていたとは言っても、現在の混沌とした状況に加担した責任から逃れることはできない。

 

 

 珍しく、焦りの滲んだ様子の寿々花が、

 

 「お待ち下さい。ですが、現状の戦力で有能な刀使は必要な筈ですわ。ですから……燕結芽の救出を」

 

 『まだ分からないのか? 普段であれば、刀使でも駆り出すことも検討するよ。だが、関東一円に散らばったノロと荒魂の被害で全国から刀使を借りて事態に当たっている現状、なぜ刀使一人に貴重な戦力を割くと?』

 

 「で、ですが!」

 

 『くどいッ!! いいか、君たちは一応司法取引で身柄は保留にされているが、本来ならば重罪人なんだ。刀剣類管理局前局長の折神紫も同様だ。貴重な刀使だから、だ』

 ――でなければ、こんな小娘たちなんかに、という囁きが聞こえた。

 

 

 「「…………。」」

 

 二人は俯いた。悔しさも勿論あった。だが、それ以上に結芽を助けられずに、こんな所で足踏みをせざるを得ない状況に軽い徒労を覚えていた。――最初から知っていた筈だ。会議なんて時間の空費で、結論なんて最初から決まっているんだ。だが行政もどこでも、お偉いさんが「全員が納得した」という事実が欲しい。

 ただそれだけの為に、こんな茶番じみた場が設けられている。

 

 親衛隊の頃から、こんな大人たちの下らないやり取りにも対応してきた筈だった。だが、自体が切迫した状況で、こんな足の引っ張られるような茶番劇など無意味でしかない。

 

 気が塞ぎ、諦めのようなものを感じていた刹那――

 

 

 『私からも発言を、宜しいでしょうか?』

 穏やかな口調であるが、断固とした意思で柔らかな声が聞こえた。

 

 「……?」

 怪訝に寿々花が頭を上げると、多くの背広を着た男たちの奥にポツンと座った線の細い女性が挙手をしている。

 

 折神家の当主代理……折神朱音である。

 

 彼女は、静かに話す。

 「確かに彼女たちの前歴や行動を快く思われない方々の意見、ごもっともだと思います。ですが、彼女たちが〝刀使〟として行動することを制約してしまうのも、現状にはそぐわない筈です」

 

 朱音の言うとおり、三女神が分離して争っている。ノロが関東で跋扈している。だからこそ刀使を必要としているのだ。『御刀』に見初められた、適合率の高い〝少女〟でしか刀使にはなれない。こんな単純な理屈はこの場の誰もが理解していた。

 

 ――まして、日本でも有数の刀使である獅童真希と此花寿々花であれば貴重であるのは尚更の事である。

 

 

 『ですが、彼女たちを信用してしまうのですか? 何の確証もなく? 我々はともかく、必ず不満をもつ人々だってあるでしょう』

 

 「ええ、それは当然です。――ですが、彼女たちの身柄が保留にされている理由はただ一つ。刀使としての勤めを全うしてもらう事。そして、我が姉――折神紫の過ちも同様です。ですから、私が彼女たちの全ての責任を持つ。これで如何でしょうか?」

 ニコッ、と優しく微笑みを周囲に向ける。

 まるで笑っているのに威圧しているようだった。

 

 だが、なおも、

 『し、しかし! 現在は貴重な刀使も、治安部隊の隊員も振り分けることはできない』と食い下がった。

 

 すかさず、

 「それで結構です! ボクたち……ボクと此花寿々花の二人で結芽を救い出します」

 真希が凛々しい眼差しと、堂々たる顔つきでダメ押しをする。

 

 

 『…………』

 最早、この場で彼女たちに公然と批判や反論をする雰囲気はなくなった。

 

 空気が変わり、親衛隊ふたりの処遇の話へと進み……やがて、会議は終幕を迎えた。

 

 

 

 3

 

 「ありがとうございました!」

 会議室を殆どの人間が出た頃合を見計らい、真希は朱音のもとまで駆け寄って深く礼を述べた。

 

 一瞬、キョトンとした朱音だったが「いいえ」と柔らかく微笑んで、真希を見返した。

 

 「なぜ……わたくし達の味方をして下さったのですか?」

 寿々花が言いにくそうに聞いた。

 

 「――貴女たちには姉の紫が……例え誤った行動をしていたとしても、信頼して付いてきて下さった。それだけで、私には貴女たちに感謝こそすれそれ以外の感情は持ち合わせてはいません」

 

 本心からの言葉だった。実際、折神紫が荒魂に憑依されていると知っていたらノロを体の中に受け入れるような愚行を侵さなかっただろう。また、進んでノロを回収しなかっただろう。……原因は、彼女たちにはない。

 

 朱音はそう考えていた。

 

 「……ボクたちはそれでも、多くを間違えてきたんです」真希が、ポツり呟く。忸怩たる思いがあった。

 

 

 「もうあまりご自分たちを責めるのはやめて下さい。それよりも、私もあの場で発言した手前で恐縮なのですが……力になってあげられません」

 済まなそうに眉をひそめて、詫びる。

 

 「――いいえ、そんなことはありませんわ」

 

 「ですが、人員もなにも……」

 

 寿々花は、青味がかった瞳を動かして、人差し指をおもむろに立てる。

 

 「お願い……というのは、一つ。折神家の出入りをさせていただきたいのですわ」

 

 単純なお願いに朱音は首を傾げた。

 

 「なぜ、ですか?」

 

 「書庫をお借りしたいのです。あの書庫には……わたくしたちの求める場所について、恐らく記されている筈ですわ」寿々花が断言する。

 

 朱音は頷いて、肩をすくめる。

 「分かりました。では早速手配いたします」

 

 と、いったところで、すかさず寿々花はもう一つ提案した。

 「――あともう一つ。首都高のある場所まで足になる車を手配していただきますわ」

 

 傲慢とも言える言い方だったが、交渉する場合――それは「決定事項」として伝えること。これが成功の鍵だと寿々花は知っていた。

 

 呆気にとられていた朱音だったが、

 「ええ、分かりました。それも付け加えましょう」

 一切の否定をせずに、受け入れた。

 

 

 (このお方に、浅ましい交渉術を――。)

 寿々花は自らが、相手を信頼しきれずに威圧的な交渉術に頼ったことを悔やんだ。

 「先程の無礼、お許しください」

 すかさず、少女は頭を下げて詫びた。

 

 プライドが高い……だけではないのが、彼女の強みである。自身の失態を必ず客観的に見て反省する。だからこそ剣士としても参謀としても優秀なのである。

 

 「……いいえ。それより燕さんが助かることを祈っています」

 朱音は、そういってふたりの肩に手を置いた。

 

 

 

 

 4

 

 「ふふふっ……」 

 周囲が点滅する巨大な空間の中、寿々花は思わず忍び笑いを洩らす。

 ここまで来るのに至る苦労を思い返す。自然と眼前の巨大な異形の大男から与えられる恐怖が薄らいだ。

 

 「――どうしたんだい?」

 怪訝に思った真希は、隣から心配そうに顔を向ける。

 

 

 「いいえ、何でもありませんわ。ただ結芽を救って――一刻も早く親衛隊としての責務を果たそうと思っただけですわ」

 

 「ああそうだ。また親衛隊で揃って、お役目を果たす――悪くない未来だ」

 

 「いいえ未来なんかではありませんわ。予定……そう、予定になっていますもの」

 意地悪い口調で、寿々花は苦笑した。

 

 ――ああ分かっている、だから今相手を倒して先に進むんだ。

 

 と、真希が力強く応じる。

 



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閑話休題 休日の一日 その3

 鎌府女学院の校舎は、前身である鎌府高等学校からの校舎をそのまま引き継いだ。……関東全域を警護の領域に収めるため、規模も人員も他の伍箇伝とは異なり、巨大である。しかし、明治維新の学校令の段階から刀使を育成する機関として創設された歴史を持つ。

 

 午前も終わりに近い時刻。

 穏やかな日差しが鎌府の学内に降り注ぐ。緑青に蝕まれた某かの銅像に濃い色の影が落ちる。銅像の指先に宿った紋白蝶が、飛び立つ。

 

 赤い壁を蝶は漂う。

 

 モダン様式な赤煉瓦の壁面や中庭を庭園風に設えられた校舎は、随所にその歴史的な息吹を感じさせる。――が、無論それだけではない。

 

 学内の平和な風景の一角に、ミスマッチな直線的な輪郭が覗える。現代的で無機質な象徴とも言える灰色のコンクリートの構造物である。それが鎌府の敷地内に聳えていた。

ここは主に荒魂の研究を目的とした研究棟である。

 その入口を進むと、すぐに階段が現れる。

 ヒヤリ、冷気が皮膚を撫でる。

 奥を進むと非常灯が点るばかりで、お世辞にも居心地の良い空間ではない。無限に続くと思われるほど長い廊下の両側に配された扉。

 

 

 1

 廊下の深部を閉ざす重苦しい扉。

 

 この奥には、真っ暗な空間に青白いディスプレイの光が無数に点る。大掛かりな機械の駆動音が騒がしい。血管のように床に張り巡らされた電源を繋ぐコード。

 その地下研究棟の深層……と噂される空間で、粗雑な風体の少年が不満の声を上げる。

 

 「…………なんで、おれを呼んだんだ?」

 百鬼丸は、腕を組んで口を〝へ〟の字に曲げる。彼はとーっても不機嫌だった。それはもう大変な不機嫌である。

 

 目前の、

 「まあまあ、落ち着いて」 

 若干気抜けのした少女が宥める。

 少女、播つぐみはトレードマークとも言える黒髪のおかっぱ頭を軽く指先で掻いて、少年を観察していた。

 

 彼女、播つぐみは鎌府でも有数の優れた研究員であり技術者とも言えた。だが同時に学内では圧倒的な変人としても有名であるため、あまり人が寄り付かない。その彼女が百鬼丸に興味の眼差しを向ける。

 

 「う……なんだよ」

 眠たげな半眼の目つきは、薫を彷彿とさせるが、その眼差しの奥に潜む冷徹なまでの技術者としての〝分析〟をしようとする意思を感じた。不気味だがある種の熱意がヒシヒシと伝わる。

 

 百鬼丸の発言に対し、

 「七之里さんにお願いするつもりだったんですが……今回は断られましてね。ですから百鬼丸さんに御足労頂いたのです」

 

 「――御足労? おい嘘つけ。殆ど脅しだっただろ! なんでおれが〝単純セクハラ物所持罪〟とかいう意味不明な怪文書を回収するハメになるんだ! しかも、紙を回収していくとなんでか知らねーけどこの場所にまできちまったじゃねーか」

 

 「まあまあ落ち着いて」

 

 「落ち着けるか! そもそも、さっき可奈美にボコられてクタクタなのになんでこんな目に遭わにゃならんのじゃい!」

 ――先程、道場で可奈美に殴られたあと、その足でここに来たのだ。

 

 鼻息の荒い少年を両手で「どうどう」と言いながら批判を躱したつぐみは内心、

 (あれは、鎌府の噂を寄せ集めただけなんですけど……この様子だと真実らしいですね)

 と、思った。

 

 つぐみはビラの紙面を眺めつつ、仕方なく彼のフォローを入れる。

 「まあ、誰でもパンツを盗んだとか言われれば誰でも怒りますよね」

 

 「それは本当だ」

 

 「えーっと、だったら女性の胸部に顔をうずめて……」

 

 「あ、それも本当だ」

 

 「だったら……」

 

 「見てないけど多分本当だろうな。おれがやった気がする」

 

 「…………。」

 

 「なんだよ、そんなゴミを見るような目は」

 

 「よくわかりましたね。わたしの表情を見分けることができる人は少ないのですが」

 

 

 「いや、今このタイミングでわからねー方がおかしいだろ!」

 

 「そうですか。あくまで嘘をつくつもりはない、と」

 

 「まあな」

 ドヤ顔で百鬼丸は腕組みをして、なぜが清々しい顔をしている。「おれのモットーはつまらない嘘はつかない、だ!」

 

 

 (こんな下らない内容ならば、むしろ嘘でもついた方がいいのでは?)

 つぐみは素直な感想を持ったが、面倒なので喉元で言葉を飲み込んだ。

 

 

 「いや今はそんな事はどうでもいい。本題だぞ。なんでこんな姑息なマネをしてまで俺をここまで誘い込んだ?」

 

 「ああ、そうでした。実はですね、百鬼丸さんに飲んでいただきたいモノがありまして……」

 

 説明しながらつぐみは机の上に試験管を置いた。中身は濃い緑をしていた。

 「荒魂研究の副産物なんですが……試しに飲んでみて下さい」

 

 「なんの説明もなしかよぉ!」

 

 「はい」

 

 「……即答ってマジでクレイジーだなお前」

 ジト目で、非難がましく抗弁する百鬼丸。ばっちモノを見るように横目でビーカーを一瞥しながら、

 

 「これの効果はどんなもんを想定してるとか――」と、呟く。

 

 その言葉に反応して顎に手を当てて考え込むつぐみ。

 「百鬼丸さんとノロの反応をヒントにしたんです。その時に現出するいわゆる〝催淫効果〟に等しい快楽物質を検知しましたので、惚れ薬の一種だと思ってもらって構いません」

 

 

 「えーっ、やだ」

 

 「そう言わずに」

 

 「や!」

 

 「そこをなんとか。…………キャー百鬼丸サンカッコイイー(棒読み)」

 

 「いやいやいや! お前のそのクッソ無表情かつ棒読みで誰が『よーし、頑張っちゃうゾ』ってなるんだよ!」

 

 

 「……そうですか。やっぱりわたしのお願いはダメですかね?」

 目を伏せて、少し寂しそうな表情が浮かぶ。しかし付き合いの余りない人間からすれば普段の表情と遜色ない。例えば、つぐみと長い間柄の七之里呼吹でなければ分からない変化である。

 

 

 しかし。

 「………………飲むだけでいいんだな? 効果なくても知らねーぞ」

 居心地悪そうに、百鬼丸は試験管ビーカーを掴んで一気に飲み干した。少年は、人の放つ感情や無意識に敏い。それは、彼の特質に由来する。

 

 液体を全部飲み干したあとに「やってやったぜ」ってドヤ顔で親指を立てて微笑む。

 

 

 「えっ、全部飲んだんですか?」

 飲み終わってからつぐみは反応した。いい飲みっぷりに素直に感心していたらしい。

 

 「ファッ!? えっ、なに? これ全部飲むんじゃねーの?」

 

 コクンと頷くつぐみ。

 

 

 「…………どーしよ」

 百鬼丸は冷や汗を頬に垂らしながら、呆然とした。多分激ヤバな戦闘でもこんな焦燥感に駆り立てられないだろう。

 

 

 「どどど、どーしたらいい?」

 狼狽して頭を抱える百鬼丸は、助けを求めた。

 

 

 眉間に小さな皺を刻むつぐみは、再び考え込むように推測する。

 「恐らくですが……催淫効果と言っても、個人差がある筈です。セロトニン、ドーパミン、あと考えられる物質では……ああ、脳内麻薬だと言えば分かりやすいですかね」

 

 〝脳内麻薬〟とか物騒な単語が彼女の口から放たれた。

 

 「お前は鬼畜か!」思わず百鬼丸は叫んだ。人をあろうことか実験動物のように扱うとは何事だ! と、文句を言いたかった。

 

 「おれはこのあと予定があるんだ!」

 

 「そうなんですか? そういえば今日は休日でしたからね」

 

 「そうだ! お前のようなマッドサイエンティストにかまけている暇なんてなかったんだぞ!」

 

 「そんな照れます」

 エヘヘとはにかむ。

 

 「照れるなよ! どっちかって言うと悪口の類だぞ……」

 呆れ返る。それと同時に精神疲労が募って、最早これ以上喋る気力がない。

 

 「ご予定というのは、もしかして〝異性との行動〟ですか?」

 

 「う、うん。なんで?」

 

 「いいえ、それだとこの実験に丁度いいと都合がいいですね。ラクトンC10の分泌されるのは丁度刀使の少女期間と重なりますからね」

 

 「ほーん、つーことはさ。お前からも分泌されてんじゃね?」

 

 

 「あ」

 

 「あ、じゃねーよ!」

 

 「まあまあ。効果の発言する時間がどれくらいか分からないので楽しみですけど」

 

 「それを時限爆弾というのでは?」

 

 「……テヘッ☆」

 つぐみは無理やり表情を使っているせいで、頬といい筋肉がピクピク痙攣している。

 

 「テヘッ、じゃねーーーーー。まったくこのお茶目さん、ってレベル超えてるぞオイ」

 

 百鬼丸はふと視線を下げた。――そして、つぐみの脚部辺り、つまり『膝小僧』を発見した。不健康に青白い肌に、半月板。丸みを帯びた関節の骨が殊更に美しく見えた。

 

 ゴクリ、と思わず百鬼丸は喉を鳴らす。

 

 「? どうかされましたか?」

 

 「ひ、一つ質問だ。人体のパーツにも興奮する催淫効果ってあると思うか? おれは今、お前の膝小僧に滅茶苦茶興奮しているみたいなんだが……」

 

 「有り得ますね。膝裏には汗腺がありますので、そこから分泌される汗に含まれたホルモンの匂いで興奮する、もしくは膝小僧で興奮しているという事実から刷り込みが短時間で行われた可能性もありますね。……えっ?」

 長々と説明した挙句、つぐみは珍しく驚いた。

 

 「いまなんと言われましたか?」

 

 「お前の膝小僧、滅茶苦茶に興奮するぜ。思う存分ベロベロ舐めてみたいぜ」

 

 「…………すごく気持ち悪い発言で驚いたのですが――わかりました。研究の為なら仕方ないですね。どうぞ存分に」

 つぐみは逡巡を短く切り上げて覚悟した。

 

 「おお、マジか! さすが膝小僧だ」

 

 「ええ、これも研究のためですから仕方ないので……」

 

 

 『っんな訳あるかボケーーー』

 唐突に研究室の出入り口から、盛大な突っ込みがきた。

 

 

 二人が目をやると、そこには七之里呼吹がいた。

 

 

 




そういえば、どろろ最終回良かった(今更)。

最後のどろろのシーンもさることながら伏線回収に余念がなくて素晴らしかったですね。2クール目はオリジナルが多かったですが、うまくまとめた気がします。


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123話

 最後の《写シ》が剥がされた時、木寅ミルヤは最早自らの命は無いものだと覚悟した。

 泥濘に身を転がしながら、斬撃を躱したものの、足元を粘つきに取られて左肩を袈裟斬りに遭い《写シ》が消えた。勢いで地面に倒れこむ。もう一度同じ技を喰らえば、間違いなく死ぬ。

 下唇を噛んで、己の不甲斐なさを悔いた。

 

 ――戦いたくない。

 

 それだけの理由で防戦一方に陥り、結果――最悪の事態を招いた。

 

 麻痺した全身を励まし、ミルヤは再び泥濘の地面から気力を振り絞って起き上がる。

 

 その光景を別段面白くもなさそうに静観した少女は、

 「もう終わりなんですか?」

 呆れ返ったように、溜息を一つこぼす。

 小さな嘲り。

 鈴本葉菜は間違いなく殺しに掛かっている、そうミルヤは判断した。

 ふと、泥に汚れた視界を改め、周囲を窺うと樹木の裏にS装備独特の甲高い起動音と、深紅に尾を引く残光を確認した。……考えたくはないが、〝近衛隊〟専用のS装備であろうか。気配だけでも複数人が理解された。

 

 「なるほど、貴女だけではないようですね……ここにいるのは、少なく見積もっても六人。違いますか?」努めて冷静な口調で訊ねる。

 

 「さすがミルヤさんですね。前線の指揮を任されるだけのことはあるんですね……でも、わかったからって、この状況をどうやって打破するんです? ボクなら諦めてコチラ側につくことにしますけど?」

 

 「…………ええ、悔しいですが貴女のいう事は正論です。全く反論の余地もありませんね」

 

 「だったら――」

 

 「だから、なんですよ。例えここで諦めたら自分自身を許せなくなる……」

 

 「全くミルヤさんらしくないですね。前のミルヤさんだったらきっと合理的に判断してた。違いますか?」

 

 「鈴本葉菜。ええ、貴女の言うとおりです。……ですが、わたしは貴女方を助けることに〝いま〟決めました。調査隊に加わって……多くの惨状を目の当たりにしました。だから……いいえ、だからこそ〝いま〟あなた達を諦めたら誰が一体貴女方を救うんですか?」

 

 その言葉に、余裕の笑を浮かべていた葉菜の表情に、引き攣った怒りが走る。

 「な、なんですかそれ? まるでボクたちが……満たされていないみたいじゃないですか? 全然そう見えないでしょ? だってすごく幸せなんだから!! わかるでしょ?」

 取り繕ったように、叫ぶ。

 

 ――しかし、ミルヤは小さく首を横に振って否定する。

 「確かに鈴本葉菜。貴女の内心まではわたしは理解できないのかもしれません。ですが、なぜわたしの〝言葉〟に動揺するのですか?」

 

 「そっ、それは……」

 口篭る。……なぜだろうか。今まで散々追い詰めたと思ってきた相手が、ここにきて揺さぶりをかけた。そして、揺さぶりに大きく精神を乱されてしまっている!

 

 葉菜はサイドテールの髪を強く梳いて気分を落ち着かせる。

 「もう、遅いですよ。貴女はここで〝始末〟しますから――」

 左右に目配せして、葉菜は告げる。

 両耳のインカムに似た形状の機器と赤のバイザーを装着した綾小路の刀使……否、近衛隊の隊員達が姿を見せた。

 

 (終わり、ですね……わたしらしくもない言葉を吐いたのはきっと……いいえ)

 美炎たちとの短い連携の日々と、鮮烈に映った異形の少年「百鬼丸」が想起された。全身をボロ雑巾にしても使命を果たすのは、やりすぎていると思う。一方、この土壇場になって強がりを言える理由も、あのボロボロの姿に感銘を受けたからに他ならない!

 

 『やれ』

 短く、左手を振って冷淡に葉菜が命じる。

 

 その指令に合わせ、葉叢を擦る激しい音が周りを包囲する。逃げ場など最初からある筈などない。しかも刀使の能力である《迅移》や《写シ》も最早使用が不可能。

 

 ミルヤは泥だらけの半身を起こし、目を瞑ることなく最後までその瞬間まで目を開いておこうと決めた。

 

 時、夜。

 月が歪に空に昇っていた。山の緑の濃い匂いだけが鼻腔に絡みつく。

 

 白刃が月光に煌き、鋭い牙の如く襲いかかった。

 

 (美しい御刀にこの身を貫かれるのも……一興ですか)

 

 スローモーションに見える映像を眺めながら、ミルヤは普段の自分らしくもない冗談を内心で思い浮かべて、苦笑する。

 

 尖った鋒が青く筋を描き、骨肉を貫く――筈だった。

 

 しかし、先程まで夜闇に鮮烈な光を放っていた刃たちが、一瞬で消え失せた。いいや、正確に言えば遥か頭上高くに回転しながら踊っていたのだ!

  

 『えっ!?』

 

 『なっ!!』

 

 『ちっ!!』

 

 近衛隊の刀使たちが、口々に歯噛みする。

 

 「キヒヒヒ……お嬢さん。大丈夫かい?」

 直後に嗄れた老人の声が、どこからともなく聞こえた。ミルヤは一体何が起こったのか未だ理解出来ずにいた。そもそも声の主が居ない。どこにも姿を現さないのだ。

 

 呆然としたミルヤだった。だが、

 「何者ですか?」

 戸惑いを隠して、尋ねる。

 

 ソロリ、ソロリ、と草鞋を踏みながら叢林の横から出現する盲目の老人。

 奇形の後頭部が伸びた、ぬらりひょんのような風貌の男。

 彼の右手に持った竹竿の先端から細い糸のようなものが垂れ下がっている。よく見るとあれはピアノ線だ! その先端へ視線を辿ると、真向かいの梢に繋がっていた。

 ピアノ線は、丁度ゴールテープのように真横に張られていた。

 これでは、御刀を振り下ろしても鍔が引っかかって手元から抜けるのも道理であろう。

 

 「キヒヒ……オヤ、今日も大量の魚が釣れたのかい?」

 皮肉を漏らしながら竹竿を手元にたぐり寄せると、釣り針が空中を舞う。

 

 

 「……何者ですか」

 

 坂の上から葉菜が誰何する。

 

 老人は頭をゆっくりと向けて、涎に濡れた口端を手の甲で拭って不気味に哄笑した。

 「おれ? おれかい? 単なるちっぽけな乞食坊主さ。名前なんぞとうの昔に捨てたさ。……いまは琵琶を爪弾く、そうさね。琵琶丸。そうお呼びよ」

 白膜の両眼。大きく丸まった背中。小柄な体躯。痩身。

 

 〝弱い〟

 

 綾小路の近衛隊の全員が、その思いに駆られた。

 

 空中の御刀たちは次々と地面に落ちたが、幸いに近衛隊の刀使たちはうまく躱して自らの武器を再び手にする。

 

 「一つ忠告さね。お嬢さんたち。ここで退くなら追わない。……だが、刃を交えるんなら別だよ」琵琶丸の声音はどこまでも穏やかで、優しい。

 まるで孫を諭す祖父のようだった。

 

 だがその言い方が敵対する者としての矜持を傷つけられたと錯覚した。

 「もういいです。お二人をここで始末すればいいだけの事です!」

 正常な判断は、ない。

 彼が荒魂に憑依されていた、とでも事後報告すればよい。

 結論が出たが早いか、体勢を立て直した綾小路の隊員たちが率先して琵琶丸に殺到した! 四人が同時に包囲し、隙もない状態から《迅移》を発動し、切り刻む――筈だった。

 

 一般人相手にこれでもやりすぎな位だと思われた完全な包囲陣形も、この「琵琶丸」という男には全く問題がなかった。いいや、寧ろこの日が暗闇の夜であった事が、更に盲目の老人のアドバンテージとなった。

 

 

 《刀圏》

 

 それが老人の半径二メートル範囲に発生した。

 この領域に足を踏み入れたものは、全て切断の対象となる。まったく単純、故に恐ろしい技。

 琵琶丸の左指が五指全て跳ねた。

 琵琶の首を掴み、微かな白刃の煌きを外気に漂わせる。……が、チンという金属音を響かせるだけで終わりである。

 

 「――!?」

 ミルヤは一部始終を、ただこの老人から放たれる圧倒的な瀑布のようなオーラに圧倒され、一言も出せずにいた。

 

 ひとえに、剣士としての格が違う。

 

 爽やかな軟風が綾小路の刀使たちに触れたかと思うと、次の瞬間に、襲いかかった四人の刀使たちは全てドミノのように簡単に地面へ伏せた。

 

 ドサッ、ドサッ、ドサッ、と次々に聞こえる音に鈴本葉菜は戦慄した。

 

 ありえない、ありえない……。

 

 

 いま、目前で起こった出来事を理解しようとはせず、夢幻の出来事だと自分にいい聞かせようとした。

 

 ――だが。

 

 そんな内心を見透かしたように、琵琶丸が笑う。

 

 「キヒヒ……お嬢さん。こんな老人でもひとつ位は特技ってもんがあるのさ。特に夜なんてときはあんたたちよりも盲人の方が強い。闇と一緒に過ごしてきた年季が違うからねぇ」

 

 

 「な、なにを! タギツヒメ様が正しいッ!! この世界に矛盾を多く抱えている根本は我々人間の横暴に他ならないんですよ? どうして計画の邪魔をするんですか?」

 

 

 必死で弁疏する葉菜を尻目に、琵琶丸は泥濘に浸かったミルヤに手を貸して引き起こした。

 

 「……お嬢さん。アンタ勘違いしてるよ」

 

 「勘違い? なにをバカな。ボクたちが間違えてるっていうんですか?」

 

 「――さぁ? 間違いかどうかは知らないね。ただ、力に呑まれる人間はロクな目に遭わないよ。自分をしっかり持ちなよ」

 

 「――――ッッ!!」

 激昂した葉菜は、無意識に飛び出していた。先程の琵琶丸の実力より寧ろ、怒りが優ったらしい。左大上段から打ち下ろされる刃が、容赦なく痩せた躰へ殺到する!

 

 「お嬢さんは純粋だ。……信じたいものを最後まで信じることのできる強さがあるよ。残念だが今は違うみたいだがね」と、忠告する。

 琵琶の仕込み刀が煌めいたかと思うと、葉菜を包む《写シ》がいつの間にか消えていた。生身を晒した状態で、立っている。

 

 全身から力が抜けたようだった。気が付くと、振りかぶった御刀が地面にあった。どうやら手放していたらしい。

 

 刃を弾き、斬ったとでもいうのだろうか?

 

 目測でも二メートルは届いていない筈だ。

 

 (まさか、この距離からでも!?)

 

 刀使でもない、まして盲目の老人が、かような実力を秘めている。その事実を認めざるを得なかった。しかも、外科医のメスを操るように繊細に、斬撃には一切の痛みすら感じさせない。

 

 ――神技

 

 その場で、葉菜は膝を落とし完全な負けを悟った。

 「……どうして? こんなに強くなったのに? 勝てないの?」

 サイドテールが大きく揺れる。それは内心の動揺と比例しているようでもあった。

 

 

 「お嬢さん。いいかい? 人以上に強くなろうと思うなら、それはきっと不幸だ。……おれの知っている坊主に、そりゃあとんでもなくつぇえ男がいるよ。けどね、そいつは強いのにどうにも幸せには見えねぇ。失うからさ。失うから、強いのさ。しかも自分の大事だと思うものを切り離して始めて強さを得ているのさ。……アンタにその覚悟があるのかい?」

 

 「……ボクだって、ボクたちだってノロを受け入れた!!」

 

 「そうかい。…………ただね、本当に強い奴は弱い奴の心も解るのさ。あの坊主も、本当に強くて弱い奴の心を知っているのさ。だからとんでもなく強いのさ」

 

 そう言い残すと、琵琶丸は鈴本葉菜に背中を向けて歩き出した。

 「さて、そちらの手負いのお嬢さん。アンタも手当しねぇとな。血の匂いがするよ」

 竹竿を杖がわりに夜の山道を歩き始める。

 

 

 ミルヤは泥だらけの躰をなんとか叱咤した。

 「――ええ、助けて頂いてありがとうございました」

 そう言いながら、背後を何度も振り返って確認する。綾小路の近衛隊の面々は、撤退準備をしていた。……道の半ばで、未だ失意の底にいる葉菜を一瞥し、ミルヤは胸が締め付けられる感覚を覚えた。

 

 なにか、声を掛けようと思ったが、それよりも先に琵琶丸が横やりを入れた。

 「あのお嬢さんに、今必要なのは言葉や説得じゃないよ。時間さ。時間が解決してくれるのさ」

 呵呵と笑い、

 「さ、安全な場所まで送ってあげようかね……」

 しみじみと言った。

 

 この老人の正体が何者なのか、ミルヤは詮索しようとすら思えなかった。ただ、仙人が助けにきた――そんな非現実的なことだと、自らに納得させた。

 「とにかく、今は鎌府に戻って報告をしなければ」

 苦々しく言葉を噛んで、呟いた。

 



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124話

 東京湾を車窓から眺めつつ、

「そんで、どーすんだお前たち」

 松崎虎之助――と名乗った老人は、後部座席から訊ねる。

 「…………おれは助けたい奴がいるんだ。爺さんなら解るだろ? 地下坑道の内部が複雑だって事」百鬼丸は助手席で、腕を組み何かを考えるように答える。

 車が揺れるたびにガサゴソうるさい。

 既に、百鬼丸の要望通りホームセンターで必要な道具は買い揃えている。車の収納スペース一杯に用具を詰めていた。

 「ウウム」

 「だったら話は簡単。爺さんの目的は分からないけど、協力して欲しいんだ」

 「――フム? と言っても内部はもう当時のままかわからんぞ」

 「それも織り込み済みだ」

 二人の会話をずっと聞いていた柴崎岳弘は、小さく首を振る。

 「あくまでコッチとしては取材をしたいんだけどね……ま、そんな東京の地下に巨大な空間が広がってるってのは俄に信じがたいんだけど」

 その一言に、虎之助はピクと片眉を跳ね上げる。

 「……帝都――今の東京は、昭和一〇年に地下要塞を作り始めていた」

 「あはは、まさか――だってどこにもそんな資料は……」

 「ある筈がない。あそこはいわばこの国の〝禁忌〟となってしまったからな」

 「〝禁忌〟? なんだそりゃあ。当時の状況からして本土決戦の為とか陸作戦に備えて色々準備とか――?」

 「いいや。最初は違った。一時的な避難民の……関東大震災の教訓から、単なる退避壕のとしての意味合いでしかなかった。だが、いつしか別の意味で注目され、戦時体制に入ると、本格的な地下要塞になった」

 まさか、有り得ない。岳弘は頬の痙攣を抑えて、笑おうとした。

 だがこの老人の言葉には不思議なほどの真実味が感ぜられた。

 バックミラーを一瞥する。虎之助老人はコンビニで買った塩カルビ弁当をモグモグ食べていた。

 「どうして今更そんな話をペラペラと? 戦後にだってそんな話いくらでも出てきそうなもんですけどね」精一杯の皮肉っぽい口調でハンドルを握りながら聞く。

 「――ふん。信じるかはキサマら次第だ。だがこの先の話は日米にとっても連合国にとってもマズいものだからだ」

 「…………というと?」

 

 『〝ノロ〟による人体強化計画』

 虎之助老人は、ポツり呟く。

 

 「「なッ―――!!??」」

 その単語が、岳弘と百鬼丸の言葉を失わせた。

 

 「ははは……まさか。ノロは折神家の管轄だから――」

 「勿論当時の状況からして折神家は参与していた。だがそれ以上に折神家の裏として暗躍していたのが轆轤家じゃ。現在の影宰相と呼ばれる轆轤秀光が当主を務めるあの、家だ」

 

 「…………百鬼丸はどう思う?」

 喉の粘膜が乾いて、生唾をゴクリ呑みながら隣の少年へ話をむける。

 

 「おれの予想とはすこし違ってましたが――成程。でも腑に落ちない。どうして爺さんが今更地下に行きたいんだ? さっきの《心眼》でみたのはほんの一部だったんだ」

 百鬼丸は長い前髪を梳くように後ろに流して、口を結ぶ。

 

 

 先程まで饒舌といってもよいほどに喋っていた虎之助老人は、ふと口をつぐんだ。目を伏せ、割り箸を弱々しく握る。

 たっぷり時間をかけて息を吸ったあと、老人は憂いを帯びた眼差しで前方を見る。

 「ワシはただ大尉殿を……探したいだけなんだ」

 大尉殿、と言った虎之助老人の言葉にはいくつもの感情の篭った熱を感じられた。

 「あんなとこを人探しって……」岳弘は目を細める。

 「深くは言えん。だが、ワシは大尉殿の遺骨を拾う約束をしたんじゃ」

 老人は、それが揺るぎない覚悟と意思であるように、バックミラーを睨みつける。

 

 「ここでゴチャゴチャいっても仕方ないな。じーさんおれはアンタに協力する。だから行こう。コッチはもう覚悟してんだ。どんな奴がきてもおれがブチ殺す。その準備はしてんだ」 

 そう言いって、百鬼丸は包帯でグルグル巻いた腕を触り内部の仕込み刀と、脇に抱えた《無銘刀》の鞘に触れる。……内部に潜む凄まじい暴力的な〝渇き〟を感じていた。

 

 

 2

 すぅー、すぅー、と可愛らしい寝息をたてる少女を抱き抱えた轆轤秀光は、地下坑道の深部にある広い空間に繋がる長い階段を下りていた。

 燕結芽は撫子色の柔らかな髪を揺らし、眠り姫のように目を閉じていた。

 結芽は幽閉された部屋から出される際に、強力な睡眠導入剤によって意識が奪われた。……無論意識を奪ったのは、ニエである。

 軽い彼女を運ぶのは簡単だった。

 羽のように軽い体重。その結芽の寝顔を、秀光は慈しみをもって見守っていた。

 「ニエ。貴様はどう思う?」

 背後に付いてくる足音に問う。

 「どう思う、と言いますと?」

 新雪のように純白の髪と素肌、そして眩い輝きを放つ橙色の瞳が疑問に動く。

 「察しが悪いな。彼女の延命治療だ。まず上手くいく。……彼女のように、幼く才能に恵まれた刀使は得がたい。しかし、それだけではない。これは私個人としてのエゴだ。延命などしても、本来的に意味があるのか……」

 「…………〝父上〟の仰られることは難しく、この〝ニエ〟程度では分かりかねます」

 「――フン。そうだったな。貴様のような出来損ないにはその程度の知能しかないだろう」

 嘲りを込めた言葉で一方的に会話を打ち切った。

 

 

 

 冷気の湛えた巨大空間には大掛かりな機械や水槽、計器盤…………そして、ノロのアンプルをいれた容器が並べられた棚があった。

 太いコードが床に張り巡らされている。

 濃い緑の液体の中には、人間の手足のようなものから臓器まで、気泡をあげながらカプセル型の水槽に収められていた。

 その中央に祭壇のように設えられた寝台が一つ、部屋の中央にあった。

 夢はその寝台にゆっくりと置かれると、秀光はゴム手袋などを手にはめて準備を始めていた。

 「――彼女の命を救うことができてよかった。…………これは、私の数少ない罪滅ぼしになるか……ふん、年をとると独り言が増えたのかな」

 自嘲気味に、鼻を鳴らす。

 「――父上。幸い、百鬼丸の〝パーツ〟が彼女の肉体を延命させているようですね」

 ニエが遠くから冷静に意見を述べる。

 秀光は頷きながら手術の為の準備を着実に進めていた。

 「そうだな。奴にしては唯一褒めるべき部分かもしれんな。まあ、一時しのぎに過ぎんがな」口端を歪め、その口をマスクで覆う。

 

 「ニエ。貴様は侵入者を排除するかタギツヒメの余興でも手伝ってやれ。だが、一番は百鬼丸の討伐。それが最優先だ。まず貴様が負けることはないだろうがな」

 一回も振り返らず、秀光は告げる。

 「そのために色々と根回しをしてきた。この国は余りにも多くの善良な人間の犠牲に成り立ち過ぎたんんだ」

 彼、轆轤秀光の数少ない本音だった。ニエは彼の語を聞き頷いた。

 「分かりました父上。この未熟な存在にお任せ下さい」

 真っ白な髪を振って、踵を返すと暗闇の中へ沈んでいった。

 

 

 気配が消えたことを確認した秀光は、小さく息を吐いてゴム手袋越しに手の甲で結芽の頬を軽く撫でる。

 「君はよく頑張ったね。こんな方法で連れ出したのは許して欲しい――これは自己満足だ」

 秀光は言いながら、今まで命を奪ってきた刀使たちの顔も同時に思い浮かべていた。

 グッ、と唇を噛み締める。己の力不足によって誰ひとり救えず、結果として殺すしかなかった自身を、何度も呪わしく思っただろう。

 「おれは間違いなく地獄にいくだろうな。だが百鬼丸――貴様も道連れだ」

 憎しみの篭った目には煮詰まった歪な光が宿っている。

 

 

 

 

 3

 双葉が山城由依とバスで離別する少し前――――

 

「ええっ!? 双葉ちゃんと二手に別れる? って本気!?」

 山城由依はトレードマークの黒髪ポニーテールを大きく揺らし動揺を示した。

 京都市内を巡回するバスの中、隣の座席で車窓に額をつけて眠っている橋本双葉。彼女に憚るように口元に手を押さえ、声を潜める。

 「……それで、どうして葉菜ちゃんは今まで連絡くれなかったの?」

 『――ずーーっと、タギツヒメ側の行動を監視してたんですよ。ボクも一応近衛隊に入隊して内情を探っていたから随分手こずって……』

 これまで綾小路の内情をつぶさに連絡してきた優秀な諜報員である鈴本葉菜のことだ、信用に足るだろう。そう判断した由依は電話越しに頷く。

 「それで、今の話は本当?」

 『はい、山城さんの妹さんは綾小路の特別医療施設に身柄をうつされました。恐らく、ノロの研究……とか、その類だと思います』

 「――――ッ」

 由依は、背筋に恐怖が張り付いた。頬から冷や汗が流れる。

 言葉にならない衝撃が頭を直撃する。

 「で、でもまだ確証が……」

 『残念ですがボクがこの眼で見ました。確かに病院からの連絡はなかったかもしれません。でも――綾小路の系列で医療機関を通せば、警察権の一部を持つ伍箇伝ですから……』

 「…………。」

 今まで、刀使として活動してきたのはひとえに妹の医療費の捻出にほかならない。それ以外にも理由はあるが、やはり由依自身が強い原動力としているのは、妹だった。

 

 「でも、どうして双葉ちゃんと一緒じゃダメなのかな――?」

 『考えてみて下さい。彼女は親衛隊の側だった人間ですよ? いつ裏切るか分からない相手と一緒にいる方が寧ろ不思議です』

 

 ――確かにそうだ

 

 横目で、双葉の寝顔を一瞥した由依は疑念が頭を擡げた。

 信じたいとは思うものの、折神家で舞草と対立していた経緯がある。双葉は馬鹿ではない。個人的には相性も合う。だが、それとこれとは話が別だ。

 『それに、ボクが援護するので早く妹さんを奪還する……この方が先決だと思います』

 念押しするように、葉菜が告げる。

 

 携帯端末を持つ手が、つよくなる。

 (確かに葉菜ちゃんのいう通り……。)

 『いいですか、山城さん。仮にボクの言っていることにリスクが大きいと思うなら、リスクを分散させると思えばいいんですよ。ボクたちがダメでも双葉さんが何とかする。――どうですか?』

 

 この提案が決めてになった。

 由依はうつむき加減に立ち上がり、降車ボタンを押した。

 

 「ごめんね、双葉ちゃん――あたし、行かないと。あたしお姉ちゃんだから、さ」

 無理やりに作った笑顔で眠る双葉に笑いかける。

 

 そのまま、彼女は夜の市街へと消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 4

 結局、双葉はバスの運転手を半ば脅すようにして山間の大学病院へと向かわせた。その理由はただ一つ、山城由依の妹の安否を確かめる為だった。

恐らく、由依が消えた理由は「妹」という要因が大きいだろう。相手もそこを十分に理解している筈だ。

歯噛みしながらも、双葉は到着した夜の病院へと赴く。

 

 

「おい、お嬢ちゃん! 一体なんなんだよ!」

背後から投げかけられる疑念の言葉は、走り去ろうとする双葉の足と一時的に留めた。

「先程も言いました、わたしは刀使です――必ず、皆さんの安全は守りますから。ごめんなさい。今は説明できませんが失礼します」

肩ごしに強い口調でいう。

その気魄に気圧された運転手は、無心で頷いて少女が門に消えてゆくのを無言で見送った。

 

 

 

 

 

 

 

長い廊下……不思議と、大学病院だというのに、人の気配が感じられない。しかも電気は点灯しておらず、非常用蛍光灯が廊下に連続して点っている。

靴音だけが聴覚を支配する。

 

「なんなの……、どうして――?」

まさかこの場所に来ることを予期していた? だとすれば、こんなにも大規模な方法でたった一人の刀使を出迎えるのだろうか?

――有り得ない。

しかも、この病院はノロの濃密な匂いがする。

双葉自身、ノロの残滓を躰に宿している為にわかるのだ。

嫌な雰囲気の中で、扉の前にかかったプレートを一瞥する。

(ここか……。)

由依の妹が入院していると思われる病室。

呼吸を整え、スチール質の把を握る。

 真鍮色の鈍い光が輝いている。手中の冷たな硬い感触が不快だ――。

 扉。ただ、空間と空間を仕切るだけの四角い物体が、今は異様な響きを持って聳えて見える。

 最初に人間が「人間種」としてこの地上に生を受けたのは、一体いつ頃なのだろうか?

 そんな他愛もない空想を時々する。

 なぜ、人間が氷河期を超えどんな確証があって――この世界を巡ったのだろう。

 

 

 『……やはり、貴女が来ましたか』

 

 無為の思索を破るように、背後から声が聞こえる。

 たっぷりと息を吸って、双葉は振り返ることにした。

 「お久しぶりですね。夜見さん。――ここに居るってことは、全部お見通しってことですよね。わたしの考えも全部」

 冷や汗を頬に感じながら、尋ねる。

 相手は廊下の夜闇の奥に潜んで姿が見えない。けれども変わらぬままだ、と直感で双葉は思った。

 「多分、山城由依の妹が病院に居るのを拉致する……そういう流れだと〝思わせる〟ことが夜見さんの目的だったんですよね?」言いながら双葉はすでに抜刀している。

 

 相手の構えを見据え、

 「ええ。流石です。この短時間でこちら側の意図を読んだのは素直な賞賛に値します」

 無感情に、夜見は冷たく言い放つ。

 

 「――っ、いい加減にしてください! 夜見さんは一体なんの為に闘っているんですか? タギツヒメの目的だって分からないのに……こんな、無意味なことをしてどんな意味があるんですか!?」

 

 正眼に構えた御刀の鋒が震える。

 刀は心を正直に映し出す鏡。すなわち、双葉の心の揺れが直接伝わっているのだ。

 

 「――双葉さんにはどうでもいいことです」

 そう言って、一歩二歩、と確実に歩を進める。闇から現れた皐月夜見は、以前と変わらぬ得体の知れない雰囲気を醸し出していた。ただ、今回は彼女の周囲に鋭い殺気を纏っている。

 

 ゴクリ、と思わず双葉は唾を呑む。

 これが本気の皐月夜見。

 親衛隊第三席と言われながら実力を公に示す機会がなかった不遇の人。

 ――だが。

 双葉は誰よりも知っている。

 彼女が一流の剣士であることを。だからこそ、始めて真正面から対峙した時に、こうして肝が冷えるのだ!

 

 「一つ、忠告です。貴女では私に勝てません」夜見が降伏を勧告する。

 

 「お気遣いどうもありがとうございました。丁重にお断りさせていただきますね」

 なるべく陽気に双葉は軽口を叩いた。

 「わたし、ここで勝ちますから。……勝ってもう一度、親衛隊の皆さんの所に連れ戻しますから。覚悟しておいて下さいね」

 本音をぶつける。そして、《写シ》を体表に貼り、固い決意をした。

 

 

 「…………私にはもう関係がありませんので」

 小さく、微かに聞こえないように夜見は呟く。口角が一瞬だけ痙攣するように動いた気がした。

 

 

 直後、鋭い共鳴音が病院の廊下に谺する。

 

 金属同士の激しい衝突、撒き散らされる火花。夜に小さく咲いた線香花火の繊細な花弁すら連想させる形状をしていた。

 

 「っ、やっぱり強い!!」

 夜見の斬撃を受け止めながら双葉は、苦く呟いた。……実際、彼女の力は刀使の中でも有数のものである。だが自己評価の低さと裏方の任務ばかりで、その能力が過小に評価されているに過ぎないのだ。

 

 「……どうされましたか?」

 普段通りの表情。

 普段通りの言葉で、双葉に尋ねる。

 

 (――っ、この人本気だ! 本気でわたしを殺しにきてる!)

 分かってはいたが、実際に剣を合わせることで彼女の決意が理解された。甘い、戯言の期待は打ち砕かれた。

 それと同時に、

 「……だ」双葉は拒絶する。

 

 

 「……?」

 不審に首を軽く傾け、夜見は距離をとる。なにか双葉が起こす可能性を考慮した為である。

 

 「いやだ! いやだ! 絶対にいやだ! 夜見さん、ねぇ帰ろう? 一緒に……。本当は斬り合いなんてしたくない! あの時……百鬼丸にいさんに出会って取り乱してた、わたしの失敗も優しく受け入れてくれた夜見さんと、こんな事したくない! 貴女がなんとも思ってなくてもいい! お願いだから、お願いですから一緒にきて下さい」

 

 震える声を励まし、双葉は目端に涙を浮かべ、手を差し伸べる。本心から夜見を救いたいと思ってしまったのだ。――一方で、現状でなんと甘いことをしているのだ! と理性が叱りつける。

 

 

 けれども、双葉は切り合って思い出した。過去の記憶が鮮烈に次々と蘇ってしまうのだ。

皐月夜見とは一旦決意すれば、翻らない。容赦がないのだ。

 

 

 「……一度、剣士ならば御刀を抜いた瞬間から我々は敵同士です」

 冷淡に告げ、夜見は《迅移》を発動させる。

 

 不意を衝かれた双葉は防御をしようと御刀を上げるも、その手首を瞬時に握られ、容赦なく横薙ぎ一閃に斬を喰う。胴体が真っ二つに、白い幻影体が薄れ消えた。

 

 「……がはっ」

 写シが解除された。激痛が全身を支配する。

 

 ドサッ、という全体重の質量で床面を叩き双葉はうつ伏せに倒れる。痺れた脳内で必死に打開策を考えるが、すぐには思い浮かばない。

 「終わりです」

 夜見は最後だ、とでもいうように刃を双葉の背中に突き立てる。

 骨肉を貫く、ブシュ、という音と共に鮮血が背中から溢れ出した。夜闇の廊下に差し込む紅の月。雲間から不吉な月面が姿を見せた。

 

 ――瞬間。

 

 「――ッ!!」

 

 夜見は四肢を襲う激痛に思わず、呻きを上げた。

 

 視線をすぐに激痛箇所にやると、白蛇の巨頭が深く夜見の骨肉を噛み込んで離さない。鋭い牙によって楔を打ち込まれたのだ! 《写シ》を貼っていなければ、まず致命傷になりえた。

 

 すぐさま御刀を旋回させ、白蛇の胴体と頭部を切断する。

 

 「貴女も、ちゃっかりしていますね……」

 苦々しい口調で、賞賛する。気が付くと、夜見は《写シ》が自動的に解除された。斬撃によって消え去った蛇の頭部の噛み跡には、真っ黒な血が溢れていた。……ノロを受け入れ続けた結果が、液体として目に見える。

 

 全身に細かな痺れが伝播した。

 双葉の蛇が放った毒の影響であろう。

 

 「へっ、へへへ……夜見さんが教えてくれたんじゃないですか。油断を作り出すのが戦い方だって……」

 目を眇め、激痛に歪む表情をこらえながら必死に双葉が喋る。

 

 「絶対に、助けますから……わたし、しつこいですから。あの百鬼丸の妹ですから……」

 次第に薄れゆく意識の中で、双葉は傷口から飛び出した白蛇を背中の辺りで待機させる。夜見の再攻撃を用心してのことらしい。

 

 「……………。双葉さん。貴女はとんでもなく愚かですね」

 頸部に狙いを定め、突き刺そうとした夜見の指先が神経麻痺の毒によって、言うことを聞かない。双葉の刺殺を諦め、足を引きずる。――退却を始めた。

 

 「……貴女と私が出会うことは、二度とありません」

 そう言い残して、闇の蟠った奥へと姿を消した。

 

 

 背中の刺し傷から生温かい血潮が暴走するように溢れ出ていた。

 「絶対、絶対に助けますから……」

 血の水溜りになった床に中に顔を埋める双葉。弱い呼気を励まし、夜見へ必死に願いを伝え続けた。

 生温かい紅の絨毯が妙に心地良い。意識の滑落に抗うように、双葉は手を指先を伸ばした。

 

 

 

 

 まず、最初に持った感情は〝憧れ〟だった――。

 何にもないと思っていたあの時のわたしは、きっと空っぽな存在だった。

 だから、折神家親衛隊に所属できると告げられたときは、青天の霹靂という言葉が当てはまる程に驚いた。

 その日、鎌府の学長室で知らせを受けたときの高津雪那の表情は無機質だった。

「貴女の他にも一人……この鎌府から親衛隊に人間を送っている。分からないことがあれば皐月夜見を頼るように。いい?」

 ぞんざいな物言いで、机の上に積まれた資料に素早く目を通す彼女。

「はい」

 わたしは、頷いた。

 この時期のわたしが生きる意味は全て――義兄百鬼丸へ復讐することでしか、意味を見いだせていなかった。

 

 

 

 

――だから、あの日。

初めて折神家に配属されたとき、桜が散って綺麗な青空と梅雨のせめぎ合う季節。

 

『貴女が鎌府から推薦された橋本双葉さんですか』

生気のない両眼には、一切の感情が宿っていない。……どこかその雰囲気が儚げに感じて、荒んでいたわたしには、親近感を持った。

白い髪は老人のようなのに、若い顔がアンバランスな印象を受ける。

……きっと、《あの》の影響だ。

事前に、親衛隊所属の前に特秘事項として知らされたことは一つ。

 

肉体に、ノロを宿すこと。

 

わたしは直ぐに了承した。怖くはなかった。だけど、不思議な気持ちになった。実父の善海が研究していた分野の、被検体のようなことをするのだ……少しだけ可笑しかった。

それを、夜見さんに伝えると、

『そうですか……』

とだけ、返事をして会話が終わった。

 

『わたし、復讐がしたいんです。でも今は力がないし、何にも足らないんです』

なぜだか、出会ったばかりの人間に今まで誰にも語ったこともない本音を漏らしていた。

でも、どんな時でも皐月夜見という人間はただ――

『そうですか……』とだけ、返す。

普通の人ならば機嫌を悪くするだろう。だけど、空っぽだったわたしみたいな人間にはただ「話を聞いてもらう」ことがどれだけ助かったのか分からない。

 

 

ただ一度だけ、夜見さんがわたしに向かって言った言葉があった。

 

「貴女は選ばれる――ということをどう思いますか?」

 

「選ばれるですか? やっぱり特別な才能とか……他の人にはないモノがある人とか」

 

「ええ、そうです。選ばれる……どれだけ努力しても得られない。もし仮に選ばれたのなら――本来選ばれる筈もなかった人間が〝選ばれた〟場合、どうすればいいと思いますか?」

 

「哲学的なお話ですか? うーん、分からないですけど、でもやっぱり無理しちゃうから、いずれ破綻するんじゃないですか?」

 

その瞬間、夜見さんは珍しく目を見張って驚いた様子をした後……口元に苦い微笑を浮かべた。

「ええ、そうかもしれませんね。仮にそんな人物がいれば、いずれ破綻するのかもしれませんね。……ただ、それ以外に生き方を知らない人間には本望でしょう」

 

その時だけは、ロボットみたいに無機質だと思っていた夜見さんの顔が、年相応の柔らかい表情に戻った気がした。

 

――それと同時に、わたしの胸は苦しく切なくなった。

どうしてだか、理由は今も分からない。

だけど、守りたいとも思った。はるかに強い夜見という刀使の事を、なんとかしたいと思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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125話

 ――地下坑道の入口から約3キロの位置に存在する、中規模のドーム型空間。

 周囲に古くなった電灯の明かりが仄かな闇に点滅していた。寒くないのに、全身の震えが止まらない。今まで対峙した相手の中でも、強敵である……。獅童真希は直感した。

 

 

 ズズ、と靴裏を浅く削って間合いを計る。相手との距離は約7メートル。

 薄ぼんやりした視界が歪んで輪郭線を曖昧にする。

 

 

 最初に動いたのは、真希だった。

 力強い大腿部の踏み込みと同時に、《迅移》を発動し相手との距離を一瞬で縮めた。

 虹色の光彩を明滅する空間に曳く。

一気にカタをつけるため左大上段を振り下ろす!

 「はぁああああああ!!」

 腹の底から空気を押し出し、振り抜く。

 二メートル近い〝番人〟と名乗った男は、「ほぉ」と余裕の態度を崩さず、躱す動作一つ見せず感嘆を洩らす。

 右手の青龍刀で真希の御刀の斬撃軌道をずらした。

 「――なッ!?」

 まるで相手刃の上を滑ったような錯覚に陥った。《八幡力》によって強化された斬撃をこうもあっさりと受け流された? 真希の表情には驚愕の色が浮かんだ。が、しかしすぐに打ち消すと、間合いをとって、正眼に構える。

 相手の大柄な男の醸し出す雰囲気はどこまでも冷静で、巨大な岩を相手しているようだった。自然、肝に冷や汗をかくような気すらした。

 「寿々花。どうやら、彼は相当の手練らしいね――」

 背後の少女へ、皮肉気味に苦笑いをする。

 「ええ、そのようですわね。しかし、不思議な点があるとすれば、なぜ貴方……二天一流の構えをとられたのか……理解に苦しみますわ」

 寿々花は目を細めて相手を分析する。

 単なる暴漢でもなければ、チンピラの類ではない。確実に武術の心得のある人物だ。しかも刀使という存在とも対等に戦える相手。

 (戦えばますます謎の増える相手、とは恐れいりましたわ)

 内心で毒づく寿々花だったが、彼女の怜悧な頭脳が同時に「ある仮設」を構築していた。

 

 「真希さん。一旦お退きになって体勢を立て直す方が先決ですわ」

 前方の少女へ忠言を加える。

 

 「――確かにそうだろうね」冷や汗を頬に流して真希は頷く。「でも、ここで退いたら――ボクが、ボク自身を許せない気がするんだ。彼とは、剣で語り合いたいと直感したんだ。すまない、寿々花」

 そう言って、地面を蹴って相手の懐に飛び込んだ。

 肩にかけたジャージの裾がひらひら舞い踊る。

 短い茶色の髪が素早く相手の胸部の範囲へと滑り込む。《迅移》によって可能となった短距離での高速移動は刀使の特権である。

 「真っ直ぐくるか。今の斬り合いで力量は示せたと思ったが……あははは、あくまで愚直、猪突猛進。面白い、久々の感覚だ!」

 番人は、左手の青龍刀の切っ先を槍の如く打ち出す。 

 「ッッ!!」

 息を短く吐いて、寸前の所で刃を避ける。

 と、目前にいた筈の番人は既にバックステップで大きく距離をとり、二つの青龍刀を構え反撃の準備を終えていた。

 

 「――――」

 真希は、刀使の中でも有数の剣士である。実際、大勢いる人間の中でもひと握りの存在だと自負していた。それは才能も、努力も、全てにおいて「強者」なのだと、そう思っていた。

 しかし、世の中は広い。

 折神紫、燕結芽……それに、衛藤可奈美など挙げればキリのない剣士たちが自分の上にいる。そう知った時の衝撃は言いようもないものだった。

 

 「ボクはまだ自分が弱いんだ…………そう知ることができた」

 つよく睨み据えながら真希は呟く。

 「だけど、ここで退いて――ボクは生きながらえたくない。ボクは強くなりたいと思った。だからノロも受け入れた。だけど、本当の強さは全く別ものだって……今なら解かるッ!!」

 全身の恐怖を理性で抑えて、真希は再び下半身に力を込めて迅移を用意する。体力の消耗は著しいが、それ以上に気力の充実感があった。

 

 

 そんな真希の様子を窺いながら、

 「……なるほど、認識を改めよう。刀使……それも弱い刀使かと思っていたが、貴女方は覚悟をもっている。それに貪欲な強さへの渇望」

 番人は笑う。

 

 

 「うぉおおおおおおおおおお!!」

 大きく開いた口から咆哮が漏れる。地面から飛び弾丸のように一直線に進む真希は躰を大きく左に捻り御刀を打ち込んだ。

 番人は敢えて避けずに青龍刀をクロスさせ、刃で刃の威力を受け止める。

 ガギッ、という猛烈な衝突音と金属の質量同士が弾ける。

 岩を彫刻したような番人の目鼻に、新鮮な驚愕の色が浮かんだ。赤銅色の皮膚の下、血管が青筋を描く。

 「……素直な一撃だ」

 「――――いいえ、残念ながら搦手も御用しておりますわ」

 番人の背後から上品な皮肉声を浴びせる寿々花。

 彼女は、背後の壁を足場に跳んで一気に番人の背をとっていた。真希との対決で注意がそれたタイミングで寿々花は、動いた。《迅移》によって気配を察知されるよりも先に背後へと回って、足音を消すように壁を利用したに過ぎない。

 「見事だ」

 全てを察して、肩ごしに番人は褒める。

 「これで終わりですわ!!」

 前方と後方からの時間差攻撃。――これで致命傷を与えられる、そう寿々花は思った。

 だが。

 背中と首筋に突如、青龍刀の一枚刃が現れた!

 「なっ!?」

 左腕が後ろに回され、予期していたかのように刀を盾にしていた。

 寿々花の躰は既に、その刃へと渾身の一撃を加えるために動いていた。――ガキィン、という音と共に小刻みの痛みが全身を襲う。

 不意打ちが失敗した感触が掌に拡がった。

 失望する暇もなく、寿々花の目端を素早い巨影が横切った。

 「――!?」

 物凄い轟音と外気の圧倒によって、脳が一瞬だけ空白になった。

 

 

 しかし、躰の左側を猛烈な衝撃が貫いたことによって、ようやく攻撃を喰らったのだと思い知った。薄れた視界から目にしたのは、番人が回し蹴りをして弾き飛ばした様子だった。

 寿々花の躰は空中を舞って派手に地面に叩きつけられた。

 《写シ》が剥がれる甲高い音が聞こえた。

 

 たった数秒で味方が片付けられた。

 

 「寿々花っ!」

 悲痛な叫びで、真希は呼びかける。

 いくら《八幡力》を駆使してもたった一本の青龍刀の押さえすら抜けない。片手で相手をされている屈辱。

 「――真正面から敵を相手にしているなら、余計なことは考えるべきではないな」

 番人が、首を戻して真希を見据える。

 「くそっ!!」

 このままでは押し切られる、その前にもう一度だけ間合いの内側へ……そう真希はプランを組み立てようとした。

 しかし、手練の番人は青龍刀で軽く真希とのつばぜり合いを終わらせるように、受けて止めていた青龍刀の力を最大限込めて押し返すと、真希の躰が後ろへ離された。

 その隙を見逃さず、刀を手放した左手の巨大な掌から放たれた掌底をモロに額に喰らう。

 「ガハッ!!」

 

 

 地面を何度も転がりながら真希は《写シ》が剥がれた。

 

 

 「個人の実力も見事だ、それに二人同時の攻撃も見事。……だが、所詮は人。誰も悪くない。ただ〝存在〟として小生には勝てない」

 地に伏した二人の少女へと慈悲の篭った瞳で告げる。

 

 

 

 

 2

 伍箇伝の一つ、綾小路武芸学舎――――。

 特別な祭壇と御簾を設えた空間には、ゆうに百数名の冥加刀使が整然と並び石像のように直立不動であった。

 最新式のS装備……と言ってよい真紅のバイザーと四肢と胴体を防護する装甲に身を包んでいた。……彼女たちの瞳は一様に生気が無い。ただ命令を聞き動くだけの人形と化していた。

 『ほぉ、これで妾の駒は全て揃ったのか?』

 御簾の奥、傲慢な口調で尋ねた。すぐ傍に佇んでいた高津雪那――現、綾小路学長は眉根をひそめて頷いた。

 「申し訳ございません。ここにいるものが全て、ヒメの手勢でございます。ですが、今後は情勢も一変するでしょう」

 『あの、轆轤家の当主の根回しか?』

 一瞬、苦い顔になった雪那だったがすぐに表情を取り繕い同意する。

 「左様でございます。それに今後も勢力拡大の目処はありますので、まずご安心を」

 『ふむ。まあ、これぐらいの手勢なぞおらぬでも、妾だけで事足りるが……折角の遊戯じゃ。せいぜい妾を楽しませてみせよ』

 童女のような幼い語り口とは別の冷徹な指示だけが、雪那の鼓膜にこびりつく。

 

 ――と。

 ドタドタと廊下を駆け抜ける足音に、雪那の意識は奪われた。

 「何事?」

 目を眇め、出入り口へと視線を投げる。

 扉が開かれると、鈴本葉菜と披露の色がつよい刀使が数人立っていた。

 見覚えがある、あれは木寅ミルヤを追尾させ〝始末〟させる手筈だった連中ではないか! 雪那は怪訝な表情で彼女たちを見回し、

 「どうした? なぜ貴様達はそのような無様を晒しているのだ?」キツく問い質した。

 

 意気消沈した葉菜は、唇を噛む。

 「申し訳ございません。実は……予想外の人物というか、相手に全員敗れました」

 泥だらけの刀使たちは確かに、制服が泥濘に転がったような形跡が見受けられる。

 

 高津雪那は「チッ」と鋭く舌打ちしながら親指の爪を噛む癖があった。

 今回も、また親指を噛む。

 「分かった。報告は後だ。…………それより、あなた達怪我は大丈夫なの?」

 すぐに落ち着いた様子で、雪那は肩の力を抜いてそう問いかける。

 「……えっ?」

 突然の発言に、思わず葉菜たち刀使は呆気にとられた。普段の雪那という人物の性質上、発狂して罵詈雑言を浴びせられるものと覚悟していたからである。

 「ええ、平気です。皆怪我一つありません」

 狼狽えながらも、報告をする。

 

 「……そう。鈴本葉菜。こちらへ来なさい」

 左右に整然と隊列を組んだ刀使の人群の間にいつの間にか、壇上へ続く隙間の道ができていた。

 「は、はい」

 息を呑みながら、葉菜は怯える足取りで壇上へと進む。

 ミルヤ捕縛の失敗を責められるのだろうか? 

 それとも、近衛隊を追放されるのだろうか?

 場合によっては処断もありえる……。

 

 不吉な予想が次々と彼女の脳内に巡る。

 ピタッ、と葉菜は壇上の端で立ち止まる。

 雪那は御簾の近くから歩き出して、葉菜のもとまでやってきた。

 「な、なんでしょうか?」

 恐怖しながら上目遣いで覗い怯えた様子で、鈴本葉菜は身を硬直させた。

 

 「よくやったわ。大事な時期に大事な刀使を失う所だったもの」

 雪那は、泥だらけになっていた葉菜を包むように抱きしめた。

 「――えっ?」

 呆気にとられた少女は、大きく瞠った目を横に動かす。

 「どうしてですか? ボクたちは失敗して……今までなら……」

 今までの〝高津雪那〟という人物ならば、決して有り得ない行動だった。――しかも、近衛隊の被検体として自分(葉菜)へ無理にノロを打ち込んだではないか?

 様々な疑念や疑問が浮かんだが、結局長い抱擁の力に負けて過度な緊張は溶けてしまった。

 「そう……貴女は舞草でも〝スパイ〟をしていたから解かるでしょ? どれだけ組織に忠誠を尽くしても、結局は駒は駒に過ぎない。舞草だって綺麗事でこちらを糾弾をしていたって、手段として貴女のように刀使をスパイとして活用している。組織の性質上、貴女は〝いつでも切り捨て可能な存在〟」

 切り捨て可能な駒――――、その言葉が葉菜の胸に深く突き刺さった。

 確かに、舞草の中で自分は何一つ不満を持たなかった。

 だから、こうして敵地で危険な任務にも従事できた。だがもし、舞草が本当に自分のような存在を、可能とあれば切り捨てるとしたら?

 「分かるわ。いつも、ふとした時に――不安になるでしょう。特に真面目な人間ほど、ね」

 雪那の言葉は、確実に葉菜の胸を侵食していた。

 今まで嘘で塗り固めた生き方を、不安に感じない事などなかった。いつも、誰かに正体を悟られないか、身の危険と交換に情報を流す。

 暗闇の中で、自分という存在を常に押し殺すことでしか、存在意義を認められなかった…………。

 「もう、ボクは嘘をつかなくてもいいんですよね――?」

 葉菜は、知らず知らずのうちに片方の目から涙を流していた。頬を滑る雫は、あご先にまで至った。

 

 「――ええ、いいの。もう貴女は開放された自由な存在なのだから」

 この一言が決め手だった。

 

 自然と膝が崩れて、壇上で痺れたような感覚と共に、静かに泣いていた。

 

 雪那は、少女の体重を感じながら、なんとか支えて壇の上から下に並ぶ冥加刀使――タギツヒメの下僕たちを見回す。

 毒々しく濡れた紅の唇が、微かに息を吸う。

 切れ長の眦がひらく。

 

 「これより、貴様たちは東京へと出向することになる。だが、これはあくまで建前だ! これは、いわば革命だ。我々は刀剣類管理局ならびに特別祭祀機動隊の在り方を変える為に立ち上がる、維新派であるッ! この場は決起ではない。出撃と心得よ!!」

 

 その号令を合図に、綾小路の刀使たちは、腰に佩いた御刀を引き抜き頭上に掲げた。

 

 無数の白刃が煌き、一種異様な光景を呈していた。

 

 「ヒメ、如何でしょうか?」

 雪那は少女の両肩を支えながら、御簾を振り返る。

 

 御簾の奥では、童女のような軽やかな笑い声が響いた。

 

 『良い。実に面白い余興だ。維新派――か。人間はつくづく愚かで面白いものだ。良いだろう。それならば、ワレの尖兵として征くがよい』

 

 「ご随意のままに……」

 雪那は丁寧に頭を下げる。

 

 綾小路武芸学舎はこの日、正式に伍箇伝の所属から抜け出る旨を書面にて提出した。それと同時に、独立した組織として……具体的には革命派として、まずは日本の首府の警護及び荒魂の討伐を表明した。

 

 

 霞ヶ関では、これに応呼して雪那の工作をうけていた議員官僚、その他の関係者が次々と刀剣類管理局維新派の支持を表明。

 

 この国が、今変わろうとしていた――。

 



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126話

 防衛省、自衛隊市ヶ谷駐屯地。

 この周囲の寺社仏閣にも、自衛隊員や特別祭祀機動隊(刀使)の姿が散見された。再びタギツヒメの襲撃に備え、分社してノロを祀る「箱」の奪取を防ぐ。そのための警戒及び自衛隊基地への直接攻撃を警戒する目的であった。

 

 「――すごく、厳重」

 糸見沙耶香は、周囲を警戒する人々を遠巻きに見ながら、防衛省の建物がすぐ近くに見える鳥居の辺りまで歩いてきた。

 秋の終わり、冬が迫る時期。

 空は青磁色を湛え、風は一つも吹いてはいない。

 森閑とした雰囲気の中、沙耶香の傍を共に歩いていた柳瀬舞衣は、遠景に視線を向ける。

 「タギツヒメが今度、また来るとしたらここからの可能性が一番高いからね……」

 タギツヒメの来襲。即ち、タキリヒメを吸収するために再び力を蓄え、この地を攻撃するだろう。その為に、こうして四六時中警備を固めているのだった。

 「…………ねぇ、舞衣」

 ふと、沙耶香が名前を呼ぶ。

 「ん? どうしたの?」

 遠くに思いを馳せていた舞衣は、眉を開いて沙耶香の方へ首を傾げる。

 「舞衣は来ると思う? タギツヒメ」

 不安げに横目で見ながら、舞衣に問う。まるで何か悪い予感を察知しているような様子だった。

 ――一瞬だけ、舞衣は言葉に詰まる。

 タギツヒメはこの市ヶ谷を襲う可能性がある。……が、同時にこちらの戦力だけで対応はできるだろうか? 防ぎきることができるだろうか? 二〇年前の厄災も想定に入れなければならない。人間に強い恨みを持つ相手(タギツヒメ)は、必ず来る。あの研究所での一件が脳裏に過ぎった。

 

 だから、

 「……うん」

 小さく、沙耶香の言葉に返事をした。

 その返事を受けて、沙耶香は俯き加減に御刀に触れる。

 「…………また、〝あの時〟みたいな戦いが」

 思いつめた様子で、腰の高い位置まで御刀『妙法村正』を掲げる。――沙耶香の言った「あの時」とは数ヶ月前、折神紫に憑依していた大荒魂の〝タギツヒメ〟との戦闘に他ならない。

 人と隔絶した絶対的な「力」の前に、思わず畏怖してしまった。剣士として、勝目がないと悟ると同時に〝恐怖〟が芽生え刻まれた。

 その戦いをもう一度やる、その覚悟が自分にあるだろうか? 

 沙耶香は御刀に触れながら考えた。

 

 「沙耶香ちゃん……」

 

 「――ん?」

 突然の舞衣の呼びかけに、深い思索に耽っていた沙耶香の思考が一旦中断され、頭を声の方向へとやった。

 

 「えいっ!」

 舞衣は手作りのクッキーを軽く沙耶香の小さな口に押し込んだ。

 

 「んっっ!!」

 唐突な出来事に、表情が乏しいと言われてきた沙耶香も思わず、驚愕して目を大きく瞠り、口当たりの良い甘やかな感触を下唇で味わった。

 

 「んふふっ……」

 舞衣は全てを包むような笑顔で、沙耶香に微笑みかける。慈愛に満ちた雰囲気だった。

 「紫様の所から帰ってきた可奈美ちゃんと姫和ちゃんが言ってたでしょ? ……確かにタギツヒメはノロを吸収した分力を増しているけど、まだ対処は可能だって」

 後ろで指を組みながら、舞衣は言った。

 事実、分裂した状態の三女神であればこそ現状の均衡が保たれているのだ。

 だが、

 「うん……」

 沙耶香は、頷きながらもどこか納得しきれていない様だった。

 「まだ気になることがあるの?」

 「……うん。タキリヒメとイチキシマヒメが味方になれば、タギツヒメと話ができる?」

 

 「えっ?」

 舞衣は虚を衝かれたように、驚いた。

 これまでの沙耶香という少女の口から出た言葉とは思えない、全く意外な言葉だったのだ。

 「……薫が言ってた。戦う前によく考えろって――」

 その沙耶香の表情は、未だ不安げではあったものの、何かを掴めそうな――そんな風の緩やかな『自分なりの考え』を口にしていた。

 だから思わず、舞衣は微笑を口元に零した。

 (沙耶香ちゃん――)

 舞衣は、以前の人形然とした「糸見沙耶香」という少女の頃から知っていた。鎌府女学院ではきっての剣士であり刀使。そして、高津雪那という女性の意のままに動く都合の良く扱われた少女。

 ……そんな彼女が、大昔のように思えた。

 

 各地での荒魂討伐でチームを組み、その中で益子薫を始め様々な人と触れ合った。

 だからこそ、こうして悩み、もがいて、自分なりの解決を探そうとしているのだ。

 柳瀬舞衣、という少女は、妹のような存在である沙耶香の成長に驚きながらも、それ以上に嬉しくて仕方がなかった。

 

 だから思わず――、頭を撫でた。

 

 色素の薄い髪をゆっくりと撫でる。小動物のように可愛らしい背格好。どこか儚げな雰囲気すら纏う沙耶香だが、今はその外見だけではない、刀使として、人としての成長を思う存分に褒めてあげたくなったのだ。

 

 「……なんで、撫でるの?」

 困惑したように、沙耶香は訊ねる。なぜ、舞衣が満面の笑みで自分を撫でるのか。ただ薫に教わった事を自分なりに解釈した事を話したに過ぎないのに……。

 まるで、そう言いたげだった。

 だが、その「小さな変化」こそが、舞衣にとっては嬉しかった。

 

 ――しかし、

 「うん? なんでかな。んふふっ……」

 敢えて言語化はしなかった。いや、したくなかった。この気持ちは、きっと胸の内に秘めているべきものなのだ、と舞衣は知っていたからだ。

 

 そのまま撫でていた手を離して、秋空を仰ぎ見る。

 「うん、でも本当に。そうできれば戦わなくて済むかも知れないね……」

 本心だった。舞衣自身も、戦わなくて済むのならば、そうなればいい。誰も傷つかずに終われば本当はいいのだ。

 沙耶香の考えに促されるように、黒髪の少女も、そう思った。

 

 

 

 2

 「むーーーーー、タキリヒメとかもう斬っちまえばいいんじゃねえかな?」

 駐屯地の中央広場に位置する大階段の中程に座った益子薫は、不機嫌そうにジト目でそう盛大に文句を言い放った。

 「こらこら。いいんですか? 益子の刀使がそんな短絡的な事を言っても――」

 隣の金髪碧眼の少女、古波蔵エレンが窘めた。

 彼女は普段の片言混じりの日本語ではなく、薫とふたりっきりのプライベートな空間では流暢に喋ることができるようだった。

 薫との長い間の付き合い、ひとえに〝信頼関係〟が、エレンの喋り方に影響を与えているかもしれない。……いや、ただ単に「リラックスして喋れる相手」という認識だろう。

 

 それはともかく、窘められた薫は頬杖をつきながら溜息をつく。

 「……冗談だ。けど、先方が全然対話に応じないんじゃ少しはそうも言いたくなる」

 と、不満を顕にした。

 薫の言う通り、タキリヒメは聞く耳を一切持たない。

 エレンも頷きながら、

 「今日も朱音様が交渉していますが、どうなりますかね……」

 彼女には珍しいアンニュイな口調だった。

 

 ガバッ、と突然立ち上がった薫は、大空に両手を挙げて、

 『愚かなる人間どもよー、我に従えーーー(棒読み)』

 気の抜けた言い方で、タキリヒメの真似をする。

 

 薫の突飛な行動に、エレンは思わず目を丸くして薫の小さな背後を見る。

 

 「――ってな感じなんだろ、タキリヒメは。完全にオレら人間を見下してやがる」

 

 肩を竦めて、エレンは頷く。

 「確かに、タキリヒメと共同してタギツヒメを倒しても、今度はタキリヒメが敵になるかも知れませんね。……それでも、」

 

 「手を取り合える可能性が残っている限り、タキリヒメは渡さねーよ。益子の刀使四〇〇年の歴史舐めんな」

 薫は、言葉を引き継いで言った。

 気だるげな物言いだが、その芯のある言葉は「益子家」という、荒魂との対話によって解決を見出そうとした〝実績〟に裏打ちされた、心強いものだった。

 

 ……その自負心が、薫の言葉の端々から感じられた。

 その力強さに感化されたように、

 「だから、薫のコト、大好きなんですヨーーー!! んんっっっっ~~~~~!」

 エレンは立ち上がり、思い切り薫を抱きしめた。およそ、一〇代の少女とは思えない豊満な胸が薫の小さな頭に押し付けられる。メロン大の二つの双丘が、柔らかくグニュグニュと、薄桃色のツインテール頭を埋める。

 「わっ! ……もう、うぜーなー」

 気だるげに、一応の反抗的に言っているものの、その実普段通りのやり取りと、安らげる母性の象徴たる胸の感触の快楽には抗い難かった。

 

 「……そういえば、ねね見ないな」

 普段であれば、薫より真っ先にこの暴力的なまでの胸に飛び込むであろう、薫のペットである荒魂のねね。その姿が今は見えない。

 

 「確かにそうデスね。どこか遊びに行っているカモしれまセンね」

 

 「だな。……それもそうだが、タギツヒメと綾小路はどうするつもりなんだろうな」

 西方の空へと、薫は視線を流す。

 

現在、刀剣類管理局は公での対話を試みようと、タギツヒメを匿っている綾小路武芸学舎へ連絡はした。勿論、人員の派遣も行い調査を求めた。

 しかし、その全てが徒労に終わっている。

 取り付く島がなかった。

 ――必然、状況は冷戦の様相を呈した。

 

 

 「ま、オレたちが考えたってどーにかなるもんでもないしな。いまはやれることだけしかできねー」

 

 「デスね。薫っ、一緒にガンバリましょー」

 薫の腕を無理やりとって、エレンは「おー」と言いながら、操り人形みあいに薫の腕を上に挙げた。

 それに釣られて薫も「おー(棒読み)」と声を合わせる。

 面倒な事態だが、倦んでいてもしょうがない。

 長船の凸凹コンビは、持ち前の明るさでとにかく局面の変わり目を乗り切ることにした。

 

 

 

 3

 六分儀……と呼ばれる器具は、その昔から大航海時代の冒険家たちの必須アイテムとして重宝された。

 ざっくりとどんな器具が説明すれば、現在におけるGPSのような役割と言ってよい。

 天測航法(陸地のない場所において天体と水平線から仰角を割り出し計測する方法である。)に利用される。

 六分儀を水平線に合わせ、対象物の二点間を角度から計算することで、現在地を割り出す。理論上では地球のどこにいるかを〝ほぼ正確〟に当てることができた。

 

 

 

 虎之助老人は、私物のザック中から青銅合金の六分儀を取り出した。

 右目を六分儀にあてて、しげしげと調節を始める。

 「あとで、停車してくれ」

 車窓から拡がる東京湾の鈍い海を向いて、老人はそう言った。

 現在、車はレインボーブリッジを下りて芝浦に到着した。一般道を走行しながら、

 「――爺さん。なにするつもりだ?」岳弘はハンドルを握る力を緩めて聞いた。

 「地下の場所を割り出すんじゃ!!」

 怒鳴るように大声をあげ、煩わしそうに眉を顰める。

 「地下? それなのにどうして、そんな妙な器具を?」

 「ハッ、まあ若い奴はわからんだろうがな。コイツ(六分儀)で、坑道の位置を出すんじゃ」

 地表からでは、地下要塞の全容は把握できない。

 ゆえに六分儀による地殻の緯度経度の割り出しが求められた。――これは、地上から隠蔽し、守備側からすれば正確な地下の場所を把握させなければ意味がない。従って航法に利用されてきた方法を地上戦においても転用された。

 虎之助は腕時計を交互に見比べ、誤差修正のイメージを整える。

 

 

 本来、この帝都地下坑道計画はいくつかの作戦の複合体から成立している。

 この地下要塞は最初、房総半島の袖ヶ浦を中心として沿岸部を防衛ラインとして定めていた。これは、伊豆半島を含む関東の要所ではごく一般的な発案であった。――しかし、水際作戦の為の防衛ラインも研究の結果、無意味である事が判明した。

 そのため、前期の地下要塞は沿岸部に点在している。

 次に、敵を奥深くへと誘い込みクロスファイアを浴びせる目的で内陸へと要塞は建設された。……これが後期第二群地下坑道である。

 虎之助老人は、いま、この第二群の地下を予測し六分儀による計測に従い位置を割り出そうとしていた。

 

 

 

 

 「――しかし最近は東京、特に市ヶ谷の自衛隊と刀使の数が多いよな。百鬼丸くんは何か知ってたりするのかい?」

 岳弘は隣の無言で座る百鬼丸へ話を振った。

 

 随分と長く前を睨んでいた百鬼丸は、ふと否定の首を振る。

 「おれに、時局なんて分かりません。ただ、戦うだけですから……」

 そう言いながら、百鬼丸ははやる気持ちを抑えて、気力を充填させる。新鮮な活力を得るには、練り上げた〝闘志〟と〝殺意〟を用意しなければいけないのだ。

 

 「そうか。ただ、こっちとしては君に同行させて貰いたいんだ。いいかな?」

 その一言に、百鬼丸は目を動かす。

 「正気ですか? 貴方は自分の命を自分で守れますか? おれは相手が分からない以上、誰の命も守れない。おれは目的を達成する為に戦うんですから――」

 

 「ダメかい?」

 

 「ええ、ダメです。命が惜しければやめておいた方がいいでしょう」

 

 「あははは」

 

 「!? どうして笑うんですか?」

 

 「いいや。君は案外そんな鋭いオーラを纏っているのに、人の命を気にしてくれる優しい所もあるんだな、そう思うと笑ってしまってね」

 

 岳弘はクツクツとまだ笑っていた。

 

 「~~~~~っ」

 百鬼丸は真正面から面映ゆいような、むず痒いような気分になって、顔を逸らした。

 

 「ベツに命が要らないなら、好きにすればいいですよ」

 

 「松崎さんも行くんですよね?」岳弘は後ろに声をかけた。

 

 「――ああ、勿論だ。大尉殿との約束がある。この老体でも出来ることがある! 日本男児としてだッ!」

 怒鳴るように、唾を飛ばしていう。

 

 「だとよ」

 

 「はぁ~~~~~っ」

 百鬼丸は、同行者二人の能天気さに、思わず額を抑えて呆れた。「おれが守れるかは分かりません。……難しいけど善処しますよ」と、小さく呟いて付け加えた。

 

 

 誰にも聞こえないように言ったつもりだったが、岳弘は耳ざとく、思わずニヤッと口端を曲げた。

 




今度から実験で短い文章を二三日おきにあげようと考えています。
多分毎回追うのは面倒だと思うので、2~3話溜まってから追って頂くと楽かもです。


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127話

内閣府官房長官のもとには、米軍所属の原子力潜水艦『ノーチラス号』に刀剣類管理局の要人折神紫が乗船している旨の密告通達がきた。時を同じくして、刀剣類管理局〝維新派〟を名乗る派閥が跋扈し、政界に大きな波風を立てている……。

 政府の一部では既に、折神紫の所在は共有されていた。――だが、こうして密告がきたということは、所在を特定した別組織による脅しとしか思えない。

 霞ヶ関には二つの種類の人間がいる。

 一つは人の皮を被った悪魔であり、もうひとつが悪魔そのものである。

 魍魎の巣食う政界ではまず、保身を第一とした人々が多く存在している。

 それだけに〝折神紫〟という人物は、政府にとっての一つの爆弾を抱えるようなものだった。厄介な存在となった。

 「轆轤秀光……局長はいまどこに居る?」

 官房長官は細いメガネを指で軽く触れながら斜向かいのデスクに腰掛けた秘書官に訊ねた。

 「はい、現在は出張とのことで連絡は一時的にできないそうです」

 「ハァ……こんな時に影の宰相様はいい気なもんだ」

 執務室を一瞥しながら盗聴器に聞こえるように大きく呟いた。この世界では基本的に盗聴はされている。――それを踏まえた上で行動をするのが政治家である。

 と、するならば、官房長官は秀光へ公然と批判したに過ぎない。彼が秀光を批判したところで報復をするような人物ではない事を知っているからだ。無論、限度というものがあるが……。

 

 「このまま、恐らく2週間以内にはメディア報道によって世論が形成されるのかな?」

 ボヤきつつ、密告の内容を再度読む。

 「――ええ。いまはネットでの世論も加味されますからね」

 「我々の側としても、言える情報は少ない。これ以上他国を含む問題で各方面から突かれるのは苦しいからね」

 「そうですね」

 「ということは、タキリヒメとの交渉も詰めてもらわないと困るねぇ」

 紫の妹である折神朱音が現在のところ、タキリヒメとの対話を続けている。いずれ、三女神の問題も世間に露見する恐れがあった。

 (必要以上に世間を混乱させる意味はなんなのか――。)

 伍箇伝も、また混乱の渦中にある。

 まず、関東一円を守護する鎌府女学院の学長が相楽学長へと変更になった。代わって京都綾小路武芸学舎には高津雪那が配置替えとして、あてがわれた。

 この人事を決めたのも「轆轤秀光」である。

 「――奴は何がしたいんだ。まるでこの国を滅ぼそうとしているみたいじゃないか」

 ボヤキというにはあまりに激しい言葉を使いながら官房長官が苦虫を噛んだような顔で、書類を睨む。

 

 「世界の終わり、なんてことにならないといいけどねぇ」

 苦悩の刻まれた眉間に、深い新たな皺が強く浮かぶ。

 まさか、と笑う秘書官もまた憂いを帯びた様子だった。

 

 

 

 2

 「ゲホッ、げほっ……」

 砂埃が口の中に盛大に入って噎せた。獅童真希は全身が強い衝撃によう影響で、暫く動けずにいた。特に脳震盪によって一時的に失神していたようだ。

 這いつくばった地面から無理やり躰に言うことを聞かせて、御刀を杖代わりに膝を励まし立ち上がる。

 写シ……刀使の術一つ。防御術であるその「写シ」をもってしても衝撃は相殺されなかった。――となると、

 「まるで古武術の動き……一体お前は何者なんだ」

 真希は精一杯の力で喋り、訊ねる。気を抜けば再び地面に崩れ落ちそうな気がしていた。

 

 自らを〝番人〟と名乗った目前の二メートル近い大男は、青龍刀を地面に突き刺し腕組みしたまま動じない。静観を決め込んでいるようだった。

 仄暗い闇から浮かび上がる赤褐色の皮膚に、禿頭。鋼のような逞しい筋肉に衣服は腰蓑のみ……。眼窩は白目を剥いており、肉体以外に無駄な装飾の類は見受けられない。

 

 太い首がもう一人の刀使……此花寿々花へ向けられた。

 「そちらの娘も生きているのだろう?」

 

 真希の後方、目測12メートルほどの距離に伏せていた寿々花は、微かに頭を持ち上げ片目で大男を睨む。

 「……ええ、お気遣いありがとうございますわ。貴方の上品な回し蹴りのおかげで、危うく三途の川を渡るところでしたので」

 皮肉を言いながら、意識を保っていた。

 

 その勝気な少女の物言いに、大男は苦笑した。

 「ははは……成程。だが貴殿は優秀だ。咄嗟の判断でコチラの蹴りの勢いを削ぐために姿勢を変えて威力を受け流した。受身の応用だろうが……自負心に違わぬ実力の持ち主だ」

 素直に寿々花を賞賛した。

 と、真希に目を転じて、

 「そちらの、少年のような娘は仲間の攻撃に動揺したな。それさえなければ、コチラにひと太刀くらいは浴びせることもできただろうに」教師のようにいった。

 

 

 「いったい何者なんだッ――!! ボクたちはお前の敵なんだ! お前如きに武術の教えを乞いに来たワケじゃないんだ! ボクたちの仲間を取り返すためにきた!」

 真希が気力を振り絞って吼える。名前の通り、獅子の如くであった。

 

 

 「刀使……か。小生も……」

 と、番人の言葉の途中で奥の空間から歪な音が木霊してドーム内に反響した。重複した音素はさながら地霊の唸り声にも聞こえた。

 

 『ヴォォオオオオオオ――ギャアアアアアアアアアアア……ヴォオオオ……ギャアア……――』

 

 この世のものとは思えぬ歪な音に、思わず刀使の二人、真希と寿々花は顔を見合わせる。

 

 「「荒魂!?」」

 無意識に声が揃った。聴き慣れた、化物の声だった。

 この地下坑道に一体なぜ? 一抹の不安が胸を過る。

 

 (まさか、この地下坑道から地上に荒魂を解き放っている可能性も……)

 寿々花の怜悧な頭脳が現状の少ない情報から推理する。

 なるほど、それならば色々と辻褄が合う。この地下から突如現れるために、スペクトラムファインダーも正確に補足しきれず、身をうまく隠すこともできる。

 

 「迂闊、でしたわ。みすみす敵の手中に入ってゆくなんて――」

 下唇を噛み締め、寿々花は後悔した。

 

 

 番人の男はただ、背後の荒魂の声を聞きながら青龍刀の柄を握る。

 「来たか。そこに寝ている刀使のお二方。そこを動かないで貰いたい」

 

 「――なッ!? まさかボクたちを餌にしようと……」真希の表情が凍った。

 痛手を受けた今、荒魂の格好の餌になってしまうではないか。

 

 「どう思われてもいい。だが、とにかく動くな」

 

 〝番人〟と名乗る男は、そのまま背後に配された五つの半円形をした地下通路の出入り口に向かい歩き出した。裸足の足裏は分厚い皮で覆われている。

 

 

 

 『ヴォオオオオオオオ!!!1!!』

 

 

 『ギャオオオオオオオオオオオオ』

 

 『ヴォルオオオオオオオオオオ』

 

 

 鼓膜を突き破るような咆哮が次々と通路から響き渡る。

 だが、番人は足をとめず躊躇する素振りすら見せず一定の歩調で進んでいった。巨大な青龍刀を双つ、翼のように両側に下げ、荒魂の襲来を待つ。

 

 「――……。」

 真希はただ、その男の背中を見つめることしか出来なかった。言葉を発するとか、その類のことすらできなくなっていた。

 

 

 (奴は本当に何なんだ……)

 

 

 

 

 「ギャオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 突如、耳を劈く悲鳴。真正面の通路から姿を見せた巨大な頭部を持つ、蛇やムカデに似た胴長の荒魂が巨大な牙と口内の滾るような炎を燻らせながら大口を裂いた。

 

 「……南無」

 番人は、小さくつぶやきながら双剣で華麗に斬撃を繰り出す。空気を滑るように胴体と頭部に一撃ずつ加えられた。

 しかし、荒魂の勢いが止まることなく剥き出しの黒牙が番人の肩に喰いこんだ。

 

 「…………何度でもこの身を貫くがいい」

 まるでそう囁きかけるようにして、番人は自らの肉体を貫く牙と巨頭部を慈悲深く交互に見つめ、それから無傷の腕で刃を振りかざし、頭部を切断する。

 ――通常、御刀以外に荒魂を討伐する武器は存在しえない。しかもその御刀ですら完全な消滅はせず、ノロに戻ったものを箱に収め分割管理するより他ない。それがこの世界の常識である。

 

 だが。

 あの番人の持つ武器は、御刀同様の効果があるらしい。たちまち、荒魂の巨大な姿は霧散し、大量のノロが地面に溢れかえった。――しかし、まるでそのノロたちは自意識があるように再び、地下通路へと流れてゆき、消えていった。

 

 その様子を終始みていた番人は、他の通路へ意識をやっていた。

 

 『ギャオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』

 『ヴォオョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』

 先程の荒魂同様に、次々と巨大な荒魂たちがその歪ともいえる姿形で番人の前へと躍り出た。

 「いったい、これはなんなんですの……」

 思わず、その異様な光景に寿々花は絶句していた。ふと、遠くの真希を見ると、彼女も同じらしい。身動き一つできないでいた。

 

 

 番人は次々と襲いかかる荒魂たちと戦いながら、しかし一度として避けることはせず全ての攻撃を受けながら、まるで神楽を舞うような足運びで移動し、肉体を動かし或は食い破られて欠損し、荒魂たちを斬ってゆく。

 

 

 ――――これでは、まるで文字通りの〝番人〟ですわ。

 

 寿々花は、内心で思った。

 先程の推論が実は真逆だったら? この地下坑道に蠢く大量の荒魂たちを解き放っているのが彼らではなく、この地下の荒魂たちの侵略を地上へと出すまいとするための存在なのだとしたら?

 

 有り得ない。だとしたら彼らに一体どんなメリットが?

 

 寿々花はますます頭が混乱していた。

 

 

 しかし、そんな寿々花を尻目に、番人は荒魂たちを討伐し終わった。――肉体のあちこちを食い破られながら、体中にノロの残滓を粘着かせていた。

 

 「……南無」

 ただ、それだけ彼は唱えた。

 

 顔の半分を喰われた異常な状態であっても、彼は動じることなく平然としていた。

 

 ……やがて、肉体が徐々に修復を始めていった。

 

 

 

 

 



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128話

 ……廃墟同然ともいうべきバラック小屋に、男は居た。

 住宅街から離れた小山の連なり、その周囲の雑穆林は人の気配すら拒む静寂に包まれていた。

 その小屋で、

 「――なぜ、お前も付いてきた?」

 煩わしそうに男がいう。事実、不機嫌の皺が彼の眉間に刻まれている。

 「え~、だって〝人質〟じゃないんですか?」

 「~~~~っ、」

 男は答えに窮した。少女の云う通り、彼自身の口で「人質になれ」と命じた。しかし。だからと言ってこうも易々と付いてくると男は思わなかったのである。

 

 

 時間を遡ること数時間前――。

 原宿にて安桜美炎は、謎の男ジャグラスジャグラーによって身柄を拘束された――筈だった。

 しかし、人質と言っても格がある。

 一つは利用価値の有無。

 二つ目は交渉材料足りうるか……。

 だがそれ以上に重要なことがある。それは、人質が「言うことを聞くか」否か。折角人質をとっても言うことを聞かなければ意味がない。……これは、当然の話である。

 では、結論から言おう。

 安桜美炎は、底抜けのおバカであった。従って――全く言うことをきかない!

 ジャグラーは早々にこの少女への利用価値を見限った。というか、早くどっか行って欲しかった。

 

 「あっ、ちーねぇから電話だ! もしも~し? えっ? もうすぐ食堂のご飯の時間? 

でも今わたし、人質やってるんだけど…………えっ? もしもし? 信じてよぉ、ちーねぇも頭が固いなぁ――えっ? 相手の人? うん近くにいるよ」チラりと横目で相手を覗う。

 美炎はそのまま頷きながら携帯端末をジャグラーに手渡す。

 

 (一体この状況でなにを話せというんだ……。)

 自然と額に怒りの青筋が浮かぶ。

 最初こそ、彼女……安桜美炎という刀使を人質にして、『刀剣類管理局』との連絡手段としようと考えていたが――ご覧の有様であり、無価値である。

 仕方なく溜息混じりに受け取り、電話にでた。

 『あっ、もしもし? この度は美炎ちゃんがご迷惑をかけて申し訳ございませんでした』

 大人びた少女の声音で、第一声の謝罪が聞こえた。

 「えっ、いや――」

 『美炎ちゃん、そちらで何か壊しませんでした?』

 相手の少女は恐らく、美炎より年上なのだろう。大人びた対応で細かく丁寧に対応しようとしている。……仮に情報を引き出し或は交渉するならば、彼女のような存在の方が適任だろう。

 (――クソッ、なぜこうなった!)

 内心、ジャグラーは後悔した。いま隣に居る能天気な少女は、話がかみ合わずどうしようもない。

 脳みその構造が基本的に違うのかもしれないと疑ってさえいる。

 「ええ、大丈夫ですよ。ただ原宿で色々ありまして……冗談で〝人質になれ〟と言ったのがマズかったですね。こちらこそ申し訳ございませんでした」

 努めて冷静に、常識人として振舞う。

 ここで波風をたてる必要性がないからだ。

 しかし、ダークリングを美炎に見られた時は焦ったが、この分だと彼女の言葉は信じてもらえないだろう。仮に、ダークリングの存在を話しても、荒唐無稽なお話として終わるに違いない。

 

 『はぁ~、美炎ちゃんどうしてホイホイと知らない人に付いて行くのかしら。ごめんなさい、でも悪い子じゃないので…………』

 「あはは、心配しないで下さい。こちらも安全な場所まで送りますから」

 ジャグラーは返事をしながら内心で「この娘は頭が悪い」と危うく喉元で言いかけた。

 数言交わすと、美炎に端末を返した。

 美炎も同様に何か知らぬ話題を喋り、通話を終えた――。

 

 「はぁ~」ドッと疲れがジャグラーを襲う。

 「ええっと、そういうワケだから今日はもう帰ります!」

 美炎は元気よく言った。

 「…………帰り道は分かるのか?」

 疑い深い目で訊ねる。

 「―――――え? あははは……やだなー。わたしもそこまで…………」

 言葉を途中で止めて、小屋の汚れた窓を一瞥する。外は既に暗く周囲の景色が分からない。

 「あ、あはは……えっと、あのお願いがあるんですけど……。」

 「…………。」

 ジャグラーは既に彼女の「お願い」の内容を理解していた。

 「はぁ~、安全な場所まで送る」

 額を押さえながら呟いた。

 その返事に美炎はパッと表情が明るくなり、向日葵が咲いたように華やかな雰囲気に満ちていた。つくづく表情が豊かな少女である。気分の浮き沈みが分かりやすい。

 

 ジャグラーは椅子に掛けた黒革のコートを羽織って扉を開けた。

 「……行くぞ」

 「はーい!」

 「…………。」

 つくづくこの娘と居ると調子が狂う、ジャグラーは今まで出会ったことのない種類の少女に出会い、初めて『困惑』という単語の意味を理解した。

 

 (この世界に来た原因を探らねば……ヤツを殺すこともできないッ)

 本来の目的を遂げる為にも、早々にこの世界の全容を掴まねばならぬ。そう決意するジャグラーだった。

 

 

 

 2

 綾小路武芸学舎――は、伍箇伝の中でも長い歴史を有する。

 所在を京に置きながら現在、その刀使の大半を関東へと送っていた。

 理由は簡単である。

 

 〝国家転覆〟

 

 ただ、その理由にて東へ赴いた。

 タギツヒメに率いられた綾小路の刀使たちは、刀剣類管理局維新派の用意した陸海空の輸送手段によって、続々と出発していた。

 

 

 もぬけの殻と化した筈の綾小路の校舎に、小さな人影がある。

 「久しぶりの校舎……」

 思わず、山城由依は呟いた。

 閑散とした夜の綾小路の正面門をくぐり抜け、広場を歩く。

 黒髪のポニーテールが夜風に浚われ、何度も左右に翻る。

 

 

 普段の陽気でお気楽な調子の彼女と違い、現在は真剣な眼差しで周囲を警戒している。

 彼女の御刀《蛍丸》は大太刀に分類される。

 子供の背丈ほどもある長さの大太刀を持ち、人の気配を探る。

 斬り合いをした場合、肉薄されればこの《蛍丸》では分が悪い。リーチの長さを活かしての戦闘こそが、この御刀の利点である。

 

 

 

 「あっ、山城先輩ですか?」

 広場に等間隔で並ぶ外灯の柱下から、誰かの声がする。

 

 

 

 「あれ~、可愛い子発見!! ……他のみんなはどこに行ったのかな」

 軽口を叩きながら由依は鍔に親指をかける。

 

 外灯の斜光へと歩み寄る足音。その音に紛れて機械の駆動する違和感を覚えた……。

 「どうも、わたし内里歩って言います。山城先輩」

 名乗った少女は赤いバイザーに黒色のS装備を胴体、四肢に装着していた。

 無論、このS装備とは荒魂退治にのみ利用されるべきものであり、間違っても対人戦で用いられるべき物ではない。

 

 「あはは、やっぱり可愛い後輩ちゃんだ……ってことは、あたし、葉菜ちゃんにハメられたのかな?」

 明るく言いながら、俯く由依。

 舞草の構成員であり、スパイとしてタギツヒメ側の情報を探っていた鈴本葉菜が急に連絡を途絶させた。それから急に連絡を寄越した――無論疑うべき材料ならばいくらでもあった。しかし、妹が囚われている可能性すらあった……。

 由依には、リスクを冒してでも単身でこの綾小路にゆく理由があった。

 

 

 「ん~? まだ気がつきませんか、山城先輩」

 

 「えへへ……よかった教えてくれないかな。可愛い子になら手とり足とり教えてもらいたいかもーー」

 

 

 「ふふっ、先輩面白い人ですね。はい、いいですよ。先輩もわたしたちの〝仲間〟になって下さい」

 

 

 「――仲間? もうとっくに仲間だと思ってたけどな~~」

 

 「ううんと、つまり冥加刀使になって貰うんですよ!」

 歩は、歪な瞳の光を湛えた双眸をバイザーの下から向ける。

 

 「…………あはは、そっか。やっぱりそういう事か」

 由依は力なく笑いながら、《蛍丸》の長い刀身を抜き放つ。

 

 何の説明もなく臨戦態勢を整えた由依を一瞥して、歩は満足そうに微笑む。

 「あ~、よかった。これ以上無駄口を叩くとわたしも合流が遅れちゃいますから! それにわたしが本当に強くなったっていう証明も出来ませんからね!」

 喜々として語る内容は全て刀使として耳を疑うものばかりだった。

 

 

 由依は長い前黒髪の間から珍しく剣呑な眼差しを光らせ、

 「…………ごめんね。いまだけは、我慢できないかも。本気で怒ってるから」

 低く呟いた。

 

 綾小路武芸学舎の中央広場にて、二人の刀使が対峙する。

 

 「――そうですか。始めましょうか、山城先輩!!」

 ニコッと、歩は微笑む。

 



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129話

 □■□■

 

 海辺の風が微かな音色を立て通用口に吹き付ける。松崎老人の正確な六分儀による観測によって地下の巨大な空間を把握し、潜入するルートを決定した。すぐ海の国道傍から延びた道路を小脇に入り、半地下のような入口が隠されているのを発見した。

 

 

 土面に埋もれた鋼鉄の扉は錆びており、容易に開くことは出来ない。――が、百鬼丸の驚異的な膂力によって軽くこじ開けた。……突如現れた入口の四角を闇が黒々と満たす。段々と階段が連なり下界へ誘おうとしていた。

 

 

 ピカッ、と白陽の如き明るさが階段の奥に蟠った闇を貫く。

 

 

ホームセンターで購入したルーメン値の高い懐中電灯である。その円形が強烈な光束を照射する。岳弘の首に防水シートで包んだライカのM型カメラは夜行性動物の肉眼のように、時々闇に閃く。

 

 ――このフィルム式カメラの代名詞と言って良いこのカメラは1950年代から60年代にかけて製造された。

 高級な質感は、デジタルに移行した現代においても、その写真の精度の高さ味わい深さに於いて代替不可能である。いまでもプロで好んで使う人々が存在する程だ。

 そのM型はとんでもなく高価なものである。学生時代に借金をしてまで買った彼、柴崎岳弘はこのカメラが半身のように感じていた。

 

 

 ゴクリ、と生唾を呑む。

 

 

 岳弘は緊張で口腔が乾燥しているようだった。喉の粘膜もヒリついて痛い。

 「懐かしいなぁ……」

 先導する松崎虎之助が感慨深い口調で呟いた。彼からすれば七〇数年の歳月を経ての潜入である。

 「……ここからどのあたりに行く気で?」レンズのピントを調整しつつ訊ねた。

 右手を壁に沿わせた老人の皺だらけの手が止まることなく進む。

 「恐らくだが……この先は二キロほど長い通路じゃ。目的地は――――荒魂の研究施設。そこがこの地下の核を成しておる」

 「研究施設? どういう事ですか?」

 「…………。」

 「…………。」

 急な沈黙に、岳弘も同じく口を閉ざすしか方法がなかった。経験上、相手を無理に喋らそうとしても良い結果は生まない。

 

 

 「そう言えば、百鬼丸くんはここにどんな用事が……?」

 真ん中を歩く百鬼丸へ話を振る。

 

 

 この少年は、この不気味な空間においても驚く程に落ち着き払っていた。

 出会った時のような快活な雰囲気は鳴りを潜め、代わって軍人のような機敏さと警戒の鋭い佇まいを静かに纏っていた。

 「――おれは、奪われた大事なヤツを救いに行くだけです」

 低い声で答える。彼にはそれ以外の理由が本当にないらしい。しかし、不思議なのは、このような大昔の遺物になぜ人を助けにゆくのだろう? 岳弘は疑問に思いながらも、敢えて口に出す愚行は犯さず二人の後を歩く。

 

 

 

 湿った圧迫感のある通路はどこまでも果がなく延びていた。時々、頭上から水滴が落ちるが、それも不規則であった。首を小さく巡らせ、

 「しかし、百鬼丸くんが一緒だと心強いなァ……」

 岳弘は本音を洩らす。正直、ここに彼がいなければ一刻も早く逃げ出したい気持ちで一杯だった。

 閉所、暗闇、無音、無臭…………。様々な要因が精神の均衡を崩す要因となりうる。

 「そうですか……おれからすれば、暗闇は心地いいですよ。静かにしていれば自分の呼吸しか聞こえない。誰とも関わらなくていい。だから――少なくとも、傷つくことはないから」

 百鬼丸は、冗談とも本気ともつかぬ口調で言う。

 まるでその口ぶりが、この空間を闇の胎母とでも言いたげであった。

 「どういう意味だい?」

 「……へへっ、な~んて。冗談ですよ冗談。あはは……早く助けてこんな所出ましょうよ」

 「な、なんだ冗談か」

 ワザとらしく明るく振舞い始めった百鬼丸の態度が気になりつつも、岳弘は頭と指先は緊張していた。カメラを壊さぬよう細心の注意を払い奥へ深部へ突き進んでいった。

 

 

 

 

 □■□■

 「お前は、いったい何なんだ……」

 何度目とも分からぬ問いかけを、再び獅童真希は口にしていた。事実、目前の男――番人と名乗る男の得体の知れぬ行動の数々と態度に違和感を抱きっぱなしだった。

 ドーム状の空間と周囲の壁を囲繞する電線に備え付けられた電燈の微光から相手を覗う他手立てがない。

 …………しかし、遠目からでも解かる。

 この番人という男は、尋常ではない精神力であることを。

 閉鎖された空間で、絶え間ない荒魂の侵攻を孤独に防ぎ、また姿を現す荒魂を斬り伏せる。永久に終わらぬ労役の如く、ただ文句も言わず肉体を食い破られ、再生し、戦う――。

 

 

 

 (こんなもの、単なる拷問ですわ――)

 同じく、地面に身を転がしていた此花寿々花も真希と同様の類推をしながら、その冷酷な結論に暫く戦慄しつつあった。

 彼女たちもまた、ノロという負の神性を肉体に受け入れた。その負のエネルギーと飢渇感は想像を絶するものだった。だからこそ、この目前の男の異様さが痛いほど理解できた。

 

 

 番人――と、名乗った男の骨肉が徐々に形成され、逆再生のように戻ってゆく。食い破られた腕や顔の骨から修復し、筋肉皮膚の順番で元通りになっていた。

 完全に戻るまで男は一言も発さず、さりとて悲痛という風でもなく俯き加減に待っていた。

 

 寿々花は、番人とその傍らに突き立てられた二つの青龍刀の長さを使い手を交互に見比べる。

 そして、ある仮説が彼女の中で閃いた。

 「……折神家、二天一流の――」

 無意識に記憶の奥底から嘗ての記録を手繰り寄せる。二天一流と一口に言っても、現在折神紫の使う二天一流は、開祖宮本武蔵の流派とは性質を異にする。

 

 寿々花のつぶやきを聞いていた番人は、苦笑するように頭を上げて敏い少女へと視線を送る。

 「そうか……知っていたか……。」

 安堵するような不可思議な口ぶりで番人は穏やかにいった。

 

 

 □■□■

 「たっだいま~」

 鎌府女学院の校門前で元気よく安桜美炎は叫んだ。

 現在時刻は午後九時。校門の外灯が白い光で辺りを照らしていた。

 たっぷり時間の暮れた空は、夜に染まっていた。

 腕組みをしていた長船の制服を着た少女はあくまでも穏やかな口調で、

 「おかえり、美炎ちゃん。遅かったのね」

 笑顔で出迎える。――無論、この笑顔は偽物である。内心の怒りと比例して笑顔は凄味を持つ。

 「あっ、あれ~? 遅れるって連絡したんだけどなぁ~あ、あははは……――」

 昔からの付き合いで美炎は直感していた。この大人びた少女、瀬戸内智恵は一度こうなると絶対に言い逃げられない。滅茶苦茶怖いのである。

 「美炎ちゃん……、どうしてお姉さんが怒ってるか解かる?」

 「あははーー。やだなーちーねぇとわたしの仲だよ。分かるよ~」

 「み・ほ・の・ちゃん……? ふざけないでくれるかしら?」

 ゾワリ、鳥肌が粟立つ。背筋が凍った。

 「…………はぃ、ごめんなさい」

 大人しく、シュンとした様子で項垂れて謝罪する美炎。

 その様子を流石に可哀想だと思ったのか、智恵は深い溜息のあと普段通りの声音に戻って、「どうして知らない人に付いていこうと思ったの?」と、嗜めるようにいう。

 言外に、二度とするなと言っているのである。

 

 美炎は軽く頭を上げ上目遣いで智恵を見る。

 「う~んと、なんて言えばいいのかな? その人がちょっと可哀想だったから……危ない所で……こう、なんていうのかな? わたし馬鹿だからうまく言えないけど……ギリギリの所で苦しんでる気がしたから――かな? いつもの直感っていうやつなんだけどさ……」

 年下の幼馴染の言葉はどこか真実味があった。とはいえ、

 「直感――ねえ。美炎ちゃんの直感は鋭いけど、でもダメよ? 女の子なんだから……」

 説教をしたいワケではない。単に心配だったのだ。

 「はい、ごめんなさいちーねぇ」

 「うん。それから後で六角さんにも謝らないとね」

 「えっ? どうして清香に?」

 「…………途中まで一緒に行動していたのに、急に美炎ちゃんがいなくなったって大騒ぎしていたのよ?」

 「あ、あはは……そうだね。あとで清香にも謝らないと」

 頬を指先で掻き苦笑いする美炎。

 他にも言いたいことがあったが、呆れてしまった智恵は静かに首を振る。とにかく後にしようと決めた。

 



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130話

 ポリカ波板の軒先から滝のような流れの雨が溢れた。

 トタン板に激しい雨が打ち付け、拳骨ほどの石礫が当たっている様にすら思われた。

 昨日の夜から気圧の配置が変化し、南関東を中心として大雨が降り始めていた。雷雨は激しい風と共に初冬の時期に荒れた。

 バラック小屋の中で、ポータブルラジオのか細い音が漏れている。

 ノイズが酷く上手く内容を聞き取ることは難しいが、女性アナウンサーのニュースを読み上げる声だけが辛うじて識別できた。――革張りがアチコチ破れたソファーに身を沈めた男、ジャグラーは一人粗末な天井を見上げつつ物思いに耽っていた。

 (この世界には秘密がある……。)

 戯れに伸ばした腕の先、裸電球に重ねた掌を握り締める。

 彼は元々、人間の風貌をしているが正体は異なる。簡単に言えば異星人である。しかも別次元の世界の住人でもあった。

 故あってこの世界に迷い込んだに過ぎない。しかしその理由が未だに分からない。

 伸ばした足を組み替え、縮毛気味の前髪の下に隠れた鋭い眼光が瞬く。

 本来、彼は――嫉妬と妄念の擒であった。

 〝選ばれなかった〟…………それこそが、彼個人を狂わすたった一つの出来事であり、塗り替えるべき過去であった。

 

 クレナイ・ガイ

 

 復讐の相手の名前を片時も忘れたことなど、ない。

 始めこそ嫉妬から生まれた復讐感情だったが、いつしかもう一つ別の感情が生まれていた。それは、紛れもなく〝憧憬〟である。

 ただ、眩く正しくある姿に否応なくジャグラーは劣等感を抱いた。

 それを自覚するからこそ、相手を完全に消滅させねば気分が済まない。

 

 『ジャグラーさんは、何だか放っておけない感じがしたから……』

 

 別れ際、安桜美炎がいった一言が不意に浮かぶ。

 

 「どういう意味だ? ハッ、あの小娘よりオレが強いッ、それは間違いない! ……ああ、そうか。ヤツは頭が悪いから勘違いでもしたんだろう」

 独り言を呟きながら、少女に言われたことに対し苦々しく反駁する。……だが、いくら言葉を尽くして反論しても本質から逃げているような気がしていた。

 

 ――クソッ、オレは一体どうしてしまったんだッ!

 

 自らを強く叱咤する。なぜ見ず知らずの人間に心をかき乱されるのか、まさか有り得ない。

 

 ――――オレはこの世の誰よりも優秀で強く、有象無象の連中などと違う。生まれからオレは優れているのだ! 他人が馬鹿に思えて仕方ない。無能で弱い連中なぞ、オレに跪いて然るべきである。それは間違いない。

 

 

 

 と、ジャグラーの上着ポケットに仕舞った携帯端末が震えた。……この端末は連絡用に高津雪那という高慢な女が支給したものである。

 「――はい」

 努めて冷静に電話口にでる。

 『もしもし、私だ。貴様がどこでなにをしているのか……本来は咎めるべきなのだが、まぁいい。貴様に命令だ。近々、自衛隊市ヶ谷基地に強襲をかける。その折、貴様にも戦力として活動してもらう。分かったか?』

 電話口の相手は、高津雪那その人であった。彼女は、まるでジャグラーを自分の部下であるような口ぶりであった。

 ふっ、とジャグラーは口元を歪める。

 「ええ、成程……お話をうかがいました。―――それで?」

 『なッ――貴様、話を本当に聞いていたのか?』

 「もちろん。全て聞きました。……で、オレがなぜあなた方に協力を? この世界に迷い込んだ――その理由をオレは突き止め、元の世界に帰る。それが目的だ。だけどあなた方に協力してこちらにメリットがない。……それで、なぜ協力を?」

 あくまで穏やかな口調で相手を挑発する。こういう高慢な人間は、このようにおちょくられる事をひどく嫌う。

 『―――貴様っ、ふざけるなッ!!』

 「あははは! でしたらご自分たちでどうぞご勝手に……ああ、なるほど。もうひとりの迷い人の……ええっと、腑破十臓でしたか。彼にも逃げられた……正解ですね。彼の力量は高い。本来、オレがいなくてもいい筈だった。だが、彼にも逃げられた。そういうワケですね」

 ダメ押しで煽る。

 『――――』

 電話口の相手は、過呼吸気味の掠れた息を漏らしながら暫く一言も発さずにいた。

 しばらく時間を置いて、雪那は会話を続ける。

 『いいか、舐めた口をきくな! ……しかし、タギツヒメ様は寛大だ。お前のような出来損ないでも戦力に含めるというのだ。――それに、タギツヒメ様なら貴様の帰還方法は知っておられるかもしれない』

 

「出来損ない? おい、誰が出来損ないだ? もう一度言ってみろ」

 ジャグラーは珍しく低く鋭い声で、恫喝した。

 何よりも他人に見下される事が嫌いな彼からすれば、それはまさに虎の尾を踏む行為であった。

 

 ひぃ、という悲鳴が電話のスピーカーから聞こえた。

 「チッ、まあいい。オレは寛大だからな。――考えておいてやる。詳しい時期は追って連絡するだろう? 二度と不愉快な気分にさせるな。失せろ」

 気分がまだ鎮まっていない。興奮気味に電話を切る。

 

 端末を傍のガラステーブルに投げ、苛立ちの溜息を吐いた。

 

 

 

 □■□■

 

 「――なぁ、ミホっちは本物なのか?」

 食堂で銀スプーンを口に咥えながら七之里呼吹は率直にいった。小柄な彼女は、行儀悪く椅子の上に片足を折り曲げていた。

 対面の少女はピョコりと首をあげる。

 「ふぉえ? どういう意味?」

 大盛りのご飯茶碗に盛られた白米をかきこみ、栗鼠のように頬袋をつくった安桜美炎は頭上に疑問符を浮かべる。

 「いや、だからさ。ミホっちは本物のおバカちゃんなのか……ってきいてるんだよ! どーして見ず知らずの男にホイホイついて行ってんだよ!」

 本気で怒っているようだが、呼吹の小柄な背丈と目深に被ったフードのせいで、どうしても可愛らしいパペットが動いている風にしか見えない。

 「あはは……ごめんなさい。でも――」

 「――でも、じゃないですっ。ほのちゃんが居なくなって心配したんだから!」

 美炎の隣から本気の抗議をした少女、六角清香は目端に大粒の涙を浮かべていた。

 「ごめん。でもあの時……清香も百鬼丸さんについて行って消えちゃったから……」

 「うっ」ギクッ、というような感じで身を固くした清香。

 事実、彼女も美炎との行動中に百鬼丸少年を発見し暴走してしまった。

 

 

 「はいはい、いまは言い争っている場合じゃないでしょ?」

 年下のメンバーのしょうもない諍いを、手を叩いて止めた。

 瀬戸内智恵は、調査隊メンバーでも年長組である。その彼女の言葉は皆素直に受け入れた。

 「いま、刀剣類管理局も特別祭祀機動隊も内部で問題あるみたいだし、なにより私たちは南無薬師如来景光を見つけないといけないのに……」

 「あーはいはい分かった分かった。ったく、チチエは頭が固くてうるせーな」

 「なっ! 誰が……」

 智恵は呼吹の発言に赤面し、言葉を喉に詰まらせる。

 「あれ? それよりミルヤさんとか由依も……綾小路の刀使が全然いないんだね」

 辺りをキョロキョロ見回した美炎が、疑問を口にする。

 「あれ? ほのちゃん聞いてないの? 綾小路は今朝学長命令でみんな帰っちゃったんだよ」

 清香が軽く説明した。

 鎌府女学院は現在、関東一円の頻発する荒魂討伐に人員が足りず、結果として伍箇伝の刀使を出向させて事態に当たっていた。

 

 ――だが、綾小路だけが帰還命令を下された。

 

 不可解なことで美炎は「うーん? どうしてだろう……」と首を傾げた。

 沈んだ表情で智恵は同意するように頷いた。

 「……確かに変よね。いまは綾小路を高津新学長が支配しているとはいえ、学長権限だけで動ける筈もないし――」

 「あ~、やめだヤメ。あれこれ考えたって結局、刀使の仕事は荒魂退治だろ? だったら好きなだけ荒魂ちゃんを切り刻む方が気楽だろ?」

 呼吹は笑顔で同意を求めるようにいった。

 「あはは……私は怖いから遠慮したい、かな」清香は肩を竦めて否定する。

 

 

 (舞草は、事前に放っていたスパイの情報が途絶えたから別の調査員を送ったらしいけど……。)

 智恵は沈痛な面持ちで、考え込む。

 

 

 「ねぇ、ちーねぇ。何か考え事?」

 「う、うん。少し、ね」

 苦笑いを漏らしながら智恵は首肯する。

 「考えすぎも良くないよ! 為せば成る! だよ!」

 「ふっ、ふふふ。そうね、美炎ちゃんの口癖だものね。……為せば成る、ね」

 「うん」

 口にご飯粒をつけながら、元気よく親指を立てて笑いかける。

 

 (――よーし、明日はもう一度ジャグラーさんに会いにいくぞっ!)

 と、内心で勢い込んでいた。

 



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131話

(タギツヒメ……ヤツが関係しているのか)

 ジャグラーは、この世界に召喚された時――御簾の奥に鎮座した謎の存在を思い返していた。あのときは歯牙にもかけなかったが、膨大なエネルギーには一目を置いていた。

 そもそも、この世界には《刀使》という特別な刀を扱う少女たちがいる。――その敵である「荒魂」という、怪獣とは違った化物が地上を跋扈していた。

 以前の世界とは異なる事情に戸惑いこそしたものの、殆どそれ以外に違いはない。

 

 

 

 ジャケットを羽織ろうとすると、

 「ジャグラーさん! どこかに行くの? わたし、手伝うよっ!!」

 明るい声音が隣から聞こえてくる。

 「……なぜ、お前がここにいる?」少女を一瞥すると、諦めてソファーに身を沈める。

 雑木林の山奥に存在するバラック小屋に、早朝、唐突に勝手に押しかけた安桜美炎。

 小屋周辺の風景は微かに光を受け入れ始めた様子だった――。こんな時間から押しかけるとは思っていなかったジャグラーは頭を抱え、暫く考え込んでしまった。

 「うーんと、なんていうのかな……? わたし、考えるよりも行動しちゃうんだよね……えへへ」

 照れ笑いを浮かべながら、美炎は背中のバックパックをガラステーブルの上に置いた。

 「昨日の夜、ちーねぇに手伝ってもらってお弁当をつくって来たんだけど……」

 「――何が目的だ?」

 一変して鋭い眼差しで、美炎を見据える。警戒の色がつよく相手の思惑が理解できずにいた。

 「えーっと、もしかして嫌だったり……」

 バックから取り出したプラスチックの弁当箱は美炎の両手に抱えられていた。

 気まずそうに上目遣いで、ジャグラーの様子を覗っていた。

 

 (…………どういうつもりだ? こちらの内情を偵察に来た? つまり、以前までの間抜けな態度はすべて演技?)

 一度疑念が浮かぶと連鎖的に、不安要素に結びつく。疑心暗鬼になったジャグラーだったが、ともかく探りを入れることにした。

 「一つ聞きたい。オレに近付いて何か狙うものでもあるのか? それともメリットが?」

 「へ? 全然そんなのないよ。ただ困っている人がいるって、何だか放っておけなくてさ」

 「オレが困っている?」

 「……うん。だって、どこか寂しそうだから」

 「ハッ、嘘だ。オレは誰より秀でている。それにお前も見ただろう。ダークリングを使って怪物を呼びたした瞬間を」

 昨日、ジャグラーが原宿の人垣の中、円形の禍々しい闇を放つ道具から異次元の得体の知れぬ化物を呼び出した。……その光景を美炎は目撃していた。

 脳裏にあの時の出来事を反芻して、

 「…………うん。あのときは驚いちゃったけど、でも――」

 と、次の言葉を発するタイミングでジャグラーは大股で美炎との距離を縮め、首に右手をかける。力を微かに入れた掌で細い首が締められた。

 ガラン、と大きな音を立て弁当箱が地面に落ちる。蓋が開いて中身が地面に散らばる。それに構わず、

 「ダークリングの存在を誰かに話したのか?」詰問する。

 美炎は苦しげな表情を浮かべながら、ふるふると否定に首を振る。

 ジャグラーは力を緩め、少女を睨む。

 「では何が目的だ?」

 「ゲホ、ゲホ……っ、わたしジャグラーさんの助けになりたい!」

 激しく咳こみながら美炎は首を擦りつつ相手を見上げた。

 真っ直ぐ向けたれた眼差しに射られて、ジャグラーは思わずたじろぐ。こんな無茶苦茶な存在に出会ったのは始めてであった。

 「チッ、まあいい。お前がヘタな動きをすれば殺す。それだけは覚えておけ」

 「うん、分かった! ……あーっ、でも折角つくってきたお弁当、ダメになっちゃったね……えへへ」

 美炎は目線を下に向けると、悲しそうに微笑を漏らす。屈んで中身の散らばった弁当箱を拾おうとした。

 「…………チッ」

 ジャグラーは苛立った。

 奇妙な罪悪感が彼の胸中を満たした。

 彼はおもむろにかがみ込むと、表面に砂のついた黄色い卵焼きを素手で掴んで口に運ぶ。

口の中でジャリジャリ音をたてながら飲み込む。味は殆ど分からない。

 「えっ……?」

 驚愕の色をうかべた美炎。

 ジャグラーの予想外の行動に、ただ目を見張りその様子を眺めていた。

 「あっ、き、汚いよソレ!」

 「…………ふん、生憎オレは誰の指図も受けない」

 「えーっ、お腹壊しちゃうよー!」

 「フン」冷淡な表情で無視を決め込む。

 ジャグラー自身、なぜこのような行動に出たのか理解しかねたが、深く考えることはやめた。この刀使――安桜美炎と居ると調子が狂う。それだけだ。原因はそれだけで十分だった。

 

 暫くジャグラーを見ていた美炎がおもむろに口を開く。

 「ふふふっ、あはははは!!! やっぱりだ」

 「…………何がだ?」

 笑って目端の涙を拭いながら少女は、

 「うん、やっぱりわたしの直感ってよく当たるみたい! ジャグラーさんって本当は悪い人じゃないんだなーって」

 ひとりで頷く。

 「フン、貴様はただの馬鹿だ」

 「あーっ、人のことを馬鹿っていう人が馬鹿なんだけどー」

 「ほぉ。いま何て言ったんだ? よく聞こえなかったが……」

 「馬鹿っていったんだよ! ――ってあああ! わたしが言ったんだーー!」

 騒がしくひとりで慌てていた。

 

 (何なんだ、この小娘は?)

 ジャグラーは騒がしい少女を諦めの眼差しで見ていた。

 

 

 

 

 薄い爪痕のような白い月が、夜空に掛かっている。

 綾小路武芸学舎――――校門。

 初冬の寒さが乾いた空気として周囲に充満している。

 

……喉を激しく鳴らして血塊を口端から吐き出す。堪えきれず涙を浮かべた。

 「ゲホッ……ゲホッ……――。」

 口の奥から笛の音色のようにヒュー、ヒュー、音が漏れた。

 朦朧とした頭をしっかり真正面に向け、たたらを踏んだ足元を励まし、腹部を襲った強烈な一撃から反撃の姿勢をとる。――満身創痍という危機的な状況ではあるが。

 しかし、大きな隙を見逃さず、迅移によって加速した速度で由依との間合いを詰め、喉を片手で締め上げる。

 「あ~、やっぱり強いっていいですね! 先輩! わたし、山城先輩に勝っちゃいましたっ!」

 不敵に笑みを浮かべた少女……内里歩は微笑む。 

その表情に思わず、

(勝てない……)

 弱気な内心を吐露した。舌根に苦いものが拡がる感覚がした。

 

 首を絞められ片腕で吊り上げられた黒髪ポニーテールの刀使、山城由依は苦悶に呻く。

 相手は冥加刀使(ノロを体内に宿した者のこと)となり、かつ、S装備によって実力がかさ増しされていた。

 

 ――とはいえ、ここで負けてよい道理ではなかった。

「あれ? どうしたんですか先輩っ、さっきまで凄くカッコよかったのに……あ、やっぱりわたし強いですか? この力でみんな守れますかね? あ、そっか! 強く喉を締めちゃうと喋れないですもんね」

 ハキハキ明るい口調で、赤バイザーから見据える歩。

 乱暴に由依を放り投げて地面へ叩きつける。

 

 「ゲホッ……ゲホッ……っ、」

 握った拳には小刻みな震えが全体に伝わっている。いくらイメージしても勝てる未来が全くと言っていい程見えない。

 辛うじて手元に転がった御刀《蛍丸》を握り直し、伏せた体勢から起き上がろうとした。

 

 「すーーーーっ、ゲホッ……。ねぇ、歩ちゃん。どうしてそんなに強くなりたいのかな?」

 喉を擦りながら目を眇め、由依は呼吸を整える。

 

 肩にトントンと御刀の峰を当てていた歩が驚いた様子で首を傾げる。

 「あれ? 結構タフなんですね。先輩……わたし、関東遠征で以前ショッピングモールの大量殺人で投入されたんです。……でも、全然役にたたなくて……だから思ったんですっ! もっとわたしが強くなれば問題ないんだって! 衛藤さんとか、百鬼丸さんみたいなすっっごい強い力で皆を守るんです! だからどんなに汚い力って言われても結構ですよ? 誰も守れずに奪われたり足を引っ張られるくらいなら強い方が全然マシ。そうでしょ? 山城先輩っ」

 

 饒舌に喋る歩の瞳の光彩に意思が感じられない――まるで劣等感を埋めるような言葉の羅列だった。

 

 「あははっ……そっか、歩ちゃんは純粋なんだね。――でもね、あたしも〝守る〟ってことに関しては結構煩くてさ。妹の為なら多分、あたしもノロの力を受け入れちゃうかも……でもさ、そんなことしてもやっぱり、妹の前で堂々と《刀使》なんだって――皆を、妹を守れる存在なんだって言えないから……!」

 大上段に御刀を構え、必殺の技を強く念じ膝に力を溜めて渾身の一撃を用意する。

 

 生きる、絶対に生きて帰る!

 強く念じる由依。だが一方で、

 (たぶん、これ勝てないかも――でも、)

 瞑目する。

 

 

 「チッ、お説教ですか……? 今のわたしと戦っても先輩勝てませんよ?」

 口を歪め、舌打ちをする。

 

 漂う気配すら殺気立つ彼女……山城由依の威圧に押され始めた気がした。

 

 

 先に動いたのは、内里歩だった。彼女はS装備とノロの力を最大限に利用し、加速した。大太刀の《蛍丸》の間合いに入れば必ず攻撃を加えることができる。しかも、半殺しにすれば後々、ノロを投与しても魂と肉体に深く結びつく。

 

 

 

 「はぁあああああああああっっ!!!!!!!!!」

 

 腹の底から由依は叫ぶ。大上段に構えた大太刀、蛍丸が轟々と唸りをあげて「背後」へ倒れてゆく。それに従い由依の身体も後方へと流れ、少女の身体は一時的に空中に投げ出された。

 

 「――!?」

 突然の出来事に驚愕の色を浮かべる歩。

 斬り掛かろうとした矢先にアクロバティックな運動によって標的を見失ったのである。

 足を一瞬で止めて上方を窺う。隙だらけの由依の姿を確認し、中腰になって空中戦を仕掛けようとした。

 

 「ついに、諦めましたかっ?!」

 不敵に笑みを零しながら歩は、飛翔した。

 空を切る風が心地よい。夜空を背景に舞い上がる由依を捉え、左方から斬撃を繰り出す――その刹那。

 

 足元から激烈な衝撃を知覚した。

 

 「っっっっ!!!」

 瞠目した。

 寸前のところで御刀を盾にして強烈な風を受け止める。

 ぐわぁん、と頭の中が鈍い衝撃が拡がる。

 脳震盪になった気分だ。頭を振ると《写シ》が剥がされていた。その衝撃の軌跡に視線を辿らせると、大太刀の《蛍丸》が目前を過ぎ行くのが見えた。

 

 「あはは……残念」

 

 「なんでっ……!!」

 一連の太刀の運動から歩は理解した。

 由依は背後の地面に蛍丸を突き立て、そこを主軸に身体を持ち上げたのだ。その間、自身に迫る歩を真下の軸となった御刀を勢い良く引き抜き、斬撃を足元から這わせた。

 

 しかし、虚空を切り裂いた瞬間に悟った。

 「あーあ。ダメだったか……。ま、でもこんな可愛い娘に斬られるならいっか」

 苦笑いを洩らす。

 内里歩は、怒気の籠った刃で《写シ》を斬撃で剥がす。と、同時に生身の由依の胴体を袈裟斬りにした。

 

 「がはっ――!!」

 血飛沫が空中に舞う。

 咄嗟に歩の慢心から生じた隙を活かしきることができなかった――無念さは、しかし由依の中には不思議となかった。

 

 (負けちゃった……か。でも、美炎ちゃんも清香ちゃんも居るから……)

 心配はない、そう思えた。

 

 ドサッ、と地面に再び叩きつけられた由依は次第に沈みゆく意識の中から、

 「……大丈夫だよ、絶対……」

 口端から血を一筋流しつつ、繰り返す。

 ふらつく歩の足音が近づく。その手にはノロアンプルを満タンにした注射器が握られている。

 

 

 ――その時になって、漸く己の運命を悟った由依だったが、それでもあまり怖くはなかった。

 調査隊のメンバーがいる。

 それが、大きな理由になっていた。だから、生ぬるい深紅の絨毯に身を沈めていても、怖くはなかった。

 

 

 

 3

 「高津学長、山城由依の確保が終わりました」

 歩は通信機器を耳に当て、報告した。

 

 『そう、よくやったわ。それでノロは?』

 

 「はい、何の障害もなく投与が終わりました」

 

 『……では、山城の復活次第、こちらに合流して頂戴』

 それだけ言うと、通信を終えた。

 

 

 内里歩は、連絡を終えてからも何か胸に蟠りのようなものを感じていた。胸に手を当てる。鼓動は変わらない。

 ふいに、地面に倒れ伏した由依に視線を投げる。

 

 彼女の大量失血した筈の血液も、逆再生テープのように身体の中へと吸収されてゆく。これが異能の力なのだ。理屈ではない、――ただ『現象』であるのだ。

 

 醒めた表情で、歩はこれまでワクワクしていた筈の気持ちに水を差された気がしていた。一向に晴れる様子のない心境に、ひどく戸惑う。

 

 「…………衛藤さんを超えないと。じゃないと、このモヤモヤが晴れない」

 小さく口の中で呟く。

 これまでの飢渇感が、別の感情に置き換わる前に衛藤可奈美を倒さねば。

 歩は東の方へと意識をむけていた。

 



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132話

 沈殿した暗闇は奥に進むごとに、地層に含まれた地下水の冷やかさが大気に帯びる。

 「じいさん、もうあとどれくらい歩くんだ?」

 百鬼丸は尖った眼差しを周囲に向け敵の気配を探る。――とはいえ、この旧軍時代の遺跡には限られた空間と無数の荒魂が跋扈しており、正しい察知すら難しくなっていた。

 「ふむ、慌てるな童貞小僧。――そうだな、タキメータで計測するに……あと四十五分後には広い空間に出るだろうな」

 と、事も無げに言った。

 「タキメータ? ってなんですか?」岳弘が疑問を口にする。

 「ム? 知らんのか? 針のついとる腕時計になら必ず数字の外側に目盛の数字があるだろうが……十二の部分には六〇、六の部分には一二〇。本来はまぁ、車両の走行時速を計測するんだが……コイツを大体人間の歩行速度に落として計算するんじゃ」

 「……? よく分からんが、たどり着くんだよな?」

 百鬼丸は首を傾げながら訊ねる。

 「――ウム。可能だ」

 虎之助は自信満々に頷いた。強烈なライトの光を腕時計に当てつつ、歩行速度から虎之助の記憶にある地下要塞の距離と照合させる。

 

 

 

 血肉の通った右手で壁を触りながら百鬼丸は進んでゆく。トラップの類を探そうにも、広大かつ長い通路は側壁や地面が激しく摩耗しており、荒魂が恐らく通過したのだろう。

罠を仕掛けても意味が無さそうだった。

「ここはそもそも、どんな場所なんですか?」

岳弘はカメラに触れて無意識に動作チャックをしていた。

「――研究所。本来はその筈じゃった。今は関東に鎌府の荒魂研究棟があるじゃろ?」 

「ええ、ありますね」

「その元になったのがココじゃ」

「……一応聞きますが、大戦末期に荒魂を兵器として利用すべく研究したっていう?」

「ウム、それじゃ」

「ああ。だったら全部失敗だったから兵器には向かないって……」

 その言葉に敏感に反応した虎之助は一旦足を止めた。後ろを歩いた岳弘は立ち止まらざるを得なかった。

「〝失敗〟――? おい、貴様失敗と今ホザいたか?」

 肩越しに振り返り、憎悪の眼差しをむけた。

「えっ? ……あの、歴史資料にはそう記されていたんで……すいません」突然の凶暴な表情に固まった岳弘は、素直に謝罪をした。

 

 

チッ、と鋭い舌打ちをして虎之助は大きな息を吐き出す。

「そう言われても仕方ない話じゃ。――尤も〝失敗させた〟と言った方が正しいがな」

「それって、どういう事なんですか?」

「――当時と変わってなければ、いずれ解るじゃろ」

虎之助は感情の感じられぬ声音でそう告げると、歩き出す。

仕方なく岳弘もその背中を追ったが、苦い感情が胸にこみ上げてしまいこれ以上会話をするのが躊躇われた。

 一行はただ、無言のまま終わりの見えぬ通路を延々と歩き続けた。

 

 

 

 

 2

 東京駅周辺高級ホテルの最上階。ひとりで使うには広すぎる空間に薄く白に発光した異質な存在が、巨大な強化ガラス窓の前に佇んでいる。

 

――タギツヒメ

 

つい数ヶ月前まで折神紫の体内に宿り、人々へ敵愾心と悪意、憎悪を以て世界を終わらせようとした宗像三女神の内のひと柱。

そのタギツヒメが窓の外の無限を飽くこともなく眺めていた。

 

 東京上空を頻繁に飛行するヘリの機影が見えた。

 刀剣類管理局が所有する汎用ヘリコプターであった。バババババ、というローター音が低回しながら『何か』を探しているようだった。――

 

 それを、面白くも無さそうに見るタギツヒメは、一言、

 「人とは愚かなものよ…………」と素直な感想を述べた。

 この機影は名目上、『荒魂の早期発見と排除』としているが――実際はタキリヒメへの威圧に過ぎない。

 

 

 綾小路と、鎌府の一部刀使が東京駅で合流し〝維新派〟を標榜した。

 今や公然と刀剣類管理局の内部抗争が世間に対して露見した格好となる。

 

 うしろから、人の気配がする。

 「ヒメ。明日市ヶ谷に攻撃を仕掛けるとおっしゃいましたか……?」

 背後に控えた高津雪那は恭しく、訊ねた。

 「――ウム。最早タキリヒメの所在は掴めた。なればこそ遠慮はいらぬ。〝力〟を取り戻さねば」

 橙色に輝く瞳を動かし、ヘリを未だ見ていた。

 

 「恐らく、イチキシマヒメの所在も轆轤秀光の情報が正しければ折神紫と行動している筈です……」

 「そうか……なれば、イチキシマヒメは最後か」

 「ヒメ。ヒメの率いられる軍団は精鋭になっております」

 雪那は手元の資料に目を通しながら明日の市ヶ谷基地襲撃に臨む編成を読み上げる。

 

 

 …………冥加刀使の中核をなす綾小路の刀使と、関東で合流した鎌府の刀使。

 

 第一隊 五六名

 

 第二隊 四五名

 

 第三隊 六〇名

 

 一〇〇名以上の「ノロ」を動力としたストームアーマーを装備する冥加刀使たち。防御に回る長船や美濃関、平城の刀使との実力差は明らかであった。

 

 「ヒメ、以上です」

 毒々しい色の唇を曲げ、雪那は一礼する。

 

 「分かった。もう下がってよいぞ」

 「はい」

 一礼をすると、雪那は足早に退出する。彼女にもこれから根回しした政財界や警視庁との打ち合わせがあるのだろう。……無論、高津雪那という女は策略に長けている。今後のやり方次第で如何様にも時局が展開するであろう。

 

 ……だが。

「妾の知ったことではないわ。――フン、つくづく人間とは愚かよ」

目を細めてタギツヒメは嘲笑う。

 「のう、貴様もそう思うだろう? ジャグラス・ジャグラーよ…………」

 高津雪那の退出直後、別の膨大なエネルギーを感じていたタギツヒメは、口を歪めて背後の気配へと疑問を投げかける。

 

 

 

 『このタピオカコーヒー、微妙だなァ』

 ジャグラーは透明なプラスチックボトルを目の高さに掲げて文句を言った。駅前の移動販売車で新商品として売り出されていたのだ。

 「――お久しぶりですねェ、タギツヒメさん」

 男は恭しく背筋を曲げて一礼をした。しかし、その顔は明らかに嘲弄したような色が強かった。

 

 

 

 

 3

 月はすっかり分厚い夜雲の裏に隠れ、冴えた空気が漂うに過ぎない。

 「……ッ、」

 珍しく激痛に呻いたのは、元親衛隊第三席の皐月夜見である。

 彼女の四肢は、先程の戦闘によって怪我を負っていた。……橋本双葉、という嘗て親衛隊時代に行動を共にした少女に反撃を喰らった影響である。

 

 (双葉さんにやられるとは…………。)

 微かな感情の揺らぎが口端に浮かぶ。

 

 大学病院の聳える山林を転がるように移動しつつ、麻痺毒の激痛と痺れに耐えた。

 夜の山の遊歩道は一切視界が暗闇に閉ざされ、何も視認できない。……ただ、闇が底もなく流れているに過ぎない。

 

 『フン、お前もその程度か――』

 男の嗄れた声がする。

 夜見は、外灯が辛うじて点滅している遊歩道の遠い一角に意識を向ける。

 

 林立して植わった木々の影から、その「声」が聞こえた。

 「――――なぜ、貴方がここに?」

 夜見には珍しく、微かな感情を滲ませた声音でそう訊ねる。

 

 木の裏から姿を現したのは、ステインである。彼は腕組みをしながら、鋭い三白眼を負傷した少女へと集中する。

 「今、お前に死なれると俺は百鬼丸と殺し合えないッ――ただそれだけだ」

 かつて、まがい物と判断したヒーローを粛清してきた驚異のアンチヒーローである彼、ステインは、この世界で百鬼丸という少年と出会い考え方を俄かに変えた。

 

 すなわち、『百鬼丸と殺し合いをする』ことであった。

 

 彼、ステインは以前百鬼丸と戦い――敗北を喫した。

 瀕死の重傷を負った彼は、夜見の荒魂の混ざった『血液』を飲み干すことによって、驚異的な回復力を得た。また、同時に新たな能力「吸血蝶」という、遠隔攻撃も取得した。

 

 ここで皐月夜見という少女を失うのは手痛い。

 そう判断したのだろう。

 「……私ならば、平気です。それよりも関東の方へ向かわねば」

 淡々とした口調で、痛みを堪えつつ夜見は足を引き摺って歩行する。

 

 「――その状態で?」

 

 「ええ……双葉さんの毒は、一時的な麻痺です。毒性もごく短い間です」

 もっとも、激痛と神経の痺れは酷いものである、とは夜見は付け加えなかった。

 

 ステインは暫く小さな紅の瞳で夜見を眺めている。

 「……なぜだ? なぜお前はあの女(高津雪那)に執着する?」

 赤いボロ切れのような紅の首巻きを翻し、そう問いかける。

 

 よろよろと蛇行した歩を止め、ステインの方角へ初めて頭を動かす。

 「……分かりません」

 「――お前は何の信念もなくあの女に付き従うのか?」

 激怒を含んだ口調でステインは、腕組みを解き背中の柄へ手をかける。返答次第ではこの場で夜見を斬り殺そうと考えていたのだ!

 

 「…………私でも分かりません。ですが、私は、少なくとも私には〝これくらいのこと〟しかできないから」

 左二の腕に穿たれた小さな噛み跡を右手で押さえつつ、夜見は再び縺れる足を動かし始めた。

 

 

 (この女は愚かだッ!)

 ステインは胆の奥から湧き上がる、言いようもない感情の奔流を感じた。

 この何の信念も、考えも無さそうな少女をここで斬り殺す――先程までそう考えていたのに、何故だか現在(いま)では、この愚直なまでの一途さに、殺意が削がれた気がした。

 

 チン、と鞘に刃を収めると、ステインは蹌踉めきながらも進む「愚か」な少女を遠くから監視する事にした。

 

 

 ドサッ、と夜見は下り坂のアスファルト舗道に倒れ込んだ。

 「私は……まだ、ここで……倒れることはできません……まだあの方のために……」

 熱に浮かされたように、繰り言のように、夜見は呟き続ける。

 

 

 ――――闇から、声が響く。

 『立て。お前がもし俺を使いこなすに値する奴であれば、尚更だ。ここで自力で起き上がれ』

 手は貸さない。

 しかし、それ故に夜見にとって救いとなった。

 

 「ええ……私は、人形でもいい」

 数箇所強打したにも関わらず、夜見はその怪我にも頓着せず、自ら両手をついて起き上がろうとした。

 

 

 ……あの方に認められなくてもいい、双葉に優しい言葉を掛けられ僅かに動いた感情は捨て去る。この手を汚し尽くしてでも、例え地獄に行くとしても構わない。

 (あのお方のために私は…………)

 夜見は、痺れる全身を無視して再び立ち上がろうとしていた。

 



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133話

 青系統の――浅縹色の瞳が薄く開いた。

 眩い。

 思わず、ボヤけた視界から一気に拡がる光源に細い眉を顰める。手術用の照明が天井に設置され、つよく光を照射している。

 「……あれ? ここどこ?」

 燕結芽は深い眠りから目醒めた。倦怠感が全身を包むものの、それ以外に躰の変調は感じられなかった。ごくり、白く細い喉が唾を呑む。

 

 

 ――ああ、目覚めたんだね。

 

 広い空間のどこかから、男の優しい声音が響く。結芽はその方向へ自然と意識を向けた。恐らく手術用の機械器具のような物が林立する影に隠れ、男はゴム手袋を外そうとしていた。

 「おじさん、だれ?」

 久々に発声するために掠れた声で、訊ねる。

 男は、柔和な笑みを零しながら肩越しに振り返った。

 「そうか……術後の後遺症で少しだけ記憶の欠如が見られるが――命に別状がないのは良かった。うん、これなら成功だ…………。」

 何度も嬉しげに頷く男を怪訝な視線で見つめつつ、

 「どういう事?」ポツリ呟く。

 「いいや、気にしないでくれ。君は安心して眠ってくれて構わない。もう――君は、本来の意味で〝死〟に怯える必要がないんだ。人並みの生活を送ることが出来るよ。私が保証しよう」

 結芽にはさっぱり状況が掴めなかった。少女の記憶は、途切れ途切れになっていた。

 確か、「誰か」と一緒に原宿に出かけ、遊園地に赴き…………そこから記憶が一切無い。ポッカリ穴が空いたみたいに、朧ろげな風景だけが脳裏に浮かぶに過ぎない。

 ……一体だれと共に居たのだろう?

 鉛色の霧が立ち込めたみたいに、記憶を遮り上手く思い出せない。

 「もうすぐ麻酔が切れる。……切開手術はしていないよ。だから安心して欲しい。今はぐっすりおやすみ」男は、親しげな声で告げる。

 

 

 

 「なんで……私に」

 手術を施したのだろう? そう言葉を続けようとして、結芽は再び襲う激烈な睡魔に負けて重くなった瞼を閉じる。

 

 

 

 2

 数キロに及ぶ地下通路の出口から、頬を撫でる風が感じられた。

 軍用懐中電灯で暗部の矩形を照らし出す。狭い場所の移動はいい加減飽きていた所だった。

 

 

 

 天井部分から最下層部分を貫く筒状の空間に出た。

 「すげぇでけぇ………」

 柴崎岳弘は思わず、そう口にした。

 事実、首都直下に構築された巨大な蟻の巣じみた地下要塞に、半径数十メートルに及ぶ広大な空間に出くわすとは思わなかった。

 この巨大な円形の空間は、一個の円筒状にできており、十字に橋脚とクレーチングの足場が架けられている。貧相な手すりが両側に備え付けられるだけで、殆ど転落防止措置はない。

 

 

 

 下を覗くと、底なしの暗黒が奥深くまで続いている。一切の光を拒むような、奈落。

 「マジでここ何やってたんですか――?」

 岳弘は、目の前を歩く松崎虎之助老人に疑問を投げかける。

 彼は七〇余年前当時、ここで兵士として「居た」のだ。

 

 

 猫背の酷い彼の背骨が、一層過去の出来事を背負って重そうに曲がっている様に見えた。

 「……ここで、かつて人体実験をしていた。無論荒魂を兵器として利用するために、な」

 事も無げに言う虎之助の言葉が逆に、真実味を感じさせた。

 「――ここに荒魂たちがウヨウヨいるのはそれが関係してるのか?」先頭を歩いていた百鬼丸少年は足を止めて、振り返る。

 「ああ、そうじゃい。あやつらも……この七〇年ずっとこの地下に閉ざされていた。時々は地上への出口を見つけて暴れるが……それも稀じゃ」

 東京での荒魂被害の約四パーセントがスペクトラムファインダーでも捕捉できない荒魂に街が蹂躙される。その原因はこの広大な地下空間から出現していた。

 

 

 これだけでも、大スクープだった。

 岳弘は、カメラを調整してライカに専用のフラッシュを接続する。

 レンズ越しに目の前の風景を次々と撮影する。何から何まで教科書で教えられた歴史とも事実とも異なる現実に身震いをした岳弘。

 「いい加減聞かせてくれないか? じいさん。あんたの口から、どうしてここ場所にきたかったのか――」

 「……お前は出会った時から、〝大尉どの〟に似ていると思ったよ、百鬼丸。その佇まいといい雰囲気といい。誠実そのもので、優しい人だった」

 「大尉どの?」

 「ああ。ワシは昔、大尉どのを世話する雑用役の兵士だった。――大尉どのは」

 

 

 

 

 3

 「お前は一体何者なんだ……?」

 未だ打撲した激痛の箇所を庇いつつ、真希は転がり平伏した体勢からヨロヨロ立ち上がる。

 折神家親衛隊の元一席二席を軽々と退けた、眼前の怪異じみた大男が、ゆっくりと白目を剥いたまま闇の蟠る天井を仰ぐ。

 荒魂の攻撃で欠損した肉体の部位が時間の経過と共に修復しつつあった。

 赤銅色の皮膚と禿頭。特徴的な外見の男は、しかし沈黙を守る。

 

 

 『――――御門実篤。それが貴方のお名前ですわね?』

 明晰な声で、此花寿々花は指摘した。

 折神紫の懐刀と言われた才色兼備の少女は、ワインレッドの髪先を揺らし、真希と同じく弱った躰を励まし、起き上がる。

 

 

 その言葉に反応し、

 「――ほォ、小生の名前だ。しかし、その名前で呼ばれたのは久々だ」

 久闊を叙するように、男……御門実篤は言った。

 

 

 「寿々花、奴はいったい何者なんだ?」

 理解できない、とでも言いたげに獅童真希は斜め後ろの少女に訊ねる。

 

 その反応を予期していたかのように、若干の余裕を含んだ微笑で寿々花は応じる。

 「御門実篤は、紫様の流派二天一流でも、とくに折神家に特化した長刀ふた振りを使用した折神宗家の二天一流を完成させた男ですわ」

 

 

 大男は、寿々花の語る内容に一切の反駁はせず、しかし、微かに口端を曲げる。

 「よく知っているお嬢さんだ。そうだ、小生は御門実篤。折神式二天一流を創設し、この地下で死んだ男の名前だ…………」

 

 



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134話

 周囲へ首を一つ巡らし、

「しかし、高級なお部屋ですねぇ……」

 皮肉っぽい調子でジャグラーは、高級スイートルームを隅から隅まで眺めていた。

 

 その部屋の主、タギツヒメは別段不愉快な態度をとる相手を不服に思うでもなく、別次元からの来訪者の不躾な様子を反射して映る像を窓越しに見ている。

 

 『して、ここに来たのは何用じゃ?』

 輝きを放つ橙色の瞳が、そう訊ねる。

 白く光った躰は神々しく、常人であれば畏怖するであろう。――しかし、ジャグラーという男は別である。大銀河団を渡り歩いた彼からすれば、さほどの興味を惹く存在ではない。

 

 「ええ、一つお伺いしたいことがありましてね。いいえ、難しい話ではありませんよ。そうですねぇ……単刀直入に聞きますが、オレをどうやってこの世界に呼んだのか? それに合わせて理由も――勿論わかる範囲でお伺いしましょうか」

 ふてぶてしい態度で、両手をポケットに突っ込みニタニタ笑っている。

 失礼――という概念を大きく外したジャグラーを、ようやくタギツヒメは踵を返して正面から見据える。

 

 『――ほぉ、それが貴様の望みか?』

 

 「望み、というのは本来であれば元の世界に帰ることを指すのですが……まぁ、いいでしょう」

 真剣味を帯びた声音で、ジャグラーは相手の放つ圧力に対抗するように鋭く睨みつける。

 

 

 タギツヒメは苦笑する。

 『成程、面白い奴だ、妾の知っている範囲であれば答えよう――』童女の声で、しかし大人びた口調がアンバランスな印象を与える。

 『確かお主の――この世界に来た方法と理由か。妾はお主を呼んでおらぬ。』

 結論からはいったタギツヒメは、更に言葉を続ける。

 『お主を呼んだのは、荒魂じゃ』

 「荒魂? あの地上を跋扈する怪物ですか? ハッ、まさか」

 『いいや、あれらとも少し異なる。知性を有する存在じゃ。百鬼丸――という少年を知っているのであろう?』挑発的な語調で、ジャグラーに質問する。

 「ええ、この世界に来たとき出会った少年ですかねぇ」

 『であれば話は早い。アレの肉体を喰らって寄り代としたのが〝知性体〟と呼ばれる荒魂じゃ。あやつらが、共同で現世に顕現し続けるエネルギーを、すべて次元を超えて強力な存在を降臨させる為に使った』

 

 ジャグラーは突然の話に、思わず余裕の態度を崩した。

 「…………どういう事です? まさかその〝知性体〟とかいう連中が数匹で生贄のようにしてこの世界にオレを呼んだ。そう言いたいんですか?」

 

 『だからそう申しているであろう。……尤も、お主の体の中にはその生贄として参加した〝知性体〟の肉体が含まれておるがな』

 くくくっ、と珍しくタギツヒメはわらう。しかし、残忍な笑みを含む横顔がジャグラーには印象的であった。

 

 「では貴女がオレを呼んだ訳ではない、そう言いたいんですね?」

 

 『ああ、無論。でなくば我も貴様のように扱いにくい男なぞ呼ばぬ』

 

 「成程、ではオレが元の世界に帰るには…………」

 

 『百鬼丸を殺すか――或は、貴様がこの世界で死ぬか。それだけじゃ。妾がこの場で殺しても構わぬが……』

 

 その言葉にジャグラーは荒立ちを強めた。

 「黙れッ! オレは選ばれし者だ。その百鬼丸…………少年を殺せばいい。なに、単純なことじゃないですか」

 開きなったように、ジャグラーは余裕の笑みを回復させ、なんとか平静を保とうとする。

 

 

 『……して、あやつの居場所は解るのか?』

 

 「フッ、それも存じているんでしょう? 〝タギツヒメ〟さま?」

 痙攣した頬の筋肉を何とか指で押さえつけて、精一杯の冷静な声で尋ねる。

 

 目を細めたタギツヒメ。彼女は不意に、窓の遥か下へと目線を向ける。

 『さぁ……? 妾にもわからぬ』ジャグラーの口調を真似るように、皮肉の笑みを薄く浮かべた。

 

 

 「………………。成程、ではオレはこの辺で」

 タギツヒメの動作から大体の考えは読めた。そう悟ったジャグラーは、ポケットへ乱暴に手を入れて、足早に歩き出した。

 

 『貴様からは――刀使の匂いがするな』

 部屋の去り際、タギツヒメは苛立つ背中にむけて挑発的な文言を投げかけた。

 

 クルッ、と踵を返したジャグラーは忌々しいような言いにくい顔つきで、

 「さぁ? オレにも目的がありますからね。貴女には全てお話する義務はない。お互い様でしょう?」

 両者の視線は、激しい火花を散らし、静寂を保つ室内に剣呑な雰囲気を漂わせた。

 

 

 

 2

 (う~ん、ジャグラーさん遅いなぁ~)

 内心で、帰りを待っていた。

 安桜美炎は、東京駅に近い周辺に整備された植え込み花壇の縁に腰を下ろして、暇そうに足をブラブラさせていた。

 空を仰ぎ見ると、曇天。

 ジャグラーと共に、鎌倉方面から東京駅に到着するまでは良かった。しかし、肝心のジャグラーがそれ以降の同行を拒否した。カチン、と頭にきた美炎はそれに反駁するように、『わたし、ここでずっと待ってるから!』と一方的に宣言した。

 

 無言で立ち去ったジャグラーを眺めながら美炎は、戻るか解らない相手を強い眼差しで見送った。

 

 

 …………ここまでは良かった。

 しかし。

 何事にも、不運というのは付きまとう。

 

 「貴女は美濃関の制服を着ているけど、どこの所属かしら?」

 「答えない場合は拘束させてもらう」

 美炎の目前には、綾小路武芸学舎の刀使二人が厳しい態度で、尋問をした。この東京駅周辺が、明らかに異質な雰囲気を纏うのは、綾小路と鎌府女学院の刀使が警備をしているからに他ならない。

 

 「え~っと、今人を待ってて……」

 頬に冷や汗を浮かべながら美炎は「あはは」と愛想笑いを浮かべて人差し指で耳の傍を掻いた。

 

 

 怪訝に寄せた眉根で、綾小路の刀使たちは納得しない。

 「……悪いけど、今日からここは厳戒態勢を敷いているから、甘い検問はできないの」

 年長者らしき綾小路の刀使が、美炎を見据える。

 「あはは……本当なんですってば」

 「貴女、美濃関ってことは、鎌府に出向している刀使ね?」年少らしき方の刀使が、鋭い疑問を投げかける。

 

 

 ――うっ、と思わず美炎は呻く。

 図星だった。というよりも、安桜美炎は嘘が下手であり欺く方法を知らない。

 「あはは……で、でもここに居るだけなら――」

 

 

 グラッ、と突如、全身を揺らす振動を感じた。

 たった数秒だったが、不吉な「揺れ」であり、地層からくる自然現象というよりも、何か大きなモノが倒れたか爆発の衝撃に似た……不吉な揺れだった。

 

 「な、なに?」

 

 「なんなの?」

 慌てた二人の綾小路の刀使たちは、美穂の事など気に留める様子もなく、震源地であろう方向へと走って行った。

 

 「どうしちゃったんだろう……?」

 一連の出来事に、呆然と、思わず美炎は本音を呟く。

 

 曇天は更に密度を増して、いずれ雨を齎すかに思われた。

 

 警戒態勢だった東京駅周辺が、俄かに時勢によって蠢動を始めた。――――

 



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135話

 

 1

 闖入者を許したのは、ひとえに慢心だった。

 この地下坑道は性質上「知られていない」ことを想定して構築されている。

 ――だが、一旦内部を見知った人間が蟻のように潜入した場合は別である。しかも勝手知ったるように動き回られては、〝迷路〟と称された複雑な内部は無駄となり果てた。

 

 

 この地下の番人――否、御門実篤は巨大な青龍刀をふた振りを握り直し、別方角からの気配を敏感に感知した。

 フッ、と口元が緩む。巌を削ったような顔立ちの男には似合わない態度だった。

 「成程、貴殿たちは陽動だな?」ゆっくり、首を上げて正面の刀使二人に語りかける。

 

 (なにを言っていますの?)

 此花寿々花は目を細めて、相手の問いかけを咀嚼する。

 陽動? 有り得ない。自分たちは、ここに捨て身で、しかもたった二人で乗り込んだのだ。今更援護があるとは聞いていない。仮にそうだとして、刀剣類管理局の上層部にはメリットがない筈である。

 

 

 一度地面に倒れ伏した獅童真希は、闘志を再燃させ、

 「折神宗家の二天一流の開祖らしいが、その話か本当なら、ボクたちが陽動だのなんだのは所詮、話をはぐらかす言い訳のつもりか?」

 《御刀 吼丸》を構えて複数箇所の打撲を一切無視する。

 先程の話では、折神紫の用いる剣術「二天一流」の折神宗家式に改造した剣術家ということである。ならば、純粋な剣技での技量差は埋めがたい。――だが、刀使の異能力を用いれば話は違う。

 

 

 (本当は強さを求め、ノロを受け入れ衛藤たちに負けた……ふっ、ボクはまた異能に助けを求めようとしているのか)

 自嘲気味に、軽く笑ってみせる。

 だが、それでもいいと思った。……この空間のどこかに「燕結芽」という少女が囚われているのだから。自分がいくら卑怯者になってもいい。

 刀使の矜持も何もかも一旦捨て去ろう。そんな安っぽいもので釣り合いが取れるなら、いくらでも捨てる。そして、結芽を助け出す。

 そんな不吉なまでの覚悟を決めた真希の雰囲気を悟り、

 「…………真希さん、残念ですが戦う相手も異能の者。しかも剣技では我々が太刀打ちできる相手ではありませんわ。一度退却でも――」

 すかさず、忠告を真希に入れる。寿々花からすれば、ここで真希を失いたくない。戦力としても個人的な意味でも。

 

 

 「ふっ、寿々花は随分臆病風に吹かれているんだね。……ここでボクたちを逃がしてくれる相手だから逃げる? キミの言葉は絶対に正しい。でも、それじゃ結芽に早く会えないじゃないか」

 肩越しに、真希は言った。

 

 「なっ、たったそれだけの理由ですの!」

 思わず目を見開いて寿々花は驚愕の色を浮かべる。まさか、真希がここまで馬鹿だとは思わなかったのだ。――だが。

 

 「呆れたかい?」真希の声音はどこまでも落ち着いている。ヤケを起こしている訳でもない。冷静に、ただ自分に従い素直な気持ちで相手と対峙しているのだ。

 

 だから、寿々花は肩を竦めて柳眉をハの字に寄せ苦笑いをする。

 「……ええ、本当に呆れましたわ。まあ、それでも真希さんらしいのは悪くありませんわよ」

 《九字兼定》を一度収刀し、再び鯉口を切って銀色を閃かせる。真希と行動を共にしたのだ。彼女のやり方に付き合うのは理屈でなく心の部分で決めた。共にあろうと刃で示す。

 

 

 

 

 実篤は、侵入者の気配がする方向を何度も気にかけながら目前の刀使を、巨体から見下ろす。

 「……貴殿たちの躰にもノロの匂いがする。受け入れたのか?」

 このタイミングで敵に向かって事実確認しようとする意味が解らない、しかし――どこか気に掛かるように尋ねる。

 

 「ああ。ボクたちの意思でノロを受け入れた。それがどうした?」

 真希は構えを崩さず、靴底を浅く削って間合いを測る。

 

 「愚かな。……最早刀使ではない。それは、最早刀使でないと同義だ。――ここで貴殿たちを切り刻む。それが〝救い〟だ」

 

 実篤は湾曲した刃を双つ右腕を伸ばし、左腕を曲げて頭上に掲げる独特の構えで静止した。

 

 

 

 先程までの斬り合いと異なる、〝御門実篤〟という男の本気。

 

 

 透明な殺意の膜が何重にも巨躯の男の周囲を包み、裁縫針のような鋭いプレッシャーを肌に容赦なく突き刺す。

 剣を構え、向かい合った者だけしか解らない、実力の世界。

 

 

 

 いつの間にか、真希の額には滂沱の汗が流れていた。

 ノロの力を活用しようと、意識的に「欲望」を探ろうとする。危険な手触りな筈の《ノロ》の活用ですら及びも付かない、目前のプレッシャー。

 

 

 ――死ぬ。

 

 脳裏に稲妻のように閃いた不吉な文字。そう悟った時、これまでに味わったことのない畏怖が溢れて胃袋から悲鳴に似た感情がせり上がるのを感じた。

 

 

 「南無阿弥陀仏。せめて、丁寧に弔われるよう計らう。……しかし、手加減はせぬ」

 赤銅色の皮膚から青筋の血管が幾重も浮かび上がり、龍騎した筋肉が脈動する。およそ凶暴という概念を人型にして彫刻すると、彼になるのではないか――そう錯覚させる凄味があった。

 

 

 ズドォオオオオオオオオオオン、とドーム状になった空間に激しい音と揺れ、そして粉塵が舞い上がり反響した。

 

 2

 「なっ!?」

 真希は、思わず警戒を解いて激しく崩落した天井の一部分へと視線を注ぐ。

 

 巨大なひび割れと亀裂が天蓋を幾つも亀裂を走らせ、卵の殻を砕いたように穴が穿たれていた。自然に崩落したとは考えられない。……作為的な、人間の手による破壊だ、と直感的に感じた。

 

 天蓋に穿たれた部分の空洞は、人がひとり通れるだけの小さなものだった。この地下坑道の経年劣化、というには都合のいい壊れ方だった。

 

 

 しかし、この突然の破壊に驚いたのは真希や寿々花だけでなく、地下の番人を称する御門実篤も同様だった。一瞬にして敵意を真希と寿々花から外して、生き物の気配がする方へと変える。

 

 「――何者だ?」

 青龍刀の剣尖を煙幕のように覆われた砂埃に隠れた〝人影〟へ鋭さを合わせる。

 

 今まで、この七〇年近くこの場所を守り続けた彼にとって青天の霹靂であった。有り得ない状況というものはこれまでにもあった。しかし今度のような出来事は例外だった。正真正銘、有り得ない、例外の出来事だった。

 白目を剥いた双眸で、口を固く結び相手を睨む。

 

 

 

 『ゲホッ、ゲホッ、……ったく、なんだあのクソじじい。嘘こきやがったな! ったく何が〝ここから飛び降りればへーき〟だ! 全くへーきじゃねーぞ!』

 誰かに対して激怒をしていた。かなり幼稚な内容の、しかも間の抜けた声。

 

 

 

 

 その時、遠くから推移を見守っていた此花寿々花は反射的にピーンとその声に閃きがきた。

 「百鬼丸、さんですの? どうしてここに!?」

 呆気にとられたように、面識のある人物の名前を口にする。

 

 

 ヴォン、と砂埃の煙幕をひと振りの轟音が払い去る。

 「おん? ああ、お久しぶりだな寿々花! あれ? 真希もいるのか。珍しいなこんな所で出会うとは――ま、いっか。そんでそこのおっさんは誰だ?」

 陽気な声音で百鬼丸は腰に佩いた鞘から《無銘刀》を煌かせる。

 

 静かに百鬼丸少年を睥睨した、番人、御門実篤は厳しい視線を向ける。

 「何者だ――?」

 

 

 その敵意が百鬼丸に伝播し、瞬時に現状を把握させた。自らに向けられる敵意は慣れている。どのよな種類であれ、殺気が篭っていれば丁寧にお返しするのが百鬼丸のモットーだった。

 

 「ああ? おれ? おれの名前は百鬼丸。タギツヒメに四十八箇所喰われた男だ。覚えておけ」

 不敵な面構えで、禍々しい赤霧の妖気を放つ《無銘刀》を二メートル近い身長の敵へ見せつける。

 ベロを思い切り出して、舌なめずりをする。

 「お前を半殺しにしてから、色々と聞かせてもらうぞ」

 

 

 



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136話

 

 

 宮本武蔵――と言えば、日本で最も有名な剣豪の一人だろう。しかし、その出生などは謎が多い。彼、宮本武蔵は美作の宮本村の生と言われている。

 彼の創設した兵法の書物『五輪書』によれば、本来我々が想像する「太刀ふた振りによる剣術」ではなく、「太刀と脇差」による方法である。

 

 その証拠に、宮本武蔵と言えば最も有名な絵がある。……宮本武蔵自身が描いた自画像の掛け軸である。そこに描かれた彼は、赤い羽織に白襦袢姿であり、右手には太刀、左手には脇差を握っている。

 これが示す通り本来二天一流とは長短の刀による戦闘方法であると言える。

 

 しかし、それは通常の金属から生産された刀と人間が使う技である。

 こと、異能の力を秘めた「御刀」とその力を引き出す清らかな乙女の「刀使」にはその常識は通用しない。この御刀と刀使は折神家が統括している。

 折神家は古来より、朝廷より御刀と「ノロ」の管理を任された伝統ある家柄である。

 折神の名を継承する当主の刀使たちは、複数の御刀に見初められる事があった。

 

 ――――長刀ふた振りを基本とした二天一流

 

 異能の力を最大に引き出しつつ、その力を制御しきって武芸へと落とし込む。至難の業と言って良い。

 

 

 

 1

 

 …………それを、この目前の御門実篤が作り上げた。

 恵まれた長身に均整のとれた筋肉。

 およそ常人離れした膂力に、荒魂に食い荒らされた肉体を自然に回復させる治癒能力。刀使でもないこの化物は一体、どうして嘗て〝人間だった〟ということができようか。

 

 

 

 しかしそんな複雑な背景を知らない、対峙する少年は周囲へ一瞥をくれた。

 「しっかし、暗い場所だな。面白いか? こんな所にずーーーっと居て?」

 百鬼丸は頸を軽く回してストレッチしながら皮肉っぽい口調で挑発する。

 正眼に構えた《無銘刀》は邪悪な妖気を漂わせ、その刀身に細長い葉脈のような赤い筋を幾重も伸ばしていた。

 金鍔が、キラリ光る。

 「ふぅうううううううううっ」肺に溜まった空気の残りを全部吐き出して、再び吸い込む。

 

 

 かつて「御門実篤」という名前だった男は白目を剥いたままの両眼でゆっくり余裕をもって眺める。

 この少年は、一見痩身だが……被服に隠れた肉体は鍛え上げられた筋肉を内包しているのだと理解できた。身のこなしこそ粗暴であるものの、動作の一切が無駄のない効率的な動きである。まるで野生動物のようだ、と実篤は思った。

 

 

 事実、百鬼丸は可奈美による軽い剣術指南によって剣術や武術の基礎基本は学んだ。――とはいえ、初歩の中でも初歩の部分だけであるが。

 両踵を浮かせ、つま先で上下に運動し、タイミングをつくる。

 百鬼丸は口端を曲げた。

 片足の大腿部に内蔵された「リボルバー方式の加速装置」を確認しつつ、左腕に収まる《無銘刀》の力を呼び起こして〝写シ〟を体表に貼る。

 

 この、刀使にしか使えない〝写シ〟という防御術式は「躰に白い膜のようなモノで斬撃などを身代わりに防御」する方法である。無論、攻撃の激痛などはそのままであるが…………。

 

 

 

「成程、貴殿は……剣士ではなく戦士なのだな?」

 実篤が鋭く百鬼丸の本質を言い当てる。

 

 「へぇ、ご明察」

 嬉しそうな声音で狂ったような微笑を浮かべる。

 

 剣士とは剣術による求道者であり、戦士とは戦闘において「どんな手を使っても勝つ」ことを目的とした人間である。

 

 本来、百鬼丸は戦士であり、しかも狂戦士が百鬼丸という少年の性質である。

 女子のように黒く長い百鬼丸の髪に、白い毛が何本も混じっている。

 《無銘刀》の影響であろう。

 隠世に引力のように惹きつけられている、百鬼丸は最近そう思うことが増えた。

 

 (だから何だ?)

 百鬼丸は自らの心に芽生えた不安を一瞬のうちに捻り潰した。

 莫大な力を得る代償は必ずある。世界は残酷だ。無償で何かを得られるほど甘くないことは、これまでの人生でイヤというほど味わった。

 

 

 

 乱雑に束ねた黒髪がなびく。

 「――行くぞ、おっさん」

 百鬼丸がニタニタ笑い、告げる。

 

 

 

 「よかろう、こい」

 前に青龍刀を双つ掲げ構えた実篤が同意する。全神経を敏感に鋭敏に、周囲へと張り巡らせる。この偽りの肉体で七〇年以上もこのドーム状の空間を守っていた。

 今更恐れる理由がない。

 

 ――――筈だった。

 

 

 

 まず、最初に感じたのは滝の瀑布に似たエネルギーの放出だった。

 しかもこれまで感じた事のない邪悪な思念と怨霊のような不吉な殺意たち。

 (なんだこれは?)

 思わず、心が凍った。

 

 しかし、そんな思索を許す暇もなく、鋭い殺意の刃が気が付くと首筋の背後を狙っていた!

 

 「もらったッ!!」

 背後にいつの間にか回った百鬼丸が空中に飛び上がり、思い切り右腕を後方に力を溜めて斬撃を打ち込もうとしている!

 

 「ヌゥッ!!」

 短く唸り、実篤は青龍刀を盾に首筋を守り、もう片方の腕で百鬼丸を仕留める斬撃を与えた。

 半身が傾き、青龍刀の突撃が襲いかかる。

 

 「チッ、クソッ!!」

 舌打ちをして百鬼丸は身軽に轟音の鳴る青龍刀を宙で寸前躱すと、鼻先を鋼が掠める。

 中途半端な力の刃は青龍刀に阻まれ、百鬼丸は一度片足の足裏を相手に向けて逆噴射した。

 

 蒸気が一瞬気体の塊が現れ、即座に霧散した。

 

 白く霞む視界が晴れたとき敵の姿は遠くの壁に這っていた。

 「中々変わった戦い方だ……。」素直な気持ちで実篤は、賞賛を送った。

 これほどまでに相手を〝殺す〟ことに重点を置いた刃と意思を実篤は知らない。この少年は想像以上の強敵である、そう痛感した。

 

 

 

 ドームの側壁に両足をつけ、屈んだ姿勢の百鬼丸は頸を軽く振って、

 「ああ、そうかい。おっさんの反応速度――やべぇな」

 百鬼丸も同様、敵の力量に敬意と…………新たな闘争本能の泉を湧かせた。

 

 

 



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137話

 

 さっさと決着をつけようと慢心していたようだ――、百鬼丸は歯噛みする。背後をとった一撃を完璧に決めたと思いこんでいたのだ。それを簡単に防がれた。

 「チッ、しくじったか――。ま、いっか」

 百鬼丸は《無銘刀》を側壁の隙間に突き刺し、壁を足場に張り付いていた。

 キィイイイイイイン、と機械の起動音が騒がしい。耳鳴りのようだった。しかし、それに構わず、百鬼丸は目を細めて二刀流の大男に狙いを定める。

 

 普通に剣技を繰り出しても勝算は見えない。だとすれば、簡単――――。

 

 (卑怯な手を使ってでも奴をブチ殺さねーとなぁ……)

 脳内で幾つもの自身の敗北が繰り返される映像が思い浮かぶ。その度、最善の方法を瞬時に構築しては訂正を試す。

 

 《ははは……百鬼丸くんは本当に戦闘には誠実な男なんだなぁ》

 胸の奥底で男の陽気な声が響く。彼の心臓に人格がトレースされたテロリスト殺人鬼「レイリー・ブラッド・ジョー」の愉快そうな声だった。

 

 額に青筋を浮かべ、

 「チッ、うっせぇ黙れ」低く恫喝する。

 本来、百鬼丸とジョーは因縁の宿敵である。簡単に打ち解けるなど有り得ない話だった。

 《おいおい、ひどいじゃないか。せっかく作ってあげた加速装置のお礼さえ聞いてないぞ?》

 「うるせぇ、てめぇになんぞ絶対に言わないからな」

 《……ま、いいさ。それより彼は相当の強敵だね》

 「…………。」

 百鬼丸も思わず、内心で同意した。

 あの二刀流は隙が発生しない。つまり、完全に手がない状態だった。詰んでいる……もし仮に現状を打破する方法があるとすれば――――

 

 《刀圏》

 これしかない。

 自身の半径数メートルに「必ず斬撃で切断する領域」を発生させる技である。

 これはまだまだ未完成の状態である。ある一定の間合いを完全な斬撃の領域とする方法とは、つまり神の御技に等しい。

要するに、絶対的な防御と攻撃を兼ね備えた技である。

 『ヒヒヒ、百鬼丸。おめぇさん勘違いしてるぜ……無心に〝なろう〟としているな。無心に〝なろう〟としてる時点でいけねぇよォ』

 以前、山奥でこの《刀圏》を学んだ際に、師匠の琵琶丸が告げた言葉が突然に甦る。

 

 無心になろうとするな? どういう事だろう。

 百鬼丸は修練を続けながら常にその不可解な言葉の意味について考えた。

 しかし、結局意味すら見出せなかった。

 

 

 

 『百鬼丸はさ、なんでそんな〝殺意〟を漲らせるのかなぁ? 剣って本当は楽しいものだよ?』

 不意に、藤原美奈都――可奈美の母が語ったセリフが脳裏に過る。

 可奈美の夢の中に現れる彼女に何度か剣技のレクチャーをうけた事があった。その際、百鬼丸は「抜刀術」と「居合術」を教わった。

 

 この両方の技術によって、「レイリー・ブラッド・ジョー」を討ち果たしたと言っても過言ではない。

 その方法を、この《刀圏》に組み合わせる。

 

 最適解が導き出された。

 ニィ、と百鬼丸の口角が自然と釣り上がる。

 「へへへっ、そういう事かよ。――おい、聞けデカ物! てめぇを料理する方法を思いついたからおとなしく切り刻まれろ。それがイヤならさっさと切り刻まれろ!」

 大きく叫ぶ。

 理不尽な発言で百鬼丸はあくどい笑みを満面に浮かべる。

 

 

 

 遠く離れた御門実篤はゆっくりと腰を落とし、青龍刀を構え直す。

 「先程と異なり、貴殿から溢れる雰囲気には〝剣圧〟が感ぜられる……。よいだろう。もとより剣の道のみしか小生は生きる術を知らなかった。貴殿、百鬼丸と言ったな?」

 

 「――ああ」

 

 「貴殿は小生と同じ匂いがする。……人の世の中では絶対に馴染むことはない。我々はこの地下のように暗黒の世界にいるのが正解だ。そうすれば、謂れのない偏見や差別孤独に自らの精神をすり減らさずに済むのだ。もう、貴殿も解っているのだろう?」

 

 実篤の問いかけに、百鬼丸は思わず目を見張った。

 「…………ああ、そうだな」

 俯き加減に、少しだけ寂しそうな表情を横顔に貼り付ける少年。

 軽く左腕を噛んで、上膊に円形の隙間をつくる。義手の肉鞘が音を立てる。銀色に冷たく輝いた刀身が微かに燦く。

 

 「だな、おれたちバケモンは一生表舞台に上がっちゃいけねぇもんな――」

 再び顔を上げると、長い前髪の間から刺すような視線と冷たい表情が覗いた。

 

 必然だった……彼、御門実篤の言葉と問いかけは百鬼丸にとって再確認でしかなかった。ただ、似たような境遇の者にしか分からぬ感情だけが、ヒシヒシと少年の心に伝わったのだ。

 

 

 「おれら、どうせ哀れな獣同士――死ぬまで無様に踊り続けようぜ!」

 片足の膝を強く曲げる。カチッ、とスイッチが入ったように大腿部に格納されたリボルバーが回転し、蒸気を盛大に白く散らす。

 百鬼丸の身体が側壁から俄かに浮遊した。

 

 

 

 

 

 2

 自衛隊市ヶ谷基地の最奥に設えられた社。

 そこに鎮座する《タキリヒメ》は、益子薫のペット、ねねの記憶を追体験していた。

 「――この者たちが消したというのか?」

 思わず口をついて出たのは、これだった。

 ねね……という、本来凶暴な荒魂である筈の生き物が長い悠久のときを経てこの姿になった。しかし、どの時代にもいつも傍には「刀使」の姿があった。

 彼女たち人間の寿命はとても短い。無限の時間を生きるタキリヒメやねねのような荒魂たちに寿命の概念はない。

 それにもかかわず、刀使は人を何代も変えたとしても常に傍にいた。

 「お前の中の穢れを長き時をかけて…………」

 人間が、〝ねね〟という荒魂の孤独を癒していった。

 そう考えるのが自然である。

 タキリヒメは改めて、指先で摘んだ「ねね」という生き物を眺める。

 「ねね~っ、ねね~っ!」

 足をバタつかせて指先から逃れ、タキリヒメの豊満な胸元へと潜り込む。

 「ノロを、穢れを祓う事など決してできない筈だった。だが、人は祓ってのけた。短命で種として不完全な存在が――ただ共に生きるという単純な方法で……」

 「ねね~」と鳴きながら、ねねはタキリヒメの胸に頬擦りをして甘える。

 それを不快に思うことなく、ねねの頭をタキリヒメは撫でていた。

 「そのような事がありえるのか……? その奇跡のような可能性が……」

 

 

 『その、お互いによく見れば……荒魂のことも人間のことも良く知り合えるんじゃないかなぁ――と思って…………。』

 ふいに、先程会話をした刀使の少女が記憶に甦る。

 

 …………確かに、そうかも知れない。

 

 タキリヒメ、という人という劣った存在を「支配」することでしか考えられなかった彼女の考えが俄かに変わったのである。

 人という存在についてもっと興味が出た。知りたい、と思うようになっていた。

 先程の、あの刀使は他になんと言ってただろう?

 

 『太刀合ってもらえば、分かり合えると思うんです……。』

 

 太刀合い――――。

 そんな単語が頭に浮かび、無意識に胸元に埋まった頭を撫でようとして……そこに、ねねがいないことに気がついた。

 

 

 「……?」

 果たしてどこに行ったのだろう? 突然に姿を表して、突然に消えた。どこにも気配が感じられない。恐らくどこかえ帰ったのだろう、そう納得した矢先だった。

 

 シュッ――と、この巨大空間に唯一ある扉の開閉する機械音が聞こえた。誰かがこの内部に入ってきたのだろう。

 タキリヒメは、椅子から立ち上がる。社の中心から床にまで続く木製の階段を一段ずつ降りてゆき、その侵入者を出迎える。

 

「えっ?」

 侵入者の正体は――衛藤可奈美だった。

 彼女の右肩には、いつの間にかねねが乗っかっていた。恐らくねねが可奈美をここに導いたのだろうか。

 しかし、可奈美は状況が飲み込めず、一瞬驚愕の色に表情を染め、ついで強ばった面持ちで警戒するように腰に佩いた御刀に手をかける。

 

 

 「抜かぬのか――? お前は我との太刀合いを望んでいた筈だが?」

 先程の言葉の真意を確かめるように、タキリヒメは告げる。

 

 

 「は、はいっ!」

 驚愕した様子だったが、すぐに相手の求めるところを察した可奈美は御刀《千鳥》の鯉口を切り、正眼に構えると《写シ》を体表に貼る。

 

 

 

 と、同時に可奈美は機先を制し大上段から思い切り振りかぶる。

 打ち込んだ一撃は鋭く、並の刀使であれば終わっていた……が、相手は〝神〟である。

 易々と斬撃を受け流して反撃の刃を繰り出す。

 可奈美は切り払われた剣を再度、同じ威力で横薙ぎに振るう。

 対峙する相手が例え〝神〟であろうとなかろうと、衛藤可奈美という少女には一切関係がない。なぜならば、剣を握り合わせることができるならば誰しもが平等であり、また相手の本質すら理解できる――少なくとも、可奈美はそう思っていた。

 

 事実、切り結ぶ中で可奈美の頭には大海のイメージが拡がっていた。

 

 タキリヒメは高速で移動し、間合いを変えようとした。

 

 すかさず迅移を用い、可奈美は反応して加速する。

 

 両者の剣技が合わさり、足運びも含めまるで舞踊のようだった。人と神が奏でる多層の音楽。殺戮の道具ではなく、単なる金属でもない――いわば会話をするためのかたち。

 

 

 ――そして、遂に二人の運動が停止した。

 

 首元に同時に刃を突きつけあったふたりは、視線を絡めて水平に刃を構える。つまり相討ちであった。

 



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138話

 百鬼丸の身体は一本の矢の如く、澱んだ薄暗い空間を切り裂いた。

 弓の弦から放たれた矢は一直線に軌道を描くように、百鬼丸の躰も又同様に物理加速を行いながら空気を滑ってゆく。

 

 

 御門実篤は、百鬼丸の事前動作から敵の運動を予測し、構えを水平のものから、別の……反撃(カウンター)重視の刃を重ねた形式へと変化させた。

 足摺をし、沈殿した薄暗い闇に息を潜める。

 銀に閃く一本の線が実篤に迫る。

 (疾いッ!!)

 と、内心で思った。

 これまで応戦したきた荒魂たちとは根本的に速度が異なる。当然質量こそ百鬼丸が軽いが――問題は、この少年の内包する無限の《殺意》が驚異であった。

 荒魂は根本的に、「破壊する」ことである。

 しかし、この少年こそは「殺す」ことを目的にしていた。

 

 「うぉおおらあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 獣のような咆哮がドーム状の空間一杯に木霊する。鋭い針金のような響きが鼓膜に何本も突き刺さる、そんな錯覚すら感じた。

 実篤の前には、既に百鬼丸の姿は無く気配も霧散していた。

 ……だが、第六感(シックスセンス)だけは違う。実篤の剣士としての第六感が百鬼丸の凝固した「殺意」を感知していた。

 右斜め後方から躍りかかる姿。

 実篤からすれば誠に小柄な人影が、掠れた輪郭で銀色の斬撃を放つ瞬間だった!

 「何度も同じ手は喰わぬ!」

 踵を返して、重ねた刃を百鬼丸の位置と直線になるよう体勢を保ち、大幅な青龍刀の刃を解き放つ。

 バギッ、と短い金属同士の共鳴の後、赤い霧のような瘴気に包まれた《無銘刀》が双剣の狭間に入った。

 速度と膂力こそ常人のソレと全く異次元のモノであり、繰り出された斬は衝撃だった。――だが、実篤にとって、それは単なる物理的な衝撃に過ぎない。

 長い前髪を垂らした少年の顔は、窺い知ることは出来ないが、恐らく悔しがっているだろう。刃に乗った重みが、渾身の一撃だと思われた。

 

 「よォ、たっぷり味わってくれたか?」

 不敵に、百鬼丸は囁く。

 実篤は一瞬理解ができず、受け止めた青龍刀の方へ視線をやる。何一つ変化などない。

 ――筈だった。

 百鬼丸は言葉と同時に、両手で握った柄の左手を離し、素手のまま拳を握り殴りかかった。

 瞬時に実篤は、右側の手甲と膝で百鬼丸の殴打を防いだ――、

 しかし、結果は違う。

 手足に挟んだ筈の彼の――上膊の腕部分のみが残され、百鬼丸の躰は依然として自由であった。

 「……ッ、」

 実篤は見た。

 百鬼丸の左腕に新たな刃が燦くのを。

 待っていたのだ、このタイミングを! この微かな空白を!

 半身の重心を後方に溜めていたものが、一気に突撃として実篤の右肩に襲いかかる。

 深く喰いこんだ左腕の《無銘刀》が、初めて実篤の肉体を捉えた。

 

 「――成程、しかしこれで小生を止めたと?」

 苦々しい表情で実篤は呟く。確かに一撃を喰らったのは意外だった。だが彼からすれば、七〇年以上も荒魂の鋭い灼けるような牙に喰われた経験がある。単なる刃物であれば、普段の事である。

 クイッ、と百鬼丸は頸を小さく横に傾げる。

 それはまるで、攻撃が当たっていないことを疑問に思う――雰囲気ではなく、ただ虫や鳥が習性として頸を曲げるのと同様、ただ、無機質な機械的な表情で頸を傾けたに過ぎない。

 それは不気味だった。

 感情の宿らぬ、異星人を相手にしている得体のしれなさだった。

 直後――、実篤の右肩に変化が訪れた。 

 石化したように、赤銅色だった皮膚が灰に変色する。刃の喰いこんだ箇所から放射状に無数の細かい亀裂が走る。そこで漸く、実篤はこの刃が「消滅」を目的とした武器だと理解した。

 麻痺した右腕を一旦、意識の外へ追い出して曲げた侭の右足を強く蹴り出し、百鬼丸の躰を蹴り飛ばす。宙吊り状態だった少年の肉体は巨体の放つ蹴りに、軽々と吹き飛ばされた。右手の《無銘刀》を簡単に手放して、引き抜けた《左腕の無銘刀》を空中で煌めかせながら、床に激しく叩きつけられる。

 

 

 「ヌゥっ、」

 と、思わず実篤は普段と異なる痛みに唸る。

 蹴りによって抜けた刃だったが、その傷跡は深く右腕は指先まで麻痺して当分回復する目処が立たない。

 ブラリ、とオブジェのように垂れ下がった右腕を一瞥し、己の甘さに自嘲気味に鼻を鳴らす。

 「小生は、お主を無意識に侮っていたようだ。――」

 深呼吸して、実篤は地面に転がる少年を眺める。

 彼が束ねていた後ろ髪が千切れたのだろう、長い黒髪が腰にまで伸びていた。油の切れたロボットのようにヨロヨロ立ち上がり、猫背気味に頭をこちらに持ち上げる。

 髪の間から光った少年の眼は、静かな憎悪と殺意に固まっていた。

 細長い瞳孔は爬虫類のように気味が悪く、金と紅の混ざった光彩だけが異様に目立つ。

 

 実篤は悟った。

 自分が彼を侮っていたのではない。当初から見積もっていた戦力を大幅に上回る速度で彼は「人間の領域から離脱」しているのである。

 最初に重ねた刃で相手の力量を測ってしまった軽率さに、実篤は後悔した。

 彼は、本当に「人類」ではない。

 先程の「異星人」だという感覚の方が正しいようだった。

 人の理すら外れた存在。

 ふと、足元に転がる刀の気配を感じた。まるで、この世界全ての怨念をそこに凝縮し、刀の形状に留めているような……危うい気配。

 

 「お主、この刀に引っ張られておるな。このままでは引き返せなくなるぞ」

 不意に、実篤は忠告を発していた。自分でも理解できなかったが、なぜか少年へと喋りかけていた。

 

 ――しかし。

 かの者は、ただ先程と変わらず頸を横に曲げ、口端から大量の粘着質な涎を地面に垂らしながら、実篤を眺めているに過ぎない。およそ人語を理解しているとは言い難い。

 弱々しい足取りで、百鬼丸は実篤に歩み寄り始めた。

 実篤の蹴りは、1tの衝撃がある。それは彼もまた人外であるからだ。

 

 「…………お主は、なぜ戦う?」

 実篤は幽霊のように揺れる百鬼丸に対し、問いかけた。

 確かに、殺し合いだけの世界にしか居場所のない存在として実篤と、百鬼丸。だが、戦場に立つ理由はまた、両者様々な理由がある筈だ。

 たとえ、この少年に理由がなかったとしても――それでも、人語が解せなくなったとしても武人の礼儀として聞きたかった。

 

 少年は足をとどめた。

 『オレ……ノ? ……おレノ?』

 長い肉食獣じみた長い牙を上下に生やした百鬼丸が、歯の間から掠れた呼吸から辛うじて声を漏らす。

 両頬を裂いた口端から、唾液と涎が絶えず滴り地面に糸をひく。

 いま、彼は人と化物の狭間を彷徨う不安定な状態に見えた。

 

 

 

 

 

 『――――オレハ、だれ、なンだっ……』

 声を震わせて、獣の呼吸と混ざった安定性に欠けた声音が喉から搾り出された。

 

 おれは〝人〟じゃない――。

 おれは、誰なんだ?

 おれはどうして生命を与えられているんだ?

 おれは、おれは……おれは、一体誰なんだ――?

 

 中途半端に戻った人間性が現状の百鬼丸には最大の苦痛となった。獣性に身を任せれば、或は苦悩などしないだろう。堪えようもない絶望のような深淵が、暗黒の裂け目を覗かせた。

 

 ――――。

 ――――…………。

 ――――。

 

 瞬時の沈黙の後にポッ、と柔らかな温度を知覚した。

 

 温かな感触が不意に、腕から上ってくるのが解った。百鬼丸は、目をその方へ向ける。

 左腕の、《無銘刀》が輝きを放つ――。

 刃の表面と溝に彫られた古代の文字が白い輝きを発しながら、荒々しい興奮と獰猛に染まった百鬼丸の精神を鎮めた。

 まるで、彼の暴走を抑制するブレーキのように、《無銘刀》が次第に百鬼丸という少年を人の側へと引き戻していた。

 

 「はぁ……ッ、はぁ……ッ、」

 混乱した頭に人間的な思考を取り戻したのだと理性に教えた。

 

 

 わずか、三秒……。

 

 この間の逡巡を御門実篤という男は、見逃した。

 否、武人であるからこそ、彼は――敢えて見逃したのだ。

 

 

 実篤は、目前の「人」と「化物」の狭間を漂うこの少年に興味があった。

 それは、同族の哀れみかもしれない。だが、それ以上に武人として、剣士としての矜持が実篤を動かさなかった。

 

 

 滝のような汗が、ぐっしょりと百鬼丸を濡らし、虚ろな眼差しで、

 「なんでおれを斬り殺さなかった……?」

 百鬼丸は、問うた。

 この切り替わりの瞬間は確実に絶好の機会であっただろう。それを、相手の実篤はみすみす逃した。

 

 

 実篤は、ただ――動かない右腕を庇う素振りも見せず、百鬼丸の視線を真正面から受け止めている。

 「なぜ? なぜだろうな…………」

 図らずも、実篤は本音を漏らしていた。

 自分でも理解できない感情。これに果たして意味などあるのだろうか? 

 だがどうしても、知りたかったのだ。

 

 「――お主が、獣から人になるその様を。もしかしたら……小生を……この肉体の牢獄から解き放ってくれるやも知れぬ、…………いいや……忘れろ。小生は剣士としての矜持がある」

 百鬼丸と御門実篤の視線が一直線に絡み合う。

 

 

 彼らの交わした言葉は、断片的であり本質的に分かり合うことが出来ない。が、それで構わない。一々殺す相手の全てを知ってしまえば、自分自身がおかしくなる。

 

 

 ……百鬼丸はこれまで辿ってきた肉体を取り戻す旅で、イヤという程味わってきた。

 

 なぜ、この左腕の刃が百鬼丸を元に戻してくれたのか。その理由は知りようもない。だがこの世界に流れる運命のようなものが、辛うじて百鬼丸という少年を人として留まらせたのだと思った。

 

 

 

 

 

 「少年、名を問うてもよいか?」

 実篤が、静かに訊く。

 

 

 百鬼丸は一瞬だけ、呆気にとられたが……微かに頸を左右に振って笑う。

 

 「――おれの名前は百鬼丸。おれの肉体を奪った連中をブチ殺す旅をする者の名前だ」

 

 

 「百鬼丸。そうか百鬼丸……いい名前だ。我が名は御門実篤。改めて貴殿に決闘を申し込む。いざ、参られよッ!」

 

 使えなくなった右腕をブランと垂れ下げ、低い姿勢から構えをとる。

 

 

 しかし。

 

 ――だが、しかし。

 

 結果的に実篤の望みは絶たれた。

 

 

 

 

 

 地下坑道全体を揺るがす巨大な揺れが襲ったのだ。全体的に軋む音。全てが揺れ動き、物質の輪郭線すべての軸がブレ動くようだった。巨人がキャラメル箱を掴んで激しく揺り動かす……そんな連想がした。

 

 

 時間にしてわずか一五秒。

 

 この間、地下坑道を覆う闇もまた流体のように蟠りを運動させた。

 

 ――揺れが静まった、それと同時だった。

 

 鋭い気流が天井から一撃、降り注ぐ。

 ……気流が降り注ぐ? 実篤は、その非現実的なイメージを肉眼で捉えていた。

 「グアッ………あああっ!!」

 草刈鎌の刃に似た一撃の端が、百鬼丸の胴体を掠める。それと同時に彼岸花の花弁に似た繊細な飛沫を周囲に撒き散らす。

 鋭利な筈の一撃だが、百鬼丸の胴体を切り裂いた斬撃は案外に美しい形状だった。

 

 

 

 実篤は咄嗟に、頭を上に向けると、遥か上方に細長い鎌の刃に似た三日月型の裂け目が存在していた。二撃目が、容赦なくギロチンのように岩盤と半ドーム状の天井を突き破る。

 その攻撃は……二つとも百鬼丸を正確に狙い打ち込まれていた。

 

 

 地下に一気に新鮮な空気が流れ込む。…………ジェット気流のような轟音と共に、突風が吹き抜ける。

 天井の一部が消え去っていた。

 

 まるで巨大なハンマーが打ち込まれたようだった。

 円筒のポッカリ空いた空間が、地上とこの地下空間を繋ぐ。最早、そこにあった地層や構造物の一切が神の振るう鉄槌によって消しさられたように、爆ぜた。

 

 これが何者かによる恣意的な行為であることは疑いようもない。

 

 実篤は、この空間……つまり、地上に居る誰かを見上げる。

 

 

 

 円形の眩い地上の穴の縁に聳え立つ、巨大な像が視界に認められた。

 

 

 

 尖った嘴の口を持ち、空の色のような胴体に背中を中心にオレンジ色の二層グラデーションの怪獣。そして、その怪獣のすぐ前に佇む人の小さな影。

 

 

 「貴様は何者だ!」

 思わず、実篤は吼えた。水を差された怒りが体の底から湧いてくるようだった。

 

 

 『どうも、ごきげんよう。……突然で恐縮ですが……そこにいる百鬼丸を、ここで殺させてもらいましょうか。このバキシムで』

 冷淡に、男の声が告げた。

 

 

 

 

 



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139話

 黒炎に焙られたような太陽が、歪に中天に昇っている――。

 それまで空を覆ってきた分厚い雲は溶けた綿菓子のように、層を薄くしていった。禍々しい紅の色が、雲間から拡がっている。……

 

 世間は恐らく、この異常気象にも何らかの理屈をつけて説明するに違いない。しかし人間は本質まで見抜けない。なぜならば、自分たちのレベル以上の現実には、必ずその理屈をつけて誤魔化す。――意味なんてものは初めからないのにも関わらず。

 

 吹きすさぶ荒々しい風が、東京のビル群の間を縫うように吹く。

 「……奴(百鬼丸)はここか」

 凍えた眼差しで、アスファルト地面を見下す。彼の佇むのは東京駅のすぐ近くを通る道路であった。無論、多くの車が行き交う――交通量の多い場所である。

 この付近には地下鉄もあり、更に地下空間の煩雑さは予想できない。

 ……が、彼は人ならざる遥か彼方の異星人である。

 己の肉体に流れる「百鬼丸の肉体」と同調した感覚を追えばよい。

 その感覚を研ぎ澄ませ、辿る。地面の遥か下に百鬼丸が〝確実に〟居る――。

 ジャグラーは、ひと呼吸を置いて亜空間から、剣を引き抜く。

 『蛇心剣』

 それが彼の手に握った武器の名である。

 あたかも、百鬼丸の手にした《無銘刀》と同質の禍々しさを秘めた刀身であった。

 「くくくッ……あははは……久々だぁ……漸く暴れられる!」

 哄笑を高らかに響かせ、腹の底からわらう。

 

 

 

 『おい、そこをどけッ!』

 ジャグラーにクラクションを鳴らすトラックと、その後続車の群れに、ようやく気がついた。不機嫌そうに、口を曲げ低い声で呟く。

 「ああ、せっかくの気持ちの高揚も台無しだぁ……」

 舌っ足らずの言い方で、剣を一閃――横薙ぎに振るう。

 トラックは熱せられたナイフで切るバターよりも簡単に、三日月の斬撃が大型車両を真横に両断した。

 間髪を入れず、車両のタンクに充たされたガソリンが揮発し、熱波に感化され爆発を引き起こした。

 ――しかし、火炎は全て蛇心剣の刀身が吸い込む。まるで、生き血を啜る蛭のように。

 破砕された破片はすべて塵屑のように外気に舞い上がる。

 衝撃波に煽られた後続車は最前の車両の有り得ない光景をまざまざと見せつけられた。

 

 

 

 悲鳴――すら、上がらなかった。

 ジャグラーの左腕には、先程の怒鳴り声をあげたドライバーの頸を掴んで宙吊りにしていた。

 「もう一度、言ってみろ」

 低く凄んだ。

 しかし、その脅し文句は聞こえなかった。ドライバーは強く首を掴まれ口から泡を吹き出して失神していたのである。五本の指が首に食い込んでいた。

 

 ジャグラーは興味が失せたように硬直したドライバーを乱暴に地面に投げ捨てた。

 煙幕は一瞬、彼の姿を霞ませた。

再び姿を現した時、彼の半顔は人であり、もう片方は青緑色の細長いソリッド形状をした目である。兜のような尖った橙の角に、頑強な輪郭線。

 明らかに、人間のものではない。

 「この地層が邪魔……か」

 物理的な閉鎖空間を突破するには方法は一つしかない。即ち、「怪獣」による突破である。

 

 空間を破る怪獣ならば幾らでもいる。

 ――ジャグラーは、様々な考慮など捨て去り直感のままにダークリングを左手に握り、一言だけ、

 「バキシム」

 と、怪獣の名前を唱えた。

 

 ……この怪獣を呼び出した理由は至極簡単であった。

 バキシムという二足歩行の怪獣は、出現する際に「空を破って」現れる。即ちこのダークリングによって召喚される場合――ジャグラーを固定座標として、姿を現す。

 しかしジャグラーのこの世界における肉体は「百鬼丸の肉体」によって構成されている。

 つまり、百鬼丸の居場所もまた「ジャグラーの位置座標」として認識される。

 

 百鬼丸とジャグラー。

 両者の存在が、このバキシムという怪獣の発生時に生じる「空を破る(時空を破る)」現象に作用する――そう考えた。

 

 

 果たして、その理論は半ば成功した。

 ダークリングによる呼び寄せに応じた怪獣は、予想通り時空を突き破るように、ガラス片のような空間の断片の穴からやってきた。

 

 と、同時にこの時空を破った現象に引きずられるように地面に巨大な穴が自然と穿たれた。陥没したコンクリートが熱湯に溶ける砂糖のように瞬間的に消えてしまう。

 その状態が更に下の地層にも連鎖してゆき、百鬼丸の居場所である地下一二〇メートル付近にまで達した。

 固定座標が二つである為に、怪獣の出現は不安定さの塊であった。

 「今だッ!」

 ジャグラーはこのタイミングを見逃さず、鋭い斬撃を刀身から放つ。

 

 ポッカリ空いた穴に吸い込まれるように三日月型の斬撃が遥か下界に落ちていった。

 

 (これで奴が死ねば、オレが元の次元に帰れる……)

 ただ、その一心でジャグラーは巨大な穴の縁に立って、下を見る。

 人間離れした目が、百鬼丸の肉体を傷つけた証拠を確認した。

 

 ニィ、と自然――笑みがこぼれる。

 遥か彼方下では、何人かの影が認められた。しかし、重要なことは人間の数ではない。

 

 胴体に裂傷を負った人影――が、あった。仰向けに倒れ皮膚を食い破るほどの負傷者を、ジャグラーの両目が確かめた。

 

 「あはははははははは!! よしっ、ようやくこれで帰れるっ、あはははは!!」

 再びの哄笑が喉から迸る。

 

 

 『貴様は何者だッ――』

 

 そんな声が聞こえた。

 通常では有り得ない一二〇メートルの落差がある場所からの叫び。

 しかし、明瞭にその叫びはジャグラーの耳に届いた。

 ふんっ、と心底馬鹿にしたような顔つきで声の主へと名乗ることにした。

 

 『どうも、ごきげんよう。……突然で恐縮ですが……そこにいる百鬼丸を、ここで殺させてもらいましょうか。このバキシムで』

 

 冷淡に告げた口調だったが、内心はおかしさでいっぱいだった。

 

 

 もう、この世界に居なくてもいい。好き勝手に暴れてやろう。帰るまでのせめてもの余興だ――半ば、興奮状態に陥った彼は冷静な判断を失っていた。

 



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140話

 遥か下方に見える腹部の破れた百鬼丸を一瞥し、

 「弱い、弱い、弱いッ…………まさか、そんな程度でこのオレを煩わせたのか?」一人苦々しく呟いた。

 男の名を――ジャグラーと言った。

 元は別次元の来訪者であり、理由(わけ)あってこの世界に顕現した。異質な存在である。

 額に幾重もの青筋を浮かべた男は、怨嗟に近いものを口から吐き出していた。

 「なぜだ? なぜそんあにもお前は弱い――? これでオレが仮にお前を殺しても……何も得られない!!」

 不思議な飢渇感だけが胸を襲う。

 嘗て、あれほど憎んでいた「男」を思い浮かべ、その姿を仰向けに倒れた少年へと重ね合わせていた。

 

 ――……やはり、人は脆い。

 

 心のどこかで、ジャグラーは思った。

 人は脆い。人は弱い。人の寿命は短い。人は……人というのは…………。

 

 (なぜ、ガイは人を愛した? なぜこんなにもちっぽけな存在を、どうして愛せるんだ?)

 銀河を巡る肉体と寿命を持つジャグラーにとって、人という地球に棲む生き物に特別性を見いだせずにいた。

 人を愛することには、どんな意味があるのか?

 『貴殿、一つ訊ねたい。何故我らの戦いを遮った?』

 地下空間の遥か彼方から渋い声の男が、ジャグラーに尋ねた。

 憎々しげに視線を動かすと、筋骨隆々とした禿頭の赤銅色をした皮膚の男が仁王立ちでジャグラーを見据えている。

 「なんだ貴様?」

 『それは此方の台詞だ。――この地下空間の番人をしている。お前は何者だ?』

 ジャグラーは、その男の異様な風貌と物腰に興味を持った。

 「フン。どーせ、この地球ごと滅ぼせば元の次元に帰れる。その前に、そこで寝転がっている少年にオレは用があるんでね。邪魔をするなら、ここでアンタを始末する」

 人差し指を立て、背後に控える怪獣(バキシム)に命令を与える。

 「奴を食い殺せ……。」

 

 

 『ギュピオオオオオオオオオオオオオオオオ』

 と、電子ノイズがかった鳴き声を上げてバキシムは巨大に砕かれたアスファルト歩道の空洞へと歩み寄る。

 破裂した水道管から止めどなく水が溢れ、細い滝のように地下へ流れる。クッキーのように崩れたアスファルトに亀裂が走る。車両の爆発の余波だろうか、気化したガソリンが太陽を微かに揺らめかせる。

 上の様子を覗っていた赤銅色の男――御門実篤は、

 「成程、会話もできぬ粗忽者と見える。良かろう、まずは貴様から手打ちにしよう」

 その鋭い眼窩を瞬き両手に握り締めた青龍島を構える。

 

 

 

 2

 朦朧とした狭い視界から、百鬼丸は正気を取り戻した。否、正確に言えば「連れ戻された」のである。

 右手に掴んだ《無銘刀》が禍々しく嘲笑うように、赤い霧のような瘴気を辺りに漂わす。

 「ゴホッ……ゲホッ……」

 口端から滂沱の鮮血が溢れる。目線を腹部に這わせると、ピンク色の肉が腹部を覆っており、悪臭を放つ内蔵の輪郭が肉襞から見えた。

 「これでも……死ねない、のか。キツイな」

 冗談ともつかぬ様子でひとり笑ってみる。しかし、自分自身で解る。次第に傷口が回復しつつある事を。まるで巻き戻しの映像を再現するように、傷口が少しずつ塞がりつつあるのだ。

 

 『――さん、――さん?』

 誰かが呼んでいるようだ。百鬼丸は漸く、視界の範囲が拡がるのを感じた。

 物凄い形相で百鬼丸の双眸を覗き込み名前を連呼する元親衛隊第二席、此花寿々花が特徴的な青い瞳で百鬼丸の瞳孔を確認する。

 「だ、だいじょ~~ぶっブッ」

 フザけた態度で喋ったから口から盛大に吐血した。

 「あっ、貴方は本物の馬鹿者ですの!?」思わず寿々花は、一瞬言葉を詰まらせ怒鳴った。

 溷濁した頭では現状の判断は叶わぬが、百鬼丸はとにかく顔見知りが居る事に奇妙な安堵を覚えた。

 「その傷口――」信じられないものを見て、言葉を失った真希。

 「おお、お前もか――ゴホッ、イッってぇ……。なんでここに?」

 痛みを堪えつつ疑問を口にした。

 「ボクたちは結芽を救いに来たんだ。そしたら――」

 寿々花の隣にいた真希が視線を動かす。その先にいたのは青龍刀を携えた大男であった。

 「あの男の刃は本当に重かった…………」

 刀使の中でも、折神家親衛隊第一席という重責を担ってきた〝獅童真希〟だからこそ分かる。あの刃には確かに「想い」が込められていることを。

 

 「それよりも傷口が深すぎて普通だったら致命傷の筈ですが――貴方に関しては例外ですわ」

 応急処置を施そうと簡易の救急キットが寿々花の傍に置かれていた。

 「おお、サンキュー。でも……もう暫くしたら平気だ」

 止血用に新鮮な布を取り出し、準備をしていた寿々花は肩を竦めた。それから軽く傷口を抑えて、首を振った。

 「もう常識という尺度では考えない方が良さそうですわね。それに、〝御門実篤〟も別の事に気を取られていますし」

 突如崩落した頭上の天井壁の穴向こうに居る「誰か」と会話をしているようだった。

 しかし、その内容も事情も親衛隊の二人には解らない。

 

 「なぜ刃を交えた時、一瞬君の動きが止まったんだ? あの瞬間がなければ少なくとも奴に止めか……もしくは、頭上からの斬撃も君の実力なら避けることが出来ただろう?」

 真希は、何かに急き立てられるように口早に先程の百鬼丸の様子の変化を尋ねた。

 

 この胸の蟠りの理由は――間違いなく、己自身の不甲斐なさを責め立てるのと同義だった。真希は「刀使」であり、人の延長線上にある存在でしかない。

 だが百鬼丸と実篤は違う。

 真希の中に芽生える憧憬と比例した憧れ故の憎悪が、首を擡げたようだ。

 「あ~~バレてましたか。ヒヒ、イテテ。なんでだろうな」

 はぐらかすように百鬼丸は口を曲げた。――――

 その態度をつぶさに観察していた寿々花は、

 (何か隠している……。)

 と、素早く見抜いた。

 「なぜ隠すのです? 事情でも?」

 布で百鬼丸の腹部の傷を軽く抑え止血しながら、寿々花は核心を衝いた。

 「いひひ……おれ馬鹿だからわかんねーや」

 にこにことした、痛みを堪えた笑顔で質問を躱す。

 

 (おれが殺す相手の記憶を微かに読み取った……って言ったら面倒だし)

 百鬼丸はヘラヘラとしながら本心を覆い隠した。

 彼は敵の生命を終わらせる瞬間、必ず相手の人生を悲しみを、感情を追体験する。

 強烈な〝共感〟能力は時に百鬼丸の精神すらおかしくさせた。

 

 ――それでも、その苦痛は自分のものだけで良い。

 

 そう、自負している。

 こんな事情を知らない真希だったが、頑なに拒む態度に軽いため息をついた。

 「解った。ボクは君のポリシーを尊重するよ」

 「おおう、サンキューな。それより暫くおれは動けないから…………置いて逃げてもいいぞ」

 「無理ですわ」

 「ああ、ボクも寿々花に同意だ。君を残して結芽を救ったとして――君がいないと怒るからね」

 真希は、グッと拳を握り直し失いかけた自信と気力を復活させた。

 「あーサンキュー。でも、お二人さん。もう悠長な会話はここで終わりだぜ」忠告をした上で百鬼丸は天井の穴に落ちてくる重量を予測し、着地点を睨む。

 

 

 ズドォオオオオオオオン、と地面を揺らす盛大な地響きが地下ドームを包み込んだ。

 この世の終わりを告げる地震のようにも思われた。

 煙幕のような瓦礫の粉塵を纏う二足歩行の異形の怪獣。

 バキシムが、その姿をみせた。

 



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ある日の一日

 目を覚ますと、眩い木漏れ日に重なった頭部の影が見えた。

 「百鬼丸さん。大丈夫?」

 心配そうな顔でそう訊ねる少女の声音。

 「う、う~ん。平気、だと思う」

 ズキズキと痛む額を抑えながらおれは起き上がる。

 少女――衛藤可奈美に膝枕をされていたらしい。剣術の稽古中、誤って木刀がおれの頭に衝突した。一瞬だけ考え事をしていたとはいえ、おれらしくなかった。

 不安げになった可奈美の表情を見ると、罪悪感で押しつぶされそうだ。

 「あ、あはは……すまん。途中よそ見してた」

 素直に打ち明ける。

 「ううん。こっちこそ勢いを落とせなくて――」

 「いや。剣術になると手加減できないのは分かってるぞ。だから、おれが悪かった」

 「でも、どうして集中力が切れちゃったのか聞いていいかな?」

 可奈美は、不思議そうに言った。

 「うげぇ!?」

 思わず、おれの口から素っ頓狂な驚きが漏れた。

 (まさか、スカートのスリットからパンツ見えてて集中できませんでしたとか言えないだろ)

 おれは視線を泳がせ、

 「な、なんでだろうな……アハハ」誤魔化した。

 「そういえば、百鬼丸さん普段より視線が下にあったけど……?」

 いきなり核心を衝く質問におれは焦った。

 「ばか、そりゃあ、お前あれだよ。足運びだ。可奈美の足運びは時々綺麗だから思わず見入ってたんだ」

 「あ、そうなんだ! 最近は、古武術の足さばきを応用してみたんだよ! 百鬼丸さんなら気付いてくれると思ったんだ~」

 無邪気な天使のような笑顔で笑いかける。

 「うっ」思わず、おれの良心が痛む。

 「う~ん、それでも時々だけど腰に視線も感じたんだけど、それはなんでかな?」

 「うぇっ!? それは……あれだよ。腰の動きが剣術にとって大事だからだな…………そこも重点的に見てたんだ」

 「あっ、そっかー。百鬼丸さんも色々考えてたんだね!」

 嬉しそうにいう可奈美。

 正直、やましい気持ちだったことが本当に申し訳ない。

 気絶したおれを、膝枕して介抱してくれたのは有難い。柔らかい女性らしい肉感が首筋に伝わって、役得だと思った。

 「しかし、サンキューな。膝枕までしてもらって」

 「ううん。これくらいさせて」

 「その、悪いな。おれの不注意が原因とはいえ、ここまでさせて」

 「ううん。全然だよ。それより――剣術の稽古、嫌いにならないかな?」

 可奈美は不安げに眉を落としておれの目を見た。

 「いや。……寧ろ可奈美に教えてもらってから技術も向上してきてるし、こっちの方が恩恵を受けてる気すらするけど」

 「本当!?」

 よかった~、と両手を合わせて微笑む。

 こういう時の無邪気な表情って、和むんだよな。

 「このまま、私と稽古していつか嫌になっちゃうかも……って思ったけど良かった~」

 「なんでだよ」

 「うん、前にね。美濃関で刀使の同級生に剣術の稽古をしたことがあったんだけど……私、つい剣術になると他がみえなくなるから、皆に色々無理させちゃったから……あはは。舞衣ちゃん以外には心置きなく頼める人も少くなっちゃって……」

 沈んだ口調で、可奈美は苦い過去を語る。

 「ふーむ、成程な。でもまあ安心だぞ、おれは。くっそ可愛い師匠様に稽古をつけてもらえて、さらにピンクのパンツまで拝めるという日には最高すぎてご飯のおかわり自由状態だぜ」

 おれは親指を立てて励ます。

 可奈美は眉を開いてパッと明るくなった。

 「本当!? だったらうれしいな~~。百鬼丸さんって本当に努力して憶えてくれるからつい私も教える時に力が入っちゃうんだよ。うん? ピンク?」

 突然、少女の顔色が変わった。

 美濃関の赤いスカートのスリット部分に可奈美が視線を向ける。パンツのピンク色のレースがチラリと見えた。

 ゴクリ、おれは唾を呑む。一応、今覚悟を決めた。

 「……ねぇ、もしかしてだけどさ」

 「うん」

 「見えてた、のかな?」

 可奈美は下に俯いて、プルプルと羞恥に小刻みに震えていた。刀使は女子にしかなれない。だから、刀使は自然と男の視線を忘れてしまう。

 「――はい。とても、ご馳走様でした」

 おれは心の底から感謝しながら、お礼をいう。

 「~~~~~~百鬼丸さんのばかーーーーーっ!!」

 甘栗色の髪の毛が木漏れ日に反射しながら、素早いビンタを繰り出す。

 「うごふっ」

 強烈な一撃だった。

 霞む視界から見えたのは、琥珀色の大きな瞳に浮かぶ涙目だった。

 (あっ、めちゃ可愛い……。)

 こういう、羞恥の混ざった表情もいいよね、と思いながらおれは往復ビンタを受けた。

 

 



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ある日の一日2

 ぼけーっ、とした少年は見るからに「頭の悪そうな人」を絵に描いたような表情だった。

 第一声から「ヴぁなな」とか唐突に叫ぶレベルの、それはもう手遅れなイカレ具合である。

 半分開いた口端から涎がダラーっと垂れている。

 今日は、春先の陽気のいい天気だった。抜けるような青空が眩い。

 鎌府女学院の中庭にある芝生には、疎らな人影が点在している。

 「うふふっ……百鬼丸さん、口をもう開けてくれているんですね」 

 平城学館の刀使、六角清香は幸せそうに微笑を浮かべ、レジャーシートの上で少年を座らせ、隣に座っている。

 「あっ、そうだ! 今日はですね……実は、わたし手作りの軽食を持ってきたんですよ」

 そう言いながら、少女は傍に置いたバスケットを開く。中には、サンドイッチやおにぎり、唐揚げに卵焼きなどが詰まっていた。

 「百鬼丸さんどれから食べたいですか?」

 「ヴぁなな!」

 「あっ、分かりました。サンドイッチからですね!」嬉しそうに、清香はひときれ取り出して百鬼丸の口に運ぶ。

 少年は無意識にむしゃむしゃと、勝手に運ばれたサンドイッチを咀嚼し始めた。

 「どうですか? ……あの、もしかしてお口に合いませんでしたか?」

 不安そうに上目遣いで訊ねる。

 「ヴァナな!」

 「あ~、良かった。お口にあって良かったです。他にもたくさんありますから、良かった……食べてくださいね」

 うふふふ、と上品な忍び笑いを漏らす清香。

 

 

 「あの、お取り込み中ごめんなさいね……これは一体どういう事かしら」

 背後から戸惑いの声を漏らしたのは瀬戸内智恵だった。

 清香と同じ調査隊に所属し、行動を共にしている刀使であった。

 清香が振り返ると、少し驚いた様子で、「ごめんなさい。気がつかなくて……いつからいたんですか?」

 普段の穏やかな態度からは考えられないトゲを含んだ口調に、智恵は思わず気圧された。

 「…………清香ちゃんが無理やり百鬼丸くんの襟首を掴んでレジャーシートに座らせた辺りからよ」

 鎌府の中庭を徘徊していた少年を無理やり拉致してきた部分から様子を覗っていたのだから、事実上、一部始終見ていたわけである。

 「あ、そうなんですか!? なんだか恥ずかしいところを見られちゃったみたいですね……」

 頬を朱色に染め、初心な雰囲気で含羞む。

 ――――冷静に考えれば、猟奇的この上ない行動を起こした少女の反応とは思えないが、智恵は敢えて核心に触れるのを避けた。

 「そ、そうなのね……アハハ」思わず、から笑いが口から漏れた。

 (あれ? 清香ちゃんってこんな娘だったかしら?)

 普段調査隊で見せることのない危うい雰囲気に呑まれた智恵。

 「…………それより、何か用事でも?」

 小首を可愛らしく傾げ、目を開く。しかし昏い光を湛えた瞳には一切の感情が宿っていない。まるで「早く二人きりにしろ」と訴えかけているようだった。

 ゾワッ、と鳥肌がたった智恵は、頭を振って用件を思い出す。

 「そ、そうね。三時ごろに調査隊のメンバーでミーティングをひらくから集合場所の連絡なんだけど…………」

 「そうだったんですか。よかった……てっきり――」

 「てっきり?」

 「い、いいえ!! なんでもありませんっ」恥ずかしそうに両手で顔を覆う。

 それは一見可愛らしい仕草だが、智恵からすれば猟奇的な光景のあとを見せられては、正直反応に困る。

 ふと、智恵は百鬼丸に目線を向ける。

 「そういえば、百鬼丸くんはどうしてそんな感じになっているのかしら?」

 ぼけー、っとした少年を指差す。

 「?」

 言っている意味が解らない、とでも言いたげに再び首を傾ける。

 「ええっと、そのなんだか意思疎通ができなさそうな感じなのよね」

 「そうでしょうか? わたしはそう思いませんけど……あ、でも昨日の飛行タイプの荒魂退治で誤って電線にチョットだけ接触して感電したらしいですけど」

 「明らかにそれが原因よね!? しかも事も無げに言っているけど、かなりひどい負傷じゃない!?」

 「そうでしょうか?」

 「えぇ…………」

 冷や汗が智恵の頬を伝う。

 普段のおどおどした六角清香ではなく、「ネジが数本外れた」感じで得体の知れない恐怖を持った。

 「あ、あの清香ちゃんも今日に限って結構雰囲気変わったのね……」

 それとなく、異変を本人に指摘する。

 「あっ、やっぱりわかっちゃいましたか? ……えへへ、恋愛小説みたいな恋をしてみたいと思ってたんですけど、いまのわたしは恋をする乙女って感じでしょうか?」

(清香ちゃん、いまの貴女は多分猟奇小説に出てくる変する乙女よ)

内心で訂正しつつ、智恵は曖昧に頷く。

「もっと百鬼丸さんを知りたくて……こうやって距離を縮めているんですよ」

 嬉しそうに清香は百鬼丸の片腕に絡みつく。

 ……腕の関節が絶対に曲がってはいけない方向へバキバキ曲がり始めていた。胸の豊かな緩衝材のない清香の場合、薄い胸がさらに二の腕を圧迫して、骨をへし折ろうとしていた。

「ヴあなな! ヴあなな!“ ヴぁなな!」と変わった生き物の鳴き声みたいに百鬼丸は苦悶の表情で呻く。

「えっ? そんなに喜んでくれるなんて……わたしもうれしいです!」

「待って清香ちゃん、今の貴方にはいったい何が見えているの!? 明らかに百鬼丸くんは拷問を受けている捕虜にしかみえないわよ!?」

 思わず、本音が漏れた。

「ひどい! どうしてそんな事いうんですか!?」

「はぁ~~っ。いい清香ちゃん。もうこれ以上は見ていられないわ。いいから離れなさい」

智恵は無理やりに腕に絡みつく清香を引き剥がそうとする。

「い、いやですっ! いくら言われてもわたし離れたくありませんっ!」

「いい加減にしないと、百鬼丸くんの腕がそろそろへし折れちゃうわ。〝胸部骨〟が腕を圧迫しているの」

「胸部骨……?」

清香は正気に戻ったように、百鬼丸の腕から離れて目線を自らの慎ましい胸にやる。

「………………。」

先程以上に光の失った両目で、現実を直視する。胸の前に手刀のように上下に動かす。空気を切るだけだった。

「あっ、ごめんなさい。違うの……あの、そういう意味じゃ……」

流石に自身の失言に気がついた智恵は訂正しようと、何か喋りかけようとした。だが清香は深く俯いて立ち上がる。

「――――っさんのばかーーーーーーーーーーーっ!!」

急に叫びながら大粒の涙を流して「うわぁああああああん」と叫び目元を腕でゴシゴシやりながら明後日の方向へと駆けていった。周りにいた鎌府の生徒たちも、驚きの眼差しで清香の背中を見送った。

 

 

 

「……どうしたらいいのかしら」

深い溜息ののちに、ボヤく。

 レジャーシートの上に取り残された百鬼丸は、カニみたいに口から泡を吹きかけていた。

 このままにもしておけず、仕方なく智恵は少年を介抱することにした。

 智恵は、自らの豊か過ぎる胸元に引き寄せ、とにかく怪我をしていないか触診をはじめた。

 「……………。」

 よくよく考えたら、年下の少年を介抱するのは久々だった。

 しかも、細身に似合わぬ筋骨隆々の身体に触れて、不思議な感慨に浸った。

 「え~っと、百鬼丸くん? まだ瘴気に戻らない……わよね?」

 「ヴぁなな!!」

 百鬼丸は馬鹿の一つ覚えのように、同じ文言を繰り返す。

 よく見ると、愛嬌のある間抜け面に、瀬戸内智恵の母性本能が擽られた。――というか、暴走寸前の母性本能が大きく首を擡げた。

 智恵は、周囲を素早く確認する。

 中庭にいた筈の他の生徒たちも、先程の清香の騒動で全員ドン引きして立ち去ったらしい。

 「はぁーーっ」

 安堵の息を思わずつく。

 それから、自分のメロン大の柔らかな双丘に百鬼丸の頭を力いっぱい沈める。

 形のよい胸が形を変える。

 「――ムグッ!?」

 百鬼丸は、そこで「かつてのトラウマ」を思い出し意識がまともに戻った。

 「あ、あれ? うむ? あれ?」少年は現状を全く理解しておらず慌ただしく狼狽していた。

 「―――――ねぇ、百鬼丸くんは〝まだ正気に戻ってないわよね〟?」

 まるで、事実確認するような口調で智恵はそう訊ねる。

 「ン? はい? あれ? 確かチチエさん? だっけ?」目をぱちくり瞬かせる。

 「ううん、智恵よ。…………よかった、まだ正気じゃないみたい」

 彼女の表情は前髪で隠れてみえない。

 ただ、狂気じみた笑みを口元に湛え、不気味に口端がつり上がった。

 

 

 『大丈夫、任せて。お姉さんが暫く介抱してあげるわ』

 悪魔のような囁きを聞いて、百鬼丸は戦慄した。

 

 「……ちょっと、よく意味が分からんのですが――アァアアアアアアアアアアアア」

 それが、少年の最後の断末魔だった。

 



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143話

仄暗い闇の中――。

耳障りな唸り声が、絶えずドーム状の空間に低く反響した。人以外の生物の気配と存在感が異様な密度で他を圧倒した。

「そこの、愚かな貴方に質問しますが……どうして勝てる筈もない相手に挑むんですかねぇ」

底意地の悪い笑みで、軽く挑発した。異星人は、既に人と異形の半分ずつに分かれた顔で聞いた。

ジャグラーの目的はただ一つ。百鬼丸を殺し、その肉体を奪い、それを原料として本来いた次元へと帰還を果たす――。それ以外に選択肢も考えも無かった。

 

 

……地下の底で、闘う。

 

奈落のような場所で長い時間を過ごしてきた〝番人〟は、久々の好敵手であった百鬼丸との対決を邪魔された事を不愉快に思っていた。

 

 

砂埃が盛大に大気を淀ませ、微かな電燈の光すら落下の衝撃で殆ど砕け、光源自体が失われようとしている。

「貴殿、確か名前をジャグラーと名乗ったな?」

「ええ、そうです」

「ではジャグラ-。貴殿には伝えよう。勝つ、負ける以外にも戦の仕方はあるのだ」

そう言い放つと、同時に地面を豪快に蹴り上げ十メートルを軽く超える巨体に向かい飛び出す。

 

 

 

 

 

◇◇

「始まりましたわね…………」

 此花寿々花は遠くで開始された戦闘に眼を細めて呟いた。 

 

 

 

 黒檀の闇が静かに、静謐な沈黙と共に空間を支配していた。吹き抜ける風は通路から流れ込む冷気に違いない。烈しい怪物の唸り声と金属の衝突する重低音が鼓膜を聾する中、緊張から喉の渇きを覚えた。

(わたくしもまだまだ……なのでしょうね)

 かつて、この日本でも数人の実力者として自負し、そのための研鑽を積んで名声にふさわしい存在であろうとした。

 しかしこの世の中には上には上がいる。

 

 

 『私は、此花さんみたいにサラブレッドじゃないから……』

 『すごいよね、やっぱり生まれが違うからかなー」

 

 

 『やっぱり、私にはできないよ。此花さんってなんでもできるから、私たちみたいな落ちこぼれのことは気にしないで』

 

 

 綾小路に通っていた頃、時々手合わせや荒魂の討伐任務が終わるたびに、他の刀使たちが口々に苦笑い交じりに言っていた。「選ばれた者」「血統のある優れた人物」色々と言われてきた時から、

 

「それは、あなた方の研鑽が足りないのですわ」と強く言うか…………殆どの場合は「いいえ、あなたも努力次第で強くなれますわ」と澄ました顔で微笑みかけるのが常だった。

 

 

 

 

 

 寿々花は右手で百鬼丸の破れた腹部を止血シートとスポンジで抑えながらふと、

 「あなたは…………こんな戦いを続けていやになりませんの?」

 ぽろり、と純粋な疑問を口にした。

 現在、蚊帳の外で怪物と怪物の戦いを遠巻きに眺めながら、呑気なものだと自分で自嘲してみせる。

 

 …………本当の自分を知ってほしい。

 それは誰しも持つ感情だった。

 右隣に居る獅童真希を一瞥する。彼女は本来、努力も才能も一流の人間だ。刀使の中でも彼女以上の実力者は少ない。

 彼女の隣に、それ以上にあれるように自分に日々、厳しい鍛錬にも歯を食いしばって耐えてきた。

 

「どうしたんだ、寿々花?」

真希は、冷静な頭脳の持ち主である相棒の突然の発言に驚いた。

「――いいえ。わたくし達は正しいと信じたことを遂行してきて……」

 

〝この先にいったいどんな未来があるのだろう……?〟

 

そんな虚しさが、胸に去来する時がある。

 

人間であれば、否応なく才能や限界を感じる時がある。特に刀使は若い時期にしか活動ができない。この「御刀」は、より適合率の高い少女の元へと去ってゆく。その中で自分自身の存在意義を、知りたかった。

 

「真希さんは……わたくしたち人間としての限界を感じません?」

その一言に、真希は言葉を詰まらせた。

彼女自身、強さを渇望し、その負の側面に足を突っ込んでしまった。だからこそ、目前で戦う「番人」と名乗る男と対決し、そこに何かしらを感じてしまうのだ。

「ボクたちはどうすればいいのか…………」

 

 

人には限界が必ずある。

人は必ず老いる。老いてしまえば、最早「刀使」である必要性がない。

 

 折神家親衛隊の二人は、現実を超えた光景と状況に―――ー自らの存在意義について、価値観が揺らぎ始めていた。

 

そんな中、

『こんなクソたれな世界で戦い続けるの、案外悪くないんだぞ』

百鬼丸は口端から血液と唾液の混ざった液体を手の甲で拭い、激痛に顔を顰めつつ答えた。

 

「お前たちは刀使。荒魂から他の連中を守る。おれは、強い連中と殺しあう。地獄の底の底、一番深いところまで続ける。それがおれのいる意味だ」

明るく、陽気に……そして、確かな覚悟のもと語る。

 

「……虚しくはなりませんの?」

「なる。」

「だったらどうして――」

「それ以上に血肉が躍るから、かな? もうさ……理屈じゃないみたいだ。麻薬みたいなもんなんだよ。こればっかりは辞められないんだ。やめたいと思っても、な」

ニヒヒ、と気色悪く笑いながら百鬼丸は上半身を起こして、怪物同士の戦闘が放つ轟音に耳を澄ませる。

烈しい応酬は、肉眼では視認できない。

「あなたとは、根本的な部分で分かり合えそうにありませんわね」

「ひひひ……だな。でも、結芽を助け出すのなら分かり合えてるだろ?」

「ふっ、そうかもしれませんわ」

 

 

 

 

こつ、こつ、こつ…………。

百鬼丸の鋭敏になった第六感に、人の近づく気配を感じた。それは、儚げで可憐さを纏う足音。

長い黒髪の下に隠れた少年の双眸が鋭く光る。

「――――? 百鬼丸、一体どうしたんだ?」真希は、敏感に少年の異変を察知した。

 

「くる」

 

「誰か来るんだい?」

 

「分からん」

 

 

怪物同士が仄暗い闇の中で戦う最中、幾つもの通路が繋がる空間に―――ー近づいて来る「何者か」の呼吸が感じられた。百鬼丸は地面に突き刺したオリジナルの《無銘刀》の柄を握ろうとして、一旦手を止め、代わりに左腕の刃を地面に突き刺した。

(誰だ……? この感じ?)

心臓の鼓動が早くなるのに気が付いた。

嫌な予感が、百鬼丸の中で大きく膨らみ始めていた。

 

 

黙り込んだ少年に、真希と寿々花は思わず、薄闇で顔を見合わせた。

「百鬼丸さんの感知が正確なら……ここに来るのはまず、敵とみて差し支えありませんわね」

「……ああ」

 

 

 

こつ、こつ、こつ…………。

 

可愛らしい、軽やかで小高い靴底が地面を蹴り、怪物同士の戦いを後目にまっすぐ百鬼丸たちの方角へと向かってくる。

 

 

 

 

――百鬼丸はこの靴音を知っていた。以前、耳にしたことがあった。忘れもしない、「あの夜」のことだ。舞草の里を襲撃した時の――懐かしい足音だった。その足音の主は、儚げに次々と刀使を斬り棄てた。

 

幼く、愛らしい容姿をしたその少女が確かな距離まで寄ってきている。まだ、視認できるほどの距離ではない。冷たい風が微熱を帯びた頬を撫でゆく。長い髪を百鬼丸は風に任せ、口を開く。

 

 

「………………よォ、お迎えに行こうと思ってたら、元気そうだな。結芽」

 百鬼丸は自身の声が若干震えているのに気が付いて、自分が動揺していることに初めて知った。

 

 

 

 

『うん――? おにーさん誰かな? ま、いーや』

 

 

 聞き馴染みのある、子供っぽい口調に甘い声音。

 

 

 間違いない、親衛隊で活動してきた真希と寿々花なら間違いようがないのだ! 二人は思わず、衝撃音や破裂音から少女の柔らかな声を感じ取り、安堵のため息をつき、胸に希望が溢れるのを感じた。

 

「結芽? 結芽ですの?」

 

「あっ、寿々花おねーさんだ。やっほー。元気だよ。あれ? でもどうして、こんな所にいるのかな?」

 

「結芽、ああよかった。無事だったんだね…………ここまで助けに来たんだ」

 

「ふーん。そっか、あっ、真希おねーさんも一緒なんだ。あはは、そっかー嬉しいな」

 

「結芽、一緒に帰ろう。また……親衛隊のメンバーで……」

 

「うん、真希おねーさんの言う通り戻るよ! あ、でもその前にそこのおにーさんが百鬼丸、さんなのかな?」

 

 

「そうだ」と、そう訊かれた百鬼丸は素直にうなずく。しかしその表情は硬いままだった。まるで何かに警戒しているようだった。「寿々花、悪いけど止血の手を放してくれるか?」

 

 「……? ええ」

 頷き百鬼丸の言われた通り、腹部から手を離した。

 

 

 

 

 ――一瞬。

 

 

 ガキッ、という金属同士の衝突と火花が弾けた。

 

「「――!?」」

 

 突然の事に真希と寿々花は目を見張って音の方向へと意識を向けた。

親衛隊第四席、最年少にして最強を謳われた少女は美しい剣の軌跡を描きながら、百鬼丸に斬りかかった。

《迅移》によって加速した体で、容赦なく全力で斬撃を浴びせた。

 

「久々の再会で……この挨拶とは、中々だな」百鬼丸は口を曲げて皮肉っぽく言った。

左腕の刃で辛うじて防ぐ。人の気配と共に臨戦態勢をとって正解だった、と少年は内心思った。

 

チッ、と少女は舌打ちをした。

「あ~あ、折角の奇襲だったのにつまんないな~。ま、その分楽しませてくれるよね?」

息の吹きかかる程の距離で、少女は小悪魔的な愛らしい表情と、朱色に染まった頬で語り掛ける。

 

 

 

 

――親衛隊第四席、燕結芽が本気の眼差しで百鬼丸を睨んでいた。

 

撫子色の髪と、毛先の青白い数本が柔らかな頬に重なり、長い睫毛が湿り、浅縹色の瞳が潤む。

「ね~、おにーさんは強いのかな~?」

ニッカリ青江の刃が、百鬼丸の鼻先まで迫りつつあった。

 

 ニィ、と口端を曲げて百鬼丸は真っすぐ少女を見つめ返す。

 

 「どうかな? ま、たぶんお前より強いぞ」

 

 

 

 




一年がはやく感じるよ。


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石の蚕 前編

…………昭和九年、冬。

帝都、東京駅に降り立った男は軍用の渋色のコートを羽織っていた。雑踏の中でもひと際、男は目立っていた。

身長がゆうに二メートル近く、巌を刳り貫いたような厳しい顔は、他者を威圧した。その証拠に、人々は彼を避けるように歩き、誰とも衝突していない。そればかりか、彼の周りに余裕のある空間ができていた。

その彼に、ひとり近寄る影があった。

「御門実篤少佐、お待ちしておりました」

プラットフォームで若い将校が一人敬礼をとる。

「出迎えご苦労」実篤は、低い声で労をねぎらう。

 

 

 

駅を出ると一台の車両が停車していた。将校が駆け足で車両の扉を開き、

「これより、鎌倉の折神家本邸までご案内致します」と、説明した。

「ああ」

軍帽をかぶり直し、実篤はふと冬の東京を覆う鉛色の空を窺った。冷たい風に粉雪でも混ざりそうな空模様。ここ数日は冷え込むのだろう。利用法の腰に佩いた太刀に触れる。

(――折神家へ、剣術の指南役。か…………。)

 

 

日本は古来より、珠鋼により「御刀」を鋳造してきた。

通常の金属とは異なり耐久性でも腐食でも、問題にならなかった。しかし、唯一の欠点がある。

 

 

――荒魂。

 

 

その存在のみが、御刀の宿命と呼べる欠点であった。

刀剣類の精錬の際、不要な金属の老廃物を「ノロ」と呼び、それを排出する。しかし、本来「珠鋼」は神性を帯びた金属である。その不純物とは、負の神性に他ならない。

いつしか、この排出された「ノロ」が暴走し、異形の怪物として人の世を襲うことになった。

人間を守る、その唯一の対抗手段は皮肉にも、「御刀」であった。

全ての原因であり、光明の象徴。

 

(人間はバカで愚かさ……。)

実篤は、一人呟いた。

 

これから、彼が赴く折神家は朝廷に深く信頼された家柄であり、この「荒魂」を討伐する剣巫(けんなぎ)の巫女を束ねる。

この巫女を…………刀使と呼ぶ。

彼女たち刀使は少女期のほんの僅かな期間のみ、御刀の異能をその身に宿し、荒魂と戦う。

 

つまり、人間のエゴをすべて、引き受ける。

 

 

なぜ、自分たちで処理しきれぬ問題を後世の幼い存在に押し付けるのだろう。実篤は微かな苛立ちを覚えていた。

 

車内でふと、

「やはり、こちらの関東は温かいな」

普段物静かな実篤だったが、車窓から見える相模湾を一瞥し、素直な感想を漏らした。

「はっ! ……満州帰りではやはりそう思われますか?」

「うム。そうだな。……まず凍え死ぬことはない。それに、アッチの関東は全て凍結する」

関東軍に所属していた実篤は、突如として呼び戻された事を怪訝に思った。

「関東軍の閣下は剣術にも造詣が深いと伺っております」

将校は話の水をむけた。

「――うム。だから剣術だけで生きてきた小生も、出世した。それだけだ。本来の実力ではない」

「そんな事はありません。この国は刀剣によって支えられております!」若い将校は、興奮気味に言った。

実篤はまさか、と言いかけた。

 

 

日本人、あるいは東アジアの一隅、弓形になった列島の人間は特に刀剣に神性を古来から見出してきた節がある。それゆえ、近代軍となっても、白兵戦では槍術や剣術などに重きを置いた。事実、白兵戦では刀剣は無類に強い。

(――しかし、それを過信し過ぎている。)

実篤は同時に危惧を持っていた。深い精神性を養うこと、体を鍛えることは良い。

だが、この国の民族の血液が刀剣を精神の拠り所にし、神格化し過ぎている。

と、思った。

剣術のプロである実篤は、同時に懐疑的でもあった。

 

結局、この無類の「刀剣好き」が荒魂のような化物を生むきっかけとなった。

 

…………そして、その剣術と刀剣に深く魅了されているのは、紛れもない小生さ。

自嘲気味に鼻を鳴らす。

「どうかされましたか?」

若い将校は実篤の顔色を窺った。

「いや。少し寝る」

首を振って否定し、腕組みをした。愛すべき欠点は、自分の中にもあるのだ。

 

 

 

 

 

瀟洒な洋風の建物と、敷地を囲う門壁の前に、車両は停車していた。

門の前に、

「お待たせして申し訳ございません。現在、ご当主様は荒魂の討伐にて席を外しております」

老年の侍従長が、慇懃な態度で接した。

「――なるほど」

実篤は頷き、了解を示した。別段、急ぐ用事もない。

「暫し、邸の中でお寛ぎ下さいませ」

と、侍従長が申し出た。

提案を受け入れ、実篤は軍靴を鳴らして門を潜り、巨大な庭園を左右に配した道を進んでゆく。

午後のひとときに柔らかな日差しが重苦しく関東を覆っていた雲間から差し込む。硝煙と血煙の中に生活をした実篤には、草花の匂いが新鮮に感じた。

 

 

 

 

 

折神家の邸には、幾つもの武道道場が存在していた。

遠くから、若い女の「やぁ」「せぇい!」という激しく涼やかな声音が耳を打つ。

日々、荒魂の被害から守るために刀使が鍛錬に励んでいるのだろう。実篤は、まだ年端もゆかぬ少女たちの双肩に人名を背負わせることに、違和感を持っていた。

ある種、神道という宗教上の形式を保っているものの、見方を変えれば単なる「生贄」に過ぎない。本来巫女はそういう側面を持つ。だから否定はできない。――ただ、だれかの犠牲を当然だと思って生きる人々に、実篤は不快を感じていた。

 

 

膝を曲げて、庭園の花の一角を眺める。

美しく手入れされた庭園は、中央に噴水を拵え、緩やかなア―チを描く水の落ちる音を耳にした。

「軍人さんもお花は気に入れるのでしょうか?」

背後から涼やかな声音で、聞かれた。

実篤が振り返ると、黒髪の眦の長く切れて鼻筋の通った美人が、いた。

神道式の装束を身にまとった女性は、左の腰に長い太刀を佩いていた。

実篤は立ち上がると、敬礼をとり、

「ご当主さまでありましょうか?」

硬い口調で尋ねた。

 

「ええ。先程荒魂の討伐を終えたところで、行水禊を終えました。貴方が噂の二刀流の剣士ですか?」

「…………噂、というのは分かりませんが、呼ばれたのはここにいる御門実篤少佐であります」

そうですか、と頷き、女性は翳った表情を見せた。

 

「それでは、これからよろしくお願いいたします。実篤様――。」

 

ハッ、と勢いよく返事をしながら実篤は、不吉な予感を感じていた。



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石の蚕 中編1

御刀――大包平、を左手にひっ提げた女は応接室の中に入ると真面目な表情となり、事務的な口調で、

「ようこそ、おいでくださいました。御門少佐。」

厳粛な雰囲気を漂わせた彼女は、長身の軍人を一瞥し、そのまま執務席で腰を下ろす。

ハッ、と短く返事をし彫像のように敬礼のまま微動せず待つ。

女性が軽く右手を挙げて、ようやく実篤は礼をやめた。

 

「それで、本題に入りますが本当に長刀ふた振りによる二刀流を完成させた、という事でよろしいでしょうか?」

冷たい眼差しで、訊ねる。

嘘や冗談の類を全く許さぬ調子だった。

 

「――ハッ。折神家のお役に立てるか小官は分かりかねますが、」

「いいえ、後ほど実力を実演してくだされば結構です」

「……解りました」

頷いて、口を閉ざした。

 

「…………。」

「…………。」

 

沈黙。重い沈黙が空間を満たした。

実篤は日々の習慣から黙り、指示があるまで動かない。女性も、執務机で背筋をピンと張って相手を静かに見据えていた。

 

 

と、

「ごほん、少しよろしいでしょうかご当主様……?」

軽い咳払いとともに、若い男の声が実篤の後ろからした。実篤は先程から背後に佇む不気味な男の気配を無視していた。その彼が初めて口を開いた。

 

 

折神家の当主が同意した。

「――構いません」

許可に深く頭をさげ、動かぬ実篤の前に移動すると、

「ありがとうございます。わたくし、轆轤秀馬と申します。以後のお見知りおきを」

にっこりと、微笑を零したのは未だ若い男性であった。自己紹介ののち、スッと手を出して握手を求めた。

 

 

「轆轤、殿ですか」

視線を落とし、実篤は呟く。――実篤は相手の握手を無視した。動く命令のない場合は、軽い挙措すらできない。

 

 

 

秀馬は手を引っ込め、小さくため息をついて当主に許可を求めるような仕草をした。女性は一度頷く。それを確認し、彼は実篤に向き直る。

 

 

「わたくしは、表の折神家と裏の柊家とは別の……隠れた家、轆轤家の当主をしております」

 

爽やかな口調で、重大な内容を暴露した。

「なぜ、それを小官に?」

 

「あなたには、この折神家の剣術指南のほかにも、努めてほしい役割がございます。ですが、折神家の管轄外のことですので、こうして秀馬めが参上した次第でございます」

 

 

 

(…………この男は一体何を言っているのだ?)

 

 

内容も具体的に説明されないまま、能弁にしゃべる男に嫌悪感を感じた実篤だったが、表情には一切出さず、ただ首肯した。

 

 

「ご当主様、少々実篤様をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、構いません。ではのちほど道場でお待ちしております」

「――ハッ」

その、実篤の頑ななまでの態度に、思わず折神家の当主は軽い微笑を零した。

 

 

 

 

 

 

 

実篤を連れた秀馬は、歩き始める。

 

 

邸の裏手に聳える小山の入り口にはしめ縄の鳥居があった。

小さな石階段が中腹の洞窟まで続いていた。

一歩、一歩歩き始めてから秀馬が口を開く。

「実篤様は、荒魂をどのようにお考えでしょうか?」

 

「――それは、無論人の世の中を脅かす害悪」

 

「ええ、そうですね。間違いではありません。ですが、今その害悪を用いて兵器に転用する計画がある、とすれば?」

 

「……仰りたい事が解りませんが」

 

「ああ、すいません。つい癖で迂遠な言い方をしましたね。荒魂が人に憑依する事例はご存じですね?」

 

「そのような話も、いくつか聞いております」

 

「今の話の流れでご理解いただけますが、つまり人を人為的に操り荒魂を憑依させ、戦わせる。そう計画しております」

 

「…………。」

 

実篤は言葉を出さず、ただ瞳に不愉快な色を湛えた。それを察知して、

「軍人である貴方は、簡単には私情を発露させない、見事です」

ひと笑いした秀馬は、先導していた足を止めた。

 

 

山の中腹に開けた土地が現れた。

目前の風景は、洞窟の上にしめ縄があり、榊が左右に供えられていた。

「先程、ご当主さまの前では詳しい説明はしませんでした。……が、隠された家、つまり我々轆轤家は代々、血に汚れた暗部を司っている家系でございます。あなたの持った嫌悪感は、ごもっともです」

 

 

ニコニコと微笑を浮かべながら、秀馬は恭しい態度で実篤を洞窟の奥に迎え入れる。

「――もし、覚悟が決まったのならこの先へ。今ならまだ引き返せますが、」

 

 

「これは軍の命令でしょうか?」

 

「――いいえ。全く、関係ありません。ただ、その命令の延長……かも、しれませんね」

秀馬は試すように実篤を窺う。

 

 

(わかっている。これは、表向きでは指示されていない内容だ。が、実際は……この男が差し向けられた時点で決まっていた)

 

深いため息をついて、二三頷いた。

「先に、進ませてもらいます」大柄の男はむっつり黙ったまま歩幅を大きく先へ地面を踏む。

 

 

 

 

 

淀んだ空気が洞窟を漂っていた。

 

 

松明の灯りが心元ない。火の粉が、無数に弾けて闇の中に消えゆく。湿気に満たされた空間では汗もかきやすい。

 

 

襟首に大粒の汗をにじませつつ、実篤は二メートル近い身長を屈めて歩いた。

秀馬の手に持つカンテラの灯りだけが頼りだった。薄い橙色が時々揺れて、種火が震えた。

「どうですか?」

声が幾重も反響し、複雑な響きを持つ問いかけに聞こえた。

 

 

「――歩きにくいので、面倒です」

むっつりとした返事で実篤は返事をした。

 

あはは、と爽やかに笑って秀馬は首を左右に振った。「あなたは本当に裏表のない人だ」一拍息を吸い「…………武人はいい。武人の本懐は戦場で散ることだ。そうすれば、少なくとも史書に名が記される」と、つぶやいた。

 

「…………。」

 

この男の中にある鬱屈は、暗部を司り、危険な仕事をこなし、そうして人知れず消えてゆく。

哀れ、というには秀馬は影の内側と混ざりあった存在に見えた。

 

「さあ、到着しました。こちらです」

高さ六メートルほどの巨大な鎧戸が、洞窟の奥深くにあった。金属の赤さびが噴いており、時々だが頭上から垂れる水滴の音に紛れてカンテラの光が規則的に動いた。

 

 

「…………ここは?」

肩越しに美青年が口をひらく。

 

 

「中に入る前に最後の確認です。〝汝、この門を潜る者は一切の望みを棄てよ――。〟というのは聊か言い過ぎでしょうかね? ダンテ気どり、ですが……」

軽い口調の中に本質的な重い言葉が含まれていた。

 

 

地獄の門

 

神曲の序盤で、ダンテが記す。

 

この門を潜る者は一切の望みを棄てよ――。

 

 

実篤は視線を迷わず秀馬に合わせ、眼で小さく頷いた。

一瞬、秀馬は驚いた顔をしたが、すぐに爽やかな好青年に戻り、

「ではお連れしましょうか」

 

 

 

 

牢獄、というには余りに惨たらしかった。

饐えた匂いがまず最初に嗅がれた。ついで、腐った匂いが鼻を刺激する。

細い通路の左右に配された鉄の格子は古くなった血痕がこびり付いていた。人の気配は暗闇で見えぬが、辛うじて薄い呼気が聞こえるのみ。

 

 

「ここは……」

 

 

絶句していた実篤は、ようやく正気を取り戻したように訊ねた。

ここは戦場ではない…………人が狭い空間に閉じ込められる。それだけの事実が目前の光景で存在するだけだ。

 

 

 

秀馬は横目で純粋な武人の大男を一瞥し、

「あなたには刺激が強い。でしょう?」

と、敢えて挑発的な口調でいった。

 

 

「…………。これが、その〝実験〟の場所。だと」

「ええ」

 

 

 

グッ、と握り拳を固め美青年の胸倉を、実篤は思い切り掴んだ。

「――お前らはどこまげ外道なんだッ!」

怒声と共に、初めて殺意を込めた表情で秀馬を睨みつける。

 

 

 

そのとき、儚げに美青年は口元をゆがませた。

「よかった。あなたがまだ、まっすぐな人間で。どうぞ、ご存分に殴ってください」

 

 

醒めた目で、どこかこの世を飽きているような視線で実篤を見返す。この世界に絶望しきった目が、この青年の本音のように見えた。

強くつかんだ筈の胸倉は虚しく、実篤はいつのまにか秀馬を解放していた。

 

 

 

やるせない怒りだけが、実篤の腹の底に溜まっている。

「ごほっ、ごほっ」と、むせかえりつつ、秀馬は喉を摩った。「ここは、ご承知の通り荒魂と人間を人工的に作り出し、兵器として利用するための実験場。いいえ、正確にいえばここは、〝失敗作〟と〝試験品〟の置き場所。――」

 

 

「貴様の家がやっているのか?」

 

 

「ええ、折神家もこの国も関係ない。ただ、轆轤の家がすべてやったこと。そう思われてもいいでしょう。全部の責任もわたくしにある。それで、納得していただけますか?」

「バカをいえ。自分が悪人だとほざく人間は、嘘つきだけだ」

「あははは、いい、貴方は存外皮肉をいう人物だったとは」

はぁ、とため息をついて秀馬は語る。

 

 

 

「どうして、こうなったのか? 原因は分かりません。もう、解らない。人間の記憶も伝承も所詮は曖昧。だから、問題の本質にはならない」硬い表情で秀馬は細長い通路を歩き始める。「人類は常に生贄を必要とする。それは洋の東西、古今問わず行われてきた。どこの大陸でも、国でも弱い人間が真っ先に死ぬ。善良な人間が死ぬ。だから、人類は悪人の末裔ばかりですね」

 

 

 

青年は、ある場所で足をとめて鉄格子にかけられた錠を触れて、鍵穴に金属を差し込む。ガチャン、と低い音が響き錠が落ちた。

「貴方に見てもらいたいものがあります」

恭しく、鉄格子の中へ招き入れる仕草をした。実篤は警戒しつつ、移動した。

 

 

約四畳半の広さに、ふたつの小さな人影があった。

青年の右手に掲げたカンテラの光を乱暴に奪い取り、実篤は内部を照らした。

 

 

 

そこにいたのは、まだ子供の男女。

粗末な床板の上にやつれた姿で伏している。汚れた顔と体、衣服……。貧困という言葉がしっくりくる外見だった。泥人形のように、木の床板で虚ろな眼差しで地面を見ていた。

 

 

「これはどういう事だ?」

実篤は背後を振り返り、叫ぶ。

 

「違います。この子供たちはここにきたばかり…………身売りされていたのを、引き取ったんです」

 

「身売り?」

 

「――ええ。貧農では口減らしのために子供を売る。ご存じでしょう? 近年、わが国は飢饉で民は喘いでいる」

 

「…………ああ」

 

 

秀馬は鉄格子を潜って内部に入り、地面に置かれた木茶碗を拾い上げる。

「ふむ、粥はきちんと食べたようですね。いきなり、固形物を食わせれば死んでしまいますからね」

 

 

淡々と語る秀馬を恨む一方、この男の喋る内容を理解できる自分に実篤は苛立った。

 

 

(こいつは、何を考えている……。)

 

 

行き場のない怒りを飲み込み、実篤はハンカチを取り出し子供の顔を拭ってやった。

 

 

慈悲、ですか。と秀馬は問いかけつつ、

「ここにいるのは、これから実験することに〝自分たちで同意〟して残った子供たちです。自発的でなければ脱走される。精神的に耐えられない。だからここの牢獄にいる人間は全員、自由意志でここにいるんですよ」と、付け加えた。

 

 

「……それは、空腹だからそうせざるを得ないだけだッ!」自分でも驚くほど大きく、実篤は言い返していた。

 

 

「確かにそうかもしれません。ですがそれのどこがいけないんです? 空腹は悪です。飢渇というのは、それだけで人間を歪ませ、どんな悪事も働く。それに、彼らは〝純粋〟なんですよ。それこそ刀使のように、ね」

秀馬のいう「純粋」という言葉はどこか嘲りを含んでいた。

 

 

「どういう事だ?」

 

 

「まだわかりませんか? 純粋も悪ですよ。純粋な水だって毒だ。本来、自分たちが傷つかなくてもいい状況で、平気で身をささげる。それは素晴らしい行為でしょうが、狂気だ。そうやって、屑みたいな大人や人間が生き残り、子孫をつくり、悪を増やしてゆく。わたしのような悪党を、」

言い切って秀馬は脣を噛んだ。矛盾した物言いだった。――だが、青年はそれを承知しているようだった。

 

 

 

実篤は、この美青年の苦悩する姿に痛々しいものを感じた。だが、彼にいうべき言葉を彼は知らなかった。

「……この二人の名前を教えてくれ」

ようやく興奮を抑え、舌を縺れさせず言えた。

 

 

 

ええ、と頷いて秀馬は顔を上げる。

「男児の方は松崎虎之助。弟。女子の方は松崎キヨ。姉です」

 

 

「その実験は生存できる可能性が高いのか?」

「……正直に申せば、低いです。女子の場合は親和性も高く、生存率は高い。ですが、男児では全く…………ダメ。これが三か月のペースで二〇人単位で行っている実験結果です。もちろん『暴走』の可能性もあるので、事前に刀使を配備しています」

 

――刀使を配備している。

 

それは、事実上の処分であった。

 

 

人がノロと化合した場合、理性は消え失せただ破壊衝動だけで全て壊しつくす。その前に荒魂を祓う必要性があった。

 

「…………この子たちは三か月後に実験か?」

 

「ええ。ですが、体力をまずはつけてもらうのに、ここで生活をさせています」

 

「面会する時間は限られているのか?」

 

 

「そうですね。……今日は特別、ですね。なぜ貴方にここを案内したか……」

 

「小官の二刀流が果たして、人に憑依した荒魂に有効か否か、それを判断させるため。だな?」

 

「ご明察」

 

「…………この場所の存在をご当主様は?」

 

秀馬は首を横に振った。

 

そうか、と実篤は呟き立ち上がった。

 

「また来る。――――」

 

御門実篤は、大きな体を揺さぶりながら牢獄を出て外を目指した。ただ無言に去り行く男の背中を眺めながら、美青年は目を細めて見送った。

 

「貴方は愚直だ……。」

どこまでも憧憬の深い瞳が一人の武人を見送る。

 




過去回はあと1、2話で終わります。


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石の蚕 中編2

「せぇいっ!!」

少女の凛呼とした声が道場内に冴えた。

白い道着の真横から薙いだ一閃は男性の剣士でも避けることは難しい一撃だった。

(よしっ!)

俄かに、口元が微笑みかけた。

しかし彼女の想像を打ち破るように目前の男性は易々と木刀で受け止めた。

「――なっ!!!」

驚愕に目を見張った少女は、次の動作が遅れてしまい、素早く繰り出された一打が太ももを芯から捉え鈍い衝撃が走ったことに気付いた。

 

『そこまでです』

別の女性の声が聞こえた。

折神家当主の少女が、涼やかな眼差しで両者を制した。

 

「――くっ」痛みと恥辱で蹲った少女は口惜しさで歯噛みをしている。

二メートル近い大男が、巌を刳り貫いたような厳しい顔で徐に口を開く。

「怪我はありませんか?」

「ええ、ご心配なくッ…………」

上目遣いに睨み、敵愾心を表していた。

彼女…………折神家当主の妹、折神花は苦悶に顔を歪めながら負けを認めたくない様子だった。

「花、慎みなさい。あなたは御門様に負けた。理解しなさい」

姉の厳しい口調に渋々従うように、バツが悪そうに俯き「すみません」と謝意を口にした。

「いえ。剣士たるものは、勝気でなければいけません。それに、この年で立派な剣技でした。流石折神家のお方だ」

実篤は賛辞を送った。

「――くっ」

実篤の言葉に顔をさらに顰めた花は、下唇を噛む。

まるで〝折神家〟という単語に反応しているかのようだった。

 

「…………御門様、妹が失礼しました。次のお相手をお願いしても?」

「いいえ。ご当主様を万が一にでも傷つければ一大事です。小官は遠慮させて頂きます、ご当主様」

〝ご当主様〟――――と、実篤は言った。

彼女――――現、折神家当主の名前は伏せられていた。

それは、古来より続く日本の伝統であった。

 

 

――――万葉の頃。

女性の名前を聞く行為は禁忌(タブー)とされた。女性の名前を知るのは近親者か配偶者に限られた。つまり、女性の名前を聞く事は、現代で言えば結婚を前提にしたナンパをするようなものだった。

 

これを朝廷と深い結びつきを持つ折神家は、未だこの古い慣習を続けていた。つまり、折神家では当主の座についた瞬間から「個人=家」として存在することになった。

 

ゆえに、皆は折神家の当主の名前を口にしないし、一部の人間にしか教えられていない。

 

「そう……ですか。残念です。今回は二天一流の片鱗だけ、ということですか」

「ええ」

御門実篤は、長い木刀を二振り握ったまま、道場の真ん中に佇み周囲を一瞥した。

刀使が訓練を行えるように広々とした造りになった道場。

迅移の発動によって、より広い空間を必要とするために十分な余裕がある空間だった。折神家の姉妹と実篤以外に人の姿はない。それは、人払いした結果である。

静かな道場で、

「いずれ、お教えする機会があると思います。」実篤は機械的に返答をする。

「では楽しみにしています…………花、実篤様にお茶を」

「はい…………」

一礼すると、少女は足早に実篤の目前から去っていった。

 

 

道場から小さな人影を見送ると、姉の方は真剣な眼差しで大男を見据えた。

「先ほど、秀馬とお話しをなさっていましたが、どうでしたか?」

「…………どう、というのは?」

「私も馬鹿ではないと思います。ですが私は轆轤の家が行っている非道を敢えて無視しています。貴方もその片棒を担ぐ…………。いえ、詳しくは教えられていません。ですが――――」

当主は言葉を必死に探していた。家の為に殉ずる覚悟と、良心の呵責の鬩ぎあいに、困っているようだった。

 

「…………いいえ。ご当主様が心配なさる事ではなりません」

実篤は言いながら、脳裏に過った洞窟の牢屋に閉じ込められた二人の姉弟に思いを馳せた。

(一体自分に何ができるだろう……?)

荒魂と人体の融合に関する実験体として子供たちを利用する。

その汚れた仕事を司る男、轆轤秀馬。

本来憎むべき相手と行為も、「善意」と「純粋さ」によって支えられていた。

 

 

「刀使は、刀使のお仕事をなさって頂くのが一番肝心かと思います」

実篤は折神家当主という重責を担っている少女を見返して答えた。

 

「そう、ですか……。」

何度もうなずいた。まるで自分に言い聞かせるように。冬の弱い陽光が格子から薄く流れこんできた。

「……あの娘、花は優しい娘なんです。本当は折神家の当主になりたがっていたんですよ」

急に、妹の話を始めた当主に、実篤は遮ることもなく黙ってただ聞いた。

「私は元々、あまり剣術や戦うことが得意な人間ではありません。ですが――御刀が二振り…………私を選んだ。自慢ではなく、武器を好まない私を選ぶ。この血が、そうさせたのかも知れませんね。ふふふ。」軽く腕を伸ばす。

忍び笑いと共に、彼女は諦めのような表情で格子窓の遠くを見ていた。

「あの子、妹は折神家当主を目指しています。今でも。まだ13歳ですが。でも無理でしょう。あの子がいくら強くなったとしても、恐らく御刀に複数選ばれることはない。当主には間違いなく、あの娘は力不足です。だからあの子は多分、私のことも恨んでいると思います。なんの苦労もせず選ばれたんですから。でも根っこが優しいですから、あの娘をおかしくしたのは、私ですね」

寂しそうに微笑を零す。

 

「なぜ、いま小官にその話を?」

 

「これから貴方の剣術の神髄を包み隠さず教えて頂くのに隠し事はしたくなかったので」

素直に答えた折神家の当主は、その一瞬だけ年相応の少女に戻っていた。

 

 

 

 

 

「おじさんは、えらい人なのか?」

「とら、失礼な口のききかたをしない」

「ちぇえっ、なんだよー」

不服そうに口を尖らせる。

松崎姉弟は、数日前のような泥人形のように惨めな姿から回復していた。今では普通に会話も出来る位に回復している。

実篤に最初こそ強い警戒を示していたが、時間が経つにつれ、彼が敵でないことが分かった。

差し入れと称して菓子類や日用品を差し入れる実篤は、この牢獄の中で唯一頼れる人物になっていた。他の牢獄でも子供たちに分け隔てなく接する武骨な大男に、誰しも好感を持った。

 

 

「ねぇ、おじさんは軍人さんなんだろ?」

「ああ。」

「いいなぁーーーー。おれも、さ。おじさんみたいに強くなれるかな?」

「鍛錬さえすれば可能だ」

「本当? じゃあさ、じゃあさ、もしおじさん! おれが強くなれたらさ、部下にしてくれる?」

「とら! 御門様を困らせないの」

窘められた虎之助は肩を竦めて、あくびをした。

 

姉のキヨは知っている。自分たちが荒魂と人体の融合の被験者であることを。弟はまだ幼く、理解もしていない。ただ、食べ物が食べられるという理由で姉に付いてきた。それ以外に生きる方法がなかった。

 

 

「とら…………か。そうだな。お前を部下に持つのも悪くないだろうな」

珍しく普段笑わない実篤が不器用に口を歪めた。

 

「え!? おじさん。それ笑ってるのか?」

虎之助が驚いて指摘する。あまりにも不器用かつ恐ろしい表情だったのである。

 

「…………む、そんなに変な顔だったか?」

姉のキヨの方へ首を回す。

「くくくっ、いいえ。全然…………。」

目じりの涙を拭いながら、背中を向けて笑っていた。

 

「なぁ?! ねえさんも笑ってんだからおかしいんだよ! おじさんの笑った顔!」

得意げに虎之助がいう。

 

「そ、そうか…………。」

地味にショックを受けながら実篤は頭を掻いた。

 

 

『御門様、お時間が近づいていますよ』

優しい男の声がして、振り返ると美男子が恭しく実篤の背後に佇んでいた。

 

「――――ああ、わかった」

不愉快そうに短く返事をした。

 

 

 

「忠告します。あまり子供たちに感情移入をしない方がいい」

轆轤秀馬は告げる。

洞窟を出てしめ縄の施された出入口で実篤に向って忠告した。

「――――分かっている」

「そうですか。……ですが、あの子たちに感情移入して傷つくのは貴方だ」

お前に言われなくても解っている、そう怒鳴りそうになったが危うくの所で留めた。実篤は自己を律する方法を知っていた。だが、臓腑に湧き上がる秀馬への憎悪だけは消せない。

 

確かに彼は彼の立場でつらいものもあるだろう。

しかし、だからと言って感情が彼を許すかは別問題だった。

 

 

「ああ、そうだ。花様が貴方を探していましたよ」

 

「なぜだ」

 

さぁ、とでも言いたげに秀馬は首を振った。彼はにこにことした表情をしており、内心を読むことが難しい。

 

「――――分かった。」

彼の意図を探すのをあきらめ、実篤は素直に言葉に従った。

 

 

 

折神家の花壇前――――――。

初めて現当主と出会った場所。そこに、妹の折神花が実篤を呼びつけた。

「わざわざご足労、ありがとうございます」

丁寧に頭を下げた少女は、神妙な面持ちで実篤を見上げた。

「いいえ。しかし、御用というのは?」

「姉に刀使を辞めて欲しいんです」

花は真剣な顔と口調でしゃべる。

「姉は元々静かで穏やかな人なんです。……この花壇も」と、花が指さした。

「姉が庭師と協力してつくった花壇なんです。わたしの名前の〝花〟だから庭いじりが好きになった…………って、言ってたんです。本当かどうか分かりません。でも、土を触って花を植えて水をやっている姉が好きです。正直――御刀を握って巨大な荒魂や荒魂に憑依された人々を斬る姉を見たくないんです」

妹は自らの足元にできた影を睨んでいる。

 

「……ですが、もうご当主様は決まっておりますが」

「分かっています。姉が御刀に二振り認められたことで、刀使の地位が揺らがないことくらい。だから…………せめて、わたしが姉に勝つことができれば……」

語尾が途切れ、押し黙った。

 

「――――お聞きしたいことがあります」

 

「……はい。」

 

「あなたはお姉さまをこれまで一度も嫉妬したり羨むということは?」

 

「……っ、どうしてそんな事を今聞くんですか?」

 

「…………あなたに協力したいと思った所で、信頼できなければ難しいでしょう。」

実篤の言葉にハッ、とした表情になる少女。

「……確かに姉を見返したくて、こんな事を言っているのかもしれません。でも、姉を刀使の役目から、当主の役目から辞めさせるのも、わたしの望みです」

 

「なぜ、秀馬殿でなく小官に?」

ふとした疑問だった。策謀のうまいあの男にでなく、なぜ剣の道で生きてきたこの男に? と実篤自身が思った。

 

 

「…………あの男は、信頼するな。と、両親や皆が言っていました」

折神家と轆轤家の力関係は明確である。上下ではない、道具以下なのだ。

 

暗部を司る以上、公にできる存在でもなく、しかも汚れた仕事のみをこなすかれらの印象は最悪を極める。それを昔から続けているのだ。信頼という言葉からほど遠い。むろん、実篤自身も秀馬が嫌いだった。

 

 

「分かりました。一度、考えさせてください」

 

 

 

雁が夕空をなぞるように、滑らかに飛んでゆく。

鳥は自由だった。どこまでも、地上の雑事に囚われずにただ両翼を羽搏かせて易々と国境を越えた。

――まだ、十七の少女は瀟洒な窓から空を飽くこともなく眺めていた。

その横顔を見ながら、

「ご当主様は、空がお好きなのですか?」

と、思わず聞いた。

 

執務室で二人は定刻通り、軽い会議を開いていた。……と、言っても形式的なものに過ぎず、ただ一日の報告をするだけだった。

 

気を緩めてしまったのだろうか? 実篤は、自分が普段ならしない問いかけをした事に、自身で驚いていた。

ふと、我に返った少女は顔を赤らめて頷く。

「空は昔から好きなんですよ。時々、何者にも縛られずに生きてみたいって思いません?」

小首を傾げながら、流麗な黒い髪を肩先からひと房垂らし、微笑みかける。

「…………軍人の職務は、小官には優先されます」

「ふふっ、そうですか。…………あと、一年。刀使としてのお役目は一年。でも、」

それ以上を言おうとして、言い淀む。彼女の明るい表情に暗鬱の翳りが射した。

「妹が、恐らく刀使を束ねなくなります」

「ええ」

「御門様」

「ハッ!」

「ふふふ、いいえ。命令をするわけではありません。もし、の話ですが……もし、折神家の当主が荒魂になった場合、貴方はどうされますか?」

「……質問の意味を理解しかねます」

「もしも、の話です。ノロを受け入れ、それで国を人々を守る。そういったら?」

「全力で止めます」

「――――やはり、貴方は正しくて誠実な方なんですね」と、一息吸って続ける。「そういえば、〝あの牢屋の姉弟〟を助けたい、とお考えですか?」

当主の少女は淡々とした口調で言った。

「――なっ!? 貴方は何も知らない筈……」

「――――ええ。〝折神家の当主〟としては知りません。ですが、一人の刀使として、〝私〟としては一切を知悉しています。無論あの男――秀馬から概ねの事情を聞いていました」

いささか醒めた眼差しで、大男である実篤を真正面から捉える。

 

 

「もう、この身にノロを宿せば後戻りはできないのです」

左腕を掲げ、そして実篤の背後にある扉に一言「入ってください」と告げた。

ガチャ、と鎧戸の重い音と共に小さな人影がきた。

実篤はゆっくりと振り返った。

 

 

「あ、あの…………。」

あの牢屋に居たはずの松崎姉弟の、姉――キヨがオドオドした様子で入ってきた。

 

「ど、どうして」震えて、全身が痺れていた。

 

「わ、わたしがお願いしました。弟の分のノロを注入して下さい。でも、あの……お願いです。ご当主様、御門様。あの子、虎之助を自由にして下さい」

 

――――どうして?

思わず、そう言おうとして舌が縺れ呂律がうまく回らず、黙した。反射的に当主の少女の居る前へと首を巡らす。

 

彼女は、能面のように無表情で頷いた。

 

「分かりました。あなたの覚悟は覚えておきます。ですが、もしあなたが荒魂として暴走した場合、私が責任をもってあなたを祓います」冷徹な目の光で、残酷な現実を告げた。

嘘も偽りもない。

キヨは、真っすぐに切り揃えられた黒髪の下から、不安と固い覚悟の両目が閃いていた。

 

 

 

その表情を一瞥し、当主の少女はにこっ、とほほ笑む。

「ええ、わかりました。あなたの本当の覚悟、すべて承りました」

「――は、はい!! ありがとうございます!!」

少女は目を輝かせ、何度も謝辞を述べた。

いつまでも、優しく笑みを浮かべた当主の少女。しかし、掲げた腕の服袖からチラリと見えた包帯の下には、ノロの注射をした痕跡が隠されていた。

 

 

ギリッ、と口惜しさで実篤は前後の少女の悲痛なまでの覚悟を感じた。

 

どうして、自らを饗するのだろうか? そんな必要がないのに、なぜ?



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石の蚕 後編

これで過去回おしまいです。


――――…………ご存じですか?

囚人がなぜ番号で呼ばれるのか。それは簡単なんですよ。その人の「固有名」を奪い数字にすることで、一時的に「自分の存在」を社会から切り離す効果があるんですよ。

 

 

つまり、ですね。

〝お前は人間じゃなくて、別の数字を持った生き物だ〟と言っているに過ぎないんですよ。

 

 

本当の絶望ってあまりに呆気なくて、それでいて簡単で単純で、残酷なんですよ。

だから、固有名をはく奪される事ってとても恐ろしいんですよ。わかりますよね、実篤さん。

 

 

せめて名前の残らなかった人々のことを知っているのなら、貴方だけは覚えていて下さいね。

それだけが、せめてもの慰めになるのですから。

 

 

 

 

―――――――ー。

―ー――――。

―-―――

 

 「…………チッ」

 いつ頃に言われた言葉なのだろう? 不愉快な男の顔を反芻してしまい、鋭い舌打ちをした。

 軍帽をかぶり直し、男は帝都の地下に続く坑道の入り口に佇んでいた。

 御門実篤は折神家に剣術の指南として訪れ、平穏とその裏に隠れる危機の日々を過ごしていた。

 

 

 彼の眼差しは重く冷たく、哀愁を微かに漂わせていた。

 運搬車が積載する掘削用の資材や人員が慌ただしく動いていた。まるで、自らの墓地を掘るような印象を受ける人々も少なからずあった。

 

 実篤は、大柄な体に太刀を二振り、腰に佩いていた。

 外套の裾を翻し、実篤は軍靴の分厚い底を歩ませた。

 

 

 

 帝都坑道計画。

 本来、関東大震災の予備的な意味もあったこの計画は早い段階から荒魂や諸外国の侵攻を防ぐ目的に変化していった。

 

 

 五つのルートを伸ばし、房総半島方面から、横浜、茨城、青梅、甲州などを宮城(皇居)を中心にして構築されていた。まるで蟻の巣のようだ、と揶揄する声もあった。

 全長は数千キロにも及ぶ長大なものとなっていた。…………当時、掘削技術は日本の場合必ずしも優れてはいない。

 

 では、このような隧道はいかにして作られたのか?

 

 残念ながら現在では資料が散逸しており、正確な事は分からない。ただ、推測ならば可能である。

 

 当時、荒魂はスペクトラムファインダーが無く、従ってスペクトラム計によって荒魂の位置を捕捉した。

 

 ただこれだけでは事前の発見は難しく、しかもいずこから現れるかも予期は不能であった。

 

 例えば荒魂発生が山林などであれば仕方がない。しかし、街中で突如として発生する荒魂に関しては全く理解ができない、そんな状態であった。

 …………だから、敢えて坑道をつくることにより人間の生活圏から切り離した状態にすべきだと考えた。

 

 地上は人に。地下は荒魂に。

 

 実際、この手法は当たった。

 つまり、荒魂が蠢動する場所を地下へと限定したワケである。

 

 

 (それが誤算さ。)

 実篤はうそぶく。

 彼の派遣された時からこの計画は始まっていた。

 しかし、この計画には大きな穴があった。

 

 ――――すなわち、都市部に自然発生する荒魂の生息域である。

 

 これの答えは単純であった。

 

 つまり、「地下に最初から荒魂が点在していた」わけである。まるで巣を分散させるように荒魂たちは地下空間に根を張っていた。

 順序としては最初に荒魂が地下空間にあり、人間がその領域へと踏み出した。そう理解するべきだと思う。

 

 

 だから、帝都地下計画もただ「巣と巣」をつなげるだけで良かった。そうすれば、労力をかけずに長い隧道を作ることができた。

 たとえ地下計画において、荒魂討伐の多大な「犠牲」を対価として支払ってでも、それは人々の関知するところではなかった。

 

 

 

 

 

 0

 坑道の入り口から一歩二歩……と、歩幅を進めると薄暗い裸電球の奥に空間があった。

 そこだけは、別のトンネルのルートと異なり、卵型の空洞になっていた。

 人の気配がする。

 実篤は足を踏み入れることを咄嗟に躊躇した。

 

 

 「ふふっ…………きょうも元気そうで良かった」

 折神家当主――〝だった〟少女が薄い紅の唇から明るい笑いを漏らす。

少女は、巨頭を有する「荒魂」の頭を撫でながら頻りに何かを話しかけ、懐かしそうな表情をしていた。

 「あっ、実篤様」

実篤の姿を発見すると晴れやかな表情で迎えた。

 

 

 「…………久方ぶり、だ。〝何一つ〟変わらなくて安心した」実篤は、言いながら舌に苦いものを感じていた。

 

 

 声をかけた少女は、以前のように「人間」では無かった。

 顔の半分は人の皮膚ではなく、荒魂の仮面に覆われたように黒鉄色に変色しており、額の辺りからは鬼のような角が生えていた。瞳の色は橙色であり、新鮮な溶鉱炉の焔を湛えていた。―-彼女は、「荒魂」に侵食されていた。

 

 

 「そう、ですね。もう四年になるのに変わりがないですから。私も〝この子〟も」

 そう言いつつ、先ほどまで撫でていた四脚の、歪な外貌を有する怪物に向かって笑いかけた。

 

 実篤は言葉を無理やり喉から吐き出した。

 「〝キヨ〟も、そうか…………。」

 しかし、後に続かず言葉を止めた。

 

 

 ―-―――その荒魂は、かつて牢獄に居た姉弟の松崎キヨという少女だった。

 今では変わり果てた姿に、実篤はかける言葉の一つも思い浮かばなかった。彼は軍人として、そして折神家の剣術指南として派遣されていた。だから、この姿となった彼女たちと会話をするのは初めてだった。

 

 

 「そういえば、あの子……妹の花は元気ですか?」

 少女は実篤に問いかけた。

 

 「……ええ、現当主様はお元気にしておられます。」

 「そう、良かった。私よりも本当はあの子の方がそういう役割に向いていたから」そういって、からから鈴を転がすような音色で笑った。

 

 

 

 四年前。

 元折神家の当主だった少女は、ノロを受け入れた。その肉体に宿したのは「憎悪」や「悪意」「飢渇」などに溢れる負の神性を帯びた液体と塊。

 

 彼女は自ら進んで刀使を束ねる身でありながら、「ノロ」を受け入れた。

 それは禁忌(タブー)であった。

 当然、それは折神家の人々の知るところとなり、大問題となった。

 

 

 明らかに人知を超越した能力――刀使とは本来、御刀の異能を引き出す少女であった。

 しかし、ノロを受け入れた者は事情が異なる。

 およそ人とは思えぬ戦いぶりに残忍性。理性という理性を蝕まれ、それは外見にも如実に現れた。

 

 

 人々はその「かつて刀使」であった美しい少女を畏怖と蔑視の対象として記憶するようになった。そして、もし仮に彼女のような「ノロを進んで受け入れる」ような人間が現れないよう、人体とノロの融合を図る実験を中止し、「当主だった少女」の存在自体を消し去った。

 

 

 そうして、すべての責任を轆轤家の当主、轆轤秀馬へと転嫁させた。

 彼は秘密裏に処刑される運びとなった。

 その情報を聞いたとき、

『ああ、そうですか…………分かりました』と、軽い調子で頷いた。

 まるで事務仕事を押し付けられたような風に。

 

 

轆轤秀馬は処刑された。

 

 

彼が関わっていた荒魂とノロ――そして人体実験の結果生まれた『荒魂』によって喰われることであった。

数十体の荒魂が閉じ込められた「穴」に突き落とされる単純な方法。

秀馬の遺体は、破損が激しく、荒魂に押しつぶされ消えていった。彼は死の間際ですらひたすら冷静であり、むしろ役割を終えた役者のように晴れ晴れとしていた。

『ああ、終わり、ですか。……自由か。自由。うん、いい。自由は素晴らしい』そう言い残した。

 

 

 

 後日、御門実篤は彼の処刑を聞き、あれほど嫌っていた男に憐れみを感じていた自分に驚いていた。

 

 頭を振って、忌まわしい男の事を無理やり忘れた。

「その、今は坑道からの荒魂の出現は抑えられていると聞き及んでおりますが」

 実篤は最近耳にした噂を聞いた。

 

 「――ええ、私とこの子で後続する刀使の討伐隊の娘たちが来るまでに全部片づけますからね。ふふっ、案外にこの体になるのも悪くないかも知れませんよ。あ、でも庭のお手入れができないのが心残りですけど……」真剣な顔で、子供っぽく考え込む。

 

 「折神家の庭は、小官が不肖ながら手入れをしております」

 

 「ええ! 本当ですか? でも、ふふ、ごめんなさい。あまり貴方には似合わないから……ふふ、そうですか。ならよかった」

 年相応に微笑む彼女の髪は以前のように艶やかな黒髪ではなく、白い薄く発光をしていた。

 

 

 「それに、ご当主様も長刀二刀流をかなりモノにしておられるので、小官のお役御免も近いかと…………。」

 「そうなんですか!?」

 「ええ、もっとも御刀には一振りのみ選ばれただけですから、長刀での二刀流はあまり使い道がないのですが…………それでも、〝いつか後続の子孫のため、姉のように複数の御刀に選ばれる子の為に〟と言って熱心に練習をなさっておられます」

 

 かつて、コンプレックスを姉にもっていた妹の姿はなかった。

 

 「そう、ですか。もうそんなに立派に………そうですよね。もう四年も過ぎれば、あの子も十七。そうですね。立派にもなりますよね。」

 少しだけ寂しそうに笑った。色々な感情が込み上げたのだろう。

 「私、十七歳のころから見た目はあんまり変わらないんですよ! 結構便利でいいですよね」

 「…………。」

 少女の冗談が、実篤にはわらえなかった。

 「あっ、そうだ! 」すぐに空気を察し、話を変えた。「この子にも聞かせてあげて下さい。虎之助くんは今度、実篤様の部下になられるんでしょう?」。

 そう言って、再び巨大で鋭利な牙を並べた〝荒魂〟へとほほ笑みかける。

 

 

 「ええ。そうです。今度は小官の雑事を担当する兵士として配属予定です。あの子には余り色々と教えていません。姉は実験で死に至った、そう伝えています」

 実篤は言いながら、荒魂の方へと目線を向ける。

 

 『グルルルルル、』と低く唸る声は一見して威嚇でもしているかと思われた。しかし、それは必至に人語で喋ろうと試みる行為に他ならなかった。

 

 「それもこれも、君が弟の分のノロを受け入れたからだ…………」

 実篤はゆっくりとしゃべり、荒魂に近づくと、少女と同じように荒魂の頭部外骨格の頬に当たる部分を撫でた。

 鋼鉄のような硬質さを思わせる手触り。しかし、口からは絶えず焔と火の粉が秘められていた。

 

 

 

 「これから、最後の討伐に出発されると聞いて、それで…………」

 別れの挨拶をするためにここに来た、そう言おうとして言葉に詰まった。

 

 ――なぜ、人の為に身をささげた彼女たちがこのような酷い責務を?

 

 ――なぜ、あの時自分(実篤)はただ黙ってすべてを見過ごしたのだろう?

 

 

 なぜ、なぜ、なぜ?

 

 「実篤様、どうかされましたか?」

 「い、いえ。…………もし、討伐から帰還されたらどこか行きたい場所でもありますか」

 実篤は無意識にしゃべっていた。

 「えっ?」驚いた眼で少女は実篤を見上げる。

 

 

 「大丈夫。……人目に付かなければよいのです。不肖ながら小官が護衛致します」

 

 暫く驚いて口のきけなかった少女はやがて、「ふふふ……」と上品な忍び笑いで方を小刻みに震わせた。

 

 「そう、ですね。でしたらどこでも構いません。〝自由に〟歩いてみたいですね。そうしたら必ず付き添って頂けますか?」

 

 可愛らしく挑発的な目で少女は実篤に挑む。

 

 

 「ええ、いつか見た鳥のように。どこまでもお連れ致しましょう」

恭しい口調で実篤は精一杯の道化を演じた。

 

 

 意外の感に打たれた少女はしばらく、大柄な不真面目の似合わぬ男を眺め、くつくつ、腹を抱えて笑い始めた。

 「……そう、ですね。でしたらもう一つお願いを聞いてくれますか?」

 

 「ええ。何なりと」

 

 「私の名前を貴方にお教えします。」

 

 「……? はい、承りました」

 

 良かった、そういって幸せそうな長い余韻の息を吐いた。少女は長い白くなった髪を翻し、腰の御刀の柄を握った。

 

 「誰かを守るために戦うって本当にうれしいことなんですね」

 

 

 少女は確かに、そう呟いた。

 

 

 

 

 ◇◇◇

 ……結論から言えば、彼女は帰らなかった。

 

 それを知ったのは、随分後になってだった。

 



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148話

ポケットの中、掌に冷たく伝う金属の無機質な手触りを感じた……。固いジーンズ越しの布生地に汗が染みこんでゆく。呼吸するたび、四方を囲むトンネルの粘つく暗闇に意識が吸い込まれそうな錯覚に陥る。

熱い指先が、もう一度銃把に触れた。

コルトパイソン――――回転式拳銃(リボルバー)の中でも有名な一品である。

柴崎岳弘は、それを「持って」いた。生命を簡単に命を奪う武器はどこまでも冷徹な感触で、武骨で、妙に神経が落ち着く。昂った精神も「銃」という存在によって平静を保つことができた。……だがなぜ、一般市民である自分がこんなモノを所持しているのか。自分でも分からず記憶が無い。ただこの地下の深い空間において、武器を持つことは安心に繋がる。

例え、この武器が有効でない化物相手でも気休めくらいにはなる。丸腰よりよっぽどましだ。

荒い呼吸をなんとか落ち着け、

「松崎さん。百鬼丸くんの後を追いかけますか?」言いながら口元に苦笑いを浮かべる。隣の老人は、自ら落下した少年の行方が闇に呑まれて消え、暫く呆然と下を見ていた。

「――だの。」

正気を取り戻した彼は、首を横に振って悪い憑き物がおちたように頷いた。

「場所、落下場所は分かりますか?」

「いや……ここからは流石にワシでも分からん。それにあの小僧、本当に口だけじゃないモンだなぁ」

その言葉には呆れと感心が綯交ぜとなって表れていた。

「関心してる場合ですか。早く目的を達成したいんでしょう? どこに行けばいいんですか?」

「ウム、昔と殆ど変わらん構造だということは分かった。あとは丸の内から宮城(皇居)の道筋を通る道を進めば…………」

「こんな複雑な中でどうやって地上の地理が把握できるんです? それに、所々改修された痕跡がありますし、なによりこのクレーチング」

と、言いながら岳弘は靴先をコツコツと、金属の細長い床に当てた。

「戦中当時のものじゃないですよ」

老人は暫く考えてから、指を口にくわえて濡れた指先を外気に触れさせる。突然の行動に岳弘は思わず、

「な、なにしてるんですか!?」驚愕の声をあげた。

「黙っておれ。ホレ、こうして通気を感じてその通りに歩く。本来、宮城を中心に放射状に構築された地下の坑道。なに、老いぼれでも昔のことならよーーーーく覚えておるんじゃ」

(大丈夫なのか、この爺さん)

不安を危うくの所で留め、首を振って岳弘はこの老人に賭けることに決めた。

「はやく、百鬼丸くんと合流しましょう」

「ウム、あの小僧はのォ、中々よい面構えをしておるんじゃ。それこそ、昔の少佐殿のようじゃ」かつてを懐かしむような口調で老人は、皺だらけの顔をさらに皺を刻んで笑った。

松崎老人は唯一の手荷物であるバックパックの中に潜ませた「あるもの」を、大切そうに扱いながら歩き出す。

 

 

「あははは~、どうしたのおにーさん♪ 遅い、ぜんっっ、全然遅いよ~」

少女の愛らしい哄笑が半円の天蓋から反響して幾重にも重複して聞こえた。

「ぐっ、」と、苦悶の表情を浮かべながら百鬼丸は左腕の白刃で防戦一方である。

「うっせぇ、こちとらモツが腹から飛び出とるんじゃ!」 

そういいながら、二本の指で無理やり腹部から飛び出した新鮮なピンク色の腸を押し込んでいる。

百鬼丸の口から吐血した後の血筋が細く流れている。

それを無理やりに右肩で拭い、体勢を整えようと必死になった。

 

「あはは~、言い訳なんてだっっさーーーーい♪ それで〝お前より強い〟って言えたね~」

少女、燕結芽は子供らしい残虐な笑い声で御刀『ニッカリ青江』を振るう。

軽やかな身のこなしは剣士というより、舞踊に似ている。

親衛隊の制服スカートは軽やかに広がって波打ち、その下から白いタイツが二脚動く。

「あはは、だめ、だめだめ。ぜっっっんぜん弱いっ、それじゃわたしの記憶にも残らないよぉ~」

煽りながら、百鬼丸を嘲弄するように迅移で加速し、四方八方から斬撃を繰り出す。

「くそっ!!」

脂汗を浮かべつつ、少年はそのすべての攻撃を寸前の所で躱し、刃で弾き、機会をひたすら窺っていた。

結芽は目を細めて、攻撃を辞めて立ち止まる。

「ねぇ、どうしたの? 手を出さないってつまんないの~。おにーさん、守ってばっかで楽しいの?」口を尖らせ、不服そうにいった。

 

上半身が裸の百鬼丸は、大きく肩を上下に息をついて滝のような汗に濡れている。

「へへへ、そんだけ動けりゃ上等だ。拉致された時に変なことされなくて良かったぜ」

安堵したような笑みで小さく呟いた。

薄暗い電灯に照らされながら、少年は片膝を崩して地面に半分崩れた。無理やり詰めた腹部の傷から、赤い血飛沫が一瞬噴き出した。

 

 

(なに? なんなの!?)

結芽は、既視感のある光景に思わず頭痛がして額を抑える。

以前にも、似たようなことがあった気がする。

でも一体いつ?

「ああああああ、もう! おにーさん大っ嫌いっ! わたしの記憶(なか)に勝手に入ってこないでよ!」

少女は唐突に叫ぶ。かつて両親から捨てられた記憶が脳裏を過り、激しい苛立ちが募った。

 

その何かに苦悩する結芽を遠目に見ながら、百鬼丸はゆっくりと立ち上がる。ズボンを殆ど血に濡らしながら。

「うえっ、ううううっ、痛てぇな。チッ、まあいいや。なあ結芽」

「勝手に名前呼ばないでっ! 誰もおにーさんにわたしのこと呼び捨てにしていいなんて言ってないもん」

「おおう、そうか。悪い悪い。じゃあ〝結芽ちゃん〟でいいか?」

挑発的な目で百鬼丸は笑いかける。

カチン、と結芽の中で何かが切れた。

「へぇ~、随分余裕そうじゃん。だったら本気で斬るから。それでも文句言わないでよね?」

小指を立てて、頤(おとがい)に当てる。

 

 

――――刹那。

 

まっすぐ真正面から、結芽は《迅移》を発動して飛び出す。刀使の内でも最強だという自負がある。だから、敢えて正面から切り結ぶ。それこそが、自分の納得できるやり方。

結芽は自らの心に湧き上がる少年への言いようのない感情を刃によって表現しようと思った。

 

距離はすぐさま縮まり、気が付くと百鬼丸の間合いに入った。

「もーらいっ♪」

そう言って少女は剣尖を素早く動かす。

 

 

三段突き。

俗に言う三段突きを繰り出したのである。この技は幕末の剣豪集団「新選組」の天才剣士沖田総司の得意とした技であり、一撃の突き技に見えて上中下を貫く技巧の剣技である。

それを僅か十二歳の少女が行った。

結芽の最も得意とする技であり、親衛隊の現役時代からこの技によって多くの敵を屠ってきた。――勿論負けるわけがない。

そう、信じていた。

鍛錬によって手に入れた剣技は自然と体に染みついており、気が付くと既に攻撃は終わっていた。結芽は、

「降参かな~♪」

悪戯をする子供のような調子で微笑み、勝利を確信した眼差しで見上げる。

 

しかし。

少年は、百鬼丸少年はニヤっと口端を曲げて痛みに引き攣った頬を無理やり笑いで歪める。

 

 

「えっ……?」

結芽は自らの目の辺りに無意識に指が向かっていることを自覚した。

指先にはねっとり粘つく液体の感触がある。鉄の多く含んだ匂い。

……そうだ、かつて何度も嗅いだことのある忌まわしい匂い。

結芽はこの液体の正体がすぐさま血液であることに思い至った。そしてすぐにバックステップで間合いをとり、自らの怪我を探す。しかし見当たらない。

と、すれば。

既に答えは決まっている。この血液は「百鬼丸」のものだ。

結芽は目線を上げて、百鬼丸を思い切り睨みつける。

「…………どうして攻撃しないの?」

あの少年はすべてを読んでいた。

真正面から攻撃を仕掛けるであろう相手に、予め腹部の傷から噴き出した血液を正面で血飛沫として噴射し、結芽の繰り出す瞬きの一瞬の技に合わせて狙いを狂わせた。

その天才的な三段突きは、己の目ではなく、体が自動的に攻撃を行い終える。だから、剣士も無意識の内に、「攻撃をしたつもり」になっているのだ。

結芽は百鬼の残像に向かって三段突きを繰り出したに過ぎない。

すべて、最初から読まれていた。……自身の特性や性格を知り抜いた上で。

「どうして! 何が目的なのっ!?」

心底腹がたつ。殺してやりたいのに、今一歩の所で取り逃がす。

 

 

こんな死に体の少年すら満足に仕留めることができないのか? 

結芽は危うく、怒鳴りそうになった。

 

――――しかし。

 

りん、りん、りん。

と、金属の軽やかな音色が耳に届き、ハッと結芽は冷静さを取り戻した。

その音の方に目をやると、百鬼丸のズボンのポケットから小さな鈴のストラップが地面に転がる様子が見えた。

(あれって…………。)

血濡れのズボンから転がった涼やかな音色を奏でたのは、「イチゴ大福ネコ」のストラップだった。

それを少年は、

「おおっと、うへぇっ痛てぇ」と苦悶を上げながら膝を曲げて地面から拾う。

まるで彼には似合わぬ趣味のものだった。

だから少女は思わず、笑った。

「なにそれ? おにーさんそんな可愛い趣味してるの?」

と、口走った。似合わない。こんな血だるまになったむさ苦しい少年には到底似合わない趣味だ。きっと、このストラップは誰かの貰い物に違いない。

 

 

百鬼丸はその言葉に苦笑いしながら鷹揚に頷いた。

「……だな。全然おれには似合わないけどな。……ま、でも一応貰い物だしな。大切に持っておくことにしたんだ」

「はぁ~? なにそれ、おにーさんにイチゴ大福ネコのストラップなんて似合わないのに~♪ どんな人があげたんだろうね?」

結芽は、喋りながら無意識に胸が痛む感覚がしていた。

(なに?)

知らず知らず、少女は胸の辺りを掴んで早まる鼓動を抑えていた。

 

百鬼丸は困惑し始めた少女を見据えて首を振った。

「どんな奴って…………そうだな。凄く生意気な奴だな」

「なにそれ……」

「それで、ああそうだ。周りの人間に恵まれてたな。でもまだまだお子ちゃまだから難しいことは分からないんじゃないかな?」

「なにそれ、うるさい。おにーさんだまって!!」

結芽は頭を抑えながら、その場に蹲った。心臓の鼓動が早まる。何かに支配されたみたいに血液が凍ったような、そんな不思議な感覚が全身を満たす。

しかし、彼は黙らない。

「んでな、いつ自分が消えてもいいように喧嘩を周囲にふっかけるロクでもない奴だったんだ。困ったもんさ」

 

「…………うるさい、うるさい!!」

苛立ちが最高潮に達し、結芽は再び立ち上がり百鬼丸を睨み据える。

 

しかし、彼はただ痛みを堪えてニコニコと笑っていた。どこまでも優しくて暖かい眼差し。

 

 

――懐かしい。

結芽の気持ちの中に、明確な変化が訪れた。

「そんな人から貰ったものなんて嬉しくないよ!!」

自然と目端には涙がじんわりと浮かんでいた。

 

百鬼丸は肩を竦めて、

「いやーそうでもない。心のこもったものなら誰からでも嬉しいよ。それに、おれが初めて他人に向き合うきっかけを作ってくれたんだ」

 

 

「黙って! もう聞きたくないからっ! この場でおにーさんを斬って、秀光おじさんに褒めてもらうから! それで終わり。おにーさんは終わりっ!」

左手で額を抑えながら、右手に掴んだ御刀を水平に百鬼丸に合わせる。

 

「…………消えて。わたしの目の前から消えてっ!!」

心をかき乱す存在は不要。ただ、己の強さを示すだけで良い。結芽(じぶん)にはそれだけでいい。「おにーさん。最後に言い残すことは?」

皮肉っぽい口調で無理やり言葉を紡ぐ。

 

少年は肩を軽く回し、真摯な眼差しでゆっくりと口を開く。

「――――まあ、元気そうで良かった。けど、今はまだおれは消えるワケにはいかねーんだ。悪いな」

 

 

「――――ッ!!」

激昂した結芽はなりふり構わず、《迅移》を発動させ百鬼丸に斬りかかる。

ガキッ、と鋼の刃同士が重なる音が響く。

二人の距離は吐息の感じられる間合いにまで詰まった。

「きらいきらいきらいっっ!! 全部ぜんぶ大っ嫌い!!」

冷静ではない。この少年の顔を直視するだけで、何か均衡が崩れる気がした。

遠巻きに見える親衛隊の二人。仄暗い闇に混在する電灯の微光。目前に居る一回り大きな体。その体から、

「…………く」声音が発された。

「えっ!?」

咄嗟に反応していた。

 

俯き加減だった百鬼丸が長い前髪の隙間から眼窩をのぞかせる。

「よく、頑張ったな」

 

 

…………少年の言葉は耳を通して心の深い部分まで染みた。

いつだっただろうか? ちょっと前にもそんな言葉を聞いた事があった。もう、薄れた記憶の中に埋没していた記憶。

霞む視界にも捉えられた人影が、ゴツゴツとした掌を伸ばして頭を優しく撫でてくれた。

孤独に死を待つだけだった存在に寄り添ってくれた。

――――何もいらないから覚えていてほしい、という願いは崩れ去った。

やっぱり、欲しい。求めていたい。生きることを。

 

浅縹色の瞳から彩が戻った。

目端に溜まっていた涙はやがて一筋の流れになって、白い頬を伝ってゆく。

「なん、で?」

下唇を噛み、結芽は甦り始めた記憶と重なる少年に問いかけた。

どうして自分を助けたの?

刀使だから?

選ばれた娘だから?

 

百鬼丸は、緩まった剣圧を感じて相手の内心が変化したことを理解した。ガラ空きの右腕の伸ばして、もう一度ゆっくりと痺れた指先で撫子色の柔髪を揉むように撫でた。

「よくわからん。なんも考えてなかった」

間抜けな言い方で、百鬼丸は口内に溜まった血塊をプッと地面に吐き捨てる。

 

最後まで締まらない。なにも、どこも恰好などよくない。

けれども…………。

「なに、それ。百鬼丸おにーさん。変なの」

結芽は視線を絡ませ、確かに笑った。満足のいく答えではない。それでも、彼が居ることで安心していることに気が付いた。

 



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149話

◇◇◇

「はぁ…………はぁ…………ムゥウ、聊か衰えただろうか」

赤褐色の皮膚に、血に似た液体で湿っていた。

禿頭に白く剥いた両目。二メートル近い身長は無駄のない筋肉で引き締まっていた。衣服は無く粗末な布切れが腰の辺りを覆うだけ。

素足を擦り、間合いを再び測る。

――――かつて、この者は御門実篤と名乗っていた。

しかし、現在の彼に過去の名前も存在も不要だった。

ただ両手に大幅の青龍刀を握り、巨大な怪物を相手に死闘を演じている。それだけで良かった。

巨体を揺すった、その二足歩行の怪物は余りに呆気なく腕の部位を切断されていた。

ギャォオオオオオオオオオオオオオ!!

と、耳に蜂が入るように鼓膜を劈く悲鳴が鳴り響いた。

(余りに、惨い……。)

と、番人――実篤は思う。

この〝怪獣〟は動きがぎこちなく、継ぎ接ぎの生き物同士を掛け合わせたような奇妙な印象を受けた。例えば、10メートルを超える荒魂であれば、負の神性の加護によって、この世の物理法則とは切り離された行動を可能としている。

一方、この怪獣の場合は事情が異なる。つまり、この10メートルの「自重」に戸惑っているような様子だった。重心が定まらず、踏み出す足が滑りそうになっていた。

間合いに入れば、完全に此方のものである。

地球の重力とその自重の比率を初めて体験し、完全に混乱している。それが実体ではないだろうか? 剣士の勘が、そう推量させる。

「……で、あれば余りに惨い」

実篤はその怪獣――を哀れに感じた。

知らぬ世界に連れられ、戦うことを強要される。それに、憤りすら感じていた。

如何なる生き物でも闘争本能は「生存するため」の目的でしかない。破壊のみに駆られた生物は――人間以外に知らない。

〝人外〟の身になったからこそ解る。

「哀れ、というのは我々にこそ相応しい……」怪獣に向け、実篤は語り掛ける。

 

一方、それまで腕組みをして静観していた男が、苛立ち紛れに舌打ちをした。

「チッ、どうなっているんだ」吐き捨てるように言いながら、鋭い眼差しの中に困惑の色を浮かべた。

(もう一度、別の次元から怪獣を――。)

腕を前にかざし、リング状の禍々しいオーラを放つ道具を使おうとした。

――しかし。

反応が一切ない。否、正確に言えば反応自体はしている。だが全く感触――というか、変化が感じられぬのだ。

(なぜ?)

心中に疑念が生じた。これまで、そんな事は一切なかった。だからこそ、ギリギリの局面で不測の事態が起これば狼狽もする。

「なぜだ? なぜ反応しないッ――――!!」

 

 

『それは、貴方が愚かだからですよ…………ジャグラーさん』

少年の嘲弄する声が暗闇の奥から聞こえた。

「なにッ、誰だ!?」

思わず、彼は振り返る。

コツ、コツ、と足音を立て悠然と歩み寄る少年。

「――――お前は……」

ジャグラーは思わず言葉を失った。

彼の目の前に現れたのは、〝百鬼丸〟と瓜二つの姿恰好をした少年だったのである。ただし、髪の色は純白であり、微かに発光している。

涼やかな目元で口には薄笑いが浮かんでいた。

「貴方の役割はここで終わりですよ」

連なる電灯に照らされた少年は腰に佩いた鞘から聖柄の刀を抜き放つ。白銀の色が宿った刀身が煌めく。

「……キサマ、何者だッ!?」

「…………我々は――――ああ、違う。ぼくは〝ニエ〟。覚えて貰わなくて結構」

醒めた眼差しでジャグラーを見据え、体表に《写シ》を貼る。

通常、刀使にしか使えぬ技であるが――彼もまた百鬼丸と同様、刀使固有の技を使うことが出来た。

 

――――刹那。

 

 

ニエが動いた。長い純白の髪を靡かせ、後ろ髪で束ねた彼は長いローブを翻す。優雅に裾を波打たせて一直線に加速し、ジャグラーを無視。そのまま「バキシム」の元まで殺到した。

瞬間、その緑の双眸に小さな人の姿を映した。

白銀の線が外気に一筋だけ真横に残影を追わせた。

まるで、果物が刃物で切断されるような気安さで怪獣の頚部が容易く脆く、儚く刃を通す。跳躍して宙を舞うニエは、怪獣から噴出するヘドロのような体液を切断面から浴びた。

横顔を体液で濡らしながら、着地と同時に刃を振って血を払う。

緩くカーブした飛沫が地面に跡を残す。

ニエは嘲笑う。

命の儚さと、脆さと、永遠ならざる存在に対する侮辱であった。

一々の挙措に、傲慢さが滲み出ていた。

 

 

実篤は重い足取りで怪獣の巨大な残骸へと近づく。

「ああ、なんと惨い…………。」実篤が思わず口にする。

怪獣もまた、異邦の迷い苦しんだのかも知れない。それを思うと軽々に敵を憎むことができなかった。しかし、この目前の少年は違う。外見こそ神々しい雰囲気を纏うものの、実態は単なる殺意と悪意の塊。

「貴殿には慈悲、という言葉が無いのか?」

実篤は静かに聞く。

「慈悲? そんなもの、命あるものに対して意味なんてないでしょう? 結局、生まれた時から死は定め。決まっていることだ」

向き直り、実篤を睨む。

 

 

「――――おい、キサマ!! オレを無視するなッッッ!!」

 

怒声と共に放たれたのは空を切り裂く鋭い三日月型の斬撃だった。――それは衝撃波と例えても良いだろう。

間髪を入れず、ニエは刀を縦に振って斬撃を防いだ。

紅の瞳に染まったニエは、ジャグラーへと照準を変える。

「まずは、お役目ご苦労様でした。では……そのリングは頂きますね」

「どういう事だ?」

「説明する暇なんてありませんよ」

――――と。

ニエは口端を歪めながらジャグラーが先ほど放った斬撃を真似して鋭く右腕を振り上げ外気に斬撃を撃ち放つ。

 

「なッ!!???」

ジャグラーは本来の姿に変身する暇もなく《蛇心剣》で斬撃を防ぐ。本来の姿であればこんな攻撃など、容易に弾けるのだ…………。

 

『判断が遅くてよかった…………貴方が傲慢でよかった』

衝撃波が全身を襲い貫く中、ジャグラーはの耳元に少年の囁く声が聞こえた。

(どういう事だ!!)

口にする余裕もなく、内心でジャグラーは思った。

しかし、彼がそれと同時に加わった激痛に表情を歪めるのが先だった。

「…………があっ!!」

息が詰まるかと思った。リングを握った筈の右腕に灼熱で焦がされたような感覚が来た。視線を急いで右腕に注ぐと、肘から先が失われていたのである!

本来ある筈の右腕が無い。欠損している。

あり得ない、あり得ない、あり得ない…………。

これまで自身をここまで大きく傷つけた存在を知らない。

ジャグラーはただ、現実を受け入れられずに首を振った。

「キサマぁあああああああああああああ!!!」

憎い敵の姿を探すと、遥か後方でニエがジャグラーの上膊に握られたリングを弄んでいた。

 

 

「へぇ、これが…………。これは頂いていきますね」

にっこり、とほほ笑みニエは立ち去ろうとした。

 

『待て、卑怯者。貴殿は武人ではない……その力に溺れる愚者の雰囲気が感じられるぞ』

 

「バキシム」だった、はずの大きな肉塊の残骸に両手を合わせ祈りを捧げた実篤が、怒りを内側に含んだ声音でニエに叫ぶ。

 

 

「……なに?」

 

「聞こえなかったのか、卑怯者。キサマは本当の強さを知らぬ。孤独の強さになど、意味はないのだ」

 

その言葉を聞き、ニエは「あっはははははは」と大笑いをし始めた。まるで狂ったように。

「あははは、実篤さん……いえ、門番。貴様こそ口を慎んだ方がいい。雑魚だから、父上の駒として見過ごしていたが、看過できない領分を教えてやる」

抜き身の刀を右手に持ち替え、低い姿勢からニエは尖剣を実篤に合わせる。

 

まるで穏やかな湖面の水面に似ていた。

そこにたった一瞬だけの漣が立つ。そんな連想すらされた。

 

ニエは実篤との遠い距離を一挙に縮め、素早い斬撃を幾度も繰り返した。

彼の速度は、距離を感じさせない芸術的なものであった。それこそ、「神」の領域にあるように。

 

 

…………だが。

実篤はそれを待っていた。

二振りの青龍刀が巧妙にすべて斬撃を捌いていたのである。彼は「目」ではなく、すべて直観と経験という武人の培った、そして人外としてのすべての能力をかけて動かした。

鋼同士の衝突は幾度も、幾たびも続いた。

「くそっ、死にぞこないがッ!! 過去の亡霊めッ!」

「ああ、そうだ。小生は過去の亡霊。所詮過去に囚われた哀れな者だ」

揺るぎない眼差しと言葉でニエを圧倒する。

伯仲したかと思われた斬り合いも数十撃目で唐突な終わりを迎えた。

「――仕方ない」ニエは表情を苦々しく引き攣らせ、手の甲を犬歯で傷つけた。

紅だった瞳の色がさらに濃度を増して、真紅に変化した。

速度が更に急激に速さを突破し、実篤の脇腹を裂き破った。

「ヌゥ、」と、初めて実篤は苦悶を上げた。

既に足腰が限界だったのである。この綻びをニエは見逃す筈もなかった。

容赦なくニエは攻め立てた。

大きくなった隙から両肩、両足を次々と削っていった。溢れ出る液体はノロの橙色だった。実篤は今更、この体に限界を感じていた。

(小生も、所詮はこの程度……か。)

二振りの青龍刀で巧妙に防ぎ反撃を試みるも、無駄。

「おい、どうした死にぞこない。お前の挑発悪くはなかったが――この程度なら話にならんぞ」

ニエは苛立ちを残しながら笑う。

 

 

そして。

「トドメだ。」

短く吐き捨て、ニエは実篤の分厚い胸板を中心から刃で刺し貫いた。マグマのような温度が胸から溢れかえった。

「グフッ、」

口から血が盛大に飛沫をまき散らす。

両手から青龍刀が零れ落ちた。

…………これが死か。

恐らく、このニエの使う刀は特殊なものだろう、それこそ御刀のように。

神経のすべてが麻痺を始めた。

実篤の視界が白く霞み膝から力が抜けてゆくようだった。

 

ニッ、とニエが口端を喜悦で歪める。

「雑魚がイキがるからだ…………。」無情に吐き捨てる。

 

 

『うぉらああああああ!!』

右横から猛烈なスピードで衝突する人影があった。

――――グッ、と命を奪った直後で完全に油断していたニエは思い切り弾き飛ばされた。

砂埃を盛大に巻き上げ、地面を転がりながら起き上がると煙幕の中から重心を片方に傾けた少年が立っている。

「気にくわねぇなお前……。」

激痛に腹部を抑えながら百鬼丸は左腕の刃を突き付け、ニエにいう。

激情に駆られた少年は、ニエと同じ顔をしていた。

「…………お前、何者なんだ!?」一瞬言葉に詰まる百鬼丸。

まるで瓜二つ。同じ背格好。顔立ち。およそ他人とは思えない。

 

突然の闖入者である百鬼丸に一瞬だけ虚を衝かれたニエだったが、

「あはははははははは!! ここで憎きキサマに出会うとはなァ!!! 死ね、出来損ないッ!!」

 

「んだとテメェ!」

「出来損ないめッ、我々の中でも本当の出来損ない!!お前のようなゴミが平然と生きていられることに反吐が出るッ!!」

 

百鬼丸は大腿部に搭載されたリボルバー方式の加速装置に手をかけた。

もう一度加速して奴を仕留めよう――――。

そう思った瞬間には遅かった。

地面に転がった刀を素早くつかみ取り、持ち前の神速によって百鬼丸に突進。判断のズレによって生じた数秒が百鬼丸には油断に繋がった。

「くそっ!!」

リングを持った左腕の肘で百鬼丸の喉を押しつぶしながら地面に勢いよくたたきつける。

血反吐を吐き捨てる暇もなく、百鬼丸は地面に押し倒された。躊躇なく刃が百鬼丸の首を斬ろうとした。

 

 

―――――ガギィン。

しかし、無意識にニエの刀は別の闖入者の刃と激突していた。何度目の奇襲だ。うんざりしながらも、今度はその相手の存在には悪い気はしなかった。

「…………お前か。」

冷淡に、しかし微かなやさしさを帯びた声でニエはいう。

 

刃の視線の先には華奢な姿が映し出された。

撫子色の柔らかな髪をふんわり外気に翻し、浅縹色の瞳が細い眉で顰められている。

甘い、幼い匂いが嗅がれた。血みどろの中ではそぐわない匂いだった。

「あの時の百鬼丸おにーさんじゃない人、だよね?」

囚われた当初、接した。

結芽には彼が悪い人間だとは思えなかった。ただ、今は百鬼丸の命を奪おうとしたために体が自然と動いたに過ぎない。

ニッカリ青江が、光沢を帯びて迫る。

「……お前とは争いたくない」

「へぇーそうなんだ! でも、百鬼丸おにーさんを傷つける人は許さないから」

白と黒が印象的なシュシュのリボンが一帯、結芽とニエの絡み合った視線を遮る。

 

 

このタイミングを見計らってニエは大きく《迅移》によって後退した。

渋々といった様子だったが、とにかく結芽とは戦いたくない。そんな意思表示を表して、ニエは微かに悲し気な目で結芽を見、黙ってそのまま元の暗闇の中へ撤退した。

 

ニエが最後に見た光景は、結芽が膝を屈して地面に倒れ伏した百鬼丸の頬を撫で安否を確認する場面だった。

 

『……………ぼく〝たち〟は所詮、出来損ないにすらなれない、か』

闇に吸い込まれた呟きは孤独に、虚空に反響した。

 

 

 

 




最近、刀使ノ巫女のOPスタッフを見てたら、絵コンテが金子ひらくさんだったことに驚いた…………。


今更知ったけど、凄いなぁ……。


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150話

『管理棟エリア、損害軽微とのこと。施設各所の防衛ライン突破。至急応援を要請する。繰り返す、防衛省市ヶ谷基地に維新派を名乗る刀使の部隊が強襲。現存戦力により応戦するも被害甚大。至急応援を求む――――。』

 

 

午後11時過ぎ。東京湾岸埠頭。

無線からひっ迫した女性の声が流れ続けていた。

運転席の開いた窓に半身を入れた無精ひげを生やした男は、ニタニタと笑いながら右手に握った歪な形状の「刀」を引き抜く。直後、プシュ、と勢いよく鮮血が車内のフロントガラスを濡らし、大きな飛沫を浴びせた。

「やはり、生の肉を切り裂くのはいい」低く渋い口調で男は言う。

…………犠牲者、である警察車両の警官は、驚愕と苦痛の表情に固まり絶命した。

ボロボロに破れた法衣のような上着を風に靡かせながら、危うい顔つきの男は無線機へと手を伸ばす。

無線機の螺旋を描く線がピン、と張り、

「そこに、強い者はいるのか……?」

と、訊ねた。

ここまで随分と長く、長く待たされてきた。それも今夜で終わりだ。明日からは血肉の狂乱が始まる。それは、まるで祝祭のようだった。

(――――考えただけでも胸が疼く)

男…………腑破十臓は、内心で思う。

この退屈な世界に来てマトモに刃を交えたのは、あの少女――衛藤可奈美以外には存在しない。彼女ならば、或いはこの飢渇感を癒してくれるだろう。

『あなた、誰っ――――』

無線からは半ば悲鳴に近い怒声が飛んでくる。恐らく、無線の相手は長船の刀使であろう。施設防御を固めつつ増援までの時間をつくる……その重責を果たしている最中。

 

少女はとにかく助けを求めている。

 

そう、考えを巡らせて十臓は軽く首を振った。

「人間の肉を切り裂くのは心地いいだろう?」

『…………冗談じゃ済まないわよ?』

戸惑いを隠すように少女はいう。

「ふふっ、あははは。そうか、この世もまた太平無事な世相だったな。まったくつまらん。人は本能に従う。抗い、抗い、そして屈服する。目・耳・鼻・舌・身の五識が解る筈だ」

『これ以上ふざけないで。無線の相手は……? どうしたの?』

「どう? どう……か。つまらぬ肉だった。手応えがない。ただ包丁で肉塊を斬るようだった」やや寂し気に、十臓は答える。しかも至って真面目に。

『ふ、ふざけないでッ!!』

通信相手の少女は怒鳴った。これ以上の混乱を受け入れられないとでも言うように。半ば懇願のようでもあった。しかし、それを無慈悲に軽くあしらうように、「フッ」と鼻を鳴らす。

 

―――――……プッ、……――――――。

 

と、無線が途中で切断された。ただ、無線機からはノイズだけが砂嵐のようにザザ、と聞こえるに過ぎない。

つまらなそうに、十臓は無線を投げた。

彼は首をゆっくりと上げて周囲を見回した。腑破十臓という男を追い詰めるように辺りを警邏車両がパトランプを回転させながら停車していた。交錯した眩いランプの光が夜の空気に無数に交錯した。アスファルト地面には色濃いタイヤ痕と焦げたゴムの匂いが充満している。

 

 

しかし、それ以上に夜気に交じって内臓の悪臭が漂う。

 

 

十臓の握った刀の刃先から滴る血液は、滴り重く舗道に血痕を落とす。

首を巡らすと、地面に倒れ伏した警官たちの亡骸があった。ざっと数えても一〇体以上が無残にも、十臓の手によって亡き者とされた。

「これ以上待つことはできないぞ。秀光――。」

東の方角を睨み据えながら十臓が横顔にこびり付いた血に気が付き、指先で拭うと口元に運んで舐めた。

まるで、果汁を嘗めるように美味しそうにベロを出して味わう。

鉄分の味が口腔を満たす。一気に気化したように芳醇に血液が口の中で溶け去った。

……だが、満たされない。

まだ、満たされないのだ。この身も、心も、強者の血肉を求めているのだ。

 

 

 

防衛省正面玄関ホール。強化ガラスの自動ドアがすべて破損しており、ガラスの破片があちこちに散乱している。しかも、周囲には綾小路の制服を着た刀使たちが気絶している。最新式の黒色S装備に身を固めた彼女たちは、忠実なタギツヒメの尖兵として防衛省に強襲を仕掛けたのである。

――その首魁、タギツヒメが喜悦に満ちた眼差しで、

『さぁ、我が身へと帰れ』と、告げる。

それと同時に口づけを交わして、体内へと神性を流入させた。

目前のタキリヒメには、真っすぐ胸を刀身が鋭く貫いている。口元から一筋の血が流れた。

無論、すでに両腕は切断されて抵抗が不可能だった。

無慈悲に引き抜かれた御刀に従って、タキリヒメは膝から崩れ落ちた。

冷やかに、それを眺めるタギツヒメ。彼女は機械的に右手を振り下ろし、タキリヒメの目元を覆う仮面を軽く切った。

綺麗に割れた断面から初めて、タキリヒメの素顔が露わになった。

 

 

「タキリヒメっ!!」

可奈美が叫ぶ。

維新派の襲撃を防いできた可奈美たち六人は既にボロボロであった。それでも何とか立っていられたのは、ひとえに「タキリヒメ」と分かり合えると強く思っていた――可奈美一人だけであった。

人を支配する…………その断固とした考えを変えて、人と共生する……そう分かりかえると思っていた。

その強い気持ちだけが少女を立たせ、そして最悪の結末を用意して導いた。

しかし、今はもうすべてが遅かった。

タキリヒメは死を受け入れ、慈愛に満ちた眼差しで可奈美の方を見る。

「ああ、そんな顔をしていたのか…………。千鳥の娘」

穏やかな口調、穏やかな目の瞬き。

「タキリヒメ……っ」

限界に搾った声で可奈美は呼びかける。

 

 

「どこまでも…………飛ぶ姿が見えた…………」

 

 

「えっ……?」

可奈美は唐突な言葉に、一瞬困惑の表情を浮かべる。

 

「――――その刀のもう一つの名のように。雷すらも切り裂いて――――飛べ、人よ。迅く高く――――遠く――――。」

すべて呟き、言い終わるとタキリヒメの体は眩い光に包まれ、微粒子として肉体が分解されて弾け空気へと四散していった。

 

「タキリヒメ……?」

女神の言葉の真意を悟らぬまま、消えていった。それをただ茫然と眺めなが可奈美は、激しい虚無感に襲われていた。

 

その背後、

「―――――ッっ!!」

真紅の瞳で、十条姫和もまた女神の分解と吸収を凝視していた。

 

 

 

 

『ああ、心地よし。』

黒いフードの幼い容姿の女神が踵を返して立ち去ろうとしていた。

 

「タギツヒメっッ!!」

憎しみのこもった声音で、姫和は呼び止める。

 

『小烏よ。お前たちはタキリヒメと共に最善の未来を失った。せめて我が齎す終末をゆるりと楽しむがよい……。』

口端をキィ、と釣り無邪気な子供の笑みに似て、しかしその本質の邪悪さの滲み出た表情が姫和たちに向けられた。

 

「―――。」

 

『…………。』

 

姫和とタギツヒメの視線が衝突した。挑発的な顔に姫和は苛立ちを募らせた。

 

 

しかし、タギツヒメはそれだけ言い残すと、《迅移》を使い、タギツヒメとその残存の近衛部隊の刀使たちは姿を消した。

玄関ホールにはただ残骸と、意識不明な人の体、そして苦い敗北だけが取り残されていた。

 

 

 

「父上――いえ、秀光様。ジャグラーからリングを回収致しました。いかがしましょうか?」

長い白髪を地面に垂らし、首を垂れる少年の姿をした〝ニエ〟。

霞が関のビルの一角、情報戦略局の局長……轆轤秀光は、地下から戻り休息の暇もなく翌日の準備をしていた。

「ご苦労。よくやった。……それはお前でも扱えるのか?」

「はい」

「ならば、手はず通りに明日、渋谷で使え」

「ハッ!」

傅いた少年は忠実な態度で返答する。

 

「それで、先程の話だが……番人は裏切った、か。燕結芽は記憶を取り戻した……なるほど。百鬼丸、キサマは悪運が強いようだ。せめて、刀使の手によって処理されれば良かったものを」

憎々し気に秀光はつぶやく。

執務机に積まれた資料に目線をやりながら、

「……まあいい。明日、この世界は地獄になる。そしてタギツヒメの齎す終末……最高だ」

「――――父上、」

素早く背後を振り返り、

「その名で呼ぶな!! キサマも、百鬼丸も…………」

秀光の瞳の奥には熾火のような光が弾け、憎悪のドス黒い部分を言葉に変えて吐き捨てようとした。だが、途中で思いとどまった。

「もう、ラッパが鳴った。これが人類の贖うべき罪だ」

目を閉じて、彼の計画が最終段階に入ったのだと実感した。そして、概ね計画通りな事に満足していた。

 

この日、誰にとっても一番の長い一日が終わり、そして苛烈な「長い一日」を迎えようとしていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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151話

「クソッ!! 秀光ゥ、キサマだけは許さんぞッ!!」

ジャグラーは激しく吼えながら切断された右腕を庇うようにヨロヨロと立ち上がり、歩きはじめた。その行く先はただひとつ、リングを取り返すために。

人間の容姿で覚束ない足取りでも、強い憎しみを孕んだ眼差しだけがいたずらに炯々と光っていた。

「許さん、許さん、許さんッ」呪詛のような独り言を繰り返し、いつしか姿は闇の奥に溶けてゆく。

 

 

 

その哀れな後ろ姿を眺めていた《番人》こと御門実篤は、倒壊した天井の巨大な瓦礫に背中を預けながら、浅い呼吸で何とか意識を保っていた。

「お主もまた、満たされぬ者だったのか――。」

実篤は、低く言って瞑目する。

 

 

 

 

 

仰向けで地面に転がったまま、

「ウッ、……げほっ、げほっ。わりぃけど肩貸してくんねーかな?」

破れた腹部を右手で抑え、苦悶に呻きつつ百鬼丸は背後から駆け足で歩み寄る獅童真希に言った。

「あ、ああ」

まったく、一瞬の出来事で目まぐるしく展開する戦闘に一歩も動くことが出来なかった。否、人の領分を弁えているからこそ、体が動物的本能によって行動を止めていた。

忸怩たる思いを抱えつつ、真希はふと少年の傍で座る少女――燕結芽を発見した。

「……結芽」

そう言ったきり、二の句が継げずにいた。

「死なないよね…………?」

真希の存在を気にも留めないほど、極度に強張った顔つきで結芽はか細く呟いた。

「げほっ、げほっ、…………ッ、まあこれくらいなら休んでたら自然に治るからへーきへーき」

困ったように眉を曲げて、百鬼丸は安心させようと無理やり笑った。

途端――――。

「全然平気じゃないよっ!!」

突然の大きな声に思わず、百鬼丸は目を丸くした。

「お、おう……。」

「誰かが私の前からいなくなるのは寂しいよ……。」まるで縋るように百鬼丸の血濡れた腹部の傷口に結芽の小さく冷たい掌が二つ、百鬼丸の手の甲に重ねられた。それは、意味の無い行為なのかもしれない。けれども、ここに存在していることを確かめようと触れていたいと少女は思った。

その様子を見ていた真希は、

「――結芽」と、意外の感に打たれたようにつぶやく。

これまで自身の「生命」と「死」についてのみ考えてきた少女の面影はなく、ただ他者のためだけに必死になれる燕結芽という少女の一面を垣間見た気がしたのだ。

ぽん、と不意に肩を軽く叩く感じがして振り向くと此花寿々花が柔らかい表情で真希に微笑みかける。

「生憎と、百鬼丸さんの生命力はおよそ常人のソレとは明らかにことなりますわ。ですから結芽もそこまで心配しなくても結構ですよ。それと、真希さん」

「ん?」

「結芽も、わたくし達の知っている〝刀使〟から徐々に変わっているのかもしれませんわね」

――ああ、そうか。

と、真希はその瞬間納得した。

これまで結芽の行動原理は良くも悪くもすべて自分本位の――子供っぽい独善的な生き方だった。それは、大人になる「時間」を持つことが許されなかった為である。

しかし、今の彼女は違う。少なくとも大人になるまでの時間が与えられたのだ。

 

 

 

寿々花の説明を聞いた百鬼丸は、

「ほら、ああやって高飛車お嬢様が言ってるんだから安心しろよ。それにほら、イテテ、手が汚れるぜ」

「なっ!」

百鬼丸に高飛車お嬢様とあだ名を付けられた寿々花は顔を真っ赤に怒鳴ろうとしたが、危うくの所で言葉を呑み込んだ。流石に場面くらいは弁えている、と平静を保つ。

そんな寿々花の様子を隣でみていた真希は思わず「ぷっ」と噴き出しそうになる。

キッ、と鋭い眼差しで寿々花がけん制すると、真希は「ゴホン」と咳払いをしてごまかした。

しかし、安心しろと語る言葉には一切耳を貸さず、結芽は震える。大きな瞳には涙が滲み始めていた。

「…………手なんて汚れてもいいよ。私の前から居なくならないで………」

かつて、孤独だった。

孤独は時間を増すごとに深く強く、自分自身を束縛する。

両親が愛したのは、「結芽」ではなくて〝最年少で刀使になった神童だった燕結芽〟だった。

それはまるで綺麗な宝石を愛でるように、慈しむように接していたのだ。

まだ何もしらず幼かった自分は、ただ親や大人、周囲の与える「愛情」を求めていた。それが、病室に移されてからも、変わらず誰かの「無償の愛情」を求め続けた。

 

 

〝誰も、私のこと要らなかったんだ…………。いい子にしてきても、意味なかったのかな?″

 

小さな病室で、朽ち行く肉体という牢獄に囚われながら日々を過ごした。

 

もっと、愛して欲しい。もっと、傍にいて孤独を埋めて欲しい。

ただ、誰かが傍に居るだけでよかった。

――それが叶わぬのならば、せめて憎まれてでも誰かの記憶に強烈な印象を焼き付けるべきだ。

 

 

『お前はよく頑張ったな……。』

これまでの自分の過ちを責めるわけでもなく、傲慢を諫めるでもなく、一言で心が満たされた。物理的に傍に居るだけではなく、たったその言葉だけで燕結芽という少女が救われた。

例え、百鬼丸が自らの目玉を抉りだして捧げなくとも、その一言を待っていた気がする。

 

人の優しさに、これまで触れてきた筈なのにそれに気が付けずにいた。

本当の無償の愛情とは、何なのだろうか?

百鬼丸の血液に手を濡らしながら結芽は考える。下唇を思い切り食いしばり、泣くことを我慢しながら考える。

「私、どうしたらいい……? どうしたら百鬼丸おにーさんの役に立てるのかな?」

「おれの為? あはは……やめとけ、やめとけ。うーん、でもそうだな。じゃあ約束してくれよ」

「うん、なんでもする……。」

百鬼丸は薄暗い中、結芽の目を真っすぐと捉えながら口を開く。

「まずは、友達を沢山つくろう。ごはんを食べて成長しよう。自分のやりたいことを沢山しよう。何も諦めなくていいから、とにかく挑戦しよう。そんで――――」

何を言うべきか迷って視線を宙に漂わせ、ああ、と思いついたように一人で勝手に納得する。

「そうやって、おれを心配できるよーになったんだから、もう怖くないだろ? 人にも優しくできるよな? んじゃ、完璧だ」

ニヘヘ、と笑いかける。

全てを聞き終わった結芽は瞬きをしながら、ありふれた文句を一々胸の中で反芻して、小さく言葉にして呟き、頷く。

「人に裏切られるのは怖いよな。孤独は寂しいよな。んでもさ、お前が一人じゃないって解るだろ? ほれ、そこの親衛隊の連中もいる。怖くないもんだぜ」

百鬼丸が目線を向けると、真希と寿々花は無言で強く肯定するように頷いた。――彼の言葉以上の意志を込めて、見返す。

 

「……でも、だって、いいのかなぁ」

小刻みに声帯が震える。

「ん? 何がだ?」

「これ以上、幸せな気持ちになっても本当にいいのかなぁ――――」

百鬼丸の腹部からゆっくり手を離すと結芽は細腕で、頬から伝う涙のあとを拭う。

「あははは、ばっかお前。そうだぞ! 〝よく頑張りました〟の人間にはご褒美があるんだぜ!」

うん、うん、うん…………と、結芽は黙って聞いていた。

少なくとも彼の話す態度も姿勢も、お節介で馬鹿馬鹿しく押し付けがましいかった。それが妙に心地よかった。

 

――――だが、百鬼丸はたった一つだけ彼女と約束をしなかった事があった。

 

彼女の傍にいる、という部分を百鬼丸は故意にはぐらかして答えた。

 

しゃがみ込み、年相応に泣き続ける少女の孤独を分かち合うことが百鬼丸には重要だった。きっと、この先の人生に己は居なくとも、進んでゆける。

……いつか、普通の人間に戻るその日まで。〝刀使〟という役割を終えるその日まで。

 

 

百鬼丸は目を細めて泣く少女の頭を撫でる事ができなかった。

右手は夥しい血液に濡れ、左腕は剥き出しの刃――――。

 

人を癒し、愛情を育む権利を彼はどこにも有していなかったのだ。

 

 

(ま、おれらしいよーな。)

肩でも竦めたい気分だった。

 

…………その時。

半ドーム状の奥から一筋の光が平行に貫かれた。

「!?」

思わず驚き、百鬼丸が目をその方角にやると人の足音が聞こえる。

 

 

 




今更ですけど、ここまで読んでくれてる人ありがとうございます(笑
展開を早くしていくと思います。


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152話

 地上には糠雨が降っていた。

 晩秋から初冬にかけての気象の変化が、重く垂れこめた雲層を通じてわかる。吹きつける風も次第に冷たく、本格的な冬季の訪れを意識させた。

  

 「はぁ……はぁ……ッ、」

 ひとりの若い男が、右腕の〝あった〟部分を抑えながら苦悶の呻き声を噛み殺している。脂汗に滲んだ顔面からは、激しい憎悪と、「ある筈のものが失われた」という現実に強く戸惑った複雑な感情だった。

 切断され、輪切りになった傷口は骨の部分まで綺麗に切り取られ、腕肉の内側の美しいピンク色の繊維質だけが露出していた。それを、左手で握る。

 真夜中の高架橋の下へ潜り込むように、フラフラとした覚束ない足取りで体を丸めながら柱へと背中から寄りかかる。

 雨。

 まるで、カッターの刃先で傷つけられたような線の細い雨粒が斜めに降り始めていた。無数の白い流痕を横目で眺めながら、男は口端を苦痛で歪め、ゆっくりと背中を柱に擦りながら腰を落とす。

 

 (この肉体は……人間の混ざりものか……。)

 本来の肉体とは異なり、一旦攻撃を受ければ、人というのは斯様にも脆いのか。

 男……ジャグラーは乱れた呼吸を必死で整えるように上を仰ぎ見て、乱暴に口を開いて空気を貪る。

 ゼェ、ぜぇ、…………。

 と、犬の乾いた呼吸のような音が己の喉から聞こえた。

 (これが、人間……か)

 自嘲気味に頬を緩め首を振る。

 

 この都会でも、不思議な静けさというものがある。それが丁度今だった。上を通過している筈の車両が通過する音すらない。折しも現在、東京は厳戒態勢に入っている。

 東京が厳戒態勢に入ったのは、戦前の二二六事件以来――――。

 検問が交通の各所で実施されている為、物流はもとより、市民の生活にも大きな影響を与えている――だが、それはジャグラーの知ったことではない。

 侘しく点る街灯の光がある以外は、人も街も眠りの中にあるようだった。

 

 トン、トン、トン。

 靴を走らせる音が耳に届く。

 敵、だろうか? ジャグラーは一瞬身構えたが、すぐに己の現状を思い至り無駄な抵抗は止めた。

 (ここで終わるなら……。)

 あるいは、それも良いだろう。彼は諦観に心を支配されていた。

 先ほどまで走って近寄る靴音が止まった。

 ジャグラーはゆっくりと、虚ろげな視線を持ち上げて、相手を見た。

 

 

 『はぁ、――――っ、はぁ…………どうしたの、その傷?』

 寒さに支配された気温にも関わらず、声をかけた人物は汗を滲ませていた。

 

 「安桜美炎……か。いったい何の用だ?」ぐっ、と背中を更に丸める。

 普段の不適な笑みを浮かべようと努力したが、激痛のために余裕が無い。

 

 美濃関の刀使、安桜美炎が彼の前に佇んでいた。

 「何の用じゃないよ! 勝手にどこかに行っちゃうし、探してる途中で大きな地震もあったし! ……ううん、今はそれどころじゃないよ! 待って、今包帯出すから!」

 革製のウエストポーチから包帯を取り出し、小走りに駆け寄って膝を曲げ、不器用な手つきながらも、ジャグラーの止めどなく溢れる右腕部に触れようとして――――

 

 「オレに構うなッッッ!!」

 鋭い眼差しで美炎を威嚇する。触れようとした指先を払いのけ、大きく肩で呼吸をする。

 一拍、その激しい拒絶に怯んだものの、すぐに、

 「構うなって……そんなことできるワケないでしょ!?」

 「うるさい、黙れッ!!」

 「…………、病院にすぐ連絡しないと」

 携帯端末をスカートから取り出そうとして、ジャグラーが美炎の手首を片手で握る。

 鉄分の濃密に漂わせた匂いが鼻を打つ。粘着質な液体の感触が美炎の手首を満たす。

 「どうして……?」

 困惑しながらも、彼が人を拒む理由が知りたくなった。

 「――――――。」

 沈黙を守ったまま、ジャグラーは美炎を睨みながら小さく「行け。オレの目の前から消え失せろ」と囁いた。

 脂汗に湿った前髪の下から懇願にも似た威嚇の目線に、美炎は確信した。

 (この人、やっぱり悪い人にはみえない)

 そう思いながら美炎はすくっ、と立ち上がった。

 「分かった」

 浅く頷いた。ジャグラーが掴んでいた手が弱まる。

 踵を返しながら美炎は肩越しに、

 「他の誰か助けを呼んでくるね」と言い残して走り出そうとした。

 

 「なっ!?」

 ひどい驚愕と共に、彼は再び手首を握り直す。

 (この女は本物の馬鹿なのか……?)

 胡乱な眼差しで改めて美炎を見上げる。

 にこっ、と美炎は明るい顔をむけて微笑みかけた。

 そこで初めて彼女と彼の視線が出会った。

 「――――――。」

 ジャグラーは既に二の句が継げぬようになってしまった。その様子を美炎は微かに笑いながら、

 「いやだったら、せめて包帯くらいは巻かせてよ」と言った。

 

 

 

◇◇◇◇

 

「オレも落ちぶれたものだ…………お前ごときに手当されるとはな」

先ほどより穏やかになった口調で、ジャグラーは横目で美炎をみる。

不器用な手つきで「あれ? あれ?」と悪戦苦闘しながらも包帯を巻きつける美炎へ向けていった。

「えっ、ご、ごめんなさい! 何か言った?」

手元に集中していたらしく、彼の言葉は届いていなかった。

ふっ、と軽く笑って首を振った。「いいや、大したことじゃない」

痛みも大分和らいできたのは、恐らく己自身の本来有する《異能》の力が働き始めたのだろう。それが実感できた。

「……ねぇ、ジャグラーさん。ひとつ聞いてもいいかな?」

少女が、硬い口調で言った。

「ああ、なんだ?」

「ジャグラーさんって何者なの? 荒魂たちとも全然ちがう雰囲気だから」

その質問に目を丸くしたジャグラーが、不意にくっくっくっ、と忍び笑いを漏らし始めた。

 「ど、どうして笑うの?」

 「いいや、そうか…………そうだな。オレは一体なんだろうな? …………ただ、オレの方が〝ヤツ〟よりも優れていた。そう、優れていたんだ……。」

 「……?」

 

 ―――――。

 ―――――――――。

 ――――。

 

  鼓膜を突き破るような金属を擦り合わせた高音が聾する。

  思わず、美炎は両耳を塞ぐ。

  細めた目で音の根源へと視線をやると、小さな箱のような輪郭が地面に転がっている。

  (あれ、なんだろう?)

  と、一瞬注目を箱へと奪われていたために、

  「えっ!?」

 美炎は首を締め上げられ、容赦なく地面へと投げられた。

 ビタン! という衝撃と共に意識が失いかけた。

 「痛っ、」

 頭がクラクラする。音響兵器がようやく停止したのだろうか。しかし、鼓膜はキーン、という高音が未だ響いて吐き気がする。

 それでも何とか冷静さを取り戻した美炎が目前を見る。

 

 ――――。

 

 視界の前には、真紅の残光を曳く鮮やかな色彩が映る。

 「S装備……」

 見慣れた筈の装備だが、色合いが全く違う。禍々しい真紅の色を湛えた防具を身に纏うのは、綾小路の制服だった。

 

『あれあれ、もう起き上がっちゃいましたかー。やっぱり安桜さんはタフなんですね! うーん、あ、でも集中力の不足は治ってないんですね!』

 

 幼い無邪気な声で挑発したのは紛れもなく自分(美炎)と同じ刀使だ。

 そう、直感した。

 「だれ?」

 喉をさすりつつ美炎は腰の《加州清光》の柄へと手をかける。

 その挙動を丹念に眺めながら、不気味なS装備に身を包んだ幼い刀使が口を開く。

 「わたし、綾小路の一年。内里歩って言います! 衛藤さんと学内の試合で戦った安桜さんですよね? あー嬉しいな。衛藤さんも倒して、それで安桜さんも倒せて。ふふっ、わたしドンドン強くなってますよね?」

 

 赤いバイザーの下には光の失われた瞳で、まるで子犬がじゃれつくような愛嬌のある風に振る舞う。その不釣り合いな態度に、美炎は違和感を覚えた。

 

 「なんなの……?」

 「なに? って、どういう意味ですか? さっきわたしたち綾小路の刀使で自衛隊の市ヶ谷基地を襲ったんですよ、そしたら衛藤さんも偶然いて。それで折角だから手合わせして貰ったんですよ! そしたらわたし、衛藤さんを倒したんですよ!? あの、衛藤可奈美に初めて勝てたんです!」

 得意げに語る歩の様子が、どこか精神の欠落した人形のように見えた。

 精神のどこかが崩れたとき人は息も切らさず語り続ける。壊れたカセットテープのように。ひたすらにしゃべり続けていた。

 

 ――――だが。

 

 「あははははははは、だからなんだ」

 男の、腹の底から哄笑が溢れるようなそんな声が高架橋に反響する。

 歩は不愉快な顔つきで男の方へと体の角度を変えた。

 ぎろりっ、と睨みながら、

 「何が面白いんですか?」

 手にした御刀の切っ先をジャグラーの喉元へと突き付けながら言う。およそ少女に似合わぬ能面のように喜怒哀楽の脱色された顔で、ジャグラーを見下す。

 

 しかし、そんな剣呑な雰囲気すら最早ジャグラーは頓着せずに口を開き語り始める。

 



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153話

……闇に慣れた目には眩い光の先には、老人と若い男の姿が並んで歩み寄る。

 無論、それが松崎老人とフリー記者の柴崎だということは百鬼丸自身すぐに理解できた。

 乾いた唇をゆっくりと微笑に歪め、少年は口腔を開き淀んだ闇の空気を吸い込む。

 「生きているのか……?」

 戸惑い気味の口調で老人は地面に転がる少年を照らしあげた。粉っぽい懐中電灯の光が克明に肉体的消耗の著しい少年を「光」と「闇」の二つを克明に分ける。

 長い黒髪の間から覗く瞳の水晶体に輝きが加えられ、鋭い光が反射していた。

 ――ええ、なんとか。

 搾り上げるように少年は呟く。

 腹部は柘榴が皮を破ったように内臓が微かに露出し、少年はそれを辛うじて指で押し込んでいた。こんな一連の〝おぞましい〟動作と映像が二人に強烈な印象を与える。

 しばらく言葉を失い、彼の惨状を眺めていたふたりに、

 『おじさんたち、だれ――?』

 強い敵意に満ちた口調で誰何する声がした。――――その声は、場違いな程に幼く甘く柔らかいものだった。

 ズリッ、と靴底の擦れる音がした。

 人の気配の方へ光を向けると、撫子色の腰元まで伸ばした髪の少女が細い手首で目元をぐしぐし拭いながら、刀の柄をガチャ、と金属を響かせ握ろうとした。

 明らかに臨戦対戦を整える風であった。

 「――――この人たちはおれの知り合い、だ」少年が穏やかに言った。

 それから左腕の刃を少女の前に翳して剥き出しの敵意を静かに押しとどめる。

 結芽は一瞬、躊躇うように地面の少年に視線を向けたが、彼は苦痛を堪えるように笑みを浮かべるだけだった。

 悲痛そうな表情で少年を一瞥しながらも、こくん、と少女は幼い子供のように従順だった。氷を溶かすように敵意を消した。

 

 

 「キミはもしかして、元折神家親衛隊の燕結芽…………かい?」

 柴崎は驚きながら目前の少女が何者であるか推量していった。

 「おじさん、誰?」

 「お、俺はフリーの記者だよ。柴崎岳弘。百鬼丸くんの知り合いだよ。それでこっちの老人が松崎さん」

 「誰が老人だ」

 「見た通りですよ、老人じゃないですか?」

 「あ?」

 「なんで急に耳が悪いフリするんですか?」

 「ふん、若造ごときが…………」

 「無茶苦茶だなこの人」

 岳弘は首を振りながら、バックパックに収められている医療品のキットを取り出そうとした。

 「…………柴崎さん、大丈夫ですよ。あと一、二時間すれば治りますから」

 「いや、でもそんな大けがを見過ごすわけには、」

 「へへへ、忘れたんですか。おれ結構しぶといんですよ」

 「ダメだ。すぐに治療しよう。すぐに病院を――――そうだ、燕さんも説得を、」

 水を向けられた結芽は、しかし、小さく否定の首を振った。

 「……どうして」と、岳弘は呆然としながら百鬼丸の傷口に光りを当てた。

 真横に裂けた傷口はゆっくりと、ナメクジが這いまわるような速度で皮膚同士が接着を始めていた。映像の巻き戻し映像を眺めている気分だった。

 岳弘の凍り付いたような表情を見上げながら、少年は苦笑いを漏らす。

 「ね? 大丈夫でしょう?」

 「あ、ああ」

 同意するより他に方法がなかった。彼は明らかに常人とは異なる、それは頭でも実際の行動でも見てきたつもりだった。だが、実際に瀕死の状態から蘇生しつつある今、彼が本当に規格外な存在なのだと了解させてくれた。

 「あり得ないですよね――――松崎さん、あれ、松崎さん?」

 岳弘は返事も気配も感じられない背後を振り返り、老人がその場から居なくなっている事に気が付いた。

 

 肉眼を必死に動かして老人の姿を捜した。

 すぐに、懐中電灯の明かりが右斜めの方角から、ゆっくり移動しているのに気が付き、安堵の溜息と共に疑念を感じた。

 「なにしてるんですか? こんな所でボケても仕方ないじゃ――――」

 若い記者は、言いかけた言葉をすぐに呑み込んだ。

 松崎老人と懐中電灯の光が進む先には、石像のように両膝を屈した巨大な〝何か〟が存在していた。

 (あれは……?)

 仄暗い闇の皮を更に捲るように、岳弘も歩き出した。

 目測で約七メートルの距離からようやく肉眼で、〝それ〟が人間の形態をしているのだと知った。

 堆く積まれた瓦礫の上、ただ黙然と両膝を立て俯く「巨像」――――。

 微かに天空から糸のように一筋の光が洩れ、虚像の額から左肩を射抜くように照らしていた。

 松崎老人は、それが誰であるのかを知っていた。

 「少佐、どの」

 口元が震えていた。

 乾涸びたと思われていた涙腺は涙をつくり、目端から透明な流れをつくった。

 「お逢いできて光栄で〝あります〟」

 かつて馴染んだ言葉で老人が言った。

 巨像の顎が、動いた。

 『虎、か…………。』

 松崎老人の方向へと頭を動かし白目だけの両目で、視線を与える。

 「はい、虎です」

 『そうか、しかし、前に見たときよりも随分と〝年をとった〟んだな』

 目前の現実に深く驚いた様子だった。

 その生真面目な口調に、松崎老人は思わず口元を綻ばせた。

 「ええ……何しろ七〇余年の歳月が経ちました。虎もこの通り、すっかり見事な老人になりました。それもこれも、貴方が、いえ、あなた方が守って下さった世界に生きた証拠です」

 巨像が、そこで初めて硬かった表情に微笑の色彩を加えた。

 「そうか…………小生の、この人生は誰かを守っていたのか」

 「はい。少佐どの、貴方に折神家〝ご当主″様からの『密封命令』がございます」

 「ご当主様……?」

 「貴方のご当主様はたった一人ございましょう?」

 ――――ああ、そうか。

 巨像は、松崎老人の一言に納得した。

 松崎老人は何重にも和紙で巻いた紙の束を解き、その中から経年で色褪せた紅のシーリングスタンプで密封された封筒を取り出す。

 

 ……いわゆる密封命令である。

 

 軍事上の伝達をする際、機密を高めるために密封書として保管される。指定された日時をあらかじめ選ばれた人間が封書を開く。ごく一般的な機密保持の方法であった。

 

 「ご当主様から、預けられたものでございます」

 「…………。」

 無言になった巨像のような人影は、薄暗い闇の中で息をひそめている。この暗闇は自らを戒める牢獄であり、生命を終える棺のようにもみえた。

 松崎老人は、緊張で震える指先を制しつつ密封を切った。

 

 『――――さんに伝えて下さい』

 

 若い女性の声が耳の奥で甦った。

 『この密封命令は、こんど実篤様に出会った時にお渡しする予定だったのですが――それが叶わないようなので、虎之助くんに頼んでも宜しいでしょうか?』

 フラッシュバックする記憶の断片が、鮮明な映像として瞼の裏に思い出される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 1

 「急に呼び出して申し訳ございません」

 ご当主様は以前のように柔らかく優しい口調でいった。

 入営直後、厳しい訓練を受けたあとに配属されたのが本土決戦用の防衛部隊だった。配属される移動途中、ぼくだけが特別に呼び出された。

 ――だけどこの人が居るという事で大体の事情は察することができた。

 ぼくは、日盛りの陽光を浴びながら直立不動で命令を待った。しかし、〝元″ご当主様は口元を綻ばせて小さく首を横に振った。

 「命令はしません。ただ――友人としてお願いをします。どうか聞いて下さい」

 兵士の一人ではなく個人として話がしたい……と、小さな声で付け加えた。

 

 周囲は軍用トラックが絶え間なく往来していた。

 東京の八王子方面から多摩丘陵に沿って掘削作業が続けられた。最終的な巨大地下坑道の計画が佳境に迫ろうとしていた。

 あとは、荒魂たちを制圧するだけで計画は終わる。

 本土決戦用に整えられた地下により、敵軍を破る。偉い人たちはそう考えているらしい。

 荒魂を倒すことが出来るのは〝刀使″だけ――――。

 しかし、今の時代刀使もまた軍属になっていた。以前のように荒魂だけを倒すことが目的ではなくなった。貴重な戦力になっていた。

 だから地下に籠る荒魂の掃討作戦にも刀使は大量に投入される予定は無い。

 ずっとその理由が不思議だった。でも、これで理由がわかった。

 

 

 …………だって、ぼくの目前にいる〝人″が荒魂を全部片付けるから。

 自分の直感がどうかしていると思ったけど、これまで刀使を投入せずに地下空間を確保し続けてきた説明と理由が「この人」以外に思いつかない。

 「――――? どうかされました?」

 〝元″ご当主様はフードの下で小首を傾げた。

 「い、いえ。では……お言葉に甘えて」

 直立不動を止めて、わずかに肩の力を抜いた。

 

 「ふふっ、良かった。出会ったあの時から随分と成長しましたね」

 ご当主様は、出会った頃のような声音と仕草でぼくの頭を撫でた。その手は柔らかく懐かしかった。姉の居ない今、懐かしさで泣きたくなった。

 そのとき至近距離からチラ、とフードの奥で光る瞳が見えた。

 橙色の光は燃えるように此方を窺っていた。

 「あっ」と、ご当主様は目を見られたことに気付き、すぐに身を引いた。

 しかしその弾みで頭を覆っていたフードが落ちる。顔の半分、額の辺りに生えた一角が反り返っている。髪も肌も純白の新雪のようだった…………。その瞬間、頭の中にあった疑問も全て氷解した。その神々しさには息を呑むほかない。

 この世の存在とは思えない、それこそ神様みたいだった。

 

 しかし、ご当主様は姿を見られたことを後悔するように下唇を噛み、恥を忍んですぐにフードを被った。

 「…………このあと、実篤様に会う予定になっています。ですが、もう人ではない私では実篤様に私の心の内をお話しすることは出来ません。せめて、これだけでも渡していただけますか?」

 ご当主様はゆっくりと衣服の内から取り出した封書を手渡した。

 ぼくはそれを精一杯丁寧に受け取った。

 「この戦いが終わって――――もし、平穏な日が訪れたらそれを虎之助くんが開いて下さい。あの人には秘密で。この命令書は私的なものです――――。でも、」

 と、言いかけたところで話を切った。

 ただ、無言でぼくを正面から見据える。

 『お願いします。――――私の最後のわがままを聞いて下さい』

 燃えるような目は、初めてぼくが見た優しい女性の時のままだった。

 

 「分かりました。確かに承りました」

 封書を額の辺りで掲げ、誠意を示すように頷く。

 

 「良かった」と、ご当主様は安堵を漏らす。

 それから、寂しそうな顔をした。

 「ごめんなさい。貴方たち姉弟をあの時、助けてあげられなくて。地下牢の存在を知っていながら、貴方たちに辛い思いばかりをさせてしまって…………こうして身勝手にお願いをして…………」

 ご当主様は、心から自責の念を込めた言葉で謝罪の言葉を吐き出した。

 「謝らないでください。恨んではいません。寧ろご当主様には感謝しています。少なくともご当主様を恨む理由はありません」

 「……そう、ですか」

 腑に落ちないような様子だった。

 

 ぼくは、心の底からこの人を恨んではいなかった。

 だけどこの人を説得するだけの力を、ぼくは持っていなかった――――。

 

 

 

 2

 爆撃が激しくなっている。

 地下坑道の壁面も盛大な軋みをたて、天井からは砂埃が零れた。

 頻繁に繰り返される空襲によって首都は壊滅的な被害を受けた。それでも、ぼくたちは陽の光の届かない地下で息を殺して耐えている。

 「まるでモグラみたいだな……。」と、誰かが言った気がする。確かにその通りだと思った。

 ぼくたちは、ただ死を待っていた。

 それでもいいと思っていた。

 ここ数日、ぼくらはマトモに食事すらできず飢渇で苦しんでいた。補給ルートを全て破壊され、敵に奪われたのだと聞いた。袋のネズミってやつだ。

 

 ――――これから宮城(皇居)方面まで進む。

 

 そんな命令がされた時、いよいよ始まったと思った。

 〝死の行進″

 不吉な単語が脳裏を過った。

 しかし、カンテラで周りを照らすと他の連中も同じような事を考えた顔つきだった。

 死ぬことは怖くなかった。それでも、ずっと続く暗闇の中で絶えず襲い掛かる「不安」と「言いようもない恐怖」に精神がおかしくなっている〝だけ″だった。

 

 『水を飲め』

 と、ぼくの方を分厚い掌が叩いた。

 振り返るとカンテラの光に照らされた大きな影が立ってい、思わず驚きが出そうになった。

 よく見ると、御門少佐だった。

 普段通りの厳しい顔つきで自らの水筒を差し出し、水を他の連中にも分け与えていた。

 「少佐どの、」

 敬礼をとりながら、ぼくは目の前の人に機械的な行動をとっていた。

 御門少佐は首を振って敬礼を止めるように示した。ぼくは、戸惑いながらも敬礼を解いて差し出された水筒を手にした。

 水の満ちた音を聞いただけで、渇いた唇が潤いを求めているのに気が付いた。

 気が付くと口腔一杯に水を含んでいた。

 (うまい…………。)

 泣きたくなるほどに、水がうまかった。

 袖で口を拭い、一礼しながら水筒を返した。

 少佐は水筒を受け取りながら初めて口元を綻ばせた。

 「どうだ、うまかったか? 〝トラ″」

 その呼び名で言われた途端、体に電流が走ったような気がした。久しく呼ばれなくなったものだった。

 「はっ!」

 敬礼をとりながら、どう反応していいのか困ってしまった。

 「トラ、お前は昔、軍人になって小官の部下になりたいと言っていたな」

 「はっ!」

 「どうだ?」

 「今は幸せであります。少佐どのの部下として――――」

 御門少佐は苦笑いして、大きな手でぼくの頭を撫でる。

 「いや、もうすぐ戦争は終わる。――が、この部隊は今から地獄に行く予定だ」

 突然、軍事機密を漏らした少佐の真意が図りかねた。ぼくは、思わず頭を上げた。

 「……小官も本来であれば、こんな話なぞ漏らさない。しかし、これ以上の犠牲は無駄だ」

 「…………?」

 「トラ。お前たちと他の連中は他の道を通って逃げろ」

 「できません。一度、軍人となったからには、少佐どのに従い……」

 「トラ。もういい。この時代に生まれたことは変えられない、人として運命を変えることは難しいかもしれない。それでも〝進む″ことはできるんだ。いいか、これは〝命令″だ。小官と他の志願兵のみで荒魂の巣にゆく。これが部隊としての方針だ」

 ――――それでは、荒魂の餌食になるようなものだ!

 と、内心で思った。否、それが上層部の命令の意図だろう。地上の敵勢力を排除するために、荒魂の巣へ刺激を行い、地上敵勢力を一掃する計画。その為の人柱。

 「お願いです、少佐どの、」

 「――――除隊だ」

 「えっ?」

 御門少佐は静かに言った。

 「トラ。お前は除隊だ。大人しく他の地上に向かう奴らと一緒に逃げろ」

 厳しい表情で再び告げた。

 「お願いです、どうか」

 今まで、己は何のために戦ったのか。

 ふと、そんな気持ちでいっぱいになった。何のために苦しい思いをしてきたのか。

 茫然とした様子で少佐の言葉を反芻していた。――坊主頭をもう一度撫でる感覚があった。

 「トラ、もういい。お前は幼い時から苦労をしてきたんだ。これから困難な時代であっても、お前たちがつくることができる。大人として責任をとるだけだ」

 「……どうして、なんで――――」

 膝から崩れ落ちた。この地下深い坑道の中で慟哭したい気になった。

 「お前、もう赤痢で栄養も足りてない。マトモに歩くことができんだろう」

 「できます! 乾坤一擲の力を振り絞ることは可能であります!」

 「最早、お前は戦力として使えない」

 「…………それでも、」と、反論を試みようとしたが二の句が継げなかった。

 言われた通り、足は子供の腕のように痩せ細っていた。それは自分以外の兵士でも何人もいた。

 悲嘆で俯き加減だったぼくに、

 「なに、死ぬワケじゃない。もしまた会うことが出来たら、文句をいくらでもきこう」優しく励ました。

 「少佐どの」

 「……どうした?」

 「折神家から密封命令を承っております」ぼくは、縺れる舌で言葉を紡ぐ。

 カンテラの光の角度で少佐の表情が見えなくなっていた。無言で踵を返し、そのまま歩き出した。

 「――――今度合流したときにでも、それを開いてくれ」

 「少佐、御考え直し下さい」

 足音は次第に遠ざかり始めていた。追うことは十分に可能だった。――だが、少佐の背中が無意識に威圧を放ち続けていた。

 

 『トラ、今度お前が大人になったら命令の中身でも教えてくれ』

 真っ暗な闇の中へ、その姿を沈ませていった。

 

 3

 

 

 松崎老人は当時の記憶が昨日のことのように、思い出していた。

 「少佐どの、〝大人″になって戻って参りました。……しかし、少々年老いてしまいましたが」

 『確かに、大人になったなァ』

 「そのようです」

 カカカ、と低く笑いながら松崎老人は軽く首を左右に振った。

 「少佐殿。いいえ、実篤様。――僭越ながら封書を開封させて頂きます」

 『――――ああ。頼む』

 老人の震える指先が甲高い音を立て、封蝋を破る。

 三枚に折られた茶色に変色した紙を取り出し、老人は目を細めて距離をとって文字を識別しようとした。

 

 

 

 ◇

 紅蓮。

 熱波の温度が頬を撫でゆく――――。

 カッ、と一瞬で火柱が立つ。

 

燃え盛る溶鉱炉の橙色が視界を一杯に塗り潰す。発せられる蒸気は近づくだけでも呼吸が苦しくなる程の温度だった。巨大な円形の中には泡の弾ける音が粘つき弾ける。

ただ、両手を合わせて「祈る」ように階段を一歩ずつ上がってゆく。

周囲には幾人かの人が居たが、しかし彼らの顔は一切見えない。深い闇に沈んだ「顔」たちは一個の人間ではなく、たんたる組織の歯車として、役割を果たしているに過ぎない…………。なぜか、そう思えた。

 呼吸を整え、穏やかな気持ちで最後の段にまで来た。

 

 ―――――ここから、投身する。

 

 その瞬間、気味の悪い浮遊感が全身を襲う。

 

 ◇

 

(なんだ、この記憶は――――。)

 視界がすぐに、現実の方に戻った。

 しかし先程、百鬼丸の頭中には、見たことのない風景と人物たちが断片的に過る。まるで、誰かの人生を辿るような感覚。懐かしい、胸の奥がザワつく奇妙な光景。

 「――――ッ、」

 熱い。左腕の血管全てが燃えるように熱いのだ。そして、視界の端に強い光源が感じられた。

その眩い光に百鬼丸は思わず視線を向けると、左腕刃の表面に刻まれた細い文字が輝きを放つ。渇いた喉に生唾をゴクリと飲み下し、奇妙な胸騒ぎと早まる鼓動を鎮めるように、耳を澄ませた。

 



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154話

 …………手ひどい敗北を被った。

 国防の中枢を担う市ヶ谷基地を「維新派」を標榜(ひょうぼう)する刀使の部隊に襲撃された。

 この被害は報道発表されている以上のモノだった。

 世間には『市ヶ谷基地を襲撃した謎の荒魂群』という見出しで発表された。しかし、つい数か月前の『鎌倉特別危険廃棄物漏出問題』で人々はメディアや行政の報じる内容を信用しなかった。

 世間の目は概ね正しかった。

 まず、宗像三女神のひと柱――――タキリヒメが奪われた。本来であればパワーバランスを保つ為に三柱の神々を分散させる方針だった。…………ところが。

 

 

 「現状はこんな有様かよ」

 ちっ、と短く舌打ちをしたのは小学生ほどの背丈をした少女だった。

 薄桃色の髪をツインテールに結んだ少女、益子薫は広場に続く階段の途中で腰を下ろしてボヤく。

 目前には、多くの照明に当てられた刀使や自衛隊員たちの倒れる姿が散見された。幸いにして死者は――――ゼロではないにしろ、奇跡的に少数で抑えられた。

 ――――だが。

 「まるで戦争じゃねーか。こんな身内同士でなにしてんだよッ」

 と、一言吐き捨てた。

 この(日本)には危機が迫っている。それは以前から刀使が隠世との不思議な同調による媒介を通して、感じられる現象から多くの刀使が知るものだった。

 『鎌倉特別危険廃棄物漏出問題』は序曲に過ぎない。

 崩壊の狂騒曲が列島を覆いつつある、と薫は予感していた。しかし、一介の刀使である自身()にはどうしようも出来ない。

(なんでオレは特別じゃねーんだ!!)

 小さな掌を開いては、口惜しさで硬く拳を握る。

 

 『薫っ、こんな所にいたんデスか』

 背後から声がした。

 「エレンか。どーした?」普段通りの怠惰な調子で返事をする。

 その答えに、エレンと呼ばれた少女はムッとした頬を膨らませる。

 「〝どーした〟じゃなくて怪我の手当の途中じゃないデスか!」

 基地の建物から洩れる窓明かりに照らされた金髪が豪華に揺れ、華やかな印象を与えた。

 「……オレは別に大したことないからいい」

 「そーゆー問題じゃありませんヨ!」

 ぷりぷりと怒りながらも薫の隣に近づき階段に座った。

 不意に、冬を告げる冷風が妙に熱っぽい頬を撫でゆく。

 

 

 膝を支えに頬杖をついた薫は、静かに自衛隊基地の広場で行われる救援活動と慌ただしい人々の姿を眺めている。

 「…………オレたちの相手はあくまで人間に害を与える荒魂のはずだ」

 「薫?」心配そうな表情で、夜闇の中つぶやく親友に声をかけた。

 「いや、大丈夫だ。オレは別にそこまでショックじゃない。アイツ(可奈美)は色々と思う所があるとおもうけどな」一旦言葉を区切って、再び続ける。

 「仮にこの先、タギツヒメとかの問題を乗り越えたとしても、このまま人間が平和な世界を目指せるとは思えねーんだ。もちろん、オレたちは刀使で〝守る〟こと〝祓う〟ことが仕事だ。それに今更文句はない――けどな、エレン。荒魂といい関係になりたい人間が増えるとも思えないんだ」

 そう言いながら、薫は市ヶ谷基地の中央建物の入り口で巨体を横たえた一個の荒魂……………ねねに視線を注ぐ。

 「人間同士でアホらしい内部闘争をして、挙句が刀使を駒みたいにして戦争ごっこか!? ワケがわからねーよ! 確かにオレたちは公務員だ。上からの命令なら黙って従う。……けどな、だけど一個人として文句をいう権利までは奪われてないはずだぞ。――――なんでこんなことになっちまったんだよっ」

 どこにも逃げ場のないような、悔しさの滲む声で歯噛みをする。

 「薫…………」

 「な、エレン。お前はどう思う?」

 そういいながら、襲撃側である綾小路の制服を着た刀使の少女が担架に乗せられ、運ばれる様子を見ていた。敵とはいえ、彼女たちもまた被害者である。

 「ワタシは薫とねねの関係性が大好きデス。でも、薫がこうやって感情を吐露するのも久々に見まシタ」

「…………悪い、自分でも頭の整理ができてねーんだ」

「違いマスヨ。誰よりも荒魂との関係を考えてる薫だかラ、今日のコトはきっと色々とショックだった――――」

「それは買い被りすぎだ。オレはただぐーたらしたいだけなんだ」

 エレンの言葉を遮るように否定した。

「だけど、平和じゃないとおちおち、ぐーたらも出来ないだろ?」

 そこで、ようやくエレンの方に顔を向けた。

ふっ、と安堵の息を漏らしてエレンは頷く。普段の「眠そう」な顔つきの益子薫に戻ってきたと思えた。

 「そうデスよ薫。その調子でバンバン仕事をしていきマショー!」

 「ふざけんなっ!! 誰が好き好んで仕事なんてするか! オレは一生ぐーたらするって決めたんだぞ!」

 「あれ? でもさっきと言ってること違いマセンか?」

 「うぐっ、それはあくまで言葉の綾だ」

 「仕事、しないんデスか?」

 「当たり前だ、お前もあの〝おばさん〟みたいな事をいうんじゃない」

 「――おばさん?」

 エレンはいたずらっ子のような顔つきで、携帯端末を薫の前に出した。画面には薫の最も恐れる人物の名前が表示されていた。

 「おい、エレン。まさか通話状態になってないよな?」

 頬に冷や汗を流しながら訊ねた。

 エレンは肩を竦めて溜息を零す。

 「ちょうど、今さっき電話が掛かってきたんデスよ」

 「は、は、は……え、エレンも面白いこと言うようになったなー」

 『おい、薫。誰がなんだって?』

 底冷えするような女性の声が電話口から聞こえた。

 ピン、と背筋を伸ばした薫はガタガタと震えながらスクッ、と階段から立ち上がり脱走を図ろうとした。

 それを電話越しで察した真庭紗南は、「おい、薫。逃げられると思うなよ?」と脅した。

 「な、なんの冗談だ(棒読み)」

 『――逃げれないよう頼むぞ』

 「ハイ、紗南センセー!!」とびっきりの明るく弾けた声でエレンは長い両腕を伸ばして薫を羽交い絞めにした。

 「あがががが、離せーーー。オレはこれから南の島に逃げるんだーー!!」

 「薫、良かったデスね。これから紗南センセーに会えマスよ?」

 「今一番会いたくない人間だぞ!? 横暴だ、こんな横暴許されるはずないぞーーっ」

 ジタバタする薫を抱きかかえながらエレンは、普段通りのやり取りができることに小さな安らぎを感じていた。

 

 

 



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155話

 『明月記』――――とは、平安期の公家・歌人藤原定家が残した記録である。その彼が記述したものには天体に関するものが含まれている。

 中でも、超新星の記録が目をひく。

――――寛弘三年四月二日(1006年5月1日)、西の空に超新星が現れた。

 これはおおかみ座領域に現れた、記録上最も明るい星だったと考えられている。

 どれ程の明かりかと言えば、深夜であっても地上に影が落ちるほどであったという。

 混乱期や変革期には天文の変化、吉凶を予知すると言われてきた。どうやら、人類は広大な天体間の巨大な変化の一部を矮小に活動しているらしい、とようやく気付くのだ。

 

 

 

 

 ◇

 

 この年(2018年)、火星が接近し11月には月が火星と土星に重なり合おうかとしていた。

 まだ、人々は知らない。水面下で起こっている〝世界の終わり〟を。ただ日々を過ごす人間には危機を知る手立ては無い。

 しかし、吉凶の報は古来より一目で解る。

 禍々しい真紅の尾を曳いた流星が夜空に輝いた。日本各地の観測地点はもより、民間のニュースはTVやネットなどで騒がれた。

 午後11時45分の空を約15秒ほど紅に染めた光は、やがて東の方角へと消え尽きた。

 

 

 

 ◇

 「ゲホッ、ゲホッ、…………なんだ、これッ」

 強烈な頭痛と共に吐き気が襲う。おれ(百鬼丸)は顔に浮かぶ無数の脂汗を拭い、奥歯を噛みしめる。

 生唾を呑み込み、首を小さく振って立ち上がる。

 朦朧とする視界の先には手紙を開き、音読する老人――――松崎虎之助と、彼の目前に膝で立つ巨像…………かつて、人であった頃「御門実篤」と名乗った男が言葉に耳を傾けていた。

 

 生憎、どんな内容かはおれには聞こえない。

 だけど、大体どんな内容かは察しがついている。

 ――――そして生々しい記憶がおれの脳内を一瞬だけ支配した理由も。

 ちら、とおれは左腕の刃に目を向ける。

 

 

 パァン、と乾いた音が広いドーム状の空間に反響する。

 おれは足元に粉っぽく降りかかる破片が弾けるのを感じた。地面を一瞥すると、穴が小さく穿たれていた。……弾痕だ。

 

 「「!?」」

 手紙を読んでいた老人は、言葉を止め銃声の方角へと体をやった。巨像……もとい、御門実篤もまた同様に首だけを動かし、異変の方角を覗った。

 

 

 ――――――――。

――――。

―――――――。

 

 「…………どういうつもり、って聞くのは今更ですかね?」

 おれは、老人たちから10メートル以上離れた位置に居る人物に語り掛ける。

 その人影は肩を竦めて乾いた笑い声を漏らす。

 

 

 

 「――――最初から俺を始末するつもりだったんだろ? 百鬼丸くん」

 拳銃(コルトパイソン)を構えた男が、首を斜めに傾けながら言った。

 彼の左目は禍々しい色に染まり、片頬は人の皮膚ではなく硬質な黒鉄を貼り付けていた。

 男は短い沈黙を破るように口をひらく。

 「もともと、高速道路で走行中に君がこちらに接触した時から分かっていたよ」

 「……まさかこんな時に行動に移すとは思わなかったですけどね、岳弘さん」

 おれは、フリージャーナリストを名乗った柴崎岳弘という相手に強い目線を向ける。

 「でも解らないな。どうして俺をここに連れてきたんだ?」

 リボルバー方式の銃口がゆっくりとおれに照準を合わせる。

 「――――さぁ、どうしてですかね。泳がせてた、って言ったら信じてくれますかね?」

 「リスクが大きすぎる」

 「……かもしれないですけどね。正直自分でも解らないんですよ」

 「俺が荒魂に憑依された人間だと知っていたから首を斬る機会を窺っているものだと思っていたよ」

 「確かに貴方の言う通りだけど、本当に自分がなんでこんな事してるのかわからないんですよ」

 「ははは、まるで〝人間〟みたいなことをいうね。もちろん、俺もかつてはニンゲンだったよ」

 どこか哀愁の籠った響きで答える。

 

 「のう、柴崎よ。お主は……荒魂だったんか」松崎老人が落ち着いた声で、語り掛ける。

 

 男は首を横に動かして、縦に首を振った。

 

 「ええ、どうですか? 俺の本当の正体は? 醜いですか?」

 

 「――――いや、や。あのお方…………折神黄泉様のように感情のある優しい目だ」

 そういいながら老人は目前の実篤へ顔を向ける。「あのお方の、本当の名です」萎んだように声で囁く。

 

 「―――――――。」巨像は俯いたまま「初めて、その名を知った」

 と、一言つぶやいた。

 

 

 

 ◇

 (――――私、何もできなかった。)

 衛藤可奈美は市ヶ谷基地の庁舎エントランスを一人歩く。ふと、目線を左右に向けると既に負傷者の救護が終わり、その代わりに目立つガラス片や破壊された建物の壁などが床に散乱していた。

 

 つい、2時間前に襲撃があったとは思えない不気味な静けさが広い空間に満ちていた。

 可奈美はタキリヒメを失ったことにショックを受けながらも、精神は妙に冷静で現状を受け入れている。…………どこか冷酷な自分に気が付いていた。

 そんな少女は今、自主的に巡回の役割を買って出た。

 

 本来であればタギツヒメとの戦闘により消耗している筈なのだが、体が芯から熱っぽくて眠りにつけない。警備の人員が不足している話を聞いたとき、すぐに志願した。勿論周りは止めたが、彼女は曖昧な微笑で「――お願い」と呟いた。

 『夜の風に当たりたいから…………』と、小さく付け加えた。

 皆、彼女の意志を尊重した。

 

 

 ◇

 外に出ると夜気が感じられ、火照った頬を鎮めてくれる感じがした。甘栗色の柔髪を一陣の風が浚う。長い上目の睫毛が二三瞬く。

 交代の時間まであと三〇分ほど余裕がある。

 エントランスを出、広場の外周に沿う遊歩道を歩きながら、

 「〝無心なる時、皆あたる也。無心とて一切心無きにあらず。唯平常心なり。〟――――っか」

 ひとり、暗唱を口にした。

 柳生宗矩の『兵法家伝書』の一節である。

 いまの可奈美にとって、かつて存在した実在の剣士の言葉が非常な身近さで感じられた。

 美濃関の赤いプリーツスカートを小さく波打たせながら無言で進むと、外灯に当てられた木々の黒い輪郭が見えてきた。市ヶ谷基地の一角にも緑の憩う場がある。

 芝生の辺りまで来ると、御刀を腰のホルダーから外して腰を地面に下ろした。《千鳥》を身に引き寄せながら体育座りで夜空を仰ぎ見た。

 幾つかの星々が冷たい十字の輝きを放ち、油雲が一切ない。毒々しい紅の三日月が夜空の真ん中に掛かっていた。

 「――――なんでかな?」

 心臓の鼓動が高まりつつあるのを自覚していた。

 タキリヒメ、タギツヒメ…………ふた柱と刃を交えた時、これまでに味わったことの無い感情と高揚感に包まれていた。それは、本気で『高み』を目指せる新たな領域への扉だった。荘厳な扉の前に立つ。

恐らく神と刃を交えた刀使は居ないだろう。

存在していたとしても、その神に近づきたいと誰か考えただろうか?

 衛藤可奈美という少女は、ただ純粋過ぎる好奇心から理解しようとしていた――《万物》を。

 それは他人の目からすれば、狂人の考えだと思われるだろう。

 だが何と罵られても彼女は知りたかった。

 

 ――――自分が何者であるか、を。

 

 剣を極める者にとって強さは“孤独〟を意味し、更に剣を探求すればするほど理解する者は消えてゆく。そうと知りながら、求めることを止められない。……恐らく刀使の役目を終えてからも続くだろう、可奈美は夜空を見ながら懊悩する自身の心の動きを、更に俯瞰した自分が眺めていた。

 

『おれに色々と教えてくれよ、可愛い師匠さま。な?』

 カラカラと屈託なく笑う声が耳の奥から甦った。――自然と口角が釣り上がる。

 

 くりっ、とした大きな目を細め、

 「ねぇ、〝百鬼丸〟はコッチに来てくれるのかな?」低く囁くように言いながら、どこか妖艶かつ、蠱惑的な微笑を漏らす。もしも、この孤独の寂しさに耐え切れなくなった時、そのときに隣に居てくれるだろうか?

 姫和も、恐らく居るだろう。しかし、一人では足りない。切り結ぶ相手は多ければ嬉しい。

 否応なしに疼く胸の衝動を堪えながら、可奈美は小さく首を左右に振る。

 「……どうしたのかな、今日の私。変、だな」

 刀使である姫和とも違う戦闘スタイル、幼少の頃から命のやり取りをしてきた経験値が可奈美にとって肉薄する白刃のようにも感じられ、堪らなかった。

 「百鬼丸さんだったら、ううん、違う。…………こんな考え止めないと」

 教えればスポンジのように吸収し、さらに予想を超えて剣術を習得する“弟子〟との手合わせに思いを巡らせる。どんな奇策で弱点を衝くのだろう?

 不意に可奈美の下唇は朱色に染まり、白魚のような滑らかな指で弧の形をなぞる。形容しがたい溶岩のような感情の滞留を胸奥に熱く感じていた。

 タギツヒメ陣営との熾烈な戦闘はこの先も、必ず発生する。

(強い相手と、もっと――――)

 妖しい流星の色が、静かな夜に満ちる。

 見上げる大きな琥珀色の瞳に不気味な色を宿す。この時、名状しがたい気持ちに拍車をかけた。

 

 



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閑話休題、パラレルワールドその1

単発。続かないと思います。
しょうもない話がしたいだけでした。


 …………朝、わたしが目覚めると見知らぬ部屋に居た。

 カーテンの隙間から射す朝陽が眩しくて自然と顔を顰めていた。

 ぼーっ、とした視線で周囲を確認してみる。

 知らない家具。

 知らない部屋の匂い。

 知らないパジャマを着ている。

 何度も瞬きをして確認しても、これが夢じゃないと理解するまでに時間が掛かった。

(え、なにこれ…………)

 再確認した後、全身から変な汗が噴き出そうな気分になった。見た感じでは男の部屋、ではないと思う。だけど、脱ぎ捨てた衣服とかが散乱していて、足の踏み場がない。

「嘘、でしょ」

――――と、呟く声すらも別の人物の「声」だった。

 変な気分を払拭するために、わたしは姿見のある方まで移動した。

 普通の木枠で作られた姿見には、《わたし》ではない少女の姿を映し出していた。

 亜麻色の髪が所々寝ぐせで跳ねているが、艶がかかっている。人一倍大きな瞳は琥珀色を湛え、好奇心の強そうな印象を受ける。

「わたし、じゃないよね」

 ペトペト両手で触って顔を確かめる。うん、可愛い。そして、わたしは昨日整形をした覚えはない。

 ゆっくり、唇に触れるとプルンと柔らかい。リップを塗っているワケでもなさそうなのに程よく潤っている。

 

「……ん? この顔、待って――――あれ? もしかして」

 この顔に見覚えがある。いや、あるどころの騒ぎではない。有名人だ。

 

――――衛藤可奈美だ。

 

『えええええええええええええええっ!!』

 わたしは思わず大声を上げた。

 彼女は刀使の中でも有名人だ。

 というか、日本中を一時期騒がせた『ある事件』にも関わっており、知らない人は居ないと思う。

 剣術の腕前は勿論のこと、インターネットの界隈では、その愛らしいルックスから一時期だが変な話題となっていた。勿論、肖像権の問題とか広報用ではない隠し撮りなどだったために、すぐに削除祭りになったとか――――。

 にしても。

 「これ、現実だよ、ね?」

 誰に問いかけるでもなく一人で呟きながら、わたしは試しに姿見に思いっきり笑顔を作って見せる。

 にこっ、とごく自然に笑顔をつくる少女の表情が鏡面に映し出されていた。

 …………元々のわたしでは絶対に出来ない事だった。なんせ、表情筋は衰えて笑顔なんてしようものなら痙攣したみたいで不気味な顔になる。

 「へー、それにしても可愛いなぁ」

 改めて顔をまじまじと見る。

 なによりも、人懐っこい雰囲気がいい。誰とでも打ち解けられそうな感じが男女問わず人気なんだろうなー、という印象を受ける。

 ――――それと何よりも、先程から気になっていたのが胸の辺り。恐る恐る胸の膨らみに手を伸ばすと、ちゃんと柔らかい。

 本来のわたしであれば、そこには壁があるだけ…………。くっ!!

 形のいい胸の膨らみが〝可愛い系〟の顔と不釣り合いで、それが余計に魅力になりそう。

 「どーして、神様って平等じゃないかなー」

 わたしは色々と確かめながら気分が凄く落ち込んだ。

 完璧な人間っているんだなーって、思った。というか、自覚させられた。

 

 

 ◇

 安河内成美、十四歳。鎌府女学院の生徒――――以上、それがわたしの経歴。

 特別に選ばれた「刀使」でもなければ、なんでもない。刀使をサポートする人間、ただそれだけ。地味、ひたすら地味な存在としてわたしの一生は構築されている。

 

 

 じゃあなんで、『衛藤可奈美』という少女に自分がなっているか?

 

 一応、心当たりがないワケではない。

 というのも、昨日の夜に出現した荒魂が原因だと思う。

 相模原圏内に現れた荒魂を討伐しに刀使とわたし達のサポート班が出動した。幸いにして数が3体ほどだった為にすぐ討伐は終わった……けど、潜んでいた荒魂が突然にわたし達サポート班の方に襲い掛かってきた。

 パニックになったけど、救援に駆け付けた衛藤さんたちによって無事、討伐された…………はず。

 最後の荒魂が斬られた直後に胴体から噴出させた真紅の霧を、わたしと可奈美さんが直に浴びた。

 

 

 うん、もしかしたらそれが原因かも知れない。

 

 わたしの推測が正しいならば、いま、わたしは『衛藤可奈美』と入れ替わっている可能性が高い。

「まじかー」

 鏡の前で、可奈美(わたし)がつぶやいた。

 

 

 ◇

 ドタドタドタ!!

 と、廊下を走る音が聞こえて、直後に部屋の扉がドンドンと何度も叩く音が聞こえた。

(えっ、何ホラー映画?)

 わたしは怯えながらも、「は、はーい」と冷静なフリをして返事をした。

 しかし、扉は容赦なく開かれて勢いよく人影が闖入してきた。

 

 『可奈美ちゃん、大丈夫!?』

 息を切らしながら駆け込んできたのは、柳瀬舞衣さんだった。……また有名人だ。

 大企業グループのご令嬢。そんな人がわたし(正確には可奈美さんだけど)を心配そうに見つめながら手を握った。

 「さっき、大きな叫び声が聞こえたけど、平気?」

 ぎゅっ、と若干強めに握られながら尋ねる。……いや、距離が近い近い、すごく近い。

 もう、鼻息すら吹きかかる距離。

 「う、うん、へいきだよー(棒読)」と、何とか引き攣った笑みで誤魔化す。

 翡翠色の綺麗な瞳がじーっ、とわたしを見詰めながら瞬く。

 「なんだかいつもと雰囲気が違うけど……?」

 舞衣さんが首を傾げながら言った。

 「そ、そっかなー? あははー」

 頬に冷や汗を流しながらもわたしは咄嗟に嘘をついた。……何となくだけど、この人に事情がバレると色々と怖い気がした。

 「本当? 信じていいんだよね?」

 「う、うん。ちょっとだけ疲れたかもー(棒読み)」

 そう言いながら、わたしはワザとらしい具合の悪い仕草で演技をした。

 「ほ、本当に!? だったら今すぐ病院に――」

 「あ、あのそこまでしなくても、少し眠ればいい気がするかなー?」

 「うん、わかった。可奈美ちゃんの看病は責任を持って私がするから」

 (えぇーー、いい人だけども)

 おっとりした雰囲気の舞衣さんだけど、なんか怖い。

 「あ、あー少し疲れたかなー」

 これ以上の対処の仕方が解らなくなってわたしは、ワザと舞衣さんの方に軽く倒れ込んでみた。

 もにゅっ、という柔和な感触と同時に、

 「かっ、可奈美ちゃんっ!?」

 上ずった声で動揺する舞衣さんの声が聞こえた。

 ラッキーなことにわたしは舞衣さんの大きな胸に顔を埋めるような形になり、むにゅん、むにゅん、という至福の感触を味わっている。

 (うん、もうこのまま強引に話題を変えよう)

 両腕を相手の背中に回して緩く抱きしめるような恰好で、

 「あー。疲れすぎたかなー? こうやって甘えるのもいいかもー。お姉ちゃんに甘えるみたいに…………」

 そう言いながら、あざとく上目遣いで舞衣さんをみる。

 すると、

 「あ、あわわわ、か、可奈美ちゃん……もう一回、もう一回言って……」

 すごく動揺しながらも、口を撓んだ縄みたいにアワアワさせながらも、強い意志で要求された。

 「えー、何を?」

 普段のわたしならば絶対に出来ないような思わせぶりな言い方で、相手を試してみる。

 案の定、舞衣さんはズッキューンとかの効果音が似合いそうな表情で、更に心を乱していた。

 「お、お姉ちゃんって…………言って」恥ずかしそうに、消え入りそうな声でいった。

 わたしは、美少女小悪魔ムーブが楽しくなってきた。普段の自分じゃない自分で好き勝手にする快楽に抗いがたくなっていた。

 ――――だから。

 「えー、どーしてかな――……お・ね・ぇ・ち・ゃ・ん?」

 口角を微かに釣り上げて言葉を丁寧に区切る。

 「あわぁわぁ―――――か、かな……っ」

 言葉にならない言葉をつぶやきながら、舞衣さんがその場にへたり込む。わたしも一緒になってフローリングにゆっくり座り込む。

 すーーーーっ、と鼻で息をする。優しい匂いが舞衣さんから漂う。バニラエッセンスとかミルクの匂いとか、お菓子の類の匂い。

 すりすりと舞衣さんの胸に頬擦りしながら、次にどうやって対処した方がいいのか考えを巡らせていた。

 

「か、可奈美ちゃん。ち、ちょっと待ってて――――」

 そう言いながら、わたしの腕を優しく振りほどいて舞衣さんが鼻を抑えて顔を真っ赤にして部屋の外へと勢いよく飛び出した。

『もう、もうっ、もうっっっっ!!』

 と、興奮を抑えきれないような声音が廊下を駆け抜けていった。

 

 

 「…………これで、当面の脅威は立ち去ったの、かな」

 わたしは内心で冷や汗をかきながら、煩悩に苛まれてそうな相手の後ろ姿を、茫然とした気分で見送った。

 

 

 立ち上がってカーテンを開くと、外は見慣れた校舎、鎌府女学院の赤煉瓦色の建物が視界に入り込む。

「そっか、この部屋も錬府の寮か――――」

 人の部屋だと印象が大分かわるものだな、とひとり納得した。

 いま現在、刀使は足りなくなっているから伍箇伝から刀使が出向している。

 当然、刀使の中でも屈指の剣士、衛藤可奈美も鎌府の寮にいても不思議ではない。

 

 …………もしかしたら、現状は夢なのかも知れない。

 そう思ってわたしは、まだ温もりの残るベッドに潜り込んだ。

 すぐに瞼が落ちた。

 

 

 ◇

 再びわたしが目を醒ますと、部屋が薄暗くなっていた。

 (もう夕方か)

 そう思いながら目を擦ると、やはり衛藤可奈美の部屋であった。

 起き上がろうとして――――違和感があった。

部屋に誰かいる気がした。見間違いかも知れないと思いながら、「だ、誰かいますか?」と聞いた。

 本音はビクビクだったけど、訊かずにはいられない。

 その気配は、ゆっくりと立ち上がった気がした。

 『ん? もう起きたか?』

 少年の声だった。

 「――――え、誰?」

 素の声が出た。

 

 人影はそのまま薄暗い部屋を歩いて電気を点けた。

 「おいおい、変な冗談は勘弁してくれよ。師匠さんよう」

 ちょっと困ったような顔で、わたしの方を覗っていた。

 「ごめんなさい、ほんとにだれ? あと、ここは確か女子寮だから……」

 「ああ、細かいことは気にするなって。しかも地味に傷つくから本当に誰って――――百鬼丸さんを忘れたんか?」

 やれやれ、といった様子で肩を竦める。

 「ごめんなさい、本当に知らない」

 わたしは、衛藤可奈美という人物のフリすら忘れて答えていた。その反応に対して、

 「えー」

 と、気の抜けた返事で少年が応じる。

 

 「今日は色々と剣術の面白い技を教えてくれるっていうから、ずーっと中央広場で待たされてたんだが…………そうですかい、そうですかい」

 拗ねたような調子で口を尖らせていた。

 「あ、そうだったんだ……ごめんなさい」

 「いや、まあ具合が悪いって舞衣から聞いてたから、それはいいんだけどな!」

 親指をぐっ、と立てて笑いかける。

 なんだか、悪い人じゃなさそうだな、と思った。

 

 「腹、減ってないか?」

 「ええっと、少しだけ……」

 「そっか、よかった。これから野生の熊か猪でもぶっ殺して鍋にするから待ってろ」

 へへへ、と嬉しそうに言いながら部屋を出ていこうとした。

 熊? 猪?

 この人は何を言っているの? 理解できない。

 「あ、あの、本当に大丈夫だから、うん」

 「ム、そうなのか?」

 器用に片方の眉を上げて、振り返る。

 「そ、そうそう」

 「そっかー」

百鬼丸と名乗った人は、素直に納得してくれた。

 「じゃあ、サメとかなら…………」

 「違う」

 即答で返事をした。

 ――――全然わかってないじゃん、この人。

 



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157話

おすすめの曲あったら教えてクレメンス。


 ……いつからだろう?

 

 一体いつから自分の、この腕が届かないと思ってしまったのだろう。

 どれだけ伸ばしても届かないと分かっていても、それでも諦めなければ良かった。

 

 ――――でなければ、本当に大切なものを守ることが出来ない。

 

 本当に大切にしたかった彼女ですら、この掌で繋ぎとめることが出来なかった。

 

 今まで、御門実篤という一個の人間は私心を持ってはけないと教えられてきた。

 

 だから全部を社会や弱い人々を守れる人間であるべきだと、自らに責務を課した。

 

 だが、しかし。

 世の中は残酷だった…………。

 

 軍隊という社会に入っても、それは世俗の社会となんら変わりなどなかった。

 

 ひたすらに、弱い人々が虐げられる。

 

 なぜ、人は努力をして己の力で道を切り開こうと試みる者に対して惨い扱いを受けるのだろうか。

 

 神や仏が居るとして、それらはどうして彼らを助けなかったのだろう。

 ――であれば、《負》の神性を帯びた荒魂の方がよほど、全てを破壊し尽くす存在として信仰の対象たりうるではないか?

 

 この、地下の暗闇で永遠に等しい時間を、拷問のような戦いを繰り広げながら考えていた。

 

 かの大戦で、大勢の人々が焼け死んだ。

 軍人ならばともかく、死ぬべきではない女子供も死んでしまった。

 まだ、生まれたばかりの赤子ですら、その人生に愉しみを見つけることもなく、容赦なく命が奪われた。

 なぜ、人はこの世界に生を受けるのだろう……。

 

 ――――善人から死んでゆくではないかッ!!

 

 慟哭したいような声すら、マグマのように腹の下に滞留していた。

 

 ――――――。

 ―――――――――。

 ――――――。

 

 

 ◇

 

 ◇

 「オレを殺すか、百鬼丸ぅ!! はははっ、どうだ? お前の力なら今すぐオレの首を刎ねること位は簡単だろう」

 挑発するように、柴崎岳弘と名乗っていた『荒魂』が喋る。

 コルトパイソンを構えた右腕が素早く、数メートル離れた百鬼丸から、一般人である虎之助老人へと照準を動かす。

 

 「おい、どうした百鬼丸? お前は今すぐオレを殺さなければいけない筈だぞ、ええ?」

 唇を舐めながら、何度も催促するように言い募る。

 

 

 「―――――。」

 百鬼丸は迂闊に行動が出来ず、その場で立ち止まっている。

 もし、仮に今飛び出せばヤツを仕留めることは可能。だがしかし、その前に虎之助老人が撃たれた場合は? そんな危惧が百鬼丸の脳裏を掠める。

 

 「チッ、無視か。まあいいさ…………、じゃあもう終わらせようか」

 目前の少年の行動を注視していた岳弘だったが、興味が失せたように首を横に振って冷淡な口調で告げる。

 ――――そして、一瞬だけ、虎之助老人の近くに膝を屈して石像の如く聳える「御門実篤」へと視線を移す。

 

 …………まるで、懇願するような、そんな目を岳弘は向けた。

 

 

 「…………――――。」

 その視線を確かに、御門実篤は受け取っていた。

 たっぷり、息を吸い引き金をひく動作をした男。

 3、

 2、

 1、

 とカウントしながら岳弘は道化(ピエロ)を演じるような狂気に満ちた声で叫ぶ。

 

 

 『やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!』

 百鬼丸は最早、理性を超え片足の加速装置に力を籠める。

 キィィィイイイイン、と甲高い音と共にリボルバーが回転し、瞬発的な加速を実現させた。

 レイリー・ブラッド・ジョーと名乗る科学者の手によって改造された《加速装置》は、少年の体を羽のように軽くした。

 

 従来の長距離専用の加速装置ではなく、ただ《戦闘》に特化した加速装置は、中短距離を確実に縮める強い意志とのタイムラグ無く高速化させる。

 

 

 たった数十メートルを縮めるのに時間など必要ではない。

 …………だが。

 

 百鬼丸の体は余りに直線的に素早く移動した為に、岳弘の真横を過ぎた。

 凄まじい風圧によろめきながらも、

 「おいおい、どこに移動しているんだぁ?」と、驚愕と嘲りの交じった表情で怒鳴る。

 

 ――――が。

 

 百鬼丸は無心で体を丸めて宙から一八〇度反転した。その際に足場に利用したのが、通称《音の壁》と呼ばれる白い〝ナニカ〟であった。

 音速=マッハ1付近に到達した際に発生する現象であった。

 

 この壁を超えることは「音の壁を超える」と言われた。

 

 百鬼丸はその壁を自らの足場として利用し、空中にて方向転換のため活用したのだ。

 

 無論、すべて今初めて行ったものである。

 

 彼の場合、頭ではなく「体」が命じるままに、戦闘を構築する。

 

 当然そのような速度は尋常ではない。だからこそ、百鬼丸は生身で全ての衝撃を受けている。しかも、重傷の身で、である。

 

 少年は左腕の刃を器用に操り片翼のように煌めかせる。

 岳弘の構えた腕めがけ、瞬きする余裕もなく腕を切り落とした。

 

 

 「―――――――ッ、熱いっ」

 岳弘はそう叫びながら、自らの切断された腕から溢れた滂沱の血液を左の掌が受け止める。

 

 岳弘の切り落とされた腕は、銃を掴んだまま地面に転がり、死後硬直するように痙攣して跳ねていた。

 

 顔を朱に染めながら百鬼丸は容貌が変化した岳弘を見下ろす。

 

 

 「百鬼丸、どうした? オレも他の連中と同じようにすぐに殺さないのか? ああそうか。いたぶってから殺すのが趣味なのか?」

 激痛に耐えながらも、既に荒魂に体を乗っ取られた岳弘は、非難して叫ぶ。

 

 百鬼丸は硬い表情で俯き、長い黒髪を翻す。

 

 足元に転がった片腕に掴まれた銃口からは火薬の匂いと共に一筋の白い烟を細く昇らせていた。

 

 「…………っ!?」

 もう、発射していたのだろうか!?

 冷や汗と共に百鬼丸は老人たちの方角へと体を向けると、そこには、虎之助老人を庇うように自らを盾として立ちふさがる巨大な石像のような影を認めた。

 番人……そう、自らを呼んだ男が、かつての部下を守るように己が身を盾にした。

 彼の銅色に輝く皮膚と筋肉の一部から、弾痕である穴が肩の方に穿たれていた。

 

 背後で守られていた老人がただ、茫然とその巨大な背中を見詰める。

 「なぜ、なぜこの老いぼれを助けたのですか」

 口元が震えながら、老人は訴える。

 あの日、敗戦したあの日、自分は図らずも生き残ってしまった。多くの同胞、戦友が散った。何もかも、全てが失ったと思っていた。

 だが、他でもない彼、御門実篤という男が「生きる」という道を示してくれた。だからこそ、苦渋の日々も過ごすことができた。

 

 

 その恩を返す時を、憧れるように待っていた。

 

 松崎虎之助という、一人の男として、部下として尊敬すべき人物へと。

 

 …………だが、結果は違っていた。

 

 「なぜ、またこんなワシのような者を、守るのですか?」

 そう聞かずにはいられなかった。

 

 

 それまで、厳しい顔だった石像のような男が首を巡らせ、口元を綻ばせた。

 

 「小生は、ただ弱い者を守りたかった。だから剣を、武術を極めようと思った。もし、許されるならば、たった一人の女性を救いたかったんだ」

 はじめて、優しい表情で実篤が微笑んだ。

 七〇年以上にも及ぶ、苦難の末にようやく本心を語ることが出来た。

 たとえ、慕う相手がこの世から消えたとしても。

 たとえ、この世界に救うべき存在がいないとしても。

 それでも、後悔はしたくないと思ってきた。

 そして、かつての部下であり、地下牢に閉じ込められていた「少年」を守ることができた。

 

 

 

 

『その人はもう、救われている…………、』

 

百鬼丸は、実篤に向かって片方の肉眼から涙を流しつつ呟いた。

 

 

実篤は前へと首を動かし、

「―――――。」

ただ無言で、百鬼丸を見据える。……否、正確に言えば彼の片腕へと視線が釘付けとなっていた。

 

彼の片腕に装着された刃からは明るい光が放たれていた。

 

その眩い光は、実篤の方に呼びかけるように何度も点滅を繰り返しながら、何かを伝えようとしていた。

 

 

 

「…………そうでしたか。貴女はそこにおられたんですね」

 

実篤は、悠久にも思える時間を超えて、再び出逢った。

 



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158話

 ――――月夜は冷やかに、それでいてビルの尖塔群は閑寂とした風情を残す。

 ウィンチクレーンと高層ビルに点々と輝く赤色の航空障害灯は、暗闇に無機質に光続ける。

 

 基地の屋上に佇む、華奢な一個の人影が外灯に照らされる。

(――――もう一度襲撃が来れば私は、防ぎきれるだろうか?)

 濡羽色の長い髪を夜風に靡かせつつ、緋色の瞳を細める。十条姫和は御刀《小烏丸》の太い鞘を左手で掴み、市ヶ谷基地の襲撃を反芻する。

 彼女は、普段厳しい表情をしている癖で目元が物思いに耽るだけでも、端正な顔立ちを合わせて近寄りがたい印象を与えた。

 

 ――――そういえば、可奈美は警備に行ったんだったな。

 

 そう思いながら目下に拡がる市ヶ谷基地周辺を何気なく眺める。既に時間は過ぎ、基地の庁舎や広場など、襲撃の被害も収束に向かいつつあった。……ただ、国防の中枢を襲撃されたという衝撃的な事柄は刀使を含め、自衛隊でも心理的な動揺は計り知れない。

 

 「…………私は、この先一体どうしたらいいんだ?」姫和は呟く。

 

 これまで、母の仇として恨み、復讐を果たそうと『折神紫』を狙ってきた。――――だが、可奈美たちと行動を共にする中で二〇年前の事実を知った。

 そして、潜水艦の中で実際に折神紫という人間と対話した時、直感で理解した。

 

 ――――この人は、私と同じなのだ、と。

 

 使命を背負い、大荒魂をその身に宿す覚悟をした。その点で言えば寧ろ私(姫和)よりも崇高な存在に思えた。だからこそ、これまで『恨み』と『復讐心』のみで突き動かされてきた自身の存在意義が解らなくなった――――刀使を辞めようと思っていた。

 

 しかし、再び刀使として最前線に居る。

 

 矛盾した感情を持ち続ける自分の心は、未だに葛藤が終わらない。

 確かに、使命という事であればタギツヒメの野望を阻止するべきなのだろう。それは明確だった。……だが、感情が追い付かない。

 「これ以上、私は真実を知りたくないんだ」

 姫和は冬の澄んだ夜空から視線を外して、俯き加減に言った。

 これ以上、真実を知れば自分の心が受け止めきれないだろう。

 

「私はただ、母の仇を倒したかった。それだけなんだ…………」

 

 ぐっ、と右手の拳を強く握る。

 あの日、御前試合の決勝戦で――――全てを終わらせるつもりだった。刺し違えてでも、何もかもを終わらせるつもりだった。

 

 衛藤可奈美という少女が差し出した手に掴まれ、引っ張られて、ここまで来た。

 

 

「私のなすべき事はまだあるというなら、」と、一旦言葉を区切る。短い時間、可奈美たちと旅をした日々、そして今――――。

 ありありと、懐かしい光景を思い出す。

「今度は間違わない。今度は、本懐を遂げる…………」

 口を無理やりに真一文字に結び、頬にかかる髪を風の吹くままに任せた。

 折神家屋敷を襲撃したあの時、隠世に行く寸前でこの身を押しとどめた「腕」が脳裏を過る。……思わず、口元に苦笑いが浮かぶ。

 

 胸の辺りに右手を重ね、

「お前の手の届かない所まで、私は行く」

 決意の言葉を漏らした。失う事に存在意義を見出す少年へ、挑戦状とも決別とも言える言葉で、姫和は自身の感情を吐露して整理した。

 

――――未練が残れば、必ず「生」に執着してしまう。

 

「私は、私のなすべきことのため、刀使の役割を尽くす」

 頭を上げると同時に、緋色の瞳は硬い意志を宿していた。

 

 

 

温かな光が左腕の刀身から溢れる……。

 その場に居合わせた人間たちは、その光の美しさに思わず息を呑む。まるで意志を持つように、巨像――――荒魂化した「御門実篤」という一人の男に百鬼丸が近づくたびに、優しい光が彼の巨体を照らす。

 

 「――――〝ようやく会えた〟、だってよ」

 百鬼丸は左腕から直接脳内に伝わる言葉を口にした。テレバシーのように頭で直接響く声はどこまでも優しく、美しかった。

 これまで悪鬼羅刹、魑魅魍魎との闘いを共に乗り越えた左腕の刃《無銘刀》

 通常の御刀であればノロまで完全消滅させることは出来なかった。しかし、この左腕の刃だけは異なる。

 荒魂のノロすら跡形もなく消し去る。

 その理由が百鬼丸にとって長年謎だった。

 しかし、今なら解る。

 

『荒魂は深い孤独感、悲しみの中から生まれてきた。だから、それを癒し、傍にいてくれる存在が必要だった――――』と、折神黄泉――――だった少女の思い。

 

――荒魂の存在。長年の体験と理屈ではない本能に訴えかけるようにして、その言葉を諒解する。

 百鬼丸は右手の指先で刀身の表面に施された模様のような文字に触れた。いわゆる『神代文字』と呼ばれる文字が施された刀身。

 剣薙の巫女が御刀に呪術を込めるために、用いられたとする神性な文字。

 太古の昔に失われた文字の意味。

 折神家に脈々と受け継がれてきた文字を惜しげもなく刻み込み、自らの思いを伝える。

 

〝困難をともに――――。〟

 神代文字にはそう記されていた。

 

 

 百鬼丸は、膝を屈した御門実篤の傍まで近づき語り掛ける。

 「あんたの生命を終わらせるのは、〝おれ達〟の役割なんだよな」

 荒魂を受け入れながら、人間の心を失わず、戦後の七〇余年以上も戦い続けた男に向け告げた。

 左腕を頭上に掲げながら、深呼吸をひとつする。

 狙いは間違えない。胸の中心、ノロの核がある場所を的確に貫く。それだけで、この男は終わる。

 

 『待てッ、百鬼丸っ!! 貴様待たんかッ!!』

 よろよろ、足元を瓦礫に足を取られながらも実篤と百鬼丸の間に立ちふさがる老人。

 「よせ、なぜだッ!! 少佐はただ、ワシらを守って下さっていたではないか? 殺すことはない…………そうだ、こうして理性も保っておる。な、そうだろ? 百鬼丸?」

 哀れな表情で、必死に抗弁する虎之助老人は首を小さく振りながら攻撃を止めさせようとした。

 「どいてくれ」

 「ダメだ、な、百鬼丸よ勘弁してくれ、な? な?」 

 先に進もうとする百鬼丸の足元に、地面に崩れるように膝を落として無理やりしがみつき、老人は動きを封じた。

 

 「少佐は、この地下で〝あの日〟から何の愉しみもなくただ孤独に長い時間を戦ってきた。お前にも分かるだろ? な、百鬼丸。お願いだ、ワシの大切な恩人なんだ」

 虎之助老人は懇願した。恥も何もかもをかなぐり捨ててでも、叫ぶ。

 

 百鬼丸は目前の実篤に視線をやる。巌を刳り貫いたような顔面は、苦笑いのような表情を浮かべた。

 「よせ、トラ。もういい。この時を小生は待っていたんだ」

 優しく語り掛けるように実篤は言った。

 「いいえ、まだ貴方に命を救われたワシは、貴方に話したいことがたくさんあるんです、救われた命。恩人を守るために――――ここで失っても惜しくはありません」

 「………………トラ。小生と別れたあとの世界は、どうだった?」

 「えっ?」

 実篤の突然の問いかけに対して、虎之助老人は肩越しに振り返り――言葉を詰まらせる。

 もう一度、子供に諭すようにいう。

 「地上の世界は、安寧か?」

 その意味を、虎之助老人は直ぐに理解した。

 

 自分が地下で荒魂を食い止めた間、地上の世界は平和であったか? と、そう言っているのだった。

 もちろん、完全に安寧である――とは言い難かった。

 それは恐らく、実篤も承知の上だろう。それでも、問いかけずにはいられなかったのだ。

 

 老人は何というべきか、迷いながらも口をひらく。

 「ええ、貴方の、あなた方の守って下さった世界は、安寧そのものです」

 たとえ、この台詞に虚偽が混ざっていたとしても、虎之助老人はそう答えるべきだと思った。

 戦後の混迷期を抜け、高度に社会が発達し、人々が「日常」を享受した時代――――。誰かを犠牲にして得た代償としては、たしかに完全なものではない。

 それでも――――。

 「あなた方の、やってきた事は決して無駄ではありませんでした」

 老人は震える口元で頭を垂れ、万感の思いを告白する。

 

 百鬼丸は老人の肩に手を置き、腕を離すように促す。虎之助老人はゆっくりと両腕の力を緩めた。

 大股で移動した百鬼丸はその侭、実篤の目前に佇む。

 

 実篤と百鬼丸の視線は穏やかに交錯する。

 「百鬼丸、といったな。お前の刃は乱暴で粗削りだった」

 「――そうか」

 「それでも、何かを失ってでも、得たいという意志を感じた」

 「――――……。」 

 実篤は憂いを浮かべる少年を真正面から見据える。

 「百鬼丸、お前は何者になりたい? 何者になるべきだと思う?」

 

 そう問われた百鬼丸はただ、無言で奥歯を噛みしめながら再び左腕の刃を構えて狙いを定める。

 フッ、と実篤が口元を綻ばせた。

 「それが解れば、きっと小生とは違う活路が開けるだろう。……忠告だ、小生のようにはなるな」

 

 「――――ああ、そうだな。おれはもう〝修羅道〟の途中だ」

 長い前髪の間から覗いた瞳には、実篤の巨体の像を映し出していた。

 

 ドスッ、という硬い胸板を貫く光の刃。

 二の腕部分まで胸の中央に突き刺さっていた。 

 



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159話

 ――――最初に見たのは、眩い程の曙光だった。

 

 御門実篤、かつて名乗っていた時の……人間「だった」時の姿で、緑に覆われた草原の小高い丘の上に佇んでいた。

「ここは……?」

 実篤は振り返りながら周囲を丹念に眺める。七〇年以上も巨大な地下の牢獄空間とは異なり、解放感があった。

 草花の馥郁とした香が鼻を爽やかに打つ。

 

『懐かしい匂いでしょう?』

 

 背後から聞こえた女性の柔らかな声。

 随分と久しぶりに聞くその声に、実篤は戸惑った。しかし、後ろを振り向くことが出来なかった。――はやる気持ちを抑えて、

 

「――――ご当主様、ですか」

 その言葉を口にした時、ノスタルジーが胸を満たした。

 二度とその単語を口にできる日が来るとは思っていなかったのだ。

 

 

「そう、ですね。ええ、そうです。――――実篤様はもう私の名前をご存じの筈です」

 

 実篤は無意識に自らの両手や体を見ていた。

 二メートル近い身長は、鍛え抜かれた肉体を持つ頃のままだった。

 何一つ「あの頃」と変わらない姿かたち。…………そして、随分と長い時間を経過させても、心もまた変わっていない事を実感した。

 俯き加減に、実篤は口をおもむろに動かす。

「折神黄泉、様です」

 言い終わってから大男は意を決して振り向いた。

 

 実篤の数メートル距離を隔てた所に、初めて出会った時のままの姿をした少女の姿があった。

 

 「――――はい。実篤様にそう呼ばれるまでに、少し時間がかかったかもしれませんね」

 黒い髪には、朝の光を受け艶やかな趣を湛えていた。

 

 「小生は、もう二度と貴女に合えないと思っておりました。軟弱な男とお笑いください。――しかし、小生がやってきた罪には相応の罰が必要だったのです」

 

 「罰?」

 

 「小生は、罪もない命、救える筈だった命を見殺しにし過ぎた。その意識だけが、七〇年以上も消えなかった。恐らくは、この幻で出会えた貴女とは、ここで最後です。地獄に行かねば」

 深刻な口調で語る実篤には、荒魂へと姿を変えられた子供たちの映像がなお、鮮明に脳裏に焼き付いていた。

 

 

 ――――しかし。

 

  折神黄泉は微笑を浮かべ、首を横に小さく振った。

 

 「……いいえ。最後にはなりません。もし、貴方が地獄にゆく程のことをしたのなら、私も同じ罪を背負っています。ですから、貴方は決して一人にはなりません」

 穏やかに、優しく、諭すように言う。

 

 

 「そ、そんなことはありません! 小生が……、あの時に轆轤秀馬を止めていれば――――」

 

 「轆轤秀馬、ですか。あの方も――今になれば、役割に殉じた哀しい人だったと分かります。ですから、それを黙認し続けた私も、同罪です」

 伏目がちに黄泉は語る。

 

 

 「本当は、今できる精一杯の役割を果たしただけだったんです。逃げることも、目を背けることも出来ないのなら、役割を終えるその時まで、心を殺して日々を過ごさねばいけなかった。…………許される行為なんてありません。ですから、私たちは共犯者で良いのではないでしょうか?」

 

 一陣の風が両者の間に吹き流れる。

 黒髪が白い頬に重なり、それを無意識に少女は手で整える。

 その仕草はかつて、折神家の屋敷で庭の手入れをしていた時に見覚えのある光景だった。実篤は、胸が締め付けられる程の懐かしさを噛みしめながら、

「なぜ、貴方は刀剣となったのですか」と、訊ねた。

 百鬼丸と名乗る少年の左腕に刃として、宿っていた理由が知りたくなった。

 

 「――――私は、あの地下の荒魂一掃作戦のあと、生きながらえてしまいました。そして、もう二度と人間として生きることは出来ないと理解していました。ですから、私は自ら志願して、刀剣を造る際に用いられる溶鉱炉へと身を投げました」

 

 「………………なぜそのようなことを?」

 

 「あのとき、そのまま生きながらえても、荒魂として地上を滅ぼす恐れがあった。それに、人間の私とノロから生まれた荒魂の状態であれば、再び刀剣として生まれ変わる方が都合が良かったんです。神代の文字に宿した思いで、願わくば刃を振るう使い手にも荒魂に寄り添ってもらえるように――――」

 

 「な、なにを仰っているのか小生には…………難し過ぎます」

 

 ふふっ、と軽く微笑みながら実篤を真っすぐに見据える。

 「荒魂となった私は理解しました。ノロから生まれた荒魂は寂しい、孤独の感情に支配されていました。拠り所のない赤子のようなものでした」

 

 黄泉の言葉通り、実篤もまた荒魂となって戦ってきた。

 肉体は確かに強化されたものの、それ以上に精神の飢渇感に苛まれていた。常にその吐き出しようもない欲望を。

 

 「それは…………その事であれば、小生にも身に覚えがあります。ですが、小生は黄泉様が自己犠牲を厭わない、そんなになるまで、どうして頑張れるのですか。貴女が傷つく理由なんて――」

 

 「実篤様、」

 と、初めて怒ったような口調で一言、黄泉は眉間に皺を寄せていう。

 「それは貴方のことです。地下で荒魂の動きを七〇年以上も封じて地上の安寧を保ち続けた貴方は十分に頑張りました。ですから、もうご自分を責めないでください」

 

 その言葉を聞いて、思わず実篤は笑いだした。

 「あっはははははは。そうですか! そうですね。小生たちはどうやら似た者同士という事だったのですね。小生は、本当にやりたい事がひとつあったんです」

 巌を刳り貫いたような恐ろしい顔の実篤だったが、初めて人らしい柔和な顔でいう。

 

 「――――たった一人に人生を捧げる生き方をしたいと思っておりました」

 

 その台詞を聞いた黄泉は、何かを察したように純真な眼差しを向け、

「どんな方に、人生を捧げようと考えていらしたのですか?」

 と、尋ねた。

 

 実篤はゆっくりと歩幅を広げて黄泉との距離を詰めて近寄った。

 「小生は、自己犠牲を厭わない、そして常にだれかの為に生きておられた、だれよりも優しい折神黄泉様の為だけに捧げる所存でございます。ご所望とあれば、剣技も何もかも、披露して…………」

 

 「――――ふふっ、いいえ。そんな堅苦しいものはいりません。ただ、貴方が隣に居てくれれば、結構です。それだけが、それだけのために頑張ってこられたんだと思います。もし、良ければ〝地獄〟までお付き合い下さいませんか?」

 そう言いながら、彼女は白魚のような肌の手を差し出した。

 

 実篤は一瞬、呆気に取られていたが彼女の意図する事をすぐに理解して、苦笑いを漏らす。――そして呆れたように首を横に振る。

 

 「まさか、ここまで貴女がお転婆姫だとは思いませなんだ。ええ、御門実篤、この全てを捧げ、貴女の隣を…………」

 言いながら、黄泉の手を軽く触れて傅いたまま口付けをした。

 

 「「――――ともに、どこまでも」」

 

 

 

 

 ――――百鬼丸は、これまでの記憶を一気に受け止めていた。

 「折神黄泉」と「御門実篤」という二人の長い時間の記憶が滝のように激しい奔流として、たった十数秒の内に理解した。

 

 そして、今左腕で実篤の胸の中心を刺している現実。

 

 貫いたままの左腕の光はいつしか失せて、代わりに冷たい石のような感触が感じられた。意識を現実の方に完全に引き戻した百鬼丸は、石化が始まっている実篤を見た。既に八割以上が石化を初めており、硬い表皮のようになっていた。

 

「――――なんで、いつもこんな役割ばっかなんだろうな、おれ」

 百鬼丸は、小さく誰にも聞こえないように呟く。

 

 いつもこうだ。

 毎回、毎回、誰かを殺す度に――――――殺した相手の記憶が流れこんで、最後は必ず自分の姿が「映像を見ている自分」を殺す。

 

 

 ……やりきれない思いがいつも、百鬼丸の精神を蝕む。

 

 『なあ、百鬼丸――――だったな』

 

 石化途中の実篤が微かに精神からテレバシーで百鬼丸に語り掛ける。

 

 『お前がその左腕に無銘刀という刃を宿した理由が解った気がする。お前はだれよりも優しくて、どんな困難にも立ち向かうだけの勇気がある。そして誰よりも弱い者に寄り添うことのできる者だ。――――誰かのために戦える者だ』

 

 

 ギリッ、と唇から血が出るほどに歯噛みをして苦い表情になった百鬼丸。

 「うるせーな、おい。とっととくたばれ」

 

 『たとえ、誰かがお前の行動を、勇気を、栄光を知らなくても、きっと誰かが真実を知る日がくる。―――――黄泉様と出会わせてくれて感謝する』

 

 

 言い終わると、既に実篤は完全に石化していた。

 文字通り石像となった「男」の表情はどこまでも穏やかであり、一切の苦痛苦悩はなさそうに見えた。

 

 百鬼丸は静かに深呼吸をする。

 「チッ、うっせーな。調子が狂うんだよォ……………」

 文句を言いながら、実篤の言葉を受け止めていた。

 



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160話

 翡翠色の目は沈んだ色を湛えている。

 柳瀬舞衣は市ヶ谷基地の襲撃者――――すなわち、京都・綾小路の刀使たちの姿に衝撃を受けていた。

 基地の休憩室に繋がる廊下の壁に背中を預け、刀使を辞めるように言った父の危惧を改めて実感した。

 父は刀使であることに、苦言を呈していた。

 それでも自分(舞衣)は刀使である誇りと責務の意識で反駁していた。

 ――――けれども、荒魂でもない「人間」相手に御刀を振るうことに、迷いがないワケではない。これは、訓練ではなく実戦なのだ。

 (…………どうして、こうなったのかな)

 刀使とはあくまで志願するもので、目的は荒魂を《祓う》こと。

 それが、刀使同士で――――しかも真剣の御刀で斬り合う。

 どんなに覚悟を持っていても、嫌悪感だけは払拭できない。

 綾小路の刀使を中心に構成された近衛隊は、最新の情報によれば一部の鎌府女学院の刀使を加え、勢力を拡大させているという。

 

 「それでも、〝刀使〟だから出来ることはある、よね」

 無意識に蛍光灯の点る天井を仰ぎ見た。…………目に眩く、思わず舞衣は顔を顰める。

 

 『舞衣、大丈夫…………?』

 小さく囁くような声で、呼びかけられた。

 声の方向に顔を向けると、廊下の自販機に隠れるようにして少女が顔を半分覗かせていた。

 

 「えっ、沙耶香ちゃん? どうしたの?」

 驚いた様子で舞衣は訊ねた。

 

 「――――舞衣が、何か考えていたから」

 

 (話しかけたかったのかな?)

 舞衣は努めて普段通りの表情を作り、微笑みかける。

 「どうしたのかな?」

 母親のように優しい口調で尋ねた。

 沙耶香はゆっくり自販機から移動して舞衣の傍まで歩み寄る。

 「…………舞衣は刀使としてこの先、どう考えてる?」

  上目遣いで、真摯な眼差しで言った。

 「えっ!? どういう事? なんでそんなことを急に?」

 まるで、先程の懊悩を見透かされているような気分になり、舞衣は思わず焦ったような声になった。

 

 「…………前に、薫に教わった。よく考えて自分で斬るべき相手と向き合うこと。でもそれは荒魂だけじゃなかった」

 

 

 「うん……そうだ、ね」

 苦いものが拡がったような表情で舞衣は同意する。――それも先程まで考えていたことだ。

 

 「……同じ刀使でも、やっぱり違うのかな?」

 これまで自らの考えというモノを埒外にして、ただ己一個を機械の如く駆使してきた幼い彼女は、初めて《自我》の苦しみに藻掻いていた。

 考えたくなかったワケではない。ただ、誰も何も「糸見沙耶香」という少女について真剣に考えて寄り添う事をする大人たちが居なかったのだ。

 

 舞衣は小さく首を振って肩を竦める。

 「ごめんね、沙耶香ちゃん。今回のことは私もよく分からなくないんだ」

 弱々しく微笑みかける舞衣。それが偽らざる気持ちだった。

 「……舞衣でも、分からないの?」

 「うん、わたしなんて何も知らないことばっかりだよ」

 お姉ちゃんとして、できることなら沙耶香の悩みを受け止めたい。けれど、舞衣自身が大きすぎる悩みに対して気持ちの整理がつかなかった。

 沙耶香に対して言いようもない罪悪を感じて、無意識に舞衣は視線を外していた。

 

 「…………だったら、舞衣は一緒に考え続けてくれる?」

 ふと、沙耶香が小さな口を動かし意を決して言った。言い終わってから不安になったのか、美濃関の制服の袖を指先で摘まむ。

 その行動に思わず舞衣は目を瞠った。これまでの彼女では考えられない自発的な考え方と「誰か」を頼りに前に進む意志を示す。

 まるで、本当の妹のようだと思っていた少女の成長に舞衣は言葉に出来ない嬉しさを感じた。

 (沙耶香ちゃんも、藻掻きながら前に進もうとしてるんだ)

 舞衣は自らを勇気づけるように深呼吸をする。

 「うん、考えるね。沙耶香ちゃんがどんな答えになっても大丈夫だから。一緒に悩むよ。だって、お姉ちゃんだもん」

 そう言いながら、袖を摘まんだ小さな手を優しく舞衣が自らの掌で包み込む。

 

 一瞬、沙耶香はどう反応して良いか迷った。しかし、既に言うべきことは決まっていたように、硬い意志の眼差しを向ける。

 「……うん。いまは胸の奥が苦しいけど、……前に進みたい」

 「そっか」

 「……うん」

 そうだよね、と言って舞衣は色素の薄い柔らかい髪を撫でる。小動物のようなかわいらしさを内包した沙耶香は、目を細めて気持ちよさそうに頬を緩める。

 

 

 ◇

 東京。

 街頭の巨大なモニターでは理知的な女性キャスターが、『続いてのニュースです』と読み上げる。

 

 『えー、続いてですが、午後10時ごろに発生した自衛隊市ヶ谷基地の襲撃事件について。この襲撃に関わったとされる刀剣類管理局の維新派、代表の高津雪那氏から、報道発表があるようです』

 

 政府機関などの公式発表がなされる会見場に姿を現した女性は、きわめて画面映えのする所作で入室し、檀上で一礼した。

 それから数秒沈黙を守ったあと、取り囲む記者の呼吸を見計らって、言葉を発する。

 

 『ご紹介頂きました、刀剣類管理局維新派の高津と申します。今回の件について、皆さまに与えました混乱などに対しまして、深く謝罪させて頂きます』

 と、言いながら檀上で頭を下げた。

 それから、間をおいて頭を上げると、前面の記者たちに挑発的な視線を向けた。

 『――――そして、ここで皆さまに与えました誤解や不安を解消させるために説明責任を果たしたいと思います』

 

 

 

 



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161話

 朝。――――極東の島国に新たな陽が昇る。

 やはり、早朝の空は未だに白く、冬の乾いた空気は冷たく辺りに滞留していた。

 「……んっ、もう朝、か」と、可奈美が呟く。

 宿舎の玄関から一歩外に出れば、基地敷地内の歩哨任務を行う自衛隊員たちの姿が多く確認できた。

 

 しかし、昨夜と違い特別祭祀機動隊――――通称『刀使』の姿がみえない。

 

 昨夜、突如強襲を仕掛けた『刀剣類管理局維新派』を名乗る刀使の部隊が、自衛隊基地を守備する刀使と衝突した。……その結果、多数の負傷者を出した。

 本来彼女たちの役割は異形の化け物、《荒魂》を祓う存在である。

 現在関東一円で多発する荒魂討伐のため、伍箇伝より刀使の増援を募った。

 

 荒魂に唯一対抗できる存在である彼女たち、刀使は貴重な戦力である。それを温存するため、刀剣類管理局の指示により、早々に歩哨などの警戒監視任務から刀使たちは除外され、今は官庁が保有する宿舎や仮眠室などを利用して休息をとっていた。

衛藤可奈美もまた、例外ではない。

現役でも最高戦力の一人として数えられた彼女は、ものの数十分で警戒監視任務から除外され、そのまま半ば強引に仮眠を取るように命じられた。

タキリヒメとの会話/剣の道を究めるという事/《孤独》への恐怖/強さへの渇望/失うことの恐怖…………。

様々な思考が巡り、結局一睡もできなかった。可奈美は目の下にクマを浮かべながら、眠くもない目を擦る。

「頑張らないと…………」

自分がもっとしっかりしないと何も守れない。

思い詰めた顔で自らを戒める。

ふと、眩い太陽の光線に目を細めた少女は手で陽光を遮り、東の方角を窺った。四角いビルの尖塔群から姿を見せた完全な円形は、全てを照らし上げてゆく。

 

 甘栗色の髪は厳しい風に浚われ、乱れた。

 美しい琥珀色の瞳は形容しがたい感情を裏に隠したまま、柔和な下唇は薄い桜色を淡く色づく。太陽に背を向け歩き出す。

 いま、左手の中で感じられる御刀《千鳥》を収めた朱塗りの鞘だけが、可奈美に安心を与えた。

 

『――――可奈美』

 と、凛とした声が聞こえた。

 振り返ると、濡羽色の長い髪を流麗に流した少女が佇んでいた。

 「姫和ちゃん。どうしたの?」

 「い、いや。……昨日は、その…………よく眠れたか?」

 「うん、哨戒の任務は途中で外されちゃったけど、おかげでぐっすり眠れたよ」  

 「…………嘘をつけ。お前の目の下にクマができてる」

 「えっ!? 本当?」

 慌てて顔をペタペタ触れた。

 「馬鹿者。どうせ、ロクに眠ることも出来なかったんだろう」

 「えへへ……ばれちゃったかー。うん、本当は空き時間にも剣の練習したかったんだけど、流石に宿舎の中だと制限も多くて……えへへ」

 「まったく。そんな事だからお前は剣術バカと言われるんだ」

 「むーっ、姫和ちゃんひどいなー」

 「事実だ」

 むーっ、と頬を膨らせたまま可愛らしく睨んだ可奈美は、やがて「ふふっ」と笑い始めた。

 釣られて姫和も微笑を零した。

 「えへへへっ」

 「ふっ、まったく」

 二人はそこで初めて、お互いの視線を合わせた。

 たった数時間しか離れていないのに、まるで長い時間が経過したようだった。

 

 「ね、姫和ちゃん。せっかくだから一緒にご飯食べようよ」

 「そうだな」

 「――――その後は手合わせして欲しいなー」

 「まったく、お前は懲りないヤツだ」

 「……うん。そうだね」

 「解った。少しだけだぞ」

 可奈美は嬉しそうに頷いて「ありがとう姫和ちゃん」と満面の笑みでお礼を言った。

 「ほら、行くぞ」

 切り揃えられた前髪を右手で梳き、ローファーを鳴らして歩き出す。

 そんな姫和に、

 「…………何があっても、前に進もうね」

 と、語り掛けた。

 言葉に反応するように肩越しに顔を向けた黒髪の少女は、複雑な表情で首肯する。

 「そう、だな」

 

 

 ◇

 STT(特別機動隊)の食堂では、昨夜の会見を特集した朝のワイドショーがTV画面を通して放映していた。

 

 

 刀剣類管理局の維新派、首魁の高津雪那。

 まるで、舞台女優のように堂々とした立ち振る舞いと、記者からの質問をそつなく対応する姿は、優秀な人間であると印象付けられた。

 無数のフラッシュを焚かれても一切動じる気配がない。……むしろ、人々の注目が自身に集まっていると理解してか、大胆にも笑みを浮かべる余裕もあった。

 

『高津代表に質問です。刀使を軍事利用する、あるいは利用されるという懸念も一部では持ち上がっていますが』

 

『お答えいたします。まず、我々はあくまで警察権の一部を有する組織に過ぎません。人間同士の戦力として考えれば、論外です。あくまで刀使は荒魂を祓う存在に過ぎません。むしろ如何にして軍事利用をできるか。根拠のない憶測は、悪意のある風説と同じです。我々の役割は、改革です』

 

『改革、ですか。具体的にお願いします』

 

『現在の刀剣類管理局はあまりに、不透明です。例えば昨日も八丈島から銚子沖の間を航行する米国籍の潜水艦がありました。――――しかし、我々維新派の調査によれば、本来は米国籍ではなく、不審船として処理される筈だった。なぜ急に、米国籍の潜水艦となったのか? 原子力潜水艦と刀剣類管理局は、通信記録を辿ると連絡をとっていた。……不審な点はいくつもあります。このような不透明さのまま、一般市民を守れると思われますか? また、記憶に新しい「鎌倉特別危険廃棄物漏出問題」について、全く説明責任を果たせていません。どこに、そんな組織を信じるというのです? 我々は必ず説明責任を果たし、皆さまの信頼を勝ち取ります』

 

 一度も言い淀む事もなく説明する雪那の気迫に押された記者たちは水を打ったように静かになった。

 

――――会見場は、いつしか独壇場となっていた。

 

 

 ワイドショーでは、コメンテーターやアナウンサーが映像について様々に語り合っている。

 

 

 

 モニターのある食堂は俄かに、活気づいていた。

 朝の訓練を終えたSTTの隊員たちは様々な意見を言い合いながら会見の様子について、感想を話しあっていた。

 皆、様々な意見があるにしろ、まるで茶化すように軽い気持ちで隊員たちは語り合っていた。

 

 

 しかし、ただ一人だけ真剣な様子で画面を見ている男がいる。

 彼、STT隊長(D部隊)の田村明は冷水を呑みながら画面を睨む。

(まったく、ふざけてやがるッ!)

 肚の底から怒りを抑えながら明は暴発寸前の苛立ちを呑み込む。

 色々と高津雪那という女性について言いたいことはある。しかし、何よりも舞草の里襲撃の作戦に関わっていた可能性がある…………そう聞くだけで、明は冷静ではいられない。

 

 あの時、STTという駒として刀使に銃口を向けようとしていた。

 

 本来守るべき人々に向けた銃口の行く先が、罪のない人々だった。

 

 維新派を標榜する彼女は予め用意していた動画を使い、〝近衛隊〟と呼称される部隊の説明を行っていた。

 

 しかし、明には細かな説明など意味がない。

(――――要するに新しい手駒って事だよな)

 以前の自分たちと同じように、今度は異なる手法で彼女たちは駒を用意した。そして、「命令」するだけで、近衛隊の刀使たちは刃を向ける――――たとえ同じ刀使であっても。

 

「クソが」短く吐き捨て、明は煙草を吸いに外へ出ようとした。

 

 出入口でちょうど、同僚と鉢合わせした。

「おお、どうしたそんな怖い顔して?」

「なんだ、お前か――――いや、コレだよ」

と、言いながら煙草を吸うジェスチャーをした。同僚の男は「ああ」と納得して破顔する。同僚の男はふと、明の背後で流れるTV画面の映像を一瞥した。

「昨日の会見だなー。まったく、俺たちに関係ない話だといいんだがなー」

「フン」

「どうした? 機嫌悪いのか?」

「さぁな」

「しかし、どちらにしても、刀使に銃口向けろって命令だけはイヤだなー。ほら、俺娘いるじゃん? まだ小さいけどさ、でもなんかさー。嫌だよ。本当に。命令ってヤツは仕方ないのは頭で分かってても、なんか嫌だな」

「……だな」

「願わくば、平和であってほしいなー」

「じゃあ、煙草行く」

「ああ、呼び止めて悪いな」

「いや、いいさ」

 

 廊下を歩きだした明は両手をポケットに入れ、喫煙所へと赴く。

 

 ――――あ、そうだ。

 と、背中の方から思い出したような声音が聞こえる。

 「おーい、明」

 「っち、なんだよ?」

 不機嫌そうに返事をした明に、同僚の男は煙草を吸うジェスチャーをしながら、

 「禁煙するつもりないのか? 年とると色々不便だぞ」

 「馬鹿いうな。俺は毎日禁煙してるんだ」

 「禁煙と一緒に喫煙できるなんて器用な奴だな」

 「そうだな。口と鼻の孔があるから吸う時と吐く時は別々にすればいいんだ。お前こそ飲酒はいいのか?」

 「俺も同じもんさ。口から酒をいれて、同じ口から戻せば禁酒できるんだ」

 

 「ったく、ロクでなしだな」

 「お互い様だろうに」

 肩を竦めて男たちは皮肉な笑みでお互いの変わらない馬鹿さ加減を確かめあった。

 



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162話

急ピッチに終わらせていきます!


 

 その日、冬の到来を告げる木枯らしが吹き、都心には寒波の訪れを予感させる分厚い鉛色の雲層が空を覆った。

 

 

 十二月某日。年末商戦にむけた商品広告や人々の賑わう喧騒が渋谷の中心にあった。スクランブル交差点では、行き交う人々の雑踏に紛れ、大音響で広告の音楽が流れ、大画面のモニターにはCMが放映されていた。

 クリスマス、そして年末年始。

 イベントを迎えるために浮かれ、忙しく歩く足が無数に舗道を埋め尽くす。まさに「群れ」と形容するに相応しい様子だった。

 

 

 《道玄坂》方面から冷やかな眼差しで交差点を眺める人影があった。

 

 

 〝ニエ〟

 と、呼ばれる少年だった。

 腕組みをしながら人間たちをまるで虫けらでも見るように見ていた。

 その彼の外見は印象的であり、新雪のように白く、髪や肌、全てが「白色」で統一されていた。唯一、その瞳だけが真紅である事で神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 薄い唇をニィ、と不敵に歪めて交差点の方角へと歩き出した。

 ――――ニエ、はその肌と同じ白地のフード付きマントを翻しながら歩を進めた。

 その右手には円形の…………ダークリングと呼ばれる器具を握りながら。

 

 ニエの左耳にはインカムが付いている。

『定刻になれば、発動しろ。いいな?』

 インカムから男性の声が聞こえた。彼の指示を当然のように頷き「解りました」と返事をしながら顎を上げてモニター付近にあるデジタル時計を一瞥する。

 午前十時半。

 あと、数分。その時間でこの「リング」を発動させる。

 ニエの左腕には、異形の腕が掴まれていた。肘から手先までの部分を持ったニエは、リングの持ち主だった「ジャグラー」と名乗る異星人の腕を切り落とし、リングを奪い取った。

 本来、彼はこの次元の住人ではない。しかし、タギツヒメの策略により『ある媒介』を使用し、異次元より召喚させられた。

 

 …………その目的は単純明白である。百鬼丸を抹殺させるために呼び寄せた。

 彼は自らの奪われた四十八箇所を奪った荒魂たちを討伐するため、その元凶となったタギツヒメを討伐するために行動している。

 

 百鬼丸の存在を恐れたタギツヒメは異世界より、戦力を揃えようとした。

 (あんな存在は、我々と比較しても恐れる存在ではない――――。)

 ニエは苛立つ。

 あまりに、他の連中が百鬼丸という存在を恐れすぎている。能力でも性能でも「我々」の方が上なのだ。

 

 ――――――と。

 ニエの頬に冷たい感触がした。ふと、曇天を見上げると、ゆらゆら綿片のようなモノが降ってきた。

 東京都心では珍しく、小さな雪が降り始めていた。「雨」と「雪」の中間に位置するような白い断片が僅かに街を濡らしてゆく。

 渋谷の街を行く人間たちは上空を仰ぎ見ながら、口々に嬉しそうに喋っていた。

 

 

 『ニエ。時間だ。やれ』

 インカムの男性は無感情な声で命令を発した。

 

 ニエは多数の人間がすれ違う交差点の中心地まで辿り着くと、フードを払う。純白の長い髪が外界に露出した。

 その透明度に彼の傍を通った人間たちの視線を奪い、一身に注目を浴びる。

 ジャグラーから切り落とした腕をリングの持ち手部分に触れさせながら、〝ある怪物〟の名前を頭の中に思い浮かべた。

 

 「――――――。」

 ニエが声を発した瞬間、半径十五メートル範囲では強烈な閃光が拡がる。その眩さは網膜を焼く錯覚を周囲に与えた。

 

 一〇時三十五分、ここから世界に終わりを告げる一連の序曲が始まった。

 のち、この渋谷を中心にした混乱を「渋谷巨獣事件」と呼ばれる惨禍として語られることになった。

 



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163話

――――この門を潜る者、一切の希望を棄てよ


     ダンテ・アギリエーリ『神曲』



 二〇一八年、一〇月五日。

ハップル宇宙望遠鏡が補足した地球外の画像には、不思議な軌道を描きながら地球に接近する飛星が確認された。この星の出現は全くの予想外であり、地上の観測者たちは軌道計算ではあり得ない動きに驚愕しつつも、地球の最接近までに五〇年はかかるため、即自的な対応を見送った。

 

ちょうど、この時HST(ハップル宇宙望遠鏡)は旧式のジャイロが以前の故障部分と合わせて3基が完全停止した。以後は改良型のジャイロを用い、HSTはセーフモードへ移行した。

 

それから2か月後。

 

 

 現在から数えて6600万年前、中生代。

 この時期はちょうど「恐竜」と呼ばれる巨大生物たちが地上を支配していた。

 人の祖先となる生物は非力であり、巨大生物の足下を身を竦めて素早く走り回る存在に過ぎなかった。

 二酸化炭素濃度は今よりも濃度が高いと考えられ、しかも太陽光は現在よりも弱い……いわゆる『暗い太陽のパラドクス』などの問題があるにも関わらず、巨大生物たちが陸海空で繁栄を謳歌していた。

 

 しかし、巨大生物はある時期を境に、姿を消した。

 

 そんな生物の系譜上途絶えたと考えられた〝怪獣〟が21世紀の地上に姿を現した。

 

 その名を「バラゴン」と呼称された、その生き物は恐竜たち巨大生物たちと同様に地上から姿を消した筈だった。

 

 …………その筈だった。

 

 のち、「獣害検証委員会」の資料によれば、身長26メートル、体重は245トン。

 紛れもない、悪夢のような怪獣であった。

 

『ギァオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』『ギャオオオオン、ギャオオオオオオ!!』『ギャオオオオン』

 

耳を劈くような激しい咆哮が、十二月の東京都下の空に響き渡った。ある生存者の証言によれば、怪獣は天空に向かい七度吼えたという。

 

奇しくも、黙示録に登場する破滅のラッパも七回吹かれると、この世の終わりを示すと伝わっている。……しかし、この化け物には人の考えなど及ばない。

 

暗褐色の皮膚は硬い岩を連想させ、巨大な頭部の鼻上には光る角が禍々しく輝いた。突如、渋谷のスクランブル交差点に出現したこの怪物は、まず、地底から凶悪な前脚と頭を出した。アスファルト舗装された道路は瞬く間に破壊され、すり鉢状に陥没した地形は、多くの人々の逃げ場を塞いだ。

 

 

日本における獣害被害で、有名なものは「三毛別熊事件」がある。死傷者合わせて10名近い被害を出した国内最大の獣害事件の羆は、体長2・7メートル、体重340キロにも及ぶ。

 

しかし、件のバラゴンはそれよりも遥かに巨大であった。

 

 この悪夢のような怪獣が出現した時、既にバラゴンは新鮮な「肉」を求め、逃げ遅れた人々へと凶悪な牙を剥いた。事件発生から僅か2分の出来事である――――。

 

 

 渋谷警察署では当初、この怪獣が「荒魂」であるとの判断を下し、STTの支援要請と刀使の応援を求めて連絡をとり、一般市民の避難誘導をするべく、警察官を出動させた。

この日、すぐに動員できる限りの警察官約50名近くを招集し、スクランブル交差点方面へと向かわせた。

 

合わせて、ハチ公前の広場には交番もある。

交番から現状把握をしつつ、荒魂からの災害対策へと切り替えようとしていた。

――――ただし、それが荒魂であれば、意味のある対策であった。

 

 

長い年月を地下で過ごしていたバラゴンは、本来の肉食性の性質に従い、新鮮なたんぱく質を貪り食らう。

 

 バリバリ、と太い木枝を無数にへし折るような不気味な音が重なり合う。阿鼻叫喚すらも聞こえぬ程、盛大な咀嚼音だった。食事を終えたバラゴンがゴクリと嚥下するまでに「悲鳴」は全て呑み込まれていった。

 下顎に滴るどす黒い血は、唾液と混ざって粘性の高い液体として赤い糸を引いた。

 

 『ギャオオオオン!!』

 

 バラゴンの鋭い牙の間から、人が助けを求めて伸ばしたはずの腕〝だけ〟が見えた。しかし、歯に挟まっただけの腕はすぐに、地面へと吐き捨てられた。

 

 グチャッ、と湿った音を響かせながら、千切れた腕は無残にも地面に転がる。

 

 バラゴンは巨大な眼球をギョロ、ギョロ、と動かして周囲の気配を窺う。完全に捕食者であり、この地上で「人種」よりはるか上位存在であることを示すように、埋まっていた下半身を無理やりに抜け、地上へと完全に乗り出した。

 

 

 荒魂の発生時マニュアルは全ての官庁、自衛隊・警察などに配布されていた。そのため、特別祭祀機動隊との連携を速やかに行う事ができた。

 しかし、事件後の検証委員会の議事録では明確に「荒魂と誤認した事による重大な初動対応のミス」と記されていた。

 

 

 

 



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164話

 百鬼丸が戦うのを、燕結芽はただ見守ることしかできなかった。否、正確に言えば余りに短い出来事に介入する余地が無かった。

ただでさえ、轆轤秀光という男によって「治療」された後である。病み上がりの病人のような体力では加勢したくても不可能だった。

 

 結芽は刀使として、優れた剣士として、幼いながらも戦闘力は多くの人に評価されてきた。――しかし、百鬼丸と御門実篤の戦いだけは違う。他の何者も寄せ付けない「生き様」と「生き様」の対決だった。

 

「百鬼丸おにーさん」

 幼い胸に、去来したのは悲しさだった。

 

 異形の者同士のぶつかり合いを初めて目の当たりにした。こんなに悲しい存在同士がぶつかることにショックを受けていた。

 

 仄暗い闇と微かな灯りに時折、閃く剣戟の火花。

 決して地上の日の光を浴びることのない者同士の命のやり取り。

 戦う事でしか「自身」の存在証明をすることができない存在。

 かつて、そんな生き様をしてきた結芽にとって、胸の締め付けられるような光景だった。

 

 

 ◇

 

三分三十二秒。

 それが、御門実篤と対話し命を奪うまでの時間だった。

 七〇と余年に及ぶ地下での戦いを終えた一個の男は、全てをやり終えたように静かに死んだ。

 「もう、アンタは戦わなくていいんだ…………」

 百鬼丸は石化した《地下の番人》に語り掛ける。

 長い前髪を垂れ、表情を隠しながら少年はうつむき加減に実篤という男を偲ぶ。

 もし、人の一生というモノが《運命》によって定められているならば、生きる道筋から逃れる事は出来ない。

 それでも、己の役割を最後まで忠実に果たした男に、百鬼丸は複雑な感情を抱く。

 

 …………どうして、運命に忠実に従うことができたのか?/なんでおれに誰かを守れと言ったのか?

 

 「チッ、柄にもなく考えるのはヤメだ」

 悪態をつきながら、石像――――と化した実篤の分厚い胸板に深々と突き刺さる左腕を引き抜こうとして左腕の刃に目線を向けると、気が付いた。

 「この《無銘刀》はもう使えないな…………」

既に何ら神性すら帯びず、単なる鉄の塊となった刃が百鬼丸の顔を反映させた。

 その疲労しきった顔に、思わず自分自身で笑いたくなるくらいだった。

 

 

 

『…………ッ、殺すならば殺せ! その左腕でなァ!!』

突然に柴崎岳弘――が叫んだ。

 

 彼の切断された腕の部位からすでに、黒い色と橙色のラインが幾重も血管のように走った歪な形の腕が生えていた。

 

 岳弘は両膝を地面について、激痛に呻きながらも憎悪の塊と化した怒声で百鬼丸を挑発する。

 

 憎しみきった岳弘の視線の先には、巨大な石像の胸に刃を貫いた状態で数十秒動きを止めた少年が居る。

少年は微かに横へ顔をむけた。

 「――――悪いけど、この刃はもう使えない」

 そう言いながら、百鬼丸は二の腕から肘の部分で装着していた金具を右手の指で外し始めた。

 日本刀における、《茎》と呼ばれる箇所を左腕から滑るように取り外す。

 普段は柄巻きなどに覆われている部分である。目抜き釘の孔に嵌っていた最後の金具を抜いて、ゆっくり、――――無銘刀を引き抜いた。

 

 既に刃からは何の神性も感じられず、単なる金属の塊という印象しかない。

 役割を終えた刀剣は、静かに石像の胸に刺さったまま、これまでの激戦を偲ばせる刃毀れなどは一切見当たらなかった。

「……お疲れ様」百鬼丸は、幼い時から共に戦ってきた友に語りかけるように囁く。

 それから首を岳弘の方角へ巡らせ、口を開いた。

「アンタの構えた銃、実弾入ってないよな?」

「――――っ!?」

 岳弘は弾かれるように驚いた。

「アンタは最初から誰も殺すつもりはなかったんだよな? ……だからと言ってアンタをブチ殺さないワケじゃない。――――なんでおれがアンタを生かしているか、自分でも解らなかった」

 

「どういうつもりだ? あァ?! おい、上から目線でお説教か? お前がいままで奪ってきた命と同じようにオレを殺せッ!! さもなくば、お前を……」

 

「殺す、って? 違うよな。アンタもう本当は動けるよな? でも反撃もしない。なんでだ?」

 チラ、と目線で切断した腕から銃が消えている事を暗に示す。

「チッ、鋭いガキだなァ…………テメェの脳みそをブチまけるチャンスだったのによォオ」

 左腕が後腰のベルトに挟んだコルトパイソンの銃把に手をかけていた。

「アンタもおれの肉体を喰った奴でいいんだよな?」

「お前の肉体かァ――――ああ、そうだな。うまかったぞ。特に純粋な赤子というのは汚れなく、柔肌で美味い。あははは」

 

 「――――そうか」

 少年はそれだけ言うと、瓦礫の山から下りて岳弘の方へ距離を詰める。

 感情のない目で、百鬼丸は地面に膝を屈した男を見下す。

 百鬼丸は、腰に佩いたもう一つの刀――――オリジナルの《無銘刀》の柄に手を乗せる。

 男と同じ目線になるように膝を曲げて、少年は鋭い眼差しで真っすぐ見据える。

 「なんだァ? 刺殺か。はっ、芸がないがマアいいだろう。やれ!」

 不遜な態度で岳弘は百鬼丸を罵倒する。

 しかし、一切の反応をせずに少年は岳弘の耳元へと顔を近づけた。

 『――――、――――……………。』

 ぼそぼそ、と何かを小声で早口に喋っている。

 岳弘は百鬼丸のいう言葉をはじめこそ、馬鹿にして聞かなかったが、暫くすると彼の言葉の真意を理解して――――思わず「お前、正気か?」と訊ねた。

 むろん、少年が正気である筈がない。――――修羅道の体現者となりつつある彼には伊達や酔狂こそあれど、正気というブレーキが無かった。

 

 

 最後に数語言い残して、百鬼丸は岳弘と顔を合わせ、莞爾と口を曲げた。

 「――どうだ? アンタにしか頼めないことなんだが、やってくれるか?」

 呆気にとられていた。柴崎岳弘という存在を騙った荒魂は、この目の前の少年に、畏怖すら感じていた。

 「お前は本当に正気じゃない……おかしいんだ」

 「ああ、おれはとっくにオカシクなってんだな」

 岳弘の肩を二三度叩くと、そのまま踵を返して歩き去ろうとしていた。

 「おい、お前。背中から撃たれる心配はしないのか?」

 肩越しに振り向いた百鬼丸は――――、獰猛な皺を眉間に刻み、

 「やるならとっくにアンタの首を刎ねてるよ」と、言い残した。

 

 

 殺されずに残された岳弘は、しばらく少年の背中を眺めながら彼が耳元で語った内容について、丹念に咀嚼するように考えを巡らせた。

 

 ◇

 

 

 「うへぇ、疲れた…………」

 ふらつく体と滲む視界の焦点を必死に合わせながら、百鬼丸は溜息を零した。

 

 『百鬼丸おにーさん!!』

 背後から幼さの残った声で呼ばれた。

 声の方に振り返ると、燕結芽が居た。彼女は戦い終えた少年に歩み寄ろうとしていた。

 「来るなッ!!」

 「――――ッ、」

 突然、大声で叫んだため結芽は一瞬、驚いて立ち止まった。

 「なんんで……? どうして?」

 さきほどまで、あれほど優しかった百鬼丸に拒絶されたと思った結芽は、悲しさを押し殺したような表情で瞳を動揺させた。

 

 「ごめん。いきなり大声で。……けど、悪い。おれさ、滅茶苦茶汚れてるからさー。汚いんだぜ、あははは」

 誤魔化すように空虚な笑いで肩を竦める。

 「き、汚くなんてないよっ!」

 「…………ありがとな。そんでごめんな。もう、おれに近づかない方がいい」

 「分からないよっ、どうして……? 私のこと嫌いになったの?」

 「――――結芽はさ、将来どうなりたい?」

 「…………? 急にどうしてそんなこと聞くの?」

 「お願いだ。おれに聞かせてくれ」

 「……分かんないよ、だってそんな事考えたことなかったし――――それに、将来のことなんて考えても辛くなるだけだから…………」

 「もう今の結芽なら大丈夫だろ」

 「うん、でも……分かんないよ」

 「おれさ、お前にはもっと楽しく生きて欲しい。こんなどうしようもなく、闇の沼みたいな所に居る存在とは違う、しっかりとした陽の光を浴びた世界で生きて欲しいんだ」

 「そんなことない! 百鬼丸おにーさんは…………」

 「ありがとな。でも聞いてくれ。あの日――――、折神家に襲撃した夜、お前が死にかけた時さ。偶然お前の記憶を見ちまったんだ。夜桜のもとで、親衛隊の連中と楽しくやってる映像がさ、見えたんだ。本当はああやって笑っている顔が一番いいんだって。そう思ったんだ。――だからおれみたいな、ヘンテコな生き物と出会ったこと自体が不運だと思う。……そこは、悪いと思っている。でも、まぁそんなヘンテコな生き物を慕ってくれたからさ」

 喋りながら、百鬼丸は暗闇の中へと逃れるように歩き始めた。

 「化け物からのお礼だと思って、〝寿命〟をキチンと使い切ってくれ」

 少年の淡々とした口調を聞くたびに、結芽は彼と出会い剣を重ねた記憶が次々と思い浮かび、どうしようもない感情に襲われた。

 

 「……そんなことないよ。だって、ここまで私を助けに来てくれた」

 

 「そういや、そうだったな! あははは、そうだ。助けれたか分かんねーけどな! おい、真希、寿々花! くたばってないよな?」

 

 結芽から一八メートル離れた位置に、満身創痍の元親衛隊、一席と二席に向かって呼びかけた。

 

 「ああ」

 「ええ」

 両名共に、頷く。

 ふたりは百鬼丸と共に結芽を助けるべくこの場に来たのだ。彼女たちも結芽と同様に、疲労と怪我によってその場を動くことが出来なかった。

 《あとのことは、頼む》

 テレパシーで百鬼丸は真希と寿々花に意志を伝えた。

 目まぐるしく状況が変化しており、真希も寿々花も頭が追い付いていない。現状把握が難しいなかで、更に追加で百鬼丸の伝言に、頭が混乱して理解できなかった。

 それでも彼が懸命に伝えた言葉には、重みがあった。

 

 

 「君の意志を尊重しよう」真希が、闇に隠れた少年に同意した。

 「…………最初、出会った時は正直、わたくしは貴方が嫌いでしたわ。それでも、誰かを守るために戦える姿には、少しだけ憧れを感じましたわ」

 寿々花は瓦礫と土砂に汚れた頬を手甲で拭い、ワインレッドの毛先を指先で摘まんで弄ぶ。

 

 《もっと褒めてくれてもいいぞ》

 

 「ふん、あまり調子にのらない事ですわ」

 「君は……もうどこかに行くのか?」

 真希が何かを察したように尋ねる。急いでいるような、そんな態度を感じたのだ。

 

 《うん、まあな。また殺し合いだぜ!》

 努めて明るい口調。

 

 「……そうか。ボクが言える立場じゃないが、君の生き方はかなり不器用なんだな」

 

 《あはは、確かに真希には言われたくないですなー。…………多分、アンタたちとはここでお別れだ。だから、お願いだ。おれの存在は綺麗に忘れてくれ。それだけが、おれの望みだ》

 

 「「――――――。」」

 

 真希も寿々花も、両名は理解した。彼は本当に二度と自分たちの前には現れるつもりはないと。

 

 

 

 「ねぇ、百鬼丸おにーさん、どこ? いまどこに居るの? 返事してよぉ、どこ? ねぇ? どこ?」

 まるで幼い子供のように百鬼丸を呼び続ける結芽。彼女にはテレパシーを通しておらず、二人との会話が聞こえていない。

 

 「ああ、悪い悪い。寝てた」

 「…………ッ、ばか! おにーさんのばーかっ!」

 「うひひっ、おっかねー。じゃあ、行くよ。あばよ、結芽。元気でな」

 

 「ねぇ、待って! 置いていかないで…………もう、私を見捨てないで……」

 

 《お前はもう一人じゃない。親衛隊の連中がいる。お前はここまで頑張った。きっと、もっとお前を大切にしてくれる奴がきるさ》

 

 「どうして、百鬼丸おにーさんは一緒に居てくれないの?」

 

 《…………――――。もっと強くなったらな。相手してやるよ。それまで待ってろ。あとガキんちょに興味はねーんだ。グラマーボディーの美女がおれの好みだからなー。へへっ、すまんな》

 

 「……じゃあ、なる」

 

 《――へっ?》

 

 「私、もっと強くなってすっっっごく強くなって、それで、ぐらまらす――なんとかになって、百鬼丸おにーさんを見返すからっ!!」

 

 《おー、そうか。そりゃあ楽しみだなー》

 

 「それでも戦ってあげないけどねー♪ どう? 悔しい? ねぇ?」

 

 《あはは、そうだな。悔しいな。ちくしょう、未来のグラマー美女にフラれちまったかー》

 

 「……うん。もう百鬼丸おにーさんなんか相手にしてあげないから!」

 

 《――残念だなー。んじゃ、行くわ。あばよ!》

 

 その言葉を最後に、結芽の周囲から少年の気配が消えた。

 

 百鬼丸の気配が消えたと同時に、それまで張り詰め続けた偽りの感情が、糸でも切れるように途切れて緩んだ。

 

 幼い少女はその場に膝から崩れるようにヘタりこんで、込み上げてくる悲しさと寂しさを押し殺すように「……うそ、だから。百鬼丸おにーさんといつでも戦ってあげるから」と、小さく誰にも聞こえないように呟いた。

 

 

 

 ◇

 

 少年――――百鬼丸は、地面に投げ捨てた義手を回収して地上へと向かう事にした。既に地上には歪な生き物の気配が感じられていた。

 恐らく荒魂の類ではない。

 左腕の刃は既に地下へと置いてきた。頼れる武器は初代百鬼丸の用いた《無銘刀》であり、魑魅魍魎を多く切り伏せた危うい武器である。

 

 この武器は、異形の生き物の血を好む魔剣となり、持ち主すら蝕む恐るべき武器となっていた。

 

 しかし、今の彼には諸刃の剣として、左の腰に佩き携えている。

 

 

 黒いタンクトップは土泥で汚れ、軍用ブーツも底が擦り切れている。一見して浮浪者のような風体にすら見えた。

 

 それでも百鬼丸は歩みを止めず、地上を目指して長い上り階段を駆けあがる。

 

 「待ってろ糞野郎ども。おれがこの手で全部ブチ殺してやるからよォ!」

 爛と光る両目には、闘志の炎が漲っていた。乱雑に後ろ髪を布切れで結び直し、地上を目指す。

 



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165話

 ぽちゃん、と水音が聞こえた。

 息を潜めて低灌木に身を隠した少年は体を硬くした。急ぎ目を細め、音の方に細心の注意を向けた。

 

 野生動物の蹄に弾かれた小石が川面に落ちた音らしい。――その生き物「カモシカ」は俊敏な動きで軽やかに山道を進む。

 

(あいつの肉は丁度食べごろだな…………。)

 

 少年――――百鬼丸は、値踏みするような目つきでカモシカの臀部を眺める。蠱惑的に揺れ動く後ろ足が非常に魅力的だった。

 

 ぐぅ、と不意に空腹が鳴った。

 

 舌を舐め、右腕を噛む。スラリ、と刃が現れた。刀身は金属の光沢の艶を消す独自の油を塗っていた。

 

 左手で加速装置のリミッターを外し、一気に距離を詰めて仕留める。

 既に脳内で狩りの計画は終えていた。あとは素早く仕留めるだけ。

 

 百鬼丸が更に身を低く地面スレスレにまで姿勢を落とすと、頬に冷たい感触がした。

 

 新雪の結晶が頬に当たり、水滴になったようだ。

 

 ――――初冬。

 

(もうそんな時期になるのか。)

 柄にもなく感傷的な気分に浸った。だが空腹は満たされない。

 キィィィン、と甲高い耳鳴りに似た音がする。野生動物は「音」に敏感だ。この時点で既に気付かれているだろう。

 

(一気に決める)

 

 飛び出すと同時に、カモシカの太い首が後ろを振り向いた瞬間。

 地面を蹴る直前、左手で拾い上げた小石を投げカモシカの注意を逸らす。その間、加速装置によって宙を浮くように移動し、鈍色の刃を閃かせる。――刹那、逃げ遅れたカモシカの喉元に切っ先を突き刺す。

 

 上手く刺さったらしく、鮮血が噴き出すこともなく絶命させた。

 生命を奪った感触は無い。ただ肉塊を突き刺した感じが腕に伝うだけだった。

 

 冬は匂いが消える。「無」の世界に似ていると、百鬼丸は思った。

 

 やがて、山々は雪化粧を施して何もかもを覆い隠すだろう。そうなれば食い物は絶無と言って良い。だから今は、保存食の確保が最優先となる。

「ふぅ、大物だな」

 刃を引き抜きながら仕留めた獲物を一瞥する。はやく血抜きと内臓処理をしないと干し肉にならない。…………それに、燻製にする場所まで持っていくのに時間もかかる。

 

 

 自然の世界に生きるという事は、命を奪うという事だ。

 当然だが、生きることに遠慮はいらない。

 ただ強い者が奪い弱い者が奪われる。それだけのシンプルな世界観。一切の同情や憐れみなど介在する余地がないのだ。否、それこそが合理的な自然界の摂理。

 …………だから、奪う事に躊躇してはいけないのだ。

 なぜなら、己もいつかは奪われる対象になるのだから。

 

 

 それが幼い頃から経験で体に覚えさせてきた掟。

 

「じゃあ、頂きます」

 光を失った瞳のカモシカを眺めながら一言、少年は呟いた。

 

 

 

 ◇

  百鬼丸は長い階段を上り終えると、海風に運ばれた潮の匂いが鼻を打つ。

 「海が近いのか」

 真っ暗な通路の最奥には、四角の光が満ちていた。恐らく出口だろう。

 ひゅううううううう、と烈風の激しい音が笛の音色に似て出口から聞こえてくる。疑似的な聴覚には砂嵐の混ざった感じに変換された。

 

 歩きながら思う。…………一体、どの臓器が戻り、どの臓器を失ったのか。それは自分でも解らない。

 

 ただ、普通の人間であれば本来は取り戻すというバカげた行為などしないでいい。全て最初から揃って「当たり前」なのだ。むしろ、一部でも欠けている方が不自然であり、四十八箇所も失っていた自分は、文字通り空っぽな存在だった。

 

 

 義父、橋本善海の与えた疑似的な肉体部位はどんな時でも優秀に機能している。問題などない。

 本当であれば、全て奪い返す意味もないのかも知れない。

 ただ、生きるだけならば多くの困難や苦痛に耐えなくても良いのかもしれない。

 

 

 ――――どうして、おれは肉体を奪い返すんだろう。

 

 百鬼丸は歩きながら不意に疑問が脳裏に浮かぶ。なぜ執拗に体を取り返そうとするのだろう。

 自分の肉体だから奪い返す?

 たったそれだけの理由で苦しみを味わうのか。何度も何度も激痛に耐え、殺した相手の記憶を継承しながら戦わなければいけないのか?

 

 時々、自分が誰だか分からなくなる時がある。

 

――――おれは一体何者なのか。

 

 

 

 この体も記憶も、もしかしたら全部別人のモノなのかもしれない。

 そんな不安が襲ってくる。

 確実なモノなんてない。ひたすら足掻いて、藻掻いて何かをつかみ取るしか道がなかったのだから。

 

 だから戦う。争い、戦って、戦って、奪い取る――――。

 

 

 戦いは麻薬だ。

 特に、目的が手段となった場合は最悪だ。

 最初にその快楽を知ってしまえば、あとの後遺症などお構いなしに「行為」を繰り返してゆく。それが癖になって、習慣になる。

 

 

 

 百鬼丸は通路の出口から外に足を踏み出すと、東京湾を一望できる場所に佇んでいた。

 「――――。」

 あの地下で、どれくらい時間が経過したのだろう。

 たった2、3時間かもしれない。

 「どうだっていいよな」百鬼丸はキョロキョロ首を動かし、現在地を把握する事に努めた。

 

 品川埠頭。

 

 ここが、東京湾の一角に面していると理解するのに時間は要らなかった。

 

 百鬼丸は地下に潜る前にコンビニで売られていた地図を大量に記憶、地理を把握していた。自然界で生きていれば、地名など分からない。ただ特徴的な山や場所を覚えても、位置が変われば、すぐに分からなくなる。その点、都市は楽だった。地名と方角さえ知れば迷うことはない。

 

 

「とりあえず、移動手段が欲しいな」

 バイクがいい、と百鬼丸は思った。

 疾駆する瞬間、スピードに身を任せる感覚、どれも抗いがたい魅力で満ちている。

 

 橋を見上げながら少年は、動きだす。

 

 



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166話

 まるで、豪奢な宮殿の一室を模したような部屋は、刀剣類管理局の維新派――――その実務全般を取り仕切る事実上の指揮所となっていた。

 現在、タギツヒメを擁する維新派は体制への攻勢を仕掛ける準備を行っていた。

 しかし、そんな危うい雰囲気など無縁な場所とすら思われる高級ホテルの一角で着々と計画が遂行している。

 

 室内の調度品の一つひとつは華美な装飾は施されず、すべて簡素に、しかしその確かな素材の質感を生かしたデザインとなっていた。

 革製の極上の座り心地を追求した椅子に座った女性は、その一切の高級な空間に身を置くにも関わらず、心が安らぐどころか苛立ちが増していた。

 「はぁ!? 荒魂が渋谷に出現した? しかも人を食い殺している? ――――そんな話聞いたことがないわ!! 真面目に報告ぐらいできないのッ?」

 目前にいた伝令役の綾小路の冥加刀使は、思わず身を竦めた。

 高津雪那は怒鳴りながらも、速報で伝えられた化け物について混乱していた。

 

 (あり得ない、荒魂が人を食うなんて話…………もしかして――――)

 雪那は心臓の心拍数が上昇するのを感じながら、「ある人物」に連絡をとるため電話を手にした。

 

 「もしもし、轆轤局長?」

 『ええ、私です。いかがされました?』

 あくまでも穏やかな声音が一層、この男の不気味さを際立たせる気がした。……この男相手には隙を見せてはいけない。雪那は椅子に深く腰掛け軽く息を吸う。

 

「――――率直に聞くわ。渋谷の化け物について知っているでしょう? 全部教えなさい。アレは何?」

 

『アレ、ですか。私も詳しい正体までは知りません。ただ、荒魂ではないというのは貴女にも理解できますよね?』

 

 雪那は瞬時に理解した。この男が関わっている、と。いくら日本国の中枢にいる役人でも、こんな不測の事態であっても、余裕を持って会話ができる筈がない。

 

「チッ、こんなことして、計画が全部台無しになったらどうする気なのッ!?」

 

『計画……ああ。いえ、大丈夫ですよ。私が考えているのはあくまで、〝アレ〟の抹殺のみ。そして計画とやらの障害になるのも〝アレ〟ですよ。始末しなければ。貴女は自ら手を汚すのがお嫌いですから、汚れ仕事は私が全て受け持ちますよ。気が楽でしょう? それと近衛隊の刀使は出動させなくて結構。すぐにアレが駆け付けますからね。』

 

 あははは、と笑いながら轆轤秀光は電話を切った。

 

(一体何なの、この男は!? 狂ってるッ、マトモじゃない)

 

 額を手で抑えながら椅子に深く腰かけた。

 

「いかが致しましょうか?」伝令の刀使が不安げに聞いた。

 しかし、声は雪那の耳に届かず親指を噛みながら苛立ちを抑える。

「…………そうよ、今回の件はコチラの責任ではないもの。近衛隊は出動しなくていいわ。貴重な戦力をアイツら以外に使ってなるものですか。ヒメと、私の夢を潰すワケにはいかないもの。ええ、そうよ」

 

 彼女の中にあったほんの少しの良心の呵責から逃げるように、ブツブツと独り言を漏らして引き攣った笑みを零す。

 

「全部隊に通達。渋谷の化け物は相手にしなくてもいいわ。……そうね、せいぜい避難誘導くらいは人員を回せるかしら」

 その位はしないと国民の反感は買うだろう、という雪那の計算のもと指示が下された。

 言い終わってからふと、

 「とはいえ、あんな化け物も荒魂として認識されてしまえば、自衛隊は軽はずみに動かせない。あくまで治安維持上の問題……考えたわね」

 改めて冷徹な男に、畏怖を覚えた。

 

 

 

 

 ◇

 某、民放放送会社のスタジオ。

 急遽決定した放送によって、スタッフたちが慌ただしくスタジオ内を歩き回るなか、一人の男が冷静に首を軽く振る。

 電話を終えたあとの轆轤秀光は冷酷な光を瞳に宿しながらネクタイを締め直して髪を整える。

 「TV放送用の準備はできているかい?」

 側近の部下に訊ねた。

 「はい、あと15分で準備が終わるそうです。…………しかし、重大な発表って何ですか局長。極秘と言われていましたが、本当に当日まで秘密になさるとは思いませんでした」

 放送用の原稿を眺めながら、側近は硬い表情で言った。

 「あははは、悪いね。渋谷がいま凄い騒動じゃないか。無関係じゃないんだよ。とにかく準備を頼むよ」

 秀光は部下の肩に手を置き微笑む。

 「は、はい」

 背筋を伸ばして返事をした部下だったが、どこか不安が拭いきれずにいた。

 (この人は何を考えているんだろう)

 長い付き合いだが、彼が考える事が一切理解できなかった。しかし轆轤秀光という人物の有能さも知っていたため、敢えて口を出さずにいた。

 

 

 

 

 ◇

 「渋谷に人食い荒魂? しかも大型ときた。…………ちっ、どーなってるんだ!」

 刀剣類管理局の本部指令室では、真庭紗南が頭を抱えながらスクランブル交差点の固定カメラの映像を眺めていた。

 かつて、江ノ島での厄災と光景が重なり、一瞬だけショックで動けなくなった。

 多くの民間人、警察官、自衛隊、――――そして年端もゆかぬ刀使が犠牲になった。

 世界の終わりだと思った。

 その時の生々しい記憶が、紗南の脳裏を過った。

 「あれは、荒魂じゃない」

 かつて刀使だった経験から解る。荒魂は肉を貪り喰う習性を持たない…………少なくとも、腹を満たすために人間を食い殺すなど聞いたことがない。

 「真庭本部長、現場の警察から刀使の派遣要請が出ています。」

 「――――――。」

 紗南は暫く声が出なかった。……判断を下すことに躊躇いが出た。

 荒魂であれば刀使は出動させる。しかし、アレはそうじゃない。みすみす刀使を出動させて無意味な犠牲者を増やせと? このまま被害を放置すれば民間人の犠牲者は数を増やす。

 「………………どうすればいいんだ」

 苦悩に満ちた表情で力の抜けた状態で椅子に腰かけた。

 どちらにしても、人が死ぬ。

 悩む理由など本当はないのだ。たとえ化け物が荒魂でなくても刀使を派遣させればよいのだ。――――ただ、彼女たちの命の保証など問題の外にすれば。

 「これじゃ、二〇年前と何も変わらないじゃないか」

 たった二〇年前は自分が前線で戦っていた。誰かを守るための戦いは使命感と、残酷な現実でも戦い抜く若さと無謀さがあった。――しかし今は違う。

 大人となってしまった今なら、学長を経験して若者の成長を見守ってきた今は違う。

 ――――刀使(わかもの)たちを無策で出撃させることに、臆病になったのだ。

 

 

 

 ブブブ、と山吹色のどてらのポケットから振動が感じられた。携帯端末には「益子薫」の名前が表示されている。

「どうした?」

『よぉ、おばさん』

「――――悪いが、今は冗談に付き合ってる暇がないから、また後で…………」

『真庭本部長。聞いてくれ。オレたち六人であの化け物を止める』

「――んなッ、正気か薫。あれは荒魂とは明らかに違うんだぞ。荒魂なら刀使で対処できるが……あんな生物で一体どうする気なんだ」

『だからオレたちでなんとか足止めするから…………』

「ダメだ。無策でお前たちを危ない目に合わせるワケにはいかない。大丈夫だ、こっちで時間をかけて対策を――――」

『時間なんかかけてたら誰も救えねぇだろ!!』

「―――――。」

 薫の珍しい怒声に、紗南は冷静さを取り戻した。普段の昼行灯ぶりが嘘のように………tね否、彼女の本来の性質である利発さを感じていた。

「何か勝算はあるのか?」

『……正直、厳しいと思う。けど、何もしないワケにもいかねーだろ。大荒魂と戦った経験はオレたち六人だけだ。勝てないにしても、連携して足止めくらいはできると思う』

「足止めした先は、どうする? そんなことで――――いや。解った。自衛隊にすぐ協力要請をして即時対応を行って貰えるように交渉する。それまで持ちこたえてくれ」

『期待してるから早めになんとかしてくれよ』薫は気だるげな普段の口調で応じた。

「ああ、わかった」

『じゃーな、おばさん』

「お前、あとで覚えておけよ」

 通話を終えた紗南はすぐさま防衛省に連絡を取ろうとした。

 (すまない、薫。お前たちにばかり…………)

 ギリッ、と奥歯を噛みしめながら紗南は自らの無力感に打ちひしがれていた。それでも子供たちを守る為の最善の術を見出すべく、出来る限りの事柄を実行することに決めた。

 これ以上、誰も失わないように。

 

 

 

 ◇

 「――――だとよ。オレたちだけで足止めするぞ」

 携帯端末をポケットに仕舞いながら、薫が言った。

 薫の横頬に墓石の表面に太陽の反射光が当たる。

 

 彼女たちは自衛隊市ヶ谷基地の、いわゆるメモリアルゾーンにいた。

この場所の中心には一基の石碑が配置され、石畳に舗装された道の両側には芝生と選定された生垣と木々がある。

都心とは思えぬ静かな場所だった。

 

 昨夜の冥加刀使の襲撃後、市ヶ谷基地は忙しく負傷者などの手当で混乱の渦中にあった。つまり、いまこの施設の中で一番静かな場所を選べば、このメモリアルゾーンに行き着く。

 

 一連の会話を聞き終えた可奈美は真剣な表情で頷いた。

 「うん、わかった。…………頑張ろう」

 

 近衛隊襲撃の翌日――――である。皆疲れていない筈がない。だが、それでも人を守る刀使として自発的に「この場」に居る。たとえ荒魂でなくとも、人を守るという事に変わりはない。

 

 薫は、

 「そいや、名古屋の研究所で怪獣と戦ったことあるんだろ、二人とも」

 エレンと舞衣を見た。

 「はい、ありまスヨ」

 「……うん」

 「そんときはどーやって怪物を倒したんだ」

 「その時は、」

 と、舞衣が口を開いた。

 「百鬼丸さんが倒したの。簡単にバッサリ斬ったんだ。でも、正直に言うとね、凄く怖かったの。暴走しながら怪物の肉を食べながら倒しちゃったの。私は何も出来なかった」

 「そんなコトないですよ、マイマイ」

 「……ううん、百鬼丸さんが射撃をしている時にね、射撃の観測手をしながら思ったの。もし怪物と戦う時に、百鬼丸さんが居なかったらどうなってたのか」

 「――――マイマイ」

 エレンも舞衣と同様、研究所で百鬼丸が巨体の怪物を斬殺する光景を目にした。だからこそ、軽はずみな励ましの言葉をかける事を躊躇した。

 

「でも、やっぱり人を助けたいから私は刀使になったから、怖くても戦わいなといけない。そう思うんだ」

 舞衣は、恐怖を押し込むように胸元で手を固くグッと握り、荒魂とは異なる原理で動き人を喰らう化け物と戦う決意を示す。

 

 

(化け物、か――――。)

姫和は己の右手をジッと見詰めていた。今までは荒魂だけを相手にしてきた。当然、例外的に親衛隊や冥加刀使は別である。しかし、単なる巨大な生物という別原理で動く生き物とどう戦えば良いのか。

 

「姫和ちゃん? どうしたの、ぼーっとして」

「ああ、すまない。結局私たちだけで先行して戦う方針でいいんだよな?」

薫に尋ねる。

「ああ、その方針だ…………今はあのバケモンが定義上『荒魂』扱いだからな。せいぜいSTTかオレたち刀使しか動員出来ないんだろうな。行政のお偉いさんたちも」

 溜息を吐きながら答えた。

 

 

「そう、か…………」

バケモン、という単語を聞きながら、姫和はふと自らを『異形』の存在だと嘯く少年の横顔を反芻した。

 




アンケ回答ありがとうございました。

……よく考えたら、「このまま」って結構漠然とした聞き方でした。スイマセン。すごーく、適当な不定期更新かもしれませんが、生暖かい目で見守ってください。

あと、今後の展開上、美炎×ジャグラーのお話は省きます。本編終了後に回します。スイマセン。


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167話

ガチクズ主人公。GTAシリーズでお馴染み、やりたい放題システム搭載!


ほのぼの日常回!!





 

 『ふぁーあ、おはよう百鬼丸くん。どうだい久々の地上に出た感想は?』

 心臓の方から声がした。

 

 おれは、一生眠ってればいい野郎の問いかけに苛つきながら「お前が話しかけなければ最高だったけどな」不機嫌に返事をした。

 ――――コイツは数か月前に多くの人を殺したテロリスト。容赦する必要はない。

 

 ちなみに、コイツの名前はレイリー・ブラッド・ジョー。今はワケがあっておれの心臓に人格が宿っていて、会話が可能な状態になっている。 

 

『ひどいなぁ、百鬼丸くん』

 「うっせ、黙ってろ…………」

 左の義手で頭を掻こうとした時、違和感を怯えた。義手の動きが遅い。タイムラグが5秒近くもある。

 

 「なんじゃこりゃ、動きが悪くなってる。何でだ?」

 一度おれは義手を取り外し、もう一度装着して手を開閉する。

 「やっぱ動きが遅いな」

 『百鬼丸くん。いいことを教えてあげよう』

 「ヤ」

 『ヤ、じゃないぞ。全く。いいから人の話というモノを聞きなさい』

 「うっせぇ、お前なんか嫌いだからヤ」

 『……………なんでそんなに子供っぽい反応なんだい?』流石のジョーも呆れながら、『まあいい。じゃあコレは独り言だ。君の左腕は刀が無くなったからなんだよ』

「…………どういう事だよ?」

 

 おれはムカつきながらも、一応その理由とやらを聞いてみる。

『うーん、そのチンパンジー以下の脳みそでも解りやすく教えてあげるとすれば、君の左腕は《無銘刀》を介して微弱な電気信号を義手の人工筋肉に送っていたんだ』

「???? おいまて、あとチンパンジーってなんだ?」

『――――さて、話を続けようか』

 ん?コイツおれの質問を無視しやがったぞ。

「はぁ!? おい、待てだからチンパンジーって…………」

『とにかく、君は無銘刀を外したことで、神経の中枢から送られる微弱な電気信号を受けて人工筋肉を動かすことが難しくなっているんだ。だから、刀に代わる適当な金属か何かで代用するしかない。そういうワケだ』

 

「?????? 難しい。ジョー、てめぇワケわからん事いっておれを騙すつもりだな?」

『……君は本当に今までどうやって生きてきたんだ』

 『とにかく、適当な金属を腕の付け根に装着すればいい。簡単だろう』

 「そうか。ム、まあそうだな。わかった」

 しかし、そうは言っても簡単に金属なんて見つかる筈もない。ふと、腰に目線が向く。

 

 《無銘刀》のオリジナル。

 

 これはダメだ。正直に言えばコレを肉体に直接装着すればおれは正気を失う。この刀は既に魔剣の類になっている。数多の魑魅魍魎、悪鬼羅刹を切り伏せた事で、この刀自体が化け物となって、異形の血を求めている。

 

 そんなもん、おいそれと装着できるワケがない。

 

「しかし、どーすっかなぁ――――」

 おれは考えながら、周囲の気配を探った。

「やっぱ…………ダメだ。とにかく渋谷ってトコロまで行かねぇとダメだな」

『……あくまでコチラは寄生している立場だ。宿主の意見は最大限まで尊重させてもらうよ』

 

「バイクか。とりあえずムカつく野郎どもをブチのめして奪うのが一番いいかな」

『君は原始人以下の倫理観しかないようだね。まったく最高だ』

「うるせぇ、テロリストに説かれる倫理観なんざクソくらえだ」

 

 ああ、全くどこかに都合のいいバイクが「落ちて」ないかなぁ…………。

「あん? ――――へへ、」

 おれは思わずイイコトを思いついた。橋を走行するバイクを貰えばいいんだ。

 

 

 

 ◇

 

1:名無しの速報 Invalid Date ID:dsblk85hs

いま、ニュース速報で知ったんだが渋谷が凄いことになってるらしい…………

 

 

2:名無しの速報 Invalid Date ID:JPl+LCUa/

どーせ、誤報だろ。あの放送局とか喜々としてフェイクニュース流すからな

 

3:名無しの速報 Invalid Date ID:Uq+McCrky

うっそwwwwwだろwwwwww

 

いや、嘘だよな?渋谷で知り合いと待ち合わせだったんだが

 

4:名無しの速報 Invalid Date ID:X7FYZU9Sb

>>3知り合いとは連絡とれたん?

 

5:名無しの速報 Invalid Date ID:e1bz/rw3G

いや、既読がつかん

 

6:名無しの速報 Invalid Date ID:DTDf2RwX0

ニュース「渋谷のスクランブル交差点で正体不明の巨大生物ガー」

 

なんだこれ?頭おかしいんか?どーせ、荒魂みたいなやつだろ。

 

7:名無しの速報 Invalid Date ID:UI1rXcono

最近の刀剣類管理局といいマトモに仕事しないからなー

 

鎌倉でもお漏らしするくらいだからwwww

 

8:名無しの速報 Invalid Date ID:xVIdlAK//

やべぇじゃん。動画投稿のサイト巡りしてたら普通に人が喰われてるシーンとかあるし

 

普通に撮影されてるんだが……規制しないとダメだろ、これ。普通に気持ち悪ぃんだが

 

9:名無しの速報 Invalid Date ID:mMo1j3C0v

食殺シーンとかマジっぽい映像だな……しかもなんかスマホから緊急避難警報鳴ってるし

 

 

 

 ◇

 

  ――――日本の地層について考えたいと思う。

 

 この国の地層は欧州と比較しても脆弱である。その理由には、活火山とモザイク状に分布された地層があり、更にフォッサマグナを代表する断層が存在する事にある。

 

 

 関東地方の地層は特に富士山が活火山として噴火した頃に降らせた火山灰の影響もあり、地中を潜水するバラゴンにとって最良の地層と言えた。

 

 また、日本列島はいくつかの大陸プレートの上に不安定に存在している。有名なものとして、ユーラシアプレートと、太平洋プレートが存在する。その他にも北米プレートやフィリピン海プレートなどが重なり合い、この極東の弓なりの列島を形成している。

 

 つまり、欧州や大陸と異なり活発な活動を続ける地層であり、すなわち、バラゴンは好んで活動し易い極東の島国に棲みついたと考えれば良い。

 

 

 ――――そんな長い年月を睡眠に費やし、再び目覚めた時には地上で数万年ぶりの食事を堪能するのだ。飽くなき食欲に対し忠実な巨獣は、これまで地上を我が物顔で支配してきたホモサピエンスに対し、真の生物の頂点を行動によって示した。

 

 

 

 ◇

 

 渋谷。――――読んで字の如く、本来この地は「谷」であった。

 宇田川、目黒川、渋谷川、いもり川などが交差する水源の豊富な土地であったこの渋谷は、近代まで渋谷はのどかな村だった。

 また、1950年代ごろまでは豆腐屋が軒を連ねていた。豆腐という食べ物は水の豊富な土地で作られることが一般的で、事実、渋谷の地下道も壁から水が染み出すほどで、大雨の日は冠水する様相を呈したという。

 

 50年代以降、経済成長に合わせて首都圏では高層建築物が乱立した。当然、工業の発達により、水も必要となった。

 

 企業は豊富だった地下水を汲み上げることで、工業用の水を確保した。それは、後年にゆるやかな「地盤沈下」という現象をもたらした。

 

 国は地盤沈下という現象を重くみて、地下水を汲み上げることを禁止した。

 

 しかし、時代が変遷すると共に、今度は逆に地下水が豊富になりすぎ、地下水害を引き起こす事態となった。

 

 ◇

 

 バラゴンがまるで、無垢な子供のような瞳で瞬きをする。上瞼からアスファルト舗道の砕けた粉がパラパラと落ちた。内皮膜から巨大な眼球の水晶体が、コンクリートジャングルを映した。

 

 すり鉢状になった地形では、バラゴンの巨大な体躯は行動を制限し、未だ下半身が地下に埋まっている。

 

 ギャオオオオオオオオオン!!

 

 バラゴンの舌は新鮮な血液と肉片の鮮やかな紅色で濡れていた。蝙蝠が翼を広げたような形の耳が、周囲の騒然とした人々の「音」を感知する。

 

 〝彼〟にとって、人は食料でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

 灰色の空、霙交じりの雨が降り始めていた。

 

 巨大な頭を振り、バラゴンは太い前脚で地面を踏みしめる。全身で外界へと繰り出そうと一歩、一歩藻掻きながら地面から抜け出そうとしている。

 

 

 

 ◇

 『謎の荒魂出現』

 その一報を聞いた時、田村明はなぜか妙に落ち着いていた。理由は自分でもよく分からなかった。だが最近のキナくさい雰囲気に「何かが起こる」と予想していた。……そして、予想は最悪の現実として現れた。

 

 タオルで顔の汗を拭いながら、

「どうなってんだ」一言呟いた。

 

 明は訓練場から同僚たちと戻り、ロッカールームでSTTの出動用の装備と衣服に着替えていた。

 

 通常、荒魂の対応はSTTと刀使が行う。

 しかし正体不明とも言われるバケモノ対処に、STT(大人)はともかく、刀使(子供)まで出動命令を出す。明は、そんな形式的なお偉いさんのやり方に苛立ちが募った。

 

「――――。」

 

 

 

硬い表情でロッカーを殴った。

 

 他の同僚たちは、普段見せない明の粗暴な行動に驚きながら、皆理由が分からず、室内は微妙な空気が漂った。

 

 ハッ、と我に返った明が誤魔化すように笑った。

 

 「あはは、スマン。昨日は飲み屋の嬢と少し揉めてな。あはは」

 

 皆、明の弁明を受け入れるように微妙な笑みを浮かべながら「ああ、そうか。まあ、上手くやれよ」とか、「お前、いい加減夜遊びやめんか」などと口々に冗談っぽく言った。

 

 

 「そうだな」と、曖昧に笑いながら明は受け流した。

 

 

 (これは、荒魂なんかじゃない――――。これから何と戦わされるんだ?)

 

 明は周囲に目線をやると、皆、微かな緊張を抱えているような翳りある表情だった。

 (……当たり前だ、STTの現場の人間はバカじゃない)

 歯噛みしながら明は思う。

 皆も今回の化け物が荒魂である筈がない、と直感で分かっている。 

 

 (人は駒じゃねぇんだぞ!!)

 

 明はそう思いながら前腕レガーを装着した。

 

 




……全く関係ないけど、何故か創作物だと人殺しは読者的にはOKだけど、犬猫を殺したら読者から批判が殺到したとか。とある有名な作家が言ってたけど、普通の人間の倫理観も結構ヤバイのでは?


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168話

前回の主人公の出発位置を変更しました。

レインボーブリッジくんから品川埠頭くんに!

ごめんよー。


 鈍色の海を横目に、物流倉庫の密集する主要幹線を疾駆する一つの車影がある。

 乱暴に束ねた長い髪が左右に靡く。

 道路交通法違反のバイクを運転する主は、鋭い眼光で次々と信号で止まる車列を縫うように抜き、ハンドルグリップを回す。

 

 東京の冬の薄暗い空が、バイクの金属部分に弱光を投げかける。

 

 『君には法律は無いようで安心したよ』

 「…………おれの存在を人として認める国があれば、大人しく従うよ」

 百鬼丸の皮肉っぽい返しに、心臓に寄生した人格は『ははは、そうか』と満足そうに答えた。

やや翳りのある表情で「どうせ、どんな世界でもおれは嫌われ者だからな」と低く本音を吐露した。

 

 バイクのスピードメーターは既に一〇〇キロを超えた。

 品川埠頭~渋谷方面まで約11・5㎞、車両移動に換算して約二〇分少々。

 三田方面を進み、芝公園を抜け六本木から幹線道の412号道路を目指す。しかし、お行儀悪く走行すれば話は別だ。

 

(途中でバイクを棄てて加速装置でビル群を飛べば――――。)

 少年は片足の加速装置に意識を向けた。短中距離での移動を物理的に加速させる、この太腿の装置を「戦闘」にではなく、「移動」に用いる。

 (リスクがある…………。)

 と、思った。

 強敵であればある程、加速装置の重要性は高まる。しかもリボルバー方式を採用しているために六連しか使う事ができない。

 一発での加速に最長45秒加速として270秒=4・5分。

 これだけ使うと、次の日まで加速装置は使用不可能になる。

 

 百鬼丸は口をへの字に曲げ、

 「しかし厄介な事になったな」と、独言する。

 

 『まぁ、とにかく左腕のワイヤーで代用したから動きに問題はないだろう?』

 「まぁな」

 

 

 ◇

 百鬼丸は、地下での戦いにおいて左腕の刃を失った。つまり、脳から送られた電気信号を伝えていた金属部分の喪失により、義手の人工筋肉の反応速度が5秒ほど遅くなっていた…………その代案として、品川埠頭に積まれていた資材を束ねるワイヤーを奪った。

 立派な窃盗犯であるが、敵の襲来に際して遵法精神を発揮する感性は生憎として、この少年には持ち合わせていなかった。

 

 

 

 百鬼丸は、超人的な身体能力で埠頭の港湾内に侵入し、資材などめぼしいものを探る。

『押し入り強盗みたいなやつだね、君は』心臓の人格が楽し気に笑う。

「お前は人が死にそうなのに、ルールを守るのか?」

 と、ふてぶてしい態度で資材にお札の現金を挟み、ワイヤーを奪った。

 

 

 …………当然、バイクも同様に入手した。

 埠頭周辺を爆音で走行する一団を発見した百鬼丸は、首を捻って口角を釣り上げた。

「ああいう手合いの連中からなら奪い取っても良心は傷つかないなぁ」

 左腕に金属ワイヤーの束を解して、人工筋肉の神経網と繋げながら不敵な表情で狙いを定めた。

 

 迷惑走行をする一団という「無法者」に対しては、百鬼丸の「無法者」精神が惹かれ合った。ただ、それだけである。

 

 軽く、太腿の加速装置を指先で撫でて準備を始める。

 キィィィン、という起動音が短く響いた。踵の辺りに白く薄い雲が発生した。

 まるで地面に弾かれたように少年の体は空中を浮き、さらに一五〇メートル先の標的に向かい襲い掛かった。

 

 

 

 ◇

 バラゴンは尚も、下半身が埋まっていた。全長二六メートルにもおよぶ怪物は、しかし渋谷の地質事情ゆえに身動きが取れなくなっていた。――――いわゆる局地的な液化現象により、バラゴンの下半身は埋没していた。

 

 バラゴンの浅い地下から出現した事により、地震に似た振動が起こった。結果として地下水の豊富な渋谷の地層は液状化し、バラゴンを捕らえる檻としての機能を果たした。

 

 

 

 ギャオオオオオオオオオン!! ギャオオオオオオオオオン!!

 

 耳を劈く咆哮を天空に向かい放つ。

 腥い血に濡れた口内には死者の肉片が牙の間に残っている。人間がタンパク質の餌である事実が、この怪物によって示された。

 

 渋谷駅の混乱は著しく、駅ホームに避難しようと大勢の人間が押しかけ、数千人規模での混乱が発生した。また、地下鉄への避難も同様である。地下鉄のトンネルを破壊して出現したバラゴンの影響により、破壊された瓦礫で地下鉄も機能不全に陥った。

 

 

 

 

 特別祭祀機動隊、通称『刀使』は荒魂と異なる化け物退治に出動要請がかかった。

 バラゴン出現から約七分後のことであった。

 …………当初、周辺を警邏(パトロール)していた刀使の五班(約一三名)に出動命令がかけられた。

 しかし、被害状況の甚大さを鑑みてS装備の装着時間を考慮し、更に一三分後に出動命令がかけられた。

 

 余談であるが、この先遣隊の刀使たちに出動命令が下されたのは、刀剣類管理局本部からではなく、別の指示系統から発せられた誤情報である事が後に判明した。……しかし、その情報元は、厳密な検証によっても発信元が探知されることは無かった。

 

 その間にも、国内の治安維持を司る関係省庁は混乱した。

 官僚機構および内閣は判断に揺れた。

 この荒魂かもしれない化け物に対し、自衛隊を派遣するか、否か。しかも派遣したところで斃せるかどうか。

 内閣の会議中の一室には通夜のような重苦しさが漂っていた。誰かが発言すれば目立つだろう。しかし、誰も発言しなかった。――――あまりに苦しい沈黙の果てに、

 「すでに死者が出ている」

 と、誰かが会議室に設置されたモニター音声と重なるように言った。

 事実、テレビモニターに映し出された化け物が上半身を地上に晒して、食人を行っている。ヘリから空撮をしていた民間のTV局の映像は、あまりに衝撃的だった。

 …………それが、劇的な食殺行為ではなく、自然界における当たり前の「食事行為」に見えたからだ。

 現代人はあまりに、衝撃的な映像に慣れてしまった。

 

 

 

 ◇

 「なに、これ」

 最初に到着した刀使が、息を呑みながら言った。

 彼女たちの目前に繰り広げられた光景は、およそこの世の地獄と言って差し支えなかった。

 バラゴンの出現により倒壊したビルの巨大な瓦礫で逃げ道の制限された渋谷のスクランブル交差点。更に、避難誘導する警察官たちも、負傷しながら職務を遂行している。

 ビスケットのようにボロボロと砕け、亀裂の走ったアスファルト舗道は血液が赤黒く濡れ、吐きそうな程の腐った匂いが鼻を打つ。

 

 巨大なモニュメントと化したバラゴンの上半身はうねるように動き、頭部の鼻に位置する部分には光る角が輝いていた。

 

 

『おせーよ、何してんだよ! アレ、荒魂だろォ! おい、なんでもっと早く来なかったんだよォ!』

『ふざけんじゃねぇぞ! いったいどれだけ人が喰われたと思ってるんだァ!』

 渋谷の中心から避難中の群衆から、特別祭祀機動隊を批判する声があがった。

 人々は「誰かに責任」をとって欲しかったのだ。――――現代人故に。

 

 これまでの出動とは違う異様な光景を前に、年端もゆかない少女たちは対応に迫られた。

 

 ギャオオオオオオオオオン!! ギャオオオオオオオオオン!! 

 

 化け物の丸く巨大な瞳が、次の獲物を探るように周囲を窺い始めていた。

 

 刀使たちは、バイザー越しに異形の悪魔と対峙せざるを得ない。……判断を誤れば多くの民間人を失う。

 

 班内の一人の刀使が「死にたくない」と小さく呟いた。

 目を大きく瞠り、惨劇を前に生存本能が勝ったのか、その場にヘタり込み、大勢の民間人から投げられる罵詈雑言で既に、精神が摩耗していた。

 

 

 恐怖は伝播する。…………一度、逃げるという選択肢が頭に思い浮かんだ以上は「立ち向かう」決断が鈍ってしまった。

 どうして、自分たちはこの場に居るのだろう? 

 なぜ、こんな苦しい目に遭わなくてはいけないのだろう?

 どうして大勢の人々が自分たちを責めるのだろう?

 

 先遣隊の班長を任された鎌府女学院の刀使は、己の立場に苦悩した。

 

 ――――もう、すでに巨獣に戦いを挑む判断が下せなくなっていた。

 

 荒魂ならばいくらでも対応の仕方はある。しかし、アレは何だ?

 

 

「ああ、ようやく特祭隊がきた。よかった…………」

 そう言いながら、彼女たちに近づく若い男性の声がした。その方向に班長の刀使が意識を向けると、一人の警官がゾンビのように歩きながら近寄ってきた。

 彼は左腕を欠損していた。しかし痛みに呻く様子もない事から察するに、アドレナリンの過剰分泌による一時的な痛みの麻痺をしているのだろう。

「ひっ」と思わず声をあげそうになったが、喉元で悲鳴を呑み込み、冷静に頷く。

 

「あれ、何ですか? 荒魂なんですよねぇ? どうです? ぼくにはわからないんですよぉ、ねぇ? ははは、とにかくお願いしますよ。あれならすぐ、倒せますよねぇ?」

 若い警官が、狂気の表情で笑いながら欠損箇所から滂沱の血液を垂れ流す。もはや、精神がおかしくなったようだ。

 

 班長である刀使の少女が、若い警官から目を逸らし、

 「…………分かりました。ぜ、全員抜刀」

 震える声を抑え、臨戦態勢を命じる。

 班員は全員で五名。そのうち、一人が先程のショックで動けない――――とすれば、実質は四名。

 しかも、その全員が怯えている。

 腰に佩いた御刀を抜く音に小刻みな震えが聞こえた。カチャ、カチャ、と金属の震える音色。

 

 

 「全員、一時的に散開して敵の注意を逸らすように!」

 荒魂の対処と同様に、まずは敵の注意を逸らすことに決めた。

 

 …………決めてから、班長の刀使は改めて知った。

 

 恐怖で硬直する自らの筋肉を。

 ――――死にたくない、という本音を。

 

 

 ◇

 『なぁ、百鬼丸くん。人間が自分を人間だなぁ、と感じる瞬間はいつだと思うかい?』

 

 バイクを運転する百鬼丸に対して、彼の心臓に人格を宿した男、ジョーが問いかける。

 

「あ? 知らねーよ。んなもん」

 

 『そうかい。いいかい、人間は己の弱さと向き合った時にだけ、本当の意味で自分が〝人間〟だと認識出来るんだよ』

 

 「んなら、おれだって――――」

 

 『違うよ、百鬼丸くん。いいかい? 人は「己が非力」だと知ることで自分が人間だと認識出来るんだよ。君は違うだろうに』

 

 「―――――。」

 

 



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169話

 都市圏を緻密に敷設された鉄道網は完全に打撃を受け、大規模な交通麻痺を起こした。更に間の悪いことに日本周辺を巡る各国の領海・空侵犯によって内閣府は処理容量をオーバーしていた。

 

 

 国家の中枢は冷静な判断を下せない状況に陥った。

 ボクシングなどで一般的な無力化の手法「脳震盪」を引き起こされた、と考えて良い。

 

 都心は甚大な被害を受け、経済的損失ではこの一日だけで数千億以上にも及んだ。

 

 

 1

 怪獣の出現以降、迅速かつ厳重な交通規制が警察庁から敷かれた。

 

 

 そんな警戒網をお構いなしに、常識を逸した移動を繰り返す百鬼丸は、バイクを乗り捨てる事に決めた。

 

 背中には剣袋に模した細長いシルエットがある。ブルーシートで包んだ刀。それを乱雑に余ったワイヤーで胸前に結んでいる。簡単に解けないか確認したあと、ステップから足を離して座席部に直立した。

 

 

kawasaki ninja400は、不安定に車体が左右に揺れ始める。

 濛々と煤煙を吐き出し続けた気筒からピタッ、と煙が止まった。

 

 そして、案の定バランスを失ったバイクは左側へ大きく倒れた。派手に火花を散らしながらアスファルトと摩擦して赤白いスパークを放つ。

 エンジン周辺のメタリック部分が悲鳴を上げるように地面を滑ってゆく。そのまま、縁石ブロックに沿うようにバイクは滑り、車体が一回転した後ガードレールに衝突し、グニャリ、と溶けたチーズのように柔らかく変形した。滑った影響でゴムの焦げた匂いが漂う。

 交通規制の影響で道路に人影は無く、ただ車が長蛇の列をつくっているに過ぎない。

 

 

 バイクを乗り捨てた張本人は二輪が転倒する寸前に加速装置で宙へと姿を消した。

 盛大な破壊音を横目に、ビル風に煽られながら肉体が加速の速度に乗り始めるのを実感した。目を下界に向けながら百鬼丸は、

「もうそろそろ、違和感の正体とご対面かな」目標の地点を目指して冷静な口調で言った。

 心臓が高鳴る。血が騒ぐ。

 殲滅せよ――――。

 ただ、戦闘マシーンとして彼は目的地へと赴く。

 

 

 ◇

 加速装置で空中移動を行い渋谷に到着した場所がビル屋上の一角だった。華麗にスライディング着地したあと体勢を整えながら立ち上がる。

 少年の眼下に広がる光景は、惨禍という状況に相応しい様相を呈していた。

「アレ、か」

 目を細めて標的を捕捉した。

 左足の太腿から高温の熱気が揺らめき、足裏には白い噴煙の痕跡となる霞みが薄く漂っていた。

 

 ブルーシートを剥ぐ。乱雑に包まれた《無銘刀》の武骨な鞘が顔を現す。

 黒瑪瑙の鞘に収まる幅が太く肉厚の刀身。

 恐らく平安後期~鎌倉期にかけての産だろう。

 幾千万の魑魅魍魎、悪鬼羅刹を切り伏せた《無銘刀》は、それ自身が魔剣として生まれ変わった。――異形の血を求める。

 切り伏せるたび鋭さを増す、まさに退魔の剣という名に相応しい。…………だが、常に妖魔を斬る事は不可能。そうである場合、持ち主の生命力を吸い取る悪夢のような対価を要求する。

 

 

「できれば使いたくないよなぁ……」

 嫌そうにボヤく百鬼丸は、実際にその対価を支払った経験がある。

 激痛だけではない。存在そのものを喰われそうな錯覚に陥る、恐ろしい対価を要求する。

 

 しかし、文句は言ってられない。

 柄巻きを握り、百鬼丸は横に素早く薙ぐように抜刀する。

 

 キィーン、と金属の共鳴音が空気に響き渡る。かつて、武士同士での戦いに明け暮れたであろう刀身は、異形の化け物に恐れられる刀剣へと変貌を遂げた。

 

 《無銘刀》の「樋」(溝)=血流しには、毛細血管のように赤い筋が幾重も伸びていた。まるで人間の臓器のように生々しく、脈打つようだった。

「――――よしッ」

 この《無銘刀》に呑まれぬよう短く自らに喝を入れる。

 剣尖を敵の方角に合わせ、首を斜めに動かして睨む。

 「ブチ殺してやる」

 

 地上8階のビルから百鬼丸は勢いよくジャンプして屋上フェンスを飛び越え、自由落下速度に身を任せながらバラゴンへと突進した。

 

 

 

 2

 三白眼の男が、小さな紅の瞳を機敏に動かしながら周囲を窺う。

 

 背中には刀を二振りクロスさせて装備している。鍛え抜かれた肉体は鋼のように強く美しく、箒を逆立てたような剛髪が歩く度に揺れ動く。

 マフラーのように赤い布切れが高級な絨毯を敷いた廊下に触れる。

 彼は今、刀剣類管理局維新派の本部である東京駅に隣接するホテルに居た。

 

 英雄(ヒーロー)殺しのステイン。

 

 かつて、元の世界に居た時、彼を畏れた世間が名付けた二つ名。

 敵の血液を舐めることで、相手の血液を凝固させる…………その能力と超人的な身体能力、熟練した殺人の技術。

 そして何より、強固な《意志》こそが、彼の武器だった。

 

 真のヒーローに倒されること。

 

 いわば、思想犯である。

 

 この男は今、元折神家親衛隊の第三席、皐月夜見の護衛まがいのことをしている。

 その理由は様々であるが、一番の要因は百鬼丸との再戦にある。

 

 この異世界で初めて出会った骨のある敵であり、まさしく自己犠牲を厭わない相手だった。彼ならば、偽物たちとは違う本当の殺し合いができる。そして、自分(ステイン)を打ち滅ぼすのにふさわしい相手。

 

 それによって、悪が完全に負ける事ができる。

 ステインの歪んだ愛情はすでに極北に達していた。

 

 「百鬼丸ゥ、お前は今どこに居る? アァ?」

 喉の渇きに似た感覚で宿敵の名を呼ぶ。一度、ショッピングモールでの戦闘で敗れて以来顔を合わせていない。

 既に、百鬼丸を殺す準備は整っている。

 

「体が奥底から疼く。早く殺し合おう。百鬼丸」

 ステインは歯を剥き出しに、邪悪に微笑む。

 

 




今年中に終わらせるので、テンポよくやっていきたいと思います。


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170話

S装備関連は全部オリジナル設定です。多分。
色々ツッコミどころはあるけど、まぁいいじゃん。


 陸上自衛隊の輸送ヘリCH-47の大型ローターが上空1640フィート(約500メートル)を飛行している。後部ハッチには、ヘリとも異なる機械の関節部が駆動する音が聞こえる。

 

 市ヶ谷基地から出発した輸送ヘリに乗った可奈美たちは、予めS装備を装着し攻撃の準備を万全にしていた。

 地上の交通網麻痺により、車両で現場に赴くことが不可能となった。――とすれば、上空からの急行が現実的となった。

 ――――あくまで自衛隊の派遣ではなく、刀使を運搬するだけ。

 現場での半ば応急処置的な対応だったが、責任は刀剣類管理局と自衛隊の側が受け持つことにより派遣が決まった。

 

 

 オレンジ色のバイザーを触りながら次々と表示される情報から視線を逸らした。

「ふぅ、こんなものか」

 薫は額を手で拭う仕草をしてワザと仕事をしたフリをする。

 彼女の手には休暇届の用紙がすでに記入済みであった。

「薫ぅ~、こんな時マデお休みのコトですカ?」

 ジト目でエレンは薫の頬を指で突く。

「あ~、いいだろべつにー。こんな陰気くさい時くらいオレの好きなようにさせろー」

 むくれながら薫は反駁する。

 長船の二人組がしょうもない言い合いをしているのを遠目に見ていた可奈美が、

「あはは、いつものやり取りだねー」

 微笑みながら言った。

「…………まったく、緊張感のない奴らだ。それにしても、S装備専用コンテナを使用できないのは心残りではあるが」

 姫和が呆れつつも、嘆息まじりにいう。

 S装備輸送ポッド。

 それはストームアーマーを人員と装備、同時に輸送する場合にのみ使用される輸送機であった。

 全長5・5~6・0m

 フロント部分が流線形であり、戦闘機のような推進エンジン2基を備えている。初めて見る者の印象として、ちょっとした戦闘機であろう。

最大時速は500㎞に達する。これは、ポッド内部にかかる加速度は約5Gであり、これはリニアモーターとほぼ同義と言えた。

 伍箇伝の各校でS装備が配備される前から懸念されていた事項が、この「S装備用コンテナ」であった。

 三半規管の弱い者や、搭乗者が極度に疲労を感じる装置であれば、派遣先での任務遂行に支障をきたす。

 事実S装備の射出ポッドの使用許可は、健康面で問題のない者と限定された。

 また、通常の加速では推進剤も調整され、300~400を最大時速と設定された。(推進剤の更なる注入により、700㎞まで加速可能である)

 時速100㎞=約1Gと考えた場合、訓練した者であれば過負荷状態とは言えない。

 

 

 「あ~、あれは着陸……つーか、ポッドの前部にブッ刺さる場所が決まってんだよ。周囲に人が居ない場合とか、周辺に被害影響を与えないとかな」

 ――――勿論、折神家屋敷突入作戦時は例外である、と薫は内心思った。

 「ま、なんにしても電車でも市ヶ谷から渋谷なんてせいぜい15分くらいだろ? ヘリならすぐだぞ、すぐ」

 と、いいながら祢々切丸を引き寄せ薫は欠伸をした。

 「ねね~!」

 小動物のように薫の肩で可愛らしく鳴く荒魂――ねねは、昨夜の市谷基地襲撃の巨大化から元の姿に戻っていた。

 下あごを指先で撫でた薫は、「…………何があっても離れるなよ」と真面目な声で語り掛ける。

 「ねね?」

 愛らしくねねは首を傾げる。

 「ふっ」と、薫は思わず噴き出した。

 これから惨状を呈する現場に直行する。そんな緊張状態の中でも、昔からの親友は相変わらず癒してくれる。――――人と荒魂は必ずしも敵対だけではない。そう思える瞬間に思えた。

 

 

 

 2

 

 

 加速装置の稼働時間は残り130秒。

 リボルバーが回転すると同時に、再び一発蒸気が噴出し全身を加速させた。

 百鬼丸の顔には喜色が浮かんでいる。敵を見つけ、それに全力でブチ当たる事の出来る喜び。「壊して」も構わない存在であること。

 

 「最高だなぁ、おい!」

 左腕を噛み、ワイヤーで連結した義手を街灯に投げる。しゅるしゅる、と8メートルほど伸びたワイヤーの先に繋がった義手が外灯の鉄棒を握り、落下速度を保ちながら大きく振り子の運動に似て弧を描く。

 激しい土埃を濛々とあげたバラゴンの下まで直行する。

 百鬼丸の剥き出しの犬歯に唸り声が混じる。

 紅の残影を煙の如く漂わせながら、少年が自身の数十倍の体積を有する生き物へと挑む。

 群衆の惑う光景を上空から横切り、右腕に掴んだ《無銘刀》を全力で振りかぶる。移動時の速度を斬撃の圧に変え、刃を打ち込む。

 

 

 バラゴンの纏う土埃の気流が一気に変わった。

 ゴマ粒程度にしか思っていなかった「人間」が、コチラに向かってくるではないか。

 巨大な目玉は、人影に気付くと巨木の太さと変わらなぬ前脚で百鬼丸を圧し潰そうとした。しかし、余りに目標が小さかったために、バラゴンの前脚が直撃することはなかった。

「あっぶねぇ」

 せせら笑いながら、内心の百鬼丸は大きすぎる一撃に肝を冷やした。

 

 グニャッ、と百鬼丸の義手が掴んでいた街灯が歪な軋みをたて折れ曲がり始めた。

 ――――チッ、と舌打ちをして義手が鉄棒を手放した。

 空中に投げ出される格好となった百鬼丸だったが、宙でもバランスを失わぬようコマのように回転しながら、勢いを保持して巨大生物の弱点を窺う。

 

 

 

 ふと、下界に人影を幾つか散見した。

 「刀使……か。チッ、厄介な」

 深く溜息を吐き出し、一時的に戦闘モードから頭を切り替えた。右手に握る《無銘刀》を納刀して高揚する気分を鎮める。

 回転したままの体を巧妙に動かし、街灯の一本に狙いを定め義手を投げた。しゅる、しゅる、とワイヤーが伸びてゆき、棒状の部分を掴む感触がした。

 地上20メートルから一気に降下を始める。ゴウゴウ、と烈風が耳元を通過する。

 黒い髪を靡かせながら百鬼丸は、バラゴンに対峙する刀使の一人に向かっていった。

 

『あんたらも早く逃げろ』

 そう言いながら、百鬼丸は真正面まで迫った刀使の少女の襟首を乱暴に掴み抱き抱えた。

 突然の出来事にまるっきり現状を理解できない、鎌府の制服を着た少女が目を点にする。

「いいか、聞こえないのか! 早くこの場から離脱しろ」

 もう一度、分かりやすく聞こえるように耳元で百鬼丸は叫ぶ。

 「は、はぁ!? あ、あなたは誰ですか? 一般人なら早く非難を……」

 「あははは、アンタ面白いな。人の心配なんてすんなよ。あんなデケェバケモン相手に刀使は遊び相手として不足だよ。おれみたいな奴じゃないと満足しないと思うぞ」

 不敵な笑みで口角を釣る。

 その表情が悪戯を仕掛ける前の少年のようで、思わず鎌府の刀使は毒気が抜かれた。

 

 「わ、わたし達は…………先遣隊として派遣されました。持ち場を退く事はできません」

 「おいおい、職務を遂行するのも大事だけどな。人に任せるのも大事だぞ」

 百鬼丸は会話しながら倒壊するビルの巨大な瓦礫の連続を巧妙に潜り抜け、抱きかかえた刀使を安全そうな場所まで運ぶ。

 

 「あなた、誰なんですか!?」

 上空を移動する際に発生する激しい風に煽られながら、鎌府の刀使は怒鳴るように尋ねる。

 「――――うーん、名もなきイケメンです☆ってどうだ?」

 「ふざけないで!」

 「…………ちぇっ」

 ちょっと残念そうに百鬼丸は口を3にして、いじけた。

 

 



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171話

  長い前髪を束にして後ろに流し視界を確保する。

 百鬼丸は口を大きく開き白い吐息を吐き出す。霧のような氷雨が俄かに降り始めた。

「もう一人で歩けるか?」少年がアスファルト地面に着地しながら訊ねた。

「え、ええ」

 抱きかかえられた刀使は、戸惑いながらも素直に頷く。一応の命の恩人というべき相手に愛想笑いの一つでも浮かべようと考えた。

――――しかし。

「他にも、あの怪物の注意を引こうとしてる刀使がいるけど…………あいつらも、回収するぞ。いいな?」

「――――っ、…………お願い、します」

 刀使として以前に、彼女は隊長としての責務ではなく、ひとりの人間として頼んだ。自らの立場では退却判断はできない。だからこそ、イレギュラーな存在を受け入れる『決断』をした。

 

「よし、いい子だ」

 百鬼丸は満面の笑みで親指を立て破顔する。

 濃霧のような土埃の煙幕の中へ再び舞い戻るべく、地面に屈み込み加速装置を操作する。

「誰一人として、〝刀使〟は失わせない――――って、約束できればいいけどなぁ…………」

 カッコいい事を言おうとして、若干の気恥ずかしさから優柔不断な言い方になった。

「――――わたしがもっと、隊長として上手くできれば……」

「いんや、関係ないよ。アレ完全に荒魂じゃないし。ま、待ってろ。それとアンタらに暴言を浴びせてるクソどもなんて気にすんなよ。アンタらは立派だぜ。それだけは間違いない」

 真面目な横顔でいいながら、加速装置のリミッターを解除して弾かれた小石のように勢いよく飛び出した。

 まさに一瞬の出来事であり、人影が霞むように目が錯覚した。

 

 その場に取り残された先遣部隊隊長の刀使は、茫然と立ち尽くしながらも、彼の残した言葉に温かいものを感じ、胸の前で手をグッと握り、安堵の息を深く吐いた。

 

 

 ◇

 その影が人目に認識されることは無い。 

 放たれた矢の如く一直線に狙いを違えず突き進む。彼の心と同様に迷いは一切ない。

 まず、一人。右腕に抱えて加速する。

 二人目。

 すれ違いざまに襟首を右手で掴み、飛び去る。

 ――――そして三人目。

 背後から猛烈に接近して足払いを喰わし、転ぶ寸前に屈み込み左肩に乗せると、その場を離脱。

 

 ヘタりこんで戦闘に参加できなかった刀使の娘を除く全員を救出できたことになる。だが百鬼丸に拉致される格好となった彼女たちは、一瞬の出来事により困惑と不安の渦中にあった。しかし、皆口々に文句を言うこともなかった。

 …………人は本当の恐怖を前にした時、口数は極端に減る。それも命の危機であれば尚更である。

 

 戦闘を開始する寸前だった刀使の少女たちは、やはり年相応のあどけなさを残す表情で恐怖と驚愕の表情で固まっていた。

 

(ま、こうなっちまうよな)

 百鬼丸は内心で、無理難題によって前線に来た彼女たちを憐れんだ。

 と、同時に胸奥のどこかで〝弱い存在〟が苛烈な戦場に来たことによる、ある種の苛立ちを無意識の内に感じていた。

 しかし、傲慢な考えは頭が刹那的に過ぎ去り、彼女たちを安全な場に逃す算段をした。

 

 煙幕のようにアスファルト地面の粉塵や破壊された水道管から噴出した大量の水道水。抉られた地面がクレーター状に穴を連続して続き、最早、渋谷の中心とは思えない様相だった。

 

「アンタらには悪いけど安全なとこで動かないで欲しい。いいか?」

 刀使の少女たち3人は呆然と魂を抜かれた顔つきで百鬼丸の言葉を聞いた。

(ありゃあ、こりゃあ聞いちゃいねぇな……)

 口をへの字に曲げて、困り果てながらもリボルバーを回転させ加速する。ガチッ、ガチッ、とギアが変化したような音と共に片足の太腿が唸る。

 半径十メートルの土埃煙幕を抜け、百鬼丸は少女たちを被害の被らない距離まで連れ出した。

 

 

 ヘタりこんだ刀使の娘は後悔した。

 なぜ、自分だけ足が萎えて地面に尻もちをついたのだろう? 

 責任感と生来の真面目さから、ただの一度だって任務を放棄した事がなかった。それだけが彼女の唯一、人に誇れることだった。

 

 …………今日までは。

 

 

 

 しかし、この巨大生物はなんだろう? 確かに、人間よりはるかに大きな敵といえば荒魂がいる。戦うことには慣れている。そう思ってきた。

 

 人を食い殺す怪物を見るまでは――――。

 

 決意は、火の点った蝋燭のように溶けてゆく。

 脳から脊髄を通って「恐怖」の感情が支配した。動きたくない、死にたくない。

 切実な願いだけが体を硬直化させた。

 

 

 怖い、怖い、怖い。

 泣きそうになった。いや、無意識のうちに涙が流れていた。周囲から浴びせられる罵倒は「言葉」ではなく大衆の「音声」に置き換えられ、音声の暴力が耳を貫き、心を完全に砕いた。

 

 「なんで、私はここに居るんだろう」

 ポツリ、と独り言を呟いた。

 誰かを守るとか、そんな立派な責任感で刀使をできただろうか?

 これまでの生い立ちから、自分が立派な人間ではないことは自覚している。

 

 

 「――――食べられたくない」

 すぐ、目の前で血に濡れた牙を眺めながら素直な本音を漏らす。

 人間が餌として認識するほどの圧倒的な力。

 半ば悟りにも似た諦めの気持ち。

 

 ――――――孤独に居る彼女は、猛烈な速度で近づく人影に彼女は気付かない。

 

 誰かが腕で自分を抱きかかえている、そう感じた。

 「アンタが戦闘に参加できなかった刀使でいいか?」

 誰かの声がする。

 大衆の罵詈雑言とは異なる、初めて人間らしい声だった。

 だから思わず、

 「え、ええ」

 恥ずかし気もなく頷いてしまった。それから、激しく後悔した。これでは自分が意気地なしだと告白しているではないか。

 

 しかし、声の主は「あははは、元気があってよろしい」と爽やかに笑い飛ばしてくれた。それまで俯き加減だった刀使の少女は顔を上げる。

 長く黒い髪を後ろで雑に束ねた少年が、遠くに目線をやりながら一瞬だけ目を動かし安否を確かめる。

「よォ、賢い判断だよアンタ。絶対に本能で勝てないって解ってるなら戦うな。それは自然界の鉄則だからな」

 断固とした口調で百鬼丸は告げる。

 まるで先生が生徒に教える口ぶりだ。…………でも、どこか説得力がある。思わず、救出された刀使は頷く。

 「あなた、誰なの?」

 「ううん? 誰でもいいだろ、そんなの。ダメか?」

 「……………」

 他の刀使と同様に混乱して、理解の追い付かない状況に無言になるしか方法がなかったようだ。

 「悪いな、任務の邪魔して。でもアンタらが倒せる相手じゃねーんだわ、アレ」

 アゴで指し示すのは獰猛な巨頭を振り回し暴れる怪物の姿。

 「な、わかったろ? 安全なとこ…………は、ないけど距離をとってくれ。あとは、アンタは自分を恥じる必要はないよ。自分の限界を知ることは強くなれるからさ」

 シュー、シュー、と蒸気噴射のような音が物憂い耳に微かに響く。

 それがいつの間にか消えた時、最後に助け出された刀使は正気を取り戻した。そこは、バラゴンから遠く離れた場所で、他にも先遣部隊の刀使たちの姿があった。

 最後に助け出された刀使は思わず、安堵の涙を流して、非現実的な世界から帰ってきたような錯覚を感じた。

 

 ◇

 全員助け出したことを確認した百鬼丸は、口元に微笑を浮かべながら首を横に振って真正面に向き直る。それから、破壊の渦中にあるビル群たちを見回しながら巨影を見据える。

 静かな怒りに全身を憑依させ、残り僅かとなった加速装置の加速に必要なエネルギー残量を計算し、ため息をついた。

 

 「さて、残る手段はお前だけだ《無銘刀》――――お前、随分腹ペコじゃねーか?」

 

 不敵な口調で挑発しながら左腰に佩いた剣をゆっくり引き抜く。

 分厚い靴底が散乱するガラス片を踏みつぶし、氷を砕くような音を響かせる。ガスが洩れているのだろうか? 異臭が鼻を刺激する。

 しかし、視界を上手く確保できない。

 大地を震動させ、小刻みな振動が絶え間なく体中に響き渡る不愉快な感覚が全身を伝うだけ。

 「もう十分だろうに。餌を食べて満足しろよ」

 低く呟きながら百鬼丸は、禍々しく輝く刀身を目前に翳す。

 「まずは前菜から食べな」

 百鬼丸は自らの右腕を突きだし、腕を軽く斬る。ピュッ、と噴上げた鮮血を《無銘刀》の刀身が満遍なく浴びてゆく。

 血管のように伸びた刀身の無数に走る筋が明確に浮き上がる。

 歓喜していた。

 血を求めていたのだ!

 「どーだ? おいしーか? ううん、そうかそうか。だけどな、もっとたくさん食べるんだぞ」

 バラゴンから僅かそう遠くない距離で剣を構える。

 

 

 「よぉ、怪獣さんよ、おれは百鬼丸。お前は…………ま、いいか。どーせ喋れないし」

 立ち止まった位置には無数の瓦礫が散乱し、火災もあったのだろうか。頬を強く照らす光と熱が感じられた。……余燼が燻る匂いもした。

 

 「《無銘刀》が腹減ってるんだってよぉ、可哀そうだよな。うん、お前を餌にしてやるよ」

 百鬼丸がゆっくりとした足取りで、バラゴンに近寄る。

 重機が足踏みするような質量の落下が耳を聾する。あまりに暴力的な衝撃を感じながらも、歩みが止まらない。

 少年の顔つきは、争いを好む者の邪悪な色が滲み出ていた。

 



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172話

 赤い焔の柱が天空に高く立ち昇る。…………

 眩くて思わず顔を顰める。熱波が髪を軽く浚い、息苦しさを覚えた。

 だが、一秒も視線を逸らすことなく、両目で敵を捕捉し続ける。早鐘のように打つ心臓の鼓動が全身に熱く駆け巡る。

 「へへへへへ、火葬を用意してやったぞォ!」

 百鬼丸の声が奇妙な高揚を抑えるような口調で告げる。

 口端に煙草を銜え、紫煙を燻らせていた。左手には燐寸(マッチ)。摘まんだ燐寸棒は手を振り消した。

 首を二三、斜めに傾ける。

 燃え盛る焔を瞳に映しながら刀を握り直す。――――トドメを刺すために固く柄を掴んで微笑む。

 

 

 

 1

 

 リボルバー方式の加速装置の場合、加速時間=瞬発力であり、長く加速し続ける際には瞬発力が低下し、逆に短ければ瞬発力が上がる。単純な話だった。

 

 つまり、現在の百鬼丸が使用できる加速装置の使用時間は90秒。これを瞬発力のみに振り切ったとき稼働限界は更に短くなる。

 その間にケリをつけなければ…………。

 考えながらも、百鬼丸は妙に明澄になる思考に我ながら驚かされた。

 数々の死線を潜り抜けた経験と記憶がどんな状況であっても、現状打破に至る道筋を発見する。

 

 

 ヴォォゴオオオオオオオオオオオオ!

 

 バラゴンはようやく、地面に埋まった下半身を抜き出せる機会(チャンス)を得たようだ。埋没していた後ろ足が次第に泥濘のような土面から抜け出そうとしている。

 

 「マズいな…………」

 百鬼丸は一切表情を変えず、屈み込み加速装置を駆動させる。

 ガチャン、とリボルバーが回転すると、間髪を入れず体躯が猛烈な速度で弾かれた。

 紅の残光を曳く刃がバラゴンの喉元を目掛けて飛ぶ。

 

 視界を掠める巨影――――もとい、水掻きを有した前脚の爪が容赦なく少年に襲い掛かかる。加速装置の特性上、急な軌道変更は不可能。――――であれば、攻撃を避ける方法は一つ。

 「チッ」鋭い舌打ちをしながら、二回目のリボルバーを回す。

 バラゴンの巨大な前脚を避けるため、体を大きく捻り斜め上空へと方向を移動させる。

 爪と爪の間をすり抜け、噴射軌道の煙を宙に描きながらバラゴンの頭より高い位置にまで到達した。

 

 生物として弱点箇所であろう喉元を狙った筈が、先制攻撃は防がれた。

 百鬼丸は地上30メートル(マンション10階相当)の位置からバラゴンの全容を把握した。

 

 (えら)のような突起物が背中を覆っている。微かに空から注ぐ寂光に照らされた背中の皮膚は硬質な印象を受けた。茶褐色に近い色合いは長年地中に潜っていた影響だろうか、赤土のようなイメージが湧いた。

 まるで、人間の下半身にも似たバラゴンの太い太腿部が今、まさに地上へと解き放たれようとしている。

 

 

 ギャオオオオオオオオオン!! ギャオオオオオオオオオン!!

 

 相当な質量の金属同士を擦り合わせるような不快な咆哮が、原始生物の喉から迸る。かつて地上を支配した生き物としての矜持のようにも思われた。

 

 顔の丁度中心に位置する箇所に光る角のようなものが、より一層の光を輝かせる。

 バラバラと土砂の被った耳は、蝙蝠の翼と同じような形をしており、器用にその耳を動かして土砂を払う。

 

 しかし、バラゴンは終始、宙を自在に動き回る人影…………百鬼丸から目を離さずにいた。それは、人が蚊を煩わしく思うのと同様に憎しみに満ちた目線で百鬼丸を捉え続ける。

 

 

 百鬼丸とバラゴンの目が同時に一致し、かつ、両者を激しい憎悪の視線が絡まり結びあった。

 

 巨大生物の下顎から粘着質な唾液が牙の間から垂れる。吐き出す呼気は血生臭く、内臓の腐敗臭のようなものが漂う。

 

 

 その口腔で50名以上の人間を喰い尽した。人間の恐怖、絶望、悲鳴を飲み干し、本能の赴くままに地上を蹂躙する。

 

 

 ヴォォゴオオオオオオオオオオオオ!!

 

 怒号のように咆哮する。何度も繰り返し空気が振動するので、鼓膜が破れそうだ。

 怪獣の生態を眺めながら、少年は辟易した息を吐く。

 「うるせぇな! チッ、ブチのめすぞ」

 長い後ろ髪が顔の前に流れる。秀でた眉を低くして弱点箇所を見出す。

 

 以前、戦った怪獣同様に口内にゆけば確実に殺すことができるだろう。しかし、仮に火炎放射の類を考えた場合、タイミングを考慮せねばいけない。

 とにかく、体内からの侵入を前提として戦闘を推移させる。これより他に方法が思いつかない。

 義眼が鈍く太陽光を反射する。

 自由落下する体を後押しするように加速装置の残りで速度を上げた。

 

 

 

 



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173話

 たまらねぇよなぁ――――自分の生命(いのち)と敵の生命、どちらか一方を奪い合う瞬間ってのはよぉ……………。

 胸の底が疼くんだよぉ、なぁ? 聞こえてるかなぁ? ギャハハハハハハ!!!

 

 1

 額から血を流しながら、飛来するコンクリート破片を避ける百鬼丸。

 無数に襲い掛かる瓦礫の弾丸を寸前で躱し、空中を移動する少年は加速を続ける。時速250~300㎞の速度は人間の小さな体格にとって過負荷である。乗り物のように空気抵抗などを考えられた構造ならば別だが、生身での滑空はそれだけで体力を消耗する。

 しかし、百鬼丸は迷わず加速、加速、加速、と唱えるようにリボルバーを回転させ瞬発的な速度を得る。

 

 

 

 ギャオオオオオオオオオン!! ギャオオオオオオオオオン!!

 

 威嚇するようにバラゴンは吼えた。

 「ぎゃおおおん!!! あっはははは、おい、もっと吼えろよ、ぎゃおおおん!! へへへっ、あはははは!!」

 アドレナリンの分泌が過剰になっているようだ。百鬼丸は既に、高揚した感情のまま戦闘に突入する。すでに始末する算段はついている。あとは体に染み込ませた脳内シミュレーション通りに動くだけ。

 目を大きく見開き犬歯を剥き出しに、一筋の流星の如くバラゴンに近寄る。

 

 ――――百鬼丸の鼻はすでにガスを嗅ぎ分けていた。

 

 バラゴンの地中移動により発生した地層の構造性ガスなど天然ガスが渋谷の中心に漂っていた。しかも、飲食店で利用されていたプロパンガスたちも破けて散乱している。数種類のガスがバラゴンの出現したすり鉢状の地形に充満している。

 

 …………火だ。

 (コイツを一度火焙りにしてみよう。)

 ほくそえみながら、少年は怪獣の悶える姿を想像して、倒せない敵ではないと漫然と思った。

 

 (そいや、こいつ火炎放射すんのかな? …………ま、いいか)

 冷酷なまでの眼差しで未だ非難中の群衆を見下す。百鬼丸の内心では、人々を救うことは第一優先ではない。

 彼はあくまで「刀使」を助けることにのみ注力しており、それ以外の人間が生きようが死のうが構わないのだ…………。

 (自分の気持ちに嘘をつかなくてよかったよ。さっきの連中ども、助けにきた刀使に暴言浴びせてたからな。消えちまっても、おれには関係ないし)

 醒めきった横目で眺めながら、バラゴンの隆起した背中へと着地した。

 百鬼丸は、自らのドス黒い絶望に気が付いた。暗い感情が胸の奥を支配してゆく感覚。

 (おれが普通の人間を助けるのは刀使が、それを優先しているからだ。おれが本当に助けたい訳じゃあないんだよな…………。)

 

 差別、悪意、嘲り、――――人間の負の側面をなるべく意識しないように目を背け続けていた百鬼丸は、しかし、この瞬間から理性の糸を断ち切るように決断する。

 

 「…………おれの力は、刀使(あいつら)のために使う」

 感情の無い淡々とした口調で百鬼丸は、《無銘刀》を振り上げる。

 

 

 

 2

 「いま渋谷で戦ってる人って、百鬼丸さんだよ、ね?」

 可奈美は輸送ヘリの中でS装備のバイザーに流れる情報を読みながら戸惑いの声を漏らした。バイザー越しに、画素の荒い街の定点カメラから映し出された光景を見詰める。

 「信じたくはないが、そうだろうな」姫和が、どこか悔しそうに呟く。

 「…………私、なんだか嫌な予感がする」

 目を伏せながら可奈美は下唇を噛む。

 「昨夜の市谷基地の襲撃といい、連続して大きな事件が発生し過ぎている。誰かが裏で糸を引いていてもおかしくはないだろうな」

 きっちりと切り揃えられた濡羽色の前髪を揺らしながら、姫和が推測する。

 あまりに出来過ぎている。何もかもが都合よく起こっているのだ。

 「姫和ちゃん…………」

 「どうした?」

 「この映像の百鬼丸さん、ううん、何でもないよ。ごめんね。こんな時に声かけちゃって」

 可奈美は曖昧に笑って誤魔化す。

 「いいや、構わない。はやくあのバカを立ち退かせないとな」

 「うん、そうだね。怪獣相手に…………凄いよね」

 「凄いんじゃない、単なる馬鹿者だ」

 「あはは、ひどいなー」

 「いいや、あの男はそれくらい言っても足りない馬鹿さ加減だ」

 「――――姫和ちゃんは、さ」

 「なんだ?」

 「あの日、御前試合で逃走してから百鬼丸さんと一緒に逃げてた時、少しだけ楽しかったよね?」

 「なんだ、こんな時に?」

 唐突な発言に困惑しながら、姫和は頭を軽く振る。

「あの馬鹿者のことは正直、よく分からなかったな」

「……うん、私も全然わからなかった。でもこれから、平和な日が来たらもっと分かり合えるかな?」

「――――さぁ、どうだろうな。でも、さっきの意見には少しだけ賛成だ」

「さっき?」

 長い髪を翻してそっぽを向きながら、

「………………逃走していた時に云々というところだ」弱々しく言った。

  可奈美は桜色の唇を色づかせながら微笑む。

 「うん、なんでだろね?」

 一呼吸おいてから、

 「きっと、みんな分かり合えると思うんだ」

 栗色の髪をふわり、風に流して柔らかな口調でいった。まるで自身に言い聞かせるように。

 



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174話

 振り下ろした刃先がグサッ、と深くバラゴンの皮膚を破り筋肉繊維にまで到達した。

 《無銘刀》は、水を得た魚のように血管のように幾重も伸びる細筋を脈動させる。

 「たっぷり呑むんだぞ、お前、喉渇いてたんだもんなァ…………」

 残忍な笑みで百鬼丸は、《無銘刀》に皮肉っぽい口調で囁く。

 この刀の恐ろしさは彼自身が知っている。持ち(百鬼丸)もまた、異形の徒であるために絶えず苦痛に襲われる。

 だからこそ武器として使用する今、身をもって威力を実感した刃を大いに振るう。

 曇天から降りしきる細やかな氷雨に全身を濡らしながら、破れた皮膚から噴き出す血液を派手に浴びた。……まるで、泥のように粘つく感触が肌を紅に塗り潰す。

 

 

 首の付け根部分にとりついた百鬼丸は、波打つ硬い皮膚の僅かな隙間目掛け、何度も杭を打ち込むように刃を押し込む。引き抜く度に、苦悶に悲鳴を上げるバラゴンが、上下に運動し、百鬼丸を振り払おうと試みる。

「へへへっ、無駄、無駄だよォ! 低能野郎! お前ごときが好き勝手に暴れやがって――――」

 百鬼丸は握る柄の手応えから、あと少しで首の太い骨に当たる予感がしていた。

 それは、一種の経験則から直感していた。自らよりも大きな獲物を相手にする場合、彼は自然と相手の内部の構造を想像し、刃を体内に通すことで詳細を把握する。

 

 

 《百鬼丸くん、コイツが荒魂じゃないのなら勝機はあるよ》

 心臓の方から助言(アドバイス)が聞こえる。ジョーだ。

 

 「どーゆー意味だよ?」

 《いいかい? 荒魂ならば、物理原則や概念は度外視できる。しかし、普通の生物ならば別だよ。つまり、この巨大生物は自重が枷になっているんだ》

 「はぁ? もっと分かりやすく言えよ」

 《…………竜脚類、つまり恐竜なんかは自分の体が大きすぎて重力に苦しめられてきたんだ。だから、体を軽くする方向で進化した。つまり、こんな巨大生物はね、いいかい百鬼丸くん。骨密度がスカスカなんだ》

 「つまり、脆いんだよな?」

 《流石だ。そう、脆いんだ》

 ニィ、と口を釣り悪戯を思いついた子供のように目が爛と輝く。

 

 刷毛で壁に色を塗る感覚で、百鬼丸はバラゴンの首に刺さった刀を握った侭、真下へと降下した。

 ググググ、と切れ味の増した刃が深々とバラゴンの首を切り裂く。

 

 

 グオォオオオオオオオオオオオオオオオオ!

 

 耳を貫くような悲鳴が、最大限の音量で発生させた。

 本来であれば分厚く硬い皮膚と皮下脂肪などにより、守られていた筈の首回りが容易く傷つけられていた。

 

 「こんだけ傷つければ十分、かな?」

 百鬼丸は言いながら握っていた刀を両手で掴み、停止した位置から脚部の加速装置から発生する排熱用の噴射機能を用いた。

 すなわち、噴射の反動により、百鬼丸は刀を引き抜き、そのままバラゴンの首から離脱した。

 

 自ら宙に逃げた百鬼丸は、鼻に充満するガスを感じながら最後の仕上げを想定していた。

 

 …………火だ。

 こいつを、サッサと火葬する。

 ふと、百鬼丸はデニムジーンズの尻ポケットに入れたマッチ箱を思い出し、殺す具体的な算段を完成させた。

 

 すでに斬り込みによって首に傷がある。暗褐色の皮膚からピンク色の新鮮な筋肉が蠢くのが見えた。あれだけ傷が視認できれば十分だ。

 

 降下する体には、浮遊感が全身を覆う。

 

 迫りくる地面を冷静に眺めながら、百鬼丸は未だ遅々として進まぬ民間人の避難状況を確認した。

(ま、いいか。こんな奴ら――――)

 生気のない瞳が容赦なく合理的な判断を下そうとした――――刹那。

 

 

 

 

 

 

 『百鬼丸さーーーーーん!!』

自分の名を呼ぶ声が遥か上空から聞こえた気がした。

 

 

 「!?」 

 驚愕に思わず顔を空の方向にやった。

 

 鈍い雲間を飛行するゴマ粒のように黒い…………ヘリの機影があった。

 『いま、助けにいくからぁーーー』

 ヘリの方から少女の声がする。――――否、正確に言えば百鬼丸の耳に声は届いておらず、彼は、少女の思念を受け取ったに過ぎない。

 彼の耳は模造品であり、本来の『声』を聴き分ける事が出来ていないのだから。

 

 (これって、もしかして――――)

 少女の〝声〟には聞き覚えがある。

 

 ヘリがホバリング(空中停止の意)する間に、機影から飛び出す生き物の気配。――――それは、オレンジ色の光跡を曳きながら此方に向かってくる。

 

 ゴゴゴゴ、と空気の抵抗を受けながらも、飛び出した気配は一直線に百鬼丸目掛けて進む。

 「か、可奈美!?」

 百鬼丸は、思わず声を上げた。と、同時に彼は地面に直撃する前に改造した左腕のギミックを活用し、投げた義手が崩落したビルの壁面を穿ち、着地体勢をとっていた。

 

 ――――思考と身体が別々に動く。

 

 そんな器用な真似をやってしまう『己』に一瞬、嫌悪を感じた。これでは自分が人から遠ざかるばかりだ…………、とうに捨てた筈の人への憧憬がまた胸底に兆す。が、軽く頭を振り邪念を払う。

 

 『百鬼丸さん、待ってて! いま、加勢するからぁあ!!』

 鎧のような機械のような装備――――S装備を身に纏った少女が叫びながら、バラゴンと接近する。

 

 (マズい!)

 百鬼丸は直感的に悟った。このままでは可奈美が死ぬ。

 急ぎ納刀。

 壁面を穿った左腕を手繰るように引っ張り、壁の方向へと一時的に着地し、すぐさま加速装置を発動させる。

 カチッ、とリボルバーが回転して百鬼丸の焦りに応じる。

 既に無数の亀裂が走った壁面を足場に加速する百鬼丸。

 弾丸のように勢いづいた彼の体は、狙いを違わず自由落下速度に身を任せる可奈美と距離を縮める。

 

 ボタ、ボタ、ボタ、と赤黒いバラゴンの血飛沫を撒き散らしながら百鬼丸は驀進する。

 

 ――――と。

 

 可奈美と百鬼丸の間にビルや地面の巨大な破片が流星群のように殺到した。目線を下にやると、バラゴンが憎悪の眼差しで前脚を振り回し、障害物を上空へと飛ばしていた。

 

 「チッ、カスが!」短く吐き捨て、器用に体を捻り障害を躱す。

 さらに、加速の噴射煙を大きく蛇行させ無傷のまま障害を回避しきった。

 物理的な距離を縮める百鬼丸の一部始終を見ていた可奈美が、

 「ぇえええ! 凄い!」

 純粋な賞賛と共に、驚きの声をあげた。

 思ったよりも呑気な反応に思わず、

 「いや、そんな場合かっ」

 と、ツッコミを入れた。しかし、垣間見える柔らかな反応に不思議な安らぎを感じた。

 気を取り直すように百鬼丸は息を短く吐く。それから、

「いいから…………」

 いくぞ、と言って彼女を抱きかかえようとした。――――しかし、空中に自らが弾き飛ばす血飛沫を見て――――百鬼丸は気が付いた。

 

 

 全身が化け物の血に塗れていることに。

 

 

 腥い匂いを漂わせながら、赤黒い血液が肌を満遍なく濡らしていた。乾き始めた血液は薄い石膏のように固まっていた。

 「「――――――」」

 ふと、百鬼丸は可奈美と目が合う。

 心配そうにこちらを見る琥珀色の丸い瞳。何にも汚れていない目の光を感じながら、少年は悟った。

 

 (はははは、これだ………これがおれの本性か)

 百鬼丸は自嘲気味に鼻を鳴らし、右手を差し出した。その体を「血」で汚したくはなかった。

 『おれの手を掴め』

 一言、叫ぶ。

 

 少年の一瞬の逡巡する様子に違和感を持った可奈美だったが、黙って頷き手を伸ばす。

 「うん!」

 百鬼丸の手首を掴みながら、可奈美は精一杯の返事をした。

 それから、顔の見える距離で、出来るだけ微笑む。

 (百鬼丸)の悩みに寄り添うことができればいいと思った。

 

 …………だが。

 

 百鬼丸には、少女の笑顔がどこか寂しそうに映った。

 

 



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175話

 

 

「――――はぁ。まったく、なんでそんな無茶苦茶やったんだよ」

 少年……百鬼丸が問う。

「うーん、なんでだろう? あ、百鬼丸さんが見えたから急いで…………えへへ」

 少女……可奈美は自らの行動に説明ができずに、小さく肩を竦めてみせた。

 

 しかし、百鬼丸は知っている。彼女が単に迂闊な行動をとった訳ではない事を。明るい性格の中に内包する戦闘への鋭い嗅覚を。

 いまの行動にも何か理由がある筈だ――――少年は、頭のどこかで考える。

 十代のうら若き少女が兼ね備えるには不相応な戦士としての素質。どう考えても彼女の能力には辻褄の合わない事が多すぎる。

 以前、彼女の夢の中に入った時にも感じた違和感。……しかし、きっと何らか原因があるのだろう。

そう、百鬼丸は結論づけることにした。

 

 百鬼丸は鋭く目線を怪物にやりながら、

 「こんなノンビリしてる暇ないな。可奈美、他の刀使(あいつら)はまだヘリに居るのか?」

 遠目でバラゴンが痙攣する動きを視認しながら言う。しばらくの猶予ができた、と半ば確信した。

 

 「うん。私が勝手に先行しただけで…………」バツが悪そうに言った。

 

 「いや、そんじゃ好都合だ。可奈美。いいか。お前もこの場から早く逃げろ。アイツを今から火で終わらせる」

 「火?」

 「あいつの周辺にガスが充満している。多分だけど、気化してて引火する可能性が高い。それに破壊された車両からもガソリンが漏れ出してるから、いつ爆発するかわからんぞ」

 口早に説明し、可奈美も避難するように説得する。

 

 栗色の髪を揺らしながら周囲を眺める可奈美。

 「ねぇ、百鬼丸さん。まだ多くの人が避難できてないけど、それを待ってからとか…………」

 「あ、ああ。そうか…………面倒だな。〝そんなの〟」

 少年は感情の宿らぬ暗い瞳で一言吐き捨てた。

 「えっ?」

 可奈美は聞き間違いだと思った。

 「――――どういう意味?」

 聞き間違いでないと思いたい、可奈美はそう思いながら再び問いかける。

 「あ、すまん。そうだな……刀使が避難活動してるから、それが終わり次第だよなぁ、って意味だ。勘違いさせたかも知れないな」

 「そう、だよね。まだ大勢の人が残ってるから……………」

 「ん? 〝そんなの〟気にしなくてもいいだろ。最悪、おれが刀使だけでも――――」

 

 「待って! 百鬼丸さん? どうしたの? おかしいよ。急に……変だよ。なんで逃げている人たちに、酷い言い方するの?」

 可奈美はバイザー越しに、痛ましい表情で訴えかける。

 以前の百鬼丸であれば、少なくとも面倒くさそうに頭を掻きながら「解ったよ」と答えるような不器用な少年だったはずだ。

 ――――ほんの少し、離れただけで目前の少年はすっかり変わってしまった。そんな衝撃的な印象を受けた。

「嘘、だよね?」

 しかし、可奈美の誤解であって欲しいという願いは届かなかった。

 

 百鬼丸は長い前髪を垂らし、表情を隠しながら口を開く。

 「なぁ、可奈美。おれさ。気付いたんだよ。おれの力はさ、刀使の為に使うって。………人間っていう糞な奴らなんて知らない。人を平気で裏切って、自分が正しいと思い込んで、集団で群れて安心しきってるような奴らなんか。死んで当然だ」

 これが、いまの彼の切実な本音だった。

 救助にきた筈の刀使に悪辣な言葉を浴びせ、嘲り、助けられて当然だという反応を示す。彼ら人間は他者を踏みにじって当然だと思い込んでいる。

 いままで必死に目を逸らし続けていた醜い現実を前に、百鬼丸の抑えていた最後の理性の(たが)が外れた。

 

 

 ――――バシッ、と打擲の音がした。

 気が付くと、百鬼丸の頬を可奈美が打っていた。

 「――――――」

 一瞬、何が起こったのか理解できない様子で百鬼丸は可奈美の方を見た。

 「どうしてっ、どうしてそんなこと言うの? 百鬼丸は人を助けてくれる凄い人だって思ってたのに」

 くりっ、とした大きく可愛らしい琥珀色の瞳が真っすぐ真摯な眼差しで百鬼丸を見据える。

 叩いた右手を庇うように左手を包み、やるせない感情を抑えるようだった。

 

 「それは、勝手にそう思ってるだけだ! おれは崇高な奴じゃない!」

 「そんなことないよ! なんで、どうしてそんなひどい事をいうの?」

 

  乾いた喉の粘膜にゴクリ、と生唾を呑む百鬼丸。

 「なんで? 決まってるだろッ! おれは刀使(おまえたち)を守りたいんだ。それだけなんだよ!」

 

 「じゃあ、どうして他の人はそう思えないの?」

 

 へへっ、と百鬼丸は皮肉っぽい引き攣った笑みを口元に浮かべながら逃げ行く群衆の方角を指さす。

 「あんな連中!! 刀使たちが助けに来たって罵声でお出迎えだ!」

 

 

 「そんな人ばっかりじゃないよ、だって…………」

 少女は首を振って否定する。

 しかし、落胆するように百鬼丸は首を振って、

 「可奈美は知らないのか? おれが到着した時には大勢の連中が警察、STT、刀使に文句を言いながら我さきに逃げてた滑稽な姿を!」

 胸が掻きむしられるような感覚で叫ぶ。

 自分たちの事しか考えない癖に、助けにきた人間を蹴落とすような態度。

 百鬼丸という少年の怒りが、ドス黒い憎悪が言葉になって、まくしたてた。

 

 「おれは許せないんだ! ……誰かのために命をかけてるやつらに守られながら悪意を吐き出す奴らを! そんな奴らでも守る価値があるのかよッ!」

 

 「――――あるよ。百鬼丸さん、私も自信がないけど皆を助けたいと思ってる」

 真っすぐに見据える琥珀色の両目には、微かな迷いや戸惑いがあった。……それでも、芯の通った意志が言葉に感じられた。

 

 

 「へっ、お人よしだよ」

 

 「…………そうじゃないよ、だって」

 

 「――――いや可奈美。お前の好きなようにしてくれ。人助けの邪魔はしない。おれはあの怪物を葬る。それだけだ」

 百鬼丸は踵を返しながら、ポケットから煙草を一本引き抜き右手で弄ぶ。瞬間的に唇を噛みしめる。

 「――――分かってくれ、とは言わない。蔑んでくれて結構だ」

  抑揚のない口調で言いながら歩き出した。

 

 

 ――――それでも、刀使(おまえたち)だけは守らせてくれ。

 

 

 内心で強く念じるように秘めた思いを胸に、百鬼丸は駆けだした。

 「――――じゃあ」

 右手を挙げ、可奈美の前から走り去った。

 

 (どれだけ可奈美がおれを軽蔑しても嫌いになってもいい! おれにできるのは、ただ化け物を殺すことだけだからさ)

 

 絵具がグチャグチャに混ざり合うパレットのように、百鬼丸の感情もぐちゃぐちゃになっていた。

 

――――もう、おれはどうしようも無いんだ。戦うしかおれには能がないんだ。

 

 瓦礫の散乱する道路を走りながら百鬼丸は自らに科せられた《運命》を改めて恨む。

 

 



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176話

「お前みたいな奴は、この地上に存在したらダメなんだよォ!」

獰猛な眉間の皺を寄せて、百鬼丸は怒鳴る。

 目前の巨獣に対し告げた。…………おれもお前も、この地上に居たらダメなんだ。

 氷雨に濡れた長い髪。薄い唇に雨粒が滴る。

 

 

 バラゴン――――、その古代種は孤独の王者として地底から姿を現した。

 人々を蹂躙し、血肉を饗する。

 しかし生物として善悪ではなく単なる生理的な欲求として、巨獣は行動したに過ぎない。

 だが巨獣の命運は、いま尽きようとしている。

 人の社会の善悪によって、裁かれる時がきた……。

「当たりまえだよな、おれもオマエもここにいちゃいけないんだからなァ!」

 両目を上げる。百鬼丸の目には、人間社会と隔絶した存在物に対し、ある種の同情と憎しみの眼差しを向ける。

 

 口に湿った煙草を銜える。素早くポケットからマッチ箱を取り出し、一本を引き抜く。

 分厚い靴底で擦ると燐の火が浮かぶ。

 一歩、また一歩と前に進む。

 (まだ大丈夫だ)

 煙草に火を点し、右手の人差し指と親指でマッチ軸を勢いよく弾いた。

 

 大きく回転した火が、バラゴンの居るすり鉢状の崩落した地面へと進んでゆく。

 

 ――――その刹那。

 

 紅蓮の閃きが瞬く間に周囲を燃え上がらせた。ガスの匂いと共に、高温の熱波が百鬼丸の頬を撫でゆく。息苦しさする感じられる熱が波及し、炎の先端を黒煙が揺らめいた。

 

 ギャアオオオオオオオオオオ!!

 

 慟哭。天を恨むような、そんな悲鳴だけがけたたましく地響きのように聞こえる。

 二〇メートル以上もある巨体を燃焼させながら、巨獣は身もだえる。通常であれば、硬い外殻が肉体を守るだろう。しかし、百鬼丸の傷つけた《無銘刀》の影響により、外殻の一部から炎が侵入し、筋肉組織を焙る。

 さらに、生物の眼球は殆どが水分とゼラチンである。ゆえに、バラゴンの巨大な瞳は引火により、容赦なく焼き尽くす。

 

 

 「でも、お前こんなんじゃ死なないよな」

 一部始終を眺める百鬼丸は、渋谷のスクランブル交差点に鎮座するバラゴンを見上げる。

 

 何かが焦げる嫌な匂いを周囲に放ちながらも、身悶え地中に潜水しようと動き始めていた。そんな巨獣にむかい、刀を不格好に構えて狙いを定める。

 

 

 ◇

 

赤い焔の柱が天空に高く立ち昇る。…………

 眩くて思わず顔を顰める。熱波が髪を軽く浚い、息苦しさを覚えた。

 だが、一秒も視線を逸らすことなく、両目で敵を捕捉し続ける。早鐘のように打つ心臓の鼓動が全身に熱く駆け巡る。

 「へへへへへ、もう一回、火葬を用意してやったぞォ!」

 百鬼丸の声が奇妙な高揚を抑えるような口調で告げる。

 口端に煙草を銜え、紫煙を燻らせていた。左手には燐寸(マッチ)。指先で摘まんだ燐寸棒は手を振り消した。

 首を二三、斜めに傾ける。

 燃え盛る焔を瞳に映しながら刀を握り直す。――――トドメを刺すために固く柄を掴んで微笑む。

 

 

 たっぷり、バラゴンの血液を吸った《無銘刀》が禍々しい妖気を放つがごとく、紅の光を煌めかせる。……不思議と体の中に力が漲った。

 

 百鬼丸の片目が金色に染まり、瞳孔は爬虫類のように細長く変化した。

 

 舌をベロリ、と出して唇を舐める。

 

 静かに脈を打つ四肢に、限りないエネルギーの高ぶりを感じた。今、突出しなければ躰が弾けそうな錯覚にすら陥る。

 

 「うおぉらああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 長い雄叫びと同時に大きく開いた足が飛んだ。

 

 地面を滑るように駆けだす肉体。巨獣を仕留めるために駆け出すのである。

 

 

 

 

 ◇

 バラゴンは、あるいは、その不運な巨獣は周囲の外気を巻き込む火炎の紅に視界が塞がれていた。地面に潜ろうにも、地下水と混ざり合った土泥と瓦礫が邪魔をして上手く潜ることが出来ない。

 

 なんだこれは、なんだこれは……?

 

 ひたすら巨大な頭と前橋を動かして足掻いた。足掻いて、足掻いて――――たった一つの最悪の象徴を思い出す。

 

 ――――あの、小さな影だ!

 

 ――――あれが来なければ良かったのだ。

 

 バラゴンは、己の身を脅かす小さな影に復讐心を持った。

 

 恐らく、バラゴンは小さな人影に対して復讐をするために、今度出会った時のため、完璧に殺す算段でもしていたのだろう。……事実、小さな傷口を炎で焙られる以外は、それほどのダメージではない。

 

 …………そう思っていた。

 

 

 

『ギャハハハハハハハハ!! 元気かァ!?』

 

 冥府魔道の奥底から聞こえてくるような邪悪な響き。およそ、人のソレとは乖離した音声。

 バラゴンの弱くなった視界でもハッキリと「ソレ」の正体が確認できた。

 

 

 

 火炎の中に飛びこんでくる黒い悪魔。

 

 口を頬まで裂いて哄笑し続け、確実に「こちら」に向かってくる〝影〟――――。

 

 

 その手には、恐ろしき刃を携えながら。

 

 

「お前を解体(バラ)してやるよ」

 

 ケロイド状に焼けただれた皮膚を気にもせず、百鬼丸が焼かれる渦中へと現れた。

 

 死への誘い手として、巨獣の前へと降臨した悪魔のようだった。

 



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177話

 堆く積まれた建物の瓦礫、延焼するアスファルト舗道の表面には無数の亀裂が走っている。

 

 近隣から派遣された救急車も遥か遠くの停滞した車列の奥で赤いランプを閃かせるだけだった。数十人の救急隊員たちが、忙しく救急活動を行っている。

 担架で運びきれず、毛布を直接地面に敷いた上に、転がるように伏せる人たち。彼らの手首、足首には「トリアージ」と呼ばれる怪我の度合いや、助かる見込みがあるかを判別させる――――文字通り〝色分け〟するタグが付けられていた。

 可奈美は硬い表情で悲惨な光景を通り過ぎながら、未だ避難の終わらない人々の群れに向かって歩き出す。

 

 道の途中、人々の目玉の海が批判するような視線を彼女に浴びせていた。

 

(みんな、傷ついてる…………。)

 刺すような視線を感じながら、それでも確かな足取りで前に進む。……グッ、と握る拳が自然と硬くなるのを自覚する。

 この惨状は勿論、ここに居る誰の責任でもない。だが人間は必ず「責任」を欲しがる。自分たちが「被害者」であるために。自分たちが「か弱い存在」であるために。

 誰かを攻撃することが出来れば理由などなんでも良かった。

 そして、この場面では「救援の遅れた奴ら」の一員である可奈美にも、群衆の憎悪は向けられた。

 

 

『おい、何だアレッ!?』

 

 避難する群衆の中から驚愕の叫びが聞こえた。

 その声に釣られて可奈美は振り返る。

 

 ――――と、同時に熱波が少女の白い頬を撫でつける。息苦しさの感じられる熱量に思わず動揺した。

 

 火炎の円柱が天高く昇り、眩い光が紅蓮の奔流となって視界を一瞬で覆いつくす。

 あまりの光の暴力に可奈美は咄嗟に手を目前に翳す。

 …………再び琥珀色の瞳が開かれた時、巨大な焔の柱が縮み、巨獣のシルエットが現れた。

 強烈なゴムの焼けるような不快な匂いが嗅覚に感じられた。

 

 

 …………火だ。奴を火葬する。

 可奈美の脳裏には、別れたばかりの少年の言葉が甦る。

 

 

 

 Ⅰ

 『ヴォォゴオオオオオオオオオオオオ!!』

 ケロイド状に溶けた皮膚、散髪は焦げて先端が焼けている。

 眦の切れた両目は、獰猛に揺れる目玉を印象的に動かす。特徴的な肉食獣のような下顎から涎を滴らせる〝百鬼丸〟――――だった存在。

 

 溶けた皮膚の下から黒い体毛が生えている。

 半獣と化した百鬼丸は、火炎の中に身を投じると同時に脇腹に《無銘刀》を突き刺し、強制的に魑魅魍魎、悪鬼羅刹となる覚悟を固めていた。

 

 人に似た姿のままでは、巨獣を殺すことはできない。

 人に似た姿のままでは、群衆どもを助けようと思うだろう。

 人に似た姿のままでは、〝楽しかった〟記憶が脳裏に過るだろう。

 

 ――――だから捨てよう。

 

 最早、人の形にこだわる必要は無いのだ。無銘刀の内部には幾千、幾万もの魔物たちの怨念が閉じ込められている。その刃を己の肉体に受け入れることで、己の「獣性」を喚起させる。

 百鬼丸は賭けに出た。

 たっぷり血液を吸いこんだ《無銘刀》は、運命の軛に囚われた少年を嘲笑いながら受け入れた。

 そして、ロクでもない賭博に勝った。

 

 〝半獣〟と化した百鬼丸の右手に握られた刀は、禍々しい血の色をした真紅に刀身を染め上げ、妖しい輝きを放つ。

 

 『ヴォォゴオオオオオオオオオオオオ!! ヴォォゴオオオオオオオオオオオオ!!』

 人の声帯からは発することの不可能な咆哮を迸らせながら、バラゴンの首の上に立つ。

 

 

 バラゴンの外殻となる硬い皮膚は、200℃以上の温度になっているにも関わらず、素足で佇み、邪悪な咆哮を上げ続ける。その音は怨念の塊であり、どこか微かに寂しさすらも感じられる悲鳴にも聞こえた。

 

 

 小さく、黒い影の悪魔は鉛色の天空に向かい散々雄叫びを上げたあと、迷わず頬まで裂ける大口を開けてバラゴンを「喰らい」始めた…………。

 獰猛な牙には粘着質な唾液が糸を引き、ピンク色の肉塊を乱暴に咀嚼している。

 

 

 

 Ⅱ

 ――――なんだ、これは? 何が起こっているんだ?

 

 危険を冒してまで民放の報道ヘリから撮影を開始していたカメラマンは固唾を呑みながら、バラゴンの姿を記録していた筈だった。

 しかし、異変が起こっている。

 「もっと、近く! もっと近寄ってください!」

 操縦士の方へ唾を飛ばしながら叫ぶ。ローターのババババ、と回転する音が猛烈に耳を聾する。

 「無茶ですよ! これ以上はどんな被害がくるか分からんのですよ?」

 無茶な強要をはねつけるように反論がきた。

 ――――チッ、

 と短く舌打ちしながらも、カメラマンは最大限カメラのピントを絞り、映像を拡大させる。

 

 

 カメラのレンズが捉えたのは、巨大な怪物の頭上で狂暴に「食事」を始める小さな「化け物」だった。

 

 

 Ⅲ

 都内の一角を占める放送局のビル。

 さきほどまで、昼の報道番組と称するワイドショーが放映されていた。しかし、急遽番組は中断され、フロアは事前準備を開始していたスタッフたちの手により、簡易の檀上が設えられた。まるで、緊急事態を用意していたかのように。

 

 ワイドショーの出演者たちは怪訝な表情で、スタジオの隅から檀上に登壇する男を注目した。

 

 

 ――――男の名は轆轤秀光。

 政府の中枢を担う情報戦略局の局長であり、本来は裏方に徹する存在。

 

 彼は、昼のワイドショーで、とある政治家の代役として呼ばれていたに過ぎない。その秀光が手際よく放送局を掌握し、都合よく動かす様子は、異様さでは片付けられない違和感を、周囲の人間に感じさせていた。

 

 

 俳優のように優れた顔に、一瞬、放送フロアにいた人々は目を奪われた。

 目の眩むようなスポットライトが檀上に集中している。不気味なまでの沈黙。なにか、期待と不安の交じる無数の眼差したち。

 しかし、人々の注目など意に介した風もなく、檀の前に立ち優雅に一礼して、秀光は口を開く。

『皆さん、私は内閣府直属の情報戦略局局長、轆轤秀光と申します。今回の緊急事態につきまして即自的な自衛隊派遣、及び最大級の『災害』を指定する緊急事態宣言に基づく行動を行います。現場での判断により、独自の判断が可能である〝近衛隊〟の出動命令、および、STTの特殊訓練部隊による鎮圧を宣言いたします』

 

 明らかな越権行為であった。 

 政治において、政治化や行政の首長たちが宣言なりを行う。しかし、秀光の行った行為は明らかに越権行為であるばかりでなく、事実上のクーデターに等しいものだった。

 

 

 『先刻、発生致しました巨大生物の対応――――そして、現在カメラ映像にありますこの〝人型〟の生物への殺処分を宣言いたします。皆さまの身の安全を守り、職務を遂行することが我々の役割であります』

 

 その発言と同時に、秀光の背後に配置された大型のディスには、空撮されたバラゴンと、人の形を失いつつある百鬼丸の姿が放映されていた。

 

 

 『これこそが、我々の憎むべき対象であり、倒すべき敵であります。被害現場の皆さまには一刻も早く避難活動の円滑化、そして現場に急行させています特殊作戦部隊による事態の鎮圧を遂行すること。それを今、皆さまにお約束致します』

 

 

 華美な言葉で空虚に飾られた言葉を延々としゃべりながら、秀光は背後に映るモニターを指さす。バラゴンと――――もう一体の化け物に対し、毅然とした口調で演説を続ける。

 

 『この怪物たちの処分は急がなくてはなりません――――』

 

 



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178話

「まったく、あの馬鹿者は何をしているんだ…………」

 深い憂鬱の吐息を漏らす姫和。

 

 

 

 真紅の瞳を閉じると、瞼裏に先程の光景が浮かんでいる。

 

 可奈美が肩越しに微笑む。

――――私、ちょっと行ってくるね。

 

 そう言って、可奈美はヘリの後部ハッチから勢いよく飛び出していった。

『ま、待て――――』と、制止したにも関わらずに行ってしまった。

 姫和は、伸ばした腕を知らない間に下ろしていた。

 ヘリが巻き起こす気流の乱れた音が耳に、まるで不思議な音色を奏でているように聞こえた。

 

 

 降下可能な高度と地点を定めたヘリはホバリングをして、S装備を装着した刀使(彼女たち)に『いつでも降りて大丈夫だ』と、操縦士がマイク越しに告げる。

 

 頷いた姫和は先行して飛び出した可奈美の後を追うように、後部ハッチから飛び出す。通常であれば、パラシュートの補助が必要な高さであるが、S装備の場合、姿勢制御――――慣性制御の補助により、ある程度の高度であっても着地が可能であった。

 

 なぜ、可能とされているのか?

 

 一つには、御刀から引き出される異次元の力により加護をうけた「人間」がもたらされる能力の発揮。それが、人体上不可能な行動を広範囲で可能とする。

 一例を挙げれば、自らの質量以上の物体を動かす。驚異的なスピードでの移動。

 いずれも、物理世界における制約を無視した現象である。

 

 

 ビルの屋上に滑り込むように着地した姫和は、スクランブル交差点のある方角を見る。火炎の巨大な柱が一瞬、天空を焦がすような光景が拡がった。そう思うと、間もなく光が収束し、巨獣の悶える姿が確認できた。

 

 

 綺麗に切り揃えられた前髪が風に流れる。左の腰に佩いた太刀の柄を握り、精神を統一する。

 動揺すれば、戦いには臨めない。斬り合いにおける「迷い」は「死」に直結する。

 それは、剣を握って学んだ事だ。

 

 

 …………だが、それでも疑問を持たずにはいられない。

 

 「百鬼丸、お前は何者なんだ」

 

 

 

 Ⅱ

 (あはははは、お前はようやく本性を現したな!)

 秀光は空虚で嘘臭い演説をしながら、腹の底で嘲笑い続けた。

 《無銘刀》に呑み込まれ、化け物となった少年の姿に哀れさすら感じられた。しかし、それより更に滑稽なのが、それを眺める「人間たち」の顔だった。

 

 彼らは、バラゴンという圧倒的脅威に対し、畏れ、そしてもう一個の化け物に対しては、人間の姿形を保っていることから、不思議と怒りや憎悪に近い感情を持って映像を見詰めている。

 

 (そうだ、人間は自分たちの理解できないものは理解しない。しかし、少しでも自分たちに近ければ、そうやって悪意を剥き出しにできる優秀な生き物だ!)

 

 秀光は醒めた目で周囲を見回しながら冷静な表情を作り、喋り続ける。

 

 

 

 ◇

 …………私はどこか、醒めた目で見ていた。

 多くの人を悲しませる怪獣が暴れまわっている。そう思っていた。――――さっきまではそうだった。

 怪獣を見上げながら私は、別の「獣」みたいな声を出し続ける百鬼丸さんを見て、自分がどうしたいのか分からなくなった。

 

 ――――分かり合える

 

 百鬼丸さんは確かに強いけど、剣を合わせた時に悲しい感情が伝わってきた。

 もし、力になれるのなら、力になりたいと思っていた。

 …………そう、思っていた。

 でも、違った。

 あんな姿は――――本当に「人間」を棄てた姿なのだと理解できてしまった。そして、最早分かり合える存在ではないと心が理解してしまった。

 

 

 

 剣を合わせられない存在と、どうして対話が出来るのだろうか?

 

 醒めた人格の自分が耳元でささやく。

 あんな「怪物」とどうやって話をするの? 

 

 (…………何がしたかったのかな。私は、ここに居て止められなかった)

 

 人間たちの行動に絶望した少年は、しかし、刀使(わたしたち)のために心を棄て、体を棄て、全部をなげうって戦ってくれている。

 

 

 

バラゴンの首上で暴れまわる人影に意識を向けた。

 「――――力にはなれないかも知れないけど」可奈美は呟く。

 

 《千鳥》の柄を握り、呼気を整える。

 「このままでいいはずない、よね」

 

 

 

 ◇

 

 グゥォオオオオオオオオオオオオオオオ! グゥォオオオオオオオオオオオオオオオ!

 

 バラゴンの咆哮はすでに悲鳴へと変わり、ズタズタに体表を切り裂かれていた。二〇メートルの巨大な質量を有する怪物は、苦悶に泣き叫んだ。

 

 『ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』

 

 真紅の刀身を振り回しながら、半獣となった百鬼丸はひたすらバラゴンの肉塊を貪り喰らった。唸り声の合間にも休むことなく、血涎の交じった唾液でひたすら咀嚼を続ける。

 

 グチャ、グチャ、グチャ……………。

 

 湿った音が特徴的な下顎から聞こえた。

首の肉を削り、食べ、また削る。

 

 金色の目は、輝きを増しながら悪魔の肉体と化した百鬼丸の体を〝憎悪〟たちが使役する。

 

 

 ◇

 人間が憎い、人間たちがひたすらに憎い!

 

 おれを散々ゴミのように扱った挙句に、肝心な時はいつもおれが助けないと死ぬ「弱い」存在の癖に。

 何もかもが憎い。

 おれが一体何をした? …………おれはただ生きているだけだ。

 

 お前たちがおれを無視し続けるならそれでもいい。

 

 おれは、ただ敵を殺すだけだ。

 

――――どうせ、おれのことなんて誰も理解する気もないんだ。だったらこれまで通り好き勝手に暴れるだけだ。

 

 

 Ⅲ

 巨獣は喉をズタズタに引き裂かれながら、最後の悲鳴すら上げられずに地面にゆっくり倒れこもうとしていた。穴だらけの喉から滝のような多量の血液が噴出し、ギョロりとした目玉は次第に生気を失い、人間たちをすりつぶした口は開閉する。

 

 百鬼丸――――の、はずだった半獣の悪魔はバラゴンの腹部を《無銘刀》で切り裂きながら駆け回る。血飛沫などという生易しい表現では足りない血が周囲を血の池に変えている。

 内臓を傷つけられ、すでに戦闘の意欲が減退したバラゴンは最後に地面に潜ろうとする素振りを見せると、腹部の硬い体表を煎餅のように噛み砕き、腸を引きずり出した。

 

 

 半径が5m以上もある大腸を口で銜え、引きずり出しながら、切り刻む快楽に『ギゥウォオオオオオオ!』と叫び声をあげる。

 

 

――――巨獣、バラゴンはすでに巨大な亡骸として身を地面に伏せていた。

 

 ゼラチン質の目玉は生気が失われており、怪物に絶望という表情があるのであれば、まさにそのような顔で死んでいた。幅3メートル近い舌をダラリ、牙の間から垂らし、血の泡を噴き出していた。

 

 

 それでも尚、半獣の悪魔は食殺を辞めはしない。

 

 ズタズタに引き破いた内臓には未だ未消化の「人間」だったものたちが、胃袋の中から溢れかえっていた。

 

 強烈な酸性の匂いが辺りに漂い始める。内臓の悪臭と混ざり合い、吐き気をもよおす惨状を作り上げた。

 

 百鬼丸……だった、半獣の悪魔は全身を黒い繊毛を紅の血で染め上げながら、不気味にバラゴンの亡骸を斬り裂く。

 

 がちっ、と金属質の折れるような響きが聞こえた。

 半獣の悪魔はバランスを崩しながらも、刀をバラゴンの腹部に突き刺し杖代わりに立ち上がる。目線を下に向ける。…………どうやら、加速装置だった脚部が破損し、シャフト部分が折れてしまったらしい。

 だが、気にせず半獣の悪魔は、鋭い牙を突き立て、巨獣の死肉に頭を突っ込む。

 皮肉なことに、人間的な特徴は加速装置の部分のみとなっていた。

『グゥォオオオオオオオオオオオオオオオ! グォオオオオオオ!!!』

 激しい雄叫びを上げながら、半獣の悪魔はただ喰らう。

 …………しかし、その金色の目端に、血とも怪物の体液とも異なる、光る透明な雫が浮かぶのを、彼自身知らなかった。

 



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179話

 ――――おれは所詮、誰にも愛されない存在だ。こんな見てくれを誰が愛してくれる? 考えてみろよ。お前の生涯で誰か一人でもお前を本当に必要としたか? そうだよな、してないんだよな。お前は単に生命を奪う装置として生まれてきたんだからな。

 

 

 …………冷静な自分の声が聞こえる。

 たぶん、別の人格だろう、おれ(百鬼丸)が語りかけているんだ。

 

 ――――なぁ、百鬼丸。お前いま楽しいだろ? 本当の事いえよ。人間たちに差別されながら生きていくよりも、こうやって本当の自分を皆に見てもらって、でっかい怪物を殺すのは心が躍っただろ? 解るよ。…………だって、おれはお前の「本音」なんだからさ。

 

 

 ――――この調子でさ、力を振るって人間たちをブチ殺しまくるか? 罪悪感? いらねーよそんなの。蟻や虫を殺すのに罪悪感はないだろ? おいおい、今更奪ってきた生き物たちの命は無かったかのようにふるまうのか? 他の生き物たちはブチ殺すのが平気で人間さまだけが特別扱いかよ? 笑わせるな!

 

 ……………やめろ。おれは、ただ普通に暮らしたかったんだ。

 

 ――――人間としてか?

 

 …………人間として、だ。

 

 ――――へぇ、そんじゃ、さっき人間に失望したばかりのお前は、一体なんだったんだ?

 

 …………それでも、おれは人間になるのを、諦めたくないんだ。

 

 ――――無理だろ。さっきの可奈美の顔みたか? お前に失望してたよなぁ? ああ、こんな真っ黒な体毛の姿を見てもらえれば一発で理解してもらえるぞ。

 

 

 『お前は化け物なんだ』

 

 ――――ってさ、ギャハハハハ! ほら、な? もう我慢しなくていいんだ。お前は誰より強い。誰にも負けない。邪魔する奴らはみーんな、葬ってやろうぜ。社会の日陰におれたちを追いやったクソどもに復讐してやる機会(チャンス)じゃないか。

 

 

 …………やめてくれ。おれは、ただ平和に暮らしたいんだ。本当は山小屋で人がこない所で平和に暮らしたいんだ。

 

 

 ――――嘘つきが。

 

 

……………やめてくれェ。

 

――――どれだけの命を奪えばお前は気が済むんだよ? おい、答えろよォ!!!

 

 ………もう、やめてくれ。おれに構わないでくれ。

 

――――みっともないな。耳を塞いで、地面に額をこすりつけて泣きじゃくるなんてな。惨めだよ。お前。

 

 

 Ⅰ

 確かに泣いている。

 可奈美にはそれが解った。さっきまでは、分らなかった。それが、距離を縮めるごとに明確に耳に、心に伝わる。

 「…………なんでもっと早く気付いてあげられなかったのかな」

 あの半獣の悪魔――――否、百鬼丸が泣いていることに気付けなかった。

 「姫和ちゃんも、百鬼丸さんもどうして? 本当につらい時になんにも言ってくれないのかなぁ」

 涙ぐむのを堪えながら、可奈美は悪臭の漂うすり鉢状の巨大なクレーターの方角に急ぐ。

 

 これは決して「獣の咆哮」などではない。

 ただ、傷つきやすく繊細で、誰よりも優しい少年が、泣き叫んでいる。

 早く行ってあげなきゃ。一分でも一秒でも早く、行ってあげなきゃ。

 ――――と、駆け出す可奈美の背後から、

 「衛藤さん、ですか?」

 誰かが声をかけた。

 「えっ?」

 振り返ると、左手を庇うようにヨロヨロ覚束ない足取りで、可奈美と同じ方向に進む刀使の姿があった。

 「だ、大丈夫!?」

 足を止め、可奈美は怪我をしている刀使に近寄った。

 「やっぱり、有名人の衛藤さんだ。…………ええ、怪我は大丈夫です。…………それより、あの叫んでいる獣の声って、」

 可奈美は耳を劈く悲痛な叫びの方に頭を向け、

 「…………うん、私の友達なんだ」

 ポツり、と呟く。その揺るがぬ信念の籠った声音で。

 

 「そう、なんですか。わたし、ですね。多分、ですけど衛藤さんのお友達に助けられたんだと思います。黒髪の長い、わたしたちと同じくらいの少年に」

 

 可奈美の琥珀色の瞳に一筋の希望のような光が閃いた。

 「えっ?」

 頭を、元の方に戻す。

 怪我をした刀使は、はにかんだ。

 「全然、現実的じゃないですよね。でも、確かに助けてもらったんです。怖くて足が竦んで、その場でヘタりこんで、皆に罵声を浴びせられて………心が折れそうだった時に、助けてくれたんです」

 「……本当に?」

 「はい。間違いありません。……でも、刀使を助けてくれる存在なんて誰にも聞いた事がなかったから」

 

 『おれは、何があっても刀使だけは助ける』

 

 可奈美の鼓膜の奥には少年の言い残した台詞が蘇った。

 

 「わたし、本当にダメで。それでも、その人? ぜんぜん、こんなひどい状況なのに余裕そうにしてて、すごく安心できて。……すいません、本当はその人にお礼を言いたいんですけど、こんな状態だから…………衛藤さんに、代わりにお願いしていいですか?」

 「――――うん。」

 「ありがとうございました。それだけ、伝えて欲しいんです」

 琥珀色の大きな瞳は、静かに透明に潤んでいる。

 (よかった。百鬼丸さんが変わってなくて。……………)

 ――――不器用なだけだったんだ。

 

 可奈美は、悟った。

 

 「他の人間なんてどうでもいい」と言った彼の真意を。

 

 いつも、戦う理由は刀使(わたしたち)で、刀使を守るために彼自身が身を挺して、悪意や暴力の全てに立ち向かってくれていた。

 不器用で、今まで自分の過去も語らず、ひたすら戦い、傷つき、それでも前に進もうとしていた少年。

 

 

 「どうしてもっと早く気付いてあげられなかったのかな。……ダメだな、私」

 

 「え? どうしたんですか? 衛藤さん?」

 心配そうに聞いた刀使に対し、首を振って否定する。

 「ううん。ごめんね。なんでもないよ。――――うん、わかった。必ず言葉は伝えるから」

 

 



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180話

 

 視界を赤く染め上げる「何か」は、おれの顎を伝い地面に落ちた……。

『ガァ、っ、アガッ、グアァアぁあ』

 喉が焼けるような痛みを感じながらも、おれはただ吼え続ける。どうしようもない破壊衝動だけがおれを駆り立てる。口の中は鉄の金臭い味で満ちていた。――吐きそうだ。

 

 焦点の定まらぬ霞んだ視界には、穴と傷だらけの怪獣が地面に横たわっている。

 

 

 ――――これはおれが殺したんだ。

 

 

 そう理解し、納得するまでに時間はかからなかった。

 ふと、右手を見ると刀の刀身は色を失い、元の鈍色をしていた。だが、おれの体中には黒い獣毛が生えていた。舌先で歯をなぞると、牙になっていた。

 

 首を動かして周りを見ると、すり鉢状の巨大なクレーターの底にいる事に気が付いた。

 

 獣になった癖に、妙に頭は冷静で、まるで「頭」と「体」が別々に動いているようだった。――――そうだ、例えるならば夢だ。夢での自分は、体は自由じゃない。だけど、思考だけは自分のものだ。

 

 …………これは、夢なのか?

 

『ガアアァアアアアアアアアアア!!!!』

 

 おれは久々の痛みに、半獣となった状態ですらその場に蹲った。決して慣れることのない痛み。おれは、この痛みを知っている。

 

 体の一部が戻ってきたのだ。

 

 なぜ? おれは、荒魂を倒した覚えはない。どういう事だ?

 

 混乱する頭をよそに、おれは頭を抱えてひたすら獣の声で叫び続けた。プツプツプツ、という異様な音声が甦る。

 

 …………そうか、これが本当の『音』なんだ。

 

 人工の鼓膜と耳では聴くことが出来なかった音だ。うっすらと赤い視界を見開きながらおれは涎と涙を垂れ流す。獣の身に堕ちながらも、これまでおれの「耳」として働いてくれた鼓膜と耳が地面に落ちる様子をみた。直接脳みそを耳穴から引っ張り出されるような無茶苦茶な痛み。

 

 

 ババババババ、と「上」の方から幾つも重なる騒がしい「音」。

 パチパチと地面に燻る焔の「音」。どこか遠くから聞こえる人々の悲鳴――――。この「音声」たちは、決して初めて聞くものじゃない。人工の耳で既に知っている…………そう思っていた。だけど、違う。

 

 本物の器官から得られる音は、目に見えない音の波を直接おれに襲い掛かる。

 

 

 

 …………いやだ、いやだ、聞きたくない。

おれを責める声も、人工の耳であれば、それが「嘘」だと言い訳することもできる。だけど、本物を体に入れてしまえば、おれは、どうしようもなくなる。

 

 

『ガァオアアアアアアアア!! がぁああああああああああ!!』

 おれは、自分の声が本当に獣になってしまったことを改めて認識した――――人間の「耳」で自覚した。

 

 …………おれは、この先、本当に体を取り戻すのか? それが幸せになるのか? 人間になることが本当におれの目的なのか? いやだ、なにも見たくない。いやだ、なにも聞きたくない。いやだ、全部、全部、逃げてしまいたい。

 

 腕で耳の辺りを塞ぎ、現実世界との壁をつくった。…………筈だった。

 

『百鬼丸さんっ!!』

 

 

 ―――――始めて襲い掛かる「音」の奔流の中から、ひと際小さいくせによく聞こえる声がした。おれは、どこか懐かしさを感じていた。

 

 おれは、その懐かしい声の方に頭を上げる。

 クレーターの上部、アスファルト舗道の崩れかかった端に人影がある。肩を大きく上下に息を荒くついていた。

 赤く歪んだ視界からでも、それが先程別れたばかりの〝可奈美〟であると理解できた。

 

『ガァっ、アガガアアア』

 

 おれは可奈美に呼びかけようとして、気が付いた。――――そうだ、おれは獣だ。いくら叫ぼうが、名前を呼ぼうが意味なぞない。人であれば、名前を口にできる。人であれば、当たり前に出来ることなんて意識しない。

 

 …………だが、おれは違う。

 

 長い舌を牙の間から垂れ、血の混じった涎を顎から糸を引いて体中を黒い獣毛で覆われた――――本当に歪で醜い存在。

 

 

 可奈美は、厳しい装備のまま、バイザー越しに変わり果てたおれを見据えている。

 そのバイザー越しにも見えるだろ。だからさ、よーく、みておいてくれよ。

 

 《おれは、化け物なんだ。本物の……………》

 

『百鬼丸さんっ!』

 

 ……………なんだよ、聞こえてるよ。

 

栗色の髪が風に流れた。可愛らしく束ねた尻尾みたいな髪はぴょこん、と跳ねている。

 

 

 

「よかった、百鬼丸さんなんだよね。…………ねぇ、こっちに来てくれるかな?」

 

 本当は声なんて、こんな遠い距離からじゃあ、届かない筈だ。だが、ハッキリと確かに可奈美が柔らかく微笑みながらそう言って手を差し伸べるのが解った。

 

 おれは、彼女の正気を疑った。

 

 …………コイツは本当の馬鹿か?

 

 おれは、薄い膜に覆われたような見えにくい目を細め、可奈美の方を凝視する。剥き出しの地面の傾斜の上、スカートがヒラリとはためく中、彼女は、形の良い眉をハの字に曲げて困ったように手を差し伸べている。

 

 ……………ああ、そうか。コイツは本当にバカだ。底抜けのバカで、剣術バカで、それであり得ない程にお人よしで、いいやつなんだ。

 

「ずっと、孤独(ひとり)だったんだよね。百鬼丸さん。気が付けなかったよ」

 柔らかい唇から可奈美は囁くように言った。

 

 

 

 ………………ああ、懐かしいなぁ。可奈美と姫和で一緒に逃亡の旅をしていた時を思い出すなぁ。もう、戻れないけど、でも、どうしようもなく、心が温かくなるんだ。

 

 

 ――――――でも、おれには、お前たちの近くにいる権利はない。そんなものは許されない。

 

 

『ガァアアアアアアアアアっ、あっく、あおあくぎゃふぃゆ』

 

 おれは、必死に叫ぶ。人の言葉を紡ごうと、口を動かしてみる。下顎に涎がダラダラと酸っぱい匂いをさせて滴り落ちる。みっともない姿だった。

 

 しかし、彼女は一切動じることもなく、子供が悪戯した時のような優しい微笑みを浮かべて、

「――――うん、待ってて。私が百鬼丸さんの方にいくから」と言った。

 

 可奈美は手を引っ込めて、自分の方からおれのいる場所まで向かおうとしていた。

 

 

 『グルッなッ、――――――こっヂにぐつるぅなっ!!!』

 人語の混ざった不快な音がおれの口から洩れた。

 「えっ?」

 言葉を発していると思ったのか、驚愕した可奈美は、斜面に降りる寸前で足を止めた。

 ……………おれは、言わなくてはいけない。ハッキリと確かに言わないといけない。チャンスは一度きり。しっかり、ハッキリ、自分の「言葉」で伝えなくてはダメだ。

 おれは、思い切り息を吸い込む。悪臭の漂う外気を肺に満たす。

 

 「こっち…………ニ、くるぅ、なぁあああああああ!! ……………おれ、ヲ、ミナァイデ、クレ、オデェから、ニゲてクレェ」

 不細工な声でおれは懇願した。

 おれは、ひたすら、可奈美に願った。

 こんな醜い姿のおれを見ないでくれ。頼む、お前たちだけにはこんな不細工な姿は見られたくなかったんだ。

 頼む、もう、おれに構わないでくれ。狂暴で殺戮を繰り返すおれから逃げてくれ…………。

 頼む、頼むよ――――じゃないと、おれは頭がおかしくなっちまうんだ。

 破壊衝動を滾らせて、大事なものまで自分の手で壊したくないんだ! お前たちを守れなくなっちまうんだ!

 

 

 

 おれの声は果たして届いたのだろうか? 怖くて直視を避けていたが、改めて可奈美の方角をみる。

 

 

 彼女は一瞬だけ、時間の止まったような顔をしていた。が、すぐに怒ったような表情になった。

 

 「――――ううん、いやだ。逃げないよ。助けるから。私、大切な友達が困っている時に逃げ出したくないから。百鬼丸さんは、私も姫和ちゃんも助けてくれたよね。だから、今度は私の番だよ」

 真摯な眼差しでおれをみる。

 

 

 ――――違うんだ。そんな純粋な目で見ないでくれ! その純粋さがおれには、痛いんだ。与えないでくれ。おれは……………。

 

 

 しかし、自分の意志に反し、おれは、黒くて、鋭利な爪の毛深い腕を伸ばしていた。無意識のうちに、誰かの「手」を求めていたのかも知れない。

 …………おれは、救われたかったんだ。誰かに許されたかったんだ。

 

 可奈美はおれの伸ばした手を見ると、細い腕を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

『もう茶番は済んだか?』

 おれの背後から渋い男の声が聞こえた。

 

「―――――!?」

おれは気配にいまの今まで気が付かなかった。自分自身の迂闊さと、体に慣れないことによる警戒の緩みを思い知った。

 

――――――腑破十臓、その名前がおれの脳裏を過る。

 

と、同時におれの腹部が灼かれるような感覚がした。目線を下にやると、刃がおれの腹部を貫いていた。

 

 髑髏か、猿面のような顔が、おれを眺めていた。

 「ガッカリだ。もっと強いのかと思っていたが…………見当違いだったようだな」

 吐き捨てるように、刃を深くおれの腹を突き刺す。

 

 「ゴフッ」

 おれは、口から血の塊を思うままに吐き出した。

 




年内に終わりそうになーいよー。どーしよ。


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181話

 

 ――――腑破十臓の体は異様という他なかった。

人体骨格模型と、甲冑を融合した不思議なシルエットは、一種の神秘さと不気味さを備えていた――――。

 能楽の猿面を思わせる顔部は赤く、双眸は妖しい白の眼が冷徹に光る。

「もっと面白味のあるやつだと期待していたが……これでは、秀光の命令を待たずに殺すべきだな」つまらなそうにつぶやく。

 興味のない玩具を与えられた子供のように失望感を露わにしていた。

 

 

 

「――――――ッ!?」

 遠い場所から突然の闖入者をみた可奈美は、思わず息を呑んでしまった。腹部を貫かれた半獣の悪魔――――百鬼丸は、茫然と刃をみている。

 

「ゴフッ、…………っ、くっ、」

ようやく理解が追い付いたようで、苦悶に歪んだ声を発して刃を握る。

「引き抜く時にお前の指がバラバラになるが、いいのか?」

「おヴぁぇ、をゴロズ、おまヴあをゴロス…………」

 金色の眼には涙が浮かんでいる。

牙の間から洩れる呪詛のような言葉は、純粋な憎悪よりも悲嘆の意味合いが色濃く反映されているようだった。

 十臓は半獣の悪魔の抵抗する姿を面白げに眺めながら、耳元に頭を寄せる。

「……外道に堕ちた、この人ではない身の上の者として教えてやろう。お前の伸ばした腕は永遠に届かない。お前はこちら側の匂いがする。殺し合いに意味や生きがいを見出す者だ」

 決定的な一言を囁く。

 

 半獣の悪魔――――もとい、百鬼丸の抵抗する動作はピタッと止まった。刃を握っていた手を離し、ダラリと両腕を垂らす。すべてにやる気が失せたように曇天の空を仰ぎ見る。

氷雨が絶え間なく、百鬼丸の顔に降りしきる。

 

 (馬鹿な奴め…………。)

 

 肚の底から百鬼丸を軽蔑した十臓。

 人に拘る彼の姿は滑稽を通り越した哀れさすら感じた。

「失望した。お前は、人になぞ拘らなければ、俺の求める高みへと到達できる存在だったかもしれないが…………」

 

 言いながら、十臓は刀を思い切り引き抜いた。と、同時に赤黒い液体が百鬼丸の腹部から噴出する。ドロッ、と血塊のようなモノまで溢れ、太腿のあたりまで零れ落ちた。

「…………ッ、グァアアアああああああああ!!!」

 激痛に悶えながら百鬼丸は、膝から崩れ落ちた肉体はバラゴンの死骸上に折り重なる。

 皮肉なことに、《無銘刀》の効力が切れたのだろう。次第に百鬼丸の体から黒い獣毛が消えはじめ、元の人間の姿に戻りつつあった。

 

 思う存分に口から血を吐き出しながら、百鬼丸は、恨むような眼差しで十臓を睨みつける。

「いい目だ。だが、今更そんな目をしても無駄だ。今のお前では俺には勝てない」

 客観的な事実を述べながら追い打ちをかけるように裸の背中を踏みつける。「グッ」と、激痛を堪える表情を、愉快そうに見下す十臓。

 

「ゴホッ、ぐほっ、うぅ……………」むせ返りながらも、百鬼丸は強い意志によって十臓の踏みつける足首を、背中に腕を回し掴む。

 

「ばーか、お前なんかに負けるかよッ」

 挑発的な言葉で、笑う。

 

「―――――死に急ぐようだな」

 無機質に十臓は刃を下に持ち替えて最後の一撃を加えようとした。

 

 しかし、刃が肉を突き刺すことはなかった。

 

 刃の付け根からガキッ、と金属同士の衝突する激しい音が響く。

 

 

 巨大なドーム状となったクレーターの底には、バラゴンの死骸が大きく横たわり、その上に立つ十臓…………彼を目掛けて、一閃の斬撃が襲い掛かる。

 

「…………やはりお前か! 来てくれると信じていたぞ! 衛藤可奈美! お前でなければ真の斬り合いはできない! そうだろォ!」

 赤い顔面が歓喜に打ち震えた声音で問いかける。

 

「―――――――百鬼丸さんは殺させないからッ!」

 S装備に身を包んだ可奈美が《迅移》と装備による身体能力を飛躍的に向上させた状態で、十臓に斬り掛かった。

 

 

 御刀――――《千鳥》は、邪悪な刀《裏正》を止める。

 

 

 両者の目線は一直線にぶつかり、鞏固に結びつく。

 

 

 

「…………ッ、逃げろっ、げほっ、げほっ、可奈美、にげ――――グっ!」

息を喘がせながら叫ぶ百鬼丸の背中を更に力強く踏みつける十臓。

 

「黙れッ! お前にはもう用なぞない! 俺はこの世界でようやく真の理解者に出会ったんだ! そうだ、かかって来い、衛藤可奈美。お前の実力を俺に魅せてみろォ!」

 

 

 

 




多分、終わるの来年になりそーう。


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182話

 

 

 ――――柳生新陰流、正式には「新陰流」ともいう。

 ここでは、柳生新陰流と書く。

 この流派の特徴は、一言でいえば「反撃(カウンター)」である。古武術における戦闘形式(スタイル)には、〝先の先〟〝先の後〟〝後の先〟〝後の後〟という四種があり、カウンターは〝後の先〟を得意とする。

 

 必然、まず相手が動かねば話にならぬ。

 

 つまり、斬り合いにおいて〝後の先〟を狙う時――――「相手を掌で動かす」ように誘導する高度な技術も要求された。

 

 相手を利用する技、すなわち活人剣…………といった。柳生新陰流はこの点を極めることを重視するため、肉体だけでなく精神においても高度な精錬が求められた。

 武術性だけでなく精神への錬磨。

 かつて、幕府の剣術指南役として栄えた「天下の剣」と言われた所以の一端である。

 

 

 Ⅰ

 「ククッ、やはりだッ! 俺を捕縛した…………柳生! その剣は柳生だ! くくくっ、俺はつくづく運があるッ! あの日、あの時、俺は死ねなかったッッ!! 斬り合いで死ねない汚名を雪ぐことも出来ずに外道の身に堕ちた。だが、その雪辱を晴らすときがきたッ! 衛藤可奈美! お前を切り殺して、柳生との因縁を終わらせるぞッ!」

 十臓は激しい感情の昂りを露わにしながら、『裏正』を振るう。

 彼の剣はまさしく荒々しい殺人剣だった。

 己が動き、相手を打ち倒し、斬り裂く。

「――――くっ!?」

 圧倒的な膂力で受け止められた一撃に、可奈美は短い驚愕を吐息と共に漏らしながら、十臓の膝を蹴って地面に着地する。

 片目を眇めつつ、正眼の構えをとる。

(この人、やっぱり強いっ――――。)

 可奈美は内心で驚嘆しながら、その邪悪さの籠った重い一撃に両手が痺れていた。

「あの神社以来の再会か…………もはや懐かしいとも思えん。今、斬り合いができる喜びが勝っているからだッ! 数百年待った。この日が来るのを待ち続けた」

 感動に打ち震えるように十臓は、八相の構えで少女剣士を迎える。

 最早、百鬼丸の存在など歯牙にもかけない様子だった。

 

 「さて、どちらが先に死ぬか。あるいはどちらも死ぬのか。くくくっ、たまらん。さぁ、いくぞッ!!」

 怒号のような叫びと同時に、十臓の体が弾かれたように飛び出した。

 ――――ガキッ、

 と青い火花が金属同士の衝突と共に、激しく散った。

 『裏正』の刃が、御刀の『千鳥』に襲い掛かる。

 人ではない存在故のありえない筋力を駆使した斬撃は、駆け出したスピードの乗った重さを同時に刃に伝える。十代の少女であれば受け止めることはおろか、避けることも出来ない。

 しかし、可奈美の華奢な体は十臓の重厚な斬撃を、まるで風に吹かれた柳の葉の如く受け流した。

――――輪之太刀、である。

 柳生新陰流の真骨頂ともいえる技であり、腕や肘を回すことで剣の軌道が「輪」を描き、かつ身体を反対方向に動かすことにより、相手の斬撃を受け流し、かつ、輪を描き終わる結点から反撃を行う「攻守一体」のスタイル。

 容易にいなされた十臓は、しかし、驚きよりも、その懐かしい太刀筋を喜ぶ。

「そうだ、その剣だ!」

 いいながら、首筋に襲い掛かる『千鳥』の斬撃をすぐさま後ろに回した刃で受け止め、はじき返す。

 

「真正面から柳生の剣を滅ぼす。どれだけ待ち望んだか…………」

 しみじみと呟く。

 あの月夜の橋で出会った男。彼が、人斬りに堕ちた十臓の人生に終止符を打った。

 

 「もっとだ、可奈美。俺を楽しませてくれェ」不気味な笑い声と共に、十臓は剣を握り直し間合いを測る。

 

 

 ふーっ、と血色のよい淡紅色の唇から柔らかな息を吐く可奈美。

 橙色のバイザーの奥、大きな目は冷静に十臓を捉えている。動き自体は単調である。しかし、その鬼気迫る剣撃と、反撃に即座に対応する能力。――――厄介な相手だ、と内心で思う。

(ううん、違う。この人は多分、人を殺すのに無駄な技は全部捨てたんだ)

 剣に天凛の才を持つ少女は分析する。

 以前の斬り合いと合わせて考えれば解りやすい。

 

 剣術といえども、戦場で用いられてきた「実用的」な側面と、天下泰平な時代において盛んになった「形式的」な技。本来、人を〝殺す〟ためだけではない技術――――、それらを切り捨て、自ずから殺人剣のみを究めんとする意志。

 

 

 腑破十臓の剣とは、まさしく邪悪に満ちたものである。

 

 

「――――せない」

 無意識に可奈美は呟く。

 

「どうした? ああ、そうか! 俺が斬り掛かればもっと、お前の本性を暴き出せるなァ!」

 左上段から斜めに振り下ろす一撃。

 可奈美は、更に体重の乗った剣を受けながら、苦し気な表情から再び「許せない」とつぶやいた。

「どうした? 何が不満だ?」

「剣術をこうやって人を殺すためだけに使うなんて許せないっ!」

「アハハハ! そうか! 確かにそうだな! ……だが、神社であった日、お前もまた満足そうな顔をしていたがなァ。本質は同じだ。所詮、なんと取り繕っても人殺しの技術。それは俺が戦場で学んだ」

 真紅の顔面が、鍔迫り合いをする可奈美の顔と距離を縮めながら言い放つ。

――――くっ、と呻き可奈美は輪之太刀で十臓の攻撃を捌こうと試みる。…………しかし、十臓の脅威的な動体視力によって、太刀筋を読んでいたように、可奈美の細い首筋を狙う突きが繰り出された。

 つま先で距離をつくり、上体を逸らして剣尖を避けた。

 その侭、可奈美は柳生新陰流の約114種ある技の基本形を組み合わせた反撃を行う。幼少の頃から母を師匠として、体に染み込ませた動き。洗練された武術の動きは、時に舞踊の如く目に映る。

 刀使の一説には、巫女が荒魂を祓う理由として「剣を舞うように」使い神事のひとつとして行ったことに由来するという。

 

 真偽のほどはともかく、可奈美の反撃(カウンター)技は容赦なく十臓を翻弄する。

 手首、肩、と千鳥の刃が当たった――――筈だった。

 「硬っ!」思わず、柄を通して掌に伝う感触で分かる。

 荒魂とも違う感覚。千鳥の刃は浅くしか傷を入れることが出来ず、十臓の硬い外骨格は細い筋が刻むだけ。

(もっと深く)

 すぐに、平静を保ち十臓の斬返しに対応する。

 

「そうだァ! 可奈美、俺によく傷をつけてくれた! 待っていた! これだ!」

 傷を付けられたことが嬉しいようで、彼は更に気分が高揚している。真横に大きく一閃を引くと、可奈美から距離をとり、腕を前に伸ばして拳の握る。

 

「お前ならば、俺を最高の斬り合いの場所に連れていってくれる! あの日、島原以来戦が終わり、俺は天を恨んだ。――――ああ、だが間違いだ。今なら、外道に堕ちた今なら、心の底から天に感謝しよう!」

 氷雨の降りしきる中、拍手喝采を求める演者のように両腕を広げ、雨を受け入れる。

 

「お前はさっき、許せないと言ったな」

 

「…………うん、言ったよ。そうやって殺人剣だけを究めようとする一面的なやり方は、私嫌いだから」

 可奈美にしては珍しい、冷えた口調で告げる。

 

「成程、しかしお前の剣は正直だな。先程から俺には伝わってくるぞ。〝楽しい〟〝たまらない〟とな。もっと斬り合いたい。違うか?」

「――――ッ、そんなこと」

と、言いかけたところで可奈美はハッ、と息を呑む。

いまの自分は、惑わされているのだ。

(未熟だな、私)

 

 

 柳生新陰流は、……………危うく思う、打ちを急く、防ぐ、三つを病とした。

 斬り合いにおいて、かつ、反撃(カウンター)を狙う流派として、心理戦を制することが、〝後の先〟を制することが何よりも重要であった。

心理的に優位が保てない場合は、反撃を狙うことは不可能。当然の帰結である。

従って、剣術の腕と共に、心の鍛錬もまた、肝要になる。

 

 

 

 

 

心臓は早鐘のように打つにも関わらず、日々の鍛錬の成果だろう。

可奈美は琥珀色の瞳を半眼に、普段通りの冷静さを

一気に落ち着きを取り戻した。

 「…………そうかも知れない。あなたが言うみたいなことを思ってたかも知れない」

 無意識に固くなっていた体を意識して力を抜く。……自らの深層心理の欲望に向き合うことで、それを認めることで、自分の弱さを見詰め直す。

 わずか、十四の少女が己の本性を悟り、弱さと対峙した。

 

 「ふっ、いい面構えだ」

 十臓はその成長速度に目を瞠りつつ、彼女を切り裂く算段をする。

 

 

 「堪らないなぁ……もっと、斬り合いたい」

 顔の横に水平に刃を構える――――霞の構えをとり、十臓は、足裏を擦って準備をする。

 




もうあきらめた。年内は無理じゃ。すまんの。


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183話

「確か、お前たち刀使には〝写シ〟という術があるそうだが…………成程、斬ってみればわかるか」

十臓は語りながら、ジリジリと足摺をして間合いを測る。

 

 

「……………。」

肩を落として力を抜き、可奈美は頭の中で十臓の体に透明な正中線を描く。

物心ついた頃から握ってきた刀は、体の一部のように思ってきた。強くなることが楽しかった。それ以上に、学べば学ぶほどに奥深さにのめり込んでいた。

 

 

 

――――そして、気が付くと周りに同じ景色を見てくれる『人』は居なくなっていた。

 

十臓の言う通り、これまで物足りなさだけが募る日もあった。

そのたびに、心が未熟だからもっと精神を鍛えないと…………そうやって自分を誤魔化してきた。

 

 

正眼に構えたまま、赤いプリーツスカートの端がヒラりと風に舞う。健康的な太腿を包むニーハイは、肉感的のあるシルエットを露わにした。

図らずも、可奈美は今、この瞬間を本能で楽しんでいた。否定した言葉さえ忘れるほどの皮膚がヒリつくような刺激、命のやり取り。生/死……その向こう岸に見える、本当の高み。

 

――――氷雨がいつの間にか、雪片に変わっていた。

ひんやり、可奈美の紅潮した頬に雪の結晶が舞い落ち、溶けた。

吐息を白く染め、視界が微かに霞む。

 

『――――ゆくぞッ』

十臓が肚の底から吼える。

眼にも止まらぬ速さで斬り掛かる。かなりの距離があるが、十臓は気にせず崩落しかけた足場を一直線に進む。まるで、平坦な道のように…………。

間合いが詰まる中、十臓は足元のコンクリートブロックを蹴り飛ばし、粉々に破壊した。その瞬間、薄い煙幕のようなものが漂った。

 

(目だけじゃ…………視界ばっかり頼ってちゃダメだ)

咄嗟に可奈美は、警戒状態から距離をとるために後ろに軽く跳ぶ。

 

――――しかし。

 

 煙幕を破るように真っすぐ前から十臓は思い切り真横に一閃、斬撃を放つ。

薙ぎ払われた剣跡は可奈美の右腕を思い切り斬り飛ばした。

 

「…………ッ、」

思わず顔を顰め、激痛に呻く声を押し殺した。

『迅移』を用いて高速で十臓から距離をとり、一旦『写シ』を解除する。呼気を整え、再び体に透明な膜のように分身となる〝写シ〟を貼る。

 

「はぁっ、はっ」

写シは、精神力も体力も大幅に消耗する。その代わりに攻撃を受けても、大抵のモノであれば身代わりとなって、攻撃を受けてくれる。

 

優れた刀使ほど、写シを何度も使うことができる。

知識としては、十臓も知っている。

 

首を傾げて白い目を妖しく光らせ、

「ほぉ、これが写シ――――か。手応えが中途半端だな。肉を切った感触は一瞬だけ、と。ふはははは、面白い。しかし、本物のその柔肌を貫き、斬り裂く。その時のお前の顔はどう歪む? 絶望か? それとも、虚無か? 可奈美? お前は、何故強い?」

『裏正』を握り直して十臓が問う。

 

嫌悪に満ちた眼差しで可奈美は息を呑む。

美濃関の制服の赤い襟が背中で小さくはためく。オレンジ色の紐タイも同様に左右に激しく揺れた。

衛藤可奈美は、生まれて初めて『憎悪』と『嫌悪』、そして圧倒的な『満足感』という味わったことのない感情に振り回されていた。

これほどまでに絶対の『悪』で、圧倒的な強さを誇る存在を他に知らなかった。

「ハハハハハ!」

哄笑するように十臓は再び斬り掛かる。

可奈美は正眼から十臓の剣を受け止めようとした――――しかし、裏正の太刀筋は稲妻の如く反対の方向から可奈美の体を斜めに斬り裂く。

 

 

(影抜きッ!!)

 

古武術における一太刀が二つの軌道を描くように見せる技。

可奈美も確かに、古文書などで読んだ記憶はある。しかし、実際に高度な技を実際に体験するとは思わなかった。

妖刀『裏正』に斬られた衝撃以上に、少女は不思議なまでの気分の高揚を感じていた。

剣術と言っても、既に失伝したものも数多い。それは、ひとえに、奥義などが口伝えでのみ少人数に行われてきたことに理由がある。

 

余談である。

明治初年、嘉納治五郎などが柔術や古武術を編纂し、体系化するまでは失われつつあった武道も、西洋方式の「マニュアル化」と体系化を行ったことが現代の柔道というスポーツの発展に貢献したと言われている。それと同様、西洋化において、古武術、剣術、などの武術は時代遅れの風化しつつある技術であった。

 

 

 

しかし、古文書だけでは、図画だけではわからなかった、神速の太刀捌きに可奈美は言いようもない感動を味わっていた。

それは、戦乱の時代の荒々しい武術の一端に触れた、その高揚である。……人生を剣に捧げた者でなければ分からない、一種の高度な感動である。

 

 

「―――――ほぉ、お前、笑うか」

十臓は、斬った手応えの無さに軽い失望を感じながらも、目前の少女が目を輝かせ、刀を握り直す様子を面白げに眺める。

 

「くっはははは、お前にはつくづく驚かされるな」

 

「――――怒ってるんだよ」

努めて声を低く、冷静にいう。

 

「ほぉ、ではお前は怒ると笑うのか。それはいいことだ」皮肉っぽい口調で応じる。

「――――影抜き、でしょ」

「ふむ、そうか。あの一瞬で理解したか。成程、お前は本物だ。女にしておくのが残念だと思っていたが、これは俺の誤りだ。――――お前は剣士だ。紛れもない、本物だ」

可奈美の眼は、S字に似た剣の軌道を捉えていた。

ツツ、と頬と左太腿を、針のような切り傷から血が流れる。

手の甲で血を拭い、再び『写シ』を貼る。

 

全身が粟立つような、快楽のような波を感じ、更に可奈美の感覚は研ぎ澄まされ、冴えわたる。

 

 

「お前、まだ笑うか…………女というのは恐ろしいな」

十臓は言葉とは裏腹に大上段に構える。

 

 

 

対する可奈美は脇構え――――という、最下段に構え左肩を敵に晒す一見して隙の多いスタイルをとった。

 

 

(さっきの影抜き――――柄を持つ手の距離が近かった。…………どうやって、あの一瞬で切り返ししたんだろう。多分、…………うん。やってみよう)

 

形の良い眉が動く。

 




斬り合いは次の次で終わります。すまぬ。


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184話

金属同士がぶつかる小気味のいい音が遠くから聞こえる――――。

 浅い呼吸を一つ、百鬼丸は霞む目を細めて視界を合わせた。

 (可奈美…………、お前――――)

 

 

 異形の外道、十臓と剣を合わせていたのは紛れもない美濃関の制服を着た少女。腹部を焼くような傷口から止めどなく生暖かい液体が漏れ出している。奥歯を噛みしめ、上半身を起こす。

 

――――そんな奴と戦うな!

 

 そう叫ぼうにも、体力も気力も限界を迎えており、喉が枯れて声が出ない。

 すでに数十合も剣をぶつけているのだろうか。

 可奈美と十臓の斬り合いは時間に比例して更に洗練され、無駄を削ぎ落した達人同士の戦いへと変貌していた。

 

 

「グゲホッ、げほっ…………」

 口から血を吐き出し、百鬼丸は喉に溜まった血塊を地面に垂らす。血の混ざった唾液を呑み込み、制服を着た少女の方へと手を伸ばす。

 

 ボヤけていた焦点が定まり、外界の輪郭が明瞭となった。

 

伸ばした手の先に居た少女は、人ならざる存在と対峙しながら「笑って」いた。

 

それは、狂ったのでもなく、強がりでもなく、純粋な剣術の世界における「没頭」に近い感情で自らの技術、生命、意志、そのすべてを賭して戦える相手を前にした満足感。

そんな満たされた表情を浮かべる少女を目の当たりにしてしまった。

 

 先程まで優しく微笑み、人の温もりのようなモノを与えてくれた少女とは対極の、深い孤独を抱え、その才を持て余していた人間の、開放された顔。

 

 伸ばした指先を曲げ、百鬼丸は俯いた。

「…………お願いだ、コッチ側の存在になるな」肚から搾り出す。まるで懇願するように呟いた。

口惜しさでいっぱいになった百鬼丸は、ただ、少女が人であることを棄てないように願うだけだった…………。

――――お前はコッチにくるな。

 衛藤可奈美の鼓膜には、化け物に身を堕としながら叫ぶ少年の声を反芻していた。

(ごめんね……。)

淡い色の唇に、刃の光が反射し、下唇の光球は輝きながら弾けた。

白柄を掌で握り〝影抜き――――〟の再現をしようと小さな動きで確かめている。手の動きをピタと止め、高い集中度の視線を前に向ける。

 

 「もういいのか?」

 可奈美の準備を待っていたように、十臓は問いかける。

出逢ったときこそ、目前の少女を「小娘風情」と侮っていた。彼の生きた時代、女子は刀を握り、対等に戦う。そんな存在は居なかった。

 

 しかし、この別世界では事情が異なる。

 

 多彩な剣技を駆使し、さらに瞬時の応用により危機を打破しようとする能力…………そしてなにより、剣の狂気に憑依されたような雰囲気。

 

 (間違いない衛藤可奈美。お前は、もう、此方側の存在だ。あと一つ、なにか常識の関門を破ったのなら、お前は此方と同じ存在に到達する)

 

半ば確信めいたものが、十臓にはあった。この短い斬り合いでそれは理解していた。

 

 

 

 

 可奈美は脇構えのまま、呼気を整え、想定する幾重もの戦術を組み上げる。

(あの形状の刀…………切り結ぶとき、凹凸の部分で絡めとられるかな? だとしたら、刃先で打ち流すのは難しいかも。う~ん、でも慣れた縮地法の動きも入ってるから予備動作が掴みにくいかな?)

先程の近距離での斬り合いに対し、幾つかの要素を分析していた。

 古武術における移動法の一種『縮地法』は、最大のメリットに予備動作を相手に悟らせず、少ないモーションにより、次の攻撃や回避などの展開に繋げることができる。

 

 それ自体は、可奈美も試したことがあるために、別段驚くべき行為ではない。しかし、目前の相手――――十臓の場合、荒々しい原始的な剣技に加えて、時折織り交ぜられる訓練された機能美として動作が顔を現す。

 

 つまり、正と奇が巧みに混ざり合った状態で追い詰めてくる。

 

 それは、未だ戦国の遺風を身体に残しているかのように…………。

 百聞は一見に如かず、という言葉を改めて可奈美は思い知らされた。

 短い逡巡を終え、

 「――――うん」

 と、小さく頷いた。

 肩にかかった亜麻色の髪は、さら、とした質感で赤い襟の上を流れた。

 その仕草こそ小動物のように愛らしく、保護欲を湧かせる何かがあった。しかし、彼女の中に内包した冷徹で鉄を溶かすような情熱の混交が、確かに両面に宿っている。……猛獣の恐ろしき鋭さが、彼女を人ではない存在と認識させた。

 

 

 ――――十臓は動かない。

 

 まるで、スプリントに挑む陸上選手のようだった。スタートの合図を待つ体は既に、全身全霊の準備を終えており、始まりの引き金を待つ。雑音を意識的に排除し、相手の「気」の流れを感知するように、五感がフルで稼働した。

 

 

 ――――――。

 ―――――――――。

 ―――――――。

 

 

 (きたっ!)

 十臓の動きは全く予期できるところではなかった。しかし、感性の研ぎ澄まされた可奈美の耳が、肌が、その肉体全てが十臓の動きを察知した。この時点で最早、衛藤可奈美という剣士の頭は思考を止め、代わって肉体だけが無意識化において独立して動きはじめる。

 

 思考の領域は、戦闘において足枷となる。

 1秒以下の体の動作においては、不要であった。

 

 純白の俊敏な影が可奈美の視界を遮る――――。

 風圧を感じながら、左袈裟斬を察知した少女は『一刀両断』と呼ばれる柳生新陰流の反撃(カウンター)技を用い十臓の手首に鋭い一撃を打ち込む。すかさず、深く打ち込んだ直後に切先を喉元の辺りで寸止めした。

 

 にぃっ、と十臓の無機質な顔面が笑った気がした。

 

「お前、命を奪ったことがないんだな?」

 まるで、この瞬間(とき)を待っていたかのように、可奈美に問いかける。

「…………そんなの関係ないよ」

 言外に負けを認めろと言っているように、可奈美の厳しい琥珀色の瞳が光る。

 

「くっ、くははははっは!! 甘い! 甘いなぁ! この時代の剣士とはかくも、命を愚弄するのだな!」

 

「どういう意味?」

「まだ分からないのか? 命を奪い、奪われるということは、礼儀だ。奪う覚悟かあるからこそ、剣を振るう。ない人間なぞ、剣士としては存在できない。戦場で命を奪う覚悟のない兵などいらぬ。違うか?」

 

「剣はそんなことの為にあるんじゃない」

 

「なぜそう言い切れる? 命を奪う術を正しく理解できないから、お前もこの程度に落ち着いているのだ。正直、ガッカリだ」

 興覚めしたとでも言いたげに、十臓は肩を竦める。

 

 

 「お前も分かっているだろう。言葉でなんて俺たち(剣士)は理解できない。剣でしか分かり合えないんだ! この胸の渇きも全てそこに起因している。それが証拠にお前も、心の踊る様子が、こちらにも伝わってきたぞ」

 

 

 ぎりっ、と可奈美は奥歯を噛む。

 

 図星を指された。素直にそう思ってしまった。

 

「…………まぁ、いい。お前に足りないのは憎悪の心だ。理由が必要なら俺が作ってやる」

 

 

 人体模型のような白い外殻を動かし、十臓は紫色の焔に包まれた。

 

 

 「――――!?」

 僅かの間の出来事に、可奈美は咄嗟に〝迅移〟を用いて後退した。

 (気配が消えた!?)

 可奈美は左右に素早く視線を動かすものの、敵の姿は見えない。どこ? どこ? どこ?

焦りながら不吉な予感が彼女に閃く。

 

 

 

 

 

『衛藤可奈美、お前には俺を楽しませる義務がある。それには生贄が必要だ! …………くくくっ、はははは』

 

 狂ったように笑いながら、十臓はいう。

 

 

 急いで可奈美は声の方角に意識を向けた。陥没した巨大クレーターの縁に、その姿があった。――――しかし、彼の腕には「人影」がみえた。

 

十臓は右腕を高く掲げ、一般人をひとり、首を絞めながら釣り上げていた。

『よく見ていろ! なあ?』

 能面のような真紅の顔面が生贄となるべき人間の耳元に寄せられた。

「お前は死ぬのが怖いか?」

首を絞められた大学生くらいの若者の手にはスマホが握られていた。その画面は先程まで可奈美と十臓が戦っていた映像を録画したいたのであろう。RECのマークが表示されていた。

 

 大学生の青年は首を縦に激しく振って死にたくないという意志を示した。

「くくくっ、ははは、そうか死にたくないか。だが無念だな」

 十臓は『裏正』の凹凸部を青年の喉元にあてがい、ゆっくりとスライスする。薄い皮膚が切れ、鮮血が垂れた。

 首を絞められた苦しさと刃物の痛みで、青年は苦悶の表情を浮かべていた。足をジタバタと動かして抵抗していた。

 

 

 「痛いか? そうだろうな。普通の刃と異なり、この形で肉を切れば傷口も大きく、なにより肉がグチャグチャになる」

 「うぐっ、うぐうぐぐ!!(たのむ、殺さないで)」

 藻掻きながら青年が必死に訴える。すでに顔面はうっ血して青紫色になっていた。

 

 

 Ⅱ

  インカムに指令室からの情報が伝えられた。

 「――――了解した。目標の位置はバイザーで表示されている」

 涼やかな目元を瞬き、紅の瞳が目標を捕捉する。

 

 十条姫和は、端正な顔を顰めて「可奈美のやつ、何をしている…………」とボヤいた。ひとりだけ別行動をとった彼女に溜息交じりの不満を漏らした。

 S装備のバイザーには、可奈美の位置情報もマークされたいたものの、彼女が一体どのような状況に巻き込まれているのか分からない。

 ただ、あの巨大な生物はどうしたのか? 先程の巨大な火炎の円柱は何だったのか。疑問ばかりが浮かぶ。…………もっとも、可奈美のことだ。悪運の強い奴だから安否の方は心配しなくても大丈夫だろう――――そう、自分(姫和)に言い聞かせて《迅移》を発動し、建物の屋上を伝って目標の場所まで急ぐ。

 

 

「まったく、お前は手のかかる奴だ…………。私なんかよりもずっと手のかかる奴だ」

 以前、可奈美に言われた言葉を思い出していた。

 ――――ねぇ、姫和ちゃん。

 ――――なんだ?

 ――――悩んでいたら何でも話して欲しいな。

 ――――お前には話す義務なんてない。

 ――――あはは、厳しいなー。う~ん、でも、結構姫和ちゃんってしっかり者に見えて結構ほっとけない、っていうか、結構手のかかる子供みたいな感じがするんだよねー。

 ――――なっ!? お前にだけは言われたくない! 汚い部屋に変なマスコットにうつつを抜かすくせに!

 ――――え~っ、ひどい! ふっ、えへへへ。うん、でもね。もしも、悩みがあったら一緒に背負うからね?

 

 

 

 「――――馬鹿者め。お前の方がなんでも一人で抱え込むじゃないか」

 口元に微かな微笑を浮かべ、姫和は小烏丸の柄を軽く触れ、靴裏を浅く削り屋上から更に高く翔る。

 濡羽色の髪が薄い冬の陽光に透かされ、流麗に外気に髪束が散る。

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、っ…………」

《迅移》や《写シ》を多用した影響により、知らず知らずに可奈美の体は限界にきていた。顎に伝う大粒の汗を手の甲で拭う。

(……………どうしよう? 今から行っても助けられない。)

――――見捨てるの?

 

 心の底に冷徹な判断を下す考えが湧いた。しかし、ぶんぶん、と頭を振って否定する。

 

 (どうして? 最近の私、何か変だな)

 

 以前までの自分であれば、人を見捨てるなどという考えは無かった筈だ。……だが、十臓という圧倒的な『悪』であり、強者と手合わせをしたことにより、自分の冷徹な側面が容赦なく浮き彫りにされた気がした。

 

 

 

 

『衛藤可奈美、お前は自分の存在が怖いのだろう? その才がお前を孤独にし、無能な連中と群れ遊ぶことが出来ない。…………剣の道は孤独だ。お前もそれは知っているだろう。――――悩む必要なぞない。お前は此方側だ』

 ゆっくり、手元を動かしながら十臓は可奈美に聞こえるように勧誘する。

 ――――外道への入り口に。

 

 ぐっ、と両手で柄を握り直し、可奈美は強く睨みつける。

 

 ――――急がないと!

 陥没した底から這いあがるには、足場を利用しなければ上に着けない。目線を素早く動かし、足場となる崩落物を確認すると、その甘言を振り切るように可奈美は最後の力を振り絞り、《迅移》を発動。数百メートルの距離を一気に縮め、剣を一閃と放つ。

 

 十臓はつまらなそうに首を掴んでいた人間を地面に投げ捨て、飛び退いた。

 

 「つくづく綺麗ごとの好きな奴だ」

 余裕を残した様子で、十臓は嘲笑う。人間なぞいつでも殺せるのだぞ? という、強者の雰囲気を纏いながら、首を微かに傾け疲労困憊となった少女を見据える。

 

 

 「そこの男も、この逃げ遅れた多くの連中も、お前たちの事を悪しざまに言っていたが、それでも助ける価値がある、と?」

 

 

 《迅移》による消耗で肩を大きく上下について呼吸しながら「……そう、だよ」と首肯した。

 

 「そうか…………では、お前の掲げる正義も何も、虚しいものだな。どれだけ助けても、どれだけ身を挺しても、そんな行動に価値はないな」

 

 「そんなこと――――」

 

 「ない、か? ハハハ、ではお前は根っからの自己犠牲を好むのか……いや、それも違うな。俺はお前と剣を合わせて知っている。お前は単純なお人よしではない。猛獣のような闘志と剣への飽くなき探求心がお前の中で蠢いている。それも否定するのか? 先程の斬撃にも力がこもっていなかった――――どうしても憎悪は剣に籠らない性らしい」

 

 

 …………やはり、先程の人間を殺しておくべきだったか? と、十臓は視線を大学生の青年の方へ向けた。

 

 「ヒッ!」短い悲鳴と共に、這いつくばった状態から逃げようとしている。

 彼の手元にあったスマホの画面にはリアルタイムの動画配信と共に、刀使を含む関係機関の不満や、中には誹謗中傷の文字が記されていた。

 

 首を巡らせ、未だ渋谷から逃げようと列をなして駅の構内へと殺到している群衆に意識をやった。

 

 

―――――手頃な獲物がいい。

 

 あの江戸で人斬りをしていた頃を思い出す。血肉を浴びて月夜に晒された日々が、彼の唯一の慰めになっていた。

 

 

 

 Ⅳ

 まま? ……どこ?

 

 むっちりとした幼児の腕が、目元をつよく擦り、泣きはらした赤い目になっていた。

 5歳ほどだろうか? 親とはぐれた女児は混乱が渦巻く中の群衆からはぐれ、泣きながら必死に母親の名前を叫ぶ。

 通常であれば、大人がすぐに駆け寄り事情を聞くところだった。しかし、惨状を究める現場には、無数の遺体が地面に転がり、警察や刀使などの人員も圧倒的に不足していた。

 

 大人たちは、皆、子供を顧みるより先に自分たちの命を守るために行動していた。

 

 

 はぐれてしまった女児は、この世界に孤独に取り残された寂しさから、必死に彷徨いながらも叫んでいた。

 

 「ままー? ままー、どこ?」

 

 いつのまにか、群衆の列から外れて、大小無数の亀裂が走ったコンクリート舗道と、倒壊した犬の銅像の台座の近くからビルの巨大モニターを見上げる位置にまで来ていた。

 

 「まま、まま?」声が枯れてつぶやくように何度もいう。

 

 

 

 

 この世の終わりのような風景に、幼女はしゃくりを上げながら、周りを窺う。

 

 

 塵灰の舞う崩落したビル群に逃げ惑う人々の、無表情に、冷静に狂った様子。ただ、その静かな狂乱の中で超然と屹立する人影。

 

 泣きながら嗚咽を漏らした幼女は、視界に入る異様な〝存在〟を察知した。

 



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185話

途切れた雲間から、太陽の光が射した。

「早く逃げてください」

可奈美は、振り返りながら言った。

大学生の青年は、喉をさすりながら媚びるような笑みを浮かべ「げほっ、げほっ、わかった。本当に助かったよ」と地面を這い立ち上がるとその場から逃げ去った。しかし、彼はちゃっかりスマホを握りしめ、「あっぶねー」と動画をチェックしながら、可奈美の方を何度も振り返った。その手でスマホのカメラを向けて。

 

…………まるで、命の危機に際したことなど忘れたように、動画を撮影することに夢中なようだった。

 

 

「…………。」

複雑な気持ちで、硬い表情を保ったまま可奈美は俯く。

確かに、人を守るという事は苦痛や困難が多く伴う。それは、これまでにも遭遇してきた。だが、今、剣で交し合った「対話」と比べ、どれだけ自分が多くの人間を救っても、やるせない気持ちになる瞬間がある。それは、逃れようもない事実だった。

 

 

雪片が溶けて濡れた前髪の下、揺れ動く琥珀色の瞳。

 

自分が未熟だから、迷うのだと思っていた。自分が、もっとちゃんとしていれば、こんな悲惨な事態に多くの人が巻き込まれずに済んだのではないか?

 

罪悪感と葛藤――そして、十臓との斬り合い。

 

 

すべての重荷から解放されたいと思ってしまった。

 

誰とも分かり合えない将来を考えるだけで、剣を握る意味に、迷いが生じてしまう。

 

 

刀使として、私は本当に何がしたいんだろう?

 

 

顔を上げ、虚ろな眼差しで空を見た。幾重もの光のヴェールが、惨状を極める地上を照らし上げる。自然は人の事情を超越して、時を移ろいゆく。

 

 

 

 

『いやぁーーーーーーーー!!』

 

耳を刺すような悲鳴に、可奈美は意識を体に戻す。

 

 

十臓の不気味にゆったりとした足取りが、駅の方角で避難の真っ最中である人々に向かっていた。

 

いや、それも正確ではない。

 

甲冑の胴体部分には、肋骨のような禍々しい模様が浮き彫りとなっている。小雪を付着させながら、十臓は確かな足取りにて、女児の方へと歩み寄る。

 

 

 

「――――!?」

 

 

熱烈な殺人への信奉者、彼の意図を可奈美が把握した瞬間、鋭い衝撃が全身を駆け巡った。

子供を、何の罪もない子供まで手にかけようとしている。

「うごかなきゃ…………」

しかし、可奈美の意思とは裏腹に、体は限界だった。

膝から地面に崩れ落ち、S装備のバッテリーも切れている。

これ以上の戦闘継続は不可能。客観的な事実として、彼女は行動不能だった――――。

「なんで……、はやくしないと…………っ、お願い! 動いて!」

自らの太ももを叩きながら厳しく叱咤する。ここで、動けねば女児の命を救うことは出来ない。

「…………お願いっ」

歯ぎしりをしながら、涙ぐんで呟く。

今、心の底から人を救いたいと思っていた。

――――どうして刀使になったのだろう? 剣を正しい道に使いたいから? 社会の役に立ちたいから? 

「お願い、助けさせて……」

目の前の命を救いたい。それが、衛藤可奈美の偽らざる本音だった。

孤独な道で剣を極めるかもしれない。誰にも同じ苦悩を味わう人はいないかもしれない。それでもいい。

人を、命を救いたい。

「お願いっ、動いてっ!!」

『―――あんまし、無理すんなよ』

潤んだ琥珀色の目が、驚きで瞬いた。

「えっ……?」

乱暴に可奈美の頭をぐしゃぐしゃに撫でる手。

見上げると、およそ人とはかけ離れた『黒き獣』の顔が映った。特徴的な下あごと、黄金の瞳。鋭い牙、それは人間とは呼べない存在。

「百鬼丸さん? なんで、怪我は大丈夫なの?」

どうして動いているのか? さきほど酷い怪我をして人の姿に戻った筈では? 様々な疑問で唖然としていた可奈美の顔を覗き込むように、黒い獣は口を開く。

『今はなんとか、自分の意思で体を操縦してる。安心してくれ。それより、あいつを止めたいんだよな?』

百鬼丸は、鋭利な爪で遠くの十臓を指さした。

「う、うん」

『だったら任せてくれ。おれが少しだけ時間を稼ぐ。だから可奈美。お前が女の子を助けてくれ』

「――――わかった」

細い意志の強い眼差しで可奈美は潤んだ瞳を拭い、頷く。

『そんでも、お前疲れてんだろ? おれの背中に乗れ』

 四足歩行の動物のように両手を地面について、百鬼丸は可奈美を促す。

「えっ、でも…………」

戸惑い気味に百鬼丸を見返す可奈美。

『時間ないから、急いでくれ。途中までおれの背中で移動して、そんで可奈美は途中で降りてくれ。オーケー?』

犬が舌を出してヘッ、ヘッ、と呼吸するように百鬼丸がいった。

「うん。わかった」

黒い獣毛が密集した背中に跨り、細い指先で撫でた。

「ごわごわしてる…………」

『仕方ないだろ。悪いけど我慢してくれよ』

そういいながら百鬼丸は、四足歩行で駆け出した。まるで、最初から四脚だったかのように滑らかに地面を走る。風を心地よく切り裂き、先へ先へと進む。

黒い獣が疾駆する中、首筋に抱き着くように体を密着させた可奈美は口元が綻ぶ。

「さっきは、叩いちゃってごめんね」

『ん? ああ、あれか。いや、あれは、おれの方が悪かった…………すまん。それより、可奈美にお礼が言いたいんだ』

「お礼?」

『うん、おれを友達って言ってくてれて嬉しかった。――――すっげー嬉しかった。今まで、だれもそんな事、言ってくれた奴いなかったんだ。だから、刀使だけじゃない。おれは、トモダチも守りたい。んで、トモダチの守りたいモンも守る。大事なことに気づかされてくれてありがとな』

「――ううん、そんなことないよ。私の方こそもらってばっかりだから。何度も諦めそうな時に、来てくれてありがとう」

『…………お、おう』

面映ゆかったが、悪い気はしなかった。

 



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186話

 ――――……まるで深い暗闇に落ちてゆくようだ。――――……それでもいい。

 ただ、誰かを守れるのならもう一度、おれは獣の姿になろう。寿命でもなんでもいくらでも捧げてやる。どうせ、おれは「二度と」人間になることが出来ないのだから。

 今だけは、おれ自身の価値である「強さ」に頼ろう。この身が朽ちるその時まで。

 

 

 朦朧とした意識の中で、おれは、再び《無銘刀》の柄を握り締め、刀傷の深い怪我の箇所に深く突き刺す。……金属の冷たい感触が体内に感じられ、細胞の一つ一つが活性化するみたいに沸き立つ。

(ああ、もうおれ――――本当に戻れねぇなぁ…………。)

フワフワした頭でおれは、血が伝う刀身を掴んで、もう一度刃を腹部に押し込む。内臓を傷つけたのかも分からない。

 

 ――――だけど、気が付いた時には、おれは『醜い』姿に変わっていた。

 

 

 Ⅰ

 

『テメェの相手はおれだァ!!』

 空中から飛び掛かった半獣の悪魔は、鋭い牙と爪を閃かせながら襲い掛かる。

 細い瞳孔は爬虫類のようで、金色の瞳がひと際目立って光る。

「――――お前か」

 つまらなそうに、悠然と闊歩した十臓は足を止め、『裏正』を振るう。

 斬撃に当たる寸前で身をひるがえし、地面に着地する。喉の奥を鳴らして低い声で唸り、威嚇した。

「どうだ百鬼丸。貴様はその恰好になって楽になったように思えるが?」

『そうかもなぁ…………少なくとも、テメェみてぇな糞野郎を思い切りブチ殺すことが楽しみで仕方ねぇ』

 キヒヒヒ、と牙の奥から笑う。

 

「ふっ、そうか。だが生憎、お前のような獣じみた奴を相手にする気はない―――――衛藤可奈美、お前こそが俺の求めた相手だ」

 首を巡らせ、倒壊しかけた渋谷駅の方角を見やる。

 

 可奈美は、背後の女児を庇うように立ちふさがり、正眼に《千鳥》を構えている。

「―――――。」

一言も発さずに、亀裂の走ったバイザー越しに鋭い眼差しで十臓を見据える。

 

「そうだ、その目だ……………」

 

 

しかし、十臓の言葉を無視するように、可奈美は背後の女児に微かに頭を動かす。――――本来は戦闘時に意識を外す行為は自殺に等しい。それでも、可奈美は安否を気遣うように短い瞬間を、不安でいっぱいの女児へと向けた。

「大丈夫…………? 怪我はない?」

「うん」

「そっか。よかった――――偉いね。ひとりで、よく頑張っったね」

可奈美は微笑を浮かべ、口元を優しく綻ばせた。

泣きはらした瞼をつよく擦りながら、

「おえねぇちゃん、だぁれ?」と、聞いた。

「私は…………刀使、だよ。刀使の衛藤可奈美」

「かなみおねーちゃん?」

「うん、そうだよ。ごめんね、すぐにお母さんを一緒に探してあげられなくて」

「まぁま……」

泣き枯らした声で、再びしゃくりをあげ、可奈美の赤いプリーツスカートにしがみついた。

 

「えっと、」

戸惑ったように形の良い眉をハの字に曲げて苦笑する。――――本来であれば危ないから離れるように注意をするのだが、幼い子供がスカートの端で涙を拭う姿を見ると、優しい言葉をかけたくなってしまう。

 

 

 

『―――――衛藤可奈美、お前は何をしてるッ!!! 剣を、殺意を俺に向けろッ!』

 

 真正面から圧倒的なプレッシャーが感じられた。

 亜麻色の髪を揺らし、前を向くと、白く邪悪な骨と甲冑の融合した異形の殺人鬼が、悲鳴に近い声で叫んでいた。

 

キッ、と表情を鋭く変えて半眼になる。

「――――ごめんね。ちょっと、危ないから離れててね?」

 そう言いながら、自らの足元でシクシクとしゃくりをあげる女児の頭を優しく撫でて、ゆっくり、自分から遠ざけた。

 

しかし、女児は不安で、スカートの端からなかなか手を離そうとしなかった。

亜麻色の髪に雪片が舞い降りる。……呼吸を一つ。

「――――大丈夫だから、ね」

 明るく元気な声音で、笑顔で女児に笑いかける。まるで、真夏に咲いた向日葵のように華やかで生命力に満ちた雰囲気に、女児も寂しさを忘れて無心で頷いた。

 

 

 安全な距離まで離れたことを確認してから、可奈美は呼気を整え、S装備のバッテリーが残り少ないことに気が付いた。すでに、稼働時間の限界を迎えようとしている。

 

 本来は、窮地である。

 

 しかし、現在の彼女には、それが危機には感じられなかった。

 

 ―――――なぜならば……………。

 

 

「十臓、さん? …………確かに貴方のいう通り、私は剣術で孤独に感じて、冷酷になるかも知れない」

誰にも、これから自分の孤独を分かち合える存在が居ないのかもしれない。

確かに、彼のいう通り、殺人剣を究めようとしている相手と剣を重ねることで、まだ見ぬ境地に達することが可能かも知れない。

 

…………だが、可奈美は首を左右に振る。

「私、気が付いたんだ。この剣は、誰かを守るための力だってこと…………確かに、剣術だけなら貴方のいう通り、どこまでも探求できるかも知れない。でも、私はそんな剣を究めたいと思わない。誰かを守れる剣が、誰か大切なものを、この手で守れるって純粋に嬉しいことだって……………あの子に教えてもらったから! だから、私は貴方の望みは叶えられない!」

啖呵を切るように強く、硬い意志で十臓を見る。

 

 

「ククク…………そうか。お前もやはり、凡俗の人間の側に身を落ち着けるか。そうか。ならばよい。この世界でやることは一つ。柳生の剣をへし折り、強い者を捜すだけだ」

 乾いた笑いを漏らしながら、『裏正』を構える。

 

 

 百鬼丸は、十臓の油断や隙を衝いて攻撃を仕掛けようと低い姿勢からタイミングを待っていた。

 

 チラ、と目線を百鬼丸の方に流した可奈美は、

「百鬼丸さん、お願い。剣での決着は私につけさせて」

 と、攻撃を制した。

 

『グルル、――――ああ』

 喉を鳴らして不服そうに半獣の悪魔は頷く。

 

 

 少女の決意を、百鬼丸は知った。だから手出しをすることを控えた。これから行われるのは《活人剣》と《殺人剣》の両極に位置する者同士の激突だ。

 

 

 

 

「お前は、必ずその決意を後悔する時がくるッ! その時がきて後悔しても遅いぞ」

 真紅の顔面は、最後の忠告とばかりにいった。

 

 ――――だが。

「うん、確かに貴方のいう通り後悔するかも知れない。でも、それでも、今、この時に誰かを守れない事の方が、もっと後悔するから。――――私の剣が何を斬るのか、私が決めるから。この思いが伝わるように」

 

 《千鳥》の切先から鎬にかけて、やや変色した刀身の鈍い光が、可奈美の頬に反射する。

 

 ガァアアアアア!!!

 

 激しく叫びながら、十臓は得意の袈裟斬で可奈美に襲い掛かった。距離などものともせず、一心不乱に刃を振り下ろす。

 凹凸のある…………通常の刀身でいう峰の側から鉈の如く振り下ろされた斬撃を、可奈美は打ち流すように、刃先で滑らせ、柳生新陰流の神髄である反撃(カウンター)を仕掛ける。

 

 ガラ空きとなった胴体へ一閃――――を打ち込む筈が、十臓はすかさず体を捻り、斬撃を避ける。鞭のように撓る足で可奈美の左脇を蹴り上げた。

 バリィィン、と硝子が砕けるような高い音色が鳴り響く。

 《写シ》が破られた。

 強大な衝撃がろっ骨に襲い掛かる。可奈美は、一瞬、意識が飛びかけた。しかし、再び《写シ》を貼り、すぐさま十臓の喉元目掛けて突きを繰り出す。

 

 刃の届く寸前で十臓は宙に浮いた躰を器用に後退させ、突き技を避けた。

 

 ――――しかし、瞳の光彩が一層輝きを増すように、可奈美の両目に宝石のような煌めきが閃いた。

 

 燕飛之太刀、とよばれる攻守一体となった剣技で、次々と剣の軌跡を繰り出す。流石の十臓でさえも、防戦に回らざるをえず、しかし、力をためて『裏正』の切っ先を可奈美に送り込む。

 ―――――それを読んでいたかのように、可奈美は簡単にいなして、十臓の右腕の肘に一撃を加える。更に、《千鳥》は十臓の喉元に迫る。

 

「くっ、」

 十臓は苦し気に呻きながら――――影抜きをしようと左上段に剣を掲げる。

 ――――この時を待っていた。

 天狗抄、否――――奥義(極意)之太刀と呼ばれる、柳生新陰流の極意、動作の前の心の働きを読む。そんな超人じみた方法で、かつ、十臓の影抜きを見て学んだ可奈美は掌で柄の持ち替えを行い、左右の腕関節を一刀のうちに叩き込む。

 

 いくら硬い十臓の腕とはいえ、何度も斬撃を喰らえばひとたまりもない。しかも洗練された太刀筋により、深い亀裂が走り、手から刀が滑り落ちる。動きが鈍る。すかさず、切先を喉元に寄せた。

「降参してください」

 冷静な声で、可奈美は告げた。

 だが相手は、――――ククク、と喉の奥で不気味に笑う。

「ハハハハ、お前の力は確かだ! 兵法の極意を味わうとは! もっと、もっとだ! もっと俺を切り刻み、俺の血肉に変われ! 衛藤可奈美!」

 言いながら、十臓は可奈美の隙を衝いて下顎を掴み、自らの視線と合わせる。

「トドメを刺せ。成程、俺は慢心していた。己の技術のみに固執して新たな技を覚えることを怠った。さぁ、喉に突き刺せ。その刀を! どうした? お前はやはり、自分の手を汚すことが嫌なのか? …………どうした?」

 

 可奈美の眼は目を細め、《千鳥》の柄を握ったまま、止まっている。

 

「勝負はつきました」

 

「まだだ! お前が俺の命を奪う。それが本当の剣というものだッ!」

 

 

『うるせぇ、だったらおれがお前に引導を渡してやるよ』

 十臓の背後から半獣の悪魔が、佇み、耳元でささやく。まるで、十臓にやられた仕返しとばかりに、黒い腕が十臓の右肩を掴み、地面に落ちた『裏正』を刃で胸を貫く。

 

 

「たっぷり味わえよ、テメェの剣だ。持ち主の血をたっっくさん味わうんだぞ」

グリグリ、と胸の真ん中を捻りなるべく苦しむように、突きさす。

半獣の悪魔――――百鬼丸は、十臓の頭に口を寄せ、可奈美に聞こえない声で呟く。

『――――テメェにコイツの剣は汚させない。汚れるのはおれだけで十分だ。……その罪も咎もおれが背負う。だから、てめえの目論見なんぞ糞くらえ』

 

 

百鬼丸の言葉を聴きながら、十臓は自らの胸を貫く刃を壊れかけた腕を動かし、指先で触れる。

「…………なるほど、お前のような異形の生き物が、その醜悪な姿を晒しながら戦う。そういう事か。俺はお前を見くびっていた。そして、何より、衛藤可奈美。この娘の剣への飽くなき探求心に、――――強さに俺は負けたのだな。ふははは、愉快だ。俺は魂や志ではなく、強さに説得された。それだけだ」

満足そうに言い、真正面の可奈美へと視線を向ける。

 

驚愕の表情を浮かべた可奈美が、刀を喉元に寄せたまま固まっていた。

「なん、で……?」

「ふははは、お前は純粋だ――――そして純粋なお前の強さに俺は負けた」

十臓は、噛みしめるように己の敗北を味わう。トドメこそ百鬼丸に刺されたが、それ以前に多彩な剣技と、心理をうまく利用されたことに、言いようもない満足感を味わっていた。そして何より、人斬りをして満たされなかった飢渇感が、不思議と今は癒えていた。

ゆっくり、蜘蛛の卵のような目で、胸の裏正を見る。

 

この刀で二〇〇人を斬り殺してきた。そして、最後にこの身を貫くことで、現世の人斬りを終えようとしていた。

 

「…………まさか、お前に最後に引導を渡されるとはな」

 

 

 感慨深そうに、彼は反芻する。

 

 かつて、長屋にて人斬りを止めようとした「妻」の面影を。ただ、貞淑に夫に仕える良妻賢母としてあろうとした、面白味のない女だった。常に、人斬りを諫め、人斬りの罪悪を説き伏せようとし、泣いていた弱い女。

 

 

――――だが、その妻を斬るという選択肢までは現世では思いつかなかった。

あるいは、いつでも殺せると思っていたのかも知れない。

 

『裏正』が妻であることを承知で、人を殺してきた。

 

…………ただ、己が身を貫かれたこの瞬間、本当に達成感のような感情が溢れていた。

 

「あぁ、そうか――――俺は外道だ。地獄に堕ちるなら、今度は地獄の獄門を支配しようか。なぁ、『裏正』」

 優しく語り掛けるように、愛おしく裏正の凹凸部分を撫でる。体液で粘つく指先。

 

 

『じゃあな――――テメェを先に地獄に堕としてやるよ』

半獣の悪魔―――――――もとい、百鬼丸は無感情に言って、裏正を引き抜き、十臓の首を思い切り刎ねた。

 

 



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187話

黒雲から稲妻が青紫に閃き、腹の底に響く雷鳴が地面に轟く。

先程まで粉雪の舞っていた状況から氷雨に戻った。――――細い雨滴に顔を濡らして百鬼丸は、殺意の高い眼光でもう一度、首のない胴体に刃を突き立てる。

…………癖だ。

おれは、殺したことを確かめるために、何度も刃を刺して確認してしまう。

長い舌を出し、乾いた呼吸で十臓が死んだことを確かめる。手応えは確かにあった。それは、この世から「何かを奪った」という実感である。

不思議と、屠った後悔は無く、奇妙な達成感だけが湧いてきた。

人体模型と甲冑の融合した純白の肉体は、死を迎えたことを知らせるように、塵灰のように粉っぽく空気に乗って崩れてゆく。

握っていた敵の刀もいつの間にか、砂が手の間から洩れるように跡形もなく消えていた。

 

「――――――どうして百鬼丸さんが手を汚すの?」

目を大きく見開いた可奈美は、十臓の喉元に切先を突き付けた状態のまま、一切の動作をせず、両手で強く柄を握りしめる。その眼差しは、憐れみと悲しみに満ちていた。

 

 

「――――世の中には、絶対の悪ってのが居るんだ。絶対に――――この世に居ちゃあいけない存在ってのが居るんだ。」自らに重ねるように、牙を噛みしめながら呻くように言った。

雷鳴が雲間に迸り、太い轟音が空に這いまわる。

「そんなことないよ。だって――――」

「何も感じないんだ」

「えっ?」

百鬼丸は金色の視線を下に向けて、

「こうやって憎い敵をブチ殺しても、罪悪感も、喪失感もねぇんだ」

――――この醜い姿も、敵を容赦なく屠る姿も見られたくなかった。

何よりも、誰よりも、見られたくない相手を前にして、…………それでも殺した。

 

瓦礫の地面に力なく膝を屈しながら百鬼丸は、両手で顔を覆って人の顔面骨格とかけ離れた獣の頭部を可奈美から隠すように手を動かす。

「……ごめん。トモダチって言ってくれたのに――――」

下顎から涎を垂らして詫びる。

 

 

なにも無かったんだ…………おれが生きるために『刀使を守る』そう言って、誤魔化してきたんだ。そうじゃなきゃ、おれはとっくに、心がぶっ壊れてたんだ。

なにか、なんでもいいんだ――――縋れるものが欲しかったんだ。

だから、おれの記憶の中で唯一優しくしてくれた人たちに恩を返すことを生きがいに決めた。

 

 

 

『殺すことに後悔なんてしてない。…………でも、ごめん。可奈美、おれはお前たちとトモダチにはなれない。おれといれば、お前たちは不幸になる。なにより、血に汚れたおれとお前たちは一緒にいちゃダメなんだ』

膝を屈した百鬼丸は、懺悔するように瓦礫の地面で頭を抱えながら震えた。

 

チン、と金属の小気味よく鳴る音がした。――――剣を収めた音だろうか?

 

グルル、と低く唸る声が百鬼丸の喉から洩れた。すでに自分自身が獣として、慣れはじめていることを自覚した。

 

「――――…………大丈夫だから。怖がらないで。ありがとう百鬼丸さん。私を守ってくれて」

優しい声音で同じ目線に姿勢を低く、少女の細い腕で抱き寄せた。

金属質なアマーの隙間から感じられる人間の肌。

甘い匂いが敏感な鼻腔に充ちる。これまで、血と死の匂いに慣れた嗅覚には衝撃だった。

動揺して思わず、

『違う! おれが殺したいからブチ殺した! ――――本当なんだ…………。全部、全部、全部!!! おれが奪う!』

吼えた。

「…………ごめんね。いままで、百鬼丸さんに全部私たちが背負わせてたんだよね」

『思いあがるなッ! お前らなんて関係ない! おれは強いから敵をブチ殺す! 腹が減れば命を奪う! おれの体を取り戻すために戦う! 神がなんだ! 社会がなんだ! おれには関係がない。おれはやりたいように生きる!』

言葉が激しくなるに比例して、可奈美の腕は強く抱擁した。

「…………じゃあ、どうして?」

『――――なんだ』

「どうして、百鬼丸さんは泣いてるの?」

『えっ?』

黒い獣毛に覆われた指の間から透明なものが溢れていた。

「私が一緒に背負うよ。百鬼丸さんが嫌だって言っても、友達だから」

耳元で、小さい子供に諭すように優しく囁く。

『おれはこの先も、奪う! ――――』

「それでも、諦めないよ」

高く澄んだ声。――――取り戻した『耳』で聞く人の温かな言葉が、いままでバラバラに砕ける寸前だった精神に染み込む。

『…………ヘッ、悪くないな』

「――――うん?」

『…………肉体を奪い返して、こうやって、本物の鼻で匂いを嗅いで、声を聴いて。こんなに当たり前の器官が揃っていくのも悪くないな』

自嘲気味につぶやく。――――すでに自らの意志で捨て去った肉体の部位に思いを馳せながら、どうして自分が人間になりたかったのかを改めて思いだした。

 

 

(こうやって、人の傍に居たかったんだ……。)

 

ゆっくりと、固く顔を覆っていた手を下ろして天空を仰ぎ見る。曇り空に、無数の雨粒が黒く毛深い頬を濡らしてゆく。吐息が白く目前を染める。

 

『――――可奈美、ありがとう。おれは、許されたかったんだ。こうやって、誰かにおれが存在していてもいいって許して欲しかったんだ』

――――いつか来る『罰』に怯えながら生きていた。それでも、誰かに懺悔して許して欲しかった。〝ここに居ていい〟と言って欲しかった。

 

可奈美は抱きしめていた腕を緩め、両指を頭の方に伸ばす。

シュルシュル、と紐の解ける音がした。

黒い紐のリボンを百鬼丸の右手首に巻き付けて、固く結ぶ。

「百鬼丸さん、約束してくれるかな?」

『約束……?』

「うん。どんな姿でも、どんなに自分が分からなくなっても、それでも、私が……私たちは一緒だってこと。覚えておいて欲しいんだ。そのための……ええっと、おまじない? かな。う~ん、とにかく! 約束だから」

普段の、太陽みたいに明るい様子で、可奈美は百鬼丸の目前にズイッ、と顔を寄せていった。

『――――約束。ああ、する』

「じゃあ指切りね!」

『――――指切り?』

「うん! 約束だから小指出して」

促されるままに、太い小指を差し出す。――――相変わらず不格好だ。口を釣り上げて皮肉っぽく嗤う。

 

しかし、少女は化け物の指に臆することも嫌悪を示すこともなく、自らの細く白い指を絡める。

 

「――――約束。絶対に忘れないでね」

 

『…………アア』

 

「絶対に、絶対に百鬼丸さんは一人じゃないから」

 

 

 

 

――――――と、百鬼丸は鋭敏な本能が危機を察知した。

 

 

『どけッ!!』

「――――えっ!?」

結んだ小指を解き、咄嗟に少女を両腕で弾き飛ばし、接近する尖った音に百鬼丸は身を晒す。咄嗟の出来事に、可奈美は呆気にとられた様子で百鬼丸を見上げる。

 

『グゥヴォォオオオオオオオオオオオオ!!』

四方から打ち込まれた〝杭〟が容赦なく四肢と胴体を貫く。太いワイヤーロープに繋がれた杭は、肉体を貫くと同時に傘のように開き、容易に抜けないように工夫されていた。

 

 

血泡を口角から噴き出し、百鬼丸は周囲を威嚇するように視線を巡らす。

 

特殊車両が半径数十メートルに囲む。さらに、円陣で包囲するようにSTTの隊員たちがシールドを構え、無数の銃口で油断した百鬼丸を狙う。

 

 

 

『――――目標の固定に成功』

『刀使一名の安全を確保次第、早急に排除』

 

 

百鬼丸の鋭敏な耳には、ノイズ交じりの音声が届いていた。

 

 

(へっ、どうせこうなるんだ……………。)

妙に冷静な頭で、自身の血飛沫に濡れた眼を瞬き、少女の居る方に目をやる。

 

 

 

「百鬼丸さん?…………」

いまだ目の前の現実を受け入れられないようで、可奈美は、目を瞠りながら手を百鬼丸に伸ばそうとしていた。

 

 

『――――近づくなッ!!! …………所詮人間だな。ったく、くせぇ、牝の匂いが感染るッ! 邪魔だ、どこかに行けッ!!』

 

怒鳴り、可奈美に吼える。

 

深々と筋肉に喰い込んだ杭を掴み、引き抜こうと試みる。

(お前は、おれと一緒には居たらダメだ)

 

 

「そんな、どうして…………」

悲痛な表情で、絶望を口からつぶやく。

 

胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。百鬼丸は初めて、人の温かさを近い距離で教えてくれた人間を、自分の腕で遠ざけることに、強い罪悪感を感じながら、それでも覚悟を決める。

 

『お前がいると、おれはおかしくなるッ!』

 残忍な笑みを浮かべ、左腕を伸ばして可奈美の首を掴んで宙に吊り上げ、睨む。

 

「――――っ!!!」

突然の行動に、少女は衝撃と、苦悶に顔を歪める。

 

『…………頼む、最後のお願いだ。お前はもっと、多くの人を守れる奴だ。だから、純粋な剣を、おれなんかで意志を濁らせないでくれ。トモダチとしてのお願いだ』

 

湿った囁きで百鬼丸は、最後に人間味のある顔つきで、可奈美に囁いた。――――直後、百鬼丸は腕を大きく振ってSTTの隊員たちの方角に華奢な少女を投げ飛ばす。

 

 

 

金色の瞳を閉じ、己を許し、慈悲を与えてくれた刀使に「――――ありがとうな」と胸に刻むように独り言を漏らした。――――感謝するのは場違いかも知れないが、それでも、己を受け入れてくれた相手に溢れる温かな気持ちを伝えたいと思っていた。

 

 

 

数か所に喰い込む『杭』は、百鬼丸の体内から溢れる血液に濡れていた。

『人間さまと同じ血の色か………ヘヘッ』

 



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188話

 渋谷へ緊急派遣要請が来た時から嫌な予感はしていた――――。

 だから俺は、その『化け物』の姿をみた瞬間から、ソイツの正体が俺の知る人物だと直感で分かった。

 黒い体毛に覆われ、犬型の頭部に鋭い牙と爪。

 金色の眼が周囲を不敵に見回す。

 (なんな表情する奴、一人しか知らねぇーぞ)

 俺は右腕の義手を握りしめ、ソイツを見ていた。

「なにやってんだよ、百鬼丸ッ!」

 

 

 Ⅰ

 ――――二〇年前、俺は江の島の付近にある祖母の家に遊びに行っていた。

 忘れもしない。

 九月二三日、その日の午前四時。

 異変は海の方から来襲した。

 ガキだった俺は、その時の記憶を忘れてしまったが、いくつか断片的に覚えていることがある。

 それは、布団で眠っている俺を祖母が起こしに来たこと。そのまま、促されるままに薄着の俺は祖母に手を引かれて避難をしたこと。まだ、夜が明けない菫色の暗い空を眺めつつ、多くの人の列に交じって歩いた。街灯がまだ点っていた。

 不謹慎だと思われるが、なんだか非日常的な体験に幼い俺は心が躍った。

 そして、俺はこんな時に戦う力があればいいと思った。

 だってそうだろ? TVとかでみる特撮のヒーローは危機に陥った時に変身して戦うんだ。だから俺は、江の島の方角から天空を貫くような巨大な蛇と、鴉の大群が空を覆いつくすのをボンヤり眠い目で見上げながら、ヒーローになりたい。そう願い続けた。

 交通機関や道路が寸断され、避難民が増えていたようだった。

列に並びながら長い時間待っていた俺は祖母に「いつ、避難所につくの?」と、聞いた。

 祖母は困ったように微笑みを返すだけだった。

 周りを見回しても、大人たちも疲れた顔で不安そうに暗い空を見上げていた。

 

『君、まだ眠いのかな? 大丈夫?』

 俺が目を擦っているのを見たのだろう。避難活動に従事していたひとりの刀使が、優しく近づいてきた。

「お姉さんだれ?」

 

 生意気だった俺は不服そうに言った。

 刀使の女学生は膝を屈めて俺の視線の高さまで姿勢を低くして、満面の笑みだった。

「えーっとね、私は○○。君は?」

「俺は田村明!」

「明くん? 凄い元気がいいね。ごめんね、もうちょっとで到着すると思うからそれまで我慢してね。約束できるかな?」

年上の女学生にそう言われた俺は、馬鹿馬鹿しいが、ヒーロー願望があって、弱音を吐く自分を隠そうと思ったようだ。

「へーき。あーあ、俺も変身できればあんなでけぇ奴くらい倒せるのになぁー」

無責任、というか、現実を知らない幼かった俺は、江の島に現れた大荒魂を指さしながら言った。

しかし、俺の不遜な発言にも柔らかく微笑んだ刀使は、

「そっかー。うーん、でも今は危ないから、明くんがもっと大人になってから退治してくれるかな? いまは、私たちに任せて。ね?」

「ふーん、まあいいよ。おねーちゃん、強いの?」

「あはは、おねーちゃんは弱いよー。でも、もっと強い刀使がいるからね。うん、でも大丈夫。おねーちゃんも頑張るから!」

「なにそれー。危なくなったら俺がいつでも助けてやるからな」

「うん、愉しみにしてるね。あ、列が動いたよ。じゃあね! ばいばい。また会おうね」

その時に見せた刀使の女学生の優しい口調と凛々しい顔立ちに、幼い俺は図らずもときめいたのだと思う。――――

 

 

 それから、江の島の事件が終わり、俺はすっかり元の日常に戻った。

 父と母が待つ実家に帰って、事件の話を色々とした。当然、俺に話しかけた刀使の少女の話も。

 

 それから随分時間が経過した。

 俺の初恋になったと思う、刀使の女学生の事が不意に気になって、当時の資料を調べた。もう、その頃は高校一年生になっていた俺は、あの当時の女学生の年齢と近く、図書館で調べながら親近感が湧いていた。

 当時、被害状況は藤沢市一円で約1600名の死者、行方不明者約1200名、負傷者約2万1000名。

 その数字として記された人々の中にも、怪我をした幼い俺も含まれているのだと思うと感慨深いものがあった。

 そして、俺は、被害状況をまとめた報告書の最後のページ、つまり官庁がまとめた公務員の死傷者リストに目を通した。

 自衛隊や刀使、特別機動隊のリストを漠然と見ながら、俺は息が止まった。

 「――――えっ、○○さん?」

 俺はもう一度、指先で分厚い紙面をなぞった。

 間違えようもない。あの時、幼い俺を励ました刀使の女学生が――――亡くなっていた。あの時、避難活動に従事し、突如発生した荒魂たちから市民を守るために数名の刀使が犠牲になったのだ。

 その死亡時刻を確認すると、俺と別れてから僅か3時間後に死亡した。

 享年が十六.

 今の俺と同じ年齢だ。

 

 「――――なんだよ、くそっ!!」

 俺は、自分の好奇心を呪った。

 初恋の相手を探そうとして――――糞みたいな現実を知った。……高校生の俺は、当時の俺をぶっ殺してやりたくなった。

 無責任に「ヒーローになりたい」とほざいた挙句、俺が大荒魂を倒す? そんな糞発言をした俺は、一体、だれになんてった?

 

 「畜生! なんで、俺なんか…………」

 

 もし、誰かを守ることができるのなら、人の為に戦う人を守りたい。そして、あの時、俺に話しかけた心優しい刀使のように、俺もなれればいい。そう思って、高校生の俺はSTTに志願した。

 

 

 

 ……………だが、現実は全然違った。

 厳しい上下関係でひたすら精神と肉体を酷使し、化け物どもと戦う。

 摩耗していく仕事の中で、いつしか俺は、酒と女とギャンブルで誤魔化した。糞みたいな日常を逃げるように快楽に溺れた。

 いつしか、上が出す命令を何の疑問もなく行動する機械になっていた。

 

 「あの日」までは――――。

 舞草の里を襲撃する作戦を言い渡された時も、俺は黙って準備をして出撃した。

 

 

 ……………そして、たった一人の少年にコテンパンにやられた。

 

 正直、痛快だった。

 俺はあの少年のように、強く純粋な心を、そして自分の信じたものを守れる強さに、懐かしさと、馬鹿らしい話かもしれないが、俺はあの少年に――――百鬼丸に憧れた。

 

 幼い俺が、本当に憧れた『ヒーロー』みたいだったから。

 あの日、俺が憧れた姿に。

 誰よりも強くて優しくて、固い決意を示す奴に。

 

 

 Ⅱ

 

 第二次部隊として派遣された俺は、D班(十五名)を率いて渋谷に出没した正体不明の怪物の対処を命令された。

 既に、第一次派遣部隊が特殊車両と拘束道具で釘付けにしたとの事前情報が入っていた。

 

 装甲車から勢いよく出た俺は、銃を構えながら部下を率いて渋谷のスクランブル交差点の陥没した方角を目指して進んだ。

 

 

 ―――――そして、俺は発見した。

 

 太いワイヤーロープと体中に突き刺さる『杭』に体を貫かれた一つの影を。

 

 自嘲気味にワイヤーロープに付着した血液を歪な指先でなぞり、真紅の雫を眺めながら肩を竦める。そんな人間らしい様子を見て、俺は確信した――――奴が、百鬼丸であると。

 その黒い獣の姿となった百鬼丸は、何もかも諦めたような目つきで、周囲を何重にも囲む俺たちを見回して、「はやくトドメを刺せ」そう訴えるようにヴァァアアアアアアアア、と吼えていた。

 馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎、――――――

 

『この大馬鹿野郎ッ、テメェ百鬼丸!!!! こん畜生ッッ!!!! テメェ何諦めてやがるんだよォ!』

 激昂した俺は、銃を地面にかなぐり捨てて、走り出した。

 ビクッ、と肩を震わせた百鬼丸は、大声で怒鳴った俺の方をみた。

 

 その間抜けな目つきと表情は、先程まで冷酷を装っていた化け物とは違う、年相応の十代の少年のようなあどけなさを残した顔だった。

 

 

 『は、班長!? どうしたんですか?』

 『命令違反ですよ!?』

 と、背中から俺の部下たちが口々に引き留めようと声をかけてきた。……………すまん。俺は公務員として失格だ。

 

 悪い。多分、この仕事は今の命令違反で首だ。

 

 

 (でも、悪くないな)

 

 俺は、あの少年に助けられた時の記憶と――――この人体に限りなく近い義手を固く握りしめながら自然と進み出る足を止めることが出来なかった。

 ――――心の命ずるまま、俺は走った。

 あの、糞生意気な時代の俺が帰ってきたみたいだ。

 

 「悪いなぁ!! 俺はまだガキみたいなんだ」

 あははは、と自然と口から洩れる笑い声で叫びながら俺は、四方八方から貫かれている百鬼丸に駆け寄った。

 (テメェはこんな所でくたばる奴じゃねーだろぉ、なぁ!!)

 




しばらく更新止めます。


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189話

 

「歯ぁ、食いしばれ! この糞馬鹿野郎ッッ!!」

田村明は怒鳴りながら右腕を大きく振りかぶり、走る速度と体重の乗った重いパンチを獣となった百鬼丸の左頬を思い切り殴った。

バシッ、という軋む音と共に百鬼丸の頭は勢いよく左へと弾かれた。

大きく目を瞠って驚愕の色を隠せない百鬼丸は、動揺した瞳で明の方を見る。

『なんで…………どうして、明さんがここに?』

口端から血の筋を垂らして聞いた。信じられないという表情だった。

「俺はSTTの隊員だ。こんな大規模な事件に出動しないワケないだろ。それより、こんなチンケな拘束道具でなに黙ってやられてんだよ、この野郎!」

 明は怒りを滲ませながら百鬼丸の体を貫く『杭』を抜こうと、百鬼丸の血に手を濡らしながら必死になって引き抜こうと試みた。

『止めてくれ。明さんお願いだ…………おれは、もう疲れたんだ。おれはやっぱりどうしようもない――――どんなに頑張っても、人にはなれない。人とは馴染めない。もう、おれは消えたいんだ…………』

 俯き加減に弱音を吐く。己が存在することに対する苛立ちと、不満。

「おい、もう一度ってみろ!」

『えっ……ぐあっ!!』

明は顔を微かに上げた百鬼丸の鼻面に頭突きを喰らわした。

背後にのけ反った少年は、首を左右に振って明を睨む。

『何するんだよ! おれが生きようが死のうがアンタには関係ないだろ!』

「うるせぇ、黙れ! じゃあ何か? 俺がお前の生き死になんかで関係あればいいのか? いい加減にしろ! 俺はガキなんだ。難しい話なんて分からねーんだよ。いいか、俺はお前に借りを返してねーんだ。それまでくたばるんじゃねーぞ!」

『おれは明さんに何も…………』

「黙れッ!!! テメェは黙って助けられろ!」

『あんた、無茶苦茶だよ……』

「そうだ! 無茶苦茶で何が悪いんだ? なぁ!? お前が今までしてきただろーが! あのショッピングモールの時だってそうだ。お前は、絶対に諦めなかった。どんなにボコボコにされても立ち上がって強敵と戦って、助けたい奴らを全員救う。欲張り野郎だろうが! ――――そんでも、俺はそんな欲張り糞野郎に憧れちまったんだよ!」

 唾を飛ばして、杭を引き抜くためにポケットから仕えそうな道具を探す。それから、皮肉っぽい表情で、口元が微かに綻ぶ。

「…………俺さ、昔からヒーローに憧れてたんだよ。弱い人を助けて、悪い奴と戦って颯爽と立ち去る奴に」

『おれは違う。明さんの買い被りだよ』

「黙れ!」

左腕を曲げて肘で殴打する。

 ボコボコに殴られた百鬼丸は、口内を切ったようで、血が牙の間から滴る。

 「――――なぁ、俺は、俺は本当にうれしかったんだよ。お前みたいに、人を助けて誰にも知られずに去ってゆく――――カッコいい姿に。夢じゃないんだってお前に教わったんだ。大人になるにつれて、諦めていった俺と違って、絶対に…………諦めないで強敵に立ち向かうバカなお前に!」 

 喋るにつれて、涙ぐむ明は、暴力的な行動とは裏腹に百鬼丸を真正面から見据えている。

 

 

「お前の過去に何があったか知らねえよ! 興味もねぇ。でもな、顔も見えない大勢の誰かがお前の力を求めてる。――きっとそうさ。どんなに糞みたいな連中でも、それでもお前はぶつくさ文句いいながら助けてきたんだろーが。途中で終わりにするなよ! やるなら最後までやれよ! …………怠け者の俺に、夢を見せてくれた奴が落ちていく姿なんて俺は見たくね! 文句あるか!」

 

『……明さん。おれ、どうすればいいか分からないんだ』

 弱々しく百鬼丸は目線を逸らしてつぶやく。

『どんなに頑張っても、その終わりが見えないんだ。おれが戦うほどに、行動するだけで色んなものが、おれを責めてくる気がするんだ』

 

「知らねぇ! そんなのテメェで何とかしろ。いいか!」

 血濡れの両手を百鬼丸の両頬を掴み、無理やり視線を合わせる。

「さっきから後ろでお前の名前を呼ぶ声が聞こえるか?」

 そう言って、背後を振り向く。

 

 

 数十メートル後方、STT隊員の中に紛れながらも、微かに聞こえる声があった。

『百鬼丸さん! 百鬼丸っ!! 待ってて!! 助けにいくから!!』

 白と赤を基調とした美濃関の制服――――その刀使が、隊員たちが制止するなかでも必死に腕を伸ばして、叫び続ける。呼びかけ続けた。

 

 

 

『可奈美、なんでまだ……?』

「おい、見えてるかボケナス。お前を助けようとしてる酔狂な人間ってのは俺だけじゃねぇみたいだ。………なんでお前を助けたいか分かるか? 皆、お前が助けた人間なんだよ。お前がやってきたことは間違いじゃない。信じてくれ」

明は、努めて穏やかな口調で百鬼丸を諭す。一切、嘘偽りのない本音で向き合う。それが、田村明という男の出来る精一杯の方法だった。

少しだけ戸惑いながらも、百鬼丸はゆっくり、確かに言葉を咀嚼するように理解して頷く。

『――――わかった。明さんのいう事、信じてみるよ』

その言い方はどこかぶっきらぼうで、幼い子供のようで、しかし、年相応の少年らしい態度で相手を信頼した。

 

 

 

 

 ――十条姫和は息を呑んだ。

 

 倒壊していないビルの屋上に着地すると、自分の長い黒髪が視界を覆うように流れた。それを手で払いつつ、平城の制服にいつの間に付着した塵灰に気が付いた。周囲は、戦場のように、空気に黒煙の混ざった空気が漂っている。

「ひどい…………」

私は思わず本音を漏らした。

《小烏丸》をしっかり左手で握り、冷静さを心がける。焦らず、現状を確認しなければ……私は、そう思って周りに目をやった。

周囲の建物は倒壊、あるいは破壊され尽しており、まるで紛争地域のような光景が目前に拡がっていた。あの巨大な怪物が全てを破壊した。改めて、非現実的な光景に、息を呑むしかなかった。――しかし、それらよりも足元での騒がしさが気になった。

 

『黒い人型の獣』が無数のワイヤーロープで身動きができない不可解な状況に違和感を覚えた。

STT車両と隊員たちに囲まれている『黒い人型の獣』に、どこか見覚えがあったからだ。

 

『おれに近づくなッ!!』

 

その獰猛な叫び声に、私は聞き覚えがあった。

(百鬼丸!? どうして? なんだあの恰好は?)

突然のことに私の頭はひどく混乱した。

目を細めて更に注意深く確認すると、その黒い獣に向かって走る一人のSTTの隊員がいた。

(奴は……)

異常な事態に、私はどうすればいいか分からなかった。

可奈美は、後先も考えずに飛び出した。

一見するとアイツらしい無茶な行動だと思った。けれど、あの能天気そうな可奈美だが、本当に何も考えずに動いたとも思えない。可奈美は、周りの人間が思っているよりも遥かに鋭い勘と、冷徹さを持ち合わせている。

 

「私は――――」

どうして躰が動かないのだろう? あの黒い獣は確かに、百鬼丸だ。それは声を聴いただけで分かる。しかし、これまでよりも、悲痛で、切実な叫びは今まで聞いたことがなかった。

 

茫然と、ただ見ることしかできない私と違い、百鬼丸に駆け寄ったSTTの隊員は必至で百鬼丸の体に突き刺さるワイヤーロープを引き抜こうと懸命だった。

 

グッ、と無意識に私の手に力が籠る。

 

(そうだ、私はいつも何も考えない。――――百鬼丸、待っていろ)

私は《小烏丸》を勢いよく引き抜くと精神を集中して「すぅーーー」と息を吸う。高所からの勢いと正確な斬撃でロープを切断する。今の私にできることはそれだけ。

自然と足が前へ進みだしてビルから飛び降りていた。自然落下の速度は、内臓をふわっ、と気持ちの悪い浮遊感へと誘われた。それにも構わず、私は目標を見詰めながら、落下する。

 



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190話

「ああ、くそっ!! 全然このロープ切れねぇ!!」

明は焦った様子で手元のワイヤーロープをアーミーナイフで切断しようと試みる。特殊な繊維でも織り込まれているのだろうか、綻びすらできない。

「なあ、百鬼丸。お前の牙とかでなんとかならんか?」

『牙で、ですか? でも、おれ今首も動かせないですし……』

「だよなぁ」

数十本も躰を一直線に貫通するロープは、ビクともしない。しかも、手は血で汚れており、刃も滑ってしまう。

(まいったな)

考えなしに動いたことを後悔した明だったが、今更諦めるワケにもいかず、さりとて妙案も浮かばない。

 

――――と。

 

 

プチ、プチ、プチ、と小気味の良い音が、明の背後から突然聞こえた。

 

「「!?」」

百鬼丸と明が音のする方に頭を向けると、虹色の残像が揺らめいた。……この独特の残影を二人は知っている。

《写シ》だ。

濡羽色の長い髪が外気に流麗に舞う。

『姫和、なのか……?』

信じられない、という気持ちで百鬼丸が問いかける。

名前を呼ばれた相手は、着地時の屈んだ姿勢からスクッ、と立ち上がる。強い意志を示す眉と目線が百鬼丸と合う。

「久しぶり、だな」

やや硬い表情で、努めて軽い態度で挨拶をする。

『ああ、……でもなんで姫和が』

「渋谷に出没した巨獣を倒すために来た、ハズだったが、どうやらお前が全部終わらせたらしいな。ふっ、お前らしい」

『姫和、聞いてくれ。お前はおれを助けなくていい。マズいことになる。周りを見てくれ。STTに囲まれてんだ、おれ。お前まで危ない目にあう必要はないんだ』

「――――嫌だ」

『聞いてくれよ、犯罪者になっちまうかもしれないぞ?』

その百鬼丸の心配する様子をみて、思わず姫和はくすっ、と笑う。

『な、なんだよ……?』

唐突な笑みに、百鬼丸は不意を衝かれた。

「いいや、思えば御前試合の時から私は犯罪者としてお前と逃亡生活を送ったのに、今更そんな事を心配するなんてな」

ふふふっ、と思い出したように姫和は肩を震わせて笑った。そして目端に溜まった涙を指先で拭い、

「私はいつも前しか見えないみたいだ。私は、私の信じることに従って動く」

言いながら姫和は次々と小烏丸でワイヤーロープを斬る。鮮やかな太刀筋が高い緊張状態を保つ一本を斬る。大きく踏み出した足で下半身に力を籠め、百鬼丸の体の自由を奪っていたモノを次々と断ち切る。

 

「百鬼丸、私はお前のことが、心のどこかでずっと苦手意識があった」

『…………そうか』

「お前と私が似ていると思っていた。運命から逃れることができない、自分に似た存在だと思い込んでいた。……それでもお前は、どこか気楽そうにしていた。正直、苛立つ時だってあった。そんなお前に、悔しいが何度も救われた」

小烏丸を振り上げ、一呼吸の間に再びロープを切り離す。

「今、私がこの場にいるのは、少なくともお前のおかげもある…………」

緋色の瞳が、百鬼丸を見返す。どこか恥ずかし気に視線を逸らそうと瞳が微動しているのが解った。

『姫和、……お前』

「いいか、勘違いするな! あくまで偶然助けられただけで、それ以上でもそれ以下でもないからな!」と、語気を強く言った。

『お、おう……』

 

そんな二人のやり取りを見ていた明は、意地悪い顔で百鬼丸の胸板に肘で軽く小突いた。

「おい、よかったな。可愛い娘に助けてもらってよ」

『明さん…………』

呆れにも近い顔で、百鬼丸はへっ、と苦笑いを漏らす。

『ですかね』

確かに彼の言う通りだ。これまでの自分であれば、誰かに助けられることに不快感を示しただろう。なぜ、自分の手で危機を乗り切れないのか。そう、自責するだろう。

けれど、今はちがう。少なくとも誰かに助けられることに嫌悪感が無くなった。

 

「おい! 百鬼丸。偶然に私が助ける形になっただけだ。いいか、偶然だ! わかったな?」

 

剣先を百鬼丸の方に向け、かなり言い訳がましく念押しをした。

『姫和』

 

「………なんだ」

やや不機嫌そうな声。

若干だが眉も釣りあがっている。

『助かるよ』

一瞬、垣間見えた年相応の飾り気のない百鬼丸の雰囲気に、驚いたように口を半分開く。それから小声で「お前もそんな表情をするんだな」と零した姫和は、俯き加減に小さく頷いた。

「当然だ」

努めて素っ気なく返事をする。

過酷な運命を背負った者同士だと思っていた少年の、あどけなさの残る部分がみえた。

(お前も弱い部分があるんだな)

彼の強さしか目に映らなかった姫和にとって、百鬼丸の弱音を吐く姿が新鮮だった。彼が何に苦しんでいるのか。これまでどんな事があったのか。それは、恐らく教えてくれないだろう。

それでもいい。

「私は、どんな時でも私のやり方を貫く」

 

 

 

轆轤秀光にとって、田村明と十条姫和の闖入は予想外だった。――――しかし。

彼は、冷静な眼差しでモニターを眺めながらインカムマイクに小さく囁いた。彼にとって、全て『百鬼丸を殺す』ことが至上命題であった。多少の犠牲も構わない。なるべくなら、刀使は殺したくない。しかも、十条姫和という逸材を失う危険性もある。

だが、決して百鬼丸を殺す好機を失う訳にはいかない。

 

 

「どれだけ被害が出ても構わない。やれ」

渋谷に出動した部隊の指揮官に直接命令を下す。

 



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191話

 

「――それにしても数が多いな」

姫和は愚痴りながらも、杭を繋ぐ特殊なワイヤーロープを切断する。

『すまんね』

黒い獣姿で百鬼丸はシュンと謝る。

「……ふん、全くだ。ばか者め」

ツンとした表情で返事をする。綺麗に切り揃えられた黒髪の下にうっすら汗が滲んでいた。

(それにしても、この後はどうすべきか……)

御刀を構えつつ周囲を囲むSTTが不気味に沈黙を守っている様子に訝る姫和。しかし、現状を打破するためにも、百鬼丸の解放は最優先事項だ。

とはいえ、無数の銃口は鈍い輝きを放ちながら「何か」を待っているようだった。

(なぜだ? なぜ威嚇射撃すらもしない?)

姫和は不気味な違和感に襲われていた。視線を素早く動かして脅威となる対象を捜す。だが、STTの隊員や車両以外には何の変化もない光景だ。

 

 

かつて、都会の代名詞として謡われたスクランブル交差点も、地面が砕けて土面を露出している。高層建築群も、半壊して完全な形を保ったモノは殆ど無い。

 

 

……きっと、ここに駆け付ける前に大勢の人が亡くなったのだろう。

それを示すようにアスファルトの瓦礫には赤黒い血痕が生々しく残されていた。

姫和はサッ、と目を逸らして冷静さを取り戻す。

 

 

(なんだ、この違和感は――――先程から何か本能に…………)

軽い逡巡が彼女の脳裏を掠める。その疑問の正体こそが、真の危機だと直感した。

 

 

『姫和ちゃん!! ――――って!』

STTの人垣から聞き馴染みのある声が聞こえた。

「か、可奈美!?」

百鬼丸を救出に単独で出発した少女が、なぜか向こう側に紛れている。

バイザーに付属した通信装置に耳を澄ましたが、可奈美のS装備はバッテリー切れだろう。通信が意味をなさない。

「どうした? よく聞き取れない!」

なるべく強く叫んで促す。

 

 

『姫和ちゃん!! 上を見て!!』

可奈美がSTTの隊員たちに羽交い絞めに抑え込まれるのを避けながら腕を伸ばして、警告を発する。

 

「上、だと?」

腕の指し示す方向へと素直に視線を向ける――と、巨大な質量を有した影が空を覆うようにして崩れてきた。

 

(そうか、これが……)

 

違和感の正体だった。

亀裂の端った壁面と柱には激しく軋む音が歪に鳴り響く。いつ倒壊してもおかしくなかったのだ。鉄筋コンクリートといえども、巨獣が暴れまわり、火炎による高熱で焙られれば強度は著しく低下する。

 

バキッ、と最後の何かが切れたのを合図に、次々とビルの砕けた瓦礫が姫和と百鬼丸の捉えられている地点に殺到してきた。

 

余りにも、タイミングが良すぎる。何者かの手引きがあったのだろうか?

(いいや、そんな事を考えている暇なんてない!)

姫和は隕石にも似た瓦礫の落下より生じる風圧を感じながら、百鬼丸の方へと赴こうとした。

――視線を少年の方へと向けた時に、金色の獣の眼と出会った。

獣は――少年は静かに首を横に振った。

「おい、百鬼丸!」

声をかけようと、近寄ろうと一歩踏み出した。

 

しかし小雨のような塵煙が視界を覆い尽した。ついで、ひしゃげた鉄筋が、生き物の骨のように落ちてきた。

 

「――――くっ!!」

もう、数秒も猶予が無い。いくらS装備を着用していても、この落下物の雨には敵わない。

「なぜだ! なぜ私を阻む?」

これが誰かの手引きだとしても、運命という存在を呪わずにはいられなかった。

激しく歯ぎしりをして、巨大な崩落の雨を逃げるようにバックステップを踏んで一時的に退避行動をとった。

 

 

――直後、地震を連想させるような地響きが足元に伝わった。塵灰を舞い上げる風圧に巻き込まれながらも、姫和は衝突位置から安全であろう地点まで、退避していた。

 

まるで仕組まれたように、STTの隊員たちの包囲している場所まで姫和は逃げていた。

必死で行動したために、姫和は地面に転がりながらも、なんとか立ち上がって周りを見る。その緋色の瞳には激しい敵愾心が宿っている。

 

「…………そういう事か。お前たちはどこまで腐っているんだッ!」

右手を強く握って包囲網を構成する大人たちに叫ぶ。

 

「こんなことをして、奴が一体何をしたというんだ……」

誰に言うでもなく、俯き加減に呟く。

 

 

……深く暗い洞穴に似ている、と思った。

 おれは、熊が冬眠用に過ごす洞穴で身を潜めている。もと居た熊は既にこの世にはいない。いや、正確に言えばおれの「胃の腑」に存在している。

 熊の毛皮はおれが剥いで身に纏っていた。洞穴の主は、地面に毛皮として敷かれている。ここに来るまで、数匹の熊を狩った。

 肉も血も骨も、何もかも利用できる物は使う。

 「弱ければ死ぬだけだ……」

 狩った熊の毛皮を頭から被りながら、おれは呟く。

 

 厳冬。

 山の奥を移動すれば、野生動物と出会うなんていつもの事だ。

 おれを前にしても逃げる動物が殆どだけど。――それでもおれに襲い掛かる奴はいる。それは手負いの獣か、あるいは子供を引き連れた奴か。もしくは空腹か。

 アイツらは気性が荒くなっている。だから相手の強さを正確に測ることができない。

 襲い掛かる奴らは例外なく、おれは機械的に敵を屠る。

 血の金臭い感じが鼻の粘膜へ執拗に絡みつく。気分が悪くなりそうだ。

 それでも、おれは何も感じずに親熊を切り刻んだ。

 自分たちよりも体格の小さい人間に斬殺される。そんな光景を見た子熊たちの眼は、本能から怯え、逃げる。

 おれは自然と空腹から親熊を肉のブロックに切り分けて、熾した焚火で焙り喰らう。

 熊の肉は個体差がある。だが、例外なく臭い。アンモニアの匂いが酷い。内臓を傷つけないように気を付けても、上手くいかない。だから諦めて食べる。

 脂身と赤身の二層が明確に分離しており、歯ごたえはある。強く咀嚼して呑み込む。

 喉の渇きは獣の血液だ。生焼けの肉を頬張り、口の中に充ちる血液をゴクゴクと喉を鳴らして飲む。

 おれは、文字通り身も心も「人」ではない。

 血まみれの吐息は外気に白く色づき、鼻先を掠める。

 両腕の刀にはベットリ、血と脂がこびり付いていた。

 

 子熊たちの足跡は吹雪によって消えつつあった。追う気にはならなかった。

 腹を満たすだけなら、この親熊だけで十分だ。

 この熊の親子は食料が無く、冬眠に入れなかったんだろう。しかも、眠りに必要な洞穴すら見つけれなかった様子だった。

 (弱肉強食か)

 かつて、義父に教わった言葉だ。

 自然界では弱い生き物が強い生き物の餌になる。絶対で明解な世界の原理原則。

 おれは、今になってその言葉の意味を理解した。

 今までのおれの行為は「弱肉強食」を体現していた。べつに好きでこんな事をしている訳じゃない。だけど、腹が減れば弱い奴を食べる。――今みたいに。

 人の頃に食べた「料理」は記憶の彼方になって、もうどんな味かも忘れた。ただ、食べた、という事実だけがおれに、辛うじて「人間らしい生き方」のモデルになっていた。

 

 

 ――思い描いたのは、三人で食卓を囲む光景。

 

「そういや、さっきの親子の熊も三匹だったな……」 

 そして、おれが殺したのは親の熊。

「……っ、はははははは、まただ。また、おれは殺した! あはははは、親殺しはおれの得意技だなァ」

 灰色の天空を仰ぎ見ながら降り続く雪に顔を濡らす。牡丹雪は融けて、血の味を薄れさせてくれる気がした。

 はやく、人間の感情なんて無くなればいいと思った。

 人間になりたかった。

 でも、自然界で暮らしているなら、人間であることは邪魔だった。

 獣だ。

 おれは獣なんだから人の感情を棄てたいと思った。

 

 義父を殺害した日までは、おれは「人」に憧れていた。

――今はまったく逆だ。

 人の部分がひたすら邪魔だった。倫理観、罪悪感、後悔。そんなものが影みたいにまとわりつく。

「おれは、獣だ。――おれは獣なんだ」

 中途半端な自分という存在を明確に定義するために、おれは自己洗脳をした。

 

 

ゆっくり、おれは瞼を開ける。

「ゲホッ、ゲホッ」

華と喉に粉っぽい感じがして、おれは咽た。

(最悪だ。なんで今、あの時の気持ちを思い出したんだ……)

 孤独な時間を過ごした記憶が、意識を一瞬失ったことで強烈に甦っていた。

「イテテテ」

 腕や背中を動かすと激痛が走る。視線を己の肉体に這わせると、躰を貫いていた杭は瓦礫の雨でグニャグニャになって、いつの間にか何本か抜けていた。ワイヤーロープも、瓦礫の隙間で千切れている。

「げほっ、タイミングいいなオイ」思わず苦笑いを漏らした。

改めて体中を動かして点検する。黒い体毛は一切傷ついてない。相当に防御力が高いみたいだ。

(姫和もこっちに向かおうとしてたな……)

記憶が途切れる寸前の光景が鮮明に思い浮かぶ。

 

――可奈美といい姫和といい、自己犠牲大好き人間なのかなアイツラ。

内心でお人好しな少女たちに軽く毒づく。

 

 

「……っと」

おれは、いまさらになって思い出した。

「明さん、生きてますか?」

ビルの崩落寸前に、おれと一番近い距離にいた明さんだけは逃げることが不可能だった。「早く安全な場所に逃げてくれ」と、強く促しても明さんは無視してロープを切る作業を辞めなかった。

 

『お前を見捨てたら、俺は何のためにこんなマヌケな事したの分からなくなるだろうがッ!』と怒鳴り返された。

 

 ……まさか、瓦礫が倒壊する寸前まで作業を続けるとは思わなかったが。

 

咄嗟に、多少自由になった体で明さんを瓦礫から守るために覆いかぶさって凌ぐことにした。

 瓦礫程度で、自分(百鬼丸)は死なない確信があった。

 

 

「……よォ、百鬼丸。悪いな。お前ばっかり。ったく、どっちが助けに来たか分からないな。ハハハ」弱々しく笑う明さんは、普段通りの調子だ。

 

「待っててくださいね。今、この瓦礫をどかしますから」

 おれの背中に巨大な壁面が当たっている。

「――ったく」

こんなモンでおれが死ぬ訳がない。獣の姿の今、それを実感している。

背中の筋肉に意識を集中して一気に力を背後にかける。すると、自然に壁面がグググ、と動きだす感覚がした。邪魔だな、と思いながら両肘を何度も背中の瓦礫に叩きつけて砕く。

 

 

 バキッ、バキッ、と氷を砕くみたいに簡単にヒビが入る。

「――あああああああ、邪魔くせぇ!!」

おれは、片肘で巨大な瓦礫を支え、ガラ空きの片腕は振り向きざまに、思い切り引き絞った拳で叩きつける。

 一気に瓦礫がバラバラと盛大な音を立てて崩れていく。

「なんだ、簡単じゃねーか」

おれは牙を剥いてわらう。……つくづく、人間からかけ離れた容貌だと自覚する。

 

完全な暗闇から解放されたことで、灰色の空が目に映った。

 

「――さぁ、明さん。久々の外ですよ」

おれは冗談っぽく言って明さんの方をみた。

 

「なぁ、百鬼丸。ありがとうな。俺はお前のお蔭で今まで自分の見失ってた自分を見つけることが出来たんだ」

擦れた声で明さんが喋る。

「どうしたんですか? 早く出ましょうよ。ああ、そうか。自力で出れないんですよね。手を貸しますよ」

おれはそう言って、明さんの腕を掴んで引っ張ろうとした。

 

 

――――――そして、気が付いた。

 

 明さんの腹部の半分が失われていることに。

 

「えっ? あれ? なんで? おれは確かに明さんの上に……」

 

「アア、すまん。百鬼丸。もう少し大きい声でしゃべってくれ。耳が少し遠いんだ。……わりぃな。ジジイみたいなコト言ってな。まだ俺30代だぜ? へへ、すまんな。せっかくお前が守ってくれたのに。人間ってのは、脆いんだなぁ」

 

 …………どうして? なんで、おれは一体何を間違えた? ――――おれは、どこから何をしたんだ? ……――――

 

「なぁ、百鬼丸。わりぃな。役に立てなくてな」

 

「し、静かにしてくれ。まだ間に合う。おれが、そう、おれが何とかするからさ、待っててくれよ?」

 

力なく微笑む明さんは、おれの顔を見返しながら、

「ゲホッ、もういい。お前はいつも、そうだ。…………頼みがある」

血泡を口端から思うさま吐き出して、弱い視線でいう。

「な、なんですか?」

「たばこ、吸いたいんだ。本当は禁止なんだが、ポケットに一本お守り代わりに入れてんだ。吸わせてくれ」

 小刻みに震える人差し指を立て、ジェスチャーする。

 

 「……――――。こんな時まで、ですか?」

 「頼むよ」と、擦れた声で言った。

 おれは明さんのポケットからビニールに巻かれた煙草を取り出して、包装を剥がし銜えさせた。

 ガチガチ、と寒そうに震えた明さんは銜えた煙草を落としそうだった。おれは、煙草を支えながら、明さんの次の言葉を待つ。

 「火、ないか」

 「……――ありますよ。怪物を燃やした時に持ってた燐寸(マッチ)ですけど」冷静さを意識しながらおれは喋る。でも駄目だ。声が震える。

 破れたズボンに幸い残っていた燐寸の箱を触る。中身は全部粉々に砕けていた。獣の武骨な指先に、着火剤の赤燐を付着させ、爪先でコンクリート破片を傷つける。

 ポッ、と爪先に火が点る。

 煙草の先端に火を移すと、暫くして紫煙が燻った。

 

 細く長い煙筋が上空へと昇ってゆく。

 おれは、ただその煙の行方を茫然としながら眺めていた。

 

 「――――お前も俺と同じだ。ゲホッ、っ、でも、まだガキだ。強くてもな。お前をロクに守れない大人だった。――……ッッ、アァ、すまん。でも、お前は無事だ。俺のことで気に病むな。背負うな。頼りない人間で済まない」

 そう言いながら明さんは弱々しく拳を握りおれの胸板を小突く。

 「この右腕もお前のお蔭だ。――――お前は誰よりも優しい。化け物じゃない。それは俺だけじゃない。さっきの娘たちだって―――――」

 途中から明さんは声を発さなくなった。

 ――――……………。

 …………――――。

 ………―――――………………。

 おれは、この不気味な沈黙の正体を知っている。あまりに呆気なく、唐突にやってくる者の正体を。

 「死」

 たった一つ、それだけが思い当たった。

「明さん。返事できますか? 無理なら、こっちでどうにかします。大丈夫ですよ。おれ、何とかしますから」

 現実感がない。

 余りにもあっけない別れに、おれは目の前の現実が分からなくなっていた。

 明さんの心臓に耳を当てて音を聴く。

 無音。

 肋骨の内部に収まった心臓は動いている時の音をしていなかった。

 

 ……明さんの顔を見るのが怖かった。

 違う、と思いたかった。

 しかし、明さんはもしかしたら冗談で黙っているだけかも知れない。

 ゆっくり、首を動かして明さんの顔を見る。

 

 顔はのっぺりしていた。

 目には光が消えて、ゼラチン質の塊という感じがした。口は半開きで、煙草の煙だけが外気に漂っている。

 剃り残しの無精ひげ。口端から涎が垂れている。

 

 

 「明さん……っ、明さんッ」

 奥歯を強く噛みしめておれは、呼びかける。

 

 無意味だと理性では知っているが、それでも愚かな行為を繰り返さずにはいられなかった。

 

 ポタ、ポタ、とおれの足を濡らす粘ついた感覚に今更気付いた。

 目線を下にやると、明さんの腹部から溢れた血液がおれの太腿を濡らしていた。

 

「あぁああああああああああああああああああああああ!!! ぁ、ああああ、あああああああああああああああああああああああああああ」

 

 なんでだ!? なんでいつもこうなる? 

 おれを認めてくれた人たちはいつもおれの前から消えてゆく。いつもそうだ。居なくらないで欲しい人たちから死んでゆく。

 おれに関わったばっかりに皆、みんな、死んでゆく。

 もういやだ、もう、いやだ、……………どうすればいい? もう、いやだ。もう、おれはこの地上に存在したくない。消えるべき生き物だったんだ。

 ……可奈美も、姫和も、他の連中も、いずれ死んでしまう。

 

 

 

 「あああああああああああ、殺してくれ、はやくおれを、誰か、おれを、おれを!」

 

 ……手が重い。

 おれの手は明さんの血液に満遍なく濡れて、赤く染まっていた。いつの間にか、黒い体毛は消えていた。おれは、人の肌色で、ひたすら明さんを両腕で抱きしめていた。

 「いやだ、なんでいつも、おれの前から消えるんだ……」

 足元から力が抜けた。

 

 

 ――――おれの目の前は真っ暗になった。

 



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192話

 

 

 金槌の叩く音が断続的に、物憂い耳に聞こえてくる。

 キィン、キィン、と金属の持つ独特の重低音――――それが、熱い火花を散らしながら一個の形へ収束してゆく。

 

 

 刀へと変化を遂げる過程で排出される金属物質の《老廃物》、それがノロ。

 

 鉄の精錬には高熱が必要である。持続的な火は膨大な燃料を必要とした。

 

――火

 

 それは、人類が文明を発達させる上で――もっと言えば動物/人類を区分するものとなった。

 

 「プロメテウスの火」

 

 ギリシャ神話にも代表されるように、人類は夜闇に恐れず活動できるようなった。

 文明の脊椎ともいえる金属の精錬にも火は利用された。

 

 

 ただ、行き過ぎた発展には相応の代償は要求された。

 

 火は戦争に利用された。無論、鉄も同様である。

 

 火光を持たぬ人類は常に夜闇に怯え、かつ自然に畏敬を持った。太陽が地上に光を与え、月が夜の道標となった。

 

 ――そして、現代。人は余りに大きな「火」を得た。……が、その代償として余りに大きな苦悩が付いて回った。

 

 

 暗転した視界から意識が引き戻されると、霞む目に淡い人影が映った。……少年の全身は気怠さが支配していた。無意識に「――あっ」と、擦れた声で少年は短い単語を発する。

 

 百鬼丸は気が付くと、足元にLEDのランタンが置かれていた。

 小刻みに躰を伝う振動が感じられた。車のエンジン特有の振動だった。

 

「…………百鬼丸、起きた?」

 朴訥とした少女の喋りが聞こえた。

 

「お、ま、え、は――?」

 虚ろな目を上げ、焦点を合わせた。

 

 淡いランタンの輪光に照らされた少女――糸見沙耶香は、体育座りをしながら百鬼丸の傍に居た。色素の薄い、その長い前髪に隠れた心配そうな目線を、百鬼丸は感じた。

 

「なんでおれは、こうしているんだ?」

 周囲をゆっくり眺めると、段ボールの箱が雑然と積まれていた。埃っぽい匂いが充満している。

 

 

 床面の冷たい感触が頬や半裸の上半身に伝わる。……鉛のように重たい躰を動かす気にもならない。

 

「……大丈夫?」

 沙耶香は静かに労わるように小さな紅葉のような両手で、血だるまになった百鬼丸の背中に触れる。

(熱いっ……!?)

 百鬼丸の皮膚は驚くほどに高温だった。

 沙耶香は薄暗い中、視線を百鬼丸の足元に這わせる。加速装置から湯気が立ち上っていた。

「教えてくれ、沙耶香。どうして、おれはこんなトコロで生きてるんだ?」

「……あとで教える。だから今は休んで」

「なぁ、なんでおれはまた、生き残ったんだ……?」

恨みの籠った口調で、誰にいうでもなく呟いた。

「…………わからない。でも、わたしは百鬼丸が生きてて良かったと思ってる」

沙耶香は素直な気持ちで言った。

「へっ、そうか」その答えを軽蔑するように鼻を鳴らして俯く。

(――もう、全てどうでもいい)

百鬼丸の瞳には闘志が失われ、希望の光が消えていた。

粉々に砕けた精神で辛うじて肉体を動かすだけの哀れな存在になり果てていた。

 

意識を失う寸前にみた光景は明の銜えていた煙草。

細く長く伸びた煙草の煙の糸が、灰色の空に昇り――途切れた。

――それが、百鬼丸のみた最期だった。

 

(皆、おれに関わったから死んだんだ……)

大切に思う人たちは自分の前から消えてゆく。自分を認めてくれた人は、余りにも呆気なく死んだ。

 

「うぅあああああああああああああ!!!!!!」

百鬼丸は発狂の悲鳴を喉から迸らせた。

気が付くと、記憶の底から次々と後悔すべき映像の断片が浮かび、彼の精神を蝕む。

失敗の数々。

救えなかった刀使たちの骸。

人々の憎しみの籠った差別の眼差し。

投げかけられた刃のように鋭い「言葉」たち。

 

 

(いやだ、いやだ、いやだ、もういやだ。おれはなにもしたくない。いやだ、いやだ、おれはどうすれば良かったんだ……。)

頭を抱えながら、地面に横たわり、のたうち回る。

 

 ――――消えたい。

 

 痛切にそう思った。

 

 




 願ったのは「愛」でした。
 求めたのも「愛」でした。
 探したのも「愛」でした。
――でも、そんなモノ求めちゃいけない。
……だって、ぼくは「人殺し」


(とある死刑囚の手記より引用)


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193話

 まるで抜け殻だった……。

 少年は、壁側に体重を預けて座り、完全に放心状態で口を半開きにして口端から涎を垂らしている。時折、「――どうしてだ」と同じ言葉を繰り返す。

 壊れたロボットのように、話しかけても反応が返ってこない。

 

 ――――完全に心が折れた。

 

 沙耶香は彼の様子を見ながら悟った。

 

 どれだけ身体の強力な戦士でも、「精神」の傷だけは治癒は難しい。肉体の怪我であれば、ある程度の回復の見込みはある。しかし、精神だけは別だ。

 一度でも根本から折れてしまえば他人はどうする事もできない。

 

 何度か、話しかけようと試みた沙耶香だったが、余りにも見るに堪えない百鬼丸の状態に胸が痛んだ。

 

 (――どうしよう)

 本来、他者との会話や意思疎通を苦手とする沙耶香には、今の息が詰まりそうな空間で対処のしようがなかった。

 

 ただ、体育座りをしながら百鬼丸の傍で見守ることしかできない。

 

 

 

 Ⅰ

 糸見沙耶香が渋谷巨獣事件の渦中に到着した時、現場は大規模な爆撃を受けたような瓦礫の山となっていた。余燼が燻り、ブロックのように簡単に崩されたビルの数々。人々の呻き声。

 アスファルトの溶ける不快な匂い。

 思わず鼻を袖で覆いながら歩く。

 橙色のバイザー越しに見る世界は全て現実離れした風景だった。

 すり鉢状に穴があり、そこには巨大な怪物の死骸が何者かに齧られた痕跡と共に、残っていた。

 しかし、ひと際目立つ場所があった。

 倒壊したビルの瓦礫の山の中、膝をついて天空を仰ぎ見る人影。

 「百鬼丸!?」

 沙耶香は自らにしては珍しく驚きの声をあげた。

 

 彼は、長い黒髪を乱雑に地面に垂らし、両腕に男の亡骸を抱えながら口から「ぁああああああああ」と、喉から悲痛な呻きを迸らせていた。

 

 そして、何より異様だったのが、彼を警戒するように百鬼丸を包囲するSTTの隊員たちだった。彼らは自動小銃を構え、慎重に様子を窺っている。

 なぜ、射撃しないのか?

 否、彼らは射撃をしていた。しかし、無意味だったのだろう。その証拠に、隊員たちの足元には空薬莢が無数に転がっている。

 

 上半身が半裸の少年の体の部位には、黒い獣毛が生えている。

 それらが全て、銃撃を防いだようだった。

 

 

 沙耶香は、ただその悲惨な光景を眺めることしか出来なかった。

「……百鬼丸」

と、少年の名をつぶやく。

 

 無意識に右腕を伸ばしていた。

 その肉体と戦闘センス故に、圧倒的な強さに畏怖すら覚えていた沙耶香は今、男の亡骸を抱えて慟哭する少年に、底知れない悲しさを感じた。

 

 

『おい、お嬢ちゃん。疲れてないか?』

 優しく肩を揺り動かしてくれた男は、心配そうに声をかけた。

「……ん、大丈夫」

 コクンと頷き、眠い目を擦る。

 滲む視界で、隣に座る百鬼丸を一瞥する。

 彼は相変わらず、濁った眼で自らの膝の辺りを眺めていた。

「…………。」

 悲しそうに眉をひそめ、沙耶香は立ち上がる。

 

 沙耶香を起こした男は軽く頷き、

「とにかく、逃走するための車両を変えるから、待っててくれ」 

 と、言った。

「――うん。わかった。大関…………さん、も気を付けて」

大関――と呼ばれた恰幅がよく、穏やかな顔つきの男は、一瞬、呆気にとられたような表情をしてから、「ガハハハ」と豪快に笑う。

「そうか。うん、久しぶりだな。お嬢ちゃんくらいの年ごろの娘に心配されるのは」

そう言いながら、分厚い掌で沙耶香の頭をガシガシと撫でまわす。

ふと、大関は沙耶香の後ろに居る百鬼丸に目を向け、

「……あの子も、明を失ってショックだったんだろうな。悪いが、少しここを離れるが、頼む」

心配するように言った。

「…………うん。分かった」

硬い表情で首肯する。

 

 

 小型トラックの荷台の後部ハッチから冷風が吹きつける。

 夜気の匂いが感じられた。

 もう、大分時間が経過したんだ。

 沙耶香は漫然と、そう思った。

 

 

 Ⅳ

 

 オレは、これまで可愛がっていた部下を見送ってきた。

 四〇代も終わりかけの年齢になっても、自分の未熟さに嫌気がさす。特別機動隊として、オレは二〇年前の「江の島」で任務にあたっていた。

 ――この時ほどひどい状況は見たことがなかった。

まだ若かったオレは、銃を握りながらこんなにも「無力」なんだと思い知らされた。

 オレたちが本来守るべき子供に助けられている。――援護射撃とは聞こえがいいものの、豆鉄砲以下の威力しか発揮できなかった。

――人間は無力だ。

 恐らく、当時の現場にいた他の隊員や自衛隊員も同じ感想だっただろう。

 沢山の人が死んだ。

 何の罪もない人たちが大勢死んだ。一夜明ければ、被害は更に酷くなっていた。

 

 それから約二〇年後――――。

 

 

 頭のおかしなテロリストの影響で、関東のショッピングモールが占領された。

 STTの現場指揮官としてオレは、しかし部下を無残に死地に行かせる無能な男だった。

 だが、それでも事件は何とか収束した。

 

 瀕死の状態でありながら、死地から帰ってきた部下が言った。

 

『大関さんのお蔭で皆、安心できたんですよ』

 ソイツは普段、軽口を叩く皮肉屋だった。

 担架で運ばれた、この不遜な部下――――田村明は、事後処理に当たっていたオレに向かって微笑んだ。

 オレは救われた気がした。

 …………大勢の部下をむざむざ死なせた罪悪感だけでいっぱいだったオレには、確かな救いだった。

 

 

――その明が死んだ。

 

 長い付き合いだった部下が死んだ。

 だというのに、未だにそんな現実に向き合うことが出来ずにいた。

 

 

 STTを退職したあと、大関茂は知人の運送屋を手伝うことに決めた。

 人の死とは無縁の生活。

 熊のような恰幅のよい肉体を活かすことが出来る仕事は、彼のこれまでの苦悩を浄化してくれる気がした。

 

 

 小型トラックで重い荷物を運ぶ。積荷を下ろして次の現場へ。

 このサイクルが大関には合っていた。

 そんな仕事を続けて数か月が経過した。

 そんな時だった。

 かつての部下、田村明から電話が掛かってきたのは。

 

『大関、お久しぶりですね』

第一声から大らかな声だった。

「ああ、久しぶりだな。急にどうした、元気か?」

『元気、ですね。そういえば大関さん』

「うん、どうした?」

『いきなりで悪いんですけど、俺にもしもの事があれば助けて欲しい奴が一人いるんですよ』

「――――ん? なんだ縁起でもない」

『……最近の情勢は凄くキナクサイ、って世間でも思われてますよね』

「ああ、そうだな」

『俺も保険として、ですけど一応、色々と信頼できる大関さんにお話したいんですよ』

「……気味が悪いが、いいだろう。なんだ?」

『百鬼丸を覚えていますか?』

「ああ、あのショッピングモールの時の少年か。忘れるわけないだろう」

『あははは、そうですよね。――アイツ、もしアイツが窮地に陥ったら助けてやってくれませんかね?』

「ああ、それは構わんが、なぜオレに?」

『大関さんには色々と迷惑かけていて、俺は頭が上がらないんですよ。でも、それでもお願いです。俺の弟みたいな奴なんです。あんなに強いけど、ガキです。俺以外にも誰か庇護してやる大人は必要です。大関さんなら信頼できますから』

「――――」

大関は内心、買い被りすぎだ、と思った。だが真剣な口調の明は熱意が籠っていた。

「わかった。善処する。しかし、不吉なことはもう言うなよ?」 

苦笑しながら釘を刺す。

 明は電話越しに笑いながら、世間話をした。

 

 とても懐かしい気分だった。

 

『大関さん、これまでご迷惑をおかけしました』

 彼の生前の肉声が耳の奥にいつまでも、繰り返し聞こえる。

 

 



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194話

 男は、《血》に敏感だった。

 箒を逆立てたような剛直な髪質は、針金を連想させた。

 彼の背中には黒瑪瑙色の鞘をクロスさせ、邪悪な刀を収めている。

 夜。

 肌寒い気温にも関わらず、男はノースリーブで、鍛え抜かれた両腕に青筋の血管を走らせた。

「フゥウウウ」

息を吐き出す。

目元を覆う布に、鋭い三白眼。

――――ステインは、驚異的な身体能力によって次々と「ヒーロー」を闇に屠ってきた。

偽善は最大の冒涜であり、「善」も「悪」も純粋でなくてはいけない。

彼は一個の思想犯である。

 

 

 

「……どうしました?」

皐月夜見が訊ねる。

 

ふたりは、東京駅の近くに拠点を構える「刀剣類管理局維新派」のホテル前にいた。

明治期に思いを馳せるデザインのモダン建築、東京駅の赤レンガの風情を無視して、ステインは荒々しい昂る気分を抑え込む。

まるで空腹の猛獣だった。

 

駅周辺には、近衛隊を名乗る綾小路の刀使たちが警備にあたっていた。

なんでも都内は厳戒態勢に入っているらしい。

こんなことは、戦前の226事件以来だとメディアで噂された。

 

「――百鬼丸の行方は分かっているのか?」

ステインは紅の小さな瞳を動かし、きいた。

「現段階では何も分かっていません。ですが、今の貴方に課せられた任務は百鬼丸と戦う事ではありません」

「――分かっている」

「……ですが、いずれタギツヒメ討伐を名目に彼は奇襲を仕掛ける可能性もあります。焦る必要はないかと」夜見は冷静にステインを宥める。

 腕組みをしたステインが、首元の赤い布を風に靡かせる。

 

 

 

『刀使二名の身柄を拘束完了。これより、護送車にて移送する』

運転席から運転手の隊員の声が聞こえる。

これから、可奈美と姫和はSTTの拠点で取り調べを受ける。――主に、百鬼丸を助けた事による内容が中心になるだろう。

 

 

護送車の長椅子に腰かけた可奈美は、取り上げられた御刀の無い腰元に無意識に手をやる。……普段の癖が抜けない、と肩を竦めて自嘲気味に苦笑いを浮かべる。

 

「可奈美、どうして単独で行動した」

姫和も、覇気のない調子で尋ねた。

 

「……うん、どうしてだろうね。ごめんね、私も分からないんだ。躰が勝手にうごいちゃった。でも、皆を危険に巻き込んじゃってごめんね」

薄い表情で謝罪を口にする。

 

「馬鹿者。それは今更だ。それに私も、お前に迷惑をかけている。それはお互い様だ」

 

「あはは」

 

「――んなっ、なにが面白い?」

 

「ううん、何でもないよ」

 

「……そうか」

 

「……うん」

 

 ふたりは、自らの足元に目線を向けていた。

 

「ねえ、姫和ちゃん」

「どうした?」

 

 

「私たち、百鬼丸さんに何ができたのかな?」

そう言いながら可奈美は首元を指先でなぞる。――獣化した百鬼丸が、可奈美を投げ飛ばす際に掴まれた首。

手加減をしたのだろう。圧迫痕は一切なく、傷すら一つもない。

 

 

「…………わからない」

 

「私ね、百鬼丸さんの事を知りたいと思った。だけど、やっぱり駄目だった。でもね」

言葉を一旦区切り、可奈美は上を向いて「はぁーっ」と細い吐息をつく。

 

「私のこと、友達って言ってくれたんだ。初めて友達って呼んでくれたんだ。おかしいよね、私たちの関係なんて凄く曖昧なのに、それでも百鬼丸さんは友達って言葉を使ってくれて、私は凄く嬉しかったんだ。胸の底から温かくなってね、もう一回だけ友達って言って欲しかったんだ。――――」

無理やりに微笑む。

 

「――だけど、本当に友達が困ってる時に何も出来なかった」

可奈美の瞼の裏には、百鬼丸が抱きかかえたSTTの隊員。少年を真っ先に助けようと駆け付けた男。

――大切な人の死。

己の肉体を傷つけられるよりも深く、鈍く、少年は傷を負った。

 

そんな時に、一緒に寄り添う事すらままならない状態に可奈美は無力感を抱えていた。

 

「……私は本当に友達って言えるかな? 百鬼丸さんが嬉しそうに言ってくれた友達でいられるのかな」力なく言う可奈美。

 

 琥珀色の瞳は、輝きが失われていた。

 

「――――私にも難しいことはいえない。なにせ、お前と同じだからな、私も奴を救えなかったんだ」

 歯噛みしながらグッと握る右手を見詰める。

 

「……そんなことないよ。姫和ちゃんは百鬼丸さんを助けるために頑張ったよ」

「ふっ、それは買い被りだ。私も結局奴を助け出せなかった。結果は同じなんだ」

 

「……そっか」可奈美はボンヤりとした目線で、返事をした。

 

 

「「………………。」」

 

 

護送車は既にエンジンを唸らせて、出発していた。

瓦礫の渋谷を抜けて被害の少ない湾岸方面へと進路を決めて走行する。

 

金網のついた車窓は脱出できないよう工夫されていた。

 

車に揺られながら可奈美がふと口を開く。

 

「ねぇ、姫和ちゃん。ひとつ聞いてもいいかな?」

 

「なんだ?」

 

「姫和ちゃんにとって、百鬼丸さんはどんな存在なの?」

 

 



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195話

 落ち着いた室内の調度品に囲まれた空間の最奥に、執務机があった。

 マホガニー材の机上には、クリップ留めされた資料の紙束が積まれている。背後の大窓から射し込む冬の午後の日差しが、物憂く室内に流れ込む。

 白のレディーススーツに身を包む高津雪那は、毒々しいルージュの唇に親指を銜え、強く噛みしめていた。

(なんだこれは……? どういう事だ?)

 刀剣類管理局の維新派を標榜し、運動を主導する彼女にとって、支援者である筈の轆轤秀光の行動が常軌を逸しているように思えてならない。

 

 渋谷のスクランブル交差点にて怪獣を出現させ、人々を殺させる。

 

 事件自体は、あの忌々しい――――百鬼丸という少年が「怪獣を食い殺す」ことで解決した。

 

 ――――しかし。

 

 最早、政治上の綱引きであるとか、主導権を握るとかでは測れない〝虐殺〟だった。

 

 

「あの男と組んでいてはまずい。いずれこちらにも責任が及ぶ…………」

 雪那の手元にタブレット端末が置かれている。その画面にワイドショーで饒舌を振るう俳優のように容姿の整った男――――轆轤秀光。

 

 彼の言葉は理路整然としており、この緊急事態にも対応しているかのように「演出して」いた。

 

「……私だけでもヒメの宿願を成就しなければいけない。そう、そうよ! あの男は勝手にすればいい! ……私はあくまでヒメの忠実な配下。ふふっ、それだけの事じゃない」

 美人、と形容して良い筈の雪那の表情は神経質な焦りや怒り、怯えといった負の感情に塗れていた。

 

 

 大衆飯店の前に、小型トラックが停車している。

 時刻は午後5時。

 通常であれば、準備中の札が玄関先にかけたれている時間だが、店の奥では人気配がする。

 

 

「久しぶりですね」

大関は恰幅の良い腹をゆすって笑う。

 厨房の奥で椅子代わりのクーラーボックスに座り、新聞を広げて読む店主がジロリ、と目線を向けた。

「――――ああ、アンタか」

「ええ、最近はご無沙汰しておりました。懐かしいですね」

「……開店時間はもう少し先だぞ」

「そうですね、今日はチョットだけ込み入った事情がありまして――――」

「ム?」白い片眉をあげた店主は、怪訝そうに首を傾げる。

「ある少年を匿っていまして……逃走用の車を貸して下さいませんか?」

単刀直入に大関は話を切り出す。

店主は別に驚く素振りも見せず、静かに数秒考えて「――だったら、その坊主をここに呼べ」と言った。

店主は、頑固な人物として有名だった。

そもそも、彼は大衆飯店を開く前は、自衛隊員として活躍していた。

勿論、約二〇年前の「江の島」の事件にも出動していた。

いわば、大関とは古馴染みだった。

「――――そうしたいですが、ソイツは、その……心が粉々に砕けているんですよ。明、オレの部下で、よくココにも食べにきてた田村明って奴に可愛がられてた奴が居たんですよ。ソイツが死んで……その少年も、喪失感で一杯な感じで」

大関は事のあらましを語った。

話を聞き終わった店主は、しかし表情を一切変えずに「呼ぶんだ」と言った。

「…………分かりました」不承不承といった感じで大関は頷いた。

 

 

 ◇

 店に入ってきた百鬼丸は、大関に背負われていた。

 ただし片足だけは地面を引きずる恰好だった。金属の重厚な音が地面に接する地面から聞こえる。……店主は、彼の足が義足であることを理解した。

「その子か?」

 店主はぶっきらぼうに言いながら立ち上がり、百鬼丸に近づいた。

「――ええ」

 百鬼丸を手近な椅子に座らせて、大関は疲れた声を漏らす。

 「この坊主は一度、明と一緒に来た子だな」  

 と、店主は言いながらベタベタと百鬼丸の顔を触る。

 完全に焦点を合わせない両方の瞳。片方の義眼――――どこか違和感を覚えた。厨房の奥に仕舞っていたゴム手袋を取りに戻り、百鬼丸の顔を触診する。

 「ム?」

 店主の皺だらけの指が少年の瞼を開かせた。

 (こいつ、自分で目玉を抉り出した痕跡があるな……)

 自衛隊で衛生隊の経験がある店主は、瞼の内側が爪のような傷跡があることを確認した。

 百鬼丸は口を半開きに、涎を顎まで垂らしていた。

「大関さん、この子をどこに逃がすつもりなんだ?」

「…………正直、分かりません。いずれ捕まると思います。でも彼をこのまま放置することは――明との約束を破ることになるので」

「そうか……分かった。裏にワンボックスを停めてある。ソレを使え」

「すいません、恩に着ます」

「……しかし、この子は正直、正気に戻るとは思えない。完全に精神が崩壊している」

店主は小さく溜息をついて首を振る。

 

 

『……………本当?』

 

店主の背後からか細い少女の声が聞こえた。

 

「!?」

驚いて振り返ると、小動物のような色素の薄い髪の少女が不安げな眼差しで店主を見上げている。

「お嬢ちゃんは付き添いか」

店主は腰元の御刀を一瞥して、彼女が刀使であることを理解した。

「……うん」

「残念だがこうなると、どんな頑強な兵士でも立ち直れない」

「……前みたいに、話もできない?」

「――個人差はあるだろうが、こんな様子はよっぽどだ。残念だが――」

店主の言葉を聞き終わる前に沙耶香は俯き加減に歩き出す。

椅子に座った百鬼丸の両肩を掴む。

「…………もし、百鬼丸が前みたいに話が出来なくても、元に戻らなくてもいい。わたしが守り抜く」

「「――――――。」」

大関と店主は、断固とした沙耶香の決意に悲痛なまでの〝献身〟さを感じた。

しかし、その理由までは理解できなかった。

 

 

 

 

「私は…………分からない。少なくとも、私にとって百鬼丸は友達という印象よりも――――戦友という方が近いのかもしれない」

姫和は手元に視線を落としながら言った。

母を奪ったと思っていた折神紫を討つために生きていた。

その目的が消滅し、代わりに三女神の争いに巻き込まれている。

かつて母を苦しめ、笑顔を奪った『大荒魂』の張本人たちの争いに――未だに巻き込まれている。

母は立派な刀使だった。

その命を捧げ、生涯を使命に費やした。

大事な役目だ。だが、頭で理解していても感情では納得していなかった。

…………だから、あの夜――百鬼丸と共に実家に戻った時の夜に本音を包み隠さずに語った。

 

不思議と、これまで誰にも語ったことの無い内心を喋っていた。

多分、同じ悩みを抱えた者だと、姫和は無意識に感じていた。

 

可奈美はその言葉を聞いて一言「……そっか」と返事をした。

 

――――同じ運命という残酷な軛に支配さいれた者同士でしか分からない事がある。

 

それは姫和と百鬼丸の間でしか通じない感覚なのかもしれない。

 

「私も可奈美……お前と同じなんだ。アイツの事なんて一切、知りもしなかった。他人のことなんて今まで考えてなかった。アイツの事もそうだ。きっと、私たちのために色々と裏で何かをしていたのかも知れない」

 

「姫和ちゃんは百鬼丸さんと友達にならないの?」

 

「……どうだろうな? 私はアイツと深い所で関わり合うことを避けてたんだ。本当の自分では、アイツとは一緒に居ることが出来ない。私は刀使。アイツはアイツ。別々の道にいるからこそ、一緒に行動できた気がするんだ」

 

(姫和ちゃんも、百鬼丸さんもただ不器用なだけじゃないかな?)

と、可奈美は内心で思った。

三人で旅をしていた時、似た者同士だと思う瞬間はあった。

困難の続く短い旅路の中でも、あの時間を「楽しかった」と言った百鬼丸の言葉に嘘はないと可奈美は思う。

 

「――――ねぇ、姫和ちゃん。もしもさ、こんな大変なことが全部終わって――それで遊びに行けるとしたら……どこがいいかな?」

 

突然の可奈美の発言に、姫和は戸惑った。

 

「……どうしたんだ急に?」

 

「ねぇ、どこがいいかな?」

嬉しそうに尋ねる可奈美は、普段通りの明るい声音だった。

 

(お前のそういう所に私は救われているのかもな…………)

護送車の背もたれに体を預けて、姫和は瞑目する。

 

「そうだな……海、にでも行くか」

「海? どこの?」

「全部が始まった場所だ。私たちが出会って、別れた――――」

 

「「江の島」」

二人の声が揃った。

姫和が驚いて顔を上げた。

「…………今度はさ、皆で遊ぼうね! きっと、これから先に悲しいことも苦しいこともあるかもだけど……それでも、きっと楽しいことってあるから!」

可奈美はまるで自身に言い聞かせるように言って、琥珀色の瞳を潤ませる。

「渋谷でね、ひとりの女の子を守ったんだ。……その女の子がね、私が護送車に乗せられる前に近寄ってきてくれて、アメを一個くれたんだ」

「ふっ、そうか。子供に好かれるとはお前らしいな」

「えへへ、そうかな。……それでね、これまで『強さ』って何かな? ってモヤモヤしてたことが晴れたんだ。守る、私は刀使だから皆を守る! それが私の剣だから」

 剣士の孤独を受け入れ、その先にある道を目指す可奈美。

 余りにも眩しい彼女の態度に、姫和は置いていかれるような気がした。

 

 

 ふと、姫和は可奈美を眺めながら〝あること〟に気付いた。

「――可奈美、お前の髪を束ねていた黒いリボンはどうした?」

「えっ?」唐突な質問に可奈美は素っ頓狂な声をあげる。

自分の髪を軽く触りながら照れたように、

「百鬼丸さんにあげたよ。…………少しでも、私たちの事覚えてくれたらいいなー、って」

微笑んだ可奈美は、もう一度天井を見る。

「大丈夫だから――百鬼丸さんと繋がっているハズだから」

 



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196話

「しっかし、どーすっかなー。これから」

頭の後ろで指を組んだ小柄な人影が盛大な溜息とともに周囲を見回す。

無差別爆撃を受けたような渋谷の街の崩壊。

地面は抉れ、アスファルトの舗道も巨大なクレーターが出来上がり、蟻地獄のようだった。倒壊したビルの残骸も山積みで、避難活動を続けているにも関わらず、公共交通機関の破壊と共に変える足を失った人々が立ち尽くしている。

 

ガス漏れによる延焼も、所々で発生しているらしい。

 

しかも地下を通る水管が破れて、噴水のように霧雨が亀裂の走った地面から勢いよく上がっている。

 

水溜まりを歩きながら、益子薫は努めて冷静かつ明るい口調で、隣の人物に語りかける。

「――――かなみんも、ひよよんもSTTの人たちに捕まっちゃいましたから、お手上げデス」

古波蔵エレンは普段の陽気な表情を消し、沈痛な面持ちで呟く。

百鬼丸の脱走を手助けした咎を受ける形で、取り調べのため連行された。

薫とエレン、舞衣と沙耶香が事件現場に到着した時には全てが終わっていた。多くの人々が巨獣に食い殺され、その巨獣を百鬼丸が殺し、そのSTT隊員が百鬼丸を殺処分するための包囲。

 

 

 

最初に、百鬼丸を殺すために銃を構えた隊員たちの姿を発見した時、薫は状況が理解できなかった。「デカい化け物を殺すのが目的じゃないのか?」思わずそう叫びそうになった。しかし、それ以上に現状を打破することが先決だと、薫の脳裏に冷静な判断が過った。

 

――だから。

 

『なぁ、悪いねね。チョットだけ芝居をうってくれるか?』

薫は自らの左肩に乗った相棒の荒魂――ねねに囁く。

不安げに百鬼丸と薫の顔を交互に見ていたねねは、薫の考えに呼応するように「ねね!」と可愛らしい声をあげた。

 

直後、薫の肩から跳んだねねは、そのまま全盛期の荒魂時代として巨大化を果たした。

 

……――――ヴォゴォオオオオオオオ

 

激しい咆哮と共に突如現れた、四足歩行の山犬に似た荒魂。

天空を衝く咆哮はかつて人々を恐怖に陥れた姿だった。

 

意表を衝かれたSTTの隊員たちは、荒魂の形をしたねねに完全に意識を奪われた。

完全に戦意喪失した百鬼丸の対応を後回しに、荒魂のねねに対応するため、銃撃を開始する。

 

……――――ヴォォゴォオオオオオオオオオ!!!

 

体全体を揺らし、声をあげる。

ねねは、そのまま全力疾走でSTTの隊員たちの真横を横切ってゆく。

 

薫の咄嗟の判断が、現場の状況を変える一手になった。

 

 

「おい、急げ! アイツをあの場から動かさねーと!」

薫自身は巨大な御刀を持つ影響で、素早い行動が難しい。

 

「……待ってて」

即座に薫の真横を通り抜ける迅い風があった。

《迅移》を発動させた沙耶香が、瓦礫の中に埋もれている百鬼丸のもとまで向かった。

「あっ、ちょ、ええ?」

意外な行動をとる沙耶香に、薫はただ茫然と背中を見送った。

 

 

その後の状況は慌ただしく、百鬼丸の肩を担ぎ戻ってきた沙耶香は、青白い表情で何度も少年の顔を窺っていた。

ブツブツと何か呪詛を漏らすような呟きを続ける百鬼丸。

 

困惑する薫たちの前に猛スピードで現れた運送業者の車。そこから下りてきた小太りの人の好さそうな「大関」と名乗る人物。

その後の詳しいやり取りは覚えていない。ただ、薫たちは立場上、ねねを囮に使い、形だけでも荒魂退治をしなければいけない。

だから、百鬼丸についていくことが出来ない。

『沙耶香、頼めるか?』

と、自分で言ったことは覚えている。

S装備を外した沙耶香が硬い意志の両目で頷く。

『……うん』

小さく、しかし確かな答えに薫は、思わず親指を立てた。

『じゃあ、また後で』

 

「おい、ねね。もう元に戻っていいぞ」

瓦礫の山の迷路の中。薫は、倒壊したビルの一階部分で、呼びかける。

「ねねー」

と、可愛らしい鳴き声とともに薫の肩に――――ではなく、薫の隣の人物の豊満な谷間に向かって飛び込む。

「お前……こんな時でもブレないのな」

ジト目で、相棒の薄情さに今更ツッコミを入れる。

「薫もねねも、凄いタフなんデスよね」

少しだけ寂しそうな表情でエレンは、自らの谷間に挟まったねねの頭を撫でながら言った。

「…………ったく、なんでオレたちはこーやって、尻ぬぐいばっかりなんだろうな」

薄桃色のツインテールを揺らして、薫は上を向き愚痴をこぼす。――言葉とは裏腹に、沙耶香の見せた精神的な成長に期待している自分に驚いていた。

「薫は面倒見がいいカラ、皆頼っちゃうのカモ?」

茶化すようにエレンは左隣に立って、柔らかな頬をツンと突く。

「おい、ヤメロ。結構真面目な話なんだぞ」

「う~ん、本当ですカ?」

「オイ、どういう意味だこら」

「薫が真面目なんて、今日は空から隕石でも降るカモしれないデスね!」

「ああ!? どーゆー意味だオイ!」

ぷんぷん、と怒った薫は両手を振り上げて抗議する。

と、急にピタッと止まって薫はエレンを見返す。

「オレたちにしか出来ないことはある。だからそれは面倒だけどこなしていくしかないんだよな」誰にでもない、自身に言い聞かせるように薫は言う。

「薫……」エレンは、まだ状況がうまく掴めていないものの、それでも親友の言葉に安心を感じていた。

「さあやも、まるまるとも、皆合流したいデスね」

「……当然だ。できる」

にっ、と悪だくみするような子供みたいに薫が口端を釣りあげる。

 

 

 

 

(百鬼丸が元に戻らないとしても…………)

座席を倒した空間で、体育座りで膝を抱えながら糸見沙耶香は思う。

(分かりたい。…………何を百鬼丸が背負っているのか)

右隣でもぬけの殻と化した少年を横目で窺いながら傍に置いた御刀(妙法村正)の柄を握る。

彼と初めて出会ったとき、その圧倒的な殺気と強さに気圧された。

人の形をした悪魔のような強さ。

まるで全存在を壊されるような眼差し。――あの時、ノロで正常な精神ではなかった沙耶香ですらも記憶する『畏怖』

今もなお生々しく躰と心に刻まれた恐怖。

 

――しかし、この少年と行動を共にして気付いたことも多かった。

 

普段見せる百鬼丸は、とても刃を振るう時の姿と一致しない。むしろ、その逆に快活に笑い、気を許した相手にはどこまでもお人好しだった。

不思議と言えば不思議だった。他人の気持ちを推し量ることが苦手だった沙耶香には、特異に映った。

 

何が彼を戦いに駆り立てるのだろう? どうして、戦いに身を投じるのだろう?

正直に言えば、百鬼丸との行動や発言には矛盾や謎が多く、彼を全て知ることは不可能だった。――だが、それでも、自身(沙耶香)と重なる部分に親近感を感じていた。

 

だが、それらを超える印象的な出来事――があった。

 

折神家屋敷での戦い。

 

タギツヒメ封印のため、隠世へと迅移を始めた姫和を、瀕死の重傷状態から引きずり戻した。

 

執念にも似た諦めの悪い姿に、疑念が確信に変わった。

飽くなき《欲望》

人形だった自分に無いモノ。

ただ、剣術の才能を見込まれ高津雪那という女性に従い、言われたことをこなしてきた。習慣(ルーティン)と化した荒魂の討伐。

他人が呼吸をするのと同じ感覚で、ただ剣を振るい目の前の障害を斬り伏せた。疑問を持つことはない。難しいことは考えなければ、体は自由になった。

 

そうすれば、大人たちは褒めてくれた。年の近い子たちは皆、口々に自分(沙耶香)を褒めてくれた。

 

……それが、自分の居る存在価値なのだと思っていた。

 

 

 

(今ならわかる。…………わたしは、欲しい)

強く願えるような「想い」を。

沙耶香は胸の前でぐっ、と手を握る。

この胸の奥にいままでポッカりと空いた穴が、少し埋まる気がした。

舞衣の柔らかな匂いと、抱かれた時の安心感――それは長い間求めていた安らぎだとするならば、自分の行動の指針になるのは、百鬼丸のように愚かさだった。

 

 

願う。切に願わずにはいられないのだ――――他の誰の為でもない自分の為に。

 

「想い」、きっと誰かがだれかを思わずにはいられないように、人形だった頃から求め続けていたのだ。

 

 

――――その百鬼丸が、虚ろな人形のようになった。否、それよりも酷く、魂の抜けたような惨憺たる姿に変わってしまった。

 

口を半開きに、瞳の焦点は定まらず、涎を垂らし、俯いてブツブツと何かを呟いている。

 

沙耶香は百鬼丸の両肩に手を乗せ、彼の体温を感じた。

 

普段であれば常人よりも高い体温で、火傷の錯覚をするほどの熱さだが、今は冷たくなっている。筋肉だけは隆起しており、それが却って現在の百鬼丸の肉体と精神の分裂を感じさせた。

 

「…………大丈夫だから」

過去の自分にもし、何かを語りかけることが出来るとすれば、間違いなく告げたい言葉だった。

……大丈夫だから。

 

今もなお、沙耶香の体内と血管を巡る血液に混ざったノロの因子。

かつて、それを忌諱し、畏れ、途轍もない絶望に襲われた。

――だが、図らずも今。

そのノロの因子たちが沙耶香に囁きかける。

 

……この少年はまだ完全には終わっていない、と。

 

「わたしが百鬼丸のことを守るから」

 

 



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197話

(助ける…………。)

車の後部座席で膝を抱え、体育座りの要領で考え込む沙耶香。

車体が左右に揺れるのを感じながら、隣に居る人物を横目で窺う。

――――百鬼丸。

年齢でいえば、十三、四くらいだろうか?

正確な年齢を沙耶香たちは知らない。ただ、今の百鬼丸は虚ろな目で口を半開きにしている。涎が口端から垂れ、人形という言い方が正しいのかも知れない。

夜の時刻。

車窓から時々射し込む強烈なヘッドライトの光で闇から浮き彫りになる少年の横顔が酷く孤独に見えた。

沙耶香が視点を前に戻すと、カーナビのデジタル時計が無機質に時間を刻んでいる。

 

白いバンが甲州街道を北上していた。ラーメン屋の店主から借りた車だ。車の中はネギや豚肉など食材の匂いが染みついた独特な空間だった。油汚れもドアの辺りに点々と付着している。お世辞にも清潔とは言い難い。……そんな車内で、

「どうした? 眠れないのか?」

バックミラー越しに、鷹揚な声で大関が問いかける。

「……うん」

「そうか。まぁ、眠らないと体に悪いぞ」

「……うん」

「――――。」

気まずそうに意識を前に戻した大関は無言でハンドルを握る。だが、彼にも沙耶香にもこの先に行く当てなど一つもない。百鬼丸という爆弾のような存在を抱えながらの逃避行だった。

 

県境を超える前に検問で捕まるだろう。だから検問の包囲が完成する前にできるだけ遠くに逃げる。

大関は口にこそ出さないが、この先のアテなどない。そんな無謀な行動を起こした自分を今更ながら馬鹿にしている。――しかし、それ以上に百鬼丸の身を安全な所まで連れていくことに、使命のようなモノを感じていた。

「喉、渇かないか?」

再びルームミラーを見る。

「……大丈夫」

沙耶香は淡々と返事をする。彼女は、一時間前から変わらぬ姿勢で百鬼丸の隣に居る。

 

沙耶香はもう一度、横目で百鬼丸の方を覗う。

彼は変わらず、虚ろな目と表情でただ座っている。

無言で沙耶香は百鬼丸の肩に寄りかかる。左腕は義手であるが、筋肉質な男性の腕と遜色のない肉感が服越しに伝う。……微かに聞こえる吐息が辛うじて、彼が生きていることを知らせてくれる。

 

沙耶香も不安がない訳ではない。

 

だが、それ以上に彼を守護(まも)りたいと思った。

「…………。」

沙耶香の左には御刀(妙法村正)を立てかけている。紫紺色の瞳が、時々、やはり少年を見る。何度も変化しない彼を観察しながら、初めてこのように静かな時間を過ごしていると思った。

 

もう、二度と元に戻らないことが不幸なのだろうか?

 

沙耶香はふと、思う。

彼は今まで、数えきれない強敵と激闘を繰り広げてきただろう。その日々は明らかに苛烈であった。正気を保ちながら戦い続ける日々。消耗する精神と肉体。それをカバーする強靭な精神力。――だが、果たしてそれは幸せなことだろうか?

少なくとも、今、このように戦いから逃れて痛みや苦しみから離れた時間を過ごす方が、百鬼丸のためになるのではないか?

 

――――戻らなくても、それは不幸とは言い切れない。

 

僅かに寄りかかったまま、沙耶香は頭を百鬼丸の左肩に乗せる。色素の薄い柔らかな髪が羽毛のように百鬼丸の地肌に重なる。紫紺の瞳が車窓の光を受けて煌めく。

 

 

「しかし、この先の行く当てなんて…………」大関は、ため息交じりに愚痴をこぼした。そして、すぐさま「ああ、スマン。大きな独り言だよ」と誤魔化すように笑った。

この車内にいる者、少なくとも百鬼丸以外は知っている。

いずれ、捕まるだろう。逃げ道などない。

その事実を言葉にしないよう必死だった。

第一、目的もアテもない。

まるで終わりに向かう旅のようだった。

 

『あはは、そうか。それなら山梨方面にいくといいよ。そこに廃墟になった病院があるんだ』

――――と、静寂を破る声がした。

 

「「!?」」

大関と沙耶香は驚いて声の方に意識を向けた。

 

「すまないね。こんなに面白い事になっているからスグにゲームセットはつまらないだろ?」

百鬼丸の口から別人の口調で喋る『誰か』がいた。

「……っ、誰?」

沙耶香は肩から頭を離して機敏に御刀の鞘を掴み、鋭い警戒の色を示した。

先程まで呆けていた百鬼丸は別人の表情を浮かべて、まるで軽薄な微笑を保ちつつ「ボクは、まぁ、彼の心臓に宿った人格だよ。聞いたことがないかい? 内臓を移植した後に移植された人物が、臓器の提供者に近い行動や嗜好をするお話なんかを……まぁ、いい」

突然、饒舌に喋り始めた百鬼丸――――の中の人物に、大関と沙耶香は最大の危機感を覚えていた。

 

「アンタはコッチの味方なのか?」

恐る恐る、という具合に大関は聞いた。

 

「フム? 味方……か、どうかは分からないな。ボクはあくまで楽しい事が好きなんだ。ただ……そうだね。君たちの味方だろう」

ふふふ、と不気味に笑う様子に大関は不快なものを感じた。

「アンタは一体誰なんだ?」

「ボク? ボクは…………ああ、いや。人間だった頃の事を喋れば無用な軋轢が生まれるだろ? 面倒だ。Xと呼んでくれ」

ふざけた奴だ、と内心の怒りを抑えながら大関は、深呼吸して冷静さを取り戻す。

「そうか。X,山梨方面に廃病院があるといったな? それはどこだ?」

ニィ、と悪だくみするような子供の顔つきで百鬼丸の顔が歪む。

「そうだね、ここからだと――――」

「…………待って」沙耶香が断固とした口調で会話を止める。

「ん? どうした?」

「…………Xは百鬼丸の味方なの?」

胸のザワつきを感じながらも沙耶香は疑問を口にする。

一瞬、虚を衝かれたXは目を瞠って沙耶香を見返す。しかし、紫紺の美しい瞳が真摯な眼差しを向ける。

 

肩を竦めて、

「アハハハハ、まさか。ボクは彼の敵さ。敵だよ。でも、この躰を共同で利用しているから同居人さ。だから答えはイエス、ノーの二つ」

肩から力を抜いて、沙耶香は「……わかった」と一言だけ呟いた。

 

まるで薄氷の上を進む気持ちの大関は、Xと名乗り百鬼丸の体を支配する人物を信用しきれずにいた。……だが今は彼に縋るしかない。

「それで、どやって道を行けばいい?」

「そうだね、まずは――――」

 

 

 

 



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198話

暗闇。

ヒュー、と笛のような甲高い音色が、かつて玄関ホールだった広い空間に反響する。

……ふと、冷気が緊張に火照った頬を撫でゆく。 

 紺色のポンチョレインコートを羽織った糸見沙耶香は、華奢な体躯に似合わぬ鋭い眼差しで周囲を警戒する。――左の腰、銀色のホルスターに御刀が収まり、ガチャリ、と金属の小気味良い音が鳴った。

――バキリ、と靴裏に飴玉を砕くような感覚がして足元をみる。

 窓ガラスの割れた破片がリノリウム床に散乱していた。

 数年、人が利用しないだけで窓ガラスは割れ、内装の壁や蛍光灯なども、月光により照らされ、亀裂が走っているのが解る。

 まるで、人間だけが消えた後の世界の一角に到着したような光景だった。

 沙耶香は円柱に右手を添え、

「……大丈夫。誰も居ないみたい」平坦な声音で背後に言う。

「分かった。いま、いく」

大関は百鬼丸の右肩を担ぎ、引き摺る様にして廃病院のエントランスホールへと連れてゆく。

「ここでいいんだよな?」大関が緊張気味の声で尋ねる。

「――ああ、そうさ。ここだ。懐かしいな……ま、管理室なら多少は人間も休める備品もあった気がする。二階のカウンターを真っすぐ行けばあるよ」

 百鬼丸の口から別人の口調でいう。

 現在、百鬼丸の体は心臓部に宿った人格の大量殺人犯、ジョーが会話をこなす。が、故あってジョーは現在X(エックス)と名乗っていた。

「さぁ、行こう。今後の事はそこで話し合おうではないか」

 Xは、陽気にふたりを先に促す。

 

 

 着火剤にライターで火を点す。

 仄かな橙色の種火が、薪に拡がると数秒後に薄く細い煙をあげた。

 大関は一斗缶の中で焚火を始め、暖をとる。幸い、管理室の扉を開けておけば吹き曝し同然の廊下へ煙は逃げる。一酸化炭素中毒の心配は低い。

「うぅー寒いなぁ」

 二重あごを弾ませて悴む手を焚火に翳す。

「いざという時に車にサバイバルグッズを積んでいて正解だ。ははは、糸見さんもコッチにきて暖まりなさい」

 優しく大関が声をかける。

「……わたしは大丈夫」

目線は絶えず周囲に向いており、歩哨の役割を果たしている。

特に廊下側を見ながら時折、心配した様子で焚火の近くに「座る」百鬼丸の方を覗う。

普段の少年とは違う、人を小馬鹿にしたようなニヤけ面が、百鬼丸とは完全に異なる人物だと、ふたりは認識させられた。

そのXが沙耶香に目線を送り、

「――――糸見くん、だっけ? 煙で敵に我々の位置がバレると心配しているなら無駄だよ。恐らく敵がこの場所を特定した時点で我々はおしまいさ」肩を竦めて溜息をつく。

 

「…………。」

無言で紫紺の両目を百鬼丸に向ける。

「大関さん? か。悪いがこの体は腹が減っているみたいだ。食事はあるかい?」

(不気味な奴だ……。)

百鬼丸の体と声を使い、全くの別人が喋っている。その気持ち悪さを感じながらも、大関は頷く。バックパックから、大きな魔法瓶の水筒と紙袋を取り出す。

プラスチックの器にコンソメベースの野菜スープが注がれる。温かな湯気がモワッ、と匂い立つ。

紙袋からは腹持ちのよいコッペパンが詰まっていた。

 

「ははは、昔を思い出すなぁ」

言いながら、Xはコッペパンを手に取りモシャモシャと咀嚼する。「我々は目下、この国のお尋ね者という存在――か。かつ、戦力的にはこの少年は使い物にならん。長い時間をかけた逃走はオススメしないね。……ま、当然君たちもできると思ってないだろ?」

「「……………」」

大関と沙耶香は黙り込む。実際、Xの喋る通りだった。

Xは器を右手に持って、ゆっくりスープを呑む。

「日本人式の飲み方はワイルドで実に好ましいね。フフフ、まあいい。さて……」

口元を袖で乱暴に拭い、

「ボクがこの病院を所有したのにはワケがあるんだ」

「――ワケ?」

大関は怪訝に眉を顰める。

「そう、実はボクはここを以前活動拠点として利用しようと思ったのさ。その決め手が二つ。一つは立地。かなりの山奥で人目から隠れやすい。なんでこんなトコロに病院を作ったのかボクには理解できないけどね。……ま、それはいい。もう一つは、この病院が実は研究所を兼ねていたことさ」

「…………どういうこと?」

 沙耶香は背後を警戒しつつも、焚火の傍まで歩み寄る。彼女の胸中には嫌な予感が浮かんでいた。

 「人体実験の……と言えばいいかな。ボクがこの病院を手に入れた時には、その設備も全て以前の持ち主が回収済みで、地下の空間には何もなかったがね」

 「それだけか?」大関は千切ったパンの欠片を眺めながら、Xに視線を移す。

 「どうだろうね? ただ、荒魂を斬り伏せた時に必ず回収するノロを収める専用の器具が散乱していた。回収を忘れていた訳じゃないだろうね。何か意図的な感じがしたよ――理由までは分からないけども。まあ、十中八九、人体とノロの研究だろうね。ちなみに、病院なら人体実験に使う器具も不自然でない形で隠せるから便利なんだよ。ボクも昔やったから知ってる」

 「「――――!?」」

 大関と沙耶香は、咄嗟に腰を浮かせてXから距離をとる。

 そんな二人の反応を面白そうに眺めながら小さく息を吐く。

「まあ、そんなに警戒するのも今更だろ? ……いいさ、どうせ国家に組織に命令されたから仕方なくやった。そんな同僚たちをボクには軽蔑していたからね。ボクを犯罪者の目で見てくれるのは嬉しいよ」

「こ、この野郎!!」

 普段は温厚な筈の大関がすさまじい形相でXを睨みつける。

「ま、落ち着いてくれ。ボクのことはとにかく、この施設と百鬼丸の事についてだ」

「てめぇ!!」

危うく殴りかかろうとした大関の太い腕を、沙耶香が瞬発的に細い両腕で抑え、

「ダメ!!」

鋭く叫ぶ。

鼻息を荒くした大関だったが、とにかく、少女の制止によって冷静さを取り戻した。

混乱した人間たちの行動を楽し気に観察したXは、

「ああ、賢明なお嬢さんは素晴らしい。さて、話を続けるがね。ボクはこの百鬼丸という少年と浅からぬ因縁があるんだ。そして、彼の経歴についても多少詳しい。――だからこそ、ボクだけが気付けた。彼はこの施設で誕生した正真正銘の《化け物》なんだ」気軽な口ぶりで説明する。

 

「「――――!?」」

再び、衝撃的な事実を百鬼丸の口から告げられる。二人ともに二の句が継げぬ様子だった。

大関は口をパクパクと動かし、沙耶香は目を大きく瞠って動揺していた。

 

「――ここからは勝手な推測だけど…………」

と、説明を続けようとしたXの言葉が途中で途切れた。

 

 

『百鬼丸!!! どこだ、どこに居る!? 出てこい。お前がここに居るのは分かっているんだ!!!』

 

 

 百鬼丸と全く同じ声が、玄関のエントランスホールから聞こえてくる。

 

声のする方角に頭をやり、

「どうやら、ボクの推測は正しかったみたいだね」

 苦笑いを口元に零しながら肩を竦めてみせる。

 



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199話

 

 青い月が、高い夜空に掛かる。

 編み上げのロングブーツの分厚い靴底が孤独に鳴り響く。

 白い袈裟マントを羽織った人影がゆっくりと、廃病院のエントランスへと侵入する。薄い光に照らされた人物は――新雪のように白い肌と髪をしていた。一見して精巧な人形と見間違える程の生気の無い雰囲気。

 だが、その両目に宿る憎しみの眼差しだけが、彼を生き物だと判別させた。

 

――憎しみ

 

 凄まじい執念の目つきが、たった一人を捜していた。

 

「どこだ? ……どこに居る?」

下顎を大きく開き、吼える。

巨大な暗闇の空間に吸い込まれる声は、しかし、確実に無人であろう場所に生き物の気配を感じ取っていた。

 

 

「百鬼丸、いるんだろ? ここに隠れてお前はいいご身分だな」

首を傾けて嘲りに満ちた顔つきで、侮蔑の言葉を吐く。

背後から吹きすさぶ冬の乾いた風が、割れた窓ガラスの微粒な破片を舞い散らせる。

ニィ、と白い人物が口角を釣り上げ、更に話を続ける。

 

「お前のお仲間の……ええっと、なんだったかな。そうだ。衛藤可奈美、十条姫和を拘束しているが――お前が大人しく、オレの前に出てきたら解放するように取り計らうが――――」

首を巡らし、暗闇の中を探る。

……呼吸。

確かに此方に近づく気配を、白い侵入者は感じていた。

体重の軽い靴音から察するに、まだ幼い人間だろう。それが、二階の階段から下りてくるようだ。

ピタッ、と途中で足音が止まった。

「…………わたしが相手をする」

やや、伏目がちな沙耶香が、ポンチョレインコートの内に隠した御刀の柄巻きを握りしめる。

長い前髪から見え隠れする紫紺の瞳を上げ、硬い意志で目前の人物を見据える。

 

 

「――――糸見沙耶香、なるほど」

先程までの嘲りをたっぷり含んだ笑みを消し、真剣な表情で沙耶香に向き合う。

「……正直にいうが、君ではオレに勝てない」

言いながら、彼も袈裟マントから腕を伸ばし、一振りの野太刀を掲げる。

 

 

沙耶香の前に現れた刀はまさしく、百鬼丸が持っていたオリジナルの《無銘刀》だった。渋谷の巨獣事件によって、途中で無くしたものだと思っていた。それを、敵が既に回収していたのだ。

 

 

「大人しくしてれば、君に危害は加えない。約束しよう」穏やかで優しい口調。

背後に青い月を背負って立つ白い人影は、徐々に月の光に照らし上げられ、顔全体が露わになる。

 

「――――百鬼丸、と同じ顔」

思わず、沙耶香は呟いた。

 

瓜二つの顔だった。

白い肌、白い髪、全てが脱色されたような色である。ただし、両目の毒々しいまでの真紅だけが彼に個性を付与している。

 

「百鬼丸、そうか。君にはやはりそう見えるか」

首を小さく左右にふって「参ったな」と肩を竦めて嘆息した。

「――――さ、そこをどいて……」

沙耶香は即時、否定の首を振る。

「チッ」と苛立ちを露わにした舌打ちで、白い人影が眉間に獰猛な皺を刻む。

あくまで沙耶香とは戦いたくないらしい。その証拠に彼は刀を掲げているだけで、実力行使はしていない。

その不可解な様子に疑問を持った沙耶香だったが、不意にある事に気付いた。

「……あなたの名前、聞いていない」

双子のように百鬼丸と瓜二つな顔。雰囲気。……どことなく他人とは思えない。

敵である筈なのに、彼がどういう人物なのか気になった。

しかし、沙耶香の問いかけが予想外だったのだろう。

白い人影は強い苛立ちから一転して、「なに?」と怪訝を通り越した驚愕の反応を示した。

 

「……あなたの名前、教えて」

沙耶香は紫紺の目で、真摯な眼差しで問いかける。

 

 

 

(なんだこの娘は…………)

一瞬言葉を失った。

これまで、そんな事を言われた事がなかった。名前なぞ所詮自分には不要な存在だと思っていた。だから、勝手に名付けられた己を示す「名前」にも愛着などなかった。

……それを幼い少女が知りたいといった。

不快感と、微かな喜びを――白い人影は感じた。

 

 

「ふざけている訳ではないのだな…………オレは、〝ニエ〟だ」

「……にえ?」

「ああ、そうだ。生贄のニエだ。オレに、いやオレたちに相応しい名前さ」

自嘲気味に言った。

沙耶香は告げられた名前を「ニエ、ニエ……」と口の中でブツブツと繰り返す。まるで忘れないように口にしているようだ。

 

「なんだ? お前には関係ないだろう」

「……ううん。わたしは知りたい。これから戦う人でも荒魂でも、自分の頭と心に刻み込んで自分の考えで先に進みたいから」

そう言いながら、スラリ、と御刀を抜き放つ。

日常的に訓練された抜刀の素早い行動には、美しさが感じられた。

《妙法村正》を正眼に構えた沙耶香は、対決姿勢を鮮明にする。

「――どうやっても動く気はない。…………そういう事か」

説得を諦めたニエは、掲げたままの刀を握り直し、柄をゆっくり掴んで乱暴に鞘から解き放つ。

刀身には毛細血管のような繊細で赤い線が幾重にも走っている。どことなく生物のような鼓動が聞こえそうなグロテスクな外見だった。

「お前がどかないなら、力づくで排除する」

冷淡に、感情を抑えた声音でニエが脅す。

常人であれば、その瞬間に生命の危機を感じて身を動かし通路をつくるだろう。あるいは、硬直してどんな反応もできない。

だが、糸見沙耶香は、そのどちらでも無い。

(…………懐かしい)

殺意に満ちた形相に対し、場違いな感想を持った。

 

沙耶香はニエの顔を見据えながら、思わず微笑が洩れた。

 

初めて百鬼丸と出会った時、刺客として可奈美たちを狙った筈だった。――しかし、百鬼丸という圧倒的な武力の存在を前にして立ち竦んだ。しかも体内にノロを宿した状態で。

闘争本能が一気に冷却され、代わりに生存本能が沙耶香の全身を駆け巡った……。

 

 

(…………あの時から)

色素の薄い髪に、割れた窓ガラスから幾条も射し込む月光が当たる。

わたしは変われただろうか?

沙耶香は自問自答する。自身の行動を全て誰かの手に委ねられてきた。他人の思い通りに動いてきた。それが苦しいとすら思わなかった。

いま、こうして自分自身の意志で、ニエの前に立ちふさがり、百鬼丸を守ろうとしている。

 

 

「…………うん」

自然と恐怖による体の震えはない。

廃病院のだだっ広いエントランスには、沙耶香とニエの二つの影だけが向かい合う。

――いずれかが倒れ、いずれかが意志を貫く。

 

二つの刃が暗闇と月光のコントラストから鮮やかに、俄かに浮かび上がる。

 

 

翡翠色の瞳が、灰色の空を見上げていた。

「――沙耶香ちゃん」

ポツり、と柳瀬舞衣はつぶやく。

巨獣事件で先行した可奈美たちを追いかけるため、舞衣たちは現場に向かった。

到着した渋谷のスクランブル交差点は戦場と変わらぬ様相を呈していた。倒壊したビルの瓦礫、巨大な地面のクレーター。怪我をした無数の人々。避難が滞る人々。

――しかし、中でも強烈な光景だったのが、瓦礫の中で埋もれた黒い獣の姿だった。

ただ一人の男性の亡骸を抱え、重苦しい灰色の空に向かい何度も咆哮する……印象的な光景だった。

舞衣が現場でその瞬間に立ち会った時、激しい鳴き声とそれを取り囲むSTTの隊員たちに包囲され銃口を構えられた異様な場面に、どうする事も出来なかった。

 

これは一体なんだろう……?

 

余りに現実離れした世界に、頭での整理が追い付かず、結果として呑気なほどの感想だけが彼女の思考を一時的に中断させた。

 

『……舞衣、わたし行かなきゃ』

隣に並んだ幼い少女が、ふいに言った。

『えっ……?』

『……百鬼丸が泣いているから、行かなきゃ』

『百鬼丸さんって…………』

呆気に取られて沙耶香を一瞥すると、少女は無言で黒い獣を指さした。

『…………誰かが困っていたら助けたい』

朴訥な声音だが、芯の強い言葉で沙耶香は先を歩き出した。

『ま、待って沙耶香ちゃん!』

そういって、沙耶香の手首を掴む。

今、あの場に乱入すれば間違いなくSTTの構える銃口の被害を被るだろう。いくら刀使が異能の力を有するとはいえ、限界がある。しかも人間を傷つけることは出来ない。もっと合理的な方法がある筈だ、それを考えてからでも遅くはない――。

(違う)

クレバーな舞衣の頭は、瞬時に現場の様子から安全な方法を導きだそうとしていた。しかし――違う。

本音は違うのだ。

『お願い沙耶香ちゃん、危ないことをしないで』

情けないかもしれない発言だった。確かに百鬼丸を救うことに異論はない。だが、あの黒い化け物が果たして彼である証拠がどこにある?

訳も分からない存在に近づき、沙耶香が傷つくのが怖い。

妹みたいに可愛くて、自分を慕ってくれる少女を危険に晒したくない。

(私、卑怯だ……)

下唇を噛みながら、己の汚さを自覚した。

そんな舞衣の苦悩を読み取ったのだろうか。

沙耶香がふっ、と口元を綻ばせる。

『……舞衣、あの時、わたしが初めて電話して逃げ出した夜、嬉しかった』

『えっ?』

『…………わたしが、困ってどうしようもない時に、舞衣に優しく抱きしめられてクッキーを食べた時にわかった。…………誰か助けてくれる人が欲しかったって』

目を細めて沙耶香が続ける。

『……多分いま、百鬼丸には誰かが必要。あの時、わたしが舞衣にしてもらったみたいに』

少し前の過去を思い返しながら沙耶香は自らの手首を掴む舞衣の手に、優しく片方の手を重ねた。

『……今度はわたしが誰かを助ける。……いま、わたしはそうしたい』

無表情で喜怒哀楽が分かりにくい少女は、慈しみを湛えた眼差しで舞衣を見返す。

 

 

『………舞衣』

『――――』

初めて見せる様子に戸惑いながらも、掴んだ手から力が抜けてゆく気がした。

『…………舞衣、行ってくる』

 

 

 

「どーしまシタ?」

気が付くと、隣で古波蔵エレンが舞衣(自分)の顔を真横から覗き込んでいた。

「……えっ、あ、ううん。ちょっと今、沙耶香ちゃんの事を考えてたから」

「あー、あいつらなら大丈夫だろ」

と、目線を下に落とすと益子薫が頭の後ろで指を組んで呑気な口調でいう。

「そう、だよね。………はぁ」

「おいおい、なんでそんな深刻そうな溜息つくんだよ?」薫が上目遣いに尋ねる。

「沙耶香ちゃんをあの時、私の勝手な気持ちで引き留めちゃって……」

「ああ、そんな事か。――いいか、それが普通なんだ。いや、知り合いをみすみす危ない橋を渡らせるような奴らなんてロクでなしだ。あのババアみたいにな!」

薫は冗談交じりの口ぶりで、舞衣を元気づけようとしているのが解った。

「いいか。オレたちは待つ。可奈美たちも沙耶香たちも戻ってこれるような場所を誰かが守らないといけない。それは今残ったオレたちにしか出来ないことだ。わかるよな?」

と、同意を求めるように親指を立てて舞衣を励ます。

「……うん。そうだね。可奈美ちゃんたちも、沙耶香ちゃんたちも戻ってこられる場所を私たちが守る。そうだね。ありがとう」

「マイマイもあんまり心配せずに気楽ニ帰りをまちまショ~♪」

パッと陽気で眩い程の笑顔でエレンが声をかける。

 

「……うん。皆でもう一度会うために頑張ろうね」

誰にでもない自身に言い聞かせるように舞衣は、灰色の空を見上げて決意を示した。

 



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200話

「立てるか?」

大関が扉から身を乗り出して通路を窺いながら、背後の人物に声をかける。

「……まぁ、立つくらいならやっとだね」

百鬼丸の体を使った人格X(エックス)が、ゆっくり立ち上がり首を捻る。「悪いが肩を貸してくれ。自分で歩くことはまだ難しいみたいだ」

「ああ、そうか」

 頭をガリガリと掻いて、百鬼丸に肩を貸す。

 百鬼丸はともかく、彼の体を使っているXと名乗る人格に対し、大関は不快な感情を持っていた。……しかし、彼も大人である。

 なるべく冷静さを取り繕うように深く息を吐いた。

 首に百鬼丸の筋肉質な腕を感じながら大関は横目で、まだあどけなさの残る少年の横顔を一瞥する。

「チッ、結局あんな少女に足止めを任せるなんてな――――」苛立ちを含んだ口調で、自らを叱責した。

「でも、あの娘じゃなきゃ、闖入者に対抗はできないだろ? クレバーな判断だと思うよ」

 陽気に笑い飛ばすXは、極めて親しく語り掛ける。

「この野郎っ…………ぐっ、とにかく百鬼丸くんの体だけでも逃げてもらう」

「そうだね。ボクもその判断に賛成だ」

大関はムカムカした感情を宥めるように深呼吸をして、廊下に出た。

一階のエントランスホールでは金属同士の激しい衝突音が聞こえた。

 

 

 

『………わたしが囮になるから、ふたりは逃げて』

 

 

 

 

ふと、先程、沙耶香が呟いた言葉が大関の鼓膜に甦った。しかし、振り返らずに歩き出した。

(すまない)

目を強く瞑り、大関は内心で謝罪する。

 

突然の侵入者に対し、誰かが足止めをしなければ全員が拘束されるか、殺される。

……大関は元STTの隊員とはいえ、武器もなければ単なる人間。百鬼丸に関しては、彼はそもそも戦える状態ではない。――とすれば、

『…………刀使のわたしなら、多分足止めはできると思う』

静かに独り言のように大関に告げた。

 

『二〇年前、あの江ノ島の事件でも君みたいな献身的な刀使に我々は救われた。……だけど、大人の責任を――――』

『……無理だと思う。この中でいま戦えるのはわたしだけ』

 焚火に反射した腰元の金属の光沢が見えた。

 御刀を効率的に収納する《御刀》のホルダーを水平位置に戻し、刀の柄巻きを握る。すでに戦う準備は整っている、と言外に示すように。

『…………あと、いま、この場で一番強いのもわたし』

 自慢の欠片もない声音で、客観的な事実のみを淡々と述べる沙耶香。以前の彼女と違う部分があるとすれば、大関のようなマトモな人間に、良心の呵責を感じさせないよう配慮した点である。

 

 

 少女の芯の通った考えに大関は、己の非力さを味わう。

(田村、お前の気持ちは痛い程わかるよ。なぁ、田村。お前は――刀使や、この少年に守られる俺たちが弱いって知って……それても大人の責任を果たしたかったんだよな)

大関は口惜しさと共に、亡くなった部下を追憶する。

(今なら痛いほどわかるよ)

二〇年前、江ノ島の大厄災で命拾いをした大関と田村明。二人の男は見知らぬ刀使――否、少女たちや自衛隊、同僚のSTTの隊員たちの犠牲によって生き残った……。

 

ドン、と壁に強く拳を叩きつけた大関。

『―――――すまない。恨んでくれて構わない。……頼む、時間を稼いでくれ。糸見沙耶香くん』

俯いて、マトモに少女を正視できない。今、彼女の顔を見れば、かつて自らの命を救ってくれた刀使たちの顔を思い浮かべてしまう。大関は必死に体に渦巻く怒りを抑え込んだ。

 

 

『……大丈夫。皆はわたしが守るから』

沙耶香は穏やかな口調と固い決意の眼差しで、大関の肩に手を置いた。

その優しさに大関は血の流れる拳を更に強く握った。

 

 

大関と百鬼丸(X)は、裏口の非常階段を回って、エントランスに近い駐車場にある車の元まで向かった。

時間の猶予はない。

いくら沙耶香が足止めするとはいえ、明らかに侵入者は百鬼丸と同じような声の不可思議な存在だった。

(お願いだ、せめて敵に出会わないように……)

大関は百鬼丸の体に肩を貸して走りながら、願う。

エントランスホールから駐車場までの距離は四〇〇m。敵前に一旦姿を見せなければならない。

 

 

 

病院を囲繞する林の間から駐車場の開けた空間が、夜闇の中から浮かび上がる。

粘つく夜の闇を吸い込みながら大関は息を荒く、更に速度をあげる。

「もうすこし………」と、途中で言葉が途切れた。

「誰かがいるね」Xが百鬼丸の目を通して、確認する。

 

 

ラーメン屋の店主から借りた乗用車の周りに数人の影がある。

(もう居場所がバレたのか?)

嫌な予感が全身を駆け巡った。いくらなんでも早すぎる。居場所がバレるのにはもう少し時間が掛かると思っていたが…………。

「と、とにかく百鬼丸の体を使って少しでも遠くに走るんだ! ここは……」

と、言いかけた所でXは鼻で嗤う。

「大丈夫だ。どうやら君の想像とは違う連中らしい。そのまま姿を見せてもいいとボクは思うよ」

「どういう意味だ?」

そう問われたXは肩を竦めて楽しそうに、

「……あれは長船の制服を着た人間だ。……という事は、状況から察するに舞草の可能性が高いかな」

 

 

 

笹野美也子は、周囲を警戒しながら駐車場の一角にて待機していた。

――舞草の構成員として彼女は、百鬼丸という少年の身柄を確保することであった。

彼は一度、舞草の里の襲撃から皆を守った。

生憎、その時に美也子は現場に居合わせなかった。――しかし、伝え聞く話によれば四方を取り囲んだSTTの隊員たちを相手にゲリラ戦に持ち込み、防衛しきったと聞いている。それも僅か十四歳ほどの少年が、である。

……しかも。

刀使を守った、という点において美也子は、まだ会った事もない少年に好印象を持っていた。

 

 

「それにしても、夜の森か……」

長い前髪で右目を隠している。ダラリ、と垂れた左腕は、まるで人形の腕のようだった。

「……ッ」

脳裏にフラッシュバックする〝忌まわしい記憶〟――――。

右手で額を抑え、過呼吸気味の口にポケットから取り出した錠剤を摘まみ、口内に押し込む。……強い鎮痛剤だが、今は致し方ない。

ゴクリ、と無理やり嚥下させると、呼吸を整える。

「あ、あの、先輩大丈夫ですか……?」

長船の後輩が、心配そうに声をかける。

「大丈夫。……暗い森は少しだけ、昔を思い出すだけだから」

無理やり微笑んだ美也子は、懐中電灯の光を周囲に投げる。

 

 

――――と。

 

懐中電灯の強烈な光が、二つの人影を暗闇の中から捉えた。

『君たちは舞草か?』

恰幅のよい男性が、大汗をかきながら息を喘がせ近づいてくる。一見すると不審者のようだが、彼が肩を貸す人影に美也子は注目した。

……まだ、あどけなさの残る少年は不敵な笑みでヘラヘラしている。

「……はい。我々は舞草で百鬼丸――くんの保護に参りました。失礼ですが、その少年が百鬼丸くん、ですか?」

 




とじとも、とじみこの設定とかなり変化させました。ご了承くだされ。


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201話

「詳しい話は後だ、とにかく車を出したいんだ」

大関は後ろを振り返りながら切羽詰まった様子で促す。

「ええ、分かりました」

右耳のインカムに右手を当て、指示を仰ごうと美也子は表情を硬くした。

舞草の連絡班から5分間隔で連絡が入る手筈になっていた。しかし、先程から指定された時間にも関わらず、ノイズが酷く通信が途絶していた。

(――どういう事?)

イヤな予感が美也子の胸内を過る。

(違う、今やるべきことは一つ)

頭を振って冷静さを取り戻す。

「百鬼丸を保護させてもらいます。逃走ルートは舞草の潜伏拠点を数珠つなぎで移動する形になります」

淡々と今後のプランを語る。

「助かる。正直どん詰まりだったんだ」大関は安堵の溜息を漏らし、苦笑いを浮かべる。「しかし、なんでコッチの居場所が分かったんだ?」

「ええ」と、美也子は軽く頷いた。

「あの車には予め舞草の中枢へ位置情報を示すGPSが設置されていたので」

(ということは、ラーメン屋の店主も舞草の構成員ってことか)

大関は合点がいったように、肩を竦めた。

「――さぁ、急ぎましょう。時間がありません」

廃病院を囲繞する夜の森が、激しい風に煽られザァザザ、と葉擦れの唱和を山全体に響かせた。

 

「……では、我々は先行しようか。糸見沙耶香くんは置いていくが仕方ないな――」

皮肉っぽい口調で百鬼丸――否、Xがニヤつきながら言った。

「――ッ!」

衝動的な怒りで大関が肩を貸していた彼の胸倉を掴み、睨みつける。

「お前……」低くドスの効いた声で詰め寄る。

大関自身が後ろ髪を引かれる思いで逃げてきたのだ。沙耶香の意志を尊重する――それは頭では十分に分かっていた。しかし、それでも現在の自分たちは非力だった。

痛い所を衝かれた、素直に大関は思った。

「助けに行けるならいく! ……だが」

「――まって下さい。糸見沙耶香…………ということは、彼女は今、どこに?」美也子が焦燥を抑えつつ訊ねた。

「あの病院のエントランスホールで追手と戦っている」

苦虫を嚙み潰したように背後へ視線を送る大関。

「……………ッ、」

美也子は言いようもない動揺が襲った。夜の森、かつての忌まわしい記憶。取り残される刀使――。

(絶対に刀使をひとり置いていくなんて出来ないッ!!)

何のために自分は、サポート班へと回ったのか? むろん、刀使を一人でも多く助けるためだ。

「どうしたら……」

唇を震わせ、判断に迷った――現在、この一行の中で逃走ルートを選定し先導する役目は彼女が任されている。

豊富な経験、慎重な計画と大胆な行動。それらを兼ね備え、気を逃さない。それが美也子がこれまで任務において信条とした部分であった。

 

 

 

『どうしたら? ――――お前たちは自分の命が惜しいなら、そこの愚かな百鬼丸を棄てていけ。そうすれば、身の安全だけは保障する』

 

コツ、コツ、コツ。

古びたコンクリートを固い足音が鳴り響く。――少年の声。

 

 

「だ、誰?」

咄嗟に美也子は懐中電灯の光を声のする方向へと移す。

闇から浮き上がったのは、新雪のように白く、一見して細いシルエットだった。ロングコートを夜風に靡かせながら、少年は御姫様抱っこのような恰好で持ち上げた少女――糸見沙耶香を連れ、大関たちの目前に現れた。

 

「…………っ、嘘だろ!?」

思わず、大関が声を漏らす。

刀使を――それも決して弱くない、むしろ現役でも上位に入る刀使をものの数分で片づけた。

「彼女に何をしたッ!?」美也子が普段では考えられない猛烈な憎しみの叫びをあげる。

少年――ニエは、顔を上げて苦い微笑を口元に浮かべる。

「大丈夫だ。彼女は手ごわい相手だったが――命を奪ってはいない。何度か《写シ》を破っただけだ。精神力と体力を消耗しての気絶だが――命に別状はない」

優しく諭すような口調だった。

(――何なの?)

美也子は、勢いが削がれた。

もっと、残忍な相手を想像していたのだが、彼の素顔は百鬼丸と瓜二つ。しかも、彼は追手である。

事前情報が不足のままの任務はこれまで何度もあった。

――しかし。

(今回だけは違う)

頬に冷や汗を流しながら、美也子は相手の出方を窺う。

 

 

『……おい、百鬼丸。お前はいつまで女に守られている? お前の唯一の取柄だった殺しすら出来ないお荷物か? はは、滑稽だな』

嘲るように、ニエは哄笑した。

 

 

「なぜだ!? なぜ、そこまで百鬼丸くんに拘る? 彼が一体何をしたんだ?」

大関はたまらず、口を挟んだ。

彼の圧倒的な強者のオーラを感じながらも、不遜で人を見下す相手に対し、腹が立った。

 

ニエは目を細め、大関の方に紅の瞳を動かす。

「――オレたちの事について話すと思うか? オレたちの出生は、誰にも話す筈が――」

 

『君たちはクローンだ。だろう? ニエくん?』

百鬼丸の体を使ってX……いや、レイリー・ブラッド・ジョーが不敵な笑みを浮かべてニエを見返す。

不快な表情に変わったニエが鋭く睨みつける。

「お前、百鬼丸ではないな? まぁ、いい。どういう事だ?」

まるで鼠を痛めつける前の猫のように、残酷な微笑みをつくって聞く。

 

「おお、そうかい。じゃあ、ボクの知見と予想の範囲で語らせてもらおうか。――君たちは誰か知らないが……男性の細胞から採取された並列のクローン体だ。百鬼丸くんも、ニエくんも」

 

ニエはそこまで聞き終わると、抱きかかえていた沙耶香をゆっくり地面に下ろし、自ら羽織っていたロングコートで薄着の彼女を包み、冷えないように処置をした。

俯き加減だった為、どんな表情をしているか分からない。

 

 

ただ、沙耶香をロングコートで包み、地面に優しく置いたあと、「…………黙れ」と肚の底から搾り出したような声で脅した。

 

その反応が面白かったのだろう――ジョーはニヤつきながら「そうか。では賭けをしよう。これから話す内容が違っていれば、この百鬼丸くんの体をバラバラにしていい。どうだ?」

 

「――黙れ! それ以上喋ると」

 

「なぜ、今すぐ殺さない? ん? ボクは知っているよ。君は本当は知って欲しい。誰かに自分の存在を認めて欲しいんだ。だから、スグにこの場の全員を殺さない。違うかい?」煽るようにジョーはせせら笑う。

 

――直後。

 

ニエが《迅移》を用い、加速すると大関の肩を借りて立っていた百鬼丸の体にタックルをかます。大関の肩から抜け出し、地面に派手に激突した。

 似えは右手で百鬼丸の両頬を鷲掴みしながら「殺す、お前を殺す」と冷徹な目で抜き放った無銘刀を喉元に突き付ける。

 

 

しかし、ジョーは塞がれた口を歪に曲げて「ククク……」と笑う。

 

「――なんだ? お前は一体なんなんだ……」ニエは、圧倒的な優位であるにも関わらず、怯えたように一瞬だけ掌の力が抜けた。その隙を見逃さず、百鬼丸の体が覆いかぶさったニエの腹部に片足を当てる。

 

「ばーい」

首を傾げ、愉快そうに言った。

片足のリボルバー方式の加速装置が一回転する。加速装置の激しい衝撃波がニエの腹部に伝い、数十メートルまで吹き飛ばされる。

 

 

「……さて、ブラフをかますのも楽しいね」

首を捻って肩を回す。

その様子を見ていた大関は口をパクパクと金魚の様に開閉する。

「お前、動けたのか?」

「慣れるまで時間が掛かるけど、そりゃあ――普通くらいには動かせるだろうね、さて」

尻についたコンクリートの破片を払い落とし、沙耶香の下まで近づく。

ジョーはそのまま、足元で気を失っている沙耶香の傍に置かれた《御刀》を掴み、引き抜くと、ロングコートで包まれた彼女の細い首筋に刃の先を押し当てる。

 

 

「……キサマ、何をしているッ!?」

呆気にとられ、叫んだのは大関――ではない。ニエだった。遠くに吹き飛ばされたものの、すぐに立ち上がり、闘志を剥き出しに百鬼丸を殺そうと《迅移》を発動する寸前の所だった。

 

 

「こうしないと、冷静に話を聞かないじゃないか。ボクは人の話を聞かない相手にはどんな手を使ってでも聞かせるのがモットーだからね。それにボクは彼女に一ミリの関心もない。だから普通に殺せるよ」

嘘ではない。ジョーは事実、大勢の人間をショッピングモールで殺してきた。

 

 

ニエはそれを知っている。だからこそ、動けない。

 

 

その様子に満足したジョーは、「さて、では話の続きだ――」と、楽しそうに喋る。

 

「君たちは同一の男性から生まれたクローン+ノロの因子を混ぜた実験個体だね、違うかい?」

 

「…………」

ニエは悔しそうに歯を軋らせながら、無言を貫く。

「そうか。ではボクの推論は正解だね。次だ。その個体、つまりオリジナルは轆轤秀光、間違いないね?」

 

「殺してやるッ!! お前だけは絶対に許さないッ!!」

 

「うーん、やはり人がボクに向ける殺意というのは心地いいね。さ、それで本題だ。この病院で何者かが残したノロの回収用容器と……幾つかの資料。それも断片だけ。なぜ、誰が? ……分かるかい? 〝百鬼丸くん〟」

ジョーがおもむろに、百鬼丸の胸に問いかける。

 

 

まるで、生徒に教える教師のような口調だった。

「ずっと疑問だったんだ。ノロの因子があっても御刀を扱うことは難しい。しかも《迅移》なんて力を引き出せるのは不可能だとね。……一つだけ解決方法があるんだ。それは、遺伝子に刀使の細胞があればいい。もしくは〝刀使〟だった人間の細胞か」

 

ジョーは、沙耶香の可愛らしい寝顔を見下しながらゆっくりと片腕で抱き起し、細い首筋に刃が押し当てやすいように体勢を変えた。

 

 

「つまりね。……ボクが類推する中で、君たちの母体は鎌倉で英雄になった六人の刀使の中にいると思うんだ。じゃあ誰か?」

 

 

ジョーは面白そうに、虫の羽を千切って遊ぶ残酷な子供のような無邪気な雰囲気で、周りを眺める。暗闇に慣れた目には、味方である筈の大関や美也子の顔が凍り付いているのが解った。

 

「――あはっはははは、傑作なんだよ、この先の話は類推だけど確証があるんだ。いいかい、このクローンたちの遺伝子の中には……高津雪那という母体の細胞がある。そう考えると、辻褄が合うんだ。違うかい?」

水を向けられたニエは、ただ、口を戦慄かせてジョーを凝視することしか出来なかった。

動こうと思えば、行動なんて容易なニエがなぜ動けないのか? 

ジョーは、最早、ニエという少年の中の戦意喪失していることを看過していた。

 

「沈黙は肯定と捉えるよ?」

 



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202話

 「どういう事だ?」

十条姫和は戸惑いを隠せなかった。

護送車から降りた彼女は、足元が分厚い絨毯であることに気が付いた。履きなれたローファーを優しく包み込む毛並みの感触。

暖色の間接照明。

巨大なロビーは人影が疎らである。

(姫和ちゃん……)

隣に居る可奈美も、やはり突然のことに困惑した表情で小声で囁く。恐らく、現状がどうなっているのか聞きたいらしい。

(私にも分からない)

小さく返事をしてから、警戒の眼差しで周囲に目を配る。

しかし、外や内の警護を担う人間以外に人間が見当たらない。

「私たちは取り調べを受けるために来たはずだ…………」思わず、心の声が口から洩れた。

 

姫和は衛藤可奈美と共に、現在逃走中の百鬼丸という少年を脱走させた罪で二人は移動した――はずだった。

しかし、ふたりを乗せた護送車が到着したのは、刀剣類管理局維新派を標榜する集団の拠点であるホテルだった。

東京駅に近い、高級ホテルには綾小路の刀使が警備を固めている。

美しく切り揃えられた前髪を揺らして、首を周囲に巡らす。――そして、ある事に気付いた。

「いや、そうか。ここで私たちを取り調べればいいだけか」

警察などに身柄を引き渡さないのは、つまり刀剣類管理局の内部でおさめようと……高津雪那はアピールしたいのだろうか? であれば、彼女は老獪な政治家だ。

 

(すべて、彼女たちの策謀の渦中で遊ばれていた――。)

 

ぐっ、と拳を強く握って姫和は口惜しさを滲ませる。

俯き濡羽色の流麗な長い髪に、照明が反射して光の帯を浮かべていた。

 

『おお、これはこれは。ここまでの移動は疲れたでしょう。可愛らしいお嬢様方』

広大なフロア全体に響き渡る男性の声が、静謐なホテルの雰囲気を破った。

「「!?」」

姫和と可奈美は、揃って音の方に頭を動かす。

「ようこそ、いらっしゃいました。お姫様たち。お待ちしておりました」

二人の前に現れたのは、恭しく一礼する轆轤秀光であった。

彼は、着崩した白いワイシャツ姿で、いかにも砕けた雰囲気を醸し出している。端正な顔立ちは四〇代とは思えない若々しさに充ちていた。

キッ、と鋭い目つきになった姫和は、

「ほぅ、私たちはこれからお前のどんな尋問に晒されるんだ?」

皮肉っぽい口調で尋ねる。半ば挑発する態度だった。

 

やれやれ、といった感じで微笑みながら秀光は嘆息する。

「――最初に言いました。あくまで此方側はお二方に危害はあたえません。約束しましょう。こちらは百鬼丸というドブネズミの駆除だけが望み――それだけです。ですので……」

ニコニコと、人の好さそうな笑みで弁明する。

 

「――待って下さい。どうして百鬼丸さんにひどい事を言うんですか?」

怒りを含んだ様子で可奈美が口を挟む。亜麻色の細い眉が怒りを示している。

 

秀光は「ほぅ」とおかしそうに、可奈美の方に意識をやる。

「お嬢様は、怒っても可愛らしい外見のせいであまり怖くはないですね」

「ふざけないでください」真剣な態度で可奈美が言う。

「いいえ、皮肉ではなく――まぁ、いいでしょう。分かりました。ではついてきて下さい」

会話を切り上げた秀光は革靴の踵を返すと、エレベーターへと歩き出す。

姫和と可奈美は顔を見合わせ、どうすべきか視線を交錯させた。

「御刀を取り上げられた現状では、私たちにとれる手段は限られているな」

警備を行う綾小路の刀使たちに目線を配りながら、姫和は硬い顔つきで囁いた。

「――うん」可奈美も小さく首肯する。

 

 

 

 

上層階のバルコニーが併設されたレストランから見える高層ビル群の夜景が、目前に見えた。

岩盤を模したようなタイルを歩きながら可奈美は、周りを自然と確認する。

 

客は当然一人もおらず、人影すらも見当たらない。

「さぁ、お嬢様方。お席を用意致しました」

恭しく一礼する秀光は、優しく微笑んでテーブル席の一角に着座を促す。慈善に用意していたのか、白いテーブルクロスの上にガスランタンをイメージした照明が置かれている。

海老茶色のローファを慎重に歩かせた姫和は鋭い視線で、

「どういうつもりだ?」詰問する。

「――まぁ、疑問も不満もおありでしょうが、お話は致します」

「ちっ、あくまで答える気はないようだな」

「いいえ、お答えできる範囲であればお力になります」

ニコニコと笑顔という仮面で秀光は返事をする。……まるで決まりきった文句を並べる機械のように。

 

いきり立つ姫和の肩に手を置き、宥めるように一歩前に出て、

「――分かりました」

可奈美は迷う事なく足早に用意された椅子に座り、真直ぐに秀光を見据える。

まるで「こちらは準備できています」と言外に示すようだった。肝の座った態度に秀光は一瞬だけ驚いたように目を開き、「なるほど。聡明なお嬢様だ」と称賛を送った。

「ちっ」と短く舌打ちをした姫和も、可奈美に続いて着座する。

二人の敵意を感じながらも秀光自身も椅子に座り、着崩した白いワイシャツの腕をまくる。

 

「お二人とも、お食事はいかが――ああ、すいません。そんな怖いお顔で返事は結構。……ただ、飲み物くらいは準備しましたので――と言っても、毒なんて入れてませんよ。信じてもらえないでしょうね。仕方ないですが」

 

「あの、質問してもいいですか?」

可奈美が琥珀色の瞳を揺るがせず、強い意志で秀光を正視する。

「ええ、どうぞ。その為にこの場を用意したんですから」

「――あなたの目的はなんですか? それに、どうして百鬼丸さんをそんなに恨んでいるんですか?」

渋谷を含む街頭モニターなどで、目立つように〝百鬼丸〟という少年を抹殺するような演説をした男――彼は何を考えているのか? ……純粋な疑問だった。

 

にっ、と秀光は口角を微かに釣る。

「結論から申し上げますと……《息子》のような存在――といえば、あなた方にも理解してもらえますかね?」

バン、とテーブルを強く叩く音。

「……ッ、どういう事だ!」

咄嗟に立ち上がった姫和は驚愕しながら、苛立ちの態度と秀光に更なる敵意を剥き出しにした。

 

「落ち着いて下さい。愛らしいお顔が台無しだ。そうですね、では便宜上息子としておきましょう。それで、わたくしの目的、ですか。この世を滅ぼすこと、ですかね? うーん、難しいな。この世界を平等にするため、ですかね?」

「びょうどう? 何を言っている!?」

我慢の限界を超えた姫和が機敏な動きで秀光の胸倉を掴んだ。

しかし、秀光自身は慌てる様子もなく、むしろ想定済みのような態度で少女を見返す。

「落ち着いて。刀使さんにはわたくしは手荒なマネはしたくないんですよ」

余裕な態度で、胸倉を掴む手首に優しく自らの手を添える。

 

「――キサマも武術の心得があるようだな」

手首を掴む感覚から、秀光にも柔術に類する技術があることを感じた姫和は、ふーっ、と深く息を吐いて手を離す。……刀使とはいえ、剣術以外にも武術に精通はしている。

だからこそ、この男の得体のしれない実力を姫和は感じ取った。

(この男、腕をへし折る気だ――)

言葉とは裏腹に秀光はいつでも本気で人体を破壊できるというメッセージを姫和に、添えた手で伝えた。

ここで怪我を負っても無駄だと判断した。

胸倉を離したものの、緋色の目で睨む。

 

そんな敵意を無視して話し始める。

「知って欲しいんです。わたくしは、少なくとも刀使という存在を――いいえ。誰かの犠牲で成り立っている世界を変えたい。イーブンに戻したいんですよ。たった一部の人間だけが不幸な目にあっていて、それを知らんぷりして過ごす世界を壊したい。そういう意味ではタギツヒメと思想は同じですよ。でも、完全に滅ぼすことが目的ではないんです。わたくしは。誰かの苦しみを、皆で分かち合えるものにしたい。それがあるべき姿ですよ。なぜなら、その痛みは本来、全ての人類が負うべきものなのだから――」

 

「何を言っている?」

 

「まだ分かりませんか? どうして荒魂を祓うのが刀使の役割なのか? ……生贄のようなものですよ。あなた方はそうは思いませんけど、ハッキリ言いましょう。体のいい生贄なんですよ《刀使》というモノは。――そして、本来この轆轤(ろくろ)家は、折神家という表、柊家という裏――――その二家とも異なる、生贄だけの為だけに存在する家。わたくしの望みは、この呪われた忌々しい轆轤家の存在を滅ぼすこと。それは、この家の存在意義である政の中心である組織も体制も全て破壊し尽くさなければいけない」

秀光は、冷やかな眼差しで初めて本音を語り始める。

 

「――わたくしの望みは、この轆轤家の血族を抹殺すること。そして、この家に様々な歴史の闇を負わせてきた国家や組織、集団に復讐をすること。それは世界全てを一旦リセットするという事ですよ」

まるで、人類を恨むように秀光は言い放つ。

「――誰かの犠牲で生きている癖に、当然のことだと思い過ごす連中に思い知らせないと。そう、二〇年前の悲劇を繰り返してでも――ね」

 



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203話

 

「そんなこと、少なくとも私は望んでいません」

可奈美は断固とした口調で、秀光の思想を真っ向から否定する。

「私は皆を助けたいから剣を振るう。それだけです――」凛呼とした声音は、一切の迷いがない。

――それ故に、秀光は悲しそうな顔をした。

「あなたもそう言うんですね…………ええ、最初から想定していましたよ。あなた方がどう答えるのか。〝この手で殺めた〟刀使たちもそう言っていましたから」

俯きながら秀光は首を横に振って、肩を竦める。

「――お前は先程、私たちに危害を加えないといったばかりだが、やはりそうか」

姫和は嘲るように男を見下す。

「いいえ、それは本当です――ただ、わたくしが殺めたのは《轆轤家の刀使》ですから――」

「…………。」

姫和は無言になって、穏やかな雰囲気の男に鋭い眼差しを向ける。

「我々の一族はどういう訳か、女性ばかりが生まれましてね、男児というのは――十数年に一人だけ。轆轤家の当主は男子が担うのですが、我が一族の男児は皆短命なんですよ。だから当主以外は、男子は居ないんです」

特に悲壮な様子もなく、淡々と事実を語る。

「――でも、さっき百鬼丸さんを息子って……」可奈美が思わず割って入る。

先程、この秀光という男は《百鬼丸》という少年を息子と呼んだ。明らかな矛盾。

――しかし。

驚きに目を瞬かせた秀光は、少し考える素振りをしてからテーブルの上に置かれたガラスのコップを手に取る。光の反射具合を眺めつつ、

「奴は、実験から生まれた生物です。――わたくしの細胞と、ノロ、他に…………」

 

 

 深い海の底に沈んでゆく気分だ……。

 糸見沙耶香は、柔らかな寝息を立てていた。いつまでも眠っていたい。だが、起きなければ――不思議な気持ちに促され、鉛のように重たい瞼を持ち上げ、ボヤけた外界の輪郭を掴もうとした。

(――――わたし、どうして?)

判然としない頭で、しばし考える。霧のかかったような思考で先程までの出来事を思い返す。

「……守る」

小さく、無意識の中から言葉が洩れた。

もう一度、強く瞬きをすると誰かが自分を抱いていることに気が付いた。

「…………百鬼丸、」

紫紺の瞳に映るのは、残忍な笑みを浮かべる少年だった。

(……違う)

しかし、沙耶香は即座に外見だけを借りた紛い物だと気付く。彼女が少年と短い時間を過ごした中で、このように醜悪な表情は一度もみせたことがない。

まだ、麻痺した体を無理やり動かそうとして――自らの喉元に御刀が突き付けられていることを確認した。

「おや、お目覚めかい。よく眠れたようだね」

沙耶香が意識を取り戻したことを発見した百鬼丸の体を操るジョーは、愛嬌よくウインクする。

しかし、彼の言葉を無視して沙耶香は周囲に視線を配る。

 

 

夜闇にも薄く発光する《ニエ》と自らを名乗った百鬼丸と瓜二つの少年……彼が、心配そうに自分(沙耶香)の様子を窺っている。更に、百鬼丸肩越しには、大関と見知らぬ長船の人間も居た。

 

「……わたし、時間稼ぎできなかった」

この状況は未だに理解できないが、自身の責務を果たせなかった事だけは理解できた。それ故に、眉間に後悔の皺が刻まれる。

 

「いいや、糸見くん。君は優秀だよ。こうやって、ボクが演説する機会がもらえたからね。ふふっ、傑作なんだ。この百鬼丸少年はクローン体で、しかもノロと轆轤秀光、そして君にも関係の深い高津雪那の細胞も混ぜた紛い物だったんだ!! あはははは、面白いねぇ、百鬼丸はね、以前からボクの事を愚かしい化け物と罵っていたんだ! それは否定しないよ。でも残念だ、ボクはホモサピエンス。それに引き換え、この百鬼丸も、あの白い……ニエ、だったかな? 彼らは文字通り《化け物》だよぉ、おかしいねぇ!!」

嬉しそうに、ジョーが哄笑する。

耳障りな笑い声は、邪気すらない子供のような純粋さだった。だからこそ、余計に歪で、鼓膜にも粘つくような笑い声が響く。

 

『もうヤメロ!! お前に何が解るんだッ!!』

ニエが、紅の瞳に凝縮された殺意と――――自分自身の存在すら恨み、悲しむような感情を露わにしていた。

それを、ジョーはせせら笑う。

「へぇ、別に興味なんてないよ。分かりたくもない。大体だね、自分自身が辛い、辛い、分かって欲しいなんて馬鹿げているよ。気持ちの悪い。そんなに話を聞いて欲しいなら、対価でも支払いなよ。だーれも、他人は君たちに興味なんてないよ……ああ、すまない。訂正しよう。実験モルモットとしては大変に貴重だ。ぜひ、お話を聞かせてくれたまえ」

首を傾け、ジョーは御刀を僅かに動かす。――と、同時だった。

「――ッ」

声にならない悲鳴が、一瞬だけ沙耶香の口から無意識に洩れた。

「ああ、すまない。楽しくてつい殺しそうになった。悪いね」

細く白い沙耶香の首に薄く針のような傷跡ができた。赤い線から血の雫が刃の上に伝う。それをジョーは指先で拭い、口に含む。

「堪らないね、人を傷つけるのは」

 

『キサマぁああああああああああああああああああ』

ニエの激怒した咆哮が周りにこだまする。衝撃波のような壮絶な音の威嚇である。

それに呼応するように、

「――――このクズやろう!!」

大関が精一杯の怒声を背後から浴びせる。背後でジョーの様子を窺っていた「味方」である筈の人間たちも、明らかな敵意を向けていた。

 

 

だが、そんな敵意すら無視してジョーは首を捻る。

「しかし、自分の辛い過去があれば誰かに同情してもらおうと話始めるのは現代人の流行なのかな? まぁ、どっちでもいいか。――っと、ヒヒ、そうか」

何かを察したジョーは、狂人の振る舞いと顔つきから、次第に笑みを消してゆく。

 

 

 

 

「――――いやに遅かったじゃないか。ボクにここまで狂わせておいて、ようやく現実に帰ってくる気になったのか」

誰にいうのでもない――否、たった一人に喋る。

「……?」

間近の距離にいた沙耶香だけは、そのひとりの囁き声を聞いていた。しかし彼が何を言っているのか内容までは理解できなかった。

辛うじて聞き取れた部分は「――もう、二度と逃げないでくれたまえ。ボクは君というモルモットに興味があるのだからね」と、優しげに語るジョーの言葉だった。

 

 

 

 

 

 

百鬼丸の頭が深く、垂れた。操り人形の糸が切れたようにガク、と重力に従い全身が地面に倒れ込む。夜闇に落ちてゆくように、全身が激しい音を立てた。

「……百鬼丸っ!?」

自らの首筋の傷を忘れ、沙耶香は倒れ込んだ少年を抱きかかえようとした。――だが。

 

 

数度の呼吸音。

「ゲホッ、ゲホッ」と激しく咳き込む。

 

 

少年の小刻みに震える――

 

「ごめん、遅くなった」

弱々しく動かした右腕が、慣れない動きで彷徨う。

地面から無理やり体を引き剥がしつつ、緩慢な動作で少年は立ち上がろうと試みている。

「傷――悪かったな。このクソッたれに……」

温かな掌で、沙耶香の頬と頭を無造作に撫でる。恐らく、無事を確かめようと無意識の行動だろう。

「…………。」

紫紺の目は、少年から聞こえた声に安堵した。久々に聞いた彼の「声」は先程までの「誰か」とは異なる――年相応の少年のモノであり、どこまでも不愛想で、どこか親しみのあるものだった。

 

「……うん、遅い」

沙耶香は、自分でも想定をしない返事をしていた。

――これが怒りだろうか?

ふと、彼女はそう思う。

随分と長い時間、彼と離れていた気がする。本当は彼を守りながらこの先の事を考えて心細くなったりした……そんな不満を目前の彼に言いたくなった。

だがそれ以上に、嬉しかった。

「あはは、すいません。――申し訳ない」

頭を強く左右に振って、百鬼丸は辛そうに立ち上がる。

 

夜の森がザザザ、と怪物の鳴き声のように葉擦れの音をたてる。夜気の立ち込めた冬の空気が凍てつくようだ。

 

 

 

 

……だが、血管から全身を巡る体が熱い。

 

久方ぶりの自らの体は不思議な気分だ。生きているという事が実感できる。

「スマン」と、申し訳なさそうに少年がいう。

「……うん」

色素の薄く長い前髪の間には、確かに――百鬼丸が居た。

 

月の夜。

雲が素早く流れ去り、廃病院の駐車場には蜜色の光が満ちた。

「やっぱり、痛いよな」

少年が振り返る。

「……えっ?」

「傷だよ。泣くほど痛いよな、スマン」

目を伏せ、百鬼丸が謝る。

彼は一体なにを言っているのだろう? 不思議に思いながら、沙耶香は両頬に手を当て、熱い雫が頬を伝うのを知った。

目端が滲んで、視界を歪ませている。

 

……どうして?

……これは何?

 

困惑する少女に、少年は目を合わせ「スグに手当てしてくれ」と再び謝罪する。

 

 

……………ちがう

 

そう言いたかった。でも、何も言葉が出てこなかった。

ただ、月光に照らされた少年が、余りに恰好が良かった。慈愛に満ちた彼の表情は、これまでに見た人間よりも、人間らしく――どこまでも孤独な存在で、強く前に進もうとする生き様を魅せられているようだった。

 

「あと、御刀を少しだけ借りるな」

くしゃくしゃ、と沙耶香の柔らかな髪の毛を揉むように撫でて歩きだす。

 

――――と、沙耶香は百鬼丸の手首に靡く物体に視線が吸い寄せられた。

少年も、右腕の物体を発見した。

自らの手首に巻かれた黒い帯……可奈美が髪を結んでいたリボンであった。

(アイツにも悪いことしたな……)

遠い場所に居る少女にも内心で詫びながら固く結ばれたリボンを解き、長い後ろ髪を乱暴に束ねる。

 

――少年は深呼吸をしながら、自身と瓜二つの存在……『ニエ』と対峙する。

 

 

「――――なんだッ、今更茶番か!? つくづく腹の立つ存在だな。…………お前が憎い、全部を手に入れたお前が! 出来損ないの分際でッ!! 先に言っておく! お前は絶対に俺には勝てない! これは絶対だ!」

 

ニエは真紅の瞳から獰猛な意志を、射抜くように百鬼丸に合わせる。

 

百鬼丸はこめかみの部分を指で叩き、

「――ああ、だろうな。おれもそう思う。自然と理解しちまうんだな。お前には勝てないって……」同意する。

 

 

「調子に乗るな! お前は…………出来損ないなんだ!」

 

「……知ってるよ」

 

「あははは、そうか、クローンにすらなれないゴミの分際でなぁ!?」

 

「――全部思い出したんだ。おれ」

挑発するように語るニエを穏やかな表情で見つめながら、百鬼丸はうなづく。だが、一切歩みを止めることなく百鬼丸はニエを見据える。

 

「でもさ、やるよ。かかってこいよ、ニエ。おれを殺してみろよ」

 




話だけを進めます。クオリティは無視です、スイマセン。


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204話

微グロ注意です。

あとはお話進むだけです。


「あなた方にこの写真を見て頂きたい――それでも、アレを人間と同等に扱うのが間違いだと知って欲しい」

秀光は感情の籠らない喋り方で、胸ポケットから数枚の写真をテーブルの上に置く。

「……っ、なんだこれは?」

姫和は、その写真を一瞥した瞬間――息が止まった。

「なに? それが奴の正体ですよ……あなた方が今まで共に行動してきた――奴の実像です」

冷淡な眼差しで、秀光は写真の上に人差し指を落としてトントンとリズミカルに叩く。

「うっ……」

流麗な黒い髪を怯えるように靡かせて、姫和は口元に手を当て吐き気を堪える。

 

 

 

 

 

 相手の動作が始まる前の瞬間を『おこり』というらしい…………それは、剣術の師匠である可奈美から聞いたことがある。

 その醸し出す雰囲気自体は百鬼丸でも理解できた。

――だが。

 

『私もまだ練習中だから、ピンとくるアドバイスできないんだ~』

剣を構えた可奈美がはにかみながら、陽気な口調でいう。

『――でも、可奈美はおれの行動を全部読んでるみたいだよな。おれはどうすれば剣を使いこなせる?』

首を傾げながら百鬼丸は先手の斬撃をすべて受け流されたことに納得できずにいた。

「あはは」と笑いながら構えを解いた可奈美は、

『う~ん、なんでだろう? やっぱり、百鬼丸さんの場合って全部動きが単調だからかな? 例えば最初の攻撃は凄まじい……っていうのは、薫ちゃんとか……薬丸自顕流みたいな流派の攻撃に似ているんだけど――』

頤(おとがい)に指を当てて、考え込む。

『野性的っていうのかなぁ……? 剣術って、人間の動ける範囲で合理的に動作を終わらせることが目的なんだけどね、百鬼丸さんはどうしてもその枠からはみ出る動きをしちゃうから……根本的に私たちと違うのかも』

『じゃあ、どうすりゃいいんだよ?』口を尖らせて、不満をいう百鬼丸。

その様子が幼い子供のような態度に見え、可奈美は思わず噴き出した。

『大丈夫――もっと基礎から練習すれば体が覚えるから。もう一回、剣を構えて』

――と、少女が促した。

『まずはね、〝おこり〟を意識してみて』

ふと、言葉が甦る。

(そうだ、今のおれにはアイツに初歩だけど剣術を教えてもらった――せめて、ニエに勝つのが無理でも相打ち程度なら……。)

百鬼丸は余裕な態度とは裏腹に、まったく勝利するビジョンがみえずにいた。

 

 

――長く思考する時間を挑発と受け取ったニエは、

「キサマから来ないなら此方から行くぞッ!!」

言うが早いか地面を蹴って飛び出した。

体を捻りながら大振りに《無銘刀》を膂力の許す限り思い切り運動させた。

「――っ、チッ」

バックステップを踏み、百鬼丸は寸前のところで斬撃を避け、沙耶香の御刀《妙法村正》を刺突の構えに持ち替え、隙の生じた胴体や首元の二カ所を狙う――素振りを見せて、意識の逸れた瞬間に斬り込む算段をした。

 

……しかし、その目算は既にお見通しだと言いたげに口端を歪め、ニエはワザと構えを解いて隙だらけの無防備な格好を晒した。

思わず百鬼丸は足を止め、

(なんだこいつ)

意図が全く読めない相手に警戒し、十分な間合いをつくり様子を窺う。

隼の突撃を連想させる刃の煌めきがあった! ニエは間合いなど無かったかのように、足を撓らせ、鞭の如く体が飛び出した。

「――ッ!?」

光茫が視界に閃き、直後――それが太刀筋だと理解した時、百鬼丸の脇腹には灼熱の感覚があった。

自らの武器であった《無銘刀》が、腹を貫き生命力を奪っていた。

「くそっ!!」

ニエの腕を蹴り、背後へ飛び退く動きで無理やり刃から肉を抜き、激しく睨む。

「ふん、口ほどにもないな」

ビュン、と刀を振って血を地面に散らす。

「まだ攻撃は終わらんぞ!!」

腹部を抑え、止血する百鬼丸へさらに斬撃を繰り出した。

異様な速度と気迫に、百鬼丸は思わず総毛だつ。自分と瓜二つの顔が襲い掛かる。まるで『白い影』だった。

 

 コイツは何が目的で闘うのだろう?

 おれを殺した先に何を求めるのだろう?

 

 

 数々の疑問が泡のように浮かび、襲い掛かる斬撃を刀で受け止める。

「そらそらそら、はははは、考え事なんてしているからだ! お前が油断しようがしまいが結果なんて変わらん」

流星の如く次々と斬撃を放つ。自らの油断を戒めるように百鬼丸は軽く首を動かし、頭を切り替えると片足の加速装置を発動させるタイミングを見計らう。

(コイツ、全部おれの動きを知っているみたいだ……いや、おれ自身と戦っているみたいだ)

不気味な相手に、恐懼をおぼえていた。

「死ね、それだけがお前のすべきことだ!!」

掣肘が死角から現れ、に衝突した。

「ぐぅっ!!」

体が大きく横に逸れて、地面に叩きつけられた。

百鬼丸の腹部は《無銘刀》の影響により、蝕まれつつあった。

ニエは「お前にお似合いだ。地面に這いつくばっていろ」と、言い捨てて膝から百鬼丸の腹部に向けてジャンプして傷口を圧迫する。

「ゴォオッ!」

吐瀉物と共に血液が盛大に口から溢れた。

意識が吹き飛びそうになった。バキバキと無数の枯れ枝が折れたような音が聞こえた。肋骨が砕けたのだろうか……辛うじて気力だけで意識を保つものの、喉が万力のように締め上げられ、呼吸も苦しい。

「ぐぅ」

苦悶に歪む百鬼丸の顔を夜闇に慣れたニエの目が楽し気に捉える。

「お前はそうして生きているのがお似合いなんだ」

まるで自分に言い聞かせるように、言い続ける。

 

 

《お前は……なんで戦ってるんだ?》

百鬼丸は物理的に会話ができず、テレパシーによってニエに語り掛ける。

「なに?」

《戦う理由ってなんだ? お前はこの先に何があると思ってるんだ?》

「ふふふ、お前とおしゃべりする必要はない――いい機会だ、この場に居る奴らにお前の正体を暴いてやる」

左腕で百鬼丸の首を締め上げながらゆっくり持ち上げる。

宙づり状態になった百鬼丸は、朦朧とする意識の中で真紅の瞳に、虚無感を見ていた。

 

「お前は死ぬのが怖くないようだが……そうだな。お前の正体を知った人間の反応は面白いだろうな」

ニエは容赦なく切先を百鬼丸の腹部に突き立て、胸の辺りまで真一文字に斬り裂く。

 

 

――それは、まるで無脊椎動物のような肉塊だった。

形状からして言えば、肉腫という方が正確だろうか。秀光が指さした写真には、赤黒く蠢く肉塊の『群れ』が撮影されていた。

「――これはなんですか?」

可奈美は俯き加減に唇を噛みしめて、声を搾り出す。

「これがヤツ……正確に言えば、百鬼丸の正体ですよ」

「一体なんなんだ、これは」姫和は、強烈な吐き気を堪えて疑問を口にする。

「クローン、とりわけ生物兵器を作る際に生まれた〝失敗作〟たちですね」

こともなげに言って、秀光は手近なワインボトルの栓を器用にナイフで引き抜き、グラスに注ぐ。

何枚かの写真には、その蠢く〝肉塊〟――――が有する人間の眼球が一つだけ判別できた。

口のような器官は目玉からやや離れた部分に存在した。形からすると、輪のようで、小さな無数の牙のようなモノがみえた。

「クローンになるのはほんの一部。殆どが研究段階で失敗したので、処分するのにも苦労したんですよ」昔を懐かしむような口調で爽やかにいう秀光。

「もっとも、成功したクローンですら不良品ですからね。なんせ、53日間しか生存できない。あはは、お恥ずかしい話ですが」

首を捻って秀光はグラスのワインを一気に飲み干す。

「なぜ、奴が生き延びたか……詳しい話は分かりません。ですが、アレは間違いなく、この肉塊から成長した存在です。その証拠に奴は数々の蛮行を見せてきた、何よりわたくしの若い頃と同じ容姿――御刀を扱える能力、全て条件が揃っている」

憎々し気に眉間に皺を刻む。

秀光の語るおぞましい内容に、ふたりは暫く無言だった。

「――――可哀そう」

と、小さく可奈美が抗議する。

 ニッ、と意地の悪い笑みで秀光がうなづく。

「そうでしょう? こんな醜い存在があなた方と行動していたと思うと恐ろしかったでしょう? その点は、謝罪したいと――――」

サッ、と頭を上げて可奈美が真正面の秀光を真直ぐに睨みつける。

「違います!」

「は?」

予想外の反応に、思わず秀光は目を点にして素っ頓狂な声をあげた。

「可哀そうなのは貴方です!」

くりっとした愛らしい琥珀色の瞳が、秀光を射抜くように目線を合わせる。

「どういう意味ですか? こんな気持ちの悪い存在を――あなたは受け入れるんですか? まさか。綺麗ごとだ」理解できない、と言いたげに首を横に振る。

ぎゅっ、と可奈美は赤いプリーツスカートを両手で強く握り、

「――確かに驚きました……でも、それでも、百鬼丸さんがこれまで多くの人を助けてきた事も知ってます」

「……あはは、詭弁ですよ。人に優しくすれば誰でもいい奴ですか? 嘘だ。貴女もよくご覧ください。この不気味な正体を……気持ちが悪いはずだ! 綺麗ごとなんて、何の約にも立たない! そうでしょう?」

まるで、懇願するような顔で秀光は焦燥にかられた表情を浮かべていた。

「驚きました…………それでも、友達だからどんな姿形でも、受け入れたい! 私の――大切な〝ひと〟だから」

いつの間にか涙ぐむ両目は、透明な光を湛えていた。

我慢をしないと、いつか落涙するようなひたむきな様子で、可奈美は荒い呼吸を落ち着けようとしていた。

「あはは、そうか。そうでしたか。同情心ですねそれは――結構、あなたは少し冷静さを欠いている」

前髪をかきあげて、秀光は苦虫を嚙み潰したような顔をする。

「そうだ、十条さん。貴女は分かるでしょう? この気持ちの悪さを」

救いを求めるように、生理的な嫌悪を示す姫和に語り掛ける。

「――私は可奈美ほど覚悟も決まっていない…………正直戸惑っている」

「あはは、そうでしょう、やはり! やはりそうだ!」喜悦した声音で、手を叩く。

「…………私がいま、ここに居られるのはあの馬鹿者のお蔭なんだ……折神家の屋敷で私は本来、『隠世』にタギツヒメを送る予定だったんだ。……それを、あの馬鹿者がこの世に私を引き留めた。その時の顔を私は忘れたくないんだ」

姫和は、はにかみながら、胸の前で軽く拳を握る。

「時間がかかるかも知れないけど、私も――あの大馬鹿者を受け入れたい」

秀光は愕然とした面持ちで、「ありえない」と何度も呟いた。

 

 

「ありえない、ありえない! あなた方はただきれいごとを並べているだけだ! 本当のコレを目にすれば、気持ちが悪くて忌諱するに違いない! あはは、そうだ! そうだ! まあ、いい。詭弁や綺麗ごとだけで自分を守れるでしょうからね!」

饒舌にまくしたてる秀光は、いつの間にか興奮した様子で席を立って怒鳴っていた。

 

 

 

相手が語り終わったころ、可奈美は涙を溜めた目で、秀光をみる。

「さっき、私が可哀そうって言ったのは――あなたのことです」

「は? どういう意味ですか?」

引き攣った微笑で、秀光が問い返す。

「――あなたがさっきからずっと、自分自身を痛めつけてるようにしか見えないから」

「わたくしが? ……ククッ、どうして?」

 

 

『どうして、そんなに自分を傷つけるんですか?』

 

可奈美の発した言葉が、かつて、彼に向けて同じ台詞を言った――《刀使》の声と重なった。記憶の中の姿と声が、幻視のように秀光の前に浮かぶ。

 

震える唇を無理やり真一文字に結ぶ可奈美は、自然と柔肌に一筋の涙を流していた。

 



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205話

 ……目的を達成し、気を抜いたその瞬間こそ最大の「油断」が生じる。

 一度、刀を地面に突き立て、ニエは百鬼丸の体にできた傷口に手を突っ込み内臓をかき乱す。捜した物が無かったらしく、腕を引き抜き刀を持ち直す。

 (――ここしか無いッ!!)

 腹部から胸元までを一直線に斬り裂かれた刹那、百鬼丸は気力を振り搾る。薔薇の花弁に似た血飛沫が外気に飛び散る中、斬り裂き終わり天空を衝く刃の切っ先を確認した。――直後、百鬼丸は敵が握る《無銘刀》の鍔辺りに片方の足裏を当て、加速装置を発動する。

 ガチッ、とギアのかみ合った音と同時に太腿のリボルバーが回転し、猛烈な瞬発力を与える。

「――――!?」

 ニエは唐突な百鬼丸の反撃を予期しておらず、自らに襲い掛かる刃に驚愕するばかりだった。

 袈裟斬の要領で、ニエの胴体を斜めに《無銘刀》が襲い掛かる。咄嗟に片腕で防ごうにも百鬼丸の首を掴んでいた為に間に合わず、深く刃が喰い込む。

「ガッッッ!!!!!」

 目を大きく見開き、予想もしない反撃にニエは少年を睨みつける。

「へっ」とでも言いたげに百鬼丸は口をへの字に曲げて嘲笑う。

「くそぉおおおおおお」

絶叫。

腹の底からの憎悪の叫びだった。

しかし全身から力が抜け、膝から崩れたニエはあえなく地面に沈み込む。

仰向けになった純白の体は冬の夜空を見上げる。自らの手で斬り込む傷口には、柘榴の果実が砕けたような、苛烈な色合いの血肉が飛び散る。

口から多量の吐血をし、「ひゅー、ひゅー」と肺炎の犬のようなか細い呼吸を漏らす。

 

「キサマの本体を後ろの人間どもに見せつけたかったのだが……グッ、クソッ!! お前を……完全に殺せなかった……」ニエは口惜しさの残る口調で語る。

 

 ニエの拘束から解放された百鬼丸も同じく、地面に崩れ落ち、うつ伏せのままアスファルト地面の冷気を頬に感じた。

 

 「……………」

 だが、百鬼丸は白目を剥いており、意識は既に無かった。地面は赤い絨毯のように拡がってゆき、生暖かい液体を地面に吸わせる。

 

 「あははは、死んだ……か」

 ニエは安堵した様子で、微笑みながら暫く夜空の星々を見ている。

 ……短い人生の間で、星という知識では知っている「事物」を肉眼で捉えていた。

(おれ達は…………なんのために生まれてきたんだろうな?)

 果てしない虚無感と孤独に襲われながら、ニエはただ濃紺の夜を凝視していた。己の生まれてきた「意味」について、もうすぐ終わる生命の中で考えていた。

 

 「ぎぃー、ぎぃー、ぎぃー」

 と、生暖かな感触と温度がニエの指先を舐める。

 

 (……なんだ?)

 ニエは気力を振り絞り、視線を左手の方向へと動かす。

 

 

 「――――ようやく、本来の姿を現したな〝バケモノ〟」

 にっ、と思わずニエの口角が釣り上がる。

 

 彼の指先を舐めていたのは、無脊椎動物の……もっと言えば、ナメクジに似た形状の不思議な生き物が、輪っかの口から舌を伸ばして純白の指を舐めていた。

 ピンク色の臓器色をした体表はドロドロのケロイド状で、人間の眼球が一つだけ、体の真ん中で蠢いている。

 

 この醜い生物は、へその緒の様な管が体の一部に繋がっており、目線で管を辿ると百鬼丸の口に繋がっていた。

(そうか……ヤツの舌の奥か……)

図らずも、捜していたモノを発見した。

最早、百鬼丸であった筈の肉体(イレモノ)は使えなくなっていた。

思わず、喜びが胸に一抹拡がる。

「醜いなぁ、その姿形、まさしくお前本来のモノだぞ、百鬼丸」ニエは勝ち誇ったように告げる。

 ――百鬼丸、と呼ばれた肉塊生物は、酷い匂いを漂わせていた。

 アンモニアの強烈な匂いと、腐った肉を何重にも凝縮した――執拗な悪臭が辺りに漂う。恐らくこの地上で最も醜い存在の一つだ。

 

 

 ――しかし。

 

 その醜い生物は、輪っかの口に生えた無数の牙の間から、必死に舌を伸ばして指を舐めていた。

 

「なにを、している?」

先程からこの醜い生き物は、労わるように長い舌を伸ばして必死にチロチロと指先を舐めていた。

 

夜に慣れた目で、醜悪な生物を今一度みていた。

 

 

「眼球」のような部分には水分が分泌されていた――恐らく〝涙〟だろうか。クローン人間の生成にあたって失敗した生き物……不細工な生き物は、成功品であるニエに寄り添うように近づき、ただひたすらに舐めている。

 

「キサマッ、そんなに成功したおれ達が羨ましいのか?」

激昂したニエだった……成功品である自分に対し、勝ち誇ったような行動だと解釈したのだ。

指を乱暴に動かし、肉塊の生き物を弾き飛ばす。

 

「ぎぃー」

肉塊の生き物は二、三回、地面を転がりながら飛んでゆく。しかし、懸命にまた動きだしてニエの指を舐める。眼球のような部分からは、透明な液体が溢れていた。

 

「なんだ? なんのつもりだ?」

もう一度、ニエは指で弾く。

しかし、再び、生き物は諦めずにまた近づき、舐める。

 

……何度も、それを繰り返した。

 

やがて、ニエはこの生き物の意図するところを知った――――この生き物は他意も無く、ただ慰めようとしていた。

いま、尽きようとしているニエの生命と、これまで負ってきた過酷な運命に対して。

何度弾かれても、そのたびに近づき、喋る代わりに舌で舐めて孤独を癒そうとしているのだ。

「くくくっ、あははははは!! 馬鹿か!? もう、おれは死ぬ! お前もじきに死ぬだろうな? 今更なんだ? 同情のつもりか?」

 最期の力で怒鳴りつける。

 ……正確に言えば、ニエは目の前の生き物にでなく、理不尽な運命に対し怒鳴っていた。なぜ、過酷な運命を授けるのだろう? その鬱憤を晴らすように。

 

 「ぎぃー、ぎぃー」

 小さき生き物は、眼球部分からポタポタと地面に涙をあふれさせ、必死になってニエを慰めていた。

 

「やめろ、もういい! なぜ、お前なんだ――」

「ぎぃー」

 

 

 

「なぜ、失敗作だったはずのお前が……お前だけの人生を歩めたんだ?」

震える声音で、ニエは問う。

 

 

……彼らクローン生体は、生まれた瞬間から圧倒的な力を示すことができた。実験用の水槽から引き揚げられてから53日間だけ、クローンは生きることができる。しかし、テロメアと呼ばれる細胞が圧倒的に短いため、生命も短く終わる。

そして、活動を終える53日目に、脳みそと付随する器官をトリミングされ、次のクローンへと移植される。

そうして、経験と知識のみを継承してクローンたちは進化する。

 

「ニエ」と呼ばれるクローンたちは、記憶と経験、そして〝感情〟を継承しながら新たな肉体へと宿る。

 何度も、何度も、何度も死んで…………また、復活する。

 無限地獄だった。

 

 

 濃緑の液体から毎回引き揚げられる時の絶望は――そして、与えられた使命こそがニエにとって世界の全てだった。

 

 ニエは深く瞼を閉じる。

「おれ達はお前が羨ましかったんだ……百鬼丸。たとえ、お前がどんなに過酷な運命を、経験をしていたとしても――だ。それでも、お前だけの人生だろう? 羨ましかったんだ。おれ達も、お前のように自由に生きてみたかった。たった一日でもいい。自由でいたかったんだ」

 

まるで、「分かっている」とでも言いたげに、肉塊の生物はぎぃー、ぎぃー、と不気味な鳴き声を漏らしながら、ニエの指を舐め続ける。

 

 

「――お前よりも完全な存在な筈だったんだ。おれ達もお前もこの病院で生まれた。……だが、その後の生き方は違った。おれ達は……成功した筈だったんだ。……だが、なぜこんなにも、心が寒いんだ?」ニエは、呟くように言った。

 

 目を再び開いた時、先程まで見えなかった星々が冷たい光を放ちながら視界に満ちた。

 銀色の粒たちは、数億年前の存在で……今はもう、跡形もなく消えているだろうか。

「おれ達みたいだ。……ただ、おれ達は誰にも知られることもなく、消えてゆくんだ。百鬼丸、怖いんだ。憎まれてもいい、でも、誰にも知られず何度も死ぬのは……怖いんだ」

 ニエは始めて弱気な口調で、涙を流しながら言った。

 

「ぎぃー、ぎぃー」

 指を舐めていた生き物は、ウニョ、ウニョとニエの体をよじ登って、悪臭と涙に似た透明な体液を眼球から垂れ流しつつ、肩の辺りまで到着した。

 

 

「どうした、トドメでも刺すのか? その体で?」

泣きながら、ニエは思わず鼻で嗤う。

――しかし。

肉塊の生き物は、舌を伸ばしてニエの新雪のように白い肌を舐めた。頬から伝う涙を止めようとしているらしい。

「ふっ、あははははは、お前はどこまで馬鹿なんだ。…………きっと、そうか。お前が自由に生きられた理由が少しだけ分かった気がするよ。そのお人好し……違うな。その無知さが――共感することだけがお前を特別にしたんだな」

 同じ細胞を持つニエと肉塊の生き物。彼らは触れ合った瞬間から、全ての記憶も情報も……そして、悲しみな喜びの感情を伝え合うことが可能であった。

 両者はまさしく、今、この段階で「一人」だった。

 

「ゴホッ、ゴホッ、もう――終わりか。なぁ、百鬼丸、頼みがあるんだ。都合がいい話かもしれんが……頼む」

「ぎぃー、ぎぃー」

「おれ、を喰ってくれ。完全にこの生命が尽きる前であれば……同種の個体であるお前ならば可能だ」

まるで、「いやだ」と拒否するように肉塊の生き物はジリジリ後ずさりする。

「頼む。おれ達は遅かれ早かれ、組織に回収されてまた、同じ地獄を味わうんだ。その前にお前に喰われて、お前の一部として生きたいんだ」

「ぎぃー、」

「そうすれば……ようやく、おれ達も自由になれるんだ。頼む百鬼丸。おれ達も、お前に……お前の味わう、苦しみも悲しみも、喜びも共に感じさせてくれ! おれ達が本当に欲しかった、自分だけの人生が欲しい!」

ニエは目を大きく見開き、小さな生き物を凝視する。

 

「……頼む。もう時間がない」

 

「ぎぃー、」悲しそうな鳴き声で、応じる。

 

 

「…………おれ達を自由にしてくれ」

 




読んでくださりありがとうございます。
もし、良かったらアンケもオナシャス。


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206話

かなり胸糞わるいです。
閲覧注意です。

結構アレな描写が多いので、この話だけは飛ばしても構いません。


〇月×日

私(橋本善海)は、とある研究機関に雇われた。そこでは、新たな「兵器」を作るために研究をするらしい。なんでも、荒魂を人類の文明に活用できるようにするらしい。日米合同の研究チームという事で、気を引き締めなければいけない。

 

 

〇月×日

研究の概要は、ごく簡単なものだった。それが故に恐ろしい内容でもあった。だが私は一度この研究を引き受けた以上、最後まで完遂義務を負わねばいけない。それが研究の契約であるから。

 

〇月×日

被験者となるのは、「轆轤秀光」という男性だった。彼は眉目秀麗であり、一見するとモデルかと思うような人物だった。――「どうぞよろしく」と、微笑みかける爽やかな笑顔は作り物のようだが、それが分かっていても多くの人々の目を惹く。彼は男女を問わず魅了する能力のようなモノが備わっているらしい。

 

〇月×日

「轆轤秀光」の体から幾つかの細胞を採取し、それをベースに「クローン人間」を作成する。細胞の培養には時間がかかるため、暫く時間を必要とした。ある程度成長した後で、「ノロ」のアンプルと混ぜる研究も行われる。……正直、最初こそ自分でも抵抗感があったが、最近になって結果が気になって仕方がない。

 

〇月×日

思った以上に成果は芳しくない。理由には

 

――やはり、クローンをベースにしたノロとの融合にあると思われる。そのため、人間の姿形になれず、ドロドロのナメクジのような化け物(失敗作)が数多く量産されている。もし、成功して人の形をしていても、実験水槽の中でしか生きることができない存在だ。……失敗作たちは、ある程度の経過観察の後に処分されていく。あれを直視するのは精神的にキツい。

 

〇月×日

最近、秀光の衰弱が激しい。何度も体を切り刻まれているからだろう。当然だ。だが彼自身はむしろ研究のために、「早く次の実験を」と求めている。研究をしている私からしても、彼はおかしい。体が衰えているにも関わらず、精神だけが頑強……というより、何かを求めている気すらした。執念だろう。

 

〇月×日

つい昨日、妻から電話があった。無事、娘が生まれたとのこと。あとで写真が郵送で送られる。愉しみだ。

……それはともかく、研究は完全に行き詰まりを迎えていた。しかしあと数日でアメリカから高名な兵器研究のジョー・シュタインベルク博士が合流するとのこと。

 

〇月×日

ジョー氏は、正直に言おう。

狂人だ。そして、天才だ。

我々は倫理観という蓋で今まで、出来ない事が多すぎた。ジョー氏のプランは人道に反するもので最初こそ研究チームからは批難されていたが、途中から皆の耳目を集める内容になった。

……つまり、ノロに馴染ませる人体には「刀使」の血を仕えば良いのだ、と。

我々も考えないではなかった。しかし、彼はさらに踏み込んで革新的かつ具体的なアイディアを提示し続けた。

例えば、殉職した刀使の肉体を使う、など。だがそれは一蹴された。

そもそも、生命力のない肉体ではノロが入り込む容器として利用されるだけだ。それはこれまでの歴史が証明している。

 

 

〇月×日

久々に秀光に面会すると、彼は明らかに憔悴しきっていた。だが、「まだ研究は続きますよね?」と笑顔で尋ねる。私は呆気にとられた。

「なぜ、君はそこまでこだわるんだい?」と思わず聞いた。

「――私には、剣が必要なんですよ」

意味深な言葉と共に、彼は虚ろな目で微笑んだ。

 

〇月×日

――――僥倖、というべきだろうか。

これまで行き詰まりをみせていた研究に進展があった。

高津雪那という女性が、この病院、もとい研究所に現れた。彼女の腕の中には温かな毛布に包まれた赤子が一人いた。

「この子はまだ死んでいない、そうなんですよね?」

やつれきった表情の中、声の調子が高く叫んでいた。

彼女を連れてきたジョー博士は笑顔で頷きながら、

「ええ、勿論。その子は死産したのではありません。この研究で復活するのですから」

さも、正しい意見を述べているようなあの男は、詐欺師だ。

あの男には、死産した赤子すら「実験の材料」としか見えていないらしい。まさに悪魔だ。……いや、この研究に関わる私もまた、その悪魔の一味だ。

 

 

〇月×日

あとで知ったことだが、高津雪那とは、あの十数年前の「鎌倉の事件」の英雄の一人だったらしい。刀使としての能力は高いモノだと思われる。

ジョー博士の説明によると、彼女は初めての我が子を死産で失ったことが、事実として受け入れられず、精神を壊したらしい。だから、ずっと赤子を抱き続けて、まだ生きている子供のように扱っているとのこと。

「あの女性は、可哀そうだ。そうだ、秀光くんに頼もう。彼は何か秘術によって人の記憶を少しだけ改ざんすることが出来るのだろう?」

ジョーは、完全にあの赤子を材料として手に入れたいらしい。

 

 

〇月×日

ジョーの考えは完全に的中した。

「――あなたの苦しみは今、楽になりますよ」優しい声音で高津雪那を騙した。

彼女には心療内科の治療の一環と称して、秀光の不思議な能力を用い、記憶の改ざんを謀った。

結果、彼女はそもそも「赤子を死産した」という辛い現実自体を消し去った。

以後の彼女はまるで人が変わったように明るく、そして傲慢に振る舞うようになった。……どこか行き場のない愛情を求め、与えようとするみたいに。

 

 

〇月×日

折神紫が研究所の視察に来た。

彼女はまるで一〇代のような容姿で、変わらない。

冷徹な眼差しで、研究員の説明を聞いているフリをしながらノロのアンプルや「赤子」を「保存」している部屋を興味深そうに眺めていた。……そして、彼女の口端が微かに釣り上がるのが解った。……彼女は何を企んでいるのだろう?

 

〇月×日

ついにこの日がきた。

赤子を基盤にして、秀光から採取した細胞を融合させ、そこにノロを投与する。詳細は――あまりに惨い。人の尊厳というのは、倫理観というのは、こんなに脆いものだろうか? 私自身、仕事場では普通だが、一人になると頭がおかしくなりそうだ。なにが人を人たらしめるのだろう?

ジョーは、最近では折神家に出入りしているらしく、江ノ島での調査をしているとの噂。彼の姿を見ないことが安心でもあり、同時に不安にもさせた。

 

〇月×日

――――非常事態が発生した。赤子が喰われた。

いや、それは正確ではない。

研究所が、数多くの荒魂に襲撃された。目的は……赤子だった。

研究員たちは急いでシェルターに逃げた。秘密裡なプロジェクトだったため、刀使は無論警護として使えない。我々は荒魂たちが消え去るまで、身を潜めてやり過ごすことしかできなかった。

 

 

〇月×日

……なんてことだ。

赤子の体は無残に食い尽くされていた。手術台に乗せられていた赤子――だったナニカは、まるでこけしのような形状をしている。私は思わず膝から崩れるように脱力した。

「なんてことをしたんだ」

と、無意識に呟いていた。

私はいままで、どれほど冷徹なことをしていたのだろう。ただ、非道な現実を前に小さい不満を紙面に記すだけで何ら行動をしてこなかった。死んでもなお、こんな惨い仕打ちを受けるようなことがあっていいはずがない。私は、生まれたばかりの娘が、頭を過った。あの高津雪那もまた、悲しい存在だ。わが子を失いながら、本来愛情を注ぐべき子供がこのように惨い扱いを受けているのだから……。

私は、どこまで落ちたのか。

人類の医療発展のために、尽力するつもりでこの研究に参加した。だが待ち受けた結果はこんなにも酷いものだ。

打ちひしがれる私の耳に、研究所の皆がヒソヒソと囁き合う声が聞こえていた。

『どうする、コレ』

『ジョーさんが来る前に始末しないとな』

『あの……失敗作を棄てる場所に投棄すれば、荒魂に被験体がきれいさっぱり喰われました、って言い訳ききますよね』

――――コイツラは悪魔だ。

いや、私もその一味だ。今更、なにを善人ぶっているんだ?

 

 

〇月×日

闇の底、十メートル近い暗渠の中に赤子の遺体を投棄する……そんな残酷な役割をするのが私になった。理由は簡単だ。――誰も「酷い役割」をしたがらなかった。

自分の手を汚したくない。

ただ、誰かがやらなければいけない。

――ならば、私がなぜやる? これは報いだ。いずれ、こんな非人道的な研究は歴史に出ることもなく処理されるだろう。だが、それで私自身は自分を許すことが出来ない。

……投棄? 

違う、馬鹿をいうな。

この赤子も、本来であれば安らかに安置される筈だった。決して人体を玩具のように扱っていいはずがないのだ!

せめて、この子の体は投げ捨てるなんてひどいことは出来ない。

 

 

 

私は気が付くと、地下まで続く階段を下りていた。薄暗い蛍光灯だけが点る中、私は無心で赤子を抱いて暗渠の最下層まで足を向けていた。

ひどいアンモニア匂いと、肉の腐ったような匂いが鼻を刺激する。思わず吐き気がした。

だが、足を止めるワケにはいかない。この赤子を――

階段を下り切ると、地面には無数の目玉の海が泳いでいた。

「ギィー、ギィー」と耳障りな鳴き声が聞こえた。

まるで、赤子にすらなり切れない生物が悲しみを訴えかけるようだ。

ヌラヌラした体液を撒き散らしながら、私の存在に気付いた「化け物」どもが私の足元に近づく。

「近寄るな、化け物どもがッ!」

思わず、私は怒鳴っていた。生理的な嫌悪から叫んでいた。

ゾワッ、と悪寒が背筋を走った。

(私は、なんて偽善者なんだ…………)

いい加減、自分が人間である事が嫌になった。

「いいや、私たち人間が化け物なんだ。許してくれ……」

私は階段に腰を下ろして、暫く自分という人間の弱さに打ちひしがれていた。

死臭の漂う赤子を胸元に抱えながら私は必死に誰かの許しを乞うた。

……失敗作、と呼んだ生き物たちは私の怒鳴り声に怯え、私に近寄ろうとはしなかった。…………ただ、一匹を除いては。

 

何かが近づく気配があった。

「ギィー、ギィー?」

ひときわ小さく、ピンク色の肉塊の体のアチコチが齧られた痕跡がある。……どうやら、この失敗作たちは、弱い個体を食べて生存しているらしい。

生き物は残酷だ。だが、それは自然の生存本能だ。

 

 

「なんだお前」

私は棘のある口調で、不気味な化け物の目玉を睨む。

「ギィー、ギィー」

耳障りな鳴き声で、私に何かを訴えかけているようだ。

「なんだ?」

奴の目玉の視線を辿ると、赤子に行きついた。――まさか、

「コイツ、この子供は餌じゃないんだぞ!」

いいや、本当はこの子供を隠蔽するために持ってきた筈だった。どこまで腐っているんだ、私たちは。

――――だが、そのひときわ小さな個体は、目線だけで何かを訴えかけていた。

「……?」

私はその時、無意識にこの不気味な生き物の行動の意図が理解できた。……なぜだろう。理由は分からない。ただ、この個体が「赤子」を、食欲など残酷な理由以外で求めている気がした。

抱きかかえた腕で、分厚い毛布を引き剥がし、恐る恐る、生き物の目の前に赤子をみせた。

 

「ギィー、ギィー」

アチコチ齧られた痕跡のある体をヨロヨロと動かして、小さな口の部分から細長い舌を伸ばしてきた。

「――!!」

パチッ、と私は腕を振って舌を振り払う。コイツはやはり「食べる」気だったのか?

しかし、それでもあきらめずに、小さな個体は細長い舌を伸ばして、赤子に触れようとした。

…………その一個だけの目玉に「涙」のような透明な液体を湛えながら。

「っ!!」

私は、思わず胸が締め付けられる思いがした。

触手のように伸びた舌先が、まるで労わるように赤子を舐めた。

「ギィー、ギィー」

他の個体の鳴き声とは違う、まるで同情し、共感し、――そして優しく癒そうとするように小さな個体が泣いた。

「なんでだ……お前も、理不尽に生み出されて世界を、私たちを恨んでもいいはずなのに、なんでお前は、誰かの為に泣けるんだ?」

私は、いつの間にかこの小さな一個の生き物に、語りかけていた。

 

「私は、私たちは到底許されることのない行為をいくつもしてきた! ……お前たちを理不尽に生み出してしまった! 荒魂もそうだ! 人間の愚かさで都合で生み出してしまった! ……この子もそうだ。身勝手な連中と私のせいで、死んだ後も、こんな惨い目にあって」

 

誰がこの子の為に泣いた?

 

今のいままで、この失敗作と罵ってきた生き物が泣くまで、誰一人として赤子に関心すら示さなかったではないか?

 

 

(痛い、怖いよ……)

「…………え?」

幼い子の声が聞こえた。

私は思わず周囲を見回したが、その正体はどこにもない。

(痛い、痛い、痛い)

だが、悲痛な子供の叫びが聞こえる。耳にではない。

まるで、脳内に直接語り掛けるように。

「まさか」

目線を落とすと、こけしの形状になった赤子が――すでに死んだと思われた赤子から訴えかけが聞こえていた。

「きみ、か?」

(寂しい、寂しいよ)

「どうして、声が……お前か?」

舌を伸ばして、赤子の頬を舐めていた肉塊の生き物が、この子の精神の声を私に伝えているとでも? 

「ギィー、ギィー」

その肉塊の生き物は、目玉から涙を溢れさせ、同情するように泣き続けていた。

 

 

まったく荒唐無稽な行為かもしれない。……だが、この「死んだはずの子」を、生き返らせる方法が――この生き物によって出来るのならば、あるいは……。

 

「おい、お前。この子の為に犠牲になる気はあるか?」

自然と、私は醜い部分をさらけ出しながら、小さな肉塊へと語り掛けていた。

 

「ギィー、ギィー」

透明な涙を溢れさせていた生き物は、私の言葉に反応したように目玉をギョロリと動かし、暫く視線を絡ませた。――少ししてから、「わかった」と頷くように、小さな生物が近寄りながら目玉を頷かせるように動かした。

 

 

 

…………もう、私は普通の人間の倫理観で生きることができない。

…………悔やむなら、もう遅い。

…………きっと、いい死に方はしないだろう。いや、望んでなどいない。

…………だが、この赤子と、この生き物を、私は、

 

 

「この子を活かすため、犠牲になるんだな」

念押しするように、小さき生き物を見詰める。

 

「ギィー、ギィー」

強く跳ねて強い意志を示した。

もはや、疑うことは出来ない。この個体は確かに、共感し、同情し、そして自己犠牲によって誰かを「助け」とようとしていた。

他の個体とは明らかに違う。

「この子を救ってくれるのが、人間ではなく、お前でよかった」思わず、私は呟いていた。

 

 

〇月×日

赤子と失敗作だったはずの生き物を融合させる恐ろしい手術を私は秘密裏に行った。……結果として、成功した。

……だが、もう、この研究所に居ることも出来ない。

私は研究所を去って、人目を避けて生きようと思った。余りに業深く罪を数多く犯した私は、この子を育てることに決めた。

 

 

……もし、この子に自身の出生を聞かれた時は嘘をつく。

かつて、戦国時代に活躍した伝説の人物、「百鬼丸」の物語を下敷きに語り聞かせよう。そうすれば、信じてくれる。

真実はあまりに惨すぎる。

 

 

 

〇月×日

このロクでなしを、初めて「父」と呼んだ。私の中に複雑な感情が芽生えた。――私は、お前に何一つ報いることができないのだ。

――百鬼丸、お前はあまりに優し過ぎるのだ。

許されていいはずのない、私の人生に、光明を与えてくれた。

私を慕ってくれるお前は、どこまでも優しすぎるのだ。

――お前の本当の強さは「共感」してやることと、「優しさ」だ。

誰かの痛みを自分のことのように思って、涙を流して、損を承知で自己犠牲を果たす。お前は――もっと幸せになっていい。

 

 



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207話

「小娘風情が知った風な口をきくなッ!!」

 秀光は血走った目で激昂し、テーブルを挟んで座った可奈美の胸ぐらを掴もうとして――深呼吸して自制する。こめかみに青筋を浮かべながら、激情を堪えて痙攣した表情筋で可奈美を睨む。

「……チッ、つくづく扱いにくいお嬢さんだ」

 肩から息を抜いて毒づく。

「――もしもあなたのお話が全部本当だったとしても、それで私の意志が変わることはありません」

 くりっ、とした大きな琥珀色の瞳で少女が断言する。

 ぎゅっ、と強く赤い美濃関のプリーツスカートの裾を握り、真摯な眼差しで秀光を見返す。

(こういう手合いの人間が苦手なんだ――)

 かつて、秀光は可奈美のように純粋な『刀使』を知っていた。

「……分かりました。あくまであなた方が独自の路線を行かれるのであれば、忠告は無駄でしたね」

 テーブルに置いた携帯端末を手に取ると、すぐに通話を始めた。

 短い会話を終え、秀光は改めて可奈美と姫和を交互に見比べた。

「あなた方の身柄は一時的にですが、我々の管理下に置かれますが――正直、最近の荒魂出現によって優秀な刀使がひとりでも必要ですから…………はぁ。事実上の釈放です」

 酒気を帯びた微かに赤い顔で、秀光は苦い笑みを口元に浮かべる。

 

「「!?」」

 ふたりは、思わず動揺した。

 まさかこうもアッサリと釈放されると思わなかったのである。

 その困惑する様子をみて秀光は笑う。

「警戒しないで下さい。わたくし自身は、刀使を殺すつもりはありません。むしろ、あなた方の身の安全を最大限に守りたいとすら思っていますよ。……無論、轆轤家の人間以外は、ですが」

 そういいながら、エレベーターホールの方から数人の足音が聞こえた。

 可奈美と姫和は思わず身を固くして警戒した。

 ホテルの従業員用の制服を身に着けた男性たちが、営業スマイルを浮かべながら、長方形のアルミ製アタッシュケースを抱えて持ってきた。

「お二人の御刀は返却致します。…………どうか、これからもご無事で任務を遂行してくださいね」

 余りにも呆気なさ過ぎる対応に姫和は、

「お前はどういうつもりなんだ!」

 と、キツイ口調で睨みつけた。

 秀光はただ「はぁ」と面倒くさそうに溜息をついて、「わたくしの本来の役割は、あなた方の身の保護なんですよ。勿論、維新派の方々の思惑は違いますが。彼女たちは――というよりも、タギツヒメは世界を滅ぼしたがっている。わたくしも概ねその考えに賛同しますが、全滅まではやり過ぎた。そう思うだけですよ」

 人類の滅亡という重々しい言葉を、まるで冗談のように言い捨てる。

 ちら、とホテルの従業員の男たちに視線をむけ、

「勿論、彼らは〝私〟の重要な部下ですからご安心ください。この話自体、まだ政府もどこの官庁のお偉いさんたちも知らない話ですから。……あなた方は、特別ですよ。その滅亡する世界を救う救世主となれるのか。せいぜい頑張って下さいね」

 マシンガンのように連続して喋る秀光は、酒に軽く酔っているらしい。

 ニタニタとして、姫和の敵意を爽やかな笑顔で受け流している。

 

 「ちっ、もう二度とお前などと会いたくない。それだけはハッキリと分かった」

 姫和は吐き捨てるように言って、開かれたアタッシュケースから《小烏丸》の太い黒瑪瑙色の太い鞘を掴み、エレベーターホールへと歩き出す。

 

 「姫和ちゃん…………」目線で黒髪の少女を追う可奈美は、急いで椅子から立ち上がり、ホテルマンの男性からアタッシュケースの《千鳥》を受け取る。

 

 「秀光、さんでしたよね」

 振り返り、戸惑い気味に言葉をかける。

 「……ええ。どうかされましたか」

 突然声をかけられ、一瞬だけ反応の遅れた秀光。それでも営業スマイルは崩さず、返事をする。

 「――私は皆を守るって決めているので」

 「は?」

 少女の唐突な宣告に、思わず秀光は間抜けな顔をした。

 「――世界が滅ぶかもしれないんですよね?」

 「わたくしには、詳細は分かりませんが……」

 「そうだとしても、私は、刀使(わたしたち)は最後まで守ります」

 凛々しい表情で可奈美は告げる。それは確定事項らしい。瞳の奥には一切の迷いがなかった。

 彼女の言葉に呆気にとられていた秀光は、やがて「くくくっ」とひそかに笑い始めた。

 ――それから。

 「そうですか。それでは愉しみにしていますよ。貴女の母上と同じように……〝英雄〟たらんとする、その心意気。見守らせて頂きましょうか」

 秀光はそう言って、微笑む。

 

 「ししょ……お母さんのことを知っているんですか?」

 母の事に触れられた可奈美は思わず、聞き返した。

 しかし、秀光は既に話相手にする様子もなく、ただ部下のホテルマンに扮した男たちに「彼女たちを無事に送って差し上げなさい」とだけ命令して、携帯端末を使って誰かと会話を始めた。

 

 可奈美は、この国の権力を自在に操れるはずの男を前にして、どこか哀れな印象を持った。

着崩した白いワイシャツに隠れているが、彼も相当の剣士なのだろう。

 素手の武芸にも精通しているようだった。

 何より、四〇歳を超えてもなお衰えない整った顔立ちに、どこか人外めいた感覚すらした。

 「……百鬼丸さんのこと、教えてくれてありがとうございました。さようなら」

 亜麻色の髪の少女は、深々と頭を下げて一礼すると運動靴の踵を返してエレベーターホールへ強い足取りで向かう。

 

 

 横目でチラリと、可奈美の後ろ姿を眺めた秀光は憂いを帯びた目で、「私こそ礼をいうべきでしたね」と、小声で呟いた。

 『――轆轤さん、どうされました?』

 電話の相手は、意味の分からない文言を吐いた男に困惑した。

 「ああ、いいえ。こちらの話です。すいません。ええと、それで…………折神紫の確保ですね」

 その後もそつなく相手と会話を続けながら、エレベーターホールから姿が消えるまで、秀光は二人の刀使を見送った。

 

 

 ――――二度とは出逢わぬ人間たちを記憶に刻むように。

 

 

 

 2

 夜闇の中、バギリ、バギリ、と枯れ枝と湿った咀嚼音だけが異様に響き渡る。

 それも、5分間の出来事だった。

 …………その間、沙耶香たちは、二人の「同じ顔をした少年」たちの戦いを指をくわえて見守ることしか出来なかった。否、動く事が出来なかった。

 

 両者の戦闘は、すぐに暗闇へと転じて姿をくらませたのである。

 しかも、手練れ同士の戦いだ。

 戦闘不能の沙耶香、一般人の大関、そして舞草のサポートを担当する少女たちには戦闘の支援は不可能であった。

 

 ただ、一条の光を走らせるライトで百鬼丸たちの姿を捜すことしか出来ない。

 広い駐車場ではあるが、それでも限度というモノがある。音のする方角である程度の位置は予測できる。しかし、だからと言って、戦闘に巻き込まれることも本意ではない。

 ――したがって、彼女たちはその場から動かない、という選択肢を採用した。

 

 

 

 3

 ……私は、むかしから「何を考えているのか分からない」って言われてきた。

 『糸見さんはもう少し笑顔をつくってみると、友達も増えると思うな』

 と、前に学校の先生に言われた気がする。

 ――でも、分からない。

 どうすれば笑えるのか?

 どうして笑うのか?

 どうして他の人と一緒に居ないと駄目なのか?

 自分自身の頭で考えることが苦痛だった。……だから逃げた。

 刀使になって任務を達成すれば、笑顔じゃなくても大人たちは褒めてくれた。それは嬉しかった。難しいことは大人が考えてくれればいいと思った。

 他人の感情を読み取ることが苦痛だった。

 どうして相手が泣くのか、どうして怒るのか、どうして喜ぶのか――全部から逃げていた。

 ……そうしたら、いつの間にか周りが見えなくなった。

 ノロが体内に打ち込まれたとき、本当の《孤独》が私の中に染み込んできた。悲しくて、誰かに暴力をぶつけたくなった。

 ひとりぼっちが――本当に怖いんだ、ってようやく理解できた。

 だから、ノロを受け入れた今ならわかる。

 荒魂たちも、本当は寂しいってことに。

 ねねと薫みたいに、分かり合いたい……。

 相手を知りたいと思うようになった。

 …………例えば、百鬼丸みたいに、今までよく分からなかった相手にもきちんと話をしたいと思う。

 今の私なら、できると思う。

 

 

 4

 二重に輪郭線の滲んだ視界を何度も瞬きして、沙耶香は首に違和感を覚えた。指先で原因を捜すと、絆創膏が貼られていた。自分がどうやら一瞬だけ、気絶していたらしいと合点がいった。なにせ、〝ニエ〟との対決で何度も《写シ》を剥がされた。

 体力と精神力の消耗は本人が思っていたよりも著しいらしい。

 紫紺色の目を完全に開いた沙耶香は、自分を抱きかかえる大関に、

「……百鬼丸は?」と、か細い声で尋ねた。

 ハッ、と大関は沙耶香の意識回復に気が付き、「え、ああよかった」と人のよさそうな笑みを浮かべた。――それから、

「百鬼丸くんは……もうひとりの白い奴と戦って…………」

 複雑な表情で大関は太い指で、不気味な音の鳴る方角に向ける。

 つられて沙耶香も指の向く方角に合わせて視線をむけると、だだっ広い暗闇だけが拡がる虚無の空間が続いていた。

 

 本来は、廃病院の広い駐車場の筈だが――バキリ、バキリ、と鳴る乾いた音のせいで、地獄のような連想すらしてしまう。

 

 しかし、その音はすぐに止んだ。

 長い沈黙の余韻が――この場を支配する。

 「音」の無い世界。それは、人を心理的な不安に陥れるには絶好の要素であった。

 

 どれほどの重苦しい沈黙が続いたのだろう? しかも、この場に居る人間たちは、誰一人として言葉を発することすら出来なかった。

 なぜか? 

 それは頭ではなく、身体の方が理解していたのだ――まことに異様かつ強大な力同士が衝突していることに。

 たとえば、山中で熊と出くわした時、人の肉体は野生の本能により身体が硬直する。

 それと原理は同じであった。

 しかも周囲は人の恐怖を煽り立てる「暗闇」。

 ……しかし。

 この場で唯一人だけ、事情が異なる少女がいる。

 糸見沙耶香は、なんとか持ち直した体力と気力を集めて自力で立ち上がると、脱力感の凄まじい体に鞭を打って歩き出した。

 「……百鬼丸、探さないと」

 一言、告げると沙耶香はふらつく足取りで、少年を探そうと行動した。

 「あああ、ダメだ駄目。危ないだろ!」

 大関は慌てて沙耶香を押しとどめようと立ち上がった。

 

 「……ううん、大丈夫」

 

「糸見さん、お願い待って」笹野美也子は、諭すように口を挟んだ。

 

「……どうして?」

 

「夜は本当に危ないの。貴女がいくら優れた刀使でも――」

 

「……ちがう。百鬼丸を捜すだけだから」

 

「だから、本当に待って! お願い」

 美也子は強い懇願の響きが籠る声音で沙耶香を押しとどめようとした。

 

 

 

――――その時。

 

 ぺた、ぺた、ぺた…………。

 湿った肉のような音が重なって聞こえた。

 

「「!?」」

 その場の皆が緊張のあまり、咄嗟に身構えた。

 ニエが勝ったのだろうか? そうすればこの場の全員が皆殺しになるだろう。いいや、捕虜になるのだろうか。それとも――。

美也子の脳裏には幾つもの絶望的なシナリオが浮かんでは消え、歯噛みをした。目的を完遂することが出来ずに終わるのか。

 

 

だが、そんな美也子の予想を裏切るように、夜闇からゆっくりと近づいてくる「人」の気配には一切の敵意がなかった。

 

美也子は持っていた懐中電灯をサッ、とその人影の方に合わせる。

 

『うぉっ、まぶしい!! ……って、おれだよ』

顔を守るように手庇をつくり、不機嫌に反応する少年。

 

 

 

「キミは……」

 思わず、美也子は訊ねていた。

 ニエと百鬼丸の違いは分からない。だからこそ、警戒すべきなのだ、と自分に言い聞かせるように。

 

 

「――あ、おれは……」

 

『……百鬼丸』

 沙耶香は、精一杯の音量で相手の名を呼ぶ。

 

「お?」

 少年は驚いたように眉を開いて反応した。

 

「……百鬼丸、おかえりなさい」

もう一度、沙耶香は相手の名を呼び、再会を歓迎した。

 

 

やや、長い沈黙のあと、

「――――ああ、ただいま」

百鬼丸は、懐中電灯の光に照らされながら何度も頷いて返事をした。白と黒の混ざった長い髪を夜風に靡かせながら、何度も頷く。

自身の両足で地上に立ち、再び再起を図るように。

「帰ってきたぞ」

 



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208話

 ――太陽系の中でも「水」と呼べる豊な資源を持つのは地球だけだ。

 隣から陽気な様子で、善海が言う。

冬の山から眺める星空は殊の外綺麗だった。冷たく澄んだ空気の中、呼吸するたびに白い息が目の前を過る。

「こんなに星がいっぱいあるなら、どこかに生き物はいるのかな?」

 無邪気な子供の質問に暫く考え込んだ後に、

「――今現在、知的生物というのは地球以外では観測されていないな。なぁ、百鬼丸。お前は宇宙人ってやつに会ってみたいか?」

「……ううん。おれは別にいいよ。何を話していいか分からないし」

 そう返事をしてからもう一度、夜空へと意識を向けた。

 

 

 幼い時のおれが唯一愉しみにしていた時間だった。殆ど人前に姿を出さずに生活することが、その時のおれにとっては当たり前だった。――理由は考えなかった。

 当時はそれが常識だと思っていたんだ。

 

『ねぇ、とおさん。一つ聞いてもいい? ――どうしておれを助けたの?』

 恐る恐る聞きながら、緩慢な速度で顔を上げる。躊躇いながらも、義父である善海の表情を確認しようとして――――

 

 

 1

 目が醒めた。

「夢、か」

見知らぬ天井がまず目に入った。

 朝の穏やかな日差しが毛布の上で斜光となって戯れている。

 ふーっ、とおれは浅い息を吐く。

 随分昔の事を思い出していたみたいだ。まだ、「幸せ」だった頃の記憶だ――。だが最後の一言……あんな事は一度も言った事がない。恐らく、今のおれの気持ちが勝手に入れ込んだ台詞だ。

「くそっ、なんつー夢だよ」

 気分が悪い。なんでこんな時に、昔の事なんて思い出すんだ。……うん?

――そういや、ここはどこだ?

 おれは、ふと周囲を確認する。

 トレーラーハウスだろうか? 室内である事に間違いはない。だが、簡素というか簡易的な室内や調度品の様子から、プレハブ小屋かそれに類するものだと推測する他ない。

 遮光カーテンは全開に開かれており、窓の外からは初冬の乾いて凍える風を感じた。窓の外は湖畔が望める。

 霜が降りているのだろうか、薄い飴色の固い皮膜のようなモノが樹皮や地面の草などに貼りついていた。……日の光は弱く降り注いでいる。

 何度か目を瞬き、昨夜の事を思い返す。

 確か、ニエを吸収したあと――そうだ、沙耶香たちと合流したんだ。ええっと、それで……どうしたんだっけ?

「なんだっけ?」

 必死に思い出そうと試みるも、何一つ記憶がない。否、記憶の映像が途切れているといった方が正確だ。

 

 今もこうして寝転がっているのもベッドではなく、分厚いソファーだ。でもまあ、寝心地は最高。

 

(もう一度眠ってみようかな……)

 体が気怠い。手や足の先端まで鉛を詰め込まれたような重さが感じられた。

「ふぁーあ、よし! 寝よう」

 久々に惰眠を貪ってみたくなった。この頃のおれは戦い続きでロクに休んでいないんだ。仕方ない。うん、仕方ないんだ。

 誰かに言い訳するみたいにおれは、ソファーの柔らかな感触に身を沈める。

 安眠の世界へとおれは瞼を再び閉じた。――筈だった。

 タイミング悪く、部屋の扉が大きくノックする音がした。

「うっす、起きてます」

 結構な不機嫌声でおれはノックに返事する。

ガチャ、とドアノブの音がして、恰幅のいい男が入ってきた。

「ええっと、大関さん、ですか」

「ハハ、そうだ。そういえば百鬼丸君自身とはあまり話した事は無かったね」

 人の好さそうな雰囲気の大関さんは左手に食器の乗ったトレーを持っている。

「朝食だ。食べるだろ?」

 湯気の立った食器からは、食べ物の匂いがした。

「あー、頂きます」

いそいそと毛布から抜け出したおれは、たった数秒の安眠と別れを告げることにした。

 

 分厚いハムを挟んだパンは網焼きの名残か、茶色い網目の模様で香ばしい匂いを漂わせる。

「これ、うまいっすね」

 百鬼丸は大きく口を開いてムシャムシャと食べる。

 バベキューソースのような甘辛いタレと、レタス、トマトの生野菜が咀嚼するたびに交わり、空腹の胃袋に収まってゆく。

「しかし気持ちい位によく食べてくれるな。作り甲斐があるよ」

 ソファーの近くサイドテーブルの椅子に腰かけた大関は、人懐っこい熊のように背中を丸めて微笑む。

「へえ、大関さんが作ったんですか、やっぱうまいっすね」

「ハハ、ありがとう。キャンプ慣れしているから、道具さえあればマトモに食べれる食事くらいはつくれるよ。おかげで、ほら、腹がこの通りだけどね」

 自らの腹をポン、と叩き大関は肩を竦める。 

 

「へへへへ」と軽く笑ったあと、百鬼丸は真剣な表情に変わって大関を正視する。「それで今、外の世界はどーなってんですか?」

 

大関は大きな目玉をパチリ、と瞬き視線を宙に彷徨わせる。

まるで、何かを言うべきかどうか悩んでいる様子だった。やがて、観念したように首を横に振り、

 

「……ついに、タギツヒメが行動を起こした」と、一言。

 

それだけで、百鬼丸が社会情勢を理解するには十分だった。

「状況は最悪ですね」

「――さあ、どうかな。百鬼丸君自身に関してはそうとも言い切れないんだ」

「えっ? それっとどういう?」

「君は、まあ全国指名手配された逃走犯なんだが――今はタギツヒメの命令で、国内の主な捜査機関やらは折神紫を捜しているね。だからコチラ側の捜査網がかなり手薄になっているんだ」

「というか、ここってどこなんですか?」

「ここ? あ、そうか。君はずっと眠っていたからね。ここは舞草の協力者が提供してくれた別荘だよ」

なるほど、と頷いた百鬼丸。

ふと、近くの壁に立てかけた《無銘刀》に目線を合わせる。刀身は白い包帯で巻き、隠している。代用となる鞘が見つかるまでの措置だ。

「……あの刀、迂闊に触ると死にますよ」

あの刀の狂暴さは誰よりも知っている百鬼丸だからこそ注意喚起する。かの魔剣は冗談抜きで悪鬼羅刹の血を吸い、魔に魅入られた危うい代物なのだ。

「ほほう、ならばあとであの娘に伝えておくよ」

「娘? ――そういや沙耶香はどこですか? 大関さんにも沙耶香にもお礼言いたくて」

「オレにお礼はいいよ。勝手にやったことだし……何より、田村から頼まれていたんだ。君にもしもの事があれば助けて欲しいってね」

「田村さんが…………へっ、あの人は相当なお人好しですね」

「ハハ、そうだな」

「あと、大関さんも」

「オレもか? そりゃどーも」

暫く黙り込む二人。冬の朝は気温も氷点下の前後を推移し、安定しない。冷たい空気の満ちた空間は、今の彼らの心象によく似て空虚だった。

 

「……沙耶香ちゃんなら、素振りでもしていると思うよ」

 ポツリと思い出したように大関が言った。

「大関さんはこれからどうします?」

「どうする、とは?」

「おれを助けてくれたことは本当に感謝してますよ。それでも、普通の生活に……もし、戻れるなら――おれと行動する危ない橋は渡ったら駄目だ。死にますよ」

「……そうだな。そりゃ、怖いな。死にたくはないな。ただ、だからと言って若者だけが戦うなんてのも可笑しな話だ」

「それは……本人が望んで戦うなら話は別ですよ」

「――――君は刀使が自分たちは好きで戦ってるから構うな、と言っても助けるだろ?」

「――――」

「君と同じなんだよ。理屈じゃないんだ。ココだ」

そう言って、大関は己の胸の辺りに親指を突き立てる。

「もう、誰も死んで欲しくないんですよ。……」

ぐっ、と拳を握って俯く百鬼丸。それは、これまでの後悔と罪悪感の連続の果て、彼が搾り出した叫びのような本音だった。

「その誰もって中に、君自身は入っているのか?」

「……おれは関係ないですよ。だって強いですから」ニッ、と口角を釣り上げて悪戯っ子のように破顔する。

大関はその大言壮語を吐く少年をマジマジと見る。

「傲慢というか不遜というか……いいや。それが実際に出来てしまうから、か」

「ええ、多分今のおれは弱くないですね」

「だとしても、君が傷つくと悲しむ人も居るはずさ」

「――そうだといいですけどね。まぁ、おれは元々バラバラ人間ですから、傷ならとっくの昔についてますよ、あはははは」

 ジョークのつもりで放った一言は、大関にはウケなかったらしい。神妙な面持ちで百鬼丸と目を合わせた。

「それと同じつまらん冗談を、あの娘にも言ってあげなさい」

やれやれ、と疲れた様子で大関は席を立ち、扉の方に「早く入ってきたらどうだい?」と声をかけた。

 

「うん?」

 百鬼丸は怪訝に眉をしかめて大関の肩越しに扉の方を覗う。華奢な人影がピョコンと動いた気がした。

 

「…………百鬼丸、」

 か細い声量で名を呼ぶのが聞こえた。

 

「おう、おれだぞ」

 気軽に右手を挙げて応じる。

 

色素の薄い髪がピョコン、と跳ねて、動揺しているようにみえた。

両手の指をモジモジと絡み合わせ、視線は落ち着かないように左右に動く。

「……おはよう」

ようやく思いついた言葉は、それだけだった。

 

暫く百鬼丸は何か用事があるのかと思って固唾を呑んで待っていたが、特に何も言わないために「おおう、おはようございます」と慌てて取り繕ったように挨拶を返す。

 

「そういやさ、沙耶香。お前にも伝えてなかったな」

「……なにが?」

「お礼だよ。お前に守ってもらってたんだよな、おれ。サンキューな」

親指を勢いよく立てた。

思い切り破顔してみせる少年の表情には一片の曇りもなく、年相応の十代の幼さが垣間見えた気がした。

その屈託のない笑顔に、思わず沙耶香は「くすっ」と口元を綻ばせる。

「……うん、どういたしまして」

 

 

 

 その日、日本のテレビ、ネットを含むメディアは一つの会見を速報として取り上げた。

 内閣官房長官が定例会見で用いる部屋を貸し切り、そこにまるで玉座のような椅子が一つ用意されていた。――それだけでも異様な光景である。しかし、その椅子に傲然と座る人影は更に異彩を放っていた。

 無数の報道カメラに投影された、その人影は憂鬱そうに肘をつき、

『我の名はタギツヒメ。お前たち人間がいう所の荒魂である――』

 堂々と宣言した。

 橙色の溶鉱炉のように燃える瞳が、カメラを通して人間たちを見下すような眼差しを向けた。

 純白としか形容できない髪と肌。すべてが薄光に包まれており、文字通り〝神々しさ〟を体現している。

『我は人間との共存を望み、ここに居る』

 

 

 



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209話

 二人は微妙な距離のはす向かいに座っている。

 「…………。」

 「…………。」

 ソファーに腰かけながら百鬼丸は、何を話すべきか考えあぐねていた。

 だが、いざとなれば思いつく話題もなく、沈黙する他なかった。ひたすら木目のフローリングを眺めて時間が無駄に過ぎる感覚を味わっていた。

 それもこれも、大関が「んじゃあ、まああとは積もる話もあるだろうから」と言い残して部屋を出ていった余計な気遣いに原因がある。

 (――くっそ、ああ畜生っ)

 仲も悪くないのに気まずい空気に、百鬼丸はつい居づらさが募った。しかも、落ち着かなくキョロキョロ頭を動かしていると、

 「……百鬼丸は」

 と、珍しく沙耶香の方から行動を起こした。彼女はサイドテーブルの椅子に座り、指先を絡ませて、時々、指先同士をクルクル回して落ち着きを取り戻そうとしている様子だった。――沙耶香は、レディース用のウィンドブレーカーに身を包み、首の辺りは黒いネックウォーマーを着用していた。

 火照った頬は、素振りなど運動直後の色艶だった。「……百鬼丸、」

「う、うん?」

ジッ、と百鬼丸を真正面から見据えた沙耶香の紫紺色の美しい瞳が、トボけた顔の少年の像を映す。

「――? な、なんだよぅ」若干怯えて震えた声で反応する。

瞼を二三瞬き、「ううん。なんでもない」と小さく首を振る。それから彼女は思い出したように右のポケットに手を入れた。

 

「……そういえば、百鬼丸に渡すものがある」

 沙耶香の右手に細い束が握られていた。

「あ、それ――」

 彼女が差し出したのは、渋谷の騒動で可奈美から受け取った髪を縛る紐だった。あの時、己を見失い暴力に身を任せ、血まみれになった時、ギリギリの場面で受け取った紐――たったそれだけのモノが、百鬼丸にとって人との関係を繋ぐ絆の象徴となっていた。

「サンキューな」

受け取ろうと左手を差し出した百鬼丸に対し、沙耶香は一瞬、躊躇したように紐をグッと強く握り締める。

「お、おい。どーしたんだよ?」思わず戸惑いを口にする百鬼丸。

「……百鬼丸は可奈美に会いたい?」

伏目がちに沙耶香は疑問をぶつける。

「うん? どういう意味だ?」

「……自分でも解らない。でも、あの時、黒い獣の姿になった百鬼丸を――怖がらずに最初に駆け寄ったのが可奈美だから」

「あー、なるほど。そうなんだな。いいや、でもまあ、普通じゃねぇか。おれだって、獣になった奴なんて近寄りたくねーし」

「……でも、可奈美はやった」

「そりゃあ、そうかも知れないけど、沙耶香に助けられたおれからすりゃあ、感謝こそすれ恨んでなんてねーよ。あんまり自分を責めるなよ」

 その瞬間、小柄な白い影がガバッ、と飛びつくように百鬼丸の腰元辺りに抱き着いた。

「ど、どーしたんだよ!?」

咄嗟の出来事に百鬼丸は困惑する。

「……分かりたい、ってずっと思ってた。百鬼丸はどんな存在でも、受け入れたいと思ってる。……でも、怖い。百鬼丸が怖い。それでも、一緒にいると知りたい。荒魂もきっとそうだと思う。寂しくて、怖い。それでも…………どうしたらいいか、わたしには分からない」

 柔らかく色素の薄い髪と、小顔を百鬼丸の脇腹に押し付ける。

(なるほどね。)

百鬼丸は肩を竦めて、苦笑いを漏らす。

「そっか。――不安、なんだよな」

「……不安?」

「ああ、そうだ。きっとさ、背負い込み過ぎなんだよ」

「……わたしは背負ってない。それは百鬼丸が――」

「違う、違う、おれとか他人は関係ないんだよ。沙耶香はさ、ノロの因子を体内で感じるだろ?」

「……うん」

「だよな。だからさ、分かるんだよな。あいつらの本当の感情とか、全部」

「……うん」

「そんでもって、その年で色々と背負うべきじゃない事まで沢山抱えたってことさ。それにさ、化物っになるの、怖いだろ?」

しばらく躊躇ったあと、沙耶香は強く頷く。

百鬼丸はニッ、と笑いかけて、

「――折角だからさ、おれに沙耶香の不安を聞かせてくれないか? おれは別に正しい答えなんて持ってないけど、ただ聞くことならできるからさ」

 揉むように髪の毛をワシャワシャと撫でる。紫紺色の美しい瞳を細め、気持ちよさそうに少年の手の感触に身を任せていた。

「対話、したいんだろ? ならさ、まずは沙耶香自身について訊かせてくれよ」

「……うん」

 胸の中のモヤモヤとした感情が一気に氷解したみたいに、沙耶香は安堵した。百鬼丸の手に、ゆっくりと可奈美の黒いリボンを返した。

 

 

 

首都地下に拡がる巨大坑道の一件からすでに、数日が経過した。

 東京の地層に溜まったガス爆発による地盤沈下――という事で、旧軍の構築した広大な坑道の存在は秘匿された。

 同様に地下で関係した者たちにも厳重な緘口令が敷かれ、一体なにがあったか詳らかに話すことを禁じられた。

 無論、元折神家親衛隊の面々も同様の処遇であった。

 

――午後8時50分。

 首都高を走る一台の黒いメルセデス・ベンツSクラスが東京から海老名方面へと移動している。

 その車窓に肘を置き、物憂げな眼差しで外を見る少女がいる。ワインレッドの髪が緩くウェーブした毛先を摘まんで弄りながら、軽く「はぁ」と溜息をつく。

 

 病院で散々検査をされたあとは妙な気怠さが残る、と此花寿々花は思った。

 

 彼女たち親衛隊は体内に残るノロの影響を調べるため定期的に、身体検査を行っていた。親衛隊の面々は夜見を除き、刀剣類管理局が管理する研究施設のもとで全て管理されていた。

 行動については制限が設けられているが、世間や社会の評価が現時点で最底辺を思えば現状でもマシなのかもしれない。

 ……そうやって、自分自身を納得させるしかない。

 (――まったく)

寿々花はもう何度目かも分からないほど、憂鬱な気分で額に手を当てる。己に言い聞かせて現状を受け入れる。――だというのに。

「ねぇー、ヒマだよぉ~戦いたいよぉ~」

 幼い甘ったるい声で不服を申し立てる人物が、後部座席でジタバタしていた。

「まったく、先ほどから……」呆れて車のバックミラーに目線をやる。

 

 

 

 

撫子色の髪を本革の座席シートへ流麗と流しながら、後部座席を倒して寝転がっていた。

「う~っ、うぅうううう!!」

 燕結芽は鋭い八重歯を剥き出しにお気に入りのマスコットキャラのクッションを抱きしめている。「悔しいっ、百鬼丸おにーさんなんて、絶対に私が強くなっても戦ってあげないから!」

 駄々っ子のように、数日前からこんな調子で叫んでいた。

 今回、寿々花と結芽はペアで身体検査を受ける手筈となっており、獅童真希は単独行動の経緯を刀剣類管理局で話終えてから合流する事となっていた。

 

「はぁ~」

と、疲れたように溜息を零した寿々花。

「いい加減にしなさい。これからまた別の病院で精密検査をするんですから落ち着いて……」

「だって! だって!」

「ええ、分かっていますわ。〝将来、美人で強い剣士と戦えなくなるなんてな〟でしょう?

良かったじゃありませんこと? あんなロクでなしの厄介ごとの塊みたいな存在と決別できて」

「それじゃ全然面白くないじゃん! やっぱり、私の方が強いって記憶に焼き付けるまで戦いたい~っ!!!」

「はぁ、困った子ですわ」と、額に手を当て小さく愚痴をこぼす。「そもそも貴女はもう病気で苦しむ事もないのでしょう?」

 寿々花の一言でハッとした結芽は、

「うん、百鬼丸おにーさんの青ノロのおかげで……あっ」

断片的な記憶が結芽の脳裏を過る。

折神家屋敷襲撃事件の際、生死の境を彷徨っていた彼女は大樹の幹に寄りかかり、死を覚悟していた。

――お前は生きろ。

そう言われている気がした。

視界が霞んでおぼろげながら、片目から血を流しつつ頭を撫でる人影があった。

ノロのアンプルによって生き永らえていた筈の結芽に、新たに副作用のない「百鬼丸の肉体」から生成されたノロを引き継ぐことで、現在も身体に問題なく活動が行える。

命の恩人であるとともに、良き対戦相手である――結芽は百鬼丸という生き物を無視できなくなっていた。

しかも、旧日本軍の地下施設で囚われた自身を救出までしてくれた。

「なんで、なんで普通は戦ってくれるよね? 一度断っただけじゃ足りないからやっぱり戦いたくなるよね?」

寿々花は車窓に額を押し当て、ゲンナリとした表情で首を振る。

「……では、結芽はどうしたくて?」

「たくさん戦うの。それで今は百鬼丸おにーさんの方が強いかもだけど、いつか私の方が強くなって泣いて謝らせるってどう?」

「どうって言われましても。ああ、そうえいば百鬼丸さんは刀使以外は興味がないようですから、いずれ結芽は刀使を辞める時がくると相手にされなくなりますわね」

「……えっ?」

素っ頓狂な反応で結芽は大きな瞳を瞬く。

「えっ、……って。まさか考えていなかった訳じゃないのでしょう?」

「――だって、そこまで長く生きると思わなかったもん」

結芽の放った一言は、寿々花に深くナイフのように突き刺さった。

「……そう、でしたわね。でも貴女はもう長く生きられるのですから、将来の事も考えたらどうです?」

 

「分からないよ……だって、私、戦うことしか出来ないし。ねぇ、寿々花おねーさん」

「どうしましたの?」

「百鬼丸おにーさんは、私が刀使じゃなくなったら嫌いになるのかな? もう戦ってくれないのかな?」

「もう、知りませんわ。本人に直接聞いてみたらどうですの? もっとも、どこに居るか分からなくて指名手配されている位なのですから」

「……そう、だよね」

「それに結芽はあの黒い獣の姿をみてもまだ会いたいとお思いで?」

「うん。百鬼丸おにーさんが強ければどんな形でもいいもん」

「形って、そんな粘土人形みたいな――」

「だって百鬼丸おにーさんは私に優しいもん」

寿々花の論理的な頭脳では、結芽の支離滅裂な会話の内容に辟易していた。一方で寿々花自身、年ごろの少女たちより、やや幼く危うい考えの彼女を実の妹のように可愛がってもいた。

「そう、お優しいのは結構ですけれど、それで? じゃあ、倒してしまえばもう関係ないので結構ではないですか。放っておけば……」

「ちーがーうーの! 私が勝って、百鬼丸おにーさんも勝って、どっちも強くなり続けるのがいいの」

「だったら永久に関係が終わらないじゃ――」

と、言いかけて寿々花は気が付いた。

結芽は人との関係の仕方が上手くない。いいや、上手い下手ではない。それまでマトモな人間関係を築く機会が失われていた。ある時は天才剣士として持て囃され、ある時は病床で孤独になり、ある時は折神家の親衛隊として活躍し……年相応の生き方を奪われてきた。

だから、戦うことでしか愛情の表現方法を知らなかった。

ふと、気が付いて寿々花はバックミラー越しに結芽を窺う。

「えへへ、それでね、寿々花おねーさん。私がやっぱり少しだけ強くなるでしょ? そしたら……」

興奮で紅潮した結芽はとても幸せそうだった。ただ剣術の事を語りながら、具体的な相手の特徴を妄想して熱を上げている。

普通とは少し異なるが、結芽らしく素直で温かな愛情表現の一歩を踏み出していた。

「それでね、私が勝つでしょ? 〝やっぱり結芽は強いな。うし、じゃあもう一度勝負だ〟って言って立ち上がるんだ~。ねぇ、面白そうだよね?」

同意を求められた寿々花はいい加減、ここ数日続く少女の妄想に飽き飽きしながらも、

「ええ、そうですわね」と、気の無い返事で頷く。

「それでね、もう一つだけ愉しみがあるんだ。今度もまた夜桜みるの――ね、寿々花おねーさんもいいと思うよね? 夜見おねーさんも一緒だよ」

「夜見さんも……」

「うん、だって親衛隊は皆集まらないと!」

 屈託のない笑みに、

「……そう、ですわね」

寿々花は躊躇いがちに同意した。……もう、あの頃のように集まることが出来ないかも知れない。――今の夜見の動向は杳として知れず、最悪の場合、敵対する可能性が高い。

それでも結芽のいう通り、あの時のようにもう一度夜桜を眺められたら。

「紫様と親衛隊でもう一度――」

 



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210話

 官房長官が会見を開く筈の空間は、異様な雰囲気だった。

朝廷の玉座を模したように御簾の奥に一つの豪奢な椅子が用意されている。

報道記者やTVカメラが『玉座』を模した一角に神経を集中させている。全く前例のないことに、〝荒魂〟――が会見を開くのだという。

 

防衛省の襲撃事件以来、姿を隠していたタギツヒメが衆人の前に姿を現したのだ。

 

眩い無数のフラッシュを浴びながら臆することなく、淡々と無気力に、持論を述べる。

『――我は人間との共存を望んでいる。しかし、人間の中には共存を望まぬ者たちがいる。荒魂退治を名目に過ぎたる力を有する者たち……刀使だ。対話を求める我の声を無視し、言葉を介さぬ荒魂と同様に討ち滅ぼそうとした。我はただ、身に降りかかる火の粉を振り払おうとしたに過ぎぬ。――それが二十年前の真実だ』

タギツヒメが言い終わると同時に御簾が下げられ、姿を消した。

報道陣を含め、その場の全員が固唾を呑んで、不思議な緊張感に包まれた空間で肩を並べた。

と、ある一人の記者が手を挙げ、

「――その話を裏付ける証拠は?」発言した。

「それについては、私が説明しましょう」

五十代の恰幅の良い男性がマイクで割って入った。――内閣官房である。「今回はもう一人、詳しいお話をして下さる方に来て頂きました」

間髪を入れず、白いレディース用スーツで記者たちの前に現れたのは、高津雪那……騒動の渦中にある人物だった。

彼女は頭のネジが外れたような異様な高いテンションのまま、周囲を見渡し、手元のマイクで言葉を紡ぐ。

「確かにタギツヒメは二〇年前被害を齎しました。しかし、それ以上の被害を齎すことなく、刀剣類管理局の拘束を受け入れることにしました。彼女は対話を求めました。その姿を目にして、刀使の中でも考えを改める者も現れました。――人間の文明は対話によって発展しました。ならば、対話を求める荒魂とも信頼関係を築けるのではないか、と。私もその一人です。――しかし折神紫は違います。タギツヒメの言葉を無視して監禁しました。そしてアレが生まれた……イチキシマヒメです。このもう一人のタギツヒメの分身が鎌倉から遁れたことで、関東一円にノロが撒き散らされる事になった」

 たっぷりと息を吸い、雪那は瞳の奥で淀む粘つく闇のようなどす黒い感情を、宿していた。……雄弁な演説家とは、すなわち狂人である。かつての古人の言葉にもある通り、彼女は正真正銘の演説家となった。

 小さな嘘と小さな真実を綯交ぜにすることで、事実は秘匿され、美しい物語を語る。これは一種の神話であった。雪那は雄弁に「神話」を語る。

 「――しかし、相楽学長のもと、新生錬府女学院の一部刀使と綾小路の精鋭部隊により、タギツヒメを御救いしたいのです。近衛隊として」

 

――――イチキシマヒメは現在も逃走中です。彼女の目的は人間への復讐です。それのみです。仮に彼女が力を開放すればこれまで以上の被害が出るでしょう。そんな危険な存在を折神紫は未だに手放そうとしていないのです。

 

―――被害を出さないためにも、タギツヒメとイチキシマヒメを融合させます。そのためにも我々刀剣類管理局維新派は、ここ東京を拠点に決起します。

 

――その上で警告します。折神紫、並びに刀剣類管理局は今すぐにイチキシマヒメを渡しなさい。これ以上国民を危険に晒してはいけない! もし、拒めば実力行使を以てして対処します。

 

 ……その、最後通告のような言葉と同時にカメラのフラッシュは盛大に焚かれ、画面が一瞬真っ白に染まった。

 

 能弁家としての彼女は、この時において最盛期を迎えた。日本政府は二〇年前の事後処理のマズさを秘匿するため、米国側は事件の原因追及を避けるため……互いに手を取りタギツヒメ側の意見を擁立した。

 政治的権力の裏付けも工作も済んでいる。

 

 気分を昂らせた高津雪那は、まるで蛇のように執拗に眼球を動かし、口を歪に曲げる。

「そう、それともう一つ。あの渋谷での惨劇……これも未だ全容が解明されておりませんが、刀剣類管理局は一体〝何を〟隠しているんでしょうか? 皆さまもご存じでしょうが、あの巨大な荒魂とも異なる怪物と、その怪物を醜く捕食した……黒い人型の獣。あれらの説明も、我々国民の側は求めていますよ」

 トドメを刺したように、雪那は言い切った。

 

 

 1

 夕刻――すでに、人も疎らな窓際の席では、テレビ画面を眺める数人がいた。

 ここ鎌府女学院の食堂の一角、テレビモニターの前で衛藤可奈美たちは茫然とタギツヒメの会見を見詰めている。

 

 全ての映像が終わったあと、可奈美は暫くモニターを見上げていた。

「――――」

 その場の誰も、発言できずにいた。

 タキリヒメを奪われ、渋谷で数多くの犠牲者を出した惨劇……数えきれない試練が彼女たち刀使に圧し掛かっていた。

 嘘に塗り固められた会見は、しかし、嘘を貫き通す狂信的な意志によって妙な説得力を持ってしまった。

「……沙耶香ちゃんたちは大丈夫、だよね」

 誰にいうでもなく、柳瀬舞衣がポツリと呟く。

百鬼丸を連れて逃走した現在、彼女たちもまた逃走犯であった。

「――大丈夫だよ。百鬼丸さんと一緒だからきっと」

 可奈美は新調したばかりの黒いリボンで束ねた髪の辺りを触り、伏目がちに答える。何かを論拠にしている訳でもない。だが、百鬼丸という少年を信じたい――可奈美は彼らの無事を祈っていた。

 

 2

「サイズは合うか?」

 大関は両腕を組み、壁に寄りかかって聞く。

 長い姿見の前に立つ人影が、

 「――うん、ピッタリっすね」気楽に返答する。

 黒い本革のライダースジャケットの襟を折り、百鬼丸は満足そうに頷いた。

 ボロボロだった衣服を棄て、新調した服で心機一転……と気分の区切りをつけるため着替えた。

 後ろ髪を可奈美から貰った黒いリボンで束ね背筋をピンと伸ばす。窓枠から流れ込む冬の薄い光を浴び、異形の少年を淡い光源が包む。

 分厚いジーンズと茶色いワークブーツで佇む百鬼丸は、一見すると大人びた雰囲気を纏っていた。

 「おー、似合ってる、似合ってる。あとは捜査網が狭まる前に……」

 「タギツヒメの元に乗り込む。そりゃ、簡単でいいや。んで、いつにするんです?」

 「舞草の協力者もあと、数日で全員揃う。それまではここで待機だ」

 「……そっすか。まあ仕方ないですね」

 左腕の義手を開閉して違和感がないか確かめながら、百鬼丸は今後の敵について考える。

 

 ――ステイン

 

 不思議と、まず彼の名前が思い浮かんだ。

 彼とはもう一度戦う――そんな気がする。ステインとは浅からぬ因縁で結ばれているようだ。ひとり、百鬼丸は「へっ」と、鼻で笑い肩を竦める。

「でも、なんだか妙ですよね」

「ん? どういう事だ?」

「おれは、こうやって何度も逃げて人から離れてるのに、やっぱり離れきれない。特に刀使絡みだと……ましてタギツヒメが相手だと戦わざるを得ない。面倒ですよね」

 へへっ、とはにかみながら少年は照れ笑いして頬を掻く。

 年相応の無防備な様子に大関は思わずからかいたくなり、

「刀使に誰か好きな子でもいるのか――おいおい」

 と、茶化した。

 キョトン、とした百鬼丸は視線を宙に上げて首を傾げる。それから、

「――どうなんですかね? でも、うん……皆大好きですよ。これからどんな戦いになっても誰も失いたくないです。それだけは本当の気持ちです」

 少年は真剣な眼差しで頭の位置を戻し、己の右手を凝視した。「――皆大好きだから死んで欲しくない」と、ボソリと同じ台詞を呟く。

 一瞬、言葉に詰まった大関は空気を変えようと破顔して、

「は、ははは。そうか。なんだツマラない返事だな」

 大関の方をみた少年は一拍だけ間を置いてから、

「へへ、ツマラない答えしかなくてサーセン。……でも、大関さんにも無事でいて欲しいんですよ。それじゃ駄目ですかね?」

 「……何というか、百鬼丸くんはアレだな。いい顔つきをしてるな」

 「ははーん、分かりますか? おれって結構カッコいい男なんですよ?」

 顎に手を当てポーズをキメる。

 「ったく、いや……でも頼もしいよ。情けない話だけど、君が居てくれるだけで精神的にも本当に心強いんだ」

 「……任せて下さいよ。誰も死なせませんから」

 「はは、大見得をきったな」

 

 コンコン、と扉にノックがきた。

 「はい」と百鬼丸が返事をすると、黒瑪瑙塗りの鞘を片手に持った笹野美也子が入室した。

 「頼まれていた鞘だ」

 「あ、どーも」

 無銘刀を収めるため、鞘を所望していた。

 古刀に部類される百鬼丸の無銘刀は、肉厚で大振りな代物であるため、限定的な鞘でなければ納刀することができない。

 美也子は百鬼丸を一瞥すると、

「馬子にも衣裳、かな」と微かに笑みを頬に浮かべた。

「まご? えへへ、なんか照れますね」

 と、大関に話を振った。

「……そうだな」

微妙な表情で大関は首肯する。

 

 



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211話

 都内のある一軒のブティックショップの出入口周辺には、綾小路の刀使たちが警護任務にあたっていた。

 眩い照明のショウウィンドウに、マネキンや女性が身に着ける装飾品が並べられている。

 その店舗の最奥には、大きな試着室用の部屋がある。

 左右には色とりどりの衣類がハンガーにかけられていた。

 スッ、スッ、と砂を指から零したような音が聞こえる。

 

「――ときに鎌倉はどうなっている?」

 タギツヒメが、訊ねる。

 「どうもなっておりません」

 忍び笑いを漏らしながら、高津雪那は櫛でタギツヒメの純白な髪を梳く。

 「ここを攻め入る度胸などないのでしょう。刀使たちも荒魂退治に躍起になっていますがそれもいつまで続くことやら」

  と、言葉を区切り愛撫するようにタギツヒメの髪を一束持ち上げ、指の間からサラサラと流してゆく。「――さて、出来ました」

 壁に備え付けられた大鏡を前に、タギツヒメは興味のない眼差しで自身の姿を一瞥する。少女趣味の強い水色を基調とした洋服は、白いレースで手首や胸元、スカートを波打たせていた。

 いかにも満ち足りた表情となった雪那は、

 「私は所用で出かけますが、ご用心下さいませ」頬を微かに紅潮させながら言った。

 「――用心? 誰に向かって言っている?」

 己の強さに疑いの余地すらないタギツヒメは、彼女の一言に苛立ちを含んだ口調で訊く。

 しかし、雪那は気圧されることなく微笑を浮かべる。

 「いいえ、御身を案じております。それは強さではありません。貴女を失いたくないのです。大切なお方は強さではなく、お守りするのが役割でございます」

 瞳の奥には昏く、感情が一切ないような感じがした。……まるで、わが子を失った事があるような母親の悲哀と、叶えられなかった愛情を注ぐように。

 「誰に向かってものを申しているか分かっているのか?」

 「ヒメは私にとって、生きる価値そのものです」

 雪那はタギツヒメの頬を優しく撫でようと手を伸ばす。

 「チッ、汚らわしい」

 咄嗟に苛立ち、タギツヒメは雪那の手を叩き、軽蔑した目で睨む。

 「もうよい。下がれ」

 「――はっ、仰せのままに」

 ニッコリ、とタギツヒメに笑顔を向けて部屋から出て行った。

 ――暴走した母親の深く、奇妙なまでの愛情を与えられたタギツヒメは形容し難い感情に囚われた。……それは、彼女の経験した事のない『恐怖』という代物とも知らずに。

 

 

 

 ……赤黒血染

 それが、男の棄てた名前だった。

 男は夜空を仰ぎ見ながら鋭利な顎を動かし、蛇のように長い舌を伸ばす。

 〝英雄とはなにか〟

 恐らく、こんな単純な疑問に対し、命を賭して考え続けた「悪」は彼以外に居ないだろう。真摯に、ひたむきに考えた――己の固陋な思想を守りながら。

 

 夜の空から数滴の雨が落ちる。

 やがて雨は本降りとなり、車道に佇むステインを濡らしてゆく。中央分離帯に立つ彼の両側を眩い車のヘッドライトが強力に照射されながら通り過ぎていった。

 雨は好ましくない。

 切り刻んだ肉の血液を薄め、洗い流してしまう。

 全身を濡らしながらも、ステインは昂る感情と高鳴る心臓に耳を傾ける。目を閉じ、神経を研ぎ澄ませた。

 一時的なゲリラ豪雨だったらしい。辺りに点在する水溜まりが、街灯の白い光に反射していた。

 夜の晴れた空、棚引く雲の裂け目に現れた黄月が浮かんでいる。

 

 ダイナミックな排気ガスの息吹を感じながらステインは、三白眼で濃紺の星を睨む。

 「英雄を取り戻さねば」

 歯並びの良い口から男の低い声が洩れる。

 顔を半分包帯状のマスクで覆い、首元は赤いスカーフを二束だけ風に靡かせた。額の辺りにバンダナを巻き、髪はトゲトゲと箒を逆立てたように鋭い。

 前腕レガーで覆った手首を軽く捻って運動させ、背中に背負った数本の日本刀の柄を触る。

 血走った眼は夜空の四隅を隈なく睨む。

 余計な夜雲は消え去り、星の光輝が目視で確かめられる。

 ――あった

 と、ひとりほくそ笑む。

 七つの星……北斗七星を発見し、不動の連星を捉え心拍数が上がった。

 あれは、オールマイトだ。

 何者にも負けない絶対不動の『正義』オールマイト。

 理想の人物を星になぞらえるように、ステインは視界に入れる。

 両腕が日本刀を素早く引き抜き――キィィン、と音叉の反響に似た金属音が不快に鳴る。

 首を二三左右に傾け、「百鬼丸――お前はどこだ?」静かに燃える青い炎のようにステインは頭を元の位置に戻す。

 

 

『ギャオオオオオオオオオ!!』

 

 頭上からけたたましいサイレンを連想させる鳴き声が聞こえた。声の方に意識を投げると、ムカデのような胴体と頭部から鴉のように禍々しい翼を広げる《飛行型の荒魂》が遊弋していた。

 

 

「チッ、お前のような雑魚が出しゃばるべきではない」

 ステインは背中にクロスして掛けた鞘から二振りの刀を引き抜く。……妙な薄白いオーラを纏った刃は、魂魄の宿っているような雰囲気だった。

 

 

 ――ステインの殺気を感知したのだろうか?

 『ギャオオオオオオオオオ!!』

 荒魂は体を大きく反らして一気に、道路の中央分離帯に佇む一人に向かって攻撃を仕掛けた。

 

「……ちょうどいい、試し斬りだ」

 と、いうが早いが超人的な脚力を活かして地面を蹴り体がフワっと飛び上がる。逆手に持った刀を二つの素早い斬撃により、荒魂の頭部と胴体を切り離した。

 最短距離で相手の行動を終えた。

 鮮やかな手際により、頭部と胴体は自由落下の速度に身を任せ、コンクリートの地面に叩きつけられた。

 粉塵が舞い上がり、濃密な煙幕のようになった。

 

 ステインは煙幕の渦中に何事もなく着地し、煙幕が風にのって消えるまで待ち続けた。

 

 ギィ、ギィ、ギィ…………と、機械の関節部が鳴る駆動音が遠くから近寄ってくるのが聞こえた。

 「はぁ、はぁ……ああ、やっぱり間に合わなかった」

 悔しそうに憤慨する少女が荒魂の残骸を見ながら言った。「――どうして荒魂の居場所がわかるんですか、ステインさん?」

 綾小路の制服と紅のS装備に身を包んだ少女――内里歩が、悔しさと羨望の眼差しでステインに問いかける。

 「……ア? お前には関係ない。勝手にコイツらの方から来た。それだけだ」

 二振りの刀を慣れた手つきで背中の鞘にチン、と音を立てて仕舞う。その様子はどこか職人のようだった。

 「むーっ、それじゃ答えになってないですよー。後始末の報告はわたし達がするんですから!」

 ぷくーっ、と頬を膨らませて文句をいう。

 「チッ」と短く舌打ちしたステインは、「気安く話かけるなッ!」と、血走った三白眼で歩を威圧する。

 ゾワッ、と全身に怖気と鳥肌がたった。

 歩はその強者だけが持ちうる余裕と鋭い空気に一瞬で呑まれた。……と同時に、

(――凄いっ、すごい、衛藤さんも凄かったけど……それとも全然ちがう!)

 ステインの放つ危険な雰囲気に、少女は強いアルコールに陶酔するような感覚を味わった。

 

 

「もう行く。始末はお前たちでなんとかしろ」

 ステインは不機嫌に吐き捨てて、その場を後にした。孤独に揺らめく男の影は等間隔で並ぶ街灯の白光に照らされ、《悪》を擬人化したような――そんな印象を受けた。

 

「……いいなぁ」と、歩は小さく呟いた。

 

 元折神家親衛隊の第三席、皐月夜見の傍らに居て常に危険な空気を漂わせる男。不可思議な存在であると同時に――近衛隊が束になっても勝てない相手だと理解できるほどの強さ。

(――もっと強くならなきゃ)

 歩は、ステインの背中を眺めなら羨望の眼差しを送っていた。

 

『あ、こんなところに……内里隊長―!!』

 部下であろう、刀使の女子生徒が背後から叫ぶ声がした。

 

 「ごめん、今いくからー」

 歩は大手を振って答えると踵を返して、仲間の元へと駆け寄る。

 

 

 

「――あいつら本気で管理局を二分するつもりか」

 ペットボトルのお茶を強くカウンターテーブルに置き、薫は憤りの籠った口調で地面を睨む。

 錬府女学院の休憩室の自販機前で、可奈美たち五人が集まっていた。

「……最近、荒魂の出現率が低い理由ってもしかして」

 可奈美は以前から感じていた違和感を、改めて口にする。

「わかりまセン」

隣の席でタブレット端末をタップしているエレンは、画面に表示されている荒魂の討伐履歴のアーカイブを眺めていた。

《近衛隊》

この文字が異様に目立っている。

関東で頻発する荒魂の発生を悉くが、近衛隊によって始末されているのだ。おかげで、他の刀使たちは楽が出来ている――と、そんな単純な状況でない事は薫をはじめ、錬府女学院に居る刀使たちは実感していた。

 

「アーカイブの履歴を見ても、ノロの回収状況は確認できないし……どういう事だろう? 維新派が拠点にしているのは東京駅の近くのホテルで、そこにはノロの貯蔵施設もないし」

 舞衣は、伏目がちになって考え込む。

「お社に祀るって訳でもなさそうデス」

「――だったら簡単だろ。タギツヒメがノロを吸収してるんだ」

 大荒魂であり、二〇年前の大災厄を齎した元凶…………そのタギツヒメが力を取り戻すために再びノロを吸収し、力を蓄えている。

「それって、本部長も知ってるのかな?」舞衣が、不安げに言う。

 薫は肩を竦めて、

「だろーな。こんなあからさまな対応をとってるんだ。挑発行為だろうな。それでも、本部が動けないのは――世論を味方につけた維新派と争いたくなんだろうな。下手に出れば、刀剣類管理局が解体されて、維新派が牛耳る」溜息交じりに語る。

 

「タギツヒメが力を蓄えていても……か」

 それまで、ずっと黙っていた姫和がたまりかねたように、憤りを口にした。

「――多分だが、お偉いさんから指示があったんだろーな。タギツヒメの会見で官房長官がアッチ側だったんだ。……ちっ、だからって黙って待つわけにもいかねーよな。こーなったら、本部長に直談判だ」

「ねー!」ムッ、と怒った顔をしたねねもピョンと薫の肩に乗った。

「あっ、紗南センセーなら出かけたみたいデスヨ」

思い出したエレンが押しとどめるように、間髪入れず指摘する。

「えっ?」

薫は動きをピタッと止めて、首だけエレンの方に向いた。




閃光のハサウェイ、面白い。
虐殺器官のアニメっぽいなー、とか思ってたら監督さん同じでした。
やっぱり! 
映像がリッチで満足度の高いお菓子を食べたみたいで、お腹いっぱい。


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212話

 小笠原諸島沖を航行する一隻の原子力潜水艦、通称ノーチラス号はアメリカ合衆国の庇護下にあり、航行の自由が保障されていた。

 ――はずだった。

 しかし日米の交渉によって、この一隻の潜水艦は国籍不明の船舶と化した。

 

 理由は明白で、刀剣類管理局の前局長、折神紫が乗船しているからに他ならない。

 刀剣類管理局の維新派の実務を司る高津雪那は、紫の身柄を確保しようと、日本政府の外交手段を駆使してたった一隻を追い詰めた。

 実に皮肉な話ではあるが、日本政府が米国政府に対して強く出た交渉の場は、ひとえに高津雪那という頭のネジが飛んだ実務家の手腕によるものだった。

 

 

 首都高から一般道を経由し、東京から鎌倉方面へと向かう一台のレクサスが走行していた。

 夕陽が傾き、茜色に空が染まっている。

 車窓のすぐ近くを流れる河川敷は、金属板の表面のようにギラギラと光を反射させていた。

「それで、率直にお聞きしますがお話とは?」

 山吹色のどてらを着た女性――刀剣類管理局の本部長、真庭紗南が真剣な表情で尋ねる。

 携帯端末のスピーカーから男性の声が聞こえていた。

『アドミラル(提督)から連絡があってね。彼によると、どうやら我が祖国は、ノーチラス号を見捨てたようだ』

 声の主は、アメリカ人の科学者リチャード=フリードマンだった。彼はエレンの祖父であり、かつ20年前の江ノ島で発生した大厄災の現場にも遭遇していた。

 彼は、舞草の協力者として折神紫とイチキシマヒメを原子力潜水艦にて匿っていた。

 ――だが。

『国籍不明の潜水艦が拿捕されることになるだろう』

「――それも高津学長が?」

『ああ、そうだ。彼女にはぜひチェスの相手でもお願いしたいね』

皮肉交じりにフリードマンはボヤいた。

舞草側にとって行使できる手段は殆ど残っておらず、結果として大人しく折神紫とイチキシマヒメの身柄を提供する他にない。

『物事が進む時は一気に始まるものだね。いやはや……すまないが、此方で匿うのにも限界がある。それ以上の事はくれぐれも……』

「ええ、分かっています。早急に対処しなければ、タギツヒメ側に全てやり込められてしまいますから」

 紗南はハンドルを強く握りながら、苦虫を嚙み潰したような顔で暫く黙り込んでいた。

 

 

 ……夜。

 その時間が来る度に、思い出す。

 真っ赤に燃え盛る火炎の口と牙が、まるでわたし達を哄笑するように大音量で化け物が叫ぶ。

 夜の森は不気味なほど真っ暗で、何も見えず、荒魂の放つ強烈な火炎以外には何もない。

 痛い、痛い、痛い、怖い、怖い怖いッ!

 一歩、一歩、荒魂は近寄り首を傾けた気がした。

 この化け物の足元には、先程まで元気だった筈の刀使たちの亡骸が無残にも横たわっている。

 怖気が一気に全身を支配し、硬直したように動かなくなった。

 

 

 

 …………ワタシモココデ死ヌノ?

 

 ◇

 

「いやーーーーーーーーーーっ!!」

 笹野美也子はベッドから悲鳴を迸らせて起き上がった。

 滝のような汗をかいており、荒い呼吸で肩が上下に動き、喘ぐように空気を吸う。

 すぐにサイドテーブルに置かれた錠剤の瓶を掴み、白い粒を口へ無理やり押し込む。水もなく呑み込むのは大変だったが、それよりも悪夢から早く醒めたい。

 強い願いが彼女に更なる焦りを募らせた。

 ごくん、の呑み込むと一息つく。

 精神安定剤のデパスを服用し始めてから何年経つのだろう?

 ふと、彼女は思う。

 きっとあの日から――荒魂に片目と片腕を奪われたときからだ。

 あの日、大規模な荒魂の巣を掃討する作戦に参加しなければ――――。部隊がはぐれなければ……。

 「痛いっ、」

 彼女は右目を抑える。

 とっくに怪我は治っており、本来であれば痛みなど感じない筈だった。

 ――幻肢痛(ファントムペイン)

 そう訳される症状は、本来であれば治っている筈の怪我を、脳が未だに痛みを感じさせる作用で、一種の精神病として捉えられることも多い。

 

 彼女はこの四年間、この幻肢痛に苦しんできた。

 

 心臓の鼓動だけが煩く胸の奥から鳴り響き、落ち着きを取り戻すために暫くの時間が必要だった。

 

 (わたしは自分で志願して、ここに来たんだ……。)

 

 真っ暗な部屋の小窓に射し込む一条の青い月光を、ぼんやりと眺めながら美也子は理由もなく泣きたくなっていた。

 

 ――その時だった。

 

 コンコン、と部屋の扉をノックする音がした。

「……大声を出した。すまない」

 美也子は扉の前にいるであろう何者かに対し、騒音だった事を謝罪する。

 

 

『う~ん? どうしました? 大丈夫じゃなさそうだけど、勝手に入りますよ?』

 少年の声が心配そうに聞こえた。

「ああ、――百鬼丸くんか。どうぞ」

その返事と共に、入室した人物は部屋の電気を点けた。

長い白黒の髪の毛を後ろに乱暴に束ね、少年特有のあどけなさと歴戦の戦士だけが発する鋭い雰囲気……そんな、ちぐはぐな印象を美也子は持っていた。

痩せて猫背気味ではあるものの、しっかりと筋肉質な体格は数々の激戦を潜り抜けた者だけが獲得できる「戦うための肉体」だった。

 

「すまない。うるさくして」

 

「……いや、別におれは大丈夫ですよ。それよりも――あの夢、強烈でしたけど」

「えっ?」

百鬼丸の一言に、ドキリと心拍数が上がった。

(なんで知っているの?)

 「もしかして、誰かにわたしの話を聞いたの?」

 ベッドから起き上がり、努めて冷静さを取り繕った口調で訊いた。

 百鬼丸は扉に近い壁に背中を預け、少しだけ考えこむように俯く。

 「あれって、やっぱり荒魂に喰われた時の記憶――ですよね?」

 率直な質問に、美也子は反論できずに無言で頷いた。

「……それを聞いてどうするつもり?」

「えっ?」

美也子は自分でも驚くくらい棘のある声音で百鬼丸を睨んでいた。勝手に人のデリケートな部分に土足で踏み入るような感じがして、彼女は心がかき乱されていた。

「可哀そう、って慰めにでもきてくれたの?」

「――」

百鬼丸はしばらく目を丸くして、美也子の次の言葉を待っていた。

(違う、この子は悪くない。……どうしたんだろう。)

 さきほどから、自分はおかしい。

 歯噛みしながらも、抑えきれない情動で百鬼丸を再び見据える。

「夜中に大声を出してごめんなさい。もうこれで、この話は終わり――」

会話を切り上げ、退出を促そうとした。――しかし。

「――痛いですよね。荒魂に体を引き千切られるのって。分かりますよ」

箇をあげた百鬼丸は、どこかやつれた表情の美也子を見返して苦笑いを零す。

「おれもパクパク食べられたんで分かりますよ。……ま、そもそもおれ〝たち〟は人間じゃないから同じではないですけど」肩を竦めて、気軽な感じをジェスチャーで示す。

 

「……君は確か、人の心が読めるんだと聞いたけど」

美也子は舞草の事前情報で百鬼丸の情報は知っていた。

「――ええ。」

「だからさっきの、わたしの悪夢も――」

「そうですね」

「……だったらごめんなさい。こんな悪夢――君にもみせてしまって。謝るから」

「いや、そーゆー事じゃないんですよ。良かったら、何があったか聞いてもいいですか?」

「――ッ!? ……はぁ、君には関係ないって言った。この話は終わり」

「でも……」

何か言いかけた百鬼丸を強く憎しみの籠った目で睨み、

「いい加減にして! これ以上あの日のことを思い出させないで! そりゃ、君みたいに強くないから――あんな事になったけど、荒魂に怪我を負わされたのだってわたし達が未熟で……」

気が付けば、無意識に胸元を右手が強く握り締めていた。

「……っ、もう関係ないでしょ」

「そうですかね。だったら、そんな錠剤はいらないでしょ?」

どこか馬鹿にしたような物言いで百鬼丸はサイドテーブルに近寄り、置かれた錠剤を掴み、シゲシゲと眺める。

「触らないで!」

「こんなモンに頼るって結構追い詰められてたんですね」

「こんなもの!? わたしの何が解るの?」

「だから分からないから聞いてるんですよ?」

「喋る必要性がないでしょ!?」

「……そうですか。でもあの悪夢を時々みるのはキツイですよね――あの時におれがいれば、あの程度の荒魂なら斃せたのになー」

呑気で、あの時の惨劇を軽く扱うような口調に、美也子は思わず立ち上がり百鬼丸の頬を思い切り叩いた。

 

 

「ふざけないで! 君にあの時のこと何が解るの! 人の命を、わたし達のことを馬鹿にしないで!」

美也子は怒鳴り、片頬が赤く染まった少年を正視した。

思い切り強くビンタしたらしく、百鬼丸の口端から血の細い筋が流れた。それを、彼は手の甲で拭い、

「……でもおれを助けに来てくれた時、トラウマを押し殺して夜の山に来てくれたんですよね? ありがとうございます。そんで、さっきの挑発するみたいな言い方、すいませんでした」素直に謝罪した。

 

「……どうして、そんなに知りたがるの?」

 

「おれ、決めたんです。なるべく多くの人と話して、人間を知りたいんです。本当の意味で人らしく生きていけるように。……突入作戦までで、時間は限られてますけど、人をもっと知りたいんですよ」

屈託ない笑顔で百鬼丸がいう。

美也子は大きく息を吐き出して、ピリピリと痛む掌を握る。

「取り乱してごめんなさい。わかった。あの時の事を…………君もあの悪夢をみたから覚えているでしょ?」

「ええ」

「四年前、近畿地方で大規模な荒魂の掃討作戦があったの。その時は折神家の無茶なノルマが課せられていて、荒魂の退治数が決まっていたから皆躍起になっていた。平城と援護として長船が近畿地方の掃討作戦に出た。まだ刀使を初めてから日の浅いわたしと、経験の浅い部隊で掃討作戦に参加したらどうなると思う? ……壊滅状態よ。人間は脆い。それを思い知らされた。わたしは幸いにして命こそ助かったけど、荒魂に片目と片腕をやられた。目の前で――」

 

自らの右目の眼球が、荒魂に喰われる光景。

ドロドロの粘ついた血液を滴らせた荒魂が、まるで見下すように一つの目玉を牙の間に挟み、口を動かす。

 

「ウッ、」

その光景を思い出し、話ながら吐き気がした。

 

「大丈夫ですか?」

百鬼丸は心配そうに背中をさすり、落ち着かせる。

 

「ごめんなさい。ありがとう、もう大丈夫だから――。あの時、もし連絡が緊密にできていれば、もし装備が十分だったら。病床で、いろんな〝もし〟を考えた。何度も呪った。刀使にならなければ、こんな痛い思いしなくて済んだのに。何度も泣いた。……でも、刀使を守るには、確かに君みたいに凄く強い人が必要だと思う。――でも、わたしの目指した方向性は、ある意味では君を否定することだと思う」

ベッドの縁に腰かけた美也子は、ペットボトルの水を口に含む。

何度か呼吸をして冷静さを取り戻した。――それから百鬼丸を見返し、

 

「……もしも、あの時、スーパーヒーローがいれば全部解決したかもしれない。でも、それじゃ意味がないって、ある時気が付いた。刀使の身を守るのは、刀使自身。そして、周りのサポートをする人間がしっかりしていれば、防げた事故だと思う。わたしは刀使が、本当に弱い人気の女の子だって知っている。――あの時、小さい子供みたいに泣き叫んでも誰も助けてはくれない。絶望的な状況にならないように、サポートする人間が必要なんだって。だから臆病って笑われてもいい」

 

「誰も笑いませんよ」

「――君みたいに誰しも強い訳じゃないんだよ、人間って。皆、ひとりひとりは弱いんだ。でも、だから支え合っていかないと、立っていられないんだって……」

情けないって、自分では思う。ポツリと美也子は皮肉っぽく吐き捨てる。

「百鬼丸くんに一つだけ聞いても?」

しばらく黙っていた百鬼丸は、顔をあげて、「なんですか?」と首を傾げた。

「強さって何かな?」

片目で百鬼丸を真剣に見据える。

 

「――――強さ、ですか? 難しいな。おれ頭良くないし。そんでも…………なんだろうな? スイマセン。おれ、多分だけど期待に応えるような事なんて言えません」

 

軽く失望したように美也子は俯き、首を横に振った。

「――ごめんなさい。忘れて。頭が混乱しているだけだから……」

自嘲気味に鼻を鳴らして息を吐く。

「そうなんですか?」と百鬼丸は後頭部をガシガシと掻いて、美也子の傍に歩み寄るとベッドの縁の位置と合うように膝を折り、彼女の両手をとる。

「苦しい記憶って突然思い出すんですよね。……誰かを支える――イイコト教わりました」

 百鬼丸は屈託のない表情で、美也子を見上げる。

「落ち着くまで一緒に居ますよ」

 

 

『現在、房総半島沖を航行する国籍不明の原子力潜水艦一隻が、海面から浮上しました。……イチキシマヒメが乗っている可能性が高く、海上保安庁の監視船舶が警戒にあたっています』

 新宿の街頭モニターに映し出された潜水艦の船影。

 いくつかのサーチライトに照らされながら不気味にも、夜の海上を進んでゆく。

 待ちゆく人々はモニターを見上げながら、不吉の種になりそうな自体に暗鬱な面持ちで見入っていた。

『依然として潜水艦は北上を続けており……』

 アナウンサーの声は努めて冷静に、原稿を読み上げながら機械的に正確に発音する。

 中継を眺める人々はただ、自分たちに出来る事はない…………ただ、事の推移を知るだけだ。そんな無気力感に苛まれていた。

 

『我はただ、人との融和を望むに過ぎない』

 

 タギツヒメの会見での言葉が、今更のようにジワジワと群衆の耳に伝わり初めていた。それに代わって、荒魂被害を抑えるどころか失態を晒す刀剣類管理局と、政府へ厳しい目が向けられはじめていた。

 

 

 ◇

「――これは一体どういう事だ!!」

 官邸で大声をあげ叫ぶ男がいた。

 

 現在の官房長官である。普段、客人をもてなす部屋で窓を眺めながら憎々しげに文句を並べる。

彼はこれまで、この国難を乗り切るために様々な裏工作を行い、米国とも取引をしていた。あくまで、刀剣類管理局ではなく国家……ひいては内閣が主導権を握っている事が望ましい。

――だが。

 

 日本政府と刀剣類管理局、海保、自衛隊以外では知りえる筈のない「ノーチラス号」の居場所を〝偶然〟マスコミが察知していたのだ。

 

「これはどういう事だ!」

 官房長官は電話口で相手に詰問する。

 

 

『あらぁ? ふふっふ、そうですか。犯人捜しなんて今更無意味では?』

電話のスピーカーから女性の哄笑が聞こえた。

「どういう意味だ?」

努めて冷静に官房長官は、訊ねる。反応から察するに――いや、ほぼ確実に彼女が原因で間違いがない。

『そんな事はどうでもいいでしょう。それより、イチキシマヒメが衆目に晒された。政府があの危険な存在をどのように対処するか? 国民の信頼を失っている刀剣類管理局にこのまま任せるのか……それとも、政府が自ら管理下に置くのか。どちらが懸命かはお分かりですよね?』

「――君は我々を恫喝する気か? 高津雪那学長」

『ふふふ、米国と裏で工作までして……ご苦労様です。ですが、最早現状は予断を許さないのではなくて? でしたら、あなた方がとれる選択肢は限られていますが、いかがでしょうか?』

 雪那は楽し気に、含みを持った言い方で切り返す。

「――――分かった」

 官房長官は、全てを悟った。――政局がこのひとりの女によって転がされている事に。ただでさえ、数々の災害による対処の遅れを責められる政権は、支持率も低い。無難な国家運営を望む彼からすれば、確かに雪那の筋書きこそが、最善であった。

(まるで悪魔との取引だ……)

 けだし、政府の意思決定が刀剣類管理局の一派閥に過ぎない維新派が握ったことを意味していた。

 『それでは、また……ふふふふ』

 不気味に笑う女は、精神のバランスが崩れているような印象すらうけた。

 電話を終えた官房長官は、「くそっ!」と激しく壁を殴った。

 米国との密約――すべてあの女に見透かされている。すでに、あの「刀剣類管理局維新派」はコントロールできる存在ではなくなっていた。

 

 

 錬府女学院で、ノーチラス号の行方を追う緊急中継を眺める可奈美と姫和は、不安げに画面を見つめていた。

 他の三人は翌日の哨戒任務に備え、自室で就寝している。

 学院の休憩室のTVモニターは、なおも緊迫した状況を伝える。

『依然としてゆっくりした速度で北上を続けており――』

現場のレポーターのマイク越しの説明を、気もそぞろに二人は聞いていた。

 

「……っ」

 姫和は小さく俯き、何か考え込むような横顔をしていた。

「姫和ちゃん――」

ノーチラス号には、イチキシマヒメと折神紫が乗船している。

姫和にとって、一筋縄では感情の整理がつけられない存在だった。一方は、姫和の母である篝の命を縮めた元凶である荒魂であり、一方は、荒魂に蝕まれたと思っていた――女性。

 

拳を固く握って、真紅の瞳を瞬く。

可奈美の視線に気づいた姫和は無理やりに微笑して表情を取り繕い、

「私たちはあくまで刀使だ。……分かっている。護衛任務は遂行する」

硬い声音で返答した。

「うん……そう、だね」可奈美も、あえてそれ以上追求せずに頷いた。

 

 

「「……………」」

沈黙が降りた。

室内は、TVの中継報道の音声以外になく、不気味なほどの気まずい沈黙が二人の間を

流れた。

「――ねぇ、姫和ちゃん」

ふいに、可奈美が口を開く。

「……どうした?」

やや反応が遅れて姫和が問い返す。

 琥珀色で美しい可奈美の瞳が暫く、姫和の両目を見据えていた。

 「……ううん、なんでもないや。ごめんね」

 「変な奴だな」

 ふん、と不快そうに鼻を鳴らした。

 (――可奈美は私の目を見て何を感じたんだ?)

 濡羽色の長い髪を翻らせ、緑色のクッション部分が分厚いソファーに腰かけた。

 

 『何か困ったら話くらいなら聞くけど?』

 耳の奥から、少年の何気ない言葉が甦る。

 

 「……困った時は話くらい聞く、か」

 無意識に姫和は呟いていた。

 「えっ? どうかしたの?」

 可奈美は、不思議そうに聞き返した。

 少しだけ口角をあげた姫和は、困ったように細く形の良い眉を下げて、「ああ、少しな。思い出したんだ」とはにかむ。

 「百鬼丸の奴と、前に一度だけ私の実家に行ったことがあったんだ。母の遺品を捜す、それだけの事だ。――あの馬鹿者は頭が悪い癖に、妙に人の気持ちを読むクセがあるから、油断できなかったんだ。それでも、アイツから勝手に人の事情に首を突っ込んでくるような……無粋な奴ではないことだけは理解できたんだ」

 あの日の夜、姫和自身は母が折神紫や刀使、多くの人々を守るために自らを生贄とした。――その後の運命を悟ったように、惜しげもなく命を差し出した。

(私は、そんな母が尊くて――刀使として尊敬している。……だけど、今更になって思うんだ。私は、尊敬できる母でなくてもいい……ただ、普通の人たちのように、生きていて欲しかったんだ)

 初めて、他人に言葉にして本音を吐露した。

(私は、私は……尊敬できる母じゃなくて良かった。一緒に他愛も無い日々を過ごしたかっただけなんだ)

 百鬼丸の義手を握りながら、記憶の中の母について語っていた。

そんな事を言っても今更仕方がないのかもしれない。……けれど、なぜかあの日の夜だけは違った。すべてを百鬼丸に訊いて欲しかった。

 

 いつの間にか、姫和は懐かしむような表情で自らの右手をみた。あの時の義手は確かに冷たい質感で人の手の手触りとは違った。……夜に眠れず、握った母の温かな手とは異なる感覚だった。

 それでも安らげたのは、今思い返しても不思議だった。

 そんな横顔を眺めながら可奈美は、優しく笑いかける。

「そっか。……うん、でも解る気がする。百鬼丸さんって変わってるから」

ジト目になった姫和は、

「それをお前がいうか」と突っ込んだ。

「ええーっ、ひどいなー」

心外だ、とでも言いたげに眉根をハの字に曲げて桜色の頬を膨らませる。

「ふっ、当然の話だ。…………それに、昔のことも思い出したんだ」

「昔のこと?」

姫和は、今の自分の心境を正直に話したい気分で一杯だった。……なぜだろう? そう自問するよりも前に、口が素直に過去の記憶を手繰ってゆく。

 

「実家に辿り着く前に、あの馬鹿者に背負われて山道を抜けたんだ。その時に、昔――父に背負われていた時と重なった。それだけの話だ」

母よりも先に亡くなった父――。姫和は、実は父との記憶があまり残っていない。警察官であり、常に家を空けていた父は、時々帰ってきて遊んだ。それは覚えている。

だが、姫和からすれば数少ない家族団欒の記憶が、微かに残っている程度だった。

 

「そっか……」

 深く事情を知らない可奈美は、微笑を浮かべて姫和の隣に座る。「それで、何を思い出したの?」と優しい口調でいった。

 

 

……姫和は、幼い頃の朧げな景色を瞼裏に映し出した。

普段は家を空けていることの多い父と共に出かけていた時の記憶。長い石階段の上にある神社に初詣にゆく風景だった。幼い姫和は眠い瞼を擦って、父の大きく筋肉質な背中に背負われていた。隣を歩く母、篝が慈しみの表情で自分(姫和)を眺めていた。

記憶の中の姫和は、珍しく家族全員が揃っている事に嬉しさと気恥ずかしさを覚えていた。

そして、何より安心できる背中に、心地よさを覚えていた。――もし、ここで起きていることがバレてしまえば、背中から降ろされるだろうか?

幼いながらに考えた姫和は、寝たふりを続けていた。

(もう少しだけこのままで居たい……)

薄目を開いて、誰かの体温や呼吸を感じながら眠っていたい。父と母の愛情を――。

 

……だが、そんな日常の一コマは終わってしまう。

 

『――疲れてたら眠ってていいんだぞ?』

 少年の声音が、父の姿を連想させた。

(ああ、そうか。私はあの時に奴とあの日を重ねていたんだ)

 

 

「姫和ちゃん、大丈夫!?」

物思いに耽っていたらしく、姫和はハッと息を呑んで頭を上げた。

可奈美が心配そうに瞳を覗き込んでいる。

「ああ、大丈夫だ……なんだ可笑しな奴だな。私なら平気だ」

「でも……」

心配のし過ぎだ、と小言を言いかけて姫和は、自らの両頬が濡れている事に気が付いた。

「なんだ、これは……」

頬を伝う水筋は顎にまで達し、緑のスカートにポタポタと滴る。

「違うんだ――私はただ、」

手首で必死に目元を拭い、溢れる液体を押しとどめようと試みた。

だが、次々に溢れてしまい、どうしようもなかった。

 

 

『――どうして、運命は母を、私を構うんだろうな』

 少年の義手を握りながら自嘲気味に呟いた言葉。

 

(抗いたかったんだ…………母の命を奪っていった、残酷な運命から)

 

 

 

「姫和ちゃん…………」

 可奈美は考えるよりも先に、小さく肩を震わせていた黒髪の少女を抱き寄せる。

 



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213話

 工事用の強烈な白い光を放つ提灯型の投光器が、楕円の形になる様に並べられている。

 周囲を警視庁の車両、および陸上自衛隊から急遽招集させた人員輸送用のジープ型車両が何十台も駐車している。

 陸上では既に折神紫の捜索にむけて本格的な包囲網が構築されつつあった。刀使の歴史の中でも歴代最強と名高い彼女を武力によって制圧することは相当な労力が必要となる。

 そのための戦力が続々と、房総半島の湾口、および東京湾沿岸に集結していた。

 

 冬、下旬――。

 南関東でも冬の沿岸部は荒い海波が目立ち、房総半島の小さな漁港に停泊した小型船舶も大きく上下に揺られた。

 「ひぃ~久々の船舶って緊張したぁーーーー」

 眼鏡をかけたパンツスーツ姿の女性が泣き言を言いながら、操舵ハンドルから手を離した。実に2時間45分をかけて荒波を超えた船舶は、船腹に飛沫を受けながら一定の間隔で揺れた。

 

 原子力潜水艦「ノーチラス号」からいち早く離脱し、舞草の構成員の手助けによって小型船舶によって周辺海域から逃れた。

 そもそも累は、学生時代からコツコツと特殊車両および小型船舶の1級免許を取得していた。社会人になった後も舞草の刀使サポートおよび趣味から、免許を取得し続け――結局、大抵の乗り物の操作が可能となった。

 彼女は運転席を離れ、左舷側へとゆく。途中、濡れて滑りそうになる足元を気にしながら、新調に歩きつつ、ため息をついた。

 「もう潜水艦を拿捕するなんて早すぎますよー」恩田累は盛大にボヤく。

 雪那たち維新派の行動の迅速さに驚きつつ、その厄介な相手から遁れるための苦労にボヤいたのかも知れない。

 「――ご苦労だった。では、行ってくる」

 漁港の係留場に降り立った折神紫は、切れ長の涼やかな目元を細め、肩越しに感謝を伝える。

 「い、いえ……それでも、単身で逃走するのって難しいですよ?」

 これからの困難な行動を起こそうとする紫に対し、思わず声をかえた。

 累の心配を察した紫は「ふっ」と微かに口元を綻ばせる。

 「――そうかもしれない。だが、最早逃げ回ることも出来ない。それに……」

 と、紫は視線を隣に向ける。

 猫背気味の人の姿をした……イチキシマヒメが、気怠そうに佇んでいた。

 「……なんだ紫? 我を切り捨てるのか? それも良いだろう」

 諦めきった声音で呟く。

 その悲観的な態度に紫は思わず額を手で押さえて、「そうではない。一度、再起を図るために逃げるんだ」と付け加える。

 虚ろな目のイチキシマヒメは紫を一瞥し、首を振る。

 「……もうどちらでもよい」

「行くぞ」

半ば無理やり命令する口調で紫はイチキシマヒメを促し、歩き出す。

 

「気を付けて下さいね」

 累は大きく手を振っ無事に逃げられるよう無事を祈った。

 

 夜闇の中へと溶け込んでゆく紫とイチキシマヒメが微かに振り返った。

「――ああ、お互いにな」と、返事をして再び前を見て歩を進めた。

 

 

 

 

 

 1

 「百鬼丸くんは随分と女たらしになったんだな」

 大関は朝食のトーストを乗せた皿を手渡しながら、ニヤっと笑いかける。

 午前五時。ロッジ小屋の広間で朝食を摂るのは、男二人だけで、他の者は皆眠っていた。

 牛乳パックに直接口をつけてグビグビ呑んでいた百鬼丸は、口を離して「へぇ?」と、怪訝な顔をしながら首を捻る。「どういう事ですか?」

 「ハハハ、恥ずかしがるなよ。最近、沙耶香ちゃんと長船の女の子にチョッカイかけてるんだろ?」

 「――む? むむむ? おれはただ、〝人間〟を知りたくて……会話をしているだけですけど」

 戸惑う少年をよそに、大関はワザとらしく大げさに驚いたフリをして「そうやって口説くのか! ガハハ、悪い奴だなー」と楽しそうに笑った。そして、百鬼丸の方をバンバンと叩いて、「色男になるのは悪くないけど、責任はとるんだぞ」と念押しをする。

 口端の牛乳の雫を手で拭いながら、「はぁ、分かりました」と百鬼丸は素直に頷く。

 (――なんの話だろう?)

 大関のからかう意味がよく分からず、百鬼丸は用意されたトーストにかぶりつく。

 カリッ、と茶色い焦げ目から香ばしい香りと味が口腔を満たす。

 

 

 ◇

 山奥の隠れ家風に設えられたロッジ小屋は、隠れ家とするには丁度良かった。小屋から徒歩五分ほどの所に湖畔がみえる。潜伏から2日半が経過しているが、捜査網が緩んでいるのだろうか? 今のところ、急な脱走準備もせずに体力を回復できている。

 

 百鬼丸は気晴らしと周囲の警戒をかねて湖畔周辺を散策していた。

 『今日も、助っ人が来るらしい。どんな奴かまでは知らないけどな!』

 大関は出っ張った小腹をゆすって破顔した。

 (――どんな奴か分からないけど酔狂な奴だな)

 わざわざ全国的に指名手配されている百鬼丸たちに加担する人間は、変人ではなく酔狂な奴だ。どこかトチ狂ってるのかもしれない、と百鬼丸は思った。

 

 ブーツの靴底に茶色く薄い葉が付着する。湿っている分、剥がすのにも面倒だが、生憎百鬼丸は細かいことを気にしない。スタスタと歩きながら敵意を持つ相手を警戒し続ける。

 「ま、いないよな」

 独り言をポツりとつぶやく。

 帯刀できるように改造された黒い革ベルトを触って位置をズラし、《無銘刀》を掴みやすいように直した。

 激しく吹きすさぶ冷風が、百鬼丸の白黒の髪の毛を巻き上げる。

 《さて、百鬼丸くん。君の精神ではどちらが主なんだい?》

 不意に胸の奥から声が響く。大量殺人犯のジョーだ。チッ、と軽く舌打ちをして百鬼丸はガシガシと後頭部を掻く。

 「なんで今更出てくるんだよ。ずっと眠ってろよ」

 《はは、無理さ。君は面白い検体だからねぇ。それに最近やたら他人にたいして興味を持つフリをしているだろ? ずーっと不思議だったんだ。でも気付いた。君は、ニエという片割れの人格に対し、〝人間とは何か?〟を間接的に教えているんだとね》

 「…………」 

 黙り込む百鬼丸。

 その様子が面白いのか、ジョーは哄笑した。

《あはは、ビンゴ。そうだビンゴだ。じゃなきゃ、本質的に君は他人と関わらないだろ? むしろ自分から避ける傾向にある君が……お節介に〝いい人〟を演じる筈がない。理由は単純だけどね。ニエの人格か、元の君の人格か確かめたくて会話をしているんだとしたら……君はボクと同じタイプの生き物だよ。本質的に他人に興味なんてない。自分の目的のために他人を利用するタイプのクズさ》

「うるせぇ、黙れ」

 ギリッと歯を嚙み合わせて威嚇する。

《君の今の心理状態を当ててあげよう。混乱、そう君は混乱しているんだ。色んな奴の人格と記憶を引き受けたせいで、本当の自分が分からなくなっている。――そう、記憶とは本来誰かに共有されるモノじゃないんだ。けど、君はどうだ? 記憶も感情も引き受けているから、本当の自分という核が失われつつある。違うかい?》

 

 

 「黙れ! …………糞が」

 毒づきながら、ジョーの指摘に百鬼丸は胸の奥がチクりと痛む。彼の言葉通り、百鬼丸自身もアイデンティティが分からなくなっていた。

 《だったら、またあの娘にでも抱きしめてもらえばいいんじゃないか? 本当の赦しを求める君なら》

 明らかに馬鹿にしたような物言いでジョーは、嗤う。

 あの娘――すなわち、渋谷巨獣騒動のときの可奈美を指しているのだろう。

 「黙れといった筈だぞ」

 《いいかい、君は永久に赦しは得られない。なぜなら、ボクと同様に生きているだけで周囲の全てを傷つける厄介な存在なのさ》

 「――――分かってるよ」弱弱しく答えた百鬼丸は俯く。

 《人を理解しようとするのは悪くない。でも分をわきまえないと、ひどい目に遭うと思うね、ボクは。まぁ、ボクはそんな事を気にせず殺し続けたんだけどね》

 

 ……人と共に歩んでいきたいと思ったいた。

 

 (――おれは人殺しだからな)

 冬の灰色雲に覆われた早朝の空を仰ぎ見る。太陽の微光はカーテンレースのように薄い光の襞をつくって湖畔の水面に流れる。

 

 生命を奪い汚れ続けた両手を握って、深く息を吸い込む。

 (誰かに愛されたいって、望むのは分不相応ってやつだよな……)

 自嘲気味に鼻を鳴らす。

 

 

 

 2

 刀剣類管理局維新派が拠点とする東京駅に近い高級ホテルの応接室の一角には、暖色のシャンデリアと、シックな調度品が設えられている。

 「もう一度だけ確認させてくれ夜見。タギツヒメに協力しているのは君の自由意志によるものなのか?」

 獅童真希は、相対する少女に向かって尋ねた。

 白髪の目立つ少女……元折神家親衛隊の三席皐月夜見はコクンと頷く。

 「……はい」

 「何か理由があって不本意ながら力を貸している――という訳ではありませんのね」

 ワインレッドの緩くウェーブした髪を摘まみながら此花寿々花は、最後の確認を終える。

 「……はい」

 

 

 

 真希と寿々花は、ふたりだけで敵地の本拠地まで赴いた。――理由はただ一つ。親衛隊の仲間であった筈の夜見が、タギツヒメ側に居ること。その意味が分からなかったのだ。

 綾小路の刀使がホテルを警備しているところを、堂々と真正面から訪問した二人。

 当然だが、綾小路の刀使が制止し、一触即発の雰囲気が漂う中、夜見がタイミング良く二人の前に現れた。

 もしかすると、身を隠して様子を観察していたのかも知れない。

 『お二人の相手は私がします――』 

 無機質に感情のない声で、応接室へと誘った。

 

 

 

 ◇

 「――では、もうコチラ側に戻る気もないと?」

 寿々花は確かめるように聞く。

 「……はい。私にはやるべきことがあります」

 淀んだ目は、静かに真希と寿々花を見返す。

 ふーっ、と諦めの息を吐いた真希はポツりと、「結芽を連れてこなくてよかった」と呟いた。

 親衛隊最年少の少女は現在、錬府女学院に居る。

 彼女に黙って二人は夜見に会いにきた。

 「……君と戦う事があれば、ボクたちだけの方がいい」

 真希は、親衛隊同士で殺し合う事を想定していた。事実、夜見の決意の固さを見るに遠くない将来、斬り合うだろうと納得してしまった。

 「――ええ。そんな汚れ役、あの娘には荷が重すぎますわ」隣で寿々花も同意する。

 その話を聞いていた夜見は、珍しく口角を微かに上げた。

 「……ええ。本当に感謝しています。私も巻き込むのは心苦しいですから」

 どこか安堵したような雰囲気が夜見から漂っていた。

 (どうしてそんな顔をするんだッ!)

 思わず、激昂したくなる衝動を堪えて真希は右手の拳を握る。

 また一緒に親衛隊として荒魂討伐を遂行する。そんな微かな真希の夢は、この瞬間に潰えた。

 

 「――やはりボクたちの進む道は違うようだ」

渋い顔の真希はそう言い残して踵を返し、出口へと向かった。

 真希の横顔を眺めながら、「まったく分かりやすい人ですこと」と呆れたように肩を竦める。

 「では、わたくしもこれで失礼致しますわ。……ああ、そうそう、夜見さんに一つだけ教えて差し上げますわ」

 寿々花が理知的な顔に蠱惑な微笑を浮かべる。

 「結芽が前に言っていましたの。また一緒に皆揃って夜桜を見れるかな、と。……勿論、夜見さん。その中に貴女も含まれている筈ですが…………」

 挑発するようにさらに続ける。

 「――夜見さんは今、幸せですの?」

 会心の一撃に、夜見はそれまで平然さを取り繕っていた表情を完全に崩し、俯いた。

 「……どう、なんでしょうね」

 白い髪で夜見の顔は完全に見えない。けれども、苦悶しているようにも見えた。

 「では、わたくしもこれで」

 寿々花も足早に立ち去った。

 

 残された夜見は、だだっ広い応接室の空間で孤独に立ち尽くした。

 (――私は本来、貴女たちのような優秀な刀使ではないんですよ。偽物、マガイモノなんですよ。……だからあの日々も本当は、偽りなんです)

 夜見は頭を上げて出口の扉へ意識をむけ、かつての戦友の背中を見送った。

 

 



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214話

 複合ビルと公園を繋ぐ地下施設の細長い通路は、息の詰まるような打ちっ放しコンクリートの壁面が両側に延々と続く。壁はどこまでも冷淡に無機質な灰色をしている。

窮屈な通路にプゥン、――と粉っぽい粘土の焼けたような不快な匂いが漂い鼻を打つ。

 地上では……アスファルト舗装の地面がドロドロに灼けていた。

 都会の夜の、しめやかな霧雨が噴き付ける中で延焼した鉄筋コンクリートの巨大な破片が街に散乱した。子供がおもちゃ箱を散らかしたように無秩序に建物は破壊され、被害を畏れた人々は消え、生き物の気配が完全に失せている。

 

ギャォオオオオオオオオオ!

 

 昆虫のように尖った四脚を動かす荒魂は、鰐のように大きく鋭い牙と顎から暴力的な悲鳴を迸らせた――。その数は五、一〇……いや、もっと多くの犇めき合う荒魂たちは目的もなく前脚を地面に突き刺し、地面に放射状の線を走らせる。

 怪物たちの黒い鉱物質な表殻に雨粒が点々と付着した。

 

 都下、この街の半径1・5kmを避難指示範囲に決めた日本政府は、地下から蠢くように湧き出た荒魂たちの対応に追われていた。

 運の悪い事に、この地域は新宿にほど近いため、都庁は放棄され八王子方面に東京の政治的中枢が移動した。

 それに合わせ、日本政府でも永田町から茨城、埼玉、神奈川、千葉へと分散しリモートによる連絡で政治的な意志決定を図っていた。

 

 

 十二月二二日、タギツヒメを首魁とする刀剣類管理局維新派は、日本国政府への政治的介入を行った。

 

 ――すでに東京は首都機能の35%を喪失。

 更に不運は続く。

 渋谷で発生した巨獣事件により、首都の交通機能は打撃を受け東京から遁れるための「足」が麻痺していた。その機能が回復し始めた矢先――出没地不明の荒魂たちが地下より襲来した。

 ……人々は絶望し、悲嘆しただろうか? 答えは否である。

 『ああ、またか。運が悪い』

 大変〝冷静〟に現実を受け止めてしまっていた。

 東京を中心に、人々は「非常事態」に慣れてしまっていた。

 いわゆる、正常性バイアスである。

自分たちだけは大丈夫だ――人々は牧歌的に、過酷な現実と向かい合っていた。

 まるで、生贄として捧げられる羊のように疲れ、諦めきった瞳で「現実」を直視していた。

 この心理的な枷があるため、東京の居住者への避難計画も難航した。

 自衛隊は全国の拠点から人員および装備支援要請を図り、関東区域からの避難計画を遂行している。

 

 

「フフフ、あっはははははは!! 美しい。やはり人間たちは無様に逃げるのがお似合いだ! あっははははは」

 高らかに哄笑する童女の声がひと際目立つ。

 特に危険と言われる批難区域の中心、壊れた街の中心で童女は二振りの《御刀》を握りゆったりした足取りで、火の粉舞う夜街を進む。

 タギツヒメは単身、ノロの回収を目的に移動していた。

『ギャォオオオオオオオオオ!!』

『グゥコオオオオ!!』

 耳を劈く鳴き声と共に左右から襲い掛かる全長約5mほどの荒魂たちが獰猛な牙を剥き口腔を最大に広げた。

「ふっ、甘い、雑魚どもめ」

 吐き捨てるように左右を一瞥もせず、両腕を真横に動かす。――一閃、正確な剣筋に裂かれた荒魂たちが口を開いたまま真っ二つに切断された。

 両断された荒魂たちは地面に倒れ伏す前に全身が橙色に液化し、タギツヒメの体へと吸い寄せられるように純白の肌へ流入した。

 薄い光を放つタギツヒメは、大きな瞳を動かして細かな雨の流跡にまざって飛び散るノロの飛沫を頬に付着させながら、妖しく唇を歪める。

 

「まだだ……まだ足らぬ。もっとノロを。……百鬼丸はどうしているだろうなぁ。あやつもしぶとく生き残っているだろうが――ふっふふふふ。あぁ、愉しみだ」

 ショッピングを楽しむ少女のように、かつてはメインストリートだった車道を堂々と歩く。道中には乗り捨てられた乗用車やトラックなどの車輌群を無視して、センターラインの白線を踏んで進む。

 

 

隠れ家であるロッジの広間に、新たな訪問者がいた。

 「ったく大変な目に遭ったぜ」

 青砥陽司は頭を乱雑に掻いて首を横に振る。

 「青砥さんは、新宿から避難という名目で援軍に来てくれた」

 「ああ、本当は何がなんでもオレの死地は店だと決めてたんだがな……娘も、残るとか言い出したから仕方なくコッチに来たまでだ」

 両腕を組む、薄い緑の作務衣とヘアバンドが特徴的な中年の男性。

 「……大関さん、あの助っ人って、このおっさんですか?」

 百鬼丸は胡散臭そうに目を細めて陽司を指さす。

 「ああ? 誰がジジイだって?」

 「いや、ジジイとか言ってないですよ! ったく、めんどくさいジジイだな」百鬼丸はボソッと本音を漏らした。

 「おい! やっぱり今、オレをジジイって言っただろ!」

 口を3の形にした百鬼丸は「いってまーせーんー」と悪びれる様子もなく口笛を吹いた。

「こんのぉ……」陽司は額に青筋を浮かべる。

 「おいおい、待ってくれ。いきなり喧嘩しないでくれ」

 厄介だな、という表情で大関は二人の間を仲裁する。

 二人がにらみ合う中、大関は手を叩いてゴホン、と咳払いをした。

 「――改めて紹介する。青砥陽司さんだ。新宿で刀剣拵えの店を構えている店主さんだ」

 「へぇ、おっさん凄いんですね」

 「このガキ、大人に敬意ってモンがないのか」

 「百鬼丸くんは少し、口を閉じていてくれ。話が進まないんだ」

 大関は少年を嗜めながら、彼が初対面の人間に対して無礼に振る舞う理由があるのだろうか? と少し考えた。だが、今は無駄な事に考えを分配する時間はない。

 「……本題だが、百鬼丸くんの無銘刀は刀身が凄く強いんだろう?」

 そういった大関は、百鬼丸の腰に佩いた刀を一瞥した。

 「ええ、まぁ」

 しかし、初見でも解る通り柄巻きの辺りがボロボロでいかにも破損していた。

 「おい、まさかそのまま刀を振り回して戦っているんじゃないよな?」

 陽司は信じられないという表情で百鬼丸の腰元の刀を眺める。

 「……まぁ」

 「こんのぉバカタレ!」

 思い切り強い拳骨が百鬼丸の頭部に振り下ろされた。

 「イデッ!」

 「もっと刀剣を大事にしようって気持ちはないのか!?」

 口から盛大に唾を飛ばして説教を始める。

 「いや、だってこれ妖刀だし、おれの生命力とか吸い取る性格悪い刀だし……」

 「口答えするな!」

「えぇー、理不尽すぎる」

 百鬼丸は眉間に皺を刻み口を「へ」の字に曲げた。

「なんでも、その刀はお前しか握れないんだろ?」

陽司は真摯な眼差しで《無銘刀》を確認して分析しつつ、訊ねた。

「そう、ですけど……」

「だったら基本的な刀の手入れと修繕方法を教えるからその通りにしろ。いいか? 刀剣の効力を最大に発揮するには普段の手入れが大事なんだ。覚えておけ」

力説する職人の言葉には妙な熱っぽさが籠っていた。その迫力に思わず――

「はい」

と、素直に百鬼丸は同意した。

 

陽司は「ついて来い」と言ってロッジの一角に用意した刀剣を手入れするための道具を広げていた。

彼は百鬼丸の方には振り返らず、

「……ウチの娘はいま、錬府女学院に居る。刀使たちのサポートとして御刀の修繕、手入れをしてんだ。オレは一応舞草の構成員だ。だから協力する――それと」と、言葉を一度区切る。

「いいか坊主」

肩越しに陽司は百鬼丸を真正面から捉える。

「これはオレ個人の願いだ。お前さんが舞草に期待されている戦力だって聞いてる。だからウチの娘も他の連中も助けてくれ。そのためならどんな協力も惜しまない」

 下顎の髭を触りながら、首を前に戻し研師の道具を点検して、準備を始める。

 どこか気迫の感じる中年の男性の背中を眺めながら百鬼丸は「困ったな」と眉を下げて、気恥ずかしさを隠すように頭をガリガリと掻く。

 「うっす」

 誰かに期待されている。――昔なら考えられなかった事だ。

 少年は誰かの〝期待〟を背負っていると――初めて自覚した。

 




これから一気に最終局面まで行きます。
アニメでのお話や描写は大幅カットして、主人公の戦いをメインでやります。アニメの名場面などは全てが不足している今の私では描けないので、ラストバトルまでかなり駆け足になります。



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215話

 敵地に赴く最後の境界線……ルビコン川を前にてカエサルに曰く、〝賽を投げよ〟――――と。

 賽とはすなわち命運であり、命運とは常に自らの手中にあるものだ。

 

 

 Ⅰ

 乳白色の濃い霧が辺り一面を覆い始めている。

 もう、あと数時間もすれば晴れるのだろう……しかし、最早待つ時間は無い。南方の空が禍々しく紅に染まり、黒雲が昼時であるにも関わらず、空一面を覆い尽している。

 

 

 (とき)、2018年 12月24日

 

 この日時は、或いは世界が真の終わりを迎える終焉の季節と記憶するだろう。タギツヒメによって齎された崩壊の鐘が、重々しく鳴り響く。

 

 

 ◇

 深い森林に囲まれたコテージもまた、濃霧が周囲を漂っていた。

 標高が1000m以上もあるこの土地では、冬の訪れも早い。じきに、この場所も深い雪に埋もれるのだろう。

 百鬼丸は静かに呼吸を整え、瞑目したまま首を軽く回してリラックスする。

(もう始まったのか……。)

 彼の中の本能が〝世界の終わり〟に近づいている事を告げた。――自然、心臓の鼓動が早くなる。百鬼丸は思わず、自身が緊張している事に気か付いた。

 ツツ、と上着の袖を引っ張る感覚がして、百鬼丸はその方へ首を巡らせた。

 「……百鬼丸、怖くないの?」

 小動物のような雰囲気の少女、糸見沙耶香が紫紺の瞳を上に向けて少年に問いかける。

 「怖い? うぅん、どうかな? おれはぶっ潰すだけだらさ」

 「……誰を?」

 ニィ、と子供っぽく口角を釣り上げ、

 「決まってんだろ。轆轤秀光と、タギツヒメ。あとはオマケの荒魂だな」

 何も気負う素振りも感じさせず、百鬼丸は色素の薄い沙耶香の髪をクシャクシャと揉むように撫でた。まるで、子犬を撫でる飼い主のような手つきだった。

 通常であれば、一般女性が不快に思うような行動も――沙耶香は受け入れていた。

 彼女にとって、今の百鬼丸は兄のような存在になっていた。

 「……うん。できる。百鬼丸ならできる」

 半ば確信のような声音で沙耶香はいう。短い期間だが、この少年と過ごした日々が彼女を少しだけ変えた。

 「おう、ありがとうよ。んでもさ、おれ一人だけだと絶対に無理だ。――沙耶香も、他の刀使も……色んな連中に手伝って貰わないと、タギツヒメの元まで辿り着けないと思うんだ」

 そう言いながら、百鬼丸は目線を二台の車両へと投げた。

 

 

 車高のある黒塗りのジープ・ラングラーへ荷積みをする大関。衛星無線通信機器を調整しながらヘッドセットマイクで連絡をとっている舞草の美也子。ぶつくさ文句を言いながらも段ボールを運ぶ青砥陽司。その他にも、ここ数日で合流した数名の人々を確認しながら、百鬼丸は微かに笑った。

 

「可奈美たちは多分、東京の方で闘ってるだろうな」

「……うん」

「今度はおれが助ける番だ。――あの時、渋谷で大暴れした詫びだ。それに、あの時はお前にも助けられたしな」百鬼丸は思い出すようにしみじみと語る。

しかし、その少年の一言に沙耶香はムッ、と眉間に小さな皺を寄せる。

「……〝お前〟じゃない」

「ん?」と目を丸くした百鬼丸は直ぐに気が付いたように頷き「すまぬ、沙耶香。おれたちで助けにいこーぜ」

 底抜けに明るい口調と態度で、少年は前を向き濃霧の先――タギツヒメの居る場所へと焦点を合わせていた。

 

 とんとん、と百鬼丸の肩を叩く人影があった。

「ん?」

 肩越しに振り返ると、美也子が硬い表情で彼の傍に立っていた。

「どーしました?」

「今、東京方面の舞草の仲間に連絡したんだけど……率直に言って、現状は最悪。東京からの避難民と、関東域外からの避難民が混交して、二重の混乱を生み出してる。しかも道路と公共交通機関が意図的に破壊されてる。……どれだけの被害が出ているのか分からない」

 淡々と、現状の最悪な状況を説明する。

「ん~、なるほど。んじゃ、荒魂たちボコすんでササッと片付けていきましょうか」

 まるで朝食のメニューを決めるような気軽さで返事をする不遜な少年は、修繕した柄巻きを握り、戦意の昂りを抑えていた。

 

――その様子を眺めていた美也子は呆れて肩を竦める。以前の彼女であれば厳しく、態度を咎めたのかも知れない。だが、今の彼女は違う。

 この目前に居る、掴みどころのない少年を――自らのトラウマと向き合う事を、あの日の苦痛を吐露できた少年に、全幅の信頼を置いている。

 

「そう。じゃあ頼りにしてる」

 美也子は、思わず微笑を浮かべていた。

 事態はすでにひっ迫している。舞草の仲間からの連絡でもそれは痛切に感じていた――だが、不思議とこの少年の近くにいると、不可能も可能になりそうな気がしていた。

 

 百鬼丸は「おう、任せてくれ」と生意気な口を叩いて親指を立てる。それから何かを思い出したように、美也子の耳元に口を寄せて「――もし悪夢をみたらさ、おれが全部ブチのめしてやるよ」と囁いた。

 ……どこまでも子供っぽい言い方で、美也子が驚きながら百鬼丸を見返した時、彼は片方の眉をあげて生意気な表情をしていた。

 彼女は無言で頷き、「その時は頼む」と呟いた。――しかし、百鬼丸には一つだけ隠している事がある。

 美也子は百鬼丸に、あの日のトラウマを語って以来――幻肢痛が軽減され、精神安定剤に頼らなくても良い事を告げていなかった。

 彼に全てを語っていた時、この少年もまた、痛み、悲しみを抱えている存在なのだと悟った。だから、その相槌もなく、ただ黙って聞いている少年に対し、美也子は自然と喋っていた。

 そんな生意気な弟のような存在の少年に、その事実を教えることが、自身の癪に障る気がした。

 

 

 『お~い、もう準備はいいか? 行くぞ』

 男子高校生特有の、若い声が聞こえた。

 

 「おーっす、服部いま行くわ」

 百鬼丸は明らかに軽口を叩くような返事で右腕を挙げた。

 冬の枯れた地面は霜が降り、飴色に薄くコーティングされている。それをバリバリと激しく踏み鳴らして近寄る――服部と呼ばれた男子高校生は、額に青筋を浮かべて百鬼丸の首を絞める。

 「おい! 先輩をつけろ、この野郎」

 チョークスリーパーをかけるように、美濃関の高等部三年の服部達夫は百鬼丸の首を締め上げて折檻した。

「うぐぐ、苦しい、ストップ、パワハラだぞ! ストップ!」

 少年は苦し気に、だが、どこか楽し気に達夫の腕を叩いてギブアップを示した。

 本来の彼の実力であれば、そんな絞め技など容易に抜け出せるのだが、まるでじゃれるように、愉快そうに顔を顰める百鬼丸は、一見して年相応の少年という印象を与えた。

 

 

「つーか、なんでアンタがいるんだよ」

 つい半日前に合流した達夫は、正確には舞草からの派遣要員ではない。単に一個人の意志によるものだった。

 

 服部達夫は、研師を目指す見習いの学生に過ぎない――しかし、最新技術の導入や技術研鑽によって、美濃関の技術部門では、なくてはならない人材であった。

 

 そんな彼は、現今の混沌とした社会情勢に思う所があったのだろうか。とかく、美濃関学院の学長、羽島江麻に直訴した。

 曰く、「何か力になれる事があれば、どんな事でもさせて下さい」と強く願い出た。

 

 江麻は、刀使でもない学生を最前線に送る訳にはいかなかった。

 だが、技術畑の達夫の力は、必ず来るべき最悪において、大いに活躍するだろう。悩んだ挙句、百鬼丸一行に合流させることに決めた。

 

 

 ◇

 百鬼丸と初対面である筈の服部達夫は、生意気そうな少年を一瞥して、どこか違和感を感じていた。

 当の本人である百鬼丸は、口元に手をあて「プププ」と馬鹿にして笑いを堪えていた。

 達夫と百鬼丸は一度、出会っていた。しかも美濃関学院で。

 

 百鬼丸は、意地悪く笑いながら、ゴホンと咳払いをして喉仏あたりを指で無理やり押し込んで調整しながら、

 「あら、もうわたくしの事はお忘れですか?」と、清楚で可憐な声音を出す。

 以前、百鬼丸は美濃関学院へ女装して単身潜入を行っていた。――その時、最初に出会ったのが達夫だった。

 

その声音の変化に、服部達夫は口をパクパクと動かし、思い出した。

「あ、お前……あの時の奴かッ!」

 プルプルと震える指で、羞恥と怒りを綯交ぜにした複雑な様子で、達夫は暫く硬直していた。

 

 

 ――そんな様子を面白そうに眺めながら百鬼丸は「あははは、馬鹿だなー」と、腹を抱えて笑い続けていた。

 

 




大幅にアニメ本編の描写をカットしたので、もし、まだアニメ本編を見ていないアニキたちがいたら、ぜひともほんへをみてね。


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216話

 Ⅰ

 タギツヒメが事実上、日本政府の後ろ盾を得た直後から荒魂の頻発が無数に報告された。――政府関係者および高官は、すでに事態を把握できず、事実上の機能不全に陥ってしまった。

 東京は、一週間の期限付きで首都封鎖(ロックダウン)を発表した。

 一三〇〇万人もの人口を抱える都市部では、混乱が始まっていた。まず、東京都外へと流出する人々である。……しかし、これは実際の数としては多くはない。せいぜ、数万人程度であった。

 また、東京への流入人口も問題となっていた。

 北関東三県からは約一〇万人、埼玉県約九三万人、千葉県約七一万人、神奈川県一〇六万人が日常的に押し寄せていた。

 これらの人々の動きを規制することは容易ではなく、寧ろ市民生活を阻害する形になるために国会でも「主権の制約」という部分が焦点となってしまった。

 また、企業など経済活動の縮小による問題があり、「弱い」首都封鎖となっていた。

 余談であるが、この首都封鎖(ロックダウン)は一四世紀欧州のイタリア都市ミラノにまで遡る事ができる。

 当時、黒死病(ペスト)の流行によって、海上貿易の盛んであったミラノは、流入人口を制限するために城郭都市の機能を最大限に活用して、門戸と閉ざした。

 それはともかく、十二月の中旬までは比較的「平和」な時間が過ぎていた。

 

 形骸化した首都封鎖と、緊急事態宣言は人々にとって「トイレに流す紙」ほどの重要な効果をもって受け入れられた。

 

 しかし、この事態が一転したのが、十二月二二日――。

 それまで散発的に発生した荒魂たちの発生の報告件数が極端に減少したのだ。

 原因はなんであろうか? 既存メディアやネットでも話題になり、「本格的な平和」が訪れたのだ、という論調が俄かに世間で活気づいた。

 

 

 ―――――。

 ―――――――。

 ―――――。

 

 更に事態が一変する。

 二二日の午後七時、突如として民放や公共放送のチャンネルが一斉に「タギツヒメの会見」を放映し始めた。

 彼女は、広い空間に設えられた御簾の奥から神々しい姿を画面の現すと、燃えるような橙色の瞳でカメラの向こうの人間たちを睥睨する。

 

『我はタギツヒメ。貴様ら人間に宣告する。――――消えよ』

 冷酷な声音で、たった一言だけ言い残し御簾の奥まで踵を返して帰っていった。

 勿論、世間は騒然となった。

 ――――荒魂の発生こそ減少したものの、人間が過ごした平和な時間は幻であった事を知る。女神による人間たちへの審判が下ったのである。

 すでに、タギツヒメによって掌握された荒魂たちの力は、人間たちの対抗できる想定を超え、破滅の一途を辿る事となった……。

 

 

 

The road to hell is paved with good intentions(地獄への道は善意で舗装されている) 

           

 

 

 

 Ⅱ

 十二月二十四日。

 東京駅にほど近い高層ビルの屋上ヘリポートには、タギツヒメと親衛隊の姿があった。

 彼女の紡錘形に膨らんだ頭部の先端から、眩い光線が天空の曇り空へと延びている。

 灰色の分厚い雲の裏に見え隠れした巨大な隠世の片鱗である、黒い破片のような物質が上空を覆う。幾何学的な前衛パズルの形状をした隠世の一端は、切れ目のように橙色のラインを表面上に浮かべている。

 

 そんな中、ただひとり楽し気にタギツヒメは頭部を介して感じる。燃え盛る溶鉱炉のような橙色の光線が、「あちら側の世界」と接続したことを。

「繋がった。ヒルコミタマよ」陶然と独り言ちる。

 

 ――ヒルコミタマとは、隠世に存在する大荒魂でタギツヒメの本体である。

 のち、推定されたヒルコミタマの推定では600平方kmにもなる大きさを有しており、検証後、明らかになった外見は球体上の頭部に無数に貼りつく目玉、そこから派生した脊柱と枝分かれした肋骨と触手……。異形、という他ない。

 

 「ヒメ、おめでとうございます。これで隠世の本体と繋がり本来の力を得られたヒメに敵はりません」

 近衛隊の後ろから、白いパンツスーツを着た女性、高津雪那が祝意を述べる。

 だがタギツヒメは振り返って一瞥もせず、本体との接続を確かめ続けている。

 

「ヒメ、今こそ現世に覇を唱える時が来たのです。……これからも私は粉骨砕身――、」

 雪那は興奮した様子で喋り続ける。

 

『去ね』

 タギツヒメはただ一言、切り捨てた。

 

「…………は?」

 長い沈黙のあと、雪那はその一言を受け入れることができずに、短く声を漏らした。

 今、タギツヒメは何といったのだろうか? 去ね? 

 なぜ? ここまで尽くしてきたのに? 

 

 「い、いま何と?」

 聞き間違いだろう、そう思い再び訊ねる。

 「だから去ねと言ったのだ。最早キサマがなすべきことは何もない」

 しかしタギツヒメは雪那に向き合うこともなく、背中で応じる。

 呆気にとられた雪那はまるで懇願するように、「な、何をおっしゃるのですか? 私はヒメのために忠義を……」と、切々と己の忠義を語った。

 何かの間違いだ、きっとそうだ。間違いは修正しなければ。その一心で雪那は自己の功績を伝える。

 ……だが。

 紅のS装備(ストームアーマー)に身を包んだ近衛隊の隊員たちが、徐に抜刀した。

 無論、雪那の方向へ、喉元へ。

 剣先は迷いなく、あと数センチで彼女の喉元を貫く位置にあった。

 「貴様ら、誰に御刀を向けているッ!!」

 激情の籠った恫喝で、近衛隊である刀使の少女たちを睨みつける。

 ――しかし、彼女たちのバイザー越しに映る無機質な眼差しから、突然の行動ではなく予め用意された段階の出来事だった――雪那は直感で理解した。

 近衛隊は、タギツヒメの命令一つで動く。つまり、彼女たちにこのような行動を指示した者は…………。

 

 「なぜ、そんなヒメ……」

 雪那はその場で足元から崩れた。

 全身から力が抜け、失望から声すらも出せなくなった。

 この段階において、ようやく彼女自身は気が付いた。「自分は捨てられたのだ」と。

 

 

 ――――だが、そんな哀れな女性に憐憫を感じる様子もなく、タギツヒメはただ上空を覆う歪な黒い幾何学的な影を眺めながら「あと暫しだ……」と、ほくそ笑む。

 

 童女のような無邪気な声音で、タギツヒメは歌うように、この世の終わりの光景を想像し、「あはははは」と哄笑した。

 自らの欲望のために振る舞う生き物たちを放逐し、壊し尽くす。

 「お前はどんな顔をするだろうなぁ、百鬼丸」

 

 



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217話

たぶん、8月中に拙作終わります。


 「あと何時間くらいで着くんすかね?」

 百鬼丸は左腕の義手と内部に収納されたφ(ファイ)の太いワイヤーロープを確かめながら、運転席の大関に聞く。小脇に抱えた《無銘刀》を一瞥し、軽く嘆息する。

 車窓は冬の灰色をした分厚い雲が延々と続いている。時折、小雨がフロントガラスに付着した。

エンジンの心地よい振動がシート越しに伝わる。しかし、少年は今、旅の気分を味わい楽しむだけの心の余裕はない。

 二台の車両は北関東から首都圏中央連絡自動車道を走行している。

 「あと、一時間半くらいだ。それより、高速道路の検問をあっさり通過できたのも、いよいよマズい状況だな」

 そう言いながら、予め手配しておいた「刀剣類管理局」が公認した通行許可証を左指に挟んでペラペラと振った。

 都心や関東から逃げる際の下り道は通常通り使用されているものの(渋滞は著しい)、災害の現地である上り道は封鎖されている筈であった。

 「……今は一人でも多くの刀使が欲しいんだと思う」

 濃紺のポンチョを身に纏った沙耶香は、伏目気味に予想を口にする。

 荒唐無稽な想像であろうか? ……否。

 ――事実、現在の自衛隊およびSTTなどが東京で氾濫する荒魂たちの群れの対処におわれている。しかし荒魂たちに重火器は有効打になりえない。かつ、荒魂たちを祓うことの出来る刀使の絶対数は不足している。

 

 刀使を乗せて車両、かつ証明書がある場合は上り道を開放するよう通達されているのだろう。

「それにしても、百鬼丸くんの逃亡を助けたはずのオレ(大関)と沙耶香ちゃんの顔を見ても、不審に思われなかったが……少し意外だな」大関は、首を捻りながら言った。

「……多分、捜索するように手配されていたのは黒い獣の時の百鬼丸だけ。それに、あの時、TVカメラで撮影されていたのも百鬼丸だけだった」

 

 確証がある訳ではないが、遠くから撮影されたカメラで、当時の惨劇をとらえる事ができた機器は少ない。しかも、遠くからの撮影となれば解像度が低く、かつ、破壊と瓦礫の中から、バイザーを装着した沙耶香と、作業員の恰好をした大関を判別できるほど、余裕はなかった――と、楽観的に考える事にした。

 

 既に、逃亡劇から世界の終末へと幕は変わっていたのだ。

 

 「服部パイセン、加速装置の微調整頼んで悪いね」

 倒した座席シートに伸ばした片足の加速装置を、美濃関学院の高等部に通う服部達夫は、苦々しい表情をしながらも黙々と工具を手に大腿部のシャフトに当たる部分を整備している。

「ったく、本当に人使いが荒いよな」

 達夫は不満げに鼻を鳴らして、文句をいう。

「へへっ、まま、そーゆーなよ。……コイツの整備を今頼めるのもパイセンしかいねーんだわ」

 百鬼丸は真剣みを帯びた口調で、目線を下に落としながら言う。

 本来であれば、リボルバー方式の加速装置に改造した張本人であるジョーに任せればいいのかもしれない。最近、彼が百鬼丸に話しかける回数が少なくなっていた。

 理由は分からない。だが、整備方法だけならば百鬼丸も覚えてはいる。

 方法さえ頭にあれば、あとは手先の器用な人間に任せるのが一番――という、なんとも他力本願極まる考えから、達夫はコキ使われていた。

 

 どこか翳りのある百鬼丸の横顔を眺めた達夫は、「へっ」と小さく笑った。

「刀使にしか祓えないはずの荒魂を、お前は何とかできるんだよな?」念押しするように訊ねた。

「――ああ、できる」断固とした意志で短く返事した。

 まいったね、と呟きながら達夫は首を左右に振る。

「なら分かった。お前が万全に動けるように、なんとかする。正直、俺たちも戦えるだけの力が欲しい……そう思ってたんだ。ま、普通は無理だよな。でもお前は――」

「「――普通じゃない」」

 百鬼丸と達夫の声は同時に揃った。

 一瞬、呆気にとられた二人は、視線を合わせて「はははは」と爆笑した。

「それに、これは俺の持論なんだが……道具を触ると持ち主がどんな奴か分かるんだ」

「へぇ、おれはどんな奴ですか?」

「そーだな。相当無茶な使い方をしてるから、加速装置もボロボロなんだよ。でも、それだけ戦ってきたったんだよな。しかも激戦だ。当たり前の事だけど、分かる。…………世界の命運とか、正直よく分からねぇけど、お前に頑張って貰わないと前線の刀使も危なくなるんだろ?」

「視界にいる敵は全部ブチのめしますけどね」

「ったく、なんつー自信過剰な奴なんだよ、お前」

「へへ、サーセン」

「……でも、あの巨体と威圧感のある化け物たちを前にしても、多分お前ならそんな風にヘラヘラしてるんだよな。なぁ、百鬼丸」

「はい?」

「刀使も、他の人たちの事も頼む。守ってくれ」

達夫は静かな口調で告げる。

彼の本意が最後の一言に込められている様だった。

「――――うっす」

百鬼丸は、口元を微かに綻ばせて応じた。

 

 

 

 Ⅰ

 夢なら醒めて欲しい。

 こんなに心が苦しいなら、記憶なんて消えてしまえばいい。

 「あの時」姫和ちゃんを助けられなかった――伸ばした筈の手は届かなくて。

 姫和ちゃんに突き飛ばされた瞬間、口を動かしていた。

 『逃げろ』

 目の前で、親友(たいせつなひと)が奪われた。

 

 

 ……どうして、もっと上手くやれなかったんだろう。もっと、他にやり方があったのかもしれない。

 姫和ちゃんが無理をするなんて事は、はじめから分かってたハズなのに。

 私は結局なんにもしてあげられなかった。

 

 

 ◇

 

 

 熊型荒魂の巨体が地面に倒れ伏している。その背中に佇む孤独な人影……華奢な少女は、今にも雨の降りそうな薄暗い空をひとり見上げる。

「私、全然だめだよね……」

 可奈美は張り裂けそうな胸の内を、小さな呟きに代えて弱さを漏らす。

 ピュン、と《千鳥》の刀身を軽く振って付着した荒魂から噴出したノロを振り払う。頬に付いた塵灰の汚れを手の甲で拭い、下唇を悔しさで噛みしめる。

 東京の街に溢れる荒魂の討伐を行う可奈美は、すでに今日一日で討伐数が十数体を数えていた。しかも単独での討伐数であり――明らかに過重労働(オーバーワーク)だった。

 心身共に疲労している筈の可奈美だが、そんな素振りは見せずにひたすらに、任務を遂行する。

 目の前の荒魂を斬って斬って――斬り続ける。まるで、没頭するように。

 (痛いよっ……)

 可奈美は胸元を強く握り締めて俯く。

 気を抜けば涙が零れそうになる。

 だけど、そんなことは出来ない。いま、私が弱音を吐けばきっと、皆が不安になる。

 

 時間が経過すれば悲しみは消えると思ってた。

 でも、違った。

 失った人を追憶すればするほど、二度と戻らない時間が、愛おしくて何物にも代えがたいんだと深く心に刻まれてしまう。

 

 「ずっと、ずっと辛いなら寄り添って……守ってあげるって約束したのに」

 それなのに、何もしてあげられなかった。

 

 今の私は、空っぽだ。

 

 




なぜ、邦画のサブタイトルはクソダサなのだろうか?
「夏への扉」という屈指の名作SFのサブタイトルが「君のいる未来へ」とかいうスタンドバイミードラえもんの「ドラな泣き」に通じるダサさを醸し出させるのだろう。

別に普通に「夏への扉」でいいよね?
なんでさ、冗談みたいな発想でサブタイトルつけるんですかね?
邦画の悪いとことは、サブタイトルのダサさとポスターのごちゃごちゃしてる駄目さ加減だと思う。
なんで一から十まで説明するんだろう。
海外映画も日本版ではことごとく、煽り文句がダサいし。誰か「クソダサのタイトルつける部署」とかあるのか?


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218話

――十二月X日、更夜。

工場地帯から聞こえるボイラーやコンベアなどの巨大なモーターが立てる駆動音が地面全体から、地霊の唸りの如く響き渡る。

 外灯から映し出される煙突の細長いシルエットから濛々と排熱と排煙が夜空へと昇る。それらの景色に目もくれず、ただ、暗い海を前に、

「ステインさん、幸せとは何でしょうか?」唐突に言った。

 

 川崎の工場地帯に隣接する巨大な港湾の埠頭に、元折神家親衛隊の三席、皐月夜見はいた。彼女たちは、折神紫を捜索を口実に単独で行動していた。

「幸福とは、なんでしょうか?」

 彼女は普段と変わりなく機械的な口調で淡々と尋ねる。

 紅のバンダナを海風に靡かせる男は、

「――幸せ? それは誰のだ?」喉の奥からドスの効いた声音で問い返す。

 箒を逆立てたような髪と、目元部分のみ切り抜いた布切れで覆った三白眼をギロリと動かし、静かに隣の少女に目線を落とす。

「……恐らく、幸せを願う人の」

「それはお前自身のものか?」

夜見は口を重く閉ざして、俯き加減に目を細める。

「ええ、そうです。――私はこれまで〝あの方〟の為ならばどんな手段を使ってもいいと、思ってきました」

「……俺をショッピングモールから助けたのもその一環だろうなァ」

「はい」

 キッパリと答えた少女は、隣に立つ異形の男へ頭を上げて感情の無い瞳で見つめる。「あなたは何故、あの時――私の〝剣〟として働くと約束したのですか?」

 これまで共に行動をしてきた夜見とステイン。

 彼らの奇妙な共犯関係は、当事者である筈の夜見ですら理解のできずにいた。

 

「俺は悪だ。……絶対の悪で、元いた世界で俺は必ずの正義に滅ぼされる運命だった。だが、この世界はどうだ? ヒーロー? ハッ、所詮、まだガキの子供が剣を使って化け物と戦う――俺の元いた世界よりある意味では狂っている。そんな世界に迷い込んだ俺は、考えた。〝ヒーローの居ない世界に来た〟と。だが、それも間違いだった。居たんだ、この世界にもヒーローって奴が」

 妙に熱っぽく語るステインは、蛇のように長い舌を出して、整った歯列を舐め捕食者のような気味悪さで喋る。

「――百鬼丸さん、ですか?」夜見は静かに聞いた。

「ああ、そうだ。アイツだ。この世界にも居たんだ。……人知れず、化け物を屠る。それは、まさに俺の求めていたヒーローだ。そんな奴になら殺されてもいい。こんな気持ちはオールマイト以外に抱かなかった感情だ。ショッピングモールで闘った日の夜を今でも夢にみる。肉を削ぎ、骨を砕いて――そんなギリギリの殺し合いができた。俺にはそれが幸福だった。――満たされたんだ。俺は絶対の悪で、社会に拒絶される。それでいいんだ。だが、悪を否定する人間は、無償の正義であるべきだ。紛い物……自己顕示欲で太ったヒーローなんざゴミだ。粛清してやった。アイツは――何より、自分を正義だと思っていない。そうさ、正義なんてモノは所詮主観さ。――それがいいんだ。皆に認められる奴にロクな奴はない。ソイツは宗教だ。……俺だけが信じれば、ソイツは既にヒーローだ」

 

 長々と熱っぽく語る異形の風体をした男は、前腕レガーを動かして戦意を抑えている。今にも百鬼丸を捜してゆきそうな動作をしていた。

 夜見はステインを眺めながら、

「……私は、本当はどうしたいのか、実は分からないんです。空っぽで才能の無い私は、あの方に助けられるまで無価値な人間ですから。本当なら、この親衛隊の制服すら袖を通す権利なんて無かった。それでも、ここまでこられたのは――」

「ハッ、どうでもいい」

 軽く嘲笑うステインは、首を斜めに傾け不愉快な表情をつくる。

「――――」

夜見は途端に口を噤む。

まるで爬虫類のような瞳孔を、白髪の少女へと注ぐ。

「今のお前がどうだなんて俺は興味がない。――俺は、あの夜にお前と契約した。悪であるために、この世界で悪を続けるために、お前を契約主として、お前の剣になった。そうすればいずれ百鬼丸と最高の形で戦える。そう思ったからお前を選んだ」

 

ステインの冷酷な口調で告げた言葉は、意外にも夜見にとって何か腑に落ちるような気分に陥った。

(――私を選んだ?)

 夜見はふと、左腰に佩いた御刀(水神切兼光)の柄に触れる。

 今では殆ど御刀として反応せず、短い時間しか御刀の力を反映できない愛刀を指先に感じながら、考える。

 既に、いつ荒魂になってもおかしくない夜見の肉体は、多量のノロのアンプルが打ち込まれていた。――暴走せずにいられるのは、忠義を尽くす一心に他ならない。

 どれだけ努力しても、剣術には上がいる。刀使として才能のある者はいる。

 だから、たとえ禁忌だと知っていても「こんな方法」でしか刀使になるしかなかった。

 

『夜見さんは今、幸せ?』

 寿々花の声が耳の奥に甦る。

 

「――やはりよく分かりません」

唐突な夜見の呟きにステインは思わず「あァ?」と怪訝な声をあげる。

それにも構わず、夜見は御刀の柄に触れていた左手を離して、目前の獰猛な男の頬に手を無意識に触れさせた。

 

「もしも、貴方が私の剣たらんとするなら――――、私も選んでくれたという点では幸せなのかも知れません」

どこか寂し気な雰囲気で、珍しく夜見は慣れない微笑を浮かべた。

どんな立場でもいい、どんなに下劣で卑怯で最悪な人間でも構わない。

誰かに選ばれれる、たったそれだけのちっぽけな事が、どれだけ救いになるのか分からない。

 

ステインは少女の繊細な指にできた無数の胼胝(たこ)を感じながら、不快そうに彼女の手を払いのける。

「だったらお前の忠義って奴を見せてみろ」

「――ええ、もう後に戻ることなんて出来ません」

 夜見は、夜景に溶け込んだ筈の工場群の建物の輪郭が、ハッキリと一瞬の閃光が迸ったように明確に世界の輪郭を掴んだ。

 

 ……折神家の立派な夜桜。

 淡いピンク色の花弁たちが無情にも爽やかな風に乗って流れ落ちてゆく。

 獅童真希、此花寿々花、燕結芽、そして当主の折神紫。

 もしも叶うのならば、もう一度だけあの瞬間に戻りたい。桜は儚く散りゆく。だからこそ美しい。

 

 『また皆で夜桜みようね』

 あの日、幼い少女の声には一つの曇りもなかった。燕結芽は、あの時、己の体の限界を感じながらも、まるで何事もないように、桜のように美しい色の髪を翻らせながら言った。

 

 ――ごめんなさい、私はもうあなた方の隣に立つ資格もない存在なのです。

 本当の私は、空っぽで偽りだらけで……禁忌に手を出さなければ、何も出来ない……ただそれだけの哀れな存在なのです。

 

(それでも、もう一度だけ――願ってしまうのは私の未練なのでしょうか……)

 

 




読んでくれてありがとうございます。
この先からラストに進みますが、1話から読んでくれてる人にお願いがあります。最後まで読んでくだされば幸いです。
評価の有無はともかく、最後までお付き合い下されば幸いです。
では!


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219話

 濃霧に包まれた石階段の真中で、可奈美は腰を下ろして待っている。

 白黒(モノクロ)の空間――――、深い眠りについた時に訪れる夢の中に存在する世界。

 ここで師匠の刀使、『藤原美奈都』を待ち続けていた。

 

 (誰も来ない……。)

 

 可奈美は怪訝に感じ、立ち上がると階段を下りていった。何度も背後を振り返り、人の気配を探るものの、白く滞留する霧だけが視界を覆う。

 微かに霧の隙間から伺える鳥居の影を目印に、可奈美は立ち止まる。

 待つ。

 ただ、待つ事しか現在の可奈美には選択肢がなかった。

 いつも通りであれば、美奈都が先に石階段の前で待っていた。顔を合わせると、必ず嬉しそうに笑いかけて、「じゃあ、やろうか」と宣言すると、二人で黙々と剣を交える。

 これまで遅れてくることなんて無かった。

 

 だから待った。――長い時間をかけて。

 

 永久に続く流動的な霧の動きに抱かれた可奈美は、無意識に佇んでいる。時間という概念から切り離された空間では、どれだけの時を経たのか、感覚が曖昧になってしまう。

 

 ――――待つ。ひたすらに待った。

 

 しかし、いくら待てど暮らせど、人の気配は感じられなかった。

 可奈美は何度目か分からない確認を、背後を振り返りながらした。

 「師匠が来ないなんて初めて」不安げな面持ちで、ゆっくりと前へ向き直る。

 

 琥珀色の美しい瞳が、雲ってゆく。親友を目の前で失い、更に心の拠り所であった師匠すら会えない。

 「――お母さん」思わず、口に出した。

 美奈都との約束で、この夢の中では「母」ではなく「師匠」と呼ぶよう約束をしていた。

 

 だが、無意識に可奈美は「母」という言葉を口にすることで、安心を求めていた。

 

 今の衛藤可奈美という現役最強の刀使も――一皮むけば年相応の少女のように、迷い悩む横顔をしていた。

 

 

 現役刀使で最強の一角を担う少女は、今や、他の刀使たちからも羨望と憧れ、尊敬の眼差しで見られる存在となっていた。

 

 ……だから、決して弱音を吐くことを許されない。

 仮に大切な人を失ったとしても、可奈美は自身に重い理性の蓋をして内心の弱さを隠した。けれど日増しに強まる喪失感と胸の痛みだけが、悲しさを忘れさせてくれない。

 

 姫和と最後まで触れあっていたハズの指先の温度を、いまも鮮明に覚えている。

 『――可奈美、逃げろ』

 咄嗟に口だけ動かした姫和の姿。スルリと滑って離れゆく手と手。

 「……ッ」

 後悔の波が再び、可奈美を襲う。少女はただ無力さに打ちひしがれながら、繋いでいた左手を右手で包む。

 

 本音は、誰にも言えない。

 弱い姿なんて見せられない。

 ……師匠以外には。

 師匠――若かりし頃の母ならば、本音を語ることができた。だから、この胸の痛みをどうすればいいのか――話だけでも聞いて欲しかった。

「……どうして、お母さん」

 

 

 Ⅰ

 目が醒めた。

 眠っていたハズなのに、酷く疲れていた。――理由は分からない。

 夢を見ていたのだろうか? だが、少女の内心はいつもより虚しさや悲しさだけが募っていた。

 二三瞬きした可奈美は、枕元に置かれた携帯端末の画面を見ると、デジタル数字が表示された。

 「朝……だよね」

 ザラついた声で、確認する。

 まるで心にポッカリと大きな穴が穿たれたように、無気力感と脱力に全身を支配されていた。それでも何とか自らを奮い立たせて、ベッドから起き上がる。

 

 

 可奈美が現在使用している部屋は、錬府女学院の寮の一室である。伍箇伝の刀使たちを全国から招集した影響で、本来は錬府の生徒しかいない筈の寮は、各学校の制服姿が目立つ風変りな光景が目についた。

 

 現在、可奈美の使用している部屋は脱ぎ散らかされた衣類が散乱している。足元には呑みかけのペットボトルなどもあり、汚部屋と化していた。

 床に散乱した物を慎重な足取りで避けながら、学校のジャージ姿を着た可奈美は窓の外で雷鳴に似た騒音に耳を傾け、部屋のカーテンレースを引いた。

 ……異様な曇天であった。

 いや、更に正確に言えば隠世の片鱗が、空に現れ始めていた。

 稲妻が走ったような形の光線が、隠世と接続し――黒い幾何学的な世界の一端を顕現させつつあった。

 「また拡がってる……」

 時間の経過と共に、別世界と現世が交わろうとしていた。

 こんなことを実行するのは、タギツヒメをおいて他に居ない。

 

 ピピピ、と携帯端末が緊急アラームを鳴らす。

 可奈美は不意に画面を一瞥すると、真庭本部長と表記された文字と共に、荒魂の発生したエリアへ急行する旨が記されていた。

 「よしっ……今日も気合いれていこう」

 胸の前でガッツポーズをすると、無理をして作った声で元気さを強調し、自らを叱咤する。

 弱いままでは駄目。

 誰も守れなくなる――あの時、姫和ちゃんと約束したから。

 

(可奈美、お前は誰かを守れる強い人間だ)

 どこか寂しそうな声音で、姫和がそういった。

 

 いま、残された側の可奈美は、孤独に宿命を背負った少女の一言を信じて前へ進むことに決めた。

 ……せめて、守れなかった少女の願いを叶えられるように。

 

 

 

 Ⅱ

 「チッ、糞みたいに数が多いなぁ…………」

 少年はボヤきながらジープ車両の外、車の上部に這いつくばり、《無銘刀》を思い切り引き抜く。

 関東、とりわけ東京の中心部へゆく高速道路の途中から、荒魂の発生が顕著になっていた。行く先を防ぐように荒魂たちは百鬼丸たちの車両を狙い、攻撃を加え始めていた。

 『糞野郎ども、まとめてブチのめしてやる』と威勢のいい声とともに、百鬼丸は次々と敵を駆逐していった。

 

 ――今も、これで何度目か分からない戦闘へ、百鬼丸は突入する事となった。

 キィーン、と音叉が反響するように金属独特の共鳴音が聞こえる。

 百鬼丸は目を凝らし、上空を遊弋する飛行型の荒魂を睨む。その数、三体。

 実は、地上の荒魂よりも面倒であり、刀使が苦戦する種類の荒魂であった。その理由は単純で、物理的なダメージを加えにくい点にある。

 

 (どうするかな)

 時速80キロの速度に身を任せた百鬼丸は、目の乾燥を防ぐためにゴーグルをし、禍々しい妖気を放つ紅の刀身を上空の荒魂に合わせる。

 ――加速装置を使うか? 

 だが、今後の戦闘で活用する機会が増える点を考慮すれば、今は温存したい。

 ……となれば。

 

 「おーい、かかって来いよ」

 右手に握った刀をグルグルと振り回して、荒魂たちの注目を集める。

 外気に溶け込む赤い靄のような妖気に惹かれる様に、飛行型の荒魂たちが飛行高度を下げて捕食者のように攻撃する機会(チャンス)を窺い始める。

 

 「へっ」と、思惑通りに運んだ事で百鬼丸は笑いを漏らす。

 そして左右へ視線を配りながら――待つ。

 連中が攻撃する……その瞬間を。

 歪な飛翼を広げた荒魂は、鋭い牙と燃え盛る口腔を開き、百鬼丸を真横から襲った。

 その時を待っていた少年は、バッと握っていたジープの上部からアッサリ手を離し、わずかなズレを生み、荒魂の攻撃を躱す。直後、足の裏から白煙を噴き、空気膜の壁を作ると刃を荒魂の頭部に突き刺す。

 『ギャォオオオオオオオオオオ!!』

 耳を劈く金属同士の摩擦音に似た悲鳴が、その場に迸る。

 一体を屠った百鬼丸は、数秒の間に背後で飛行する荒魂たちの気配を感じながら、突き刺した荒魂の体を足場に、思い切り蹴り飛ばして一気に飛び出した。

 わずか5mの距離から飛び出した百鬼丸の体は宙を舞い、紅の刃筋を一閃――振り抜く。

 二体。

 わずか、一撃で二体の荒魂が切断された。

 左腕の強化ワイヤーを仕込んだ左腕の義手の安全装置を外す。文字通り、物理的に「腕」を伸ばし、再びジープの車体を掴む。

 シュルシュル、とワイヤーの摩擦音と共に少年が車体に着地する。

「お掃除完了……だよな」

 息をついて、百鬼丸は首を傾ける。

 道路に打ち捨てられた荒魂たちの残骸はいずれ、ノロの回収車がきて処理をするだろう。黒々とした残骸が無残に散乱していた。

 

 

 

 少年の一部始終を車窓から眺めていた服部達夫は、口をあんぐりと開けて「やっぱりお前、普通じゃねぇ」と呆気にとられていた。

 

 



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220話

東京大手町『丸の内』メインストリート。高層ビルに挟まれる形で存在する道路は、駅伝のスタート地点として知られており、平時であれば人々の喧騒に包まれた場所であった……。

 二〇一八年、十二月二十四日。

 東京駅から大手町のオフィス街までの道に人気は無い。

その代わりに現在、工事の仮囲い用アルミニウム製バリケードフェンスと、舗道側に土嚢が積まれていた。……奇しくも、都内には226事件以来の封鎖体勢が敷かれていた。

すでに戦場と化した街に、自衛隊の7トントラック(全長約9メートル、重量約11トン)が数十台停車している。

さらに、荒魂との実戦経験が豊富なSTTの増援部隊も混ざって、混成部隊を形成していた。指揮系統は自衛隊員側が持つことで、命令の統一化も図った。

非常時である、とこの場に居る誰しもが思った。

 

冷たい冬の風が吹き抜ける……。

整然と並ぶ街路樹の枝と、中央分離帯に植えられた木は微かにそよぐ。

灰色の分厚い雲が時々、閃光と共に節の太い音を轟かせる。

発砲許可の出た自衛隊は、初めて交戦機会を得た。それは本来の「人間」にではなく、異形の怪物「荒魂」に対して。

 

 

 

 

 

そんな自衛隊の周囲を、大きな蠅のように耳障りな羽音に似たモーターの駆動が聞こえる。四カ所のプロペラが回転しながら、ドローンは本体の下部に装着された高性能カメラで街の様子を撮影していた。

幽霊街(ゴーストタウン)と化した周囲を、丹念に舐めるようにドローンが俯瞰した視点から撮影してゆく。

厳戒態勢の中、報道ヘリの飛行も不可能であり、地上での取材活動も制約された情勢で唯一、譲歩した取材活動が『ドローン撮影』であった。

次々に映し出される物々しい映像は、ドローンカメラを通して日本各地に配信された。

自衛隊は哨戒活動に専念しながら、彼らの硬い表情が映し出される。

現状の東京は最早、人々の知るイメージから乖離していた。

 

 

平城学館の緑を基調とした制服を身に纏う刀使の姿も数人確認された。

その内の一人、岩倉早苗も一瞬だけドローンカメラに映り込んだ。

 

御刀(千手院力王)の柄に手をかけながら、常に視線を配り警戒する早苗は、心臓の高鳴りを自覚しながら、極めて冷静になろうと呼気を整える。

圧倒的に刀使が不足している現状――自衛隊・STTと共同して荒魂を撃破しなければいけない。となれば、通常兵器による荒魂の拘束と、刀使の斬り込みによる制圧。これが最善である。しかし、一歩間違えば刀使に被害が及ぶか、あるいは制圧に失敗して自衛隊に被害が及ぶか。

にわか仕込みの連携で、果たしてどこまで対処できるだろうか?

普段はおっとりした雰囲気を纏う、ふんわりボブカットの少女は珍しく険しい表情をしていた。

ポン、と不意に早苗の肩に手が置かれた。

「そんなに深刻そうにならなくても、お嬢ちゃんたちは責任を感じなくていいからな」

 STT隊員の一人が声をかけた。年頃からしてベテランだろうか? 優しそうに微笑みかけていた。

 強張っていた顔が一気に緩み、精神的に少しだけ余裕が出来た気がした。

 「あ、あの……はい。ありがとうございます。でも、私たちは大丈夫です。たとえ命に代えても使命を――」

 「いいや。そんな物騒な事をお嬢ちゃんたちは言うなよ。アンタたちを助けるのが俺たちだ……って、俺の知り合いなら言ったんだろうな」

 その隊員は、どこか物悲しそうにその知り合いを思い出していた。

 「――その方は、」

 早苗は聞くべきではない、と思いながらも、気が付くと聞いていた。

 「ああ、ソイツな。死んだよ。ついこの前の渋谷巨獣事件で……な。田村っていうんだ。人一倍正義感だけ強い馬鹿だった。――でも、俺はアイツと親友で、今でも悔やんでるよ。アイツが死ぬならもっと、色んな馬鹿話しとけばよかった。悔やんだ。お嬢ちゃんにもそんな思いして欲しくないんだ」

 早苗は、胸を鋭い錐で突かれた錯覚がした。

 (私と同じだ。)

 思わず唇を噛みしめて、早苗は俯く。

「……私にも、友達が居ました。その娘も、すごく頑張り屋さんで優しい娘だったんです。普段は不器用で人付き合いが苦手な人だったんですけど……凄く綺麗な子で、チョコミント味の好きな変な子なんです」

 十条姫和が死亡した、と知らされたのは平城の五條いろは学長からだった。

『落ち着いて聞いて欲しいんやけど、姫和ちゃんがタギツヒメに――』

 鮮明に今でも耳の奥に甦るいろはの言葉。

 特に平城で数少ない友人の早苗には、いち早く知らされた。

 刀使という仕事に就いた以上、死ぬことは珍しいが全く無い訳ではない。誰しも、荒魂と対峙する時は覚悟を決める。

 ……だが。

 いくら覚悟を決めても、実際に大切な人を失うことまで慣れるワケではない。

「……私にも、分かります。だから尚更私たちがここで荒魂を喰いとめないと駄目ですよね?」

 硬さの抜けない笑顔で、顔を上げて早苗はSTTの隊員にいう。

 まだ幼さの抜けないと思っていた少女にも、どこか悲しさを漂わせた言葉が、悲しみと追憶を滲ませていた。

「ああ、そうだな。まだ民間人が逃げきれてない。お嬢ちゃんたちは必ずヤツラを潰してくれ。俺たちがアンタらのサポートを全力でやる」

 強い語尾で、隊員は早苗に安心させようと言った。

「……はい。必ず皆さんを守ります」

 早苗も、強く首肯した。二度と失いたくない。――だから最善を尽くそう。早苗は己の使命に賭けて誰も死なせないように、固い決意で御刀に誓う。

 

 

「やっぱり、荒魂の気配が尋常じゃねぇほど増えてるな」

 百鬼丸はジャケットに付着したゴミを手で払い、車の後部座席シートに背中を預けて、ボヤく。

「そんな事まで分かるのか?」

 隣に座る達夫が目を丸くして聞いた。

「まぁ、一応は……。本当に厄介な存在になりつつありますよ、タギツヒメは。今も隠世とこの世界を繋げようとしてるでしょ?」

と、百鬼丸は言いながら車窓の外に拡がる上空の違和感を指さした。

 灰色の雲の裏から顕現した黒と溶鉱炉の焔をイメージさせる光の交錯した、幾何学的な模様が空を浸蝕していた。

 「ああ、正直怖いよ。マジで世界が終わるって……実感できるよ」

 達夫は硬い表情で頷く。

 

「……大丈夫。百鬼丸が居るから」

 助手席から声がきた。

 色素の薄い髪の少女がバックミラー越しに目線を向けて、期待の籠った眼差しで見つめている。

 達夫はニヤッと笑い、隣の少年を肘で突きながら、

「だってよ。信頼されてるな」

 茶化した口調で笑いかける。

「――――そうっすね。できるだけはヤリますよ。……こんなクソたれな世界でも、助けたい人まで見殺しにしたくないんで」

 小脇に抱えた刀を掴み、前を見据える。

(おれは、もう逃げたくない――――。こんなクソな世界でも、可奈美たちが生きている世界だから……何とかしなきゃ駄目だろ)

 内心で、自らに言い聞かせるように語りかえる。

 

 

 

『ねぇ、百鬼丸。アンタにとって刀使ってどんな存在なの?』

 

 可奈美の夢の中、かつて〝藤原美奈都〟に、そう問われた。

 えっ、と思わず百鬼丸は返事に困った。

――おれにとって、刀使は常に守る対象だ。

少年は平素からそう答えてきた。しかし、そんな返事に美奈都は満足せず、

『だったらさ、なんで守らなきゃいけないの? 正直、アンタは強いよ? でもさ、だから何なの? って話でしょ? 常にアンタみたいに強い人に助けられ続けるほど、刀使は弱いって思ってるの?』不満げに鼻を鳴らす。

――ち、違う。そんなんじゃ……ない。

『どうだか。己の力を過信して、結局は刀使の事を理解しようとしてないでしょ? それが剣技にも表れてんの。……乱暴で、稚拙で、そのくせ力だけは強い。剣を重ねるとね、その人の心が解るの。ずっとそんな戦い方してきたんでしょ?』

――……それが、自然に身に付いたモンだから仕方ないだろ。

『そうかもね。でもね、いい? 可奈美とも剣について学んでいるなら話は別。いい? これは一人の人間としての忠告。なんでも自分一人で決めつけて行動しないこと。それで痛い目に遭うって、言わなくても解るでしょ?』

――――ああ、そうかい。善処するよ。

 『約束してよ? あ、そうそう。可奈美にヘンな事しないでよ?』

 ――ヘン? ってなんだよ?

 

 『そりゃ、アレよ、アレ』

 ――あれ?

 

 『だからその……ああ、もういい! とにかく、可奈美は可愛いからヘンな気を起こさないでってこと? 分かった?』

 強く念押しをするように人差し指を向けた。

 ――はぁ

 と、気の抜けた返事をした。

 

 

 

 (いや、だからヘンな事ってなんだよ……)

 百鬼丸は未だに、あの時の狼狽した美奈都の姿を思い返しながら、疑問に首を傾げる。

……結局何だったんだ?

そんな事を考えながら頬杖をつき、ボーッと車窓を眺めている。

片目の義眼が遥か遠くにいる女神を睨むようにキツく眇め、己の中に横溢する闘気の昂りを抑え込む。

……異形の少年は空の一隅を見据える。

高い鼻梁に幾筋か垂れた髪の毛は白黒に落ち、後ろ髪を乱暴に束ねたリボンは――以前、可奈美から「人」として生きる道標として手渡されたモノだった。

彼女が渋谷での騒動渦中、右手首に結んだ時に「人であること」を諭しながら固く結んでくれた。

いま、自らの出自を思い出した百鬼丸は、「人」か「化け物」か……その二項ではなく、己のなすべき〝使命〟にのみ忠実に戦おう――そう内心で誓った。

かつて、己を鼓舞してくれた少女たちの為に。

 

 

――――玉座は既に定まり、女神は現世の崩壊する様を想像しながら愉悦の笑みを零す。

 高層ビルの屋上ヘリポートに設えられた簡易の御簾と玉座で、上空に、今にも落ちかかりそうな隠世の輪郭を眺め、妖しい唇が俄かに歪む。

「あぁ、この時を待っていたぞ……」

 玉座で足を組み、右手を伸ばして隠世を掴もうとする。

 もうすぐで人間たちを滅ぼすことが出来る。――忌々しい動物たちが跋扈するこの世界は速やかに滅ばせねばならぬ。――理由などない。ただ、自らの感情に従い、タギツヒメは美しい童女のような容姿で、燃え盛るような橙色の瞳を空の一点に向ける。

薄く発光するタギツヒメは、ひとりの少年に想いを馳せる。

荒魂でも人間でもない――まさに歪と形容するより他にない存在。

ある意味では、偶然の産物であった。

それが、よもやタギツヒメを一時的に追い詰める相手になるとは思わなかった。だが、それも今日で終わり。煩わしい刀使も始末した。

……だが。

どこか満たされない。

タギツヒメは、首を微かに傾げて目前に整列する綾小路の刀使を中心とした人間たちを睥睨する。……彼女たちは単なる駒に過ぎない。

「ふん、キサマたちもいずれは使い捨ててやる」

垂れた前髪の隙間から覗く瞳には、孤独の影が宿っていた。

 

 

 

 

 Ⅲ

 

 「うぅ~ん、どれにしようか迷うなぁ……」

 衛藤可奈美は、目前に山のように盛られたお菓子を眺めながら小さく唸る。親友である舞衣の手作りドーナツやクッキーなどが甘い香りを漂わせながら、大皿の上で見栄えよく並べられていた。

 

十二月二十三日。

錬府女学院の刀使専用寮の――益子薫の部屋には、部屋主以外にも可奈美、舞衣、エレンが集まっていた。

明日の作戦に備え与えられた、ささやかな休暇であった。

外出も規制されている現在、舞衣の発案でお菓子を皆で食べるのはどうか? と、提案した。

 ……その提案はすぐに採用され、こうして薫の部屋に集合した。

 プロにも比肩する舞衣の手作りお菓子は、激闘の続く任務の中でも数少ない癒しと愉しみであった。

「あ、でもあんまり食べ過ぎて明日の任務に影響でないかな?」

 亜麻色の髪を左右に揺らしながら、顎に手を当てる。

「心配するな、そん時はオレが代わりに任務に出てやるから」

 ベッドの縁に腰かけた薫は、床に足元が接触せずブラブラと両足と宙に浮かせながら言った。

 「「―――――。」」

 舞衣とエレンは大きく目を瞠って意外そうに薫の方をみた。

 普段、あれだけ任務を面倒がって文句を並べ、隙があれば休もうとする彼女には余りに似つかわしくない一言だった。

 「――って、何だよ!?」

 心外そうに薫は声をあげた。

 「薫が自分から任務に出るなんて言うカラ、体が驚いちゃいマシタ」エレンが、澄んだ青色の瞳を瞬かせながら親友をマジマジと凝視する。

 「……おい、それはどういう意味だよコラ。喧嘩売ってんのか?」

 腕まくりをする仕草を見せて、額に青筋を浮かべる薫。

 そんな長船の凹凸コンビを横目に、可奈美は「あははは」と不自然なほど作り笑いを浮かべて微笑む。

 それから視線を皿に戻した可奈美は、

 「あ、このドーナツ美味しそう。いただきまーす」

 寒々しいほどの元気な調子で手を伸ばして、一つ手に取ると口に運ぶ。

 もにゅ、もにゅ、と頬を膨らませてドーナツを咀嚼し、小さく「うん」と感嘆する。

 「あっ、これチョコミント味? 結構おいしいかも。そっか、こんなに美味しいなら姫和ちゃんがこだわったのも解るかも!」

可奈美の何気ない一言に、その場の全員が深い溜息をつく。

「――なぁ、可奈美。お前、本気でオレたちが気付いてないと思ってるのか?」

「えっ、あ……実はコッチのお菓子を食べて美味しいなってバレちゃったかな? あはは~」

「……もう止めようよ」諭すように舞衣が言い添える。

「カナミンが辛いのも、私たち知ってマズ」

エレンが沈んだ調子で付け加えた。

そんな二人を交互に見比べた可奈美は、困ったように苦笑いを浮かべながら「どういうこと?」と、とぼけた。

「はぁー」と、深い溜息を吐いた薫が目を細める。

「笑いたくないなら笑うな!」

 強い口調で詰める薫の表情は真剣そのもので、普段のズボラな彼女ではなかった。

 そんな調子の強い反応に驚いた可奈美は、スッと顔から作り笑いを消して琥珀色の瞳を驚愕に瞠る。――そして、暗い顔で口を開く。

 「……私、姫和ちゃんに言った。大切なもの半分持つって言った――なのに、肝心な時に私の手が届かなかった」

 言いながら、可奈美は瞼の裏に今も鮮明に甦る〝鹿島神宮〟境内での対決が反芻した。イチキシマヒメと同化した半神(デミゴッド)の姫和と対峙し、――決闘に打ち勝ち――そしてタギツヒメの計略で十条姫和という少女を失った現実。

 「…………約束も守れないで、結局全部、姫和ちゃんに持たせて、私は何も出来なかったんだ」

 後悔――いや、罪の懺悔をする気持ちの可奈美は、唇を強く噛みしめ赤いプリーツスカートの端を握りしめる。己の無力さに打ちひしがれながら、たった数センチの距離で届かない悔しさに、今も苦しんでいた。

 

 ――《宿命》という言葉を、こんなにも重い代物だと思わなかった。

 

 姫和の母、篝もまた二〇年前に江ノ島で自らの命を対価に差し出し、世界の平穏をもたらした。

 可奈美の母、美奈都もまた、篝と共に救おうとした。

 

 悲劇の連鎖から…………《宿命》から遁れぬのなら、半分を肩代わりする。それが自分(可奈美)のできる唯一の事だと思った。

 

 だが、失敗した。

 

 鋭い錐で胸を貫かれるように、ジクジクと心から痛みが滲み出して止めようがない。

 

 

 ――本当に大切な人がおれの前から消えていくんだ。

 

 かつて、異形の少年がひとり漏らした言葉が甦る。

 (うん、今なら百鬼丸さんの気持ち、分かるよ)

 彼の懊悩が、実感として体験した時、考えることを辞めて――ひたすら戦った。荒魂を祓い、戦い、祓い、戦い……そんな日々で自分の中の痛みから逃げていた。

 『百鬼丸さんの剣は、すごく悲しい――』

 かつて、少年との稽古でそんな指摘をした事があった。

 あの時の自らが何気なく放った一言が、現在になって更に後悔していた。

 (当たり前だよね……誰かを、大切な人を失ってでも戦うって、こんなに辛いんだよね)

 己の未熟さに苛まれながらも、それでも可奈美もまた、無心で御刀を振るった。

 それが唯一の救いの道であるように。

 

 ジワリ、と視界が涙で滲む。

 本当に守りたい、寄り添ってあげたい人たちに何も出来ない自身が心底嫌いになっていた……。

「……!?」

 その時、可奈美の不意に鼻先から顔を柔らかな感触が包んだ。

「可奈美ちゃん。気持ちは私たち同じだから――」

 舞衣が、ゆっくりと抱き寄せて抱擁した。

 ポタり、と可奈美の頬に雫が落ちる。……可奈美は目線を上げた。

「舞衣ちゃん?」

「――ね?」優しく諭すように言った。

 美濃関からの親友である柳瀬舞衣という少女の偽らざる本音と、心臓の鼓動が聞こえる。こうして誰かに慰められるのはいつぶりだろう?

 可奈美の琥珀色の瞳を、包み込むように美しい翡翠色の舞衣の眼差しが見返す。

 他の誰でもない……自分(可奈美)のために、彼女は泣いていた。

 どうしようも無いはずの自分(可奈美)のためだけに。

 

 

 「そうだよ、オレたちもだ――」小さくも呟く。

  折神家の屋敷へ襲撃をかけに行く途上――ノーチラス号の船内で六人が他愛も無い話をして、そして必ず世界崩壊の危機を防ぐことを誓った。

 「カナミンにばかり辛い思いを押し付けマシタ」

  ……誰ひとり欠けることの無いように、固く誓った。

 それは六人で交わした約束だった。

  しかし、いつの間にか可奈美だけが、誰かの悲しみを受け入れようと、誰も傷つかないように立ち回り続けていた。

 「っ……あっ、うぅ……」 

  亜麻色の髪の少女は、声にならぬ声を喉から漏らして、嗚咽を堪えていた。

 知らない間に、自分自身が壊れかけていた事に、今更――気付いた。いや、ようやく向き合った。

 

 「可奈美ちゃん、もう我慢しなくていいから」

 舞衣は静かに告げた。重責を負い、現役最強の刀使として人々を守護し、大事な人を失っても戦い続け、傷つき続ける少女へ――無理をしないで。そう言いたかった。

 

 ――だから、こうやって集まりたかったんだよ。

 抱擁しながら内心で舞衣は思った。

 

 

 『可奈美ちゃんはいつも無理するから……ああやって元気に振る舞っているのだって、一番辛いことから逃げているんじゃなくて――私たちを心配させないためだと思う。だから、可奈美ちゃんのために何かできないかな?』

 薫とエレンに相談を持ち掛けた舞衣は、少しずつ自壊してゆく親友の異変にすぐに気づくことが出来なかった。

 

 だから、もしも彼女を助ける事が出来るならば、何でもしてあげたかった。

 (なんにもしてあげられないって、そう言って苦しんでる可奈美ちゃんだから、私も何とかしてあげたいんだよ)

 柔らかな胸の中で小さく震えるように嗚咽を漏らす可奈美の頭を撫でつつ、舞衣は本当は誰よりも優しくて……脆い少女を癒したかった。

 

 

 「うぁあああああああああああああああああああああああああああ!! どうして……なんで……ぁあああああああああああああああ」

 

 これまで溜まっていたものを噴出させるように、可奈美が悲鳴のような叫びを迸らせる。

 しゃくりを上げて、まるで幼い子供のように両の頬から透明な流れが顎を伝い、舞衣の制服を濡らす。

 その姿は最強の刀使などではなく、年相応の少女だった。

 

 

 




とじともサービス終了するんですね……。リリース時から3年7か月経過するそうですが、アニメ本放送からも随分時間経過したんですね。
かなC
でも、まだグッズとか販売しているので、新しい商品展開などに期待したいですね。


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221話

 真紅の満月が中天に掛かり、昏い上空を妖しい光で照らす。

その大空の一隅にコーヒーの染みに似た黒い異界の一端が顕現している。……隠世の一部が現世と重なろうと、真の姿を現し始めて早や数時間――。橙色の幾何学的な細線が、縦横無尽に上空に伸びていた。

 ハラリ、ハラリ……。

 粉雪のように、空から黒い塵のような物質が地上へ降り注ぐ。

 東京の大手町周辺を警備していた自衛隊員の一人が、ふと首を上げて「雪、か?」怪訝に頭を傾げる。

 ……当然、雪など生易しいモノではない。

 のち、生存者の証言からは「黒い雪」と名称されたコレは――

 俗に言う『死の灰』と呼ばれる核爆発から放出される放射性下降物(フォールアウト)の様にも見えた。放射性核分裂によって生成された物質である以上、生物に対し急性放射線障害を発生させた危険な代物である。

 ――しかし、或いはこの黒い塵灰は《放射性物質》並みに厄介なものだった。

 空気抵抗によって外気を揺らめくように舞う黒い塵灰は、地面に付着すると急速に膨らみ、無秩序に泡の如く膨らんだ黒灰は、一つの意志を帯びたように、生物の外見を模した怪物――《荒魂》として、地上に直立する。

 降り始めた「黒い雪」は、やがて等比級数的な速度で化け物を生み出してゆく。

 

 

 

 『総員、持ち場につけ!! 準備が完了次第、発砲を許可する。』

 自衛隊前線指揮官の努めて冷静に抑えた口調が、各員の耳に装着したインカム越しに伝わる。

 ――しかし。

 人間の判断速度では早くとも、強大な暴力性を秘めた怪物たちを相手に全ては手遅れだった。

 人の数倍はある体格の荒魂たちは、あるものは牙を剥き出しに人体を砕くために口腔を開き、目にも止まらぬ速さで頭部を動かす。

 ある荒魂は太い舌を使い、目前の人間を舐めとるように舌で丸め込み、バキバキと脊椎や腕の骨が枝のようにへし折れる歪な交響曲を奏でながら圧殺する。

 ……まさに殺戮だった。

 一瞬で血の海と化した地上は(なまぐさ)い臓物の匂いで満ちた。

 

 「応戦しろ! いいからたっぷりお(銃撃)してやれ!!」

 ただ、人間もされるがままに任せているワケではない。

 必死に抵抗するため、各員は5・56ミリ89式自動小銃の銃弾を撒き散らす。

 通常、荒魂を仕留めるには御刀と刀使でなければ『祓う』ことは不可能――であるものの、一時的に動きを留めるには通常兵器でも可能であった。

 とにかく、人間たちは必死に祈るように引き金を引き続けていた。もし、銃弾の加護が無くなれば――密林で裸になったも同然の状態になる。

「くそっ、うぉあああああああああああああ!!」

 だが、一人……また一人と荒魂の前に斃れていった。

 人間の抵抗など無意味であるかのように、バリケードを破壊し、車両を喰い破り、荒魂たちは人間を屠るための盛大なパレードを繰り広げていた。

 

 

 Ⅱ

 悲鳴、悲鳴……そしてまた悲鳴。

 街のあちこちから響き渡る人間たちの絶望に塗り固められた声があちこちから聞こえる。

 

 高層ビルの屋上ヘリポートで、物理的に聞こえるはずもない位置で佇む純白に薄光を放つ童女は、下界を睥睨しながら「ふっ、ふはははははっは」と心の底から愉快そうに笑う。

 まるで、虫の羽を捥いで遊ぶ子供のように純粋な目で、殺戮を眺めていた。

 「ついに開いたぞ、異界への門が――」

 タギツヒメは、陶然とした口調で自らの紡錘形の頭部先端から繋がった橙色の線を目で辿り、上空の雲間から覗く、黒い異界の一端を見上げる。

 

 あと、少しで現世は滅ぶであろう……。

 そんな期待を込めた眼差しが、タギツヒメの瞳の奥に宿っていた。

 

 

 Ⅲ

 「――じゃあ、作戦通りにやるか。もう手筈は決まってるんだろ?」

 達夫は都心に近づくにつれて明らかになる惨状と、人間たちの劣勢を車窓越しに感じながら、ワザと陽気な口調で言った。

 (くそっ、なんで俺たちは何も出来ないんだよッ!!)

 内心で闘う術のない一般人である彼は、歯噛みをしながら膝の上で拳を固く握る。

 黒と白のモノトーンカラーが綯交ぜになった美しい長髪を左右に散らした少年が、

 「まずはタギツヒメの居る場所まで直線距離で移動するのは不可能だ。だから、少しだけ回り道してから突っ込む。……沙耶香は可奈美たちと合流する。幸い舞草のGPSで位置は分かってるんだよな?」百鬼丸が訊ねる。

 「……うん、平気。でも百鬼丸は――」

 「タギツヒメを必ず潰すために必要な方法を全てやる。それが戦いってもんだろ?」

 そう言って、痙攣したような下手くそなウィンクを飛ばし、肩を竦める。

 「なぁ、百鬼丸くん。これだけは言わせてくれ。絶対に生きて帰ってきてくれ。そだけが頼みだ。じゃないと、田村に顔向けできないんだ」

 ハンドルを握った大関は心配そうに言った。

 「こんなに強いおれの心配ですか? へへ、まったく理解できませんね」

 「沙耶香ちゃんは大丈夫だ。しっかりしてるからな…………だけど、君は別だ。いくら強くてもまだ子どもだ」

 「童心を忘れてないって奴ですよ」

 「――そんな言葉を聞いてオレは放心してるよ」

 「はっ、」と、苦笑いを零した百鬼丸は小さく首を振って俯く。

 「正直、ここまでくるのに皆の助けがなかったら今頃、おれは死んでたと思う。けど、こうやってタギツヒメと対決できる場所まで運んでくれたんだ。全部、おれ一人だとできないと思う。だから、皆の期待に応えるよ。こんなクソタレな世界に生れ落ちても悪くないよな、って思えるくらいのいい奴らには出会えたからさ」

 そう言って、後ろ髪を束ねた黒いリボンを触る。

 

 『もし、自分を忘れそうになっても……――思い出して』

 

 優しい声音で右手に固く結んでくれた少女の言葉が耳の奥に甦る。

 「なぁ、大関さん。そろそろ宮城近くだろ? なら、そこでおれは勝手に降りるからな。タギツヒメの前に倒さなきゃ駄目な奴がいるんだ」

 断固たる意志の籠った口調で百鬼丸は、視線を刀に落とす。

 「……それって、」

 沙耶香が助手席から身を乗り出して不安そうに百鬼丸を見詰める。

 まるで、幼い妹のようだな……と、思いながら内心で苦笑いした百鬼丸は、

 「轆轤秀光。奴は必ず〝おれたち〟の手で決着をつけないといけないんだ」

 片方の義眼と片方の肉眼が同時に底光りする。

 「――どんな結末が待ってても、必ずやり遂げる」

 

 

 



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222話

「夜見。君は今どうしているんだ……」

 獅童真希は憂いを帯びた眼差しで、東京メトロ押上駅の前で昏い空を見上げる。

「あら、いつになく感傷的ですこと」

 クスクスと忍び笑いを漏らした此花寿々花は、ワインレッドの毛先を弄びながら隣に並び立つ。「――まぁ、もっともあの子みたいに騒がれても困りますけど」と、深い嘆息交じりに愚痴をこぼした寿々花の目線の先には、天才剣士と謳われた少女が不機嫌そうにチョコレート菓子を齧っていた。

「あぁあああああもぅ!! 退屈! 退屈、退屈だよぉ~!!」

 両腕を伸ばして燕結芽は叫ぶ。

折神家元親衛隊の3名は東京都心での防衛戦には配備されず、いまだ避難が完了していない民間人の護衛へと回されていた。

 この押上駅は、北関東へとつながる重要なルートであり、地下鉄であれば荒魂たちの攻撃を受けずにシャトル輸送できる目算だった。……

 だが一点だけ問題があるとすれば、以前まで頻発していた地下からの荒魂の発生――それだけが問題であった。

 そのため、地下鉄による人員輸送は行われているものの、安全を考慮して輸送数は増えない。だが、時間の経過と共に避難民の数は増えてゆく。

 大規模な避難計画は頓挫した……ように見えた。ただ、一つ光明があった。

「まさか、旧軍の巨大な地下坑道がこんな時に役立つなんて……誰も考え付かなかった、なんて言うと、政府の高官から御叱りでも受けますわね」自嘲気味に呟く寿々花は、青い瞳を瞬く。

「勿論、資料は残っていますが、貴方のように実地の経験がなければ無用の長物になり果てていましたけれども――」

 チラと、寿々花が隣を見ると、緑色の汚れたジャンバーを着た老人……松崎老人が背中を丸めながら、目を細めて立っている。

「戦争の時の苦労も全部無駄じゃなかった……中佐殿にこれで顔向けができる」

 松崎老人は、かつての上官の眠る地下の奥深くを思い描きながら、自身が生き延びた理由に運命的な意味を感じていた。

「小娘ども、先程から話していた戦友を本当は捜したかったのだろう?」老人は、黄色く濁った眼で問いかける。

真希と寿々花は同時に顔を見合わせ、答えに窮した。

「――その様子だと、さしずめ、――刺し違える覚悟のあるモノだったんだろうな」

「「!?」」

 二人は、老人に心が読まれているような不気味さを覚えた。

「解るさ。……昔はそんな連中たちの中で過ごしていたんだ。けどな、一つだけ教えてやる。小娘ども、いいか。お前たちは手を汚さなくても大丈夫だ――」

 「……どうしてそう言えるんですか?」

 真希は、苛立ちを堪えて尋ねる。

 自分たちだって、戦友を自らの刃で傷つけたいと思った事など一度も無い。だが、状況が、立場が全てを変えてしまったのだ。苦渋の決断をここで否定されるほど、ヤワな決意ではない。

 松崎老人は、小さく咳き込んでから、「――あの坊主がいる。あのバカタレは、ワシと中佐殿をもう一度引き合わせてくれた。どんな深い暗闇からでも、救ってくれる」

 老人の回顧と割り切った寿々花は、

 「……わたくし達は、誰かに頼って何かを得られるほど、上等な生き方はしていませんわ」強く反駁した。

 「ははは、頑なだな。そうか……若者は、いいな。そうか……中佐殿もそう感じていたんだな」懐かしそうに、のどかに笑う松崎老人は、悲痛な覚悟を示す二人の刀使に対し、ただ優しく諭すように告げる。

 「結局人間なんてモンは、自分たちの力でどうする事もできない出来事にブチあたるもんさ。因果応報さ、どんな事も自身に帰ってくる。だから、小娘どもはせいぜい人助けでもしてればいいのさ。――そうすりゃ、気まぐれな神様でも仏様でも希望だけは与えてくれるだろうよ。……ただ、どんな形の救いでも、それを受け入れる覚悟を持つことさ」

 

 

 

「はやく! 弾丸が足りない! 早く補給を急げッ!!」

 逼迫した前線の自衛隊隊員たちが、89式自動小銃を発砲しながら、インカムで支援を求める。

 破られたバリケードから更に後退して新たに防衛網を構築した自衛隊およびSTT、刀使の混成部隊は、通常兵器の火力による斉射によって、一時的な荒魂たちの動きを止めていた。

 しかし、それでも限界はある。

 「うぉああああああああああああああ!!」

 恐慌に駆られた若い隊員は、小銃を手放して逃げ出した。目前で幾人も屠られる映像が脳裏に焼き付き、振り絞った勇気と精神が崩壊した。

 「あの馬鹿!!」

 「くそっ!!」

 たった一人でも抜けると、防衛網は容易く破られる。銃弾の弾幕が薄くなった箇所を見逃さない荒魂たちの列が殺到しようと迫る。

 『皆さん、持ち場を動かないで!』

 凄惨な戦場には場違いな少女の声と共に、銃撃する隊員たちの隙間を縫う様にして突出する素早い人影たちがあった。

 《迅移》を操る速度は、七色の光を煌めかせながら、荒魂たちに向かってゆく。それまで銃撃で押さえていた動きが、少女たちの繰り出す斬撃によって一刀両断、完全に仕留めることに成功した。

 錬府女学院の刀使を中心とした少女たちが、次々と挺身の覚悟で斬り込みにかかる。

 まだ若い彼女たちの献身に心を打たれた人々は、まだ学生の彼女たちが誰ひとり犠牲になるべきではない……と、理性を取り戻して前線の崩壊を止めた。

 一進一退の攻防戦が、大手町を中心にして繰り広げられていた。

 

 

 

 Ⅲ

 自衛隊の天幕が並べられた前線基地は妙に静かだった。

 タギツヒメを直接討つための突入部隊の準備が整った直後の、いわば嵐の前の静けさに似ていた。

 林立する高層ビル群の中でもひと際高いビルの屋上から、天空に向かって稲妻のような形の光線が延びていた。

「まるで世界の終わりのようデスネ」

 エレンは率直な感想を言った。

「オレらが負ければ本当にそうばるだろう――」

 隣で小柄な少女――薫が、気楽そうに……しかし、逃げようもない現実である事を語った。

 

 翡翠色の美しい瞳が一瞬だけ青く染まる。

 《明眼》を発動した舞衣は、あの橙色の稲妻が走るビルの頂部にタギツヒメが居ることを確認した。

 「あそこにタギツヒメが……」

 討伐対象である首魁が居る方角を睨み、舞衣は容易に近寄れる距離でない事に歯噛みする。

 そんな舞衣の言葉に触発されるように、可奈美も一棟のビルを見詰めた。

 「見ててね姫和ちゃん。……必ず小烏丸だけは取り戻すから」

 右腰に佩いた《千鳥》の白い柄に触れた。親友の手を取れなかった後悔と共に、親友の愛刀だけはせめて取り戻したい。そんな切なる願いに突き動かされるように、可奈美は真直ぐに前だけを見据える。

 横目で可奈美の決意を確認した舞衣は、突入部隊の前線指揮官を任せられていた。その指揮官としての責務を果たすべく、翡翠色の瞳に決意を宿す。

 「みんな、この戦いで私たちがやるべき事は……」

 「分かってるよ。今更言われるまでもない」

 間髪を入れず、舞衣の言葉を遮るように薫が全面同意を示す。薫は隣の長身の親友に目線を送る。

 それに気づいたエレンも釣られて、

 「皆、同じ意見デス」

 明るく返事した。最早、この突入部隊に参加する者に生半可な覚悟で挑むものなど居ない。

 「……二人ともありがとう。うん、わかった。ねぇ、可奈美ちゃん。私たちが可奈美ちゃんの道を切り拓きます」

 舞衣の真剣な表情が真直ぐに可奈美を見据える。

 「舞衣ちゃん。みんなもありがとう」

 可奈美は、この作戦の中でも要石となるべき存在である。彼女だけがタギツヒメに対し対抗手段を持っていた。だからこそ、最も危険な部隊へと志願した。

 ……友の愛刀を取り戻し、せめてもの償いとする思いを込めて。

 

 「カナミン。プレゼントもありマス」

 エレンはそう言ってスカートのポケットから携帯端末を取り出す。

 画面には《特別稀少研究棟》と表示された文字と共に、『ねぇ、聞こえる? みんな』と女性の声がスピーカーから洩れた。

 「累さん!?」

 可奈美は思わず、素っ頓狂な反応をした。

 これまでの逃走劇に手助けをしてくれた美濃関のOGである恩田累が、通話を繋いでいた。

『早速だけと受け取って。私たちからのプレゼント』

 と、言った直後――――直角に飛行する紡錘形の物体が幾つも暗い空を彩り、地面へと真直ぐに落下した。その衝撃は凄まじく、爆撃を受けた跡のように、周囲に派手な土埃と衝撃を与えながら着地した。

 耳を劈くような着地にも関わらず、可奈美は喜色に充ちた様子で「ストームアーマーですか?」と問うた。

 ストームアーマとは、刀使が本来以上の能力を発揮するために開発された、鎧のような存在である。通称S装備と呼ばれたこの鎧は、人体への負担軽減、並びに基礎能力のバックアップが目的とされていた。

 『左様。ただし従来のストームアーマではない』

 初老の男性の声に聞き覚えがある。

 「フリードマンさん!!」

 可奈美は、エレンの祖父である米国の優秀な研究者である老人の名を口にした。

 『稼働時間を大幅に改善した新型さ』

 従来のS装備の難点は稼働時間になった。電力による稼働には限界があった。……開発当初はノロを用いたS装備の開発も行われいたが、着用者の暴走という結末に至ったため、電力による稼働としていた。

 ――そのS装備の使用限界時間が延びたことは、素直に作戦の成功率を上げることに直結した。

 

 『皆、無事に帰ってきてね。そしたらスイーツでも奢るから』

 累の激励に触発された突入部隊の面々は「「「「はい!」」」」と、勢いよく返事をした。

 

 最悪な盤面をひっくり返す起死回生の一手、その一手のための布石が集まりつつある。そんな確かな希望の糸が見え始めていた。

 

「――――私も微力ながらお前たちに加勢する」

 と、可奈美たちの背後から現れた人物が、姿を見せた。

 

 ……刀使の中でも最強の称号を名実共に示す女性、折神紫が白いパンツスーツ姿で少女たちの前に出てきた。

 かつて、敵対していたハズの存在が今、こうして共に敵を打ち破ろうとしていた。

「タギツヒメと決着をつけるために来た…………」

 切れ長な眦に憂いを帯びながら、紫は呟く。

 可奈美はただ無言で、母の戦友であり、タギツヒメの暴走を孤独に抑え込んでいた女性に向かい合い、微笑を零しながら無言で頷く。 

 二〇年前、江ノ島で発生した厄災の再現はさせない。

 かつて、ふたりの親友を生贄に捧げた紫は、二度と過ちを犯さぬように――

 親友を眼の前で失った可奈美は己の死力を尽くして友の想いを取り戻すように――

 ふたりの視線は交錯する。

 



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223話

「くそっ、まだ増援は来ないのかっ!?」

 自衛隊隊員が必死の形相で叫ぶ。既に彼の足元には生気の無い亡骸が無造作に転がっていた。本来であれば回収する手筈の仲間を放置して、更にバリケードから遁れ、即席のバリケードを構築し、再び遅行作戦に移る。……まるで、一分一秒が地獄のようだった。

 バババババ、と銃口から放たれる銃弾は次々と荒魂の硬質な外殻に弾かれ、跳弾し、四方八方へと消えてゆく。

 しかし連続射撃により、銃身が高温に焼け付き始めている。

 それでも尚、引き金をひくより他に生命(いのち)を守る術がない。

「……っ、まだ」

 傷ついた左腕を庇いながら、一人の少女が苦痛に顔を歪める。

 錬府女学院の刀使たちもまた、斬り込みの強行を何度も行ったために、体力も気力も限界に達していた。――幸い、まだ死者こそ出ていないものの、重軽傷者が次々と戦線を離脱してった。人間側の決定打が次々と失われれば、当然、戦いの趨勢は荒魂の側に傾く。

 

 岩倉早苗もまた、平城学館と錬府女学院の混成刀使部隊を率いながら、戦い続けている。

(今のままだと、いずれ皆が――)

 不吉なイメージが頭を過る。

(――ううん、今は……)

 そんな事を考えている暇はない。刀使の前線指揮官は自分だ。余計な事を考えるよりも最善の手を……。

 早苗は己を強く律して、御刀を握り油断なくバリケードの弱点を捜して目線を動かす。

 『うぉあああああああ、なんでだぁあああああ、くそっくそっ、くそっ!!』

 自衛隊のひとりが焦った様子で引き金をひいている。

 カチ、カチ、と弾切れの音が無情に響く。

 『なんで、なんでだよォ? おい、マジかよ、くそっ、あはははは、もういいよッ! ここで俺が死ねってことだろォ?』

 そういって、錯乱した隊員は重火器を地面に勢いよく投げ捨て、バリケードを乗り越えると、「おい、化け物ども、ここだ! おい、俺は餌だ! ホラ、喰えよぉ、他の奴らみたいに喰えよォ!」と両腕を広げてアピールした。

 男に注意を引かれた荒魂たちが、ワラワラと一人を囲み始めた。

 「――ッ!?」

 異様な光景に衝撃を受けながらも、早苗はなんとか理性を無理やり回復させて《迅移》を発動させた。

 超人的な加速度をもって距離を詰め、バリケードを片足で乗り越えると数メートル舞い上がり、落下速度を利用して刃を振り下ろす。

 目前にいたムカデ型の荒魂を頭部から真っ二つに切断した。

 その勢いを止めずに、隣のカエル型荒魂の首を素早い速度で落とす。

 周りに目を配り、タイミングを見計らって後退のためにバックステップを踏む。

 肩越しに振り返り、

 「しっかりして下さい。急いでバリケード裏に逃げて」

 早苗はなるべく穏やかに、しかし切迫した状況を鑑みて短く命令した。

 「――あ? 構うな! 俺は……もういい! あああああああ」

 目を大きく開いた男は頭を抱えて、すでに精神がヤラれていた。

 (……どうしよう? この人を守りながら戻ることは出来ない)

 状況を正確に分析しながら、なるべく冷静に思考する。だが、距離をジリジリと詰める巨大な荒魂たちが、今も早苗と男を目掛けて襲い掛かる寸前だった。

 

 (十条さんにも胸を張れる刀使だって…………言いたい)

 早苗は、かつて、孤高だった級友――十条姫和の事を思う。

 つい最近彼女、訃報を知らされた。

 人と交わりを絶っていたハズの彼女は、美しいだけではない孤独の深い色が漂っていた。もしも、孤独に理由があるとしたら? 

 そんな簡単なつながりから、姫和と距離を少しずつ縮めていった。

 

 「私が荒魂の注意を引きますから、いつでも逃げて下さい」

  背後に短く言うと、御刀を正眼に構えて神経を最大まで研ぎ澄ます。

 「あ、アンタはどうすんだ? ふざけんな!」

 「――あなたが先に逃げるまで、ここで足止めします!!」

 断固とした調子で答え、早苗は荒魂たちを睨む。

 恐らくこの数の相手では、すぐに取り囲まれて嬲られるだろう。――背後の味方も守りに集中するので精一杯だ。刀使ともなれば、消耗も激しくて動けない筈だ。

 ――だが不思議と後悔はなかった。

 恐らく、彼を見捨てていた方が後悔したはずだ。

 早苗は、清々しい気持ちで、「私が駄目になったら急いで逃げて下さい」と背後の守備部隊に言った。

 本来であればS装備でもあればこの難局を打破できたかもしれない。しかし、このような奇襲のような形での荒魂の襲撃は誰も予想しないものだった。

 生身で闘う。

 早苗の頬に冷や汗が滑る。

 それでもあきらめない。最後の一秒まで諦めてしまえば望みは潰える。

 

 

 

 

 

 『お嬢さん、ちょぉおおおおおおおっとゴメンよぉおおおおおおおお』

 ――ドスン

 ――ドスン

 質量の塊が空から落ちてくる。

 「えっ!?」

 早苗は思わず、気の抜けた声をあげた。

 よく見れば、ビルの間の上空を遊弋していた飛行型の荒魂たちの残骸が見事な輪切りになって地面に墜落してきた。

 シュー、シュー、とガスの洩れるような不気味な音と共に一筋の白い噴煙が頭上を通り過ぎる。

 たった数秒で飛行型の荒魂たち五体が斬り伏せたれた。

 

 目で追えない速度で移動する人影は、荒魂たちの蠢く中心に降り立ち、情け容赦ない斬撃を的確に繰り出してゆく。

 様々な種類の荒魂たちが巨体で、圧力を加えて包囲している筈だ。しかし、牛酪(バター)を切るナイフのように容易く化け物の胴体を斬り伏せ分解する。

 妖しく輝く真紅の刀身は、まるで空に掛かる赤い満月のように毒々しく、数々の怨念を宿しているような印象を受けた。

 白と黒のモノトーンカラーの長髪を翻し、荒魂たちの切断した箇所から噴出する橙色の液体を頬にベットリ付着させながら、狂暴な笑みで次々と自らの体格の数倍はある敵を屠ってゆく。

 さながら、地獄の門から這い上がってきた鬼のような少年に、恐れをなしてジリジリと後退を始めた荒魂たちを、反撃の余地も逃走の余地も無く斬撃で、物言わぬ物体へと変えてった。

 

「え、百鬼丸さん!?」

 早苗は息が止まるかと思った。

 彼は確か、逃走している筈ではなかったのか? 

 彼女の困惑をよそに、名前を呼ばれた少年は「あ、岩倉さん? だよな。待っててくれ。少しだけ遊んでからソッチ行くからな」と、気軽に遊んでいるような感覚で喋りながら、斬り伏せた敵の頭部を踏みつけ、残忍な笑みを浮かべる。

 

 ――ゾッ、と思わず早苗は背筋が凍った。

 あんな表情を始めてみた。

 荒魂たちが無力な人間たちの殺戮を楽しんだように、あの少年もまた、強大な存在である筈の荒魂たちを――簡単に蹂躙している。

 

 「ふっはははははっは、やっぱり楽しいよなぁ、ザコを狩るのって。気持ちがいいんだよなぁ」

 酔いしれるように、百鬼丸は全身を橙色のノロの液体に濡れながら、散らばる残骸を踏みつけて哄笑する。

 ――悪魔だった。

 真紅の刀身を持つ人型の悪魔が、血のように赤い月に向かって笑う。

 幻想的な光景でありながら、人間側の誰ひとりとして、彼を味方だと思うことが出来ずにいた。……圧倒的な暴力。……本来の力による蹂躙。

 腹を減らした捕食者と、捕食される哀れな存在のようにも見えた。

 

 ……たった一人の出現によって、荒魂たちの勢いは大いに減じた。

 

 爬虫類のように細長い瞳孔をチラと早苗に向けながら百鬼丸は、人の好さそうな顔で微笑みかけて、「よし、ちょっとは余裕できたろ?」と肩を竦めてみせた。

 

 

 

 Ⅱ

 「あ、あの助けて下さってありがとうございました」

 早苗はとにかくお礼を言わなければと思い、近寄ってくる百鬼丸に向かって一礼した。本当は先程の光景が衝撃的すぎて恐怖していたが、それ以上に命の恩人なのだ。

 「ん?」意外そうな顔をした百鬼丸は、首を傾げて怪訝な表情をつくる。「助けた、んだっけ? まあ、いいよ。それより姫和の家で会って以来だよな」

 気安く話かける少年は、ニコニコとしながら袖で顔に付着したノロを拭き取る。不思議なことに、ノロの残滓はすべて真紅の刀身に吸い込まれてゆくように、移動していた。

 「あっ、あ、はい」

 困惑しながらも、早苗はなんとか頷いて曖昧な笑みを浮かべる。

 (どうしよう? 何を言えばいいんだろう?)

 明らかに狂暴な姿を見たあとでは、ヘタな事を喋れば殺されかねない。

 しかし、姫和の家で見た少年の時と寸分も違わぬ様子に、心のどこかで安堵もしていた。

 「いや悪いね。見苦しい所みせちゃって」困ったように頭を掻いて舌を出す。

 まるで、悪戯を見つかった子供のようだった。

 「――いいえ。百鬼丸さんが助けてくれたから私も今、こうして無事なので」

 「そっかな?」 

 と、言いながら腰の鞘へ、チン、と金属の音を立てて納刀する。

 「それより、姫和たちと一緒じゃないんだな。てっきり学校単位で闘ってるもんだと……」

 

 姫和、という言葉を聞いた早苗は、チクリと胸を針で刺されるような痛みに襲われた。

 「あの……十条さんの事ですけど」

 言いにくそうに上目遣いで、百鬼丸を見る。

 「――――ん? あ、いいや。説明しにくいなら、チョット失礼」

 精悍な顔立ちの少年が、ツカツカと歩み寄り早苗の背中に腕を回して、額を押し当てた。

 「えっ!? あの……ええええ!!」

 思わず、焦りの声が洩れた。

 高い鼻梁と秀でた眉、薄い唇と、見方によっては悪くない顔立ちの少年の顔を前に、早苗は戸惑った。

 ゼロ距離まで男子と接近することの無かった彼女にとって、百鬼丸の行為は予想外の行動であった。

 「――しっ、すまんけど黙っててくれ」

 短く真剣な口調で注意する少年。

 「は、はい」

 硬直したように、早苗は直立不動になった。

 毛先のふんわりとしたボブカットの髪が、百鬼丸の右の手の甲を擽る。

 伏目がちな百鬼丸は、《心眼》によって相手の記憶や心を読み、事情を把握し始めた。……無論、姫和の訃報も。

 

 小さく何度も頷きながら百鬼丸は「ありがとな。悪かったな、急に記憶を覗き見て」と謝罪した。

 「い、いえ――あの、私の記憶を全部見たんですか?」

 「いいや、必要な部分だけ」

 「じゃあ、十条さんのことも……」

 と、言った瞬間に百鬼丸の表情が暗く曇った。

 「……ああ、大方の情報は仕入れさせてもらったよ」

 「あの、ごめんなさい」

 「ン? なんで岩倉さんが謝るんだよ?」

 「力になれなくて、私が……十条さんにもっと寄り添えれば結果が……」

 「関係ないよ。…………大丈夫だ。そもそもタギツヒメをブチのめすのが、おれの役割なんだ。アイツの敵討ちでもしてやるさ。――ああ、そういや宮城(皇居)ってどこだっけ?」

 「えっ?」

 早苗は唐突な質問に、目を丸くした。

 「どうしたんですか?」

 「いや、少しだけヤボ用ってやつがあるんだ」

 「ヤボ用、ですか」

 「ああ。そこにもブチのめさないと駄目な奴がいるんだ」

 言いながら、百鬼丸の表情が引き締まる。

 「えっと、皇居の方角は多分、荒魂たちで埋まっていますよ?」

 「ああははは、心配ありがとうな。でも大丈夫。おれは強いからな」

 ――確かにこの人は強い。

 早苗は喉元まで出かかった言葉を呑み込み、

 「――分かりました。今地図を渡します。あ、それと……」

 「ん?」

 「あの、あんまり異性に額をくっつけるのは……どうかと思います」

 微かに頬を赤面させながら批難する。

 百鬼丸は視線を宙に彷徨わせてから、

 「オッケー」

 サムズアップして、笑いかける。

 

 (これって、前に十条さんが言ってた顔なのかな……)

 

  姫和が以前、百鬼丸という少年について、「あの男は本当にどうしようもない馬鹿者だ。それにスケベの権現だ。全ての常識がない。最低最悪な男だ!」と力説していた。

 

 ――しかし、早苗は知っている。

 十条姫和という少女がここまで他人に対して、語っている時なんて今までなかった事を。

 散々、少年に対する文句を述べたあとに、最後に口元を綻ばせて、

 『……ただ、あの馬鹿者はな。本当にピンチの時にタイミングよく駆け付けてくれるんだ。それに、何でもないような顔をして笑いかけてくれる。どこか憎めない馬鹿者なんだ』と、微笑んでいた。

 

 

 くすっ、と早苗は不意に笑みがこぼれてしまった。

 「百鬼丸さんなら、他の人たちも助けてくれるのかも知れないですね」

 姫和の面影を思い浮かべながら、早苗はかつて友が語った人物を前に、どこか懐かしさを感じていた。

 「……? お、おう。任せろ」と、首を傾げた百鬼丸。

 彼は、姫和の訃報を噛みしめるように脳裏に彼女と過ごした逃走の日々を思い返し、もうひとりの少女――可奈美にも思いを馳せた。

 (クソッたれ。全部遅すぎた――)

 己の無力さと、守ると誓った少女たちを失ってしまった後悔を忘れようと――剣を握り戦う事を選ぶ。

 

 

 ……これまでも悲しみを癒すのは、戦いだけだったから。

 

 

 ――――これからも戦いだけで心の傷を忘れる。

 



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224話

 大手町方面防衛線での百鬼丸の乱入から、荒魂たちを圧倒して屠る光景をモニター越しに見ていた笹野美也子は生唾を呑んで、

「なんていうか、本当に規格外の存在だったんだ……」

 誰にいうでもなく、一人つぶやく。

 右耳のインカムに手を当て、まるでアクション映画のワンシーンのような出来事に、現実味を感じなかった。

 これほどの群れを前にしても、臆する事なく――むしろ、喜々として刃を振るう少年に憧憬より恐怖を感じていた。 

『悪夢でもなんでも、荒魂? 怪物? 全部おれがブチのめしてやるよ』

 ロッジで少年は確かに美也子に言った。

 右手を動かし、右目の辺りを撫でる。

 ――恐怖。

 本能的に荒魂たちの姿が、全身から怖気を齎す。

 ……それでも、刀使を支援するためにサポート部隊に身を置いているのは、自分のような存在を増やさないため? 

 (ちがう)

 美也子は軽く首を振った。

 「逃げたくないんだ。……もう、あの時の私じゃないって…………そう信じたいから」

  いまの美也子は、舞草の支援部隊と無事に合流し、物流および被害状況の確認をしながら、適格な指示を送っていた。

 自分自身が出来る限りの事をする。

 それが、刀使でなくても戦える方法だから。

 「……百鬼丸くんを見ていると、不思議と強いことに憧れを持たなくなるのは有難いかな」

 苦笑いしながらも、自衛隊の野営用天幕に設えられた簡易基地のモニターたちを一瞥し、目を細める。

 自衛隊内部にも舞草の構成員はおり、刀使という戦力が圧倒的に少ない今、どのような派閥かは問わず、前線での共同戦線が構築されていた。

 「剣を持つだけが戦いじゃない――そうだよね?」

 一つのモニターに映し出された少年の姿に指先を重ね、己の責務の意味を噛みしめる。

 

 ――あの日、荒魂に襲われて泣いていただけの私じゃない。

 ……すべては

 

 

 Ⅱ

 

 「そういえば、真希さんが何故親衛隊に入隊したのか聞いていませんでしたわね?」

 寿々花は、避難民の行列が次々と押上駅に吸い込まれるように移動するのを前にしながら、ふと、話しかける。

 避難誘導は自衛隊が行っているため、刀使――もとい、元親衛隊の面々はあくまで荒魂退治要員としてこの場に居るに過ぎない。……ハッキリ言って暇なのだ。そんな寿々花の問いかけに、

 ――えっ?

 と、音が聞き取りにくかったのだろう。獅童真希は、寿々花の元まで近寄り、耳を彼女の口元まで近づけた。

 「ちょっ!? な、なんで――」

 急に接近したために、寿々花はドギマキとおかしな反応をして、頬を紅潮させた。

 「ゴホン。ですから……、真希さんはなぜ、強さを求めているのか――いつもはぐらかすので最後まで聞けませんでしたが、何か理由でも?」

 なるべく大きい声で鋭く発音して真希に聞き取りやすいように喋る。

 中世的な顔立ちの真希は意外そうに寿々花を見上げ、暫く黙ってから……「ふっ」と微笑を零した。

 「いいや。そうか……きちんと最後まで話していなかったんだね。ボクは力が欲しいと思ったのは」

 真剣な眼差しになった真希は、遠い過去を思い返すように息を静かに吐く。

 「目の前で、刀使の部隊が壊滅したんだ……。夜だった。大規模な荒魂の巣の掃討作戦で――京阪の山野で目ぼしい荒魂の巣を掃討する作戦の途中で――」

 

 ――人が殺されたんだ。

 

 搾り出したような一言で、真希自身が臓腑を抉られたような表情に歪む。

「それって――四年も前の出来事では?」

「ああ、そうだ。だけど当時のボクは優秀で――あの時は結芽みたいに、ある意味では無邪気だったかも知れない。でも、ボクは本当の天才児じゃなかった。もうすぐで13歳になるような年ごろの子供が、刀使として参加したんだ。確かに、荒魂を祓う経験は積んでいた。だから……慢心していたんだ」

 ボクたちの部隊は順調に荒魂の巣を放逐していったんだ。まるで、すべてボクたちの実力だと思いあがって、ね。

 まさか、すぐ近くで支援に来ていた長船の刀使部隊が襲撃されているとも知らずに。

 連絡網が一時的に遮断されていたんだ。理由は分からない。でも、たった数分の誤差が、ボクたちと被害のあった部隊の明暗を分けた。

 ボクたちは無論、長船の部隊を援護するために急行したよ。夜の山を。

 でも、手遅れだった。

 内臓をグチャグチャに撒き散らせた刀使たちが、数人、木の幹に、地面に、転がっていたんだ。

 

 『……あぁ、いや、まだ死にたくないっ』

 

 生き残りだった長船の刀使の子が、自らの目玉を噛み潰す様子を見上げながら、必死に懇願する言葉が今でも耳にこびりついて離れないんだ。

 ――あの時のボクは、本当に情けなかった。

 それまで、「死ぬ」ってことが、どこか遠い出来事に思っていたんだ。

 平城学館の先輩刀使が、なんとか生存者を救出して、離脱した。

 ボクはずっと、震えていた。…………本当の生死の現場を見て、畏れたんだ。

 

 死にたくない、ってね。

 

 ◇

 全て語り終えた真希は、自らの右掌を眺めながら血豆がつぶれて硬くなった皮膚をしげしげと見つめる。

 「――もし、ボクに紫様や結芽のような才能があれば、そう思わずにいられないよ。でも、ボクはやっぱり、強欲で傲慢な人間だ。だからせめて努力だけは怠らない。……でなければ、誰も救えないからね」

 寂しそうに微笑む真希は、自らの肉体に宿るノロの残滓に言い聞かせるように語った。

 「……そう、でしたの。真希さんらしいですのね」

 ワザと気丈に振る舞う寿々花だったが、内心では、真希の壮絶な過去を聞いて、どう反応して良いか分からなかった。

 (それでも、あなたの背中を追いかけたわたくしのような存在も――) 

 と、内心で思ってから首を振って思考を中断する。

 「でも、もう真希さんは十分に〝強い〟のではなくて――?」

 皮肉っぽくいった寿々花の言葉に、真希は思わず目を瞠って、「あははは」と快活に笑う。

 「……買い被りだよ。でも、寿々花にそう言ってもらえるなら、励みになるかな?」

 「ふふっ、それでこそ真希さんですわ」

 「――ああ。ボクは強くなるために鍛錬したんだ」

 ――誰かが襲われていたも、助けられるだけの強さを

 ……すべては

 

 Ⅲ

 「「――――この日のために、強くなったんだ」」

 




大分原作とも時系列も、何もかもイジってますけど、ご容赦下さい。(今更かもですけど……)
特に真希さん関連は、シカタナイ。(ごめんよ)


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225話

タギツヒメが拠点とした高層ビルの一階エントランス部分には、歩哨の綾小路所属刀使の姿が散見された。――その内の一人、

「衛藤さん――わたし、こんなに強くなったんだよ……」

 内里歩は、陶然とした口調で恍惚と喜色を湛えながら、自らを抱き寄せる。近衛隊には特別に赤いS装備が与えられている。……無論、これは負の神性を帯びたノロを原動力とする危険な装備品であるが、今のマトモな心理状況にない近衛隊の少女たちには些末な事だった。

実際、通常のS装備よりもその質力、基礎的なパフォーマンスも全て上回っていた。

 「もうあの、衛藤さんに憧れていただけのわたしじゃないんですよ?」

 ハイライトの消えた目で、歩は口を曲げて独り言ちる。

 今日は特別の満月だ。真紅の満月だ。

「衛藤さんに早く会いたいなぁ……わたしこんなに強くなったんですよ?」

 クスクスと忍び笑いを漏らしながら歩は、事前に知らされた襲撃部隊の撃退に向けて、エントランスの自動ドア出口へと軽やかな足取りで進んでゆく。

 

 

 

 

 

 

 轆轤家の歴史は長く、それに比して内容は色濃く血塗られた腥いものだった。

 まず、この家は――世間には知られてない。

 それも当然である。

 朝廷から代々格式のある扱いを受けてきた折神家を「表」とするなら、それを支えるのが「裏」の柊家。まさに硬貨の表裏と言って良い。

 ……では、轆轤家はどうか?

 結論から言えば、この家は《生贄》を捧げ続ける奴隷の家であった。

 尚武の気風とは違う家柄であり、多くの人々から「寵愛」を受け、都合よく消耗される人間たちを生み出していた。

 彼ら/彼女らは、まるで愛玩動物のように扱われる。それがこの家に生まれた者の宿命であった。

 この轆轤家は、不思議な事に女性ばかりが生まれ、男児は、世代ごとに一人しか生まれない稀な血筋であった。――しかも、生まれつく者は皆、眉目秀麗な者ばかりで《ノロ》の体内受容量もまた普通の人間と異なり、容易に受け入れることができた。

 刀使としても有用な轆轤家の者たちは、その役割を終えると妾か……侍従として名家の「持ち物」となった。

 ――しかも、轆轤家は現代にいたるまで近親婚を脈々と受け継ぐ歪さも持ち合わせていた。

 だが、この家に生まれついた者の価値観は、一般人とは異なり、奴隷であることに誇りを感じていた。むしろ、それに反発する者を嘲笑い、蹴落とし――好んで悪環境を享受していた。

 

 

 

 (だが、オレは違う……。)

 轆轤家の現当主、轆轤秀光は己の体内に流れる忌まわしき血液を憎しみながら、その稀血を最大限に利用して生きてきた。

 ファウンデーションで隠した額の十字傷を左の指先でなぞる。肌に深く刻まれた傷跡は、かつて落雷を直撃した際についた傷だった。

 

――我に最強の剣を与え給え

 

 十数年前に、山奥の仏堂にて願った事があった。

 その願いを叶えてくれる者ならば、神仏でなくても良い。悪魔とでも契約しようと思っていた。

――だが秀光の願いを聞き入れたのは、紛れもない《神》だった。

 ――その神は、確かに秀光の願いを聞き入れた。

 

 彼の望まぬ形として。

 

 

 

 Ⅰ

 

 轆轤家の屋敷は、延べ約3500㎡にも及ぶ広大な敷地を都内に所有している。

 この屋敷は関東大震災以後の六年後に竣工し、高橋貞太郎の設計によって15世紀ごろのイングランド・チューダー様式を取り入れた様式の建物を築造した。

 鉄筋コンクリート造りの、この大規模な建築を可能にしたのも、轆轤家が奴隷の家であり、かつ、政財界に強い影響力を持った故に可能としたものである。尤も、秀光にすれば「忌まわしき血族の象徴」とも言うべき建物かもしれない。

 外壁をスクラッチタイルの赤褐色と、タイル自体の表面突起に浮かび上がる溝が、建物に対し荘厳かつ重厚な印象を与えた。

 遠目からは、色褪せた緑色のマンサード屋根が特徴的であった。

 地上3階建て、尖塔三カ所と個人所有の豪奢な邸宅として、財閥系か華族の邸宅に比する代物になっていた。

 

 

 

 轆轤家屋敷の広間に一脚の背もたれの長い椅子が置かれていた。

 赤い絨毯の敷かれた広間には、壁に沿って緩やかなカーブをつくった折り返し階段と、経年で深い色に変色した木製の格子手摺が出迎える。

 天井の暖色の点るシャンデリアが、室内の雰囲気を温かく彩った。

 長方形の窓から洩れた採光は弱く斜めに日光を投げかけた。

 「…………随分と遅かったじゃないか」

 椅子で静かに読書をしていたスリーピーススーツ姿の男は、目線を上げて玄関に佇む人影に喋りかける。

 

 目前の相手――――百鬼丸は、無表情にただ、秀光のみを見据えてゆっくりと歩き出す。

 この場所に来るために戦闘があったのだろうか?

 百鬼丸の着た上着の革ジャケットは破れている。顔や手足など目につく部分から出血や浅い裂傷が見受けられた。

 「アンタを殺しにきたぞ……」感情を押し殺した声で、少年は呟く。

 距離にして五メートルの距離で両者は視線を絡ませあう。

 それは、ある意味では父/子であり、過去/未来の自分との邂逅だった。

 

 秀光は驚く様子もなく、むしろ予想通りという様子で立ち上がる。彼は、百鬼丸の髪色を一瞥して、

 「やはり、お前たち〝紛い物同士〟で結び付いたか。ハハ、滑稽だな」と吐き捨てた。

 黒と白のグラデーションがかかった髪束が玄関扉から吹き抜ける風に煽られるたびに揺れ動き、その下から鋭い眼差しが秀光を睨み続ける。

 

 「お前を殺す」

 「………それは、オレの役割だ。お前たちのような紛い物を生み出してしまった責任がオレにはある」

 そう言って、ゆっくりと足元に置いた大太刀の鞘を掴んで立ち上がる。

 「オレは今まで、この一族を根絶やしにするために血族を屠ってきた。……それこそ、恨みのない者も、だ」

 淡々とした調子で独白する秀光。

 朱塗りの刃渡りの大きな一振りを頭上に掲げ、確かな調子で鞘から刃を引き抜く。

 「殆どの人間を、この手で屠ってきた。父も母も、叔父も叔母も姪も全てだ。……そして、残ったのがお前、お前だ! 百鬼丸!! 貴様をこの地上に残す訳にはいかない」

 完全に刃が露わになった状態で、剣尖を百鬼丸に向け、鞘を地面に捨てる。

 

 

 

 「「…………」」

 両者はにらみ合ったまま、動く気配がない。

 過去/未来の自分が、合わせ鏡のように像を結んで佇む。両者の歩んできた人生は全く別モノでありながら、可笑しいくらいに、二人の姿は似通っていた。

 

 百鬼丸が、先に足摺をして片足のリボルバー式加速装置の準備をする。

 秀光は、それを見透かしたようにジャケットの内ポケットから円筒状のガラスケース……ノロの収められた注射器を取り出す。

 「お前も、このオレも化け物だッ!! この血塗られた血筋に終止符を打つためにオレは死ぬ。その前にお前も殺さねば――轆轤家を本当の意味で終わらせることができないッ!」

 口端に唾をためて怒鳴る。

 首筋には幾つもの注射痕があり、皮膚が赤紫に変色していた。――だが、躊躇わずに秀光はノロを注入する。

 全てを終わらせるために。

 

 

 

 

 

 



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226話

 幻夢――と、刀身に刻まれた文字。

 大太刀を確かに握った秀光は霞の構えをとり、宿敵であり己の分身である百鬼丸を殺す為に一瞬の隙を狙って気迫を溜めている。

 秀光の顔は時間の経過と共に荒魂の特徴である黒鋼のような色合いと、溶鉱炉の橙色のラインが通ったグラデーションに蝕まれていた。

 額の辺りから鋭利な角が生え、次第に人から「人型荒魂」のように変形してゆく。

「おい、随分と男前になってるな」

 百鬼丸は軽蔑の眼差しと、皮肉を含んだ口調で挑発した。

 しかし、秀光は肩を竦めて首を横に振る。

「ああ、そうだな。……あのまま、人間の姿であった時の方が苦痛だ」

 未練もなさそうに、荒魂へと肉体が変化しつつある事を当然のように受け入れていた。

 瀟洒な屋敷内の調度品が、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。……今、ここで斬り合うには不釣り合いなほど、華麗な空間である。

「こんな所でふんぞり返ってる野郎は、考えることも一味違うのか?」

 担肩刀勢に構えた百鬼丸が、左腕を伸ばし、膝を軽く曲げて姿勢を低く相手を見据える。

「――――オレの代でこの家も屋敷も滅びる。それが自然の摂理だ。我らの一族は余りに歪だ」

 秀光は語りながら以前、血族であった錬府女学院の刀使を二人、銃殺した。彼女たちは最期まで秀光の思想を肯定し、進んで使命を果たし――役割を終えた。

 彼女たちもまた、自分たちの宿命とこの先の人生に絶望していた……そんな折、秀光の思想に共鳴した。

「後戻りなぞ出来ない。キサマのような出来損ないがこの地上に居て良いはずがないのだ!」

 顔面が、完全に荒魂を憑依させ、肉体という器が人類から怪物のソレへと変わった。

 百鬼丸はニィ、と口を曲げ、

 「知るかボケ! テメェには散々な目に遭わされたんだ。おれが先にテメェをブチのめす」

 一歩、跳ぶ。

 足裏の赤い絨毯に黒い焦げ跡。目にも止まらぬ速さでタックルの要領で突出し、刃を打ち込む。

 ……だが。

 それを予期していた様に、両足で床面を蹴って大きく後退する。

 右頭部からチラチラ、焔が燃え上がっていた。――荒魂化した影響で、体内から爆発的な炎が噴き出している。

「お前の動きはすべて見切っている。諦めろ。勝てるはずがない」

 眼球だったはずの顔のパーツは既に目玉が蒸発し、変わって白いスリット形状の「目」があった。

 

 

 (厄介だな……予知能力か)

 百鬼丸は咄嗟に《心眼》を開き、秀光の内心を読む。

 戦闘において正確な予知とは、それだけで最大級のアドバンテージとなる。相手の行動の次の一手を知ることは、髪の領域と言って良い。

 手を潰すこと、逆手に取った策略――何より反撃にも防御にも絶大な効果を発揮するのだ。

 

 

 一方、ニエと融合したことで百鬼丸の戦闘能力自体は飛躍的に向上した。

 その代わりに、《心眼》や諸々の特殊能力の感覚が鈍り、高水準に持ってゆくためには時間が必要となる。

 数メートルの間合いを両者は保ちながら、決め手に欠けていた。

 

 (クソ面倒だな)

 

 達人同士の戦いは、手数よりも決定的な一撃を至高とする。無駄を削ぎ落した剣士の戦いとは、身体の哲学的領域にある。

 

 ――だが。

 

 この二人の男たちは異なる。

 単なる殺し合いの道具に剣を用い、原始的な意志と力によって相手の息の根を止めるために絶えず緊張状態を継続するに他ならない。

 

 「どうした、かかってこないのか?」

 軽く挑発するように秀光が、喉ではないノイズがかった声で喋る。

 「気味悪いな、テメェ」

 吐き捨てるように言った百鬼丸。

 正眼に《無銘刀》構え直すと、真紅の刀身が放つ妖しい光を感じる。幾千万もの妖魔を斬り伏せた妖刀から漏れ聞こえる怨嗟と呪詛のような呻きが体内に流れ込む。

 ……ゾクゾクした。

 百鬼丸は獣のような荒い息をついて、興奮を抑える。冷静さを欠いては敵を斃せない。

 これは戦闘の鉄則――そして生き残るための術だ。

 高鳴る心臓の音に心の耳を傾け、仕掛けるタイミングを見計らう。

 

 二人の男は鋭い視線を交錯させたまま、一歩たりとも動かない。

 

 ……否。動けないのだ。

 

 一〇秒、一分、……いやそれ以上の時間が経過した。

 短く、永遠に近い体感時間に、いつしか深い奈落の底が、少年の脳裏に浮かび上がる。

 不意に百鬼丸の目前には二重写しの景色が滲んで広がり始めた。今、眼球で見ている秀光と屋敷の内部と――全く異なる大海の青い景色。波の砕ける音だけが延々と耳の奥に響く。

 余分な風景のように思われた二重写しの風景は、やがて視点を高く、細い幾つもの線に枝分かれして秀光の体外に紐づけられた。

 轆轤家の屋敷内部が、いつの間にか広大な宇宙の一隅のように真っ暗に、微かに余光が点々と瞬く不可思議な空間。

 そこに太陽系も無く、天の川銀河も無く、先程の波の音すら掻き消えて――凪いでいた。

 まるで、存在そのものの孤独を与えるように、百鬼丸に孤立感を与えた。

 薄い光の膜が、視界の遠景から急速に広がる錯覚に陥った。光の膨張は、やがて鱗粉のように百鬼丸の全身を包み、爆ぜた。

 

 

 「え……?」

 気づいた時には百鬼丸の体は飛び出していた。

 何者かに操られたかのように、体が頭の制御を無視して動きだす。床を蹴って階段手摺と壁面を足場に縦横無尽に走り回り、三次元的な角度から秀光を翻弄する。

 これも、おそらく予知しているだろう。

 だが、本当に決める一手だけは最後の最後まで分からない。

 (どうなってんだ!?)

 一番焦っているのは百鬼丸自身だった。ジョーでもニエでもない、本当に「誰か」が自分を操り人形のように動かしている気がしていた。

 しかし、不思議と不愉快ではない。むしろ心地よい。速度を増すにつれ耳元を横切る風の激しい音が興奮に拍車をかける。

 ビュン、と百鬼丸は天井に吊り下がった豪奢で巨大なシャンデリアを切り落とし、秀光を圧殺しようとした。

 バリィィン、と甲高い響きで硝子が激しく砕け散った。

 透明な破片の鋭い雨は、赤い絨毯に弾けて点った灯りが一気に消えた。天井は光源の一部を失い、一気に薄暗くなった。

 秀光は一切避ける素振りもなく、ただ煩わしそうに一閃、刃を振るいシャンデリアを切断した。

 彼の体外から放出される焔が、硝子の破片に煌めく。

 

 

 Ⅰ

 酸鼻を極めた街は、荒魂たちの切断された胴体や首――または人間たちの遺骸が回収されずに野ざらしになっていた。

「…………。」

 眉を顰めながらも、足を止めることなく糸見沙耶香は先を急ぐ。

 タギツヒメを討つべく突入する部隊は、可奈美たちを含む数人だけの精鋭刀使だけで行われる予定であった。無論、実力に申し分のない沙耶香も作戦に参加するつもりで、合流目的地まで駆けていた。

『沙耶香ちゃん、安全には十分に注意してね』

 携帯端末から聞こえる柳瀬舞衣の穏やかな声がした。

 電話越しにコクン、と頷く沙耶香は不自然なまでに減っている荒魂の数を眺めながら安全なルートを選び進んでゆく。

(百鬼丸の影響?)

 首を傾げつつ端末のスピーカーを一瞥し、

「……平気。舞衣こそ大丈夫?」気遣いながら道路に乗り捨てられた車両の列をすり抜ける。

 濃紺の防水ポンチョを羽織った沙耶香は、裾を靡かせて不吉な赤い満月の掛かる夜を急ぐ。

 

『沙耶香ちゃん、だよね?』

――突如、端末から別の大人の女性の声が聞こえた。

「……うん、」

 誰だろうか――心当たりを記憶の中に探しながらも結局分からず、「誰?」と一言訊ねた。

『うっ、ひどい……って、そんなに沙耶香ちゃんと話さなかったかな? まあいいや。恩田累だよ。前に会ったことがあるけど……流石に覚えてないか。とにかく、皆と合流する前に改良したストームアーマーを装着してからね。準備も出来てるから』

「……わかった」

 素直に返事をすると、直後に端末の地図の画面に新たな座標が赤い印で示された。

 (急がなきゃ)

 沙耶香は色素の薄い髪と、斜めに伸びた長い前髪を揺らして走る。

 ドライバーのマイナス部分に似た腰元のホルダーに手をかけた。《妙法村正》の柄を感じて、安心する。

 唯一の武器は、この惨禍の中にあっても頼れる存在として沙耶香の精神を守っていた。

 




戦いの途中ですけど、夜ぐらいに文章追加すると思います(多分)


追記、文章を午前3時に追加しました。


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227話

 狼は氷河の原野を彷徨い歩きながら、絶え間なく吹き続く吹雪の中を孤独に行く。

 後ろに残した筈の足跡さえも、鈍色の雪によって埋もれてしまう。昼間のはずだが空は暗く薄い光が射すだけ。

 それにも構わず狼は頭を下に傾け四脚を黙々と歩ませた。

 磨かれた黒曜石のような瞳は静かな気迫を湛え、力強い意志の込めた輝きが時折煌めく。

 足元を柔らかな雪の感触を確かめながら――狼はパタリと倒れた。

 腹部を貫く丸い傷口から止めどなく鮮血が溢れていた。生暖かい温度が次第に広がり、紅に染まるシミが細い足を濡らす。

 疲れ、飢えた狼は全身を小刻みに痙攣させつつも、前を向いて牙を剥いて進む意志を示した。

 ――たとえ死ぬ間際であったとしても、暗闇に閉ざされた視界の中であっても……狼は刻一刻と迫る死期の中でも行く先だけは目を逸らさずに睨み続けていた。

 

 

 

 まるで、キリマンジャロの雪に埋もれた豹のように、狼は死して尚も視線だけは動かさなかった。

 

 

 

 Ⅰ

 可奈美たち突入部隊は、各方面からのひっ迫した情勢を聞きながら、タギツヒメを討つ最後のタイミングを窺っていた。……作戦予定時間になると、S装備に身を包んだ彼女たちは目標となる高層ビル目掛けて走り出した。

 

 「薫ちゃん、突破口をお願い!」

 舞衣は肩越しに短く伝えた。

 「おう、任せろ」

 自らの背丈以上もある御刀《祢々切丸》を抜き身の状態から、進路を塞ぐ荒魂たちの群れ目掛けて打ち下ろそうとした――その時。

 「ねね~」

 それまで薫の肩に乗っていたペット扱いの荒魂ねねが飛び出した。

 「あ、おい!」

 突然の行動に困惑して焦った薫だったが、すぐに疑問が氷解した。

 ねねは元々荒魂でありながら人の世に慣れた稀有な存在である。ねねは、飛び出した瞬快に本来の巨大な大狗に似た姿に戻り、一気に駆け抜けてゆく。かつて、人家を襲い、村々で暴れまわった強大な力を発揮した。

 壁のように魑魅魍魎の荒魂たちが踏みつぶされ、モーセの海を割る場面を模倣したように見事に「道」が出来た。

 ねねが切り開いた突破口は、予想外でありながら僥倖であった。

 舞衣はすかさず、

「可奈美ちゃんは先行して。……紫様は可奈美ちゃんをお願いします」

 視線で素早く合図し、明瞭な言葉で作戦を遂行するための算段を立てる。

 現在、タギツヒメのもとに行くまで、状況を鑑みれば全員ではまず不可能だろう――とすれば個人の実力が高い可奈美と、現役最強の紫を差し向けることで対処に当たる。

 翡翠色の美しい瞳が、冷静な思考を奥底に秘めて瞬く。

 「ああ」

 紫も肯き、一人抜け出した可奈美の背中を追った。

 

 二人の姿を見送りながら、舞衣は自分たちも彼女たちの背中を守るように次の一手を打つ…………タイミングだった。

 

『衛藤さん、行かせませんよ!』

 両側に聳えるビル群の屋上から聞こえる少女の声。

「――っ!?」

 舞衣が咄嗟に視線を上げると、タギツヒメの近衛隊の隊士たちがビルの屋上から飛び降りて、先行する二人を強襲せんと行動を始めていた。

 

(まずい、このままだと可奈美ちゃんたちが……)

 舞衣は思わず歯噛みをして、彼女たちを守ろうと足に力を込めた。

 

『舞衣はそのままで待ってて!』

 

「えっ!?」

 突如、烈風のように舞衣の脇を猛烈なスピードと風圧が駆け抜けた。僅かな間だったために、咄嗟に驚きの声が洩れた。しかし、聞き覚えのある声だった。

「――沙耶香ちゃん!?」

 

 

「――どうして!? どうして邪魔するんですか? 糸見さん?」

 強襲の先頭に立った内里歩は己の渾身の斬撃を防いだのが可奈美ではなく、糸見沙耶香という少女である事に、苛立ちを覚えた。

 

 あの日、橋の上で初めて荒魂と戦闘をした時、颯爽と現れて荒魂を祓った可奈美の隣にいた少女。……歩にとっては、ただそれだけの存在。

 

 確かに剣術の腕は凄いのかもしれない。

 だが、それだけならば、他の刀使でも代えが居る存在。

 圧倒的な強さを秘めた可奈美には遠く及ばない存在――そう思っていた。

 

 「なんで邪魔するんですか!? 糸見さんじゃ今のわたしを止められませんよ?」

  半ば嘲るように言う歩は、しかし、刃を交えて感じる沙耶香の技量を認めざるを得ない。

 (前よりも断然に強くなってる?)

 戸惑った歩は、首を横に振って冷静さを回復させた。

 

 奇襲を防いだ当の沙耶香は、

 「……可奈美、行って」

 一切可奈美の方に振り返らずに告げた。

 『沙耶香ちゃん――、ありがとう』

 遠くで可奈美が手を振り、そのままタギツヒメの下まで駆けてゆく。

 二人のやり取りを間近で見た歩は眉間に深い皺を刻み、

 「ちっ、邪魔なんですよ! 糸見さんだって分かるでしょ? 衛藤さんは別格の強さ! だからわたしも追いつくために強くなったんですよ? ……あなたみたいにノロから逃げなかった!」

 「………………。」

 沈痛な面持ちで沙耶香は切り結んだ刃を弾き、間合いをつくる。

 その反応が、沙耶香にとって後ろめたさに繋がっただろうか? 類推する歩はワザと口端を歪めて、「どうしたんですか? やっぱり図星だったんですか?」挑発した。

 

 沙耶香は正眼の構えをとった状態で、「ふーっ」と肩から余計な力を抜いて歩を真正面から捉える。

 「……歩は、強くなってどうしたいの?」

 「えっ?」

 予想外の言葉に、歩は咄嗟に反論することが出来なかった。

 「認めてもらうんですよ、衛藤さんに。あなたよりもわたしが強いってことを!」

 

 「……その先は?」

 

 「ちっ、何なんですか? 禅問答なら――」

 「……違う。今の歩、強いかも知れないけど、辛そう」

 

 たった一言。

 

 内里歩という少女の胸の奥を、たった一言が楔のように深く核心を穿つ。

 

 「――辛いかどうかなんて糸見さんに関係ないですよね? 負けおしみなら聞きませんよ?」

 思わず怒鳴っていた。手が震えていた。

 だが、歩の動揺を感じ取っていた沙耶香は、

 「……強さは確かに必要だけど、強すぎると悲しいから」

 穏やかな口調で諭すように言いながら目を細める。

 「……強すぎると、きっと、いつか疲れる」

 「あははは、何言ってるんですか? 糸見さんはもう自分に敵が居ないッて思ってるんですか?」

 「…………違う、わたしの事じゃない。百鬼丸が、そうだった。強すぎて――強いのにずっと寂しそうだった。誰も周りに居なかった」

 たった数日だけ彼と過ごして理解した。

 誰しも強さに憧れる。それは確かに間違いではない。

 だが、時として圧倒的過ぎる力には――必ず孤独が伴う。

 強すぎるが故に、異質な存在となり、人間社会に適応できず孤独に過ごしていた。

 

 それが強さを手に入れた者の末路なのだろうか?

 沙耶香は、誰よりも強いはずの少年を、守りたいと思った。

 

 

 「ワケが分かりませんよ! だったら、ずっと弱いままでいればいいんですか? そんなの傲慢ですよ!」歩は、これまでの己の存在を否定された様な気になった。

 ……どんな思いでノロを受け入れたと思っているのだ!

 血反吐を吐いてでも、剣術の鍛錬に食らいついても――それでも埋めきれない実力差に打ちひしがれていた。

 

 「憧れるのがそんなに悪いことなんですか? 弱いことがいいことなんですか? フザけないで下さい!」

 《迅移》を発動し、再び沙耶香へと左袈裟斬を放つ。

 「――ッ」

 予想以上に重い一撃に、沙耶香は顔を歪める。

 「あははは、どうしたんですか、さっきから偉そうに言ってましたけど、そんな実力じゃ、わたしに負けますよ?」

 気分が高揚していた。歩は、錬府女学院の天才剣士を謳われた少女を圧倒しているのだ。そんな優越感が、更に斬りつける刃に力が籠る。

 幾つも弾ける刃の火花に照らされる。

 「…………だったら、どうして歩は泣いてるの?」

 「は?」

 S装備のバイザー越しに沙耶香の紫紺色の双眸が、慈悲を湛えながら歩の目を見返していた。

 自然と、歩の頬を伝い顎まで滴る透明な流れが、地面のアスファルトに落ちた。

 「――――もういいですよ、終わらせましょうよ! 糸見さんッ!」

 迅移によって、高速のステップを踏んだ歩は、猛烈な太刀筋を次々と繰り出す。

 (右、右、もう一度右――に見せかけて左)

 予め動きを知っているように、沙耶香はすべての攻撃を完璧に捌いていた。

「なんで、どうして?」

 悲嘆と絶望の滲んだ声音で歩は呟く。

 上段、下段、突き、全ての攻撃が容赦なく防がれる。半歩の距離で交わされる刃の応酬は、完全に沙耶香が支配していた。

「どうして、追いつけないの?」

 虚勢の剥がれた歩の本心からの言葉が、喉の奥から搾るように口から溢れた。

 

 紫紺色の目が、真直ぐに焦燥に駆られた歩を見据えていた。

「……今度はわたしが救う番」

 沙耶香が確かな覚悟をもって、斬り返した刀を更に機敏に反転させ、歩の御刀の鎺を巻き込み器用に宙へと刀身を浮かせる。

「――しまっ!!」

 一瞬の攻防戦の最中に油断は命取りである。

 大きく上段へと逃げた御刀の軌道が、歩の視界を横切る。

 自らの腕の裏に隠れた華奢な影が低く、脇構えから、「……そんな魂の籠ってない剣じゃ何も斬れないッ!!」と告げると同時に一気に剣閃が左斜めから斬り上げられる。

 《写シ》を貼った体であるものの、情け容赦ない美しい太刀筋に斬られた歩は、かつて一度、可奈美と刃を交えた瞬間を反芻していた。

 

『全部この刃に込めたから』

 可奈美の声が蘇った。

 

 

その時は何一つ分からなかった言葉の意味が、ようやく納得がいった。

「ああ、そっか……わたし、馬鹿だな」

空回りの努力によって、禁呪によって常人では到達できない領域にまで来てしまった。だが、その矛盾と破綻を――頭ではなく身体によって理解した。

受けた斬撃で軽く宙に浮いた上半身は、力の萎えた足元から崩れるように歩は地面へと倒れる。完膚なきまでに叩きのめされた。――完敗である。

……だが、不思議と後悔も屈辱も感じなかった。

どこか、心が満たされない感覚に囚われていた歩は初めて、温かな感情と共に安堵感に包まれた。

 薄れゆく視界の中で、沙耶香の足元がみえる。

「ようやく分かった気がします」満足したように言い残して、気絶した。

 

 

 何かを悟って掴んだ内里歩を眺めていた沙耶香は、小さく頷いた。

「……あなたにもきっと、伝わるはずだから。この気持ちが」

 胸の前で小さく拳を握り、語りかける。

 その眼差しはどこまでも優しく、深い愛情に充ちていた。

 かつて、ノロを受け入れ可奈美たちを襲撃した際に、渾身の一撃を喰らった沙耶香もまた、歩と同じ存在だった。

 空っぽだと思っていた自分に、剣を握る意味を教えてくれた可奈美から受け継いだ思いを、目前の内里歩という少女へと手渡す。

 

 

 

 Ⅲ

 「うぉららああああああああああ!!」

 長い馬の尻尾に似た後ろ髪を翻して真横に一閃、薙ぐ。

 スパークが弾けたように刃同士が繊細な火花を散らす。

 「どうした、そんなものか?」

 荒魂と化した秀光は、せせら笑いながら百鬼丸の攻撃を捌く。

 落下したシャンデリアの残骸を踏み散らして、秀光は華麗に攻撃を避けた。

 無銘刀が繰り出す狂暴な乱れ突きを、的確に弾き、点の攻撃を線の斬撃によって反撃する。

 風にそよぐ葉群れの様に柔らかく、撫でるように太刀筋を百鬼丸の胴体へと繰り出す。

 

「――しまっ」

 宙に浮いた百鬼丸の体は非常に不安定で、体の均衡も崩れている。「なーんてな」

 百鬼丸の奥の手である加速装置のリボルバーが回転し、白煙を巻き上げ更に一段高く空中に飛び上がり、左腕を伸ばして天井の梁を掴む。

 ぶら下がったまま、秀光を見下す。

 

 (――一かバチの賭けだな)

 

 

 刀圏を利用した――抜刀術。

 

 これまで習った技を組み合わせ、落下速度に合わせて予知能力を封じる。

 設定した範囲を必ず「斬る」ことの出来る『刀圏』と、攻撃の手段を隠す『抜刀術』によって決める。

 

 (よし、決まりだな)

 百鬼丸は即断すると、梁から手を離して落下した。

 浮遊する体を器用に体勢を変えて、無銘刀を鞘に収め、人型荒魂と化した秀光を睨む。イメージする。円形の透明な範囲を連想し、――以前、成功したように鍔に指をかけて空中から半身を逸らして瞬発的な力を開放する。

 (できる、出来る、できるッ!!)

 左手の親指が鍔を弾き、七色に輝く剣閃が秀光に降りかかる。

 

 

 「――……ッ、」

 人外の化け物になった秀光の顔に表情筋は無い。しかし、彼の挙措から焦っている事だけはわかる。

 咄嗟に構えた刀で百鬼丸の一撃を防ぐ――予定だった。

 だが、圧倒的な膂力から撃ち放つ剣の閃きを防ぐことなど不可能だった。

 秀光の刀がバキィ、と鈍い音を響かせ深い亀裂と共に真っ二つに刀身が折れた。

 (よしっ、手応えありッ!)

 百鬼丸はしっかりと両目で、秀光を睨み据えながら、武器を破壊した事を理解した。勢いそのままに秀光の右方から胸板にかけて、刃が浅く喰いこむ。

 「しねぇええええええええええ!!!」

 真紅の闘気を纏いながら百鬼丸は叫ぶ。

 あと、ここで少し押し込めば轆轤秀光という男を屠ることが出来るのだ。

 

 ……出来る、その筈だった。

 

 

 「くっ、ははははは、百鬼丸、お前が馬鹿で助かったよ」

 「なっ!!」

 両手で、百鬼丸の握る無銘刀の腕を掴んでいた。

 「――チッ!! あ……?」

 苛立ち紛れに、更に力を込めて片腕で刃を押し込もうとした矢先……少年は腹部に違和感を覚えた。

 灼けるような熱さが肚を貫いている。

 無意識に目線が腹部にいく。

 あろうことか、『幻夢』と刻印された刀身が百鬼丸の腹部の中心を正確に貫いていた。

「……なんでだ?」

「くくっ、ははは。お前は馬鹿だ。オレが何の用意もなくキサマを待つはずがなかろう!」

 言いながら、秀光は高くあげた左足をゆっくりと下げた。

 シャンデリアの残骸から見えにくい場所、赤い絨毯の真下には、細長い破れた痕跡があった。

「てめぇ……」

 百鬼丸は気付いた。

 この男は、本来の刀を絨毯下に入れ替えて隠し、タイミングを見計らって片足で掬いあげて一撃を加える。

「ゴボッ、ぶヴぁえぇ」

 血泡が止めどなく喉の奥からせり上がってくる。熱い液体が口から溢れ出した。ゴボゴボ喉の半ばで鳴り、窒息しそうだ。

 

 そんな様子を眺めた秀光は愉快そうに肩を竦めて、

 「一つ、いいことを教えてやる。この刀で斬られた奴は幸せだ。――欲望が叶うのだからな」嘲るように言って、秀光は高らかに哄笑した。

 

 

 ――……なんだとこの野郎、いますぐ返り討ちにしてやる!

 そう意気込みながらも、次第に薄れゆく視界と、霞む視界から遁れるように強く意識を持つように踏ん張る。しかし、いくら意識を保っても、激痛と、貫く刃の効果だろうか――強烈な眠気に襲われた。

 苦痛と睡魔が混在して、百鬼丸は自然と意識を失った。

 

 

 

 Ⅳ

 爽やかな風が頬を撫でる……。

 新緑の香が鼻を擽った。

 暖かな日差しが、頭上を照らす。

 (……なんだ?)

 百鬼丸は、深い微睡みから少しずつ覚醒したように薄く目を開いた。

 見渡す限りの草原が視界いっぱいに拡がっていた。雲一つ無い青空は、絵具のように鮮やかだった。

 「おれ、さっきまで戦ってたんだよな?」

 息を吐きながら、突然の変化に理解が及ばない。

 

 『おい、百鬼丸!』

 どこか、呼ぶ声が聞こえる。

 

 



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228話

――……誰か、おれを呼ぶ声がする。

「おい、どうしたんだよお前?」

 少し離れた距離からおれを呼んだのは、禿頭でお人好しな感じの中年男性……いや、この言い方は違う。

「本当に大丈夫か、百鬼丸?」

 心配そうな顔をして、義父の善海がゆっくりとした歩調で近寄ってくる。

「いや、だっておれ今、戦っていたハズじゃ……それに、もうとおさんは――」

 数年前におれ自身の手で命を終わらせた――

 そう言いかけて、口を閉ざした。

 (ここはどこだ?)

 首を巡らせると、見渡す限り草原が続き、膝丈ほどの草も茂っている。山が見えないとなると日本ではないのか? いや、そもそも現世ですらない可能性も――

「なんだお前? 夢でも見てたのか?」

 とおさん(善海)はおかしそうに笑っておれの肩に手を置いた。

 温かかくて分厚い掌が懐かしかった。

「夢? いや、だっておれの足は加速装置で……っえ、あれ?」

 足に違和感があった。両足ともに生身だった。

「ん? 本当に大丈夫か?」今度は本当に心配しながらとおさんが、おれの目を覗き込んでいた。

「――だっておれは、人間じゃないんだ! この左腕だって……」

 そう言いながら、おれは思い切り左手の甲を噛んだ。

 ジワッ、と口の中に血の味がした。

「――マジかよ」

 左腕すらも、おれ自身の肉体だった。きちんと血の通った血と肉のある腕だった。

「百鬼丸、お前随分と疲れてるんだ。な、少しテントで休んだ方がいい」

 そういってとおさんは、おれの背中を軽く叩いてから、野営のテントがある方まで歩き出した。

(なんで? 嘘だよ? どうして全身が戻ってるんだよ?)

 あり得ない、両目も肉眼で違和感がない。……本当はもう二度と戻らない目だ。

 改めておれは、軽く周囲を見回すと、だだっ広い原野に立っていた。

 ちょうど、今、地平線の果てに太陽が没しようとしている。地上は茜色と金色の混ざった数条の斜光に照らされ、寂しさを感じさせた。

 美しい夕日の光景を見ているこの目も、耳元を通り過ぎる風を聞く耳も、乾いた風が運ぶ緑の匂いが口内まで通った味を感じる舌も、心地よい風を感じる肌の感覚も、鼻も全部自分のモノだ。

 …………おれが本当に欲しかったものだった。――……そして、本当は全部を諦めたものだった。

 

 

 

 Ⅱ

 沈みゆく太陽を背にしたおれは、折り畳みの椅子に腰かけて、目前の焚火を眺めていた。

 パチ、パチ、と弾ける火の粉と薪の割れる光景が、随分と懐かしかった。可奈美たちと出会う前は普通に野宿をして山野を歩いていた。

 「お前も大変そうだからキャンプに誘ったけど、正解だったな」

 とおさんはニコニコしながら焚火の上で網を敷いて、小さな鍋で野菜スープを作っていた。

 軽い湯気をあげたスープをかき混ぜるとおさんは、おれの向かい側に座って、くつろいだ様子だった。

 青いチェックのシャツと、濃紺のトレッキングパンツを履いていた。丸太のように太い腕は剛毛に覆われていた。……子供の頃は、本当に熊だとすら思っていた。

 「とおさんは変わらないよな」

 「ん? 何言ってるんだお前?」

 怪訝に眉を顰めて首を傾げる。

 「いいや、おれの話だよ。関係ない」

 苦笑いして誤魔化す。……本当は、こうやってゆっくりと話したかった。

 それと同時に、おれは、あの時――荒魂になったとおさんの胴体を刃で貫いた。この汚れた手で……。

 グッ、と思いっきり拳を握る。

 「なんだか今日の前は変だな。まあ、いい。ホレ、スープだ。飲め」

 そういって手渡したのは、プラスチックの器に並々と満ちた黄金色のスープだった。

 「うん」

 熱い器を受け取って、ステンレスのスプーンを掴む。久々にとおさんの手料理を食べるんだ。

 「――とおさん、一つ、質問してもいい?」

 パチリ、と弾ける火の粉が舞うのを視界の端に感じながら、思い切って言う。

 「――ん? なんだ、なんでも言ってみろ」

 大きな目をパチクリとさせて、とおさんは頷く。

 (本当にとおさんだな。この表情……)

 内心でおれは首を振って、苦笑いする。

 「あのさ、夢の話なんだけどさ……おれ、人間じゃなかったんだよ。化け物だったんだ。体は別の化け物たちに奪われて、それを取り返すために日本全国を旅してさ――」

 それで、貴方を殺した……とは、流石に言えなかった。

「へぇ、そんな夢を見ていたんだな。さぞ、辛かっただろ?」親身になって、とおさんは心配してくれる。

「辛い……どうかな。戦ってる時はおれ、嫌なこと全部忘れるんだ。楽しくて楽しくて仕方がないんだ。戦って、戦って……それで気付いたら、おれ何やってるんだろ? って、虚無を感じるんだ」

 偽らざる本音だった。

 確かに戦うことで満たされる部分は大いにある。だけど、ある時にふと思う。「こんなことをいつまで続けるんだろう?」って。

「……――ガハハハ、そうか。優しいお前らしいな」

 そういって、乱暴におれの頭を撫でる。

「うぉっ、やめ……」

 と、言いかけたおれは、ゴツゴツした掌の感触を頭に感じて、思わず泣きそうになった。だけど、唇を噛んで必死に堪えた。このまま泣くと、多分、もう何も話せなくなる。

 

 「そんでさ、色んな奴らと戦うんだ。巨大な怪獣とか、凄腕の剣士とか……――でもさ、やっぱり世間に化け物のおれは受け入れてくれないんだ」

 「百鬼丸、お前は間違えてない。お前は夢の中だろうと頑張ってるさ」

 「へへっ、そうかな。……うん、そうかもな。そんでさ、――でも、おれを唯一認めてくれる奴らもいてさ。可奈美とか姫和とか……いい奴らなんだ」

 「へぇ」と意外そうな声を漏らしたとおさんは、「なんだその名前? 女の子ってことは、どこかの好きな娘か?」ニヤニヤしながらおれの方を見る。

 「ちがっ……――なんでそうなるんだよ!」

 思わず、おれは大声で反論した。

 「あっはははは、図星か。あははは、そうか。お前は随分とウブな奴だから浮いた話もないと思ってたけど、夢の中とはいえ、好きな娘がいるとはなぁ。あははは」

 「……っ、だから違うっての! はぁ、まあいいや」

 おれは若干頬に微熱を感じながらも、話を続けることにした。

 「それでさ、とおさん」

 「――うん?」

 スープを啜りながら、とおさんは優しく微笑む。

 「おれさ、化け物になったとおさんを殺したんだ! 双葉を守るために……とおさんを、この手で、さ」

 言いながら、当時の光景が生々しく蘇った。

 あれほど優しかったとおさんを、おれは、遮二無二、刃で殺した。壁に押し付けて夢中になって……。

 ジワッ、と視界が滲む。

 「おれさ、本当は……――普通の人間になりたかったんだ。ただ、それだけだったんだ。誰からも拒絶されないさ、普通の人になりたかったんだ」

 おれは、「肉体」の実感がある両手を震わせながら、――誰にも言えなかった言葉を目の前のとおさんに喋っていた。

「……百鬼丸」

 溜息交じりの声で、とおさんはおれの名前を呼ぶ。

「ごめん……とおさん。双葉の面倒をキチンとみれなくて。ごめん、おれ全部、駄目だったんだ。おれ、誰かに認められたいし、強く無くてもいいから、誰かに必要とされたかったんだ!」

 

 とおさんは不意に、ガシッ、とおれの頭を乱暴に掴んで荒っぽく撫でた。

 「お前はよくやってる。凄いじゃないか。なんで謝るんだ?」

 「……っ、ゴメン。おれ、やっぱり何も出来てないんだ。世界でも救った気になってたけどさ、本当はそんなのどうでもいいんだ。世界なんて本当は全部、滅べばいいと思ってたんだ! 糞野郎どもなんて死ねばいいって、本気で思ってるんだ!」

 「――百鬼丸」

 「おれさ、何で普通じゃないんだろうってずっと思ってたんだ! もっと普通だったら、良かったのにってずっと思ってた! 普通に人間として生きてさ、学校に通ってさ、つまらない毎日を送ってさ――友達と帰って、遊んでさ! 何でおればっかりこんな体験しなきゃいけないんだろう? って、ずっと思ってたよ! なんでおればっかりこんな不幸な目に遭わないといけないんだろう……――なんでおればっかり…………」

 おれは、とおさんを前にして――今まで誰にも言えなかった本音を漏らしていた。

 「ひっぐっ、なんでさ、おればっかり普通じゃないのにこんな役割ばっかり――背負わされるんだろ? そう思い続けてるんだ! 痛い思いもしたくないし、辛い思いだってしたくない! 他の誰かに全部任せられるならそうしたい! ……こうやってさ、とおさんと双葉とか、他の奴らともっと別の形で出会ってさ、普通に過ごしたいんだ。それを求めるのはさ、おれ贅沢かな?」

 情けない言葉で、おれは気付くと涙に顔を濡れていた。

 「――百鬼丸、お前偉いよ」

 そういって、とおさんはおれを抱擁した。

 おれはとおさんの胸で心臓の音を聴いた。これは昔、おれが貫いた時に停止した心臓の音だ。

 「……ひっぐ、ごめんな、とおさん。おれ……本当に何もできないやつだ」

 嗚咽しながらおれはただ、謝った。

 とおさんを埋める時も、道具がなくて山の地面を手で掘った。その時の土の冷たい感覚を覚えている。

 

 「……いいんだ。お前がたとえ夢の中でも必死に頑張っているならオレはお前の味方だ。胸を張れ。お前には、お前のやるべき事があったんだ。立派さ。それにありがとうな。どんな形でもお前は双葉を守ってくれたんだ」

 「ちがう! ……おれは、ただ」

 「お前、一人で抱えすぎなんだよ」

 ああ、そうだ。本当に聞きたかった言葉だ。とおさんからかけて貰いたかった言葉だ。

 無意識に、胸の奥が温かくなる気がした。

 おれは乱れた呼吸を何度も堪えようとして、しばらく泣いていた。

 

 

 どれくらい時間が経過しただろう? 周囲はとっくに夜になっていた。

 信じられないくらいの星が、夜空に煌めいている。

 「なぁ、百鬼丸。お前どうしたいんだ? もし、辛いならずっとここに居るか? それならオレもお前の気が済むまで付き合おう」

 優しく、だけど確かな口調でおれに語り掛ける。

 

 「っ、あははは。……――ううん、いやいいよ。ありがとうな。とおさん。おれ、ずっと謝りたかった、そんで、色々と話を聞いて欲しかったんだ――でも、」

 「でも? なんだ」

 「……――こんな幸せな夢ならきっと、醒めたくないんだろうな、って思うんだ」

 とおさんは、驚いたような表情をしておれをみた。

 「でもさ、たとえ夢の中でもさ、おれが作り出した都合がいい世界だとしても――また、こうやって二人で話せてよかった。……おれは、とおさんに命を貰ったんだ。そして歩き続けることを教わった。だからさ、ありがとうな」

 おれは、立ち上がって自分の両足で立つ。

 空を見上げると濃紺の夜が、三六〇度全て見渡せた。

 「――とおさんと初めて星空を見に行った時にさ、色々と教わったけど、最初はやっぱり――」

 

 「「北斗七星」」

 

 声が揃った。

 おれは、驚いてとおさんの方をみた。

 とおさんは嬉しそうに笑っていた。

 「……そう、北斗七星。昔の船乗りは夜でも、必ずこの星たちを見つけて、目印にして航海するんだって教わったよ」

 おれは、気恥ずかしさを感じながらも、それでも北斗七星の方角を指さしてもう一度、とおさんを見返す。

 

 「おれ、やることがあるんだ。救いたい奴らも居るんだ。……だからさ、ゴメン。ずっとここに残ることは出来ないよ」

 

 おれは胸が張り裂けそうになりながら、それでもとおさんに伝えた。これがたとえ夢でも幻でもいい。ずっと、こんな所で過ごしたかった。

 

 

 (でも、それじゃ――駄目なんだ)

 

 とおさんはしばらく黙っていたけど、

「そっか。お前はやっぱりすごいよ。……血は繋がってないが、息子であることを誇りに感じる」

 しみじみとした口調でとおさんは言った。

 

「ありがとうな――」

 おれが瞬きすると、いつの間にか草原も星空も焚火も消えて、真っ白い空間が拡がっていた。

 

 

とおさんは椅子から立ち上がり、分厚い掌でおれの両頬を押し包んだ。

「いい面構えだな。流石、オレの自慢の息子だ。……守りたい人がいるんだろ?」

「うん」

「もう、戻らない覚悟があるんだよな?」

「うん」

「――そっか、ならオレは足止めする理由もない。いけ、百鬼丸。お前の力が必要な人たちのもとに!」

おれは、胸が詰まりながら「ありがとな」と、震える情けない声で感謝した。

ゆっくり、義父善海の指を外してゆき、俯きながら手をどけた。

いつまでも感じていたい温もりを離れて、おれは行かなきゃいけない。

「――じゃあな、とおさん。最後にあえてよかったよ」

とおさんに背中を向けておれは歩き出した。顔は見たくないから、背中からおれは喋る。

 「いいんだ、ほら、男だろ。二言はないはずだ。どんどんお前の道を突き進め」

 優しくエールを送るとおさん。

 きっと、笑ってるんだろう。そんなのスグに想像できる。

 「うん。でも……こやって、嘘でもいいから、全身を生身で出会えてよかった」

 おれは目元をゴシゴシと腕で拭いながら足早にとおさんから離れていく。

 「なんだ、お前泣き虫だな。それじゃ好きな女の子にも振り向いてもらえないぞ?」

 「っ、たっくばかか。そんなんじゃないんだ。……っ、あはは。ありがと」

 

 

 こんなに足取りが軽くなるとは思わなかった。

 

 

 「――――なぁ、百鬼丸。」

 

 

 背中から精一杯の音量でおれを呼ぶ。

 

 

「なに?」

 

 

 「お前、成長したな。背丈も伸びて…………、お前の姿を見れてよかったよ!」

 

 

 おれはもう一度だけ、下唇を噛んで振り向きたくなる衝動を堪えて、真っ白な空間を走り出した。

 

 

 

 ――……じゃあな、とおさん。ありがとな。

 

 

 背後のとおさんの気配を感じなるなるまでおれは走り続けた。

 すると、いつの間にか、おれの目前に茶色い扉が現れた。

 おれは迷うことなく、扉のドアノブに手をかける。

 

『おい、百鬼丸。』

 左隣からおれを呼ぶ声がした。……ただし、とおさんの声じゃない。

「――――久しぶりですね、田村さん」

 おれは、涙と鼻水に濡れた顔を腕で拭いながら、深呼吸して相手の名前をいう。

 

「おお、久しぶりだな。お前……随分と泣き虫だな」

 

「あはは、さっき同じことを言われました」

 

「――そうか」

 明さんは、照れ笑いを浮かべながら、頭を掻いていた。

 

 

「なぁ、百鬼丸さ、」

「なんですか?」

「お前、強くなったな――」

「……そんなことないですよ。明さん、あの時は貴方を救えなくてすいません。それで――おれを助けにきてくれてありがとう」

 おれは、渋谷の騒動で、たった一人、おれを助けに来てくれた恩人にずっと言いたかった言葉を言った。

 

 明さんは目を点にして、暫くおれを見て……「あっはははは、そんなことか、お前、ばっかだなぁ、あはははは」

 盛大に笑い飛ばした。

 

 「なっ、なんで笑うんですか!?」

 

 

「お前は本当に馬鹿だな。そんなの全然気にしてないよ。むしろ、俺は自分の正しい選択をしたと思っている。それに間違いはない。――それにさ」

「はい?」

「俺はずっとお前に憧れてたんだ……ずっとな。皆を守れる最高にカッコいいヒーローに、ずっと憧れてたんだ」

「おれ、別にヒーローじゃないですよ」

「あっははは、そうだな。最初だけの印象さ。お前と関わるうちに、年相応のガキだって気づいてから、見方も変わった。でも、それでもお前が色んな人を救う覚悟がある事にさ、俺は年甲斐も無く感動してたんだ。……お前みたいになれたらいいな、っさ。それに俺はショッピングモールで部下を救えなかった。だからお前みたいな若い奴を救えて本望だよ」

 

 

 

 おれは、震える手でドアノブを掴みながら深く俯いて足元を見た。

 

「あ~あ、なんでこうやってさ、おれ……戻りたくなくなるんだろうな。目覚めたってロクなこと無いって知ってるのにさ、なんで……最悪だよホント」

 

「……ん? どうした、百鬼丸?」

 

 

「あの、明さん」

 

「どうした?」

 

 

「――おれを認めてくれてありがとうございました。化け物のおれを知っても、それでも助けに来てくれて」

 

「ああ、そんなことか。構うかよ」

キザったらしく口端を歪めて明さんは笑う。

それで、胸ポケットから煙草を取り出して火を点ける。

緩慢な煙が周囲に漂う……。

「百鬼丸、行っちまえ。まだやることあるだろ?」

「はい」

 おれは、今度こそ扉のドアノブを掴んで扉を押した――。

 

『なあ、百鬼丸――最後に一つだけ伝言だ……』

 

遠くなる景色と五感から、明さんの声が響く。

 

 

 

扉の向こうもまだ真っ白な空間だった。

 

 

 

 

「――ようこそ、こちらの世界へ」

 白い空間と同じ純白のワンピースを着た少女が、空間の中央に立っていた。

 

 

「ここは? あんた誰だよ?」

 

 

少女は、百鬼丸の質問を聞いてクスっ、と微笑を浮かべる。

 

 

「わたしは――……いいえ、その前に秀光様について、お話させて下さい」

 

「は?」

 

「わたしからのお願いはたった一つ――あの方を救ってください。それがわたしの願いです」

 

 




やばい、予定が8月いっぱいで終わら無さそう……。


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229話

 非常時ゆえに人気の無い、スカイツリー内の水族館。

 淡い青色のライトに照らされたクラゲたちが、水槽の中で無数に浮かんでいる。

 時々、ライトの色が黄色や赤色に変わり、白く濁ったクラゲの体を透過して鮮やかな色を反映させた。

 「あぁ~あ、なんで皆私に隠し事するのかなぁ~」

 元折神家親衛隊の第四席、燕結芽は階段の手摺に肘を置き水槽を見下ろしながら溜息をつく。

 獅童真希も、此花寿々花も――――明らかに、結芽に対し隠し事をしている。

 (どうせ、夜見おねーさんの事だってお見通しなのに)

 結芽はポケットに入れたチョコレート菓子の箱を取り出して、袋を破りカリカリと齧り始めた。

 真希も寿々花も隠しているつもりだろうが、本当は荒魂に変わりつつある夜見を殺そうとしている。

 ――……そして、恐らく夜見も親衛隊と決別しようとしている。

 勘の鋭い結芽は浅縹色の瞳を瞬き、自分だけが蚊帳の外に置かれている事に不満を感じていた。

 (百鬼丸おにーさんも、皆、どうして子供扱いするのかなぁ)

 ……結芽は、周りの人々の優しさからくる「秘密」に不満を感じていた。

 

 かつて、病床で臥せっていた頃――長い時間をかけて生きる事と死ぬことについて考えていた。……医師や看護師たちが隠す、残酷な真実も知っていた。人を疑い、虚構を見破ることに「慣れて」しまっていた。

 

 (私を傷つけたくないって思ってくれるのは嬉しいけど……)

 ポリッ、と棒状のチョコレート菓子を口元で折る。

 眉間に皺を刻んで、結芽はモグモグと咀嚼した。

 クラゲたちの無秩序でありながら、宇宙を漂うような無重力感を見詰め、しばらく結芽は水槽の彼らを観察していた。

 「なんにも知らないままならいいのに…………」

 ――あのクラゲたちのように、何も考えることもせず、ただ浮かび触手を動かして漂う。そんな生き方が出来れば、どんなにいいだろう?

 「……私だって、皆を守れるくらい強いのに」

 誰にいうでもなく、口を尖らせて呟く。

 薄暗い館内は足元にLED照明が点っている。

 

『――……私が凄いってところ、魅せてあげるっ!』『もっと、もっと私の凄いところ見せないと、誰の記憶にも残れない』

 

 

 

 ……命に限りがあったとき。周りに気を配る余裕が無かった。今考えれば幼い考えだったのかも知れない。

 

 『バカかお前、なんで自分で自分の生命(いのち)を諦めるんだ』

 

 

 折神家の突入作戦の夜。

 命の灯が消えかけた瞬間に――たった一人の少年が、そう言って助けてくれた。

 今でも思い出す度に胸の奥が熱くなって……苦しくなる。

 彼の隣に立ちたくて追いかけているのに、全然追い付かない。

 いつも彼は二三歩先を歩いて、時々心配そうに振り返る。そして「ゆっくりでいいよ」と声をかけて、先を進む。……そんな感覚だ。

 

 (見守って欲しいんじゃないんだもん。――ただ、隣で一緒に歩きたいだけなのに)

 百鬼丸は決して、それを許してはくれない。

 それが彼なりの優しさであっても、その優しさの甘い棘の檻で結芽は息苦しくなっていた。

 地下坑道で囚われた時もそうだ。彼が一番早く助けに来てくれた。

 ――……まずは、一人の人間として向き合いたい。

 少年は不器用な笑みを浮かべて、恥ずかしそうに提案した。

 

 『将来、私が強い刀使になってもおにーさんと戦ってあげないから!』

 からかうように告げた自らの言葉を今更思い出す。……こうでも言わないと、百鬼丸が自分(結芽)を心配し続けるから。

 

 「……どうやったら、百鬼丸おにーさんに追いつけるのかな」

 バレーシューズに似た黒い靴のつま先をトン、トンと無意識に床面に当てる。

 

  ――と。

 ブゥゥ、とスカートのポケットから携帯端末の連絡が来た。

 画面を一瞥すると、寿々花の名前が表示されていた。

 「どーしたの、寿々花おねーさん?」

 『結芽、休憩は終わりですわ。すぐに下まで戻ってきて下さる?』

 「ふーん、別にいいけど、荒魂?」

 『ええ、荒魂ですわ。しかも状況が悪くて結芽の力が必要ですわ――』

 「ホント!? うん、分かったすぐに行く♪」

  通話を切ると、結芽は腰元の御刀《ニッカリ青江》を一瞥して嬉しそうに笑いかける。

 「久々に暴れられるね♪」

 そういって、オレンジ色の濃淡で色分けされた鞘を一撫でした。

 リン、リン、と鈴の音色が響く。

 鞘に取り付けたイチゴ大福ネコのストラップが二つ、揺れる。

 種類の異なる二つのストラップのうち一つは、以前少年と揃えて買ったものだった。

 「…………」

 寂しそうに微笑を浮かべた結芽は、視線を前に戻して軽やかなステップで通路を歩き始めた。

 

 

 

 Ⅱ

 押上駅での人員輸送作戦は、荒魂の発生という予期された――そして回避の出来ない存在によって全ての計画が破綻した。

 シャトル輸送の大前提として、地下鉄を用いた大量の運送こそが避難民を救う方法であった。――だが。

 地上よりも安全だと思われた地下ですらも、近年多発する地下に巣食う荒魂たちの存在によって、計画当初から危険視されていた。だからこそ、松崎老人の出番があった。

 旧軍時代の遺物ともいえる地下の坑道を徒歩で移動させる……危険度はあるものの、リスクを冒さなければ現状の危機を脱することは出来なかった。

 

『当面は電車による人員輸送、仮に電車の使用不可能な場合は地下を徒歩による移動で』と結論づけられた。

地上を移動するには、すでに「黒い灰」が天空から舞い落ちて、新たな荒魂を生み出している。

 

しかし、ある代議士は、地下坑道に跋扈する荒魂たちの中を移動する危険性について指摘したところ、都庁の緊急会議に召集された松崎老人は「ガハハ」と豪快に笑い飛ばした。

「勿論、その危険性はある。しかし、座して死を待つより、己の足で歩まねばならん……それに、ワシらの時代の……いいや、中佐殿たちが守り抜いた場所じゃ。荒魂たちからも身を守れるように巧妙に作られておるわ」と、一喝した。

 老人の主観的な意見であり、何ら信用に足る証拠もない。

 だが、それでも会議に集まった人々はこの老人の「根拠のない自信」に賭けたいと思わされた。

 

 

 

 

 かくして。

 避難民の集団を護衛するために、元親衛隊の三名が押上駅に集められた。

 

 ――折神家親衛隊

 第一席 獅童真希

 第二席 此花寿々花

 第四席 燕結芽

 

 彼女たちには、汚名を雪ぐ機会と称して最も危険な「殿(しんがり)」の役割を与えられた。

 

 

 ◇

 「ねぇ、寿々花おねーさん、いまってどんな状況?」

 押上駅の地下鉄ホームに姿を現した結芽は、閑散とした周囲を訝りながら見回して、純粋な疑問を口にした。

 寿々花は「はぁー」と深い溜息をついて首を振る。「――率直に言えば、シャトル輸送をしていた電車が荒魂に襲われましたの。幸い、電車は直前でブレーキをかけた影響で衝突事故こそ発生しなかったものの、輸送手段が潰されましたわ」

 「へぇ~。ってことは、その荒魂を倒せばいいんでしょ?」

 「いいや、違う」

 割り込んだ真希は、渋面を作っている。

 「それは、電車の中で護衛として任務にあたっていた刀使によって対処された。――ボクたちの役目は……これから、地下坑道を徒歩で移動する人々を護衛する任務だ」

 「えぇ~、なにそれ! すっっごく地味だし! 嫌っ」

 「嫌っ……じゃありませんわ。それが任務なのですから我慢なさい」

 寿々花が呆れたように叱る。

 「ぶーっ」と頬を膨らませた寿々花だったが、すぐに「えへへ」と嬉しそうに笑う。

 「ん? どうして笑うんだい?」真希が怪訝に眉を顰める。

 「ううん、あのね、また親衛隊で任務できるんだなーって♪」

 屈託なく言う結芽。

 「「…………。」」

 真希と寿々花は目を見合わせて押し黙った。

 こんな緊急時でも、マイペースというべき結芽の様子に、本来であれば窘めるべきなのだろうが――図らずも二人もまた、同様の思いだった。

 死線を幾度も乗り越えた親衛隊の絆はある意味では肉親以上のモノになっていた。

 

 地下鉄の等間隔に並ぶ柱と、頭上を強烈に照らす照明の白光。

 避難民は、これから徒歩で地下の坑道ルートを行くだろう。もしくは、各自の判断で地上へと出て脱出を試みるのだろうか?

 いずれにしろ、押上駅の地下鉄ホームは一時的だが、嘘のように静かだった。

 「ふっ」と不意に、寿々花は口元を綻ばせた。「結芽の言う通りですわ。それにわたくし達は所詮駒ですが……駒なりに、死力を尽くす。それがわたくし達の贖罪なのでしょうね」

 寿々花は悪戯っぽく微笑み、片目を瞑る。

 「……まったく、いいや。ボクも――不謹慎かも知れないが昂っている。世間からの汚名を雪ぐためにも、ボクたちの出来ることをすべきだ――そうだろ寿々花?」

 頬を緩めて真希は二人の思いに首肯した。

 

 

 「あぁ~、夜見おねーさんがいれば、敵がどこにいるかすぐに分かるのに~」

 結芽がワザとらしく大きい声で言った。

 

「「…………」」

 真希と寿々花は、顔を逸らして曇った眼差しで各々考え込む様子だった。

 そんな二人の分かりやすい反応に結芽は、

「――いつか夜見おねーさんとも遊びに行けるといいよね」小さく、しかしハッキリと自らの気持ちを伝える。

 

 真希は、苦虫をかみつぶしたように眉間に皺を寄せ、「……ああ、そうだね」と寂しそうに同意した。

 「……夜見さんも、確かにその通りですわね」改めて彼女の存在を大切に思っていた結芽の言葉を反芻した寿々花も、穏やかな声音で頷く。

 

 

 ――……この先にどんな過酷な運命が待っていたとしても、大切な人を失わないたくない。その一つの思いが、三人の気持ちを固く結びつけていた。

 

 



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230話

 百鬼丸の腹部の中心を捉えた刃は、真紅の生温かい液体に濡れた。

 刀に貫かれた少年は四肢をダラリと弛緩させ、意識を失っていた。

 「キサマの敗因は――〝勝ち〟過ぎたことだ」

 冷徹な底光りする目部。荒魂特有の炎が、火の粉となって外気に弾け散る。

 「まさかお前をこの刃で貫く日がくるとは思わなかったが…………それが、せめてものお前に与えた温情か」

 秀光は刀の鎺まで貫いた百鬼丸の胴体を乱暴に蹴って引き抜き、シャンデリアの残骸が散乱する床に転がす。

 ぐったりと身を横たえた少年は呼吸をする気配もなく、ただ、床と同化したように動かない。

 ビュン、

 と甲高い音をたて、刃に付着した血液を振り払う。

 ――改めて、秀光は己の手を眺める。

 (これが、オレの求めた体か――)

 黒鉄のような肌に、禍々しい憎悪の感情を固めたような《ノロ》の炎色。

 「――さて、最後に首を刎ねてしまわねば」

 剣尖を百鬼丸の首筋に合わせ、狙いを定める。

 余りにも呆気なさ過ぎる戦いの決着に対し、秀光はいささか物足りなさを感じた。

 (これで轆轤の家の血筋はオレだけとなった――)

 あとは自決をすれば、完全に轆轤家という呪われた血筋を絶やすことが出来る。

 「――しかし、こう強くなると自裁することも叶わんか」

 荒魂となった己の身を完全に消滅させる術はない。ノロとは、本来「負」の神性であり、それを多量摂取すれば自然と「半神」の状態となる。

 その荒魂のとなった体を唯一、抑える方法が――刀使による「祓い」であった。

 「想定していたとはいえ、面倒だ。なにより刀使に手間をかけさせるか」

 秀光は握る柄に更に力を込めて腕を振り上げ――一気に振り下ろす。

 

 

 

 

 ◇

 「いや、アンタ誰だよ」 

 胡乱な眼差しで目前の少女を見る。

 周囲は見渡す限り真っ白な空間。そこに唯一人、

 「うーん、なんて説明すればいいかな?」

 頤に人差し指を当て困った様に考え込む少女。

 ――年の頃は十二、三歳ほどだろうか?

 第一印象こそ幼さの残る少女という感じだが、どこか大人びた雰囲気と、物腰に外見と内面の不一致のような違和感を覚えた。

 「そうだなー、例えばおばさんとか?」

 「は?」

 「うん? あれ? 違うのかな? えーっと、君って秀光おじさんの息子じゃないの?」

 「――おれは……アイツの残り滓というか、失敗作というか……複製人間(クローン)だから、厳密にはアイツ自身だと思う」

 百鬼丸は頭を捻りながらも、苦し紛れのように自身の存在を言語化した。

 「えーっ、なにそれ? 難しい話はやっぱりナシ、ナシ。もういいじゃん、息子で。じゃないと君のことも、おじさんって呼ばないと駄目になるでしょ?」

 にこっ、と満面の笑みを零す少女。

 (――だからお前は誰なんだ)

 と、危うく文句を言いそうな所を百鬼丸はグッ、と喉元で堪えて息を吐く。

 「おれに何をさせよってんだよ?」

 その代わりに本題に入った。

 先程、彼女は言った、「秀光を救ってほしい」と。

 少女は一瞬、目を大きく瞠って百鬼丸を見据える。

 「……ねぇ、百鬼丸くん? だっけ? 君は、あの人を救える唯一の存在なんだよ」

 「だから、意味が分からんのだ。それにおれはもう死んでる――」

 「死んでないよ」

 「は? いや、だっておれはアイツに刀で腹を貫かれて」

 「うん、そうだね。でも大丈夫。まだ君は死んでないから」

 「なんでそんな事分かるんだよ」

 戸惑う百鬼丸を横目に少女はくくく、と可愛らしく笑い声を漏らす。

 「――だって、わたし、その刀の亡霊だから」

 そう言って、少女はワンピースの裾を翻し、唇の前に細く長い人差し指を押し当てた。「――秘密なんだけどね? 誰にも喋ったら駄目だよ?」と、声を潜めた。

 「は……? ワケ分からんぞ?」

 「あはは……だよね。それじゃ、少しだけ話聞いてくれる?」

 「いや、そんな悠長なことしてたら、おれ死ぬだろ?」

 「ううん、平気だよ。この刀の中に囚われた時間軸と現実世界の時間軸は微妙にズレてるから。――もちろん、君が特別な存在だから時間差が生まれてるって事なんだけど……難しい話はナシ。ねぇ、聞いてくれる?」

 「あ、ああ」

 首肯するより他になかった。……百鬼丸は心の片隅で目前の彼女を懐かしく思う気持ちが湧いていた。

 

 

 

 Ⅱ

 

 ……わたしは、秀光おじさんの姪なんだ。

 轆轤叶、それが生前のわたしの名前。夢が叶う、っていうアレね。なんだか変な名前だよね? 

 まぁ、いいや。

 秀光おじさんとわたしのお母さんは姉弟らしくて、昔からの付き合いだったんだ。

 しかも、わたしの一族って女の人ばっかりが生まれる不思議な家系らしくて、おじさんは唯一の例外ってことで、次期当主っていう期待があったんだと思う。普段はすごく真面目な顔で、色んな大人と話している所しか見たこと無いんだけど、わたしと遊んでくれる時は全然違うの。凄く優しくて面白くて……何より、相手の事を考えてくれる人なんだよね。

 しかも、顔もカッコいいから、いつも色んな人の興味の対象になるんだよね。

 …………あ、そうそう。秀光おじさんは、いつも一人の時は本を読んでるんだけど、小さい時のわたしが何を読んでるか聞いたときに、少し困った顔して、「叶には難しいから分からないよ」って言って。

 でも、駄々こねたら、青い表紙の本を出して、「The Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)」って教えてくれたの。

――恋愛小説? って聞いたらおじさんが大笑いして、「これは、もし子供たちがライ麦畑で遊んでいるとして、崖とかの危ないところに行きそうになったら、優しく抱きしめて、安全な所に返してあげるような人になりたい――そう願う主人公のお話」だって。

 その時のおじさんの表情が今でも印象的でね。本当に、そんな人に憧れているんだなって思えるんだ。

 

 あ、ごめんね。話が脱線したよね? わたしの正体だよね? なんで刀の亡霊になったのか? って話だよね? ――わたしは……。

 

 

 ◇

 轆轤叶は、オレにとってまさに救いだった。

 彼女はこの汚れた家に生まれた天使だった。――彼女の実母でありオレの姉である女は一言で言えば娼婦だ。アレは人ではなく、魔物の類だ。己の欲望を満たすために男を利用し、あらゆる悪逆を尽くす。

 轆轤家という呪われた一族の中でも、あの女は裏切り、嘘、その他の事を悪意なくやる。他人を道具としか考えない女だった。そして、決まって「私はこの家に生まれた被害者よ」と宣う。

 確かに一面は正しいが、あの女はその「家」を利用して様々な欲望を満たしてきた。……オレが思うにあの女は、轆轤家の悪辣な部分を象徴する人間だ。

 そんな女だからか。子供の数は多く、様々な男と関係を持って――五人ほどを生んだ。そして誰もマトモには育たなかった。叶を除いて。

 なぜマトモに育たないか――。理由は簡単だ。皆、「引き取られた」んだ。

 ――どこに? 

 決まっている、轆轤家は「生贄」の一族だ。

 未熟児でうまれた他の四人の子供たちは皆、死産だった。だから、古い御刀を再生させる際に使われる「素材」として利用されたのだ。

 なにも不思議な事はない。

 神秘的な刀剣、あるいは、名刀の類には「人体」は都合のいい素材となりうる。

 それは歴史的に見ても特別な話じゃない。

 古代中国、日本、そしてダマスカス鋼……類例はいくらでもある。

 当時の文明では強靭な鉄鋼を鍛えるのに、人体の有する科学的な物質が必要不可欠だった。

 ……だが、科学が発達した近年においても轆轤家は「刀剣」に供される生贄であり続けた。何故? 理由は簡単だ。

 御刀という、未知の金属から生成された刀には、神秘的な力を有する我が一族の稀血が必要なのだ。

 轆轤家が生み出した《無銘刀》の殆どは、歴代の名も無き轆轤家の犠牲者の血肉が混ざっている。――勿論例外もある。折神家の――存在を抹消された当主だ。

 彼女もまた、己の肉体を捧げて《無銘刀》となった。

 だが、その刀の行方も戦時中の混乱で散逸したという。

 

 

 オレの姪……あの淫猥な女から生まれたと思えない少女だけには、そんな目に遭って欲しくはない。

 しかし、そんな事を望める立場でもないことはオレ自身がよく理解していた。オレは――

 この呪われた一族でのオレの役割は男娼だった。

 政財界の大物の男色趣味のある連中に、オレは9歳の頃から男娼として生きてきた。

 連中はオレの顔を一瞥して「あぁ、美しい。こんな美しい顔がこの世にあるのか」と、恍惚とした様子で褒め称えた。

 連中にはオレが人間ではなく、一個の美術品としか見えないらしい。

 だが、オレはそれが当然だと思って男娼を続けていた。

 すべて、この一族に生まれてからの宿命か――オレは、与えられた環境が全て正しいものだと思って生きてきた。

 だから、実姉の娘が死産せずに成長したという――そんな話を聞くまでオレは家に縛られていた。

 祝うつもりで、あの女の居る屋敷に向かった時だった。……オレは、自分の耳が信じられない事を聞いたのは。

 「この娘はいずれ、貴方と婚姻させて血を色濃くさせるわ」

 実姉が、第一声に言い放った。

 大広間でオレのこの女の他には誰も居ない。――確かに、この家は代々、近親婚をさせてきた歴史がある。……しかし。

 まだ、生まれたばかりの娘をまるで道具のように考えるこの女に吐き気がした。

 そして、彼女の考えを一族すべての大人が同意することに、違和感を持った。

 オレはふと、ゆりかごに眠る姪を見た。

 まだ、生まれたばかりの赤子が、穏やかな寝息を立てている。微かに香るミルクの匂いが、オレの胸を締め付けた。

 なぜだ? この子はたまたま、この一族に生まれただけで己の生き方を決められるのか?

 理不尽に思った。

 そして、オレという汚れた存在と婚姻を結ばされる彼女が、急に哀れに思った。

 (この子だけは、オレがこんな一族の軛から解き放つ)

 ――そう誓った。

 オレは初めて自分の考えが芽生え、この一族が滅ぶべき存在だと認識した。それと同時にこんな非道な一族を利用する「権力者」たちをも憎悪した。

 

 

 

 ――それから時が流れ、姪も大きくなった。

 こんなオレを慕って、いつも頼りない足取りでオレを追いかける叶という少女が、オレにとってかけがえのない存在になっていた。……この無垢な存在を、汚れ切った大人からも社会からも守りたい。

 そのためにオレはどんな汚れた事でもやり遂げた。

 男娼として、権力者の男女に媚びを売り、政府の中枢に潜り込むために勉強し、コネを作って必死に「当主」である轆轤秀光として生きようとした。

 オレは常に作り笑いの笑顔だけがうまくなっていた。いや、本当の笑顔を知らなかったのかも知れない。笑顔とは、誰かに喜ばれるための表情で、自らの感情を現すものではないと――そう思っていた。

 

 

 『おじさんの手って大きいね』

 幼い叶がオレの指を、小さな手で掴んで眺めながら言ったんだ。

 …………オレは、何が面白かったんだろうな。本当に大笑いした。曇りのない瞳が、汚れたオレの指をみて、興味深そうに言うんだ。

 この娘が、あの悪辣な女から生まれたとは思えないほど無垢な存在だと理解した。

 

 

 『おじさん、その本ってどんな内容なの?』

 小学生くらいになった叶が、オレの戯れに読んでいる本に興味を持ったらしく、聞いてきた。

 オレは、この本の内容を簡単に要約して聞かせた――。そうすると、叶は美しい両目から透明な涙を流していた。オレは、初めて自分自身の本当になりたかった……憧れを悟った。

 ……そうか。オレは、本当はいつまでも、こんな無垢な存在の子供たちを見守って、危ない時には優しく抱きしめられる存在になりたいんだと自覚した。

 

 

 ―――――。

 ―――――――。

 ―――――。

 

 そんな存在になれないと思い知ったのは二〇年前だった。

 

 …………相模湾岸大災厄

 

 オレは当時、政府の行政官の一人として現地の鎌倉に赴いて事態の対処に奔走していた。江ノ島から大荒魂が暴走して、連日にわたる被害を齎した。

 勿論、轆轤家からも血族である刀使が何人も出動していた。彼女たちもまた優秀な能力を有していたものの、類例を見ない荒魂の暴走ということで、全て政府と組織の対応が後手後手に回っていた。現場の要求は逼迫する中で、まるで脳震盪を起こしたような政府の対応に――オレは、この人類の歪さを感じた。

 オレは正直に言って、大人の尻ぬぐいをする刀使たちを出向かせることに反対だった。だからこそ、あの手この手で彼女たちの出撃を遅らせた。

 ……だが。

 業を煮やした政府からの命令で、まだ調査も現状も把握できない渦中へ、彼女たちを送り込んだ。

 ――――ハッキリいえば、オレはいくら民間人が死んでもいいとすら考えていた。誰かの犠牲なしでは生きられない民間人は、しかし、一番苦労を強いられる現場の人々に鞭うつことに喜びを感ずるような愚劣な存在であると知っているからだ。

 事態の対処に当たった少女たちにも、その厳しい態度が向けられ、オレは人間など滅びるべきだと、そう感じるようになっていた。

 

 ……だが、そんな中でも、叶だけは違った。

 出撃前に、叶はオレに会いに来た。

『おじさん、今からわたし、避難する人たちの誘導してくるね』

『なぁ、叶。お前まで危ない場所に行く必要はない。そうだ、この本部で護衛任務にあたるというのはどうだ?』

 オレは、前線基地である自衛隊の天幕の群れを指さして言った。

 既に、刀使や自衛隊員の亡骸が担架に運ばれ、ブルーシートで覆われていた。悲惨な状況だった。オレは、叶だけにはそんな目に遭って欲しくない。そう願っていた。

 ……だが、彼女は首を横に振った。

『ありがとう、おじさん。でもごめんなさい。わたしは刀使だから。それに他の仲間も……親戚の刀使の皆も出撃してるんだ。皆を守りたいから。それに逃げ遅れている人たちだって不安だと思う。今わたしが行かないと、駄目なんだ』

『――違う! お前たちは馬鹿な大人たちの尻ぬぐいのために命を懸けるんだ! そんな事しなくていい! 馬鹿な大人たちは、その責任を自分たちでとるべきなんだ!』

 だが、叶は優しく微笑んでオレの右手を柔らかく包んだ。

『おじさん、お願い。行かせて……わたし、おじさんの事も大好きだよ。それに皆も守りたい。信じて? 大丈夫だから』

 叶はどこまでも穏やかだった。

 オレはそれ以上に説得すべき言葉を知らかった。

 

 

 

…………だから、オレの中途半端な説得は無意味だと知った。本当はあの時、どんな手を使ってでも彼女を止めるべきだったんだ。

 

 轆轤叶は、避難活動中に突如襲い掛かってきた荒魂たちを討つべく単独で戦闘を開始し――退けた。その代償として自らの命を差し出して。

 

 叶が再び自衛隊の天幕に帰ってきたとき、既に彼女は担架に乗せられ、ブルーシートを被せられていた。

 「あぁ、うぁあああああああああああああああああああ!」

 オレは慟哭した。担架を運ぶ自衛隊員を押しのけ、彼女の亡骸を抱きしめた。

 だが、ぐしゃっ、と濡れた温かい感触がオレのスーツのズボンを湿らせた。「――あ?」オレが目線を下にやると、赤いクラゲのような臓器が地面に落ちたのを見た。

 「何をしているんですか!?」

 担架を運ぶ自衛隊員が何かを怒鳴ってオレを押しのけるのを感じた。しかし、まるで現実味のない目前の風景に、オレは感覚が全て遠く感じていた。

 はぐれたブルーシートからは、人の形状を保っているのが不思議なほど、破損した肉塊が――そこにあった。

 

 ……どうしてだ? なぜ、あれほど美しかった叶が、あれほど人のために生きた少女がこのように無残な死を迎えねばならないのか?

 

 「ぁ、ああああああ――」

 この世に救いの神はいないと思った。

 

 あるのは、ただ人々に試練を与える神だけだ。惨めな存在の人間を更に虐めて楽しむ悪辣な存在だ! …でなければ、彼女がこんな死に方をしていいはずがない!

 

 オレは、叶という少女だったはずの肉塊に近寄って、地面に落ちた臓器を拾い上げ、担架の「ソレ」の中に戻した。……一つ一つの肉片を拾いながら、オレは、幼い彼女の可愛らしい笑顔と、声と、オレを慕ってヨチヨチ歩きして追いかけてきた光景を瞼の裏に思い浮かべた。

 

 

 

 それから、轆轤叶――という少女の亡骸は、汚れた大人、そして彼女の母である女の同意のもと、古刀を復活させるために、「素材」として利用された。

 

 ――――そうして生まれたのが、幻夢刀

 

 連中は、喜々としてこの名刀の誕生を喜んだ。

 実姉である女は、実の娘の死亡を表面上は悲しんだが「……まぁ、彼女の死が無駄にならなくてよかった」と満足そうに漏らした。

 ……この女は、いや、この一族だけは許してはならない。そして、一族の血肉を使う刀の存在など無価値だ。

 

 ……オレは復讐のために生きると誓った。

 

 ――――この轆轤一族を根絶やしにすること、そして、霊気ある人の血肉を必要としない特別な刀を。

 

 

 相模湾岸大災厄から数年後、オレは研究所で人造人間の研究に協力し、山奥の仏堂で魑魅魍魎どもに祈った。――最高の剣を与え給え、と。

 ……結論から言えば、そのどちらも無駄に終わった。だがそれで良かった。望みを「叶える」には、己の力しかないのだ。神仏でも他人でもない。自分の力で世界を変える。それだけの力が、オレにはあった。

 

 

 

 

 ◇

 

 「――でね、でね、わたし江ノ島で死んじゃったんだ~」

 さも気軽にいう叶は、百鬼丸を前でも明るく、落ち込んだ雰囲気もない。

 「すげぇ重い話だったけど、なんでそんなに明るいんだよ」

 百鬼丸は複雑な気持ちで話を聞いていた。

 「ん~? なんでだろ? あ、多分だけどね、後悔してないからだよ?」

 「そうなのか?」

 「うん、仲間の刀使も助けられたし、あ、そうそう。避難活動してるときにね、逃げ遅れたおばあちゃんと小学生の男の子がいたんだ。それでね、その男の子がね、ヒーローに憧れてるって話してくれたんだ。〝オレがヒーローに変身できればあんなヤツ倒せるのに〟ってカッコいいこと言ってくれたんだよ。いい子だよねー。あの子も元気かな?」

 嬉しそうに語る叶を、百鬼丸は胸が締め付けられるような錯覚がした。

 「……多分さ、」

 少年が、俯き加減にゆっくりと言葉を紡ぐ。

 「えっ?」唐突な落ち込んだ様子の百鬼丸を見返して、叶は戸惑った。

 「おれはさ、あんたみたいな……馬鹿で、おっちょこちょいだけど、どうしようもない人を助けたいと思っちまうんだよな」

 百鬼丸は、手を伸ばして目の前の少女の片頬に触れる。

 「―――――。」

 叶は、大きく目を開いて目の前の少年を見た。

 

 (やっぱり、秀光おじさんにそっくり……)

 どこまでも優い眼差しで、痛みに耐えるような表情で、叶を見詰める百鬼丸の中に、叶は、かけがえのない日々を思い出した。

 「……うん、ありがとうね」

 両手で、百鬼丸の手の甲を押し包む。

 「――だからね、秀光おじさんに言って欲しいの。わたしは大丈夫だよって、それでおじさんに伝えて欲しいの。――もう誰かのために生きるのはやめてって。おじさんはもっと自分を大切にしてって。……あ、それは君も同じだよ? 百鬼丸くん?」

 叶は饒舌に喋りながら、目を潤ませていた。

 「…………っ、ああ。分かった。絶対にあの野郎を何とかする」

 



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231話

 地中に掘られた円筒状のトンネルに延びるレールの上を走る列車の車体が、僅かに傾いて停車している。

 

 押上駅から北関東方面へ向かうはずだった車両は、荒魂の発生という事態に際し、緊急停車をした。未だ東京から逃げ遅れた人々が、公共交通機関を利用している最中の出来事だった。

 

 ……どうやら、怪物たちはトンネルの上に伸びる親ケーブルを繋ぐ牽引用ジャッキを幾つか喰い破り、円筒の外壁を破壊して侵入したのだろう。

 幸いにして、車両内に護衛の刀使が十数人おり対処した為に人的被害はなかった。

 

 

 だが、輸送手段が破壊された以上は避難計画が大きく狂う。

 副次的な案として立案されていた「地下坑道」への移動を実行するにあたってまず、重要な部分は「そのルートが安全か」という一点である。物理的な安全性と、荒魂からの攻撃があるか否か、それが問題であった。

 

 

 勿論、たった一路線だけが破壊されたなら、対応は簡単であった。しかし現在の自衛隊および治安維持の組織は地上への防衛線に人員を割いており、地下鉄の路線すべてを防衛できるほどの戦力は残されていなかった。いつまた、他の路線でも攻撃を受けるか……避難計画を推進していた上層部の人々は、苦肉の策として、地下坑道の移動を、限定的に認めた。

 条件を掲げ、地下坑道の移動を許可した。

 

 一つ、避難する際のリスクは人々の自己責任とすること。

 一つ、先行する集団は一〇〇~五〇〇名ほど。

 一つ、安定的な移動ルートでない場合は即時撤退、およびルートの破棄。

 

 

 Ⅰ

 「はっ、奴らは本当に昔からお役所仕事が大好きな生き物なんだな」

 箇条書きの文書を読んだ松崎老人は紙をグシャグシャに丸めて放り投げた。

 地下鉄押上駅のホーム。

 徒歩による地下の移動する人員を募集した結果、253名が志願した。

 彼らは危険を承知で先遣隊に志願したため、ある程度の覚悟は決まっていた。

 

 老人は彼らの勇気に対し、敬意と共に己の双肩にかかる負担を感じた。しかし、ここで足を止めれば、確実に終わりを待つだけ。

 「――さて、行くか」

 老人は安全ヘルメットに装着したライトを調整し、ランニングシャツという薄着の腕を振り回して独特の準備体操を終わらせた。

 カーキ色のバックアップを担ぎ、老人は屈伸してから頭の中にある「地下坑道の地図」を思い描く。

 軍手を嵌めた両手をバンバンと叩き合わせ、ズボンのポケットに折り畳んでいた地下鉄の路線図を眺める。……老人は当時の地下坑道と、現在の路線図を照合させていた。

 

 「ほいじゃあ、まずはワシが先導するか……おい、えぇーっと、あの親衛隊の娘ども! 一人でいいから、ワシの後ろをついて来い」

 振り返った老人は、薄い白髪の頭をポリポリと掻いて、入れ歯の口をクチャと動かす。

 「――前衛はボクが務める」

 挙手した真希は、真剣な眼差しで老人を見返した。

 「ほぉ、そいじゃついて来い。……くれぐれも、死ぬなよ」

 松崎老人はクシャッと皺だらけの顔を、真希に向けた。

 無言で真希は頷き、路線のレールの上に降り立つ。

 

 

 

 Ⅱ

 「……しかし、戦前にこのような大規模な坑道を作る技術があったとは思わなかったです」

 真希は、素直な感想を漏らした。

 地下鉄のトンネルの非常扉に繋がるポイントから、旧軍時代の地下坑道に繋がるルート。

 

 高さ4m、幅1・5mの細長い空間があった。

 自然の岩盤や地層が剥き出しになった坑道は、所々をコンクリートで塗り固められていた。しかも、古びたものではなく、近年まで整備を続けられた形跡があった。等間隔で高さ1・5mの金網のフェンスも手摺替わりに設置され、足元の時にクレーチングになったり、採掘現場のような雰囲気を醸し出している。

 

 

 余談であるが、東京港の地層は沖積層(軟弱な断層で有楽町地層などが代表的である。2万年~1万年前の間に形成)された部分と、更にその下に7号地層がある。さらにその下には江戸川層などがあり、海から離れた沖積層基底では、埋没ローム層、および埋没立川段丘などがある。

 かつて――古東京湾(約20万年前)があった時代、房総半島と東京が海によって隔てられた頃、現在の東京・千葉・水戸の辺りは海の底に沈んでいた。

 

 地殻変動などの諸条件によって、地続きとなった東京および房総半島には、活火山であり噴火を繰り返していた富士山の火山灰などが降り積もり、関東ローム層の形成に繋がった。

 「かははは」と、笑いながら老人はクレーチングの敷かれた道を歩く。「ワシもよく分からんが、上官の冗談みたいな話によると、由井正雪が反乱を起こす際に、地下を利用する計画だった――と聞いた事があるわ」

 「由井正雪? 大分昔の話ですね」

 慶安(西暦一六五〇年代)に江戸幕府に対して反旗を翻そうと企てた兵学者である。彼の計画では日本の重要都市、京都、大阪、また駿府などを含む数か所を襲撃する予定であった。

 「ウム、しかし真実は分からん。この穴自体が荒魂どもの堀進めたもんだからな。我々はただ、ソイツを利用するにすぎん」

 松崎老人は首筋にタオルをかけ、歩く度に汗を拭く。

 「それでも……、今こうしてボクたちが脱出に利用できるのも貴方のお蔭です」

 「カカ、……そうか。少佐殿もその言葉を聞けば多少は救われるかもしらんが」

 どこか寂しそうな横顔で老人は微笑する。

 「ところでこの道を行くとどこに出るんですか?」

 「あ? ウム、ここは5街道のうちの一つ、日光街道に沿って作られている」

 

 

 江戸期、人々の交通として主に利用された主要幹線がある。それが5街道であり、甲州街道、日光街道、奥州街道、中山道、東海道である。

 「ま、本来であれば鎌倉へ抜けるのであれば東海道沿いを行くべきだろうが……あそこは、ワシの担当ではなかった」

 「――えっ?」真希は思わず聞き返した。

 「こんな大規模な坑道じゃ。ワシのように道を隈なく覚えて案内する役割の人間は複数いる。じゃから、ワシの担当は主にこの日光街道方面だったんじゃい、文句あるか?」

 「い、いえ……」

 なぜか逆ギレする老人に気圧されつつ、真希は内心で「なんだこの人は」と疲れた吐息をつく。

 「ほれ、それよりついて来い。ここからが正念場だ」

 老人は振り返って、真剣さを帯びた雰囲気で注意を促す。

 

 

 

 Ⅲ

 「ねぇ、寿々花おねーさんって気になる人っている?」

 最後尾を歩く燕結芽と此花寿々花は二人並んで敵を警戒しつつ、LEDの懐中電灯を点して適度に息抜きの会話をしていた。

 

 「……あら、どうしましたの急に?」

 唐突な質問に寿々花は珍しく、声を微かに上擦らせて問い返す。

 「うーん、なんでだろう? 色々と難しくて……これから、どうやって〝生きるのか〟って百鬼丸おにーさんがくれた命を、どうすればいいか分からなくて。おにーさんは多分親切で助けてくれただけだと思うんだ。でも……おにーさんには何も出来ないから」

 小さな手を開いて、ジッと見詰める。

 「そんな事でしたの。でしたらわたくしには助言は出来ませんわ。そんな立場でもありません。それは結芽自身が考えることですから」

 「うーん、そうなんだけど……」 

 「それに前にも同じような話をした気がしますわ」

 「そうかな?」

 「――ええ。それにあの……百鬼丸さんが大好きなのでしょう?」

 揶揄うように意地悪い声音で寿々花はクスッ、と口元に微笑を浮かべた。

 淡い撫子色の髪の毛をふわっ、と少し浮かせた結芽は、年上の少女を見上げる。宝石のように綺麗な浅縹色の光彩に一筋の輝きが点る。

 「――――」

 暫く何を言うべきか悩んだ風に口を動かそうとして……やがて、小さく首肯した。

 「……うん」

 頭を前に戻して俯き加減に、頭を縦に振る。

 「……………。」

 まさか素直な反応をすると思わなかった寿々花は、気まずそうに目線を逸らし、自らの機能性に優れたスポーツ用の赤いレギンスの太腿辺りを軽く叩いた。

 「――寿々花おねーさん、私ね、〝誰か〟の記憶に焼き付けるような戦いじゃなくて、覚えていて欲しい〝ひとり〟のために戦いたいんだ」

 コツ、コツと甲高い靴底の音をたてながら、天才剣士と謳われた少女は、戦うべき理由を自らに確かめるように語った。

 言い終わってから、結芽は青いマニキュアを塗った爪の一つを撫で、胸の前で軽く拳を握る。

 「……結芽は成長しましたのね」

 「え……?」

 「いいえ、なんでもありませんわ。さ、しっかり護衛の仕事をしませんと、後で真希さんが怒りますわ」

 

 




アンケート回答ありがとうございました。
多分、9月くらいには終わらせる予定に頑張りマス。


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232話

 

一羽の雛が、折れた片翼の翼を痙攣させながら、頭上の遥か高い木の場所にある巣を見ている。翼から骨が露出しており、落下のダメージで、じきに死ぬだろう――。

 草むらに隠れた蛇の黄色い瞳が鋭い光を放ちながら、雛の柔らかな肉を狙っていた。

 野生の直感から――雛は、蛇の気配を感じ取りながらも、己の死期が近いのを感じながらも……それでも、巣だけを見詰めた雛は、衰弱した様子でも真直ぐに巣の更に高い青磁の空を素直な目で見つめていた。

 いつか、跳べるはずだった世界を、雛はまだ諦めてはいなかった。

 ぴぃー、と小さく鳴いた。

 最後の力を振り絞った鳴き声は、諦めではなく、その空へと向かう意志を示すものだった。

 

 

 1

 腹部の破れた百鬼丸は冷たい床面に横たわり、鉄臭く生温かい赤い絨毯を広げていた。

 少年の首など、荒魂と化した秀光の力であれば容易に刎ねる事ができた。

 ――……その筈だった。

 しかし、先程から振り上げた《幻夢刀》は百鬼丸の首の辺りまで来ると、軌道が逸れて切先が床面に当たる。

 まるで意志を有するように、何度試しても首一つ刎ねることが出来ない。

 「なぜだッ!! ここにきて、何故なんだッ……」

 右手に握った刀を眺めながら秀光は、鈍色の刀身に映る己の人外の容貌を改めて見た。

 人の頭部形状こそ保つものの、黒鉄色の肌、頬まで裂けた鋭利な口、絶えず口腔から洩れる焔と火の粉。

 鬼のような角も額から生えていた。

 これが、望んだ罰の結果だった。

 己の犯した罪の分だけ、容貌も何もかも醜くなれば、秀光にとっては救われた気になっていた。

 ……その筈だった。

 (叶、お前は今も――意志を持っているのか?)

 小刻みに震えた手元は、過去の少女の姿を反芻し、無力感と困惑に揺らぐ。

 かつて、守りたかった少女。

 どれほど手を、身を汚してでも――守りたかった存在。

 

 「皮肉なものだな。……結局、血脈を滅ぼすために、最後の……百鬼丸を殺すために特別な刃が必要だった――それが、幻夢刀(おまえ)だとは思わなかった」

 自嘲気味に秀光は呟く。

 

 

 

 

『おい、テメェなに勝手に感傷に浸ってんだよ、イッつつ……』

 皮肉がかった口調で、秀光の背後から少年の声が聞こえた。

 秀光が振り返る。

「――――よォ、クソ〝親父〟! ご機嫌はいかがぁ?」

 少年は首を回し、バキリバキリと鈍い音が鳴り響く。

「!?」

 あり得ない、奴は確かにこの刀で腹部を貫き深い『眠り』の底に沈んでいる筈だ。秀光は困惑した。――この刀に斬られた者は、己の欲する『欲望を叶える』夢を見る。現実から遁れ、甘い夢や欲望の中で悠久の時間を過ごす。決して目覚める事はない。

 しかし、現に百鬼丸は刀を頼りにしてよろめきながら立ち上がろうと膝を立てた。

「何を驚いていやがる、〝親父〟」

 その、たった一言が秀光の癇に障る。

「……オレを、父と呼んだか?」

 深い憎悪に充ちた声音で百鬼丸を睨みつける。

 

「――へっ、じゃあ別の言い方で読んでやろうか……おれは、お前で、お前はおれだ」

 腹部を左手で押さえた百鬼丸は無銘刀を杖の代わりに、ゆっくりと血の池から立ち上がり、血に濡れた掌を己の顔に塗りつける。

「流石にしぶとい。すぐに殺せないが……まぁいい。確実に殺すならば、いくらでも方法はある」

 吐き捨てるように言った秀光は、努めて理性的に喋り精神を落ち着ける。

「そうかよぉ、随分とけなげだな。そりゃあ、叶さんにも慕われるワケだ――」

 八相の構えで迎え撃つ体勢をとっていた秀光の手がピタッ、と止まった。

「おい、キサマ! なぜその名前を知っている?」

 あり得ない、この少年がなぜ『轆轤叶』の事を知っているのか? 一瞬、彼の脳裏に疑問が巡る。

「なぁ、お前の敗因を教えてやろうか? その刀を使ったことだよ。……確かに、他の奴だったらその刀はマジで強いはずだわな。……でもな、おれには無意味なんだよ! なにより、そんなに優しい刀を、お前は今まで暗殺だとかロクな使い方してこなかったもんな! その刀の真価を知らずに使ってきたんだからよォ!」

 傷口の激痛を堪えて百鬼丸は、今までの鬱憤を晴らすように怒鳴り散らす。

 

 

 

「ふーっ」と息を整えた百鬼丸は、驚異的な自然回復をみせる腹部を指先で確認し、頭を切り替え刀を正眼に構える。

 

 

「――叶さんに言われたんだ、てめぇを救って欲しいってなぁ! でもな、やっぱりナシだ。テメェは地獄の底に叩き込んでやらなきゃ気が済まねぇぞ」と、口腔に拡がる血痰をプッと床面に吐き捨てる。

 

 



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233話

 ――荒野と化した風景は、つい先刻までの戦の名残だった。

 旗指物が折れて地面に突き刺さり、荒々しく乾いた風が吹き付ける。鎧甲冑を着た骸の数々が地面に打ち捨てられていた。鴉が死肉を啄み、酸鼻を極める地獄のような風景だった。

 赤い空は夕暮れなのか、朝焼けなのかも分からない。

 周囲を囲繞する山々は枯れた色で、裸木の枝を無数に揺らす。

 そんな戦場に霧雨が降りかかる。

 どす黒い雲が遠方から山際を超えてやがて、猛烈な勢いで来るのだろう。

 ……長く黒い髪を後ろで束ねた少年は、頬に赤黒い血痕を塗りつけ、暗い空を見上げる。

 破損し、折れた武具の数々。

 少年の薄い唇に細かな水滴が貼りつく。

 肩をダラリと下げ、虚ろな目で空では無い「ナニカ」を見詰めている。

 流れる黒雲の間から太い節の音が地響きと共に這い回り、紫の閃光が雲間を駆け抜けた。

 少年の右手に握った刀は血肉と脂がこびり付いた刃に、切先に血流が滴る。

 見渡す限り、幾千幾万の骸の数々が、もう数刻――折り重なって倒れ伏していた。

 無念の死を遂げた人間の死体に群がるのは、鴉以外にも…………魍魎どもが、幽体のまま浮遊しつつ、血肉を啜ろうと彷徨っていた。

 

 切れ長の涼やかな目元が印象的な少年が、高い鼻梁に流れた雨滴を黒髪と共に流す。

 

 もうじき、骸の脂に燻っていた残火の揺らめきも、白雨によって消えるだろう。

 

 この時代、人が人として生きるには難しく、人ではない《獣性》を覚醒させなければ容易く命が踏みにじられた。

 

 長い黒髪の少年は手に持った剣を手放し、ただ降り続く雨に全身を洗わせた。

 ゆっくりと、深い吐息が白く染まり、気温の低下を感じさせた……。

 左腕を空高く掲げ、指の隙間から微かに洩れた雲間の日光に目を細める。

 

 のち、この少年は魑魅魍魎を討伐する武芸者として名を馳せる――――。一説によれば『農民の国』とも友誼を結んでいたという彼の名は……半ば、伝説の中にのみ記されている。

 

 Ⅱ

 (その男の名を冠したキサマの正体は――出来損ないのオレの複製(レプリカ)だ)

 轆轤秀光は、最早、人の姿形を棄て去り、人型の荒魂として存在している。

 刀を正眼に構えつつ、足裏を擦り間合いを測る。

 

 

 「どーしたよ? かかってこいよォ!!」

 肩を怒らせて百鬼丸は吼える。

 秀光の握る刀身に、白と黒の綯交ぜになった長髪の少年を映し出す。

 

 (確かに、昔のオレによく似ているな……。)

 過去の自分を前にした秀光は、内心で独り言ちる。

 

 ――もしかしたら、彼のように純粋な精神で生きる未来もあったのかも知れない。今の己のように復讐鬼となって生きる以外にも道があったのかも知れない。

 ……だが、もう遅い。

 「お前を殺さねば、オレの復讐は終わらんのだ」

 

 



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親子決着

 ――百鬼丸は、無機質な表情で左義手の小さく外れた隙間に右指を指し込む。

人体から生成された脂を指先に付け、刃の表面に薄く伸ばした。

 ズボンの後ろポケットに忍ばせたマッチ棒を右手で引き抜き、靴裏で素早く火を点けた。

 小さな火光を刃に近寄せる。

 直後――、ボゥ、という発火音と共に紅炎が刀身に纏う。

 パチリ、パチリ、と炎の燐光が少年の目前に散る。

 通常、荒魂にとって物理的な炎は無意味であり――何ら意味のある行為ではない。

 これは、ひとえに百鬼丸なりの弔いの儀式に他ならず、拝火教であるゾロアスター教の《火葬》に倣ったものである。

 ……尤も、百鬼丸自身にその手の知識は無く、自然本能に依る行為だった。

 

 

 「どうした、かかって来ないのか?」

 真正面に佇む人型の荒魂、かつて人だった男が低く呟いた。

 彼の人であった頃の名前は轆轤秀光。権謀術数の世界で、ただ孤独に復讐のみを果たすことを生きがいにした哀れな男の名前だった。

 

 「…………お前の最期の言葉くらいは覚えておいてやるよ。何か言い残す事ははいのか?」

 白と黒の髪が綯交ぜになった前髪の隠れた奥から、冷徹に底光りする瞳が、鋭く秀光を見据える。

 「なんだ、もう勝った気でいるのか?」

 ワザと挑発するように首を捻る秀光。彼は、そのまま《夢幻刀》を八相に構え、足裏を擦る。間合いを近づけ、距離を測った。

 鋭利な鬼のような角が額から二つ生え、ギザギザに頬まで裂けた口は、最早怪物であった。口腔からは火の粉が散り、憎悪をエネルギーに燃えているようだった。

 

 

 百鬼丸は、彼のオリジナル生体である秀光を前に、俯き加減に口を噛みしめる。

 

 「おれは初めて出会った時から、アンタが悪い奴には感じられなかったんだ。……だけど、ここまで来て、今更そんな事は思わなくなったけどな。最初からおれを殺すために、結芽も他の人たちも巻き込んで殺したんだ!」

 渋谷での巨獣事件がそうだ。

 なんの罪もない人々が殺された……。

 しかし、怯む様子もなく秀光は漆黒の硬質な皮膚に、炎の光を反射させた。

 「だから何だというのだ?」

 

 「――――おれには、さっきからその刀の……叶さんの記憶と声が流れ込んでるんだよッ! クソッ、クソッ、クソッ、気持ちよくお前をブチ殺そうとしてるのに、なんでだよォ、なんでこんな記憶が流れ込んでくるんだよォ!!」

 百鬼丸は、脳内に流れ込む、たった一人の少女の記憶を共有していた。

 

 

 かつて、まだ秀光が優しく人を救いたいと思っていた頃の記憶……。

 初夏、大樹の幹によって座り、本を開く一人の好青年。一見すると百鬼丸と雰囲気の似ている彼は、はにかみながら、小さく手を振る。

 慈愛に満ちた表情で、頭を撫でる優しい手。

 

 ――――……この思い出はすべて、轆轤叶という少女のモノだった。

 

 百鬼丸は一度、夢幻刀の中で精神体の叶と言葉を交わした。

 

 『……――百鬼丸くん、お願い。あの人を助けて』

 

 それが、まるで呪いのように、否、痛切な祈りとして少年に向けられた。

 

 

 (ゴメンな、叶さん、おれ頭に血がのぼってたわ…………。)

 内心で反省しつつ、百鬼丸は無銘刀を頭上に掲げる。大上段に構え、過去に囚われた男を真直ぐ、睨む。

 

 「アンタは間違えてるんだよ!!! こんな復讐みたいな事したって、叶さんは喜ばないだようがよォ!!」

 百鬼丸は目端から細い涙を流し、叫ぶ。

 

 

 ……――だが。

 秀光は「ぐっはははははっはは!!」と盛大に笑う。

 「何が面白いんだよ?」困惑する百鬼丸を他所に、尚も怪物は笑う。

 「いいか、小僧ッ!!! 教えてやる!! 叶が復讐を望まなかったなんて当の昔に考えていたさ! いいか、だけどなぁ、関係ないんだよ!! オレが復讐をするのはな、その相手をどれだけ失ったかという悲しみの代償行為に過ぎないんだよォ!! オレがここまで人を殺し続けたのも、オレが(おまえ)を失って、どれほど悲しかったかの証拠に他ならないんだ!! アイツがどう悲しむかなんて考えられない程に、オレは悲しいのだ!!」

 秀光が、初めて本音を叫ぶ。

 一拍の沈黙。

 拳を強く握る百鬼丸は、

「どれだけ身勝手なんだよ、クソ野郎がァ!!」吐き捨てた。

 少女の願いを踏みにじる凶悪な意志だった。

 言葉は要らない。

 気が付くと百鬼丸は駆け出していた。赤く分厚い絨毯を足裏に感じながら、猛烈なスピードで弾丸の如く飛び出す。

 強く振り下ろした刃は、直線的な軌道を描き秀光に襲い掛かる。

 秀光は完全に見切ったように足を動かし、斬撃を躱す。

 脇腹が隙になっており、秀光は躊躇なく刃を打ち込む。

 フワッ、と百鬼丸の体が微かに浮遊し、視界から消えた。秀光が首を巡らせると、左斜め方角から肘が迫っていた。

 角の生えた頭部を思い切り、顔の真正面に打ち込まれた掣肘が勢いよく秀光の体を吹き飛ばした。

 階段に勢いよく衝突し、破壊した。

 バラバラと砕ける木材と石片がバラバラと舞い散る。

 土埃の中から人影がフラッと立ち上がる。

 「貴様に、貴様にだけは決して負けてはならんのだ! でなければ、オレがなしてきた事が無意味になるのだ!」胸を掴み、荒魂の秀光が言う。

 「だったら、無意味にしてるよ!」

 燃え盛る刃を振りかざし、燐光を煌めかせながら体を浮かせ、滑るように百鬼丸が斬り掛かる。

 不意を衝かれた秀光が、咄嗟に左腕でガードする。

 グサッ、と深く喰い込む刃から、無数の赤い細線が一瞬で腕に拡がる。

 「ぐぁああああああああっ!!」

 激痛、というには生温い感覚が腕を伝い、秀光に襲い掛かる。

 (なんだ、これは?)

 御刀ですらない刀が、何故このような力を発揮するのだろうか? 初めて対峙して解る事があるのだ、と男は驚愕した。

 まるで、存在そのものを喰い尽すような惨い力だ。

 「なんで、刃でガードしないんだよ?」

 グッ、と力を入れて腕を切り落とそうとする百鬼丸が言う。

 「一応、貴様のッ、情報は、得ていたッ! まさか、これほど禍々しい力だとは思わなんだがな」

 「――もし、夢幻刀で防いでたらソイツを喰い尽すからな!」

 冷酷な宣言。

 「ははははっ、貴様は――――オレよりも化け物だ!」

 「ああ、そうだ!! アンタが叶さんを庇うなんてよォ!!」

 戦闘で興奮しながら百鬼丸が腕を遂に切り落とした。ゴトッ、と質量のある音が聞こえた。

 

 

 最初から、勝負など着いていた……。

 

 《無銘刀》という、禍々しい刀を前にして、秀光は如何なる武器を使おうとも、勝利する事など出来なかったのだ。

 彼の選んだ夢幻刀であれば、彼の命運は決まっていたのだ。

 

 

 ――――あの人を救って!

 

 

 切なる少女の願いを、百鬼丸は叶える時が来た。

 

 左腕の無い人型荒魂は、完全に動きを停止させた。百鬼丸の宣言によって、既に戦意は喪失していた。右手に握った刀を動かす気配は無く、迫りくる刃を受け入れようと百鬼丸の攻撃を待ち受けていた。

 

 

 カチッ、と硬い音が響く。

 秀光の右手首が切り落とされた。ゴトッ、と床面に落下すると、瞬時に百鬼丸がつま先で掬いあげて手元に引き寄せる。《夢幻刀》を手にした百鬼丸は、鮮やかな剣技によって、秀光の首を刎ねた。

 ポーン、と勢いよく跳ねた頭部が地面におちてゴロゴロ転がる。

 美しい虹の残像を煌めかせながら夢幻刀は光を放ち、まさに力を発揮した。

 百鬼丸は、長い前髪で隠れた顔で転がる頭部を一瞥する。

 「……アンタがその武器を選んだ瞬間から負けが決まってたんだよ。なぁ、どうしてだよ――」

 百鬼丸は、切り落とした首から意識を胴体へ戻し、腹部へと深々と突き刺す。

 刀の鍔辺りまで深く喰い込んだ刀身が、轆轤秀光だった胴体と一体化した。

 

 ――――長髪の奥に隠れた百鬼丸の顔は、酷く歪んでいた。

 悲しみを堪えていたのだ。

 秀光の記憶が、感情が流れ込む。

 否応なく体感させられる走馬灯の数々。

 

 「どうしてだよォ!!! くそっ、なんでそんなに人を大事に想えるなら、もっと他の方法で力を使わなかったんだよ…………」

 純真で、一片の曇りもない少女を救いたい。ただそれだけいの想い。

 轆轤秀光という――――、哀れな道化師の最期。

 

 『……百鬼丸、お前の――記憶か』

 

 共有されたのは、何も百鬼丸だけではなかった。

 秀光もまた、同様に百鬼丸のこれまでの経験を追体験したのだ。

 

 転がる首から、薄れゆく意識の根源が百鬼丸の脳内に響く。

 

 『……――オレがしてきた事は間違えていた。そんな事は知っていた。だから、裁かれたかった。この、復讐鬼と化したオレを。まさか、出来損ないのお前に殺されるとはな。っ、はははは。……なぜだ、なぜ、お前は夢幻刀で首を刎ねた?』

 秀光の視点からは、少年の足元しか見えない。

 地面に切先の向けられた刀身を眺めながら素直な疑問を口にする。

 

 

 「……アンタを救って欲しいって、叶さんに言われたんだよ。この刀なら幸せに死ぬことが出来るんだよな? ……アンタにはお似合いだよ」

 斬られた者は、その欲望や夢見た幸せを感じながら深い眠りと共に、死する夢幻刀。荒魂となった秀光を斃すにはうってつけの刀だった。

 

 『そうか…………貴様を恨んでいたオレは間違いだったんだな』

 「――今から死ぬ野郎が何言うんだよ」

 ふっ、と内心で秀光は笑う。

 『……――オレが恨んでいたのは、お前じゃない。お前の中に映る過去のオレだったんだ。ソイツが許せなかったんだ。……今更許せとも、何ともいわん。だが、これだけは言わせてくれ』

 

 首から顔を逸らした百鬼丸が深呼吸しながら、

 「――――なんだよ」訊ねる。

 

首の無い胴体が、不意に動き、

 『…………――行け、息子よ』

 切断された左腕を伸ばして扉の方角を指さす。

 言い終えた秀光の胴体は膝からガクリ、と人形の様に崩れ落ちた。

 

 次第に秀光の視界は、紅蓮の焔に包まれ、激しく燃え盛る中から別の景色が浮かぶ。目前には華奢な少女の姿が見え始めていた。……これは、幻だ。そう自覚しながらも、その近づく相手が誰なのか、秀光は、もう随分前から知っていた。

 

 

 

 

 ◇

 

 ……――思えば、御門実篤という地下の番人に興味を持ったのも、己と同じ境遇だったからだろう。

 オレは、轆轤家の秘密の一つに、地下に虜囚の如く自罰する男の存在を聞いていた。

 第二次世界大戦の頃から居るソイツの話は、ある程度、本家から知らされていた。だが、実際にオレが実篤と言われた石像……いや、『人間』を地下で見た時、彼が背負う業の深さと、深い悲しみに共感した。

 「まるで、アンタはオレみたいだ」

 地下で暴れまわる荒魂たちを不眠不休で半世紀以上も戦い、防ぐ酔狂な男に向かって、オレは言った。

 愛した女を失い、それでも地上の人間どもの為に戦う、それだけは理解できなかったが……。

 

 

 普段、無口な実篤という男は、現在地下の番人を自称し、永遠にも等しい時間を過ごすのだろう。滑稽だ。

 だが、それでもオレは、彼に語り掛けたかった。

 「オレはアンタみたいに無様な最期は遂げないだろうな」

 挑発のつもりで、大柄な石像の背中に向かい言った。

 肩越しに振り向いた実篤は、ただ、一言だけ「貴様の一族には昔、哀れな男がいた。秀馬といった。――あの時の目を小生は忘れない。今のお前とそっくりだ」

 ただ、それだけの言葉をオレに残した。

 

 ――随分時間が経ってから、もう一度会いにこよう。

 

 それから長い歳月を経て、オレは百鬼丸を殺すために、地下へおびき寄せた。この番人にオレの過去である百鬼丸を殺してもらうのだ。

 

 ……だが、上手くはいかなかった。

 御門実篤という男は、百鬼丸の手によって葬られた。

 どこか、その報告を聞きながら安堵した自分に気付いた時、オレは彼が半身のような存在なのだと気付かされた。

 そうだ、オレはいつも失ってから大切なものに気付くんだ。

 

 

 暗くなる視界、滑落する意識――。結局、オレはキャッチャーになることは出来なかった。

 

 

 ◇

 馥郁たる緑の匂いが、鼻を打つ。

 夕焼けの茜色に染まる空と、黄金色に実ったライ麦の畑が目前に拡がっていた。涼やかな風が頬を撫で行く。 

 腰まである麦の穂が秀光を囲む。

 「ふふふ、なんだ。オレの方が子供か」

 肩を竦め、秀光は自嘲する。

 ふと、トントン、と肩を叩く気配に気づいた。

 首を後ろに回すと、背丈の一回り低い麦わら帽子を被った人影が居た。

 「――問題です、わたしは誰でしょうか?」

 「………………」

 その懐かしい声音を、秀光は知っていた。

 「――――誰か、もう忘れた気もする」

 震える声で、必死のジョークをかます。

 「……ねぇ、知ってる? 子供たちが崖から落ちないように抱きしめる役目の人をなんて言うのか?」

 「ああ、キャッチャーだ」

 「正解」

 「…………そうか、お前がなったのか。〝叶〟」

 「うん、そうだよ。秀光おじさんが子供だからね――」

 そういって、白く細い腕を差し出して、叶は顔を上げた。

 夏のひまわりのような眩しい笑顔に、秀光はゆっくりとその手を取った……。

 

 

 




とじとも終わってしまった……悲しいですね。


朗読劇、楽しみですねー。


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235話

 ……私は何もない存在でした。

 ただ、『刀使』になる――その願いが、どこからきたのか。自らの意志だったのか……周囲からの期待だったのか。今となっては、その本心すら定かではありません。

 それでも…………。

 私は、刀使になりたかったというよりも――――〝御刀〟に選ばれたかった。それだけは今でも確かに覚えています。

 あの時――私には刀使になる資格が無く、どうしようもなかった私を、どん底から救って下さった「あの方」にだけは、忠誠を誓おう。そう決意しました。

 

 

 …………たとえ、道具のように扱われても、己の手を汚す結末に至ったとしても。

 

 

 「はぁっ、――――はっ」

 肺病の犬のように乾いた呼吸を口から漏らしながら、皐月夜見は、壁に寄りかかって歩く。

 大量のノロを体内に注入したことで、顔面の半分ほどか人ではない怪物の角と、色合いに蝕まれつつあった。

 右腕は折れ、顔の半分は無数の切り傷で血に塗れていた。

 夜見は、それでも歩き続ける。

 タギツヒメが世界を終わらせようとする最中にあっても、夜見はその終末の儀式に付き従うワケではなく、ただ一心に「あの方」の姿を捜していた。

 「ステインさん」

 夜見は一言、男の名を口にした。

 英雄(ヒーロー)殺しの気狂いな殺人者。

 百鬼丸という少年に執着する異常なストーカー。

 そんな彼が夜見と行動を共にしていたのは、いずれタギツヒメの下へ来ることを予想して同行していたに他ならない。

 利己的な筈の彼が、夜見に対し誓った一つの文言が「お前の剣であり続ける」というものだった。

 正直に言えば、その意味すら夜見は理解していなかった。

 確かに、ショッピングモールでの一件でステインの命を助けたものの、それはタギツヒメの計画に必要な戦力として助けたのだ。

 「不思議ですね、なんで貴方が私なんかを助けたんですか」

 自らの血で視界が赤く染まる中、ヨタヨタとした足取りで、夜見は高層ビルの廊下を進む。

 

 

 東京の中心、高層ビルの屋上。

 ――高津雪那が、タギツヒメから戦力外通告をうけ、罷免された。

 タギツヒメに従うのは、今や綾小路などノロの影響を受けた近衛隊だけだった。

 皐月夜見は、タギツヒメが一気に世界の終末に向けて動き出した時、最早、女神に付き従う必要はないと判断した。

 夜見が離脱を決めたとき、タギツヒメが背中から語り掛けた。

 「お主は、あの方とやらに義理立てをするのだな?」

 まるで、子供が拗ねたような口ぶりだった。タギツヒメを守るように、綾小路の刀使たちが周りを固めているにも関わらず、女神はひどく孤独に見えた。

 「――はい」

 「しかし、貴様はすでにノロに体を蝕まれておるではないか? どうじゃ? お主にはノロを制御するだけの力はあるのだ、此方の側に来るつもりはないか?」

 肩越しにタギツヒメが傲慢な笑みを浮かべた。

 夜見は静かにタギツヒメの燃え盛るような橙色の瞳を見返す。

 「いいえ、私にはあの方以外にお仕えするつもりはありません。……それでは」

 踵を返して、夜見は歩き出した。

 タギツヒメは、微かに肩を震わせた。

 「――ふふっっふふふ、虫けらの出来損ない風情がッ! 調子に乗りおって!! こちらが下手に出ればツケ上がりおって!!」

 突如、激情に駆られたタギツヒメは、二振りの刃を足元で交差させ、夜見の背中を狙った。

 「っ!!」

 咄嗟に振り返った夜見は、刹那の間に襲い掛かるタギツヒメの攻撃にうまく対応できず、剣の風圧と衝撃波で吹き飛ばされた……。

 既に、夜見は刀使としての力を失っていた。従って、《写シ》を貼って体を防護することも出来ずに、地面に転がった。

 バキリッ、と太い枝が折れたような音が鼓膜の奥に響いた。

 水神切兼光を握った右腕が折れたのだと、瞬時に理解した。不思議と痛みは感じなかった。最早、人間から離れようとする己の肉体が、五感の感覚から遠ざかりつつあるのだろう。

 幸い、タギツヒメの攻撃によって致命傷を負うことは無かった。

 それも、すでに夜見の体がノロに侵されつつある証拠であり、咄嗟の防御も荒魂化しつつある己の体がやったことだ――夜見は冷静に理解した。

 (やはり、私には何もできない……何もない)

 自嘲気味に、口端を曲げて夜見は笑う。

 這いつくばった状態から起き上がろうとする。

 ……しかし、その背中を強烈な圧力で踏みつける足があった。

 タギツヒメは、侮蔑するような眼差しで地に付した夜見の背中を踏みつけた。

 「なぜだ、なぜ人間はいつもそうなのだ? お前たちの勝手な都合によって生き永らえる? お前たちはなぜ、この地上に跋扈しようと思うた?」

 憎々し気に、背中に踵を突き刺して踏みつける。

 「――――ッ」

 正真正銘の激痛が、夜見の全身を貫く。

 息をするのが辛い。

 タギツヒメがなぜ、激怒しているのかも、夜見は理解できない。

 「――のう、貴様。ステインよ。貴様は悪を標榜するのだな? では問う。この世界の終末の風景は美しい、どうだ? 貴様も高揚するだろう?」

 タギツヒメが自らの紡錘形の先端から橙色の細線を天空へと延ばす光景をみせて、訊ねた。

 ヒーローを殺してきた男であれば、この世界の終末すらも同意してくれるだろう、と。

 

 

 

 今まで、タギツヒメたちの儀式や夜見への暴行も黙って腕を組み眺めていたステインは、首を微かに傾げて、三白眼をギョロリ、と天空へ向ける。

 

 「これの何が一体面白い? 世界? 終末? ふん、つまらん。オレが求めるのはただ一人――この世界において百鬼丸以外にいない。そもそも、この世界はオレの元の世界じゃない。滅びようがどうでもいい――いや、仮にオレの世界でも構わん。で、あればお前を斃すヒーローが現れるだけだ」

 頬まで裂けた口で、長い蛇の様な舌を動かし、ステインは言った。

 

 「――なに?」

 初めて、ショックを受けたような表情でタギツヒメは凍り付いた。

 しかし、そんな女神を無視して、ステインは地面へと視線を流す。

 「おい、お前がオレの持ち主ならば、お前の願いをいえ。……オレはお前に一度だけ恩義を返す。だからそれを果たすために、ここにいる。言えッ!!」激しく怒鳴った。

 夜見は、弾かれたように頭を上げて、

 「私は……私は、あのお方を追いかけたい。だから、力を貸して下さい。ステインさん」

 左手に持ち替えた御刀の柄を握り、精一杯の声量で告げた。

 

 

 ――……その言葉を聞いたステインは、心なしか、納得したような表情で、背中に交錯させた二振りの刀を引き抜き、タギツヒメに向かって突出した。

 彼の瞳は、真紅に染まっていた。

 夜見の血を吸って荒魂の力を獲得し、かつ、強靭な精神力によって制御しているのだ。圧倒的な精神力によって制御された荒魂の力を自在に操るステインは、元来の身体能力と組み合わせ、荒々しい剣技をタギツヒメにぶつける。

 「――――ッ、厄介な男を招いたものだ!」

 タギツヒメは、吐き捨てるように言ってステインの攻撃を捌く。

 箒を逆立てたような髪が風にそよぐ。

 「行けよ」と、ただ一言だけ夜見にいうステイン。

 夜見は小さく頷き、タギツヒメの足を振り払って、ヨタヨタとした頼りない足取りで出口の方角を目指す。

 

 

 

 「ありがとうございます、ステインさん」

 移動しながら、夜見は何もないと思い込んでいた自分に付いてきたステインに対し、感謝の言葉を伝えた。

 

 だが、タギツヒメと激突しているステインに無論、その言葉は届かない。

 

 (あなたはご自身を、ヒーロー殺しの悪人を自称したとしても……――私にとっては、本当のヒーローです)

 口端から垂れる血筋を拭って、夜見は先を急いだ。

 




とじよみ、良かったですね!
これから先も何か展開してくれればいいなー、と思います。


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燕の夢

 

ちん、と小気味の良い金属音と共に――――、刀身が納刀された。

 ふわっ、と宙を舞う撫子色の繊細な髪が蛍光灯の眩い光と重なり、鮮やかな桜色の影を地面に落とした。

 「あはっ、よっわーい。こんだけ数がいてもぜーーーーんぶ雑魚じゃん。あ~あ、つまんない~!」

 荒魂の残骸が駅のホームに散乱する中、場違いに甘ったるい声音で不平を鳴らす少女。浅縹色の瞳は、悪戯っぽく瞬き、首を巡らせ荒魂の姿を捜す。

 元折神家親衛隊の第四席。

 燕結芽は、猫のように気まぐれな態度で、退屈まぎれに青いマニキュアを塗った爪を眺める。

 

 

 ……その圧倒的な強さを目前にした幼い少女がひとり、駅ホームの床面にへたり込んだまま見上げていた。

 

 

 年の頃は6歳前後だろうか?

 泣きはらして腫れた瞼を上げ、しゃくりをあげる事も忘れて結芽の背中を見ている。

 「すごいっ……」

 思わず、幼い少女は感嘆を漏らした。

 幼い少女は、突如として駅ホームに殺到してきた荒魂たちの大挙によって混乱した駅構内で母親とはぐれ、ひとり、彷徨っていた。

 見知らぬ大人たちは自らの命を守るために、幼い少女など見えないフリをして逃げ惑っていた。大声で泣き叫んでも、誰も助けてくれなかった。

 手を握った母の手を捜して少女は線路を歩きながら、泣いて息を切らして歩き続けた。

 ついには、荒魂たちが押し寄せたホームまで戻ってきてしまった。

 自らの数倍の体積を有する巨躯を揺する荒魂たちが、溶鉱炉のような橙色の輝きを湛え、無数に跋扈していた。

 ――――ここで死ぬのかな?

 泣き続けた少女は、本能的に悟った。

 まるで、神々しい輝きを放つ異形の怪物の集まりを眺めつつ、不意にそう思った。

 幼い少女は、自らの短い命に決別をつけるように、恐怖を通り越した身体の硬直で線路に立ち止まり、次々と荒魂たちの異形な頭部がこちらを覗うのを感じた。

 もう、誰も助けになど来ない。もう、ここで死んでしまうのだ。

 命の危機を感じた体は、先程まで興奮で火照った頬から一気に温度が下がったように冷や汗が額から流れるのを感じた。

 これが、最期に見る光景だろうか? 恐ろしい怪物たちが口腔を開く、この醜悪な光景が……。

 

 ――ひゅ、

 と、不意に耳元を駆け抜ける一筋の軽やかな音色が聞こえた。

 それは、笛の音色にも似て高く澄んだ音階だった。

 「えっ?」

  耳元を過ぎゆく風圧に、思わず口から驚きの声をあげた。

 

 透明な外気の揺らぎの後に煌めく七色の輝きが視界の端から端を移動し、巨大な荒魂たちの群れへと流れてゆく。細い雷が迸るが如く、一筋の閃光のあと、首や胴を切断される荒魂たちが、次々と悲鳴を上げながら、地面に斃れ伏してゆく。

 「なに?」

 泣くこともわすれて、ただ、目の前で起こっている不可思議な現象を眺めるより他なかった。

 幼い少女は、やがて知る。

 細い雷だと勘違いしていた筋は、剣閃であるという事実に。

 荒魂から比べれば余りに頼りない刀身のシルエットが地面に影を僅かに落とし、瞬く間に荒魂たちを屠り蹂躙してゆく。

 その刀の持ち主が、華奢な人影であることにも同時に知った。

 「あはっ、弱い、弱い、こんだけ居るならもっと楽しませてよぉ~」

 駅構内に響き渡る、ひと際目立つ笑い声。

 その人影は、地面に着地しながら舞い踊るようにステップを踏み、再び荒魂たちの繰り出す攻撃を躱し、敵の胴体を足場に利用して駆け上り、空中から斬撃を振り下ろした。

 鮮やかな動きに、まるで、この目の前の現実が、舞台の一幕なのでは――? と、幼い少女は勘違いしたほどだった。

 

 

 最後に残った荒魂にも容赦なく、華奢な人影は優雅に立ち回り、頭上へと剣尖を突き立てた。

 『ギャアアアアアアアアアアア!!』

 耳を劈くほどの悲鳴が鳴り響いたあと、その余韻のように不気味な沈黙が駅ホームを満たした。

 

 

 Ⅰ

 (……どうしよう?)

 燕結芽は、頬を掻いて困っていた。

 彼女は独断専行で、命令を無視して駅のホームまで来てしまっていた。

 つい、十数分前。

 押上駅に突如として荒魂が押し寄せている連絡が入った時、咄嗟に単独で出撃していた。

 徒歩で地下坑道を歩いていた先遣隊の護衛をしておきながら、任務放棄であったのは百も承知だった。――しかし、悪いとは一切思わなかった。

 インカムから伝えられた知らせでは、避難がまだ完了しておらず、逃げ遅れた人々の確認がとれてない。

 幸いにも、護衛していた先遣隊は無事に目的地まで到着した頃だった。戻る道すがら、現場に急行する事も可能だった。――しかし、元折神家の親衛隊という肩書のために、結芽を含む三人には救援の命令は下されなかった。

 

 『こんな数、普通の刀使だったら間違いなく終わりですわね』

 ボソッと寿々花が呟いた。

 全く同意だ、とでもいう風に硬い表情で頷く真希。

 『――じゃあ、見捨てるの?』

 結芽は、純粋な疑問を口にした。

 『そうじゃない。……だが』

 真希が反論しようとしたとき、結芽の表情を一瞥して苦笑いを漏らした。

 『こんなに遊び相手がいるのに、我慢なんてできないよね?』

 やれやれ、といった風に真希は頭を掻いて寿々花と顔を見合わせる。

 『――まったく、命令無視のあとの言い訳は大変なんですのよ?』

 ワイレンレッドの緩やかなウェーブを描く髪を、人差し指で弄びながら寿々花が微笑む。

 それが合図だった。

 

 気が付くと、バッ、と地面を蹴って結芽は飛び出していた。

 

 

 

 ……結果として一人の少女の命を救うことができた。それは良い。問題は――。

 (わたし、泣いてる小さい子と遊んだことないよぉ~)

 内心で結芽は頭を抱えてしまった。

 荒魂たちを討伐したあと、自らの背中を凝視する幼い少女の視線を感じながら、どう接すれば良いか思案していた。

 ねぇ、お菓子たべる? 

 何かゲームでもする?

 …………どれも、この場で和ませるに足りるような提案ではない気がした。

 「…………」

 「…………」

 ふたりの少女は、奇妙な沈黙の中にいた。

 結芽は猫目のような浅縹色の瞳をチラチラと動かして、幼い少女を確認する。

 地面にへたり込んだままの少女は、茫然としながら結芽の背中を凝視したままだ。

 (気まずいけど――)

 意を決した結芽は踵を返して背後を振り向く。

 「――ね、ねぇ」

 上擦った声と引き攣った笑顔で結芽は舌を縺れさせる。

 「はっ、はいっ!?」

 幼い少女は身を竦ませて返事をする。すっかり怯えきっているようだった。

 (どうしよう……こんな時、真希おねーさんだったら? 寿々花おねーさんだったら?)

 しかし、どちらも参考にはならなそうだ、と咄嗟に判断した。そしてもう一人だけ、思い当たる人物の横顔が脳裏に浮かぶ。

 (――百鬼丸おにーさんなら)

 自然と口元が綻び微笑を浮かべる。

 「ねぇ、立てる?」

 そう言って、結芽は手を差し伸べる。

 あの日、舞草の拠点を襲撃した時には恐ろしかった少年が、一転して命を救ってくれたときに差し伸べてくれた表情と声音を思い出して。

 大丈夫だよって、教えてあげるために手を指し伸ばす。

 「う、うん……」

 怯えてはいるものの、幼い少女は頷いて結芽の手を握った。極度の緊張で冷たくなった指先の温度を感じながら、結芽は初めて自らよりも幼い命を救った事実を実感した。

 「ね、ねえ!」幼い少女は泣きはらした顔を上げて、結芽を正視する。

 「なに?」

 気まずそうに返事をした。

 「ありがとう! おねーちゃん!」

 精一杯の大きな声で幼い少女が感謝を伝えた。その純粋で曇りのない眼差しが、結芽を射抜いた。

 「おねーちゃん、すっっごくカッコよかったよ!」

 興奮気味に語る少女は、とても眩しかった。

 「えっ?」

 思わず、結芽は聞き返した。

 「だからね、おねーちゃんありがとう!」

 おねーちゃん、というのはわたし(結芽)の事だろうか? 一瞬だけ思考が停止した。その後にくる、不思議なむず痒さに結芽は視線を彷徨わせながら、俯いた。

 「べっ、別に――ただ荒魂を斃したかっただけだから!」

 紅潮する自らの頬の温度を、結芽は確かに感じながら口をもにゅもにゅとさせる。

 

 

 

――――わたしの凄いところ、魅せてあげる!

 

 つい前までなら自分勝手に戦って、『誰か』の記憶に残るように剣を振っていただろう。

 それが、自己中心的な行動だと理解していても、命の短さを感じて追い立てられた、一種の足掻きだったかもしれない。……あの時の自分を否定するつもりはない。

 ……だけど、こうやって目の前の助けた少女に感謝をされる。それが溜まらず、嬉しかった。

 「おねーちゃん、名前なんていうの?」

 幼い少女がたずねた。

 「わたし? 燕結芽……一番つよい刀使だから!」

 結芽は思わず名乗ってから頭を上げて、恥ずかしさを隠すように胸を張った。

 しかし、幼い少女は憧憬の眼差しでキラキラとした瞳で結芽を見上げる。

 「うん、結芽おねーちゃん、すっごくカッコよくて綺麗だったよ!」

 「えっ? 綺麗? かっこいい?」

 可愛らしい、と形容される事が多い結芽だったが、初めて褒められる言葉の数々に、ドギマギしてしまった。

 「あのね、あのね、わたしもいつかね、結芽おねーちゃんみたいにね、カッコいい刀使になりたい!」

 小さな拳を必死に握って熱烈に結芽に語り掛ける少女。

 この、自分よりも小さな子供が――わたしに憧れている? 

 ――あの狭い病室で、ただ死が訪れることを待つ絶望の日々からは想像もつかなかった事だった。

 これまでは、ただ戦うことが楽しくて、周りが見えなかった。

 それでもいいと思っていた。

 大人たちは、何だかんだと言って説教してきたけど、それも面倒で真面目に聞いてこなかった。――だって、わたしは最強だからどうでもいい。

 

 ――結芽をしっかりと認めてくれる人は必ず現れる筈だ

 

 不意を衝いて、少年の……百鬼丸の言葉が甦る。トクン、と心臓が跳ね上がった気がした。いつ、言われたのかも覚えてはない。けれれども、何気ない言葉から人を想う気持ちが感じられた。

 (百鬼丸おにーさんって、どうしてわたしの事解るのかな?)

 気を抜いたら泣きそうになった結芽は、深呼吸を一つして、幼い少女の頭に手を乗せる。

 「だったら、たっっっくさん、剣の練習しないと! ま、わたしは最強だから関係ないけど!」不遜な口調で言ってから、思わず笑みがこぼれた。

 「すっごいね、結芽おねーちゃん!」

 その純真な顔は、かつて病を患う前の自身(結芽)の幼き面影と重なった。

 一瞬、大きく目を瞠った結芽だったが、大人びた微笑みを浮かべて頷く。

 「はやく皆の所に戻ろっか?」

 繋いだ手を再び強く握って、幼い少女を促す。

 「うん!」

 「怪我とかないよね?」

 「うん! 平気だよ結芽おねーちゃん!」

 おねーちゃん呼びが嬉しくて、結芽は緩みそうな頬を必死に堪えて手を繋いで線路を歩き出した。闇が深部まで続いているものの、怖くはなかった。

 この娘はわたしが守るから全然怖くない。

 そんな不思議な気持ちが結芽の胸に溢れて、これまで味わったことのない幸せな感情で一杯だった。

 




つばくろーの一つの成長の過程とか楽しそう? という浅はかな考えですが、こんな未来もあればいいなーという妄想。


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237話

 日本の上空がこれまでに見たことの無い風景に覆われている。

 異次元の『隠世』がタギツヒメの力によって、現世と交わり、混然一体の世界消滅を告げる。

 雲間から覗く黒と橙色の輪郭を有した得体の知れない物体が、天空から落ちてくるようだった。

 むかし、『杞憂』の語源の通り天空が地上に落ちてこないだろうか……? そんな不安を抱えた人間を笑い、杞憂という言葉を生み出した。――だが、結果的に言えば、杞憂を感じた人は正しかった。

 だが、一つ、語源となった昔ばなしと異なる点があるとすれば、落ちかけようとする天は、女神が引き起こした騒乱であることだった。

 

 

 Ⅰ

 灯りもない真っ暗で大きな空間で、

 「なぜ、なぜ私の愛を誰も受け止めてくれないのッ……!!」激しく怒鳴る。

 怒りに震える指先で髪を乱した。タギツヒメから放逐されたあと、高津雪那は自室へと戻っていた。

 雪那は行き場のない怒りに震えていた。

 あのタギツヒメすらも、己を利用していたに過ぎない。あの童女のような姿の奥に潜む人間への拭いきれない恨みを推察することが出来なかった。雪那は、その女神の孤独に寄り添えるのは自分だけだと信じていた。

 ――だが結果として利用されて棄てられた。

 「許せないっ、どうしてェ、どうしてなのッ!! こんなにも相手を想っているのに、私は間違えてなんていないわ! おかしいのは、全部他人、世界――全部よォ!!」

 雪那は、その端正な顔立ちを醜く歪め、鏡台に映る自らの姿を一瞥して、

 「なんでェ!!」

 と、ヒステリックに叫び声をあげた。

 バキリ、と鋭い亀裂の走った音と共に雪那は拳を鏡面に叩きつけていた。放射状に走った罅は、雪那の顔を映す部分まで細い線で亀裂を伸ばす。

「はぁ……はぁ……おかしいわ、何なの――」

 ジワッ、と彼女の手から血が溢れた。細かな硝子の粒が手の肉に喰い込んでいる。

 ……どこで間違えたのだろう? この虚しさはなんだろう? 

 激しく下唇を噛んで、罅の走った鏡を睨む。

 そこには、疲れ切った哀れな女性が、目だけは異様に鋭く睨む姿が映し出されていた。

 (あなた、随分と滑稽ね)

 雪那にしては珍しく、自嘲気味に口端を曲げた。

 他者に対しておもねり、高圧的な態度をとって威圧し、全て己の為に利己的に動いてきたツケがここに来て清算をするハメになったのか。

 ――折神紫を裏切ったからいけなかったのか?

 震える指先で、近くの精神安定剤へと手を伸ばそうとした――その時だった。

 

バァアアアアン、と耳を劈く激しい破壊音が聞こえた。

 「な、なに?」

 一瞬、身を硬直させたが、すぐさま音の〝正体〟に検討がついた。

 ――荒魂だ。

 四脚を巧妙に地と壁面に這わせ、頑強そうな顎を開いて口から火の粉を散らす。

 刀使を務めた経験のある雪那は、咄嗟に近くに御刀を捜して手を彷徨わせ――武器もなく、ただ一介の人間である事に思い至った。

 『ギャアオオオオオオオオオオオオオオオ!!!』

 こんなに近くに来るまで荒魂の気配を感じなかったことに、己の衰えとタギツヒメの策略である事を勘づいた雪那。

 彼女は足元に転がる壁面の拳ほどの破片を掴み、荒魂へ思い切り投げつける。

 しかし、当然であるが黒曜石のような色合いの体表には傷一つなかった。

 「い、いや……」

 ヒールを数歩、後ろへと退かせる。

 破壊された壁からは続々と不気味な影を引き連れた荒魂たちが押し寄せてきた。

 動物的な本能から――雪那は全身が硬直するのが解った。

 「くるな、くるなぁああああああ!! 荒魂如きが私に近づくなァ!! …………――いやぁ、こないで」

 足を縺れさせ、床面に倒れた雪那。

 「なんで、誰も助けに来ないの?」

 自然と視界が歪み、己の頬を伝う涙を感じた。

 「あんなにも尽くしたのに……あんなにも愛したのに、どうして? ――ひとりにしないで……」

 まるで、幼い子供のような声音で懺悔する。

 これまでの己の所業を悔い改めようにも、何もかも遅すぎたのかもしれない。

 『グゥルルルルルル』

 カエルのような姿をした荒魂が、太い舌を伸ばして雪那を絡めとる動作をした。

 「いやぁああああああああああああ」

 雪那は腹の底から搾り出した絶叫を喉から迸らせた――――

 

 Ⅱ

 ……あの〝お方〟はいつでも孤独でした。

 一見して傲慢に振る舞っている影では、いつでも誰かに愛されたくて、誰かを強く愛したくて仕方ない人なのだと気付いたのはいつ頃の事でしょうか?

 ――……ですが、私にはあの方に尽くす以外に関わる術などありませんでした。

 

 御刀に適合した生徒のみが『刀使』になれる。

鎌府女学院で刀使に選ばれた生徒たちが、集められ、仰々しく檀上から御刀を受け取ってゆく。そんな光景を、私はずっと、ただ、いつもと変わらぬ「無表情」で眺めていました。

私自身、分かり切っていました。剣術に特別秀でているワケでもなく、御刀と適合できるまでの素質すらないのだと……。自分自身で諦めていました。

だから、

 『力を欲するなら授けましょう――大丈夫。貴女には力を得るだけの資質があるのだから』

 ある時、高津学長に学長室へ来るように命じられたとき、「ああ、ついに私は退学を勧告されるのだな」と思っていました。もちろん、刀使以外の学科にも行くことはできます。それでも、私のような無能に――そう優しく語り掛けてくれた高津学長の言葉は、嘘であってもいい。

 ――……ただ、縋れるのならば、縋りたいと思ったのです。

 それだけが、私の頼れるたった一筋の「希望」だったから。これまで、誰の期待にも応えられず、人形のように生きてきた私に、嘘でも誤魔化しでもいい。そんな言葉をかけてくれた貴女のために、私はこの身を捧げようと決めました。

 

 今、私の目の前に居るのは、紛れもなく高津学長で……――私の変わり切った姿を、畏怖と憎悪、そんな負の眼差しで見上げていました。

 「で、出来損ないがッ!! ふん、モルモット風情が、私を嘲笑いにきたのか?」

 強い言葉で批難しながらも、怯えている様子は――いつも虚勢を張った孤独な高津学長の眼差しでした……。

 

 

 Ⅲ

 次々と襲い掛かる荒魂たちを夜見は淡々と斬り裂いてゆく。

 たとえ、腕を噛まれようとも、悲鳴すらあげずに、御刀を振るう。刀使が用いる身体防御の術《写シ》すらも使えず、ただ、己の身ひとつで刃を振るった。

 顔面の右半分が橙色の角が生えて、その角には巨大な目玉が蠢き、腕も黒曜石のような色合いに染まりつつある。

 荒魂に蝕まれている証拠だった。

 もはや、人間の姿と保っている事が不可解なほどに変貌しきっている。

 山犬のような荒魂が夜見の左腕にかみつく。

 鋭い牙が夜見の腕骨まで喰い込み亀裂を入れた。

 だが、痛みは殆ど感じない。――……けれども、腕肉からは生温かい血が滴る。

 それでも無心で夜見は刀の切っ先を突き刺して山犬を振り払う。

 (たとえ、何もなくても私は……)

 いくらこの身が傷つこうが構わない。

 襲い掛かる多勢の荒魂たちに倒されながらも、夜見は臆する事なく剣を、刃を、強い意志を貫く。

 ……――この想いが届かなくてもいい。それでも……

 夜見は願う。

 あなたに尽くした愚かな一人の人間がいたことを覚えていて欲しい。

 立ち塞がる荒魂たちは尚も減らず、既に限界を超えた夜見の体は油切れのロボットのようだった。

 ふと、闇に沈んだ室内で目と目が合う。

 自然と手を伸ばしていた。

 窓際の壁に寄って畏れ慄きながら、自分(夜見)を一瞥する「あの方」の姿を。

 

 

 Ⅲ

 ――――百鬼丸は、己の直感に従い《無銘刀》を握って立ち塞がる数多の荒魂を斬り伏せた。

 タギツヒメの居る高層ビルの屋上まではエレベーターの類は使えず、階段で闇雲に昇るしかない。途中、巨躯の荒魂たちが現れたものの、蹴とばすように真紅に染まる禍々しい刃のもとに消えた。

 タギツヒメの討伐こそが百鬼丸の悲願であり、最大の目標だった。

 ……――これまでの彼であれば。

 今の百鬼丸は違う。少なくとも、「もう一つだけ」目的があった。

 

 

 高層ビルの途中の階で百鬼丸は立ち止まった。

 (ここに居るのか……)

 灯りもない廊下とガラス張りの窓を眺めながら歩を進めてゆく。窓の外は黒雲がたちこめ、雷鳴が鳴り響く。廊下にも明滅した光が射し込み、明暗を克明に分けた。

 それにも構わず百鬼丸は、人の気配……――正確に言えば「高津雪那」の存在がある方角へと向かってゆく。

 壁に義手の左を這わせながら大股で目的地まで行くと、壁面が盛大に破壊されている事に気付いた。これは人間の手によるものではない。

 「――荒魂か」

 吐き捨てるように言ってから俊敏な動きで崩壊した壁面の穴へと飛び込む。

 

 そこでは、荒魂化しながらも必死に剣を振るう人影があった……。

 

 「――――皐月夜見」

 思わず、百鬼丸は相手の名を口にしていた。

 初めて出会った時から異様な雰囲気を湛えた、何を考えているかも分からない厄介な相手だった。

 その彼女が、床に蹲っている高津雪那のために戦っていた。

「…………なんだ、お前」どういうワケか、百鬼丸の胸が苦しくなった。

 心眼を――相手の心を読む事で直接、百鬼丸は理解した。彼女は今この場で誰よりも、純粋にあの――悪辣な女に対して、尽くしている。

(刀使って馬鹿ばっかりなのか?)

 内心で、ボヤかずにはいられない。

 どうして、自らを無視して多利的に行動するのだろうか。

「お前さんは大馬鹿だな……」

 本心から呟く。

 言葉にできない理由の分からない怒りが百鬼丸の胸奥に渦巻いた。

 ……――もっと自分勝手に生きてもいいはずだ。

 …――生き方が不器用過ぎるんだ。

 感情の氾濫を理性で抑え込み、無銘刀を握る手を更に強く、鼻から深く外気を吸い込む。

「おい、皐月夜見、死にたくなかったら屈め!!」

「あなたは……」 

 初めて人間らしい表情で夜見は驚きに目を瞠り、小さく頷いて屈む。

 彼女を一瞥すると、肩を回す百鬼丸。

 全く言語化することのできないもどかしさを刀身に込めて、百鬼丸は渾身の斬撃を打ち放つ。一気に目前に居た荒魂3体を斬り伏せると、返す刀で両脇に居た胴体たちを貫く。

 血飛沫のように噴き上がるノロの液体が室内の床や壁に飛び散る。

 それでも、百鬼丸の怒りは収まらず、「うぉおおおおおおおおおおおおおお!!」と鋭い歯を剥き出しにして咆哮する。

 あれよ、あれよという間に邪魔ものである荒魂たちが床へ次々と無機質な塊となって転がってゆく。――まるで、現代アートのオブジェのように、盛大な破壊音と共に砕け散る。

 爬虫類のように細い瞳孔を瞬き、残忍な笑みを浮かべた百鬼丸。

 白と黒の長い髪が綯交ぜになって、夜の闇に乱れ舞う。

 荒魂たちを斬るたびに無銘刀が妖気を増している。

 夜見の人間が残っている方の目で、荒々しく息をつく少年を見上げる。

 ――どうしてここに居るのですか?

 まるでそう言いたげな様子だった。

 バキリ、バキリ、と鈍い骨の軋む音を立てて首を斜めに傾げる少年。

 「よぉ、久々だな夜見さんよぉ。それと……」

 視線を変え、壁際で恐れ慄く女性を見据える。

 ――……百鬼丸は、ただ無表情になって壁際の人物の方角へと歩み寄る。

 

 

 Ⅳ

 こと、こと、こと。

 足音が近づいてくる。

 「ち、近寄るなぁ、化け物がぁああああああ」

 雪那は絶叫しながら壁の瓦礫である一つを手にとり少年に向かい思い切り投げた。

 ゴッ、と肉を打つ鈍い音が聞こえた。

 窓際から微かに射し込む光に照らされた人影は、間違いなく少年の姿だった。額から血を流した少年は――それでも歩みを止めず、雪那まで近寄る。

 「な、なんだ私を殺すのかっ? あはははは、やめろぉおおおおおお! お願い、こないで、やめて――殺さないでェ!!」

 けたたましいサイレンのような言葉が耳を刺す。

 顔が正確に認識できる位置で立ち止まった百鬼丸は、額から垂れた血筋を手で乱暴に拭い、膝を屈めて雪那と視線を真直ぐに合わせる。

 「な、なんだお前は……」

 先程から絶叫しているのだろう、声が枯れて、整った顔立ちが酷く疲れてみえた。神経質そうな目には怯えの色で染まっている。

 (初めてこの人とまともに顔、合わせたんだよな)

 百鬼丸はどんな気持ちで接すればいいのか分からなかった。

 ……――だけど、「もう一人のおれ」が言っている。

『すごく懐かしい匂いだ』と。

 だから、今、この女に言うべき言葉は怨嗟や暴言ではない。

 百鬼丸は静かに右手の刀を床に置き、右腕を雪那の頬に触れさせた。

 ――それから。

「ただいま。母さん。遅くなったけど許してくれ……――って、もう一人のおれが言ってる」

 表情をどう取り繕っていいか分からず、頭をせわしなく動かして言った。恥ずかしさが勝ったみたいだ。

 ――……だが、当の雪那は何を言っているのか分からないようで、「お前なんて知らない! 私がお前の母? なんの冗談だ!」

 と、わめき散らした。

 それから伸ばした右腕を素早く叩き落とした。

 (どうしたもんかな……記憶の封印を解くのは)

 轆轤家に代々伝わる秘伝の術。記憶を改ざんする禁術。

 右手を伸ばして、雪那の額に人差し指を当てる。

 静かに心穏やかに、記憶にかかった施錠を下ろすイメージ。

 カチッ、と金属の外れる音がした。

 ――……うまくいったみたいだ。

 内心で百鬼丸は満足しながら、雪那の目を恐る恐る見た。

 彼女は、瞳を動揺させて、目の前の少年を茫然と眺めていた。

 「お前は……――――ねぇ、貴方は、私の坊やなの?」

 頼りない声音で雪那が問いかける。

 百鬼丸は微笑して、「半分は正解で……半分は間違い」と付け加えた。

 「どういう事なの?」

 頭を抱えながら雪那は、知らず知らずの間に、涙を流していた。

 感情が追い付いていないようで、当時、消し去ったわが子の死の記憶と今、対面しているようだった。

 「ねぇ、待って、あなたは私の坊やなのよね?」

 今度は優しい母親の声で、百鬼丸の頬に触れる。

 「……――うん、だから半分は正解だよ。お母さん」

 もう一人の自分が、ずっと会いたかった人にようやく、その温もりに触れたんだ。百鬼丸はようやく納得した。

 「――でもね、母さん。母さんを助けにきたのはね、おれだけじゃないんだ。な、そうだろ? 夜見」

 後ろを振り向くと、二人を見詰める夜見がいた。

 「……私は」

 生命力の弱り切った声音で、夜見は反応した。

 (――まずいな。このままだと、アイツ死んじまうな)

 百鬼丸は考える。

 己のなすべき方法を。

 彼女を救うべきやり方を。

 そんなの一つだけだよな……――――。

 誰に言うでもなく、落ち着いた気分で自身の体を隈なく眺めた。

 「お前も、母さんに言いたい事があるんだよな?」

 陽気に笑いかけた。

 夜見も、百鬼丸に促されるように歩み寄った。

 少年の隣で、片膝をつき、恭しく一礼する。

「――ただいま戻りました。学長」

 虚ろな目で、生気すら失いそうな状態でも、意識だけはなんとか繋ぎ止めているようだった。

「夜見、貴様は……――そんな姿になって……私を嘲笑いに来た訳ではないのか?」

「はい、戻って参りました」

 雪那は、斜光に照らされた夜見の横顔を見上げた。

「――夜見、貴様は」雪那は言葉が続けられなかった。

 傷つき、異形の化け物に蝕まれながらも、彼女はここまで精一杯の力を振り絞って戻ってきたのだ。……あの時と変わらず、忠義を示すように。

 どれだけ我が身を犠牲にしても、必ず付き従ってくれた少女。

 なぜ、いままでこんなに近くにいて、気付かなかったのだろうか? どうして、いま、失おうとしている間際に、大事なものを見つけてしまうのだろうか。

 ……だが、それでも言うべきことがある。

 「お勤めご苦労様でした。夜見」

 しっかりと、少女の目を合わせて雪那は労をねぎらった。

 これまでも、鎌府女学院で任務を果たした後に交わした事務的な挨拶。……――そして今、何より、夜見の求めていた言葉。

 たった一言だけ、その一言を聞いた瞬間、夜見の濁った生気のない瞳に光が灯った。

 ただ、他愛もない一言だけで、高津雪那という人物にかけられたその一言で、夜見は満足したのだ。

 ……だから、頬を緩め、年相応の少女の表情で、初めて柔和に笑うことができた。

 この刹那、全てから解放されたように夜見は全身から力が抜けて床へと体が倒れ込む。その寸前で百鬼丸が抱きかかえ、「お疲れさん」と語り掛けた。

 「夜見?」

 雪那は、彼女の異変に理解が追い付かないようで、首を小さく横に振った。

 「――大丈夫だよ、お母さん。夜見は……夜見さんは、殆ど荒魂と同一化しようとしてるけど、まだ大丈夫だよ。完全に体は戻らないけど、息がある。だから……青ノロを使って延命はできるから」

 優しく、微笑みかける百鬼丸。

 既に、自らの切り落とす肉体の部位を決めていた。

 ……――まだ救える命があるのにも関わらず、見捨てることなんて出来ない。

 

 「な、なにを言っているの?」

 唐突な説明に、更に頭が混乱する雪那を後目に、百鬼丸は立ち上がる。

 床に置かれた水神切兼光を拾い上げ、一呼吸置く。

 「目、閉じててね?」

 片方の目の下に刃を突き立てる。

 「ねぇ、なにしてるの坊や? 青ノロ? 何なのそれ、どういう事なの?」

 必死になって足元に縋りつく雪那は、百鬼丸の行動を察知したのだろう。

 だが、もう遅い。

 勢いよく刃を突き刺し、目玉を引き抜く。

 ボタボタ、と滂沱の血液が雪那の衣服や頬を濡らす。

 「あ、ぁあああああああああああああああ!!」

 絶望に充ちた表情で、わが子の自傷行為を目撃した。

 脂汗を額に浮かべながら「二度めなのに慣れないな」と冗談っぽく笑う。

 「ねぇ、やめて、お願い!! なんで、どうして?」

 折角出会えたわが子の強烈な光景を目の当たりにして、雪那は悲鳴をあげた。

 「お母さん。ありがとう。どんな人なのか肉眼で見れてよかった」

 百鬼丸は、目の筋が繋がった部分を乱暴に引き抜き、プチッという音と共に屈み込む。

 夜見に巣食う荒魂に触れて、昂る神経を宥めて同調を強くする。

 「ごめんなさい、ごめんなさい、なんで貴方がこんな酷い目に遭わないと……許して、なんで……」

 耳元で百鬼丸を抱きしめながら赦しを乞う雪那。

 片目から血の涙を流し、百鬼丸はそれでも、夜見の体へ定着するように集中する。

 「――ねぇ、母さん」

 「どうしたの、坊や。ねぇ、もうそんな……」

 「死んだおれをずっと抱いて温めてくれてありがとうね。優しい匂いが大好きだったよ」

 百鬼丸はもう一人の自分の意志を口に乗せて伝える。

 研究室に送られる前、雪那は死んだ筈の赤子の亡骸を抱きかかえて寒くないように温め続けた。

 「……優しい母さんが大好きだったよ。誰かのために生きられる貴女が大好きだ」

 朧げな記憶と視界の中からでも思い出せる母の温もりと香り。

 それだけが、理由だった。

 母に会いに行くのに理由なんていらないけど、気恥ずかしさを隠すために「おれたち」は理由をつくって現れたんだ。

 

 「うぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 雪那は床面に倒れて泣き叫んだ。

 一気に甦った雪那の記憶は滂沱のように押し寄せる感情に圧倒されて、処理しきれなかった。

 己の負った罪の深さを思い知るように、彼女は身を震わせた。

 

 

 

その昔、仏説に語られた話。

 天竺(インド)に訶梨帝母(カリテイモ)と呼ばれる夜叉の娘がいた。彼女は嫁ぐと多くの子供を産み、育てた。しかし生来の性質が残忍であり――近隣の子供たちを食べ、民からは畏れられていた。

 お釈迦さまは、過ちを咎めるために訶梨帝母の子を隠し、戒めとしました。

 子を隠された訶梨帝母は深く嘆き悲しみに沈みました。

 お釈迦は、そんな彼女に、

 「お前が多くの子を喰ったうちの一人の子供を失った親の嘆きはどうだ?」と諭されました。

 この言葉を聞いて、訶梨帝母はこれまでの行いを悔い改め、帰依すると安産・子育ての神となって人々に尊敬されるようになった。

 ……これが鬼子母神の言い伝えである。

 

 

 Ⅴ

 すべての処置が終わった百鬼丸は、気軽に立ち上がると雪那の首元に巻いたスカーフを解いて自らの目元に押し当てて目隠しにした。

 「母さん。これ、借りていくね」

 涙に濡れた雪那は顔を再び上げて、闇に沈みゆく息子を眺める。

 「世界の崩壊、止めないと駄目なんだ。おれ」

 まるで遊びにいくみたいに簡単にいう少年。

 「――あなた目が見えないじゃない」

 「目? ああ、大丈夫だから。おれ、元々は心の目でモノを見てたから平気さ」

 へへへ、と子供っぽく口を曲げて笑みを零す。

 「どうして? なんで貴方なの? お願い、一緒にいて……もう、誰にも渡さないわ。ねぇ!」

 困ったように頭を掻いた百鬼丸は、肩を竦める。

 「大丈夫だよ。ね、それよりも夜見さんと安全な所に行っててくれ。絶対に戻ってくるよ」

 「駄目、だめ、ねぇ、ねぇって!! いやよ、もう二度とわが子を失うものですか! お願いだから……」

 追いすがろうとした雪那は、ふと、自らの脚が動かない事に気付いた。

 荒魂が突如発生した瞬間に、巨大な壁の瓦礫が足に直撃し、足が萎えていたのだ。一時的な脳内のアドレナリンで痛みこそ感じなかったものの、自力での移動は難しいようだ。

 「お願い、戻ってきて……」

 哀願するように、囁く雪那。

 眉をおどけて跳ねた少年は、

 「――じゃあね、ばいばい。嬉しかったよ。母さん」

 そう告げると、踵を返して百鬼丸は振り返ることなく歩き出した。

 目的は無論、屋上の女神。

 暗闇に姿を次第に溶かしてゆく少年の背中に、女性の悲嘆にくれた泣き声が鳴り響く。

 いつまでも、傍に居て欲しい。そう願う母親の痛々しい叫びが百鬼丸の耳にまで暫く届いていた。

 

 (――……ごめんな)

 内心で詫びて、足を速める。

 最早、百鬼丸は肉眼が無く、代わって《心眼》による外界認識へと戻った。

 最後に見た光景が母親の泣き顔なのは後味が悪いが、仕方がない。――気持ちを切り替えて、無銘刀の鞘を掴み、階段を駆け上がった。

 




誤字脱字は後で修正します。


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238話

赤く巨大な満月が中空に掛かっている……。

冬の時季だというのにも関わらず、まして高層ビルの屋上だと不思議と寒さは感じられない。

 

 紡錘形の頭部の先端から眩い一筋の光が天空へと接続されている……。

 体が薄く発光したタギツヒメは、「現世」と「隠世」の二つを融合させようとしていた――今の彼女は、見方によっては荘厳と形容できたであろう。

 だが、いま宿願が達成されようという段になっても、女神の顔に喜びはない。

 それに周囲を守った近衛隊の姿はなく、タギツヒメはひとり、『隠世』が浸食する天空を一瞥する。この段階において、もはや近衛隊の役割も終えている。彼女たちは屋上に侵入者を入れないための布石ともいえた。――……ただ、一人「百鬼丸」という少年の存在において有用な布石だ。

 ふと、女神は背後に忍び寄る二つの気配を察知した……。

「何用か――」タギツヒメは誰何した。

 その気配からも既に、二つの人影の正体を看過している。……だが敢えて名前を言わなかったのは茶番のためだった。彼女の望む世界崩壊の前の小さな余興。その程度の認識だった。

 

 背後に立つ人物は立ち止まって剣を正眼に構え、

「――返してもらうよ、小烏丸」芯の通った声で告げる。

 ……声の主、可奈美は緊張で高鳴る心臓の鼓動を敢えて無視する。――平常心。圧倒的な敵を前にしても、剣術の基礎である「冷静であること」を意識する。

 それでも。

 失った姫和の面影が唐突に脳裏に浮かび、チクリと胸が痛む。――だが形見となる御刀だけは取り返す。切なる願いを支えに、可奈美は冷水のように冴えた気持ちで、タギツヒメを見据える。

 最新式のS装備を身に纏った少女は、栗色の髪を吹き荒れる風に任せて大きく目を開いた。

 

 ――この世の終焉

 

 それを具現化するように、真紅の満月が昇った空と『隠世』の異空間が雲間から確認できた。

 「……なんて事だ」

 可奈美の隣に立つ女性――折神紫は、改めて世界が崩壊する光景を目の当たりにして眉を顰める。ある意味では、この原因の一端を担った己に対する叱責も混ざったような呟き。

 紫の携える二振りの御刀が、決着をつける為に臨戦態勢に構えをとる。

 新旧最強の刀使がいま、世界に破滅を齎そうとする女神と対峙している。

 激しいビル風は異常現象によって止み、遮る物が一切ない視界の中、二人と一柱の視線が交錯する。

 

 

 ◇

 その頃、自衛隊が揃えた03式中距離地対空誘導弾のミサイルが白い噴射煙を巻き上げながら『隠世』へと撃たれた。――……しかし、数発のミサイルも、水面に沈み込むように忽然と姿を消した。……まるで異世界に呑み込まれたように。

 異常な事態を前に、攻撃を行った自衛隊隊員たちは固唾を呑んで見上げる。

『人間がこの現象に立ち向かう方法はない』

 誰も言わないが、誰もが思ったこと。

 もはや、通常兵器による攻撃などでは対処の仕方がない。厳然たる事実が人々に突き付けられた。――絶望というよりも、観念したような気分が攻撃部隊の人々に伝播する。

 世界崩壊のタイムリミットはもうすぐだろう。

 まるで、砂の器に水を注ぐように無意味だと知っていても、自衛隊員たちに課せられた任務は「攻撃命令」を忠実に守ること。

 彼らは、次弾装填のため黙々と作業を始める。……どれだけ無意味だと思っても、最期まで足掻くことを辞めない。

 それだけが彼らに残された矜持だった。

 

 

 Ⅰ

 「はぁ……はぁ……ッ、最悪だなオイ」

 微かに口端を歪めて、自嘲気味に首を横に振る百鬼丸。

 血の染みついたスカーフ布の奥には、鈍痛と激痛が交互に波のように押し寄せる。

 長い廊下を歩き終え、屋上に通じる階段を見上げると、非常灯の明かりに照らし出された人影……冥加刀使と化した綾小路の少女たちが、百鬼丸の行方を塞ぐように立っていた。

 (厄介だな)

 思わず、内心で吐き捨てた。

 無銘刀の餌食にするのはタギツヒメ以外に居ない。

 彼女たちを、この刃の下に斬り伏せる選択肢など――ない。

 ……だが、百鬼丸は知らない。可奈美と紫が屋上まで駆けのぼった非常階段がある事に。肉眼さえあれば、順路が書かれた案内標識を発見できただろう。

 しかも非常階段側に配置された冥加刀使たちは可奈美たちによって斃されている。

 だが、今の百鬼丸には人やモノの大まかな位置までは把握できても、外界を正確に認識するだけの能力はなかった。

 ゆえに、タギツヒメの最短ルートである階段の踊り場へとたどり着いてしまった。

(参ったね)

 頭をポリポリと掻いて深く溜息をつく。

 顎を上げて少女たちの方角を向いた。

 だが幸いなことに、その順路標識の存在を知らなかったことが、彼にとってはある意味救いだった。

 

 ――人は、〝知らなければ〟不幸を感じることがないのだから。

 

 「さて、どうするかな?」

 困ったように苦笑いして、百鬼丸は考える。

 彼女たちが自分を普通に通してくれる筈がない。

 ……だが、大丈夫だ――。

 百鬼丸は内心で己を奮い立たせる。

 これまで背負ってきたものと、これから背負うもの。彼がこれまで辿ってきた困難な道に比べれば、これほどの事は問題ではない。

 胸を軽く右手で叩き、

(――いけるよな、おれたち)

 友に語りかけるように、この肉体を構成する者たちに語り掛ける。この体はもう、一人だけのモノじゃない。

 どれだけ歪な経緯を辿ろうとも、今、この瞬間、立っている「百鬼丸」という少年は間違いなく存在しており、これから起こる悲しみの連鎖を断ち切るのだ。

「止まれないからさ、悪いけどそこ通らせてもらうよ」

 両足を軽く屈めて加速装置を起動する。

 

 

「ここは……?」

 私が目覚めると、誰かの手が握られていました。

 霞む視界から手の方へ意識を向けると「あの方」――いいえ、高津学長が私の顔を窺っていました。とても憔悴しきった表情で。

「お、おきたのか――夜見」

 小さな光が灯されたように雪那の瞳に生気が戻る。

「どうして高津学長が私の手を?」

 それに、私はノロを体内へ多量に摂取しています。……死んでいるか、荒魂化してもおかしくない状況のはずですが……。

 

 

 まだ判然としない意識の中、夜見は痛む上半身を起こし、自分が大きなベッドに寝かされている事に気付いた。

 それから、頭部の違和感……額から生えた角に触れる。

 (やはり、荒魂化しているのですね)

 夜見は悟った。二度と元の体に戻れないことを。

 だが、それにしても違和感が残る。なぜ、まだこうして理性を保っていられるのか? しかも、荒魂に呑み込まれるような独特の感覚が無い。

 静かに混乱している夜見を眺めた雪那は、

 「あなたは暫く大丈夫よ…………あの子がどうにかしてくれたんですもの」

 あの子、と雪那の口走った言葉に違和感を覚えながらも、夜見は「はい」と黙って頷いた。

 それから、夜見は次第に思考力が回復するにつれて、先程まで百鬼丸が居たことに気が付いた。混濁した意識の中でも彼の声だけは明確に聞き取れた。

 「あの方……百鬼丸さんは」

 首を巡らし、少年の姿を捜してみた。だが、真っ暗な寝室には夜見と雪那の姿のみだった。

 

 その時だった。

 夜見の手を握る雪那の手が微かに震えた。

 「……私は愚かだったわ。どうして――どうして、私があの子の代わりに何もかも不運を受けてやれないのか――……悔しいの」

 誰に言うでもなく、雪那は涙痕の残る頬に、窓から射し込む月光に照らされた孤独な表情を浮かべた。

 「私がこれまでしてきた事の報いは全て受け入れるわ。……それでも、あの子だけは救ってあげてほしい。それだけなの……ずっと、私が捜していた私の掛け替えのない子が、どうして……もう自分の馬鹿さが嫌になるわ。……いつも、大切なものって失ってから気付く事があるって誰かに忠告されたのに――――どうしても気付けずにいた。それでも」

 言いながら顔を上げ、夜見を真正面から向き合う。

 「あなただけは、なんとか失う前に見つけることができたわ。あの子が残してくれた……大切なもの」

 絆。

 どれだけ歪な関係だったとしても、雪那と夜見は、その歪な関係の細い「絆」という細い糸よって繋がっていた。

 「だけど……ごめんなさい。今だけは、あの子がここに居てくれたら――そう思わずには居られないの」

 体全体が小刻みに震えて、嗚咽が口から洩れる。

 「……高津学長」

 彼女の話は、脈略がなく理解しがたい。それでも、恐らく百鬼丸が雪那にとって大切な存在だったのだろう――そう推論した夜見は、雪那の握った手をゆっくり解き、

 「……高津学長、私も一緒に貴女の罪を背負います。だから…………泣かないで下さい」

 荒魂化した右腕と怪我だらけの左腕を大きく開いて雪那を抱きしめる。

 夜見は初めて、忠義からではなく、これが本音だと自身でも解る確かな声音で囁いた。

 「――夜見」

 泣きはらして赤くなった目で、夜見の手を強く握る。

 何度も手放してきた人との絆と縁を…………雪那は、もう一度だけ握ることができた。

 

 



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239話

 二人の刀使を前に、タギツヒメの視線は一瞬だけ己の右腕に向けられた。

 細く長い傷口からノロが薄く垂れている。

(――厄介なモノを残してくれたな)

 タギツヒメは内心で舌打ちをして、すぐに目前の二人へと意識を戻す。

 この刀傷を残した相手――ステインは、この場に居ない。

 彼女たちの到着前に「決着」をつけた。厄介極まる相手と激闘の末の決着だった。ようやくの思いで排除したはずだった――だが彼の置き土産だけは別だ。

 タギツヒメにとって文字通り、呪いの産物だった。

 彼の個性……すなわち、《個性》は凝結である。

 通常は人間の血液を一時的に凝固させる恐ろしい能力であるが、ノロを体内で循環させていた女神タギツヒメにすら有効であった。

 しかし、人間とは異なり、膨大な量のノロを体内で溜め込んでいるために、動きを留めるまでには至らず、動きを微かに緩慢にさせる程度だった。

 ……だが、相手となる衛藤可奈美と折神紫が相手であればどうだろう?

(この代償は大きい)

 素直にタギツヒメは認める。

 かの男、ヒーロー殺しとして元の世界で名を馳せた思想犯、ステイン。

 己の計画を小さく狂わせる存在に、タギツヒメは苦々しさを覚えた。

 

 

 Ⅰ

 ……赤黒血染、それが男の棄てた本当の名前だった。

 現在の名を《ステイン(汚れ)》

 鍛え抜かれた筋肉に、熟練した狩人のような眼差しを宿した瞳は、真紅に輝く。

 彼の瞳と同じ色の満月が彼の背中に大きく掛かっていた。

 高層ビルの最上階はさながら、世界を終わらせる儀式の祭壇と化していた。

 ヘリポートの巨大な「H」の印を踏みながらステインは背中に納刀した二振りの刃を翼の如く素早く抜刀し、首を斜めに傾けバキ、と鈍い音を響かせる。

 「ほぉ、我に抗うか」

 圧倒的な神々しさで威圧するタギツヒメは、童女のような声色でクツクツと笑う。

 女神の声を無視してステインは己の両腕を浅く刃で傷つけた。……直後、血液に混ざって禍々しい色合いの蝶が無数に羽搏く。

 蝶たちが彼の体を二つの輪のように斜めに交差して、周回する。

 《吸血蝶》

 ――と、名付けられた荒魂とステインの個性によって生み出された化け物は、主人の忠実な下僕として規律よく運動する。

 ……――夜見の血液からノロを吸い、己の能力としたステインは、自在に蝶たちを操り、敵を遠隔から仕留める術を考案していた。

 すべては、百鬼丸を討ち果たすために。

 (百鬼丸、お前を殺すか、お前が俺を殺すか――ハハ、)

 ステインは、本来タギツヒメとではなく、百鬼丸という少年との闘いを熱望していた。

 だが、不本意ながらもこうして「神」と戦おうとしている。

 これはどういうワケだろう?

 自身でもよく理解できていないステインは、しかし、世界の終焉によって百鬼丸との対決が無に帰してしまう。それだけを畏れた。

 己の血液が刃に滑るのを発見して、軽く血切するように刀身を振った。

 血飛沫から蝶が新たに羽搏き、ステインの目前を舞う。

 「タギツヒメ、貴様は邪魔だ」

 

 

 

 ◇

 (なんじゃ、この不気味な男は)

 改めて、タギツヒメは嫌悪の眼差しでステインを見返す。

 悠然とした足取りで此方に近寄る姿は、所詮人間であるにも関わらず、まして刀使でもない男に恐れを感じていた。

 女神であるタギツヒメの方が圧倒的に力量が上だ。

 にも関わらず、それ以上の犯しがたい不気味な雰囲気を纏っていた。

 「キサマなぞ、異世界から連れてこなければよかった」

 思わず、本音を漏らしたタギツヒメは、冷徹な視線でステインを睨む。

 ステインは畏れるどころか、不敵にも頬まで口を裂いて笑う。

 「そうか……俺も一度はお前を呪った。俺を殺してくれる存在は、本物のヒーロー、オールマイトだけだからだ。……だが、この世界にもオールマイトに匹敵する男が居た。……百鬼丸だ。あの男は、誰に認められなくても、誰かのために戦う。その時、俺はこの世界に飛ばされた意味を理解した。――俺はコイツに殺されるために来たんだ、とな。だからお前ごとき女神に殺されるワケにはいかない」

 断固とした調子で宣言する。

 タギツヒメは、自身が脅威として除外されている物言いに苛立った。

「なぜ、どいつもこいつも、我を無視するのか――それが人間どもの選択か?」

 両手に持った御刀を頭上に掲げ、構えをとる。

 瞬時、ステインの体を周回した吸血蝶たちが一斉にタギツヒメへ殺到した。

 その化け物の群れの裏に隠れてステインは弾丸の如く飛び出す。

 

 ステインは、直感で理解していた。

 ――……この相手には勝てない、という事を。

 しかし、それ以上に気分が高揚していた。

 敵わない相手だとしても、それでも己の貫くための信念、すなわち「悪」を遂行すること。

 絶対の英雄を求めるとき、そこには必ず立ちはだかるべき相手である「悪」が存在する。

 あの、元の腐りきった世界では偽善者の英雄で溢れかえっていた。

 そんな唾棄すべき世界への戒めとして己が「悪」の仮面を被り、悪の行動様式を纏うことで「本当の英雄」に殺される怪物を演じたかった。

 

 

 

 ――……ステインさん、あなたは、純粋ですね。

 

 皐月夜見が、いつの頃だかステインに向かって囁いた。

 普段は感情を表に出さない彼女が、ステインの頬に触れ、そういった。

 ……それは、丁度、綾小路の医務室での出来事だっただろうか。

 その一言に褒めているわけでも、貶しているワケでもなく、素直な感想を述べただけの様だった。

 

 

 …………――私もあなたのように、己の信念を枉げずにいられるでしょうか?

 

 まだ十代の少女が口にするには強すぎる言葉を夜見は、淡々とした調子で続けた。

 

 

 

 この娘は、お世辞にも「強者」と呼べる力はない。

 だが、ステインは知っている。

 単に身体や才能にかまけている奴らよりも、一つだけ相手と彼岸の差を埋める方法を。

 『強すぎる意志の力』

 それこそが、ステインが格上のヒーロー相手に連勝してきた理由だった。

 強すぎるが故におごり高ぶった連中は、ステインの綿密な計画と戦術に翻弄され、息絶えた。

 そして、皐月夜見という少女もまた、戦いにおける重要な要素、戦意を高める「意志の力」が強い。

 

 (――この小娘は、俺か)

どこか、妙に納得する結論をステインは導き出した。

 

 ◇

 「―――――ッ、厄介な男だな!!!」

 目前のタギツヒメが初めて叫ぶ。

 

 ニィ、と口端が大きく歪む。

 「覚えておけ、タギツヒメ!!! 貴様が相手をしているのは、ヒーロー殺しのステインだ!!」

 

 交差する刃が俊敏にタギツヒメに襲い掛かる。

 斬り払う刃の隙間から巧妙に襲い掛かる牙のような斬撃に、タギツヒメはたじろぐ。

 こんな幼稚な戦術でおよそ挑むとは……いや、《龍眼》によって未来視をしても、最も勝率の低い方法で挑むとは思わなかったのだ。

 

 タギツヒメは、完全に己の力量を過信していた。

 ……だからこそ、

 「――――ッ!!」

 腕を微かに傷つけられた瞬間、この男、ステインの刃に自身のノロが付着しているのを発見し、タギツヒメの表情に動揺が走った。

 

 

 

 好機を見逃すはずもなく、ベロッ、と長い舌が刃に付着したノロに伸びて舐める。

 

 「どこまでも相手をしてやるぞ、俺を殺しきれると思うな! 俺を殺せるのはオールマイトと百鬼丸だけだッ!!!」

 蛇のような執念の目と、全てを燃やし尽くす様な意志の炎がステインの魂から燃え盛っていた。

 




……予定より、延びたけど多分年内に終わることができればいいな、と思います。
でも、とじみこ関連はまだまだ続いて欲しい。
公式さん、頼みますよ!




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240話

……――彼岸花が川辺の土手一面に咲いている。しかし、俺の目前になど曼殊沙華が咲いている筈などない。

(これは幻か?)

 朦朧とする意識の中、ステインは一人、怪訝に思う。

 (高層ビルの屋上で闘っていたはずだ)

 何かがおかしい……、ステインは強い違和感を覚えた。

 彼の考え通り、ビルの屋上に川辺は存在しない。かつ、曼殊沙華の花畑などあり得る筈もないのだ。

 

彼の二重写しになった視界の先には、女神が白く発光しながら佇む。

「貴様は、その生身でよくぞここまで戦った。だが、所詮は人。迅移も扱えぬのではお主に勝ち目なぞない」

謳う様に、童女の声音で冷酷に告げるタギツヒメ。

 

 

(迅移か……。)

 夜見に聞いたことがある。別次元の空間へと潜り、高速移動を行う技術。

 生身の人間だけであれば不可能な技術も今、ノロを取り込んだ肉体であれば可能性はある。

 

女神との斬り合いで既に、ステインの全身には無数の刀傷が出来ていた。溢れる血液が、次第にステインの衣服を濡らす。心臓が脈を打つたびに、血液が漏れ出る感覚がした。

息も上がっており、肺は更なる酸素を求めていた。――だが、男の三白眼だけは違う。

何一つ、諦めてなどいなかった。その証拠に不敵な目つきに妖しい光が宿る。

「ハァ、ハァ…………ッ、タギツヒメ。お前は俺を単なる人間だと思っているんだな?」

ステインはもう一度だけ搾りつくした肉体に活を入れ、舌を噛む。

 口腔内に血が溢れ、そこから荒魂たちが発生する。俺は口を開き、血の蝶を吐き出す。

 華麗な羽搏きと共に俺の体表に留まる。

 ――準備はできた。あとは、頃合いを見計らって奇襲をかける。

 

歯を剥き出しにして、赤く長い舌を出してせせら笑う。鼻先で交錯させた双刃を頭上へ掲げ、何かを待っている様だった。

ステインの体内感覚では「時間」という概念が溶け始めた。

己の手に握られた《無銘刀》たちに意識を込める。長い、長い時間をかけて鍛え抜かれた呪われし轆轤家の名も無き刀たち。

人体を素材とした刃たちへと同化するように、ひたすら心を静めて意識を研ぎ澄ます。

風も、水も、人間たちすら一瞬だけ――ほんの一瞬、静止した気がした。

 

――……その時だった。

 

 細胞の一つ一つから爆発的なエネルギーを感じた。

 

 

「迅移――、貴様を斬るにはその技術が必要なのだな?」

ステインの全身に血液で象られた蝶が妖しく群れで舞う。

 

 

《悪》を目指して生きた男は、このとき、あろうことか別次元の「隠世」へと潜る技術――迅移を会得した。

 

 

……いや、「会得した」という表現は正しくない。

 

「ウォオオオオオオオオオ!!!」

吼えた。

 

腹の底から叫び、ズタ袋のような足を前に踏み出して《迅移》を発動した。

 

 

 

タギツヒメの目は大きく見開かれた。

「貴様、なぜ愚かな真似を……いや、生身の人間風情が出来るとはおもわなかった」

初めて称賛らしい言葉を漏らした。

七色の煌めきに彩られた人体は、時間軸の概念を捻じ曲げ、タギツヒメの下へと迫る。

 

 

その一歩が10mの距離を縮める。

「その首を貰う! タギツヒメッ!!!!」

大きく振りかぶった刃が背後に懸かる赤月を背に、妖艶な光を反射した。

 

タギツヒメは、ただ、防御するでもなく、反撃するワケでもなく、無言でステインを眺めていた。

――ビュン、

風を切る虚無な音が響いた。

 

 

……――彼岸花が川辺の土手一面に咲いている。しかし、俺の目前になど曼殊沙華が咲いている筈などない。

(これは幻か?)

 朦朧とする意識の中、ステインは一人、怪訝に思う。

 彼の考え通り、ビルの屋上に川辺は存在しない。かつ、曼殊沙華の花畑などあり得る筈もないのだ。

「俺はどこに来たんだ?」

 先程まで世界を破滅させる女神と対決していたはず、だが、今はどうだ? 

 川辺に立って、夕陽が沈みゆく地平線を眺めているだけ。

 気が付くと、己の両手から刀が消えていた。

 周囲へ視線を巡らせると、全く見知らぬ風景が拡がっていた。

 元の世界に戻ってきた――という可能性は低い。いや、確かめようにも人が居ないのだ。

 「あの世、というワケか?」

 首を傾け、ステインは怪訝に眉をひそめる。

 昔の日本の田園風景が拡がる光景を見つつ、足元の曼殊沙華を一瞥した。

 

 

 Ⅱ

 カラン、と金属が地面に落ちる音がした。

 虚しく響く音に耳を傾けながら、タギツヒメは目を細める。

「貴様は所詮は人間。隠世へと生身でゆけば、その次元の中へと迷い込む。次元の入り口から空間へ移動することが出来ても、出口までは生身のままでは辿りつけぬ」

 無銘刀たちに言うように、タギツヒメは呟いた。

 余りに呆気ない戦いの決着に、内心でタギツヒメは安堵していた。

 これ以上、訳の分からない男に相手をする暇などないのだ。

 招かれざる客というのは、いつもタイミングの悪い時に来るのだ。

 

 

「今日は客が多くて困る」タギツヒメは、愚痴をこぼして肩越しに新たな人影たちを窺う。

 

――……そう、彼女たちのように。

 

タギツヒメの背後には、衛藤可奈美と折神紫が非常階段の出入口に立っていた。

苛立ちの籠った目つきで、

「貴様らも邪魔をしききた様だな?」低い声音で問いかける。

 

 

無言で可奈美が一歩、前に出る。

世界の破滅を願う女神、タギツヒメと真正面から向かい合った。

緊張した様子もなく、栗色の髪の少女は女神と対峙する。

「返してもらうよ、小烏丸」

 可奈美が正眼に構えながら言った。

 タギツヒメを真正面から正視すると、S装備のバイザー越しに気を引き締める。

 

 キィイイイン、と《千鳥》が不思議な共鳴を響かせる。

「どうしたの、千鳥!?」

 可奈美は、困惑しながら愛刀を一瞥した。

(もしかして……)

 可奈美は直感した。

――そう、以前のように『隠世』との距離が近くなった時の現象が、今この瞬間に発生したのだ。

 

――強い力で惹かれ合うような感覚。

御刀である《千鳥》がタギツヒメの方に、磁力が働くように引きつけられていた。 

 

隣で千鳥の反応を窺っていた折神紫は、御刀とタギツヒメを交互に見比べる。

(――そうか)

彼女はすぐに、ある一つの考えが浮かんだ。

「生きているぞ、衛藤可奈美。十条姫和は生きている。タギツヒメの中で、その共鳴――小烏丸の意志として!」

 紫の言葉を聞いた瞬間、可奈美の中で頭が真っ白になった。

 ……――生きている?

 あの時、鹿島神宮で助けてあげられなかった親友が生きてる。

 目を大きく瞠り、紫を見下ろす。

 落ち着いた雰囲気の紫は普段通り冷静で、こんな場面で嘘をいう性格でもない。

 嘘ではない。なにより理屈ではなく、いま握っている千鳥から伝う感覚が、紫の推論を肯定するようだった。

 「……生きてる? ――……そう、なんだ」

 目の前で友を喪った光景が今でも生々しく脳裏を過る。

 あの時、自分(可奈美)を庇い身を挺して守ってくれた姫和の表情。儚く微笑む横顔がどうしても焼き付いて離れない。

 二度と大切な人を失いたくない。

 「泣いてる場合じゃないよ――千鳥も、私も! せぇやああああ」

 裂帛の気合を込めて、刃を振り下ろす。

 

 



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241話

「お嬢ちゃん、少し休むといい」

大関はバリケードから身を乗り出して、ボウガンで荒魂たちを的に射撃を繰り返す。

「でもまだ荒魂が……」

 平城学館の制服を着た少女、岩倉早苗が肩越しに困惑を示す。

「大丈夫だ。ようやく増援もきた。それにこのボウガンのお蔭で大分楽になってる」

 そう言って、大関はコツン、と黒光りするボウガンを指で叩く。

 ――……かつて、舞草の里を襲撃した際に、「対刀使専用」の武器として導入された悪名高い代物。《写シ》という刀使のみが使う事のできる防御術を唯一、無効化できる特殊な鏃は、写シを解除すると同時に、鏃も生身の体に喰い込む仕組みであった。

 

 

 『こんな面白い玩具を作るとは、いやはや、タギツヒメくんは楽しいなぁ』

 高笑いと共に、このボウガンを対荒魂用の武器へと変更させたのが、百鬼丸の心臓に人格を宿した男、レイリー・ブラッド・ジョーの発言だった。

 彼の考案した通り、ボウガンを改造した結果、刀使でなくとも、荒魂の動きを一定時間、拘束することが可能となった。

 大関は、逃走中から舞草の関係者伝いに、改造ボウガンの作成方法を連絡していた。

 

 (あの野郎は気に食わないが、今だけは感謝してやるか)

 内心でボヤきながら、太鼓腹をゆすり、狙いを定めて荒魂に一撃を放つ。

「君は少し頑張り過ぎだ、さぁ、少し休むんだ」

 見事な射撃技術に感嘆しつつ、「はい」と早苗は頷いた。

 

防御戦線は、なんとか持ちこたえているものの、時間の経過と共に悪化するだろう。――しかし、大関たちに百鬼丸少年は約束したのだ。

 

『――皆を守りますから』

 たった十四歳の少年が、臆面もなく言い放つ姿を、大関は鮮明に覚えている。

 疲労の色を隠せない早苗は、《写シ》を解除し、深く息を吐いた。

 疲れた自分に活を入れようと、頬を叩く。

 そんな生真面目な様子を見て苦笑いを漏らした大関は、

 「……百鬼丸くんがいる。だから安心して少し休みなさい」

 と、言った。

 早苗は、ちょっとだけ驚いた顔になって、

 「凄く信頼しているんですね」

 「――ああ、そうだ。田村――オレの自慢の部下も百鬼丸を信頼〝していた〟んだ。あの子はそれだけの覚悟がある。情けない話だが、もう、普通の人間の大人じゃどうしようもないんだ。悪いね、君たちみたいな若者に世界の命運を託すなんて」

 「いいえ。……きっと、戦っている刀使も皆、大事な人の為に戦っているんです。だから頑張れるんです」

 (――そうだよね)

 内心で、姫和の面影を思い浮かべる。

 いつも孤高に、鍛錬を重ねた寡黙な少女。

 彼女も口にこそ出さないが――きっと、誰かのために戦うだろう。

 早苗の迷いの無い答えを聞いた大関は、苦笑いして少女の頭を撫でた。

「そう言ってくれると、嘘でも気分が楽になるよ」

 まだ若い学生の彼女たちを死なせてはいけない、大関はボウガンに矢を込めて、狙う。

 一歩もバリケードの向こうへと侵入させるワケにはいかないのだ。

 

 

 

 Ⅱ

 「――まさか、結芽が子供の相手をするとは思わなかったよ」

 驚きと共に、獅童真希は肩を竦める。

  押上駅の地下構内。

 押し寄せた荒魂の大群は、元折神家親衛隊の第四席、燕結芽が瞬く間に片付けた。

 ――そして、討伐から帰還する折に、結芽は一人の幼い少女と共に手を繋いで帰ってきた。

 どこか鼻高らかといった表情で、お姉さんぶる結芽が、真希と此花寿々花には奇妙に映った。

 真希の隣で、ワインレッドの髪を指先で弄ぶ寿々花が「くすっ」と思わず微笑を漏らした。

「いいじゃありません? あの子――……結芽も、成長している。喜ぶべきことではなくて?」

「そうだが……」

 

二人は遠目に、結芽と幼い少女のやり取りを観察していた。

 

まるで本当の姉妹のように仲良く、喋りながら時折、笑いあっている。

ふと真希が、

「結芽はあんな顔もできるんだな」

今更知った。剣を握る年少の刀使という側面ばかりを見てきた親衛隊の面々は、日常の中にいる燕結芽という少女の当たり前の生活に思いを馳せた。

 「ボクたちもいずれは刀使でなくなる。その前に……どう生きていけるのか。過ちを償うには長い人生になりそうだね」

 「……そうですわね。ですが、そこまで気負う必要もないのでは? わたくしたちは、ただ、粛々と行動をするだけですわ」

 そうだね、と小さく呟いた真希は、しばらく、ほんの少しの時間に生まれた「平和」な瞬間を噛みしめていた。

 結芽が、傲慢で独善的だった少女が、今は幼い少女のために膝を曲げて女の子と同じ目線で話をしている。

 (どうして、もっとこういう道を示してあげることが出来なかったんだろう)

 真希は、後悔した。

 その気持ちを汲み取ったのか、寿々花は苦笑いしながら、

 「――真希さんが気にすることではないですわ」

 何気ない口調でフォローした。

 

 

 (あの子を延命させて成長するだけの時間を与えた……あの人のように、わたくしたちは万能ではないのですから)

 百鬼丸の果たした延命措置によって生き永らえた結芽。

 それは、まさしく神の所業であった。

 所詮、人間である自分たちには、不可能な方法だった。

 「わたくしたちの出来る事は、人々を厄災から守ること。今はこれがわたくしたちの使命ですわ」

 



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242話

「……舞衣、ただいま」

 濃紺のポンチョ型レインコートを翻して糸見沙耶香は口元に笑みを浮かべる。

 沙耶香の足元には、冥加刀使と化した内里歩が気を失っている。気絶した彼女たちは、連絡をとった救護班が迎えにくるだろう。

 斬り合いで勝利した沙耶香は、慈愛に満ちた目で一瞥した後、沙耶香を待っていた柳瀬舞衣の方向へと歩み寄る。

 少し合わないだけで大人びた沙耶香に、舞衣はちょっとだけ寂しい気分になった。

 ……だが。

「うん、お帰りなさい。沙耶香ちゃん」

 それ以上に、こうして無事で再会できた事の方が嬉しかった。

 自分(舞衣)の作るクッキーを無心で食べる沙耶香が愛おしかった。まるで、ハムスターのように齧る姿に何度も、抱きしめてあげたくなった。

 

 ぐぎゅ~、と可愛らしい腹の音が鳴った。

 目をパチクリと瞬く沙耶香は、自らの腹へと視線を落とす。

 「……舞衣。クッキーある?」

 先程のような険しい剣士の表情から一転して、年相応の困り顔でクッキーをねだる沙耶香。

 「――ごめんね。今は持ってきてないの」

 両手を合わせて詫びる仕草をする舞衣。

 長期行動では非常食は持ち合わせるものの、今回は短期決戦のために持ち合わせがなかった。

 「……えっ」

 途端に沙耶香の目の奥に失望が滲む。

 「……クッキー、食べれないの?」

 長い前髪に隠れた紫紺の瞳をパチクリとさせて、問いかける。心なしか口を尖らせて批難しているようにも見えた。

 「えぇ~っと……」

 「……舞衣のクッキー食べたい」

 その一言を聞いた途端に舞衣は、

 (今すぐ帰ってお菓子作らなきゃ)

 と、血迷った思考に満たされた。

 しかし、ブンブンと乱暴に頭を振って邪念を追い払う。――今は世界滅亡の瀬戸際だ。いくら可愛いおねだりでも、心を動かされては駄目だ。

 舞衣は次回するように深呼吸して理性を回復させる。

 

 

 「おいおい、あんまり無茶いうなよ、食いしん坊」

 沙耶香の背後から、歩み寄る人影があった。

 「……薫、いじわる」

 振り返りながら沙耶香は頬を餅のようにぷくーっ、と膨らませる。

 「おいおい、沙耶香、お前最近なんか表情豊か過ぎるな」

 「……そう?」

 「自分じゃ分からないモンだからな、変化なんて。もしかして、アイツ(百鬼丸)と愛の逃避行でもしたから変わっちまったのか?」

 ニヤニヤしながら薫は冷やかした。

 「……愛? 逃避行? どういう事?」

 こくん、と小首を傾げて疑問を口にする。

 「いいか、沙耶香。人間ってのはな、異性によって影響されやすいんだ。悪い男に騙される女もいれば、悪い女に騙される男もいる。……お前もあのスケベ野郎に影響されてないといいな~」

  薫の煽りでピキッ、と石化した舞衣は、顔を真っ赤にして素早く沙耶香を抱きしめた。

 「絶対、ぜったいに駄目だからね? もし、変な人がいても安心してね?」

 舞衣が恐ろしく真剣な眼差しで沙耶香を抱きしめながら言い含める。

 豊満な胸に顔を半分埋めた沙耶香は、息苦しさに耐えながら「……わかった」と首肯する。

 沙耶香に異様な執着をみせる様子に、薫は思わず、

 (一番危ない人間が近くにいるぞ、沙耶香)

 と、教えたくなった。

 

 

 「もう皆集まりマシタ?」

 遅れてやって来たエレンが、大きく手を振って、沙耶香にウィンクする。

 「久々ですネ、サーヤ」

 舞衣の巨乳から半分顔を覗かせた沙耶香が、

 「……うん。久しぶり、この感じ」

 懐かしそうに目を細める。

 実数にして、たった数日離れていただけである。だが、その一日が何年も経過したような気分だった。

 「もう、大体の冥加刀使は倒しマシタ。マイマイ、サーヤ、薫。準備はできマシタカ?」

 「……うん」

 「大丈夫だよ」

 「当たり前じゃねーか」

 各々の反応を聞いて満足したエレンが豪華なプラチナブロンドをかき上げて、頭上を仰ぎ見る。

 

 高層ビルの屋上。

 恐らくタギツヒメの居るであろう場所。

 あそこに、先行した可奈美と紫がタギツヒメの野望を挫くために戦っているはずだ。

 

 「では、乗り込みマス!!」

 エレンが元気よく青色の瞳を輝かせて宣言した。

 昔みた、赤穂浪士の古い映画の一場面を何気なく思い出した。

 ふんす、とエレンの鼻息が荒くなった。

 

 「あ~面倒くせぇな。早く帰って眠りたいのにな」

 心底面倒そうに言い放つ薫だったが、その一言には「必ず世界を救う」という意志が伝わっていた。

 それを察知したエレンは嬉しくなって、

 「薫のそういうところ、大好きデスヨ?」

 長年の癖になった薫の頬にツンツン、と人差し指を当てる。

 「だぁ~、もうやめろ」

 照れ隠しするように、ソッポを向く薫。

 ビルへと向かう一行は、どんなに絶望的な状況にあっても諦めてはいなかった。

 

 ……しかし刻一刻と、世界破滅への時計が進み続けている。

 

 ――だが、どんな時でも微かな希望の光に縋るように、諦めないものたちが抗い続けていた。

 

 

 Ⅱ

  「はぁ…………はぁ、ッ、急がねーとな」

 綾小路の刀使たちを連弾式の加速装置で掻い潜り、追っ手になりそうな刀使たちには、予め用意した催涙弾を加速装置のバレルに装填して噴射煙と共に混ぜてかく乱した。

 もしも、冥加刀使と対峙した時の保険として大関に手渡された装備だった。

 「マジで焦った」

 大粒の汗を額から流しつつも、屋上に繋がる扉に手をかけて押し開いた。

 ゴォオオオオオオオ、と圧倒的な風圧と共に広い空間が百鬼丸の前に現れた。

 



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243話

「――――っせ……返せ!! 姫和ちゃんを返せ!!」

 可奈美は肉体の限界を超え、千鳥を振るった。

 世界の破壊を目論む女神、タギツヒメの圧倒的強さに怯むことなく、何度も《写シ》を剥がされても、そのたびに強靭な精神力で立ち向かう。

 迅移で間合いを詰め、あるいは離して360度の方向から斬撃を加える。

 通常の刀使であれば、真っ先に失神するような過酷な戦闘を、たった一人――単なる人間の少女が果敢に女神と渡り合う。

 タギツヒメは二振りの御刀で防御と攻撃を使い分け、可奈美を巧妙に惑わす。

 ――……その筈だった。

 「返せ、返せ、返せぇえええええ!!」

 鼻先を掠める刃を寸前で躱し、前へ、前へと可奈美は歩を踏み出した。いくら《写シ》を貼っているとはいえ、無謀にもみえる攻めの姿勢だった。

 (こやつ……) 

 ただ、タギツヒメだけは目を大きく瞠り息を呑む。

 今の可奈美の無謀にも見える攻めこそが、タギツヒメにとって脅威であった。事実、タギツヒメは無意識に足を後ろに下げ、守りへと転じていた。

 女神は、視界の端に映る人物、折神紫が膝を屈している姿を捉えた。先程、簡単にあしらった――最強の刀使である。

 その彼女でも太刀打ちできなかった女神に対し、何度身を斬られても攻撃を止めない。

 パッ、

 パッ、

 パッ、

 と、激しく火花が明滅しながら三振りの刃たちが無数に交わる。

 「やぁああああああああああ!!」

 疲れを感じることなく、親友を取り戻すために渾身の力を込めて叫ぶ。

 気持ちで負けたくない。

 可奈美の中で、これまでにない激情が起こっていた。

 「……ッ、面倒な」

 タギツヒメはいつの間にか追い詰められていた。

 人間を侮り、愚かな生き物の愚行を嘲笑っていたタギツヒメは、まさに愚かな「人間」に圧倒されていた。

 タギツヒメは迅移を発動し――――後方まで一時的に距離をつくったものの、すぐに可奈美が迅移を用いて間合いを詰め、前のめりに突出する。

 三つの繊細な刀身が織りなす軌跡が、複雑な文様のように残像を光らせつつ、タギツヒメの焦りを顕著なものにした。

 可奈美の繰り出す強烈な斬撃に、初めてタギツヒメが圧し負けた。

 「くっ!」

 タギツヒメが初めて苦し紛れの一撃に、可奈美の《千鳥》を弾く。空中へと可奈美の腕が伸びあがった。完全な隙が生まれ、女神は好機を逃すことなく、可奈美の左腕を斬り飛ばした。

 

「――――っ、」

 苦悶の表情に歪めながら、宙に跳んだ己の左腕を視界の端に捉える。

(……今しかない)

 可奈美は咄嗟に、このピンチを好機に転じる――その瞬間を見つけた。

 大きな動きで振り抜くモーションを取った女神は油断していた。胴体がガラ空きとなっている。

「帰ってきて、姫和ちゃん!! 私はここに居るからッ!!」

 頭上に高く掲げた刀身は背景の紅月と重なり、妖しい色を帯びる。

 一気に打ち下ろされた刃がタギツヒメの胴体を斬りつけた。

 

 

 Ⅱ

 

 ――……誰かが私を呼ぶ声がする。

 胎児のように体を丸めて、御刀《小烏丸》を抱きかかえた少女……十条姫和は、深い眠りから目覚めた。

 タギツヒメの体内に取り込まれた彼女は、同化していた女神イチキシマヒメから分離した独立存在として生きていた。

 あの日、可奈美と鹿島神宮での決闘を経て、タギツヒメに取り込まれた時から姫和は女神の体内で眠り、奈闇の中に囚われていた。

 (ああ、まったく……本当に、どこに居ても――)

 完全に目覚めた姫和は視線を上げる。暗黒が支配する空間に出来た一筋の傷にも見える光の裂け目を発見した。

 (お前が来るんだ――……)

 小烏丸を鞘から抜き放ち、濡羽色の流麗な長髪を散らせ、真紅の瞳をただ一点へと集中させた。

 霞の構えで姫和は、美しく切り揃えられた前髪の下から強い思念を放つ。

 

 遠くから聞こえる、自分(姫和)を呼ぶ声。

 「可奈美っーーーーーーーー!!」

 それに呼応するように、姫和は剣尖を細長い光の裂け目へと突き立てた。

 

 

 Ⅲ

  「はぁ…………はぁ、ッ、急がねーとな」

 綾小路の刀使たちを連弾式の加速装置で掻い潜り、追っ手になりそうな刀使たちには、予め用意した催涙弾を加速装置のバレルに装填して噴射煙と共に混ぜてかく乱した。

 もしも、冥加刀使と対峙した時の保険として大関に手渡された装備だった。

 「マジで焦った」

 大粒の汗を額から流しつつも、屋上に繋がる扉に手をかけて押し開いた。

 ゴォオオオオオオオ、と圧倒的な風圧と共に広い空間が百鬼丸の前に現れた。

 

 

 

 

 

 百鬼丸の「心眼」を通した視界には、膝を屈したタギツヒメが映る。

 女神は、己の胸に手を当て一切動く気配もない。何かに打ちひしがれるように、その場から動く事を拒んでいるようだった。

 長年捜していた宿敵の、意外な様子に一瞬たじろいだ百鬼丸だったが、すぐに頭を切り替える。

 「タギツヒメ…………――どうした? おれとは遊んでくれないのか?」

 挑発する口調で歩み寄りながら相手の出方を窺う。いつでも斬り合いの準備はできている。 

 右手に握りしめた《無銘刀》も、戦いを今か今かと待ちわびているようだった。

 

 

 

 俯き加減だったタギツヒメが、頭を上げて百鬼丸へと意識を向ける。

 「――なぜだ?」

 「は?」

 「なぜ、人間は結び付く?」

 弱々しい声音に混ざった質問に、百鬼丸は思わず毒気を抜かれた気がした。

 

 



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244話

 「――貴様は、まことに哀れな存在じゃな」

 タギツヒメが弱々しい口調で頭を上げ、横目で少年を睨む。

 紡錘形の頭上から延びた光線は、暗雲の向こうにある《隠世》と繋がっていた。

 「へへ、ああ、そうかい……――だがな、一つだけ聞きたい。なぜ、おれの肉体を奪わせた? ……なァ、おい、答えろ」

 目元を縛ったスカーフが緩んだようだ。

 赤黒く血で染まった目元の布の下には眼球は無く、真っ黒な空洞だけが空いていた。

 タギツヒメは一瞬だけ、少年の殺気に反応する。

 「ほぉ、貴様――また、凝りもせずに他人へ肉体を分け与えたのか? であれば、最初から無くても同じではないか?」

 スクッ、と立ち上がったタギツヒメが残忍な表情を浮かべて挑発する。

 百鬼丸は首を傾げ、口端を釣り犬歯を剥き出しにした。

 「おい、いいか。この肉体は〝おれたち〟が決めて分け与えたんだ。……自分自身で決めたから今のおれに後悔なんてない。だがな、他人が勝手に分捕っておいて、知りませんじゃあ、通用しねぇーんだよ!! おれの体はおれがどう使うか決める。勝手に奪ったんなら、それを全部奪い返す。ただ、それだけだ」

 剣を正眼に構え、タギツヒメを見据える。

 「答えろ、タギツヒメ。お前はどうして、おれの体を奪った? 何が目的だったんだ?」

 

 「……………貴様は、ノロをその身に宿しておるのであろう?」

 子守歌でも唄うように、女神は口を開く。

 「微かな残滓だが――ある。だからなんだ?」

 「ならば解るであろう? ノロの〝想い〟を」

 タギツヒメはどこか人間くさい口調で、百鬼丸に問いかける。

 (なんだ? 突然?)

 困惑しながらも、構えを解かず、寧ろ強烈に臨戦態勢へと移行する。

 「だったらなんだ? それが、どう関係するんだよ?」

 「元々、御刀と呼ばれる――金属も、ノロと人間が忌諱として扱う物も万物は同じ。人間の勝手で生み出した力は……――」

 「違う! おれが聞きたいのはなんでおれの体を奪ったか? それだけだ!!」

 「――もし、貴様の肉体で現世と隠世の均衡を保つことができる、そう言われたとすれば、貴様は肉体を差し出すか?」

 

 

 「――は?」

 

 

 唐突な言葉に、百鬼丸の頭は真っ白になった。

 ……こいつは一体何を言っているのだろう? 単なる誤魔化しではないだろうか? 真実を語る筈がない。

 百鬼丸には様々な感情が去来し、頭の中を巡る。

 

 

 「どういう意味なんだよ?」

 

 タギツヒメは目を細めて、少年を正視した。

 「じゃから言っておる。貴様には無数の因果が絡まり、それに付随して霊力が高い存在になっているのだ。……――貴様が我の本来目的である現世の崩壊に邪魔な存在じゃった」

 「だったら、殺せばいいだろ」

 「話はそう簡単ではない。貴様の肉体には、因果の絡まり合いによって膨大な霊力が宿っておった。それを我と人がいう荒魂が必要であった。それだけの事じゃ」

 

 

 

 「ふっ、ざけんじゃねーよ!! お前らの勝手で奪っておいて、大人しくしていろだと? 出来るワケねーだろ!! 返してもらえないとしても、テメェをブチ殺すまでおれは戦うからな?」

 肩を大きく上下させて荒い息を落ち着ける。

 (許さねぇ、お前だけは絶対に許さねぇからな!!)

 しっかりと柄を握り直して足を一歩前に踏み出す。

 

 百鬼丸のいきり立った様子が可笑しかったのか、タギツヒメは「ふっふふふふふっふ」と不敵に笑い始めた。

 

 

 「んだオメェ――?」

 こめかみに青筋を浮かべて恫喝する百鬼丸。

 

 

 「いや、先程……千鳥の娘も貴様と同じような姿勢で我に向かってきた。それと重なっただけじゃ」

 

 

 千鳥の娘――……?

 

 「可奈美のことか?」

 百鬼丸は呆気にとられ、茫然とした口調で呟く。

 

 「ほぉ、あの娘はそういう名前なのか。まぁ、よい。我の胸に傷をつけたあの輩たちも全て消し去る―ー」

 憎悪に満ちた声音で女神が宣言する。

 

 「させねーよ、ボケ」

 俯き加減に肩を震わせていた。

 

 「……?」

 タギツヒメは不審に思った、彼がここに来て怖気づいたのだろうか? 推測するにしても、人間の感情を計測することなど女神ですら出来ない。

 

 「なぁ、可奈美もお前と戦ったんだよな?」

 

 「だからなんじゃ?」

 

 白と黒が綯交ぜになった前髪を上げて、眉をハの字に曲げて困ったように微笑した。

 「あいつ、すっげ―強かっただろ?」

 心底明るく百鬼丸は問いかけた。

 「……ッ!?」

 この場で斬り合う相手と対峙する様子とは違う、どこか誇らしい清々しいような態度に、タギツヒメはたじろいだ。

 

 少しの間、無言になったタギツヒメの態度から、百鬼丸は大方を察する。「――……やっぱりそうか。強いもんな、アイツ。特に誰かを想うと滅茶苦茶強いんだぜ? なんせ、おれの剣の師匠だからな」

 

 バキリ、バキリ、と首を左右に傾け軋んだ音をたてる。

 

 

 「――さぁ、始めようか。第二ラウンドの開始だッ!!」

 

 そう言うが早いか、百鬼丸は地面を蹴って素早く間合いを詰めた。

  



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245話

しょう‐めい【証明】

1 ある物事や判断の真偽を、証拠を挙げて明らかにすること。「身の潔白を―する」

  大辞林


 ――……血の味が濃密で、思わず反吐が出そうだ。

 おれは、目隠しの為に巻いたスカーフ越しに感じる女神――タギツヒメの気配を「心の眼」で捉えている。サーモグラフィ画像のように、ボンヤりとした状態で相手の位置や周辺の状態を確認することができる。

 《心眼》

 初代の百鬼丸も、伝承によればこの能力に秀でていたらしい。

 今のおれは、御刀を持たないために《迅移》が使えず、タギツヒメの移動速度に対応する方法が限られていた。

 (さて、どうしたモンかね)

 内心こまったおれは、正眼に無銘刀を構えたまま下手に動けずにいた。

 タギツヒメの不意打ちを警戒していたが、どうやら女神様はおれが仕掛けるのが当然と思い込み、全く動く気配がない。

 「随分とナメられたな」

 口端を皮肉に歪めておれは自嘲してみせる。

 ――すると相手は、

 「――案ずるな、貴様程度の出来損ないがここまで来られたのが奇跡なのだ。冥府へと帰れ」童女の声音で辛辣に言い返す。

 

 どの方向から斬り掛かっても容易にいなされるのが想像できた。

 ……どうする? 一旦逃げ帰る? まさか、馬鹿な。

 おれは暫くの間、攻めあぐねていた。

 長い間捜し求めていた仇敵だ。もう二度とこんな好機は巡ってこないだろう。

 

 ――――跳びたい

 

 体の奥底から湧く欲望。

 いま、皮膚の一枚下は細胞が弾けそうな程に興奮しているんだ。血流が過剰に巡る気がした。細胞壁どうしが衝突して破裂しそうだ。

 

 おれの迷いを見透かしたかのようにタギツヒメの高笑いが耳に届く。

 「先程まで威勢のよかった態度が嘘のように大人しいが――遠慮などせずともよいぞ?」

 明らかな挑発だった。

 (……だが)

 「――乗ってやるよ、クソッたれ!!」

 おれは考えるよりも先に、太腿に仕込まれたリボルバー方式の加速装置のギアを入れた。

 ガチャン、という重苦しい回転音と共に体が浮遊感に包まれる。

 足裏から噴射された最大のエネルギーを放つ加速装置が、迅移とは異なる物理加速でタギツヒメに迫る。

 

 

 

 Ⅱ

 「うわぁあああ!!」

 可奈美が叫ぶ。崩落する足元から落下した。

 タギツヒメの攻撃を避けるために、折神紫が強烈な斬撃を放ち、地面を破壊した。

 コンクリートの粉塵で視界が悪く何も見えない。――このままだと死ぬ、可奈美はそう思い、姫和とつないだ手を更に強く握った。

 ……――しかし、地面に叩きつけられることはなかった。

 激しい落下を柔らかく包む、不思議な感触の獣毛が体を押し包む。

 「この感触って……」

 『ねね~!』

 獣毛から太い鳴き声が聞こえた。

 「ねねちゃん!?」

 益子薫のペットである荒魂――ねねが、普段の小動物的な姿から本来の姿である四脚の獣として立ち、可奈美たちを受け止めたのだ。

 「……ありがとう」

 そう言って可奈美は獣毛を優しく撫でると、地面に降り立った。

 

 『よかった、間に合った……』

 安堵する人の気配がした。

 可奈美は懐かしい友の声の方に向き、思わず微笑した。

 「舞衣ちゃん」

 「うん」

 ビルへの突入前以来の再会だが、随分と久々に出会ったような気がした。

 「無事だったんデスネ、ヒヨヨン」

 舞衣の隣に立つエレンが、タギツヒメから奪還した姫和を一瞥し、喜びに弾んだ調子で肩を竦める。

 舞衣たちの後ろに控えた一際小柄なツインテールが、腰に手を当てる仕草をした。

 「……ったく、やれやれ。どのツラさげて帰ってくるんだか。胸が薄い分、面の皮が厚いな」と憎まれ口を叩きながら、薫の表情は普段よりも明るかった。

 それを横目で見ていた糸見沙耶香は、

 「……でも、薫が一番心配していた」

 「んなっ!! おい、沙耶香っ!!」

 羞恥で顔を赤く染めた薫がつま先立ちで素早く背伸びをして、拳骨をつくり沙耶香の頭をグリグリと攻撃する。 

 「いたい、いたい……」

 突然の反撃に沙耶香も驚きと同時に、可愛らしい悲鳴をあげた。

 

 

 姫和は、賑やかな周りの仲間たちを緩やかに見回す。

 (随分と懐かしいな……――)

 昔とは違う。

 復讐だけを目標に孤独に生きていた頃には想像も出来なかった賑やかな光景が、彼女の前にはあった。

 だから、姫和は真紅の目を大きく瞠り、ゆっくりと現実の光景であることを認識する。

 沙耶香の首をホールドする薫に、優しく微笑む舞衣とエレン。それから隣に立つ可奈美を順に見詰め、この仲間たちとの再会に胸が熱くなる。

 「……その、なんというか――心配をかけた。……ありがとう」

 感謝を口にしてから自然と笑みが浮かんだ。

 長らく、本当に長らく忘れていた感覚だった。

 母が亡くなってからは表に出したことのない表情。

 この気持ちを言葉にすれば、きっと、一言で済むものだろう。しかし、姫和は今、これまでの思いを込めて一言に詰め込んだ。

 ……――ありがとう

 それ以外に、彼女は言いようが無かった。

 

 

 

 「どうした、早く我を斃さねば世界崩壊まで時間がないぞ?」

 悠然と佇むタギツヒメ。

 彼女の目線の先には、膝をついた少年、百鬼丸がいた。

 「……ッ、ゲホッ、ゲホッ」

 大きく咽せ、切れた口内から血痰を吐き出す。

 (やっぱり、想像以上につぇえな、コイツ)

 因縁の仇敵の強さに今更ながら思い知り、簡単に撃退された事に百鬼丸は口惜しさが募った。

 口端に垂れた血筋を手の甲で乱暴に拭うと、疲労の蓄積した体に鞭を打ち立ち上がる。

 手の甲には刷毛で掃いたように朱が伸びる。

 呼気を整え――もう一度向かい合う。

 

 (おれは最初から何も〝持って〟なかったんだ。今更何を絶望すりゃあいいんだ?)

 弱気になっていた自分を叱咤するように皮肉っぽく口を曲げ、闘志を溜める。

 

 今、この体にも心にも数多くの無念に散った「人々」の記憶がある。

 足りない所を補い合い、いつもギリギリの危ない橋を渡ってきた。

 決して、恵まれた環境で生きてきたワケではない。

 生まれてからこの年になるまで、常に周りには敵ばかりだった。

 

 (なぁ、そうだよな、おれ達……――そんでも、ここまで来られたのは、やっぱりスゲーことなんだよな)

 剣を正眼に構えながら女神を正視する。

 ……――多分、おれ一人だったら臆病風に吹かれて逃げていたかも知れない。

 

 でも、今は違う。

 

 「おれは、おれ自身が何者なのか……もうわかんねーけどな、いいかタギツヒメ。お前がこのクソタレな世界を滅ぼすなんて最高にイカした事をするのに反対はしねーよ。楽しそうだよなァ」

 

 「ほぅ」

 タギツヒメは意外そうな表情になって、百鬼丸を見返す。

 「……ならば貴様は黙って、我の宿願が成就する所を見ておればよいのでは?」

 「いいや、違う。ぜーんぜん違うね。いいか、おれだってこのクソタレで理不尽で、どうしようもない便器みてーな世界滅んでも構わないけどなァ、でも……」

 と、言葉を区切る。

 本当にどうしようも無い世界にも、そこにも救いがあると百鬼丸は知ってしまった。

 首筋に当たる黒いリボンの感触がそれを教えてくれた。

 〝刀使〟

 百鬼丸の暗い人生の前に、ひと時の安らぎを与えた彼女たちの存在だけは、救いだった。

 

 『……ねぇ、約束して。貴方がどんな体になっても私は怖くないよ。だから、自分が分からなくなっても、どうしようもなく悲しくなっても、忘れないで。一人じゃないから――』

 黒い獣の姿になった時、衛藤可奈美が耳元で囁いた。

 

 ……――一人じゃない

 

 そう言ってくれた時、百鬼丸の心は救われた。

 どうしようも無く孤独に苛まれ、絶望に打ちひしがれた時に温かな抱擁と少女の体温が感じられた。

 そして、自らの髪を束ねた黒いリボンを右手首に結んでくれた。

 

 

 

 「柄にもねーけどな、戦う理由だけはある! お前を復讐心以外で潰したい理由がある! それだけだ!」

 

 連続の激戦による疲労で心身共に倒れそうな状況にあっても、百鬼丸の記憶から湧き上がる温かな思い出が、精神に種火をつくり、それが循環して心を体を奮い立たせる。

 

 胸を張り、

 「まだ負けねーよ、おれを完全にブチ殺すまで終わらねーぞ!」

 吼える。

 己が何者であるかを証明すべく――全力で吼えた。

 

 

 

 



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246話

……目が全く見えない、というのは正確ではない。

百鬼丸の片目は肉眼であり、先程の夜見に与えた際に自ら抉り出した。――では、もう片方の目は? ……義眼である眼球は、肉眼を摘出する際に、一時的な接続不良を起こしたに過ぎない。

つまり、義眼の回復を待てば視界は確保できる。

だが、少年には時間が無い。

与えられた時間というのは、刻一刻と消費されているのだ。

 

血反吐が乾いて模様のような黒のタンクトップで頬の傷を乱暴に拭う。

「ふーっ」

改めて、現状の危うさを認識する百鬼丸。

足の加速装置にも使用限界がある。――あと四回が上限だ。

瞑った目から溢れた血は既に止まっており、心臓の過剰な収縮も落ち着いた。

 

相手は女神タギツヒメ。

 

それも、他の女神を取り込んだ状態で手を付けられる存在ではない。

 

 

――行くぞ

 

誰かがおれに囁いた気がした。

……いや、本当は誰が言ったかなんて百鬼丸には分かってる。

(おれの中の「おれ達」だ。)

正眼に構えたまま、靴底を浅く削って飛び出す。

いつもの先制攻撃。いつもの無鉄砲なやり方。

 

タギツヒメとの距離は約8m。

全身の感覚を研ぎ澄ませ、《無銘刀》に潜む魑魅魍魎どもを開放する準備をした。

数百年前から各地で斬り伏せられ幾千万の化け物の命と呪いを宿した凶悪な刀。ある意味では御刀よりも、由緒ある刀である。

「おらぁあああああああ!!」

百鬼丸は力いっぱいに横に薙ぐ。

タギツヒメは、ただ左に握った刀で攻撃を受け止める。

「――ッ!!?」

タギツヒメの表情に、驚愕の色がひろがる。

 橙色の瞳を動かし、少年を一瞥する。

 予測は簡単だった。彼がいま、どのような攻撃を繰り出しても攻撃が当たることはないだろう。全て予測が可能で、奇襲すらも見透かす。

 まさに「神の掌の中」であった。

 ――ただ一撃。タギツヒメは、その攻撃の威力にまでは着目していなかった。

 強烈すぎる真直ぐな太刀筋が容赦なくタギツヒメに襲い掛かる。

 余りの威力に、タギツヒメは足元が滑ったように後退した。

 (なんじゃ、この威力は?)

 もし、真正面から何度も打ち合っていれば隙が生まれる。そんな危うい強烈な一撃だった。

 剣戟の金属音が凄まじく、火花が鮮やかに弾けて二人の顔を照らす。

 

 

 ◇

 ……おれは、ただひたすら刀を握って《心眼》から見える景色で闘う。それだけだ。

 大量の空気を肺に溜め込み、息を詰める。

 血管を巡るヘモグロビンが過剰に運搬される錯覚すらした。

 剣同士の一秒未満の斬り合い。

 少しでも対応を間違えれば首が飛ぶ。

 ――本当に久々の感覚だった。長らく、おれはこの戦いの手触りを忘れていた気がする。

 もし、一撃でも間違えれば命が刈られる。

 頬の薄皮を何度も鋭い刃先が掠めた。おれは致命傷でない限り、怪我は無視して剣を振るう。

 おれの攻撃はすべて予測されたかのように防がれる。しかし、おれの渾身の連撃には堪りかねた様子で、何度も自らの体勢を立て直すために、横のステップが増えた。

 だが、おれも致命的な一撃を与えることは不可能だと、本能で理解していた。長期戦になればコッチが不利。

 (だったら……)

 おれは無理やり足の加速装置を逆噴射になるよう、足の場所を変えて一気に噴射煙を足裏から吐き出す。

 後退して体勢を立て直す――。しかし、タギツヒメはそれを許さないように《迅移》を用いておれを追撃する。

 ――この瞬間だ。

 おれは、自然と口端を曲げた。

 微かに宙に浮いた躰を前傾姿勢に曲げて、抜刀術のように納刀状態への動作を行い、タギツヒメが刃を振るうタイミングを見計らう。

 後ろ方向へ移動しながら反撃の一撃を加えるために、おれは予備動作で挑発した。

 無論――、タギツヒメはおれの意図など気付くだろう。……しかし、隠世に潜ったタイミングで未来予知などしても、結果は変わらない。あくまで、予知は予知。

 

 「――ッ、一々癪に障る!」

 タギツヒメは焦れた口調で毒づきながら百鬼丸の背後に回り込む。

 

 だが、彼の居合の間合いは「刀圏」――、すなわち全方位で反射的に斬撃を放つ領域だ。

 タギツヒメが突出の構えを取ると同時に百鬼丸もほくそ笑んだ。

 体を半回転させて、逆噴射の勢いを得たまま居合の斬撃を打ち込む。

 ガキッ、と盛大な刃同士の衝突音がした。

 耳を劈くような金属の擦れた不快な音。

 タギツヒメは腰だめに御刀をクロスさせて受け身の姿勢になる。

 稲妻が迸ったように光芒が煌めく。

 火花がバチ、バチ、バチ、と帯電した無銘刀の等身から幾つも弾け、一撃の重さに別の威力を加えた。

 

 

 身を捻りながら、辛くも地面に着地した百鬼丸は俊敏に立ち上がり、霞の構えをとる。

 今の一撃に持てる精神力を込めたが、恐らく無駄だろう。

 ――案の定、タギツヒメは無表情に百鬼丸を見据えている。

 「たかだか、出来損ない風情に押されるとはな」

 悔しがる様子もなく、ただ事実を確認するような淡々とした口ぶり。

 「さて、貴様の児戯など見飽きたわ。……もうよい、去ね」

 刃を頭上に高く掲げ、腕を下ろして水平に構える。

 剣尖は百鬼丸に向けて準備を終える。

 

 

 一瞬、ほんの一瞬だった。

 虹色の輝きがおれの《心眼》を覆い隠した。何も見えない。

 「まずッ!!」

 体だけが頭とは別に行動していた。

 反射的にタギツヒメの連続攻撃が30連続突撃――。

 おれは、ようやく回復した義眼を血で染まったスカーフ越しから見た。

 流星群のような輝きがおれに襲い掛かる。

 「うぉぉおお」

不意に背筋に悪寒が駆け抜けた。

――死ぬ

本能以上に厳然たる事実がおれの心を捉える。

高速で迫りくる剣先をおれは辛うじて防ぎ、弾き、致命傷にならない攻撃は無視した。たった一振りでは物理的にカバーできない。

太腿の加速装置にも深く傷が入る音が聞こえた。

左右の肩にも剣先が喰い込む。それでも止まることなく、タギツヒメの剣が鮮やかな輝きを増す。

おれは初めて戦いで「恐怖」という感情を味わった。

これまでの敵と違い、勝てる算段がつかない。

ダラダラと衣服に生温かい液体が洩れるのを感じる。これはおれの血液だ。

 

なんとか全ての攻撃を防ぎきったおれは、満身創痍だった。

これまで、なけなしの闘志を燃やして戦ってきた。だが、それすらも無意味だった事を悟る。

――勝てない

単純な一言が脳裏に浮かぶ。

 

どう足掻いても勝てない。

「くそっ、くそっ、くそぉおおおおおおおおお!!」

おれは遮二無二、斬り掛かる。

タギツヒメは、肩を竦めて「愚か者め」と吐き捨てた。

もう一撃も剣を合わせないという意思表示をするように、半身を引いておれの突出を受け流す。

その勢いのままおれは地面に転がった。

崩落したコンクリートの地面の瓦礫に全身をブチ当てる。

 

 

「我を殺すためにここまで来たのであろう? ならばもう少しでも頑張ってみよ。その程度か?」憐れむような言葉でおれを見下した。

 

 



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247話

ぴちょん、ぴちょん、

……水滴の落ちる音が聞こえた。

すぐに水面に波紋の拡がるイメージが頭に浮かぶ。

 

少年は義眼の片目を開く。視界はボヤけているが、物理的な外界の認識を行う事が可能となった。

だが、

(――妙だ)

と、百鬼丸は思った。

音も、感触も、匂いも、血の味も、視界も全てが消えてゆく気がした。

頭の中が冷たく冴える――。

(また、この感覚だ)

危機に瀕した際に必ず、冷静になる感覚。

……知っている、いや、知り過ぎている程に知っていた。

 

……だが、なぜ今?

少年は訝る。

すでに勝ち筋は潰されており、最早、死ぬこと以外に選択肢の無き状態で「覚醒」したのか?

 

 

『オマエガ、弱イ、カラダ……』

たどたどしい口調で、囁く低い声。

 

――――黒い獣の姿が、少年の背後に忍び寄り憎悪の強い声音で言う。

『オマエハ、ナニモ、守レナイ。弱イカラダ』

(――おれは、弱い)

タギツヒメの近寄る足音を聞きながら、茫然と狂暴な本能の言葉に耳を傾ける。

『オマエハ、コレマデ、ナニモ、守ラナカッタ、ヨワイ、ヨワイ、存在ダ』

涎を含んだ囁きに、狂暴な本性の暴発を感じ取った――。

(こいつに身を任せるか?)

そうすれば、或いは勝つ未来が見えるのかも知れない。

右手に握った《無銘刀》の等身から放たれる真紅の光が、尚も強まる。

――……動くならば今だ。

百鬼丸は、無意識に口端を曲げ鋭く尖った歯を剥き出しにする。

 上唇に伝う血液が口腔に流れこむ。 

 金臭い味が、一気に舌先を伝い味覚を刺激した。

 ククク、と喉を震わす笑い声が少年の口から洩れる。久々の血の味だ。

 ――……己の獣性に身を任せよう

 半眼になった百鬼丸の義眼は、暗く濁る。

 もう、勝つ以外に己の存在意義はないのだ――。恰好をつけていれば世界は破滅する。

 

 

 ぴちょん、ぴちょん、

……水滴の落ちる音が聞こえた。

すぐに水面に波紋の拡がるイメージが頭に浮かぶ。

 

 

 『お前、成長したな。背丈も伸びて…………、お前の姿を見れてよかったよ!』

 

 幻夢刀の――たとえ、空想の世界だとしても、義父の善海が最後にかけた言葉。

 不意に、百鬼丸は大切な一言を思い返す。

 急速に理性が獣性を抑え、昂る気分が落ち着く。

 (おれの姿は……たとえ醜くても、とおさんは許してくれるだろうけど、違うよな)

 ガリッ、と刀を杖代わりに地面に突き刺して立ち上がる。

 白と黒の綯交ぜになった前髪をかき上げ、痛む全身を何度も叱咤する。肋骨は大分ヘシ折れているだろう。臓物も無事かどうか分からない。

 脳みそからアドレナリンが溢れて痛みが沈静しているだけかも知れない。

 理由なぞ、どうでもいい。

 

 

――……百鬼丸さん、剣を持つ時はね? 無心になるつもりで握ること。そうすれば、どんな時でも対応ができるんだ。ね、やってみて?

 

 

 無心。

 (……――そうだな)

 息を抜いて肩を落としてゆく。

 体から湯気が出る。鼻を抜ける金臭い血の匂いと、崩落したコンクリートの塵が鼻を刺激した。

 たとえ、どんな未来予知の能力があろうとも、百鬼丸自身が次の行動を知らなければ、気楽でいい。

……――どうせ、クソッたれな運命は〝神のみぞ知る〟だろ?

百鬼丸は意地悪くほくそ笑み、タギツヒメを見据える。

 

 

 

 この男の気配が変わった――?

 タギツヒメは、軽い興味を惹かれた。

 先程までは手負いの獣という程度の認識だったのが、いつの間にか、たった数十秒の間に変わった。

 (出来損ない風情が小癪な)

 更に冷徹な目で百鬼丸を睨む。

 タギツヒメは、未来予知の能力を発動させたまま、百鬼丸の攻撃を予期する。

 ……しかし、たった3パターンしか浮かばず、それ以上に意味はなかった。

 どの攻撃も同確率で、一つに絞ることができない。

 「ふむ?」

 初めて、タギツヒメは首を傾げた。

 

 百鬼丸は飛び出した。

 自分が風の中の一つになるように、炎の中の一つのように、光の粒の一つのように、突き進む。 

 やや下段に構えた剣を双つ、構えたタギツヒメはすでに未来予知の能力で攻撃を見切っている。

 だが、躊躇なく向かってくる少年の行動が……理解できなかった。

 

 百鬼丸は目を瞑ったまま、大宇宙の中に放り投げられたような気分でいた。

 《心眼》でみる世界は、常に孤独であった。

 ―――――。

 ――――――――。

 ―――――。

 目前には、女神、タギツヒメが待ち構えている。

 彼女からは幾つもの細い光の筋が伸びている。

 ほど良い緊張感が筋肉繊維の一本、一本に漲った。

 

 天空から舞い降りる黒い灰がチラと鼻先を掠める。構わず突き進み耳元を過ぎる笛の音色に似た風音が速度を増す。

 

「くたばれぇ!!」

後ろ足を伸ばして、体を更に前進させた。一度は防がれた抜刀術の一撃を再び浴びせるため、半身で刀身を覆い隠す。

 

 

興覚めした表情で、

「――馬鹿正直に貴様の攻撃なぞ受ける必要もない」

 嘲笑うように告げるタギツヒメ。

 

 

 女神は、少年の渾身の一撃から遁れるように隠世へと潜る《迅移》を発動。現世からの攻撃を軽くいなすように移動し、あとは背後からでも反撃の刃を喰らわせば良い。

 …………そう、判断した。

 

 

 

『おめぇも、性格わるいなァ……だから最高なんだよォ!!』

 背後からの声。

「!?」

 タギツヒメは、咄嗟に双つの刃を重ねて防御の姿勢をとる。

 迅移で加速した世界に、『隠世』という別次元の空間に突如現れた少年――百鬼丸。彼は御刀を持っていない筈だった。だのに、何故?

 

「お前があのまま、おれの一撃を受けていればお前は負けなかったんだよォ!」

 ニタニタと狂暴な笑みを浮かべて、右足を高く上げて踵落としを繰り出した。重い鉈を振り下ろすように、刃の隙を縫ってタギツヒメの頭上に激しい衝撃が加わる。

 

「……ッ!?」

 重い一撃をうけた女神は、あろうことか、踵落としに弾かれた体が現世へと引き戻された。

 高層ビルの屋上で無残に地面に転がった女神はすぐさま立ち上がり、

「貴様、一体何をした!?」

 動揺を抑えることができず、はじめて感情を発露させた様子でタギツヒメが叫ぶ。

 《迅移》を駆使した百鬼丸は、悠然と女神の真正面へと姿を現す。

 「お前は、隠世に潜った時点で未来予知の能力の使用をやめた。だから……この二振りの刀の存在を忘れてたんだよ」

 そう言って、百鬼丸は両手に握った刀を背後の紅月と重なるように頭上高く掲げた。

 

 

 タギツヒメは目を細める。

 それは、紛れもない《無銘刀》だった――しかし、百鬼丸が先程使っていた武器とは違う。

「貴様、それは――」大きく目を瞠った。

 明らかに動揺が頂点に達している。

 

「……そーだよォ、お前の読み通りだ。ステインが持ってたんだろ、この武器。地面に落ちてたのを拝借して使ったんだ。……この刀は、赤羽刀で――轆轤家の刀使だった人たちの血肉が混ざった……腐った刀だよな。だからおれは、この刀の力を100パーセント引き出すことができた。それだけだ!!」

 

 

 百鬼丸は宿敵ステインと、己の呪われた出自の元凶である轆轤家の刀に、結果的に救われるハメになった。

 全ての因果が、まさにこの時のために収束するように手元に収まっている気がした。

 (これまでの腐った運命が味方になるなんてな)

 自嘲気味に鼻を鳴らす。

 

 タギツヒメは尚も、現実を受け止めきれずにいた。

 ――――。

 ―――――――。

 ――――。

 

 百鬼丸は、すかさず《迅移》を発動し相手との距離を詰める。

 「――――っ」

 タギツヒメは、頭を上げて覆いかぶさる人影に頭をあげた。

 電光石火の勢いで迷いなく、トドメを刺すために双つの無銘刀を振り上げ、女神の両肩を串刺しにする。

 杭を打ち込まれたように地面に刀身が肩を貫く。

 見事な手際にタギツヒメは思わず、目前の少年に感嘆した。――そして、

(我はどこで間違えたのだ)

 今、まさに腰に佩いた剣を抜刀しようとする少年を眺める。

 

 「――――すべて終わらせる筈だった」

 タギツヒメは、ポツリと呟く。

 「…………そんなことさせねーよ」

 言いながら素早く腕を振り抜き、タギツヒメの頭上に繋がる橙色の光線を断ち切った。

 隠世との接続が寸断された。

 世界の終焉を迎える筈だった、その唯一の手段が今、消えた。

 

 返す刀でタギツヒメの首元に刃を翳す。

 「どうした、はやく斬らぬのか?」

 まるで、斬り刻んでほしいとでも言いたげな口調で、挑発する女神。

 

 

 「殺す、か。……――お前の最期の狙いはそれだな? おれがこのままお前をブチ殺せば、お前の四散したノロの影響で再び隠世に繋げて世界を終焉に導く。そんな算段でもしてるんだろ?」

  諦めきったように、タギツヒメの橙色の瞳が瞬く。

 「そこまで読んでおったか……心眼の力、か」

 「ああ」

 「――ではどうする? 貴様の宿願である我の討伐は叶わず、しかも世界の崩壊の時間が多少延びただけ。どうする?」

 

 

 



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Lost&Found

タギツヒメが、世界終焉の祭儀を行う高層ビルの下階に位置するオフィス。

このフロアも全て電源が落ちており、真っ暗な中ではあるものの、幸いにも大規模な崩落はない。

 ……いや、窓の外から射し込む隠世の莫大なエネルギーを反映した橙色の斜光がフロアにも流れて視界の確保に繋がっていた。

このフロアも平時は、仕事に使われていたであろう机や椅子などが整然と並ぶ。

それらを横目にしながら十条姫和は、小さな吐息と共にフローリングに腰を落ち着ける。

「大丈夫……? 姫和ちゃん?」

 心配そうに瞳を覗き込む可奈美。

 

『おい、エターナル。手を挙げろ』

 可奈美のさらに背後から、薫の声が聞こえた。言われた通り左手を上げると掌に硬い感触があった。

 闇に慣れた目で姫和は、掌のモノをみる。

 「これは?」

 「チョコミントクッキー」

 姫和に近寄った沙耶香が言った。

 「薫ちゃん、姫和ちゃんのために?」弾んだ声で可奈美が訊ねる。

 「――用意していたワケじゃないぞ。そこから失敬してきたんだ」

 そう言って薫は親指を背後に向けた。

 指の方向に目線を向けると、プラスチック製の引き出しのボックスがある。

 「オフィスの置き菓子?」

 舞衣が首を傾げた。

 気まずそうに可奈美が、「でも失敬って……」と、薫を見上げた。

 「緊急事態なんだ、すこしくらい大目にみてくれるだろ――」

 「……泥棒は良くない」沙耶香がすかさず反駁した。

 「――……っ、」

 痛い所を衝かれたように薫は渋い顔をした。

 そんな二人のやりとりに舞衣は「ふふふっ」と思わず微笑む。

 

 「はぁ、ちょっと待っていろ――」

 腕を組み、彼女たちのやり取りを眺めていた折神紫は、ボックスの近くに一筆したためた。

 曰く、『後日請求は折神家にするように』と。

 実際問題、ここまで激しい戦いを潜り抜けた彼女たちには、休息と糖分の補給が必要だと判断したためである。

 ◇

 休憩の終わった一行は、携帯端末で本部との連絡を繋ぐ。

 天空から不気味な模様に似た隠世の光と輪郭が、次第に地上へと迫りつつある。

 「――あれが落ちてきたらどうなるんですか?」

 窓際に立って空を見上げる可奈美は、静かに訊ねた。

 『さぁな』

 スピーカーの向こう、刀使を指揮する本部の真庭紗南は一言返事をした。

 「さぁな、って」

 呆れたように薫が言う。

 『――そう責めないでほしい』

 年老いた男性の声が、スピーカーから聞こえた。

 「グランパ!?」

 思わず、エレンが驚愕に叫ぶ。

 エレンの祖父、米国の研究者、リチャード・フリードマンが質問を引き継ぐように答える。

 『君たちには申し訳ないがあらゆる手段を用いても、あの空の向こう側がどうなっているのか分からないんだ。どんな周波数の音波や電波などを用いてもね。まぁ、あらゆる方法を試みても分からないという事から、一つの結論は分かっているけどね』

 「なんデスか、その結論ハ?」

 食い気味にエレンが訊ねる。

 『あれは、現世と隠世の境界だ』

 「「――っ!?」」

 一同は、その答えに絶句した。そして、窓一枚を隔てた向こうに拡がる不気味な天空の正体に意識を向ける。

 「……では、あの正体は」姫和は息を呑む。

 『――隠世だ。タギツヒメの目的は隠世を現世にぶつけることで、境界を取り払うこだ。例えるなら、僕らの世界が角砂糖で、隠世は荒れ狂う海さ。――その先の世界は、きっと僕らの物理法則など役に立たない。時間も空間も不確かな世界が訪れる。まさにこの世の終わりだ』

 衝撃の事実に、一瞬、スピーカーの向こう側もオフィスに居る刀使の全員も無言になった。

 あまりに大きすぎる現象と、世界の終焉の実像に想像の埒外から殴られたようだった。

 

 重苦しい沈黙。

 きっと、その事実に真っ先に辿り着いたフリードマンですらも、どう言って良いのか分からないだろう。

 

「――んじゃまあ、斬るしかないよな」

 沈黙を破ったのは、薫だった。

 

「薫らしいシンプルな答えデス。でも、嫌いじゃナイですヨ?」

 隣に立つエレンが口元を綻ばせる。

 

 薫の言葉を受けた沙耶香も小さく頷いた。

 「……最初からそのつもり」

 「そうだね」舞衣も同意する。

 「時間がない」

 姫和は左隣の可奈美と目を合わせる。

 「うん」力強く、可奈美も首肯した。

 

 

「――お前たち」

 紫は目前の少女たちの決断に、あの日の光景を重ねていた――20年前。江ノ島での大厄災に赴いた当時の刀使たちの姿を。

 

 

 携帯端末のスピーカーからフリードマンが、

 『――忘れないでくれ。現場に居ないとはいえ、今そこに居る君たちのことを知る僕たち全ての人間が君たちと居るという事を――こと、ここに至っては、気をつけろとは言わない。だが、家に帰るまでが遠足だということを覚えていてほしい』

 祖父の励ましに、エレンは「グランパ」と感激した。

 

 エレン以外の少女たちも皆、家族や友人、親しかった人々のことを思い浮かべる。

 家に必ず帰ってこい――、フリードマンのかけた強い思いが感じられた。

 

 

 刀使、六人の少女たちは屋上階に繋がる階段を見上げた。暗闇の蟠った空間には不気味なまでの静けさが落ちていた。

 「……」

 沙耶香は紫紺の瞳を瞬き、隣の舞衣と顔を合わせる。

 頷きあい、真っ先に飛び出した。いまの彼女たちに言葉はいらない。

 それに続いて、舞衣も後を追う。

 ◇

 通信を終えてから、鎌倉の本部の指令室に詰めていた真庭紗南と美濃関の学長、羽島江麻は沈痛な面持ちで真っ暗な端末画面を見ていた。

 「辛いものね、送り出す側というのは」

  江麻は疲れたように息を漏らす。

 「ええ、けど、きっとあの娘たちはそう思っていないでしょう。……20年前の私たちのように」

 紗南は当時を反芻する。

 かの大厄災において、最も危険な領域まで進んでいった当時の自分たち――その光景を思い返して、可奈美たち六人の心情を察する。

 大人はただ送り出すことしか出来なかった。……――今は自分たちがその「大人」の側に立った。

 もう、してあげられることは何もない。

 けれども、無事に帰ってきて欲しい――その願いはフリードマンと同じだ。

 「帰ってくる場所を守るのが私たちの役割だから」

 紗南は、困難に立ち向かう少女たちの居場所を守れる最善を尽くすために、自分たちの戦いをしよう。そう誓った。

 

 

 ◇

 「姫和ちゃん」

 階段の前で、可奈美と姫和は上を見上げる。

 「ああ、行こう。全てを終わらせるために」

 可奈美の右手が姫和の左手を優しく握る。

 「――そして、皆で帰ってくるために、ね?」

 明るい笑顔で可奈美は笑いかける。

 向日葵の咲いたような笑顔に、姫和も思わず微笑する。

 「ああ、そうだな」

 姫和は、己を助け出してくれた少女の言葉に勇気づけられた。

 ――……帰る、その居場所に可奈美たちは居てくれるだろう。だから自己犠牲ではなく、皆で帰る――そう決意を固めた。

 

 

 益子薫は、己の目を疑った。

 屋上にはタギツヒメが居た「はず」だった。

 ――だのに、最早女神の姿はない。

 

 「おい、どういう事だよ、これ……」

 そう言ってから自分の声が震えている事に気が付いた。

 

 

 

 

『……どうしたの、薫ちゃん?』

 最後尾の可奈美たちが到着した。

 可奈美たちの気配を感じた薫が肩越しに、皮肉っぽい笑みを零す。

「ワケがわからねーよ!! なんだよ、これ」

 現実を受け止めきれない、そう言いたげに首を振る。

 

 

 その隣――――、糸見沙耶香も同様に真正面に佇む人物に釘付けになっていた。

 

 

 

「……どうして、そこに居るの? なんで、そんな姿になっているの?  〝百鬼丸〟?」

 

 震える唇から、目前に佇む人影へ……――よく見知った人物に声をかける。

 

 

 ようやく到着した可奈美と姫和は、仲間たちの間を縫って前に出る。

 

 

 屋上のヘリポートの真中で、孤独に佇み、天空を見上げる真っ白に発光する長髪の少年――まごう事なき、見知った少年……百鬼丸の姿を認めた。

 

 

「……なに、してるの?」

 可奈美も息が詰まるような錯覚がした。

 

 嫌な想像が頭の中を駆け巡る。

 だが、その不吉な妄想を追い払おうと、強張った顔を必死に緩めて笑いかけようとした。

 

 

 ……だが。

 

 百鬼丸は、天空から目線を少女たちの方へとむけた。

 「ああ、遅かったな。全部、全部終わったよ――」

 どこまでも優しい声音で、百鬼丸は微笑を浮かべる。

 

 

 「おい、百鬼丸!! お前、なんだその姿は!?」

 可奈美の隣から抜け出すように、一歩踏み出した姫和が激情を剥き出しにして怒鳴る。

 

 

 一瞬、キョトン、とした表情をした百鬼丸は、「ああ」と何かを納得したように頷く。

 「ごめんな、タギツヒメはもうおれが倒したんだ。――それで」

 

 

 

 「それで、お前が取り込んだのかッ!!」

 姫和は、心臓の音が煩いくらいに鳴り響くのを自覚しながら更に声を荒らげる。

 

 

 獰猛な皺を眉間に刻んだ姫和を見返しながら、優しく、どこまでも慈愛に満ちた瞳で首肯する百鬼丸。

 「ああ、そうだ。……――だから、さ。お願いがあるんだ」

 

 不快な直感が、可奈美の頭の中に泡のように浮かぶ。

 (いやだ、聞きたくない)

 無意識に可奈美は頭を振っていた。

 

 

 『なぁ、頼む――お前たちでおれをブチ殺してくれ。それで、世界を救うんだ。今のおれだと、タギツヒメの影響で反撃しちまうけど、許してな。でもお前たちの連携ならきっとおれを殺せる』

 

 「ふざけるんじゃね!! お前はオレたちを舐めてるのか!?」

 

 淡々と事務的な口調で告げる百鬼丸の言葉を遮り、薫が少年を睨む。

困ったように首を傾げながら百鬼丸は肩を竦める。

 

「頼む、世界がもうすぐ終わっちまう。だからその前に大事な人たちを救って欲しいんだ。――世界を救って、英雄になってくれ」

 

 

 

 

 




ラスボスは主人公。可奈美たちが討伐するのは、コイツ。


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249話

――――天空が迫る。

世界の滅びを願う女神、タギツヒメの宿願の一つであった『隠世』と『現世』の融合する瞬間が刻一刻と近づきつつあった。

そんな中、都下23区に展開していた特別祭祀機動隊及び警察隊、並びに自衛隊の撤退が決定。

最早、防衛戦線の維持が不可能となった。

 

 

 

 

黒い灰に似た物質が降り、雪のように外気を舞う。

タギツヒメが破滅の祈祷を行った高層ビルに近い東京駅周辺。

特別祭祀機動隊――および、自衛隊の主力部隊は甚大な被害を被りつつも、撤退戦へと移行を始めていた。

 

自動小銃の発砲音を聴きながら、

「ったく、ゲホッ、ゲホッ、これじゃ田村の野郎に笑われちまうな」

 太った腹を揺すって苦笑いを零す大関。

 彼は自衛隊の撤退用の車両に乗り込みながら、負傷した右肩の傷口の痛みを堪えた。応急処置の包帯が赤く滲む。

「あまり喋らないで下さい」

 心配そうに言った少女――岩倉早苗は、大関を気にかけた。

「すまないね、心配をさせて。…………」

 大関は、荒魂の攻撃から疲弊した刀使を庇って負傷した。

「いいえ。それよりありがとうございました」

「ははは、大丈夫だよ。オレたちみたいな何も出来ない大人は捨て駒覚悟で――」

「捨て駒なんて、冗談でもそんな言い方しないで下さいっ!!」

 鋭い口調で早苗は反駁する。

「お、おお」

大関は初めて、少女が大声を出す姿を見て驚きで目を大きく開いた。「――いや、すまない」

毛先のふわっ、としたボブカットの髪を横にふるふると振って、小さくはにかむ。

「……皆さん、大事な私たちの守りたい人たちなんですよ?」

 言いながら大関の左手を握る。

「だから、一刻も早く怪我を治療して下さい」

握った少女の手は小刻みに震えていた。

「…………」

世界崩壊の中、混乱した状況で十代の少女が恐怖を感じないはずがない。

「――普通の生活に戻れたら、甘いものでも奢らせてくれ」

 大関は優しく笑いかけた。

 口元を綻ばせた早苗は、「はい。絶対に約束ですよ?」と強く頷いた。握った手を離す。

 一呼吸を置いて、すくっ、と早苗は立ち上がり車の外へと出た。

 車両の外では自衛隊の現場指揮官らしき人物が、左耳のインカムの指示を聞きながら部下たちを撤収させるために命令を飛ばしていた。

 ビルの壁を破壊して接近するムカデ型の荒魂を確認できた。

 早苗は御刀を構え、自衛隊の指揮官らしき人物を窺う。

 「わたし達刀使が殿軍になって敵を引きつけますから、その間に撤退を急いでください」

 突然の申し出に指揮官だった人物は、インカムから意識を隣の少女に向けた。

 「急に何を……それじゃ君たちが危険じゃ」

 「荒魂たちをけん制しつつ、わたし達も後方へ撤退します。――荒魂は無視していいから急いで」

 早苗にしては珍しい、命令口調かつ硬い声音で言い放つ。

 それだけ事態が切迫していた。……事実、荒魂たちの数は時間の経過と共に増加の一途を辿っている。

 苦悩の表情に歪んだ指揮官は、「分かった。ただし、君たちもくれぐれも無事に帰ってきてほしい」と本心を告げた。

 彼の目には、疲弊した刀使たちが映っていた。

 殿軍は部隊の最後尾に位置し、敵の猛攻を防ぐ危険な役割である。普通であれば年端もゆかぬ少女たちに任せるものではない。……だが、こと荒魂に関しては別だ。

 刀使でなければ荒魂に対抗ができない。

 指揮官らしき人物は踵を返して、「急いで車両に乗り込め! 荒魂は刀使に任せて急げ」と鋭い口調で命令した。

 早苗に背中を向けたまま、指揮官の男は、「必ず、皆で戻ってくるんだぞ」と念を押した。

 キョトン、とした早苗は彼が自分たちを社交辞令ではなく、本心から心配している事に思い至った。

 「はい」

 年相応の笑顔を浮かべて返事をする。

 

 それから一歩、前に足を踏み出して鎌府の刀使たちと目配せをしながら陣形を整え、荒魂の迎撃体勢をとった。

 (姫和ちゃん……――やっぱり、わたしには守りたい人が沢山いるんだよ)

 柄を強く握って《迅移》を発動させる。

 

 Ⅱ

 「――頼むよ、おれを殺して英雄になってくれ」

 百鬼丸は、穏やかな口調で目前に立つ刀使たちに言い放つ。

 空から黒灰のようなモノがチラチラと外気に乗って地上に降り注ぐ。――やがて荒魂へと成長するであろう物質が地面に積った。

 鼻から息を深く吸い、百鬼丸は目を開く。

 橙色の瞳が現れた。……溶鉱炉の熱に似た色合いの目が、新雪のように真っ白い肌とコントラストを表し、タギツヒメのような神々しさを獲得していた。

 髪の毛も白く染まり、体のすべてが薄く光を放っている。

 地面に突き刺したタギツヒメの御刀二振りを握りしめ、思い切り引き抜く。

 未だに、困惑する刀使たち六人を見回す。

 彼女たちが思ったよりも乗り気でない事を察した少年は、肩を竦めて呆れた顔をする。

 「――もう時間がないぞ」急かすように戦いを促す。

 

 

 なんで、どうして、こうなっちまったんだっ……――!!

 オレは拳を握って目の前の馬鹿野郎を睨む。

 「おい、百鬼丸! お前それで自己犠牲をやって恰好つけたつもりか?」

 自分でもなんで、こんなに悔しいのか分からない。

 声が届いたのか、アイツは首をオレの方に向けて「ああ、薫か。久々だな」と気さくに挨拶してきやがった。……どこまでも、穏やかな表情で。

 「薫、前に教えてくれたよな――? 荒魂を斬る理由を考えるって話さ。あれ、沙耶香にも教えたんだろ? なら、今回は簡単だよ。お前は迷わずおれを斬ればいい。今のおれは世界を滅ぼす存在だ」

 「ふざけんじゃねぇ!! お前一人で世界の危機を救うつもりか? なぁ! オレは確かに荒魂を斬る……祓うことを沙耶香に教えた。だからオレ自身で納得して斬るんだ! なんでお前が勝手に決めるんだ!?」

 「ねねー!」

 オレの肩に乗ったねねも文句の声をあげる。

 だけど、アイツは肩を竦めて頭を軽く掻いた。

 「……――おれは、もし自分の最期を迎えることができるんなら、どんな風に終わるのがいいか、ずーっと考えてきたんだ。…………そんで、さ。やっぱり最後は知らない奴にやられるより、お前たちみたいな〝トモダチ〟の手で終わるのがいいなって思えたんだ」

 悪びれる様子もなく、アイツは優しい口調で言い放つ。

 「お前の勝手な自殺みてーなのにオレたちを巻き込むな!」

 「……それは悪いと思ってる。でもさ、おれはもう、ほら、人間じゃないんだ。――正確に言えば最初から人間じゃない、気に病む必要なんて――」

 「ちげぇよ、お前が人間だからオレたちはお前と居たワケじゃねーんだよ!」

 こいつは、最初から何もわかってなかった。

 今のアイツにはオレの言葉はきっと届かない。……それでも、オレはこんなやり方が間違っていると自信を持って言える。

 「いいか、百鬼丸。お前がなんでも全部自分で抱えるみてーなツラが気に食わないって言ってんだ」

 「……――なぁ、薫。スマン。正直、おれさ、なんでお前が怒ってるのか全然わからねーんだ。でも、気を悪くさせたならスマン。おれはタギツヒメを内部に取り込んでいるから、自殺もできねーんだ。こんな方法で悪いけど、でも頼めるのお前たちしかいねーんだよ」

 困ったようにアイツは、両手を合わせて頼む仕草をした。

 (なんでだ! なんで、お前はそんな風に平然としてられるんだよ!)

 

  オレはワケが解らない気持ちで、ひどい徒労感に襲われていた。そんな時、ふと隣から一歩進み出る人影を感じた。

 

 「…………百鬼丸の言ってること、間違ってる」

 見ると、沙耶香が胸元に右手を当て、真直ぐにアイツを見据えていた。

 

 

「――こんなやり方、絶対間違ってる」

 今までに聞いた沙耶香の声音の中でも強い芯の通った一言だった。

 アイツはその視線を真正面から受け止めて、軽く頷いた。

「沙耶香、お前もすっげぇ強くなったよな。……おれが抜け殻だった時に守ってくれてありがとうな」

 最期の別れみたいな言い方で、アイツは感謝を伝えた。

 (なんなんだ! なんでお前ッ!!)

 オレは言葉にできない不快な感情が湧いた。隣を見ると、沙耶香も同じだったようで、何か棘の刺さったような沈痛な顔だった。

 「……どうして? こうしないといけなかったの?」

 震えてた。

 「ああ、そうだ」

 「……わたしが百鬼丸を守りたいと思ったのは、こんな事をするためじゃない」

 「悪いな、無駄なことさせちまって」

「……ちがう、百鬼丸は寂しそうだったから、一人じゃないって伝えるために守りたいと思っ」途中で言葉が途切れた。沙耶香は、これ以上喋ると何かが溢れるような様子だった。

「――そっか。すげーな沙耶香。初めてであった時より凄く成長したよな。……でも斬ってくれ。おれを。その真直ぐな価値観でなら、おれは何度斬られても後悔ないぜ」

 アイツの言葉を聞いた沙耶香は、ショックを受けていた。目を見開いて、自分の胸元を強く握って俯いた。

 



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250話

 (……――君はつくづく馬鹿者だな、百鬼丸くん)

 胸の中から聞こえる嘲りに、少年は苛立ちを覚えた。……百鬼丸の心臓には、かつて倒した大量殺人犯のレイリー・ブラッド・ジョーの人格がそのまま宿っていた。

 少年は心臓を取り戻す代わりに、この難儀な人格も同時に引き継いでしまった。

 

『君は自分の中に色んな人格を入れる趣味でもあるのかい?』

 面白そうに喋るジョー。

 眉間に深い皺を刻み、「なんでだよ」と文句を言う百鬼丸は軽く舌打ちをする。

 

 百鬼丸は宿願でもあったタギツヒメを『倒した』直後だった――――

 

『もしかして自己犠牲的な精神で行動したのかい?』

 

 「うっせぇ、言ってろ」

 百鬼丸は不機嫌そうに吐き捨てて、屈んだ状態から緩やかに立ち上がる。

 白い髪に白い肌、生まれたての溶鉱炉に似た橙色の瞳。

 まるで、先程倒したタギツヒメの容姿にそっくりの姿となっていた。

 『まったく、タギツヒメ討伐をする筈が、君が女神を取り込むとは思わなかったよ』

 呆れ気味にジョーはボヤく。

 もし、あのままタギツヒメを斃していれば世界崩壊は終わらなかっただろう。いわゆる、時限爆弾のような策略を用意していた女神の意表を衝くため、やむなく百鬼丸自身が女神を吸収した。――十条姫和が『鹿島神宮』で取り込まれたように、少年もまた同様の措置をとる。

 

 『だが君も知っているだろ? それは一時的な延長措置に過ぎない。世界崩壊はまだ止まってないぞ』

 ジョーの言葉は正しかった。いくら百鬼丸が己の内部にタギツヒメを取り込んだところで《隠世》と現世の融合が止まったワケではない。

 「……分かってるよ」俯き加減に呟く。改めて、己の体を眺める百鬼丸。

 薄く体が発光する状態、体内から溢れる無限のエネルギーが自身を「普通とは明らかに異なる存在となった」と認識させるには十分だった。

 「そう言えばお前、最近おれに喋りかけなかったな?」

 『寂しかったのかい?』

 「フザけなるな。理由を言え」

 『……恐らく、ボクの人格定着が不安定になっている。それに、この隠世との距離感が縮まっているワケだろ? ボクのような不安定な存在は存在するのが難しいのさ』

 淡々と説明するジョーの話を聞きながら、百鬼丸は「そうか」と理解を示した。

 

「おれはどうすればいいか――お前になら解るだろ?」

『ほぉ、そんなにボクを高く評価してくれるのかい? だがそうだね。解る、と言いたいが――合理的な判断を君がするとも思えない』

「いいから言え」

『――君はこの状況を待っていた節があるね? タギツヒメを倒すのではなく、己の内部に取り込む。そして……君もろとも現世から消える』

「…………。」 

『沈黙は正解と受けとるよ。そうか――君程度のミジンコ脳みそでもそう考えるのか。これは面白い。でもどうやって消滅するのか――それは彼女たちを利用する気だろうね。刀使か。君にとって随分と都合のいい存在になったもんだ』

「ああ……そうかも知れねぇ。何とでも言えよ。それ以外に方法はねーだろ」

『…………。』

「沈黙は正解って受け取るぞ?」 

『まぁ、いいか。退屈はしないね。いいだろう、君がどこまでやれるか特等席でみせてもらうよ』

ジョーの皮肉交じりの一言を受け流した百鬼丸は、真っ白になった髪をかき上げて天空を仰ぐ。

(時間がねぇな……) 

水面のような不安定な揺らめく空間が上空から迫りくる。

「死にたいワケじゃないけど、生きたいわけじゃねぇもんな」

 覚悟を決めた表情で百鬼丸は一人頷く。

 ……この世界なんて別に滅んでも構わない。ただ、そこに生きる大事な人たちだけを守りたい。

 (それだけなんだ、なんてな)

 柄にもなく感傷的な気分になったことを自嘲気味に鼻を鳴らして笑い飛ばす。

 

 

Ⅱ 

 「……どうして、百鬼丸はそんな事をいうの?」

 沙耶香の声音が震えていた。

 紫紺色の真摯な眼差しがおれに向けられている。

 「お前たちがおれにダメージを与えるだけでいい。それであとは――おれが迅移を使って隠世の深層まで行く。タギツヒメを弱らせるためにもおれを斬れ」

 「…………斬られる、それが百鬼丸の望み?」

 「ああ、そうだ」

 おれは迷いなく肯定した。実際、本当にその通りだった。

 だけど、沙耶香は下唇を噛んで両手を胸の前で重ねて悔しそうに表情を歪めた。

 「…………それが本当の望みなら」言いかけて言葉を止めた。

 斬る――その一言が出ないようだった。

 (なんだよ、お前まだ全然変わってねーじゃん)

 おれは思わず、笑いそうになった。……お前、まだ優しいままなんだな。

 でも、今、おれを斬ってくれないと本当に世界がマズい。迷うな、そう言いたくなった。

 

 

『確かに百鬼丸さんの言葉は正しいです』

 と、別の声がした。

 おれがその方角に頭をやると、舞衣が鋭い眼差しでおれを睨んでいる。

 

「貴方のいう通り、ここで貴方を斬らないと駄目だってことは理解しました」冷静な口調で喋る舞衣。

「な? だったらサクッとさ、終わらせようぜ」

「だからって言って、私たちが何も感じずに貴方を斬ることが出来るとでも?」

「――出来るだろ? その為の刀使だからな。お前たちは遊びでこんなことしないだろ?」

「だとしても、沙耶香ちゃんを悲しませる貴方を私は許したくないです。個人の意見なんて今は意味がないかも知れない。――頭では分かっています。貴方のやり方が正しい、そんなこと言われるまでもないですよ。それでも――沙耶香ちゃんをこうやって悲しませるような人のいう事が、やり方が全部正しいなんて思いません」

「舞衣にしては随分と非合理的な意見だな?」おれは挑発めいたことを口にする。

「ふっ」と嘲りのような笑みが舞衣の口端に浮かぶ。「――貴方に私の何が解るんですか? ううん、私以外だってそう。貴方はそうやって人との関わりを避けて全部自分の都合のいいように解釈して――都合のいい時だけ私を知っているように言うんですね?」

 

「――確かにそうだな。いや、その通りだよ」おれは彼女の指摘が全て正しいんだろうと思い直した。――だから、

「そうだったな。おれはいつも逃げてたな――ごめん。……でも、もう時間がないんだ。な、頼むよ――都合がいいって解ってる。でも、もう頼めるのはお前たちしかいなんだ。頼むよ――舞衣、それでもおれをまだトモダチだと思って見捨てないなら、ここで斬ってくれないか?」

 ……――おれはどこまでも卑怯だった。

 言葉でのやり取りに不利を感じたから…………おれは『お願い』した。

 理論の部分ではなく、感情に訴えかけた。

 ……――そうすれば相手を思い遣る気持ちの強い舞衣ならば、『理解』してくれると信じて。

 おれは、柳瀬舞衣という少女を真正面から見据える。

 案の定、先程まで硬い表情だった舞衣の顔にも、動揺の表情が現れていた。

 

 おれはどこまでも卑怯だ…………それでいい。どんな手段を使っても勝つことを求めてきたように、今のおれは目的達成のためにどれだけでも、相手を利用する。

 

『君は悪い男だな。フフフフ、まあ面白いよ』

 胸の奥から皮肉るような笑いが聞こえてきた。それをおれは無視する。

 

 

「まるまるは、どうやって消えるつもりデスカ?」

 独特なイントネーションが、おれに質問する。

 視線を移すと、エレンがいた。

 

「ん? ……――お前たちがおれを切り刻む、それで弱った状態から隠世の深層に向かう」

 隠す必要もない。おれは素直に計画を伝える。彼女たちには協力をしてもらう手前、なにも隠す必要がない。

 

 

「でも、それだとひよよんの時みたいに、タギツヒメに乗っ取られる可能性もありマスヨ?」

……確かにそうだ。なるほど、エレンの指摘はごもっともだ。

「そうだな――おれを信じてくれ、としか言いようがないな。失敗はできない。時間もない。方法はこれ以外にないだろ?」

「そんなギャンブルじみた計画に参加できまセンネ」まるで、子供を諭すような口調だった。

「……だったら他に方法あるのか? ハッキリいう。今はまだ倒したばかりだからタギツヒメの回復も間に合っていない。今がチャンスなんだ」

「……………。」

「これはギャンブルなんかじゃない、確実な方法なんだ。それに、ギャンブルなんて言うなら、お前たち六人もここまで命かけてきただろ? ……それだけでギャンブルに勝ったんだ。あとはおれを斬る。それだけさ」

 

 

 

『こんな馬鹿な弟子だと思わなかったよ――――』

 

 低い、冷たい声音がおれの耳に届く。

 

 

何故だか、言いようもない怖さのようなモノを感じた。

 

「あ~、こりゃあマズったな」おれは、ここまで来て沈黙を貫いていた人物の気配を意識し始めた。

 

 

栗色の髪、琥珀色の強い意志を宿した双眸がおれを、丁寧に眺めている。

 

「へへへ、お師匠様は怖いな」ワザとふざけた調子で誤魔化す。

 

しかし、彼女は一度も笑わず、むしろ氷のような冷気を放つように、おれを半眼で睨む。

 

 

「――私に初めて出来た弟子がここまで馬鹿だって思わなかったんだよ」

繰り返して強く念押しする。

 

――……衛藤可奈美。

 

 おれは、彼女の存在にゾワッと怖気が走った。得体の知れない彼女の恐ろしさを考えないようにして、

「これでようやく、本気で斬り合いができるだろ?」

 闘う方向へと誘導する。

「そうかも知れないね。…………」

 それまで冷たかった表情が一転して普段のように明るくなった。

「――でもね、私は剣術が好きなんだよ。……殺し合いが好きなワケじゃないって、剣を通して分からなかったかな?」笑みを表情に貼り付けたまま、厳しい口調で詰問する。

「そ、それは……でもさ、もう時間が」

「うん? 違うよ、世界を救うとか、そんな話はしてないよ百鬼丸。いい? よく聞いてね? 私は凄く怒ってるんだよ?」

 凍えさせるような口調で可奈美がおれに言った。

 



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251話

 

 ……静かに、かつ、青い炎が燃えるように可奈美の瞳が百鬼丸を真正面から見据える。

 「私と剣を交えて何も感じなかった?」優しい口調。その内に秘められた厳しい思い。

 「……――。」

 「答えられないの?」

 作り物の穏やかな表情が不気味に微笑む。

 「剣ってね、正直なんだよ。鍛錬を積めば積むほど、全然自分が未熟なんだって思い知るの。それで、奥が深くてもっと、もっと知りたいと思う。剣を通して、相手の殺気も迷いも、何もかもが分かり合える。私はそう信じてる。百鬼丸は違ったのかな?」

 いつの間にか呼び捨てにされていた。……それほどまでに、可奈美を怒らせていたらしい。

 新雪のような――透き通った白い髪が一束、鼻筋にかかった。

 「だったら……可奈美。おれを破門にでもするか?」

 肩を竦め、おどけた調子で尋ねた。

 (もともと、おれと可奈美は本当の師弟関係じゃない。所詮……おれがやってたのはお遊びだ)

 そうだ、と自らを納得させるように百鬼丸は一人で頷く。

 (幼時からおれは強かった。生きるため、信念を貫き通すため、おれは刃を振るい敵を屠ってきた。……だから誰かに剣を教わるまでもなく、おれは強かった)

 

 

『ねぇ、今楽しいでしょ?』

 木刀を小気味いい音を鳴らし、可奈美が心の底から笑顔で言った。

 早朝。舞草の里で行われた剣の鍛錬。

 可奈美の習慣に付き合い、百鬼丸も彼女と剣を合わせていた。

 まだ、朝靄が低く地面に低回する中、カン、カン、と木刀の芯から響く音だけが二人の呼気と混ざった。

「――ああ、楽しいな」

 百鬼丸は無意識に、琥珀色の美しい少女の瞳に頷き返していた。

 これまで、何もかもを奪うような戦い方をしてきた百鬼丸にとって、初めての経験だった。

 己を高める技術のやり取り。

 幾重にも浮かぶ剣筋を予測し、予測回避し、隙を狙い一撃を打ち込む。

 これの繰り返しの筈だった――本当の戦闘と異なり、命を奪うことのない、生温いお遊びだと思っていた――それなのに、心底楽しい。

 多彩な技を操り、心の内を見透かしたように、可奈美が仕掛ける剣技の数々を生来の勘を頼りに凌ぐ。

 『うん、私も――百鬼丸さんと剣を重ねるのが楽しいよ』

 

 ……ずっと、こうしていたい。

 

 無意識に百鬼丸は口走りそうになった。

 無論、そんな事は不可能だ。体力にも気力にも限界がある。だけども、もし、叶うのであれば、彼女の可憐な剣技を受け、それを試したい。

 湧き上がる情動を抑えるように百鬼丸は、息を吸った。

 少女から発せられる肌の匂いが、澄んだ山の空気に混ざって鼻を刺激する。

 甘く、微かに桃の香に似た匂いが鼻腔を通り抜ける。

 ……――こんなにも多様な剣技を披露する相手は、単なる人間の少女に過ぎない。今まで――無意識の内に侮っていた『人間』だった。 

「おれも、奪うだけじゃない剣を振るうのは楽しいよ――」本音を漏らしていた。

 琥珀色の、好奇心に満ちた大きな瞳が真直ぐに見つめる。

 

 

 

『ねぇ、今楽しい?』

 

「えっ?」

百鬼丸は我に返った。

いつの間にか回想していた百鬼丸は、可奈美の発した一言に意識を戻された。

同じ色、同じ両目が百鬼丸を真直ぐに見据えていた。

 

――――ただし、あの時とは違って涙を両目に浮かべながら。

「私はね、ぜっっっったいに破門なんかにしないよ。――」

剣を正眼に構え、琥珀色の瞳を小さく動かし、声を震わせた。

「剣を通して分かったから…………本当は臆病で、弱気で、それでも大胆にもなれる。焦りも、喜びも、全部、全部剣を通して分かったから。だからね、私……」

 可奈美は一拍間を置く。握る御刀《千鳥》が赤い月に照らされ、燃えるように光る。

 「私は絶対にあなたを一人になんてしないから」

 「無理なんだよォ!! いい加減にしてくれ、おれの正体を知っているんだよなァ!!? おれの本当の正体はなぁ、醜い醜い肉塊なんだよォ!! 分かるか、お前たちの想像している何倍も気持ちが悪いんだよ、醜くて臭くて、マトモに言葉だって喋れない! 今、こうして喋ってるのだって――赤ん坊の死体を貪ったお蔭なんだよォ!! ……何もかも、おれには、おれだって証明できるモノなんてないんだ――」

 頭をぐちゃぐちゃに掻いた百鬼丸は苛立つ。

 「……――初めて百鬼丸の弱音を聞けた。私たちにはいつも本音を隠して、ずっと戦ってきたんだよね」

 大きな琥珀色が迷いなく正視する。

 「お前らは馬鹿だ、やめろ、邪魔なんだよ! ……一人にしてくれ。お前たちの任務は世界を救うことだ。おれを殺すこと。それが世界を救うんだ」

 「何度でも言うよ――私は初めてできたお馬鹿な弟子を見捨てたりしないよ。何度も何度も言い続けるから」

 「ふざけるんじゃねえよ、おい! 綺麗ごとばっかり言うんじゃねえ!! 反吐が出るんだよ」

 百鬼丸は、恥も外聞もなく怒鳴っていた。

 (――違うんだ、本当はこんな事を言いたいワケじゃないんだよ)

 己の存在を全て肯定する少女の言葉に予想以上の動揺が胸の内に拡がっていた。

 「私ね……決めたんだ。全部、私の手に届く範囲のことは絶対に諦めないで助けたい。それにね――」と、一旦言葉を切り御刀の柄を握り直す。「――どんな醜い姿でも、形でも、気にしないから。だって、私に出来た初めての『弟子』だから!」

 可奈美の堂々と言い放つ言葉には嘘も偽りもなく、表情には曇り一つない。

 

 

 百鬼丸は生唾をのむ。

 (やめろ、止めてくれ。おれの――……おれの覚悟が鈍る) 

 もう少しだけ、彼女たちと居たいと求めてしまう。もう少しだけ、同じ時を過ごしてみたいと欲が生まれてしまう。……――

 (全部、もう捨てたんだよ――今更、何迷ってるんだよ、おれ)

 両手に握った刀を百鬼丸は構え直す。

 

 

 「はっはははは、お人好しだな――可奈美。もういい。全員、この場で屠ってやる。まずはお前からだ! 衛藤可奈美! お前から先に殺してやる!」

 剣先を少女に向けて恫喝した。

 

 ――しかし。

 可奈美は口端をにぃ、と吊り上げて笑う。

 「私を剣で殺すの?」

 「そうだ!」

 「一回も剣で勝ったことないよね? 百鬼丸は」

 楽し気に挑発した。

 「――……ッ、舐めるな!! おれは、最初からお前たちなんて大嫌いだったんだ、死ぬほど嫌いだったんだ! お遊びの師弟関係なんて解消だ! 偽善者が!!」

 百鬼丸は咄嗟に思いつく限りの罵倒で埋め尽くす。――最早、自分自身が何者か分からなくなっていた。

 

 「おれがお前たちと行動していたのはな、タギツヒメを殺すための一時的な協力に過ぎなかった! 利用してやったんだよォ、分かるか、おい?」

 今、こんな罵詈雑言を吐いている自分は一体どんな醜い顔をしているのだろう……百鬼丸は喋りながら、ふと、内心で思った。

 

 「それって……」と、可奈美が口を開いて何かを言いかけた時、隣の人影が一歩前に踏み出した。

 

 「もういい、分かった百鬼丸。お前は――最初からそういう奴だったんだな。それなら話は早い。確かにお前の言う通りだ――現状、世界を救うにはお前を倒すしかないようだ」

 前髪を綺麗に切り揃えた濡羽色の長い髪を流麗に靡かせた少女――十条姫和が、独特の構えで剣先を百鬼丸に合わせる。

 「お前の望み通り――ここでお前を殺す。それで満足だろう?」

 冷徹に言い放つ姫和。

 ――彼女の本来の目的は大荒魂の討伐

 それが母から受け継いだ意志なのだ……今更になって復讐の因果が巡るとはな、と姫和は内心で自嘲する。

 

 姫和の一言に冷静さを取り戻した百鬼丸は、荒い息を落ち着け、ゆっくり頷く。

 「ああ、そうだ。姫和――さぁ、時間がない。殺り合おうか」

 

 

 

 



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252話

  姫和の一言に冷静さを取り戻した百鬼丸は、荒い息を落ち着け、ゆっくり頷く。

 「ああ、そうだ。姫和――さぁ、時間がない。殺り合おうか」

 「……大荒魂を討伐する」

 姫和は母の悲願でもあった目的を思い出す。たとえ、当初の標的であったタギツヒメではないにしろ、相手は世界崩壊をもたらす存在に違いはない。

 ただ、違うのは――――これまで共に旅をしてきた「仲間」という点だけだった。

 小烏丸を握る手が強く鳴る。

 (百鬼丸、お前が今何を考えているのは……私には分からない。……けれど)

 緋色の瞳が孤独な少年の像を映す。

 「ここで……お前を」

 と、言いかけた。その瞬間、

 

『――――お前は、ここで倒すッ』

 視界の外から不意に、残影が襲い掛かった。

 ガギッ、と激しい金属同士の衝突音が響き渡る。百鬼丸は頭を少し斜め上に動かし、襲撃者に苦笑いを零す。

 「残念だけどアンタ一人だけだと……おれは倒せないよ。折神紫」

 突然の襲撃者の攻撃を一刀で軽く防ぎ、そのまま腕力で弾き飛ばした。

 紫は僅かに表情を歪めて靴裏をズズズ、と浅く削りながら地面に着地する。

 「――アンタの考えでは、他の誰にも手を汚させずに自分一人でおれを倒す予定だったんだろうな……だから機会を窺っていた。…………」冷静に分析する少年。

 屈んだ姿勢からゆっくり立ち上がり、紫は再び御刀を構える。

 その様子を複雑な表情で眺めつつ、百鬼丸は肩を竦めた。

「おれもアンタ一人に倒される方法も考えたよ――でも、駄目なんだ。おれが〝手加減できる〟のにも限界があるんだよ」一旦言葉を区切る。「……アンタ一人じゃおれを倒せない」

 念押しするように呟いた。

 透き通るような白い長髪をかき上げ、空を仰ぐ。

 上空には『隠世』との境界線を示すように、水面のような不確かな空間が迫っていた。

 はぁー、と呆れたように溜息をつく。頭を正面に戻し、

「さ、こんなもんだろ。いいから来いよ。じゃないとお前ら全員おれがブチ殺すことになるぞ?」不敵に口元を歪めて挑発した。

 

 

 自衛隊の撤退を支援するため、伍箇伝に所属する刀使の混成部隊が殿軍の役割を買って出た。

 次々と襲い掛かる無数の荒魂たちから人々を守るために剣を振るい続ける。

 ――しかし、人員にも限界がある。

 ジリジリと負傷者を出して戦力を削られていた。巨体を傍若無人に動かし、破壊の限りを尽くす荒魂を一体倒すのに、刀使は複数人で連携して斃さねばならない。

 戦力比でも絶望的な状況だった。

 (それでも、ここで食い止めなきゃ……)

 空から雪のように降る黒灰に似た物質が、次々と荒魂たちを生み出す。そんな望みすらない状況でも、岩倉早苗は唇を噛みしめて闘う。

 左腕を負傷したが、まだ戦える。――自らを叱咤して左右を睥睨する。

 既に、前面は異形の怪物たちが人間の抵抗を嘲笑うように、列をなして行進する。

 左右に配された高層ビル群の間に伸びる広い道を化け物どもが、パレードでも開催するように賑やかに蠢き、街灯を踏みつぶし、コンクリート舗道に亀裂を走らせ、迫りくる。

 カタカタ、と無意識に早苗の手元が震えた。

 こんなにも絶望的な状況は今までに経験したことがない。周囲に残る刀使たちの表情を窺っても、早苗と同じかそれ以上に動揺していた。

 

(20年前の江ノ島に向かった刀使も同じ気持ちだったのかな?)

 ふと、そんな事を想う。

 名も無き犠牲者の中に埋もれた存在。

 自分もいま、その数字の一人になろうとしている……。

 だが、ここで自分が逃げれば他の刀使も、そして家族すらも失う。

 刀使だけが、荒魂に対抗しうる唯一の存在。

 「十条さん……ううん、姫和ちゃんたちが逃げずに立ち向かってるんだよね」

 自らに言い聞かせるように呟き、胸を強く握った。

 希望ならば――――ある。

 それが、早苗を……否、この場に残る刀使たちに微かな勇気を与えていた。

 満身創痍の状態から、なけなしの力を振り絞り、彼女たちは最期の時になるかもしれない…………その寸前まで戦おうと決めた。

 

 

 

 視線を前に戻すと、荒魂たちの波は僅か50m付近にまで近づいていた。

 早苗は全身に怖気が走る。こんなにも禍々しい光景は初めてだ。だが、それでも尚踏みとどまる理由は、ある。

 「やらなきゃ……」と、深呼吸する。

 周囲の風景はまさに、地獄だった。

 高層ビルの硝子は荒魂たちの行進によって壊れ、バリィンと甲高い音を鳴らす。まるで地獄のファンファーレのようだった。パラパラと煌めく硝子破片たちは微妙な気流にのって舞い散る。

 

「…………え?」

 そんな中、早苗は目を疑った。

 荒魂たちと殿軍を担う早苗たち刀使の混成部隊の間に、小さな人影があった。

 その人影は丁度、荒魂と刀使の中間地点に位置しており、ゆっくりとした歩調でメインストリートの車道を横断していた。

(まさか、逃げ遅れた民間人!?)

 早苗に衝撃が走った。

 まだ逃げ遅れた人が居たのだ! 

「皆、ここはお願い!」

 周りの刀使たちに言い残した早苗は、咄嗟に隊列から飛び出した。

『えっ、ま、待って!』

『岩倉さん、危ない――』

 制止する者の声も聴かず、そのまま迅移によって加速した早苗はすぐに逃げ遅れたであろう人物のもとまで到着した。

 

 

「だ、大丈夫ですかお爺さん?」

 早苗は息を切らしながら、道路をゆっくり横断する老人に声をかけた。

 彼は目が見えておらず、右手に持った青竹を白杖代わりに使っていた。汚い着物姿で、大きく腰を曲げ、背中には大きな琵琶を担いでいた。

「お嬢ちゃん、アンタ……刀使かい?」

「えっ?」

 唐突な質問に驚きの声をあげた。

「はい、そうです。お爺さん、いいですか? 荒魂がもうすぐ近くまで来ていますからわたしと一緒に逃げましょう」優しく諭すように言った。

 盲目の老人ならば避難が遅れたのも納得できる。早苗は、一人合点し、老人の手を握ろうとした。

――しかし、老人は早苗の手を優しく拒み、禿頭を左手で撫でる。

 白く濁った両目で早苗と顔を合わせ、ニッ、と笑顔を見せた。

「優しいお嬢ちゃんこそここから逃げなさい。そのために、この老骨はここに来たんだ」

 孫娘に言い含めるように盲目の老人が言う。

 「ど、どういう事ですか!? 自殺するつもりですか? だめです! お願いだから一緒に――」

 老人はニヒヒ、と人の悪い笑い声をあげた。

 「いいかい、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんみたいな可愛らしい娘に心配されるのは嬉しいがね、申し訳ないが足手纏いになっちまうんだ――」

 

 

 

 まるでタイミングでも見計らったように、空を遊弋していた飛行型の荒魂が数体、老人と早苗を目掛けて殺到した。

 

 ――まずい、と早苗は本能で察知した。

 一体でも厄介な飛行型の荒魂を数体相手にする……しかも老人を守りながら、戦えるだろうか? 一瞬だけ不吉な想像も頭を過った。

 「早く逃げて下さい」必死に懇願した。

 とにかく、老人一人でも守らねば…………早苗は死を覚悟した。

 

 チン、と涼やかな金属の音が聞こえた。

 

 次の瞬間、襲い掛かってきた飛行型の荒魂の首が美しく切断されていた。

 早苗は己の目を疑った。

「えっ、なに……?」

 まったく現実感の無い光景が拡がっていた。

 ドスン、ドスン、という重量感のある響きが肚を震わせる。首のない胴体たちが地面へと転がる。

 再び、チン、と音が鳴る。

 目線を老人に移すと、彼は琵琶の長い首を握っていた。

 「仕込み刀?」

 まさか、と自分の呟きを否定する早苗。

 この老人が今の早業を行ったのだろうか? あり得ない。普通の人間はおろか、刀使ですら荒魂の単独撃破には相当な技量を必要とする。だのに、この老人は目にも止まらぬ速さでやってのけた事になる。 

 「お嬢ちゃん、いい子だ。…………向こうに居るお嬢ちゃんたちを纏めて逃げる準備はいいかい?」

 聞き分けの無い子供に言うように、老人は語り掛ける。

 早苗は不思議と彼の言葉に素直に従う方が良いと直感で理解した。

 「はい。でも、あの……」

 死なないで、と言おうとして老人は少女の言葉を察したように「ニヒヒ」と笑う。

早苗の頭を、枯れた手で柔らかく撫で、

 「いい子だ。……だが、この老骨は残念だが今まで簡単に死ぬなんて出来なかったからこうして生きてるんだ」自信と哀愁の漂う口調で言い切った。

 それから皺くちゃにした表情で、逃げるよう促す老人。

 

 

 「それに、この不始末にこの老骨も責任がある。出来の悪い教え子を持つと、ソイツの尻ぬぐいしなきゃならんのは――爺の役目かもしらんがな」

 皮肉っぽい口調で老人は言った。

 「教え子、ですか……」不安そうに早苗は疑問を口にした。

 

 「――アア、百鬼丸という馬鹿者でなァ」

 言いながら、琵琶から仕込み刀を振り抜き、白刃を煌めかせる。

 「アヤツの不始末は、弟子の不始末のようなもんでなァ…………ニヒヒ」

 意地悪く笑った老人は、迫りくる荒魂の行進に立ちふさがるように真正面から対峙し、何も気負うことなく、ひとり佇む。

 「さ、可愛らしいお嬢ちゃん。お帰りの時間だ。ここからは大人の時間だ」

 小柄な老人は、手首を器用にクルクルと回転させ、異形の怪物たちに舌なめずりをした。

 汚れた着物の袖がふわり、ふわり、と風に靡く。

 着物は複雑な皺の模様を描きながら風に波紋を広げる。

「ゴミ掃除だ」

 

 

 

 



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253話

 

……白刃が、襲い掛かる。

 明確な攻撃の意志を持った軌道は、百鬼丸の胴体の中心を狙う。

 (――やはり、最初は姫和か)

 攻撃を躱しながら、小烏丸の肉厚な刃を冷静に眺める。

 「……ッ、どうして笑っているッ!!! 真剣に戦えッ!!」姫和が緋色の瞳に強い光を湛え、思い切り怒鳴った。

 姫和の当初の目的は大荒魂の討伐だった。それは姫和の母、篝の宿願でもあった。そして今、大荒魂と化した百鬼丸を討つことに間違いはない筈だ。

 「そうだな」

 憎むべき対象となった百鬼丸は頷く。純白の長髪を外気に漂わせながら、彼女の怒りは正当だ、と一人納得する。

しかし、想像していた以上に刀使と戦う事に悲壮感も絶望も感じなかった。そう、まるで――

(初めから運命で決まっていたみたいだ……)

 姫和の初撃を回避した百鬼丸は、他の五人を横目で窺う。

 彼女たちは散開し、一人の少年を包囲するように円陣を組み、死角からの攻撃をするようだった。

 (――それでいい)

 タギツヒメと一体化した百鬼丸は最早、世界を滅ぼすだけの存在となり果てていた。

 唯一、荒魂を祓うことができる剣薙の巫女『刀使』が、己(百鬼丸)から世界を救う。

 これ以上に正しく、疑う余地のない事実に百鬼丸は、清々しさすら感じていた。

『きぇええええええ!!!』

 猿叫が、聞こえた。

 祢々切丸の巨大な刀身が頭上から襲い掛かる。

「次は薫、か」

 お前らしいな、と口元が綻ぶ。荒魂との共生を目指した一族の少女。だが、一方で人に危害を与える存在を『祓う』ことに躊躇しない強さ。そんな思いの籠った一撃だった。

 百鬼丸は素早い足取りで再度ステップを踏む。

 巨大な刀身は地面を激しく穿つ。

 

 

 ……――ずっと、ずっとクソタレな世界だと思っていた。生きているだけで苦しく、楽しみもない世界だと思っていた。早くこんな世界は滅べば良いとすら思っていた。他人を呪っていたことも、一度や二度じゃない。

 どうやったって、人間同士は分かり合えない。争いを辞める方法だってない。

 (だけど、お前らと出会えた事だけは、間違いじゃないよな)

 

 ヴォン、と空を切る鋭い音。

 薫の一撃を避けた直後、間髪を入れずエレンが斬撃を繰り出した。

 「アイツとのコンビネーションは完璧だな」

 百鬼丸は寸前のところでエレンの刃から遁れた。

 

 円陣の唯一の逃げ道である誰もいない空間へと百鬼丸は体を動かす――その刹那。

 

 

 「はぁっ!!」

 一瞬の閃光に似た煌めきが、百鬼丸へと撃ち放たれる。

 「ぐっ、やっぱりこんな攻撃を――計算したんだな」

 百鬼丸は咄嗟に剣で不意打ちを防いだ。

 舞衣が、翡翠の瞳を少年に向ける。

 居合の型で一撃を打ち放った後の姿勢で、二撃目を構える瞬間だった。

 円陣を組んだタイミングから、咄嗟の機転で長船の二人が攻撃を繰り出して撃ち漏らした相手を確実に仕留める作戦だったのだろう。

 (つくづくこーえな)

 内心で苦笑いを漏らし、つま先で地面を軽く蹴って間合いを広げる。

 

 

 「……百鬼丸、戻ってきて」

 着地すると、視界の端から袈裟斬の軌跡が見える。

 「次はお前か――」

 紫紺の瞳は百鬼丸の像を映す。糸見沙耶香が、寂し気な表情を浮かべながら斬撃を放った。

 思い返せば、一番変化した少女なのかも知れない。

 人形のように、ただ人の命令にだけ従い生きてきた沙耶香。彼女は今、明確な意志のもとで御刀を振るっていた。

 沙耶香の刃を左手の刀で弾き返した百鬼丸。

 次の攻撃がくる前に、少年の体は再び僅かな空間を求めて、体を移動させた。

 ――しかし。

 死角から体を滑り込ませたのは他でもない、衛藤可奈美……百鬼丸の剣の師匠だった。

 彼女の栗色の髪がフワッ、と一瞬宙に浮き、下から潜り込むように百鬼丸の前へ闖入し、御刀《千鳥》の切先を撃ち出す。

 ザッ、と左肩の上部を浅く削った。

 「やっぱり、このおれへ最初にダメージを与えるのは師匠だよな」

 上半身を捻って、喰い込みそうな刃から遁れ、可奈美へ二つの剣撃を振るう。

 琥珀色の瞳が機敏に動き、まるで事前に予期していたように、二つの刃を避け、視界の死角へと立つ。

 心なしか、剣の柄を握る可奈美の手は、迷いを振り払うように手の力が強くなった気がした。

 しかし、息をつく暇はない。

 ヴォン、と右わき腹を激痛が襲った。

 灼けるような痛み。

 百鬼丸は視線を下に向けると、御刀《小烏丸》の刀身がわき腹を浅く貫いていた。

 「……へへ、いい突だな」

 強がるように百鬼丸は顔を歪めて、肩越しに姫和を見返す。

 険しい筈の姫和の表情には、小さく戸惑いで曇っていた。

 百鬼丸はふーっ、と呼気を整え、周囲の少女たちに向かって叫ぶ。

 「その調子でおれを切り刻め!!」

 ――もう時間の猶予がないんだ、そう言いたくなるほど百鬼丸は切迫した気持ちを押さえて、刀使の少女たちへ戦闘を促す。

 



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254話

 ……なんで、どうしてお前は抗わないんだよ!

 そんなに物分かりよく、お前は斬り刻まれたいのかよ? ふざけんな!

 

 益子薫は、両手で掴んだ巨大な御刀――《祢々切丸》を左上段に構え、白い影と化した少年を睨み続けた。

 「くそ馬鹿やろうっ……」

 下唇を噛みしめ、己の無力さに悔しさが募った。

 確かに、荒魂と共生を目指す益子家の者として、世界崩壊を招く百鬼丸の存在は排除せねばならない。彼の論理は全て正しく、だから苛立つ。

 (だからってな、お前が消えて誰も悲しまないワケじゃねーんだぞ)

 薫は危うく、そう叫びそうになった。だが、理性がそれを押しとどめた。

 今、己の正直な言葉を吐露すれば、きっと気分はスッキリするだろう。だけども、世界の崩壊は防げない。

 目前では、まるで剣舞の如く、可奈美と姫和の攻撃を防ぐ百鬼丸の姿があった。最早、あの三人の剣戟に近寄る事が不可能になっていた。

 百鬼丸は、己の中に封印したタギツヒメの膨大な力を抑えながら、ワザと少女たちの攻撃を受けている。……自身を弱らせ、その上で隠世に行くつもりらしい。

 肩先と脇腹の傷から、橙色の粘着質な液体が溢れていた。

 彼が動くたびに、その飛沫が周囲の地面に飛び散る。

 可奈美も姫和も傷つく仲間へ刃を向けることに躊躇していない筈がないのだ。その証拠に二人とも、辛さを堪えるような悲痛な表情を必死で隠していた。

 

 ……それなのに。

 

 (どうして、お前だけはそんなに清々しい顔できるんだよ!)

 薫は、まるで、己の死が救いであるかの様に百鬼丸がニコニコと笑っている事に腹が立っていた。

 ムカつく、ムカツク、むかつくッ――――

 

 ぜんぶ、全部、世界の不幸が自分のモノだって言いたげなあの顔がムカつく!!

 桃色のツインテールを結ぶ黒いリボンを靡かせ、薫は口を真一文字に結び覚悟を決めた。

「おいっ、百鬼丸!! 覚悟しろっ、きぇええええええ!!」

 黒ローファーを鳴らし、渾身の一撃をキメるために飛び出した。六人の中で一番小柄な薫が、一番大きな御刀を百鬼丸目掛けて振り下ろす。

 刀使の家に生まれた者の宿命として――覚悟と信念をもって、今まで荒魂と向かいあってきた。

 ねねみたいに、長い時間をかけて「友達」になれる奴だっている。

 そう、荒魂は絶対に討滅すべき対象ではないことを知っている。人と必ず分かり合える存在である――それと同時に、世の中に害をなす荒魂を討つ覚悟も持たねばならない。

 

 

 薬丸自顕流独特の叫びで、渾身の一撃を百鬼丸へ叩きつける。可奈美と姫和は咄嗟に、バックステップを踏み距離をとる。

 迫る刀の影を感じながら百鬼丸は、

 「……へっ、」自嘲気味に笑いを零す。

 落ち着き払ったその表情は、今まで決定的な一打を待っていたかの様だった。

 巨大な鋼鉄の塊は、断頭台の刃の如く百鬼丸の左腕を遠慮なく吹き飛ばす。宙に舞った百鬼丸の左腕は刀を握ったまま高く回転しながら橙色の液体を撒き散らす。

 ぐっ、と強く歯噛みしながら薫は俯く。

「馬鹿野郎、絶対に許さねーからな」

 骨と肉をすり潰した気持ち悪い感触が掌に感じられる。

 それ以上に、これまで苦難の旅をしてきた友の腕を斬り飛ばした罪悪感と、悲しさが一気に押し寄せた。

 「ああ、そうか。ありがとうな」

 少年は、神様になった百鬼丸は優しい声音で感謝の言葉を述べる。

 (一番聞きたくない言葉だよ)

 キッ、と睨みつけるように薫は少年の方を見た。

 「……くっ、馬鹿野郎がぁよぉ」無意識に震えた声。

 それ以外に薫は言葉に出来なかった。

 百鬼丸は純粋な、他意の無い微笑みを浮かべている。

 「――――今だ、畳みかけろ!!」

 薫が、腹の底から怒鳴る。

 

 

 ◇

「うん!」「ハイ!」

 それを合図に、弾かれたようにエレンと舞衣が飛び出す。

 可奈美と姫和の体力を回復させる瞬間が必要と判断し、抜刀した。

 エレンの御刀《越前康継》と舞衣の《孫六兼元》の白刃が煌めく。

 一太刀は、右肩の上を斬り、もう一撃は右足に迷う事なく斬りつけた。深く刃を入れた影響で、骨の部分まで削ったらしい。鈍い感触が柄越しに伝わる。

 「「――――っ」」

 刀使のふたりは、言葉にできない苦いモノが込み上げるのを感じた。

 写シではない、筋肉繊維を一本一本、断ち切る生々しい手応え。

 「グッ」と痛みを喉の奥で堪える百鬼丸はしかし、苦悶に歪む表情から無理やり破顔してみせた。

「――それでいい、お前たちが斬ったのは人間じゃない……化け物だ」

 バキッ、と間髪を入れず金色に輝く拳が百鬼丸の顔面に叩きつけられた。

 目を丸くして、拳の主を見る。

 エレンは眉間に深い皺を刻み、怒りの眼差しを向けていた。

「まるまるは化け物じゃありマセン。――……友達デス」

 青い目の端に微かに涙を浮かべる。

 驚いたような顔をした百鬼丸は、小さく頷く。「……そうか」そう呟いた。

 「そうです……百鬼丸さんは、ずっとわたし達の仲間なんです」舞衣も、翡翠の美しい瞳で見返す。「妹たちも、貴方のこと大好きなんですよ」

 幼い妹たちと戯れていた少年へ、文句のような口調で言い放つ。

 「……そっか、悪いな。全部忘れてくれ。でも、ありがとうな。おれも大好きだったぜ」

 最後まで悪役に徹しきれない少年は、不思議と感謝の言葉しか言えなかった。

 深々と貫いた刃を思い切り引き抜き、エレンと舞衣はその場をすぐに離脱する。

 その反動で、百鬼丸は左側から体が崩れかけた。

 

 すかさず、一つの小柄な影が飛びこむ。

 「…………百鬼丸、百鬼丸は私たちが祓う」

 紫紺の瞳を逸らさず、沙耶香が真横に一文字、剣閃を迸らせる。

 分厚い筋肉の胸板に傷跡が描かれた。

 前かがみの姿勢のまま色素の薄い髪を、思わず少年の右肩に押し当てる。

 「……百鬼丸、消えないで」

 矛盾した一言だった。剣を振るい、百鬼丸を斬りながら、それでも少年に消えて欲しくないと思ってしまう。

 未だ整理のつかない心情の中、沙耶香は共に逃亡した時の弱り切った少年の孤独な影を思い出していた。

 額越しに感じる百鬼丸の温もり。

 もっと、喋りたいことがあった筈なのに、口下手でどう言っていいのか分からない。

 沙耶香は頭をあげて、少年を視界に映した。

 「――よくやったな。これでお別れだ」

 「……ッ、いやだ、百鬼丸っ、いやだ」沙耶香は、柄にもなく子どもみたいに駄々をこねた。

 もう、この少年を一人にしたくないと思った。

 『百鬼丸から離れろ!!』

 凛とした声が聞こえる。

 剣士の性質として、反射的に沙耶香は機敏に少年から離脱した。

 

 背後から声を放った人物……十条姫和は、切り揃えた前髪に重なる緋色の瞳を、百鬼丸に合わせる。

 

 

 「最後は私たちが終わらせる」

 

 すくっ、と姫和の傍で立ち上がった少女、衛藤可奈美も剣先を百鬼丸に向け、無言で頷く。

 「終わりにしよう」

 




『サヨナラだけが人生だ』(――引用、井伏鱒二『厄除け詩集』より)


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255話

  (その状態が続くのは辛いのだろう…………)

 一之太刀の構えをとりながら、姫和は切り揃えられた前髪に重なる目で百鬼丸を窺う。

 彼は、次々と御刀による攻撃を受けてボロボロの状態だった。――己の内に封じたタギツヒメが再び復活しないようある程度、自身(百鬼丸)にダメージを負わせてから『隠世』へゆく計画らしい。

 

 ――神を己の身に宿す

 

 それがどれだけの苦痛を伴うか――少なくとも、折神紫と姫和だけは理解できる。

 体の奥底から溢れる膨大過ぎるエネルギー。脳内が処理できない程の情報でパンクする感覚。

 (今思い出すだけでも気持ちが悪い)

――姫和は同じ苦痛を味わった者として、百鬼丸の事がよく分かる。

 (いま楽にしてやる)

 《小烏丸》の剣先を少年の胴体中心に合わせて力を溜める。

 体表を守る仄かに白い《写シ》の膜が七色に輝く。

 

――――たとえ、この身が消えようとも使命を果たす。

 

 先鋭化する意識の中、不思議と穏やかな気持ちで姫和が少年を見返した。刀傷でボロボロになった少年の表情は、どこか晴れやかだった。

 この世に生まれ落ちた時から抱えてきた全ての「業」を背負った彼は、その重たい荷物から開放される時がきた……まるで、そう言いたげだった。

 

 《神》となった少年の橙色の瞳が、偶然にも姫和の視線と絡む。

 「――――っ」

 姫和は、自身の中で言葉にできない感情の動揺を感じた。

 ふーっ、と長い黒髪を靡かせた少女は不意に訪れた迷いを振り払うように奥歯を噛みしめる。

 「……百鬼丸、お前も感じているんだろう。ノロが抱える根源的な深い孤独に。人は子をなして連綿と宿命や性質を連綿と受け継ぐ。――だが、ノロは違う。時間の環から外れた存在だ」

 言葉を紡ぎながら、姫和は足摺をして奥義を発動するタイミングを窺う。

 可奈美もそれを察知したのか、姫和の邪魔をさせないよう正眼に御刀を構え直し、周囲を警戒する。

 「タギツヒメも聞いているんだろう? 女神たちもまた時間を超越した存在……ゆえに、時間を畏れない。真に恐れているのは御刀だ。御刀で知性が無くなるほど切り刻まれてしまえば、仮に別のノロと融合しても元のタギツヒメでもノロでもない。別のナニカだ。命ある存在で言えば『死』にも等しい。――その死の概念がありながら、時間の環から外れている。その孤独を癒せないと知っていながら……暴れていたんだ」

 

 

滔々と語る姫和の声に耳を傾けながら、百鬼丸は頷いた。

「そうだ。おれも今、タギツヒメたちと融合して気付いたんだ。コイツらは、本当は寂しかったんだ。だけど、その孤独を埋める方法はない――姫和の言う通りだよ。おれはコイツらを憎んできた。だから、強くなる事ができた。……でも、知っちまったんだよ。コイツラの〝気持ち〟も。――へっ、おれの胸の中でタギツヒメさんが言ってらぁ、『お前たち刀使はその荒魂を斬り刻んできたんだろ?』って」

 皮肉っぽく口端を曲げて、呆れたようにいう百鬼丸。肩を竦めてヤレヤレ、とでも言いたげだった。

 姫和は、思わず苦笑いを零しそうになった。――誰にも内心を悟られないよう、俯いて再び口を開く。

「そう。私たちにできることは斬り祓うことだけだ」

全ての準備が整った。

 十条姫和は意志を決する。

 ――――この瞬間を待っていた。

 

 「受け取れ、百鬼丸!! これが私の一之太刀だッ!!!」

 青白いスパークの細い線が無数に外気に迸る。一瞬だけ、隣に立っていた可奈美の網膜を真っ白に染め上げた。

 刀使のみが使える高速移動の《迅移》

その最高クラスである五段階目の迅移を発動したのだ。

 「――えっ!?」可奈美は呆気にとられた。

 当初の作戦と違うことに驚き、思わず素っ頓狂な声をあげた。

 姫和とふたりで攻撃する手筈だったが、姫和は直前になって予定を裏切られた――いや、正確に言えば、初めから姫和はこうするつもりだったらしい。

 彼女が加速する間際に「可奈美、あとの事は頼む」と言い残し、すぐさま姿を消した。

 

 

 ◇

 ドスッ、と質量のある突きを胸の中心に感じた。

 胴体を貫く太い刀身。両刃の特徴的な御刀。

 百鬼丸はすぐさま、それが姫和の一撃だと気付いた。まったく姿形が見えなかった。神の目を持ってしても、捉えきることが出来ない速度……。

 身体が凄まじい勢いで加速している。百鬼丸は、周囲が真っ暗な闇に覆われ、虹色の光線の束が肉体を透過するオカシな感覚に全身が包まれた。

「これから先、お前は時間と空間の定まりもない次元の最奥の狭間へと追いやる。永遠の牢獄だ」

「――ああ、そうだな。助かったよ。そろそろ刀を離せ。今ならまだ間に合う。御刀を引き抜いて逆方向に加速すれば今ならまだ間に合う。元の世界に戻れるんだ。な、急いで――」

「黙れっ!!」

 短く、鋭く叱責する姫和。

 彼女は百鬼丸の胸板に右半身と額を当てながら、濡羽色の髪間から緋色の目を百鬼丸に合わせる。

「お前、ふざけんなよ!! 戻れなくなっちまんだよ! 可奈美たちは? 他の奴らはどうする? お前が消えちまって悲しむ奴が多くいるだろうがっ! お前がこんな事なんてしなくていいんだよ! 馬鹿なのか!」

「うるさい! 馬鹿はお前の方だ! 何を一人で恰好つけている! 全部自分で背負えば全て解決するとでも思ったのか! 愚か者め。だからお前が嫌いなんだ……私と似ているお前が大嫌いだ!」

「ああそうかよ、だったら、早くおれから離れろ、今すぐにだ!」

「――いいか、お前が今から行くのは本当の永遠の牢獄だ!」

「ああ分かってるよ、だからなんだよ」

「きっと退屈で死にたくなるだろうな」

「……嫌味かお前は」

百鬼丸は思わず、普段言い合うような口調になった。

「ふっ、くくくく」

少年に寄りかかった格好の長い黒髪の少女は、肩を震わせ笑った。

「――懐かしいな。こんな言い合い。ああ、嫌味だ。喜べ。――そしてお前に伝えたい事があるんだ」

「馬鹿、早くしろ、もう時間ないんだぞ! 逃げろって!」

「――――なぁ、百鬼丸。私もお前と共にその永遠の牢獄へ行く。正直、タギツヒメたち女神だけを封じるのに身を捧げる事に躊躇はあった……でも、今は違う。お前がいる」

「馬鹿か、なに寝ぼけた事いってんだよ、頼むからお前を巻き込みたくないんだ!」

 まるで百鬼丸の訴えなんて聞こえていないように、姫和は顔を上げて少年の頬まで顔を近寄せる。

「……一度しか言わないから、よく聞くんだ馬鹿者。お前と一緒ならば、私は永遠の牢獄も永遠の世界も怖くない。なにせ、お前みたいな馬鹿者と一緒だからな――退屈なんてしない」

 言い終わってから姫和は、美しく切り揃えられた前髪を揺らして百鬼丸の頬を擽る。

 「私も一緒にお前と隠世の深部まで行く」断固とした決意を述べた姫和は微笑を浮かべていた。

 「は!?」

 少女の決意に、間の抜けた声が洩れた。

 



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256話

一瞬で目前から消えた。

 ふいに虚空を掴む右手。

 可奈美は驚愕のあまり、しばらく呆然としていたが、時間の経過と共に姫和の真意を悟った。

 一歩間違えば存在自体が消滅してしまう。

 (……行かなきゃ)

 

 無意識の内にそんな言葉が己の口から漏れていた。

 千鳥を構え直し、次元の歪む瞬間を脳裏に反芻する。まだ、隠世との接続は切れていない。直感から確信した可奈美は、大上段に刃を掲げ、全身に気迫をみなぎらせる。気配がある空間。ただ、一点。そこを切り裂き、間髪を入れずに体を滑り込ませる。単純にして危険な行為。

 

 しかし、迷うことなく――

 

 一閃、可奈美の切り裂いた空間に透明な歪みが生じる。空間の裂け目という方が正しいだろうか。波立つ水面に似た外気の揺らぎの奥に、黒い空間が広がっていた。

 

 可奈美の身体は、迷わない。徐々に速度を上げ、二撃目を打ち込み、裂け広がった空間へと突き進む。

 

 会いたい、会いたい、会いたい

 

 胸から止めどなくあふれる思い。

 姫和を助け出し、そしてあの少年を日の当たる場所へ連れ出したい。

 あの日。御前試合で逃亡するハメになった2人。

 そこで偶然出会った少年。

 

 ――だけど。

 全部が偶然なんかじゃないかった。

 (今なら分かるんだ。あの時に出会えたのは、きっと偶然じゃないって。出会うべき人に出会えたんだって)

 

折神家の屋敷を襲撃した日。

隠世に消えようとした姫和の腕を繋ぎとめようと伸ばして……届かなくて諦めたあの日。

それでも、諦めずに姫和へ腕を伸ばした少年の横顔。

可奈美の表情に恐怖も迷いも諦めもない。

今なら分かる、今だから出来る気がしていた。

 

 待っててね、二人とも――

 

「うりぁあああああああああ!!」

 

 一太刀、想いを乗せて斬る。

 

 

 

 ◇

 

 

「だから、早く離れろよ! このぺちゃパイ娘! 頑固者!」

 焦りの表情を浮かべながら、必死に罵った。とにかく嫌われるために、思いつく限りの悪口を言いまくった。

 百鬼丸の胴体の中心を貫く刃―ーその柄を握る黒髪の少女。

 五段階目の迅移を発動した姫和の速度に乗って、百鬼丸と共に、隠世の深淵へと落ちてゆく。

 しかし、少年の真意など気付かず、カチンと頭にきた姫和は、

「はぁ~~~~っ!? お前は結局ここまで来ても、品性下劣なヤツだな。いいか、胸なんてこの先いくらでも育つんだ」

「そんなこと言ってる場合じゃねーよ、だから急いで逃げろって言ってるだろ」

「お前は、さっき言った私の言葉すら忘れたのか馬鹿者め」

「馬鹿はお前だ、マジでこの先は永遠に閉ざされた世界なんだって分かってて来るんじゃねーよ!」

「だから覚悟していると言っただろうが、物分かりの悪い奴だ」

ぐぬぬっ、と二人は唸りながら吐息のかかる距離で睨み合う。

 

 

と、その時。

 

 

『おーい、姫和ちゃーん、百鬼丸さーん!!』

 

 聞き覚えのあり過ぎる声が、聞こえる。こんな虹色の光線が無数に行き交うトンネル状の空間に響き渡る少女の声。

 

 

 「「可奈美っ!?」」

 

少年と少女の声が揃った。

 

 「いや、嘘だろ、まさか聞き間違えとかじゃ……」

 「ああ、ありえない」

 

 二人の困惑を他所に、二人の斜め上の頭上に無数の細かな亀裂が走り、眩い光が射し込んだかと思うと、華奢な人影が華麗に二人の傍に着地する。

 

 

 亜麻色の髪を揺らしながら、息を切らして頭を上げた少女。

 

 琥珀色の瞳に強い意志を点しながら、二人を交互に見る。

 

 「ぜっっったいに、二人のこと見失わないから!」

 弾んだ息で、可奈美が言い切る。

 

 

 

 



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257話

全身を貫く激しい痛みに耐えながら、百鬼丸は五感が次第に薄れゆく感覚を覚えた。

指先が動かない。

(やべぇな……。)

全身の末端が、氷のように凍結するようだ。体が飛び散るような激痛に歯を食いしばる。

隠世に送る――――次元時空の狭間を通り抜けるように、高速で全てが通り過ぎる。

現世を離れ、どれほどの時間が経過したのだろう?

つい、数秒前だろうか。それとも数日前だろうか。時間の概念すら危うい。

百鬼丸は、意識が薄れゆくのを強い意志で繋ぎ留め、可奈美と姫和を助ける方法を必死で考える。

 

(こいつらだけでも、現世に帰る方法がねーのか)

自分はともかく、彼女たちまで永遠の牢獄に囚われる必要はない。百鬼丸は考え込む。

――――と。

己の胴体を貫く刃の共振が強くなるのを感じていた。

まるで、何者かと惹かれ合うように御刀《小烏丸》が震えた。

……――どういう事だ?

 疑念が少年の頭を過る。

 目前を見ると、姫和も可奈美も御刀の共振が強くなることに驚愕している様子だった。

『百鬼丸くん、ここは深層までいく方が得策だぞ』

 胸の奥に住み着いた人格、レイリー・ブラッド・ジョーが助言した。

(んだ、テメェ急に)

『まぁ、そう怒るな。その前に――君の体内に宿した女神たちと君を分離する必要がある。深層に到着する寸前に彼女たちを蹴り飛ばして刀を引き抜くんだ』

(そんな単純な方法でイケるのか? タギツヒメたちもおれ達の会話聞いてるだろ?)

 愉快そうに一笑に付すジョー。

『なーに、ここまで隠世の奥まで運ばれれば彼女たちも今更どうしようもない。君の中に居る意味もないからね』

(…………。)

 確かにその通りかも知れない。

 納得した百鬼丸は、ふたりの少女を改めて凝視する。

 半身を百鬼丸の胴体に密着させ、鞏固な意志を示す姫和。その少女に寄り添うように、姫和の腕に優しく手を重ねる可奈美。

 

 自分(百鬼丸)と、隠世の深層まで付き合ってくれると言った少女たちの言葉が鼓膜に甦る。――嬉しくないワケがない。

 ……――おれはもう満足したんだ。

 内心で呟く。

 百鬼丸は《小烏丸》の鍔に手をかける。

 グッ、と腹部に力を入れながら、数センチ動かす。血の代わりにノロが粘つきながら細長い傷口から溢れ出た。ゴボッ、と指間を細い糸のように垂れた。

 激痛に表情を歪め、百鬼丸は無理やり強張った笑みを浮かべる。

 突然の行動に、姫和の身が硬直している。仲間の胴体を貫くだけでも相当の勇気と覚悟が必要だった筈だ。だから、こうして相手が刃を押し返す動作にどう対応すれば良いか分からない様子だった。

 「ここまで付き合ってくれて、悪かったな」

 「何を言っている?」怪訝に眉を顰める姫和。

 「どうしたの?」気にかけるように訊ねる可奈美。 

 そんな彼女たちの反応を半ば予期していた百鬼丸は、安堵すら感じていた。

 残る力を振り絞り、胴体と刃に隙間が出来た部分を更に広げるために掌底で鍔を押し出し、最後は足裏で鍔を無理やり押し返した。

 ――その瞬間。

 ボゥ、と傷口から膨大な焔が巻き上がったような気がした。

 人の形を模した焔が百鬼丸の傷口から生まれ、一瞬にして視界を真っ白に染め上げるようだった。

 

 膨大な情報や力が一気に抜けた反動で、百鬼丸の内部から急速に力の衰えのようなモノを感じた。圧倒的な力を抑えていた反動だろう。急速な脱力感が少年を容赦なく襲う。

 

 迅移の高速移動から切り離された百鬼丸は、錐揉みするように隠世の深層まで落ちていく。

 

 ……――結局、おれは何のために生まれたんだろうな。

 

 離れ離れになる刀使たちの滲んだ輪郭を眺めながら、そう思った。苦しい事ならばいくらでも思い出すことが出来る。自分が生まれたことで、引き起こされた問題だってあった。

 

(ま、どーでもいいか。そんなこと)

 感覚が喪失していく腕を上げて、少女たちに親指を立てる。

 生まれた意味は分からないが、それでも彼女たちと出会えた事だけには、クソタレな運命様にも感謝してやってもいい。

 彼女たちが口々に何かを叫んでいるが、上手く聞こえない。きっと、怒っているだろう。

 ――悪いな

 本当ならば、色々と謝りたいことがあるのに、今はうまく言葉にできない。もっと、相手の事を考えられたら良かったんだろうか…………

 パチン、と鋏で切られたように意識が途切れる。

 

 ――……おれの役割は終わった。

 

 妙な満足感が百鬼丸を満たしていった。

 

 

 ◇

気が付くと、見知らぬ広大な空間に立っていた。

周囲に目線を巡らせても、濃いミルクと溶かし込んだような霧が立ち込めるだけ。

左右も分からないまま、少年はズタボロの体を引き摺りながら、歩き出した。

刀傷からの流血は止まっており、意外な事に胴体の中央に穿たれた刀の穴も塞がっていた。

白っぽく変色した胸板の皮膚を左義手の指でなぞり、首をひねる。

「これって、どういうことだ?」

(それは、タギツヒメが排出された影響さ。膨大な焔の化身となった彼女が外部に出た瞬間の炎で、止血されたんだろうね。ついでに皮膚の癒着か。)

冷静な説明に少年は不機嫌にハナを鳴らす。

ああそうかよ、と吐き捨てて歩き出した。

 

 

 

どれほど移動しただろう?

その感覚すら分からなくなった頃――突如、霧が晴れて視界が開けた。左右に分かれた霧が目前に一筋の道筋をつくる。

その先には、古めかしい階段があった。

細く長い石階段が上へ向かって延びている。階段のゆく先は濃霧のような気流が視界を遮り、うまく周囲を視認することが出来ない。

階段の方まで行くと、石段の間に青苔が点々と生え、荒く削られた石の表面と共に古さを感じさせた。

一歩、少年が足を伸ばして階段を上っていく。

素足ではあるが、足裏に伝う温度は一切感じられない。

怪訝に思いつつ、片足を引き摺りながら無心で階段の終着点を目指す。

「ふぅ」と、疲れてもないのに溜息をついた。

「あなたは誰、ですか?」

凛とした涼やかな女性の声が聞こえる。目を凝らすと、階段の半ばに誰かが立っていた。朧げな人影は、黒鉛を滲ませたような輪郭で、正確な容姿まで確認できない。

思わず身を固くした少年は、腰を低く落として警戒する。あいにく、頼みの綱だった筈の加速装置もクラッシュ状態だ。

しかも、ぶきであるはずの御刀も、分離した際に女神たちから奪われている。下手に戦えば、満身創痍の状態も相まって負ける可能性が高い。慎重に発言に気を付けるように、少年は無理やり口元に微笑を浮かべる。

「お、おれは――本当の名前なんてない。だが、あんたに教えるんなら一つ。荒魂退治の百鬼丸だ」

言いながら、気恥ずかしくなって顔を逸らす。

……沈黙。

長い沈黙がふたりの間に落ちた。

「ふっ、ふふふ。変な人ですね」

険のとれた口調に代わっていた。

「荒魂を退治するって君が?」

 本当にできるの、とまで言わなかった。彼女なりの優しさだろう。

その態度に不服な少年は口をへの字に曲げて再び前を向く。

「そういうあんたは誰なんだ?」

「私? 私は……柊篝」

 名乗った瞬間、それまで輪郭を滲ませた蔭の蟠りが一斉に溶け、女性の姿を見せた。

旧鎌府高校の制服を身にまとった女学生。

濡羽色の美しい髪を、どこからか吹く微風に靡かせていた。特長的なのは、整った顔立ちに生真面目そうな表情。そして、緋色の瞳。

「ひより? ひよりなのか?」

少年は、無意識に口走っていた。

「ひより? ひよりって……」

どことなく、面影のある雰囲気や佇まいに惑わされ、少年は混乱していた。

(ん、いや違う。よく見ると全然違うわ)

少年は腕で目をゴシゴシこすって、改めて篝を眺める。

黒を基調とした制服の上着――特に胸部の部分には、大変豊かなふくらみが確認できた。

「ああ、ごめん。普通に人違いだったわ」

少年の下品な視線に、思わず篝は棟前を隠して赤面する。

「ちょ、ちょっと! どこみて判断してるんですか!?」

なんとも、杓子定規的な堅物感あふれる言い回しに、少年は懐かしさすら覚えた。

ギャーギャーと抗議する篝をよそに、少年は肩をすくめて笑う。

「そっか、あんたが姫和のかーちゃんなんだな」



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258話

「ええっと、君は――百鬼丸くんは、私が誰か分かるの?」

 柊篝は、困惑したように尋ねる。

「はい。もう見た目でピンときました」

以前、姫和の生家へ訊ねた時に見つけた篝の遺影より若い。しかし、姫和が大切にする――写真に残された彼女の顔を見間違える訳がなかった。

「そう」篝は、心無しか優しく微笑む。

 周囲に滞留する濃霧と、モノトーン調に沈む古い石階段。まるで、この空間だけは時間から切り離されている様だ。

「篝さんは、おれがどんな存在か分かるんですか?」

「ええ、君のことは御刀を通して把握しています」

そう言って、小烏丸の収まった太い鞘を目前に掲げる。

「ああ、なるほど。じゃあ、姫和のことも……」

「……はい。でも、今の私は大厄災が発生した高校生のまま。だから、少し不思議な感じがするんです」篝は右掌を眺め、儚い笑みを浮かべる。

相模湾岸で発生した荒魂による大厄災。未曾有の危機に投入された刀使たちの中で、タギツヒメたちを鎮めるために、身を挺した篝たち。

 

――その頃から、目前の柊篝は時間が止まっていた。

 

「…………。」百鬼丸は、何を言うべきか迷う。中途半端な慰めなど、今更、彼女に必要ない。

そんな少年の様子に気が付いた篝は、肩を竦める。

「気にしないで――っていうのは、無理があるかも知れないけど、これは私の役目だから」

飾ることもなく、篝はそう言った。

だから、思わず百鬼丸は首を振る。

「ちがう、全く違う! アンタらは……篝さんたちは、本当はもっと幸せになっていいだ!」

咄嗟に口をついて喋っていた。

「えっ」

妙な百鬼丸の剣幕に、篝は目を点にキョトンとする。

「役割だとか、何だとか難しい話なんておれは分からねーよ。だって馬鹿だからさ。でも、少なくともアンタたちみたいなイイ人たちが犠牲になるなんてオカシイんだ!」

どこか、苦しそうな表情を浮かべる少年の様子が、まるで自分の事のように必死に怒る少年の姿が、篝にはおかしかった。

「ふふっ、ありがとう。君にそう言って貰えただけでも本当に嬉しい」

「ちがう、ちがう、全然分かってねーよ!」

百鬼丸は強く首を横に振って否定する。……彼女の達観した考えを理解できなかった。

もっと、足掻いて欲しいとすら思っていた。もっと、苦痛や苦悩を自分(百鬼丸)にぶつけて欲しいと思っていたのだ。

……なのに。

 

(なんで、そんなに優しく笑えるんだよッ)

内心で強く反発する。

今、目の前に居る柊篝……姫和の母は、何一つ後悔などしていない顔だった。

「おかしい……おかしいよッ」

百鬼丸は駄々っ子みたいに、首を振る。

それが余計におかしくて、篝は苦笑いを漏らす。

緋色の瞳に少年の像を映し、

「――君も私と同じじゃないかな?」核心を衝く一言を放つ。

「そ、それは…………」

「私と同じように君もタギツヒメを封じるために隠世に来た。もし、君の言葉が正しいのなら、君も本当はここに来るべき存在じゃない」

「おれはいいんだ! おれは人じゃない、おれが元の世界から消えても、誰も困らない。でも……アンタは、篝さんは違う。沢山の人が悲しむ。そこは違うだろ」

「君が消えていい存在なら、姫和も隠世まで一緒に来ないはず――」

「違う、違う! 全然違うんだ……」

 篝の言葉を遮り、百鬼丸は必死に否定する。

 

『お前と一緒なら、永遠の時間の牢獄の中でも退屈しないで済みそうだ』

――姫和が胴体に刀身を突き刺しながら、そう言った気がする。

 

「――っ」

 思い出して、百鬼丸は下唇を噛む。

百鬼丸の懊悩する様子を眺めながら、篝は口を再び開く。

「君が言った言葉をそのまま返せば、百鬼丸くんも優しい。だから一人で隠世に来こようと思ったんだよね?」

「…………おれは人じゃない。本来、おれが居るべき世界はここなんだ。それに、タギツヒメを体内に宿した時、本当に世界を滅ぼす気でもいたんだ」

「でも、そうしなかった……どうして?」篝が、問う。

 言い淀む素振りをみせた少年は、一息ついて意を決したように頷く。

「クソみてーな世界でも、消えて欲しくない人たちが居るんだ。だから……」

だから、と言った後に言葉が続けられなかった。ふと、篝を見ると彼女は慈悲深い眼差しで百鬼丸を見詰めていた。

「私も同じ。確かに、家系の宿命で使命感もあった。でもそれ以上に、あの世界に居る友達を家族を守りたかった。だから私も君と同じ」

(そうか、最初から……)

百鬼丸は心の蟠りの理由を知った。

篝の気持ちが自分と同じ、誰かを守りたい――その後悔もないことに納得してしまった。

 

肩を小刻みに震わせた百鬼丸は、やがて頭を上げて大笑いする。

「やっぱり、姫和のかーちゃんには勝てねーな」

「……その実感はあんまりないんだけど、でも、君とのやりとりで感じる……あの娘(姫和)は凄くいい友達と出会えたんだって」

篝は、心の底から嬉しそうに言った。

 

だから百鬼丸は思い切り、頷く。

「ああ、可奈美も他の奴らもそうだ。姫和の周りにはいいやつが沢山いるんだぜ」

「うん、ありがとう。姫和の近くに君も居てくれて」

まだ十代の少女に似つかわしくない、柔らかく母性のある表情で再び微笑む。

 



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259話

『姫和ちゃーん!』

 真っ暗な空間に響く少女の声。

 衛藤可奈美は、《迅移》によってタギツヒメを憑依させた少年、百鬼丸を隠世の深層まで追放した。無論、可奈美だけでなく、十条姫和という少女と共に……。

 この時間・空間から切り離された延々と地平の果てまで続く暗闇は、さながら『永遠』という名の牢獄の如くである。

「どれくらい経ったのかな……」

 可奈美は思わず、呟く。

 隠世に百鬼丸を追放し終える間際、百鬼丸は可奈美たちを蹴り飛ばして行方をくらませた。

 結果、姫和とも別れてしまい現在に至る。

 もう、長い間歩き続けているようにも思えるし、つい数分前だった気もする。今の可奈美は、時間の概念が曖昧になっていた。

 …………と。

 キィィン、と御刀《千鳥》から共鳴音が鞘を通して伝う。

 「えっ?」

 不意の出来事に面を喰らった可奈美は、改めて鮮やかな紅塗りの鞘を眺める。

 (まるで、行先を示してるみたい……)

 御刀を目前に掲げると、共振の強弱がある事が解った。

 恐らく、この共振の強い方角に何かがあるに違いない――可奈美は直感した。

 「……うん、分かったよ」

 優しい声音で可奈美は同意する。

 きっと、この御刀の示す道に何かがある……だから、迷わず行くと決めた可奈美は、強い意志を持った足取りで進んでいった。

 

 

 ◇

 まるで、暗黒の森林を分け入るような気持ちで可奈美は歩く。

 いつの間にか、頭上には青く輝く無数の星々が冷たい光を放ちながら、暗闇の空を飾り立てる。

 尚も進んで行くと、地平の果てから軒先を連ねた民家が視界に捉えられた。

 「うそ、どうして……?」

 その集合住宅の風景は、可奈美が見慣れた実家のある区画であった。

 ここは隠世であって、現実世界ではないハズ……可奈美は戸惑い、足を止めた。もしかして、現実世界に帰ってきたのだろうか?

 しかし、それにしては人気がなさ過ぎる。

 それに、上手くは表現できないが、ここは現実世界を似せて作った別の場所――そんな直感が可奈美の胸を過る。

 とにかく、ここが現世か確かめるべきだ。

 そう決心した可奈美は、再び足を前に進む。

 見慣れた家門の前に立つと、不思議な気持ちになる。

 可奈美は門を軽く押すとキィィ、と金属質な音と共に敷地内へ入った。

 「私の……家だよね」

 半ば茫然とした口調で、可奈美は独り言ちる。

 幼い頃から見慣れた茶色い外壁の2階建ての民家。余りにも完璧に再現された家は、久々に帰郷した気分に浸らせてくれた。

 「なんだか変な気分……」

 思わず、笑みがこぼれる。

 「誰かいるかも」

 何故だか、可奈美はそんな気がした。

 小走りで玄関扉を開くと、靴を脱ぎ居間に向かう。

「おとーさん? おにーちゃん?」

 家族を呼んでみる――――当然ながら返事などない。

「やっぱり誰もいない……」

 落胆した声音の可奈美は、開け放たれた居間のガラス扉前に立ち尽くしていた。

 (ここは現実世界じゃない)

 一瞬、勘違いしそうだったけど、やっぱりここは違う。生活感が一切ないモデルルームみたいな空間だ。

 改めてその認識が強められた。――――と。

 トン、トン、トン、と背後の廊下から誰かの足音が近寄る。

 可奈美は思わず背後を振り返ると、

 『可奈美っ!?』

 夢の中で聞き慣れていた懐かしい声が聞こえた。

 「えっ……!?」

 背後から姿を現したのは若き日の藤原美奈都、可奈美の母であった。

 

 

 ◇

「これは、私の家……なのか」

 十条姫和の目前にもまた、一軒の民家が佇んでいた。

 のどかな田園風景の中にポツンと鎮座する茅葺屋根の古民家は、正しく姫和の実家だった。

(まさか、あり得ない)

姫和は、理解が追い付かず首を横に振る。

 百鬼丸を深層に追放するため《迅移》の最高レベルで加速し、現実世界から離れたハズ。なぜ、今、目前に実家があるのだろう?

 「なんなんだ……」戸惑いながらも、自然と姫和の脚は実家の方へと向かっていた。

 暗闇の中を歩き続けたあとに見る実家は、とても懐かしく、胸を焦がすほどのノスタルジーが姫和の感情を揺さぶっていた。

 

 ◇

 玄関に入ると、丹念に空間の四隅を眺める。

 古民家特有の経年で変色した木目や、荒い壁の表面、上がり框。何年も過ごしてきた場所だ。間違えるワケがない。

 姫和は、驚きつつも、懐かしい光景にうまく言葉が出ない。

 下に目線をやると、揃えられた大小一組ずつの靴を発見した。女性用の靴と、幼い子供用の靴……それは、かつて幼い姫和が外出する時に履いていた靴そのものだった。

 「そうか、ここは私の記憶の中の家というワケか」

 妙に納得してしまった。

 どうりで、すべて自分の記憶と寸分たがわぬ光景だったワケか……姫和は一人で疑問を解決すると、靴を脱いで畳の部屋に入った。

 足裏に伝う畳の感触が、幻想とは思えないほど現実的だった。

「空気も匂いも、全部本物じゃないか」

 姫和は、不思議な気分になりながらも、とにかく家を探索することに決めた。

 

 

 

 




アンケは都合上、明日までにさせて頂きます。

スマヌぞよ。



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260話

 

実家の内部を探索しながら、

(あれから何日経過したんだろう……)

長い間、暗闇の中を彷徨うと時間感覚が狂ってしまうらしい。

「二人は大丈夫なんだろうか」

周りを眺めながら、ポツリと呟く。

可奈美と百鬼丸、ふたりと離れてからどれ程経過したのか分からない。

ふと、姫和は反芻する。

 

――――そう、あの時からだ。

 

 

百鬼丸の胴体を小烏丸の刃で貫き、五段階目の迅移によって隠世に追放する。……そして、自身(姫和)も共に消えるハズだった。

……だから、最後に姫和は意を決して少年の頭に自らの顔を近寄せる。

『お前を孤独にはしない。私も共に深層へ行く』

そう囁いた。

(あの時の奴の顔、おかしかったな)

ふっ、と思わず姫和の口元が綻ぶ。

『おま、急に何言ってるんだよ!!』

目を瞠って、驚愕した様子の百鬼丸は、神を宿した異質な存在ではなく……一緒に旅をした時の少年のままの表情を浮かべていた。

誰も巻き込まない最善の方法で――いや、違う。

内心で姫和は自らに反駁した。

(そうじゃない。私が刀使で使命を果たす為にやったワケじゃないんだ……ただ、奴を孤独にさせたくなかったんだ)

姫和は、不意に右手の拳を強く握った。

(……だが結局のところアイツは全部、お見通しだったんだな)

あの時……百鬼丸を隠世に追放する間際に、姫和と共に《迅移》で付いてきた少女……衛藤可奈美。

彼女に向け、姫和は苦笑いを漏らしながら、

『可奈美すまん。お前に嘘をついた――』本音を告白する寸前だった。

『――知ってたよ。姫和ちゃんの気持ち』

間髪を入れず、可奈美が言った。

『新陰流において、突きは死の太刀。二太刀目はない最後の剣!!』

明るく真直ぐな声と目で、百鬼丸を真正面から見据える可奈美。

『……全部、姫和ちゃんに背負わせない。そう約束したんだ。だからね、姫和ちゃんも世界も全部はあげられないよ』

百鬼丸の中にいるタギツヒメに語るように囁く。

『だからね……私の人生を半分あげるよ』

その一言に姫和は驚愕した。

『可奈美っ!』

『半分持つって約束したでしょ?』

可奈美は、いたずらっ子のように小さく舌を出して笑う。

『――まったく、お前という奴は』

呆れてモノも言えない。そう言葉を続けるハズだったのに、なぜだか姫和は言葉が詰まった。

しかし、姫和と同じかそれ以上に驚きを隠せずにいた百鬼丸は、

『なんでお前ら二人はそうやって……』

首を横に振って信じられない、と言いたげな困惑具合だった。

『――――ねぇ、百鬼丸さん。私たち三人って不思議な縁で結ばれてると思わない?』

『……縁?』

『うん、私はそう思うんだ。ね、姫和ちゃん』

話を振られた姫和は、呆れたように微笑し、

『そうだな。だが、腐れ縁だ』

と、憎まれ口を叩く。

そのやり取りが懐かしく、百鬼丸も釣られて笑みを零す。

『……縁、そうか縁か』

だからね、と可奈美は言葉を続ける。

『行こうよ。三人で世界の……時空の果てまで』

まるで旅行するような口調で可奈美が言った。

『ああ。』

姫和も肯く。

どうやら、気持ちは同じだったらしい。

 

「「はぁあああああああああああああああああああああああ!!」」

 

ふたりの揃った掛け声と共に、迅移によってトップスピードだった状態から更なる加速が始まり、百鬼丸の肉体は隠世の深層まで到達させる事に成功した。

 

 

 

「可奈美、最初から私の考えに気が付いていたんだな」

広く畳の敷き詰められた部屋の中央で立ち止まった姫和は、俯き加減に声を震わせた。

「馬鹿者っ、荷物を持つとはそういう事だったのか――」

人生を半分あげる……自らの命を対価にしてでも姫和を助けたいと思ったのだろう。

なぜ、そんなにまでしてくれるのだろう。

姫和は、己の鈍感さに改めて気が付き、肩を小刻みに震わせた。

「せめてもう一度だけ可奈美に会いたい」

後悔の波が止めどなく心を襲う。

「会って今度こそ――」

謝りたい。いや、感謝したいのだ。十条姫和という一人の人間として、衛藤可奈美という少女と向き合いたい。

光る粒が畳の上に数滴、零れた。

 

『――あの、』

姫和の背後から声がした。

 

「ッ、誰だ!」

物凄い剣幕で姫和は叫ぶ。

敵かもしれない。

そう思い、咄嗟に背後を振り返ると――――

「かあさん?」

自然と、姫和の口から懐かしい呼び名が洩れていた。

 




後日、加筆します。

あと、アンケート回答ありがとうございました。

まさか同票だったので、困りました。


そこで、現時点では本作はアニメラストまで描く事に決めました。

後日譚については、パスワード投稿にしようかな? と現時点では考えております。

何かご意見などございましたら、お伝え下されば幸いです。では



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261話

「かあさん?」

篝は、困惑した。

突然に目の前の少女からそう呼ばれたのだ。隠世の柊篝は江ノ島で発生した大厄災の頃から年齢は十代のまま変わっていない。

 

同じ年頃のような少女が咄嗟に口を突いて出た言葉が、よほど意外だったらしく、暫く篝は「ええっと……」と何を言うべきか悩んでいた。

 

その様子を見てとった姫和は、深く深呼吸する。

同じ真紅の瞳を合わせ、

「あなたの……柊篝の娘です!」

思い切り大きな声で告げた。

 

「えっ……」

尚も困惑する篝をよそに、姫和は嬉しいのか悲しいのか……自分でもよく分からない感情に陥っていた。

 

 

 

「ふーん、ここが可奈美の家なんだ」

まるで他人事のように、藤原美奈都は、しみじみ呟いた。

一軒家の居間に置かれたテーブルを挟んで、娘である衛藤可奈美は嬉しそうに若き日の母を眺める。

無論、夢で何度も会ってはいるものの、隠世で会うとは思ってもみなかったらしい。

普段よりも明るい表情で、

「おか……師匠は知らないよね。お父さんと結婚してこの家に来て、それでお兄ちゃんと私が生まれたんだよ」

手短に伝える可奈美。若い頃の母は、「えぇ、想像したくないぃ」と、珍しく戸惑った様子だった。

 

――先程、改めて二人はこれまでの経緯を簡単に踏まえた自己紹介を躱していた。それは問題なく行われたのだが……。

 しかし、可奈美が名前を名乗った時に、

『衛藤――ってまさか、あの!?」

と、大仰に美奈都は驚愕していた。

 

 

 

 改めて未来の娘から聞かされる話を聞きながら、

「あ~、信じたくないなぁ……あんな奴と結婚とかぁ……」

羞恥とか恥辱に耐えるような、普段の美奈都ならば絶対にしない表情を浮かべ、可奈美から顔を逸らし悶絶していた。

 

 そんな母の様子を眺めながら、

「お父さんのこと、昔から知ってたの?」

 純粋な疑問を口にする。可奈美自身、両親の出逢った詳しい経緯までは聞いた事がなかった。

 

 「あ~」

 言葉を濁そうと口ごもる。

 「ねぇ、教えて」可奈美は、琥珀色の大きな瞳を輝かせて尋ねた。

 「うぅ……」

 その他人とは思えない眼差しに根負けし、頬を軽く掻きながら「昔からの腐れ縁だよ」とポツリ呟く。

 「何がどうなってあんな奴と」

 と、盛大にボヤいた。

 夢で剣の稽古をする凛々しい姿とはかけ離れた、年相応の美奈都の反応に思わず可奈美は口が緩む。

 「きっと、奇跡の大逆転があったんだよ。お父さんとお母さんラブラブだったもん」

 容赦なく、未来のふたりの姿を可奈美は告げた。

 「うげぇ……」

 吐きそうな呻き声をあげて、美奈都は更に悶絶する。

 そんな様子を見ながら可奈美は、

 「あはははは。やっぱり、変な感じ」

 藤原美奈都と言う、母と同じ人間であるハズなのに、こうして年齢の近い母と話すのが、やはり不思議な気分だった。

 しかし、美奈都は冷静さを取り戻して、改めてテーブルの向かい側に座る可奈美の顔を見詰める。

 「……でも、そのお蔭で可奈美が生まれてくれたんだよね」

 同じ琥珀色の目で、親子の視線が絡んだ。

 「そうだよ」

 ここに居る母は、厳密に言えば可奈美の知る母ではない――けれど、その姿、言葉、想い、全てが自分の母だと思わせてくれた。

 「だったら、まぁ、いいか!」

 割り切ったように、美奈都は言った。

 「ふっ、あははは。相変わらず軽いなー」可奈美は軽くツッコんだ。

 昔から母の割り切りの良さを、今、この瞬間に感じた。久々の親子での会話は楽しいはずなのに、どこか切なかった。

 

 

 畳の敷き詰められた広い部屋。広々とした和室の空間に向かい合う二つの影。

「あの……あなたは大災厄の時点での母ですから、私の知る母とは別人なのですが……歳の近い者に突然母なんて呼ばれて混乱させ……」

 先程から要領を得ない説明を続ける十条姫和は、若い母親の姿に驚きつつも、隠世にきた経緯を説明していた。

 普段ならばもっと、明確に要領よく話せるはずだ。姫和は、自分の情けなさに臍を噛みながらも、必死に言葉を紡ぐ。

 そんな姫和の内心を知ってか知らずか、

 「……小烏丸」と、静かに一言だけ篝が呟いた。

 「えっ?」

 傍に置いた御刀《小烏丸》の鞘に篝は手を置いた。

 「貴女も小烏丸に選ばれたのね」

 そう言って、鞘の表面を撫でる。

 何気ない一言だけで、姫和には十分だった。

 「……私は正式な手続きではなく、元の時間の貴女……母から受け継ぎました。それと」

 と、言いつつ懐からスペクトラム計を取り出し、篝に手渡した。

 「これは、私が使っていた……」

 「はい」

 「紫様の御傍にお仕えする際に実家から持ってきたものだったの……同じ小烏丸が二振り。恐らく、貴女の方が本物で私のモノは偽物。隠世の幽霊みたいなものね……私と同じように現世に非ざるもの」

 篝は、どこか納得のいったように微笑を浮かべた。

 「現世に非ざるもの……」

 姫和は、その言葉を以前にも聞いていた。

 ――記憶の糸を必死で手繰る。

 (そうだ!)

 あの時、折神家の屋敷に突入した場面だった。

 『千鳥と小烏丸、まるで藤原美奈都と柊篝の如く、現世に非ざるもの』

 

 その瞬間、姫和は、目前の母の存在とこれまでの違和感の正体を掴んだ気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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262話

「そういえばどうして、おれが篝さんと出会って話しできるんですか?」

率直な疑問を口にした。

 

「…………なぜか分からないけど、手がかりになりそうな出来事は思い出せない?」と篝は問う。

 百鬼丸は、「そうですね」と乱暴に頭を掻き、これまでの旅の話など経緯を簡単に語った。

 可奈美と姫和と出会ったこと、折神家に突入したこと、三女神の争いなど。そして、自身の出自について。

 

 全てを聴き終えた篝は、少し考えるような仕草をする。

「――そう、君は私と出会う運命の人なのかも知れない」

「どういう意味ですか?」

 百鬼丸は言葉の意味が理解できず首を傾げる。

 

「…………今から話す内容は正確じゃないかも知れない。だけど、多分だけど百鬼丸くんから聞いた話を纏めると全体が把握できるの」

 篝は顔を上げて真直ぐ百鬼丸を見据えた。

 緋色の美しい瞳と目線が合った異形の少年は思わず、

(姫和に似ている……)

 と、思った。

 当然と言えば当然なのだが、篝は姫和の母親なのだ。

 

 その篝は真剣な眼差しで百鬼丸に語り掛ける。

 「今、私たちが居るこの場所は隠世。そして、百鬼丸くんと話している私は多元宇宙の平行世界線の可能性の一つ。ちなみに、今君の目の前に居る私は、姫和の母親としての記憶を持っている柊篝」

 戸惑う百鬼丸をよそに、さらに話しを続ける。

 

「隠世で出会うには人と人の繋がりが重要になってくる。私の柊家は折神家の裏となる存在。そして百鬼丸くんは轆轤家という生贄となる血族だった……柊とも多少の血縁関係があってもおかしくない。むしろ、柊家は裏を司るために、なんでもやってきたのかも……」

 

「な、なるほど?」

 難しい話に百鬼丸は目をグルグル回しながら返事だけはした。

 

「それに百鬼丸くんの話から推測すると―君と一緒に迷い込んだあの娘(姫和)は別の私と会話をしているはず」

 「……難しい事は分からないけど多分そうなんでしょうね」

 「――……でも、確証が持てないの」

 寂しそうな微笑を浮かべる篝。その表情は、姫和も見せた事のある諦めに似た顔だった。

 「確かに御刀を通してあの娘を見守っていた……気がする。だけどこの記憶は私自身の体験か分からない。平行世界の私の記憶を引き継いでいるのかも知れない――」

 己の掌を眺めながらグッ、と軽く拳を握る篝は、言葉を噛みしめるように話す。

 

 「それでも姫和が心配なんですよね? これまで御刀を通して姫和を見守ってたなら猶更――」

 「――ええ、心配だった。でも……それと同じくらいあの子が成長している様子も見られたから嬉しくて」

 見た目は10代の女子高生である篝だが、今は母親のような慈愛に満ちた微笑を浮かべている。

 「ははっ、分かりやすくていいですね。アイツ……姫和と親子なだって思います。特に感情が隠せない所とか」

 「そ、そう……?」

 篝は困惑した様子だった。

 

 (やっぱ似てるよ……)

 内心で苦笑いする百鬼丸。

 

 篝はすぐに表情を真面目な調子に戻し、背後に首を巡らす。

 「もうすぐこの場所――隠世は消滅するわ。多次元の平行世界が一つに集約して最終的にはブラックホールみたいに全てが無に帰っていく」

 「本当ですか!?」

 「あくまで予感だけど……長い間隠世に居るから多分この直感は信じられる」

 「……でも、なんとかして可奈美と姫和だけでも元の世界に帰せないですかね?」

 「百鬼丸くんは戻らなくて平気なの?」

 痛い所を衝かれた、という風に百鬼丸は複雑な表情で肩を竦める。

 「もともと、おれは出来損ないから生まれた存在で……むしろ、異物だったわけで……本来はあの世界に存在しちゃダメなんですよ」

 達観した口調でつぶやく百鬼丸。

 「そんなことは……」

 何と言葉をかけて良いか分からず篝は俯き言い淀む。

 

 百鬼丸は目線を逸らしながら、

 「あの二人とは会えません。それにアイツらの顔を見たら決意が鈍るんです」

 と、言った。

 

 不思議な発言をする百鬼丸に対して篝は、

 「――決意?」

 と、聞き返した。そして少年の一言が気がかりな篝は歩み寄り――百鬼丸は一歩足を退いた。

 「――おれはやるべき事を見つけたんです。もう、誰も悲しませない世界を目指すって」

 「どういうこと?」

 「……――――。」

 少年は篝から顔を逸らしたまま、何も語らず口を閉ざしていた。 

 彼の横顔は大切なものを守る人の厳格な表情をしていた。

 

 (姫和たちとは二度と会わない決意…………。)

 百鬼丸の真意を汲んだ篝は目を伏せ、何を言うべきか迷った。

 

 周囲の風景は相変わらず濃霧に覆われており、その霧間には社殿に続く石階段の輪郭が見えるだけ。白黒調の世界は、なんとも無機質な印象を与える。

 

 「百鬼丸くん。もうすぐ、姫和たちとこの場所が繋がる気がするの……隠世の集約が始まって――最終的には消える。その前だから言いたいんだけど……」

 何か重大な事だろうか? ふと、百鬼丸は首を前に戻す。

 「私の娘を守ってくれてありがとう」

 「えっ?」

 唐突な一言に思わず百鬼丸は呆気にとられた。

 

 「――あの日、相模湾岸での大厄災から時間が経ってしまった。本来であれば私がお役目として全てを受け入れなければいけなかったの。……でも、周りの信頼できる仲間のお蔭で生き残って――姫和を生むことができた」

 

 目の前にいる柊篝という人物は見た目こそ若いが、精神も記憶も亡くなる直前の状態らしい。

 慈しみに満ちた眼差しも、優しげに語る言葉も、一人の娘を愛する母の姿だった。

 「あの娘に復讐をして欲しかったんじゃない……大厄災とは無関係に自由に生きて欲しかった。だから御刀を手にするなんて…………」

 篝は強く後悔するような沈んだ口調だった。

 「でも、御刀を受け継いだからこそ、もう一度だけ姫和はアナタと出会う機会が訪れた」

 「ええ、それでも――」

 ふっ、と百鬼丸は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 

 「仮にアイツが大厄災の件だとか、復讐の道だとかに進まなくても、きっと刀使になってましたよ。だってアイツ馬鹿正直で正義感とか強そうじゃないですか? 篝さんみたいに生真面目で」

 「えっ?」

 目を丸くした篝の様子がおかしくて、百鬼丸は堪えきれず「ぷっはははは」と大きな声で笑い転げた。

 ひとしきり笑い、目尻の涙を指で拭いながら、

 「どんな世界でも、アイツは刀使になって……そんで、可奈美とか色んな連中と出会うんじゃないですかね?」

 百鬼丸は、二人と出会うきっかけとなった御前試合の日を思い返す。

 逃走犯となった二人の少女たちと行動を共にして、逃げ続けた――――。その旅の途中で、二人の出会いは偶然ではないと直感していた。

 

 どんな世界でも、どんな場所でも関係なく二人は……いや、二人以外の人たちも必ず出会う運命だったろう。

 「……そう」

 篝は、どこか満足そうに頷いた。

 「百鬼丸くんと話しができて良かった。今の私は思念の残滓みたいな存在で、もうすぐ消滅するけれど、あの娘と一緒にいる『私』は御刀があるから、急に消えることは無いと思うわ。百鬼丸くんも御刀の存在が知覚できれば、小烏丸のある方向に進めば迷いなくたどり着ける」

 「分かりました」

 

 百鬼丸は頷いた。薄く目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。御刀の方角が感覚で伝わってくる。

 「――それじゃ、お世話になりました」

 「ええ。さようなら」篝は微笑を浮かべる。

 一礼すると、百鬼丸は歩き出した。

 ―――――……数歩歩きだしてから少年は何かを思い出したように足をピタッと止め、振り返る。

「そういえば一つだけ疑問があったんで質問いいですか?」

真剣な眼差しで篝を見る。

 

(まだ何か重大なことがあるの?) 

一体なんだろう、と篝は身構える。

 

「どうやって結婚相手を決めたのか、惚れた理由とか教えて貰えます?」

 ニィ、と意地悪く百鬼丸の口端が曲がっていた。

「~~~~~っッ!!」

 あまりの予想外の質問に言葉を失う篝は、途轍もない恥ずかしさでフリーズした。

 

そんな様子を面白そうに眺めながら百鬼丸は軽く手を挙げる。

「最後に良い顔みれました。それじゃ!」

爽やかに言い残すと、再び歩き始めた。今度は止まることなく濃霧の中へと溶け込んだ――。

 



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