山田先生と高校の先輩の四方山話。 (逆立ちバナナテキーラ添え)
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ほんとうに、──くんはしょうがないなぁ☆


 ハッピーエンド書くぜ。


 書くぜ。(念押し)


 

 

 

 彼はぴくりとも動かなくなった彼女を抱いて、静かに笑った。

 彼はとても幸せだった。

 

 ぼくはそう締めくくって、キーボードから手を放した。身体を伸ばせば小気味のいい音が節々から聴こえてくる。部屋に灯りはなく、唯一の光源は目の前のデスクトップモニターだけで、その中でぼくが記した文字が陰鬱そうにぼくを見ている。そんなふうに思えてしまうほど、じめじめした文だった。

 疲れがどっと押し寄せてきて、ぼくはデスクに突っ伏した。思えば一昨日からまともな物を口にしていない。空きっ腹がへんに惨めな気持ちにさせて、もうこのまま寝てしまおう、なにもかもどうでもいいから世界中が自分一人になってしまえばいい、と思考を泥沼に引き摺り込んでいく。

 いつも通りの悲劇。いつも通りの憂鬱な作品だった。不治の病に冒された女の幼馴染みが、憔悴してゆく彼女を見る度に好意を自覚して、最後は病魔に殺されるぐらいならば自分が殺すと言って彼女の首を締める。なんでこんなものを書いてしまったのか、自分でもよく分からない。いつもいつも、筆を取ればこんなものしか書くことが出来ない。

 

 ぼくが物を書くようになったのは、中学三年生の秋だった。名の知れた作家だった父の遺伝かは分からないが、小さい頃から本が好きだったぼくはなにか大きなものに突き動かされたように処女作を綴り始めた。それから時が経って、昨日二十七歳になったぼくは作家として生計を立てている。国内では幾つか賞を貰って、二つの作品が映画になった。

 色んなものを書いた。SF、ミステリー、恋愛もの、はてはファンタジー。アニメや映画の脚本を手掛けたこともあったが、どれも幸せな物語はなかった。そこには暴力があって、人の暗く、酷く汚い部分ばかりがまざまざと浮き出てくるものばかりだった。そういう所を名前も知らない評論家に叩かれることもあったけれど、そんな時は気が狂ったように酒を飲んで、煙草を吸って、女と遊んで忘れた。そうすれば、いらいらよりも大きな自己嫌悪の波が全てを拐ってくれるから。

 朝、目が覚めて、隣で知らない女が眠っていると無性に涙が溢れてしまうのだ。女を起こさないように声を殺していると決まって女は起きてしまって、ぼくを見て驚く。でも、怪訝な顔をせずにぼくを抱き留めて、まるで母親が幼子をあやすように落ち着かせてくれる。その温もりに包まれながらぼくは毎度情けない気持ちになる。訳も分からず泣いているぼくをなにも聴かずに慰めてくれる彼女たちに比べ、ぼくときたらなんて汚れた生き物なんだろう。こんな、精々が文を書くぐらいしか能のないやつなんて、死んでしまえばいい。そういう暗い感情に満たされながらも、何処か安心してしまう自分にさらに嫌気がさす。極めつけは、その感情を糧に物を書き、飯を食えていることが何よりも皮肉が効いているということだろう。

 

 だから、ろくなものが書けない。

 

 世界の淵のような4LDKの中で一人、深く、二度と這い上がってこれないような暗闇に溶ける寸前、けたまましく着信音が鳴り響いた。買い換えたばかりのスマートフォンの画面には、いつも騒々しい知り合いの名前が表示されている。

 

 「おい、色魔!生きてるか?」

 

 まるで人間失格の堀木みたいなことを言い出した彼の姓には、同じ堀という字がある。

 堀崎はぼくと同期の作家で、こうして弱ったぼくが消えてしまいそうな時、すんでの所でいつも引き止める。人のことを色魔だなんて、柔い部分をつねるような名前で呼ぶのに、堀崎はぼくに優しくする。それがなんだか怖くもあるのだけれど、付き合いを絶とうと思ったことは不思議と一度もなかった。

 

 「まぁ、なんとかね」

 「そりゃあよかった。自殺未遂なんてされたら敵わないならな。今から出てこいよ、いつもの所だ」

 

 堀崎はぼくに喋らせる暇を与えずに言いきった。たぶん、喋らせたら断ることを見越してのことだった。

 

 「来なきゃあ、おまえにツケとくぜ」

 

 そう言って、スピーカーからは虚しい音が聴こえてくる。

 時計は夜の一時を回っていたけれど、ぼくは支度をしてよく行くバーに向かった。

 堀崎。堀崎成悟はぼくとは磁石の極のような関係にあった。作風も性格も真逆なのに、どうしてか取材や企画で一緒になることが多く、プライベートでも頻繁につるんでいる。と言っても、向こうがぼくを呼び出すか、ぼくの部屋に酒を両手いっぱいに抱えて押し掛けるかの二通りしかない。

 彼もぼくと同じような受賞歴と、映画化の実績を持っているが、ウケがいいのは圧倒的に堀崎の方で、昨年ヒットした堀崎が原作の映画は来年には続編が公開されるらしい。それは当然のことで、堀崎の書く文にはぼくのような負はなくて、何処までも突き抜ける青空のような気風が感じられる。どれだけの苦難や、試練が立ち塞がっても最後には笑顔と感動がある。そういう作品の方が支持されるのは当たり前のことで、それを堀崎は心の底から書いている。

 そのバーはぼくの家から歩いていけるほどの場所に慎ましく店を構えている。表の喧騒を嫌うように、ネオンの光が当たらない路地の裏の裏にあって、その扉も客を拒むように分厚い金属のものだった。普通に歩いていると見逃してしまうように、扉には小さく店の名前が刻まれている。BAR-Akeka。客を取る気が微塵も感じられないこの店がぼくは好きだった。

 

 「よぅ、色魔。思った通り酷い顔色だな。おまえ、俺が電話しなけりゃ、どうせ、三日、四日もろくなもの食わないまま、そのまま寝てたんだろう」

 かもしれない、と言って「朱香さん、ナッツとスコッチちょうだい。タリスカーね」

 「いいや、朱香姐さん、今のはナシだ。ちゃんとしたものを食わせてやってくれ。こいつ、死んじまうぜ……」

 

 堀崎はぼくの注文を取り消して酷い無茶を言った。ここはバーであって、居酒屋ではないのに、ちゃんとしたものを食わせろだなんて場違いにも程がある。でも朱香さんはしょうがないというふうにぼくを見て、少し待っててね、と奥へ下がっていった。

 

 「余計なお世話だよ」

 「こうでもしないとおまえは勝手に餓死するか、苔になっちまうからな。悪く思えよ」

 

 こういう堀崎の優しさが煩わしく感じる。でも、その友情じみた厚意を無下にしようとする自分が相変わらず嫌で、ぼくは苦い顔をして、堀崎のカシューナッツを引ったくって口に放り込んだ。

 

 「最近はどうだ?」

 「さっき、一つ脱稿したよ。ヘドが出るようなやつだ」

 「そうかい、そりゃあお疲れさん」堀崎はぼくの肩を叩いて、「でも、最近頑張りすぎてないか?」

 「そうでもないよ。今回は癪だけど、筆が乗ったんだ。それに、元々書くのは早い方だよ。内容はともかく」

 

 三日で今回は一つ書き上げた。ヘドが出るようなと言っておきながらなんだけれど、筆が乗る乗らないにぼくの場合は自分の嗜好は関係ないらしい。大筋が浮かんで、書きはじめると指先は止まらなかったし、止められなかった。くらくらする頭と吐き気の中で見えたものが、五指に流れ込んだ。

 暫くすると、朱香さんが奥から戻ってきて、カウンターにお皿を置いた。山盛りのパスタ。ほうれん草とベーコンと半熟の玉子。こんなものしか出せないけど許してね、と朱香さんは言うが、ぼくにとってはこんなに温かくて優しそうなご飯は久しぶりで、ちょっとばかり感動してしまうものだった。添加物たっぷりで、濃い味付けのコンビニ弁当とはまるで違う。

 ぼくがそのパスタに夢中になっていると、朱香さんが笑いながら、

 

 「もっとゆっくり食べないと、身体に悪いわよ。別にパスタは逃げないんだから……」

 「でも、美味しいんだ。こんなに美味しいご飯を作る朱香さんが悪いよ」

 「足りなかったら、おかわりもあるからね。いっぱい食べて、体力つけなきゃ」

 「ぼくはもうすぐ三十路だよ。体力もへったくれもないって。運動部の学生じゃあるまいし」

 

 朱香さんはこうやってぼくを子供扱いするきらいがある。もう、いい歳のおじさんのぼくを弟かなにかのように可愛がるものだから、一人っ子のぼくは随分前から奇妙な姉弟関係に巻き込まれている。たぶん、ぼくと二つ程しか歳も離れていないから、余計にらしく見える。

 そんな泡沫の姉はぼくを誰かと重ね合わせている節がある。気付かれないと思っているようだが、否応なくぼくはそれを感じ取ってしまった。いやらしく、人の誰にも触れられたくない、触れてはいけない所を目敏く見つけて盗み見るぼくの醜悪な天性の悪徳は作品へのエッセンスという恩恵と同時に、こういう何気ない場所でもぼくを苛む一助になっている。だから、実はパスタを食べる時も非常に後ろめたい気持ちと共に舌鼓を打っていた。食べることに夢中になるふりをして、どう生活していても忍び寄るそれらを朱香さんや堀崎から隠すために騙し騙しやっている。

 そうだ、と堀崎が何かを思い出した。ぼくの方に身体を向けて、唇を歪めて、

 

 「今度、IS学園に取材に行けることになったんだ。どうだい、おまえも行かないか?」

 

 ふっ、と味も臭いも消えてしまったような静寂がぼくを支配した。パスタを巻く手も止まって、身体中が石になってしまったみたいで、へんな箇所に鳥肌が立って気持ち悪い。

 

 「行かないよ。ぼくは、余り興味がないから……」と言って、「土産噺で十分だよ」

 

 堀崎はそうかい、と深くは訊かなかったけれど、ぼくの僅な変化に気付いていたのだろう。黙って飲み直し始めた。それから堀崎がグラスを空にするまでぼくたちの間に言葉は生まれなくて、あの堀崎が窮屈そうな顔をしていて、居たたまれなくなったぼくは金を置いて、店から出た。堀崎と朱香さんがなにか言っているようだったけれど、やけに煩い夜の音で聴き取れなかった。音の正体は雨で、滝行でぼくの魂魄を払い清めるようにぼくを濡らす強すぎる春雨を浴びながら、部屋への道を辿った。

 行くわけがないのだ。今さら会う気もないし、向こうも会いたがらないだろう。再会に意味は全くない。会ったところで、あの頃のような文が書けるわけでもない。文字が輝き出すこともない。ともすれば、ぼくの現状は不治の病のようなもので、きっかけ一つで易々と治ることはない。会わないように立ち回るなんて器用なことは取材させてもらう立場では不可能。そもそも、ぼくなんかが目の前にいられたら迷惑で、嫌でしょうがないだろう。

 部屋に戻るとそこには出る前よりも深くなった暗闇があった。ずるずるとぼくを知らない何処かへ連れ去ってしまいそうな隣人の前で、ぼくは床に寝転んだ。ベッドに行く気力も、濡れた髪や身体をシャワーで流す気も起きなかった。それでも、なんとか立ち上がって、高校の卒業アルバムに挟まった後輩──山田真耶と撮った写真をごみ箱に捨てた。そこでぼくの気力は本当に底をついて、寝転んで、朝を迎えた。

 

 

 

 






サクサク終わらせたいけど、サクサク書けないもどかしさ。




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陰キャと陰キャが交差する時、物語が(以下略


 色々捏造設定でいきます。


 

 

 

 昔の話、というほど時は遡らない。十年前のこと。ぼくの感覚ではつい最近のように思える。

 ぼくが真耶とはじめて会ったのは高校二年生の五月だった。なにもかも大した意味を持っているようには思えない冷めた少年に友人が出来るはずもなく、物を書いて、女と寝るぐらいしかやることのない入学時からの惰性的な生活を、まるで一度見た映画をリピートしているみたいに送っていた。ぼくの通っていた高校は全国でもそれなりに名の知れたところで、旧帝大や有名私立大に何人も生徒を放り込んでいる金持ち学校だった。みんなが頻りにノートにペンで難解な、役に立つか分からないような言葉を刻んでいる時、ぼくは大抵、書きかけの文の続きだったり、昨日寝た女の顔を思い出したり、今とそう変わらない自分の浅ましさについて頭を巡らせていた。

 世間一般的な男子高校生が青春真っ只中で、中には向こう見ずだったり、浅慮な一面があるのと同じで、ぼくの通っていた高校の男子もどんちゃん騒ぎをすることがあった。有名進学校だからといって、なにも勤勉さのステレオタイプみたいな七三分けばかりがいるわけじゃない──というより、ぼくがその型に填まっていない筆頭格だった──。入学式から一月も経てば新入生も新たな環境に慣れはじめて、行動の一つ一つが雑になってくる。廊下を歩いていると新入生の男子数名が女子にぶつかって謝りもせずに走っていってしまった。女子は尻餅をついた挙げ句、手に抱えていたテキストやクリアファイルを廊下にぶちまけてしまって、今にも泣きそうになっていた。休み時間の廊下は人の行き来が多く、ファイルから飛んでしまったプリントを拾うにも一苦労で、誰も前髪で眼鏡が隠れてしまうような鈍そうで、冴えないやつの手助けなんてしない。ぼくも、例に漏れず、素通りしようとした。そんなことをして、いい先輩ぶろうなんて思わないし、人助けをして善行を積もうとも思わなかったからだ。だけど、ぼくは自分の意思に反して、その野暮ったい女子を助けた。散らばったプリントをファイルの中に入れて、手渡して、さっさとサボりのために保健室へと向かった。その頃のぼくは何かにつけて保健室へ逃げることが多く、つまらない授業は単位や日数に気を付けつつ昼寝や執筆の時間に充てていた。真耶と再会したのも保健室だった。

 数日後、校則通りの長いスカートを履いて、気分不良で運び込まれた彼女はいつにも増して雰囲気が暗く、微睡んでいたぼくは保険医に叩き起こされて、介抱の手伝いをさせられた。どうせサボっているんだから、と。聴けば、学年集会で籠った熱気にやられてふらりと真後ろに倒れたらしい。その日は初夏にしては暑すぎる、年度初の真夏日だった。そんな気候の日に律儀にブレザーとセーターを着ていれば気分も悪くなるだろうし、最悪は熱中症だ。

 そんなわけで、期せずして二度も見知らぬ後輩を助けてしまったぼくは、二度寝しようにも寝付けなく、真耶が眠るベッドの傍らで、保健室に置いてあった本を読んでいた。ベル・ジャー。以前挟んだ栞から半ほどまで読み進めると、横になっていた真耶がむくり、と身体を起こしてベッド脇を手探りで荒しはじめたから何事かと訊くと、眼鏡がないと言った。眼鏡を渡してやると、うっとおしい前髪を一瞬だけ退かしてかけ直した。その刹那の間に見えた彼女の素顔は可愛らしいもので、前髪で隠しておくには惜しいと思った。

 保険医は回復した真耶に暫く休むようにと言って、真耶の担任に回復した旨を伝えるために出ていった。二人で取り残されたぼくたちはとりあえず自己紹介をした。その頃の真耶はいつもおどおどしていて、人と話すことが苦手に見えた。案の定、自分の名前を言うにも噛んでしまう彼女への印象は鈍くさい後輩でしかなかった。

 真耶は以前、ぼくがプリントを拾ったことを覚えていた。そのことについて、礼を言ってきたのだけれど、ぼくはそれを受け取らなかった。執拗に気にされても互いにいいことは一つもない。すると、でも、とか、やっぱり、とか言って悩みだすものだから折れて、どういたしまして、と言って締めた。

 真耶はぼくと同じコースの、謂わば直属の後輩だった。同じ文系で選択科目も同じだった。今は学校から程近いアパートで一人暮らしをしているという。実家は隣の県で、学校が運営する寮に入らないのは総合的に見て一人暮らしをした方が安上がりなため──ぼくの学校が持つ寮は金持ち坊っちゃんのための滅多矢鱈に充実した設備と、それを維持するための高額な施設費を取ることで有名だった。そこに入るやつらのほとんどは、鼻持ちならない馬鹿ばっかりだった──。それと父のファン。ぼくが初対面の簡素なやり取りで知り得たことは、そんなものだった。

 真耶はぼくの名前を聴くと驚いたように肩を跳ねさせて、そんなにぼくの名前が驚きに値するものなのか訊くと、

 

 「先輩は有名ですから……」

 「どんなふうに?」

 「この学校でも指折りの問題児だって……」

 「なんだい、それ?」

 

 とくに目立った問題を起こした覚えはなかった。細々としたことで生徒指導室に呼ばれたりしてはいたけれど、警察の世話になったこともないし、人様に迷惑をかけないようにそっと自分勝手をさせて頂いているつもりだった。しかし、周りから見たぼくは相当の問題児だったらしい。真耶の様子からすると随分な言われよう、あることないことを言ってくれているやつがいるようだった。曰く、いつもスラックスのポケットにカッターを忍ばせているとか、教師の弱味を握って脅しているとか。後から調べてみれば、そんな与太噺ばかりで肩透かしを喰らってしまい、噂の発信源だった元クラスメイト──どうやらぼくに現代文の成績で勝てないことが彼のコンプレックスを刺激してしまったらしい──に文句でも言おうかと思ったがそんな気も削がれてしまった。交友関係もないから、誰も実害を被ることもない。駅前で興味もないし、よく分からない陰謀論を高らかに叫んでいる連中と変わらない程度の嫌がらせ。

 ぼくはそれを全くの出鱈目だ、と真耶に言った。

 

 「確かに素行不良かもしれないけど、きみが想像するような札付きの悪じゃないよ」

 「素行は悪いんですか?」と真耶は訊いた。

 「たぶんね。今さっきまで、ぼくはクラスメイトたちが授業にかぶり付いている中で具合も悪くないのに昼寝をしてたんだから。そういう意味では、ちゃんとした素行が悪いやつではある」

 「なんでサボっていたんです?」

 「退屈だったからだよ。授業を受けるよりもやりたいことがあっても、それが出来ないストレスがどうにかなっちゃいそうで、それが巡り巡って退屈になってぼくを殴り付けにくるんだ。それが嫌だから、昼寝をするんだ。昼寝しちゃえば、退屈だろうがなんだろうが夢の中までは追ってこれないだろう?」

 

 その夢の中で自分の醜さを突き付けられている。

 

 ぼくからも訊いてもいいかな、と言うと、真耶は頷いた。

 

 「前髪が随分長いけど、なにか言われないのかい?ほら、生徒指導のやつらとか……」

 「よく言われます。切ってこいって、もう何度も」

 「でも、きみは髪を切らない」

 真耶は俯いて、シーツを握り、「はい。切りたくありませんから……」

 

 毛先が鼻のてっぺん辺りまでしなだれていた。きっと、彼女なりの理由があるのだろう。外見とは正反対のパンキッシュな反抗精神でも、人知れず抱えるコンプレックスでも。何にせよそこにぼくは踏み入るべきではないし、踏み入る気もなかった。空が蒼かった。

 

 「いいと思うよ。そういうのは好きだな。すごく面白いじゃないか、そういうワンポイントの素行不良。第一、ぼくみたいな男だったら分かるけど、女の子相手に髪を切れっていうのは些かデリカシーに欠ける言葉じゃないかな?髪は女の命っていうんだからさ」

 そういう屁理屈や口先で話題を変えようとしていると、「あの、その、別にそう大した理由じゃないんです。ただ、人見知りが激しくて、この方が落ち着くんです」と真耶は言った。

 「それでも、きみの好きにすればいいと思う。前髪を切っても、切らなくても、極論きみの命が潰えるわけじゃないだろう?こんなふうに暑い日に邪魔くさく感じたり、素顔を晒したくなったならば切ればいい。その選択だけできみのなにかが疵付けられて、失われるほど世間様は悲劇的じゃあないさ……」

 

 嘘だ。世間は非常に遺憾ながら、映画ミストのラストよりも悲劇的で、それらは路上や側溝に吐瀉物や下水と共に放られている。

 

 真耶は遠慮がちに笑った。ぼくも微笑を浮かべる。真耶の仕草には、一つ一つが堅苦しい感じのない、心地よい気品が散りばめられていた。何でもかんでも暴き出そうとするシャンデリアでなく、傍で夜を暖めてくれるきれいなランタン。ぼくはそっちの方が好みだった。人間的にも、趣味としても。ここにはシャンデリアたちが自分の輝度を競い合う、けばけばしい光しかなかったから真耶は異質で、しかしそれが却って彼女を引き立てる舞台のような役割を果たしていた。

 

 「先輩って、噂とは真逆の人なんですね。この学校にもいい人がいるって分かって、安心しました」

 「自分のことをいい人って言うやつは少ないと思うよ。そんなのはだいたい、怪しすぎる」

 「そうなんですか?」と真耶は首を傾げて、「でも先輩はきっといい人です。いや、絶対にいい人ですよ」とへんに誇らしそうに言った。自分のことでもないのに。

 

 溜め息をついた。彼女は単純すぎた。そして、たぶん天然という性質を有していた。一度や二度の人助けが全て善意によって形作られていると信じていて、こういう女の子ほどぱくりと、盛った男に喰われてしまうのだ。きっと真耶を狙っている男は彼女の周りに大勢いるだろう。思春期の男の頭の中は下劣なピンク色をしている。情欲の毒牙にいとも容易くかかる姿が目に浮かぶ。

 というわけではないけれど、珍しくぼくは他人の心配というものをしてしまった。廊下でプリントを拾い集めたのもそうだったが、ぼくは彼女にペースを乱されている気がした。この後輩はほんとうに大丈夫なのか、色々と。

 チャイムがノイズ混じりにスピーカーから聴こえてきて、授業の終わりを知らせた。ぼくは保険医のデスクに短いメモ、早退するのでよろしくお願いします、という嘗め腐った伝言を残して引き戸に手をかけた。

 

 「とにかく、次からは気をつけた方がいいよ。この暑いのにそんなに着込んでいたら倒れもするさ」

 「ご迷惑をおかけしました……」

 「ぼくはなにも迷惑してないよ。ただ、あまり保健室の世話にならない方がいい。きみが真面目に将来のことを考えて進学するならね。日数とか内申とか、色々響くから」

 「でも、先輩はよくここにいるんですよね?大丈夫なんですか?」

 「正月明けに数学の追試があったよ。日数で単位を落としたけど、進級出来たよ。こんなふうにならないことを、先輩として強く薦めるよ。教員の説教は聞き流せばいいけれど、如何せん足が疲れる」と肩を竦めて言った。

 「分かりました。肝に命じておきますね」と真耶は笑って、「また、廊下で……」

 「廊下……?あぁ、そうだね。機会があれば、また廊下で」

 

 ベッドの上で真耶は小さく手を振っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 何だかんだ、こういうのを書くのは初めてだったりする。


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ドキドキ♡屋上ピクニック……ッ!!



 甘酸っぱいラブコメだぞ。

 俺も書けるんだぞ。

 砂糖を吐くがいい。

 エア味噌汁。(関係ない)




 

 

 

 

 小、中学校の頃、ぼくは体育祭や運動会というものは何処も六月にやるものだと思っていた。しかし、それが違うと知ったのはここ数年のことだった。運動の秋や芸術の秋ということで、夏休み明けの残暑が照りつける、夏を抜け出さない時分に体育祭をやる学校にぼくは入学した。その後、慌ただしく学園祭もやる。だから、二学期が慌ただしくなる分、ぼくは暇な六月を手に入れた。

 梅雨前線が列島を覆い、人によっては気分を滅入らせる雨が小五月蝿い説法のように続く毎日。ぼくは雨が嫌いではなかった。じめじめした天気は好ましくはないけれど、地や植物に潤いを与える恵みの涙は、ぼくの心にしっとりと保湿クリームのようになにかから守るベールを被せてくれた。ついでに、自分が晴れが似合わない男であると自覚していたというのもある。

 その日は雨続きの中でようやく訪れた晴れ間で、満員電車みたいにところ狭しと干された洗濯物が、心なしかうんざりとしたように揺れている様をぼんやり眺めながら学校に行った。時刻は昼を回って、四限がもうすぐ終わりそうな頃合いで、本当なら家で本を読むか続きを書きたかったのだけれど、学校からしつこくかかってくる電話の煩わしさに集中力が切れてしまったから、渋々ワイシャツに袖を通した。電話の向こうの生徒指導の教師は、十分もわざとらしい怒声で学校に来い、と催促していた。結局、ぼくが焦れてきた頃にコーヒーを淹れにきた父が受話器を引ったくって、一言二言言うと、電話は切れた。たぶん、このまま学校に行かずともなにも言われないだろうが、着てしまったシャツとスラックスを脱ぐ気にもなれなかった。

 学校に行くと、教室にも職員室にも寄らずに購買でBLTサンドイッチとコンビニにあるようなコーヒーメーカーでブラックを一杯買って、屋上に行った。前日までの雨で出来た水溜まりがぽつりぽつりと点在していたが、幸い、乾いている場所も多く、そこに腰を下ろして昼食をとった。三つのうち、二つのサンドイッチを食べ終えると、屋上の扉が開いて、真耶がやってきた。変わらず野暮ったく、厚いカーテンみたいな前髪は汗で少しばかり乱れていた。右手に子猫のランチバッグ。となり、いいですか?と真耶は言って、ぼくはお好きに、と返した。

 

 「お久しぶりです、先輩。一か月ぶりですね」

 「そうだったかな?もう、そんなに経ってたんだね」

 「もう六月ですよ。それに、あと二週間で七月です。あれから全然先輩のこと見かけなかったんですが、ずっとサボってたんですか……?」

 「まさか」ぼくはコーヒーを一口飲んで、「流石にそれは単位が危ない。ほんとうにたまたま、きみと擦れ違うことがなかったんだよ。でも、六月に入ってからはそれなりにばっくれることは多くなったよ。これは仕方ないことなんだ」

 「仕方ない、ですか?」

 「うん、仕方ないんだ。ほら、五月病とか六月病ってあるだろう?あれみたいなもので……。ぼくはね、暇な六月に慣れることが出来ないんだ。ずっと、六月にはイベントごとがあって、その慌ただしさや賑やかさが普通のことだったから、今の環境は気持ち悪いんだよ。きみは、小学生、中学生の時、文化祭とか体育祭はいつやってた?」

 「ずっと秋に」

 「ぼくはそうではなかったからね。夏休み明けは異様に疲れてしまうし、この時期は落ち着かなくて、妙に虚しい気持ちになる。そんな日は家で寝てるか、やりたいことをやってボロボロになってしまう方が精神的に健康だ」

 

 学園祭も体育祭も真剣に取り組んでいるわけではなかった。しかし、その変化、これまでのスタンダードが砕かれて、よく分からないままに組み替えられるということに、ぼくは着いていけなかったし、あるいは憎悪さえ孕んだ反抗を企んでいたのかもしれないが、その当時──これまでの六月を奪われた高校入学時──のことをよく覚えていないことを考えると、そう大した事項ではないようにも思える。

 そんな十六歳以後のぼくの、六月に於ける過ごし方はシンプルなもので、本を書くか、読むか、寝るかだった。二、三日ほど部屋に籠り、食事はピザのデリバリーと出前アプリで外れの無さそうなところのお薦めで済ませる。父ともお手伝いさんとも顔を合わせないし、スマートフォンの電源だって切ったままにしておく。大抵、その後電源を着ければへんな女が気狂いみたいに連絡を寄越した不在通知の山が重くのし掛かっているのが常だった。

 

 じめじめした部屋で一人、暗い部屋でデスクトップモニターだけが光源である部屋の様子は今とそう変わらず、強いて言うならば今の部屋と比べて物が多かったことぐらいが差異だ。今の部屋にはほんとうに物がない。デスクとPCと馬鹿でかい本棚に詰め込んだ本とソファ。4LDKを持て余していて、ベッドすらない。高層マンションの最上階に住んでいようが、何処だろうが、一定のスペースがあれば何処も同じ。どうしてぼくがそんな部屋を契約したかは、自分でもよく分からない。世界には自分自身でも理解し難いことが溢れかえっていて、ただ一つ言えることは、父の葬儀の後、ぼくは夢遊病のようにして実家から今の部屋に引っ越したということだけだ。実感が沸かず、記憶はあるけれど、気が付けば部屋で執筆に取り掛かっていた。

 

 真耶は保冷剤が入ったランチバッグから小ぶりの弁当箱を取りだした。見映えがいい弁当だった。可愛らしく蛸を模して切られたウインナー、ごま塩が振られて、海苔で目鼻が付けられた米やだし巻き玉子にプチトマト。手の込みように声が出そうになる。料理とは縁も所縁もないぼくは、こんなに可愛らしい弁当など初めて見た。

 

 「それ、きみが作ったのか?」

 「はい。学食とか購買に行くより、自分で作った方が安上がりだし、健康にもいいですかですから」

 「でも、大変じゃないのかい?毎朝弁当を作るんだろう?それに、結構どころじゃなく凝ってるじゃないか……」

 そう言うと真耶は弁当箱をちょっと持ち上げて、「そうでもないんですよ?今日のだって昨夜の残り物だったり、予め下準備していたものを詰めただけですし、こういうお顔を付けるのも簡単に出来るんですよ」と笑った。

 「すごいな」

 「ほんとうに大したことじゃないんですよ。このぐらい、凝ったうちに入りませんよ。先輩のお昼は何なんですか?」

 「購買で買ったサンドイッチとコーヒー」

 「それだけでお腹空かないんですか?男の人ってもっと食べるものだと……」

 「ぼくは食が細いんだよ。あまり、食に拘りもないしね」

 

 ぼくは残りのサンドイッチをコーヒーで流して言った。真耶はぼくの言葉に、少しばかり空を見上げてからだし巻き玉子を箸に掴み、ぼくに向けてきた。

 

 「お一つどうぞ」

 「いや、結構だよ。それはきみの昼ごはんだろう?ぼくにあげる理由はないじゃないか」

 「わたし、先輩と話すのは二度目ですが、先輩はもっと食べた方がいいと思います。腕だってそんなに細いじゃないですか。顔色もよくありません。ちゃんと食べてますか?」

 「食べてるよ、三食。だからそれはきみが食べなよ。その厚意は嬉しいけれど、お腹いっぱいだからさ」ぼくは軽く腹を擦った。「まるで母親みたいだ」

 真耶は目を丸くして、「それは……、すみません、出過ぎたことを言いました」と勢いよく頭を下げた。その動きで腕が大きく動いて、箸に挟んでいただし巻き玉子が中に放り出されたけれど、運良く咄嗟に出した掌の上に落ちた。

 「これ、貰ってもいいかな?手で触ってるし、今さらきみに返すわけにもいかないだろうし」

 

 頷いた真耶に礼を言って、口に放り込む。優しく、味蕾が甘味を感じとる。

 

 「甘くておいしいよ。店で食べてるみたいだ」

 「ありがとうございます。でも、それは大袈裟では……?」

 「本心だよ。あまり、この手の料理を食べる機会がないというのもあるけれど」

 「お家では和食を食べないんですか?」

 「いや、ぼくの家は男所帯でね。食事はお手伝いさんが作ってくれてたんだけど、ぼくも父も食事の時間が違って面倒だろうから食事の準備はやめてもらったんだよ」

 「そうだったんですか……」

 

 真耶は視線を下げて、言葉尻をすぼめていった。男所帯というところで、なにか推測が立ってしまったのだろう。

 

 「ところで、なんで屋上に?友達とは食べないのかい?」

 

 些かデリカシーに欠ける話題だったけれど、ぼくは話題を変えることにした。

 

 「いつもは教室で友達と食べるんですけど、風邪を引いちゃったみたいで休んでるんです。だから、仕方なく……。なんか教室に居づらくて。でも、先輩がいてくれてよかったです。一人で食べるのって寂しくて、苦手なんです」

 「それはツイてなかったね。さしづめ、針の筵とまではいかなくても、クラスの輪に入り損ねたといったところか」

 「そんな感じです……。先輩はいつも屋上でご飯を?」

 「そうだね。保健室を追い出された時もここに来るよ」

 「つまり、サボり場?」

 「ありていに言えば」

 

 真耶はぼくがどうサボっているのか、サボってなにをしているのか聴きたがった。そういう類いの話は保健室で話したのだが、彼女は詳しく聴きたいというふうにねだった。コーヒーを飲んでいるだけで普段なら横になって、適当な時間まで寝てしまうぼくは暇潰しがてら自慢出来る筈もない──そのサボりという点に於いて、ぼくは自慢も卑下もしなかった。それらはきわめてナチュラルにぼくの中で善悪とは別の分野にあって、優先順位は欲求とは雲泥の差があった──話をつらつらと口にした。話の大筋はあまり変わらなかったのだけれど、真耶は楽しそうに聴いていた。学校を昼前に抜け出してダーツをやりに行った時にクリスマスみたいな色合いのジャージを着た体育教師が店に入ってきて、店主に裏口から逃がして貰ったはいいものの、結局ルパン三世じみた追いかけっこをするはめになった話は僅かに覗いた目元に涙を浮かべながら笑ってくれた。

 真耶はとても楽しそうで、しかしぼくは表情に動きはなく、彼女が喜ぶ小噺を淡々と経験として紡いでいた。そこに感慨はなかったが、自分が発した言葉で誰かが心の底から笑ってくれるのは悪くないと思えた。

 

 「それで、その後はどうなったんですか?」

 「その翌日、学校では青い顔をして逃げる痩せっぽっちとクリスマス色のゴリラが鬼ごっこをしてたらしい。痩せっぽっちは二時間ほど生物準備室の人体模型の裏でうつらうつらしていたら、家に逃げたと勘違いされたらしいよ」

 「大変でしたね。お疲れさまです、先輩」

 「ぼくじゃないよ。何処かの痩せっぽっちだよ。でも、まったく疲れるよ。二度と御免だね」と言って肩を竦めてみせた。

 「ちゃんと授業出ましょうよ。留年しちゃいますよ?」

 「そうなればきみと同級生だ。その時は頼むよ。たぶん、同じクラスだろうから」

 「もう」と真耶は苦笑いして、「いやですよ、そんなの。なんか、おかしな感じですから」

 「冗談だよ。その時はやめてやるよ、こんな偏屈な学校。それで家に引きこもるんだ。引きこもるのに飽きたらふらふら旅行でもしてやろう。自分探しって言って世界中をあっちこっち放浪する。まぁ、そんなバイタリティはないけどね……」

 

 だから、とりあえず次の現代文の授業には出ることにした。真耶は頑張ってくださいと両手を突き出した。そのポーズの意味も分からなかったけれど、作家の息子に現代文を頑張れというのは、何処をどう頑張ればいいか分からなかった。ぼくの中では現代文という科目は最も真剣さから遠い授業で、大して勉強をせずとも点数を取れるから、頑張れと言われても、うまく真耶が言うところの頑張りを想定出来なかった。だから、曖昧に笑みを返して誤魔化した。

 

 「まぁ、やってみるよ」

 「応援してます」

 

 現代文の授業は眠らずに窓の外を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 髪型と眼鏡→マシュ

 声→桜

 ドストライクですわ。はー、これは最強の後輩ですわ。


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根暗の癖にwwwww熱かったり冷たかったり忙しい野郎でござるなwww


 これまでのあらすじ♡

 ・目隠しボブカット眼鏡ちゃんを助ける

 ・そんな後輩ちゃんと屋上ランチ

 ・先輩、父子家庭


 それでは今日も一日、





 

 

 六月は去り、七月に暦のバトンを渡した。そのバトンタッチはきっと下手くそで、湿気といやな暑さは相も変わらずぼくらの不快指数を押し上げている。

 暇で退屈に緩やかに心を腐らせられる日々が終わったからといって、都合よく無聊の慰めや、分かりやすく変わったものはない。適度にサボり、谷崎潤一郎を読んで、家で父と会話することなどなく──かれこれ三年は口をきいていない──、後腐れなくセックス出来る女の子と一人出会って大外れを引いた。しかし、それらはぼくの正常を調律してくれた。失われた六月を過ごして、静かに滅茶苦茶にされてしまったぼくの内を乾いた砂の波のような生活が、あるべき形に戻した。ぼく自身が戻してくれ、と頼んだわけでもないのに毎年その波は何処からともなく発生して、六月の内に貼られたベールを粗く削りとってゆく。それはほとんどの場合、夢の中でおかしなイメージとして体験する。そして、起きると口の中は砂を噛んだように音を立てた。

 ぼくが目を覚ますと見たことのない天井が自分の状況を経験に基づいて教えてくれる。ざらついた口を濯ぐために、隣で寝息を立てる他校の先輩を起こさないように起き上がると手を掴まれて、いかないで、としがみついてきた。わけも分からず、口内の不快を抱えたままにぼくは彼女に貪られた。いや、犯されたと言った方が適切かもしれない。ぼくに馬乗りになって、乾いているのに出てくる唾液を絡ませながらぼくに奇妙な笑みを向ける彼女は獣みたいな色で嬌声をあげていた。その行為中、ぼくはいやな予感に苛まれて、やがてそれは的中した。ぼくは誘われて、一回限りの関係を望んで、彼女はそれを了承した。だけど、彼女はぼくと交際したいと言い出した。ぼくにはそんな気は欠片もなく断ると、先程までの威勢は消えてしまい、おろおろと泣き始めてしまった。ぼくは困り果てて、とりあえずは友達でいようと言って、ホテルを出た。彼女の手首には蛇腹のように切り傷があった。

 ぼくは近場のカフェで遅めの朝食を食べて、制服に着替えるために家に帰った。その間、セックスした後に感じる独特の感覚と、自己嫌悪にずっと突かれているような思いが寝ぼけたままの頭にあった。

 ぼくは他の男と比べて性欲は薄い。悶々と眠れぬ夜を過ごしたこともなければ、自分でそういう欲求を解消することもない。ただ、中学三年生の時に経験をしてから、同年代の誰よりも女性と肌を重ねた回数は多かった。ぼくから誘うわけではないのだけれど、不思議と寝てしまうことが多い。その場にある空気や流れといったものの力は強大で、ぼくを否応なく押し流し、それに溺れるままにやって、大事なものが瑕付けられたような喪失感に浸らされる。ぼくは大きな波に捕らわれながら生きている。

 

 その大きな波には今もがんじがらめにされている。むしろ、その拘束は強まるばかりで、今では喉元を蛇が獲物を絞め殺すように圧迫している。おかげでぼくは息をするにも辛くて、唯一その拘束が緩む時が執筆中ということもあってぼくは書くことをやめられない。だから、ぼくは生きている。

 そして、その頃から今に至る兆候はあったのだ。思い返せば、肌を重ねる度に喪われるなにかは、不可思議なサイクルに従ってぼくの深い場所に潜っていっていた。杯を満たす。絶えず蒸発していく杯の中身を補填していたのだ。それに十七のぼくは気付かないまま、遠ざかっていった。そして、ぼくがいるのだ。

 

 自分の部屋に入ろうとすると、ふと後ろが気になり、振り返ってみれば着流し姿の父が書斎へと消えていくところが見えた。白髪混じりの長髪を後ろで一つに結んだ背中はなにも語らないし、なにも感じない。もしくは感じさせない。

 父との関係を聴かれたためしなんて一度もなかったが、聴かれたらたぶんなにも言えないまま誤魔化すことだろう。そう確信している。率直に言えば、ぼくは父を殺してしまいたいほど憎んでいて、同時に世の誰よりも尊敬している。父は母が病に伏せた時、一度も見舞いに行ったことはなかった。母は笑って、そういう人だから、と言っていたけれど、何処か寂しそうな顔をしていた。そしてどんどん弱っていって、死んでしまった。乳癌だった。中学三年生の秋、母の葬儀が終わった後にぼくはただ一度だけ父を殴った。でも、父はすぐに起き上がってキーボードを叩きはじめた。ぼくはその日、父の作品をはじめて読んで、気が狂ったように読み漁って、泣きながら全部庭で燃やした。ぼくにはどう足掻いても越えることの出来ない壁が、ぼくを火の中から嗤っていた。

 記憶に残る父はいつも冷めた目をしていた。端的に言えば父はぼくを愛してなどいなかった。それは父が子に向けていい視線ではなかった。父の全ては書くことにのみ注がれていた。その血肉の一片に至るまで、彼は文字の羅列で海を編み出すためにあるかのような、気の狂った人間だった。だからこそ、父は文壇の最高峰に名を連ねるほどまでの物を書けたのだろう。父が──現代を生きる文豪と呼ばれた男がなにを考えていて、なにを思っているのか。理解出来る者は誰もいない。あるいは、母は、母だけはなにかを分かち合っていたのかもしれないが、墓の下に問うても答は返ってこない。母が死んだ後に出版された作品は飛ぶように売れた。病に倒れた女が死ぬまでの独白という内容だった。端から見ればとんでもない男のように見えるかもしれないが、ぼくにはその行動にそれほど強い情動を持つことが出来なかった。母が死んでしまったことは悲しかったし、父を赦すことは決してないけれど、少なくとも作家としての彼と彼の著作はぼくの中では揺るぎない頂点に君臨していて、ぼくはそこで作家という生き物の業の深さを垣間見た。そして、自分はほんとうにこの偉大な作家の子種から出来たのか疑問に思った。

 かつて母の部屋だった一間は日に日に増える我が家の蔵書の受け皿と成り果てて、自分よりもはるかに大きい書架が運び込まれているところを、ぼくは中庭を挟んだ自室の前からお化けでも見るように眺めていた。そのちょっとした図書室を境にぼくと父の世界は隔たれている。父は一度部屋に入ったら、中々外に出ることはない。あらゆる物を遮断した空間でただひたすらに静謐な責め苦の向こう側を覗くために耐え続ける。そのおかげで互いのパーソナルスペースは侵されることはなかった。

 

 期末試験は順当にパスすることが出来た。大した勉強もしてないが、思うよりもそれらは簡単に紐解くことが出来た。数学なんて赤点でも構わないと思っていたのに、割りにいい点数を取ったものだから神経質そうな数学教師に目を付けられてしまった。おい、貴様はなにか不正をしたのではないか、と品性が感じられない鶴のような声で囀ずられて、神経がどうにかなってしまいそうだった──その不快さというのは筆舌に尽くし難いものだった──。この御時世に日常会話で貴様という単語を聴くのは、自分が何故絡まれて無意識に笑いを誘う振る舞いを見せつけられているのか、そもそも自分がどうしてこの位置にいるのか全部分からなくなってしまって、想定よりも格段と軽い引き金を引くには十分な力の作用だった。粘着質な、声色と絶望的にマッチしない語り口でぼくに虚を説く数学教師を無言で通過した。追いかけてくる数学教師は途中で諦めて、弁明はもう聴かないと吐いて踵を返していった。何について弁明をしろと言うのか不思議だったが、きっとそれはぼくには関係のないことなのだろう。表面的に見れば密接な繋がりがあるが、よく見ればぼくと数学のテストの点数にそれほど重要な相関は秘められていない。

 奇妙な茹だり方をする頭を冷えたペットボトルで冷ましながら帰路に着こうとすると、駐輪場で真耶を見かけた。茶髪の女の子と楽しそうに話していた。半袖のシャツにグレーのベストで幾分か爽やかになったものの、やはり前髪は汗と暑さで乱れて邪魔くさそうにしていた。ぼくは声をかけずに正門を潜った。

 誰かが話していたことの又聞きだけれど、真耶はぼくの学年でも評判がよかった。成績優秀で、あぁ見えて運動も出来るという。おまけにクラス委員もやっているから教師からの心証も悪くない。無遅刻無欠席、進路も推薦でいいところに行けると目されている。彼女は自分の位置を明確に把握していて、その位置にある意味を理解出来ている。それはぼくに欠けているもので、十七年間航路も見ずに進み続けたぼくとは違い、行く先には必ず新大陸が存在している。

 ぼくはふと真耶の将来を想像してみる。彼女が高校を卒業した後、大学に行ったとして、どんな職業につくのだろう。そして、ぼくは。考えれば考えるほど、自分の先行きに広がる夜の草原のような不気味さが汗と一緒に背中をぞっとするほど甘美になぞる。そこに混沌があるということではなくて、何かになるという意識の欠如──そもそも、将来の夢という志を抱いたことはなかった。ぼくたちは今、何者でもなく、何者にでもなることが出来る膨大な可能性を内包していて、たくさんの道があちこちに延びているのだろうが、それはぼくを除いた場合の話だ。ぼくには何処までも広がる草原しかない。何処にでも行けそうで、何処にも行けない。ぼくは何者になることも許されない。きっと呪いのような、誰が決めたかも分からない決め事がぼくをそうなるようにベルトコンベヤーのように運ぶ。

 あぁ、墓の下に眠る母さん。ぼくはいったいなんなのでしょうか。これが思春期特有の悩みであればどれだけよかったか。しかし、ぼくには分かります。これがそういう観点で測れない感覚であると。恥ずかしながら、自分のことが分かりません。時折思ってしまうのです。あなたはぼくの苦悩に対する答を全て胸に抱えたままに手も足も届かぬ場所に逃げてしまったとても意地の悪い女だと。とても恨めしく思えてしまうのです。

 ぼくは自分の浅ましさや醜さを自覚している。だから真耶の善性がより強く瞳に映り、突き刺さる。急に足元が不安定な泥濘に陥ったようだった。溶け出した脳漿が身体中の穴から流れ出そう。熱に浮かされたような灼熱感を胸と頭の中に感じながら家に戻ってぼくは引き出しの中から剃刀を持ち出して、発作的に手首に当てた。軽く引くと血がインクのように滲み出てきて、ぼくはそれを日が落ちるまでずっと見つめていた。どうしてこんなことをしたんだろう、と考えてみても目ぼしい動機は浮かんでこなかった。代わりに沸いてきたのは物を書きたいという欲求で、ちょうど手元には刃物で傷付く痛みがあった。固まった血で汚れた手でキーボードに触れた。頭はとてもひんやりしていた。

 

 

 

 

 

 





 会話なしのテロリズム。

 前作の番外編を思い付いたんですがこちらに専念する鋼の意思(粘土製)を貫きます。


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デートでござるよwwww皆の衆wwデートでござるwwデュフww



 みんなこういうのが見たかったんでしょう?

 デート回だぜ。





 

 

 

 

 その週の末に終業式があった。ぼくのクラスの担任はホームルームであまり話をしないことで人気が高く、その風評通りに一言二言言うと解散となった。ぼくとしてもそれは喜ばしく、形式に囚われた人々が欲している儀式としての集会を終えて疲れ果てていたところに長い講釈を垂れられては参ってしまう。毎年似たような、というより使い回された定型文を聴くだけの、熱中症患者を出すか出さないかの全校生徒参加のチキンレース。真耶は大丈夫かな、なんて思っているとそれはすぐに終わってしまったけれど、退屈しかない五十分があれほど短く感じられたことはなかった。

 特に後の予定はなかったのだが、ぼくは最後まで教室に残っていた。名前も知らない日直から鍵を受け取って、窓からグラウンドでアップを始めた野球部を眺めていた。真っ白なパンツが光を反射して土に映えるからそこだけ彩度のコントラストがきつかった。その手前には陸上部がいた。以前、ぼくを追いかけ回したクリスマス色の体育教師が顧問をしていて、濁った声で何かしら部員に檄を飛ばしていた。蝉の鳴き声だけでも暑さを煽られるのに、彼が汗を振り撒きながら大声を出すせいで陸上部の連中は動く前から疲れが滲み出ていた。

 そんな風景を見るのにもいい加減飽きて、教室を出て、職員室に鍵を返しに行くと、後ろからぼくを呼ぶ声がした。振り返ると、小走りで近付いてくる真耶が見えた。

 

 「先輩、今帰りですか?」

 「うん。鍵を返したら帰るつもりだったよ。きみはクラスの仕事かなにか……」

 真耶は頷いて、「夏休み中はわたしのクラスは一度も使われないらしくて、最後に忘れ物がないか確認してたんです。あと、日直さんの代わりに黒板を消したり、色々やってました」

 「なんできみが日直の仕事を肩代わりするんだ?それは日直がやるべきことだろう?」

 「そうなんですけど……、その子がこの後用事があるとかで急いでいたので……。わたしも予定が潰れて暇をもて余していたからちょうど良かったんですよ。あまり大変なお仕事でもないので任されちゃいました」

 「予定って?」

 「お昼を食べに行く約束をしてたんです。でも、友達が休んじゃいまして」

 「あの茶髪の子かい?」

 「はい。たまには外食もいいかなぁって……。ハンバーガーとか、そういうジャンクなのを食べてみようって話してたんです」

 「あまりファストフードは食べないの?」

 

 はい、と真耶は恥ずかしげに言った。この学校の生徒は金持ちが多くて、そういう庶民の食べ物を口にしない連中もいるが、真耶の場合は単に食べることがなかっただけのように見えた。たまたま、奇跡的に。もしかしたら、そういう類いの食品に含まれる添加物の危険性を鑑みて真耶の両親が食べさせなかったのかもしれない。スーパーサイズ・ミーのモーガン・スパーロックは「外食は金が無くなるだけでなく体のくびれまで無くなる」と言っていた。そんな彼も最後には肝臓がぼろぼろになってしまった。真耶は見た限り肥満体系には見えない。真耶が添加物たっぷりのファストフードと無縁の健康的な食生活を送っているということだ。

 

 「食べに行けばいいじゃないか。一人で入って困るような場所でもないだろう」

 「そうなんですけど、なんか一人だと緊張しちゃって……」と真耶は笑った。

 「じゃあ、行くかい?」ぼくが言うと真耶は不思議そうに目を丸くしていた。「この後、きみが暇ならね」

 「先輩とですか?」

 「ぼくで良ければ付き合うよ」

 

 予定がないのはぼくも同じだった。だから、そうして真耶をランチ──というにはメニューがジャンクすぎたが──に誘った。しかし、この時のこともぼくは自分でどうしてこの選択をしたのか理解出来ていない。予定がないからというのは、所詮後付けの理由に過ぎない。その本当の理由、ぼくの瞬間的な情動はもう想起することは不可能で、どの琴線に触れたかなど今となっては思いだそうとしても言い難い不快感が胸を湿らせるだけだ。そもそも、自分の浅ましさが際立つ相手をどうして誘ったのか。

 

 ぼくたちは学校から暫く歩いて駅の西口にある繁華街に足を運んだ。近隣の学校も同じ日に終業式をやったせいか、駅前は制服を着た学生たちで溢れかえっていた。みんな浮き足立っていて、既に始まった夏休みに歓びを隠そうともせずにカラオケ屋の前で自転車の上で半裸になって大声をあげる男子高校性もいる。真耶はそんな光景に苦笑いしながらも、夏休みですもんね、楽しくなっちゃいますよね、と好意的な言葉で、このまま駅前の人口と反比例するように低下していきそうな文明レベルに茶を濁していた。ぼくはそのよく分からない空間に首を傾げることしか出来なかった。

 

 「えっと、マックとかじゃないんですか?」と真耶は訊いた。

 「そうだね。あぁいうチェーン店も悪くない選択肢ではあるけれど、どうせなら初めて食べるハンバーガーはより美味しい方がいいじゃないか。大味な大量生産品じゃない、ちょっと贅沢なハンバーガーはどうかな?やらなくていいことを引き受けたきみ自身へのご褒美だよ」

 「贅沢なんですか?」

 「見れば分かるけれど、量もあって、野菜もたくさんだ。パテは国産の肉を分厚く焼いているし、バンズだってふっくらしている。チーズは好き?」

 「とっても」

 「今から行くところのチーズバーガーは絶品だ。他所のチーズバーガーを食べられなくなるぐらいにはね」

 

 飲み屋が並ぶ通りの手前にある年季の入ったドアを押して、手近なボックス席に座ると馴染みの店主にチーズバーガーとハンバーガーを頼んだ。店主は渋い髭面を綻ばせて、奥に下がっていった。ニルヴァーナのIn Bloomが流れていた。

 

 「このお店にはよく来られるんですか?」

 「ダーツをやった帰りにここで夕飯を済ませるんだ。近くに、いつも行っているダーツバーがあるんだよ。こういう場所は初めてだろう?嫌じゃないかい?」

 「賑やかで楽しいです。なんか、こう……、ロックな気分になりますね」と真耶は握った拳でシャドーをやり始めた。

 「それはたぶん、ニルヴァーナのせいだ。ここが気に入ればまた風邪を引いてしまった友達と来ればいいよ。ここはデザートも美味いからさ……」

 「是非、そうさせて貰いますね。でも、そのお陰で先輩に美味しいお店に連れて来て貰えました。ちょっと不謹慎ですけど、今日はラッキーです」真耶は言った。ぼくは少し驚いた。真耶がこういうジョークを言うとは思わなかった。

 「ちゃんと労ってあげなよ」

 

 運ばれてきた皿の上を見て、真耶は声を漏らしていた。パテにしては厚すぎる肉塊や押しても口に入りきらないほどの大きさはチェーン店の薄いハンバーガーにはないものだ。瑞々しいトマトや野菜もはみ出ていて、チーズバーガーは溶け出したチーズがパテから滴り落ちていた。彼女の食欲を刺激するには強すぎる絵面だった。どちらが食べたいか、と訊くと真耶は迷わずにチーズバーガーの皿を指さした。

 

 「ものすごく美味しいです」

 「初めてのジャンクは気に入ってくれたかい?」

 「ハンバーガーって美味しいんですね」と真耶が言うと、カウンターの店主が誇らしげに目を閉じた。

 「ここだけだよ。まぁ、喜んでくれたなら良かった。よく考えればあまり面識もない男に連れて来られて迷惑なんじゃないかと内心、戦々恐々としていたんだけれど……」

 「そんな、とんでもない。さっきも言ったじゃないですか、ラッキーだって」真耶は長い前髪を揺らしながら反論してきたが、その口元にはチーズが付いていて、その真剣な表情と相まってぼくは笑ってしまった。

 「チーズ、付いてるよ」と不機嫌そうな目をする真耶に言うと、慌てて口周りを拭いて借りてきた猫のように大人しくなった。

 「わたし、先輩のことたくさん知ってます」

 「例えば?」

 「数学の折濱先生と仲が悪い」

 「みんな知ってるよ」

 「保健室の本棚の本は全部読んだ」

 「それは知らないかもしれない」

 「だから面識がないってことはないんですよ。わたしは先輩と仲良くなれたと思ってましたから……」

 「そういうものなのかな」

 「そういうものです。きっと」

 

 きみはぼくのなにを知っているんだ。

 皿の上のポテトを一つつまんだ。ぼくは真耶が黙々とハンバーガーを頬張るのを見ていた。子供みたいに満面の笑みを浮かべながらかぶり付く彼女を見ると、手首が熱を帯びていくのを感じた。それが些事でないことは察していた。その熱がぼくをじりじりと火刑のように焼いていることも、その熱が腕を昇っていくことも、理解出来ない領域で理解出来ないことが蝕まれていることも。全部分かっている。

 ぼくが持っているナイフは剃刀よりは切れ味が悪い。それでも、思い切り押し当てて引いてやれば荒々しく肉を切り千切ってくれる。その熱い感触は恐らくすぐには消えてくれない。ステンレス刃のように綺麗に切れてくれないし、あの現実と思考を冷却して目の奥をぐらぐらと揺らす冷えもない。だから、ぼくはこの場で腕を切ってやろうかと思った。それは一種の防衛反応だった。これ以上意識、無意識関係なく自分の穢れを自覚して際限なく飲み干すことへのストップサインだった。そして、それを増長させる、ぼくを真耶と関わらせようとするぼくへの警告でもあった。その熱で現実に繋ぎ止められたまま、目を覚ますために。

 

 「先輩、その腕どうしたんですか?」

 

 しかし、ぼくにそんなことは出来ない。そこまで狂えることなど出来なかった──だが、もしここで気を違えていれば今がどれだけ楽で、生きやすかったことか。その自己に従い、自分を守れていれば──。真耶はぼくの袖から覗いたガーゼを見て、言った。

 

 「ちょっと引っ掻けてね。釘が飛び出しているところでやっちゃったから大袈裟に包帯を巻かなきゃならなくなったんだ」ぼくはつとめて明るく言った。

 「大丈夫だったんですか?」

 「大したことじゃないって。運は悪かったけれどね」

 

 誇大に言ってもさほど交遊があるわけでもない彼女にどうして劣等感じみた醜い感情を抱いたのか疑問にさえ思わなかった。それ以上に、自分に乱立して熱と共に呻きをあげる感情たちにもなんの不信もなかった。ただ、真耶の言葉に適切な解を投げ返すことだけに専心していた。

 その後、軽い世間話をして帰路についた。やはり、なにかしら会話はあったのだけれど思い出すことは出来ない。頭の中ではずっと文字とピンクの柄の剃刀が艶かしく肢体を絡ませるように回り続けていた。

 

 「先輩、わたし前髪切ってみようと思います」

 「素行不良は終わりにするのかい?」

 「はい。でも、少し自分に自信がついたんです。踏み出してみようって思えたんです」

 「良かったね」とぼくは言った。西陽がツーフェイスのようにぼくの顔の片側だけを焼いていた。

 「先輩のおかげです」

 「ぼくの?どうして?」

 「先輩が切らなくてもいいって言ってくれたおかげで少し気持ちが楽になりました。勇気も貰いました。お友達も出来ましたし、人見知りを克服するための決心もつきました」真耶は顔を赤くしながら言った。

 「別にぼくはそんな大仰なことはしてないよ。ただ適当に喋っただけだよ。そんなに重く受け取られてもさ……」

 「先輩は自己評価が低いと思います。先輩は確かに不良っぽく見えるかもしれませんが、とっても優しい人だって知ってます。わたしが知ってますから」

 

 きみはぼくのなにを知っているんだ。

 なにを知っているんだよ。

 

 

 

 






 恋愛って難しいなぁ……。


 次回予告「ドキドキ♡先輩と山田リリィの人理修復!!オルガスフィア所長生還!!」



 山田「先輩、わたし分かっちゃいました。先輩のこのクソめんどくさい性格を攻略する方法が」
 先輩「……」
 山田「もし、わたしが悪い子になったら先輩は叱ってくれますか?」
 先輩「そこまでにしておけよ山田」

 乞う御期待。


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山田・リリィ・オチコミ・タイイクスワリ・ア=ザトイ




 この作品は気軽に摘まむことが出来るスナック菓子のようなライトさを目指しています。






 その熱はぼくを内から容赦なく激しく焼いたが、それと同じく奇妙な感覚を植え付けた。熱や変調を自覚してからというもの、文字が綺麗に見えるようになった。ぼくは共感覚ではない。神経に異常があるわけでもない。色が付いて見えるということではなく、ダイアモンドや水晶のように光が文字の中で屈折、反射して輝くようなものだった。視覚の異常にはじめは不気味な焦りを感じたけれども、ふつふつと涌いてくる欲求は平時よりも強く、身体はそれに抗えずにデスクへと吸い寄せられていった。

 その欲求に従い綴った作品は自分が書いたものとは思えなかった。そこには暴力も、涙も、哀しみも、不幸もなく、愛と笑みがあった。文字の結晶を通して視た世界はかくも美しく、ぼくに相応しくない。それでもその世界を描いたのは自分で、その矛盾した事実は酷くぼくを混乱させた。頭の中が掻き混ぜられて、熱が炎になって猛る。そんな滅茶苦茶な内面でも筆が進んだ。そうして愛に満ちた物語が綴られていった。まるで二人羽織りをしているみたいに、ぼくの脳と指先は分かれて動いていた。

 

 真耶が髪を切ったことを知ったのは夏休みも中盤に差し掛かった頃のことだった。世界が希望に満ち溢れているような光まみれの八月の真っ昼間に、ぼくは最低限のコマだけとった夏季課外へ顔を出した帰りに屋外プールの横を通った。課外に出席はしたものの、話半分にスマートフォンにインストールしたワードで指先を思うままに動かさせていたから二時間と少しは瞬きする間もなく過ぎ去った。文字を打つ度にガーゼの下が痛んで、新たに付けた傷も赤く叫んでいた。それらも時と纏めて、書いている時は何処か別の場所に棚上げされていた。視界はやはりおかしかった。

 プール脇のフェンスの前で目元がさっぱりした真耶が爪先立ちになりながら、なにかを見ようとしていた。水が張られたプールサイドにはハンカチが落ちていた。ターコイズブルーの音符とハートマークがあしらわれた女物のハンカチ。

 ぼくはそれを暫く見ていた。蝉の鳴き声と、汗が頬を伝う感触。そういった暑さを含めた不快な感覚は遠くへと追いやられ、ただ真耶を見ていた。真耶しか世界にいなかった。

 真耶がぼくに気付いたのはすぐだった。一分弱ほど見ていれば誰でも視線に気付くだろう。ぼくは熱と痛みを感じながら、右手を軽くあげた。

 

 「久しぶりかな……、なにしてるんだい?」ぼくは訊いた。

 「ハンカチを取りたくて……」

 「プールサイドのあの青いやつはきみの物か。フェンスを越えていけばいいだろうに」

 「それも考えたんですけど、先生に見つかったら怒られそうで。中々踏ん切りがつかなくて」

 「ふぅん」

 

 水泳部はもう活動を終えていた。屋外プールの周りは水泳部の部員と顧問ぐらいしか行き来する人のいない場所で、この辺りで隠れてキスしたり、あるいは本番を致すカップルもいるという。それほど人の目を気にする場所ではないから真耶の心配は全くの杞憂だった。

 聴けば、机の上に置いておいたハンカチが風で飛ばされて窓の外に放り出され、課外が終わってからずっと探していたらしい。首筋は汗で艶美に陽を照り返してくる。長いこと外を歩き回っていたことが伺えた。

 

 「もう水泳部はいないようだし、よじ登っても大丈夫だと思うけど?」

 「じゃあ、先輩も一緒に登りましょう。そうすれば怖くないです」

 「ぼくを道連れにする気かい」

 「そんなことはないです。ただ、いてくれたら心強いなあ、と」

 

 トートバッグをフェンスの向こう側に放り投げて、網目に足をかけた。かちゃかちゃ、と音を立てながらタイルの上に飛び降りてハンカチを見ると風が吹いて、プールの水面に浮かんだ。

 

 「残念だけど簡単に取らせてくれないみたいだ。プールが気に入って返してくれない」

 「どうしましょう……」真耶は困り果てたように言った。眉が下がって眼鏡の向こうが潤んでいた。

 「まぁ、気長に待とうよ。今は真ん中にあるけど、そのうち端の方に行くさ。長い棒みたいな物もない。このままプールに飛び込むわけにもいかないし……」

 

 ぼくは日陰に座った。真耶もぼくの隣に腰をおろしてプールに浮かぶ水色の小舟をぼうっと眺めていた。陽射しは親の仇みたいに肌を焼こうと降り注いで来たけれど、プールの上を風が走っていたからさほど暑さは感じなかった。

 

 「運が悪かったね。昼は済ませたのかい?」

 「はい、今日は食堂で……。すみません、わたし先輩に御迷惑ばかり……」

 「構わないよ。あまり器量は広くはないけれど、これぐらいで怒りはしないよ」

 「本当にごめんなさい……」と真耶は俯きながら言った。「ドジばかり踏んで……」

 

 なにか嫌なことでもあったのかもしれない。真耶は体育座りした膝に額を着けて抱えていた。包帯の下でへんな汗が染みる。真耶の顔が見えない。

 

 「髪、切ったんだね」ぼくは言った。真耶は僅かに頷いた。「もっと、ちゃんと見てみたいな。すごくさっぱりしたじゃないか」

 

 真耶ははい、と小さく呟いただけだった。

 

 「なにかあったの?」ぼくは少し間を置いて訊ねた。

 「……なんでもないんです。ただ、疲れちゃったんです……」

 「なにに?人付き合いとか?」

 「違うんです」真耶はゆっくり顔を上げた。複雑な、いろいろなものが絡み合った疲労の色が見てとれた。「髪を切った途端にへんな視線が増えたんです。廊下を歩いてても、教室にいても、みんな見てくるんです。名前も知らない人から話しかけられたり、仲良さげに振る舞いだしたり。今まで見向きもされなかったのに急にそんな風に接してくるから……。男の子もじろじろ見てくるし……。それで疲れちゃったんです。こんなに見られることなんてなかったし、それに今日は悪いことばかり重なって」

 「落ち着かなかったし、怖かった」

 

 真耶は身体を縮こまらせて深く頷いた。いつもと違う沈んだ姿は新鮮ではあったが、ぼくは無感動に似合わないなと思った。こうあるべきという人物像と大きくずれた彼女は知らない人間のように見えて、気持ち悪いとも。

 そして、熱く、熱く、今までにないくらいに身体が熱を帯びた。無性に彼女を貶めたくなったり、励まして普段の調子を戻してほしいと思ったり、ぼくの内は混沌の坩堝に蹴り落とされた。

 いつもならばこの手のシチュエーション──他の女を相手にしている時であればそこに大きな波が発生してぼくは自分の意思に関わらず、それに呑み込まれてしまう。でも、真耶にはそれがなかった。夏の風と痛熱だけ。脈動は激しくなり、波に浚われていったはずのものが急速に埋められていく。身体中の血が沸騰しそうな火照りと、頭蓋内が高熱で蒸される感覚が夏の暑さに溶けて、自分と世界の区分があやふやになる。そうして溶け出したものが六月のように組み替えられて歪な形になって戻される。ぼくはきっと、ぼくの原型を保てていない。崩壊する一歩手前。それらは無感動な所感を打ち消すようにして、急激にぼくを襲った。

 

 「ねぇ、外が怖い?」

 「ほんのちょっぴり……」

 「そうだね、ぼくも実は外は好きじゃないんだ。外っていうのは自分には驚くほど冷たくて、乱暴な場所だもの。でもね、外にだって悪くないことは雀の涙ほどだけどある。ぼくの場合はあのハンバーガーだったり、きみと話すのも最近は悪くないと思えているんだよ」ぼくは一滴の不実を混ぜて言った。「たぶん、ぼくが思うにみんな驚いて現実をうまく認識出来なくなってしまったんだよ。だって、きみは綺麗な顔をしている。きみの素顔を見たことのない連中はきみの気を引きたくて仕方がないんだよ。なんだよ山田って可愛いじゃねぇかって具合にさ。だから、大丈夫、きみは悪くないよ。自分の周囲の環境ががらりと変わったんだから怖くて当たり前だし、疲れちゃうのも無理はない。だから、ここでは好きに振る舞えばいい。誰も見ていないから泣いてもいい。ぼくは見ないように目を閉じるし、耳も塞ぐ。独り言で誰かの悪口を言ってもいい、きみの踏み出した足を退いて一旦逃げてみるのも自由だ。きみは何者にも脅かされない。少なくともこのプールサイドにはきみの知らないなにかが入り込んでくることは出来ないよ。ここは、今だけはそういう場所だから」

 「先輩はやっぱり優しい人ですね」

 「違うよ。ぼくはきみに優しくしようだなんて欠片も思っていない。きみは勘違いをしているんだ。こういう言葉を投げ掛ける相手がみんな優しいわけじゃない」

 「かもしれません。でも、わたしは先輩を信じています。ほんとうは先輩が怖い人だったとしても、わたしの知る、わたしの前にいる先輩は優しい人だと勘違うには十分です。わたしはその優しい仮面に助けられたから……」

 

 ぼくは真耶から視線を逸らした。世迷い言を言う彼女の目は湖面のように澄んでいて、そこに写るぼくの姿はあまりにも実像とかけ離れていた。ぼくは彼女が思うような人間ではないのに、彼女はその仮面に騙されてしまっている。それはぼくが意図したことではないけれど、確かにぼくの胸に鋭い刃を突き立てた。

 ぼくは流されるがままに名前も知らない女と何度もまぐわっている穢れた男だ。

 ぼくはきみに謂れのない感情を抱いて、それで勝手に苦しみ、自分を傷付けている愚かな男だ。

 今きみと相対している自分がどういう存在なのか理解出来ていない、人間として不出来なやつなのだ。

 ぼくはこうしてまた自分の穢さを突き付けられている。逃げることを許されずに、視線を逸らしても暗い部分を真耶という白日が暴き出す。そうなることは分かりきっていたのに、ぼくは真耶に声をかけて、まるで夏の虫のように吸い寄せられていった。熱中症のような視界の回り方をして、ゆらりゆらりと水と油が混ざり合うようで、腹の底に異物を突っ込まれたような不快感に見舞われた。

 

 「先輩、髪型、どうですか……?」

 「似合っているよ。すごく似合っている」

 「そうですか……、あぁ、よかったぁ」顔を上げた真耶は綺麗な笑顔を浮かべて言った。その笑顔を見て、ぼくは腕の包帯が巻かれた部分を握り締めた。その痛みが自分の乖離を留める最後の楔だった。それが外れてしまえば、今度こそぼくはバラバラになってしまう。そんな不可解な確信めいた予感が脳裏で警鐘を鳴らす。指先どころか、身体と脳が別々に動き出してしまう。もう、ぼくはぼくでいられない。ぼくが書くものが、ぼくの書いたものでなくなる。その恐怖を抱き締めて、瀬戸際で踏み留まっていた。

 

 「わたし、昔から臆病なんです」

 「ぼくもだよ。色んなものが怖くてどうしようもないんだ」

 「冬眠中の熊みたいに誰とも接しなければ傷付かなくて済むから、小さい頃は誰とも喋りませんでした。男の子なんて近寄りもしなかったですし、大きな声でげらげら笑っているのを見ると鳥肌が立って震えてました」

 「きみはずっと昔になにかに傷つけられた」とぼくは息をつくように言った。

 「大昔の話です。静かな音で、小さく囁かれたんです。そんな一言が未だにわたしの深いところに傷として残っているんです。癒えないままで、ほったらかしにされてるんです」

 「それを癒すことは自分では出来ない?」

 「はい。でも、先輩があの日、保健室で癒してくれました。まだ全てが癒えたわけじゃないですが、こうして他人と向き合うところまで来れたんです」

 

 その傷が何なのか。真耶は話そうとはしなかったし、話すつもりもなかった。でも、彼女にはぼくがそれを完全に理解しているという大きな前提があたかも標準的に備わっていて、実際にぼくは彼女がひた隠している傷という意味をうっすらとではあるが理解出来ていた。

 

 「……先輩も傷ついたんですね。わたしみたいに」

 「生憎と、短い間で失われたものが多すぎるんだ。ぼくときみの共通項を探すのは難しい。それに、あまり過去のことを思い返したことはない。でも、きっと、ぼくときみは同じなんだ。同じ時期に同じようにして傷を負って、同じようにしてそれを飲み干している。差異があるならば、その後だよ。きみとぼくが()()()()()()地点までの道程にしかそれは現れない。だから、ぼくはきみのことを知らないし、きみもぼくのことを知らない」

 「でも、わたしは今いる先輩を知っています」と真耶は言ったけれど、いい加減にぼくを知ったふうに言うのはやめてほしいと思った。「そして、恐らく、以前の先輩を知ることも出来ます」

 

 彼女は似ている。あの意地の悪い女に、ふとした瞬間に似通う部分が見える。

 空が暗くなり、遠くから雷鳴が聴こえてくる。真耶はあの女のような仕草で肩を跳ねさせた。まるで恐怖にかられた兎のようだった。ハンカチを掬い上げて、水を絞って、真耶に渡してフェンスを登る。ぼくは真耶から離れた。物理的な距離を大きく開けた。熱と痛みと恐怖。雷鳴が恐怖を連れてきた。ぼくはぼくから新たになにかが失われたのを感じた。夏の湿った空気に指先が疼いていた。

 

 

 

 






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夢見が悪い?あなたは病気です。切除します!!(バーサーカー思考)



この作品は夏フェスの最後辺りでみんなが拳を上げて涙しながら歌う曲のようなエモさを目指しています。


てか、ぐだぐだ帝都聖杯奇譚ってマジ?陣地制圧ミッション……?アヴィケブロン先生……、バルバドス……、うっ頭が……。



 夏が過ぎて秋が来た。

 夏休みの間のぼくといえば課外と家を行き来するだけの一つ覚えみたいな生活を送っていた。帰ればキーボードを叩いて、必要最低限の動きしかしないというふうにそのサイクルを己に徹底させた。意識したわけではないけれど、余計なものを削ぎ落として鋭く尖らせるようにぼくは孤独を育んだ。その孤独は時折狂ったようにぼくを痛めつけた。何かが違うとでも言いたげな寂寞は自身で形成した切っ先を内に向けた。それは雷鳴が運んだ恐怖の数倍は痛みを上乗せされた自傷行為に繋がって、つまるところ、ぼくは訳のわからない鬼から逃げていたのだ。影も形も分からない鬼に触れられないように、ぼくは劣りとして身体から自分の血をどんどん流させた。それはある種の浄化でもあり、試みでもあったけれども、やはり一七歳のぼくには追い掛けてくる不安しか目に写ることはなかった。見えないものが見えたような視界の異常にはもう慣れていた。

 真耶とは距離をとっていた。ぼくはプールサイドで話した日から彼女に声をかけることもしなかったし、彼女を避けるように立ち回った。使う昇降口が同じだから顔を合わせることがあっても視線を合わせることすらせずに立ち去った。真耶はぼくを呼んで近付いて来たが、その足音は徐々に小さく窄んでいった。大きく育った孤独はぼくをすっぽりと母の腕のように──ぼくには母の腕に抱かれている記憶なんて何処にもなかったけれど、そのように感じられた。しかし、それは奇妙なことで、ぼくは十五の時に死んだ実母に関する思い出というものが極端に少なかった。鮮明なのは病床に伏せる姿のみ──覆いつくして、他者という存在を排他していた。雷鳴は未だに身体の中で響き続けていて、雷雲は上手くぼくの柔い部分を隠している。そのお陰でぼくは自分のあるべき姿を思い出すことが出来て、自分を再構成することに成功した代わりに追い立てられている。しかし、そんな内面の激動に反して書く物語は変わらなかった。一つになった脳と指は結託して愛の物語を綴ることにしたようだった。それはやはりぼくの意思に基づいたものには思えなかった。

 ぼくといない時の真耶は大抵、いつも一緒にいる茶髪の女の子と学校内での行動を共にしていたのだが、ぼくが距離を取り始めたことを境に男が寄り付くようになったらしい。ぼくの隣のクラスのバスケットボール部の副キャプテンや彼女と同じクラスのサッカー部員だったり、前髪を切った彼女に群がる男たちはまるで砂糖に集る蟻のようで、見ていて気の好くようなものではなかった。そして、そういう連中はきまって財布がヴィトンやプラダだった。真耶は彼らを相手にしなかった。柔和な笑みを浮かべてそれとなく誘いを断って、どの口が人見知りだなんて言っていたのか分からない応対を見せていた。

 残暑の中でぼんやりとしているうちに開催された体育祭も、風の噂で真耶がなにかで人気者になったと聴いた文化祭もぼくは休んだ。ぼくはひたすら孤独を純化させる作業に没頭していた。自室の窓から見える銀杏が黄色く色付いたことを遅まきに知ろうが、気管を悪くして寝込もうが、スマートフォンに手首にぼく以上の傷を付けた女から寝たいとメッセージが来ても、ぼくは何処までも孤独で完結されかかっていた。()()()()()()()()というのは、ぼくは一連の作業から完全に孤独を実現するのは不可能だという結論に辿り着いていたからだった。確かに孤独は成立したが、どうしても底に残った痕跡は消えることはなく、その繋がりは生きていた。それが死なない限り、ぼくは孤独にはなれない。

 そもそも、どうしてこんなにも孤独に拘るのか、自分でも正確に理解出来ていなくて、ぼくは自分の抱える理解出来ていない事柄の多さに呆れ返ってしまった。これでもう何個目か数えるのもとうの昔にやめていた。意識したわけではないと言いつつ、ぼくは率先して孤独を掴みに行っていた。そんな中でぼくは、それは数多の出来事や事情が絡まり固まった糸屑のようにして、複雑化した結果なのではないかと推測した。ここ最近、ぼくの周りでは静かにおかしなこと(自分の変調)ばかり起きていたからだ。それに加えて、ぼくは昔からこの手の問題を棚上げにしてきた。それも相まって、ぼくはとうとう深い迷宮に身を落としてしまったようだった。その迷宮に垂らされた一筋の光はまるで蜘蛛の糸のようで、その先にいるであろう真耶のことを考えるとより一層深く沈んでしまいたくなった。

 そんな惨めなぼくを真耶は心配して、手紙をくれた。ぼくと話すことが出来ないと理解した彼女はぼくの下駄箱の中に可愛らしい便箋を忍ばせるようになった。どうして避けるんですか、とか、わたしがなにかしてしまったのなら謝りますから、とか。顔色がよくないようですがちゃんと寝れていますか。最近は人をあしらうのにも慣れてきました。またお話したいです。と真耶は何通も古風なやり方を試していた。

 ぼくは真耶を思い出してみた。思い出さずにはいられなかった。孤独ではいられなかった。その手紙からはじんわりと彼女の体温のような温もりが感じられて、それはどうやっても糸をぴん、と張らすから。

 あのうっとおしく眼鏡を隠していた髪は今は短いけれど、きっと触れればするりと落ちていくように柔らかいのだろう。自分では気づいていない、指先を絡ませる癖だったり、ぎこちなさそうに、ちらちらとぼくの目を見て話そうとする姿が浮かんだ。チーズバーガーを食べている時の緩みきった顔やプールサイドで見せた弱った姿もありありと脳裏に映し出される。誰かが映写機を回しているようだった。そして、彼女の瞳はいつ如何なる時も変わらず白かった。無垢なる犯されざるその純潔性がそのまま現れていた。憂いを帯びていても、幸福な瞬間も。その瞳がぼくを糾弾していた。

 自分でも意外に思えたが、ぼくは真耶のことを存外しっかりと見ていたらしい。ぼんやりと全体として捉えるのではなくて、そういった細部に無意識の内に目が行っていた。

 それらが結束し合って出来た真耶の虚像はぼくの手を取って知らない場所へと導いていった。そこはぼくがよく知っているようで、全く知らない場所だった。ハンバーガー屋のようにも、煙草くさいダーツバーのようにも、はたまた学校の屋上のようにも見える。全て景観に関連性のない場所が明確な繋がりを帯びて同時にそこに存在していた。三つの場所が一つの空間に溶け合い、されど融和しない矛盾に富んだ不思議な現在地だった。真耶はそこでは思い思いに過ごしていた。下手くそなダーツの投げ方を見せたり、チーズバーガーを頬張ったり、転落防止のフェンスを乗り越えたり。ぼくは()()()()真耶に触れることが出来た。屋上の淵で目を閉じている真耶の背に手を添えることが出来た。真耶は確かに生きていて、掌には規則正しい拍動が伝ってきた。しかし、決定的な差異を孕んでそこに存在していた。ぼくがその差異を認識すると屋上の真耶は独りでに落ちていった。哀しげに微笑んで、ぼくを最後まで視界に入れながら落ちていくのだ。その時に、彼女の顔で、意地の悪いあの女のような憂いを帯びて、ごめんなさい、とぼくにだけ伝わるように言う。

 そういうイメージ──真耶が失われるという現象はあまりに浮世離れしていて、そのイメージはぼくをどんどんうつし世から遠ざけていった。有り体に言ってしまえばそれは悪夢で、自分の意思ではどうこう出来る領分になかった。自らの意思で目を閉じたのにぼくはそこに囚われてしまった。穢れなき彼女の姿でこんなものを見せる自分の性に憎しみさえ覚えながら、ぼくは落ちていく真耶を横目に真耶とハンバーガーを食べた。そこでは彼女はただただ幸せそうにぼくと対極の位置にいた。どうかしましたか、浮かない顔をしているように見えますが、と言う彼女にぼくはきみのせいだ、と返した。真耶は笑んだまま凍り付いたみたいに動くことはなかった。だから、ぼくは告白をしてみた。懺悔や告解といった類いの吐露だった。ぼくは不出来な人間です。恐らくは正道を踏み外しているが、そもそも正道というものが分かりません。得体の知れないものに怯え、にも関わらずそれに流されて生きている人間なのです。ぼくが言っても真耶は凍り付いたままで、それは何らおかしくない当たり前のことだったにも関わらず、ぼくは的違いな八つ当たりを──それは今でもどうしてそんなことをしたのか、自分でも恐ろしくなるような行為だった。それが現実でないから震われた暴挙なのか、それともその瞬間の情動に基づいたものだったのか分かるよしもない。だが、それはぼくがはじめて何者にも縛られずに顕にした野蛮だった──した。

 そんなぼくを真耶はせせら笑っていた。怯えるぼくは床に這いつくばっていて、ダーツを指先で弄ぶ真耶は哀れみを混ぜた冷笑を携えてぼくを見下ろしていた。三者が三点で同時にぼくを惨めに爛れさせる。

 そして、目を開けられるようになるとその幻肢痛は自制を奪い、ぼくを半狂乱にして、ぼくの穢れをより一層頑固なものにしようとした。目に写るあらゆるものがぼくから生きるという活動に必要な気力を奪った。元よりそれらを強く意識したこともなかったけれど、ぼくはほんとうに布団の上から一歩も動くことが出来なくなってしまうほどに活力を抜かれてしまった。キーボードは遠く、枕元には剃刀。腕は包帯で白くラベリングされていて、閉めきられた部屋の中でぼんやりとそこだけが光っているように見えた。そうしている内に死人が墓から這い上がるような緩慢な動作でキーボードまで辿り着き、文字を綴る。

 秋の風を聴き、夜長を堪え忍び、朝陽が昇る度にぼくは腫れ上がった気管支から溢れ出る咳と熱の狭間で指を動かした。動かし続け、思案し続け、万華鏡のような世界にぼくは身を投げた。限界が訪れた。救急車で運び込まれて、気管支肺炎だと言われた。しかし、ぼくはあの物語を書き上げることが出来た。ぼくはそれさえ完遂出来たのだから、それ以外のことをどうでもいいと思えた。肺炎になって入院しようが、手首の傷を見られてカウンセリングの手配についての相談をお手伝いさんと医者が話していようが、ぼくの胸にあるのはやはり変わらぬ穢れと一摘まみほどの達成感とあり得ないはずの希望だった。誰かがこれを読んで、暖かい気持ちになってくれるかもしれない。そうすればぼくも新しい扉を一枚開けることが出来る。オフホワイトのぼくを閉じ込める広い個室(牢屋)で、散ってしまった銀杏を眺めながら、枕元の誰かが置いていった花に触れた。

 






 エモいじゃろ……?

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分からねぇって言ってんだろうが(王者の風格)

 多忙とスランプの最中、魔法少女サイトが終わった。

 BANANAFISH超期待。






 

 

 

 楽な日が続いた。白い牢屋に入れられたぼくは思ったより平気で、なにか不自由するということもなかった。ぼくの内にある穢れが鳴りを潜めて、まるで世界で一番清らかな人間になったような錯覚を覚えて、時折一人で笑ってしまうぐらいにはこころは軽かった。怯えも、恐れも、なにもかもがぼくを置いていった。一人で冷たい光を浴びるぼくは本や活字に触れることもなく、頭の中にはなにもなかった。葉が枯れ落ちた樹になにかを見ても、ぼくは筆を取ることも出来ない。そんな狂ってしまいそうな不自由が恐らく、ぼくを不自由でなくさせていた。ぼくは自由だった。何者にも侵されず、害されず、真っ白けな頭でいればぼくは怯えず、苛まれずとも良いのだ。それは一種の廃人の形態であったけれど、世の廃人が自らの状態を正確に把握出来ないように、後から聴いた話によればぼくは日がな笑みを張り付けて病院食を床に叩き落としていたらしい。もう少しで精神病院に叩き込まれるところだったらしいけれど、父が首を縦に振らなかったおかげでぼくは異常者という社会的なレッテルを貼られずに済んだ。

 ある日、眠りから覚めると傍に誰かがいた。看護師にしては色の強い服を着ていた。ゆっくりと瞼を押し上げると、真耶がいた。だからといって驚くこともなかったし、むしろそれは酷く自然なものに思えた。そこに真耶がいて、ぼくをガラスみたいな瞳で見下ろすことはそうであるべき風景のように見えた。

 

 「今は、何時かな……」ぼくは言った。病室に時計はなかった。

 「十一時です。朝の十一時」

 「学校はどうしたの?」

 「休みました。はじめて、平日に学校に行きませんでした。サボタージュってやつですよ」真耶は美しく口元に弧を浮かべた。片側の耳に髪をかけて眼鏡を外した彼女は一度目を瞑れば真耶と分からなくなってしまうような、別人のような雰囲気を纏っていた。彼女が変わったのか、あるいはぼくが。

 「林檎、食べますか?なにも食べてないって聴いたから……」

 「誰から?」

 「お医者さんから」真耶は皿に乗った切り分けられた林檎を出した。兎を模して切られたそれをぼくは一つ摘まんで口に放り入れた。嚥下に問題はなく、物を食べることににも何ら困難はなかった。冬の林檎は瑞々しく歯応えがあった。その甘さがじんわりと身体に染み込んでいくのを感じた。

 「美味いね。もう、林檎が美味しい季節なんだね。気にもしなかった。そんな移ろいにも目が向かなかった」

 

 葉が色付いた。そして枯れ落ちた。ぼくはそれを見ていた。見ていただけだった。それを感じ取ることをしなかった。ぼくはずっと長い幻の中で過ごしていたようなものだった。だから、目の前にいる真耶も幻かなにかに思えているのだろう。だから、ぼくはぼくのままで虚飾を排して言葉を発することが出来ている。

 そうだ。もう冬だったのだ。随分と早く季節が流れ、時が走り抜けた。けれど、この部屋にはそういった概念はなかった。ぼくが何処までいってもぼくでしかなかったように、真耶はぼくの知る真耶でしかなかった。真耶はぼくを見ているだけだった。ぼくがそうであったように、しかし違うところは彼女は意識して感じ取ろうとしていなかったことだ。目を閉じても悪い夢を見ない。ぼくははじめてぼくとして真耶の前に在ることが出来た。

 

 「ここは寒いですね」

 「そうかな。ぼくはとても暖かいと思うよ。陽が当たって、清らかで。ここは悪くない場所だよ。きみはここが嫌いなのか?」

 「病院が嫌いなんです。あぁ、いや、こういう病室が好きじゃないんです。この空気がほんとうに滅入ってしまって……」

 「じゃあ、来なければ良かったのに」

 「そういう訳にも行きません。あなたが倒れて、入院してるだなんて聴いて、わたしがどれだけ慌ててここに来たか分かりますか?いえ、分からないと思いますが……、むしろ分からなくていいです。兎に角、先輩を一ヶ月も学校で見なくて……そうしたら入院生活を送ってるなんて言われて……わたし……」真耶は言う。力なく笑ってみせて、ぼくの腕を見ながら自分の腕を握り締めた。彼女は包帯の下のことも知っている。誰かが教えたのか、それとも自分から知りに行ったのか分からないけれど兎も角彼女は知っている。ぼくは「そう」と言って窓の外を見た。雪が降りそうで降らない空が陽光を歪めていた。

 「なんだか申し訳ないな。わざわざ来てもらって、大したもてなしも出来ない。誰かに押し付けたいぐらいには暇はあるんだけれど、中々どうして、暇なだけというのも悪くないものだね。なんだか、とても気分が軽いんだ」

 「今までは違ったんですか?」

 「どうだろうね。確かに、重く、暗い生活だったかもしれないけれど、本当のことを言えば、ぼくはやるべきことに没頭している以外はわりとどうでもいい人間だったんだ。学校やテストはその最たる例だ。だから、あまりしっかりと考えたことはなかったよ」

 

 本や書くこと以外の全てに対してそうであるわけではない。ファッションには人並みには気を払い──それは群衆の中で自分をうまく溶け込ませるという点に於いて、身だしなみと同義に捉えていた──、強い嗜好は持ち合わせてはいなかったが、美味いものを食べた時に素直に味を楽しむ程度の関心はあった。

 

 「それは、わたしも、ということですか?」

 

 それには見覚えがあった。またしても、と付け加えるべきだろう。その眼差しは伏せる女が、母がぼくを見上げている時の眼と瓜二つだった。透明な、恐らくは、()()()()()という所感。ぼくはそう感じた。そして、確実なことは言えないけれど、数年前の母はぼくをそう思っていたのだ。ぼくは母の視点で、母を見た。奇しくもぼくが寝ている病室は母が最期を迎えた病室だった。

 わたしはあの子がかわいそうでしょうがないの。十五歳のぼくが聴いてしまった声はとても鋭かった。しかし、まるで錆びたナイフを押し込めるように色々なものを無理矢理破りながらぼくの心を貫き荒らした。病室の前で滑り落ちそうな花瓶をしっかりと十の指で抱えて、ぼくは思った。こんな声を出す女をぼくは知らない。その声色はぼくの知るどの女性にも当て嵌まらず、どうしようもないほどに憐れみと悔いに溢れていた。ほんとうに意地の悪い女だと、思い返す度に考える。やはり、そこにはぼくが抱える全ての問題への答を持っているがゆえの感情が籠められていたのだろう。愛はなく、哀で育てられ、ぼくに開示されるべきものを全て抱えて、笑って死なれた。ほんとうにかわいそうだ。自分に同情しているわけではないが、これはあんまりだろう。だから、うまく母との思い出が想起出来ないのかもしれない。結局、ぼくはなんのかんのと言いつつ母親のことを一分たりとも理解出来ていない。向こうは全部知っているくせに。

 ぼくの何を憐れんでいるのだろう。真耶の顔を見つめてみても、なにも読み取ることは出来ない。吹けば砂の城のように消え去りそうな笑みを浮かべたまま、ぼくを見ている。その空気や空間はぼくの安寧の象徴を蝕んでいく。まっさらなキャンパスに出鱈目な色の絵の具をぶちまけるみたいに、頭の中をじわりじわり食んでいく。それはきっと、とても恐ろしいことなのだろうが、不思議とぼくは真耶が叩き付けた現実に緩やかな気持ちで向き合うことが出来た。舌と声帯が羽毛になったみたい。それらは病院が持つ冷たく稀薄な死と混ざり合う。ERやICUから希釈されても、一歩病棟に足を踏み入れれば肌に羽衣のように纏わるその臭いだったり空気や疲れだったりするものは沈殿していた澱でさえ軽くさせる。目元が歪むのを感じた。

 

 「分からないな。ぼくには分からないんだ」ぼくは言った。心の底からの言葉だった。「なにも分からないんだ。みんな難しいことだらけで、それなのにぼくを責め立てるんだ。きみもそうだ……、きみといるとぼくは自分の穢さを他でもない自分に突き付けられる」

 

 紐がほどけるように、ぼくはぼくのこころを言葉にして紡いでいく。そう錯覚していた。

 

 「ぼくはね、きみの思うような人間ではないんだよ。ただの生きることに必死で、それさえもなにかに託つけなければ儘ならないような、人として不出来な男なんだ。きみが言うような優しい人間では、決して、ない。的外れな怨みをきみに重ねている錯誤人だよ、ぼくは」

 

 死人に足を掴まれている。文字に四肢を絡め取られている。呪われている。

 腕の傷痕が開いて、血の涙が溢れそうだった。ぼくはとうとう自分の本性をさらけ出した。気付けば、ぼくは腕の包帯が巻かれた部分を強く握っていて、血が滲んでいた。ぼくのいま最も柔い部分から穢いものがじわりじわり表出してくる。泣きじゃくりながら、自分のこころにメスを立てて、誰にも見せたくない部分を切開して真耶に見せつけている。その浅ましさも、醜さも、彼女の善きこころが露にさせる全てを真耶にぶつける。

 それらをどのような言葉で出力して表現したのかは然程重要なことではない。ぼくは確かに真耶に伝えるべきことを伝えた。その一言一句たりともぼくは思い出すことは出来ないけれど、柄にもなく──ぼくは元来酷く暗い人間であるが、外ではうまく本質を取り繕っていた。真耶がぼくのことを誤解していたように──饒舌だったことは分かる。その行為はぼくがぼくであるために必要なことで、これからも苦しくともぼくであるために乖離を防ぐ楔であった。もう、痛みだけでは足りなかった。ぼくはぼくの内から真耶を追い出さなければならなかった。

 

 「お願いだよ。ぼくを苦しめないでくれないか……」

 

 失われたものは戻らない。傷は消えない。ぼくらはずっと、こころに伽藍洞を抱えて息をしていく。そこにぴったりと嵌まるものを見つけたからといって、その虚が補われることはないということをぼくは知っている。少なくともぼくは永劫その喪失を抱えて、向き合って生きていくことが決められている。母の伏せていたベッドを照らした朝陽がぼくに教えてくれた。

 意識して目に力を籠めてみると、現実感が色彩と一緒に飛び込んできて驚いた。隣を見やると、そこには誰もいなかった。まるで夢を見ていたように、何もない空虚だけが──それは夢見心地の真綿のようなものではない、存在として確率されていたものを強引に排したようなものだった。そして、ぼくが気が付いた頃には西陽がぼんやりと空に煤けていた──ぼくを見ていた。それはぼくが幾度となく夜を共に越えたものでもあり、親しき隣人は満足げにぼくを嘲笑していた。ほうら、おかえりなさい、というふうに。

 最後に彼女は遠くを見て涙を流していた。某かぼくに言っていたような気もするけれど、生憎とそれらはすっかり頭の中から消えてしまっていた。

 ぼくの内からも、外からも山田真耶という存在は消えた。後になってから急に自分のしたことの愚かさとでも言うべきことが湧き上がってきて騒ぎ立てたが、ぼくは真実そうするしか道はなく、それは何よりも自分が一番知っているはずのことだった。騒いだこころはそれっきり鳴りを潜めて、次第に消えていった。少なくともその時はぼくはぼく自身を守ることに成功したのだ。それはぼくが望んだ結果であり、しかし矛盾はそれを避けようとしていた。

 

 要するに、逃げだった。今になって思い返せば、それはどうしようもないほどに決定的で、惨めすぎる逃避だった。それらしく、自分を守るためだとか言って、それを盾にして繕っていただけであった。ぼくは自分の穢れを受け入れることが出来なかった、ただの弱い人間に過ぎない。無意識、意識に関わらず、ぼくはそれら──真耶が言うところの傷から発した諸々について考えることを拒んでいた。物事をよりシンプルに考えて、ややこしくないように日々を流していた。そうすれば余計な傷を増やすことはなく、傷を負っても痛みを感じることはないのだからと。これに気付いたのはぼくが作家として二度目の賞を取った時のことだった。

 斜陽の燃え滓を横目に繁華街をふらりふらりと彷徨っていると、ハンバーガー屋の店主と出くわした。互いに覚えていたから──その頃にはぼくも大分メディアへの露出も増えていたから、ちょうどへんに目立っていた時期だった──近くのバーに入って一杯引っかけた。その頃には作家として飯を食べられるようになっていて、生活のほとんどは自室と朱香さんの店の往復でなにをする気力も湧かず、当然学生の頃に通った彼の店には顔を出すことはなかった。店主はぼくの作品を読んでくれていたようで、あの怠そうな顔をした学生が作家になるとは思わなかったと語った。ぼくは彼にサインを一筆贈って店に飾るように言った。その時にぼくは彼から真耶が未だに店に通っていることを聴いた。ぼくは手元のグラスの中で、揺れる琥珀に壊した過去と孤独と大きく開けて膿んだ傷口を透けて見た。そして、ふと答え合わせをしたかのように十七歳の冬にした行為の本質を理解した。ぼくは真耶に酷く惚れ込んでいたのだ。そんな当たり前のことをもう何年も──不思議なことにこれだけは早い段階で自覚はしていた──そっと昏い場所にしまいこんで、深く考えないようにしてきた。でも、ぼくはそれと否応なく向かい合わなければならなくなって、酷くこころがぐらついて、家に帰ってから部屋の隅でシーツを被り襲い来る恐怖に震えた。それらは哀しみとない交ぜになって、大きな流れに合流する。そしてぼくの首を絞め続けた。

 それからあのハンバーガー屋の店主には会っていない。店に行くこともない。たぶん、二度と行くことはない。ぼくにとっては、あの店は酸素が薄すぎる。

 頭の中でしつこくニルヴァーナが流れて、息が苦しくなり、手首を切りつけて。その冷たさだけが今も昔も現実にぼくを結びつけている。

 

 退院後、家に帰ると玄関先で父と顔を合わせた。ぼくは生涯、その表情を忘れることはないだろう。その笑みは、冷笑は血縁に向けていいものではなく、そして母と真耶と同様にぼくへの憐れみさえ含まれていた。

 乾いた口の中で舌が口蓋に張り付いてぼくは口を開くことが出来ずに、父の瞳を見ていた。ぼくと同じ色の瞳には鏡写しのぼくが綺麗に写るだけだったけれど、一瞬だけ浮かんだ情動にぼくは父が何故ぼくを憐れむのか、その意を知って、何も言わずに部屋に戻って書き上げた作品を読んだ。

 『アマナの華束』

 涙が止まらなかった。自分の意思ではどうにも出来ない、深い場所の最後の白地が犯されていくのを感じた。それは心の底からほんとうに求めていたものが失われてしまった壮絶な哀しみのようにも思えた。そして、その作品を書いたのは他ならない自分自身で、書き上げたものはあの冷笑さえ破砕する力を持って、産声を上げていた。そして、ぼくはその愛しき赤子を綺麗さっぱりと削除した。バックアップすら消して、その作品があったということを許すことは出来なかった。見るに耐えず、わけが分からなくなって手当たり次第に物に当たり散らしたぼくの身体は傷だらけでおかしな所から血が出ていたりして、これでは本当に狂人じゃないか、と思っても涙が止まらないように宛のない腕と拳は己に向けられて副次的に周囲に被害を振り撒いた。

 でも、ぼくはちょうど十分きっかりにその狂乱をぴたりと止めて、滅茶苦茶になった部屋でキーボードを叩き始めた。ぼくはぼくとしてそれを書き上げた。文字は輝かず、頭と指が乖離して動いている感覚もない。七日の間、新たなぼくは親しき隣人を贄に捧げ、その屍を以て赤子を産み堕とした。そこには孤独と罪悪を籠めた世にも醜悪な毒があった。そして、その作品がぼくのデビュー作になった。

 風の噂では真耶は誰かと付き合い始めたという。でも、それはぼくにとっては平方根と同じぐらい低いプライオリティでしかなかった。失われたものは戻らず、不可逆的に物事を掴み取ることは出来ないという結論に沿ってぼくは死んでいなかった。彼女と顔を合わせることもなかったし、三年に進級すると使う昇降口が逆になり必然的に関わることは完全になくなった。得体の知れない寂しさに絡まれた時には手軽な女を抱いた。その内、ぼくはそのあっさりとした関係が心地よくなって、そんな中でぼくを慰めてくれる名も知らない誰かたちがぼくを楽土に連れていってくれる天女のように思えたけれど、朝になれば転がっているのは酷く醜い獣同然の浅ましい生き物だった。しかし、それ以上に浅ましいぼくは大きな流れに飲み込まれてそんな夜をたゆたい続けた。そうしている内にそれなりに名が知れた私立大学に進学することも決まり、ぼくの高校生活は幕を閉じた。

 どうしてぼくが彼女に惚れていたのかは理解出来ない。出来ないのだが、少なくともあの日ぼくの中から新たに一つ失われてしまったものがある。ぼくはそれすらも分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





みんな!!ハッピーシュガーライフを見よう!!






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最終回の最後辺りに入る『10年後』とかいうテロップ


 BANANAFISHはいいぞ







 

 

 

 

 

 どちらかと言えば、ぼくは他人の家で眠る方が寝心地がいいと思っている。根本的な問題が解決されないにしろ、気休め程度の安息は自分の部屋より多く得られる。生来の眠りの浅さは変えられなくとも、寝起きの気持ち悪さだったりたまに来る吐き気なんかは格段に少なかった。たぶん、ぼくがふらふらとあっちに行ったりこっちに行ったりしているのは無意識にそういう部分で自分を守ろうとしていたのかもしれない。自己嫌悪と希死念慮、そしてその寝起きの感覚を天秤に掛けると不思議と後者の方が重いのだ。ぼくは胃の中が空っぽになって喉が焼けた中でぼくを照らし貫く朝の陽を見ると自分の浅ましさやどんな暗愁をも通り越して、ぼくを生の道から強力に突き落とそうとする。ぼくは何よりもそれが嫌で仕方がない。その寝起きの悪さはここ数年で──厳密に言えば父が死んでから──酷さを増して、それから逃れるために柄でもなく安眠や眠りの質を上げると謳うものに手を出してみたが結局辿り着いたのは睡眠導入剤で、それすらも大して効いた気もしない。一度たくさん飲んで病院に担ぎ込まれてからは口にしていない。おかげで余計に不眠が悪化した。

 だから、目を覚ましてそこが自分の部屋ではないことを知ると安心して涙が出そうになってしまう。その時だけは、ぼくはほんの少しだけ幸せなのだ。逃げるように、楽でいるために、生きるために筆を走らせるでもなく、四六時中首を柔く絞められるでもない。ただ息をしている、何事もないように起きてそれが自分の日常であるかのように錯覚してしまうその瞬間がぼくの僅かな安息なのだ。しかし、それだって毎度訪れるわけではなくて、寧ろ苦しい時の方が断然多い。それを考えると悲しくなって、涙の意味はいつもと同じものに戻ってしまう。

 誰かがぼくの髪を触っていて、その手つきはいやに慈愛が籠っていた。閉じた目蓋をゆっくりと剥がすと、朱香さんが目と鼻の先にいた。そして、やはりその眼にぼくはいない。ぼくに似た、しかし全くの別人を透かして見ている。それはぼくの寝起きを害するものではなかったけれど、その瞳に写るぼくを見た時、そのぼくには顔がなかった。それは不思議な、現実感のない目覚めで、ぼくにとっては経験したことのないものだった。

 

 「朝ごはん出来てるわよ」

 「いらない」ぼくは言った。シーツを顔に大きく被せた。

 「食べないと身体に悪いわ。身体が資本なんだから……」

 「いらないってば……」健康とは程遠いぼくにその言葉は今さらというにも遅すぎた。作家として活動するようになってから、元より細かった食は今ではもうないようなものになった。それこそ気が付いた時に食べるようなもので、執筆中はほとんど咀嚼をしない。煙草と酒があれば腹は膨れてしまう。身体に毒が廻る感覚は満腹中枢を馬鹿にして、頭から文面上の理性というものをどろどろに溶かしてしまう。

 「そんなこと言わないの。もう三十路でしょう?」

 「好きで歳をとってるわけじゃないよ。お願いだからさ……、ぼくの分まで食べていいから……」

 「知ってるのよ。あなた最近は朝ごはん煙草で済ましているんですってね……。だから、そんなに痩せてるのね。あと、お酒も飲み過ぎよ……」朱香さんはそう言ってぼくの肩に手を這わせた。ぼくの体重は適正体重を大幅に下回っている。生きる気力が乏しいと堀崎に揶揄されるだけあって、ぼくは年々具合を悪くしているような気がする。去年も肺炎で入院した。「お願いよ。食べましょう、ね?」

 

 朱香さんがどんな表情を浮かべているかということにはとんと興味がなかった。ぼくは天井を見て、昨晩の記憶を掘り起こそうと必死になっていた。昨晩の経緯は案の定、予想通りでぼくはまた彼女に迷惑を掛けてしまったらしい。ぼくは飲み過ぎて潰れて、店のグラスを幾つか割って手を切った。その証拠にぼくの左手には包帯が巻かれていて、それを見てぼくは何処となく懐かしい気分になった。以前にも何度か店で潰れた時に二階の朱香さんの部屋で寝させて貰うことはあったが、今回は些か度が大きくなってしまったようだった。

 

 「食べたくないんだ。喉を通らないんだよ……。たぶん、食べても吐くだけだし、辛いだけだ……。ぼくのことは気にしないで食べてよ」

 

 朱香さんはそう、と言って部屋を出ていった。ぼくとしてもそれは心苦しくて、本当ならその朝食を食べてみたいけれど、胃が受け付けない状態で無理矢理に腹に押し込んで散々な目にあった経験からぼくは朝食の必要性を日々の中から自発的に廃した。

 ぼくは寝転んだままくわえた煙草に火を付けた。朝陽に淡く照らされて煙が天に昇るのを見て、今日が父の命日だったことに気が付いた。日付がすっぽりと抜け落ちている寝惚けた頭の片隅に、煙でなにかしら掠めたものがあった。それはなんだか分からないけれど、ぼくは父の死に対してマールボロの紫煙というイメージを持っていた。父は生前マールボロをよく吸っていて、ぼくも意識したことはないがマールボロを吸っている。それが一番馴染むから。

 父の死は世では大きく騒がれたが──それこそニューヨークタイムズだのワシントンポストといった海の向こう側のメディアでさえ小うるさく報じた──、世俗と反比例するように当人の周りはいたって静かなもので、ぼく以外に血縁者もいないから見舞いに来る者もいなかった。奇しくも母と同じように癌で倒れた父は既に手遅れで、肺から全身に転移していて延命という先延ばしすら自ら断って黄泉路を一人歩んでいた。生気や血の燈が抜けた肌にふとした拍子に砕けてしまいそうな腕と脚。そこに世界中で評価された偉大な作家の影はなかったが、しかしその姿こそが父が至るべき究極型であり、何よりも全てを書くことに捧げた男が求めたものであった。そう思えた。伏せる父の貌にはあるはずの痛みや苦しみによる歪みはなく、不気味なほどに凪いでいた。ただ己の結実を受け止め、なにかを期待するような僅かに上がった口角──見ようによれば、それは遠足が楽しみで仕方がない少年のようにも、あるいは初めて好きになった女の子に会いに行く中学生のようにも見えた──が貌に貼り付いていた。

 ぼくと父の間に会話はなく、いやな無音と消毒と病を誘う臭いの中でぼくは鼻にチューブを突っ込まれた父の貌を見ていた。あぁ、とうとうこの男は死ぬんだな、という薄っぺらい感想を抱いて、どうして見舞いに来ているのだろうと疑問に思い、その疑問が父が担ぎ込まれた時からあるものであることを思い出して磁石でもあるまいにと鼻で笑ってみせた。その抜けた音がやけに響いて、病の気に融けて消えた。時々、もしかしたら既に死んでしまっているのではないかと思ったが心電図は波打っていて、その電子音も幽かに鳴いていた。耳を澄ませれば吐息もちゃんと聴こえた。

 こればかりはどうしようもないが、ぼくの家系は癌で死ぬことが多いらしい。大昔に母が溢していたのを覚えている。父もその例に漏れずに見事肺に悪性腫瘍を拵えた。母方の祖母と父方の祖父も癌で死んだ。この次はたぶんぼくだろうと考えると少しだけ切ないような寂しいような心持ちになったけれど、その時はすっぱり死んでやろうと思った。病に静かに犯され死ぬくらいなら、偉大なるメランコリックの先人たちよろしく漠然とした不安から自ら解き放たれる道を選びたい、しみったれた最期は御免だ、と若気の至りも甚だしい尖った人生設計を考えていた。どう考えても父の癌は不摂生が祟ったもので、特に煙草は吸いすぎという表現が生易しい愛煙家ぶりだった。それを鑑みれば、ぼくの生活なんてまだ可愛いものだけれど、健康とは口が裂けても言えないのはぼくも同じだった。つまるところ、ぼくが父と同じ末路を辿る確率は非常に高いということで、でも、ぼくが眼前の父の立場になるというのは想像出来なかった。

 父の最期はおかしなものだった。峠を過ぎ、その命が清算される寸前に父は突然ぼくの腕を掴んだ。それまでぴくりとも動かずに、マネキンのような不動を貫いていた死にかけの身体が鋭く挙動したのだ。それは下手なホラー映画よりも、余程恐ろしい事態でぼくの隣にいた若い看護師は悲鳴をあげて腰を抜かしてしまっていた。ぼくもそれには驚かされて、平静ではいられなかった。なによりも、父がぼくの腕を握る力は強く、凡そ半死人が出せる握力ではなかったし、その熱量は冷たくなった手に宿るには焔の勢いが強すぎた。目を一杯に開き、ぼくを親の仇のようにねめつけて、身体を起こしながら。まるで、この瞬間のためだけに体力を蓄えていたようだった。

 「書け。書き続けろ。死んでも、おまえは、おれよりも」と父は言った。そして、言い終えると糸が切れたようにベッドに倒れて息を引き取った。死に顔は数瞬前までの鬼のような形相とは正反対の、酷く穏やかな面持ちだった。まるで一瞬にして悪夢が駆け抜けていったかのような気持ち悪さと、額を伝う冷たく、張り付くような汗がぼくに不可思議な余韻を与えていた。──余韻と言うには趣とはかけ離れた位置に在るものだったけれど──

 それからは夢の中で早送りの人生を歩んでいるような感覚だった。その浮世離れから開放されたのは、引っ越し終わった今のぼくの部屋でキーボードを叩く音がゆっくりと自意識を杯の底から引き揚げた時だった。たくさんの人から香典と御悔やみの言葉を貰ったような気もするが、ぼくにはその実感はなかった。テレビやニュースサイトでは大々的に父の死が取り上げられ、スクランブル交差点で大泣きしながらインタビューに答える大学生と会社員が父の代表作を心底大事そうに抱き締めていた。その作品はぼくの中ではさほど面白くもないと分類された若年期の作品で、その視界と思考のように何処か現実感が欠如した、というよりは書き手からそれらが抜き取られてしまったような所感を抱いた。

 火葬場から立つ煙はまるでマールボロの紫煙みたいで、ぼくはくわえたマールボロの先から立つ紫煙と父の断片が重なるのをぼんやりと見上げていた。父に最期掴まれた腕にはあの日から熱が籠っていた。一向に引くことのない熱はどんどん熱くなっているように感じる。今も尚、内からぼくを焼く新たな焔は元は父の物だったのだろう。それがどういうわけか、ぼくに継がれて、昔からそこにあったようにある種の馴染みさえ感じさせている。その手形は枷であり、印であり、触媒であり、呪いだった。ぼくの内で燃える焔には死んだはずの父がいる。ぼくにはそう思えてならなくて、時折聴こえる嘲笑じみた声の主はきまってぼくの内側にいた。そうやって必ず何処かに、父の影がちらつくのだ。手形然り、マールボロ然り。

 ぼくの人生はそう思い返すとほんとうにろくなものではない。幾つ、瑕を負って、苛まれて、誰かの呪いに晒さなければならないのだろう。実の両親からも漏れ無く刻み込まれたそれらは生涯消えることはなく、ぼくが死ぬまで苦しめ続ける。日頃の行いか、あるいは前世というものがあるのならば相当に重い罪を犯した極悪人だったのかもしれない。

 独りになったぼくの世界はそれで何かが変わるということもなく、順調に消費されている。こんなにも脆く、ぼろぼろのぼく自身には見合わない強度の日々の暮らしはぼくだけのものではない。孤独を求めることは許されず、社会は繋がりを強要する。求めるものと求められるものの相違なんてことは論ずる余地などないほどにありふれた話だ。朱香さん、堀崎、何人かの担当編集、連絡先を知っている女。時折、あの頃のように突き詰めてみようとしてもそれらが邪魔をしてしまう。世の中は三十手前の男のエゴが罷り通るほどシンプルかつ寛容には出来ていない。ぼくだけのものではないということは、誰かの領域がそこにあるということでもあり、ぼくにとってはそれは生き辛さを感じさせる因の一つでもあった。

 煙草の灰がシーツに落ちそうになって、掌で受けていると朱香さんが戻ってきた。ぼくはそれに煩わしさを感じてしまう。そんなことを考えられる手前ではないのに。

 

 「ねぇ、せめて林檎だけでも食べられないかしら……」

 

 朱香さんは掌二つ分ほどの皿を持っていた。皿に盛られた林檎は卯を模されていた。ぼくは少しだけ向けた視線を大きく皿にやった。一つ口に入れると、ヤニと煙の味に押し込められている中でほんのりと瑞々しい甘さが味蕾に蜜を垂らした。歯応えは冬よりは軟らかく、正直微妙だったけれど味は悪くはなかった。

 気が付けば、もう林檎の美味い季節は過ぎていた。つい先日までコートを着て、出版社に顔を出していたような気がしていたのに。そして、改めてあの日から十年が経過したことを知る。

 ぼくはいつも通りに涙を流した。安心したのだ。胃の中を空にすることもなかった。

 

 

 

 

 

 

 






 感想欄で、作者名で何かを察するケースが多々見られるのですがぁ……。(ねっとり)

 勘のいい読者は(中略)


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やせいの闇の読者があらわれた!!

 水着イベなんてなかったんや。

 ワイの財布はスカスカや……。スカディも来ん……。

 


 

 

 

 堀崎がIS学園の取材から帰ってきて程なく、突然会社に呼び出された。珍しく編集長が連絡を寄越してきたと思ったら、先日脱稿した新作の件で相談したいことがあるから来てくれないか、と随分と喰い気味で言った。そういう打ち合わせやミーティングの類いは、普段は在宅の状態でスカイプ越しにやるから、ぼくが会社に足を運ぶというのはほとんどない。最後に会社に行ったのは数年前に海外の賞に作品がノミネートされた時だった。

 その程度のことでわざわざ向こうに行くことはないと思ったのだが、どうやらぼく宛に編集部に届いた荷物が溜まっているらしく、それも取りに来て欲しいという。郵送を頼もうとも思ったけれど、何やら慌ただしいようで、そんな中で面倒を言うのも何処か忍びなくてぼくは久しぶりに車のキィを回した。アウディのA8は三年前に買ったはずなのに新車の臭いがした。ぼくはその臭いがあまり得意ではなくて、移動する時にタクシーを使うこともほんとうはなるべく避けたいと思っているぐらいだ。そもそも、この車にしたって元は買うつもりはなかった。免許を取った弾みで車を買おうとした時に堀崎に口を滑らしたのが運の尽きだった。瞬く間に堀崎の同級生──それも小学二年生の時の同級生というのだから、ぼくにはその繋がりに薄く、そして上滑りした疑問を抱いてしまった──が勤めているディーラーに連れていかれて車を買わされた。販売員の彼はとても感じのいい顔立ちと可愛い気のある八重歯と裏腹にぎらぎらとした野心を隠しきれてなかった。何とかして買わせてやろうとするその笑みはぼくを前にして舌舐めずりしている獣と何ら変わりはなく、しかし、ぼくは正直なところ車なんて何処のものでも良かったから、それがアウディだろうがハマーだろうがトヨタであろうが()()()()買うつもりだった。彼が思うほどぼくは手強い相手ではなかったし、寧ろ、彼の本性が垣間見えてしまったお陰で幾分か気持ちが萎えるほどには貧弱な顧客だった。それがあれよあれよと気が付けばサインをして納車されていたのだから、詐欺同然の話術だったと思う。よくよく思い返してみると、途中から堀崎もぼくの隣で口説き落とされていた。今、堀崎の自宅にはメルセデスとアウディが並んでいる。ぼくと堀崎は車屋のいいカモだった。

 会社のビルはいつも煌々と照り返す陽をぼくに浴びせる。鈍色の外壁すらぼくには眩く感じる。腕時計を見ると家を出てから三十分ほど経っていた。千代田区のど真ん中に聳える巨塔はのし掛かってきそうな圧迫感を出して、いつもぼくを脅かす。黒い森のような神秘性やオカルティックなものではない、社会的でぼくたちのすぐ傍にいつもある不安を引き伸ばした先にあるようなものをビルは持っていて、ぼくが初めて会社に出向いた時からそれに晒されている。建物に意志があるわけはないが、ぼくはどうやら嫌われているらしい。

 受付で話を通して、十六階の会議室に向かう途中で担当編集が迎えに来た。ぼくが軽く手を上げると堅苦しいパンツスーツでぎこちなく頭を下げた。

 

 「おはようございます、先生」

 「あぁ、久しぶりだね。元気にしてたかな」

 「お陰さまで。こちらです……」と彼女はぼくの前をゆっくりと歩き始める。ぼくもそれに続く。

 

 ぼくの担当が彼女になったのはつい最近のことだった。それまでぼくの担当だった男が一身上の都合とかで会社を辞めたらしい。元より彼とは気が合わなかったから、ぼくとしては悪い話ではなく、次の担当を決めるに当たってぼくの勘に障らないような人物であって欲しい、と勢い余って言ってしまったのが彼女の運の尽きであり、その結果が彼女の着られているような面白味の欠片もないパンツスーツ姿だ。元は別の中堅作家の担当をしていた彼女は、堅苦しい格好を嫌い、カジュアルな装いを好んでいた。それがどういう訳か、ぼくの担当になった途端に地味になったらしい。彼女が持っている何かしら、ぼくへのズレたイメージを訂正するつもりはないけれど、ぼくは服装云々で神経を細らせるほど過敏なこころは有していないと思っている。

 エレベーターの中で彼女の後ろ姿を見て、先月末のことを思い出す。ぼくはまたしても流れに拐われた。ぼくは何も考えていなかった。それなのに鮮明にその時のことを覚えている。何も考えていなかったから、覚えている。ぼくはその時は自由だった。まるで鳥になったように、自分と彼女がまぐわっている様を俯瞰していた。そんな感覚は確かに頭の片隅に存在していた。だから、ぼくは主観に於いて空っぽのままに行為を完結させた。しかし、嘗てのように深い場所にある杯が満たされることはない。

 とは言うけれど、彼女との行為はこれまでの夜明けとは比較にならないほどに良いものだった。気持ち良かったとか、ぼくの好みではなかったとか、そういう訳ではない。予定調和の後、翌朝、ぼくを渇かすはずの哀しいものたちが一切そこにはいなかった。隣にはぼくに添うように静かに寝息を立てる()()が一人。でも、彼女はぼくにとっては特別でもなんでもない一人でしかない。その認識の差は、今まで肌を重ねた女たちと同様に存在し、緊張の影に隠れてぼくを反射するガラス越しに盗み見ている。

 

 「来週末、お時間ありますか?」

 「今のところは。何かあるのかい?」ぼくは前を向いたままの彼女に問いを返した。赤みがかった──赤というよりはロゼのような、黒染めが薄れている印象──黒髪が心なし揺れた。三階を通過した。

 「いえ、お食事でもと思いまして」

 「ぼくは構わないよ。このまま行けば、特に予定は入らないはずだからね」

 「では、後日改めて連絡を……」

 

 彼女はそう言うと、それから口を開くことはなかった。

 静岡の焼津が出身の彼女は一般的な家に産まれ落ち、東大に入った。聴けばぼくの同級生──一度も話したことのない大金持ちの坊っちゃん。挙げ句、ぼくと親友だったと法螺を吹いていたらしい──と付き合っていたらしい。同じ東大出の堀崎が言うには男運が底を尽いているという。なるほど、確かにぼくのような男と一夜を共にしてしまい、自分が相手にとって尋常ではない存在であると勘違いするのだから的確な言い様だと思った。

 このように食事に誘うのは彼女のやり口の一つだ。──やり口という言い方は適切ではないのかもしれないけれど、堀崎曰く、彼女は気になる相手を高い店に誘うことが多いとのことだった──先月もそうだった。ぼくの家の近くに出来たレストランのオーナーシェフがイタリアのミシュラン三つ星のホテルで総料理長をしていたとかで、それを何処からか聴きつけた彼女に連れられて食事に行った。半ば強引に連れていかれたようなもので、ぼくとしても不本意な形だった。しかし、そこからどうしてか彼女の身の上噺になり、彼女は自分の半生を涙ながらに話し始めた。記憶している範囲内では、確か高校生の時に担任から性的な行為を強要されていたとか言っていたような気がする。彼女の両親はそれを知らない。よく男性恐怖症になっていないものだな、と不思議に思い、それ以上のことは頭に入ってこなかった。。他にもそういったベクトルの噺がいくつかあり、その身の上噺の真偽は分からないけれど、それらがもし本当のことならば同情に値する話だった。ぼくはそれに当たり障りのない言葉と求められる言葉を混ぜ合わせて返した。一連の行程は作業に等しく、しかし、そこから既にぼくの意思は制御を失いつつあった。流れの予兆を感じながら、ぼくは涙をナフキンで拭う彼女を見ていた。

 思うに、ぼくと彼女には共通点がある。互いに疵付いた経験があるという点。何時か、何処かで大切だった人に大切なものを損なわれた。そういう部分で引き合った、もしくは、引き合ってしまったのだろうか。真耶も、ぼくも、彼女も。そして、ぼくは彼女とトイレットボウルよりも酷く抜け出し難い流れに捕らわれた。その後はいつも通り。

 後になって聴いてみれば、彼女はその担任以外と肌を重ねたことがなかったという。それは当たり前のことなのかもしれないが、大学の同期ともキスさえしたことがなくて、正真正銘、ぼくだけが彼女と合意の上で及んだはじめての男だったらしい。関われば関わるほどに見えてくる彼女という人間のちぐはぐさ、噛み合わなさ、不審や猜疑はぼくの頭の中で暫くの間渦を巻いていたが、それは忌々しい陽光への怨嗟に比べればどうということはなかった。結論として、ぼくは彼女のことをいまいち理解出来ていないし、そうする気もないのだ。彼女もその辺りは同じスタンスをとっているようで、幾らぼくのことを誤認していても一番柔い部分には触れさせようとはしない。男が恐くないのかという質問に彼女が笑うだけであるように。時折覗く、彼女のマゾヒズム的な嗜好が更にそれを助長させる。彼女が言うには、ぼくにはある種の魔性のようなものがあるらしいけれど、そんなものの実在を考察出来るほどぼくの内のキャパシティに余裕はない。

 

 会議室の扉が開くと堀崎が嫌味な笑顔で出迎えてくれた。インサートカップに注いだコーヒーを美味そうに啜ってはいるが、ぼくはそのコーヒー──会社に置いてあるインスタントが驚くほど不味いことを知っている。堀崎はぼくの顔を見て挨拶も無しにいきなり、ひでぇツラしてるな、と言った。そういうおまえこそそのやくざなナリをどうにかするべきだ、とぼくは言った。堀崎のシャツを選ぶセンスは最悪だった。肩を竦めた堀崎はぼくの後ろにいる彼女をちらりと見て、椅子に勢いよく腰を下ろした。

 口を開かない編集長の隣には会ったことはないが、見覚えのある少年がいた。ぼくに何度も視線を向けては外して、落ち着かない様子だった。眼が痛くなりそうな、おめでたい色使いの制服を着ている。そんな制服を採用している学校をぼくは一つしか知らない。

 

 「久しぶりだね。元気そうじゃないか」編集長はそう言った。「確かきみの作品がフィリップ・K・ディック賞の候補になった時以来かな。きみがここに来るのは……」

 「そうですね。それで、わざわざ嘘まで吐いて呼び出したのはそこの有名人絡みで?」

 「そうでもしないときみはここに来ないからな。あぁ、安心してくれ。新作の原稿に不備は一切ない」

 

 編集長は悪びれもせずに言うと隣の少年の肩を叩いた。

 

 「きみのファンらしい」

 「はじめまして、織斑一夏です。先生の本や作品は昔から……」

 

 世界でいちばん有名な少年は矢鱈と早口でぼくの作品を褒めちぎる。ぼくはそれを話し半分に聞き流していた。無性に煙草が吸いたかった。こう言えばぼくが織斑少年の話に何も反応を示していないように見えるかもしれないが、ぼくは内心驚いていた。彼が話の内で上げた作品はぼくの作品の中でも特に鬱屈としたものばかりだった。凡そ世間イメージと逆行するような彼の嗜好に少なからずぼくは興味を持った。

 一つは育児放棄。一つは親を自分の手で殺した少年の独白。一つは気がふれた男が誘拐してきた少女を娘として愛するうちにその愛が変質していく話。彼が特に絶賛してくれたのは二年前に出した短編集に収録した三作だった。賞を貰ったわけでも、メディアミックスしたわけでもない。知名度も人気もそれほど高くはない地味なものばかり。随分とコアな読者らしい。

 

 「まさか、きみがぼくの作品を読んでくれているなんてね。でも意外だね。勝手なイメージだけれど、本を読むのならきみはもっと明るい、例えばそこにいる堀崎の作品辺りを読んでいるものだと思っていたんだがね」

 「堀崎先生の本も読みます。でも、貴方の作品が一番合うんです。おれのこころにぴったりと……」

 

 ぼくは煙草に火を付けた。織斑少年は何処か遠くを見ていた。

 

 「おれの言えないことを先生の本が言ってくれるんです」

 「不満」ぼくが訊くと織斑少年は頷いて続ける。

 「他にも色々とあります。立場とかごく近い未来とか、そういう煩わしさが腐り落ちて、ぼくは活字の中でだけ本物の自由を得られるんです。過去も未来も、そこには何もなくて。おれの代わりに誰かが疵付いてくれる。ほんの少しだけ優しい気持ちになれるんです」

 

 だからぼくの作品が好きだと織斑少年は言った。ぼくの作品を読んでいることは誰にも言っていないらしい。姉にさえ。しかし、それは当然のことだろうと思った。彼の女傑に対面したことはないが、ああいう人間がぼくの作品のような物語を好むことがないことは分かっている。仁義や礼節といった高潔の塊、ぼくと対称の位置にいる人間、健全な魂が宿った健全な人間。きっと、ぼくの本は彼女が誰かを養育するにあたって最も近付けたくない類いの代物だろう。確かに人格形成時期や、多感な時期にぼくの綴った文字は毒になりやすいと自覚している部分もある。だが、文字とは元来そういうものであって、毒にも薬にもなる麻のようなものだ。

 彼の感じたことに堀崎は僅かに眉に皺を寄せていた。堀崎にとって本や文学は楽しいものでしかない。だから堀崎はぼくとは違う作風で、ぼくと感性が真逆なのだ。彼には苦しめられた経験がない。あるいは、死の淵に立ったということが。

 ぼくが学生のころ、はじめて太宰治を読んで時に心臓が高く鳴り、活字の彼方で誰かが途方もない悲劇に見舞われていることに安堵したように、織斑少年もぼくの作品に拠り所や落ち着けるものを見つけたのだろう。ぼくと目の前の少年は何処か似ていて、互いにとても寂しい人間なのだ。何処かで彼も死にかけて──ぼくは都合二度、睡眠薬の過剰摂取と数年前に事故で生死の境を彷徨った。しかし、ある種哲学的で抽象的かつ広義の意味ではじめて死んでしまったと感じたのは十年前の病室でだった。失われてしまった何かはそれほどまでに大きく、それによって別の何かが殺されてしまったようながらんどうが増えた──、喉につかえた言葉も想いも胸の中で腐り果ててしまった。彼が死から逃れ、目を覚ました時、その眼に写る世界はさぞや透き通って綺麗に見えたことだろう。それを嫌というほどに理解出来る。

 四人の部屋でぼくらは二人きりだった。

 

 「先生の作品をはじめて読んだのは副担任の山田先生にデビュー作の『外道の徒花』を貸りた時です」

 「すごい教師だね。生徒にあんなモノを読ませるなんて」

 「おまえの後輩だよ。その山田先生……」堀崎が重たげに口を開いた。

 「山田?あぁ、高校の後輩にいたかもしれないね。山田真耶だったかな。()()()()()()()()()()けれど……」

 

 口はひとりでに動いていたような気もする。着ぐるみの中からキャラクターの挙動に反応する人間を見ているような感覚。白々しく、きわめて感じのいい笑みでありもしない昔話を語ってみせた。そんなぼくを堀崎はいやに澄んだ目で見てきて、織斑少年にも似たような視線を送っていた。

 

 「山田先生が、きみに合う本を一つ教えてあげるって。周りの誰にも気付かれないように読みなさい、と」

 「まるで劇物扱いだ。ぼくは随分と後輩から嫌われているらしい」

 「でも、山田先生は貴方のファンらしいですよ。事実、貴方の作品はおれにしっくり来ました。あの人はおれなんかよりも先生の作品を読み込んでますよ。貸してくれた『外道の徒花』も初版でした。あれ、プレミア付いてるっていうじゃないですか」

 「大して面識もないがね。まぁ、あんなものでも読んでくれる人がいるだけ有難いよ」ぼくは皮肉たっぷりな物言いをした。「若気の至りで書いたものにそんな価値を見出だされてもな。おかしな気分だ」

 

 不味いコーヒーを飲んで話を切った。ぼくはそれ以上その本の話をしたくなかった。それに付いてくる山田真耶の話もしたくなかった。織斑少年の言葉の隅々に山田真耶の影が見え隠れしているような気持ちになって、今にも滅入ってしまいそうだった。

 織斑少年はコーヒーに口を付けると顔をしかめた。苦いですね、と笑ってはいたけれど、彼はへんな所で誤魔化しが下手だった。

 あぁ、そうだ、と織斑少年は手を叩いた。ぼくに人生の後輩として質問があると言った。

 

 「愛とか恋とか。先生はどう思っているんですか?」

 「随分と漠然とした質問だ。どう思っている、とは具体的には」

 「先生の人生観に於いてどういう意味を持っているのか、という意味です。先生が学生の頃はそういうものとどう付き合っていましたか?」

 「どうもなにもないよ。気の向くまま、自分が感じるままに動いていたよ。でも、基本的には本が恋人みたいな陰気なやつだったからぼくは青春というものの恩恵を受けたことはないんだけどね。まぁ、愛にも色々とあるし、恋というのも存外難しい。ぼくはもうすぐ三十になるけれど、それでも経験不足だよ。世界は分からないものや、不可思議にまみれているけれど、愛とか恋はその中でも一等理解に難しいんだ。それでも言わせてもらえるのなら、ろくなものじゃないね……」

 「どうしてそう思うんです?」

 「痛みを伴うからだよ。きみは自分の胸を抉りながら誰かにキスをすることを是とするかい?愛や恋には少なからず痛みが生じて、それらはきまって激痛だ。それに堪え忍びながら愛を謳い続けるなんてぞっとするだろう」

 「愛することは愚行であると?」

 「いや。それは千差万別、人それぞれさ。ぼくがこう思っているだけだからね。ぼくの腐り果てた人生観に於いての話でしかないよ」とぼくは言った。「ところで、どうしてそんなことを訊くんだい?」

 「先生の作品を読んでいてふと気になったんです。これを書いている人はそこら辺のことをどう考えているのかなって」

 「きみの個人的な興味」

 「はい。おれの個人的な興味です」と織斑少年は言った。

 「人生の後輩として質問するほど重苦しいものかな?それとも、きみが現在進行形で愛だの恋だので悩んでいるとか」

 「かもしれません」

 織斑少年は首の後ろを擦る。襟足の毛先を指先で弄んで、造りのいい貌を崩した。

 恋に恋する年頃の彼ももしかすると、ほんとうにその手のことで悩みを抱えているのかもしれない。別に女だけが思春期の幻覚作用に陥るわけではない。けれども、ぼくには彼がそんな陳腐な人間には見えなかった。何より、ぼくと似たやつがまともな人間であるとは考えられなかった。

 「恋人、好きな人がいるのかい?」

 「いえ、いませんよ」織斑少年は頭を振った。

 「でも、きみなら不自由しないだろうに。ロマンチシストだったり……」

 「まさか。端的に言えば、おれがねじくれているだけなんですよ。恋愛観とか、その辺の物の見方が」

 「真っ当な恋愛に興味がないってことかな。それともディープな嗜好があるとか」

 「恋愛した先をどうも想像出来ないんですよね。結局は一人がいちばん安心出来るというか」

 「それはそうだろう。人間は何処までも孤独という隣人と生涯を共にしなければならないからね。でも、それは悪いことではない。きみもそれは理解出来ているんだろう?」とぼくは訊いた。

 「抑圧、とは少し違うけれど。どうも、おれは心地いい場所にはいられないようです。色んな場所から手が伸ばされておれを引っ張り出そうとする。好きとか、好意とか、貴方のためとか。おれにはいらないものばっかり。一人の時に得られて、おれを満ち足りさせていたものが何もかも踏み荒らされてしまった。もし、そこに愛とか恋とかが介在するならおれにはどうすることも出来ない。おれはそれらを知らないから」

 そんな時に彼にぼくの本を渡したのが真耶だった。真耶は織斑少年に過度に干渉しなかったらしい。それこそ、いっそ職務を放棄していると見えるほど。

 「自分でも思うんです。自分は生に対してそれほど熱くはなれないな、って。それが分かっているから煩わしく感じてしまう」

 「一切合切が」

 織斑少年は頷いた。

 「でも、おれは悪いとは思っていません。それに苦しむことは出来ないし、苦しむ理由も見当たりません。。世間に一人くらいはこういう人間はいるんだろうと開き直っています。きっと矯正することは出来ないし、もう仕方がないかなとも思っています」

 ぼくは急にいやな気分になった。気に食わないとも。あるいは、同族の臭いが濃くなりすぎてしまったのかもしれない。どうにせよ、ぼくは目の前の少年に久方振りに嫌悪という感情を当て嵌めていた。しかし、それは刹那の内に消え失せた一過性のもので、余りにも矛先がずれていて、ぼくが持つべきものではなかった。

 彼はとても凪いだ面持ちでぼくを見ていて、ぼくも恐らくは似たような貌で視線を返していた。泥のような言葉でぬかるんだ空気を押し上げながら言葉が編まれる。陽は傾いて、焼けた空に形容することの出来ない紋様が施されていた。深紫とマジェンタが艶かしく絡み合い、晦冥のような雲がそれを覆い隠す。光の色が妖しく部屋を染め上げた。

 「だから、おれは貴方が羨ましい。どんなに細くても火を絶やさない貴方が。持たざる者として、苦しみ続ける貴方が心の底から羨ましい」

 

 

 

 





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仕事をすっぽかしてするドライブは楽しいか?


 チオ○タGOLDが相棒さ。


 堀崎とぼくの担当編集が死んでしまうと、ぼくの周りは妙に風通しのいいような気がするようになった。こころの肌寒さは日に日に増して、ぼくは冬眠を間近に迎えた動物のような倦怠に悩まされた。ありのままに受け入れるには些か重すぎるそれはどうにもぼくと波長が合ってしまうようで、その憂鬱の重さを心地好く感じてしまうくらいにはぼくの柔い部分は荒らされてしまっていて、そこを酷い有り様にしていった友という盗人は海原と溶け合って母なる場所に沈んでいった。

 いきなり、というものはどんな類いのものであれ迷惑で、特に冠婚葬祭はその筆頭に並ぶと思っていた。父の時は予め備えていたけれど、堀崎の死というのはほんとうに急なもので、一報を聴いてから柄にもなく急がなくてはならなくなった。礼服を引っ張り出して、香典を包んで。死人の貌を拝むまでは何処か嘘くさかった事実も瞼を閉じる堀崎を見るとすんなりと納得してしまって、いつか堀崎と話していたどちらが先に死ぬかという予想は外れた。どうにも落ち着かなく感じたのは彼の死相の穏やかさ。ぼくに言わせてみれば、柄の悪い堀崎は死ぬ時でさえぼくを色魔色魔と冷やかして、小馬鹿にしている方がらしくある。大雑把でデリカシーというものを放棄している口の悪い男。そんな男が口元にちょうどいい弧を浮かべているのは気持ち悪いだけだった。それはぼくの知る堀崎ではなかった。

 堀崎の葬儀は親い者たちだけで静に執り行われた。親族以外の参列者はぼくも含めて五人もいなかった。夏が死んでしまう直前、蝉たちの今際の際の声、籠る熱と白檀の臭い、生き人と死人の境。そんな中でぼくは父が死んだ時のことを思い出していた。父が死んだ時も白檀の臭いに絡み付かれながらぼうっとしていた。堀崎のファンも父のファンのように泣いてしまうほどに、我が身の如く哀しんでいた。昔見た風景が少しだけ形を変えてリフレインされているようだった。ぼんやりとした夢の中のような情緒も然り。

 しかし、堀崎が死んだからといって哀しい気持ちになったり、気分が沈んでしまったかと問われれば、そういう訳ではないのだ。憂鬱とは言うけれど、それは身近な死がついでに色んなものを拐っていく現象に伴うものではない。その憂鬱の出所は外ではなく、内から這い出てきたものだった。薄情に思えるかもしれないが、ぼくは真実堀崎の死に悲哀を感じることはなかった。寧ろ、少しだけ何かが楽になったような気がして、それを敏感に察知した自分の浅ましさとどうしようもなさを飽きもせずに突き付けられ、別口の憂鬱を背負うことになった。

 今更、ここまで言ってしまった体では薄っぺらく聴こえるだろうが、哀しみやナーバスな気持ちにならなかったとは言え、流石に驚きはした。世間的には心不全と報道されてはいるけれど、堀崎の死因は急性アモキサンピン中毒で、所謂オーバードーズだった。アモキサンピン、抗うつ薬を九十錠一気に飲み込んで痙攣しながら苦しみの中で死んだ。ぼくの担当編集と手を繋いで、手首を縛り合って、心中した。駆け落ちした。堀崎の関係者はその死に方や唐突さに困惑していた。しかし、それはぼくの驚きとはまた少し違うベクトルにあるものだった。何だかんだと周りが言う中でぼくは彼らが二人で寄り添い合って心中している様を思い浮かべてみた。それは勿論ぼくの想像上の瞬間だったけれど、どうにもその光景はどんな終わり方よりも綺麗で後腐れのないものに思えた。

 堀崎はぼくが知る限りでは精神科や心療内科に通院していたことはない。彼らが飲んだアモキサンピンは担当編集の彼女が持っていたものだろう。警察が言うには彼女の自宅のデスクから輪ゴムで纏められたアモキサンピンが沢山出てきたらしい。決して安全とは言えないそれをどうやって溜め込んだのかは分からない。でも、彼女が一時期心療内科で治療を受けていたことは確かだという。

 

 織斑少年が帰った後、会議室にはぼくと堀崎だけが残った。編集長と担当編集は仕事に戻って、特に予定もないぼくたちは特に理由もなく席を立たなかった。不味いコーヒーは冷えきって、さらに不味くなっていし、部屋の色も()()の効いた、えぐみのある紅に染まって夜の帳に手を掛けていた。それでも、ぼくたちは明かりを点けることもなく、ただ座っているだけだった。言葉もなかった。

 「悪くない取材だったぜ」

 「ふぅん。それは良かったじゃないか。滅多に行けるものでもないんだろう?」

 はじめに口をきいたのは堀崎だった。真っ黒なひとがたが喋っていた。

 「まぁな。でも、女だらけで落ち着かなかった。あそこに男一人だけってのは勘弁して欲しいな」

 「言っても仕方がない部分だろう。今日のことはお前が?」

 堀崎は頷いて、「あの坊主がおまえのことばっか話すから。会わせてやろうかなと思ったんだが、びっくりだぜ。あんな性根の野郎だったとはな……」

 「気に入らないのかい?」

 「勘に障るって程でもないが、誰かに似ていなくもない。何処であんなにねじくれたんだかな。しかも姉貴……、ブリュンヒルデは気付いてないみたいじゃねぇか」

 「家族と言ったって血が繋がっているだけで互いのこころの底まで繋がっているわけじゃないさ。どんな存在よりも親いだけの他人と同義だよ。全て分かち合えるなんてことはない」

 「扱き下ろすな。経験か?」

 「どうだろうね。でも、彼はそういう領域に関しては人一倍理解があるように見えたけど」

 だろうな、と堀崎は言って背凭れに体重をかけた。リクライニングが作動して、堀崎の影が倒れこむ。ぼくは新しい煙草に火を付けて、焼けていく灰を見つめていた。ぼんやりと燃える火は砂時計のようにゆっくりと時をなぞる。染み込んでいくような浸食を見ていると時間の流れが一段と遅く感じられた。そのせいか、逢魔が時の宛どない気持ちが強くなる。

 「そういえばおまえの後輩の教師……」

 「山田真耶」

 「そう、山田真耶。その山田先生とも話したぜ。いい人だった」

 「狙ってるのか?」とぼくは訊いた。

 「別に」と堀崎は素っ気なく返して、「見込みがないのにわざわざアプローチすることはないだろう」

 ぼくは口に溜めた紫煙を吐き出しながら真耶のことを考えてみた。でも、ぼくは彼女のことをさっぱり思い浮かべることが出来なかった。十年の歳月は単純に時間の作用として彼女という存在を霞めてしまった。あるいは、もはやぼくの内では重要なものではなくなってしまったのかもしれない。しかし、彼女はぼくの生に於いて確かに某かの起点であり終点であった。それは今でも変わることはないし、これからもそうだ。もしくはぼくの価値観ではなく、もっと深い所──例えば杯がある場所。十七歳の血が未だ微かに残る、ぼくの穢れ(こころ)の中心──がいつの間にか変わってしまったのだろうか。そんな、インクが滲んで崩れてしまったレタリングのような中ではっきりとしたことを言えば、ぼくが彼女に関わることはもうない、山田真耶という存在は非実在に等しいということ。やはり起点であり、終点であるということ。

 「おまえのこと気にかけてたぞ。あれ、嘘だろ。面識がなかったって」

 「十年も昔のことだから分からないよ。もしかしたら人違いしてるかも」ぼくは言った。くるりと椅子を回して目を閉じて身体を任せた。そうやって装った。

 「どうしてお前が取材を断ったか、何となく分かった気がするぜ。訳ありの女と顔を合わせたくないなんて、おまえにも可愛らしいところがあったんだな」

 「そういうのじゃあないよ。彼女とはほんとうに()()()なかったさ。実際うまく思い出せないし、気にかけて貰ってもどうしようもないんだけどな」

 「じゃあ、どんな理由なんだよ」堀崎の影がカップを揺らした。ぼくは気乗りしなかっただけだって、と肩を竦めて返した。すると堀崎は黙りこくって、ぼくにへんな視線を投げかけるだけになった。暗い部屋で彼がどんな眼をしていたかは分からないが、居心地が悪かったことは覚えている。ぼくを咎めるような、静かに罪を凝視されるような気持ち悪さがあった。

 前提として堀崎は朱香さんの店で誘いを断った時にぼくが適当な理由をこじつけたことに感づいていた。その上で気を遣った節があった。それなのに今度は積極的にぼくの深い場所に分け入ろうとして、あまつさえ、ぼくに敵意染みたものを向けてきていた。それにほんの少し驚かされたけれど、ぼくはそれを嫌悪することはなかった。堀崎のそういう側面を見たことがなかったからだろうか、ぼくは不思議と彼が秘め続けていた粘性の負に唇を上げてしまいそうになってしまった。その穢い部分は触れられざる秘密で、ぼくが描くものそのものだったのだ。ぼくの何が──恐らくはぼくの纏い続ける薄汚れた嘘の衣に気付いてしまったのだろう。そして、その浅ましさにも──彼の醜悪を刺激したかは不明だが、ぼくはその視線を忘れることはないだろう。遊び半分で意図せずにぼくを抉り続けて来た男の最初で最後の悪意を。

 「おかしなやつ」と堀崎は言った。そんな今更な言葉が最後に聴いた声になった。

 その二日後に堀崎はぼくの担当編集と心中した。致死的な腎不全と心臓死。日頃、プライベートでも親交があった編集長が訪ねると、彼と彼女は永遠の逢瀬へ向かった後だった。言い様のない苦しみに自分の意思でじわじわと殺されていく感覚を味わいたいと思うような嗜好は彼にはなかったと思う。ソファで肩を寄せ合い、テーブルには美味いワインがあったという。その隣には空になったアルミの包装シートの束。何処かありがちなセットのようにも思えた。

 彼が自ら死を選んだ動機に心当たりがあるわけがないのだが、ぼくの所にも警察は来て、世間噺程度の聴取も行われた。不思議とぼくと編集の関係は明るみに出ることはなく、彼らには同僚と親友を同時に失った気の毒な男に写ったようだった。そうして事件性は無く、自殺として片付けられたのだけれど、外聞を気にした連中が心不全で死んだように報道した。あんなナリの男でも日本最高峰の作家の一人だったのだ。そういった類いのベールを被ることを許されるほどには。

 堀崎の葬式の二日後に彼女の葬式が行われた。そちらの方は両親と彼女だけのほんとうに静かなものだったらしい。ぼくは顔を出すことは出来なかったが、人伝に──どうしてかぼくが堀崎の葬式で火を貸した若い葬儀屋の男は口が軽かった──聴いた。生まれた焼津の小さな斎場で、潮風の薫りと共に。彼女は風と共に去りぬが好きだった。そこに籠められた意味はまるで違うけれど、彼女はそうして去っていった。灰は大いなる海原へと風と共に。その先に前向きな何かがあるという風には思えないけれど、彼女はその道を歩んでいった。ぼくとの約束をすっぽかして、永遠に向かい合うことはなくなった。そして、彼女が結局ぼくを何処に連れていこうとしていたか分からずじまいになってしまった。

 そういった諸々が終わるとぼくは財布と鍵だけを持って車に乗った。焼津へと走らせた。東名高速を下って、ガソリンを満タンにしたアウディのアクセルを二〇〇キロ弱の道すがら一度も足を剥がさず、くっついてしまったように。相違のない、画一化された景色と防音壁に閉じ込められた道の中でぼくは棺桶に入っている気分だった。堀崎や彼女、ぼくの知りうるもういない一人たちとの距離は確実にその瞬間だけは縮まっていた。無理やりな追い越しや煽りは彼、彼女らの微笑みと嘲笑だったように思える。

 思い返すとぼくは少し自棄を起こしていたのかもしれない。ちょうどその時は知り合いの映画監督の作品への書評を書いていて締め切りが迫っていたにも関わらず土壇場でそんなことがあったものだから間に合いそうにもなかった。気持ちという面でも現実的な作業の進捗という面でもぼくは諦めを感じていた。いい歳をした大人が仕事でやってはいけない、とは今さら言うまでもないことをぼくはやった。あらゆることから僅かな間だけ触れられたくなかったのだ。だから、ぼくと連絡を取れる手段は全て置いてきた。

 緩やかなカーブに沿ってハンドルを傾けてると隣の車線に睦まじい男女の乗るフィアットが見えた。彼らとふいに眼が合って、手を振られた。ぼくはそれに片手を上げて返した。煌々とした威嚇は交わって、彼らはぼくを置き去りにしていった。色々なものが溶けて前に飛んでいったり、逆にぼくらが置いてけぼりにしていく時間の中で、ぼくは混沌としたこころの上澄みにあった堀崎たちの思い出──というには少しボケて色褪せていたけれど──を掬い上げることが出来た。フィアットの彼らは笑っていた。堀崎もいつも笑っていた。でも、皺は堀崎の方がずっと深かった。

 夕暮れ手前には焼津の彼女の墓に着くことが出来た。高速を降りてから買ったマールボロ、加熱式のそれは以前彼女に勧められたもので、紙巻きよりは身体にいいからとひ弱なぼくを案じてくれていたことを思い出した。それが真実かどうかは確かめようもないが、ぼくには物足りなく感じてしまって続けられそうにもなかった。それ以前に、紙巻きでも加熱式でも煙草が害を持つことに変わりはない。墓の前でヒートスティックを棄てて、海の見える門を潜った。むせかえる残暑の残り香が混ざって、喉の奥に潮騒が絡む。

 赤の他人の家の墓の中を歩いていると気持ち悪い視線を感じるように錯覚する。値踏みされるというか、じろじろとねめつけられるような感覚。何処の誰とも知れぬ余所者も排そうと、物言わぬ眼で訴えているのかもしれない。出ていけ、と。あるいは批難して、罵声を冷たく淡々と浴びせているのだろうか。それに関しては心当たりが両手から溢れるほどにあるから、ちょっとばかり困ってしまう。人の噂は軽々しくて、唇に当てた指は信頼に欠ける。特に人の温もりというものが濃いほどに比例していく。

 立派な墓だった。御影石の高そうな灰に白く彫られた家名と先祖代々。居心地の悪さはここに来て極まった。ぼくは桐箱に厳かに包まれた線香に火を付けた。値段相応に練り込まれた白檀が鼻につく。その匂いが墓に染み込む臭いと溶け合う。煙が墓石に吸い込まれてしまうのだ。墓前に線香を供えると、自分の仕草のぎこちなさが目立った。墓参りなどほんとうに久しぶりだった。肉親の墓に行ったのは死んでしまった時だけで、盆という風習にも馴染みがなかった。思い返せばそれは幼い頃からで、父も大して死者に敬いを持っているわけではなかったのかもしれない。だから、一つ一つ動作を確かめるように恐る恐るやっていた。ぼくが信仰を持っているとか形而学上的なものに深い思いがあるというわけではない。単にその辺の行動が型に嵌まりやすいだけだった。

 死者がぼくたちの心の内を透かして見えるのなら、彼女は少しだけ驚いていると思う。ぼくは出来れば彼女に生きていて欲しかった、と考えていたのだ。道徳に照らし合わせればそれは全うな考えだろうけど、ぼくはネタにするには些か素材が足りないと思った。別に初等教育で刷り込まれるような倫理観が貌を覗かせたということはない。ただ、きわめてナチュラルにそういった思考の進め方をしてしまった。

 いつか、彼女に言われたことを思い出した。ぼくと父の差異は日に日になくなってきている、と。つまり、ぼくが徐々に父に近付いてきているということ。ベッドの中でそう言われて、柄にもなく口汚く彼女を罵ったことを覚えている。その後の自分自身への諦観と不信も。その彼女だって編集長の独り言を聴いただけだというのに、えらい迷惑だったはずだ。そして、その差異をぼくは実感した。自分でも気が付かない内にじわりじわりとぼくは変容していたのだった。喜ばしさはなく、哀しみもなかった。変わってしまったことをただありのままに受け入れることが出来るだけの土壌があった。いつの間にかそういった部分まで変わってしまっていた。無味無臭の現象を遠くから観察しているような、自分の深いところにさえ薄く膜一枚隔てている。稚拙な物言いをするならば、ぼくはもう三十路手前のいい大人なのだ。大人はみんなこういう面を持っている。だからその膜を自ら引き裂いて、そこに孕んだものを引きずり出して綴る行為は苦痛を伴う。恋も愛も文も。

 どうして君まで死ぬことになったんだい、と訊ねてみるけれど返してくれる声はいない。ぼくはそれを知る権利が僅かばかりではあるが有している。急に、ぱったりとこの世界の何処にも──少なくとも物質的にはいなくなってしまった彼女のことをぼくは少しだって理解しようと努めたことはなかった。だから、ではないが、ぼくはちゃんと彼女を見てみたいと思った。心持ちとしては取材に近いだろうか。寧ろ、墓荒らしに近い蛮行なのかもしれない。ぼくは一人の女と男の心中にとても心惹かれた。そんな週刊誌の不謹慎なゴシップも引きつるようなつまらない理由で、酷いことをしようとしている。

 堀崎によろしく、と言ってぼくは引き返した。顔は見せたからもう用はなかった。陽は死に瀕していて、夜が横たわっている。明度も彩度も落ちて視界が悪くなった墓で向かいから歩いてくる初老の男性に厳しい眼を向けられた。眼を合わせないで通り過ぎようとすると声をかけられた。しゃがれた声だった。潮風でがらがらになった、海の人の暖かな歪みを有している五十過ぎくらいの痩せた男。

 「ここでなにをしてたんだ……」

 「墓参りを」ぼくは言った。眼を合わせるべき場所は暗く、意思はカーテンで隠されてしまった。

 「ここいらの人間じゃないだろう。あんた、余所者だろう?」

 「余所者でも知り合いが眠る場所に来ることだってあるでしょう。それともここは余所者が立ち入ってはいけない場所でしたか?もし、そうでしたらすぐに立ち去ります。用は済みましたから」意図せずに言葉に棘を持たせてしまったけれど、ぼくは声色だけは和やかに言った。喧嘩を売り買いする気はないけれど、自分たちの世界を自分たちで満たして生暖かい馴れ合いが心地好く感じる手合いに絡まれたくはなかった。連帯感で大事なものを遠くに追いやってしまえる程度にそこら中で安売りされた幸福感をぼくは好かなかった。

 「いや、そういうわけじゃない。すまない、少し気が立っていたようだ。見ず知らずのあんたに絡んでしまうなんて、いい歳したやつがやることじゃなかったな」

 男は意外にも、そう言って頭を下げてきた。謝罪が欲しかったわけではないから謝られても扱いに困るだけで、夕暮れの墓場の真ん中でそんな男を見ていると奇妙な気持ちになって、まるで人違いに合ったように感じられた。

 「あなたも墓参りに?」

 「娘の」男は首の後ろに手を当てて、「先日、いってしまったんだよ。まさか、自分よりも先に死なれるとは思いもしなかった」

 「御悔やみ申し上げます」

 「まぁ、おれはまだいいんだけど、嫁さんがね。参っちゃってさ。あれこれ落ち着いたら倒れたんだ」

 「大変ですね。ぼくも父の葬儀の後は疲れ果てて暫く動けませんでした」薄っぺらいし、どうしようもない嘘だった。疲れはしたけど、夜には仕事を再開出来るだけの気力も体力も余っていた。

 「あんた、独り身か?」

 「えぇ」ぼくは短く返した。

 そうかい、と男は言うと、「おれも随分前に親父を亡くしたが、その時は泣かなかった。お袋の時もだ。哀しくなかったわけじゃない。ただ、涙が出なかったんだ。でもな、娘が死んだ時。あれは何て言うんだろうな……。無くなった、いや、消えてしまった……」

 「喪失感」

 「違う、違うんだ。そういうものじゃない。難しい言葉で表せるようなことじゃあないんだ。兎に角、分からなくなるんだ。東京に向かっているはずなのに、新幹線の行き先の二文字が見えなくなって滲むように見えるんだ。頭の中でそこだけがチカチカ、切れかけの電光掲示版みたいに見えて地獄だの天国だのに見えてくる。まるで夢の中だ。報せの電話だってろくにどんなことを言われたか覚えちゃいない。気が付くと東京行きの新幹線の中だった。ちゃんとキャリーケースに着替えまで入れてな。おまけに涙が止まらなかった」

 男は慎重に一つ一つ答え合わせをするように言葉を紡いだ。欠けて、ばらばらになってしまいそうな意味たちをどうにか繋ぎ合わせて、彼が出来る最大限で出力したようだった。

 「幽体離脱みたいですね、それ」

 「ある意味な。早々ないだろうが、あんたも気を付けるんだな。何時そんなことが起こるか分からないからな」

 ぼくは御忠告どうも、と言って車のキィをポケットから出した。男もぼくの隣を行って誰かの墓に行った。

 男の言うことに理解出来るところはあった。その夢遊病のような時期はぼくにもあったし、探せば似たような経験を持つ者はそれなりに見つかるだろう。死という現象が起こす人に感染する病原みたいなものだから。現実から半歩分だけ押し出されてしまう急性の病。意識とかクオリアといった領域が噛み合わないような、説明が難しい状態。

 これから先の男の人生は少し急な坂道を登るようなものになるだろう。妻の容態次第ではあるが、介護も考えなければならない。老後は互いに施設に入ってしまうのも手ではある。けれどそれまでの間、これから数年は彼らは苦しむのだろう。娘を失った哀しみはそう簡単に拭えるものではないし、時が忘れさせてくれると言うものの、どれ程の時を経れば効果が見られるかは個人差がある。誰かが誰にでも平等で均一な臨床データを纏めたわけでもないのに、それは認可の降りていない怪しい薬を万能薬と法螺を吹いて売り付けているようなものだ。時は風化させるか化膿させるだけだとぼくは思っている。

 男とその妻に同情や可哀想とかいう思いを持ったということではない。ただ、人生のそういう時期に差し掛かる彼らは重みや憂鬱にどうやって向き合い、付き合っていくのだろうか、と思った。酒や煙草。男や女、色や欲に行くのも悪くない。それとも大昔の賢者のような隠遁生活で俗世の香りを断つか、このままひたすら石のように耐えるか。何れにせよぼくはそれを見届けることはないし、特に重要なことではない。腹が満たされている時に考える次の飯と同じくらいにしか程度は高くはない。浮かんでは消えてしまう、ありふれた思い付きに過ぎなかった。しかしその思い付きを思案すると、思わぬところに飛び出たりするから一概に時間を浪費しているとは言えない。深く考えすぎず、自分を損なわない領域で浅い眠りにつくように頭を回すのだ。

 プッシュスタートボタンを人差し指で押し込むと静かにアウディは身を震わせた。これから先のことなどなにも頭にないままアクセルに靴底を這わせると窓に鈍くぶつかる音がした。先ほどの男が掌を窓に押し当てて、肩を上下させていた。ライトを付けたお陰で彼の貌がよく見えた。中々に彫りの深い、整った造りだった。

 「待ってくれ」

 ぼくは窓を開けた。

 「なにか?」

 「霊園の突き当たり……。奥の墓に線香を供えたのはあんたか?」

 ぼくは頷いた。男はぼくを見て、なにか確信めいたものを感じたようだった。彼の言葉から、彼もぼくと同じ墓に用があったことは想像出来た。それがどういう意味なのかも。

 「あんた、娘の知り合いなのか」

 「えぇ。仕事仲間でした。あまり付き合いは長くはなかったけれど」

 少しばかり肉体関係があって、恐ろしく低俗な慰め合いと他者承認が週に何回か発散される仕事で関わり合いのある関係。それも後者にいたってはあなたの娘が一方的にぼくにぶつけてくるだけの関係です。身体の相性はまぁまぁ。

 「礼を言うよ。わざわざここまで来てくれるやつはいないから」

 「世話になりましたから。最期がどうであれ、挨拶くらいはしなきゃならない。義務と権利がある」

 そうか、と言うと男は窓に触れていた手をだらりと落とした。そしてぼくの名前を言った。作家としての名前だった。

 「娘が担当していた作家さん、あんただったのか。偉い作家だとは聴いていたが、こんなに若いとはな」

 「期待外れでしたか?」

 「違う。おれは世の中のことに疎くてな。実を言えばあんたのことも娘に聴くまで知らなかった。今思えば娘にあんたの本を渡されたっけな。読んでおけばもっと話が出来たかもな」

 「おすすめはしませんよ。胸のすくような噺を書いた覚えはありませんから」

 彼女はぼくの作品をよく読んでいた。パフォーマンスだったかもしれないが、ハードカバーでも持ち歩いていたところを見たことがある。仕事の一環としてなのか、嗜好としてか。後者であるならば、それは織斑少年と似た理由なのだろうか。死人の生前は猜疑と錯綜まみれになる。ぼくたちはそこから断片的に拾い上げたピースを繋ぎ合わせて無理矢理誰かの物語を作る。造らねばならない。

 「御迷惑をお掛けしました」

 男は突然改まって頭を下げてきた。少しの間彼を見ていると、徐に頭を地面に押し付けた。

 「やめてくださいよ。別に彼女がいなくなってしまって発生する損益については、ぼくはどうも思ってませんよ」

 「それでも謝らなければならない。いや、謝る以外になにをすればいいのか分からない」

 「親としての責務というやつですか」

 「子供が迷惑を掛けたなら、親も謝るべきだろう」尤も頭を下げられるやつがおれしかいないというのもある、と彼は言い捨てた。血を吐きすぎて枯れてしまったような声で。

 「哀しいし、寂しい。世の中が突然空洞を持ったように寒々しい。でもね、彼女がそれを選んだんだ。一人、二人は関係ない。彼女がそこで終わりにしてしまうと決めた。ぼくにはそれだけです。優秀な編集がいなくなるのは仕事として辛い。けれど、もう問うことは出来ない。いや、形としては出来る。でも解は返ってこない。虚しいだけでしょうに」

 空気みたいななにかの為に、どうこう託つけて額を温いアスファルトに擦り付ける。男が酷く憐れに思えた。誰にも誰かを赦す権利なんてない。なにも分からないのに熱くなって、割り切れないこころが独り歩きする。それが一斉に起こるから怒りだのなんだのと、さも人間という生き物の記録が紡がれているように見えるだけだ。実際はエラーを吐き出しているに過ぎない。

 「なぁ、教えてくれ。あんた娘と仲は悪くなかったんだろう?相手の男とも友達だったんだろう?なら、なにか知らないか?何でも良いんだ、教えてくれ。どうして娘は死んだんだ?何で、何も言わないで死んだんだ?こころを病んでいたなんて知らない。おれの知るあいつはいつも綺麗な、嫁さんに似た笑い方でさ。知らなかったよ、なにも。なにもだ。分かるんだよ、たぶんまだおれの知らないことが山ほどある。知るべきじゃないことがな……」

 男はぼうっと立ち尽くしている。ぼくは紙巻きのマールボロに火を付けて思い切り吸い込んだ。

 「ぼくだって分からないよ。あんたの娘はもう何処にもいない。こんなにも簡単だ」

 ぼくは窓を閉めてアクセルを踏んだ。暗い道だった。ぼくは走り出した。

 少しだけ羨ましいと思った。自分で自分の全てを完結させてしまえる自由さがぼくにはない。ベルトコンベアーはまだまだ続いている。昔からなにも変わらない。そのくせ、色々と変えられていく。

 行きよりは混んでいた上りをゆっくりと帰った。帰るという意識は薄いけれど、言い換えようがない。彼女の父親に言った嘘には少しの真実も勿論あって、寒々しさというのはその一つだった。寒々しい帰り道、トンネルを抜けて雪国に出会うように段々と冷たさが緩やかに増していく。憂鬱は取れずに凍ってしまおうと張り付くことにしたらしい。

 マンションのコンシェルジュがエレベーターに乗ろうとしたぼくを呼び止めた。ぼく宛に手紙が届いたというのだ。差出人は書いてなかった。心当たりはなかったけれど、ペーパーナイフを借りてその場で開けた。

 彼女からの手紙だった。ぼくは部屋に戻って、その時限式の遺書に眼を通した。

 

 

 





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たかし、元気ですか?お母さんです。元気で(以下略、みたいな怪文書


なぁにこれぇ?


 拝啓

 

 朝晩はだいぶ過ごしやすく感じられるようになりました。

 こう書き始めてはみましたが、どうにも落ち着かないものですね。直筆の手紙なんてはじめて書きました。時候の挨拶はこれで合っているのでしょうか?もっと調べてから書きたかったのですが、生憎ともう時間がないのでこのままで失礼します。

 突然このような手紙が届いて、先生も少しは驚かれていることと思います。恐らくは、先生がこの手紙を読んでいる頃にはわたしはもう死んでいることでしょう。もし、なにかの間違いで生きている場合は何かしらわたしの口からある筈です。どちらにせよ、この手紙の処理は先生にお任せします。読まずに焼くなり、額縁に飾って形見にするでも構いません。

 先ずはお詫びを。今頃先生を含め多くの人に多大な御迷惑をお掛けしていることと思います。何せ有名作家と編集者の心中なんてゴシップの種として特上の類いでしょう。しかも相手はあの堀崎奨。世間様には心中以外でなにか都合のいい死に方にすげ替えられて報道されるかもしれませんね。しかし、わたしも堀崎先生も思い止まるという選択肢はありませんでした。なるべくしてなった、とでも言えば良いのか。兎も角、今回の騒動は遅かれ早かれ起きていたことなのです。たとえ、今回某かで見送られていたとしても結局はわたしと堀崎先生は形が違えど死ぬという結末には変わりなかったのです。そう遠くない内に似たような手紙を認めることになっていたでしょう。

 さて、そもそも、この度先生にこのような手紙を差し出したのは単なる遺書代わりという理由だけではありません。伝えなければならないことが幾つかあるのです。わたしのこと、堀崎先生のこと、そしてあなたへの言葉。本当ならば伝えるべきではないことなのでしょう。知らなくてもいいことや、知られたくはなかったことに、知ってもどうしようもないことがたくさんあります。それでも、わたしはあなたにその全てとまではいきませんが、大まかな部分を書き遺すことにしました。単なる必要性の問題ではなく、あなたにはその義務があると思うのです。少なくとも堀崎先生のことについては、ここまでわたしの拙い文面を辿った以上どうであろうと彼の真実を知らなければならないと考えます。ですが、わたしはその義務をあなたに課せるほどの力も立場もありません。なので、この手紙という手段を利用することにしました。あなたならばきっと読んでくれると確信を八割、願いを二割。短いお付き合いでしたが、これでもあなたの人となりは少しだけ理解出来ているつもりです。

 はじめに、わたしのことについてです。とは言いますが別段なにか新しくお伝えするようなことがあるわけではないのです。それとは反対に、今まで繕ってきたものを晒け出します。取りようによっては大差はないようにも思えますが。

 わたしがあなたに繕っていた部分はあなたに見せたこともないほどに深い場所に根差した問題に起因しています。わたしがあなたに語った半生に嘘偽りはありません。平凡な出生、海の側で育ち、汚され、それをひた隠し、あなたの担当編集として出会った。しかし、それは全てではありません。そこには幾つか付け加えなければならないことがあります。そして蓋をして、そこに張り付けたラベルを剥がさなければなりません。それで漸くわたしという人間の半分を正しく伝えることが出来ます。

 わたしは高校の頃に担任の教師に犯されました。十六の夏でした。ひぐらしが鳴いていた夕暮れに図書室で後ろから殴り付けられて、暗さと歪曲する視界が溶け合って、鈍痛で意識が遠退く内に教師はわたしの膜を破りました。何度も何度もわたしの内で果てて、荒い呼気をわたしに吹き付けながらわたしの名前を呼んでいました。その時どんな抵抗をしたのかはうまく思い出せません。ただ、凶行のうちにわたしの内から何かが剥離していって、完全に剥がれ落ちると身体中の力が抜けきってどうすることも出来なくなったことだけは覚えています。その後、わたしはどうしてか平静を装うことが出来、なに食わぬ貌で家に帰ることが出来ました。内心、色んな感情が──その大半は哀しみと絶望のようなものでした──嵐のように吹き荒れていたのですが、風呂場では必死に、しかし冷静にあの男の種を掻き出して洗い流し、ポケットに突っ込まれたピルの飲み方を調べるほどの余裕があったのです。こう書くとまるでわたしが被虐性癖があったり、あの男を受け入れたように見えるかもしれませんが決してそのようなことはありません。ただ、その嵐の中に無風地帯があって、それがいやになるほどわたしを冷静にさせていました。わたしを犯した教師から母が使っている香水の薫りがしたという事実はそれだけの衝撃性を持っていました。間違いや気のせいということは有り得ません。

 その日から幾度となく、わたしは捌け口にされました。ありがちな話ですが、あの男はわたしの無様な姿を画像と動画として保管していました。逆らうことは出来ませんでした。それらが世間様に公表されればわたし一人だけの問題ではなくなってしまうことは誰に言われずとも理解していました。地方の狭い都市、その一部に噂が広まるのはわたしたちの想像の何倍も早く、インターネットで個人が特定されるのは一日と掛からない。だから、あの男もなにも言わずにわたしにその動画を見せつけたのでしょう。儀式めいた静謐さの中で半狂乱になった自分の姿を客観的に見せられるというのは不思議な体験でした。わたしという人格のそっくりさんが酷い乱暴をさせられているのですが、その貌がだんだんとわたしとは似ても似つかない誰かの貌に変わっていくのです。男性向けのアダルトビデオを見せられているのと、なんら変わりがない。とてもつまらない時間でした。でも、わたしの身体の至るところで鈍い痛みだったり、あの男の痕跡が鳴いていました。

 わたしの反応が琴線に触れたのかは分かりませんが、男は定期的にそういう類いの映像をわたしに見せました。入居者が一人だけの薄汚いアパートの二階で、身体を弄くられながら、わたしと同じ制服を着た子や近隣の学校の制服を着た子に果ては母校の後輩たちである中学生たちが男に嬲られる記録を見せつけられました。そのファイルは膨大で男が何年も前からそのように連続して誰かを襲っていることの証でもありました。初老を迎え、肥えた醜い畜生のライフワークとしては馬鹿馬鹿しいほどに相応しいのかもしれません。蜜を貪り、自分の威を陰ながらに誇示して満足する。わたしは不幸にもその藁に選ばれてしまったのでした。時折、わたしに掛けられる気遣うような言動は年齢にそぐわぬ甘ったるさが籠められていました。まるでわたしのことを心底大事にしているような、わたしが愛人になったかのような錯誤が見られました。気持ち悪さは感じましたが、やはりそこでもわたしは虚構のような実存しか感じることが出来ませんでした。その部屋にも覚えのある香水の薫りが染み込んでいたのです。

 都合一年。わたしとあの男との狂った共存は続きました。その頃になると男はわたしが好意を抱いていることに疑いを持っていませんでした。当然、わたしは好意など持っていませんでした。一貫してさっさと死んでしまえばいいのに、としか思っていませんでした。男がわたしに対して抱いていたのは物言わぬ人形、あるいは従順な唖者の奴隷に対する支配的な労いのような愛でした。わたしは男のあらゆる無茶に応えました。どんな変態的な要求にも甘んじて受け入れました。血を流すようなことも、尊厳を踏みにじり唾を吐くようなものでさえ。そうしなければ件の記録を公にされるよりも酷い制裁が待っているのです。一年の間、一度だけ記録を持って逃げようとしたことがありました。男が寝静まった時を見計らってファイルを抜き取ろうとパソコンを立ち上げた時に、わたしは背後に立つ男をデスクに置かれた鏡越しに見ました。殴る蹴るといった集中的な暴行と、男の特異且つ異常極まる性的嗜好が掛け合わされた制裁が振るわれたのはその一度限りでしたが、わたしは終始気違いのような声をあげていました。涙も枯れて、猿轡の隙間から涎とも胃液とも分からなくなった体液を垂れ流して、糸を引かせながら。なにもかも、べたべただった。

 そんなある日、わたしはずっとこころに居座っていた謎の解を知ることになりました。

 茹だるような日でした。アスファルトから昇る陽炎が背筋と首筋を濡らして、そんな不快感さえわたしは感じることもありませんでした。意図してのことではなく、凄惨な仕置きからわたしはそのような心持ちで過ごしていました。学校で陰口の一つでも叩かれればまだ実感があったのかもしれませんが、わたしの周りはこうなる前から変わらないままで、友達と何気ないことを話して、少しだけ細った食欲を奮わせてご飯を押し込む毎日がありました。しかし、()()()()()の毎日を正確に思い出すことは出来ませんでした。ぼんやりとこういうものだったような気がする、という感覚で酷く昔のことのように思えました。

 部屋の前に着くと中から人の声がしました。男と女の営みの声でした。あるいは二匹の獣の盛りあった音とも。予定を間違えたということはなく、先客がいるとも伝えられてはいませんでした。わたしは渡されていた合鍵を回して部屋に入りました。

 疑念は元より確証を隠すためのものでした。わたしは気付きたくなかったのでしょう。今ならば分かります。

 母がいました。いえ、母の姿形をした雌が畜生と盛り、交尾しあっていました。濃厚に穢らわしい音を立てながら、不浄極まる舌の絡め合いをして、誰かが入ってきたことにも気付いていませんでした。繋がったまま。なんとも満たされた──わたしには獣の情動は分かりません──面をしていました。わたしは立ち尽くし、そのおぞましいものから眼を逸らすことが出来ずにいました。やがて、雌がわたしに気付くとそれは人間の様形を取り戻してゆき、人語とも分からぬ叫びをあげながらのたうち、抵抗を始めました。しかし、身体をしっかりと押さえ付けられ、やけに大きな手振りや動きでやる抵抗も然程力が入っているようには思えませんでした。だから連結は揺らぎもせずに、畜生の種を植え付けられているのです。

 なにやらひたすらに否定し続ける女を横目に汗だくの男はわたしの服を脱がし、肩に手を回しました。

 もう浮気だの不倫だのという思考を展開する次元は彼方へと飛んでいました。そこを遥かに凌ぐ領域でちかちか瞬く光がカーテンの隙間から入り込む真っ白な光の中に見えました。光の中で花火が上がるような。

 顎で布団の方に促されたわたしは男の手伝いをさせられました。懇願する女をどう見てたか、思い出そうとすると吐き気がします。もう、その時点で母はいませんでした。わたしも母も死んでしまっていました。

 涙とその他諸々の液体で貌をぐしゃぐしゃにした女は母音の連続音しか発しなくなり、とうとう真性の狂人のようになってしまって、なんだかとても可哀想なものに見えました。そこにどんな背景があったとしても、同じ位階には在れない憐れみや蔑視がわたしを覆っていました。別段、両親に特別強い愛情を持っていたわけではないのですが、致命的──わたしはこれ以上に形容出来るだけの語彙がありません。浅学さを許してください──でもう人生に於いて取り返しのつかない喪失がその瞬間に発生しましたのです。そこがわたしの起点で、疵のはじまりでした。そしてその骸に見せ付けるように、男はわたしの身体の全てを隅々まで丹念に犯し抜きました。女はそれを見ないようにゆっくりとした動きで手を貌に覆せたり、耳を塞いでいましたが、とうとう神様に赦しを乞い始めました。上下する視界で、わたしは思いました。誰に、何の罪を赦して欲しくて祈っているのか。そもそも、それがどうしてわたしに関わりがあるような風を醸し出しているのか。わたしにはもうなにも分かりませんでした。分からないことだらけでしたが、わたしがとても不幸せな位置に立っていることだけは分かっていました。少なくとも子供のようにいやいやと頭を振り続けているやつよりは、格段と。

 家に戻れば女は母親へ擬態を始めました。正確には再開したのでしょう。わたしも倣って、擬態を再開しました。団欒の空間で何も知らないのは父だけで、目の前で好物を食べる娘も、酒の肴を作る妻も、自分よりも醜い癖に雄として有能な下朗に手籠めにされていることなど知るよしもなく安い日本酒で疲れを癒す男が女とはまた別の意味で憐れに思えました。何処にも意味のあるものも、暖かみもありませんでした。

 その後、女とは劇をしていました。演目は家族でダブル主演。わたしは娘役で、女が母親役。十数年のロングラン大ヒット。観客は数えきれません。わたしたちは主演女優賞を貰えるでしょう。なにせ、その劇がわたしの周りの小さな世界を確かに救っていたのだから。

 その劇の最中に男は死にました。覚えているでしょうか。もう何年も前になりますが、焼津で起きた通り魔による連続大量殺人事件があったことを。あの事件の最後、銀行の構内で大勢の人が殺された時にあの男も刺されたのです。呆気なく、即死だったらしいです。学校では追悼の式典が行われて、みんながいまいちピンと来てない様子で黙祷をしていましたが、体育館の中に数人だけどうしようもない気持ちが貌に現れている子がいました。彼女らがわたしの同類であることはすぐに分かりました。そして、恐らくは彼女らの内の誰かが男の部屋にあったパソコンを粉々に砕いて水に浸したことも推測出来ました。合鍵も渡されていた()()()()()はわたしたちの学校の生徒と例の女しかいませんでした。

 そうして誰にも知られずに、目立った区切りもなく、わたしは解放されてしまいました。

 何かが変わってしまったことを自覚しながら送る大学生活は高校生活の延長線に過ぎませんでした。シームレスでとても滑らかな移行だったことを覚えています。鎖から解き放たれようが、男が死のうが、こびりついた臭いが取れることはありません。でも、その臭いが周りに感知されることはありませんでした。男性と喋ることにも支障はなくて、どうにも世間の情報に基づいたわたしの想像とは違う自分のこころに奇妙さを感じることもありました。近いものを上げるならば、肩透かしのようなものでした。苦しみや、トラウマの類いに構えていたのに、なにもわたしを苛むことがなかったのですから。だから、あなたの同級生らしき人とお付き合いしたこともありましたし、それ以外の男性とも表面上や名状した場合の関係性として恋人になったこともありました。しかし、その誰ともキスさえすることはありませんでした。わたしはセックスに飽いていたのです。それと同時に、知らぬ内にわたしはセックスというものに些か特殊な拒絶を抱いていたのでした。

 フラッシュバックやそういう類に属するものではないのです。わたしはいやな点に於いて聡くなりました。男が持つ下心や女性を悦ばせる気配りや小細工。そのような行いの一つ一つが鼻につくようになったのは大学二年生の冬頃からでした。気遣いや心配はただただ神経を逆撫でさせるものでしかなく、当時堀崎先生の周りではわたしをヒステリックなやつと囁く人もいたそうです。大抵はその優しさ以上に難がある男ばかりだった為かわたしに同情的な見方だったのですが、ごく一部の方は正しく事態を見ていたようです。

 その神経過敏の根源がやはりあの男にあることはその時点で理解していました。男はその一翼であり、もう半分はあの女のせいであることも早い段階で把握していました。それを納得してしまう度にわたしは猛烈な吐き気と遅すぎる涙と恐怖に身体を震わせました。自分の中の"女"を刺激され、明かりを向けられることが恐ろしくて毛布の中で惨めに頭を抱えて動くことも出来ずに。だから、気丈に振る舞おうとしていたのでしょう。しかし、それは空回って性格や人格に難がある"女らしい女"というものにわたしを仕立てあげてしまったのです。あの惨憺たる雌の要素が、わたしにも備わっている。同じ女なのだから。そう考えるだけで耳道に虫を入れられたような不快感と音が頭の奥底で響きました。

 全てが遅いのです。何もかもが想定よりも遅くやってくるから、わたしはやられっぱなしなのです。悲しみも、苦しみも、痛みも、知覚も自覚でさえ。だから、誰も気付いてくれることはなく、一人で耐えて血を流すしかなかった。地獄という言葉を使うのは安直でしょうが、それすらも生温い責め苦が腸を捻り切るような痛みと不眠と意図しない断食となって課されました。外聞や外面は問題ないのに、独りになると全ての有機無機がわたしを責め、罵る声が聴こえる。

 わたしがあの時見たものは雌という生き物の一つの究極型だったのでしょう。淫靡たる本性をさらけ出して胤を求める、きわめてシンプルでプリミティブな姿と衝動、それが極限まで突き詰められたもの。

 自分の形が醜く思えて、何度も胃の中を空にして、食道を焼きました。胸の膨らみも、長い髪も、声色も、女らしい要素が穢らわしくて仕方がありませんでした。どう言い逃れを構えても、わたしにあの女の遺伝子の半分が組み込まれていることは換えがたい事実で、そのせいかあの姿と自分が重なって見えたのです。もしかすると、その姿は空想ではなく回想だったかもしれません。そういう気も今にしてみればするのですが、本当のことはわたしにも分かりません。

 その拒絶と、水と油のような関係に見える飽きは自分でも驚くほどにさっぱりとしたものでした。心境から来るようなセックスに対しての恐怖ではなく、意味を考えてしまうようになったのです。欲望に従って腰を振られるのは散々で、それで気持ちよくなって、まかり間違って子供が出来てしまう。そして、その先は?ふと、その一つ一つに意味なんてないことに気がつきました。わたしに残ったのは芥以下のものばかりで、そこから発生する幸せなんてありませんでした。

 まるで台風のようでした。飽きという虚無を目に、周囲ではめちゃくちゃな悪天候が広がっている。その正反対の情動二つを同時に自分の内に感じることが出来ると、自分が増えたという錯覚を覚えそうになるというとても不思議な感覚を覚えました。通院を始めたのもその辺りからで、しかし病院では人格が解離しているとは言われませんでした。粗方の事情を暈して、社会での疲れや不安感を口にして、わたしはアモキサンピンを貰いました。大した効果でした。恐怖によって萎えていた意欲が息を吹き返したのです。そして、替わりに安眠──そんなものは元からなかったのですが──を薬効に差し出すことになりました。一つの不変が象られた、メビウスのような季節たちの中でわたしは夢を見ていました。真っ白で血色の悪い手にわたしの大事ななにかを明け渡す夢です。それは実体を持つ夢でした。現実はいつだって夢の延長線上にあるのです。先生ならば、誰よりもお分かりになるでしょう。春に生きている筈なのに、わたしたちを抱き締めるのは冬なのです。季節の移ろいに眼がいかないのではなく、眼に映らない、映ってくれない。夢の中では時間の流れ方は何の意味も作用も発揮しません。あらゆる数式はただの記号にしか過ぎない。

 結局のところ、わたしの状態を完璧に理解把握出来る人は誰もいないのです。自分でさえこれなのだから当然でしょう。鬱なのか、PTSDとやらなのか、もっと違うものなのか。そういう複雑怪奇で厄介な内情と偶然がうまく噛み合ったのか、わたしは世間的には異常ではない人間として大学という段階を終了しました。どうも社会の眼はあまり良くないようで、こんなわたしでもすんなりと職に就くことが出来ました。

 その内に、段々とわたしを取り巻くあれこれ──曖昧な表現ばかりで申し訳ありません。でも、わたしの周囲のものはあまりに抽象的で、有形の確かな言語に変換することが難しいのです──との付き合い方も分かってきて、入社してから目立ったアクシデントもなく、同僚たちとも上手くやることが出来ました。順調に世間に即して、欺き、ひた隠して、奥底で今も尚濁り続ける汚泥と向かい合いながらここまでやってきました。そんな時、はじめて先生を会社でお見掛けして、失礼ながら親いものを感じました。夢のような生き方をしている人だ、と。その頃には先生は既に日本を代表する作家として名を馳せていました。国外でも絶賛され、御父様をも越えると言われている貴方のような方が抱くものとわたしのような人間が抱えているものの重さが均等である筈はないのに、わたしは勝手に親近感を持ってしまいました。それはわたしがとうの昔に見失ってしまった、影も形も見えない普通の生活の一部で、言い換えるのならば安心感でした。

 わたしは隠れて泣いてしまいました。不思議と涙が溢れてしまい、あたたかい気持ちに満たされてしまったのです。何もかもが変わりきってしまったわたしは、その瞬間だけいつかの本当のわたしに戻っていました。手の震えも、小刻みにぶつかり合う歯も。そのなにもかもが失われてはならなかったものでした。なにも知らない見ず知らずの男に同類の薫りを察知しただけでこの有り様で、プリズムのような視界の隙間に遠くで幸せを享受するわたしを幻視しました。それが恨めしくて、羨ましくて、涙のかさは増してゆきました。今さらなにを呪い、怨めばいいのか分からないのにそんな気持ちになったところでどうしようもないのに。実を言えば先生のこともその時は怨んでいました。現れるのが遅すぎる、という傍迷惑な錯誤紛いのものでした。損なわれてしまったものが多すぎました。そして、ここでもなにもかもが遅すぎたのでした。

 わたしはあらゆることを理解しないまま、盲目のまま走り続けてきたようなものでした。夢の中だから転ばなかっただけで。

 編集長に先生の担当になると聴いた時は驚きました。柄にもなく焦りを感じたり、粗相のないようにとスーツを着てみたりしましたが、貴方は笑っていつも通りでいいと言ってくださいましたね。そうやって貴方は、貴方の言葉はわたしを現実に引き戻していったのです。貴方にその自覚や意図がなくとも、わたしの時は遡り始めて、押し留めるには強い重石が必要でした。尤も、その重石さえも貴方の言葉が砕いてしまったのですが。

 貴方はわたしの全てを受け入れてくれました。文面にするとありきたりで陳腐なふうに見えますが、わたしにとってそれがどれほどの意味と救い、そして更なる苦しみとなったか、貴方は知る由もないことと思います。その言の葉の一つ一つが恵みの雨となって染み込み、身体とこころを癒して不浄を涙にして押し流してくれました。はじめて貴方と食事に行った時にそうして泣いてしまったわたしを優しく抱擁して大丈夫だと言ってくれたことを忘れたことはありません。貴方と繋がることには不思議と抵抗はありませんでした。わたしはこころも身体もさらけ出して貴方を受け入れていました。寧ろその時の幸福と充足感はこれまで味わったことのない至上のものでした。なにもかもが救われて上手く行くという根拠のない一時の感覚が神託のように刻まれてしまうほど。

 愛しています。いえ、年甲斐もなく恋をしていたのかもしれません。思えば数奇な人生を送ってきたわけで、だからでしょうか、遅すぎる初恋も風変わりなものになってしまったようです。ともあれ、わたしは貴方を愛しています。先に言っておきますが、ただ救われたから盲目な信仰にも似た気持ちを愛や恋と履き違えているとお考えなら、それは大間違いです。

 前述の通り、わたしも貴方の人となりをある程度は理解しているつもりです。貴方が抱えるものの深さと、大きさやそれが貴方を永劫に蝕む呪いになってしまっていること。貴方が頑なに花瓶に花を飾ることを忌避し、死と言葉に魅入られていること。貴方自身が貴方に絶望しきっていて、わたしではどうしようもないこと。そして、多くのことがもう取り返しのつかないこと。

 わたしと貴方が同類という認識は貴方に触れた時に捨て去りました。そもそも、本質的なところで種類が違うのですから。

 貴方の白い腕に抱かれた時に、わたしはあの夢の腕の主が貴方であると確信しました。はじめて貴方と夜を越えた時、血肉の全てが言葉のために使われて、生気が不足しているような掌にわたしは自分の魂を乗せました。全てが赦されてしまった対価──わたしの雌も飽きも罪も奪われたものが一切合切──は重く、甘美なものでした。そして貴方の苦しみを垣間見ることでした。

 御父様がお嫌いなのですね。御母様のこともそうなのでしょう。貴方はずっと一人だった。わたしのように中途半端に失われたのではなくて、はじめから貴方には実りあるものは与えられなかったのでしょう。そして、そのことに気が付かないまま貴方はこれまでに抱え込んだもの全てを飲み干してしまった。孤独も、怒りも、哀しみも、愛も。その残滓が夜毎に涙になるのでしょう?わたしの前で泣くことはなくても、分かります。空っぽのままで、がらんどうを抱いて歩き続ける貴方の道のりをわたしは貴方の作品に見てきました。貴方の場合は口も瞳も、そこで語られるものにはなにも籠められていない。ページに織られた言葉の海にこそ髄がある。十年来の血と悲鳴の結晶がそこにあるのです。その美しさにどれほどの作家が羨望を覚えたのでしょう。そして、その作家の一人に貴方もよく知る堀崎先生も名を連ねていました。

 これも貴方にとっては初耳でしょうが、堀崎先生は誰よりも強く貴方に憧れていました。彼は貴方の圧倒的な才覚と紡がれるものに嫉妬さえしていたのです。貴方の奔放さに見せかけた宛のない夢遊をからかい、貴方と古い友人のように交遊しながらもその根底にあったのは隠された惜しみ無い称賛のさらに向こう側に隠された劣等感と怒りでした。 

 堀崎先生は常々、自分には貴方のようなものが書けないと言っていました。稀薄な繋がりでしたが、学生時代のよしみでお茶をすることがあって、彼は大抵は貴方のことを延々と話題にしていました。自分はどうしても安易にカタルシスに走ってしまって、灰暗い世界を描くことが出来ない。貴方との間にある決定的に不足したなにかがそこに壁を築いていて、おれの行きたい場所の風すら感じさせてくれることはない、と。

 彼は決して届かない場所に手を伸ばしていました。ハッピーエンディングと爽快な物語、人間の素晴らしさを前面に押し出していた彼が目指していたものはわたしたちにとって馴染み深いものと同じだったのです。それを聴いた時、わたしはずっとコーヒーの水面を見つめていました。空調で波紋して歪んだ自分の貌が原形を崩してゆく経過を眺めていました。それはあまりにも無謀で、わたしたちにとっても彼にとっても、そして色々な意味合いで()()()()()()()()ものだったのですから。

 不自由のない彼にしてみればそれは単に探究の一つで、そこにあれほどの情熱を注いでいたのでしょう。彼と貴方との間には深い部分以前に言葉や文字に対する意識的な差があって、さらに何かしらの大事なものを喪うことが出来ない欠点が不可能を構成しています。そこに加えて、生来の善性──愛にまみれた、十二分な家庭環境の賜物である育ちの良さとも言えます──が邪魔をしたのでしょう。だから、どれだけ貴方を影で憎もうが、不条理極まる怒りを持とうが、貴方の見る世界を彼が見ることは出来ない。それでも、そこを目指す姿はとても眩しいもので、皮肉にもその眩さがまた一歩彼を遠ざけていました。

 その頃のわたしはと言えば、自分の更なる変調を感じ取っていました。貴方とのセックスの途中で時折、手が震えるようになったのです。はじめは肉体的なストレスだと思っていました。ちょうどその時は貴方が長篇を一つ書いている最中で、わたしも貴方も仕事量は少なくなかった時期でした。だから、その兆候を見逃してしまったのです。

 転移した癌が爆発的に進行し、身体中に転移してゆくように、わたしは既に蝕まれていて、その毒から助かる見込みはありませんでした。変わりきってわたしが取り戻した末に手にしたのは、いえ、取り戻したのは正常でした。そして、ごく当たり前の恐怖と絶望は十年以上の歳月を置いてわたしに刃を突き立てました。男も女も、人間という生き物のおぞましさは浄化されきって抗体を奪われたこころには残酷に効きました。分かっていたことが、頭の中とこころで離れ離れになって、ひっちゃかめっちゃかになるのです。そして、貴方にさえ恐怖を感じてしまう自分が恨めしくて仕方がありませんでした。貴方に触れられる度に気がふれてしまいそうになる自分を出来ることならば綺麗さっぱりと消してしまいたかった。

 わたしはただ貴方の傍にいたかっただけなのです。朝になると虚ろにわたしを見つめて、実在を確かめるように肌を指先でなぞる貴方の何かに安心した姿が愛しかった。誰かの代わりでもよかった。わたしをどう思っていてもよかった。わたしは貴方の全てを赦していました。哀しいことは、もうたくさんでした。そう思っていた筈なのに、今では苦しくて仕方がないのです。なにもかもが恐ろしくて叫び散らしてしまいそうです。あまつさえ、貴方を憎んでいます。こんなにも苦しくて、辛いのは貴方のせいだと錯誤も甚だしい思いが確かに芽吹いたのです。貴方がわたしをただの少女の戻したせいで、おまえのせいで一人の女が死に、友人も死ぬ。どうしても、そう言う声が頭から離れません。これが本心なのか、錯乱の末の戯言なのか判別する術はありません。診断という、その人ですらない紙面上の結果さえ、わたしはもう信じることは出来ないのです。薬で平静を貼り付け、補強し、多くの要素を殺してわたしは貴方を出迎えにロビーまで足を動かしていました。いつも通りに約束をして、それが訪れないことを何処かで感じながら貴方と会議室に入りました。

 そして限界を迎えていたのは堀崎先生も同じでした。

 あの後、彼はわたしを呼び出して言いました。怖いものを見た。おれには書けないし、辿り着くことは出来ない。でも一端を垣間見るぐらいならば、と。

 彼がIS学園でなにを見て、なにを悟ったのかは分かりません。しかし、彼は自分の正確な位置と事情を理解したようでした。恐らく取材先で貴方の核心に近付く某かに触れたのでしょう。そして、その情熱は最後に猛く勢いを増したのです。正しく狂気と言うような火の勢い、そして貴方の著作に見えるものの欠片がそれを助長させていました。

 貴方はなにも知らなかったのです。わたしのことも、堀崎先生のことも。

 わたしはもう一度夢の中に還ることにしました。様々な要素や過程の後に、漸くここに終息することも赦されました。苦しみから逃れるために、貴方に傷付けられないために、貴方を愛しているために、巻き戻り過ぎた時間を少しだけ進めるために。きっと、貴方はわたしが死んだところで哀しむことはないのでしょう。それでも、少しの間だけは貴方の頭蓋の裏あたりにわたしの存在が残留してくれるはずです。そんな風に考えていた時に、ちょうど堀崎先生も自分の死で以て最後の思案に耽ろうとしていました。タイミングは絶妙でした。手首を硬く縛りあうのは、これからわたしたちを襲うであろう苦しみでのたうち回る身体を抑えつけるためです。決して邪な気持ちがある訳ではありません。堀崎先生と一緒に死ぬことだって、ある意味悪ふざけのようなものです。あるいは、学生時代のよしみ。互いに貴方に焦がれた者どうしの絆。そんな噴飯物のジョークです。わたしは出来るならば、死ぬ時は笑いたいのです。ですから、どうか誤解しないでください。彼と死ぬことに深い意味はないのです。

 随分と長く書いてしまいました。へんに懺悔染みていたり、駆け足で大雑把な挙げ句に読みにくかったでしょう?時間も多くはありませんので、最後に貴方と貴方の御父様のことについて書こうと思います。貴方がわたしにただ一度だけ声を荒げたのは、貴方が御父様に似てきているという編集長の言葉を伝えた時でした。貴方は物静かな口調を誰も聴いたことのない怒声に変えて、わたしに有り余る蔑みと糾弾を浴びせました。それについては特に言うことはありません。その件はわたしの配慮の足りなさが招いた事態なのですから。

 わたしは貴方の御父様と直にお会いしたことはありません。その半ば伝説のような噂を耳に挟んだことしかないのですが、御父様と最も密接にやり取りをしていた編集長は、「何者も彼の著作を越えることは出来ない。それほどまでに偉大な作家だったが、それ以上に彼ほどコミュニケーションに難を要する人間も他にはいないだろう。なにせ、彼と言葉を交わしていると心臓の底まで、血の一滴すらも見透かされているように思えてくるんだ。誰よりも悪意に敏感で、そのお陰で誰よりも恐れを理解して御している。だから、彼と言葉を交わす時には人間とコミュニケーションを取るようにしてはいけなかった。あれは、作家の成れの果てに産まれた()()()()だ」と評していました。そして、今や貴方はそれと同じような印象を業界の人間に抱かれていることをご存じでしょうか?

 変わらないことは出来ないのです。どれだけ遅くても着実に変化は進行しているものです。季節と同じで、移ろいを感じていないと突然の変遷に驚いてしまうこともあるでしょう。それでも貴方は本質的な部分ではなにも変わることはないのです。わたしが貴方を憎みながら愛しているように、貴方にも変わらないなにかがある筈なのです。だから、思うように生きてくれると嬉しいです。死にゆくものを振り返らないで。どんなに虚ろでも貴方は生者なのだから。

 今まで、ありがとうございました。いずれ、また御逢いしましょう。その時は破ってしまった約束の埋め合わせをさせてください。

 さようなら。わたしの散々な人生。わたしの愛しい死神。

 

 

 敬具

 

 追伸

 おまえの見えているものと、見たかったものはもう交わることはないんだな。

 ほんとうにかわいそうだよ。おまえは。

 鏡を見ろ。

 

 

 

 

 





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ヒステリー起こすと男も女も大概変わらない面倒さを発揮する説

難産でしたが、なんとか投稿出来ました。


 ぼくの周囲の色々なことが一つの落ち着きを見せると、朱香さんから一通のメッセージが届いた。件名は空白だった。とてもシンプルな、店に来て、という一文だけがスマートフォンのディスプレイに表示されていた。それは短くはあったけれど、強い情動が簡素なゴシック体から浮き上がってくるような錯覚を覚えた。ぼくは分かったよ、とだけ返信して新たに抱え込んだものを処理する作業に戻った。

 堀崎と彼女が死んでから二ヶ月が経った。季節は秋に移り変わって、それももはや晩秋という冬との境界が曖昧な時期に差し掛かっている。ぼくの周りの変化といえば大分前に通販で買ったマフラーを部屋の内で巻くようになったことと、コートを含めた冬物をクリーニングに出したぐらいのものだった。世間の動向には相変わらず疎くて、今季の寒さは近年稀に見る大寒波だとかいうこともお喋りな宅配業者の男が玄関先で独りでに始めた世間噺ではじめて知った。ぼくの私生活はほとんど隠遁生活のようなものになっていて、数少ない外出先の宛である朱香さんの店へも足を運ぶことはなかった。必要なことのほぼ全てが在宅で賄えるこの御時世の利便性をぼくは余すことなく享受して、クリーニングから日々の食事に至るまでを業者に一任していた。ぼくは外に出る気が湧かなかったし、ぼくを付け狙うマスコミにも嫌気がさしていた。多くのことに対して行動する有為を見出だすことが出来なかった。そして、木枯らしはきっと身に染みすぎるだろうから。

 

 ぼくにのし掛かっていた憂鬱は彼女の遺書を読んだ後には綺麗さっぱりと消えていなくなっていた。ぼくはとても身軽になれた。だから、ぼくはすぐに新しい仕事に取り掛かった。ある種の使命感にも似たものに駆られて、ひたすらぼくは指を動かした。不思議とそれはやらなくてはならないように感じたのだ。なんだか、その最中だけは少しだけ明るい気持ちでいることが出来た。懐かしいような、ほんのりと息苦しくなるような白けた陽の光のような時間がぼくの頭の中を浚っていった。

 ほとんど手癖で書いたような新たな作品は凡そ三週間で形になった。それは長篇小説としては早すぎるペースで、その何倍もの時間と労力と頭を使う筈のものをそこまで短縮させたせいか、ぼくは数日の内、動くことも儘ならないような疲労に襲われた。死が近付いたというほどのものではなかったが、その数日間に見た夢には堀崎と彼女が毎回出てきて、無茶なことをする、とぼくに呆れていた。ぼくはその都度ごめん、と謝っていたような気がする。大抵その夢を見た後は寝違えた首の痛みに煩わされた。少しでも首を動かすだけで親の仇のような痛みで騒ぐそれが倦怠感と一緒に何処かへ沈んでゆきそうな気持ちを無理矢理に磔にして、肉体という容れ物に留めてもいた。

 堀崎の真実を知ったところでぼくのなにかが変わったということはなかった。そうだったのか、という凡庸な感想以外にはこれといったものもなく、彼の死にぼくという存在が関わっていたという多少の驚きはあったけれど、だからといってぼくがそこに責任を感じるという気にはならなかった。どうしても薄情に思えるかもしれないけれど、本当にぼくはそうとしか感じることが出来なかった。それが悲しいことなのか、悼ましいことなのかなんて尚更分かるわけもない。ただ、ぼくが感じた身軽さというものはきっと、堀崎と彼女が死んでしまったことによるぼくが喪った彼らの重さだったのだと気付かされた。憂鬱はその補填で、人間がみんな持っている機能の一つなのだろう。慣れない自分の身軽さにびっくりしないための補助のようなもの。でも、ぼくにはもう必要ではなくなってしまって、たぶんこれからも必要とする機会はない。今回のことが最後の出番だった。

 正直、ぼくは堀崎の死は結果として悪いものではなかったのではないかとさえ思っている。彼は欲しいもののために全力を尽くして、届かないと分かっていても最後には一端に触れてみせたのだ。それが本当に彼にとって目指したものだったのだとすれば、あの気色悪い死相も──たぶん葬儀屋が弄ったのだろうけれど──納得のいくもので、当人は安直な言葉ではあるけれど幸せだったのではないだろうか。堀崎は堀崎奨として完結している。ぼくがそこになにかしら余計な意味を見出だすことはないし、付け加えるつもりもない。

 ただ、ぼくが彼女と彼を殺したという一文については理解出来る部分はあった。ぼくが手を下したわけではないけれど、二人の死までの過程、それも終盤にはぼくという存在はある程度深く関わっている。堀崎に関してはぼくが理由とも言える。そういう見方は出来るし、ぼくの言葉が誰かを蝕んでその命を喰らったというのは一つの仮定に於ける事実として機能する。そういう思考の中でぼくは『弔いの楔』を書き上げた。

 ぼくは原稿を会社に持ち込んだ。ぼくが自発的に外に出ることも、ましてや会社に顔を出すことも滅多にないから──アポイントを取り忘れたのもあるとは思うが──会社ではちょっとした騒ぎになった。編集長でさえ目を丸くしてぼくを見ていた。間抜けな声でどうしたんだ、というのが第一声で、ぼくは見せたいものがあるから時間を作って欲しいと言った。これといった会議もなかった為、ぼくらはすぐに空いている会議室を使うことが出来た。こじんまりとした、小さめの会議室は強めの芳香剤がかえって裏目に出て、むせてしまうような独特の匂いが籠っていた。編集長は手ずから不味いコーヒーを淹れてくれて、ぼくはそれを少しだけ口に含んでからすぐに飲み込んだ。

 「それで?いきなり来て、見せたいものがあるって?」

 ぼくは編集長に原稿を渡した。新作だから目を通してほしい、と言った。編集長はほう、と言って深緑色の眼鏡をかけた。ぼくは煙草に火を付けて読み終わるのを待った。どれだけ時間が掛かったとしても待つつもりだったし、編集長が原稿を持ち帰らずにここで最後まで見ることを経験上知っていた。

 どれぐらい時が経ったのか、手持ちの煙草を全部吸ってしまうと、窓の外のオフィスには誰もいなくなっていた。付けっぱなしの、幾つかの蛍光灯が薄暗い影を作り出していて、遠い窓を見てみると航空障害灯がゆっくり点滅していた。もう、すっかりと夜の帳は降ろされていた。

 編集長へと視線をやると、ちょうど最後のページを読み終えたところだった。ぼくは意見を聞こうと口を開きかけた。すると、編集長はタブレットPCに差していた原稿のUSBをコーヒーの中に沈めて、大きく息を吐いた。そして天井を見上げて、「わたしはなにも見なかった。きみはあれを書かなかった。そういうことにしよう」

 「それはどういうことですか?今の行動になにか関係がある?」ぼくは静かに言った。ぼくの言葉の後には耳鳴りという静寂だけがあった。彼はなにも言わずに眼を閉じて、貌を両手で覆っていた。だからぼくはもう一度だけ、どういうことですか、と訊ねた。それでも彼は銅像みたいになにも発しなかった。ぼくは途方に暮れてしまって、何度か手元にある冷えきったコーヒーをカップごと投げつけてやろうかとも考えたけれど、そうしたところで目の前の男がリアクションすら取らないでこのままの体勢でいることを容易に想像出来てしまった。

 ぼくは待った。不可解な男をジッポライターを弄りながら待ち続けると、彼は漸く言葉を発した。まるで、デコードしおえた情報をぽつりぽつりと出力するような喋り方だった。

 「その作品の存在を認めるわけにはいかない」

 「だから、それはどうして?」

 「死者への冒涜だからだ。それは尊厳を踏みにじっている」編集長は拳を強く握り込んでいた。

 ぼくにはそんなものを書いた覚えは一切なかった。ぼくはありのままを書いたに過ぎなかった。作家という生き物が如何にして自死を選択して、それに付き合う女の心情と過程をフィクションとして書いただけで、誰かを貶めるような描写を含めたこともない。

 「もしかして、堀崎と彼女のことを言っているんですか?」ぼくが訊くと彼はぼくをねめつけた。「あのね、これはフィクションなんですよ。それはお分かりですよね?」

 「フィクションだからといって何をやってもいいというわけではない」

 「それこそ違うでしょう。あなたがこれに、実在していた死者を重ねているのだとしたら、それこそが冒涜だ。墓石に別の人間の名前を刻むのと同義だ。フィクションだからこそ、その力を借りてぼくたちは実在や非実在に関わらず大きなものに立ち向かうことが出来る。これは弔いなんだ。ぼくは彼らを弔わなくちゃならない。望んだわけではないけれど、ぼくはそうしなければならない立場にいるんだ」

 ぼくがそう言うと彼は幽霊でも見たような貌をしてびくりと身体を跳ねさせた。ぼくの貌をまじまじと見つめて、奥歯の底から押し込んでたものを引っ張り出したかのように、「親子揃って同じことを言いやがった……、やっぱり血は争えないようだな」と言って、「きみの父親も、あいつもきみの母親が死んだ時にそう言って原稿を持ってきたよ。おれはあいつをちゃんと死なせてやらなくちゃいけないんだって。あの子も可哀想に、あいつに殺されたようなものなのに、二度も殺されたんだ。質が悪いのはあいつがその自覚を持っていたことだ。きみもそうだ。きみの言葉が堀崎奨を殺した自覚があるんだろう?」

 「多少は」でも、罪悪感はない。

 「あいつもな、今のきみみたいに澄ました貌をしていたよ。君だって見ただろう?あいつは自分の妻の葬式で貌色一つ変えなかった。それどころか、それをネタにしやがった。挙げ句の果てには悲しくはあるけれど、それまでだな、なんて抜かしやがった。あいつの言葉が()()()()()を殺したんだ、あいつのせいで色んなことが、色んな人が不幸せになって、たくさん死んだんだ」

 久し振りに母の名前を聴いた。それは母の名前だったけれど、頭の中では花の方が先に浮かんだ。

 不思議な気持ちだった。目の前で熱く言葉を散らす男はぼくが知る誰でもなくて、彼とはデビューした時からの付き合いだったはずなのに、そんな彼とはぼくは初対面だった。聴いた噂によると彼と父は大学の同期だったらしい。それが本当なら、今ぼくが直面しているのは編集長という役職にない父と母の共通の友人であった男なのだろう。ぼくの知らない場所で、ぼくの知らない出来事を経験して、独りぼっちになった知らない人。奇数は正しい数字ではない。

 ぼくは当然ながら父のことをよく知らない。母のことも同じように知らない。だから、彼の憤りや悲しさについて僅かでも理解することは出来ない。理解する気というものは全く沸かなくて、それは現在の問題にぼくではない誰か──例えそれが血縁だったとしても──の問題が絡んでくることはないと思うからで、父が、母が、どうだこうだと彼が言っているのを見たところでぼくにはその昔話が今あることにどのように作用してくるのか、受容に苦しんだ。いまいち、ピンと来なかったのだ。それに、父も母も堀崎と同じように色々なことが完結してしまっていて、ぼくに関して深く根差したものでもない限り、わざわざ墓石に真偽を問うようなことはしない。

 「()()は反対したんだ。百合ちゃんの葬儀の後、頬に痣を作ったあいつはあの原稿をおれに叩き付けて、これを本にしてくれ、と言ったんだよ。ぞっとしたね。自分の妻の死後によくもあんなものが書けるものだ。その場で殴り付けて原稿を破り棄ててやった。自覚があったくせに、自分のせいだと言っていたくせに、あいつは百合ちゃんが死んでしまったのに、そんな悲しいことをむごい姿にして飯の種にしようとしたんだ。その場ではっきり言ってやったよ、こんなものを世間に放つわけにはいかない、とな。あんなおぞましいものは消し去られるべきだった」

 「でも、あの本はきちんと"本"になって羽ばたいていきましたね」タイトルの如く、『猛毒』を胎に宿らせて。

 「なにも知らない一般の読者にしてみれば、あれもただのフィクションの悲劇に過ぎない。だが、あいつとその周辺の事情を知る連中にとってみれば、その重さは生半可なものではなかった。あいつが注ぎ込んだ毒は瞬く間に広まっていった。毒牙の最初の犠牲者は当時の専務と編集長だった。あいつは直談判しに行って、強引に首を縦に振らせた。おれの知らぬ間に出版が決まって、あとはきみも知る通りだ。作家連中は中毒になって、あいつに酔いしれていたよ」

 「でも、それらがぼくに関与することはないでしょう。いくら、ぼくと父に共通点があったとしても、それがイコールになるわけではないし、時間を逆走して母を殺すわけでもない。()()()()()()()()()()。あなたは誰を見ているんだ?」

 喪ってしまったものは喪われたままで、どれだけ取り戻そうとしても喪われたものはイデア界のようなぼくたちが足を踏み入れることの出来ない場所で不可逆的な非実在になってしまう。良くも悪くも補填は効かないし、(うろ)は虚のままだ。それなのにぼくの周りでは、ぼくにその非実在を被せる人がいて、ぼくはまるで子供用玩具の着せ替え人形になったようだった。

 それはなにも生きているぼくに限った話ではなくて、死んでしまった堀崎にも当て嵌まることだった。その先の生がどんな形であれ喪われてしまって、世間では"どんちゃん騒ぎ"をしている。屍という体のいいマネキンの服を着せて(脚色して)、お涙ちょうだい、急逝の若き天才を偲ぶ、御冥福をお祈りします。死ねばブランドに価値が付加されるから著作が売れて、経済が循環する。そうやって、その内に誰かが猿山のてっぺんにマネキンを置いて崇めはじめるのだ。両手を擦り合わせて、どうかその物語でわたしたちを救いたまえ、と地面に頭を押し付ける。そうなれば堀崎奨という人間の本当のことは何処にもなくなってしまう。その苦しみも、その怒りだって、どうせ誰かが相応しくないと棄てる。だから、せめて、本当のことを楔にして遺さなければならない。百年後にはなくなってしまうかもしれないけれど、今の熱狂に流されることはない。殺してしまったぼくが、理解しなかったぼくが書くことの出来る記録として、フィクションという刃を纏わせて。

 「ぼくの言葉が堀崎を殺した。父の言葉が母を殺した。それは表面的な問題に過ぎない。だって、あなたはそれで何かを覆い隠しているんだ。その中身を晒け出したくないから、堀崎や彼女の名誉云々と言っているだけ。それはたぶん父に関係していて、あなたはぼくにそれを透かして見ているんだ」

 そして、それにはきっと悪意も混ざりあっている。

 「ニーチェは嘘をついた。ぺてん師だった。鳥が先か、卵が先か、もう分からないんだ」

 「言葉を繰る人間はみんな何かしらの()()()を秘しているものです。あいつだってそうだった。気にするようなことじゃあない。母でさえも、ぼくを騙していた」

 「百合ちゃんが?あり得ない。百合ちゃんはきみのことを愛していた」

 「憐れんでいたよ。あなたの知る百合ちゃんは、母ではないんだ。そういうことなんです。それだけで齟齬が解消されてしまうし、分からないことだらけでもこれだけ明快な道筋になる。だから、あなたの隠しているものを漠然とだけど察することが出来る。ぼくは自分のそういうところが嫌いで嫌いでしょうがないんです」

 奇数は相応しい数字ではない。彼らは偶数であれば良かったのだ。不幸せではなかったのだ。

 「父の言葉でどれだけの人が死んだんです?」ぼくは訊いた。

 「さぁな。たくさん、だろうな。こころが、身体が壊れてしまったやつらはごまんといるよ。おれは言葉の恐ろしさを教えられたよ」

 「作家って、言葉ってそういう生き物でしょう。孤独が言葉に、言葉が毒に変わるのをじっと待つんだ。自分を切り貼りするタイプの作家は尚更その傾向が強い。その内省の濃度に比例して、副次的に放出される憧憬の毒性も強くなる。父もぼくもその例に漏れない人種らしいです」

 彼は額に合掌を当てた。懺悔のようだった。

 「おれはもうばけものを見たくないんだ」

 「父はもういません。とうに死んでいる」

 「生きてるさ」彼はぼくに人差し指を向けて、「そこにいるんだ。そこで燃えてるだろう、ほら」

 「まぼろしですよ。父そのものではないし、もうその一部ですらない」

 「それでも、あいつを成していたものだ……。きみは生き写しだよ。まるで生き返ったみたいだ。どこまでも、力の限り逃げてきたはずなのに、おまえはやっぱり追い付いてきたよ」

 「考えすぎだ」

 「違うな。きみが知らないことだ。きみが分からない領域の話だ」ぼくがなにか言う前に彼は、「でも、きみが今、口を開こうとしたのならそれこそが証だ。きみにしっかりとあいつが溶け込んでいるということだ。あいつの胤できみが出来上がっているんだ。そうやって、時間さえも飛び越してまで、またおれを苦しめるんだろう。仕方のないこととして……」

 一息に捲し立てた彼はふっと糸が切れてしまったように、我に還って沈み込んだ。躁鬱のようで、はじめのように貌を両手で覆って押し黙った。

 「やはり、わたしにはあれを認めることは出来ない」

 彼はそう言ったきりだった。そこが終着だった。彼の証明しようとしていたことについて、ぼくがその不明なものを解明することはないし、彼の言葉は破綻していた。喪失と欠落と腐食が一緒になって、時間軸とこころを滅茶苦茶にしていた。

 ぼくはそうですか、と言って会議室を出た。終着にはぼくと彼、延いてはぼくと会社との関係の終わりという意味合いもあった。その時点でぼくと彼の間に走った亀裂はあまりにも大きすぎた。ぼくは父と同じようにその本を出版しなければならなかったのだ。しかし、それは実現しそうもなく、さらには予感があって、確信もあった。この先、ぼくは現状のままでは彼が言うところの飯の種を世に送り出すことが容易でなくなってしまうというものだった。そうなった場合ぼくは非常に苦しい状態を強いられることになる。世界は驚くほど早くどん詰まりの展開に陥る。

 契約の解除に関する法的な衝突と民事訴訟の影がちらついたのはそれからすぐのことだった。お昼のワイドショーにぼくの名前がどぎつい色調で載せられて、週刊誌でもへんなところであることないこと話が盛られて、世間様に消費される話題にぼくはなった。ひっきりなしにぼく宛に連絡を寄越してくる会社の上の人間たちを黙殺するのは少しだけ申し訳なく思った。彼らはぼくに良くしてくれたし、今の社長はデビューした時から父の息子ではなく、作家としてのぼくを見てくれた数少ない一人で、海外での著作の展開を強くサポートしてくれた。彼らはなにも悪いことをしていないし、ぼくに対して法廷での戦いではなく話し合いと和解を求めている。けれど、ぼくはそれを受け入れてはならないのだ。影響の善し悪しに関わらず、父の影が強く染み込んだ今の会社では、様々なことに限界と制約が発生してしまう。父のように直談判するというのは良い手とは言えず、そこには必ず父の幻影という妄執に炙られた編集長が立ちはだかるだろう。仮にぼくが和解の道を選んだとしても、今回だけに限らず彼とはことある事にあらゆる場面でぶつかり合うこととなって、相互間での分かち合いは不可能になることは決定されていた。弁護士には何としても解約をもぎ取るようにと安くない金を積んだ。訣別こそが新たな世界への号令なのだ。

 とは言うけれど、例の原稿についての問題は既に解決していて、件の原稿は別の出版社に持ち込んで出版されること自体は決まっている。その会社でぼくは何冊かの短編集と純文学に類される長篇を出していて、そこの編集長はもともと堀崎の担当編集だった女性で、死んでしまったぼくの担当編集とも面識のある、ごく僅かな彼らの真実を知る一人でもあった。彼女は持ち込んだ原稿をろくに読みもしないで許可を出して、案はすんなりと会議を通った。彼女に何故そんな軽々しいやり方をしたのか訊ねると、彼女はそれがきっと正しい弔いになるから、と答えた。

 「それに、あなたはあの会社でこれを出すべきではないわ」と彼女はその後に続けた。

 「どうして?」

 「呪われてるもの。なにもかも、あなたの父親に」

 ぼくは確かに、と言って笑ってみせた。彼女のユーモアのセンスはぼくと合うものが多かった。そしてそれは的を射ていた。しかし、あの会社で出すべきではないという点に於いては違えていて、堀崎が骨を埋めた会社だからこそ、あの会社で出すべきだったのだ。たとえ、誰に呪われていようが。だから、彼女の元で出版される『弔いの楔』はそういう部分で完全ではないし、それは永久にあの夜の会議室でコーヒーの底へと喪われてしまった。

 ぼくの周りは必然的に煩くなった。まあ仕方のないことではあるけれど、歓迎は出来なかった。必死でネタを掴もうとする記者連中には辟易していたし、そこに至るまでの今回の件で抱え込んだものを噛み砕くための隔絶された時間と孤独がぼくには必要だった。そうして隠遁生活がはじまった。

 

 店のドアを潜ると、いつもより心なしか暗いように思えたけれど、それはぼくの勘違いだった。ぼくはカウンターに座る朱香さんにどうも、と声をかけた。朱香さんはそれに力ない笑みを返すだけだった。ぼくはカウンターの向こう側の棚からボウモアの瓶を取って、勝手にソーダ割りを作った。そして、朱香さんの右隣に腰掛けて暫くそれを飲んで、ぼくたちはお互いになにも話すことはなかった。

 朱香さんの左隣は堀崎がいつも座っていた席で、そこには花瓶にさした名前の分からない白い花が置かれていた。朱香さんはその花をじっと見つめて、呼び出したぼくに目も向けなかった。心ここにあらずといった具合で、時折、堀崎が腰掛けていた椅子に触れて微動だにしないこともあった。ぼくはじっくりと自分で作ったソーダ割りの味の微妙さを味わうことが出来た。

 どうにかしろよ、とよく堀崎がぼくに言っていたことを思い出した。ぼくが朱香さんのお節介をふいにし続けると朱香はたびたび拗ねて、つんとした貌で水しか出してくれない時があった。その大抵がぼくを太らせようとする堀崎と朱香さんの共犯だったが、最後には堀崎までぼくと一緒に宥める側に回ることになった。でも、ぼくだってこればっかりはどうしようもない。特に今は、ぼくという存在は大したことが出来ない。歯痒いというわけではなくて、手持ち無沙汰の時間が少しだけ退屈になってきていた。

 どうにかしろよ。

 「ねぇ」

 掠れて、鼻に掛かった声だった。

 「どんな貌してた?」

 「死に貌」と訊くと朱香さんは小さく頷いた。「気色悪い笑い貼り付けて棺桶の中にいたよ」

 朱香さんはそう、と短く言ってまた俯いた。貌を掌に強く押し付けて、貌が凹んでしまいそうなほど力んで隠していた。

 あぁは言ったけれど、ぼくは堀崎の死に貌などとうに忘れてしまっていた。よくよく思い出せば浮かんではくるが、すぐにはもう思い出すことは出来なかった。そこがぼくと朱香さんの違いで、死に納得出来ていない彼女の現状だった。

 朱香さんが堀崎の訃報を知ったのは世間と同じタイミングでのことだった。彼女は親しくはあったがどう言っても部外者で、ぼくたちの業界の人間ではなかったから連絡がいくこともなかった。ぼくが教える必要だってなかったし、真相は巧妙に、そして徹底的に隠されなければならなかった。関係者各位には脅しめいた箝口令さえ敷かれていた。今日に至るまでの間にも朱香さんから何十件もの連絡があったけれど、その悉くをぼくは無視していた。悪いことをしたとは思うけれど、原稿に取り掛かっている最中だったということもあるし、それよりも優先的なことがぼくの周りには多かった。だから、朱香さんにしてみれば堀崎が死んでしまったのはぼくと同じ突然のことでも少しだけ種類が違うもので、朱香さんがはじめて情報を受け取った頃には諸々の片が付いていて、堀崎の遺体は焼かれて真っ白い灰になってしまっていた。彼女が出来ることはほとんどなにもなかった。せいぜいが、未だ読んでいなかった著作の一部を消化するぐらいだろうか。

 彼女は堀崎の死に貌を見ていない。焼香もあげていない。朱香さんの内では堀崎はまだ生きている。亡霊か、パラノイアの産物の類いとして取り憑いているのだ。

 「きみは哀しくないの……?」

 「なにが?」

 「なにがって……、堀崎くんのこと」

 「哀しいよ。哀しいけれど、ぼくはもうそういう段階にはいないから」とぼくは返した。

 朱香さんはほんの少しぼくに視線を向けると、すぐに逸らして鼻で嗤った。

 「違うわ……、あなた、本当は悲しんじゃいないのね」

 「随分なことを言うんだね。自分でもあまり人がいい方だとは思ってないけど、ぼくだって親しい人間が死ねば哀しむ。それくらいの情はあるさ」

 ぼくは白々しく抗議してみせた。探せどもやはり哀しみはなかったし、それらしく見える貌のしわを作ったが、朱香さんはぼくを見なかった。どうして見透かされたのかは分からないが、面倒な状況であることだけは確かだった。怒りさえ帯びている背中を見つめながら、ぼくは彼女の言葉を待った。店に入ってからというもの、ぼくは待ちっぱなしでおおよそ全ての疎通に少ない時間が掛かっていたせいか、感覚は小さな異常を来していた。五分も十分も大差はなく、彼女が言葉を選別して気持ちを装填するまでの時間は普段ぼくらが消費している軸のものではなかった。だから、どれだけの時間が必要とされても体感としては一瞬の出来事のように感じられた。

 朱香さんの声には棘があった。今までぼくをとろとろに溶かそうとする昼下がりの陽光のような声色ではなくて、ぼくが嫌というほどに見てきた現実に生きて現実に殺される寸前の断末魔を放つ女たちの仕様が備わっていた。女が男を糾弾する時の細く鋭い熱狂が薔薇の棘みたいにぼくの掌を貫こうとぎらついていた。確信と意思を持ってるから、余計に人を傷付けやすくなっている。

 「あなた、変わってしまったもの」

 「変わらないものはないよ」とぼくは言った。「もしくは、変わってしまったと誤認しているか、自分に変調があったかだよ。当然、ぼくにだって変化する部分はあるだろうけど、あなたが言わんとする部分はなにも変わってはいないよ」

 「ということは、あなたは嘘をついていたのね」と朱香さんはぼくを睨んだ。「人の死を悲しめない、人でなしなんでしょう。あなたはそんな本性をわたしに隠して、堀崎くんにも隠して、あの子の苦しみも分からないで……」

 朱香さんは声を強く歪ませた。ということで、という会話の発展もそうであるように彼女は著しく冷静さを欠いていた。彼女らしくない、と言えばそれまでだけれど、それはもはや別人のような取り乱し具合だった。理知的でお節介な人物像は砕け散り、欠片すら見当たらなかった。

 彼女の発している症状が古い疵によるもので、こころの表層で激しく疼く発作であることは分かっていた。ぼく自身も経験があり、情緒が揺らぐこともあったけれど、目前で誰かが自分の疵に苦しめられているところを見るのははじめてだった。

 ぼくと彼女の間に生じたズレはあまりに大きかったのだ。ぼくは死というものに慣れていたけれど、彼女はそうではなかった。互いに、体感的にそれらを捉えることは出来るけれど感受するベクトルがまるで違っていた。もっと言うのであれば、喪失という旅人に出会う回数の違いだった。

 孤独の側にはいつも死がいた。手を伸ばすこともなく、ぼくをただ見ているだけだった。友人の友人のような距離感のそれは、実はぼくたちが産声をあげた時から片時も離れずにそばにいたというのに、孤独のように共に夜を越すこともない。死が動くのは喪失という旅人がぼくたち自身を道連れにする時だけだ。ぼくは周囲が喪失と共に旅に出るのをそれなりに見てきて、三人旅のはじまりをよく知っていた。今さら彼らの置き土産に狼狽えるようなことはない。そして、その置き土産は彼女の疵を容赦なく掻き毟った。

 「そうだね。ぼくは堀崎にもあなたにもたくさんの嘘と秘密を抱えているよ」とぼくは平坦な喋り口で言った。「でもね、それは誰だってそうなんだよ。みんな清廉潔白に生きられる世の中じゃあない。子供だって嘘を吐くし、血縁があってもぼくらは個人かそうでないかでしかないんだ……」

 ぼくは少しの間、言葉を纏めた。

 「堀崎奨は死んだ。あなたが今分からないことはきっと永遠に分からないよ。残酷かもしれないけれど、それは仕方のないことなんだ。あなたの抱えているものを解決してくれる人間はもう灰になったんだ。もう、ここにはあなたしかいない。あなたは、独りで自分の深い部分と向き合わなくちゃならない。もう、あの空間はないんだから」

 ぼくがいて、堀崎がいて、朱香さんがカウンター越しにぼくたちのやり取りを楽しそうに見ている。その空間は永遠に喪われてしまっている。そこには朱香さんの疵を塞ぐ要素があったのだ。ぼくをぼくではない、既にいない誰かに見立てて、堀崎も同じように誰かの代わりにしていた。そうやって疵から血が流れるのを止めていたのだろう。ぼくが書き続けたように、死んでしまったぼくの担当編集が薬で補強していたように。

 なぁ、堀崎。ぼくだって、自分の言っていることと真逆のことを言いたくはないけれど、おまえがどうにかしてくれよ。死んでいるところ悪いとは思うけれど、ぼくじゃあどうしようもないぜ、これは。ぼくはふと堀崎を思い出して、脳裏に浮かぶあのガラの悪いシャツを着た男にそう言ってみたが、恐らく堀崎は人相の悪い笑みで任せるよとしか言わないのだろう。少なくとも、ぼくの知る堀崎という男はそうだった。

 少し前から感じる息苦しさは覚えがあるもので、昔、ハンバーガー屋で感じたものと同じだった。ぼくはもうこの場所にはいられないことを悟った。正しい形が()()()()()()()構築出来ない今、ピースは合わず、新しく安息を作り上げることも出来ない。ぼくらはもう交わることもないだろう。嘗て、真耶がそうであったように、朱香さんも非実在へと成り果ててゆく。けれど、彼女はぼくのように夢に逃げることは出来ない。ぼくを非実在に追いやることも出来ない。そういう人間もいるのだ。だから、彼女は現実という怪物とたった独りで戦わなくてはならない。自分の疵という敵にナイフを刺しこまれながら、拳を振るわなければならない。それはとても過酷で、哀しいことだ。勝った負けたは元よりない、墓守りが佇む砂漠のような荒涼とした時間が止めどなくゆっくりと押し寄せる。ぼくたちとは違った苦しみの形。

 喪われたものが多すぎた。彼女もボロボロで、担当編集の父親もどうしようもなかった。ぼくもそうだ。もう、みんながみんな精一杯だ。疵だらけで頑張って嘘を吐いて、それでも頑張りが足りなくて消えていってしまう。

 「朱香さん、頑張ってね。きっと辛いと思うけれど、あなたの思い出は消えないと思うから。そこは少しだけ救いがあるかもしれない。ぼくはもうここに来ることはないけど、ここでお酒を飲んでいた時間は楽しかったと思う。そういうものは気休め程度にはなるからさ。それと堀崎のこと言わなくてごめんね……」

 ぼくは朱香さんの頬に手を添えてキスをした。数秒だけのあっさりとしたキスは、予想に反した、蕩けそうな熱を伴ったものだった。彼女は泣いていた。その涙が唇に伝って、哀しい味がした。

 「ごめんね」

 去り際にもう一度言うと後ろから誰かの声が聴こえたような気がしたけれど、ドアの閉まる音に遮られたそれをはっきりと聴き取ることは出来なかった。

 外は暗くなって、冷たい雨がネオン越しにカーテンを引いていた。その只中で、ぼくは世界が急速に折り畳まれていくのを感じた。ぼくの知るものが狭くなって、ぼくが生きることの出来る場所の面積が限られてしまったのだ。見知った風景さえ目新しく写って、現在位置が分からなくなる。まるで知らない世界に迷い込んでしまったようだった。

 ぼくは怖くて怖くて、煙草に火をつけた。頭から雨を被りながら今にも消えてしまいそうな火を見つめて、ぼくは帰るべき場所を探して歩き始めた。何処にも宛はなかった。それは、ぼくのあるべき姿のように思えた。最初からそんなものはなかったのだから。





 感想・評価お待ちしております。

 次回完結。


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全米が泣いた!!山田先生大勝利!希望の未来へレディ・ゴーッ!! 


\パンッ/ヨッシャアアアアアアアアアアアアwwwwwwwwwwwwwwwwwww(高い声でキタァwwwwwwwwwwwwwwwwwww ウワァヤッタアアアwwwwwwwwwwwwwwwwwwwサイシンワコウシンヤッタアアアアアアアWWWWWWWW


 

 自分で死を選択した時、ぼくといえば思っていたほど重苦しい心持ちではなかったし、重大な決心をした実感もなかった。次の飯を決めるくらいのシンプルで日常的な回路を用いてその選択を決定した。堀崎や彼女があれだけ重々しく死んでいったというのに、ぼくは何処か締まらないような感じが否めなく、肩透かしも呆れも通り越してしまった。

 朱香さんの店を出た後で、ぼくは財布だけを持って幼い頃に何度か訪れた草津へと雨の中車を走らせた。関越自動車道を走る中、雨粒がフロントガラスに勢いよく弾ける度、ぼくは薪が弾ける音を連想した。木の中の水分が破裂するのなら、堀崎や父の骨も同じように内から爆ぜたのだろうか。耳障りの穏やかな音と一緒にどんなものが破裂して消えていったのだろう。穢いものは全て消えたのか。そんなことばかりが気になっていた。草津という目的地がはっきりしているのに自分が何処に向かっているのか分からない不安感と場違いな疑問が眼球の奥の方で絡み合っているような気がして、ぼくは運転中に度々突発的な眩暈に見舞われた。その都度だぶる視界の中でなんとかやり過ごして、幸か不幸か事故を起こすことはなかった。

 草津という土地にこれといって決まった宛はなかったけれど、伝はあった。幼い頃、草津に滞在すると必ず宿泊したホテルの人が好さそうな支配人は父とも懇意にしていて、ぼくとよく仕事の合間に遊んでくれた記憶があった。温泉地に滞在しているにも関わらず父は温泉に入ることもなく執筆に没頭していたし、母は身体が丈夫ではなかったからぼくと目一杯遊ぶことが出来なかった。そんな中で疲れて動けなくなるまで一緒に遊んでくれて、ぼくの手を引いて自ら湯畑まで連れていってくれたり温泉街を案内してくれた支配人は幼少の頃のぼくにとっては親戚のような人で、よくなついていたと思う。父の大学の後輩だという支配人は奇妙な先輩である父とも仲が良かったようで、あの父が彼に手酌をして酒を酌み交わすこともあったらしい。だからだろうか、支配人が父の葬儀に持ってきたのは高そうな日本酒だった。

 彼はぼくのことを坊っちゃんと呼んでは老成した雰囲気に見合った丁寧な言葉遣いで接した。それは今も昔も変わらず、最後に会った父の葬儀でもお久しゅうございます、とロマンスグレーの白髪を撫で付けた頭を深々と下げた。寄る年波を愛でているような緩やかな死への旅路を行く彼はぼくの周りにはやはりいない種類の人間で、そういう面でも昔と変わらない人だった。葬式の独特な明暗のコントラストに染められることもなく、滅入らないで静かに目を閉じながら父を偲ぶ支配人は言葉にすることが難しい──曲がりなりにも作家であるというのに情けなくはあるけれど──特異さを携えてそこにいた。同年代の参列者たちが一気に老け込んで見えるのに、支配人だけは寧ろ若々しくさえ見えた。彼はそこにある父の亡骸を父とは見てなかったのだ。何処かつまらなさそうな表情で棺桶を見て、ぼくと視線がぶつかると悪戯がばれた子供のようにはにかんでいた。

 雨のせいで冷え込んだ車の中でぼくはそうやって彼を思い出した。彼のホテルは繁盛しているらしく、息子夫婦に経営を任せて今は隠居生活を謳歌していると聴いた。コネクションでどうだこうだとしたいわけではなくて、取る部屋なんて一番安いものでいいのだ。少しだけ、そんなずっと昔のうまく思い返せない時代のことを思い出したくなった。

 けれど、ぼくの目論見が上手くいった試しがないと昔に堀崎が言っていた冗談が現実になって襲ってくるとは、予想出来なかった。ホテルのフロントでチェックインの手続きをしていると偶然、支配人──前支配人の老人に出くわしてしまったのだ。ぼくを見るなり小走りで柔和な笑みを携えながら寄ってきて、坊っちゃんがここに来るのはもう十年以上も前以来で、と懐古に浸ってしまって大変だった。よく見るとフロントには父の写真が額に入れて飾られていて、ぼくがその息子だと知ると現支配人の息子がやたらとへこへこした態度で一等いい部屋を用意し始めてからは全て流れに任せてしまった。彼の世界的な大作家が愛した宿、というキャッチフレーズが観光ガイドの表紙に馬鹿みたいに大きいゴシック体でプリントされていることを知ったのはチェックイン後にフロントのデスクが視界に入った時で、既に色々なことが手遅れになった後のことだった。それもこれも、あの若々しい老人の茶目っ気だった。老人は葬式の時と同じように、部屋に連れていかれるぼくに向けて微笑んだ。

 通されたのは昔に何度も泊まったことのある大きな部屋だった。一人で泊まるには広すぎて、窓を覗くと湯畑がちらりと見える。昔、挨拶に来た老人にぼくはしつこくそこから見えた湯畑のことを訊ねたこともあった。肩車の高さを知ったのもその時だったような覚えがある。幼いぼくにしてみればこの部屋は楽しいことだらけの休暇のスタート地点だったのだろう。ぼくの足元を走り回る記憶の中から飛び出してきた男の子はそういう希望をこれでもかと詰め込んだ笑顔を浮かべている。腹が立つくらいに。母の背に抱きついて、若かりし老人にじゃれついてみて、父に頭を小突かれている。ぼくは部屋の片隅でそれをじっと見ていた。あったらしい出来事を古めかしくて、音も出ないような映画にして見させられているような気分で膝を抱えた。

 そこにはぼくの考えていた通りのものが堆積していた。綺麗な層になったぼくの古い時間の一部は、ぼくが思い返せない二十代以前の時間を鮮明に記録していた。ぼくの瞳にはそれらがしっかりと写って、こころの深い部分で穢れたものがうっすらと色付いてゆくことを感じていた。女の獣みたいないびきも、同じ唇に口付けた貌も名前も知らない男の情欲も、乾上がった涙の池も。全てはそこから始まったものだった。貝印の剃刀だってそこにあったのだ。母がよく使っていたピンクの柄の剃刀は廻り廻ってぼくの手首にたくさんの傷をつけて、疵だらけにした。色々なことは全てそこから漏れだしたものに過ぎない。現在(いま)を殺し、苦しめるのはいつだって過去から来るものだった。ぼくたちはそれに気づくことはなかった。そしてみんな悉く自分に殺された。

 なにも言わなかったんじゃない。なにも言えないのだ。ぼくはその情景に口を挟むことを赦されていない。ぼくは罪人のようなもので、これは、あるいは尋問とも取れる。誰がぼくを責め立てるのかは分からない。けれど、目に写るものは大抵の場合、他者が付与する鋭さを携えていた。

 ふと立ち上がって、窓辺に行ってみる。遠くに見える湯畑にぼくと老人が小さく見えた。翡翠色の湯を見てどうしてそんな色をしているのか老人に訊ねているところだ。ぼくは老人の人指し指を掌の全てで握っていた。湯に入らずとも血色がいい肌は今とは大違いだった。そうして見ると、ぼくと老人はまるで本当の親子のようだった。少しばかり遅く出来た子供と父親と言って罷り通るだろう。元より父ともそのような年の離れ方をしていた。父といるよりもそちらの方がらしく見える。ぼくの隣で父はその姿を遠目で眺めていた。隈の酷い目元は澱んで見えた。泡のように呟かれた父の言葉に母が笑ってみせた。あるべき物をあるがままに捉えて、フィルターに通さないで主観のままに言葉を編み込んで出力する。母はあなたにそっくりよ、と言っていた。それに対して、やはり父は何処までも素っ気なかった。母はぼくにあなたもそう思うでしょう、と問うた。ぼくはそうかもしれないね、とだけ返した。ぼくは幻想に返す言葉をうまく見繕うことが出来なかった。そこでは言葉というものの力は蟻一匹が有する膂力よりも貧弱だった。言葉は、言葉を産み出す創造性は何者かに剥奪される。

 そうしてぼくは回帰の道を辿りはじめる。

 現実と虚構の境が融け合って出来たイメージは時間も空間も関係なく、幼少時の朧気だったものを克明に浮かび上がらせてくれた。それはぼくが求めていたものではなかったけれど、ぼくにとって実りのあるものであることは確かだった。ぼくが求めているものがどんなもので、どういう時代であったのかは実を言えば漠然としていて把握出来ているわけではない。もしかするとそんなものはないのかもしれない。そう思ってしまうほどには、らしくもない感傷を覚えていた。薄暗くて雨音しか聴こえない部屋には微かに非実在となった存在が実在していた痕跡が残留している。ロクシタンのハンドクリームの薔薇の薫りは母が愛用していたものだった。もう部屋にはぼく一人しかいないし、窓の外を見てみても雨と寒さのせいでまばらな観光客がぽつりぽつり見えるだけだ。

 暫くの間目蓋を落としていると扉の開く音がした。ゆっくりと、張り付いてしまったような重さで眼を開くと老人がぼくの前に立っていた。ルイヴィトンのセーター。風邪をひいてしまいますよ、とブランケットをぼくの肩に被せて急須で茶を沸かしはじめた老人は気が散るほど綺麗な正座をした。ぼくはブランケットを身体の前まで引っ張って、壁に背を預けた。冷たさが背を痛ませる。

 「ずいぶんと、お痩せになられたようで」と老人は言った。

 「疲れが溜まっているんだよ。色々とあったから流石にね」

 「御自愛くださいませ。坊っちゃんももう三十。一つの大台ですから」

 「いやだね」と言ってぼくは笑った。「年は取りたくないな。たぶん、もうあっという間に次は四十、五十だ。急かせれてるような気分だよ。急いで生きろ、ほら休むなって具合に」

 「燃えるように?」

 「残り火を燃え立たせるように。やがて尽きてしまうように」

 「今のように」老人はぼくを見て湯飲みに注いだ緑茶を一口飲んだ。ぼくも出された湯飲みに口を付けた。

 「貴方には今のぼくがそう見えるのか?」

 「一つの視点においてはそう見えるでしょう。しかし、それはあくまでわたしの有する数ある視点の中から掬い上げた、限定的な解でしかありません。人間は多くの視点をシールのように張り付けて生きています。眼は二つだけではないのです。世界を見るためのフィルターも視点の数存在します。どの視点で捉えて、どのフィルターでいらないものを濾すかは当人次第です。その組合せで世界は色を変えるのです」

 「別の視点ではどう見えるの?」

 「死に瀕している。それも深く、その穴に脚を踏み入れてしまっている。そして、長い間何かを探しさ迷い、ここに辿り着いた。それは偶然のように見えるが作為的なほどの必然性があなたを大きな流れとして覆っている。その何かに眼を塞がれてあなたはもう多くのことをある意味では知覚することが出来ない。どうでしょうか」

 「大した変わりはないように思える」

 「いえ、そこには大きな違いがあります」と老人は静かに訂正した。「残り火は然い手段を用いれば蘇らせることが出来ます。それはとても難しいことではありますが、可能です。しかし、死人は蘇ることはない。死の淵に立つだけならば、まだ余地はありますが、一度風が吹けばあなたはその構造をすっかり変えてしまうことでしょう」

 ぱちぱちと窓に雨が当たりはじめて、風向きと雨足が変わったことを知る。風も雨もぼくの背を目掛けて吹いている。

 「ぼくはまだ生きているよ」

 「稀有なこともあるのですな。あなたは一度構造を変えられたにも関わらず、もう一度変化の兆しを見せている。そして、それは死に深く根を張った変わり様だ。だからこそ、あなたは()()生きているという言葉を用いたのでしょう。そして、その様は御父上にそっくりだ」

 老人はまた湯飲みの茶を飲んで、朱色の表面を掌でしっかりと包んだ。

 「どうか、気を悪くしないでいただきたい。しかし、これは重要なことなのです。わたしがあなたに伝えなければならない事柄なのです。つきましては、わたしの昔噺を一つよろしいでしょうか?」

 ぼくは頷いた。老人は微笑んで息を短く吸い込んだ。

 「その昔、あなたの御父上が珍しく一人でここにいらっしゃいました。奥様もあなたも連れずに来ることは結婚される前振りでしたので驚きました。しかも、ちょうど奥様が亡くなられてすぐのことでしたからわたしもはじめはどうしてこの場所に一人で訪れたのか検討もつきませんでした。きっかり葬儀の一週間後でした。そして、何より頬の酷い痣と濡れ鼠のような格好は我々出迎えた従業員たちにただ事ではない様相を感じさせました。

 御父上──彼はこの部屋に泊まりました。荷物はペンの抜け落ちた古い手帳と一冊の本でした。滞在時に発生する諸々のお支払いは全て手帳に挟んだアメックスで済ませていました。着替えも持たずに言葉通り身一つで来られたのですよ。

 彼を部屋に案内する途中、わたしと彼の間に会話はありませんでした。いつもならば世間噺や夕食の希望を訊いたりするのですが、その日は言葉が何かに絡め取られてしまったかのように喉の奥からも頭の中からもすっかり消えていたのです。ちょうど、その日も今日のような悪天候でした。彼はその中を珍しく車を運転してここまで来たのです。彼はものぐさな人間でしたから自発的に外出することは少なかったとわたしは記憶していたので、彼の行動の意外さはすんなりと理解出来るものではありませんでした。けれど、わたしは何かが起きたのだと直感していました。彼のこころと更に深い部分での現象が現実という表層での行動にまで影響を及ぼし、そこには確実に奥様の死とあなたが関わっていること。わたしが察することが出来たのはそれだけでした。長年、彼とは親しい付き合いを持っていましたが、あのようなことは初めてでした。そして、あれっきりでもあった。

 彼は部屋に入ると持ってきた本を静かに開いて、誰も来させないようにしろと仰いました。その本は表紙もページも真っ白で何も書かれていない不思議なものでした。食事もいらないと言って彼はそのまっさらなページに眼を落として、そのまま一言も声を発することはありませんでした。わたしが声をかけようが、雷が外で落ちようが彼はその真っ白な本を読み続けていました。ほんとうに真っ白なだけの本を熱心に、それこそ両の眼を剥くように開いて眺めるというのは些か狂気染みた眺めでしたが、わたしには彼がまったくの正気でその行為に意識を集中させているように思えました。というよりは確信していました。

 翌日チェックアウトする際にはその本は何処にも持っていませんでした。そして、彼の貌はもうすっかり変わってしまっていました。目鼻立ちという点ではなく、その印象がひっくり返ってしいまったようでした。用は済んだと言ってそのままお帰りになられました。あの本をどうしたのか、と訊ねようにも彼は逃げるように車に乗って行ってしまいました。その後、わたしはこの部屋を隅々まで探しましたが、彼が手にしていた真白い本は何処にも見当たりませんでした。まるで、はじめからそんなものはなかったかのように。

 さて、噺は少し逸れてしまいますが、実を申しますと、というよりはお気付きでしょうが彼の葬儀でわたしは酷く退屈をしておりました」

 「棺に横たわるのがあなたの知る父ではない何者かだったから?」

 「そうではありません。彼の葬式は既に執り行われていたのです。二度も。それなのに今さらあのようなことをしたところで弔いに意味があるのか、と思ってしまったのですよ」 

 「何時そんなことを」

 「先程の話がそうなのです。二度目の葬式はその時に行われたのです。はじめの葬式について彼は詳しく語ることはありませんでしたが、そのどちらも彼は自分自身で自らの亡骸を弔ったと言っていました。それらをわたしに聴かせてくれたのは、再び一人でここを訪れた時のことでした。あなたが作家としてデビューされた年の冬に彼はもう一度この部屋に泊まったのです。その際に彼からあなたが書かれた本を一冊頂きました。すると、彼は自分の葬儀について喋りはじめました。脈絡もなかったのではじめは戸惑いましたが、それは彼の癖のようなものでもあったのですぐに持ち直して、話を聴くことが出来ました。

 彼は死について徐に語りはじめました。曰く、自分はもう長くはない、死期が近付いてきた、と。わたしは何故そのようなことを言われるのか問いました。彼にそのような老いた気配は感じられなかった。幾分か皺は増えたものの、血色も悪くはない。それなのに、あの男がこんなことを言うようになるとは何事か、と懐疑すら抱いていました。彼はわたしの問いに自分の役目はとうの昔に終えているのだと答えました。その役目を終えた後、自分は暫くの間沙汰を待ち、死ぬことを赦された。そうしてわたしは自分を葬り、弔った。二度目でやっと自分は一つの終結を迎えることが出来た。ここで、ただ一人自分の生を振り返り、身を投げて、残骸がその始末をしたのだ。

 わたしには彼が何を言っていて、その不可解な言動が何を意味しているのかさっぱり理解出来ませんでした。ですが、彼が言うところの二度目の葬り、弔ったという儀式を執り行ったのはあの大雨の日のこの部屋だとすぐに確信出来ました。わたしは彼に訊ねました。それは奥様と坊っちゃんに関わりがあるのではないか、と。彼はわたしの質問を確かな正解ではあるけれど、図星というわけでもない、と評しました」

 「あの人とは滅多に喋らなかったけど、昔から口を開くと一々回りくどかった」

 「えぇ。大学時代からあのまどろっこしくて、喉に貼り付くような言葉使いは変わることはありませんでした。奥様も時折困っていたようでしたよ。ここに泊まられた時によくぼやいておりました。

 見たところ、彼は迷っているようでした。あるいは、何かを探しているようにも。部屋の中を見渡したり、窓の外を眺めてみたりして、この部屋から得ることの出来るあらゆる感覚から来る情報を丹念に分析していました」

 「それで、あの人は探し物を見つけることは出来たの?」

 「どうでしょう。一頻り部屋の中を改めると、彼はいつぞやのように一人にしてくれと言ったきり、口を開くことはありませんでした。ここには彼にとって少なくない数の思い出が刻まれています。奥様とあなたの三人で訪れたことも、奥様の療養にお使い頂いたこともありました。わたしが大学を卒業して父からこのホテルを継いだ時も、わたしがせがれに跡を譲った時もお越しになられました。奥様に結婚を申し込まれたのもこの部屋でした。その中から一粒の結晶を掬い上げるのは簡単なことではないでしょう。その試みは難関を極めたでしょうし、彼は前回同様に訪れた目的を話しませんでした。わたしが彼の晩年の多くのことについて正確に把握していることは決して多いとは言えません。これらは全てわたしの所感と推測に過ぎないのです」

 父がこの部屋で母にプロポーズしたことは初耳だった。そんな話はしたこともなかったし、もしも、する機会があったならば親子関係は随分と違う形になっていただろう。

 「彼は度々著書で死と生について触れることが多かった。それは彼自身、死という現象あるいは物に直面することが多かったからでしょう。大学時代も彼と旅行に行く途中でバスがダンプカーに吹き飛ばされたことがありました。彼は頭を強く打って、意識不明の重体のまま十二日もの間生死の境をさ迷いました。そしてきっかり十三日目の日付が変わった瞬間に意識を取り戻したのです。そのように、彼はその人生の至る場面で死線を踏み越えて来たのです。その度に彼は意識を失った先でわたしたちには到底思いもよらない体験をしてきたと仰っておりました。彼のインスピレーションはそこから汲み上げたものでした。その冷たくて得体の知れないものが彼を通して文字になっていたのです」

 「やけに詳しく語れるじゃないか。まるで、あなたもそれを見知っているような口振りだ」

 老人は少しだけ口をつぐんだ。「この歳まで生きると嫌でも見えるものがあるのです。それも、その一つですよ。あなたも見覚えがあるのでは?」

 これまで何度か意識を失った時に、不思議な体験をした。暗い海の中でぼくは身を任せていた。生暖かい人肌のような心地好さはぼくの身体の末端にまで、まるで舐めるような感触で絡み付いてきた。それは愛でているようにも感じられた。ぼくはその何者かを真に求めていた。こころでは激しくそう感じているのに、身体は水圧とは違うもので押し込められてうまく動かせなかった。その海には浮力も重力も息苦しさもなかったけれど、周囲からぼくに向けて放たれる圧力だけはきっちりと存在していた。部屋で見た幻影のように、そこでも言葉は力を失っていた。作家としてはよろしくはないのだろうけれど、そこには言葉がある世界よりも有意な法則が満ちていて、ぼくにはそれがとても安心出来るものに思えた。ぼくは突き詰めた意味合いで、その世界では傷付くことはないのだ。言葉がなければ、人が傷付くことは格段に減る。

 父がそういう体験──臨死体験から自分の奥深くに接続して、密接に無意識と同調した時の産物が作品に投影されていたというが、きっと父が汲み上げたものは言葉の力を強く肯定するようなものだったのだろう。妄信的に、狂ったような言葉への信仰は父が死ぬ寸前までひた隠してきた本性の一部で、ぼくに継がれたものの正体もそれに違いない。今になってこそ、ようやく、ぼくは父が今際の際に燃え上がらせた炎を理解することが出来た。直感に等しいものだけれど、この部屋にこびりつく痕跡と残り火がぼくにそっと答えを差し出してくれた。音叉のように、ぼくと同じ波形で父が重ねられるような感覚はあまり気持ちのいいものではなかった。

 真逆のものを宿しながら、たくさんの相違と断絶を孕みながらも、父とぼくはこの部屋で交差した。

 ゆっくりと、優しく目蓋を閉じると幾つかのことに答えが見えてくる。昔から感じていたベルトコンベヤーのような人生の流れの終着にぼくは今辿り着き、多くの交わりによって満たされた杯は砕かれ、嘗て力を持っていたものはそれらを簒奪されてしまった。何もかもが零という数値を記して、回帰した。現実の言葉を除いて。卑しく、砕かれた空想の言葉たちの血を啜って永らえているのだ。

 「明日の朝にはお発ちになられた方がいいでしょう。あなたはここにいるべきではない。その変化を乗り切るには、ここはよろしくない」

 「どうして?」

 「どうしてもです。取り返しのつかないことに、取り返しようが見えて来てしまう前にここを去った方がいい。ここにはそれらが見えてしまう要素が染み付いています。それらは一見すれば蜜のような輝きを放ってはいますが、非常に強い毒を秘めています。死に至ることはありませんが、眼を永久に狂わせます。道標を失ってしまう。今のあなたにとってはどんなものよりも恐ろしい毒になり得るでしょう。生憎、外は酷い天気で翌朝まで持ち直しそうにはないとのことです。今晩は注意深く眠りに落ちなさい。過去に深く足を踏み入れすぎることのないように」

 「それが自分のものであっても、ぼく自身に牙を剥くのか」

 「過去というものはこの瞬間を過ぎれば、それは既に誰のものでもないのです。過去は重みを宿してわたしたちへとのし掛かってきます。彼らはそれぞれが一つの独立した存在として我々に付随しているだけなのです。だから、時には宿主に牙を剥くこともあります。とりわけ、弱っている時に彼らは活発になるのです。ちょうど、今の坊っちゃんのように。彼らは懐かしい思い出を投射して、手招きしながら誘い込むのですよ」

 「何処へ」

 「暗い場所へと」

 

 自死を決断したのは帰り道の車内でのことだった。ハンドルを握りながら、ぼくは唐突に死ぬべきだと認識した。晴々とした空から乾いた光が眩しくぼくの視界を照らして、じりじりと眉間を熱していた。けれど、ぼくはその熱にやられてしまったからそういう考えに達したというわけではなくて、老人が言うところの視点とフィルターを変えて見た結果として、ぼくには自ら命を絶つ必要性があった。カプレーゼを作るためにオリーブオイルが必要であるように、些細で重大な普遍的なことだった。

 草津で過ごした夜、ぼくは夢を見た。とても不思議な夢だった。そして、それは老人の話していた過去が仕掛けた罠だった。

 ぼくは暗い場所で眼を覚ました。ニルヴァーナのPollyが()()()()した雑音と一緒に流れていて、頭の裏側を掻き毟るような、いやな感覚を起き掛けに無理矢理押し付けられた。光源もまともにないようなそこはわりに広く、前の会社の大きめの会議室ほどのがらんとした空気を閉じ込めたような湿っぽい場所で、起き上がろうとするとふらふらしてしまうし、足元はびっしりと剃刀と包帯が絨毯を織るように散乱していて、まるで病みを内装にしたコンセプトルームのようだった。何処を見ても音響機器はなくて、どうやってPollyが流されているのかは分からなかった。

 歯車が噛み合わないように言うことを聴いてくれない身体の上半分だけを何とか起こすと、部屋の端で誰かが手を振っていた。その後ろには簡素なドアがあった。よく見ると手を振っているのは一人だけではなくて、彼らはぼくの知る面々と同じ貌をしていた。その大半が死んでしまった者ばかりで、堀崎やぼくの担当編集も緩慢な動作で肘から先をかくかくと左右に揺らしていた。関節から上に向かって糸が付けられているような不自然さだった。

 ぼくは老人から聴いた話を思い出した。それらが話に上がった暗い場所からの誘いであると判別するには難いことではなかった。その過去が驚くほどに精彩さを欠いた、はりぼてよりも雑な造りをしていたからだ。堀崎がそんなことをするというのは少し想像がつかなかった。ぼくから湧いたものなら、ぼくの想像が及ばないことは存在し得ない。

 ぼくはそのはりぼてたちと距離を取って下手くそな人形劇を見ていた。確かにその動きには人を惑わす妖しさのようなものがあって、ぼんやりとしていたのならば誘蛾灯に吸い込まれるように足を動かしてしまっていただろう。けれど、誰かと夜を重ねるように強要する流れに比べてみると、そこに含まれるどうしようもない強引さと残忍さには大きすぎる開きがあった。そして、その流れは今や絶えて、ぼくのこころの深い場所で拍動と一緒に呼吸をしている。とても浅い息だ。

 互いに直視し合えば、その行為は来るところまで来るとどちらかが根負けして終わりを迎える。根負けしたのは人形たちの方だった。彼らは手を糸が切られたようにだらんと落として、首の部分が一斉に落ちた。首より上にはもやもやした霧のようなものが漂っていて眼がないはずなのにぼくは何者かに見られているような感覚を覚えていた。きっとその正体はぼくに寄生していた、忘却してしまった過去たちの群れなのだ。彼らはぼくを憐れむような視線を投げてきた。ぼくはそれがどうにも気に入らなかった。いつの間にか腕には包帯が巻き付いていて厄介だったが、床に落ちていた貝印の剃刀を握り締めてその首筋──もやもやと身体の接合面よりもやや上の辺りを便宜上そう言っているだけで、そこに動脈が通っているとは思えなかった──に薄くて短い刃を力を籠めて食い込ませて、思いきり引き下ろした。傷口から勢いよく吹き出した血は青白くて少しだけ甘かった。鉄の匂いはなくて、無臭に近いものだった。もやもやは傷口を掻き毟って、おかしな女の声をあげながら倒れて、動かなくなった。ぼくは残りのもやもやたちにも同じように剃刀で首筋を切っていった。中には本物の人間のように逃げる奴もいて、捕まえるのには多少苦労したけれど、ぼくは包帯で──不思議なほど頑丈だった──締め上げて動けなくしてからじっくりと首筋を裂いていった。

 そこはある意味ではフィクションの世界だった。そこで放出された暴力性は現実のぼくにはあまり関係のないもので、不意にこころの奥から漏れ出た泥が暴れただけのことだった。それらに封じられた怨恨は今のぼくが持ち合わせることのない、生命の熱さを帯びた生々しいものなのだ。随分昔に宿した不安や錯誤の結晶とも言える。ぼくはそう思い込みながら母の貌の形に変形するもやもやの皮を剥いでいった。そして、その形のいい唇も削ぎ落とした。その唇から流れ出た言葉にぼくへの何かを籠めたことなど一度もなかったのだ。そんな軽薄な唇なのだ。

 胤も胎も言葉も。ぼくには与えてはくれなかった。誰もぼくのこころを守ってくれる人はいなかった。ぼく自身でさえ。

 正直なところ。昔にぼくが父を殴った理由はあやふやなものをとりあえず纏めただけで、特に明確なことがあったわけでもない。薄々気が付いてはいたのだろうが、ぼくは間抜けの振りをしていたかったのだと思う。今ならば、この場所でならばはっきりと分かる。父も母もぼくを文字通り偶然の産物として、表面上の養育をしただけで愛を注いでたわけではない。母がぼくの欲していた言葉を墓場へと持っていってしまったのは故意だったのだ。そうやって、ぼくのこころは脅かされ続けていた。何の怨みがあったか、ぼくを両親は呪い続けた。そして、何らかの役目を期待して、それは恐らく果たされた。今や、ぼくは父の偉大という言葉が弱すぎるほどの名声と功績を打倒して、作家としてステージを一つ越えた場所に立った。父でさえなし得なかった前人未到を踏みつけて、友を殺し、女も殺し、彼の目指した究極型を体現しつつある。

 過去を映した人形たちを全て殺してしまえば、そこには静けさだけが残った。ぼくは血が流れる左の手首を抑えつけながら、死んでしまった母を見下ろした。綺麗な貌立ちには朱がよく映えた。横たえながらもぼくを見つめているけれど、口元だけはちょっとばかり造形が乱れてしまっていて見るには息を止める必要があった。

 あぁ、墓の下で眠っているはずの母さん。見ているでしょうか。ぼくは今あなたを殺してしまいました。けれど、それは仕方のないことでしょう。ぼくはあなたたちのことをすっかり理解してしまったのです。この歳になって、色々なものと人に助けられ、ようやく自分を知ることが出来ました。もう、満足したでしょう。充分に満たしているでしょう。ベルトコンベヤーももう続いてはいない。ここらで休みを入れても文句はないはずです。ぼくはきっと立派な作家になれたんだから。

 手首が冷えるように痛んで、痛みが増すごとに闇に部屋は覆われて、ぼくは眼を閉じる寸前に指を伝って滴るものが血ではなくて真っ黒い泥だったと気付いた。

 老人は帰り際ににこやかな笑みをくれた。憐れみだった。けれど、ぼくはなにも思うことはなかった。なにも感じることが出来なかった。

 

 帰宅して──そうは言っても実感はなかった。宿を変えたようなものだった──、ぼくが一番に考えたことは静かにすることだった。音も光も五感を揺さぶるものを可能な限り避けて、ぼくという海に没入しなければならなかった。生温い海にたゆたいながら死に方を探すためだった。

 思い付きはシンプルだけれど、工程というものは中々単純化されてくれない。ぼくにとって、こればかりはプログラムみたいにシステマティックな道程ではないのだ。別にこだわりがあるというわけではないのだけれど、ぼくが勝手に死んでもそれで放っておいてくれる人たちというのは世間の中では少数派に分類されるわけで。ぼくはその辺りの後始末まで考えなければならない。堀崎や彼女のように色々と荒らして──自殺するという時点で多大な迷惑をかけることに変わりはないのだけれど──さようならという風にもいかない。色々なことを整理整頓して、多くの手順を経てやっと死ぬことが出来る。自殺というのは役所の手続きと同じくらいにややこしく、面倒な作業なのだ。必要性を伴えば余計に面倒さも増してゆくところもそっくりだ。

 三日間、毛布を被って、ぼくは考え続けた。誰もぼくに触れることはなかったし、ぼくが誰かに触れることもなかった。ぼくの部屋で、深いところの海に浸ることは老人が言った変化を乗り切るために相応しいシチュエイションだったのかもしれない。四日目にぼくはパソコンの横に転がっていた林檎を一口かじってから遺書を書きはじめた。それは遺書というよりも短編小説のようなもので、遺作も兼ねていた。それはぼくの人生の振り返りでもあり、死にゆくぼくが見る(綴る)走馬灯だ。それを書き終える時にぼくは息を止める。

 筆は重かった。自分をばらばらに切除して、もう一度めちゃくちゃな傷口どうしを文字で紡ぎ合わせる作業は思うよりずっと堪える。自分の一番弱々しく触れただけで血が吹き出して止まらない箇所を錆び付いて腐りかけたナイフで切り分けなくてはならない。その痛みを感覚したくないからこころが指を鈍らせる。けれど、ぼくはナイフを思いきり突き立てた。自分の存在を断片から損ないつつも、踏み出さないことにはなにも産み落とされることはないのだから。

 そうして殺されていったぼくの残骸たちにはぼくの生を語るための証人になる役目が課される。それらは粒子として文字に付着してぼくの彩りを文章に写すのだ。薄汚い色でまっさらな紙を乱暴に塗るように。

 けれど、書くことに疲れてしまうことはなかった。筆の重さは変わらずとも、胸の中心がへんな痛み方をしても、身体と頭がパフォーマンスを落とすことは不思議なほどなかった。こころが絶え絶えに懇願している時に頭は淡々と今しがた書いた文章の()()を見つけるし、指は反射的に訂正するためにキーボードを這う。懸念事項だった学生時代、特に高校生の頃のこともあるがままのことを()()()()()()記した。引っ掛かりもつかえもなかった。

 三十年弱の生を纏めるのに要した時間の八日間が長いのか短いのかは分からないが、形は出来て、現在に至るまでの巡礼も終わりを迎えた。ぼくに残された仕事は物語を結ぶことだけで、ぼくはもう一度書きはじめた時と同じように林檎をかじってからモニターに向かいはじめた。しかし、どうも気持ちが悪かった。事ここに及んで、歯車が全て噛み合わなくなってしまったような違和があった。それは果肉が歯間に挟まるよりも億劫で、爪先が震えてしまうほどの冷たさを兼ね備えていた。

 要するに一文字も書けなくなってしまったのだ。ぼくの現在位置から先への橋である言葉がどうしても浮かばない。結末は決まっていて、もう目の前だというのに酷い話もあって、ぼくはどうしようもなくなってしまった。畳まれていた世界が突然開けて、荒れた原野に放り出されてしまったような気分で、ただ茫然と点滅するキャレットを見ることしか出来なかった。どうしたって、どうすることも出来なくなる状況は耳鳴りと比例するように強く掴んで来る。

 だから空調のごぉぉ、という音に何回か甲高い音が混ざっても、ぼくは気がつかなかった。それがインターホンを鳴らす音だということを理解するまでに短いとは言えない間隔があった。しかし、その連続する音がぼくの意識の明瞭さを引っ張りあげるための鐘の役割を果たしてくれた。

 チェーンをかけたままドアを開けると女が立っていた。グレーのチェスターコートを着ていて、ぼくを見ると頭を下げた。

 「どうしてここに?」とぼくは訊いた。

 「以前、堀崎さんとお会いした時に教えていただきました」

 あぁ、そう、とぼくは言って暫く考えようとした。けれど外気は薄着のぼくには堪えた。頭の中が浚われてゆくような乾いた風がぼくの肌を鋭く叩く。

 「とりあえず入りなよ。いつまでも寒い空気に当たっていたくはないから……」

 ぼくはチェーンを外して真耶を家に上げた。まるで現実感もなければ、草津のように幻覚を見せられているような、怪奇的とも言うべき空気が纏わりついていた。

 十年振りに見た真耶は変わっていなかったように思える。ぼくの内で非実在に成り果てた彼女とぼくの眼の前にいて、認識している彼女が同一の人物であるかどうかはぼくにもわからない。だが、彼女がここにいて、言葉を発して、ぼくと交差しているこの瞬間は間違いなく現実に起きていることで、正しいことだった。それらの差異が生じさせる混乱はぼくの現実を測る感覚を著しく阻害していた。

 振り返って見ると、真耶は笑んで首を小さく傾げる。ぼくはなんでもないよ、と言って殺風景なリビングに彼女を通した。

 「コーヒーは飲める?インスタントなんだけど」

 「はい。でも、お構い無く」

 真耶はベッド替わりのソファに座った。リビングと言っても仕事用のデスクとソファと本棚を置いただけで、部屋もそこだけしか使っていない。真耶は脱いだコートをソファに掛けて真っ白に塗られた窓の外を眺めていた。

 戸棚にあったコーヒーは以前、死んでしまった担当編集が買い置きしていたものだった。お湯を注ぐマグカップも彼女が買ってきたもので、片方は彼女がよく使っていた。思い返せば彼女はぼくの部屋に色んなものを置いていった。ベッド替わりのソファも古くなったものを替える時に彼女が選んだもので、お湯を沸かしたケトルもなんでもない日にいきなり買ってきたものだった。

 真耶にマグカップを渡すと礼を言ってから両手で包むように受け取った。息を数回吹いて、真耶は少しずつコーヒーを口にした。確かめるように。

 「どうしてここに?」

 ぼくはさっきと同じ言葉で質問した。けれど、その意味は違った。

 「会わなくてはいけなかったからです。()()()に会う必要があったんです」

 「きみがぼくに会わなければならない理由が?ぼくには心当たりはないな。ぼくはきみに会う理由はなかったから」

 「そうでしょうね。もう、たくさんのことが変わってしまいましたから」

 きみも。ぼくも。季節も。生命も。

 真耶はコートのポケットからパーラメントのボックスを出した。吸っても、と訊ねられる前に灰皿を差し出した。

 「まさか、きみが教師になるとは思わなかった。それもIS学園とは」

 「驚きましたか?」

 「まぁね。風の噂で聴いた時にはびっくりしたな。何時、そっちの道に進んだんだい?」

 「大学の時に適性検査があって、いい数値が出たんです。そこからは市ヶ谷と演習場と大学の三ヵ所だけで世界が出来ているような生活でした。その内に代表候補生なんて大仰なものに据えられて、今は教員として食い扶持を稼いでいます。形としては防衛省から出向しているんですけどね」

 「大変だった?」

 「訓練?」と真耶は訊いて、ぼくは頷いた。「えぇ、世間ではきらきらしたところだけ持て囃されてますけど、代表候補生の訓練なんて表に出せないですよ。出した瞬間には色んな方面から面倒事が飛んできますからね」

 真耶はタートルネックの裾を持ち上げて腹周りをぼくに見せた。血色のいい肌色と緩やかな括れに浮かぶ爛れたような傷痕はいやに目立った。

 「それは?」

 「アグレッサー部隊との演習で機体が大破して破片が突き刺さりました。でも、こんなことは日常茶飯事でした。座学もややこしい資格取得も、何ならびっくりするほど重い背嚢を背負わされて挙げ句山奥に放り込まれて目的地まで三日三晩行軍しろなんてこともありました」

 「よく途中で投げ出さなかったね」

 「厳しかったし、同期は何人も途中で脱落していきました。でも、わたしにはちょうどよかったんです。色んなことを忘れたかったし、自分のことを蔑ろにしたかった。そうすればどうにかなりそうな部分を正常に導けると思っていたんです。でも、過去からは逃れられなかったし、疵も痛みも欠落も後悔も残ったままでした。新しく生まれ変わることなんて出来なかった」

 「よく分かるよ」

 「わたしがそれに気が付いた時にはもう遅すぎた。だって、もうあなたとわたしはどうしようもなくなってしまったのですから。それに、前提としてわたしはあなたのことをなに一つ理解してはいなかった。分かったふりをして、罹患した病熱もきれいに見えて、わたしは、あなたを」真耶はつかえた言葉を引きずり出しながら「あなたを殺してしまった」

 ぼくは煙草の先を炙りながら真耶の貌を見た。

 「でも、なんとか生きている。きみがそこにいるように、ぼくだって()()()ここにちゃんといるはずだよ。ぼくは、あれは必要だった過程のようなものだって思うようにしている。色んな必要性や意図、偶然とか細工が絡み合ってあんな結果になった。そして多くの人や出来事に対してなくてはならなかったんだ。ねぇ、きみがぼくと疎遠になった一年間のことを教えてほしいんだ。折角だから、聴かせてくれないか?勿論、気が進まないのならいいんだけれど」

 部屋が揺れた。遠くから風の低い音が聴こえた。真耶は眼鏡を外して、眼を細めた。

 「名前は覚えてませんが、誰かと付き合いました。たぶん、自棄とあてつけとあなたに見て欲しかったんだと思います。あなたは手紙に見向きもしなかったし、声を掛けても無視されてばかりだったから。キスは……、たぶんしなかったと思います。手は何度も繋ぎました。けれど、なんだか人体模型とままごとをしているような気分でした。結局、その人とはあなたが卒業するのと同時に別れました。やけにこころも身体も寒々しく感じて、人肌程度で暖を取れるわけじゃないことぐらい分かっていました。そもそも、あなたを欠いてしまった日々はなにもかもが足りなくなってしまったんです。全てのことがその時には既に正しい形を成していなかった。歯車は噛み合わなくなって、ようやくわたしは、自分のしたこととあなたとの絶縁を理解しました。どうにかなるんじゃないか、という根拠もない希望は完全に消えてなくなりました」

 「きみは変わってないね。変わったようで、実はあまり変化はないみたいだ。疵に苛まれたまま生き続けているし、ぼくにおかしな幻想を抱き続けている」

 「変わってしまいましたよ。わたしも、もう子供じゃないです。処女でもない。だから、でしょうか。今ならば少しだけあなたの見ている世界を理解することが出来ます」

 真耶は灰皿にパーラメントを押し当てた。

 「訓練は過酷でした。わたしたち代表候補生は正代表の織斑千冬のスペアとして安くない額とたくさんの時間を掛けて、人間の限界を更新させられ続けました。死にかけることだってあった。実はわたしは志願生なんです。自分から死人が出る訓練に参加しました。死んでしまえたら、って思ってたんです。なにもかもが、何より自分を認めることが出来なくて、いなくなってしまったあなたの暖かみはわたしを絶えず死への道で苛む焔となって責めていました。それに殉じて消えてしまえたらどんなによかったか。

 ある日の訓練で、わたしは撃墜判定を受けました。スラスターに被弾して、不時着した所を止めを刺されました。模擬弾を使用していたとはいえ衝撃や痛みはフィードバックされる仕様になっていました。衝撃が大きいと息が何度も止まって、その度に意識も飛びました。すると、わたしは都度、あの日の病室に飛ばされました。あなたに押し倒されて剃刀で首元を撫で切られるんです。やめて、と言おうとするんですが、その時のあなたの貌を見ると言葉が音になることを拒むんです。わたしは何度も何度もあなたに殺されました。そうして、それがあなたの疵の一端であることを理解しました」

 「自殺願望とか希死念虜の類いなんてろくなものじゃないよ。甘い蜜のように見えるだけでヘドロ以下さ。結局は自分の浅ましさに殺されるんだ」

 ぼくがいい例だ。

 「代表候補生から外された理由はそれでしたよ。メンタリティの面に重大な欠陥あり、だそうです。前々から千冬さんに死に急ぐなとは言われていたんですけど、どうにもわたしは惹かれやすいようで、その後は後進の育成へと回されました。代表選抜訓練の同期はみんな、わたしがエリミネートされて安心していたらしいです。気味の悪いやつがいなくなって空気が綺麗になったっていう風に」

 ぼくは冷たくなったコーヒーを飲み干した。煙の後味とコーヒーが混ざって口の中は最悪だった。

 「あなたの本は全部読みました」

 「ありがとう。でも、恥ずかしいな。酷いだろう、ぼくの作品は。きみは確か父の作品が好きだったよね。ぼくはあの人をある意味では越えたとは思うけれど、実は作品の中身という点では越えられたとは思ってないんだ」

 「そんなことはないです。あなたの作品はとても素敵ですよ」

 「きみは昔もそうやってぼくにありもしない虚像を見ただろう」

 「でも、今度はちゃんと本物に触れました。少しずつ、十年をかけてあなたが書くものに触れて、読んで、感じて、わたしはあなたのことをようやく正しい形で見れるようになった」

 「きみにぼくの何が分かるっていうんだよ……?」

 真耶は黙っていた。

 「分からないものは本当に分からないんだよ。誰かに訊いて正しい答えが返ってくるばかりじゃない。ぼくだって、自分のことはさっぱり分からないよ。どうしてこんな風になっちゃったか教えて欲しいくらいだ」

 真耶は口を開かなかった。

 「何度も何度も張り裂けそうになって、自分が死んでしまうような痛みはぼくを新調し続けて、もう上手く色んなことを思い出すことも出来ないんだ。きみのことだって、さっきまで思い出せなかった。きみはそんなやつの本から何を感受したんだ。ぼくを理解したとでも?それは永遠に見つかることはないんだ。とうの昔に失われたんだ」

 「たぶん、そうなのでしょうね。あなたが心から欲しているものも、見たかったものもきっと永遠に、それこそ奇跡でも起きない限り手に入ることはないでしょう。わたしもそうです。でもね、違うんです。わたしが言ったのは、あなたの今にどう触れるか、ということです……」

 真耶はぼくの手に触れた。右手に彼女の掌が重なると、ほんのりと熱い血の温度が伝播した。女の手にしては、少しだけ弾力に欠けていたし、昔に見た時とはそこに蓄積されているものも大きく異なっていた。

 「ごめんなさい」

 ぼくは隣で膝を着く真耶の貌を見た。けれど、髪が隠した真耶の表情を伺い知ることは出来なかった。

 「好きでした」真耶は絞り出すように言った。でも、声色は極めて坦々たるものだった。

 「ぼくも好きだった。きみはあまりに眩しかった。ぼくときみとでは釣り合いは取れなかったよ」

 「あなたはいつもそうやって自分を卑下していたけれど、あなたほど魅力的な人は昔も今もいませんでした。わたしの居場所はあなたの隣だけだった。他の何処にいても、安らぎはなかった」

 「疵?」

 真耶は頷いた。

 居場所がないのはぼくも同じだった。今もそんなものはない。けれど、もし居場所と言ってもいい所があるとするならば。

 「ずっと、あなたを探していた。なにもかもが変わってしまっても、あの時のこころと痛みだけは変わらなかった。それがわたしの新しい疵で、残骸でした」

 「死ぬつもりなのか?」

 「いいえ。今のところは」

 「じゃあ、どうしてぼくに会いに来たんだ。ぼくに会う理由って何なんだ」

 「伝えるために。そして、繋ぎ合わせるために」

 指の間に真耶の指が滑り込んでくる。指の腹が掌に吸い付いて、ぼくと真耶の脈動はそこで一つになった。

 【あなたは生きなければならないの。例え、独りでも、闇の中で路が見えずとも。それがあなたをもう一度殺してしまう結果になったとしても。そうして、あなたはもう一度産まれ落ちるの】

 「それはとても難しいことだ」

 「でも、それが最善の道です」

 最善の道なんて何処にあるんだろう。ぼくは来た道を振り返っても何が最善で何が失敗だったかなんて判別が着かない。結局は緻密な細工を施された機構の中でじっと運ばれていただけなのだから。

 「あなたが生きることが出来る場所はもう広くはないのでしょう?こんなに冷たい手をした人ははじめてです。あなたはまた死んでしまう。十年前みたいに独りで死んで、生まれ変わって」

 「必要なことなんだ。避けられない」

 「そして、多くのことに於いてもあなたの死と再生は求められている。悲しいけれど」

 でも、と真耶は続けた。

 「わたしはあなたの死を、変化を必要とはしていません。あなたは変わる必要なんてないんです」

 それは現在のぼくはという人間の全てを否定するに等しい言葉だった。

 「わたしと生きてくれませんか?今ならばまだ大丈夫だから……」

 ぼくは真耶のその言葉を聴いた時、酷く冷静でいることが出来た。それは本当に、その瞬間だけ感覚を鈍らせていたヴェールがはだけて明瞭になった奇跡のようなものだった。だから、紡ぐべき言葉が消滅して現在地点を見失った数十分前と比べると雲泥の差があるほどに、安定した心持ちでぼくは自分を捕らえる複雑な今を紐解くことが可能だった。

 たくさんのことが十年の月日の中で移ろい、季節を経る毎に人間も欠けて補われる。真耶も例に漏れることはなく、十年前の出来事から大きく形を変えた。けれど、その変化は中途半端なもので、死人と生者が同居しているようなものなのだ。その跛行は至るところで姿をちらつかせる。

 端的に言えば、ぼくのせいだ。十年前にぼくと関わって負った疵が原因になっているのだ。それはフィルターと視点を変えれば怖いほどによく見える。

 「ねぇ、真耶。取り返しのつかないことは、もうどうしようもないんだ。きみが本当に求めているものはきっと手に入ることは出来ないんだ。ぼくもきみも()()生きているんだ」

 ぼくは数多くの自分に適合しない問題について、受け容れることが出来た。色んなことに納得することも出来た。言葉は紡げなくて当然だった。そこにぼくの血肉は宿っていなかったのだから。

 真耶はぼくの手を強く握り締めていた。力の限りに、ぼくの掌に爪を立てていた。ぼくの手からはほんのりと紅が零れていた。

 「今でも好きです……。あなたの隣にいたい……。もう一度先輩と……」

 「ありがとう。でも、ぼくたちはもうあの関係を構築することは出来ないんだ。ぼくは虚ろな生き方をし過ぎた。きみは随分と綺麗になった。けれども、やっぱりそこにぼくたちの気持ちとかは介在する余地はないんだと思う。ぼくらの最上のタイミングはもう二度と返ってくることはない。きみが求める(かたち)と今という時間は反発しあってしまうんだよ」

 そして、ぼくはもうきみの先輩ではない。けれど、ぼくはぼくでしかなくて、きみの知るきみが恋して、きみに淡く醜い恋慕を抱いた男であることには変わりはない。それはとてもややこしいことだが、本質としていちばん大事なことでもあった。

 【それは憎しみなの?それとも、あなたに染み着いた怨みなの?】

 「違うよ。そういうことじゃないんだ。どうしようもないことなんだ。()()()にも、ぼくにも、誰にも、手を加えることは出来ない」

 ぼくは諭すように言った。

 「終わってしまったから……。もう一度はないんですか……?」

 誰もが幸せになれるわけじゃない。産まれながらにして、その時点で幸せになれないことを定められたこどももいるのだろうし、ぼくはそちら側に近しい人間だったのだと思う。想像しうる限り最上の、身の丈に合った幸せというのは大体の場合高望みしすぎているのだけれど、中にはそれをそのままに手に入れられてしまう幸に恵まれた人間もいて、真耶はそういう類いの人間だった。だが、今は違う。ぼくたち幸せの容は別の有り様を提示している。それはもう、とうの昔に。けれどほんの一瞬、それが交錯して弾けた時があった。輝ける日々(世界)はその火花だった。

 真耶の言うもう一度、というものがあったとして、ぼくたちは上手くやっていけるのだろうか。何もかもががらんどうになって、素寒貧のぼくと疵だらけの真耶。たぶん、ピースはかっちりと填まるのだろう。でも、ぼくにはどうしてもその状態が上手く関係を構築しているようには思えなかった。幸せという点に拘りがあるわけでもなくて、その辺りを妥協したところでなにかがプラスになることもないのだ。

少しずつ、物事に、言葉に、血が巡り肉が編まれるのを感じた。

 ぼくは真耶が他の誰かに抱かれているところを想像してみた。ベッドの上で真耶は空虚な眼を開いたまま、天井を見続けている。それは死だ。それも一つの死なのだ。山田真耶にとっては、ぼくにとっての病室よりもあるいは。そして、彼女は一度ぼくの知らない場所と時間で死んだ。ぼくと同じように。

 でも、それはぼくが欲した死ではない。ぼくが欲しいものは、きっと途方もないほど大きなものを喪って、微々たるものを拾う末に灯火が消えてしまう。そういうものなのだ。その消えるまでの間隙がぼくの生で最も猛く焔が狂う時だ。

 世界はきっと広がり続けていた。折り畳まれて出来上がった窮屈で怖い領域を吹き飛ばして、何もかもが真新しい原野が遠い場所まで這い進んでいる。そこに海はないし、泥もない。けれど、恐怖というものは消えてくれることはない。そして、現状も大して変わりはしない。ぼくはぼくの位置を未だに見失っている。

 「そうだね。もう一度、はないよ」

そっと、静かに真耶は涙を頬に伝せた。冬の陽の光のようだった。

 それはぼく自身へと向けた言葉でもあった。

ぼくはゆっくり眼を閉じて、真耶の手を握りしめた。ぼくが非実在に追いやった、そこに確かにある温もりの変遷を五指でなぞった。

 「それでもきっと、この世界にいれば」

 「かもしれない。この世界には難しいことが溢れている。ぼくにも、きみにも分からない不思議なことがわんさかとある」

「なんだか夢みたいですね」

「夢も現実も大して変わりはないよ。どっちも息苦しいだけだ」

 死者たちが眼の裏で微笑んでいる。さようならの挨拶だ。ぼくは口の両端を少しだけ緩ませる。彼女も堀崎も手を振っている。夢と現実の境界があやふやになって、混ざり合う。そうやって今は無き海に還ってゆく。

 ぼくはもう戻れない。何処か分からない場所にすら引き返すことは出来ない。

 真耶の言う通り、この出来事はほんとうは全て夢なのかもしれない。ぼくは今、覚醒へと向かい浮上しているという可能性は大いにありえる。けれど、そんなことはどうでもいいし、夢でも構わなかった。真耶と言葉を交わし、真耶に触れて、多くの物事が大きく変わった。それらだけが正しさを持って、ぼくに新たな死を提示していた。既にぼくはそれに飲み込まれている。かつての大きな流れに代わる、ぼくの呼吸を締め付ける新たな真綿。

 「何が間違っていたんでしょうか……?」と真耶は小さく言った。「もしも、に意味がないとしても……。覚えのある間違いの他にも原因があったならば……」

 「何も間違っちゃいない。ぼくも、きみも。それが間違いない答えだよ。恐らくね」

 強く、力のままに痛みを刻み込んだ。お互いに離れないとでも言うように手を握り合った。

 言葉が交わされることはもうなかった。ぼくの意識はどんどん何処かへと離れてゆき、身体の制御を手放しつつあった。微睡みか、死か。どちらかは分からないけれど、これが一つの区切りや終わりであることは分かっていた。

 言葉は力を取り戻していた。そこに宿るものは以前に増してその理解の範疇外にある強大な圧を漲らせていた。ぼくは落ちていく意識の中、最期に口を開こうとした。沸き上がった、澄んだ言葉を真耶に伝えようとした。けれど、ぼくは喉を震わせることはなかった。ぼくがその言葉を口にすることは許されなかった。資格はなかったのだ。たとえ、それが口に伝えなくてはならない言葉だとしても、そこに義務が発生したとしてもだ。

 暗闇にはたくさんのものが混在していた。十年前の幸せ、ニルヴァーナの音楽、もしもの幸せ、悲しい気持ち、聴き逃した言葉。ぼくはその一つ一つに触れながら別れを告げていった。その間ずっと真耶の心音に耳を浸らせていた。その音色は遠すぎる大昔に知らない場所で聴いた音によく似ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、瞼が二三度引き合って弾かれ合った。ぼくは床暖房の切れたフローリングに寝転がっていた。頬も腹もひんやりとしていて、喉の奥には薄気味悪い気持ち悪さが絡み付いていた。

 壁に掛けてある時計は夜の一時過ぎを刻み終えて、新たな時間をまたせっせと運びはじめていた。暗い部屋に秒針の音は普段よりもよく響いた。これまでの生活でこんなに時計の作動している音に耳を傾けることはなかった。担当編集の彼女が買ってきた時計は明度の低い夜闇の中でもぼんやりと浮かび上がって、ぼくを見ていた。情けない体勢を笑っているようだった。

 部屋には勿論ぼくしかいなかった。記憶にある一人の部屋のまま静かな夜に冷やされていた。殺風景で息をする度に気道が冷たく張り付く。

 けれど、ソファの上には誰かがいた形跡があった。灰皿に落ちている煙草の灰と吸い殻はぼくだけのものじゃなかった。その灰をぼくは摘まんで、その残り香を感じた。その独特な薫りの中に確かにぼくの知る山田真耶がいた。それだけしかないけれど、夢ではなく、現実として真耶はここにいた。そして、ぼくは既に()()()()()()()()()()

 ぼくはスマートフォンを手に取って、マネジメントを任せている男に電話をかけた。遅い時間でも仕事に取り憑かれた彼ならばまだ起きているはずだ。ぼくは早急に彼に伝えなければならないことがあった。訴訟のことでもなく、これからのことでもなく、取材交渉してほしい案件があった。

 ぼくの中の何かが変わってしまった。それが何か知ることは出来ないけれど、それがとても大きなものであることだけは分かる。そして、とうとう未知なる世界に辿り着いてしまった。白痴のようにぼくはその中心で息をするために、使命を果たすために通話が接続されるのを呆けた面で待っている。

 書きかけの短編の末尾にはまだキャレットが点滅している。でも、その先を書く必要は今はないのだ。ぼくはそのプロジェクトを保存して、パソコンの電源を落とした。そして、そのままソファに腰を下ろして、煙草を銜えた。ぼくはまだ生きている。

 男はまだ出ない。もしかすると、珍しく寝てしまっているのかもしれない。それならそれでいい。日が昇ってからもう一度かけ直せばいい。でも、あの煩い秒針があと一周するまでは待とう。ぼくは煙を大きく吸い込んだ。

 吐き出した煙が目に染みた。強く目を閉じると涙が鼻筋を伝った。

 こころは凪いでいた。ゆっくりとぼくは唇を動かした。

 「父さん、母さん、ぼくはあなたたちを許します……」

 あなたたちがそうであったように。

 「それが愛なんでしょう」

 

 男が電話に出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





くぅ^~疲れたゾ^~。 これにて完結ゾ。


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