Lostorage restrained WIXOSS【完結】 (ジマリス)
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Lostorage restrained WIXOSS
序幕/正常と異端


「あ、あの、伊吹(いぶき)くん。次の授業ってどこでやるの?」

 

 四月になっても朝はまだ少し肌寒く、しかしそれを暖かくなってきたと感じる生徒もいるようだ。男子はブレザーを羽織ったり、あるいは脱いでシャツの袖をまくったり。女子はタイツを履いていたり、あるいは素足を晒していたり、各々過ごしやすい服装で登校していた。

 そんな通学路を気だるく歩いて二十分。ようやく教室につき、特に連絡事項もない朝のホームルームが終わった瞬間、前の席の女子にそう言われた。

 彼女の名前は穂村(ほむら)すず()

 数日前、僕のところのクラス、二年C組にやってきた転校生だ。

 小学校低学年のころにはこっちに住んでいたらしいが、父親の仕事の関係上で北海道へ引越し、そしてまた戻ってきたらしい。

 しかし、二年生といえどもすでにつるむグループは固定されており、穂村はいまいちその輪に入れていないようで、少し心配になったのだ。

 一日目から移動教室というどん底に落とされ、おろおろしていた彼女に声をかけ、連れて行った。それからは、席が前後ということもあり、ほんの少しだけ話すような仲になっている。

 

「ん、ああそうか、今日は一時間目から移動教室か」

 

 朝から眠気を誘ってくる社会は、隣のクラスと合同で授業を行う。それゆえに移動教室となるのだが、この学校、やたらと教室が多く、一年間ここで過ごしている僕でさえその全てを把握していない。

 この授業のやり方にも文句を言ってやりたい。二年次から文系と理系を選択させるくせに、クラスはその二つがごっちゃになっているのだ。おかげで移動教室が多く、このクラスで授業を受けるのは英語と国語くらいのものだった。

 

「渡り廊下の先の……」

 

 どう説明したものかと思案しながら行き方を言うと、穂村はとたんに不安そうな顔になる。

 まあ、一年生でも迷うようなところ、一人だと不安だよな。

 

「えーと、じゃあ一緒に行くか?」

「うんっ」

 

 別々に行く理由もない。どうせ僕だって行くんだ。

 机の中から教科書とノートを取り出して、僕たちは立ち上がった。

 

 

 浮き沈みというものを嫌って、それを避ける人生だった。特別多くもない友人たちと、公園なり家でゲームなりして遊ぶなんていう、特に語ることのない小学校生活を送り、中学校もその延長線上。気まぐれに軟式テニス部に入ったものの、ほとんど球拾いしかさせてもらえない一年生の間に退部。小学校からのと、中学で新しく出来た友達と適当に過ごして、適当に時間を潰していった。

 それが正しかったかと言われると首を傾げるが、しかし間違っていたと言われても否定するだろう。過去を振り返ってみても、友人と喋ったり、ゲームセンターへ行ったり、駄菓子屋でおやつ麺を食べていた時間が無駄だとは思わない。他愛のないことが何気に重要なのだと、そこらのアーティストだって言ってる。

 とにかく、人生に派手な出来事はいらないというのが僕の持論だ。人に話せるような大事件がなくとも、人生は十分に楽しめるようにできている。

 

「おーい、(はじめ)

 

 ああ、もう放課後になったのか。最近はなんだか何もなさすぎて、ぼうっとしてしまうことが多い。

 高校二年生になって、もう一か月ほどが過ぎようとしていた。

 まだ勉強はそれほど難しいものではなく、慌てて問題集を解くなんてことはせずに怠惰な毎日を過ごしていた。この後どこかへ遊びに行こうだとか、部活へ行く者が固まっていたりとかで教室がまだ賑わっている最中、僕を呼ぶ声が聞こえた。

 

「おーい、肇ってば」

 

 隣のクラスの友人だった。彼、相葉奏太(あいばそうた)は、僕の小学校からの腐れ縁だ。

 教室の扉のところから、手を振って存在をアピールする。僕は鞄を手に持って、彼の場所へと向かった。

 

「なにボーっとしてたんだよ。あ、また穂村のこと考えてたな?」

「違うよ」

 

 僕が隣に立つなり、そんなことを言ってくる。奏太はこうやって、僕をからかうのが好きなようだ。小さいころ、チョコアイスが溶けてしまったのが服についてしまい、一ヶ月ほど『茶色のよだれついてるぞ』と言われたのをまだ覚えているし、なんなら今でもごくたまに言ってくる。

 少し相談しただけで、こんなに言われるとは思っていなかった。

 その話題を避けるために、毎日言っている言葉を口に出す。

 

「今日はどっか行く?」

「それがな、これよこれこれ」

 

 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、じゃーん、と大げさにアクションしながら、スマートフォンの画面を見せてくる。

 

「ウィクロス?」

 

 WIXOSS(ウィクロス)というカードゲームのホームページだ。

 何年か前から流行しているもので、女子中高生の間でも人気が高いらしい。雑誌で見るようなモデルもやっているとか聞いたことがある。

 実際うちの高校でも、昼休みや放課後にウィクロスに興じている女子を見かけることは少なくない。最近では男子も人口も加速度的に多くなっているようだ。

 それを見て、僕は納得した。つまり、これをやりたいということだ。

 

「これで女子のハート鷲掴み!」

「そう上手くいくわけないじゃん……」

 

 奏太はいつもこうだ。彼女を作りたいといつもうるさく、行動力はあるものの、そのための皮算用が過ぎるのだ。そしていつも僕を巻き込むのもいつものこと。

 話すきっかけにはなるだろうが、果たして飽きっぽい彼が女の子を手に入れるまでこの娯楽にハマるとは到底思わない。しかしそこは行動力と皮算用の化身。やるといったらやるのがこの男なのだ。

 僕は仕方なく、カードショップに行く彼の後ろを追った。

 

 

 カードショップに対する僕の印象は、とにかくやたらと賑やかな男たちが、備え付けられたテーブルについてカードゲームをしているというものだった。

 これは五年ほど前、ウィクロスとは違うカードゲームをしていたころの僕の思い出による、偏見に近いものだと思い知らされた。

 とにかく女子が多い。店員と親しげに話すのも、テーブルに座っているのも、半分以上が女子だった。最新カードの販売日などが書いてあるカレンダーを見ると、どうやら女子限定の大会などもあるみたいだ。

 記憶と現実のギャップに多少驚きつつも、奏太が店員にウィクロスのことを訊くと、買えばすぐ遊べる構築済みデッキ、いわゆるスターターデッキと呼ばれるものを薦められた。

 確かに一から集めるぶんには、敷居も値段もそう高いものではなく、これからルールを知っていくにはこれがいいだろうと思い、ショーケースの中に鎮座しているデッキの入った箱を見る。

 店員から貰った簡易的なルールブックとデッキをしばらく眺めて悩む。ウィクロスには赤や白など、色で特徴がわかれているようで、その色ごとに異なる長所や短所を理解する必要があるようだ。

 考えてもわからないので、お試しのレンタルデッキなるものを借りて、何度か奏太とバトルしてみる。各色の動きがなんとなくわかったところで、初心者なら、と薦められるままに赤色デッキを買った奏太とは違って、僕は黒色を選んだ。多少なりともカードゲームの知識があるのだから、テクニカルなものでもいけるのではないかと考えての選択だ。

 

「これで女の子ゲッツできるのも時間の問題だな」

 

 そんな奏太の馬鹿な考えに肯定はせず、僕はデッキの入った袋を目の位置に掲げたあと、鞄に仕舞った。

 

「あー寒い」

 

 カードショップから出ると、外はもう暗くなっていた。少し寒さを感じる風が頬を撫でる。

 

「んで、進展はどうよ」

「進展?」

 

 奏太が鞄で僕を叩いた。

 

「いい加減、ちょっとは進展しろよな~。見ててもやもやする俺ら男子陣の気持ちにもなってくれよ」

「いやいやほんと、僕のことより自分の心配をしてください。それに、そういうのじゃないって何度言ったらわかるんだ」

 

 穂村すず子のことだ。

 授業のための教室移動などで、僕とはちょこちょこと話すようにはなったが、その程度じゃまだ距離を感じる。

 彼女のことをある程度知って、女友達にでも紹介しようとでも思い、まずは距離の詰め方についてを奏太に相談したのが間違いだった。

 なぜか、彼はこの話を恋愛のものと勘違いし、僕の本来の目的とはずれたアドバイスをしてくる。最近では、わかってるのにからかってる節もある。

 僕から恋愛の匂いがすると、奏太は自分のことのように必死になる。親友だから、というわけじゃない。

 奏太と別れを告げ、僕はさっさと帰路につく。

 そこから家まではたいした距離でもなく、徒歩で十五分ほど。下からマンションの五階の窓を見上げると、電気がついていた。もう誰かが帰ってきているのだろう。

 エレベーターで階を上がり、目的の扉を開ける。やはり鍵は掛かってなく、奥から「おかえり」という声が聞こえた。

 

「ただいま」

 

 靴を脱いですぐリビングへ向かう。キッチンでは母親が料理をしていた。

 

「おかえり。あと三十分くらいで出来るから」

「ん」

 

 返事もそこそこに、僕は自室へ向かった。鞄を学習机の上に置き、手早く着替えを済ませた。

 いつもなら特に何をするでもなく、晩御飯までごろごろと布団に転がるか、漫画を読むかしているけど、今日は違う。

 鞄の中から、購入したウィクロスデッキを取り出す。こういうのは、熱が覚めないうちに限るのだ。

 箱を開け、中からカードの束を取り出す。同梱されている小さなルールブックとカードを凝視しながら、細かくカードの持つ効果を確認する。

 

「えーと、アーツとルリグと……」

 

 違和感を覚えたのは、プレイヤーの分身ともいえる『ルリグカード』を手に取った瞬間だった。

 カードショップで、レンタルのデッキを使ったから、入っているカードの絵柄は大体覚えている。しかも、ルリグカードは必ず盤面に出すため、一番記憶に残っているカードだ。

 しかし描かれているイラストは、まったく見覚えのないカードだった。

 白い服に髪、肌も透き通るように綺麗で……

 

「っ!?」

 

 息を呑んだ。

 眠っているように閉じていた少女の目が開いたのだ。その目が、じっとこちらを見る。

 あまりの衝撃に絶句する。

 見る角度によって絵柄が変わるカードは他のゲームで見たことがある。しかし、このカードはまっすぐ見ても、まるで生きているかのように見える。

 何も反応できない僕よりも先に、彼女が口を開いた。

 

「私は『始まりのルリグ』」

「始まり……?」

 

 カードが喋ってることに驚いて、僕は彼女の言葉を繰り返すしかできなかった。 

 始まりのルリグとやらは目を見開いた。

 

「あなたの記憶を登録します」

 

 突然、視界が暗闇に覆われる。それと同時、何かが頭の中から抜け落ちていく感覚に襲われた。それが何か、具体的にはわからないけれど、手放してはいけない。それはわかっているのに、頭を抱えても変わらない。ひたすらに、大事なものが、そぎ落とされて……

 はっと目が覚める。先ほどとはうってかわって、白が視界に広がっていた。

 ここは白く長い廊下のようだ。しかし、奥も天井も見えないほど遠い。どこまでも続く床とそりたつ壁、いくつかある様々な大きさの窓にも景色は映らず、向こうはさらに白が続いているだけ。それらが僕に伝える冷たさが全てだった。

 いや、もう一つある。いる。倒れこんでいる僕の目の前に、先ほどの少女が立っていた。カードではなく、生身の姿で立つ彼女は、状況を飲み込めないままの僕にこう言った。

 

「私はルリグ。名前をつけて」

「なあ、僕は……」

「名前をつけて」

 

 要求してくるわりには、僕の話を聞いてくれない。

 諦めて従う。しかしいきなり言われても、この異常な状況のせいで頭が回らない。

 

「リィン」

 

 口から出るままに任せた。その瞬間、ルリグが光に包まれて姿を変える。

 代わりに現れたのは、すっとした黒のセミロングに、紫のメッシュ。艶やかな宝石に装飾された黒のドレスは、彼女の鋭い目つきと合わせて近寄りがたい雰囲気を作っていた。

 

「私はあなたの分身」

「分身……?」

 

 何もわからない僕を放って彼女が手をかざすと、彼女の後ろに五枚の金貨が浮かんだ。

 

「これはあなたの記憶。このコインには、あなたの記憶が詰まってる」

 

 言うや否や、彼女の前に四枚のカードが現れた。タロットカードのように縦に長いそれが彼女の前に浮いて並べられる。

 

「選んで」

 

 有無を言わさない言い方である。しかし、すっかり混乱した僕はよろよろと立ち上がりながらも、頭の整理をする。

 カードを買ったら、そのカードが動いて、喋って、そしてこの謎の空間に放り込まれた。だめだ。まったく分からない。脳が正常に働いていて、冷静に考えたとしても答えは出ないだろう。こんなことは、僕の経験や想像の範囲外のことだ。

 

「ちょっと待ってくれ。何が、どうなって……」

「選んで」

 

 説明を求めることすら、押しのけられた。

 何を聞いてもこれなのだろう。そう考えると、いくらか頭がスッキリした。答えが出ず、その答えも与えられないなら、考えるだけ無駄だ。ここは従うしかない。

 浮いているカードはどれも同じ柄で、差はない。ここでも考えるのは無駄とし、直感で右から二番目のカードを指差した。

 カードが裏返る。そこには『3』と書かれているだけだった。

 

「これで、あなたはセレクターバトルに参加することになった」

 

 彼女の背後にあるコインが黒くくすんでいき、ついに金のまま残ったのは三枚だけとなった。

 

 

 部屋だ。僕の部屋。

 先ほどのは……夢? いつの間にか寝てて、いつの間にか起きたのか。

 そう思ったけれど、手に取ったままのルリグカードを見て、びくり、と思わず背筋を伸ばす。

 そこに描かれている腰に手を当てた少女が、黒いセミロングを揺らした。()()()()

 一度目をそらしてから見ても同じ。それどころかため息をついて、やれやれと首を横に振ってもみせる。

 あの白い空間で出会い、僕が名前をつけた『リィン』がそこにいた。

 

「ッ!?」

 

 そのカードを机に放り投げ、遠ざかる。 

 

「あ、ちょっとなにするのよ」

 

 ごくりとつばを飲み込んで、ゆっくり近づく。

 リィンはやはり動いており、非難するように僕を指差す。

 

「あなたね、カードにしても女の子にしても、大事に扱わなきゃいけないのよ?」

 

 生きてきて十六年。カードに怒られるなんて、夢にも思わなかった。

 



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黎明/混迷と切欠

 

『これから九十日間、あなたは他のセレクターとバトルしなければならない。勝てば黒いコインは金に変わる。五枚全部が金になればこのバトルを抜けられる。五枚全部が黒くなれば、あなたは消える』

 

「記憶を失うか、失わせるかのバトル……か」

 

 翌日、僕は登校してさっさと屋上前の踊り場でへたりこんでいた。

 カードに話しかけてるのを見られたら、変な奴扱いされるのは目に見えている。

 昨日受けたセレクターバトルとやらの説明をもう一度聞いても、僕はいまいち咀嚼しきれなかった。

 与えられたコインを賭けての勝負。勝てば記憶を取り戻すことができ、負ければ失う。それに僕は選ばれたのだと言う。

 このバトルの行方は三通り。コインを全部失って記憶が全て消去される、コインを五枚集めて記憶を操作したうえで抜ける。

 あるいはタイムアップ。記憶が一部抜け落ちた状態で終わる。

 

「とは言ってもな……」

 

 失わせるのは罪悪感があるが、しかし自分から記憶を失うような真似もしたくない。

 

「与えられたコインは三枚。最短でも二勝が必要になるわね」

 

 頭を整理したいってのに、リィンは話しかけてくる。僕はまだカードが喋るということが信じられていないのに。

 

「適当に勝って、コイン集めて、さっさと抜けることにするよ。それができたらいいんだけど」

 

 記憶を失いたくないのは誰でも同じだろう。もしこの話が本当なら、他のセレクターとやらは必死になってくるに違いない。

 適当に、とは言ったが、それほど簡単ではないのは流石の僕だって分かってる。

 さて、どうするかなと思案していると、リィンが階段の下に目を向ける。 

 

「セレクターが来る」

 

 確かに足音が聞こえる。階段を上がってきたその音の主は、ゆっくりとその姿を現した。

 

「発見。あなたはセレクターですね」

「ということは、君も?」

 

 あまり手入れされていないようなぼさっとした長い髪が揺れる。その少女が長く余らせた制服の袖で掴んでいるのは、僕と同じ、黒色のルリグ。妖艶さとなんだか底の見えなさを感じるそのルリグは、顎に手をあてて僕を見つめる。

 動いてる。ということは……

 

「よ、よかった……」

「疑問。どうしたのですか?」

「いや、もしかしたら全部幻覚と幻聴の可能性をまだ捨てきってなかったからね。君が来てくれて助かったというか、ありがたいというか……」

「は、はあ……」

 

 僕は安堵した。カードに名前つけて、ずっと持ち歩いて、話しかけるなんて、なに言われても反論できなかったからね。

 

「さてと、御影(みかげ)はんな……さんだったかな」

「正解。私を知ってるんですね」

 

 彼女は驚きはせず、自慢げに胸をそらした。

 一年A組の御影はんな。ゲーム雑誌に攻略記事やレビューを書いていて、その中にはウィクロスも含まれる。『ゲームマスターはんな』といえば、ウィクロスをやっていなくても知られているほど有名だ。

 

「好都合。それなら話は早いですね。バトル、していただけますか」

「どうせ、嫌って言っても追いかけてくるんじゃないか?」

「明察。そのつもりです。せっかく見つけたセレクターを逃すわけにはいきません」

 

 自信ありげに胸をそらす御影さん。それもそのはず、彼女が書いている記事の中には、ウィクロス含め対戦型のゲームも多い。単純な実力だけでなく、駆け引きもお手のものだろう。

 

「そこまでして、取り戻したい記憶があるのか?」

「当然。あなたもそうでしょう? 記憶の残滓を見せられれば、それを求めてしまうのが人間というものです。特に、それが忘れてはいけないはずの記憶の場合は」

「僕は……」

 

 当然、と言われてもいまいちピンとこない。僕が見せられるその残滓とやらは、なんだか誰かとどこかで遊んでいるもので、いずれにせよこのまま歳を取れば風化していくと思われる程度でしかないのだ。

 忘れてはいけない記憶なんて、僕には何もない。

 

「ま、とにかくバトルは受けるよ」

 

 付き纏われるのも厄介だ。僕にはまだコインが三つ。一つ失ってもまだ余裕がある。セレクターバトルがどういうものか知っておくためにも、ここで戦っておくのは悪くない。

 御影さんもようやく安心した顔になる。

 

「じゃあ」

 

 すっとルリグカードを前に出す。

 だが、いざ勝負と意気込みをかけたとき、鐘の音がなって、その意気込みは霧消した。

 チャイムだ。あと五分でホームルームが始まる。

 緊張の糸が途切れたのは御影さんも同じようで、彼女はルリグカードをポケットに納めた。

 

「落胆。気が抜けましたね」

「ん、なんかバトルって感じじゃなくなった」

「提案。バトルは放課後ということでどうでしょうか」

 

 どうしてもバトルがしたいらしい。断る理由もなく、僕はそれを承諾した。

 

 

 今日は朝から余裕がなかったせいで、弁当を持ってくるのを忘れてしまった。

 そのことに気づいたのは昼休みになって、鞄を探ったときだった。

 仕方ない、と財布を持って、食堂へ向かう。利用したことは数えるくらいだ。なにせ当然昼は混む。あまりうるさいところで食事をするのは好きじゃないのだ。

 到着すると、やはり人が多かった。食券機の前は行列が出来ているし、席も空いていない。辟易して、適当に惣菜パンと飲み物を買って教室へ戻ろうとする。

 階段を上がっていると、穂村が前からやってきた。だけどその目は僕に気づいていない。ただ階段を降りているだけ。

 まあ、用もないのにわざわざ挨拶することもないかと思い、すれ違う。

 

「待って」

 

 胸ポケットから、リィンが言う。

 

「いますれ違った人、セレクターよ」

 

 どくん、と心臓が跳ねる。行きかう生徒たちの中、僕と同じように止まっているのは一人しかいない。

 

「穂村……っ」

「伊吹くん……?」

 

 これは何かの間違いだ。僕が呼んだから振り返っただけで、そこにはそれ以上の意味はないはず。

 そう信じたかった僕の思いは、しかし次の言葉で覆された。

 

「伊吹くんもセレクターなの?」

 

 その手には赤色のルリグカード。

 記憶を賭けるというセレクターバトル。よりによって、その過酷な戦場に、穂村すず子が巻き込まれていた。

 

 

 昼食を食べるのは、ほとんど食堂か教室かで、中庭にはそれほど人は来ない。パンフレットには、ここで仲睦まじく喋る男女が何人も写っていたが、まああれは撮影用だろう。

 周りに人がいないことを確認して、僕たちはベンチに座った。

 僕が食堂に向かっている間に、穂村は昼食を済ませたらしく、自販機で買ったミルクティーを飲みながら、事情を説明してくれた。

 友達作りのきっかけになるかと思ってデッキを買ったら、僕と同じくセレクターになってしまったらしいとのこと。

 

「まさか、穂村がセレクターだなんて」

「私もびっくり。リルが、近くにセレクターがいるって言ってたから、誰かなとは思ってたけど」

 

 そう言って見せてきたのは、赤のルリグ。鋭い目つきをしているが、敵意は感じられなかった。

 

「リルっていうのか、そのルリグ?」

「ええ、初めまして。伊吹肇よね?」

 

 そのルリグ、リルの通る声が耳に入ってくる。

 

「なんで僕のこと……ってそうか、セレクターの記憶を持ってるんだったっけ」

 

 これもリィンから教えてもらったことだ。ルリグはセレクターの分身。それはゲームの設定上の話だが、セレクターバトルにおいては実際にそうなのだ。

 

「これが僕のルリグ、リィンっていうんだ」

「よろしく」

 

 僕も自分のカードを見せた。リィンが彼女らに手を振る。

 

「私もセレクターがいることはわかってたんだけど、肇ったら、鞄に私を入れたままだから声届かなくて」

 

 そうか。ルリグは別のルリグを探知できるのか。席の前後である僕と穂村なら、近いどころの騒ぎじゃない。

 

「教室で君に話しかけるわけにも、バトルをするわけにもいかんだろう」

「踊り場でバトルはしようとしてたのにね」

「踊り場?」

 

 穂村とリルの両方が声を上げる。

 

「この学校にはもう一人セレクターがいて、挑まれたんだ」

「そうなの?」

「そのときは結局バトルできずに終わったんだけど、再戦の約束もしてしまった」

 

 指でカードを弄びながら、今朝あったことを説明する。

 そういえば、今日の放課後と言っておきながら場所の指定はしていなかった。彼女の教室か、いなければまた屋上前の踊り場に行けばいいだろう。

 そう思案しながら穂村を見ると、彼女は顔を伏せた。

 

「あの、私はバトルとかしないから……」

 

 バトルをしない。それはつまり、記憶が消えていくことを意味する。それをよしとしているのだろうか。

 リルは心配そうに穂村を見つめている。穂村の分身は、彼女を心配している。なら穂村はなにを心配しているのだろう。

 

「嫌がる奴に吹っかけないよ。僕だって、危険を冒す気はないし」

「ありがとう」

 

 ほっとして、彼女は笑顔になる。

 何に礼を言われたのかわからないけど、受け取っておくことにした。

 いろいろと吐き出せて少し元気になった穂村と、お互いに戦わないという協定を結んで別れを告げる。

 

「ははぁん」

 

 リィンがにやにやと笑ったのは、穂村が見えなくなって、僕がジュースを飲みながら惣菜パンの包装を外しているときだった。

 

「なんだよ」

「あなた、あの子のこと好きでしょ」

 

 唐突に変なことを言われて、飲んでいたジュースを気管に詰まらせる。何度もむせながら、僕は顔が熱くなるのを感じた。

 

「ふぅん、へぇ」

 

 やっと落ち着いて、何か反論してやろうと思ったが、むせている間に追撃してきた。

 

「目は泳いでるし、早口だし、何よりあんたの心臓の音鳴りまくりなんですけど」

「それは女の子に慣れてないだけだよ。生まれてこの方、浮いた話のない寂しい生活だったんだから」

 

 僕の人生は浮き沈みのないもの。それは恋愛に関しても同じで、いいなと思う相手はいたものの、告白したりされたりなんてのはなかった。

 僕の青春は、駄弁って遊ぶ。ただそれだけだ。

 

「ねえ、あの子のどこが気に入ったの?」

「僕の話聞いてた?」

「だって、御影はんなと話してたときは普通に喋ってたじゃない。女友達もいるんだし、ほんとは慣れてないってわけじゃないんでしょ」

 

 そうか、ルリグはセレクターの分身。記憶も持っているって言ってたな。

 ってことは話さなくてもよくないか、この話。男子に言うのにも少しはためらいがあるんだぞ。それに僕の記憶があるなら、その理由もわかってるはずだ。

 

「教えてくれないなら、今度あの子に会ったときに言っちゃうわよ? 伊吹肇は穂村すず子と喋るとき、心臓張り裂けそうなくらいドキドキしてるって」

「おまっ……エグいこと考えるよな、リィンは」

 

 ルリグの声は、ルリグとセレクターにしか聞こえない。つまりこの場合、ピンポイントで穂村に知られてしまうわけで……

 僕は諦めた。

 

「別に、ただ……一人が怖いだけだよ」

 

 濃く味付けがされているパンを頬張る。

 

「なんかさ、取り残されるのって怖いじゃん。周りには人がいっぱいいるのに、自分が世界に置き去りにされたような感じがして……僕だけじゃなくてさ、そういう人を見ると、想像して怖くなる。それだけの話」

 

 奏太にも話したことのない、僕の心の奥底。

 一人になることが怖い。一人でいる誰かが怖い。むりやり一人ではない世界に連れ込む。

 だから、傷つけないよう、傷つかないよう言葉を選んでいるのだ。緊張してしどろもどろになってしまうのは、それが原因だろう。

 これは恋とかそういうのじゃなく、同情だ。

 

 

 二年C組の担任はやたらと話す。うちのクラスのテスト平均点数は、他のクラスに比べて悪い。そのことで何か言われているのか、毎日のホームルームで勉強の大切さを説く。

 しかしそんな説得で動くようなら悪い点数は取らないし、高校生に当たり前のありがたみなどいまいち伝わらない。教師が熱弁するも、真面目に聞いている生徒は少なかった。

 僕もその一人で、終わったと気づいたのは、他生徒が帰りの用意をし始めたくらいだった。すでに、奏太には放課後は別件があると告げている。

 さて、御影さんを探しに行くかと教室を出た瞬間、声をかけられた。

 

「待望。伊吹さん、今朝ぶりですね」

 

 当の御影さんだった。

 

「逃げやしないのに、わざわざ待ってたのか」

「推測。場所の指定を忘れてたので、あなたが私を探すと思いまして。それならば私のほうから出向くのが早いかと」

 

 彼女のクラスはすぐにホームルームが終わるらしく、それを見越して張っていたそうだ。

 しかしこれで手間が省けた。あとはバトルする場所だけど……と悩んでいると、彼女はすでに当たりをつけていた。

 先導する彼女についていき、たどり着いたのは今朝会った踊り場。

 

「到着。一回のバトル程度なら、邪魔されることもないでしょう」

 

 屋上は閉鎖されている。昔は昼や放課後に駄弁る生徒でにぎわったらしいが、見る影もない。

 何もないのに、わざわざ一番上の階に来る人はいないだろう。

 

「二年C組伊吹肇。交友関係は男女問わず広く、特にD組の相葉奏太さんと仲がいいみたいですね」

 

 御影さんはくいっと眼鏡を上げながら、得意げに話す。

 

「今日でずいぶん調べ上げたみたいだね」

「無論。情報のアドバンテージは、勝利へと繋がりますから」

 

 それは頷くところだけど、交友関係の情報は必要だったのだろうか。おそらく、調べているうちに入ってきた副産物なのだろうけど。

 早速、僕たちはカードを目の前に掲げる。 

 

「オープン!」

 

 いつの間にか意識を失っていたのか、僕はまったく違う場所にいた。

 どんよりとした灰色の空間。上も下も右も左も、どこまで続いているのかわからないほど続いている。

 あたりには様々な大きさの四角い石が浮かんでおり、そのうちの一つに僕は立っていた。

 離れた向こう側には御影さんがいて、同じように佇んでいる。

 二人の上に浮かんでいるのはダーツの盤? いや、時計だ。巨大な針が、時刻のない黒い外周部を指している。

 正面を向くと、横に長いテーブルが設置されていた。中心には、人形のように小さなサイズだが、リィンが立っている。

 カードのイラストではなく、実際にいる彼女を見るのは初めてだ。

 時計の針がぎぎぎと音を立てて動き、鐘の音が鳴った。

 

「先攻よ、肇」

 

 リィンがこちらを向いて言う。バトル開始の合図だ。

 ある程度の急展開を予想していた僕は、異様な雰囲気に呑まれることなく、なんとか目の前のことに集中することができた。何にしろ、ここではバトルするだけだろう。

 

「エナを貯めて、リィンをグロウ。シグニを配置して、ターンエンド」

 

 初心者だけど、ルールはしっかり把握してる。僕は定石どおりにカードを動かした。

 御影さんの実力は、噂以上だった。話題作りのためにゲーム好きを称する有名人が多い中、少なくとも彼女は本物だ。カードに書かれている効果をいちいち確認する僕と違って、流れるような動きで場を埋める。 

 

「ナナシちゃん、攻撃」

 

 ナナシと呼ばれた彼女のルリグが、手のひらから黒い光線を放つ。リィンが腕でガードするが、ライフクロスが削られた。

 ターンが進むごとに、僕と御影さんの実力が明らかになってくる。手札やライフクロスも彼女のほうが多い。それほど差が開くゲームだと思っていなかったが考え違いだったようだ。

 とはいえ、この展開は予想外ではなかった。

 カードゲームは、知識以上に経験がものをいう。場の動き、自身や敵の動かし方、手を打つベストなタイミングは、その時々で全く違う。無数にある展開を読むことは不可能だ。

 一つずつ失敗と成功を繰り返し、頭と手に染み込ませていくしかない。

 

「リィン、グロウ。アーツ発動だ」

 

 腕を動かすと、濃緑の魔方陣が浮かび上がる。吹き出した炎がナナシを包み込むが、あっさりと払いのけられてしまう。

 僕はため息をついて、今のも避けられたことを悔しがる。

 

「ナナシちゃん」

 

 御影さんの命令に従って、リィンにトドメをさす。僕に残されたライフクロスはなくなり、最後の攻撃も許してしまう。

 結局、盛り上がりのない展開のまま、僕は負けた。

 手を開くと、五枚のコインが現れる。しかし、金のそれは二枚に減っていた。

 

「勝利。ありがとうございました」

 

 ぺこりと頭を下げる御影さん。

 勝者と敗者のやり取りとか、セレクター同士の話し合いとか、そういったものを覚悟していた僕は、あっさりと去っていく彼女を呆然と見送った。



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転換/消失と諦念

 

 あっさりと負けてしまい、僕のコインは残り二枚。これを失えば、僕の記憶は全て消え去る。そうは言われても、なんだか実感がわかない。

 バトルに巻き込まれてはいるが、記憶を失うということがどれだけのものか、遠くのことのように思えて、感じるべき恐怖も湧きあがるはずの焦燥もない。

 なにせ、何かを失っているはずの今でも、危険を冒してまで取り戻そうとは思わない。

 何故だろう。このまま、失ったほうがいいような、そんな感覚。

 

『だめよ、肇。あなたはあんなふうになっちゃ駄目』

 

 一瞬、ノイズ混じりの光景が頭に浮かんだ。

 小さい男の子が誰かを呼びながら手を伸ばす。その手は初老の女性によって弾かれた。

 男の子は泣いて、泣いて、ただ頷くことしかできなかった。

 そんな光景が少しずつ、少しずつ消えていく。

 僕が我に返ったときには、すでに御影さんの姿は見えなくなっていた。

 先ほどの映像を思い出そうとしても、もやがかかったように邪魔される。

 記憶だ。覚えていたはずの記憶が消えた。『始まりのルリグ』に、記憶をコインに変えられたときのような、頭から何かが抜け落ちる感覚。

 けどやはり、焦燥感は沸き上がってこなかった。

 恐れていたような消失感もなく、不思議と軽い足取りで家へと戻ってきた僕は、キッチンにつくなり、ぐるぐるとお玉で鍋をかき混ぜる後姿に声をかけた。

 

「晩御飯なに?」

「豆腐の味噌汁と焼魚。手空いてるならサラダ作ってくれない?」

「ほいよ」

 

 急いで服を着替え、戻ってくる。

 冷蔵庫の野菜室にあるのは、きゅうりとトマトとレタス。手を洗ってから、それらも洗って包丁で切っていく。

 

「何かあった?」

「ん?」

 

 母はにっこりと笑って、僕の顔を指差す。

 

「変な顔してるから」

「いつものことだよ」

「ほら、いつもは眉間に皺よせてるのに、今日はなんだかすっきりしたみたいな顔」

「いいことじゃん。それを変な顔って、実の息子に言いますかね」

「いつもと違うってこと」

 

 なにそれと言いつつも、僕はいい気分になった。母さんの嬉しそうな顔はなんだか久しぶりに見た気がする。

 僕の顔が晴れやかなのがそんなに嬉しいのか、料理が終わって食べている間も、母さんはにこにこしている。

 調子が狂いつつも悪くない気分の僕は、自室に戻っても、バトルに負けたことをまったく気にしていなかった。

 

「二枚……か」

 

 ベッドに横たわり、リィンのカードを掲げて呟く。

 

「誰かに負ければ、そのぶん誰かは助かるんだよな」

「変なこと考えてない?」

 

 御影さんとのバトルを終えてから、ようやく口を開いてくれた。反応がなかったから、僕の弱さに落胆したか、失望したかと思っていた。

 彼女曰く、そうでなくて、バトルすると異常に消耗するらしい。放課後から夕食までずっと寝ていたそうだ。外で話しかけるわけにもいかず、帰ってきてからも鞄に入れたままだったから気づかなかった。

 

「母さんも言ってただろ? 記憶を失っていってる僕が、すっきりしてるって。このままのほうが、僕にとってはいいのかも」

「……」

 

 これは奪い合いのゲームだ。コインを取られれば絶望への一歩だが、逆に勝てば希望への一歩なのだ。

 けど絶望がない僕にとってマイナスはない。勝ったところでプラスにはならないだろう。

 しかし、僕のことを知っているはずのリィンは納得せずに、眉間に皺を寄せる。

 

「コインを二枚のままにして、九十日間を終えればそれで丸く収まるんじゃないかな。五分の三失っても、生活に支障はきたしてないし」

 

 そう、記憶が一部なくなってるとはいっても、成績が落ちたり、今までできていたことが出来なくなったりとかはない。

 例えば計算のやり方だったり、必死に覚えた年号だったり。そういった『知識』はまったく失われていない。

 知識と記憶の定義や境目については曖昧だけど、このままリィンの言うとおり『記憶を全て失った』としても、僕の場合は問題はないような気がする。

 それを話してもまだ、リィンは表情を変えなかった。つまり、怒りと悲しみと憎しみの混じった顔だ。

 

「そのほうがいいのかもね」

 

 不服な顔のまま、リィンは呟いた。

 

 

 次の日の僕は、いつもより身体が軽かった。

 記憶を失うのは確かに怖くないわけではない。しかしどうしても取り戻して保持するべきではない。勝ちと負けは僕にとってさほど重要ではなくなった。

 むしろ母さんを安心させられるなら、負けるほうがメリットがある。もっと言えば、バトルする必要もなくなったのだ。勝とうが負けようが関係なく九十日間を適当に過ごし、その後は残った記憶だけで人生を謳歌する。

 セレクターバトルによる不安要素が取り除かれ、悪くない気分のまま登校していると、ぽんぽんと肩を叩かれた。

 

「伊吹くん、おはよう」

 

 僕の前の人、穂村だった。

 並んで挨拶をしてくる彼女の笑顔を見ると、こちらも元気になってくる。

 

「おぉ、おはよう、穂村。リルもおはよう」

「え、ええ、おはよう」

 

 まさかルリグに挨拶するとは思わなかったのだろう、穂村の胸ポケットから覗くリルは困惑した表情を見せながらも返してきた。

 

「私もいるよ」

 

 不機嫌な声色で言ったのはリィンだ。仲間はずれにされたのが気に食わなかったらしい。

 胸ポケットからちらりとだけ見せて、挨拶を済まさせるとすぐに鞄に仕舞った。なにやら非難するような叫びを上げているが、聞こえない聞こえない。

 

「眠たそうだね」

「朝弱いんだよ、僕は」

 

 小さくあくびをして、目を揉む。昨日はぐっすりと寝られたはずだが、それはそれ、やはり朝になると何時間でも寝ていたくなる。

 特に今は寝ているのにちょうどいい気温だ。この後に控えている授業だって、起きていられる自信はない。

 

「……あのね……」

「へーい、肇ー!」

 

 どすん、と背中に衝撃が走った。おはよう代わりに、同じクラスの男子が僕の背中を押したのだ。

 幸いこけることなく体勢を戻した僕は、お返しにチョップを繰り出した。

 

「伊吹くんおっはー」

「おはよー」

 

 それほど力を入れてなかったのに、やたらと痛いふりをする男子。

 その後ろからは、同じクラスの男女が四人ほど寄ってくる。男どもは僕に、女たちは穂村にそれぞれ肩を回した。

 

「んん? 仲良く一緒に登校しちゃってさぁ」

「朝から見せつけてくれちゃって」

「穂村さん、伊吹くんのどこが気に入ったの? あ、伊吹くんのほうから話しかけたんだっけ?」

「そっかー、伊吹のほうから惚れたのかー」

 

 ねっとりとした波状攻撃に、穂村はおろおろと助けを求めるように僕を見た。

 

「え、えーと……」

「こいつらの話にまともに返す必要ないよ、穂村」

 

 肩に乗った手を払いのけ、しっしと手を振る。

 

「ひどーい。お熱い二人の馴れ初めを聞きたいだけなのにー」

「僕たちはそんなんじゃないよ」

「そんなんってどんなのかなぁ?」

「怪しいなぁ」

 

 五人の矛先が、一気に僕へ向かってきた。ばんばんと肩や背中を叩いたり、頬をつついてくる。

 

「ええい、絡み方だけは一級品だな!」

「あっははー、怒った怒った!」

「穂村さーん、また休み時間に詳しく聞かせてねー」

 

 笑いながら手を振って去っていく五人を、ため息をつきながら見送る。

 悪い奴らではないんだが、すぐ色恋沙汰に持っていきたがるのは、高校生の性だろうか。

 

「まったく……ごめんな、穂村」

「ううん。伊吹くんって、友達多いんだね」

 

 突然現れた嵐を受けた穂村は、きょとんとした顔のまま言った。

 

「奏太がいろんな奴を誘っていろんな遊びしてるうちに、僕のほうにもいろんなのが寄ってくるようになったんだ」

 

 サッカー、草野球、カラオケ、ゲームセンター、ボウリング、ボードゲーム……インドア、アウトドア構わず、赴くままに遊んだ結果だ。

 隣のクラスも、その隣のクラスにも知り合いがいる。

 

「高校生になってからの友達も多いけど、奏太……隣のクラスの相葉奏太は小学校のときからずっと一緒なんだ。親友だよ」

「親友……」

 

 穂村はぼそりと呟いた。

 

「私もね、親友がいるの」

 

 遠い目をする穂村は、嬉しそうに昔を語った。

 

「ちーちゃん、森川千夏(もりかわちなつ)って言うんだけど、小さいころこの街にいたときにいつも一緒だったんだ」

 

 小さいころ。そういえば、転校してきたときの自己紹介で、小学生の低学年までここらへんにいたと言っていた。

 親友同士が離れ離れになる。幼心に、いや幼いからこそ寂しい別れだったのだろう。

 

「ほら、これ友達の証」

 

 穂村は鞄につけられた可愛くデフォルメされた顔だけの小さな人形を指差した。

 にっこり笑顔のそれをまじまじと見ると、一つ気が付いたことがあった。

 

「これって……」

「うん、リルだよ」

 

 ヒントは髪が赤いだけだったが、予想通りの答えだった。

 

「ちーちゃんも似たのを持ってて、そっちはメルっていうんだけど」

 

 ストラップをちょんとつつく穂村。懐かしむようなその優しい目から、彼女の輝いていた過去が透けて見えるようだった。

 

「その森川って子、今もこの街に?」

「わかんない。会おうとしたけど、前に住んでたところから引っ越したみたいで、いなかったの」

 

 ぎゅっと胸の前で手を握る。しまった、この話題を続けるのはまずかったか。

 

「送りあってた手紙もね、いつからか送られなくなったし、届かないようになってた」

 

 手と声が震えている。

 大切な人がいなくなってしまう。それは、まるで身体の一部がなくなってしまったみたいに、多大な喪失感を与えてくる。

 穂村の場合は、目の前でいなくなったわけではなく、何かを言われたわけでもないのに消えられてしまった。

 誰かに聞いて欲しかったことなのか。

 積もった感情の澱を吐き出してしまって、少しでも楽になれるなら、僕はいくらでも聞き手に徹する。

 

「ちーちゃん、私のこと忘れちゃったのかな」

「人との繋がりってのはわりと強くてな。そうそう忘れたりしないさ。そいつ、きっと穂村のこと覚えてるよ。忙しくなって送れないとかそんなんさ」

 

 そんなこと思ってもないくせに、よくもすらすらと言えたものだ。僕の心がちょっとだけざわつく。

 僕が彼女と同じ境遇になったなら、嫌われたか飽きられたかと思って、かつての親友を探すことなんてしないだろう。

 信じる。その強さを持てない僕自身が嫌になる。

 

「ありがとう」

 

 僕が言えたことじゃない言葉に救われたようで、穂村は笑った。

 その笑顔を眩しく感じて、思わず目をそらす。

 昨日までは肌寒かったのに、今日はなんだか暖かかった。

 

 

 放課後になっても奏太がこちらに来ないということは、あちらのほうが長引いているか、もしくはクラスメイトに捕まったか。

 たまにはこちらから迎えに行こうかと廊下に出た瞬間、見知った顔が目の前にいた。 

 

「うおっ」

 

 思わず後ずさる。御影はんなだ。

 

「なんだ。まだ何か用があるのか」

「否定。あなたではなく、穂村すず子さんを待っています」

「穂村?」

 

 ちらりと教室の中を見る。穂村はちょいちょい女子に絡まれているが、やんわりと避けている。ウィクロスに誘われているようだ。

 セレクターでなければ、コインの奪い合いは起きない。それでもバトルをすることに対して恐怖心があるのだろう。

 しかし、なぜ御影さんは穂村のことも知ってるんだろう。

 

「回避。今日バトルを申し込みましたが、かわされてしまいました」

 

 思ってることを見透かされたように、御影さんが言う。

 昨日の今日で穂村のこともセレクターだとわかったのは偶然だそうだ。穂村がルリグに話しかけているところを、御影さんが見つけたらしい。 

 

「避けられてもバトルしたいってのか」

「私には、取り返したい記憶がありますから」

「ふぅん、ま、頑張ってくれ」

 

 他人事のように言ってのける。

 実際他人事だ。記憶を取り返したいなんて気持ち、僕にはわからない。

 記憶は消されるといっても、消滅するわけではなくて、バラバラにされるという意味らしい。昨日から今まで何度かフラッシュバックを起こした。

 泣いている男の子と、諭す女性。あれはかつての僕と母さんだろう。あれだけ僕が泣いていた理由は気になるが、わざわざ苦い記憶を掘り起こすこともない。

 それが消えたことで僕がいい顔になるなら、母さんが元気になるならむしろ万々歳だ。

 

「おっ、肇」

 

 奏太だ。男女数人を引き連れてやってきた。

 ウィクロスは好評のようで、始めたことを言いふらしたら快くバトルに誘われたらしい。

 御影さんに別れを告げると、彼女は袖を振ってもとの体勢に戻った。穂村が出てくるまで待つつもりらしい。

 呼んでもよかったけど、バトルの準備ができていない穂村を戦いの渦中に放り込むのもいささか気が引ける。

 顔見知りから初見の生徒まで、バラエティ豊かな雰囲気の一行に連れられて、僕もカードショップへ向かった。

 

 

 僕たちが初めてデッキを買ったそこは相変わらず繁盛していて、他の学校の制服を纏った男女が仲睦まじくバトルに興じていた。

 テーブルが埋まっていたので、適当に混ぜてもらうことにした。一つのバトルが終われば、別の人とバトルを繰り返す。

 繁盛結構。対戦相手には困らない。カードゲームにおいて必要なのは知識と経験。バトルという経験を通して、実際にカードを使い使われ、文章だけじゃ伝わりづらい強さを実感して、初めて知識となるのだ。

 ある程度戦略も整えられてきた僕も、勝率は悪くなくなってきた。といっても、ここぞというときに攻めの手が詰まることがある。ほとんどスターターデッキそのままじゃ、無理もない。

 

「あー、またやられた」

 

 奏太が机に突っ伏す。

 赤色のデッキは攻撃的なぶん、考えなしにスペルやアーツを発動すればエナの消費も多い。シンプルゆえに奥深いデッキなのだ。

 どんなことでもそうだ。単純なほど入り組んでて、複雑なほどいったん理解すれば扱うのは容易い。

 

「ちょっといいかしら」

 

 他校の生徒とバトルに勝ったあと、一人の少女に話しかけられた。

 

「あなた、セレクターよね」

 

 こっそりと耳打ちでそう言われる。

 ばっと振り返ってまじまじと見ると、彼女も高校生だった。しかし纏う雰囲気はただものじゃない。バトルしていたときの御影さんに感じたような、堂々とした佇まい。

 彼女の言葉と気配で、質問せずともセレクターだとわかる。

 僕が頷くと、彼女は早速カードを取り出した。

 

「早速、私としない?」

 

 盛り上がっている周りは、僕が抜けたところで気づかない。

 誰かに告げるでもなく、彼女に頷いた。

 連れられるままに着いたのは、カードショップと隣のビルの間。陽は差さず、道行く人からは見えづらい。見えたとしても、何か話してるくらいにしか思われないだろう。

 バトルをしている間、周りにどう見られているかはわからないが、ここなら咎められることはない。

 

「伊吹肇だ」

水嶋清衣(みずしまきよい)よ」

 

 名乗っておきながら、返されたことに驚いた。

 御影のように、バトルをしてしまえばそれで終わりなのだから関係なしとばかりに仕掛けてくると思った。

 紺色の制服だけには見覚えがあった。うちの学校からそう遠くない高校だ。前にカードを買いに来たときも、同じのを見た。

 整った顔をしていつつも地味な印象があるのは、きっちりと制服を着ているからだろう。色気を振りまく気のないスカート丈は、昨今の女子高生にしては珍しいと思う。

 真面目というよりも、そんなことに興味はないといったストイックさが垣間見える。

 

「あのカードショップには偶然来た? それとも常連なのかな。あるいはセレクターが集まるとか」

「始めましょう」

 

 無駄話が嫌いか、それとも記憶を取り戻したいのか、水嶋さんは僕を急かしてきた。

 ポケットからすっとカードを取り出す。それを受けて、僕もリィンのカードを胸ポケットから抜き出した。

 

「オープン」

 

 わずかに聞こえていた風の音や道行く人の足音が、一瞬にして消え去る。

 またしても灰色の空間だ。湿度や温度が感じられない、空虚な世界。二度目にしても、慣れることはなかった。

 顔をしかめる僕とは違って、対面の水嶋さんは動じることなくまっすぐこちらを見る。

 そのルリグは、水嶋さんとは違って爛漫な雰囲気を感じた。薄い青色の髪と衣装が華やか。右側に束ねたサイドテールを揺らして、にこりと笑う姿は少し幼く見える。いや、水嶋さんの廃れた態度が大人に見えるだけか。

 何故、と思う。何故こうも、ルリグはセレクターとは全く違う印象を与えてくるのか。

 分身だというなら、そっくりなほうが自然だろう。あるいは、ルリグとはセレクターの憧れや二面性が表面化したものなのだろうか。

 あるいは……

 穂村のルリグ、リルを思い出した。芯の強い目、凛とした雰囲気。それは穂村から聞いた、森川千夏という少女の印象と被った。

 ルリグとは、記憶にある誰か、もしくは何かを(かたど)ったものであることもあるのだろう。

 

「肇……肇!」

 

 必死に呼ぶリィンの声で、僕は思考の渦から抜けた。

 

「どうした?」

「どうした、じゃないわ。あなたのターンよ」

 

 いつの間にか、宙に浮かぶ時計の針は黒を指している。

 相手のターンだからといって、自分ができないことはないわけではない。防御のためにも、相手の一挙手一投足は見逃さずにおくのが鉄則だ。

 幸いなのは、先攻が水嶋さんだったことだ。一ターン目は大した展開もできず、先攻は攻撃ができない。その証拠に、彼女の場にはグロウしたルリグと一体のシグニのみ。

 僕は浅く息を吐いて、バトルに集中する。

 青色デッキの特徴は手札の操作。相手の手札を捨てさせ、自分の手札を潤す。なら、温存は避ける。捨て場(トラッシュ)を利用する黒色デッキなら、相性はそう悪くないはず。

 そんな考えが甘いと知らされたのは、三回目の彼女のターンが回ってきた時だ。

 

「『ピーピング・アナライズ』」

 

 水嶋さんがアーツを発動する。僕の手札から、レベル3のシグニがすべてトラッシュに送られた。

 次のターンに僕が出すためのカードがなくなってしまった。

 ため息をつきながらも、焦りはなかった。

 僕が負ければ、誰かが助かる。僕は大したことのない記憶を捨てて、彼女は手放したくないものを手にする。

 次の水嶋さんのターン、どこからともなく一枚のカードが現れる。真ん中にコインが描かれたものだ。

 そういえば、と僕は思った。彼女の後ろには、それと同じものが四枚浮かんでいた。そのうち、コイン部分が描かれているのは一枚、穴が空いたように黒いのは三枚。水嶋さんが手にしているのと合わせて合計五枚。

 コインは実際いま持っているものと同じだ。そしてそのコインは、ルリグの能力を発揮するためのコストになる。

 

「コインベット」

「『ピーピング』」

 

 彼女のルリグ、ピルルクの目が光る。同時、僕の手札からレベル4のシグニが捨てられた。

 先に述べたように、青色デッキの戦術は手札で勝つこと。自分の手札を潤し、相手の手札を捨て去る。反撃しようとしても、打つ手すら奪い去られるのだ。

 コイン技までピーピングとは、なかなかにいやらしい。

 

「記憶消去の願望。生の理由への執着。死場所の渇望」

「は?」

 

 突然、ピルルクが変なことを言い出した。

 

「あなた、過去を消したいのね」

 

 同じく、水嶋さんも口を開く。

 

「今の存在ごと、自分を消して作り変えたい。けど同時に、今のまま生きたいという矛盾した願い」

 

 ぞくり、と悪寒が走った。

 今のコイン技、手札を捨てさせるだけじゃなくて、心を読む能力まであるのか。

 誰にも言ったことのない、ずっと隠してきたことを言い当てられて、鼓動が早まる。

 まだ残っている記憶が、がんがんと頭を叩いてくる。彼女の言ったとおりの矛盾が、頭と心をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。

 吐き気がこみあげてきて、テーブルに手をつく。喉を抑えて、息と思考を遮断する。

 バトルしてる場合じゃない。クソみたいなことを言われて、思い出させられて、考えるのも嫌だ。

 

「シグニを全てリムーブ……」

 

 攻撃と壁の両役であるシグニを取り除く。これで、僕の場はがら空きとなった。

 

「肇……っ」

 

 リィンが僕を睨みつける。

 所詮は決着のついた戦いだ。どうみても僕の打つ手はない。水嶋さんのアーツとコイン技はかっちりとはまった。

 水嶋さんは、落胆ではなく失望でもなく、ただ僕が諦めたという現実を受け止めただけの、なんでもない顔をした。

 

「……アタック」

 

 

 

 バトルが始まる前より、空は少し暗くなっていた。

 ビルが作る影は水嶋さんの表情を隠し、ますます彼女のミステリアスさに拍車をかける。

 わかるのは、彼女が勝利に喜んではいないということだけだ。

 

「わざと負けたわね」

「どうせ僕の負けは見えてたし、僕が勝とうが負けようが辿りつくところは同じさ」

 

 水嶋さんは一歩僕に近づく。

 

「同じではないわ。負ければ、あなたが失うのは記憶だけじゃない」

 

 唐突な話に、僕は困惑した。

 観察しても一介の高校生に過ぎない僕には、彼女が嘘をついているかどうかなんてわからない。

 まして、彼女は人形のように表情を動かさないのだ。

 

「失うのはあなたそのもの。人格がルリグに乗っ取られてしまう」

「人格が……?」

「あなたは消えて、その先を生きるのはあなたの姿をしたルリグ」

 

 水嶋さんはまっすぐ僕を見る。その目には、真実か嘘かはともかく、説得力はあった。

 

「乗っ取られる……本当なのか、リィン」

 

 僕の分身で、相棒であるはずのルリグは、しかし答えなかった。いや、その沈黙が答えだ。

 真実を突きつけられ、思いっきりため息をつく。

 僕の過去である記憶が消え、僕の現在を作ってる人格が消えたら……それは僕といえるのだろうか。

 たぶん、友人たちは疑問を持ちつつも今と同じように接してくるだろう。それが、『本当の伊吹肇ではない』と知らずに。

 僕を形作るものが消え、この世には『伊吹肇』は存在しても『僕』はいなくなることになる。

 違う。僕は死にたかったわけじゃない。無になるんじゃなくて、ゼロにしてやり直したかっただけだ。

 

「消えたくなかったら、勝つことね」

 

 言い捨てると、水嶋さんは去っていった。ただ一人、呆然と立ち尽くす僕を置いて。



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過渡/焦燥と冷静

 ぱしゃり、と水を顔に叩きつける。困惑が頭の半分以上を占めていた。

 負ければ人格を失う。昨日戦ったセレクター、水嶋清衣から明かされたバトルのペナルティは、一種の死を示している。

 あんなことを聞かされながらも、記憶(コイン)がなくなって、前よりもさらに頭が働いている自分もいた。

 洗面所の鏡に映る自分の顔は、焦燥と冷静が入り混じった、複雑な表情を浮かべていた。

 ぽたり、ぽたりと顔から水滴が落ちる。いつも通りの表情を作れるようにして、ようやくタオルで拭いた。

 そこで昨日剥がすのを忘れていた、首に貼ってある大きめの絆創膏が気になって、それをゆっくり剥がす。

 歪に抉られた傷が現れる。乱暴に傷つけられたような痕が、ぱっくりと口を開けていた。

 ぎょっと驚いたが、すぐに落ち着く。どこかで誰かにやられたのだろうか。血が出ているわけじゃない。昔につけられた傷のようだ。

 記憶が失われているせいで、それがいつ、誰のせいで、どのようにしてついた傷かは思い出せない。

 グロテスクゆえ目の毒だから、もしくは問われるのを避けるためか、どちらにせよ見られたくないものだ。絆創膏で隠していたのはそのせいだろう。

 ここは、過去の僕に倣って、同じく隠すこととする。

 自室を漁ると、机の中にも鞄の中にも、剥がしたのと同じものがたくさんあった。

 新しい絆創膏をぺたりと貼り付けて、鞄を持ち上げた。

 

 

 僕は放課後に穂村を呼び出した。カードをちらつかせながら、大切な用事があると伝えると、彼女はすぐについてきた。

 御影さんも必要と思って一年生のクラスに行くと、彼女はなにやら頭を抱えていた。

 僕の後ろから、おずおずと穂村がついてくる。他クラスでも緊張するのに、学年も違うとなればさらに緊張するらしい。

 僕は特にそういうのは気にしないから、ずんずんと進んで、目的の人物の前に立つ。

 

「御影さん?」

「雑音。私はいま考え事をしています。用なら後で」

 

 必死にノートに何かを書き込んでいた姿勢のまま、彼女はきつい言葉を浴びせてくる。前に立っているのが僕だということも気づいていないだろう。インパクトを出すために、彼女に倣って、まず重要な部分から話すことにした。

 

「コインを失った場合、どうなるか」

 

 御影さんは、ようやくはっと頭を上げた。

 ちらりとノートを見ると、僕と同じことで悩んでいたみたいだ。なら好都合。

 

「外で話そう」

 

 

 昼食時には賑わう中庭も、放課後にはほとんど人がいない。わざわざここでぼうっとするほど、高校生は暇じゃない。

 それは、僕たちには幸いだった。聞かれるわけにはいかない会話をするのに、ここは最適だった。

 どこからか聞こえてくる吹奏楽の音が小さいBGMとなって、寂しい空気を和らげる。

 昨日、水嶋さんから聞いた話をすると、各々眉をひそめながらも驚きはしなかった。

 

「私も、昨日戦ったセレクターの人から同じこと聞いた……」

「不確定。ですが、私もこの間戦った相手が豹変したのを見ました。あの佇まいは、その方のルリグに非常に似ていました」

「参ったな……」

 

 水嶋さんの嘘だったらそれでよかったのだが、三人がそれぞれ別の人間から見聞きしたとなると、一気に信憑性が高まる。

 リィンによると、残り一枚となったコインが消えるまでせいぜい数日。逼迫してきた事態を自覚して、汗がにじんできた。

 

「警告。すぐにバトルをすることをおすすめします」

「だけど、セレクターに会える確率だって高いわけじゃない。このコインが消えるのだって時間の問題だ」

「あ、だったら私と……」

「君と僕とでコインのやり取りをしたら、今度は君が危険になるだろう」

 

 穂村はセレクターバトルをコイン一枚でスタートした。それが今や、バトルに二回勝って三枚。気持ちは嬉しいが、せっかく手に入れたコインを僕のために使うのはよろしくない。

 僕にコインを渡せば、穂村は危険領域に入る。コインベットして負ければ、一気にゼロ枚になるのだから。

 

「それに、そういったことにはペナルティが課せられますのよ」

 

 ふふふ、と笑いながら言ったのは、御影さんのルリグであるナナシだった。

 

「ペナルティ?」

「一回の取引のためにわざと負けるのは咎められないけど、何回も繰り返そうとすると罰が下る」

「それがどんなのか、私たちも知らないけどね」

 

 リルとリィンが続ける。これまで押し黙っていたのに、ずいぶんと饒舌になったものだ。

 言いたいことと言いたくないこと、言うべきこととそうでないこと、言えることと言えないこと。

 ルリグにも感情はあり、ルールがある。嫌味の一つでも言ってやりたかったが、縛られている状態の彼女たちに言っても仕方ない。

 

「というわけだ。結局、セレクターを探してバトルするしかない。あるいは何かしらの抜け道を探すか」

「同意。それで、私たちも情報を得るためにブックメーカーを探してます」

「ブックメーカー?」

「はい。セレクター同士のバトルをブッキングする人物です。あくまで私たちはセレクターバトルのことについてだけ聞くつもりですが。すず子さん、あれを」

「うん」

 

 御影さんに促され、穂村が鞄から一冊のノートを取り出した。

 それを受け取って、ぱらぱらと中をめくる。彼女が言ったブックメーカーなる存在のことが事細かに書かれていた。

 ネットの情報だけでなく、足で稼いだものも多い。

 デマだと分かっているものには横線が引かれていた。それだけでもなかなかの数で、本気で探していることが伺える。

 直接コンタクトを取ろうとしたことも少なくないようだ。

 

「今のところ、二人で調べてわかったことだよ。ほとんどは、はんなちゃんが調べてくれたことだけど」

「危険なことしてるんだな」

「危険?」

 

 穂村が、きょとんと首をかしげる。

 

「女の子が、会ったこともない人間と待ち合わせなんて、危険極まりないだろう。何されてもおかしくないぞ」

「確かにいかがわしいお店を指定されたこともあるけど……」

 

 やっぱり。僕に言ってくれればよかったのに、とため息をつく。

 僕はそれほど頼りないだろうか。確かに腕力はあるほうじゃないけれど、女の子に任せるわけにもいかない。

 

「待ち合わせだったり、どこかに行くとなったら僕が行くから、君たちは情報収集してくれないか」

 

 一番ブックメーカーに会いたいのは僕だし、と加えて、僕はノートを預かった。

 迫るタイムリミットはそれほど残されてはいない。他人に任せるより、僕が一番危険を冒すべきだ。

 

 

 情報を集めるのは御影さんが、ブックメーカーを名乗る者とのやり取りは穂村が、実際に会うのは僕が担当することになった。

 ノートに記された住所には、確かにいかがわしい店も多かった。待ち合わせの際には、僕が男だとわかると、それだけで近づこうともしない輩も多かった。

 女性としか契約しないなら僕は役立たずになってしまうけど、そうだという噂はない。ということは、ブックメーカーを騙って女の子をどうこうしようという輩が少なからず存在するのだ。

 これまでよく何もされずに無事だったな、と胸をなでおろす。手遅れになる前に知れてよかった。

 しかし彼女らの無事が保証されても、僕はそうはいかない。やらしいことをされる、という意味ではなく、コインのことだ。

 このままブックメーカーが見つからず、セレクターも見つからなければ、それこそ取り返しのつかないこととなる。

 逸る気持ちを抑えられず、遅くまで様々な場所を回った。遅れることさえ連絡しておけば、母さんには何も言われない。

 だがどれだけ探しても、ブックメーカーの影は見えなかった。

 二日経って、コインも半分黒く蝕まれている。このままいけば明後日かその次の日か、僕はいなくなってしまう。

 ノートに書かれている場所を全部回っても、結局ブックメーカーには会えなかった。

 

「探している間に、一人くらいセレクターに会えると思ったけど……」

 

 噴水前のベンチに座って、ペットボトルのお茶を飲む。 

 落ち着いた気温のおかげで汗だくになることはないが、焦ったり落ち込んだりで精神はよろしくない。

 

「まったくいないんだろ?」

「ええ」

 

 胸ポケットからカードを取り出すと、辟易した様子のリィンが返してきた。

 

「そう言って、戦わせないようにしてるんじゃないのか?」

「馬鹿ね。私がそんなことするわけないじゃない。あなたが脱落して、その身体貰っても何の得にもならないわよ」

「結構なこと言われた……」

「私だって心にもないこと言われて結構ショックなんですけど。バトルできないまま終わりなんてみじめすぎるし」

 

 それに、と付け足して、

 

「あなたが消えたくないって思ってるのも、よくわかってるし」

 

 リィンの言葉を信じれば、彼女は僕の記憶を全て持っている。むしろ僕自身よりも、僕のことをわかっているのだ。

 記憶が消えるのはまだ良しとしても、存在を消したいわけじゃないのは、リィンが一番わかっているかもしれない。

 

「悪かったよ」

「ん、私も色々黙っててごめん。本当はもっと多くのセレクターとバトルして、あっという間に勝ち負けが決まるって思ってたんだけど」

 

 そうなれば、嘆く暇も喜ぶ暇もなく、あるいはこのセレクターバトルというシステムに懐疑を抱くこともなく終了しただろう。実際、水嶋さんから真相を教わるまではなんの躊躇いもなくバトルしてコインを減らしたのだから。

 

「ま、嘆いても変わらんさ。やれることをやって、なるようにするしかない」

「そうだよね、セレクターくん」

 

 いきなり声をかけられて、ペットボトルを落としそうになった。

 スーツ姿の男が、いつの間にか僕の隣に座っていたのだ。

 

「努力もしないで、ただ運に任せるなんてのは、消え行くにはお似合いだ」

 

 大仰に手をひらひらさせながら、彼は続ける。彼は僕のことをセレクターだと言った。だけど、リィンは何も気づいていなかった。彼はセレクターじゃない? なら、もしかして……

 

「ブックメーカー、里見紅(さとみこう)。ちょっと話できないかな?」

 

 表面上はさわやかな笑顔を見せて、彼は手を伸ばしてきた。

 

 

「ブックメーカー……ねぇ」

 

 それなりに雰囲気のいいところで、あまり人がおらず、静か。知られたくない話をするのには最適な場所だった。

 奢りだと言われたから、遠慮なくサンドイッチとコーヒーのセット、ケーキも頼む。もっと頼んでもよかったが、家に帰れば飯が用意されてるし、軽めに済ませておく。

 ブックメーカーを自称するスーツ姿の男、里見紅は、僕がその全てを平らげたタイミングを見計らって口を開いた。

 

「そう、噂くらいは聞いたことないかな? 対戦相手をブッキングするって」

 

 聞くどころか、その噂を頼りにして探し回っていたのだ。

 ブッキング。『予約』や『契約』を意味する単語。

 ここで契約すれば、同じく彼と契約したセレクターとバトルをすることができる。つまり、自分から対戦相手を探す必要がなくなる。

 

「そんなことして、なんか得とかあるんですか」

「このバトルの制度を利用して、少し稼がせてもらってるよ」

 

 くいくいっと指をいやらしい形に変えて、にやっと笑う。バトルで金を稼ぐ方法なんて僕には思いつかないけど、彼からはそれ以上の何かを感じる。

 この不安定なセレクターバトルのブッキングで稼ぐくらいくらいだ。他ならもっと金持ちになれるんじゃないか。

 

「悩んでる暇なんてないんじゃない。残りコイン一個なんでしょ?」

 

 ぴくり、と反応してしまった。僕は彼を探していたが、どうやら彼も僕を探していたようだ。

 でなければこんな切羽詰ったタイミングで話しかけてくるわけがない。

 

「情報通なんですね」

「そうじゃないとブックメーカーなんて出来ないからね。さてどうする?」

 

 怪しいものを感じるけど、彼の言うとおり僕には余裕がない。残り一個のコインが消えてしまう前に、セレクターを見つけて勝利できる保証なんてない。

 話を聞く時点で、契約を拒否するつもりはなかった。

 彼のもつネットワークはかなり広いようだし、ここで変に断って機嫌を損ねてしまえば、この街のセレクターへ『伊吹肇とはバトルするな』と触れ回ることだって出来るだろう。そうなれば僕は戦うまでもなくコインを失い、消滅する。

 だけど、僕にだって譲れないものはある。

 しばし考える振りをして、思い出したかのように彼に告げた。

 

「『穂村すず子とは戦わせない』。これが条件です」

「ふぅん、条件付きか」

 

 里見は少し意外そうに眉を動かす。

 後がない者を契約させる手腕がなくとも、彼の提案はセレクターからすれば魅力的なものだ。二つ返事で了承する者がほとんどだったのだろう。

 

「穂村すず子。おそらく明日か近いうち、あなたのところに来るであろう女の子だ」

「俺と会っても、契約するとは限らないんじゃない」

「その意志があろうとなかろうと、契約させるんじゃないですか。たとえば、あなたと契約しているセレクターとは戦わせないように仕組むとか、そうやって脅しをかけて」

 

 返事を待たずに畳みかける。

 

「あなたもこれで稼いでるんでしょ? バトルをブッキングしている以上、負けてペナルティか勝って抜けるかで、どちらにせよセレクターも減っていく。だからこうやって契約を取ってるわけだ。これくらいで契約できるなら、安いもんじゃないか?」

 

 あくまでもこれは推測であるが、それが真実だと言わんばかりに笑みを見せる。

 あなたが上の立場じゃない。僕らは対等な立場だ。取り繕った余裕を崩さないように、残っていたコーヒーをゆっくりと飲み干す。

 彼の口角がさらに上がった。さて、どうくるか。

 

「へぇ、面白いね、君」

「そりゃどうも。で、どうします?」

「いいよ、今のは少し面白かったし、君でも楽しめそうだ」

 

 少しはごねられるかと思ったやりとりは、意外とすんなり決まった。

 彼の用意していた契約書に書いてあることを簡単に言うと、こうだ。

 『里見紅は、契約者のコイン枚数が時間経過によって減らないように、バトルをブッキングする』

 『里見紅は、伊吹肇が望んだ場合、できるだけ条件に合わせた時期と相手をブッキングする』

 『ブッキングされたバトルを伊吹肇が拒否した場合、他セレクターに伊吹肇の情報を公開する』

 この三つ目の文を見て、やはりと思う。一度契約したら、セレクターである限り逃れられなくなる。

 『里見紅は、伊吹肇と穂村すず子を戦わせない』という文面を追記してもらい、サインする。

 

「それで、ですが……」

「うん、わかってるわかってる。すぐにセッティングするよ。ただし決して君が有利になるってわけじゃないけど、いいかな?」

「はい」

 

 胸をなでおろす。バトルができるとあれば、最大の不安要素は消え去った。あと心配するべきは、僕自身の実力だけだ。



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洞察/勝者と敗者

 翌日の昼休み、御影さんと穂村を中庭に集めた僕は、借りていたノートを返した。

 昨日のこと、ブックメーカーのことに関してはすでに追記してある。

 

「里見紅、掴みどころのない男だったよ」

 

 あのあと色々とブックメーカーについて調べてみたけど、そもそもが都市伝説並の存在である彼には様々な噂が飛び交っており、どれが真実が何かわからない。

 幸いなのは、彼がセレクターでないことだ。バトルを調整しても、バトルそのものに干渉する力が彼にはない。

 

「剣呑。会うのは危険だということですか?」

「どうかな。勝ち進んでバトルを抜けるにしても、コインの消滅を防ぐにしても、ブッキング自体は悪くない」

 

 ノートを凝視する御影さんと穂村。そこには、僕の契約書に書かれていたことも追記してある。『里見紅がブッキングしたバトルを断ることができない』という文が気になるものの、『セレクターの要望にできるだけ沿う』ことも明記されているから、上手く扱えれば最悪のことにはならない……はず。

 

「話し合いの場には来てくれるの?」

 

 穂村が不安そうに見てくるが、僕は首を横に振る。

 

「残念だけど、今日はブッキングされてる。バトルが終わったらすぐ行くつもりだけど、危険を感じたらすぐ逃げること」

 

 里見からは、朝にメールが送られてきていた。バトルする場所と時間、そして相手の顔写真が添付されていた。

 放課後すぐに指定されており、場所も里見のいる喫茶店からは少し離れている。

 わざわざ待ってもらうのも悪い。運が良くなければ、僕は残り一枚のコインを失ってしまう。

 口に出さずとも、二人は分かってくれたようで、顔を曇らせながらも了承してくれた。

 昼休みもそろそろ終わりだ。教室に戻ろうと立ち上がった瞬間、小さな力に引き止められた。

 

「あの……」

 

 穂村がぎゅっと、僕の裾を掴んでいる。

 

「今日、待ってるから。今日来れなくても、明日、明日も待ってるから」

 

 次に会うときは、僕の中にいるのは『伊吹肇』ではないのかもしれない。可能性としてはありえない話じゃない。

 だけどそんな可能性なんか認めずに、穂村は僕を、『伊吹肇』を待ってくれる。

 消えるつもりはないけれど、これで余計に負けられなくなったな。

 

 

 居酒屋と何やら色々な業種の事務所が入っているビルの間で、リィンのカードを持って待機する。

 まだ明るい。この居酒屋が開くのは夜からだし、仕事をしている人たちはまだまだビルから出てこないだろう。

 邪魔は入らない。今の時間帯なら、セレクターバトルをするにはうってつけの場所だ。

 

「負けられないわね」

 

 静寂の中でリィンの声が響く。

 デッキは、御影さんからアドバイスをもらって、少しばかり強化している。しかしまだ初心者同然なのだ。勝てる保証も自信もない。

 

「なあ、リィン。もし負けたら、その時は……」

「嫌よ」

 

 彼女は即答する。

 

「負けた後のことまで面倒見きれないわ。あなたが何を言おうが、私がそれに従う気はない」

 

 命令を聞くのは、あくまでバトルの時だけ。話どおりリィンが僕に成り代わったら、周りに対しては伊吹肇として振舞うだろうが、セレクターバトルの後始末はつけてくれないだろう。

 こんな理不尽が始まる前の日常を過ごすだけ。

 

「気がかりややり残したことがあるなら、このバトルに勝って、自分で始末することね」

「お厳しいことで」

 

 ほどなくして現れたのは、ラフな格好をした男。特別個性的なわけでもなく、どこにでもいるような男、というのが第一印象だ。

 持っているスマートフォンと僕の顔を見比べて、彼は口を開いた。

 

「君が里見さんの言ってたセレクター?」

 

 物腰柔らかに、そして気さくに話しかけてくる。大学生くらいだろうか。少なくとも年上だ。

 

「そうです。ええと、墨田(すみだ)さん?」

「うん、よろしくね。ええと……」

「伊吹。伊吹肇です」

「伊吹くん、結構勝ってるのかい?」

「いえ、負け続けでブックメーカーに頼ったくらいですから」

「大変だよね」

 

 御影さんや水嶋さんと違って、殺伐な雰囲気はない。まるでなんの賭けもなくショップでバトルするような、そんな感じ。

 早速、墨田さんはカードを取り出した。僕もそれに倣う。

 

「オープン!」

 

 突然の場面切り替わりも、三度目だと慣れたものである。瞬時にバトルフィールドに移された僕は、まず相手を確認する。

 リィンよりも少し露出度の高い衣装を纏って、こちらを窺うようにびくびくと見てくるルリグ。またしても黒色デッキである。

 宙に浮く時計盤の針が指しているのはやはり黒で、見ただけではどちらが先攻かわからない。

 

「あっちの先攻よ」

 

 リィンが教えてくれる。あちらもそれを認めたようで、手が動き出す。

 

「グロウ。シグニを並べて、ターンエンド」

「リィン、グロウ。シグニ展開。アタック」

 

 レベルの低いうちは各々の武器を扱えないらしく、相手のところまで飛んでいって殴る。

 リィンも例外ではなく、魔法を得意とする彼女ですら拳でダメージを与えた。

 

「あうっ」

 

 軽く悲鳴を上げながら倒れる相手のルリグ。まだ大したダメージではないのに、よろよろと立ち上がる。

 墨田さんはまだ余裕のようで、手札を見て次の戦略を考えている。

 次は墨田さんのターンだ。

 

「グロウ。シグニを並べてアタック」

「ごめんなさいっ」

 

 言いながら殴りつけてくる。

 リィンはよろめいたものの、その場から一歩引いただけだ。凛とした雰囲気は崩さず、なんでもないふうに姿勢を正す。

 

「リィン」

「大したことないわ。続けて」

 

 次の僕のターン、そして墨田さんのターンも、特筆すべきことは起きなかった。

 黒デッキを使う割には、どちらも単純な攻撃だけで、変わった能力を使うこともない。

 さて、と僕は考える。

 次の墨田さんのターンから劇的に状況は変わるだろう。ルリグがレベル4になれば、強力な効果を使うことができる。

 おそらくはそこで一気に削ってくるはず。

 防御を固めて備えるか、手札を温存して反撃に出るか。

 

「シグニを展開。ターンエンド」

 

 僕は前者を選択した。すると、くくっ、と押し殺した笑いを漏らした墨田さん。やがてそれは抑えきれるものではなくなったようで、腹を抱えだした。

 

「ははっ、初心者丸出しの動きだな。こりゃもらったぜ。グズ子、グロウ!」

 

 ようやくルリグの名前を出した。

 グズ子、なんてどれだけ贔屓目に見ても愛をもってつけた名前じゃない。

 繕った爽やかさは僕を油断させるための罠。バトル前に僕のことを聞いてきたのも、コインの数と合わせて、実力を確かめるためだ。

 このブッキングは、里見が調整したもの。そして僕は、墨田の出す条件に合ったセレクターなのだ。

 つまり、墨田は初心者狩り。バトル慣れしていない相手を騙し、すかし、脅し、それで勝利をもぎ取ってきた輩なのだ。

 

「コインベット!」

 

 レベル4となって、グズ子が得た鎌が光る。

 

「『ダイレクト』」

 

 コイン技を発動するなり、グズ子が向かってくる。

 

「ごめんなさぁい!」

 

 こちらとあちらのフィールドは離れているが、猛スピードの一撃を受け止めることができなかった。

 リィンの脇腹に、刃が深々と刺さった。同時に、僕にも痛みが走った。

 

「ぐっ」

 

 あまりの激痛に、その場に座り込んでしまうところ、テーブルに腕を押さえつけて身体を支える。

 服をめくって確認してみるも、血は出ていないし傷もない。だが痛みだけは本物だ。

 ルリグの受けた痛みを、セレクターにも与えるコイン技か。初心者なら、いやそうでなくても心身ともにショックを受けて普段の力を出せなくなる。

 

「ははっ、雑魚が俺に勝てるなんて思ったわけ? とんだカモだな。里見さんに感謝しねーと」

「あの、まだ勝敗は決まっていませんし、油断は禁物だと思います……」

「はあ? だからお前はグズ子なんだっつーの。あいつが前のターンで攻撃をしなかったから、俺のライフクロスはまだ余裕がある。けどあいつはあと一発食らったら終わりなんだから、俺のターンが回ってきたら決着がつくんだよ」

 

 しかし、初心者狩りをする男に僕を当てるとは……まあ相手の希望もあるのだろう。対戦相手の条件を出さなかった僕が里見を非難することはできない。

 僕は足に力を入れて、姿勢を正す。

 

「リィン、大丈夫か?」

「ええ、平気」

 

 リィンは僕のように怪我した場所を抑えてはいない。だけども膝をついた体勢を戻さないところと、黒いドレスが血で濡れていることから、いかにルリグといえども、相当のダメージを負っていることはわかった。

 

「おいおいまだやる気かよ。無駄だっつーの」

「いや、お前の考えはわかった。お前のすることも、やり方もな」

「はあ? お前、今の状況分かってるわけ? もう一度でも攻撃食らったら終わりなんだぜ?」

「分かってるよ。分かってるうえで言ってるんだ」

 

 正直コイン技は意外だったが、それ以外は想定内だ。

 僕のことを聞いてくるわりには、自分のことは何も言わない。グズ子が攻撃を受けても心配する素振りなんてなかった。

 嫌な性格持ちだということは、すぐにわかっていた。

 僕が目の前に手を掲げると、一枚のカードがどこからともなく現れる。中心に金色のコインが描かれた、濃紫色のそれを掴む。

 

「悪いけど、この後約束してるからね。どうしても負けるわけにはいかないんだ」

 

 相手もこの理不尽なバトルに巻き込まれた被害者だということはわかっている。

 だけど僕もそうで、しかもコインが一枚。そして対戦相手だけでなく、ルリグすら雑に扱う墨田には同情の余地はない。

 

「コインベット」

「『リターン』」

 

 リィンが前に腕をかざすと、僕と墨田の間に緑色の丸い魔方陣が現れる。それはゆっくりと左回りに回り始め、だんだんと輝きを増す光を放つ。光は僕のことも、相手すらも巻き込んだ。全てが見えなくなった白の中、鐘が鳴る音だけが響いた。



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個々/後退と決裂

 

「くそっ、初心者じゃなかったのかよっ」

 

 勝負は、僕の勝ちで幕を閉じた。

 バトルフィールドは閉じ、墨田は壁を叩いて憎憎しげに僕を睨んで去っていった。それもそのはず、彼はこれで残りコイン一枚になったのだから。

 だけどこれは契約上で避けられない戦いなのだから、恨まれるのは少し違う。それに、彼のほうが有利だった。最後を除けば、僕は教科書どおりの動きしかできなかったから、初心者を食い物にする彼にとっては恰好の餌だったに違いない。

 油断さえしなければ、僕程度には勝てただろう。

 何はともあれ、これで僕のコインは二枚。だけどコインをベットして負ければ、敗北時のペナルティと合わせて一気に脱落が決定する。まだ余裕をかましてはいられなかった。

 そして余裕を出せるほど、僕の頭は正常に働いてはくれなかった。

 コインを取り戻した影響か、これまで砕かれていた記憶が再生されていき、一気に流れ込んでくる。目は開いていて、前を向いているはずなのに、道が見えない。

 その場を去り、ふらふらと怪しい足取りで進む。気持ち悪くなって電柱によりかかると、よりいっそう頭が過去に支配されていく。

 これではいけないと、がくがくと震える足でなんとか歩を進める。こみ上げてくるものを我慢して、定まらない視点のまま先へ進む。

 その努力は空しく、僕の頭には過去が押し寄せてきていた。

 ああ、思い出した。思い出してしまった。

 今までもやがかかっていたのが嘘のように、鮮明に思い出される。

 

 

 伊吹肇の父親は、つまり僕の父はとにかく上っ面なだけの男だった。

 そのことに気づいたのは、もう手遅れになったときだったけれど、最初は良き父親だったと思う。

 休日には嫌な顔をせずに僕と遊んでくれたり、どこかへ連れて行ってくれたり、家事を手伝ったり。

 自分の父親だからという贔屓もあったのだろうけど、幼心の僕は父がこれ以上ない男だと憧れた。

 そんな理想の父と家庭が崩れたのは、僕が小学校六年生に上がって、しばらくのこと。父が、外に別の女を囲っていたことを母が知ったときだった。

 どうやって知ったとか、詳しいことはわからなかったけれど、とにかく怒号が飛び交ったのを覚えている。

 両親のあんな顔を見たのは初めてだった。僕も叱られることはあったけど、それとは比にならないくらいの、まったく愛のない表情と言葉。

 そこで僕は、父が簡単に暴力を振るう男だと知った。

 悪いのは父親のはずなのに、家具や小物に当り散らすだけではなく、妻である僕の母もその理不尽を受けた。

 

『だめよ、肇。あなたはあんなふうになっちゃ駄目』

 

 殴られて蹴られて、浮気もされて、心身ともにずたぼろにされた母さんは、僕だけは守りきった。

 離婚したあと、莫大な慰謝料と養育費を貰ったものの、母さんが回復して立ち直るには、かなりの時間がかかった。

 僕たちは祖母の家でしばらく過ごし、また二人だけで過ごすことができるくらいになるまでに三年の月日を要した。

 僕は父を恨み、彼とは違う男になると決めた。軽い調子で接するようにし、あの男から何の影響も受けていないことを証明し、そして母さんの頭からあの男を消し去ろうとした。

 功を奏したようで母さんは歳相応よりも老け込んだけれど、僕をまっすぐ育ててくれて、なおかつ好きなことをさせてくれた。

 でも、母さんはときどき暗い顔をする。あのときを思い出しては、深夜に一人で泣いていたこともあった。

 関係を断絶してもなお、経験が、記憶が、母さんを傷つけて縛りあげる。

 僕が成長して、だんだんと顔が父親に似てきたのも問題だろう。 

 僕の中には、憎むべき父親の血が流れている。どれだけ嫌だと願っても、決して断ち切れることのない呪い。

 母さんは僕の顔を見るたびに一番辛い時期のことを思い出して、心を締めつけられて泣くのだ。

 この顔である限り、この血が流れている限り、僕は半分父の生き写しだ。誰かを愛する資格なんてない。恋という感情を抱く資格なんてない。

 否定したくとも、僕が僕であることが、父の息子であることが全てを証明していた。

 だから。だから、僕は……

 

 

 倒れこんで数十分。腹の中にあったものが全て吐き出されてしまった。

 気づけば息を荒くしたまま壁にもたれこんでいた。

 気持ち悪さがまだ残っている。力の入らない身体をなんとか起こし、また歩き出す。

 一歩一歩が短く、重いものに感じられたが、穂村と御影さんがどうなってるかも気になる。

 なんとか里見のいる喫茶店にたどり着き、息も絶え絶えに店内を見渡す。この前と同じ席に座っていて、アイスコーヒーを飲みながらスマートフォンを操作する里見の顔は、いやに上機嫌だ。

 穂村たちの姿はない。

 どうも、と挨拶して僕が正面に座ると、彼はますます笑みを広げた。

 

「勝ったっていうのに、酷い顔じゃないか」

「おかげさまでね」

 

 里見は手のつけていない水を差し出してきた。遠慮なくそれをあおると、いくらか気分がマシになった気がする。

 グラスを見ると、指の形に赤色がついていた。首を触って確かめると、べっとりと血が手についた。

 自覚すると刺すような鋭痛と熱が感じられる。いつの間にか掻いていたのか、貼っていた絆創膏もどこかへいっている。

 鞄から予備の絆創膏を取り出して貼る。

 

「これで墨田さんのコインは残り一枚。君のおかげで面白いものが見れそうだよ」

「面白いもの?」

「墨田さんは消えて、すず子ちゃんとはんなちゃんはセレクターバトルの真実を知ることになるだろうね」

「何……言ってるんだ」

 

 里見は穂村と御影さんの名前がサインしてある契約書を見せてきた。

 彼女らは僕がここに来る前に、とっくに取引を済ませていたのだ。

 他のセレクターと戦わせないようにするという脅しがある以上、契約してしまうのは仕方がないが、こんな短時間で話し終えるものだろうか。

 御影さんはセレクターバトルの真相を暴くために、情報通のブックメーカーを探していた。契約内容の説明や駆け引きを合わせれば、まだここにいるはずだと踏んでいたのに。

 

「君が来る前、ちょうどすず子ちゃんとはんなちゃんが来てね。墨田さんと千夏ちゃん……森川千夏ちゃんがバトルするって言ったら飛び出して行っちゃった」

「森川千夏?」

 

 前にも聞いたことがある名前だ。しかもつい最近。

 

「知ってる? 千夏ちゃんって子、すず子ちゃんの親友だったんだよ」

 

 思い出した。穂村が話していた昔の親友。ずっと一緒だったという『ちーちゃん』。彼女はよりによって、セレクターに選ばれていた。

 僕は里見の言い方が気になった。

 『親友だった』。過去形を強調する彼の口調は、『親友という間柄である時期があった』というよりも、『今はもうそうではない』というニュアンスが強い。

 彼はさらに続けた。

 

「彼女はね、自分の中にあるすず子ちゃんの記憶を消そうとしてるんだ」

「なんっ……」

 

 いきなり頭を殴られたような衝撃。

 詰まってしまった喉を、浅く息を吸って広げて、言い直す。

 

「なんでそんなこと……」

「邪魔なんだって、すず子ちゃんのこと」

 

 ぞくりと背筋が凍る。

 穂村が話をしたとき、彼女は森川千夏が親友であることに誇りを持っていた。そう思っていたのは穂村だけなのか。

 彼女たちを繋げる手紙という唯一の糸を断ち切ったのは、わざとなのか。

 穂村がそれを知ってしまったときのことを考えると、胸に刃が突き刺さったように激しく痛む。

 邪魔。その言葉が自分に向けられたような錯覚に、冷や汗が出た。

 似たようなことを誰かに言われた気がする。誰か大切な人にそれを投げられたような気がする。

 いくら脳の中を探しても、そんな記憶は見当たらなかった。

 

「さて、このままだとそれを知ることになるすず子ちゃんは、どんな顔をしてくれるかな」

「お前っ」

 

 テーブルを叩いて里見を睨む。

 やはり、こいつの狙いは金なんかじゃなかった。理不尽なバトルに巻き込まれたセレクターを救済しようなんていうボランティア精神でもない。

 人の苦悩を食い物にして、楽しんでいるのだ。

 なるほど、ブックメーカーなどという噂を流せば、困りに困りきった餌が向こうからやってくる。

 そして、バトルのブッキング自体は、セレクターにとっては願ってもない救いの糸。彼の意図がどうであれ、セレクターはここに辿りついた時点で契約をせざるを得ない。

 

「あれぇ、いいのかな。こんなところで俺に構ってて。すず子ちゃんがどうなるかまでは、流石の俺でもわからないんだよ?」

 

 ギリリと歯を食いしばって、もう一度机を叩く。ここでこいつを殴ってもどうにもならない。

 聞き出す前に、里見は場所を伝えた。ここからそう遠くはない公園だ。

 穂村と森川千夏を会わせてはいけない。俺はすぐさま店を出て走り出した。

 

 

 吐いたあとの全力疾走は、予想よりもきつい。

 まだ腹にも頭にも不快感がこびりついているのに、何度も転びそうになりながら、必死に汗をかいて走る。

 そんな状態の身体では、たいしたことのない距離も長く思える。

 血が出ていたのも関係あるのか、思ったよりもふらふらした足取りになってしまう。

 公園のそばにはたどり着いたが、生垣に囲まれて、公園内は見えない。しかし、公園の入口に立つ御影さんは見えた。

 

「御影さんっ」

 

 ようやく彼女の近くまで達した時……

 

「オープン」

 

 視界は一気に灰色でいっぱいになった。

 見渡せば、石でできたようなブロックがいくつも浮いている。そのうちの一つの上に立たされている僕のほかに、同じく御影さんもいた。

 

「ここは……?」

「バトルが始まったとき、近くのセレクターは巻き込まれるの」

 

 リィンが説明する。確かに、今まで三度経験した場所とそっくりだ。ただ、観戦側は立ち位置が違うから気づかなかった。

 まさかと思って、やや遠くでバトルする二人を見た。戦っているのは墨田ともう一人の少女。

 穂村ではない。とりあえず最悪の事態を免れたことにほっとする。全身の力ががくりと抜け、その場に尻餅をついた。

 落ち着いて別の場所を見やると、穂村もいた。僕には気づかず、バトルをしている二人を凝視している。

 

「ちーちゃん、どうして……」

 

 そう呟いたのが聞こえた。墨田と相対しているあの少女、あれがちーちゃん、森川千夏か。

 里見の言ったとおりならば、あの二人の戦いの決着は……

 とにかく、今の状態じゃ僕には何も出来ない。消費してしまった体力の回復とともに、大人しく観戦することにする。

 森川は緑デッキ。そしてあっけに取られるような癖なんてない、王道の動きだった。

 悪く言えば初心者のようなカード捌き。ターンが進むごとに、初心者狩りの墨田が若干押している形となっていく。

 気を良くした墨田は、ダメ押しと言わんばかりにコインをベットする。

 

「『ダイレクト』」

 

 レベルの上がったグズ子の鎌が、メルに襲い掛かる。柄を掴んで抵抗するが、ついには刃が肩に刺さった。

 あれは僕も食らった。コイン技によってルリグと繋がった痛みは本物だ。なのに……

 

「刺されたってのに、あんな笑顔ができるなんて」

 

 リィンも僕と同じ感想を抱いた。

 刃であれだけ深く刺されるなんて、普通にしていれば経験したことのない壮絶な痛みだ。だというのに、それを意に介せず冷たい笑顔を浮かべる森川に、僕はぞっとした。

 

「あれが森川千夏……穂村の親友……」

 

 痛みに悶える姿も見せず、感情を捨て去っているような姿には、穂村がした話とはまったく真逆のものを感じた。

 

「コインベット」

 

 今度は森川がコインを場にだした。

 

「『ベルセルク』」

 

 メルが墨田に視線を合わせる。しかし相手の視界を奪うナナシの『ブラインド』や、手札を捨てさせるピルルクの『ピーピング』のように、わかりやすい何かは現れなかった。盤面を見ても、何も変わっていない。

 グズ子の『ダイレクト』のように、プレイヤーに干渉する能力か?

 森川はそのままターンを終了する。

 

「めんどくせえ、全力で攻撃だ!」

 

 ターンが移った瞬間、手札のシグニを並べて、総攻撃をしかける墨田。

 ミサイルのごとく怒涛の攻撃は、決まれば勝ちだが、森川は許すことなくアーツによって防いだ。

 防いだだけじゃない。森川のカードの効果によって攻撃は跳ね返されて、墨田のシグニを消滅させる。

 何から何まで、ガード要員まで攻撃に回したんだ。墨田にはもう攻撃も防御の手段も残っていない。

 いや、残されなかった、のほうが正しいか。メルのコイン技を発動したあと、明らかに墨田の攻めっ気が強くなった。

 攻撃を強制させる技か。転じて、相手を無防備にさせる技と言ってもいい。

 それにしても、全力で攻撃されても動じない胆力と戦略。コイン技がなくても、墨田に勝ち目はなかっただろう。

 無防備となった墨田の命乞いが聞こえないかのように、森川が攻撃を宣言した。それに応えて、メルがトドメの一撃を繰り出す。

 墨田の背後に浮かんでいた最後のコインが、黒く染められていく。苦悶の表情を浮かべた墨田の足場が、悲鳴とともに崩れ去る。

 その結果が当然だというふうに、森川の表情は動かない。視線はただただ真っ直ぐ闇の中。敗者である墨田すら、その目には映っていない。

 

 夕陽の眩しさに目を細める。舞台は公園に戻っていた。

 

「す、すみません。すみません」

 

 公園の入口で立ったままの僕と御影の間を、男が通り過ぎる。

 墨田とは思えない少し高めの声と、伏し目がちな顔。今にも泣きそうな目とその言葉には覚えがあった。

 彼のルリグ、グズ子だ。

 

「確定。コインを全て失うと、セレクターはルリグに……」

 

 そうだな、と言えればよかったが、どっと押し寄せてきた徒労感と記憶と異常な状況に、動けなかった。

 

「懐かしいね、この公園。変わらない。全部あの頃のまま」

 

 優しげな声だった。森川が穂村に向けたのは、

 おそらくこれが、穂村の知っている森川なのだろう。凛とした佇まいに、柔らかくも芯のある目。クールな中に可愛らしさも備えた雰囲気。憧れるのもわかる。

 その全てが一瞬にして豹変し、空気がぴりついた。

 森川は鞄のストラップをぶちりと千切り、重力の任せるままに落とした。穂村との友達の証、森川自身の分身。それが誰のものでもなくなり、地面に転がる。

 それはつまり、本当に自分の中から穂村を消そうとしている表れだった。

 

「会えてよかった」

 

 その声には、なんの感情も入ってなかった。

 足が震える穂村と、毅然と佇む森川。やっと会えた親友は、しかし一番遠い存在となってしまった。

 

「私の中にね、いらないものがあるの」

 

 森川は、落ちたストラップを容赦なく踏みつけた。ぐしゃりと音を立てて、砂まみれになり、潰れる。

 

「すず、あなたよ」

 

 そう言って、彼女は語り始めた。

 森川も穂村のことを親友だと思っていた。そして、親友であるために努力した。

 優等生であり続け、優しく、強くあり続けようとするのは、穂村の親友として、そして彼女の憧れとしてい続けるための努力だった。

 だが、このセレクターバトルに巻き込まれ、コインを失い、穂村のことをひと時忘れてしまった森川は気づいた。

 自分を縛りあげるもののなくなったときの解放感。自分以外の何者かになろうとする努力をしないでいいと知った晴れ晴れしさ。

 そこで彼女は思う。穂村すず子という存在は、森川千夏にとって必要なものだろうか、と。

 記憶を、穂村を消して、思う通りに生きる。それが、森川千夏にとって必要なものなのだと本人は語る。

 彼女の全ての言動は、決して親友に向けるものじゃなかった。

 森川にとっては、メルのストラップのように、踏みにじってしまいたいのだから当然の台詞なのだろう。

 だけど、穂村は違う。穂村にとっては、森川はずっと親友で、憧れで、片時も忘れたことのない存在だ。捨てたいだなんて微塵も思っていない。

 信じた相手から告げられたのは、あまりにも残酷すぎる決別の告白。去っていく足取りには、迷いは感じられなかった。

 残され、泣きじゃくる穂村に、僕は何も言えなかった。



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目標/依然と向上

 記憶を取り戻したことによる僕のショックは、穂村と森川の話とそれによる関係断絶によって上書きされた。

 もともと僕のは、一度経験した過去だ。

 どうやって気持ちに整理をつけたのかまでは思い出せないけれど、とにかく自分なりに納得できるような答えを出したのだろう。だから僕は、自分に傷をつけてもなお生きている。

 絆創膏で隠された首の傷は、自分なりのけじめか課した罰だ。

 とはいえ、当時の苦い思いを一気に思い出させられて、その後に出した結論が頭の中に残っていない今は、正直かなり気落ちしている。

 しかし誰かがどれだけ傷ついても、世界はいつも通りに回る。

 いつもと変わらない退屈な授業なんて頭に入ってこないのは、僕も穂村も同じだった。

 顔は上げて黒板を見つめるも、何が書いてあるか理解できなかったし、理解する気もなかった。

 あの公園で話を聞いていただけの僕でさえこれなのだ。当事者である穂村は、想像もつかないほどの底に落とされた気分だろう。

 時間が解決してくれると思って、話しかけることもしなかったが、何日経っても穂村の様子は全く変わらないどころか、さらに沈んでいっているような気がする。

 落ち込んだままの穂村を見ていられなくなり、ついに今日の昼に誘って、いつもどおり中庭へ連れ出す。

 食べている間、彼女はずっと黙っていた。

 励ましたり、慰めたりできればいいんだけど、彼女が負った深い傷を思うと、浮かんだ言葉が全て軽く思えた。

 結局何も言えない僕たちはそのまま昼食を食べ終えた。それから十分ほど経っただろうか、ぽつりと話し始めた。

 

「はんなちゃんともバトルしたんだ」

「ブッキングされたのか?」

 

 御影さんはバトルを申し込んでも、穂村が受けるとは思わない。里見が仕掛けたのだろう。ブックメーカーとの契約には、ブッキングには逆らわないことが明記されていた。

 穂村はこくりと頷いた。

 

「はんなちゃんが希望したらしいの」

「御影さんが?」

 

 なぜ、と僕は思う。

 確かに契約には、ブッキングはセレクターの要望にできるだけ沿うという文もあった。だから御影さんが望んで、里見がバトルを調整したのなら、誰を責めることもできない。

 しかし、穂村が追い詰められていることを知っていて、なぜ御影さんはバトルをしようとしたのか。

 それだけ早くコインを集めたいのだろうか。彼女は、自分の記憶に固執していたようだし。

 

「人に頼ってばっかで、甘えてばっかだったから嫌いになっちゃったのかな」

 

 穂村の肩が震える。

 

「ちーちゃんに捨てられて、はんなちゃんとも話せなくなっちゃって……」

 

 ぽつり、と彼女の膝に涙が落ちた。

 このセレクターバトルで穂村が失ったものは多く、大きい。記憶以上に、人との繋がりが消えていく。消えていくというより、断ち切られていっている。

 森川のことをずっと思い続けてきた穂村にとっては、これ以上ない苦しみだ。

 そして森川もきっと、誰よりも穂村のことを思っていたのだろう。

 穂村を守るために、穂村の憧れであるために、彼女は努力した。たぶん、それは今も一緒のはず。

 セレクターバトルの勝利報酬を使ってまで忘れようとするのは、そうでもしないと忘れられず、振り切れないほどに森川の比重を占めているからだ。

 おそらく、里見に唆されたか何かされて、完全に捨て去るべきだという強迫観念に囚われている。だけどその奥底は、まだ穂村のことを大切に想う気持ちがあるに違いない。

 どれだけ言い繕っても、どれだけ酷いことを言って言われても、どれだけ傷ついても、心が相手を求めてる。

 そんな二人が離れ離れになるなんて、間違ってる。

 

「対等だと思える関係として、もう一回森川と友達になればいい。絶交されたって、また関わりを持ってはいけないなんて決まりはないんだし」

 

 それに、と僕は付け足す。

 

「放っておけないなら、放っておく意味はないだろう」

 

 その言葉を聞いて、穂村はようやく顔を上げてくれた。

 

 

 御影さんに話を聞きたかったし、今の穂村を一人にさせるのも避けたかった。だけど、僕が決めた放課後の行動は、里見のもとへ向かうことだった。

 連絡はしなかったから、いるかどうかはわからなかったけれど、まるで当たり前かのようにいつもの席に座っていた。ブラックのコーヒーを、ストローでぐるぐると掻き混ぜている。

 

「やあ伊吹くん。そっち座って」

 

 彼は僕を認めるなり、爽やかな青年のような笑顔で対面を促す。

 僕もアイスコーヒーを注文して、座る。すぐに運ばれてきたコーヒーに砂糖とミルクを入れる。里見のとは違って白色に染まったそれを一口飲んでから、僕は話を始めた。

 

「里見さんはどこまで知ってるんですか」

「知るべきことと知りたいことなら」

 

 答えをはぐらかされて、僕は顔をしかめた。負ければルリグに取って代わられることは、彼にとってどちらなのだろうか。

 

「そんな嫌そうな顔しないでよ。楽しんでるのは確かだけどさ、でも俺はセレクターの望んだとおりにブッキングしてるだけだよ。今回はんなちゃんにしたブッキングも、彼女の希望どおりだしさ」

 

 確かにそうだ。里見を責めることはできない。だが、結局はこの男が楽しみたいから快く応じたのだ。

 言いようのない不快感を握りつぶすように、僕は拳を固める。

 

「まあまあ落ち着いてよ。それよりも俺、伊吹くんのことも気になってるんだよね。実は、墨田さんと君のバトルのことなんだけど、本当は墨田さんが勝つと思ってたんだよね。伊吹くんは初心者だし、墨田さんはやる気満々だったし。コインも使わなかったんでしょ? ねえ、どうやって勝ったの?」

 

 身を乗り出すほどの勢いで訊いてくる里見の顔は、単純な好奇心だけだった。

 

「僕を舐めすぎてただけですよ。墨田はコインが三枚で余裕をもちすぎてた」

 

 僕はコイン技のことは隠して、それっぽい理由を口にする。実際、この言葉は的外れじゃない。森川とのバトルを見る限り、どうあっても自分が上だと過信する男のようだったし、いずれ負けて落ちるのは目に見えていた。

 頼んだコーヒーを少しずつ飲みながら、里見の質問に返していく。学校には他にセレクターはいないのかとか、僕のデッキの特徴とか、特に心の内を探りにくるような質問はなかった。

 世間話をするかのような軽い口調に警戒しつつ、適当に受け流していると、すっと横から誰かが現れた。

 森川だ。僕は一瞬どきっとして、身構える。

 

「契約、取ってきたわ」

「おお、いつもどおり手際がいいね、千夏ちゃん。それじゃ、これいつもの」

 

 森川が二枚の紙を里見に渡すと、お返しに彼は封筒を渡した。厚さからいって、小物などではなさそうだ。となれば、僕には金しか思い浮かばない。

 契約、と彼女は言った。ブックメーカーの契約は本人によるスカウトだけじゃないのだ。確かに、誰が対象者かわかるセレクターのほうが向いている。

 森川は封筒を受け取ると、僕のことなんてまったく気にせずにさっさと去っていった。

 何か言ってやりたい気持ちにもなったが、穂村を捨てたときの彼女の目を思い出して気が引けた。

 そこには僕の想像を超える深い絶望と安堵と怒りが渦巻いていた。

 怒り。それは自分を縛る穂村に対してか、それとも……

 

「森川を使いっぱしりにしてるのか?」

「自分の足で契約を取るのも楽じゃなくてね。こうやって頼んでるんだ。お金だったり、情報を渡したりしてね」

 

 ブックメーカーという存在は、まだ都市伝説の域を出ていない。実際に目の当たりにしても、バトルを調整するという提案に怪しむ者も多い。

 しかし森川は要領よくこなしているらしく、この仕事を斡旋したところ、早速何人ものセレクターに新規契約を結ばせたそうだ。

 

「ところで、そんなことを言いたくて来たわけじゃないでしょ?」

 

 もちろん、ただ世間話をするためにこんな気持ちの悪い男と一緒にいるわけではない。という本音を隠して、僕は頷いた。

 

「少しだけ猶予が欲しいんです」

「猶予?」

「コインが自然消滅する前には対戦を組んで欲しいんですが、ギリギリまで待ってもらいたい」

「いいよ」

 

 理由も聞かずに、里見はあっさり承諾した。

 僕が目を丸くしていると、里見はテーブルナプキンを折り始めた。

 

「契約者の要望にはできるだけ応えるってのも契約のうちだからね。君からの連絡が来て、その日か次の日くらいにはバトルできるように調整するよ」

「けっこう贔屓してくれるんですね」

「言ったじゃん、君のことが気になるって。他のセレクターより面白そうな雰囲気してるんだよね、君。自分自身じゃ気づいていないだろうけど」

「こんな平凡な男子高校生つかまえて何を……」

「平凡……だったらどれだけよかったんだろうね」

 

 意味深な発言をして、折鶴を僕の前に差し出してきた。

 折り始めの時点でコーヒーがかかっていたのか、その首部分から黒色が広がっていく。じわりじわりと、ゆっくり綺麗な白が、茶色がかった黒に侵食されていった。

 

 

 兎にも角にも、強くならなきゃいけない。ウィクロスの戦術や特徴を書いた本は読み漁ったがそれだけで十分とは思えなかった。

 ブッキングを待ってもらったのは、それが理由だった。

 僕がまず向かったのは、御影さんのところだった。呼び出した迷惑料としてジュースを買ってやり、渡す。

 昼休みに僕が指定したのは、やはり中庭。ベンチに座る御影さんと対面するために、僕は正面に立つ。

 

「やっぱり、ただ契約どおりバトルするだけじゃ済まないってことだな」

「合点。ブックメーカーのことですね」

 

 僕は頷いた。

 

「バトルの敗北とそれに伴う人格の消滅、穂村と森川の再会、そしてその両方を僕たちに見せつけた。全部、最悪なタイミングで」

 

 セレクターでなく、バトルには干渉できないからと高をくくっていた。契約者の実力や精神状態を理解していれば、バトルの前後には十分手を加えられる。

 里見と契約したセレクターの行方は、彼が握っているといっても過言ではない。

 

「ところで、穂村とバトルしたって聞いたけど」

「そちらが本当に聞きたいことですか」

「まあ、そうだね。君がブッキングを望んだって聞いて、気になったから」

 

 僕が渡した缶を開け、一口飲んでから御影さんは話を続けた。

 

「確証。負けた場合の罰は、確かにこの目で見ました。ですが、勝った場合の報酬について信憑性が高まったと考えていいでしょう」

 

 失くした記憶を取り戻す。記憶を都合の良いように作り変える。あるいは、森川のように記憶を一部消す。

 その権利は、欲しい者からすれば垂涎ものなのだろう。御影さんも森川も、それに囚われた一人なのだ。だから、すぐに戦える穂村を対戦相手に選んだ。

 

「私は勝たなければいけないんです」

 

 譲れないものがある。僕にも御影さんにも、どうしても退くことができない一線がある。

 『勝ちたい』と『負けたくない』。一見似ているようでまったく違う願いを、僕たちは賭けて心を削っている。

 里見はそこを利用してくる。だけど、たとえ里見の手の平の上だとしても、僕は……僕たちは負けるわけにはいかない。

 僕たちは強くならなきゃいけない。

 

「僕も負けられない」

 

 僕は頭を下げた。

 

「御影さん、勝ち方を教えて欲しい」

 

 生きるためなら、僕の安いプライドは捨てよう。負けてしまえば、そんなちっぽけなものすら残らなくなるのだから。

 

「……御影、で構いません。伊吹さんのほうが歳上なんですから」

 

 断られるかと思ったけれど、彼女はこくりと頷いた。

 

「承諾。すず子さんにも同じことを言われました。彼女と一緒なら構いません」

 

 そう言って、御影さんは一つ条件を出してきた。

 

 

「そういうことで、赤のデッキだからといって、必ずしも全て赤で固める必要はありません。他色でもシナジーがあるカードはありますし、意外性をつけることもできます」

 

 御影によるウィクロス講座の教室は、学校近くの公園に決まった。

 狭くもなく、遊具もないわけではないが、ここには人があまり来ないらしい。邪魔が入らず、目線を気にすることもないここは絶好の場所だ。

 僕はすでに今日分は教えてもらって、いまは穂村の番。黒色デッキと赤色デッキじゃ、やはり運用に大きな違いがあるので、交代制で教えてもらっていた。

 

「よかったよ。穂村が塞ぎこむようなことにならなくて」

 

 僕は手持ちのルリグ三体に話しかける。万が一、何かが間違ってバトルしてしまわないように預かっているのだ。

 

「あなたのおかげよ」

 

 答えたのはリルだ。

 

「僕?」

「すず子はちーちゃんに遠ざけられて、本当に落ち込んでたの」

 

 涙を流した穂村を思い出した。ずっと残っていた友情を断絶させられた苦しみは、僕の想像を絶する。

 

「あなたの言葉で、前に進むことを決めたのよ」

「なら、少しは役に立ったかな」

「ええ、ありがとう」

 

 森川は異常な状況に巻き込まれ、さらには里見の言葉に惑わされているだけだろう。

 御影は過去の記憶を取り戻すのに精一杯なだけ。本気で穂村を見捨てようとしている人間はいない。

 悪いことが重なりすぎて、処理しきれなかっただけだ。絡まった糸を解せる手伝いができたのなら、僕としては光栄だ。

 真剣な目つきで教えを聞く穂村を見る。それだけなら、ウィクロスに興じる女子二人と男子一人。

 セレクターバトルに巻き込まれなければ、理不尽な状況に悩むこともなかった。けれど、それがなければ、こうやって彼女たちと一緒にいられることもなかったのだろう。

 そう考えると、少し複雑な気持ちになる。

 

「それで聞きたいのですが、伊吹さんのお気に入りははんな様? すず子さん?」

 

 今度はいたずらっぽい笑みを浮かべるナナシが口を開けた。

 

「お気に入り?」

「どちらが気になるかという話ですわ」

 

 僕はため息をついた。男女揃えば即恋愛沙汰に発展するわけでもあるまい。

 確かにこんな異常な状況の中だ。つり橋効果云々が発揮されないとも言い切れないが、そんな心の余裕は僕にはなかった。

 

「女性って、そういう話が好きだよな」

「質問に答えてないわよ」

 

 リィンも追撃してくる。リルもクールながら含んだ笑みで続きを待っていた。

 ルリグですらこういう話を振って楽しんでいる。それだけ、今この瞬間が平和だとも言える。

 

「僕と穂村と御影はそういう関係じゃないし、そういう関係にもならない」

「言い切れるの?」

「いま言い切った」

 

 僕はともかくとして、彼女たちが僕に好意を持つなんてありえないだろう。

 浮気して暴力を振るった父と同じ道を行かないように避けているが、それでも僕は父の息子なのだ。どこかでその最低な性格が滲み出ているに違いない。

 僕と彼女たちは、あくまでこのセレクターバトルを抜け出すための協力関係だ。終わってしまえば、お互いそれぞれの生活に戻る。

 

「では、今日はここまでにしましょう」

 

 そう言って、御影はベンチに広げられたカードを片した。長く時間を割いてくれた彼女に、僕と穂村は跪いた。

 

「師匠、レッスン料です」

「僕からは後星の緑茶を」

 

 授業料である。

 穂村は御影に、甘味を提供することを条件にウィクロスを教えてもらうことにしたらしい。その甘味とやらが、かなり有名なところのもので、何時間も並ばないと変えないような品だ。

 昨日授業が終わってから飛ぶように教室から出て行ったのは、これが原因か。

 ならばと僕が差し出すことに決めたのは、それに合う飲み物だ。多少値は張ったが、こちらも有名店の茶葉を使用した緑茶。朝のうちに淹れておき、保温水筒に入れておいたのだ。

 御影は目を輝かせてそれらを受け取る。

 普段は冷静に状況を判断して、百戦錬磨の実力も持っているが、こういうところは普通の女の子だな。

 

「はい、伊吹くんも」

 

 穂村が、袋から大福を渡してきた。もんじ屋という店の代表であるその和菓子のことは、僕も知っている。

 土日であろうが平日であろうが関係なく、売り切れるのも早い。夕方ごろに行っても、販売終了なんてざらにある。

 

「僕に?」

「うん、一人三つまでだったから買っちゃった」

「ありがとう。それじゃ僕からも」

 

 もう一つ水筒を取り出して、用意していた紙コップに注いで渡す。これも御影に渡したのと同じお茶だ。

 本来は講座の対価。しかし御影に渡しておいて、穂村は放置というのも後味が悪いと思って買っておいたのが正解だった。

 

「い、いいのかな。高いんでしょ、これ?」

「いいのいいの。むしろ返されたほうが困る」

「えへへ、ありがとう」

 

 三人で大福を頬張る。小さいが、行列が出来るのも納得の味だ。僕は並ぶのは嫌いだから、こういう機会でもないと一生食べなかっただろう。

 見立てどおり、それがかなり甘かったから、上品な苦味が少し感じられる緑茶はよく合った。

 飲み食いしながら、僕はほっとする。

 あれだけ涙を流して塞ぎこんでいた穂村が、今ではすっかり気丈に振舞っている。

 

「疑問。一つお伺いしたいのですが、今までバトルに積極的でなかったあなたが強くなろうとしたのは、千夏さんに関係があるのですか?」

 

 御影は饅頭を満足げに頬張ったあと、お茶をすする。

 穂村にとっては一番デリケートな質問だが、表情を崩すことなく、確固たる決意を秘めた目で返す。

 

「もう一度、ちーちゃんと友達になりたいから」

「疑問。あなたが強くなっても、千夏さんが勝ち抜けてしまえば、記憶を捨ててしまうと思いますが」

「だから私は強くなりたいの。二人の思い出を守るために」

 

 こんな戦いに巻き込まれてなお、穂村は笑う。強くなって、森川千夏を守る……か。

 森川が穂村のことを忘れてしまえば、もう一度最初から関係をやり直す。忘れなくとも、振り払われる手を繋ごうとする。

 絆が断ち切られようとも、何度でも希望を諦めない姿勢は、僕には眩しすぎる。

 

「伊吹さんは?」

「消えたくないだけだよ」

 

 単純な理由である。そもそもこのセレクターバトル自体が理不尽なのだ。巻き込まれた僕にとって複雑な理由はいらず、ただペナルティを回避したいというのはしっかりした答えだろう。

 それ自体に偽りはない。だけど、半分だ。もう半分、戦う理由がある。

 勝利して二枚目のコインを得たとき、僕は父に関すること、僕自身も父の息子として母を傷つけているのだと思い出した。

 だけどその後が思い出せない。僕は何を経験して、何を思って普通に暮らそうとしているのか。つまり、あれだけ自分の存在を嫌悪しておきながら、立ち直った経過が不明なのだ。

 失われたのは何か、大事な記憶だったと思う。消してはいけないはずの大切な記憶。そしてそれを怖くも感じる。

 記憶の残滓を見せつけられれば、それが気になるのが人間だと御影は言った。あのときは意にも介さなかったが、実際に体感するとその通りだ。

 頭の隅に残っている記憶の切れ端だけじゃ満足できない。

 知りたいという気持ちもある。それ以上に知らなければならない焦りが、僕を動かしていた。



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日常/前進と停滞

 何度目かになるウィクロス講座の場は、本日は趣向を変えて僕が指定した喫茶店だ。

 オープンテラスの席に座って、三人で円形の机を囲う。

 少し暑い日が続いてきたから、日陰で涼しさを感じられるここはいい。

 

「驚嘆。成長の速度は著しいですね」

「お褒めにあずかり光栄です。といっても、まだ御影には敵わないけど」

「当然。私は強いですから」

 

 御影のおかげでだいぶ洗練されてきたけど、まだまだ彼女のほうが勝ち越している。

 僕はまだまだウィクロスを始めたばかりの初心者で、彼女よりも圧倒的に経験が足りないから仕方ないが。

 本日の講義が終了し、いつもと同じく穂村が白い箱を取り出す。

 

「まふまふのチョコマフィン!」

 

 御影が感涙しそうなほどに菓子を掲げる。

 まふまふ、というのは店の名前だろうか。御影の喜びようから察するに相当の有名店だそうだが。

 袋にも入っておらず、店名やロゴなどが一切箱に描かれていないのに、少し違和感を覚えた。

 

「美味! チョコバナナは神です!」

 

 御影はいつの間にか手にとって食べていた。

 僕も箱の中から一つ頂戴する。ほのかに匂うバナナの香りが食欲を煽った。

 一口食べる。ふんわりとした生地と、確かに主張してくるチョコがマッチしてたまらない。

 

「実はそれ、私が作ったんだ」

 

 僕たちは驚いた。綺麗に形の整えられたマフィンをしげしげと見て、もう一口頬張る。

 

「ん、美味い。言われなかったら店のと勘違いするよ」

 

 見た目だけでなく、味も一級品。

 穂村と御影の間で、最初にどんなやり取りが行われていたのかは知らないから口を噤むけれど、しかし、これだけ美味いのなら、最初から作ったほうが良かったんじゃないのか、と僕は思う。

 

「えへへ、お母さんから教えてもらったとっておきのお菓子だから、自信はあるんだ」

「質問。お母様に料理を教えてもらっているんですか?」

 

 御影の質問に、穂村は顔を伏せる。

 

「お母さんは小さいころに病気で亡くなっちゃったんだ」

 

 御影はしまった、という顔をした。けども、穂村はそれ以上落ち込むことなく、続きを話した。

 

「お母さん、ずっと身体が悪くてね。ちーちゃんが励ましてくれたんだ」

 

 森川の存在は、穂村にとって大きなものであることは、既に知っている。

 依存ではない。拠りどころとして、彼女の支えになっている。

 それよりも、穂村の話を聞く限り、やはり森川千夏はあのような冷たい人間だとは思えない。

 今の年齢になるまで様々な経験があったとは思うが、穂村のことを忘れるどころか、むしろずっと覚えていたのだ。

 必要なのは、森川の頑固な考えを砕く何か。その何かに、穂村はなろうとしている。

 

「告白。私も家族を亡くした経験があります」

 

 揺れることのない友への信頼を見せられて、御影も過去と心情を吐露した。

 御影がまだほんの小さいころ、弟が死んでしまった。幼いながらに、弟を失ったことは相当なショックだったのだろう。そのせいで、抜け落ちたパズルのピースの如く、記憶にぽっかりと穴が空いた。

 弟の死に関して、思い出せることがあるなら、知るべきだと彼女は言った。

 彼女にとってセレクターバトルは希望の光だった。探しても探しても見つからないピースが、ウィクロスに勝つだけで手に入るのだから。

 それができるだけの実力と自信が御影にはある。

 思い返せば、ノートにびっしりとセレクターやブックメーカーの情報を書いていたり、毎日ネットの海を彷徨ったり。真実を知ることに関して一番必死になっていたのは、僕でも穂村でもなく、御影だった。

 

「御影が必死になるのも……」

 

 僕の言葉はそこで止まってしまった。

 わからない。僕は彼女とは逆で、記憶を消してしまいたいから。パンドラの箱を封じたままにしておきたい僕には、御影に同意する権利はなかった。

 

「いや、何でもない」

 

 誤魔化して、コーヒーをすする。

 記憶を消したくない穂村と、取り戻したい御影と、消したい森川。三者三様の目的があり、誰もがそのために強くなろうとしている。

 そんな強さは僕にはない。

 

 

「は、肇くん」

 

 誰かに呼ばれた。可愛らしく高い声は女子のものだが、錯覚だとすら思わなかった。

 見逃すはずも聞き逃すはずもない。数十センチしか離れておらず、しかも目の前にいる穂村が言ったのだから。

 ぽかんと開けられた僕の口は、阿呆のように塞がらない。

 穂村は椅子を反転させ、僕と向き合う形になると、包みから取り出した弁当を手に持って、遠慮がちに僕の机に置いた。

 

「その、一緒に食べない?」

 

 穂村の顔と弁当を交互に見る。つまり、僕と一緒に昼を過ごそうと言っているのか。

 最近は僕の友人が彼女の友人となって、穂村はクラスで孤立することもなく、昼休みはいつも卓を囲んで食事をしていたはずだ。

 その共通の友人はというと、にやにやとこちらを見ているが、来ようとはしない。何かを期待するような眼差しからして、特に仲違いしたわけでもなさそうだ。

 

「構わないよ」

 

 僕も同じく弁当を取り出す。穂村のそれと二倍近い大きさだが、僕からすればむしろ女子の弁当の小ささが気になる。

 外聞を気にしないならもっと食べたいとの弁も聞いたことがあるが、それは女子全員の切なる叫びなのか、それともそいつだけだったのかはいまでもわからない。

 それよりも気になることが僕にはあった。

 

「僕の名前知ってたんだ」

「ええと、嫌だった?」

「嫌なわけはないけど、ちょっと気になっただけ」

 

 いきなり名前で呼んでくるのは、僕の経験上ありきたりなことではない。しかもそれが女性からとなると、母と祖母しか覚えがなかった。

 

「ほら、結構一緒にいるのに、苗字だと距離感じるよね?」

 

 よね? と言われてもいまいち同感は出来ない。奏太から苗字で呼ばれたら違和感しかないが、それはずっと名前で呼ばれているゆえの気持ち悪さである。

 まあ、そう思うのは僕の乏しい過去と出会ってきた友達のせいであり、親友のことを『ちーちゃん』、最近知り合った御影のことも名前で呼ぶ彼女にとっては、僕のほうが異常なのだろう。

 

「それに、もっと仲良くなりたいし」

 

 そう言われれば断れない。僕としても、セレクターバトルのことを抜きにして彼女とは親しくなりたいと思っている。

 恥ずかしそうにはにかむ彼女に、頬を掻きながら答えた。

 

「えーと、じゃあ、すず子?」

「うん、肇くん」

 

 いっそう顔を輝かせるすず子は、めいっぱいの笑顔で頷いた。それが見られて、意を決した甲斐があったことを喜ぶ。

 ひとつ不快なのは、視界に映るクラスメイトが皆、いやらしく微笑んでこちらを監視していたことだけだ。

 思春期特有の下卑た目線をしっしと手で払い、ようやく弁当の蓋を開ける。

 すず子の弁当は、素人目にも彩りや栄養がしっかりと考えられていて、熟練を思い知らされる。

 

「それも自分で作ったのか?」

「うん、朝も昼も夜も私が作ってるんだよ」

 

 すず子の母は死んだが、生前に教えてもらったことは彼女の中に残っている。料理やお菓子、あるいは彼女の心遣いや強さといった形で受け継がれている。

 記憶は薄れていっても、実際のところ全てを忘れるなんてことは難しい。身体と心に刻み付けられている。脳以外にも記憶を収めている場所はあるのだ。

 良くも悪くも、特に身体は正直に過去を語る。

 

「肇くんって、いつもその絆創膏してるけど、治らないの?」

 

 無意識に左手で絆創膏を抑えていたことにはっとして、誤魔化すように撫でる。

 

「ちょっと傷がついちゃってさ、治るってなるとかさぶたができるだろ? いつもいつも剥がしちゃって治りかけての繰り返しだよ」

「もう、そんなことしてるとどんどん悪くなっちゃうよ?」

「わかってはいるんだけどね」

 

 早口になって怪しまれるかと思ったが、すず子は気にせずに僕を心配してくれた。

 何か変だ、と僕は感じた。今の問答だって何回もされたことがあるのに、僕は動揺してしまった。

 何故か彼女といると、いつもの僕じゃいられなくなる。少しだけ落ち着きがなくなってしまう。いつもは誰相手だってすらすらと言葉が出てくるのに、いざ彼女を前にすると言葉を選んでしまう。

 心臓が鼓動を打ってるのが自覚できるほどなのに、それがむしろ心地よい。

 

「どうしたの?」

「あ、いや、なんでもないよ」

 

 止まっていた箸を動かす。今までの昼休みの中で、一番充実した時間に思えた。

 

 

「講義は今日までです」

 

 御影がそんなことを言ったのは、すず子が教えてもらっていた最中のことだった。スマートフォンが震え、メールチェックをした彼女の目の色が変わった。

 

「バトル?」

「正解。おそらくこれが最後になるでしょう」

 

 御影の実力からいって、これははったりではない。現状四枚のコインを持っている御影が勝てば、晴れてセレクターバトルから抜け出せるだけでなく、お望みの記憶を手に入れる。

 そうなれば、心の整理やセレクターバトルについて執筆など、僕たちに構っていられる余裕も時間も無くなる。その間に、僕たちの行く末も決まるだろう。

 彼女の言う通り、講義はこれで最後。それまでで培ってきた力で、僕たちは進むしかない。

 

「私も行く」

 

 穂村も急いでカードを片付ける。

 

「はんなちゃんの最後のバトル、見届けたいから」

 

 御影は頷いた。

 すでに彼女たちは師匠と弟子だけではない。ブックメーカー探しやバトルを通じて、それだけでは言い表せないほどの情がある。

 その仲間の最後の舞台を見届けようとするのは、友人としての義理だ。

 ついていこうとした僕のスマホにもメールが届いた。差出人は里見。

 

「肇くんも一緒に来るよね?」

「悪いけど……」

 

 僕は今しがた来たメールを見せた。

 

「僕もだ」

 

 場所が書かれた本文に、少女の写真。バトルの合図だ。



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傷痕/過ちと報い

 セレクターバトルをするにおいて、路地裏は鉄板の場所らしい。道行く人の目には留まらず、誰にも邪魔されない。

 今回もその例に漏れず、集合場所に指定されたのは雑居ビルの間だった。

 すでに対戦相手は到着していて、じっと佇んでいた。

 僕はもう一度、里見から送られてきた画像を見る。確かにこの子だ。

 

「よろしく。僕は伊吹肇」

 

 三つ編みの、大人しめの少女。歳は僕と同じか少し下くらいか。

 できるだけ柔らかい声で話しかけたのが功を奏したようで、彼女の警戒はいくらか解けた。

 

「私は……」

「あのさ、別に名前とかよくない? アタシはさっさとバトルしたいんだ」

 

 彼女のルリグが割ってはいる。

 なかなかに攻撃的な言葉に、挑発的な目。里見のような気味の悪さは感じない。言うとおり、バトルがしたいだけなのだろう。

 

「私も同感ね。お互いを消しあうのに、名乗る義務も必要もないと思うわ」

 

 リィンも同意する。

 

「だとさ、かえで」

「じゃ、じゃあ、早速お願いします」

 

 彼女たちの会話に、僕は違和感を覚えた。ルリグのほうが主導権を握っている。

 奇妙だ。分身であるなら、その分身を、あるいは本体を下に敷くことは

 僕がそう思っているだけか。人間というのは様々な面を持っている。墨田がわかりやすい例だ。

 初心者狩りなんてするのは、彼の嫌らしい面も見えるが、同時に自信のなさも垣間見える。グズ子のあの弱弱しい性格が墨田の心の底を投影したものだとすれば、納得できる。 

 目の前のセレクター、かえでもそうだろう。

 強気なあのルリグは彼女の憧れであり、隅にある攻撃的な部分が表面に出たものに違いない。

 なんて、適当に分析しつつ、僕はリィンのカードを出した。

 

「オープン!」

 

 四回目ともなると慣れたもので、灰色の空間に驚きもせずに空を見上げる。

 まずはどちらが先か。時計盤の針は、黒を指している。

 

「僕の先攻か。エナチャージして、リィン、グロウ」

「私のターン。レイラ、グロウ」

 

 かえでと呼ばれた彼女は赤色のデッキ。今まで僕が赤色を相手にしたことは、そう多くない。だけど特色はなんとなくつかめている。

 高いステータスと、相手を消し去る効果で優位に立つ戦法を得意としている。

 準備に時間が掛かる僕のデッキは、少々相性が悪い。

 

「レ、レイラ……」

「言ってるだろ、攻めて攻めて攻めまくるのさ」

 

 かえでのルリグ、レイラが答える。かえでは頷いて、場を整えた。

 

「こ、攻撃します」

 

 一瞬にして、レイラがリィンの眼前にまで迫ってくる。彼女の拳を頬に受けて、リィンが倒れる。

 手数が多いわけじゃない。だが速くて強い。

 

「リィン、攻撃!」

 

 リィンが手を頭上にかざすと、光が煌いた。それは弾丸のように射出され、レイラを叩く。

 何発もの光弾に打たれて膝をついても、レイラは倒れることはない。むしろにやりと立ち上がって全身に力をこめた。

 

「こんなんじゃ足りないよ。まだまだァ! かえで、スペルだ!」

 

 言われたとおり、かえでは手札からスペルカードを発動した。

 炎を拳に纏ったレイラは、僕のシグニを蹴散らし、目の前に立つやいなや、回し蹴りを放つ。衝撃に身体を二つに折り、両膝をつくリィン。

 レイラからの反撃は、予想以上に重たかった。ガードを利用して凌ごうとしても、防ぎきれない。

 赤色の特性を活かした、超攻撃的デッキ。必殺の一撃をピンポイントでガードしないと、即座に押し切られてしまう。

 ここぞという時はいつだ。僕は大ダメージを受けるのをなんとか避けて、見極めようとする。

 相手の場を確認した。パワーの高いシグニが揃っているが、先ほどの攻撃でエナは枯渇している。

 

「リィン、グロウ」

 

 レベル3からレベル4になったリィンが、相手のシグニの足元へ魔方陣を作り出す。現れた鎖が、シグニの身体を拘束した。

 これで、かえでのシグニは動けない。

 壁がいなくなったところへ、リィンが魔方陣から槍を出現させ、放つ。目にも止まらぬそれを、しかしレイラは受け止めた。

 リィンはそれを読んでいた。指を鳴らすと槍が爆発する。レイラは吹き飛ばされたが、すぐさま立ち上がる。

 

「くくくっ、いいねえ。だけどまだまだ!」

 

 効いているのは確かだけど、勢いがまったく衰えていない。今ので少しは慎重になるかと思ったのに。

 だけど、それはあくまでレイラの話だ。かえではこの局面の意味、つまり不利な状況を理解して、手札と場に、視線を行ったり来たりさせていた。

 レイラがかえでを睨んだ。かえではびくり、と怯んだあと、手にコインカードを出現させ、場に叩きつける。

 

「コ、コインベット!」

「『ドーピング』!」

 

 レイラの全身から、どろりとした血のような、赤黒いオーラが噴出する。

 

「っ! ガードだ!」

 

 嫌な予感がして、防御の体勢を整える。

 それにも構わず、レイラは突進してきた。勢いのついた一撃は、しかしリィンには届かない。透明なバリアがリィンを囲って、敵の攻撃を防ぐ。

 

「あっはっはっは!」

 

 関係なく、何度も何度も叩きつけてくる。本来なら完全に守りきれるはずだが、こうも鋭く攻められては防御の数が足りない。

 びきびきと嫌な音を立てて、バリアにヒビが入る。

 パリン。

 ついに結界が破れ、レイラがリィンを捕らえる。頭を掴んで、思い切り地面に叩きつけた。それだけでは飽きたらず、容赦なく殴る蹴るの繰り返し。

 ぽたり、と水滴が落ちる。レイラの拳から流れる血が、リィンの肌に落ちた。結界を破るために、レイラは自分が傷つくのも構わずに殴り続けたからだ。

 肉を切らせて骨を断つなんて生易しいものじゃない。自分と相手、どちらも殺すほどの、圧倒的な凶心。纏うオーラは全身を蝕み、相手を焼き尽くす炎のように激しく揺らめく。

 両者ともお互いの血に塗れ、肩で息をしながら膝をつく。

 

「はっ、こんなもんかい?」

 

 自分の場に戻ったレイラは、傷だらけにも関わらず余裕の笑みを浮かべる。

 そこに善はありもしなかったが、悪を感じることもできなかった。ただ純粋にバトルを楽しんでいる。

 

「リィン!」

「だ、大丈夫。あなたは自分のすべきことをして」

 

 そうは言っても、全然大丈夫には見えない。

 満身創痍のリィンは、いまだ立ち上がることができないまま、へたりこんでいる。血を流し、痛みに喘ぐその姿は、今にも消えてしまいそうなほどに儚い。

 コイン技の威力を見誤った。もっと防御を厚くすれば、リィンがこんなに傷つくこともなかった。

 だけどそれも、全部なかったことになる。

 僕は頭上に手を掲げ、現れたコインカードを握り締める。

 

「コインベット!」

 

 宣言に呼応して、リィンが手を正面にかざす。

 

「『リターン』」

 

 どこからともなく鐘が鳴り、宙に浮かぶ時計の針がゆっくりと回りだした。

 鐘が鳴る。針が回る。鐘が鳴る。針が回る。鐘が……

 

 

「リィン、グロウ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「僕のターンは終了」

 

 手札とエナを温存して、僕は番を渡した。

 僕が何もしてこなかったのを不思議に思っているのだろう。かえでは不安そうに首を傾げ、手札と場に、視線を行ったり来たりさせていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「コ、コインベット」

「『ドーピング』!」

 

 向かってくるレイラに気圧されそうになるも、僕は冷静に対処する。

 

「ガード!」

 

 レイラの拳が寸前で止められる。リィンを囲うバリアが、間一髪のところで敵の攻撃を止めていた。

 

「まだまだァ!」

 

 構わず、レイラの拳が叩きつけられる。鈍い音が鳴り響き、そのたびにレイラが傷つき、バリアに割れ目が走る。

 もちろん防ぎきれないことはわかっていた。僕は貯めていたエナを放出して、さらに守りを固めた。

 

「アーツ『ダウト・クリューソス』!」

 

 レイラの拳の先に、突如黒色の魔方陣が現れる。それに触れたところ、手の先、腕、肩、ついには身体全身が消える。いや、飲み込まれたのだ。

 魔方陣は彼女の身体を飲み込んだかと思うと、勢いよく吐き出した。吹き飛ばされた彼女はかえでのフィールドに返され、叩きつけられる。

 

「チィッ!」

 

 わかりやすく舌打ちしてくれる。とっておきの一撃をかわされて、さぞ悔しいだろう。

 『リターン』。リィンのコイン技であるそれは、全ての状況を一ターン前に戻す能力だ。

 相手がどんな能力を持っていて、どういう動きで来るのか分かっていれば、対処のしようがある。そして、巻き戻された事実を知るのは、僕とリィンだけ。

 唯一変化していること=僕のコインが減っていることに気づかないと、相手は『リターン』を発動したことも知らない。

 里見が墨田から聞いたであろうこと、『伊吹肇はコイン技を使わずに勝った』というのは間違いだ。実際は、彼の戦法を知った僕が『リターン』を使って勝っただけのこと。

 

「僕のターン」

 

 『ドーピング』は自身をも傷つける諸刃の技。その証拠に、レイラは攻撃したぶん、身体が傷ついている。

 攻撃を守りきって、余裕のある今なら倒せる。

 

「攻撃だ」

 

 僕を追い詰めるための攻撃を放った彼女に、もう防ぐ手段はない。 

 決着がついて、がらがらと崩れ落ちていく彼女の足場を、僕はただ見守った。

 

 

 変だと感じたのは、勝利してすぐだ。

 バトルフィールドは崩れたはずなのに、僕の目の前には闇しか広がっていない。

 ここはどこだろう。真っ暗な空間に、僕は一人で立っていた。身動きがとれず、前を向くことしかできない。

 何も見えないかと思ったら、突然、視界いっぱいに映像が流れ始めた。僕の記憶だ。コインを手に入れたことで、取り戻された記憶が再生されたのだ。いつの頃のものだろう。

 あれは……あれは……

 

 

 あれは、父と母が離婚して間もないころ。

 母の実家にお世話になることになった僕たちだけど、母さんはすっかり抜け殻となってしまっていた。

 僕は母が元気になってくれることを祈って、少しでも元父親のことを忘れられるように、学校でこんなことがあったんだと他愛のない話題を振った。

 その瞬間、母さんは突然僕に手を上げた。

 予想もしていなかった展開に脳が揺れ、抵抗もなく床に倒れる。

 頬がじんじんと熱い。はたかれたと気づいたときには、母さんは僕に馬乗りになっていた。

 何度も何度も叩かれて、頭を床に打ち付けられた。拳さえ叩きつけられた気がする。

 

『あんたなんかっ』

 

 こういうとき、漫画だと意識が薄れていくものだけど、むしろ痛みはひどく鮮明で、母さんの言葉もやけに頭に響いた。

 

『あんたなんか生まれてこなければよかったのに!』

 

 直後祖母と祖父に押さえつけられ、僕は打撲傷程度で済んだ。

 あとで祖母が聞かせてくれたところによると、父は僕の世話をして休みがとれなくなったのが、浮気した原因の一つだと言ったらしい。

 仕事で疲れているとき、休日に心身を休めたいときに甘えられるのが苦痛だと、そう言ったらしい。

 それを聞いて、僕の中の何かが崩れた。

 あの家庭を壊したのは僕だ。幸せを願いつつも、その幸せに甘えてしまった僕が原因だ。

 それが分かった瞬間、息が苦しくなって、動悸が止まらなくなって、涙がぼろぼろと流れた。

 僕はいてはいけない人間なんだ。

 生きているだけで人の関係を壊して、あまつさえ苦しめてしまう人間なんだ。

 恋愛うんぬんどころか、生きてはいけない人間なんだ。

 じゃあ、僕はなんでここにいるんだ?

 望まれないまま生まれて、望まれないままに生を享受し、望まれないまま存在するだけ。

 きっとそこに意味なんてないんだ。

 僕がいる意味なんてないんだ。

 だったら、だったら僕は……

 だから僕は自分の首にナイフを突き立てた。

 

 次に目を覚ましたとき、僕は病院のベッドの上にいて、泣きじゃくる母に抱きしめられていた。

 あの言葉は間違いだったと、本当はそんなこと思っていないと言ってくれた。

 追い詰められた母の世迷言だと、本人も祖母も言ってくれた。

 けれど僕はその世迷言を否定できなかった。母も父も傷つけて離れ離れにしてしまい、そのあとでさらに母を苦しめ続けているのは僕だ。

 祖父の迅速な処置のせいで結局死ぬことは叶わなかったけど。

 自分の存在という罪を抱えながら生きていくしかないと言われたような気がした。それが罪に対する罰だと思った。

 怪我が治って、喋ることに支障が出なくなったときから、カウンセリングを受けることになった。

 多感な時期の少年の心に棘を立てないよう、カウンセラーは、丁寧にゆっくりとでいいから不安や不満を吐き出してごらんと言った。

 いいや、不安なんてありませんよ。ちょっとごたごたがあって、おかしくなったんだ。自殺なんてどうかしてたと言って、正常な振りをした。

 カウンセラーはこの言葉に満足したみたいで、それほど回数もかからずに僕は退院できた。

 自分自身の存在自体という罪を胸に抱えたまま。



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孤独/許容と強要

 記憶を取り戻してから、あの路地裏でずっと膝を抱えていた僕が家に着いたのは、日が変わろうかという時間だった。

 扉を開けた瞬間、母が玄関まで来て腰に手を当てる。

 

「もう、遅くなるなら連絡しなさい!」

 

 それは至極まっとうな正論だった。語気は少し荒いものの、怒っているわけではないとわかる。

 けど、僕はびくりと肩を震わせ、俯いた。

 

「ごめん……」

 

 蚊の鳴くような声で返事して、部屋に向かう。

 胸に刃を突きたてられた気分のまま着替えて、リビングに戻ると、すでに食卓に一人分の料理が並んでいた。

 母さんはすでに食べたものの片付けはまだで、シンクには皿が重ねられてあった。

 

「いただきます」

 

 これまた小さな声で言うと、箸で次々と料理を掴む。

 何を掴んでいるのか、何を口に放り込んでいるのか、味もわからない。

 けど何かをしていないと、動いていないと記憶が追いかけてくる。

 

「どうしたの?」

 

 僕は口を膨らませながら頭を振った。

 あの言葉は嘘だと母は言った。それに偽りはないのだろう。

 だけど少なくともあの時だけは本気の言葉に思えた。だから、僕は自分でも罪を思うようになったのだろう。

 

「ごちそうさま」

 

 味も分からないご飯をかきこんだ僕は、母の顔を見られずに急いで部屋に戻った。

 扉に鍵をかけて、そのままへたりこむ。

 瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。嗚咽も漏れてしまって、袖で顔を隠す。

 一人になるのが怖かった僕は、一人になるべき人間だったのだ。

 コインが一枚になるまで失ったとき、『このままのほうがいいかもしれない』と僕は言って、リィンは苦い顔をしながらも同意した。偶然にも、辛い記憶のほとんどを消し屑にされた状態の僕が、生きているに適していると。

 青色デッキのセレクター、水嶋清衣とそのルリグにも見透かされた。僕がずっと騙してきた自分の心は、その日会った少女に見抜かれるくらいに浅ましい。

 だが、開き直って、僕は悪くないと人生を謳歌して何になる? 愛し愛される価値のない僕が愛を求めても、結局誰かを傷つけるだけしか出来ないのに。そっちのほうがよっぽど醜くて浅ましい。

 

 動悸も涙も収まることを知らず、目を閉じても眠ることはできなかった。

 翌朝、着替えもせずにリビングに現れた僕に、母は何も言わなかった。いつもなら家を出る時間になっても準備しようとせず、動こうともしない僕に、やはり何も言わなかった。

 仕事に行く母を見送り、僕はそのまま家に残る。

 部屋に篭って、ベッドの上にだらりと横たわる。けどやっぱり眠気は感じられなかった。カチ、カチと時計の秒針が動く音だけが聞こえる。

 どれくらいぼうっとしていたかわからないけれど、とにかく動きたくなかった。

 そうやって何も考えないようにして、何日経っただろうか。

 スマートフォンには、奏太だけでなく、すず子からも、他何人からも何度か連絡があったが、出もせず返しもせずに放り投げた。

 気が滅入ることばかりだ。死にたくないと思って取り戻した記憶は、しかし僕が死にたいと思ったときのことだった。

 バトルに負けて記憶(コイン)を失ったときに焦りも絶望も生まれなかったのは、その記憶が捨てたかったものだったからだ。できるなら消したい、過去の遺物だからだ。

 僕には生きる意味があるのか? 生きていい理由は?

 ここにいて、誰かに迷惑をかけるだけなら、それは不必要な存在じゃないのか。

 ぐるぐるとネガティブな思考が駆け巡る。よくない。よくないが、事実だ。

 このセレクターバトルは僕の終着点だ。このままコインが消えるまで待ち、伊吹肇は消えて、リィンが僕として生きる。

 僕はもう、消えたほうがいい。

 

「本当に?」

 

 不意に、机の上に置かれたカードが話しかけてくる。

 そこに置いた記憶はないのだが、他のカードも机に散乱しているところを見ると、昨夜デッキをぶちまけたらしい。

 

「本当に、あなたは消えるだけでいいと思ってるの?」

 

 僕の心を見透かしたかのようにリィンが言う。

 鬱陶しい。

 これが他の誰かだったら、苛つきもしなかっただろう。

 リィンだから、僕の分身だから煩わしく感じる。消えたくないんだろうと、まるで僕自身に言われているような気がして、嫌な気分が増す。

 辿りついた答えを否定しないでくれ。

 僕はもう決めたんだ。

 

「リィン、一つ訊きたいことがあるんだけど」

 

 彼女の問いを無視して、僕は質問した。

 

「なに?」

「勝ち抜いた場合の報酬のうち、『記憶の改竄』ってあったよな」

「そうね。あった記憶を失くすことも、ないはずの記憶を作ることだってできるわ」

「それって、他人の記憶も操作できる?」

 

 バトルに勝つたび、蓋をしていた記憶が蘇る。何日も、あるいは何年もかけて沈めてきた感情が一瞬にして迸る。

 あと二枚のコインの中にはいったい、どんな記憶が残っているのだろう。

 しょうもない記憶か、あるいはさらに僕を追い詰めるものか。

 だが、それを取り戻さないと僕は罪に向き合っているとは言えない。少しでも僕による被害を減らせるなら、それに越したことはない。

 決心した瞬間、部屋の隅に放り投げたスマートフォンがまた震えた。ぐったりとした身体を引きずって、それを取る。

 電話だ。発信者の欄には『穂村すず子』と書かれていた。

 

 

 もうすっかり夕方になってしまった。

 朝から何も食べていないが、腹はそれほど減ってないし、昼食にしては遅すぎるし、夕食にしても微妙な時間だ。

 コンビ二で栄養バーとスポーツドリンクを買うまでに留める。

 すず子が待ち合わせ場所に指定したのは、御影からウィクロスを教わっていたあの公園だった。

 僕が着くよりも早く、すず子はベンチに座っていた。

 

「肇くん」

 

 彼女は僕を認めると、手を振ってきた。

 制服だ。そりゃそうか。今日は普通に平日だし、今は放課後になってすぐだ。

 

「こんにちは」

 

 ペットボトルに残っていたのを飲み干し、彼女の隣にどかりと座る。

 

「あ、あの……」

 

 何を言うか、決めあぐねている。

 しばらくの沈黙の後、すず子は僕の顔をちらちらと見ながら言葉を発した。

 

「その、大丈夫? 学校に来ないし、電話も出てくれないから、もしかしてって思ったんだけど……」

 

 そうか。かえでというセレクターと戦っている時点で、僕のコインは二枚。コインベットして負ければ、ペナルティを受けることになる。

 すず子としては、僕が消えてしまったかと心配だったのだ。今目の前にいる男が、本当に伊吹肇かどうかも疑っているに違いない。

 

「ごめん、ちょっと疲れてただけなんだ」

 

 リィンのカードを持ってくればよかった。そうすれば信じてもらえたはずなのに。

 またしても沈黙。

 

「御影はどうしたんだ?」

「勝ったよ。コイン五枚を手に入れて、記憶も取り戻したはず。でもすごく苦しんでた」

 

 バトルに勝ち、望んだとおり記憶のピースを手に入れた。だが次の瞬間、御影は外聞も気にせずに泣き叫び、謝り、血が出るほどに地面を掻き毟ったそうだ。

 失われた記憶へ必死に手を伸ばす。それが必ずしも希望だとは限らない。御影にとってはむしろ、絶望がゴールだった。それを忘れたくても、もう彼女はセレクターじゃない。忘れるか引きずるか、その選択肢は彼女に残っていない。

 

「はんなちゃんも、あれから学校に来てないんだ」

 

 御影は何度も『ごめんなさい』と叫んだらしい。

 そのことと弟が死んだことを重ねると、つまり御影は、弟を死なせてしまった原因は自分だと思っているのだろう。

 真実はどうかわからない。だが、そう感じてしまったのなら、引き篭もるには十分すぎる理由だ。

 このままでは、おそらくずっと出てこないだろう。一人で抱えるには、あまりにも重すぎる。

 

 

 自分のことで精一杯なのに、僕はなぜここまで来たんだろう。

 身体は重たいまま、だけども動かずにはいられなかった。穂村に案内を頼み、御影の家へと連れて行ってもらった。

 大きなマンションの一室。

 チャイムを鳴らすと、御影によく似たすらりとした女性が現れた。御影の姉だ。

 突然の訪問にも関わらず、怪訝な顔もせずに、僕たちを招き入れてくれた彼女の顔は、少しやつれているように見えた。

 リビングに案内され、椅子に座る。僕は部屋を見渡した。

 収納たんすの上に置かれた車やロボットのおもちゃが目を引く。明らかに御影や姉の趣味ではない。これが弟のものだろう。

 他の物は処分したのだろうか。それらだけがこれみよがしに置かれていて、なんだか執着じみたものを感じる。

 忘れてはいけない。捨ててはいけない。

 前に進むことは、過去にけじめをつけること。それは決して過去を捨てるということではない。犯した罪に縛られ、背負うことを決め、その重さを感じながら生きるということだ。

 だけどその罪が自分を押しつぶしてしまうほどに重かったら、どれだけ報いても取り戻せないと知ったなら……

 

「男の友達もいたなんて驚き。はんなちゃんはずっと一人だったから」

 

 御影の姉さんが紅茶を淹れてきてくれた。

 友達。

 そういえば、僕と御影の関係はどういうものだろう。セレクター同士。理不尽なバトルに巻き込まれた被害者。師匠と弟子。

 協力したことはあったが、彼女が僕に心を開いてくれたことはあっただろうか。

 

「そう言われたことはないから、どうですかね」

 

 わからなくなって、そんなことを言ってしまう。

 ここは友達だと言い張って、少しでも姉を安心させてやるところなのに。

 促されて、椅子に座る。御影姉は対面に座って、僕に紅茶を差し出してきた。

 

「少なくとも、私よりは信用されてるわよ」

 

 御影は、姉にすら話せていなかった。求めるものも、自分自身を縛りあげるものも、取り戻したものも。

 話せるわけがない。昔の話を掘り返して、もう一度姉の心を傷つけるわけにもいかない。

 誰かに責めたてられるのが怖くて、相談もできない。そして、たった一人でずっと自分を責め続けるのだろう。

 

「辛いと感じたとき、一人だと感じたとき、いつだって味方であるべきなのは家族です」

 

 考えるよりも先に、口から言葉が出た。そうであるべき、そうあってほしいと願った。

 友達も退けてしまった御影に必要なのは、家族だ。

 そして家族には、御影のことを守ってほしい。彼女が潰されてしまう前に。

 

「ありがとう」

 

 

 姉からの話によると、御影はご飯は食べているものの、部屋からはまったく出ないらしい。

 御影姉とすず子に、一対一で話させてくれと頼んで、僕は一人で御影の部屋の前に立った。彼女の部屋の扉からは、なにか陰鬱な雰囲気を感じる。

 こんこんとノックする。予想通り返答はなかった。

 

「御影」

 

 名前を呼んでも、やはり返事はない。

 

「聞いてるかどうかわからないから、とりあえず喋るよ。すず子が心配してた。すず子が作ったお菓子は食べてるみたいだね。お姉さんから聞いた」

 

 ドアの前で説得するなんて、姉もすず子も散々やっただろう。

 それでも僕は、何もしないという選択ができなかった。一人で抱え込む様子に自分を重ねてしまったのだろう。せめて彼女には、僕と同じ間違いを犯してほしくない。

 誰にも何も明かさず、一人で答えを出すことをしてほしくなかった。

 そして彼女もまた、抱えたままでいたくはないはずだ。だから僕たちに弟を亡くしたことを話した。

 身内に言えるはずのないことを、ようやく吐き出せたのは、僕たちのことを少しは信用してくれていたからじゃないのか。なら、僕たちはそれに応える義務はなくとも、権利はあっていい。

 

「御影。たぶん君はすごく怖いことか、嫌なことか、とにかく辛いことを思い出したはずだ」

 

 僕もそうだ、とは言わずに続ける。

 

「それでも、君を見捨てられない人がいる。見捨てたくないと思う人がいる」

 

 何かが動いた気配がした。

 

「君にもすず子にも、友達が必要だと思う。お互いのことを知っていて、事情を知っている誰かが」

 

 人間は一人では生きていけない。昔から腐るほど聞いてきたフレーズだけど、今はよく分かる。

 生きている限り、人は罪を犯して、十字架を背負う。それを赦して、赦されて、支え合える誰かが必要なのだ。

 あるいは仲間か、あるいは友達か、あるいは家族か。

 

「君がすず子を友達だと思ってくれるなら、もしくは少しでも先に進みたいと思うなら、すず子と話してほしい」

 

 すず子と、と限定したのは、僕が御影にかけるべき言葉を持ち合わせていないからだ。

 御影を先に進ませることは、僕にはできない。僕ができなかったから。

 苦い想いを共有したのは、すず子と御影だ。僕は心の内をさらけ出すことができず、罪を持ったまま。

 間違いだとはわかっている。いつかは、僕は僕自身に押し潰されてしまうだろう。だけども彼女たちは自分のことだけでも精一杯だ。そこに、僕のことまで背負わせたくない。

 だから僕は御影の支えになれない。その資格がない。

 返事はなかった。これ以上話すこともない。

 僕はドアの隙間から、紙を入れた封筒を差し込んで、その場を去った。

 

 

「はんな、どうだった?」

 

 リビングに戻るなり、御影姉はそう訊いてきた。待っていた穂村も期待のまなざしを向けてくる。

 一言も話してくれませんでした。そう言うと、彼女たちは肩を落とす。

 僕は御影姉の正面に座った。

 

「妹さんは、たぶん、とっても重いものを一人で抱えています。そんな彼女に、知った顔で知ったふうなことは言えませんけど……」

 

 彼女たちはゆっくり顔を上げた。

 

「きっと、たった一言欲しいだけなんですよ」

 

 自分のことを考えてくれている本心を、素直に受け止めることができたなら、御影は立ち直ることができる。

 僕にはそれができなかった。

 一人で抱え込んで、膝を抱えて、塞ぎこんで、引き籠って、一人だけで答えを出した。

 その有様がこれだ。前へ進むこともできず、過去に囚われ、未来への扉を開けることを拒んだ。浮き沈みのある人生を嫌って、怖がって、避けてきた。

 停滞と後退を繰り返す人間の末路は、誰を愛することも許されず、誰かからの憎しみに潰されることを恐れて、ただそこで腐っていくだけの形骸だ。

 セレクターバトルの真実を知って、死にたくない、消えたくないと願った。本能が死への恐怖へ叫びをあげた。だけど、存在していて何になるのだろう。

 未来に恐怖して、過去に縋って、頼る過去にすら不必要だと言われた僕の生きる意味は……僕の生きる意味は……僕の……生きる意味は……

 

 

 まだ陽が沈む前なのに、やたらと寒く感じた。上着のポケットに手を突っ込んで、肩を縮める。

 御影の家からの帰路。すず子と僕はほとんど喋らずに歩を進めていた。

 

「どうかしたの?」

 

 会話のない陰鬱な空気に耐えられなくなったのか、すず子が口を開いた。

 

「なんだか今日は元気ないように見えて……」

 

 だんだんと尻すぼみになる。 

 森川からは絶交を言い渡された。御影は顔も見せてくれない。セレクターバトルに関して、すず子が話せる相手は、もう僕しかいないのかもしれない。

 それでも僕は……

 

「肇くん?」

 

 僕は歩を止めた。すず子も足を止めて、こちらに向き直る。

 

「すず子、もう僕に話しかけないでくれ」

「え?」

 

 何かの聞き間違いか、硬直してしまったすず子は、あの時森川に残酷なことを告げられたときと一緒の顔をした。

 

「今から、僕と君はなんでもない関係だ。共闘する仲間でも、友達でもない」

「な、なんでそんなこと言うの?」

 

 すず子が僕の肩を掴んで揺らす。手は震えていて、声も震えていた。目の端には涙さえ浮かべていた。

 

「何かあったの? 誰かに何か言われた?」

「僕のことはもう放っておいてくれないか」

 

 彼女の問いには答えずに、僕は淡々と述べたつもりだった。冷徹な男を演じきれたつもりだった。

 自分の顔が熱くなり、目が潤んでいることに気づいて、歯を食いしばって抑える。

 

「もしこれ以上纏わりついてくるなら、僕は君を敵として見る。君にバトルを仕掛ける」

「放っておけないよ。だって、肇くんは私の大切な友達だもん」

 

 ぐっと胸が締めつけられる。

 大切だと言ってくれるのが嬉しかった。

 けどその記憶が、すず子の枷になる。彼女が自身を、もしくは誰かを守るときの枷になる。

 ようやくここまでなれた僕たちの関係は、しかし呪いだった。僕の存在が、すず子の足を引っ張る、判断を鈍らせる。すず子が本当に守りたいものの邪魔をする。

 彼女がいてほしいと言った『僕』という存在が、彼女を縛りつける鎖になっている。

 そんなこと、僕は望んじゃいなかったのに。

 すず子は森川千夏を守るために戦うことを選択した。だから、僕も選択しなければいけない。僕がこれからどうするかを。

 彼女に触れようとして、やっぱり手を引っ込める。もし触れたなら、触れることができたなら、僕の決意はろうそくの火のように掻き消えてしまうだろう。

 代わりに、僕の肩を掴む手を、下がることで振りほどく。

 

「肇くん、どこに行くの?」

 

 僕は答えずに、振り向かずにすず子から離れた。

 はっと僕を見る彼女の頬を、涙が伝う。

 笑顔が素敵なはずの彼女の目から、とめどなく涙が溢れ出る。

 きゅうっと心臓が締め付けられる。

 自分で首に傷をつけたときよりも、母に殴られたときよりも、生まれてこなければよかったと言われたときよりも、痛くて痛くて仕方がない。

 全て気の迷いだと謝って、先ほどまでの会話をないものにしたかった。

 それももうできない。許されない。

 すず子を泣かせたのは僕なんだから。

 目を背けて、踵を返して、僕はその場から離れる。一歩一歩、離れるたびに足が重くなる。

 

「本当にいいの?」

 

 すず子の姿が見えなったとき、リィンが問うた。

 

「いいかどうかは知らない。けど決めたことだ」



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断裂/縁由と別離

 勝ち抜けまであと二勝。

 御影からの指導とコイン技のおかげで、順調に勝ち進んでいる。僕の目標までそう遠くはない。

 ブックメーカーによるマッチメイクは、ムラがあるものの、だいたい二日から三日で一戦。全勝すれば、あと一週間足らずでバトルを終わらせることができる。

 問題は、僕の望みどおりにことが進むかどうかだ。

 リィンの話によれば、セレクターバトルを勝ち抜けた報酬は、あくまで『自分自身の記憶の操作』。他人の記憶に干渉できるかどうかはわからないそうだ。

 だが、僕はそこに希望を持っていた。ルールやペナルティについて知らされているはずのルリグが、『できない』ではなく『わからない』と言っている。

 ならばチャンスはあると思っていいだろう。

 

 浮き沈みのない、いや、沈んだままの日が続いた。快晴の空も夕焼けも、僕の目には変わらず灰色に映る。

 寝られない日も続いている。目を閉じれば、悪夢がよってたかって僕を襲ってくる。

 そんな寝不足の頭では授業を受けても何も入ってこない。ちらちらとこちらを見るすず子に気づかない振りをして、窓の外に映る雲を目で追いかける。

 僕たちの様子を、クラスメイトたちは恐る恐るといった感じで、遠目に見てきた。最近は休み時間も昼も放課後も一緒だったのだ。急に険悪な空気になっているのが気になるのだろう。

 無気力な僕と落ち込んでいるすず子。周りはどちらが悪い行動をしたのか計りかねているようで、その話題を振ることを避けていた。

 放課後になり、せつかれたようにさっさと鞄を掴んで立ち上がる。すず子は僕に話しかけようとしてきたが、無視した。

 

「伊吹さん」

 

 誰を待つでもなく、誰を誘うでもなく、一人で帰ろうとした僕を、校門で引き止める一人の少女がいた。

 

「御影。もう学校に来てたんだな」

「はい、おかげさまで」

 

 ぺこり、と頭を下げられた。

 その顔にまだ幾分かの影が差しているが、もう元通りになったみたいだ。少なくとも、部屋から出て学校に来られるくらいには。

 僕が彼女の家に行ってからまだ数日。思ったより早い回復だ。

 

「僕は別に……」

「あなたとすず子さんのおかげです」

 

 僕が言い終わる前に、彼女は言い切った。

 

「伊吹さんがいなければ、私は立ち直れなかったかもしれません。ありがとうございます」

 

 そんなことはない。

 僕がいなくとも、誰かが代わりになる。それどころか、僕はいらなかったのかもしれない。御影姉やすず子がいれば、道を示してくれる。

 僕がやったことと言えば、彼女たちに頼ることを進言しただけなのだから。そう思いつつも、問答をするつもりはない。

 

「話はそれだけ? なら僕はもう行くよ」

「すず子さんから聞きました。あなたに、もう近づくなと言われたと」

 

 立ち去ろうとする僕を、御影は言葉で止める。

 

「疑問。どうしてそこまでするんですか。どうして、この手紙を書いたのですか……!」

 

 御影が取り出したのは、くしゃくしゃになった一枚の紙だ。

 あの日、彼女の部屋の前で僕がひとしきり話した後に、扉の隙間から差し込んだもの。『心に余裕が出来たなら、読んでくれ』と書いた封筒の中身。

 それをぐしゃりと握る彼女の顔は、怒りと困惑と……悲哀に満ちていた。

 

「あのとき、あなたが私の部屋の前に来てくれたとき、あの言葉で私は救われました。私には家族がいる。私を友達と思ってくれる人がいる。すず子さんがいる。伊吹さんがいる。その人たちのためにも、失った悠斗のためにも、私は前に進まないといけない。進む資格がある。進む権利がある。そう教えてくれたあなたが、なんで、どうして、全部振り払おうとしているんですか! 何をする気なんですか!」

 

 学校終わりの生徒たちが奇異の目でこちらを見る。

 そんなことは気にせずに、御影は手紙に書かれた文字を僕に見せつける。

 見るまでもなく、僕はそこに書かれている文を知っている。それでも彼女は濃い筆圧で書かれたそれを、目の前まで迫らせる。

 

「『すず子を僕に近づけさせるな』。この手紙の意味は何なんですか!」

「そのままの意味だよ」

 

 御影は賢い。だからその言葉だけで気づくか、あるいはもうすでに気づいているものと思っていた。

 混乱しているだけだ。冷静になって考えれば、僕の意図をわかってくれるだろう。

 そう信じて、僕は彼女に短い文だけを残した。だけど今の御影は、その簡単な答えに辿りつけないほど余裕がない。

 

「すず子さんのっ……すず子さんの顔を見ても同じことを言えますか?」

「言ったさ」

 

 目の端に涙さえ浮かべる彼女に、僕は言い放った。

 

「同じことをね。いや、それよりも酷いことを」

 

 ちゃんとすず子の顔を見て、決別の言葉を投げた。彼女の気持ちを無視して、それでも別離を告げた。

 納得できずに、御影は僕の手を掴む。すず子と同じように震えているそれは伝播して、僕の腕を小刻みに動かす。

 

「今のすず子さんは、千夏さんを守ろうとして強くなろうとしています。あの人のそばには、あなたが必要なんです」

「君にはすず子が必要だ。すず子にも君が必要だ。だけどそこには……」

 

 そこには僕はいない。

 

 

 こんなことを思うなんて夢にも思わなかったが、今この瞬間においては、里見紅は一番安心できる相手だった。社交辞令も良い顔も必要なく、罪悪感なく嫌悪感を全面に押し出せる相手。そいつがいるとわかっていると、喫茶店の扉を開いた時点で心が動かなくなる。

 

「勝利おめでとう」

「どうも」

 

 心にも思っていないことを言われていると分かっていると、逆に落ち着く。こいつの話は、反応する意味のない戯言だと分かるからだ。

 

「これで三枚。危険からは脱出ってところかな」

「とりあえずは、ですけどね」

 

 また負けてしまえば、二枚か一枚に逆戻り。そういう意味で言えば、コインを何枚持っていようと危険なことには変わりない。

 またしても奢ってもらったコーヒーをストローでかき混ぜる。どれだけ混ぜても色も味も変わらないそれを、何を考えるでもなく眺めていると、店の入り口が開いた。

 気にせずにコーヒーを飲んでいると、僕と里見の間にぬっと森川が割り込んできた。

 

「これ」

「ああ、ありがとう千夏ちゃん。今回も早かったね」

 

 以前見た時と同じように、森川は数枚の紙を渡し、里見からは封筒が渡される。代理契約とその報酬だ。彼女はそれをさっさと受け取り、肩掛け鞄の中に仕舞う。

 すぐさま去ろうとする彼女を、僕は言葉で留める。

 

「待ってくれ森川」

 

 森川は無視することなく、しかし怪訝な顔をして僕に向き直る。

 誰、とは訊かれなかった。あの時の公園に、僕もいたことを片隅に覚えているのだろう。

 

「君の願いは、すず子に関する記憶を消す。そうだったよな」

「ええ」

「なんで引き伸ばしてるんだ?」

 

 森川の眉がぴくりと動く。

 

「何が言いたいの」

 

「すず子のことを忘れたいのなら、もっとバトルをすればいい。なのに勝ち抜けしないのは、単純に君の実力が弱いからか、迷っているからか」

「弱いかどうか、迷ってるかどうか、見せてあげてもいいけど」

 

 彼女はポケットからルリグカードを取り出す。するりとした肢体と髪をもつ緑色のルリグ。名前は確か……メル。

 明るく笑ってみせるメルの顔に、どこかしら見覚えがある。

 いいや、今はそんなことどうでもいい。僕は森川の目を見た。まっすぐ僕を射抜く強い眼差しは、負の感情で塗りつぶされている。先ほどの言葉にも怒りが満ちていた。

 

「いや、やめとく。バトルしたいわけじゃないし」

 

 それに、森川が決して弱くないことを知っている。墨田に対して、押されているように見えながらも終始主導権を握っていたのは彼女だ。

 並大抵の実力者じゃない。

 僕が彼女を呼び止めた目的は、これからだ。

 

「ただ、すず子のことを避けて、すず子と決別するなんておかしいと思っただけだよ。このセレクターバトルのルールさえなければ、君はたぶん決別(そう)しようとすることもできなかっただろうね」

 

 わかりやすく挑発ぎみに言うと、バン、と机が叩かれる。憤怒の炎を目に宿らせる森川が睨んでくる。

 

「好き勝手言わないで」

「なら、好き勝手言わせないようにしないとね」

 

 数秒見つめあったあと、森川は鼻を鳴らして店から出ていった。

 僕はほっとする。無理矢理にでもバトルするなんて言われたら、どうしようかと内心ひやひやしていた。

 とはいえ途中からそうならない確信はあった。森川の目と表情には、怒りに隠れて動揺が見えた。僕が言ったことが、遠からずといったところだろう。出ていったのも、話を切り上げたかったからだ。

 それまで押し黙っていた里見が、ついに堪えきれなくなったように大笑いし始めた。

 

「なんですか」

「結構言うね、伊吹くん。千夏ちゃん相手にあそこまで言うなんて、見直しちゃったよ」

 

 なおも笑い続ける里見を無視して、僕はコーヒーを飲んだ。

 

 

 ここ最近は運の良いことに、ホームルームが長引くこともなく、放課後にすぐ教室を出ることができていた。

 しかし、それが長く続くこともなく、今日は

 やたらと長いと感じるのは、目の前のすず子から一刻も早く離れたいと思っているからだろうか。

 ようやく先生の長ったらしい話が終わると同時、僕は鞄を持って立ち上がる。

 前の席の持ち主は、くるりと振り返る。すず子はいつもと同じように、目で訴えてくる。

 

『肇くん、どこに行くの?』

 

 すず子に絶交を告げた時、彼女はそう言った。

 僕の行き先はどこか。そんなこと決まってる。僕と君の道は、交わることなく続いて終わる。

 すず子から目を逸らして、僕はさっさと教室を出る。

 

「肇」

 

 声をかけてきたのは奏太だった。

 突然、すず子と僕が喋らなくなってしまったこと、そして一年生である御影に詰め寄られたことは、意外にも噂になっているらしく、それとなく探りに来る者も多い。

 そんな中で彼だけは、一言としてその話題を出すことはなかった。

 セレクターバトルでいっぱいいっぱいの僕に訊いてきたことと言えば、この間無断で何日か休んだことだけだ。それも、調子が悪かった、とだけ言うとすぐに引き下がる。

 表面上は相変わらずだが、僕のことを気にかけてくれているみたいで、ちょいちょい様子を見に来ては他愛のない話をする。

 その気遣いが、今の僕にはこれ以上ない救いだった。

 僕の過去を唯一知る友人としての、最大限の配慮なのだろう。

 特に突っ込んだ話もせず、僕たちは帰路を歩く。

 とても遊ぶ気にはなれなかった。まだ身体の調子が戻ってない、と嘘をついて、寄り道することなく家を目指す。

 

「あーあ、どっかにいい女の子いないかねぇ」

 

 手で顔を扇ぎながら、奏太は心底つまらなそうな口調で言う。

 

「奏太の言う、いい女の子ってどんなの」

「可愛くて、スタイル良くて、優しい子かねぇ」

「そうやって求めすぎるから、いつまでも奏太は独り身なんだよ」

「だとしたら、彼女ができるのは肇のほうが先ってか?」

 

 いひひ、と嫌みのない笑いを浮かべているが、ほんの少しだけ口角が下がったのを見逃さなかった。

 しまった、とでも思っているのだろうか。僕とすず子の不和を、恐らく相当デリケートなものとして捉えているのだろう。友人として、僕をそっとしておきたいけれども、好奇心が勝ってしまったことを恥じている。

 

「それはないよ」

 

 僕は平静を装った。

 

「ずっとないんだろうな」

 

 すず子との関係が終わったことを……始まってもいなかったことを遠回しに告げ、彼への答えとする。

 多分、僕はずっとこのままで、掴まれる手を振りほどいて、かけられる言葉を流す。

 

「言いたいことがあるなら、気にせずに言ってもいいんだよ」

 

 奏太はうーん、と天を仰いでしばらく悩んだが、結局頭を横に振った。

 

「間違ってるとか、そんなのは他の奴らが言うだろうし……俺が出来るのは、お前に何があっても、変わらずに遊ぶくらいだからなー」

 

 こういうことを言うやつだから、僕は奏太と一緒にいる。

 深く柔らかい部分を傷つけず触らず、それでいて離れない絶妙な距離。それを保つのは友人といえども、いや友人だからこそ難しいはずなのに、彼は決してそこから近づこうとしない。

 そんなつかず離れずを維持しているから、なんとか変わらない友情を続けていけているのだろう。

 もし彼が少しでも踏み込んできたなら、僕は……僕はどうしていただろう。

 

『肇くん、どこに行くの?』

 

 すず子に絶交を告げた時、彼女はそう言った。

 僕はどこにも行かない。僕はどこにも行けない。

 

 

 奏太と別れて、マンションが近くなってきたころ、ポケットの中でスマートフォンが鳴る。相手はブックメーカー、里見紅だ。

 

『肇くん、次の相手が見つかったよ』

 

 歩きながら応答すると、里見は開口一番上機嫌な声でそう言う。下卑た笑いを隠そうともしない、いやらしい声。

 切ってしまいたい気持ちを抑えて、僕は続きを待った。

 

『いや、というより君をご指名だ』

 

 わざわざ僕を指名する奴なんているのか?

 相手の場所を聞き出そうとすると、すでにこっちに向かってきてるという。

 くくく、という里見の笑い声を聞きながら数秒、そいつは現れた。

 僕と同じ学校の制服。鞄につけたストラップは、よく見慣れたものだった。

 

『どうしても君と戦いたいってさ。俺は君の場所を教えただけ。やるかどうかは君次第だよ』

 

 そこにいたのは、すず子だった。リルのカードを持って、僕を見る。

 僕は歯軋りして、通話を切った。

 『里見紅は、伊吹肇と穂村すず子を戦わせない』。ブックメーカーとの契約の際に交わした条件は、あくまで里見がこの二人をブッキングしないということだ。

 すず子に僕の居場所を教えるのは、確かに契約に反してはいない。

 そして里見が教えたにせよ、すず子が求めたにせよ、彼女が僕の前にいるということは……

 

「待ってたよ」

 

 彼女はルリグカードをすっと掲げた。その仕草だけで、何のためにここにいるのかがわかる。

 

「僕と君は、お互いに戦わないと約束したはずだ」

 

 一番最初にそう約束した。今までその約束は反故にされることはなく、僕たちは一緒にいながらも戦うことはなかった。

 

「でも、こうでもしないと、話してくれないよね」

 

 纏わりつくな。

 そう言って僕は彼女から離れた。でもすず子は僕のところへ来た。彼女を見ないようにし、聞かないようにし、一心不乱に遠ざけた僕と話すために。

 

「肇くんのこと、心配だったから」

 

 酷い扱いを受けてもなお、すず子は僕を心配してくれている。自分自身も、森川千夏という一番の親友に遠ざけられて、苦しいはずなのに。

 すず子は親友を守るために強くなろうとした。どんな言葉を浴びせられても、どんなことをされても、親友を信じて、帰ってくると信じて。

 僕にもそんな強さがあれば、どれだけよかっただろう。

 弱く脆い自分自身に腹が立って、語気が荒くなる。

 

「纏わりつくなって言ったはずだ!」

「それでも! 大切な友達だもん!」

 

 そんなことを言わないでくれ。

 僕は君を突き放した。君を敵だと言った。

 友達でいられる資格なんてないんだ。心配される資格も君と話す資格も。

 問答をすればするほど、僕の気持ちが揺らぐ。今ここでバトルを拒否して、すず子に謝って、友達に戻れたら……

 そんな甘い気持ちを振り払って、僕はカードを胸ポケットから取り出す。

 

「いいだろう、バトルしてやる」

 

 こちらを向くリィンは心配そうに見つめる。お前までそんな顔をしてくれるな。俺はもう決めたんだ。

 ここで絶つしかない。

 

「ただし、僕が勝ったら二度と話すな、近づくな」

「……わかった」

 

 お互いにカードを前に突き出す。

 

「オープン!」



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決別/嘘と真実

 先攻なのはありがたかった。赤色デッキに対して後手に回るのは不利になる。

 僕はできるだけすず子の目を見ないようにして、盤面に集中する。

 練習の過程で、彼女とは何度も戦った。違いは、それまでのはカードの使い方やコンボを試す場であって、こんな真剣な勝負じゃなかったということだ。

 お互いの手は知り尽くしている。問題は、リルのコイン技だ。振り返ってみれば、僕はコインを賭けた彼女のバトルを見たことがない。戦うこともないだろうからと、彼女のコイン技を気にしたことがなかった。警戒に値するとすれば、第一にそれだろう。

 

「アタック!」

「ガード」

 

 知った攻撃を、知られた手段で躱す。知られた攻撃を、知った手で受け止められる。

 誰もが干渉しえない空間の中で、お互いが知ったお互いをぶつけ合う。

 

「何があったか言って」

 

 僕は黙る。

 

「言ってよ!」

 

 リルの剣先から、一筋の光が迸る。光線と見紛うそれは、純然たる火だった。

 まっすぐ向かってくる火に合わせて、リィンが魔方陣を盾にして弾く。

 

「断る」

 

 リィンが宙に魔方陣を描き、そこから何本もの槍を射出させる。リルが剣を構えるも、防ぎきれずに押し切られる。

 テーブルを転がったリルはぱっと立ち上がり、憎々しげに僕を睨む。

 

「あなたのこと、信じてたのに」

「信じなくていい。スペル『グレイブ・メイカー』、続いて『パープル・ステイン』」

 

 さらなる連撃もリルは一身に受ける。いくつかは弾いたようだが、傷は身体にいくつも刻まれた。

 それを見て、すず子もようやく険しい顔になる。

 

「本気なんだね」

「それがこのセレクターバトルだろうが」

 

 すず子は強い。

 いつもはどこか抜けていて、危なっかしいところがあるが、いざとなった時に折れない心が一番厄介だ。どんな状況でも堕ちることなく踏ん張る姿勢が活路を導きだす。

 今のバトルも必死に勝とうと焦ってはいながら、プレイングミスの無いように冷静に盤面を見据えている。これが普通なら難しい。

 練習と本番はどうしても心の持ちようが違ってくる。いつもなら出来ていたことが急に出来なくなることはそう珍しくはない。

 御影と積んだ時間と経験を反芻して、努めて前を向く。すず子はそれほどまでに成長した。

 

「スペル『相違の総意』!」

 

 リルから放たれた鮮やかな炎が、陰鬱な空間に煌めく。蛇のようにうねるそれはリィンを飲み込んで、嵐のように過ぎ去っていく。

 息を止めていたのか、それとも熱風を吸い込んでしまったのか、盛大に咳き込む僕の分身は、顔を俯かせたまま佇む。

 同じように、決して誰とも目を合わせない僕に、すず子は言葉を投げかける。

 

「肇くんがこのバトルに真剣なのはわかる……けど、どうしてもあなたの言葉が本気のものだと思えないの」

「知った気になるなよ」

「知ってるよ」

 

 すず子は僕をじっと見たまま、視線を外さない。

 

「短い間だけど、一緒にいたから」

 

 僕が出会った中で、穂村すず子という少女は、共にいた時間で言えば下から数えるほうが早いだろう。

 それでも、と。過ごした時間は関係ないと彼女は言う。相手を知るのに必要なのは、時間だけではないと。

 

「君がどう思おうと、本当のことがどうだろうと、僕は君を捨てた。これだけは事実だ」

「肇くんが言ったんだよ。絶交されても、関わってはいけないなんて決まりはない。放っておけないなら、放っておく意味はないって」

 

 僕は顔を逸らした。

 

「すず子、あれしかない」

「うん」

 

 リルに促され、すず子は空に手を伸ばす。その先に現れたのはコインカード。彼女はそれを思いきり掴み、テーブルに叩きつける。

 

「コインベット!」

「『オーネスト』」

 

 きらきらと星屑のような光の粒があたりに降り注ぐ。

 初めて見るリルのコイン技。僕は警戒して、手札を一瞥。防御アーツもある。このターンの攻撃は防げる。

 

「肇くん、あなたはセレクターバトルに勝って、何をするつもりなの?」

「僕は……っ」

 

 意思に反して、簡単に口が開いてしまった。そういうことか。

 『正直者(オーネスト)』。その効果は、相手に嘘をつけなくすること。そして、すず子からの問いからは逃げられない。

 どんなカードも関係なく、とっさに閉じた口もついには開いてしまう。

 

「僕はこのバトルを勝ち進んで、君の記憶を改竄する」

 

 言ってしまった。僕の目的がばれてしまった。

 予想外の展開に、折れそうなほど歯噛む。

 本来なら相手の戦術を言わせる技なのだろうが、今回は僕の本心を暴くために使われた。

 

「私の?」

 

 きょとんとするすず子に、僕はまたしても正直に答えてしまう。

 

「君の中から、僕の一切を排除する」

「そんな……そんなことして、何になるの!?」

「僕の存在が君の邪魔になってる。僕の存在が、森川千夏ともう一度友達になるという君の決意を鈍らせることになる。だから君の中にある僕の存在を、完膚なきまでに消し去る」

 

 逃れられないとわかったあとは、自分でも驚くほど冷静だった。冷たく真実を話す。

 すず子はバンとテーブルを叩く。

 

「私はそんなこと望んでないよ!」

「望んでいようがなかろうが関係ない」

「どうしてそこまで私の記憶を……っ」

 

 胸に手を当てて苦しむすず子。

 そんな顔を見たくなかったから、君を遠ざけたのに。なんで、なんで、僕の言葉で君を傷つける様を見なければならないんだ。

 なんで君はそんなにも、僕を捨てられないんだ。

 涙さえ浮かべるすず子は、僕の顔を見て質問する。

 

「私のことが嫌いなの?」

 

 やめろ。その質問はやめろ。

 

「僕は君のことが……」

 

 僕は慌てて口を噤む。

 だけど、まだコイン技の呪縛から逃げられなくて、口を開いてしまう。

 

「君のことが……っ」

 

 だめだだめだ。それだけは言ってはいけない。

 ずっと隠してきた。自分すらも騙してきた。だからここまでバトルを続けてこれたのに。

 言ってしまえば、自覚してしまえば、僕が選択したことが、後悔へと繋がることを認めてしまう。

 盤上をいくら探しても、喉を潰せるようなものはない。あるのはカードだけ。このバトルの勝敗を決めるカードだけ。 

 喉から搾り出された声が、心の叫びが、ついに口から漏れる。

 

「君のことが好きだ……っ。すず子。僕は心から、心の底から……君のことが好きなんだ……っ。だから、君の幸せのために、僕を消す……っ」

 

 力なくテーブルに拳をつく。

 そう、僕はすず子のことが好きになってしまっていた。人を愛する資格のない僕が、人を愛してしまった。

 すず子にはこれ以上、心労をかけるような相手と接して欲しくなかった。少なくとも僕と接点を作ってはいけない。もし少しでも接してしまえば、そのたびに僕はすず子を好きになってしまう。

 僕自身の記憶を消しても、彼女はきっと再び僕と友達になってくれるだろう。

 そんな優しさに、僕はまたきっと恋をしてしまう。そしてそんな彼女を傷つけてしまうだろう。

 僕の気持ちはきっと彼女を破滅させる。それがわかってるから、彼女の記憶を消してしまおうと、そう思っていたのに。

 

「そんなこと知っちゃったら、もう忘れられないよ」

 

 驚いたすず子の顔は困惑していて、寂しそうで……なんだか少し嬉しそうだった。

 それを見た僕は、手にコインカードを持つ。

 

「いいの、肇?」

 

 もし君が友情も、愛想すらなく僕を嫌ってくれたら。もし今の話で僕を気味悪がってくれたなら、それで良かった。それなら脅す必要も、何か条件をつけることもなく、離れることができただろう。 

 だけどそんな表情をされたら僕は……っ。

 がりがりと削るように、首の絆創膏を掻く。痛覚が悲鳴を上げても止めずに、肉を削ぎ落とす勢いで掻き続ける。

 その痛みが、血の感触が、僕を希望から遠ざけてくれる。

 僕は……僕は……コインカードを叩きつけた。

 

「コインベット」

 

 忘れられない。すず子はそう言った。

 いいや、忘れるさ。いま君が知ったこと、僕が言ったこと、君の想いも僕の想いも、全部『なかったこと』になる。

 

「『リターン』」

 

 それがこのセレクターバトルなんだから。

 

 

 決着はついた。

 『オーネスト』を使わせる前に、防御をかなぐり捨てて攻撃することで勝利を掴むことができた。

 

「約束どおり、これで終わりだ。僕に近づくな」

 

 地面にへたり込むすず子。そうさせてしまったのは、目の前の僕。

 『リターン』の影響を受けたすず子は、僕の気持ちを知ることなく、負けてしまった。

 後に残ったのは、バトル前に再度決別を告げ、容赦なく攻撃をしかけ、さらにすず子を捨てた僕だけだ。

 でもそれでいい。

 友達だと言ってくれた彼女を、僕は突っぱねた。関わるなという約束もある。

 もう伊吹肇と穂村すず子は、なんでもない関係へと戻ったのだ。

 首が熱をもち、血が流れる。目頭が熱くなり、涙が溢れる。

 痛んで痛んでしかたがない。だけど、僕はそれを感じなければいけない。すべて自分でつけた傷なのだから。

 

 

 ソファにもたれかかり、特に何も考えずに天井を見上げる。

 店内の雰囲気を作るにも一役買っている、抑えられた光でさえも、今の僕には眩しく感じた。

 家に辿りつく直前に、すず子とバトルしてしまったせいで、気分の悪さが増していた。

 顔が青く、首の傷も開いているこんな状態で帰ってしまえば、母が大ごとにしてしまうだろう。

 どこかで、腰を落ち着けようと思った僕が選んだのは、例の喫茶店だった。

 

「俺のこと、恨んでる?」

 

 悪びれもせずにそう言ってくる里見。大きな声でもないのに、やけに響いたような気がした。

 相変わらず、ここは人が少ない。それどころか僕たちしかいないんじゃないだろうか。いや、もう一人いた。

 森川が、明後日の方向を見ながら、離れて座っている。

 

「恨んでない……って言ったら嘘になるだろうね」

 

 遅かれ早かれ、すず子と決別することにはなっていただろう。

 それほどまでに彼女は他人を気にかけ、他人と関係が切れるのを恐れている。

 森川を守ると宣言したとき、そして御影をあんなにも心配する様子を見て、僕はそう確信していた。わかっていながらも、決着を遠ざけたのは……

 僕は目を閉じる。

 今はそんなことはどうでもいい。すでに終わったことだ。御影は記憶を取り戻しながらも立ち直り、僕の関係はほぼ清算された。

 だけど、まだ半分だ。まだしんどいことは残ってる。あと残っているのは……

 飲み込んで、カウンター席で一人紅茶を飲む森川へ近づく。僕は座ることなく、傍らに佇む。

 

「まだ五枚集めていないみたいだね」

 

 前の印象が相当悪かったらしい。森川はこっちを見もせずに、眉を顰めるだけだ。

 里見からの話によると、僕が発破をかけた直後、彼女はすず子にバトルをしかけたが、途中で邪魔が入ってしまったらしい。 

 

「捨ててしまうのが怖い?」

 

 ついに耐え切れなくなって、森川が挑むように僕を見る。

 前と同じだ。怒りと動揺。

 

「あんたに何がわかるの!」

「わかるよ。僕はすず子を捨てたから」

 

 森川に衝撃を与えるように、力強く言った。

 

「君は逃げて、遠ざけて、それで十分だと思ってる。僕はすず子と直接戦って決着もつけた。君は?」

 

 森川を指さして、首を横に振る。

 

「君は、自分を大切に思ってくれているすず子を無下にできない」

 

 挑発のために、わざと決めつけた言い方をする。

 がたり、と音を立てて森川が立ち上がった。キッと僕を睨んで、口を開く。

 

「私は……」

 

 森川は息を吸って、一度口を噤んで、唾を飲み込んだ。

 

「やるわ」

 

 言い捨てると、勢いよく扉を開けて出ていく。

 僕はそれを見送りながら、森川の様子を思い返した。

 決心したように言い放ったつもりだろうが、彼女はそれを言うのに、彼女が思っている以上のためらいを見せた。

 決心を僕に宣言するためではなく、自分の逃げ場を潰すように、言葉にした。

 もし、僕が思っている結果になれば……いや、なってもらわなければ困る。

 森川には、すず子と戦ってもらわなければいけないのだ。



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夕暮れ

 里見から連絡が来たのは翌日だ。しかも朝。通勤通学とも少しずれた早めの時間。

 急いで制服に着替えた僕は、母に告げることもなくぱっと出た。

 汗を拭いながら足を動かしてたどり着いたのは、一度しか来ていないのに印象に残っているあの公園。森川がすず子と決別したあの場所だ。

 いやに静かに感じるのは変わらない。

 道路を挟んだ向こう側で待機していると、しばらくして二人の人影が姿を現す。

 すず子と森川だ。

 これから彼女たちは、自らの尊厳と記憶と友情を賭けて戦う。二、三か月で急激に変わったものをもとに戻すために、あるいはさらに変えるために。

 そういえば、と感慨にふける。

 セレクターバトルが始まって、時間は矢のように過ぎ去っていったが、大した日にちは経っていない。

 戦いに巻き込まれて、友達が出来て、希望を持って、絶望して、欲しいものを捨てるのに、季節が一つ移る程度は短すぎる。

 遠目に見知った顔を見つけて、僕はそいつに近づき、前に立った。

 

「そこ、どいてくれない? 今から一番面白いものを見に行くんだからさ」

 

 下卑た笑いを隠しもせず、里見は対峙するすず子と森川へ、期待と悪意をないまぜにした黒い視線を送る。

 

「すず子と森川のバトルか?」

 

 僕の言葉に、彼は目をこちらに向けるだけだった。

 

「俺の邪魔する気?」

「それが僕の最後にやるべきことだ」

 

 僕はリィンのカードを出す。

 大して里見はやや大仰なアクションで、手を広げて首を横に振った。

 

「といっても、俺はセレクターじゃないよ」

「嘘だ」

 

 僕は即答した。

 やはりどう考えても、ブックメーカーという役をこなすためには、セレクターであることが必須とは言えないまでも必要だとは思う。

 だけども、彼の表情や言動、そして目的を鑑みると、セレクターでないはずがない。

 

「人が堕ちるところを目の前でみたいお前が、一番の『最高の瞬間』を見逃すはずがない」

 

 墨田がコインを全て失った、あの森川とのバトルで、なんとなく感づいていた。

 自己の消滅、つまり死への恐怖を感じる過程は、ブッキングの際にたくさん見てきたことだろう。負の感情が膨れ上がっていくのと、ペナルティを回避するするためのあがきは、さぞ面白く映ったことだろう。

 それが極限まで成長し、爆発する一瞬を、見逃せるはずがないのだ。最も甘美な味が生まれる瞬間を見逃すなら、こいつが、里見紅がブックメーカーをする意味がない。そして同時に、セレクターじゃないはずがない。

 

「セレクターなんだろ、お前」

 

 確信をもって睨みつける僕をごまかせないと思ったのか、里見はやけにあっさりと一枚のカードを取り出した。

 波のように揺れる銀髪、身体のラインを際立たせる赤と紫のレオタードに白のタイツ。スケーターやダンサーを思わせる衣装だが、僕がそのルリグにホラー映画に出てくるピエロのような底知れなさと気味の悪さを感じたのは、彼女の被る仮面のせいだ。

 尖った目と涙が描かれているせいで、余計に表情がわかりづらい。わからないなら、今は考えなくてもいいだろう。

 

「あんたをすず子と森川のところへは行かせない。少なくとも、彼女たちの決着がつくまでは。どかせたけりゃ、僕を倒せ」

 

 僕が森川を挑発したのは、彼女たちに決着をつけさせるためだ。

 友達を取り戻したいすず子と、煮え切らない森川。双方が歩み寄って、言いたいことを言いたいだけぶつけるためには、もうただの話し合いだけで済ませるには複雑すぎる。

 ルリグも含めて、正面切って感情を吐露させるには、バトルをさせるしかないのだ。他の誰もいない空間と時間の中で、自分たちだけの思いを叫ぶには。

 もちろん、絶対に仲直りできるなんて保証はない。それでも、すず子なら……すず子ならきっとできると信じている。

 僕のせいで、縁を切られる苦さもまだ残っているだろうし、必死にならざるを得ないだろう。

 彼女の、森川に対する情の深さと、曲がりはしても折れない心の強さ、ひたすらに友達を信じる真っすぐさを、僕は信じている。

 その真剣勝負に水を差させないためにも、里見だけはここで止める。

 

「最初会ったとき、お前に面白いものを感じたけど、同時に嫌な気持ちにもなった」

 

 今日初めて、彼の顔が嫌悪で歪んだ。いや、そんな顔自体初めて見たかもしれない。

 

「生意気なんだよ、お前」

「そりゃどうも」

 

 周りに誰もいないせいで、風がそよぐ音もしっかり聞こえる。それ以上にうるさい心臓の音が、僕のやっていることをじわりと実感させてくる。

 ここまでで、やるべきことはほとんど済んだ。あとは最後、勝利すれば全てが終わる。

 数多のセレクターを駒にし、底へ叩き落し、あまつさえ消滅させた相手に勝てば……

 

「オープン!」

 

 

 

 『カーニバル』。それが里見が操るルリグの名前だ。時折漏れる小さな笑い声から、余裕が感じ取れる。

 デッキは赤色。ひねくれた性格のわりに戦術はストレート。

 

「アタック!」

 

 リィンの攻撃も、軽く手を振るだけでいなす。

 必殺の一撃というわけではないが、こうもあっさり避けられると冷や汗が出てくる。

 決してミスはしないように、カードを繰り出しながら常に場と相手に目を見張る。

 僕も里見もコインは四枚ある。

 

「コインベット」

「ふふ。『ジョーカー』」

 

 最初に仕掛けてきたのは里見だ。

 カーニバルの前面にあるシグニカードが少し浮いたかと思ったら、くるりと裏返る。そこにあったはずの赤色のシグニが、黒色の別物へと変化した。

 シグニを好きなものに変える能力か。

 黒の炎がリィンを叩いて、テーブルに転がす。

 だが、このダメージは想定範囲内。コイン技を使わせて、その能力を知れたいま、アドバンテージはこっちにある。

 僕もコインカードを出した。

 

「コインベット!」

「『リターン』」

 

 かちり、と時計の針が回る。通常とは逆回転に一周。テレビを早戻ししたように、全てが巻き戻っていく。

 ターンは一つ前の僕のターンへと戻った。つまり、里見が『ジョーカー』を使う前に。

 これで僕は相手よりも先に手を打てる……そのはずだった。

 

「はっ、なるほど」

 

 里見はくくくっ、と笑いだす。

 

「誰からも君のコイン技のことを聞けないから変だと思ったけど、使ってないんじゃなくて、使ったことを誰も知らなかったんだ」

 

 その目は僕を見ていなかった。それよりも上。そこにあるのは並べられたコインだけだ。

 

時間を巻き戻す(re turn)……ねぇ」

 

 嫌な予感は的中し、里見は僕のコインを指差した。

 僕の背中に、ぞくりと悪寒が走る。まさか、コイン技を使った直後、里見からすれば普通にバトルが進んでいるように感じていたはずなのに、コインが一枚減っていることに気付いたのだ。

 『リターン』が見破られたなら、直接盤面に関わるぶん『ジョーカー』のほうが有利になる。

 一転、追い込まれたのは僕だ。

 

「コイン技って、そのセレクターの本質が具現化したものなんだよ。絶対とは言えないけど、その傾向はすっごく強い」

 

 相当な数のセレクターを見てきた里見の言うことだ。『絶対とは言えない』と言っているが、確信を持っているのだろう。

 

「『記憶を取り戻すべきだ。自分の罪に目を背けず、自覚したまま生きるべきだ』そんなのは嘘で、誰よりも過去を悔やんでやり直したいのは君だったってわけだ!」

「黙れ……」

「自分の記憶を改竄しようとしないのは君が弱いからだ。怖いんだろぉ? 記憶を失うのがさ。だから代わりにすず子ちゃんの記憶を消そうとしてるんだ。酷いよねえ、自分がやりたくないことを、それもだぁい好きなすず子ちゃんに肩代わりさせるんだから」

「黙れ!」

 

 僕は温存していたカードを使い、鼻を明かしてやろうと猛攻を続ける。

 他のセレクターなら仕留められる連撃すらも、カーニバルはするりと避けるか受け止めてみせる。さらには隙をついて、『ジョーカー』で反撃もしてきた。

 光や武器、お互いの身体が飛び交う。炎が舞い、魔法が展開され、あちらこちらで爆炎と煙が上がるほどの激しい戦いに、僕も里見も様子見や温存は一切なしだ。

 

「肇、落ち着いて!」

 

 リィンはすんでのところで防御しながら、僕へ言葉をかける。だけど僕は止まらずにひたすら攻撃し続ける。

 手は休めず、

 お互いの攻撃は自らの防御をかなぐり捨てた、容赦のない一撃の連なり。レイラの『ドーピング』のような、自分すらも切りつける必殺の応酬だ。

 バトルそのものに愉悦を感じているのは、あのルリグ(レイラ)だけじゃない。カーニバルも、その仮面の下の笑みが隠しきれていない。

 彼女と里見の熱い視線は、リィンと僕にじっくりと注がれている。

 

「くそっ、アタック、アタック、アタック!」

 

 それからの僕の攻撃は激しいものではあったが、誰から見てもやけくそのもので、作戦なんてあったもんじゃない。

 息せききってがむしゃらに挑む姿は、里見大好物の醜い姿だろう。涼しい顔をして応戦している。

 単純な攻撃のし合いなら、赤色が勝る。そうでなくとも、里見のカードの強さ、使うタイミングなど、セレクターとしての基礎部分は最高レベルだ。

 言葉を搦め手として、隙を見出すタイプだろう。加えて『ジョーカー』があれば、相手の場に合わせたシグニを呼び出せる。

 赤色デッキの凶暴さは、かえでの使ったレイラのデッキが一番身に染みている。カーニバルはあれほどの攻撃特化ではないものの、こちらを粉々に砕こうとする勢いは黒色デッキにはない。

 パワーを下げたのに合わせて負けじと上げ、展開に合わせてバニッシュしてくる。

 リィンは腕、手、指をせわしなく動かし、カーニバルの攻撃を受け、避け、時には跳ね返してさえ見せた。

 しかしカーニバルは動きを鈍らせることなくしなやかにかわして、追撃をしてくる。

 彼女の強さは底知れない。彼女を攻略することは、今の僕ではほぼ不可能と言っていいだろう。だから、僕の狙いは最初からカーニバルではなかった。

 ギリギリのところで踏みとどまる僕とリィンを相手にして、カーニバルの攻め手が緩む。緩まざるをえない。

 彼女はあくまでルリグなのだから。 

 ようやく。ようやくだ。やっとこいつらのことがわかった。

 考え方も手札も場も心も、これで態勢は揃った。

 僕はピタリと手を止めた。

 

「これで全部だな」

 

 ふう、と汗を拭って、一息つく。

 表情も佇まいも元通りにして、舞った煙や埃を手で払う。もちろんそれで払いきれるわけでもなく、収まるまで待ったが。

 おかげで里見が現状を知る時間ができた。

 

「この野郎……っ」

「ようやく崩れてくれたな、気持ち悪い笑顔が」

 

 すでに理解はしているだろうが、あえて僕は自分の頭の上を指した。

 そこにはコインがあるはずだった。だけどもう一枚も残っていない。

 元々僕のコインは四枚。一枚はすでに使って能力を見破られた。だから残りは三枚。知られてしまったら使うこともない。

 里見はそう思っていたのだろう。

 僕はその隙をついた。

 奴にあらゆる手を使わせ、シグニ、スペル、アーツ。全てを暴いた。『リターン』を使っていることを悟られないように、感情に身を任せたような言動をして、激しい攻防を演出した。

 負ければ即消滅と代償は高くついたが、それに似合う対価は手に入れた。

 おかげで里見の手札もエナも底をついていた。僕をもう一歩で倒せるとあれば、少し無理してでもその一歩を踏み出そうとするのが人というものだ。

 そうさせるように考えて、演技しながら戦うのはかなり骨が折れた。

 

「僕が勝手だってのは、嫌というほどわかってるさ。情報と考えが古かったな」

 

 僕は自分の表情をできるだけ里見のいやらしいそれに似せ、精いっぱい挑発した。

 

「コイン技はセレクターの本質が具現化したもの、だっけ? お前の『ジョーカー』はどうかな。何にでもなれる。裏を返せば、何かになりたいのさ。人間を壊すことが快感なのは本当だろう。だけどそれ以上に、他人の本質を見抜いて、自分の存在を探そうとしてるのさ」

 

 ギリギリと歯ぎしりする音がこっちまで聞こえる。

 僕を睨む目の黒さが、精彩を欠いてきた。単純な闇だけだったのが、いまや怒りに困惑、焦り。ずいぶん人間らしくなってきたじゃないか。

 

「『自分』がない。そんなお前に何を言われたって、良くも悪くも心に響かんさ」

「勝手なこと言いやがって。会ったときから気に食わなかったんだ。何でもわかってるってそのツラが、クソほど癪に障る!」

 

 バン、とテーブルを叩く里見。この中でいま、一番落ち着いているのはおそらくカーニバルだろう。

 僕の激高は二割……いや三割本当だし、リィンは僕の戦術を知らないうえに敵の強さを肌で感じてる。

 冷静と興奮をコントロールすることができる、ああいうのが一番厄介だ。

 

「いいからかかってこいよ。そんなに知りたきゃ教えてやるからさ、人間ってやつを」

 

 バトルを続ける。だがその後の里見の動きは、力強さも緻密さも全くない。

 

「お前の思ってるような世界なら、お前が何をしなくてもクソで溢れかえるさ。結局人間はハッピーエンドを求めてるんだ。歪めて、歪んでるのはお前だけだ。だから気に入らないんだろ」

「黙れ!」

 

 それはさっき僕がしてみせた反応だ。

 真実にしろ嘘にしろ、聞きたくないから口を閉じさせようとする。

 そんな言葉で止まるわけないのを、こいつは呆れるくらい知っているはずだ。腐るほど見てきたはずだ。

 言わずにいられないほど、奴は追い詰められている。彼のカード捌きは僕が見てきた中で一番めちゃくちゃだ。

 

「お前に俺の何がわかるってんだ! カーニバル、攻撃しろ!」

 

 セレクターの宣言に、しかしルリグは反応しなかった。聞こえなかったわけじゃない。無視したのだ。

 

「カーニバル、どうした。攻撃しろ!」

 

 カーニバルはやれやれ、と頭を振ったが一歩も動かなかった。 

 少し思い通りにいかなかっただけで簡単なことも見逃すこいつに愛想を尽かしたんだ。

 すでに決着がついているのに気付いていないのは、認めたくないのは里見だけだ。

 手の内も知られ、感情も転がされたセレクターはひどく脆くなる。そんなことはこいつが一番知っているのに。

 所詮は、底知れない闇を抱えて人の本性を知っている()()をしていたに過ぎない。

 里見が一体何者であろうと、彼が忌み嫌い、ある意味では愛している人間と何も変わらない。

 

「なんにしても、お前は二流さ」

 

 そして、僕も二流だ。

 いざとなれば、勝利を目の前にすれば、心臓が異様なほど早く鼓動し、足も手も小刻みに震えている。

 落ち着こうと何度も何度も呼吸をするが、深く息を吸えないことに気がつき、さらに焦る。

 この選択はきっと、僕にとって後悔しかないというのはわかっていたが、勝利を、代償を目の前にするとこんなにも恐怖を覚えるものなのか。

 覚悟は出来てるなんて、かっこつけて強がってはいたけれど、実際はやめたい気持ちでいっぱいだ。

 こんな勝負挑まなければ良かった。こんな選択しなければ良かった。

 キリキリと胸が痛む。くらくらと頭が揺らぐ。

 

「肇?」

 

 出かけた涙を必死で抑える。崩れそうな意志を必死で固める。

 水も無しで砂を固めるような作業だけれども、それでも懸命に己を奮い立たせようとする。

 けれどやっぱりだめで、

 

「なあ、リィン」

「どうしたの?」

「正しいといってくれ。この勝利が、僕の願いが正しいといってくれ」

 

 そんなふうに求める。

 僕は弱いから。脆いから。

 嘘でもいい。たとえ虚構の希望で固められた意志でも、進められるのなら。脆弱な心でも覚悟を決められるのなら、なんにだって縋る。

 

「正しいかどうかなんて、私にはわからないわ」

 

 僕の目をじっと見て、リィンは言う。

 

「でも、決めたことなんでしょ?」

 

 今までの、そしてこのバトルで傷ついたリィンや、今も戦い続けるすず子のためにも、僕は止まることは許されない。

 本当は好きに生きたい。

 許しが欲しくて、助けが欲しくて、愛が欲しくて……生きてほしいと言われたくて。

 何度も優しい手が差し伸べられた。けど僕はそれを振り払った。僕が願ったくせに、欲しかったくせに、与えられたものを自分で捨てた。居心地のいい場所を捨てて、いるべき場所へと戻った。

 これは僕が決めた戦いだから。これは僕が望んだ結果だから。

 

「お前はほんっと、僕に厳しいよな」

 

 ついに流れる涙を抑えることは出来なかった。

 失いたくない。

 失いたくないのに願ってしまった。

 失いたくないから願ってしまった。

 つうと流れる雫が頬を伝うたび、後悔も溢れ出る。

 

「アタック」

 

 あらん限りの力を振り絞って出したはずの声は、しかし掠れてゆがんで小さかった。

 リィンが真っ直ぐにカーニバルへ向かう。

 里見は怒りと苦悶の表情を浮かべる。ピキピキと立つ青筋を見て、僕は満足する。

 僕は人を傷つけながら生きる。人を壊しながら生きる。その先にお前がいて、すかっとしたよ。

 音も立てずに里見とカーニバルの足場が崩れる。底の闇に落ちていく彼の罵倒はどんどん小さくなって、聞こえなくなっていった。

 

 

 耳をつんざくほどの静寂だけが耳に届いた。

 僕はいつの間にか、あの白い空間、リィンと始めて会った場所に立っていた。

 

「コインを五枚集めたあなたは、記憶を操作する権利を得た」

 

 目の前でそう言うリィンは、無表情を繕おうとしているけれど、口元が震えていた。

 さあ、リィン。コインは溜まった。僕の願いを叶えてくれ。僕のもとから離れられることを喜べ。そんな暗い顔をせずに、軽口でも叩きながら去っていってくれよ。

 どうする? なんて言わずに、リィンは五枚の金貨を握った。眩い光がその手から漏れる。

 最後まで無言なのは寂しかったけれど、僕のことを思ってのことだろう。ここで引き返せるだなんて言われたら、また迷ってしまうだろうから。

 リィンから発する光はどんどんと増してきて、彼女も僕も包まれる。今まで見たことのないほど強い光だけれど、ずっと一緒に戦ってくれた分身を焼きつけたくて、無理やり目を開ける。

 このセレクターバトルで、僕は人の役に立てただろうか。

 リィン、御影はんな、穂村すず子。このバトルがあったおかげで出会えた君たちの、このバトルがあったせいで僕と出会ってしまった君たちの役に立てただろうか。

 ほんの少し、ほんの少しでいい。僕が生きていてよかったと思えるような何かを残せたなら、それだけでいい。

 だけど、僕のことは忘れてくれ。

 すず子、君のことが大切だから。

 すず子、君のことが好きだから。

 

「だから、さよならだ。穂村すず子」

 

 

 ものすごく長かったようなセレクターバトルだけど、終わってみれば一シーズンすら経っていない戦いだった。

 元から九十日間という期間が設けられていたけれど、やたらと濃い密度のせいで人生一つ分を体験した気分だ。

 それだけの経験をしたけれど、僕の日常は結局、セレクターバトルが始まる前の、浮き沈みのないものへと戻った。

 登校中に話しかけてくる奏太もその他も変わらずだ。

 いつもと違うところがあるとすれば、暑くなってきて薄着になっているくらいである。

 変わらない。それが一番のはずなのに、少しだけ……いや正直に言うと、かなり寂しい気持ちがあるのも事実である。

 教室に入り、机に座ったところでそれを一番感じる。

 胸ポケットから話しかけてくる者はいない。前に座るすず子は、僕のほうを見ようともしない。

 ルリグにも知らされていないだけで元から出来たのか、それとも特例か。とにかく僕の願いは叶えられたようだ。

 

 あのあと御影から、セレクターバトルの結果を聞かされた。

 すず子は無事記憶を保持したままバトルを勝ち抜いた。最後の相手は里見。コインを失った彼は、カーニバルに乗っ取られたようだ。

 そして、森川千夏は一枚になったコインを持って、九十日間を終えたらしい。いまではわずかにしか記憶が残っていないらしいが、すず子とは再び親友になることができ、新しく時を刻んでいるようだ。

 だから、もう彼女を縛りつけるものはない。

 何度も『ならもう話しかけてもいいんじゃないか』という考えがよぎる。だけどそれはしちゃいけない。

 せっかく自由になった彼女を、僕が縛ってはいけない。 

 

「おーい、肇ー」

 

 教室の外で、奏太が手を振る。

 ああ、もう放課後か。鞄を持って立ち上がる。いつものように、彼の元へ向かう。

 入れ違いになるように、誰かが教室の中へ入っていこうとする。

 御影はんなだ。ぶつかりそうになったところを避けざまに、彼女がこちらを向く。

 僕が目を伏せると、彼女はそそくさとすず子のところへ向かった。

 

「なにボーっとしてんだよ」

 

 ちらりと振り返る。

 すず子は御影や他の女子と一緒に談笑していた。

 後ろ髪を引かれる思いを振り切る。

 まったく合理的ではないのだろう。

 あの輪に入りたいと思うのも、すず子を好きでい続けるのも、ずっと引きずってしまうのも。

 きっと、きっと、この想いを持ち続けるのは不毛なのだろう。

 それでも目が君の姿を追ってしまう。耳が君の声を探してしまう。心が君を求めてしまう。

 僕がそんなだから、君は困ってしまうんだろう。君に迷惑をかけてしまっているのだろう。

 好きだから。

 好きになってしまったから。

 たった一人、僕がいたせいで彼女は苦しんだ。

 たった一人、僕がいなくてもすず子の人生に変わりはないのだろう。

 だからこれが最善の選択だったと……

 

「いや、なんでもないよ。さ、今日はどっか行く?」

 

 ただ信じることしかできない。



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Lostorage released WIXOSS
予感/呪縛と接触


 誰かの視線を感じる。好意や敵意といったものではなく、ねっとりとした興味や好奇心のような、品定めをするような冷たい視線。

 ぞくり、と悪寒がして振り向く。

 誰かいるわけでなく、誰もいないわけでもなかった。

 

「どうしたん、(はじめ)

「いいや、なんでも」

 

 僕は気のせいだと頭を切り替えて、親友である相葉奏太(あいばそうた)に言った。

 登校途中の道は閑静と喧騒の間にある。生徒たちは友人と話しながら、あるいは一人で黙々と歩を進める。見知った顔はないし、こちらを見ているわけではない。

 僕はため息をつく。

 ただの高校生が、ましてや僕が、人の視線なり感情といったものを敏感に感じ取れるわけがない。やはり気のせいだ。

 季節の変わり目で、少し肌寒く感じたせいだろう。

 そう自分に納得させたはずなのに、じっとりとした焦燥感は心に纏わりついて、嫌な気分になる。

 

「来年、つーかあと数か月後には受験生かぁ。勉強やだやだ」

「だから、遊んでばっかりじゃいけないって言っただろ」

「へーへー。最近はお利口にお勉強してるみたいで、お前付き合い悪いしな」

 

 奏太は天を仰いだ。

 

「ウィクロスだって、お前すぐやめちゃったし」

 

 ちくり、と胸が痛む。

 数か月前、奏太に勧められて始めたカードゲーム、ウィクロス。

 初めて買ったスターターデッキには、世にも奇妙な動いて喋るカードが入っていた。自分の分身ともいえる、動く『ルリグ』カードだ。

 それから僕は、同じく特殊なルリグを引き当てた者たち『セレクター』と、記憶を賭けた戦い『セレクターバトル』をしたのだ。

 結果は……僕は記憶を失くすこともなく、元の生活に戻ることができた。

 セレクターバトルのことを、奏太は知らないから、僕が突然ウィクロスを辞めたことを不思議に思っている。

 だが、そのときの情緒不安定ぶりを察して、深くは聞いてこない。

 

「……遊ぶだけじゃ、だめだって気づいたから」

 

 顔を背けて誤魔化す。

 どうせ信じてはもらえないし、信じてもらったところで何がどうなるわけでもない。

 セレクターバトルのことを話せる人は、僕の周りにはいない。

 僕が、自分から捨てたから。

 

 

 学校に着き、教室の前の扉を開け、できるだけ後ろを見ないようにして机に座る。

 一番前の席。そこがいいと先生に直談判したら、勉強に集中するためかと解釈されて、快く受けてくれた。

 クラスメイトも前の席を嫌って、その枠が一つ潰れるなら、と僕に抗議してくる者はいなかった。

 しかし、僕がそこを選んだ理由は、勉強をするためでも、ましてや他人が嫌う場所に自ら向かう自己犠牲でもない。

 ある女子を見ないようにするためだ。

 彼女の名前は、穂村(ほむら)すず()

 この間の席替えで、ようやく離れることができた。それも、彼女は一番後ろで、僕とはまったくと言っていいほど関わり合いのない席だ。

 嫌いというわけじゃない。彼女が近くにいると、何かが間違いそうで、あるいは何かを間違えそうで気が休まらないのだ。

 いまは視界には入らないし、できるだけ勉強やほかの事を考えていれば、そちらに集中できるようになった。

 すず子もまた、セレクターだった。

 僕らは非情な戦いに負けないように仲間となり、戦い抜くために強くなっていった。

 そして……

 そして僕は、彼女の記憶を消した。僕のこと、つまり『伊吹(いぶき)肇』に関する一切のことを、彼女の頭の中から消した。

 僕も彼女のことを忘れようとしているおかげで、日に日に罪悪感は薄れていっているような気がする。

 感覚が麻痺しているのかも。そうでないと、押しつぶされそうだから。

 

 

 人生の転機は急に訪れる。襲撃と言ってもいい。心の準備をさせてくれないまま、次々と牙を剥いてくるのだから。

 放課後すぐに、僕は教室を出た。

 特にやるべきことがあるわけでもないが、勉強に集中すると言った手前、だらだらと残っているわけにもいかない。

 それに、教室は女子たちがウィクロスをし始めることが多々ある。そこには大体、すず子もいた。

 これは喜ばしいことだ。転校生で、しかもこの学校に来てすぐセレクターバトルに巻き込まれた彼女が、友達に囲まれて日常を過ごしている。時間が過ぎるたびに苦しかった日々は薄れ、普通の女子高生になる。

 足早に去ろうと、校門を出たとき、

 

「伊吹肇くん……よね」

 

 声をかけられた。

 制服からして、うちの生徒じゃない。

 だけど僕は彼女を知っている。地味目な制服も、地味目な着こなしも、僕の記憶そのままだ。

 一番変わりがないのは、冷たい目と感情のない顔だけれど。

 

水嶋(みずしま)さん……だったかな」

 

 彼女はこくりと頷く。

 水嶋清衣(きよい)

 僕と同じくセレクターで、一度戦ったことがある。そのときの僕が初心者だったことを差し置いても、とてつもなく強くてこてんぱんにされた。

 

「少し、いいかしら」

 

 表情を変えることなく、彼女は言う。

 通り過ぎる生徒は僕たちのことをじろじろと見てきたが、決して関わろうとはしない。

 僕もその一人になりたかった。嫌な予感だけが胸をざわめかせる。

 

「用件は? いや、言わなくていい。何であろうと、聞く気はないし、協力もできない」

「その言い方だと、もう予想はついているんじゃないの?」

 

 見透かされた。彼女とバトルしたときと同じような、心を読まれた感覚。いやしかし、一度戦っただけの相手に会いに来る時点で大体の察しはつくだろう。

 やはり、と思う。やはり最悪なことが起きている。

 逃げるように、踵を返したその瞬間、

 

「セレクターバトルは続いてる」

 

 逃がすまいと水嶋さんは言い放った。その言葉に、僕は足を止めてしまった。

 あの忌まわしいセレクターバトルには、数多の人間が巻き込まれた。だが、バトルした何人かの態度やバトルの慣れからして、全員が同時にセレクターになったわけじゃないと考えていた。

 そうであれば、いまこの瞬間もどこかでセレクターが生まれているかもしれない。

 

「少なくとも、僕のセレクターバトルは終わった。これ以上下手につっついて、結果がひっくり返ることにでもなれば意味がない」

 

 そう。僕は勝ち残った。そしてセレクターの資格を失った。満足とは言えないけれど、最善を尽くして結果を手に入れた。

 やり直せると言われたとしても、頷くつもりはなかった。

 

「それに僕の実力は大したものじゃないし、そのうえもうセレクターじゃない。もし手伝いたくても、力にはなれないよ」

 

 こう言えば諦めるかと思ったが、しかし水嶋さんはしつこかった。

 

「私では勝てなかった里見紅(さとみこう)に、あなたは勝った。実力は申し分ないと思うけど」

 

 突然の知った名前に、僕は息を詰まらせた。

 里見紅とは、セレクターバトルの制度を利用して、僕たちを苦しめた張本人だ。人の心をぐちゃぐちゃにして、それを楽しんでいた下衆。

 僕はなんとか彼に勝つことができたが、それは不意打ちのような戦法に、精神を乱す口撃をしたからだ。僕の実力じゃない。

 それに、と付け足して、水嶋さんは続けた。

 

「セレクターじゃないのは、今だけかも知れないわ」

 

 かも、というわりに、水嶋さんの言葉には奇妙な確信めいたものがあった。

 僕は顔をしかめる。

 嫌な予感だけは、よく当たるのだ。

 

 

 水嶋清衣は、前回の記憶を賭けたセレクターバトルだけでなく、その前にもあった戦いにも巻き込まれたという。

 勝ち進めれば願いが叶い、三回負ければ願いが逆転するという過酷なバトル。

 彼女は勝ち行んだ。その先には……

 そこまで話して、水嶋さんは俯いてコーヒーを飲んだ。

 夕方と夜の境目。そんな微妙な時間では、ファミレスはやたらと空いていた。

 人もおらず、ゆっくりと話すにはいい場所。そんなところでされたのは、あまりにも唐突で、ありえない話。

 僕がそれをなんなく受け入れることができたのは、前回のセレクターバトルの経験があるからだろう。

 それに、願いを賭けるセレクターバトルの都市伝説は知っていた。『夢限少女(むげんしょうじょ)』となって願いを叶えるためのバトルの話は、以前セレクターである御影(みかげ)はんなから聞いたことがある。

 現実に、それを体感した少女と話すとは思ってもみなかったが。

 

「でも、そのバトルは終わったはずじゃないのか?」

「ええ、ある少女が、そのバトルの発端となった女の子を倒してお終いになった……はずだった」

「だけどまだ続いてる、と」

「終わるはずがない」

 

 静かに、しかし厳かで激しい怒り。恐らく僕が想像もできないような深い闇を、彼女は抱えている。

 

「君はどうして、そこまでして真実を追い求めようとするんだ。僕だけじゃなくて、君にとっても終わったことだろう?」

「いいえ、終わってなんかいないわ」

 

 彼女は今日一番、力強く言い放った。

 

「前回のセレクターバトルで、私は記憶を少し失った。とても大事なはずの……何かの記憶を」

 

 僕は驚いた。つまり水嶋さんは勝ち抜けることなく、九十日間を終えた。再開されたセレクターバトルの黒幕が誰か、その目的を知るために、わざと長引かせたのだ。

 代償は高くついたようだ。カップを持つ手が震えている。表情はわずかに苦痛と悲哀で歪んでいた。

 『記憶の残滓を見せられれば、それを求めてしまうのが人間というものです。特に、それが忘れてはいけないはずの記憶の場合は』

 かつて僕が言われた言葉だ。

 それを言った本人も、言われた僕も躍起になって戦いと勝利を求めた。

 記憶とは、ただの思い出ではない。自分という人間を構成する大事な要素だ。失えば、身体の一部分がちぎれたように痛みが走る。命が削られるような気がする。

 だから、その記憶が君をひどく傷つけるかもしれないからやめたほうがいいとは、どうしても言えなかった。

 

「それにもうこれ以上、傷つくだけのセレクターバトルを続けさせるわけにはいかない」

 

 無力を噛みしめるようなその顔には見覚えがある。よく知っている。

 決別かそれとも死か。大切な誰かを失ったのだろう。

 何回もバトルをして、彼女は勝ったと言った。だが、願いを叶えたとは言っていない。まったく晴れやかな顔は見せず、しかもバトルを止めようとしている。

 願いが叶ったものの、望み通りじゃない結果だったか。ある程度の察しはついた。

 僕は目を逸らしてしまった。

 穂村が同じ顔をしているのを見たことがある。三度も。しかもそのうちの二度は、僕のせいだ。

 その顔を見ると、どうしても胸が締めつけられてしまう。苦しくなって、間違いだと言われているような気がする。

 罪滅ぼしではないけれど、その顔が消えるなら……

 

「力になれるかはわからない。けど手伝うよ」

「……ありがとう」

 

 カップを持った手を止めて、微妙に口元が緩んだ。彼女が笑ったと気づいて、僕は少し憤りを覚えた。

 どれだけ酷い経験をしても、水嶋さんもまた普通の女子高生なのだ。人生を謳歌するべき年頃の少女なのだ。

 理不尽は彼女の人生を壊している。セレクターバトルは、関わった全ての人間の人生を、曲げてはいけない方向へ曲げてしまっているのだ。

 

「君はどう思う? 前回と前々回の経験者として」

「誰かが始めたんでしょうね。自然と始まるわけがないのだから」

 

 水嶋さんはすらりと答えた。

 何度も考えたのだろう。誰がこの悪意あるバトルを再スタートさせたのか。

 

「誰か……」

 

 人間ではありえないだろう。あれだけ隠し事を含んでいた里見でさえ、あくまでルールを利用していただけだ。創造主は別にいる。

 ふと、僕の脳裏にある少女が浮かんだ。

 最初に、ルリグカードに描かれていた少女。言われるがままにルリグの名前を決めると、その少女は姿を変えた。

 だが変わる前、その姿はどのセレクターのものも共通だったらしい。

 『始まりのルリグ』。

 確か彼女は自分のことをそう言った。一番怪しいのは彼女だろう。

 

「どうしたの、伊吹くん?」

 

 黙りこくっている僕を訝しんで、水嶋さんが覗き込んでくる。

 

「いや……」

 

 確証のない憶測を言って混乱させるのはやめたほうがいい。

 それよりも、もっと真実に近い誰かの意見を聞くほうがいいだろう。

 

「君でもわからないことが、他の誰かにわかるかな」

「バトルの経験者といっても、私は直接最後を見たわけじゃないから……」

「終わらせたのが誰かは知ってる?」

「ええ、小湊(こみなと)るう()という少女よ。あるいはその周りの人も何か知ってるかも」

 

 紅林遊月(くればやしゆづき)植村一衣(うえむらひとえ)。水嶋さんは名前を挙げるものの、聞き覚えがない。

 続けて、その三人とは関係なく、何人かセレクターを挙げてもらうが、やはり知らない。

 僕らはお互い肩を落として、さらに手掛かりを探す。

 

「それか前回バトルの元ルリグなら、何か知ってるんじゃないか?」

「とはいえ、元ルリグの知り合いなんて……」

 

 前々回のセレクターバトルでは、夢限少女になればセレクターが新たなルリグとなり、ルリグはセレクターの身体を乗っ取ってしまうという理不尽なルールだったらしい。

 そして、その新たな身体を得た元ルリグが、セレクターの願いを叶えるのだと。

 何度もセレクターとルリグを体験した水嶋さんも、前回のバトルではセレクターのみ。セレクターとルリグが入れ替わる場面は見たことがあるらしいが、それだけらしい。

 元ルリグなんてのは、僕も知らない。負けたペナルティとしてルリグに身体を乗っ取られた男を見たことがあるが、知り合いとも呼べないし、連絡先も知らない。

 だが、もしかしたらと思って、僕はスマートフォンを取り出す。

 

「知ってるの?」

「知ってる奴を知ってる……かも」



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禍根/残骸と未練

「納得。それで急に連絡してきたわけですか。ずっと音沙汰なしだったのに」

 

 余らせた制服の袖を組み、非難するように僕を見るのは、一年下の御影はんな。

 ゲームに関する圧倒的な情報と、それを活かすことのできる腕。ウィクロスに関しても例外ではなく、カード雑誌のコラムも書いている有名人だ。

 セレクターバトルで疎遠になって以降、彼女とは一言も話していなかった。

 

「意地悪はやめてくれ」

「意地悪。そう言うなら、伊吹さんのほうが意地悪だったと記憶していますが」

 

 すず子に決別を告げる前、僕は御影に『僕とすず子を近づけないようにしてくれ』と頼み、御影をも遠ざけた。

 一方的な約束を、彼女は守ってくれているらしく、すず子が僕に何かを言ってくることはなかった。

 

「あれが最善だった」

「最善というわりには、私もすず子さんも涙を流しましたが」

「泣いたの?」

 

 顔を赤くして、わざとらしくコホンと咳払いをしてから、御影は僕に向き直った。

 

「失言。とにかく、本題はセレクターバトルについてでしたね」

「ああ、まだ続いているらしいと、前々回と前回の参加者から聞いた」

「前々回……あの、夢限少女ですか?」

 

 御影は大きく目を見開いた。

 詳しく知っている彼女でさえ、あの話はどこか都市伝説的なものであり、眉唾ものだと思っていたのだろう。

 しかし僕と同じように、疑うことはなかった。

 

「その夢限少女。セレクターバトルを終わらせたくて、声をかけてきたらしい。だけど情報はほぼゼロ」

「だから、元ルリグを調べようと」

「ああ、誰か知らない?」

「知らないことはないですが……」

 

 御影は腕を組んで、長考した。やがて、顔を上げるとだぼだぼの袖から手を出し、人差し指を立てる。

 

「条件。あなたが私たちから離れた理由、すず子さんの記憶を奪った理由を聞かせてください」

 

 僕は彼女に『僕とすず子を近づけさせるな』と伝えただけだった。

 でも、すず子から、僕がしたことは聞いていたはずだ。突然絶交の宣言をされ、酷いことを言われ、あげく捨てられた、と。

 そんな最低の僕を嫌うなら、別離の理由なんてどうでもいいんじゃないか。

 

「てっきり、もうわかってるものかと」

「急に疎遠になる理由なんてわかるはずがないじゃないですか。知りたいんです。それが何であろうと納得するつもりはありませんが」

 

 僕は下唇を噛む。僕の自業自得で、なんにしても許されるつもりはないけれど、棘のある言い方はクるものがある。

 しかし、すず子本人に話がいかないなら、まだマシか。

 いまさらになって言いふらすような人間でもあるまい。

 

「ことが落ち着いてから、でどうだ」

「妥協。まあいいでしょう。いまいち信用はできませんが」

「ずいぶんな言い方だな」

「そう言われるほどのことをしたんだと、自覚してほしいです」

 

 じろり、と僕を睨む御影の目を直視できず、僕はそっぽを向いた。

 

 

 土曜日、時間を大幅に使って調査を行おうと提案した水嶋さんに、僕は乗った。

 彼女が待ち合わせに指定したのは、意外にも僕の知る公園だった。

 前回のバトルの時、すず子が親友である森川千夏に振り払われ、涙し、それでも諦めずに友情を勝ち取った場所。

 すべり台の前で、ぼうっとどこかを見ている水嶋さんに近寄る。

 水嶋さんは整った顔をしていて、笑えばそこらの男なぞ簡単に魅了できてしまうだろう。

 それでも地味な印象を受けるのは、彼女の表情が乏しいのと、おしゃれ感が皆無なところのせいだ。

 わざと、というわけではないのはわかっていた。バトルに振り回されたせいで、摩耗してしまった心の余裕のなさのせいだと。

 

「待たせたね、水嶋さん」

「いえ」

 

 水嶋さんは御影を伴って現れた僕を迎える。彼女のコネと知識が必要になるだろうと、ついてくるように頼んだのだ。

 疑問を持つでもなく、水嶋さんは僕の同行者に注視した。

 

「あなたは……」

「前回のセレクターバトルの経験者、御影はんな。御影、こっちは水嶋さん」

「納得。あなたがあれだけの実力を持っていたわけがわかりました」

 

 礼をするでも挨拶するでもなく、彼女らはお互いから目を逸らさない。睨んでいるとは違うが、それに近い。

 

「知り合い?」

「以前バトルをしたことがあります。再戦、望んでいました」

「私はいつでも」

 

 冷たい風が吹いた。一触即発の雰囲気が重くのしかかる。止めようとしたところ、もう一人、こちらへ近づく人影があった。

 

「水嶋さん、お待たせ。あれ、はんなちゃんも?」

「すず子さん?」

 

 御影が素っ頓狂な声を上げる。僕も思わず喉が詰まってしまった。

 穂村すず子がそこにいた。薄いピンクのワンピースを着て、肩掛けのポーチを身に着けている。

 

「あ、伊吹くんだよね。私、同じクラスの穂村すず子。よろしくね」

 

 にこりと笑って、自己紹介するすず子に面食らって、僕はしばらく動けずにいた。

 

「水嶋さん」

 

 呼んで、少し離れる。彼女たちに、というよりすず子に聞こえないように声を落とした。

 

「なんですず子までいるんだ」

「穂村すず子さんも、里見を倒した実力者よ。いい戦力になるかと思って。まずかった?」

 

 僕の非難するような言い方に、水嶋さんは少しだけ不安そうな顔をする。

 

「いや、言わなかった僕が悪い」

 

 そういえば、里見を倒したことやセレクターバトルについての推察は話したが、僕がすず子に対しての想いやしたことは言っていなかった。

 まさか、水嶋さんがすず子にまで声をかけるとは思わなかったのだ。

 

「あ、あの……」

 

 おろおろするすず子に向き直って、僕はなんでもないように振る舞う。

 

「伊吹肇。よろしく穂村さん」

「あ、うん。伊吹くんもセレクターだったんだね。全然知らなかったよ」

「ん、えーと、学校にはルリグを持って行ってなかったから、そのせいかも」

 

 慎重に、ぼろが出ないように言葉を選ぶ。

 前回のバトルで、いやその前から僕と知り合いだということは、彼女の頭からすっかり抜けているのだ。

 下手うって思い出させるわけにはいかない。

 水嶋さんだって、何か記憶に引っかかりを感じている。

 セレクターバトルのペナルティ、もしくは報酬によって、消えたものは、完璧に消滅したわけじゃない。

 そのいやらしさが、余計に黒幕の悪意を感じさせる。

 

「さて、御影に知り合いがいるようだし、さっそく行きたいんだけど……」

 

 変なことを言わない前に、本題に入ろうとする僕に、すず子は待ったをかけた。

 

「今回の話を詳しく聞きたいんだけど、お菓子でも食べながらどうかな。作ってきたんだ」

 

 鞄の中から、丁寧にラッピングされた袋を出したすず子。中にはクッキーが入っている。

 

「伊吹くんの話も聞きたいし、ね?」

 

 これからやることをある程度聞いているはずなのに、クッキーまで作ってくるとは。

 しかし、先ほどまでの冷たい雰囲気や困惑した気分は吹き飛んでいった。

 差し出された箱から、一枚取って食べる。

 相変わらずやたらと美味い。これのせいで、そこらへんのお菓子が食べられなくなったのは痛手かな。

 

「試食。どうぞ。そのへんのスイーツよりは確かですよ」

 

 御影に促され、水嶋さんもすっと取る。一口頬張ると表情が変わった。

 

「美味しい」

「ほんと?」

「ええ、言われなかったら、お店のものかと思うわ」

 

 水嶋さんは微笑んで、そう返した。

 しかし、褒められたはずのすず子は首を傾げ、はてなを浮かべた顔をする。

 

「どうしたんですか、すず子さん」

「ううん、さっきの清衣ちゃんの言葉……どこかで聞いたような気がして……」

「とにかく、現状の説明といこうか」

 

 どこだったっけ、と記憶を探ろうとしたすず子を遮るように、僕は話を進める。

 さっきの水嶋さんの言葉は、僕が言ったことのあるセリフだ。やはり記憶の残滓がある。

 これだから、できるだけ接触しないようにしていたのに……

 大事な話だ、と前置きすると、御影もすず子もこちらに注目する。ひとまずは胸を撫でおろし、僕は続けた。

 セレクターバトルは続いているかもしれないことを告げると、全員が良い顔をしない。

 僕たちは話を続けながら、カードショップや、里見が拠点として使っていた喫茶店を巡り、その痕跡を探す。

 バトルが続いてて、セレクターに選ばれようとするなら、必然動くルリグカードが必要になる。どこかのショップに出入りしているはずだ。

 しかし聞き込みをしても、収穫はなし。

 そもそもとして、都市伝説であるセレクターの中でも、バトルセッティングをするブックメーカーの存在は謎だったのだ。

 普通のカードゲーマーが、僕ら以上に知りえる情報はないとわかっていた。

 そういった都市伝説含め、最新のウィクロス事情も知ろうとするだろうとネットカフェもいくつか回って、四店舗目のカードショップが入っているビルの屋上で、一休みすることにした。

 

「質問。あなたはどうして、そこまでセレクターバトルの謎を探ろうとするんですか」

 

 柵に寄りかかる水嶋さんへ、御影が疑問を投げかける。

 僕も柵に手をかけ、そこから外の景色を眺める。いくつものビルに遮られ、何十メートルか先の道を見ることすら困難だ。

 カーニバルが新しく拠点にできそうなところなんて、いくらでもある。滲み出る悪意を隠すことすら、この世界では容易だ。

 空は晴れているはずなのに、雲がピンポイントで太陽を隠す。

 

「今の私は、本当の私じゃない」

 

 前回のセレクターバトルで一部の記憶を失ったことを、水嶋さんは話した。

 記憶は自分の一部。それを失っている今の自分は、別人とは言えないまでも、本当の水嶋清衣ではない。

 すず子には重くのしかかる言葉だろう。

 

「もう一つの理由は、私にはセレクターバトルを止める責任があるということ」

 

 最初のバトルで、彼女はルリグだった。

 勝つことで、あるいは負けることで、多くの少女の願いを踏みにじり、何度も何度も繰り返してはルリグとなる。

 弄ばれているだけなのはわかっていた。だけど、彼女にはそうするほかなかったのだ。

 

「仕方ないよ。そんな酷いバトルに巻き込まれたら、誰だって精いっぱいになると思う。清衣ちゃんは悪くないよ」

 

 少し、沈黙が流れた。的外れなことを言っているとかそういうのではない。

 

「清衣……ちゃん?」

「わぁっ、ごめんね。つい勢いで。ていうか私のことも、すず子でいいから」

 

 強引に見えるだろうが、これがすず子の距離の縮め方だ。

 不快感なく、いつの間にか心に入り込んでくる。

 

「ありがとう……すず子」

「うん、清衣ちゃん。伊吹くんも、どうかな?」

「断る」

 

 一刀両断で、僕は首を振った。和やかな雰囲気だったのが、一瞬にして気まずい空気になる。

 しかしここで受け入れてしまうわけにはいかないのだ。

 

「ひ、一つ……」

 

 本題に戻すためと、流れをよくするために、御影が恐る恐る指を立てた。

 

「疑念。元ルリグを追うことに、意味はあるのでしょうか」

 

 ルリグと言えども、今じゃセレクターの身体を貰った人間だ。あとは、それぞれの生活に馴染んでいくだけ。

 御影の質問はごもっともなものだが、水嶋さんは即座に反論した。

 

「以前、バトルをした子がいたの。彼女のコインは残り一枚。適当なところで勝ちを譲るつもりだった」

 

 ただし相手は初心者も初心者、しかも赤色デッキを使うには消極的な性格で、手加減していても水嶋さんが圧倒してしまっていた。

 相手のルリグが挑発するように、セレクターに話すと、それまで大人しかったセレクターが突然好戦的になったそうだ。

 結局は、その少女は負け、ルリグが身体を乗っ取ってしまった。そして笑みを浮かべて、去っていった。

 

「感じるの。ルリグがセレクターを操るほどに、力を増していっている」

「懐疑。ルリグがそんなことをする意味は……」

「私は最悪の状況を考えているだけ」

 

 つまり、悪意をもったルリグが次々と数を増やしていったら?

 そうなれば、どんどん手を付けられない状況になってしまう。

 悪意は伝播していく。誰かに感染し、拡散していく。最後にはこの世界は飲み込まれてしまうかもしれない。

 

 

 結局、カーニバルの情報はまったく得られなかった。

 それはむしろいいことなのかもしれない。

 少なくとも、僕らの知りうる範囲では、カーニバルは悪事を働いていない。

 午後を回ったところで、当初の目的どおり、僕たちは御影の知る元ルリグがいる場所に来ていた。

 とあるサッカーコート。その中で器用にボールを蹴る姿は、誰もが普通の人間らしく見え、違和感はない。

 御影が指差したのは、素人目に見ても上手いとわかるボール捌きを見せる爽やかな男子だ。

 

「そっか。白井さん……ドーナさんがいたんだ」

「幸運。連絡先を聞いておいてよかったです」

 

 僕は御影にこそりと耳打ちする。

 

「いつの間に知り合ったんだ?」

「あなたが私たちを置いて、すぐです。千夏さんの、中学時代の知り合いだとか」

「森川千夏か」

 

 すず子の親友であり、前回のセレクターでもあった少女。

 すず子の思う、優等生の森川千夏を保っていなければいけないという強迫観念によって、自身が縛られていると感じた彼女は、バトルを勝ち抜けして自らの中からすず子に関する記憶を消そうとした。

 結局、その考えは間違いだとすず子に気づかされて、彼女たちは仲直りした。

 ただし、彼女はその後誰ともバトルすることはなく、残された日数を終わらせた。

 

「いまだ大半の記憶を失ったままだそうです」

 

 森川は大切な親友の記憶さえ覚えていない。

 すず子がこの話に乗ってきた理由がわかった。親友である森川千夏のためだ。

 彼女の記憶を取り戻せるなら。そんな期待を持って、水嶋さんの手伝いをしようと思ったのだろう。

 

「他のルリグのことはわかんないな。正直、自分がルリグだってことも忘れそうになる」

 

 休憩がてら話に応じてくれた白井くんがこちら側の問いにそう答えた。

 コートの端にあるベンチに腰掛け、タオルで汗を拭う。

 実際には、彼は白井翔平という少年ではない。かつて彼のルリグだったドーナが彼として振舞っているのだ、御影が教えてくれた。

 

「俺の中には白井翔平の記憶がそのまま残ってる。周りも俺をそう扱うし、この身体でずっと生きてきたと錯覚するっていうか……」

 

 ルリグは自分の分身。セレクターの記憶も持っている。心と体が一緒になってしまえば、その境界はどんどん曖昧になっていく。

 

「ただ、時々無性にバトルがしたくなる」

 

 白井くんは拳を握りしめた。

 そのほとんどがバトルに対して積極的だった。

 自分が生まれたのはバトルするためであり、本能にもそう刻み込まれているのだろう。

 

「大体は、普通の人間ってことなんだな」

「うん、君たちの知りたいことを、俺は知らない。このまま里見が大人しくしてるとも思えないけど」

 

 それに関しては同意見だった。

 今の里見の中身はカーニバルだが、それが余計に気味が悪い。

 僕の見立てでは、里見よりカーニバルのほうが抱えている闇が深く、何枚も上手だ。

 

「あのさ、あの子、森川千夏は翔ちゃんのこと覚えてる?」

 

 白井くんは隣に座るすず子へ訊いたが、彼女は首を横に振った。

 

「そっか、そうだよな」

 

 むしろ覚えていることのほうが少ない。

 予想はしていたのだろうが、がっくりと肩を落とした。

 

「もう関わらないでくれるか、セレクターバトルに」

 

 彼は真っすぐにすず子を見ると、きっぱりと言い放った。

 

「翔ちゃんが命がけで守ったんだ、あの子のことを。森川千夏もあんたも、自分から闇に近づくようなことをしないでくれよ!」

 

 

 一日を費やしたわりに得られたのは、例えようのない後味だけだ。

 セレクターバトルで失ったものを、まざまざと見せつけられたような気がする。

 目を逸らしていたものを、思い出してしまった。

 

「ごめんなさい。私やっぱり手伝えない」

 

 最初の公園に戻るなり、すず子はがばっと頭を下げた。

 

「ちーちゃんと新しい道を歩いていくって決めたから」

 

 白井翔平……いやドーナが言ったことは正しい。

 苦しい思いをして、ようやくたどり着いたのが今だ。

 わざわざ危険に突っ込んで、これ以上何かを失うのは馬鹿げている。

 

「わかった」

 

 水嶋さんはあっさりと受け入れ、すっとその場を去っていく。

 その姿が見えなくなると、急に胸がざわついた。居心地の悪さを感じて、すず子たちに別れを告げる。

 急いで追いかけると、すぐに水嶋さんを見つけられた。

 

「水嶋さん」

 

 声をかけると、彼女はびっくりしたように目を開けて立ち止まる。

 

「私から話を振っておいてなんだけど、すず子の言うことも一理ある。あなたがセレクターバトルの結果に満足しているなら、あるいはもう巻き込まれたくないなら、退くほうが賢明よ」

「でも君は続けるつもりなんだろ」

「私には、そうする義務がある」

 

 言い淀まない。

 水嶋さんは、繰り返し続いていく闇の中へ、身を放り投げる覚悟はできている。

 それでも仲間を集めようとしたのは、一人でいることに限界を感じているんじゃないのか。戦力的にも、そしてたぶん精神的にも。

 表情に見えないだけで、ギリギリのところでずっと耐えているのかもしれない。

 

「手伝うよ。ここまで来て止めるほうが気持ち悪い」



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空虚/仲間と友人

 翌々日はすず子からも、御影からも接触はなかった。

 彼女たちにとっては、セレクターバトルはとっくに終わったもので、蒸し返すものではない。

 正しい選択だ。

 水嶋さんからも連絡は来ない。

 元ルリグやセレクターでさえ、ほとんど何も知らないのであれば、お手上げに近い。

 何か知ってそうなカーニバルも姿を現さないし、手詰まり感が強くなってきた。

 このまま何も見つからなければ、水嶋さんは諦めるだろうか。失ったものを手放したままで納得するだろうか。

 ポケットの中でスマートフォンが震える。見ると、水嶋さんからメッセージが届いていた。

 

『今日会える?』

 

 

 陽は沈みかけて、すでに外灯は光を放っていた。

 スマートフォンと道行く人々を交互に見て、まだかと待つ。

 駅前は賑やかで、仕事終わりのサラリーマンや遊びに来ている学生が行き交う。

 この中にも、もしかしたら元ルリグがいるのかも。そう思ってみても風景は変わらない。

 世界中の何人がバトルの犠牲になったのかは知らないが、確実にそれはいる。すでに、ドーナのように日常に溶け込んでいる者もいるだろう。

 僕の知る狭い中でも、ドーナ、グズ子、カーニバル。セレクターバトルのルールを考えれば、勝ち残った人間の二倍か三倍か、とにかく大勢が取って変わられているはずなのだ。

 バトルの傷跡は刻まれている。しかも永遠に。

 

「お待たせ」

 

 陰鬱な気持ちになったところで、ようやく水嶋さんが現れた。

 

「やあ、水嶋さん。今日はどうしたんだ?」

「前に言った、最初のセレクターバトルを終わらせた人のこと、覚えてる?」

「小湊さん……だったかな」

「その人に会ってきた」

 

 少し遅い時間を指定してきたのはそのせいか。

 まあ、一人でも二人でも変わらないだろうから、僕に何も言わずに会いに行ったのはとくに咎めはしなかった。

 

「どうだった?」

 

 その人、小湊るう子さんがものすごく強いことは聞いている。

 なにせ、僕たちの目標とする、『セレクターバトルの終結』を一度達成した人だ。

 協力を得ることが出来れば心強いけれど、水嶋さんは首を横に振った。

 

「彼女も、セレクターバトルに関わるのは嫌みたい」

 

 やっぱりか。

 戦いで心に傷を負った人は多い。小湊さんが話に聞くような人なら、なおさらだろう。

 

「意地でもカーニバルを追うしかないか」

 

 とはいえ、カーニバルの所在を掴むのは不可能に近いだろう。

 彼女のセレクターだった里見は、自ら僕に接触してきたが、セレクターでもない今の僕に寄ってくるとは思えない。

 ここまで影も形もないとなれば、徹底的に避けられているとしか思えなかった。

 いつの間にか陽は沈んで、まだそんな遅い時間じゃないはずなのに辺りはすっかり暗くなっている。

 闇が降りればそれだけ危なくなる。水嶋さんを一人でほっつき歩かせるわけにもいかないし、追う僕たちにとってはやりづらい季節になってきた。

 相手側は逆だろう。隠れやすく、襲いやすい。

 不安が支配する時間が、これから長くなる。

 

「少し、疑問があるのだけれど」

 

 水嶋さんが少し遠慮がちに言う。

 

「以前、私があなたの心を見たことは覚えてる?」

 

 僕は頷いた。

 以前のセレクターバトルで彼女と戦ったとき、ルリグの能力によって、僕は心を覗かれた。

 カードゲームでは、精神の優位性がものを言う場面が多い。一度プレイングミスを犯してしまえば、それ以降にも支障をきたしてしまう。

 とくに、あんな不条理に巻き込まれた状態ならなおさらだ。

 水嶋さんのルリグの能力『ピーピング』は、そういう意味で強力な武器となっていた。

 

「そのとき、あなたとすず子が友達だったのを見た。けど、この前の感じだと、初対面みたいな反応だったわよね。すず子はバトルを勝ち抜けしたから、記憶は失ってないはずなのに……」

 

 疑問に思うのは当然だろう。

 クラスメイトだって、それまで仲の良かった僕たちがいきなり一言も喋らなくなったことを不思議がっていた。

 僕はつかの間ためらって、口を開く。

 

「今は言えない」

 

 記憶を失うことが、自分を失うこととしている彼女にとって、僕の行為はすず子の一部分を殺したと言ってもいいだろう。

 僕がどれだけ、何を言おうとも、彼女はこう言うだろう。

 『理解できない』

 だが今ここでわからずとも、接していくなかで、彼女も気づくだろう。

 僕は最低の人間だ。出会わなければよかったとどこかで思わせる。

 そうなれば、水嶋さんのもとから去ってもいい。あるいは、セレクターバトルが続いていて、万一にも僕が再び選ばれたときには記憶を消してやる。

 彼女と僕の協力関係は、そのどちらかに辿りつくまでの間だけだ。

 だがそうなるまでは、僕がしたことはできるだけ伏せたい。

 言ってしまえば、彼女の目に、僕が敵として映ってしまう。

 そして彼女はまた一人で戦うことを選ぶだろう。

 

「あなたは……」

 

 『知らない』ではなく『言えない』と言ってしまったのは失敗だったか。

 僕が何かをしたと言外に告げてしまったようなものだ。

 水嶋さんは僕にかける言葉を探して、しかし口をつぐんだ。

 

「清衣!」

 

 誰かが水嶋さんの名前を呼ぶ。探すまでもなくすぐに見つかった。

 僕らと同じくらいの歳の女の子が、こちらに向かって大きく腕を振る。それにつられるように、サイドテールが軽く揺れた。

 水嶋さんと違って快活な印象を受けるその女子に、僕は見覚えがあった。

 

「ピルルク……?」

 

 

「つまり、橋本さんは最初のセレクターバトルのセレクターってこと?」

「そ、んでそのときのルリグが清衣ってわけ!」

 

 立ち話もなんだから、と連れられたファミレスのテーブル席。僕の正面に座る橋本アミカさんはなにやら黒と緑が混じった色の飲み物をぐいっとあおった。

 最初、「セレクターさん?」と言われたときは驚いたが、話を聞いて納得。僕よりも先輩のセレクターだったという。

 彼女のおかげでセレクターバトルを抜け出すことが出来たのだと、水嶋さんは紹介した。

 僕はゆっくりとコーヒーを飲みながら、橋本さんを観察する。

 水嶋さんが使っていたルリグ、ピルルクにそっくりなのだ。いや、ピルルクのほうがそっくりだと言うべきか。

 髪色や服装以外のところはそのまま。カードの中からぱっと出てきたみたいだ。

 

「ピルルクは彼女をもとにしたのか?」

「いいえ、アミカは関係ない……といえば嘘になるけれど」

 

 水嶋さんにしては珍しく歯切れの悪い答えだ。

 それ以上話そうとしない彼女に、僕は追求しようとは思わなかった。

 あの顔だ。僕らが初めて話したときの、苦しんだ顔。

 僕だって過去のことを話したわけじゃない。だが、セレクターバトルを終わらせるのに、わざわざ語る必要もないだろう。

 

 女の子を暗い中放っておくわけにはいかないので、僕は二人を送っていくことにした。

 先に、家が近い水嶋さんを送ったあとで、橋本さんと並んで歩く。

 橋本さんは、僕が思っているよりも物怖じしない性格で、ほとんど初対面にも関わらず気軽に話をしてくる。

 このずいずいっとくる感じに、水嶋さんは引っ張られているんだろうな。

 彼女のアパート前に着いたところで、それじゃ、と別れを告げる。

 

「伊吹くん」

 

 別れの挨拶の代わりに、橋本さんは僕を呼んだ。うってかわって真剣な目つきで。

 

「清衣はさ、危なっかしい子なんだよね。全部自分で抱えようとして、自分で解決しようとするんだ。私を心配してくれるのは嬉しいけど……」

 

 ずっと前からそうなんだ、と橋本さんは言う。

 その顔は、これまでで見せることのなかった翳りが支配している。

 最初のセレクターバトルは、話を聞くだけでも壮絶だ。そこで全てが終わっていたら、彼女たちにとっては幸せのままだっただろう。

 だが、続いてしまったことで、水嶋さんはその渦に巻き込まれた。

 一人で戦うのは限界だったが、親友である橋本さんに助けを求めるわけにはいかない。

 醜い戦いの中へ、どうしても橋本さんだけは連れて行けなかった。

 僕たちに協力を持ちかけてきたのは、橋本さんを守るためでもあるのだ。

 

「いまセレクターを探し回ってるのも、私を巻き込まずに全部解決するためなの。何度も危ないって注意しても、清衣は無視して戦うだけ」

 

 橋本さんは思いっきり頭を下げた。

 

「たぶん、いま力になれるのは伊吹くんだけ……だから、お願いします! 清衣の助けになってあげて」

 

 水嶋さんには、橋本さんがいる。これだけ心配しあう親友が。

 僕にも親友はいる。決してこの戦いには巻き込みたくない、無二の親友。

 だから水嶋さんと橋本さんの気持ちはわかる。

 そういうつもりで言っているのではないだろうが、この事態を解決する誰かが必要なのだ。

 水嶋さんは、橋本さんを失いたくない。だから一人で戦う。

 けど、水嶋さんがいなくなってしまえば、橋本さんが一人になってしまう。

 この先の闇に踏み込んでしまったら、そうなる可能性は大いにある。

 どちらかが消え、どちらかが取り残される。たった一人で。

 

「なるべく頑張るよ」

 

 逃げ道のある言い方だけど、僕はそう言うしかなかった。 

 絶対にどうにかするなんて口が裂けても言えないし、僕がどこまでできるかなんて、自分でもわからない。

 でも、できる限りはやる。僕はそう心に決めた。

 

 

 勉強が捗らない。ペンは何も書かず、宙を舞う。

 最初のセレクターバトルで、水嶋さんは未来を掴んだ。しかし、次で過去を失った。

 なんとも酷い話だ。

 彼女は前進と後退と停滞を繰り返している。人生を弄ばれ、その小さな身体では耐えられないほどの傷と責任を負っている。

 張り詰めた糸が切れてしまったとき、今度こそ立ち上がることはできないのではないか。そう思うほどに、壮絶な過去と今は彼女を追い詰める。

 僕は力になれるだろうか。

 御影が記憶を取り戻した時、僕はバトルをしていた。すず子が森川とのことで悩んでいるとき、決意を固めた時、僕はそばにいなかった。

 彼女たちの大事な場面、彼女たちに支えが必要な場面に、僕はいなかった。

 知ったふうに、こう思っていたのだろうと推測しているだけだ。

 必要な時、必要な場所にいることができず、いることを避けている僕は、水嶋さんの力になれるか?

 それすら傲慢なのかも。僕が何をしていなくとも、すず子も御影も今みたいに普通に過ごしていたんじゃないか。

 ため息をついて、背もたれに身体を預ける。

 今日はもうだめだ。ペンを机に放り投げて、天井を眺める。陰鬱な気分の時は何をしてもロクな結果にならない。

 どうやら、セレクターバトルを引きずっているのは僕も同じようだ。

 心の曇り模様とは逆に、なんだか部屋の明かりが強くなった気がする。

 おかしいな。机上のライトが勝手に点くわけないし……

 視線を元に戻すと、奇妙なことに机の上の一部分が光っていた。手の平に満たないほどの、長方形の大きさに。

 このサイズはよく知っている。ウィクロスのカードとまったく同じ大きさだ。

 その光へ手を伸ばす。手に取れる。薄いカード状のそれは、僕が持つと光を抑えはじめる。

 ゆっくりと、そこに描かれているものが見えてくる。

 

「あなたは選ばれた」

 

 カードから声が聞こえた。

 纏う黒いドレスも、紫のメッシュが混じった黒髪も、その声も、全部覚えている。

 共に戦った僕の分身。その名前は……

 

「リィン?」

 

 セレクターバトルは続いていると、水嶋さんは言った。

 僕は心のどこかで、その言葉を信じ切れなかったのかもしれない。全てが、既に終わったことなのだと思い込んでいたのかもしれない。

 本当の悪夢はこれからだ。



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開幕/狂喜と因縁

 次の日は授業を聞くことを二の次にして、ばれないようにすず子を観察した。

 彼女はとくに変わった様子もなく、ちゃんと授業を受けているし、休み時間になれば友達とウィクロスに興じている。

 巻き込まれたのは、僕だけか。

 とにかく、すず子がセレクターになってないようでよかったと胸をなでおろす。

 安堵を感じたのもつかの間、昼休みになって、御影がこちらの教室にやってきた。

 放課後ならともかく、昼にまで二年生の教室に来るのは珍しい。

 嫌な予感を覚えながらじっと見ていると、なにやら二言三言だけすず子と話しただけで教室から出ていった。

 僕は立ち上がって、彼女を追いかける。

 追ってくるのがわかっていたみたいに、御影は廊下に立って壁に背を預けていた。

 

「御影、いまいいか?」

 

 こくり、と頷く。

 

「承諾。私もちょうど伊吹さんと話をしたかったところです」

 

 

 セレクターバトルのことについて、初めてすず子と話したのもここだったな。なんて思いながら、中庭のベンチに座る。

 

「話というのはこれですよね」

「はぁい。お久しぶりですわ。伊吹さん、リィンさん」

 

 予想はしていたから驚きはしなかった。

 御影のもつカードには、僕と同じく動くルリグがいた。

 以前のバトルと同じ姿に言動。そして前回と同じくナナシと名付けられた彼女がこちらに手を振る。

 

「久しぶりね。御影にナナシ」

 

 僕のルリグも見せる。昨晩突如として現れたリィン。彼女もまた、僕の記憶と寸分も違わない姿で現れていた。

 すでに四者とも面識があるため、それぞれの紹介はなし。早速本題に入る。

 

「整理。今回のセレクターバトルについてどこまで知っていますか?」

「全員コイン三枚でスタート。それと『キーカード』っていう新しい要素が加わったことくらいかな。あとは……」

「まだ何かあるみたいだけど、意図的に隠されてるみたい」

 

 僕の言葉を継いで、リィンが言う。

 前回は勝利の条件、特典、負けた場合のペナルティなどはっきりしていた。そのときはルリグが隠していたりしたが、今回は違う。

 ルリグでさえ、ほとんどのことが曖昧らしく、先ほど述べたことがしっていることのすべてらしい。

 

「こちらも同じです。ナナシちゃんの言うことはいまいち信用できませんでしたが、リィンさんの言うことなら大丈夫でしょう」

「あら、はんな様ったら酷い」

 

 ナナシは飄々として掴みどころがないから、話をそのまま受け取りにくいのもわかる。

 しかしリィンだって、前回はペナルティを隠していた。

 結局どこまで信じられるかわからない以上、本当のことを知るには誰かが犠牲にならないといけない。

 あるいは、そうなる前に決着をつけられれば問題はないのだが。

 

「水嶋さんも選ばれているみたいだ」

 

 昨日、セレクターに選ばれてすぐさま連絡を取ろうとした瞬間に、水嶋さんがメッセージを送ってきたのだ。

 橋本さんに異変はないようなのが不幸中の幸いだ。

 

「すず子がセレクターになってないのが幸いだな」

「同意。すず子さんには、もう苦しんでほしくありませんから」

 

 前回のバトルを経て、すず子とその親友である森川は傷ついた。傷つきすぎたのだ。

 再び友達に戻ることができたのだが、しかし代償が大きすぎる。

 記憶のほとんどを失った森川と、その記憶を知っているすず子。両者の間には埋まることのないズレがある。

 セレクターに選ばれていたなら、危険に身を突っ込んででも勝とうとしただろう。水嶋さんの話に乗って、カーニバルを探したときのように、あっさりと手を伸ばそうとする。

 

「不安。ここまでセレクター経験者が揃っているとなると……」

「ああ、カーニバルも例外じゃないだろうな。そろそろ姿を現してくるか、まだ潜んでいるか……」

 

 ルリグは、他のルリグの存在を察知することができる。しかしながらカーニバルはそうじゃなかった。

 使っていた里見とカーニバル本人曰く、特別なのだと御影は聞いた。

 おそらくは、現在セレクターバトルを仕切っている誰かのお気に入りなのだろう。

 きっと今回も参加しているはず。

 ならばもっと本格的にカーニバルを探す必要がある。

 贔屓されている彼女なら、他よりも多くルールを知らされている可能性がある。

 何よりも、これ以上被害者を増やすわけにはいかない。

 実際に悪事を働いていたのは里見だが、それに賛同していたカーニバルが何をやらかすにしても、僕たちにとっていい結果にはならないだろう。

 しかも、どうやら今回はセレクターがランダムに選ばれているわけではない。僕たちのことを知っているカーニバルが情報的にアドバンテージを持っている時点で、嫌な予感がぷんぷんする。

 

「違う駅で探してみませんか。新宿に、カードショップでアルバイトをしている知り合いがいるんです」

 

 

 放課後。御影の先導で新宿を歩く。

 連れられたカードショップには、僕たち以外の客はおらず、がらんとしていた。

 

「はんなさん。珍しいね、こっちに来るの」

「紅林さん、お久しぶりです」

 

 入るなり声をかけてきた女性に、御影は返す。

 ショップの名前が入ったエプロンに名札。僕と同い年くらいのその女性は、ここの店員らしい。

 どうやら、言っていた知り合いとやららしいが、それよりも店員の名前に引っ掛かりを感じた。

 紅林……たしか、最初のセレクターバトルの被害者の一人だったはずだ。珍しい苗字ゆえ、同姓の別人ということは考えづらい。

 

「リィン、どうだ?」

「いえ、反応なし。セレクターじゃないわ」

 

 こっそりと確認する。

 水嶋さんという例がある以上、最初のセレクターバトルで選ばれた者も巻き込まれている可能性がある。

 だがしかし、紅林さんはセーフ。

 

「横の人は……はんなさんの彼氏?」

「ひ、否定。ウィクロス仲間です」

 

 ぶんぶん。袖と首を振って訂正する御影。

 それを面白がって、紅林さんはにやにやとした笑いをカウンターの向こうから投げかけてきた。

 

「し、質問。今日は訊きたいことがあって来ました。セレクターバトルを知っていますか?」

 

 こほん、と咳払いをして、御影は本題に入る。

 直球だが、はぐらかして遠回しに告げることもない。

 知らないならどうせわからない話だし、知っているなら値千金。

 

「いや、知らないなぁ。新しいカードゲームかなにか?」

 

 少しの逡巡もなく、即答。ごまかしてはいるが、少しだけ目が泳いでいるのがわかった。

 水嶋さんの話を聞いていたからだろうか、嘘をついているように見える。

 もう少し踏み込んでみることにしよう。

 

「記憶を賭けたウィクロスのバトルっていう都市伝説。負けたらペナルティとして記憶を奪われるっていう話だけど……本当に知らない?」

 

 今度は明らかに目を見開いた。

 

「前はそんなルールじゃなかった……」

「前、とは?」

 

 紅林さんが思わず漏らした言葉を、僕も御影も聞き逃さない。

 やはり、彼女は水嶋さんの言っていた、紅林遊月と同一人物だ。

 

「い、いやあ、噂に聞いてたやつとちょっと違うなあって」

「疑問。さっきは知らないと言っていましたが」

「いま思い出したんだ。どこで聞いたんだっけな。雑誌とかかな?」

 

 あくまで知らないと言い張る気だ。

 彼女も、水嶋さんが勧誘して断られたという小湊さんと同じく、もうセレクターバトルに関わる気はないのだろう。だが、せっかくの情報源をただ手放すのは惜しい。

 僕はカウンターに置いてあるペンとメモ用紙を拝借して、名前と連絡先を書いた。

 

「一応、僕の電話番号を渡しておくよ。何かあったら、知らせてほしい」

「ナンパ?」

「ナンパだったら、君の番号を聞いてる」

「ふーん、ま、何かあったらね」

 

 たぶん連絡することはないけど、と言いながら、ポケットにしまっていた財布を取り出して、札入れにメモを収める。

 これ以上は何も得られないと、僕と御影は店から退散する。

 道路に出るなり、御影は僕を見て頷いた。

 

「確信。彼女は……」

「最初のセレクターバトルの経験者だな」

「肯定。しかし隠していましたね」

「そりゃ、まあ巻き込まれたくないだろうよ。僕だって本当は勘弁してもらいたい」

「電話、かけてくれると思いますか?」

「さあ。だけど嫌な予感は感じてるはずだ」

 

 なぜ? という目を御影は向ける。

 

「番号を書いた紙を、わざわざ財布にしまってた。捨てるつもりなら、僕たちが出ていくまで手で持つか、そこらへんに置くか、適当にポケットにしまうはずだ」

 

 それに比べて紙に対する紅林さんの対応はかなり丁寧だった。

 終わったはずのセレクターバトルがまた始まっていることに、不安を感じているのだ。

 

「電話がないほうがいいのでしょうか」

「何もないってことだからね。あの紙が使われなくて、破り捨てられてたら一番だ」

 

 知らない番号からかかってきても、出るようにしなきゃな。

 もちろん、先に言ったようにかかってこないのが一番だけど。

 

「とにかく、水嶋さんに話してみよう。今後どうするかじっくり話し合わないと……」

 

 突然、ぞくりと総毛が立った。

 視界に入ってきたものが信じられなかったからだ。

 いやに整えられたスーツに、いやらしいにやけ顔。

 

「カーニバル……っ!」

 

 さんざん探した敵は、なんの前触れもなくいきなり現れた。

 僕は歯ぎしりする。

 里見紅の身体に、そのルリグであったカーニバルが乗り移っている。

 話を聞いただけだが、今の彼……彼女だろうか、とにかくその様子を見れば納得ができる。

 人間を見下すだけ見下していた里見とは違う。自分を強者だと信じつつ、隙のない余裕。幾人もの犠牲者を出した、その陰。

 掴みかかろうかと近づくと、ゆっくりと建物の陰へ消えていく。

 

「待てっ」

 

 見失わないように、急いで追いかける。

 走っているようには見えないのに、どうしても追いつけない。

 カーニバルがビルの中に入ったのを、さらに追走する。

 雑居ビルだ。

 奴の姿を探していると、何かが光っているのに気が付いた。

 エレベータの一階、二階を示すランプが点灯は消えていく。次は三階、四階。

 上へ向かっているんだ。そうなら、逃げ場はなくなる。

 階を上がるごとにエレベータの動きを確認しながら、階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 四階に上がるころには、心臓はばくばくと音を立て、息も上がってきたが、堪えて身体を動かす。

 五階の上への階段の先には扉があった。屋上だと気づいて、勢いよく開ける。

 夕方特有の濃く色づく陽ざしに目を細めながら見回す。

 柵もなく、踏み外せば一巻の終わり。予想通りそう広くない屋上だったが、カーニバルはどこにもいなかった。

 いや、あそこだ。となりのビルの屋上。

 ギリギリで飛び移れそうな距離だったが、そこで僕の身体はすくんでしまった。

 感情のボルテージはマックスだが、命知らずの行動に出るほど冷静じゃないわけじゃない。

 

「カーニバルっ! 僕とバトルしろ!」

 

 声を張り上げて睨みつける。

 

「したいのはやまやまだけど、まだその時じゃない」

 

 意味が分からないことを言って、カーニバルは顎である場所を示す。

 別のビルの屋上に、二人の少女が立っていた。

 

「水嶋さん?」

 

 なぜ、いま、そこにいるんだ。

 しかも相手のことも見たことがある。モデルの蒼井晶だ。だがその表情は、テレビや雑誌で見るような可愛らしいものじゃない。憎悪と愉悦が混ぜられている。

 まずいことに、二人ともがすでにカードを構えているということだ。つまりこれは……

 ここからじゃ止められない。カーニバルはそれを見越して、姿を現したのだ。

 今から始まるバトルを邪魔されないように。

 

「オープン!」

 

 二人が叫ぶバトルの合図。

 一瞬にして、僕たちは渦中へと引きずり込まれてしまった。

 

 

 気が付いた時には、すでに全ては始まっていた。。

 見渡す限りが灰色の異様な空間。遠くに見えるのは捨てられた建物。近くに佇むのは巨大な数字のない時計盤。

 いくつか浮かぶ青色のブロックの一つに水嶋さんが、そこから十、十五メートルほど離れて蒼井昌が向かい合っている。僕は離れた灰のブロックに立たされ、近くの別ブロックにはカーニバルもいる。

 急激に力が抜けて膝をつく。バトルが始まってしまえば止めることはできない。少なくとも、セレクターである僕には。

 

「これがお前の狙いか、カーニバル」

 

 バトルはすでに始まっていた。だが無力な僕にはどうすることもできない。うなだれたまま、敵を睨む。

 

「いいや、あれは俺の思惑の外。といっても想定内だが」

 

 こいつはいったい、何を考えているんだ。何を思ってこのセレクターバトルをかき乱そうとする。

 里見紅の思惑は何度も話しているうちにわかった。その底も。

 だが彼女は、カーニバルは違う。里見よりも深い闇を持ち、さらに深いところまで策略をめぐらし、実行する。

 より洗練された黒だ。

 

「見ろよ、伊吹肇。お前はここをカオスが渦巻く場所だと思っている。けどここは世界で一番純粋な場所だ」

 

 爆発音がする。

 蒼井昌のルリグが、ピルルクに攻撃を加えているのだ。

 相性が悪い。

 心を読む水嶋さんのピルルクに対し、蒼井昌の『ミルルン』のコイン技は、誰にも何が起きるかわからない『ハプニング』。

 そのうえ、蒼井はなぜか水嶋さんの手の内を知っているかのような動き方をしている。

 

「純粋?」

「そう。悩みがあろうが、ここはそのすべてを発散できる場所だ。感情を解き放ち、戦いだけに没頭できる場所だ。ここでは人もルリグもしがらみから逃れ、自分という本質を曝け出せる。現実で追い詰められようとも、負ければ取り返しのつかないことになるとわかっても、現実で腐りながら生きるよりマシなのさ」

 

 カーニバルは大仰に腕を広げて、それから僕を指差す。

 

「お前もそうだろう。現実は苦しい。本当はここに帰ってきたかったんじゃないのか」

 

 

 勝負は、水嶋さんの勝利で終わった。

 いつの間にか元の場所に意識を返された僕はあたりを見渡したが、すでにカーニバルはいなくなっていた。

 水嶋さんは敗走した蒼井晶を目で追いかけたあと、ようやく僕に気づいた。

 そのあと、後を追いかけてきた御影と、バトルを終えた水嶋さんを連れて、歩道橋の上で話し合うことにした。

 再び始まったバトルを目の当たりにしたことで、腰を落ち着けてゆっくりとなんて気分じゃない。

 

「無茶したな」

「無茶?」

 

 水嶋さんが首をかしげる。

 

「詳細なルールがわからないとはいえ、負けたらピルルクが奪われてた。君が負けたら……」

 

 いつの間にか手すりに追い詰めるような形になっているのに気が付いて、息を吸う。

 ルリグは他のルリグを探知する。

 水嶋さんのピルルクが、蒼井晶のミルルンの存在を感じ、そしてあのバトルが始まった。

 蒼井は敗走して、どこにいったかわからない。もし水嶋さんが負けたら、どうなっていたことだろうか。

 橋本さんが悲しむのだけは確かだ。

 

「とにかく、何かあったらお互いに知らせるようにしよう。ルリグを奪い合うこのルールだと、複数で固まっていたほうが安全だ」

「わかったわ」

 

 こくり、と二人とも頷く。

 幸い、今回のルールが明らかになってきた。

 まず、キーカードの存在。

 バトルで初めから出すルリグとはもう一人、追加でルリグを出せる。これにはコイン技を使うのと同じく、コインをベットする必要があるが、それだけの威力があるのは見て分かった通りだ。

 体感した水嶋さんの話によると、一度ルリグになったことのあるプレイヤー自身もキーカードとして場に出ることが可能になるようだ。

 もう一つわかったこと。勝敗が決したあとのことだ。

 勝った側はコインを一枚ゲット。負けた側はコインを一枚と、ベットした分を失う。これは前回のと同じ。

 決定的に違うのは、 持っているルリグが勝った側のものになるということ。げんに、いま水嶋さんの手元にはミルルンのカードがある。

 つまり勝利すればするほどルリグを獲得でき、後のバトルに有利になっていくということだ。

 問題は負けた場合。ルリグを失ったセレクターはいったいどうなるのかという点だ。

 コインは持っている、なら退場と捉えるには早計だろう。だが戦う手段がない以上は取り戻せもしない。

 ミルルンのカードに触れようとしたとき、静電気のようなものが走って手が跳ねのけられたから、譲渡も無理なようだ。

 さらに僕が懸念しているのは、セレクターがキーカードとなって場に出て、負けた場合のこと。

 セレクターもキーカードとして奪われるのだろうか。

 

「協議。それで、これからはどうしますか」

 

 ぐるぐると回る思考に気持ち悪くなってきたとき、御影が声を上げた。

 そう、起きてしまったことはとにかく置いておいて、手に入れた情報をもとにどう動くかが大事だ。

 

「蒼井晶は前回のセレクターじゃないんだよな?」

「少なくとも、私の知る限りは」

 

 水嶋さんは頷く。

 今までに行われたセレクターバトルの経験者が選ばれているなら、その実力や数は未知数。

 

「今は、他のセレクターを探して協力しつつ、バトルを避けるしかない」

 

 日和った提案しかできなかったが、それが最善だ。

 御影も水嶋さんも納得してくれて頷いた。

 だがしかし、すぐさまそれが破られることになるとは、この時の僕は思ってもなかった。



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泥沼/願望と記憶

 水嶋さんVS蒼井昌のバトルの翌日からさらに一日置いて、まだ不安が心を支配する昼。御影に呼び出された僕は、いつもの通り中庭に来た。

 先に待っていた御影は弁当を食べるよりも早く、座りもせずに口を開いた。

 

「報告。カーニバルに負けてしまいました」

 

 悔し気に告げる御影に、僕は絶句した。

 バトルは避けようと言ったのに、それをあっさり破ってみせるなんて……

 

「何かあったら知らせるって……」

「急だったんです。それに、すず子さんをカーニバルに会わせるわけにはいきませんし。あそこでカーニバルの思惑を潰せるなら、それに越したことはないと思いました」

「それでも……」

「伊吹さんだって、前回は私やすず子さんに何も言わず、一人で戦っていたじゃないですか。他人がするのは認めないというのは、勝手がすぎると思いますが」

 

 唐突に前の話を持ち出されたことに驚いたが、つとめて冷静に返す。

 

「知ったふうなことを言わないでくれ」

「愚問。知るわけないじゃないですか。伊吹さんが勝手に私たちを遠ざけたんですから」

 

 御影の語気が強くなる。

 

「受け入れたはずだろ」

「否定。理解も納得もしていません。すず子さんの記憶を奪った理由も、あなたが離れていった理由も、私たちは何一つ聞かされていないんですから!」

 

 僕のしたことに納得してもらうのはすでに諦めていた。御影が僕のことを最底辺の人間だとわかってもらえれば、それでいい。

 それを理解してもらえれば、友人であるすず子が僕のことを忘れているのは好都合のはずなのだ。

 彼女たちを遠ざければ、そして彼女たちが近づいてこなければなんの問答をする必要はないと思っていた。

 実際、この数か月はそれで上手くいっていた。前回のセレクターバトルで積み上げられた関係は無に帰り、僕とすず子は一切の会話をしなくなり、御影はそれに言及することはなかった。

 

『僕とすず子を近づけさせるな』

 

 御影に送った手紙の意味を、ちゃんと理解してくれたのだろうと思って、僕は以前の生活に戻った。

 だけど再びセレクターバトルが始まって、御影とはまた協力せざるを得なくなってしまった。

 その間に溜まっていたフラストレーションが爆発したのだ。御影がこんなに声を荒げるのは珍しい。

 

「本当なの……?」

 

 僕のでも御影のでもない声が後ろから聞こえた。

 ばっと振り返ると、すず子がそこにいた。

 顔から血の気が引いていくのがわかる。今の話を聞かれるには最悪のタイミングだ。

 

「なんで……どうして……」

「すず子、僕は……」

 

 何か言い訳を考えようと脳をフル回転させたが、呆気に取られて真っ白になった頭では何も浮かばない。

 

「いやっ、聞きたくない!」

 

 言い訳をする暇もなかった。それどころか、『聞きたくない』ときたもんだ。すず子は耳をふさいで、目をぎゅっと閉じる。

 そうだ。僕はそう言われるほどのことをした。

 だから、すず子が涙を流しながら去っていくのを、黙って見送ることしかできなかった。

 記憶を奪ったことを知られた。理由を言う前に逃げられた。

 

「これで十分か?」

 

 御影にそう言い捨てて、僕もその場を去った。

 

 

 ある意味では、理想の形だったのかもしれない。

 すず子の周りにいる女子たちは、僕とすず子が一時期仲良くしていたこと、二人ともウィクロスをしていたことを知っている。

 今は空気を察して話題を避けているようだが、いつポロっとその話が出てもおかしくない。

 そうなれば、すず子は僕に話しかけてきたかも。そのとき僕は冷たくあしらうことができただろうか。

 そのことを考えれば、今日のことは……まあ悪いことじゃない。

 自分に言い聞かせて、とある店の扉を開く。

 

「伊吹さん、こっちこっち!」

 

 集合場所のファミレスに入った僕を見るなり、僕を呼び出した張本人である紅林さんは手を振って招いた。

 

「紅林さん。電話くれて嬉しいけど、問題が発生したってことでいいかな」

「うん。とりあえず座って」

 

 紅林さんの対面に座る。彼女の隣に座っているもう一人の少女は、紅林さんとは違ってかなり大人しめな印象だ。

 視線を若干下に逸らしながら、ちらちらとこちらを見る。

 眼鏡と三つ編みのせいだろうか……僕の偏見だけども、かなり賢いように見える。

 

「あたしの友達の一衣」

「う、植村一衣です」

 

 植村さんはおどおどとしながらぺこりと頭を下げた。

 

「伊吹肇。よろしく、植村さん」

 

 できるだけ柔らかい顔を作って挨拶する。植村さんも笑顔で返してくれた。紅林さんからの紹介とあって、警戒は解けたようだ。

 

「それで、話って?」

「実は、その、あたしたち本当はセレクターだったんだ」

 

 いきなり本題に入った僕もそうだけど、紅林さんも単刀直入。

 予想していたから驚きはしなかった。

 

「最初の、三回負けたら願いが逆転してしまうバトルのこと?」

「そう、それで……」

 

 何から話したらいいかな、と唸る紅林さんを見つつ、植村さんにも注意を向ける。

 小湊るう子の友達。彼女の名前も水嶋さんから聞いた。

 なるほど、嫌な予感はドンピシャで当たったようだ。

 

「彼女、セレクターになってる」

 

 胸ポケットから、声がした。僕のルリグであるリィンからだ。

 

「え……」

 

 きょとんとした顔の二人に、僕はカードを取り出して机に置く。

 二人ともカードに、いや動くリィンに釘付けになった。

 それが見えているということは、つまり、リィンの言った通りセレクターなのだ。

 

「伊吹さんもセレクターだったんだ」

「てっきり、女の子だけだと……」

「前回のバトルじゃ、男もいた。君たちのとは違う、記憶を賭けたバトルだ」

「せっかくるう子が終わらせたのに、ずっと続いてたなんて……」

 

 紅林さんも、自分のルリグを出した。

 『花代』という赤色のルリグ。見た目的には、そう歳は変わらないはずなのに、なんだか大人っぽさを感じる。

 紅林さんがこれを手に入れたのは昨日。突然現れたらしい。

 経緯に関しては僕と一緒。カードを買ったりして手に入れた前回と違って、手元に来て無理やりバトルに巻き込まれている。

 しかも、しかもだ。話に聞く限りなら、花代だって人間のはずなのだ。

 最初のバトルに参加したセレクターがまた選ばれた場合、人間二人が強制的に参加させられるわけか。

 ともあれ、これでお互いがセレクターだとわかった。面倒くさい説明は一切しなくて済む。

 

「それで、ここからが本題なんだけど」

 

 と前置きして、紅林さんは植村さんを見た。

 目を伏せていた彼女は、ゆっくりと口を開く。

 

「私もセレクターになったんですけど……負けてしまいました」

 

 植村さんもカードを出した。背景が緑色だが、イラスト部分には何も描かれていない。

 負けた者がどうなるかは、すでに見た。彼女も同じく、ルリグを奪われてしまったのだ。

 コインは残っているものの、ルリグの譲渡ができない以上、そのままであればリベンジも果たせない。

 どうしようかと悩んでいるところに、僕のことを思い出したわけか。

 

「相手がどんなセレクターだったか覚えてる?」

「女の子で、すごく好戦的で……その子、バトルが始まると同時にルリグになったんです。レイラって名前の」

「レイラ?」

 

 最初はカーニバルかと勘繰ったが、予想外の名前に眉を上げた。

 

「知ってるの?」

「前にバトルしたことがある。そうか、彼女も……」

 

 かえでというセレクターのルリグだった戦闘狂。

 今はどうなってるかと考えた時もあったが、そうか、負けて入れ替わったのか。

 

「最初のセレクターバトルを終わらせた……その小湊るう子さんには話した?」

「言えないよ。あんだけ辛い思いしたんだ。あの子まで巻き込みたくない」

 

 あれだけ、というのがどれほどのものかはわからないが、水嶋さんの話からも相当のものだったことは想像できる。

 現在セレクターでない小湊さんに相談して巻き込むことは、どうしても避けたいのだろう。

 気持ちはわかる。僕と御影だって、すず子に言ってない。

 

「わかった。とりあえず、お互いの知っていることを話し合おう」

 

 それからお互いの知らない情報を伝え合った。

 都市伝説として語られている最初のセレクターバトルの話が、ほとんどその通りだったことに嫌気がさす。同時に、当時中学生だったのにそれを終わらせることのできた小湊さんに興味が湧いた。

 僕が経験したほうは、あまり知られていないみたいで、二人は逐一驚きながら聞いている。

 もちろん、僕がすず子の記憶を奪ったことは伏せた。

 

「今のところ、厄介なのはレイラとカーニバルか」

 

 『厄介』の意味がそれぞれで違うのがさらに厄介だ。

 カーニバルは裏で謀略を巡らしている。対してレイラは積極的にバトルを申し込んでは相手のルリグを奪っていく。

 巧みにこちらを操ってくる者に、こちらの計画を潰してくる者。

 もし組んでいたら、そうとうまずいことになる。

 すず子と御影、水嶋さんも呼ぶべきだ。そう思ったが、どうしても手が動かない。

 すず子は僕と話したいとは思わないだろう。御影にも顔を合わせづらい。こんなときにそんなことは言ってられないのはわかっているが、勇気が出なかった。

 僕は首を横に振った。

 今はすず子のことは放っておこう。それよりも紅林さんと植村さんだ。

 

「敵はかなり強力みたいだし、見かけてもバトルをするってことは避けたほうがいいかもね」

「でも緑子が……」

 

 植村さんのルリグ、『緑子』はレイラに奪われた。

 彼女にとっては居ても立っても居られない状況だろう。ともに戦い抜いた仲間で友達、それが知らない人間の手にあるのは耐え難い苦痛だ。

 

「何もしないってわけじゃない。対策を練って、万全の態勢で迎えうつんだ。無策に飛び込んでルリグを失ったら困る」

 

 こくり、と二人は頷いてくれた。

 御影と植村さん、それに蒼井晶。すでに三人のセレクターが負けている。

 戦いはさらに激しさを増して、僕たちを傷つけようとしていた。



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戦闘/再会と奪回

 昼休みは、御影と話し合いをしたり、すず子と一緒に弁当を食べたり、なにかと用事があった。

 何か月も前の話だ。いまじゃ、それはなくなって、奏太と机を向かい合わせて飯を食う毎日。

 別に嫌だとは言っていない。気の置けない親友と、こうやって過ごしているほうが性に合ってる。

 だけど最近じゃ、いろんなことが起きすぎて、セレクターバトルのことが頭から離れなかった。

 今のところ分かっているセレクターだけでも、全員がバトルの経験者。リィンも他のルリグも、別のセレクターを感じてはいないようだ。

 こんな偶然があるか。いや、これは必然だ。

 再びセレクターバトルを始めた黒幕は、セレクターバトルを耐え抜いた者だけを選んでいる。

 問題は、なぜそんなことをしているかだ。

 

「まるで……」

 

 まるで、誰が強いかを決めてるみたいじゃないか?

 バトルで人を食い物にしてきたカーニバル。そのカーニバルを倒した穂村すず子。そして、歴戦を目の当たりにした水嶋清衣。

 他のセレクターまで巻き込まれたのは、参加者を勝負へと引きずりこむためだとしたら……

 しかし、それでもまだ、なぜそんなことをさせるのかという疑問は晴れない。

 黒幕自身が、強者と戦いたがっているのか? それならば、白窓の部屋に拉致して無理やりバトルすればいいだろう。それをしないのは……

 僕は考えを振り払った。

 どれだけ考えようとも、たどり着けはしないだろう。

 人知を超えた状況で、僕の狭い価値観や知識に当て嵌めようとするのが間違っている。そもそも何か理由があってセレクターバトルが行われていることすら、確かではないのだ。

 適当に弄ばれているだけなのかも。

 

「まるで……どうしたん?」

 

 正面に座る奏太が、訊ねてくる。

 

「別に。まるで、普通の日常だなって思って」

「なんだそれ」

 

 呆れながら、奏太がおかずを頬張る。

 このところ考えすぎだ。口から言葉が漏れるほど、頭がいっぱいになってる。

 ため息をついていると、スマホが震えた。見てみると、水嶋さんからメッセージが届いていた。

 

『今日集合するって話、少し遅れるかも』

 

「誰からだ。女か、女なのか」

「奏太には関係ない」

「女だ。くっそう、いっつも肇のところに行って、俺のところには来ねえんだよな」

 

 一部奏太が勘違いをしているのは放っておいて、僕はもう一度メッセージを見る。

 集合? 今日はとくにそんな約束をしていなかったはずだ。

 御影が水嶋さんを誘ったのか。そして、僕には伝えなかったと。

 完全に決別してしまったな、と不安と後悔を持ちながら、僕は『了解』とだけ返信した。

 

 

 水嶋さんとすず子と御影はどこかで集まるらしいというのを掴みながらも、僕は一人で調査をしていた。

 里見と会ったことのあるところを見て、一応レイラと初めて会った路地も探してみるが、やはりいない。

 探し物をするときには、無駄だとわかりながらも同じところを何度も見てしまう。そう思いつつ、僕が足を運んだのは、かつては里見が拠点としていた喫茶店だ。だがやはり、そこにカーニバルはいない。

 戦えと言った時に、彼女は『まだその時じゃない』と言った。あれはどういう意味なのだろうか。

 御影とは戦ったのだから、バトルができないわけじゃない。いや、あのときにはセレクターに選ばれていなかったのか?

 紅林さんがセレクターに選ばれたのは、僕や植村さんよりも後。ルリグを手に入れるタイミングは、人によって同じだったり違ったりするから……いやいや、水嶋さんVS蒼井晶のときには、カーニバルもバトルフィールドにいた。あの時点では、すでにセレクターだったはずだ。

 カーニバルが僕と戦うのに、何か必要なものがあるのか。前回負けたことを根に持って、全力で叩き潰してくるつもり……とか。

 ……あいつの言うことを真に受けるのはよしておこう。しかし警戒は最大限に。

 僕と戦うのを避けているのは、それ以外の誰かを標的としているからだと考えていい。いまその標的となりうるのは、水嶋さんと紅林さん。その二人を引き合わせたほうがいいな。

 注文もせずに、僕は店を出る。すると、入口に見知った顔が立っていた。

 

「森川……?」

 

 思わず、名前を言ってしまう。

 

「誰?」

 

 すず子の親友、森川千夏がそこにいた。

 

 

「そう……セレクターバトルで知り合ったんだ」

 

 陽はまだ落ちていない。夕暮れ時のオレンジに晒されながら、俺はコーヒーをすすった。

 カーニバルを探しに行ったのとは違う喫茶店だ。

 話合い……というか一方的に僕が話すのを、森川はただただ頷いていた。

 

「知り合いというか……顔を知ってる程度だよ。森川……さんは、記憶の大半を失ったって聞いてるけど」

「森川でいいよ」

 

 にこっと笑って言う。

 こうやって話していて、僕が彼女に抱いた印象は前の時とはほぼ逆だった。

 素直で、笑う姿が自然と似合う。どこかすず子と似たイメージに、身構えていた僕自身が馬鹿らしく思える。

 

「うん、今まで何があったのか、ほとんど思い出せないの。だから、伊吹君のことも……」

「そっちのほうが良かったかもね。君から見た僕の印象は最悪だっただろうから」

「最悪?」

「ずいぶん意地悪を言ったからね。君がすず子と本音を言い合えるように焚きつけたんだ」

「本音を……言い合えるように……」

 

 あのときの二人の関係はこじれすぎていた。

 それを解消するには、お互いが嘘偽りなく、二人だけで話せる空間と時間が必要だった。

 表面上はすず子と決別するつもりだった森川は、挑発にあっさりと乗ってくれて、思惑どおり彼女たちは再び友達に戻ることができた。

 賭けではあったけど、すず子なら元通りにできるほどの強さを持っていると、僕は信じていた。

 

「当時の森川は、すず子のことを忘れなきゃいけないって息巻いてた。けど、どうしてもそれが本当のことに思えなくてね。お節介だったかもだけど」

「……どうしてそう思ったの? 私が本当のことを言ってないって」

「苦しんでたから」

 

 お互いに、プラスチックのコップを置く。

 

「君がすず子に絶交を宣言したことがあったんだけど……」

 

 苦い顔をする森川。 

 すず子は言ってなかったか。わざわざ嫌なことを思い出させる必要もない。藪蛇だったか。

 

「言わないほうがよかった?」

「ううん、聞かせて」

 

 首を振って、強い目で見てくる。

 記憶が消えたことで一番苦しんでるのは本人だ。周りが感じているギャップを、森川はもっと感じているだろう。

 なくなってしまったならこれからまた作ればいいというのは、責任も罪悪感も苦痛もない第三者だから言えることだ。

 僕が話をすることで、少しは思い出すことができるだろうか。それとも余計に苦しめるだけか。悩んだが、彼女の言う通り話すことにした。

 

「その時、君の顔はたしかに覚悟を決めたような感じだったけど、同時に後悔も見えた。なんていうか、言いたくないのに言ってしまったみたいな」

「そういうこと、よくわかるね」

「あくまで推測だよ」

 

 とは言うが、あのとき確信めいたものを僕は感じていた。特にネガティブな表情には敏感なのだ。

 

「記憶を取り戻したいと思う?」

「うん」

 

 森川は即答した。

 

「嫌なこともいっぱいあっただろうけど、すず子との思い出を捨てたままにしたくないの。だから……」

 

 すっと、一枚のカードを出した。

 

「だから、戦う」

 

 ああ、僕はなんて馬鹿なんだ。

 紅林さんのように、僕らの後で選ばれた人がいる可能性は考えた。けど、まさか森川がそうだとは、微塵も思ってなかった。

 カードに描かれた少女が動く。

 メル。以前も見た、森川のルリグ。

 

「セレクターになってたのか!」

 

 思わず声を上げる。幸い、周りに人はおらず、聞かれることはなかった。

 

「うん、絶対に記憶を取り戻して、二度と忘れない」

 

 ああくそ、まずい。

 今の森川が以前のような非情な戦い方ができるとは思えない。そもそも、バトルのルールを把握してるのか? キーカードという新ルールもあるのに、勝ち抜けることができるのか?

 答えはノーだ。カーニバルやレイラのような、強力な相手と戦えば、負けてしまう。

 そうなればどうなる。せっかく積み上げた記憶がまた消えるか? 存在が消えてしまうか? なんにしろ良い目には遭わない。

 

「森川……」

 

 確固たる意志が宿る彼女を止めようと、何か言葉をかけようとしたその時、僕のスマホが鳴った。

 紅林さんからだ。通話ボタンを押して応える。

 

《伊吹さん、レイラを見つけた。というより、こっちに来たよ》

「今どこ?」

《駅前近くの……どこだろ》

 

 早口でまくしたててくる。

 あっちもこっちもままならない。ひとまずは、危険を目の前にしている紅林さんが優先だ。

 僕は立ち上がりながら、森川を指差した。

 

「森川、とにかく戦わないようにしてくれ」

 

 返事を待たずに走りながら、僕は紅林さんとの通話に戻る。

 

「紅林さん、僕がすぐ行く。ただし戦っちゃダメだ」

《できないよ。緑子を取り戻すためにも私がやらないと》

「紅林さん!」

 

 通話が切れた。

 くそっ、まずいまずいまずい。

 紅林さんへかけ直すも出てくれない。植村さんも同じだ。

 せめて明確な場所を言ってくれればいいのに。わかっているのは駅前ということだけ。迷っている暇も理由もない。僕は一目散にその方向へと駆けていった。

 こうやって全速力で走っていると、里見紅が、森川とあるセレクターを戦わせたときのことを思い出す。

 そのときの森川の対戦相手は、残りコイン一枚だった。里見はそいつが負けることを見越して、わざとその対戦場所へすず子と御影を向かわせた。そこで僕たちは、セレクターバトルに負けた者の末路を見ることになる。

 ルリグによる人格の乗っ取り。

 それは一つの心が消滅することを意味する。そんなことがまた起きてしまえば……

 

「肇、近いよ。あのビルの後ろでバトルフィールドが開いてる」

 

 リィンの指差すほうへためらいなく向かう。

 ビルに囲まれた開けた場所で、陽に照らされて濃い影を作る二人がいた。

 一人は恐怖から逃れるように自分を掻き抱いている。それが植村さんだとわかり、駆け寄る。彼女は少しでも押せば崩れそうなくらいに震えていた。

 

「植村さん……」

「伊吹さん。遊月が……」

 

 彼女が指差す先にいるのは、満足げな笑みを浮かべる一人の少女。

 かえで。いや、僕の知っている彼女はびくびくとして大人しい印象だった。

 今目の前にいるのは、堂々とした立ち振る舞いに、こちらを見定めてくるような挑発的な目。レイラだ。

 状況を見て、最悪のことが起きてしまったことを理解する。

 

「なかなか良かったよ、この二人。けどあたしを満足させるにはまだまだだね」

 

 答え合わせをするかのように、レイラが二枚のカードを見せる。真ん中に鍵穴が描かれた白いカードに、ぼんやりと人が浮かぶ。そこに囚われている二人、紅林さんと花代は気絶しているのか目を閉じていた。

 負けてしまったんだ。

 

「レイラ……僕を覚えているか」

 

 レイラを逃がさないように、睨みつける。

 

「ああ、かえでに勝った男だろ? 名前はたしか……」

「伊吹だ。伊吹肇」

「ああ、そうそう。あんたとも戦いたかったんだよねぇ。あの時のあんたの攻撃、まだ忘れられないんだ」

 

 彼女は植村さんと同じように身体をさするが、そこにある感情は歓喜だ。根に持っているというわけではない。むしろ痛みを受けることを望んでいる。

 

「なら今ここでバトルしろ」

「望むところさ」

 

 にやりと口角を上げるレイラに、僕は一瞬たじろぐ。

 バトルジャンキー。この先で何が手に入れられるのか、何を失うのかなんて彼女には関係ない。ただバトルをする、それだけが目的なんだ。

 しかしそれは好都合。逃げられることも避けられることもなく戦える。

 

「ただし、紅林さんを出せ。じゃなければ僕は本気で戦わない」

 

 レイラは顔をしかめる。

 この提案はまずかったか。しかし、彼女にとっても、僕を逃がしたくはないはずだ。

 なんせ、一度自分を負かした相手だ。戦いたくて仕方ないはず。

 

「……ちっ、わかったよ」

 

 しぶしぶ了承し、レイラは紅林さんのカードを掲げる。

 つかの間ほっとして、僕は気合を入れ直した。

 ここで負けたら、戦う手段をなくしてしまう。橋本さんとの約束を守れなくなってしまう。

 勝つしかない!

 

「オープン!」

 

 

 一瞬で場面が変わる。

 灰色の空間に浮かぶ巨大な時計盤に、近くにいくつも浮かぶ黒色の立方体。

 水嶋さんと蒼井のバトルでこの空間には立ったが、今回バトルするのは初めてだ。

 ついに始まってしまったと恐怖がこみ上げてくるのを抑えて、深呼吸する。

 目の前の机にはすでに一枚カードが出されている。その上に立つのは、手のひらに乗るほどのサイズのリィン。

 

「い、伊吹さん!? これ、どうなって……」

 

 向こうには、約束通り紅林さんがいる。

 

「紅林さん、悪いけど痛いのは我慢してくれよ」

 

 あたふたしていた彼女は、その言葉で状況を察したらしく、表情を暗くした。

 

「そう……そういうこと……うん、伊吹さん、遠慮なくやっちゃって」

「いいねいいねぇ、あんたを潰してやるよ、伊吹肇ェ!」

 

 たまらない、といった様子でレイラが僕を睨む。約束したんだから、全力で来いと目が告げている。

 もとよりバトルする以上、手を抜く気はない。

 時刻を差さない盤の針がゆっくり動く。黒と赤で色分けされた円周部分の、黒を差して止まる。

 

「先攻よ、肇。ルールは覚えてる?」

 

 リィンがこちらを見る。

 バトル自体は久しぶりだが、キーカードは持っていないから、前回と同じように考えていい。

 

「もちろんだ。リィン、グロウ! シグニを配置して、ターンエンド」

 

 お互いに、情報アドバンテージはなしとみていいだろう。

 僕とレイラは戦ったことがあるけれど、彼女はリィンのコイン技『リターン』の効果を知らないままだし、僕は紅林さんをルリグとした場合の戦法を知らない。

 だがこっちが有利なはずだ。同じ赤色とはいえ、レイラと紅林さんの戦略は違う。

 いま紅林さんを手に入れただけの彼女が、すぐさま使いこなせるとは思えない。

 

「あたしのターン。グロウ。シグニを揃えて攻撃だ!」

 

 紅林さんの手から、小さな火の玉が放たれる。

 腕を交差させて防ごうとするリィンだが、一発目で体勢を崩され、二発目が胸へクリーンヒットする。倒れることはせず、少し後ずさっただけで済んだ。

 

「ご、ごめん、リィン!」

「いえ、いいのよ。謝ることなんてないわ」

 

 キーカードを使ってくるんじゃないかとひやひやしたが、その可能性はなさそうだ。

 その要因は一つ。僕がキーカードを持っていないこと。

 レイラは対等な条件で戦いたいのだ。一度彼女を負かした僕を、全力でもう一度戦いたい。

 だがキーカードを持っていない僕を相手に、自分が使ってしまえば、それは有利に勝つだけの手段に過ぎない。

 勝つことではなく、戦うこと自体が目的の彼女にとって、それは避けたい行為なのだろう。

 いわゆる舐めプレイとは少し違うが、使える手を使ってこないならこちらの勝率はぐんと上がる。

 

「シグニを配置、アタック!」

 

 リィンが宙に描いた魔法陣からの光線の束が、紅林さんへと降り注ぐ。

 悲鳴を上げながら攻撃に貫かれ、倒れる彼女を見て胸が痛む。

 こんな事態にならないために、協力したっていうのに……っ。

 自分の無力さに、怒りが増してくる。

 

「その目だよ、その目ェ」

「は?」

「『勝ってみせる』ってそのツラ、前のあんたには見られなかった。あああ……」

 

 レイラは自分の身体を掻き抱いて、ぎゅうっと腕に爪を突き立てる。

 

「今のあんたと全力のバトルができたら、すっごい楽しいんだろうなぁ……」

 

 ぶるぶると身体を震えさせ、やたらと視線を送ってくるレイラ。

 どうやら、僕は彼女のお気に入りになったらしい。

 もしそれで彼女が僕を狙うようになって、他への被害が多少減るようになればいいが……期待できそうもない。

 なにせ戦闘狂だ。セレクターを見つければ、ところかまわずバトルをしかけてくるに違いない。

 

「アタックだ!」

「ガード!」

 

 迫りくる紅林さんからの攻撃をかわし、カウンター。

 レイラ本人と比べて、やはりパワーが足りない。それなのに、ごり押しのデッキ。

 何気にテクニカルな戦略が必要なのをぶっつけ本番で使うのは、やはりきついみたいだ。

 

「ちっ、やっぱりあんた相当強いね。コイン技もなしにあたしをここまで追いつめるなんて」

 

 コインを消費していないのはレイラも同じだし、前回のレイラとのバトルはコインを使っている。

 彼女はそれに気づいていないだけだが、わざわざばらすこともないだろう。

 

「勝てる……これなら勝てるよ、伊吹さん!」

 

 リィンの魔法攻撃を受けながらも、立ち上がり、応援してくれる紅林さん。

 僕も半ば確信をもって、勝利へのカードを切っていく。

 疑り深い僕がそこまで自信を持てた一番の決め手は、レイラがうなだれたことだ。

 

「ちっ、やっぱりあたしが出ないとダメだね」

「なら今度は本気で来たらいい。僕は逃げない」

 

 そう約束して、僕は最後のカードを場に出す。

 

「アーツ」

 

 あっさり、レイラはなんの抵抗もなしに受けた。

 紅林さんのライフクロスは尽き、勝敗が決まる。

 レイラの足場が音もなしに崩れ、彼女の身体が一瞬ふわりと浮かんだかと思うと、落下していく。

 

 

「はあ……」

 

 最初に聞こえたのはレイラのため息。

 気づいたときには、意識が現実に戻ってきていた。バトルする前と同じ場所、時間。

 ただし、僕の手に一枚のカードが握られていることだけは違う。水嶋さんが持っていたのと同じ、キーカード。

 そこに紅林さんがいるのを見て、ほっとする。

 

「次はどうする?」

「今回はこれで勘弁しといてやるよ。どうせあんたは負けなさそうだ。あたしを満足させるくらいになったら、またバトルしてくれよ」

 

 負けたのに悔しそうな表情を一切見せず、それどころか恍惚にうっとりしながら舌なめずりをして、レイラは去っていく。

 その姿が見えなくなったところで、張り詰めていた緊張感やら不安感やらが吹き飛んだ。

 

「ふう」

 

 安堵のため息をつく。

 僕の手持ちルリグはリィン一人だけだった。その状態でレイラに挑めば、おそらく負けていただろう。

 だから先に紅林さんを取り戻したのだが、再戦を避けることができてよかった。

 紅林さんを使っていても、レイラの強さは伝わってきた。もし本気の彼女が襲ってきたら、僕はリィンも奪われて、戦う手段をなくしていたかもしれない。

 

「す、すごいです、伊吹さん。勝っちゃうなんて」

「ああ、だけどすまない。緑子も花代も取り戻せなかった」

 

 レイラがどれだけのルリグを所持しているかはわからないが、最低でもその二人は取り戻さないといけない。

 ふと、とある考えがよぎった。

 セレクターである紅林さんも、今はルリグとして、こうやってカードの中に収まっている。

 キーカードとして、自身をベットしたからだろう。

 もしレイラ自身を倒すことができれば、彼女自身もカードとなる。そうなれば、彼女の持っているルリグはすべて手に入れることが出来るのだろうか。

 

「ごめん、私が突っ走ってなきゃ……」

 

 カードにされた紅林さんが謝る。

 

「いや、いいんだよ。紅林さんの気持ちもわかる。とりあえず無事でよかった。いや、無事と呼べるのかな」

「ルリグになるのは初めてじゃないし、そう心配することでもないよ。あー、でも家族とかバイト先になんて説明しようかな……」

 

 言う通り、なんだか慣れた感じだ。取り乱すようなことがなくて、こちらとしては手間が省ける。

 しかし楽観的にはなれない。

 短期間で周りのセレクターが負け続けなうえ、一人はルリグになった。こちら側の戦力はどんどん少なくなっていく。

 おまけに僕は……御影の手を借りられない。

 いや、自分のことを考えるのはよそう。先に、紅林さんだ。 

 

「説明するべきは、他にいるんじゃないのか」

 

 それが何を指しているかを理解して、紅林さんは首を横に振る。

 

「だめだよ。るう子には言えない」

「言いたくないのはわかる。だけど紅林さんがルリグになってしまったいま、いつかはバレるんだ」

 

 そうなれば、バトルが再び始まってしまったことと隠していたこと、紅林さんがルリグになってしまったショックが重なって、ややこしいことになってしまうことは目に見えている。

 助けを借りられなくてもいい。現状を知ってもらうこと、それがやるべきことだ。

 かつて僕ができなかった、やるべきことなんだ。



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果敢/希望と信頼

 俯く植村さんを連れ、紅林さんの案内のもと、僕はとある建物の前まで来ていた。

 周りよりいくらか高いマンションの一室が、小湊さんの住むところらしい。

 

「ねえ、本当にるう子に言わなきゃだめかな」

「だめってことはない。だけど……」

 

 紅林さんは、終始僕を引き留めようとした。

 一番の苦労を味わったらしい小湊さんに、もう二度と同じ苦しみを味わわせたくない。その考えは立派だ。

 しかし……

 

「言わないと、君たちに亀裂が入るかもしれないから」

 

 僕はすでにそれを経験した。

 説明をぜんぶ後回しにして、やるべきことだけをやって、そして……すず子も御影も、僕から離れていった。もともと、最初に離れたのは僕だったけど。 

 何かを察したのか、紅林さんはそれ以上何も言わなかった。賛成だと受け取り、僕は植村さんの手を引っ張る。

 

「一衣……?」

 

 髪の右サイドを結っている可愛らしい少女。

 話しか聞いたことがなかったが、この人が小湊るう子さんだろう。

 百戦錬磨の最強セレクターだと聞かされていたが、一見そんなふうには見えない。

 戸惑うばかりの小湊さんに、植村さんは耐えられなくなって抱き着いた。

 

「るう子……」

 

 今にも泣きだしそうな植村さんを抱き返して、小湊さんは少しの恐怖と怒りが混じった目で僕を見る。

 

「あなたが何かしたんですか?」

 

 植村さんが泣いているのは僕のせいだと思っているのだ。この状況なら仕方ない。

 

「小湊さん。話を聞いてほしい。君にとっては聞きたくないことかもしれないけど」

 

 僕はゆっくりと話しながら、キーカードを小湊さんに見せる。

 

「や、やあるう子……あはは」

「ゆ、遊月!?」

 

 力ない笑顔を浮かべる紅林さん、泣き縋る植村さん、目を丸くする小湊さん。

 三者三様の反応に、僕はどう説明したものかと頭を悩ませた。

 

 

 もっとウィクロス一色のようなのを想像していたが、招かれた小湊さんの部屋は綺麗に整頓された普通の部屋だった。

 伝説のセレクターだからって、偏見を持ちすぎたか。彼女も一人の女の子に過ぎないのだ。

 小湊さんとともに住むタマという少女がホットミルクを淹れてくれている間、僕は今日まであったことを話した。

 

「そんな、セレクターバトルがまだ続いてたなんて……」

 

 信じられないといった顔だが、目の前の紅林さんの状況を見れば信じざるを得ない。

 

「本当は、この二人とも君に言いたくなかったみたいだけど、僕は言うべきだと思った。話を聞く限り、小湊さんはとても友達思いみたいだから、今より酷い状況になって聞かされるよりはマシかなって」

 

 確か、小湊さんは水嶋さんの誘いを断っているはずだ。

 セレクターバトルが続いていようと、自分で掴んだ幸せを手放して、再び苦痛の渦へ飛び込む真似はしたくないはず。 

 だけど、隠し事は散々な結果を招く。僕の人生がその証明だ。

 本来協力すべきなのに、意地になって沼にはまっていくのは、僕だけでいい。

 

「こうなった以上は、僕がなんとかする。だから小湊さんは二人を支えてやってくれ」

 

 同じ苦悩を持てば、誰かがくじけても立ち直らせることは容易だろう。そうなれば、僕は戦うことだけに集中できる。

 だけど、小湊さんは首を横に振った。

 

「遊月と一衣が巻き込まれて傷ついて、るうだけ何もしないのは嫌だよ。放っておいたら、るうの知ってる誰かがもっと苦しめられるかもしれない。それが嫌だから、セレクターバトルを終わらせたの。終わっていないのなら、今度は最後まで終わらせる。遊月も花代さんも、緑子さんもみんなを取り戻して、ちゃんと終わらせる!」

 

 小湊さんが立ち上がると同時、部屋の扉が開いてタマが現れる。

 

「タマも戦う! るうと一緒に!」

 

 彼女はそう言うと、小湊さんの手を握る。小湊さんもまた、それを握り返した。

 

「タマ……うん! 一緒に戦おう!」

 

 突然、タマの身体が光りだし、その姿が変わっていく。

 小さくなっていき、平べったくなったかと思うと、小湊さんの手に収まった。

 光が収まると同時に、僕は思った。一枚のカードだ、と。

 そこには、髪が白くなり、衣装も白で統一されたタマが描かれている……だけでなく、動いていた。

 ルリグだ。タマがルリグになったんだ。

 小湊さんとタマが、友人を救うために、避けていたセレクターバトルに身を投じる。

 素晴らしい光景ではある……が、僕はあまりの急展開に呆然とするほかなかった。

 

「どうしたの、伊吹さん」

「いや、ここまで僕の理解が及ばないことが起こるとは……」

 

 阿呆のような顔をして固まる僕を、紅林さんが不思議そうな目で見る。

 

「人が……こうやってルリグになるのは初めて見た。噂には聞いてたけど、実際に目の当たりにすると、こう、なんていうか……」

「私だってこうやってルリグになってるじゃん」

「いや、ルリグになる過程は見てなかったから。それにしても人間がルリグに……」

「そういえば言ってなかったね。タマはもともとルリグだったんだ」

 

 僕はまたしても絶句した。

 タマがカードになってもみんなが驚かなかったのは、そういうことか。

 

「つ、つまり、ルリグだったのが、人間になって、またルリグになった……ってこと?」

 

 話に聞いてたより、現実はもっとぶっ飛んでる。

 まず人間がルリグに、という段階でもう頭がいっぱいいっぱいだったのを、花代さんや紅林さんにゆっくり説明されてようやくかみ砕けたのだ。

 それが、ルリグが人間に、というのまでこられちゃ頭が爆発してしまう。

 僕が目にしてきたのは、あくまでルリグによる人格の乗っ取りだ。心は取られても、身体はもともとのセレクターの姿。

 だがタマは違う。この世に新しい肉体をもって顕現したのだ。

 それは小湊さんが叶えた願い。『現実の常識を越えない範疇で願いが叶えられる』という最初のセレクターバトルの隠しルールさえ飛び越えた奇跡。

 もしかしてこの二人は、僕が思っているのよりとんでもない人たちなんじゃ……

 そう考えれば、小湊さんたちがこれだけ心配しあうのもわかる。

 僕には決して見えない積み重ねと絆が、彼女たちの中にはしっかりあるのだ。

 

「紅林さんのカードは、小湊さんが持っていたほうがいいと思う。君たちは友人どうしだし、小湊さんの近くにいたほうが、紅林さんも安心できるでしょ」

 

 落ち着いた僕はそう提案した。が、意外にもその場の全員がきょとんとした顔を浮かべた。

 

「私は伊吹さんのことも友達だと思ってるけど」

「わ、私もです」

 

 急な言葉に、僕は詰まった。

 

「あのね、会ってそんなに経ってない男を信用するつもり?」

「うん」

「はい」

 

 にこやかに笑う紅林さんと植村さん。

 彼女たちは過酷なセレクターバトルを勝ち抜き、あるいは負けて悲痛な思いをしたはずだ。そこには残虐な行為をする者もいただろうし、異様な思想を持った者もいたはず。

 カーニバルやレイラのような危険な存在がいたはずなのに、どうしてこうも僕を信用できるのか。

 

「小湊さんもなんか言ってやって」

「でも、自分が負けるかもしれないのに、遊月を取り戻してくれたんだよね?」

「しかも全力で走ってきてね」

 

 にやっと笑いながら、紅林さんが補足する。

 小湊さんは頷いて、敵意のない目で僕を見た。

 

「それだけで、信じるには足りるってるうは思うかな」

 

 その言葉は嬉しい。だが、この状況においては、何も考えずに受け取ってくれた方がありがたいのだ。

 

「なら、肇の代わりに私が説明してあげましょう」

 

 リィンが口をはさんだ。

 

「おいリィン」

「大丈夫大丈夫。任せて」

 

 ぱちっとウインクする。

 彼女は僕の分身ゆえ、考えていることがわかる。その通りに動いてくれるかどうかは別だが。

 どちらにせよ、僕じゃ三人を納得させられる言葉は浮かばない。仕方なく、リィンにバトンを渡すことにした。

 

「じゃ、お許しが出たから話しましょうか」

 

 カードの中で、リィンが人差し指を立てる。

 

「今回のセレクターバトル。キーカードという新要素があるのだけど、それとは別にコインカードっていうものも前回から追加されてるの。で、その二つのルールを小湊さんは知らないだろうから、不利になるだろうってことで、実戦でのレクチャーついでに紅林さんを渡そうってわけ」

「でもわざわざバトルをしなくても、普通に教えてくれれば……」

「紅林さんの効果は、私と噛み合ってるとは言えないの。あなたたちなら白と赤でそう相性も悪くないみたいだし、勝算も上がるわ」

 

 すらすらと言っているが、いま頭の中で組み立てながら喋っていることに、僕は気づいた。

 気づいた、というより分かっていた。それっぽい理由をつけて相手を納得させようとするのは、僕が過去に何回もやってきたことだからだ。

 

「話を聞く限りだと、小湊さんは相当強いみたいだし、コインもカードもあなたに渡したほうが、このセレクターバトルの終幕に近づけるかも」

「でも、いまるうが負けたら、伊吹くんがコイン五枚になって、バトルを抜けられるんじゃ……」

「そうとは限らない」

 

 ようやく、僕が口を開く。

 

「僕の予想が正しければ、たぶん、おそらくだけど、勝ち抜けにコインの枚数は関係ない。今回勝ち抜ける条件は他にある」

 

 誰が一番強いか決めるためのバトルなら、コインを五枚集めたところで逃がしてはくれない。

 コインはあくまでセレクターにバトルをさせるための口実。

 

「だから、もしみんな無事で終わりたいなら、このバトルを受けてくれ」

 

 そう簡単に答えは出せないかと思った。覚悟を決めることと、実際に戦うことには雲泥の差がある。

 だが、小湊さんは躊躇いのない顔でこくりと頷いた。

 

「わかったよ」

「ありがとう、小湊さん」

「るう子でいいよ」

 

 ズキリ、と胸が痛んだ気がした。

 母音が一緒で、最後が『子』という共通点もあってか、不意に思い出す。最初にすず子と名前で呼び合った日を。

 あれからみんなが傷つくことになった。

 小湊さんたちとは違う結果を迎えるかもしれない。けれど、僕は決して自分を信じていなかった。

 

「……小湊さん、カードを出して」

「うん」

 

 少ししゅんとした顔を向けられながらも、見ないふりをしてカードを掲げる。

 

「オープン!」

 

 ぱっと舞台が変わる。

 

「これが今回のフィールドなんだ……」

 

 きょろきょろとあたりを見る小湊さん。聞けば、今回のと最初のじゃ、まるっきりバトルの場が違うらしい。

 僕の場には紅林さん。小湊さんの場にはタマ。空中の時計盤が指したのは白。小湊さんが先攻だ。

 

「さて、早速やるか。基本的なルールはそのままだから、しばらくはそのままでいいだろう」

 

 お互いにコインを必要以上に減らさないために、キーカードは使わず、僕はコイン技も使わない。

 

「わかった。タマ、グロウ」

「久々のバトル! 全力でいくよ、遊月!」

「かかってきたまえ」

 

 ぐっと構えるタマに、ふふんと仁王立ちで待ち構える紅林さん。その間には、暗いセレクターバトルの雰囲気なんて微塵もない。

 

「どうしたの?」

「いや、こんなに毒気の抜けるバトルは久しぶりだなって」

 

 思わず笑みがこぼれる。気を張っていた僕が馬鹿みたいじゃないか。

 

「でもこれが、本来のウィクロスなんだよな」

 

 ショップでウィクロスを楽しんだことはある。もう遠い記憶のように思えるけど、まだ半年近くしか経っていない。

 あのときは、未知のものに興奮して、わいわいできて楽しかった。

 ウィクロスは、本当はそんなものなんだ。

 

 

 バトルは、もちろん小湊さんの勝利で幕を閉じた。

 八百長試合だったけど、何のペナルティもなかったことに胸をなでおろす。

 これで僕のコインは三枚。小湊さんがレイラをやっつけたのと同じようなもんだ。

 それにしても、小湊さんの実力は凄まじかった。新要素もあるのに、それをいとも簡単に使いこなし、攻防一体の完璧な戦術。

 たとえ敵同士で全力で戦ったとしても、僕が勝てるかどうか。

 それほどの強い仲間があの二人の近くにいてよかった。

 

「助かったよ、リィン。おかげで紅林さんを渡せた」

「もっともらしかったでしょ?」

「実にそれっぽい理由だったよ」

 

 ふふ、とリィンは微笑む。

 彼女の説得はなかなかの説得力があった。その場でのアドリブにしては、出来すぎなほどに。

 

「本当は、彼女たち三人を一緒にいさせたいから……でしょ?」

「隠し事はできないな」

「私はあなただもの。いつまでも自分に嘘をつくのは無理よ」

 

 リィンはわざとらしくため息をつき、見せつけるようにやれやれと首を振った。

 

「いつまでもすず子を遠く離せると思ってるの?」

「できるさ。げんに、今こうやって……」

 

 そこで、はっと気づく。

 

「そうだ、すず子だ!」

 

 森川や紅林さんがセレクターになったように、日に日にその数は増していっている。

 だとしたら、すず子だって例外ではないはずだ。

 スマホを取り出して……そこで止まってしまう。

 本人に直接はハードルが高い。彼女も御影も、もう僕とは協力したいとは思わないだろう。

 連絡しても、無視される可能性が高い。それになにより、僕には電話をする勇気がない。

 電話帳を開いて、穂村すず子、御影はんなの名前を通り越して、水嶋清衣のところで手を止める。

 中心人物の彼女なら、すず子のことを知っているに違いない。今日は三人で話し合いしていたらしいし。

 コールすると、水嶋さんはすぐに出た。

 

《い、伊吹くん……?》

 

 違和感があった。

 普段の落ち着いた様子からは想像ができないほど、水嶋さんの声は震えていた。息遣いは浅く荒い。

 

「水嶋さん?」

《私……どうしたら……アミカ……アミカが……》

「落ち着いて、水嶋さん。橋本さんがどうかしたのか?」

《アミカが誘拐された……》

「誘拐!?」

《あ、蒼井昌に、『解放してほしければ一人で来い』って……わ、私どうしたら……》

「水嶋さん、とにかく深呼吸」

 

 どうしていいのかわからずにおろおろとしていたのだろうけど、それは賢明だ。

 誘拐犯の言う通り、一人で行くのは危険すぎる。

 二度、深い息をさせる。少しは落ち着いたようで、早口ながらも状況を話してみせた。

 今日は二人で駅前ショッピングをしていたそうだ。

 暗くなる前、橋本さんと別れてすぐに、彼女の電話から着信が来た。だが聞こえてきた声はアイドル蒼井昌のものだった。

 彼女が言ったのは、先ほど水嶋さんが言ったこと。

 橋本さんを誘拐した。指定する場所に一人で来い。の二点。

 僕は水嶋さんを宥めながら、駅周りの道や建物を頭で思い描く。

 人通りの多いところで攫うなんてのはできないし、するはずもない。しかし、駅前近くでやってのけたのなら、場所は絞られてくる。

 人ひとりを拘束して、どこかに放置するだけでも相当な労力のはずなのに、すぐ電話をかけてきたということは、総合して考えると、蒼井晶がいるのは二人が別れた場所からほとんど離れていないことになる。

 あと気にかかるのは、蒼井昌の目的だ。 

 水嶋さんはバトルなら普通に受けて立つだろうから、バトルそのものが目的じゃない。

 蒼井が前に見たときのような感情そのままなら、水嶋さんへの復讐がメインだ。

 そして、僕の考えが正しければ、直接的に傷つけてきたりはしないだろう。橋本さんを誘拐するなんて遠回しなことはせずに通り魔的に襲えばいい。

 蒼井は最初のセレクターバトルで負け、ペナルティを負った。同じ目に遭わせるつもりだ。友人を盾に、水嶋さんを負かすつもりだ。

 ということは、新しくルリグを手に入れたのか。

 どうやって? ……はまず置いておいて、今は橋本さんの安否確認が先だ。

 

「恐らく、蒼井はバトルをしかけてくる。できるだけ引き延ばしてくれ。橋本さんは僕に任せて」

《アミカが私のせいで……》

「水嶋さん!」

 

 びくりと反応したのが、電話越しでもわかった。

 不安になるのはわかるけれど、いつまでもびくついているわけにはいかない。

 

「橋本さんは必ず僕が助ける。だから、君は君のできることをやってくれ」

《アミカを……助けられるの?》

 

 先ほどよりかは冷静さを取り戻しているが、まだ不安げだ。

 僕は橋本さんに、水嶋さんを頼まれた。そして、水嶋さんは橋本さんのためなら何でもするだろう。

 だから彼女との約束を守るためには、二人とも助けなければいけない。

 僕がどうにかしないといけない。そのためには、水嶋さんに負けてもらっては困る。

 『絶対』なんて、本当は言いたくないけれど……

 

「絶対に助ける」



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絶対/復讐と奔走

 今日走ってばっかだ。だからと言って、足を緩めるわけにはいかない。

 おそらく、バトルが始まれば、水嶋さんは無抵抗で攻撃を受けることを強いられるだろう。

 そうすればピルルクが奪われる……だけでなく、キーカードの使用も求められれば、水嶋さん自体もルリグとなって蒼井の手に落ちる。

 最悪まで行けば、水嶋さんが消えることになる。

 バトルを引き延ばしてくれとは言ったが、限度がある。

 水嶋さんが指定場所に行き、バトルをはじめ、二ターン経過くらいまでに橋本さんを見つけなければならないだろう。

 電気の消えた建物の中を回りながら、考える。

 誘拐されたことを暴露されれば、蒼井晶のアイドル生命は終わる。

 見られない場所に閉じ込めておきたいはずだ。だが扉に鍵がかけられていてはもちろん入れない。人ひとり拐かした状態じゃ、行動範囲は狭い。

 事務所やオフィスとして使われているところはある程度スルーして、その近くにある倉庫や掃除用具入れに集中して開けようとする。思った通り二割ほどは鍵がかかっていなかった。

 だが、いない。

 くそ、もっとだ。もっと探せ。見つかるまでは、絶対に諦めるな。

 

「ん~~っ」

 

 焦りがじわじわと頭の大半を占めていく中、くぐもった声が聞こえた。

 近くから聞こえるぞ。

 その声のほうへ向かい、一つの扉の前に着く。

 なんの遠慮もなしに施錠されていない扉を開けると、中は真っ暗だが、声はより鮮明になった。

 中に入って電気をつけると、電球が小さいためかまだ薄暗いが、全体像が見える。

 ビルの中にしては、それなりに広い倉庫だ。いくつもある金属棚には廃材や工具が乱雑に置かれている。

 その奥で一人の少女が身をよじっていた。しかし、腕、身体、足を縛られ、まともに動けはしない。口も封じられて、叫びを響かせることもできなかった。

 

「橋本さん!」

 

 すぐに駆け寄って、縄をほどく。乱暴に締めつけられていたようで、特に腕には痣ができていた。

 口を塞いでいたのを外すと、彼女は大きく息を吸った。

 とりあえず彼女が無事だったことに喜ぶ。

 

「伊吹くん、だよね。ありがとう! 清衣は?」

「いまバトルしてる。ここにいて」

 

 恐怖がまだ残っているはずなのに、彼女は大きく首を振った。

 

「ううん、私も行く!」

 

 

 事前に教えてもらった場所は間違いではなく、(そうでなくても、リィンがいればすぐに近くのセレクターを探し出せたが)僕たちはすぐに水嶋さんと蒼井がバトルしている場所へたどり着くことができた。

 橋本さんが捕らえられていた場所と同じような、暗く静かなビルの一室。 そこに二人の少女が立っていた。

 水嶋さんに相対するは間違いなく蒼井晶。二人とも生気のない目でだらりと腕を下ろしている。

 バトル中……ということは、蒼井はやはりルリグを手に入れていた。タマのように、何者かがルリグ化して彼女のもとに現れたのか。

 

「清衣、私だよ! もう無事だから、勝って!」

 

 橋本さんがどれだけ叫んでも、バトルしている二人に変化は見られない。

 セレクターバトルのことを知らない一般人が近くに寄ってきたり、邪魔したりすればバトルは強制終了するらしいが、橋本さんは経験者だ。一般人の枠には入らないのだろう。

 じわりと冷や汗が垂れる。

 

「伊吹くん、清衣は大丈夫なの?」

「聞こえてるはずだけど、外からはどうなってるかわからないわ」

 

 リィンの声はセレクターではない橋本さんには届いていない。それが頭から抜けている僕は、橋本さんに答えず、リィンを取り出す。

 

「リィン、バトルフィールドには入れるか?」

「ええ、行くわよ」

 

 

 

 一瞬風が吹いたかと思うと、そこはバトルフィールドに変わっていた。

 すぐさま水嶋さんに目を向ける。現実世界を同じように力なく立っている。

 いま、彼女の心はそこにない。盤面の上で、ピルルクに支えられている傷だらけのルリグが水嶋さんだ。

 

「水嶋さん!」

「伊吹くん……」

 

 遅かった。すでに何回か攻撃を受けているようで、彼女は息を荒くしてピルルクにもたれかかる。

 対して、ピルルクは無傷。敵は執拗に、水嶋さんだけを狙って攻撃したのだ。

 僕は相手を睨む。

 蒼井晶に、占い師のように薄いローブを纏って水晶を手にしているルリグ。

 あれがどういうルリグなのかはわからないが、少なくとも蒼井以上にこの場を楽しんでいることはわかる。

 

「あぁ? 誰、あんた。お呼びじゃないんですけどー」

「僕も、君には用はないよ」

 

 蒼井の挑発を突き返し、僕は水嶋さんの場を見る。

 よかった。まだ始まって間もない。彼女の実力なら、ここから巻き返すことも可能だろう。

 

「水嶋さん、橋本さんは無事だ。もうそいつの言いなりになる必要はない」

「ええ、外からアミカの声が聞こえていたわ」

 

 ピルルクに支えられながら、水嶋さんは二つの足でしっかりと立つ。

 

「ちょうど今から反撃するところよ」

「おい、無視してんなよ!」

 

 おいてけぼりなのが癪に障ったのか、蒼井はこちらに向かって怒号を飛ばしてきた。

 

「本当なら、僕が相手してボコボコにしてやりたいところだよ」

「へえ、じゃあこの後たっぷり相手してやるよ。こいつをルリグにして、お前のルリグに殴られてやる」

「まあ素敵。その時は私を清衣ちゃんの隣に立たせてくださいねえ。傷つく清衣ちゃんを近くで見られるなんて、考えただけでも……」

 

 恍惚的に、挑発的にセレクターとルリグが笑う。

 

「残念だけど、僕も含めてその願いは叶わない。ここで勝つのは水嶋さんだ」

 

 それからの水嶋さんの勢いといったら、思わず僕が震えあがるようなものだった。鬱憤を晴らすように怒涛の連撃をしかけ、相手の攻撃は凍結させる。

 蒼井はもう少しのところで攻撃が届かないことにいらいらしているようで、水嶋さんはそれを楽しんでいるようだ。

 時折聞こえる「キシシ」というのは……あれは、水嶋さんの笑い声だろうか。だとしたら、かなり特異だ。

 水嶋さんが窮地から脱することができて一安心といきたいところだが、そうもいかない。

 問題は蒼井晶のほう。

 前に、彼女はコイン技を使っておきながら水嶋さんに負けた。そこからの変動はなく、つまり現在のコインは残り一枚。負けてコインを失えばどうなるか、彼女が初の被害者となる。

 前回と同じくルリグに身体を乗っ取られるか、それとも……

 本来であればこうなる前に対策を練って止めたいところだけど、今回はもうバトルが始まってしまっている。

 しかも、この状況を作り出してしまったのは蒼井晶本人だ。

 ピルルクの最後の攻撃が、リメンバへと集約され、弾けた。

 ついにライフクロスをすべて失い、直接ダメージを受けた彼女はばたりと倒れる。

 

「くそ……なんだよこれ……」

 

 蒼井の身体が透けていっている。その意味を理解して、顔が絶望に歪む。

 

「なんであたしだけがこんな目に……なあ、あんた助けてくれよ……助けて!」

 

 先ほどとは打って変わって、弱弱しい目を向けてくる。悲痛と絶望に染まった顔から、思わず目を逸らした。

 僕には無理だ。僕には……

 それから絶叫。耳をつんざく悲鳴が、蒼井の喉から迸った。

 

 

 いつの間にか視界は白く染まり、周りを静寂だけが支配していた。

 バトルフィールドとも現実世界とも違う場所に立たされていると気づいたのはすぐ。

 

「ここ……は……」

 

 どこまでもそびえ立つ壁。そしてどこまでも続いていくような道。ところどころが剥げ、朽ち、ひび割れて居るその空間には二度だけ来たことがある。

 初めてセレクターバトルに強制参加させられた時と、バトルから抜け出した時。この空間へ、僕は飛ばされていた。

 首を回してあたりを見る。

 壁には大小いくつもの窓があり、全て閉じられている。あの時と変わらない。

 いまさら、なぜこの空間に僕はいるのか。

 問いを発しようとしたその瞬間……

 

「鍵穴を探して」

 

 僕は跳びあがりそうになった。いや、実際跳びあがった。

 突如後ろすぐから聞こえてきた声に驚いて、ぱっと距離を取りつつ振り向く。

 一見幼く、無害のように思える無表情の少女がじっと見つめてきていた。

 

「始まりのルリグ、だったな」

「むげん」

 

 ぼそりと呟くように少女が言う。

 

「むげん?」

「そう、夢限」

 

 自己紹介だと数秒してから気づいた。名前があったんだな。

 それが何の意味があるのか。名前があり、自我があり、彼女がただのルリグの素体ではないという意味であれば……

 

「セレクターバトルを仕組んでるのは君か」

 

 夢限は首を縦にも横にも振らなかった。僕はそれを肯定と受け取り、問いを続けた。

 

「セレクターバトルの目的はなんだ。なぜ僕らを苦しめるんだ」

「鍵穴が壊れてる。探して」

 

 僕の言葉を無視して、夢限は言葉を紡ぐ。

 鍵穴? それはいったいなんの比喩なんだ。それを持ってくれば、バトルは終わるのか。

 言いたいことはたくさんあった。

 

 

 かつん、という音で目が覚めた。

 眩しいほどの白から、真っ暗な闇に覆われている。

 かすかな光のおかげで、ここは現実で、今は水嶋さんのバトルが終わったすぐであることを思い出す。

 さっきのは何だったんだ。夢限は僕に何を伝えたかったんだ。

 暗い空間には、先ほどまでの激しい戦いも、叫び声も轟いていない。

 床には、蒼井が脅しに使っていたであろうカッターナイフだけが落ちていた。その持ち主はどこにもいない。

 僕はそれを拾いつつ、確信を持った。

 消滅。

 コインをすべて失った者は、この世から消えてしまうのだ。

 水嶋さんの無事を涙ながらに嬉しがる橋本さん。その橋本さんを宥める水嶋さん。

 その二人を見守る僕の心には、じわじわと恐怖と混乱がこみ上げてきていた。



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正義/事実と理由

 橋本家に着くなり、すぐさま彼女の両親が飛んできた。そういえば、もうすっかり夜も遅い。心配して当然だろう。

 適当に事情を話して、救急箱を要求する。必要なものを取り出して、橋本さんの部屋に案内してもらった。

 そういえば、女性の部屋に入ったのは初めてかもしれない。

 できるだけきょろきょろとしないようにして、橋本さんをベッドに座らせる。

 手首足首には強く縛られた痕が残っており、そのほかにも打撲による傷が複数見られた。

 痛々しく腫れているものの、幸い、長く残るような傷ではないみたいだ。

 僕は氷水と包帯、絆創膏で傷の残らないように治療した。素人のやり方だから、ちゃんと病院に行くことも勧める。

 水嶋さんは橋本家の弟くんたちに懐かれているようで、いまはリビングで相手をしている。一方的に引っ張られているだけだけど。

 

「これでよし」

「ありがとう、助かったよ」

 

 腕に包帯を巻き終わると深々と礼をする橋本さんに、僕は慌てて頭を上げさせた。

 

「水嶋さんがすぐ連絡してくれてよかったよ」

 

 あのとき、もしも水嶋さんが一人で行っていたら、と思うとぞっとする。

 橋本さんのために、自らの命を投げ出すことだっていとわないだろう。

 とりあえず、今日は最悪の事態を二度防げた。後手後手に回っているのは癪だが、まあ良しとしよう。

 無事だ、と自覚すると疲れが押し寄せてくる。

 

「水嶋さんを呼んでくる」

 

 立ち上がろうとした僕を、橋本さんは袖を掴んで抑えた。自分の隣をぽんぽんと叩く。

 そのとおりに、僕は彼女の隣に座る。

 

「本当にありがとね」

「いいんだよ。君たちが無事ならそれで」

「すごいなぁ、伊吹くんは。清衣に頼られてるし、私が捕まってるところに来てくれたし」

 

 頼られている……のだろうか。それに、橋本さんを探した方法だって半分以上は当てずっぽうなうえ、しらみつぶしだ。

 運がいいとは思うが、自分のことをすごいとは思わない。

 

「清衣に迷惑をかけたくなくて、力になりたかったはずなのになぁ」

「なれてるよ。お互いがお互いの力になってる」

 

 今日のことを、自分のせいだと思っているのだろうか。もっと力があれば、注意していればなどと考えているのだろうか。

 元凶は蒼井晶だ。二人が気に病む必要はない。水嶋さんは即座に助けようとしたし、橋本さんは恐怖を感じながらも駆けつけた。それだけで十分なはずだろう。

 ふう、と前を向いて、橋本さんはぽつりと話し出した。

 

「一番自分を抑えて、叶えたいはずの夢を諦めて、気持ちを黙ってる。清衣はね、ルリグだったときはそんなんだったんだ。バッカみたい! って怒ったんだよ、私」

 

 その時を思い出して、悲しくも柔らかく笑う。

 

「それまでずっとどこか遠かった清衣が手を取ってくれたときは嬉しかったなぁ」

「いい友達だな」

「うん、最高の友達」

 

 頼って頼られて、信じて信じられて……友達として、お互いがお互いをしっかり想いあっている。

 

「清衣を助けてくれるのはなんで?」

「君が言ったんじゃないか、水嶋さんの力になってやってくれって」

「それを言わなかったら、助けてなかった? 私のことも放っておいた?」

「わざわざ電話で僕をご指名だったんだ。放っておいたら目覚めが悪くなる」

「真剣に聞いてるんだけど」

 

 可愛らしく頬を膨らまして抗議する橋本さん。仕草はともかくとして、本当のことが知りたいの気持ちに偽りはないだろう。

 水嶋さんはまだこっちに来る気配はない。

 

「……いいや、変わらずに君を助けてた」

 

 僕は白状した。

 

「最初は、少し話を聞いて終わりにするつもりだった。けど、水嶋さんの話を聞くにつれて、どうしても放っておけなくなった。水嶋さんは傷つきすぎた。それでも何度もセレクターバトルに巻き込まれて身も心も擦り切れてる。そんなのはあまりにも……残酷すぎる。君だってそうだ。僕らの戦いに巻き込まれて、こんな傷を負ってしまって……無関係だなんて言えない」

 

 僕は視線を橋本さんの腕に移した。

 彼女のように、普通を求めて普通に暮らそうとしている人には本来つけられるはずのない傷。それが痛々しく、生々しく彼女に刻まれている。

 元凶はセレクターバトル。僕らセレクターだけが傷つけ合い、奪い合い、潰し合うはずの戦いだ。

 

「伊吹くんって、いい人なんだね」

「お節介焼きなだけだよ。勝手に身体が動くんだ。放っておけたらいいのに」

「そのお節介のおかげで助けられた人は、きっと伊吹くんに感謝してるよ。私がそうだもん」

 

 にっこりと笑って、橋本さんは返す。

 

「伊吹くんが助けに来てくれた時、私すっごい嬉しかったんだ。で、その時分かった。伊吹くんは約束とか協力とか打算とか、そういうのなしでも助けてくれる人だって」

「買いかぶりすぎだ」

「だから困ったときはお互い様。何かあったら私や清衣を頼ってね」

 

 僕の言葉を聞いてるのか無視してるのか。ネガティブな言葉はあえて聞かないようにしているように思える。ならば、と僕はさらに畳みかけようとする。

 

「他人に迷惑はかけられない」

「清衣と一緒にいたり、こうやって私と喋るの、迷惑に思ってる?」

「そんなはずないに決まってるじゃないか」

「私だってそうだよ。伊吹くんと一緒にいると退屈しないし、喋ってると楽しい。清衣だって同じこと思ってる。伊吹くんが無事でいてくれるだけで嬉しいし、そのためならなんだってできる人もきっといるよ。少なくとも、ここに二人」

 

 うぐ、と詰まった。見事なカウンターである。真っすぐな言葉に、心が揺らぎそうだった。

 彼女の言うように、少しは認められるに値することができたんじゃないか……

 

『あんたなんて、生まなければよかった!』

『いやっ、聞きたくない!』

 

 高揚しかけた心は、頭に響く声で再び沈んでいく。

 

「僕は……そんないい人間じゃない」

「そんなことないよ」

 

 橋本さんは即答して、僕の肩に手を置いた。

 

「放っておけたらいいのに、なんて言っても誰かを助けずにはいられないくらい、いい人だもん」

 

 また浮きかけた心を抑えるために、自分に言い聞かせた。

 僕には、許されない重い罪がある。僕は最低の人間だ。

 

 

 誘拐事件時にはすでに暗くなっていたが、今日の寒さを自覚したのは今が初めてだ。

 女子はほんと、この寒さの中でスカート履けるよな。おしゃれは我慢というが、僕にはたどり着けない領域だ。

 この時期は、まだ人によって寒いか暑いか微妙だから、水嶋さんの半袖も……まあ理解できなくはないが。

 水嶋さんの家の前まで着くと、彼女は礼を言いつつ僕を呼び止めた。

 僕と水嶋さんの中には、重い空気が漂っていた。というか、主に水嶋さんの周りに。

 

「まさか、アミカが被害に合うとは思わなかった」

 

 今日のことのせいだ。せっかく橋本さんをバトルから遠ざけるために頑張っていたのに、結局巻き込んでしまったことを悔いている。

 

「蒼井は消えたから当面の心配はなくなったけどね」

 

 そう、文字通り蒼井晶は『消えた』。

 僕たちはコインを失った者の末路をこの目で見届けた。植村さんや紅林さん、御影も一歩間違えればそうなっていたのか。

 

「けど、他のセレクターが何をしてくるか……」

「カーニバルは、たぶん大丈夫だ。里見のときもそうだったけど、あくまでセレクター同士でのいざこざを楽しんでるみたいだから」

「だけど、絶対に安全とは言い切れないでしょ?」

「だから早めにこのバトルを終わらせよう。明日、小湊さんたちと会う約束を取りつけた。多く揃えば、それだけ解決の糸口が増える」

 

 弱気になっている水嶋さんに、僕は朗報を伝える。

 小湊さんがセレクターになったこと、そして仲間になってくれたこと。

 いくらか前向きになれたのか、水嶋さんの顔が和らいだ。

 あまり動かないからわかりづらいけど、この短い間で彼女の表情は意外と豊かだとわかった。

 

「そういえば、聞きたいことがあったんだ。すず子のことなんだけど……」

「彼女、セレクターになったわ」

 

 すぐに答える水嶋さんに、僕は落胆した。

 やはりか。嫌な予感だけはよく当たる。

 これで、すず子は戦う手段を手に入れてしまった。森川の記憶を取り戻すために、バトルを仕掛けていくだろう。

 

「ところで、話し合いに来てくれなかったのは何故? すず子たちも、あなたを呼ぼうとはしなかったし」

「紅林さんに呼び出されたからだよ。それに小湊さんとも……」

「あなたがすず子の記憶を奪ったから?」

 

 急に飛び込んできた言葉に、僕は息を呑んだ。

 とぼけることも、逸らすこともできずに沈黙してしまったことが、なによりの答え。

 

「御影さんから聞いたの。あなたがすず子の記憶を奪ってから、二人を遠ざけたこと」

 

 ごくり、と喉が鳴る。

 このセレクターバトルが終わるまでは、協力関係でいられるように黙っていたが、ついにばれてしまった。

 

「どうしてそんなことをしたの?」

 

 水嶋さんはまっすぐ僕を見る。

 非難するような目はしていないが、いつそれが悲しみや怒りに染まるかわからない。

 吹く風は寒いのに、じっとりと汗をかく。

 

「それが必要だったから……必要だと思ってたから」

 

 僕がすず子の記憶を消したことがばれるまで。それが自分に課した、水嶋さんとの協力期間だ。

 知られてしまえば、水嶋さんは僕を味方だとは思ってくれないだろう。

 ここまでだ。

 僕は後ずさって離れようとする。一歩、また一歩、彼女の手が届かない距離へ。

 

「待って!」

 

 がしりと、水嶋さんが僕の袖を掴む。

 

「どうしても、あなたがそんなことをするとは思えない」

 

 離していた距離は詰められ、彼女の偽りのない表情が見えてしまう。

 みんなどうして、そんなに僕を買いかぶるんだ。

 いろんなものから逃げる僕を、どうして知ろうとするんだ。

 心も身体もこんなに汚れているのに、どうして手を掴もうとしてくるんだ。

 

「現実を見ろよ。僕はそうしたんだ。すず子の記憶を奪った」

「どうして? 何か事情があるのよね?」

 

 問答無用で突き放されるかと思った。しかし彼女はさらにぎゅっと力を込める。

 

「事情があれば、許されるのか?」

 

 それは、僕がずっと自分に問いかけてきたことでもある。何かに責任を投げてしまいたいとき、思い出す言葉。

 誰かと一緒にいると、僕は罪を犯す。だから一人で戦って、罰を受けなければいけない。

 それが、予定していたよりもいくらか早まっただけだ。

 手を振り払って、冷たく突き放して、その場を去ろうとする。それでも、水嶋さんはまた掴む。

 

「あなたがしたことは許されないことなのかもしれない。けど、それは私が伊吹くんを助けない理由にはならないわ」

 

 彼女は、決して手を緩めなかった。



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急転/和解と脅威

 朝、学校に着くなり、僕は椅子に座って呆けた。参った気分は昨日からずっとだ。

 森川もすず子もセレクターになっていて、紅林さんがルリグになり、小湊さんとタマもバトルに参加、橋本さんが誘拐されたのを助け、蒼井晶は消滅。水嶋さんには、僕がやったことを知られた。

 昨日で状況は二転三転、それを整理するのには時間が足りない。

 心身の疲れだってまだとれていない。今日はさぼってしまおうかと何度も考えた。

 唯一の救いは、水嶋さんの協力をまだ得られるということだ。

 昨日、水嶋さんに懇願されて、事の行く末をすべて話した。彼女は何も否定せずに聞いてくれて、さらに別れたあとも電話でこれからのことを話し続けた。

 彼女は僕の話を理解して、情報を流しつつ、できるだけ僕とすず子との接触を避けさせるように配慮してくれるそうだ。

 とりあえず、今のところは、だけど。最終的には話し合いをするように釘を刺されて、会話は終わった。

 幾分か心は楽になったが、状況は厳しいままだ。カーニバルとレイラという、厄介な二人が残ったまま。

 昼になっても食事は喉を通らず、考えがぐるぐると回る。

 

「協議。少しいいですか、伊吹さん」

 

 声がしてはっとする。

 いつの間にか、御影が僕の目の前にまで来ていた。

 何か事が進んだのか、真剣な顔の御影。

 僕の内心は穏やかじゃなかった。

 ここ数日の変化は、めまぐるしく、そして危うい。

 昨日の夜から今日の午前の間に何かが起きていても不思議じゃない。

 場所を変え、いつもの中庭のベンチに座る。

 

「セレクターバトルを終わらせた小湊るう子の協力を得られたらしいですね。どうやって?」

 

 悪い知らせでもなんでもなくて、ただの質問。彼女の口調もいつも通りのものだった。

 僕は拍子抜けして、昨日のことを思い出す。

 

「小湊さんは紅林さんの友達で……どこから説明したもんかな」

 

 一度頭の中でしてから、順序立てて説明をしていく。

 一から十まで、彼女の質問とは関係ないところまで話していると、彼女の顔はころころと変わっていく。

 ようやく話し終えるころには、考え込むように顎に手を当てた。

 僕と同じく、頭がこんがらがっているのだろう。

 

「理解。昨日は盛りだくさんだったようですね」

 

 やっとそう言ったのは、遅い箸使いながらも僕が弁当を食べ終わったときだった。

 

「そうですか。紅林さんもセレクター……それどころかルリグに……それに、レイラという少女、危険ですね」

「勝ちはしたけど、次はどうかな。相当な実力を持っているようだし」

「……私たちはともかく、清衣さんにも連絡はせずにバトルしたみたいですね。

 

 ジト目で見てくる。

 

「質問。私がカーニバルと戦った理由が分かりましたか?」

 

 何が言いたいのかはわかる。

 バトルをしなければならないタイミングと状況がある。誰かに知らせるよりも前に、敵を逃がさないように。

 それなのに、自分のことは棚に上げて、僕は彼女を責めた。

 カーニバルを放っておけないのは、痛いくらいわかっているのに。

 

「ああ、すまなかった。僕の考えが足りなかったよ」

「謝罪。私の方こそ、あのときは感情に任せて、酷いことを言ってしまい、申し訳ありません。すず子さんにも秘密がばれてしまいましたし……」

 

 お互いに頭を下げる光景は、なかなかシュールだ。

 とりあえずどちらが悪いかというのは置いておいて、僕は御影が謝ったことに驚いた。

 

「納得はしてなかったんじゃなかったっけ?」

「勿論。納得はしてませんが、それでも、伊吹さんの頼みを蔑ろにしてしまったことには変わりありません」

「気にしなくていい。君は事実を言っただけだから」

 

 自嘲気味に笑って立ち上がろうとする僕を、御影は制した。

 

「誤解。私が怒っているのは、あなたがすず子さんの記憶を奪ったからというのもありますが、一番ではありません。あなたが私たちを頼らずに、一人で戦おうとしたからです」

 

 そう言って、御影はくしゃくしゃの封筒を渡してきた。

 中身は見なくてもわかる。以前、僕が御影に渡したものだ。

 

「私もすず子さんも、清衣さんもあなたに助けられて感謝しています。だから、あなたに傷ついてほしくなくて、あなたの助けになりたいんです。それをどうか、理解してください」

 

 わかった……とは言えなかった。

 最近、僕の存在を認めてくれる人がいてくれることに気づいてとても嬉しく思う。が、それはそれとして、僕自身が僕を認められないのだ。

 どれだけ償って洗い流そうとも、落ちない罪がある。一度こびりついたそれは、御影や水嶋さん、橋本さんにどう言われようとも消えることはない。

 

 

 もうすぐ昼休みが終わる。

 教室へと戻る途中で携帯電話が鳴った。

 画面を見てみると、非通知からの電話。

 普段なら出ずにスルーしてしまうところだが、嫌な予感を覚えた僕は通話ボタンを押して、耳に当てる。

 

《やあ、伊吹肇》

 

 一瞬で総毛だった。僕がずっと追い続けてきた人物の声が聞こえたからだ。

 

「カーニバル……っ」

《電話越しでもいい声だ。紅に気に入られて、紅に勝っただけはある》

「なんで僕の番号を……」

《そんなことはどうでもいいだろう? 重要なのは、なぜ俺がお前に電話をかけたのか、だ》

 

 僕は沸騰しかけた頭をどうにか落ち着かせる。カーニバルを相手に冷静さを失うのは危険すぎる。

 だが彼女が次に発した言葉は、僕の身体を再び熱くさせた。

 

《俺とバトルしろ、伊吹肇》

 

 前は僕とのバトルを避けたくせに、今度はバトルしろ、ときた。

 彼女の言う『準備』ができたのだろうか。

 

《残ったセレクターは少ない。そろそろここらでとっておいた楽しみを味わおうかと思ってね。水嶋清衣、穂村すず子、小湊るう子。思った通り、美味しそうなのがたくさんいるじゃないか。もちろんお前もな、伊吹肇》

「お前……っ」

 

 それが『準備』だったっていうのか? 強いセレクターがキーカードを集め、より強くなったこの時を待っていたと?

 だがあいにく、僕はキーカードを持っていない。それを知ってしまえば、カーニバルは再び行方をくらます。

 僕は歯を食いしばりながらも、彼女が言う時間と場所を聞くだけに留めた。

 時間は今すぐ。場所はすず子と森川が戦った因縁の場所。

 

《待ってるよ》

 

 僕はすぐさま行動に移った。このあとの授業なんてどうでもいい。

 急いで駆け出し、校門を抜ける。ここからあの公園までは、そう遠くはない。

 たどり着くと、遊具よりすぐに目につくものがあった。

 ここでは場違いな高級そうなスーツ。余裕ぶった面。知り合いの中では面を合わせたことは少ないのに、やたらと印象に残っている。

 カーニバルは、言った通りにそこにいた。

 

「追ってくると思ったよ。お前の性格なら、俺を放っておけるはずがないからな」

 

 罠だなんてことは僕が一番わかっている。

 だがこれは逆にチャンスでもある。長らく行方をくらませ、探しても探せなかったやつと対峙できる瞬間は滅多にない。

 

「さあどうする? どうすべきかは、もう決まってるだろ?」

「ここで終わらせてやる」

「そう、お前はそう言うしかないんだ。ここで俺を逃がせば、さらに被害は拡大するんだからな。だが、俺を止められるほどの実力が、いまのお前にあるかな」

 

 奴の言う通り、僕は完全に不利だ。

 前回を通して、リィンのコイン技はあっちもわかってる。その性質上、コイン技は役に立たないと考えていいだろう。それに加えてキーカードもない。

 だけどカーニバルを逃せば、残っている誰かが消滅してしまう危機に陥るかもしれない。

 負ける可能性が高くとも、ここで退くことはできない。

 僕はカードを掲げることで答える。カーニバルもまた、無言でカードを前に出した。

 

「オープン!」

 

 

 戦いの場へと移った僕らは相手を睨み合う。

 カーニバルは強い。あの御影をも倒した相手だ。一切の油断が許されない。

 まずは現状を確認。やつのコインは四枚。

 今回のセレクターバトルは、全員がコイン三枚の状態からスタートしているから、御影に勝ってプラス一枚。もちろん、その他の増減がないことが前提だが。

 

「俺の先攻。グズ子をグロウ。ターンエンド」

 

 レイラと同じく、自分自身が矢面に立って戦うのかと思ったが……

 しかも、グズ子をルリグに? せっかくコイン技で僕よりも優位に立てるこの状況で、盤面に影響しない技を持つグズ子を選ぶなんて、何かがおかしい。

 様子見? いや、それならカーニバルのほうが、余計に適任だろう。

 ターンを進めるにつれて、違和感は強くなっていく。

 つかみどころのない表情は里見のころから変わらないが、彼とは違って熱を感じない。

 まるで、このバトルの勝敗なんてどうでもいいように……

 嫌なものを感じながらも、僕は手を緩めない。こいつが何を考えているかわからないなんて、いまに始まったことじゃない。

 すると、カーニバルはにやりと笑って、キーカードを手にした。

 

「アンロック、コインベット」

 

 さて、何が来る?

 

「みんなの妹、あーやだよ! って何回こいつのサポートすりゃいいんだよ!」

 

 現れたのは、なんとも可愛らしい外見の魔法使いの幼女。

 

「ホログラフ!」

 

 あーやがステッキを振り回すと、グズ子の周りで小さく煙が弾け、そこから手品のようにグズ子そっくりの何者かが現れた。しかも合計で五人。

 『ホログラフ』。つまり、偽のルリグを生み出す能力か。

 初見の力に、僕は面食らってしまう。対策を練る暇も与えてもらえず、全員がロケットのように飛び交い、向かってくる。

 縦横無尽に飛び回るグズ子たちのうち、本物はたった一体。

 どれだ。どれが本体だ?

 

「リィン、後ろだ!」

 

 不意をつくようにこそこそと背後を取ったのが本物に違いない。

 リィンは振り向きざまに掌に魔法陣を展開させ、防御の姿勢をとる。

 

「残念、はずれ」

 

 本体はそれではなかった。

 ざくり。

 横から現れた本物のグズ子の鎌先がリィンに突き刺さる。

 僕がカーニバルの意図に気づいたのは、その瞬間だった。

 激痛が走る。吐き気がこみ上げ、血の気が引いた。

 

「ぐっ……う……」

 

 その場で膝をついてしまう。

 盤上では、リィンが同じ姿勢をとりつつも、こちらを見て驚愕していた。

 彼女が脇腹を抑えるのを見て、僕も完全に理解する。

 『ダイレクト』だ。

 ルリグのダメージをセレクターにも与える、グズ子のコイン技。

 以前にも食らったことがある。その時はこんな深い攻撃ではなかった。

 

「おっと、ルリグは傷ついても死なないとはいえ、人間にこれはきつかったかな」

「カー……ニバルっ」

 

 脂汗が浮いてくるのがわかる。

 これはフィクションじゃない。僕は映画に出てくるようなマッチョみたいに鍛えてもない。

 深々と刃物を突き刺されれば、こうやって痛みに耐えながら歯を食いしばることしかできない。

 

「いいねえ、その顔! 紅とのバトルでは見せなかった顔じゃないか! 混乱と苦痛、絶望。これこそが俺が求めていたものだ!」

「肇!」

 

 リィンはすでに立って、見つめてくる。

 この痛みは実際に受けたわけじゃない。そう考えるといくらか楽になった気がする。

 腹を圧迫しながら、テーブルを支えに立ち上がる。

 僕のターンが回ってくるとすぐ、コインカードを叩きつけた。

 

「コインベット!」

「『リターン』」

 

 ぐらり、と空間が歪む。

 時計盤の針が逆回転し、手札も場も巻き戻される。受けた傷さえ何事もなかったかのように痛みがなくなる。実際、何事もなくなったのだ。

 リィンの『リターン』は、すべてを一ターン前の状態に戻すコイン技。僕はこれによって、相手の先を読むことができる。

 問題は……

 

「へえ、コイン技を使ったか。なら、俺が何をしようとしてるのかわかってるってわけだ」

 

 カーニバルにこれは通用しないということ。

 彼女のセレクターであった里見も見抜いてみせていた。

 『リターン』を使った影響で、唯一変わったこと――コインが減ったことをめざとく注意していたからだ。

 

「どうする?」

「守りに重点をおいて、ここは凌ぐ」

 

 カーニバルが『ダイレクト』で僕を傷つけるのが狙いなら、そこを防げばいい。

 守るタイミングさえ合えば、先ほどの連携攻撃もなんとかなるだろう。

 だがその考えはカーニバル相手には甘すぎたということを思い知らされることになる。

 

「アンロック」

 

 カーニバルがキーカードを出す。

 よし、ここで『ホログラフ』がきても、ガードをしっかりすれば……

 

「あら、伊吹さん、数日ぶりですわね」

「な……」

 

 カーニバルが出したのはナナシだ。

 御影がカーニバルに負けたから、ナナシが奪われていたのは知っていた。知っていたはずだが、あーやの存在や『ダイレクト』の印象が強くて薄れていた。

 敵は自分自身というものをよくわかっていた。『リターン』する前に、自分が何のキーカードを出したのか推測して、違うのを出してきたのだ。

 読んでいたつもりが、それすらも読まれていた。

 僕が混乱しているなか、ぼふんという音がして視界が狭まる。

 ナナシの『ブラインド』だ。黒い煙によって相手の姿が紛れ、何をしているかを隠す。

 見えるがゆえに翻弄される『ホログラフ』とはある意味対極的な能力。

 相手が相手だ。この状況は非常にまずい。

 その闇に隠れていたグズ子が、いつの間にか目の前まで迫ってきていた。

 

「ごめんなさーい!」

「しまっ……」

 

 背中が大きく抉られ、さらに心臓の位置を突き刺される。

 それだけでは終わらず、顔を思いきりぶん殴られた。もちろんダメージが僕の方にも響き、よろめく。

 グズ子は足を払い、倒れたリィンへ三回鎌を薙ぎ払った。

 喉が締まり悲鳴が止められ、身が裂ける苦痛を味わいながら僕も倒れる。

 

「はじ、め……」

 

 リィンが僕と同じようにうずくまりながら、安否を確認してくる。

 共有しているのは痛みだけ。傷はない。それなのに、内臓が裂かれ、血が体内に溜まっていく感じがする。斬られた箇所は熱く、しかし身体全体は冷たくなっていくような気がする。

 馬鹿野郎。ただの錯覚だ。実際にはなんの損害もない。

 自分に言い聞かせても、痛覚は悲鳴を上げて身体が動くのを拒む。

 昼に食ったものがこみあげてくるのを抑え、額に浮かんだ脂汗を拭う。深い呼吸と浅いのを繰り返して、正常を保とうとする。

 

「やりすぎたか。面白すぎると加減が効かなくなっちまう」

 

 カーニバルを睨んでやろうと思ったが、焦点が合わない。近くのリィンでさえ、ぼやけて見える。

 自分で首を刺したときもこんな感じだった。

 急速に熱が奪われ、足元から溶けていってしまいそうに動かず、感覚がなくなっていく。痛みだけが生きている証拠になる。

 

「立って、肇。お願いだから、立って。立ってよ……」

「あれえ? まさかのKO負けかい?」

「肇……」

 

 僕はこんなところで倒れるのか。その程度だったのか。

 いや、倒れてもいい。その程度でもいい。

 だけどカーニバルを逃がすことだけは絶対にダメだ。

 あいつはコインを使いまくった。ナナシを出すのに一枚、コイン技で二枚。

 さっきはなぜ気づかなかったんだろう。

 カーニバルは僕をこんなにするために、わざわざ手を浪費した。盤面や手札、エナのうえで有利なのは僕のほうだ。

 これは勝てる勝負。そして勝てばカーニバルのコインは残り一枚。

 奴にどんな計画があろうと、ここで追い詰められているのは奴だ。

 だから立て。立ってくれ。動けよ、僕の身体。

 そう念じると、勢いよくとはいかないが、机にもたれかかりつつもようやく膝を立てるまでになった。

 

「僕の、ターン」

 

 場を一瞥して、やはりと思った。

 カーニバルは僕の攻撃に対抗できる手札もエナもない。

 僕は次のターンを考えずに防御を捨て、その分を攻撃に回す。

 

「これで終わりだ」

 

 リィンが手から炎を放つ。

 これが通ればカーニバルの負け。だというのに、にやりと笑った顔のままを崩さない。

 結局、炎はグズ子をあっさりと包み込み、トドメのダメージを食らわせた。

 

 

 負けて足場が崩れたのはカーニバルのはずなのに、現実に戻れば膝をついているのは僕の方だった。

 与えられた痛みが、バトルが終わっても続いている。

 今回のバトルの特徴か、カーニバルが特別だからか、それとも僕が痛みを強く知覚してしまったからか。

 

「おおっと、負けちゃった」

 

 余裕の笑みを浮かべて、カーニバルは僕を見下ろす。

 

「けど、そんな身体じゃ、立てもしないか」

 

 無理やり立とうとして、逆に地面に伏してしまう。

 悔しいけど、カーニバルの言う通りだ。響いてくる痛みに耐えることができず、噛み殺した悲鳴が喉の奥から漏れる。

 

「く……そっ。もう一度バトルしろっ」

「お前が立てばな」

 

 踵を返し去っていくカーニバル。

 僕はただそれを、倒れたまま見ているだけしかできなかった。

 ずりずりと身体をよじり、追いかけようとするも、当然追いつけはしない。

 まんまと罠にかかってしまった自分を憎む。

 僕が動けなければ、また誰かが犠牲になってしまう。それだけは嫌だ。絶対に避けなければいけない。

 激痛に構わず腕を伸ばす。待て、カーニバルと誰にも聞こえない声を叫ぶ。

 僕の意識はそこで途絶えた。



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親友/溢流と対立

 ピロピロピロ。

 何かが鳴ってる。

 その音が、僕の沈んでいた意識を浮上させた。

 ぱっと起き上がろうとしたが、襲いかかる全身の痛みがそれを妨げる。

 

「いっ……つ……」

 

 痛む身体を押さえつつ、あたりを見回す。 

 屋内だ。どこかの家の誰かの部屋。僕はベッドに寝かされていて、周りには勉強机や椅子、本棚。

 全身が熱を帯びているものの、出血どころか傷もついていないようだ。身体を支えようとする腕や足も動かすたびに激痛が走るのは最悪だが。

 起きた音か声を聞きつけたのか、扉が勢いよく開く。

 

「肇!」

「奏太……ここは?」

 

 青ざめた顔で息の荒い親友へ問う。

 

「俺の部屋だよ。お前道端で倒れてたんだぞ。何してたんだ?」

 

 そうか、と思い出す。何度も訪れたここを、初めてのように感じるなんて、まだ頭が回っていない。

 

「いま何時だ? 僕はどれくらい寝てた?」

 

 質問を質問で返す。しかも相手の質問とは全く関係のないことを訊くのはマナー違反を通り越しているが、僕だって訳がわからなくって、頭がぐちゃぐちゃなのだ。

 ただ一つはっきりしているのは、ここで休んでいる場合じゃないってこと。

 

「ここに運んでから、まだ二時間」

 

 だから制服なのか。

 部屋の壁につけられている時計を見ると、ちょうど放課後の時間を過ぎたところだった。

 午後の教室に僕がいないことを変に思って、授業を抜け出して探してくれたんだろう。

 そして倒れている僕を見つけて、とりあえず運んでくれたということか。

 そこではっと思い出した。

 僕はカーニバルに勝った……けれどルリグの能力で痛手を負わされ、意識を失ったんだ。

 

「行かないと」

「行くってどこに」

 

 鈍い痛みに耐えて立ち上がろうとした僕を、奏太は制しようとする。

 僕はその手を払って、机に置いてあるブレザーを羽織る。この動作でさえ、一仕事だった。

 バトルで受けた痛みは、バトルが終わっても続いている。グズ子はいま僕の元にあるが、カーニバルだってその技を使えるはず。

 すず子、水嶋さん、小湊さん。もし誰かがその攻撃を受ければ……あまつさえ負けるほどのダメージを受けてしまえばどうなるか、考えたくもないが無視できない。

 

「危険な奴がいるんだ。止めないと」

「誰のことを言ってるのか知らんけど、そんなに危ない奴なら警察とかに任せろよ」

「警察じゃどうしようもない。止められるのは僕だけだ」

 

 奏太は、その場を動こうとする僕の前に立って邪魔をする。いらついて彼の身体を押すが、頑なにどこうとはしない。

 

「おい落ち着け。滅茶苦茶なこと言ってるって分かってるか?」

「落ち着いてる。そのうえで言ってるんだ」

「何かしてる場合じゃないだろ」

 

 彼は僕の顔を指差す。

 

「倒れてたんだぞ。何があったのかは知らんけど、気絶するほどのショックを受けたんだろ」

「傷はない」

「そんな顔して、説得力があると思ってんのか? 一線を越えるかもって心配したんだぞ」

「越えてない」

「ああ、まだな。だけどもし越えてしまったら、もう二度と戻ってこれなくなる。一線の意味をわかってるのか?」

 

 大げさだ、とは言えなかった。

 殴られ、鎌を刺された瞬間のことは、まだ鮮明に残り、身体に刻まれている。

 リィンと繋がっていたのは痛覚だけといえども、その痛みは本物だ。

 あの後まだバトルが続いていたら、僕は死んでしまっていたかもしれない。

 そう、死ぬのだ。

 お互いにわかっているが、あまりにも恐ろしくて直接的に言葉に出せない。

 言ってしまえば、本当に現実のものになってしまいそうで。

 

「なぁ肇、何をやってるんだ」

「必要なことをしてる」

「それがどういうふうに聞こえると思う?」

 

 奏太の声に熱がこもり、大きくなっていく。

 

「なんとなくやばいことに巻き込まれて、相手がやばい奴だってのもわかる。それをどうにかするのが大事だってのも。だけどこんなになってるお前が言う『必要なこと』がどんな意味に聞こえると思う?」

「どう聞こえようと、やらなきゃいけないことなんだ」

 

 彼の横を通り過ぎようとしても、やはり邪魔してくる。

 こうしている間にも、カーニバルの策略に嵌っている人がいるかもしれないと思うと、気が気でなかった。

 いらつきをなんとか抑えて、息を整える。奏太も同じようにして僕をなだめようとする。

 

「わかった。なら話さなくていい。手伝えることはやるから、頼むから休んでくれ」

「君には出来ない。出来たとしても、巻き込めない」

 

 つい最近、セレクターでないはずの橋本さんだってひどい目に遭った。もしもあれが奏太だったら、と思うと悪寒が止まらない。

 一歩間違えれば、あそこで倒れていたのは彼かもしれない。

 僕の一番の親友を、こんな戦いに巻き込むわけにはいかないのだ。 

 

「親友だろ? 困ったときくらい頼ってくれよ」

「親友だから頼めないんだ。関わったらどうなるか……」

 

 ピロピロピロ。

 またしても何か音が鳴った。着信音だ。ブレザーのポケットが震えている。そこからスマートフォンを取り出すと、画面には『水嶋さん』と書かれている。奏太の許可もとらずに、僕は電話に出た。

 

「もしもし」

《伊吹くん、何度も電話したんだけど》

 

 少し息せき切っている水嶋さんの声だ。後ろでは、御影ともう一人誰かの声も聞こえる。

 僕は彼女に合わせて、なんでもないふうを装った。

 

「ごめん。ちょっとばたばたしてて。それでどうした?」

 

 何度も、ということは緊急の案件だろう。

 僕は自分が傷ついて倒れたことを伏せて、先を促した。

 

《すず子が小湊さんとバトルしてしまうかもしれないの。探すのを協力して》

「わかった」

 

 早速だ。

 僕が倒れたのを好機とみて、カーニバルが仕掛けてきたか。それとも、元々これ狙いで僕と戦ったか。

 なんにでよあの二人が潰しあうのは望ましくない。

 どういった経緯で戦うことになったのかはひとまず横に置いて、止める必要がある。

 二人に面識のある水嶋さんか僕、あるいは紅林さんを知る御影が話せば、なんとかなるだろう。

 

「まだ話は終わってない」

 

 急がなきゃいけないのに、奏太はまだ立ちふさがる。こうなった奏太は頑固だ。納得するまで通してはくれないだろう。

 僕はため息をついて、数舜考えた。

 

「ウィクロスだ」

「ウィクロス?」

 

 突然何を言い出すんだ、という顔をして、奏太が眉をひそめる。

 

「都市伝説を聞いたことがあるだろう」

「願いを賭けたバトルのことか? それが?」

「それに巻き込まれてる」

「つまりお前は、ファンタジーみたいなお話を信じろって言うんだな」

「そうだ」

 

 端的に言ったが、それが真実だ。

 たとえそれがどれだけ信じがたいことでも、 僕にとっては現実。

 奏太は十秒ほど唸って、口を開けた。

 

「急に、穂村と喋らなくなったのも、それが原因?」

「ああ」

 

 妙に納得したような落ち着きを見せて、奏太はため息をつく。

 

「信じるのか?」

「ウィクロスを始めてからやめるまで、お前はずっとおかしかった。辻褄は合う……のかもな」

 

 前のセレクターバトル期間、僕はずっと苦悩と苦痛の中にいた。

 ずっと付き合いのある奏太は、すでにそのとき異変に気付いていた。

 おかしいことが起きていることは、なんとなく察知していたのだ。だから、この話もすんなり受け入れたのかもしれない。

 

「それに、お前は嘘をつく奴じゃない」

 

 彼は苦々しく、小さい声でそう呟く。

 

「他のセレクターに任せちゃいけないのか」

「その、他のセレクターが危険な目に遭ってるんだ。どこでバトルが行われているか、探すためにも人手がいる。手遅れになったらすず子が……」

「穂村か?」

 

 奏太の苦い表情が、顔全体にいきわたる。

 

「仲違いかなんかした女のために、お前が傷つきにいくってのか? 正直、俺は穂村のことはほとんど知らない。お前と穂村の間に何があったのかもな。だけど俺にとって重要なのは、親友であるお前だけだ」

「そんな単純じゃないんだ」

「じゃあ簡単にしてやるよ。俺を友達だと思ってくれてるなら行くな。心配してるのわかってるだろ。お前が行きたいって言うなら、今ここで絶交してやる」

 

 突きつけられた選択に、僕は詰まってしまう。

 彼が絶交したいわけではないことくらいは、もちろんわかっている。僕を止めるための脅しだ。

 

「僕は……君のことを、一番の親友だと思ってる」

 

 苦し紛れに、答えにならない答えしか出せなかった。

 

「けど、行かないといけないんだ」

 

 すず子は……僕を嫌ってる。僕が一方的に悪いんだから、それは仕方がない。

 けどもそれは、彼女を放っておく理由にはならない。

 それだけ言っても、彼は僕の腕を掴んで通そうとはしない。

 

「お前はいつもいつもそうだ。他人の犠牲になることは簡単にするくせに、他人に助けを求めなくていつも一人でやる。俺だってお前に助けられたことは何度もある。だからお前の助けになりたいのに……っ」

 

 奏太の声に嗚咽が混じる。震えて、熱がこもっている。

 

「いい加減無理なことは無理って言えよ。一人じゃできないって言ってくれよ。一人で何もかも背負うのはやめにして、頼ってくれよ……頼むから……っ」

 

 奏太は膝から崩れ落ちた。涙すら流して、僕に訴える。

 こんな彼の姿を見たのは初めてだ。

 いつも飄々としているからこそ、こんな時にどれだけ本気かがわかる。

 だけど僕は……

 

「やめる気はない」

 

 もう誰かが何かを失う瞬間を見るのはたくさんだ。それを避けられるなら、代わりに僕が失う。

 今までもそれを繰り返してきて、上手くいったはずだ。だから今回も同じ方法でいく。それだけのことだ。

 僕が何を失っても、それ以上に救われる人がいるなら、それでいい。それでいい……はずなんだ。

 奏太には、もう邪魔をする気力はないように見えた。彼の横をすり抜けて、僕は扉をくぐる。

 一つ、また大切なものを自分から手放した。



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伊吹/切望と解放

 すず子と小湊さんの両方に電話をかけても、どちらも出ない。

 すでに戦っているのだとしたら、どう止めようか。

 僕が考えつくのは一つ。水嶋さんと蒼井晶の時のようにバトルフィールドに入り、二人に説明を……いや、それじゃバトルそのものは止められない。

 焦る気持ちと痛覚が訴えてくるせいで、頭が回らない。

 どうすれば……どうすれば……

 

「伊吹さん!」

 

 御影の声だ。

 声のするほうを向くと、水嶋さん、植村さんも一緒に眼下にいる。

 そこでようやく、自分が歩道橋の上にいることがわかった。

 焦っていたのと気持ち悪さで、自分の居場所さえ知覚できていなかったのか。すず子と小湊さんとすれ違っても、わかっていなかったかもしれない。

 三人はすぐさま僕のもとに駆け寄ってくる。

 

「伊吹さん、大丈夫ですか? なんだか、顔色が悪いような……」

「生まれつきだよ。それより、二人は?」

 

 全員頭を振る。まあ、いままさに探しているところなのだから当然なのだが。

 

「二人がバトルするってことはどうやって知ったんだ?」

「……カーニバルです」

 

 全身がこわばる。

 まさか、今日のうちにカーニバルがこんなに動いてくるなんて……

 知らせてきたのは、水嶋さんたちを絶望に堕とすためか。せっかくの仲間が戦い合うさまを見せつけるためか。

 

「早く見つけないと」

「だけど場所がわからないと……」

「あ、あそこです!」

 

 植村さんが人差し指を伸ばす。

 ここから見える公園。そこへ至る道の途中に、知っている制服を着た少女が立っている。

 それだけじゃない。もう一人、植村さんと同じ制服の少女もいる。

 すず子と小湊さんだ。

 離れている……が、その様子からもうバトルの最中であることは明白だった。

 

「行こう」

「行ってもどうにもならないわ。見たところバトルはもう始まっているようだし……」

「でもこのままにしておくわけにも……」

 

 もし、あの二人が全力で戦って、コインをすべて失うほどに使ってしまったら……

 手すりをぐっと掴む。

 しかし僕たちがセレクターである以上、バトルが始まってしまったら止められる術はない。

 

「私に任せてください」

 

 そんな中、御影がスマホを操作し始めた。

 十秒ほどだろうか、素早いフリック操作を眺めるしかなかったが、御影は満足げに顔を上げた。

 

「安心。これで大丈夫なはずです」

 

 そう言って、彼女は先導を切る。

 先ほどよりかはスピードを緩め、しかし走りながら現場に近づくにつれ、なにやら人がまばらに集まってきたように感じる。

 

「ドラマの撮影をしているという情報を流しました。最近流行りの俳優の名前も一緒に載せて」

 

 なるほど、と僕は頷いた。

 これならセレクターバトルを知らない一般人が多く行きかうことになる。そのうちの一人でも、決着がつくよりも先に近づいてくれればいい。

 僕には思い浮かぶことのなかった方法。思いついたとしてもこうはならなかっただろう。界隈で有名な御影が呟いたからこそ、この状況が出来上がったのだ。

 駆け寄りながら、顔も名前も知らない誰かに念じる。頼む、どうかあの二人を止めてくれ。

 その願いが届いたかどうか、すず子と小湊さんはぱっと目を覚まして、あたりをきょろきょろと見回し始めた。

 

「あれ、え?」

「どうして……」

 

 その様子を見ると、どうやらバトルは中断されたようだ。

 彼女らは僕たちの姿を認めて、さらに困惑した顔を深める。

 

「伊吹くん……あれ、一衣も?」

「清衣ちゃん……はんなちゃん?」

 

 疑問符を浮かべる二人に、僕たちはとりあえず安堵のため息を漏らした。

 

 

 誤解も解けて、僕たちは腰を落ち着けるためにファミレスに入った。

 ちらりと対面に座るすず子を見ると、彼女はふいと目を逸らした。

 先ほどはまったく気づかなかったが、僕の知らないうちに、植村さんと御影が知り合いになっていたようだ。そこから水嶋さんと繋がり……今に至る。

 

「それで、これで全員かしら」

「僕の知る以上は」

 

 僕に、水嶋さん、すず子、御影、植村さん、小湊さん。さらに机にはリィン、ピルルク、リル、メル、紅林さんが並んでいる。

 僕の持つグズ子と水嶋さんのミルルンは話についていけないだろうし、リメンバは場をかき乱しそうなのでしまっている。

 そしてもう一人、僕の持つルリグを出した瞬間、御影が目を見開いた。

 

「ナナシちゃん!?」

「またお会いできるとは思いませんでしたわ、はんな様」

 

 すず子と水嶋さんも息を呑む。

 

「あなた、カーニバルと戦ったのね」

 

 ここまで見せておいて、隠せはしない。僕は頷いた。

 驚きのほうが勝ったようで、みんなは僕を責めようとはしなかった。

 

「伊吹さんったら、とても勇ましかったんですのよ。まさかあの攻撃を受けて立っていられるなんて……」

「僕は勝った。だけど、カーニバルはまだルリグを持っているし、本人自体もルリグとして戦える。依然として危険は去ってない」

 

 ナナシが余計なことを言う前に遮る。

 

「やっぱり強いんだね、伊吹さん。レイラにも勝ったし」

「うん、伊吹さんがいれば、心強いよ」

「キーカードも手に入れたし、次にまたかかってきても伊吹さんが相手すれば……」

 

 盛り上がりかけた植村さん、小湊さんの勢いが弱まっていく。

 その視線は、机の上で拳を固める水嶋さんに注がれていた。

 

「清衣ちゃん?」

 

 すず子の言葉で、水嶋さんははっと我に返る。息を吐いて、一度目の前のコーヒーを飲んだ。

 

「私は反対」

 

 彼女の目はまっすぐ僕を射抜く。

 

「みんな伊吹くんに頼って、助けられてきた。でも、だからこそこれ以上危険な目には遭ってほしくないの」

「僕は大丈夫」

「今はまだ、ね」

 

 橋本さんのことをまだ引きずっているのか。奏太と同じようなことを言う彼女の目は、奏太と同じくらい真剣だ。

 

「同意。ここまでセレクターが集まって協力できるのも、伊吹さんの力があってこそです。ここは一度落ち着く時間が必要かと思います」

 

 昨日の橋本さんや水嶋さんの言葉、昼の御影との会話を受けて、僕の心は揺らぎつつある。

 確かに、少しだけ一線を退くことをしてもいいのかもしれない。水嶋さんも小湊さんもとても強い。この非情な状況においても任せられるくらいには。

 僕はすず子を一瞥した。

 

「ま、できるだけ善処するよ」

「嫌な言い方ね」

「同感。絶対に無茶しますね」

 

 本当は激痛の中走り回って、今にも倒れそうだということを告げたら烈火のごとく怒りそうだ。

 

 さて、と僕は考える。

 これだけセレクターが揃ったんだ。思考材料は多い。

 僕がよく知ってるのは記憶を賭けた方のセレクターバトル。それに今回はそれがベースになっている。

 それも絡めて考えた方がいいだろう。 

 

 御影はんなに、森川千夏。

 記憶の操作を望む者はいた。知り合ったセレクターの割合でいっても少なくはない。

 セレクターバトルは、理不尽なだけの性悪バトルだと思っていたが、報酬を強く望む者も少なからずいる。

 バトルが始まって、勝利の報酬を望みだしたんじゃない。それを望んでいるから、バトルが始まったんだとしたら?

 人間の欲望が積もった結果出来上がったのが、セレクターバトルだとしたら?

 なら、今回のバトルも誰かが望んだ? 終わらないバトルを続けさせて、誰が最強かを決めさせるようなルールを、誰かが望んだ?

 もちろん、ここまではすべて憶測だ。しかし、これが合っているとしたら……

 僕はちらりと水嶋さんとすず子を見る。

 すず子は、森川の記憶が無くなったことを悲しんでいた。

 それでも納得せざるを得なかったのだ。取り戻す手段がないのだから。前を向いて生きるしかないと心に決めた。

 そのはずが、彼女は心の奥底で、願ってしまったのかもしれない。

 もう一度セレクターバトルが始まって、それに勝てたら森川の記憶を取り戻せる。そんなルールなら……

 

 水嶋さんはセレクターバトルの真実を求めている。

 しかしそれには当然、セレクターバトルが始まらないと意味がない。

 

 セレクターバトルそのものを望む者、カーニバルとレイラ。

 記憶を取り戻したいと願う者、すず子と水嶋さん。

 バトルを加速させるために、巻き込まれるようにして参加させられた周りの人間。

 それと、『鍵穴』とやらを求める夢限。

 それらの思いがミックスされてバトルが始まったのなら、このルールも辻褄が合うような気がする。

 ……悪い妄想だ。

 自分で気づいたから、それが正解だと思ってしまっているだけだ。

 

「伊吹くん?」

「何でもない」

 

 水嶋さんが顔を覗き込んできた。僕は頭を振った。

 合っているにせよ違うにせよ、混乱させるようなことを言うわけにはいかない。

 

 

 みんなと別れ、僕は歯を食いしばりながら帰路についていた。

 こんなふうに、重い身体を引きずるようにして帰ったことが前にもあったな。

 あの時は精神的に参っていたが、今回は身体的に限界を迎えている。

 隠し通せたのは奇跡と言ってもいいだろう。テーブルの下であらんかぎりに膝を掴んでいなければ、ばれていたかもしれない。その安心感からか、感覚が鋭く感じられる。

 殴り蹴りされたところもだが、刺された部分が一番痛い。特に、背中と左胸がひどく響いてくる。嫌な汗がじっとりと不快な気分を増させた。

 一歩一歩が短く、重い。家に戻るころには、すっかり暗くなってしまっていた。

 日を越えしまって、すでに家の電気も消えている。母さんはとっくに眠っているはずだ。

 音を立てずにキッチンに向かい、棚からコップを取る。

 ゼリーとかヨーグルトとか、何か負担の少ない食えそうなものはないかと冷蔵庫を開ける。一人分の食事がラップされていた。腹は減っているが、それを食えるほど食欲はない。

 コップに水を入れ、飲み干す。それだけでもしんどかった。

 しばらく動けず、小さくうめきながらシンクとにらめっこしていると、急に明るくなった。

 反射的に振り向くと、そこにいた母さんと目が合った。

 自分の家なのに、不法侵入が見つかったかのようにぞくりと背筋が凍る。

 

「どこ行ってたの」

 

 ひどく疲れた顔で、しかも目を腫らしている。その姿は歳相応よりもだいぶ老けて見えた。

 

「連絡を受けてすぐに向かったのに肇がいないって言われて、やっと連絡が来たのが夜遅く。奏太くんも心配してたわ」

 

 どうやら、奏太が母さんにことのいきさつを話したらしい。ウィクロスのことは信じられないだろうから伏せているだろう。

 『今日は遅くなる。ご飯はいらない。もしも作ってたら、明日食べる』と連絡していたが、それを送信したのは20時頃。

 それまでは何があったかと心配していたのだろう。

 

「ごめん、なさい」

「謝ってほしいわけじゃないの。何をしてたのか聞きたいだけ」

 

 奇妙なことに、語気は荒いが母さんの顔には怒りが見えなかった。

 

「自分勝手に生きてきたツケが回ってきただけだよ」

 

 答えにはなっていないけど、逆に明確な返しでもある。僕のことなんか気にすることなんてない。

 

「あなたが悪かったことなんて、ないでしょ?」

「悪いことだらけだよ。僕のせいで全部、全部が台無しになった」

 

 母さんは目を見開いて言葉を詰まらせた。

 驚愕と絶望、罪悪感を行き来している目を見てしまう。

 五年ほど前の時と同じ顔。二度とさせたくなかったはずの顔だ。

 

「もしも離婚のことを言ってるなら、それは……」

「母さんは悪くない」

 

 僕は即答する。

 母さんが死ぬほど落ち込んでいた時、あるいは何かの拍子で思い出した時、僕はその言葉を言い続けた。

 何度思い返しても、どの角度から見ても、母に原因はない。

 

「そう、肇はずっとそう言ってくれた。その言葉に、私は甘えてたの。肇はもう気にしてないって」

 

 母さんは僕の肩に優しく手を置いた。

 

「けど違ったのよね? 肇は私を責めずに、自分を責めてる」

「少なくとも家族三人のうち二人が、僕が悪いと思ってる」

「あの時言った言葉は血迷って出た間違いだって……」

「そう、だから二人」

「悪いのはあなたじゃないって言ったじゃない」

「わかってる。浮気したのは父さんが悪い。けど原因の一端は僕にもある」

 

 『肇に構うのに疲れた』。父だった男が言った。家族のためだけでなく、自分の時間が欲しいのだと。

 そして母さんは僕を殴りつけて、『あんたなんか生まれてこなければよかったのに』と言った。

 たとえ言った本人が、間違いだと否定したとしても、僕の耳にはその言葉がこびりついている。

 奏太もそのことを聞いたとき、『気にするな』と言った。僕も馬鹿らしいと思えるように努力してきた。だけど無理だ。

 僕に対する言葉だから、親の言葉だから、傷ついたから。

 それ以上に……

 

「そうだって、自分で認めてしまったんだ」

 

 今まで何度も考えた。

 でも、一度こびりついてしまった思いは消せず、いつまでも底に巣食っている。

 僕は罰を受けなければならない。

 自分を傷つけて、他人を救おうとすることでなんとか自我を保てていた。

 僕にはそうすることしかできないから。

 

「あなたが平気な顔をして、平気だって言って、平気に見えたから話するのをずっと避けてた。それが間違いだったのね」

「違う。違う違う。なあやめてくれ。母さん。自分を間違いだと責めるのはやめてくれ」

「私が悪くないなら、肇も悪くない。肇が自分のことを悪いと思ってるなら、それは私のせいなの。それが、親として、あなたを愛する親として負うべき責任なの」

「もう他人に責任転嫁する歳じゃないし、どんな歳でも関係でも目を逸らすべきじゃない。そうだろ?」

「他人じゃない」

 

 母さんは僕を思いきり抱き締めた。

 

「心配くらいさせて」

 

 満たされるような温かさに甘えてしまいそうになる。

 だけど……

 

「その資格は僕にはない」

 

 言い聞かせるように、言葉を出す。心の中で何度も反芻した言葉。

 

「僕は自分が悪い人間だと証明することをしたんだ。心を蹴飛ばすみたいに酷いことを言って、尊厳を踏みにじるような酷いことをして、あげくには捨てるように関係を断った。一方的にね。まるで父さんと同じようなことをしたんだ。母さんを捨てた父さんと同じことを」

 

 母さんを納得させるための言葉、心に留めておいて受け止めた罪をいざ口に出すと、自分の情けなさに涙が出てくる。

 憤慨と後悔とやるせなさが凝縮されたような液体が、つうと頬を伝う。

 隠すために立ち上がって背を向けたのに、声は震えていた。 

 

「好きだったのに……っ」

 

 記憶を奪うのは悪いことだ。それをわかってて、してしまった。それが最善だと思っていたから。

 悪と善が矛盾しているけど、僕は選んだ。選べてしまえたから。

 すず子に避けられることが怖くて、自分から遠ざけた。 

 結局は自分が傷つきたくないだけ。

 少しは強くなれたかとうぬぼれていたけれど 僕はなにも変わってない。

 いろいろな感情と感覚がないまぜになって、床にへたりこむ僕を、母さんは抱きとめた。

 暖かい温度を感じて、さらに涙が溢れる。

 

「母さん、いまの聞いただろ。僕は自分がなりたくないはずの人間になってしまったんだ。好きな人を傷つけて、大切な友達にも酷いことを言って……母さんの言葉は間違いじゃなかったよ。僕は……生まれてくるべきじゃなかった」

 

 痛いのなんて知るか。僕は精一杯もがいて、母さんの抱擁から離れようとする。

 しかし母さんは腕を離さない。僕が拒絶しようとするほど、強く強く力をこめる。

 

「僕にはっ、こんなことをされる資格なんて……っ」

「資格なんていらないの」

 

 意地を張って、なおも突き返すような言葉を放つ僕を、母さんはより一層強く暖かく抱きしめた。

 逃がさないように、もう二度と離さないように。

 

「だって私の息子だもの」

 

 その一言が、僕から抵抗の意思を削ぎ取った。

 

 理由が欲しかった。戦いを止めるのに、僕自身を捧げるだけの理由が。

 誰もが僕を掴もうとする。僕のことを考えてくれている。

 僕はそれを振りほどいて、自分がどれだけ一番に犠牲になるに値する人間かを示そうとした。周りがどう思おうとも、僕自身の命を削って。

 

 こんなに、僕を愛してくれる人がいるのに。



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無事/安心と赦罪

 奏太が母さんに話した内容はこうだ。

 

『倒れていた肇を介抱し、とりあえず家で寝かせた。起き上がったものの、全身が痛んでるように身体の動かし方がぎこちない、傷はないように見えるけど、隠してるのかも』

 

 それを聞いた母さんは、翌日僕を病院に連れて行った。

 外傷はもちろんないが、驚くことに内臓が傷ついているらしい。医者は安静にすることを強く勧め、母さんは入院の準備を進めた。

 とりあえず、三日間の入院を言い渡され、ショックを受ける。問題ないことを見せれば、早めに退院とはいかないだろうか。

 いろいろな検査をして、カウンセラーとも少し話したあと、何をするでもなく病室のベッドに座って呆けていた。

 窓から外の濃い日差しが入ってくる。いつの間にか、時間はすでに放課後を過ぎていた。

 スマホからは、誰の連絡もない。何もなければいいが……

 

「伊吹くんっ」

 

 暇を持て余していると、がらりと病室の扉が飽き、肩を大きく上下させる水嶋さんが現れた。

 

「水嶋さん? そんなに急いでどうかしたのか?」

「どうかした、はこっちの……」

 

 息切れを整えつつ、深い息を吐いて安堵の表情を浮かべる水嶋さん。

 

「すず子から聞いたの。あなたが入院してるって」

「おおげさだよ。入院ってだけで重く受け止めたパターンだな」

「本当に大丈夫?」

「大丈夫だよ。ほら、ぴんぴんしてるだろ」

 

 安静にしてるおかげか、それとも母さんと話し合ったおかげか、精神的にも落ち着いた僕の身体の痛みは引いていた。

 

「よかった。もし何かあったら、あなたがいなくなったらって思うと……」

「戦力が減る?」

「一度、その頭を変形するまで殴った方がいいのかしら」

 

 むっとした表情を向ける水嶋さんに、僕は両手を上げて降参のポーズをとった。

 

「冗談冗談。心配してくれてありがとう」

 

 立ったままの彼女を、ベッドそばの椅子へ座らせる。

 彼女はそれに従うなり、「何があったの?」と訊いてきた。逃げ場はないか、と覚悟しながら、僕は本当のことを話す。

 カーニバルと戦ったときのことをできるだけ淡白に言ったつもりだけれど、進むにつれ水嶋さんは口を尖らせた。

 

「つまり、そんな激痛を抱えたままあの場に来たわけね」

「いやだから、実際に傷を負ってるわけじゃなくて……」

「入院するほどなのに、他を優先したのね」

「それはまあ、みんなが大げさすぎるというか……」

「公園で気絶していたって聞いたけれど」

「……はい、すみません」

 

 完敗である。

 おそらく奏太から当時のことを聞いた御影かすず子が、水嶋さんにまで回したのだろう。

 奏太の家にまで担ぎ込まれたことを知られたのなら、もう弁明はできない。完全降伏である。

 どうにか水嶋さんの怒りを抑えられないかと考えていると、彼女はくすくすと笑いはじめた。

 

「いえ、私のほうこそごめんなさい。しどろもどろになるあなたが新鮮だったからつい」

「新鮮?」

「今日の伊吹くんはいつもより、なんだか、その、柔らかい感じがして……」

「まあここ最近はいろいろあったからね」

 

 本当にいろいろあった。

 前回のセレクターバトルの比じゃないくらい、今回は考えて走り回って話して、人との関係がころころと変わっている。

 そのせいか、今の僕には多少の余裕があった。

 

「訊きたかったことがある。僕がすず子の記憶を奪ったって言った時、君は意地でも僕を離さなかった。なんで?」

 

 そのせっかくの余裕をもって、怖くて訊けなかったことを訊く。

 

「なんでって、あのとき言ったと思うけど」

 

 僕が無事とわかって、いつも通りの平静さを取り戻した水嶋さんが言葉を続ける。

 

「あなたがしたことは確かに許されないことなのかもしれない。けど、それは私が伊吹くんから離れる理由にならないわ」

「それがいまいち、僕にはわからない」

「非道なことをするカーニバルに憤りを感じて、あなたにとって終わったはずのセレクターバトルなのに私に協力してくれて、ピンチの時には私もアミカのことも助けてくれた」

 

 指折り数えながら、彼女は僕がしたことを良いように言った。

 

「あなたがどれだけ自分のことを悪く言おうと、私にとっては私と親友の命の恩人で、仲間なの。そう思わせるだけのことをあなたはしてくれた。私は、その事実を信じる」

 

 僕は最初、彼女が強い人間だと思った。

 何度もセレクターバトルに巻き込まれ、なおかつ、大切な記憶のために自ら飛び込む。

 だがその裏は、失うことを恐れ、仲間を求める一人の少女だ。

 過酷な経験をして、人を信じることが難しいはずなのに、僕を信じてくれた、

 それがどれだけ光栄なことか、僕はわかっていなかった。

 だから御影も奏太も怒っていたのだ。自分が信じる人間が、ためらいなく自分を棄てる行為が許せなかったから。

 傷つけないために、巻き込まないために遠ざける僕には、たどり着けない答え。

 今なら少しわかる気がする。

 

「忘れないで。私は伊吹くんのこと信じてるし、信じてるのは私だけじゃないわ」

 

 水嶋さんはにこやかに笑った。

 そういえば、彼女のこんな笑顔を見るのは初めてのような気がする。

 ……変わったのは、僕だけじゃないようだ。

 

 

「伊吹くん、いる?」

 

 僕は飛びあがりそうになった。

 またしても一人になった僕のもとへ、決して来ないであろう人物が顔を出したからである。

 すず子が入ってきて、唖然とする僕をよそに近づいてくる。

 

「君が来るなんてね」

 

 ようやく出せた言葉は喉に詰まりそうになっていた。

 

「来ちゃだめだった?」

「だめなんて言ってないよ。ただ、来たくないもんだと思ってた」

 

 僕が彼女のことを避けるように、彼女も僕のことを避けていた。

 こうやって面と向かって話すのは久しぶりに思える。実際はそう経っていないはずなのに。

 先ほどまで水嶋さんが座っていた椅子に、すず子が腰掛ける。

 気まずい空気に沈黙が続いたが、すず子は口を開いた。

 

「ちーちゃんから……あ、えっと、千夏って子から聞いたんだけど……」

「知ってるよ。森川千夏、君の親友だろ」

「あ、うん。伊吹くんに話したことあった?」

「前にね。前の……セレクターバトルのときに。それに直接会った」

「そう……なんだ」

 

 すず子は沈みかけた気持ちをぱっと持ち直した。

 

「ちーちゃんとメルが教えてくれたの。伊吹くんが私たちのためにいろいろしてくれたこと」

「あれは……森川を挑発して、君たちを戦わせただけだ」

 

 話すな、とは確かに言ってなかったが、森川は喋ったらしい。もともと彼女に僕のことを話したのが原因だから、呪うなら自分の口だ。

 

「リルから、伊吹くんが私を支えてくれたことも聞いたよ」

「僕が何をしなくても、君はきっと立ち直ってた。君は強い人だから」

「はんなちゃんと清衣ちゃんとも話をしたんだけど、聞けば聞くほど伊吹くんのことがわからなくなってくるの。人の記憶を奪うほど、酷い人には思えなくて……」

 

 みんなはどうやら、僕のことを認めてくれているらしい。その中にすず子も含まれていることに、僕は驚いた。

 

「頑張ってくれてたのに、私は伊吹くんを避けてた。伊吹くんの友達にも怒られちゃった。相葉くん……だっけ?」

「あいつ……余計なことを」

 

 僕がいれば止められただろうに、奏太はすず子に詰め寄ったみたいだ。

 絶交と言った割には、僕のために怒るなんて。どこまで言ったんだろうか。

 あいつにはそれとなく、すず子が悪くないことを説明しておこう。その機会があれば、だけど。

 

「伊吹くん、私のこと嫌い?」

「そんなことないよ。ないない」

 

 いろいろとやっておきながら、説得力のない言葉だけど、即答した。

 

「だったらなんで……私の記憶をなくしたの?」

 

 どう言おうか、と悩む。前の記憶がない彼女に、どう説明したものか。

 

「先に言っておくけど、ごまかしとか難しい言葉とか……嘘はなしだからね」

「『オーネスト』使えないんだから、嘘かどうかなんてわからないだろ」

「うん、わからないよ。だから、正直に話してほしいの」

 

 ここはバトルフィールドじゃない。現実だ。

 だから、相手の言葉も行動も、本当か嘘か、何を思ってのことかわからない。

 僕たちはずっとそんな世界で生きている。真実と虚構が入り混じる世界で、相手を信じたくて、信じてほしくて、何度裏切られても手を伸ばす。

 僕は、いままで手を掴むこともせず、伸ばすこともしなかった。助けが欲しいくせに、一人で戦った。

 中途半端な心は、結局みんなを傷つけることになった。

 今はようやく、素直になれる気がする……けれど。

 

「ごめん、今は言えない」

「だめ?」

 

 縋るような上目遣いに、心が揺らぐけれど、どうにか自制する。

 

「今の君に言っても、たぶん意味がないんだ。僕と一緒にいてくれた君に言いたい。だから、ごめん」

 

 ここで本当のことを話しても、ただ同情を誘うような真似にしかならない。

 僕がすず子を突き放したその時に感じた、彼女の絶望や怒りも含めて、総合的に判断してほしいんだ。

 

「約束するよ。全部終わって、全部無事に済んだら、全部言う」

「じゃあ、早く終わらせないとだね」

 

 文句を言ってもいいのに、すず子は綺麗な顔で笑った。

 

 

 翌朝はすっきりした気分で起きることができた。

 大きなつっかかりが取れて、自分でも驚くくらいぐっすりだった。ただ、寝すぎたということはなく、いつも通り登校時刻の一時間前。

 ベッドから身体を起こし、窓の外を眺めながら大きく伸びをする。

 そこで、急に視界に飛び込んできたものに驚いた。

 レイラだ。

 ふてくされた表情のまま、彼女は歩いていた。あの方角は……駅方面か。

 誰かが彼女と戦っていないかと、気を揉んでいたところだ。こんなチャンスはめったにない。

 レイラを倒せば、彼女はキーカードとなって強制的にバトルから降ろされる。

 ここで止められれば、これ以上の被害を食い止めることができる。

 みんなが僕を心配しているところ悪いが、ここだけは譲れない。

 ベッドから身体を動かし、スリッパを履く。まだ多少痛みがあるが、動けないほどではない。

 病室を抜け出そうと扉に手をかけた瞬間、開ける前にそれが開いた。

 

「肇……」

 

 お互いに驚いていた。

 制定鞄を二つ持っている奏太がそこにいた。

 数秒唖然としたが、何が目的にしろ来てくれたことが嬉しかった。

 

「お見舞いに来てくれたのか? 絶交したはずじゃなかったっけ」

「『行かないといけない』とは言ったけど、『行きたい』とは言わなかっただろ。だから無効」

 

 いつものようなやりとりで返してくれる。その表情には、前に見せたような怒りはなかった。

 

「学校は?」

「お前が心配な状態で行ってもしょうがねえだろうよ。昨日だって何も頭に入ってこなかった。それより、お前安静にしろって言われてるんじゃないのか?」

 

 秘密の会話だとわからせるために、僕はわざとらしく声を落とす。

 

「セレクターがいた」

 

 冗談を払いのけて僕は告げる。その瞬間、奏太の顔がみるみる険しくなっていった。

 

「この前言ってた……」

「ああ」

「敵か?」

「ああ」

「嫌なタイミングで……」

 

 彼は盛大にため息をついて、壁に手をついた。

 

「お前とお前のお母さんが腹を割って話し合ったのは聞いた。だから考えたり、落ち着いたりする時間が必要だろ? 入院してるのは丁度いいと思ったのに……何もかも元通りになるってときに、何でこうも上手くいかないんだよ」

「僕が……」

「『僕がいかないと』だろ。いつもそうだ」

 

 奏太は僕を遮って、顔を指差してくる。

 

「お前がいなくなったら、俺やお前のお母さんの失うものが大きすぎる」

「その話をしてる場合じゃない。いまここにはセレクターは僕しかいなくて、あいつを逃せば被害が増える」

「話してる場合なんだよ。お前が思ってる以上に、肇を大事にしてる人間はいるんだ。お前の命はお前だけのもんじゃない」

 

 理解しているか? と言いたげに、奏太は眉を上げた。

 

「わかってる」

「もう一つ。お前が、お前だけが行かなきゃならない時なんて、そうそうない。誰かを頼って代わりに行かせればいいし、時には見て見ぬふりだってすればいい」

「理解はしてる」

「それでも行くんだな」

 

 僕は頷いた。

 

「奏太。僕は……」

 

 彼は手のひらを前に向けて、僕の言葉を遮った。

 

「お前と言い争うつもりはないし、もう止められるとも思ってねえよ。だから、さっさと終わらせてこい」

 

 そう言うと、彼は手に持っていた鞄を差し出してきた。

 

「来る前に、適当に着替え持ってきた。その恰好のままじゃ目立つだろ?」

 

 僕は頷いて、それを受け取った。

 

「ありがとう」

「いいさ。ただし、絶対に無事に戻ってこいよ」

 

 肩をぱんぱんと叩いて、奏太が去っていく。

 僕は急いで鞄を開ける。ジーンズに黒のTシャツ。いかにも、どこにでもいる男子の格好だ。靴まで入ってる。

 服を取り出すと、鞄の底に何か固いものがあるのに気付いた。

 プラスチックのケースだ。僕のデッキを入れたカードケース。

 入院した日に持っていたものは、スマホ以外は家に置かれているはずなのに……

 僕と母さんが話をしたのを、彼は知っていた。母さんから聞いたのだろう。たぶん、家で。

 その時に、僕に渡すためか没収するためか、カードを持ち出してきたに違いない。

 それをわざわざ持ってきて返してくれたということは、僕の話と……僕がすることを本当に信じてくれたということだ。

 こみ上げるものを抑え、僕はケースをポケットに仕舞った。



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苛烈/苦痛と叫喚

「レイラ!」

 

 すたすたと歩くレイラの後ろ姿に声をかける。

 どこに逃げるでも隠れるでもない彼女のおかげで、すぐに追いつくことができた。

 病院から少し離れた歩道は、中途半端な時間のためか、いま僕らとまばらに過ぎ去っていく車しかいない。

 

「あ? ああ、あんたか」

「僕とバトルしろ」

 

 顔だけこっちを向くレイラは、不機嫌な様子はそのままに、舌打ちした。

 

「あんた、万全じゃないんだろ。ぼろぼろだって聞いたけど」

「それが関係あるか?」

「あるよ。全力の相手じゃないとつまらないしね」

 

 今の僕には興味がないということか。

 彼女は『あっちにいけ』もしくは『じゃあな』とばかりに手をひらひらとさせた。

 

「それじゃ、あたしは別のやつに用があるから」

「強い奴と戦わせてやる」

 

 レイラの動きが止まった。さっきとは打って変わって、身体ごとこっちを向く。

 

「は?」

「カーニバルってやつと」

「あんた、やつを知ってるのか?」

 

 どうやらレイラも知っているようだ。なら話が早い。

 

「僕と戦えば、勝ち負けに関わらずカーニバルと戦わせてやる」

「その話をあたしが聞くとでも?」

「聞くさ」

 

 いま止まって僕の話を聞いてるのがなによりの証拠。

 バトルを何よりも好む彼女にとって、この申し出は断れないはずだ。

 セレクターが減りつつあるなか、バトルのチャンスをみすみす逃すはずがない。

 

「あいつと戦えるって保証は?」

「カーニバルが狙っている穂村すず子、小湊るう子は僕の仲間で、バトルをさせないようにすることだってできる」

 

 卑怯だけれど、彼女たちが動けば僕が無茶をすると脅せば、うかつに何かすることはないだろう。

 その膠着状態は、カーニバルにとって面白くないことのはずだ。

 

「その状況を打破するには、カーニバルは僕とバトルせざるをえなくなる。僕が君に負けてバトルできなくなったとしても、『レイラと戦わなければすず子とるう子とは戦わせない』という条件を追加すれば同じことだ」

 

 まあ、素直に従ってくれるとは思わないが、一週間か二週間くらいすず子たちを動かさないようにすれば、カーニバルにとって面白くない状況なのには変わりない。

 

「それにもう一つ」

 

 僕は人差し指を立てる。

 

「いくら僕が傷ついているからって、同情を誘う気はないし、手を抜く気もない。あのときの再戦の約束もある。全力で戦うにはいいタイミングだと思うけど?」

 

 レイラの目に、ようやく光が灯ってきた。

 この前僕とバトルした時と同じ、闘志に燃える激情が見える。

 

「どうやら本気みたいだねえ。いいよ、その口車に乗ってやる」

 

 両者準備よし。上がってきた熱が冷めないうちに、さっさと始めるとしよう。

 勢いよく、僕らはカードを前に掲げる。

 

「オープン!」

 

 

 

 場所がバトルフィールドに移り変わり、いまいちど心を引き締める。

 今回のセレクターバトルで戦うのは二度目。だがすでに新しいルールも戦い方も把握している。勝つための材料は揃ってる。

 僕の場にはリィン……ではなく、ナナシ。

 

「あら、私を呼ぶなんて、いいんですの?」

「何が?」

「私のせいで、伊吹さんは傷を負ったはずですのに……まさかこのバトルでその仕返しをしようと?」

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」

 

 少々Mっ気があるようだ。だとしたら、ナナシを生み出した御影にも……などというしょうもない考えは振り払う。

 

「僕が君を選んだのは勝つためだ。勝って、これ以上バトルが続くのを止める。そのためだ。それに、別に君を恨んでなんかないよ。君はカーニバルに使われただけ。どう思っていようと、君に罪はない」

「……お人好しですこと」

「よく言われるよ」

 

 さて、無駄話はこれでおしまい。

 僕とナナシは相手を見据える。レイラのガワである人間の身体はとっくに意識を失っており、魂であるルリグはフィールドに顕現している。

 たなびく長い金髪と、引き締まった身体。こんな場でなければ、美しいと見とれるほどだろう。

 そんなことを想ってしまうくらいに、僕には余裕があった。

 

「ようやくあんたと全力で戦える! この時を待ってたんだぁ!」

 

 レイラは力を込めて拳を握る。

 表情はまさに『生きている』というにふさわしく輝いている。

 

「さあさあ、楽しませてくれよ?」

「任せろ、全力で倒してやるよ」

 

 ナナシが飛び、しなやかな肢体をもってレイラを叩く。

 だがその直線的な動きは、いかにも『剛』である敵に防がれている。勢いをつけた見事な回し蹴りも、レイラの腕に遮られてしまった。

 彼女は衝撃を殺すために後ろに下がる……なんてことはせずにその場から一歩も動かずに耐えきった。

 

「はっ、そんなんじゃまだまだ足りないよ!」

 

 だろうな。

 レベルの低い状態では、レイラにとってじゃれついているに等しい。

 彼女が求めているのは、もっとひりついた、やるかやられるかのギリギリの勝負だ。

 

 お返しとばかりに、レイラが突っ込んでくる。  

 相手は爆発的な破壊力を持つ赤色のルリグ。序盤で削られてしまうのは避けたい。

 

「ガードだ」

 

 攻撃を受け流すことで、なんとかダメージを抑える。しかしこれができるのも今の内。

 こっちとあっちでは地力が違い過ぎる。

 だがしかし……

 

「まだまだ足りないのはこっちも同じ」

 

 ちゃんと次の手は考えてある。

 

「コインベット!」

「『ブラインド』」

 

 僕のフィールドが黒い煙に包まれる。

 こちらの動きは見せず、相手の攻撃をかわせる攻防一体のコイン技。

 レイラのデッキにとって、これほど相性の悪い相手はいないだろう。

 彼女に真正面からぶつかって勝てるのは、小湊さんとタマのコンビくらいだ。

 

「アタックだ!」

「なっ……」

 

 ナナシの手から放たれたビームが、敵へと真っすぐ向かう。

 もちろんレイラはガードしているようだが、闇に紛れて近づくもう一本には気づかなかった。

 突如として現れた第二の攻撃をかわす余裕もなく、光線が叩きつけられる。

 レイラが倒れ、フィールドを滑る。ダウン一回、先制は貰った。

 

「なかなかやるじゃないか」

 

 立ち上がりながら、にやりと笑う。

 まだまだこれから。余裕と気迫が一切衰えていない。

 それもそのはず。まだコイン技もキーカードも使ってきていないのだ。

 

「あたしのターン! ……と意気込みたいところだけど、むやみに攻撃するほど馬鹿じゃないんでね。ターン終了」

 

 下手な動きはせずに番を終了するレイラ。

 どうやら思っていたよりも慎重なようだ。『ブラインド』の効果は相手のターンが終わるまで。彼女が闇雲に攻撃したところで、罠にかかるのがオチ。下手に攻撃が当たって、マナを増やさせてしまうのも面白くない。

 それならば、次のターンに備えて力を蓄えるのが正解。

 全力で戦う。その一点において、レイラは誰よりもまっすぐで、真剣だ。

 

 ならば、と僕は思う。

 彼女の全力には、僕の全力でもって応えよう。

 

「アンロック、コインベット!」

 

 僕としては初のキーカード使用。出すのはもちろん、僕の分身ことリィン。

 

「あら、リィンさん」

「本当ならあなたを痛めつけたいところだけど、今回は我慢してあげる。はい、握手」

「いたたたた、痛いですわ!」

「あら、ごめんなさい」

「本当はかなり根に持ってるみたいですわね……」

 

 僕はため息をついた。

 ピリピリとしたレイラと僕の応酬とは温度差がありまくりのやりとり。

 そういうのは他のところでやってほしいものだ。

 

「コントやってる場合じゃないぞ。ターン終了」

「キーカードを出しておいて、何もしないのかい?」

「これでいいんだ」

 

 さて、どこまで上手くいくか……

 

「そっちが来ないなら、こっちから行くだけだ! アンロック、コインベット!」 

 

 レイラが自分のサポートに一体を呼び出す。

 

「う……またバトルだなんて……」

 

 現れたのは、伏し目がちに俯く緑色のルリグ。

 おそらく彼女が緑子だろう。レイラに奪われた、植村さんのルリグ。

 

「さらにコインベット!」

「ご、ごめん。『テンタクル』!」

 

 その名の通り、幾本もの茨が触手となって襲い掛かり、ナナシとリィンの動きを封じる。

 次の攻撃を確実に当てるための布石だ。

 

「あらぁ、このまま嬲られるのかしら」

「言ってる場合じゃないわよ。くっ、ほどけないっ」

「まだまだァ。嬲るだけで済ますかよ。『千差爆別』! さらにコインベット、『ドーピング』!」

 

 黒く、彼女の闘志をそのまま映し出したような波打つようなオーラの二刀、そして彼女自身から迸る狂気が重なる。

 今まで戦ったときよりも明らかに違う、全力全開、本気モード。一撃で相手を葬り去ろうとする絶対の意思と力。

 

「ははっ、これがたまんないんだよ。戦いを求めるこの身体で、心ゆくまで相手をぶちのめすこの瞬間が!」

 

 燃え盛る炎に身を焦がし、今にも灰になりそうながらも放たれる圧倒的な存在感。

 それは赤色の中に黒く漂う悪魔のように見えた。

 

「受けてみろ、伊吹肇!」

 

 冗談じゃない。

 あんなのを食らったら、それでバトルが終わってしまう。まだ終わりは認められない。

 

「アーツ『カウンター・フロストーム』」

 

 剣先がナナシを貫くかと思われたその瞬間、レイラの動きが止まった。

 その手と足に、どこからともなく現れた氷の柱が伸びて張り付いている。

 続いて、ナナシと剣の間に三つの魔法陣が出現する。

 レイラがはっとしたが遅い。そこから巻き起こった旋風は彼女の身体を削りながら押し返していった。

 吹き飛んだ彼女は盤面に叩きつけられ、背中からもろに衝撃を受ける。

 

「前にも似たようなの食らったことがあるでしょう。同じような手が通じるとは思わなかったけど」

 

 『テンタクル』の効果が解け、自由の身になったリィンが服を払う。

 ナナシは、いま起こったことが何かわからず混乱した顔を見せた。

 

「これって……今の、どういうことですか? このアーツはリィンさんにしか使えないはず」

 

 そう。『カウンター・フロストーム』はリィンがルリグとして場にいるときにしか発動できない『リィン限定』のアーツ。

 キーカードとして出ている場合には使えないはずだ……が、

 

「リィンがキーカードとして場に出ているときに発動する能力は二つ」

 

 僕は人差し指を立てた。

 

「一つ、自分のルリグにキーカードの色と名前を与える」

「色と……名前?」

「そのおかげで、ナナシにも『リィン限定』のアーツが使えたのさ」

 

 いま、ナナシはリィンでもあり、このデッキ自体にも二人ぶんの力が備わっている。

 相手もキーカードを出してきたところで、敵うはずがない。

 

「く、くく、あははははは!」

 

 カウンターは見事に決まった。

 氷と風で炎は消し飛ばされ、自らの能力と反撃で身体は傷だらけ。それでもなお、彼女は笑ってよろよろと立ち上がる。

 

「最っ高だよ、あんた。もっと、もっともっとだ。あたしにもっと戦いの実感をくれよ!」

 

 レイラはまだ諦めようとはしない。

 それどころかますます笑みを広げ、この先の展開を待っている。この先の戦い、僕の攻撃を。

 

「まだ倒れないなんて、しつこいわね」

「いい加減終わらせよう。あっちはもう限界だろう」

 

 もっと、とレイラは望んでいるが、残念ながらこれが最後。

 

「仕留めるぞ」

「ええ」

「わかりましたわ」

 

 ナナシとリィンが、協力して一つの絵を描くように、宙へ指を動かす。

 それは交わらず、ぶつからず、指だけが華麗に踊っているようだ。

 

「これで決着よ、レイラ」

 

 最後に円を描くように、ぐるりと指を舞わせたあと、リィンはそう言った。

 

「なにを……」

 

 そこでレイラははっと上を見た。円で囲まれた幾何学模様が頭上に浮かんでいる。

 彼女を倒すための魔法陣はすでに完成していたのだ。

 

「アーツ『アサルト・サンダーノイズ』」

 

 魔法陣が輝き、バリバリと音を立てる。直後、滝のようにとめどなく流れる電撃の雨がレイラへまっすぐ落ちていく。

 

「こい!」

 

 レイラは最後の抵抗とばかりに雷へ拳を突き出す。空気を震えさせるほどの正拳。

 だがそれは……

 

「は、はは……足りなかったか……」

 

 雷が届く寸前、レイラはそう呟いてにやりと笑った。

 

 

 現実のレイラの身体は消えていた。

 セレクターである彼女がルリグとして負けたため、コインの数に関係なく勝者のものになったのだ。

 その証拠に、いくつかのルリグカードが僕の手元に残っている。

 緑子と、紅林さんのルリグである花代、そしてもちろんレイラも。

 

「やっぱ最高だったよ。あんたと戦えてよかった」

 

 これは褒められてるのだろうか。まあ、彼女からしたら最上の褒め言葉なんだろうけど、平穏を望む僕にとっては嬉しくない。

 認められるのは、少し自信になるけど。

 

「それで、これでカーニバルのやつと戦わせてくれるんだよな?」

「ああ、そのつもり……」

「肇」

 

 リィンが遮る。

 

「どうした?」

「バトルフィールドが開いてる。ここからそんなに遠くないところで」

 

 一難去ってまた一難か。

 残っているセレクターはすず子、水嶋さん、カーニバル。どの組合せだったとしても放っておけるわけがない。

 仲間を信じて協力するとは言ったが、それは全部任せるって意味じゃない。押し付けるという意味でもない。

 協力だ。みんなで一緒に立ち向かって、この理不尽な相手とルールを攻略する。

 

「肇、行く気?」

「もちろん」



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対峙/衝撃と暗闇

 リィンが示した場所は、何の因果かあの公園だった。

 すず子と森川が決別し、仲直りし、その後水嶋さんと僕らが協力することになった始まりの場所。

 すでにそこには、水嶋さんとすず子、御影、小湊さん、植村さんが集合していた。

 

「伊吹くん?」

「バトルフィールドが開いたって聞いて……」

「無理はよしてと言ったばかりなのに……呆れるわね」

「でも、その……」

「わかってる。終わるまでじっとしていられるほど、伊吹くんが聞き分けが良いとは思ってないわ」

 

 くすり、と水嶋さんが微笑んだ。

 

「大丈夫。脅威を取り除いただけだから」

 

 そう言って、彼女は一枚のカードを見せた。

 

「まさかあんたと決着をつける前にやられるとはね」

 

 カードの中にはカーニバル。そうか、勝ったのか。ついにカーニバルを封じ込めることに成功した。

 聞けば、先にすず子がカーニバルに負けたが、デッキ構成や戦い方を見ていた水嶋さんが見事仇をとったらしい。

 これで、厄介なセレクターは二人とも無力化できたことになる。ようやく終わりに近づいた。それもぐんと。

 

「決着ならいつでもつけられただろう。なんで僕と全力で戦わなかったんだ?」

「戦いたかったさ。だけど、キーカードも持ってないあんたに勝っても、勝利したとはいえない。私にだってプライドはあるのさ」

 

 公園で行ったあのバトルには二つの目的があったのか。

 僕を痛めつけて、すず子と小湊さんの戦いを邪魔させないようにすること。そして、僕にキーカードを渡して対等に戦えるようにすること。結局、彼女の思い通りに事は進まなかったけれど。

 

「伊吹肇、これってつまり、奴とバトルするのは叶わないってことか?」

「どうかな。そうとも限らないけど」

 

 話しかけてくるレイラに、灰色の答えを返す僕。

 正直なところ、カーニバルがこんなにも早くやられるとは思ってなかった。状況的には嬉しい誤算。約束的にはまずいほうに予想外。

 

「レイラ……ってことはつまり」

 

 じとり。最近はそうやって見られることが多いな。入院してるところを抜け出してきた僕が悪いんだろうけど。

 

「その、それは後でいくらでも聞くから置いておいて……」

「逃げた」

「逃げましたね」

「ごほん。敵がいなくなったいま、どうするかな……」

 

 カーニバルとレイラという二大脅威は手の内に収まったが、じっとしているわけにもいかないのだ。

 決められた日数を過ぎれば、セレクターは前と同じように失われたコインの分だけ記憶を奪われてしまう。

 負けてルリグを失ってしまった者も、セレクターの資格自体はあるようだからその対象だろう。

 

「決まってるわ。セレクターバトルを終わらせる。そのためにずっと戦ってきたんだもの」

 

 水嶋さんも覚悟を決めているようだ。いや、彼女はずっと終着点を夢見ていた。それがようやく見えてきている。

 

「夢限の目的はなんだ?」

「そんなの私が知りたいさ。夢限は私にも詳細を教えない。鍵と鍵穴を探してって言うだけ」

 

 カーニバルは、つまらないというふうにそっぽを向いた。

 こっちがその顔をしたい。せっかく部屋の主から特別扱いされているカーニバルに大事なところを聞けると思ったのに。

 

「それが欲しいってんなら、もっとはっきり言ってくれたらいいのに」

「鍵穴……」

 

 なにかしらを開けるために、鍵とやらが必要なのか。

 夢限はそれを手に入れるために、セレクターバトルを行っているのか?

 それさえあれば、夢限は満足して終わらせてくれるだろうか……

 

 そこで僕は一つ疑問を抱く。

 鍵を探してくれというのはわかる。施錠された扉を開けるのに必須のアイテムだ。

 だが、鍵穴を探せとはどういうことだろうか。

 鍵があってもそれを使う場所が見つからないということだろうか。

 扉や窓ではなく、なぜ鍵穴なんだ? そもそも何の……どこの……

 

「夢限は鍵と鍵穴を求めた。閉じられた窓を開けるための鍵と鍵穴……」

「もしかしてそれって……」

 

 合点がいったような、驚きつつも冷静に何度も頷いているのは小湊さんだ。

 

「何か知ってるのか、小湊さん」

「うん、きっとあそこなら……何かあるはず。繭の部屋になら」

 

 繭。

 最初のセレクターバトルを生み出した元凶。

 あの夢限がいる場所、白窓の部屋の元々の主……であるらしいというのは、御影や小湊さんからすでに聞いていた。

 小湊さん曰く、繭の部屋は現実に存在しているらしい。もっとも、あんな何もない空間ではなく、一つの家の一つの部屋として。

 

「連れて行ってくれ」

「わ、私も行きます。何か手伝えることがあるはずだから……」

 

 これで何もかもが元に戻れるなら……確信めいた顔の小湊さんに、僕と植村さんはついていこうとする。

 

「待ってください」

「御影、これが最後だ。きっと、これでセレクターバトルを終わらせられる。だから……」

「分かってます。いまさら止めようだなんて思いません」

 

 御影が僕の袖を掴んだ。

 

「同行。私も行きます。伊吹さんが無理をしないように見張っておきます。それに、こんな機会はめったにありませんし」

 

 今までのことがあるから、反論のしようがない。僕は頷くしかなかった。 

 

「私は夢限のところへ行くわ。全てを終わらせる。そのために」

 

 そう言って、水嶋さんはいましがた手に入れたカードを睨む。

 

「カーニバル、あなたなら行けるんでしょ? あの部屋へ」

「ま、仕方ないか。いま残ってるセレクターがやられてくれないと、次のバトルが始まらないからね」

「決まりね」

 

 あっという間に決まってしまった。

 水嶋さんは、あの部屋に行って夢限に挑むつもりだ。  

 

「水嶋さん……」

「大丈夫、任せて。きっと終わらせてみせるから」

 

 二人で頷く。

 僕がレイラとバトルして、ここに来た以上、行くなとは言えない。

 僕らはお互いに無茶をしあう。その行動には首をかしげることもあるけれど、この戦いをどうにかしたい気持ちと実力は信じあっているはずだ。

 

「私は……」

 

 僕と水嶋さんを交互に見るすず子。

 目線は行ったり来たりして、悩んでるように見えた。

 この状況で、自分はどうするべきか決めかねているのだ。

 

「君は、森川のことを頼む」

「ちーちゃんの?」

「全部が終わって、もし全部が元通りになるなら、森川の傍には誰かが必要になる。森川が必要とする誰かが」

 

 僕はすず子の肩に手を置いた。

 

「君しかいない」

 

 森川の記憶が戻れば、きっと彼女は取り乱す。

 カーニバルの策略に加担してしまったこと、親友との決別。それまでにしてしまった苦い経験が一度に押し寄せてくることになる。傍に誰かがいなければ、到底耐え切れず、自分を追い込んでしまうだろう。

 塞ぎこんで、立ち直れなくなるかもしれない。

 前を向かせるためには、それを許せる人の一言が必要なのだ。

 そのことは、僕が一番よくわかっている。すず子も。

 

「うん、わかった」

「それじゃ、行こう」

 

 ここにきて、すべてが収束しようとしている。何もかもが終わりに近づいている。

 その先に何が待っているのかは、僕たちの選択次第だ。

 

 

 小さな屋敷とも呼べるだろうか。

 普通なら絶対見つからないような、木々の奥にそれはあった。

 見るからに手入れはされていなく、周りは草が生い茂っている。その家には人の気配がなく、外に置かれた丸テーブルとイスには埃が乗ったままだった。

 小湊さんが先導するのに任せ、僕たちは中へと入る。

 外見よりも、中は小さく見えた。木製の雨戸が閉じられていて、光が遮られているせいか。舞う埃と相まって、やけに息苦しく感じる。

 一階には、ちょこんと置かれた絨毯以外はなにも置かれていなかった。

 その異様な雰囲気を無視して、右手の階段を上がる。その先の真っ暗な廊下を進んで、扉に手をかけた。

 

「ここが繭の部屋?」

 

 開けて、そんな単純なことしか言えなかった。

 天蓋つきの豪華なベッド、ベッド脇の小机、その上に花を模した夜間用の照明、小さなタンス。

 個人の部屋と呼ぶには物が少なすぎる。監禁部屋と言われても納得できただろう。

 

「外との繋がりを求めて、セレクターバトルを生んだ少女の部屋……か」

「感動。噂には聞いていましたが、実際に訪れるのは初めてです」

 

 御影は半ばわくわくといった感じだが、僕には少しだけ焦りが出てきた。

 ここに来るだけで少しは何かあるかと思っていた。リィンたちがこの空間に異様さを感じるとか、夢限から声をかけてくるとか。

 だが埃っぽいだけで、別に変わったところはない。僕が持つルリグたちも一様に首を横に振った。

 

「いまさら、自信がなくなったなんて言っちゃ駄目だよな」

「本当にいまさらだよ……」

「ありえないことが起こりまくってるせいで、脳がおかしくなったんじゃないかと思えてきた」

 

 せわしなく視線を動かす御影とは違って、小湊さんは天窓を見ていた。閉じられた透明な窓から見える空。

 一度白窓の部屋は閉じた。なのにまた始まってしまったことを、彼女はどう思っているのだろうか。

 いいや、それは僕が訊くことじゃなく、彼女の中で消化してもらうしかない。

 始まってしまったのなら終わらせるだけ。それが僕のやるべきことだ。

 

「鍵と鍵穴……ねえ。ここにあるんだろうか」

「白窓の部屋に一番関係してるのはここです。だから、きっとここに答えがあるはず」

 

 植村さんも、この場所に並々ならぬ何かを感じているのか。見回しては、これじゃないと首を振る。

 

「伊吹くん、あれ」

 

 小湊さんはある一点を指さした。物の少ないこの部屋の中で、ひっそりと佇むそれに目が行くのは当然ともいえる。

 古ぼけたイーゼルに乗せられたキャンバス。白い紙に負の感情をぶつけたように、ぐちゃぐちゃと黒く塗りつぶされている。

 その端っこが少しめくれているのを、小湊さんは見逃さなかった。

 

「あ、これ……」

 

 そう言いながら、小湊さんは手を伸ばす。絵の端を掴んで、ゆっくりと引っ張っていく。

 その裏には、さらに違う絵があった。

 クレヨンで描かれたそれは、子どもが作ったように拙い絵だが、美しくもあり、寂しくも見えた。

 宇宙のように綺麗な青い空間。そこに煌めく星たち。そして外の光を照らすいくつもの窓。

 なによりも大きく描かれているのは、笑顔で手を繋ぐ三人の少女たち。

 黒く描き殴られたのとは打って変わってカラフルに描かれているこの絵が何を示しているのか、僕にもわかった。

 繭が憧れた世界。繭が夢見た世界だ。

 友達と一緒にいて、笑いあえる。外ではありふれているそんな世界を、繭は想像で思うことしかできなかった。

 だからこの絵には扉がないんだ。

 扉というものの存在を知らず、ここに閉じ込められたままだったから。

 誰かが一緒にいれば、伝えることができただろうか。一歩踏み出した先に、外の世界があることを。

 今からでも間に合うだろうか。

 

「開いた」

 

 リィンとタマが同時に声を上げる。

 それの意味するところは、みんなわかっていた。

 

「まさか……これだけでいいの?」

「これが必要だったんだ」

 

 閉じられた窓。それは決して、内側から開けることのできない窓。

 鍵穴が壊れているというのはこういうことだったのか。

 あの部屋に囚われている夢限が開けられないから、僕たちに託したんだ。

 鍵は……つまり僕たちのことだったのか。

 彼女はただ開けてほしかったんだ、外へ出る扉を。彼女は求めたんだ、外に出ることを。

 誰にも気づかれることのない、この窓の中で。

 そのために僕を呼んだ。水嶋さんをバトルに参加させた。小湊さんの周りを巻き込んだ。真実に一番近い者たちを辿り着かせるために。

 そうして僕たちはようやく、ここへ来ることができた。夢限の思い通り。あとは彼女の手を引っ張るだけ。

 消すのではなく、ここへ、外へ連れ出してくるだけだ。

 

「伊吹さん、変なことはやめてくださいね」

「変なことってなんだよ」

「不安。あなたがそういう顔をしているときは、大抵よくないことを考えているときです」

 

 御影は流石に鋭い。

 ならわかってるはずだ。そうなったときの僕は頑固だって。

 

「行くよ、夢限のところへ」

 

 御影は目を細めた。

 

「的中。やっぱりろくでもないことでしたね」

「なら、僕が次に言う言葉も予想はついてるだろ」

「ええ、ですが私は行かせたくありません」

「止めないんじゃなかったのか」

「それ……は、まさかそんなことを言い出すとは思わなかったからです。夢限のところへは、水嶋さんが行っています。あなたが行く必要は……」

「あるんだ。僕にはその理由がある」

「理由?」

「夢限を救う。あいつはずっと独りだった。そう思わされた。そうじゃないと伝えられるのは僕しかいない」

 

 御影は目を見開いて、非難するような困惑したような顔を見せる。

 

「私たちを苦しめた相手なのに、どうしてそこまで……」

 

 ここで僕が考えていたことを長々と話している暇はない。水嶋さんと夢限、どちらが勝っても僕が思い描く未来にはならないのだ。

 そこで僕は、一番の理由であり、彼女を納得させられる答えを出す。

 

「御影、これが僕だ」 

 

 御影は大きくため息をついて、うなだれる。

 今まで運よく無事で、ギリギリのところで助かっている。今度はどうなるかわからない。それでもまた僕は危険に向かおうとしている。呆れるのも当然。

 

「そういう人ですもんね」

 

 御影はぽつりと呟くと小指を差し出してきた。

 

「約束。必ず戻ってきてください」

 

 僕はためらいなく、小指を絡ませた。

 

「絶対に戻ってくる」

 

 

 小指に感じていた御影の感触が消える。それだけでなく、埃っぽさや、注いでいた光も。

 いつの間にか、白窓の部屋に来ていた。

 閉じられた窓が並ぶ、どこまでも続いていきそうな空間。

 今までここに来た時、まったく余裕がなかったけれど、今は違う。

 後ろを振り向くと、この場に似合わない木製の扉が立っていた。現実とこの空間を繋ぐ扉だ。

 退路は完璧。

 落ち着きを乱さないように、焦らずにゆっくり進んでいくと、先のほうに光が見えた。

 壁の一部が開いているのだ。

 間違いない。その先に水嶋さんと夢限がいる。

 ごくりと喉が鳴った。

 ここからは引き返せない。ゲームのようにセーブポイントもない。どうなってしまうか、運も多分に影響してくる。

 

「だいじょうぶ!」

 

 震えていた手を握られる。僕より小さく暖かい手に。

 見ずとも、その舌っ足らずな口調でわかった。

 

「タマ、君が来ることもなかったのに」

「るうが、助けになってあげてって」

 

 本来ならルリグはバトルの勝敗でその持ち主が変わるはず。

 扉が開いたことで、ルールに亀裂が生じたか。どちらにせよ心強い。

 

「準備はいいか?」

「うん!」

 

 一度深呼吸。そして、前に踏み出す。

 

 

 一瞬、その光景に見とれていた。

 円柱型にくりぬかれたような空間。壁は際限なく空へ伸び、見えない天井から地上まで無数のコインが宙を舞っている。

 あたりは自然に任せたように草が伸び、細く水が流れている。

 中心で、三人の少女が対面していた。

 そのうちの一人はピルルク、一人は水嶋さん。だけどその姿はキーカードとして場に現れた時の水嶋さんだった。

 

「水嶋さん!」

「い、伊吹くん、なんでここに?」

「あいつと決着をつけにきた」

 

 僕は水嶋さんのそばに駆け寄り、目線の先の夢限を指さす。

 

「夢限、窓は開いた。あとは君がここから出るだけだ」

 

 それだけで全てが終わる。しかし夢限は頭を振った。

 

「私はここから出ない」

「いいや、君はここから出たいはずだ」

「そんなこと、あなたにはわからない」

「わかるさ。今の僕には」

 

 どれだけ言っても、光の灯っていない目が変わることはない。

 それどころか、彼女が腕を動かすと、黒く染まった夢限の分身がいくつも現れ、向かってくる。

 

「危ない!」

 

 ピルルクが一体を殴りぬくと、敵は煙のように消え去った。しかし、夢限はまだまだ絶えず分身を召喚してくる。

 二人の青ルリグは僕を挟んで周りを迎撃する。

 

「最悪ね。まさかこんな手で来るなんて……」

 

 いつの間にか、カードから具現化したリィンが僕に並んでいた。初めて会った時と同じ、普通の人間サイズだ。

 次々と攻撃を仕掛けてくるのをガードして、隙を見つけては反撃していく。

 

「これでどうにかなるの?」

「やるしかないよ!」

 

 リルとメルも参戦。他にもドーナ、ミルルン、ナナシまで僕を囲んで夢限を防いでくれていた。

 敵の分身はお世辞にも強いとは言えない。それぞれが一撃で倒されていく。

 しかし、数が多すぎる。無限に現れるのなら、この戦いに終わりはない。永遠に続くだけだ。

 

「伊吹くん、これじゃらちが明かない」

「ああ、わかってる。話し合いで決着がつくとは思ってなかったよ」

 

 僕は真っすぐ夢限のほうを見た。

 

「バトルをしよう、夢限。こんな小競り合いは意味がない。それは君もわかってるだろう」

 

 これに反応して、夢限の分身が次々と動きを止めたかと思うと、砂のようにさらさらと空気に溶け出し、消滅する。

 残ったのは、本体ただ一人だけ。

 

「いいわ」

 

 僕と夢限の間に、どこからともなく古ぼけた机が現れる。何の装飾もないその上、夢限の目の前にカードの束が置かれる。準備完了のようだ。

 僕は振り返る。

 

「みんなはここから出てくれ。向こうに現実と繋がってる扉がある」

「伊吹くんは?」

 

 一歩踏み込んできたのは、水嶋さんだ。

 

「僕はここで決着をつける」

「だめ。だめよ。相手は誰よりも強くて、凶悪な、このセレクターバトルの元凶なのよ」

「僕がやらなかったら、君がやってただろう。僕か君か、そこになんの違いもない」

「じゃあ私も一緒に戦うわ。みんなも一緒に」

「全員がいても、バトルで使えるのは限られてる。ただでさえ少ない戦力をいたずらに減らすわけにはいかないんだ。もし、僕がやられたら、この戦いを止められるのは君か小湊さんだけになる」

「やられたら……って」

 

 負け、不覚、黒星、失敗、つまり……消える。

 蒼井昌のように、身体を残すこともなく消えてしまう。

 いや、夢限が相手であるぶん、もっと悪い結果になってしまうかもしれない。

 

「そうならないように努めるけど、保険をかけておくに越したことはない」

「戻ってくるのよね」

 

 僕はそれには答えずに、口を開いた。

 

「水嶋さん。もしも……」

 

 もしも僕が負けたら、という言葉を飲み込む。待つ水嶋さんを、相棒のほうへ押した。

 

「ピルルク、水嶋さんを頼む」

「うん。行こう清衣」

 

 ピルルクは水嶋さんを引っ張る。しかし……

 

「行って、ピルルク。私は残る」

 

 水嶋さんはがんとして僕から離れない。

 引かれる腕に力を込めて抵抗する彼女の目には、これまで以上にはっきりと強い意志が宿っている。

 いやしかし、それだけでどうにかなるほどの相手じゃない。

 水嶋さんを押し出そうとした僕の手を、誰かが掴んで制す。

 

「私もいる」

 

 残っていたのは、水嶋さんだけじゃない。リルも僕の隣に立って、ふっと微笑む。

 

「まだ恩返しもしてないしね」

「わかってるのか。ここで負けたら……」

「わかってる。だからあなたを放っておけないの」

 

 水嶋さんとリルが僕の手を痛いほど、振りほどかれないように握る。

 

「すずに約束したんでしょ。全部が終わったら、全部話してくれるって。それを、すずは待ってる。あなたが無事に戻ってくることを」

 

 すず子はリルにそう言ったのだろうか。

 いや、たとえ思ってるだけにしても、その心の中から生まれたリルの言うことなら、信じるに値する。

 

「ちーちゃんも待ってるよ。記憶が戻ったら、もう一度あなたにお礼を言いたいって」

 

 もう一人、メルの手も重なった。

 ぎゅっと掴まれた僕の手は白くなって、痛みを増す。

 それが、今は心地よかった。一人じゃないという気がする。力が湧いてくる。

 

「一緒に!」

 

 タマも手を置く。

 あまり知らないはずの僕のために戦ってくれようとしている。

 

「ここであなたの手を離したりなんかしない」

 

 ついこの間もこうやって、一人で戦うことを引き留められたことがある。カーニバルと戦って、病院に運び込まれて、奏太と言い合いになった時だ。

 いや、それ以前から僕はいろんな人から手を伸ばされ続けてきた。拒否した後は、みんなを傷つけ、問題が解決したふうに思って独りになる。

 そんな結果はもう見たくない。だから僕はここに来たんだ。だから、この手は……離すのではなく、頼りにすべき手なんだ。

 

「なら、みんなで帰ろう。一人も欠けずに」

 

 僕がそう言って、みんなが頷くと、四人ともが光に包まれる。

 以前見たように、水嶋さん、リル、メル、タマがカードとなって僕の手に収まる。

 

「ここは始まりの場所。終わらせなんてしない」

「そうだ。ここは始まりの場所。だからここで終わる」

 

 デッキを机の上に置いて、準備は万端。

 もうここからは引き返せない。引き返す気もない。負ける気も、傷つく気も、傷つけられる気もない。

 勝って、みんなで戻る。ただそれだけのために戦う。

 

「絶望が重なって君が生まれて、バトルが始まったのなら、求めた僕らのせいだ」

 

 僕たちはみんな被害者で、みんなが加害者だ。

 放っておいたら、傷ついて傷つけられる輪はどんどん大きくなっていく。

 もうたくさんだ。本心に気付かずに、奇跡に頼って、始まりと終わりを求め続けるのは。

 

「これで最後だ。始めた君と、始まらせた僕たちで終わらせよう」

 

 今一度深呼吸。ここで負けてしまえばすべてがパァだ。

 だが勝てば、この理不尽なバトルも終わる。

 

「オープン!」

 

 同時に叫ぶ。

 ルリグカードを場に叩きつけ、勝負開始。

 

「へえ、こんな大事な場面であたしを選ぶなんてね」

 

 僕が場に出したルリグはレイラだ。対して夢限は、夢限自身をルリグにしている。

 様々なルリグと出会った中で、彼女だけはどんな能力を持っているかわからない。果たして、どれほどの相手か……

 

「アンロック、コインベット」

 

 僕は自分のターンに移るなり、早速リィンを呼び出す。出し惜しみは無しだ。

 

「夢限は恐ろしい相手。各々が全力で向かわないと勝てないわ。それに……」

 

 リィンは敵陣営を睨む。相手もキーカードを出してくるところだった。

 

「アンロック、コインベット」

「くっくっく、こんなところで終わらせはしないよ。伊吹肇ェ!」

 

 並び立つはカーニバル。

 彼女は水嶋さんのものになったはず。それも関係なく、つきたい陣営につけるということなのだろうか、あるいは夢限が特別だからか。

 しかしこれは僕にとっては好都合。

 レイラをカーニバルと戦わせるという約束を果たせることになる。それに、僕としても一度カーニバルをぎゃふんと言わせなければ気が済まない。

 

「肇」

 

 リィンとレイラがこちらを向く。

 セレクターバトルそのものの行く末を決める最後のバトル。その火蓋が切って落とされた。

 

「ああ、勝つぞ」



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選択/過去と未来

「攻撃、攻撃、攻撃」

「まだまだァ!」

 

 夢限の分身による突進を、レイラは次々と弾き返していく。

 

「はっ、夢限っつっても大したことないね!」

「ならこいつはどうだい!」

 

 腕を組んで様子見していたカーニバルが、偽夢限たちに混じって来る。

 

「『ダイレクト』、『バーニング』!」

「まずいっ、肇!」

「『カウンター・フロストーム』!」

 

 いきなりのご挨拶に、若干焦りながらもカードを出す。

 逆巻く炎の渦を、氷の嵐で相殺した。

 危なかった……すんでのところで躱せたが、少しでも遅れていれば身が焼かれていただろう。

 

「まさか、全員のコイン技を使えるの?」

 

 リィンの額に汗が浮かぶ。

 グズ子の『ダイレクト』に加えて、紅林さんの『バーニング』。他者の技まで使えるというのか。

 それも厄介だが、問題はコインを使った素振りがなかったことだ。

 ルールを無視しているのか、それとも……この空間にあるコインを使っているのか。

 どちらにしても、実質無制限でコイン技を使えることになる。

 

「なら、思ってたよりも状況は最悪だな」

 

 と言いつつも顔は崩れない。こんな状況なのに、いやこんな状況だからこそか、レイラは口角を上げたままだ。

 

「奥の手を使うしかないわね」

「ああ」

「奥の手?」

 

 もったいつけるように、僕はカードを一枚取り出す。鍵穴が描かれたカードを。

 

「キーカードとして場に出たリィンは二つの能力を持っている。一つはルリグに名前と色を与えること。そして……」

 

 もう一枚、コインカードを手にして同時に置く。レイラの横、リィンとは逆隣へ。

 

「アンロック、コインベット」

「さあ、いこうか」

 

 凛とした雰囲気、ぴしっと伸びた背。すず子のルリグであるリルが二人に並んで現れる。

 場に一枚しか存在できないはずのキーカードは、しかし僕の場に二人立っている。

 これがリィンのもう一つの効果。彼女に加えて、もう一枚キーカードを場に出せるのだ。

 

「なんだよ、それじゃあたしの時には手を抜いてたってわけ?」

「いや、あの時は他にグズ子しか持ってなかったからな。『ダイレクト』を使えたところで何も変わらなかった」

 

 おまけに、グズ子はリィンやナナシと同じ黒色のルリグ。コインを使って出すには旨味がない。

 だけど今は違う。使えるかぎりの全ての色が、僕の手にある。

 

「リル、頼むぞ」

「ええ、『落華流粋(レクイエム)』!」

 

 リルから迸る炎の奔流が、夢限に向かって放たれる。

 さっきのお返しだ。

 

「その程度で私たちを止められると思うなよ!」

 

 攻撃が夢限に届く前に、カーニバルがその腕で食い止める。

 普通のルリグなら消し飛ばされてしまいそうな勢いすら、彼女は一人で受けている。だが彼女が妨害してくるだろうということは織り込み済みだ。

 落華流粋に集中していたカーニバルが、突然吹き飛ばされて机に叩きつけられた。

 倒れる彼女へ、さらに追い打ちをかける影がある。

 

「あんたの相手はあたしだ!」

「ちっ、邪魔だ!」

 

 もちろんレイラ。

 逃がさないようにのしかかって手を組み合う。実力はほぼ互角か、カーニバルがほんの少しだけ上か。それでもレイラにとっては理想的な展開だろう。カーニバルと一対一で存分に戦えるのだ。

 

「そのまま止めとけよ、レイラ。続けてアンロック!」

「ようやく私の番ね」

 

 盤面からリルが消え、代わりに出現したのは、満を持しての水嶋さん。

 赤から青への変化に相手が慣れないうちに、すぐさまコインを追加、技を発動させる。

 

「『カタルシス』!」

 

 水嶋さんの腕から噴き出され、舞う水流。

 今度は邪魔されずに夢限へと直撃……と思ったが、彼女の眼前に展開された円状のシールドで防がれる。

 

「追撃だ、リィン。『アサルト・サンダーノイズ』」

 

 リィンは水嶋さんに手を重ね、頷く。

 すでに夢限の目前まで迫っている滝に閃く稲妻が導かれ、混じる。

 雷の力も加わって、攻撃力は倍以上。合わせ技は夢限の防御をかいくぐり、到達する。

 生き物のようにうねる二層の流れはバリアをすり抜けて、相手を押し出して、感電させた。

 これだけじゃまだ致命的とは言えないけど、ダメージはダメージ。先手は先手。

 

「だけど、これであなたのコインは全てなくなった。私の攻撃を防ぐ手段はない」

 

 空気がぴりつく。

 夢限が怒りを感じていることは一目でわかる。彼女からにじみ出て足に溜まる闇のオーラが、テーブルから溢れるほどに場を支配していたからだ。

 

「コインベット、『ダイレクト』! 再び食らいなさい、立てなくなるほどの痛みを!」

 

 夢限の周りの闇がいくつもの槍となって具現化する。

 こんなのバトルじゃない。

 そう思わせるほどの、圧倒的な質と量がいまにも襲い掛からんと刃先をぎらつかせる。

 

「攻撃!」

「夢限!」

 

 レイラと組み合っているカーニバルは夢限に向かって叫んだ。

 あまりにも単調すぎる攻撃に抗議したかったのだろう。だがその怒りは届かない。

 すでに宣言された攻撃は、僕たちを消し去ろうと襲い掛かってくる。

 夢限のあまりにも短絡的な行動に、カーニバルは訝しみ、そして気づいた。

 

「まさか、いつの間に……」

 

 カーニバルが驚愕に目を見開くのを見て、僕は思わずほくそ笑む。

 そう、すでに場は変わっている。

 水嶋さんは僕の場から去り、そこには別のルリグが立っていた。

 

「メル、『愛別離苦(エンド・オブ・ハート)』!」

「任せて!」

 

 メルが手を上に掲げると、ドーム状のバリアがルリグたちを覆い、強力な攻撃の一切を跳ね返す。

 相手に攻撃を強制させる『ベルセルク』と、攻撃を跳ね返して自分は回復する『愛別離苦』のコンボ。

 夢限の攻撃は、彼女が選んだ行動じゃない。僕がそうさせたのだ。

 

「感情を揺らされてコイン技を使われたことに気づかない。里見と同じだな、夢限」

 

 致命的なダメージを与えようとした全力が、夢限に返って追い詰める。

 さすがの夢限といえども、これには耐えきれずに盤上を転がる。

 空気が揺れるほど、レイラと拳を交わし合いながら、カーニバルは困惑した。

 

「お前のコインはもうないはずじゃ……」

「ないさ、僕のコインはな」

 

 リィン、リル、水嶋さんのアンロック。そして『落華流粋(レクイエム)』と『カタルシス』。これで五枚のコインは使い切ったはずだった。

 実際、僕のコインはすべてなくなっている。そう、僕のは。

 

「お前……っ」

「やっと気づいたみたいだな。そう、僕が使ってるのは水嶋さんのコインだ。ずるいなんて言うなよ。際限なくコイン技使ってるそっちのほうがよっぽどなんだから。それにしても、他人のコインを使うってのはすず子が先にやってみせたことだが、カーニバル。同じ手を食らうのは悪党として三流だな」

 

 押しつ押されつだったバランスが一気に傾いた。

 ライフクロスだけでなく精神的にも僕たちが優位に立っている。

 正直に言って、ここまで上手くいくとは思っていなかった。これも夢限とカーニバルが、僕が思っていたよりも人間らしかったのが要因だ。

 カーニバルの額に青筋が立てられる。夢限の眉にも力が入り、嫌悪感を隠さずに睨んでくる。

 

「なら、どうあがいても越えられない力を見せてあげる!」

 

 夢限が空へ伸ばした手の先から、眩い光が広がる。それは僕らまで届くほどに、いやこの空間を包み込むほどの強烈で……冷たい。

 ぞくり、と悪寒が走った。地面も空気も震えている。 

 何が起ころうとしているのか。何にしても、それは僕にとってよくないことだということは確かだ。

 光は夢限の周りへ収束していき、幼虫が蝶へ羽化するための蛹のような、光の球体が形成される。

 

「グロウ!」

 

 球体は、金属が極高温に晒されたようにどろどろと解けていく。

 内から現れた夢限の姿が変わっていた。

 レベルアップしたのとは全く別の、そう、成長とでも言うべきか。

 すらりとした肢体に、憂いげな大人の顔つき、ウェーブする白い髪。

 美しく、まるで絵のようなその姿は、ある種神々しくさえあった。

 

「レベル5……?」

 

 彼女の足元にある『夢限』のカードにはそう記されていた。常識と限界を超えた存在であると。

 待て、待ってくれ。いくらなんでもそれはないだろう。

 かなり前に都市伝説で聞いたことはあるが、レベル5だなんて想定外だ。

 僕が慄いている間に、周りに浮かぶコインが次々と黒く染まり、地面に落ちていく。

 

「『ブラインド』、『テンタクル』、『ダイレクト』、『ドーピング』、『バーニング』、『ジョーカー』」

 

 夢限が技の名前を羅列する。容赦なく、連続で繰り出される能力が発現されていく。

 視界は闇に覆われ、四肢は縛られ、ルリグでなく僕も身動きができなくなってしまった。

 カードを場に出すことはおろか、盤面に触れるすらできない。防御をさせなくして、全力の直撃をぶつけてくるつもりか。

 

「沈んで!」

 

 制限された視界の中から現れた黒い炎が荒れ狂い、リィンたちを飲み込む。

 『愛別離苦』のおかげで増えたライフクロスは、次々と削られていき、光を失っていく。

 それだけならまだしも、痛覚を繋げられた僕に激痛が走る。ハンマーで何度も殴られるような衝撃、焼かれるような熱さと痛み。茨に裂かれ、闇に身体を締め付けられる。

 どこが痛いとかじゃない。全身の細胞ひとつひとつが泣き叫び、頭のてっぺんから足の先まで危険信号を発している。

 以前カーニバルにされたのより、何倍も何十倍も襲ってくる苦痛。身体が悲鳴を上げて膝もついてしまう。

 足元から消えてしまいそうな錯覚と、命の炎が弱まっていくこの感覚。

 死へ近づいていく終わりの感覚。

 それでも……

 

「なんで……」

 

 それでも僕は立つ。見えない向こうへ、視線を向ける。

 

「なんで、どうして……どうしてまだ戦おうとするの!? こんな絶望的な状況で、どうしてまだあなたはそんな目をしているの!?」

「これを、僕が選んだからだ」

 

 勝ち、救い、帰る。

 僕が望んだ道の先に立つために、僕はここでみんなと戦うことを選んだ。みんなで、だ。

 だから諦めるわけにはいかない。諦めたくない。

 僕には奇跡は起こせない。ルリグをレベル5にさせられるような強さはない。

 ルールの中で、その隙を突くような小賢しい戦法でしか戦えない。誰かの力を借りることでしか戦えない。

 だがそれでいい。

 レベル5なんて使えなくても、みんながいれば関係ないってことを証明する。

 カーニバルに、夢限に、僕自身に!

 

 腕に力をこめ、無理やり動かそうとする。

 たとえ身体が千切れようとも、このバトルだけは諦めるわけにはいかない。

 

「アンロック、コインベット! メルを後退させ、出すのはこのカード!」

 

 僕が出す最後のキーカード。僕とは真逆の色をもつ、希望と逆転の一手。

 

「タマ!」

 

 僕に呼び出されたタマは、気合を入れる子どものように両手をぐっと固める。

 夢限とは違って幼く見える……が、見た目で判断すると痛い目を見るのはこれまでで体験済み。

 なにせ彼女は伝説のセレクターの最強のルリグ。

 終わらせるために、コインを叩きつける。

 

「これで最後だ!」

「『イノセンス』!」

 

 ふわり、タマを包む優しい光が広がっていく。

 暗闇は晴れ、夢限が纏う憎悪の炎が消し飛ばされ、リィンたちを縛っていた茨が融けていく。

 タマの前ではコイン技は意味をなさなくなる。

 夢限は、他人の姿やコイン技ではなく、自分自身の力で戦うしかなくなる。

 そしてそうなってしまえば、このバトルの行方は見えている。

 

「もう君にもわかっているはずだ。この勝負、決着はついた」

 

 前のターンで僕にトドメを刺せなかった時点で、どれだけ痛めつけられようと諦めない僕の意志を削り切れなかった時点で、勝敗は決まっていた。

 縛ろうが燃やそうがレベル5になろうが関係ない。そんなことは、いまの僕には関係ないんだ。

 

「私の……負け……?」

 

 夢限は震えていた。

 

「いいえ、認められない。セレクターバトルはずっと、永遠に続いていくもののはず……」

「ならなんで僕を呼んだんだ」

 

 押せば倒れそうなほど弱っている夢限に、僕は問うた。

 

「セレクターバトルを終わらせようとする僕を、僕たちを選んだ君は、本当は待っていたんだろう。僕たちがここに来てくれることを」

 

 夢限が黙る。ならばと僕は話し続ける。

 

「僕がいる。否定はしない。馬鹿にもしない。だから、だから君を、君のすべてを曝け出してくれ」

 

 『オーネスト』も『ピーピング』も使わない。

 彼女のことを偽りなく知ってしまえば、フェアじゃなくなる。彼女の心を知って利用したと思われても仕方がなくなってしまう。

 僕はそれだけはしなかった。

 

 『オーネスト』も『ピーピング』も使ってこなかった。

 怖かったのだ。僕の心を知ってしまうのが。人間の負の感情をよく知ってるからこそ、最後の希望に裏切られるかもしれないとためらった。

 彼女はそれだけはしなかった。

 

 言葉を交わす。今はそれだけしか信じてもらう術はない。

 精いっぱい、精いっぱい、熱く燃える心の内を脚色なしで放つ。

 

「僕が受け止めるから、全部、全部。僕が全部終わらせて、始めてみせるから。だから……」

 

 選択してくれと僕は願った。何をどうしてくれとは言わなかった。

 このバトルをどう終わらせるかは、彼女次第。何を望んで、何を選ぶかは夢限が考えて行動しなければいけないのだ。

 

「私は……」

 

 夢限は……

 

「私は……」

 

 夢限は手を伸ばして……

 

「私は……」

 

 夢限は唇を震わせながら手を伸ばした。懇願するように、祈るように、遠くの星を掴むように。

 窓ガラスが割れるような音がして、夢限のカードが弾けた。

 するとレベル5になったときと同じように光に包まれて、彼女は大きくなった。大きく、というのは正しくはないのだろう。これが等身大の夢限なのだ。

 その瞬間、僕と夢限の間にあった唯一の壁であるテーブルが崩れ落ちる。

 夢限は救いが欲しかったことを認めた。この閉じた世界からの解放を願った。

 そして、敗北することを選んだ。僕を信じて、自分に素直になった。

 僕は彼女を長いこと待たせすぎた。もうこれ以上は待たせられない。

 すぐさま彼女のもとへ歩み、目の前まで進む。そして、必死に伸ばしてくる手をそっと優しく、包み込むように握った。

 夢限の顔がぱっと輝いた。

 すっと流れる涙に煌めくコインの光が反射して、彼女の目に光が宿ったように見える。

 

「私は……」

 

 長いこと躊躇って、夢限は心情を吐露する。

 

「ずっと待ってた。私を連れ出してくれる誰かを。私のことを理解してくれる人を」

 

 始まりのルリグという役割を与えられ、セレクターバトルによって人を絶望に堕とそうとした。

 だけど、誰よりも絶望に堕ちていたのは彼女だ。

 人の感情によって生まれ、この白窓の部屋に閉じ込められた夢限は、ずっと独りで待ち続けていたんだ。この理不尽を終わらせてくれる誰かを。

 

「待たせてごめん」

 

 子どもにするように、夢限の頭を撫でる。

 

「これからは僕がいるから」

 

 僕がそう言うと、夢限は僕の腕の中で淡く輝く。

 ゆっくりと透けていく身体は死んでいくようにも見え……ここから解放されていくように見えた。

 やがて彼女の身体が消え去り、感触が失われる。

 

「伊吹くん」

 

 静まり返った中で、水嶋さんが声をかける。バトルが終わったからか、夢限と同じように人間サイズで。

 

「ごめん、勝手なことした」

「憎くはないの?」

「恨んでないって言ったら嘘になる。でも、いまはこれでいいって思う」

 

 水嶋さんは頷くでも頭を振るでもなく、ただ僕の言葉を受け止めた。

 夢限に対して、彼女も思うところがあるのだろう。消化しきれない思いがたくさんあるはずだ。

 無理やり納得する必要はない。許せないなら許せないで、妥協と折り合いを、長い時間をかけて見つけるしかない。幸い時間はたっぷりある。

 

「先に帰るわ。また後で」

「ああ、また後で」

 

 去っていく水嶋さんにあわせて、リルもメルもタマも、みんなが消えていく。

 言葉はない。これはお別れではないとみんなが信じているから。

 気づけば、カーニバルもいなくなっていた。どこにいったのやら……まあそれも『また後で』だ。

 

 とにかく、これだけははっきりと言える。

 セレクターバトルはようやく終わったのだ。



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約束/終わりと始まり

 みんなが消えて、僕はしばらく呆然としていた。

 激戦が終わり、心と体が一息つきたがっている。たくさん叫んだせいで喉はカラカラ、勝つために考え過ぎたせいで、頭はガンガンと唸りをあげている。

 バトルの終焉を心の底で望んでいたなら、もうちょっと手加減してくれてもよかったのに……なんて、僕が言える資格はないか。

 見えるものを見ないふりして、ずっと逃げ続けてきた僕には偉そうなことは言えない。言えないけど……ようやく目を向けるようになった今では手を伸ばせる。

 最後には……彼女は納得してくれただろうか。自分自身が本当に望むことを受け入れられただろうか。

 足元のコインに躓く。身体はふらつき、尻餅をつく。壁に背を預けると、急激に力が抜けた。

 

「大丈夫?」

 

 リィンが僕を案じてくる。決着のついたこの場には僕と彼女しかいない。

 

「大丈夫もなにも絶好調だ。ようやく全部終わったんだからな」

「ええ、全部、全部終わったわね、ようやく」

 

 リィンは両膝をついて、僕と視線を合わせる。

 

「これで、あなたはこの部屋の主になった。それで、どうする?」

 

 どうする、なんて聞かなくてもわかるだろうに。

 前回のときだってそうだ。ともに戦って、成長したからこそ願いがわかる。

 しかし、宣言が欲しいというのもわかる。本当に願いが合っているのかどうか確認する必要があるだろうし、それに……

 その願いが、願いを言えること自体が成長の証だから。

 

「失ってしまったものを、すべて元通りに」

 

 願うと、宙に浮かび床に散らばっている無数のコインが消えていく。いや、現実に還元されていっているのだ。

 どこまで願い通りになるかはわからない。けど、なるようにしかならない。

 僕は全力を尽くした。結果がどうあれ、納得するしかないんだ。

 

「覚えてる? 最初に会ったのも、この空間」

 

 もちろん鮮明に覚えている。希望のないファンタジーの世界に踏み込んだ、初めてのことだったから。

 

「あのとき、負けた場合のペナルティを黙ってたのは、あなたにとってはそれが救いだと思っていたからなの」

 

 リィンは目を逸らした。

 突然の罪の告白は、もう二度と僕に会わないからか、それとも彼女も成長したからか。

 

「苦しんで苦しんで生きるより、理不尽に消えてしまうほうがいいんじゃないかってね」

 

 当時の僕は、生きているだけで罪なんだと自分を責めていた。

 だけど生きているから、生きてしまっているから、その存在を少しでも誰かの代わりに犠牲として使おうとした。

 リィンの言う通り、消えてしまえばどれだけ楽だったかと思ったこともある。

 でも結局、僕は誰かに認めてほしかっただけなんだ。

 承認欲求と自傷願望。二つの強い欲望が、夢限を生んだ一端にもなっているだろう。

 

「私たちは同じね。間違えて間違えて、歪な道を歩く愚か者」

「『だった』をつけろよ」

「あら、ずいぶん自信を持つようになったのね」

「お前もだろ」

「ええ、変わったあなたと一緒に、私も強くなった」

 

 リィンは空を見上げた。といってもその目に映るのはどれだけ遠くにあるのかわからない光だけで、思い描くような青い空もないけれど。

 

「ようやく、まともに前を歩けた気がしたわ」

 

 リィンはにこりと笑った。

 

「それじゃ……」

「またな、リィン」

 

 別れの言葉を継げようとするリィンを遮って、僕が先に言う。

 リィンは少し驚いた顔をして、それからクスリと笑う。

 

「ええ。また、ね」

 

 

 一瞬。まばたきをしている間にリィンは僕の前から消え去った。

 落ちつこうとしていた身体に力を入れ、立ち上がる。ここで眠ってしまえば、永遠に閉じ込められてしまいそうだ。

 水嶋さんも他のみんなも、もうこの空間から消えている。

 リルやメルたちはどうなったのだろう。記憶から生まれたルリグたちは、消滅してしまったのだろうか。

 確かめる方法はただ一つ。ここから出て、現実に戻ることだけだ。

 

 帰ろうと踵を返すと、一人、あぐらをかいて座り込んでいる人物がいた。

 

「なんだよ」

 

 ぶすっとした顔を向けるのは、レイラだ。

 

「なんだ、はこっちのセリフだ。こんなところに居座ってると消えるぞ」

「それでいいのさ。もう終わったんだから」

 

 ふう、と大きいため息をつき、レイラは空を見上げた。

 

「あんたもよくやったよ。無事じゃ帰れないって可能性もあったのに」

 

 そりゃ、カーニバルと夢限が相手だから、無傷で帰れるとは思ってなかった。

 

「けど、これしかなかった」

 

 孤独は嫌だと、夢限になんとしても認めさせたかった。そのためには消滅させるのではなく、解放が必要だ。

 人の感情や欲望によって生み落とされ、この場所に縛りつけられた彼女が、外の世界を知る必要があった。

 水嶋さんじゃ、それはできない。

 彼女の願いを聞いて、真相に辿りついて、彼女を許してやれるのは僕だけだから。

 

「それに、君とカーニバルを戦わせるって約束もあったしね。あいつが敵側についてくれてよかったよ」

「んで、あんたが矢面に立って戦うってか。お人よしにもほどがあるんじゃないか?」

「よく言われるよ。だけど今回に限っては、矢面に立ったのは僕だけじゃない」

 

 みんなが僕に手を伸ばし、僕がみんなの手を取る。勝利はそうやって実現した。

 危険だったけど、幸いにも夢限は思ってたよりも人間らしく、僕の思う通りに感情を揺らしてくれた。

 

「ま、あんたとのバトルは面白かったし、約束も守ってくれた。これでもけっこう感謝してるんだよ?」

 

 レイラがニッと笑う。

 ああ、なんだ。いい笑顔じゃないか。何もかもを振り切ったすっきりとした笑みに、僕も口元が緩む。

 

「なに、その手」

 

 僕が伸ばした手を、彼女は不思議そうに見つめる。

 

「僕に貸しを感じてるなら、君も一緒に来てくれよ」

「はあ? もうバトルがないなら、あたしがいる意味なんてないよ」

 

 レイラはため息をついた。そんなことくらい、わかってんだろ? と言いたげな目をしている。

 ああ、わかってる。レイラはずっと強いセレクターとルリグとのバトルを求めていた。

 バトルをするために生まれたのだから、バトルをしなければ意味がない。彼女自身も戦いを楽しんで、バトルすることだけを選び続けた。

 それで終わりなんて、あまりにも寂しすぎる。

 

「生きる意味なんてのは、僕たち人間だってわからないさ。それでも、何かと理由をつけて生きようとする」

 

 学校や仕事があるから。

 発売予定の本やゲーム、映画が楽しみだから。

 死ぬのが怖いから。

 誰かが好きだから。

 明日、また誰かに会いたいから。

 どんな理由だっていい。僕らはこの世界に希望を感じて生きている。

 どれだけ小さくとも、どれだけ儚くとも、生きる理由になるのなら、生かす理由になるのなら、それでいい。

 

「君はバトルしか知らないから、バトル以外に価値を見出せないんだ。世界を広げれば、きっと何か見つかる。こんな小さなカードの中じゃなくてね」

「あたしはルリグだ。人の欲望から生まれた存在で、人間じゃない。ここを通ったところで、人間になれるかどうかなんて……」

「なら通ってもいいだろ?」

 

 本当にどうしてもと言うなら、僕だけ帰るのも仕方がない。だけどこの空間が滅びるその瞬間まで諦める気はなかった。

 

「あんた、どうしてそこまで……」

「元々はカーニバルも夢限も全員助けるつもりだったんだ。君だけ放っておくのは、寝覚めが悪くなる」

「はっ、なんだよそれ」

 

 レイラはけらけらと笑った。

 バトルしているときとはまた違う、生き生きとした表情だ。

 

「あんた、相当欲深いね」

「そうだよ。抑圧してたぶん、今は誰よりも欲しがりだと自負してる。手の届くものは全部救いたいんだ」

 

 僕は手を彼女の目の前にまでもっていく。

 

「だから、僕は君を諦めない」

 

 レイラはじっと僕の手を見る。自分へと差し出された、救いの手を。自分に素直になる最後のチャンスを。

 

「生きる理由か……見つかるといいな」

「見つかる。僕も手伝うからさ」

 

 彼女は勢いよく僕の手を掴む。ぐいっと引っ張られて、再び立ち上がった。

 

「約束は破らないんだよな?」

「君が一番よくわかってるだろ」

 

 違いない、と彼女はまた笑った。

 

 

 はっと目覚めたのは、白窓の部屋へ行く直前と変わらず、繭の部屋だった。

 キャンバスの絵に、天窓からの光が降り注いでいる。

 元通りになれと願った。実際にはどうなっているかわからない。

 それでもセレクターバトルは終わった。全てが終わり、変わってしまったものや失われたものは、元に戻ったはずだ。

 それだけでもよくやっただろ?

 自問自答する。そうだと自分に言い聞かせる。

 

「伊吹くん」

 

 僕を呼ぶ声に振り向けば、そこにはみんながいた。

 ここに一緒に来た御影や小湊さん、植村さんだけじゃない。水嶋さんやすず子に森川も。

 紅林さんもタマもいる。カードの中じゃなくて、人間の姿で、そこにいる。

 

「伊吹くん……どうなったの?」

 

 水嶋さんがおそるおそる聞いてくる。

 この中では夢限とのバトルを見届けた一人ではあるが、その先のことは僕しか知らない。

 水嶋さんは僕が何を言うかを固唾をのんで待った。

 

「終わったよ」

 

 言うべきことはたくさんあった。言いたいことも山ほど。戦い続けた彼女たちにこれ以上ないほどの安心を与えたかった。

 だけど一言、だから一言、必要な言葉だけを投げた。

 水嶋さんが望み続けた、たった一言。

 

「全部終わった」

 

 長い間、沈黙が続いた。

 僕の言葉をゆっくり咀嚼して、そしてみんなの顔に徐々に光が灯っていく。

 

「やったぁ!」

 

 一番に声を上げたのは紅林さん。それに続いて、みんなも次々と歓喜の声を発する。

 僕もようやく実感が湧いてきた。セレクターバトルが終わったことは、頭では理解していたけれど、まだどこか気持ちが落ち着いていなかった。

 けどこうやってみんなの笑顔を見てると、心が晴れていく。

 

「それにしても、すず子も森川もここに揃うなんて……」

「全てが終わった時、ちーちゃんの傍に誰かが必要になる……って言ったでしょ?」

 

 すず子が僕の手を取る。

 

「でもそれは、みんなも同じだと思ったから」

 

 みんなが喜び、笑いあう。少し前までずっと静寂が続いていたこの場所で。

 たしかに、セレクターバトルが終わったことをばらばらに知って、個々で歓喜するよりこっちのほうがいい。

 すり減った心を癒し合うには、同じく傷ついた者がいればいい。

 

「肇くん」

 

 沸き立つみんなの中で、彼女は優しく僕の名前を呼ぶ。

 ほのかに身体が温かくなるのを感じる。彼女から名前で呼ばれたのは久しぶりだ。

 

「おかえり」

 

 全部が元に戻っているなら、当然すず子だって記憶が戻っているはずだ。

 当然、僕から受けた酷い言葉だって思い出している。なのに彼女は微笑んでくれている。

 だから、とりあえず今は謝罪とか感謝とかは置いておいて、もっと言うべき言葉がある。

 

「ただいま」

 

 なにもかもが望むとおりになったわけじゃない。

 失われたままのものはあるし、記憶を取り戻したことで悩み続けてしまう者もいるだろう。

 だけど、できることはやった。

 これが最善だと信じて、やれることを全力でやった。

 

 全てがあるべきところにおさまったのだ。



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閃光

 墓地というのは、僕にはまだ縁遠いものだと思っていた。実際、僕がお世話になるのは遠い先のことだろう。

 それなのに僕がここにいるのは、とある用件で僕に呼び出された清衣が「その前に寄るところがある」とここへ連れてきたからだ。

 『坂口家ノ墓』と書かれた墓の前で、その清衣が手を合わせて目を伏せてから、もうすぐで二十分が経とうとしていた。

 僕はそれを遠目に見ながら待つ。

 時折歪み、悲しみ、そして微笑む清衣の顔を見れば、「もうそろそろ行こう」なんて無粋なことは言えなかった。

 

「お待たせ」

 

 やっと顔を上げて深く息を吐いた後、清衣がやってくる。その目は少しだけ腫れているが、表情はすっきりしていた。

 

「もういいのか?」

「ええ、良い報告ができたわ。ごめんなさい、付き合ってもらって」

「いや、急に呼んだのは僕のほうだし」

 

 かつて交通事故に巻き込まれ、その後命を落としてしまった坂口という少女の墓参り。

 清衣が言うには、その人はアミカと同じくらい大切な友人だったらしい。

 詳しくは聞いていないけれど、『報告』というからにはセレクターバトルに巻き込まれた人物なのだろうか。

 今までの話を総合すれば、なんとなく予想はつくけれど。

 

「こうして話すのは久しぶりね。セレクターバトルが終わってからは、月に一度くらいしか会えないし。アミカも寂しがってたわ」

「寂しいって……他の人たちとはちょくちょく遊んでるんだろ?」

「ええ、その人たちから『英雄』なんて呼ばれるのは、むず痒いけど」

「女性に英雄ってのは、正しいのかな……でもま、わかりやすい。それに君はまだいいよ。僕なんて『救済者』だ。大げさすぎ」

 

 最初のセレクターバトルを終わらせたるう子は『伝説』、三回ものセレクターバトルを戦い抜いた清衣は『英雄』、全てを終わらせて白窓の部屋を潰した僕は『救済者』。

 真実を知る者には敬意をこめてそう呼ばれ、そうでないウィクロスプレイヤーの中では都市伝説として扱われている。

 まさか生きている人間が、しかも自分がまことしやかに噂される存在になるとは思わなかった。

 

「それだけのことをしたのよ。もっと胸を張ればいいのに」

「君が堂々と『英雄』を名乗るなら、考えるよ」

「そんな、私がしたのは……」

「それだけのことをした。そうだろ?」

 

 彼女がどれだけ否定しようともそう呼ばれることに変わりはない。

 みんなが認めてくれているように、僕たちはその二つ名にふさわしい働きをした……のだと思う。

 あれだけ苦しい思いをしたんだ。少しくらいは自分のことを認めてもいいだろう?

 

 

 墓参りを終えた僕らは、とあるカードショップの前まで来た。

 僕としてはこちらがメインの用件だ。

 

「あ、えっと、肇さん……」

 

 店の前であっちこっちを見ていた少女が、僕を見るなり駆け寄ってくる。

 彼女はかえで。レイラに身体を取られていた元セレクター。

 今ではもちろん元の人格に戻っており、凶暴さは見る影もない。

 

「来てくれてありがとう。警戒されて来ないかと」

「い、いえ、肇さんは恩人ですし」

「なら、その恩人の顔に免じて、会ってほしい人がいるんだ」

 

 手招きして、ショップの中へと案内する。

 そこは僕らの中ではなかばたまり場ともなっている、顔見知りのいる店だ。

 今日はなかなか賑わっていて、カウンター周りには男女が混じってショーケースを眺めたり、ストレージ漁りをしていた。

 

「遊月」

 

 店員用のエプロンを着けた知り合いに声をかける。遊月は広げようとしていたポスターをいったん段ボール箱の中に戻し、ぱっとこちらへ来た。

 

「や、こんにちは」

「こんにちは」

「もう来てる?」

「来てる来てる。そっちのテーブル」

「悪いね。場所取っちゃって」

「いいっていいって。あたしだってサプライズ受けて感動した身だからさ」

 

 遊月が指差したテーブルには少女が二人。少し乱れた金髪とすらりと整った黒髪。カードゲームに興じるでもなく、ただ座っていた。

 

「あ、あの……」

 

 何の話かわからず、困惑したかえでが口を開こうとしたとき……

 

「清衣!」

 

 座っていたうちの一人、黒髪の方がこちらへ声をかけた。

 

「アミカ……いえ、あなたは……」

「久しぶりだね、清衣」

 

 アミカにそっくりの少女……ピルルクは清衣に抱き着くなり顔を擦り付ける。

 混乱したレア表情の清衣は、わけもわからないまま視線をこちらに動かす。

 

「どうして?」

「大変だったよ。二人とも意外と姿を現さなくてさ」

「そ、そうじゃなくて……」

 

 ようやっとピルルクを引きはがした清衣が、彼女と僕を交互に見る。

 

「なんで、彼女がここに?」

 

 清衣の問いは、つまりなぜピルルクが人間となって目の前に現れたのか、だ。

 

「みんなが望んだから」

 

 予想していた疑問に、僕は即答する。

 

「セレクターとルリグ、みんなが……そしてなにより、僕が望んだから」

 

 理由なら、それだけで十分だ。

 どうせ始まりから終わりまで超自然的な出来事だったんだ。ごちゃごちゃした説明はいらない。

 

「肇さん、いろんな人にすっごい聞きまくって、毎日探してたんだよ」

「ピルルクのほうは、最初会うのを躊躇ってたけどね。まだ会う時じゃないって言って。じゃあいつ会うんだよって引っ張ってきた」

 

 セレクターの人格は元に戻った。ならルリグはどうなったのか。

 それは見て分かる通り、新しくこの世界で生きる人間として生を与えられることになった。

 今まで何組か、セレクターとルリグを再会させてきたが、サプライズ感を出すために、他には黙っておくようにしていた。

 意地の悪いサプライズだけど、まあそれは許してほしい。

 

「かえで」

「レイラ……」

「その、悪かったよ。あんたを煽って、滅茶苦茶言ってさ。身体も乗っ取ったし、その間学校にも行ってなかったし、ずっとそれでいいって思ってたし……」

 

 もう一人、金髪の少女。レイラの言葉は尻すぼみになる。その様子は、彼女がバトルしている姿を知っている者には衝撃的だ。

 だからこそこれは本当にレイラが思っていることだろうとわかる。それはかえでもわかっているようだった。

 

「私ね、強くなりたかったんだ。弱い自分が嫌いで嫌いで、変わりたかった」

 

 かえでがそう望んだ結果、生まれたのがレイラだ。

 孤高で強く、したいことをして、言いたいことを言う、はちゃめちゃな女。

 自分勝手で自分本位ではあるが、それこそがかえでに足りなかったもの。極端ではあるが、かえでが望む理想の姿なのだろう。

 その理想像もまた、他人や新しい世界というものを知って変わっていっている。

 

「あれからちゃんと言いたいこと言えるようになったよ。いじめられることもなくなったんだよ。レイラにも酷いことされたけど、でも私が強くなれたのはレイラのおかげ」

 

 一歩下がろうとするレイラの腕を掴んで、かえでは近づく。一歩、また一歩。

 二人の距離は縮まって、ついには……

 

「ありがとう、レイラ」

 

 ふわりと躊躇いなく、かえでがレイラに抱き着く。それは彼女の感謝のしるしであると同時に、赦しの証拠でもあった。

 

 人間が人間らしくなるたび、強くなって弱くなっていく。

 彼女たちはたぶん、人間として生きていくには強すぎて弱すぎたのだろう。

 補うために、お互いにとってお互いが必要だった。だからこそ、かえでは赦した。

 

「肇」

 

 レイラは、いきなりのことに驚き宙ぶらりんだった腕をゆっくりとかえでの背中に回す。

 

「生きる目的だとか理由だとか、まだわかんないけどさ」

 

 レイラはかえでを愛おしそうにぎゅっと抱きしめたまま、顔を振り向かせる。

 その顔は、白窓の部屋から現実へ飛び越えることを決めた顔とそっくりだった。

 

「生きたいって思えてきたよ」

 

 

 セレクターバトルの終結から半年が経った。

 肌寒い季節はとっくに過ぎ、今はもう半袖が推奨される気温に落ち着いていた。

 三年生に進級して、僕は大きく変わった。自覚できるほど僕の心情は変化して、周りとの関係も変わっていく。

 変化したのは僕だけじゃない。

 記憶を奪われたり、人格が変わってしまったセレクターは元通りになった。少なくとも僕の周りと、僕が探し出した限りは。

 

 その一方で解決していないこともある。

 願望や記憶、存在。バトルの過程では他にもっと多くのものが動いていて、金だったり時間だったり……命は戻ってこない。

 そのせいで絶望に伏している者もいるだろう。

 多くのものが失われて、それでも世界は回っている。いやらしいほど残酷に。

 

 僕は扉を開ける。

 何度も来たあの喫茶店だ。ここでいろんなセレクターが里見と契約し、その身を乗っ取られ、あるいは記憶をなくし、あるいは無事にバトルを抜けた。

 多くのセレクターにとって、ここはもしかしたら救済の場だったのかもしれない。

 訳が分からなくなっているプレイヤーにバトルの機会を与える。動機が悪意に塗れていたとしても、幾人かのセレクターは助けられたはずだ。

 そう割り切れるのはバトルが終わったからか、知ってる人間がほとんど元通りになったからか、僕が救われた面もあるからか。

 いつも里見が座っていた席を見る。

 そこには面白くなさげにコーヒーをスプーンでかき混ぜるスーツの女性がいた。

 僕はその正面に座る。女性は僕のほうを向かず、しかし相席に文句は言わない。

 カップのコーヒーから湯気は立っていなかった。

 

「馬鹿にしにきたの?」

 

 ふてくされた表情のまま、彼女は言う。

 長い髪はあまり綺麗に手入れされていないみたいで、キツめの目元は見えるか見えないかくらい。それでも整った顔であることは感じられる。

 

「それもいいけど、今日は違うよ、カーニバル」

 

 覇気がなくなっているものの、僕は彼女がカーニバルだとすぐに気づいた。

 セレクターバトルがなくなって、彼女は好きなように人間を操ることも傷つけることもできなくなった。物理法則だったり法だったり、この世そのものや人間が作り出したルールに縛られている。それがたまらなく退屈で嫌なのだろう。

 レイラと同じだ。ルリグとして生まれたから、ルリグとして好きに生きる。それがなくなれば、生きる価値も目的もないと勝手に決めつけているのだ。

 そんな彼女を放っておく気はなかった。

 

「君を誘いに来た」

「誘う?」

 

 眉をひそめて、僕を阿呆を見る目で見つめてくる。

 

「こんどウィクロスの大会をやるんだ。店を貸し切って身内でね」

「あれだけの目に遭って、まだウィクロスをやるっての?」

「ウィクロス自体は悪くない。あの部屋を作り出したのは、あくまで人の感情だ」

 

 というのはあくまで僕の推測で、結局は正解かどうか知ることはできなかった。

 まあ、否定する人はいなかったし、それにあの部屋の最後の所有者は僕だ。そういうことにしておいていいだろう。

 なんにせよ、ウィクロスそのものに善や悪の力がないことはカーニバルも反論のしようがない。

 

「感情を一人で溜めこまないように、こうやって定期的に集まって発散してるんだ。人数を増やしながらね」

「弱者の傷の舐め合いってわけ」

「舐めて良くなるなら、それでもいいんじゃないか」

 

 はっ、と嘲笑したカーニバルは、これまた馬鹿にするように僕を指さす。

 

「さすが、夢限を倒した救済者様だね。その優しさでみんなを救おうってか」

 

 わかりやすく馬鹿にしてくる。

 ひとしきり言葉を吐き出した彼女は、肘をついた手に顎を乗せて、そっぽを向く。

 

「断る。私はあんたたちとは違う。過去に怯えて前を向けないあんたたちとはね。それに……」

 

 彼女は口をつぐんで、一瞬だけちらりとこちらを見た。

 

 言おうとしたことを、僕はなんとなく察した。

 

 『あれだけのことをした私がいまさら許されるわけない』

 

 カーニバルの策略によって人生がめちゃくちゃになった者や、存在が消えてしまった者はたくさんいる。

 彼女自身がセレクターを手にかけたこともあるだろう。

 それは紛れもない真実で、僕が手を伸ばせないところでもある。

 超常現象を可能にする白窓の部屋、その所有者となっても叶えられないものはある。全てがチャラとはいかないのだ。

 目の前の女性は罪を犯した。罰せられる必要のある人間なのかもしれない。だけど……

 

「僕は君を許す」

 

 僕は彼女に心身ともにスタボロに傷つけられた。それに関して恨むこともある。

 だけれども、それがなければ母さんやみんなの素直な気持ちを聞くことはなかったろうし、受け止めることもできなかっただろう。こうやって自分と向き合って許すこともできなかった。

 暴力を肯定するわけではないが、必要であったことは確かだ。

 結果としてひどく傷ついてしまったが、それ以上に彼女は僕の助けとなった。そういった面では感謝すらしている。

 

「君を許すよ」

 

 どんな時にも見せなかったカーニバルのきょとんとした顔を初めて見た。

 

「僕たちは傷つけ合いすぎた。今は傷を癒す必要がある。前を向くのはもうちょっと先でもいいんじゃないか」

 

 彼女の言う、過去に怯えて前を向けない弱者。強がってはいるが、僕にとっては、カーニバルのほうこそそう見える。

 許しを欲しながらも、他人を怖がって遠ざかろうとする弱者。

 放っておけないのは、その姿に昔の僕が重なってしまうから、というのもある。

 僕は事前に仕込んでいた小さな紙をポケットから取り出し、彼女の前に置いた。

 

「大会の日時と場所、あと僕の連絡先。みんなから一発殴られるくらいは覚悟しておいたほうがいいかも」

「まだ行くとは言ってないよ」

 

 そう言いながら、カーニバルは懐から出した高級そうな薄い長財布にそれをしまった。

 僕はそれを見て思わず苦笑する。

 

「なにさ」

「いや別に」

 

 眉をひそめる彼女に笑いをこらえきれず、背中を向ける。

 今はもう話すことはない。僕はそのまま出口に向かった。

 扉に手をかけ開く。外に出る前にカーニバルをちらりと見た。

 明るい照明に照らされた彼女は悩むように額のしわを深める。しかし不機嫌ではなかったように見えた。

 

 

 クーラーの効いていた室内とは違って、屋外は光が容赦なく降り注ぎ、熱気が遠くの景色を歪ませる。

 本格的な夏まではまだあるものの、セミはもう鳴いている。

 

「ごめん、待たせた」

 

 店の前で待っていたすず子へ声をかける。

 どこかで涼んでいてくれと頼んだが、ずっと待っていてくれていたみたいだ。

 

「ううん、いいよ……どうだった?」

「さあ、当日のお楽しみってところかな」

 

 とは言いつつ、半ば確信めいたものを心の中に持っていた。

 いつになるかはわからないが、カーニバルは僕の目の前にまた現れるだろう。

 手は伸ばした。あとは彼女が掴むだけだ。

 

「今度の大会、ちーちゃんもはんなちゃんも参加するって」

「僕の知ってる限りにも声をかけたよ。るう子に遊月、一衣に……当日は大所帯だな」

 

 カードショップに頼んで、貸し切り状態にしてもらったおかげで大人数でも入りきる。遊月が店員だったのが大きい。

 

「いまどれくらい集まってるの?」

「参加って返してくれたのは……二十くらいかな」

「に、二十!?」

 

 すず子が驚くのも無理はない。僕だっていま頭に浮かべてびっくりしたくらいだ。

 その中にはまだ僕が見たことのない人や、かつてルリグに人格をとられた人、いまではすっかり人気者になったモデルだっている。

 

「知り合いのセレクターや元ルリグも呼んでくれって言ったら、こんなに集まってくれたよ。僕もいろいろと探したしね。まだ増えると思うよ」

「へえ、楽しみだね」

 

 これだけの人が集まったのは初めてだ。

 最初、僕が話をもちかけた時には、この半分もいかないくらいしかいなかった。それからいろんな手段を使って元セレクターや元ルリグを探して、集めた。

 思い返してみると、この半年の忙しさったらない。よく頑張ったと自分で褒められるほど、手を尽くしてきた。

 けど、まだやり残したことがある。

 

「すず子」

 

 歩みを進めたまま、僕は口を開く。

 

「君に伝えたかったことがあるんだ。ずっと前から」

 

 すず子は頷く。

 

「聞くよ」

「それを言うためには、まず僕が君にしたこととその意味を言わないと」

「うん、聞くよ」

「それで、君が抱いてる僕の印象が変わるだろうし、印象が変わったことで答えが変わるかもしれないから、だから……」

「肇くん」

 

 すず子は一度、僕を遮った。

 その声には覚悟と、そしてなにより優しさが込められている。

 

「ちゃんと最後まで聞く。だから教えて、肇くんのこと」

 

 ああ、そうだ。すず子はずっとこういう人だった。僕を信じて、僕の言葉を待っていてくれていた。

 ずっとずっとずっと。

 それこそ、セレクターバトルの最中も、記憶を失っている時でさえ。

 僕はそれに応えるために、もう一度口を開く。

 

 

 人生の先にはいくらでも理不尽なことが待っているだろう。一人では解決できないこともたくさんある。

 そんなときに人を頼るのは悪いことじゃない。

 それでどんどん弱くなっていったとしても、僕は構わない。僕にはこんなにも大切に思ってくれる人たちがいるから。その人たちを守れる力さえあればそれでいい。

 僕はすず子の手を取る。彼女も握り返してくる。

 この関係は、僕たちが苦しんで、傷ついて、それでも逃げずに選んだ結果だ。

 もうあんな経験はごめんだけど、それ以外なら喜んで立ち向かおう。

 戦い続け、手を繋ぎ続け、ともに歩んでいく。

 それがどんなに険しい道でも、この一瞬の閃光を永遠に続けさせるために……

 

 これからも僕たちは選び続ける。



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