事務員の初音さん (偏(片)頭痛)
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#1 「最上静香と初音さん」

※6月5日 一部内容を変更しました。話の展開に大きな変更はありません。


 765プロダクションには、3人の事務員がいる。

 一人は音無小鳥さん。

 765プロ立ち上げ時から勤めていて、私たちシアター組が所属する前から765プロの先輩たちを支える縁の下の力持ち。時々百合子さんみたいに妄想の世界に飛ぶのが玉に瑕。

 

 一人は青羽美咲さん。

 私たちシアター組の加入に伴って新しく採用された事務員さん。普段は音無さんの補佐をする傍ら、プロデューサーと一緒に私たちの面倒を見てくれたり、衣装のデザインや製作を担当している。私たちアイドルと歳が近いこともあってか(音無さんもまだ20代ではあるのだが)、プライベートな悩みや相談を彼女にする子も多い。

 

 そしてもう一人、765プロには事務員がいる。

 

「おはようございます」

 

 劇場の事務室の扉を開けてすぐ右、大きなモニターがある机が彼女の席だ。

 彼女はパソコンのモニターに向けていた視線を私に移すと、ニコッと快活な笑みを浮かべて、手元に置いていたスケッチブックにマジックで何かを書きだした。

 

【静香ちゃん おはよう!(>▽<)】

「おはようございます、初音さん」

 

 初音ミク。

 彼女が765プロに勤める3人目の事務員である。

 

 

 765プロの事務員、初音ミクさんは喋れない。

 杏奈のようにオフは口数の少ない子や、美也さんやひなたみたいにマイペースに喋る子はメンバーの中にもいるがそんなレベルではなく、ミクさんは全く声を出すことができないのだという。39プロジェクトが始動してもう1年になるが、シアターのアイドルでミクさんの声を聞いた子は一人もいない(もちろん私もだ)。そのため、普段はスケッチブックやトークアプリ、ジェスチャーやそのコロコロ変わる表情で私たちとコミュニケーションを取っている。

 

【今日は早いね どうしたの?】

「これからロケなんですけど、その前にプロデューサーに確認することがあって……プロデューサーはまだ?」

【社長さんと次のイベントの事でお話があるから、事務所の方に寄ってから来るって言ってたよ( ・∇・)】

 

 このやりとりをするのにだって、小さなラップトップに文字を打ってこうして私と会話をしている。これが複数人で会話をするときや打ち合わせの時は、彼女の指は忙しなく動いてものすごい速度でキーボードを叩くのだ。

【プロデューサーさんには言っておくから、控え室で待ってれば?(・・?)】

「じゃあ、そうさせてもらいます。お願いしてもいいですか?」

【おっけー!】

 

 そう打ち込んだ画面を見せると、彼女は任せなさいと言わんばかりに自分の胸をトンと叩いた。その仕草がなんだか子供っぽくて、なんだかおかしくなってしまった。

 私がクスッと笑ったことにきょとんとした表情をしたミクさんになんでもないですと答えて、私は控え室へ向かった。

 

 

 初音ミクさんについて私が知っていることは少ない。

 

 私たちがアイドルでミクさんが事務員ということもあるだろうが、それにしたって彼女のプライベートについて知っていることはほとんどない。いろんな楽器が弾けたり、ダンスも上手だったり、パソコンに強くて事務所のHPを作成・管理していたり、彼女は多彩な人物だということは知っている。しかしその才を得るに至った背景を彼女はほとんど語らない。出身地はどこだとか、今まで何をしてきた人なのかだとか、おそらくこの事務所の誰に聞いても彼女のパーソナルな部分を知っている人はほとんどいないだろう。かくいう私も、たまたま一度、お昼を一緒に食べるためにうどん屋さんに行った時、彼女がネギを山盛りにしたうどんを美味しそうに食べていたことからネギが好きなんだろうという曖昧な情報くらいしか持っていない。

 謎多き事務員だ。私が脳内でミクさんについて改めてそう評したところでプロデューサーが控え室にやってきた。

 

「ごめんな静香。少し社長と次のライブイベントの打ち合わせをしててな。待たせちゃったか?」

「いえ、私も連絡の一つもせず来てしまいましたから」

 

 そうしてプロデューサーと今後のレッスンの予定や今日のロケのことを確認し終わった後、どうせならと私はミクさんについて少し聞いてみることにした。

 

「プロデューサー、関係ない話ですけどいいですか?」

「ん?どうした?」

「その、変な質問ですけど、ミクさんって何者なんですか……?」

「なんだ藪から棒に……そもそもなんだ何者って」

「いえ、もう一年一緒に仕事をしてきましたけど、私ミクさんのことを何も知らなくて……ミクさんはあまり自分の話をしないので少し気になってしまって……」

「あー、なるほどなぁ。しかし何者……何者ときたか……」

 

 その質問に、プロデューサーはふむ、と言って少し考え込むようなそぶりを見せた。いつも会話に関して言いよどむことがないから、この反応は意外だった。

 

「実は俺もあんまりよく知らないんだよなぁ。初音さんとは美咲さんが入る少し前に顔合わせして39プロジェクトの準備とかを一緒に進めてたんだけど、あんまりプライベートな話はしなかったし」

「え、美咲さんと同時入社じゃなかったんですか」

「あぁ。社長のスカウトで事務員になったみたいだな。最初社長が連れてきた時は新しいアイドル候補かと思ってびっくりしたけど。……そういえば社長もどこでミクさんと出会ったんだろう。親戚とかじゃなさそうだったし……」

 

 うーんと考え込むプロデューサーの様子を見ながらやはり謎の多い人だと改めて思う。この調子だと小鳥さんや他の先輩方に聞いても同じ答えが返ってくるかもしれない。

 

「あ、でそう言えば一個あったなぁ」

「え?」

 

 ふと、プロデューサーが思い出したように言った。

 

「美咲さんが入社した後に、社員の懇親会を社長が企画してくれて飲み会をしたんだよ。その時から初音さんは喋れなくてパソコンでやりとりしててみんなちょっと面食らってたけど、すぐ打ち解けてね。その時に美咲さんが聞いてたんだ」

 

『初音さんって、765プロに来る前は何をしてたんですか?私と同い歳か年下……ですよね?』

 

「……それで、ミクさんはなんて?」

「んー、それがなぁ……言っていいのかなぁ。静香、できれば内緒にしてくれよ」

「え、えぇ。分かりました……」

 

彼女は、自分の端末に文章を打ち込んでこう答えたという。

 

『【そうですね……ずっと、歌を歌っていました】』



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#2「最上静香と初音さん2」

 歌いたい歌がある。

 伝えたい言葉がある。

 届けたいメロディがある。

 表現すべき世界がある。

 

 だけど、伝えるための声が出ない。

 

 声帯は震えず、喉は鳴らず、音と呼ぶにはあまりにお粗末な隙間風に似た掠れた何かが出るばかり。

 

 歌を失った。

 声を失った。

 音を失った。

 

 ならば、私の存在意義とは?

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ミクさん?ミクさんがどうかしたの、静香ちゃん」

 

 ロケの合間、私は一緒に撮影をしていた未来にミクさんのことを尋ねてみた。

 

「プロデューサーにも話したんだけど、私、あんまりミクさんのことを知らないなぁって思って」

 お茶のペットボトルを弄びながら私はポツリと呟いた。

 

「私が……私たちがアイドルになってもう1年になって、いろんな仕事やステージを経験して、そのためにたくさんレッスンや努力をしてきたけど……仕事やライブが成功するのって、私たちの努力だけで成り立つものじゃないんだって、思ったの」

 

 芸能界の仕事はいろんな人に支えられることで成り立っている。それは765プロの仕事に限ったことではない。テレビ番組然り、ラジオ然り、撮影の仕事。どれ一つ取ったってアイドルだけで成立する仕事などありはしない。カメラマンがいて、メイクさんがいて、照明さんがいて、衣装さんがいて、ディレクターがいて、音響さんがいて。初めてアイドルは輝けるのだということを知った。

 それを強く認識したのは先日のアニバーサリーライブだ。

 いつもライブをしているシアターではなく何倍も大きな会場を借りて行われたライブは、いつもの何倍も多くの人が関わったライブになった。

 本番直前まで忙しなく走り回るスタッフさん。ミリ単位で照明の角度を調整する照明さん。残響までも計算に入れてスピーカーを調整する音響さん。汗でメイクが崩れるたびに細かく直してくれたメイクさん。細かいところまで気を使って要望などに対応してくれた衣装さん。その他の雑用やお客さんの誘導や物販のためのスタッフさん。

 私たちアイドルの何倍もの人数のスタッフさんたちがいてこそ、あのライブは成立したのだ。

 

 そのスタッフさんたちを取り仕切っていたのが、プロデューサーと、小鳥さんと、美咲さんと、そしてミクさんだった。

 

 いつもは少し頼りないプロデューサーが、時々妄想でだらしない顔をする小鳥さんが、いつも明るい笑顔で迎えてくれる美咲さんが、喋れないのに人一倍私たちに“何か”を伝えようと一生懸命なミクさんが。時にテキパキとスタッフさんに指示を出し、時にスタッフさんと一緒に会場を駆け回り、怒号を飛ばして作業をしたり、私たちのために私たちよりも真剣に仕事をするその姿は、なんだかとても新鮮で、かっこよくて、輝いていた。

 特にミクさんは普段からシアターのライブで音響や舞台演出を担当してるからか、その作業量は尋常じゃなかったはずだ。

 色んなスタッフさんにひっきりなしに呼ばれてはあの広い会場を隅から隅まで駆け回り、入念に機材や照明をチェックし、映像や音響を最後まで調整していた。喋れないというハンディキャップは私が考えているよりもずっと大きいはずなのに、ミクさんは最後まで楽しそうに作業して、私たちを笑顔でステージに送り出してくれた。

 

「なのに私、ミクさんのことを全然知らないんだなって……」

 

 自分のことに精一杯で、周りを見る余裕なんかなくて。

 大人が全員敵にすら見えていたのに、その大人に支えられてアイドルをしていたことにようやく気づいた。

 そんな自分が、なんだか薄情な人間に思えて仕方がなかった。

 ライブが終わって戻ってきた私たちアイドル一人一人を、笑顔と涙でぐちゃぐちゃになった顔で抱きしめて出迎えてくれた、あの緑の髪の事務員さんのことを私は何も知らなかったのだ。

 

 ふと、ここまで黙って話を聞いてくれている未来を見ると、なんだかニコニコしながら私のことを眺めていた。

 

「ちょっと、何ニヤニヤしてるのよ。私真剣に相談してたんだけど」

「んふふ、そっか〜〜」

 

 未来はそのニヤニヤ顔を崩さないまま言った。

 

「静香ちゃん、ミクちゃんと仲良くなりたいんだね」

 

 未来のその言葉は、何故か私の胸にストンと落ちた。

 

「この前のライブ、プロデューサーさんも小鳥さんも美咲さんもミクちゃんも、いろ〜んなスタッフさんもみんな頑張ってたもんね」

 

 あ、もちろん私たちもだけど!と未来は続けた。

 

「けど、静香ちゃんがミクちゃんのこと知りたいって気持ちは、きっと罪悪感?とか申し訳なさみたいな気持ちじゃないと思うよ」

 

 未来は屈託のない笑顔で私の顔を覗き込んだ。

 

「こんな素敵な人が近くにいたなんて!もっとミクちゃんのことを知って、自分のことを知ってもらって、仲良くなりたい!っていう、そういう気持ちだと思うよ!私が静香ちゃんと初めて会った時みたいに!」

 

 そうか。

 

 私は、ミクさんと仲良くなりたかったんだ。

 

 あまりにもシンプルで、少し子供じみた答えがまさか正解だったとは。なんだかおかしくなってしまったのか、未来の笑顔につられたのか、思わず私も笑ってしまった。

 

「仲良くなれるかしら、私も」

「なれるよ!シアターのみんなとおんなじように!」

 

 そうね、と私は未来のその言葉に柔らかく返した。

 

 とりあえず、今度またうどん屋さんに誘うところから始めてみよう。



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#3「最上静香と初音さん3」

 ミクさんはとても面倒見がいい。

 

 環や昴のやんちゃに付き合っていたり、亜美や真美のいたずらにケラケラ笑っていたり、宿題をしている子達に勉強を教えていたりと、ミクさんが誰かと一緒にいる光景は珍しくない。

 

 39プロジェクトが始まって、サポートについてくれる二人の事務員のうち一人が喋れないということで、最初こそみんな変に遠慮していたり、距離感を測りかねている部分もあった(あの志保でさえミクさんと話すときは変に気を使っていたくらいだ)のだが、ミクさんは往々にして積極的にコミュニケーションを取りに来る明るい人だ。彼女の持ち前の快活さとノリの良さはすぐに私たちとの距離をぐんと縮めた。

 

 今日だってシアターに行くと、自分の仕事をそこそこに片付けながら、琴葉さんや紗代子さんの勉強を見ているミクさんの姿があった。

 

「あ、静香ちゃん。おはよう」

「おはようございます。ミクさんも、おはようございます」

【おはよー静香ちゃん(*≧∀≦*)】

「お二人は……勉強ですか?」

「うん。そろそろテストも近いから」

「最近はレッスンや仕事も増えてきて、あんまり勉強の時間が取れないねって紗代子と話してて。少し時間が空いたからミクさんに勉強を見てもらってたの」

【二人とも熱心で教えがいがあるね!】

 

 チラと机の上を見ると、数冊の参考書とノートが広げられていて、そこに注釈やアドバイスが細かく書かれたポストイットがいくつも貼られていた。琴葉さんのでも紗代子さんのとも違うから、ミクさんの文字なのだろう。あまり癖のない読みやすい字だった。

 

「ミクさん、高校生の勉強も教えられるんですね。未来や杏奈に勉強を教えてたのは知ってましたけど」

「ミクさん教え方上手なの。解説も分かりやすくて」

【理系科目はまかせろー(((ง'ω')و三 ง’ω')ڡ≡シュッシュ】

 

 そうラップトップに打ち込むミクさんは得意げな顔をしていた。机の上の参考書は大学受験対策のレベルが高い問題集のように見える。表紙には有名大学の名前も書かれていた。

 

「大学受験レベルの問題を解けるって、ミクさんって一体何歳なんですか……?」

 

 気になった疑問をそのまま口に出して見ると、ミクさんは明らかに動揺したようにピシリと固まった。琴葉さんも紗代子さんもミクさんの年齢は気になったようでじっと答えを待つようにミクさんを見つめた。

 私たち三人からの視線から白々しく目を逸らしてミクさんは口笛を吹く真似をした。口からはスースーと隙間風に似た音が虚しく鳴るばかりだ。

 

【え、永遠の16歳ってことで……】

 

 引きつった笑いを浮かべながらミクさんは答えた。高校3年生の勉強を教えられる段階で16歳は無理があるだろうと私はじとっとした視線をミクさんに送り続ける。

 

「ミクちゃんごめんなさい、次のライブで使う衣装と道具が届いたから、一緒にチェックしてくれませんかー!?」

 

 ちょうどその時、部屋の外から美咲さんがミクさんを呼ぶ声が聞こえた。ミクさんは返事がわりに「ピンポーン!」と正解の効果音を鳴らして(ミクさんは時々こういうコミュニケーションもする)、「勉強頑張ってね!」とポストイットに書き残すと、私たちの視線から逃げるように部屋から出て行った。

 

「逃げられた……!」

「あはは、タイミング悪かったね……」

 

 私の悔しがる様子に二人は苦笑いを浮かべている。ミクさんは付き合いがいいとは言ったが、彼女は彼女でプロデューサーと同じくらい多忙な人だ。シアターの定期公演やイベント公演の演出や映像の製作など、彼女が演出面で担当している仕事は多い。その隙間の時間で私たちを構い倒しているのだから、妙な尊敬すら覚えてしまう。

 

「しかし静香ちゃん……」

「未来たちが言ってのは本当だったのね……」

 

 紗代子さんと琴葉さんは私の様子に若干の呆れを交えた声で言った。

 

「……? 未来が何か言ってたんですか?」

「最近静香ちゃんがミクさんにお熱で構ってくれないーって。翼も拗ねてたよ?」

「未来ちゃんは『私がミクさんと仲良くなりにいけばいいよ!って言ったからちょっと言い出しづらい』とも言ってたけどね」

 

 その言葉に私はえっ、と固まる。

 

「……そんなに私、ミクさんばかりでした?最近……」

「志保が『最近の静香はミクさんの姿見るとすぐ後ろをひっついていく』って呆れるくらいには」「ああああぁぁぁぁ……」

 

 志保にまでそんなことを言われるとは。顔が急激に熱くなっていくのを感じる。

 

「でも静香ちゃんの気持ちも分かるよ。ミクさん人気者だから、意外としっかり話す時間ないもんね」

「単純に、ミクさんが忙しいっていうのもありますけどね」

「でも、なんで静香ちゃんは急にミクさんと仲良くなろうと?」

「いや、元々悪かった訳じゃないですけど、あんまりミクさんのことよく知らないなぁと思って……」

 

 私のその言葉に、琴葉さんと紗代子さんはうーんと唸った。

 

「確かにミクさんのこと、私もあんまりよく知らないかも……」

「そういえば私もあんまり……恵美やエレナはよくちょっかい出しに行ってるけど」

「何してるんですかあの二人……」

 

 意外といじりがいがあるって言ってたよ、と琴葉さん。

 

「ところで静香ちゃんは、どうして控え室に?レッスン?」

「あっ」

 

 今日こそお昼に誘おうと思ってたのに声をかけそびれた。

 

 がっくりとうなだれた私に、二人は再び苦笑を浮かべた。

 

 

 

 



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#4「お昼ご飯と初音さん」

 ミクさんには時々変だなと思う時がある。

 他人の趣味や好み、癖なんかを「変だ」と言うのはあまりいいことではないとは分かっているが、それでも時々ミクさんにはそう思わせられる時がある。

 

「ミクさんまたご飯ネギですか!?ダメですよ!ちゃんと食べないと!」

 

 今だって美奈子さんにお昼のメニューに関して注意されている。このやりとりも一度や二度ではなかったはずだと記憶している。

 

 ミクさんの好物はどうやらネギのようで、彼女の食事シーンに立ち会うと必ずと言っていいほどネギを食べている。先日改めてミクさんを食事に誘ってうどん屋さんに行った時も、またもやネギを山盛りにトッピングしており、もはやネギの付け合せにうどんを食していると言っても過言ではなかった(その時の私の心境はとても複雑だった)。トッピングやおかずとしてネギを食べているならまだマシなもので、作業の隙間時間の間食や残業時の夜食の時にはネギを丸々一本丸かじりしていることも少なくはない(麗花さんでさえ言葉を失っていたくらい、その光景には強烈なインパクトがあった)。

 

 そんな偏った食生活を、765プロのカロリークイーンこと美奈子さんが見逃すはずもなく、美奈子さんは時々ミクさんに(半ば押し付けるように)お弁当を作ってきているのだった。

 

「さぁさぁミクさん!今日は回鍋肉弁当ですよ!大盛りで作ってましたから、しっかり食べてくださいねー!」

【み、美奈子ちゃん、気持ちは嬉しいけど、この3人前くらいあるお弁当は私にはちょっと多いかな〜って……】

「何言ってるんですか!ミクさんは働き者なんですから人一倍食べないと!大体今日のミクさんのお弁当またネギじゃないですかぁ!ネギだけだと倒れちゃいますよっ」

【だ、大丈夫だよ。ネギは完全食だから……】

 

 そんな訳ないでしょうと私が心の中でつっこむのと、美奈子さんがそれを口に出して突っ込むのはほぼ同時だった。二人の成り行きを見守ってた美咲さんもうんうんと頷いた。

 

「でもミクちゃんは放っておくと本当にネギしか食べないから、美奈子ちゃんがお弁当持ってきてくれると安心します……ネギが好きなのはいいですけど、そのうち倒れちゃいますよ?」

「いや美咲さん、そんなお母さんみたいな……」

【別にネギしか食べてないわけじゃないよ!】

「じゃあミクちゃん、昨日の晩御飯は何食べたんですか?」

【……深谷ネギの炒め物(¬_¬)】

「やっぱりネギじゃないですかー!!」

 

 美奈子さんはさらに目を爛々と輝かせて、お弁当を机の上に広げ始めた。当のミクさんはどうやら観念したのか苦笑いで山盛りのご飯と回鍋肉をただただ見ている。

 

 しかし、美奈子さんや美咲さんが心配するのも分かる気がする。ミクさんはスレンダーな体型をしているし、事務服もパンツスーツなこともあってか体の線が細い。モデル体型といえば聞こえはいいが、ライブ前の多忙な日が続けばいつか倒れると考えてしまうのは無理はないのかもしれない。

 

「食が細いわけではないんだけどねぇ……」

「食のネギが占めるウェイトが大きいだけでは……」

「おかわりもありますから、沢山食べてくださいね!」

【の、残ったのは持って帰ろうかな……】

 

 実際食べ始めれば、ミクさんはモリモリと回鍋肉を口に運んでいるようだし、食べられない訳ではなさそうだ(回鍋肉にネギが入ってると分かった途端ご機嫌になったが)。

 

「ミクちゃん、ほぼ毎食ネギ食べてるけど、あんまり匂いとか気になりませんよね」

【最大限気を使ってますから。周りに迷惑かけません!】

「ネギに対するそのバイタリティの高さはなんなんですか……」

「でも可憐ちゃんは時々ミクちゃんを見て『あっ……』て顔をする時があるから気をつけてね?」

【( ;´Д`)!?】

 

 ガーンという効果音を鳴らしてミクさんはオーバーな動作でうなだれた。匂いで福袋の中身を嗅ぎ分ける可憐さんを基準にしたら大変だなと、心の中で小さく笑った。

 

 ミクさんとこうして話す機会を増やしてみると、意外とコミカルでオーバーな仕草をすることが多いと気づいた。喋れないというハンディキャップの中で自分の感情を瞬間的に伝えるために、文章よりも顔文字や演技じみた動きでコミュニケーションを取っているのかもしれない。ミクさんと意識して関わろうとしていなければ、きっと気づけなかっただろう。

 

 ふと、プロデューサーにミクさんのことを聞いた時のことを思い出す。

  『ずっと歌を歌っていた』というミクさんの過去。歌っていたということは、ミクさんが喋れないのは生まれついてのものではないのかもしれない。声が出なくなった理由はなんなのだろうか。病気か、事故か、それとも他の要因なのか。

 

 …………。

 

 もしも。

 もしもミクさんが、普通に喋ることができたなら、彼女はどんな声で、どんな口調で、どんな言葉を選んで話すのだろう。

 

 回鍋肉を頬張るミクさんを見ながら、私はぼんやりとそんなことを考えた。

 

 

 



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#5「お仕事と初音さん」

 普段空いた時間で私たちアイドルとコミュニケーションを欠かさず、時にノリよく遊んでくれたり時に相談に乗ってくれたりしてくれるから忘れがちだが、ミクさんはあれでなかなか仕事が忙しい人だ。

 

 そもそも765プロは職員の数が少ない。アイドルは52人いるのに対して職員は社長を含めてたった5人。律子さんが時々プロデューサー業務を兼任していたり、元々事務員志望だったこのみさんが臨時で書類を捌いている(事務仕事をしているときはアイドル業とは別にお給料が発生しているとはこのみさん談)とはいえ、少ない人数で業務を行うために、765プロの事務員はそれぞれ担当する業務が分かれている。

 

 プロデューサーは営業や企画で私たちの仕事を取ってくる。小鳥さんは経理や書類業務を。美咲さんは小鳥さんの補佐と衣装の製作や監修を。そしてミクさんは公演の演出や映像・音響諸々を担当している。

 

 こうしてみるとライブがなければ比較的暇なのではないかと思ってしまうが、公演のセットリスト一曲ごとに演出を考えたり、演出に使う映像を作ったり、それについてプロデューサーや私たちを交えて打ち合わせをしたり、公演当日には機材の設営から音響周りのチェックを行ったりと、その作業量は膨大だ。加えて事務作業が回らないときはそっちを手伝ったり、ライブ前には作業の合間を縫って私たちのレッスンを見てくれたりと、ミクさんの業務は多岐にわたっている(事務員というよりはもはやお抱えのクリエイターと呼んだ方がいいのかもしれないが)。

プロデューサーや小鳥さんたちはミクさんの負担が大きいのではと心配しているが、本人曰く好きでやっているからと笑っている。

 

 そんな訳で、シアターの定期公演を2週間後に控えた今日、ミクさんは1日パソコンにかじりついて作業しているようだ。午前中に一度劇場に顔を出してから午後のレッスンを終えて劇場に戻ってみると、私が来たことに気がつかないくらい集中しているのか、モニターを見ながらあーでもないこーでもないとキーボードを叩いている。

 ミクさんは一度集中しだすと止まらないと色んな人が言っていた。あるときは昴と海美さんが野球をし出した部屋で平然と作業をし出したと言っていたし、ある時は亜美と真美にいたずらされても気づかずパソコンとにらめっこしていたという(あまりに反応がないものだから、途中からミクさんに気づいて貰うためのギリギリを攻めるチキンレースになっていたと後に二人は語った)。

 

 だから、私が特別静かにしなくてもミクさんは気づかないんだろうけれど、集中している人の側で普通に音を立てて過ごすのはどうにも気が引けたので、私はなるべく忍び足でソファまで移動すると、しばらくミクさんの作業を眺めてみることにした。

 いつも私たちと接する時のニコニコとした表情と、目の前の無表情にモニターを見て目を細めている表情があまりにもギャップがあってドキッとする。ミクさんの机の上には次の公演の資料やプロデューサーや業者さんと打ち合わせをした内容がまとめてあるであろう書類が乱雑に広げられていて、時折ミクさんはそちらにも視線を向けながら作業を続ける。午前中からこの調子で作業していたのなら、もしかしたら昼食も取らずにずっと作業をしていたのかもしれない。

 

 ふと、どうやら作業が一段落したのか、うーんと伸びをしたミクさんとパッチリ目があってしまった。ミクさんはいつの間にかいた私に少し驚いたようだが、にっこりと笑って口の形でお疲れ様、と伝えてくれた。私もそれに返すように「お疲れ様です」と小さく返した。

 

【来てたなら、声かけてくれればよかったのに。お疲れ様】

「随分集中してましたから、声かけるのも悪いかなと思って……。今は何を?」

【次の公演でみんなの曲中に流す映像を調整してたの。プロデューサーさんと打ち合わせして、実際のアイドルのパフォーマンスに合わせた映像にしてみようって話になってね】

「……セットリスト全曲分、ミクさん一人でやるんですか?」

【ほとんど私が言い出したことだからね!そんなに大きな変更もないから言うほどじゃないよ?】

「せめて休憩は取りながらにしてくださいね……。美奈子さん、また大きなお弁当作って来ますよ」

【あはは……気をつけるよ】

 

 分かっているのかいないのか、ミクさんは曖昧な笑みでラップトップにそう打ち込んだ。

 

【そうだ、さっき静香ちゃんのソロ曲の映像も調整したんだ。時間あるなら、ちょっと見てくれない?】

「え、いいんですか?」

【本人からの意見が一番聞きたいからね!(゚∀゚)】

 

 ミクさんは動画の編集画面を立ち上げて映像をモニターに映した。調整したと言う映像は確かにエフェクトの出るタイミングだったり色合いだったりとが以前のものよりも手が加えられているように思えた。

 

【サビの入りに合わせるようにしてエフェクトを追加してみたんだけど、どうかな】

「そうですね……ここのダンスが上に腕を振り上げるような動きなので、音よりもそっちに合わせた方が映像も映えると思います」

【あー、そこプロデューサーさんとも話したんだよねー。もう一回プロデューサーと相談してみるね】

 

 こういった映像の小さな打ち合わせをするのは初めてではないので、私は思った意見をストレートに伝えた。ミクさんは意見されて気分を損ねるような人ではないし、物作りに懸ける姿勢は本物だ。必ずアイドルにも意見を聞いてなるべく要望を取り入れようとしてくれるので安心して意見が言える。

 

 そうして二人でしばらくまたあーだこーだと意見を交わしあっていると、先日のあの疑問が私の中に不意に蘇って来た。ミクさんが以前歌を歌っていたことの真偽を確かめたいと言う気持ちが、再び浮上してきたのだ。

 何度か聞こうとタイミングを伺っていたのだが、さすがに不特定多数がいる状況でプライベートな、それもハンディキャップに関わることを無神経に聞く気にはなれなかった。幸い今ここにはミクさんと私だけだし、外に他の人の気配もない。質問するにはちょうどいいかもしれない。

 

「あの、すみません。ミクさん」

【ん、どうしたの(・・?)】

「ミクさんは––––」

 

 765プロに来る前に、歌を歌っていたんですか。なんで、声を失ってしまったんですか。

 

 そう聞こうとしたけれど、ミクさんのその瞳を前にして、まっすぐ純粋にこちらを見るその視線を前にして、私のその質問は声になるのをやめてしまった。

 今、ミクさんに声のことを聞いたら、彼女の歌のことを尋ねてしまったら、なんだかミクさんが次の日にはどっかにふっといなくなってしまう気がした。

 

「––––いえ、なんでもないです。すみません」

 

 私は口をついて出かけた質問を誤魔化すように、下手な笑みを浮かべた。

 

 ミクさんは不思議そうな顔をしたが、またモニターに目を移すと私と意見を交わす態勢に戻った。

 

 私はこの日、結局ミクさんに同じ質問をする気にはなれなかった。



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#6「ピアノと初音さん」

 事務所に顔を出して見ると、いつものデスクにミクさんは居なかった。

 

 お休みをもらっているのかと思ったが、デスクの上にはミクさんの私物や飲みかけのカップが並んでいて、さきほどまでそこで作業していた痕跡を残していた。

 

「あ、静香ちゃん。おはようございます!」

「おはようございます、美咲さん」

 

 書類整理をしていた美咲さんにあいさつをして、ぐるりと部屋を見渡す。私の他に誰か来ていると思っていたが、どうやら美咲さん一人だけのようだ。

 

「ミクさんは今日はお休みですか?体調を崩したとか……?」

「ミクちゃん?あー、大丈夫。ちゃんと来てますよ。ただ、作業が行き詰まっちゃったみたいで……」

「あぁ……」

 

 その美咲さんの言葉でミクさんがどこにいるのか察しがついた。

 

「じゃあ私、少しミクさんの様子を見て来ます。この調子だとまた引きこもって作業しそうですから」

「お願いね静香ちゃん。できれば、ちゃんとご飯食べるように言っておいてくれませんか?」

「……またお昼抜いたんですか、あの人」

「集中しちゃうといつものことだから……」

 

 これには美咲さんも呆れ顔だ。あの人の集中するとそれ以外のことがおざなりになるのはいつものことだが、ほどほどにしてもらわないと本当に倒れてしまう。

 これは後で美奈子さんに報告だな、と心の To Do リストに新たに一つ付け加えると、私はミクさんのいる部屋に足を向けた。

 

 

 いつだったかミクさんを765プロお抱えのクリエイターなどと評したことがあったが、創作力や発想力が求められる作業をしていると、やはりミクさんも作業に行き詰まることがあるようだ。そうなった時、ミクさんはシアターにある防音室に引きこもる。集中すると周りの音なんか気にならなくなるミクさんだが、ここに引きこもる時は集中力が散漫になっている時のようで、自ら外部の音をシャットアウトしているようだ。

 

 だけど、ミクさんがここに引きこもる理由はもう一つある。

 

 防音室の前まで来ると、不自然にくぐもったピアノの音が漏れてきた。ドアについている小窓から中の様子を覗くと、やはりピアノを引いていたのはミクさんだった。

 シアターにいくつかある防音室には、小さなピアノが一台ずつ備え付けてある。普段はここでボイストレーニングや台本読みなどをやっているのだが、ミクさんは時々ここを作業スペースとしている。そして作業が行き詰まった時に、気晴らし代わりにピアノを弾いているようだ。そして今も仕事が手につかないようで、緑の髪を柔らかく揺らしながらミクさんはピアノを弾いていた。

 ドアの小窓からしばらく様子を眺める。漏れてくるピアノの曲はミクさんの気分でコロコロ変わる。モーツァルトを弾いてるかと思えば765プロの曲を弾いたり、歌謡曲になったかと思えば私の知らないバラード調の曲に変わったりする。

 私はミクさんの弾くピアノが好きだった。演奏技術的なことなら私の方がうまく弾けるだろうが、ミクさんのピアノを好きな曲を好きなように自由に弾いている様は、なんだかミクさんらしい気がして時々聴きたくなるのだ。

 まぁ、あまり聞く機会がないのが残念なのだけれど。

 演奏が一区切りするのを待って、私は強めにドアをノックして部屋に入る。音に気づいたミクさんがこっちを振り返って迎えてくれた。

 

【わーお疲れ静香ちゃん!どうしたのわざわざ(。・ω・。)】

「お疲れ様です。美咲さんから、ミクさんがまた引きこもってるって聞いて……作業、あんまり進んでないんですか?」

【そうなんだよ〜。演出案についてなかなかまとまらなくて……orz】

「美咲さんからおにぎり預かってきました。またお昼抜いたんですか?」

【あー、そういえば食べてないかも……】

「ほら、とりあえず食べて、一回休憩してください。脳に栄養回りませんよ」

【あはは、さっきまで休憩してたみたいなものだけどね】

 

 片手でラップトップに文字を打ち込みながら、ミクさんはやさしく鍵盤を撫でた。白く長い指が軽く触れて、小さくソの音が鳴った。

 

「ミクさん、ピアノだけじゃなくて他の楽器も弾けますよね。ギターとか」

【うん。ギターにベースにドラムに、あとサックスとか】

「それだけできたら、ミュージシャンとか普通に目指せそうですけど……」

【あはは、ありがとう。でも器用貧乏なだけだよ?静香ちゃんもピアノ弾けるんだよね?】

「えぇ、あとヴァイオリンも」

【いいねぇ。今度セッションでもしようか。ジュリアちゃんも誘って】

 

 ルンルンとわざわざ文字で打ち込んでミクさんはニコニコと笑う。作業の邪魔をしちゃいけないと少し罪悪感があったが、気分転換になったのなら結果的によかったのかもしれない。

 

 少しして、またミクさんはピアノを弾き始めた。さっきと同じように、曲がジュークボックスのようにコロコロ変わるピアノ。

 バラード、ロック、クラシック、またロック。

 知らない曲が時折混じるピアノを、ミクさんは小さく微笑みながら弾いた。

 

 私はミクさんが作業を再開するまでの束の間の旋律を、隣で横顔を見つめながら聞いていた。



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#7「未来と翼と初音さん」

「残念だったね静香ちゃん!」

「ミクさんは今日1日私たちが独占しちゃうよ〜♪」

 

 公演前にあまり根をつめすぎるのも良くない、というプロデューサーの提案で丸一日オフになったある日。

 本番が近いのに休むのは性に合わないと、自主レッスンのために劇場に行くと、未来と翼が何やらバカなことを言い始めた。

 ミクさんを両側から挟み込むように腕を絡ませてひっつきながら、朝一番に劇場に来た私に二人は堂々と宣言してみせた。

 ミクさんはと言うと、そんな二人の発言に目をまん丸にしてワタワタとしている。

 

「あぁ、もう。いきなり変なこと言わないの。ミクさん困ってるじゃない」

「困らせてるんだもんねー」

「ねー♪」

「なおさらダメじゃない!困らせないの!」

 

 開き直った困らせる発言に少し大きな声を出してしまった。二人に両側からサンドイッチのように引っ付かれてるミクさんは、手持ちのタブレットに【ヒャー\(//∇//)\】と大きく顔文字を出しながら頬を紅らめている。恥ずかしがって照れてはいるが意外と余裕があるのかもしれない。

 

「そもそもなによ、独占って……」

「だって、静香ちゃん最近私たちに全然構ってくれないんだもーん」

「寂しかったんだもーん」

 

 面倒臭い彼女か、と思わず突っ込みそうになるのをぐっとこらえる。以前にも指摘されたが、周りから見ると最近の私は本当にミクさんといっつもいるようだ。あぁ、もうミクさんも他人事のように【仲いいねー(´ω`)】なんて見てないでください。

 

「でも今日1日ミクさん独占するのは本当だよ?」

「これから買い物行くんだもんねー」

【えっ、なにそれ聞いてない( ゚д゚)】

 

 ミクさんは二人の独占発言を冗談だと思ってたのか、二人の言葉に思わず真顔になっていた。今日普通に出勤しているということはミクさんにも仕事があるということだ。ただでさえ公演前でやることも多いだろう裏方のミクさんにそんな時間はないだろう。

 

【いやー、デートのお誘いは嬉しいけど、ちょっと今はやることが多くて……】

「あ、ミクちゃん未来ちゃんたちとお出かけですか? いいですねぇ、行ってきたらどうですか?」

 

 しかし意外にも、私たちのやりとりを見ていた美咲さんからゴーサインがでた。

 

「ミクちゃんが最近休んでないって小鳥先輩も社長さんも心配してましたよ?ちょうどいい機会ですから、未来ちゃんたちと気分転換してきたらどうですか?」

【いやいや、ライブが近いのに遊んでられないですよ〜……】

「もう演出案もまとまって、今日は軽い書類整理だって、ミクちゃん昨日言ってたじゃないですか」

【で、でも、細々したところをもうちょっと煮詰めたいし……】

「そうやってこの間半日部屋に篭りきりだったのは誰ですか?閉じこもってばかりだといいアイデアも出ませんよ?」

【み、美咲さんに今日の仕事を全部押し付けるわけには……】

「誰かさんが土日も休まず劇場に来てるおかげでお仕事も落ち着いてますから安心してください」

【( ´;ω;`)】

 

 しっかり者の姉に叱られる妹みたいなやりとりが続き、ミクさんが若干半泣きになっている。確かにいつ事務所に来てもミクさんがいなかったことはほとんどないとは思っていたが、まさか休みも返上で常習的に仕事をしていたのか。

 しかし美咲さんにここまで言われても、ミクさんはなかなか首を縦には振らなかった。仕事半ばで放り出すことになる後ろめたさがあるのか、なんとか言い訳を出そうと手元のラップトップに文字を書いては消して書いては消してを繰り返していた。

 

「ねぇねぇミクさん」

 

 そんなことをしていたミクさんを見て、ついに翼が動いた。

 

「ミクさんは、私たちと出かけるの、いや?」

 

 服の裾を引いて、時々プロデューサーにするような甘えるような上目遣いで、翼はミクさんにそう尋ねた。

 当然、ミクさんがそれに耐えられるはずもなく、ミクさんは【行くうぅ!!(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾】と悶えながら返事をしていた。

 それを見た未来と翼はいえーいとハイタッチ。

 そうしてあれよあれよとミクさんと未来たちは支度を整え出かけてしまった。

 

「……えぇ?」

「なんだか嵐のようでしたねぇ」

 

 残ったのは呆然とする私とミクさんたちを微笑ましく見送った美咲さんだけだった。

 

「……私も」

「ん?どうしたの静香ちゃん」

 

 

 

「私も本番終わったらミクさんと遊びに行きます……!」

 

 私の静かな決意に、美咲さんは「きっとミクちゃんも喜びますよ」と微笑ましいものを見るように笑うだけだった。



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#8「裏方の初音さん」

 

 定期公演を前日に控えたとある日。

 ステージの設営のために多くの人がバタバタと走り回るその様子に、劇場はいつもとは違った忙しなさを見せていた。

 アニバーサリーライブ後の初めての定期公演は、アニバーサリーライブで初めて765プロシアターを知った人たちをがっちりファンとして捕まえる大事な公演になる、ということはプロデューサーから聞いてはいたが、ステージの設営をしているスタッフさんたちを見て、それを肌身で実感している。

 設営のためにあちこち動き回ってるスタッフの中心で絶えず指示を出し続けているプロデューサーの様子を見れば、今回の定期公演がいつもより力の入ったものであることが分かる。

 もちろん会場はいつも定期公演を行っている劇場のステージだし、スタッフさんの顔ぶれも一年間劇場でのライブを支えてくれた面々だ。だけど、劇場に漂う空気が、スタッフさんたちの間に走る緊張感が、やはり次の公演がいつものライブとは違うことを示していた。

 

「初音さーん、レンタルの機材今届きましたー!」

【スピーカー類は打ち合わせ通りステージ周りにとりあえず運び込んでください! 照明類の機材が届いたらまた教えてください!】

「えーと、……はい、わかりました!」

【機材を全て運び込んだら音響機材は設営始めてください! 音響の設営と並行してすでに設置してあるモニター類のテスト始めるので映像班は十分後に集まってくださーい!】

 

 もちろん、ミクさんも忙しなく会場を駆け回るスタッフの一人だ。ミクさんが喋ることができないことを知っているスタッフさんがほとんどなので、チャットを使ったコミュニケーションも比較的スムーズだ。機材の調整などのリアルタイムでの指示が必要な場合は美咲さんやプロデューサー、あと音響機材を覗きに来たジュリアさんとかが初音さんの指示を代弁(文字通りの意味だ)するのだが、細かい指示がいらない基本的なことは私たちとコミュニケーションを取るときと同じくチャットで行っているようだ。今もモニターのテストを行うと言うことでスタッフさんに指示を出した後、ミクさんは美咲さんを探しに行った。

 パタパタと走るリズムに合わせて、彼女の長いサイドテールが右へ左へゆらゆらと揺れる。私はステージの上からその翠の軌跡を目で追いかける。私の知る中でも、映像や音響の機材をいじっている時のミクさんは特にイキイキしているように見える。あの表情はうっかり百合子に最近オススメの小説を聞いてしまった時の表情に似ている。一度ミクさんにそういう話を聞いてみたいと思ってはいたが、いざ聞くとなったら多少の覚悟は必要になるかもしれない。

 裏手に行くミクさんの背中を見送っていると、静香、と背後から声がかかった。振り返ってみると、不機嫌そうな表情をした志保が立っていた。

 

「ミーティング、もう始まるわよ。プロデューサーさんが呼んで来いって」

「えっ、もうそんな時間?」

 

 慌ててスマートフォンで時間を確認すると、予定されていたミーティングの五分前だった。軽く設営の様子を覗きに来たつもりだったのだが、思っていたよりも長く居座ってしまっていたらしい。

 

「ごめんなさい、すぐ行くわ。探させちゃった?」

「別に。多分初音さんのところだろうってみんな言ってたわ。プロデューサーさんも、劇場のステージにいるだろうって言ってたし」

 

 それを聞いて私は二の句が継げず、うっ、と言ううめき声に似た何かしか喉から出てこなかった。どうやら私はこの数ヶ月で、ミクさんの後ろを付いて回る雛鳥のように認識されているようだ。

 

「前にも言われたけど、そんなに私、ミクさんにべったりかしら……」

「私でさえ一周回って微笑ましく思えてくるくらいにはべったりよ、最近。ほどほどにしないと、鬱陶しく思われちゃうんじゃない?」

「なっ、み、ミクさんはそんなこと思わないわよ!!」

「それぐらいあなたと初音さんは一緒にいるのよ。それに、そろそろあの二人も拗ねちゃうんじゃないの?」

「……それについては、もう一回終わったわ」

「あら。手遅れだったのね」

 

 そう言うと、ここで初めて志保はクスクスと図星を突かれた私の表情を見て面白がるようにクスクスと笑った。今度は私がむすっとした表情になる番だったようだ。

 

「早くミーティング行きましょう。もうすぐ始まるんでしょ」

「ミーティング忘れてたのは静香だったじゃない」

「うるさいっ」

 

 私と志保はステージを後にして、早足にミーティングへ向かった。

 

 

 明日の公演で、通常のステージパフォーマンスの他、新しい試みとしてピアノの弾き語りをやることに決まったのは、アニバーサリーライブが終わってすぐのことだった。二年目からは今までよりも様々な挑戦をしていくということで、その先駆けとして、私と歌織さんによるピアノの弾き語りが企画されたのだ。

 弾き語りのリハーサルはステージパフォーマンスのリハーサルとは別口でやるようで、MCや通しのリハーサルが終わった後に、私と歌織さんはステージに残っていた。

 

「私たちの弾き語りはライブの中盤ごろだったけど、リハーサル別になっちゃって大丈夫かしら……?」

「機材の搬入の関係で、どうしても後になっちゃったみたいです。あとでプロデューサーに流れを確認しに行きましょう。……それに、照明や演出も、微調整したいって言ってました」

「ミクちゃん?」

「はい」

 

 ステージの上に視線を向けると、ミクさんが照明さんに指示を出しながらピアノの位置を調整していた。映像演出も私たちのために新しく作ったとも言っていたし、ミクさんとしても私たちの弾き語りのパートには力を入れているようだ。

 

「ミクちゃん、すごいわね。私はあんまり設営の様子って見ないのだけれど、いつもあんな風に?」

「はい、いつもです」

 

 パタパタと右へ左へ駆け回りながら、ミクさんはテキパキと指示を出す。

 今日の公演のときも、アニバーサリーライブの時も、それより前の定期公演の時も。

 同じようにミクさんは他のスタッフさんたちと一緒に私たちのための舞台を作り続けていた。

 

「歌織さん」

「うん?」

「明日……がんばりましょう」

「……ふふっ、えぇ。成功させないとね」

 

 私のすこし震えた声に、歌織さんは少しだけ笑って応えた。



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#9 「歌声と初音さん」

 鳴り止まない歓声、万来の拍手、揺らめく色とりどりのペンライト。

 アンコールを終えたステージから見る景色を、涙で滲みそうになる目を拭って目に焼き付ける。

 隣にいる未来と翼と目を合わせお互いに微笑みあった。

 

『本日はご来場、ありがとうございました!!』

 

 皆で声を合わせ、客席に向けて深々と頭を下げた。

 迎えた本番、定期公演のステージは成功に終わった。

 

 

 ダンスも歌も、ピアノの弾き語りによるソロステージも、大きなミスなく終えられたことに確かな達成感を感じていた。楽屋に戻った今も昂ぶった心と火照った体の熱は収まる様子を見せない。

 弾き語りが終わったステージ裏でいきなり私に抱きついてきた未来を始め、シアターのメンバーやスタッフの方々から沢山感想をもらえたことがその証明だろうか(志保からもぶっきらぼうに「よかった」と一言貰えたくらいだ)。

 何より、アニバーサリーライブの時と同じく、ミクさんはライブが終わった私たちを涙をこらえた顔で迎えてくれた。「ライブの度に泣いてたら世話ないよ〜」と恵美さんにからかわれ【そりゃ泣くよ〜】と結局泣き出してしまったミクさんを見て、私たちは思わず声を揃えて笑ってしまった。

 ライブ後の楽屋ではみんなで写真を撮ったり着替えを始めたり、ライブの反省点を話し合ったりと思い思いに過ごしていた。かく言う私もライブ後の熱に浮かされしばらくぼーっとしていてようやく着替え始めたところだ。衣装はクリーニングに出す都合上早めに着替えるように、と律子さんから言われていたのを思い出し、少し手を早める。「律子さんに怒られるわよ」と未だ着替えていないメンバーに声をかけると、一様に「しまった」という顔をして慌てて彼女たちも着替えに入った。

 そのタイミングで、楽屋ドアが控えめにノックされた。「みなさん、今入っても大丈夫ですか?」とドア越しに美咲さんの柔らかい声がした。

 

「お疲れ様です。今着替えている人もいるので、できれば素早く入っていただけると……」

「あぁ、いえ。中に用があるわけじゃ無いので……ミクちゃんを探してるんですけど、そちらの部屋にいますか?」

「ミクさんですか? いえ、いませんけど……」

 

 念のため楽屋の中をぐるりと見てみるが、特に遮るものや部屋が別れている訳では無い。なにより、ライブ後でテンションが有り余っているこのメンバーの中にミクさんがいたら、色々とちょっかいをかけられているだろう。

 

「そうですか……それじゃあ、もし見かけたら私が探してたと伝えてくれませんか?」

「分かりました。……私、もうすぐ着替えも終わるので、よかったら探してきましょうか?」

「本当ですか? ……それじゃあお願いしてもいいですか? ミーティングルームでプロデューサーさんと社長さんが呼んでいると伝えてもらえるだけでいいので」

「分かりました。着替えが終わったら探しに行きます」

 

 お願いしますね、と言い残して、美咲さんはパタパタと小走りに離れていった。私は途中だった着替えを手早く済ませるためカバンの中から荷物を取り出す。ふと視線を感じて振り返ると志保が呆れ顔でこちらを見ていた。

 

 「なによ志保、変な顔して」

 「……いや、ほんと貴女って初音さんのことになると……」

 

 その言葉にハッとして周りを見ると、控室にいた皆はニヤニヤとした表情で私を見ていた。

 

 「いや、違っ、だって何も言わずいなくなっちゃうなんて心配じゃない!?」

 「はいはい、私も着替え終わったら一緒に探してあげるから、貴女はさっさと行ってきなさい」

 

 呆れたように志保は言うと、野良猫でも追い払うような仕草で私に探しに行くように行った。そのぞんざいな扱いについて言いたいことはあったが、それは後回しだと言うことはわかっていたのでグッとこらえた。

 私は簡単に着替えと身支度を済ませて楽屋を出た。いつものミクさんなら今頃機材の搬出をしているか、今日の演出の反省会をスタッフさんと行なっているころなのだろうけれど、美咲さんもそれは知っていることだろうから、そのどちらにもミクさんはいなかったということなのだろう。

 とりあえず手当たり次第に近くの部屋を覗いてみたが、当然そこにミクさんの姿はない。ならば一応念のためとステージ袖まで戻ってみたが、そこでは機材の搬出の作業を進めているスタッフさんたちの姿があるだけだった。近くのスタッフさんの何人かにミクさんのことを尋ねてみたが、やはりミクさんの行方については知らないようだった。

 

「あ、いたいた。静香ちゃん!」

「歌織さん……?」

 

 次はどこを探そうかと考えていると、後ろから歌織さんがパタパタと駆け寄ってきた。

 

「私も着替えが終わったから、ミクちゃんを探そうと思ったのだけど……もう見つかった?」

「あ、いえ、まだ見つけられていなくて……いそうなところは粗方探したつもりなんですけど……」

「そう……プロデューサーさんもミクちゃんを探してて、携帯に連絡しても返事がないからって私も探しに来たの。でも、静香ちゃんが見つけられないとなると、ミクちゃんどこにいったのかしら……?」

「あの、歌織さん。みんなもそうなんですけど、私のこと一体なんだと思ってるんですか……?」

 

 近いうちに私に対するこの認識について、一度抗議する必要があるかもしれない。私が心の中でそう決めたところで、「そういえば」と、歌織さんは何かに気づいたようだった。

 

「今機材の片付けをやってるみたいだけれど、まだ運び出し自体はやってないのよね?」

「え……? あぁ、そうですね。トラックの積み込みもまだ始まってないみたいですけど……」

「私もさっきステージの様子を見に行ったのだけど、ピアノがなかったの」

「ピアノですか?」

 

 歌織さんが言っているピアノは、今日の公演で使ったグランドピアノのことだった。

 私と歌織さんの弾き語りのために用意されたグランドピアノだが、流石にポンと購入するだけの予算はプロジェクトには無いようで、今日のためにレンタルされたものだったはずだ。

 

「確か私たちの弾き語りが終わったあと、袖にはけてたはずですけど……無かったんですか?」

「えぇ、私が行った時には……。打ち合わせの時に、ピアノはいつものところとは別の業者さんに借りたってミクちゃんとプロデューサーさんが言ってたから、まだ運び出されてないはずなんだけれど……」

「……もしかしたら、ピアノの運び出しにミクさんが付き添ってるのかもしれないですね」

 

 今回の公演では、私たちの弾き語りのパートについて、ミクさんは特に力を入れていたようで、ピアノのレンタル業者と打ち合わせをしていたのもミクさんだったはずだ。業者さんと搬出の段取りを改めて確認していても不思議では無い。

 歌織さんもその考えに至ったようで、お互いに目を合わせると、自然と頷きあった。

 

 

 グランドピアノを一時的にでも置いておける広さのある部屋は、多くある劇場の部屋のなかでも限られている。ましてや、搬出のためにある程度出入口へ近いところになるとなおさらだ。さっきまでミクさんを探し回っていたのは比較的小さめの部屋に絞っていたので、そこまで手が回っていなかったのだ。

 部屋の手前まで行くと、件の部屋の扉から蛍光灯の光が漏れていた。中でなにやら作業をしているであろう音も聞こえて来たので、少なくとも中に誰かいることは間違いなかった。

 私と歌織さんはほっと胸をなでおろした。中に誰がいるかはまだ分からないのだが、もう私たちのなかではミクさんが部屋にいるものだと半ば確信していた。

 

「よかった、やっとみつかったわね」

「本当です。……ミクさんも、持ち場を離れるなら一つ連絡でもしてくれればいいんです」

「ふふ、つまり心配してたのね、静香ちゃん?」

「……さぁ、ミクさんに声をかけて私たちも戻りましょう。この後私たちもミーティングあるんですから」

 

 私は歌織さんの言葉をワザとらしく無視して、扉をノックしようとした。

 

 La-------…………

 

 しかし、部屋の中から聞こえてきた「誰か」の歌声を聞いて、思わずノックする手が止まった。後ろを思わず見ると、歌織さんも目を見開いて驚いていた。

 私は音を立てないようそっと部屋の扉を少しだけ開いた。隙間から中を覗くと、やはり部屋の中にいたのはミクさんだった。

 彼女はピアノの鍵盤をポンと一つ叩くと、鳴らした鍵盤と同じ音階の音を歌っていたのだ。

 

 ド、レ、ミ、ファと一つ一つ音階を確かめるようにしながら、ミクさんは確かに歌っていた。少しかすれて、音階が上がって行くにつれて喉が締まり苦しそうな声に変わっていったが、まるで一条の光のようにまっすぐなそれは、確かに歌声だったのだ。

 私と歌織さんは、しばしその光景を呆然と見ていた。お互いに何も言えなかった。扉の隙間からはミクさんの背中しか見えなかったが、声を出し歌う彼女の背中からはどこか鬼気迫るものがあり、声をかけることがためらわれた。

 だが、その沈黙も長く続かなかった。鍵盤の音階がラの音を叩いた直後、まるで発作でも起きたかのようにミクさんは激しく咳き込んだ。最初はピアノにもたれ掛かるように耐えていたが、すぐにその場にしゃがみこんでしまった。

 

「ミクさん!」

「ミクちゃん!」

 

 そこまできてようやく、私たちは部屋に駆け込んだ。歌織さんはすぐに「大丈夫?」と声をかけ、落ち着かせるように背中をさすっていた。私たちに気づいたミクさんは、いたずらがバレた時の子供のように、バツの悪そうな、気まずそうな苦笑いを作ったが、すぐにまた咳き込んでしまい苦悶の表情を浮かべた。

 

「私、すぐにプロデューサーと風花ちゃん呼んでくるから、静香ちゃんミクちゃんをお願いね!」

「あ、はい! わかりました」

 

 歌織さんはそう言い残すと走って部屋から出て行ってしまった。

 部屋には未だ苦しそうに咳き込むミクさんと私だけが残った。

 言いたいことがたくさんあるはずなのだが、この状況でミクさんに質問をぶつけるわけにはいかず、私はただミクさんの背中をさすり続けるしかなかった。

 



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#10 「初音さんの消失」

 歌織さんが風花さんとプロデューサーを連れてくる頃には、まだ浅く呼吸を繰り返しているものの、ミクさんの様子はすっかり落ち着いていた。

 

 【ちょっと風邪気味だっただけだから】と二人相手に誤魔化してはいたが、それが嘘であることは私と歌織さんだけが知っていた。

 歌織さんもミクさんの調子が悪いくらいにしか伝えていなかったのか、風花さんもプロデューサーもミクさんの言葉を疑うことはなかった。ミクさんの働きぶりは事務所の皆が知るところであったので、過労が祟って体調を崩したと判断され、ミクさんはしばらくお休みをとる運びとなった。

 呼ばれてきた風花さんやプロデューサー、騒ぎを聞いてかけつけたこのみさんや律子さんに「ミクさんは働きすぎだ」と怒られながら、ミクさんは申し訳なさそうに早退していった。その背中を見送ったあとも、私は数十分前の出来事を忘れることができずにいた。あまりにもぼーっとしすぎたからかプロデューサーや他の子に(なんとあの志保にまで憎まれ口なしに)心配させてしまった。ライブの打ち上げや家に帰ってからもこの調子だったのは、事務所のみんなや家族に気を使わせてしまったかもしれないと後から反省した。

 

 だけどそれほど、今日のあの出来事は私にとっては衝撃的なことだったのだ。

 

 しゃべれないはずのミクさんの歌声は、彼女が早退した後も打ち上げが終わり帰宅した後も耳に焼き付いた様に頭から離れなかった。

 ミクさんは話すことができないんじゃなかっただろうか。意外と幼さを残した声をしていた。どうして今までしゃべらなかったのか。歌うことは好きなんだろうか。私たちの歌を聞いていつも楽しそうにしていたからきっと好きなんだろうなぁ。プロデューサーや社長はこのことを知っているのだろうか。

 

 つまるところ、私はミクさんの『声』に心を奪われてしまっていたのだ。

 

 ただ音階をなぞるだけの歌声に心を動かされるという経験は、千早さんの歌声を聞いたとき以来の衝撃だった。

 だけど、今の今まで歌声どころかしゃべることさえ人前でしなかったということは、それなりの理由があることは明確だった。

 プロデューサーや社長ですら把握していない事情に、はたして付き合いが長いとは言えない自分が軽々と踏み込んでいいものなのだろうか。

 自室のベッドに寝転がりながら、あーでもないこーでもないと自問自答する時間が続いた。こういう時、未来や翼の行動力や(良い意味で)考えなしで素直なところが羨ましくなる。二人に相談してみようかと思いスマートフォンを手に取ってみるが、「もっと素直になろうよ!」「当たって砕けろ!」といった答えが返ってくるのは簡単に予想ができた。

 

「──そうよね、こういう時は素直に、よね」

 

 こういうときに変に捻くれてしまうと余計に拗れてしまうというのは、これまでのアイドルの活動を通して分かったことだ。こう言う時こそ変に背伸びせず「子どもらしい素直さ」を出してみてもバチはあたらないだろう。

 

 今度事務所に行ったら、ミクさんに聞いてみよう。

 

 ──しかし、予め知らされていたお休みが明けて一週間経っても、ミクさんは事務所に顔を見せることはなかった。

 



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