アイドルマスターの世界で、信仰対象としてアイドルを (だんご)
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アイドルマスターの世界で、信仰対象としてアイドルを
アイドルマスターの世界に転生した。
いや、正しくいうと気がついたら『私』は「私」になっていたのだ。
『』という存在はこの世界から消えてしまい、今では「」という一人の人間が存在している。
そして「」という人間が存在していた世界は、かつて『』という人間が存在していた世界ではなかった。
違う世界に私は生まれ、違う世界に私は生きている。つまりそういうことである。
その違う世界は私が知っている世界であった。
アイドルという存在が、我々の知る以上の存在となっている世界であった。
踊り、歌い、演じ、笑う。それは社会を動かし、人々を熱狂の渦へと叩き込む。国、年齢、身分、精神性に関係なく人々を魅了するアイドルの存在と、それを応援する人々の姿は決して前世で見られるものではなかった。
実は、私も今生ではいわゆるアイドルになっている。
ただそれは「アイドルマスター」らしいアイドルではなく───
「佐藤様。お言葉を、我々にお言葉を!!」
「あああああ、佐藤様!佐藤様!佐藤様ぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
どちらかといえば、崇拝の対象のアイドルである。
扉の先には大勢の人が待ち受けているのだろう。多くの人の気配を感じ、さらには異常な程に本能をむき出しにした声が耳に飛び込んでくる。
「佐藤様、信徒の方々がお待ちです。どうぞ」
そう言って横に連れ添っている男性は、私の父親である。もう一度言おう、私の父親である。父親なのに私を「様付け」しているのだ。
加えて言うのであれば、後ろで秘書のように静かに佇み、私を拝むような特別な視線を向けているのは母である。母親なのに向けるのは子を見る慈愛の瞳ではないのだ。崇拝や、畏敬の念なのである。
私が生まれて成長した家は、一般の家庭であった。
しかし、ある時に両親が何をトチ狂ったのか新興宗教団体にハマりこんだ。
そこの教祖はエセ超能力者であり、変態であった。多くの女性が彼の被害にあっていたのだが、その教祖の命令により両親より私が提供されたのである。
ここまでであれば、私はただの哀れな被害者で終わった話だ。
しかし悲しいかな、私は「普通」ではなかったのだ。私はこの世界で生まれたときから、謎の存在に目をつけられて遊び道具となっていたのである。それも愛され系のだ。
近寄ってきた教祖は私のせいで発狂した。
私が『彼ら』と繋がり、『彼ら』と会話することが可能であり、『彼ら』から力を授けられていたが故の悲劇であった。それを聞きつけた信者が部屋に飛び込んだ際、私は私の異常を見咎められ、恐怖され、そして畏敬の念と崇拝を受けたのだ。
そしていつの間にか私がその教祖の位置を乗っ取ってしまったのである。笑ってくれ、私は笑うしかなかった。
両親は教祖に代わる形で私を信仰の対象においた。それは他の信者たちも同様であった。
エセ教祖の奇跡もどきではない、本当の神と恐るべき奇跡を目撃した彼らは、自然と私を崇め始めたのだ。最初からこの教団が、私のための教団であったように。
ちなみに教祖はどこかに消えた。私は知らないぞ。いや、本当に知らないのだ。ただ教団の幹部が言うには「愚か者に相応しい終わりを迎えた」とのことだ。
察しが良かった私は僅か六歳にしてこの失踪事件の中心的な人物になってしまった事に気づいてしまう。人生ハードモード確定の瞬間であった。
扉の向こうで音楽が始まる。
信者達の熱狂がピークに達した。ミュージックは近代のアイドル達が声を乗せるものと変わりがない。このミュージックに私が声を重ねたその時、本当の意味での奇跡が始まるのである。
両親の顔はもう蕩けそうになっている。人が浮かべていい表情ではなかった。この世に存在するありとあらゆる快楽は、所詮は肉体と精神を刺激するものに過ぎない。
私の歌の指導は外なる神である『トルネンブラ』、踊りは『アザトース』の踊り子達により教えてもらったもの。
それは魂を直接鷲掴みにしてしまう混沌の調べ、輪廻の輪から逃れられない支配の調べ。
ようは普通の人間が聞いたら、人生が終わるほどに酷い快楽を感じてしまう。どんな麻薬よりも依存性が高く、抜け出せない悪魔の歌なのだ。
私はやけくそになりながら扉を蹴り破り、頭を下げて迎える幹部達を無視してステージに上る。
私の姿を見た信者達は、皆一様に目をぐるぐると回し、声を張り上げ、人としての理性を振り捨てて私の名を読んだ。
「ああ、佐藤様!佐藤様!」
「我々の救世主!外なる神々の使徒様ァァァ!」
「私達に救いを、知恵を、宇宙に坐す御方たちの御教をォォォォォ!」
ドン引きよね。
高校生の小娘に熱狂する大人共を見ながら、から笑いが溢れる。
うちの教団は私の命令で宗旨変えはいつでもオッケー、むしろいつでも辞めろというスタンスなのに増えていく一方だ。最初は小さなライブハウスだったのに、今では一端の会場を借りるに至っている。もうわけわかんねぇ。
誰も彼もが狂気に狂う中で、ふと奥の物陰に隠れるようにして此方を見ている誰かの姿を見つけた。女性だった。
その人は他の信者と同様にローブを纏ってはおらず、顔にも理性が見て取れる。手には禁止されたカメラをもっており、明らかに部外者だと見てわかった。
周りがおかしいから、その姿はステージ上の私から見てとても目立ってしまう。ここは私の教団の信者達しか参加できないはずなのだが。
思わず「あっ」と呟いて視線をそこに合わせたその瞬間。───それまで熱狂して叫んでいた聴衆が私の視線の先を、全く同時に振り向いた。
やべぇ、ちゃんと知らんぷりしとければよかった。
信者達が逃げようとしていた女性に雪崩のように襲いかかる。あっという間に女性は地面に縫い付けられてしまった。
女性は藻掻くも四肢を抑えられて抜け出すことはできず、悔しげにステージの上の私を睨んだ。顔には恐怖。これから訪れるだろう、予想した恐ろしい未来に耐えているのだろう。
いやいや、そんなことしないから!おい、お前ら離れろ!何やってんの!?ただでさえ私達、怪しいカルト教団扱いされてるんだからさ!?
私がそう叫ぶと、無表情な信者達が彼女から離れていく。
それは女性を中心に形成された、大きな円となっていった。いつのまにかスポットライトがその女性を照らしている。困惑、恐怖、怒り、不安、言葉にできない感情の波に混乱しきった女性の姿に、私は大きくため息を吐いた。
「ほら、そんな状態じゃ彼女も帰れないじゃないですか」
「……佐藤様、しかし彼女は我々の儀式を邪魔した愚か者です。恐らくどこからか漏れた情報を聞きつけたマスコミの一人に違いありません。ましてや佐藤様のお慈悲に縋ろうなどッ!」
いつの間にか女性の財布を手に取り、そこから名刺を取り出して掲げる一人の信者。そこには顔写真と所属が書かれており、彼女の仕事がなんなのかひと目で分かってしまった。
途端に周囲の信者達の顔が無表情から怒りに染まった。それぞれが怒りと慟哭の声を上げ、じりじりと女性を囲んだ円を縮めていく。
女性記者さん涙目。めっちゃ震えており、足を伝って何か液体がこぼれ落ちていく。足元には水たまりができてしまった。
これには同じ女性である私も大激怒。一喝して信者達をその場に留めた。セクハラ・パワハラダメ絶対。
「別に私は大したものじゃないからいいんですよ。参加したいなら参加すればいいし、帰りたいなら帰れば良いのです。ほら、お帰りになるならいいですよ。むしろ、さっさと帰ったほうがいいですって。」
百パーセント善意から生れた言葉だった。しかし悲しいかな。尊厳を放出した彼女は、意地を感じてしまったのだろう。ここに残って、最後まで私のライブを見てやると叫んだ。信者さん達は満面の笑みであった。私は空を仰いでこの世を呪った。もう彼女にはなんの言葉も届かないのだろう。
いつのまにか止まっていた音楽も再開された。もうやけくそになって私は歌い始めた。人生はこんなはずじゃなかったということばかりだこんちくしょう。
その日の夜、新たに女性の信者が増えた。女性記者の信者が一人、増えてしまったのである。
これは私が自分の境遇に負けず、なりたくもないアイドルを頑張りながら、本当のアイドルと出会ってしまう物語だ。
某艦これで詰まってしまったので、ふと思いついた息抜きです。
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別に布教したくなくても、周りが「これ美味しいから食べてみろ」みたいなノリで布教する件
命尽きた後、魂は漂白される。
記憶を失い、自我を失い、個を失って生命の輪換に戻る。そしてある時をさかいとして、新たな生命として無垢なる個の存在が誕生するのだ。
しかし己を失うことに、古より多くの人間は恐怖を覚えていた。
それは聡明な王も、真理を探求した哲学者も、神を信じ敬う者も、苦を厭う出家者も、理を知る賢人も変わらない。ありとあらゆる無数の人々は、己を失うことに恐怖を覚えたのである。
【『私』という存在が「私」に変わるのであれば救いである。】
【何故ならば、それは変化であり、進化であり、退化であるからだ】
【つまり今の「私」は、過去の『私』がいるからこそ存在できる。それは自身の存在の証明である。人は歴史を無くして個を保てない。人は継続的存在でなければ個を保てない】
【個体的実体的な我(アートマン)を持ち、生存欲(カーマ)に知を振り向ける人は生命の存続を望む。己という、我という生命の存続を望む】
【仮に死を切望したとしても、それは己という存在の死に他ならない。つまりここで望まれるものですら、我への欲望と業なのだ】
【ああ、私は───我の存続と業の存続を望む】
しかしそれは叶わない。それは世界の摂理に反している。
そもそも人という存在の器は、己の業と生命を超えた時間を生きることに耐えられない。
魂の漂白はある一面から見れば無慈悲な摂理である。しかし、ある一面から見ればそれは紛れもない人の為の救いであったのだ。
さて、ある命の話をしよう。
それは終わりを迎えていた。どんな終わりだったかはどうでもいいはなしだ。それこそ寿命で死のうが、トラックとの衝突で死のうが、チーズが頭にぶつかって死のうが構わない。
問題はそれがあるべき生命の総体、輪廻の輪に帰れなかったことである。
神を信じるものであれば、神の手違いと言うかもしれない。神の気まぐれ、遊びと言うかもしれない。
神の存在を否定するものからすれば、それは世界の稀有なエラーであるというかもしれない。
そしてそれは異なる次元へと飛び、異なる世界の輪に飲み込まれ、そして───
『おいおい、面白そうなことになってるじゃないか』
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■?■■■■■■■、■■■■■■■■■■■……。』
『b;f興味深e。少df@td、覗tpwmo49』
『─────!────♪』
───外なる神々に見つかってしまった。
神に見初められることは不幸か幸福か。それは経験がない私達にはわからない。わかるはずがない。
しかし、ああ、この生命は間違いなく不幸である。他ならぬ、神に愛されてしまった彼女自身がそう思っているのだから。
「あら、武内くんじゃないの。久しぶりね。調子は如何?」
そして彼女の周りにいる者達もまた、彼女からすれば不幸である。いや、彼女は自分以上に彼らのことを不幸だと思っている。
「ふふふ、そう。良かったわ。そういえば、新しいアイドルプロジェクトに関わっているんですって?確か……シンデレラガールズだったかしら」
外なる神々は、人が救いを求めるような神々ではない。
「へぇ……。あ、ごめんなさい。貴方の目が、また以前のようにまっすぐ前を見ている。きっと素質ある、それでいて良い子たちなのね。アイドルと共にプロデューサーも成長していくものよ。私はそんな武内くんの姿を見れて嬉しいわ」
人々が救いを求める神は「サルベーション」の存在だ。
苦しみの海を彷徨う一匹の魚を、その両手ですくい取ってくれる大きな存在なのだ。
「アイドルの取材……。ええ、今は有名ではないかもしれないけれど、きっと貴方のアイドルのところにはこれから沢山の記者が来るでしょうね。放ってなんておけなくなるはずよ。貴方がそこまで言うアイドル達ですもの。これは新しい時代がまた来るのかもしれないわね」
呼び名は神であろうが、仏であろうがなんでもいいのだ。それが先祖でも良い、玉ねぎだって構わない。私を救ってくれるもの。共にあるもの。導くもの。
言葉を超えた意思の交わりの中で出会う大きな存在、それが救いを求める「サルベーション」の存在なのだ。
「……へ?え、あ、私?私が、貴方のアイドルたちを取材するの……?えーと、うーん、あ、そうか。そうよね、私はアイドルの取材もしてて、それで武内くんとも知り合ったんだっけ。ああ、それでかぁ」
では、外なる神々はどうなんだろう。救いを与える神々ではないというのだろうか。
「嘘、真っ先に私の取材を受けてくれるの?……信用できる方だからって、もう、相変わらずポエマーね、武内くん。女泣かせかしら。いや、ごめんごめん、本気にしないでって」
否、救いを与えてくる。彼らは神々であり、人を超えた存在である。人々の願いなど小さなもの、人々の救いなど容易いもの。彼らは確かに救いを与えてくれる。
「でも、ごめんなさいね。以前は確かにアイドルの取材や記事を書いていたけれど、最近はもう止めたのよ。いや、本当にごめんなさい。せっかく素晴らしいご紹介を頂いたのに……」
私の言っていることがおかしい、と。救いを与えてくれるのであれば、外なる神々も「サルベーション」の存在と同じではないだろうか。なるほど、それは確かに一理ある。
「ど、どうしたのかしら。そんなに驚く必要はないんじゃない?」
しかし、私が言ったことをもう一度思い出してもらいたいのだ。
「…………ぷ、あははははは。うん、そうよね。確かに昔の私はそうだったわ。日高舞に魅せられ、765プロに魅せられ、私はアイドルが大好きだった。輝いている子も、才能がある子も、未熟な子も、沈んでしまった子も、みんな私は大好きだった。ああ、そうか。確かにそうだった。私はアイドルを愛していたものね。君と居酒屋で延々と終電までアイドルについて語り合った事を思い出した。懐かしいなぁ……」
私は外なる神々が、『救いを与えてくれない存在』だとは決して言っていない。ああ、もっと私は率直に言うべきであった。回りくどい言い方をするべきではなかったのだ。
「でもね、武内くん───」
『救いを求めてはいけない存在』と私は言いたかったのだ。
アイドルが好きな人。そしてアイドルを目指して頑張る人が大好きな人。
相浦さんという女性記者を説明するには、これ以上の言葉はいらないのかもしれない。
知り合ったのはひょんな出会いでした。右も左もわからない新米プロデューサーの私と、業界でようやくやりたいことができるようになってきた女性記者。
自販機の前で出会い、挨拶代わりの自己紹介を済ませた後、お互いがアイドルに関わっていると分かって話し込んでしまいました。先輩に怒られるまで、あの時は語り合ってしまった。それほどまでに相浦さんもアイドルが好きであり、輝きに魅せられた人だったのです。
立場は違ってもアイドルに関わり、その姿を応援する者同士。支えていきたいと願う者同士。
相浦さんは朗らかな笑みで笑いながら「お互いに頑張っていこう」と手を差し出し、私もその手をとって堅く握りしめた。
順調ではなかった。誤ってしまった事もお互いに数え切れないほどにあった。後悔で目の前が真っ暗になってしまった事もあった。
しかし、相浦さんも私もアイドルが好きであることに変わりはない。
昔ほど時間が取れなくなった今では、遅くまで語り合うことはできなくなってしまった。それでも時たまあった際には相浦さんと近況を話し合うことはできた。
その中で私は感じていた。私と同じように、相浦さんもまたこの胸に秘めた想いは年月を重ねるほどに堅く、大きくなっていっているんだと。
確かに、互いに、深めあい、認めあっていた。はずであったのだ。
「もう有象無象のアイドルは、ぶっちゃけどうでもいいの」
何を言っているかわからなかった。
言葉の意味自体はわかる。耳に聞こえた通りに受け止めればいい。別に英語やドイツ語で言っているわけではない。日本語で言っているのだから意味はわかる。
そう、言葉通りに、耳で聞いた通りに受け止めればいい。────それがどうしても、私にはできなかった。
「相浦……さん?」
「ん、どうしたの?」
「有象無象とは、どのような意味なのでしょうか。いえ、そもそも……。今、貴方は……なんと言ったのですか?」
何かの間違いであって欲しい。私の聞き間違いであったはずだ。
現実を受け止めきれない私の頭の中は、そのような思いがただひたすらにぐるぐると回り続けていた。
相浦さんがアイドルを例えて「有象無象」などと言うはずがない。輝きを、可能性を、その溢れんばかりの頑張りを愛していた彼女の口から、そのような言葉が生まれるはずがない。
そう、私は思っていた。いや、信じたかったのでしょう。
相浦さんは狼狽える私を見て首を傾げると、心配そうに「大丈夫?」と此方の身を案じてきた。
その姿は以前の相浦さんと変わりはないものであった。優しく、暖かく、元気で、そんな姿のままで彼女は───。
「有象無象っていうのは、別に変な意味じゃないの。一番素晴らしいアイドルを見つけた、だから他のアイドルはもう目に入らなくなったってことなのよ。私は幸せものなの。本当に、素晴らしい、あの方に出会えたんだから」
私の希望を殴り、砕いたのである。
何故、どうして。戸惑いが胸の中をぐるぐると渦巻く。
今目の前にいる彼女は、私が知っている相浦さんに間違いない。それはわかる。しかし、何故だろう。相浦さんの内側が、まるで別のなにかに変わってしまったかのように思えてならなかった。外側だけはそのままに、別人になってしまったように見える。
どうしても、過去に「アイドルが大好きだ」と笑っていた相浦さんの姿を、今の相浦さんに重ねることができなかったのだ。いったい、この僅かな間でどうしてここまで変わってしまったのだ。
唖然とする私を置き去りに、彼女は嬉しそうに言葉を紡いでいく。紡がれる言葉が私の耳に暴力的なまでに飛び込んでくる。
「だからもう、他のアイドルはどうでもいいのよ。興味がどうしても持てないっていうか、編集長にも引き止められたんだけど……結局は担当を外してもらったわ。むしろ、彼女を知ってしまったらその小ささになんていうのかな、哀れさっていうのか、その程度で頑張ろうとする健気さっていうのか……。うーん、うまく言葉にできない。ごめんね。ただもうあの頃と同じように記事は書けないのよ」
私は人は変わるものだと思う。それは人である限り避けられないものだと思う。
考え方も、生き方も、生き続ける限り人は変わり続けることができる。
それがこの人の選んだ道であれば、私は仕方がないのだと思いたい。別の道に進み、もうすれ違うこともないのだと知っていても、その道を進む相浦さんを邪魔したいとは思えない。むしろ、応援して見送ってあげなければならないとさえ思う。
しかし、それでも私は一縷の望みにかけたいと思った。
何故なのかはわからない。しかしこのまま彼女を進ませてしまったら、何か彼女が取り返しがつかない結末を迎えてしまうのではないかと考えてしまった。
不思議だった。そんなことを考えたのは生まれて初めてかもしれない。ただ、どうしようもなく嫌な予感を感じてならなかったのだ。
「相浦さん。アイドルの頂について二人で話した時がありましたね」
何かを伝え無くてはならない。そう思った時、自然と口から飛び出してきたのは懐かしい昔の記憶。
二人で語り合い、言葉が尽きなかったあの夜の話だった。
「その時、私達の答えは同じでした。最高のアイドルが生まれたとしても、それはそのアイドルが可能性を切り開き、花開いた姿なのだと。一人一人がその可能性をもっており、一人が一人が全く違う魅力ある素晴らしいアイドルになれる。だから日高舞さんが誕生しても、人々はアイドルに見切りをつけることはなかった。また生まれる新たな可能性が、新たな光があるのだと信じていたからだと私は思うのです。貴方も同じだったはずです、相浦さん」
相浦さんの顔が驚きに染まる。目を見開き、口をぽかんと開けて此方を見ている。
「相浦さん、貴方が出会ったその人は確かに最高のアイドルなのかもしれない。そして私達が出会ったアイドルは最高のアイドルにはなれていないのかもしれない。しかし、皆が等しくその最高のアイドルになれる可能性と、素晴らしい光を私達は見続けてきたはずです。そんな有象無象という言葉で、悲しいまとめ方をしてはいけないはずです」
届いて欲しい、その一心で私は言葉を絞り出した。
「だから────」
「日高舞、日高舞?あーそうか、なるほどなぁ」
突如、感じた違和感に声が喉に詰まった。詰まってしまった。
「私はね、武内くん。私達の中でどうしようもないすれ違いが起きていると思っていたの。決して埋まらない溝のようなものよ。それがなんだろうとずっと考えていたのだけれど……」
鳥肌がたった。
言葉にならない悍ましさ、理由がつかない本能的な恐怖心が心の底から沸き起こってくる。
そして、その原因が目の前の相浦さんにあるのだと解った時。
彼女は……。
空虚な瞳で……。
冷めた瞳で……。
理性をどこかに失ったように興奮し、嗤っていた。とても楽しそうに。嬉しそうに。
「君の中の最高のアイドルも、その程度で収まっているんだね」
一歩、相浦さんが足を踏み出した。私は本能的に、一歩、足を下げる。
「可哀想だ、可哀想だよ武内くん!?」
ばっと突き出された相浦さんの両手は、私の肩の掴み取った。私の方が体格も大きく、彼女は力で劣るはずなのに、凄まじい力をもって彼女の顔の前に身体が引き寄せられた。
ほんの少し前にでれば、キスをしてしまうほどに近い距離。目と目が見つめ合い、彼女の喜色に濡れた顔を直視してしまう。
胸が飛び跳ねた。呼吸が、うまくできない。ロマンス的なものではない。彼女の異常な姿に、これまで見たことのない人の見せる表情に、私はきっと怯えきっていたのだろう。
「それは悲劇だ、あの人を、あの方を知らないばかりにまだそんなところに立ってしまっている」
これは、なんだ。
何も考えることができない。気が押されて思考することが叶わないのだ。ただただ、唖然となり、圧倒される。
「日高舞程度ならそう思ってしまっても仕方がないんだよ武内くん!?可能性?他のアイドルの見せる輝き、魅力?至高のアイドルの前ではそんなものどうでも良くなってしまうんだ、そうだ、君は見てはいないのだ、だから知らないのだ!あの人の、あの方の、神の奇跡をぉ!!!」
その時、私は初めて知った。『狂気』だ。これは『狂気』なのだ。
これまで幾度となくその言葉は耳にしてきた。小説、ドラマ、歌など、いろいろなところからそれを知ることはできた。しかし、実際に直面するとそれらの場面で使われる『狂気』は、あまりに弱いものであったと知った。
「武内くん────人と神を比べてはいけないよ?」
どこまでも深い瞳。まるで宇宙のように、どこまでも広がり続ける世界を幻視する。
そしていつのまにやら、彼女の言葉に聞き入ってしまう自分がいた。心が引きずられ、持っていかれそうになる。自分がわからなくなる。自分の意思が消えてしまう。
「武内くん、さぁ、良かったら一緒に行こう。私が『みせて』あげるから」
────呑まれる
そんな言葉が一瞬頭を過ぎり、すぐに消えた。
相浦さんはニッコリと微笑むと、私の手を取り、優しく握る。
その時であった。
「あれ、プロデューサーさん?」
世界に色が戻った。
無意識にかけられた言葉の先を見ると、此方を見て嬉しそうに微笑み、駆け寄ってくる島村さんの姿があった。
そこで私は気がつく。今、私は何をしようとしていた。どうしようとしていた……ッ!?
握られた手に気づき、言葉にならない恐怖を感じてそれを振り払った。
相浦さんは驚いたように一歩、二歩と後ずさる。私もなんとか気を振り絞り、凍りついた身体を動かして後ろへと下がった。
彼女の私を呼ぶ声によって、私はなんとか正気を取り戻すことができたらしい。しかし、島村さんが今ここに現れなければ、私はどうなっていたのだ。
「相浦さん……何を……」
例えるような言葉が見つからない。まるで一人孤独に樹海を彷徨うような緊張感、そして未知への恐れを私は相浦さんに感じている。
思わず顔が強ばんでしまった。睨むような形になってしまったが、相浦さんはそんな私を見てため息を吐き出した。
それが相浦さんが私に何かをしようとし、失敗したように見えたのは私の思い込みが激しいからだろうか。警戒心を緩めない私を見て苦笑しながら、相浦さんは島村さんの方へ視線を移し────。
「……佐藤様」
呆然と、愕然としながら立ち竦んだ。
相浦さんが発した言葉は、とても小さな声だったので何を言ったのか私は聞き取れなかった。しかし彼女は何かを確認し、驚き固まっているように見える。
突然の変わりように、恐怖よりも困惑の思いが勝ってきた。島村さんの存在が彼女に何か大きな衝撃を与えたのだろうか。
「プロデューサーさんですね!こんなところに会えるなんて奇遇です!……あ、ごめんなさい。お話中でしたか?」
島村さんが私の目の前に来てからも、相浦さんの視線は動かない。ある一方にしっかりと固定されており、瞬き一つもせず彼女は見続けている。
心配そうに此方の様子をうかがう島村さんの姿に、気持ちをなんとか落ち着けていく事ができた。相浦さんが関心を私から失い、異常なまでに張り詰めていた空気が元に戻っていくように感じたからだ。
「……島村さん、ありがとうございます」
「え、あ、はい!どういたしまして!」
「此方の方は、私と親しくしているマスメディアの方なのですが……」
注意をやや払いながら相浦さんを見るも、彼女は完全に此方から興味が離れている。自分の言葉が耳に入っていない様子が見て取れ、今も何かをじっと驚いた顔のままに見つめていたのだ。
島村さんもその様子には不思議に思ったらしい。戸惑いながらも挨拶を相浦さんにしているが、彼女は島村さんに少しも意識を向けていない。
いったい、なににそこまで心を奪われているのか。
警戒を解かないまま、おろおろとしている島村さんへ口を開く。
「……島村さんは、ここでいったい何を?」
「実は、友達とお買い物に来てて……ほら、あの子です!七枝ちゃん!」
島村さんは楽しそうに名前を呼びながら、その人物の方へ向き直る。ぶんぶんと手を振り、此方へ来るように声を高くして名前を呼んでいるようだ。
私はここで相浦さんが見ている方向と、島村さんが見ている方向が全く同じであることに気がつく。ふっと顔を動かし、二人と同じ方向を見つめた。
「急に走り出して、どうしたんですか卯月ちゃん……。え、あ、この前のマスコミ」
目を疑った。
そこにいたのは、端正厳飾の美しい少女であった。
島村さんと同じぐらいの年齢。真っ白で陶磁器のように細く、すらっと長い手足。濡烏色の黒髪は艶があり、太陽の光を反射して光り輝いている。ツンとした鼻は高く、ぷっくらとした唇。パッチリとして美しい黒真珠のような瞳は、驚いたように此方を見つめていた。その美しい姿に、思わず目を奪われ立ちすくむ。
そしてなにより、目の前の少女は人を引きつける大きな力を持っているように思えた。
見ただけで精神が落ち着き、何故か安心できる。そしてギュッと意識を惹きつけて離さない。これまで見たことのないような存在感。ひと目見ただけで感じるその素質に、私の顔は釘付けになった。
この時、私が違和感を感じられたのは、ひとえに相浦さんのおかげであったのかもしれない。
彼女があそこで私の注意と警戒、心を研ぎ澄ましてくれたからこそ、私はその違和感を強く感じたのだろう。
彼女は綺麗すぎた。美しすぎた。そしてその人を惹きつける力はあまりにも大きく、どうしてか人間から離れすぎているように感じたのだ。
まるでおとぎ話から抜け出してきたような人物を、無理やりに現実に当てはめたようにさえ感じてならない。
そして驚く。これほどの人物にどうして自分が、ここまで近づくまで気がつかなかったのだろう。
素晴らしいアイドルは、そこにいるだけで空間を装飾していく。その空間にいれば、人は誰でもその存在の中心に自然と気が惹きつけられるものだ。
演説をする英雄に心を奪われるように、彼らは人が心を奪われてしまうような、人間の本能的に抗いがたい魅力を持っているのである。
彼女ほどの人間であれば、自分が間違いなくその存在に気がつかされていたはずだ。それ以前に、周囲の人々はどうしてここまで無関心でいられるのだろう。
これほど美しく、その気配をむき出しのままにしている少女に、我々以外の街中の人々はまるで興味を覚えていない。一瞥もしないまま、すぐ彼女の横を通り過ぎていくのだ。
先程の私のように、彼女の存在に気がついてすらいないのではないだろうか。だとすればこれはいったい……。
「……ん?もしや貴方は、卯月ちゃんのプロデューサー?え、本当ですか。嬉しい、まさかあの人に会えるなんて。いつかは会えると思っていたのですが……嬉しい」
何故か彼女は嬉しそうに、楽しそうに微笑む。
そして鈴が転がるようなはずんだ、空間に透き通った声で私に話しかけてきた。
「私は佐藤七枝。卯月ちゃんの友人です。よろしくおねがいしますね」
主人公「アニメPやんけ!やばい!テンション上がる!」
以下、適当話。
FGOが嫌いな人は、どうか少しの間だけ許して欲しい。
私は激怒した。
ヴラドに捧げるはずであった塵をなんとなく刑部姫に捧げ、オールスキルマにした矢先にスカディとかいうぶっ壊れが来やがったからである。でも刑部姫は私的にはカワイイから問題はない。刑部ちゃんかわいいやったー
そしてWIKIの刑部姫のコメント欄は阿鼻叫喚と化した。友人の刑部姫ラブもこれには激怒するかと思ったが、やつは「これで真の刑部姫が好きが残る」とニッコリしていた。そんな友人を思い浮かべながら相浦さんを書きました。
モバマスやデレマスは普通に楽しんでます。
CoCっぽく、クトゥルフらしい感じを表現できたかわからないけど頑張りました(おい
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まともに会話できる狂信者が一番やばい
佐藤七枝(さとうななえ)
神々に愛され系主人公。最近、親が自分の像を作ろうとしていたのでやめさせた。
プロデューサー
346プロダクション所属。最近、大切な友人が洗脳された。
韮崎孝江
クトゥルフ神話TRPG2010に記載のシナリオ、『もっと食べたいの』キーパーソン。
二十代後半の美しい女性。具体的にはAPP(容姿の状態)が17。人類の最高峰が18だと考えると、街中にいたら誰もが振り返るスーパー美人である。
男は目を覚ますと、自分が今いる場所が寝所では無いことに気がついた。
暗く、湿った風が髪を撫でて後ろに過ぎ去っていく。
異様な涼しさ。大きく広がる謎の空間。頭上の岩盤から滴る水の音が、空間の中で反響し広がっていく。混乱する頭であたりを見渡すと、どうやら自分は大きな洞窟の中に立っていることが解る。
周囲には自分以外には誰もいない。ただ一人、孤独に彼はこの不可思議な空間に存在していた。
「私は……いったい……」
困惑しながらも状況を整理していく。ゴツゴツした岩壁はどこまでも高く、視界の広がりははるか先にまで広がっている。ぱっと見るだけでも、東京ドームほどの大きさはあるように思えた。
自分は寝室で眠りについたはず。何故に自分は今ここにいるのだろう。
「夢、でしょうか」
夢にしては、どうにもはっきりした夢だ。
意識もはっきりしており、思うように体が動かせる。男は夢の世界で自由に動けるという明晰夢の存在を知っていた。ひょっとするとこれがそうなのだろうか。
「だとしても……不気味ですね」
こんな光も届かないような洞窟の中で、何故か辺りを観察できる謎。どんな話にも聞いたことのないような巨大な空間を持つ洞窟の存在。
夢と言ったら話はそれまでだが、だとしたらどうして自分はこのような夢を見るのだろう。
言葉に例えられない違和感を覚えた、その時。
「……武内P?」
しんとした空間に響く女性の声。
思わずばっと後ろを振り向くと、そこには決して忘れることの出来ない少女の姿があった。人を超えた美しさ。人体のすべてのパーツが奇跡の名のもとに組み立てられ、完全な造形の基に完成された美女。
何故、どうして。葛藤が心の中で渦巻き、嵐のように男の平静を奪い去っていく。
「佐藤……七枝……」
島村卯月が紹介した友人、佐藤七枝。
記憶に刻まれた彼女は、その日のうちに自分の夢に現れたのだ。
足の底からおぞましい何かが全身を駆け巡り、まるで金縛りにあってしまったかのように体が固まる。
胸に苦しさが湧き上がり、激しい鼓動が彼の体を揺さぶる。それは彼の頭を漂白し───
「え、なんで呼び捨てッ!?」
───が、自分以上に混乱した声を張り上げた少女の存在を前に、彼の平静は取り戻された。
「す、すいませんでした。さ、佐藤さん」
「いえいえいえいえっ! えっと、こちらこそすいませんでした……?」
生来の人の良さが表れたのか、状況を理解してコンマ数秒ですぐに謝罪できる社会人の極み。それは彼を縛っていたすべての緊張から解放してしまった。
そのあり方を前にした佐藤も、すぐにぺこぺこと頭を下げながら何故か謝り返してしまう。根が小人な彼女に、大柄な男からの謝罪を受け入れないという選択肢はなかった。
そんな動揺して風貌を崩して謝る彼女を前に、男は益々この夢が夢であると確信した。
言っては何だが、彼が出会った少女と目の前の少女とではギャップが大きすぎたからだ。
彼の出会った少女からは怪しげな魅力と優雅さ。優しく、温かさを感じさせる微笑み。話し方も落ち着きがあり、高い知性が会話のところどころから伺える。
そして年に見合わぬ妖艶な色気がほんの少しの仕草からも感じられ、いつの間にか目が離せなくなっている自分に気がつく。ああ、そこに危険性と恐怖を自分は常に感じていたのだろう。
しかし今、彼の目の前で何度も何度も頭を下げる少女はどうだろう。同じ姿にも関わらず、同じような怪しげな魅力があるにも関わらず、にわか認定を友人に受けてしまった自称ロックアイドル並みの残念さを感じてならない。
そう、夢の中の佐藤は、あの魔貌の少女と全く別物に見えた。別の存在と言っても過言ではないほどに。
「……やっぱり、夢でしょうか」
「……夢? あ、そうですよ。これは夢です」
「なるほど。夢の佐藤さんがそう仰るのであれば、これは夢なのでしょうね」
男は夢だと分かって安心したこともあり、落ち着いて観察し、物事を考える余裕が生まれてきた。頭に手をやり、どうしてこんな夢を見ているのだろうと疑念を感じるようになる。
「はい。プロデューサーの言う通り、これは夢なんですよ。でもどうしてここにプロデューサーがいるのでしょうか。もしかして、あの時に繋がりが何らかの方法で生まれたのでしょうか。或いは、何者かがここに……」
佐藤は頭を抱えながらブツブツとつぶやき、「ぐぬぬぬ」と唸り声までこぼし始めた。危うい雰囲気を出し始める少女を前に、男は「この彼女であれば是非、スカウトしたいのですが」とついつい達観した考えを抱いてしまう。不自然な完璧さが消え去り、彼女本来の温かな魅力が感じられる。それはアイドルに不可欠であり、いちばん大事な素晴らしい素質であると彼は考えている。きっとこの彼女は人を笑顔にできる良いアイドルになれるだろう。
「しかし、どうして私の夢に佐藤さんが……」
「へ? いや、違いますよプロデューサーさん。これは私の夢でもあるのです」
「佐藤さんの、夢……?」
佐藤は静かに男に向き直ると、困った様子で口を開く。
「おそらくですが、眠りの中で旅立った意識が私に結びついてしまっているのです。プロデューサーは一人では絶対にここにはこられません。かといってあなたがここに呼んでもらえるほど、本来は彼らとの繋がりはないはずです。何か原因が、或いは意図的な意思が感じられます」
「意図的な意思……ですか?」
「はい。ただここの主はプロデューサーさんを呼ぶような存在では……ッ!」
瞬間、佐藤の目がパッと見開かれた。
何かに気がついたのだろう。佐藤は男の後方を凝視。すぐに男に向かって叫んだ。
「いけませんッ! すぐに目を閉じて耳を塞いでくださいッ!」
余裕は心を保つ大事な要因の一つだ。しかし反面、それは危機を鈍らせる要因でもある。
男は夢だとわかり、余裕を感じていた。当初の危機感を失っていたのだ。
しかし余裕とは習慣と慣れと理解から生まれ、生物本来が持つ危機を感じる感覚からは程遠いものであることを彼は知らなかったのだろう。
無理もない。平和な日本でそれは本来不要なものだ。
ああ、だが、ここ地下世界ではそれは絶対に欠かすことの出来ない生命線であったのだ。
彼は振り返ってしまった。
そしてすぐに、自分のその反射的な行動は大きな間違いであったことを理解させられた。
『───ァァァァ』
それは黒い液体であった。
『───ウガア』
いくつもの大きな黒い水たまりが視界に点在していた。
腐った沼のような悪臭。黒曜石のような光沢。トロリとしたその液体は流動性を持って天へと沸き立つ。
『───ウガア・クトゥン』
やがて液体は一つの塊となり、伸びる。
絶え間なく動き、形作られていく液体の先端には、木の杭のようないくつもの白く鋭い何かが並び立つ。それは真っ黒な底の見えない穴を中心に不揃いに生えていた。
その奥からは、これまで聞いたことのない、どんな生き物の鳴き声とも異なる不気味な音が聞こえてくる。
ああ、あれは口であると男は理解した。蛇のように鎌首を持ち上げて見えたヤツメウナギのような口腔からは、何かを呼び、何かを称えるような悍ましい言語が生まれ続ける。
男は何かを感じている。その感情はこれまでの人生で経験した何よりも激しく男の心を蝕み、平静と理性を奪い去っていく。
荒い呼吸が開けっ放しの口から吐き出され続ける。目をそらしたいのにそらせない。視界が歪んでいる。焦点が合わなくなっていく。それでも、男は目の前の非現実的な光景から目を離せないのだ。
『───ウガア・クトゥン・ユフ』
下腹部には十本もの短い足。体のあちこちからはギラギラと光を発する目。とろとろと体から滴り続けるしずく。男はその音が、岩盤から滴る水の音と最初に思っていたものと全く同じであることに気がついた。
空間に充満する悪臭に鼻が麻痺し、目からは涙が自然と流れる。体の震えが止まらない。額の汗が涙と混じり、顔の皮膚を伝って地面へと落ちていった。
『───ウガア・クトゥン・ユフ』
体から生えた黒い液体の触手が、空中で何かを探すようにまさぐる。
自然の摂理を無視したその体で、それはぐじゅぐじゅと音を立てながら立ち上がった。おそらく身長は二メートルを大きく超えており、巨大な口は獅子の頭よりも大きかった。そんな化物が男の視界いっぱいに広がっている。何匹も、何十匹も、何百匹も、何千匹も……。
『ウガア・クトゥン・ユフッ!!』
そしてそれは一斉に咆哮を上げ、巨大な洞窟をまるで地震を起こしたかのように震わせたのだ。
衝撃に男は呆然と尻をついて倒れ込み、佐藤はそんな男をかばうように前に進み出た。佐藤の顔には隠しようもない焦りの色。
「『無形の落とし子』……ッ!? 招かざるもの、捧げられざるものを前に姿を現したのですか……」
佐藤は未だ後ろで座り込んでいる男を振り返る。
男の目は瞬き一つ無く絶え間なく動き、激しい発汗と震えが見て取れた。前世の経験値から判断するに、SAN値チェックからのアイデアロール、一時的発狂。内容は恐らく恐怖症だろう。不定の狂気にはなっていないと信じたい。
何れにせよ、これではもう耳や目を塞いだりはできない。かといって精神的治療を行っている余裕もない。
それにこれ以上危険な光景を見せたり、精神を蝕む声を聞かせてしまってはプロデューサーが廃人となってしまう。
何よりも一番の問題は、この空間の持ち主はもうすぐ姿をここに現すことになるということだ。この『無形の落とし子』の主、人類以前の地上の支配者たちが崇拝した古代の神である。
佐藤の歌や踊りを捧げられることを待ち望んでいた、偉大なる旧支配者の一柱があと少しで姿を見せる。
その神は他の旧支配者に比べれば危険は少なく怠惰であるが、恐ろしく強大な力を持つ存在である。この光景を見た時、いったいどのような行動を起こすのかまったく想像もつかない。
というか、何か行動を起こす前にプロデューサーの精神は死ぬ。人の身であっては、たとえ見ただけであっても、あまりの存在の大きさに精神が耐えられないのである。
佐藤の決断は早かった。
「プロデューサー、ごめんなさい」
佐藤のどんなハンターでも見逃すような素早い手刀が、プロデューサーの首に流れるように叩き込まれる。
もし運が悪ければ、そのままスパンと首が切断されるような鮮やかな手刀。それは確かにプロデューサーの意識だけを綺麗に刈り取ったのだ。
これから取るどんな選択肢も、プロデューサーの心に傷を残してしまう。ならば気絶させた方が、自分の罪悪感だけで話は済む。
「これは使う予定は無かったのですが……。ああ、仕方がありませんね」
四方八方。頭上からも迫りくる『無形の落とし子』たちを前に佐藤は右手を天に掲げる。その顔の頬は興奮か、或いは別の感情によって赤く染まっている。
その手に出現するのは一冊の本。多くの旧支配者のおもちゃであるが故に与えられたお遊び。
怪しく、淡く光るそれは、たとえ一節読み上げるだけでも人を狂わせる。まさに魔の至高にして禁忌の原本。佐藤が魔本を開いた瞬間、激しい輝きと共にページは自動で捲り上げられた。
佐藤は精神を集中して歌う。唄う。謡う。そして───
『────────闇に呑まれよッ!』
人類最強、レベル100の「やみのま」が全ての『無形の落とし子』を呑み込み、佐藤の顔は羞恥で真っ赤に染まり、宇宙、いや、地球のどこかで無貌の古き神が腹を抱えて大笑いした。
『韮崎メンタルクリニック』は、心療内科・精神科を併設する病院だ。
苦しみ悩む人々の心に寄り添い、カウンセリングを中心に精神病の疾患や心の問題を起点とした心身症に関わる。
その評判は実に良いものであり、他の病院でさじを投げられた患者が、ここにきて立ち直ることができたというケースが多いことも興味深い。
またその院長である『韮崎孝江』は特に国内外で有名であり、ある分野では世界一とまで評される心のスペシャリストであった。
そんな心のスペシャリストである韮崎は現在。
「えーと、教主様?」
「佐藤でいいです。韮崎先生」
「せ、先生など……。教主様、韮崎と呼び捨てになさってください。真理と神を知る大いなる教主様に、そのように呼ばれる資格は私にはございません」
非常に困惑していた。むしろメンタルケアが今一番必要とされるぐらいに混乱しきっていた。
目の前にいる見目麗しい黒髪の少女は、韮崎の信じる神の使徒。神の認めし者。神の写し身である。
崇敬の対象であり、己の命を差し出すことすら喜びを感じる存在。世界と少女、どちらを選ぶかと問われたら、一瞬の迷いもなく少女を韮崎は選ぶ。
これは韮崎にとって当たり前の選択だ。眠いから布団に入る、小腹が空いたからお菓子を食べるぐらいに当たり前の話だ。
この考えを人に伝えた時、恐らく韮崎はその正気を疑われることだろう。
「佐藤でいいです」
「さ、佐藤様?」
ああ、何も知らない人間共はきっとこう言うに違いない。
若く、幼ささえ残している少女を神であると信じ、崇拝するなど馬鹿げている。
そもそもこの現代社会において、神の存在を信じること自体がおかしな話だ。
しかも世界を滅ぼし、命を捧げるだなんて、君はきっと頭がいかれている。
君は妄想に取りつかれ、幻覚を見ているに違いない。統合失調症ではないか。大きなストレスでホルモンバランスが崩れているんだ。医者に見てもらったほうがいい。精神病院にいって、診断とメンタルチェックを受けなければならない。人へ危害を与える危険性が高ければ、精神病棟への入院も考えるべきだ。
きっとこのようにして韮崎は心配されるに違いない。
しかし韮崎の考えは、そのような愚者たちとは全く異なっている。
私の話を作り話と疑うか。なるほど、彼らは私の言葉を気を違えた人間の取り憑かれた妄想だと思い込み、「ああ、なんと馬鹿げた事を言う女だ。もう普通の生活を送れない、可哀想な人間なんだ」と憐れむに違いない。
しかし私からすれば、憐れむべきは真実と真理と神を知らない人々である。
「佐藤」
「あ、え、その……」
「さ・と・う」
「……佐藤さん?」
「はい、それでオッケーです。それでお願いいたします」
科学に対する盲目的なまでの信頼、いや、信仰というべき盲信が、人が持つべきであった神と通じる素質を鈍らせてしまった。
唯物論者達を始めとする人々は神に対する恐れを感じられず、敬いの心を忘れてしまっている。
きっと彼らは神と繋がり、声を聞くという怪しげで非科学的素質。そしてくだらない恐怖や畏敬の感情は、現代において全く意味も必要もないものだと決めつけているに違いない。
だが私は知っている。
彼らの先に待つのは破滅である。そしてその先に訪れるのは絶望である、と。
彼らは世界の裏にある歴史と、人類が辿る結末を知らない。
彼らは復活を待ち望みながら、人々に語りかける神々の悪意に気づけない。
そして私達の平和と思い込んでいる日常が、薄い氷の上に成り立つものであると、何も知らずに生きているのである。
哀れだ。そして嘆かわしい。
私を狂っていると弾劾する人々よ。
普通の生活を送れないのだと、社会の認識に添えなくなった私を人生の落伍者と考える人々よ。
ああ、君たちは正しいのかもしれない。私は確かに狂っているのかもしれない。
私ははじめに親と友への愛を失い、ついには人類への友情と親愛、敬意がすっかり消え去ってしまった。
教主様を除いた人間の価値は、全て同じものに感じるようになってしまった。
だが私は狂気に陥っていることこそ、神々からの慈悲であると考えている。
鈍感なあまり恐ろしい最期を迎えることになっても正気のままでいたのならば、それはどんなに残酷で苦しく、悲惨な有り様なのだろうか。
神々が我々を憐れみ、慈悲をもって狂気を与え、我々に語りかけてくる。そしてそれが素晴らしいものであると気づき、感謝し、従うことができた私はどれほど幸福なのだろう。
狂える幸福を幸福と気がつけない貴方たちこそ、哀れに思えて……。いや、憐れに思われるべき人々なのである。
「教主様が電話を────」
「佐藤」
「……さ、佐藤さんが当院に電話をくださるなんて、夢にも思っておりませんでした」
「あ、ごめんなさい。もしかして、予約に割り込んでしまっているのでしょうか」
韮崎はそれを丁寧な口調で否定した。だが実際は佐藤七枝の突然の電話により、カウンセリングのスケジュールは大きく狂っていたのである。
佐藤は知らなかったのだが、韮崎のメンタルクリニックは芸能人や著名人も利用するほどに名が知られている。さらに評判も他のクリニックに比べて、患者や業界の人間から異常とも言えるほどに評価が高い。
その院長である韮崎のカウンセリングの効果は、なんと日本だけではなく海外でも有名であった。
特に摂食障害の患者に対して行う彼女のカウンセリングによる治療は、奇跡と称されるほどに劇的な効果がある。なんと摂食障害の患者の十割、つまり全ての患者が彼女の治療により症状が回復していたのだ。
テレビや雑誌といったマスコミ報道により、今や世界中の摂食障害の患者が彼女のカウンセリングを受けようと躍起になっている。そんな中で韮崎のカウンセリングを直接受けられるなど奇跡に等しい。
佐藤はそんなことは全く知らなかった。韮崎さんすごいなぁと漠然とした思いしか感じておらず、普通に予約を取ろうとしていたし、仮にその予約が少し先の話であったとしても、一般の常識に沿って待つ腹積もりであった。
「佐藤さんは私の全てです。何もお気になさらないでください」
韮崎は全部の予定をキャンセルした。診療、カウンセリング、取材、発表、テレビ撮影。全てを一切合切キャンセルした。医療スタッフを含めて悲鳴が院内に響いたが、韮崎の心には全く響かなかった。
韮崎がここまで佐藤に入れ込むには訳がある。
韮崎孝江は、元々は普通の中小企業のOLであった。
しかし重度の摂食障害、さらには過食嘔吐により心も体も疲弊し、仕事を辞めざるを得なかった。病院に通うもお金だけが飛び、生活もままならなくなっていく。
自信があった美貌も肌が荒れて頬はこけ、今では見る影もなくなってしまった。
茫然自失のまま、何の希望もなく病院の帰り道を歩く。死ぬことすら頭に過ったその時。彼女は街の骨董屋にて不思議な置物と出会った。そしてそれに触れようとしたとき、自分を導く美しい少女に出会ったのである。
あの時、ただの人間であった自分が旧神の像に触れていれば、自分は神の玩具として命を終えてしまっていたと思う。彼女に導かれ、病を癒やし、彼女の教団の支援がなければ、このような病院の運営や社会的な立場、今の名声も自分には得られなかっただろう。
今、自分の周りにあるもの、そして自分の存在すらも佐藤様によってもたらされたものである。
佐藤様の魅力と偉大なる力、そして恩に報いることに最早なんの躊躇いもない。
佐藤様に従い、生きることこそ我が喜び。我が運命。我が人生。自身はたとえ髪の毛一本であっても、佐藤様からの授かりものと考えて韮崎は生きている。
そんな佐藤のお役に立てる。これ以上に嬉しいことはない。
患者とか病院の用事だとか、たとえ総理大臣の婦人からのお願いであっても、それに比べれば耳くそ同然。金の束をどれだけ積まれようとも邪魔なもの。
佐藤より連絡があった時、天にも昇るような歓びを韮崎は感じた。佐藤より会いたいと伝えられた時、神の使徒から頼りとされているのだと知って、心がとろけそうになった。
「それで、佐藤様は……」
「佐藤でいいです。韮崎先生」
「な、何度も申し訳ございません。しかし私には本当に恐れ多いことなのです。せめて、佐藤様と……」
「佐藤でいいんです。お願いします、もういろいろ辛いんです」
涙ぐんでいる。神の使徒が涙ぐんでいる。道路に捨てられて雨に降られた子犬のように、不安と焦燥に打ちひしがれている。
なんですか。どうすればいいのですか。助けてくださいツァトグァ様。貴方の写し身が、そして信者の私がピンチです。
「わ、わかりました! わかりました佐藤さん! 申し訳ございません!」
神の使徒の顔が晴れた。一週間ぶりに嵐から晴れた太陽を見るような目で私を神の使徒は見ている。
そう思うと、あまりの嬉しさに韮崎の顔は綻んでしまうのだ。
「本題に入りましょうか。佐藤様、いえ、佐藤さんは私に相談したいことがあると……」
韮崎は笑みを深める。そこには一種の残虐な色も含まれていた。
韮崎は医者であるが、同時に教団においてツァトゥグァという旧支配者の祠祭を担当している。いわば教団のスーパーエリートなのである。
強力な魔術を扱い、旧支配者の神殿に住まう超常的存在である、『無形の落とし子』を用いての戦闘も経験した文武両道。仕事の関係もあり、財界や芸能界の大物とも渡りをつけられる社交性。
そしてたとえ殺人を命じられても、忠実に実行するだけの漆黒の覚悟を彼女は持っている。
さぁ、思う存分命令してくださいと、韮崎は期待に目を暗く輝かせた。
「私をカウンセリングしてください」
……カウンセリング?
「……え? あ、あの、申し訳ございません。もう一度よろしいでしょうか?」
「私のカウンセリングをしてください。具体的には愚痴を聞いてください」
誰にカウンセリング? 目の前の偉大なる教主様にである。
それ私がやっていいのだろうか。神の写し身にカウンセリングって、え、どうしたらいいの。助けてツァトグァ様。
「夜に眠っているときも、旧神達と精神感応が行われています。つまり夢の中でも私は起きていて、ずっと神様の話し相手になったり、神様の遊び相手になったり、歌ったり、踊ったりしてるんです。気が休まらないんです。リアル二十四時間働けますか状態なんです。心の疲れが取れないんです。じゃあ昼間はのんびりできるかといったら、そんなわけがありません。日中は下手すれば暴走しがちな阿呆共を抑え込んで、学校に教団の運営に宿題に書類の作成に……」
止まらない。どれだけのストレスをこの小さな体で感じていたのだろうか。
三十分を超えても出てくる言葉は留まるところを知らない。
「……宿題や書類であれば、私がさせて頂くことも出来ますが」
「宿題は自分でやるものです。あと下手に他の祠祭に教団の運営や書類任せたりしたら、善意でとんでもないことするじゃないですか。もしくは馬鹿が勝手に対抗心を燃やして変なことしでかしたり……。一年前に南極で『ガタノゾーア』を目覚めさせたの、まじで今でも根にもってますからね……」
『ガタノゾーア』は旧神の一柱である。なお、目覚めたら世界は間違いなく滅ぶ。当然滅ぶ。
「な、なるほど。お役に立てず申し訳ございません」
「いや、韮崎先生は常識がある方なんですが、周りが本当に考えなしばっかりで……。昨日、ツァトグァの慰労に歌を歌いに行ったら、何故か346のプロデューサーがいましてね。あのクソッタレ旧支配者からもらった魔本のおかげで、なんとか助けることはできました。ただ精神への影響は絶対に残るから、もうどうしようかと思っておりまして」
そういえば、今日の朝はツァトグァ様の機嫌が大変によろしかったのを覚えている。お祈りをするなかで、上機嫌にお言葉をかけて頂けたのは、佐藤様のコンサートが行われたからだろう。
「それで悩んでる私の原因を知った連中が、何を仕出かそうとしたと思います?」
「……誘拐、でしょうか」
「よりによってプロデューサーに『ティンダロスの猟犬』をけしかけようとしやがったんですよ! 阿呆か! 周りへの被害考えろよ! というか殺そうとするなボケェ!」
『ティンダロスの猟犬』は単細胞生物しかまだ地球にいないころから生きているクリーチャーである。角から現れる性質を持ち、どこまでもどこまでも追いかけてくる。
なお、周囲に人がいたら標的以外も普通に襲う。たくさん人が死ぬ。しかも見るだけでSAN値が減るような死体が残る。……隠蔽? 彼にそんな知能ないです。
「半分以上がプロデューサーを消す方向で動こうとしてました。残りも洗脳だったり誘拐だったり、異次元に飛ばそうとしたり、会社を裏から支配して取り込もうなんて話もありました。あっはっは、穏便に言うとるやろがー!」
下手に力がある分、下手に闇が深い分、やること考えることがえげつないのが教団の幹部達である。
佐藤がいなければ、神に対する暴走から内部分裂して日本が沈んだらまだいい方。悪い方は世界が滅ぶ。というより佐藤がいなかったら十中八九、世界は既に滅んでいる。
「アイドルのみんなを旧神たちに関わらせたくないんですよー。普通にアイドルマスター目指して、友情を育んでもらいたいんですよー。あと卯月ちゃんとショッピングしたり、学生として遊んでたいのですよー。そのために頑張ってるのに、周りにいるのSAN値ゼロの狂信者ばかりで嫌になるんですよー……」
佐藤は机に突っ伏している。声は涙声になっていた。
「プロデューサーさんが夢だと思ってくれていればいいのですが、あそこまで強烈なクリーチャーを見ているとそうもいかないでしょうし……。あーもう、どうしたら……!」
「つまり、佐藤様と対面したそのプロデューサーさんが、夢の記憶を忘れてしまえばいいのですね?」
韮崎の言葉に、佐藤は涙と鼻水で酷いことになっている顔をあげる。その目は不安に満ちていたが、同時に一筋の希望を見つけたように見えた。
韮崎はその縋るような視線を確かに受け止めると、ポケットから取り出したハンカチで佐藤の涙を拭う。
「カウンセリング、そして心の調査と称して346プロダクションに潜入しましょう。そしてアイドルのプロデューサー達とも面談する機会を作り、記憶を忘れてもらいます。私の立場とつてを使えば難しいことはありません。体重の減量に悩むモデルやアイドル、芸能人たちのメンタルケアと改善のために、同じような仕事を何度かこなしており、不自然ではありませんからね」
「に、韮崎先生……」
「佐藤様が島村様と仲がよく、気にかけていることを耳にしておりました。もしかしたら何かお役に立てるかもと思い、それらの仕事やテレビでの出演でコネを作っていたのですが……間違いではなかったようです」
韮崎は佐藤の顔をハンカチで整えながら、人の心を安心させる笑みを形作る。熟練のメンタルケアの技法により、佐藤の荒れた心はたちまち静まっていった。
ちなみに、この涙と鼻水で汚れたハンカチは、韮崎の大切な宝物として永久に保存されることを佐藤は知らない。
「私と部下達にお任せください。佐藤様のお心の苦しさのために、どうか私達を役立ててください」
「に、韮崎さーん!!」
抱きついてくる佐藤。抱きしめる韮崎。恍惚の表情の韮崎は、女性がしてはいけないような顔で頬を吊り上げる。
「くひ、くひひ」
表面が意思を持って取り繕える狂人ほど、精神はより深く、より深く狂いに狂っているものである。
佐藤という縁により、幾度となくツァトゥグァという偉大なる神に対面し、魔術を授けられた人間がまともであるわけがない。何故なら旧神達と対面し、普通の人間の精神が壊れないわけがないのだから。
彼女は佐藤のお願い通り、その意図を明確に理解して願いを叶えようとしている。
しかし、それは願いに込められた佐藤の想いまでも正確に理解しているということ。
一度皮が剥ければ、佐藤の願いを絶対に叶えるために、たちまち彼女はその狂気に塗れた正体を現すことになるだろう。
「敬愛する主ツァトゥグァよ、夜の父よ。このような機会を与えてくれたことに感謝を───イア、イア、グノス=ユタッガ=ハ。イア、イア、ツァトゥグァ 」
別の世界線において、数多の人間をツァトゥグァに捧げ、破滅に追いやってきた信者が、今346プロダクションへと動き出したのだ。
すごい久しぶりだけれど、某先生のクトゥルフ神話を読んで再燃。なのでクトゥルフ要素多めです。夢の中では精神体なので、彼女のありのままの姿が見れます。だから好感を武内Pは素直に感じられたという裏話。
他の二次ものんびりですが書いております。
ちなみに、韮崎さんの公式プロフィールにおけるSAN値はゼロです。ゼロです。
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言われたことだけやればいいから。ほんっとうにそれ以外やんなくていいから
これ全部で12000字なのですが、今日だけで10000字打てました。あれです、森瀬さん訳のナイア本が面白かったのが爆心剤でした。
早く新刊欲しい……。
それは、遠い昔々の記憶。
「あなたは────だれ?」
もう忘れてしまった、誰も覚えていない記憶。
周囲の誰もそれを知らず、それを体験した彼女自身も覚えておらず、何も起こっていなかったといっても良いかもしれない記憶の話である。
窓に映る影。
誰もいない部屋に聞こえる話し声。
鏡越しに見ても何も見えないのに、確かに後ろに存在する何か。
風にのって鼻に届いた心を震わせるような腐臭。
四肢の無い土を這う人型。
夕日を遮る巨大な蛇。
空を滑空する歪な虫。
そして───
「あ」
ひと目見ただけで、暖かな記憶も、辛い思いでも、希望を夢見た未来さえも、全て、全て消え去ってしまうような───
「あ、ああ」
赤くて───
「あぁぁぁぁぁっぁ」
燃えるように輝く───
「ああああああァァァァっぁぁっァァっぁぁああああああァァっぁぁ!!??」
三つの、目。
私の全てが壊れていく。心も、体も、そして記憶さえも。
最後に見えたのは歪んだ人の姿。それは大きく、小さく、高く、低い人だった。でも、もうその姿は見えない。
「あら、こんなに簡単に壊れてしまうなんて。いけないわ、これはいけないわ」
「大切に、丁寧に、長持ちをさせなくちゃいけないのに。私が壊したと知られたら、いったいなんてあいつらに怒られることになってしまうのう。大変よ、本当に大変なことになってしまうわ」
ぶちぶちと目の奥で何かがちぎれる音がした。ぐちぐちと目が泡立つ音がした。涙のように、目からどろりとした何かが頬を伝い、地面に流れ落ちていく。
「……いえ、よく考えてみたらおかしいのよ。なんでこんなに簡単に壊れてしまうじゃろうか?せっかく見つけたのに、せっかく拾い上げてあげたのに、どうして彼女はこんなに壊れやすいのだろうか?」
「そうそう、私は悪くはない。俺がちょっと、ほんのちょっと覗いてしまっただけでこんなことになるなんて。とても、大変に失礼なことだと思うよ」
叫び続ける声の裏に、まるで自分のものではないような、しかし確かに喉から飛び出る獣の声が重なる。
音の振動で喉が傷つき、声が声でなくなり、血を吐き出しても、歯が歯肉からこぼれ落ちても、深い沼のような喉から湧き出てくる声は尽きなかった。
「他にも遊んであげたいと考えている連中はたくさんいるのに、私がほんのちょっと挨拶してあげたぐらいで壊れてしまうとはね。せっかく期待したのになんて期待はずれなの」
ぼきぼきめきめき、体が鳴る。体の表面が隆起し、波打ち、そして破れて何かが飛び出していく。
体中の筋肉が弛緩し、糞尿が抑えきれずに体から溢れていった。
ああ、私の腕はこんなに長かっただろうか。私の足はこんなに短かっただろうか。私の心臓は、こんなにも大きな悲鳴をあげるのだろうか。
「でも、それじゃ可愛想よね。あまりにも可愛想だ。だから私がもっと丈夫な体にしてあげる。もっと丈夫な魂にして、もっと丈夫な心にしてあげようではないか」
「ゆっくり、ゆっくりお眠りなさい。悪夢を君はもう見ないじゃろう。だってあなたにとって、これからは悪夢は悪夢にならなくなるの。ちょっと疲れるかもしれないがね。とってもとっても楽しい思い出に早変わりだわ」
私が、私でなくなるような気がした。前世から繋いできた何かが、大切な何かが、より大きな黒いものに塗りつぶされ、全部全部わからなくなっていく。
私は誰だろう。僕は誰だろう。俺は誰だろう。
いや、そもそも、自分は……。
「だから、俺が、僕が、私が」
にんげんだったよね?
「あなたを丈夫につくりかえてあげましょう」
とても楽しげな声が聞こえた気がした。
若い女性のような、青年のような、壮年の男性のような、老婆のような、幼い子どものような。
それは、とてもとても楽しそうだった。
「え、韮崎メンタルクリニックがくるとか、マジで?」
「はい、そうです」
「……へぇ」
「……心さん?」
「うっそ、やったじゃん☆」
佐藤心は顔を綻ばせて喜んだ。
車のシートに深く身をうずめ、最近少しコリ気味になってきた肩を回していると、バックミラー越しになんとも感情が読めない目をしている女性プロデューサーと目があった。
俳優や歌手が多数所属する老舗の芸能プロ、346プロダクション。そこに心は第一級のアイドルとして所属している。
「あそこのスピリチュアルケアってすごい有名なんだよね☆個々に合った健康のためのアドバイスやトレーニング、メディテーションもすっごい効くって話だし、これは益々心もスウィーティーになっちゃう♪」
「残念ですが、新人アイドル、つまりシンデレラプロジェクトのみに診断が行われるそうです」
「おい、ちょっと待って☆」
心のキャラは独特であり、言ってしまえば普通のアイドルではない。
まず、346プロにアイドル部門ができたのは最近の話であるが、そのずっと前から「タレントや芸人じゃなくてアイドルだぞ☆」と頑なに言い続けたあたり、その押しの強く濃いキャラ性を見ることができる。
他にも「佐藤心」なので「シュガーハート」と名乗ったり、語尾を盛り上げたりキャピキャピしたりと個性てんこ盛り。かと思えば時には仮面が外れて地がでてしまったり、自虐ネタを入れるなど、見ていて楽しく面白く、下手に根性がある分なんというか見ていて癖になってくるのである。
「え、半端なくずるくない?え、めっちゃ羨ましいぞ、おい☆私も肩こりとか、ストレスとか、肌荒れとか診断してもらいたいんだけどなー♪」
「今回の韮崎メンタルクリニックの診断は、此方からのお願いが叶った形ではありません。あそこは政界・財界・海外でも人気が高い。かねてよりうちの事業部より連携や企画を打診されていたそうなのですが、たとえうちのプロダクションであっても中々お願いが通らないのです」
「うわー、346プロのお願いが通らないなんてヤバいなぁ☆え、じゃあなんでうちに来てくれることになったの?」
「私が聞くところによれば、向こうから新人アイドルのケアや、検査をさせてくれないかとオファーがあったようです。何でも最近の若い女性、それも芸能界を志す少女達を対象に、データをとっていきたいということでした。近年のアイドルブームの兆しにかけて、うちと同じくあちらも特別な視線を向けているのでしょうね」
テレビや映画などの映像コンテンツも手掛ける346プロには、魅力的な人材が数多く揃っていおり、社会への影響力も極めて大きい。
またこの346プロにおいては、よほどの才能と能力、そして運がない限りは中々日が当たることはできない。業界において他のプロダクションで活躍できても、346プロでは通用しないと言われることがあるほどに、346プロで活躍するためには高い力量が求められるからだ。
「346プロは今後、韮崎メンタルクリニックと友好的な関係を築くためにそれを受け入れたそうです。あそこと付き合っていくためには特殊なコネが必要となります。何より、クリニックが持つ独自のコネクションも魅力的です。346プロはケアや診断能力の信頼性、今後の継続的な関係の構築、そしてクリニックを通して得られる信頼と繋がりを重視し、うちの目玉であるシンデレラプロジェクトの面々を対応してもらうことに」
「くっそう、ならはぁともシンデレラプロジェクトに参加しちゃおうかな☆てか、よくよく考えれば、なんで新部門のアイドル部門で、私だけ今までプロジェクトに関わらせてもらってないの?いじめ、いじめなのか☆」
「違います、あなたの個性が強すぎることと、他の子たちとキャリアが合わないし立場が違いすぎるからですよ。アイドル部門のお局様にでもなりたいのですか?まぁ、心さんは26才なので、年齢差的には実質アイドル部門のお局様───」
「歳はやめろ☆いや、ほんと止めて☆」
しかし佐藤心はそんな346プロにおいても、他のものとは一線を画する大きな輝きを見せた。
その個性や持ち味を生かしてあらゆるメディア、特にバラエティで活躍。幅広い年代の人々からたくさんの人気を獲得したのである。
子供からお年寄りまで、男性女性という年代性差を超えて愛され、応援される芸能人は中々にいないものだ。
どちらかに傾けば、片方からは愛され、片方からは人気が得られないという話は往々にしてあるものである。しかし、心はその神の天秤のバランスに絶妙に対応することができている。
難しい話になってしまったが、簡単に言えば心が一人いるだけで番組や取材、解説が順調に回りはじめ、真剣な空気と柔らかな空気が整い、他の出演者達も自分の持ち味を生かし、最大限のパフォーマンスで行動していくことができるようになるというから驚きだ。
自身を目立たせる力を持った芸能人は数多くいたとしても、そこからさらに他人を引き立て、場を盛り上げていくことができる者は、芸能界であっても数えるほどしかいないだろう。
佐藤心はその一人である。しかも業界に入ってすぐに若くして彼女はその類まれなる才能を発揮して活躍していった。
そんな心に対して、会社は、芸能界はあらゆる優遇を行っていく。当然だ、金のなる木であり、業界を富ませるだけではなく、そこにいる人材の力を引き上げていく彼女を放っておくわけには行かない。
もし、心が「これがやりたいなぁ☆」と言えば、どんな仕事であってもそれは用意されるだろう。自分の番組を持ちたいと放送局に言えば、その番組が放送される前提に社内では会議が行われるだろう。
そして心はその期待に応え、多くの利益を業界にもたらしてくれるに違いない。
しかし、そんな心であっても中々得られないものはもちろんあるわけで……。
「うーん、346プロに拾われたのは幸運だったけれど、アイドル部門が入った時にはなかったんだよなぁ☆しかもじゃぁ辞めるかといったら、いつのまにか立場的に辞められなくなってるし……。結局アイドルになれたのはこの歳になってからとか笑えるよね☆……おいこら、笑え☆」
「笑ってクビを切られたら怖いので遠慮します」
「パワハラみたいな感じになっとるがな☆」
「これで本当にお局様になりますね」
「みっちぃのは冗談か分からないから、シュガーハートのハートがドキドキしてきたぞ☆」
「動脈に異常があるのでは?」
「年寄り扱いすんなー☆」
運転席にだきつき、席の合間から顔を出して、心は自分の目で運転しているプロデューサーをにらみ、そして笑いかけた。
それをプロデューサーは一瞥すると、「こちらも『お願い』して、特別にご対応いただきますか」と心に問いかける。
「ん、それはいいや☆」
「……よろしいので?」
「やっとアイドルになれたんだよ、プロジェクトの子たちは。だからさ、今回の縁を十分楽しんでも欲しいし、活用してほしいんだよね。韮崎メンタルクリニックに診察してもらえた、ケアしてもらえたってだけで、箔もつくし話題もつくれるし、良い経験になるじゃん」
「……そうですか」
「私の時にはそんなの無かった。本当にゼロから、どん底から、みんなに支えられて、服も自分で作って、鬱陶しがられながらもたくさんアピールして、同年代の子が経費で買えるものも全部私費で用意して……。そんでこの歳でようやく念願のアイドル部門に入れたわけよ☆下地だけいつのまにかバッチリの新人アイドルってね♪」
「……はい」
「貴重な若手の経験の場を奪ってズカズカ入っていくのは空気読めてないし、そんなのいけないよねぇ!やっぱりみんなには芸能界を、アイドルを少しでも楽しんで欲しいわけです☆だから、今回のはぁとはガマンガマン♪大丈夫、はぁとはこれまでもたくさん待ってきたんだから、まだまだ待てるってね♪」
「……めったにない心さんのワガママですから、346の方々は喜んできいてくれると思いますよ?」
あれだけいろんな仕事や役目を長年こなしているのだから、何かその恩を返したいと思っているプロダクションの人間は少なくはない。
この程度のワガママなど、そもそもワガママとして捉えられることすらないだろうに。
「我慢も慣れれば楽しいものだぞ☆ほら、石の上にも三年……いや、三年もしたら三十歳か。よし、ごめん、今の忘れよ?気持ち切り替えよう?」
楽しそうに、しかしどこか恥ずかしげに笑う心を見て、プロデューサーは硬い相貌を崩し、「そうですね」と短い相槌を打った。
問題も多い方だが、これほどに支えがいがある人はそういない。
「しっかし、急な話過ぎてなんか違和感?なにも起こらないと良いんだけどなぁ……」
「……心さん?すいません、車の音でよく聞こえなかったのですが」
「ひとりごとだから大丈夫だぞ☆」
白坂小梅は困惑を隠せないでいた。
彼女もまた、心と同じくアイドル部門のアイドルであった。13歳とまだ幼さを残す少女は、いつもと違う会社の光景に息を呑む。
視線をさ迷わせるも、探しものはみつからない。
会社に入ってから、エントランスでも、エレベーターに乗っても、廊下を歩いていても、彼らはどこにもいなかった。
どうしたのだろう、何かあったのだろうか。
いて当たり前だった存在の不在は、小梅の心をどうしようもなく不安にさせていた。
同僚であるアイドルは、そんな小梅の不審な様子に疑問を感じ、何かあったのかと問いかける。
「……あ、あの子が、あの子達がいないんです」
小梅が言う『あの子』とは、小梅以外がその存在を見ることができないものであった。
だからこそ、同僚のアイドルは小梅の言葉にどうしたものかと頭を悩ませる。
小梅はホラー映画が大好きなアイドルだ。おばけやクリーチャーが大好き、心霊系アイドルとして大人顔負けのトークを見せることもできる。
小梅はそのような存在を現実のものとして信じている。そしてそのような存在を実際に見ており、会話を交わし、友好的な関係を作り上げているようだった。
「ど、どうしたんでしょうか……。こ、こんなこと今まで一度も無かったのに……」
「うーん、あの子たちねぇ。私は見えないんだけど、今日はいないの?」
「は、はい。いつもは建物の外にもいるんです。で、でも今日はここらへんには誰もいなくなっていて……」
「なるほどなぁ、不思議なもんだねぇ」
だが同僚のアイドルからすれば、その話題はどうにも悩ましいものであった。
一つの作り話として話題に上げるのであれば、「お遊び」や「一種のノリ」として楽しんでいける。
しかし、現実のものとして、さも存在するかのように話題を展開されても、どうにもついていけないのである。
それはなんというか、あれだ、現実に即していない空想だからこそ魅力がある世界なのだ。彼女はそういうものを信じてはいなかった。
幽霊や化け物なんて、科学が発達した現代の人間からすれば非現実的なおとぎ話だ。
幽霊なんて自分は見たこともない。怪しい呪文で人が蘇ったりゾンビが出来上がるなら、俗な話だが大国や大企業がもっと大々的に研究して大きなお金に変えているだろうに。
地殻の下には地獄、空の上には天の国。西の果てには阿弥陀仏の浄土なんて宗教で言われていた時代もあったみたいだが、地殻を割っていってもあるのは地球の中心だし、空を上っていってもあるのは宇宙。西の果てだって目指しても一周して戻ってきて終わり。
当然、神なんて宇宙のどこを探しても、みつかってなんていやしない。
そういう話はよくわからない不安を形にして安心したり、生きる上での苦悩をそういう大きなものがあるとして耐えきる道として受け止める時代があったから生まれたものだと、彼女は歳に似合わない厳しいリアリストな視点で受け止めている。
それを本気で考えている同年代の人間、もしくは大人たちであれば自分は距離をとるのだろうが、目の前にいるのはまだまだ顔に幼さを残す子供。正義のヒーローにおばけ、サンタさんやらを信じている大人になりかけの子供なのだ。
故に、同僚のアイドルは困る。これ、どうしたらいいんだろうと困っている。
幼い精神の子供は、イマジナリーフレンドを無意識の中で作り上げたりするらしい。
小梅の言っている『あの子』とはそのような、大人になったら綺麗サッパリ忘れてしまうような、子供のときだけしか見えないお友達なのかもしれない。
それをずばっと言ってしまっては、なんというか、精神の成長やら心の安心やらに悪い気がしてくる。
幼い子どもに今考えているような事を言っても分からないだろう。
ある意味で言えば、そういう幻覚や幻聴を不安として受け止めすぎないためにも、安易な形で受け入れるためにも、不可思議な存在は現代においても必要性をのこしているのかもしれない。
故に、同僚のアイドルは否定せず、その言葉を受け入れて「あるもの」として考えることにした。
「みんなで旅行にでも行っているか、楽しいことみつけてどっかいってるんじゃないの?」
「……え?」
「ほら、ここらに毎日いるんならみんな顔見知りなわけじゃない?いつも同じところいても飽きるだろうし、知り合いのみんなで違うところで気分変えてさ、バーっと遊んだりしてるんじゃないかな?」
「……う、うーん。そうなの……かな……」
「また会ったら、何かあったのか聞いてみたら良いんじゃない?小梅は会話できるみたいだしね」
「……そう、ですね。……そうします」
「おっけ。ほら、そんなに気分落としてたら、『あの子』も心配してしまうでしょう?いつもどおり元気だして、また会ったら笑って挨拶しようって」
「……は、はい。あ、ありがとうございます……ッ!」
「そんなかしこまらなくていいって!ほら、今日は有名な韮崎クリニックの人が来てくれるらしいし、ばっちり楽しもうじゃないの」
ニカッと快活な笑みを浮かべる同僚のアイドルに、小梅も「そうですね」と満面の笑みを返した。
同僚のアイドルは、あの子達のことを見えていない。しかし、あの子達はいつも元気で笑っているこの人のことが大好きだと言っていた。
こうして元気を自分がもらった、みんなを受け入れてくれている話をしたら、もっと好きになってくれるのだろうと小梅は微笑む。
しかし、その一方でどうにも消せない胸騒ぎを感じていた。
いつもとは違う何かが起こっているのではないか、という疑問だ。
あの子たちがいなくなったら何かが起こっているのではなく、何かが起こったからこそあの子たちはいなくなってしまったのではないだろうか。
それは色々考える中で、小梅の頭に浮かんできた一つの疑念だ。
裏付ける証拠なんてあるわけもない。でも、何故かその考えが正しいのではないかと、小梅の自身の心が伝えてきてくれている。
小梅自身も、どうにも嫌な予感がしてならない。気のせいかと思ったが、エントランスに入ってからなお、その予感は痛いほどに小梅に何かを伝えてきている。こんなの、生まれてはじめての経験だった。
───ふと、小梅は何かの違和感を感じた。
エントランスにいる人々が、にわかに興奮し沸き立つ。
男性たちは頬を薄っすらと赤く染めて入口の方に釘付けになり、女性は口を押さえて感嘆の小さな悲鳴を上げ、これまた同じように入口にいる何かを見て近くの同僚と話を盛り上げていた。
なんだろう、そう思って後ろを振り返ると。
三人の女性がいた。
ある女性を中心に、残る二人が連れ添うように脇を固めている。
横の一人はショートボブの秘書風の女性。きりりとした顔立ちに、レディーススーツを身に着けている。もう一人はミディアムで髪をふんわりとまとめた、全身モノトーンのジャケットスカート姿のかわいらしい女性だ。
いずれも人を惹きつける魅力がある美人であり、芸能界で働いている小梅であっても目を奪われてしまう。しかし、彼女らに囲まれる中心の女性は、二人のさらに上をいっていた。
「お、あれってもしかして韮崎先生じゃないかッ!?ほら、テレビとかにもよく出てる。この前雑誌でも読んだけど、本当に346プロに来てくれたんだなぁ。しっかし、あれすごい美人だなぁ。あれなら並のモデルも俳優も顔負けっていうか、やばいな……」
同僚のアイドルが一人夢見心地につぶやいた通り、まさにそれには隔絶した美しさがあった。
「すげぇ……」
「お、おい。テレビとかで見るよりも、綺麗だよな?」
「うわぁ……素敵だなぁ」
顔の造形は語るまでもなく、完璧と言っていいほどに整っている。人には趣味嗜好があるかもしれないが、どのような人間でも韮崎のことを「美しい」と評価するほどの美のバランス。
目、鼻、口、眉、頬、顔の形など、名のある芸術家が遺した最高の作品のように一つの偏りも歪みもない。体の造形もある種の美の黄金比が感じられる。韮崎の黒髪は光を浴びて虹色に輝き、白い肌とそのハリは老いを一切感じさせなかった。
形だけではない。韮崎の歩く姿からは優しさと暖かさ、そして人としての強さを感じさせられた。
彼女と話したい、彼女と友だちになりたい、彼女の目に映りたい、彼女と同じ空間を共有したい、彼女についていきたい。そう思わせるだけの言葉にできない魔性の魅力を韮崎は持っている。
まさに女性が求める「美しさ」の在り方が、そのまま抜け出して歩いていた。そこにいた誰もが韮崎に呆けてしまい、羨望と情欲と崇敬の視線を向けた。
ひと目見れば惹きつけて離さず虜にしてしまうような、まるでトップアイドルクラスの美貌と威容であった。
小梅はこんなに綺麗な人がいるんだと驚いた。
美人と呼べる人はたくさんいる。となりの同僚のアイドルもとても綺麗だし、佐藤心や高垣楓といった看板アイドルたちも皆美しく、言葉では表せない内から溢れ出る魅力を感じさせられた。
だが、彼女は何か違う。横の二人もそうだが、まるで人という枠を超えているような、ある種飛び抜けた人を魅了する力を感じさせる。
「……ん?」
ふと、韮崎が何かを感じたのか、小梅に視線を向けた。たくさんの人達がいるエントランスの中で、唐突に小梅は韮崎と視線がばっちりと合ったのだ。
小梅は自分に視線を向けている韮崎に、驚き、戸惑い、あわあわおろおろと竦んでしまう。
そんな小梅を韮崎が面白そうにくすくすと笑った。
───臭いがした。
え、と小梅は一瞬にして高ぶった感情が冷めていくように感じた。
あれだけあっちへこっちへと行っていた気持ちが、唐突に水面に沈められたかのように冷えてしまい、そして謎の気持ち悪さを覚えたからだ。
──ドブのような、腐った魚、いや、卵のような。違う、もっと、もっと酷い臭い。これを言葉で語るすべを自分は持っていない。そんなめちゃくちゃな、体だけではなく心まで拒絶してしまう酷い臭い。
小梅の顔が少し歪んだ。これまで感じたことのないような臭いに、鼻が痛みすら感じ始めている。
思わず周りを見渡すが、誰もその臭いには気がついていないようだった。隣で目をぱちくりして韮崎を見ている同僚のアイドルですら、こんな激しい異臭がしているのに平然としている。
いくらすごい人がいるからって、誰もがここまでこの臭いを無視できるなんて、小梅には信じられない話であった。
「───さん、あの、その」
「なんか韮崎先生、こっち見てない?あれかな、今日来た理由のアイドル関係者だとやっぱりわかって……。うん?どうしたの?」
「ひ、酷い、臭いがしません……か。何かが腐ったような、酸っぱい、重い、臭い……」
「へ?いや、何も私は感じられないけれど」
驚いたことに、同僚のアイドルはこの臭いがわからないらしい。
もしかしたら、この臭いを感じているのは私だけではないかと不安が小梅の頭を過る。
そして小梅が鼻を長い袖で抑えながら、再度韮崎達の方へ向き直った瞬間。
「………───ッ!?」
6つの光る目が小梅を射抜いていた。
あれだけ魅力に溢れていた三人の瞳が、今の小梅には深く淀んでおり、汚いものに見えた。
鈍く輝き、暗く瞳の下で何かが蠢き、それを見ている小梅にどんなホラー映画よりも経験したことのないような怖気を与えてくる。
そうして改めて見ると、目の前の三人が小梅にはどうしようもなく恐ろしいものに見えてきた。
あれだけ魅力的に見えた美しさが、今の小梅からは人を元気にするよりも、蝕み貪るような退廃的な恐ろしい何かに感じられてならない。
しかも、それに気づいているのはやはり小梅だけのようであった。
誰もがそんな韮崎たちに気がついていない。あんなに恐ろしいのに、あんなに怖いのに。これまで見てきたどんなホラー映画の怪物たちよりも悍ましいのに。未だに変わらない視線で、みんなが彼女たちを素晴らしいものを見る目で見つめている。
それがさらに小梅の精神に大きな衝撃と恐怖を与えた。
小梅の顔が引き攣り、顔が青くなり、体が震えだす。
「ど、どうしたの?」
もう同僚のアイドルの声も、小梅の耳には入って来なかった。
小梅の頭の中で思考がぐるぐると回り、目の前の三人から目が離せずに瞳孔が震えだす。
そんな小梅の混乱しきった心に、ある一つの考えが浮かんできた。
どうして、あの子たちはここにいなかったのだろうか。
それはあの子たちにとって恐ろしい何かが迫ってきていると知ってしまったからではないだろうか。
あの子たちが恐れるものなんてない。
怖い人間もへっちゃら、どんなに強い人だって、あの子たちには触ることもできない。
そんなあの子たちが、どうして逃げなければいけなかったのだろうか。それはたとえあの子たちであっても食べられてしまうような、何か恐ろしい力を感じたからではないだろうか。
小梅の想像は止まらない。止めたくてもとまらない。もうどうしようもない。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
そして───そんな小梅に対して、韮崎は不思議そうに首を傾げ、また安心させるように微笑んだ。
その時、小梅はわかった。わかってしまった。
今感じているこの臭いは、このどうしようもなく不快で気持ち悪い、悍ましい臭いは。
あの韮崎たちの方から漂ってきているという事実に。
小梅の目が見開かれ、膝が折れようとしたその時。
小梅は後ろで自分の服を引っ張る何かの存在を感じた。怯えていて、でも心配そうに、力強く自分の服を引っ張るなにかの存在。小梅は衝動的に後ろを振り向き、そして──
『にげて』
あの子のかすれた声が聞こえた気がした。
「───さんっ!!」
小梅はとっさに隣で心配げに自分を見ていたアイドルの名前を呼んだ。そして手をとり、思いっきり走り出した。
アイドルが驚きの声をあげるも、小梅には説明している余裕はなかった。もういっぱいいっぱいだったのだ。
周囲の人々の怪訝な顔も無視して、小梅はアイドルを連れて奥に走り出す。
行き先はどこにいったらいいのか分からない。それでもこの場にいたらいけないと、小梅はただただ必死の想いで走った。どんなに胸が、足が痛くなっても、それに構わず走った。
そして遠ざかっていく二人の姿を、韮崎は真剣な顔で見送った。
「韮崎様、あの子たちはいったい?」
誰もが韮崎に見惚れる中、この場から逃げるように走り去っていった二人のアイドル。
どうにもおかしい。韮崎の部下は訝しむ様子で韮崎へ尋ねた。何故、あの少女は此方を睨んでいたのだろうか。
「恐らく、何かに気がついたのかもしれません」
韮崎の部下二人に緊張が走る。
秘書風の女性が、小梅たちがいなくなった先を見つめて呟いた。
「……追いますか?何かに感づかれていたら面倒です」
「あれは件のシンデレラプロジェクトの一期生ではありません。二期生かもしれませんが、無視しても大丈夫ですよ」
「……かしこまりました」
頷く秘書風の女性に笑いかけると、韮崎は面白そうに先程の少女の姿を思い浮かべる。
ここは佐藤様のお気に入りの子が所属しているプロダクションだが、それ以外にも興味深い人間がいるとは思いもしなかった。
「驚きですね。猫や犬の中でも特に勘が鋭い子はそういうこともありましたが、まさかあんな小さな子が何か察することができるなんて。私達のように才能があるかもしれませんね」
ほーっと、もう一人のふんわりヘアの部下が、小梅たちが去った方向を見て感心し、嗤った。
「回収、しちゃいます?」
嬉しそうに、楽しそうに「可愛かったなぁ、あの子」とふんわりヘアの女性がニタニタと笑う。そして回収という言葉に、秘書風の女性も目を鷹のように鋭く光らせた。
教団の力はいくらあっても足りるものではない。海外への影響力を伸ばしている中、少しでも才能がある存在は是非とも取り込んでいきたいのだ。
しかし、そんな部下二人に対し、韮崎は呆れるように息を吐き出した。
「ここは通常は不可侵な場所。他ならぬ佐藤様……。いえ、佐藤さんがそう命じているのですよ。加藤、あなたはその約束事を破るつもりなのかしら?」
一瞬にしてふんわりヘアの女性の顔が真剣なものに変わり、目を落として「申し訳ございません、韮崎様」と震え声で口を開く。
彼女たちにとって、この地球上で誰よりも重い存在の言葉。
それを破ることは即ち、死よりも恐ろしい何かが己の身に襲いかかるということ。
忠誠を破ってしまうこと、あの人に嫌われ、敵対してしまうこと以上に、深い世界に関わった彼女たちは恐れるものがある。
秘書風の女性も口を一文字に紡ぎ、何かに耐えるように目をつむる。
そんな二人を苦笑しながら見つめていた韮崎は、「行きましょう」と誘いをかけて再び歩き始めた。
なんか佐藤がちょいやくだったり、全くでないとすんげぇクトゥルフ色濃くなる気がしてきた。次回、戦闘予定です。
皆さんちゃんと戦闘技能とってます?
跳躍にガン振りしたり、回避に振ってなかったり、芸術(アイドル)に振りすぎてたりしませんよね?
あと持ち物にフィリピン爆竹とかKVK2とか花火玉持ってきてないよね。駄目だからね。豚箱エンドだからねそれ。
PS.誤字報告をくれる方、本当にありがとうございます。
読んでくれるだけではなく、ご協力を頂けて本当にありがたいです。赤ペン先生みたいな安心感あります。
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