【短編版】速水奏ロールプレイ (早見 彼方)
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決意

「ねぇ、君。ちょっといい?」

 四月中旬の土曜日。天候に恵まれた休日の街中で男性の声に呼び止められ、僕は声の発信源へと顔を向けた。

 そこにいたのは、金色に染めた少し長めの髪をワックスで弄った青年。身長162センチの僕から見て頭一つ分高い背丈。無地のシャツに質の良いジャケット、フィットして足のしなやかさを強調するズボン。銀のリングネックレス。今どきの若者が好むような格好と、隠そうとしても表情から滲み出る軽そうな性格。

 外見で判断してはいけないということは認識しているけど、目は口程に物を言う。

 青年の目が、オフショルダーのゆったりとした服を着た僕の豊かな胸や短い丈から露わになった白く健康的な大きさの太股を不躾に見つめた後、僕の顔に視線を移してゴクリと生唾を呑むのがわかった。青年からするとほんの数秒の視線の動きでも、見られている側からは全てが把握できる。

 僕も女性に生まれ変わる前はこうだったのかなぁ、と心の中でため息をついた。

「なにかしら?」

「道を聞きたいんだけど。この店がどこにあるかわかるかな」

 そう言って、青年は一枚の紙を見せてきた。そこには見知ったカフェの名前が書かれていた。この辺りでは有名で、カップルの男女が愛用しているという噂を小耳に挟んだ。通っている高校の男子生徒に誘われたことも何度かあったから覚えている。

「えぇ。このカフェなら知ってるわ」

「本当? 良かった。その、もしよければ案内してもらえないかな? 今、携帯電話の調子が悪くてインターネットで道を検索できなくてね。おまけに俺って方向音痴でさ。迷惑でなければ、お願いしたいんだけど」

「案内だけなら構わないわよ。案内だけなら、ね」

 案内だけ、という個所を少し強調して言うと、青年の瞳が一瞬横に揺れた。身の固そうな雰囲気を僕から感じ取って、頭の中で最適な攻略法を考えたのかもしれない。

 しかし、すぐに僕を向いて「助かるよ。それじゃあ、よろしくね」と言って歩き出した。僕は肩に掛けた鞄を揺らして青年の横を歩く。

 道案内の道中、青年は間を置かずに僕に話し掛けてきた。軽く名前や年齢を自己紹介してきたため、僕も仕方なく名乗った。

速水(はやみ)(かなで)ちゃんか。可愛い名前だね」

 随所に褒め言葉を挟み、青年は当たり障りのない日常会話から、少しプライベートに突っ込んだ話をする。「奏ちゃんって、恋人とかいないの?」という問いが一番の攻め手だったのだろうか。僕が「今はいないわ」と言うと、「へぇ、意外だね。あ、実は俺もいないんだ」と返される。そこで会話は途切れることなく、僕の通う高校の男子生徒などについて話を広げ、高校の男と大学生の男との違いをアピールするような会話へと移行。大学生である自分の価値を高めようという魂胆らしい。

 しかし、青年の思惑を何となく悟った僕は全てを軽く受け流す。

 青年が道案内を依頼した店が近づくに連れ、青年の言葉に少し焦りが生じ始めた。手応えがないと思ったのかもしれない。たまに足を止めて時間を稼ぎ、会話の数をできるだけ増やそうという努力が窺える。

 時間は無情に過ぎた。青年のテンションがほんの少し下がったように感じられた頃、目的地のカフェに着いた。

「着いたわよ」

「あ、うん。ありがとう」

「えぇ。それじゃあね」

「あ、ちょ、ちょっと待って!」

 用事を終えた僕が立ち去ろうとすると、青年の慌てた声が掛かった。

「道案内してくれたお礼がしたいんだけど、良ければ一緒にカフェに入らない?」

 ここが最後の機会といった感じで攻めてくる青年。お礼からカフェへの入店を勧める自然な流れ。カフェという絶好の場での会話時間を見繕おうという考えらしい。

 勿論、それも全て僕はお見通しだ。

「今日は用事があるから、これで失礼させてもらうわ。そのお店には、いつか軟派で掴まる素敵な彼女さんとどうぞ」

「あっ……」

 これ以上の青年の誘いには乗らず、僕は背を向けて歩き出す。名残惜しそうな声が聞こえてきたけど、追ってくることはなかった。中には追って来てまで話しかけてくる人もいるけど、引き際は見極めているらしい。

 青年から離れて道を曲がり、遮蔽物を挟んで姿が見えなくなる。

「……はぁ」

 僕は小さく息を吐き、ほっと胸を撫で下ろす。

 軟派されるのは初めてではないけど、やっぱり毎回緊張する。もしかすると、軟派する側よりも緊張しているかもしれない。上手く断れないのではないか、と不安を抱いて心臓が大きく鼓動してしまう。

 喉が渇き、鞄から水の入ったペットボトルを取り出して少量を飲みくだす。少し、気分が落ち着いた。

「あー、やっぱり難しいなぁ……」

 僕は心中に漂う負の感情を吐き出し、軽く肩を下ろす。

 僕は今、ある習慣を日常に取り入れていた。その習慣によって得られる技術は、今後の僕には必要となってくる技術だ。技術というか、適応力、といったほうが適切かもしれない。

 僕の習慣。その名も、『速水奏ロールプレイ』だ。

 僕にとって、速水奏というのは僕のことを指す名前ではなかった。僕が生きる世界とは別の世界。僕が中学生の年齢まで生きた前の世界。そこで、知る人ぞ知る有名な人物の名前だ。

「でも、速水奏に生まれたんだから、速水奏にならないと……」

 速水奏。それは、『アイドルマスターシンデレラガールズ』というソーシャルゲームに登場するアイドルの一人。このゲームはプレイヤーがプロデューサーとなって様々なアイドルを育成するという内容だ。当然、アイドルである速水奏も育成対象であり、僕は速水奏を推していた。

 つまり、速水奏とは架空の人物だ。それなのに、今こうして速水奏は存在していて、なおかつ僕が速水奏になっている。

 その事情を細かく説明すると長くなるけど、短くまとめようとすると本当に短い。

 部活帰りに車に轢かれた僕が目を覚ますと、速水奏に生まれ変わっていた。

 省略し過ぎかとは思うが、実際に僕の身に起こった出来事を端的にまとめた内容だ。交通事故に遭ったと認識した直後に目を覚ますと、僕のことを奏と呼ぶ両親がいた。僕は高い柵に囲まれたベビーベッドの中にいて、自由に身動きすら取れなかった。

 最初は夢だと思っていた。そう思いたかった。だけど、寝ても覚めても僕は奏だった。

 動きたくとも自由に動けない辛い赤子生活。両親との会話やテレビ、時折母親の手から拝借した本を楽しみに生きた。それ以外は特筆すべきことはないほどに、平和で代わり映えのしない日常だった。他にすることもなく、話す練習をしていたためにかなり早い段階で言葉が話せるようになったことぐらいだ。

 月日は流れていき、幼稚園に上がる頃にはそれなりの自由を手に入れた。他の園児が走り回って遊ぶのに混ざって、僕もたくさん遊んだ。

 小学校低学年に上がる頃には、友達が沢山できた。何も考えずに心の底から笑って遊ぶのが嬉しくて、毎日のように遊んだ。遊ぶ相手はだいたい男子で、女子とはあまり遊ぶ機会は少なかった。たまに遊んでも、どう接していいのかわからないときがあった。

 僕は、まだ前世を引きずっていた。もう男だった過去を忘れて女として生きるべきだと思うけど、やっぱり男としての生活にも惹かれていた。邪魔にならない程度に髪をショートヘアにして、サッカーや野球を楽しんだ。

 そんな僕は、妙に周囲の注目を集めていた。幼いながらも、母親譲りの妖艶さを漂わせる美麗な容貌とスラリとした白皙の肢体。さらさらのショートヘアをなびかせて少年のように遊ぶ僕は、男友達の目から見ても異色の存在に映ったようだ。

 でも、僕は気にしなかった。両親からもう少し女の子と遊んだほうがいい、とは言われていたけど、やっぱり上手く接することができない。同世代より下の子だったら大丈夫だけど、年齢を重ねるごとにませていく女の子にはついていけなかった。

 別に男友達だけでもいいんじゃないだろうか。

 そう思っていた僕に、転機が訪れた。

「お、俺と付き合ってくれ」

 小学生高学年のとき、同級生の男友達から告白された。学校ではなくて、わざわざ近所の公園に呼び出されたから何かと思ったら、意外すぎる展開だった。

 その男友達とは、家に遊びに行くほどの仲だった。一緒にテレビゲームをしたりサッカーをしたり。数多くいる男友達の仲でも古株の友。親友とも呼べる存在だ。その彼が、僕のことを好きだという。

 告白を受けた僕は、しばらく返答に困った。

 まさか、僕が男の子に告白されるとは思わなかった。僕が男友達ばかり作っていたのは心が女性になり切れずにいたからであって、そう言った男女間での浮ついた感情は持ち合わせていなかった。そもそも、まだ小学生だ。恋愛感情など生まれるには、早すぎるのではないだろうか。最近の子は進んでいる。

「……ごめん」

 だから、僕は断った。申し訳なかったけど、仕方なかった。

 別に彼のことが嫌いだったわけではなく、ただ今の僕には男性を異性として認識することができなかった。ただそれだけのことだ。

 それなのに、少し胸が痛くなった。最近やけに胸が痛くなる。

 そのとき既に、僕は女性として成長を始めていたようだった。小学生だけど胸は衣服の上からはっきりとわかるほどになり、同級生の視線が集まるのがわかった。その中の一人に彼がいた。

 告白を断って少し気まずくはなったものの、彼との友人としての関係は続いた。小学校を卒業し、中学に入ってからも彼とは同じクラスで、一緒に登下校した。僕の恰好は紺色のセーラー服へ、彼の恰好は黒い学生服へと変わっても、僕達は昔のままだった。

 これからも、こうして友人として付き合っていけるのだろう。

 その願いは、またしても彼によって歪められると思わなかった。

「やっぱり、俺は奏のことが好きだ……」

 中学2年生になって、改めて彼から告白された。

 僕はそれほど驚かなかった。中学に入ってから、急激に告白されることが多くなったからだ。ラブレターや直接対面しての告白。同級生だけでなく下級生や上級生からも想いを告げられることが多かった。

 ただ、僕にはわからなかった。僕はただ仲良くしたいと思って接しても、男子達は違う感情を抱くらしい。小学校からの友人も同様で、告白をきっかけに縁がなくなってしまった人達が多かった。

 同世代の男の子から見て、僕は魅力的な異性に見えるらしい。確かに胸もだいぶ大きくなり、母の遺伝を色濃く受け継いだこの体は中学生ながら信じがたいほど美しく成長した。自画自賛したいわけではなく、自分の顔でありながらそういった感想を素直に抱いてしまう程度には整った外見になっていた。

 だけど、どうしてこうなったのだろうか。僕はただ男の子と友達として仲良くなりたかっただけなのに、近づけば近づくほどに彼らと僕は別の性別だという真実が突き付けられる。試しに仲良くスキンシップを取ってみると、その男子生徒は顔を真っ赤にして動揺した。それを見ていた女子生徒の視線が、厳しく僕に突き刺さった。

 気がつけば僕は孤立していた。別に虐めを受けていたわけでも、明確に無視されるようになったわけでもないけど、遠巻きに見られることが多くなった。それでも男の子からの告白は止まず、その度に断っては自分の性別を自覚させられる日々が続いた。

 そんな中に受けた、親友からの告白。親友は僕とは違い、クラスの中心人物になっていた。サッカー部に所属していて、来年は主将を任せられるとのことだった。すっかり孤立した僕とは対照的な存在だった。

「なぁ、奏」

「……何?」

「この前の、告白の返事が欲しいんだけど……」

 彼の言葉に、僕は黙して返答を先送りした。

 沢山いたはずの仲の良い友達は皆、友達ではなくなった。友達という関係から一歩先へと歩み寄ってきて、僕が拒絶してしまったためだ。はっきりと友達と呼べるのはもう彼だけ。その彼も、他の友達と同様に僕との関係を親密にしようとしてくる。

 男と女。彼氏と彼女。友人の関係では、もう満足してくれないらしい。

「ごめん……」

 僕はまた、断った。

 僕の生き方は、おかしいのではないだろうか。だから、皆が離れていってしまうのではないだろうか。中学卒業前に親友の告白を断った後、そう思うようになった。最初から速水奏として生きることができていれば、こうはならなかったかもしれない。

 高校生に上がった時には、僕は考えるようになった。

 このまま前世を引きずっていてもよいのだろうか。僕が速水奏に生まれ変わったのには、何か意味があるはずだ。一度そう思うと、それ以外の考えが浮かばなくなった。

 それと同時に、僕という前世の意識が本来あるはずの速水奏という存在を塗り潰してしまったのではないかと思うようになり、怖くなった。

 僕はこのままでいいのか。どうあるべきなのか。

 深く考え、僕が出した結論。

 僕が、速水奏になりきるという案だった。自分という存在の痕跡をなるべくなかったことにして、本当の彼女が辿るだろう筋書きを考え、行動に移す。それが、僕の知る速水奏への贖罪だった。



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邂逅

 日曜日。空は生憎の曇天で、時刻は午前五時の早朝であるため、外は暗い。起床したばかりの僕は洗面所で簡単に洗顔と歯磨きを済ませると、パジャマ姿から青色のジャージへと着替えた。ジャージの下には黒いタンクトップと短パンを着ている。

 あまり少女らしくはない簡素な部屋にある姿鏡を前に、最低限の身嗜みを確認する。どうせ、これから運動して乱れるのだから身嗜みを確認しても意味はないのでは、と自分でも思ったが、女性なのだからどんな場合でも確認はするだろう。女性と鏡と御洒落は、切っても切り離せない関係だと思う。

 両親が眠る家を静かに出て、出歩く人のいない静かな住宅街を十数分ほど歩く。外気は肌寒い。

 海岸沿いの歩道に到着すると、そこで準備運動を念入りに行う。運動で一番怖いのは勿論怪我だ。速水奏に怪我は似合わない。

「……よし」

 準備を終え、ゆっくりとした速度で走り出す。少しずつ体を運動行為に慣らし、体が温まってきたと判断した段階で一定速度を少し上げる。またその速度に体が適応したのを見計らって、速度を上げる。それを繰り返し、無理しない程度に自分の体力の限界付近に挑戦する。

「はっ……はっ……」

 息が上がるが、肩に力は入れない。走り方を乱してはいけない。右手で海の景色が流れる中、しっかりと前を見据えて足を動かす。走ることに意識が集中し、心が少し無心になれた。

 普段、考えすぎる性格であるため、こういう何も考えずに没頭できることは貴重だ。心が安らぐ。このままどこか遠くまで走って行きたい気分になるけど、僕の居場所はここだ。速水奏として、正しく生きなければならない。

 願望ではなく、これは義務だ。

 一頻り走り続け、空はすっかり明るくなっていた。

 上げていた速度を最初のゆっくりとした速度まで落とし、最後は数分間歩く。

 汗が肌から滲み出て、ジャージの内側に着た黒いタンクトップと張りついていた。

「暑い……」

 歩きながらジャージのチャックを下ろし、胸元にヒヤリとした外気を取り入れる。

「……ふぅ」

 心臓が鼓動し、汗を噴き出し続ける火照った体が冷めていく。

 心地よさに目を細めて歩道の端を歩いていると、正面から走ってきたランナーと思しき男性がやけにじっと僕のことを見つめてきた。すれ違った後に何だろうと思って振り返ると、まだ僕のことを見ていた男性は慌てた様子で速度を上げて走り去っていった。

 何だろうか、と思ったところで僕は理由に気がつき、「あっ……」と声を上げた。

 ジャージのチャックを下ろしたことで、タンクトップから胸の谷間が丸見えになっている。このタンクトップは胸元がゆったりとしているのだ。運動で掻いた汗が浮かび、自分で見ても直視してはいけないと思えるほどの妖艶さを放っていた。

「……失態だ」

 慌ててジャージのチャックを上げて着直す。

 胸を見られていた。その事実に、僕はため息をつく。

 油断していた。普段は大丈夫なのに、少し気が緩むとこれだ。

「はぁ……」

 最近、ため息が増えた気がする。学校で男子生徒からラブレターを貰った際には必ず一回はため息をついている。たまに下級生の女子生徒から告白された後にも。どうして同性なのに同性に真面目な顔で告白するのだろうと、僕の頭を悩ませる。

「すみません。今、お時間よろしいでしょうか」

 運動後のストレッチを行っていると、少し緊張を含む男性の声が背後から聞こえた。

「え……?」

 振り向くと、二十代前半に見える黒いスーツを着た男性がいた。短くした黒髪と中肉中背の体格。顔立ちは少し整っているほうで、柔和な微笑みが似合いそうだった。やっぱりというか声に含まれた緊張は表情にも滲み出ていて、肩に力が入っているのがわかる。

「何か……用ですか?」

 何かしら、と自然にため口が出そうになったのは、速水奏ロールプレイの賜物だ。でも、さすがに相手は選ぶ。大学生くらいの人にならため口は許されると思っているけど、明らかに社会人の人にため口を利くのは少し躊躇いを覚えてしまう。世間は意外と狭いから、最初は通りすがりの人でも、今後の人生にも繋がりがあるかもしれないのだ。愛想悪くするのは悪手だと思った。

 でも、やっぱり速水奏を忠実に演じて他者と対応すべきだろうか。それとも、速水奏の将来を考えて、ロールプレイはある程度譲歩すべきなのだろうか。どうするのが正しいのだろう。

 一瞬考えて、今はそれどころではないと思考を戻す。

 男性は肩に下げた通勤鞄から何かを取り出そうとしている。しかし、焦っているのか上手くいかないようで、僕を見ながら愛想笑いを浮かべていた。

「あっ……」

 そんな声と共に男性は鞄を地面に落とし、中に入っていたボールペンなどが転がる。

「す、すみません……」

 僕は足元まで転がってきたそれを拾って渡すと、男性は申し訳なさそうに頭を下げた。

 そそっかしい人だけど、悪い人ではなさそうだ。少なくとも、数人掛かりで囲って無理矢理遊びに誘ってくる若者のような要注意人物ではない。

 気を取り直して、男性は鞄から透明な袋に包まれた冊子を取り出した。

 そして、懐から革製の定期入れのような入れ物を出すと、一枚の紙を手にした。

 その入れ物が名刺入れであり、その一枚の白い紙が名刺であることがわかった。

「私、()()()プロダクションでプロデューサーをしております、青野(あおの)と申します」

 そう言って、青野さんという方は名刺を両手で僕に差し出した。

「ぁ、はい……」

 僕はというと、相手が名乗ったプロダクション名を聞いて頭が真っ白になっていた。ぎこちない動作で名刺を受け取り、紙面の内容に視線を走らせる。

 346プロダクション。アイドル事業部所属のプロデューサー、青野さん。本人が名乗った通りの肩書きだけど、改めて僕の心にその文字が浸透する。

「346プロダクション……」

 そのプロダクションの名前はよく知っている。

 芸能事務所、346プロダクション。老舗の企業で、芸能界では知らない者はいないだろう。人気俳優や歌手などを多く抱えていて、二年前にアイドル事業部を設立したばかりだけど、既に多くのアイドルが所属している。老舗ということで強力なコネクションがあり、たったの二年でトップアイドルと呼ばれる域に達した者も存在する。

 何故ここまで詳しいのかと言うと、その346プロは僕、速水奏と関りがあるからだ。

 346プロは、速水奏が所属する予定となっているプロダクション。ソーシャルゲーム『アイドルマスターシンデレラガールズ』がアニメ化され、そのアニメの中でアイドル達が所属したのが346プロだ。アニメの中で登場した時期は遅いが、速水奏もしっかりと登場している。

 目の前の青野さんはアニメには名前のある人物として描写されてはいなかったはずだけど、どこかにいたのかもしれない。現実となったゲームの世界で現実の人間として、今僕の前に立っている。

 見知ったアイドル達とは今までに偶然出会うことはなかった。会おうと思えば会えたと思うけど、やめておいた。下手に介入して、後に悪い影響を与えたくはなかったから。

 でも、ついにプロデューサーの一人と出会った。確か、速水奏は海岸沿いのこの付近でプロデューサーと出会い、勧誘を受けたはずだ。それは合っているけど、勧誘を受けた時期は不明。状況も早朝のトレーニング中ではないはずだ。

 僕がアイドルとしての体力向上を図ったために発生した相違点だ。恐らく、青野さんは出勤中に僕を見つけて声を掛けたのだろう。まさか、日曜日のこんなに朝早くから出勤しているとは思わなかった。

「あなたを一目見て、ピーンときました! 単刀直入に申し上げます」

 青野さんは未だに緊張した面持ちで、言葉を溜めてから言い放った。

「346プロダクション所属の、アイドルになってみませんか?」

 どうしよう。僕は困惑し、青野さんの瞳を真っ直ぐ見つめ返した。しかし、青野さんをじっと見つめたところで何も状況は変わらない。青野さんの頬が赤くなり、見惚れるようにぼうっとしただけだった。僕が見つめると大抵の人は惚けてしまうのだ。男子も女子も、大人の男性も女性も。昔、誰かに魔性の貌とか言われたのを思い出した。

 結局、全ては僕の意思で判断し、選択していかなければならないのだ。

 僕は考えを決め、意を決してから口を開いた。

 これが、今の僕にできる最善の一手だ。

「……持ち帰って検討してみます」

「あっ、はい、ぜひ!」

 とりあえず、急ぎの要件でもないので、家でじっくりと考えてみることにした。



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煩悶

 適温のお湯がシャワーヘッドの無数の穴から音を立てて噴き出し、明るい浴室に裸で立ち尽くす僕の体を撫でる。癖のない髪を湿らせて細い肩に流れ、白い肌を伝っていく。綺麗な丸みを帯びた胸へ、背中から綺麗な曲線を描いて辿るキュッと締まった腰へ、適度にふっくらとした臀部へと流れた。

 お湯の熱は体に浸透し、心地のいい熱で僕を支配する。

「ふぅ……」

 体の熱を絞り出すように息を吐き、シャワーハンドルに手を掛ける。

 浴室から水音が止み、水の滴る小さな音だけが耳に入る。

 浴室の鏡を見ると、当然の如く速水奏がいた。芸術品と見紛うほどの裸身を晒し、神秘的な魅力を感じさせる顔には無感情が張りついていた。眦の吊り上がった目は普段よりも細められ、鏡越しの僕を射貫いている。

 やっぱり、普通だよね。

 僕は両頬に手を当て、ぐにぐにと表情筋を解す。別に固まっているわけではない。早朝のランニングのように、鏡の前でビジュアルの練習も日頃から積んでいるのだ。喜怒哀楽の表現などはお手の物、だと思う。

 そんな僕でも、わからない点がある。

 どうして初対面の人は皆、僕を見て惚けるのだろう。確かに奏は綺麗だけど、ゲームやアニメではそういう描写はされていなかった。ただ見惚れているというには、今までであってきた人達の反応は過剰に思えた。まるで、魅了の類だ。

「……考えても仕方ない、か」

 鏡を見続けていてもわかるはずはない。

 頬から手を離し、浴室から脱衣所へと出た。

 タオルで全身を拭って着替えを終え、髪をドライヤーで乾かしてから居間へ向かう。

「おはよう、奏」

「おはよう、父さん」

 精悍かつ怜悧な相貌に僅かばかりの眠気を露わにし、食卓の席に姿勢よく座る大柄の父さん。新聞から逸らした視線で僕を一瞥する。そんな父さんと挨拶を交わし、僕も食卓の自席に腰を落ち着けた。

「おはよう、奏」

「おはよう、母さん」

 台所から母さんが背中まで届く髪を揺らしてやって来た。二十代にすら見える若々しい顔に普段通りの微笑みを浮かべている。手には、焼いたばかりのトーストと目玉焼きを乗せた皿があった。僕の前にその皿とコーヒーの入ったマグカップを置いた。

「はい、朝ごはん」

「うん。ありがとう」

 いただきます、と言ってから食事を始める。母さんも僕の正面の席に座る。

「……ん、何?」

 視線を感じ、視線の元である母さんに尋ねる。何故か、いつも以上にニコニコしていた。

「んー、何でもない」

 背丈以外にも母さんは僕とそっくりな顔であるが故に、僕には母さんの感情が表情から容易く見て取れる。何か嬉しいことがあったに違いない。

「誤魔化さないでよ。どうしたの?」

「何かあったのか?」

 僕に続いて気になった様子の父さんも母さんに問いかけてくれた。

 すると、母さんは話をしてくれそうな様子で口を開いた。いったい何だろうと思いつつ、僕は口元にマグカップを運んだ。父さんも同じタイミングでマグカップを傾け、コーヒーを飲んでいた。

「奏がアイドルになるって知って、嬉しくなっちゃって」

「んっ……!?」

「うぐっ……!」

 僕と父さんが同時に喉を詰まらせ、咳払いをする。

 いったい何故、母さんは僕がアイドルになることを知っているのか。それは考えるまでもない。

「……部屋に入ったでしょ」

「うん、入っちゃった」

「それで、パンフレットを見たわけ? 346プロダクションの」

「うん、見ちゃった。名刺も」

 ごめんね、と舌を小さく出して言う。とても四十近くの三十代には見えない。前に家族三人で外に買い物へ出掛けたら、姉妹に間違われて軟派されたことを思い出す。ちなみに軟派は、その時にお手洗いから戻ってきた父さんの一睨みで散らされた。

「勝手に部屋に入らないでほしいんだけど」

「一人娘の部屋があまりに殺風景だから、お花を飾ろうと思っただけよ」

「それもいいから」

 元々僕は物を置かない性格だ。それでも小中学生時代にはサッカーボールとか置いてはいた。今はもう家の庭にある倉庫にしまっていて部屋にはないけど。あれを出す日はもう来ないと思う。もう少し、サッカーはやっていたかったな。

 僕が少し懐かしんでいると、父さんが空咳をした。

「……奏。アイドルになるという話は、本当か?」

 父さんのよく響く低音ボイスを耳にし、僕は少し身構えた。

 父さんは娘である僕の生活について度々言及してきた。無断外泊は禁止。明確な門限はないけど、帰りが遅くなると玄関で父さんが待っていることは多かった。怒られるわけではない。納得のいく理由を伝えれば頷いてくれる。

 納得のいく理由を。

「……本当」

「なりたいのか。アイドルに」

 父さんが真っ直ぐ僕を見つめる。俳優と言われても素直に信じられる顔で、軟派を退散させる眼差しよりも少し度合いを緩めた眼差しで。それでも威圧感は身を以て感じられる。この眼差しを直視して平然とできるのは母さんくらいだ。

 でも、その母さんは今、少しハラハラした様子だった。自分のせいで娘が追い詰められていると罪悪感を抱いているのだろう。僕と父さんの顔に落ち着きなく視線を交互に移し、口を開こうかどうか迷っている。

「……なりたい」

 なりたいというよりは、なる必要がある。心の底からなりたいと思ったことはない。

「理由は?」

 だから、納得のいく理由は伝えられない。

「ならなくてはいけないから。だから、アイドルになる」

「ならなくてはいけない? それは理由か?」

「うん……」

 それ以外に言えない。言えないからといって、安易な誤魔化をしても通用しない。

 説得力は皆無。きっと反対されるだろう。

 だけど、結果は違った。

「……ならばいいだろう」

「えっ」

 反対されるかと思っていた僕は、意外な返答に声を上げた。

 そんな僕から視線を外し、父さんは新聞を読み始めた。

「自分で正しいと思っているのなら、それでいい。何が正しくて何が間違っているかは、お前なら判断できるだろうからな。わざわざ俺を諭す必要はもうない」

「ありがとう……」

「やるからには頑張れ。応援はしてやる」

「うん」

「……アイドルになれば、恋人は作れないだろうからな」

 父さんが小さな声で何か言ったけど、よく聞き取れなかった。

「え、何か言った?」

「……何でもない」

「そう?」

「奏。今、お父さんが言ったのはね」

「母さん、やめなさい」

 楽しそうに言う母さんを、父さんが慌てて止めに入る。

 すっかりと気の緩んだ朝食の場。僕も心の中でほっと安堵していた。

 だけど、父さんとの会話が少しだけ心の中で、しこりとなって残っていた。

 自分で正しいと思っているのかどうか。その点については、僕は断言できなかった。

 前世の自分を捨て、このまま速水奏として生きるのが正しいのか。正しいと思う自分と、そうではないと思いたい自分がいる。その二つは今もせめぎ合っていて、現時点では最適解を導き出すことはできない。

 本当に、悩みすぎるのは悪い癖だ。

 どういう流れか、イチャイチャし始めた両親を尻目に、僕はトーストに齧りついた。

 朝食を終え、僕は部屋に戻った。

 机の上には、青野プロデューサーから貰った346プロダクションのパンフレット。そして、名刺だ。

 机の席に座って背もたれに背を預け、パンフレットを透明な袋から取り出す。

 346プロダクションという企業についての説明と、有名な俳優や歌手、アイドルの紹介。インタビュー形式でそれぞれの職業について語っている。アイドルの代表としてパンフレットに掲載されていたのは、トップアイドルの高垣(たかがき)(かえで)についてだった。

 高垣楓もまた、速水奏と同じく『アイドルマスターシンデレラガールズ』の登場人物だ。

 僕はパンフレットの楓さんの写真を見つめた後、天井へと視線を移した。

「何が正しいのか。やってみないとわからないよ……」

 アイドルにならないという案は僕にはない。それならば、あれこれ考えるよりもまずは行動に移すべきだろう。考えすぎて空回るのは時間の無駄。今まで空回ってきたのだから、注意しないといけない。もはや癖のようで、注意して直るものでもないだろうけど。

 時には思い切りが大事。

 そう考えた僕は携帯電話を取り出すと、名刺に書かれた番号へと電話を掛けた。



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羨望

 月曜日の朝は小振りの雨。それでも僕はいつものように早朝のランニングを欠かさず行い、朝の身支度を終えてから高校の制服に袖を通す。胸元のボタンを開けた白いブラウス。グレーのミニスカートを下に履いて、赤いネクタイをわざと緩めてつける。紺色のブレザーを羽織って、前のボタンは外したままにする。

 そうすれば、着崩した制服スタイルの出来上がり。胸の谷間がわずかに見えてしまっているけど、いつも通り我慢する。もう慣れたつもりでも、まだ気恥ずかしさは残っていた。場数を踏んでいれば、いつかは慣れる日が来るのだろうか。

「……違う。こうでもない」

 鏡の前で速水奏としての表情を作る。常に余裕を感じさせる表情を心掛け、静かな微笑みを形作った。

「よし……」

 表情形成の練習を終え、通学鞄を肩に掛けて部屋を出た。

「行ってらっしゃい。お土産よろしくね」

「学校に行くだけなんだけど……。行ってきます」

 朝から冗談を言う母親に見送られ、僕は外に出た。

 ランニング中にぱらついていた雨は止んでいた。空を薄っすらと覆う雲の下、数人の通行人が歩く住宅街を進む。見知った人に軽く頭を下げて挨拶し、見慣れた通学路を進む。そうしていると、僕と同じ学校の制服を着た女子生徒と男子生徒の背中を前に見つけた。

 仲が良さそうな二人の間にあるのは、愛情か友情か。

 仲が良かった昔の友人たちのことを思い出しながら足を進めた。

 学校に着き、今月から通うようになった二年生の自分の教室へ。顔を合わせた知り合いと軽く挨拶を交わし、妙に集まる男子生徒達の視線を受け流して自分の席に座った。教室の最後方にして窓際という人の干渉が少ない落ち着ける場所。鞄を机の横に掛け、鞄から取り出した本を広げて読み始める。

 読書は僕の心強い味方。一人静かに余暇の時間を潰すのにちょうどいい。

「……なぁ、この前速水に告白した奴、やっぱり振られたって」

「結果はわかりきったことだろ。もう何人も振られてんのに、よくやるわ。ドMかよ」

「速水って、彼氏いんのかな?」

「いるだろ。きっと大学生のイケメンとか、会社員のエリートとかだな」

「大人の関係か」

「あんな彼女がいるとか、死ぬほど羨ましいな……」

「そう思うんなら告白してみれば?」

「無理に決まってんだろ……。目を合わすだけでも緊張すんのに……」

 読書を始めたはいいものの、遠くで話す男子生徒達の声が聞こえて集中できない。本人たちは聞こえないとでも思っているのだろうか。何だか、わざと聞かされている気分になってしまうのは僕の考えすぎだろうか。きっとそうに違いない。

「……今日こそ速水さんをお昼ご飯に誘おう!」

 一度気になると、聞きたいとは思わなくとも声が聞こえてくる。

「先週も失敗したばかりだったよね? そもそも気づいてもらえていなかったし」

「で、誰が誘うの? アンタ?」

「……まず目を合わせられないから無理!」

「じゃあ、私が行こうかな」

「えっ」

「それじゃあ、アタシも一緒に行く」

「えっ、じゃ、じゃあ、私も」

「じゃあ一人で頑張って」

「遠巻きに応援してる」

「な、なんでっ!?」

 僕の話題は男子生徒に留まらず、女子生徒の輪から聞こえてきた。いずれも聞こえてきた感じでは友好的だった。だけど、こうもはっきりと自分の話題であることを自覚させられると、落ち着かない。陰口でないだけマシだと思うべきなのだろうか。

 それにしても、どうして皆は僕を遠巻きに見て僕の話ばかりをするんだ。もう少し視線や話題が僕から逸れれば、少し気を緩められるのに。見られていると思うと少しも油断ができない。

 ため息をつきたい気分になるけど、それも叶わず。もはやまともに文章も頭に入ってこない。せっかく大好きな作家さんの小説なのに、楽しめないのは非常に辛い。だけど今さら本をしまっても他にすることもなく、形だけでも読書をしている振りをした。

 長く感じられる時間でもいずれは終わり、朝のチャイムが鳴り響くと共に朝のホームルームの時間となった。僕は読書を止め、慌ただしく席に座ったクラスメイト達と一緒にやって来た担任教師の声に耳を傾ける。顔は窓の外の校庭に向けたまま。

 あぁ、サッカーしたい。バスケットボールや野球も。とりあえず、誰かと思い切り遊びたい。

 表情には出さずに願望を募らせ、ホームルームの後の授業を受けていく。前世は中学生まで生きた僕は、同世代よりも当然学業に習熟している。これまでの人生で高校の勉強にも事前に手を出していたため、意識を全て授業に割かなくてもいい。

 教壇に立つ女性教師の顔を意味もなく見据え、少しぼうっとする。

 すると、女性教師がほんのりと顔を赤くし、僕と同じようにぼうっとしだした。やめて、こっちを見てぼうっとしないで。授業して。

 同級生達が異変に気がつく前に慌てて視線を逸らし、窓に映る自分を見た。

 やっぱり、僕の顔か目は何かおかしいみたいだ。相変わらず理由はわからないけど。

 時間は刻々と流れ、午前の授業は終わった。僕は鞄からお弁当箱を手に取り、すぐに席を立った。

「あぁっ……! 行っちゃったっ!?」

 女子生徒の一人が出した悲哀の声が聞こえる横を通り過ぎ、教室を出た。

 着いた先は学校の中庭。午前中に天候は改善し、空はすっかり青い。鮮やかな花の咲き誇る花壇の近くに設置されたベンチが濡れていないことを確認してから座り、お弁当箱を膝に置いて昼食を始める。後から何人かカップルと思われる生徒達が来たけど、気にはならない。向こうは僕を気にせずに、イチャイチャしてくれている。

 僕は食事をしつつ、時折空を見上げた。

「はぁ……」

 気を緩められるひと時の癒し空間。こういう場所がもっと欲しい。一人カラオケはストレスを発散させる場所だから、少し違う。図書室は静かすぎるから、学校の中ではこの中庭くらいしか癒される空間はない。

 もっと、素の自分を解放させたい。

「……はっ」

 何だか少し気分が後ろ向きになりすぎている気がする。

 深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。ネガティブな心理状態は良い結果を産まない。もっと積極的にポジティブに頑張らないと。

「前向きに、前向きに……」

 暗示をかけるように小さく呟き、食事を再開しようとしたとき、スカートのポケットにある携帯電話が二回振動して大人しくなった。回数からして、メールのようだ。

 携帯電話を取り出して届いたメールを確認すると、青野さんからのメールだった。

『速水奏さん。こんにちは、青野です。昨日お電話とメールでお伝えしましたが、改めてご連絡いたします。事務所に所属するにあたっての手続き等を行いたいので、本日の学校の授業が終わりましたら、346プロダクションの正門前までお越しください。到着されましたら、ご一報ください。こちらからお迎えに上がります。不都合が生じた場合は、その際にはお電話いただけると幸いです。別の日程で再度調整させていただきます。以上です。よろしくお願いいたします』

 アイドルデビューまでいよいよだと思うと、少し緊張を感じ始めた。主に、これから新しい環境に身を置くことへの不安。だけど、それだけじゃない。今まで接触してこなかった、原作の登場人物たちとの距離が一気に近くなる。その点には少しどころではない期待感があった。

 これまでの人生で、僕が会おうと思えば会えただろう原作の登場人物たち。原作開始前から原作への影響とか個人の関係性を変えたくはなくて意図的に探すことはしてこなかったけど、同じ事務所に所属してからは普通に会っても問題はない。やりすぎない程度なら、仲良くなってもいいのかもしれない。

 想像していると少しだけ楽しくなって、僕は自然と微笑みを浮かべていた。何か久しぶりに自然に笑えた気がして、気持ちが楽になった。やっぱり僕は考えすぎなんだ。少しだけなら、気を抜いてもいい。むしろ、そのくらいがちょうどいいかもしれない。

 青野さんにメールの返事を送った後、僕は昼食を美味しく味わった。

 チャイムが鳴る少し前に教室へ戻り、席に座る。机に座って携帯電話を操作する。インターネット上の天気予報によると、今日はこのまま晴れらしい。傘を使わずに済みそうで幸運だった。

「あ、あのっ……」

 突然だった。正面に誰かが立ったのと同時に声を掛けられた。

 顔を上げてみると、一人の女子生徒がいた。茶色いポニーテールの元気そうな子。高校二年生にしては少し幼い外見をしている。表情には真剣そのもので、どこか緊張した面持ちだ。顔がほんのりと赤く、勇気を出して僕に話しかけているように思えた。

 いったいなんだろうか。僕は疑問に想いながらも携帯電話をポケットにしまい、応対した。

「何かしら? えっと……」

「あ、朝美(あさみ)です」

 名前がわからずに僕が言い淀むと、女子生徒は名前を教えてくれた。

「そう。朝美さん。それで、何の用かしら」

 名前も知らない間柄。もっとも、知らなかったのは僕の方だけだったみたいだけど、仲がいいわけではないのは事実だ。まだ高校二年に昇級してから間もなく、顔と名前が一致していない生徒の方が多い。その一人である女子生徒が僕にいったい何の用事なのか。

 朝美さんは少しもじもじとしていたが、意を決したように口を開いた。

「あのっ。もし良かったら、明日から一緒に昼食を食べませんか?」

 それは、予想外の提案だった。驚きそうになったけど、表情には出さずに内心に留めた。

「……突然ね」

「前から速水さんとお話してみたくて。それで……」

 朝美さんは僕の目をじっと見つめた。

「駄目でしょうか?」

 懇願するような眼差し。小動物に似た何かを感じる。僕は何も悪くないのに、なぜか悪いことをしているような気分になった。ここで断れるほど僕の気は強くない。

「……いいわよ」

 それに、断る理由もなかった。女子生徒の輪に混ざることに強い抵抗感もない。僕の心も少しは成長できたようだ。小学生や中学生の頃はこうはいかなかった。

「え、い、いいんですか?」

「いいわよ、別に。明日からでいいかしら」

「ぜ、ぜひっ、よろしくお願いしますっ!」

「え、ええ……」

 なぜか手を差し出されて頭も下げられ、僕は何となく応じてしまった。何か、告白されたときと似ている。違うのは、僕が相手に承諾したこと。僕が手を握ると、朝美さんは顔を上げて満面の笑みを浮かべた。嬉しそうに僕の両手を包み込んだ、

「そ、それじゃあ 、また明日!」

 まだ今日の授業は半分残っているけど、とは言えなかった。なるべく苦笑を浮かべないように平静を保ちつつ、僕は静かに頷いた。朝美さんは僕の手を離すと、ぱたぱたと走り去っていった。その速度は非常に遅かった。

「ぶ、無事に成功したよっ!」

 友人たちの輪へと向かい、報告をする朝美さん。その姿はまるで、飼い主に駆け寄った犬のようだった。朝美さんのお尻に機嫌よく左右に振られる尻尾が見えるかのようだった。

「アンタ、まるで告白してるみたいだったけど?」

「ええっ!?」

「まぁ、成功してよかったじゃん」

「偉い、偉い」

「こ、子ども扱いしないでっ!」

 朝美さんを囲み、頭を撫でる友人達。

 自然に、感情を発露させる姿。その姿を遠巻きに見て、僕は羨ましいと感じた。あんな感じに自分の心に嘘をつかずに振る舞うことができればどれだけ幸せか。それを受け止めてくれる環境も、何もかもが今の僕にはないものだった。

 自分を押し殺してただひたすら頑張ろうとする自分。そんな自分と楽しそうな目の前の光景を比較すると、少し苦しくなった。だけど、この苦しみは仕方のないことだ。僕はこれからもロールプレイを続ける。誰に強制されているわけでもない。それでもやらないと駄目だと思う。

 僕は、ふと横の窓に映る自分の表情を見た。

 その表情は、僕から見ても冷たさを感じさせるものだった。



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