真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜 (ヨシフおじさん)
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序章
南陽城陥落





               

 

  『偽帝袁術討つべし』

 

 

 中華全土に向け、皇帝から直々に勅命が下った。同時に、かの偽帝を討つべく宮中から軍が派遣される。

 この戦には丞相・曹孟徳みずからが出陣し、総勢25万の常備軍の内、実に15万もの軍が動員されていた。正に、漢王朝の威光と存亡を賭けた戦いとも言える。

 

 彼らの目的はただ一つ。漢帝国からの独立を宣言した偽帝・袁術の抹殺と、彼女の建国した“仲帝国”を滅亡させることだった。

 

 

 

 それから半年後、仲帝国における偽帝袁術の第二の拠点・南陽城。そこでは、対立する二つの勢力によって辛うじて保たれていた均衡が崩れつつあった。

 

 その片方、今にも城を飲み込まんとする勢いの軍勢は曹操軍である。

 もう片方、まさに現在進行形で崩壊しつつある軍勢を袁術軍という。

 

 単純な数からいえば、袁術軍は曹操軍を上回っている。遠目には大群が少人数に追いかけ回されるというシュールな光景。だが、その中身は肉食獣に追われる草食動物と同じであった。

 

 要するに、袁術軍は基本的に「弱い」のである。

 近くでよく見ればその違いがよくわかる。

 

 長い包囲戦にもかかわらず、曹操軍の兵は鉄の規律を維持し続けている。略奪や強姦に走る兵がほとんどいないことが何よりの証拠だ。もちろん、一部の例外はいるものの、そういった面々にはバレたら最後、問答無用の処罰が待っている。

 装備も錬度も万全、連携には無駄がなく士気旺盛、まさしく『覇王』曹孟徳にふさわしい軍勢だ。

 

 一方の袁術軍を表すならば「混沌」、カオスの一言に尽きる。

 長い包囲戦の末に士気は最低、脱走や命令無視を挙げればきりがない。

 

 

 

「逃げるな、戦え!」

 

 後方で士官が兵を抑えようとするも、我先にと逃げ出す兵士たち。その士官もあくまで職務上、率先して逃げるわけにはいかなかったからとりあえず言っているだけで本気で止められるとは思ってすらいない。

 

 その士官は、ふと思った。

 

(なぜ、こんな事に……)

 

 南陽勤務が決まったのはつい半年ほど前の話だ。南陽は仲帝国の第二の都市である。人口と経済規模ならばむしろ首都の寿春より大きいほど。仲の皇帝、袁術のかつての本拠地でもあり、ここに転勤が決まった時はおおいに喜んだものだった。

 

 なにせ安全。三重の城壁に囲まれ、兵士も多数いる。しかも中央の政界からやや遠ざかっているため、首都に比べれば政治に振り回せれることも少ない。

 ここで平穏に家族と暮らし、そこそこ出世して引退しよう、彼がそう思うのも無理はなかった。

 

 しかし―――

 

 

「……どうしてこうなった?」

 

 それがこの状況である。彼に限らず、各所で袁術兵の多くが“こんなはずでは……”と内心、頭を抱えていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「……終わってみると、意外とあっけないものね。」

 

 ぽつり、と漏れたその声の主は曹孟徳、真名を華琳という。覇道を掲げ、天下統一へと突き進む若き英雄である。

 まだ少女と言ってさしつかえない小柄な体格だが、その体から発せられるオーラはまさしく覇王のそれ。豪奢な輝く金髪を髑髏の髪留めで束ね、心の中まで見透かすような透き通った青い瞳からはまぎれも無い覇気が放たれていた。

 

 

「華琳様、市街地および城塞の制圧を完了いたしました!これより、残存部隊の掃討へ移ります!」

 

 報告を告げる将の名は夏侯惇――曹操の従妹であり、魏の重鎮でもある。

 

 

 

「分かったわ。春蘭、掃討はあなたに任せる。袁術軍の残党をすみやかに排除しなさい。」

 

「はっ!」

 

 曹操の言葉に、夏侯惇は頭を下げるとすぐに戦場へと戻って行った。

 

 

 

 その日の夜、落城した南陽城で、曹操はその配下を集め、その労をねぎらっていた。

 

「皆の者、此度の戦、真に大義であった。」

 

 曹操の言葉に、恭しくひざまずく魏の将兵たち。そして彼らに向かい、曹操は高らかに宣言する。

 

 

「今回の勝利は諸君らの健闘あってこその勝利だ。勝利は我々のものとなり、袁術軍は敗走した。もはや偽りの皇帝の前に道は無し!かつて難攻不落とうたわれた南陽城はいまや我が手中にある。もはや彼らに残された道は敗北の坂のみ。」

 

 凛とした表情。見れば誰もが引き込まれる端正な顔から、歌うような声が魏の将兵の耳に響き渡る。続けて彼らの王はその信念を語る。

 

「我が覇道は誰にも阻めはしない!我こそは乱世を静める者。天命は我にあり!諸君らは我と共にこの乱世で舞ってもらおう。この中華を統一するその日まで。」

 

 その口から紡がれるは天より授かりし使命、この戦乱の世を終わらせるという誓い。

 直立不動の姿勢を崩さない魏の将兵たちを見渡し、ふと曹操は満足げに笑みを漏らした。

 

「――しかし、今はまだその日ではない。今日は戦の疲れを癒し、我らの手で掴んだ勝利をかみしめる日だ!

 報酬は後で各自追って通達する。今宵は戦を忘れ、存分に楽しむがよい!」

 

 うぉおおおおっ、と兵士たちから歓喜の声が上がった。

 何しろ南陽は仲帝国の第二の拠点。その上南陽城のある南陽群自体が北の曹操、南の劉表に囲まれている。当然、防備も固い。いくら袁術軍が弱兵とはいえ、その攻略は困難を極めた。

 しかし、それも今日までである。いまや南陽城は魏の手に落ちた。

 

 

「……春蘭、秋蘭、それに桂花。あなた達は残りなさい。今後の予定について伝えなければいけないことがあるから。」

 

 やがて、その他の将兵が退出していき、残った三人に向けて曹操は指示を出す。一般の兵士は戦闘が終わればそれで仕事も終わりだが、指導者層はそうもいかない。褒賞の分配、消耗した軍の再編成に今回の戦闘での被害報告書の作成など、やらねばならない事は山ほどある。

 

「では、まず秋蘭、あなたには消耗した軍の再編成をお願いするわ。戦えそうにない兵士はまとめて本国に移送するように。」

 

「かしこまりました。明日にでもすぐとりかかります。」

 

 夏侯淵の答えに満足した曹操は続いて魏の筆頭軍師、荀彧の方を見やる。。

 

「桂花、あなたには……」

 

 そう、言いかけた時だった。

 

 

 

 「曹操様、本国から緊急の知らせです!」

 

 

 

 一人の兵が息を切らしながら入ってくる。

 

「“袁術の軍勢が許昌に接近中。大至急、増援を。”とのことです!なお、既に袁術軍との交戦が始まり、韓浩、許貢隊は退却中。張遼将軍配下の騎兵隊は消息不明です!」

 

 突然の事態に一瞬、動揺が走る。しかしさすがは天下の曹操軍か、瞬時に思考を切り替え状況を把握しようとする。

 

「……袁術軍の規模は?」

 

 曹操の問いに伝令の兵が返した答えは――

 

 

「“少なくとも10万人以上”だそうです!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 衰え、実権をほぼ曹操に握られているものの、中華において漢帝国の威光は未だ健在である。各諸侯は事実上は独立しているとはいえ、名目上は全て漢帝国の臣下なのだ。

 が、それに真正面からケンカを売ったのが袁術である。曹操、袁紹と並び、天下を二分する勢いとはいえ、所詮は一諸侯である。それがいきなり、

 

 

「玉璽を手に入れたから妾が皇帝になるのじゃ♪国号は仲がいいかのぉ」

 

 

 みたいな事を平気でのたもうたので周りの大諸侯から反発はくらうわ、一部の地元豪族に反乱を起こされるわで袋叩きに遭っているのが現在の仲帝国の現状である。

 

 ちなみに曹操自身は袁紹との戦いが控えているため、できれば袁術と事を構えたくなかったものの、現在の曹操は丞相、つまりは漢帝国の宰相であり、皇帝たる天子の身柄を保護している。

 

 例を挙げるなら、例えば日本の県知事に勝手に独立を起こされてあまつさえ「自分は天皇と同格だ。」みたいなことを言われて総理大臣が「今は領土問題があるから後にして」などと言えるだろうか?

 もちろん無理に決まっている。そんなことを記者会見でぽろっと漏らしたが最後、国会で不信任案提出は免れず、一ヶ月後ぐらいには新聞に「辞任」の2文字がデカデカと描かれる。

 

 曹操はあくまで丞相であり、名目上は漢帝国の大臣の一人にすぎない。皇帝からしてみれば曹操が丞相になろうが袁紹が丞相になろうが、たいして変わりはない。所詮はただの権力争いだ。

 

 だが、独立は違う。独立とは全く別の国を作るということであり、漢帝国の権威や名声、官位の価値を根本から否定することと同義である。それを見過ごすということは国家指導者の一人として指導力を大いに疑われても仕方がない行為といえよう。

 

 さらに言えば、曹操配下の豪族すべてが曹操に忠誠を誓っているわけではなく、ここで偽帝相手に消極的な姿勢を取ろうものならば、周囲から「曹操は袁術に恐れをなして漢帝国の丞相としての責任と役割を放棄した。」と取られかねない。

 それは曹操の名声の低下、そして「曹操恐れるに足らず」といった空気の形成による反曹操勢力の活性化に繋がりかねないのだ。

 

 ゆえに、やむを得ず袁術討伐を行うことになった。いや、行わざるを得なかったというのが本音だ。

 

 

 

 だが、報告を受けた曹操軍の動きは速かった。曹操は即座に南陽の放棄を決意、全軍で本拠地、許昌へと引き返して行ったのである。

 

 許昌は曹操の本拠地であるとともに董卓の暴政によって荒廃した洛陽に代わる漢帝国の臨時の首都でもある。攻撃を受けたときのショックは絶大だろう。

 より正確には首都が攻撃を受けたことによる実被害よりも、これを曹操の能力不足によるものだと判断し、曹操を侮った連中が反乱を起こす事が考えられる。

 

 そして今すぐ引き返したとしても、距離から考えて恐らく戦には間に合わない。自分が追い付く頃には戦いは終わっているだろう。

 つまり反乱や袁紹を始めとした他の豪族の介入してくる可能性は非常に高い。ゆえに下手に兵力を分散するのはリスクが大きいと判断したのである。

 

 南陽も失うには惜しい地域だが長い攻城戦の末に城としての機能は著しく低下している。中途半端な兵力を残したところで袁術や荊州の劉表が本気になって奪いに来たら持ちこたえられないだろう。

 

 

 ――しかし、と曹操は考える。『敵の数は少なくとも10万人以上』という報告だったがにわかに信じ難い。別に部下の報告を信じていないわけではない。まだ曹操に仕えて日が浅いとはいえ、許昌に残してきた郭嘉や程昱は、信頼するに足る人間だと彼女の人物観察眼は見ていた。

 だが、いまいち腑に落ちないのだ。南陽方面にいた袁術軍の大半は南陽城に立て籠もっていたし、袁術の本拠地、寿春の部隊が移動したという話も聞かない。。仮に何とかして部隊を引き抜いたとして10万もの大軍が気付かれずに進撃するなど不可能だ。しかし詳細を聞く限り、国境には大きな動きはなかったという。

 

 たまたま巡回中だった張遼の配下の騎馬隊が発見し、許昌を始め、付近の駐屯地に伝令を飛ばし、駆けつけてきた韓浩、許貢の2名の将と1万人ほどの兵士と共に時間稼ぎをするために袁術軍に奇襲をかけたのだと言う。

 

 

 

 

 そして現場に辿り着いたとき、そこには凄惨な光景が広がっていた。見渡す限り一面に死体が放置されている。その数、1万人以上。それらはおそらく降伏したと思われる曹操軍の兵士達だ。顔には恐怖と苦悶の表情が刻まれている。まぎれも無い死者への冒涜であり、国を、民を、そして仲間を守ろうとした兵士たちの想いを踏みにじる行為であった。

 

 それを目の当たりにした曹操は珍しく隠そうともせずに、端正な顔に怒りを浮かべ――

 

 

 

 ――るわけが無い。死体の山を見てある者は呆れ顔を浮かべ、ある者は困惑し、ある者は不謹慎にも苦笑いを浮かべていた。なぜなら、死体のほとんどが袁術兵だったからだ。

 

 しかも服装もバラバラ、武器もまるで統一されていない。というより武器をもってるのはまだマシな部類で兵士によっては棍棒やら鍋やらで武装しており、中には石つぶてを握ったまま死んでいる兵もいる。たまに完全武装の兵士の死体も見かけるが、どう見ても曹操軍から鹵獲した物だ。これだけで錬度の低さと規律の無さがうかがい知れるというものだ。

 

 

 

「……桂花、確か袁術軍って『少なくとも10万人以上』だったわよね?」

 

「はい、そういう話……だったような気がします。一応、伝令文の詳細には『我が軍は退却、もしくは後退中』と書かれており、『壊滅』とか『撃破』とは書かれていなかったのでこういう光景も多少は想像していたのですが、……正直、ここまで弱いとは。」

 

 呆れたような曹操の問いに、なんとも微妙な表情で答える荀彧。

 

 あらためて戦場を見渡してみるが、曹操軍の死体や旗はほとんどない。あるのは仲帝国の国号である『仲』の書かれた橙色の旗と、『人民軍』と書かれた赤地の旗だ。とはいえ、実際には旗を用意することすら面倒だったのか赤い布に適当に星印を書いて腕に巻いたり、木の棒に結んであるだけである。

 

「どうやら今回の敵の将は“あの”劉勲のようね。」

 

 地面に無造作に捨てられていた『劉』の旗を見て、曹操一行は互いに顔を見合わせる。

 しかし、その顔に緊張感はあまりない。袁術、張勲に次ぐ仲帝国のNo.3だが、あまりいい噂は聞かない人物だ。有能かと言えばさすがに仲帝国のNo.3なだけあってそこそこ頭も回る人間だが、国の指導者の一人としては力不足感が否めない。『少なくとも十万人以上』の軍勢で、1万そこらの軍に奇襲を受けて1万人以上死者を出していることが何よりの証拠だろう。

 

 

「……南陽で戦った連中も弱かったが、上には上がいるということか。」

 

「姉者、それは『上』というのか?」

 

 夏侯惇と夏侯淵の姉妹も、こっちはこっちで呆れている。正直、ここまで一方的にやられている袁術軍を見るとなんか可哀想になってくる。

 いや、最終的には数押しで何とか勝ったのだろうが、どうみても十分の一に満たない敵を相手にする損害じゃない気がする。というか慌てて駆けつけてきた自分達の努力と苦労はなんだったんだ?と言いたくなるような光景だ。

 

 このような会話は彼女たちだけでなく、曹操軍の至る所で交わされてたという。曰く、「弱いにもほどがあるだろ。」と。

 

 

 

 

 だが、曹操ら一行はそれらの答えを許昌への道の途中で知ることとなる。

 

 許昌への道の途中で袁術軍に占領されている街を奪還したときのことだ。この街はそこそこ大きな街だったので南陽へ遠征する途中で兵士を休ませるために一度立ち寄ったことがある。曹操軍を見かけた途端に袁術軍は逃げだしたため、戦い自体は大したことも無く終わった。そのため、曹操は急な進軍で休息を欲していた兵のためにしばらくここで休憩をとることにした。

 しかし、曹操達はどこか街の様子に違和感を感じていた。特に荒らされた痕跡も無いのに何かが変わっているのだ。しかし、肝心の『何』が変わっているのかが分からない。それだけに、底知れぬ不気味な印象を受けた。

 

 その何とも言えない沈みかけた空気を変えるため、声を上げたのは夏侯惇だった。

 

 

「相変わらず張り合いのない相手だったな、秋蘭。やつら、本当にあれでも兵士か?青州の黄巾賊のほうがまだ骨のある連中だった。」

 

 どことなく欲求不満気味の夏侯惇である。南陽攻城戦の時からまともな戦いをしていないのだ。南陽城ではこちらがどんなに挑発しようが袁術軍は城から一歩も出ようとはしなかった。挑発に乗るような馬鹿ではなかった、という見方もできるが、ぶっちゃけただ単に臆病なだけだろう。城門さえ突破すればいやでも戦いになるだろう、と考え、夏侯惇は耐えてきたが、結局敵は逃げ回るばかりで戦う気合のある兵はほとんどいなかった。

 

「まぁ、今回は逃げられるだけまだよかったのではないか?袁術軍のことだから下手に追いつめて逃げられないようにしてしまうと最悪、街の民衆を人質に取りかねん。」

 

 妹の夏侯淵が姉を宥めに入る。とはいえ、彼女とて一人の武人だ。姉の言うことも分からなくはない。一応、冷静な意見を述べてはいるものの、本音を言えば欲求不満なのは自分も同じだ。

 

「む、むう、確かに人質をとられるよりはこっちの方がよかったのかもしれないが……。」

 

「それに本来、勝てない戦にわざわざ命をかけることもあるまい。そういった困難な戦いほど燃えてくるようなもの好きは姉者を含めほんの一部の武人だけだ。おそらく袁術軍にはそのような者はいないだろう。」

 

「はっはっは!そうだろう、その通り!困難な戦いほど燃えてくるのが武人というものだ!よくいった秋蘭!」

 

 なんだか誉めてるのか馬鹿にしてるのかよくわからない妹の言葉に得意になる夏侯惇。

(まったく、これだから猪は……)

「脳筋」と評して差し支えない同僚を内心で馬鹿にしながら荀彧は彼女の主君を見上げる。

(華琳様に勝てるだなんて、とんだ思い上がりよ!)

 自らの仕えるべき主君の能力を荀彧は微塵も疑っていなかった。

 

「華琳様、今回は特に戦いにもなりませんでしたし、このまま許昌へ向かいましょう。時間がありません。」

 

 このまま軍を進めようと主張する荀彧。しかし、曹操は先ほどから街を見つめたまま、言葉を発しない。

 

「華琳様……?」

 

 不動の姿勢を崩さない主君に夏侯淵が声をかける。やがて、曹操は街を見つめたまま、先ほどから感じていた違和感について語る。

 

「あなたたち、この街を見て何か変わったと感じることはない?」

 

「……」

 

 この街に入った時から薄々感じていた違和感。しかし、それが何なのかがわからない。それゆえ、誰もその正体について言及しようとしなかったこと。曹操はその核心について問いを投げかけた。

 

 虐殺の形跡も無い。放火らしき跡も見られない。頭巾をかぶった中年のおばさんたちが、曹操軍相手に果物や、ヒマワリの種、塩漬け豚などを売ろうと声をかけている。酒場では曹操軍の兵士達も町の人と一緒に酒瓶を片手に談笑している。話の内容も、故郷に残してきた家族の話や自分の隊の上官の愚痴、戦場での武勇伝など様々だ。街の人々は来た時と同じように、この乱世でたくましく生きているように感じられた。しかし、街の人の表情にどこか陰があるようなのは気のせいなのだろうか。

 

 

 

「……あっ」

 

 皆の頭の中で浮かんでいた疑問をかき消すように突然、荀彧が声を上げた。

 

「どうしたの、桂花?」

 

 曹操の問いに荀彧が、ぎこちないながらも答える。

 

「華琳様、その……なんというか、若い人が少なくないですか?……ひょっとして袁術軍の『兵』って……」

 

「まさか、我らの……」

 

 頭の中で、すべてのパズルのピースが組み合わさった瞬間だった。

 

            




はじめまして、ヨシフおじさんと申します。にじファン閉鎖に伴いこちらでお世話になっています。乏しい文才ですが、暇つぶしにでも読んでいただけたら幸いです。よろしくお願い致します。


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許昌急襲

                      

 曹操軍本拠地、許昌。

 

 漢帝国の臨時の首都でもあるこの都市の眼の前では、この日4度目になる攻撃を受けていた。曹操軍は現在、総兵力25万のうち、曹操率いる本隊が15万、北方の袁紹に備えて4万、残る6万のうち2万5千が許昌の前に集結していた。数日前から続いているこの戦いの指揮を執るのは郭嘉、程昱の二人の軍師と張郃を始めとした将軍たちだ。

 

 対して、これと対峙する袁術軍はその数、実に11万に上る。数に勝る袁術軍はその数を生かして絶え間なく正面から戦いを挑み――

 

 

 

 

 

 ――見事に翻弄されていた。

 

 それもそのはず。なぜなら彼らの殆どは正規の軍事教練を受けた正規軍では無く、そこら辺の農民からなる“義勇軍”だったらだ。

 

 人民革命軍――通称:袁術軍――指揮官の一人である韓暹は苛立ちをつのらせていた。彼の部隊は最初に正面から切り込んだ部隊の一つだった。歩兵による正面からの攻撃は防がれたものの、その程度は彼も想定済み。正面からの攻撃はあくまで敵の動きを拘束するためのものであり、本命は別にある。

 韓暹とその直属部隊は正面からの攻撃に追われている曹操軍の側面に回り込み、敵軍の陣形を崩す予定であった。

 

 もちろん、ただでさえ士気の低い袁術軍の一般兵に真実は伝えない。伝えたところで基から低いやる気がさらに無くなるだけである。ゆえにこの作戦の全貌は彼とその直属部隊、そして主な士官にしか伝えられていなかった。敵を騙す時にはまず味方から、である。

 

 

 

 だが現実は厳しい。なにせ相手は曹操軍きっての名軍師。しかも二人もいる。そう簡単にはやられてくれない。というより、こんなことでやられるようでは到底天下統一など望めはしない。

 虚を突かれた曹操軍では、最初こそ多少の乱れはあったものの、結局陣形を崩すまではいかなかった。

 

 

 曹操軍の指揮を執っていた郭嘉は攻撃を受けた自軍の右翼を後退させ、逆に自軍の左翼には総攻撃を命じた。ただし、敵を突破するのではなく、囲い込むように、である。

 結果、曹操軍左翼の激しい攻撃にさらされた袁術軍は全体的に自軍から見て斜め右方向に移動。曹操軍の右翼が後退したこともあり、側面から回り込んできた韓暹の部隊と鉢合わせする形となったのである。

 

 ここに来て、作戦を一般兵に秘匿していたことが裏目に出た。

 韓暹の軍を、曹操軍の新手と勘違いした部隊と韓暹軍の間で同士討ちが発生したのである。

 これにより、袁術軍は一時的に大混乱に陥った。郭嘉はその機を逃さず、全軍に総攻撃を発令、混乱を鎮めようとする袁術軍士官の努力もむなしく、全面敗走となったのである。

 

 

 

 その後も韓暹とその部下達は攻撃、退却、休憩、また攻撃、といったサイクルを繰り返して現在の状況に至ったのであった。残った兵士で戦えるのは全部隊の約4分の1。通常、全部隊の3割を失えば『全滅』(部隊の再編成まで組織的戦闘が不可能)、5割で『壊滅』(補充だけでは再編不可能)の判定を受けることを考えれば、最悪の結果であった。

 

 韓暹自身もここにきて決断を迫られていた。後方にいったん引くか、それとも全滅覚悟で戦闘を続行するか。指揮官の一人として、彼には退却命令を出す権限が与えられていた。

 

 

「だが、退却をすれば私自身の地位が……。」

 

 袁術軍の基本戦術は数の圧倒的優位で勝利を狙うもので、その基準は損害の寡多ではなく、戦闘の課題を達成できたかどうかで決まる。袁術軍は他の諸侯に比べ、圧倒的な人的物量を誇っており、死傷者数はほとんど問題にならない。

 

 しかし、逆にいえば課題を達成できるかどうか、といった『結果』だけが重視されるという事でもある。どんなに努力しようが、相手が悪かろうが、不測の事態が起きようが『結果』を出さなければ糾弾は免れない。

 

 上層部から強く責任を追及されて最悪の場合、処刑されることもあり得る。その場で縛り首にされるようなことはないだろうが、鉱山送りぐらいなら充分考えられる。保険や福祉といった概念のないこの時代において、鉱山の労働環境は劣悪そのもので落盤や浸水などによる事故は日常茶飯事であり、鉱山送りは事実上の死刑宣告に等しいものであった。

 

 

「……私とて一介の武人だ。このまま鉱山に送られるぐらいなら、いっそここで名誉の……」

 

 今回のこの状況は韓暹にとってあまりにも過酷であった。これだけの損害を出して敗走しようものなら、間違いなく処罰は免れない。降伏しようにも、ただでさえ人手の足りない曹操軍が、降伏した兵を見張るために余計な手間をかけるとは考えにくい。むしろその場で切り捨てられる可能性の方が高い。

 退却してもしなくてもどのみち、ろくな未来は残されていないだろう。だが故郷にはまだ愛する家族が残っている。家族に迷惑をかけないためには不名誉の処刑だけは何としても避けなければならなかった。

 

 されど、奇しくも彼の苦悩は杞憂に終わった。一人の伝令の報告によって。

 

 

「申し上げます!劉勲司令官より全軍に伝達、一時後退し、各指揮官は二刻ほど後までに本陣に集結せよとのことです!」

 

 

「……ほ、本当か?今言ったことは事実なのだろうな!?」

 

「はい、間違いありません。なお、各指揮官には優先的に後退する許可が出ております。」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 その一時間ほど前、袁術軍本陣

 

 

「兪渉軍団に続いて韓暹軍団までもが壊滅した、だと……?」

 

 沸き上がる焦り、困惑、苛立ちといった感情を無理やり抑えた声が会議室に響き渡る。会議室の空気は騒然としていた。明らかに不機嫌な上官の視線に耐えながら、伝令の兵は震える声で報告を続ける。

 

「た、対する敵の損害はおおよそ1~2割程度に収まっております。前線からの報告によれば敵は依然として徹底抗戦の覚悟を決めたまま、激しい抵抗を続けているとのことです。」

 

 

 

 袁術軍本陣に届いた情報はこれだけではない。同じような報告が会議室の至る所で交わされていた。

 

 別方面の敵の数は?

 

 そちらの損害は?

 

 それは本当なのか?

 

 部隊の再編は完了したのか?

 

 

 扉からは伝令兵が頻繁に出入りし、室内では後方勤務の士官達がせわしなく移動している。会議室の各所で罵声と咆哮が飛び交い、送られてきた報告を基に軍師達は状況を確認しようとしている。同じような光景が袁術軍陣地の各所で見られていたが、たったひとつだけ、確かなことがあった。

 

「敵の抵抗の前に、我が軍の損害は増える一方です!」

 

 一人の若い武将が悲鳴のような口調で、前線の状況を簡潔に代弁する。それに対し軍師達はしばらく互いに顔を見合せていたが、やがて一人の軍師が口を開いた。

 

「しかし、混乱した我が軍がここで後退すれば却って被害が増大する。たとえ何人倒れようとも前進させるしかない。後詰めから予備部隊を抽出するのだ。」

 

「……いいのか?下手をすれば、今回の攻撃に参加した部隊全てが壊滅することになるぞ?」

 

 ひとりの武将がその軍師に問いかける。考えるだけでも恐ろしい結果だった。すでにここ数日の戦闘で11万いた大軍はその数を9万まで減らしている。しかも負傷者がかなり存在するので、現実に使い物になるのは7万程度だろう。もちろん軍師達とて、そんなことは分かっている。だが、他に策がない。

 

「いや、本当は無いことも無いのだが……」

 

 一人の軍師が口を開きかける。その言葉を聞いた瞬間、他の軍師達の顔に緊張が走る。

 

「……だが、それは――」

 

 

 

 

 

「――アタシが説明してあげよっか?」

 

 

 

 背後から高い、透き通った、それでいてこの場には不釣り合いな声が会議室に響き渡った。

 

 

その声の主、先ほどから会議室の後ろの簡易イスに座っていた女性は、明らかに作り笑いと思える笑みを浮かべながら会議室にいる面々を見渡した。

 

 肩まで伸ばしたセミロングの金髪に、全てを見透かすような透明感のある緑色の瞳、シミ一つない色白の肌。都会的な華やかな容姿で、身長は人並みだが無駄な贅肉が付いていないおかげで全体的にほっそりとした印象を受ける。

 と、ここまでなら間違いなく美人の分類に入るのだが、連日の苦労が重なっているせいか、瞳の下には大きな隈があった。色白の肌も部屋の中では青白く見え、むしろ不健康さを強調するようで痛々しい。そのせいか実年齢はおそらく20前後だろうが、見方によっては年上にも年下にも見える。

 

 

 先ほどの若い武将は思わずそちらを振り向き――苦虫を噛み潰したような表情にった。残りの武将や軍師達の表情は千差万別だ。何人かは彼と同じような表情を浮かべ、ある者は青ざめ、ある者は侮蔑の表情を浮かべ、その他の者たちは媚を売るような表情になる。

 

「あら、びっくりさせちゃった?ごめんねー。驚かすつもりはなかったんだけどなぁ。」

 

 重苦しい空気の中、その女性は椅子から立ち上がり、申し訳なさそうに苦笑した。しかし、その瞳は鋭く妖しい光を放っており、油断なく周囲を観察している。

 

「まぁ、みんないろいろと言いたいことはあるんだろうけど、ここは一つアタシの話を聞いてもらえない?」

 

 わざとらしい笑みを浮かべながら、その女性は表面上はあくまでにこやかに語りかける。見た目が整っているだけに、かえって背筋が思わず凍っていしまうような薄ら寒い、どこか不気味な印象を受ける女性だった。

 

 

「……話をお聞かせ願おうか、同志書記長。」

 

 表情を固くしながら、一人の年配の武将が彼女、劉勲に続きを促した。その言葉に満足したように頷くと、劉勲は口を開いた。

 

「先ほど話があった、後詰めからの予備はアタシの部下が担当するわ。アタシの部下が長弓を最大射程で放って援護して、敵の動きがそれで鈍った隙に一気に後退するの。だから各指揮官には安心して退却してね、って伝えて頂戴。」

 

 

 

 朗らかに作戦内容を伝える劉勲。一見、至極まともな作戦に聞こえる。退却する味方を長弓で支援する、今回袁術軍で使用される予定の長弓は弓の中でも「射程距離」を伸ばすことに特化した大型の弓である。これならば無駄に接近することも無いため、安全な距離から後退を援護できる。

 

 いくら曹操軍といえども、さすがに矢の雨の中に入ってまで敵軍を攻撃しようという物好きはいないだろう。そのことはまた、袁術軍が無秩序な敗走に陥っても自軍による同士討ち以上の損害は抑えられるということ。戦場の死傷者の大半は退却中に起きるものだということを踏まえれば、結果的に死者の数を抑えることにつながる。

 さらに弓を使うことで救援に向かった部隊と交戦中との部隊の連携や指揮官同士の意思の統一がうまくいかず、そこを敵に攻撃されて大混乱、といったことも起こらないはず。

 

 

 しかし――

 

 そんなうまい話があるのなら、なぜ最初からその案が出てこないのだろうか?

 袁術軍は弱兵、凡将ぞろいだが、仮にも一国の支配を担う者達だ。全くの馬鹿ではない。確かに個人の才覚では魏の軍師である郭嘉、程昱などには及ばないだろう。しかし、それを数で補うのが袁術軍である。天才に頭脳に対抗するために何人もの凡人の知恵を集め、無数の情報を集め手状況を分析し、意見を出し合い、互いの不足を補いながら『組織』で勝利を目指していく。

 

(と、言ってもまだまだ手探りの状態なんだけどね。結局、たくさんの人材の中からある程度使える人間を見つけるのも一苦労だし。)

 

 心の中ではぁ、と軽くため息をつく劉勲。

 

『天才』を『組織』と『集合知』、『経験と知識の蓄積』によって打ち破る。

 それが、乱世に生を受けた稀代の天才とその非凡な部下達に対抗するために劉勲が出した解答であった。ゆえに他国のそれと比較して、兵員数あたりの軍師や武将といった指揮官の数が多いということは袁術軍の一つの特徴であった。

 

 一方、先ほど劉勲に続きを促した年配の武将は劉勲の言葉をもう一度頭の中で反芻していた。彼女はなんと言った?

“だから各 指揮官(・ ・ ・) には安心して退却してね、って伝えて頂戴。”

確かに彼女はそういった。 指揮官(・ ・ ・) ということから導かれる答えは――

 

 

「……つまり、『兵』は別だと。そういうことか?」

 

 

 この提案がすぐに出てこなかった理由は極めて単純。敵と交戦している状態で、下手に弓による援護を行えば味方にも被害が出るからだ。後ろの方にいる兵士たちは巻き込まれないだろうが、最前線で敵と戦っている兵士は間違いなく助からないだろう。

 つまり、この女はこう言っているのだ。自分達は前で戦っている自軍の兵士ごと攻撃して、後ろにいる兵士と貴重な指揮官だけでも後退させるのだ、と。

 

 

「ピンポーン。だいせいかーい。いやはや、理解が早くてホント助かるよ。あ、ちなみにピンポーンっていうのは擬音語だから気にしないで。」

 

 よくできました、とばかりにその武将を褒め(?)ながら周囲を見渡す劉勲。すでに彼女と同じ結論にたどり着いていた軍師達は、武将達に具体的なタイミングや兵士の配置、予想される敵軍の反応などについて補足説明をしているが、対する武将達の反応は三者三様だ。

 

 驚嘆、怒り、不安、感心。反発する者、感嘆する者、やはり、と嘆息する者。会議室にさまざまな感情が渦巻く。

 だが、彼らはそういった諸々の感情を押し殺し、あくまで純粋な軍事的課題としての実現可能性を軍師達に問いかける。それがいかに不条理だろうと感情論で物事を決めつけてしまうのは、人々の上に立つ者として決して許されない。“損して得取れ”というのは商人の基本だが、軍事や政治外交の世界においても通用する言葉であり、袁術軍幹部そのような計算ができるよう“教育”されていた。

 

 

「それで……援護部隊の規模は?」

 

「規模は今のところ、長弓兵9000名ぐらいを予定している。」

 

「もっと送れないのか?」

 

「残念だが、恐らく無理だろう。兵の問題ではなく、矢の数が足りんのだ。」

 

 そう、今回のこの戦いは袁術軍にとっても時間との勝負だったのだ。あまり大量の物資を運んでいては進撃速度が低下してしまう。劉勲もいくら進撃を秘匿し、進撃速度を速めたところで曹操軍に気付かれずに許昌までたどり着けるとは考えていない。ただ、のんびりと進軍して許昌の周囲から増援を呼ばれることは何としても避けなければならなかった。

 

 ゆえに今回の作戦では兵士はできる限り軽装で必要最低限の武器だけを持ち、食料などは現地調達、つまるところ略奪で補っていたのだ。兵士すらも現地調達――農民の“義勇軍”を強制徴募することで、防御力と錬度の低下と引き換えに、今までの袁術軍では考えられなかった進撃速度を得ている。尤も、そのおかげで死傷者の数は半端ないものになっていたが。

 

「それならそれで、兵士の配置はどうするおつもりで?」

 

「二手に分けて両翼に配置する。交戦中の部隊には中央から後退してもらう。」

 

「敵軍が中央突破してくることは考えられませんの?」

 

「……それを防ぐための 援護射撃(・ ・ ・ ・)だろ?」

 

 その言葉に皆が一瞬、険しい表情を浮かべた。無論、理性では理解している。これが一番効率的な方法だと。たしかに現状、少しでも被害を減らすにはこれしかない。放っておけば、戦闘中の見方はは大損害を受けるだろう。多少の味方を巻き込もうとも、結果的に全体の被害が減らせるならばそれに越したことは無い。誰が殺そうと死者は死者でしかないのだから、その過程は無視して結果だけを見るべきなのだ。

 だが、感情がそう簡単に納得しない。もっといい方法が、何かほかに策は無いものか……。

 

 

 

「……やはり、やるしかないのか……」

 

 ぽつり、と誰かが呟く声が聞こえた。あたりを見れば、もう反論しようとする者は見当たらない。やがて中から軍師の一人が沈黙を破り、武将たちと向き合う。

 

「我々は……もう負けるわけにはいかないのです。戦力を少しでも温存するにはこれしかありません。」 

 

 その言葉に劉勲は軍司令部全員の覚悟を感じとった。

 

(……今回の攻撃も防がれた以上、もう戦ってもいたずらに死傷者を増やすだけで何の意味も無い。これ以上の損害を出せば軍も半壊し、継戦は困難となり作戦は失敗する。同じく自分達も敗北による粛清を免れず、破滅を待つしかないってとこか。)

 

 作戦会議は閉会となり、全軍に次の指示が出されたのであった。

 

 

 

 

 そして作戦会議から約一時間後。

 

 劉勲の部下達はあらかじめ指示されたとおりに味方の退却を 援護(・ ・)し始めた。結果、袁術軍は多大な被害を出しながらも、何とか退却に成功する。しかしこの撤退で袁術軍が受けた損害のうち、実に7割近くが同士討ちによるものであった。

 さすがの郭嘉と程昱も、袁術軍が味方ごとまとめて攻撃するとは思わず、対応の遅れた曹操軍も少なくない損害を出したのであった。

 

                      



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劉勲

          

 ――これは、夢だ。

 

 

 そう、夢を見ていた。

 

 いつのことだろう。

 

 ガタン

 

 夢を、見ていた。

 

 ――平凡な毎日の夢を。

 

 

 

 これは――

 

 そんな夢に出てくる平凡な日々の一つ

 

 ガタン

 

 体が、揺れる。

 

 ここは、どこだろう?

 

 ガタン。

 

 再び、体が揺れる。

 

 目の前に人がいる。

 

 前にも

 右にも

 左にも

 

 ガタン、ゴトン。

 揺れは収まるどころか、だんだんと激しくなる。 

 

 

 周りの人たちは誰なんだろう?

 

 

 

 知らない。

 名前は知らない。

 場所も分からない。

 なのに――

 

 

 ――妙な懐かしさを覚えるのはなぜなんだろう?

 

 周りにいる人に、ではない。

 今、自分のいるこの場所でもない。

 

 なのに、どうしてだろう。

 

 どうして、胸が、胸がこんなにも

 

 この光景を見ているだけでこんなにも――

 

 

 

 

 いや、それとも――

 

 この懐かしいのはこの「光景」のほうだろうか。

 

 そう、これはかつて忘却の彼方に追いやったはずの――

 

 

 ――置き去にされた想い出。

 

 

 

 そうだ、アタシはたしか――

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「同志書記長、朝です。」

 

 自分の名を呼ぶ副官の声が聞こえる。

 

「……同志、そろそろ起きてください。」

 

 アタシは正直、朝に弱い。いわゆる低血圧というやつだ。だから部下に毎日こうして起こしてもらっている。

 いつものように部下に起こしてもらって、今日もまた一日が始まる。

 

 起きなきゃいけないっていうのは解る。だが頭では理解しても感情が納得しない。眠い。モーレツに眠い。いつの時代でも人間、朝早く起きなきゃいけないということに人種や性別、貧富の差は無く、たとえ大きな力を手に入れようとも、それはそれで相応の責任が求められ――

 

 

 

「――今朝、密偵から報告がありました。曹操率いる魏の本隊がここから100里※ほどの距離に迫っているそうです。」

 

 

 

「!!」

 

 副官のその言葉に、自分でも気付かないうちに布団から飛び起きたのがわかった。先ほどまであった眠気などとうに消え失せていた。

 

「そ、そんな……?100里ってすぐそこじゃない!」

 

 許昌から南陽まではそう遠いわけではない。だからと言って2,3日で来れる距離かというと、そうでもない。最低でも一週間はかかる。南陽が陥落したという報告を聞いたのはつい一昨日のこと。明らかにありえない進撃速度だ。だが、相手はあの曹操だ。

 

「……こんなの、ありえない!う、ウソでしょ?」

 

「ええ、これは紛れも無いウソですね。」

 

「いくら曹操だってこんなこと………………へ?」

 

 いまなんていったコイツ?

 

「おはようございます、同志書記長。」

 

 目の前には満面の笑みの副官。

 

 

「…………どちら様でしょうか?面会ならまた後ほど別の機会にでも」

 

いま(・ ・)の私の名前は閻象です。まったく、何度言えばこの名前を覚えてくれるんですか?」

 

 今度はうって変わってあきれる副官の閻象。

 いや、だって副官多いんだもん。別にいいじゃん。

 

「よくありません。部下の名前を覚えるのは司令官としての義務であり責務でもあります。」

 

 いってくれるじゃない。こんにゃろう。落ち着け、アタシ。

 だがここは“名門”劉一族の当主として恥ずかしくない行動をせねば。どっかの引きこもり貴族のごとく常に余裕を持って優雅たれ。

 とっさに口元を扇子で隠し、軽く微笑みながら聞き返す。

 

「ふぅ……あら、そーいうアナタは部下の名前を全員覚えてるの?」

 

「しょせん副官ですから。別に司令官じゃないので。」

 

 テヘッ♪とかいう効果音が付きそうな顔であっさりスルーしやがった。書記長、もとい上官に対する敬意とかないワケ?

 

「あと、寝起きでぼさぼさの髪のまま、大きな隈ができた目で睨まないでください。ただでさえ悪人面なんですから。それに第一印象って結構大事なんですよ?人間の印象の大部分は見た目で決まるって知ってました?」

 

 く……、黙っておけば人のこと悪人面とか、好き放題言いやがって。なんか深い恨みでもあんの?つーか絶対アタシにケンカ売ってるでしょ?

 

 

「……で、何しに来たのよアンタ。寝込みでも襲いにきたの?」

 

 適当に返してみるも、閻象は楽しそうに柔らかな顔で頷いた。

 

「ええ、中々良かったですよ。書記長も寝てれば案外可愛らしいですね。」

 

「ふ~ん、興奮しちゃったんだ?そんなにガマンできなかったの?」

 

「といっても、ヒゲが生えてたので結局萎えましたけどね。」

 

 えっ、マジ!?

 思わず近くにあった手鏡を取って確認するが、特にそれらしきものは見当たらない。

 

「……つーか、よくよく考えたら女の子にヒゲとか生えないわよ!産毛ぐらいならあるけど、ちゃんと毎日処理してるし!」

 

「無理して話を合わせようとするから、揚げ足取られるんですよ?おとなしく“こ、この変態っ!なんてコトしてくれるのよ!?”とか言ってあたふたと慌てていれば良いものを」

 

 閻象はやれやれ、と首を振ったあと、急に何かを考え付いたように上を見る。

 

「……そういえば、思い出したので一つ忠告しましょう。ムダ毛の処理とか、そういう生々しい話題は異性の前でするもんじゃないですよ。」

 

「アナタが始めたんじゃない、今のヒゲ話!」

 

 なんか頭に来たので資料を丸めて投げつけるも、閻象はそれをひょいっと避けた。それから宙を見上げて嗚呼、と嘆くようなポーズをとる。

 

「いやはや、こうやって少年はまた一つ大人になって世の中の裏というのを知っていくのですね。悲しいものです。」

 

「アナタはそんな年でもないでしょうが……」

 

 目の前にいる男、閻象の年齢はおそらく30代あたり。もっとも、穏やかで品の良い顔立ちな為、年齢不詳の感があるが少なくとも“少年”とかいう歳ではないはず。

 

「そうはいっても、いくつになっても男性は女性に夢を持ちたいものですよ」

 

 まぁ、気持は分からなくも無い。問題はどの程度の“夢”を抱いているのかであって、所謂“キモい妄想”との分岐点はそこなのだろう。

 

 

「で?……具体的にはどんな夢もってんのよ?」

 

「気になりますか?」

 

「ま、まぁ……後学の為にとりあえず……」

 

 語尾悪く聞いてみると、閻象はフムと顎に手を当てる。

 

「そうですね……酒飲んだり下品なことは言わないとか、処女だとか便所に行かないとか」

 

「いつの時代のアイドルよっ!特に最後のヤツ!」

 

「……あいどる?」

 

 閻象はアイドルの意味を理解しかねているようだったが、自分の意見が否定された事は理解したらしい。

 

「古い……古過ぎるわ……!」

 

 自分の前世では、そんな事をのたもう人間はもはや少数派だと思っていただけに、凄く久々な感じがする。

 

 

「……やっぱダメしょうか?」

 

「ダメ。」

 

「即答ですね……」

 

 どうやら閻象にとってはそれなりにショックだったらしい。まぁ、面と向かって古臭い的な事を言われれば、確かに落ち込むだろうけど。

 

 

 

「そういえば、そろそろ朝食の時間でしたね。今お持ちしましょう。」

 

 しばらくして、気を取り直した閻象が朝食を持ってくれた。結局、閻象には特にこれといった用は無かったらしく、ただ単に起こしに来てくれただけらしい。もっとも、暇を持て余してからかいに来た、というのもあるだろうが。

 朝食の給仕などは本来、副官の仕事の範囲外なのだが、こういうさりげない気配りができる男は高ポイントだ。が――

 

「……なんでマーボーなのよ。」

 

 目の前に置かれた皿には、赤黒い物体が並々と注がれている。より正確には麻婆豆腐などの原型となる、中華山椒と唐辛子を大量に使った料理。「辣味」という唐辛子系のヒリヒリする辛さと、中華山椒系ののピリッとした「麻味」の二種類の辛さでつくられる味を「麻辣味」といい、ソレを使った料理は麻辣ナントカという。

 

「こちらは麻婆(マーボー)ではなく、麻辣(マーラー)です。」

 

「知ってたわよっ!……じゃなくて、何で朝っぱらからこんなもん食わせんのよ?ガッツリした料理は胃にもたれるでしょ……」

 

「朝からそういう脂っこいものを食べれば、食欲が無くなって痩せるらしいですよ?」

 

「あー、ソレなんか聞いたことあるかも。アタシも昔試したことあるし。」

 

「どうだったんですか?」

 

「へ?……いや……まぁ……効果が無かったワケじゃないけど……」

 

 思わず口ごもる。実は、異性には少し話づらい理由がある。

 

「ああ、なるほど。なんとなく想像つきました。」

 

「……」

 

 悔しい事に、コイツがこういう笑顔でうんうんと頷いている時は、だいたいロクなことが起こらない。例えば、知られたくない事を知られたり。つまり――

 

「痩せたには痩せたが、痩せてほしい部分の脂肪が減らなくて、むしろ減ったら困る部分から脂肪がどんどん抜け落ちたと。」

 

「ぐぅ……」

 

「胸とか」

 

「表出ろっ!」

 

 

 この副官、確かに有能なのだが、それが逆に困る。頭が回り過ぎる部下は考えものだ、とはよく言うが、そんなものだろう。知られたくない事まで勝手に悟られていい気はしないし。

 

「まったく……なんでこんな可愛げのない子に育っちゃたのかしら?子供の頃はもっと素直な子だったのに……」

 

 

「子供の頃……」

 

 一瞬、不思議な言葉を聞いたかのように、閻象が動きを止める。

 

 

「何よ?アナタだって子供時代ぐらいあったでしょう?」

 

「まぁ……無い事は無いですが……」

 

 そういえば、アタシは閻象のプライベートに関しては殆ど知らない。自分に仕えてしばらく経つが、家族や友人関係、過去の思い出などは秘密警察で洗っても出てこないのだ。分かったのは彼が仲帝国領内の出身では無いことと、それなりに『いいところの出』だということだけ。

 もっともこの戦乱の時代、流れ者の個人情報など本人が明かそうとしなければそう簡単に出てくるものでは無い。ただ、閻象の場合はどことなく『答えたくない』以前に『答えられない』といった感じが強いのだ。

 

(といっても、今のところアタシの害になるような行動をとってる訳でもないし、しばらく放置しますか……)

 

 釈然としないものはあるが、今すぐに考えるべき事柄は他にある。そう、この許昌包囲戦だ。

 

 

 

 話は変わるが、アタシはいちおう指揮官だ。要するに戦いが終わってからもやることが多い。

 戦闘可能な兵とそうでない兵の分別とか、消費した矢の本数、そして本国への報告書など書かねばならない書類は山ほどある。……どーせ張勲の事だからろくに見ちゃいないだろうけど。それでも運が良ければ、増援でもよこしてくれるかもしれない。

 傍目には城を包囲している袁術軍が有利に見えるが、実のところ不利なのはこっちなのだ。

 

 まず、第一に速度重視の奇襲作戦だったから、基本的に装備が貧弱なこと。その分、機動力は上昇しているが今は攻城戦なのでたいして役に立たない。

 

 第二に補給線が貧弱であるということ。こちらもやはり機動力を重視したため、食糧などはすべて現地調達であり、長期の包囲戦に耐えられないということ

 

 第三に南陽が陥落したことにより、曹操軍の本隊がこちらに迫ってきており、下手をすればこちらが逆包囲されかねないということ。もともと南陽で曹操の主力をひきつけてその隙に敵の首都を奪おう、という算段だっただけに、これが一番堪える。南陽城の陥落は少なくともあと一か月ぐらい先だと、ここにいる袁術軍の指揮官の誰もが思ってたはずだが、結果はこのザマだ。

 

 第四に、ここに来る途中で敵軍にバレて奇襲を受けたため、部隊の再編成が必要になり、曹操軍が近隣の部隊を許昌に呼び込んで守りを固める時間を与えてしまったということ。正直、この時点で奇襲の効果はすでに半減している。それでも作戦を続行したのは「数で押せばなんとかなるだろう」という甘い考えと「敵の首都を奇襲できる」という大きすぎる誘惑に逆らえなかったからだ。

 

 

 

 「はぁ~……」

 

 思わずため息をつく。

 

 バカだ。

 

 なんてバカで浅はかだったんだろう。

 

 ……アタシってほんとバカ。

 

 時間を巻き戻すことができるなら、包囲戦が始まる直前に

“ふっふっふ……この戦いがアタシたちの勝利で終わることはすでに自明の理よ。問題は、どうやって勝利するかってことかしら?せっかくの勝利の美酒なんだから美味しいものにしないとダメでしょう?”とか、いかにも14歳っぽいセリフをのたもうてた自分に背後からタイキックかまそう。

 

 昨日撤退戦で見事な成功を収めたとはいえ、それで終わりではないのが指揮官、もとい現在のアタシの悲しいところなのだ。

 

 

 

「といっても、ぶっちゃけ味方殺しただけですけどね。」

 

「味方だけじゃないもん!敵にもちゃんと被害与えたってばぁ!」

 

「敵にも味方にも被害を出すとか、兵士たちからしてみれば疫病神もいいところです。存在自体が社会の害悪とはまさにこの事ですね。なんで生きているんですか?」

 

 うわぁあああん!今度は存在ごと否定された!

 

 

「ハァ……からかうのも程々にしなさいよぉ。まだ朝なのにすごい体力消耗した気がするんですけど……」

 

「おや、お疲れですか?」

 

「誰かさんのせいでお疲れよ……」

 

 これ以上会話を続けていると今日の仕事にまで響きそうだ。とりあえずマーボー食って気合入れよう。

 

 

「いやまぁ、確かに私も、少し言い過ぎたかもしれません。」

 

「分かればいいわよ。……ったく、女心ってのは繊細なんだから」

 

「粛清した政敵の肖像画を見て悦に入りながら、晩酌するような図太い人間に一番言われたくない言葉ですけどね。」

 

「さっきの反省はなんだったの!?…………って、そうじゃなくて!」

 

「?」

 

「何で知ってるのよ!?誰にも見られないようにコッソリやってたのに!」

 

「“コッソリ”って事は一応、自分がイタい事してるという自覚はあったんですね。」

 

「~~~~~っ!」

 

 目の前にいる『人民の敵』を、割と本気で粛清してやろうかと思っていた時――

 

「緊急報告です!」

 

 突然、兵士がひとり部屋に入って来た。雰囲気と服装からして、秘密警察の人間だ。ひとまずマーボーを食べる手を止め、そちらを向く。

 

 

 

「同志書記長!攻撃準備の第一段階、完了いたしました!」

 

「そう、意外と早かったのね。じゃあ、第二段階も急がせて。」

 

 ちなみに第一段階の完了とは各部隊ごとの集結の完了を意味する。第二段階で必要装備の補給を済ませ、第三段階で配置について命令があるまで待機する。アタシが命令を出すのはその後だ。

 時間にすると、たぶん3時間はかかるだろう。その間に会議と書類の決算をやっておこう。

 

 

 

 自軍の最新情報を手にしたアタシは再び、マーボーを食べ始めるべく、レンゲに手を伸ばす。

 だが、伝令の報告はそれだけではなかった。

 

「それと、もう一つ報告しなければいけないことが……。」

 

「何?」

 

「……特別工作部隊からの報告です。『 例の男(・ ・ ・)をついに発見しました。同志の報告通り、見慣れない服装で城内にいるのを確認。』とのことです。」

 

 

 

 報告を伝える秘密警察の人間は、何を報告しているのかよく分からない、という表情をしていた。。それもそうだろう。戦争中に、国家元首でも無いただの一人の男になんの価値があるというのだろう。

 

 

 しかし、彼の上官――劉勲の反応は異なっていた。

 

 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。目の前にいるのは見慣れたはずの上官の姿。肉体的な特徴に変化はない。

 だが、その身に纏う雰囲気が、明らかに変わっていた。

 

 

「そう。御苦労さま、下がっていいわよ。」

 

 ゆっくりと広がっていく魔性の笑み。愉悦と加虐衝動が、彼女の全身を包み込んでゆく。

 

「ついに、長かった隠れんぼ遊びもお開きってわけね。」

 

 彼女はこれまで己が辿ってきた道のりを思い返す。そして確信する。やはり、これでよかったのだ。自分の選んだ行動は間違ってはいなかった。

 嗚呼、この瞬間をどんなに待っただろう。どれほど焦がれていただろう。

 

「本当に、長かったんだから……。」

 

 その瞳に映るものは、紛れも無い歓喜と狂気。

 

「うふ、うふふふふ……。」

 

 虐げるように、弄るように、大蛇の如くその口端が裂けていく。

 

「――ようやく、見つけた。」

 

              




 プロローグ的な話は今回で終わりです。次回からは、序章より前の話になります。


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第一章・嵐の前の静けさ
01話:彼女の日常


 序章からさかのぼって数年前の話になります。ややこしい構成でスミマセン(汗)。第一章からは時系列順に話が進んでいきます。


                

   袁術による仲帝国の建国から、しばし時を遡る。 

 

 

 漢王朝末期、この時代になるとかつて栄えた漢帝国の面影はもはやどこにもなかった。

 後漢では、最初の2代の皇帝を除くすべての皇帝が20歳以下で即位していた。当然、そんな若い皇帝に政治ができるわけがない。ゆえに政治の実権は外戚や豪族たちが握っていた。

 

 

 その後、時代の流れの中でしだいに宦官に権力が集中するようになっていった。国の未来を憂う者たちの中には宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、大規模な粛清に遭い、彼らもまた後漢の衰退を止めることは出来なかったのである。

 

 また、この時期の政治は賄賂政治とも揶揄され、出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。そしてその賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。

 官僚は堕落し、国は乱れ、大地は荒れ果て、政治は腐敗していた。

 

 

 

 ここは荊州南陽郡。この時代では人口も多く、それなりに豊かな土地である。その中でもひときわ目立つ、やたらデカイ城にの中にバカ殿、もとい少女がいた。

 

 彼女の名は袁術、字を公路という。

 後漢より続く最高位の官職である大尉・司空・司徒の三公を四代にも渡って輩出してきた名家汝南袁氏の一族である。部下である孫堅が殺害した南陽太守張咨の後に入って南陽太守に就任、汝南袁氏の本来の地盤である河南の南部に勢力を築いていた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――とかいうとなんかカッコよく聞こえるのだが、よくよく考えてみればあんまし大したことはしていない。

 正直、部下が勝手に政府の役人殺して南陽群を乗っ取った時期を見計らい、親の七光りで横合いからそれを掠め取っただけである。本人は特に何もしちゃいない。というか、むしろ下手に張り切ってもらわれると逆に困る。経験則上、ろくなことがあったためしがない

 

 袁家のお姫様として幼いころから甘やかされ、立派なワガママ娘への階段を一直線。ついでに親戚の袁紹と同じく、びっくりするぐらいのBA☆KAである。おかげで最近では周囲にワガママでアホの子であることが袁家の証拠である、との共通認識が出来つつあった。

 そんなわけで袁術の部下達は今日も彼女がのん気に蜂蜜水をがぶ飲みする姿を見て、安心しながら仕事に取り掛かるのだった。

 

 そして、それを冷めた目で見つめている人物がいた。健康的な褐色の肌をした女性――その名を孫策、字を伯符という。彼女は袁術軍がこの南陽を占領する際に大きな功績を挙げた孫堅の娘である。現在、孫家は袁術に仕えているため、彼女も一族の代表として顔を出しているのだった。しかし、彼女の袁術に対する視線は、控え目に言っても友好的とはいえないものだった。

 

 (いい気なもんね。私たち孫呉のおかげでこの地を奪えたというのに、それをあたかも自分の手柄のように……)

 

 当然の反応である。誰だって手柄を横取りされていい気はしない。だが、それを表に出すほど孫策は愚かではなかった。

 今はまだ雌伏の時だ。今の孫家にはまだまだ力が足りない。

 

(呑気に蜂蜜飲んでられるのも今のうちよ。)

 

 心の奥で密かに燃える野望を隠しながら、孫策は素早く思考を切り替え、再び袁術の方へ向き直った。

 

 

 

 一方の袁術の方はというと、さっきから冷めた目で自分を見ていた孫策の目線にまったく気が付いていなかった。今、彼女の関心はすべてたった一つのことに向けられている。

 

「蜂蜜じゃ!妾は蜂蜜を所望するのじゃ!」

 

 もはや南陽でこの言葉を聞かない日はない、というぐらい家臣たちにはお馴染みの声が聞こえる。そしてその声に答えるのは――

 

「はぁ~い、只今お持ちしま~す。」

 

 ――彼女の隣に立つ、藍色の髪をショートにした女性だった。その世話役、教育係であり、袁家の武将でもある彼女の名は張勲、真名を七乃という。

 

「ちなみにお嬢様、お嬢様が毎日飲んでおられる蜂蜜水ってすっごい高級品なんだって知ってました?」

 

「こ~きゅ~ひん?」

 

「庶民には手の届かないほど高いモノだってことで~す。たぶん普通の人は一生かかっても、お嬢様が一日に飲む量に届かないんじゃないんですか?」

 

 (この年になって高級の意味も分からないなんて、さすがお嬢様♪)

 

 心の中で教育係としての自覚が全く感じられない感想を呟く張勲。そもそも袁術がアホの子になったのは、だいたいこいつのせい。ちなみにそんなんでもクビにならないところが袁術軍クオリティーである。

 これを能力の無い人間でも採用されちゃうダメ組織と見るか、この社会情勢の中でそんな人間でもなんとか養っていけるぐらい、余裕のある組織と見るかは人それぞれだったりする。

 

「な、七乃!それはまことか!妾の民が一生かかっても妾の一日分の蜂蜜も飲めないというのは?」

 

「はい。というか、私たちでもそんなに蜂蜜飲みませんし。」

 

 この時代、蜂蜜は高級品である。より正確には、現在進行形で高級化している。その理由は社会の不安定化にあった。

 ただでさえ食糧が不足気味の後漢末期において、生活必需品でもない蜂蜜をわざわざ買おうという庶民はいない。せいぜい、結婚式など特別な行事の時に少しふるまわれるぐらいである。需要がほとんど無ければ、当然農家は養蜂から手を引く。

 ゆえに不景気→需要減少→養蜂家の収入減→養蜂家の減少→蜂蜜の希少化→蜂蜜の値上がり→さらなる需要減少、といった負のサイクルが繰り返されていた。

 

 

「むむむ……。なんと、妾の民が蜂蜜も食べられんほど苦しんでいたとはのう……。」

 

  珍しく(・ ・ ・)、自分の民の現状を聞いて苦悩する袁術。繰り返すが 珍しく(・ ・ ・)

これに対して袁家の家臣達からは感嘆の声が上がる。これまでにない真剣な表情で民のことを思う主君の様子を見た家臣達は――

 

「え、袁術様が悩んでおられる!」

 

「本当だ!よもやワシの生きているうちに袁術様が頭を使う日が来ようとは……。」

 

「大丈夫ですか、袁術様!どこか具合の悪いところでも!?」

 

「何か悪いものでも食べられたのでは!?あるいは熱でもあるのでは……」

 

「そこの衛兵!何をしておる!ボケっとせんで早く医者を呼ばんか!」

 

 ――彼らなりに主君の心境の変化を感じ取って、その身を案じてたようである。それぞれが勝手に失礼な言葉を叫びつつ。

 おまけに彼らが感嘆した原因は「民を想う」とかじゃなくて「袁術様が頭を使っている」ことにあるらしい。彼らの記憶にある限り、袁術が物事を思い悩むというのは未知の体験だったのだ。

 

 

「さすが美羽様、ちょっと悩んだだけでみなさん動揺してますよぉ~。普段の美羽様がいかにノータリンかが、よくわかります♪正直、私もびっくりですよー。明日は空から魚でも降ってくるんじゃないんですかぁ?」

 

「む?この妾が直々に民のことを考えたのだから、空から魚ぐらい降って当然じゃろ?」

 

「きゃ~、美羽様、いつも以上に言ってることが意味不明ですぅ。」

 

 

 他国の家臣が見れば、思わず頭を抱えたくなるような光景である。しかし、当の本人達はいたって大真面目なので余計にシュールに見える。

 しかも本当に医者が来た。

 

「美羽様、じっとしていてくださいね。これからお医者さんが熱を測りますから。」

 

 袁術の額に手を当て、熱を測り出す医者。当然だが、熱なんかあるわけない。

 ……知恵熱とかはありそうだけど。

 

「うぅぅぅ~。わ、妾は別に何ともないのじゃ~!いい加減静まれ、ばかものー!」

 

 さすがに怒ったのか腕を振り回しながら、怒鳴る袁術。だが、涙目で顔を真っ赤にした状態では威厳のかけらも無い。むしろ――

 

 

 

(やばい、可愛い!何この可愛い生き物!抱きしめたい!そしてもふもふしたい!)

 

 老若男女問わず、張勲を筆頭にどーでもいい妄想が膨らんでいた。だが、これが袁術軍クオリティー。気にしてはいけない。

 

「ところでお嬢様?」

 

「なんじゃ?」

 

「結局どうするんですか、蜂蜜?」

 

「おお、忘れるところじゃった。みなの者!妾の話をよく聞くのじゃ!」

 

「ははっ!」

 

 一瞬にして静まり返り、袁術の言葉に耳を傾ける家臣たち。先ほどまでのバカ騒ぎが嘘のように静まる。一瞬の沈黙の後、その静寂を破るかのように袁術の口から放たれる言葉がその場に響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今日からこの日は『蜂蜜の日』じゃ!」

 

 

 

 

 

 やっぱり袁術はバカ殿だった。

 

 

 

「美羽様、なんですか『蜂蜜の日』って?……………………………だいたい予想つきますけど。」

 

「なんか言ったかのぉ、七乃?」

 

「いえいえ、なんでもありませ~ん。」

 

「うむ、ではこの妾が直々に説明してやるのじゃ。」

 

 椅子にふんぞり返ったまま、得意げに説明を始める袁術。

 

「この『蜂蜜』の日にはな、妾の民に蜂蜜菓子をふるまうのじゃ!皆が蜂蜜のおいしさを知れば、蜂蜜を作る者も増えるじゃろう。蜂蜜を作るもが増えれば、蜂蜜も増え、妾ももっと蜂蜜が食べられるという事なのじゃ!」

 

「さすが美羽様、無意識に事態を悪化させることに関しては中華一♪びっくりするぐらい、こちらの意図が全然伝わってませーん。」

 

「うわははは、当然じゃ!名門袁家の血を引く妾はどんなことでも中華一なのじゃ!」

 

「おー!美羽様、見事に自分にとって都合のいいことしか聞こえてな~い。その一言でみなさん完全に固まっちゃってますぅ~。」

 

 家臣達が固まるのも無理のない話であった。

 たとえ袁術ひとりがどれだけ蜂蜜を消費しようが全体で見ればたいして影響はない。いくら高級品といえども所詮は食べ物、財政が傾くほどのことはないのだ。

 

 しかし、庶民全体に蜂蜜をふるまうともなれば、話は大きく変わる。大量の蜂蜜の確保のみならず、蜂蜜菓子職人の派遣や、かかる諸経費、治安維持対策など多くの予算と時間、そして人員を必要とする。正直、シャレにならない。

 だが、そんなことに気付く袁術ではない。というか、逆に気付いたら袁術ではない。

 

「みんな妾の策略のあまりの素晴らしさに声も出ないのであろう。ふはははは!」

 

「あらあら、『策略』なんて難しい意味の単語知ってたんですねー。感心しましたぁ~。」

 

「うわははははは!七乃、もっと褒めてたも。『蜂蜜』の日を決めて蜂蜜を増やす。うむ、これぞまさに、一石二鳥にゃ……」

 

 

 (あっ、噛んだ。)

 

 何とも言えない微妙な空気が周囲に漂う。だが、一応これでも主君なので笑い飛ばすわけにもいかず、どうしようかと顔を見合わせる家臣達。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

 静まる空気。固まる家臣たち。笑っては、いけない。

 

「……なのじゃ!」

 

 そして言い直した!

 

 

 

 

 

「……冥琳、私もう帰りたい。」

 

 思わず、親友の名を呟く孫策。

 

(私達には、孫呉の夢があるっていうのに。なんで、こんな……)

 

 こんなバカ騒ぎに付き合わなきゃならないんだろう。

 

 

 ……なんか悲しくなってきたからやめよう。

 そう決めた孫策の目に映るのは、やっぱりいつものバカ殿とその愉快な仲間達の姿だった。

 

 

 

 

 

 

「あっ、そういえば孫策さん。ちょっと話さなきゃいけないことがあったんですけど」

 

 ふと思い出したかのように、張勲が気軽に孫策に話しかける。最初に伝えろよ、とか内心で思いながら孫策も言葉を返す。

 

「何かしら?私たちに用件があるなら早めに言って欲しかったのだけど。」

 

「はーい、今度から気をつけまーす。」

 

 全く反省の色が見えない張勲。基本的に彼女は何事においても袁術のことが最優先なので、他のことは後回しにしがちなのだ。おかげで重要な案件を忘れたり、袁術の気分次第で急な変更が多発したりと部下の苦労は絶えない。それは袁家の客将となっている孫策達も例外ではなかった。

 

「で、何なのかしら?」

 

 どうせロクなことじゃないだろう、と思いつつ適当に返事を返す孫策。

 

「えーっとですね。来週あたりに孫策さんたちには張咨さんの残党を掃討してもらいます♪」

 

「……は?」

 

 先ほど話しかけてきたときと同様に、唐突に次の指示を出す張勲。そのまま、孫策のことなど気にも留めない様子で張勲は話を続ける。

 

「といっても具体的な話については私もまだ知らないんですけどね。詳しい話はあとで紀霊さんあたりから聞いてください。じゃ、私はこれからお嬢様と『蜂蜜の日』について話さなきゃならないんで。」

 

 そういって一方的に話を打ち切り、蜂蜜水を飲んでいる袁術のもとへと向かう張勲。その後姿を見送りながら、孫策はふと思った。

 

 (……なんというか、本当にロクでもないわね。)

 

 唐突に指示された張咨への攻撃。張咨はかつての南陽太守であり、彼は死んだものの、その息子達がいまだに袁家に対する抵抗を続けていた。衰えたとはいえ、かつての太守だ。兵もそれなりにいる。

 現在の孫家は袁家にたいして反乱を起こさないように兵力を各地に分散させており、すぐに動ける兵力は少ない。一週間程度で集められる兵士には限界があった。なのにこんな適当な指示で攻撃していいんだろうか。

  しかも指示を出した当の本人、張勲にとっては訳のわからない『蜂蜜の日』のほうが大事らしい。改めて、袁家の客将になったことを後悔する孫策であった。

 

 

 

 

 ――ちなみに、結局『蜂蜜の日』の方はどうなったかというと、張勲の提案で春節(旧暦における正月)に蜂蜜菓子を食べることを奨励するに止まったのだった。ただし、そのために蜂蜜職人には一定の補助金を出すことが決定された。この結果として南陽には蜂蜜菓子職人が多く集まるようになった。

 その他にも張勲が

 

  「一年が蜂蜜のように甘くなりますように、との願いをこめて

           新年に蜂蜜菓子を食べると良い年を迎えられる」

 

 とかもっともらしい理由をこじつけたこともあって徐々に庶民の間にも浸透し、この地方では春節に蜂蜜菓子を食べる習慣ができたのだった。

 

 

 




 何か感想やご意見、指摘等がございましたら、よろしくお願いします。


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02話:錬金術師と孫呉の絆

                 

 

「……さて、そろそろ頃合いか。よく見ておけよ、蓮華。」

 

「はい、母さま。」

 

 

 攻撃を知らせる銅鑼の音が鳴り響くのと同時に、孫家の紅の旗を掲げた5000の軍勢が一斉に動き出す。その目標はかつて彼女が追い出した“元”南陽郡太守、張咨の残党軍。張咨自身は既に死亡しており、旗頭を失った残党が敗北するのは時間の問題だった。

 

 

 

 そして見晴らしの良い位置から、それを見下ろす二人の女性がいた。そのうちの一方、妙齢の女性を孫堅といい、言わずと知れた孫家の当主であった。そしてもう一人、まだ幼さが抜けきっていない少女のほうを孫権という。双方とも同じ褐色の肌を持ち、桃色の髪をしているのが特徴的だった。

 

 傍目にもわかるようにこの二人は親子であり、孫堅はまだ実戦経験の浅い次女である孫権に戦場のなんたるかを教えるため、この戦いに参加させたのである。

 孫家の次期当主として幼いころから戦場に引っ張り出していた姉の孫策と違い、孫権にとっては今回が初めての実戦であった。孫権は次女であり、孫策が存命の限り家督を継ぐことは無い。それゆえ、今まで特に戦場に向かわせたことは無かったが、最近になって孫堅の考えが変わり、実戦経験を積ませようということになったのだった。

 

 

「蓮華、今回の我らには勝因が3つある。それが何だか分かるか?」

 

「……はい。まず第一に『天の時』。」

 

 南陽群を奪うにあたって張咨を殺害した後、孫堅はすぐに残党の掃討を行わなかった。張咨が死んだとはいえ、彼はもともとこの土地の太守、それなりの軍勢を保持していた。しかもこの簒奪に異議を唱えさせないため、張勲からは残党は全て始末しろとの命令が来ていた。

 それゆえ、下手に掃討を急ぐと張咨軍が死兵と化す可能性があったのだ。孫堅軍が負けることは無いだろうが、それでも捨て身の兵を相手に戦えば被害は増える。

 

 

 そのため、孫堅はしばらく残党を放置していた。逃げ場がないとなれば張咨軍は捨て身で戦うが、孫堅軍が追ってこないとなれば話は違ってくる。彼らの旗頭となるべき張咨は死亡しており、後継者は決まっていない。いや、決まってはいるのだがこの時代に後継者として認められるためには、ある程度の功績を示さなければならないのだ。だが、彼の子供はいずれも大した功績をあげておらず、それゆえ部下に後継者として認められていなかった。

 

 

(家督を継いでも後継者として認められる功績をあげていなければ、家臣たちもそれに従う義務は無い。となれば多くの者は勝ち目の薄い戦いにわざわざ命を賭けようとはしない。)

 

 

 孫堅が予想したとおり、張咨軍内部で積極的に仇討ちをしようという一派とそうでない派閥が対立し、その足並みは乱れていた。実際、張咨軍の間では連携がほとんど取れていないのが遠目にもよくわかる。

 

 

「第二に『地の利』。」

 

 今回の戦では袁術軍からすでに詳細な情報を得ていた。どうやら敵軍の脱走兵から手に入れたらしい。ゆえに敵軍の部隊配置などはあらかじめ分かっており、忠誠心の薄い指揮官を調べてそれを攻撃すれば容易に敵の陣形を崩壊させられる。

 

 

「そして第三に……」

 

「「『人の和』です。」。」

 

 そう、孫呉の強さの秘密は彼らを結ぶ絆――信頼関係にあった。孫堅は若い頃に各地を転戦した彼女の軍は実戦経験が豊富であり、苦楽を共にした孫堅軍は固い絆で結ばれていた。士気と錬度においてこれに並ぶ軍は、今の中華にほとんど存在しないだろう。

 

 

 

 孫権の目の前には魚鱗の陣を組み、紅の旗を掲げながら張咨軍をやすやすと引きちぎっていく自軍の姿があった。そしてその先頭に立つのは彼女の姉である孫策だった。すでに「孫呉の小覇王」としてその名を知られつつある彼女を目にした敵軍には戦わずに逃げ出す兵士すらいる。旗頭を失い、雑多な兵士の寄せ集めの張咨軍が孫呉の精鋭に勝てる見込みなど存在しないに等しかった。

 

 

 

「これが、我ら孫呉の強さだ。」

 

 

 

 目の前で誇らしげに語る孫堅を見上げ、孫権は改めて母への尊敬の念を感じるのだった。

 

 

「文台どの、すでに敵は組織的抵抗力を失っておるようじゃな。」

 

 それまで脇に控えていた黄蓋が告げる。彼女は孫堅につかえる将の中でも最古参の一人である。豪毅な気性で若い武将らの母親的存在ともなっており、、弓の名手としても知られていた。

 

「このまま包囲でもするか?」

 

「いや、その必要はない。祭、各部隊には必要以上の追撃は控えるように伝えてもらいたい。」

 

「承知した。」

 

 主君の言葉に黄蓋は短く答えた。長年孫堅に仕えてきた彼女にはもはや己の主人の考えが言われなくても理解できる。

 

(すでに敵は戦意を失っておる。放っておいても勝手に逃げだすじゃろ。ならば、無駄にこちらの被害を増やすこともあるまい。)

 

 

 自らの仕える主の考えを想像し、そのまま前線に指示を伝えるべく、馬で走り去ろうとした瞬間――耳元に別の女の声が響いてくる。

 

 

 

「ちょっとお~、せっかくいいところなのにぃ~。どうしてこのまま殲滅しないのかなぁ?」

 

 

 

 ややくすんだ金髪をした、まだ若い女性だった。顔には笑みを浮かべているが、その声に友好的な響きは全く無い。

 

 

「劉勲……」

 

「アタシには反体制派をまとめて粛清できる最高の機会に思えるんだけどなぁ。あ、それとも実はアタシみたいな凡人には分かんないスッゴイ秘策とかあるの?」

 

 彼女の言葉に、孫堅の部下たちがざわつき始める。

 ここまで孫堅に対して無礼な態度をとっていることからも分かるように、彼女は孫堅の部下ではない。最近になって孫堅とその軍閥の動きを見張るために袁術軍から派遣された、監視役の劉勲という女だった。

 

 

 今回、張咨の残党掃討にあたって作戦を延期して孫呉の兵士を集める代わりに袁家から出された条件が監視役を置くことであり、劉勲はその監視役の兵士の指揮官であった。

 官位からいえば劉勲の方が劣るものの、家柄と血統、そして袁家との繋がりや人脈からいえば彼女の方が上。さらに袁術からこの場における孫堅の監視を任されており、劉勲に逆らうということは袁術の命令に逆らうことと同義であった。

 

 彼女がこうして自分を挑発している理由は分かりきっている。こちらが挑発に乗せられて反論しようものならば、それを口実に孫呉に対する締め付けを強化するだろう。「反骨の相あり」とか他にも適当な理由をつけて。

 そのぐらい、南陽の攻略で孫堅が挙げた功績は大きすぎた。番犬は強い方が良いが、強すぎて主人に牙を剥かれては困るのだ。

 

 

 

(……まったく、嫌味な女だ。虎の威を借る狐にすぎないくせによく吠える。)

 

 孫堅は軽く舌打ちすると、値踏みするようにこちらを見ている劉勲の方に向き直った。

 

「現在の我が軍は魚鱗の陣で交戦している。交戦中に陣形を変更すれば無用な混乱を生みかねん。すでに敵は敗走を始めている以上、危険を冒す必要はない。」

 

「あら、『江東の虎』とか呼ばれちゃってる割にはやけに弱気なのね。 優秀(・ ・)なアナタの部下たちなら、そのぐらい簡単に出来るでしょ?」

 

「現在の指揮官は私だ。作戦内容に対するこれ以上の介入は越権行為と思われるが?」

 

 青筋を立てながらも、表面上はあくまで冷静に対応する孫堅。だが、その体から放たれる怒気までは隠せていない。これは彼女に限らないことで、娘の孫権も含めてこの場にいる孫呉の人間は残らず劉勲のあまりの無礼さに憤っていた。しかし、劉勲はそんな彼女達の様子に怯むどころか、むしろ楽しむかのように笑顔で告げる。

 

「アナタ、分かってないのね。アタシの役割はアナタ達に袁術様の決めたことを守らせること。そして今回の目標は『張咨とその残党軍の殲滅』。要するに捕虜にするか皆殺しにしろってことだよ。勝っても逃がしちゃダメなの。そこんとこ、お分かり?」

 

 発言を終えると、劉勲は笑みを張り付かせたまま黙り込んだ。

 

(恐らく、南陽を乗っ取ったことの口封じのつもりなのだろう。ついでに孫呉と潰し合ってくれれば、袁家にとって一石二鳥というところか……。) 

 

 劉勲の考えはまだ少女である孫権でも簡単に読めた。袁家が張咨の残党を始末することを口実に、孫呉の力を削ぎ落とそうとしているのは誰の目にも明らかだった。黙り込む孫呉の面々を見て、劉勲は満足げな表情で続ける。

 

「それに、下手に張咨の残党を逃がすと盗賊とかになるかもしれないわよ?アナタ達が仕事サボったおかげで無実の民が苦しんだりしたら――」

 

 

 

「――もういい。」

 

 これ以上この女の好きにしゃべらせておくと、自分を抑えられなくなりそうだ。。劉勲の言葉を途中で遮ると、孫堅は黄蓋の方に向き直り、素早く指示を出した。

 

「祭、作戦を変更する。皆を率いて敵の残党を包囲しろ。」

 

「……承知した。」

 

 黄蓋も含めて部下達の方はいささか不満そうだったがそれも一瞬のことで、すぐに主の命を伝えるべく戦場へと駆けて行った。後には無表情の孫堅と笑顔の劉勲、そしてそれを睨みつける孫権が残された。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 3時間後、張咨の残党軍は殲滅され、生き残った者たちは捕虜となった。これによって袁術の南陽群における地位を脅かす者は無くなり、袁術は名実ともに南陽群の支配者となったのだった。そして劉勲はそれを上司に報告する文書を作成すべく、自分の天幕へと戻った。

 

 自分の天幕に入るなり、すぐさまその場にへたり込む劉勲。よほど緊張していたのか、額には冷や汗の跡がある。人前では不遜な態度を取り続けていたものの、所詮は小心者なのだ。

 

 

 

 みなさんお元気でしょうか?

 残念ながら自分はすごく疲れています。

 

 袁術軍でテンプレな悪役である政治将校……ゲフンゲフン、いえ見張り役やってる劉勲です。

 さすが孫堅、三国志の英雄なだけあってただ者じゃないですね、あのオーラ。一瞬、本気で死ぬかと思いました。

 鏡見たら、我ながらさっきの威張りくさった態度はどこに行ったのか、と聞きたくなるぐらい情けない顔です。

 まぁ、でもあの孫堅の怒りに対してここまで平静を装っただけでも良しとします。そもそも自分は別に武将じゃないですし。いまのところ、しょせんは文官で中間管理職です。

 

 じゃあなんでこんなことになってるのかというと、袁家における今の自分の立ち場のせいです。

 それについて自分の生い立ちも含めて少し説明をしようかと思います。

 

 

 

 自分は前世持ちのよくある転生者とかいうやつですね。たぶん。

 転生って前世の記憶を持ったまま体だけ変わるものだと思ってたんですけど、自分の場合そうじゃなかったみたい。

 

 想像するにどうも脳とかろくに発達していない赤ん坊になる前のエイリアン的なカッコしてる時期に転生したらしく、なんていうか記憶があいまいなんですよね。そんな状態で転生したもんだから、脳が発達して自我のできる頃にはかなりの記憶を忘れるという結果に。

 

 なので自分の過去とかあんまし思い出せないし。かと思えばしょーもないオタ知識だけはなぜか記憶に残ってたり。転生先はエロゲの世界だと知ったのもこの辺りです。

 

 おかげで小さい頃は苦労しました。知らないはずの出来事や知識に見覚えがあったり、寝ている間に前世の記憶が思い浮かんできたり。父親に連れられて都の高い建物から地上を見下ろした時に「見ろ、人がゴミのようだ!」って言葉がふと思い浮かんだのはいい思い出です。

 

 

 ちなみに生まれた先がそこそこの名門で、まともな食事と教育が受けられたのは幸いでした。次女なんでそこまで親から期待されることも無く、割と自由だったのでまずはこの世界の読み書きから始めました。やっぱ読み書きって子供のうちにやらないとなかなか身に付かないものです。

 中途半端に前世の記憶があるもんで、たまに読みとか発音とかがおかしいんですよね。そのくせ算術とかは圧倒的な速度で解けるもんですから、周りからは変な子だと思われてました。

 

 

 

 そしてこの時代は典型的なムラ社会ですから、仲間外れにされると生きていくのがつらいんです。自分は一応そこそこの名門とはいえ、歴史が長いだけでせいぜい地元の名士ぐらいなもんでそこまで大富豪でもなく、一生親に頼って生きていくわけにもいかないんですよね。

 

 おまけに次女だったんで家督と財産の継承権はなく、それをエサに男を釣ることもできない。とーぜん嫁の貰い手なんてできるわけも無い。親の方も「変人」のレッテルを貼られた娘の扱いに困ったようで、結局「都に行って適当に学問を修めて仕官してこい。」とか言って故郷から上京、もとい追い出されました。

 

 

 

 そんなこんなで漢帝国の都、洛陽で適当に学問修めて袁家に文官として仕官しました。ちなみになんで袁家だったかというと、単純にそれ以外に就職できなかっただけです。なんせ今の漢帝国は政情不安定で不景気ですから。新人を雇う余裕のある袁家以外はぜーんぶ面接で落とされました。

 

 前世の記憶があって未来の知識を多少知ってても就職すらままならないとか、本当に世の中って厳しいですね。

 やっぱりアレですか、学歴だけじゃなくて

 

 「素直で誠実かつ、自ら率先して新しいことにチャレンジする積極性があり、

  困難なことにも逃げずに努力し続ける責任感を持ち、周りとの協調性のある人間」

 

 みたいなのが求められるのは、いつの時代でも一緒だと。

 就職氷河期、新卒の内定取り消し、学歴難民、なんか前世の記憶にもあった気がします。

 

 

 結局、洛陽で学問を修めていた時の知り合いに推薦状を書いてもらい、事実上のコネ入社で仕官できました。いやぁ、本当にお世話になりました。

 

 

 

 ともあれ、一旦就職してからは意外と順調でした。最初は算術ができるからという理由で、まずはとある郷の常平倉あるいは広恵倉という倉庫の管理を任されました。

 郷というのは地方区分のひとつで州>群>県>郷>里という感じです。

 常平倉・広恵倉というのは天災による飢饉に対する備えや貧民救済のために穀物を蓄えておく倉庫のことです。

 

 考え自体は悪くないんですが、実際には管理が徹底しなくて蓄えられている穀物が腐っていくことも多かったので、モッタイナイ精神を発揮して蓄えてる穀物の貸付けを行いました。

 

 基本的にこうゆうのって在庫が一定量は下回らないんですよね。なんならそれを貸出して運用してやろうというわけです。なんか政情不安やら異民族の侵入やら飢饉の増加なんかで経済的に苦しい農民が増えたのと、南陽群が都に近く他の地域より貨幣が普及しており、物々交換に比べて流動性が高かったので自分でもびっくりするぐらいカネが転がり込んできました。

 そしてそのカネをまた今度は商人に投資したり、他の諸侯に貸し付けたりしたら雪だるま式にマネーが膨らんでいきました。

 

 

 

 それを各方面のエライ人に惜しげもなく“寄付”したおかげで、今じゃ出世して郷の長官に。常平倉・広恵倉の貸付けの『功績』によって、それなりに名の知れた期待の新人のひとりです。

 ちなみにつけられた渾名は「錬金術師」。自分が「カネからカネを生み出す」のを見て誰かがそう呼んだのが始まりだとか。どう見ても悪意しか感じられません。まぁ、ぶっちゃけ、やってることはただのサラ金、つーかヤミ金の元締めですから間違っちゃいないんですけどね。

 

 できればフツーに富国強兵して、某国旗を書くのがやたら面倒な自由と正義の国みたいな、ぱーふぇくとチート国家が作りたかった……。

 

 

 

 で、なんやかんやで郷の長官になったんですが、そこに張咨の残党軍が逃げ込んできて孫堅が討伐しに来たというわけなんです。自分のところには南陽の現太守である袁術様の命令でそれを見張れ、という命令が来たので仕方なく戦場に出て現在に至ります。

 

 上の意向を現場に伝えるのが仕事なだけに 、当然現場の連中には嫌われるし。かといって下手に現場に合わせて命令違反でも起こしてそれが原因で問題発生したら上層部から責任問われるし。ホントに中間管理職は胃に悪いです。

 

 政治将校ってなんとなく性格悪い奴多いイメージあったけど、確かにこれじゃあストレス溜まって性格悪くもなるのも無理ないかも……。

 

 




 ちなみに政治将校の起源はフランス革命時の派遣議員だそうです。反革命的な将兵を取り締まるべく軍に送られた彼らは、反革命分子と見なした人間を即刻ギロチンにかける権利があったそうです。
 それをトロツキーが真似たのが政治将校だと言われています。

 まぁ、フランス革命とロシア革命って比較してみると結構似てますし。


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03話:高利貸しの利息に対する経済学的視点からの考察

               

 

 劉勲が孫堅との邂逅を果たして、見事に敵視されてから3年後、彼女は出世して県令になっていた。

 その間に彼女は高利貸しで得た資金と県令としての権力をフル活用し、いくつかの政策を実施していた。おかげで彼女の治める県では収入が増えていったものの、その強引なやり方に異を唱える者は多かった。

 なぜなら劉勲の基本的な手法は『人員整理』と『市場の独占』にあったからだ。

 

 

 

 県令に就任して初めて劉勲が行ったのは大幅な整理解雇であり、無駄とされた事業や部署を廃止・吸収合併させることと、多くの公務員を解雇することで県の財政の健全化を図った。

 

『必要な能力を持つ人員を必要な期間だけ』をスローガンに人員解雇を行った彼女の手法は南陽で広く知られるようになり、不景気もあいまって袁家領内では空前の人員解雇ブームが引き起こされる結果となった。

 事実、人件費は基本的に組織の支出の半分近くを占める。業界によって差はあるものの、これを削ることにより資本力の立て直しを図ろうとする役所や商会、豪族が増大したのだ。

 

 

 

 更に劉勲は、金融業務で得た自身の資産と袁家の豊富な資金力を担保にして、さらに多くの資金を集めて鉱山や商会を買収し、買収先の資産の売却や人員解雇によって負債を返済していった。リストラの長期的な効果には賛否両論があるものの、少なくとも短期的には支出が減ることによって業績は回復する。そして回復した業績によって一時的に増えた資産と信用を元手に、新たな買収を行うのが彼女の典型的な手法だった。

 これを繰り返すことにより、スケールメリットの効果も合わせて事業と規模は肥大化。さらに多くの資金が調達可能になり、弱小な競争相手を駆逐していった。

 

 

 袁家でも、劉勲を始め巨利を得た地方の貴族や商人を中心にロビー活動が行われた結果、大規模な規制緩和に踏み切り、この流れを後押しした。

 

 反対者を豊富な資金力で圧倒し、駆逐するか支配下に置いたのち、独占状態を作り出して利益を貪る。これは袁家に限ったことではなく、袁術の治める南陽群全般に見られ始め、『南陽商人』と呼ばれるようになった彼らは買収とリストラ、独占とマネーゲームによって巨額の利益を得て、今や無視できない新たな勢力と化していた。

 その影響力は南陽に収まらず、中華の各地で利権にハゲタカの如く群がっていた。

 

 

 高利貸しで得た資金を基に買収資金を集め、買収後のリストラによって財政を健全化させる。次にその資産と信用力を担保に更なる資金を呼び込み、更なる買収を行い、市場を独占する。

 そういった南陽商人の手法に対しては、閉塞した中華の経済を活性化させるものとしてそれを賛美する声と、ひたすらマネーゲームを繰り返して物造り精神を軽視した無慈悲な拝金主義との非難の声の両論があり、南陽城では最近台頭してきた南陽商人への対応が議論がなされていた。

 

 

 

 現在、袁家内部には土着の地主や豪族、軍部などを中心とした保守派、士大夫を中心とした中央の役人からなる官僚派、商人や新興貴族を中心とした改革派、そのいずれにも属さない中立派の4つの派閥があり、勢力は保守派・官僚派・改革派・中立派=3・2・2・3となっている。

 しかし今まで主流であった保守派は富を得てのし上がるものと没落する者に分かれ、統制がとれない状態であり、事実上官僚派と改革派の争いに近いものがあった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 この日、袁家では規制を行うべし、との官僚派の要請を受けて白熱した議論がなされていた。劉勲も改革派の中心人物のひとりとしてこの議論に参加していた。

 

 

「官が民の真似をして商売をするなど言語道断である!」

 

 開会冒頭から、改革派に対して官僚派を中心に非難の声が上がる。

 

 

「実体のない強欲な拝金主義は強者の論理を押しつけ、多くの貧しい民につけを回している!」

 

「そのとおりだ。行き過ぎた経済偏重によって、伝統的な農村社会を崩壊し、人々は退廃的になっている。果たしてこれが健全な社会、統治といえるのか?」

 

 

 もともと、中華では商人を卑しい人間とみなす慣習が根強い。特に法家は、『帝室が介入することで商業を統制し、物価の安定によって帝室の利益を増大させる』といった事を主張していた。よって、その影響をうけた官僚にとって商人の台頭など到底認められるものではない。

 中でも、『カネがカネを生む』と評されるように自らは汗を流すような労働をせず、貧しい人間から不当に搾取していると言われた、高利貸しに対する風当たりは強いものだった。

 

 

「行き過ぎた経済偏重の結果、貧困と格差は拡大し、金以外の価値あるものがないがしろにされているのが我々の現状だ。これを黙って見過ごす事は出来ない!」

 

「だいたい常平倉の穀物を使ってしまっては天災のときの救済が出来なくなるではないか!」

 

 

 一方で改革派も負けてはいない。先例を持ち出して反論する。

 

「かつて周の代でも国が利息を取ったという記録がある。別に今始まったことじゃない。」

 

「そうだ!もっと歴史を勉強したまえ!」

 

「なんだと?貴公は私を侮辱しているのか!?」

 

「そうとまでは言っていない!」

 

 

 話がまとまらないまま、どんどんヒートアップしていく会議。だが、一向に方針が決まらず時間だけが過ぎてゆく。

 

 

 一応、袁術が南陽の太守なので議長は彼女が務めている。張勲も軍のトップとして出席しており、何人かが淡い期待を込めて主君らの方を見るものの――

 

 

「七乃ぉ、何やらみんなが難しい話をしているのじゃ。」

 

「そうですねぇ。今日は経済のお話みたいです。」

 

「む~、妾には何のことやらさっぱりじゃ。何を言ってるのか全然わからぬ。」

 

 つまらなそうに足をゆする袁術の顔には、一刻も早くこの退屈な会議室から逃げたい、という欲求がありありと浮かんでいた。

 

 

「でも、これって結構大事なお話ですよ~?一応聞いてた方がいいんじゃないんですか、お嬢様?」

 

「う~、わからぬ話を聞いてどうするのじゃ!そんなの時間の無駄にしかならぬ!なら、聞く意味なんか無いじゃろうに!」

 

「おぉ~、流石はお嬢様!結局は仕事怠けてるだけなのに、何かそう言われるとすごく正論に聞こえますぅ~!」

 

「うわはははは!七乃、もっと褒めてたも!」

 

 

 ――やっぱり全く役に立っていなかった。

 

 尤も家臣達の方もそこまで期待している訳でも無い。というか袁術の場合、むしろ精力的に仕事をした方が事態が悪化するので、口を挟まないでくれた方がありがたい。

 実際、袁家ではそうやって家臣達が勝手に議論して方針を決め、袁術がイエスかノーがだけを判断する形となっている。

 

 

 

「まぁまぁ、落ち着きたまえ。今はそれより先に議論すべきことがあるだろう。」

 

 とはいえ、過激な連中をこのまま放っておくと、感情論や個人への誹謗中傷の場になりかねない。一部の良識ある人々が、互い冷静になるように促す。

 

 

「一つ聞きたいのだが、仮に貸付けを認めたとして、天災の時にはどう救済するつもりだ?」

 

 もっともな意見である。痛い所を突かれた改革派であるが、西涼出身の商人が別の視点から反論を試みる。

 

「だが、放って置いても腐るだけだ。いつ来るかも分からない天災に備えるより、貸し付けた方が有効だと思う。むしろそれを運用して利益を上げ、『天災が来ても食糧を購入できるだけの資金力』を得た方がよいのでは?」

 

 要するに「必要なものが無ければ他から持ってくればいい」ということである。むやみやたらと手を出さず、自力で作れるものだけを作り、作れないものは交易で手に入れる。土地の痩せている西涼では別に珍しいことでもない。

 

 基本的に農耕民族である中華の民は「必要なものは全部自分で作る」という考えが定着している。それゆえ「何か自給できないモノがある」という事に、強い不安を覚えるものがほとんどだ。

 だが、西涼出身の彼にしてみればそういった考えは豊かな土地に住む者特有の傲慢であり、限られた資源をあれもこれもと分散するなど愚の骨頂。限られた資源で何かを得るには何かを犠牲にしなければならないが、犠牲以上の物を得る、それが西涼人にとっての常識であった。

 

 続けて、劉勲が自身の意見を述べる。

 

「確かに必要以上の貸付けは抑えるべき、っていう意見は分かるんだけど、アタシ達だって別に無理やり貸し付けているわけじゃないんだよ?借りるかどうかは各人の勝手だしねー。借りたい、って思う人がいるのにそれを規制するのは結局、民衆のためにならないんじゃなぁい?」

 

 

 その言葉に改革派の幹部たちが頷く。ほとんどの場合、借り手は貸し手に対して良い感情を抱かない。だが、貸し手が居なくなれば困るのは借り手の方なのだ。高利貸しが存在できる理由も、その高い利息を受け入れてでも金を借りたい、という需要があるからである。貸し手はただ、そういった需要に答えて融資資金を供給しているにすぎない。

 

 

 しかし、劉勲の意見に官僚派の中から茶髪の小柄な女性が反論する。

 

「でも、利息4割はさすがに高いヨ。それじゃ返そうとしても返せないネ。」

 

 いかにもインチキ中国人な口調で劉勲に反論する魯粛に官僚派の人間が同意する。この意見には中立派等からも賛成する意見が挙がった。

 

 (前世だとここまで胡散臭い似非中国人って、逆に見なくなった気が……)

 

 ただし反論された当の本人はすごくどーでもいいことを考えていた。

 

「貸付け自体はそこまで問題無いアル。ただ利息が高すぎるのが問題ネ。自由に競争できる状態なら、値下げで顧客を増やそうとする商人が出てくるから、それでも別にかまわないアル。ただ、今は独占状態だから規制する必要あるヨ。」

 

 

 理路整然と反論する彼女こそ、東城県の長、魯粛である。

 裕福な家に産まれたものの、財産を投げ打ってまで困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだという高潔な人物である。さらに冷静沈着で知略に優れ、剣術・馬術・弓術まで習っていたという。

 

 しかし家業を放り出し、私兵を集め狩猟を行って兵法の習得や軍事の訓練に力を入れるなど不可解な行動も多く、郷里の村の長老には、「魯家に、気違いの息子が生まれた」とまで言われていた。

 

 とはいえ、有能な人材である事は間違いなく、東城県の長になったのもその実力見込まれてのことだった。また、その温厚でお人好しな性格から多くの人々と親交を結んでいた。劉勲も例外ではなく、同期で知識人同士ということもあって個人的には深い付き合いがあるものの、政策や思想ではその考え方の相違からよく衝突していた。

 その一方で魯粛は劉勲の合理的で割り切った論理的思考を、劉勲は魯粛の先を見通す先見の明を高く評価していた。

 

 

「ある程度利息を下げれば、借りた人もちゃんと返済できるようになるヨ。長い目で見ればそっちの方がオトクになるネ。」

 

 一通り筋の通っている魯粛の意見に、そうだそうだ、と官僚派の幹部も追従する。だが、今度は劉勲の方が魯粛に反論する。

 

「あのねぇ、商売やってる人間なら客と長く付き合う方が得だってことぐらい分かるわよ。けど、世の中には借金踏み倒したり夜逃げする客もいるの。こっちはそういった危険まで考えて料金設定してるのよ。」

 

「それならちゃんと担保とるがヨロシ。」

 

「一応担保はとってるんだけど、相手が豪族とか商会ならともかく、そこらへんの農民じゃ担保とったって到底元は取れないし。夜逃げなんかされたら、たまったもんじゃないわよ。」

 

 だったら貸すなよ、と心の中でツッコミを入れる官僚派の面々だったが、かといって「信用力の低い人間の賃借を禁ずる。」なんて法律を作るわけにもいかない。

 

 

 

「それなら……ちゃんと借金の取り立てができるようにすればいいアル。今、いい方法思いついたヨ。」

 

 劉勲の意見を受けた魯粛が別の提案をする。彼女の提案はこうだ。

 民間では難しい強制履行を役所が行うと同時に、戸籍を把握して夜逃げを防ぐ。更に債務不履行があった場合、役所は手配書を出して逮捕に協力する。これならば借金を踏み倒される確率はぐっと減るはず。

 

「う~ん、そういうことなら……。」

 

 この提案にようやく劉勲も頷いた。その他の改革派の面々もしっかり借金の取り立てが出来るなら文句は無い。

 衰えつつある漢帝国では、戸籍の管理などもままならない。しかも袁術軍は基本的にやる気が無く、マトモに仕事をする兵士は稀だった。そもそも軍のトップが張勲だし。

 

 商人にしてみれば戸籍もろくに調査していない状態で相手に夜逃げされた場合、ほぼ捕まえられない上に、捕まえる方が割高になるのだ。もともと高い利息はそういったリスクを考慮してのことだった。

 

 

 

「あ、なんか話がまとまったみたいですね。いやぁ~、この会議今日中には終わらないんじゃないかと思いましたよ。」

 

 会議中ずっとサボっていたにもかかわらず、一通り議論がまとまったのを見て仕切りにかかる張勲。ついでに言うと袁術はとっくに寝ていた。

 

「じゃあ、後で公式文書にまとめて提出してくださ~い。お嬢様も、そろそろ起きてくださーい。」

 

「う~……妾と蜂蜜で……かゆ、うま……。」

 

 そう言ってまだ寝ぼけている袁術と共に部屋を出ていく張勲。その姿を唖然とした表情で見送るとともに、残された彼らはある事実に気づく。

 

 

 

 

 

 ……………アンタがちゃんと仕事すれば済む話だったじゃん!!!

                       

 



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04話:黎明

               

 ここは荊州、襄陽。

 

 荊州の州治が置かれている大都市であると共に、中央の権力闘争を嫌った多くの亡命知識人が集まる文化の街である。

 

 その中の一角に優雅なつくりの建物があった。道教思想にある、神仙の住む神秘的な世界を再現したかのような庭園に、瑠璃瓦でできた屋根を備えた華麗な宮殿。この地を治める州牧、劉表の宮殿であり、この中華の大地に残された数少ない、知識人の楽園でもあった。

 

 しかしその楽園も、先ほど袁術の使者からもたらされた一つの手紙によって、完全にパニック状態になっていた。

 

 

 

    ――荊州における不当な弾圧を止めさせるために、

       我々はあらゆる選択肢を検討し、それを実行に移す用意ある――     

 

 

 

 袁術の使者から渡された手紙にはこのようなことが書かれていた。

 

 もともと荊州一帯は古くから土地が肥えており、地方豪族が割拠していたため、中央から派遣された劉表に従うことを良しとしない者も多かった。しかし、劉表は荊北の大豪族であった蔡瑁らの協力を得てそのほとんどを抑え込むことに成功した。

 

 しかし、これを快く思わない者がいた。荊州全土の支配をもくろむ、南陽の袁術である。 だが劉表はれっきとした州牧であり、正当な理由なしに攻撃すれば袁家の名声は大きく傷つく。よって袁術は配下の幕僚、楊弘の提案に従って武器を反対派に横流しすることで反乱を起こさせ、介入する機会を窺っていたのである。

 

 

 

「すでに県境には孫堅率いる軍勢と袁術軍が展開している模様!各地の豪族もこれに呼応して兵をあげています!」

 

 ゆえに袁術が南陽を占領したあたりから、その援助を受けた地方豪族の動きが活発になり始めていた。そしてここに来て、ついに反劉表勢力が一斉に蜂起したのだった。恐らくは前南陽太守であった張咨の残党が殲滅されたことにより、袁術軍の支援を受けられると踏んだのだろう。当然、劉表はこれを叩き潰すべく兵を集めていたのだが、袁術軍がそれに待ったをかけたのである。

 

 

「これは、……事実上の宣戦布告ではないか!」

 

 劉表の部下の武将、王威が怒りもあらわに声を荒げる。

 

「何が『不当な弾圧』だ!根拠の無い言いがかりもいい加減にしろ!」

 

 他の家臣達も、顔を真っ赤にして吠える王威に次々に同意する。

 

「その通りだ!連中らだって、前南陽太守に与した人間を手当たり次第に粛清しておろうに!自分のことを棚に上げて他人のことばかり口出ししおって!」

 

「だいたい、噂によれば不穏分子に武器を横流ししたのは袁術軍自身だという話はないか!

 

「劉表様、これは我々への挑戦です!このまま黙って奴らの好きにさせるのですか!」

 

 その言葉に、それまで発言を控えていた男が反応する。

 

 

 

「まあ、みんな落ち着いて。冷静にならないと、思わぬところで足元を掬われるかもしれないよ?それに真実はどうあれ、現実は何も変わらない。反乱のどさくさに紛れて袁術軍が荊州に攻めてきた、という現実はね。

 今の私達に必要なのは現状の把握と対策方法じゃないかな?」

 

 身の丈8尺あまりの長身に、柔らかな物腰。そして優雅な微笑みを浮かべたこの紳士的な人物こそが、荊州の州牧を務める劉表である。

 突然の危機にもかかわらず、いつもの仕事をこなす時と()()()()変わらぬ主君の様子に、エキサイトしていた家臣達も冷静さを取り戻す。

 

 

 

「敵の数はどれぐらい居るんだい?」

 

「はい、斥候からの情報によりますと、こちらに展開している袁術軍は合計で5万ほどです。うち、客将である孫家の軍は1万ほどかと。」

 

 家臣達に緊張が走る。まだ袁術軍はこちらの領土に侵入しておらず、急いで兵を集めれば対処できない数ではない。同数程度ならこちらも揃えることはできる。だが、袁術軍が反乱を起こした豪族たちと組むことになれば……

 

「そうか……。じゃあ、豪族たちの反応は?」

 

「今のところ、蜂起に参加したのは2割ほどですが、豪族の半数はまだ日和見を決め込んでいるようです。武装蜂起は主に南部を中心に発生しており、中部は沈黙、北部はこちらに従う意思を見せています。」

 

「なるほど。」

 

 部下の報告を聞いた劉表は目を瞑り、黙り込む。その頭脳を最大限に回転させ、これから考えられるいくつものシナリオを想定し、それに対する対応をシミュレートする。時間、兵力、資金、位置関係、戦後の対外交渉まで考えを巡らせて自身にとって最善の策を講じる。

 

 部下達は沈黙を保ったまま、思考に沈んでいる劉表を見守っている。基本的に誰にでも柔和な態度を崩さない劉表だが、だからといって家臣に侮られることは無い。むしろ深く尊敬されていると言えよう。彼と議論を交わした者は、例外なく己の未熟さを知ることになるからだ。どんなに思考を凝らしても、彼らの主君は常にその一歩先を行く。

 

 ならば軍議において、彼らが深く考える必要はない。考えたところで劉表の明晰な頭脳には遠く及ばない。ゆえに思考は劉表の役目であり、彼の部下は十分な情報を劉表に提供し、命じられた役目をこなせば良い。それが最も効率の良い方法であり、彼らにとっての劉表への忠誠の証なのだから。

 

 

 

「……彼らと、連絡を取ることはできるかい?」

 

「連絡、ですか……?」

 

 劉表に質問された家臣の一人が、怪訝な表情を浮かべる。

 

 

「り、劉表様!もしや袁術に……!」

 

「ああ、それは大丈夫。別に降伏を決めた訳じゃないよ。」

 

 穏やかに笑って、部下の不安をやんわりと否定する劉表。いつもと変わらぬ笑顔を見て、家臣達もようやく安心する。なぜなら彼らの主君は、今まで()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 

「……ただ、私たちと同様に袁術陣営も一枚岩じゃない。だから――」

 

 虚構でも無く、真実でも無い笑み。感情があるはずなのに、何の気持ちも感じ取れない声色。

 劉景升――皇族の血を引く荊州の主は、ゆっくりと口を開く。

 

「――もしかしたら、と思ってね。」

 

 

 

 

 

 3日後、劉表は袁術への宣戦布告を正式に発表した。更に袁術軍の行動は紛れも無い侵略行為であり、自身に非協力的な豪族もその協力者と見なす旨の声明文を荊州全土に向けて発した。

 

 すなわち、 『荊州のどの豪族も今、決断を下すべきである。

          我々の側につくか、侵略者の側につくか、2つに1つだ。』 と。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 袁術軍補給拠点。

 

 将軍の一人である陳紀は、忌々しげに舌打ちした。

 袁術軍の枢要を占める将軍たちの中にあって、陳紀は数少ない騎兵部隊を率いる将軍であった。袁術への高い忠誠心と、軍記に厳しいことで知られ、彼の率いる騎兵部隊は袁術軍の最精鋭として、これまで一目置かれていた。だが、その影響力もかつてと比べれば明らかに低下していた。

 

 陳紀は袁術麾下の中では最古参の武将のひとりであり、豪族たちを中心とした保守派の中心人物でもある。袁術軍の実質的な司令官として軍を統御しているが、今やその立場すら危うい状況に置かれていた。

 

 もともと彼が高い影響力を保有していた理由は、広い視野で先を見通せる人材が他にいないという単純な理由からだった。軍のトップである張勲は言うに及ばず、もうひとりの古参の将軍、紀霊も計画を練るタイプの指揮官というよりは陣頭指揮を好み、殺戮への渇望を優先するような人物だった。

 

 

 しかし、南陽占領以後、若手や新参者の活躍が目立つようになってきた。孫堅や魯粛、劉勲などがそのいい例であろう。中でも孫堅の武勲は枚挙に暇がなく、この戦に勝利すれば陳紀にとって代わり、袁術軍の主力となることは容易に想像できた。そしてそれは陳紀を始めとした古参の将軍にとって、到底認められるものではない。

 

 

 

 一方で、商人を後ろ盾にした劉勲などはその資金力を生かして露骨に自身の権力拡大を優先している。

 魯粛はまだマシな部類だが、彼女にしても忠誠心というよりは、自身の才能を発揮できる場所を求めて袁家に仕えている、といった印象を受ける。

 

 

 

「どいつもこいつも自分のことばかり……!」

 

 陳紀は一度忠誠を誓った主君に全てを捧げる事を誉れとするような、古風な男でもあった。それゆえ、現在の袁家の内情に我慢が出来なかったのだ。だからこそ、この戦いで戦功をあげて自身の発言力を取り戻す必要があった。そのためには、孫家に活躍してもらっては困る。

 

 

「まずは南陽から近い新野城を落とすことで、そこを荊州統一の拠点とする。その際、孫堅には先陣を務めてもらおう。奴を囮にして拠点に籠っている劉表軍を引きずりだして攻撃させ、その背後を我々が突く。」

 

 陳紀は孫堅を嫌っていたが、その実力を見誤るほど愚かではない。むしろ、一人の将としては高く評価していた。だからこそ、孫堅が自軍を上回る敵と戦ってもそう簡単に負けることは無いだろうと踏んでいた。そして互いが消耗した頃を見計らって袁術軍の主力が劉表軍を背後から攻撃すれば、戦場での勝利のみならず、孫堅の力も削ぎ落せる。まさに、一石二鳥の作戦だった。

 

 

 

 ――だが、孫堅に単独行動させたことを、彼は後に悔やむことになる。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

「はぁ……。」

 

「どうした、文台どの。ため息なんぞ吐いて。」

 

 人目もはばからず、大きなため息をつく孫堅。彼女にしては珍しく似合わない行動だ。黄蓋の知る孫堅は常に冷静沈着であり、指揮官としての責務を優先して自分の感情を表に出すことはあまり無かったはずだ。長年孫堅に仕えてきた黄蓋はいつになく覇気のない主を見て、その原因に思い当たることは無いか記憶を探り出す。

 

「やはり、娘たちとのことを気にしているのか?」

 

「……まあ、そうだな。」

 

 黄蓋の言葉に、孫堅はどこか歯切れの悪い返事を返した。

 

 現在、孫堅は 不当な弾圧(・ ・ ・ ・ ・)を止めさせるため、荊州の地を 解放(・ ・)すべく袁術軍と行動を共にしていた。だが彼女の娘たち、中でも孫権は最後までこれに反対した。

 今回の一件はどう見ても、袁術軍に非がある。確かに劉表に従順でない豪族が弾圧されているのは事実であるが、だからといって荊州の不穏分子に武器を横流しした挙句、挑発を繰り返し、反乱を扇動した袁術軍の行動が正当化できるわけではない。

 

 こんなことに付き合っていたら民の心は孫家から離れていってしまう。それゆえ、孫権はこの出兵に最後まで反対したのだった。

 

 

「……蓮華だけじゃなく、雪蓮や冥琳まで反対したのには流石に予想外だった。」

 

 孫堅とて本意ではない。こんな茶番に付き合えば、名声に傷が付くことは分かっていた。しかし、だからといって袁術の要求を断れるわけでもない。

 

 特に今回は実態はどうあれ表向き『弾圧によって苦しんでいる同志たちを保護せずに見捨てるわけにはいかない。』との大義名分がある。その上、散々袁術軍が挑発したとはいえ、先に宣戦布告をしてきたのは劉表の方だった。いかなる理由があろうと、先に我慢できなくなって手をあげた方が悪なのだ。

 

 ゆえに、どうせ断れないのならこの戦いで戦功をあげて袁術軍内部での発言力を増やそう、ということで参戦したのだ。娘たちにもそう言ったのだが、まだ経験の浅い孫権は納得できず、孫策と周瑜までもが反対したのだ。彼女たちの場合、全面的に反対したわけでは無く、積極的に戦功を立てるより、せいぜい袁術軍に難癖をつけられない程度の派兵に留めて兵力の温存を図るべき、という意見だった。

 

 

 さらに孫策に限って言えば、口には出さなかったものの、彼女の勘が危険を告げていた。

 彼女の勘が驚異的な的中率を誇るのは孫家では周知の事実であったが、所詮はただの勘である。孫策もそのような根拠のない理由で反対するわけにもいかず、結局は母の意見に従ったのであった。

 ――もっとも、当の母親には気づかれていたようだが。

 

 

「雪蓮の勘に頼る癖が直ってなにより……と言いたい所だが、昔からなぜか雪蓮の勘はよく当たる。案外、後で叱られるのは私の方かもしれないな。」

 

「何じゃ、とっくに気が付いておったのか?。伯符どのが勘で反対していた事に。」

 

 黄蓋の言葉を受けて、孫堅は苦笑を浮かべる。

 

「私だって一応は母親だからな。雪蓮の様子がいつもと違うことぐらいすぐに気づくさ。」

 

 あまり母親らしいことはしてやれなかったがな、と呟く孫堅の表情はどこか寂しげだったが、すぐに表情を切り替えていつもの武人の表情に戻る。だが、その瞳には普段と違う、緊張した光が宿っていた。

 

 

「祭、少し付き合ってくれないか?大事な話がある。」

 

 そう言って孫堅は自分の天幕へ向かう。黄蓋も無言で頷くと、その後に続いた。

 

 

 

 

 

 孫堅からすべてを聞き終えた後、黄蓋は愕然とした。

 

「それは本当なのじゃな、文台どの?」

 

「ああ、間違いない。」

 

 向かいに座っている孫堅は、はっきりと肯定の意を示した。まっすぐに自分を見つめる主君の眼を見れば、その言葉が嘘偽りのないものだと分かる。だが、――いや、だからこそ黄蓋は驚きを隠せなかった。

 

「それが本当なら――」

 

 本当なら、自分達は今、相当な綱渡りをしていることになる。そう言いかけて、黄蓋は口を噤んだ。

 いつ何時、崩れてもおかしくない均衡状態。しかしその危ない橋を渡るだけの価値がある、と孫堅は言っている。

 黄蓋は険しい表情で、もう一度主君に尋ねる。

 

「劉表からの使者、じゃと?」

 

「そうだ。」

 

 孫堅はためらうことなく即答した。その口調には一点の迷いも見られない。

 

「江夏太守の黄祖という男が劉表の親書を持ってきた。彼にも直接話を聞いたが、そう悪い話ではない。」

 

 孫堅は落ち着いた口調で続ける。

 

「敵が敵なだけに、この戦いには袁術軍の主要な将軍のほぼ全てが参加している。軍部としても、最近低下傾向にある影響力を取り戻すためには、負けられない戦いなのだろう。」

 

 最近の袁家では、商人を中心とした勢力が急速に力を付けてきており、軍部と対立ているのは周知の事実だ。基本的に軍は戦争がなければ仕事にならず、戦争があると商人は仕事が出来ない。力をつけた商人達が、軍部と敵対するのは必然といえよう。

 

 

「権力闘争云々を抜きにしても、劉表は今までに戦ってきた敵とは比べ物にならないぐらい強大な相手だ。決して楽な戦いにはなるまい。だが、見方を変えれば、袁術軍の主な将軍をまとめて始末する絶好の機会だ。」

 

「その点で我らと劉表の狙いは一致している。そう言いたいのじゃな?」

 

「ああ。この戦いで袁術軍の主要将軍が全滅すれば、必然的に袁家は軍事的に我ら孫呉に頼らざるを得ないだろう。南陽には紀霊がいるはずだが、あれに政治的な野心は無い。」

 

「それで、具体的にはどうするつもりじゃ?」

 

 

 孫堅は軽く息を吸い込み、劉表からの提案を伝える。

 

 今回、袁術軍の総司令官である陳紀は孫家を囮にして劉表軍に攻撃させ、その背後を突くつもりである事は明白だった。そこで、まずは偽情報を流すことによって、劉表軍が孫堅軍と戦っているものと思い込ませる。あとは無傷の劉表軍を、先に袁術軍の本隊にぶつければよい。袁術軍にとっては完全な奇襲になるはずだ。

 

 袁術軍は劉表軍に比べれば数は多いものの、それは孫堅の軍を数に含めた場合であり、彼女の軍を除けば兵力差はほぼ互角となる。であれば、奇襲を受けた袁術軍が不利である事は一目瞭然であった。

 

 

 一方で孫堅は劉表との密約に従い、攻撃を控える代わりに新野城を明け渡してもらう。さらに、劉表軍のふりをした一部の部隊が袁術軍の補給拠点を攻撃する。補給拠点を失えば袁術軍の士気はさらに下がり、劉表軍の勝利をはより確実なものとなる。

 

 また、孫堅にとっても、退却をするための絶好の口実にもなりうる。劉表も豪族の反乱がある以上、無理な追撃は行なわずに、国内の足場固めに入る。

 

 

 成功すれば、袁術軍の主要将軍を一網打尽にできるばかりか、孫堅は無傷で拠点占領という戦功を挙げられ、補給拠点の喪失を理由に兵を失うことなく南陽へ帰還できるのだ。

 

 

 

「……こんな話は絶対に雪蓮や蓮華、シャオには聞かせられないな。あの子たちがここに居ないのは、結果的によかったのかもしれない。」

 

 全てを言い終えると、孫堅は疲れた様子で自嘲気味に笑う。

 

「はぁ……まったく、文台どのも素直じゃないのう。そんなに娘たちのことが大事なら普段からもっと優しくすればよいものを。」

 

 黄蓋は元気づけるように、孫堅の肩を親しげに叩く。今、間違いなく孫堅はこれからのことに対する重圧を感じている。一歩間違えれば、孫堅の命は無い。そんな彼女に気を使っての行動だった。

 

 

「……ありがとう、祭。少し、気が楽になった気がする。」

 

 長年自分に付き添ってくれた大事な部下であり、友でもある黄蓋の気遣いに感謝すると、孫堅は立ち上がる。

 

 

「そろそろ出発だ。わざわざ州牧さまに招待状を書いてもらったからには、宴に遅れるわけにもいくまい」

             

              




 順番を間違えたので修正。


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05話:予兆

          

 

 荊州、新野城付近。

 

 

 袁家の橙色の旗を掲げる約4万の軍勢がそこに終結していた。袁家の精鋭であるというだけあって武装は充実しており、他国では半数ほどの兵士にしか行き渡らない鎧をほとんどの兵が装備している。さらに陳紀率いる騎兵部隊も待機しており、劉表軍を打ち破る破城鎚としての役割を期待されていた。

 伝令の兵が忙しく動き回っており、士官が大声を張り上げて部下を叱咤激励している。兵士達は自軍の勝利を信じて疑わず、戦功をたてる機会を待ちわびていた。

 

 

 

「報告を」

 

「はっ!先ほど孫堅軍の伝令から、『ワレ、今マサニ敵ニ包囲サレントス。敵ハ多数。救援ヲ求ム』との報告を受け取りました!」

 

「うむ。予定通りだな。」

 

 副官の返答に、頷く陳紀。

 

「いかがなされますか?このまま放っておけば、孫堅軍は少なくない被害を被ります。」

 

「構わん。想定内のことだ。我が軍は予定通り、もう半刻たってから進撃する。」

 

「かしこまりました。他の将兵にもそのように伝えておきます。」

 

 そう言うと副官は伝令兵に指示を出すべく走り出す。

 

 

 

 その姿を見送ると、陳紀は満足げに笑みを浮かべる。その様子からは敗北への不安など微塵も感じられない。陳紀は自軍の堂々たる陣容を眺め、これからのことに思いを馳せる。

 

 目的は劉表と孫堅の共倒れである。ゆえに劉表軍が孫堅を包囲してるなら、なおさら結構。トドメを刺そうとしている連中の背後から、自分が本当のトドメを刺しに行く。ここで勝利すれば、劉表の立てこもる襄陽は目前だ。

 襄陽の守りは流石に固いだろうが、各地で豪族が反乱を起こしている以上、無理に攻撃する必要はない。時間がたてば劉表は孤立し、自然と勝利は転がり込んでくる。

 陳紀の脳裏には、荊州を統一して南陽に帰還する、自身の栄光に満ちた姿が浮かんでいた。

 

 そうなれば、もはや自分に対抗できる勢力は残っていない。孫呉は軍事力を失い、やかましく騒ぎたてるしか能のない、劉勲ら文官共も自分に口出しできまい。最後に勝つのはこの陳紀なのだ。

 

 

 今のところ、何も問題は起きていない。全て予想通りの結果だ。あと少しで、自分の計画は完成する。

 

「物事は万時、計画通りだ。孫堅も劉表も、せいぜいお互い潰し合うがよい。順調、まったくもって順調だ。」

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

「然り、全ては予想通りだ。こちらの予定通りに事は運んでいる。」

 

 もぬけの殻となった新野城で、孫堅はおそらく一人で悦に入っているだろう陳紀の姿を想像していた。想像するに、自分の策が成功したことを無邪気に喜んでいることだろう。

 陳紀は自分を利用したつもりなのだろうが、本当に利用しているのは自分の方だ。全てがこちらの手の内だったと彼が気づく頃には、もう手遅れになっているはずだ。すでに劉表軍は新野城を出発し、今頃袁術軍の侵攻ルートに伏兵でも配置しているか、奇襲の準備でも進めていると思われる。

 

 

「孫堅様、襲撃部隊の準備が完了いたしました。いつでも出発できます。」

 

 襲撃部隊――その目標は袁術軍の補給拠点である。劉表との密約に従い、劉表軍のふりをして、そこを襲撃する予定だった。新野城の守備は黄蓋に任せ、自身は少数の部下達と共に補給拠点へと向かうのだ。

 孫呉の精鋭から選び抜かれた約2000の兵士達が孫呉の命運をかけて新野城の広場に集う。

 

 目の前に整列した部下達を前に、孫堅は声を張り上げる。

 

 

 

「よいか!これよりこの孫堅文台自らが襲撃部隊を率いて、袁術軍の補給拠点に奇襲を仕掛ける!」

 

 兵士達は真剣な表情で孫堅の言葉に耳を傾ける。孫堅軍は、今までずっと袁術軍に体のいい捨て駒のように扱われてきた。それだけに、彼らに好意を持つ者など皆無に等しい。むしろ赤の他人である劉表軍よりも深い憎しみを抱いている。

 そして今回の襲撃は、今まで散々こき使ってくれた袁術軍に一矢報いる絶好の機会なのだ。多くの兵士にとって、まさに溜飲の下がる思いだった。

 

 

「袁術軍は、今頃我らが囮になって劉表軍と戦っていると思い込んでいる。我らを利用して劉表軍もろとも消し去ろうとした報い、必ずや倍にして返してやろうぞ!」

 

 孫堅の言葉には力が篭っていた。兵士達もそれにつられて、徐々に気分を高揚させていく。

 

「まもなく劉表軍は袁術軍に奇襲をかけるであろう。我々は袁術軍にトドメを刺すべく、補給拠点を焼き払う。人を顎で使うことに慣れきって戦いを忘れた連中に、本当の戦場を教えてやるのだ!」

 

 孫堅は自らの高ぶる気持ちを押さえて、兵士たちにこの任務の重要性を伝える。

 

「この戦いには袁術軍の主要な将軍のほとんどが参加している!すなわち、この敗北は、そのまま袁家の軍事力の衰退につながるのだ!皆の者、心してかかるがよい!我ら孫呉の興亡は、この一戦にあり!」

 

 

 

 その言葉を合図に、襲撃部隊は一斉に動き出す。

 

 ――孫呉の興亡は、この一戦にあり。

 

 その言葉を脳裏に焼きつけながら、彼らは進んでいく。江東の虎――孫堅はこの時、ついに袁術軍に対してその牙を向いたのだ。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 陳紀は決して馬鹿ではない。むしろ優秀であると言えるだろう。必要に応じて正攻法と奇策、王道と謀略の両方を使う事の出来る人物である。だが、彼に弱点があるとすれば、それは視野が狭いことだろうか。陳紀が袁家に仕えて数十年、軍事において彼を超える頭脳の持ち主は袁術軍には存在しなかった。いかなる時も陳紀は自分ひとりで問題に対処してきた。

 

 ――他人の意見などあてにならない。信用できるのは己のみ。

 

 彼がそう考えるようになるのも無理のない話であった。

 

 だからこそ、彼には自分の尺度でしか物事を計れない。陳紀の考えた作戦は決して愚策ではない。だが、その策は全て陳紀の目線、彼自身の論理によって展開されていた。自分の見たいものしか見えていなかったことが、彼の失敗の原因だった。

 

 

 

 そしてその被害を真っ先に受けたのは、前線にいる兵士達だった。劉表軍を攻撃するべく平野を進み続けていた彼らの頭上に突如、矢の雨が降り注ぐ。一瞬にして袁術軍の隊列が乱れ、その場を混沌が支配する。

 

 

「よし!行くぞ野郎共!皆殺しだぁッ!」

 

 劉表軍の指揮官である、黄祖の野太い声が空に響く。その声を合図に、約3万の劉表軍が姿を現す。混乱して右往左往するしかできない袁術軍に、劉表軍兵士が雄たけびを上げながら突撃を始める。その姿は罠にかかった獲物に襲いかかる猟犬さながらであった。

 

「て、敵襲だぁっ!劉表軍だぞ!」

 

「なんで奴らがここにいるんだ!?」

 

「孫堅軍と戦っているんじゃなかったのかっ!」

 

「くそっ!こっちは隊長がやられた!何がどうなっていやがる!」

 

「で、伝令兵!状況を報告せんか!」

 

 何が起こったのかわからない。それは、袁術軍兵士全員に共通する思いだっただろう。

 すでに孫堅軍と劉表軍は戦闘を開始している。自分達は彼らが疲れ切った所に万全の態勢で襲いかかればよい。将兵問わず、袁術軍の誰もがそう思っていた。

 ゆえに劉表軍が襲いかかって来た時、彼らは自分達の身に何が起こったのか知ることも無いまま、無残に屍を晒す事となった。 

 

 

 

「何事だ?!」

 

 

 

 そしてそれは、袁術軍の司令官である陳紀とて例外ではなかった。彼の瞳に映ったのは、次々斃されていく味方の兵士と、この場にいるはずのない劉表軍だった。目の前では、兵士達が蜘蛛の子を散らすように逃げ回っている。騎兵部隊も奇襲を受けては、その機動力を十分に発揮できない。一部の部隊は辛うじて隊列を維持しているものの、このままいけばいずれ限界が訪れるのは誰の目にも明らかだ。

 

 何があったのか分からない。

 だが、これだけははっきりと言える。今や、袁術軍の命運は風前の灯であった。

 

 

「て、敵襲です!」

 

「そんなことは誰だって分かっておるわ!今、聞きたいのは敵の規模と我が軍の受けた被害だ!」

 

 大声をあげて部下を叱責する陳紀に、伝令兵が息を切らしながら現状を告げる。

 

「申し上げます!敵軍の数はおよそ3万!劉表軍の主力部隊と思われます!」

 

 

 敵の規模はおよそ3万。こちらよりは少ないが、決して楽観できる数字ではない。

 その一方で、報告を聞いた陳紀達を始めとする指揮官の顔に浮かんだのは、驚愕というより困惑の表情だった。

 

「3万?それは間違いないのか?」

 

 副官が問いかける。その数字は新野城にいたとされる劉表軍のほぼ全軍だ。その意味するところは――

 

 

「……孫堅は劉表軍に被害を与えることも無く負けたのか?」

 

「だとしてもこんなに手際よく奇襲を行える時間があるものか?捕虜から情報を聞き出したとしても、移動や準備にそれなりの時間は必要だ。」

 

「もしや孫堅が裏切った、とか?」

 

「あるいは劉表が増援を送ったのかも……」

 

 さまざまな憶測が飛び交い、不安が伝染してゆく。右往左往するばかりの指揮官たちを、見かねた陳紀が一喝する。

 

 

「静まれぃ!原因など後で考えればよい!まずは、自分達の為すべき役割を思い出せ!」

 

 響き渡る陳紀の大声に、我に帰る指揮官たち。

 そうだ。自分達が今すべきことは他にある。まずはこの状況をなんとかして立て直さなければならない。

 

 

「……司令官、ここは一度退却すべきです。」

 

 軍師の一人が告げる。

 

「我が軍は奇襲を受けており、兵達は動揺しております。統制が利かない現状では、このまま戦闘を続行しても被害が増えるだけでしょう。」

 

 更に、別の軍師が自身の意見を口にする。

 

「私も同様に、退却を進言いたします。敵の奇襲を受けたということは、我らの考えが敵に完全に読まれていたということ。今や我らは相手の土俵で戦っているようなもの。ここは一旦、相手の土俵から出るべきかと。」

 

 

 次々に退却を進言する軍師達。その軍事的妥当性は理解できた。だが、陳紀には退却できない理由があった。

 ここで退却すれば、袁家における自身の発言力は完全に失われる。袁家の未来を他の者に託すことなどできない。袁家の未来を担うのはこの自分なのだ。だからこそ、手ぶらで帰るわけにはいかない。少なくとも、失脚しない程度の戦功をあげなくてはならない。

 

 あるいは、何か別の手柄があれば……。

 

 そう、この失敗を帳消しにできるだけの何かが……。

 

 

 

 

 

「――あら、その様子だと相当お困りのようね。」

 

 

 

 声が、響いた。

 

 それはこの場におよそ似合つかわしくない、澄み切った、可憐な女の声だった。

 

 振り返れば、そこに彼女はいた。いつからここにいたのだろうか。彼女の接近に気づいた者は誰一人としていなかった。目の前の出来事に集中していたせいもあるだろうが、まるで最初からそこにいたかのような、不自然なほど自然な登場の仕方だった。

 

 

 

「劉勲……。貴様、何の用だ?」

 

 不快感を隠そうともせず、陳紀は喉の奥から絞り出すような声で問いかける。

 

「貴様は南陽にいるはずだ。それがどうしてこんな所にいる?そもそも、貴様は武官ではないだろうが?」

 

「まあまあ、そんなにがっつかないでよ。そんなに焦んなくても、ちゃんとアタシが相手してあげるからさぁ。言っておくけど、そーゆー余裕のない男は嫌われるわよ?」

 

 

 ぶちっ。

 

 陳紀の中で何かが切れたような音がした。

 

(……この女、いくらコネとカネがあるからといっても、最低限の礼儀ぐらいは弁えたらどうだ?)

 

 劉子台――地方の県令から出世した彼女は、袁家内部における人事部の統括を任せられている人物だ。彼女自身に目立った親戚がいないため、縁故採用を防止できると考えた張勲による抜擢だった。

 だが、劉勲は人事権をフルに使って、既に独自の勢力を築き始めている。尤も、今までは目立った越権行為を行ってこなかった為、この時点で劉勲を警戒していたのは陳紀ぐらいのものだが。

 

 

「用が無いなら黙っててもらおうか。今は、貴様のような小娘の相手をしてられる状況では無い。文官なら、おとなしく執務室で書類でも書いていろ。」

 

 同じ軍人ならまだしも、部外者に好き勝手言われて黙ってられるほど、自分はお人好しではない。第一、袁家における序列は自分の方が上なのだ。

 

「つれないわねぇ。ひょっとしてアナタ、血圧高い?」

 

 だが劉勲は悪びれる様子も無く、むしろこの状況を楽しんでいるかのようだった。

 いっそこの場で切り捨ててやろうかと、陳紀が本気で思いかけたその時、新たに別の声がする。

 

 

 

「おいおい、いつまでもこんな所で油売ってんじゃねぇぞ、アバズレ。」

 

 

 会話に割り込んできた声の主は、舞台俳優のような顔立ちの男だった。だがその端正な顔にそぐわず、全身からは殺気が溢れている。体はよく引き締まっており、歴戦の戦士であることを容易に想像させる。髪を短く切りそろえ、着崩した袁術軍の制服を纏う彼の名を知らぬ者など、袁術軍には居なかった。

 

「テメェも同じだ、陳紀。コイツの無駄話に付き合ってたって埒が開かねぇだろうが。」 

 

「何よぉ~。紀霊こそ急に話に割り込んで来ておいて、その態度は失礼なんじゃない?」

 

「はッ。今の言葉、そっくりそのままオマエに返すぜ。」

 

 口を尖らせてふてくされる劉勲を適当にあしらうと、その男、紀霊は再び口を開く。

 

 

「回りくどいのは無しだ。単刀直入に言おう。孫堅のヤツが裏切った。今、少数の部隊を率いてオレらの補給拠点潰しにかかってる。」

 

 

 陳紀の顔から、表情が消える。この男は今なんと言った?

 

 

 孫堅が裏切った。

 

 少数(・ ・)の部隊を率いて、補給拠点に向かってる。

 

 

 紀霊が陳紀に伝えた情報は非常に簡潔だった。

 だが、目の前にある状況を理解するには十分すぎる情報だった。

 

 そして、自身の失態を取り繕えるだけの功が目の前にぶら下がっているということも。

 

 

 裏切り者の存在。その意味するものは大きい。首謀者である孫堅を討ち取ることができれば、今回の敗戦の責任を全てなすり付けられる。それどころか、孫呉の勢力を一掃すれば、軍内部の派閥における自身の立場を揺ぎ無いものにできる。

 

 ならば、取るべき道はひとつしかない。

 

 そんな陳紀の思考を見透かしたかのように、劉勲が煽り立てる。

 

「ま、そういうこと。たしか孫堅が今率いてる数は2000ぐらいだったかな?そんぐらいなら勝てるでしょ。」

 

 大軍の利点の一つは、予備兵力を多く取れることだ。数が少ない場合、大抵は持てる全ての兵をフル活用しなければならない。ゆえに一度作戦が始まってしまえば戦線に穴を開けかねない、戦力の抽出はほぼ不可能だ。だが、大軍なら強引に兵力を抽出したとしても、敵はそう簡単には戦列を突破できない。

 

 陳紀の軍は奇襲を受けたとはいえ、まだ自由に動かせる予備兵力が残っていた。手持ちの兵力のうちで今すぐ動かせるのは、直属の騎兵2000と親衛隊が2500ほど。補給拠点に残してきた兵力はおよそ1500。合計すれば孫堅の約3倍、6000の兵力が揃う。

 だが、問題は――

 

 

「――安心しろや。兵の統制と劉表軍の対応はこっちで何とかする。何のためにこのオレが来たと思っていやがる。」

 

 不敵に笑う紀霊。すでに彼の目は戦場の方を向いている。その視線の先には兵を鼓舞しながら馬上で槍を振るう黄祖がいた。

 

「ほぉ……ヤツが黄祖か。こいつは中々――」

 

 

 ――中々、殺し甲斐がありそうだ。

 

 

 黄祖を見つめる紀霊の目つきが、獲物を見つけた肉食獣のように歪む。

 

 

「ちょっと紀霊、分かってるとは思うけど……」

 

「なぁに、心配すんな。そのぐらい分かってるって。」

 

 不穏な空気を感じ取って、釘を刺そうとする劉勲の言葉を軽く遮る。

 

「殺さねぇよ。今はまだ、な。ここ最近、欲求不満なのは確かだが、今回はとりあえずテメェの小細工に乗ってやる。」

 

「何かその言い方、すっごく引っかかるんですけどぉ~。」

 

 劉勲は不満そうな様子だったが、やがて諦めたのか陳紀の方へ向き直った。今度はどこか悪戯っぽい目つきで、媚びるように陳紀を見つめる。

 

「えっと……とにかく、こっちはアタシ達が何とかするから。陳紀将軍は裏切り者、孫堅を丁重に出迎えてくださいな。」

 

 

「フム……やむを得まい。そうするしかないようだ。」

 

 陳紀はとりあえず、この二人の言うことを信じることにした。

 どの道、このままでは自分に未来は無い。劉表軍との戦いでは既に詰んでいる。せめて裏切り者の成敗でもしなければ、後々責任追及された挙句に軍法会議で失脚してしまう。

 陳紀は紀霊らに背を向けると、近くにいた士官に向かって指示を出す。

 

「予備を全部出せ。残りは紀霊と劉勲の指示に従って敵の足止めをしろ。その間に予備部隊は私と共に補給拠点に移動するのだ。急げ、時間が無い。」

 

 陳紀は指示を出し終えると、自身も愛馬に跨る。

 何が目的であの二人がここに来たのかは結局分からずじまいだったが、そんなことはどうでもいい。孫堅を討ち取る、今の陳紀にとってそれが全てだった。

 

       




 チラッとだけ黄祖さんを登場させました。特にこれから大活躍とか無いでしょうし。
 この人も史実だと、何度も孫呉の武将が束になってかかっても勝てなかった名将だったんですよね。自分の領土に侵略してきたから孫堅討ち取っただけなのに、逆恨みされちゃう可哀想な人です。


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06話:想いの行きつく先は

                   

 

 劉表は若いころは儒学者であり、文化人として知られていた。

 

 他の主な同門達と共に『八顧』と呼ばれたこともある。それは州牧となった後も変わらず、文化を愛し、多くの学者や文化人を招きいれていた。また、平和主義者としても知られ、対外的には中立を貫いて専守防衛に努めていた。

 

 中には彼のことを凡庸で優柔不断、平和ボケした事なかれ主義者という者もいる。だが、それは全くの誤りといえよう。 

 

 劉表は決して凡庸な人物ではない。むしろ今の中華において、彼に匹敵する策略家は存在しないと言っても過言ではない。自身に対する負の評価すら、彼の思惑通りだった。

 有能であれば、他者から必要以上の警戒を受けかねない。だが凡庸であれば自然と相手も気を緩める。警戒は疎かになり、劉表への対応は後回しにされる。結果、劉表は行動のフリーハンドを得ることができるのだ。内通に流言、暗殺や情報収集といった裏方の諜報活動には理想的な環境と言えよう。

 

 荊州牧になったのも、洛陽から離れた僻地に移ることで身の安全を図ったのが真の理由だった。

 平和主義や専守防衛も、結局のところ相手に、開戦の口実を与えないための手段以外の何物でもない。

 対外的に中立を保つ、というのは何もせずとも、ある一方の勢力から攻撃を受けた時、パワーバランスの関係上、別の対抗勢力からの支援を期待できるといったメリットもある。また、荊州内部では豪族の影響力が強いため、どこかに肩入れするよりも中立を保っていた方が家臣の反発を招きにくい、という理由も存在していた。

 

 自身を無害な存在だと思わせ、外交や策略を駆使して諸侯同志を争わせて、漁夫の利を得る。それこそが劉表の真の姿である。自らは手を汚さずに安全な荊州から中華をコントロールするのだ。

 

 

 

 ただ、彼が他の諸侯と違う点を挙げるとすれば、それは野心が全くと言っていいほど無いという事だろう。多くの諸侯や政治家が天下を狙う動きを見せる中、劉表の態度はある意味、異質なものだった。ゆえに彼をよく知らない者からすれば、風評や体面を気にせず、ただ領土の保全のみを図る劉表の姿は理解しがたいものであり、不気味ですらあっただろう。

 

 

 

 劉表は幼い頃から優秀な子供だった。故郷では神童としてもてはやされ、またその穏やかな人柄から多くの知人に尊敬されていた。その半生は順風万帆であり、やがて儒学者として大成し、中央の政治にも関わるようになった。周囲の期待に応え、その才能を遺憾なく発揮した。

 『彼ならこの斜陽の帝国を復興させられるかも知れない』、そんな期待が劉表に懸けられるのも無理のない話であった。劉表自身もまた、それに応えようと一層職務に励んだ。

 

 ――ある事件が起こるまでは。

 

 

 党錮の禁。

 後漢末期に起きた、宦官勢力に批判的な清流派士大夫を、宦官が一斉に弾圧した事件である。勢力を強めた宦官による汚職の蔓延に対し、一部の清流派士大夫が批判を行い、結果としてその多くが禁錮刑に処されたのだ。劉表もまた、清流派士大夫の代表人物の一人として罪に問われ、逃亡生活を余儀なくされた。

 

 

 

 党錮の禁の終了後、劉表はようやく晴れて政治の舞台に帰還した。州牧に任命された劉表のことを清流派の新たな指導者として期待する者もいた。

 だが、一度全てを失いかけた彼には、もはや以前の夢は残っていなかった。

 

 

 州牧。一介の人間が得た地位としては、十分過ぎる地位ではないだろうか。

 かつての自分は漢帝国の復興という壮大な夢を見た。だがその結果はどうだろうか?

 家族や知人を危険にさらし、名誉を、地位を、友を失うという散々なものだった。辛うじて彼自身は助かったものの、所詮は運が良かっただけである。

 

 それに引き換え、失ったものはあまりに大きかった。

 身の丈を超えた高望みは、いずれ身を滅ぼす。

 であれば、必要以上の高望みをする理由などどこにもない。

 

 天下の平穏のため、皇帝陛下のため、民のため。それぞれの夢を追って、たくさんの血を流し、取れるかどうかも分からぬ天下を目指す。

 多くの諸侯や宦官、士大夫がその誘惑に駆られて無残に散ってゆく。そのなんと空しいことか。そのようなことに果たして大きな意味があるのだろうか?否、断じて否。意味などありはしない。

 

 

 政治の中央に深く関わっていた劉表には分かっていた。いずれ、漢帝国はそう遠くないうちに滅びるだろう。

 だが、それに巻き込まれるわけにはいかない。自分は多くのものを失ったが、全てを失ったわけではない。

 

 まだ、自分には守るべきものが残っている。

 

 自分に期待してくれる民がいる。自分を頼ってくれる友がいる。自分を育て上げてくれた、中華の偉大なる文化はまだ残っている。

 それらを取りこぼすわけにはいかない。例え卑怯者と罵られようとも、構わない。どんな手を使ってでも守ってみせる。もう二度と、この手に掴んだものを失うわけにはいかないのだ。

 だからこそ――

 

 

 

「天下を望まず、荊州の保全のみを図る。」

 

 

 

 ――それが、劉表の出した結論だった。

 

 

「……私には、守ると決めたものがあるんだ。それだけは絶対に守ってみせる――荊州以外の全ての大地が、罪無き者の血で赤く染まろうとも」

 

 襄陽の宮殿から遠く、新野で行われている戦いも、まもなく決着が付く。その方角を見つめながら劉表は一人、誰にともなく呟いた。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 夜、袁術軍補給拠点。

 

 袁術軍の補給拠点は交通の便を考えて街道近くの村に併設されている。防御には若干難のある場所だが、袁術軍は大軍を維持するため、迅速に大量の物資を輸送することを優先。そもそも補給拠点を攻撃するだけの兵力は劉表軍には残っていないのだから、そこは割り切っても問題無いのだろう。

 

 むしろ大軍を投入すればするほど、劉表軍が奇襲できるチャンスは減る。下手に軍を分散してしまえば、袁術軍が全面侵攻した時に抑えられなくなるからだ。

 味方が裏切った場合などは話が別だが、裏切り対策などする軍の方が珍しい。

 

 

 

 孫堅が見たところ、巡回している護衛の兵士はそう多くない。暗闇のせいで正確な数は不明だが、松明の数からして恐らくこちらの部隊より少ない。ここで孫堅が攻撃命令を出せば、瞬く間に彼女の軍は補給拠点を制圧できるだろう。孫呉の未来はもう目の前だ。

 

 にもかかわらず、その拠点が目に映った時、孫堅が感じたのは安堵でも歓喜でも無く、何とも言えない違和感だった。

 

(おかしい。なんだ、この漠然とした不安は?)

 

 言いようのない不安感が込み上げてくる。

 それは長年、戦場という生死の狭間で生きてきた者だけが分かる、一種の生存本能のようなものだった。

 

 だが、それを表に出すわけにはいかない。不安を始めとする指揮官の負の感情を、部下は意外と敏感に感じ取るもの。孫堅が迷いを見せれば、せっかくの勢いを失ってしまう。

 

(どうする?攻撃するか、否か?)

 

 慎重に周囲を観察しつつ、孫堅は考える。

 これは何かの罠だろうか?

 だが、彼女はすぐにその可能性を否定する。こちらの計画は陳紀に漏れていないはず。現時点で計画の全貌を知っている者は、発案者である劉表とそれを伝えにきた黄祖、自分と祭の4人だけだ。

 

 進軍も隠密性を重視して、できるだけ人目につかないような場所を移動してきた。

 しかも先ほど戻ってきた斥候の話では、陳紀の軍は劉表軍に奇襲を受けて壊滅寸前だという。仮に気づいたとして、現場を離れるわけにもいかないだろう。

 

 別の人間を送る可能性はあるものの、その場合は返り討ちにしてやればいいのだ。孫堅の知る限り、今回の出兵に参加した袁術軍の主な指揮官のうち、脅威になりそうなのは陳紀だけだった。

 数にものを言わせればその限りではないが、劉表軍と交戦中である以上、そこまで大部隊を送ることもできないはず。

 

 

 劉表が自分を嵌めたという可能性もあるが、そんな余剰兵力は彼には残っていない。というか、そんな兵力があればわざわざ内通などせずに、正面から戦った方が確実だろう。

 

 

 何度か思考を凝らしてみるが、特に問題になりそうな要素は見当たらない。自分の立てた計画に穴など無いはずだ。

 

(迷ってばかりいても、埒が明かないか……)

 

 結局、孫堅は攻撃命令を出すことにした。

 このままダラダラと考えていても、それは単なる時間の浪費にしかならない。襲撃をするなら早いうちにするのが上策だ。時間がたてばそれだけ相手に気づかれる可能性も高くなる。

 それに、明確な根拠も無いまま作戦を中止することもできない。ならば、当初の予定通りに動くまでだ。

 

 

 孫堅は覚悟を決め、兵士たちに向かって腕を高く掲げた。

 兵士達は孫堅の合図に従い、ゆっくりと、だが確実に補給拠点に近づいてゆく。

 

(頼むぞ、みんな……!)

 

 かくして、孫呉の主は牙を剝く。この瞬間、孫堅は一世一代の大博打を打ったのだ。

 

 

 だがしかし――彼女達は気づけなかった。

 闇の中から、彼女達をずっと監視していた別の者たちがいたことに。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「……守備隊には連絡したか?」

 

 孫堅が決断を下したとき、陳紀もまた決断を下していた。

 休まずに走り続けて来た甲斐あって、孫堅よりも先にここへたどり着くことができた。現在、彼とその軍勢は補給拠点からやや離れた場所にある森に隠れている。

 

「はい。出来るだけ普段通りを装うようにと伝えました。」

 

「よろしい。では、合図を待て。守備隊からの合図を受け次第、突撃を開始する。」

 

 そう言うと、視線を再び孫堅軍に戻す。これが名誉挽回の最後の機会だ。袁家の未来のためにも、何としても成功させなければならない。孫堅軍を見つめるその表情は真剣そのものだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 あと少し、補給拠点はもう目の前だ。

 そこで孫堅は、一度後ろを振り返る。兵士達がついてくるのを確認し、鞘から名刀、南海覇王を抜く。

 

 孫堅が今まさに攻撃せんとしたその瞬間―――耳を劈くような轟音が響いた。

 

 補給拠点の方を見ると、松明が一斉に灯り、警備兵が一斉に銅鑼を叩いている。それが合図だったのか、建物の影や櫓から弓を持った兵士が姿を現す。

 

 

「うおおおおおおおおぉぉぉぉ!!!」

 

 今度は別の方角から、新たな雄たけびが響き渡った。見れば、陳紀に率いられた親衛隊と騎馬隊が、脇目も振らずに全力で駆けてくる。やや遅れて現れた歩兵も合わせると、袁術軍の増援は4500ほど。補給拠点の守備隊と合わせれば、実に3倍もの兵が孫堅軍に襲いかかったのだ。

 

 

 

「陳紀……どうやってここに!?」

 

 驚愕のあまり、孫堅の目が大きく見開かれる。

 ――ありえない。

 一瞬、そんな言葉が脳裏をよぎる。だが、目の前にあるのは紛れも無い袁術軍司令官、陳紀の姿だった。

 

(まさか、移動中に見つかった?……いや、その場合は仮に見つかったとしても、補給拠点に来るまでもう少し時間がかかるはず。それに、劉表軍と交戦中のはず……。)

 

 そう、いくら陳紀が孫堅の裏切りを発見したとしても、この場には来れない理由がある。

 既に袁術軍は劉表軍と交戦しているのだ。仮に交戦中に指揮官が抜け出せば、指揮官を失い、戦場に残された軍の方は崩壊してしまう。

 

 だが、現実には陳紀はこの場にいる。劉表軍が負けた、ということは無いだろう。もしそうなら、もっと大部隊を連れてくるに違いない。であれば、袁術軍主力部隊を支えられる人間が別にいることになる。

 

 つまり、それが意味することは――

 

 

(……そうか、そういう事(・ ・ ・ ・ ・)だったのか。)

 

 

 ふっ、と場違いな笑みが漏れる。

 なるほど、道理で分からぬわけだ。気づけぬわけだ。そう、自分の立てた計画に穴など無い。ただ、 前提(・ ・)が間違っていたのだ 。

 

 劉表は最初から、自分と組むつもりなど無かった。陳紀でも無い。その両方を消したがってる連中と組んだのだ。劉表は、この機に乗じて袁家の実権を掠め取ろうとしている、金の亡者達と組んだのだ。

 

 

「奴が本当に手を組んだ相手が、袁家に群がる拝金主義者共だったとはな……」

 

 陳紀も、そして彼をうまく欺いた気になっていた自分も。結局のところ最初から最後まで、劉表の掌で踊っていた道化に過ぎなかったのだ。

 

 

「武人の端くれとして、貴様のやり口は気に食わん。だが……見事だ。」

 

 ははは、と孫堅の口から乾いた笑い声が出る。

 流石は劉表、伊達に州牧をやっている訳では無いらしい。完全に一杯喰わされた。最後まで、気づくことが出来なかった。

 

 

「この私を、孫文台を………謀ったな、劉表ぉおおおおおおッ!」

 

 戦場の喧噪の中、孫堅の絶叫が空しく響く。

 

        




 前半は劉表のお話。 

 個人的には劉表ってどこか毛利元就を思わせる人物です。マイナーだけどチートな孫呉や曹魏の面々を何度も撃退し、豪族の力が強くて不安定な荊州を発展させた優秀な人間だと思っています。しかも、クセの強い劉備と愉快な仲間たちを7年間もうまく制御してますから。
 チキンとか言われるけど、良くも悪くも自分の限界を知って高望みしない人物だったのだと思います。


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07話:届かぬ想い

 

 

 月明かりの下、兵士の喧騒と剣戟の音が響き渡る。

 

 普段は行商人や旅人が旅の途中に立ち寄る以外、これといった産業もないこの村にこれほどの人間が集まったのは、村始まって以来ことだった。だが、それを喜ぶ村人はおそらくいないだろう。なぜなら彼らがこの村に立ち寄った目的は、殺し合いのためだったからだ。

 

 

「怯むな!何があっても陣形を維持しろ!」

 

 周囲を見渡せば、右でも左でも容赦なく命が失われていく。苦楽をを共にした部下達が一人、また一人と倒れてゆく様子を、孫堅は絶望的な気分で味わっていた。

 

 状況は最悪。奇襲をかけるつもりが、逆に奇襲をかけられた。兵の動揺は思ったほどひどくは無かったものの、決して楽観できる状況ではない。なにしろ、数で劣る上に半包囲されつつある。完全包囲されてしまえば、全員であの世行きだ。

 

「状況は思わしくない……持久戦になれば、数の多い向こうの利がある。早くこの局面を打開しないと……!」

 

 

 深夜から夜明けまで、袁術軍との死闘は絶える事無く続いていた。袁術側もただ数に任せて突撃するばかりでは無い。

 何人もの歩兵が突撃体制をとって集結しては、離散を繰り返す。囮部隊に注意を惹きつけることで、孫堅達を撹乱して疲労させるのが狙いだ。兵力が多ければ兵士一人当たりの負担は減るという、数の優位を生かした持久戦。

 今のところ孫堅軍の陣形は乱れていないが、兵士達の疲労は蓄積していくばかりだ。

 

「多少の損害が構わん!敵の動きが乱れたら迷わず突撃しろぉッ!」

 

 一番の目標は相手を疲労させることだが、無論、敵の陣形が崩れればそのまま突撃する。当然ながら袁術兵も無事ではなかったが、構わずに攻撃を繰り返していた。

 被害の大部分は退却中に発生するというのは、この時代の常識だ。ならば初期に多くの損害を受けようとも、飽和攻撃によって勝利する事ができれば、追撃戦によって帳消しに出来る。最終的に勝利が得られれば過程は問わないという、実に袁術軍らしい戦法といえよう。そう、必死なのは彼らも一緒なのだ。

 

 

「くッ……まだ十分に動ける者は突撃体制をとれ!」

 

 このまま戦闘が続けば、いずれ数で上回る袁術軍に追い詰められてしまう。そう判断した孫堅は、部隊を集結させて敵中突破を図る。

 数で劣る以上、兵力の分散は愚行以外の何物でも無い。ならば全兵力をかき集め、その全てを敵の弱点に集中させる――口にするのは容易いが、行動に移すのはそう簡単ではない、突破するタイミング、場所、そういった細やかな判断を僅かでも誤れば即座に全滅する。だからこそ、慎重に決断を下さねばならない。

 

 

 その時、右方向にいた、敵の隊長らしき人物が跨る馬に矢が刺さった。一瞬、袁術軍の動きに乱れが生じる。

 

(今だっ!)

 

 彼は暴れ出した馬を鎮めようとするが、孫堅はその機会を与えなかった。隊長がまともに指揮をとれない今こそが好機。

 

「全軍、突撃!目標は右方向の敵部隊だ!」

 

 孫堅の号令と同時に、部下達も一斉に突撃を開始する。彼女達が動くと同時に、その進路に立ち塞がっていた袁術軍兵士が、次々に倒れていく。

 

「邪魔を、するなぁぁぁ!」

 

 自らも先頭に立って突破口を切り開く孫堅。指揮能力が勿論のこと、その剣捌きの速さも尋常ではない。何人もの袁術軍兵士が切り捨てられ、、屍を積み上げていく。ある者は心臓を貫かれ、別の者は首を刎ねられて赤い血液を周囲にまき散らす。そのあまりの勢いに、残った兵士達は明らかに狼狽していた。

 

「今が好機だ!敵は怯んでいる!一気に行くぞ!」

 

 これなら、いけるかもしれない。袁術軍も決死の抵抗を続けているものの、包囲網の一角は、崩れ始めている。後はそこから一点突破を図るのみ。

 勝利を信じて孫堅がそう思った、次の瞬間だった。

 

 

 

「槍兵、集結!いいか、隊列を絶対に崩すな!」

 

 そこに見えたのは一人の壮年の男性。一般兵とは違った重装甲の鎧を纏っている。それは、孫堅もよく知っている人物だった。

 

「我が名は陳紀!袁家に仇なす逆賊、忠義の刃で討て!」

 

 孫堅の前に立ちはだかったのは、袁術軍の司令官・陳紀だった。浮足立った味方を鎮め、崩れかけた戦線を立て直すため、司令官自らが出て来たのだ。

 そこには、自らの命を危険に晒してでも、絶対に逃がさないという覚悟が見える。陳紀の登場により、袁術軍は冷静さを取り戻して再び体制を立て直しつつあった。

 

 

 

(まずいな。このままでは……)

 

 孫堅は心の中で舌打ちした。陳紀の読み通り、低下していた袁術軍の士気が再び戻りつつある。このままでは突破できない。そのことはすなわち、彼女達の死を意味する。

 

(事態を打開するには……陳紀を討ち取って隙を作るしかない!)

 

 そう判断し、孫堅は南海覇王を高く掲げる。

 

「孫文台、見参!江東の虎の武、教えてくれようぞ!」

 

 声を張り上げ、孫堅は陳紀に向かって駆け出した。

 

 

 

 真っ直ぐに、自分目がけて突撃してくる孫堅の姿を確認した陳紀も、素早く長刀を抜く。

 長刀は両手で扱う大刀であり、その質量を生かして『叩き斬ること』に重点を置いた代物である。使用法はどちらかと言えば、ナタや斧に近いものがあり、通常の刀が『切り裂く』ことに重点を置いているのとは対照的だった。その重量ゆえに扱いが難しく、長時間の使用には向かないものの、刃こぼれが少なく丈夫で、鎧を着た相手にも効果が期待できる。それゆえ頑丈さが重視される実際の戦闘では、むしろ通常の刀よりも重宝されていた。

 

「孫堅、貴様ぁぁぁっ!」

 

 陳紀は大きく振りかぶり、質量を生かして叩きつけるように振る。

 それを見た孫堅は即座に身をかがめて、足を狙って斬りかかった。

 だが、陳紀も負けてはいない。危険と判断するや即座に身を引き、体勢を立て直す。

 

「裏切り者め、ここで成敗してくれるわ!」

 

 そう言うと、陳紀は長刀を前方に放り投げるように突きを放つ。握りを起点にして遠心力を利用した一撃は、当たれば例え鎧を着ていようとも、ただでは済まない。

 

 

 しかし、孫堅はその刺突を易々とかわし、素早く剣を横になぎ払う。

 陳紀は紙一重でかわしたものの、長刀の重量が災いして体勢を崩してしまう。

 

「隙あり!」

 

 孫堅はその隙を見逃さず、剣を真横から横なぎに払う。剣は陳紀の脇腹を切り裂き、孫堅は確かな手ごたえを感じる。が――

 

 

「うぉぉぉぉぉっ!」

 

 陳紀はそのまま強引に体を横に捻る。更に急な体勢変更によって脇腹に刺さっていた剣は、鎧に引っ掛かってしまう。

 

「……なっ!」

 

 思わぬ陳紀の反撃に、今度は孫堅がバランスを崩す。陳紀は苦痛に顔を歪めながらも、孫堅を足で勢いよく蹴り飛ばした。

 

 

「はぁ、はぁ……!孫堅、貴様の剣捌きは確かに見事だ。動きの鈍重な長刀剣士に当てるのは容易いだろう。だがしかし――!」

 

 言葉を交わしながら、陳紀は力任せに長刀を振り回す。

 

「――剣が当たることなど、こちらとて織り込み済みだ!傷の一つや二つ、耐えられぬようでは長刀剣士とは呼べん!」

 

 そう言い終わると、今度は連続して剣を振るう。まるで円を描くように、重心のバランスを巧みに取りながら孫堅を追い詰めていく。孫堅はそれをかわし続けるも、なかなか反撃に移れない。

 

 武器の構造上、孫堅の南海覇王と陳紀の長刀が正面からぶつかり合えば、南海覇王は耐えられない。さすがに一撃で壊れたりすることは無いだろうが、何度もうちあえる余裕は無い。それに間違いなく刃こぼれする。陳紀の長刀はたとえ刃こぼれしようとも、『叩き斬る』のが目的なのでさほど問題にはならない。だが、『切り裂く』ことに重点をおいている孫堅にとっては致命的だ。

 

 

 このままではジリ貧だと感じた孫堅は、振り終わった陳紀が長刀を回転させて再び薙ぎ払うまでの一瞬の隙に、陳紀に向かって鋭い突きを放つ。陳紀はとっさに体を反らすが、勢い余った孫堅と激突し、ともに地面に倒れこむ。

 

「……なんのこれしき、はぁぁぁぁぁっ!」

 

 陳紀は素早く体勢を立て直し、再び接近すると、孫堅に向かって長刀を振り上げる。

 

「……ッ!」

 

 まずい、そう思った次の瞬間、孫堅は反射的に動いた。決死の覚悟で飛びかかり、陳紀の腕が振り下ろされる前に、その胸に剣を突き刺す。そのまま剣をねじって肺、あるいは心臓を抉る。胸を抉られた陳紀の体から、赤黒い液体が飛び散り、孫堅の顔を返り血で染めてゆく。剣で体を抉りながら、孫堅はなおも攻撃の手を止めない。続けて右手で正面から陳紀を殴打する。

 

 

「が、あ……ッ!」

 

 鼻の骨が折れる嫌な音がした後、陳紀が声にならない悲鳴と共に、よろめくように転倒した。顔面はからは血の気が引いており、口から血の泡を吹いている。

 地面に倒れた陳紀は、血まみれになった胸を抑えているが、もはや虫の息だ。

 

 

「……敵ながら見事だ。」

 

 孫堅は目の前にで倒れている男に向けてそう呟いた。どうやら孫堅の必死の一撃は、陳紀の肺を貫いたらしい。このまま放っておいても、もう命は長くは無いだろう。

 だが陳紀は赤く染まった胸を押さえながらも、血走った目で孫堅を睨みつけている。その瞳には、敵を倒すという執念がありありと感じ取れた。

 

「例え怪我を負おうと勝負を続けようという貴公の気概、感嘆に値する。さもすれば負けていたのは私の方かもしれん。願わくば、このような場で決着をつけたくはなかったのだが……」

 

 苦しみを長引かせないためにも、孫堅はここで止めを刺すことにした。

 

「さらばだ。貴公の……」

 

 孫堅が止めを刺そうと南海覇王を振り上げた、その時だった。

 

 

 

 ――ヒュン――

 

 

 風を切る音と共に、数本の矢が飛んでくる。

 長年の経験によって、孫堅は反射的に体を捻ってそれをかわす。外れた矢はそのまま近くにいる兵士に鎧を貫通して突き刺さった。

 刺さった矢を見れば、通常の弓から放たれるものよりも太くて短い。

 

(……この矢の形から察するに、間違いなく弩だな。)

 

 弩とは、台座に固定した弓を取り付けることから機械弓とも呼ばれる。あらかじめ弦を引いてセットしたものに矢を設置して引き金を引くと矢が発射される仕掛けの弓のことである。矢の放たれた方角を見ると、村のあばら家の上にかすかに人影らしきものが見えた。

 

(射手は伏せている上に、矢も明らかに私の方を狙っていた。……本当に用意周到なことだ。)

 

 弩は手では引けないような強力な弓を搭載できる為に、その威力と射程には定評がある。その反面、装填に時間がかかるという弱点を抱えているが、離れた位置から狙撃する分にはうってつけの武器だった。

 

 

「まぁ、確かに私も勝利で気が緩みかけていた節もある。その上、疲労も溜まっているから狙撃時期は正しい。」

 

 そう言う間にも、次の矢が発射される。どうやら、相手は装填済みの弩を複数持っているようだ。

 だが、警戒していた孫堅は剣でそれらをすべて打ち払う。

 

 

「……だが、そんなことでこの孫文台がやられると思ったのが、そもそも間違いだ。」

 

 逃がしはしない。孫堅の目がそう語っていた。

 自分を不意打ちしようとした姑息な輩を仕留めるのは勿論、その背後にいるであろう人物のことも聞き出さなければならない。その人物こそが今回の黒幕だろう。推測するに、今の狙撃手は陳紀と孫堅が共倒れにならなかった時の保険として配置されていた可能性が高い。

 劉表か、劉勲か。孫堅の知る限り、可能性の高いのはこの二人だが断定することはできなかった。今後のためにも、尋問してはっきりと聞き出さなければならない。

 

 劉表であれば事はそう複雑ではない。陳紀が死んだ以上、孫堅がここにいた事実を目撃した将はいない。だから当初の予定通り補給拠点襲撃は劉表軍のせいにして、しらばっくれればいい。

 

 

 問題は今回の黒幕が劉勲であった場合である。その場合、すでに袁術軍に裏切りが伝わっている可能性が高い。しかし、劉表と劉勲の密約を証明する証拠があれば事態をもみ消せるかもしれない。

 見たところ、陳紀はこのことを知らなかったように見える。というか、知っていればもっとマシな対応が出来ただろう。指揮官自ら前線に出てくるなど、袁術軍ではよほどの非常をおいて他にはないからだ。

 

 つまり、劉勲の独断である可能性は濃厚。ならば、証拠さえつかめればそれを交渉材料に、彼女に黙認を強要できる。劉勲とて、独断で敵と内通していることが公になれば、ただでは済まないだろう。

 孫堅の頭の中では、すでにこの戦が終わったらどうするかについて案を巡らせていた。

 

 

 だが、それが彼女の命取りになる。

 

 孫堅が前に一歩踏み出そうとした時――

 

 

「ッッ!……陳紀、まだ息が!」

 

 

 ――孫堅の足を掴む者があった。

 

 歩き出そうとした矢先に、万力のような強さで足を掴まれ、思わずバランスを崩す孫堅。足元を見ると、血塗れの陳紀が這いつくばりながら、自分の足を掴んでいる。その姿はもはや執念だけで生きていると言っても過言ではなく、満身創痍の体と対照的に瞳だけが爛々と輝いていた。

 

「くッ!不覚だったか……!」

 

 

 ――そして、この絶好の機会を狙撃手が逃すはずも無く

 

 

 

 ――自由を奪われた獲物めがけて、矢が放たれた。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 人が近づいてくる足音が聞こえる。

 足音からして複数、二人ほどのようだ。自分は気を失っていたのだろうか。部下達は、祭は、子供達はどうなっただろうか。

 孫堅はその足音を聞きながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 

 

「不様だな、江東の虎ともあろうものがこのような姿を晒すとは。」

 

 声の主は黄祖だった。

 

「まあいい。貴公の首は俺がいただくとしよう。最後に何か言いたいことはあるか?」

 

「戦……戦は……どうなった……?」

 

 震える声で、黄祖に問う孫堅。

 

「ああ、それならお前らの負けだ。袁術軍は撤退、新野城の連中も南陽に退却していったぜ。」

 

 やはり、劉表軍の勝利に終わったらしい。

 ただ一つ幸運な事があるとすれば、新野城の黄蓋たちが無事に帰れたこと。黄祖は「南陽に退却した」と言っていた。つまり、孫家は即取り潰しに遭ったわけではないらしい。そこにどんな思惑があるかは知らないが、少なくとも当分の間はこちらを粛清する気はないようだ。

 

 

「それだけか?他に何かあれば遠慮せずに言ってくれて構わない。無理に信じろとは言わないが、俺も一応は武人だ。貴公のような名高い武人の頼みとあらば、敵といえどもできる限りのことはする。」

 

 そう言って孫堅を見つめる黄祖の目は真剣だった。孫堅が黄祖と話すのはこれが2回目だが、嘘を言っているようには見えなかった。

 

 

「最後の……頼みだ……聞いてくれるか?」

 

 息をするたび、口を動かすたびに体から力が抜けていく。一言一言、体から絞り出すように言葉を紡ぐ。

 

「この剣を……雪蓮……孫策に…………ガハッ!」

 

 言葉にできたのはそこまでだった。孫堅の口から大量の血が溢れる。黄祖は頷くと、孫堅の剣、南海覇王を丁重に布で包む。

 

 

 

 (……私は馬鹿だ)

 

 今、孫堅の心の内の大部分を占めているのは深い後悔だった。

 自分がこんな謀略に手を染めたばっかりに、みんなを危険に晒してしまった。例え生還出来たとしても、どのような顔をして会いに行けばよいのだろうか。

自分を欺いた劉表や劉勲達を責める資格は無い。騙そうとしたのは自分も同じだから。結局、自分は日頃から軽蔑していた劉勲達と同類でしかなかったのだ。

 

 惨めだが、ひょっとしたら自分にはふさわしい末路なのかもしれない。最後の最後に、孫文台は欲に目が眩んでその報いを受けたのだ。

 

 

 

 娘たちは、孫呉の未来はどうなるのだろうか。

 末っ子のシャオは間違いなく深く嘆くだろう。長女の雪蓮はたぶん、一時的に荒れるかもしれない。だが最も心配なのは、次女の蓮華だ。

 

 元々あの子は真面目で責任感が強い。雪蓮や自分と違って、個人の感情や名誉よりも、家や民の平穏を全てにおいて優先していた。そのためか姉と対照的に、感情を抑えこみ過ぎる傾向がある。自分の死に際しても取り乱したりせず、理性で無理やり感情を抑えつけて己の役割を果たそうとするのではないだろうか。

 

 国家のため、民のため、感情を殺してひたすら政務に励む。それは理想の指導者なのかもしれない。だが、それは個人の幸福を捨てることに他ならない。一人の人間としてではなく、一つの機械として虚ろに生きることを意味する。それはやがて、あの子の心を決定的に壊してしまうのではないだろうか。

 

 一人の母親として孫堅は次女の事を案じずにはいられなかった。

 

 

 視界の隅に剣を振り上げる黄祖の姿が映る。

 

 

 (みんな……こんなことになって済まない)

 

 

 最期まで娘たちのことを想いながら、孫堅はその波乱の満ちた一生を終えたのだった。

 

 

       




 タイトルがネタバレ。

 ついに孫堅さん死亡。ついでにかませのクセに無駄に登場した陳紀さんも死亡。
 元々孫堅さんにトドメを刺すのは劉勲だったんですけど、あんま前線にノコノコ出てくるような度胸無さそうだったので止めました。
 


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08話:誓いを胸に

 

 

 ――江東の虎、孫堅、新野にて死す――

 

 新野の戦いと呼ばれたこの一連の戦いは劉表軍の勝利に終わった。この戦いは袁術が孫堅に命じて、荊州の統一を目指したものとされる。

 

 結果的に孫堅は黄祖によって討ち取られ、志半ばで横死。袁術軍司令官の陳紀も戦死したために、袁術・孫堅連合軍は全面敗走に至る。幸い、途中からバックアップとして参加した紀霊が混乱を最小限に抑えて退却させたため、戦死者は予想より少ないものになった。

 

 

 一方で敗北した袁術は掌を返すように劉表と講和を結び、即座に反劉表派の豪族への支援を断ち切った。完全に見捨てられた形となった豪族たちは、為す術も無く劉表へ降伏。結果、劉表はこの勝利によって荊州における地位を揺ぎ無いものにした。

 

 

 ――以上が世に伝えられている、孫堅の死である。

 だが、それは歴史の表面に過ぎない。真実が歴史の闇に埋もれてしまうことなど、別に珍しくも無いのだ。

 

                          ――後漢書・袁術伝――

 

 

 

「……もっとも、『真実』なんて『現実』に比べれば、なんの価値もありませんけどね。」

 

 誰にともなく呟くと、女は筆を動かす手を止めた。

 人は真実を知らなくても生きて行けるが、現実を知らなければ生きてゆけない。皆が“カラスは白い”と言えばそれ現実になるし、それが真実でなくても何の問題も無いからだ。むしろ多数派を敵に回す方が、後々の障害となる。

 

 だが、その多数派すらも永遠では無い。ふとした瞬間に多数派が少数派に転落し、世界の見方が変わってしまう事もあるのだ。

 

 

 袁家は変わりつつある、と張勲は思った。

 荊州への介入は結局、茶番ですらない三文喜劇に終わった。結果だけを見れば、領土の変更も起こらず、孫堅と陳紀という2人の道化が死んだだけのこと。袁術軍の稚拙な介入は失敗し、劉表軍は見事大勝利を収めた。

 

 しかし――民衆の目の届かない所で、歴史の歯車は確実に回り始めていた。袁術軍の敗北、軍部を纏めていた陳紀の死亡、孫堅の裏切りと横死――それらは袁家内部でのパワーバランスが大きく変化する事を意味する。

 軍の権威と信用は地に落ち、代わりに全てを解決したのは『外交』だった。

 

「私が子供の頃、戦争を始めるのはいつだって豪族か軍人だったんですけどねぇ。いつの間にか商人達が口を出すようになって、戦場では無く会議室で決着がつくようになってますし。」

 

 南陽では、剣と楯による統治が終わりつつある。

 代わりに筆と証文を携えた人間が、いずれ我が物顔で南陽を闊歩するだろう。戦争は戦場だけのものでは無く、書類上や会議室まで及ぶ。数にモノを言わせる袁術軍ともなれば、その割合は益々増大する。そしてこの傾向は、袁家が『質より量』を重視する以上、より強化されていくだろう。

 

 それが良い事なのか、悪い事なのかはまだ分からない。問題は、自分が彼らとどう付き合っていくかだ。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 一週間後、新野の戦いの生き残りである黄蓋は真実を伝えるべく、孫家の主な面々を招集していた。部屋には現当主となった孫策、筆頭軍師の周瑜などが集まっている。

 ただし、孫権は事情聴衆のために劉勲に呼び出され、この場にはいない。もちろん本音は孫策らが暴発した場合に備えて、孫権を事実上の人質として確保することにある。

 

 

 

 

 

「……それで、母様が死に関係ありそうなことって?」

 

 黄蓋を真っ直ぐに見つめながら孫策が問う。その顔にいつもの快活さは無く、完全に憔悴しきっている。孫堅の死を告げられた直後、彼女はその死を認められずに一晩中、感情の赴くままに荒れていた。葬式のときも、たくさんの人から弔問されていたが、ほとんど耳に入っていないようだった。

 本音を言えば、もうしばらく傷を癒す時間が欲しかった。現に末っ子の孫尚香は今でも泣き続けている。だが孫家の当主としての立場が、孫策にそうすることを許さなかった。

 

 

「覚悟はできてます。何が……文台様の身にいったい何があったのですか?」

 

 次に口を開いたのは周瑜だった。孫堅の死の直後、一時的に孫策に代わって事態を収拾し、袁家との交渉に当たったのは彼女と孫権だった。本来なら孫策の仕事であったが、当時の不安定な精神状態では、とても政務に当たらせるわけにはいかなかった。

 無論、周瑜とて平然としていたわけではない。周瑜にとっても孫堅は母親のような存在だっただけに、その悲しみは孫策に勝るとも劣らないだろう。

 

 だが、冷静な彼女はこういった時こそ冷静に事態を収拾する必要があることを理解していた。孫堅の死によって発生した混乱に乗じて袁術が、旧孫堅軍兵士や彼女の持っていた朝廷での地位を吸収するのを、誰かが止めなければいけない。今後のためにも、袁術が孫堅の遺産を食い潰そうとするのを防ぐ必要があるのだ。

 もっとも、目の前の仕事に集中することで悲しみを紛らわそうとしているのかもしれないが。

 

「今後のためにも、私達には文台様に何があったかを知る必要があります。」

 

 強い口調で、周瑜は黄蓋に断言した。

 

 

「うむ。つらいかもしれぬが、落ち着いて聞いてくれ。」

 

 孫策、周瑜を順に見渡した後、黄蓋は自分の知る全てのことを話した。

 陳紀が自分達と劉表の共倒れを狙っていたこと。劉表から使者が来たこと。その提案に乗って陳紀の裏をかこうとしたこと。そこから先は何があったか黄蓋も知らないという。

 

 

 だが、周瑜はその情報から今回の真相の、おおよその予想がついた。

 

「……見事に嵌められた、ということか。」

 

「冥琳、それはどういう意味?」

 

 その秀麗な顔に悔しさを滲ませた周瑜に、孫策が訝しげに問う。周瑜はやや間を置き、あくまで予想だから、と前置きした上で自分の推測を話し始めた。

 

 

「……まず、今回の戦いで一番得をしたのは劉表だ。」

 

 劉表は戦争の後、荊州の平定に乗り出して反対派をほぼ粛清することに成功。不安定だったその地位も、今や盤石なものになっている。

 

 

 

「その程度は周知の事実だが……もう一つ、得をした勢力がいる。」

 

 もう一つの勝者――それは新興貴族と商人を中心とした改革派だった。

 今回の介入を主導したのは、影響力の回復を狙った陳紀を始めとした軍部や保守派の人間。一方で劉勲ら改革派は、そのほとんどが介入に反対していた。ここまで不様な敗北をした以上、介入に賛成した者には厳しい責任追及がなされる。

 

 袁家内部の派閥は元々、保守派・官僚派・改革派・中立派=3・2・2・3だったが、荊州への介入が失敗した事によって、賛成票を投じた主要なメンバーが責任を問われて全員失脚。さらに残った保守派同士で責任をなすりつけ合って内部分裂した挙句、一部が懐柔されてなし崩し的に改革派に鞍替えしたため、勢力図は大きく塗り替えられていた。

 

 今の袁家内部では保守派・官僚派・改革派・中立派=1・2・4・3となっている。ただし中立派は中心人物が張勲であることからも分かるように、基本的にあまり積極的に主導権を握らず、日和見主義者の寄り合いといった趣が強い。

 

 

「今や袁家の内部は、主導権争いで目も当てられない状況だ。保守派にはまだ袁一族出身の袁渙が残っているが、逆に言えば彼の他に目ぼしい人材はいない。官僚派の魯粛にしても『敵の敵は味方』の論理で、保守派の粛清に妥協的な態度を見せている。

 要するに、現在の袁家を事実上支配しているのは改革派……そういうことだ。」

 

 更に今回の反省を踏まえて改革派主導の基、反乱を防ぐために軍部以外の人間から、監視役を常設することまで議論されている。加えて軍部をシビリアン・コントロールのもとに置くべく、大幅な人事異動までが計画されているという。

 

「それだけでは無い。密偵からの連絡によれば、袁術軍は近いうちに地方公務員を大幅に増やすそうだ。当然、目的は地方豪族の監視強化だろう。」

 

 地方公務員とはいっても、その実態は中央から派遣された監督役のようなもの。名目上の理由は豪族たちの“指導”だが、それらは全て中央からコントロールされているのだ。

 

 

 

「とはいえ、ここまでの流れ自体はごくごく自然なことだ。先例も多い。だが今回の場合、気になる点がいくつかある。」

 

 そういって周瑜は不審な点を指摘する。

 

 まず、対応速度が尋常ではないのだ。

 まだ孫堅が死んでから一週間しか経っていない。敗戦という混乱を鎮めるだけでも大変なのに、改革派の動きはあまりに早かった。

 加えて言うなら、その後の劉表の荊州統一も気味の悪いぐらい手際がよかった。袁術軍を破った劉表軍は破竹の勢いで快進撃を続け、瞬く間に反乱軍を全面降伏へと追いやった。

 そして何より不自然なのが、周りの諸侯が驚くほど、すんなりと講和が決まったことだ。講和条件は『荊州を以前の状態に戻す』という内容で、要するに『無かった事にしよう』というものだ。

 

 

「通常、講和条約を結ぶ時はどちらかが圧倒的に優勢でない限り、かなりの時間を要する。今回の場合、表向きは「国内問題に集中したい相互の利害が一致した」ということにはなっている。

 だが、現実にはそう簡単に割り切れるものではない。なぜなら、お互いの体面や内部事情に加えて周囲への評判、軍事的均衡、経済効果や出費など様々な利害が絡み合うからだ。」

 

 

 さらに周瑜が懸念したのは、袁術軍と孫堅軍の死者の少なさだ。世間一般では紀霊が敗走する自軍を支えたとされているが、周瑜の知る限り紀霊はそういった冷静な判断を求められる場面で活躍できるような人間ではない。となれば、むしろ劉表軍に何らかの不備があった、あるいは手加減をした、と考えるのが妥当であろう。

 

 

 

「……つまり、冥琳は今回の介入自体が、あらかじめ仕組まれていた八百長だといいたいの?」

 

「身も蓋も無い言い方をすれば、そうなるな。実際にそう考えればすべての説明が付く。」

 

 もし今回の介入が仕組まれていたと仮定するならば、不自然なことは無くなる。

 劉勲ら改革派の素早い実権掌握も、あらかじめ根回しされていたならば納得できる。劉表との講和も、すでに講和内容が決まっていれば短期間で結べるはず。加えて劉表軍が手加減を加えれば、袁術軍も無事に退却できるのだ。

 

 その後に劉表が荊州を素早く統一できたのも、もしかしたら反乱軍に接触していた袁術軍から彼らの詳細な情報を手に入れたからなのかもしれない。

 

 

 更に、劉表にとって心配のタネは、表向きは恭順の意を示していた潜在的反対派の豪族だったが、袁術がバックにつくことでそのほとんどが重い腰をあげていた。

 

「……結果として、劉表は荊州内部の潜在的な反対勢力のあぶり出しと粛清に成功した。劉勲ら改革派も今回の介入で軍部の影響力を排除して指揮下に置いたばかりか、袁家内部の主導権を手に入れた。

 実際、保守派の失脚で空いた席の殆どは改革派で埋められている。文台様はそのために都合よく利用されたということだ。」

 

 最後に一言、くだらない、と周瑜はつまらなそうに付け加えた。

 

 派閥抗争、権力争い。

 他者を押しのけ、ただ己の利益のみを追求する。目先の利益を追い求めるあまり、長期的な国益を損なうにもかかわらず。

 

 周瑜も自身が天才であるがゆえに、後先考えずに目先の利益につられる劉勲らの考えが理解できない。知ることはできても理解はできないのだ。

 しかし、そのくだらない事のために多くの人間が資源を投じ、労力を割き、時として命すら懸けるのもまた事実であった。

 

 

 

 だが、孫策の反応は対照的だった。孫策は話を聞き終わると、それっきり下を向いたまま動かなくなった。しばらくの間、孫策は無言だったが、やがてその口から乾いた笑いが漏れる。

 

「ははは……そんな……」

 

 おかしい。本当に笑える。自分の母は優れた人間だった。それなのに――

 

 ――たかが派閥争い?

 

 ――反対派の粛清?

 

 ――なんて、くだらない

 

 

 ――そんな……

 

 

「……そんな事のために散々踊らされた挙句……母様は殺されたって言うのかぁあああああッ!!」

 

 

 それは孫策にとって認めることのできない話であった。

 絶対に認められない。孫文台の最期が、たかが権力闘争の道化でしかない?そんなことが認められるものか。認めたくはない。

 

 それは一種の倒錯した心理。優れた人物の死にはそれ相応の理由がある、といった類の。偉大な人間がつまらない理由で死ぬことなど、認められないというある種の現実逃避。

 そしてその屈折した感情は、別の逃げ道を探し出す。別の回答を導く。それはすなわち――

 

 

「――劉表、そして劉勲。」

 

 そう。倒すべき敵を。敬愛する母を殺すに足る 強敵 (・ ・)を求める。

 孫策は今は亡き母の姿を想いながら、静かに誓った。

 

 

「……母様。見ていて。必ず、復讐はやり遂げる。」

 

 ――孫呉のためにも

 

 ――民のためにも

 

 ――必ずこの地を取り戻すから。

 

 

 

「……だからどうか、力を――」

 

 

 

 ――わたしに、力を。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 孫権は袁術軍兵士達に囲まれながら、通路を進んでいた。孫堅の死において、劉勲らが黒幕なのではないか、ということには薄々感づいていた。

 

 保守派の失脚で得をしたのは間違いなく劉勲ら改革派の人間。人事部を掌握する劉勲は、その権限を利用して自派の者を次々に空いたポストにつけている。更に地方豪族を“指導”すべく公務員数の大幅増を図っているという。その狙いが、地方への影響力強化であることは言うまでも無い。正直、疑うなと言う方が無理だろう。

 

 

 だが、孫権がそれを顔に出すことは無かった。母である孫堅の死を聞かされた時も、孫権は姉や妹と違って激しく取り乱すことは無かった。最初こそ呆然としていたものの、すぐに混乱に歯止めをかけるべく、周瑜と共に必要な手を打った。袁術や劉勲に対しても、姉の代わりに冷静に対応して孫呉の分裂を防いできた。

 孫権は全ての感情を無表情な仮面の下に押し込め、為すべきことを為すことで最愛の母の死に耐えていた。

 

 

 孫権が呼び出されたのは、南陽城の中央からやや離れた、庭園の見渡せる区画にある劉勲の執務室だった。内装はそれほど多くないがその分、陳列されている装飾品には相当な一級品が使われていた。格調高い調度品に囲まれたその部屋からは、美しい庭園が一望できる。おそらくは窓から覗く庭園の景色すらも、部屋の内装の一部なのだろう。

 ざっと部屋を見渡してから、孫権は目の前にいる女性の方へ目を向ける。その女性、劉勲は椅子に座ったまま陶器製の茶壺、ティーポットを手に取る。

 

 

「いらっしゃい。甘いお菓子とお茶はいかが?」

 

 にこりと笑って優雅にお茶を注ぐ劉勲。机の上は様々な種類の茶菓子が置かれ、上品な甘い香りが孫権の鼻をくすぐる。

 

「……いただこう。」

 

 口ではそう言ったものの、手を付けようとはしなかった。母の仇かもしれない人間に気を許すほど自分はお人好しではない。ただ、劉勲が犯人だという証拠も無いため、ここはひとまず当たり障りのない対応を取ることにした。

 

 

「そんな遠慮しないでよ。別にクスリとか入れてないから、ね?」

 

 そういってにこやかにお茶と茶菓子を差し出す劉勲に、ここで断るのも無粋だろうと思った孫権は目の前の茶菓子を一つ手に取る。

 

「あ、おいしい……。」

 

 やや甘みが強いものの、とても美味しい。一緒に勧められたお茶との甘味のバランスは絶妙だった。

 

 

「でしょ?飲むお茶に合わせて茶菓子に香料を少し混ぜるのがコツなの。これには柑橘類の果汁を使って清涼感を出してみたんだけどどうかな?」

 

 たしかに言われてみれば、どこか清々しい感じがする。香りも悪くない。美味しい食べ物はそれだけで人の心を和ませるものだ。

 

 

「これは劉勲殿ご自身が作ったのか?」

 

 気づけば、孫権は自然と劉勲に言葉をかけていた。

 

「まさか。発案したのはアタシだけど実際に作ったのは専門の料理人よ。手料理は基本的に恋人以外には作らない主義なの。」

 

 あはは、と軽快に笑う劉勲。そのまま悪戯っぽい表情でお茶を啜る孫権の顔を覗き込む。

 

「どうしてもって言うなら考えてあげないことも無いケド。もしかしたら間違えて毒入れちゃうかもだよ?」

 

 

「ぶっ!」

 

 

 思わず飲んでいたお茶を噴き出す孫権。劉勲の方はというと「ヤダ、きたな~い。」とか言いながらも楽しそうに机を拭いている。

 

「り、劉勲殿がいきなり変な事を言い出すからっ!」

 

「あははっ、そんな興奮しないでよ。いくらアタシだって間違えて毒入れるほど抜けてないって。」

 

 口でそうは言っても胡散臭い事この上ない。日頃の悪評を自虐ネタにしているのだろうが、正直なところ心臓に悪い。

 

 

「はぁ……まったく貴女という人は……」

 

 つい溜息が出てしまう。思えば、こうやって劉勲と二人で、仕事以外の会話をするのは初めてだ。孫権は、笑顔を崩さない劉勲を改めて見つめる。

 

「少し気が楽になった?なんか最近、凄く無理してるみたいだったから。ちょっと庇護欲刺激されちゃったかも。」

 

 

 そういえば、この部屋へ来た時に比べてだいぶ気が楽になった気がする。こちらの身を案じてくれているのだろうか。そんな気が利くような人間には見えなかったのだが。

 本当にこの女の言うことは本気なのか、からかっているだけなのかよく分からない。

 

 そんな孫権の思考をよそに、屈託なく笑う劉勲。

 

 

 その姿は本当に楽しそうで。

 

 どこか幼くも感じられて。

 

 このくだらない時間を、劉勲は心から大事にしているように思えた。

 

 

(もしかしたら、こっちが本当の姿なのだろうか?)

 

 ふと、孫権はそんな感想を抱く。思えば、劉勲はいつも一人だったような印象があった。家族や仲間達に囲まれた自分と違って、劉勲は常に孤独で、心から信頼できる人間が彼女の周りにはだれ一人として居ない気がする。

 

 もちろん、自業自得といえばその通りだ。

 

 だが、多くの人間は自分の犯した罪、過去に対して正面から向き合えるほど強くは無い。ほとんどの者はそこから逃げようとする。目を背けて自分のように別のことに打ち込むか、あるいは何事も無かったように日常を演出しようとする。

 劉勲は恐らく後者だろう。だからこそ、こうした他愛もない会話が、彼女にとってはかけがえのないものなのかも知れない。

 

 咎人の目指す、日常への回帰。

 

 それは負うべき責任からの逃走。

 

 心の弱さが生み出す、自分勝手な行動。

 

 だがそこに孫権は、ほんの少しだけ『人間』としての劉勲を見た気がした。弱くて、自分勝手で、それでも必死に日常を営もうとする、一人の『人間』を。

 

 

 

「ま、殺す気で毒仕込むことはあるから気をつけてね。」

 

 

 

「………。」

 

 

 ……せっかくいい感じに和んできたのになんだろう、この感じ。少しでも親近感を抱いた自分に、果てしなく後悔する孫権。

 はぁ、と再びため息をつき、視線を机の上にある茶菓子に向ける。

 

 

「………。」

 

 

 なんか不安になってきた。……やっぱ毒入ってるんじゃないのか、コレ。

 

 

 

 そんな彼女の心情を知ってか知らずか、劉勲が補足に入る。

 

「あ、このお菓子達は大丈夫だよ。ここでアナタが死んだら真っ先に疑われるのアタシだし。毒殺するなら犯人が分からないようにやるから。」

 

 

 なんと説得力のある言葉だろう。理路整然としていて反論の余地が全くない。

 少し悲しくなってきた孫権は、一旦話題を変えることにした。

 

 

「……それで、私に何か話があるのでは?」

 

「ああ、そうだったわね。じゃあ、本題に入るとしますか。」

 

 

 最後に一口、お茶を飲むと劉勲は態度を改めた。心の中まで見通すような、澄んだ緑色の目で真っ直ぐに孫権を見つめて、本題を切り出す。

 

 

 

「アナタ、これからアタシ達に協力する気は無い?」

 

   



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09話:傷痕

   
「さぁ!今すぐ僕と契約して、キミも“同志”になってよ!」
   


                    

 

「アナタ、これからアタシ達に協力する気は無い?」

 

 

 

 唐突に、劉勲から投げかけられた言葉。

 

 

「は?」

 

 孫権は思わず気の抜けた声を出してしまう。今の彼女のきっと面白いぐらい間抜けな表情をしているに違いない。

 

 孫呉に協力を求める?よりにもよってあの劉勲が?

 孫権で無くとも驚かずにはいられない発言。だが、劉勲はいたって真面目だった。もし冗談ならばもっとマシな冗談を言うだろう。

 

 

「どういう意味だ?」

 

 辛うじて言葉を紡ぐ。まずは真意を確かめなければ。

 

 

「う~ん、聞き方が悪かったのかなぁ。こう言ったら分かるかしら……アナタ、こっち側(・ ・ ・ ・)に就かない?」

 

「!!」

 

 一瞬、言葉を失う。ややあって、孫権の体が震え始める。

 

 

「……貴様、私を馬鹿にしているのか!?我ら孫家の土地を奪い、母様を殺しておいてぬけぬけと!我らが貴様らなんかの言いなりなるとでも!?」

 

 いつになく声を荒げる孫権だが、劉勲は一転してそんな彼女を冷やかな目で見つめる。

 

 

「ねぇ、アタシの話ちゃんと聞いてた?アタシが協力して欲しいって言ったのは『孫家』じゃなくて孫仲謀、アナタという『個人』なんだけど。」

 

「なっ……!」

 

「知っているんだよ?アナタは孫呉の未来について他と違う考えを持っていることも、孫家の主流を占める拡大路線に納得していな事も、ね。自分の理想を現実にしたいとは思わないかな?もしアタシ達と組めば――」

 

 

 そこから先は孫権の耳に入っていなかった。つまり、結局のところ劉勲は孫権にこう言っているのだ。

 姉達と手を切れ、協力すればお前を当主にしてやる、と。

 今度こそ、本当に今度こそ孫権の怒りが爆発した。

 

「ふざけるのもいい加減にしろっ!私に姉様達を裏切れというのか!」

 

 気づけば、孫権は全身を怒りに支配されていた。孫呉を裏切れ、という劉勲の誘いは当然だが、それ以上に母や姉と、自身の考えの違いを見抜かれ、それを利用されたことに腹が立った。

 

「確かに私は母様や姉様と違う考えを持っている!だが、だからといって家族や付き従ってきた家臣達を裏切れるものか!」

 

 心の奥からこみあげる激情を止めることができない。母の死から抑え続けていた、全ての感情が溢れ出したようだった。

 

「自分の利益しか考えない貴様と一緒にするな!孫呉の未来に比べれば私個人のことなど取るに足らないことだ!ましてや、姉様をとって替わろうなどと!劉勲、これ以上戯言を抜かすなら……」

 

 喉まで出かけた言葉が、それ以上先に進まない。我に帰った孫権は、自分が置かれている状況を改めて自覚する。

 

 

 

「……抜かすなら、何?」

 

 

 

「…ッ!」

 

 迂闊だった。失念していた。今の孫家は、袁術軍から見れば紛れも無い“潜在的反乱分子”だ。この女は、その気になれば孫呉そのものをまとめて『存在しなかった』ことにできる。

 

 

「どうしたの?急に固まっちゃって」

 

 心の奥まで見透かすような劉勲の目が、自分を捉えて離さない。孫権の顔から血の気が引き、冷汗が全身をつたう。

 

「なぁに?言いたいことがあるならハッキリ言った方が、後々気が楽になるわよ?」

 

 喉がカラカラになり、それ以上言葉を続けることはできない。場の雰囲気に飲まれて思わず窒息しそうになる。 

 

「……それとも、アタシに言えないようなコト言おうとしていたのかな?う~ん、お姉さん、ちょぉっと気になるなぁ?」

 

 今度はねっとりと、絡みつくような視線を向けたまま、劉勲は微笑を浮かべる。

 

 

 沈黙――時間にすればほんの数十秒だが、孫権には、とてつもなく長い時間に思えた。

 

 

 しばらくして、ふっ、と劉勲が肩の力を抜く。すると、それまで彼女の体から発せられていた威圧感が嘘のように消え去る。

 

 

「まぁ、今のは無かったことにしてあげる。……だけどね、アタシがなんでこんなコトを言ったのか分かって欲しいの。」

 

 劉勲は打って変って柔らかい表情になり、孫権に微笑みかける。そして歌うように、滑らかに言葉を告げる。

 

「あの事件から、ずっと冷静に事態を収拾したアナタだからこんな話をしてるのよ。それを成し遂げた、他の誰でもない『孫仲謀』だから話そうと思ったの。」

 

 

 あの事件――未だ様々な憶測が漂う孫堅の死――あれから混乱する孫家を取りまとめ、冷静に事態を収拾し、実際の政務にあたったのは孫権だった。孫権は理解していた。今、この時期が正念場だと。ここで混乱を抑えなければ孫呉は袁家に吸収されてしまう。

 自分には姉のような武も、母のような知略も無い。できるのは地道に、黙々と日々の仕事をこなすことだけだ。だから、全ての感情を仮面の下に隠して為すべきことを必死に行った。悲しみに沈むことは許されなかった。

 

 

「アナタなら過ぎた野望を持たず、国と民を大事にできる。自分の野心のために人民を巻き込んだりしない。」

 

 主に民政を担当していた孫権には、為政者の行動がいかに民に大きな影響を与えるのか学んでいた。その中で、彼女は武人や貴族、名士とは違った、農民や商人達の思考にも深い理解を示すようになっていった。

 

 

「ほとんどの人民にとって自らの上に立つ者が誰かなんて、大して問題じゃないのよ。平和で、税金が安ければ主君がどんな鬼畜だろうが関係ない。

 逆にどんなに高潔な人物だろうが自分の生活を守ってくれなきゃ邪魔なだけ。立派な理想を掲げた挙句に戦争でも起こされちゃ、むしろ迷惑なのよ。」

 

 そう、それこそが孫権が学んだ人民の考え。日々の暮らしで精一杯の者に、道徳だの国だの理想は関係ない。儒教では「徳」が強調されているものの、現実で多くの人民が求めるのは安定した暮らしのみ。為政者の「徳」そのものに興味はない。

 それなら為政者とは?王の、貴族の、名士の存在意義とはなんなのか。一般の人民との違いは何のためにある?

 

 最も分かり易い違いは権力、財力、武力などに代表される『力』であろう。

 それならば、それらの『力』は何のためにあるのか?

 

「『位高ければ徳高きを要す』ってね。力を持つ者はそれを持たない者への義務を果たすことで釣り合いを取るべきなんじゃない?」

 

 劉勲の言葉は、まさに孫権が考えていたことだった。

 為政者であるならば、自身の幸福は2の次であり、その身を呈して全てを国と民の為に捧げるべきだ。そのために為政者には『力』が備わっているのではないのだろうか。その『力』は民のために使うべきであり、決して為政者個人のために乱用してはならない。

 母、孫文台が多くの民から慕われていたのも、その武力と知略で賊を討伐するなどして、民の平和を守っていたからに他ならない。民が求めるものは『孫呉のもたらす平和』であって、『孫呉』そのものでは無いのだ。

 

 ――それが、孫権のたどり着いた結論だった。

 

 

 この時代では『民は為政者に仕えるもの』という考えが一般的である。それだけに、為政者と民の関係は所詮、ある種の「契約」に過ぎない、という孫権の考えは異端であった。

 別に孫権が冷淡だというわけではない。ただ、孫権は民に接しているうちに、そういった「現実」があることを知ってしまっただけなのだ。そして孫権の、ややドライな考えは、どちらかと言えば義理人情を大事にする他の家族との間に溝を作っていた。

 

 

「アタシが気づいてないとでも思ってた?アナタ(・ ・ ・)は他の家族と違う(・ ・)。」

 

「そんなことは……」

 

 

 ……ない、とは言えなかった。自分の考えが他の家族と異なっていることは、孫権自身が誰よりも知っていた。

 為政者としてのあり方だけではない。

 自分は母や姉と違って、大きな野心も無く、戦に意味を見出すことも無かった。国を、民を豊かにし、平和を保つことが何より大事だと、口には出さずとも思っていた。それゆえ、天下統一を目指す母や姉にはどうしても心の底から納得することが出来なかったのだ。

 

 母が亡くなった時も、即座に仇討ちを誓った姉や妹と、同じような結論に達することはできなかった。

 母の死は悲しい。だが、犯人を見つけたとして、裁きを下したとして、それは結局ただの自己満足ではないのか?仇を討ったとしても、母は2度と帰ってこない。

 

 

 あれから劉表は、領内での地位を盤石なものにした。国内が分裂寸前だっただけで、荊州自体はもともと豊かな土地だ。劉表自身が有能であることもあいまって、今や彼の領土は以前にも増して豊かに、より強くなっている。それに挑むならこちらも多くの犠牲を覚悟しなければならない。

 

 しかし、孫権はそうまでして仇討ちをしようとは思えなかった。母の仇討ちはあくまで孫家の問題であり、それに民を巻き込むことが正しいと胸を張って言えるのだろうか?為政者は私情に乱されずに、民のことを第一に考ねばならないはず。自分達が私怨を抑えて民が平和に暮らせるならば、そうするべきなのではないだろうか。

 

 

 だが、孫家の内部では仇討ちを望む声が強く、自分のような意見は少数派だ。それに、ここで自分が強硬に反対すれば、孫家は2つに割れてしまうだろう。

 だから、自分を抑えた。次女として、あくまで姉を支える「影」であろうとした。しかし、胸の中に残ったわだかまりが消えることは無かった。

 

 

 

「……アナタの姉、孫策が何を為そうとしているか、その結果何が引き起こされるか、アナタの方がよくわかるんじゃない?」

 

 やはり劉勲は気が付いていた。

 そう、姉上は母上の遺志を継いで袁家から独立する気だ。そして母様の仇である劉表を討ち、いずれは天下に覇を唱えるつもりでいる。その道には多くの犠牲が付き纏うだろう。多くの民が血を流し、親しい人間が居なくなってしまうだろう。そんなことは分かっていた。

 

 

 かつて天下を目指す母に同様のことを質問した時、僅かな沈黙の後に母はこう答えた。

 

“そうね。蓮華、あなたの言っていることは正しい。天下を目指すには多くの犠牲をともなう。……でもね、滅びゆくこの国を、何もしないまま黙って見ていられるほど私は諦めがよくないの。”

 

 黙って見ているだけでは何も為せない。誰かが変革をもたらさなければ、やがてこの国は荒れ果ててしまうだろう。自分や親しい人だけが逃げることはできない。だからこそ、より良き未来のために天下を目指すのだと、母は答えた。

 

 孫権はそこにひとつの希望を見た。

 だから、より良き未来のためにある程度の犠牲は必要だと割り切った。割り切ろうとした。

 だが、その希望を託した母上は死んでしまった。あっけないぐらい簡単に倒れてしまった。みんなが平和に暮らしていける世を作るために天下を目指した母は、もういないのだ。

 

 母は偉大な人物だった。為政者としても、母親としても心から尊敬できる人だった。だが、容赦ない現実の中では、そんな偉大な母でも権力闘争の犠牲となって倒れてしまうのだ。

 

 

「過ぎたる野心はいずれその身を滅ぼす。そればかりか、時として他をも巻き込む。」

 

 劉勲の声が、空っぽになった、孫権の心に響く。

 孫権が母の死から学んだことは、正にそれだった。人が一生の間に出来ることは驚くほど少ない。全てを救えるほど、一人の人間の手は広くない。

 

 分かっている。

 そんなことは嫌というほど理解した。姉の掲げる孫呉の未来は民を戦火に巻き込む。自分にそれを止める力は無いし、他に妙案があるわけでもない。

 

 でも、それでも――

 

 

「――それでも、アナタは……民を、家族を、全てを護りたい?」

 

 そうだ。自分は、みんなを護りたい。天下に興味など無い。万民を幸せに出来る、などとは思わない。ただ、家族と、臣下と呉の民が笑って暮らせればそれでいい。でも、そのために傷ついて欲しくない。そこまで割り切れるほど、自分は強くない。それでも、諦めたくは無かった。

 

「私は……」

 

 

 それは余りにも未熟で――

 

 都合が良すぎて――

 

 だけど譲れない――

 

 

「私は……!」

 

 

 ――他の誰でもない『孫仲謀』の想い。

 

 

「……身の周りにある、その全てを護りたい。」

 

 

 自分でも驚くほど自然に、孫権の口から言葉が出た。決して大きな声ではないが、強い、想いのこもった声だった。

 

 

 

「……とはいえ、私は武力も知略も皆に劣る。こんな私が何かしようとした所で、皆の負担になるだけではないだろうか?」

 

 続けて、他ならぬ孫権自身の口から自嘲気味に出たのは、否定の言葉。偉大すぎる母と姉、優秀な部下達。そんな彼女達と比べれば自分の能力などたかが知れている――突出した才能が無いだけに、孫権が周囲の人間に対し、ある種のコンプレックスを抱くのも無理は無い。

 しかし、劉勲は孫権の言葉を最後まで聞かずに、首を横に振って遮る。

 

「いいえ――そんなアナタだからこそできるのよ。ううん、アナタにしかできない。」

 

 そんな自分だからこそ出来るのだと、完璧じゃないからこそ弱い者を理解できるのだと、劉勲は言う。民の大多数は、孫堅や孫策のように強くは無い。そんな民を統治するには、その弱さを理解できる人間でなくてはならない。

 

 

「……しかし、具体的にどうすればよいのだ?理想を語るだけでは何もできない。それを可能にする……『力』が必要だ。私にはそれが無い。」

 

 語るだけの聖人に価値は無い。どんなに素晴らしい考えを持っていても、確固たる『力』が無ければ、何も出来はしないのだ。

 

 

「無いなら借りればいいじゃない。どうして他人に頼っちゃダメなの?」

 

 優しく、諭すように劉勲は告げる。

 

「何も急ぐ必要は無いのよ。周りに助けてもらいながら、内側からゆっくりと変えていくこともできる。」

 

 内側からの変革。

 それは、孫権も一度考え、諦めていた考えだった。孫家にも袁家にも協力の意思は無く、自分にそれを為すだけの力も無い、そう考えたから諦めていた。

 

 ――だが、本当にそれでいいのだろうか?

 

 ――やってみる前から諦めて、結果を姉に全てを押し付けて、本当に自分は満足できるのか?

 

 

 

「ま、今すぐにとは言わないからじっくり考えなさい。でも、これだけは心に留めておいて。」

 

 己の思考に沈んでいた孫権を、劉勲の声が現実に引き戻す。

 

 

「アナタならできる。その力があるはずよ、孫仲謀。アナタこそが、孫呉の主にふさわしい。」

 

 

 劉勲は真っ直ぐに孫権を見つめていた。その目には一点の曇りも無い。

 

 思わず孫権は劉勲から目をそらしてしまう。どうやら劉勲は本気で自分のことを評価しているように見える。

 しかし、それは孫権をより一層困惑させた。

 

 この女は信用できない――己の勘がそう告げている。

 だが、それと同時に孫権は軽い驚きを覚えてもいた。劉勲の視線、そして声に思わず引き込まれそうになっている自分がいるということに。

 

 これまで、自分は常に『影』だった。孫家の次女として表舞台で太陽のように輝く母と姉を支える『影』。

 華々しく戦功を立てる彼女達を裏方から、陰ながら支えてきた。決して目立ちはしないが、それでも欠くことのできない大切な役目。

 

 自分は弱い。自分には母のように戦上手ではないし、姉のような武もない。だから、裏方から孫呉を支えることに不満はない――はずだった。

 

 

 それでも、ふとした時に思うことがあるのだ。家臣達や民が自分を見るとき、見ているのは自分ではなく、その先にある母や姉ではないのかと。孫仲謀を見ていても、求めているのは孫文台、孫伯符なのではないだろうか?

 

 

 だが、劉勲が求めたのは「孫文台の娘」でも「孫伯符の妹」でもない――ありのままの自分、「孫仲謀」だった。

 

 それに気づいた時、孫権はこの不思議な気持ちが何なのかを理解した。

 

 (……劉勲の目は、最初から自分だけを映していた。)

 

 そうか、だから彼女の言葉はこんなにも、こんなにもこの胸に響くのか。その原因は仕事振りを褒めてくれた事でもなく、理想を認めてくれたことでもなかった。

 何のことは無い。目の前にいる劉勲が純粋に、『自分』を求めてくれたことが嬉しかったのだ。

 

 

 

 外を見れば、既に日は沈みかけていた。

 

「そろそろ時間みたいね。あんまり夜まで長話してると不審に思われるから、お茶会もこの辺でお開きにしましょうかしら。」

 

 どうやら思った以上に話し込んでいたようだ。有力者同士の長話が他人知られれば、悪い噂しか立たない。慌てて退出しようとする孫権の耳に、劉勲の声が響く。

 

 

「――覚えておいて。アタシ達は常に『同志』を求めている。後は、アナタ次第よ。」

 

 

         




 孫権「こんなわたしでも(ry。」

 劉勲「キミ次第だよ!」

 ちなみにこの回、最初はもっと短かったんですが、あんまり簡単に劉勲さんを信用するほど、孫権さんもおめでたい頭じゃなかろうと。ということで孫権さんの心理描写を多めにしたらこの分量に。

 補足しますと、孫権さんはまだ完全に劉勲さんを信用した訳じゃないです。きちんと話し合えば解り合えるかも、ぐらいの感じですね。
   


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第二章・混沌の大地
10話:五ヵ年計画



 「よし。公共事業をやろう……政策名は、『五ヵ年計画』だ!」
 


  

                           

 孫堅の死から数ヶ月後、劉勲は人事局長に就任。袁家の事務全般に深く関わるようになっていた。この急な出世の背景には、荊州介入の失敗がある。責任追及で更迭された袁家幹部は全体の2割以上に及び、急きょその穴埋めが必要となったからだ。

 

 それ以来、南陽群は以前に比べて大きく変わった。

 まず劉勲らは腐敗を一掃し、犯罪と不正蓄財の摘発を進めてそれを民へと還元、産業の活性化を図った。格差を是正するために累進課税を導入するとともに、全体的な税率を引き下げ、貧困の撲滅にも力を入れた。結果、当初の予想を上回る経済成長を達成して目覚ましい発展を遂げた――

 

 

 

 

 

 ――わけがない。

 

 

 

 むしろ全くの逆で、劉勲は全くと言って良いほど政府政策や社会問題には手をつけなかった。

 

 外交的には劉表と和解した後は特に朝廷などに働きかけるでもなく、かといって積極的に他の諸侯とも同盟を結ぼうとしない。経済力をちらつかせて常に一定の距離を保った状態で、他の諸侯が脅威を覚えるほど強権的に振舞うでもなく、侮られるほど下手に出るでもない状態。

 

 経済でも基本的に域内関税の撤廃を含む規制緩和ぐらいしか行わず、「成功も失敗も個人の問題」として完全に放置したのだ。

 

 

 とはいえ、経済や各地の情勢に明るい劉勲の発言は、しばしば政策決定にも大きな影響を及ぼしている。

 彼女によれば“政府の能力には限界があり、下手に行政が介入するより、市場に任せた方が最適な資源配分が可能になる”という話である。

 そのうえ劉勲は、天子の商いへの介入を卑しい事としてその排除を主張する儒家を利用して、それを正当化。袁家では次々に規制緩和が行われ、中華でも有数の自由放任主義政策がとられていた。

 

 そもそも劉勲の主な支持基盤は、都市の金満貴族や大商人であり、彼らの意向を無視する事は自殺行為に等しい。それゆえ『自由な経済活動』を掲げた商人達に流されるまま、規制緩和を行うよう人民委員会に働きかけざるを得なかった。

 

 

 それらの政策は、貨幣経済ならびに商品経済を活性化させ、南陽群の経済規模は年々拡大。更に袁家は溢れ返る資金力で各地の諸侯へ投資を行い、徐々に自身の経済圏に組み込んでいった。南陽郡は『中華の銀行』として力を貯えてゆき、ある種のバブル状態にあったと言っても良いだろう。

 

 しかしながら、問題が無かった訳では無い。というより、むしろ問題の方が目立っていたと主張する者もいる。商業資本を重視したと言えば聞こえは良いが、裏を返せば商人と結託して利益を貪るということ。商人と役人の距離が縮まれば、それはそのまま癒着と腐敗の温床となる。

 商人から多額の 寄付 (・ ・)を受け取る者も後を絶たず、それを裁判所に訴えたところで―― 金で裁判員を買収→証拠を隠ぺい→証拠不十分→疑わしきは罰せず→無罪放免 ――といった形でほとんど相手にされないのが現状だ。

 

 また、内政に関しても初期の劉勲は地方豪族を敵に回す事を恐れ、彼らの人気を取る為に地方分権化を推進。『小さな政府』路線を推し進め、徹底的に不干渉主義を貫いていた。

 

 

 結果、南陽群は次のように揶揄されることになる。

 

 ・政府…君臨すれども統治せず

 ・議会…会議は踊る。されど進まず

 ・司法…疑わしきは罰せず

 ・外交…栄光ある孤立

 ・内政…有益なる怠慢

 

 要するに、何もしちゃいない。

 

 自由放任どころか、ただ仕事サボっている様にしか見えない。「政府の方針」とかじゃなくて「政府の存在そのもの」に疑問が持たれる有様である。

 

 しかしながら、すでに豊富な資金力を手にした南陽商人達は、各地に多額の貸し付けや投資を行い、莫大な利益を挙げていた。彼らのもたらす富は南陽群全体を活性化させ、経済は順調に成長していた。

 

 そのため、ほっといても好景気なら自らが介入する必要がない、と劉勲は考えていた。というか下手に口出しして、失敗した時に自身の評判が低下することを恐れた。

 “テメェの評判なんざ、これ以上下がりようがねぇだろうが。”とは紀霊の評だが、そこは気にしない方向で。

 

 

 尤も劉勲は、政策決定にあまり口出ししなかったというだけで、権力拡大には熱心だった。書類上は人事部の総括だけだが、実際にはその権限を生かして各部署に自分の息のかかった人間を送りこみ、権力の拡大を図っている。

 しかしながら実際には権力不足によって、リスクの高い政策論争などは避けざるを得なかったというのが本音だろう。

 

 

 

 

 一方でそんな劉勲と対照的に内政に力を入れたのが、魯粛と孫権、そして楊弘である。

 孫呉内部では“まずは軍の再建に力を注ぐべきだ”と武闘派を中心に反対があったものの、孫権は“今現在、国内が荒れている時こそ、民の支持を得る絶好の機会です。”という理由を掲げて武闘派を説得して回った。

 

 孫策と周瑜は、以前にも増して精力的に仕事をこなし始めた孫権に僅かに疑問を抱くも、それを追求することは無かった。未だ孫堅の死の影響は大きく、一刻も早く孫呉が健在であることを内外に示さなければならなかったからである。

 

 孫策達も仕事に忙殺され、孫権の変化も悪い方向へ向かうものでは無かったために、とりあえず“袁術が油断するまでは、おとなしく従っているふりをする。感づかれないよう、今まで通りに業務を続行するように”との決定がなされた。その後は積極的に賊を討伐するなどして、孫呉は着実に名声を高めていったのである。

 

  

 魯粛は魯粛で民政や土地開発に携わり、道路や運河を建設するなどして物流関係を整えた。石材で舗装され、南陽群全体に網の目状に張り巡らされた街道は商人のみならず、軍隊の迅速な移動をも可能にする効果があった。

 

 

 また、改革派から楊弘という文官が公務員の大幅増員を実行していた。その狙いは2つあり、一つは失業対策、もう一つは地方豪族に対する反乱防止措置だった。

 

 南陽群の太守は袁術であるが、袁家が実際に治めている領地はそこまで大きくない。その実態はせいぜい『南陽郡最大の豪族』程度で、地方豪族は依然として高い自主性を保っている。一応、地方公務員を地方に派遣することで曲がりなりにも監督しているが、反乱の危険は常に付きまとっていた。

 

 故に先の戦争における孫堅の裏切りは大きなショックを与え、袁家首脳部は地方豪族が裏切らないよう、新たな対策を取ることに迫られていた。

 当初は豪族の力を奪うために「嫡子のいない豪族は取り潰す」などの強硬策も検討されたものの、下手をすればむしろ反乱を助長してしまう。そのため、楊弘の提案でもっと穏健な案――地方公務員の数を増やして豪族を取りこむ――が採用されたのだった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 みなさん、こんにちは。劉勲です。

 なんだかこういうのも久々な気がしますが、気にせずに行こうと思います。

 唐突ですが、今回は南陽の変化とそれに対する改革の話をしたいと考えています。

 

 

 ともかく、魯粛が街道を整備したおかげで物流の流れが良くなり、カネ・モノ・ヒトが集まるようにはなったんですが新たな問題も。

 

 そう、格差と難民、失業に犯罪です。

 

 自由化路線を推し進めた結果として生じた「勝者」と「敗者」の格差が、ここに来てより明確になっています。ですが、格差を是正するシステムが存在しないため、金持ちはさらに金持ちに、貧乏人はその日その日を生き延びるのに精一杯で、長期的な視野で計画を立てられず、より貧しくなっていくという見事な悪循環が。

 ……といっても、法的には規制が存在せず、生まれで差別されることはだいぶ減ったので、他の地域よりは成り上がりのチャンスは多いんですけどね。逆にいえば、落ちぶれる可能性も高いですけど。

 

 

 で、景気の良い南陽群に他の州から難民が大挙して押し寄せ、南陽周辺には瞬く間にスラム街が。

 

 治安の悪化に加え、貧富の差が増大。

 困窮した難民の一部が身売りして奴隷となったために、安い労働力を確保した資本家の大土地所有が拡大し、中小自作農民が没落して街には失業者が溢れ返る羽目に。おまけに移動の自由化によって、豊かな地域への流入が発生して地域間格差も無視できないレベルで拡大中。

 

 しかも規制緩和の影響が格差や難民と相まって失業率が悪化し、中小自作農民による大規模な移民排斥運動も起こり始めています。

 南陽では大富豪や無一文から成功する者が現れる反面、その富を非合法な手段で手に入れようとする者が後を絶ちません。都市では失業者による犯罪が急増し、殺人に強盗、レイプ、誘拐、密売などを扱う犯罪組織が活性化。性病の蔓延に加えて犯罪組織による官僚の買収や癒着も進み、無法地帯が各地に現在進行形で発生しております。

 

 ちなみに辺境にある西涼なんかでは全員が軒並み貧しいために、逆に犯罪が起こらないというのは一種の皮肉ですね。

 

 

 いやぁ、経済成長に比例するかのように格差と犯罪が増大していくとか、どこの南米なんだか。南陽市も前世で例えるなら、一日に平均50件は殺人事件が起こるというヨハネスブ……いやなんでもないです。

 

 

 

 また基本的に物流はカネ>モノ>ヒトの順で移動するので、そのギャップも問題に。

 分かり易く言うとインフレです。

 モノやヒトに比べてカネは移動速度が速いので、投資先を求めて大量のカネが南陽群に流入。貨幣供給量の増加によって物価が上昇し、それが生活を圧迫し始めています。さらに投機目的の先物取引がこれに加わわり、土地や食糧の価格が高騰。貧しい人間は土地を持つことが一層困難になり、農奴として大地主の小作人になって搾取されるという負のスパイラル。

 

 

 結局、魯粛の要請により、自分と魯粛、張勲の3人が中心となって『第一次五ヵ年計画』発令して事態の収拾を図りました。

 金のかかる公共政策なんかは、失敗した時に叩かれるので最初は渋ったんですが、民衆の事を考えると何もしない訳にもいかないし。その行為自体に大した意味は無くとも、『何か手を打った』というポーズが政治家には大事なんです。

 

 まぁ、それはともかく、五ヵ年計画の主な政策は以下の4つです。

 

 ・集団農場(コルホーズ)の建設による農業の集団化 by 劉勲 

 ・鉱山開発、水道、道路網の整備、運河建設などの公共事業 by 魯粛

 ・治安維持のための警察組織である「中央公安局」の設立 by 張勲

 

 

 集団農場政策は、各農村共同体をベースに農地や農業機械を共同利用しようという試みですね。ターゲットは一応、中小自由農民の救済です。モノを共同購入し、共同利用すれば一人当たりの負担額が減るため、値段の張る鉄製農具や家畜、個人では手の届かない水車なども比較的簡単に手に入る、というのが第一の利点です。まぁ、実際には水車なんかはよっぽどカネのある農場じゃなきゃ無理なんだけど、そこは融資してもらうって手があるし。

 

 自分達金貸しの側としても、集団に融資すればお互いがグループ内で監視しあうのため、借金踏み倒されるリスクも少なくて大歓迎です。農民は収入が増えて、自分達金貸しにも利息が入ってお互いハッピー。うまくいけば理想的なビジネス関係です。……たまに破産した農場から、農民が一斉に集団失踪したりするけど。

 

 

 第二の利点としては、農地を共有することで区画整備が進んで、より効率の良い農地の形にできるということですかね。

 

 

 第三の利点には、戸籍管理と徴税がやり易くなったことがあります。つーか実際にテストしてみて分かったんですが、戸籍に登録されてない人間の多いこと。戸籍管理の一番の理由は徴税の為ですが、農民はいつの時代も戸籍に登録せずに脱税を図ろうとするもの。戸籍登録と徴税のコストは嵩む一方でした。

 ちなみに私の前世でもこの問題は改善されたとは言い難く、クロヨンとかトーゴーサンとか言われてるように、自営業者と農民の課税所得捕捉率は低いまま。逆に工場労働者や会社勤めのサラリーマンは高効率で徴税出来ています。

 

 なら、会社勤めの如く農民を集団化させて、まとめて管理・徴税してやろうと。集団農場では全員まとめて一括管理するので、一人一人別個にやるより仕事が早いです。しかも脱税をするなら全員を説得せねばならず、誰か一人がチクったら即アウト。結局、囚人のジレンマによって誰も脱税出来ないという訳です。

 

 まぁ、流石に一斉摘発すると強制収容所に入りきらないので――『未登録で脱税をした者でも、1年以内に集団農場に入れば不問にする。それ以降は見つけ次第、片っぱしから強制収容所に送る。』――ってことで半強制……じゃなくて自主的に集団農場に入るように促進しました。

 

 

 

 魯粛の政策は、どちらかというと失業対策の意味合いが強いです。どっかのエライ人が「仕事が無ければピラミッドでも作ればいい」とか言ってましたが、それよりもうちょっと役に立つ公共事業をやろうと。

 

 ただ、鉱山開発については、労働条件が劣悪過ぎて人手が集まらなかったので、犯罪者を無償で強制労働させています。死刑よりこっちの方が人的資源を有効活用できるので、南陽群の死刑執行率は中華でも屈指の低さです。……でも犯罪件数はぶっ飛んでるので、死刑執行数は多いけど気にしない。

 

 

 

 そして張勲の政策は、前に金融規制の話があった時に決定されたことを実行に移したものです。急増する犯罪に対応する必要もあるし。装備なんかはほとんど軍と同じですが、指揮系統が別で、主任務が暴徒鎮圧、治安維持、犯罪捜査であるところが特徴です。ライオットシールド、じゃなくて盾と腕章に「公安」って書いてあるので、そこで軍と見分けます。とにかく治安が中華最悪レベルなので、早くこれを何とかしないと……。

 

 

 

 

 何はともあれ、自分がきっかけを作ったとも言える変革は、確かに南陽で予想以上の繁栄をもたらしました。

 しかし、眩しい光を灯せば、同時にまた影もできるもの。目覚ましい発展の裏では失業率の増加や所得格差の拡大、モラルの低下に治安の悪化といった負の側面もまた、数多く生み出されていました。

 

 

 ―― 汝の神は金貨なり ――

 

 

 今の南陽を表現するならばこれ以上ふさわしい言葉は無いでしょう。

 

 無一文から成功した名立たる大富豪が現れ、資本家が巨富を蓄える一方で政治は腐敗し、多くの人々が貧困に喘ぐ。商人が台頭する一方で、発展から取り残された地方の農民の大部分は没落。かつてあった村落共同体は崩壊し、己の利潤のみを追求する拝金主義が人々の精神を蝕んでゆく。

 

 支持の見返りに役人への利益誘導を行う高級官僚、人知れず密室で談合を行う豪族や御用商人たち。政治権力と癒着して便宜を図る商会に、有利な法律制定の報酬として多額の献金を受け取る政治家。一部の人間の利益の為、偽装や捏造、隠蔽工作などが業界ぐるみで主導されているのが現実だ。

 

 

 ――様々な矛盾を孕んだまま、底知れず肥大化し続ける歪な繁栄。

 

 やがてそれは数多の人々の欲望のうねりの中で底なし沼のように、全てを飲み込んでいくでしょう。

 

 ――その歪んだ発展は、徐々に自分の手を離れてしまって。

 

 既にどうしようもない所まで来てしまったのでした。

 

                           




そろそろ内政パートを入れてみたかったので、つっこんでみました。
 
 不景気の中でどこか一つだけ発展してる場所があったらこうなるだろうな、と思っていろいろ問題点を挙げました。
 いや、主人公の能力不足とかも一因ではあるんですけどね。


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11話:人民委員会は踊る、されど進まず

              

 孫堅の死から1年後、袁家では未だに失脚した保守派や軍部のポストを巡って、熾烈な権力闘争が繰り広げられていた。

 

 もともと袁術陣営では主君たる袁術が仕事をせず、No.2の立場にいる張勲までもが袁術のワガママに付きっきりという、異常な状態が続いている。

 そのゆえ実務の大部分はその他の幹部が代行しており、重要な案件については幹部全員の協議で決める、一種の寡頭政治が行われていたのだ。

 

 しかしながら、この協議――最近、名称が『中央人民委員会』に変更――には一つ、大きな問題があった。

 

 人民委員は皆平等とされ、所謂リーダーがいなかったのだ。

 

 名目上、最高責任者は袁術とされているが、当然ながらリーダーとして全く機能していない。そのため人民委員会では多数を占めた派閥の長が、事実上のリーダーとされる。

 かつて保守派では武官を陳紀が、文官を袁渙が纏める双頭政治を行う事でうまく業務を分担していた。しかし劉表との戦争の結果、陳紀は死亡し、保守派も大きく衰退。

 

 だが、保守派とって代わって人民委員会を牛耳った改革派には、目ぼしい指導者がいなかったのだ。その事実は官僚派や保守派に反撃の機会を与える事に繋がり、袁家内部の権力闘争をより複雑なものとしてゆく。

 

 

 ちなみに当時の次期リーダー候補として袁渙、魯粛、楊弘、劉勲などが挙げられる。

 

 リーダーとして最も妥当な人選から言えば、袁渙がそれに相当していた。袁渙は袁一族出身で、かつて人民委員会を主導したベテランでもあった。だが、所属していた保守派が大打撃を受け、その影響力は明らかに減退を見せている。しかも袁一族である事が逆に他の委員達の警戒を引き起こし、最有力候補である事がむしろ仇となっていた。

 

 もう一人の候補者、魯粛は官僚派の若きエリートとして評価されていた人物である。また、魯粛は行政官として優れた手腕を持っていたものの、政治闘争には不向きであった。

 

 対照的に改革派の筆頭候補者・楊弘は露骨に権力への野心を露わにし、事あるごとに袁渙と対立している。改革派内部では強硬派を楊弘が、穏健派を劉勲がまとめる形で成り立っている。両者は互いに協力しつつも、内心ではライバル心を抱いているのが常だった。

 

 最後に劉勲がいたが、この時期の彼女はそこまで目立つ存在では無い。スキャンダルや黒い噂はそれなりに多かったものの、政治的にはあくまで『そこそこ有能な若手の人事部長』という程度の認識だった。

 

 

 権力闘争の第一段階では、最有力候補だった袁渙と、楊弘・劉勲の連合が対立。一方の魯粛は、袁渙と政治的には近い立場にいたものの、政策面では保守派の袁渙と敵対していた。そこに目を付けた劉勲は、「敵の敵は味方」と彼女を説得。魯粛自身、「政治家同士の対立を、民衆への政策に持ち込んではならない」と考えていた事もあり、内政政策面での譲歩を条件に改革派との同盟を受諾。

 

 最終的に、魯粛が連合に与した事により、袁渙は失脚し“病気療養”することとなった。その後は楊弘、魯粛、劉勲が3頭政治を敷いており、今に至る。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「劉勲さん、お久しぶりですねー。ここが、私の執務室でーす。」

 

 柔らかな声でそう言った青髪の女性、張勲は椅子に座ったまま笑顔で席を勧める。

 

「今日はゆっくりしていって下さいね。」

 

「じゃあ、遠慮なく座らせてもらうわ。」

 

 勧められるがまま椅子に座った劉勲は、改めて張勲の部屋を見回す。

 部屋はその人の人となりを表すというが、張勲の部屋はいたって普通の執務室だった。オフィスセット一式に、来客用の机とソファー。埃一つ付いておらず、書類などもスッキリとまとめられている。

 

「へぇ……意外ね。案外、綺麗な部屋じゃない。」

 

 劉勲は素直に、思ったままのことを口にする。てっきり袁術グッズとかが大量に飾られたイタい部屋を想像していただけに、拍子抜けする思いだった。

 しかし、そんな劉勲の思いを知ってか知らずか、張勲は何も聞かなかったかのように切り出す。

 

 

「最近人民委員会で決定された、公務員の大幅増員……それについて詳しく聞きたいんですが、いいでしょうか?」

 

 つい最近、人民委員会では孫堅の反乱を受け、地方公務員の大幅増員が決定されていた。それは人民委員の一人、楊弘によって提案され、地方豪族の反乱防止と失業対策、組織の改革などが主な目的として挙げられている。

 

「まぁ、答えられる範囲でなら。」

 

「では、簡潔に質問しますね。元々、あの案を考えたのは劉勲さんじゃないんですか?」

 

「あら、どうしてそんな事を聞くのかしら?提案した人間が、楊弘だったのは意外だった?」

 

 不思議そうに首をかしげる劉勲。

 

「誰が最初に言ったにせよ、あのぐらいは簡単に考えつくわよ。根拠や目的だって目新しい者は何も無いでしょうに。」

 

「たしか大幅増員の根拠は“各地に点在する豪族たちとの連絡役である、地方公務員の数を増やして豪族たちを袁家に取り込む。同時にある程度の失業対策も見込める”でしたね。

 まぁ、自分の息のかかった者を地方に送りこんで、制御しようという試み自体は珍しくも無いですし、今更驚いたりしません。」

 

 張勲は、劉勲の言を認めるように頷く。その上で、敢えて作り物の笑顔で語りかける。

 

 

「ですが……本当に、反乱と失業対策だけですか?」

 

 

 劉勲を見つめる張勲の視線に、僅かに疑念の色がよぎった。それも、限りなく確信に近い疑心。

 

 

「ああ、そういえばもう一つあったわね。新人の増員で官僚主義を抑えこみ、より健全な運営を行う、っていう副次効果もあるわよ?」

 

 そんな張勲の内心を察してか、劉勲は敢えて皮肉っぽい口調で語りかける。

 

「確かに、そういう考え方もできます。ただ……実際に(・ ・ ・)彼らを管理統制するのは劉勲さんの人事局。違いますか?」

 

「あら、官僚主義に染まり切っていない新人なら、既存の枠に捉われない自由で活発な活動が出来ると思わない?」

 

 のんびりとした笑みを崩さない張勲と、クスクス笑う劉勲。お互いに何かを期待するように、見つめ合う。

 

 

「……いいえ、思いません。」

 

 

 しばしの沈黙の後、張勲は笑ったままの表情で、ただ事実のみを告げるように言った。

 

「彼らはむしろ、積極的に既存の体制を強化するでしょうね。」

 

 安定した地位を得ているならまだしも、新規採用の公務員の殆どは政治的には弱い立場に置かれている。豪族と袁家の仲介は決して楽な仕事では無いし、両者の板挟みになって苦しむ事も多いだろう。その上、こういった仕事は「問題を起こさない」ことが何より重視され、それが出来ない人間はすぐに担当を外される。そしてその権限を握っているのは、他ならぬ劉勲の人事部なのだ。

 

「ここ、宛城で働くならまだしも、地方に飛ばされた新人には、中央との繋がりが生命線です。異動や新人の教育指導、功績評価は全て人事部を通さなければならない。公務員経験者ならともかく、経験の浅い新人は劉勲さん達に頼らざるを得ませんよね?」

 

 自ら確固たるポジションを確立するまで、人事部に逆らう事は自殺行為に等しい。となれば、新参者の大部分によって最も合理的な行動は劉勲らにゴマをすり、中央と太いパイプを築いて少しでも便宜を図ってもらう事となる。入社早々にトラブルを起こそうとする新入社員などいないのだ。

 

「……かくして人事部の権威は安泰。それどころか地方にまでその影響力を増大させ、保守派の失脚で空いた役職すらも手に入れる。」

 

「………。」

 

 にこやかな張勲と対照的に、劉勲の眼光が徐々に鋭くなってゆく。その瞳に浮かぶのは紛れもない警戒と関心――だが、張勲はその反応を予測していたように、静かに語りかけた。

 

 

「ですが……正直、そんなことは興味ありません。」

 

 

「…………はい?」

 

「だから、劉勲さんが権力闘争で勝とうが負けようが、私とは関係ないってことですよ。ぶっちゃけ、どうでもいいですね。」

 

 終始一貫して、張勲の笑顔は崩れない。口調も淡々としていて、嘘を付いているようには見えなかった。仮にこれが劉勲を嵌める罠だとしたら、あまりに稚拙な演技という他ない。

 しばらく唖然としていた劉勲だったが、ようやく混乱から抜け出すと、ふと思い浮かんだ疑問を口にする。

 

 

「……アタシを排除する気じゃないの?」

 

「いえ、そんなつもりは全く。それとも、排除されたいんですか?」

 

「じゃあ、なんで呼んだのよ?」

 

 通常、こういった核心をついた話題に触れるという事は、2つの意味を表す。牽制か、さもなくば協力要請のどちらかだ。

 

「そうですね。まずは、劉勲さんの能力確認です。これからの袁家の基礎造り……その為の“仕事”を行うに足る手腕を持つかどうか」

 

 相変わらず張勲の表情からは何も読みとれない。だが張勲の言う所の“仕事”には、どことなく思い当たる節があった。

 

 

「そう……。で、その“仕事”の内容を教えてもらってもいいかしら?」

 

「ええ、袁家内部に入り込んだ“忠誠心の疑わしい家臣”を洗い出し、“再教育”を施してもらいたいんです。」

 

 再教育――張勲の口から発せられた白々し過ぎる言葉に、思わず苦笑を漏らしてしまいそうになる。

 

 

「そう、簡単に言うと……反乱分子の粛清ですよ。」

 

 

 さも当然かのように、張勲は臆面も無くそう言い切った。

 

「敵は外だけでなく、内にも多い。孫堅さんの裏切りで、嫌というほど思い知らされましたからね。私たちは毅然とした態度で臨む必要があると思うんです。」

 

 鉄は熱いうちに打て――“孫堅の裏切り”という記憶がまだ新しい内なら、反対派も沈黙せざるを得ないだろう。どんな独裁者だろうと、大義名分無しに粛清は行えない。ましてや一家臣が主導しようとすれば、それ相応のタイミングというものがある。

 

 

「それが何でこういう流れになったかは……分かっていますね?」

 

 言うまでも無く、公務員の大量の採用が原因だった。この新規採用を通して、袁家家臣数はざっと3割ほど増えている。失脚した保守派の役職の事も考えれば、実に半数近くにのぼる家臣が入れ替えられているという。

 

「そうなれば当然、各地からの密偵や反乱分子が送られ、内部に多数潜伏しているでしょう。彼らの存在を野放しにすれば、お嬢様に危害が及びます。」

 

 中華に広く知られた名門・袁家ともなれば、当然ながら敵も多い。国政にもしばしば関与しているだけあって、他の諸侯や宮廷貴族など潜在的脅威は数知れず。そんな彼らからしてみれば、公務員の大量新規採用はスパイを送る絶好のチャンスだろう。領内でも同様で、周瑜の指示によって孫家からは多数の密偵が放たれていた。

 

「つまり……家臣の間で危機感が高まっていて、なおかつ実際に反乱分子が潜伏している可能性が高いのは今現在、この瞬間。やるなら、今が絶好の機会と言うワケね。」

 

 要点をまとめた劉勲の言葉に、張勲は頷いて肯定の意を示す。

 

 

「本来なら、こういった荒仕事は軍の管轄なんですが……知っての通り、軍部はまともに機能していません。」

 

 軍部を率いていた陳紀は死亡し、今の軍部は指導者争いで混沌としている。陳紀に次ぐ実力者として紀霊が挙げられるが、彼はどちらかといえば前線指揮官タイプで政争に長けた人間では無い。

 

 

「軍部同様、最高会議である中央人民委員会も、“民主的な議論”によって機能不全に陥っている。だから次善の策として、家臣の個人情報や動向を詳細に把握している人事部に、協力を要請したいと?」

 

 ようやく言いたい事が分かった、そんな表情を浮かべつつ、劉勲は満足げに問いかける。

 だが、張勲は薄く笑ってその言葉を否定した。

 

「いいえ。勘違いしてもらっては困りますよ、劉勲さん。」

 

 もの分かりの悪い子供をたしなめる様に。曇りのない笑顔で、一切の邪気も無く。張勲はあっさりと言い切った。

 

 

「――これは、命令(・ ・)です。」

 

 

(……っ!)

 

 普段は決して表だって権力を振るう事は無いが、張勲は紛れもなく袁術軍のNo.2。本人がその気になれば人民委員会を仕切ることも可能なのだ。そして張勲は今、はっきりと命令(・ ・)を下した。

 劉勲は思わず息を飲み、目を逸らし、幾度も迷うように唇を噛む。それを見た張勲は穏やかに、だが決して逃げを許さない声で続ける。

 

 

「そういえば、書記長職がずっと空席のままでしたね。空いたままにするのも、少しもったいないと思いません?」

 

 書記局は本来、行政上の規律的な役割で風紀と組織に対する従属 、過度の派閥争いに対する罰則、監督業務が主な仕事である。同時に日常的な事務処理を行う最高機関でもあったが、先の戦争で当時の書記長が失脚して以来、ずっと書記長のポストは空いていた。

 

 

「どう思いますか、劉勲さん?」

 

「そ、そうねぇ……人事部と関係良好なアタシを書記長にして、袁家を監督させるのは悪くない案だと思うわ。でも今の書記局の権限じゃ、急激な粛清はたぶん無理よ。」

 

 ややあって落ち着きを取り戻した劉勲は、先ほどの動揺を隠すかのように反論する。

 

「かといって書記局の権限を強化すれば、他の人民委員の反対を招くのは明白。無理やり書記長に就任した所で、周囲の協力を得られなければ失敗するだけだし。そこんトコ、どうする気?」

 

「はい。ですから、書記局はあくまで人民委員会直属の下部機関とします。人民委員会で反対に遭った場合、書記局の決定は覆されるという事で。」

 

 逆に言えば、人民委員会で反対が出なければ書記局の決定が、袁家全体の決定とされるということ。

 一見、これは非常にリスキーに見えるが、実際には人民委員会における劉勲の力はさほど強くは無い。儒教の影響の強い中華では『年上を敬え』、つまりは年功序列が重視される。従って年齢も若く、ほぼ一代で成りあがった彼女の影響力は、おのずと限定される。

 

 

 結果として、劉勲は常に人民委員会の意向を伺わざるを得ないだろう。敵対的な行動をとれば最悪、書記長職の剥奪すらあり得る。となれば劉勲は権力を掌握するどころか、むしろ体のいい手足として人民委員会にコキ使われる可能性の方が高い。加えて最終的な決定権が人民委員会にあるとなれば、他の人民委員も強く反対は出来まい。

 それでも納得しなれば、更なる譲歩として書記長の任期を短縮。反乱分子の粛清と同時に用済みとなった劉勲を排除するならば、異論はないはず――それが、張勲の読みだった。

 

 

 

「大丈夫、劉勲さんならきっと出来ますよ。」

 

「また随分と古典的なセリフを…………まぁ、アタシも最近使ったような気がするけど」

 

 『大丈夫だ、キミになら出来る』というのは長い歴史と伝統を持つ殺し文句だ。事実、多くの人間がこの言葉に惑わされ、その身を滅ぼしていった。そして言った方の人間は、いつだって安全地帯から眺めているだけなのだ。

 

「いえいえ、心配せずとも結構です。こう見えても私、劉勲さんの事は高く評価しているんですよ?」

 

「へぇ……例えばどんな所かしら? 人望?商才?忠誠心?それともカラダ?」

 

「――“理性”ですよ。」

 

 劉勲の皮肉に、張勲は少しばかり表情を緩めて応じる。

 

「劉勲さんは常に損得勘定を行い、決して自分の損になるような事はせず、合理的な判断に基づいて行動しています。そこに余計な感情の入り込む余地はありません。交渉相手として、これだけ信用できる相手は居ないでしょう。」

 

 

 世の中で他人の感情ほど、不確かで気まぐれなものは無いだろう。そもそも人は、自分の感情すら完全に把握しているとは言い難い。それが他人のものとなれば尚更だ。

 その事実は、日頃から袁術の支離滅裂な行動に振り回されている、袁家家臣が一番よく知っている。

 

 

 それは、普通ならば侮辱にあたる言葉なのかも知れない。だが劉勲は、そんな張勲の言葉に思わず口元を緩めてしまう。どんな理由であれ、彼女は間違いなく自分を一人の人間として認めていたからだ。

 

 

「利益が無ければ、劉勲さんは動かない。逆に言えば、利益以外では決して動かない。動けない……まさしく商人の鑑ですね。そんな風に、人の死を統計上の数字と割り切れるような劉勲さんだからこそ、この仕事を誰よりうまくやれる――私はそう信じています。」

 

 

「はぁ……アナタ、本当にいい性格してるわね。そんなに頭が回るんなら、自分で仕事しなさいよ。」

 

 武芸も献策も人並みで、やや力不足感のある側近……それが張勲の一般的な評価だ。。しかし目の前にいるこの女からは、そんな風評は感じ取れない。彼女がもし違う環境に生まれていれば、『王佐の才』として持て囃されていた事だろう。

 

 だが、張勲は迷うことなく口を開く。

 

 

「仕事も大事ですけど……私にとっては、美羽様が全てですから。」

 

 

 恥ずかしげも無く、躊躇いも無く。張勲は断言した。

 

「私が権力闘争にかまけていたら、誰が美羽様の世話をするんです?」

 

「……。」

 

「私も昔は、剥き出しの刃物みたいな時があったんですけどね。周囲に形振り構わず、ただ権力と出世だけを求めるような。」

 

 その声には若干の疲れが滲んでおり、どこか切なげにも見える。まだ若いのに、まるで人生に疲れたような、そんな憔悴感があった。

 

 

「……でも、権力は私を幸せにしてくれませんでした。権力なんて、張り子の虎のようなものです。外見は立派でも、中身はひどく脆い。」

 

 張勲は何かを振り払うように息を吸い、劉勲に向けて淡く微笑む。

 

「そんな張りぼての栄光より、私は美羽様の笑顔を大切にしたい。

 私にとって権力は、その為の『手段』であって『目的』では無いんです。」

 

 

 

 張勲にとって権力とは、袁術を守る為のもの。それ以上でも、それ以下でも無い。だからこそ彼女は、表舞台に立たないし、立つ気も無い。故に劉勲という、ある意味での身代わりを必要とする。

 

 つまるところ、これは取引なのだ。

 劉勲は成功と出世、そして権力への近道を。

 張勲は、劉勲という隠れ蓑、そしてスケープゴートを。 

 

 

「なるほどね…………いいでしょう。さっきの話、受けるわ。」

 

 結局、張勲は終始一貫して袁術の為に、全てを操っているに過ぎない。彼女の中では、本人も含めて全てが盤上のゲームの駒。目的と優先順位がハッキリしていれば、それ以外は全部割り切れる。つまり何が起ころうとも“王”さえ取られなければ、彼女の勝ちなのだ。

 ――逆説、袁術をどうこうする気が無ければ、張勲は脅威足り得ない。それゆえ劉勲は、彼女を信じる事にした。

 

 

「では、了解ということで?」

 

「ええ。ただ、ひとつ言っておくケド……優秀な商人が優秀な臣下とは限らないわよ?」

 

 目には目を、歯には歯を。諧謔には諧謔で。商人いえども損にならない程度のプライドはある。同時にそれは蜂蜜姫を支える忠臣に向けた、劉勲なりの敬意。

 なればこそ――張勲は茶目っけたっぷりに、不敵な笑みを浮かべてこう言った。

 

 

「いつの時代だって、王の傍にはお抱えの商人がいるものですよ。」

 

 

 いかなる状況だろうと、商人は打算的で強欲だ。そしてそんな彼らを巧みに御し、王を支えるのは臣下の務めなのだ。

 

 

 

「フッ……そうね。その通りだわ。」

 

 劉勲はそう言うと、張勲に負けず劣らずの笑顔を返す。

 確かに、張勲は自分を利用している。口先で都合のよい事を言う一方で、腹の中ではいつ切り捨てようか考えているのかも知れない。

 

 だが――それだけの価値はある。相手がこちらを利用するつもりならば、こちらはそれ以上に相手を利用するまで。どの道、もはや後には引けない。

 

 虎穴に入らずんば虎子を得ず。損して得取れ。

 商人ならば、誰もが習う基本中の基本だ。リスクは避けるだけでなく、時として積極的に克服せねばならない。

 

 

「反乱分子の粛清、やるからには徹底的にやらせてもらうわよ?勿論、それなりの結果は出すつもりだけど。」

 

 にやり、と凄絶な笑みを浮かべた劉勲に、張勲は動じることなく頷いた。

 

「ええ、逆にそうでなくては困ります。あと、人民委員会の方には私から話を通しておきましょう。」

 

「では、さっそく始めるとしましょうか。すぐにでも準備したい事があるの。」

 

 そう言うと劉勲は扉に向かって歩き、最後にもう一度振り返る。

 相変わらず、いたって普通の部屋だ。いや、むしろ――()()()()()

 

 大抵の部屋には、何かしらその人の個性を表す小道具が置いてあるか、その人なりの配置がある。だが、張勲の部屋は全くの無個性――生活臭が感じられない。

 

 モノがあるのに、空っぽの部屋。

 感情の見えない張勲の笑顔。

 個性を否定するかのような空間。

 

 

 そこで、劉勲はふと思い出した疑問を口に出す。

  

「そういえば張勲、アタシからも一つ聞いていいかしら?」

 

「何ですか?」

 

「アタシの前任者は、どうやって書記長職に就いたのかしら?」

 

 劉勲のさりげない質問に、張勲は今まで違った微笑みを浮かべ、何でも無いように答えた。

 

「任期前後における袁家の不祥事。その全て(・ ・)を犯して、不当(・ ・)に権力の座についた――公式文書ではそうなっています。」

 

 改めて、張勲の実力を見誤っていたらしい。張勲の実務能力は依然として不明だが、少なくとも政治的センスは自分と同等か、それ以上だ。

 他者の反感を買いやすい政策論争などは、望ましい人物を支援する事で間接的に関与。自分は最後まで中道な穏健派を貫き、機を見て多数派の側につく。決して失点を見せない事で、誰を敵に回す事も無く現在の地位を保つ。

 

 口にすれば簡単だが、現実に実行できるのは卓越したセンスを持つ人間か、運の良い人間だけだ。張勲とて、伊達に袁術軍のトップをやっている訳では無い。

 

 

「書記長就任、おめでとうございます。頑張ってくださいね、劉勲さん。」

 

 

 かくして――ここに新たな書記長が誕生する。同時にそれは、単なる一名門でしかなかった袁家が、やがて『仲帝国』として変質してゆく事の前触れでもあった。

                      




 張勲が黒い……まぁ、原作やアニメでも黒い発言がちょくちょくありましたが。
 有能なんだか無能なんだかよく分からない人物ですが、袁術の世話をしつつ、曲がりなりにも名門袁家を統治してるので全くのダメ人間では無いと思います。

 後、すごくどうでもいいですけど、張勲の被ってる帽子って赤軍略帽(ピロートカ)っぽいような……


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12話:書記長就任

ようやく多少は主人公らしく、権力を握ることができます。


                

 孫権は自室から、月明かりに照らされた宛城の街並みを見つめていた。

 真夜中をとっくに過ぎているはずなのに、中心街から騒ぎが消える事は無い。南陽では商人の力が強いためか規制が少なく、退廃的な笑いと音楽が絶えず響き渡り、歓楽と犯罪とが共生していた。

 

(常に『同志』を求めている、か……)

 

 ぼんやりと夜の空を眺めながら、苦笑を浮かべる。あれから何度か面談をしたことがあるが、話せば話すほど“彼女”に対する疑念と興味は深まるばかりだった。

 

(『個人』としての劉勲が、何を考え、何の為に動いているのかはまだ分からない。だが『為政者』としての彼女は、これまでも確固たる実績を示している……)

 

 劉勲が袁家の経済問題に口出しするようになってから、南陽群の経済規模は年率2%ほどで増大。その実績は、劉勲を嫌っている周瑜ですらも認めざるを得ないほどだった。

 いっそこのまま袁家と協力しても良いのでは?と孫権が思うのも無理は無い。もちろん犯罪や格差、貧困など問題は山積みだが、やはり国家の基礎は経済成長なのだ。

 

 そこまで理解しているような人間が、経済活動にあたって最も害となる要因――戦争や暴政を好き好んで行うとは思えない。同時に今の民衆が最も欲しているモノが、他ならぬ『平和』である事にも気づいているはず。

 実のところ、孫権には袁家の存在が民衆にとって『有害』になるとは思えなかった。事実、彼らは民衆に『平和』と『経済成長』をもたらしている。

 

(だが私の予想が正しければ、劉勲が目指すであろう『平和』は、絶対的な争いの根絶を意味しない……!)

 

 そこに利があれば、善にも悪にも動くのが商人。しかし、限りなく合理的な人種である商人が行動を起こすとなれば、そこには必ず実現可能な目標と、その為の道筋が見えているはず。「何がしたいか」ではなく「何が出来るか」――商人の理論で動く劉勲も、その中で何かしらの答えを得たのだろう。その答えとは何だったのか。

 

「劉子台、貴女の目には一体……何が見えているのだ?」

 

 

 

 ◇◆◇

 

   

 

 荊州・南陽城

 

 ここは南陽城内部に設けられた、大広間である。数々の絢爛豪華な調度品が陳列された空間を、石造りの重厚な柱が支えている。その柱の一つ一つにも彫刻が彫られており、床は大理石で出来ている。これだけでも袁家の財力と権威を示すには十分であり、賓客をもてなすのに相応しい内装である。決してカネのムダ遣いではない……はず。

 そして今、この大広間にはに袁家に仕える主要人物のほとんどが集まっていた。

 

 

「劉勲!妾の前に出るのじゃ!」

 

 大広間に、子供特有の高い声が響き渡る。その声の主こそがこの城の主であり、彼らの主君でもある袁術だ。 

 

「はっ!」

 

 袁術の声に応えて、前に進み出たのは一人の女性だった。

 くすんだ金髪に色白の肌、完璧に着こなされた袁術軍の士官用制服。制服は基本的に張勲の着ているものと同じタイプだが、張勲と違って黒や濃紺、灰色系統を基調にしているために、より軍服らしい印象を受ける。しなやかな動きには一切無駄が無く、軍人の規範のような動作だった。それでいて武骨に墜ち過ぎず、貴族らしい優雅さを残していた。

 

 

「皆の者!よく聞くのじゃ!」

 

 再び、袁術が声を張り上げる。

 

「今日はめでたい日である!なぜなら劉勲の……え~と、劉勲の……」

 

「書記長就任式ですよ。お嬢様。」

 

 あまり聞きなれない単語をド忘れした袁術のフォローに入る張勲。

 

「おお、そうじゃった。劉勲の『しょきちょーしゅーにんしき』じゃ。劉勲よ、これからも妾のために尽くしてたも。」

 

 どう聞いても棒読みであるが気にしない。絶対何の事だか解っていないだろう。

 劉勲は苦笑いを抑えながら、恭しく返答する。

 

「かしこまりました。この劉子台、ご期待には全力で。」

 

 

 劉勲の就任した書記長は、正式には『中央人民委員会書記局長』と言う。中央人民委員会とは、袁家の主要な家臣が集まる助言、補佐の為の機関であり、いわゆる閣僚会議に相当する。その下部組織として、実務管理や事務処理などの裏方仕事を行うのが書記局であり、書記長はそのトップだ。

 

 書記長の仕事は本来、行政上の規律的な役割で風紀と組織に対する従属、過度の派閥争いに対する罰則、各種業務監督などであった。

 しかし、荊州への介入の失敗によって賛成票を投じた多くの有力者が失脚した(というか劉勲が責任追及して失脚させた)ため、特別措置としていくつかの権限が集中していた。

 

 また、例の公務員数の大幅増の結果、劉勲は袁家内部で多数派を形成していた。政治の原則は一人一票であり、多数決によって“民主的”に自派に有利な政策を展開。 

 しかも劉勲の場合、元から掌握していた人事部のコネがある。自分の配下を粛清等で空いたポストに送りこむことで、書記長の統制と権力はより高まっていった。

 

 加えて張勲が劉勲を支持。殆ど仕事をしていないとはいえ、袁家No.2の発言はやはり大きく、表立った反論は封殺されてしまったのだ。

 

 

 無論、露骨な権力志向と強引な手法に内心で反発を覚える人間も多く、多くの潜在的反対派を生み出した。しかしながら反対派内部にも見解の相違は存在し、「敵の敵は味方」という理由を掲げて、懐柔策を取った劉勲によって反対派は分裂する。

 

 人民委員会主要メンバーには劉勲以外に、袁渙、魯粛、楊弘などがいたが、劉勲は手始めに最有力候補の袁渙を排除を画策。巧みに危機感を煽って他の2人を味方につけ、“病気療養”に追い込んだ。

 その後、経済問題で魯粛と楊弘が揉める中、劉勲は中立の立場を堅持。魯粛と楊弘が中傷合戦で共に疲弊する中、仲裁役を買って出ることで、自分に有利になるよう人民委員会を誘導する。互い対立を煽り、漁夫の利を得ることで、劉勲は最終的に反対派主要メンバーを沈黙させるのに成功した。

 

 

 

 当時の劉勲を知る者は後にこう語ったという。

 

「彼女は人前ではふざけているような発言が目立ったが、一対一で話す時には常に微笑を浮かべ、他人を持ち上げるなどして謙虚な姿勢を崩さなかった。劉勲の本性に気づいた時には、もはやどうしようもなかった。」

 

「言ってる事に一貫性は無いし、やってることは行き当たりばったりなのに、何か気づいたら出世してた人でしたね~。」

 

「見事に騙されたのう。儂も含めて、古参の連中のほとんどは劉勲の事を取るに足らない小物だと考えておった。目先の利益につられているよう見せかけて、別の目的のあることを全く感じさせんかった。」

 

 しかしながら、地方では依然として豪族たちが半独立的に振舞っており、劉勲はその対応に腐心する事になる。彼女は袁家内部をほぼ自分の派閥で固めることには成功したものの、この時点ではまだ絶対的な権力者では無かったのだ。

 

  それに加えて、劉勲が書記長に就任してすぐに、最初の試練が訪れる。

 

 ――すなわち、黄巾の乱であった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「ちょっと、……今の話、ウソじゃないわよね?」

 

 南陽城の奥にある、袁家の重臣を集めた会議室に劉勲の苦々しげな声が漏れた。会議室には劉勲の他、主君である袁術と、張勲、魯粛らがおり、そして孫家からは周瑜が出席していた。ちなみに紀霊は数日前に別方面の黄巾軍を鎮圧するべく出陣したため、この場には居ない。

 

「はい。黄巾軍による大規模攻勢は、ほぼ確実かと。」

 

 袁術軍情報部の軍師が、その問いに頷く。続いて、それを聞いた張勲が質問する。

 

「え~と、根拠は何かありますかぁ?あと、できれば黄巾軍の目的の方もお願いしますぅ。」

 

「軍の情報部によると、張曼成という男の召集に応じて集結した黄巾軍の数は、およそ8万。進行速度と方向からして、目標は我々のいる南陽であり、到着は1週間後かと。また、南陽群各地にいる 同志達 (・ ・ ・)からも同様の警告がありました。」

 

 

 

――余談だが、劉勲を始めとした勢力が袁家の実権を握り始めてから、袁家は各地に密偵を放っている。

 

 大商人が劉勲らの支持基盤となっているだけに、商売にも明るい彼らは情報の重要性をよく理解していた。

 しかし、元々情報部は軍の管轄であり、軍部への影響力の薄い劉勲では積極的な協力を得られない。更に過度の干渉は職務の枠を超えた越権行為と批判されるため、やむなく子飼いの部下を集めて独自に新しい情報機関を設置。

 『国家保安委員会』と呼ばれた新組織の主な役割は、反乱分子の監視や弾圧、対内外諜報活動、防諜に各種破壊工作である。

 

 

 また、国家保安委員会は『同志達』と呼ばれる密告、情報提供者をあらゆる場所に多数抱えていた。

 

 密告に限らず、あらゆる有益な情報を集め、また民衆同士が監視し合うことによって、支配層に対して団結して反乱を起こすことを防ぐのだ。

 情報提供者には報酬が支払われ、誰が密告者なのかという秘密は守られる。もちろん対内諜報に限った事ではなく、中華全土に『同志達』は存在し、経済や政治、技術に貴族の婚姻関係など、実に多岐にわたる情報を「広く浅く」集めていた。

 

 

 

 国家保安委員会の設立当初を知る張勲は、後にこう語っている。

 

「最初それを聞いた時は正直、ちょっと困惑しましたよ~。そんな面倒な事をするなんて、劉勲さんらしくありませんでしたからね~。」

 

 張勲の疑問は当然であろう。なにせ密告、情報提供者のほとんどは普段はただの一般人だ。どこぞの誰が政府を批判した、程度ならまだしも、機密レベルの重要な情報は得られないだろう。もちろん、虚偽の情報提供をした場合にはしかるべき処罰が下されるものの、諜報活動の訓練を受けたことも無い人間によってもたらされる情報は、恐ろしく不確実である。

 

「ですから私はこう言ったんですよ。『そんなお金のかかることしなくてもぉ、普通に密偵を雇えばいいんじゃないですか?」って。」

 

 そのような情報に確実性を持たせるためには、膨大な情報を統計的に処理し、その相互関係を整理して確率論的に予測を立てるしかない。パズルのように断片的な情報を組み合わせて分析し、そこから必要な情報を得るのだ。同じ質の情報を得るなら、専門の密偵を雇った方がはるかに安上がりだ。現に孫呉などでは周泰を始め、優秀な密偵に支えられた隠密部隊を活用することで、大きな効果をあげている。

 

「そしたら劉勲さんはなんて言ったと思います?『密偵なんか信用できるワケないじゃない。裏切られたら機密情報ダダ漏れよ?その危険性まで考えれば、コッチの方が断然安上がりだし。』って、そう言ったんですよ。」

 

 少数の密偵に頼った場合、どうしても防諜は密偵「個人」の忠誠心にかかっている。だからこそ劉勲は信用できなかった。実際、末端の職員には目的の全貌が知らされていない事もしばしばだ。

 得られた情報から予測を立てる職員はさすがに全貌を知っているだろうが、彼らには別に監視要員をつけてある。しかも、軍部の情報部を敢えて残しておくことで、お互いが裏切らないかを監視していた。

 

 

 ――閑話休題。

 

 

 

「……それで、現地に先行した部隊はどうなったのだ?」

 

 周瑜が口を開く。だが、報告をした軍師は気まずそうに、劉勲と、続けて袁術の方を見る。報告事項を正直に言うべきかどうか、迷っているようだ。それを見て、この会議に出席したメンバ―のほとんどから同時に溜息が洩れる。

 

「うん?なぜ黙り込んでおるのじゃ?言いたい事があったら言うがよい。」

 

 袁術がその先を言うように促す。ややあって、その軍師は正直に報告することにした。

 

「2日前から連絡が取れません。恐らく、全滅したものかと。」

 

 再び、溜息。

 誰もが“またか”とでも言いたげな表情を浮かべていた。

 

 

 ――遡ること約2か月前、荊州南陽にて張曼成率いる南陽黄巾軍が蜂起。

 その知らせ南陽群を支配する袁家の元にも届いた。黄巾賊と呼ばれた彼らは、中華全土で猛威をふるっていたが、とうとう南陽にも現れた。しかし、この事態に際して袁術軍上層部はなかなか動こうとせず、ようやく討伐部隊が出動したのは黄巾軍の蜂起から1か月以上も経ってからだった。

 

 原因の一つは誰が指揮官を務めるかという問題だった。書記長に就任後、劉勲はしばしば作戦行動に介入して軍部の掌握にも力を注いだ。目的は比較的ラクそうな反乱鎮圧で適当に戦功を立てて、軍部に自身の有能さをアピールする事である。軍を味方につけようとするなら、分かり易く戦功を立てるのが一番手っ取り早いのだ。

 

「あと数週間、月末までにはこの乱も終わるだろう。」

 

 自信満々に何の根拠も無い発言をした劉勲だったが、現実は厳しかった。

 開戦当初は「農民主体の反乱軍などひとひねり」とか思って楽観していたものの、粛清等の影響が響いて大敗北。反対派ベテラン将校を失脚やら更迭していたのが原因で指揮系統が大混乱。部隊間の連携が全く取れないまま、黄巾軍の物量に押しつぶされて多くの将兵が無駄死になったのだ。

 

 

 

「ぜ、全滅じゃと!七乃、なんでこうなるのじゃ!」

 

 袁術が驚いたように張勲に声をかける。当初は黄巾軍の反乱など些細な問題だと思われていたため、袁術には知らされていなかった。が、いくら袁術とて、多少の知識はある。もっとも、「普通、軍隊は農民には負けない」程度だが。

 袁術軍は弱兵として有名だが、農民に比べれば武装は整っており、よほどの事が無ければ負ける事はない。

 

「えぇと、理由はいくつか考えられるんですけどぉ。まずは劉勲さんが――」

 

 

「――数が足りないからよ、袁術様。」

 

 

 本質的な原因を言おうとした張勲を遮って、意見する劉勲。会議室中に「またお前か」という空気が形成されるが気にしない。

 

「黄巾軍の総兵力は8万だけど、アタシ達がすぐに動かせる兵力はたったの5万。8人に5人じゃで勝てないでしょ?」

 

「うむむ、確かにそれは無理じゃな。」

 

 とりあえず数が足りない事を強調する劉勲。確かに黄巾軍の数が多いことは、各地の諸侯が苦戦する原因の一つではあった。

 

「だ・か・ら、もっと兵士を集める必要があるの。」

 

「なら、さっさと兵を集めるのじゃ!七乃、兵はどのぐらい必要かの?」

 

「え~と、あと1万ぐらいは必要ですかね?周瑜さんはどう思います?」

 

 適当に言って周瑜に丸投げする張勲。それに対して周瑜は袁術の方に向き直ると、淡々と答えた。

 

「指揮官が不足している状態で、兵の数ばかり増やしても混乱が大きくなるだけでしょう。まずは失脚させた一部の指揮官を呼び戻すべきです。」

 

 ここ2年だけで袁術軍高級将校の実に2割以上、5人に1人が左遷、解雇、あるいは粛清されていた。

 当初はさすがの劉勲いえども軍には手が出せなかったものの、劉表の領土近くにある関所の指揮官であった周尚が、「劉表と裏で通じた」容疑で逮捕され、 共犯者 (・ ・ ・) 自白 (・ ・)してから、本格的な弾圧が始まった。多くの反対派が自白を強要され、「人民の敵」とかいう、よく分からない理由で左遷された。

 その上、劉表が袁家の主要な指揮官をまとめて始末する絶好の機会を見逃すはずも無く、積極的に偽文書を作成して、一人でも多くを失脚させるよう仕向けた。そのため、多数の熟練指揮官を失った袁術軍は、作戦行動に支障をきたすまでになっていた。

 

 

「ちょっと何言ってるのよ?なんでわざわざアタシ達に恨みもってるような不穏分子を、内部に入れなきゃいけないワケ?いつ裏切られるか分かんないじゃない。」

 

 口を尖らせて反論する劉勲。一応言っていること自体には筋が通っているのだが、その原因を作った張本人には言われたく無い言葉である。

 

「それに、今更呼び戻したって間に合わないわよ。人事異動とか指揮系統の変更とか調整とかのんびりやってたら、黄巾軍が先に来ちゃうし。とりあえず兵力不足を解消する為に傭兵を集める許可を貰えないかしら、袁術様?」

 

「うむ、よいぞ。さっさと生意気な黄巾軍とやらを、けちょんけちょんにしてやるのじゃ!全く、妾の恩を忘れおって!」

 

「あれ、美羽様そんな事しましたっけ?」

 

 ねーだろ、絶対。袁家家臣の記憶にある袁術といえば、蜂蜜水飲んでバカ騒ぎしている印象しかない。ちなみに周囲からは密かに『袁家のうつけ』とかに呼ばれて、割と有名だったりする。

 

「この前、街を歩いておった時に食べきれなくなった蜂蜜を、貧しそうな民に施したぞよ。」

 

「わぁお、食べ残しを人に押しつけてただけなのに『施し』っていうと何だか美羽様がいい人に聞こえますぅ。」

 

「妾は太守なのだから当然なのじゃ!わはははは!」

 

「よっ、中華一の大うつけ♪」

 

「ふはははは!七乃、褒美に蜂蜜水を持ってくるのじゃ!」

 

「だめでーす。今日の分はもう全部飲んだじゃないですかぁ。」

 

「う~、七乃のけちんぼぉ~。」

 

 

「……じゃあ、この辺で閉会にしましょうかしら。他に異論は無い?」

 

 なんだか二人だけの世界に入り始めた袁術と張勲を置いて、劉勲が場を仕切る。とはいえ、特にそれ以上意見が出ることは無かった。周瑜あたりに至っては、すでに退出の準備をしている。

 

「あれぇ~、孫家の軍師サマには何も意見が無いのかなぁ?すご~く何か言いたそうに見えるケド?」

 

 わざと神経を逆なでする声で周瑜に声をかける劉勲。だが、周瑜は付き合いきれないと言うように、はぁ、と溜息をついて面倒くさそうに返しただけだった。

 

「どうせ、客将の意見など採用する気はないのだろう。言いたい事は言ったつもりだ。」

 

 劉勲の方を見もしないで、一方的に会話を打ち切る。やや冷淡だったが、周瑜にとってそれは当然の反応であった。

 

 『数には数を』という劉勲の提案は一見正しそうに見えるが、周瑜に言わせてみれば、それは戦場を知らない机上の空論も同然だった。

 獅子に率いられた羊の群れは、羊に率いられた獅子の群れに勝る。

 兵士が多少強かろうが、それを率いる者に問題があっては烏合の衆も同然なのだ。黄巾軍は蜂起以来、張曼成という男がずっと率いており、ある程度のまとまりを持っている。逆に袁術軍は、相次ぐ粛清によって指揮系統が混乱しており、ひとたび混乱が生じれば瞬時に崩壊することが、容易に想像できた。

 

 だが、この場で周瑜が発言した所で、劉勲は恐らく自分の意見を曲げることは無いだろう。いや、立場上曲げるわけにはいかないというのが本当か。

 いずれにせよ、周瑜にとってこれ以上劉勲に付き合う義理は無い。孫家は未だに大規模な軍を編成することを認められてないため、勝とうが負けようが孫家に害は無い。勝手に失敗して、痛い目に逢えばいいと思っていた。

 

 

 

「……………そっか。」

 

 

 やや長い間があり、劉勲は僅かに俯いて、ぽつんと言った。だが劉勲はすぐに、空々しい、いつもの笑顔を取り戻す。

 

「じゃ、今日の会議はこれでお終いね。みんな御苦労さん。」

 

 朗らかな声で会議の終了を宣言する劉勲。その表情には、いつもの明るさが戻っている。

 

 

 ――それは、普段となんら変わることのない光景。

 

 

 閉会の宣言を受けて、ようやく会議室に弛緩した空気が広がる。ある者は仕事に戻り、ある者は仲間と勝手な事をしゃべりだす。

 

 

 ――しかし、よく見れば気づくことが出来ただろう。劉勲が小さく唇を噛んでいた事に。

 

 

 ……もっとも、そんな僅かな違いに気づくほど彼女と親しい者は、誰一人としていなかったのだが。

 

          




 何かご意見、ご指摘、感想等がございましたら、よろしくお願いします。


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13話:蒼天己死

 ついに主人公の初陣。実際に自分で部隊を指揮するのはこれが初めて。


                       

 討伐命令から一週間後、劉勲は黄巾軍を迎え撃つべく出陣していた。

 その兵力は5万5千人であり、南陽群の郡都・宛城の東に兵士を整列させた。そこは前方に河が流れており、宛城を目指すならば、必ず渡河しなければならない。

 

 

「敵の兵力は報告通り、およそ8万人ほどでこちらに向かって来ます。兵士の配置は8割が完了しています。」

 

「ちょっと遅くなぁい?予定じゃ半日前に終わってるはずだし。……ったく、ちゃんと金払ってんだからさぁ、給料分の働きぐらいしてって話よ。」

 

 天幕の中、報告を告げる軍師に対して、劉勲は頬を膨らませながらブ―ブ―文句を言っている。

 

「で、ですが急な変更でなにかとゴタゴタしておりまして……」

 

「あーもう、なんかイラつく!女の子待たせるとか、どんだけ気が利かないのよ!」

 

「………」

 

「何よ?その“お前そんな歳じゃねーだろ”みたいな目は!?アタシまだ20代前半よ!」

 

「いや、20過ぎたらとっくに……………いえ、やっぱり何でもありません。」

 

 自称:女の子(笑)はどーでもいいとして、劉勲が不機嫌なのにはもう一つ原因がある。

 この戦いに際して劉勲は、袁術から傭兵を雇う許可と資金をもらっていた。その金で傭兵を雇うまでは良かったのだが、別の問題が発生した。

 

  南陽群のすぐ隣にある豫州・潁川にて波才率いる黄巾軍と朱儁率いる官軍が激突し、官軍が敗走したのだ。

傭兵の大部分は職を持たない難民だっために、傭兵部隊の半数を占める豫州出身の兵の大部分が脱走したのだ。誰だって実家や故郷が襲われるかも知れない時に、出稼ぎ労働など律儀にやっていられない。

 

 しかも荊州介入の失敗と粛清によって袁家では軍縮ムードが漂っており、人材不足が著しい。士官不足と粛清の混乱によって規律が維持できず、脱走兵のほとんどに逃げられてしまうという大失態を犯したのだ。

 戦力がごっそり抜けたおかげで、当初の予定を変更せざるを得ず、それが更に混乱を拡大するという悪循環を引き起こしていた。

 

 

(純軍事的には、一度後退して防御の堅い宛城に立て籠もるべきなんだけど……)

 

 宛城全体が南陽城という城に囲まれており、その防御能力は非常に高い。籠城すれば勝算は十分にある。

 

 だが、政治的にそんな愚行は許されなかった。

 既に権力闘争によって軍の作戦行動に支障をきたしているのみならず、雇った傭兵に給料まで持ち逃げされているのだ。その上、護るべき民を見捨て退却し、本拠地を『たかが農民上がりの反乱軍』に包囲されれば袁家の評判はガタ落ちどころでは無い。当然、責任者である劉勲のクビも飛ぶ。

 

(脱走を甘く見ていたのが間違いだったわ。それさえなきゃ、今頃もっと快適で文化的な生活を送れたっていうのに……やっぱ政治将校か督戦隊でも配備すべきだったかしら?)

 

 多少なりとも兵士の忠誠心に期待していた過去の自分に後悔するも、既に手遅れだ。現場を信用できない以上、自分が現地に赴いて監督するしかない。書記長という肩書きを持ちながら、劉勲が前線に出てきた理由はそこにあった。

 

 

 

「……とにかく、まずは目の前の黄巾軍を何とかしなきゃいけないわね。」

 

 作戦図を見やり、思考を切り替える。

 

「敵の主力はたぶん、アタシ達の武器を鹵獲した部隊でしょうね。相次ぐ敗戦で、かなりの武器や鎧が奪われているから、十分気をつけてね。いい?ここを突破されれば宛城全体が戦場になる。それはなんとしても防がなければならないの。」

 

 この戦いの重要性を、各指揮官たちに告げる劉勲。その表情は、一様に優れない。

 

「……でも逆にいえば、突破されなければアタシ達の勝ちよ。そのための作戦を今から説明するわ。」

 

 真剣な表情で会議室を一瞥し、全員が自分の意見に耳を傾けているのを聞くと、劉勲は詳細の説明を始めた。

 

「基本的な戦術目標は2つ。まず正面(・ ・)から来る敵の衝撃力を、いかに封殺するか。第2に、衝撃力を削がれた敵に対し、いかに反撃するか。基本的には、防御を主体に作戦計画を立てた方がいいみたいね。」

 

 陣形としては中央には槍兵を置き、前衛には弩兵部隊を配置。続いて両翼に長弓部隊を展開させ、更にその後方に騎兵部隊を展開させている。

 

「まず、両翼の弓兵は敵が射程に入り次第、射撃を開始。ただし、敵軍の中央には攻撃せず、側面に集中すること。」

 

 側面が攻撃にさらされているのも関わらず、中央が全く攻撃を受けなかった場合、側面にいる兵士はどうするだろうか?当然、安全な中央寄りに移動し始める。劉勲の狙いは敵軍を中央に集めることで、敵の戦線を縮小して数的優位性を発揮させないことだった。

 

「ですが、それだと中央の負担が大きくなります。敵の主力が最前列に配備されていた場合、突破される危険があります。」

 

 軍師の一人が懸念を口にする。しかし、劉勲はそれを予期していたように、淀みなく答える。

 

「だから、前衛には弩兵を配置するの。敵が河を渡り終わったら、弩兵は槍兵の隊列の隙間に入って槍兵が前進。そのまま敵部隊を足止めしている間、弓兵は作戦を変更。今度は満遍なく矢の雨を振らせてちょうだい。」

 

 

 弩の威力は凄まじく、堅牢な鎧ですら貫通する。その威力でもって、黄巾軍の主力が集中することが予想される正面部隊の衝撃力を低下させるのだ。

 しかしながら、弩は装填に時間がかるという弱点を抱えていた。ゆえに無防備となる装填中は槍兵に守ってもらおうという訳である。更に槍兵が密集隊形を組めば、大抵の敵はそれに突っ込むことを躊躇う。元々農民出身者で構成された黄巾軍相手には有効なはずだ。

 

「……といっても、完全に封じることはできないでしょうケド。それでも黄巾軍の先陣の動きは急に鈍るから、前に進もうとする後続の部隊とぶつかるはず。」

 

 中央の部隊はあくまで足止めに過ぎない。本命は両翼の弓部隊の方だ。

 黄巾軍は数こそ多いものの、鎧などはほとんど装備しておらず、総じて装備が貧弱だ。ゆえに乱戦になれば数的に袁術軍が不利だが、遠距離射撃に徹していれば防御力の差が明確に現れる。乱戦に持ち込まれることさえ防げば、弓兵と防具等装備に勝る袁術軍の勝利は明白だった。

 

 しかも、弓兵による両翼から射撃により、黄巾軍の側面部隊が中央に寄らざる得ないだろう。結果、部隊全体が押し出される形となり、混乱が生じる事は容易に想像できた。

 数的優位を失い、統制のとれなくなった敵など烏合の衆も同然。中央の槍兵部隊で足止めしている間に、両翼の長弓兵が満遍なく矢の雨を降らせれば、黄巾軍は文字通り混沌と化すだろう。

 同時に騎兵部隊が機動力を削がれた敵の背後に回り込むことで、黄巾党の退路を遮断。後は両翼から徐々に包囲していくだけでチェックメイトとなる。

 戦場における最も美しい戦術の一つ、両翼包囲の完成だ。

 

 

 巧みな部隊配置に、緻密で完璧な作戦。

 

 そう、計画は完璧だった。

 

 だが、現実はどこまでも非情だった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

「左翼部隊より、司令本部!被害多数、後退許可を!」

 

「敵が多すぎる、兵も矢も足りない!大至急、増援を請う!」

 

「左翼への増援部隊から報告!もう限界だ、これ以上は敵を押さえられない!」

 

「援護部隊はまだなのかッ!?このままじゃ皆殺しにされちまう!」

 

 

 次々届けられる凶報に、劉勲の顔が青ざめていく。

 

「……そんな、なんで……なんでなのよぉおおお!」

 

 戦場に響く劉勲の絶叫。劉勲は自身の作戦に絶対の自信を持っていた。

 

「こんな……こんなはずじゃない!アタシの想像した戦いは、こんなモノじゃない!」

 

 正面(・ ・)から来るであろう黄巾軍を一網打尽に出来る完璧な戦術。なのに――

 

 

 

「――どうしてアイツら迂回出来たのよぉおおおっ!」

 

 

 黄巾軍は側面(・ ・)から攻撃を仕掛けてきたのだ。

 

 

 ――話を遡ること一日前、黄巾軍の偵察隊は前方に対して正面攻撃を仕掛けると、自軍に大きな損害をもたらすことを発見。これを聞いた張曼成はすぐさま部隊を二つに分けることにした。結果、1万5千の黄巾軍が大きく迂回し、袁術軍左翼のすぐ後方の斜面の茂みから現れたのだった。

 

「こんなのウソよ……昨日までアイツら全軍で固まっていたはずじゃない!」

 

 だが黄巾軍が迂回しようとすれば、当然袁術軍も動く。それを防ぐには袁術軍を拘束し続けるか、気づかれないように回り込むかの2択しかない。

 しかし、現実に敵は気付かれることなく迂回を成功させている。通常ならば、ありえない事態だ。劉勲の叫びは、袁術軍指揮官のほとんどが抱いているものだった。

 

 

 

 ――結論から言うと、黄巾軍は夜中ぶっ通しの強行軍を行い、袁術軍警戒網の遥か遠くから回り込んで来たのだ。

 

 当然、劉勲とて警戒しなかった訳ではない。夜襲の恐れもある。広範囲にわたって抜かりなく警備網を敷いていたはず。

 

「どう考えたって、アレ以上は距離的にムリよ!そんな遠くから迂回したら今日に間に合わないはず……!」

 

 劉勲の考えはあながち間違いとは言えない。あまりに遠くから迂回すれば警備網には引っかからないが、時間内に間に合わなくなってしまう。迂回が終わる前に太陽が昇ってしまえば、正面の黄巾軍の一部が減ったことが袁術軍にも分かるはずだ。

 もちろん、警戒しすぎて困るという事は無い。だが、あまり警戒網を広げすぎて兵力の分散を招いてしまえば本末転倒だというのも事実。傭兵の一部が脱走したこともあって兵力が不足気味だった劉勲は、必要ギリギリのラインを見極めて最大限効率よく配置した――はずだった。

 

 

「早く増援を!我に余力なし!」

 

「くそぉッ!こんな農民上がりの連中にィッ!」

 

「誰か矢をよこしてくれ!は、早くっ!」

 

 

 だが、現に目の前の黄巾軍は迂回して袁術軍左翼に奇襲をかけている。袁術軍の警戒網に引っ掛かることなく大迂回を成功させている。それは紛れも無い、現実。

 

 しかし劉勲には失念していた事が一つあった。

 

 

 ――本来、黄巾軍には『鎧が無い』のだ。

 

 完全武装の兵士は鎧の重量だけで20kgはあるという。劉勲はそれを計算に入れて警備網を設定していたために、黄巾軍の機動力を実際よりも低く見積もってしまった。もちろん、鎧を装備しなければ防御力は低下する。ゆえに劉勲はせっかく鹵獲した鎧を、黄巾軍がわざわざ放棄するとは思わなかったのだ。

 しかしながら、黄巾軍迂回部隊は機動力を生かして素早く移動。弓兵と乱戦に持ち込むことで、接近戦の苦手な弓兵を圧倒していたのだった。

 

 

 「今が好機であるッ!全軍前進!」

 

 黄巾軍迂回部隊と袁術軍左翼が交戦を始めるのを見ると、黄巾軍司令官の張曼成は主力を率いて正面突撃した 。

 

 対して、袁術軍の中央部隊は激しく抵抗。一旦は黄巾軍主力部隊を撃退したものの、黄巾軍迂回部隊は瞬く間には袁術軍左翼を撃退し、弓兵を敗走させてしまった。これにより劉勲は中央部隊の一部を左翼に回さざるを得ず、結果として正面に対する防御力の低下を招いてしまった。張曼成はこの機会を見逃さず、正面から再度突撃をかける。

 

 

「黄巾軍、再び前進を開始しましたっ!渡河終了まであと僅かです!」

 

「……ッ!一発撃ったら弩兵を後退させて、代わりに槍兵を前に!なんとしても隊列を維持しなさい!」

 

 劉勲はほとんど悲鳴に近い声をあげて、必死に部隊を維持しようとする。既に接近された以上、防御に長けた槍兵部隊で抑えこむしかない。陣形の乱れた弩兵は後方で再編成する予定だが、問題は槍兵部隊がどれだけ持ち堪えられるか。

 

 

「……っ!騎兵を下馬させて、重装歩兵として増援に回しなさい!このままじゃ突破されるわ!」

 

「騎兵に下馬戦闘を!?ですが、それは……!」

 

 騎兵とは本来、その機動力を生かした運動戦が本分である。下馬して戦闘させれば、その利点をわざわざ自分から捨て去るようなものだ。

 

「仕方ないじゃない!乱戦になった以上、攻撃一辺倒の騎兵を有効活用するには下馬させるしかないわよ!」

 

 どうしても臆病な生物である馬に乗る関係上、騎兵は防御に向かないとされる。

 そのうえ図体も大きく、遮蔽物に隠れる事も出来ない。馬の方向転換に時間がかかり、乱戦では器用に立ち回れないのだ。

 

「で、ですが!見ての通り、前線部隊と事前調整を行わなければ、却って混乱を増大させるだけです!命令の撤回を!」

 

「……なら、中央の後衛に回しなさい!槍部隊が敗走したら、次の楯になってもらうわ。」

 

「それでは単なる戦力の逐次投入にしかなりません!予備を無為に投入し続けるだけでは各個に撃破され、被害が増える一方です!」

 

「じゃあ、どうしろっていうの!?何か名案でも?」

 

 半ばヤケクソになりながら喚く劉勲に、本部付きの参謀が意見を口にする。

 

「戦闘によって黄巾軍の陣形にも、いくつかの穴が生じています。騎兵隊を迂回させて機動防御を行えば――」

 

 

「――脱走兵の名簿に、騎兵隊全員の名が加わるわね。」

 

 

 最悪の状態を想定した劉勲の言葉に、思わず言葉に詰まる作戦参謀。つい最近も反乱やら脱走兵騒ぎがあったばかり。臆病風に吹かれた騎兵隊が、既に()()()()()()()戦いから逃げ出す――あり得ない話では無かった。

 

「いい?すぐ自由に動かせる予備部隊は、騎兵隊の連中しかいないの!何としても黄巾軍の進撃を遅滞させ――!」

 

 増援投入によって戦線の立て直しを図ろうとする劉勲。だが、そんな彼女の努力を嘲笑うかのように、残酷な現実が付き付けられる。

 

 

 

「中央部隊より報告します!敵部隊の一部が防衛線を突破しました!」

 

「こちら前衛弩兵部隊!突破した黄巾軍から背後を攻撃されている!何とかしてくれェッ!」

 

「槍部隊より報告!黄巾軍の猛攻により、戦列が崩壊!これ以上の戦線維持は困難と思われます!」

 

「クソッ、隊長が負傷した!左翼は維持できないぞ!」

 

 

 

「なっ……!」

 

 早い。早過ぎる。劉勲を始め、その場にいた指揮官たちが驚愕する。

 

「……ちょ、ちょっといくらなんでも早すぎるでしょ!正面の部隊は何やってんのよ!せめて時間稼ぎぐらいできないワケ!?」

 

 逆ギレした劉勲は思わず、近くにいた参謀に八つ当たりしてしまう。

 

「で、ですが……すでに敵はもう、すぐそこまで……」

 

 見れば、すでに本陣からも見える距離まで黄巾軍が来ていた。

 

 

 

「邪魔だ!さっさと退かないか!こっちには後退許可が出ているんだぞ!?」

 

「いいから押すな!隊列が乱れるだろッ!」

 

「お願いだ、撃つな!まだ退却してない味方がいるんだ!頼むから待ってくれぇッ!」

 

 戦場では珍しくも無い、ありふれた、兵士の悲鳴が各所で聞こえる。

 

 

「……こんなの、ありえないッ!アタシの考えは、何も間違ってなんかいないはず……!」

 

 弓兵と槍兵、弩兵と騎兵を組み合わせてそれぞれの特徴を生かし、弱点を補うという劉勲の戦術そのものは、決して間違いとは言えなかった。むしろそれ自体は非常に先進的とも言える。

 だが、複雑な諸兵科の組み合わせには各部隊の完全な協調が求められ、実際の運用には障害となる問題が多い。

 

 そう。今回の場合、退却しようとする弩兵と、前に出ようとする槍部隊の間の連携がうまくいかず、袁術軍は大混乱を引き起こしていたのだ。しかも、そうこうしている内に黄巾軍が到着。

 隊列の乱れた槍部隊は密集隊形を組むこともできずに、懐に潜り込まれて次々に討ち取られてゆく。更に劉勲の命令によって弓部隊には「矢の雨を降らせよ」、つまり弾幕射撃による面制圧命令が出されていた。だが乱戦状態になってしまえば狙いを定めることもできず、味方への誤射が頻発。もはや誰が敵か味方かも分からず、闇雲に戦っているのが現状だった。

 

 

 

 異なる兵科を自在に組み合わせて有機的に連携させ、戦場を縦横無尽に支配し敵を翻弄する――それは名将の条件であり、あらゆる軍師の夢であろう。羨望の的であろう。

 されど、それを実行に移せる錬度、数、装備、士気、指揮官、補給線を兼ね備えた軍隊は、悲しいぐらい少ない。

 

 戦場は生き物――この有名な言葉の通り、どんなに優れた指導者が指揮しようと、兵士が命令通りに動けるかどうかは殆ど運なのだ。ましてや書物でしか戦争を知らないアマチュアが初陣の指揮をした所で、思い通りに兵士が動くはずが無い。

 

 

 たった、それだけの話。今回の敗北も、その一例というだけ。戦場ではよくある、ありふれた失敗談の一つに過ぎない。記録書には「不様な敗北」と記され、後世の歴史家の嘲笑の種が一つ増える程度のものだ。

 

 全てが終わってみれば、分かり切った事だ。もともと袁家の将兵の質が残念な上、粛清によって熟練指揮官までが不足していた。傭兵の集団脱走の件もある。数で劣る上に士気も錬度も低く、指揮官不足がそれに拍車をかけていた。ゆえに弩兵と槍兵が移動した途端に混乱が生じてしまい、最悪のタイミングで黄巾軍に突撃されたのだ。

 

 

「なんとしても死守しろ!これは命令だ!」

 

「逃げるな!持ち場に戻って戦え!」

 

「おい!分かっているのか、脱走兵は即刻死刑だぞ!」

 

 戦列は崩壊し、袁術軍兵士は逃走を始めている。士官が必至に止めようとしているものの、なにせ脱走兵の数が多い。加えて袁術軍は大混乱に陥っており、兵士たちの怒声と罵声によって、士官の声はほとんど届いていなかった。中には、士官が率先して逃げだす部隊すらあった。

 

 

 もちろん、孤立した状態で善戦する部隊も少なくは無かったが、それはあくまで個々の戦闘でしかない。劉勲の命令で投入された下馬騎兵部隊などは、確かに一時的に敵の攻撃を押しとどめた。元が騎兵ということもあって装備は充実。錬度も充分なレベルだったが、そんな彼らですらも黄巾軍の突撃の前に刻一刻と戦力をすり減らしてゆく。しょせん戦闘で戦術は覆せないのだ。

 

 

 

 ゆえに味方の損害が徒に増えていく様子を、劉勲は奥歯を噛みながら、ただ見守ることしかできなかった。

 なんとか戦線を立て直そうと、子飼いの指揮官達も奮戦しているが、何せ実戦経験が足らない。彼らとて無能ではないが、劉勲の台頭と共に出世した若手が殆ど。百聞は一見にしかず、という言葉の通り、実戦となれば長年袁術軍を支えてきたベテラン指揮官には及ばないのだ。

 

 

「……退却よ。残存部隊はこのまま、健在な右翼部隊と共に後退する!」

 

「しかし、それでは左翼部隊と正面の兵が……」

 

 別の軍師の一人が、躊躇いがちに劉勲に声をかける。何の支援も無しに退却すれば、健在な部隊は無事に撤退できるが、敵と交戦中の部隊は大損害を被る。

 

「じゃあ、アナタは勝手に残れば?別に止めはしないよ。」

 

 冷めた目で軍師にそう告げると、劉勲はさっさと逃げ出した。

 その軍師はしばらく動かなかったが、ややあって劉勲に続いた。前線の兵士には悪いが、やはり自分の命には変えられない。

 

 

 

 

 

 ――こうして、南陽における黄巾軍との戦いは、袁術軍の一方的な敗北で終わった。

 かろうじて抗戦を続けていた劉勲率いる本隊と、右翼部隊が味方を見捨てて逃走を始めた事により、袁術軍は全面敗走へと至ったのである。この敗走により、宛城の命運も風前の灯火かと思われた。

 

 

 しかし不思議な事に、張曼成率いる黄巾軍は突如として進撃を停止した。宛城を目前にして謎の退却を始めたのだ。

 

 このあまりにも不可解な行動に、後世の歴史家の間ではその後も様々な憶測が漂う事となる。

 一説によれば、黄巾軍の兵站が限界に来ていた事とされ、別の説では黄巾軍内部の不和によるものともされている。また、実際には先の戦いの結果は引き分け程度であり、劉勲の政敵が彼女の評判を落とすために、わざと被害を多く見積もったという話もある。

 

 

 

 されど、後世のある歴史家の一人が、ついにその謎を解明することに成功した。きっかけは、当時の袁家の財務会計報告書の発見だった。

 

「おい。……この月だけ、やけに『用途不明の 交際費 (・ ・ ・)』が多くないか?」

 

「「「……。」」」

 

 歴史は語る。地獄の沙汰も金次第。それはいつの時代も変わらぬ一つの真理なり。 

 

 

いずれにせよ、これにより劉勲は軍を再編する貴重な時間を得て、南陽における黄巾の乱は第2段階へと移行してゆく。

    




 やっぱ負けました。
 序盤に出てくる敵って、なぜか側面の警戒緩いですよね。ついでに反応が鈍い、というのも袁術軍に反映させてみた。

 あと諸兵科連合とか統合作戦ってカッコイイですけど、実際には組み合わせや同調、部隊間の連携&情報伝達が難しい上にコストがかかる(兵科ごとの訓練や装備の不統一など)ので、歴史上だと失敗例もかなりあります。

 ちなみに最後のワイロ戦術は、戦争で異民族に勝てない時の、古代から続く常套手段です。黄巾軍も結局は一揆みたいなもんだから金ばらまけば一時的には収まる……はず。


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14話:黄天當立

   

 宛城を目前に撤退した黄巾軍と袁術軍は、しばらくの間小康状態を保っていた。だが、中華各地で黄巾軍が次々に領主の城を落とし始めると、再び南陽でも黄巾軍の動きが活性化し始めた。

 

 

 これに対し、辛うじて南陽への攻撃を防ぐことに成功した劉勲は、軍の再編成を終えると同時に再び黄巾賊の討伐に向かう。

 

 当初こそ袁術軍は数に任せてバラバラに突撃を繰り返すだけという無策無能ぶりをさらけ出し、大損害を被っていたものの、戦いが長引くにつれて状況が好転し始める。

 地力に勝る袁術軍はカネに物を言わせて戦力を増強し、数と装備に依存することで強引に押し切っていった。当初、黄巾軍総数8万に対して袁術軍は5万という戦力比であったが、今では黄巾軍7万に対して袁術軍6万と戦力比は縮みつつある。

 

 更に、黄巾軍に協力にした農家を焼き払い、強制収容所に入れるという強硬手段にも訴えた。

 これだけならば、むしろ黄巾軍に参加する農民が増えそうな気がするが、劉勲は密告を奨励することで民衆が黄巾軍に協力するのを防いだ。誰が味方なのか敵なのかも分からない状況に置かれれば、自然と反体制運動は下火にならざるを得ない。

 結果、黄巾軍は民衆の協力を得ることができず、補給線に問題を抱え始めたため、自軍が有利な状況になったことを確信した袁術軍は満を期して掃討作戦を開始したのだ。

 

 

 

 袁術軍司令部・会議室

 

 

「今こそ全面攻勢に出るべきよ。これで連中にトドメを刺してこの戦いを終わらせるの。」

 

 そう主張するのは劉勲だ。前回の反省も踏まえて、今回は部隊移動によって混乱が生じないよう、無理のない編成に変更している。しかも捕虜から得た情報によれば既に敵の装備・食糧は大幅に消耗しているという。ならば一刻も早くこの戦いを終わらせるべき、というのが彼女の主張だった。

 

「そうですね。一気にガツンと一発かまして終わらせちゃいましょう。」

 

 それに続くのは張勲だ。何人かの将校もそれに同意して頷いた。なにせ、彼我の兵力差は伯仲している。装備もこちらが上回っている。地図の上には、山岳部へと追い詰められつつある黄巾軍と、それを包囲中の袁術軍が印されていた。総力を挙げて攻撃すれば、山岳地帯に追いつめられた敵軍を殲滅できるはず。

 

 

 しかし、それに真正面から反対する者がいた。袁家の客将として参加してた周瑜である。

 元々孫家が参加する予定はなかったものの、あまりの損害の多さに苛立った袁術の命令によって途中参加が決定されたのだ。袁術軍に吸収されなかった数少ない孫家将兵をこれ以上失う訳にも行かない以上、周瑜が慎重論を述べるのは当然の帰結だった。

 

 

「私は反対です。敵が立て籠もっている場所は山岳地帯であり、抵抗は頑強でしょう。即攻撃したところで被害が増えるだけです。」

 

「これはこれは……孫呉の軍師殿はなんとも慎重なことで。」

 

 その場にいた袁術軍の軍師の一人が、口の端を歪ませて皮肉を言う。

 

「……そういう勇敢な袁家の軍師殿はお変わり無いようで。この乱が始まった時と同じくお気楽そうで何よりです。」

 

 相手が農民上がりの賊にも拘らず、袁術軍が緒戦で大損害を被ったことは既に周知の事実だ。士官の何人かが表情を引きつらせるが、周瑜は眉一つ動かすことなく自論を展開する。

 

「山岳地では動きが大幅に制限されます。敵が正面からの攻撃を忌避して不正規戦闘を仕掛けてきた場合、鈍重な我が軍は格好の的になるだけです。」

 

 

 袁術軍は豊富な資金力から装備は充実しているものの、山岳地帯ではむしろそれが仇になる可能性を周瑜は指摘した。

 

 重装備の兵士では狭い山道を通らざるを得ず、自然とその進行ルートは限られる。さらにベテラン将校が失脚したおかげで指揮官が不足しており、袁術軍一般兵の錬度の低さと相まって、一度混乱すれば簡単に軍が崩壊する。

 

 士気の低下も深刻だ。劉勲は数で勝る黄巾軍に対して、袁術軍も新たに街でゴロツキを傭兵として雇い、農民を強制徴募して無理やり頭数を揃えることで対処した。そんな彼らの士気が高いわけがない。

 しかも袁術軍兵士と孫家の兵士、ゴロツキの傭兵と強制徴募された農民からなる兵士という4つの錬度が異なる軍をごちゃまぜにしているため、錬度の差から部隊間の連携が全く取れておらず、奇襲を受ければ瞬く間に烏合の衆と化すだろう。

 

 ただでさえ袁術軍はサボりやズル休みが多く、錬度は他の諸侯に比べれば話にならない粗悪なレベルだったのだ。それに指揮官不足や連携の不一致、地の利まで奪われて勝てるわけがない。

 

 そのことを指摘した上で、周瑜は持久戦に持ち込むことを提唱した。黄巾軍7万は山岳地帯に逃げ込んだものの、それだけの大軍を支えるだけの兵站は無い。

 

「ですから、我らが敵を包囲した状態を維持し続ければ、敵は自ずと自壊するでしょう。」

 

 派手さは無いが、堅実で確実な戦術。確かにこれならば袁術軍は無理をすることなく、待っているだけで勝利できるだろう。しかし、その意見に劉勲は首を横に振った。

 

「却下よ。そんなことしたら兵站が持たないし。悠長に包囲なんかしてるヒマないの。」

 

 黄巾軍もそうだが、袁術軍とて大軍を支えるのは大変なのだ。食糧もそうだが、武器も同じく消耗品である。弓矢は言うに及ばず、槍は折れるし、鎧も壊れる。それに加えて6万もの兵士への給料も払わなくてはならないのだ。袁家とて無限に金を生み出せるわけでは無い。長期戦になって出費が嵩めば、責任追及は免れないであろう。

 付け加えると「用途不明の 交際費 (・ ・ ・)」による支出もかなり財政に響いていた。

 

 しかも、そこら辺の農民を強制徴募したために戦いが長引けば士気は一層低下する上、農作業にも影響が出ることが予想された。例え勝ったとしてもこれでは失うものが多すぎる、というのが劉勲の意見だった。

 

 

 純粋な理論として見れば、劉勲の意見もあながち間違いとは言えない。だが周瑜はどうしても素直に認めることが出来なかった。

 

(そもそも誰のせいでこうなったと思っているのだ。自分の出世のために経験豊富な将校を失脚させて大敗北し、挙句の果てに敵にワイロを送って首の皮一枚で危機を脱出。場当たり的に強制徴募で数を揃えたはいいが、長期戦になれば無理な出費と徴兵が嵩んで自身の無能を周囲に曝け出すことになる。自業自得ではないか。)

 

 周瑜は冷やかな目線で劉勲を見つめる。若干の偏見は混じっているだろうが、天才軍師との評価も名高い周瑜にとっては仕方のない反応だった。

 

 

「わたしは劉勲さんの意見に賛成ですね。周瑜さんの言うことにも一理ありますけど、烏合の衆なのは敵も同じですし~。」

 

 袁術軍が頼りないのは確かだが、だからといって黄巾軍が強力か、と言われるとそう言うわけでもない。彼らのほとんどは貧しい農民や難民から構成されており、士気と数以外はこれといった武器もない。真っ当な兵站を持たない黄巾軍は袁術軍以上に疲弊しているはず。苦しいのは敵も同じであり、袁術軍は腐っても軍隊だ。本来、個々の兵士の力量なら上である。ならば必要以上に恐れる事もあるまい。

 

 あまり仕事をしない彼女だが、決して無能ではない。むしろロクに仕事してないクセに、曲がりなりにも袁術軍のトップでいられるということは逆に賞賛すべきことだろう。『敵も』烏合の衆と言っている辺り、地味に自軍の状況もよく分かっている。

 

「慎重になるのは結構ですけどぉ、勝機を逃しちゃいけないと思います。」

 

 えっへん、と腰に手を当てて胸を張る張勲。勝機と言えば聞こえは良いが、逆にいえば選択肢が限られているという事でもある。ついでに言うと「たかが農民の反乱」に「勝機」なるものが必要なのは袁術軍ぐらい。フツーの軍は反乱の数が多すぎて対処能力を超えているだけで、戦えば大抵勝てます。

 

 

 

 

「……それはそうとして、おかしいですねぇ。」

 

 と、その時だった。会議が紛糾し始めて自分達に注意の目が向かなくなった頃合いを見計らい、劉勲の隣にいた張勲が話しかける。

 

「劉勲さん、どうしてあんな事を言ったんですかぁ?」

 

「え?」

 

 どういうことだ?一瞬、張勲の質問の意味が分からずに混乱する。

 

「えっと、アタシの意見に賛成なんじゃないの?」

 

「いえ、そう云う事では無くてですねぇ……何と言うか、劉勲さんらしくないなぁ、と。劉勲さんはもっとこう、功績より自己保身に走る人だと思いましたよ。」

 

「ヤダ、アタシそんな風に思われてたの?」

 

 もちろん劉勲とて多少の自覚はあるが、問題はそこではない。張勲の意図が不明である以上、相手の真意を突き止めるまでは適当にとぼけるのが上策なのだ。

 

「ま、どっちにしろ同じ事じゃない?失敗を帳消しに出来るだけの功績を立てなきゃ、どうせ今の立場も危ういし。言ったでしょ、長期戦になれば――」

 

 

「――では聞き方を変えますね。」

 

 

 先に仕掛けたのは張勲だった。張勲の表情から、零れるように感情が抜け落ちてゆく。

 

 「いったい……何を(・ ・)そんなに急いで(・ ・ ・)いるんですか、劉勲さん?」

 

 一瞬、別人かと間違えるほどの空虚な笑顔。確実に笑っているが、本当の笑みでは無い。

 

「……さぁて、何のことかしら?アナタがのんびりし過ぎているだけじゃないの?」

 

 言い逃れようと、とっさに人を食った言い草ではぐらかし、無理やり微笑む。張勲の方も一向に視線を逸らそうとはせず、空っぽの笑みで彼女を見つめる。

 

「……では、今は(・ ・)そういう事にしておきましょう。」

 

 淡々とした、何の感情も感じさせない無機質な声。

 

「誰にだって、話したくない秘密の一つや二つ、あるでしょうし。それが害にならなければ、他人の個人的な事情なんて知っても良い事ありませんしね。」

 

 

 

「もちろんよ。それはアタシにとっても本意(・ ・)じゃないわ。」

 

「では、出切る(・ ・ ・)限り(・ ・)、お互い仲良くしましょうね。」

 

 本心を心の底に隠したまま、二人で笑い合う。

 どうやら、この辺が落とし所の様だ。劉勲に危害を加える意思はなく、ゆえに張勲もそれ以上の詮索はしない。互いの不利益にならない限り、約束や条約といったものは必ず守られるのだ。

 

 

 

 

 

 一方、会議は作戦課を中心に周瑜の意見に賛成する者と、兵站課を中心に劉勲の意見に賛成する者に2分されていた。どちらの意見にも利があり、互いに譲ろうとしなかったために会議はこじれてしまう。 

 

「賛成しかねます。袁家の軍資金にはまだ余力があるはずです。」

 

 断固として反対の姿勢を崩さない周瑜。実際、袁家の財力を以てすれば後3,4週間は包囲が可能だ。しかし、またもや劉勲はその意見を却下する。

 

「へぇ~、自分の懐は痛まないからって随分な言い草ね。あんまり袁家を貯金箱扱いしない方がいいわよ。あ、それともこの機に袁家の弱体化でも企んでるつもり?」

 

「そんなつもりは無い。ただ、事実を述べただけだ。」

 

 挑発を軽く受け流し、あくまで淡々と告げる周瑜。

 だが、周囲の視線が一層冷ややかになったことは十分すぎるぐらい感じ取れた。孫呉は所詮客将であり、正規の袁術軍ではない。そのことが、この軍議の結果を決定した。

 

 周瑜の意見に賛成だった者も、こうなってはどうしようもない。このタイミングで彼女を擁護することは、政敵に自ら失脚の口実を与えるようなものだ。勝利を確信した劉勲は、短くこの会議の終わりを告げる。

 

「では、民主的に採決を取りましょうか。」

 

 

 

 結果、賛成多数で「全面攻勢」案が採用される事となった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 例えばの話をしよう。

 ここに一つの単純な、およそ間違えようのない、簡単な質問がある。

 

 もし、姉妹で意見が食い違った時、より正しいのはどちらだろうか?

 

 考えるまでも無い。大抵の場合において正しいのはより世間を知っており、状況を正確に判断できる姉の方だ。

 対して、妹のそれは姉に遠く及ばない。多少の例外はあるだろうが、世間一般の常識として姉は妹より正しい。

 

 では、妹が独断行動をおこした結果、失敗したとする。

 

 理由は、取るに足らないミス。

 年長者ならば、条件反射的に防げる類の失態。

 姉ならば、ちょっと考えただけで思いつく失敗。

 

 それを見つけた姉の反応は?

 

 姉は「なぜこんな簡単な事も分からないのか」と決まって言うだろう。

 

 それは正しい。間違ったことは何一つとして言ってはいない。後になってみれば当の本人ですら、こんな単純な事に気づけぬ己を恥じてしまうような、そんなつまらない原因。

 

 だが、果たして妹が本当に軽率無思慮であったと断言できるだろうか?

 

 答えは否。

 妹には妹なりの理由と確信があったはずなのだ。

 ただ、姉のそれに及ばなかっただけである。にも拘らず姉は妹の視野の狭さと思慮の浅はかさに呆れてしまう。それは誰も悪くない、見える世界が違うが故の、小さな小さな悲劇。

 

 

 

 人気のなくなった会議室に、劉勲は一人で座っていた。

 

 彼女の肩は震えていた。

 可笑しかったのだ。

 しかし、それは自身の意見が通ったこと喜ぶ類のものではない。周瑜という天才を舌先で丸めこんだ事を誇る類のものでもない。

 

 そうであったならどれだけ幸せだったであろう。

 

 どれだけ満足であっただろう。

 

 知らぬが仏、先人の言葉は実に正しい。

 

 だが、劉勲は違った。幸か不幸か、彼女は気づいてしまった。

 

 周瑜が何を考え、何を思ったのかに。

 

 

 周瑜は何も言わなかった。ただ、淡々と無表情で部屋を退出していった。「全面攻勢」案が採択された時も、そっけなく「わかりました」の一言で片付けた。

 

 

「……これだから、天才ってヤツは……!」

 

 受け入れようと頭で思っていても、つい愚痴ってしまう。劉勲自身、周瑜の考えの方が優れていることも、彼女の不満も理解できた。

 今回の大敗北の原因を作ったのはほぼ自分のせいであり、もっともらしい事を言っても自分は結局、失態を揉み消すために多くの人間に無理を強いているだけだ。そのことに気づいていない者もいるだろうが、天才である周瑜には、いともあっさりと理解できただろう。

 

 だからこそ、軍議の間中ずっと、周瑜は冷めた目で劉勲を見ていた。

 

 もちろん劉勲の立場上、彼女が必ずしも合理的な選択肢が選べるわけではない。高い地位にあれば、面子や派閥、その権威に絡み合うあらゆる人間の思惑と無縁ではいられない。

 

 だが、周瑜に限らず、聡明な者なら皆同じ結論に達するはずだ。

「こうなるのは分かり切っていたことだろう。」と。

 自身の権力拡大の為に、形振り構わず突き進めば、どこかでボロが出る。にもかかわらず、劉勲は反対派の失脚と更迭、粛清を断行してしまった。その結果がこのザマである。

 確かに、現状において取り得る策の中で、劉勲は最善の選択をしたのかもしれない。だが、こんな状況を生み出したのは誰なのか?いったい誰のせいでこうなったのだ?

 

「……そんなの、言うまでも無い。」

 

 劉勲自身、客観的に自分を分析できる冷静さを備えているだけに、自己嫌悪が止まらない。周瑜に対する挑発的な態度も、所詮子供っぽい八つ当たりに過ぎない。そのことを自覚しているが故に、更に苛立ちだけが募ってゆく。

 

 

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」とは孫子の言葉だが、周瑜はこれに従って自分の力量をよく弁えていた。常に現実的に物事を冷静に観察して、無理せずに「自分にできること」を確実にこなしていた。

 劉勲に対して「目先の利益に釣られた挙句、勝手に失脚するのは結構だが、それに自分達を巻き込まないでくれ」と思うのも無理は無い。軍師として、周瑜にとってその程度は、分かり切った「当たり前」の事だった。

 

 

「そんなの……考えただけで分かれば苦労しないよ……。アタシだって……アタシだってちゃんと、自分で出来る事をしたつもりだったのに……!」

 

「黄巾の乱」といっても、実態は単なる農民の反乱だ。劉勲が初陣として手柄を立てるには、ちょうどいい相手だったはずなのだ。今になって考えてみれば、確かに袁術軍に負ける要素は多数存在していた。だが、戦いが始まる前に正規軍が農民に負けるなどと、一体何人が予想できただろうか?

 

 そう、「天才」である周瑜と違って「秀才」に過ぎない劉勲には完璧は望めない。なまじ「凡人」よりかは頭が回るだけあって、ある程度までは誤魔化せてしまうためにそれに気づく者は少ない。現実に劉勲は自身の引き起こした、格差の増大や治安の悪化といった問題を経済成長で誤魔化している。だが「本当に大事な時」には誤魔化しは効かないのだ。

 

 

 それが、二人の違いだった。劉勲の「当たり前」は周瑜の「当たり前」と違う。そして両者の意見が違った時、正しいのは周瑜の方なのだ。

 故に周瑜からは、劉勲が後先考えずに行き当たりばったりで周りに害悪をまき散らしているようにしか見えない。「天才」の目から見た劉勲とは、敵の力量を知らず、己の力量をも見誤った道化。分不相応に高望みする俗物。呆れて物も言えないないとは、こういうことを言うのだろうか。

 

 周瑜にとって確かに劉勲は厄介な相手だが、逆に言えばそれだけの小物。劉勲には大局を見る目も、王としての器も、卓越した武も無い。所詮は袁家という権威に寄生する、虎の威を借る狐。

 

 はっきり言って、劉勲は相手にされていなかった。

 

 それは、気にする価値も無いという意思表示の現れ。

 対話の機会すら与えぬ門前払い。

 お前など、そこらの有象無象と変わりはないと、鼻で嗤う行為。

 

 口には出さずとも、劉勲には分かってしまった。

 

 

 ――かつて劉勲に、これと同じ目を向けた者がいたから

 

 

 それは、取るに足らない

 

 

 ただ五月蠅いだけの――――羽虫を見つめる視線だった

 

 

 

 誰もいない会議室の隅で、劉勲は唇を噛み締める。

 

「……見てなさい。絶対に、成功させて見せる。」

 

 自分を信じ、挫けそうになる心を叱咤する。

 

「アタシを見下した事を後悔させてやる。」

 

 たった一人で、誓いを立てる。

 

「アタシは負けない。」

 

 強く、白い骨が浮かび上がるぐらい強く、己の拳を握りしめる。

 

「自分でもやれば出来るんだって、ちゃんと証明してみせるんだから。」

 

 

 

 

 

 3日後、袁術軍は全面攻勢を仕掛ける。

 しかし、急斜面の山の細く狭い山道を進軍し続けてきた事と、各部隊の連携がうまくいってないことから、袁術軍は事実上分散してしまう。それに気付いた張曼成率いる黄巾軍が奇襲攻撃を加えたため、袁術軍は分断されて連携と補給を絶たれてしまった。

 

 その後、黄巾軍は連絡を絶たれ孤立した袁術軍に、側面から一撃離脱の奇襲を繰り返し加えた。総兵力差は小さかったものの、袁術軍は混乱している上に分断されており、局所的に黄巾軍の兵力が上回ったため、各個撃破されていったのだった。

 

 

 ある兵士によると、退却していく劉勲の顔は、何かを必死に堪えているようで――その体は心なしか、小さく見えたという。

 

  




 初陣に引き続き2連敗中の主人公です。賄賂とか密告とかでコンディションを整えるまでは良いんですが、実戦になると勝てないのが劉勲さん。

 戦記モノなのに初っ端から負け続ける主人公って一体……ホントにこれで良かったのかな?
 ちなみにモデルは冬戦争です。ヒトラーに「独ソ戦で勝利できる」と勘違いさせたと言われるぐらい赤軍フルボッコのあの戦いです。


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15話:戦いの末に

                   

 仮に、何かに失敗した人間がいるとしよう。

 それは就職かもしれないし、学校のテストだったり、ひょっとしたら料理なのかもしれない。

 あなたは心配する。何とか慰めようとする。でも、どんな態度をとればよいのだろうか?

 

 最も消極的な態度は「何も言わない」ことだ。

 

 傷が自然と癒されるまで待つ。本人自身の力で乗り越えさせる。失敗を自分の力で乗り越えられれば、その人間はより強くなるだろう。

 

 こんな諺がある。「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」、要するに敢えて厳しい態度をとることで強さを身につけさせるのだ。しかし、谷を這い上がってこれない幼い獅子は果たして何匹いるのだろうか。そう、全ての人間が失敗を乗り越え、傷を癒すことなどできない。

  例え失敗を乗り越えられたとしても、必ずしも傷が癒されるとは限らない。焼いて化膿しないようにする人もいる。傷口ごと切り落とす人もいる。包帯で上辺だけ取り繕っても、中では蛆が湧いている人だっているのだ。

 

 ならば、より一般的な、罪の意識を薄れされるという方法はどうだろうか?

 

「あなたは何も悪くない」と言う。他人に責任を転嫁する。悪くない。大抵の人間はこれで救われるのだろう。

 されど、それが通用しない場合もある。当の本人が冷静で、物事を客観的に観察出来れる人なら始末が悪い。その人には「他人に責任転嫁して逃げようとしている弱い自分」が見えてしまう。行きつく先は自己嫌悪。

 

 では、もっとポジティブに考えよう。

 

「失敗は人間誰でもある。失敗から何を学ぶか、そこが大事だ。」、と。上出来だ。まさに正論。本当に失敗から学べるかどうかはともかく、その思考することで少なくともその場は乗り切れる。本当に失敗から学べたのか、学んだことが正しかったかどうかなど、そんなのが分かる頃にはとっくに過去の記憶になっているだろう。

 ただし、時として失敗から学ぶ機会すら与えられない時がある。一度の失敗が命取りになることなど、別に珍しくない。

 

 その意味で、劉勲は幸運だっただろう。なぜなら彼女は自己保身の術に長けていた。つまり、「失敗から学ぶ機会を作り出せる」からだ。だが、同時に不幸でもあっただろう。なぜなら彼女には、慰めの言葉を掛けてくれる人など居なかったから。ただ一人として、本当の意味で心配してくれる人など、誰一人として居ないから。

 

(……でも、アタシは大丈夫。そんなのは、「当たり前」だから……)

 

 しかし、自己保身に長けずとも、慰めてくれる人が居なくとも、失敗を乗り越えられる方法を劉勲は知っていた。簡単な話だ。「慣れ」てしまえばいい。それが人間の適応能力というのは実によくできている。現実がいくら理不尽だろうが、その環境にずっと身を置いていれば、それが「当たり前」になる。成功しないのはいつもの事。一人ぼっちなのも今更な話。「成功」しようが「失敗」しようが、どうせ上辺だけの賞賛と励まししか貰えない。

 

(大事なのは……確固たる『結果』よ。じゃないと、アタシなんて誰も……)

 

 だから傷を癒すという、失敗を乗り越える「過程」なんかに興味無い。大事なのは「結果」だけ。誰もが認めざるを得ない「結果」を残す――そうするしか自分自身の価値を証明できないから。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

「黄巾賊はどうしたんだね?なぜまだ奴らは領内を荒らしている?」

 

「まぁ、落ち着きたまえ。皆いろいろと忙しいのだ。発言は必要最低限に抑えてもらいたい。」

 

「そもそもワシは最初から反対だったのだ。そう言ったにも拘わらず、言うことを聞かんからこういう事になる。」

 

「こんなに多くの税金を無駄にして、君は民と、袁術様に申し訳ないとは思わないのか、劉勲書記長?」

 

 

 

 書記長、その言葉に反応したのは会議室の入り口付近、袁術の反対側に座っている女性だった。

 

 着ている服は上物で、髪のツヤもしっかりと維持されているが、その顔はいつも以上に青白く、疲れているのが傍目にも分かった。

 黄巾軍討伐失敗の後処理――報告書の作成や、壊滅した部隊の再編成に、恩賞やら兵士の給料支払い等――に加えて通常の書記長の業務もある。特に戦争では多くの人間が死んだり、出世あるいは失脚するため、人事移動が多く、それを監督する書記長に仕事も殺人的に増大する。

 

 その上、現在進行形で行われている、敗北責任を問う劉勲自身への軍法会議の準備もこなさなければならない。軍法会議では手続きの簡略化のため、弁護人を置くことが許されず、自分の弁護は全て自分でしなければならないのだ。

 

(陪審の4割は説得、もしくは買収したとはいえ、旧保守派と楊弘の派閥を中心とした連中はアタシを失脚させようとしている。残りは様子見ってとこね。ちょっとキビしいかも。……ったく、人が弱み見せた途端に本性現ちゃってさ。ただでさえ仕事で疲れてるのにこんな――)

 

 ぶつぶつと、心の中で愚痴る劉勲。これを聞けば十人中十人が「お前が言うな」とツッコむだろうが、気にしない。ついでに陪審を買収するとかいう単語もあったような気がするが、そもそも軍法会議自体が真っ当な手続きを経た裁判と言い難いため、こっちもスルー。

 

 

 

「どうするつもりだ?これ以上黄巾賊などという連中を のさばらせておくわけいにはいかないのだぞ!」

 

「心配のし過ぎだってば。黄巾軍の殲滅には失敗したけど、反乱の発生件数自体は減少傾向だし。後、2か月もあれば完全に駆逐できるわよ。」

 

 そう反論する劉勲に対してフン、と鼻を鳴らしたのは楊弘だ。

 

「確か君はこの反乱が始まった時には『あと数週間』と言っていたな?『あと数ヶ月』ではない。」

 

 劉勲と同じ改革派に所属する文官で、やや壮年の男性である。既に髪には白髪が混じり始めているが、年齢を感じさせない威厳のある人物だった。主に貿易関係を担当しているためか商売にも明るく、その頭の中には中華全土の地図が入っていると言われている。

 改革派による独裁政治を主張しており、他派を懐柔して利用しようという劉勲の姿勢を「軟弱」と非難するタカ派の急先鋒。かつて政争で劉勲に敗れていたが、依然として大きな影響力を保持しており、パワーバランスの巻き返しを狙っていた。

 

 

 

「……状況が変わったのよ。当初の予定より黄巾賊の士気が高く、自軍の錬度不足が予想以上に酷かった事は想定外でしょう?」

 

「ほう、そんな言い訳で人民が納得するとでも?まさか。……いいかね、我々が求めるのは実態のない口約束ではなく純然たる結果だ。」

 

「その通りだ。いい加減な理由で将校を粛清しまくった挙句にこのザマか?後先考えないからこうなる。」

 

 今度は別の若い軍師から野次が飛ぶ。劉勲の記憶が正しければ、確か彼は前任者の失脚のおかげで出世したはず。

 

「あら、アナタも粛清に賛成していたんじゃなくて?」

 

「いや、反対しなかっただけだ。賛成したとも言っていない。」

 

 しれっ、と答える若い軍師。かつてのリーダーを非難する、その表情には何のためらいもない。彼にしてみれば、仕えるべき主などいくらでもいる。失敗した主に用など無いのだ。

 

 

「ちょっとそれは言い過ぎですよぉ。劉勲さんは私に代わって軍の強化に取り組んでるんですから、ほどほどにして下さい。あんまり苛めると、私の仕事が増えちゃいますしぃ。」

 

 張勲が下心丸出しで弁護に入るものの、楊弘はそれを一蹴する。

 

「対応が遅すぎる。そして対策も杜撰すぎる。だから、私はかつて忠告したのだ。『騎兵中心の精鋭部隊を作って、危機に迅速かつ臨機応変に対応できるようにするべきだ』とな。」

 

「……そしたらアナタと懇意にしている貿易商は、西涼辺りから高額な馬と調教師を輸入出来る上に、飼育場も立てられて商売繁盛。同時に軍馬の供給源を押さえる事で、新たに軍部への影響力も確保できて万々歳ってワケ?」

 

 南陽は元々馬の産地では無く、軍馬のほとんどを別の場所からの輸入で補っている。そして軍馬一頭にかかる費用は相当なもの。通常、馬一頭にかかる食糧は兵士10人分に相当する。そのくせ中華の民は、基本的に農耕民族なので馬の扱いに慣れておらず、病気やストレスで馬が死んでしまうことも珍しくは無い。

 

 それらを防ぐには西涼あたりから専門の調教師を雇い、予備の馬を用意するための牧場を作る必要がある。そのため膨大なコストがかかるのだが、逆にいえば大きな利権が絡むとも言える。無駄が多い公共事業ほど、儲かる受注は無い。

 

 

「これは心外な。私は純粋に人民と兵士の幸福を考えて軍の強化案を述べたまでだ。君がせっせと出世に勤しんでた時期にな。」

 

(うわぁ……何が“人民の幸福”よ。そんなこと真面目に考えてるヤツがこの場にいるワケないじゃない。)

 

 劉勲はひっそりと胸の奥で毒づく。ちょっと後半は民衆に聞かせられない内容だが、概ね事実である。

 袁家は漢帝国の名門であり、当然、その組織やネットワークも巨大だ。劉勲がリストラやら粛清やらを多少断行したところで、組織全体に蔓延する官僚主義や縄張り意識、事なかれ主義に縦割り行政は消えないのだ。

 

 ――我々官僚は全力をあげて既得権益を維持し

    しかる後にその余力をもって人民にあたる――

 

 どこの誰が言い出したのか知らないが、ぶっちゃけ袁家家臣の基本方針はコレである。同時に唯一無二の生存戦略でもあり、それに再考の余地など存在しない事は不文律としてよく知られていた。

 

 

「無名の兵士だって、家族もいれば友もいる。上官の稚拙な指揮で死んでは報われないだろうな。」

 

 そう言って白々しく、祈るような仕草をする楊弘。その他の官僚もうんうんと、どこか愉しそうに頷く。

 

「……」

 

 

 劉勲は反論しなかった。別に反論材料が無いわけではない。

 

「私ならば、君と違ってもっと上手にやれたのに。非常に残念だよ。」

 

「……そうかもね。」

 

 ただ自分の意見など言ったところで、誰も聞き入れる気は無いだろうことが分かっていたから。だから、これ以上何も言う気が起きなくなっただけ。

 

(はぁ、……なんだか、ちょっと疲れちゃった。)

 

 ふと横を見れば、張勲が苦笑いを浮かべている。魯粛も何を考えているか分からない表情でうんうん、と頷いている。

 やはり――結果は、初めから決まっていた。結局の所、この裁判は劉勲を引き摺り下ろす為だけに上演される茶番劇なのだから。

 

 

“――権力は、私を幸せにしてくれませんでした――”

 

 

 いわれのない誹謗中傷が飛び交う。

 それを昔の同僚が嘲笑う。

 

 

“――権力なんて張り子の虎のようなものです。外見は立派でも中身は酷く脆い――”

 

 

 皆が嬉々として加虐に酔いしれている。

 官僚達の卑下た笑い声が会議室に響く。

 

 

“――そんな栄光より、私は美羽様の笑顔を大切にしたい――”

 

 

 モノは沢山あるのに、なぜか空虚さを感じさせる部屋。生活感の無い空っぽの空間の向こうで、張勲が垣間見せた苦笑。

 

 これが、劉勲の追い求めた『権力』の正体。そしてその代償――張勲はこうなることが分かっていた。もしかしたら彼女自身、似たような経験があったのかもしれない。あの時、張勲は暗にそれを伝えていた……『貴様には、その覚悟があるのか?』、と。

 

 だが、自分は進んでそれを受け入れた。故に、受け入れねばなるまい。権力によって得た栄光と代償――その全てを。

 

 

 

 すでに裁判の流れは決まっている。それに真っ向から挑めば、溢れだす勢いに飲み込まれる事は明白。ならばそれに身を任せて、飲み込まれないようにするのが賢明な判断というものだ。

 

(やっぱり、そうだよね。うん、知ってた。アタシだって同じなんだから……)

 

 強い者には媚びへつらい、寄生することでおこぼれに預かる。己の主を変えることに何のためらいも無く、その権威が没落すれば、さっさと見切りをつけて掌を返したように非難する。全ての責任をなすりつけ、失脚させて何事も無かったかのように後釜に座る。

 

 ただ、それだけのこと。こんな事はありふれた劉勲達の日常の一部でしかない。

 

 庶民から見れば豪華な調度品に囲まれた、華やかな世界。

 

 だが、その世界は金と権力、そして数多の血の上に成り立つ欲望の楽園。

 そこに暮らす人々は豪奢な服を纏い、優雅に語らいながら互いを引っ張りあうのだ。

 

 

 ――僅かでも輪からはみ出せば、すぐに蹴落とされる。

 

 ――尻尾を出せば掴まれる。

 

 ――足を出せば足元を掬われる。 

 

 

 

 だからそうならないよう、皆が血塗れで努力する。

 

 より多くの資金を――

 

 少しでも多くの権力を――

 

 前へ、もっと前へ――

 

 高く、さらなる高みへと登らんとする。

 

 みんなが、そうしているから。そうしなければ、生きていけないから。自分だけ、そこから外れれば堕とされるだけだから。

 

 故に、必死に他者を蹴落とす。他者を押しのけて前進する。

 それすらできない者は、強者に寄生するしかない。宿主が弱れば、新たな宿主を探す。そうしなければ、弱い自分も一緒に堕ちてしまうから。

 

 だからこそ、例え非情であっても必死になって寄生すべき宿主を見極める。

 

  (みんな、自分の事で精一杯だから……)

 

 そう、誰もが加害者であり、同時に被害者なのだ。今日の哀れな生贄は知人の一人、されど明日は我が身かもしれない。

 

 

 それを責める事はできないだろう。彼らはただ、そういう世界に生き、その世界の法則に従っているだけなのだから。

 一度入ったら抜け出せない、底なし沼に足を踏み入れてしまったのだから。

 蟻地獄の底に堕ちまいと、必死に巣を這う虫ケラのように、もがき続けているだけなのだから。

 

 (立ち止まっちゃダメ、歩き続けないと、前に進まなきゃ……)

 

 立ち止まったら、引きずり込まれてしまう。堕ちて、喰らい尽くされてしまう。

 

 (だったら……)

 

 そう。それならば――

 

 (アタシは、どんな(・ ・ ・)手を使ってでも――――)

 

 

 

 最終的に、黄巾軍討伐の最高責任者には、劉勲に代わって張勲が任命される。

 劉勲は指揮権を剥奪され、その役目は張勲の助言に止まる事となった。失脚こそしなかったものの、その影響力は明らかな減退を見せていた。ゆえに彼女は新たな対策を取る必要に迫られていた。

 

 そしてこの裁判から一週間後、劉勲から思いもよらぬ提案が提出される。

 

 すなわち――

 

 

 

 

 

 ――旧孫堅軍を再建であった――

    




 責任追及タイム&孫家再興フラグです。初っ端から原作キャラに恨まれるわ、内政はイマイチぱっとしないわ、2連敗した挙句に軍法会議にかけられる主人公。果たして逆転はあるのか?……まぁ、どうせロクなことしないでしょうけど。


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16話:帰還への序曲

       

 南陽城・袁術軍会議室

 

 あの敗戦から、ここでは毎日のように袁家の主要家臣が会議を開いていた。もちろん、議題は残存している黄巾賊の討伐についての事なのだが、一向に方針がまとまらないでいた。今日も何も決まらないまま閉会かと思われた矢先に、劉勲から思いもよらぬ提案が出される。

 

「ねえねえ、ちょっと聞いてほしい事があるんだケド、いい?」

 

「何か妙案でも浮かんだんですかぁ?」

 

「旧孫堅軍を再建してみない?」

 

 

「…………は?」

 

 日頃から袁術の支離滅裂な発言に対応している張勲でさえ、思わず衝撃を受ける。その他の面々も、劉勲が何を言っているのか理解するまでにしばしの時間を要した。

 

 旧孫堅軍を再建する?味方を何人も死なせて、やっとのことでその影響力を削いだのにそれを復活させる?そんな愚行は正気の沙汰ではない。そもそも孫家の失脚を目論んだ黒幕は発言した当の本人だろうに。

 

 

「書記長、君は本気で言っているのかね?……というより正気で言っているかね?」

 

 大抵のことでは動じない楊奉ですらも面喰っている。

 

「楊奉、アナタさりげなく人のことバカにしてるでしょ?いや、さりげなくどころか思いっきり公衆の面前で罵倒したよね?」

 

「それはどーでも良いとして、信用できるんですかネ?」

 

「どうでも良いの!?」

 

 どちらかというと孫家寄りの魯粛までもが躊躇する。

 

「そうですねぇ。私も劉勲さんの頭が大丈夫かちょっと気になっちゃいます♪」

 

 最後に張勲がトドメを刺す。劉勲の前世と違って、親愛なる同志書記長は意外とリスペクトされていないようだ。その事実に軽く落ち込みつつ、劉勲は駄々っ子の様にむくれながら言い返す。

 

 

「でも、逆に考えればまとめて管理できるって話だよ?各地に分散している方が何やってんだか分からないし。弱小であるうちに使い潰せばいいじゃん。」

 

 ついでにサラッといかにも敵の中ボス辺りが言いそうなセリフも忘れない。まぁ、この意見に関しては見方しだいだろう。

 

 元々孫家は地元豪族や民衆との繋がりが深く、兵を分散させたとはいえ、未だに密接に連絡を取り合っていた。軍師の周瑜あたりなら分散した家臣達を使って、逆に地方とのコネを作っておくぐらいの事はするだろう。今は弱体化しているとはいえ、時間がたてば潜在的な脅威は増える可能性が濃厚だ。しかも分散させたが故に旧孫堅軍の把握が出来なくなっており、情報収集をする上では以前より、孫家にとって有利になっている。

 

 なまじ孫家の正規兵力が小さいだけあって、潜在的な脅威は見落としがちになる。袁家にとって最悪のシナリオは、自らの管理外で孫家が力を貯え、知らない内に足元を掬われること。だからこそ、弱小である内にこちらで管理しておき、兵力をすり減らしておこうというのが劉勲の意見だ。

 

 

「……その方法に失敗したから反対しているのですが?」

 

「同じく私も反対だ。不確定要素が大きい。」

 

「だいたいそんな危険なことを許可するわけにはいかない。虎を野に放つようなものだぞ!」

 

 孫堅の後を継いだという孫策は、母に劣らぬ戦上手だという。孫家の再軍備を認めれば、せっかく削いだ孫家の発言力が復活してしまう。純粋に安全保障上の観点から見るならともかく、政治上の観点からみればいささか容認しづらい発言であり、反対意見が続出するのも無理の無い話だった。

 

 ちなみに人命が人的資源という一種の消耗品である事には誰もツッコまない。袁家の領地では兵士が畑で取れるそうです。

 ついでに言うと、この面々が本当の意味で誰かを信用しているのかにも甚だ疑問が残る。でも袁家じゃこれが普通なのでこっちも華麗にスルー。もう慣れた。

 

 

「落ち着け、そんな細けぇこと気にすんなよ。多少は緊張感があった方が、平和ボケした兵士には良いクスリになるんじゃねぇか?」

 

「紀霊さんの言っているように『多少』の緊張感で済めばいいんですけどねぇ……」

 

 

 

 結局、賛成したのは紀霊と諜報部の人間が数人。

 だが、こうなることも劉勲にとっては予想の範疇内。そしてそれを解決するための提案も既にある。ある程度意見が出終わって静まった頃を見計らい、彼女の口から周囲を沈黙させる一言を紡がれた。

 

「じゃあさ、仮に孫家の人間が指揮官やらなかったら……誰が指揮官やるの?」

 

 

「「「……」」」

 

 

 見事なまでの沈黙だった。

 

 袁家は文官はともかく武官が少ない。しかもその武官の多くは官僚型軍人で実戦が苦手な者が多かった。数少ない例外は紀霊なのだが、既に仕事が手一杯なので名乗らなかった。元々前線指揮官タイプの彼は書類仕事が苦手なので実戦はともかく、戦後処理が能力の限界に達していた。

 それにどのみち、一人の指揮官に権限を与え過ぎる事の危険性は誰もが理解しており、自らそんな『愚行』を犯す者は袁家には居ない。

 

「……てワケで、軍内の反乱分子を監視するための政治将校、並びに対内治安維持軍を創設することを提案します。」

 

 

 

 ◇◆◇ 

 

 

 

 少し、時間を遡る。ちょうど、劉勲が黄巾軍相手に2度目の惨敗を喫した直後のことだ。

 時は深夜。雲の隙間からわずかに漏れる月の光が南陽を照らす。その日、城の一角にある孫家の屋敷に劉勲は訪れていた。

 

「ごきげんよう。孫家のみなさん。急な訪問だったのに、ちゃんと出迎えてくれてありがとうね。」

 

 軽く会釈した後、にこやかに語りかける劉勲。その後ろには十数人の護衛が付いており、油断なく周囲を警戒している。

 

「自己紹介は……まぁ、みんな知ってると思うケド、一応しておきましょうか。中央人民委員会書記長の劉勲よ。よろしくね。」

 

 ぬけぬけとよく言う。孫家の全ての者がそう思っただろう。劉勲が孫堅横死の黒幕であることは周知の事実であり、孫策などは視線に殺気すらこめているが、劉勲は澄ました顔のままだ。まさか、気づいてないこともあるまい――となれば、よほど自分に自信があるのか、孫家を完全に見下しているかの二択しかない。

 

「送った手紙はちゃんと読んでくれた?」

 

 自身に向けられる非友好的な視線にも動じず、興味津々といった様子で小首をかしげる劉勲。

 つい先日、孫家のもとに劉勲から一枚の手紙が届いていた。上質の紙に、達筆な字で十分に礼を尽くした上で書かれていた手紙の内容は、同盟についての提案だった。当然、孫家内部では受けるべきかどうかを巡って大いに荒れた。同盟と偽って孫家を油断させ、まとめて始末する可能性も十分にあり得たからだ。

 

 結局、劉勲の方から孫家の屋敷に出向くことを条件に、話だけでも聞くことにした。だが、万が一ということも考えられるため、孫家は伏兵を配置させた上でこの会談に臨んだ。

 

 

「ええ。一応読んでおいたわよ。すぐに破り捨てたけど。」

 

 劉勲に視線で圧力をかけたまま、孫策が答える。

 

「出来れば手短に、要件だけ言ってちょうだい。」

 

 通常、こういった場面では話の核心は最後まで残しておき、少しずれた話から始めるのが一応の礼儀だ。その社交儀礼を無視した孫策の物言いからは、さっさと話を終わらせたい、という意図がありありと見えた。

 

「や~ねぇ。もう少し肩の力抜いたらどうなの?」

 

 一方の劉勲はどこ吹く風、といった緊張感の無い表情で孫策をからかう。

 

「これだから行かず後家は余裕が無い、とか言われちゃうのよね~。だいたいその歳で……」

 

「誰のことかしら?」

 

 

「……ま、それは置いといて。同盟を結ぶにあたってアタシ達からの要求は二つだけよ。」

 

 気を取り直して親しげに、されど主導権はこちらにある、と主張するように劉勲は切り出す。

 

「まずは、孫家の中から一人を袁術様の相談役(・ ・ ・)として派遣すること。そして、戦に出るときは必ず『政治将校』を付けること。それさえ認めてもらえば――」

 

 そこで劉勲は一度話を区切り、十分にもったいぶってから、次の言葉を紡ぐ。

 

「――旧孫堅軍の再編成を認めるよう、人民委員会に働きかける。というより、人事権使って押し切るわ。人選は全面的にそちらに任せようと思うんだけど、どうかな?」

 

「なっ!」

 

 思わず孫権が声を上げる。悪くない話だった。袁術の相談役というのは要するに人質の事だが、それ以外は破格の条件と言ってもいい。軍の召集を認めた上に、その人事権まで委任してくれるという。孫家の最大の資産は、高い忠誠心と能力を兼ね備えた人材である。孫堅が心血を注いで作り上げた軍勢の質は、中華でも最高の水準にあるといっても過言ではなく、人事権の委任は大きかった。

 黄蓋は声にこそ出さなかったが、驚いている様子だ。その他のほとんどの人間も同様だった。

 

 

 

 だが、一人だけ例外がいた。

 

「……劉勲、あなたって本当に最低のクズね。」

 

 孫策だけは嫌悪感も露わに、吐き捨てるように告げる。

 

「あなたは蝙蝠よ。立ち位置を明確にしないで、フラフラと動き回り、甘い汁を啜る。そんな下衆を私たちが信頼できるとでも?」

 

 一人の武人である事を誇りにしている孫策にとって、甘言や二枚舌を駆使して相手を惑わし、まるで服を着替えるかのような気安さで自らの立ち位置を軽々と変える劉勲は、最も恥ずべき存在だった。そして、そんな相手の言う事を信頼するほど孫策はお人好しではない。

 

「別に『アタシ』を『信頼』してくれなくてもいいよ。アタシの『話』を『信用』してくれればいいから。」

 

 対して、拍子抜けするほど、あっけらかんと答える劉勲。

 

「黄巾軍相手にアタシが負けたのは知ってるでしょ?ついでに粛清の生き残りとかが、アタシを引きずり降ろそうと躍起になっているのもね。このままでだとジリ貧だし、ここは何かドカーンと功績を立てたいなぁ、と思ってるのよねー。でも、今のアタシには固有の武力が無いから、アナタ達に協力してもらおうかなぁ、と。」

 

 

 劉勲は、袁術軍の敗因は2つあると考えていた。

 ひとつは作戦が複雑すぎて、部下が付いてこれなかったこと。しかも些細な手違いが連鎖反応を起こして、最終的に作戦計画の崩壊を招いている。

 

 ふたつ目は、何より脱走兵と命令不服従だった。

 敵が迫れば逃げる。遮蔽物があれば隠れて出てこない。追撃すれば、そのまま給料と装備を持ち逃げする。そんなレベルの兵士が真っ当に『鶴翼の陣』だの『機動防御』だのが出来る訳が無い。

 

 となれば、せめて司令官の作戦指揮能力で補うしかないのだが、あいにく粛清で人材不足。急いで牢屋から引っ張ってきたはいいが、忠誠心に期待できるはずも無い。故に政治将校で監視しながら、かつて自分が失脚させた将軍たちを有効活用する――それが劉勲の狙いだった。

 

 

「アタシは権力基盤を固められるし、アナタ達は軍を再建できる。悪くない取引じゃなぁい?」

 

 期待をこめて自分を見上げてくる劉勲を、孫策は軽蔑しきった眼で見下した。

 

「何を言うかと思えば、結局はただの自己保身じゃない。そうまでして権力にしがみつきたいのかしら?権力を失いかけた途端、かつての敵に泣きつくなんてね。人として最低限の誇りぐらい持ったらどうなの?」

 

「いやぁ、だって誇りは食べられないし。純粋に商売の話をしましょうよ、ね?」

 

「嫌よ。一つ言っておくけど、私はあなたのような誇りの欠片も無い人間が、大っ嫌いなのよ。」

 

 にべもなく断ろうとする孫策。だが、それを遮るかのように、今まで黙っていた周瑜が口を開いた。

 

「待て、雪蓮。まずは劉勲の言う、政治将校とやらの権限を聞こう。」

 

「ちょっと、冥琳!?」

 

「雪蓮、お前の気持ちも分かる。だが、これは我ら孫呉の影響力を回復させる絶好の機会であることには違いない。ここは私の顔を立ててくれないか?」

 

 周瑜はいたって冷静に、劉勲の言った言葉の意味を考えていた。孫家の筆頭軍師として、ある程度話の予想は出来ていたのだろう。先ほどから黙っているのは、劉勲の言葉の実現可能性を考えていたからである。

 

 

「……分かったわよ。他でもない冥琳の頼みとあっては断れないしね。」

 

「ありがとう、雪蓮。……では、単刀直入に聞こう。劉勲、貴様の考える政治将校とやらの権限はどの程度のものなのだ?」

 

 それを聞いた劉勲は、内心ほくそ笑んだ。目論んだとおり、孫呉復活のチャンスを、筆頭軍師たる周瑜が逃すわけがない。全ての感情を排除して理性的に考えれば、劉勲の提案を断る理由は無いのだ。

 

「そうね、憲兵のようなモノだと思ってもらえれば分かり易いかしら。政治将校の役割は軍内の秩序維持、ならびに政治的な統率を図ることよ。ほら、現地指揮官が命令無視して勝手に暴走されたら困るじゃない?」

 

 具体的に言うと、政治将校には『部隊命令に副署する権利』と『部隊の限定的な人事権』、『指揮官の罷免起訴権』が与えられている。立ち回り次第では、その権限は指揮官すら超えるものだった。

 

 

「……といっても、政治将校は原則として作戦に介入することは認められないから安心して。いずれにしても、最終的には孫呉の再軍備を目標にする、という一点において互いの利害は一致しているはずよ。」

 

「承諾しかねるな。理屈としては通っているが、政治将校の権限が強すぎる。作戦への直接介入が認められなくとも、人事権や罷免起訴権を盾にすれば間接的にいくらでも作戦介入できるだろう。指揮権を巡った争いによって無用な混乱を引き起こす可能性が高い。」

 

 もちろん周瑜の本心は別にある。政治将校など置かれては、いずれ袁家に対する反乱の障害となる。だが、そこはもっともらしい意見を盾にして妥協を迫る。

 

「う~ん。そりゃそうなんだけど、そうでもしなきゃ周りの連中が認めないのよね~。」

 

 周瑜に対し、劉勲はあくまで自らの主張を曲げようとはしなかった。それを受けた周瑜は右手を顎に当てて考え込む仕草をしつつ、別の譲歩を要求する。

 

「……もし政治将校の権限を変える気が無いなら、相談役(・ ・ ・)は必要ないだろう。我々を監視するには十分なはずだ。」

 

「それはムリ。政治将校が原因不明の事故死(・ ・ ・)とかするかもしれないじゃない。」

 

 劉勲は周瑜の提案を鼻で笑い飛ばす。

 孫策が袁家からの独立を目論んでいる事は、公然の秘密とでも言うべきものであった。叛意の存在が明らかである以上、保険は複数とる必要がある。故に劉勲にとって、そこは絶対に譲る事のできない部分だった。

 

 

「う~ん、それなら作戦責任の半分は政治将校が負う、っていうのはどうかしら?これなら作戦の失敗責任を問われる事を恐れて、下手に介入しなくなるでしょ。」

 

 再び、周瑜に対して劉勲から提案が出される。

 内容としては決して悪いものではなく、もしも孫家が袁家の家臣だったならば、この辺が妥協点だろう。だが、孫家の独立を目指すならば、もう一押しする必要がある。

 

 

「軍資金の無償提供というのも付け加えてもらいたい。軍の再編成を迅速に行うためには必須事項だ。」

 

「はぁ!?冗談でしょ!?」

 

 周瑜の発言に対して、劉勲は珍しく声を荒げる。

 

「有償資金協力ならまだしも、タダで金よこせっていうの?袁家をお財布扱いするのもいい加減にしなさいよ!たかが客将の分際で大した度胸じゃない。」

 

 軍の維持にかかる費用は膨大なものである事は自明の理であり、それを無償で提供するなど真っ当な官僚から見れば、タチの悪い冗談としか思えない。

 確かに劉勲は頼む側であるが、彼女はれっきとした袁家の重臣であり、客将に過ぎない周瑜がここまで強気に出るのは流石にやり過ぎと言えよう。軍資金を借りるならともかく、無償資金援助までしなければならない筋合いは無い。

 

 しかし、周瑜は表情一つ変えずに短く告げた。

 

「では逆に聞くが、これは本当に『袁家全体の意思』なのか?貴官は全て(・ ・)の袁家家臣の支持を受けて我々と交渉に当たっているのか?」

 

 劉勲の瞳に一瞬、動揺の色が映った。さっきまでの感情の昂ぶりは息を潜め、別人のように沈黙する。だが周瑜の意見に対して何も反論しないという時点で、その意味するところは明確だった。

 ややあって、劉勲は歯軋りが聞こえるような低い声を搾り出す。

 

「……施設整備費・必要装備品購入費は無償、人件・食料費は有償。ここまでが譲歩できるギリギリの線よ。」

 

「落とし所としては悪くない、か。その条件ならば、こちらも異論は無い。」

 

 周瑜も小さく頷く。

 城の方から文官が数人、こちらに向かってくるのが見えた。

 

「ちょっと話が長くなり過ぎたみたいね。まだそっちのご当主様の意見を聞いてないんだけど、明日また来るからそれまでに結論を出してもらえないかしら?」

 

「分かった。明日までには結論を出そう。」

 

「出来れば仲良くしたいものね。……期待しているわよ。」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「ねえ冥琳、結局あの雌狐の提案に乗るっていうの?」

 

 孫策は去って行く劉勲らから目を放し、周瑜に尋ねる。

 それは普段の飄々とした姿とは似つかない、孫家当主としての顔だった。孫策にとって周瑜は親友であり、その能力を誰より認めていたが、内容が内容なだけに無条件でその言葉を鵜呑みにするわけにはいかない。なにせ孫策はこれから、孫家全体の命運が懸かっていると言っても良いぐらい、重大な決断を下すのだ。

 孫策の視線を正面から受けとめた周瑜は、臆する事無く堂々と自論を展開する。

 

「そうだ。孫呉の軍師として、この提案は受けるべきだと思う。我らに必要なのは文台様が残してくれた軍のみ。結局のところ、政治将校など問題では無かろう?」

 

 周瑜はそう言って、眉を僅かに吊り上げる。

 孫堅の死後、旧孫堅軍はバラバラになって、そのほとんどが袁術軍に吸収されていた。そのため、孫策らは確固たる軍事力を持てずにいた。もとより孫堅の生きていた頃は、孫呉の軍が各地にバラバラになっていたから袁家に手を出せなかっただけで、その気になれば袁術軍など物の数ではなかった。にもかかわらず政治将校制度に反対したのは、単に劉勲に譲歩を迫るためだった。

 

 劉勲とて、本気で政治将校が反乱を止められるとは思っていないだろう。そもそも政治将校の存在意義は「反乱を止める」ことでは無い。信用できない指揮官に目を光らせると共に、常に監視されていると意識させることで兵士を疑心暗鬼にさせ、「反乱を未然に防ぐ」ことにあったからだ。全員が一丸となって反乱を起こせば、普通に数で押し切られる。

 

 

「でも冥琳、それ本気で信じているの?どうも胡散臭いのよ。だってそのぐらいの事なら、袁術にベッタリの張勲だって分かる話よ。」

 

「もちろんだ。だが劉勲は張勲とは違う。日和見主義者である事は似ているが、張勲と違ってあの女の頭には打算しかない。」

 

 そう。それこそが、孫家のつけ入るべき劉勲の弱点だった。

 

「劉勲は恐ろしいぐらい俗物だ。非常に目鼻が利き、自身の利になると見ればどんな事だろうと、相手が誰であろうと飛びつく。情や世間の評、誇りなどという物はおよそ気にしない、面の厚い女だ。つまりは、根っからの『商人』だ。」

 

 誇りは食べられない――孫策の中で劉勲の言葉がこだます。だから、この提案が後々袁家に禍根を残す事になろうと、劉勲は目先の自己保身のために受け入れたのだろう。

 

「資金提供まで譲歩させたのだ。はっきり言って、ここまでの好条件を引き出せる機会が、今後もあるとは考えにくい。そこは肝に銘じてもらいたい。」

 

 そう言って周瑜は話を締めくくった。続いて孫権が自身の意見を口にする。

 

「私も冥琳の意見に賛成です。ここは劉勲の提案に乗るべきかと。少なくとも今のところ、劉勲は嘘はついていないと思います。」

 

 孫策はすっと目を細めて、妹の方を見る。ここしばらく、孫権の様子が変化し、それに劉勲が関わっているらしい事は周知の事実だった。

 

「理由は何?」

 

 姉としてではなく、孫家の当主としての顔のまま、孫策は孫権に問う。孫権は射るような姉の視線に耐えながら、あくまで論理的に説明する。

 

「冥琳の言うとおり、劉勲は根っからの商人です。本来ならば十分に時間をかけて、交渉を自分に有利な方向に持って行こうとするはず。その場で即決したという事は、彼女が焦っている証拠。つまり、劉勲も追い詰められているという事です。」

 

 

 嘘だ――とっさに孫策はそう思った。

 

 孫権の意見は確かに正論だ。

 だが、孫権が本当に言いたい事、考えている事は恐らく別にある。そのことに、孫策は気づいてしまった。付き合いの長い、というより妹の事だ。ハッキリと目に見える証拠が無くとも、なんとなく分かってしまう。

 

 だが結局、孫策がそれを問う事は無かった。妹の孫権も、もう子供ではない。いろいろと思う所があるはずだ。ならば本人が自分から話をするまで、待ってやるべきだろう。

 それに、なんと言っても孫策は――妹のことを信じていたからだ。

 

「……確かに、蓮華の言う事にも一理あるわね。蓮華の意見について、祭はどう思う?」

 

「儂か?儂はあまり乗り気ではないのう。あの劉勲という女、どうも気に食わぬ。じゃが、拒む明確な理由も思いつかぬゆえ、策どのの決定に従うとしよう。」

 

 そう言って黄蓋は孫策を窺がう。同時に、この場に揃う全員の視線が孫策に注がれる。孫策はしばしの間を置いて、口を開いた。

 

「本当なら、今すぐにでもあの女の首を飛ばしてやりたい所だけど、ここはひとまず劉勲の口車に乗る事にするわ。いずれにせよ、いつかは軍を集めなくちゃならないし。でもね――」

 

 孫策の顔に獰猛な笑みが浮かぶ。

 

「――協力してあげるのは今回だけよ。一段落すれば必ず……この手で始末する。」

    



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17話:動き出した歯車

                 

 張曼成率いる黄巾軍は袁術軍を撃破した事によって勢力を拡大し、再び南陽群を荒らし始めた。その総兵力は約8万であり、人々は改めて黄巾軍の勢力の大きさを知ることになった。

 

 

「来たわね。」

 

 目の前に展開されている黄巾軍の陣容を見ながら、孫策は不敵に笑みを浮かべる。両軍はやや西に小高い丘を挟んで向かい合っており、黄巾軍を撃破するために集結した袁術軍は僅か3万だった。これは袁術軍が兵力不足に陥っていた訳では無く、今回の作戦指揮をとるのが、孫家であることを快く思わない袁家家臣が準備不足を理由に、わざと部隊を送らなかったからだ。

 

 しかし、孫策の顔に悲観の色は無い。なぜなら今回の戦にはもう一つ、別の軍が投入されている。それこそが孫策の母、孫堅の残してくれた約1万の兵だった。

 

 

「我こそは孫文台の娘、孫伯符なり!我が母の死から早2年、我らは共に、長き苦難に耐えてきた!そして今、ここに再び轡を並べて戦う時が来た!」

 

 そこにいるのは、かつて全身全霊を捧げて母に仕えた兵士達。

 もちろん中には孫家を見限っていった者もあり、その数は孫堅の時代に比べればいささか減少している。

 

「この2年は我らにとって常に苦汁を舐める日々だった。袁術の下で奴隷の如く搾取される毎日……しかし!それも今日までだ!」

 

 だが、多くの部下達は今一度兵を挙げた孫策に応え、この場に集結していた。かつて結んだ主従の契は2年の時を経て、再び『孫』の旗の下で具象化する。

 

「忠勇なる我が将兵よ!我らは未だ寡兵である!されど、その一人一人が、最強の古強者だと私は信じている!」

 

 己が王の呼びかけに応え、再び集う孫呉の勇者達。孫呉復活の舞台を、我もまた見届けんと一人、また一人と駆けつける。それこそが、一介の武人としての誇り。尽くすべき忠義。死が訪れるその時まで、戦友と共にあらんとする彼らの絆。

 そんな彼らを誇らしげに見つめる孫策の顔には、一人の『王』としての覇気が満ち溢れていた。

 

「さぁ、今こそ孫呉の復活を世に知らしめるのだ!」

 

「うぉおおおおおおおおおおッ!!!」

 

 

 

 

 

 対峙する両軍の内、最初に動いたのは黄巾軍。司令官、張曼成は自軍を丘の上に配置し、重装歩兵部隊を中央に置いた防御陣形を築くべく、移動していた。

 

「向こうも易々とやられてくれる訳でもなさそうだな。」

 

 そう漏らしたのは孫家の筆頭軍師にして、今作戦の参謀を務める周瑜だった。相手がいくら黄巾軍とはいえ、地の利を得た上に倍近い兵力で防御されれば並大抵の攻撃では崩せない。丘の重要性自体は周瑜も十分に承知しており、既に部隊を動かしていた。だが袁術軍と孫策軍の足並みが揃わず、装備が貧弱であるが故に機動力に長けた黄巾軍が一歩リードしていた。

 

「このままでは先に敵の前衛に占拠されてしまう。雪蓮、先に騎兵だけ先行させて撃破してくれないか?」

 

「りょーかい♪それじゃ冥琳、また後でね。」

 

 孫策は言うが早いか、すぐさま馬に飛び乗り、騎兵隊を率いて楔形陣形で駆けて行った。やがて丘の方から、怒号と悲鳴が響き渡り、しばらくするとそれは歓声へと変化していく。基本的に歩兵が騎兵突撃を防ぐためには密集隊形を組んで槍ぶすまを作るのが一般的だ。黄巾軍前衛部隊も慌てて隊列を整えるも、丘を占領するために移動し続けていたために隊列は乱れており、孫策軍騎兵の突破を許してしまう。

 

 だが、黄巾軍もやられるばかりではない。先行していた前衛部隊は打ち破られたものの、この戦闘で時間を稼いだ黄巾軍は迎撃体勢を整え、弓矢で孫策軍を迎え撃った。

 

 

「これは……まずいな。」

 

 周瑜は小さく、嘆息する。

 撃破した黄巾軍を追撃中だった孫策はやむを得ずに、そのまま黄巾軍本隊に突撃。退却ができればベストなのだが、騎兵部隊というのは基本的に方向転換に時間がかかる。ましてや追撃戦とはいえ、戦闘中に方向転換をするなど不可能に近い。そのリスクを考慮した上で孫策は黄巾軍本隊に突撃したものの、やはり数の差は圧倒的であり、はじき返される様に追い散らされてしまった。

 

「全軍、密集隊形をとれ!一歩も引くな、地の利はこちら側にある!」

 

 周瑜が叫ぶ。彼女とてただ手をこまねいていた訳では無い。孫策らが戦っている間に、孫策軍本隊はこの間に丘の上に素早く展開。孫策を追い払った張曼成はそのまま周瑜が指揮する孫策軍本隊に一斉攻撃を仕掛けたが、地の利を得た孫策軍はその場に踏み止まる。

 やがて勢いを失った黄巾軍の攻撃は低調なモノと成り、一進一退の攻防が続く。そこへ急遽部隊を再編成して戻ってきた孫策隊が到着。側面からも攻撃され、黄巾軍は総崩れとなっていった。

 

 

 

「……ここまで来ると、嫌味を言う気も起きなくなるわね。」

 

 目の前では、孫策軍に蹂躙されていく黄巾軍が映っている。

 言わずと知れた孫策の人望に、的確な周瑜の用兵、孫堅の時代からそれを支える忠臣たち。孫堅の全盛期に比べればやや見劣りするが、それでも袁術軍の比では無い。

 もし全軍が袁術軍だったならば、黄巾軍の一斉攻撃に持ち堪えられなかっただろう。その上、追い払われた騎兵の再集結にはさらに多くの時間を要し、助援が間に合うかどうか疑問が残る。

 

 

「なーんか昔、これに似たような光景を見た事があるような気がするんだけどなぁ……。」

 

 戦場からやや離れた丘でそれを見ながら、ポツリと呟く劉勲。かつて孫堅が当主だった頃、劉勲は一時的に監視役として派遣された事があり、素人ながら感心したものだ。

 

 そこには文献で読んだだけでは分からない、実戦を見ることで初めて得られる貴重な知識が転がっていた。少しでもその知識を己の糧とするべく、劉勲は密かに睡眠時間を削って記録にまとめていたものだ。度重なる作戦への口出しも、本当の戦場を知る者から少しでも多くの知識を吸収するため。例えその結果、厄介扱いされたとしても、千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。

 後は洛陽で自分が学んだ本の知識と照らし合わせ、理論と現実のギャップを埋めてゆく。それを何度も繰り返した。かなりの忍耐を要する地味な作業だが、めげずに仕事の合間を見つけては、勉強し続けた。いつか必ず、自身の血となり肉となると信じて。

 

 

「……なんてね。ホント、馬鹿みたい。そんなコトで簡単に実力ついたら、そこら辺のコソ泥だって皇帝になれるし。」

 

 そう言って劉勲は力無く笑う。いくら努力した所で、どうしても覆せない差というのは存在する。『努力』などという根性論でどうにかなるほど世の中は甘くない。純然たる「結果」を残して初めて、『努力』は認められるものなのだ。

 でなければ「努力が足りない」とはね付けられるのがオチだろう。どんなに信心深く敬虔な人物でも“まだまだ信仰心が足りない”ために、神の救いが得られない事が時としてあるように。

 

 確固たる『結果』を出せない者が、いくら血の滲む様な練習を繰り返し、泥と涙にまみれようとも世間は認めはしない。見向きすらもしてくれないのだ。やり場の無い虚しさが、劉勲の心に穴を開けてゆく。

 

 既に戦場では大局が決まり、孫策軍は敗残兵の掃討へと移りつつあった。

 

 

「黄巾軍の掃討は完了した。敵の損害は見たところ4割ほどで、こちらは負傷者こそ一割に達しているが、死者は多くは無い。」

 

 現れたのは周瑜だった。勝利を報告しに来たのだろう。劉勲は笑顔の仮面を顔に張り付けたまま、わざと、底抜けに明るい声を出す。

 

「お疲れさま。やっぱ孫呉の筆頭軍師サマは違うよねー。さぞ鼻が高いでしょうよ。」

 

 本音を言えば、今は会いたくなかった。

 

「……で、この後はどうするの?戦勝記念の宴会でもするならアタシも招待して欲しいんだけどなぁ?」

 

 本心とは真逆の言葉が口を衝いて出る。できれば一人にして欲しかった。誰もいない場所で、一人ぼっちで泣きたかった。だってあまりにも――

 

 ――自分が、惨めだから。

 

 ――心が、折れそうだったから。

 

 ――敵わないと、嫌になるぐらい思い知らされたから。

 

 しかし、劉勲も立場というものがある。自分の私情を仕事に挟んではならない。そう思ったから、いつもの自分を演じようとした。だから、できる限り普段通りの、人を小馬鹿にするような笑みを浮かべた。敢えて心にも無い事を言った。

 

 それは誰かに向けて、というよりはむしろ自分に向けて放たれた言葉。

 他人の成功を小突き回すことで、己の劣等感から目を逸らそうとする、子供っぽい強がり。

 そうする以外に心を保つ術を持たない彼女は、精一杯の虚勢を張った。

 

 

 そして――

 

 

「宴会の予定など無い。それに、この程度の勝利を鼻に懸けるつもりも無い。」

 

 

 ほんの少しだけあった誇りが、プライドが――

 

 数多の犠牲と引き換えに得た実績が、僅かに残っていた意地すらもが――

 

 

「孫呉に仕えるものとして、当然(・ ・)の事をしたまでだ。」

 

 

 一瞬にして凍りつき、崩れ落ちてゆく―――。

 

 

 息が出来ない。自分の体さえも、思い通りに動かせない。

 

「当、然……?」

 

 周瑜に悪気など無いのだろう。むしろ、自身の功を無駄には誇ることも無く、謙虚な姿勢だったとも言える。劉勲の失態についても何も触れなかった。

 

 しかし、劉勲にとってそれは、自らの積み上げてきたものを全否定されたも同然だった。

 

 妬み。羨望。嫉妬。怒り。そして自己嫌悪。

 劉勲の心の中で、あらゆる感情がごちゃ混ぜになる。

 

 どうせなら自分の事を嘲ってほしかった。鼻持ちならない自慢の一つでもして欲しかった。

 ――そうであったなら、もっと素直になれたかもしれない。だって、それはつまり、自分を相手にしてくれている証拠だから。一人の競争相手として見てくれているから。

 

(だけど『コイツら』はいつだって……もっと先を、もっと遠くを見ている……!)

 

 結局のところ自分は、周瑜や孫策から見て、天下取りという野望の中における一障害物に過ぎないのだ。

 

 それがどうしようもなく悔しくて、惨めで、憎かった。

 

 自分があれだけ策を練り、仕事の合間に持てる全てのカネとコネを活用して、いろんな人間に根回ししても得られなかった勝利(モノ)を、いとも簡単に手に入れてしまう。劉勲が多くの犠牲を生み出して、ようやく成し遂げられるような成果を、ほとんど損失無しに造作も無くこなしてしまう。

 

 にも拘らず、周瑜は顔色一つ変えずにそれを“当然の事”と言い放った。

 では、その『当然の事』ひとつ出来なかった自分は、いったい何だというのか。実力の差は、こんなにも大きいのか。才能の壁は、こんなにも厚いというのか。

 

(アタシは自身の策はおろか、真似ごとだって満足に出来なかった……ッ!)

 

 報告を終え、自分から離れてゆく周瑜の後姿が映る。聡明な彼女は気づいているのだろう。例え袁家を牛耳っているとはいえ、劉勲が虎の威を借る狐に過ぎない事に。その権力基盤は、数多の人々の欲望と利害の微妙なバランスの上に成り立つ、砂上の楼閣に過ぎない事に。

 

 彼女の目には、自分はさぞ滑稽に見えることだろう。大した実力も無く、虚勢を張って自己満足に浸っているだけの身の程知らずと映るのか。それとも甘言で人を迷わすことしか能のない詐欺師だろうか。

 いつぞやの自分に対する陰口に「錬金術師」というのがあった気がするが、よくよく考えてみれば、的を得ているのかもしれない。もっともらしい事を言いつつ、怪しげな術を用いて紛い物の黄金を作り出す山師。実にぴったりだ。

 

 

 されど時として、偽りがそれにとどまらぬ事もある。真実に至る偽りが世にあれば、その逆もまた然り。偽りより始まりし現実も存在する。

 

「……知ってるかなぁ?アタシの記憶が間違ってなければ、理論的に黄金は(・ ・ ・)作れる(・ ・ ・)んだよ?」

 

 原子物理学によれば、理論的に金が生成できない事は無い。卑金属でも膨大なエネルギーを集めて与えれば、貴金属へと変化しうる。

 

「それならば――」

 

 そう、それならば――

 

「――それだけの対価を差し出せば……」

 

 この身は万能に非ず。無から有は作り出せぬ。

 

「……アタシも同じ場所に辿り着ける。」

 

 されども、有から有を作り出す事は不可能に非ず。等価交換、等しい代償を集める事によって、その対価を得る事は出来るのだ。

 

 

 一ヶ月後、南陽にいた黄巾軍は完全に掃討された。

 同時に孫策は亡き母の遺志を受け継ぎ、天下への第一歩を踏み出す。絶大な信頼を寄せられる王のもと、勇猛な兵、優秀な指揮官がまるで一つの生き物のように戦場を支配する。その姿は、孫家の復活を天下に知らしめるには十分過ぎるほどだった。

 孫堅の名声もさながら、孫権が積極的に土地と民を豊かにしようと努力したこともプラスに働いていた。今や『江東の小覇王』、孫策は天下にその名を轟かせ、民の間ではその名声が日に日に高まっていったのだった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇ 

 

 

 

 

 

 ここは、とある町の宿屋の一室。 

 

「はぁ、はぁ……ここまでくれば大丈夫だよね?」

 

「今回はかなり危なかったわね……」

 

「あ~ん!なんでこんな事になっちゃたの~?」

 

 その一角で、三人の少女達が話し合っていた。

 彼女たちこそが黄巾党の首謀者とされた張三姉妹である。

 

「もう!あの曹操とかいうヤツが食糧ぜんぶ焼いちゃったりしなければ……」

 

 やや苛立った様子で文句を言っているのは次女の張宝、真名を地和という。

 

「過ぎたことを悔やんでも仕方ないわ、ちぃ姉さん。」

 

 対象的に冷静なのが末妹の張梁、真名は人和だ。もっとも、彼女とて内心では焦っていた。黄巾党の首謀者という事で、公式には彼女達はお尋ね者とされている。このままでは、いずれ官軍の討伐部隊に捕えられる。

 

 元々彼女達は普通の旅芸人だったが、『太平要術の書』を手に入れたことによって、数多くのファンを獲得する人気アイドルへと変わった。その後、アイドルユニット「数え役萬☆姉妹」として活躍していた彼女達だったが、とある街でガラの悪い役人に絡まれてしまう。そこで張宝が「みんな、役人をやっつけて!」と叫んだのがきっかけとなり、日頃の悪政に対する鬱憤も重なって暴動が発生。追われる立場となった張三姉妹は身を守るため、張宝の提案に沿って、官軍が手を出せないように黄巾党を拡大したのだ。

 これがきっかけとなり、各地で黄巾党を名乗る民衆反乱が続出したというのが、黄巾の乱の真相であった。

 

「わ~ん、れんほーちゃん。これからどうしよう~?」

 

 机に突っ伏した状態で情けない声をあげる長女の張角。ちなみに真名は天和という。

 

「ひとまず、三人でほとぼりが冷めるまでどこかに隠れましょう。」

 

 とりあえず一番無難な選択肢を述べる末妹の張梁。三姉妹で一番の現実主義者である彼女は、元々どこかに隠れる事を主張していた。

 

「だめだよ、そんなの!みんな私たちのせいでこうなっちゃったんだよ?見捨てるなんてできないよ。」

 

 だが、お人好しの張角がファンである黄巾党員を見捨てられず、黄巾党を拡大することになったのだ。しかし、最近になってようやく本腰を入れ始めた官軍によって、今や黄巾党は駆逐されつつある。最近まで張三姉妹がいた黄巾党本隊も、朝廷から討伐の命を受けた曹操軍によって補給線を断たれて壊滅した。命からがら逃げてきたものの、彼女達を守ってくれていた黄巾党員とははぐれてしまった。

 

「……けど、じゃあどうすれば……」

 

 八方塞がりもいい所だ。張角はファンを見捨てられず、『官軍が手を出せないぐらい黄巾党を拡大する』という張宝の案も、現在進行形で潰されつつある。

 

 

 

「いやぁ、どうもお困りのようですね。」

 

 

 不意に、声がした。同時に、どこからともなく現れる一人の人影。

 

「アンタは……干吉!?」

 

 張宝が驚いた声を上げる。

 

「いやはや、なんと言うべきか。しかし、覚えていていてくれたとは光栄ですね。」

 

 忘れるはずが無い。なぜなら彼こそが、しがない旅芸人であった彼女達に、全ての元凶たる『太平要術の書』を授けた張本人なのだから。

 

「しかし、せっかく太平要術に大量の妖力を溜めこむ機会だったのに、こんな事になってしまうとは……」

 

 警戒を強める張三姉妹にも臆することなく、干吉は皮肉めいた口調で言葉を紡ぐ。

 

「……まぁ、それでもある程度の妖力は補給出来たから、これでも良しとしましょうか。」

 

 そう言うと、干吉は机の上に無造作に置いてあった『太平要術の書』を取り上げる。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!『妖力を溜めこむ機会』って何の事!?その本にどんな関係があるっていうのよ!」

 

 一人で勝手に話を進める干吉に食ってかかる張宝。彼女とて妖術使いの端くれだ。最初に干吉からもらった時から、この本は何かおかしいと思っていたのだ。だが、干吉は僅かに肩を竦めただけだった。

 

「さぁて、何の事だか?ここまで来て気づかないようなら、これからもその意味を知った所で何の意味も持たないでしょう。」

 

 もう用は済んだと言わんばかりに懐から呪符を取り出す。

 

「何一人で勝手に話進めて……って、あれ?」

 

 張宝が再び詰め寄ろうとするが、全て言い終わらない内に口をつぐんでしまう。なぜなら――

 

 

「干吉さんのか、体が……」

 

「……消え、てる?」

 

「…嘘でしょう?」

 

 張角と張宝が声を震わせる。滅多に動揺することのない張梁ですら、息を飲んでいた。無理も無いだろう。干吉の姿は既に半分以上透け始めていた。

 そうして見ているうちにも徐々に、まるで最初から存在しなかったかのように宙に消えてゆく。

 

「それではみなさん、縁があったらまた会いましょう。フフフフフ」

 

 聞こえるのは彼の声のみ。すでに干吉の姿は虚空に消えていた。最後に一言、干吉の声は一方的にそう告げると、溶けるように消えてゆく。

 あまりに突然の事に、張三姉妹は声も出なかった。いや、出せなかったと言った方が正しい。

 

 そして張三姉妹の部屋に、静寂だけが残されたのだった。

  




 何かご意見、指摘、感想などございましたらよろしくお願い致します。


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第三章・すれ違う願い、その果てに
18話:乱世の幕開け


 いよいよ反董卓連合編。


 後漢末期、大国の常として漢王朝もまた、中央の腐敗から崩壊が始まっていた。

 外戚や宦官の暴政に耐えかねた民衆は次々と反乱を起こし、その中でも最たる物が張三姉妹を首領(公式の書類上は)とした黄巾党の乱であった。全国に飛び火した黄巾党の乱だったが、腐っても漢王朝の力は強大であり、やがて各地の諸侯に抑えこまれてゆく。

 

 そんな中、皇帝の霊帝が崩御。後継を巡って庶民出身の何皇后が生んだ劉弁と、霊帝の母の董太后に養育された劉協の間で後継争いが発生。結果、何皇后側が勝利する。だが政権を支える大将軍の何進と、幼い皇帝を差し置いて事実上の支配者であった十常侍とが内ゲバを始め、政争の末に共に滅ぶ。

 その混乱の中でドサクサに紛れて宦官の一人が、劉弁とその弟の劉協を連れ去る事件が発生。しかし、たまたま中央から呼び出され、軍勢を率いていた董卓が偶然これを捕捉。董卓は二人を救出して洛陽に帰還した。

 

 

 ここまではよかった。

 黄巾党の乱は平定され、董卓が幼い帝を保護したことで中央での混乱も一通り鎮まったかに見えた。悪政を敷いていた宦官や外戚は自らの引き起こした権力闘争によって滅び、これからは平和な世になるだろうと誰もが期待していた。しかし、現実はそれとは全く逆の方向へと進んでゆく。

 

 

 確かに漢王朝で暴政を敷いていた悪徳政治家は一掃された。だが、だからといってお伽話のように「こうして悪い大臣達はいなくなり、新しい王様の下で豊かで平和な国になりましたとさ、めでたし、めでたし。」といった単純な勧善懲悪のストーリーにはならないのが現実。

 

 成るほど、何進や十常侍らはまさしく『悪徳』政治家だったかもしれない。だが、同時に悪徳『政治家』でもあったのだ。全ての人民が政治に関わる直接民主制でもない限り、国の中枢を担っていた人間の消滅はそのまま国家機能の消滅を意味する。この時点で漢王朝は事実上、国家としての統治機能を喪失していたのだ。中央政府の衰退は各地に散らばる豪族の影響力を相対的に増加させ、各地の諸侯の野心を掻き立てていく。それは後の乱世の到来を予想させるものであった。

 

 これに真っ先に反応したのが袁紹であった。袁術の従姉でもある彼女は、これを機に反董卓連合を結成。「帝を差し置いて、洛陽で暴虐の限りを尽くす極悪人、董卓の討伐するための正義の戦いへの参加」をうたった檄文を各地の諸侯に送り付け、参加を呼びかけた。

 

 

 

「……とかいうのが真面目なウチの参謀本部の意見なんだケド。何と言いますか、……ねぇ?」

 

 困惑しているような、あるいは呆れるような、微妙な顔で劉勲が呟く。張勲を始めとする他の重臣の顔も大体似たり寄ったりだ。

 彼女達がいる場所は宛城の一角にある会議室で、『中央人民委員会』の定例会議が開かれていた。

 

「どー見ても袁紹さん自身を差し置いて、先に権力握った董卓さんへの腹いせですよねー。」

 

 張勲がぶっちゃけた。袁紹は袁術の従姉であるだけあって、ここにいる面子の殆どは袁紹と会ったことがある。だから、彼女の人物像から本当の原因が何なのか、だいたい分かっていた。

 

(それに、董卓本人が悪政を敷いているっていう前提がそもそも……)

 

 劉勲の『記憶』によれば、この世界の董卓は悪人では無い。もちろん、必ずしもそうだという保証はどこにも無いため、念のため調べてみたが想像通りだった。

 

(……いや、今はまだ言わなくていいか。それに董卓が善人だろうが悪人だろうが、やることは変わらないはず。)

 

 思わず真相を口に出しかけて、劉勲は小さくかぶりを振る。今はまだ言うべき時ではない。持てるカードは最良の場所で切るべきだ。

 

 

「でもぉ、袁紹さん他バカ3人はいいとして、田豊さんが認めるとは思いませんでしたよぉ?」

 

 張勲が何やら考え込むようにして首をかしげた。腑に落ちない点があるといえば、その一点につきる。それは袁紹に仕える高齢の軍師、田豊のことだった。

 

 田豊は若いころから博学多才で権謀術数にも秀でており、袁紹の筆頭軍師として長年袁家に仕えて来た人物である。彼の能力には袁紹も一目置いており、そんな老獪で優秀な人物が正当な理由なく朝廷に弓を引く事を許可するとは考えにくい。

 にもかかわらず、張勲の調べたところによれば、田豊は文句ひとつ言わずに各地の諸侯を反董卓連合軍に参加させるべく、説得して回っていると言う。

 

 

「あー、アタシもさっき国家保安委員会の人間から聞いたばっかりなんだけど……実はどうも董卓側が“黄巾党の残党を討伐するために兵を貸して欲しい。断れば官位を剥奪する”、みたいな無茶振りしたらしいよ。」

 

 張勲の疑問に答えたのは劉勲だった。

 やはり、というような顔をして他の人民委員たちも納得する。

 

 表向きは賊討伐の要請とはいえ、その中身は諸侯随一の力を持つ袁紹の力を削り落そうとする策略であることは明白。賛成すれば袁紹の軍事力を削れるし、反対しても官位剥奪により中央への影響力や名声を落とすことが出来る。

 

 

「……要するに、この件を適当に安っぽい勧善懲悪モノにしたてて、やられる前にやっちゃえと。田豊さんも中々の悪辣爺さんですよねぇ~。」

 

 合点の言った張勲がひざを打つ。

 そもそも董卓側の策略は袁紹が漢王朝の一家臣であり、勅命には逆らえないという前提で成り立っている。ならば、その土台から崩せばよい。将棋で詰んだ局面から逆転したくば、ちゃぶ台ごとひっくり返せばいいのだ。

 

 

 現在、中華の大地は大いに疲弊し、民は苦しんでいる。黄巾党の乱や中央の権力闘争、悪政、異民族の侵入など様々な要因があるが、民衆が求めるのはそんな難しい話では無い。民の求めるモノは分かり易い悪役、そしてそれを倒してくれるヒーローだ。

 

「とりあえず、国のトップが変われば生活がよくなるかもしれない。」

 

 田豊はそんな民衆の心理を巧みに突き、『朝廷の実権を掠め取った悪の董卓VS袁紹率いる正義の反董卓連合』という、実に分かり易い勧善懲悪のストーリーを造り上げたのだ。

 実際問題、国が荒廃しているの紛れも無い事実であり、変化を求める民衆の支持を得るのはそう難しい話では無かった。

 

 

 とは言え、人民委員達にとって問題でそこでは無い。問題は「より利があるのはどちらか」かなのだ。現在の袁術家臣は劉勲らを始め、商人を後ろ盾にした勢力が幅を利かせており、損得勘定に敏感な彼女らにとっての判断基準は3つだけ。費用(コスト)、安全性(リスク)、見返り(リターン)である。……約3名を除いて。

 

 

「うぬーッ!エラそうな手紙を妾に送りつけおって。“れーは”のクセに生意気なのじゃ!」

 

「おおー、みんなが真面目な話をしてるのに空気を読もうともしない豪胆さ、さすがですぅ。」

 

「特にやたらと難しい漢字を使っている所が生意気じゃ!」

 

「しかも常用漢字すら読めてなーい!だけどそれをを全部人のせいにする美羽様の図太さもたまりませーん。」

 

「うわははははは!七乃、もっと妾を褒めてたも!」

 

 言わずと知れた、おバカ主従コンビの二人。そして――

 

「袁紹のお嬢ちゃんも粋な事するじゃねぇか、ちったぁ見直したぜ。」

 

 ――三度の飯より戦争大好きバトルフリーク、紀霊。孫堅の反乱でも黄巾党の乱でも容赦なく、公平に敵味方を殺戮していた迷惑な人である。

 

「あのねぇ、別にアナタが戦闘狂でも嗜虐趣味でも気にしないし、例え幼女趣味の変態だろうがアタシは一向にかまわないけど、給料分の仕事ぐらいして頂戴。たまには欲求だけじゃなくて理性も働かせたらどうなの?」

 

 にやにやしながら袁紹の手紙を見る紀霊に、劉勲が呆れたような吐息を洩らす。

 

「そうカリカリすんなって。なんだオマエ、ひょっとして今日は月に一度のアノ日か?」

 

「ち・が・う・わ・よ。ていうか、仮にアンタの言う通りだとしてもハイそうです、とかバカ正直に言うわけないでしょ。」

 

 なんでアタシの周りにはロクな男がいないんでしょうね、とかぶつぶつ言っている劉勲を尻目に、紀霊は再び話を続ける。

 

「ま、何にしろ中々面倒な事になってるこたぁ、オレでも分かるぜ。一歩間違えればガチで首が飛ぶな、こりゃ。」

 

「へぇ……そう言う割にはなんだか楽しそうね。」

 

「ったりめーだ。軍人ってのはなァ、戦争やってナンボなんだよ。」

 

 嬉しそうに腕を鳴らす紀霊。

 

「そりゃまぁ、分からないでもないケド。平和なら軍人の食いぶちなんて無いでしょうし。」

 

 漢王朝では基本的に徴兵制を敷いており、戸籍に登録された成人にその義務がある。しかし、中央政府の力の弱まりと共に戸籍の把握が難しくなり、農民の負担も増大していた。そのため実際には、各豪族が農民の負担軽減を目的として兵役の代わりに税を治めさせ、それを基に適当にその辺のチンピラを雇う事も珍しくなかった。紀霊も元はそういった類の人間で、早い話が傭兵だ。

 

「で、なんか話が逸れた気がするけど、結局どうするつもりなの?」

 

「んなモン、決まってるだろ。当然―――董卓側に就く。」

 

 迷うこと無く、紀霊は言い放った。軍関係者からチラホラ賛同の声が上がるも、大部分の文官の顔色はすぐれない。劉勲とて例外では無く、値踏みするように目を細めて問い詰める。

 

「何が当然(・ ・)なのか伺ってもいいかしら?間違っても『そっちの方がたくさん殺せるから』とか言わないでよ。」

 

「ちげぇよ、ちゃんと根拠ならある。……なぁ、董卓軍の兵力はいくらだったか覚えているか?」

 

「皇帝の直属部隊や近衛兵、旧何進軍に洛陽の警備部隊も含めてざっと20万ぐらいかしらね。」

 

「そこだ。これほど膨大な兵力を持つ軍は他に存在しねぇ。お前んトコの諜報部の話じゃ、袁紹の嬢ちゃんだって直に動かせんのは、せいぜい12、3万かそこらだろ?オマケに領地にも多少は残す訳だから、実際にはその8割程度が限界だな。これにオレらと、その他の有象無象共が入ったところで30万あればマシな方だ。しかも集まったとこで所詮は寄せ集めの連合軍。もし向こうさんが穴熊を決め込んだら……」

 

 そこまで言って、紀霊はにやけながら自らの首を切る仕草をする。

 

「こっちは詰みだ。洛陽の東には汜水関に虎牢関、西にも2層の楼閣に三重の城壁を持つ函谷関がある。正攻法じゃまずムリだ。かといって持久戦に持ち込めるわけでもねぇ。」

 

 一般に攻撃側は防御側の3倍の兵力を要すると言われる。兵力の差が絶対的な差では無いとはいえ、中華有数の難攻不落の城砦を2対3程度の兵力比率で落とせるなどと楽観する者はいまい。野戦ならばまだしも攻城戦ではよほどの事が無い限り、戦力差はひっくり返らない。

 それゆえ持久戦に持ち込めば多少は勝率が上がるが、寄せ集めの連合軍では長期にわたる作戦を実施するのは困難だ。

 

 一方の董卓軍も正しくは旧何進軍などを含んだ連合軍ではあるが、董卓軍以外は武将の数に乏しく、結果として指揮系統の一本化を達成していた――はず。もちろん武将一人当たりの負担は増大するものの、紀霊の言うように陣地に引き篭もっていれば各兵士は持ち場を守ればいいだけなので、防御に徹する限りマイナス面は表れにくい。

 

 

「穀物禁輸措置をとって洛陽周辺を封鎖、という訳にもいかないですしネ。」

 

 魯粛もどこか残念そうにかぶりを振る。

 

「どうしてですかぁ?経済封鎖をかければ、絶対に董卓軍は疲弊しますよ?」

 

 確かに張勲の疑問はもっともだ。洛陽には董卓軍のみならず多数の民衆も暮らしている。当然彼らの分も確保しなければならず、下手に放っておけば暴動が起きることは分かり切ったことだ。軍部を中心に、それならうまくいくかもしれない、という声も挙がる。

 その疑問に答えたのは、通商担当責任者の楊弘だった。

 

「まさか、飢えに苦しんでいる洛陽の民衆を何もせずに見殺しにすると?取引できる限り、救いの手を差し伸べようとは思わないのかね?」

 

 取引できる限り――楊弘は敢えてそれを言葉に含めた。何が言いたいかは、十分すぎるぐらい明白だった。

 食糧が不足すれば当然だが、値上がりする。必要なものを必要な時に高く売りつけるのは商人の基本といえよう。みんなが律儀に禁輸措置を守っている中、自分だけこっそり売りつけられれば、巨利を得られる事は自明の理。要するに、寄せ集めの連合軍では経済封鎖など机上の空論だという事だ。

 人の世では金がある限り、必要なモノの殆どは手に入る。飢饉があっても食糧を生産していないはずの大都市住民が飢えず、食糧を生産しているはずの農村でなぜか餓死者が出るという事が、それを証明していた。

 

 

「我々としては、出来ればどちらにも参加はしたくないのだが?黄巾党の乱で受けた被害総額は目に余るものがある。それを理由に参加を見送り、まずは内政を盤石にするべきだ。」

 

 財務官僚を代表して、楊弘が中立を主張する。黄巾党の乱で南陽群は全国でもトップ3に入るほどの大損害を被り、これ以上金のかかる軍事行動は慎んでもらいたい、というのが彼らの共通認識だった。黄巾党の乱以後も、南陽群の経済自体は発展を続けているのだが(規制が緩く、商業振興政策をとっているので、他の地域と比べて商売がやり易いため)、財政は健全とは言い難い。

 

「いっそ、これを機に連中の共倒れを図ってはどうだね?奴らが対岸で潰し合うのを安全な南陽でのんびり鑑賞しようではないか。」

 

 指を立てて中立を主張する楊弘。現にお隣の劉表はそういった方向で動いている。表向きは『専守防衛』を掲げ、「陛下の御心が分からない以上、軽々しく動くべきではない。穏便に対話で解決すべきだ。」と平和主義を貫いているが、漁夫の利狙いである事は言うまでも無い。

 

「でも現実はそう、うまくはいかないものデスヨ。むしろ袋叩きがコワいネ。」

 

 中立、と言えば聞こえは良いのかもしれないが、一歩間違えれば双方を敵に回す危険性を孕んでいる。非常に高度な外交と、それを裏付けする実力があって初めて達成できる綱渡りなのだ。

 例えば劉表の領地は中央から離れており、比較的黄巾党の乱による被害が少なく、軍事力も財政も健全だ。その上劉表本人も多くの名士に顔が利き、非常に有能な外交官でもある。中立はそんな彼だからこそ出来る芸当と言えよう。

 そう反論された楊弘は不機嫌そうに魯粛の横顔を見る。

 

「では、君は紀霊の意見に賛成なのかね?」

 

「イヤー、むしろ反董卓連合側に就くべきアルよ。」

 

 魯粛の口から放たれた言葉が示すは第三の道。にやけていた紀霊の顔から笑みが消え、予想外の発言に会議室の中に沈黙が広がる。周囲の試すような視線を受け止めつつ、魯粛は己の意見を口にした。

 

「仮に紀霊や楊弘の提案通りにすれば、董卓が勝つ事は間違いないネ。」

 

 現在の大陸の力関係はおおよそ 董卓>>袁紹≧袁術>劉表>その他 となっている。つまり、袁紹と袁術が組んでようやく董卓に勝てるかどうか、といったところ。

 楊奉の中立案を採用した場合、袁紹はほぼ単独で董卓と戦う羽目になる。そうなれば日和見を決め込んでいる諸侯の多くは、連合への参加を見送るだろう。紀霊の案は言うに及ばずだ。となれば、必然的に反董卓連合軍の勝ち目は薄くなる。

 

「つまり、どっちにしても戦後は董卓軍が唯一無二の巨大勢力になる事は明らかだヨ。そうなったらもう董卓軍を押さえられる勢力は残ってないから、こちらも逆らえないネ。結局は隣の劉表さんと潰し合わされるのがオチだヨ。……孫堅さんみたいにネ。」

 

 淡々と魯粛は言い切った。ありえない話ではない。

 

「フン、そこまで見切ってたんだとしたら田豊のジジイも大したもんだ。」

 

 紀霊が笑えない軽口をたたくも、反応する人間は一人もいない。

 黄巾党の乱によって財政状況は最悪。中立が最も望ましいとはいえ、下手をすれば両方から袋叩きに合う。

 董卓軍と組めば当面の危機は回避できるが、戦後は自分達が孫家をこき使って来たのと同じ目に合わされる。

 かといって反董卓連合に参加した所で、紀霊の言うとおり勝算は薄い。地理的にも南陽群は洛陽に近く、本土が直接危機に晒される可能性すらある。

 

 経済的には楊奉、政治的には魯粛、軍事的には紀霊の言ってる事が正しい。故に八方塞がりもいい所で、袁家首脳部の悩みは深まるばかりであった。

 

 

「七乃、皆何を難しい顔をしておるのじゃ?“れーは”の手紙はそんなに大事な話なのかや?」

 

 ここに来て流石の袁術も事態の深刻さに気づく。いや、内容までは解ってないだろうが、相当マズイ状況に置かれている事は、居並ぶ家臣達の様子から何となく感じ取れた。

 

「いえいえ、みんな美羽様がどうしたら喜ぶか悩んでいるだけですぅ。連合に参加して美羽様の魅力で袁紹さんを従えちゃうか、それと逆にもやっつけちゃうか、あるいは面倒なのでここでゆっくりしてもらうかで迷っているんですよ。」 

 

 不安そうに見上げてくる袁術を安心させるように、優しく宥める張勲。

 

「うむむ。どれも魅力的なのじゃ。どうしたものかの……」

 

 可愛らしく顎に手を当て、何やら考え込む袁術。どこか場違いなその姿に癒されたのか、どんよりと沈んだ会議室の空気がわずかに和む。

 

「……やっぱり面倒臭くなったから、全部七乃に任せるぞよ。決まったら妾に知らせてたも。」

 

 だが袁術は数秒ほど考えた後、あっさりと丸投げした。

 

「今日は疲れたから、そろそろ布団に入って寝るのじゃ!」

 

 袁術はそう言うと、身長のせいで足が地面に届かない椅子から飛び降り、出口の方へと向かう。

 

「お嬢様~、寝る前の蜂蜜水は2杯までですよ~。あんまり飲み過ぎるとおねしょ出ちゃいますから~。」

 

「わかっておる!それに妾は別におねしょなどしてないのじゃ!」

 

 顔を真っ赤にしながら袁術が叫ぶ。

 ちなみに袁術のおねしょが中々直らないのは公然の秘密という奴だ。

 

 

 袁術の退出と共に、再び重苦しい空気が会議室中に漂う。

 

「つまり、できる限り金をかけず、外交的に孤立しせず、突出した脅威の出現を防ぎつつ、国力を回復させて、かつ勝ち馬に乗らないといけないワケなのよね。それだと中立案を採用した上で、連合軍に勝ってもらうのが一番いいんだけど……」

 

「……万が一、孤立すれば瞬殺ですねー。だから旗色ある程度、明確にした方がいいかもしれません。」

 

 珍しく、張勲が真面目な顔を続ける。

 

「ついでにオレらとは関係ない所で、両方が潰し合わせる必要がある。」

 

 もう一つ、忘れてはならない要点を紀霊が挙げる。現時点では、そうとは気づかれないように、事実上の中立状態を作ることが望ましい。劉勲にも、だいたいの方針が見えてきた。

 

(ここで、アタシの出番かしらね?隠してたカードはここで切るべきかも。各地の国家保安委員会の報告にもあったし……)

 

 劉勲は内心で一人ごちる。国家保安委員会の保有する同志達――中華全土に散らばる、非公式情報提供者の事を言う。袁術陣営は彼らの情報を基に、中華全土に網の目のように情報網を張り巡らせ、徹底的な諜報戦略を展開していた。

 もっとも、元々は軍事や政治目的では無く、どちらかといえば経済的な要因が大きい。情報は商人にとって一種の命綱であり、その重要性は全ての商人が共通認識として理解している。わざと誤情報を流そうものなら、その商人は確実に市場から叩き出されるだろう。それゆえ商人同士のネットワークは信頼性、スピード、情報量のどれをとっても侮れないものがあった。

 それに目を付けた袁術陣営は、既存の商人ネットワークを制度的に保護し、利用する形で南陽群を発展させると同時に様々な情報を得ていた。商人達にとっても袁家と結ぶことで、遠征や増税、中央での政変など一般市民がすぐには得にくい情報をいち早く手に入れられるという利益がある。

 

 

「ねえねえ、ちょっといいかな?あのさ、国家保安委員会からひとつ、すごぉーく面白い話があったのよねぇ?」

 

 劉勲が指を立てて、自身に注目を集める。『国家保安委員会』、その単語に反応した人民委員たちの視線が一斉に彼女に集まっていく。

 

「結果から言うとね、前提から間違ってるんだよ。なんというか、田豊のヤツに惑わされちゃったんだ、アタシ達。もう一度、田豊の作った構図を思い出してくれない?」

 

 『朝廷の実権を掠め取った悪の董卓VS袁紹率いる正義の反董卓連合』実に分かり易い話。善と悪による単純な対立の構図。もちろん、この場にいるメンバーとて正義だの悪だのは信じていない。洛陽の民が苦しもうとも知ったことでは無い。だが――

 

「よくよく考えてみれば、話が出来過ぎてない?そもそもたまたま(・ ・ ・ ・)呼び出されていた董卓に、連れ去られた皇帝陛下達が偶然(・ ・)見つかって保護されるとか、ありえなくない?

それに、いくら董卓が軍を率いて洛陽に入ったとはいえ、そう簡単に政治の実権を握れると思う?生き馬の目を抜くような世界で生き抜いてきた宮中の連中が、ポッと出の田舎軍隊に出し抜かれるとでも?」

 

「それは……!」

 

 何人かの人民委員が息を飲む。その発想はなかった。言われてみれば不審な点だらけだ。宮中に巣食う古狸達のしぶとさは、中央にも顔が利く名門、袁家に仕える人間なら誰もが知っている。そんな彼らが、こうもあっさりと敗れるわけがない。

 

「……つまり、董卓軍は一枚岩ではないと言いたいのかね?董卓は傀儡で、実権は洛陽の宮臣が裏で握っていると?」

 

 楊弘の推察に、劉勲は我が意を得たりという表情で笑みを浮かべる。だが、楊弘はつまらなそうにフン、と鼻を鳴らしただけだった。

 

「しかし仮に内部分裂してようが、董卓が傀儡だろうが、連中が強大であることに変わりは無いではないか!」

 

 ざわめく会議に水を差すように、楊弘が指摘する。彼我の戦力差は2:3。防御に徹すれば絶対に覆らないはずの戦力差であり、しかも寄せ集めの連合軍が解散すれば瞬く間に各個撃破されてしまう。

 

「うんうん、キミいい事言う♪ちょっと見直しちゃったかも。」

 

 楊弘の指摘に対し、劉勲はとびきりの笑顔で答える。

 

「たしかに董卓軍全員(・ ・)勝つ気(・ ・ ・)でいるなら、連合は勝てないわよ?でもね――」

 

 白々しく、祈るような仕草で胸に手を当てる。その上で例え話をしよう、と彼女は言う。

 

「昔々、とある国に悪い大臣と美しいお姫様がいました。悪い大臣はお姫様を捕えて幽閉し、毎日戦争ばかりやって民を苦しめていました。そんな中、かつてお姫様に仕えた武人は、お姫様を助ける機会を伺っていました。」

 

 その口から紡がれるは他愛のないお伽話。よくある平凡な筋書きに、登場人物たち。

 

「英雄、その恋人、そして悪役は揃った。だけど、これだけじゃお姫様は助けられないし、悪い大臣も倒されない。なぜなら、そう――役者が足りない。」

 

 これだけでは終幕は訪れない。英雄はたった一人で、誰の助けも得ずに囚われの姫を救うか?否、もう一つ重要な役が残っている。

 

「大団円を迎えるのに、足りない役者は――」

 

 

 

 

 

 

 

「――英雄を助ける、不思議な導師よ。」

 




 袁術は意外と空気の読める子……かも?

 洛陽は兵糧攻めにすれば楽なんじゃないかと思ってた時期もありましたが、金持っている相手を兵糧攻めにするのって難しいらしいですね。ナポレオンの大陸封鎖令とかも失敗してますし。

 それと結局、分量の問題上、人民委員会の決定が何なのか明言できませんでした。次回と次々回に持ち越すことになりますが、ご容赦ください。


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19話:みちびくもの

 

洛陽。東周の時代に長安より都が移されて以来、政治経済の中心地となった都である。長安を都とした王朝においても、洛陽は副都とされて長年繁栄していた。

 

 されどひとたび隆盛を迎えれば、後はただ衰退するしかない。それは世の真理の一つであり、洛陽とて例外では無かった。かつて栄華を極めたこの都も、今では僅かにその欠片を残すのみ。家は荒れ、街には難民と乞食が溢れ返っていた。

 

 

「……全部、全部ボクのせいなんだ。ボクがこの事態を……」

 

 賈駆は王宮の自室から、その下に広がる、荒廃した洛陽の街並みを見つめている。

 

「ボクの見通しが甘かったばっかりに……ッ!」

 

 爪が指に食い込むほど強く、賈駆は拳を握りしめる。その表情に映し出されたのは、深く、そして暗い後悔。

 

 もともと董卓は州刺史として、賈駆はその軍師として西涼を治めていた。そこに、十常侍筆頭の張譲から一通の手紙が届く。手紙には洛陽に兵を入れ、皇帝のために仕えないか、という内容が書かれていた。

 しかし、その実態は外戚の何進らと、十常侍ら宦官勢力との権力闘争の一環。董卓軍の武力を得て、何進らを排除しようという張譲の策略だった。

 

「向こうがボク達を手駒として利用しようとしているのは分かっていた。でも逆にこちらがそれを利用してやればいい、そう思っていたんだ……。」

 

 匈奴との戦いで疲弊していたこともあり、賈駆は安全で名誉ある宮仕えを勧め、董卓を説き伏せた。西涼の兵士は長年匈奴との戦いで鍛えられた精兵揃い。まずはその武力をもって、皇帝を手中に収めつつ、宮中の実権を握る。後は皇帝の威光なり何なりを持ち出して、疲弊した自領を立て直すと共に勢力の拡大を図っていく。そしていつの日か、帝位を禅譲させて董卓を天下人にするという、賈駆の夢も叶うはずだった。

 

「それが、全ての元凶……。」

 

 だが宮中に巣食う権力の亡者達の方が、一枚上手であった。賈駆の考えた策など、宮中という伏魔殿で生き抜いてきた張譲にはお見通しだった。

 賈駆達が洛陽に入ってまもなく、二人きりで話したい、という皇帝陛下からの呼び出しの手紙が董卓の下に届く。恐らく偽の勅命による罠だと言う事は、賈駆とて見抜いていた。だが、万が一本物だった場合、下手に逆らえば皇帝の勅命を無視することになる。故に董卓が一人で出かけるのを唇を噛み締めて見ている事しかできなかった。

 

 念のために李儒という軍師に命じてこっそりと尾行させていたものの、既に李儒は張譲に買収されてしまっていた。賈駆の策は張譲の悪知恵に届かず、董卓は造作も無く捕えられた。

 

 

 それからというもの、董卓を人質にとられた賈駆は、張譲の忠実な手駒となった。自分に従えばいつか董卓を返すと言う、張譲の言葉を信じる他なかった。十常時筆頭の張譲は賈駆達を使い、自分に逆らう者全てを容赦なく粛清してった。その対象はかつての自分の仲間であった宦官にまで及ぶ、苛烈なものだった。

 一方で、張譲自身は董卓に殺されたように見せかけて公の場から姿を消す。苦しむ民から搾りとった者は全て己が手に、そして悪政による怨念は全て董卓になすり付けたのだ。

 

「……最初からそのつもりだったんだ。なのにそうとも知らず、ボクはッ……!」

 

 目の前の壁を、賈駆は渾身の力で殴りつける。

 巷では暴虐の限りを尽くす董卓を討つため、反董卓連合軍が結成されたと聞く。原因は、張譲が袁紹の力を削ぎ落そうと、無理難題を押し付けたのが原因だった。だがここで張譲は予想外の反撃を受ける。袁紹は軍師である田豊の策に従い、変化を求める民の支持をバックに真っ向から堂々と反旗を翻したのだ。

 

 各諸侯にもそれに便乗し、世間一般では董卓は悪逆非道の暴君として認知されている。

 ある者は飢えに苦しむ民を救うため、ある者は己の名声を高めるため、ある者は自領の安定のため。そして多くの者は己の野心と権力、そして悪政の原因を擦り付けるために、董卓の悪名を利用していた。

 

 

「月は何も悪くない!それなのに、みんなよってたかって月を利用して……ッ!張譲も、李儒も、袁紹も、そして――」

 

 何度も、何度も壁を殴りつける。無駄な行為と分かっていても止められない。

 

「――このボクも……!」

 

 ようやく壁を殴るのを止めた賈駆は部屋の隅にある机を見る。上質な木材で作られたその机の上には、一通の手紙と便箋が置いてあった。

 使われていた紙と便箋は、ちょうど袁術軍で政治将校制度が発足する前日に、孫家に届けられたものと全く一緒のものだった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 洛陽から見て東、古来より交通の要衝とされた陳留の地に、大軍勢が集結していた。平原を埋め尽くさんばかりに広がる無数の兵士達――全て反董卓連合軍の兵士達だ。都で暴虐の限りを尽くす董卓を倒すべく各地から集まった自称『解放軍』は、この地に大規模な野営地を設営していた。そこでは作業に勤しむ兵士達に、彼らの相手をする商人達の罵声と怒声が飛び交い、辺りは異様な熱気に包まれていた。

 

 そして名立たる諸侯の軍勢に混ざって、袁術軍の姿もこの地にあった。

 現在この地に集まっているのは、兵力の多い順に袁紹軍7万、袁術軍4万(孫策軍が別に1万)、北平太守の公孫賛、西涼の馬騰が3万ずつ。北海太守の孔融に徐州刺史の陶謙、そして曹操の軍勢がそれぞれ2万、その他の諸侯も合わせると30万近くに達しようかという大軍勢であった。

 

 逆に、参加しなかった主な武将には荊州刺史の劉表、遼東太守の公孫度、益州牧の劉焉、漢中の張魯など。ただし劉表は諸侯から恨まれないよう、抜け目なく物資援助はしていたが。

 

 

 

 

「いや~、楊弘さんの言うとおり、あらかじめこの辺の物資を買い占めててよかったですね~。」

 

 周囲を見回しつつ、サラッと斜め上の発言をする張勲。

 

 これほどの大軍が一同に会せば、自然と必要な物資の量も膨大になる。野営地の材料や兵士の酒と食糧、壊れた武器を修理するための鍛冶屋に、行商人、娼婦。物流の発達していないこの時代、それらは現地調達で賄うのが主流であるのだが、30万もの大軍勢を迎えるには陳留は小さ過ぎた。当然、物価は値上がりする。

 

 これを見越した楊弘を始めとする袁家官僚は、連合の発起人である袁紹から集合場所を聞き出し、事前に物資を買い占めて暴利を上げていた。買えないもの(宿屋とか)ですら予め定価で貸し切っておき、後に連合軍に高値で貸し付ける事で差益を得ている。

 しかもそれらは袁術と繋がりの深い商人に情報をリークし、配当や献金という形で間接的に利を得ることで、他の諸侯にバレないようにするという念の入れようだ。現代風に言えばオプション取引に相当するが、どう考えてもインサイダー取引である。

 

 

「……ホント何しに来たのよ、あなた達。」

 

 楽しそうな張勲とは対照的に、呆れ顔で孫策はため息をつく。

 

「いやぁ、『必要なものを必要な時に』『安く買い叩いて高く売る』。この程度は商売の基本ですよ、孫策さん。」

 

「戦争しに来たんじゃないの?」

 

「劉勲さん曰く、“この世界は商売の機会に満ち溢れている。商売は自ら創造するもの”だそうです。」

 

 そう言われるとなんだかイイ事言ってるように聞こえるのだから世の中不思議だ。やってることは限りなく法律スレスレなのに。まぁ、漢王朝がまともに機能していない以上、法律なんてあって無いようなもんだし。

 

 

「……そう言えば、劉勲のヤツはどうしたの?」

 

「劉勲さんなら、どうも仕事がいろいろ立て込んでるみたいで、ある程度終わったら来るそうですよ。」

 

「ふ~ん……まぁいいわ。あの女狐が姑息なこと企んでるのはいつもの事だし。」

 

 そう割り切って一人で納得する孫策。いずれにせよ、今の自分は己の責務に全力を注げばいい。この反董卓連合で確固たる功績を立てれば、独立へと一歩近づくはず。孫呉の為に、亡き母の為に、つき従ってくれる皆の為に。為すべきことを為すだけだ。

 

 

 

 去って行く孫策の後姿を見送りながら、張勲はふと自軍の陣を見やる。

 連合軍の中でもとりわけ大きいその陣の中では、上官の命令に従い、反復訓練を行う袁術軍兵士の姿があった。さすが名門袁家なだけあって装備は充実しているものの、他の諸侯――曹操軍などに比べれば動きの稚拙さが目立つ。

 

 訓練でやっていること自体は単純だ。基本的に隊列を組んで行進し、号令と共に停止する。ただそれだけだ。号令も前進・方向転換・停止・構え・止めの5つだけ。だが、たったそれだけの作業がこなせない。

 

 

 劉勲や某『天の御遣い』なら知っている事だが、学校の卒業式なんかで “全員、起立!前、ならえ!次、ならえ右!気をつけ!直れ!礼!” とか言われて即座に反応し、言われた通りの行動をするには、繰り返し練習をそれなりに必要とする。運動会で“全員、クラスごとに列を組んで5分以内に集合!”など言われても中々言われた通りには出来ないものだ。

 

 ましてや軍隊で要求されるレベルは、それよりもはるかに高度。緊張感も訓練の比では無い。命令を受けて、内容を理解してから動くようでは間に合わないのだ。先に体が反応するぐらいの事が出来ぬ様では、おおよそ戦場で役に立つまい。

 苛立ちを募らせた紀霊辺りは、割と本気で命令違反者を半殺しにしかけたものの、さすがにそれ以上は阻まれた。

 

 

「紀霊さんの言ってる事は解らないでもないですが、他の諸侯もいますからねー。そんなことしたら、タダでさえ低い美羽様の評判が更に下がっちゃいますし。……まぁ、正規軍じゃないから錬度が低いのは当然ですけど。」

 

 現在、この場にいる袁術軍の殆どは、厳密には正規軍では無い。牢につながれてた犯罪者や、浮浪者、難民など身元の不確かな人間を適当に拉致って軍服を着せて武器を与えただけだ。強制徴募という名の拉致で集められた以上、その中身はド素人集団もいい所だ。

 ちなみにそれが4万近くも集まる辺り、南陽群の人的資源の豊富さと袁術の自由放任な統治が伺える。

 

 

「といっても自由過ぎて犯罪とか難民とかで困ってたんですよねー。」

 

 加えて今回の反董卓連合軍である。中央人民委員会で決定された方針は2つ――『消耗抑制』と『勢力均衡』だ。

 

 故に、できる限り戦力を温存しておきたい袁術軍首脳部は現有戦力を減らさずに、戦力を確保する必要に迫られた。議論の中でで犯罪撲滅と治安改善の一環として強制徴募軍の案が挙がり、採用されることになったのだ。

 これならば仮に兵士が消耗しようとも袁術軍の正規戦力は衰えない。そのくせ数と装備だけは御立派なので、連合での発言力はある程度確保できるだろう。見かけ倒しとはいえ、戦わなければ簡単にはバレない。

 

 もっともこんなハリボテ軍隊じゃ、万が一実戦になれば惨敗するのが見え切っているので、そこは確保した発言力をフル活用して兵站などの裏方を担当し、参戦する必要のある場合には孫家の軍をぶつける。勝てばそれで良し、負けても責任の大部分はなすり付けられる。どちらにせよ孫家の力を削ぎ落せる上に、袁術軍への被害は最小限に止まる。

 

 

 資金だけはどうしようもなかったので、劉勲らの持つコネを使って劉表領の豪族から借りることにした。これには袁術の不在中に、劉表が南陽を攻められない様にするための保険の意味合いもある。大金を借りておけば、相手もデフォルトを恐れて袁術に敵対的な行動は慎む。

 劉表自身はこの事に気づいており、彼らの行動を諌めようとしたが、袁術側は「反董卓連合軍」をバックに、劉表に対して強硬な態度に出た。こうなった以上、強引な融資拒否は反董卓連合への敵対行動と取られかねない。劉表にしても行動のフリーハンドを奪われるのを嫌っただけで全面対決までは望んでおらず、結局は譲歩することとなった。

 

 これと先のインサイダー取引も含めて袁術軍は事実上、今回の出征経費のほとんどを外部調達したことになり、南陽群に残った魯粛と楊弘は安心して財政再建に取り組む事が出来るようになった。

 

 

「そういえば、劉勲さんもまた意外な行動に出ましたね。あの人はあんまり、ああいう役目は負いたがらない人だと思ってたんですが……いえ、まだ劉勲さんの事をそこまで理解している訳でもないですけど。」

 

 小さく自嘲するように漏らすと、張勲は劉勲がいるはず(・ ・)の天幕へ目をやる。

 幸か不幸か、袁家に変革のきっかけをもたらした女に思いを馳せる。記憶を辿ってみれば、彼女につけられた賞賛とも侮蔑ともつかない異名は確か―――『錬金術師』。

 

 ――其が意味するは、他者を惑わし、偽りの黄金を創りし者。

 

 真実を嘘に、虚構を現実へと変える(かた)りの魔女だった。

 

 

「まぁ……あの人だけが特別というわけでもありません。世の中、本音だけじゃ生きていきませんし。」

 

 空っぽの瞳で張勲、遠く、洛陽の方角を見つめる。陰謀、そして戦火に包まれた方角を。

 

「結局のところ、彼女に限らず、私達は全員でハッタリにハッタリを重ねてるだけなんですから。……今は亡き先代、袁逢様がコレを見たら何と言うでしょうかねぇ?」




ちなみに本来は袁術の領地の方が豊か(人口約250万らしい)なのですが、この作品においては黄巾党の乱の被害が大きいため、経済規模は大きくても赤字を抱えている設定です。


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20話:不協和音

 原作キャラの口調が難しいです。
 自分で書いてみると、どこか不安定になってしまう……


               

 漢代には洛陽盆地を取り囲むように全部で八つの関所が置かれ、洛陽八関と称されていた。洛陽に出入りする道は、この関所を通過する八本しか存在せず、まさに洛陽全体が天然の要塞でもある。その中で洛陽の南に置かれた関は大谷関と呼ばれ、袁術の治める南陽群から洛陽を直接攻撃されることを防いでいた。

 

 反董卓連合軍が続々と陳留の地に集結するのと時を同じくして、洛陽でも反董卓連合軍に対抗するべく軍が動き出していた。

 

 

「そんな、官軍を5万も大谷関に移動させるなんて……話が違うじゃない!」

 

 宮中の奥深にて、賈駆はある人物からの指示に抗議していた。

 

 

「お前たちには伝えていなかったが、大谷関の南にある陽人という場所にも反董卓連合軍が集まっているそうだ。故にそこを防衛する必要があるのだ。」

 

 答えたのは、一見子供のようにも見える小柄な人物。彼こそが十常侍の若き筆頭、張譲である。

 

「しかし……それでは兵力が分散し、陳留方面の敵部隊が……」

 

 賈駆は額にしわを寄せて抗議する。だが、張譲は身を乗り出し、より強い口調で一方的に告げる。

 

「賈駆、これは決定事項だ。これ以上逆らえばどうなるか、分かっているんだろうね?」

 

 

「……分かりました。ご期待に添えるよう、全力を尽くします。」

 

 賈駆は苦々しげに、喉の奥から声を押し出す。張譲はその姿を満足そうに見ると、退出の許可を出す。

 

「どれだけ犠牲が出ようと構わない。陛下に盾突く逆賊を大義の刃で討て。」

 

「御意」

 

 賈駆は作法に則って一礼し、部屋から立ち去った。部屋から出た後も賈駆は廊下を歩きながら、張譲の真意について思考を巡らせる。

 

 陽人に反董卓連合軍が集まっているなど、どうせデタラメだ。その真意は、官軍を含まない純粋な董卓軍を反董卓連合軍と潰し合わせることだろう。一口に董卓軍といっても、その内実は官軍との連合軍であり、純粋な董卓軍はせいぜい3万程度。

 

 張譲は今のところ董卓を人質に取ることで賈駆達を操っているが、いずれは権力基盤を安定させるために自前の軍を持つ事を目標としている。暴政で民衆から金品を巻き上げた結果、既に張譲の子飼いの官軍の一部は、それなりに強化されていた。いずれは子飼いの官軍全てが強化され、張譲の新しい手駒となるだろう。

 そうなった時に、董卓軍が健在では張譲にとって困るのだ。反董卓連合を削ると共に、董卓軍にも共倒れになってもらいたい。故に適当な理由をつけて自軍を温存すると共に、董卓軍に不利な戦いを強いた、と賈駆は推測していた。

 

(事実上、ボク達が陳留方面に回せるのは多くて10万が限界だ。他の関にもある程度部隊は残さなきゃいけないし、そもそも皇帝の近衛兵は洛陽から動かせない……)

 

 対する反董卓連合軍の総兵力はおよそ30万。汜水関と虎牢関があるとはいえ、3倍の兵力差では流石に厳しい。戦う前から勝敗が決まっているほど絶望的ではないが、勝っても負けても相当な被害を受けるだろう。

 張譲にしても董卓軍があっさり敗北し、洛陽まで攻め込まれては本末転倒なので、関所が防衛できるギリギリの兵力は残していた。これならば仮に反董卓連合軍が勝とうと大損害を被っているはずであり、洛陽で温存していた官軍で十分に対処できる。

 

(それに張譲は『どれだけ犠牲を出そうと構わない』、そう言っていた……)

 

 その意味するところは一つしかない。所謂「死守命令」である。退却は認められず、文字通り全滅するまで戦い続けろ、ということ。

 残念ながら現実では一般的に、所属部隊の3~5割が撃破されると兵士が恐慌状態に陥って統制が効かなくなるため、全滅するまで戦い続ける部隊をお目にかかれる機会は少ない。

 とはいえ戦略・戦術的後退や、敵を自軍領内に引き込んでの機動防御などは認められないと言う事である。最悪の場合、董卓軍は、反董卓連合と洛陽の官軍の両方に挟み撃ちにされる。

 

 

「ダメだ……このままじゃ、本当に使い捨てられる……!」

 

 張譲の言われるままにこき使われ 何もできない現状に、賈駆は歯軋りする。

 

 

「……連合軍と共倒れになるぐらいなら、やっぱり『彼女』の提案に……」

 

 ふと、脳裏に浮かんだのはある女の顔。まるで出来の悪いお伽話に登場する方士のように突然現れて、現れた時と同じように唐突に消えた女性。にもかかわらず、は彼女の事を忘れる事は出来なかった。その時の会話は今でも鮮明に思い出せる。

 

 

 ――……本当に、捕まった月を助けだす事ができるの?――

 

   ――ええ、もちろんよ。『信用』していいわ――

 

 

 不敵に笑う、彼女の笑顔が印象に残っている。

 ――『信用』――

 どんなに証拠や保険がかけられようとも、交渉において最終的に相手の意志を動かすのは『信用』だ。交渉に限らず、それは人間関係の全てにおいて切っても切り離せない。ある者にとっては成功を約束する祝福であり、別の人間にとっては呪いにも等しい不可視の魔法。

 そう、信用は決して目に見えないが、確かにこの世に存在するのだから。

 

「それでも、ボクには……叶えたい願いがあるんだ」

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 連合軍、大天幕

 

 反董卓連合軍の会議室としても使われる、この大天幕の中心には洛陽周辺の地図が広げられており、諸侯はそれを取り巻くように座っていた。

 中でも一際豪奢な椅子に座っている、金髪ドリルヘアーの女性が袁紹である。左側には曹操や公孫賛とその客将である劉備一行の姿も見える。袁術陣営は袁紹の右隣にいるものの、当の袁術は退屈なのか、寝ぼげ眼でウトウトしていた。

 無理も無い。大天幕の中では既に2時間以上、各諸侯が長々と議論を戦わせていた。

 

「どうしても正面から攻撃なさるとおっしゃるのですか?董卓軍は長年異民族と戦ってきた精兵揃いですぞ。」

 

「だからこそ、我々はこうして連合を組んでいるのです。戦わねば、何の為に軍を派遣したのか分かりません。」

 

「しかし、正面攻撃では例え勝ったとしても被害が大きい。こちらの事情というのも考えて頂きたいのですな。何せ、我が領地は黄巾党の乱で相当疲弊しておりまして。」

 

「いっそ補給路を董卓軍の本拠地である、西涼からの補給を断って持久戦に持ち込むというのは……」

 

「領地の近い貴公はそれで良いのかもしれないが、領地の遠い我らの補給は長くもって3ヶ月程度しかないのだよ。」

 

 会議は踊る、されど進まず。

 各自がバラバラに言いたい事を言うだけで、何一つ決まらずにおよそ会議とは言えないようなもの―――と単純に言い切ってしまうには語弊があるだろう。各地から集まった諸侯にもそれぞれの事情がある。集まった諸侯の数だけ最善の策があると言っても良い。皆が真剣だからこそ、会議はだらだらと長引くのだ。

 

 故に――

 

「なぁ、こんなところで腹の探り合いばっかりやってていいのか?!俺達がこうしている間にも董卓軍は軍備を整えているんだぞ!みんながここに集まったのは董卓を討つためだろ!」

 

「ご主人様の言う通りだよ!早く洛陽で苦しんでいる人達を助けなきゃ!」

 

 会議室に響く、一組の男女の声。

 声の主は義勇軍指導者、劉玄徳と『天の御遣い』、名を北郷一刀という。その内容は、紛うこと無き正論。心の底から国を憂い、民を救わんとする者の叫び。

 その真摯な願いは諸侯たちの胸に染み渡る。嘘偽わりのない本音は、時としてどんなに甘い美辞麗句より心に深い印象を残す。

 だが。だがしかし――

 

「失礼。君達の名前と役職を聞いてもよろしいかね?」

 

 ――その叫びは届かない。

 確固たる社会的権威を持たないが故に。社会の暗黙の了解を知らぬが故に。

 何の実績も持たぬ者が社会で発言することは許されない。当然だ。素人に騒がれては困る。なにせこれは戦争なのだ。

 

「は、はいっ!?」

 

「…だから、君達の身分を訊ねているのだ。素上も分からぬ様では、軍議に参加させる訳にはいかないのだよ。」

 

「え、えっとわたしは義勇軍所属の劉備と言います。ご主人様の方は――」

「――すまない。こちらは私の所の客将だ。」

 

 向けられる非友好的な視線に戸惑いながらも、自己紹介をしようとした劉備を遮ったのは北平太守の公孫賛だった。

 

「この者はまだ新参者であるゆえ、ここは大目に見てもらえないか?この非礼は必ず後で詫びよう。」

 

 劉備を庇うように一歩前に進み出る公孫賛。彼女は白馬義従と呼ばれる精鋭騎兵を率いて異民族の討伐で功を挙げ、「白馬長史」の異名で知られていた。

 

「はぁ、北平太守殿がそうまでおっしゃるのでしたら……」

 

「かたじけない。」

 

 同時に劉備の学友でもあり、何かと苦労の多い人物でもある。公孫賛は劉備達一行を客将として迎え入れ、その能力や理想は高く評価しているものの、同時にこういった方面の知識に乏しい彼女達の行動にヒヤヒヤさせられてもいた。

 ふぅ~、と安堵のため息をつく彼女に劉備がためらいがちに声をかける。

 

「あ、あの、白蓮ちゃん。まだなんだかよく分からないんだけど……わたし達、ひょっとして悪い言っちゃったのかな?」

 

「いや、別に桃香達の言っている事が悪いって訳じゃないんだが……」

 

 公孫賛はどこか困ったように頭をかく。

 劉備達の言っている事は間違ってはいない。ただ、言うべき状況が悪かったのだ。劉備らの義勇軍は黄巾党の乱で功績を立てたとはいえ、逆にいえばそれだけである。各地の名高い諸侯たちの集まる場でタメ口発言できるほどの功績では無い。かといって高い家柄や潤沢な資金があるわけでもない。

 

「それに、みんな自分の領地のことも考えなくちゃならないんだ。だから頭では桃香達の言う事が分かってても、領主の責任がある以上は慎重にならざるを得ないんだよ。」

 

 こういった高度に政治的な会議では、その発言の全てが記録される。従って己の一言や決断が自分のみならず、領民たち全ての人生を左右する。発っする一言一言には、常に責任が付き纏うのだ。自らの不用意な発言で領民を危険に晒すことなど愚の骨頂。『人』として正しい事が、必ずしも『領主』として正しいとは限らない。

 公孫賛の隣の席に座っている曹操なども、それが分かっているからこそ長引く会議に口を挟まない。もっとも彼女の場合、出自の卑しい自分が発言しても無駄だと単に割り切ってるだけなのかもしれないが。

 

「領主の責任、か。なかなか難しいもんだな……。」

 

 渋々、といった感じで頷く一刀。公孫賛の話を理解はしたが、やはり感情的に納得できないものがあるのだろう。その姿は傍目にも不満げであったが、これ以上公孫賛に迷惑をかけるほど恩知らずでもない。劉備も一刀もそれ以上の発言はしなかった。

 

 

 黙り込む劉備一行を曹操だけは興味深そうに見つめていたが、他の諸侯はすでに会議を再開していた。再び小田原評定に戻るかと思われた矢先、ついにしびれを切らした袁紹が立ち上がる。

 

「さて、皆さん。何度も言いますけれど、我々連合軍が効率よく兵を動かすにあたり、たった一つ、足りないものがありますの。兵力、軍資金、そして装備…全てにおいて完璧な我ら連合軍。ただし、たった一つ、足りないものがありますわ!」

 

「……。」

「……。」

「……。」

 

「――それは、この軍を纏める『総大将』ですわ!!」

 

 ですよねー。うん、言ってる事は別に間違っちゃいない。というか誰かがまとめてくれなきゃ困る。船頭多くして船山に登る。いくら居並ぶ人間が優秀であっても、それを取りまとめる人間がいなければ会議は意味をなさない。唯一の問題はまとめられる人物がいないと言う事だ。

 

 曹操……家柄と役職がアウト。たぶん、他の諸侯は従わない。

 袁紹……どうせお飾りにしかならない。

 袁術……駄目。

 その他…なんだかイマイチ役不足感が否めない。

 

 消去法でいけば袁紹になるのだが、袁術に勝るとも劣らぬバカ殿を推薦するのはちょっと躊躇われる。自薦してくれれば文句はないのだが、下手に推薦して責任を問われたくはない。各諸侯はそんな事を考えつつ、「お前が最初に言えよ。」と互いを目で牽制していた。

 一方の袁紹はさっきから長ったらしい演説を一人で続けている。

 

「これほど名誉ある役目を担う軍を率いるには、なんといっても相応の『格』というものが必要ですわ。あとは能力ですわね。気高く、誇り高く、そして優雅に敵を殲滅できる能力。……そういった才能を持った者こそ、この連合を率いる総大将に足る人物だと思うのですけど?」

 

 

「……で?貴方の挙げたその条件に合う人間は、この連合の中にいるのかしら?」

 

 袁紹の幼馴染みである曹操が口を挟む。

 

「さぁ、私はどなたか存じ上げませんけど、意外と身近に居るかもしれませんわね。」

 

 どう見ても袁紹は誰かが自分を推薦してくれるのを期待している。ただ自分からそれを言うのも若干気が引きけるのか、さっきからウズウズしている。放っておくと、いつまでも終わらなそうだ。しびれを切らした劉備が、つい空気を読まずに口を開きかける。が――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「妾のことか?」

 

 

 ――壮絶に空気が読めない人間が、ここにもいた。

 




 17話辺りでやたら袁家が追い込まれてるような描写がありましたが、実は当の董卓軍からしてみれば「過大評価すんな、大変なのはこっちだ」みたいな。
 国防では情報が限られてる分、こういう話って結構あるようです。相手の弱点は分からないけど、自分の弱点はよく知ってるからですかね?

 冷戦時代、ヨーロッパの西側諸国はソビエト軍の大戦車部隊やら人海戦術に怯えていたそうですが、当のソビエト首脳部はいつ西側に先制攻撃されるか分からず、ソビエト崩壊後に公開された文書によると内心ビビりまくりだったという話。なんでも電子技術のレベルが低すぎて防空レーダーが……。

 実際、いつぞやになんでもない普通のセスナ機がフィンランドから赤の広場に着陸したとかいう話も。ちなみにその日は現在、国境警備記念日になっているらしいです。ロシアって国境広いから軍人さん大変そう……。


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21話:遠き夢の果て

                      

「妾のことか?」

 

 

 

 袁術の一言によって、会議室は凍りついた。

 

「あらあら、お嬢様ったら本当に空気が読めないんですから♪その上たった一言で、魯粛さん達が必死に考えた策を台無しにしちゃうとか、さすがですぅ。」

 

「ふはははは!当り前なのじゃ!袁家の人間はどんなことも一番なのじゃ!」

 

「よっ、さすが美羽様、中華一のバカ殿様♪」

 

「七乃、あまり褒めるでない。照れるではないか。うわはははは!」

 

 居並ぶ諸侯は呆気にとられていた。袁紹ですら、言葉を失っている。そんな彼女らをよそに、袁術と張勲だけがお祭り騒ぎを続けていた。

 

 

「そ、そんなの認めるわけには参りませんわ!」

 

 ようやく我に返った袁紹が、血相を変えて異を唱える。連合の発起人である自分を差し置いて、従妹の袁術が総大将になるなど認められない。総大将にふさわしいのはこの自分、袁本初なのだから。勢いよく椅子から立ち上がり、袁紹は従妹に詰め寄る。

 

「いったいどうゆう風に話の流れを理解すれば、美羽さんが総大将になるんですの!?」

 

 

(さぁ、どーゆー風の吹きまわしなんでしょうね?)

 

 思わず内心でツッコみ始める諸侯たち。

 

(知るか。気にしちゃ負けだ。見ないフリ、見ないフリ。)

 

(まぁ、袁姉妹の言ってる事が意味不明なのは今に始まったことじゃないし。)

 

(だよねー。)

 

(だな。)

 

(ですわね。)

 

 今、間違いなく彼らの心は一つになっていた。

 

 

「なんじゃ?麗羽ねーさまは不服かの?」

 

「当然ですわ!もう一度よく考えてごらんなさい。この連合を束ねるだけの名声、財力、華麗さを兼ね備えた人材。そして天に愛されているような美しさと、誰しもが嘆息を漏らす可憐さを兼ね備えた人物は誰なのかを!」

 

 袁紹が胸を張って先を促す。ここまで来れば、いや来ないでもとっくに分かってたのだが、袁紹が何を言いたいのか察せるはずだ。従姉に見つめられ、乏しい知識をフル稼働させて袁術は考え込む。

 

 

「……うむ。やっぱり妾しかおらんな。」

 

「ち・が・い・ま・す・わ!連合軍の総大将に相応しいのは、このわたくしですわ!」

 

「なんじゃとぉーー!“めかけ”の娘の下につくなど嫌なのじゃ!妾が総大将なのじゃー!」

 

「いいえ!蜂蜜のことしか頭に無い小娘に総大将を務めさせるなど言語道断!わたくし、袁本初こそが総大将に相応しいですわ!」

 

 

 目から火花を散らして一歩も引こうとしない両者。周りの諸侯は呆れを通り越して何かを悟った様な表情になっている。だが二人だけ、ここに機を見出した者がいた。一人目は曹操。

 

「はいはい。姉妹喧嘩はそこまでにして。仲睦まじく二人だけで張り合っても埒が明かないでしょう?」

 

 そしてもう一人は『天の御遣い』北郷一刀である。

 

「曹操の言う通りだ。ここは公平を期して、無記名選挙で決めたらいいんじゃないか?」

 

 何人かの諸侯が顔をしかめるも、一刀の提案内容自体は悪いものでは無く、少なからず賛成の声も聞こえる。

 

 

(先ほど邪険に扱われたばかりなのに、中々諦めの悪い男ね。この男……よほどの馬鹿が、それとも……)

 

 曹操は目の前にいる、男の姿を見定めようとする。

 

(空気を全く読めてないとはいえ、臆することなくこの場で発言した胆力、そして投票という手段を思いついた発想力は評価に値する……。

 とはいえ身のこなしや言葉使い、見るからに駆け引きに不慣れな様子は素人そのもの。武官としても文官としても、経験の浅さが目につく……。)

 

『天の御遣い』という胡散臭い肩書きを持っている時点であまり期待していなかったが、どうやらその評価を多少は修正する必要がありそうだ。もっとも、“素人にしては”という条件付きではあるが。

 

 本来、彼女は妖術や占いの類はあまり信じない人間だ。しかし、それでも無視しえない異質なモノをこの謎の男に感じ取っていた。

 

(有能なのか無能なのか、現状では今一つ判断しかねるわね……。もしや『天の御遣い』というのは事実……いや、それは流石に考えすぎかしら……?)

 

 『天の御遣い』、北郷一刀。この不思議な青年に、曹操はどこか違和感と既知感を覚えていたが、そこで一旦思考を打ち切る。

 

 

「我らはこの『選挙で総大将を決める』という案に賛成だが、貴公らはどう思う?」

 

「我々としても異論はない。」

 

「確かに、一番後腐れの無い方法ではあるな。」

 

 見れば、先ほどまでの沈黙が嘘であったかの様に、諸侯はざわついていた。そろそろ、長かったこの会議にも終わりが見えてきたようだ。

 

 

 

 投票で総大将を決めるという提案に、最終的には多くの諸侯が賛成することとなった。袁姉妹も互いに自分が勝つという自信があったので、あっさりと納得する。

 結果、満場一致で総大将は袁紹が務めることが決まった。もっとも財力、兵力、名声においては袁紹の方が上であり、当然と言えば当然の結果である。流石に袁術を総大将に据えようというチャレンジャーはいなかった。

 

 

 一方で、袁術軍は予定通り兵站を担当することになった。これは劉勲を始め袁術陣営には商人に顔が利き、物流の管理ノウハウを持つ人物が多かったこと、黄巾党の乱で軍事的な評価が下がっていた事等も関係していた。

 袁紹は連合軍の人事を担当し、作戦計画は曹操の担当となった。出自の卑しい曹操に作戦計画という大任を任せることに、一部保守派の反対があったものの、意外な事に袁紹が助け舟を出した。

 

「わたくしの決めた人事に異を唱えると言うんですの?これはこの袁本初が決めた事ですのよ!」

 

 こう言われてしまえば反対していた者も認めるしかない。これ以上食い下がれば、袁紹を敵に回すことになる。おバカと評判の袁紹だが、かつて曹操とは共に学んだ中でもあり、この時点で曹操の実力を認めている数少ない諸侯の一人でもあった。曹操は心の中で密かに袁紹に感謝しつつ、作戦会議を進める。

 

 

 

「ではまず、侵攻経路を決めなきゃならないのだけど、私は全軍で最短経路を直進するべきだと思うわ。」

 

 曹操はいきなり直球勝負に出た。袁紹や孫策、西涼の馬騰などを含めた約半数の諸侯がその通りだ、と威勢よく賛成するも、残りの諸侯は嫌そうな顔をしている。彼らの多くは、敵の兵站を断っての持久戦を主張していた。

 とはいえ、その程度は曹操とて織り込み済みだ。指を折りながら説明を始める。

 

「大まかに言って根拠は2つ。まず第一に我々には時間が無い。兵站への負担を考えれば持久戦では無く、速攻を仕掛けるべきよ。」

 

 領地の遠い諸侯はそもそも長期行動ができない。兵站への負担もさながら、黄巾党の乱で疲弊した領地をあまり長い間放置するわけにもいかないのだ。

 また、兵力の集中は用兵の基本でもある。寄せ集めの連合軍では密接な連携行動があまり期待できない以上、董卓軍に対して数的優位を維持できる内に攻撃するのが好ましい。 

 

「第二に、あまり戦が長引くと、敵が守りを強化すると共に、戦時体制を確立してしまう可能性があると言う事。」

 

 まだ董卓が洛陽を乗っ取ってから、それほど日数はたっていない。そのため洛陽では相次ぐ政変によって、政府機能が麻痺しているのが現状だ。

 更に軍事面に関しても、今のところ董卓軍は旧何進軍や朝廷軍との連携が不十分であるが、時が過ぎれば連携はより密接になりうる。それは連合軍にも言えることだが、董卓軍に比べて寄せ集めの連合軍ではどうしても権限が分散しがちで、時間が経てばその差はさらに開いてしまうだろう。

 

 

「よって、戦略的な観点からは早期決戦が最も望ましい。……とまぁ、以上が私の考えなのだけど、何か異議のある者は?」

 

 一通り説明を終えた曹操が諸侯を見回す。持久戦論者の顔が険しくなるも、反対の声は聞こえない。元々彼らの殆どは董卓軍と正面から戦いたくないから持久戦を主張したのだが、こうも理路整然と説明されては反論しづらい。まさか自分は戦いたくないです、と本音を言う訳にもいかないだろう。

 

 

「なぁ、例えば陽動部隊を残し、主力は別方向から迂回するっていうのはどうだろう?洛陽の南にある南陽群辺りを通れば、補給や時間の問題は回避できると思うんだが。」  

 

 公孫賛がそんな彼らの意を組んで、何とか仲介しようと別の案を出す。南陽群は洛陽のすぐ南にあり、人口も多く、豊かな土地である。従って街道なども比較的整備されており、商売も盛んだ。確かに多少時間はかかるだろうが、比較的スムーズに移動できる。

 何より、持久戦を主張する諸侯の軍は陽動として待機するだけでよく、決戦を主張する諸侯だけが迂回部隊に加われば意見の対立は抑えられるはず。

 

「その考えも悪くは無いんだけど、陽動迂回作戦ではどうしても兵力が分散するわ。敵に知られれば、各個撃破される可能性が否定できない。」

 

 

 元々董卓軍は西涼を本拠地としており、優秀な騎兵部隊を保持している。指揮系統も連合軍に比べれば一本化されているため、軍の移動や決定がスムーズだ。しかも洛陽は汜水関や虎牢関をはじめとする要塞で守られているため、かなり少数の守備部隊でも時間稼ぎができる。

 

 董卓軍と連合軍の戦力比は2:3であるが、連合軍が部隊を二つに分けてしまえば、董卓軍は局地的に数の優位を生かせる。2:3の戦力比では勝てずとも、戦力差が2:1.5の戦闘を2回繰り返せば勝てると言う事だ。

 一般的に戦闘で敗北した側の受ける損失は部隊の3~5割、勝利した側の損失は1割とされているため、厳密に言うと2回目の戦闘時における戦力比は董卓軍:連合軍=1.8:1.5となるが、それでも董卓軍が優位に立てる事に変わりは無い。

 

 かといって連合軍が全軍で移動すれば、董卓軍も兵の配置を変更するだろう。30万もの大部隊の移動がバレないはずが無い。洛陽周辺の街道はよく整備されており、部隊の移動速度でも董卓軍に軍配が上がる。

 

 

「……それに、私の掴んだ情報によれば、董卓軍は一部の軍を洛陽に移動させている。常識的に考えれば、迂回作戦に備えた機動予備でしょうね。」

 

 続けて曹操は、少し歯切れ悪そうに斥候からの情報を伝える。

 実際には董卓軍を反董卓連合軍もろとも潰し合わせようとする張譲の策だったのだが、董卓軍の内情を知らずに軍の展開をパッと見ただけでは曹操の言うとおり、迂回や揚動に備えた機動予備に見えなくも無い。

 

(そうは言っても私自身、なぜ董卓軍が今頃になって、急に軍を動かす理由がよく分からないのよね……)

 

 洛陽に上京した時の董卓の手際のよさに比べ、今回の軍事行動には要量の悪さが目立つ。

 曹操自身はそこにキナ臭さを感じていたが、情報が不十分な現状で、推論だけで軍議を混乱させるわけにもいかなかった。

 

(まさか、とは思うけど……もう少し情報を集めた方がいいみたいね……)

 

 

 

 

 

 採決の結果、直進案・迂回案・棄権=6・3・1の投票比率となり、連合軍は直進経路と取ることになる。総大将袁紹の号令のもと、反董卓連合軍はほぼ全軍で汜水関に向けて進軍を開始。政治と軍事の妥協の産物ではあるが、結果的に曹操の判断は吉と出る。

 反董卓連合軍は知る由も無かったが、董卓軍では政治的な事情から、陳留方面に送られた兵力はせいぜい9万程度だった。対する反董卓連合軍は30万近い大軍であり、数では連合軍が優位に立つ事になる。

 中華の命運を分ける事になる戦いが、もうすぐ始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 ――夢を、見ていた――

 

 

 そう、これは、今から何年も前のお話――

 

 

「詠ちゃん、いつも助けてもらってばっかりでゴメンね……」

 

「月も嫌な事があったらハッキリ言わなきゃダメよ。」

 

「うん、ゴメンなさい……」

 

「それよ、それ!すぐに謝るの禁止!」

 

「あ、うん。」

 

 

 よく分からないけど、放っておけない子――それが、賈駆が少女に対して抱いた最初の印象だった。

 幼かった賈駆が、母親から紹介された相手は、優しく儚げな少女だった。どうやら偉い人の娘らしいが、目の前にいる彼女のオドオドした仕草からは、そんな様子は微塵も感じられなかった。

 

 その少女――字を董卓、真名は月という――は不思議と賈駆によく懐き、気づけば二人で一緒に過ごす時間が増えていった。幼い頃から董卓は非力で気も弱く、よく幼い賈駆の後ろに隠れていた。逆に賈駆はどちらかといえば気の強い子供であり、この二人の組み合わせは周囲の大人達にとって少々意外だったようだ。

 

 

「ねぇ、月」

 

「なぁに、詠ちゃん?」

 

「月はさ、いつか月のお母さん達の後を継いで、偉い人になるんだよね?」

 

「えっ?……う、うん、そうだと思う……」

 

「偉くなったら、どんな人になりたい?」

 

 ある日、何の気なしにただの気まぐれで聞いた質問。

 

「詠ちゃん、わたしは……えっとね――」

 

 だが、その質問に対し、董卓はいつになく熱心に答えた。自分は親の後を継ぐのだと。そして、民のために平和で争いの無い世界を作りたい、と彼女は力説した。

 普段は口数の少ない幼馴染が、珍しく熱弁を振るうのを、幼い賈駆はあっけにとられて見ていた記憶がある。

 

 

「そういう詠ちゃんは将来、どんな人になりたいの?」

 

「ボクは……」

 

 

 ――その時からだろうか。

 

 ――彼女を支えてやりたいと思ったのは。

 

 いつも自分の後ろに隠れていた少女の姿。人に守られるばかりだと思っていた彼女が、将来について真剣に考え、与えられた責務から逃げずに前向きに進もうとしていた。そう語った時の彼女が、とても眩しくて、輝いて見えた。

 

 ――だから、その笑顔を護りたい、と幼心に賈駆は思った。

 

 

 やがて月は流れ、董卓は州刺史になり、賈駆はその軍師として彼女を支え続けた。

 州刺史の専属軍師としての日々は、いろいろと仕事上の苦労も多かったが、賈駆にとって充実した日々だった。その間に華雄、張遼、呂布、陳宮といった、かけがえのない友人たちにも出会った。

 

 主君である董卓を支えながら、一緒に笑って、怒って、驚いて、泣いて、喜んだ。

 毎朝、マイペースな呂布たちをたたき起すのに苦労した。

 昼には街の様子を見て回ったり、匈奴との戦いに出かけて「忙しい」「疲れた」等と、皆でぼやきつつ、笑顔が絶えなかった。

 夜になれば、星を見上げながらそれぞれの夢を語った。

 どんな夢だって叶えられる、あの頃はそんな気になれた。

 

 それは柔らかくて、暖かな――とても優しい記憶。

 

 永遠に続くように思われて、案外簡単に崩れ落ちる――そんな脆くて儚い日常。

 

 そして、もう2度と帰ってこないであろう、ちっぽけで、大切な思い出だった。

 

 

 

 

 

(……随分と、遠くまで来ちゃったような気がするな……)

 

 ――ふと、目が覚めた。首がズキズキと痛む。

 賈駆が目を開けてから、最初に飛び込んで来たのは、散乱した書きかけの書類。見れば、他にも筆や本などが机の上に散らかっている。部屋は殆ど真っ暗で、消えかけの蝋燭の灯りが賈駆の顔を照らす。

 

 どうやら、書類仕事の途中で寝てしまったらしい。流石に日頃体を酷使していたのが、ここに来て限界に達したのだろう。ここ数日は反董卓連合のおかげで、まともな睡眠時間がとれたためしがない。

 もっとも睡眠時間がとれた所で、囚われの親友を助け出すまで心置きなく熟睡できるわけでもないのだが。

 

「いや、遠くまで来た気がするんじゃない。本当に遠くまで来ちゃったんだな……」

 

 自嘲気味に、誰にともなく呟く。

 

 ――否、呟いたはず(・ ・)だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようやくお目覚めのようね、お譲さん。」

 

 

 

 部屋の反対側、窓際の方から一人の女性の声が響いた。賈駆は咄嗟にそちらへ振り向く。逆光の差し込む窓辺に映し出されるは、一つの人影。ひっそりと暗闇にたたずむ、一人の魔女がそこにいた。

 

 

「……で、結局アナタの答えは決まったのかしら?」

 

 




" 暗闇にたたずむ、一人の魔女 " ……一体何者なんだ……


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22話:闇夜の決断

 回想パートが若干長いですが、ご容赦下さい。


   

「で、結局アナタの答えは決まったのかしら?」

 

 

 賈駆の耳に、若い女性の声が飛び込んでくる。それは心地よい響きでありながら、聞く度にどこか不安を覚える声。

 

「……いつから見ていたの?」

 

「さぁ、いつからなんでしょうねぇ?」

 

 声をかけてきた主は、口に手を当ててクスクスと笑う。

 

「いやぁ、気分次第じゃ教えてあげない事も無いケド、世の中には知らなかった方がいい事もたくさんあるのよ?」

 

 賈駆はハァ、と溜息をついてそれ以上追及するのを諦めた。聞くだけ無駄だろう。この手の相手は口が軽そうに見えて、存外に口が堅い。

 不都合なことは一切話さないと言う訳では無いが、相手からそれ以上の弱みを引き出してくるか、別の厄介事に巻き込んでしまう。自分より話上手な相手に対しては、『雄弁は銀、沈黙は金』なのだ。

 

 思えば、最初に会った時から彼女は始終こんな様子だった気がする。 賈駆は改めて相手の方に向き直り、その名を口にした。

 

 

「……劉子台――」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 時を、僅かに遡る。賈駆の下に劉勲が訪ねて来たのはつい数日前のことだ。

 

 

 反董卓連合が結成されたと聞き、賈駆はその日も対策を練るべく、膨大な量の仕事をこなしていた。

 誰の助けも借りる事無く、全てを自分でこなそうとしていた。到底一人で出来るような仕事量では無かったが、反董卓連合軍が近づいている現状で職務放棄するという選択肢は無い。

 

 常人なら到底耐えられないであろう重圧を、賈駆はたった一人で抱え込む事を選択した。

 恐らく、頼めば陳宮や張遼、華雄と呂布も自分を助けてくれただろう。割とサボっている張遼もヤケ酒をおこしながら、なんだかんだで必要な仕事はきっちりこなしている。元来、彼女達は全員、優しく、情に厚い人間だ。

 

 

 だが、だからこそ賈駆は助けを借りようとしなかった。いや、借りたくなかったと言うべきか。そもそも自分が洛陽に上ろう等と進めなければ、今日の苦境は発生しなかったのだ。本来責められるべきは自分だけなのだ。その責を自分が巻き込んでしまった彼女達にこれ以上負わせたくない。

 

 助けを求めれば、彼女達を更に深く傷つけてしまうかもしれない――だから、助けを求めてはならない。

 だから、一人で操り人形のように、物言わぬ機械のように黙々と働いた。

 まるで、仕事に没頭すれば、自分の犯した罪が薄れるとでもいう様に。

 

 

 しかし――やはり心の底では、誰かに助けてもらいたかったのだろう。この絶望に満ちた宮中という牢獄から救い出してもらいたかったのだろう。

 心身を酷使して、弱りきった賈駆の心は悲鳴をあげていた。信じていない邪教の神にすら祈っていたのかもしれない。

 

 

 ――かくして、彼女の祈りは届く。

 

 

 

「――アナタに、聞いて欲しい話があるの。」

 

 

 祈りが届いたことを幸運と歓喜するべきか、はたまた祈りの届いた先を不幸と呪うべきか。

 

 

「チョットだけでいいから、時間あるかな?」

 

 望み通り、祈りは届いた。されど――ああ、やんぬるかな。届いた先は、魔女の耳だった。

 

 

 劉子台、彼女はそう名乗った。

 その名は賈駆も聞いたことがある。南陽群にて、袁術に仕える若き才媛。もっともその評判には毀誉褒貶があり、武人を中心に蔑む声と、商人を中心に賞賛する声とがあった。

 だが、今の賈駆にとっての興味はそこでは無い。

 

 

「どうやってここに?いえ、どうしてボクの部屋に?」

 

 ふと窓の外を見れば、満月の光が夜の洛陽を照らしていた。賈駆の経験上、夜遅くにこんな場所へ訪ねてくる人間の用事は、大概ロクなものではない。

 

「う~ん、張譲の生存を知っていて、その失脚を狙っている人間はアナタ達以外にもいる、とだけ言っておきましょうか。それ以上は守秘義務があるってヤツ?」

 

 僅かな逡巡の後、女は朗らかに答えた。非常に断片的な情報であったが、賈駆はそこから多くの事を読み取ることが出来た。

 張譲は一見、董卓達を利用して宮中を完全に掌握したかのように見えるが、未だに敵対勢力が宮中から完全に一掃されたわけではない。前皇帝が崩御して以来、宮中では長らく権力闘争が続いていた事は周知の事実である。殆どの者はその中で滅んでいったが、司徒の王允を始め、表向きは服従しつつ、生きながらえて密かに機会をうかがっている者も多い。その彼らが、張譲に対して反撃に出る機会を伺っているのだとしたら?

 

 賈駆は次第に自分の鼓動が高まってくるのを感じていた。 狡賢い彼らなら、長年の敵だった張譲の策に何らかの感知を示していても不思議な話では無い。そして、それは張譲の権力を土台から崩しかねない影響力を持っている。

 

「では、ボク達の事は……!」

 

「もちろん知っているわよ。アナタの事も、アナタの主君の真実もね。」

 

「そ、それなら……」

 

 賈駆は期待をこめて劉勲を見つめる。うまくいけば、張譲を出し抜けるかも知れない。

 別に宮中の権力争いに勝利する必要などは無い。それでも張譲と王允らの争い、そして反董卓連合軍による洛陽の混乱を利用すれば、厳重な警備の隙を掻い潜って、董卓を脱出させられるかもしれない。

 

 正直な話、幽閉された董卓を脱出させるだけならば、わざわざ他人に助けてもらう必要はない。いくら警備が厳重とはいえ、隙をついて呂布あたりが殴りこんで無双すればいいだけの話だ。

 問題はその後だ。仮に脱出させても、どこかに匿ってもらえなければ、いずれ官軍の追手に捕えられてしまう。故に外部からの協力者は不可欠であり、せっかく掴んだこのチャンスを逃す訳にはいかなかった。

 

 

「……とはいっても、現状じゃアタシ達に出来ることなんて限られてるわよ。悪い事言わないから、あんま期待しないで。」

 

 しかし劉勲は冷淡に、賈駆の希望を一蹴する。

 

「そりゃまぁ、アタシ達だって助けてあげたいのは山々だけど、コッチにはコッチの事情ってモンがあるし。役職上がると責任もそれ以上に増えるのよねー。」

 

 やけにもったいぶった様子で、話をはぐらかしはじめる劉勲。だが、視線だけはブレずに賈駆に注がれていた。

 

 (劉勲……なるほど、噂通りの人物ね。取引――対価がが欲しいのね。)

 

 ようやく賈駆にもこの女の言いたい事が分かってきた。一度持ち上げてから落とす、焦らして相手から譲歩を引き出す。既に使い古された手法だが、逆にいえばどんな時世にも通用する手法ともいえる。それは交渉の基本であり、商人なりの挨拶なのだ。

 また、反董卓連合の発起人は袁術の従姉の袁紹である。そもそも袁術陣営がここにいる時点で、何らかの目的があると考える方が自然だ。

 

 

「……言いたい事はだいたい分かったわ。それで、ボク達には何を要求するつもり?」

 

「へぇ……思ったより飲み込みがいいじゃない。話が早くて、お姉さんホント助かっちゃうわ。」

 

「生憎だけど、ボクにはあんまり時間が無い。手短に説明してくれる?」

 

「時間が無い……確かに、アナタにとってはそうかもねぇ。」

 

 一瞬、意味深な笑みを浮かべる劉勲だったが、賈駆に睨まれたため一転して真面目な顔に戻る。

 

「ま、それはいいとしてアタシ達の目的は一つ。――――飛将軍、呂布よ。」

 

 やはり、そう来たか。賈駆は内心で舌打ちした。劉勲の本質の一つは商人だ。経営不振に陥った商会に手を差し伸べる商人がいるとすれば、動機はほぼ一つ。相手を買収し、その人材や資産を取りこむのが目的だ。

 袁術陣営にとって足りていないモノ。それは名声でも官位でも資金でも無い。軍事力だ。強いて言うなら、「抑止としての軍事力」だ。

 

 

 一口に「軍事力」と言っても、その機能は外交カードとしての『抑止力』、侵略によって相手の意志を意志を変更させる『強制力』、相手の実力行使に抵抗するための『抵抗力』の3つに分類される。分かり易く言えば威嚇能力、攻撃能力、防衛能力のことだ。

 その中でも『抑止力』は云わば「見かけの強さ」であって、過大評価や過小評価必によって、必ずしも実際の戦争遂行能力と一致しない。

 

 袁術軍の場合は、黄巾党の乱の惨敗によって過小評価されている傾向にある。

 過大評価されて周辺の諸侯を敵に回すよりかはマシとはいえ、必要以上に侮られれば交渉等で不利になる上、調子に乗った諸侯に戦争をふっかけられる危険も増大する。例え戦争に勝利できても余計な出費や被害がかさめば、いずれ国力の減少に繋がってしまう。

 故に呂布という分かり易い強さの「象徴」を手に入れたいのだろう。

 

 

「アタシは董卓を救助し、アナタ達を匿う代わりにそちらの軍事力をもらう。給料も役職もこちらで保障するわ。

 流石に董卓には表向き死んでもらう事になるけどさ、労働条件自体はそう悪くないはずよ。ウチは成果主義だから、結果さえ出せばどんなエグい過去があろうが、イカレた性癖があろうが誰も気にしないし。

 要はそんな難しい事考えずに、ただ単に袁術様に仕えればいいっていう話。それだけで、アナタの大事な大事なお姫様が救えるんだよ?」

 

 

「……その言葉が本当ならボクに文句は無い。ただ、その言葉が信用できるという保証はどこにあるの?」

 

「仮に教えたところで、アナタはアタシを本気で信じてくれるのかしら?」

 

 信用は目に見えないし、触れる事もできない。いくら真実を語ろうとも、信用が無ければ人はそれを信じられない。逆に信用さえあれば、真っ赤な嘘であっても疑われることは少ない。

 

「……というのは冗談で。ごくごく単純な話よ。まず張譲に味方した所で、向こうがアタシ達を信用してない。袁家は張譲ら十常侍と何進が争っていた時に、何進側についてたし。 

 他にもギリギリで裏切って連合に董卓を突き出すと言う手もあるけど、そんな事したところで得られるのはどーでもいい感謝の言葉と各諸侯の嫉妬と侮蔑だけよ。正直、投入した労力の割に合わないわ。

 アタシ達としては、『董卓軍が適度に負けた所で、有能な人物が董卓を見限って袁家に降りて、その後で董卓が部下に殺された』みたいなコトになるのが一番なのよ。」

 

 

 賈駆達を利用する腹づもりだと、劉勲はあっさり認めた。嘘は嘘だと気付かれないからこそ意義がある。相手に隠し通せない嘘をつくのは素人のすることだ。

 仮にこの状況で「みんなが平和に暮らせる世の中を作りたいから、洛陽で困っている人達を見捨てておけなかったんです」等という涙溢れるセリフを言っても、それを信じるほど賈駆は単純ではない。逆に劉勲への不信を募らせて、交渉の妨げになる可能性の方が高い。

 もっとも華雄が討ち取られ、張遼が捕えられ、呂布が敗れた上で、両脇を関羽と張飛といった一騎当千の武将で固めた人間に同じ言葉を言われれば、流石の賈駆も信じるしかないのだろうが。

 

 

 

「だ・か・ら、別に取って食おうってワケじゃないわよ。そこは安心して頂戴。……まぁ、お望みなら遠慮なく食べちゃうケド?」

 

「……」

 

 悪戯っぽくウィンクする劉勲とは対照的に、賈駆の表情からは何も伺い知ることはできない。しかしその脳裏では、慎重に劉勲の真意を推し量っていた。

 

(劉勲、いや袁術陣営の真の目的はこちらの戦力を削ぎ落し、覇権を握るような勢力の出現を防ぐことだと思う。)

 

 自国の力を高める方法は、何も富国強兵を成功させることに限らない。他国を疲弊させることでも自国の力を高められるのだ。

 賈駆とて伊達に董卓軍筆頭軍師をやっている訳ではない。常に他の諸侯の動きには警戒し、それなりの情報網も持っている。彼女が調べたところ、袁術陣営は黄巾党の乱の被害が大きく、本来ならば中立で漁夫の利を狙うのが望ましいと考えられる。にもかかわらず、董卓軍に接触したとなれば、別の利があるからに他ならない。

 

 

「ボク達に、連合軍と潰し合いをさせるつもり?」

 

「ぶっちゃけると、そんなトコかな。アナタ達がハデに負ければ、張譲だって無事ではいられないでしょうし。お互いの利害は一致しているはずよ。」

 

(確かに、ボク達の軍が負ければ、同時にボク達に寄生している張譲の力も弱まる。そうなれば、月を助ける機会も自然と増える……)

 

 かつて護ると誓った少女。護り切れなかった少女。後悔と自責の念に苛まれながら、屍のように毎日を過ごす賈駆は、そこに一筋の希望を見出す。

 

 

「……それで本当に、捕まった月を助けだす事ができるの?」

 

「ええ、もちろんよ。『信用』していいわ。取引が成立している限り、アタシに破る理由は無いしね。」

 

 不敵に笑いながら、劉勲は断言した。

 

「つまり、取引が失敗しそうになったら、さっさとボク達を切り捨てるってこと?」

 

「う~ん……取引ってお互いの『理解』と『協力』があって初めて成立するモノじゃない?そうならないように、アタシ達は全力を尽くすつもりだし、アナタ達も同じだと信じてるわよ。」

 

 劉勲は猫なで声でささやきながら近づき、背後から賈駆の肩に手を回した。劉勲が付けている植物系香水の甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。

 

(やっぱり、この女は『信頼』できない。でも、だからこそボクは『信用』できる……)

 

 人間は基本的に信頼できる人間には自然と気を許し、信頼できない相手は自然と警戒するもの。

 信じてないからこそ、相手の言葉の真偽をよく吟味できる。己の隙を知らず知らずの内に曝け出す愚を犯さない。だからこそ、後腐れなく人間関係をビジネスライクに割り切れる。もっとも恐ろしいのは「信頼していた相手に裏切られる」ことなのだ。

 ハッキリいって劉勲は信頼するに値しない人間であるし、劉勲自身もそう思われてる事は自覚しているだろう。しかし、だからこそ、あくまで合理的に、理性的に、純粋な利害の一致を求める。故に劉勲は『信用』できるのだ。

 

 

 

「……随分とヤクザな取引ね、劉子台。」

 

 その口調に皮肉を込め、賈駆は振り返って劉勲を見つめる。現状では、外部からの協力者が不可欠なのだ。それが例えどれだけ貪欲な相手であっても。

 

 もっとも劉勲とて全てがそう簡単に事が運ぶとは思っていないが、「とりあえず要求を出すだけ出しといて、半分でも通れば儲けもの」という手法は政治の世界では珍しい話でもない。言っといて損が無いなら、出来るだけ要求は伝えるべきなのだ。

 

「そりゃあ、こんな危険な事がそれなりの対価無しに動くワケないでしょ?ぶっちゃけ失敗すりゃ反逆者よ、反逆者。恐れ多くも皇帝陛下に弓を引いた大罪人、とかいって散々凌辱された後に、嬲り殺されて曝し首にでもなるんじゃなぁい?」

 

 軽く嫌味を言われたのに、劉勲は憤慨するどころか楽しそうに笑みを浮かべる。その余裕が賈駆を一層苛立たせると共に、どこか空寒いものを感じさせた。

 

 

「……まぁ、どの道アナタ達にとっては速いか遅いかの違いだけでしょうけど。」

 

 まるで、楽しみは最後まで取っておくものと言わんばかりの、悪戯っ子の様な無垢な笑顔。

 

「……どういう意味?」

 

 思わず賈駆の口を突いて出た、疑問の言葉。

 劉勲が、嘲るような口調で逆に尋ねる。

 

「アナタ、本当にわからないの?」

 

 賈駆の口が、真一文字に結ばれる。

 ――嫌な予感がする。

 

「それとも――」

 

 その先は、聞いてはならない。賈駆の第六感が警告していた。聞いたら、何か取り返しのつかない事になる。

 

 嫌だ。答えたくない。聞きたくない。

 

 しかし、時は既に遅く――

 

 

「――分かってて、敢えて分からないフリをしてるの?」

 

 

 ――容赦なく、賈駆に現実が突き付けられる。

 

 

「どっちなのかなぁ?可愛い『捨て駒』の軍師さん。」

 

 

「……あ……ぁ……」

 

 賈駆は膝から力が抜けていくのを感じた。希望を見せられた直後にそれを砕かれれば、絶望はより深いものとなる。絶望は焦りに、焦りは恐怖へと転じ、賈駆の精神を容赦なく蝕んでゆく。

 

 張譲にとっては、自分達も所詮は駒の一つに過ぎない。張譲が本当に権力を盤石にしてしまえば、自分達は用済みだ。いや、むしろ真実を知っている自分達を生かす理由が無い。口封じのために殺される可能性が高いことは少し考えれば分かることだ。。

 劉勲の言うとおり、遅かれ早かれ処分されるであろうことは、最初から知っていた。本当は分かっていた。だけど怖くて、恐ろしくて、考えたくなかった。目を背けたからといって、回避できるわけでもないのに。

 

「いやぁ、アタシ自身も無理強いするのは不本意だし、アナタの判断に任せるけどさ……」

 

 そう言って劉勲は踵を返す。これで話を終わらせるためでは無い。話を続けるために、敢えて話を終わらす素振りを見せるのだ。

 

「……あまり時間は無いと思うな。例え奇跡が起こって、運良く張譲が彼女を返してくれたとしてだよ?」

 

 去り際に、獲物に毒牙を突き刺す毒蛇の如く、しなやかな動きで再び賈駆に近づく。その耳元で、言葉という名の毒を相手に流し込む。

 

 

「――果たして『その彼女』は、アナタの知っている『董卓』のままなのかしら?」

 

 

「ッ!!」

 

 その言葉を聞くべきでは無かった。だが、賈駆文和は聞いてしまった。もはや、それ以前には戻れない。その姿に満足しつつ、劉勲は小さく囁く。

 

「良い返事を、期待してるわよ。」

 

 返事は無かった。そもそも聞こえていたかどうかすら怪しい。賈駆は金縛りにでもあったかのように呆然としていた。その姿が面白くてたまらない、といった様子で必死に笑いを堪えながら劉勲は闇の中に消えていった。

 

 

 

 劉勲が去った後も、賈駆はその場に立ち尽くしていた。劉勲から指摘されたのは、思いつく限り最悪の可能性。

 考えたくない。想像したくない。だが己の意思に反し、賈駆の聡明な頭の中では、あらゆる惨状が次々に浮かんでくる。普段は誇りに思っている己の頭脳が、この時ばかりは恨めしかった。

 

(急がなきゃ……早く月を助けないと、手遅れに……!)

 

 

 死が最大の恐怖だと思っている人間は多いが、時にはそれすら上回る生き地獄というものも存在する。長い歴史を誇る漢王朝はあらゆる文化を育んできた。そう、あらゆる(・ ・ ・ ・)文化を。陰湿な拷問、絶え間ない凌辱、肉体の限界ギリギリまで続けられる暴力。生と死の狭間をさまよう陰惨な文化が宮中にはあるのだ。

 

 だが、賈駆が恐れるものはそれだけでは無い。

 肉体だけでは無く、人の精神の崩壊。善良で、純粋な人間ほど精神的な破壊に弱いものだ。

 董卓はああ見えて、責任感が人一倍強い。平和を願う董卓の気持ちは本物であり、自分の幸せよりも民の生活を優先するような心優しい少女だ。それは幼馴染である賈駆が一番よく知っている。その董卓が、自分達の起こした騒ぎで民が苦しんでいると知ったらどう思うか。

 

 考えるまでも無い。元々内罰的な傾向のあった董卓のことだ。放っておけば、間違いなく自分を責めるだろう。にもかかわらず、囚われの彼女に出来る事は何も無い。「自分は何とか止めさせようとしている。自分は自分なりに努力しているんだ」という偽善に浸ることすら許されない。

 このままではいずれ、そう遠くないうちに董卓の心は壊れてしまうだろう。

 

 長らく宮中に捕えられていたため、董卓が外の状況を知っているかどうかは定かではないが、既に張譲の暴政は隠ぺいできる範囲を超えている。遅かれ早かれ、董卓の耳に入るのも時間の問題だろう。

 

 

(……どいつもこいつも、月の事を散々利用してッ!)

 

 賈駆の中では恐怖と絶望と共に、やり場のない怒りが燃え上っていた。結局は劉勲達も、自分や月を利用しようとしているだけだ。「無理強いはしない」「判断に任せる」と言いながらも、脅しをかけて、巧みに煽って誘導している。他者の想いを操り、その人生を弄んでいる。

 

 だが、自分はこのまま何も行動しないで、指をくわえているだけで満足なのか?命を懸けて護ると誓った親友が人生を狂わされ、絶望へと染まっていくのを座して見ている事しかできないのか?

 なにより――時間がない。急がなければ、全てを失うかもしれない。自分はまた、何も護れないのか?

 

(……そんなのは、嫌だ……絶対に!)

 

 既に心は決まっていた。ならば、何を迷う事がある?自分はただ、己の信じた道を進めばいい。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「――答えは、否よ。」

 

 賈駆は真っ直ぐに、劉勲の翠玉色の瞳を見据える。勇気を振り絞り、目の前の魔女と対峙する。

 

「……で?賈駆、アナタはこれからどうするの?自分の望みを言葉にしてみなさい。」

 

 劉勲の射るような鋭い視線が、正面から賈駆を貫く。これは、彼女からの挑戦だ。

 

「アナタにとって一番大切なモノは何?」

 

 賈駆にとって分かり切った質問。

 

「月に決まっている。ボクの大事な……幼馴染だ。」

 

「それは、アナタが全てを懸けてて護るに足るモノかしら?」

 

「……ええ。」

 

 全身全霊を懸けて、護ると誓った。その気持ちは嘘じゃない。例え世界の全てを敵に回そうとも、そこだけは譲れない。

 賈駆は拳を握りしめ、目の前に立つ女の瞳を見据える。己を暗き深淵へといざなう、魔女の声を聞く。

 

 

「もう一度聞くわ、アナタは今後どうしたいのかしら?」

 

 月明かりを背に、魔女が問う。蝋燭の炎が、その青白い顔を妖しく照らす。

 

 

「座してただ死を待つか、それとも――」

 

 

 誇りある死を誉とするのは武人のみ。されど、我が身は武人に非ず。

 

 

「――ここで、一世一代の大博打を打つか」

 

 

 ならば、例え魔女と契約してでも未来を、希望を、明日を掴み取る。それが――

 

 

「今一度、ここに問おう。賈文和、アナタはどちらを選ぶ?」

 

 

 ――賈文和の選んだ答えであり、誓いなのだから。

 

 

「……ボクは、絶対に月を助ける。」

 

 体を震わせながらも、賈駆はゆっくりと告げた。不思議と声だけは、落ち着いていた。改めてその答えを、償いを、覚悟を口にする。

 

 

「何があっても、月だけは救ってみせる――ずっと前から、そう決めたんだ」

 

 

 友を想う少女は、魔女が垣間見せた希望に、一縷の望みをかける。

 頭を下げて懇願する。――今ここに、契約は結ばれた。

 

「――話を、詳しく聞かせて欲しい。」

            




 劉勲さんは洛陽でも絶賛営業中です。

 書いた後に改めて読み返してみたら、無性に主人公殴りたくなってきた(笑)


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23話:暴虐の裏で

                          

「ああーーーっ!!」

 

「あん?」

 

 宮中に響き渡る幼い少女の声と、それに対する気だるげな返答。

 

「張遼!勤務中の飲酒は厳禁だと、あれほど申したですのにぃー!」

 

 少女特有の高い声をあげながら、つかつかと歩み寄る少女の名を陳宮といい、董卓軍の軍師の一人である。

 

「そんなん言われても、酒でも飲まんとやってられんわ……」

 

 小さくいらついた様子で答える、もう一人の飲んだくれている人物。彼女の名を張遼という。

 

「賈駆っちの言う事聞いて、せっかく都に来たっちゅうのになぁ。何をやらされるかと思えば、囚人を工事現場に連れて行ったり、年貢を払わん奴をとっ捕まえたり。……ったく、こんなん借金取りの用心棒しとんのと変わらんやろ!」

 

 張遼は吐き捨てるように言うと、持っていた杯を机に叩きつけた。杯に残っていた酒が周囲に飛び跳ね、無造作に置かれていた空の酒瓶が転がる。

 

「……別にねね達だって、好きでこんな仕事をしてるのでは無いのです。」

 

 陳宮が、囁く様な小さい声で呟く。

 

「でも恋どのはもっと……ずっと辛い筈なのです。だというのに文句ひとつ言わず、意にそわぬ任務をこなしておられるですのに――」

 

 陳宮が張遼に説教をしようとした、正にその時だった。

 

 

 

「――陳宮、何を騒いでいるの?」

 

 

 

「賈駆!それに華雄も……」

 

 部屋に入って来たのは賈駆と華雄だった。華雄はいつも通りの様子だが、賈駆の方は見るからに顔色は優れない。無理も無いだろう。洛陽に来てから、いろんな事があり過ぎた。

 

「……張遼も、鬱屈してるのは分かるけどヤケ酒はほどほどにしなさい。体に悪いわよ。それに、呂布ももうすぐ来る頃だと思う。彼女が着き次第、作戦会議を始めるわ。」

 

 張遼をたしなめると、賈駆は自分用の椅子に向かう。しかし足取りはおぼつかなく、彼女の体調がすぐれない事を表していた。

 

 

「賈駆、鬱屈しているのはむしろ………いや、なんでもない。気にしないでくれ。」

 

 むしろお前の方だろう、華雄はそう言いかけて、ハッとしたように口をつぐむ。陳宮と張遼もどこか居心地が悪そうに黙り込む。

 今回の件に関して、人一倍責任を感じている賈駆のことだ。そんなことを言えば逆効果になる。“こんなの月の苦しみに比べれば何でもない”、などと言って余計に自分を酷使するだろう。

 

 華雄達も何とかして支えようとはしているのだが、何せ華雄に張遼、そして呂布も生粋の武人だ。軍事ならともかく政治経済はさっぱり分からない。陳宮は陳宮で、経験の浅さから今一つ力になり切れていない。事実上、洛陽に来てから政治経済面の大部分は、賈駆がほぼ一人で支えていた。

 

 

 ややあって呂布が到着し、会議が始まった。

 

 

「陳留方面で予想される彼我の戦力差は9万対約30万。張遼将軍に華雄将軍、これで勝てると思う?」

 

「まず無理やな。西涼から連れてきた兵はまだしも、洛陽の官軍の質は低過ぎるわ。大方、平和に慣れきってふやけたんやろうな。」

 

 苦々しげに張遼が呻いた。実のところ、董卓軍の内情はかなり厳しいものがある。

 董卓たちが西涼から連れてきた兵士はせいぜい3万ほど。残りは皇帝の直属部隊と近衛兵が約2万に、洛陽警備部隊が1万ほど、その他の官軍が13万。

 しかも張遼の言うとおり、洛陽の官軍の殆どは地方の戦乱から離れた安全な生活に慣れ切っており、西涼で毎日のように異民族と戦ってきた彼女に言わせれば、将も兵も話にならない粗悪なレベルだった。

 

「それに陣地戦じゃウチらの力は発揮できん。それだけでも辛いっちゅうのに朝廷の奴らと来たら、指揮権にまで制限加えて……」

 

 西涼の兵士は精兵揃いとはいえ、基本的に騎兵や軽装歩兵が多く、野戦には強くとも陣地戦には不向きだ。更に張譲らは賈駆達が反旗を翻さないように指揮権に制限を加えており、全ての兵士を自由に扱えるわけでは無い。この辺りは孫家の潜在的脅威に対する、袁家の政治将校制度に通じるものがある。

 

「それに、南の『大谷関の警備』とやらにかなりの兵が割かれるんやろ?これで勝てる方がおかしいねん。」

 

 つい数日前、張譲は洛陽の南にある大谷関の警備の為に大量の官軍を移動させていた。もちろん、ガセネタに決まっている。

 裏で操る側の張譲にしてみれば、仮に反董卓連合軍に勝利したとしても、董卓軍が強大になり過ぎては、それはそれで困る。出来れば子飼いの部隊は温存しておき、純粋な董卓軍のみを反董卓連合と潰し合わせるのが望ましい。そのため『大谷関の警備』という名目でかなりの兵士が配置転換され、実際には洛陽に留まっていた。

 

 袁術軍の中央人民委員会では過大評価されていたが、当の賈駆たちにしてみればドツボにはまったも同然。兵力の大半を占める官軍は使い物にならず、西涼兵も慣れない陣地戦を強いられ、兵力も分散している上に、指揮権にまで制限が加えられているのだから。実質、どこぞの蜂蜜姫の軍隊と大概似たような状態である。

 

 

「……せめて、もう少し時間があればここまで状況は悪くならなかったのです。」

 

「愚痴を言っても始まらないわよ、陳宮。勝てないなら勝てないなりに、なんとかしないと……」

 

 そう言う賈駆も、内心では愚痴の一つや二つ言いたい気分だった。だが、状況がそれを許さない。

 

 

「どうするんや、このままやと本当に全員で捨て駒にされかねんで。」

 

「分かってるわよ……早く、何とかしなきゃいけない事ぐらい……。」

 

 歯切れ悪く答える賈駆。そんな彼女に対して張遼は少し悩んだ後、ここ最近疑問に思っていた事を口にする。

 

「なぁ、賈駆っち……本当は、とっくに何か策を打っておるんやろ?なら、話してくれれば力になるで。」

 

 張遼が身を乗り出して、賈駆を正面から見据える。張遼の言葉を聞いた華雄も興味深そうに、賈駆を見る。

 

「どういう事だ?まだ我らに伝えていない策でもあるのか?」

 

「い、いや別に……ボクはまだ……そんな、策なんて無いって。」

 

 賈駆はしどろもどろになって言い訳をするが、明らかに挙動が不審だ。賈駆の否定の言葉は、より一層張遼の言葉に信憑性を与えただけだった。

 

「隠さんでもええ。ここ数日、夜中に誰かと会って話てたんやろ?こっそり部屋を出ていくのを、夜の巡回中に何度か見たで。」

 

「ッ!……ボ、ボクはそんな事……して、ないよ……」

 

 最後の方は消えるような小さな声で、賈駆はモゴモゴと見え透いた嘘を繰り返す。

 

 本当の事を言う訳にはいかない。劉勲からは万が一に備えてギリギリまで内密にするよう念を押されており、それも契約事項に含まれている。そもそも劉勲の性格からして、監視ぐらいは付けているだろう。

 

 彼女の『同志達』の目と耳、そして腕は長くて、広い。流石に全ての監視対象を一挙手一投足まで監視している事はないだろうが、効率を完全に無視すれば不可能とは言い切れない。そしてこの、「もしかしたら、どこかで誰かが密告しているかもしれない」という疑念、疑心暗鬼こそが大事なのだ。

 人間は、存在が不確かであり危険なものについては一応「存在する」事にして対処する傾向があり、パノプティコン効果と呼ばれている。近代の刑務所監視システムにも使われた「抑止」の一つの手法だ。

 

 だが、監視など付けていなくとも、賈駆が打ち明けてしまう事は無かっただろう。

 

 

 信頼する仲間にすら、隠し事を続けなければならない。その葛藤が、仲間を裏切っているのでは、という罪悪感が彼女の胸を締め付ける。心の奥からこみあげる痛みに、賈駆の顔が苦しそうに歪む。

 

 

 ――ここで打ち明けたら、みんなを巻き込んでしまう――

 

 

 みんなには、出来れば笑って暮らして欲しい。

 

 

 ――底なし沼に引き摺りこまれるのは、一人でいい――

 

 

「……ごめん……」

 

 心配そうに自分を見つめる、みんなの視線が辛い。痛い。

 これは自分が引き起こした問題だから、ケリは自分で付けねばならない。

 

 だから――

 

 

「言え……ないんだ……」

 

 

 刹那、沈黙が降りた。気まずい空気が部屋を支配する。窓からのぞく洛陽の寂れた光景が、まるで彼女達の心の中を代弁しているようだった。

 

 

 やがて、それまで黙っていた呂布が悲しそうに口を開く。

 

「……恋達のこと、信じられない……?」

 

「そんな事ないわよ!馬鹿な事言わないで!みんな、みんなには……本当に、すごく感謝してる……!」

 

 思わず、賈駆は自分でも驚くような大声を出してしまう。

 違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。本当にみんなには感謝している、その事だけは勘違いして欲しくない。

 それは、賈駆文和の嘘偽ざる本心だった。

 

「ボクのせいでこんな事になって、みんなには迷惑かけたのに……!」

 

 賈駆がそこまで言った所で、呂布が首を横に振る。

 

「……詠は悪くない。……詠はすごく頑張ってる……」

 

「……だけど……」

 

 なおも引き下がろうとしない賈駆に、今度は華雄が語りかける。

 

「呂布の言う通りだ。それに――」

 

 賈駆の腕を掴み、ゆっくりと自分の方へ振り向かせる。逃げるようとする賈駆をおさえ、華雄は正面から彼女を受け止める。

 

 

「――私たちがいつ、迷惑だと言った?お前のことを責めた?」

 

 

「え……?」

 

 思わず、賈駆は華雄の目を見た。どこまでも優しくて、それでいて力強い目だった。

 

「私達は仲間だろう?今更なかった事にする、というのは認めんぞ。」

 

 

 どこか呆れたような華雄の声が、凍りついた心を暖かく溶かしてゆく。

 

 決して大きくも無い声なのに、その声は、他のどんな声よりも頼もしく聞こえて。

 

 不思議と安心できて――なぜだろう?心だけでなく、目頭までが熱くなっていく。

 

 泣かないと、大切な親友を守るために強くなろうと決めたはずなのに――どうして、この力強い声に甘えたくなってしまうのだろう?

 

 

「で……でも…っ!」

 

「それに我らは皆、好きで董卓様に従っている。嫌ならこの場には居ないさ。だろ?」

 

 華雄の問いかけに、残りの3人も次々に頷く。眼尻に涙を浮かべた賈駆を見る。

 

「当たり前や。月を助けるのがウチらの仕事やで。」

 

「……絶対に、助ける……」

 

「恋殿の言う通りですぞー!」

 

「みんな……」

 

 呆然としている賈駆に、3人が口々に決意をを露わにする。

 

「董卓様の事を案じているのは、お前だけじゃない。みんな同じなんだ。」

 

 そう言うと華雄は軽くぽん、と賈駆の肩を叩く。安心させるように、自信に満ちた笑みを浮かべる。

 

「まぁ、賈駆にもいろいろ事情があるんだろう。軍師は時として、情報を味方にも隠さなければならない場合もある。賈駆が言いたくないのなら、私も無理に聞こうとは思わない。」

 

「華雄……」

 

「ただ、賈駆が話てもいいと判断したら、その時にちゃんと話てくれ。」

 

 

 

 

 

「…………てか、華雄の場合は無理に聞いた所でどうせ分からんだけちゃうんか?」

 

「なっ……べ、別にそんな事は無い!」

 

「顔真っ赤にして言うても、説得力皆無やで?」

 

「顔が赤いのは、貴様も同じだろうが!そうだ、張遼、貴様も顔が赤いぞ!」

 

「そりゃまぁ、さっきまで酒飲んでたからな。」

 

 横から茶々をいれた張遼に、必死になって反論する華雄。そのまま言い争いを始めながらも、二人ともどこか楽しそうに笑顔を浮かべている。

 

「いや、そんな事はどうでもいい!張遼、貴様は遠まわしに私の事を脳筋だとでも言いたいのか?!」

 

「なんや?まだ気づいてなかったんか?」

 

「張遼、貴様ァアアッ!」

 

 華雄が掴みかかるも、張遼は華雄の攻撃をひらりとかわす。

 

「悔しいなら捕まえてみ!」

 

「待て!逃げるな、張遼!」

 

「逃げるなと言われて逃げないアホはこの世におらんで!」

 

 小学生の喧嘩みたいな安っぽいセリフを吐くと、張遼はあれだけ酒を飲んでいたにも関わらず、軽やかな足取りで逃走を開始する。

 

「神速の張遼の本気、見せてやるで!」

 

「いやいやいや!絶対に本気を見せる場所を間違えているだろ!?そして自分で自分の異名を言うとか、その年で恥ずかしくないのか貴様は!?」

 

「二人とも落ち着くのですー!」

 

「……セキト、今日の食べ物……」

 

 

 

 気づけば庭に出て、そのまま追いかけっこを始める華雄と張遼。それを止めようとして、いつの間にか自分も加わってしまう陳宮。一方でマイペースに、愛犬のセキトにエサをやる呂布。

 見れば既に日は落ちかけており、傾いた夕日が彼女達をあかね色に染めていく。

 

「あ……。これは、ボク達がここに来る前の……」

 

 賈駆は潤んだ瞳でその様子を見つめる。どこか懐かしさを感じる、その景色を。

 

 そう、目の前のこれは賈駆たちが洛陽に来る前、西涼にいた頃に何度も目にした景色。

 それは何でもない当たり前のはずの景色で、とても穏やかな――

 

 

 だけど今では手の届かない――優しく、暖かい、日だまりの記憶。

 

 

 ふと、涙がこぼれ落ちそうになり、つい目を逸らしてしまう。本当なら、いつまでも、何時までも見ていたかった。

 

 

 

 

 

 ――だが既に、舞台は開演してしまった――

 

 

 

 もう、あの頃には戻れない。なぜなら、賈駆にとって一番大切なモノが欠けているから。

 

 

「……月が、月だけが――ここにはいない。」

 

 

 本来ならそこに加わるはずの、心優しい少女がそこにはいなかった。

 

 

「……ボクは月を守ると決めたんだ。心にそう誓った。その気持ちに嘘は無い。だから――」

 

 

 自分が守りきれなかった少女。自分の読みが甘かったばかりに、彼女は厳重な警備のもと、宮中の奥に、一人で囚われている。

 

 

「――月を取り戻すまで、ボクはこの輪には入れない。」

 

 

 囚われの彼女はどんなに寂しいのだろう、どんなに苦しんでいるのだろう。それとも、元凶である自分の事を恨んでいるのだろうか?分からない。

 ただ、ハッキリしている事が一つ。そんな彼女を置いて、自分だけ幸せに浸るわけにはいかない。

 

 

「今のボクには、この輪の中に入る資格なんて無いんだ……」

 

 

 誰に言うでもなく賈駆は呟き、決意を固める。既に涙は枯れていた。

 

 

「ボクは……どんな事をしてでも月を助けてみせる。」

 

 

 弱気になってはいけない。例え悪魔に魂を売り渡そうとも、譲れないモノが自分にはある。

 

 

「だから……!」

 

 

 もう一度だけ、皆の方を見る。華雄、張遼、呂布、陳宮。全員、大事な仲間達だった。

 だから今、目の前にあるこの光景を焼きつけよう。ずっとずっと、忘れないように心に留めておこう。

 これから自分は、賈駆文和は――同じ世界に居ながら、違う世界に生きると決めたのだから。他の誰でもない、自分の意思でそう決めてしまったのだから。

 

 もうすぐ、時間だ。これから再び『彼女』に合わねばならない。

 

 夜が、来る。

 日は落ち、月が昇る。

 光は消え、闇が大地を覆う。

 

 夕暮れは短いからこそ、美しく映える。

 同じく幸せな時間も、名残惜しさを感じるが故に甘美な記憶と化す。

 

 どんな物も永遠ではいられない。何者も変わらずにはいられない。

 過ぎ去ってゆくからこそ――その一瞬が愛おしいのだ。

 

 

「みんな……ありがとう。」

 

 

 最後に一言、誰にも聞こえない小さな声でそう囁くと、賈駆の姿は3人の前から消えた。

 

 




 感想や誤字脱字、アドバイス等ございましたら、よろしくお願いします。


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24話:暗雲

 

 名門というのは、それだけで自然と各方面に顔が利く。官僚、宦官、地方豪族に商人など、あらゆる種類の人間から断片的な情報を集めることで、劉勲らは中華の動向を把握していた。

 逆にいうと、そうでもしなければ董卓軍と反董卓連合軍の双方の間を泳ぎ回るなど出来はしない。

 

「なんというか……よくもまぁ、この短期間でこれだけの情報を集めたものね……」

 

 洛陽の見取り図を覗き込みながら賈駆が嘆息する。

 地図には至るところに渡って、兵の種類と配置を表す駒が置いてある。陳留と氾水関の中間地点には連合軍を表す多数の駒が、氾水関と虎牢関には董卓軍を表す駒が置かれていた。

 また、洛陽にも張譲の息のかかった官軍が待機しており、それもしっかりと再現されていた。これら情報は袁術軍の抱える多数の密告者や、兵站を支える商人ネットワーク、袁家と繋がりのある豪族や官僚から得られたものだ。

 

 何も敵地にスパイが直接潜入し、情報を得るだけが諜報活動では無い。孫呉の周泰などはいわゆる「工作員」の代表だが、袁術陣営の諜報機関、国家保安委員会ではそういった直接的な情報入手を行う事は稀だった。

 基本的には「情報源となる人物を買収し、秘密裏に特定の組織に資金や資源を手配することによって情報網を作り上げ、多数の断片的な情報を収集・統計処理して分析する」という形をとっている。この手法では何より資金力と人海戦術がものを言う。

 

 反董卓連合に参加したはずの袁術――その配下である劉勲がこちらに接触してきたときから、賈駆もある程度の予想はしていた。しかし、こうやって詳細な戦力図を見せられると、改めて背筋に冷たいものが走る。しかし同時に、劉勲を始めとする袁術陣営の力に対して何とも言えない頼もしさを覚えてもいた。

 

 

 賈駆はあれから劉勲と共に、董卓を脱出させる為の下準備とその計画を立てていた。

 最終的な目標は、董卓とその主要な部下を南陽群に送り届けること。だが、その為にクリアしなければならない条件が2つあった。

 

 まずは、いかに囚われの董卓を救出するか。幸い、董卓が捕まっている場所は分かっている。なぜなら董卓は厳重に監視されており、とても隠し通せるようなものでは無かったからだ。見つからないような場所に隠す、というのも一つの手だが、その場合は秘匿維持のために警備兵の数がどうしても少数になってしまい、万が一バレた時に打つ手がない。

 故に張譲は、秘匿に関しては割り切る代わりに李儒に命じて警備を厳重にさせ、賈駆達が殴りこみをかけてきても対処できるようにしていた。

 

 そこで、劉勲と賈駆はもう一人のプレイヤーを投入することにした。粛清を生き残った反宦官勢力の筆頭格、司徒の王允である。漢王朝への忠誠心が篤く、皇帝を傀儡としての暴政に耐えかねた王允は、近々皇帝を奪還する計画を立てており、宮廷クーデターを起こす気でいた。これを利用しない手はない。クーデターに伴う警備の混乱の隙をついて、董卓を救出する。

 

 だが、その為には残るもう一つの条件をクリアしなければならない。仮に王允らのクーデターが成功し、董卓を救出できたとしてもそれは一時的なもの。洛陽周辺に駐屯している5万の官軍をどうにかしなければ、いずれ鎮圧されるのは目に見えていた。よって最低限、彼らを身動きの取れない状況に置く必要がある。

 

「……だから、ボク達が敢えて反董卓連合軍に敗北することで、洛陽から官軍を引き摺り出す、か」

 

 ハッキリ言って王允達によるクーデターは、董卓救出の確実性を増す為のおまけに過ぎない。正直な話、成功しようがしまいが洛陽から官軍を引き離してしまえば救出は可能だ。

 

 

 

「目的自体は理解できたけど、具体的にはどうするつもりなの?」

 

「そうね。まずは連合軍にさっさと氾水関を抜いてもらうわ。」

 

 そっけなく答える声がした。声の主、劉勲は場に不釣り合いなほど澄んだ、鈴の鳴るような声で話を続ける。

 

「今のところ氾水関には華雄、張遼率いる6万の兵が、虎牢関には呂布および陳宮率いる兵が3万人配置されている。この作戦では、張遼将軍に2万の兵士を率いて機動予備となってもらう。」

 

 劉勲は詳しく説明しながら、指で地図をつつく。

 

「氾水関に残る兵士は4万ほど。兵力差は絶望的。しかも残念ながら、張遼将軍の機動予備は氾水関の救援に間に(・ ・)合わない(・ ・ ・ ・)かもしれないわね。となれば、何としても虎牢関で食い止めるしかないわ。」

 

 劉勲の目が細まり、賈駆の瞳を覗き込む。

 

「氾水関が抜かれれば、張譲も洛陽の官軍を動かすしかないはずよ。」

 

 氾水関を連合に渡して、洛陽の官軍を引き摺り出す――それは賈駆達にとって大きな意味を持つ。

 董卓救出の肝はいかに厳重な警備を掻い潜って脱出させ、安全地帯まで届けるか、という2点に集約されている。

 現状では張譲が子飼いの官軍5万を洛陽に待機させているため、まずはこの軍を何とかして動かさねばならない。氾水関が奪われれば、後の無い張譲も官軍を虎牢関に動かさざるを得ないだろう。そうなれば洛陽の警備は自然と薄くなり、追手の数も減る。

 

 それに、あまり序番で董卓軍が粘り過ぎると反董卓連合そのものが解散しかねない。そうなれば、逆に董卓を救出できなくなってしまう。

 以上の点を踏まえれば、劉勲の提案は必要条件を満たしている。だが、そのためには――

 

 

「……それは、氾水関の防衛部隊を捨て駒にするという意味?」

 

 そう、劉勲の提案を満たす為には兵士の犠牲が無くてはならない。ただ単に氾水関を明け渡せば、それは張譲の疑惑の念を強めるだけで逆効果だ。疑われないようにするには、ある程度の犠牲が必要なのだ。

 

「確実に負けると分かってて、彼らを見殺しにするの?」

 

 賈駆は瞳に挑戦的な色を浮かべて、劉勲に問いかける。

 世の中には「敵には一切容赦しない」という人種は案外溢れているが、「味方にも一切容赦しない」人間は割と少ない。

 いくら官軍を引き摺り出すためとはいえ、友軍を捨て駒にするというのはやり過ぎ――というのが一般的な考えであり、賈駆とて例外では無かった。軍師として何度か外道な献策をした事はあったが、最初から味方の犠牲が前提という策は流石にしたことが無い。

 

 

 しかし劉勲に限らず、袁術軍では人的損害にはあまり執着しない傾向がある。袁術軍にとって大事なのは目標を達成できるかどうかなのだ。

 ただし、よく勘違いされる事だが、別に袁術軍は人命そのものを『絶対的』に軽視しているわけではない。単に人口の多い南陽群においては他の地域を治める諸侯に比べて、『相対的』に兵士一人当たりの価値が低いだけなのだ。

 逆にいうと、南陽群よりも多くの人口を持つ地域を治める諸侯が大勢いれば、あるいは南陽群の人口がもっと少なければ、恐らく袁術軍は人命消耗を抑制する軍事ドクトリンを採用しただろう。

 

 曹操や孫策らが人命消耗を嫌うのも、現実的な見方をすれば単純に人的資源が少ないだけの話。人が少なければそれだけ兵士一人に多くを依存するということ。ヒトやカネに余裕のない劉備や曹操、孫策らが組織を回していく為は、否応なく神経を尖らせて消耗を抑制せざるを得ないという考え方も出来る。

 

 

 

「うん?何か問題でも?」

 

 訝しげな表情で、逆に問い返す劉勲。とはいえ悪意のようなモノは感じられず、純粋に賈駆の質問の意図を図りかねている様子だった。

 

「……あんた、自分が言ったことに何の疑問もないの?」

 

「え~と、情報は特に間違ってないはずだし……氾水関が抜かれれば、いくら張譲だって政治的判断より軍事的妥当性を優先……」

 

「いや、そういう意味で言ったんじゃ……」

 

「む?」

 

「“む?”じゃないわよ!……っていうか首かしげたまま『何言ってんのコイツ?』みたいな目でボクを見ないでよ!それじゃボクが間違った事言っているような気になるじゃない!」

 

「?」

 

 頭に大量のハテナを浮かべながら、小さく首をかしげて見つめてくる劉勲に、賈駆は軽い眩暈すら覚えた。これが董卓や陳宮のような幼い少女ならまだ可愛げがあるものの、自分より年上と思わしき女性にそんな仕草をされても鬱陶しい。ていうか、正直イタイ。

 

 

「だから、ボク達につき従ってくれる兵を、無駄に死なせるようなマネはしたくないって言ってるのよ。」

 

「無駄じゃないわ、必要な犠牲よ。彼らの流した尊い血は、キチンとアタシ達に受け継がれる。」

 

 しれっと凄まじく白々しいセリフを吐く劉勲。胸に手を当て、さも悲痛な決意を誓った悲劇のヒロインの如く神妙な面持ちで言葉を続ける。

 

「アタシ達は、その悲しみを乗り越えて前に進まなければならない――彼らの死を無駄にしないためにも。」

 

「……それって手強い黒幕策士っぽく見せといて、案外物語の中盤辺りであっさり死ぬザコのセリフよね……」

 

 言っている事は綺麗なのに、この女が言うと途端に胡散臭く感じるのはなぜだろう?ある意味、一種の才能なのかもしれない。

 

「そう言う事言わないの!……まったく、これだから最近の若い子って苦手なのよ。どうしてこう、妙に冷めてるんでしょうねぇ?」

 

 ジト目で賈駆を睨みつける劉勲。

 そりゃ、いい年した大人に厨二臭ただようセリフを言われたら冷めるでしょ、と賈駆は内心でツッコミを入れるが口には出さない。

 一方で彼女の脳裏にはふと、もう一つの疑問が浮かんでいた。

 

「あの、……ちなみに劉勲って何歳なの?」

 

「アタシ?そうね、何歳ぐらいに見える?」

 

「……………………に、……20歳くらい……かな………?」

 

「なによ、“本当はもっと年上に見えるけど、正直に言うと面倒くさそうな気がするから適当にサバ読むか”みたいなぎこちない返事は!?」

 

「……えと、ゴメン……」

 

「待って!なんか余計悲しくなるから謝らないで!」

 

 劉勲は割と本気でショックを受けていた。日頃の態度や言動が大人びているせいか、昔から年上に見られる事が多い。いわゆる「クラスに一人はいた、ブレザー着崩して鏡で髪型を確認したりする、オトナっぽい娘」といった印象で、本人も実は密かに気にしていたりする。

 

 

「それはともかく、ボクに考えがあるんだけど。」

 

「……しかも軽く流されたし。まぁ、別にいいけど……」

 

 まだ不満そうに頬を膨らませる劉勲を敢えて無視して、賈駆は自分の考えを口にする。

 

 

「敢えて敵に有利な状況を作り出して、早めに投降するっていうのはどう?」

 

「同じことよ。ただでさえ連合は兵站を支えるのに苦労してるのに、大量に投降されても管理に困るだけ。」

 

 だが、劉勲は大して興味なさそうな様子で賈駆の提案を一蹴した。大軍にとって、兵站がいかに重要かは話すまでも無い。それが寄せ集めの30万規模の遠征軍ともなれば、捕虜を捕る余裕などありはしない。その上、誰が捕虜を監視し、その費用を負担するかで揉める事は間違いない。

 かといって逃がす訳にもいかないので、合理的に考えればその場で捕虜を切り捨てるのが最善手だ。

 

「仮に運よく解放されたとしても、そっからどうやって生きてくの?結局どっかで野たれ死ぬんじゃない?」

 

 張譲は「死守」命令を出していた。つまり董卓軍に戻れば、あるいは董卓軍の支配地で見つかれば、何らかの処罰は免れない。かといって元董卓軍兵士が別の諸侯の領地で仕事を得るのも困難だ。となれば、行きつく先は飢え死にか、良くて盗賊だろう。

 劉勲の意見はどれも正論であり、結果だけを見れば氾水関の守備兵が死ぬことには変わりは無い。そして董卓救出には必要な犠牲だ。何かを得るには、別の何かを捨てなければならない。

 

 

「言いたい事は理解できたけど……だけど、やっぱりボクには受け入れられない。確かに氾水関を捨て駒にすれば、洛陽の官軍は確実に動く。でも、だからといって最初っから諦めていい命なんてない。」

 

「ふ~ん。でもさぁ、具体的にはどうするワケ?せめて代案は出してもらわないと、アタシも色々と困るのよ。」

 

「……氾水関から出撃させて、敵が本格的な反撃に移る前に虎牢関まで退却させる。」

 

 偽装退却――それは戦場で最も難しいとされる行動の一つとされる。ほんの些細なきっかけで、偽の敗走が本当の敗走に繋がりかねないからだ。しかも敵に悟られないように、自然な敗走に見せかけなければならない。

 また、董卓軍の内で氾水関に配備されている部隊と連合軍では兵力に大きな開きがあり、高い練度・士気を持つ兵と、確かな状況判断能力・戦術眼をもつ指揮官、そして部隊間の統制のとれた連携の全てがなければ成功しない。

 

「呆れた……そんな策が成功すると、アナタ本気で思ってるワケ?」

 

「分かってるわよ。成功する保証はどこにもない。けど……」

 

 自分は甘いのかもしれない。この期に及んで怯えているだけなのかもしれない。

 だけど、端から人を犠牲にするような策を立てるようじゃ、みんなが平和に暮らせる世を作りたいと言った幼馴染に顔向けできない。だから――

 

「……せめて、最初から諦める事だけはしたくない。」

 

 劉勲に向けてきっぱりと、賈駆は言い切った。

 

「例え偽善と言われようと、少しでも助かる命があるのなら、ボクはその方法を選びたいんだ。」

 

 

 たっぷりと一分ほど、経過しただろうか。劉勲はしばしの間黙っていたが、やがて気の抜けたように脱力する。

 

「ハァ……分かったわよ。アナタの好きにすれば?」

 

 呆れかえった劉勲が投げやりに言うと、賈駆は少し意外そうな顔で返事をする。

 

「うん……じゃあボクはこれから、自分の部屋で作戦の詳細を考えるから。」

 

 すぐに思考を切り替えると、賈駆はそのまま部屋を出て行った。

 

 

 

 

 

 一人部屋に残された劉勲は、賈駆が立ち去っていた出口を見つめる。ぽつり、と劉勲の口から小さな声が漏れる。

 

「優しい子ね、あの子は……」

 

 劉勲の見たところ、賈駆は一見プライドも高く、他者に厳しいような印象を受ける。だが、そういった人間に限って案外責任感が強く、あらゆる心配事を一人で抱え込みがちだ。そして一度気を許した相手には、妙に義理堅い一面を見せることがある。

 賈駆は洛陽に来てから董卓の為に、あらゆる汚れ仕事に手を染めた。しかし、それも結局は華雄や張遼達に、これ以上迷惑をかけたくないという気持ちから出ている。賈駆の行動原理の根幹にあるものは「友の力になりたい」といった友情の類なのだ。

 

「けど、この世界で生きていくには……優し過ぎるのよ……」

 

 劉勲は考える。打算と計算、それにほんの少しの心配を加えて、思考を巡らせる。

 

 これからは、乱世が始まる。

 民衆の間では董卓さえ討てば平和が戻ると勘違いしている者もいるが、それは大きな間違いだ。既に漢王朝に力は残っていない。

 その事実は多くの諸侯の野心を書きたて、否応なく人々を巻き込んでゆく。血で血を洗う、終わりのない闘争へと。

 

 行きつく果てには多くの悲劇が待ち受けるだろう。

 永遠の愛を誓った恋人を死地へと追いやり、親の仇を無二の親友として扱う。忠誠を誓った主君の寝首を掻き、苦楽を共にした仲間と殺し合う。

 あらゆる手段をとって、めまぐるしく変化する乱世に適応できなければ、生きることすらおぼつかない。

 

 そうなった時に、果たして賈駆文和は自分を保てるのだろうか、と。

 

 

 




 個人的な意見ですが、基本的に「質」を重視する組織ってどうも貧乏な組織が多い印象があります。「人」も「金」も「資源」も無いから仕方なく、限りあるモノを有効活用せざるを得ない、みたいな。イスラエル軍あたりを見てるとそう感じます。

 逆にいえばソ連軍やアメリカ軍みたいな余裕のある組織は、そこまで資源をフル活用しなければならないほど厳しい状況では無いだけかと。

 超大国の人命軽視傾向も「貧乏人は一万円の損失に敏感に反応するが、億万長者はそこまで執着しない」という感じですかね?
 


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25話:戦火のいざない

 
 なんか無駄に引き延ばしてしまった気がするけど、やっと氾水関の戦いが始まります。
 


             

 漢王朝の首都でもある洛陽は黄河の中流にある支流の洛水と、黄河本流に挟まれた位置にある。大量消費地である大都市・洛陽を支えるためには、その二つの河川を利用した水運が不可欠であり、港がいくつも整備されていた。

 

 黄巾党の乱や董卓の専制によって以前より衰退したとはいえ、依然として港には多くの商品――食料や衣服、木材、香辛料、酒に奴隷、各種日用品など――が行き交い、それを扱う商人と客との間で駆け引きが行われている。

 その光景は夕暮れになっても衰えることなく、沈みゆく夕日が彼らを照らしている。船着き場でも依然として、あらゆる物資が船で大量に運びこまれていた。そう、実にあらゆる(・ ・ ・ ・)物資が。

 

 

 

 港からやや離れた位置には、腕を組んで歩いている一組の男女がいた。女の方は胸元と背中が大きく開いた煽情的な服装をしており、隣に立つ男に体をすり寄せるようにして、何かを囁いている。傍から見れば、これから一夜を共に過ごそうとする娼婦と客に見える事だろう。

 

「どうかしら?アタシ達の商品(・ ・)の感想はいかが?」

 

 劉勲は慣れた様子で相手に胸を押しつけ、わざとらしく薄い笑みを浮かべる。

 

「いやはや、実に申し分ない。これならば、私の雇い主(・ ・ ・)も喜ばれるでしょう。」

 

 話しかけられた男の方も、それに応じて苦笑しながら問いに答える。

 正直、この女は手際の良さは予想以上だった。これだけの商品(・ ・)があれば、自分の雇い主――王允――も喜ぶであろう。

 

「取引先との信頼関係を深めていくことは、アタシ達の商会(・ ・)にとっても望ましいことですわ。……それはそうと、そちらの人事異動(・ ・ ・ ・)の段取りは進んでいらっしゃるのかしら?」

 

 相変わらず微笑みを絶やさず、劉勲は相手の内面を探るように尋ねる。

 世間では董卓が完全に朝廷を乗っ取り、独裁を敷いていると見なされている。だが、それは反董卓連合側――特に袁紹軍――のプロパガンダであり、実際には董卓軍を操る張譲の宦官勢力と、司徒の王允を始めとする反宦官勢力の二つの勢力が、依然として水面下で争いを繰り広げていた。

 

 董卓軍を手に入れた事で、張譲の宦官勢力が一時優勢になったものの、反董卓連合軍が結成されたことで状況は変化した。連合に対抗するため、張譲はやむを得ず軍の大部分を洛陽から移動させた。用心深い張譲はそれでも5万の官軍を洛陽周辺に残していたが、もうすぐ動かさざるを得ないだろう。

 

 

 理由は董卓軍軍師の賈駆にある。彼女は囚われの董卓を救出する為、どうしても洛陽の官軍を動かす必要があった。そこで彼女は劉勲の助言を受け、敢えて反董卓連合軍に敗北することで自軍を虎牢関まで退却させる事を部下に命じていた。そうなれば、流石の張譲も重い腰を上げざるを得ない。

 

 虎牢関に兵力を集結させた両軍が争い、互いに疲弊した時こそ、王允ら反宦官勢力が人事異動(・ ・ ・ ・)――宮中クーデター――を起こす絶好のチャンスだ。

 

 

「……と、言いますと?」

 

「いえ、別に深い意味はありませんの。ただ、出来れば今後もそちらとは良き取引相手であり続けたいので。異動時に降格(・ ・)されて、あまり辺鄙な所に転勤(・ ・)されると少々困りますわ。」

 

「ご心配なく。御気遣いには感謝いたしますが、憂虞には及びません。私の雇い主(・ ・ ・)必ずや(・ ・ ・)出世(・ ・)なさるでしょう。近いうちに言葉だけではなく確固たる行為で、今の発言が嘘偽りで無い事を示しますよ。」

 

「そう言っていただけると心強いですわ。やはりそちらを取引先に選んで正解でした。」

 

 愉快げに、余裕を崩すことなく微笑む劉勲。可憐でありながら、その裏に毒と棘を隠し持った花のような妖艶な笑み。

 

 

「……ねぇ、せっかくですし、これから夜の洛陽でアタシとご一緒しませんこと?最近仕事で疲れてるし、たまにはこう、息抜きとかしたくなるの。」

 

「そういえば先ほどから一つ聞きたかったのですが、どうしてわざわざ娼婦のような格好を?いくら女性の商人や役人は数が少なく目立つとはいえ、他にも選択肢はあったでしょうに。」

 

「お気に召さない?……露出を多めにすれば喜んでいただける思っていましたのに。……と、いうのは半分冗談で、遅くまで港で男と会話してても不自然じゃない女は、娼婦ぐらいのものだと思っただけのことよ。」

 

「確かに、大抵の女性はこの時間には、家で食事の準備でもするのが普通ですね。……で、先ほどのお誘いなのですが、残念ながら私はこれから雇い主に報告する義務がありますので。」

 

「あら、つれない態度ね。仕事熱心なのは構いませんけど、休息と人づきあいも適度にしなさいな。仕事で体を酷使して病気にでもなったら元も子もないでしょう?」

 

「……覚えておきましょう。」

 

 

 

 相手は丁寧に一礼すると、足早に立ち去って行った。既に日は沈み、辺りも暗くなっている。街を照らすものといえば、宿屋や酒場からかすかに漏れる灯りと月の光のみ。

 

「あーあ、振られちゃった……なーんてね。」

 

 劉勲は一人で苦笑した状態で、のぼり始めた月に照らされる洛陽の街を見つめていた。これから自分達、いやこの中華で力のある者全ての生贄にされるであろう街を。

 張譲、賈駆、王允、袁紹、曹操、そしてこの自分。それぞれが、別々の思惑を持って目的の為に互いを利用する。

 

 だが、董卓の専制に伴う一連の騒動で、一番の被害者になるのは間違いなく洛陽に住む一般の民衆だろう。董卓軍を裏で操る宦官勢力に、彼らに対抗する反宦官勢力、そして反董卓連合。誰もが表向きは「国の為」という大義名分を掲げているが、国の中心であるはずの首都がその犠牲にされるというのはなんとも皮肉な事態だ。

 

 

「……さてと、役者も全員揃ったみたいだし。賈駆に準備が整った事を伝えたら、いよいよ開幕ね。そしたらアタシに出来る事は、せいぜい筋書き通りに進んでくれることを祈るだけかしら?」

 

 

 今回、劉勲ら袁術陣営の目的は終始一貫して変わっていない。中央人民委員会の決定は「孤立を避けつつ、国力を回復させ、突出した脅威の出現を防ぐ」こと。

 孤立を避けるべく「反董卓連合への参加」、国力の回復――とりわけ弱体化の著しい軍事力を回復させるべく「董卓軍の軍事力の確保」、突出した脅威の出現を防ぐべく「諸侯の勢力均衡」の3点のみ。

 

 「諸侯の勢力均衡」の為には、何としても最大勢力の董卓軍――を裏で操る張譲――の力を落とさねばならない。つまり官軍を含む董卓軍には反董卓連合軍に負けてもらう必要があり、董卓の救出も目指す賈駆と組むことでワザと董卓軍が敗北するよう仕向けた。

 

 連合軍に敗北すれば張譲は全兵力を前線に出さざるを得ず、洛陽の警備は薄くなり、董卓の救出は容易となる。勢力均衡の為に董卓軍に負けてもらいたい袁術陣営と、董卓救出のために、洛陽の官軍を引き摺り出す大義名分を欲する賈駆の利害が一致した形だ。

 

 

 そして董卓救出後は、董卓軍は袁術軍に編入される予定だ。反董卓連合軍は政治的な事情から「董卓が暴政を敷いていなかった」という事実を認める事はないだろう。それゆえ董卓を脱出させ、行方不明あるいは死亡扱いさせた後もそれを匿う勢力が必要になる。

 劉勲と賈駆の交渉の結果、袁術軍は呂布を始めとする董卓軍の軍事力を手に入れる代わりに、董卓を匿うリスクを受け入れる事が決定された。

 

 だが、董卓軍が反董卓連合との戦いで完全に壊滅してしまっては流石に困る。そこで頃合いを見計らって王允ら反宦官勢力によるクーデターを洛陽で発生させる。董卓軍及び官軍を混乱させた後、そのまま空中分解させるのだ。

 後は連合軍が虎牢関を抜く前に、ドサクサに紛れて董卓軍兵士を降伏させ、袁術軍に編入するなり何なりすればよい。

 

 

 最大勢力であった『董卓軍』は張譲、王允、そして西涼から来た本来の『董卓軍』の3つに分裂する。最後の勢力は袁術軍に編入され、残りの前二者も潰し合い、どちらが勝って皇帝を得たとしても突出した脅威には成り得ない。

 董卓は行方不明あるいは死亡扱いとなり、反董卓連合はどの諸侯も皇帝を得られないまま、「逆臣、董卓を討つ」という大義名分を無くしたために解散せざるを得ない。それは今回の董卓軍のように、突出した脅威の出現を防ぐことに繋がるのだ。

  

 

「……という訳で、アタシも自分の仕事はだいたい終わったし、暫くは好きにさせてもらうとしますか。それに……個人的に気になる事もあるし。」

 

 誰に聞かせるでも無くそう呟くと、劉勲の姿は夜の洛陽へと消えていった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 それから数日後、反董卓連合軍の陣。

 

 

 「おーっほっほっ!雄々しく、勇ましく、華麗に進軍ですわ!」

 

 

 洛陽で劉勲達がシリアスやってるとは露ほど知らず、袁紹は今日も絶好調だった。

 総大将である袁紹の号令の元、やっとのことで重い腰を上げた反董卓連合軍は洛陽に向けて順調に進軍し、氾水関に到着した。氾水関までは特に大きな戦いも無く、むしろ連合軍内部でのいさかいに気を使うような平和な日々が続いた。

 

 例を一つ挙げるならば、兵站を任された袁術軍が勝手に物資を着服したり横流をしてたのが、気まぐれでその辺をフラフラ出歩いてた北郷一刀にバレた、とか。おかげで隠蔽工作の為に劉備軍に多めに物資を供給(ワイロではない、出血大サービスだ)する羽目になり、しかもそのしわ寄せが孫策軍に行ってしまい、キレた孫策が袁術の天幕に殴りこもうとして袁術軍親衛隊相手にリアル三国無双したり。

 

 

 そんなこんなで、氾水関攻めでは本陣に袁紹軍、その後詰めに袁術軍が控え、第2陣は曹操軍と孫策軍(袁術軍の一部が監視&おこぼれ狙いで付いている)、馬騰軍と公孫賛軍は曹操の指示により、機動予備として両側面に配置されていた。

 そして肝心の先鋒は、劉備軍が務めることとなった。先陣は栄誉ある仕事であったが、もちろん危険も一番大きい。また、栄誉とは常に他者の嫉妬を買うもの。例え勝利したとしても、その後にいらぬ妬みを買う事は少なく無い。それはそれで面倒なのだ。

 

 袁紹としては、ただ厄介な仕事を弱小勢力の劉備軍に押しつけただけなのだが、曹操はこれをかなりの英断と判断していた。

 

 

 今回のような様々な利害が絡み合う連合軍では、どうしても「貧乏くじ」を誰かに押しつけねばならないが、押しつけられた方は当然不快だろう。どこかの諸侯に無理やり押しつけて後々禍根を残せば、戦後の外交上不利になることは否めない。

 その点で劉備軍は所詮一義勇軍であり、仮に劉備軍の不興を買おうと大した損失にはならない。

 

 また、先陣を押し付けた相手が勝利した場合は相対的に自身の名声が低下する。反董卓連合軍の中で単独で氾水関を抜ける可能性のある勢力は、袁紹、袁術、馬騰、公孫賛、曹操の5陣営。

 袁紹としては、先陣を務めたくはないものの、かといって先陣を務めた相手に名声を取られるのも気に食わない。

 見たところ劉備軍の兵力は一万にも満たず、まず氾水関を抜けることはないだろう。先陣は栄誉ある仕事だが、負ければ栄誉など得られない。

 

 

「面倒事は全て押しつけて、手柄も渡さない。そして負けても敵の力を削げる上に相手の情報も得られる、か。もし麗羽がここまで考えて劉備軍に先陣を押し付けていたとしたら、侮れないのだけど……」

 

 どうせその場の思いつきで決めただけだろう、同門の友人の事を思いながら曹操は小さく苦笑していた。あの幼馴染は昔から何も考えていないようで、妙に悪運が強い。適当にやったことが実は最良の選択だった、なんて事もよくあった。

 

「それはそうとして……いつまで待てばいいのかしらね?」

 

 現在、曹操がいる場所は連合軍の第2陣であり、約2万の兵が彼女につき従っている。

 その前には劉備軍が展開しており、先ほどから門に向けて挑発行動を繰り返していた。力押しで城を攻め落とせないならば、内部から裏切り工作でも仕掛けるか、開城交渉をするか、持久戦の3択がメジャーな手段である。

 とはいえ、劉備軍には董卓軍内部に内通者もいなければ、持久戦が出来るほどの時間も兵糧も無い。根気強く挑発行動を続けているも、氾水関に動きは見られない。

 

「一応、麗羽に頼んで攻城兵器を用意させてはいるんだけど……」

 

 正直なところ、曹操自身は正攻法で氾水関を落とすしかないと考えていた。

 攻城戦の特徴の一つは、不確定要素が少ないという点である。刻一刻と流動的に戦況が変化する野戦に比べ、攻城戦では戦況が硬直的であり、単純な兵力差が大きく影響する。よって戦いが始まる前から結果はほとんど見えており、今回に関しては反董卓連合軍の勝利は約束されていた。

 しかし、逆にいえば相手の裏をかきづらく、どんな名将であってもパターン化された攻撃を繰り返すだけの単調な戦闘に陥り易い。大きく負ける事も無いが、一定の損害は出てしまう。

 

 故に曹操は正攻法を前提に、攻城兵器を使って少しでも消耗を抑制しようと考えたのだが、何せ攻城兵器は金がかかる。反董卓連合軍の参加者の中で、十分な数の攻城兵器を揃えられるのは袁紹と袁術ぐらいしかいない。何だかんだで評価の低い袁家ではあるが、こういう時にはやはり『名門の力』のようなものを嫌でも思い知らされるのだった。

 

 

「……いつかは私も、攻城兵器を自前で用意できるようになりたいわね。いつまでも麗羽に頼るわけにもいかないし。」

 

 曹操が感慨深げに言って陣地に戻ろうとした、その時――

 

 

「――華琳様、氾水関から敵が出てきました!敵は『華』の旗を掲げています!」

 

 

 荀或が慌てて駆け込んでくる。。敵がわざわざ有利な場所を捨てて出て来たのだから、本来はもう少し喜ぶべきなのだが、荀或の顔にはそういった表情は見られない。どちらかといえば困惑と焦りの色が見えた。

 

「申し訳ございません!まさか、あんな安い挑発に乗せられるとは思わなかったのでまだ部隊の展開が……!」

 

「焦らなくていいわよ、桂花。敵がここに来るまで、まだ時間はあるわ。」

 

 珍しく慌てる荀或を、愛でるように見つめながら、曹操は口元に笑みを浮かべる。本当に、世の中何が起こるか分からないものだ。だからこそ、面白い。

 

「単調な戦いになると思っていたのだけど……おかげで退屈せずに済みそうね。」

 

 自分や荀或のように「理」で物事を考える人間は、往々にして相手も自分と同じように「理」で考えると思いがちだ。曹操自身も正直なところ、董卓軍が野戦に出てきたことに軽い驚きを覚えていた。

 だが、彼女のような優れた指揮官にとっては野戦こそが本懐。むしろ望むところだ。

 

「桂花、すぐに春蘭達に部隊を展開させるように伝えて。後は、念のため麗羽達にも伝令を送りなさい。」

 

「はっ!」

 

「……それから、馬騰軍と公孫賛軍にも出撃の要請を伝えて。“連合軍の勝敗は、貴公らにの双肩にかかっている。至急、準備を整えられよ”、と。」

 

「……かしこまりました、華琳様。」

 

 慣れた仕草で礼をすると、荀或は伝令に命令を飛ばすべく天幕を後にした。

 

 

「さっさと起きろ!急げ、敵襲だ!」

 

「嘘だろ!?城攻めになるってお偉方は言ってたぞ!?」

 

「知るかそんなもん!とりあえず武器持って整列しろ!」

 

 曹操が懸念した通り、連合軍の陣営では急な董卓軍の攻撃によって混乱が生じていた。まさか董卓軍が防御に有利な拠点を捨てて、野戦に出てくるとは誰も思っておらず、殆どの人間は油断しきっていた。

 

「おい、そこのお前!逃げずに戦え!それでも兵士か!?」

 

「い、いやだ!なんで家から離れて、こんなトコまで来て戦わなきゃならないんだ!もう故郷に帰りてぇ!」

 

「お願いだ、後生だから見逃してくれぇ!来月には子供が生まれるんだ!」

 

「戦場ではそう言うこと抜かすヤツから死ぬんだよ!死にたくなけりゃ、とっとと武器を持て!」

 

 結果的だけを見れば、華雄達は連合軍に奇襲をかけた形となっている。即座に臨戦態勢がとれたのは、劉備軍を除けば、曹操軍と隣にいる孫策軍、やや後方に控えている馬騰軍と公孫賛軍の4陣営だけであった。

 

 今のところ、先鋒を務める劉備軍が華雄軍を押し止めているが、それもいつまで持つか分からない。流石に数の差が絶望的であるため、連合軍が完敗する可能性は低いだろうが、放っておけば大損害を被る。

 

 

 しかし、この状況にあって曹操の表情は、どこか楽しげですらあった。

 

 ――ついに、始まる。

 

 ようやく実感できた。これは『戦争』だ。

 今まで宮中で外戚や宦官が行ってきた暗殺やクーデター、謀殺とは話が違う。既に漢王朝の権威は衰え、残る最大勢力の董卓を倒せば世の中は大きく動く。

 それは野心を刺激された、全ての諸侯を動かす原動力となるだろう。

 

 

 

「我は天道を歩む者――。」

 

 

 期待に胸を躍らせ、居並ぶ諸侯の陣を見渡す。

 見る者を魅了する瞳に覇気を宿らせ、柔らかに、そして不敵に笑う。

 

 

「天命は我にあり。さあ、英雄諸侯よ――」

 

 

 共に覇道を進む仲間に――

 

 まだ見ぬ好敵手に――

 

 この大地に生きる、全ての英雄に――

 

 

 覇王の口から、挑戦の言葉が紡がれる。

 

 

 

「――この戦乱の世で、共に舞おうではないか!」

        

            

 




 昔の攻城兵器ってアホみたいに値が張ったそうです。その割には不便でかさばるわ、威力は微妙だわで、攻城側の攻撃力が籠城側の防御力を上回るようになったのは16世紀あたりに大砲が改良されるまで待たないといけません。
 もっとも、すぐにヴォ―バン式要塞が出てきたり、それから200年ぐらい後には機関銃が発明されたりするので、攻城戦では常に多数の資金と人命が消費されたそうです。
 貧乏な劉備軍や曹操軍にとっては、出来ればあまりやりたくない戦でしょうね。
 


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26話:開戦

「行くぞ、全員続けぇ!」

 

 

 

「「「うおおおおおぉぉぉッ!」」」

 

 

 夏侯惇の号令と共に、曹操軍は華雄軍に対して攻撃を開始。夏侯惇自らが最前線で剣を振い、彼らの士気はいやおうにも高まる。

 

「いいか、ここが正念場だぞ!絶対に隊列を崩すな!」

 

 続いて、敵に臆することなく突撃を続ける自軍に、夏侯淵が声を張り上げる。

 曹操軍を代表する猛将二人に率いられた曹操軍は魚鱗の陣で、劉備軍と対峙する華雄軍に斜めから突っ込んでゆく。曹操軍から見て反対側では、孫策軍も概ね似たような行動をとっていた。

 現在、劉備軍は自軍を上回る数の華雄軍に対して善戦しているが、それも時間の問題だ。華雄相手に関羽が一騎打ちを挑むことで、『華雄』を止めることには成功したものの、『華雄軍』には押され気味であり、劉備軍兵士は消耗を余儀なくされていた。

 

 曹操はこれを支援するべく、華雄軍の側面に自軍を突撃させた。曹操軍は劉備軍との連携行動を想定しておらず、直接的な支援は無用な混乱を引き起こす可能性が高い。

 そこで、華雄軍の側面を突くことにより、華雄軍の勢いを抑えて間接的に支援することとなった。

 

 

 もっとも曹操は、この時点では劉備軍にそこまで期待している訳では無く、この作戦はむしろ劉備軍の敗走に備えたものと言える。劉備軍が突破された場合、正面から敵を迎え撃つと、こちらに向かって敗走する劉備軍が自軍の邪魔になる上、勢いに乗った華雄軍の衝撃力をもろに受けるからだ。

 

 また曹操は華雄軍が、側面に展開された部隊に対応できない事も見抜いていた。

 情報伝達技術の進んでいないこの時代、軍隊は一度作戦を決めると、後はその通りに機械的に動くことしかできない。戦闘中に作戦を変更しようとすれば、兵士が混乱して隊列や連携が乱れる恐れがある。例え側面から攻撃を受けているのが分かっていても、軍の崩壊を防ぐためには当初の行動を続けるしかないのだ。

 更に劉備軍を突破したとしても、華雄軍の行く先には無傷の袁紹軍7万が待ち構えている。戦況は曹操の目論見通り、連合優位に傾いていった。

 

 

 

「右翼、苦戦中!このままでは我が軍は分断されてしまいます!」」

 

「左翼も孫策軍と思しき軍勢の猛攻を受けており、これ以上持ちこたえられません!」

 

 

「くそッ!やはり、ここまでなのか……!?」

 

 

 戦力差からして当然と言えば当然だが、状況は華雄軍にとって不利になりつつあった。事実上の奇襲に成功した華雄軍にとっての不幸は、前線に配置されていたのが劉備軍に曹操軍、孫策軍という極めて即応展開能力のある軍だったことだろう。

 

「……董卓様を救出する為に耐えていたとはいえ、せめて私の勇名に対する侮辱を振り払うまではっ!」

 

 それでも華雄は一騎打ちを止めようとはせず、再び戦斧を振り上げて関羽に襲いかかる。「命を惜しむな、名を惜しめ」というのはこの時代の武人にとっては別段珍しくも無い概念だ。華雄もまたそうあらんとするも、状況がそれを許さない。

 ただの寄せ集めの義勇軍だと思っていた劉備軍が予想外に粘り、華雄軍が勢いを失った所への曹操、孫策軍の反撃。董卓軍の中でも西涼出身の兵は未だに奮戦していたが、官軍の兵には動揺が広がっていた。所々で脱走兵や命令不服従者が出始め、戦列は崩壊の危機に達していたのだ。

 

 そして――

 

 

「華雄将軍!退却の合図です!」 

 

 汜水関の方から、退却を告げる銅鑼の音が鳴り響く。振り返ると、汜水関の城壁の上では数人の兵士が退却を示す旗を振っており、門からは退却を支援するために張遼隊2万が出てくるのが見えた。

 

 

「華雄、もうええやろ!撤退や!」

 

 張遼は、一騎打ちを続ける華雄に向かって声を張り上げた。

 

「早よ逃げんと間に合わん!勝負はこれで仕舞いや!」

 

「くっ……まだだ!まだ勝負は終わっていない!」

 

「もう遅いわ!今は誇りや敵の撃破より、味方の退却を優先せい!」

 

張遼の騎馬隊が襲撃をかけた事により、曹操軍と孫策軍には一時的な動揺が広がっている。だが、それもいつまで持つか分からない。曹操軍と孫策軍の錬度の高さは、張遼隊の突撃を見事に耐えている事から、華雄でも十分に理解できた。退却するなら今しかない。

 

「仕方ないか……。華雄隊はこれより退却を開始する!みんな、遅れるなよ!」

 

 華雄は苦々しげに退却の号令をかける。

 心残りはあるが、張遼の指摘に間違いはない。そもそも董卓軍の目的は、洛陽の官軍を引き摺りだす為に、偽装退却を成功させることである。そのために華雄も自身への侮辱に耐えていたのだ。ここで我を通した挙句、本来の策を台無しにしては元も子もない。

 

 

「ふぅ……ようやく華雄の猪も退却を始めたか。」

 

 そう言って、張遼はホッと一息吐く。賈駆からは氾水関を放棄し、虎牢関まで退却せよとの指示が内密に出されている。

 

「ウチらの役目は華雄隊が引き揚げるまでの時間稼ぎや!曹操軍と孫策軍さえ止めればコッチのもんやで!」

 

 張遼からの指示を受けて、董卓軍騎兵部隊が攻撃を仕掛ける。ここで張遼隊がどれだけ敵を追い払えるかによって、この退却戦の結果は大きく変わる。

 現在、約4万の華雄軍の正面には消耗した1万足らずの劉備軍が、両側面には魚鱗の陣を敷いた曹操軍2万と孫策軍1万が展開している。氾水関から出てきた張遼は約2万の部隊を二手に分けて正面突撃を敢行。劉備軍は無視して目標を曹操軍と孫策軍に絞り込む。これは劉備軍が既に華雄隊の攻撃によって大きく消耗しており、追撃の危険は少ないと判断されたためである。

 

「敵さんの横っ腹をウチらに晒してる――遠慮はせんでええ!残らず喰い尽すんや!」

 

 張遼の号令を受け、素早く反応した兵士達が一斉に襲い掛かった。

 曹操、孫策軍は華雄隊の側面に攻撃しているが、汜水関から出てきた張遼軍に対しては側面を晒してしまっている。張遼はこれを利用して作戦を立てた。

 

 まず、曹操軍と孫策軍がこちらを迎え撃つ体制を整える前に素早く騎兵が突撃して、敵の陣形を乱す。そして敵に混乱を引き起こさせ、追撃の手を緩めさせている間に華雄軍を後退させる。

 もっとも、曹操軍と孫策軍の方も馬鹿では無い。敵襲に対処するべく、陣形を変えるなり、一旦後退するなりして体勢を立て直すはず。ただし両軍とも、再び反撃に出るまでにはタイムラグが存在するため、その隙に張遼隊も虎牢関に逃げ込むというものだ。

 

 

「報告します!現在、華雄隊の約半数が離脱に成功した模様です!」

 

「そうか。……で、反対側の方はどうなっとるん?」

 

 ちなみに張遼自身は二手に分かれた部隊の内、曹操軍への攻撃を担当する部隊にいる。間に退却する華雄軍がいるため、反対側で孫策軍と戦っている部隊の様子は伝令の報告でしか知る事が出来ない。

 

「今のところ我が軍が押しており、敵の攻撃は低調なものになっています。とはいえ、敵は未だに統制がとれており、執拗に抵抗を続けております。」

 

 曹操軍と孫策軍の兵士は、急な敵騎兵部隊の側面攻撃に防御が間に合わず、予想以上の被害を受けていた。しかし、流石と言うべきか、側面攻撃を受けたにもかかわらず依然として兵士は統制を保っており、崩すのは容易では無い。もっとも張遼とてそこまでの戦果は求めておらず、部下には無理をしないように伝えてあった。

 

 

「よっしゃ!このまま行けば連合の連中も、体勢を立て直す為に一旦引くはずや!敵が後退したらウチらも虎牢関の方に――」

 

 張遼が言いかけたその時、反董卓連合軍の陣地の方から、大きな地響きの音が聞こえた。反射的に音のする方を向いた張遼の目に映ったのは、大量の土煙と地響きを立てて迫りくる馬騰軍の騎兵部隊だった。

 

 

 

 ◇◆◇ 

 

 

 

 汜水関では退却しようとする華雄・張遼軍と、それを逃がすまいとする曹操・孫策・劉備軍の戦闘が続いている。その様子は、曹操軍からの伝令と斥候の報告で全て把握できていた。張遼軍が出てきた事は少々意外だったが、作戦全体に支障をきたすほどでは無い。

 

「さぁて、お待ちかねの狩りの時間ね。」

 

 大地を震わせ、土煙を立てて、戦場へと前進する西涼の騎馬軍団。万を超える騎兵の先頭には、戦場に不釣り合いな笑みを浮かべながら、馬を駆る一人の女性がいた。その名を馬騰、字を寿成という。

 

「目標、前方の敵騎兵部隊っ!みんな、一気に切りこむわよー!」

 

 馬騰は、漢人の父と羌族の母の混血で、後漢の光武帝に仕えた名将の子孫でもある。彼女自身も、勇猛な西涼騎兵を率いるに相応しい能力と経歴の持ち主だ。皇室への忠誠心が厚い事でも知られ、異民族の血が混じっているにも拘らず多くの人の尊敬を受けていた。

 

「曹操ちゃんだっけ?連合軍の作戦参謀サマに直々に頼まれてるんだから、期待には応えなきゃねー。」

 

 太陽のように明るい笑顔で、馬騰はにっこりと部下達に笑いかける。すらりとのびた高い背に、しなやかで長い手足。既に一児の母であるが、三十路に達したとは思えぬ若々しさだ。

 

「急がないと逃げられるわよ!ほらほら、翠ちゃんも早くっ!」

 

「わかってるって!逃がしたりするもんか!」

 

 続いて、戦場に別の若い少女の声が響く。細身にも拘らず、重い槍を携えて馬を巧みに駆る少女の名を馬超、先に挙げた馬騰の娘である。

 

 

「馬超隊も母上に続けぇっ!いいか、気を抜くなよ!」

 

「「「はっ!」」」」

 

 馬超の掛け声に応え、西涼の騎兵部隊が一斉に後に続く。その様子を馬騰は目を細めながら、感心するように見つめていた。

 

 

「あらあら、翠ちゃんもキチンと周りに気配りできるようになったじゃない。うーん、ご褒美は蜂蜜菓子でいい?」

 

「ちょ、そういうのは恥ずかしいからやめてくれって!もう子供じゃないんだし……」

 

「あら、翠ちゃんはれっきとした私の子供よ?顔つきとか胸の大きさとか、若い頃の私にそっくり。」

 

 顔は良く分からないけど、胸の大きさは確かに同じぐらいだな……、などと母につられて場違いな事を考えてしまう馬超。常に元気一杯な上に結構子供っぽい面もあってか、娘の自分から見ても母は実年齢より若く見える。知らない人には年の離れた姉妹と間違われる事もしばしばだ。

 

 

「……ていうか母上、なんで蜂蜜菓子とか持ってんだ?どう考えても戦いには必要ないような……?」

 

「いやーそれがねー、一昨日あたりの会議の時に袁術ちゃんの部下やってる張勲が『ほんの粗品ですが』とか言って配ってくれたの。しっかし、これが中々おいしいのよねー。」

 

「へぇ~、袁術ってあんまりいい噂聞かないけど、意外と気前がいい奴なんだな。」

 

 お菓子に釣られる……というような年でもないのだが、美味しい食べ物ならもらって悪い気はしない。

 

「ちなみに袁術ちゃんトコ行けば普通に売ってるわよー。しかも戦時中は期間限定で、まとめて10個買うとオマケが1個付いてくるからお買い得♪」

 

 

 余談だが、袁術軍には実に多種多様な商人が一緒についている。彼らは兵士に食料や武器、炊事洗濯のみならず、賭博に娼婦などの娯楽供給、略奪品の売買などあらゆる商売を行っていた。

 他の軍にもこういった商人はいるにはいるのだが、規模と組織率では袁術軍には及ばない。袁術と繋がりの深い諸侯の中には、こっちの方が安上がりだからと、まるごと袁術軍に兵站業務をアウトソーシングしてしまう者もいた。

 

 袁術軍の方も積極的に従軍商人を組織化して物流・整備・兵站などの幅広い業務を委託し、後方支援の拡充・効率化を図っていた。おかげで人数が時折袁術軍と同等かそれ以上の大所帯になり、進軍速度は連合の中でも最低の部類に入る。

 もっとも、連合内部での担当は基本的に後方支援だけなので、現時点ではあまり問題にはならない。

 

 

「確かに袁術軍には最近、いろいろ世話になってるけどさ……あいつら、本当に一体何しに来たんだ?戦争しに来たってのに商売ばっかりやってて……やっぱり、あたしにはよく分からないな。」

 

 劉備軍などの弱小勢力、あるいは馬騰軍など自国から補給部隊を連れてくるのが困難な諸侯は連合の中で最大のマーケットを持つ袁術軍から物資を調達することで、足りない物資を補っていた。

 とはいえ、基本的に兵站業務のような後方支援は裏方であり、その役割は軽視され易い。馬超のような反応を示す武将も決して少なくは無かった。

 

「うふふ、世の中にはまだまだ翠ちゃんの知らない世界があるのよ。」

 

 まだまだ娘が学ぶべきことは多いみたいだ。馬騰は含みのある笑顔を一瞬だけ浮かべると、再び戦場へ意識を集中させる。

 

「それじゃ、今日も頑張って一仕事終わらせるわよ!みんな、しっかりね!」

   

          




 今回の話では馬騰さんを平均より若めに設定しましたが、当時の結婚は現代人から見れば相当早かったそうですね。15とかで嫁に行くのは当たり前、20までには子供の一人ぐらいは出来ているのが普通とか。まぁ、一般人の平均寿命が30かそこらだし。

 日本だと武田信玄あたりが13歳ぐらいの嫁を孕ませてしまい、出産で死なせちゃった話が有名ですね。
 お巡りさん、コイツです!……現代人が言ってもお門違いなのかも知れませんが、流石にもうちょっと待てよ、って気がしないでもありません。
            


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27話:土と地の嵐の中で

「こんのおおぉぉぉッ!」

 

 長い栗色の髪を風になびかせ、自身に向けられる敵兵の攻撃を上手にかわしながら、馬超は鋭い槍捌きで敵を薙ぎ払う。単騎で張遼軍の戦列を切り裂き、彼女によって切り開かれた穴に向かって、部下がなだれ込んで穴を広げていく。

 戦況は逆転し、張遼軍は今や自分達が狩人から獲物へと変わった事を悟った。

 

 

 

「なっ……んなアホな!」

 

 張遼も新手の敵騎兵部隊の出現に血相を変えていた。馬騰軍は約3万の兵力を保有しており、その殆どが騎兵で占められている。しかも異民族討伐などの実戦経験が豊富であり、その錬度は董卓軍にも劣らない。

 となれば後は単純な兵力差がものを言う。その上タイミングも最悪だ。おかげで張遼隊が本来果たす予定だった、遅滞防御が全く機能しなくなっている。

 馬騰軍は数の優位を生かして大きく回りこもうとしており、このままでは完全に包囲されてしまう。

 

 

 もちろん、張遼とて何の手を打たなかった訳では無い――と言いたい所だが、彼女の手元に残された余剰戦力はあまりに少なかった。友軍の華雄軍を呼び戻そうにも、華雄軍が一度撤退を始めた以上、彼らが再び部隊を再編成するのは容易では無い。

 

 逃げ惑う兵士をどうにかして留め、部隊ごとに集合させ、兵力・武器の状態・兵士のコンディション・指揮系統を確認し、作戦を考え、下士官に命令を理解させ、兵を再び配置につける。

 一度敗走した軍が再び戦場に戻るにはこれだけ煩雑な手順が必要となり、どう考えても間に合わない。

 

(前線から戦力を抽出しようにも、下手に引き抜けば前線で混乱が……)

 

 彼女の配下の兵は大半が曹操・孫策と戦闘中であり、戦闘中における兵の配置転換や陣形の変更、戦力抽出などは無用な混乱を引き起こす可能性があった。

 特に、後退戦の最中に一部の兵士を前線から引き抜けば、残された兵士がどう思うか。

 

 

 ――もっともらしい事を言って、兵を捨て駒に自分だけ助かろうとする指揮官など、珍しくも何ともない。

 

 

 仮にそんな愚行を犯したが最後、兵士達はいつになく臨機応変(・ ・ ・ ・)に対応し、トップダウン組織の典型である軍隊ですら民主主義(・ ・ ・ ・)的に退却せざるを得ないだろう。

 

 

 そして曹操や孫策といった名将がこのチャンスを逃すわけがない。即座に張遼軍の戦列が薄くなった部分を突いてくるだろう。そもそも、現時点で張遼軍が辛うじて戦列を維持している事自体が奇跡に近いのだ。

 

 

 

「くッ!」

 

 何もできない現状に、思わず張遼は舌打ちする。土煙に霞む彼女の視界の隅には、戦場を埋め尽くさんばかりの騎兵が、次々に死体を乗り越えて迫ってくるのが見えた。

 

「敵将とその護衛と思われる部隊が敵本隊から分離!真っ直ぐこちらに突っ込んできます!数は2000騎以上っ!」

 

「ここで揚動……!やることが回りくどいっちゅうのっ!」

 

 数だけじゃなく、質も高い――口から漏れる愚痴と共に、張遼は改めてその事実を確認する。

 

 馬騰軍の目的は明白だ。馬騰とその親衛隊が張遼軍に殴りこみをかけることで、張遼軍主力を一時的に引きつけ、包囲のために迂回する友軍を援護すること。

 そのまま突撃すれば戦列を突破することも可能なのだが、自軍の被害を気にしているのだろうか。張遼の見たところ、馬騰はより安全な包囲を選択したようだった。

 ならば――

 

「分離した連中には構うな!それは前線部隊とウチで対処する!敵主力をおさえろて、包囲されるのだけは何としても阻止するんや!」

 

 張遼の号令と共に、今まで彼女の周辺にいた護衛部隊が移動を開始する。

 これが、張遼の出せる最後の予備部隊だった。もはや本陣の防衛などと贅沢は言っていられない。使える戦力は全て使うしかないのだ。

 

「先頭の敵に攻撃を集中するんや!先頭が止まれば、後ろも動けん!」

 

 自軍の前線部隊に向かって張遼が叫ぶ。

 とはいえ、張遼軍の大部分を占める騎兵は歩兵と違って図体の大きさから、密集隊形をとることはできない。つまり、現実的に張遼の命令を遂行することは不可能だ。

 

 それでも張遼は兵士を鼓舞し続けた。己の言葉がいかに空しいものかは理解できていたが、浮足立った兵士が逃げ出さないようにするには、少しでも「勝てる」という希望を見せるしかない。

 

「みんな、頼むで!あと少しの辛抱やから!」

 

 部下に嘘をついているという事実に自己嫌悪を覚えながらも、張遼が兵士を鼓舞するのをやめる事はなかった。

 

 しかし、現実というのは非情なものだ。馬騰軍の猛攻が止む気配は一向に無い。なお悪い事に、ここに来て曹操軍と孫策軍までもが体勢を立て直し始めた。

 張遼軍の戦列では次々と兵士が倒れていき、その死体を乗り越えるようにして別の兵士が戦闘に参加する。味方の悲鳴と絶叫ばかりが、張遼の耳に途切れることなく届いていた。

 

 ――その時だった。

 

 

 

「張遼ぉーッ!無事かーっ!?」

 

 

 大きな叫び声と共に、華雄が一部の歩兵を連れてやってくるのが見えた。

 

「張遼、そっちの状況はどうなっている!?」

 

「華雄!?何で戻ってきたんや!命令を忘れたんか!」

 

 張遼はやや強い口調で華雄に迫る。救援に来てくれた事が全然嬉しくないかと言えば嘘になるが、それでも指揮官として見過ごすわけにはいかない。

 

 しかし、次に華雄の口から出た言葉は――張遼の想像を遥かに超えたものだった。

 

 

「分かっている!……だが、敵の別動隊が接近しているんだ!」

 

「なんやって!?」

 

 華雄の報告に、張遼は思わず息を飲んだ。見れば連合軍の方向から、新たに別の集団が土煙を巻き上げて迫っていた。その集団の先頭は全て白馬の騎兵で統一されており、「公」の旗を掲げている。世に名高い、公孫賛の白馬義従である。

 

「あちゃー、今度は公孫賛とこの白馬義従かいな……全て白馬とか趣味に走り過ぎやろ……」

 

 趣味云々は置いておくとして、白馬のみで構成された白馬義従は精鋭の弓騎兵であり、その実力は中華でもトップクラスに入る。公孫賛軍も馬騰軍ほどの規模ではないが、優秀な騎兵を持つ精兵として認知されていた。中華でも1,2を争う両軍騎兵部隊の出現は、瞬く間に董卓軍兵士の間に動揺を広げていく。

 

 

「一体どれだけの数がいるんや!?ったく、連合の兵力は底無しかいな!?」

 

 退却したいのは山々だが、戦闘中に敵に背を向ければ確実に軍が崩壊する。華雄隊が秩序を保って比較的スムーズに「退却」できたのも、張遼隊が敵を足止めていたからこそ。

 この状況で張遼が軍を下がらせれば、それは秩序ある「退却」ではなく無秩序な「潰走」になってしまう。無秩序な「潰走」となれば、多くの兵が討ち取られることは明白だった。

 

 

「どうする、張遼!?時間が無いぞ!」

 

「……っ!」

 

 思い通りにいかない現状に、張遼は思わず唇を噛む。

 しかし連合軍の兵士はその数を減らすどころか、ますます増えてきている。これでは張遼隊がどんなに善戦を続けていても、いずれ包囲殲滅されてしまうだろう。それどころか、一部の連合軍騎兵は華雄軍に追い付く勢いであり、このままではジリ貧だ。

 無理に全軍を守ろうとすれば全滅もあり得る。前線では被害ばかりが続出しており、もはや一刻の猶予も無い所まで来ていた。

 

「しゃあないか……張遼隊も後退するで!」

 

 最終的に張遼は――落伍兵が出ることと、足の遅い華雄軍兵士の一部が追撃を受けること、その2つを覚悟した上で――退却を決意する。

 例え無秩序な敗走でも、このまま包囲殲滅を待つよりかはまだ希望が持てる、そう考えた故の苦渋の決断だった。どの道このまま戦いを続けていても、脱走兵を止められず戦列に穴をあけてしまうだろう。

 

 虎牢関に向けて後退する張遼、華雄の両軍だったが、反董卓連合軍はそれを許すほど甘くは無かった。

 

 

 

 

「全軍、突撃用意!」

 

 

 公孫賛に仕える客将、趙雲は戦場の熱気に胸を高揚させながら、部下に命令を下す。

 

 

「世に名高い白馬義従、その力を示してやれッ!」

 

 

「「「了解!」」」

 

 

 万を超える馬の地響きを切り裂いて、趙雲と白馬義従の兵の声が戦場に響く。白馬で統一された彼らは、張遼軍に接近すると一斉に、馬上から矢を放った。

 次の瞬間、天から数多の矢が風を切って張遼軍に迫る。重力に引かれた矢は瞬く間に兵士達の体に吸い込まれ、大地を赤く染めてゆく。戦場で幾多の悲鳴と絶叫が連鎖する。

 

「なんや……あの大量の弓騎兵はッ!いつの間にあれだけの数を……ウチはそんなん聞いてないで!?」

 

 空から降り注ぐ無数の矢の雨に、張遼は愕然とした。彼女の知る限り、これだけ大量の弓騎兵を持つ軍は中華には存在しないはずだった。

 

 

 基本的に騎兵というのは非常に高度な特殊技能を要求される。不安定な馬上で戦うためには、武術と馬術の両方のスキルを持つ兵士が必要であり、乗り越えなければいけないハードルが非常に高い。訓練は厳しく、誰でも出来ると言う訳ではない上に、馬自体の維持コストも馬鹿にならない。

 馬の食料、管理、調教コストまで含めれば、騎兵一騎を維持するには、歩兵一人の10倍以上のコストがかかるとも言われている。それゆえ騎兵は数を揃えるのが非常に困難であり、有名な白馬義従も例外では無かった。

 

 だが公孫賛軍にはそういった常識を覆す、新技術が最近になってもたらされた。

 『鐙』である。鐙があれば武器を扱うために両手を離していても、馬上で踏ん張ることができる。安定性が増したことにより、敵に向かって突撃をかけることが可能になったばかりか、より多くの騎兵を、より素早く育成できるようになったのだ。

 

 この新技術は、劉備軍所属の『天の御遣い』からもたらされたものであった。そのかわり、公孫賛は劉備が兵を集めるための軍資金を提供することになったのだが、それでも鐙のもたらす軍事的優位を考えれば、悪くない取引のはず。公孫賛は増やしたくても増やせなかった騎兵の数を、大幅に拡大できたのだから。

 

 もっとも、いいことばかりでは無い。いくら鐙が開発されたとはいえ、騎兵になれるのは一部のエリートに限られ、またそれに対応する軍馬の訓練も必要だ。

 

 厳密に言うと公孫賛軍も、増員した騎兵の訓練が間に合っていない。仕方なく元からいた通常の騎兵部隊に、鐙を装備して弓を持たせ、弓騎兵としても辛うじて通用するようにしたというのが現状だ。まだ騎射に慣れていない兵も多く、劣悪な命中率を数で補っていた。

 その上、急な軍拡のせいで公孫賛の財政は火の車であり、今回の反董卓連合参加の理由の一つは恩賞金の獲得だったりする。

 

 

「私は北平太守の公孫賛だ!曹操軍に告ぐ!これより援護に入るが、撤収に時間はかかりそうか!?」

 

 公孫賛も趙雲に負けじと声を張り上げ、同士討ちを避けるために交戦中の曹操軍に警告する。だが曹操は戦果拡張を優先し、公孫賛の申し出を断った。

 

「貴殿の気遣いに感謝する!されど、こちらに構わず攻撃を続行されたし!本作戦の成功は、貴殿らの奮戦にかかっている!」

 

「そうか、わかった!では、幸運を祈っている!」

 

 公孫賛は軽く頷くと、そのまま白馬義従を率いて氾水関を通過中の張遼軍に襲いかかった。

 

 

「各員、射撃開始!――だが、無茶はするな!距離をしっかり保て!」

 

 公孫賛軍は機動力を生かしてカラコール戦術を繰り返す。張遼軍が反撃しようとすれば後退し、張遼軍が逃げようとすればそれを追う。数の優位を生かし、ゆっくりと、だが確実に張遼軍を疲弊させていく。

 

 

「ほんにもう……次から次へとっ!」

 

 真綿で首を絞めるような連合軍の攻撃に対し、たまらず張遼が叫んだ。早く逃げなければならないのに、敵は離脱を許してくれない。

 だが、それで諦めるほど張遼は達観した人間でもない。絶望的な状況の中、しぶとく巧みに騎兵を操って反撃する。

 

 公孫賛軍が大量の弓騎兵を前線に投入してきたということは、すなわち白兵戦をするつもりは無いという事。実際、張遼軍が突撃をかければ被害を出さないよう即座に後退している。

 とはいえ、馬は車と同じく急に止まれないし、馬の方向転換には人間以上の時間がかかる。高名な白馬義従いえども、やはり方向転換時の混乱は避けられず、張遼はその隙を突くことで辛うじて対抗していた。

 

「後退射撃!――最後まで気を抜くなよ!」

 

 だがその間も白馬義従は、趙雲と公孫賛の指揮の下、敵に矢の雨を降らせ続ける事を忘れない。しばらくは一進一退の攻防が続いていたものの、氾水関を抜けた辺りから張遼軍の動きに精彩が欠け始めていた。

 

「チッ……せめてウチにあと1万、あと1万の兵がいれば……っ!」

 

 

 余談だが、ランチェスターの第二法則というものがある。飛び道具は敵より数が多くてもあぶれることなく攻撃できるため、数の優位はそれ以上の戦力の優位をもたらす、との話だ。それゆえ数に勝る側は兵力を総動員して距離をとって戦うべし。

 

 公孫賛軍の戦術は基本に忠実に、自らの強みを可能な限り生かすものであった。もちろん張遼軍も優秀な騎兵部隊であり、弓騎兵もそれなりにはいたものの、敵に比べれば数の上で劣っている。

 よって時間が経てば経つほど被害が増大し、戦況は連合軍優位へと変化していった。反対側でも馬騰軍の猛攻によって張遼の別動隊や華雄軍の戦列には所どころ穴が開き始め、いつ崩されてもおかしくない状況に陥っていたのだ。

 

 

 

 同時刻、華雄軍は虎牢関の詳細まで視認できる位置に到達していた。虎牢関を目前にした華雄は最後の気力を振り絞るよう、部下を激励する。味方の拠点を目にした兵士の顔には僅かに、だが確かに希望の色が映り始めていた。

 

「みんな、喜べ!虎牢関までもうすぐだぞ!」

 

 とはいえ、このまま自分達だけが退却すればいいというものでもない。遅れて退却してくる張遼軍を支援するため、華雄は防御用の密集隊形をとることを命じた。

 防御に強い歩兵が盾となって張遼軍を護って敵騎兵の衝撃力を削ぐ。

 もうしばらく耐えれば、呂布、陳宮の守る虎牢関から増援が来るはず。

 

 以上の指示を簡潔に部下に伝えると、華雄はそれを知らせるべく張遼の方へ向かう。

 

 

「張遼、そちらの状況はどうだ?」

 

 

「かなりの兵が脱落してもうた……すまん。」

 

「流石は天下の馬騰、白馬義従といったところか。」

 

「せやな。……馬騰の姐さん、見逃してくれる気はなさそうやで。」

 

 見れば、馬騰軍は槍を構えて突撃の用意をしていた。

 董卓軍が限界に達したことは、馬騰軍の方でも読みとっていた。馬騰は最後の仕上げに取り掛かるべく、兵士に指示を伝えている。白馬義従の方も矢が切れたのか、武器を持ち変え始めていた。

 董卓軍に残された時間は少ない。ひとたび命令が下れば、敵は飢えた獣の如く獲物に飛びかかるだろうい。

 

 張遼の顔には疲れと、焦りの表情がにじみ出ていた。そんな同僚を案じてか、華雄は安心させるように言葉をかける。

 

 

「案ずるな。さっき防御陣形をとるよう部下に命じた。もはや虎牢関は目と鼻の先、増援や支援だってすぐに受けられるはずだ。最初の一撃さえ防げばすぐに撤退――」

 

 すぐに撤退できる――そう言いかけた瞬間、華雄の顔が蒼ざめた。

 その視線は、背後にいる自軍兵士に注がれている。

 

「華雄!?どないしたん!?」

 

 急に顔色を変えた同僚の様子を怪訝に思いながら、張遼も釣られて後ろを振り向く。華雄の視線の先には――虎牢関を目指して駆けだす、自軍兵士の姿があった。

 

 

「まずい!」

 

 声に焦燥感を滲ませ、華雄が叫んだ。考え得る限り最悪の事態――恐怖に駆られた兵の集団脱走が今、現実のものとなっている。

 

 時を同じくして、一斉に馬騰騎兵が突撃を開始。

 しかし、それに立ち向かうはずの董卓軍兵士はいなかった。理由は実に単純。目の前に友軍の拠点・虎牢関が存在することもあり、董卓軍兵士の大部分は戦うよりも安全な拠点に逃げ込む事を選択したからだ。

 

 兵士達に華雄の命令を無視させたもの。それは――死にたくないという、人間の最も基本的な生存本能だった。

 

 

「いかん!今すぐ逃げるんや!」

「やったぞ!絶対に逃がすな!」

 

 張遼と、公孫賛が同時に叫ぶ。逃げる董卓軍と、それを逃がすまいと追う連合軍。だが数と士気の差は隔絶しており、董卓軍は瞬く間に追いつかれてしまう。

 

「逃げろぉッ!皆殺しにされるぞっ!」

 

「くそっ!このままじゃ本当に全滅する!」

 

「邪魔だ、そこをどけぇええ!」

 

「……オレは生きるんだ……生きて必ず故郷に……!」

 

 もはや董卓軍は「軍」としての体をなしていなかった。そこにあるのは――恐怖に駆られ、恥も外聞もかなぐり捨て、死に物狂いで生き延びるようとする――人の「群」だった。

 

 脱走兵――それは古今東西、戦の歴史と共にある。あらゆる名将を泣かせ、その行動を縛ってきたのは「死にたくない」という人の基本的な欲求。

 どれほどの猛訓練を施そうと、人が生まれ持った生存本能は体に染みついて離れない。ゆえに脱走を防ごうとすれば常に兵士を監視し続けるか、兵士が死に物狂いで戦わざるを得ない状況へ追い込むか――この2択だけだ。

 

 ほんの一瞬、僅かでも隙を見せれば兵士は脱走を考える。数で劣り、かつ退却戦ともなれば、脱走を防ぐだけでも命懸けだ。下手をすると脱走兵の剣先は、それを止めようとする士官へ向く。

 ゆえに指揮官は決して兵士を信用してはならない。いつ何時も脱走、反乱、裏切り、命令不服従のリスクを考慮し、その上で行動せねばならないのだ。

 

 

 董卓軍指揮官・華雄は迂闊にも兵士から目を離してしまった。時間にすれば、ほんの数分しかないだろう。

 だが、その数分が命運を分けた。兵士達は自分達の置かれた状況を考え、判断を下した――逃げるなら、今しかないと。

 

 

 

「はッ!帝都を守る精兵とやらも、大したことないな!」

 

 西涼の狼――中華の民は馬騰とその軍をそう評したという。獲物を追いたてる餓狼の如く、馬騰軍は強く、しつこく、そして容赦が無かった。

 勝てる時に、敵は徹底的に叩いておかねばならぬ――西涼における異民族との終わりなき戦いで、彼らは敵からそう学んだ。ゆえに情けは無用、ただ殺戮あるのみ。それが、西涼兵にとっての“戦争”だった。

 

 しかしそんな彼らにしては意外な事に、敵の戦列を突破するような激しい突撃はまだ行われていない。その気になればいつでも董卓軍を分断できるにもかかわらず、敵味方が入り乱れたまま追撃を続けている。

 

 

「……ッ!退却しようにも敵との距離が近すぎるねん!このままやと――」

 

 次の瞬間、張遼隊は喉元に短刀を突き付けられたような感覚におそわれる。

 ――いや、現に突き付けられているのだ、自分達は。

 

(そうか……そういうことやったのか……!)

 

 今の今まで、紙一重で維持し続けられた戦線。その気になればいつでも潰せたにもかかわらず、なぜか遠隔戦や包囲に固執し、決定的な攻撃を行わなかった敵の行動。とてもそれどころでは無かったと言え、よくよく考えてみれば不自然だ。

 

 なぜ連合はそれほどまでに突破をためらう?

 その力があるのに、どうして虎牢関に到着するまでにこちらを殲滅しない?何の為にズルズルと、こんな所まで自分達を逃がしたのだ?

 

 その違和感のなんたるかを理解した時、彼女は自分達の命運が尽きた事も同時に理解した。 

 

 

 

「ちぃッ!狙いは最初からこれやったんか!」

 

 

 張遼が吐き捨てるように叫ぶ。

 

 そう、現時点では敵味方が乱戦状態に陥っており、虎牢関の守備隊による支援が(・ ・ ・)不可能だ(・ ・ ・ ・)。敵味方が入り混じっていては、陳宮の策も呂布の武も、その力を発揮できない。

 

 

「乱戦に持ち込んで味方の支援を封じ込めるつもりかいな!……まさか、一気に関所を二つも抜ける計画やったとは……!」

 

 

 曹操の考えた作戦の真の狙い――それは退却する敵と共に軍を移動させ、一気に虎牢関まで突破することだった。

 今回の反董卓連合軍では事情の異なる各諸侯が、様々な利害を調整した結果として結成された不安定なものであり、状況が変化すれば連合軍は容易に崩壊しうる。よって利害が一致している今の内に、早急にケリを付ける必要があり、それには何よりも時間が重要だ。

 

 

 攻城戦は基本的に長期戦になり易く、それを2回もやる余裕は連合軍にはない……とまでは言い切れずとも、できればそれは避けたい。

 

 では、どうすれば?

 地面に穴を掘るか、壁をよじ登るか、それとも門を突破するか。最も迅速に自軍を送りこむには門を突破するのが理想だが、防御側が門を開くパターンは2通りしかない。出撃する時か、退却する時だ。どんな名将が指揮しようと、この時は門を開けざるを得ない。

 

 

――ならば、門から出てきた敵を逃がさなければ良い。

 

 敵に喰らい付き、そのまま門までくぐり抜けよう。幸いにして連合軍には馬騰軍と公孫賛軍という、騎兵部隊を大量に持つ軍がいる。機動力に長けた彼らならば、追撃戦にはもってこいだろう。

 

 問題は、いかにして敵をおびき出すかという点であったが、図らずも劉備軍が成功させてまった。もっとも失敗したら失敗したで、曹操は目立つ攻城兵器などを囮にして、敵が城外に出なければならない状況を作る手筈であった。

 

 

 ――ちなみに反董卓連合は知る由も無かったが、そもそも賈駆は張譲から譲歩を引き出す為に、反董卓連合に汜水関を抜かせる予定だったため、いずれにせよ董卓軍が汜水関で籠城を続ける事は無かっただろうが。

 

 しかし賈駆(より正確には劉勲もだが)にとって最大の誤算は、曹操が虎牢関まで一気に抜ける計画を立てていた事であった。

 彼女達の作戦は「連合軍は洛陽を守る関を1つずつ落とす」ことが前提条件であり、今回の連合軍の行動は完全に想定外の事態だった。

 

 

「負け、か……完全に一杯くわされてもうたな。」

 

 張遼は洛陽で待っているであろう、友の姿を思い浮かべる。愛用の武器・飛龍偃月刀を構えながら、小さく懺悔の言葉を呟く。

 

 

「……すまん……月、賈駆っち……。」 

      

        




分かる人には分かると思いますが、今回の反董卓連合軍の作戦の元ネタは何回目かのイゼルローン戦のアレです。
 ……もし虎牢関の守備隊が劉勲あたりなら、味方がいようがお構いなしに門閉じてまとめて弓矢で始末できたんでしょうけどね。後書き書いている途中に思い出したんですが、序章でも主人公そんなことしてましたし。

 後すごく個人的な意見なのですが、弓騎兵とか騎馬鉄砲隊ってどこか過大評価されすぎている気がします。
 鉄砲や弓の長射程に機動力を組み合わせれば最強の兵が生まれる、とでもいうコンセプトなのでしょうが、基本的に馬と飛び道具は相性が悪く中途半端なものにしかならないと思います。人材・資金・時間・装備などのコストを考えれば、普通に弓・銃兵と騎兵に分けた方が効率良い気が……。
 「弓・銃兵より機動力があり、騎兵よりリーチが長い」ということは逆にいえば「騎兵より鈍く、弓・銃兵よりリーチが短い」ってわけですし。
 日本でも伊達の騎馬鉄砲隊なんかが知られていますが、有名な割には強かったとか活躍したという話はあまり聞かないです。まぁ、弓騎兵と騎馬鉄砲隊では違いが大き過ぎますけど……。

 後、董卓軍の敗因の一つに“脱走兵”がありました。当時の軍隊なんてのは職にあぶれた貧乏人の掃き溜めみたいなもので、指揮官が目を離せばすぐに脱走します。古代から近世まで兵士が基本的に密集隊形しかとれなかったというのは、散開するとみんなが一斉に逃げるからだとか。
 散兵が実戦レベルで運用できるのは、ナポレオン戦争で兵士の間に愛国心が高まるまで待たなければいけませんでした。もっとも、その愛国心溢れるフランス大陸軍ですらも平均して50%前後の徴兵忌避・脱走者を抱えていたそうですが。


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28話:それぞれの思惑

 張譲と『兵馬妖』に関してはアニメ版を基にしております。


    

 

「くそっ!あの役立たず共め!」

 

 洛陽の一室で、張譲は怒りに支配されていた。部屋に陳列していた絢爛豪華な調度品は無残に破壊され、壊した張本人は荒い息をしている。

 

 無理も無いだろう。

 先の戦闘で董卓軍は惨敗し、氾水関どころか虎牢関まで占領されてしまった。その上呂布、張遼、陳宮といった名立たる指揮官まで馬騰軍の捕虜にされる始末だ。

 

 張遼が機転を利かせて華雄に伝令の役目を与えたため、辛うじて華雄だけは無事だった。

 1人でも多くの兵士を逃がすには呂布の武力が必要であり、かといって前線を支えている張遼が抜ければ混乱が大きい。陳宮では万が一追手に追い付かれた場合に自分で自分の身を守ることが出来ない為、消去法で華雄が選ばれたのだ。

 まぁ、それはあくまで張遼の考えであって張譲としては“多少の犠牲を出しても、どうせなら呂布をよこせ”と言いたいところだ。おかげで子飼いの官軍が総出で出動する羽目になり、洛陽の守備はスカスカだ。

 

 

「それだけではない!……このままでは、あの道士の言っていた計画までもが台無しだ!」

 

 

 張譲には駒が3つあった。1つ目は董卓軍、2つ目は洛陽にいた官軍だ。この二つの軍は実質、張譲の支配下にあったが、あくまで事実上の支配であり、張譲固有の軍事力とは言い難い。董卓軍は董卓を人質に従えているだけであるし、官軍も金で買収するか、恐怖政治で無理矢理従わせているようなものだ。

 

 故に張譲は固有の軍事力を欲しており、干吉と名乗った道士の提案は渡りに船であった。干吉は人心を乱すことによって大量の妖力を集め、始皇帝の陵墓内に眠る『兵馬妖』を復活させることを進言した。

 

 

 『兵馬妖』とは、妖力によって動く泥人形の軍隊であり、疲れを知らず、衣食住などの補給もいらず、命令に絶対逆らわない、まさに理想の兵士だった。

 

 もちろん兵士の自立性が皆無であるという「弱点」は存在する。だが大抵の場合、兵士の自立性は「敵襲に対する臨機応変な対応」などといったプラスの効果よりも「脱走」「反乱」「命令無視」「略奪」「パニック」「戦意喪失」といったマイナスに働くことの方が多い。虎牢関の戦いで華雄軍の兵士が総崩れになった原因の一つも、この脱走兵だ。

 そういったリスクを省みれば、戦場で「扱いにくい精兵&高スペックで故障の多い武器」よりも「扱いやすい弱兵&低スペックだが確実に動く武器」が重宝されるのは当然と言えよう。

 

 

 張譲もその点に着目して、万が一の備えとして『兵馬妖』を使う予定でいた。しかし『兵馬妖』を動かすには、人心を乱して大量の妖力を蓄えなければならず、こうもあっさりと董卓軍が敗北してはそれも望めない。

 

「……だが、連合軍は無理な進軍で補給に支障をきたしているはず。ここは、官軍と董卓軍残党を使い潰す覚悟で連合軍を攻撃すれば……」

 

 実際、反董卓連合軍は急な進撃に補給が追い付かず、最前線では矢が不足したり、折れた刀や鎧の修理が出来ずに消耗している状態だった。その上、各軍の構成や錬度の違いから進撃速度に差が出て兵力は分散している。現在虎牢関にいる部隊は攻勢限界に達した馬騰、公孫賛、曹操、孫策軍の8万人ほどだった。

 

「……既に李儒の進言に従い、天子を連れて都を長安へ遷都する準備は整っている。長安には函谷関もあり、そう簡単には落とせまい。天子が手中にある以上、我らが再起するまでに必要なのは時間だけだ。」

 

 敗走した董卓軍を急いで再編成し、洛陽の官軍5万と合わせれば戦力差は縮まる。

 大軍を擁する袁紹や袁術あたりが虎牢関に到着してしまえば、どのみち董卓軍の敗北は確定してしまうだろう。反董卓連合軍に打撃を与え、連中の進撃を遅らすには今しかない――。

 

 そう考えて張譲が賈駆を呼び出そうとした、その時だった。

 

 

「い、一大事です!」

 

 

 董卓軍を裏切った文官の一人、李儒が、部屋に駆け込んできた。相当急いで走って来たのか、肩で息をしており、顔面は蒼白だ。

 

「敵襲です!洛陽に、敵が……!」

 

「馬鹿な!連合軍の補給線が持つはずが無い!」

 

「ち、違いますっ!敵の首謀者は司徒の王允、これは反乱です!」

 

「何……だと……?」

 

「王允を筆頭とした反乱軍は、陛下の兄君、弘農王・劉弁を確保した模様!再び少帝弁として擁立し、敵対する者を、全て逆賊として攻撃しています!」

 

 

「なっ……!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 洛陽を目前にした反董卓連合軍と、それを阻止すべく余力を振り絞って出動した董卓軍。天下を掛けて、2大勢力がまもなく衝突するかと思われた矢先、事件は起こった。

 

 全ての引き金となったのは、董卓を裏切り張譲についた軍師・李儒の言葉だった。

 

 

『――勅命により洛陽を放棄し、都を長安へ遷都する。異論は認めない。――』

 

 

 氾水関、虎牢関共に連合に占領された以上、彼らに残された道は玉砕か逃亡の2択。即座に李儒らは皇帝を連れて長安へ逃げる事を選択した。

 

 

 あまりに急な遷都の勅命。

 洛陽に住む多くの人間が混乱する中、この命を受けて、もっとも慌てふためいたのが、王允率いるクーデター派であった。

 

 王允――三公の一つ、司徒を務める漢の重臣――は本人の功績は勿論のこと、皇室に対する忠誠心が篤いことで多くの人々の尊敬を集めていた。。剛直を持って知られ、王佐の才を持つと評された人物である。

 当然ながら、そんな人間が皇帝を蔑ろにして専制を敷く宦官を快く思うはずが無い。政敵の手段を知り尽くしていた彼は、董卓の暴政の裏で張譲が暗躍している事を見抜いていた。

 

 

 ――この国は腐っている。ゆえに救わねばならない。そのために漢王朝は、存続されなければならない――

 

 

 この一連の事件を利用して宦官を一掃する。

 全ては健全な漢王朝を復興させる為。

 王允もまた、賈駆と同じように劉勲と取引をした。

 

 結局、直接会う機会は得られ無かったが、予想以上に劉勲は良い取引相手だった。物資の調達、資金援助、人材の派遣。それらによって王允は、力と漢王朝復興への道筋を。劉勲は、保障と保険とを得た。

 

 念のため潜在的な脅威を外側からだけでなく、内側からも崩す。王允の立てたクーデター計画は劉勲にとって、それこそ軽い保険のようなものだったのだろう。王允にしても、劉勲らにそこまで期待している訳ではなく、援助がないよりマシという程度の認識だった。

 

 

 ――だが、軽い気持ちで利用しあった両者の思惑とは逆に、事態は混迷の色を深めていく。

 

 しばらくは全てがうまくいっていた。途中、董卓軍が壊滅的な敗北を喫したという事実も、王允にとってはむしろ僥倖。張譲が連合に対応しようとすれば、それだけ洛陽の守備は薄くなるのだから。

 

 “もうすぐ計画は最終段階に入り、後は実行に移すだけ”――王允がそう思った矢先のことだった。

 李儒の口から今までの努力の全てを振り出しに戻してしまう言葉――遷都――が発せられたのは。

 

 一口にクーデターといっても、実行には綿密な調査、武力・資金源の確保、計画の秘匿など困難が多い。今回は袁術陣営からの協力が得られたからスムーズに進んだが、二度目のチャンスがある保障はどこにも無いのだ。

 故に王允は迅速に行動を起こす必要があった。

 

 張譲と李儒が天子を長安に連れていく前に。

 自分達を見限った袁術陣営から手を切られる前に。

 そして野心に燃えた反董卓連合の大軍が洛陽に到着する前に。

 

 早く、もっと速く。

 決行は可能な限り急ぐべし。

 事は可及的速やかに、為されなければならなかったのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 官軍が反董卓連合軍を迎え撃つべく洛陽から出て行ったその日の夜、洛陽で王允を筆頭とした反宦官勢力が一斉に蜂起。都に流入する難民に紛れて密かに集められた兵士達は、同じく大量に運び込まれた武器を手に各所で反乱を起こし、瞬く間に洛陽中に広がってゆく。

 

 兵営や官公庁が真っ先に狙われ、次々に占領されていった。宮殿はもとより、洛陽市内の門や名士の住宅までもが封鎖された。裁判所や商館は言うに及ばず、牢獄、寺社などにも大勢の兵士が殺到した。

 洛陽の民衆はこの喧騒の中でただ怯えるしか無く、一部の野次馬を除いて家に逃げ帰り、嵐が過ぎ去るのを祈るばかりであった。

 

 反乱は以前から綿密に準備されており、張譲達にとって完全な奇襲となっていた。だが、さすがに張譲の方も皇帝の身柄はしっかり確保しており、王允らは皇帝の保護に失敗。やむを得ず、王允らクーデター派はより確保の容易な皇帝の兄、弘農王・劉弁を確保して新皇帝を擁立する方向へと計画を変更した。

 

 そもそも現皇帝は董卓によって強引に擁立された皇帝であり、もとの退位させられた劉弁こそが真の皇帝である、との見方をする人間も少なくは無い。王允らが劉弁を皇帝として擁立すると、事態はますます混乱し、洛陽は一夜にして完全に無法地帯と化したのだった。

 

 

 更に李儒・王允が共に“こちらの天子こそが正当な皇帝である。恐れ多くも陛下に盾突いた逆賊は、一人残らず厳罰に処す”との旨を発表したため、目先が利く者から洛陽を脱出していく人間が後を絶たなかった。両勢力による報復の連鎖を恐れたのは勿論、反董卓連合軍のこともあったからだ。

 

 

 名目上は「悪政を敷く董卓から、洛陽市民と皇帝陛下を解放する」というのが反董卓連合軍の結成動機となっているが、内状はもっと複雑である。

 自国の安全保障の為、名を挙げる為、民の為、皇室への忠義の為。様々な思惑が重なっているのだが、その中の一つに「皇帝を確保して権勢を得る」というものもあった。

 

 董卓軍――裏で操っているのは張譲だが――はもちろんのこと、半ば火事場泥棒的に漢王朝の実権を握ろうとした王允にも、各諸侯が嫉妬するのは目に見えていた。王允の方にも言い分はあるだろうが、結果だけを見れば董卓軍が健在な時には保身を優先し、その力が弱まった所で、彼一人が一番おいしい所を掠め取った感は否めない。最悪、反董卓連合軍が洛陽を蹂躙することもありうる。

 

 故に、行動するならば、急がねばならない。嵐が目に見える頃には、既に打つ手が無くなっているのだから。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 そして賈駆もまた、打つ手が無くなる前に、予定が大幅に狂った事態を打開しようとしていた。

 

(なんでまた……こんなことに……っ!)

 

 現状は完全に八方塞がりだ。戦力としての董卓軍は大幅に弱体化し、もはや張譲は自分達に価値を認めていない。まとめて始末されるのも時間の問題だ。

 張遼も、呂布も、陳宮でさえも、もうここにはいない。華雄が辛うじて帰還できたものの、彼女と二人で出来る事などたかが知れている。

 

 そして今、最後に残ったもう一つの希望さえもが――

 

 

 

「劉勲!!」

 

 

 ノックもせずに乱暴に部屋の扉を開けると、中には荷物をまとめている劉勲とその部下がいた。いつもは丁寧に手入れされている劉勲の髪は乱れ、寝巻きの上にそのまま雑に外套を羽織っている。

 部屋の中に物はほとんど残っておらず、誰がどう見ても洛陽から逃げ出す準備をしているようにしか見えない――賈駆や董卓を見捨てて。

 

 

「あら、誰かと思えば賈駆じゃない。今日はいい天気ね、気分はどう?」

 

「気分はどう?、じゃないわよ!」

 

「はいはい、とりあえず落ち着いて。あんまりカリカリしてると、お肌に悪いわよ?まだ若いからって、肌荒れとかシミとかむくみとか嘗めてると、後々苦労するって言うじゃない?」

 

「余計なお世話よ!」

 

 分かり易くとぼける劉勲に、思わず大声を挙げてしまう賈駆。劉勲はそんな彼女を宥めながらも、腕は休みなく荷物をまとめる作業を続けている。

 

 

「劉勲……これから一体どうするつもり?」

 

 部屋を出ようとする劉勲の退路を塞ぐように、賈駆は扉の前に立ちはだかる。

 逃がす訳にはいかない。ここで劉勲を逃がせば、口封じのため董卓と自分は確実に消される。

 

「うん?そりゃあ、見れば分かるでしょ。王允のバカが後先考えずに洛陽を戦場にしちゃうもんだから、巻き込まれないウチに安全なトコに行くつもり。」

 

「そうじゃなくて、契約を破棄にするつもりかって聞いてるのよ。月を助けるっていうボクとの約束、忘れた訳じゃないよね?」

 

「……ええ、ちゃんと覚えてるわよ。」

 

 はぁ、と呆れたように溜息をつき、心底迷惑そうな表情で劉勲は賈駆に視線を向けた。

 

「――ただし、こちらに協力の対価とし呂布を要求したはず。その呂布が捕虜になった以上、契約履行は不可能。反故も何も、契約そのものの前提条件が崩れたんだから、取引は中止よ。」

 

「で、でもっ!そっちの本当の目的はボク達と連合軍の争いを利用して、共倒れを狙うことでしょ!?」

 

 そう、今回の劉勲らの行動は、究極的には自領の安全が目的だ。「董卓軍の確保」も「連合への参加」も全ては「諸侯の勢力均衡」によって『安全保障』を実現するために他ならない。

 

「ボクだってその程度は解る!ボク達に氾水関の放棄を決意させた時点で、とっくに目的は半分以上果たされているはずよ!

 

 劉勲の最終的な目的がなんたるかは賈駆も見抜いていた。見抜いていたからこそ、賈駆は劉勲の提案に合意したのだ。お互い口には出さずとも、その事実は暗黙の了解として共有されていた――はず。

 

 

「……それは中々面白い(・ ・ ・)意見ね(・ ・ ・)。でも、今のところは所詮アナタの憶測(・ ・)に過ぎない。言っとくケド、アタシは自分からそんなコト一言も言っていないわよ?

 ……まぁ、アナタを信用させるために、若干思わせぶりな発言したり情報提供をしたのは認めるけどね。」

 

 あくまで劉勲はそれを匂わせただけ。ハッキリと明言もしていなければ、契約書に書いたわけでもない。直接的な証拠がない以上、それはあくまで賈駆の勘違い(・ ・ ・)に過ぎず、劉勲には何の責任も無い。であれば、劉勲は嘘を付いている事にはならない。

 世が世なら完全に悪徳商法で訴訟ものだが、現状で賈駆が頼れる人間は劉勲しかいない。怒りと悔しさ、己の力の無さに顔を歪ませ、必死に自分を押さえながら賈駆は声を上げた。

 

「ま、待って!まだ全員が捕えられた訳じゃない!華雄だっているし……自惚れる訳じゃないけど、ボクにだって利用価値は――」

 

 畳み掛ける賈駆を制止するように、腕を挙げた劉勲は面倒臭げに口を開く。

 

「そりゃアナタに価値がある事は認めるわよ?実際、アタシの予想以上に有能だったし。ただし――」

 

 そこで一旦咳払いをすると、劉勲は実に商人らしい結論を口にする。

 

 

「――董卓を匿い、反董卓連合軍全てを敵に回すような危険を冒してまで、アナタを得る価値は無い」

 

 

 状況が変わったのだ。賈駆達に協力する魅力はより薄れ、危険性はより増えたのだ、と。一方的にそう告げると、そのまま話は終わったとばかりに賈駆の横を通り抜けようとする。

 

 まずい、と思った賈駆はとっさに劉勲の細い腕を掴んだ。

 だが、そうした所で彼女を説得できるほど気の利いた言葉が見つかる訳でもない。とっさに口をついて出た言葉は、自分でも馬鹿馬鹿しくなるぐらい陳腐な八当たりにも近い言葉だった。

 

「……だから、少しでも状況が悪くなったら契約を一方的に破棄して、無様に古巣に逃げ帰るの?」

 

「挑発しても何も出ないわよ?つーか最初からアタシの言う通りに、氾水関を捨て駒にすりゃこんなコトにはならなかったワケだし。」

 

「……っ……!」

 

「身の程をわきまえず、何でもかんでも救おうとするから、しまいには手が足りなくなって大事なものさえ取りこぼすのよ。」

 

 

 ――人は海から一度に、自分の掌に収まる量の水しか掬えない。

 

 ――どれだけ努力して大量の砂を掴もうとも、そのほとんどは指の隙間から零れ落ちてゆく。

 

 「自分に何が出来るか」ではなく、「自分は何がしたいか」だけで行動すれば、必ずや取りこぼしが生じてしまう。

 

 

 

「それは……」

 

 賈駆はぐっと拳を握り締める。実際、劉勲の言う通りに氾水関を捨て駒にしていれば反董卓連合軍の並行追撃は防げたはずなのだ。しかし現実にはそうはならず結果的に、捨て駒にするよりも多くの損害を出してしまった。張遼も、呂布も、陳宮も、反董卓連合軍の先頭にいた馬騰軍に捕えられてしまった。

 

「だけど、あれは合意の上だった……。最終的には劉勲も納得したはずよ。」

 

「……まぁね。アタシとしては偽装退却が成功するなんてハナから思っちゃいなかったし。どうせ氾水関の守備隊は全滅するんだから、少しはアナタの好きにさせようと思っただけなんだけど――」

 

 そこで、劉勲は一度言葉を切った。基本的に八方美人に振舞っている彼女にしては珍しく、苦虫を噛み潰した様な表情。そこで始めて、賈駆は劉勲の様子がいつもとは違っている事に気づく。

 

 ――何か、おかしい。

 

 訝しむ賈駆の様子など気にした素振りすらも見せぬまま、思い出すのも腹立たしいと言わんばかりに――

 

 

「――またアイツ(・ ・ ・)にやられた。」

 

 

 その言葉を告げたその瞬間、賈駆は部屋の空気が震えたような錯覚を覚えた。

 部屋を焼き尽くすような激しい怒りと、それに劣らぬ凍り付いた怜悧な憎悪――そして、狂おしいまでの妬みと憧憬。

 今回の失敗とはまた別次元のモノに対する、剥き出しの感情。尋常ならざる激情が、劉勲を覆い尽くしている。

 そこでようやく、賈駆は先ほど感じた違和感の正体に気づく。

 

(あの劉勲が……自身を理性で抑えきれてない?……しかもこの感情……普通じゃない……)

 

 普段は飄々として掴みどころのない劉勲が、こうも露骨に感情を露わにしたのを見たのは初めてだった。賈駆にはその原因が何なのかは分からない。分かりたくも無い。が、その話題に安易に触れてはいけない、そんな雰囲気は十分に感じ取っていた。

 

 そのまま、数秒ほどたっただろうか。劉勲の体から徐々に威圧感が抜け、賈駆も圧迫感から解放される。

 

 

「ありゃりゃ、怖がらせちゃったかな?ゴメン、ゴメン。もうしないから許してよぉ」

 

 今度は一転して、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべる。困ったように頬に手を当てながら、明るく言葉をかけてくる様子は、あれだけ殺気を放っていた人間のものとは思えぬほどだ。

 だが、彼女は間違いなく同一人物だ。可愛らしく猫を被っていても、その本性はうかがい知れない。

 

 

「で、どこまで話したっけ?えっとぉ……確か偽装退却のトコだね。」

 

 偽装退却の失敗によって連合軍は虎牢関を落とすことに成功。それに伴い、張譲らは長安への遷都を決意したが、焦った王允らクーデター派が急きょ武装蜂起することで、現在の洛陽の状態はリアル世紀末だ。

 

「……ったく、まさかこのタイミングで蜂起するとはねぇ?流石のお姉さんもビックリよ。」

 

 正直、王允の武装蜂起は劉勲にとって寝耳に水だった。王允に直接会ったことはないが、クーデターを起こすにあたっての根回し、手際の良さから彼はもう少し理性的な判断をすると考えていた。

 部下から王允が蜂起したという報告を聞いても、劉勲はすぐには信じられず“これは王允の命令じゃなくて部下の独断のはずよ。もう一度連絡をとって。”とまで発言している。

 

 事実、理性的に考えれば王允の行動はいささか軽率にもとれる。仮に天子を確保し、張譲との争いに勝利したとしても、嫉妬に狂った連合軍が攻撃してくる可能性がある。確実性が低い上に犯すリスクに見合わない、というのが劉勲の意見であった。

 まぁ、およそ皇室への忠誠心など持ち合わせていないであろう劉勲と、それを生きる目的としてる王允の価値観が合わないのは当然と言えば当然なのだが。

 

 

「とはいえ、過ぎた事をいつまで悔やんでいても時間の無駄だし。アナタには悪いと思ってるけど、この一連の展開は予想外の事が多すぎて、正直アタシもどうにも出来ないのよ、ね?だから――」

 

 一切の邪気を感じさせず。

 あくまで笑顔で語りかける。

 

 

「――解ったら手を、離してくれないかなぁ?ちょっと痛いんだけど。」

 

 

 もうお前と、話すことは何も無い。さっさとここから出ていけ、と。

 上辺だけの謝罪をした上で、遠まわしにそう伝える劉勲。

 

 彼女自身、己の予想の範疇を超えた事態に苛立ち、焦っていた。加えて彼女の立場や責任を考えれば、賈駆の事情など思いやっている暇がないのもまた事実。

 

 そもそも賈駆が前に言ったとおり、董卓軍が大敗を喫した時点で、劉勲らは最重要目的であった「諸侯の勢力均衡」を既に達成している。「董卓軍の軍事力の確保」というもう一つの目的は果たせなかったものの、十分に許容範囲内だ。ベストではないが、ベターな状態。であれば、この時点で劉勲にとって賈駆の価値は大幅に低下しているのだ。

 

 

 

 だが賈駆としては、この場で逃がす訳にはいかない。劉勲に逃げられる訳にはいかないのだ。

 

(……仕方ない……こうなったら……!)

 

 劉勲の言葉を無視すると、彼女を無理やり自分の方へ向き直らせた。そして最後の切り札として残しておいた、決定的な言葉を告げる。

 

「……つまり、取引が立ち消えになった以上――」

 

 劉勲が腕を振りほどこうと抵抗しているが、それも敢えて無視する。恨みがましそうに睨んでくる彼女に怯むことなく、正面から向き合う。

 

 

「――ボクにも契約内容を順守する必要は無いんだよね?」

 

 

 瞬間、劉勲の動きが止まった。

 無表情だったが、その脳は目まぐるしく回転しているに違いない。先の言葉の裏に隠された意味を考えているのが、賈駆には手に取るように分かった。

 やがて、一つの結論に達したのか、劉勲の目がゆっくりと見開かれる。それと比例するように、彼女の顔から徐々に血の気が引いていく。

 

「賈駆、ひょっとしてアナタ……まさか……」

 

 辛うじて平静を装っているが、声の中に震えが混じっているのを賈駆は聞き逃さなかった。賈駆は安堵の息を漏らしそうになるのを堪え、青い顔をしている劉勲に顔を近づける。ここからが交渉だ。

 

 

「劉勲の想像通りで間違いないと思う。……ここでボク達を見捨てて逃げたら、連合軍にこの裏取引を告発するわ」

 

     




 ここに来て賈駆の逆襲。
 一方の劉勲さんはと言えば、肝心な時には相変わらずのクオリティー。


 おまけ:作者によるテキト―な現状まとめ

 劉勲「わざと汜水関で負けて董卓を助けよう!」賈駆「えいえいおー!」
              ↓
 曹操&馬騰&公孫賛「汜水関なんてケチな事言わずに虎牢関までgo!」
              ↓
 張譲「連合強すぎワロタ。」李儒「引越し先は長安、キミに決めた!」
              ↓
     王允「逃がさんぞ、ル○ーン!」
              ↓
  劉勲「洛陽オワタ……。今すぐ逃げ…転進する!」
              ↓
     賈駆「逃がさんぞ、○パーン!」←今ココ


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29話:揺るがぬ信念

    

 劉勲に泣き落としは通用しない。

 合理的な人間であればるほど、非合理的な行動を嫌うものだ。情に訴え、思考を放棄するようでは、彼女は自分の事を認めようともしないだろう。

 

 だから、賈駆は必死に頭を巡らせた。

 

(もうボクには後が無い……。全てを救えるほど、ボクの手は広くなかった……)

 

 汜水関での一件で、自分の無力さ、浅はかさを思い知らされた。劉勲の言うとおり、全てを救おうとすれば、必ずや何かを取りこぼす。彼女は間違っていなかった。

 

(ボクはこの期に及んで、まだ甘えていたんだ……。月に嫌われたくない、そんな自分の都合で皆を巻き込んで不幸にした。だから、もう……)

 

 もう、絶対に迷わない。

 全てを助けようなどと贅沢は言わない。

 

 願う奇跡は、ただ一つ。

 

 

 ――何を犠牲にしようと、董卓だけ(・ ・)は救ってみせる。

 

 

 その為ならば、手段は選ばない。

 否、選んでなどいられない。

 

 

 相手を出し抜け。

 身の回りにある全てを利用しろ。

 綺麗事を言っていられる時間はもう終わったのだ。

 

 

 状況に流され、嘆くばかりでは何を為す事も出来ぬ。

 

 

 ――意志を。

 

 ――行動を。

 

 

 今ここに示せ。さすれば道は開かれん。

 

 

 ならばこそ――

 

 

 

「……ここでボク達を見捨てて逃げたら、連合軍にこの裏取引を告発するわ」

 

 

 

「……そんなことが出来るとでも?」

 

「ええ……此処に来る前、華雄に全てを伝えたわ。この場でボクからの連絡が途絶えれば、華雄が代わりに連合に全てをバラす。」

 

「ッ!やってくれるじゃない……!」

 

 今度こそ、劉勲の顔から余裕が消え去る。

 

「自分の従妹が敵と内通していると知ったら、あの袁紹がどんな態度をとるか……想像はつくよね?」

 

 ぎぎ、と劉勲が歯を食いしばる音が聞こえたような気がした。掴んでいる彼女の腕を通して、賈駆に震えが伝わってくる。

 

 裏切り――その罪は多くの場合、実際の損失以上に、重い罪とされる。儒教思想では特に主君への忠誠を強調しているため、いかなる理由があろうと許されるものではない。

 特に反董卓連合の発起人である袁紹は、自分の従妹が裏で董卓軍と通じていた、等という事が世間に知られれば面目丸潰れだ。従妹だからと言って庇う事はなく、むしろ身内の恥を濯ごうと一層強い処罰を求める可能性すらある。孫策あたりもこれ幸いと反旗を翻すだろう。

 

 袁術軍が許されるとしたら、「これは一部の人間の暴走であり、上層部は何も知らなかった」とトカゲの尻尾切りをするぐらいしか方法は残されていない。

 しかしその場合、劉勲自身はかなりの確率で生贄とされるだろう。

 

 

 どれほどの時間が経っただろうか。一秒が一時間にも感じられたその間、劉勲は身じろぎ一つしなかった。ややあって――

 

 

「へぇ……アナタ、ひょっとして――」

 

 劉勲が挑発的に口角を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべる。

 

「――このアタシを脅す気なの?後で……必ず後悔するわよ。」

 

 白い歯の覘く劉勲の唇が、不敵に歪む。翠色の瞳が細められ、凶暴な光を放った。

 

「……それが、何だっていうの?()、月を助けなきゃ、ボク達に()なんて無い。」

 

 過去と現在の積み重ねが、未来を規定する。

 ゆえに現在が失われれば、未来もまた失われるしかない。

 

「ツケなら後で、いくらでも払ってやるわよ。それで現在、月の()が救えるのならボクは構わない。」

 

「例えそれが、アナタの大事な『月ちゃん』の意思に背くことになっても?そうだと言い切れる?」

 

「……前に言ったはずよ。月を守る為に必要な事なら――ボクは何だってやってやる。」

 

 睨み合う、二人の女性。片や己の信念の為に、片や己の野心の為に。剣や槍で討ち合うような派手さはないが、ここにあるのもまた一つの戦場。戦いの最中に気を抜けば、一瞬で身を滅ぼす。

 

 

 

 再び、部屋を静寂が支配する。長い沈黙の後、最初に折れたのは劉勲の方だった。

 

「……少しだけ、アナタの事を勘違いしてたみたいね。でも…………ぷっ……」

 

 彼女はもう抵抗しなかった。それどころか一瞬吹き出したかと思うと、こえらえきれずに身をよじって笑い出す。

 

「うふ、うふふっ……あははっ、あははははははは――」

 

 遠まわしなジョークを、ワンテンポ遅れて理解したように腹を抱えて笑い転げる。

 

「……何よ、急に笑い出したりして」

 

「ちょっ、ちょっと待って……ふふっ……。はぁー、ふぅ……アナタ、ちょっと面白すぎだよぉ」

 

「……面白すぎて悪かったわね。」

 

 憮然とする賈駆。正直、何が面白いのかさっぱり分からない。

 

「いや、だって……ねぇ?アナタがさっき言ったコトって、まんま借金地獄に陥る多重債務者のセリフだもの。……あは、あはははっ」

 

 そんな賈駆とは対照的に、劉勲はまだ笑いが収まらないのか、微かに体を震わせながら肩で息をしている。

 

「なのにアナタときたら、大真面目に “ツケなら後で、いくらでも払ってやるわよ” とかナントカ言うもんだから、可笑しくって、つい。」

 

「ちょっ!……って、勝手に人の口マネしないでよ。こっちが恥ずかしくなるじゃない……」

 

「ふふっ、ゴメンゴメン。これもアタシの性分なのよ。……でも、でもね――」

 

 二人の視線が絡み合う。苦笑しながら軽くウェーブした髪をかきあげると、劉勲は溜息交じりに口を開く。

 

 

「――そういうの、別に嫌いじゃないわよ。」

 

 

 落ち着いた、優雅さすら感じさせる口調で、劉勲はキッパリと言い切った。そこには、賈駆を賞賛するような響きさえ感じられた。

 

 

 勝った!賈駆は思わず顔を緩めてしまう。

 難関の一つは乗り切った。賈駆は切り札を、最高の場面で切ることに成功したのだ。劉勲は保身を、賈駆は董卓を。互いにとって等価なモノを、合意の上で交換する。

 

 契約は――これで成立だ。

 賈駆がそう思った、まさにその瞬間だった。

 

 

 

「……で?」

 

 

 

 

「…へ……?」

 

 賈駆は、思わず間抜けな返事をしてしまう。理解が追い付かず、頭の中が真っ白になるような気持ちに襲われる。まるで鈍器で強く頭部を殴られたような、そんな衝撃。

 

「いや、だからね……それだけかって聞いてるのよ?」

 

 対して、劉勲はにこやかな笑顔で言葉を続ける。

 

アナタ(・ ・ ・)が連合軍に裏取引を告発して、それだけで終わり?

 そりゃあ確かに多少の混乱は引き起こせるでしょうけど、所詮それだけよ。投降してきた敵の田舎軍師の言葉と、三公を輩出した名門袁家の言葉、普通ならどっちを信じると思う?」

 

 名門――長らく皇室に仕え、漢王朝を支え続けた袁家の威光は、まだ衰えていなかった。それは物理的に目に見えるものでは無いが、決して無視し得るものでは無い。袁家が長年に渡って築きあげてきた「信用」、そして「名声」は健在なのだ。

 劉勲の言うとおり、賈駆一人がどれだけ真摯な言葉で真実を語ろうとも、そこには覆すことのできない壁がある。命乞いの為のでっち上げとか見なされず、うやむやにされる事だろう。今更ながら、改めて『名門』の力を思い知らされる。だが――

 

 

「後は……!」

 

 

 賈駆は考えるより先に、言葉を発した。

 ここで諦めるという選択肢は、自分には無い。最高の条件で出した切り札は無意味だった。

 

 だが、それが何だというのだ?

 まだ勝負は終わってはいない。勝負が続いている限り、逆転の機会はゼロでは無い。どれだけ小さな逆転のチャンスだろうと、「無い」と「無いに等しい」では天と地ほどの差があるのだ。

 

 劉勲はじっと賈駆を見つめている。それは、まだ彼女が交渉の機会を残してくれているという事。それは、まだ劉勲が自分に期待しているという事。

 劉勲なりの、自分に対する――賈駆文和に対する敬意なのだろう。

 

 例え詭弁でも構わない。

 記憶を掘り起こし、誰構わず利用しろ。

 この状況を覆せなければ、自分も董卓も破滅するしかない。

 

 大きく息を吸い、賈駆はもう一度会話を思い出す。劉勲の言葉、意図、その背後関係を頭の中で反芻する。

 

 そして――

 

 

「後は、もう一つ!!」

 

 額から冷や汗が流れてくるのを感じながら、大きく声を張り上げた。劉勲が興味を示したのを確認すると、もう一度深呼吸してから、短く告げる。

 

「……馬騰が……西涼の馬騰が、まだ残っているわ。張遼や呂布達を捕えた彼女もまた、真実を知っているはずよ。」

 

 

 虎牢関の戦いで帰って来たのは華雄のみ。呂布、張遼、陳宮らは真っ先に虎牢関に突入した馬騰軍に敗れ、捕えられたと聞く。ならば、馬騰が捕えた呂布達から董卓軍の内情を聞き出していても不思議はない。

 

「正直、最初は見捨てられたのだと思ってた。……でも、張遼達を殺さず捕虜にした時点で、彼女がこっち(・ ・)側だと確信したわ。」

 

 

 もともと馬騰と董卓は共に西涼の太守である事もあり、浅からぬ縁があった。異民族の地が混じっている事を理由に偏見の目を向けられていた馬騰を、最初に高く評価し便宜を図ってくれたのは董卓の両親だった。彼らのおかげで馬騰は自身の能力を発揮する場所と機会を与えられ、大きな恩義を感じていた。そんな馬騰が董卓に対して、何らかの方法で報いようと考えても不思議では無い。

 

 当然、賈駆も反董卓連合が結成された時に馬騰に助けを求めたのだが、返ってきた返答は非常に曖昧なものだった。西涼という辺境を治める馬騰には詳細な情報が入りづらく、当時は立場を明確にするのが躊躇われたのだろう。

 

 

 だが先の一戦を見ると、馬騰軍は反董卓連合に参加していながら、独自に董卓軍の内情に探りを入れていた可能性が高い。劉勲らの取引を完全に把握していたは定かではないが、賈駆の告発を裏付ける証拠の一つや二つは保有していてもおかしくは無い。そうでなくとも、この告発を歯牙にもかけないという事は無いだろう。今回の反董卓連合で大きな功績を立てた馬騰の言葉なら、大きな発言力を持つ。

 

 もっとも馬騰の言葉だけで、すぐさま袁術陣営の有罪が確定するとは思っていない。しかし発言力のある馬騰が賈駆の告発を支持すれば、連合もこの疑惑を無視することは出来なくなる。

 今回の争いで功績を立てた曹操や馬騰、公孫賛などは基本的に不正を嫌う人種である上、恩賞目当ての諸侯が自らの取り分を増やす為に袁術陣営を蹴落とそうとするかもしれない。となれば大がかりな調査が行われるはずであり、裏取引がバレるのは時間の問題だ。

 

 基本的に完全犯罪というのは「疑惑をもたれない」場合にのみ達せられるものであり、一度疑惑がもたれてしまえば隠し通すことはできないのだ。

 

 それは状況証拠から考えられる、一つの可能性。

 理屈が全てでは無い。

 賈駆はそこに全てを賭けた。

 

 

 劉勲は何も言わない。不気味なまでの静寂が部屋を支配する。

 だが賈駆は臆せず胸を張り、答えを待ち続けた。

 

 

 

「合格」

 

 たったの一言。その短い一声が、沈黙を破った。

 

「合格よ、賈文和。百点満点、よく出来ました花マルでーす――とまでは言えないケド、充分に及第点をあげられる。もっと胸を張っていいと思うわ。」

 

 疲れたように息を吐くと、劉勲は優しげに微笑む。

 

「軍師は策を練られる環境があって、初めて組織の役に立つ。最低限、自分の身を守る環境も整えられないような人間に、単なる『歯車』以上の価値は無いわ。」

 

 劉勲は満足げな声と共に悪戯っぽく片目を瞑ると、指をそっと賈駆の頬に添える。

 

「……やっぱり馬騰のこと、気づいてたんだ……いつからなの?」

 

「ちょうど虎牢関戦の後ね。アタシが即座にアナタの口封じを命じなかった最大の理由は、馬騰軍の存在よ。元々アナタ達とは知り合いみたいだったし、ちょっと考えてみれば虎牢関戦って不審なのよね。」

 

 並行追撃によって虎牢関まで機動力に勝る馬騰軍、公孫賛軍が突破する。作戦そのものに不審な点はない。後々の歴史に残るような見事な戦術だ。

 

 

「本当にすごい。完璧よ。だけど、完璧(・ ・)過ぎる(・ ・ ・)。」

 

 連合軍と共にいる張勲からの報告を見ると、馬騰軍の損害があまりに少ないのだ。とてもあの飛将軍・呂布が守っていたとは思えないほどに。

 

「馬騰は、董卓を助けようとしていた。そして恐らく、張遼達の説得に成功したんでしょう。」

 

 だが馬騰と董卓の関係を省みれば、全ての説明がつく。劉勲は急いで「同志達」に連絡を取り、馬騰軍を調べさせたところ、馬騰軍が袁紹軍のプロパガンダを鵜呑みにしている訳では無いという事実が判明した。馬騰軍が捕えた董卓軍兵士の扱いも丁重を極め、とても単なる捕虜に対するものとは思えなかったのだ。

 

「ったく、友情だか恩義だか知らないケド、世の中には物好きもいるものね。……まぁ、張譲と同じように董卓を匿っておくことで、呂布とか張遼とかを味方につけたいのかもしれないけどね。」

 

 劉勲は呆れたようにかぶりを振る。

 前世記憶からもしや、とは思っていたがやはり理解できない。いかなる感情をも理性で押さえつけ、全ての物事が理屈で決まる商売とは違った異質な世界。だが、その世界は確かに存在する。

 物事の全てが損得で割り切れるほど世の中は単純では無い、という事を改めて思い知らされた。

 

 愛、友情、思いやり、誇り、忠誠、愛国心――そういった理屈では説明できない部分が、今はただの弱小勢力でしかない劉備や孫策、曹操などの下に優秀な人材が集まる理由。馬騰もそんな一人なのかも知れない。

 自分と違い、彼らには金や権力、身分を超えて人を引き付ける魅力がある。そうやって集まった優秀な人材が、後に彼女達の『力』となり、これからの乱世で力強く羽ばたいてゆく。

 

 

(……悔しいけど、アタシにはそんな魅力は無い。かといって呂布みたいに圧倒的な『武力』も、周瑜ほど明晰な『頭脳』も無い。だけど――)

 

 自分には名門出身という『肩書き』がある。舌先三寸で得た『資金』がある。袁家で手に入れた『権力』がある。何も無いわけではない。賢く使えばそれらもまた、大きな『力』と成り得るのだ。

 

 

「……とにかく、馬騰が董卓を助けたがってるならアタシにとっては好都合よ。アナタだってどっちかっていえば、馬騰に董卓を保護してもらった方が安心でしょ?」

 

「まぁ、それはそうだけど……」

 

 馬騰達は董卓を助けられるし、袁術陣営も厄介払いが出来る。また、これにはお互いが秘密を持つ事で、互いを裏切らないように監視する意味も含まれている。

 

(それに、もともと馬騰()とコネを持ちたいとは思っていたし。……ひょっとしたら、董卓軍を手に入れるよりも役に立つかも知れない。だって――)

 

 劉勲は目を一度閉じ、一段と強い光を宿した瞳を再び開く。

 そう、自分の策はまだ全てが潰えた訳では無い。使い方次第では、失敗も成功の母となり得る。問題はそれが出来るかだ。

 

 だが、劉勲には確信にも似た自信があった。なぜならば――

 

 

         だって馬騰は―――だから。

 

 

 劉勲は苦笑し、心の奥底で一人ごちた。

 考える限り、馬騰とコネを持つ事には単なる協定、同盟以上の意味がある。今すぐにとはいかずとも、必ずや強力なカードになり得るだろう。

 

 

「うふふ……面白くなってきたわねぇ」

 

 劉勲の口元に広がる笑みが大きくなる。

 思えば、自分はいつだって完璧(・ ・)に成功することは無かった。十重二十重の策を練り、時間をかけて根回ししても、それは必ずどこかに綻びができてしまう。些細なきっかけで狂ってしまう。

 

 ――経済を発展させようとして、治安と格差を増大させてしまったように

 

 ――多くの資金と人員を動員しても、農民あがりの黄巾党に敗れたように

 

 ――曹操の立てたたった一つの作戦に、今回の計画が潰れされたように

 

   それが、現実。そこから目を逸らすようでは、己は永久に敗者のまま。しかと現実を見据えよ。

 

(そうよ、アタシはまだ諦めない。たったそれだけ(・ ・ ・ ・)の事で、諦めたくない。)

 

 十の策が失敗するようなら、百の策を練れば良い。それでも策が破られたなら、また考えればいいのだ。たかだか(・ ・ ・ ・)十や二十の失敗で諦める様では一生、何事も為せない。

 

 成功に失敗はつきもの。だが、失敗から学べるか否かで未来は変わる。

 転んでもタダでは起きない。――見苦しいまでの信念、いや執念こそが人を成功へと導くのだ。

 

(もしアタシの人生が失敗の連続だとしても、……それすらも利用してみせる。その中でアタシは道を切り開いてやるわよ。)

 

 人生はトランプのようなもの。

 ゲームの初めに配られるカード同様、生まれは平等では無い。中には、その時点で一生(ゲーム)が決まってしまう者もいる。そうでない者は、決められた社会常識(ルール)に従い、勝ちを目指す。自分の能力(てふだ)を最大限に生かし、『策』と『運』の両方を味方につけた者のみが勝者となる。

 どんなハズレを引こうと己の不運を嘆くことなく、逆境すらも利用せねば勝利は望めないのだ。

 

 

 自嘲気味に嘆息したところで、劉勲は一度思考を現実へ引き戻す。

 何をするにもまずは、この死の都で生き延びねばなるまい。何事も死んでは為す事が出来ぬゆえ。劉勲は無造作に垂れていた髪をかきあげると、賈駆に言葉をかけた。

 

「とりあえず此処は危ないから賈駆、アナタも一緒に安全な場所まで付いてきなさいな。そこで――馬騰との交渉内容を一緒に(・ ・ ・)考えましょう。」

 

 一緒に――その言葉の意味、それは賈駆の駒としての役割はまだ終わっていないという事。

 そして、その言葉が何を意味するかは、賈駆にも分かっていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 虎牢関外周――反董卓連合・馬騰軍の陣地

 

「いやー、助けてもらうどころか衣食住まで保証してくれてありがとな、馬超。」

 

 陣地の奥にあるひときわ大きな天幕で、張遼が馬超に感謝の言葉を告げる。

 

「そんなに畏まるなって。こっちこそ、今まで何もしてやれなくて悪かった。」

 

 馬超は少し照れた様子で張遼の肩をぽん、と軽く叩く。

 もともと天水群の太守だった董卓と、武威群で軍閥を率いていた馬騰は深い付き合いがあった。異民族相手に共闘したこともあり、董卓の人となりを知っていた馬騰、馬超は「董卓が都で暴政を敷いてる」という世間の噂が反董卓連合軍のプロパガンダである事を見抜いていた。

 

 だがそれはあくまで仮説、推測に過ぎず、確証はどこにも無い。洛陽周辺が完全に封鎖されて連絡がとれない以上、馬超たちに分かったのは「董卓は悪人では無い」ということだけ。董卓自身が望まずとも、利用されるなり何なりで実際に「暴政を敷いている」可能性は十分に考えられる。

 袁紹陣営は、疲弊した社会に対する不平不満の全てを「董卓」という分かり易い『象徴』に向けることで、民衆の支持を獲得した。つまり今、下手に董卓軍寄りの姿勢を示せば世間全体を敵に回してしまうのだ。

 

「“漢の民衆を敵に回す事だけは絶対にしちゃ駄目”って母上に念を押されたよ。あんなにしつこく言われたのはあたしも始めてだった。」

 

「そうか……そう言えば、馬騰の姐さんの姿が前から見えへんな。やっぱ会う事はできんのか?」

 

 公式には張遼達の扱いは捕虜だ。お互いの立場上、あまり大っぴらに親しくするわけにもいかないのだろうが、一度ぐらいは挨拶をしておきたい。

 

「いや、そう言う事じゃないと思うぞ。母上なら単に仕事が立て込んでるだけだと思うな。さっきも重要な話がある、とか言ってどっかに行っ――」

 

 

「――ばぁっ♪」

 

 

「ひぃ!……って、なんだ母上か……驚かさないでくれよ」

 

 噂をすれば影。歴戦の武将である馬超にすら気配を感じさせず、絶妙なタイミングで馬騰が天幕に入ってくる。

 

「だって愛する我が子との再会よ?もっとこう、感動的にしたいじゃない!」

 

「半日ぐらい前に一緒に食事とっただろ……」

 

「細かい事は気にしない、気にしない♪それが元気に生きる秘訣よー。」

 

 馬騰は楽しそうに笑い、馬超の頭をぐりぐりっと撫でた。馬超は恥ずかしいだろっ、と抵抗するものの、それも照れ隠しの領域を出ていなかった。

 

 

「相変わらずやなぁ……。姐さん、元気してたかいな?」

 

「当ったり前じゃない!むしろ私から元気抜いたら、なーんも残んないわよ?」

 

「いや……それは太守っちゅう立場的にいろいろ不味いんじゃ……」

 

「だいじょぶ、だいじょーぶ♪そういう細かい事なら、優しーい部下達が頑張ってやってくれるから。……あ、そうだった!はい、これ二人の分のお土産だよ。」

 

 何とも微妙な顔をする張遼をよそに、馬騰はマイペースに小さな包みを差し出す。中に入っていたのは、蝋燭の光を受けて黄金色に輝く蜂蜜飴だった。

 

 

「……それが、重要な話の相手かいな?」

 

「うわっ、バレちゃったかしら?」

 

 てへっ、と軽く笑って軽くウィンクする馬騰。悪戯のバレた子供のように少しバツの悪そうな色を浮かべてはいるが、なんとも緊張感に欠ける行動である。

 だが、そんな彼女を見つめる張遼はどこか不安そうだった。

 

「……姐さんが落ち着かん時は基本、とりあえず物を買って誤魔化そうとするからな。実際、かなりマズい状況なんちゃう?」

 

「あははっ、鋭いわねぇ。でも大体あってるわよー。」

 

 馬騰は小さくうなずき、にこやかに笑う。嬉しげに、寂しげに、彼女は笑う。

 

「ちょっとね、真面目な話になるよ?さっきの『重要な話』なんだけど……」

 

 されど次の瞬間には、馬騰の瞳から遊びは消えていた。代わりに強い信念と意志を瞳に込めて、馬騰は張遼と馬超を見つめる。

 

 

「……内容は、董卓ちゃんの身柄について。そして交渉相手は――袁家の書記長・劉勲よ。」

 

 




『人生はトランプのようなモノ』って確かイギリスの偉い人が言ってたような記憶があります。生まれも運も能力も人それぞれですが、その中で最良の手を考え続ける事が成功の第一歩かなぁ、と。
 
 ちなみに馬騰と董卓は知り合いという方向で。一応二人とも涼州太守なので面識が全く無いのも変かなぁ、と思ったので。


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30話:護るべき約束

           

 洛陽――漢帝国の都。富と文化が集まる首都だった(・ ・ ・)街では今、殺戮の嵐が吹き荒れていた。

 

 正義(・ ・)の為に極悪人、董卓を討つべし――当初の理想めいたスローガンとは対照的に、歴史の例に漏れず、反董卓連合軍も最終的には盗賊の群れと化していた。

 

 ――強盗、略奪、強姦、放火、殺戮、虐殺。

 悲鳴と剣戟の奏でる戦場音楽が絶え間なく鳴り響き、洛陽を根こそぎ破壊し、そこに住む人々を根絶やしにする。

 

 

 正義、名誉、忠誠、平和、誇り、愛国心――なんであろうと構わない。とにかく、『何かの為』に万を超える人がこの街で、殺したり殺されたりしているのだ。

 

 人は弱い。

 理由も無しに残虐にはなれない。されど、理由さえあればどこまでも残忍になれるのもまた人の性。

 

 そして一度始まってしまえば、後は流れに身を任せるしかない。人を殴り、斬りつけ、殺すのみ。歯向かう敵は躊躇せず、残らず排除すべし。疑問を持ってしまえば、感情を麻痺させねば、たちまち今度は己が踏み躙られる。

 

 

 

 李儒による長安への遷都をきっかけに始まった王允の反乱。

 皇帝の確保に失敗した王允らは新たに皇帝の兄を新皇帝として擁立する。血で血を洗う戦いの中、最終的には王允らが優位に立ち、そのまま洛陽を制圧するかに思われた。

 だが、この知らせを受けた反董卓連合軍は、皇帝を保護せんと我先に洛陽へ雪崩れ込む。

 

 “皇帝候補を要する両勢力は共に消耗しきっている。この混乱なら何をしても簡単にはバレない。ドサクサに紛れて皇帝を確保することが出来れば――”

 

 再編成された董卓軍の総大将・華雄は突如として行方をくらまし、董卓軍の兵達は文字通り烏合の衆となり果てた。もはや遠慮はいらない。目の前に極上の報償があるのだ。

 

 

 反董卓連合軍――つまるところ寄せ集めの軍隊は、今や完全に統制を失っていた。各諸侯は総大将である袁紹、参謀たる曹操の指揮下を離れた。各兵士もまた、自身の主の命令を聞かず、思い思いに街を蹂躙する。

 

 3つどもえの争いに巻き込まれた洛陽は為す術も無くただ蹂躙されるのみ。

 建物が崩れ落ちる音が響く。母を求めてさまよう赤子の泣き声が木霊す。されど、救いの手は現実逃避の中でしか、差し伸べられる事はなかったのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 洛陽、市街地にて

 

 

 そこには、一人の英雄がいた。愛馬に跨った彼女は今、紅蓮に燃える帝都を見下ろしている。

 

「遅いわよ、桂花」

 

「もっ、申し訳ございません!」

 

「冗談よ。これだけの大混乱だもの。全てが予定通りに進むとは私も思っていないわ。」

 

 慌てて頭を下げる筆頭軍師に、曹操は薄く笑う。

 

「……それで、現状はどうなっているのかしら?」

 

「はっ。斥候部隊が先ほど、皇帝陛下を連れていると思われる一団を発見。彼らは長安方面に向けて逃走を図るも、逃げ惑う民衆のせいで思うように動けない様子です。

 一方、司徒・王允と彼の配下は先ほど、李儒率いる官軍と交戦して勝利するも、直後に孫策軍が現場に到着し、再び戦闘を始めた模様です。」

 

 孫策――その単語に曹操の眉が僅かに吊りあがった。そう、と短く呟くと曹操は楽しそうな表情を浮かべる。

 孫策に関する噂は彼女の耳にも届いている。数年前に横死した孫堅の後を継ぎ、崩壊寸前だった孫家を瞬く間に立て直した女傑。袁術軍が同数の兵力でもっても敵わなかった張慢成率いる黄巾党の精鋭部隊を、その半分の兵力で打ち破ったという話も聞く。

 今は袁術の客将という身分に甘んじているが、無能な袁術では飼いならす事は出来ないだろう。いずれ独立して、自分の前に立ちはだかる障害となるはず。

 

「……流石は『江東の小覇王』といったところか。的確にして迅速――汜水関戦の時と同じく、見事な指揮ね。」

 

 見たところ孫策軍は事前に相手の動向をつかんでおきながら、故意に王允軍と李儒軍の動きを放置していた可能性が高い。

 

 (両軍が疲弊したところで皇兄を救いだす、か……)

 

 曹操には孫策が何を為そうとしているか、容易に想像がついた――自分も全く同じことを考えていたからだ。ただ、曹操が保護しようとしているのは皇兄ではなく、現皇帝・献帝の方だった。

 しかし満足げな曹操と対照的に、荀彧は怪訝そうに問いかける。

 

「……ですが、今だどちらの皇帝候補に諸侯が味方するのか分からぬゆえ、擁立するにはいささか時期尚早かと。下手をすれば、董卓の二の舞になる恐れもあります。

 華琳様、まずは諸侯がどちらにつくか見極め、然る後に実行に移した方がよろしいのでは?」

 

「いいえ、それでは手遅れになる。皇帝は今のうちに確保しておく必要があるわ。……もちろん、まだ(・ ・)擁立はしない。あくまで保護(・ ・)するだけよ。」

 

 諸侯が現皇帝に味方するなら、そのまま保護の功績を持ち出して擁立すればよい。逆に諸侯が皇兄に味方するならば、保護した皇兄を差出し、『皇帝を騙った反逆者を捕えた功績』を要求するだけだ。

 なるほど、と頷いた荀彧は横に動いて曹操に道を譲る。その先には、隙間なく整列した兵士達が出撃の合図を待ちわびていた。

 

 洛陽市街地の一角。やや開けた広場の片隅には、臨戦態勢の兵士500名が展開していた。錬度だけ(・ ・)ならば、数ある反董卓連合軍の中でも最強の部隊。完全な職業軍人だけで構成された、覇王・曹操の誇る無双の親衛隊だった。

 

 

「皆の者、よく聞け!我々はこれより、この国と皇帝陛下を救いに向かう!」

 

 戦場の喧噪の中、曹操の声が洛陽の空に響き渡る。

 

「我々の目標は漢帝国に仇なす逆賊の手から、皇帝陛下をお守り致す事だ!我らが行動するはただ己の為にあらず!この国と、そこに住む人々の為に戦いに赴くのだ!――総員、心してかかれ!」

 

 兵士一人一人の胸に、曹操の声がこだます。

 

 ――この国の為に

 

 ――そこに住む人々の為に

 

 曹操が鞘から剣を抜くと共に、親衛隊は移動を開始する。整然と隊列を整えながら、目指すべき目標へと近づいてゆく。その彼らの視線の先には、民衆の波に揉まれて行動不能に陥っている、張譲の軍があった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 闇の中、蝋燭の火が唯一の灯りとなっている。道は汚泥でぬかるみ、無造作に打ち捨てられている死骸からは腐臭が漂う。そんな洛陽の地下水路を抜けた馬騰を待っていたのは、予定通りの面子だった。

 

 笑顔で迎える劉勲の隣には賈駆と、震える董卓の姿が見える。ふと横を見れば、華雄が壁にもたれているのが確認できた。劉勲の部下の姿は見えないが、見えないだけで居ないという事も無いだろう。

 

 

「え~と、自己紹介がまだだったかしら?汝南袁家所属・中央人民委員会書記長の劉子台よ。お見知りおきを。」

 

「うふふ、こちらこそ初めまして。私は馬騰、いつも物資調達の件でお世話になってるわね」

 

「お気になさらず。『必要なものを必要な場所へ』……それが商売の基本ですから。」

 

 営業用の澄ました顔で答えると、劉勲はチラッと董卓の方に視線を向ける。必要なもの――この場では董卓の身柄――は思いのほか簡単に確保出来た。

 

 どちらかと言えば大事なのは「どうやって助けるか」ではなく、「助けたらどうやって逃げ切るか」の方であり、身柄の確保事態はそこまで難問ではない。

 洛陽のクーデターに反董卓連合軍が乱入したおかげで、董卓の警備を担当していた張譲の兵たちも暇な者から別の仕事に回され、警備の人数は大幅に減員していた。董卓の監禁されている建物の近くで騒ぎを起こし、その隙に工作部隊を突入させただけで事足りた。

 

 現実というのはままならないものだが、考えようと使いようによっては思わぬ幸運をもたらしてくれる。今回の騒ぎを起こした王允などが正にそれ。劉勲らは現在地下水路にいるものの、時折上から建物が崩れる音などが聞こえてきていた。

 

「なんと言いますか、上の街の方じゃエライ事になってるみたいね。……まぁ、それについては一旦棚に上げましょう。今はひとまず此処にいる少女について」

 

 

 此処にいる少女。その言葉に、董卓がビクッと身を震わせた。賈駆は彼女を安心させるように手を握り、馬騰と華雄は何も言わずに佇んでいる。

 

「こちらの注文は一つよ。彼女を内密に……そちらで引き取って欲しい。」

 

 やはり、そう来たか――予想通りの注文に、馬騰は予め用意してあった要求を告げる。

 

「私からの要求は二つかな。最初の要求は、そちらとは公式に安全保障条約を結びたいの。」

 

「……つまり?」

 

 劉勲の目が狡猾な色を帯び、値踏みするかのように馬騰を注視する。

 馬騰が提示した安全保障条約の内容は次の通りだった。

 

 第1条:双方は、相互にいかなる武力行使・侵略行為・攻撃をも行なわない。

 第2条:どちらか一方が第三者の戦争行為の対象となる場合は、もう一方はいかなる方法によっても第三者を支持せず、それに加わらない。

 第3条:どちらか一方が第三者の侵略行為を受けた場合、もう一方は条約締結相手を支持すると共に能力相応の支援を行う。

 第4条:どちらか一方が同時に2つ以上の敵から攻撃された場合、もう一方も参戦する。

 第5条:共同の利益にかかわる諸問題について、互いに情報交換を行なうため協議を続ける。

 第6条:条約の有効期間は無期限とする。

 第7条:条約は直ちに批准され、調印と同時に発効する。

 

 要するに、同盟を結ぶことで互いが裏切らないようにするのが狙いだ。

 一通り条約内容に目を通すと、劉勲は内心でほくそ笑む。予想した通りだ。

 

(……こんな要求をしてくるってコトは、本気で董卓を匿うつもりって言ってるようなものじゃない。まぁ、年中異民族追い回してるような辺境の太守にしては上出来だけどね。)

 

 実際、条約自体は比較的よくできたものだった。基本的には専守防衛を基本とした安全保障条約であり、内容も比較的まともと言えよう。

 

 

「……ただ、第3条は納得しかねるわね。“もう一方は能力相応の支援を行う”ってトコだけど、明らかにこちらの負担が大きいわ。」

 

 袁術陣営と馬騰陣営ではそもそも経済力が違い過ぎる。南陽群は肥沃な大地と発達したインフラを持ち、人口は戸籍に登録されてるだけで250万近く、戸籍に登録されていない不法移民や難民を加えればもっと増える。反対に目立った産業もないド田舎で、多く見積もってもせいぜい4~60万の人口しか持たない馬騰陣営とは支援能力が違うのだ。

 

「軍事支援を考えればその限りでは無いかも知れないけど、それには2つ以上の敵から攻撃されなきゃいけない。この条約は外してもらいたいわね。」

 

不幸にも(・ ・ ・ ・)能力を過小評価(・ ・ ・ ・)しちゃうかもしれないから、そう書いたんだけど……その部分を削除するんだったら、条約をもう一個付け足していい?」

 

 頬に手を当てて考えるような仕草をする馬騰に、劉勲は軽く頷いて先を促す。

 

「――第8条:条約の調印と同時に、双方は各諸侯に対して条約批准を公式に表明し、正式に声明文を出す。こんなところで、どうかな?」

 

 とにかく、劉勲はどこか胡散臭い。劉勲が信用ならない以上、周りの環境を変えて保険をかけるのが馬騰の意図だった。条約というのは不思議なもので、当人達は『互いの利がある限り』と割り切っているにも拘らず、部外者からはあたかも永久不変の誓約であるかのように思われてしまう。

 

 

「やあねぇ、今回は別にアタシの独断じゃないって。そりゃアタシの独断だったらいくらでもシラ切れるからそっちも不安なんでしょうけど……ホラ、これが証拠よ。」

 

 劉勲は苦笑しながら、小さな紙を見せる。地下水路の暗がりでよく見えないが、下の方に袁家公認の印鑑が押されているのが見えた。

 

「今回の交渉に関する全権委任状よ。予備の写しも取ってあるし、調印したらそのまま袁家で公式承認されるわよ。」

 

「いやいや、別にそこまで疑ってるわけじゃないんだけどね~。ただ出来れば公式表明して欲しいなぁ、と。」

 

「……公式表明すれば、この子をすぐにでも引き取ってもらえる?」

 

 そう言って劉勲は董卓を一瞥した。思わず董卓が身を震わせ、馬騰の方を縋る様な目で見る。馬騰は董卓を安心させるように優しく微笑み、劉勲の質問に頷いた。

 

「もちろん。董卓ちゃんは私の恩人の子だもの。その為にはるばる西涼から、ここまで来たんだから。」

 

「そっか……じゃあもうすぐアタシ達は『共犯者』ってわけね。一心同体――体は二つでも、心は一つ。なーんか想像するだけで興奮してきたじゃない。」

 

「うふふ、ほんと奇偶ねぇ。実は私もちょっと興奮してるのよー。劉勲ちゃんとなら、一緒にやっていけそうな気がするんだけどなぁ。」

 

「ホント、楽しみねぇ。出来る限りは、仲良しでいたいもの。」

 

 董卓を引き渡すと同時に、“仲良し”でいるための条約が各諸侯に向けて正式に発表される。よって条約を一方的に破棄した所で、他の諸侯からは永久に信用されることはない。

 逆に他の諸侯から見れば、馬騰を討伐することと袁術軍を敵に回すことは同義といえる。馬騰軍の精強さは今回の戦役で証明されているし、これに袁術軍の資金力や組織力が加わる可能性を考えれば、例えいくら大義名分があろうとも、好き好んでリスクを冒そうとする者は少ないだろう。

 

 

「……で、最初の話に戻るんだけど、2番目の要求ってなぁに?」

 

 劉勲は小首をかしげ、邪悪な微笑を浮かべた。わざとらしいほど思わせぶりに、賈駆と華雄とを凝視する。

 

「まぁ、大体――どころか一字一句想像できるんだケド、一応聞きたいなぁ、なーんてね。」

 

 ケラケラと無邪気に、されど悪意を込めて笑う劉勲。その白々しい態度に馬騰は小さく溜息をつき、抑揚のない声で第二の要求を読み上げる。

 

「もう一つは……」

 

 瞬間、言葉が途切れる。申し訳なさそうに目を伏せ、馬騰は言葉を続けた。

 

 

「もう一つの要求は、賈文和と華雄を――正式(・ ・)に袁術軍に編入すること」

 

 

 

 

 

「……え……?」

 

 

 か細い少女の声が地下水路にこだます。

 だが、それに答える者はいない。馬騰ですら、地面を向いたまま何も言わない。まるで本当に時が止まってしまったかのような、そんな沈黙。

 

「……そんな……どうして……?」

 

 数十秒の沈黙の後、董卓が呆然とした様子で呟いた。

 馬騰が俯き、振り払うように首を振る。賈駆は無表情のまま沈黙を押し通し、華雄も何も言わない。劉勲だけが面白そうに、口元を押さえてにやけていた。

 

「どうして詠ちゃんと華雄さんが……!みんな……知ってたの?最初から、そのつもりで……」

 

「……」

 

 その問いに応える者はいない。だが何の反論もしないという時点で、その沈黙の意味するところは明白だった。

 

 

 

「……ごめん……」

 

 

 やがて、賈駆がぽつりと声を漏らした。涙を浮かべた親友の瞳を見上げて、もう一度言う。

 

「…ごめんね……」

 

 弱々しい、謝罪の言葉。董卓の細い指を握る手に力を込め、賈駆は続けた。

 

「だけど、これはもう決まった事なんだ……」

 

 困ったような、今にも泣きそうな表情で、彼女は董卓と向き合う。

 

「そんな……!でも、でもっ!」

 

 なおも抗議の声を上げる董卓に、賈駆はハッキリと首を振った。

 

「……月を助けるには……どこかで匿って貰わなきゃいけないの。場所は……馬騰さんが保証してくれる。……ただし……それは絶対に、誰にも知られないようにしなきゃいけない。……条約だけじゃ……やっぱり足りないんだ。」

 

 鼓動が早まってゆく。心臓の音が体の内側から伝わってくる。

 想像したくない。知りたくない。聞きたくない。

 だが内心の感情とは裏腹に、董卓には次の言葉の内容が予想できた。

 

 

「……誰かが、残って監視しなきゃいけない。」

 

 賈駆の手が、董卓から離れた。

 

「だから……ここで別れなきゃ駄目なんだ……」

 

 ゆっくりと、二人の距離が開いていく。

 

「……でも安心して。呂布も、張遼も、陳宮だってもいてくれる。それに馬騰さんの所なら……安全だよ?」

 

 賈駆は泣きそうな顔で、董卓に告げた。震える声を押し殺し、無理やり笑顔を作る。

 

「月は一人ぼっちじゃない。それに、もう二度と……誰かに利用される事も無いんだ」

 

 董卓は、その笑顔を瞳に焼きつけた。感情が止めどなく溢れて来て、言葉が出てこない。

 だけど、確かな事が一つ。

 

 ――零れてしまった水は、掬う事が出来ないように。

 ――割れてしまった皿は、二度と元に戻らないように。

 

 親友の決意を止める事もまた、もうきっと自分にも出来ない。

 後戻りできないからこそ、目の前で涙を堪えている親友は自分に全てを告げたのだと。

 

 全部、理解してしまったから――

 

 

 

「……約束。」

 

 

「……え……?」

 

 小刻みに震える体を抑えて、董卓は賈駆に語りかける。

 

「詠ちゃん、また会えるって……約束してくれる?」

 

「え?……あ……うん……」

 

 きょとん、とした顔のまま、流れで賈駆が頷く。

 だが、董卓にはそれで充分だった。満足げな微笑を広げ、華雄の方にも視線を向ける。

 

「華雄さんも、ね?」

 

「……私も、か……?」

 

「うん、そうだよ。華雄さんだって、大事な『仲間』なんだから。」

 

 不安に押し潰されそうになるのを必死に堪えて、董卓を笑顔を作り出す。董卓は彼女の決意を表すかのように、裾を強く握りしめた。

 

「いつかきっと……絶対にみんなで暮らせる日が来るよ。だから――」

 

 こんな無力な自分の言葉に、意味など無いのかもしれない。

 現実を無視した、単なる綺麗事なのかも知れない。

 それでも、希望を失ったら、本当に何も出来なくなってしまうから。

 

 

「――だからその日まで、頑張って生きよう?約束だよ――?」

 

 だからこそ、この約束を護ろうと、そう思うのだ。

 

「……そうね。」

「ああ、約束だ。」

 

 賈駆と、華雄が同時に答えた。

 

 ――もう一度、みんなで暮らす。

 ――その日まで何とかして生き抜く。 

 

 この乱世でその言葉がいかに空しいものか、董卓自身も自覚しているのかも知れない。もしかすると、二度と会えなくなる可能性すらあった。

 

(……こんなボクなんかを心配してくれて……ありがとう、月……)

 

 賈駆は冷え切った心の中で、どこか暖かいものが染み渡るのを感じた。恐らくは華雄も、自分と同じように感じている事だろう。

 

(……これで……いいんだよね?)

 

 目元に込上げる涙を感じながら、賈駆は嗚咽を抑えるようにぐっと息を呑み込んだ。

 やがて、溢れ出した涙が頬を伝う。

 洛陽の地下水路に、僅かに塩分を含んだ水が零れていった。

 

  




とりあえず賈駆と華雄はいろんなフラグを立てつつ、劉勲を監視する目的で袁術陣営に加入。残りの董卓軍の面々はまとめて馬騰が持っていくことに。

 ちなみに今回の劉勲・馬騰協定は、日英同盟とか独ソ不可侵条約あたりの内容を適当にミックスしたものです。
 余談ですが、某『鉄の人』って内政は人によって評価が分かれますけど、外交手腕はかなりのものだと思います。


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31話:戦の残り火

        

 反董卓連合軍の洛陽突入から、5日が経った。

 

 結論から言うと、洛陽の戦いの最終的な勝者は反董卓連合軍だった。張譲ら宦官勢力は壊滅し、劉弁を擁していた王允は孫策軍との戦闘で行方知れずとなる。だが、孫策軍は皇兄・劉弁を得る事は出来なかった。その元凶はかつて董卓軍を裏切り、宦官勢力に走った裏切りの軍師、李儒だった。

 

(くっ……この混乱では到底、外にいる友軍と合流するなど不可能。そして情勢は明らかに連合に有利……この場を切り抜けるには……)

 

 先の戦闘で王允に敗北したため、僅かに残った兵士を除いて、李儒は孤立無援の状態だった。友軍とも合流できない以上、降伏する以外に道は無い。

 

(だが、降伏するにしても何か手土産が無ければ処刑されるのがオチだ。何か、何か手土産になるものは……!)

 

 取り憑かれたような必死の形相で、李儒は街を見渡した。そして、彼はある事実を発見する――孫策軍に対処するために、王允軍の主力は全て出払っており、本陣の守りには殆ど兵が割かれていないという事を。

 

 それからの行動は素早かった。孫策軍と王允軍の戦闘中、ドサクサに紛れて王允軍の本陣に乱入し、劉弁を殺害(当初は捕える予定だったものの、劉弁が脱走しようとした為にやむなく殺害)。すぐさま連合軍総大将・袁紹にその首を献上する。連合内部でこれといった功績の無かった袁紹は手柄を欲しており、『正当なる皇帝・劉協に反逆した逆賊・劉弁を討った功績』と引き換えに、李儒は強力なバックを得る事に成功したのだ。

 

 

 対象的に、宦官勢力の筆頭・張譲は曹操軍との戦闘に巻き込まれ、逃げようとしたところで殺された。今や唯一無二の皇帝である献帝・劉協を保護した曹操は、一気に諸侯の賞賛と嫉妬を一身に浴びる事となる。

 

 

 しかし連合の華々しい勝利とは裏腹に、洛陽の被害状況は目を覆わんばかりの惨状だった。敵の進撃を遅らそうと、どこかの兵士達が放った火は洛陽全体に燃え広がり、多くの人々を巻き込んだ。洛陽大火と呼ばれたこの事件で街の3分の1以上が焼け落ち、それ以外の地区も先の戦闘でかなりの施設が破壊され、当初の原型を留めている建物はわずかだった。

 結論から言うと、董卓の圧政から洛陽は解放(・ ・)された。――万を超える住民と兵士の命を犠牲にして。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「……酷いものね。」

 

 荒廃した首都を見やり、孫策は率直な感想を口にした。彼女の立っている場所は王宮に程近い、洛陽市街の一角。周囲には焼け焦げた建物と、無造作に集められた人々の死骸、そしてそれらに群がる鴉や野良犬の姿があった。

 

「雪蓮……」

 

 そんな孫策に声をかけたのは周瑜だった。

 

「あら、どうしたの冥琳?戦後会議があったんじゃないの?」

 

「いや、張勲に追い出された。なんでも『孫家の当主、もしくはその血筋に連なる者で相応の責任能力を持つ人物』しか認めないとの事だそうだ。代わりには孫権様が出席しておられる。」

 

 呆れたような周瑜の返答に、孫策はにわかに眉をひそめた。

 

「なーんか、気に入らないわね。どうせあいつら、経験が浅そうな蓮華ならいくらでも言い包められる、とでも考えてるんじゃない?」

 

「……そこまで分かってるんなら、自分が行ったらどうだ?一応、当主なのだし。」

 

「だって~、面倒臭いんだもん。……あと一応、ってのがすごい気にかかるんですけどー?」

 

 周瑜の言葉に、頬を膨らませてブ―ブ―文句を言う孫策。孫家当主の責任云々がある以上、周瑜もこの場で肯定するわけにはいかないのだが、気持は分からないでもない。

 

「戦後会議って言ったって、どーせ劉勲みたいなのがド派手に着飾って色目使いながら『まぁ、○○様とこんな場所でお会いできるなんて光栄ですわ。もしよろしければ今晩、もう一度会ってくださらない?』とか言いながら舞踏会やら宴会やらに明け暮れてんでしょ?」

 

 まぁ実際その通りなので、周瑜も無理に孫策のサボり……自由行動を止めようとは思わない。

 反董卓戦での恩賞やら被災地の復興、中華の秩序再建などについての戦後会議という名目だが、実際には会議の大部分はパーティーに費やされていた。そもそも貴族や名士という人種は本来パーティーに参加する事が仕事のようなもので、宴会中に情報交換や面識を広めるというのも、彼らにとっては立派な仕事なのだが。

 とはいえ、必ずしも全ての人間がそれを理解しているとは限らないし、理解できても納得するかはまた別の話。劉勲らがただ単に食べて踊ってるだけで無い事は孫策にも理解できるのだが、荒廃した洛陽を放置してまで豪勢な食事をとったり、華やかな衣装を纏って踊っているのにはやはり納得しかねるのだろう。

 

 

 

「ま、それは置いておくとして……冥琳、私に何か知らせたい事があるんじゃないの?」

 

 ふと、孫策の目が細められた。やはり気づいていたか、と周瑜も苦笑して肩をすくめる。周瑜は素早く周囲を確認すると、孫策を建物の陰に招いた。

 

「実はな、この付近の古井戸の中からこんなモノが見つかったそうだ。」

 

 周瑜は周囲を警戒しながら、袖の中から“あるモノ”を取り出した。紙で出来た包みの中に収められていた四角いソレは――

 

 

「で、伝国璽……」

 

 

 世に名高い『江東の小覇王』すらも驚愕させたモノの正体。金色に輝く四角いその印鑑こそは、歴代王朝および皇帝に代々受け継がれてきた玉璽だった。

 

「『受命於天 既壽永昌』……間違いないわ。これ、本物の玉璽よ……!」

 

「ええ。初めて見た時は私も目を疑ったが、何度確認しても結果は同じだった。」

 

 ――秦の始皇帝の時代に、霊鳥の巣から宝玉が見つかった。始皇帝はその宝玉に『受命於天 既壽永昌』と刻ませ、皇帝専用の印鑑とした――

 

 真実かどうかは定かでは無い。しかし時の皇室はこれを皇帝の証として、代々大切に保管していた。その玉璽が今、目の前にある。

 

「……なんでこんな大事なモノが井戸なんかに……冥琳これ、誰が見つけたの?」

 

 図らずして玉璽を手に入れたショックから直り切っていない孫策が、周瑜にこの大手柄を立てた者の名を聞く。

 

「……こっちだ。付いて来てくれ。」

 

 周瑜に促されるまま、孫策は彼女の後に付いてゆく。案内された先は、辛うじて戦火を免れた一軒の宿屋だった。

 

 

 

「――お待ちしておりました、孫伯符どの。ご機嫌麗しゅうございます。」

 

 男は丁寧な口調でそう言って、恭しく頭を垂れた。齢はざっと30前後だろうか。ゆったりとした衣装に身を包み、いかにも文官といった出で立ち。動作の所々に見受けられる上品な佇まいからは、彼が上流階級の出である事が感じられた。

 

「彼が、この玉璽を井戸の底より見つけ出したという者だ。…………本当かどうかはだいぶ疑わしいがな。」

 

 周瑜が孫策の耳元で小さく囁く。男の方は聞こえていないのか、それとも敢えて無視しているのか澄ました顔のまま、こちらをじっと見ている。

 

「へぇ~、あなたが“これ”を見つけてくれたんだ。とりあえず、ありがとね。」

 

「いえいえ、お気になさらず。私としても、“それ”が相応しい人物の手に渡った事は実に喜ばしい。」

 

 柔和に微笑む男の様子は、心の底から喜んでいるようにも見えた。

 しかし、それはあくまで表面上のものだろう。孫策の脳裏には、一人の女性が浮んだ。

 そうだ、この手の人間は本音と建前を使い分けるばかりか、仕草の一つ一つすら嘘で塗り固める事が出来る。目的の為ならどこまでも卑屈に、不様になれる人間だ。そう――まるで劉勲のように。

 で、あれば彼もまた――

 

「……で、恩賞は何がいいのかしら?」

 

「これはこれは、何もそこまで率直におっしゃらずとも……。まるで私が恩賞目当てに貴女方に近づいたようではありませんか。」

 

「さぁ、どうかしら?違うかもしれないし、違わないかもしれない。そうでしょ?」

 

「そうですねぇ……いつの時代も人の心は本人にしか、いえ本人ですら分かるかどうか怪しいものですから。」

 

 遠い目で上を見上げて語る男に、孫策はますます確信を強めてゆく。

 やはりこの男……どうも胡散臭い。

 彼の反応を見る限り、劉勲と同じ人種なのだろう。奇跡の代償に、然るべき対価を要求する商人。ならば、彼の求める『対価』とは何なのか。

 

「それはさておき、恩賞と言ってはなんですが……」

 

 男は訝しげな視線を向けてくる周瑜と、意地の悪そうな作り笑いを浮かべている孫策に向けて、己の要求を告げる。

 

「……中央人民委員会書記長・劉子台に対して、私を推薦して頂きたい。」

 

 

 

「…………は?」

 

「言葉通りの意味ですよ。私を、彼女直属の部下に推薦してもらいたい。」

 

 相変わらずの微笑を浮かべる男に、孫策は何の言葉も返せなかった。隣にいた周瑜でさえ、例外ではない。二人とも、この男の真意を図りかねていたのだ。

 

「……それ、本気?」

 

「ええ、一字一句のブレもない本気です。」

 

「何の為に?」

 

「はて、袁家を逆賊に仕立て上げる、とでも言えば満足してもらえますか?」

 

 一応は袁家の客将という扱いになっている孫策に臆することなく、男はさらっと爆弾発言を落とす。相変わらず男の表情からは何も読み取れないものの、嘘をついている声では無かった。

 怪訝そうに睨む孫策に怯むことなく、続けて具体的な計画を話し始める。

 

 

 袁術に、この玉璽を渡す。スカスカの袁術の頭なら『玉璽を手に入れたから、妾が皇帝になるのじゃ♪』とかアホなコトを言いだすのも時間の問題。後は玉璽を見て皇帝即位を決断した袁術を討つ――

 

 

 「――とかいう流れが理想なんですが、ぶっちゃけムリでしょうね。」

 

 自分から言っといて、男はあっさりとその可能性を切り捨てた。

 袁術本人はともかく彼女の臣下はそこまでおめでたい頭では無い。劉勲にしろ楊弘にしろ、目立った袁術の家臣は基本的に利に聡く、保身に敏感である。そのような愚を犯すことはないだろう。

 だが、劉勲を始めとした袁家家臣は同時に狡猾でもある。まさかそのまま漢王朝に返すという事もないだろう。必ずや、玉璽を保有していることを何らかの外交カードとするはず。

 

「……仮に皇帝に即位などしなくとも、玉璽を差し出せば袁術からなんらかの対価を引き出すことは可能でしょう。どんな対価を引き出し、どのように使うかはご自由に。……悪くない取引だと思いますが?」

 

 男の語ったところは、まさしく周瑜が考えていた策の一つであった。玉璽を差し出す代わりに軍の再建や政治将校の排除を要求し、袁術の偽帝即位を裏から支援し、然るべき時に討つ。現状では兵力が不足しているために即実行に移す事は出来ないものの、これから始まる乱世を利用して功績を立てればもっと兵力が集められるはず。充分に力を蓄えてから、時を待って孫呉の悲願を成就させるのだ。

 

 

「でも……あなた、さっき劉勲に仕えたいとか言ってたわよね?かと思えば、まるで私達孫呉に袁術ちゃんを討って欲しいような事を言う。袁術ちゃんに個人的な恨みでもあるの?」

 

「無い、と言えば嘘になりますが、別に袁術個人にそこまで恨みがある訳じゃありません。……どちらかと言えば、貴女方と同じでしょうね。」

 

「私達と同じ、か……。」

 

 どこか納得したように頷く孫策。彼女としても袁術個人にそこまで恨みは無い。が、自身の理想の為に袁術軍の存在が邪魔なのだ。

 

「……まぁ、今はひとまずその事は別にいいわ。ただし――」

 

 玉璽を手に入れたという事実は、今や孫呉の命運を左右しているといっても良い。然るべき時を待たずに他の諸侯に知られれば、孫呉は間違いなく壊滅する。いくら玉璽をもたらした功労者とはいえ、そこまでのリスクを冒す気は孫策には無かった。

 

「仮にあなたが袁術といずれ敵対するつもりでも、私達を裏切らないという保証はない。」

 

 孫策の瞳に、危険な色がぎらつく。だが、そんな孫策の反応を予想していたかのように、男は苦笑する。

 

「そうですね……ただ、私が劉勲書記長に“それ”の存在を話す利点が存在しないことは、お二人にも理解していただけると思いますよ?

 加えて劉勲書記長の人柄を聞く限り、貴女が今持っているモノを伝えたが最後、私の命も危うい気がしますね。」

 

 相変わらず男は落ち着き払っている。常人なら漏らしてもおかしくないような孫策の殺気を受けてなお、自然すぎて不自然に見える笑顔を維持していた。

 

「いやはや、そんなに私は信用ないのでしょうか?……まぁ見目麗しい御婦人方に、いきなり見ず知らずの男を信用しろというのも、確かに無理な相談かもしれませんが。」

 

 男は困ったように苦笑する。一方の孫策はというと、この男の意図を図りかねていた。話せば話すほど胡散臭い。胡散臭いのだが、彼女の勘を以てしてもこの男には孫家と敵対しようという気が感じられないのだ。

 

「困りましたねぇ、私は別段、劉勲さんにこの事をお話するつもりは無いのですが……」

 

「袁術軍は劉勲だけじゃないのだけど?」

 

「おっと、これは失礼。そうでしたね、袁術軍にこの事をお話しするつもりはありません。私の名誉にかけて、約束致しましょう。

 もし今の言葉に嘘が混ざっていると感じるようでしたら、この場で切り捨てても構いません。」

 

 男は顔色一つ変えずに、己が首を指し示す。

 今の言葉は嘘偽りのない本心である。噂通り孫策は隣にいる周瑜と違って、理屈より感情や勘を優先させるタイプのようだ。そういった手合いに下手に小細工を弄すれば、却って危険だという事を男は見抜いていた。故に、最初から嘘は一言もついていない。

 

 

「……いいわ。認めましょう。」

 

「ありがたき幸せ。この御恩は一生忘れま――」

 

「――ただし」

 

 恭しく一礼する男の言葉を遮り、孫策は口調を強める。

 

「あなたの名と字、真名を今ここで私に授けなさい。それが最後の条件よ。」

 

 そこで初めて、男は口を噤んだ。しばしの逡巡の後、男は慎重に言葉を選びながら口を開いた。

 

「残念ながら、それはできません。一応、秦翊という3時間ぐらい前に考えた偽名がありますが、そんなモノは求めてないでしょうし。

 ですが……友人につけられた渾名、のようなものがありましてですね。それで納得していただけませんか?必ずや、お二人には納得して頂けると思うのですが?」

 

「……とりあえず、言ってみなさい。聞いてから考えてみましょう。」

 

 孫策の言葉に、男は再び頭を垂れた。どこか自嘲気味な色を声に滲ませ、その名を語る。

 

 かの者は一日に千里を走り、主君に仕えてその人を偉大足らしめる才である――名儒として名を馳せた郭泰を以てして、上記の如く評せしめた人物。

 

 

 我が渾名こそは――王佐の才、と。

 

 




 ようやく長かった反董卓連合編も終了です。
 次回からは群雄割拠編なので、やや政治や外交、経済などについての話が増えるかと思います。


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第四章・世界を止めて
32話:英雄達の会合


 洛陽、王宮――会議室

 

 公式には、董卓は洛陽の戦乱から逃げる際に死亡したとされている。戦闘終結から数日後、都で董卓本人だと思われる死体が発見され、連合の陣に届けられた。もともと董卓自身はあまり表舞台に出てこなかった事もあり、本人確認は彼女と面識のある捕虜――呂布、張遼、陳宮、賈駆、そして華雄――の証言に委ねられ、後日、正式に董卓の死亡届が作成された。

 

 悪人・董卓は死んだ。しかし反董卓連合はすぐには解散せず、そのまま洛陽の町に止まり続けた。

 とはいえ、戦火によって廃墟と化した洛陽では家を失った住民の世話すらままならず、30万を超える反董卓連合軍を受け入れる余力など無きに等しい。

 

 物価は高騰し、当然の如く商人による買い占めが行われインフレが加速する中、まともに物資を供給できたのは近くに豊かな領地を持つ袁術陣営ぐらいのもの。もっとも、その袁術陣営が音頭をとって物資を買占め、値段を吊り上げている元凶なのだが。

 おかげで洛陽の民衆に物資が行き渡らないどころか、袁術軍から物資を購入できない貧乏な連合の兵にいたっては、手当たり次第に民衆から略奪する始末。ハッキリ言って、董卓軍がいた頃より状況は悪化していた。

 

 

 なぜ反董卓連合軍はそうまでして洛陽に留まるのか?当初の目的も達成された今なお、諸侯が廃墟と化した首都に残る理由はただ一つ……ひとえに、戦後処理会議の為であった。

 そう、戦争とは戦場が全てでは無い。戦争の始まりと終わりは共に、会議室で決められるのだ。

 

 

 

 

 会議室の中央には、上質な木材で作られた大きな机が置かれ、それを取り囲むように諸侯の座る席が配置されている。会議が始まるまではまだ時間があり、だいぶ空席が目立つ。

 

 陳留太守・曹操が会議室に入って来た時、既に席についていたのは僅か3人。義勇軍の劉備と『天の御遣い』、孫家次期当主の孫権、そして汝南袁家書記長の劉勲だけだった。劉備は一刀と何やら話し込んでおり、孫権は生真面目に手に持った書類に目を通している。劉勲の方はと言えば、ずっと手鏡で髪型やら化粧やらをチェックしており、なんともまとまりの無い光景だった。

 

 

「……失礼するわ。陳留太守・曹孟徳よ。」

 

 決して大きくは無いがよく通る声で、曹操は部屋に入るなりそう挨拶した。彼女としては軽い挨拶程度の気持ちだったのだが、それだけで部屋の空気がガラリと変わる。

 反董卓連合軍における高い作戦立案能力、そして皇帝を保護したという圧倒的な功績で持って、今や曹操は天下に高く名乗りを上げていた。既に目先の利く人間は、曹操こそが次の時代の中心に位置する者との認識を強めている。そんな彼女を前に緊張するなという方が無理だろう。

 

「あら、曹操ちゃんじゃない。久しぶりだけど元気してた?」

 

 しかしどこにでも例外はあるもので、劉勲だけは明るく挨拶を返した。部屋に入って来た曹操に気づくと、にっこりと笑いかけた。

 

「まぁ、それなりにね。劉勲の方こそ、相変わらずそうで安心したわ。」

 

「お~い、それ遠回しに進歩が無いって言ってなぁい?」

 

 言い方に不満があったのか、劉勲は口を尖らせてそれを示す。

 

「そう言う意味じゃなくて、今も昔もオシャレに余念が無いなと思っただけよ。」

 

 そういって曹操は劉勲をまじまじと見つめる。

 パリッとした背広に、襟を開けた薄めの白いワイシャツ、やや短めのスカートと黒いストッキング。天の御遣い曰く“どこのOL?”といった出で立ちだが、本人の話では張勲の着てるのと同じ種類の制服を改造したものらしい。

 ほっそりとした体、ゆるいパーマがかかった金髪に、綺麗に透き通った緑翠色の瞳。バッチリとキメた化粧と、膝上までのスカートから、すらりと伸びた足。

 

「でしょ!やっぱアタシってば可愛い?綺麗?結婚したい?今この場でコクってもいいわよ?」

 

「あのね、劉勲……一つ、とても大事な話があるの。」

 

 そう言って曹操は劉勲の顔を覗き込む。鋭い青碧の眼が標的を逃がすまいと、劉勲を捉えている。劉勲の指がびくっと震え、視線が迷ったように左右に揺れた。

 

「な、何かな?」

 

「洛陽に来てから、ずっと思い続けてたことなのだけど……やっぱり、ここで話すことにするわ。」

 

「え……?ちょっ、ちょっと待っ……!」

 

 劉勲はいつもの彼女らしくも無く、おろおろした様子で曹操から目を背けてしまう。かと思えば、不安げに振り返り、弱気な目で曹操を見つめる。その頬はかすかに赤く染まっており、緊張を抑えるように唇を噛んでいた。

 

「ひょっとして……ここじゃ嫌なのかしら?」

 

「そっ、そんなコトないわよ!ただその、物事には……じゅ、順序という人類が長い歴史の中で経験と理性によって積み上げてきた偉大な……!」

 

「いいから、私のよく聞いて」

 

「う、うん……わかった……」

 

 劉勲は持っていた手鏡を、そっと机に置く。目を伏せ、どこか落ち着かない様子で髪をいじっている。

 

「よ、よーしっ、どっからでも掛かってきなさい!お姉さんがしっかりと、始皇帝陵より3割ぐらい広い心で受け止めてやるわ!」

 

 急に明るい口調でそう言うと、劉勲は再び顔を上げた。はよ言わんかい、とばかりに年上ぶって先を促す。目で催促してくる彼女の意を汲んだ曹操は、思ったことをストレートに言った。

 

 

 

「今日ここに“江東の小覇王”、孫策はいないのかしら?」

 

 

 

「……………チッ」

 

 あからさまに劉勲が不機嫌そうな顔になり、何か言いたげに曹操を睨んだ。

 

「確か孫家は今、袁術の客将として仕えてるはずよね?劉勲も袁術の部下として仕えてるなら、何か知ってるんじゃないかと思って。」

 

「はぁ~……アナタねぇ……」

 

 先ほどまでの明るい様子から一転してジト目で睨んでくる劉勲に、曹操は怪訝そうに眉根を寄せていたが、やがて合点が言ったように手を叩く。

 

「それとも知ってるけど、政治的な事情があって言えないって所かしら?」

 

「あーもう!違うわよ!そう言う事じゃなくて……!」

 

「?」

 

 歯切れ悪そうな劉勲の様子に多少興味をそそられたのか、曹操はじっと彼女を見た。再び曹操に真っ直ぐ見つめられ、劉勲がうろたえる。

 

「だから……えーっと、知らなくは無いんだけど……や、やっぱり知らない事にしとくわ……」

 

 目が合うと劉勲は目の下を赤く染め、ぶすっとした表情で俯いてしまった。傍から見ればただ拗ねてるようにしか見えない劉勲の仕草――けれども、その背中にはほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。

 

「その……事情があるから……知ってても教えてあげない。これでわかった、曹操ちゃん?」

 

 苛立たしげに、寂しげに、そして投げやりに話を打ち切る。

 それっきり、劉勲はツンとしたまま沈黙の姿勢を崩そうとはしなかった。

 

「そう……それは残念ね。一度孫策とは会って話がしたかったのだけど……」

 

 本当に残念そうに呟くと、曹操は気を取り直して孫権に目を向ける。

 対する孫権はしばらく呆気にとられていたが、気を取り直すと席を立って自己紹介を始めた。

 

 

「お初にお目にかかります。私は孫家次期当主、孫仲謀。以後、お見知りおきを」

 

「孫仲謀――江東の虎・孫文台の娘にして、孫伯符の妹。思慮深く慎重で、部下の意見をよく聞き入れる人物と聞いているわ。……つくづく孫家には優秀な人間が多いわね。」

 

 何かを期待するような口調で、曹操は孫権を正面から見据える。

 只者では無い――孫権はとっさにそう直感した。鮮やかに金髪に、全てを突き刺すような鋭い眼光。小柄ながら、全身から溢れんばかりの覇気を纏ったその姿は、良く知る姉のそれと同じもの。

 

「……陳留太守殿のお言葉、ありがたく受け取らせて頂きます。」

 

 孫権は曹操に一礼すると、再び席に付く。本音を言うと、まだまだ話足りない知りたい事、聞きたい事も沢山ある。

 が、隣で劉勲が睨みを利かせている以上、とりあえず無難な対応に留めようというのが孫権の判断だった。

 

 続いて劉備と一刀が立ち上がり、改めて挨拶する。

 

 

「前にも会議で会ったと思うんですけど、わたしは平原の相で劉玄徳と言いますっ!……あとは、ええっと……汜水関の時はお世話になりましたっ!」

 

 緊張しながらも、ぺこりと頭を下げて礼を言う劉備。曹操は一瞬、不思議そうな顔をしていたが、ややあって苦笑を浮かべる。

 

「いいえ、礼には及ばないわ。むしろ私から礼をしたいぐらいよ。」

 

 実際、曹操は当初義勇軍を囮としてしか見ていなかった。結果的には劉備軍を助けたのかもしれないが、本来なら礼などされる立場に無いはず。それでも律儀に感謝をする辺りが、劉備の劉備たる所以なのかも知れない。

 

 

「……それで、貴方の名前も聞かせて頂こうかしら?」

 

 続けて曹操は、劉備の隣にいる北郷一刀に目を向ける。曹操の探るような視線に、一刀はつい気後れしそうになりながらも、何とか踏み止まる。

 

「俺の名前は北郷一刀だ。みんなには『天の御遣い』って呼ばれてるな。」

 

 天の御遣い――その名は占い師・管路の占いによって都ではちょっとした噂になっていた。『世が乱れし時、流星に乗り天より御遣いが舞い降りる』、と。

 

「そうは言っても、俺自身は特に占いがどうとか信じちゃいない。桃香や他の仲間の為に、自分が出来る事をやってるだけだ。」

 

「ええ、それが良いでしょうね。占いを信じる・信じないは個人の自由でしょうけど、それに振り回されているようでは駄目。運命は自分で切り開くものよ。」

 

 元から鋭い曹操の視線が、更に強さを増す。

 

 ――格が違う、流石は未来の英傑。

 

 未来知識だけでは無い。感覚的にそう感じた一刀は、無意識に身構える。まさかこの場で襲ってくることも無いだろうが、思わず警戒せずにはいられないほどの覇気だった。

 

 野生動物の縄張り争いでは、視線を先にそらした方が負けだという。今の状況は限りなくそれに近いもので、曹操は何を考えているか分からない表情で見つめ続けている。負けじと一刀も視線を返し、そのまま双方無言で睨みあう。

 

 

 

「曹操ちゃ~ん、そういう言い方はどうかな~?ほら見て、3人とも怖がってるじゃない。無駄な威圧感振り撒いてないで、もっとみんなで仲良くしようよー。」

 

 ようやく機嫌が治ったらしく、劉勲が茶化すように曹操を諌める。

 

「別に脅したつもりは無かったのだけど、そう受け取らせてしまったようなら謝るわ。

 ……それと、3人とも気をつけた方がいいわよ、その女には。一見親切そうに見えるけど、猫被ってるだけで腹の内は知れたもんじゃないから。」

 

「うわ、ひっどーい。何よぉ、人をあたかも腹黒女みたいに言っちゃって。アタシ、この二人とはまだ初対面なのよ?第一印象って、結構大事なのに何てコトしてくれるかなぁ?」

 

「はいはい、分かったから機嫌直してちょうだい。……というか貴女も怒ったり笑ったり忙しいわね。もう少し冷静になりなさい。」

 

「誰のせいよ!?」

 

 頬を膨らませて抗議する劉勲と、仕方が無いといった表情で溜息をつく曹操。その姿は世話の焼ける先輩に振り回される、部活の後輩のようだと一刀は思った。もっとも、話をややこしくすることに関しては、どっちもどっちな気もするが。

 

「なぁ、ひょっとして2人は知り合いなのか?さっきから妙に打ち解けてるみたいだけど……」

 

「うふふ、ひょっとしなくてもアタシ達は知り合いなのだよ、『天の御遣い』君。こう見えても、洛陽では学友同士だったのだ。」

 

 劉勲はおどけるように、芝居がかった仕草で一刀に軽くウィンクした。初々しい男なら頭では分かっていても、思わず騙されそうになる笑顔。

 

「最初はあんまし話とかしなかったんだけどね。たまたま同門のみんなで人物鑑定してもらおうって話になって、その辺からだったかな?麗羽ちゃんともつるむ様になったのは」

 

 この時代、人材を登用する際に人物鑑定家からの評価というものは非常に重要だ。その評価が推薦状替わりとして用いられる事も多く、著名な鑑定家の評価は名士社会では大きな意味を持つ。そえゆえ、現代で言う就職活動の一環として人物鑑定家からの評価をもらうという事は珍しくなかった。

 

「確か曹操ちゃんは『治世の能臣、乱世の奸雄』とかいう、褒めてるのか貶してるのかよく分からない評価をもらってたわね。

 ……まぁ、アタシがもらった評価も『契約の(あるじ)、等価交換の(とりこ)』だし、似たようなもんだから意気投合したんだけど。正直、もうちょっとカワイイ感じにして欲しかったなぁ」

 

 自分に与えられた評価に不満があるのか、劉勲は口を尖らせてわめき始める。

 

「そうだよ、あの鑑定家のオッサンはもっと可愛い系の異名を付けるべきよ。見目麗しい女の子にこんな14歳っぽい異名つけるとか、ホント誰得なの?ねぇねぇキミもそう思わない、カズト君?」

 

 適当な事を言いながら、劉勲は大きく足を組みかえた。短めのスカートから、柔らかな太ももが覗く。図らずも煽情的な光景を目に入れてしまい、一刀は思わず息を飲む。

 

「……な、なんで俺なんだ?」

 

「いやぁ、これと言って深い理由は無いんだけどね。ただ……」

 

 劉勲は軽やかに笑い、甘えるような目をして身を乗り出す。あと少し、どちらかが前に動けばキスでもできそうな危うい距離。

 

「キミならさ、もっとこう……女の子を喜ばせられるようなコト、できるような気がしたから……かな?」

 

「………さ、さぁ……どうなんでしょうね……」

 

 しどろもどろになりながらも、やっとのことで一刀は一先ず無難な返事を返した。ハッキリとしない一刀の答えに、優柔不断な男はモテないぞー、とか適当な事を抜かす劉勲。絶対に楽しんでいる。

 

 

「……劉勲もその辺にしておきなさい。そうやって思わせぶりな事ばっか言ってると、いつか本当に刺されるわよ。どうしても続けたい、って言うなら余所でやって頂戴。」

 

 見ていられない、といった様子で曹操が呆れたように忠告する。口のうまい人間は得てして八方美人の傾向があるが、色恋と金銭沙汰でそれはマズイ。ほっとくと劉備陣営全員を交えて惨劇が起きそうだ。

 

「おやおや?曹操ちゃんはひょっとして、アタシの心配してくれているのかな?それならお姉さんは嬉しいぞー」

 

「……昔、洛陽で何度も修羅場のとばっちりを喰らった身としては、嫌でも心配せざるを得ないわよ。いつぞやの時なんか、逆恨みした軍の高官に私と一緒に絡まれたじゃない。」

 

「えー、それってアタシのせい?働いてた酒場でフツーにもてなして接客しただけだよ?」

 

「貴女が“フツーにもてなして接客”とか言うと胡散臭さが半端ないわね……」

 

 思えば、昔から劉勲はどこか掴み所のない女だった。他に、当時よくつるんでいた袁紹とは違った意味で、劉勲も突飛な思考や行動をすることがあった。

 

 

「待て、詳しく説明してもらえないか?その……2人は酒場で給仕でもしてたのか?」

 

「ううん、働いてたのはアタシだけだよ。朝昼に曹操ちゃん達と一緒に勉強して、夕方から酒場で学費稼いでたってコト。」

 

 怪訝そうに首をかしげる孫権を見て、劉勲が簡潔に説明する。

 彼女の話によれば、勉強の為に洛陽まで来たはいいが、資金が底をついたために酒場でバイトする事になったという。とはいえ、この時代における酒場の給仕の立場など風俗嬢と大して変わらないものであり、実際にそうしたサービスを提供する店が殆どだった。

 

「いやー、洛陽って思ったより物価高くてねー。家賃だけで持ってきた金の半分ぐらいは飛んだかしら。で、仕方ないから、その分酒場で稼いだってワケ。なんだかんだでアタシ、結構人気だったのよ?」

 

 基本的に容姿は悪くないし、元貴族ともなれば一種のプレミアがつく。水準以上の美人で明るく社交的な彼女なら、確かにそこらのオッサンに人気が出そうな気がする。

 もしかしたら、劉勲が話上手で商売に詳しいのは、この体験に関係があるのかもしれない。駆け引きに長け、情報を重んじている点も納得できる。

 

「結局、勉学でも武芸でも曹操ちゃんには勝てなかったけど、男ウケだけは負けてないんだから。」

 

「男ウケ“だけ”って……」

 

 えっへんと偉そうに胸を反らす劉勲を、一刀が微妙な顔で見る。

 まぁ、曹操のようにバリバリ働くやり手のキャリアウーマンとかって案外、男としては気遅れして話しかけづらく、結果的にワンランク劣るがすぐヤレそうな女の方がモテるというような噂は聞いたことがある。

 一刀自身は必ずしもそう考えていないが、どっちが話しかけ易いかと聞かれたら、劉勲の方だろう。

 

 

「そうでもないわよ。洛陽にいた頃に劉勲とした討論は中々楽しかったわ。」

 

 あれはいつの日だっただろうか。異民族との戦闘について漢王朝のとるべき対策を討論していた時、見事に二人の意見が割れた時があった。

 

 

“異民族の強さは、やはり騎兵の持つ機動力と攻撃力に依存するところが大きいでしょうね。そう思わない?”

 

“相変わらず華琳(・ ・)ちゃんの指摘は鋭いわねぇ。そっか、異民族かぁ……言われてみれば、アイツら普段から馬乗ってるから、全員騎兵みたいなもんだしね。羨ましいわよねー、漢王朝にはそんな部隊いないし。”

 

 曹操の質問に、劉勲はやれやれといった表情で答えた。当時、涼州では韓遂らによる異民族の反乱が発生しており、いかにして遊牧民の騎馬部隊に対抗するかが盛んに話し合われていた。

 

“確かに子台(・ ・)の言う通りね。今、漢王朝の抱える兵士の数は敵より多いけど、質はひどいものよ。このままじゃ、ただの烏合の衆にしかならない。新たに改革が必要よ。

なら、漢軍をもっと強くするには――”

 

“ええ、漢軍をもっと強くするならば――”

 

 

 

“――短所である、『質』をもっと上げるしかない。”

“――長所である、『量』をさらに増やすしかない。”

 

 

 

 全く同じタイミングで、二人は真逆の発言をしたのだった。

 

 短所を全てを克服し、バランスのとれた完璧な軍を目指す曹操と。

 弱い所を徹底的に切り捨て、その分を全て長所につぎ込む劉勲。

 

 二人の認識に差は無い。異民族と漢王朝、それぞれの短所・長所を2人とも良く弁えており、最終的な目的も同一だ。しかし、それに至るまでのプロセスは見事なまでに対照的だったのだ。

 

 

「あ、曹操ちゃん地味に覚えててくれたんだ。……つーか、思い出してみると懐かしいわねぇ」

 

「……せっかくだし、昔みたいに討論でもしてみないかしら?議題はそうねぇ……これから戦後処理会議が始まる訳だけど、その先はどうなると思う?」

 

 曹操は椅子に腰かけ、居並ぶ全員を見渡す。正直、実は最初からこれが聞きたかったんじゃないか?という気がしないでもないが、突っ込むのは野暮というものだろう。

 頃合いを見て、曹操は厳かに切り出した。

 

 

「この中華の支配層は大きく分けて3つに分けられる。

 まずは劉氏、由緒正しき漢王朝の皇族。建国より長きにわたる時を経て、実質的な権限はほとんど奪われている。未成年の幼い皇帝が帝位に就くのが、常態化しているのが何よりの証拠ね。

 

 次に中央官僚、要するに外戚と宦官のことよ。皇帝の側近として大きな権力を振るうも、結局は権力抗争によって共倒れ。しかも固有の軍事力を持たないという弱点が、黄巾党の乱によって明らかになってその立場は大きく弱体化しているわ。そして最後に残ったのが――」

 

 誰もが曹操の演説に聞き入っていた。一刀は放心したように彼女を見つめ、劉備は固唾を飲んで見守っている。孫権は無言で頷き、劉勲ですら緊張しているようであった。

 

 

「――私達、地方の豪族ね。漢王朝は今やその根底から揺れ動いている。

 強大な皇帝権力のもと、すべての民を直接支配するという専制体制は崩壊し、地方豪族の協力で辛うじて、国としての体裁を維持しているだけ。かつて光武帝が漢王朝を再興し、国を治めるべく定めた法は、もはや機能していない。

 各諸侯は既に独立国も同様……地方の時代と言ってもいいわ。逆に言えば、地方豪族こそがこの国の未来を握る鍵よ。もし彼らが本気で動いたら、その時こそ――」

 

 曹操は絶対の確信と信念、そして決意をもって言い放つ。

 

 

「――この国の、歴史が動くわ」

 

       




 調べてみたら劉勲と曹操は知り合いらしかったので、その設定を入れてみました。

 にしても、相変わらず邪検に扱われてます。曹操さんも悪気は無いんですけどね……ただ、原作で曹操さんは基本的に小物は相手にしない&なぜか直観で未来の英雄を見抜けるっぽいので、孫権とか劉備とかの方に、先に目がいってるだけです。決して劉勲さんを嫌っている訳では無く、「それなりに面白い友人」ぐらいの印象。

 逆に劉勲さんはツンデレっぽく見えるけど、どっちかとえば無視されたくない、って感じです。小物の彼女は大抵の「英雄」からはout of 眼中なので。
 
 「短所(質)を直す暇があったら長所(量)をもっと伸ばして相殺するの」

 劉勲さんが「質より量」を重視する理由の一つはコレ。曹操さんはこの逆で、短所の克服と長所の伸長、どっちを重視するかは難しい問題です。


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33話:王者の条件

   

  歴史が、動く――

 

 

 曹操の言葉が、全員に重くのしかかる。その意味は、今まで期が来るのを待ちながら、雌伏の時を耐えてきた者達を解き放つ、開戦の合図だった。

 

「曹操ちゃん」

 

 しばしの沈黙の後、曹操に問いかける声があった。堂々とした体勢を崩すことなく振り向いた彼女に、劉勲は一切の感情を感じさせない視線を向ける。

 

「……それで、アナタは()()()()()の?」

 

 まるで心の奥底まで見透かすような、澄んだ瞳。劉勲はいつもの笑みを顔に貼りつけたまま、静かな意志を秘めた目で、未来の覇王をしかと見据えた。

 その意思に応えるかのごとく、曹操もまた己の信ずる理想を宣言する。

 

「私の望みは、戦乱の世の立て直し……そして古い因習と偏見から解放された、新しいこの国の未来の創造よ。その為に私は『力』による、中華の再生を目指す。」

 

 今の中華は乱れ切っており、生半可な努力ではこの歪みを修正する事は出来ない。かつての秦のように強大な武力をもった、強い国だけが真の平和をもたらせる――それは曹操が生まれ持った、明晰な頭脳を以てしてたどり着いた結論だった。

 

 

「個人の能力よりも、古い因習や縁故が重視されているのがこの国の現状よ。有能な人間が真っ当に評価されず、この社会に才能の芽を潰されてゆく。その結果として無能な人間が社会を支配し、間違った統治で民を苦しめている。」

 

 曹操の口から紡がれた言葉――それは漢の社会構造そのものの否定だった。

 漢王朝に国教というものは存在しないが、ある意味では儒教がそれに相当する。儒教は五常――仁・義・礼・智・信――という人の『徳』により五倫――父子、君臣、夫婦、長幼、朋友――関係を維持することを教える。それは一種の宗教として中華に住む人々の心の支え、社会常識となってきたものだ。

 

 だが、儒教は同時に、中華の民を400年以上の長きに渡って束縛し続けた“呪い”でもあった。差別、偏見、時代錯誤な因習、迷信、縁故・血統主義、学閥、排外主義……かつて中華の民を救済すべく作られた儒教思想は、長い時を経て民を隷属させる牢獄となり、その歪みは増幅される一方だ。

 

「この国を再生しようとするなら、それを根底から変えるぐらいの意志が必要よ。だから、私は強大な『力』を以てして、いずれは新しい王朝を立てる。

 唯才是挙――要するはただ才のみ、これを挙げよ。皇帝の絶対的な権威の下で、人が生まれや血筋に関係無く実力で評価される……私はそんな世界を作りあげる。例え後世で蔑まれようとも、奸雄と非難されようとも……必ず、この国に変革をもたらす。」

 

 一片の迷いもなく、曹操は言い切った。

 確かな実力を持った、優秀な人材によって支えられる社会を作る。社会とは人が作るものであり、然るべき才能を持った人間が治める事で平和がもたらされる、と。

 それは決して自己陶酔や机上の空論などでは無く、合理的判断と客観的な分析に基づいた結論だった。

 

 

「だが……曹操殿の作ろうとしている世は、新たに能力による差別を生むことでに繋がるのではないか?」

 

 訝しげな表情で孫権が問う。

 確かに曹操の話は正論だ。儒教に偏った価値観や、縁故主義のもたらす害悪については理解できる。当人の実力を正当に評価することの必要性は、為政者の一人として孫権も痛感していた。

 しかし、逆に考えれば曹操の作る世は『実力』、『才能』、『能力』という基準の下でしか人を測れない社会なのではないだろうか。

 

「ふふ、流石は孫仲謀。貴女の指摘は実に的を得ているわ。恐らく私の理想に欠点があるとすれば、そこでしょうね。」

 

 意外なほどあっさりと、曹操は己の理想、その欠点を認めた。

 しかし、曹操はその矛盾を求めた上でなお揺らぐことなく、臆することなく自論を述べる。

 

「それでも、私はこれに勝る社会構造は無いと思う。人は、当人の能力に見合った権限・責任を負うべきよ。適材適所……元の発想自体は昔からある、ごく当たり前の事よ。

 反対に聞くけど……平等の為に、本人の実力以上の重荷を押しつけることが、果たして正しいと言えるのかしら?然るべき才能を持たぬ者が高位に就けば、どれだけ甚大な人災が社会にもたらされるか、知らないはずはないでしょう。」

 

 差別を是正しようと極端な平等政策をとれば、地位と能力のギャップによってむしろ害をもたらす事の方が大きい。社会的弱者の救済・差別是正措置が逆差別に繋がってしまうことは珍しくない。

 そして社会全体の厚生を考えれば、やはり才ある者に国を引っ張ってもらうのが最終的には最も効率が良い方法だろう。為政者の資格はただ一つ、その統治能力だけなのだ。

 

「……そのために、覇道によって天下を目指すと?」

 

「然り。どの道、荒廃したこの国は誰かが再生させなければならない。その過程が多くの犠牲を生み出す事もまた避けられないでしょう。

 ならば、例え後世に汚名を残そうとも、他を圧倒する『力』で犠牲と被害を最小限に抑えつつ、この国を立て直す。最速で、最短で。そして最大の効率で天下を統一してみせる。」

 

 僅かな迷いすら見せず、曹操は堂々と己が信念を述べた。同じ為政者として通じるものがあったのか、孫権も納得したように深く頷く。彼女は曹操と違って天下を取ろうという気こそ無いものの、国を治める手法や目指すべき目標には深く共感できるものがあった。

 

 語るだけの聖人に意味は無く、理想だけの王には国を統べる資格は無い。確固たる『力』が無ければ何をなす事も出来ぬ。『力』で他者に己が正しさ証明して、初めて正義は認められるのだ。結果至上主義の劉勲にしても、曹操の意見には異論はない。

 だが、隣で曹操の話を聞いていた劉備はその限りでは無かった。

 

 

 

「……私は、曹操さんのやり方は間違っていると思います。」

 

「我が覇道を否定するか……。されど、貴公が覇道に匹敵する道を示すというならば、是非も無し。故に劉玄徳、そちらの胸の内を聞かせてもらおうか?」

 

 冷たさと、それ以上の興味を瞳に同居させ、曹操が劉備を見据える。その鋭い視線に劉備がたまらず委縮する。だが、やがて意を決したように曹操に向かって、自らの見解を語り始めた。

 

「力で他者を屈服させても、それは相手を本心から屈伏させることはできません。そんな強引な方法では例え平和が得られても、それは単なる恐怖による支配です。力で抑えつけられた人達が、いつまでも黙っているはずありません。」

 

 劉備は語る。真の平和の為には武力や財力、権力といった『力』ではなく、民の支持を得る事が重要であると。国とは領土でも体制でも無く、ましてや武力や金でもない。その国に住む人々、その一人一人こそが国。正しく国を治めるには人々が心からその国、王を慕うようにならねばならぬ。

 ならば王者とは、徳によって純然たる仁政を行う者。真の王とは武でも利でもなく、仁義によって国を治めるべきであると。

 

「そう……覇道では一時の平和が得られても、恒久的な平和は得られない。かつて孟子が語ったように、『覇道』では無く『王道』で国を治めるべきだと、そう言いたいのかしら?」

 

「はい。曹操さんの目指す世の中そのものは、私も間違ってはいないと思います。わたしも今の世の中には、変えていかなきゃいけない事がたくさんあると思うんです。

 ただ、その為の方法……力で屈伏させるというやり方には納得できません。それでは、人々が笑顔で幸せに暮らせる国は作れないと思うんです。」

 

「では、どうすると?」

 

 試すような口調で問いかけてきた曹操に、劉備は譲れぬ信念と決意をもって切り出した。

 

「みんなで……話し合うんです。しっかりと話し合って、お互いの事を分かり合うんです。」

 

 

 だが――いや、想像通りと言うべきか。曹操の口から洩れたのは失笑と、軽い失望の声だった。

 

 

「まさか……今時そんな世迷言を言う人間がいるとはね……」

 

 そう言った曹操の口調には一抹の憐憫と、微かな苛立ちが出ていた。劉勲は声こそ上げてないものの、嘲りに満ちたクスクス笑いを止めようともしない。孫権ですら、劉備を見つめる目には悲しげな憂いの色があった。

 

「世迷言なんかじゃありません!わたしは、人が話し合いで分かり合えると信じています!」

 

 劉備は思わず大声を上げて叫ぶ。

 

「確かに、わたしの言ってる事は無謀なのかもしれません。この戦乱の世では話し合いだけじゃなく、闘わなければいけない事も多いと思います。わたしの理想が口で言うほど、楽なものではない事も分かっています。

 でも、それでも……諦めずにみんなで話し合っていけば、きっとお互いに分かり合えると思うんです!」

 

「なるほど……劉玄徳、貴女の話は分かったわ。その理想の正しさ、素晴らしさも認めましょう。

 もしも貴女が、貴女の語った通りの国を作る事が出来たなら、それは恐らく私の作る国よりも立派な国になるでしょうね。人を信じて、みんなで話し合って、誰もが笑って平和に暮らせる世界。

 この曹孟徳が覇道を以て作り上げる国よりも、そちらの方がずっと民にとって住みやすいでしょう。」

 

「なら……!」

 

 

「ただし――――そんな国が、()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 静かな、落ち着いた厳かな声。怒るでもなく、嘲るでもなく、曹操は劉備に向かってただ諭すように告げる。

 

「貴女の言う、“誰もが笑って平和に暮らせる世の中”を作ろうとした王は過去にも何人かいた。でもね、その全員が他の人間の悪意によって理想を阻まれた。誰一人として成功せず、そして長続きはしなかった。そう……ただの一人もよ。」

 

「そ、それは……」

 

「現実をもっと見なさい、劉備。貴女の話は確かに、理想としては正しいでしょう。

 だけどね、理想はあくまで理想でしかない。為政者が理想を無視した統治をすれば国は乱れる。けれど、現実を無視した理想を求める為政者……無能な働き者も、同じくらい国を乱すものよ。いいえ、むしろ進んで間違いを犯す分、今の宮中に巣食う無能な怠け者よりタチが悪い。」

 

 儒学や道徳に基づいた、理想の素晴らしさの全てを否定するわけでは無い。今が太平の世ならば、王道は覇道に勝るかもしれぬ。

 だが、今は戦乱の世だ。平時には平時の、非常時には非常時の対応という物がある。理想、対話、相互理解――そんな生易しいモノで乱世を鎮める事が出来る、と言い切れるほど、曹操は人間を信用しきれていなかった。

 

「一時の情に引きずられ、必要な悪手を打たねば、最終的にはもっと多くの人が犠牲になる。為政者はむやみに力を使ってはならない。でもそれ以上に、必要ならば力を使わねばならない『義務』があるのよ。」

 

 世界は綺麗なだけでは立ち行かない。必ず誰かが、汚れ仕事を請け負わねばならない。民を統べる為政者のとして、この国の未来を担う者の一人として。曹操は与えられた力を、必要に応じて躊躇なく振るう覚悟を背負っていた。

 

 間違った使い方をする事も、使わないという選択も許されない。必ず、()()()使()()()()()()()()。なぜなら覇王の力は、天より曹孟徳へ与えられた祝福であり――同時に呪いでもあるのだから。

 

 その小さな体に背負う覚悟は……ただひたすらに、重かった。

 

 

 今度こそ、本当に劉備は黙らざるを得なかった。この数刻にも満たない会話で折れるほど、己の理想に懸ける想いは軽くはない。己の理想が間違えているとも思っていない。戦乱の犠牲になっている、弱者を救わねばならないのは事実。

 だが今の自分では曹操の“正しさ”に反論する、明確で論理な根拠を持っていない事もまた、事実なのだから。

 

 

「あははっ、あんまり責めるのも可哀想だし、この辺で許してあげれば?このままだと曹操ちゃん、唯の苛めっ子になっちゃうわよ?」

 

 薄笑いを浮かべながら、劉勲がたしなめるように言った。

 

「ごめんなさいね、劉備ちゃん。この子も悪気があってワケじゃないの。ちょ~っとだけ、言い方がキツイかもしれないケド、普段はもっと思いやりと慈愛が体中の毛穴と言う毛穴から溢れ出してる優しい子だから。」

 

「あ……はい……」

 

「そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。アタシは劉備ちゃんのコト、ちゃんと応援してるから。」

 

「……そう言えば、まだ貴女達の意見を聞いていなかったわね。孫仲謀、貴女はこの国の行く末をどう考える?」

 

「え!?またアタシの事は無視ですかー?おぅーい、アタシの話も聞いてってばぁ!」

 

 劉勲の悪意あるフォローの意匠返しかは不明だが、曹操はまたもや劉勲を無視して孫権に問いかける。

 二度も無視したなー、と手を振りながら存在をアピールする劉勲を敢えて脇に押しやり、曹操は孫権を見つめた。

 

「私か?それならば……劉勲どのと一緒(・ ・)であるはず(・ ・)だ。」

 

 横目で劉勲を見ながら、孫権は慎重に言葉を選ぶ。いくら口先だけとはいえ、劉勲に孫家を取り潰す口実を与える訳にはいかなかった。

 

 

「じゃあ、劉勲の意見も聞かせてもらいましょうか。」

 

「“じゃあ”って何よ、“じゃあ”って……。あーあ、また人をどーでもいい雑誌の付録みたいに扱ってさー、いくらなんでも態度が違い過ぎない?ウサギは寂しいと死ぬんだよ、知ってた?」

 

「貴女はそんな可愛らしい生き物でもないでしょうに……」

 

 仮に劉勲を動物で例えるなら、毒蛇とか古狐あたりが妥当な気がする。加えて言うとウサギが寂しいと死ぬというのは迷信らしい。飼い主が相手をせず、餌や掃除などの管理をしていないのが直接の原因だとか。

 

「まぁいいわ。アタシの心は山よりも高く海よりも深いから、ちっこい後輩の軽挙妄動2つぐらいは多めに見てあげよう。この余裕こそがオトナの女の包容力、そして色気を醸し出すのだよ。分かったかしら、曹操ちゃん?」

 

 劉勲は微妙な大きさの胸元を強調するように腕を組んで、年上の魅力を見せてやると言わんばかりに蠱惑的な眼差しをする。とはいえ、実年齢はせいぜい20歳前後で、そこまで年上と言う訳では無い。

 

「あら?私はてっきり、劉勲は包容力のある男性に守って欲しい系だと思っていたのだけど……?」

 

 唐突に投げられた曹操の言葉に、その場にいた全員の注目が集まる。各々が“パッと見でドSっぽい劉勲にしては意外…でも割ギャップがあってアリかも”的な失礼極まりない妄想をする中、当の本人が声を震わせながら突っかかる。

 

「はぁ?アンタ、何言ってんのよ!?いつ、どこでアタシがそんなコト言ったのよ!?」

 

「覚えてない?洛陽で一緒に学んでた頃、漢詩の授業で……」 

 

「わーーーーー!あーーーーー!」

 

「“いつもアナタは、遠くを見てる――”……って、うるさいわね。今思い出してるんだから黙ってて。」

 

「思い出さなくていいわよっ!つーか、なに人の黒歴史勝手に公衆の面前でぶちまけてんのよ!この鬼っ!人でなしっ!アンタみたいな×××なんて……!」

 

「確か、次の一節は“こんなに近くにいるのに、目の前のアタシには――”」

 

「……ごめんなさいスミマセン、もう二度といたしません……。お願い、謝るからもう止めてよぉ!」

 

 “ひでぇ……”

 反ベソ状態の劉勲に対し、曹操を除いた全員から憐みの視線が注がれた。正直、昔詠んだポエムを人前でバラされるとか恥ずかし過ぎる。ついでに言うなら劉勲のポエムの中に出てくる“アナタ”が誰なのか、かなり思い当たる所があったのだが、流石に可哀想だったので言及する者はいなかった。

 

「ぜ、全部アタシが悪かったんです……だからどうか、これ以上思い出さないで下さい……もう許して……」

 

 どこか虚ろな目で懇願する劉勲に憐憫の情を覚えたのか、一言“仕方ないわね”と苦笑した後、ようやく曹操は話を戻した。

 

 

「あー、私も少しやり過ぎたみたいね。ごめんなさい、劉勲。昔話は終わりにしましょう。」

 

「……うん……」

 

「じゃあ……話を戻して、貴女の意見を聞かせてちょうだい。貴女はこの国をどう変えるつもり?」

 

「曹操ちゃんは切り替えが早くていいわね……知ってたケド。

 まぁいいわ。アタシの考えを言ってやろうじゃないの。そうね……ぶっちゃけ、変える気なんて無いわよ?」

 

「……変える気が、無い?」

 

 僅かな俊巡の後、ようやく口を開いた曹操の顔には困惑の色があった。

 

「そ。もし漢王朝が倒れて本格的に乱世が始まれば、どうなると思う?支配者層が消えれば秩序は維持できなくなり、下剋上を目指す人間が現れる。数多の町が焼かれ、数多の民が命を落とし、際限の無い争い――万人の、万人に対する闘争が生まれるわよ。」

 

「その程度は分かっているわ。だとしても、貴女は今の歪んだ中華の現状を見て、何とも思わないの?

 多数の民の為に少数の人間が犠牲になるのではなく、少数の人間の為に多数の民が犠牲になる現状で良いと?」

 

 

「いいんじゃない?」

 

 

 あっけらかんと、何の躊躇いもなく、劉勲は現状を肯定した。

 

「逆に聞くけど……天下を変えたら、それは必ず“良い”方向に向かうのかしら?そんな保証があるとでも?」

 

 ある――と即答することは出来なかった。自分が引き起こす改革が100%良い方向へ向かう、などと抜かせるほど曹操は自惚れていない。人間なら誰しも、間違いの一つや二つは犯すだろう。劉勲の指摘通り、何かの拍子に全てが歪んでしまう危険性を、曹操の覇道は孕んでいた。

 

 強力な軍隊、厳格な統制、強いリーダーシップ。すなはち、圧倒的なまでの『力』――それは正しく使われれば最高の効率で、乱世を瞬く間に平定出来るだろう。曹操というカリスマ的指導者に率いられた曹操軍は、まるで一つの精密機械のように機能する。

 その正確性、効率性は、対話を説く劉備などとは比べ者にならないほどだ。

 

「曹操ちゃんの有能さは認めるけど、そこまで信用できないのよ。国をたった一人の人間に賭けられるほどには、ね。」

 

 だが、一人の人間に支えられた組織は、それが弱点にもなり得る。全体主義などがその最たる例であろう。最高の専制政治は最高の民主政治に勝るが、最低の専制政治は最低の民主政治よりも凄惨なものと化す。

 

「ねっ、劉備ちゃん?」

 

「ほえ?」

 

 唐突に話を振られ、思わず間抜けな声を上げてしまう劉備。だが、劉勲はそんな彼女を愛でるように見つめ、邪気に満ちた笑みを浮かべる。

 

「劉備ちゃんだって――本当は曹操ちゃんのコト、信じられない(・ ・ ・ ・ ・)んでしょ?違うかしら?」

 

「そ、そんな事っ……!」

 

 ――ありません、そう言おうとしても言葉が続かない。口に出そうとした瞬間、劉備の頭でストップがかかる。とっさに劉勲の言葉を否定出来なかった事実に、他ならぬ劉備自身が一番驚いていた。

 

「あら、違うの?目指す世界は一緒なのに曹操ちゃんを否定し、あまつさえ軍事力で対抗しようとしている。“人々が笑顔で幸せに暮らせる国”とやらを作りたいなら、曹操軍に加わるのが一番手っ取り早いことぐらい、アナタだってわかるでしょ?」

 

「ち……違うよ……わ、わたしは……ただ……」

 

「おい、待てよ!だから、その為の方法が……!」

 

 打ちのめされた劉備を見かね、隣にいた一刀が反論しようとするも、劉勲はそれを遮る。

 

「方法が違う、ねぇ?なら、曹操ちゃんの軍に入って、抑え役にでもなればいい話じゃない。実際、為政者としての能力は曹操ちゃんの方が上だって事は認めてるワケだし、“話し合い”で曹操軍内部から変えてった方がずっと効率的だと思わない?」

 

 曹操と劉備、二人の目指す未来に対して違いは無い。あるとすれば、そのプロセスのみ。だが、それならば劉備が曹操軍に入って「話し合い」で解決するように説得すれば済む話なのではないか?むしろ劉備の方が能力的に劣っている分、曹操の考えを変えた方が目標達成には近道だろう。

 にも拘らず、わざわざ――

 

「――わざわざ、別の軍隊を持って、戦争して、人を殺したり、殺されたりする必要まであるのかしら?」

 

「っ!……それは……」

 

 劉備軍の抱える、本質的な矛盾。戦を嫌っていながら、話し合い・相互理解による解決を望んでいながらも、結局は武力に頼らざるを得ないというジレンマ。

 その事には薄々気づいていたし、劉備自身も何とか理想と現実のギャップを埋め合わせようと努力を重ねていたはずだった。しかし、ここまで真っ直ぐに率直に指摘されると、とっさに返す言葉が見つからない。

 一通り劉備を揺さぶって満足したのか、劉勲は再び曹操へ話しかける。

 

 

「えーっと、ちょっと話しが横道に逸れ過ぎちゃったかな?

 ま、劉備ちゃんが曹操ちゃんを信用してるかはともかく、アタシは華琳ちゃん――というか一人の人間を、そこまで信じられないの。人間という弱い生き物の移ろい易さ……それを知ってるからこそ、たった一人に全てを賭けるような博打には乗れない。」

 

 良くも悪くも、曹操の覇道というものは結局、曹操という一人の人間に全てが収束している。仮に曹操が何かの拍子に暴走すれば、曹操軍は瞬く間に修羅の軍勢と化すだろう。なまじ曹操が優秀であるため、下手をすれば宦官や董卓を超える、史上最悪の暴君を生み出す事に繋がりかねない。

 

「言いたい事は分かったわ、劉勲。そうね、私も完璧じゃない。所詮はただの人間だから、間違いも犯す。

 ただし、このままだと間違いなく――この国は滅びるわよ?」

 

 何もせずに見ているだけでは状況は悪化する一方だろう。政治は乱れ、軍は弱体化し、民は大いに疲弊している。日に日に国力が衰退していることなど、少しでも学を修めた者なら誰でも分かる事だ。

 

 

「だからこそ――――世界を止めるのよ。」

 

 

 多少の変化は必要かも知れないが、国そのものを変化させる必要はない。根本的な改革には大きなリスクが伴う。それよりも現体制を維持し、秩序を回復させる事こそが重要。もっと安全で、より確実な方法をゆっくりと。それが劉勲の考えだった。

 

「確かにこの国は歪んでいるわよ。腐って、所々壊死し始めている。アタシの作ろうとしている停滞の時代では嘆きの数も、苦しみも、犠牲者も全部……減る事は無いでしょうね。」

 

「それが分かっているなら、なぜ――!」

 

 

「――だけど、世界が止まったままなら……これ以上増える事も無い。」

 

 

 未来は現在よりも悪くなるかもしれない。例え今日が人生最悪の日だったしても、明日その記録が更新されないとは限らないのだ。だからこそ時間の針を、歴史を止める。世界を、時の流れを、黄昏の中に縛り付ける。消極的では無く、“積極的”に停滞の時代を作り出すのだ。

 

「それにね、例えどれだけ現実が厳しかろうと、まだ人はこの大地で生きてゆける。惨めに這いつくばって、不様に泣き喚いて、必死になって他人を蹴落として。正直、仁義も誇りもあったもんじゃないわ。

 でも、それでも人は現実に立ち向かいながら、死に物狂いで生きようとしているのよ。こんな腐った世界でも……然るべき対価を払えば、望む物を手に入れられるから」

 

 等価交換――何かを得る為には、別のものを犠牲にせねばならぬ。さもなくば手に入れたモノから、取りこぼすだろう――それはかつて劉勲に与えられた、呪いの言葉だ。

 

「誰もが血の滲むような努力をして、醜態を晒して、騙されたり裏切ったりながら……熾烈な競争と犠牲の果てに、望みは叶う。少なくともアタシはそうやって、今の地位を手に入れた。だから――」

 

 劉勲は吐き捨てるように、嫌悪するように、だが誇らしげに笑う。それは決して聖女や、英雄の見せる気高く高潔な笑顔では無い。自ら望んで堕ちて、穢れて、それでもなお現実に抗い続けた、一人の人間の笑顔だった。

 

「――世界を変える事は許さない。目指す目標は、『勢力均衡』による現状の維持。アタシは金と権力、欲にまみれた亡者を操り、意のままに従える。」

 

 契約の主にして、等価交換の虜。この世の全てが差引ゼロ――相手が光を集めるならば、闇を束ねる影の王こそが己に相応しい。

 

「アナタ達の進む道は……このアタシが阻んでみせるわ。」

 

 劉勲は口元に凄絶な笑みを湛え、挑戦するように告げる。それが劉子台から三国の英雄に送る、宣戦布告の合図だった。 

    




 なんか書いてる内にどっかの聖杯問答みたいなノリになってしまった……。
 新しい国を作るでもかつての漢王朝を復活させるでも無く、勢力均衡で現状維持が目下の劉勲さんの狙いです。曹操さんとか劉備あたりの邪魔をして気を引きたいわけではない……たぶん。おそらく。メイビー。


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34話:洛陽会議

 第4章ではかなり政治外交関係の話が増えるかと思います。会話はたぶん減ると思う……。


 戦争とは、戦いが終わったら全てが終了という訳では無い。戦いとはあくまで自己の目的を押し通すための手段に過ぎず、「戦いの勝者」が必ずしも「戦争の勝者」であるとは限らないのだ。

 

 例え戦いに勝利しようとも、その為に多額の負債を抱え込んだり、軍事力の大半を喪失しようものなら足元を見られて、多くの血を流して得た領土や権利を横から掠め取られるだけ。

 逆に言えば無理に軍事的勝利を収めずとも、戦後処理で各勢力の利害を調整し、うまく立ち回ることが出来れば遥かに効率良く国益を追求できるのだ。

 

 

 

「長らくお待たせ致しました。これより、戦後処理会議を始めさせて頂きます。」

 

 むしろ外交官にとっては戦闘終結後の戦後処理、講和会議でどれだけのモノが得られるかが腕の見せ所と言っても良い。会議場には反董卓連合に参加した主な諸侯は当然、参加しなかった諸侯や朝廷からも多くの人間が出席していた。

 

 そして劉勲もまた、そんな外交官の一人としてこの会議に赴いている。袁術陣営は孫家の手柄を半ば横取りする形で、戦後会議における議長・司会者の地位を得ていた。とはいえ、袁術にやらせた所でロクな事にならない事は分かり切っていたので、劉勲が“誠実な仲介人”として会議の事実上の運営を任される事になったのだ。

 

 

 

「僭越ながら、本会議の議長代理を務めさせて頂く劉子台と申します。本日はお忙しい中、お集まりいただき誠にありがとうございます。」

 

 テンプレなビジネス会議冒頭挨拶から続いて、劉勲は主な議題を話し始めた。

 

 1つ目は、恩賞金の分配と功績に応じた官位の授与。

 2つ目は、太守、州牧、刺史といった地方官の任命。

 3つ目は、戦火によって大きな被害を受けた首都圏・司隷の復興

 

 以上の3点が反董卓連合軍による戦後処理会議、通称『洛陽会議』主な議題であったが、その内実は反董卓連合による中華の領土分割といっても差し支えのないものだった。黄巾党の乱と董卓の暴政、洛陽大火によって漢王朝の機能は麻痺しており、各地の有力な諸侯諸侯がまるで独立国のごとく振る舞ったおかげで、一種の国際会議と化していたのだ。

 反董卓連合に参加しなかった諸侯の殆どは「間接的に董卓の暴政を助長した罪」によって領土を分割され、基本的には勝者の利益が優先された。

 

 

 官位の授与については比較的スムーズに事が運んだ。

 洛陽が戦火に巻き込まれた際に多くの役人が死亡しており、空いたポストを適当に功績順に分配すれば済む話だったからだ。漢王朝の形骸化によって、官位が単なる名誉称号になり下がっていた事実もこれに拍車をかけた。

 

 恩賞金についても同様に功績順に分配されることが基本となったが、袁紹・袁術陣営などは各諸侯の兵力負担の違いから今までかかった諸費用も考慮すべし、との主張を展開。片や曹操・馬騰陣営などは「戦死者及び負傷者に対する補償」を要求し、会議は紛糾する。

 

 

「いいですか、華琳さん?あなたのような2万そこそこのちっぽけな軍隊と、わたくしの7万もの華麗なる軍隊。どっちの方がお金が掛かるか、分かっていらっしゃいますの?」

 

「そうは言っても戦場にて実際に血を流し、国の為に命を捧げたのは我が軍の兵士よ。逆に聞くけど、麗羽の“華麗なる軍隊”とやらは戦場で何をしたのかしら?」

 

「そんなもの決まっておりますわ――この連合を纏める、『総大将』ですわよ!」

 

 得意げにおーほっほっほ、と高笑いを始める袁紹。総大将といっても結局は何もしちゃいないわけで、他の諸侯は呆れたように目を伏せている。

 しかし、どんな詭弁でも解釈次第では正論となり得るのが外交というもの。

 

「――議長、発言を要求する。」

 

 会議場に響く、低い厳かな声。渋みと力強さを帯びたその声に、弛緩した会議室の空気が再び厳粛なものに変化する。

 

 袁紹軍筆頭軍師・田豊――反董卓連合の、真の立役者。

 

「単なる朝廷と袁紹の権力闘争」という脚本を書き直し、「悪人董卓を討つための正義(・ ・)の戦い」というシナリオに変更させた張本人だ。恐らくこの場で最も老練な、あらゆる権謀術数を知り尽くした男が、堂々たる威厳をその身に纏い、発言を求めていた。

 

 

「発言を許可します。どうぞ。」

 

 議長の劉勲が頷く。田豊は、袁紹の意味不明ともいえる論理を更に突き詰め、正論を作り出す。

 

「姫様の言葉通り、我らは総勢30万の反董卓連合を纏める総大将としての役割を十二分に果たした。そして我らは無事に董卓の魔手から、皇帝陛下を奪還したのだ。この『正義の戦争』を始めるにあたって、各自がどの役割を担うかは、先の会議で既に検討済み。

 逆に聞くが……もし戦場で敵の矢面に立つ事が不服というなら、なぜその時点で異議を申し立てぬ?」

 

 田豊の言い分は、ある意味では正しい。彼の解釈に立てば、連合結成時に役割はすでに決められていたため、役割に応じた恩賞が与えられるべき。曹操がいかに活躍しようとも、それは決められた義務を果たしただけである、と。

 

「血と引き換えに勝利を得る。戦いとは元来、そういうもの。そなたの兵が前線に配置された時点で、その程度は知れたことよ。例えどれほどの被害を受けようと、一度決められ、納得した義務を果たすのは至極当然の義務。己の責任の範囲内で起こった損害補償を、第三者に求めるのは筋違いというものだ。故に恩賞は、当初の役割に応じて、適切に支払われるべきであろう。」

 

 要するに田豊の主張はいわば職務別の定額給支払いの要求であり、曹操はボーナス比率を高めた出来高払いを要求しているのだ。当然目立った働きのあった有力諸侯は曹操案を支持し、大して功績を挙げられなかったその他多数の諸侯は田豊案を支持する。

 

(……一応、麗羽達は旧董卓軍軍師・李儒との裏取引で『皇帝陛下に対する反逆者、劉弁』を討ち取った事にはなっている。とはいえ、あまり大っぴらに手柄を主張する訳にもいかないから、私達の足を引っ張ることにしたというのが本音か……)

 

 流れが田豊案に傾きつつある現状を、曹操は苦々しげに見つめる。このまま話が平行線をたどった場合、間違いなく採決が行われるだろう。原則として会議は一人一票のため、強行採決となれば田豊案になるのは確実だ。

 とはいえ、それでは曹操の恨みを買うことも確実。誰もが皇帝を擁する曹操を敵に回すのを恐れ、採決を言い出せないでいた。

 

 

「はいはぁーい、皆さぁーん落ち着いて下さーい。とりあえず発言をする時は一旦、議長に許可を取ってもらえませんかぁ?じゃないと収拾つかなそうですしぃ~」

 

 パンパン、と手を叩いて仲裁に入る張勲。渋々ながら諸侯が意見をひっこめた時を見計らい、議長の劉勲が口を挟む。

 

「このまま話がまとまらなかった場合、場合、手順に従って採決を取る事になりますが……原則として、本会議は一人につき一票です。異論も多々あるかと存じますが、第2の董卓を生み出さないためにも、本原則は守られなければなりません。力を背景にした強者が、合意によって得られた決議を一方的に踏み躙って良い道理がどこにありましょうか?」

 

 どの口が言うか、との気がしないでもないが内容そのものは実に正論。多くの参加者が賛成し、共同で取り決めた条約が一方的に破棄されるようならば、秩序の再建など不可能だ。誰かが覇権を握るまで終わり無きパワーゲームが繰り広げられるのみ。

 軍事・経済の原理は一株一票だが、政治・外交の原理は一人一票――どちらを優先するかはその都度違うが、今回劉勲が選択したのは後者だった。

 

「今後の中華の秩序を維持する上でも、一人一票の原則、多数決の原則、法の支配の3つは忠実に維持され、誠実に実行されるべきです。」

 

 ここでいう、『法の支配』の『法』とは所謂『国際法』に近い。

 4方を囲まれている袁術陣営が地政学上の不利を克服するためには、周辺地域の安全を確保する事が死活問題だ。特に秦嶺・淮河ラインの安定は、熾烈な中原の争いから、袁家の勢力下にある南陽群や豫州を防衛する為に何としても必要である。

 

 だが軍事的解決が望めない以上、それは外交によって解決するしかない。強者が弱者を力で従える事そのものに異論はないが、力を背景に一方的に条約を破るような前例を作ってはならないのだ。

 それゆえ袁術陣営にとって『各諸侯に条約を遵守させる』という国際法秩序体系の確立は早急の課題であり、劉勲はそのために細心の注意を払っていた。

 

 

「劉勲議長、発言の許可をよろしいでしょうか?」

 

 その言葉に劉勲が頷いたのを見て、北平太守・公孫賛は別の視点から反撃を試みる。

 

「議長の言い分も分からなくはない。だが、それでは多数派の専制、少数意見の抑圧を助長するものではないのか?」

 

「あっ、それ私も同感。会議って、多数決でゴリ押しすればいいってもんじゃないわよー?」

 

 公孫賛の持ちだした「少数意見の保護」という意見を盾に、馬騰・曹操といった諸侯は再び強硬に反対。どちらの意見も間違ってはおらず、解釈次第でどうとでも取れるだけに、会議はまとまらない。

 

 

 結局、1月にも及ぶ会議の末、双方に配慮した議長の劉勲は実に巧妙な解決策を提示した。すなわち第3の議題・被災地の復興支援を曹操らに委任したのだ。

 

「首都・洛陽を含む司隷全体における復興支援業務、具体的には治安維持、街の再建、住民の生活保護といった事項を全面的に委任したいと思うのですが、意義のある方は?」

 

 要するに第1議題では田豊案を支持するが、代わりに第3議題に使う予定だった復興支援金などを曹操らに渡す、というもの。無論それは表向きの理由で、実際には司隷における影響力強化を容認するといった意味も含まれていた。

 

 支援金を使って司隷に対する支配を強めるのも良し、金だけネコババして自分の領地に戻るも良し。支援金の使い道や勢力圏の設定は参加者同士の判断に委ね、基本的に他の諸侯はそれに干渉しない事が決定される。何かいろいろ面倒ゴトを丸投げしたような気がしないでもないが、現状ではこの辺が両者の妥協できるギリギリのラインだったのだ。

 

 結局、金欠だった公孫賛は家臣に押される形で、司隷における権益を放棄する代わりに支援金の一部を譲り受ける。逆に曹操は公孫賛に支援金を譲る代わりに司隷の大部分の権益を得て、馬騰は両方を少しづつ得たのだった。

 

 

 

 同じく地方官の任命についても各諸侯の利害が衝突し合い、これも遅々として進まなかった。

 一方で議長の劉勲は、弱小諸侯が乱立している状態は本質的に不安定(外交経験の不足、失う物が少ないが故の無謀な挑戦など)だと考えており、所謂列強が彼らを抑圧・管理することで地域紛争を抑えようとした。よって最終的には強者の利益が優先され、弱者の権益・領土が分割される事となる。

 具体的に主な州牧の変更は以下の通り。

 

 幽州・・・公孫賛へ  兗州・・・曹操へ  冀州・・・袁紹へ  青州・・・孔融へ

 

 曹操軍の功績については言うまでも無い。皇帝を保護した事もあり、連合軍随一の功績を上げた彼女は朝廷に深いパイプを築くと共に、兗州牧に抜擢される。

 

 公孫賛、袁紹なども同様に功績が認められ、それぞれが新たに州牧に就任。

 

 青州牧・孔融に関してはやや事情が複雑であり、青州におけるパワーバランスが関係している。

 青州では袁紹派、公孫賛派、青州黄巾党の三大勢力が互いに争っており、非常に不安定な情勢だった。そこで議長の劉勲――安全保障上の観点から、漢中~青州ラインの安定化を望んでいた――が折衷案として、比較的中立姿勢だった孔融を仲介役とすることで現状維持を提案。最終的に孔融を州牧に就任させることで両者は合意し、青州の安定化が図られた。

 

 

 

 一方、涼州では馬騰の実効支配が認められる事となる。

 曹操の次に連合で功績を挙げたのは馬騰であり、氾水関・虎牢関戦での戦功を高く評価されていたため、本来ならば彼女が涼州牧となるはずだった。しかし、異民族の血が混じっていることを理由に一部保守派の根強い反対があったのだ。

 

「羌族――異民族の血が混じった人間を州牧にするだと?バカな、どこの国に外国人、違う民族を地方行政の長に任命する国があるというのだ?」

 

「え~、でも戸籍とかも持ってるし、税金もちゃんと払ってるわよ~?ちゃんと漢の臣民としての義務は果たしてると思うんだけどなぁ」

 

 とはいえ、税金をちゃんと払ってる異民族より、税金を払ってない同じ民族が優先されるというのもまた事実。保守的な官僚からしてみれば、馬騰ら友好的な羌族も敵対的な匈奴も同じ「異民族」で区別は無く、いつ叛旗を翻すか分からない危険分子としての認識しかない。

 

 信頼――目に見えないそれは長い時をかけて作り上げるしかなく、馬騰という個人の努力・功績ではどうしようもない、世の中の仕組みといえよう。

 馬騰もそれを分かっていたからこそ、中華の民の信頼を失わぬよう、董卓が無実である事を知りつつ、敢えて反董卓連合軍に参加したのだ。西涼から直接洛陽を目指さなかったのも、洛陽を単独で占領しようとういう野心を持っていない事を示す為。

 

「……しかし、馬騰どののおかげで、涼州における異民族の侵略が抑えられているというのもまた事実。それに馬騰どのは今や、中華の全ての異民族の希望の象徴だ。余り無下に扱うのも得策ではありません。」

 

「……では、こういうのはどうだろうか?授与する位は将軍に留め、涼州牧は引き続き韋端殿に務めてもらうが、外交及び軍事上の優越・監督権は馬騰どのに譲る。悪い話では無いと思うのだが。」

 

「つまり内政は今まで通り漢人が、外交は新たに馬騰どのが。両者で分担という事か。」

 

「……まぁ、その辺が落とし所でしょうね。」

 

 論争の末、馬騰には将軍位が与えられ、涼州を実効支配させるという線に落ち着いたのだった。加えて先の『復興支援』により、馬騰は「三輔の地」――京兆尹・馮翊郡・扶風郡――に強い影響力を行使することが可能となる。

 

 

 しかしながら、司隷における支配権は意外な事に、連合に寝返った旧董卓軍系の人物――李儒、李傕、郭汜――らが握る事となった。本来ならば処刑されてもおかしくないような立場の悪さだった3人だが、劉勲の入れ知恵によって『正統主義』を提唱。

 宦官や外戚の側近政治によって腐敗し、董卓に破壊された中華の秩序を、かつての皇帝と地方豪族が協力して統治する状態に戻そうというのが李儒の主張だった。

 

「我々はまだ敗れた訳ではありません。いいですか?敗れたのは董卓と、利権を求めてそれに集った宦官達なのです!たまたま近くにいたという、ただそれだけで我々は脅され、暴政に加わることを強制されていました。我々とて、貴方がたと同じく被害者なのです!」

 

 いけしゃあしゃあと嘘八百をぶちまける李儒だったが、最終的にはこの屁理屈が認められたのだから驚きだ。

 実は長安の周辺では李傕、郭汜という二人の将が10万に達する旧董卓軍を纏め上げており、連合にとっては新たな悩みの種になっていた。虎牢関や洛陽の戦いで疲れた連合軍では厭戦気分が蔓延しており、主戦論を述べたのは曹操などごく僅か。曹操、馬騰陣営はこの機会に司隷に勢力を拡張しようとするも、両者の更なる勢力拡大を恐れた他の諸侯はこれに反対した。

 

 そこで劉勲は袁紹に保護されていた李儒を利用しようと画策。李傕らと面識のある李儒に連合との仲を取り持ってもらう事で、彼らに制限つきで司隷に対する支配権を与えようと画策。宮廷での袁家の影響力衰退を懸念する袁紹陣営もこの案に賛成し、司隷は旧董卓軍系の李儒、李傕、郭汜ら3人が三頭政治を敷くことが決定された。

 

 この結果洛陽では上記の3人と、『復興支援』を名目に影響力増大を目指す曹操、馬騰の勢力が入り乱れ、袁術陣営は隣接する北の脅威を取り除くことに成功したのである。

 

 

 ちなみに袁術軍はというと正式な位こそ授けられなかったものの、豫州の大部分を事実上支配下に治める。ただし汝南郡のみ、袁術の直接支配が認められた。

 もともと豫州、特に頴川~汝南周辺は袁家のホームスタジアムであり、あらゆる面で繋がりは深い。袁術陣営は死んだ孫堅の甥・孫賁を豫州刺史とした傀儡政権をうち立て、間接的に大きな影響力を及ぼすことになったのだ。

 

 また、袁術の豫州支配は、洛陽解放直後に各地の諸侯に向けて発表された劉勲・馬騰協定と、皇帝を擁立した曹操の存在という2つの要因が複雑に絡み合った結果でもある。皇帝を保護した曹操は今や飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を急拡大させており、彼女の急成長を脅威に感じた諸侯は決して少なくは無い。

 

(……曹操は、第二の董卓になるのではあるまいか?皇帝の威光と武力を背景に、我々諸侯を力づくで従わせる気なのでは……?)

 

 彼らの思惑を敏感に感じ取った劉勲は、すぐさま各諸侯に根回しを開始。曹操が拠点としていた兗州~司隷に近い、涼州と豫州をそれぞれ馬騰、袁術に支配させ、両者を組ませることで、曹操に対する抑止力とすることを説いて回ったのだ。

 

「この協定は専守防衛を是としており、我ら両者が平和的に共存できるよう『諸侯の権限』を守る為のものであります。」

 

 劉勲は『諸侯の権限』という概念を強調し、漢王朝の権限範囲の制限を主張すると共に、具体的な裏付けとなる抑止力として劉勲・馬騰協定を位置づけた。もともと真面目に漢王朝に従うつもりなどない殆どの諸侯は『諸侯の権限の保護』を主張した劉勲を支持。

 

 結果、諸侯の実質的領土権、領土内の法的主権およびと相互内政不可侵の原理が確立される。漢王朝は依然として『権威』は保持していたが、『権力』に関しては各地に割拠する諸侯の統治に依存する事となり、現状――諸侯の分裂・勢力均衡状態――は維持される事となった。

 

 とはいえ、袁術の影響力増大を警戒する諸侯も当然ながら存在する。

 袁術陣営が豫州全体を直接支配下に置かず、敢えて豫州を間接支配の形に止めたのも、そういった諸侯への配慮に基づいたものだった。具体的には外交権(関税自主権等を含む)と駐軍権(駐留経費、通称:思いやり予算は豫州で負担)を獲得し、外交と防衛を除く内政は豫州刺史・孫賁に委ねる、という案に落ち着いた。

 

 しかもその際に州の一つ下の行政単位である、「群」の権限強化を劉勲は約束。徹底的に権力の分散を図る袁術陣営の念の入れように、反対していた諸侯も最終的には合意したのだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 上記のような新たな秩序が構築された上に、新秩序を維持するための協定が結ばれる。

 『洛陽憲章』と呼ばれたこの憲章によって、“不当に条約を破ったした国に対し、その他の国々は集団で制裁する”という集団安全保障を目標とした声明文が発表された。各諸侯には『締結した条約の遵守』が求められ、一種の国際法として機能することになる。

 

 しかしながら集団安全保障体制の抱える本質的な弱点――各国の利害と国益、現状認識は一致せず、最終的には囚人のジレンマに陥り、協調よりも自国だけの利益を追求してしまう――は克服されなかった。集団の利益を自己の利益よりも優先させるためには、やはり何かしらの強制力を必要とする。

 

 かといって誰かにリーダーシップを発揮させれば、強者の一極体制に移行する危険性を孕み、力の無い纏め役では会議が纏まらない。結局、洛陽憲章では具体的な制裁手段について明言されず、「高度な柔軟性と多様な選択肢を維持しつつ、臨機応変に対応する」とされた。

 

 

 

 以上、1月にも及んだ会議の結果できあがった新しい中華の秩序は、後に『洛陽体制』と呼ばれる事になる。諸侯は定期的に、あるいは非常事態が起こった場合に会議を開く事を義務付けられ、“対話”によって諸問題を解消するシステムの構築が目標とされた。

 諸侯の独立性の維持、戦争の回避、勢力均衡。それらを支える洛陽体制の元で、中華は平和な時代の到来を迎える。

 

 しかしながら、その実態は大諸侯による中華の分割といっても差し支えのないものであった。弱小諸侯は周囲の大諸侯に隷属する状態に置かれ、民衆の苦しい生活も一向に変化しない。当然ながら弱小諸侯による反乱や一揆が頻発し、大諸侯は勢力拡大よりも領内統治を優先せざるを得なかったのだ。

 

 結局のところ、このシステムが機能した最大の要因は、大諸侯が勢力圏内の弱小諸侯を抑えつけるのに手一杯であり、反乱が自領に飛び火するのを防ぐ為に大諸侯同士の協調が必要だった事だとされている。

 

 

 

 いずれにせよ外戚や宦官によって弱められた中央政府の力が更に弱められ、漢王朝は統一・集権制を失う。同時に諸侯、地方豪族の自治権が保障されていき、洛陽憲章は『漢王朝の死亡診断書』とまで評されたのであった。

 

 これについては賛否両論があり、実際には既に起こりつつあった地方豪族の台頭を、ただ単に明文化しただけという見方も存在する。むしろ洛陽体制は漢王朝の延命を助長したとさえ主張する者もいるほどだ。

 

 なぜなら洛陽憲章で『諸侯の権利』定められた事は、それを保障すると同時に、定められた権利以上の力を持つ諸侯の発生を防ぐ効果をもたらした。誰かが覇権を握ろうとすると、それに抵抗する諸侯達が連合を組むことで、天下統一の野望を妨害してしまったからだ。

 

 

 結果、漢王朝は諸侯の危ういバランスの上で、その威光を取り戻す事は無かったものの、同時にそれ以上低下する事も無かった。逆に諸侯の権限は大幅に拡大され、そのまま共通の価値観となる。諸侯はもはや自領を漢王朝の一部というより、自分に固有の領土のように感じ、事実そのように扱った。

 

 これは洛陽会議における、劉勲最大の功績とも呼ばれている。諸侯の事実上の独立を認めると共にその認識・価値観を普及させる事で、特定の諸侯が皇帝の威光を盾に他を圧倒しようとする試みを防いだのだ。

 

 

 

 ――されどこれより2年後、諸侯の思惑とは裏腹に、歴史は再び動かんとする。平和への祈りが時として戦争を誘発するように、世界を止めようという流れが歴史の針を進めてしまう事もあるのだ。

 その発端となったのは、大陸の東に位置する青州。袁紹と公孫賛、そして青州黄巾党の入り混じる、混沌の大地だった。

 




 とりあえず現状維持の為の、勢力均衡の基礎づくりが完了。改革&拡大路線の曹操さんを外交で封じ込めるのが劉勲さんの狙いです。だってガチで戦争したら負けそうだし……

 世界史に詳しい方はすでにお気づきかと思われますが、モデルはウェストファリア条約とかウィーン体制とかです。
 個人的には世界三大外交官はタレーラン、メッテルニヒ、ビスマルクだと思ってます。次にリシュリュー、パーマストン、キッシンジャー辺りかな?面白いのは有名な外交官の殆どは、勢力均衡がポリシーなんですね。

 ちなみにイギリスは卓越した外交官はあまりいないけど、首相や外相のほぼ全員が並み以上の外交能力を持ってる点がすごいと思います。なんでも外交の専門家だったり、どっかの大使館で勤務した経験があったりする人間じゃないと絶対に外相にはなれないとか。アジアの国々にみたいに「党内の事情を考えて、適当に国のトップに近い人間にやらせるか」みたいな事はないらしいです。


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主人公紹介&勢力図&本作の人口動態

 凄まじく今さら感の漂う主人公紹介。人口動態も含めて、作者の独断と偏見が多少混じってますが、ご注意下さい。


   

 ― 劉勲 ―

 

 字:子台 / 真名?

 

 性別:女性 / 年齢:17を超えてから数えてないの(といっても、だいたい20歳前後)

 

 身長:165程度 / 体重:もう少し仲良くなったら3サイズと一緒に教えてあげる

 

 武器:不定(一応文官なので特に得意な武器は無く、適当。)

 

 武力:一般人より上。でも一般兵より下。マトモな武将に言わせれば「話になりません」。

 

 能力: 姑息な事は割と出来る。でも逆に言えばそれしかできない。目立ちたがりで自信過剰な割に地味な仕事が多い。それなりに功績も立てるけど、やたらとデメリットやら犠牲が多く、結局は差し引きゼロだったり。社交的で話上手だが、コイツが言うとなんか胡散臭い。

 

 概要: 本作品の黒幕系主人公。立位置的にスイーツ…もとい主人公(笑)な時がある。『中央人民委員会書記長』とかいう長ったらしい肩書きを持つ。

 容姿は美人に見えなくも無い部類(絶世の美女とかじゃなくて、カフェとかの美人ウェイトレスのレベル)だが、普段から軽薄そうな笑みを浮かべており、実際に腹黒い。

 性格はマイペースで掴み所が無い感じ。そこそこ有能なものの、自己中心的で出世欲と自己顕示欲の塊であり、人望は低い。所詮は俗物で小物。

 一応、転生者ではあるが、知識が裏目に出る事も少なくない。ちなみに曹操とは因縁?があるらしい。

 

 

 

 

 勢力図は http://6391.mitemin.net/i51905/ に載せてあります。よかったら見て下さい。

 

 

 

 西涼などはあまり国境線が明確じゃないので、敢えて一部しか定めてません。

 点線は、まだ境界が確定していないような曖昧な場所。袁術陣営は豫州を勢力圏内に入れてますが、あくまで間接統治で直接支配はしてない為、こちらも点線で。

 

 

 州別人口一覧(全部“約”です)

 

 ※作者の非常に個人的かつ雑な考察に基づいたアバウト人口なので、史実がこうだったとか言うつもりはありません。あくまでこの創作小説の中だけの話です。

 

 この時代は南方の開発や長江以南への人口移動が進み、北にある魏の人口はほぼ一定であったのに対して、南の呉と蜀の人口が増加しているので、揚・荊・益・交の4州は大目に見積もっています。

涼・幽・交の3州は人口が不明な群があるため、 州の総人口×群の総数/人口が分かっている群の総数 を四捨五入という形で算出させて頂いています。

 

 

 

  後漢の戸籍人口  不明人口分修正   

     

 司隷   310万                             

 豫州   620万                             

 冀州   590万

 兗州   400万                            

 徐州   280万  

 青州   370万                           

 荊州   630万                

 揚州   430万                 

 益州   720万                 

 涼州    40万   419268×12/11≒50万             

 并州    70万  

 幽州   200万   204462×11/10≒220万              

 交州   110万   1107475×7/5≒160万   

 

 

 後漢時代の戸籍に登録された人口に上の修正を加算すると4800万程度になります。更に戸籍に登録されてない人間が一割ほどいると考え、各州人口をそれぞれ一割増しします。

 ただし、三国時代を通して南方の人口増加・領土拡大、北からの人口移動が続いたらしく、魏の人口があまり変動しないのに対して、蜀と呉は人口が増加しているらしき描写があります。本作品でもそれを反映させて荊州、益州、揚州、交州は2割増しにしました

 

 

 戸籍未登録人口を含めた推定人口     

 一割、あるいは2割増しした後に四捨五入

 

 司隷   341≒340万                             

 豫州   682≒680万                             

 冀州   649≒650万

 兗州      440万                            

 徐州   308≒310万  

 青州   407≒410万                    

 涼州    55≒60万             

 并州    77≒80万  

 幽州   242≒240万                     

 荊州   752≒750万         

 揚州   520≒520万             

 益州   868≒870万            

 交州   186≒190万            

                 総人口は約5540万人

 

 

 おまけ

 

 夷洲  今の台湾のこと。wikipediaの「歴史上の推定地域人口」を見ると、1000年の時の推定人口が10万とされており、漢民族の移民が本格的に始まったのが明の時代あたりなので、人口の変動は少ないものと見なされ、たぶん5~10万ぐらい。

 

 

 

 勢力図

       曹操:兗州、司隷(京兆尹・馮翊郡・扶風郡を除く)にも影響力を持つ

       袁紹:冀州

       袁術:豫州(間接統治)、南陽群

      公孫賛:幽州(遼東以東を除く)

      公孫度:幽州(遼東以東)

       馬騰:涼州、司隷の京兆尹・馮翊郡・扶風郡にも影響力を持つ

       陶謙:徐州

       張楊:并州

       孔融:青州

       劉表:荊州(南陽群を除く)

       劉焉:益州(漢中を除く)

       張魯:漢中群

 李儒・李傕・郭汜:司隷 ただし、曹操と馬騰の影響力が強い。

 

 

 司隷がややこしいですが、第2次大戦直後の東西ドイツみたいなものをイメージして下さい。一応ドイツ政府はあって一応国家としての権利もあるけど、西と東でアメリカとソ連の勢力圏に分割されてるみたいな。

 

 

        




 ※地図は三国志DRIVE様から借りた素材を使っております。著作権的に問題があるようでしたら、即削除するのでお知らせ下さい。

 ちなみに張魯は漢中を支配していたそうですが、この地図では漢中が見つからなかったので、場所的に武都周辺にしておきました。


 人口はだいぶサバ読んでます。基本的に万の1の位は四捨五入。(例:69万だったら70万)
 後漢~晋の人口は、文献によって一定しておらず、三国時代に10分の1まで落ち込んだとかいう話もありますが、ここでは「戸籍が把握できて無かっただけ」説を採用します。三国統一時にはほぼ元の水準まで回復しており、三国時代が100年程度だったことを考えれば、ここまで急激な人口増減はおかしいと思ったのでこんな感じになりました。

 まぁ、後は恋姫世界では魏軍100万VS蜀呉70万とかいってますので、結構生き残ってたんじゃないかと想像。
 ドイツなんかは大戦通して7000万の人口で1800万従軍させるとか無茶やってたけど、一度に動員できるのは多くても人口の10%程度で、総動員制度が無ければ全人口の1~3%ぐらいだそうです。ちなみに一度の作戦に投入できる兵員数は、全兵力の3分の1ぐらいという話を聞いた事があります。

 恋姫のキャラが強制徴募で根こそぎ動員したとも思えないし、やっぱ5~6000万ぐらいはいたんじゃないかなぁと。


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35話:終わらぬ呪縛

   

 ――南陽群・宛城

 

 

 袁術陣営の本拠地でもある、この城に設けられた書記長専用の執務室は、その権力の大きさを表すかのような優雅なつくりになっており、高級なオフィス用品が置かれていた。

 

 部屋の主、書記長・劉勲の一日はまず、この日例報告を聞くことから始まる。国家保安、国防治安、外務開発委員会等によって大陸中から収集した情報の報告が行われ、外交・軍事・政治・経済情勢を検討するのだ。

 

「ふわぁ~……眠い……。つーか、メッチャだるいわ……」

 

 愚痴と共に大きなアクビをしつつ、劉勲は机の上の書類をめくりながら、情報を収拾すると共に要点を整理してゆく。馬騰との同盟や洛陽会議まではよかったが、本拠地である南陽群に戻ってからが大変だった。宛城に戻って疲れを癒す間もなく、洛陽に出向いていた“出張組”には、不在中に溜まっていた業務を一気に処理する羽目になったのだ。

 

 その上、最近では経済成長にも陰りが見え始めている。これは商人を権力基盤とする劉勲はもちろん、袁術陣営の幹部全員にとって見過ごせない事態だ。経済の現状分析から原因探しに解決策、そしてそれを実行する為の根回しといった作業を、書記長は政治外交と同時並行で進めねばならない。 

 となれば当然、劉勲の仕事も増える。

 

 

「なんでアタシがこんな朝早くから……。書記長ってエラいハズなのに……書記長ってフレックスタイム制のハズなのに……」

 

 一応、書記長自身の労働時間は「本人の自由」となっている。とはいえ、結局は他の部署とのミーティングやら会議やらを多数こなさねばならない為、それに合わせて朝早くから出勤せざるを得ない。オーバーワークを回避するべく、重要度の低い案件はまとめて賈駆辺りに丸投げ(研修やらOJTは無く、新人だろうが中途だろうが全て即戦力扱い)しているが、それでも何だかんだで忙しいのだ。

 

 

 

「――その様子だと随分疲れてるみたいね、劉勲。」

 

 呆れたような声と共に、賈駆がノックもせず執務室に入って来る。

 

「……なぁんだ……ただの賈駆か。で、何か用?」

 

「やる気薄っ!?……っていうか、『ただの賈駆』って何よ、ただの(・ ・ ・)って!」

 

 袁術陣営に加入して以来、賈駆は順調に出世している。董卓が西涼太守だった頃から、その統治を実際に支えていたのは賈駆であったし、一時は漢帝国の首都である洛陽の運営を取り仕切った事もある。最初こそ「元董卓軍の造反者が何の用だ?」という目で見られていたものの、優れた知力と組織運営の経験を生かして活躍し、次第に袁家主要メンバーの一人に数えられるまでになっていた。

 

 

「で、報告事項だけど……ボクが調べたところ、南方と西方の諸侯には特に大きな動きは無いわ。

 せいぜい馬騰さんが異民族との協調路線を推進した事で、不満を持った国粋主義者が朝廷に根も葉もない告発をしているぐらいよ。朝廷を牛耳っている曹操は気にも留めてないようだけど。」

 

 ちなみに賈駆のポストは『国家保安委員会』議長、つまりはスパイの元締めだ。かつて魑魅魍魎の跋扈する宮中を生き抜いた経験を買われ、現在では諜報分野で辣腕を揮っていた。

 

 賈駆は他の書類もめくってみるが、特に問題となるような事件は報告されていない。南の劉表は相変わらず中立堅持で内政に力を注いでるし、劉璋もこれまでと変わらず至って無難に益州を統治。西涼でも、馬騰の融和政策によって徐々に異民族とも打ち解けつつある。

 

(月、それにみんな……無事でよかった) 

 

 報告書を読み上げながら、命の恩人とも言える馬騰と、そして離れ離れになった大切な親友達の無事に安堵する。

 

 

 

「ねぇ賈駆、北の方はどうなの?」

 

「北、北は……遼東太守の公孫度が、幽州牧の公孫賛と争ってるみたい。遼東郡は高句麗にも近いし、公孫賛の影響も殆ど及んでいないわ。」

 

 公孫賛は遥か北方の地・幽州を手に治める、列強の一員だ。辺境地だったのが幸いしてか中央政治の混乱や黄巾党の影響が少なく、国力も比較的安定している。

 問題は優秀な部下が少ない事で、公孫賛本人と客将の趙雲ぐらいしかリーダーをこなせる人材がいない。趙雲は異民族討伐で忙しく、公孫賛は袁紹と争っているためにイマイチ遼東を平定できずにいた。

 

「今のところ、公孫度が遼東だけで満足しているのが唯一の幸運ね。向こうもそこまでバカじゃないってことかしら」

 

「う~ん、むしろ高句麗を気にしてるんじゃない?下手に公孫賛と争ったら背後からザクッとやられるかもだし。」

 

 助かった~、と息を吐きながら、劉勲は両手を組んで伸ばす。洛陽体制はそれなりにうまく機能しているようだ。

 だが、賈駆はそれはどうかしらね?とばかりに眼鏡をかけ直す。

 

「……安心するのは早いわよ。むしろ問題なのは東方の青州。州牧の孔融が、領内の袁紹派と公孫賛派による対立を抑えきれてないわ。このままだと最悪、3州を巻き込んだ戦争になるかもしれない。」

 

 どさり、と大量の書類が劉勲の机に置かれる。

 

「うげ………」

 

「ここに適当にまとめておいたから、今日中に読んどいて。」

 

「ぐっ……、なんでどいつもこいつも問題ばっか増やすのかしらねぇ!?戦後処理と景気対策だけでアタシもう一杯一杯なのよ!?」

 

 机の上に置かれた紙の束を忌々しげに睨みつけ、舌打ちしながら毒づく劉勲。

 

「じゃあ、ボクに任せてみる?ボクとしてはそれでも構わないけど?」

 

「賈駆ぅ~……アンタ、アタシが“よっしゃ、任せたわよ!”とか言えないコト知ってて言ってるでしょ?」

 

 いくら袁家に鞍替えしたからといっても、賈駆はもともと董卓軍の幹部だ。そう簡単に信用する訳にもいかず、彼女が行動するには劉勲のサインが必要となっている。

 

「ええ、知ってたわよ。知ってて嫌味で言っただけ。」

 

「~~~っ!」

 

 劉勲は苛立たしげに唸り、悔しそうに手に持った筆をぎゅっと握り締める。

 

「どこかの人間不信さんがもう少ぉーし信用してくれれば、それだけで作業効率だいぶ上がるのに勿体ないわねー。この前、ボクを“親愛なる同志賈駆”って呼んでくれたのは何だったのかしらねー。」

 

「くッ……、このメガネはまたネチネチと薄っぺらい正論を……!」

 

 

 何はともあれ、洛陽会議から2年……その間に青州情勢は不安定し、劉勲に重くのしかかっていた。

 

 元々青州の諸侯は主に袁紹派と公孫賛派に分裂しており、洛陽会議では比較的中立寄りの孔融を青州牧とすることが決定されていた。しかしながら上記の理由により、両者の仲を取り持たねばならない孔融は強いリーダーシップを発揮できず、黄巾党の動きが再び活発化してしまったのだ。

 

 更に青州の動乱を利用せんとする袁紹派と公孫賛派による、水面下で権力闘争までもが激化。抗争は北方にまで及び、并州でも両派閥の間で激しい駆け引きが行われる始末だった。

 そのうえ冀州から并州にかけて、黒山賊と呼ばれる反政府勢力が蜂起し、公孫賛陣営と結託。冀州を治める袁紹陣営と激しい争いを繰り広げており、勢力均衡を国是とする袁術陣営にとっては目が離せない状態であった。

 

 

 

「同志書記長、ご報告申し上げます。」

 

 そんな中、一人の部下が報告に現れる。

 

「あら、こんな時間に何かしら?」

 

「はっ。先ほど孫家から使いの者があり、どうしても同志書記長に紹介したいという人物がいると……」

 

 伝える方もよく内容が分かっていない、部下の様子からはそんな事情が推測できた。

 

「はぁ?何考えてんのよアイツら……。何なの?仕事に追われるアタシに対する新手の嫌らがせ?」

 

「なるほど、そういう手もあったわね……。ボクも今度やってみようかしら?」

 

「……アナタ、絶っ対まだ洛陽でのコト恨んでるでしょ?ていうか、ぶっちゃけアタシ嫌いでしょ?」

 

「うん」

 

 堂々と本人の目の前で黒い本音を漏らす賈駆。しかも間髪入れず、きっぱりと。

 

「サラッとそーいうコト言わない!薄々気づいてたケド!でもせめて迷う素振りぐらいは見せてよ!?」

 

「人間、素直が一番よ。」

 

「うっさい!……つーかもう帰れ。業務妨害だからいい加減にかーえーれー!」

 

 劉勲はそこはかとなく悲しい言葉で喚きながら、賈駆を部屋から追い出す。

 

 

「……で? まさか本当に孫家の嫌味だったりしないでしょうね?」

 

「いえ……何でも優秀な人物なので、同志書記長に会わせたいと。去年から孫家に雇われたらしいのですが、履歴書を見る限り書類処理には稀有な能力を有しているそうです。

 また、ご本人にも話を伺ったところ、大胆にも副官の地位を希望しているそうです。」

 

「副官、ねぇ……ますますワケが分からないわよ。面会と見せかけた暗殺――にしては杜撰すぎるし……。かといって文字通りの意味に受け取ろうとしても、『優秀な人物』とやらをアタシの副官に推薦して孫家に何のメリットが?」

 

 

 いぶかしむ劉勲だったが、ひとまず会見を許可する。孫策はともかく、孫権や周瑜辺りが嫌らがせでこんな事をするようには思えない。必ずや何か別の理由があるはずだ。

 

「……一人で考えててもしょうがないか。とりあえず、その孫家の回し者を部屋に入れてあげて。」

 

 実際、興味が無いわけでは無い。むしろ、あの生真面目を絵に描いたような連中が『どうしても』と頼むぐらいだから、気にするなという方が無理な相談だ。

 しばらくすると一人の背の高い、整った顔立ちの男がいくつもの書類を抱えて現れた。

 

 

 

「初めまして、同志書記長閣下。本日はお忙しい中、私のような者の為に貴重な時間を割いて頂き、恐悦至極に存じます。」

 

 男はそう言って恭しく一礼する。細かな仕草の一つ一つにも気品が感じられ、劉勲には相手が自分と同じ、いやそれ以上の上流階級出身であることを瞬時に悟った。

 

「ご機嫌よう、劉子台ですわ。僭越ながら、袁家で書記長を務めさせていただいております。」

 

 営業スマイルを顔に張り付かせ、慇懃に返す劉勲。制服の襟を大きく開け、胸元を強調するように腕を組む。

 

「それで、本日はどのような用件で?一応話は聞いておりますけど、出来れば本人の口から明言して欲しいもので。」

 

 劉勲は口調こそ穏やかなものの、内心では警戒を隠せないでいた。てっきり孫家の中から誰かが派遣されたのかと思っていたが、目の前の男が纏う雰囲気は全くもって孫家らしくない。

 

 

「伝令の方に伝えた通りです。この私を、貴女の下で使っていただきたい。」

 

「どうしてかしら?」

 

 劉勲には曹操や孫策、劉備等と違って人間としての魅力はさほど無い。英雄の器でも無いし、まさか黄巾党相手にワイロ渡すような人間に、天命を感じた訳でもあるまい。

 

「おや?理由など、言うまでも無いと思ってましたが……かつて三公を輩出し、中華にその名を轟かす名門袁家。若くしてその頂点の一角を占められた、才色兼備の女性に仕えたいと思う理由など、改めて一つ一つ挙げる必要があるのでしょうか?」

 

 だが、彼女には名門袁家における地位とコネ、財力、そして権力がある。それは非常に俗な力かもしれないが、同時に平凡な(・ ・ ・)人間が強く求める力でもあるのだ。

 そう、世の中は非凡な英雄だけで成り立っているのではない。「天命」「世直し」「忠義」「平和」等といった理想に燃える余裕(・ ・)のある人間など、本当に一握りに過ぎない。

 

「貴女の元に仕え、その富の欠片でも頂けたら、と。私のような矮小なる人間には、袁家の誇る資金力と支配力、その類の圧倒的な『力』が、とても眩しく思えるのですよ。」

 

 多くの人間はその日を生きる為に、金・コネ・地位を必要としている。そういった『普通の人間』は名門袁家という『分かり易いブランド』に憬れ、惹かれ、その看板の下に集う。袁家の者が事ある度にに「名門袁家」を引き出し、盛大な宴会を開き、豪奢な衣装に身を包めば、それだけ民衆の羨望もまた集まる。

 表向きは袁家の派手な行動に眉を潜めつつも、やはり内心ではゴージャスな生活に憧れているのだ。

 

 

 

「まぁ、理由としては至極在り来たりね。不審でも無ければ、とりわけアタシの関心を引くものでもない。出来れば、もう一押し欲しいわね。キミ、何か特技とか実績とかある?」

 

 目の前の男がそれなりに教養のあり、家柄も高い人物である事は既に察している。だが、それだけではいそうですか、と採用する訳にもいかないのだ。

 しかし男の方はというと、困ったような表情で劉勲に問い返す。

 

「残念ながら、先の戦役で身元を保証するモノは残っていないのです。一先ず採用していただき、どうしてもお気に召さないようでしたら、解雇するなり処分するなりして頂けませんか?」

 

「へぇ、一応命がけで仕えようという度胸はあるんだ。……でもお断り。どうしても仕えたいんだったら、普通に面接でも受けて就職してから人事部に頼んで回してもらえば?アタシからも推薦状、書きましょうか?」

 

 男の持つ書類をちらっと見て、劉勲がおどけるように言った。二人の視線が一瞬、絡み合う。男は苦笑すると、もう一度息を吸って言葉を返した。

 

「お心遣い、感謝いたします……ですが、結構です。

 仰るとおり、普通なら地道に出世していくべきなのでしょう。ですが私は欲深い人間でしてね……今すぐにでも袁家の威光、その残光でも手に入れたいのですよ。そこで、こんなものはいかがでしょうか?」

 

 男は手に持った紙の束から、一綴りの束を手にとって劉勲に渡す。そこには彼が考え得る限り、劉勲が喜びそうな情報が書かれている。一枚、二枚とめくってから、劉勲はゆっくりと顔を上げた。

 

 

 

「これ、朝廷の有力者の汚職一覧よね……?」

 

 そこにびっしりと書かれていたのは、この世の全ての犯罪を載せたのではないか、というぐらい多種多様な汚職のリストだった。ある意味国家機密に等しい重要情報であり、どの諸侯も喉から手の出るほど欲している情報だった。そしてそれは劉勲とて例外では無い。交渉の基本は、常に相手の望む物を提供する事なのだ。

 呆けたような劉勲の呟きに小さく頷くと、男は残念そうに溜息をついた。

 

「はい。私はもともと、宮中で役人をやっていましてね。真に遺憾ながら、今の漢王朝にはこんなにも汚職が蔓延っている。

 名士への歓待費用、外戚への莫大な不正献金に、宦官に対する賄賂、それと諸侯の買収費用……収賄だけでもこの有様です。それに加えて脱税、脅迫、略取、誘拐、横領、通貨偽造とキリがありません。ですが……」

 

 たかが情報、されど情報。文字にすればたった一行すら無い情報を集める為に、何人もの人間が命を落とした。それを今、自分は目の前の女に渡そうとしている。それは若き日の自分と仲間達が血眼で集めた、虎の子の情報の結晶だった。

 

 

「……貴女なら、有効(・ ・)に使ってくれるでしょう。」

 

 後悔は、無い。かつて董卓軍に洛陽が占領された時、この紙切れは何の役にも立たなかった。純然たる力を持つ剣の前では、筆の力はそこらの棒切れと変わらなかったのだ。

 

「これでもまだ、不服でしょうか?」

 

 

 

 劉勲はしばらくの間無言だった。

 確かにこの情報は非常に有効だ。本音を言えば、このまま採用してもいいと思えるほどに。だが、まだこの男は何かを隠している。

 何となくそんな雰囲気を感じた劉勲は、まずは在り来たりな正論を口にした。

 

「いやぁ、本音を言えばアタシもこの場で即採用してやりたいわね。

 ただし……アタシにも立場ってモンがあるのよ。袁家の中枢に位置する人間が身元の不確かな人間をその場で採用する事が、どれだけ厄介なのか分かって言っているのかしら?」

 

 抜け目なく、値踏むように視線を送る劉勲。相手の全てを搾り取るかのような姿は、まさしく高利貸しのそれ。

 

 だが、次に男から帰って来た答えは、劉勲の予想を超え――それでいて彼女の関心を喚起するには、必要以上に効果的なものだった。

 

「ここに――」

 

 抑揚のない声で男はそう言い、懐に手を入れる。思わず暗殺を警戒して身構える劉勲だったが、男の懐から出てきたのは剣でも無ければ暗器でも無い、一通の上質な手紙だった。

 

 

「――孫家当主・孫伯符ならびに孫家筆頭軍師・周公瑾、両名の直筆の推薦状が。」

 

 

 そこには孫策、周瑜が自分で書いたであろう署名と、男の身元を保証する旨が書き込まれていた。はっきりと印鑑も押されており、孫家公認の推薦状である事は一目瞭然だった。

 

「私の事は別段、信じて頂けなくても構いません。ですが――」

 

 続く男の言葉が、劉勲に決断を迫る。

 

 

 

「――私を信じる、孫家のご両名……彼女らの判断を信じて頂きたい。」

 

 

 

「なっ……!!」

 

 その言葉に、劉勲は唖然とするしか無かった。

 孫策と周瑜――己より、遥かな高みにいる存在。それは、劉勲の余裕を失わせるに充分過ぎる単語。まんまと乗せられたと分かっていても、無視し得ない。それほどまでに、彼女達の存在は大きかった。

 

「ッ!……言ってくれるじゃない……」

 

 舌打ちと共に、不快さを全面に押し出した声が漏れる。決して大きくはないが、誰もが感じ取れる明確な苛立ちを含んだ声。

 それは、つい最近賈駆の前で見せたものと寸分違わぬ声だった。突如として彼女から放たれた桁外れの情念は、そのまま不可視のプレッシャーとなる。現実には有り得ないと分かっていても、男には部屋の空気の密度が増したように感じられた。

  

「……キミを信じる、孫策と周瑜を信じろ……か。」

 

 たった一言。

 だがその一言は、彼女の最も深い部分を抉り、完璧に装っていたはずの劉勲の仮面を、一瞬にして引き剥がしたのだ。

 

 あの二人が言うからには、恐らく目の前の男は本当に使える人間なのだろう。黄巾党の乱における自身の不様な失敗と直後に孫呉の見せた鮮やかな勝利は、劉勲の心の奥深くに刻みつけられ、今や逃れられない呪縛と化している。どれだけ理屈で否定しようとも、心中では「あの二人に間違いなど無い」という信仰にも似た確信があったのだ。

 

 孫策と周瑜――規格外のバケモノ。その圧倒的な『武』と『知』は、無視するにはあまりにも大き過ぎる。ならばそれはきっと、自分の浅はかな知恵を軽く上回るに違いない。

 認めたくはないが、同時に認めざるを得ない事実。乗るか、反るか――劉勲の中で相反する理性と感情が渦巻き――

 

 

 

「……いいでしょう。」

 

 結局、劉勲は孫策と周瑜の判断を信じる事にした。いや、そうせざるを得なかったのだ。

 いいように踊らされた感はあるが、一銭ほどの価値も無いプライドを優先できるほどの余裕が、自分には無い。今はまだ、『力』を蓄える時だ。

 

 

「キミのコトを信じる、孫家の二人。彼女達の言葉を……信じましょう。」

 

「同志書記長のご英断、感謝致します。」

 

「……それはそうと、どう呼んで(・ ・ ・ ・ ・)欲しいか(・ ・ ・ ・)教えなさい。じゃないと不便でしょ?」

 

 名前を教えろでは無く、どう呼んで(・ ・ ・ ・ ・)欲しいか(・ ・ ・ ・)。その言葉を聞いた男の顔に、作り物の笑顔とは違った別の色が浮かぶ。

 

(……やはり、私がワケありであることに気づいておりましたか。どうやら袁術陣営も相手の素性に関係なく、人材を欲しているという噂は間違いではないようですね。……あるいは――)

 

 

 

 ――それほどまでに劉勲は、孫策と周瑜を評価しながら……同時に、ひどく恐れている。

 

 

 

 恐怖するほどの憧憬。類まれな能力を慕いつつも、それを憎まずにはいられぬ二律背反。なんとも矛盾した劉勲の渇望に、男は思わず苦笑してしまう。

 

 彼女は明らかに孫策と周瑜を避忌し、嫌悪している。そのくせ負けたくないと、自分も同じモノになりたいと、狂おしく焦がれているのだ。なにが彼女をそうさせるのかは分からない。ただし、憎悪と羨望――優れた人間への矛盾した想いは、劉勲の行動原理に大きく関わっているのだろう。そしてそれは見ず知らずの他人が、これ以上不用意に踏み込んで良いものでは無い。

 

 

「書記長閣下の御厚意、感謝いたします。私の事は秦翊、もしくは閻象とお呼び下さい。実際、名前は捨てたも同然なので。」

 

「へぇ……ちなみに今言った二つの呼び名、どう違うの?」

 

「5日ぐらい前に考え付いたのが秦翊で、5分前に考え付いたのが閻象です。両方とも、パッと頭に浮かんだ知り合いの名前を適当に組み合わせただけです。」

 

「うわぁ、ぶっちゃけたよコイツ……まぁ別にいいケド。怪しい部下はキミが初めてでも無いし。」

 

 素性の知れない人間など、袁術軍には山のようにいる。元犯罪者、権力闘争で追われた人間、他国のスパイ……数えればキリが無い。そもそもロクに情報技術が発達していないこの時代において、身分を保障できる人間の方が少ないのだ。ある程度実力主義を採用すれば、いかにもワケありといった人間が集まるのはごく自然な流れと言えよう。

 

「では閻象、キミに新たな仕事を授けよう。」

 

「ご命令とあらば。」

 

 芝居がかった仕草で、劉勲は命令を下す。それに応える男の返答もまた、必要以上に恭しい。一筋縄ではいかない者同士の、倒錯した同盟。その最初の命令は――

 

 

 

「――不安定化しつつある青州情勢に対応するべく、袁紹陣営との対談を行うわ。その為の場と時間、各方面へ許可を調査・調整・申請しなさい。」

 

「袁紹……ですか?」

 

 やや戸惑ったように、閻象が訝しげな目を向ける。

 確かに袁紹の治める冀州は青州の隣であり、青州に強い影響力を持っている。彼女の力を借りて黄巾党の乱を鎮圧するというのも手だが、それでは袁紹が青州に勢力を拡大してしまう。それに袁紹はたびたび袁家による覇権を唱えており、勢力均衡を国是とする袁術陣営とは相容れないはず。

 

「別に、袁紹陣営の力を借りるとは言って無いわよ。そもそも袁紹陣営なら、自領と并州に出没する黒山賊の対応、そして公孫賛陣営への牽制で手一杯だし、青州に出兵する余裕なんて無いわよ。」

 

「では、なぜ……?」

 

 これでは、ますます分からない。確かに青州の動乱を抑える為に、袁紹陣営との会談を開いたからと言って、その目的が軍事援助だけとは限らない。だが、袁紹陣営と会談を開く理由に、他に何があるというのか?

 その答えの在り処は、元凶である青州にも無ければ、袁紹の治める冀州にも無い。その二つの州と、袁術の勢力圏である豫州の間――曹操の治める兗州にあった。

 

 

「黄巾党の乱による、青州の不安定化。この絶好の機会を、あの(・ ・)曹孟徳が逃すはずが無いわ。必ず、あの子は動く。だから……アタシ達はその先手を打つのよ。」

        

  




今話の要約

閻象:「いいか劉勲、忘れんな。孫策と周瑜を信じろ!
 俺が信じるお前でもない。お前が信じる俺でもない。
 お前が信じる、あの2人を信じろ!」

 なんかグレン○ガンっぽい台詞だけど、言いたい事は大体あってる。


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36話:偽りの平和

        

 ――国の役割とは何か?

 

 この質問に対する最も一般的な回答は、「国益の追求」であろう。しかし、国益は追求すればするほど、他国の疑心を掻き立てるというパラドックスを内側に孕んでいた。

 

 2つの国の内、1国が国力を強化すると、もう一方もに対抗して国力を強化する。これらが悪循環すると、やがて手段と目的が逆転してしまう。国を豊かにする為の国力増強が、逆に際限のない軍拡などを引き起こし、却って国を圧迫することがあるのだ。

 中でもそれが顕著なのは安全保障であろう。人類はその長い歴史の中で、いくつもの思考錯誤を重ね、安全保障について研究をしてきた。

 

 その英知の結晶が、安全保障の3つのモデル――覇権、勢力均衡、集団安全保障――を生み出した。

 

 

 『覇権』とは、他と比べて圧倒力的なパワーを持つ「覇権国家」が周辺諸国を主導的に指導、統制する安全保障モデルである。

 長期にわたって一国が不動とも思われる独裁的な地位・権力を掌握するために大きな安定性を持つ反面、敵対者を滅亡させる傾向が強く、国が大きくなりすぎるゆえ、内部分裂の発生、寡占化・競争の減少による経済力の疲弊など、内部要因が元でしばしば破滅的な崩壊に至る。

 

 

 『勢力均衡』とは、各勢力間のパワーに一定の等質性を与え、一つの勢力が強大化しないように勢力を拮抗しようとするモデルである。

 具体的にはいくつかの勢力が利害関係については相互に妥協・協調し、処理して秩序を維持しながら突出した脅威が生み出されることを抑制し、戦争の誘因を低下させることが目的とされる。一番現実的な政策ではあるものの、敵対者の存在が前提であり、均衡維持の為に複雑な同盟関係を作り上げる事は、却って疑心暗鬼を掻き立てる結果となる。

 

 

 『集団安全保障』とは各種条約によって敵も含めた国際的な機関を構築し、不当に平和を破壊した勢力に対し、その他の勢力が集団で制裁を加える安全保障モデルである。

 最も平和志向で理想的とされるも、現実には各勢力の利害や脅威、認識が一致することはまず無い。各勢力の安全は一体ではなく、むしろ差し引きゼロ――すなわち、一方の安全は、もう一方にとっての脅威となる関係だからだ。加えて各自がいかなる場合においても、自身の利益よりも集団の利益を重視せねばならず、最も実現困難な安全保障モデルといえよう。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 これまで平和の維持には、儒教でいう『徳』が必要だと考えられていた。しかし劉勲は全ての諸侯が野心を持っていても、平和を維持できると考えた。

 

 仮に、全ての諸侯がほぼ等質なパワーを持っていたとしよう。

 その場合、諸侯の誰かと誰かが戦争をすると、勝った方は負けた方のパワーを吸収し、他者に抜きんでる事となる。となると、残りの諸侯は自分が覇権を握れないと分かれば、今度は他人が抜きんでたパワーを持って覇権を握る事を阻止しようとする。すなわち、他者の戦争に干渉し、どちらかが決定的な勝利をおさめないように介入するのだ。

 

 ――かくして中華の平和を守るのは、中華の支配を目論む諸侯自身となる。

 

 

 

 袁紹軍筆頭軍師・田豊、ならびに袁紹軍2枚看板の片割れ・顔良の二人が、劉勲から聞かされた話は、以上のような物だった。洛陽会議から半年以上たった今になって、袁術陣営から突然、面会の申請が届いたのだ。しかも他の諸侯には知られぬよう、内密に。

 

(うわ~、なんか話が凄く難しい……)

 

 劉勲の話を聞く顔良の顔には、不安と緊張が入り混じっていた。本来彼女は武官なのだが、訳あって文官の仕事を任される事も多い。

 

(文ちゃんはアレだし、田豊さんは麗羽様に避けられてるから……)

 

 要するに田豊は有能だが、本人が直接袁紹に伝えるには難があるため、連絡役として顔良が宛がわれたのだった。ちなみに隣にいる田豊は先ほどからずっと気難しい顔で、劉勲の演説を真剣に聞いている。

 

 

「……と言うワケで、これからの中華の秩序・安全保障について、お二人に話がありますの。」

 

 濃紺と灰色の制服を纏った女性、劉勲はそう言うと、つい先ほど持ってきたティーポットから、紅茶をカップに注ぐ。

 

「どうぞ」

 

 劉勲はティーカップをお盆から取り、向かいに座る2人に渡した。淹れたての紅茶からまだ湯気が立っており、甘い香りが漂う。

 

「これは……見慣れないお茶ですね。」

 

「紅茶、というお茶ですわ。これはこう、蜂蜜を垂らして頂いた方が美味しく頂けますの」

 

 個人的な趣味で、劉勲は紅茶を作っていた。紅茶の作り方をかいつまんで説明すると、収穫した茶葉をしおれさせた後に揉み潰して再び放置し、茶葉が褐色に変化したところで乾燥させる。この作業を繰り返す、というもの。

 とはいえ、劉勲自身は紅茶の専門家でも何でもなく、より正確に言うと出されたのは紅茶モドキ。だが、そこに蜂蜜をたっぷりと垂らすことで、うまい具合に味を誤魔化している。同時に高級嗜好品である蜂蜜の大量使用によって、袁術陣営の誇る財力・経済力をさりげなくアピールする事もできるのだ。

 

 

 

「なるほど……南陽群は黄巾党の乱で大きく荒らされたと聞いていたが、着実に立て直しが進んでいるようで何より。我らも同じく(・ ・ ・)袁家の人間、同家の復興は心強い事この上ない。」

 

 劉勲の意図を敏感に感じ取った田豊は、嫌味にならない程度に牽制をかけた。その上で同じ家であることを強調し、場を取り繕う。

 

「ええ。我々としても、同じ袁家の人間としてそちらを頼りにしておりますわ。そう、我々が仲良く(・ ・ ・)手を取り合えば、この中華の平穏を乱す不埒者を打ち破る事など、造作もありません。先の董卓討伐においても、こうして我々が手を取り合ったからこそ、こうして再び中華の大地に平和(・ ・)正義(・ ・)とをもたらす事ができました。

 先の会議では新たな中華の秩序が決定され、長い歴史と由緒正しき伝統ある名家と、数名の新参者が州牧に叙されましたわね。しかしながら……果たしてこの状況、我々にとって望ましいものでしょうか?」

 

 

「会議を主導したのは、他でも無い貴公であろう?これはあくまで推論だが……あの会議の結果は、貴公とその主人にとって、満足のいくものであったはず。なにゆえ、そこまで気にかけるのだ?」

 

 袁術が直接治める南陽群、間接的な支配下にある豫州はどちらも四方を、曹操や劉表といった他の諸侯に囲まれている。ゆえに劉勲は洛陽の戦後処理会議で、各諸侯のパワーが拮抗するよう慎重に調整し、結果的に勢力均衡を達成できたはず。

 

「……残念ながら、今の質問についてはお答えしかねますわ。

 ただし、仮に我々にとって望ましい状況が達成されたとして、その安全保障は不変のものではありません。望ましい状況というものは、達成する為に努力を怠ってはならず、達成されてなお不断の献身を要求するもの。常に、いかなる時も、あらゆる場所に敵は存在するのですから。

 問題は、いささか過激な思想を持った者達が、着実に力を付けつつあるという現状ですわ。」

 

 

 洛陽会議での対立要因の一つに、分離主義と統一主義の対立があった。明確な派閥こそ組んでいないものの、両者の考えの違いはしばしば会議を紛糾させた。

 

 分権主義者には袁術、劉表、劉璋などが属し、地方分権路線を追求する事で、漢王朝から事実上の分離独立の傾向を強めている。よって地方分権と勢力均衡を支持す中・小諸侯が多く、洛陽会議は『一人一票の原則』に基づいて、分離主義者主導で進められていた。

 一方で統一主義者の中心は、曹操や袁紹などの諸侯だ。統一主義者の殆どは衰退しつつある中華のを憂い、自らの手で現状を改革しようという考えを持っている。分離主義者とは対照的に中央集権的な考えの人物が多く、必然的に覇権主義的政策を取る事が多い。

 

 

「確かに、改革を志す者の中に過激な一派がいる事は認めよう。

 だが、それでも今の中華には変革が必要なのだ。それが我らの総意であり、そこに再考の余地は無い!」

 

「……ですが、曹操を始めとする一部の過激派の危険性は周知の事実。放置するには不安要素が過ぎないでしょうか?」

 

「フッ、その点については同意しよう。我らとて、己の力を過信しているような若造に、国を預ける気など万に一つも無い。

 長年に渡って漢王朝を支え続けてきたのは、我ら袁家の人間よ。ならば漢王朝は、高貴なる血筋の頂点に位置する名門・袁家によって再生されるのが筋であろう。」

 

 意外なようだが、袁紹はああ見えて漢王朝、ひいては皇室への忠誠心が意外なほど強い。

 袁家の人間には、長きにわたって漢王朝を支えてきたという自負がある。ゆえに袁紹もその例に漏れず、自分こそが皇帝を“支えるのにふさわしい”人間だと考えていた。

 

「有象無象の連中が勝手に中華の大地を跋扈し、飛び入りの新参者がこの国の未来を担う――そのような事が、あっていいはずが無い。そう……漢王朝を支え、この国の民を導く事こそが、天が我ら袁家に課した使命なのだ。」

 

 袁紹(本人と言うより彼女の重臣たち)も統一主義者の一人であったが、袁紹陣営には名士が多い事もあって比較的穏健な部類に入る。曹操らの台頭を警戒しているのは袁紹陣営も同じ。ただし袁紹は曹操と違って、漢王朝そのものを滅ぼし、新しい王朝を開く気は無い――田豊が伝えた内容は、大まかに言うと以上のことだった。

 

 

 

「なるほど……そちらの考えはよく分かりましたわ。」

 

 劉勲は心得たとばかりに頷き、しばらく頭の中で利害関係を整理する。考えがある程度まとまった所で、改めて確認の為に田豊を見つめ、相手の沈黙を肯定の意と判断して先を続けた。

 

「ですが、まだ(・ ・)お互いに、直接利害が衝突している訳でもありません。ならば利害が衝突するその時まで、積極的な敵対行動を取る必要もないのでは?」

 

「えーっと……それってどういう意味ですか?」

 

 それまで無言で両者の話を聞いていた顔良が、疑問を口にする。

 

「その、わたしには劉勲さんの意図が良く分かりません。いずれ敵対すると分かっている相手と、協定を結ぼうというのですか?」

 

「そう申し上げたはずですが、何か問題でも?」

 

「それは、その……劉勲さんとわたし達では目標も、安全保障に対する考え方も違います。仮に結んだとしても、すぐに敵対することで破綻するかと。」

 

「ええ。仰るとおり、現状に対する基本的な相違は隠せません。そしてその事実はこれからも変わる事は無いでしょう。……とはいえ、今すぐ我々が直接対決すれば、漁夫の利を狙う者も出てきます。それはお互いにとって望ましくない展開だと思いますが?」

 

 現状の体制に反対する者と、賛成する者。突出した勢力が存在しない以上、どちらも相手に対抗して連合を組むことが予想される。そうなった場合、豊富な資金力と政治力を持つ袁家はかなりの確率で盟主として祭り上げられるだろう。分離主義と統一主義、対立する二つの動きが袁家を、そして中華を2分する。だが、実際に戦争となれば袁家はその矢面に立たざるを得ず、勝っても負けても大きく疲弊してしまう公算が高い。

 

 

「我々は平和な現状の維持を望んでいますし、その為の努力を惜しむつもりはありませんわ。

 ……しかし残念ながら、この目論見は長続きしないでしょうね。均衡による平和とは、人が維持するにはあまりに繊細なものですのよ。悲しい事に、ほんの些細なきっかけで瓦解しかねません。」

 

 

 劉勲は洛陽会議で極めて反動的な、勢力均衡に基づく秩序を構築することに成功している。しかしながら、劉勲自身はこのシステム――相互の対立を共通の価値観によって克服し、各自に自制を要求する――に全幅の信頼を寄せていなかった。

 共通の価値観を持たない者同士の条約とは、遅かれ早かれ破られるもの。曹操らがいつまでも黙っているとは考えにくい。現に青州黄巾党の活性化を受けて、曹操陣営は不穏な動きを見せている。来るべき洛陽体制の破綻――劉勲はそれを見越した上で、新たな対策を打つ必要に迫られていたのだ。

 

「既に水面下では均衡を崩そうとする者たちが、徒党を組み始めており、それを完全に封じることは至難の技です。

 ならば次善の策として、望ましい者に托せる道があるのでしたら、それに越した事はありませんわ。仮に中華が二分された時、他ならぬ袁本初様に統一主義者達の盟主となって頂きたいのです。」

 

 

 段々と、顔良にも劉勲の考えが読めてきた。

 劉勲は、いずれ分離主義と統一主義の対立は避けられないと予測している。だが。そうなった時に曹操らが統一主義者の盟主になるより、穏健な袁紹に盟主になってもらった方が都合が良いのだ。顔良にしても、袁紹が統一主義の盟主になる事そのものには異論は無い。

 

 

 

「勿論、我々も可能な限りそちらに配慮し、同志達が暴発しないように工作を行う用意がありますわ。お望みでしたら、華北の争いには極力口を挟まぬよう努力致しますが……どうでしょう?」

 

「……我らはその代り、そちらの陣営が華南で優位に立てるように取り計らう。二つの袁家で中華を二分して各地の諸侯を管理し、共通の脅威を排除するべきだと、そう言いたいのだな?無論、表面上は互いに敵同士という事になろうが。」

 

 田豊が内容を確認するように、劉勲に尋ねる。

 同じ統一主義者いえども、急進的な曹操と穏健な袁紹では意見の対立も多い。しかし、一旦同盟を結べば互いに勝手な行動をとる事は出来なくなる。いくら曹操でも単独では資金や名士の協力が得られないため、袁紹からの同盟要請があれば承諾せざるを得ない。両者の間に同盟を組ませることによって、曹操を間接的に抑制するのが劉勲の狙いなのだろう。

 田豊はそのように予測したが、どうやら正解だったようだ。

 

 

「ええ。願わくば、情報の共有も加えてはいただけませんか?我々が円滑な意思疎通を行う為にも、必要な事だと思いますの。」

 

 各諸侯がバラバラに動くようでは、先を見通すのはどんなに聡明な人間でも難しい。両袁家で情報を共有できれば、敵対勢力の情報を容易に得られ、戦略を立てる上で大きなアドバンテージとなる。更に情報が共有されていれば、お互いに妥協点を見つけ出す事も容易だ。

 

 更に、統一主義者を袁紹が、分離主義者を袁術が取り纏めることで、必要以上の争いを抑制できる。同時に曹操のような共通の敵を、コントロールされた戦争の中ですり潰し、最終的には袁紹と袁術の2大ブロックに各諸侯を収束させてゆく。

 

 『天の御遣い』風に言えば、ブルボン家とハプスブルク家が2分した近世ヨーロッパや、アメリカとソビエトの冷戦がそれに相当するのだろうか。個々の事例を見れば、各勢力は臨機応変に立ち位置を変えているが、盟主となった勢力は自陣営に対して大きな影響力を持つ事が出来た。世界は各ブロック内で『冷たい平和』を甘受し、民族・宗教問題は力で押さえつけられていた。

 

 

「もっとも、そこまで計画通りに事態が進んでゆくとは思っておりませんが……これからの中華の歴史の流れを、袁家主導で進めてゆく。その一点については、お互いに合意できるはずです。」

 

「結構。それでは密約内容を確認した上で、我らは貴公の提案に同意しよう。」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――後日、後世で『二袁協定』と称された秘密条約締結が締結される。

 

 この秘密条約によって基本的には華北を袁紹の、華南を袁術の勢力圏とする事が定められ、両者は秦嶺・淮河ラインで分けられる事が決定された。定期的に情報を共有する事も決められ、両袁家は情報戦において他諸侯より優位に立つ。具体的には、同盟を結んだ諸侯の情報は全て、盟主である方の袁家を通じて、相手側の袁家に筒抜けとなっていたのだ。

 無論、味方にも情報をギリギリまで秘匿するという方法はアリだが、何の事前連絡も無しに行動を起こせば、味方から袋叩きにされても文句は言えない(裏切り防止の為)。

 

 

 これ以降、袁術陣営は南の揚州・交州を中心に活発な投資を行うと共に地元豪族の懐柔を行い、徐々に植民地主義的傾向を強めていく。

 時を同じくして、袁紹は曹操に接近。

 名目上の理由は“中華の平和を脅かす馬騰・袁術協定への対抗”だったが、当然ながら世間では袁紹の覇権・拡張主義の一環と受け取られた。実際、袁紹は献帝を擁する曹操と結ぶことで皇帝の威光を得ると共に、自領である冀州南部の安全を確保している。

 

 曹操もまた袁紹と接近することで、名士の支持と資金を獲得し、以降3年の歳月をかけて、急拡大した領土の統治を盤石なものとしてゆく。その一方で自らに敵対的な名士を積極的に袁紹に登用させ、反対勢力を宮中から穏便に排除。北に隣接する袁紹と同盟を結んだ事は同時に、周囲を他州に囲まれている曹操の本拠地・兌州の抱える地政学的な不利を大幅に改善。

 結果、袁紹・曹操の接近によって曹操陣営の持つパワーは、以前にも増して強大化したのだった。だが、あまりにも急拡大した曹操陣営は却って諸侯の警戒と不安を招いてしまい、外交で孤立してしまう。

 

 

 

 対照的に興味深いのは、袁術陣営のとった政策である。袁術の本拠地は荊州・南陽群であり、地政学的な不利に置いては、曹操、袁紹となんら変わらる事がない。

 しかし、袁術陣営は上の二人とは違った行動をとった。周辺の脅威に対抗する為に『覇権』を選択した両者と異なり、袁術陣営は『勢力均衡』――バランスを保つ事を外交政策として明確に掲げる事で、多くの中堅・弱小諸侯の支持を得る事に成功したのだ。

 

 

 当時の中華では袁紹・曹操・袁術・公孫賛・劉表・劉璋らが列強として存在していたが、そのいずれも支配的なパワーを保有していなかった。これは董卓軍が倒れた後、洛陽会議で議長を務めた劉勲によって各勢力が拮抗するよう、慎重に戦後秩序が作り上げられたのが主な要因とされる。

 

 

 “我々には永遠の友も永遠の敵もいない。ただ永遠の利益のみが存在する”

                                 ――劉勲の言葉より

 

 

 劉勲の外交政策は必要に応じて同盟者を変更し、バランス・オブ・パワーを維持する事に重点が置かれていた。当時の記録を見ると、中華を単独で支配しようとする者に反対する諸侯の、いかなる連合にも袁術陣営は協力している。

 

 “袁術は強きを挫き、弱きを助ける。” ――曹操の発言より

 

 曹操が後に袁術陣営の外交を皮肉った言葉であり、バランスを是正する必要が生じれば、常に弱小勢力に肩入れする袁術陣営の勢力均衡策をよく現わしていると言えよう。当時の列強のうち弱い側とは公孫賛・劉表陣営であり、両者を支援することで中華のバランスを維持しようという、単純な計算に基づくものだった。

 

 また、経済的な観点から見ても公孫賛は元より商人保護に力を入れており、商業重視政策を取る袁術陣営との親和性は高い。劉表にいたっては隣接しているという地理的条件もあり、政治的には対立が多いが経済的には強い結び付きがある。

 

 

 

 袁紹・曹操同盟の締結が発表されるが早いか、劉勲はこの脅威に対する連合を作る動きを促進した。公孫賛陣営に多額の投資を行って関係を深めると共に、『中立』と『孤立主義』を国是とする劉表にも友好的中立を約束させたのだ。この3国は同盟こそ結んでいなかったものの、曹操・袁紹同盟の侵略行為があれば、その野望を阻止すべく行動を起こすであろう事は明白だった。

 

 これは非常に巧妙な仕組みであり、後世に残された記述によれば曹操・袁紹同盟を脅威に感じる諸侯は多くとも、公孫賛・袁術・劉表を脅威に感じた諸侯は殆ど存在しなかったとされる。多くの諸侯の目は遠い江南よりも近くの中原に向いており、袁術陣営は江南に対する経済支配を拡大していたにも拘らず、これを妨害しようと言う動きは殆ど見られなかった。

 

 なぜならば、それらは曹操・袁紹同盟が攻撃するには強過ぎたが、周辺諸侯を脅かすには弱過ぎ、あまりにも分裂し過ぎていたからだ。とりわけ袁術は領内の豪族や商人の力が強く、徹底的な中央集権化を進めた曹操に比べて領内のまとまりが薄い。何をするにも事前調整と予算審議会、領内豪族会議における根回しと意志統一、そして煩雑な官僚手続きを踏まねばならず、その行動は遅く、なおかつ非常に限定されていた。

 

 

 結局、曹操・袁紹同盟によって中華のパワーバランスは崩れるどころか、逆に均衡は維持・強化される事となる(曹操、袁紹の両者は自らの国力を高めたにも拘らず、だ)。バランスを保つ事に外交政策を捧げる事を、袁術陣営が明白にした事によって均衡は管理された――

 

 

 

 

 

 

 ――はずだった。

 

 

 

 

 されど『二袁協定』締結から約2年後、再び諸侯の間に激震が走る。朝廷より下された、一つの勅命によって。

 

 ――皇室に対する働きを以て、曹孟徳を車騎将軍に任命す。直ちに、青州黄巾党を討つべし――

 

  青州にて黄巾党、一斉蜂起す。中華の大地を、再び戦乱の雲が覆い始めようとしていた。

            




 反董卓連合戦後って袁家のパワーが最大だった時期ですよね。
 袁紹は590万の人口を誇る豊かな穀倉地帯だった冀州を手に入れてますし、袁術も洛陽に近くて肥沃な南陽群(人口約250万)と、商業と物流の発展した豫州(人口約620万)を支配下に治めています。
 当時の人口が4800万ぐらいなので、両袁家だけで当時の中国の3割の人口を保有している計算になっています。

 ちなみにこの時期の曹操支配下の人口は400万ぐらいで、しかも彼の土地は戦乱で疲弊してたとか。曹操の功績と言われる『屯田制』も一説によれば、生産力を維持する為に兵士や農民を無理やり土地に縛りつけざるを得なかったが故の措置という話ですし……。

 何はともあれ、袁紹と袁術の仲がよければあっさり中国を統一出来て、劉備や曹操、孫権あたりが活躍する場はなかったように思います。


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37話:諸侯たちの輪舞曲

 今回は曹操と公孫賛あたりの近況報告を


    

                

 世間一般には、青州黄巾党の活発化が今回の勅命の原因とされている。

 だが本当の事の発端は、2年前に締結された曹操・袁紹同盟にあった。

 

 もともと青州は公孫賛派と、袁紹派、いずれにも属さない青州黄巾党の3グループに分かれていた。しかしながら、この時点では3者はまだ均衡状態を保っており、大規模な武力抗争には至っていなかった。やがて洛陽会議にて、公孫賛寄りの中立派である孔融が州牧となり、両者を仲介する事が決められた。

 

 だが、そこに曹操・袁紹同盟が発表された事で状況は大きく変化する。

 

 同盟の結果、袁紹派の影響力が拡張され、孔融や公孫賛派はそれを警戒。逆に袁紹派は、青州は袁紹陣営に吸収されるべきだと考えており、覇権を望む袁紹はその動きを支援する。袁紹・公孫賛間の権力抗争は北方にまで及び、并州でも両派閥の間で激しい駆け引きが行われ、バランス・オブ・パワーを国是とする袁術陣営にとっては目が離せない状態であった。

 

 

 ――我々は中華と漢王朝の一員として、青州が直面する多くの課題への取り組みを支援する。

 

                         ――劉勲・公孫賛・陶謙による共同声明

 

 この状況に際し、勢力均衡を外交の基本とする袁術陣営は青州でのパワーバランスが崩れる事を危惧。書記長の劉勲は陶謙・公孫賛らと共同声明を発表すると共に、資金の追加支援を約束した。

 その意を汲んで資金提供を受けた孔融は、続けざまに青州黄巾党の討伐を決行。賊討伐の功績を立てる事で、公孫賛派の盛り返しと均衡の再構築を狙っていた。

 

 

 記録によれば孔融軍討伐部隊5万に対し、青州黄巾党の総兵力はおよそ30万とされる。

 数の上では黄巾軍が有利だが、基本的に黄巾党は農民やら張3姉妹の追っかけやらが集まった寄せ集めの暴徒に過ぎない。青州兵もその一つであり、その実態は疫病に戦乱、官僚の腐敗や飢えに苦しむ、飢餓農民や難民、そして流民の群れだった。

 

 しかし、いつ死ぬかもしれないというギリギリの状況に置かれた人間は強い。「生きる為」という人間の本能、最も基本的な欲求の為に戦う彼らは、しばしば正規の官軍すら退けた。

 また、青州黄巾党兵士30万の背後には100万人もの家族が控えており、その存在も青州黄巾兵の強さの秘密といえよう。これに戦闘経験の豊富さと団結力が加わり、青州黄巾党は官軍に劣らぬ戦闘力を誇っていたのだ。

 

 

 一方の孔融は、かの孔子の子孫にあたり、類まれなる文才を持つ人物として有名であった。しかし政治家としては二流であり、その政策には机上の空論が多く、実行力に欠けていたという。

 かつての劉勲同様――“あらゆる兵科を有機的に結合し、臨機応変にして柔軟な戦術を駆使。戦場を自由自在かつ縦横無尽に支配しつつ、 機知に富んだ少数精鋭で愚鈍な大軍を翻弄し勝利する”――といった、ほとんど英雄譚か兵法書の中でしか通用しないような戦術を展開。

 兵の能力を超えた無謀な指示で、当然のごとく自軍を大混乱に陥らせ、あっさりと物量差で押し切られてしまったのだ。

 

 

 

 

 そこに目を付けたのが、隣の兌州に君臨する若き野心家・曹孟徳であった。

 

「青州では反乱鎮圧の見通しが立っておらず、黄巾党の更なる脅威拡大を阻止する為、我々は現状打開に必要なあらゆる追加措置を取らねばならない。」

 

 陳留太守だった頃に曹操は黄巾党の本陣を殲滅しており、一般人に紛れて脱出しようとしていた張3姉妹を極秘裏に確保。彼女はそのツテを使い、青州黄巾党の囲い込みを狙っていた。

 無論、それだけでは無い。現実問題として青州黄巾党はたびたび曹操の治める兌州にも侵入・略奪を繰り返しており、いずれ討伐する必要はあったのだ。

 

 加えて言うなら洛陽会議によって認められた『諸侯の権利』――諸侯の領内における主権と、相互内政不可侵の原理――によって、曹操軍は軍事活動を行う大義名分を封じられており、青州黄巾党の討伐はそれを覆す格好の材料になり得る。

 

「皇帝陛下の意志を踏み躙り、世を乱す賊を放置していれば、やがて漢王朝の威光は失われてしまうでしょう。一刻も早く彼らを討伐し、漢王朝が健在である事を知らしめねばなりません。」

 

 孔融の敗北を聞いた曹操はすぐさま朝廷に対し、上記の意見を具申する。献帝を保護して以来、曹操は洛陽会議で決定された「被災地の復興支援」を盾に司隷にも軍を駐屯させ、強い影響力を維持していた。軍事力をチラつかせつつ、もっともらしい正論を説く事によって、曹操は巧みに朝廷を説得。見事朝廷から、青州黄巾党を討伐する勅命を得たのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「ようやく勅命を得たが、むしろ問題はこれからか……」

 

「御意。四方を囲まれている我らが安全に動くには、近隣諸侯の行動抑制が最大の課題です。」

 

 中華の地図を眺める曹操と、その傍らに控える荀或。彼女達を悩ませているのは、曹操の本拠地・兌州の地理的な位置だった。北の冀州は袁紹の領土、東北には青州が、東には劉備軍の駐屯する徐州が、そして西には司隷があり、南の豫州は袁術が実効支配している。兌州には「四戦の地」という別名があるが、その名にふさわしい地政学上の脆弱さを誇っている。

 

「どういう心変わりかしらないけど、よりにもよってあの麗羽が最大の味方になるとはね……」

 

 曹操が示唆しているのは、2年前に結ばれた袁紹との同盟のことだ。事実、北の雄・袁紹との接近によって曹操陣営の持つパワーは、以前にも増して強大化している。

 猛訓練によって作り上げた強力な軍隊に、反乱を悉く叩き潰して実現した中央集権化。未だ封建制の強く残る他諸侯にはそれだけでも脅威であるというのに、豊かな人脈・資金・資源を持つ袁紹陣営との良好な関係が加わるのだ。しかも皇帝を救い出したという功績まであげており、今の中華で最も注目されている諸侯といえば、曹操を置いてほかに無い。

 

 

 しかしながら、自陣営の強大化は曹操にとって、必ずしも喜ぶべき事態とは言えない事が後に判明した。当時の曹操軍、および袁紹軍の抱えたジレンマは後世においてなお、多くの学者によって様々な研究がなされている。

 

 例えば曹操の領土――周囲を全て他州に囲まれた兗州は、常に多正面戦争の危険に晒されている。故に曹操軍が安全保障を確保する為には最悪の状況、すなわち“隣接州全てを同時に敵に回し、同時に戦える”だけのパワーを持たねばならない。実際、曹操軍首脳部はこのロジックに基づき、富国強兵政策を進めたものの、あまりにも急拡大した曹操陣営は却って各諸侯の警戒と不安を招く事となったのだ。

 

 ――つまり、隣接州全てと同時に戦争して敵を打ち破れるほど強ければ、曹操軍が隣接州1つ1つを個別に撃破する事はそれ以上に容易いということ。

 

 自国の軍拡は平和維持に必要な安全保障だが、他国の軍拡は平和に対する脅威である。なぜならば自国の軍事力は防衛の為のものだが、他国の軍事力は侵略の為のものだからだ――程度の差こそあれ、基本的には誰もが自国の軍隊は専守防衛的であり、侵略してくるのは外国の側だと思っている。

 

 すなわち曹操軍が自らの安全保証を追求すればするほど、周辺の諸侯にとっては脅威となり、対曹操連合の結成を促進してしまう。曹操軍が最悪の事態を想定して準備した事が、却ってそれが現実となるのを助長し、むしろ自身の安全を脅かす主因に変わってしまったのである。

 

 

「華琳様、私に考えがあります。ここはひとつ、袁紹にも出兵を呼びかけてはいかがですか?」

 

「青州への“黄巾党討伐戦”に、麗羽たちを巻き込むつもり?」

 

「はい。もとより袁紹陣営は青州に強い影響力を持っていますし、これまでの動きから他諸侯への介入にも積極的です。これに皇帝の勅書もあれば、袁紹の自尊心をくすぐるには十分でしょう。」

 

 袁紹はああ見えて、やはり名門袁家の後継ぎなだけあって皇室への忠誠心は人一倍強い。かつて袁家に仕えていた荀或には、袁紹を含めた袁家を説得できる自信があった。

 

「許可するわ。桂花、これより冀州の麗羽の元へ向かい、青州への出兵に加わるよう説得してきなさい。」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 1週間後――幽州、易京城

 

 

「今朝、袁術から書簡が届いたと聞きましたが……状況から察するに同盟の手紙ですな?」

 

 趙雲は諸侯のパワーバランスを思い浮かべながら、先ほどから手紙と睨めっこしている公孫賛の方を見やる。

 

 曹操が朝廷から勅命を得て、その気になればいつでも強硬策を取る気でいる事は知っていた。青州に権益を持つ公孫賛陣営としては、当然ながら見過ごす訳にはいかない。一方で袁紹は并州にまで影響力を伸ばしており、南陽郡と豫州を支配する列強・袁術からの同盟要請はまさに渡りに船と言えよう。

 

「より正確に言うと、青州の孔融も交えた3者による『3州協商』だそうだ。誰が書いたのか知らないけど、こういった回りくどい外交文書を見てると頭が痛くなってくるよ。」

 

 公孫賛はやや複雑な表情で書簡を見つめる。袁術の提唱してきた『3州協商』の内容は物資の優先的融通や、資金援助、相互貿易協定、敵対勢力に肩入れしない事など。比較的緩やかな同盟で、軍事援助などは含まれていない。

 

「どうも見たところ、連中は現状の維持に躍起になってるらしい。最近じゃ誰構わず同盟を結んで、曹操の野望を阻止しようとしているみたいだ。」

 

 袁術は一方で、孔融・陶謙との間に『3州関税同盟』なる経済同盟の締結も進めていた。現代風に言えば、多国間FTAやEPAなどに相当するもの。経済的な意味もあるが、同時に政治的な意図――曹操への牽制――も多分に含まれている。

 

 

「それはそうとして……星、公孫度の動きはどうなんだ?幽州から本格的に独立すべく、密かに軍拡を進めているという話だが……」

 

 一通り手紙を読み終えると、公孫賛は顔を上げて趙雲を見つめる。

 公孫賛を悩ませている問題の一つに、遼東太守・公孫度の独立問題があった。ここしばらくは大人しくしていた公孫度だったが、最近では鳥丸の騎兵を雇い入れるなどして、武力による対立も辞さない態度を示している。戦争も時間の問題だ――そんな噂が幽州の民の間でまことしやかに囁かれていた。

 

「残念な事に、その話は事実でしょうな。何でもこの頃、冀州から遼東に向けて大量の船が出ているだとか」

 

「冀州となると……考えられるのは袁紹か……」

 

 州境を巡り、袁紹とは長年にわたって争ってきた仲だ。ライバルの領内で起こった独立騒ぎという絶好のチャンスを逃すはずは無い。潤沢な財力にモノを言わせて、独立運動を助長するだろう。

 

「鳥丸の動きがここのところ活発なのも、やはり無関係ではないようだな。」

 

「左様。主に敵対する二つの勢力が足並みを揃えて不穏な動きを見せている事、そしてここのところ冀州から頻繁に使者が出入りしている事。これらが単なる偶然であるはずがない。裏で糸を引いている人間がいないと見る方が、よほど不自然でありましょう。」

 

 確信するような趙雲の口調は、黒幕が袁紹であることを示唆していた。袁紹とは利権がかぶっている事もあり、長年争っている不倶戴天の仲だ。公孫賛が困って一番得をする人物といえば彼女しかいない。

 

 

「その袁紹と仲が悪い諸侯といえば、やはり従妹の袁術か。敵の敵は味方、その意味じゃこの同盟は結ぶべきなんだが……。ただ、袁術はなぁ……」

 

 はぁ、と息を吐きながら公孫賛は頭をかく。

 

 袁術本人は暗愚なバカ殿という評判だし、その配下もロクデナシばかり。人間的に信用できない上、お互いの領地はかなり離れている。果たして袁紹と戦争になった時、本当に助けてくれるのか甚だ疑わしい。

 それに袁術軍は『数で押す事しか知らないダメ軍隊』との認識が一般的だし、反董卓連合戦で共に戦った趙雲の評価は“ただのカカシですな”という散々なモノだった。

 

 だが軍事的には頼りにならずとも、政治・外交・経済の面で袁術陣営と結ぶメリットは多い。漢代では政権安定のため名士を優遇するのが常であったが、公孫賛は軍事力と君主権力確立のために名士を冷遇し、代わりに商人を重用している。袁術との同盟は、自らの支持基盤の強化にも結びつく。加えて南陽商人達による金融資本は様々な弊害を孕みつつも、袁術領内で巨額の富を生み出しており、資金援助は相当な額が期待できるだろう。それに、少なくとも同盟を結んでおけば交渉のテーブルでは袁術の支持が期待できる。会議を有利に進めたければ、味方は多いに越したことは無い。

 

 

「この際、仕方無いか……。星、南陽の袁術に使者を送るよう伝えてくれ。」

 

「よろしいのですか?」

 

「ああ。ここだけの話だが……曹操の筆頭軍師・荀或が袁紹の元へ内密に派遣されたらしいんだ。」

 

 荀或はかつて袁紹の下に仕えており、人脈もそれなりにある。現在では兌州の司馬、すなわち軍政の責任者を務めており、それほどの人物が単なる友好アピールの為だけに派遣されるとも思えない。

 

「それは……あまり穏やかでは無い話ですな。」

 

 趙雲は苦笑いを浮かべて、頭を抱えた公孫賛を見やる。

 

「星もそう思うか?」

 

「それはもちろん。荀或どのの役職から考えて最も可能性が高いのは、曹操・袁紹両者の軍事における協力でしょう。元々青州には袁紹系の勢力が力を持っおり、独断で曹操が青州を攻略すれば袁紹も黙ってはいないはず。」

 

「だが、曹操なら占領してから既成事実化する、ぐらいの事はやってのけるんじゃないのか?」

 

 訝しげな顔をする公孫賛。曹操は皇帝を擁している以上、律儀に交渉や会議を守る気はないだろう。確固たる軍事力もあるし、大義名分にしても皇帝の名を出せば大抵の諸侯は黙らせられる。

 しかし趙雲はにやり、と笑ってそれを否定した。

 

「ふむ、それも手ではありますが、問題は時間ですな。万が一戦争が長引けば、袁術を始めとした他の諸侯の干渉は免れますまい。袁紹陣営もそれを期待して曹操に抵抗するであろう孔融らへの支援を行い、その恩を以てして青州への影響力拡大を目指す……違いますかな?」

 

「たしかに……その展開は、有り得るな。」

 

「つまるところ、曹操単独での青州攻略は困難。となれば、袁紹を巻き込む事であちらの顔を立て、袁紹側の支持を得てから青州を迅速に占領・既成事実化を目指すものかと。

 曹操の筆頭軍師殿は、その事前調整の為に送りこまれたと見るのが妥当でしょうな。」

 

 趙雲の言葉を聞き終えると、公孫賛は大きく溜息を吐く。

 

「やはり袁術、というより反袁紹・曹操派との同盟は必要か。各諸侯が連携しなければ、あの2人の野心を抑えられない。」

 

「くくっ、“各諸侯の連携”とはまた……いえ、失礼。別に主を侮辱している訳では無いのだ。ただ、その面子を想像すると笑いが込み上げて来たもので。」

 

 おおかた反董卓連合時か洛陽会議のことでも思い出しているのだろう。にやにやと笑いながら、趙雲は口元を押さえている。

 パッと見ただけでも、会議場にいたのは現実主義者と、軍人に理想論者、脳筋、政治家、商人そしてバカ殿が約2名。あれほどグダグダでカオスな会議は中華の歴史を見ても、そう多くは無いだろう。そんな連中が連携する、などと言われたら笑いだしたくもなる。

 

 だが、勢力均衡とはそういうものだ。国力も政治体制も、そして目的すらもバラバラな国や諸侯が集まり、互いを罵り合って無駄な議論を延々と繰り広る。そして最終的には足の引っ張り合いに疲れて、一人勝ちした者が居ない事に満足して会議を終えるのだ。

 

「まぁ一時的にせよ、幽州を守る為にも外部との協力は不可欠だ。それに袁術達はともかく、袁紹とはいつか必ず敵対するはず。将来を見据えれば、保険として袁術陣営と結ぶのも悪くない。」

 

 公孫賛は言い終わると、幽州の未来を憂うように、窓から易京の街並みを見つめる。

 

 いずれ袁紹との対立は避けられず、単独で戦えば物量に押し潰されるのは必須。目の前に映る街を、洛陽のような廃墟にしないためにも、これは必要な同盟なのだ。

 

 願わくば、勢力均衡による仮初の秩序が一日でも長く続いて欲しい。

 グダグダな会議に政治家が悩まされるだけで平和が保たれるならば、いくらでも頭を抱えてやろう。

 

 

 ――そう、切に願うのだ。

 

    




 曹操って本当に場所悪いです。ドイツもそうだけど、隣接している国が多いと必要以上に警戒買いますからね。結果として他国から難癖付けられたり、逆に軍拡競争になって国民の負担が増大したりと詰みゲーです。つくづく島国が恵まれていると感じた今日この頃。

 何かご意見や感想、指摘があればよろしくお願い致します。


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38話:自由と平等、そして正義と

 今回は経済の話がメインです。



                    

 洛陽会議から約4年。准河・泗水流域にある徐州でも、仮初の平和は保たれていた。

 徐州牧・陶謙はその平和を十分に享受しながら、知り合いの諸侯と連絡を密にとるなど万が一の備えも怠っていなかった。バランス・オブ・パワーに基づいた中華の受け入れつつ、劉備軍を雇い入れるなどして軍備の拡充を図り、“恐怖されるほど強からず、侮りを受けるほど弱からず”といった微妙な地位を維持している。

 

 

 だが、その陶謙も既に老齢の身。全盛期に比べれば精神的にも、体力的にも衰えが目につくようになり、本人もまたその事実を自覚していた。

 治安維持、被災地の復興、農地の開拓、裁判、農民一揆の鎮圧、徴税と脱税調査、豪族同士の争いの調停――それら全ての政務をこなすには、あまりに年をとり過ぎていたのだ。しかしながら本来それを補佐すべき2人の息子は、残念ながらどちらも力不足感が否めない。

 

 されど、幸いになことに政情が乱れることは無かった。軍事力を期待して徐州に迎え入れた劉備軍が、期待以上の逸材を連れてきたからである。

 

 

 諸葛孔明、そして鳳士元。

 

 人物鑑定家として名高い水鏡をして、「伏竜、鳳雛のいずれかいれば天下を得る」とまで言わしめた2人の天才。陶謙の要請を受け、2人は早速徐州の構造改革を実行に移す。諸葛亮は主として内政を、対して鳳統は軍事に辣腕をふるった。

 

 

 ――劉備一行が来てから、徐州牧・陶謙は諸葛亮らの進言に従い、『綱紀粛正』を掲げて悪徳役人の追放や財産没収を行った。賄賂、公文書偽造、横領、脱税など様々な不正を働き、富を搾取してきた貴族たちもまとめて一掃され、没収された財貨は飢えに苦しむ民のために使用された。

 

                               ――蜀書・諸葛亮伝

 

 一見すると役人の不正を正し、彼らが不正に蓄えた富を民衆に分配するという、正義の味方のテンプレのような改革だ。

 だが、これはあくまで劉備らの視点での評価であり、評価に偏りが無いとは言い切れない。当時の別の記録を見れば、必ずしも改革に肯定的な意見ばかりではなかった事が伺える。

 

 

 “言いがかりをつけて金持ちの財産を略奪し、人気取りの為に民衆にバラまいただけ”

 

                        ――中央人民委員会議事録より抜粋

 

 辛辣な評価を下したこのコメントは、とある人民委員が言ったとされる。商人や貴族の影響力が強い袁術陣営ならではの評価であるが、急進的な改革が少なからず暴力を伴う事を鑑みれば、事実無根だとも言い切れない。実際、きちんとした根拠も無しに『富農』のレッテルを貼られ、財産を没収された貴族も少なくなかったという。

 

 当然ながら、この改革は地主や豪族から大反発を受け、幾度も中止の危機に遭っている。諸葛亮の主君たる劉備でさえ、あまりに性急かつ強引な手法に難色を示しており、諸葛亮自身も行き過ぎた改革の見直しを検討していた。

 だがそれらの嘆願空しく、最終的にこの改革は“不退転の決意”をもって実行される。この強硬策には、陶謙の意向が強く関係していたという。

 

 主な理由としては、徐州における劉備たちの立場の不安定さが挙げられるだろう。

 徐州内部には、余所者である彼女らの存在を快く思わない人間も多数おり、陶謙の息子達は父があからさまに劉備を優遇している事に嫉妬していた。諸葛亮らが大胆な改革を実行に移せたのも、州牧たる陶謙の全面的なバックアップがあったからこそ。

 それゆえ陶謙は己の寿命が残り少ないことを意識し、自らが存命の内に改革を完遂させる事を決断したのだ。

 

 

 また、『綱紀粛正』以外にも、自作農の保護などが改革の優先課題とされていた。

 『天の御遣い』北郷一刀の提案により、市場の安定と所得格差の是正を促すべく、自作農民への大規模支援が実施される。手始めに規制と高関税で輸入品を締め出し、自作農への直接支払いによって農業を保護。加えて価格支持政策によって主要作物の市場価格を設定し、物価を安定させる。更に所得に応じた累進課税方式による所得税、物品税、取引税、相続税、贈与税、資産・貯蓄税など様々な租税を通して所得の再分配を図っていった。

 

 もちろん、これらの野心的な政策が全て順調に進んだ訳ではない。公的権力による価格設定や各種規制は巨大なヤミ市場を生み、累進課税は所得調査の難しさから実現不可能として見送られていた。

 

 ともあれ、やり方はいささか乱暴ではあったものの、曲がりなりにも貴族から土地を取り上げたことによって地主の地位低下と農地の平等分配、自作農民の増加が実現。陶謙の統治下では『自作農主義』に基づいた農業政策が進み、農民の生活水準向上が図られる事になる。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

                 

 ――徐州・下邳

 

 徐州牧・陶謙の拠点であり、彭城などと共に徐州の経済的な中心地として繁栄した都市でもある。その下邳城の中に、明らかに陶謙の部下では無いと分かる、開襟の背広型軍服を着た兵士達の姿があった。

 その中心にいるのは一人の少女。健康的な小麦色の肌に桃色の髪、そして厳しさの中にも僅かに幼さを残す表情。

 

「『江東の虎』孫文台の娘、孫仲謀と申します。本日は南陽太守・袁公路様の代理として参りました。」

 

「孫仲謀殿ですね、お噂はかねがね聞いております。ようこそ徐州へ。

 私の名は関雲長、劉玄徳様と共に陶謙様の元に仕えている者です。」

 

 孫権を出迎えたのは、艶やかな黒髪が印象的な女性だった。関雲長――今の中華に彼女の名前を知らぬ者はいないだろう。かの有名な飛将軍・呂布と一歩も引かずに渡り合ったという、一騎当千の英傑だ。

 

「謁見の間には、正式な使節以外の者……つまり随員や護衛兵の方の入室はお断りさせてもらっている。それでも構わないだろうか?」

 

 しばらく奥に進んだ所で、関羽が孫権に問う。孫権は了解の意をこめて頷くと、数人の部下を下がらせる。その後も差し支え無くセキュリティ・チェックを終え、孫権は謁見の間に到着した。既に主だった武官と文官は全て参列しており、中央の玉座には徐州牧・陶謙その人が座っていた。

 

「陶謙様、こちらが南陽太守・袁公路殿の代理として参った、孫仲謀殿です。」

 

 関羽が紹介し、再び儀礼上の挨拶を数回交わしてから、孫権は本題に入る。懐から外交文書を取り出し、陶謙へそれを渡す。そこには外務人民委員長の署名と共に、曹操へ対する牽制として青州の孔融も交えた同盟を組もう、といった内容が書かれていた。

 

「(ご主人さま、やはり袁家の狙いは……)」

 

「(ああ、分かってるよ。朱里の読み通り――)」

 

 諸葛亮が小声で一刀に話しかけ、一刀が小さく頷く。

 

「(――向こうの使節は文官ばかりだ。)」

 

 一刀の言葉通り、今回の交渉に当たって袁家が派遣した使節には、護衛兵を除くと文官しかいなかった。

 それはつまり、今回の交渉は高い確率で経済的な話になるということ。

 そして政務に深く携わってきた諸葛亮は、袁術陣営が利権なしには動かない事を知っていた。

 

「(……では、お願いします。出来る限り、孫権さんと“お話”を続けて下さい。)」

 

「(任せてくれ。)」

 

 簡潔に小声で言葉を交わすと、2人は視線を孫権達の方へと戻す。周囲では既に陶謙の家臣団が互いに意見を戦わせていた。

 

 

「袁術と同盟を結べば、確実に曹操や袁紹に絡まれる。この同盟、今からでも中止した方が……」

 

「いいや、中立を保ったからといって、連中が軍事行動を控えるとは思えん。現に隣の青州は中立を保っていながら、“青州黄巾党の討伐”などという取ってつけたような大義名分で侵略されかけたのですぞ?」

 

「馬騰や孔融のみならず、幽州牧の公孫賛も袁術と結んだという話だ。合従連衡の波に乗り遅れれば最悪、我々だけで孤立しかねない。それだけは何としても防がねば」

 

 

 袁術との同盟について、陶謙の家臣達が思うことは様々だ。強大な経済力を誇る袁家を頼もしく思う者もいれば、逆にそれを脅威に感じる者もいる。あるいは、袁術はともかく曹操に目をつけられるのが怖い、袁家の争いに巻き込まれるのでは勘弁だ、等と言う人間もいた。

 

 しかし、全体的な雰囲気としては同盟締結の方向へと気が流れていた。

 なにせ同盟を結べば、技術の融通や貿易の活性化、軍事や外交における協力体制が取れる。南陽群を統べ、豫州を勢力圏下におく袁術陣営は、列強中最大の人口と経済規模を誇っている。人口900万以上の巨大市場に、その領土を守る為の膨大な数の兵士達。文官にとっては勿論、武官にとっても味方にいれば心強い事この上ない。

 

 

 だが、問題はその中身だった。

 

 

 ――我々は同盟に際し、加盟州間で域外に対する競争力を強化するために、自由競争の妨げとなる全ての貿易関税や非関税障壁を撤廃し、経済的な障害を無くすことを要求する。

 この同盟の主たる目的は、州同士の戦略的提携によって中華の市場における影響力を上げることであり、南陽群・豫州・徐州・青州の地域全体にまたがる協定とする。本協定は、規制制度間の整合性を取ることによる貿易の効率性上昇と、自由貿易による競争力強化および経済の発展を促進するものである。

 また、兗州を始めとする一部の州からの輸入品について関税を引き上げるものとする。これは軍事行動によって平和を乱す州が権益を持つことは、中華の人民に多大な不安と混乱を与える為、やむを得ない措置である――

 

 

 長ったらしい条文だが、要するに“全ての関税障壁を撤廃して、完全な自由貿易にしよう。”ということだ。ただし、“一部の州からの輸入品について関税を引き上げる”という内容は、あからさまに曹操に対する経済封鎖を狙ったもの。共通の関税政策を行うという意味では、『自由貿易協定』というより『関税同盟』に近い。

 

「う~ん……難しくてよく分んないんだけど、袁術さんはわたし達と仲良くしたいってことだよね?それだったら――」

 

「お待ちください、玄徳さま。どうやら、話はそう単純ではないようです。」

 

 渋い表情をした諸葛亮が、珍しく劉備の言葉を遮る。彼女がこういった真似をするのはめったになく、そういった行動をとるのはあまり好ましくない状況であることが多い。劉備もそれを感じ取ったのか、いったん開きかけた口を再び閉じる。

 

 ほどなくして、諸葛亮の危惧は現実のものとなる。陶謙が続きを読み上げるにしたがって、家臣達の表情もそれに比例するかのように強張っていった。

 

 

 ――同盟を結ぶにあたって我々は、貿易において不当な障壁を作ることと、経済的な発展に不必要な規制を承認しないこと、域外貿易について共通の関税政策を行うこと、以上の3点に同意する義務がある。よって自由な活動を阻害し、市場の構造を歪める原因となる、全ての価格操作の停止を実施すべし。

 

 それが認められない場合、我々は大多数の帝国臣民の平和と自由のため、断固として然るべき措置を取るであろう。 

             

               ――南陽群太守・袁公路(印)外務人民委員会(印)

 

「なっ……!」

 

 ストレートな脅迫だった。同盟と言う名の、自由主義経済への強制加入命令。

 

「何だよ、この滅茶苦茶な内容は!俺達から強請る気満々じゃないか!」

 

 外交の場であるというにもかかわらず、北郷が大声で憤慨する。左右に居並ぶ諸将達からも、同意するような声があがった。流石の陶謙も黙ってはおらず、袁術の使節達へ厳しい視線を向ける。

 

「問おう……いかなる理由をもって、このような要求を?」

 

「徐州の不当に高い関税障壁によって、不公正貿易が引き起こされている。よって貿易摩擦の是正を行いたい――書記長・劉勲殿はそうおっしゃっています。」

 

 さも当然のことかのように、使節の一人がしれっと答える。当然ながら、それは火に油を注ぐ結果となり、徐州側からは激しい非難を受けることになった。

 

「洛陽会議で『領土内の法的主権と相互内政不可侵の原理』は保障されている!貴公らは、自分達が主導した会議で決められた事を、自分自身で破るというのか!?」

 

「無論、そんなつもりはない。だからこそ、こうして徐州に同意を求めている。」

 

「よくもそんな白々しい台詞を……!」

 

 嫌悪感すら滲ませ、一刀は袁術の使節団を睨みつける。

 

 彼らが危惧しているのは、徐州における農産物市場への影響である。徐州はもともと肥沃な大地であり、土地生産性も悪くない。それゆえ農業も盛んだったのだが、近頃では奴隷労働によって作られる、安い豫州産の農作物に押され気味だった。

 安価な輸入作物が出回れるようになれば、当然ながら徐州の農民は販売不振に苦しむ事になる。領民の大部分を占める農民の保護は緊急課題であったため、北郷一刀らは関税率を大幅に引き上げていた。

 

 

「何が“自由な活動”だ……奴隷労働で経済回してる州がよく言う。中華一の農奴大国さんはよほど冗談がお好きなようだ。」

 

 一刀は目を細め、不穏当な発言を繰り返す。普段と比べて必要以上に攻撃的なのは、自由主義経済への不信ゆえか。もっとも、格差や不平等を積極的に容認する袁術陣営が、劉備たちの理想と相容れないであろう事は想像に難くない。

 

「北郷殿、私はあくまで袁家の意志を伝えただけです。そして袁家は客観的に見て、最終的には本条約がお互いの利益になると判断している。あまり偏った視点で、主観的な感想を述べないでいただきたい。」

 

 対照的に孫権は、あくまで無感情に反論す。だが、それは却って一刀たちの感情を高ぶらせるという逆効果を生んでしまった。

 

「客観的な視点から見たからこそ、そちらの言葉は信用に足らない戯言だと言っている。

 袁術の領土じゃ大量の農奴を牛馬のように酷使して、異様に安い農作物を生産しているって話だ。一部の人間だけが得をする、行き過ぎた規制緩和で多くの犠牲者が出ているのに、まだ儲け足りないと?」

 

 徐州とは対照的に、袁術の領土では農奴制が一般的であり、奴隷売買も公然と行われている。もちろん徐州に農奴や奴隷がいないわけでは無いが、人口の40%が農奴、10%が奴隷とも言われる袁術領はその比では無く、彼らの待遇もまた酷いものであった。

 

 その一方で、農奴や奴隷の無償労働によってもたらされる利益は一部の商人や領主の懐を潤し、蓄積された富の積極的な投資は袁術領のGDPを増大させていた。

 『貴族の天国、農民の地獄』、豫州と南陽群の状況を表すなら、この一言に尽きるだろう。

 

「徐州は徐州、我らは我らです。奴隷にしろ農奴制にしろ古くからある慣習ですし、法的にも何ら違法性が認められるものでもありません。

 貴族を一方的に悪者と決めつけて奴隷制を廃止しようとも、それが徐州内部である限りはそちらの勝手です。が、全ての人間が貴方と同じ正義、価値観を認める等と勘違いしてもらっては困る。そもそも、我々の内政にまで口を挟む権利があるとでも?」

 

「内政干渉?笑わせないで欲しい、それはこちらの台詞だ。」

 

 一刀は小馬鹿にするような口調で、ふんと鼻で笑う。

 

「はっきり言ったらどうだ?いずれ、徐州を植民地にするつもりだと」

 

「控えよ!ここは外交の場、言葉が過ぎるぞ!」

 

 再び孫権に噛みついた一刀を、徐州牧・陶謙が一喝する。いくら袁術の要求が自分勝手なものだとしても、これ以上の挑発は本気で相手を怒らせかねない。

 しかしながら陶謙自身も、また居並ぶ家臣達も内心では一刀と同じ気持ちだった。

 

「……すまない、孫権殿。こちらの客将が過ぎたことを言った非礼は、後々詫びさせてもらおう。我々は、そちらの内政に干渉する意志は毛頭ない。」

 

「……お気になさらず。我々も徐州との敵対を望んでおりません。お互いにいくつかの相違点はあるかもしれませんが、同盟締結に向けてこの交渉を実りあるものにしていきたい。」

 

 本音を言えば、孫権も農奴制や奴隷制にはあまり良い感情を抱いてはいない。だが一刀と違って、生まれたときから奴隷が当たり前に存在しているような環境で育った彼女にとっては、奴隷の存在もまた社会の一部。ある程度の待遇の改善などの必要性は認めるものの、奴隷制度そのものの廃止には懐疑的であった。

 

(農奴制や奴隷制度を形だけ廃止したところで、土地と仕事が無ければ失業者として飢え死にするだけだ……。だが、少なくとも奴隷や農奴でいれば、最低限の衣食住は保障される。

 労働者の高待遇が、高失業と紙一重だということを分かっていないのか……?) 

 

 

 だが、それは現代人である一刀には到底理解できないもの。あるいは、基本的に庶民と変わらぬ暮らしをしていた劉備達と、生まれながらの貴族であって民衆を統べる立場であった孫権との見解の相違だろう。

 

 

 どちらが正しいという訳では無く、生まれ育った環境が違えば視点や価値観も違うというだけの話。

 それは政治や政策にも反映され、結果として現れた違いが両者の妥協を困難なものにしている。

 

 

 例えばこの時期、徐州では諸葛亮らが中心となって、貴族・豪族から農民を“解放”(貴族達から見れば権利の侵害と不当な没収ではあるが)し、自作農の生産意欲を刺激すると共に、購買力上昇によって需要を高めるような政策がとられている。

 一方、袁術の治める南陽郡と豫州では、むしろ貴族や大商人を積極的に擁護することで、農地の集約化や大規模経営による経営効率改善を図り、資本蓄積によって得られた余剰資本の再投資を繰り返す事で経済成長を目指していた。

 

 

 供給が需要を生むのか、あるいは需要が供給を生むのか――経済学の世界では長年に渡って議論が繰り返されており、未だに決着を見ないテーマでもある。

 

 袁家はどちらかといえば前者の立場を支持し、土地の集約と機械化(といっても風車や水車、農具改良や牛馬の使用だが)、そして大規模化によるスケールメリットを追求。供給側の役割を重視した袁家首脳部は、生産性の向上こそが至上命題であるとした。

 

 生産性が上がれば、余剰価値が増大し、資本が蓄積され、投資が拡大する。この投資と生産性の拡大のサイクルによって、財の市場への供給量は更に増大し、それに伴う物価の下落は国民所得を相対的に増加させ、消費も増大する。消費増は需要増でもあるため、ここで需要が供給に追い付くことになり、バランスを保った経済成長が実現できる。

 こういった理論が袁家では主流を占め、書記長・劉勲によって公式路線とされたのだ。

 

 そこにおいて貴族は農業経営者として生産を担い、商人は市場の流れを円滑にする役割を負う。そして小麦や米、木材などのいわゆる「世界商品」が競争力を維持するために、農奴に対する非人間的な扱いが常態化したのである。

 

 

 しかしながら、こういった奴隷たちの犠牲が袁術領へ繁栄をもたらしたのもまた事実。

 現実問題として、農地を有効利用する為のインフラや圃場整備には莫大な資金が必要とされる。水車や風車などの高性能機械は言うに及ばず、水を効率的に管理するための水道整備、あるいは農作業用の牛馬を買うにも金が必要だ。

 大土地所有制による区画整備・集約化は農地の効率的な利用を可能にし、農奴・奴隷の使用は大幅な人件費削減を実現した。生産費を極限まで抑えることで得られる格安の農作物は、市場で高い競争力を誇った。そうやって貴族の元に大量の資本が蓄積されて、初めてインフラ整備と生産効率の改善が起こるのだ。

 

 

 逆に徐州では徹底した「自作農主義」が推進され、自作農の保護と所得平等が農政の基本だった。こちらは袁家と違って需要側の役割を重視する事で、経済成長を実現しようとしていた。

 方法としてはまず、賃金上昇ないし農地分配によって生産意欲を刺激する。これに減税などを組み合わせ、自作農の実質的な所得の増大を狙う。生活が豊かになれば購買力も上がり、消費も増え、更に需要が高まって物価は上昇し、それが新たなインセンティブとなって供給を増大させる。諸葛亮や一刀達は、こういったサイクルを繰り返す事で経済の活性化を目論んでいた。

 

 しかしながら自作農重視の政策は、彼らの生産意欲を高める一方で、土地と資本の分散を促す結果となった。徐州では農民の購買力および生活水準向上と引き換えに、農地の集約化と資本蓄積は遅々として進まなかったのである。賃金上昇と物価上昇によって供給能力は相対的に減少し、農産物の競争力低下という事態が引き起こされていた。

 

 無論、一刀たちも座して見ていた訳では無い。輸出補助金や規制、関税障壁などによって農民を保護しようと努力したのだが、結果的にはこれらの保護政策が却って農民の補助金依存等を招き、競争力を失わせる結果となっていた。

 

 

「自領の農民を守ろうという心意気は立派ですが、それと高い関税障壁に守られて温まる事とは別問題でしょう。」

 

 孫権は相手の出方を窺うように、一刀を見つめる。

 

「もし自分達の商品が売れないのなら、自国市場を国際競争から切り離すのでは無く、商品の改善と販売努力によって状況を改善すべきであると思われますが?」

 

“商品が売れないなら、売れる商品を作れ”……孫権の言っている事は完全に正論だ。自由化に反対する者たちも、こればかりは首を縦に振らざるを得ない。

 

(――くっ……作戦を変えて、今度は正論で押し潰しに来たか……!)

 

 一刀は唇を噛み締める。

 

(確かに孫権の言っていることは正しい。純粋な商売の原則に照らし合わせれば、売れる商品が売れない商品を駆逐する事は常識……消費者が安い農産物を選ぶなら、それを妨げることはむしろ――)

 

 結局のところ、最後にモノを選ぶのは消費者自身なのだ。まさか無理やり徐州産の農産物だけを購入するよう強いる訳にもいくまい。住民一人一人の食事内容・食生活にお上が介入する光景など、せいぜい戦時中ぐらいのものだろう。

 

(……この辺が潮時か。後は頼むぞ、朱里……!)

 

 既に自由化論争では孫権に軍配が上がりつつある。この状況を覆すには、別の何かが必要だ。相手が正論をもって詭弁を弄するならば、こちらは詭弁をもって正論を吐くのみ。

 

 そんな芸当が可能な人物は、北郷一刀の知る限りただ一人だった。

   

 




 自由VS平等……と言いたい構図ですが、袁術陣営の自由はあくまで一部の裕福な人間の自由なので単純には言い切れない。農奴制に代表される、勝ち組と負け組の格差がはっきりしているのが袁術陣営の弱みであると同時に強みです。
 ちなみに劉備たちの経済政策は、農地解放令と戦後の日本農業をモデルにさせて頂きました。

 では袁術陣営の経済に関する、ありがた~い考え方を、貂蝉(の中の人)VOICEで

「人はァ!平等ではない。生まれつき足の速い者、美しい者、親が貧しい者、病弱な体を持つ者、生まれも育ちも才能も、人間は皆ァア、違っておるのだ。そう、人は、差別されるためにある。だからこそ人は争い、競い合い、そこに進化が生まれる。
不平等はァ!悪ではない。平等こそが悪なのだ。だが、我が袁家はそうではない。争い競い、常に進化を続けておる。袁家だけが前へ!、未来へと進んでおるのだ。
闘うのだ!競い奪い獲得し支配し、その果てには、未来があァァアる!!」


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39話:巨大であるがゆえ

                    

(頼むぞ……朱里!)

        

 一刀は大きく深呼吸をして、諸葛亮へ目配せする。内容に関する議論で敗北した以上、

 諸葛亮は心得たとばかりに深く頷くと、一つ間を置いてから口を開いた。

 

「孫権殿のお話はよく分かりました。ですが……2つほど確認したい事項があります。よろしいでしょうか?」

 

 その言葉に孫権が首を縦に振ると、諸葛亮は一つ一つ言葉を選びながら、慎重に問いかける。

 

「貴方は最初に、ご自身の事を“袁公路様の代理”だと、そうおっしゃいました。これは間違いありませんか?」

 

「間違いない。先日、袁術様から直々に、今回の交渉における特命全権大使として任命された。無論、認証済みの信任状も持っている。」

 

 懐から信任状を取り出す孫権。上質の紙には袁家の印が押されてあり、孫権が袁術の正式な代理であることを証明していた。

 

「なるほど……たしかに、袁家の印と見て間違いないようです。ご無礼をお許しください。」

 

 諸葛亮は慇懃に一礼する。

 

「では、もう一つ確認させてもらいますが……袁術殿は公式には、どのような役職に?」

 

「ッ……!」

 

 そこで孫権は、ようやく諸葛亮の言わんとする所を察する。それは、袁術の複雑な支配体制の矛盾点を正確に突くものだった。

 

  

 豫州――春秋戦国時代には宋・楚、蔡・魏が入り乱れ、一説によれば黄河文明発祥の地とも呼ばれる地。漢代に入ってからは袁家が先祖代々本拠地としており、汝南郡と頴川郡を中心に強い影響力を持っていた。袁家当主の最有力候補だった袁紹が冀州牧に任命された事もあり、洛陽会議以降は袁術の勢力圏に入る事になった。

 

 しかし、洛陽会議で豫州牧に任命されたのは袁術では無く、その配下の孫賁という男だった。孫賁は袁術の客将となっている孫家の人間であり、袁術は自分の部下を州牧に任命することで豫州牧を実効支配していたのだ。当然、豫州は関税自主権返上や領事裁判権承認、最恵国待遇に思いやり予算など、袁術に有利な法律・政策が実施される。

 

 なぜこのような回りくどい方法を取ったかについては諸説あるが、一番信憑性が高い原因はやはりコストの問題だろう。

 間接統治は直接統治に比べて収入は減るが、それ以上に官僚や軍隊の維持に必要なコストが減る。治安維持や社会保障、徴税業務に戸籍管理といった公共支出・行政経費はほぼゼロに等しい。よって通商ルートの安全を保障し相手に自由貿易を強制できる軍事力と、圧倒的な経済力を有している限り、直接統治よりも間接統治の方が収益性は高いといえよう。

 

 商人の力の強い袁術陣営では財政支出は可能な限り抑えるべきものとされ、その姿勢が支配体制にも現れていた事が、当時の記録にも記されている。

 

 『可能ならば非公式に、不可能ならば公式に』

                       ――汝南袁家・外交教書演説より

 

 このような領土支配を伴わない袁術陣営の経済支配政策は、非公式帝国主義ともよばれる。しかし“非公式”であることが、ここでは裏目に出ていた。

 袁術は“公式”な豫州牧で無いどころか、『徐州牧』にすら劣る『南陽群太守』に過ぎなかったのだ。

  

 

「……袁術殿の公式な役職は“南陽群太守”だ。だが――」      

  

 しかし、孫権が口を開く前に諸葛亮は声を張り上げ、退路を遮断する。

 

「であれば――貴女の持つ条約署名・調印権は、荊州に所属する“南陽群”に限ったものであって“豫州”はその対象外のはず。

 何ゆえ、あたかも豫州の外交権を保持しているかの如く振舞うのか」

 

 

 凜として響く、幼い少女の声。

 決して大きくもなく、強くもないその声は、静まり返った部屋の隅々に渡るまで響き渡る。諸葛亮は毅然とした面持ちを崩さず、だが視線だけは鋭利なものへと変えた。

 

 

「孫権どの。返答や、いかに」

 

 

 してやられた――孫権は思わず、ここで舌打ちしたい思いに駆られる。彼女のみならず、その周囲にいた袁術の使節達の、誰もが同じ思いを抱いていた。

 

(流石は『伏竜』、諸葛公明とでも言うべきか……)

 

 本当に痛いところを突いてくる。政治・経済的な正当性で争う事が不利を見るや、論点の主旨を法的な正当性の問題へと切り替えた。これで今回の議題は振り出しに戻ったわけだ。いや、振り出しならまだしも、今やこちらが形勢不利になってしまっている。つい数分前まで有利だった状況が、今や完全に諸葛亮の掌の上だ。

 

 

 こうなった以上、純粋に外交的な手段で孫権……袁術陣営に出来ることは、ひたすら見返りを提供する以外にあるまい。一度南陽に戻って指示を仰ぐ手もあるが、今度こそ劉備達も万全の態勢で迎え撃ってくるだろう。最悪、イデオロギーの違いを棚上げにして曹操と同盟を結びかねない。

 

(……仕方ないか。劉勲達には悪いが、独断専行させてもらう。私達が守るべき民……その生活の為に)

 

 ここから先は、完全に出たとこ勝負だ。周囲の使節達が何か言おうとするのを遮って、孫権は口を開いた。

 

「……そちらの仰るとおり、私自身は袁術殿の代理に過ぎず、当の袁術殿もまた南陽群太守に過ぎません。徐州牧殿に比べれば格式は劣る事でしょう。」

 

「……」

 

 諸葛亮は無言で、孫権の言葉に耳を傾ける。

 孫権は一旦こちらの言い分を認めたような発言をしたが、本心から言っている訳でもあるまい。一度持ち上げてから落とすなど、舌戦においては基本中の基本……だからこそ、まだ油断はできない。いいや、むしろこれからが本番なのだ。

 

 

「されど――貴女は我々の内情を誤解している。豫州と南陽群の組織と活動は、袁家が全てを取りまとめている訳では無い。皇帝陛下から統治を委託された豪族達の“自由な意思”のもと、『民主集中制の原則』に従って治められているのだ。」

 

 まるで法律を読み上げているような、独特な言い回しを多様した孫権の言葉。その意味を正確に理解出来た者は、袁術の使節団を除けば陶謙と諸葛亮ぐらいのものか。

 

 民主集中制とは……下から上まで全ての権力機関は民主主義的に構成され、上級機関の決定は下級機関にとって無条件の拘束力を持つ――いわば意思決定までは民主的な議論を尽くして多数決で決めるが、決定された決定には絶対に逆らってはならない、という制度だ。

 

 民主制と独裁制を混ぜたようなこの制度は、もともと組織における分派や造反組の結成を阻止する為のもの。

 豪族や商人の力が大きく、リーダーシップ不足が否めない袁術陣営では地方分権・封建的な色彩が強い。しかも豪族達や商人はそれぞれの領地や仕事を持っており、会議が開ける時期は極めて限られている。故にこの「寄り合い集団」が一貫した政策を行うには、行動の統一が必要条件であり、一度会議で決められた決定が覆されるような事があってはならなかった。

 それを解決するべく採用されたのが、“討論の自由と行動の統一”という言葉に代表される、官僚主義を体現したかのような民主集中制だったのだ。

 

 

「本文書には、我々の対外関係全般をつかさどる外務人民委員会の印が押されている。」

 

 

 そして官僚主義のもとで一度下された決定は――

 

 

「であれば、この決定は豫州と南陽群に住む全ての人民の意志と等価。合計人口900万以上……かの地に住む全人民の意志を否定するならば、それなりの覚悟はしてもらおう」

 

 

 どんな犠牲を払おうとも、覆されてはならないのだ――

 

 

「忠告しよう……あまり袁家を舐めない方がいい。象の動きは鈍重だが、本気で動き出せば大抵の障害物は粉砕できる。大きさは、それだけで力なのだ。」

 

 

 ゆっくりと、厳かに、孫呉の姫はそう告げた。

 それは徐州側に対する、あからさまな恫喝。居並ぶ文武百官も思わず絶句する。

 

 自らの内包する官僚主義的弊害を利用した、典型的な瀬戸際外交だ。もちろん、絶対に戦争になるという確証は孫権にも無いだろう。だが、徐州の3倍はあろうかという圧倒的な人口差を見せつければ、徐州側の士気を挫く事は出来る。この時代の常識から言えば、人口差はそのまま経済・軍事力の差となるのだ。

 

「孫権殿……今の発言は我々への“脅し”ですか?」

 

「無論、そんな事はない。これはそちらへの“警告”だ」 

 

 そんな事は無いと言いつつも、孫権の語中で“忠告”が“警告”へと格上げされた事を、諸葛亮は聞き逃さなかった。

 

「……」

 

「……」

 

 見えない火花を散らす、諸葛亮と孫権。彼女らの舌戦と行方次第で、軽く100万を超える民草の生活が変わるのだ。お互いに守るべき民を抱えているだけに、一歩も引く様子は無い。まだ若い、いや少女といっても差し支えの無い年齢の娘2人に、歴戦の武将すら固唾を飲んで見つめていた。

 

(結局、こうなってしまいましたか……)

 

 諸葛亮は小さく唇を噛み締める。

 もとより、力関係では圧倒的に相手側の方が有利なのだ。敢えて今まで力押ししなかったのは、対等な立場である事を強調し、こちらに気を遣ったがゆえ。例え無理を通せる力があろうとも、使わないに越したことは無いからだ。逆にいえば、その気になればいつでも押し切れるということ。

 対して、徐州側に単独で対抗できる力は無く、しかも孤立無援の状態だった。

 

(揚州は前から袁術さん達が半植民地化してますし、青州は曹操軍という身近な脅威に怯えて妥協的。かといって曹操さん達を味方にするには……)

 

 本来なら、こういった場面では別の列強に協力をあえぎ、両者を争わせて徐州の利になるように誘導するべきなのだ。

 だが反董卓連合戦以降、劉備達と曹操はイデオロギーの違いもあってずっと対立してきた。生半可なエサで曹操は釣れないだろうし、かといってそれなりの見返りを与えれば、今度は徐州内部から反対を受けてしまう。感情レベルでの反発もあるし、交渉は袁術以上に難航するだろう。

 

 そもそも「武力による中華の統一」を目指す曹操が、劉備達の独立を認めるかどうか疑わしい。下手をすれば“袁術に取られない内に徐州を潰そう”という判断を下す可能性すらある。

 

 また、正式な同盟こそ結んでいないものの、劉備達は旧知の仲である公孫賛と懇意にしており、それが曹操との接近を更に困難にしていた。

 公孫賛と袁紹は長年対立しているし、袁紹と曹操は同盟を結んでいる。しかも曹操が狙っている青州は公孫賛寄り。袁術に対抗する為に曹操を味方にすれば、間接的に公孫賛や青州を敵に回してしまうのだ。友好勢力を敵に回し、長年の敵に鞍替えする事がどれだけのリスクをもたらすのかは言わずもがな。一時の勝利の為に、長期的な国益を損なうなど愚の骨頂でしかない。

 

 

 

「もう一つ。……恥ずかしながら、人民委員会の活動は慈善活動でも友愛を説く事でも無い。むしろこの世の俗と欲望そのもの。純粋に、ただひたすら純粋に利益を追求する巨大な官僚機構だ。」

 

 孫権は、相変わらず怯んだ素振りも見せずに話を続ける。

 

「そして巨大な組織というものは、一度決断を下せばその巨大さ故に引き返せない。仮にこの場でで私を論破したとして……」

 

 

 次に来るのは、より容赦の無い“力”そのもの――

 

 

 最後にそう言って、孫権は話を締めくくる。その口調と表情からは、相変わらず何も読み取れない。どこか達観していると言ってもいい。ただ、紺碧の瞳だけが深い憂いを湛えていた。

 

 

「…………」

 

 

 再び、議場に沈黙が下りる。

 誰も言葉を発しない。いや、発せないのだ。

 孫権の言葉は推測に過ぎなかったが、ただの推測と一蹴するにはあまりにも真に迫っていた。

 

 そこにあったのは、劉備達の目指す“理想”とはかけ離れた、不条理で無機質な“現実”だ。

 己のやり口を卑怯とを知りながら、敢えて孫権は彼女にとっての“現実”を見せつけた。

 哀愁と諦観の混ざった瞳で、真摯に、誠実に、最も高い可能性を予測した。

 

 無慈悲な力によって母を奪われ、現実を見せつけられ、それでも力に頼らざるを得ない……そんな彼女の言葉だからこそ、それは抗し得ぬ説得力を持って劉備達の心に突き刺さる。

 

 

「………」

 

 陶謙は無言で、目の前にいる女性の言葉に耳を傾けていた。同時に彼女の一連の発言によって、議場の雰囲気が変わった事にも気づいていた。そして――

 

 

「…………よかろう。」

 

 沈黙を破る、小さな声。この場にいる者全ての視線が、陶謙一人に向けられる。

 

「これより、決を取る。同盟に賛成の者は右へ、反対のものは左へ移動せよ。徐州の未来を考え、各自が最善と思う決断を下すが良い」

 

 主君の命を受け、全ての家臣達が一斉に動きだした。他の誰でも無い自分自身の頭で考え、最初の一歩を踏み出す。

 

 距離にすれば僅か数尺しかない移動。だがそれは徐州に住む、全ての民を左右する数尺なのだ。

 一歩、また一歩。自分の決断を噛み締めるように、ゆっくりと移動する。

 

 果たして結果は――

 

 

「……賛成9割、反対1割、棄権無し。」

 

 

 怒りも無く、喜びも無く。静まり返った室内に、ただ事実だけが陶謙の口から羅列される。

 

 決断の時は来た――陶謙は玉座から立ち上がり、己の敗北を高らかに謳い上げる。

 

 

「……よって、徐州牧・陶謙の名の元に、南陽群太守・袁術との同盟締結を宣言する!」

 

 

 全ての家臣が、その言葉に頭を垂れる。

 全員が心から納得した訳では無い。中には小さくかぶりを振った者もいれば、熱くなった目頭を押さえる者もいる。

 だが、面と向かって異議を唱える者は一人もいなかった。

 

 

 ◇

 

 

(皆、現実を理解したのか……)

 

 陶謙は、そっと目を閉じる。

 

 彼が州牧に就任してから十数年……徐州で大きな戦乱は起こらなかった。黄巾党の乱も、董卓の暴政も徐州の人間からすれば遠い彼方での出来事、と言う程度の認識でしかない。つまるところ全員が平和ボケしているのだ。戦争という現実的な恐怖を見せつけられれば、場の空気が妥協・譲歩という安易な道に流れても不思議は無いだろう。

 

 

(だが――

 

 

 

 

 

                   ――それで良い!)

 

 

 家臣達が様々な感情に揺れ動いている中、陶謙はただ一人、奇妙な高揚感に包まれていた。外交・経済戦争で負けたにも関わらず、「負け」を自ら選べたという英断に陶謙は安堵する。

 

(そう、これで良いのだ。屈伏、屈辱、構わぬ大いに結構。折れるべき時に折れずして何が政治家か)

 

 陶謙は、長年生きた経験から知っている。

 歴史が何度も証明している通り、絶対的な“現実”と圧倒的な“力”の前では、理想や民の意志、小国の意地などただ踏みにじられるモノしかない、と。

 

(……徐州が生き残るには、他勢力との協調は欠かせぬ。つまり、裏を返せば我々には単独で独立を維持できるほどの力は無い、ということ)

 

 誰よりもその事実を理解していた陶謙は、優れた外交手腕でもって徐州の独立を維持してきた。だが皮肉な事に、長い平和が逆に家臣達の現状認識能力を曇らせてしまった。平和に慣れきった家臣の中には戦のなんたるかを忘れ、己が正義を過信し「曹操、袁術、恐れるに足らず」と思い上がる者まで出てくる始末だ。

 

 正義は一つではない。国の数だけ、組織の数だけ、人の数だけ価値観があり、それに基づいた正義がある。そして正義と正義がぶつかり合えば、当然ながらより強い方の正義が勝つ。

 

(今の我らに必要なのは、理不尽に屈する勇気――小国が生き残る条件を忘れれば、安易な自尊心と引き換えに大国に蹂躙されるだけじゃ……)

 

 どんなに見苦しくとも、自尊心をずたずたに引き裂かれようと、生きてさえいれば未来はある。大義や正義、理想や誇りなどというモノは強者の贅沢でしかない。弱者はまず、己が弱者である事を知り、限界を知った上で行動せねばならないのだ。

 

 

(玄徳どの……)

 

 憂いを帯びた陶謙の目は、部屋の片隅で頭を下げたままの、桃色の髪をした少女に向けられる。彼女は部屋の左側、つまり同盟反対の側にいた。

 

(理想を追い求める貴女の姿勢は素晴らしい。だが、この機会に覚えてもらいたい。不条理な現実と、その中で生き残る術を知らねば、理想を為すことは出来ぬと……)

 

 長い髪に隠れて、劉備の表情はうかがい知れない。隣に立つ北郷は唇を噛み締め、関羽は武器を握る拳に力を込めている。諸葛亮と鳳統は……彼女達の反対側にいた。軍師として、主君らの意に反してでも“客観的に正しい”選択をしたのだろう。

 

(貴女は幸せじゃよ。常に傍らで支え続けてくれる部下と、必要とあらば君命に逆らう気概のある部下の両方を得ている。これからの時代は益々そなたにとって厳しくなるだろう。だが、斯様な部下がいる限りは……)

 

 

 何にせよ、家臣達は決断した。自分達自身の意志で、袁術への屈伏を選んだ。自尊心を捨て、屈辱的な譲歩という“合理的”な選択を成し遂げたのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 翌日――

 

 孫権たち使節団は、南陽へ向かう馬車に乗っていた。交渉が終わった以上、もはや徐州に用は無い。一刻も早く宛城へ戻り、詳細な報告をするのが次の仕事だ。

 馬車の中には2人の人間が座っていた。片方は全権大使を務めた孫権、もう片方は片眼鏡をかけた、こちらも若い士官だった。

 

「蓮華様……本当によろしかったのでしょうか?」

 

「具体的に、亞莎はどこが気になるの?」

 

 孫権は書類から目を上げ、亞莎と呼んだ少女を見る。

 姓は呂、名は蒙、字を子明という。最近になって軍師見習いに大抜擢された、孫家の若手ホープの一人だ。

 

「同盟の話です。恫喝混じりの交渉をすれば、我ら孫家の印象は確実に悪化します。袁家の為に、そこまでする必要があったのでしょうか?」

 

「では、少しきつい言い方になるけれど……与えられた使命を放棄して、交渉を決裂に追い込んだ方が良かったと?」

 

「それは……」

 

 呂蒙は答えられなかった。

 彼女の主君が最も気にかけているのは袁家でも孫家でも無く、自分達の治める民草の生活だ。重要なのは孫呉の民の生活であり、孫家の独立や袁家打倒などはそのための手段に過ぎない。

 今回の交渉を決裂させてしまえば袁術陣営は徐州という市場を確保できず、それは南陽群と豫州の経済にとって大きなダメージとなるだろう。打倒袁術には一歩近づくかも知れないが、守るべき人民の生活に悪影響を及ぼしてしまっては、本末転倒なのだ。

 

 

「それに………本当に追い詰められているのは彼らじゃない。我々の方だ」

    




 「一度為された決定は変更されてはならない」……官僚主義の有名な弊害の一つです。あまりにも組織が巨大だからこそ、変更する手続きとかのコストが大き過ぎて、多少状況が変わったぐらいじゃ変更できないんですよね。

 ただ、ソビエトの民主集中制なんかはロシア内戦、第2次世界大戦を乗り切る上で大いに役立ったそうです。平時じゃ弊害が多そうな制度ですが、意見や方針が2転3転しない分、戦時には有効だとか。

 次回は書ききれなかった袁術領経済の話を書こうかと思います。


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40話:豊饒の地

 しばらく時間が空いてしまいました。ストックはあったんですが、なんか加筆修正を加えまくってたら、それが更に変更を呼んでしまい……orz。


      

 南陽郡は古来より“豊饒の地”と呼ばれ、最も早くから農耕地が開発整備されており、治金を始めとした工業、そして物流の中心地であるという特徴を生かした商業がバランスよく発展している。一説によれば、前漢の後期には既に15万もの都市人口を抱えていたという。

 同時に軍事的な要所でもあり、北から宛城に行くには、西の伏牛大山塊、東の桐柏山脈に挟まれた隘路を通らねばならい。それゆえ兵家必争の地とされる荊州の中でも、北部の玄関口として特別な意味をもっていた。

 

「蓮華さま、街が見えてきました。――帰ってきたんです、宛城に」

 

 馬車の窓から外を眺めていた呂蒙が、孫権に語りかける。つられて視線をそちらに向けると、宛城の街並みが飛び込んできた。

 宛城――南陽群の州都にして、大陸中で最も富が集まる大都市。同時に中華で最も罪深く、また活気に満ちた袁家のお膝元。商人と貴族の理想郷が、窓の向こうに見えてきた。

 

 煙の臭い、食べ物の臭い。金属を打つ音、木を叩く音。

 鉄を精錬する熱い空気に、何台もの馬車が立てる土煙。

 売り子の声、道行く人々の賑やかな声、酒場から流れる楽しそうな歌。

 

「そんなに長い旅でも無かったけど、この騒がしい空気を感じると、なんというか……」

 

「懐かしい、ですか?」

 

 呂蒙の問いに、孫権は首を縦に振る。

 宛城では一般人の夜間通行も許可されており、大通りでは大道芸や講談、楽士の演奏などが行われ、屋台や露店が所狭しと立ち並んでいる。昼夜を問わず飲食店には人々が集い、麻雀や札遊びを楽しみながら、酒や茶を飲んでいた。

 

「奇妙ね。私はどうも、この騒がしい街の方が落ち着くみたい。」

 

 のどかな田園風景の広がる徐州から、活気と喧騒に包まれた南陽へ。客観的に見れば、下邳の穏やかな街並みの方が和みそうな印象がある。されど、やはり慣れ親しんだ空気というのは、人間の心に不思議と安心感をもたらすものなのだろうか。

 

「ふふっ、蓮華様の声も何となく穏やかになってますし、そうみたいですね。」

 

「そっ、そう?」

 

 呂蒙の言葉に、心なしか孫権の顔が赤くなった。年も近い事もあってか、非公式の場では彼女の口調も自然と年相応のものになる。

 

「そういえば……下邳には街全体を覆うように城壁があったけど、ここには無いのよね」

 

 南陽の繁栄を象徴するかのように街は年々拡張され、今では3重の城壁が都市を取り囲んでいる。しかし空前の繁栄を迎えた宛城ではそれでも足りず、数年前からは交通の疎外となる区画同士の壁が一部取り払われ、3つ目の城壁から外は市壁の無い街になっている。

 

「商人にとって通行税と関税は最大の敵ですから。ここ以外だと、むしろ市壁が無い方が珍しいですよ。それに、街が広がる度に壁を作っていてはお金がいくらあっても足りません。交通網の整備だけでも、毎年かなりのお金と手間が掛かっているとか」

 

 呂蒙の言葉通り、人民委員会の数少ない公共事業の一つが、流通網の整備だ。

 これまでは地方の豪族がそれぞれ別個に通行税を設けており、貿易や行商には不利な環境だった。商人の発言力の強い袁術陣営では、以前から通行税廃止が声高に叫ばれており、袁家は南陽群や豫州の豪族と自由貿易協定を結ぶことで、袁家を中心とした自由な経済圏の設立を目指していた。孫権らが徐州で結んだ自由貿易協定も、袁家の経済政策の一環といえよう。

 そこでの主要な目標は関税や通行税の全廃と、交通インフラの整備。それを象徴するかのように荊州南陽群では、宛城を中心とした巨大な都市圏が形成されつつある。道行く人々の中には南蛮人や西方の貿易商と思しき人間までおり、中華にあって中華でないような不思議な雰囲気を醸し出していた。

 

「私は汝南郡の出身ですが、初めてここに来た時は外国にいるような気分でした。中華広しといえども、異国の人間や商品がここまで溢れているのは、宛城と長安ぐらいだと思います。」

 

 歩道は木板や丸太を嵌めこんで舗装してあり、車道は石板や石塊を敷き詰めた石畳で出来ている。大通りは広く、路端や路地には様々な露店が並ぶ。最近では漢水の支流である白河から街まで運河が引き込まれ、江南から大量の物資を水運出来るようにまでなった。

 おかげで広場にあるマーケットはヒト、モノ、カネで溢れ、店頭には隣州からの輸入品はもちろん、見た事もないような南方・西方の特産品も数多く並んでいる。広場からは大通りがいくつにも分岐しており、職人街、商店街、オフィス街、金融街、歓楽街、専門店街、官庁街、繁華街、風俗街、高級住宅街など様々な地区に繋がっていた。

 

「いつの時代も金と商人は強大な力を持っていたけど、世の主導権を握る事は無かった。でもこの街では違う。経済が行政を、軍事を、そして外交を支配している。」

 

 孫権は広場で開かれている市の賑わいを覗き込み、小さく笑う。つい数年前までは経済など学ばなくとも、軍事や行政、外交だけで高級官僚になれたものだ。ところが今では、武官ですら経済を学ぶ者がいる。何をするにも金、経済、利潤。一日の中で金の話を聞かない日は無いだろう。

 汝の神は金貨なり。故にこの地を見た他州の人々は、例外なく口を揃えてこう言うのだ。

 

 国の為に経済があるのではなく、経済の為に国があるようだ――と。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 ――夜、宛城の宴会場にて

 

 少し離れた部屋から、宴で盛り上がった人々の姿が見える。奏でられるパーティー用の優雅な音楽に加えて、食器の音や商人たちの笑い声、ゴシップで盛り上がる貴族たちの声が入交り、独特の優雅で堕落した雰囲気を醸し出していた。

 

(宴会を見れば国柄が分かるというけど、なるほど間違いとも言い切れない。)

 

 今夜の宴の主役である少女……孫権はそんなことを思いながら、ちょうど街を見下ろせる位置にあるバルコニーに佇む。「3州関税同盟」締結を記念して、先ほどまで祝賀パーティーに出席していたが、頃合いを見計らって逃げて来たばっかりだ。赤を基調とした裾長のドレスが、風に吹かれて小さくはためく。

 

 やはり、自分はこういう派手な行事が苦手らしい。というより、貴族の令嬢らしい振る舞い――食事の作法、贈答品に対するお礼、接待用の美辞麗句、他人の噂話や陰口、男性に付き添いしてもらう時の方法など――が苦手だ。

 

 

「あ……なんだ、宴会場にいないと思ったらこんな所に」

 

 声がしたので、振り向いてみると賈駆がこちらへやってくるのが見えた。彼女も自分と同じように祝賀会用の礼服を着ており、少々歩きづらそうだった。

 

「同志賈駆も外の空気を吸いに?」

 

「いや、一応ボクも警備責任者の一人だから。孫権の姿が見えなかったから、国家保安委員として探したまでよ。……あと、名前は普通に呼び捨ててもらえると嬉しいんだけど」

 

 微妙な顔で答える賈駆。だいぶ袁術陣営の習慣にも慣れたつもりだが、未だに同僚を“親愛なる同志○○”と呼び合う習慣だけは慣れない。というか、あんまり慣れたくない。

 

「むしろ慣れたら負けな気がするわ……」

 

 ボソッと呟いた賈駆に孫権は首をかしげた。

 

「どうかしたの?」

 

「えーっと……その、今着てる服のことよ。ボクはあまりこういうの着る事なくて」

 

 聞こえていたらしい。とっさに思い浮かんだ身近な問題を口に出し、適当に孫権を誤魔化す。

 

「なんか足がそわそわして落ち着かないわ。風が吹くとスースーするし」

 

 賈駆は普段、文官の制服を始め露出の少ない服を着る事が殆どだ。機能性よりも見た目を重視した夜会服に慣れない様子で、動きもどこかぎこちない。対する孫権は着慣れた様子で、動きにも無駄がなかった。少しばかり恨めしそうに孫権の方をジーッと見つめながら、賈駆が問う。

 

「……南方の女性って、みんなこんな服着てるの?」

 

「そうか?北に比べて、特に露出が多いとは感じないが」

 

「孫策さんとか」

 

「姉上なら、普通に動き安さ重視だと思う」

 

 姉の性格を思い浮かべながら、孫権が答える。

 日頃から外で体を動かす事を好む姉のことだ。出来るだけ動きを制限するような服は着たくないだろうし、よく運動するだけに風通しの良い服の方が良いのだろう。孫策に限らず、孫家の武将は概してそのような傾向がある。

 

「周瑜さんも?」

 

「おそらく」

 

「劉勲は?」

 

「アレは……」

 

「なんか透ける素材で出来た露出度高いの着てたけど」

 

「………」

 

 言われてみれば劉勲は宴会の時はいつも、肩から胸元まで大きく開いた挑発的な服を着ていた気がする。やけに胸元やら脚線美やらを強調したり、透け素材を使った上着で下着を見せるのが多い。

 

「賈駆………どうしても言わなければ駄目か?その、出来れば言いたくないんだが」

 

「やっぱりそう言う事なんだ……」

 

 なぜか顔を赤らめた孫権に、賈駆は妙に納得しつつ、「聞く前から想像はついてたけどね」と付け加える。昔から劉勲には黒い噂が絶えないし、本人も倫理や道徳といった概念からは無縁の存在だ。そもそも叩いてホコリの出ない権力者なんて存在しないし。

 ふと、そんな事を考えていた次の瞬間、賈駆の顔が大きく引きつる。

 

「げ……」

 

「――おやおや、本人のいない所で噂話は感心しないな~♪どれ、お姉さんが指導してあげようではないか~」

 

 噂をすれば影。他ならぬ劉勲本人が来た。しかもタチの悪そうなハイテンション。

 

「孫権ちゃん久し振りぃ~♪お姉さん、寂しかったわ」

 

「……どちら様でしょうか?」

 

 孫権は呆れたように口にする。徐州から宛城に帰った初日にこれだ。この辺のユルさが袁家らしいといえば袁家らしい。絡んでくるアゲアゲ状態の上司という、とてつもなく扱いが面倒な存在をどうしようか迷っていると、劉勲は上機嫌で孫権を引き寄せる。

 

「えへへへへ♪可愛い~♪」

 

「え?」

 

 一瞬、何が起きたのか分からず、間抜けな声を出してしまう孫権。唐突に抱きつかれ、呆然とする。

 

(あ、意外にやわらか……じゃないっ!何を考えているんだ私は……!)

 

 劉勲はどちらかというとモデル体型で、割とほっそりとした体つきの持ち主だと言える。だが、こうして接触してみれば、出るべき所はそれなりにキチンと出ているらしく、女性らしい柔らかな感触が孫権に当たり――その瞬間に酒の匂いが流れ込む。

 

「ちょっ、劉勲……お酒――!」

 

 相当飲んでたらしい。よくよく見れば頬も赤いし、体温もやけに高いような気がする。薄々感づいてはいたが、自分は酔っ払いに絡まれたようだ。しかし上司に向かって『酒臭っ!』とストレートに言う訳にもいかないのが世の悲しいところ。

 

「うん?あー、そーいや今日は結構飲んだわねー。何で分かったのかしら……愛?」

 

「痴漢は皆揃ってそう言うのだが」

 

「孫権ちゃんが冷たい……。――よっと」

 

 劉勲は一旦体を離すと、片手で軽く自分の頭を叩く。とろんと現実世界からトリップしがちだった瞳に、ゆっくりと理性の色が戻り始める。だが、既にかなりのアルコールを摂取したと思われ、足取りは依然としてフラついている。腕をからめて寄りかかっている孫権に支えられて、ようやくフラつかずに立っているといった様子だ。

 傍から賈駆はやれやれ、といった表情で口を開く。

 

「飲み過ぎ。そうやっていつまでも寄りかかってると人の迷惑よ?」

 

「そんなコト言ったってぇ、アタシ酔っちゃってもう立てなぁい♪頭痛いよぉ」

 

「ねぇ孫権、コイツ殴っていいかしら?」

 

 引きつった笑みと共に、青筋をいくつか立てた賈駆が拳をかためる。へらへらと笑う劉勲のそのまま拳を落としてみると、「やぁん、いたぁい♪」とかフザけた悲鳴と共に頭を押さえる姿が目に入った。

 『酒の力を使って媚びる』というのは合コンとかの基本的なテクだが、ここまで露骨な下心丸出し感があると、むしろバカっぽく見えるのは気のせいだろうか。おまけに異性ならともかく、同性が見ている分にはウザい事この上ない。やんわりと賈駆を宥める孫権の顔も自然と苦笑い気味になる。

 

「というか……そもそも、何でこんなになるまで飲んだのよ」

 

 やっとのことで拳をおさめた賈駆が再び質問する。大の大人、しかも政治家が酒飲んで酔っ払って絡むとかロクな未来が見えない。

 劉勲はというと……なぜか急にブルーな状態へと変化していた。例えるなら、残業帰りにバーで一人寂しくカクテルをチビチビ飲んでるOLみたいな。

 

「あのねぇ。大人になるとさ、酒無しじゃやってられない時があるの。わかる?わからないわよねー、アンタ達みたいな若い小娘には」

 

「齢がバレるわよ」

 

「“よわい【齢】”って言うな!つか、そこまで歳離れてないし、アタシ普通に孫策とかより年下なんだケド!?むしろ永遠の17歳よ!」

 

「劉勲さんじゅうななさい」

 

「衛兵!コイツ連行して!反革命罪で自白を強要しなさいッ!」

 

「何この権力の乱用!?しかも強要されたら自白じゃ無いじゃない!」

 

 ちなみに袁家における『反革命罪』の定義は「全ての兵士・農民・労働者の代表たる中央人民委員会および袁家を転覆・弱体化させようとする全ての行為」とされている。内乱罪と外患誘致罪を混ぜたようなもので、該当者は『治安維持法』あるいは『国家保安法』によって死刑、または鉱山送りとなる。なんだこの便利な法律。

 

「チッ、自白が無理なら取り調べの調書を偽造して――!」

 

「あんた裁判の意味分かってる!?むしろこの女を逮捕しなさいよ!」

 

「そして小物犯罪者を何人か集めて司法取引ッ!求刑の軽減と引き換えに偽の証言させて!」

 

「しかも無駄に用意周到だし!?」

 

「……2人とも少し落ち着いて。とりあえず素数を数えるところから始めて……」

 

 ヒートアップする2人に、孫権は額に手を当てて溜息をつく。酔っ払いは適当のあしらうのが一番なのだが、賈駆はそういった対応には慣れてないようだった。劉勲は劉勲で、酔ってるのに頭が回るとか面倒極まりない。ちなみになぜ孫権が酔っ払いの対応に慣れているかは、彼女の姉妹を参照されたし。

 

「まったく……劉勲も、何杯飲めばここまで酔っぱらうの?」

 

「軽く一升は飲んだわね」

 

 普通に致死量だ。

 

「だって疲れたんだも~ん。この前から曹操ちゃんが手当たり次第にケンカ売ってて、いろいろと大変なのよ?」

 

 どうやらヤケ酒の原因は曹操らしい。最近の曹操は黄巾党討伐を名目として、朝廷を利用して青州に圧力をかけている。噂によれば、青州に権益を持つ袁紹も軍事介入に誘ったらしく、2人で山分けする気だとか。

 

「それで袁紹に外交工作を仕掛けた、と?」

 

「そゆこと。いやー、孫権ちゃんが徐州との交渉早く終わらせてくれたから、こっちも大分はかどったわよ。ここまで大がかりな話だと、買収工作するにもかなりの額が必要だし」

 

 そこで徐州との自由貿易協定が効いてくる。この協定によって、少なくとも袁術陣営にはプラスの経済効果が見込まれている。よって先の利益を見越した商人に債券を発行する事が出来るようになり、それを元手に各諸侯への“資金援助”を行えるようになったのだ。

  




 実はこの40話、本当はもっと長かったんですが、文量が多すぎると感じたので41話と分けさせてもらいました。41話も見直しをしたら、明日か明後日あたりに投稿しようと思います。


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41話:貴族の貴族による貴族のための政治

 前話の続きです。
 ※ちょいビッチっぽい描写があります。今更感がありますが、念のため。


     

「――なんだ劉勲、オマエここにいたのか」

 

突如、背後から声が響く。宴会場からこちらへ向かってきたのは、袁術軍指揮官の一人、紀霊だ。袁家では数少ない叩き上げの軍人で、本人の戦闘能力も高い。

 

「あら、紀霊じゃない。宴会楽しんでる?」

 

 劉勲はひらひらと手を振り、軽いノリで答える。

 

「お久しぶりです、同志紀霊。ご機嫌麗しゅう」

 

 一方であまり親しくない――というより軍部の主導権を巡って孫家と紀霊は対立関係にある――孫権は表情を引き締めると、背筋を正してキビキビと礼をする。

 

「オイオイ、そんな他人行儀な言い方すんなって。宴会で盛り上がったのが白けるだろうが」

 

 しかし紀霊はオーバーに両手を振り上げると、気にするなとでも言うように豪快に笑う。宴会場から取ってきた酒瓶を片手に持ってはいるものの、武人らしい隙の無い動きと濃紺の背広タイプの袁術軍制服が良く似合っていた。

 

「いやー、アタシはこういう謙虚な姿勢好きよ。上司への飽くなき敬意と祖国へ忠誠……ぜひ紀霊にも見習ってほしいわね。」

 

 すっと横から身を乗り出した劉勲が口を挟む。悪戯っぽい微笑を浮かべ、紀霊の顎をそっと掴んで引き寄せた。

 

「……でさぁ、紀霊~、お酒飲ませて~。その左手に持ってるヤツぅ」」

 

「オイ、上司への飽くなき敬意はどこ行った」

 

 未だにアルコールが抜けきってないのか、やけに媚びた口調で酒をねだる劉勲。砂糖菓子のように甘ったるい声をかけながら、そのまま体ごと紀霊にしなだれかかる。もちろん上目遣いも忘れない。

 

「うわ……」

 

「すごく自然にいったな……」

 

 思わず言葉に詰まる賈駆と、上辺こそ冷静だが内心の動揺を抑えきれない様子の孫権。あからさまな色仕掛けに半ば引きつつ、興味を隠しきれない辺りがお年頃の複雑な心境なのだろう。

 

「お願い、紀霊くん……ダメ?」

 

 ちなみに、劉勲が着ているドレスはローブ・デコルテで、胸の谷間を強調するデザインになっている。そんな服で下から見上げる格好になれば、当然ながら胸元がチラチラと……どころかモロ見えだった。

 そして――

 

 

「七乃ぉー、劉勲達は何をしておるのじゃ?」

 

「シッ!お嬢様、見ちゃいけませんっ!」

 

 

 幼女特有のやたら高い声が響く。続けて子供をしつけるような声。袁術と張勲だった。

 張勲はとっさに無邪気な興味を示す袁術の目を覆う。むべなるかな。体を密着させた男女2人……教育上、断じて幼女の視界に入れて良いモノでは無い。

 

「………(チラッ)」

 

 だが、張勲本人はというと動揺を隠しきれていないらしい。ポッと頬を染めながら、俯き気味にぶつぶつと呟く。

 

「……そりゃ劉勲さん達みたいなオトナなら……いろいろ進んでいるんでしょうけど……」

 

 しかも何やら勘違いしているようだ。だが、100%勘違いとも言い切れない辺りがややこしい。

 

「何もこんな……人の目につく場所で見せつけるように……」

 

「見られながらってのも結構コ―フンしていいわよ?」

 

「劉勲あんた、とんでもない変態ね!?」

 

 思わず大声でツッコんでしまった賈駆。隣の孫権はというと、先ほどから汚物を見るような視線を向けている。

 

「………不潔」

 

「ちょ、待って孫権ちゃん!『流石に引くわ』みたいな顔しないでよ!半分は冗談だから!」

 

 逆に言えば半分は本気である。

 

「あんたの自業自得でしょーが。……いいから、紀霊将軍もソイツさっさと離しなさいよ。教育上よろしくないし」

 

「だな。オイ、いい加減離れろ劉勲」

 

 賈駆の言葉を受けた紀霊が、腕に絡みついた劉勲を引き剥がす。その時に「あん♪」とか聞こえたような気がするが気にしない。

 劉勲がようやく紀霊から離れると、張勲も袁術の目を覆っていた手を離した。視界が戻った袁術は事態を飲みこめていない様子で、“今のは何だったのじゃ?”と首をかしげていた。それを見て、一生分からないで欲しい、と願ったのは賈駆だけではないだろう。唯一、劉勲だけが不満げにむくれていた。

 

「ハァ……なんでこう、最近の娘って潔癖なのかしらね?そんな汚物を見るような目をしなくてもさ」

 

「テメェがだらしねぇだけだろうが。まっ、オレも人のこたぁ言えねぇがな。」

 

 そう言う紀霊は紀霊でいかにもチンピラといった雰囲気を出しており、“ほぉ、あの村には中々イイ女が揃ってるじゃねぇか!景気づけに軽く抜いてこうぜ!”みたいなノリで村娘襲ってそうなイメージ。ある意味お似合いの2人かも知れない。

 

「だらしないって……言っとくけどアタシ、誰とでもベタベタするんじゃないわよ?」

 

 ブーと頬を膨らませながらむくれる劉勲。

 

「公私混同とかもしない主義だし、なんだかんだで人間やっぱ性格だと思うワケよ」

 

「ハイハイわかりました。一応そーいう事にしておきましょう。」

 

 ストップ、といった形で張勲が手の平を向ける。

 

「……で、ぶっちゃけ本当の所はどうなんです?」

 

「――※ただしイケメンに限る。ここマジ重要。試験に出るから」

 

「「「最低」」ですぅ」

 

 身も蓋もない。かといって否定できないのもまた事実。漢代では容姿も人を判断する上での重要な要素であり、心の醜美は顔に現れるとされていた。

 

「何よぉ、じゃあアナタたち全員ブサメン萌えなワケ?」

 

「なんで選択肢が両極端なのよ!?」

 

 賈駆が叫ぶ。そりゃイケメンorブサイクの2択なら前者に限る。恋愛などに限らず、就職の面接とかも大抵イケメン補正かかるらしいし。漢代においても例外では無く、同じ能力でも外見によって面接結果が変化することなど日常茶飯事であった。

 イケメン高学歴→頭いいんだ、凄ーい。

 ブサメン高学歴→ガリ勉乙www。

  ……みたいな。現実は非情である。

 

「おっと……そういや話がまだだった。」

 

 完全に話が飛んでいたが、ようやく紀霊が軌道修正に入る。

 

「――閻象が冀州から帰った。人民委員は全員集合、緊急会議だとよ……って聞くなりイヤそうにガン飛ばすな。文句ならヤツに言え」

 

 どうやら袁紹との交渉も無事に終わったらしい。もとより袁紹とは秘密協定を結んで“袁家以外が覇権を握ることが無いよう”協力する関係にあるが、万が一という事もある。冀州の主だった豪族を買収することで、曹操包囲網を確実なものにするのが閻象の務めだった。

 

「ハァ……長い目で見りゃシゴト早いのは助かるんだけど、少しは空気読んで欲しいわよねぇ。あんまり早すぎるのもアレだし………ていうかアイツ何者よ?いくらなんでも交渉早くない?」

 

「オレが知るかよ。テメェが雇ったんだろうが」

 

 とはいえ交渉が終わったら終わったで、人民委員達には詳細報告を聞く義務がある。気だるげな劉勲を賈駆が引きずり、張勲も会議室へと向かう。袁術もそろそろ寝る時間なので紀霊が護衛して行き、人民委員でない孫権だけがその場に残された。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 劉勲らが去ると、後には何とも言えない静寂が訪れる。部屋の方からはまだ音楽や貴族たちの笑い声が聞こえているのだが、本来なら陽気なはずのそれも、どこか空寒いものに聞こえた。モノは溢れているのにどこか空虚な、そんな感覚。

 

「夜になっても明るいな、この街は……」

 

 バルコニーから宛城の中心街を見下ろすと、そこかしこで人がうごめいているのが見える。月が高く昇っているのに、街の喧噪は収まるどころかその密度を増しているようにも思えた。

 しかし、その雰囲気は昼とは打って変って一変していた。賑やかな空気もカラッとした陽性のものでは無い。どちらかと言えば陰性の、粘っこくどんよりとした熱帯夜のそれ。罵声と嬌声が飛び交い、汗と香水の混ざった空気が街を包みこむ。歓楽街を出歩く人々は窃盗や賭博で金を稼ぎ、安酒と麻薬に溺れながら、我が世の春を謳歌していた。

 

 中心街からやや離れた高級住宅地でも、その本質は変わらない。高い塀に守られた豪邸の中で、貴族達は庶民には手の届かないような宝石と衣装を身に纏い、色とりどりの料理を堪能し、浪費に不倫といったスキャンダルには事欠かなかった。

 

 だが、光溢れる場所には必ず陰が出来るもの。光が強ければ強いほど、陰もまた一層濃さを増す。

 

 裏路地や、街はずれの寂れた旧市街にひとたび目を向ければ、その様相は一変する。

 難民に戦災孤児、捨て子や廃人が住まう、薄暗く凄惨なスラム街。家もなく、服もなく、食事もなく。年端もいかない子供までが僅かな金を得る為に体を売り、死体を漁り、殺人を犯し、他人の僅かな蓄えを強奪する。

 そんな人々が暮らしている光の裏側。繁栄から取り残された、犯罪が日常の一部と化した世界だ。

 

 ――『錬金術師』

 

 ふと、孫権の脳裏にそんな単語が浮かぶ。

 万物の変性を特色とする錬金術は、別名・錬丹術とも呼ばれ、本来は昇仙と不老不死を目的とする秘術だ。仙人になるという事は、それ自体が奇跡に等しい。当然ながらそれ相応の代償も求められ、錬金・錬丹の過程では貴重な材料を捧げねばならぬ。

 

「これが劉勲の……いや、我々全員で成し遂げた錬金術か……」

 

 一言で言うと、異様だった。夢と現実、希望と不安がごった煮になった地獄の釜。

多種多様な人々の思惑が複雑に絡み合い、途方もない額の資金が絶え間なく動く。煮えたぎる釜からは快楽と欲望の香りが立ちこめ、金と権力が無数の人々の人生を狂わせていた。

 

「“先富起来、以帯動和幇助落伍――富める者から裕福になれ。然る後に落伍者を助けよ”、か。……いつもの事だが、相変わらず劉勲は言葉がうまい。実際の効果はともかく、説得力だけは妙にある」

 

 実際の所、袁術陣営の景気は見かけほどよろしくない。

 劉勲の書記長就任と同時に行われた、『五ヵ年計画』から既に十数年……袁術陣営は徹底的な自由化と大商人、大地主に有利な経済政策を進めてきた。

 

 人民委員会の掲げた『先富論』とは、後世でトリクルダウン理論とも言われる経済思想だ。そのロジックは“資本蓄積と投資の活性化により、経済全体のパイが拡大すれば、低所得層に対する配分も改善する”というもの。

 そして資本蓄積の為に、後世で言うサプライサイド経済学――規制緩和と富裕層の減税による貯蓄の増加により、資本蓄積と投資が促され供給力が向上し、生産性の高まりによって需要が満たされ経済成長が達成できる――という理論を組み合わせたものが、人民委員会の経済政策だ。

 

 だが、よくよく……どころか普通に考えてみれば明らかにこれは異常事態なのだ。

 

 まず、経済の基本は需要と供給のバランスをとる事だ。

 しかしながら、袁家の公式路線では格差拡大が前提で、トータルでのパイが増えれば良いとされている。極端な話、「100人がそれぞれ10の財を持つ」という状況より、富の配分を変えることで「1人が1000の財を持ち、残りの99人が1の財を持つ」状況が生まれるならば、後者の方が好ましいという事だ。理由は言わずもがな、トータルの財の量は1000対1099となるからだ。

 

 これについては劉勲と対立していた魯粛らを中心として、強い批判がなされた。すなわち『先富論』によると“経済全体のパイが拡大すれば、資本が社会を循環する中で低所得層に対する配分され、社会全体の利益となる”はずである。しかし現実には一部の富裕層の所得の改善を「社会全体の発展」という事にすり替えられている、というもの。

 

 この批判に対して劉勲は、経済活動への貢献度を所得別に比較する事で反論する。

 袁術領では一般民衆の所得が圧倒的に少なく、その消費は小さ過ぎて経済に大して貢献していない。たとえ人口の9割を占めているのが低所得層だとしても、その経済規模が国内経済全体の1割しかないならば、むしろ残り9割の国内経済を支える、1割の高所得層の所得を改善した方が効果が大きい、と。

 

 理論は良い。

 だが、袁家ではその理論を実行に移した結果、需要と供給のバランスが完全に崩れた。

 

 つまり生産者が競争力をつけ、資本を蓄積する為にコストを下げざるを得ず、コストを下げるためには人件費(どんな組織だろうとコストの割合が一番高いのは人件費だ)を低く抑えざるを得ない。それが自由農民の没落と奴隷・農奴の増加をもたらすのだが、人件費を低く抑えれば、消費者の購買力はいずれ低下する。生産性が向上する一方で消費活動は鈍化し、内需減退と供給過剰というアンバランスな状態が発生してしまったのだ。

 

 

 しかし、これを以て劉勲の経済政策が失敗したと評するには、やや語弊があると付け加えねばならない。正確に言うならば、劉勲の進めた自由主義経済は“うまく行き過ぎた”のだ。

 

 彼女が最初にこれらの政策を発表した頃は、事実として一般民衆の消費は非常に小さく、その活動は社会経済を左右するほどのものでは無かった。まさに「富は上から下へ流れる」というトリクルダウン理論が機能する社会だったのだ。

 それゆえ劉勲の理論は有効に機能し、高所得層の富の増大が社会全体の厚生を底上げしたのだが……今思えばそれが不味かった。

 富が下へ流れ、物価も下落すれば、民衆の所得は一時的に増大し、GDPに占める役割は相対的に大きくなる。経済の担い手が逆転し、今度は一般民衆の消費・生産活動が経済全体に影響を及ぼす「富は下から上へと流れる」社会に変貌してしまったのだ。

 

(南陽と豫州の貴族たちは儲け過ぎた。彼らはあまりにも儲け過ぎたのだ……)

 

 こういった変化にも拘らず、人民委員会は依然として従来の自由化路線を維持し続けた。曹操のように高度な中央集権化が成し遂げられておらず、また組織が巨大であるがゆえに急な政策変更が出来ないからだ。

  そして実体経済との乖離が発生した結果、経済成長のスピードが鈍化へ向かい始めたのだ。

 

 つまり、劉勲の自由経済政策は、彼女の書記長就任当時の経済・社会に合わせた考え方。経済が発展し時代が進むと共に、社会の実情にそぐわなくなったというのが正しい表現だろう。

 

 

 劉勲の書記長就任時と違い、「富が下から上へと流れる」社会では一般民衆の消費が経済を回し、政府を支える。そこでは一般民衆の購買力増大が好景気のカギのなるのだが、金持ち優遇政策の弊害として、既に自作農を始めとする一般民衆の購買力は低下していた。

 

 同時に、農作物生産能力の増大もここでは仇となっていた。

 「黄巾党の乱」とそれに続く「董卓の暴政」によって中華では農作物生産高が減少しており、食糧需要が高まりによって市場価格も上昇した。袁術領では大幅な穀物増産が行われ、多額の商人の資本が投下された結果、街道・港湾整備や農業の機械化・大規模集約化が見られるようになる。このような集約化・機械化・大規模化を通じた余剰生産能力の増大、生産性ショックは農産物価格の急激な低下を引き起こし、多くの自作農がこの時期に没落してしまったのだ。

 

 しかし生産量の増大は、金融規制緩和による投機ブームという過剰な投機によって支えられ、手形などを始めとする信用販売と資金調達も重なって更に増産を続けた。一方で民衆の購買力低下には歯止めがかからず、次第に農作物は飽和状態となり始めた。

 

 更に陶謙や袁紹、曹操などの諸侯が農産物の自給化を図り、輸入品に高関税をかけるようになった事がこれに拍車をかけた。需給関係の実態から離れた供給過多による、「豊作貧乏」とも言うべき農産物価格の下落を後押しした。

 

 

 ここに来て、物価の下落率はついに無視しえぬ水準に達する。今まで「良いデフレ」だったのが、次第にデフレスパイラルへと変貌しつつあった。

 

 供給過多・需要不足による物価下落が生産者の利益を減らすし、減少分は労働者へと転化され、失業者も増加する。それが続けば、購買力が低下した結果、商品は売れなくなり、生産者は商品価格を更に引き下げなければならなくなる。同時に蓄積される資本も減少するため、設備投資や信用販売も縮小。投資の縮小は更なる総需要の減少へつながる、という循環が止まる事無く進んでしまう。

 

 

 中央人民委員会がこの危機を明確に認識したのは、本当につい最近になっての事だ。

 好景気と財政の黒字化ゆえに無視され続けてきた問題――失業者の増加、倒産商会件数の増加、自作農民の急速な没落、貧富の格差拡大、犯罪件数の増加、消費支出の減少、領内市場の縮小、供給過多、過剰在庫など――が無視し得ぬレベルに達していた事が、財務金融、産業経済、内務自治の3つの人民委員会において指摘された。

 

 これを克服する為に劉勲らが下した決断が、先の自由貿易協定だ。

 徐州ではこちらと逆に『平等』を重視した結果、生産性が悪く競争力の無い小農が狭い土地を分散所有し、非効率な価格支持制度が社会全体のパイを減少させている。農民の賃金や所得が高いため購買力はあるが、そのために資本蓄積が進まず、投資によって社会インフラを整え生産性を拡大させる事が出来ていない。そういった歪みは市場価格にフィードバックされ、物価高騰によるインフレが各地で起こっていた。ならば、貿易を自由化してお互いを捕捉し合えば良い、という話になる。

 内需が無いなら、外需を無理やりにでも作りだして外からマネーを持ってくればよい。孫権に与えられた任務の裏には、こういった事情があったのだ。

 

 ――悪い判断では無い。確かに、それによって南陽と豫州に住む人々の生活は守られる。

 

 孫権は釈然としない思いを抱えながらも、その理性によって人民委員会の方針を合理的な判断であると結論付けた。

 現に南陽郡と豫州は多くの問題を抱えつつも、袁家の指導のもと着実に経済成長を続けている。同時に勢力均衡を国是とする袁術陣営が健在ならば、曹操のような覇権主義も抑えられるだろう。長い目で見れば、戦争の減少は中華全体の利益となるはずだ。

 

 今までの実績を見る限り、人民委員会は常に合理的な決定を下し続けている。効率よく投資し、効率よく生産し、効率よく稼ぐ。時には行き過ぎる場合もあるが、損得勘定に敏感な商人ならではの変わり身の早さで、市場相場のように最小限の損失で損切りする。その判断に感情の入り込む余地は無い。

 全ては最大限の富と永遠の繁栄の為に。全てが効率よく機械的かつ合理的に動かされてゆく。

 

 それなのに――

 

(何なのだ……この言いようの無い不安は……?)

    

 幾度となく考えを探っても、別の答えは出てこない。今の中華で平和を維持するには、勢力均衡を維持しかない。常に最善手を取り続けているはずなのに、行く手には不吉な暗雲が立ち込めている。

 静寂の夜の中、孫権はただ悶々と月に照らされた街を見つめるしかなかった。

                  




 (分かりにくかったので)袁家経済の流れ

 生産性向上→余剰価値増大→資本蓄積増加→投資拡大→供給量増加→物価下落→国民所得増大

 理論上はこのサイクルが繰り返されるはず。だが、現実には「国民所得の増大」の部分に問題があった。


 現実には……

 国民所得増大(高所得層の所得増が低所得増の所得減を上回ったというアンバランスなのもの)→内需減退と過剰供給(いわゆる豊作貧乏)

 となり、

 →さらなる物価下落→生産者利益の減少→リストラ→購買力低下→需要減→投資縮小

 というデフレスパイラルへとつながった。
 そこで人民委員会は周辺の諸侯に門戸開放を迫り、過剰生産した分を外需でカバーしようと目論む。

 以上、袁術領土経済の変遷です。経済って生き物みたいに状況に応じてすぐ変化するし、「これをやれば全てうまく行く」みたいのは無いんでしょうね。


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42話:3枚舌外交

 兌州・陳留――

 

 

「やってくれたわね……」

 

 曹操は会議室の中央に置かれた地図を見やり、口元を僅かに歪めた。

 

「袁術陣営が進めている自由貿易協定……経済圏の拡大という名目も間違っては無いのでしょうけど、もう一つの目的は私たちへの締め付けと牽制ね。協定加盟国を攻撃すれば制裁に出る――これで青州への出兵は不可能になったわ」

 

 曹操は腹立たしげにつぶやく。どうにか朝廷から討伐命令を賜ったものの、領土拡張の動きもこれまでだった。

 彼女のあからさまな拡張主義に対し、袁術陣営は『洛陽体制の維持・相互内政不可侵という“諸侯の権利”の擁護』を掲げ、曹操の行動を内政干渉として非難。続けて孔融・公孫賛との間に『3州協商』を締結し、曹操陣営を牽制。

 また、袁術は涼州~司隷の一部に権益を持つ馬騰とも安全保障条約を結んでおり、背後の劉表とも経済的な関係が深い。司隷でも曹操影響力下からの独立を狙っている李傕達や、朝臣の一部が曹操の影響力を割こうと画策している。加えて今回の自由貿易協定だ。司隷・豫州・徐州・青州・幽州を結ぶ曹操・袁紹包囲網。全面戦争となれば曹操陣営は最悪、東・西・南で3正面作戦を強いられてしまう。

 

 しかも頼みの袁紹はというと、自領の統治強化を理由に、青州への出兵には非協力だった。荀或が袁紹臣下時代のコネを使って根回しをかけたのだが、逆に「オマエら自重しろ」との手紙まで来る始末だ。

 

「それにしても、意外だな。まさかあの袁紹が己の威光を見せつける機会を、みすみす放棄するとは」

 

 む、というような顔で首をかしげたのは夏侯惇だ。袁紹の性格からして、自身の影響力を拡大できる青州出兵をためらうとは思えない。夏侯惇の疑問も尤もだったが、荀或は小馬鹿にするように鼻を鳴らして口を開く。

 

「ふん、それだけあの家柄だけが取り柄の無能が華琳様に嫉妬しているってことでしょ。目先の感情で物事を判断するから、南陽の守銭奴たちに利用されてることにも気づかないで……これだから、華琳様の足を引っ張ることしか考えてない暗愚な連中は困るのよ」

 

「袁紹本人はそうかも知れんが、部下も同じとは限らないだろう。何か裏があるんじゃないか?」

 

 袁家のような巨大組織になればなるほど、意志決定における一人当たりのの役割は小さくなる。逆に言えば、個人の能力が全体に小さな影響しか与えないから、上が無能でもそれほど問題は生じない。夏侯惇はその点を指摘した。

 

「袁紹の取り巻きは取り巻きで、とっくに袁術に買収されてるわよ。今朝渡した報告書にもそう書いたでしょ」

 

「あー……20枚目までは読んだのだが、気分転換に朝練をしたらつい……」

 

「~~~ッ!これだから猪は嫌いなのよ!あの報告書、袁紹の領土から帰ってから寝る間も惜しんで書いたのに!あたしの睡眠時間を返しなさいよっ!」

 

 気不味げに頭を掻く夏侯惇を、荀或はキッと睨みつける。

 袁紹と同盟を結んで青州出兵を行うため、彼女はつい数日前まで袁紹の本拠地・南皮に派遣されていた。荀彧がかつて袁紹に仕えていた頃のコネを使った事もあり、最初は比較的うまく交渉が進んでいたのだが、土壇場になってキャンセルされたのだ。密偵の報告によれば、袁紹側が袁術から受け取った賄賂の総額は、小さな県ひとつ分の年間予算にも匹敵する。結局、袁紹との交渉は失敗し、曹操陣営は外交的に孤立してしまった。

 

「くっ、あの閻象とか言う袁術の使者の×××男っ!思い出しただけで腹立つわ!あと少しで交渉が纏まりそうだったのに、あの男に大金積まれた途端にどいつもこいつも目の色変えて……!」

 

 荀或が悔しそうにギリギリと歯ぎしりする。袁術側の使者・閻象は露骨な買収工作を行う事で、まとまりかけていた交渉をご破算にしたのだ。まさに金の暴力と言うべき物量戦。もともと袁紹達に青州を攻撃する必要性は無く、当主の袁紹がノリで参戦しようとしていただけに、当然の結果だった。

 夏候淵もその辺を察して荀或をフォローしにかかる。

 

「落ち着け桂花。袁術の味方をする訳じゃないが、それほどの額の金を用意するのは向こうも大変だったはずだ。相手も相当な労力を費やして資金を調達したのなら――」

 

「――負けても仕方無い、とでも言うわけ?冗談じゃないわよ、あたしは華琳様の軍師なの!こんな所で華琳様の覇道が阻まれてなるもんですか!2度と負けない、負けられないんだから!」

 

 頭で仕方ないと分かっていても、納得できない。純粋な外交交渉で負けるならまだしも、底なしの資金力という物量に押しつぶされる――軍師にとってはこれ以上ないぐらいの屈辱だろう。それがプライドの高い荀或なら尚更だ。

 

「たかが金。されど金、か。使いようによってはどんな英雄よりも役に立つ。袁術陣営の厄介な所は、これでもかと言うぐらい効率的に金を使ってくる所だな」

 

 夏候淵が難しい顔をする。人望の無い袁紹と袁術に、多くの人々がつき従い、沢山の名士や豪族たちが媚を売る理由はそれしかない。大半は本気で袁家に忠誠を誓っている訳では無く、単にいい給料が欲しいだけだ。

 だが、それが普通の反応というものだろう。衣食足りて礼節を知る――世の人間の大半は、何だかんだで正義や理想より明日の食事や家族の生活を優先するものだし、「個人の幸福」という観点に立てば何ら責められるべき価値観では無い。

 

 金の切れ目が縁の切れ目――利益に基づく結び付きは、ドライで脆い結び付きとされる。だが、それだけにシンプルで有効範囲も広い。世の中には金で買えないモノもあるかも知れないが、大抵のモノは金さえあれば買えるのだから。

 

 

「……とりあえず、青州への出兵は当面中止よ。」

 

 曹操が苦々しげにつぶやく。

 いま無理に戦端を開けば、本当に全周囲包囲されかねない。悔しいが、ここは一旦兵を引いて外交関係の修復を図るべきだろう。

 

「問題は今後の身の振り方ね。外交において最優すべき相手は、やはり勢力の大きい袁家になるわ。粘り強く麗羽たちと交渉していくか、それとも袁術との関係改善を図るか……桂花はどう思う?」

 

「……単純に相性の問題で考えれば、袁紹になるしょう。いくら多額の賄賂を受け取ったとはいえ、その効果は一時的なもの。賄賂の効果は支払いが終わればすぐ切れる――袁術陣営もその辺は分かっているはずです。本気で袁紹の取り込みを図ったというより、単なるその場しのぎである可能性の方が高いかと」

 

 国の要人の大半を動かすほどの賄賂など、そう何度も送れるものでは無い。袁術陣営にしても関税同盟の締結直後という、一時的な格付け上昇のタイミングを見計らって何とか資金調達が間に合った、というのが実態だ。

 ゆえに荀或は、そう遠くないうちに袁紹と袁術は再び対立すると予想した。その場合、変革を望む袁紹と現状維持を望む袁術では、前者の方が親和性は高いはず。

 

「ですが――少なくとも1度は袁術と取引すべき、とも考えます。」

 

「その理由は?」

 

「袁術陣営に、本気で我々を潰す気が無いからです。」

 

 どういうことだ、と頭に疑問符を浮かべる夏候姉妹を尻目に、荀或は自分の見解を述べる。

 

「袁紹につけばあらゆる支援を期待できますが、向こうは確実にこちらを従属させようとするでしょう。なぜなら袁紹の最終目標は中華における覇権、その過程で我々はいずれ排除せねばならない敵だからです。

 対して袁術の目標は勢力均衡の維持――洛陽会議の時から終始一貫してそれだけです。我々が強大化すれば均衡が崩れる為、今まで袁術は敵に回ってきました。ですが勢力均衡を保つには、我々が必要以上に弱体化することも避けたいはずです。」

 

 反董卓戦以降、中華では一度たりとも大きな戦争は生じていない。勢力均衡による各諸侯間の軍拡競争はあれど、平和が続けば経済は発展する。その恩恵を一番受けている袁術陣営が、自らそれを放棄するような真似はしないだろう、というのが荀或の意見だった。

 

「世間でも言われるように、結局のところ連中の本質は“商人”で、それ以上でもそれ以下でもありません。勢力均衡だの何だのを掲げていても、最終的に行きつく先はカネです。日頃は誰にも言い顔をしておきながら、自身の景気が危うくなった途端に、徐州に一方的な要求を叩きつけているのがその証拠。逆に考えれば、ある程度の見返りを与えれば、それ以上の損失を恐れて手出しはしてこないはずです。」

 

 袁術が、徐州の陶謙に対して一方的な自由貿易を押しつけた事は、曹操軍内部でも知られていた。劉勲など一部の人間は勢力均衡を第一に考えているようだが、大抵の袁家家臣にとってはより多くの利益を得る為の方便に過ぎない。

 

「徐州との自由貿易交渉や袁術領の内情を聞く限り、袁家の経済・財政も万全とは言えないようです。我々が付けこむべきはそこでしょう。」

 

 袁家が繁栄バブルを回すのに腐心しているのは、少し調べれば誰でも分かること。なればこそ、目には目を、歯には歯を、金には金を。荀或の予想では、ある程度の経済的利益を与えれば、歩み寄る事も可能なはずだった。

 

 だが、と夏候淵が言い――顎に手を当てながら再び問いを投げる。

 

「……それならば、袁術が各地の諸侯と盛んに同盟を結んでいるのはなぜだ?劉表のように誰とも同盟を結ばず中立でいた方が、拘束力のある条約に左右されず均衡維持に有利だと思うのだが」

 

「“外交”だけなら、そうなるわよ。でも、“経済”がある」

 

 荀或が答える。

 

「全ての諸侯が袁術陣営の主張する『自由貿易』に賛成なわけじゃない。でも、いちいち全員を説得していたら時間がかかってしょうが無いし、結果が出せなければ担当者の首が飛ぶわよ。あそこの出世競争は激しいらしいから、すぐに目に見える成果を上げようと躍起になってるんでしょ」

 

 多国間でルールを決めるというのは時間がかかる割に、妥協に妥協を重ねていくので目立った成果をあげられない事が多い。経済的な利益を考えれば、弱小諸侯と自由貿易協定を結ぶのが、一番てっとり早い。

 

「それに、いざという時には同盟国を盾や囮として利用できる。甘い言葉で誘って、いいように利用して疲弊させつつ、自分は出来るだけ距離を置いて国力を温存……あいつらの3枚舌外交はいつもの事じゃない」

 

「袁術と取引しようと言った割には辛辣だな、桂花」

 

「ふん、取引は取引よ。別に未来永劫、仲良しになろうなんて考えてないわ。充分に力を蓄えたら、さっさと縁を切って敵に回る。向こうもそのつもりで交渉に臨むでしょうし、お互い様よ」

 

 荀或と夏候淵の会話を聞きながら成程、と曹操は思った。

 確かに袁術と取引する利点は大きい。実際、袁術・陶謙・孔融の間で結ばれた関税同盟によって、兌州経済は大打撃を受けた。周りの州が自由貿易を行い、大きな経済圏の中に入っているのに、自分だけそこから外れれば事実上の経済封鎖も同然。輸出品は売れず値下げ競争に陥り、逆に輸入品は不足し値段が高騰してしまう。

 

 対抗して袁紹との繋がりを深めるという方法もあるが、それだと荀或の指摘通り袁紹に首輪を嵌められてしまう可能性が高い。袁紹の治める冀州は、土壌が良いため農業生産力も高く、人口も多い裕福な土地柄だ。黄巾党の乱や董卓の暴政による被害もほとんど受けておらず、まともに経済力で勝負すれば主導権を握られてしまうのは明白だった。曹操も屯田兵制度など創意工夫によって改善を図っているが、良いアイデアは袁紹にもマネ出来るのに対し、良い土壌などは固定資産なので絶対にマネ出来ないのだ。

 

 

 曹操が玉座から立ち上がる。

 

「――袁術と、講和を結ぶわ」

 

 有無を言わさぬ断定口調。名士の力が強い袁家と異なり、ここでは曹操を中心とした独裁体制が敷かれている。独裁制の利点の一つは意思決定の素早さであり、強力なリーダーシップでもって政策を実行に移せる点であった。

 地方分権と合議制が進んでおり、何をするにも賄賂や談合による根回しが必要な袁術陣営とは好対照といえよう。

 

 曹操は続けて、居住まいを正す側近たちに講和締結の旨を伝える。

 

「私たちの事実上の経済封鎖を止めてもらうために、青州に侵攻予定だった軍を引き上げるわ。必要なら豫州周辺に駐屯させた部隊も撤退させて、袁術に誠意を見せなさい。」

 

「よろしいのですか?」

 

「ええ。桂花の言うとおり、袁術達も戦争は望んでないはず。相互不可侵条約程度なら向こうは確実に乗ってくるでしょうし、それだけでも財政負担はだいぶ減るはずよ。」

 

 この時代、平時でさえ公共支出の5~8割は軍事費が占めており、戦時ともなれば更に増える。その事実を考えれば、袁術との講和による軍事費削減効果はかなりのもの。勿論それは袁術にも言える為、経済最優先の袁術陣営ならば喜んで曹操との戦争を回避しようとするだろう。

 であれば、浮いた資金でしばらくは領内の統治と発展に重心を移し、力を蓄える。それが曹孟徳の決定だった。

 ただし。

 

(――このまま何も起こらなければ、の話だけど)

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 1週間後、荊州・襄陽にて――

 

 

「これは……まずいな」

 

 荊州牧・劉表は一般公開された『豫州平和維持条約』の内容を聞いて、思わず嘆息した。

 曹操の読み通り、劉勲は背後の安全を確保すべく新たな外交条約を曹操陣営と結ぶ。陳留にて両陣営の間で会談が行われ、『豫州平和維持条約』が締結される。内容は“豫州を平和維持するべく、州境に『非武装中立地帯』を設け、両陣営は該当区域から軍を撤退させる”というもの。

 

「曹操は並行して青州出兵の取りやめを発表したし、袁術側も兌州への経済封鎖を部分的に解除した。どう見ても同盟国への裏切りだね。」

 

 一応は公孫賛や孔融などの同盟を結んだ諸侯を意識したのか、『講和条約』では無く『戦時における交戦規定』となっている。ゆえに非武装地帯以外へ攻撃する事は曹操・袁術ともに可能だが、非武装地帯は豫州と兌州の境界全般にわたって敷かれており、事実上の和約にも等しいものだった。

 

「自分から曹操に対する同盟を結んでおいて、当の本人は曹操と講和……いや、“非武装中立地帯”を設定しただけか。貧乏くじを引いたのは、公孫賛と孔融の方みたいだ。」

 

 面白い玩具でも見つけた子供のように、劉表は楽しそうな表情を浮かべた。

 本当に、劉勲は言葉遊びがうまい。堂々と曹操・袁術間で講和を結べば、それは公孫賛らへの裏切りとなる。同盟とは通常、相手国と単独講和することは許されないからだ。

 

 だが、敵との国境に非武装地帯を設ければ、講和条約を結ばずとも事実上の講和が達成できる。“敵対しているが、たまたま互いを攻撃できない位置に非武装地帯が置かれただけ。だからお互いに戦争はしない”などという屁理屈が見事に通ってしまう。ハイリスクな戦争は同盟国に押しつけ、自らは安全な場所から対岸の火事を見るごとく、のんびりと両者が疲弊するのを眺められるのだ。

 

 

「ですが劉表様、外交における彼女らの勝利は……」

 

「そうだね。それは私たちにとって凶報だ。袁術達が負けすぎても困るけど、勝ち過ぎても荊州にとっては良くない。」

 

 かつて袁術とは荊州を巡って争った事もあるが、孫堅の横死以後に台頭した劉勲らとは友好的中立の状態にある。長年の因縁から政治的には未だ対立も多いが、ここ数年でお互いが最大の貿易相手となるほど、経済的な結びつきは強まっていた。

 

「この条約は私たちと彼女達の均衡を、根本から崩しかねない。これではまるで、袁術が荊州を包囲しようと目論んでいるようじゃないか。」

 

 劉表の危惧は尤もだと言えよう。

 現在、袁術は公孫賛・孔融・馬騰・陶謙と同盟を結んでいる。しかも劉表は隣の益州の州牧である劉璋とは仲が悪い。

 益州牧の劉璋は皇族である事を鼻にかけるばかりか、益州をあたかも独立国のように扱い、しかも皇帝への不遜な発言が目立っていた。劉表は、そんな劉璋の態度を諌めるべく皇帝に手紙を送った事があり、それが原因で劉璋から逆恨みされていた。それ以降、益州と荊州は常に冷戦状態にある。

 

 つまり袁術陣営は完全に荊州を包囲する形となり、劉表は孤立無援の状態に置かれてしまうのだ。この状態で袁術が曹操と講和を結んでしまえば、片や袁術は後顧の憂いなく南方に全力を注げる。今の所、袁術陣営の南下政策はまだ揚州の植民地・衛星国化に専念しているが、何時その野望が荊州に向けられるとも限らない。

 

 

「私達の望みは荊州の保全、その一点をおいて他には無い。それを妨げるような条約は、いくら私でも見過ごせないよ。」

 

 かねてから劉表の関心は全て荊州内部に向けられている。彼は中原の争いから極力距離を置く事で国力を維持し、文化と領内の発展に務めていた。おかげで荊州は黄巾党の乱・反董卓連合戦という二つの未曽有の危機からも殆ど無縁であり、投資家の格付けでは高い評価を得て多額の投資を受けていた。

 だが、現時点における袁術と曹操との講和は、この蜜月を終わらせかねない。覇権主義的な曹操・袁紹を抑える為だと思いって劉表はこれまで見過ごしてきたが、流石に今回の曹操との条約はやり過ぎた。

 

 

「劉書記長には何度も忠告したのだけど……やはり、若さゆえの焦燥かな?自信が無くて悠長に構えられないから、結果をすぐに欲しがる。それが彼女の弱点だ。」

 

 残念、全く以て残念だ。劉勲にあと少しの経験と忍耐があれば、共にこの中華に平穏をもたらす事が出来たのかもしれないというのに。

 どこか名残惜しそうに、彼は南陽の方角を見やる。

 

 もとより劉表と劉勲の基本戦略に大きな違いは無い。目指す所は同じく、策略と外交を駆使しての勢力均衡。両者の外交政策に違いがあるとすれば、アプローチの掛け方だろう。

 劉勲はどちらかというと、条約を結ぶ事で他の諸侯の動きを制限し“想定外の事態”防止に重点を置いている。片や劉表はというと、徹底的に『中立』と『孤立主義』の姿勢を崩さない事で、他者の争いに巻き込まれる事を避け、常に外交上のフリーハンドを得るように努力していた。

 

「……しかし、それも今日までみたいだ。悲しい事だが、もはやこの荊州も中原の争いと無縁では居られないようだ。均衡は崩れかけている。ならば、それを修正するのが私の役目だ。」

 

 戦火を逃れた知識人と文化が集まる荊州――この世界に残された、最後の楽園。劉表の采配で長きに渡る平和を謳歌したこの地も、今や中華を覆う暗雲に飲み込まれてしまった。

 

 劉表は立ち上がり、緊急会議を開くよう部下に伝える。守るべきもの――荊州とそこに住む民、そして文化の為、彼は再び立たねばならないのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 曹操と袁術との間に締結された『豫州平和維持条約』によって、両陣営は事実上の講和を達成。北部における軍事負担の軽減に成功した袁術陣営は、豊富な経済力を背景に経済圏の拡大を推し進めていく。

 

 

 表向きは公孫賛・孔融・馬騰らと同盟して彼らを操り、裏では袁紹と取引する事で敵対勢力の行動すらも制限する。その一方で袁術陣営は、曹操とも独自に不可侵条約を結んで後背の安全を図り、同盟勢力を体の良い“盾”とした代理戦争を展開。

 自らは傷つく事無く、同盟諸侯への物資給与や軍資金貸付によって、中華を影でコントロールしようとする様は、後世において“3枚舌外交”として多くの批判を浴びる事となった。

 

 とはいえ3つの条約そのものは、解釈次第では殆ど矛盾はしていないとされる。

 『3州協商』は“袁紹・曹操の侵略行動に対する共同防衛”を目的としたもので、相手陣営と単独で講和を結ぶこと自体に問題は無い。そもそも『協商』とは軍事上の義務を伴わず、また締結相手国に対する援助義務もない緩やかな協力関係だ。協力内容さえ守っていれば、軍事上の利敵行為を働こうが咎められる筋合いはない。

 他方『二袁協定』は情報共有と同盟勢力の単独行動抑制を約束したもので、こちらも秘密条約である事を除けば内容的には矛盾は無い。

 もっとも、内容を知らされていない諸侯からしてみれば、劉勲の主導した袁術陣営の外交政策は、複雑怪奇で不可解なモノとしか写らなかったのだが。

 

 

 袁術と曹操、袁紹に公孫賛。馬騰、劉備そして劉表。諸侯の織りなす、蜘蛛の巣のように張り巡らせられた秘密条約と、様々に入り組んだ同盟関係。黄昏の平和を享受する中華の裏で、それぞれの思惑と数多の陰謀が渦巻く。条約と密約は複雑に絡み合い、それはもはや仕掛けた本人すら、全貌を把握するのが困難なほど。徐々に暴走を始めた外交は、やがて軍事を、経済を、そして最終的には政治すらも飲み込んでゆく。

 

 その崩壊が始まった場所は洛陽――漢帝国の首都にして、反董卓連合戦の最終決戦地。洛陽体制によって李傕と郭汜、李儒の3人が分割統治していたこの都で、内戦が勃発する。奇しくも洛陽体制は、その始まりの地から終わりを迎えようとしていた。

 同時にまた、微妙なバランスで中華に平和をもたらした劉勲の曲芸にも、終焉の時が迫りつつあった。

                    




 繁栄バブルと3枚舌を駆使して、曹操の青州兵GETフラグをへし折った劉勲(本当にそこまで考えていたか怪しいが)。でも一難去ってまた一難。
 GDPばっか大きくても、冷静に考えてみるとかなり自転車操業な気が……。


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43話:臨界状態

 話の整合性を取るため、今まで劉璋と書いていたところを、その父の劉焉に修正しました。


            

 司隷――

 

 洛陽と長安という2大都市を有し、歴代王朝の都が何度も置かれた中華の心臓部である。だが、その繁栄ももはや過去のものだった。

 

 先代皇帝であった霊帝は宦官を重用し、民衆に重い賦役を課して民心は完全に離反した。外戚と宦官の争いも絶えず、独立色を強めた諸侯は帝国からの独立を志向するようになる。中央へ流れる富は激減し、霊帝の崩御後に実子の劉弁と劉協との間で皇位継承争いが発生。その後は董卓軍が都を占領し、裏で操っていた張譲らの暴政によって一層衰退していった。

 

 やがて各地で中央への不満が高まり、最終的に全国から集まった反董卓連合軍によって董卓政権は瓦壊。とはいえ連合もかなりのダメージを負い、董卓軍残党の全てを一掃するには至らなかった。

 戦後に新たな秩序構築を目的とした洛陽会議が開かれるも、各諸侯が己の利益を優先したために、主目的がパワーバランスの維持へと変化。司隷は旧董卓軍系の李傕と郭巳、李儒によって共同統治される事となる。洛陽会議以降、3人は司隷を分割して統治していたが、その統治能力は皆無といってよく、盗賊を取り締まるどころか、軍が農民から略奪する有様であった。

 

 このうち、李傕と郭巳の人は幼馴染で同僚でもあり、お互いの家に宿泊する仲であった。洛陽会議後もそれは変わらず、民衆が苦しむ一方で、互いに酒宴を開き、豪奢な生活を送っていた。

 

 

 しかし郭汜が頻繁に李傕の家に外泊していた事から、郭汜の妻は夫に対する不信感をつのらせていた。郭汜の妻は、李傕が郭汜に妾を与えているのではないかと疑い、2人の仲を裂こうとしたのだ。

 ある日、郭汜の食事の中に味噌で作った偽の毒薬を混ぜ、夫が口に運ぶ直前に取りだし、あたかも李傕が黒幕であるかのように工作。結果、郭汜は妻に謀られ疑心暗鬼に陥り、李傕と対立する。同僚であった李儒が2人をなだめようとするも失敗し、ついに2人の間で戦闘が開始されたのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――郭巳、浮気を疑った妻に謀られ李傕と対立。司隷は内戦状態に――

 

 

 このニュースは電撃的なスピードで中華全土の諸侯に伝わり、漢帝国の心臓であった司隷は瞬く間に心筋梗塞を起こしてしまった。

 何より問題となったのは、他でもない皇帝の身柄だ。李傕らの内ゲバに巻き込まれる事を嫌った朝廷は、あろうことか并州の白波谷に割拠していた白波賊や匈奴の一派と同盟、その力を借りて洛陽への逃亡を画策する。とはいえ、異民族や山賊に守られた朝廷を、他の諸侯が放っておくはずもない。現に朝廷は、有力な保護者を必要としている。

 外交状況は盛大に下降変動し、今や全ての諸侯が司隷の一挙一投足に注目せざるを得なかった。

 

「完全に想定外の事態」 ――曹操の公式声明文より

 

「もうやだこの国」 ――劉勲の言葉より 

 

 劉勲が作り上げた洛陽体制――バランス・オブ・パワーに基づく秩序の構築では、各諸侯が話し合いによって妥協点を探り、今まで様々な紛争や領土問題を処理してきた。

 だが、それはあくまで“全ての諸侯が自領の利益を優先し、合理的に行動する”という前提があっての話。男女間のもつれが開戦理由になるなど、外交官の誰もが予想し得なかった。普段は冷静な者たちですら、この時ばかりは困惑を隠せなかったという。

 

「わけがわからないよ」 ――劉表の発言より

 

「解せぬ」 ――同僚にあてた田豊の書簡より

 

 対立の直接的な決定打となったのは、、李傕から郭汜に送られきた食事の中に毒(本当は郭汜の妻が味噌をこねて作った毒の様なもの)が入っていた事だった。つい数年前まで戦乱の世だったことは未だ諸侯の記憶に新しく、食うか食われるかの世界で生き残るべく、郭巳は開戦を決意。これに漁夫の利狙いの宮廷貴族や、皇帝を李傕達の手から解放しようとする忠臣達の思惑が複雑に重なり合い、今回の事態を招いてしまった。

 

 ただ一人『天の御遣い』のみが、いかなる情報筋によってか事を知り得ていたらしい。司隷の内紛について報告を受けた際には、“やはり歴史は変わらず、か……”と静かに呟いていたという。

 

 ともあれ、最も危惧されたのは長安にいた献帝の身柄だったが、幸いにも楊奉や董承といった一部の指揮官の働きもあり、無事に身柄を確保される。だが、都の外にいる李儒らのこともあってか、洛陽への移動は諦めざるを得なかった。長安市内に至る門という門は完全に閉鎖され、都は皇帝を守る陸の孤島と化す。

 この吉報に各諸侯はひとまず胸をなでおろしたが、状況は依然として予断を許さなかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「……ふん、願ってもいない状況が向こうから舞い込んできたか。我らにとって都合のよい環境とはいえぬが、不都合ともいえぬ。故にこの機会、逃す訳にはいくまい。」

 

 考えようによっては、危機とはチャンスでもある。劉勲の作り上げた洛陽体制に閉塞感を感じていた諸侯は、これを機に一挙に状況を打開しうようと画策する。

 

 冀州の州都・南皮では、早速この動乱を利用すべく会議が開かれていた。袁家は自身も名門の出身であることから、基本的には名士優遇政策をとっている。世論の形成者であり、官僚でもあり地元豪族でもある名士を優遇することで、権威と支配地域の安定が得られるからだ。

 

(ここ、冀州は北・西・南の3方を囲まれている。最悪3正面作戦の恐れがある我らにとって、支配地域の安定は最重要課題。そのために名士の支持は何としても得なければならん)

 

 基本的に名士たちの理念は「漢王朝の健全化と復興」であり、田豊は皇帝を保護する事によって彼らの支持を得ようとしていた。

 

 

「田豊さん、ずいぶんと張り切っていますわね。何か楽しい事でもありましたの?」

 

 一方で謁見室の玉座に座り、退屈そうに頬杖をついている女性の名を袁紹という。従妹の袁術と並ぶ、名門袁家の当主候補でもある。

 

「司隷で戦闘があり、今や全ての諸侯がその行く末に注目しております。念のため我が軍にも動員をかけるべきかと。」

 

「動員?戦争でも始めるつもりですの?」

 

「場合によっては」

 

 田豊は間髪入れずに即答する。

 

「今回の件、時間が勝負です。かの曹操はなど既に、皇帝陛下の身柄の安全確保を名目に動き出しているとか。そればかりでなく、益州や西涼でも怪しい動きがあるととの情報を得ております。出遅れれば、司隷は諸侯の草刈り場と化すでしょう。」

 

 特に益州牧・劉焉は、長男・次男・四男が長安で献帝に仕えており、内乱への介入はほぼ確実だ。馬騰を首領とする西涼連合も司隷西部に強い影響力を持っている以上、これを座して見るという選択肢は無い。

 

「よっしゃ、もっかい司隷に殴りこむんだな!さっすが田豊のじーさん!」

 

 袁家の2枚看板の一人、文醜はガッツポーズを決め、すでにノリノリである。

 

「文ちゃん、だから長安には皇帝陛下がいるんだよ!?乱暴な事は止めた方がいいって」

 

 同僚をおさえながらも、顔良の方はやや緊張気味。なんといっても司隷は皇帝のお膝元、そこで内戦が始まったとなれば一大事だ。得られるものも大きい反面、わずかな手違いが命取りにならないとも限らない。

 

「左様。開戦を決意なさるには、いささか気が早いかと。迂闊に行動を起こしても、得られるものはありませんぞ。」

 

「まどろっこしいのは苦手ですわ。何か考えがあるのでしたら、はっきり言いなさい。」

 

 政治家特有の回りくどい言い方にしびれを切らした袁紹は、詰問するように田豊に詰め寄る。

 田豊は一礼すると、今後の予想とそれに対して袁家の取るべき方法を語った。

 

「何より先に対処すべきは、血気にはやる曹操を置いて他にありますまい。

 かの者が持つ、軍事の才は確かなもの。加えて彼女の治める兌州は治安も良く、経済規模でも司隷を上回るかと。我らが捨て置けば、一番に皇帝陛下の元へ辿り着くのは間違いなく曹操であろう」

 

 曹操が優れた戦略家であり、戦術家でもある事は、反董卓連合戦の実績から明らか。李傕と郭汜も自身はそれなりに有名な軍人だが、配下に有能な人間が少なく、兵に至っては質・量ともに曹操軍に劣っていた。

 更に田豊が指摘したように、国力では明らかに曹操の方が勝っている。そもそも司隷は人口が兌州より100万人ほど少ない上に、主要なインフラ等が戦乱で完全に破壊されていた。李傕らにも統治能力は無く、長安ですら盗賊や死骸が溢れ返っているほどだ。

 

「……華琳さんはこの動きを予想していらしたのかしら?」

 

「恐らく、ある程度までは。公式声明では“想定外”などと言っておるが、それにしては都合が良過ぎる。何事にも聡いあの小娘のこと、いずれ司隷で内紛が発生する事を考慮していても不思議はありますまい。」

 

 袁紹の問いに、忌々しげに答える田豊。青州への出兵が完全なブラフだったとは考えにくいが、あの曹操ならば袁術あたりが干渉してくる事も予想できていたはずだ。

 ならばどう転んでも良いよう、保険を複数掛けていたとしても不思議はない。今回の件も、その保険の一つが成功したというのに過ぎない――という可能性(・ ・ ・)はある。……流石に男女間のもつれが原因で内紛が発生する、とまでは予想していなかっただろうが。

 

 

「なーなー、じーさん。曹操に抜かされるのが嫌なら、先にあたしらで陛下を保護すればいいんじゃねーか?あたしもそろそろどっかでひと暴れしたいしなー」

 

「……文ちゃん、絶対に自分が戦いたいだけだよね?」

 

 文醜の内心はともかく、曹操より先に皇帝を確保するというのも一つの手ではある。だが田豊、いや袁紹陣営にはそれが出来ない理由があった。

 

「確かに、それも一つの案ではある。だが……残念ながら、我らにはまだ戦争の準備が出来ていない。初期動員完了まで、一番少なく見積もっても一ヶ月半はかかる」

 

 この時代において、軍とは常備軍では無い。わずかな親衛隊などを除けば、軍は基本的に傭兵や豪族の私兵をかき集めることで、始めて成り立つ。つまり袁紹がこの場で開戦を決意しても、必要な兵士が集まるのはずっと先の話になってしまう。

 

「片や曹操はかねてから青州黄巾党を討伐するという理由で、動員が既に一度完了済み。青州出兵の中止に伴い段階的に平時編成に戻している途中だったが、情勢の変化によって動員解除を停止し、まだ動員が解除されていない兵力をそのまま西の司隷方面へ振り向けたとか」

 

 豪族を冷遇し、中央集権化と軍事力の拡大を図った曹操軍は、ただでさえ動員速度が他国より素早い。まだ動員解除されてない部隊はそのまま投入できるし、一度動員したノウハウがあるため再び地方から兵士を動員するのも早いだろう。ゆえに兵士の動員速度では、曹操に敵わないと田豊は結論付けた。

 

「それに公孫賛の動きも気になる。長年敵対してきた彼女のこと、我らの目が司隷に注がれた隙に、何かしら仕掛けてこようと不思議はない。

 ただでさえ兵が不足している中で、公孫賛に備えつつ、司隷に攻め込むという2正面作戦は愚行の極み。かといって片方に力を注ぎ込めば、もう片方を失う事になる。

 それならいっそ――」

 

 そこで田豊は一呼吸した後、再び口を開いた。

 

 

「――新たな皇帝を即位させればよい」

 

 

 ゆえに、わざわざ急いで危険に冒す必要は無い。田豊はそう述べた。

 それはつまり、場合によっては現皇帝が死んでも構わないということ。これには流石の袁紹も絶句する。

 

「でっ、田豊さん!?あなた何を考えていらっしゃいますの!?そんな、皇帝陛下を……」

 

「例えばの話です。姫様が以前推薦した劉虞殿ならば、適任でしょう。」

 

 劉虞というのは皇族の一人で、三公の一つである大司馬にもなったほどの人物だ。もともと袁紹は現皇帝である劉協ではなく、劉虞を皇帝に推していた。現在は幽州に赴任しており、反公孫賛派として袁紹とも協力関係にある。

 

「皇帝陛下に関しては、我々で確保できれば申し分ないが、無理に確保せずとも奪われなければそれでよい。仮に亡くなられたとして、こちらで別の皇帝を用意すれば良いだけのことだ。」

 

 言い方は悪いが、現皇帝……つまり献帝は替えの利く人間だ。皇族の血を引いているという生まれが大事なのであって、皇帝本人に価値があるわけれは無い。皇族の血を引く者が残っていれば、ばっさり切り捨ててもどうにかなる。実際問題、諸侯に先んじて皇帝を奪取し、安全な場所で保護するのには多大な労力を必要とするが、暗殺なら遥かに少ない労力で済む。

 曹操ら他の諸侯にその身柄を渡すぐらいなら、いっそ皇帝ごと死んでもらった方が袁紹陣営にとっては好都合なのだ。

 

「無論、これもあくまで選択肢の一つ。しなくて済むならそれに越したことはありませぬ。――いずれにせよ、我らにとって最大の問題は、他の者が袁家を超える権力を握ること。そして今、まさにそれが現実になろうとしているのです。それだけは、何としても防がなければなりませぬ。」

 

 一通り説明を終えると、田豊は袁紹の答えを待つ。進軍速度では曹操に勝てない事が分かったらしく、袁紹はおもむろに口を開く。

 

「まっ、まぁ、陛下の話はともかく……華琳さんに先を越されるのはわたくしとしても許す訳にはいきませんわ。」

 

 身も蓋もない田豊のマキャベリズムにドン引きしながらも、とりあえず要点だけは掴んだ袁紹。皇帝については保留にしたものの、ひとまず自領を公孫賛から守りつつ、曹操の活動を抑える、という戦略目標では彼女も合意した。

 

「これ以上、あのちんちくりんな小娘ばかりにいい思いをさせてたまるもんですか!華琳さんが陛下を救出するのを華麗に妨害しなさい!」

 

「“華麗に妨害”って……」

 

「何でも“華麗に”って付ければカッコよくなると思ってるからなー、姫は」

 

 2人の言葉を聞いて顔を少々引きつらせながら、袁紹は話を先に進めようとする。

 

「とっ、とにかく!まずは全力で華琳さんの邪魔をしますわよ!」

 

「えいえいおー」「おー」

 

「あなた達、本当にやる気はあるんですの……!?」

 

 こめかみに青筋を浮かべ始める袁紹。従妹の袁術もそうだが、全体的に袁家の当主は部下からの扱いが軽い――もっとも、尊敬されるような功績がない、と言われればそれまでの話ではあるが。

 

(若いな……だが、その若さと元気が羨ましくもある)

 

 賑やかに騒ぐ彼女達を見て、田豊はふっと柔らかい表情を一瞬だけ浮かべる。既に高齢の田豊から見れば、3人ともまだまだ子供だ。――自分にも孫娘がいれば、あんな感じなのだろうか。

 

 小さく頭を振って、田豊は思考を切り替える。

 

(曹操を抑える為とはいえ、表だって非難するのは不味い。下手に不興を買えば、あの小娘の矛先がこちらに向くやもしれぬ。)

 

 前回、青州問題で曹操とは一悶着あったばかりだ。客観的に見て袁紹側に落ち度は無かったとはいえ、問題の当事者は主観的にモノを見てしまうもの。袁紹陣営が青州出兵に反対した事は、曹操陣営では裏切り行為として見なされていた。

 その騒ぎの熱も冷めないまま、今回の騒動だ。立て続けに2回も曹操軍の行動にいちゃもんをつければ、向こうは間違いなくこちらを敵対勢力と断定するだろう。

 

 袁紹陣営としては曹操を刺激せずに、彼女の侵略行為を止めるという高度な戦略目標を達成せねばならない。

 

「姫さま。曹操を抑える為にも、ここは他の諸侯と会議を開く事を提案します。場所はここ、南皮で。」

 

「ふむふむ、それから何ですの?」

 

 袁紹は純粋に興味がありそうな様子で田豊に問いかける。

 

「何だと思いますかな?我らの本拠地、南皮に諸侯を集めて会議を開く利点とは?」

 

「……田豊さん、このわたくしを試してますわね?」

 

 田豊は子供になぞなぞを教えるように、勿体ぶった言い方で袁紹に質問する。袁紹はむっ、とした様子でむくれるも、珍しく必死に脳を動かす。

 

「……諸侯に会議……南皮……」

 

 一人でぶつぶつと呟く袁紹。反董卓連合戦の後、田豊ら家臣達の努力もあってか袁紹は為政者としてゆっくりと、だが着実に成長していた。たしかに頭の出来は良くは無いが、一方で部下をよく信頼しその進言に素直に従うといった長所も持ち合わせている。曹操に対する子供っぽい対抗心も、悪い方向に向かわなければ向上心へと繋がり得る。

 

 田豊は袁紹のそういった面を好ましく思いつつも、今回は敢えて自分で考えさせる事にした。素直さは長所なのかも知れないが、もう少し自分の頭で思考する訓練をして欲しい。有能な部下が常に得られるとは限らず、また部下同士で意見が割れる事もあり得る。自分の力だけで袁家を引っ張っていかねばならない場面に出くわした時、最後に頼るべきは自分の頭なのだから。

 

「会議をここ、南皮で開くという事は……」

 

「ということは?」

 

 会議というものは、一般的に開催した国あるいは組織の人間が、議長となるのが慣例だ。議長は各参加者の利害を調整し、円滑に会議を運営することが仕事。

 

「(どう考えても、麗羽さまじゃ“円滑な会議の運営”とか無理な気が……)」

 

 袁紹には悪いと思いつつも、内心で失礼なことを考える顔良。とはいえ、あの田豊がその程度の事を計算に入れてないとも思えない。何か考えがあるはずだ。

 

 

「ッ!……分かりましたわ!」

 

 突然、袁紹が大声を上げる。

 

「逆に考えますのよ!つまり、会議を開いて――長く延ばす、ですわね!」

 

「開いて薄く延ばす?」

 

「文ちゃーん、それじゃ鶏肉料理の下準備みたいだよ……」

 

 袁家の二枚看板をよそに、田豊は満足そうにうなずく。

 

「おっしゃる通りです。会議に参加している間は、流石の曹操も勝手な行動はしますまい。」

 

 簡単に言うと、会議を長引かせて時間稼ぎしようという話だ。

 

 国際会議では通常、スマートに問題を解決すれば開催国の名望は高まる。それゆえ一般的には国際会議の開催国は出来るだけ短期間で成果を出そうと躍起になるのが通例。

 だが、現実はそう甘くない。利害の一致しない出席者全員の意をくみ、妥協を重ねて合意形成に持っていくなど並大抵の労力で出来るものでは無い。かつての洛陽会議でも、諸侯の席順を決めるだけでも一週間近く揉めたという逸話すらある。ならば問題が解決しないことを前提に、曹操を会議に招いて時間を稼げばよいのだ。

 

「会議が終わらなければ、曹操も開戦することは不可能。逆に、参加しないまま単独で司隷を独り占めしようものなら、その時は反曹操連合が出来上がるまでのこと。――お見事。流石でございます、姫様。」

 

「おーほっほっほ、それほどでもありますわよ!」

 

 田豊に褒められたのがよほど嬉しかったのか、盛大に高笑いを始める袁紹。田豊の考えの全てを読み取った……とまではいかないだろうが、普段のバカ殿っぷりを知る家臣達から見れば、十分な成長に見えた。

 

 

 ◇

 

 

「さて……残るは仕事は2つか。まずは同盟諸侯の選定をせねば」

 

 未だに高笑いを止めようとしない袁紹を眺めながら、田豊は既に次の工作へと思考を巡らせる。

 会議を思い通りにコントロールしようと思えば、当然ながら多数派工作が必要になる。外交の実績から言えば袁術陣営が思い浮かぶが、3枚舌を駆使するような連中をアテにするのは危険だろう。

 

 つい最近も曹操包囲網の形成を煽っておきながら、自分達だけは勝手に曹操と不可侵条約を結んでいる。各諸侯の対立を扇動しながら、当の本人は高見の見物を決め込んで平和と繁栄を謳歌……露骨な覇権主義を展開する曹操よりも、ある意味タチが悪い。

 出来ればもっと御しやすく、洛陽にある程度の利害を持ち、なおかつ自軍より若干弱いぐらいの力を持つ諸侯が望ましい――田豊はそう考えていた。

 

「……残るは、北への備えだな」

 

 後顧の憂いを断つには冀州の北、幽州を拠点とする公孫賛の動きも封じなければならない。たとえ皇帝を確保しても、本拠地を失ってしまえば本末転倒。諸侯会議を開くにしても、ほぼ敵に回ることが確実な相手が出席しないに越したことは無い。実際に彼女がどう動くかは分からないが、常に最悪の事態を想定して対策を練るのは政治家の仕事だ。

 

「ここはひとつ、異民族でも釣ってみるか……」

     




 今回は主に袁紹サイドの話です。袁紹の戦略課題は

 ①曹操に先越されないように、諸侯会議で時間稼ぎ
 ②ただし会議で主導権を袁術とか曹操に握られると困るので、サクラを用意
 ③仲の悪い公孫賛は動きを封じておく
 ④最後の手段として、困ったら皇帝の命を(ry

 ちなみに史実の袁紹は新皇帝に劉虞を擁立しようとして、当の本人に拒絶されるとか……

 あと李傕と郭汜の争いって、稀に見る珍事件ですよね。史実だと、2人とも仲間割れするまでは徐栄とか馬騰とか劉焉とかいろんな武将打ち破って光っていたのに……。段々巫女さんにハマったり変な方向に行ってしまったのが残念です。


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44話:再起動

 
 ※最後の所に少し追加した個所があります。あとサブタイトルも変更(1/10)
  
 


「……というわけで、私たちと同盟を結びませんか?」

 

 あれから一週間後、田豊から命を受けた顔良は西涼に派遣され、州都・武威にて馬騰との交渉が行われていた。

 

「い、一緒に内乱を鎮圧して、苦しんでる司隷の民衆を助けましょう!」

 

 経験不足ゆえか、いかにも覚えたて、といった口調で一気にまくしたてる顔良。“苦しんでる民衆を助けましょう”とか、不審な事この上ない。

 

 洛陽会議で決められた事の一つに、荒廃した洛陽をいかに復興するかがあった。結局、恩賞金の分配など諸侯の利害が複雑に絡み合った結果、復興作業は曹操と馬騰が担当する事となる。2人にはそれ以外にも宮廷の警備など様々な権利が与えられたものの、もちろんバカ正直に斜陽の漢帝国の為にせっせと働くはずもない。司隷を我がものにせんと、水面下で互いに争っていた。

 

「同盟かぁ……それで、ウチらには何の得が?もっとも、そっちの言葉がパチモンじゃなければの話やけどな」

 

 傍らの椅子に座ったまま、張遼が胡散臭げに問いかける。彼女は現在、馬騰軍の騎兵隊を率いているが、もとは董卓軍の将。かつて袁紹陣営の策謀によって悪役に仕立て上げられ、まとめて殺されかけたのだ。多少の私怨混じりの不信感を抱くのも仕方無い。

 だが、顔良は張遼の言葉をやんわりと聞き流し、ターゲットを馬騰のみに絞る。彼女さえ説得出来れば、所詮一将軍でしかない張遼がなんと言おうと問題ない。

 

 馬騰は先ほどから友好的な笑みを崩していないが、実の所こういった本心を表に出さない相手の方が厄介といえる。もっとも沈黙を保っているという時点で、状況を静観しながら最後に勝ち馬に乗ろうという魂肝が見え見えだが。

 そんな彼女にエサを与え、釣り上げるのが今回の顔良の仕事だ。

 

平和維持活動(・ ・ ・ ・ ・)への参加により、司隷の秩序を回復させたあかつきには、その功績をもって馬騰殿を正式に涼州牧へ昇格させるよう朝廷に陳情することを約束します。もちろん、報酬もはずみましょう。」

 

 顔良はストレートに報酬をチラつかせる。

 馬騰は涼州における事実上のトップだが、正式な州牧ではない。これは彼女の母親が羌族の出身であり、ハーフである馬騰の州牧就任には多くの保守派が反対していたためだった。

 

「我が主君、袁本初様は異民ぞ……いえ、“漢帝国の周辺民族”との融和を目指しております。彼らと漢人との融和は、馬騰殿にとっても望ましい話ではないでしょうか?」

 

 実際、袁紹が東夷や西戎と呼ばれる異民族に対して、友好的な態度をとっているというのは事実だった。幽州の北に住む遊牧民、鳥丸には印綬を与えるなどして、友好関係を保っている。鳥丸は幽州の国境地帯を巡って長年公孫賛と対立しており、同じく公孫賛と争っている袁紹とは軍事同盟すら結んだという。

 自身が羌族とのハーフでもある馬騰は、かねてから漢人と異民族の融和を唱えており、列強の一角である袁紹の支援は大きい。

 

「うーん、申し出は嬉しいんだけど……」

 

 なんとも微妙な苦笑いを浮かべる馬騰。

 

「なんていうかねー、前にもどっか似たような話あったわよねー?」

 

「(ぎくっ……!)」

 

 笑顔で迫ってくる馬騰を、心なしか青い顔で迎える顔良。

 

「今、話題沸騰中の李傕と郭汜って、確か長安周辺で争ってた気がするんだ。要するに私たちが皇帝陛下を助ける為には、まずあの2人を潰さなきゃダメなの。

 でも、戦ったら仮に勝っても兵力減っちゃうし、そうなると曹操が奪いに来ても自力で守れない……つまり、誰かの助けがいるのよねー。」

 

「そっ、それで?」

 

「ぶっちゃけ面倒な戦闘はこっちに押しつけて、恩を着せて皇帝だけかっさらう気でしょ?」

 

「ナンノコトデスカ?」

 

「……なぁ、顔良。悪い事は言わん、嘘はつかんといた方がええで。」

 

 対峙する2人の女性。蛇に睨まれた蛙とは、まさしくこの事か。どちらも営業スマイルを維持し続けているが、その優劣は明らかだった。張遼は頭の後ろで手を組みつつ、ニヤニヤ笑いを抑えきれずにいた。

 

「・・・・・・」

 

「・・・・・・」

 

「そうだよね?」

 

 馬騰は口調こそ柔らかいが、眼光が危ない色をしている。顔良は作り笑いを顔に張り付けたまま、その場で固まる事しかできなかった。

 

「(ごめんなさい、田豊さん。普通にバレてました。)」

 

 馬騰に李傕らの相手をさせ、皇帝を狙う曹操と反目させる。そうやって稼いだ時間を使って軍を編成し、武力を背景に“公平”に仲介すれば良い。たとえ馬騰軍と曹操軍が戦闘になっても――それで両者が疲弊すれば儲けものだ。どちらにせよ、時間さえ稼げれば袁紹に有利な展開となる……馬騰の語った推測は、まさに田豊が狙ったシナリオだった。

 

(どの道、司隷はいずれ戦場になります。会議での引き延ばし戦術など、所詮は問題の先送りに過ぎません。諸侯もそれを承知で参加して、準備が整えば即離脱する……かといって、わたし達だけで攻め込むのも非現実的ですし……)

 

 顔良は思案する。劉勲の作り上げた洛陽体制の本質とは、足の引っ張り合いだ。今は一人勝ちに近い曹操がやり玉に挙げられているが、袁紹が一人勝ちに近づけば皆こぞって敵に回るだろう。今回の場合なら曹操に使ったのと同じ手法、すなわち諸侯会議によって動きを妨害されるはず。しかもその先鞭をつけたのは、他ならぬ袁紹なのだ。まさか断るわけにもいくまい。

 ゆえに顔良たちは、同盟者を必要としていた。そこそこの軍事力を持ち、自分達と利害が相反せず、ある程度制御可能な諸侯――それが馬騰だった。

 

 

「やっぱりねぇ……まぁ、別にこのぐらいで恨んだりはしないから安心して。別に私は皇帝陛下をどうこうしようとまで考えてないから。」

 

 流石に脅し過ぎたと反省したのか、馬騰は表情を緩める。相手を利用して使い捨て――その程度の話は政治の世界では日常茶飯事だ。

 

「といっても、確かにこのまま曹操に司隷をとられると、私たちも交易とかで困っちゃうのよねー。うちの家計と同じで、基本赤字だから。まったく、ビンボーってやーね」

 

「姐さんとこの家計、赤字やったんか?」

 

「逆に聞くけど私と翠ちゃん、家計簿とかつけるような女に見える?」

 

 だしぬけに真面目な顔で見つめられ、張遼は何とも言えない表情になる。

 

「まぁ……言われてみれば確かに、あんたら親子じゃ無理そうやな。」

 

「ちなみに主な借入先は月ちゃんと、後は音々音ちゃんよ♪」

 

 ついでにサラッととんでもない事をのたもう馬騰。友人、それも自分よりずっと年下の少女から金借りるとか、健全な大人のやる事とはとても思えない。

 

「賈駆っちがいたら翠もろとも、確実にシバかれてたやろうな。ホントありえんわー」

 

 まぁ、2人ともそこまで浪費家でも無いから、借りたといっても恐らく小額だろう。ただ、社会常識的にいろいろダメだろ、と思う張遼であった。

 

「……つか、借金返せるんか?」

 

 むしろ返す気あるのか。

 

「たいじょぶ、たいじょぶ。そのうち利子までつけてちゃーんと返すわよ!」

 

「その自信たっぷりな様子が、ウチは逆に不安や……」

 

「いつか翠ちゃんが」

 

「最低やこの母親っ!?」

 

 馬家の家計はともかく、もともと西涼は豊かな土地ではない。シルクロードを通じて砂漠の彼方にある国と高級品を取引したり、やせた土地で家畜を細々と放牧して食いつないでいる人間がほとんど。

 税収は少ない上に安定せず、しかも異民族との慢性的な戦争が財政事情を圧迫している。たまに収入が増えても、すぐに異民族との戦費で消えてしまい、民間には一向に還元されず、それが更に貧困を促進するという悪循環。

 

「まっ、それも洛陽体制が完成するまでだけどね」

 

 ふと思い出したように、馬騰は付け加える。

 5年前、董卓を助ける条件として、彼女は劉勲と協定を結び、袁術陣営との接近を図っていた。お互いに関税を撤廃した結果、取引量は年々拡大し、物資不足に喘いでいた西涼にもあらゆる商品が並ぶようになる。自由貿易によって穀物生産は大打撃を受けたものの、代わりに比較優位にある畜産や羊毛産業、西域との中継貿易が発達し、何より経済規模そのものが拡大したことは西涼人を物質的に豊かにした。

 

「そして西涼と南陽を結ぶ街道が通るのはここ、司隷なのよ。万が一にも切断されたら、こっちは堪んないって事は分かるでしょう?」

 

 ふと真面目な顔に戻った馬騰の問いに、顔良もこくりと頷く。

 

「最大の貿易相手との通商経路を断たれれば、経済的には大打撃。しかも自由貿易と分業によって穀物などを南陽に依存しているから、場合によっては餓死者すら出かねない……」

 

「そっ。だから、司隷は誰にも渡せないの。食料なんてウチじゃほとんど作れないし、作っても売れないしねー」

 

 朗らかに答える馬騰。だが、その裏にどれだけの苦悩があったことか。

 法家・農家・儒家の思想によれば「富の源泉は農業であり、国の要」とされている。それゆえ中央から派遣された文官達の中では、農業重視・食糧自給率の向上が思想の主流を占めていた。しかし馬騰ら西涼人に言わせれば、そのような考えは現実を無視した理想論そのもの。砂漠と草原が大半を占める西涼ではどうあがこうとも、豊かな土壌に支えられた中原や江南の農業に敵わない。

 

「私たちは貧乏だから。等価交換――何かを得るには別のものを犠牲にしなきゃいけない。何でもかんでもムラなく自給自足ってのは無理なのよねー」

 

 補助金漬けにしてゴリ押しで自給率を上げろ、という話もあったが、その為の資金を捻りだすには増税せざるを得ず、結局負担が民へ行く。同じように関税で輸入品を追い出したところで、輸入すればもっと安く手に入る商品を必要以上の金を払って買わざるを得ない。こういった余計なコストは最終的に国民所得と購買力を押し下げ、生活レベルを低下させてしまう。

 劉備達のように「国内産業が未発達だから、十分な競争力をつけるまでは保護が必要」との意見もあるが、補助金と高関税に守られた農民に生産意欲が湧くはずもない。しかも大抵の場合、貿易相手から報復措置を取られて国内輸出産業が壊滅する。徐州のように、もともと生産性の高い土地なら多少の非効率には目を瞑れるが、西涼ではその数倍の負担がのしかかってしまう。

 

 結局のところ、農業の基本は『適地適作』であり、その原則からかけ離れた農業はいずれ限界が来る。だから土地が痩せていれば第2次・3次産業に特化させ、それで稼いだ資金でもって1次産品を輸入する――それこそが、持たざる者が生きる知恵。必要なもの全てを自力でまかなうなど、資源大国の驕りでしかない。

 

「だからね、仮に曹操を追い払ったとして、次にあなたの主君が司隷を占領したりすると、それはそれで困るの。私たちは絶対に“通商の自由と安全”を確保したいって事、分かってくれた?」

 

 馬騰の話に顔良はなるほど、と首を縦に振る。

 つまり、彼女は間接的にこういっているのだ――協力して欲しければ、将来的に交易の安全を確保できるようにしろ、と。

 

 顔良は顎に手を当て、考えるようなポーズを取る。

 実のところ、この要求は田豊との打ち合わせで既に予想されていた。

 

 外交交渉の基本は、相手の望む物を提供すること。相手の実情をどれだけ理解できるかが、成功のカギとなる。その点、田豊が今回の交渉に望むべく用意した切り札は、馬騰の抱えている諸問題を一気に解決するものだった。

 

「……ここだけの話ですが、我々には必要な()()を提供する用意があります。」

 

「どういう事かな?」

 

「そちらに皇帝陛下をどうこうする気が無い限り――馬騰殿に『征西将軍』および『西域都護』の位が与えられるよう、宮廷で取り計らうとのことです。」

 

 ガタッ、と傍らで張遼が身を乗り出した音がした。馬騰は表情こそ変えなかったが、わずかに息を飲んだのを顔良は見逃さなかった。

 

「それは……一考の余地があるわね。私たちは兵士を、そっちは官職を。それぞれ取引、か」

 

 征西将軍とは、涼州および司隷西部における最高指揮官の事を言う。現代風に言えば大将クラスの方面軍司令官であり、司令部たる征西将軍府は長安に置かれるのが常であった。

 一方の西域都護とは、西域を統括する事を目的に作られた官職であり、西域の道路全般と屯田の管理、交易の保護が主な業務。加えて先の話にあったように馬騰が正式な涼州牧になれば、名実共にに西涼の支配者だ。

 

「一考の余地どころの話やないで!洛陽が半壊した今、漢の実質的な首都は長安や!そこの軍と西域を統括するっちゅうことになれば……!」

 

 ――事実上の独立国すら打ち立てられる。

 

 そうなれば、もう中央の都合で振り回される事もない。交易の安全は勿論、辺境の民であるがゆえに腐敗した中央官僚や宦官に苦しめられる事もなくなるのだ。それは不当な搾取に喘いでいた、西涼人全員の願いでもあった。

 また、羌族とのハーフである馬騰は、中華に住む全ての異民族の希望でもある。彼女が西域の統括を一手に担う事になれば、漢人と異民族との融和は大きく進むだろう。

 

 それだけに、事は入念に進めねばならない。馬騰は高揚する気持ちを抑えながら、慎重に言葉を選んだ。

 

「……軍の動員については、私の一存でどうにかできる問題じゃない。けど、諸侯会議では必ず(・ ・)袁紹の支持を約束する。とりあえず、こんな所で今日は手打ちにしない?」

 

 外交交渉で“必ず”という言質を取った意味は大きい。馬騰本人がはっきりと明言した以上、少なくとも諸侯会議における涼州の支持は取り付けたことになる。逆に言えば、ここまでが彼女にとって譲歩できるギリギリのライン。これ以上の要求は高慢と取られるだろう。

 この辺りが落とし所だと判断した顔良は、馬騰に一礼し感謝の言葉を述べる。

 

「高名な馬騰殿の英断、感謝いたします。袁紹様も喜ばれるでしょう。派兵については、こちらも急かす気は一切ございません。満足のいくまで検討なさってください。……ですが、なるべく早い方が袁紹様も喜ばれるということも、覚えておいて下さい。」

 

 

 数日後、武威を去った顔良は南皮に帰還する。司隷に大きな影響力を持つ馬騰からの支持を得た事は、諸侯会議で曹操に対する大きな抑止力になるはず。袁紹陣営は田豊の策に従い、着々と外交上における立場を強化していった。

 

 同じように各地の諸侯の下には、次々と司隷の内乱を伝える報告書が届けられる。政治と外交、軍事と経済。混沌とする状況の中、それぞれの諸侯が異なる思惑を胸の内に秘め、次なる一手を打とうとしていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 幽州、易京城――

 

 

「なぜだ……なぜこうなったんだ……」

 

 自身を取り囲む状況に、公孫賛は一人、絶望していた。窓の外に目を向ければ、いたるところに羊毛で作られたテントが見える。この地方で、そういった移動式家屋を使う人々は決まっている――鳥丸族と呼ばれる、遊牧民だ。

 

「ふむ、現状はまさに四面楚歌。相当マズい状況だと言わざるを得ないでしょう」

 

 目を閉じた状態の趙雲がうんうん、と首を縦に振る。彼女の言葉通り、公孫賛軍はリアルタイムで絶賛戦闘中。文字通り孤立無援の状態で、完全に包囲されていた。

 

「なんとなく、こんな状況になるような気はしてたんだよなぁ…ハハハ……」

 

 虚ろな目で宙を見つめる公孫賛。

 袁紹は後顧の憂いを断つべく、公孫賛と長年に渡って戦い続けたライバル、鳥丸族へ大規模な援助を実施する。多額の資金と武器を得た鳥丸はすぐさま侵攻を開始し、前々から独立の動きを見せていた遼東太守・公孫度と劉虞を始めとする反体制派が呼応。公孫賛軍が鳥丸討伐に向かったタイミングを見計らい、ドサクサに紛れて反乱を起こしたのだ。

 自身の運の無さは自覚していたが、こうも不運が積み重なるとは予想外だった。

 

「司隷での内乱を、かつて三公を輩出した袁家が見過ごすはずが無い。当然その他は手薄になるから、今度こそ青州で巻き返す時だと思っていたのに……」

 

「――見事にしてやられた、といった感じですな。まぁ、確かに時期が悪かったと言えばそうでしょうが」

 

 李傕が内戦を起こした直後、公孫賛は公孫範、田楷の2人の将を青州へ派遣している。狙いは青州における影響力強化と袁紹への牽制。2人とも貴重な司令官クラスの人材だったが、実際に軍隊を送ったわけでは無いため、他の諸侯から警戒を買うような事は無い。だが国の要人を派遣したという事実は残り、それは青州を同盟相手として重視しているというメッセージになる。

 また、袁術と同じく公孫賛の支持基盤は商人だ。青州への介入の裏には、『3州協商』――青・幽・豫の3州間で結ばれたFTA――の中で主導権を握り、交渉を幽州に有利に進める事で、領内に住む商人の支持を得ようという計算も含まれていた。

 

「青州に恩を売ると共に袁紹を牽制し、領内の支持基盤も固めるという3重の策。悪くはありませぬが……最大の誤算は、袁紹が諸侯会議を招集した事かと」

 

 公孫賛に限らず趙雲も、袁紹は真っ先に司隷に出兵するものだと考えていた。彼女の性格から考えて曹操に抜かれる事は認められないであろうし、動員で後れを取っている以上、幽州への対応は後回しにせざるを得ないだろう、と。

 だが予想と異なり、袁紹陣営は諸侯会議による時間稼ぎ戦術を採用。今はまだ召集段階とはいえ、曹操の動きを一時的に封じる事に成功。しかも田豊の策はこれに止まらず、ほんの僅かに出来た時間的余裕すらも活用して公孫賛を追い込んだ。

 

「かねてから袁紹が、裏で反体制派を支援していることは知ってたんだ。だからこそ、向こうが仕掛けてくる前に打って出ようと思ったんだが……。何故こうも思惑が裏目に出る……」

 

 ままならぬ現実に、公孫賛は頭を抱える。

 もちろん彼女とて、領内の警戒を怠っていたわけではない。自慢の白馬義従1万騎を含む、5万の兵士を指揮下に置いていた。しかし南の袁紹が北上してくるリスクを考えれば、どうしても主力部隊は幽州南部に貼りつけねばならず、その他の正規軍も異民族対策に回されてしまえば、残るは二戦級の部隊ばかりとなってしまう。

 しかも司令官クラスの人材を2人も青州に派遣してしまったこともあり、連鎖的に起こった反乱の鎮圧に四苦八苦しているのが現状だ。「敵の敵は味方」の論理で袁紹に支援された反乱軍は、鳥丸や鮮卑といった異民族と手を組み、圧倒的兵力差で公孫賛を包囲していた。

 

「……」

 

「……」

 

「まっ、まぁ、この易京城が落ちる事は無いだろうけどなっ!」

 

 ネガティブな気分を振り払うかのように、公孫賛は努めて明るい声を出す。

 

「――なんせ食料300万石、塹壕10段、高さ6丈の城壁十数層、無数の楼閣、本丸の高さは10丈を超える……軽く10年は籠城出来ると評された、完璧な城塞だぞ!?」

 

「我が主よ……何故かそのうち城塞ごと崩落するような気がしたのは、気のせいだろうか?」

 

 誇張もだいぶ混じっているだろうが、公孫賛の籠城する易京城は、中華でも屈指の頑強さを誇る難攻不落の城塞。今すぐ落ちるという事もない。とはいえ、あまり反乱が長引いて出費が重なるようだと、民心まで失いかねない。

 

「いずれにせよ、これ以上、外の騒乱に関わっている余裕はありませぬ。まずは領内の反乱を何とかせねば」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 一方、宛城でも緊急会議が開かれ、人民委員を始めとする政府要人が集まっている。

 

「いやぁ、流石のアタシでもこの展開は読めなかったわ。何よ?開戦原因が“妻の嫉妬”って?」

 

 苛立ちよりも困惑が勝る、といった口調で今回の騒動を愚痴る劉勲。

 外交には自信のあった彼女だが、まさかこんな理由で自身の作り上げた秩序が破られるとは思ってもいなかった。賈駆を始めとする袁家の幹部たちも、内心では似たような想いを抱きながら頭を抱える。

 

「それで、どうするつもり?既に袁紹や曹操、それに馬騰さんなんかはそれぞれ動き始めているみたいだけど?」

 

 南皮で諸侯会議を開催――その招待状は当然、袁術にも届いている。勢力均衡を外交上の至上命題としている袁術陣営ならば、間違いなく曹操を止めに入ると踏んでの招待だった。

 だが、劉勲を始めとする外務官僚の表情は一様に優れない。普段なら積極的に諸侯会議を開こうとする彼女達が、はっきりと参加に懸念を示していた。

 

「なんじゃ?“れーは”の奴が、また良からぬ企みでもしとるのかや?」

 

 不穏な空気を感じ取ったのか、袁術が怪訝そうに首をかしげる。

 

「まぁ、そんなところですかねぇ。政治の世界なんて基本、悪だくみばっかりですしぃ。それが得意じゃないと政治家になんてなれませーん」

 

「ボクも此処に来てすごく実感したわ、それ」

 

 張勲の発言に、賈駆が頷く。考えようによっては会議場の全員を悪人と言ってるようなものだが、あながち間違っていないのが悲しいところ。例に漏れず、袁紹が開催する予定の諸侯会議にも裏があった。

 

 先に結論だけ言えば、袁紹たちは袁術陣営を利用するだけしといて最後には使い捨てる気だ。袁紹の方も曹操の軍事行動を止めたいが、表だって非難すれば彼女の不興を買ってしまう。ゆえに自らは議長というポジションで、中立を装いながら時間を稼ぎつつ、曹操を非難する役回りを、勢力均衡を国是とする袁術に押しつける気でいた。

 

「チッ……あの陰湿クソジジイ、さっさと死ねばいいのに」

 

 だが、その思惑は全て劉勲に見抜かれていた。先日、袁紹からの使者が馬騰の元を訪れたという情報も、これと無関係なはずがない。

 

「どーせ準備が出来たら、今度は曹操とか馬騰とグルになって戦争始めよう、って魂胆でしょ。誰が好き好んでそんな貧乏クジ引くかっつーの」

 

「政治の基本は、『一人一票の原則』を利用した多数派工作。自分を多数派に、相手を少数派に……その原則は外交だろうと変わらないわよ。諸侯会議はやはり、時間稼ぎの為の方便とみるべきね。」

 

 劉勲のぼやきに、賈駆が肯定の言葉を返す。

 他の列強はアテにならない。公孫賛は内乱で動けず、曹操と劉焉は出兵支持。劉表も相変わらずの中立となれば、袁紹のさじ加減一つで会議の結果が決まってしまう。袁紹陣営は最初こそ袁術側寄りの態度で勢力均衡の維持を唱えるだろうが、準備が整えば掌を返したように曹操や馬騰と結んで司隷へ介入するはず。

 

「……別にそれでも良いのではないでしょうか?」

 

 閻象が顎に手を当てて問いかける。

 

「現時点で介入の動きを見せている諸侯は、曹操と劉焉、馬騰と袁紹の4人。いっそのこと我々もこれに加わることで、以前のように連合でも組めば良いのでは?誰も得しませんが、誰も損はしない。違いませんか?」

 

 反董卓連合は、董卓が皇帝を得て一人勝ちするのを防ぐ為に袁紹が作った連合軍。そして連合というものは参加者が増えれば増えるほど、一人当たりの取り分は小さくなるもの。ならば今回も同じようにして連合軍を作ってしまえば、誰かが一人勝ちする事は防げる――そう主張する閻象だったが、その案はやんわりと張勲に否定される。

 

「えーっと、それは厳しいと思いますぅ」

 

 なぜ、というような視線を向ける人民委員達に対して、張勲はもの分かりの悪い子供を諭すような口調で答える。

 

「単純な話ですよ。洛陽会議で司隷の領有権は李儒、李傕、郭汜の3人に分割して与えられています。そしてあの会議を主催したのは劉勲さん……つまり私たち袁家です。自分の主催した会議で決めたことを、自ら破棄すれば信用はガタ落ちですし、あって無いようなお嬢様の名声にも傷が付きますぅ」

 

 現代風でいえば、自国で開かれたサミットで決めた内容を、開催国が率先して破っているようなもの。メンツは丸潰れなうえに、野党とマスコミから集中攻撃されて首相が辞任すること間違いナシだ。

 

「それに出兵するお金も無いですよぉ。特に軍事費なんて、経済が低迷すればガリガリ削られますしぃー。まぁ……いざとなれば予算編成を変更して軍資金を捻りだせない事も無いんですけど、それが大変なんですよねー。あんな面倒くさい会議、来年までやりたくありませーん」

 

 最後は蓋もない理由に落ち着く張勲。

 実際、金なら十分にある。ただ、その大部分の使い道は年一回開催される『人民予算委員会』で既に決定されており、今さら変更するのは困難だ。いちおう予備資金は用意されてはいるものの、戦争をするには到底足りない。借金しようにも予算委員会の許可が必要であり、この期に及んで煩雑な手続きを踏んでいるようでは、曹操軍の進軍スピードに付いていけるはずもない。

 

「なら、やっぱり参加は見送るべきかしら?そうなると……」

 

 賈駆の頭をよぎったのは、他ならぬ曹操軍の存在だ。司隷は李儒、李傕、郭汜に分裂しており、皇帝は洛陽で安全に保護されている。しかも、諸侯の中で動員が完了しているのは曹操軍だけなのだ。

 

(……ボクが曹操だったら、有無を言わさず司隷を占領して、皇帝陛下を確保するわ。恐らく、向こうも同じことを考えているでしょうね。)

 

 仮に袁紹の主催する諸侯会議に出なかった場合、動員の完了している曹操軍はそのまま司隷へ全面侵攻を開始するだろう。一方を解決すれば、もう一方がうまくいかないという典型的なジレンマだ。

 

 

 「うぬ~、よく分からぬが“れーは”が主役の会議に参加するなど、妾は嫌じゃ!」

 

 沈黙が降りたところで、だしぬけに袁術が不満の声を上げた。といっても、ただ単に袁紹が気に食わないだけだろう。袁紹と袁術の不仲は今に始まった事じゃ無いし。

 

「“れーは”の思い通りになるなんて、妾が許さぬ!妾が袁家じゃ!」

   

 

「・・・・・・」

 

「・・・・・・」

 

 

「な、何で静かになるのじゃー!」

   

 

 ◇

 

 

 結局、採決が行われた結果、袁術陣営は諸侯会議への参加を見送ることになった。これにより平和的解決への道のりは事実上閉ざされる事になる。何より今まで勢力均衡を担ってきた袁術陣営が自らその役目を放棄したという事は、単なる諸侯会議の中止以上の意味を持っていたのだった。

  

 

 

 ◇◆◇    

 

 

 ――益州・成都

 

 

「来たぞ、ついに……!」

 

 報告書を読んだ益州牧・劉焉は興奮のあまり、体を震わせた。中央へ返り咲く、またと無い機会が巡って来たのだ。長らく溜めこんだものを吐き出すかのように、劉焉は大声で一気にまくしたてる。

 

「董卓の暴政から数年あまり、ついに我らは勢力均衡という名の呪縛から解き放たれる!宦官、外戚、黄巾、董卓、洛陽憲章――長らく中華を蝕んできた癌は、その傲岸さゆえについに自らをも食い潰した!

 今こそ帝政復古の時ッ!再び我ら皇族がこの国の頂点に立つ時が来たのだァアアーー!」

 

 劉焉は皇族の出身でありながら、自ら望んで辺境である益州牧となり、そこで独自勢力を築いた珍しい人物である。似たような経歴を持つ人物には荊州牧・劉表がおり、どちらも中央の腐敗と政争から身を離しつつ、地方で勢力を蓄えていた。また、既得権益層である地元名士を左遷・粛清すべく、外部の人間と手を結んだ点も似ている。劉焉は非益州名士以外にも難民や異民族とも協力し、張魯率いる漢中の五斗米道すらも勢力下に治めていた。

 

「かつて漢を建国した我が先祖・高祖は楚の項羽から逃げ、ここ益州の漢中にて力を蓄えた。……ならば、同じ血を引くこの私に同じことが出来ぬはずがないッ!そう、歴史は繰り返すのだ!」

 

「はい。長きに渡ってこの地で耐え忍び、足場固めに尽力した甲斐がありました。益州の支配は万全、後顧の憂いなく中央へ進出できるでしょう」

 

 主である劉焉の言葉に頷く男の名を張松という。醜男であるがゆえに周囲から白眼視されながらも、非常な博学さゆえに劉焉には重用されていた。もともと益州にコネの無かった劉焉にとって、彼のような「能力はあっても境遇ゆえに評価されない」人間は実に有用だった。

 

 

 そもそも劉焉自身、宦官や外戚に阻まれ宮中では思うように動けなかった経験がある。皇族に生まれながらも皇位継承順位の低かった彼には、国の未来や民の生活を考える為政者としての役割は求められなかった。代わりに権威の象徴として、単なるお飾り以上でも以下でも無い、儀式的な役割のみが求められた。

 だが、中身の無い名士との討論会、慣習となっている社交辞令、有力豪族との上辺だけの交際……その全てが彼には我慢できなかった。

 

 ――これが、こんなモノが栄光ある皇族の役割なのか?

 

 由緒正しき血統こそ全てであり、それゆえ皇族の血は絶対にして最上である――幼少時から劉焉はそう教え込まれ、自らの体に流れる血を誇りに思っていた。そんな彼にとって、宦官達の傀儡になることは到底認められるものでは無い。

 だから、彼は宮中を後にした。力を蓄え、いつの日か再び中央に返り咲くために。

 

 ――そして、今こそがまさに待ちに待った“その時”なのだ。

 

「機は熟したり!――益州全土に動員をかけろッ!中華再生の日は近いぞ!」

  




 三国志だと公孫賛の易京城はなんかスゴイことになってますよね。一時の戦術としてでは無く、長期的な戦略として籠城――乱世が終わるまで高みの見物――を選ぶって中々珍しいので、個人的には結構このアイデア好きだったりします。

 なお、結果はどっかの魔○工房(笑)と似たり寄ったり……


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45話:再び、乱世へ

 新年明けましておめでとうございます。今年の初投稿になります。
 ※44話の最後の方に、少し追加した部分があります。
 


 袁紹は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の姫を除かなければならぬと決意した。袁紹には政治がわからぬ。袁紹は名門袁家の当主である。笛を吹き、羊と遊んで暮して――

 

「……田豊さん?」

 

 何やら一人でぶつぶつと呟いていた田豊に、顔良が心配そうな声をかける。

 

「あの、大丈夫ですか?さっきからずっと何か言っておられましたけど……」

 

「……大丈夫だ。実は大丈夫でなくとも、そうあらねばならん」

 

 はぁ~、という溜息と共に田豊は部屋の奥を見やる。そこには、猛り狂う金髪縦ロールの姫君がいた。

 

「きぃーーーっ!わたくしが直々に手紙を送ったというのに、欠席ですってぇ!?」

 

 裏返った怒声と共に、南陽から届いた手紙を破る捨てる袁紹。袁術陣営からの手紙の内容は、諸侯会議への出席を見送るといった趣旨のものだった。

 

「落ち着いてくださいって、麗羽さまぁ~!え~っと、そうだ!素数を数えて……」

 

「これが落ち着いていられますの!?あの小娘、今度という今度は許しませんわよ!わたくしが南陽まで出向いて、メッタメタのギッタギタにしてやりますわ!」

 

 どこかのガキ大将のような言葉を吐きながら、剣を片手に荒ぶる袁紹。側近の文醜が制止に入っているが、その猛威は留まるところを知らなかった。

 田豊はそんな袁紹と文醜の乱闘を遠巻きに眺めながらも、内心では煮えくり返るような想いだった。

 

「南陽の商人共め、やってくれる……!」

 

 低く唸るように呟くと、田豊は苦々しげに顔をしかめる。たった一通の手紙で、ここ数日に渡って急ピッチで進めてきた策や準備が、全て水泡に帰したのだ。皇帝を確保し名士層の支持を盤石なものにするという基本戦略は勿論、馬騰との同盟なども白紙に帰った。袁紹が暴れたくなる気も分かる。

 その原因は、言うまでもなく劉勲ら袁術の会議欠席だった。

 

 ――“我々は司隷とそれを治める、現政権に対する侵略行為を決して許しはしない”――

 

 中央人民委員会にて諸侯会議への欠席を決定した翌日、劉勲は会見を開く。諸侯会議への非参加を正式に発表すると共に、李儒・李傕・郭汜の連立政権への支持を表明。

 

 曹操が州境に軍を展開するなどの動きを見せている事に関して“軍事的側面を登場させるのは賢明とは言えない”と発言し、その動きをけん制する。

 一方で李傕らの内ゲバについて“我々は、司隷を治める3者の認識と判断に自信に持っている”と述べ、更に“李傕と郭汜の外交対話に期待を寄せている”と発言した。

 

 ――しかしながら具体的にどのような支援するのか、司隷の独立性をどう維持するのかといった話題には触れず、演説は牽制の域を出るものでは無かった。

 

 

「……それにしても、あそこの書記長は本当に変わり身が早いですね。この前曹操さんに対する包囲網を作ったばっかりだというのに、自分だけはちゃっかりと不可侵条約結んだり。今回だって……」

 

 呆れと感心が混ざった微妙な顔をする顔良。正直、ここまで来ると逆に尊敬できるような気さえしてくる。2股は単なる浮気だが、100股ぐらいかければある種の伝説と化すようなものだ。

 

「あの尻軽女め……舌の根も乾かぬうちに発言をころころと変えおって。まったく、八方美人も大概にしろという話だ。」

 

 かつて田豊は劉勲と会談を行い、袁家同士が裏で繋がる事で合意を得ている。これは米ソ間ホットラインのように両勢力間での偶発的戦闘を回避するのが目的であり、他の諸侯には知られていない秘密条約だ。今のところこの『二袁協定』が発動したのは一度だけであり、袁紹は曹操の青州派兵要請を断っている。

 それだけに今回の件における袁術陣営の非協力的な態度は、袁紹陣営から見れば裏切りともとれる行為であった。

 

 無論、田豊の方もあくまで利害が一致したから劉勲との条約をまもっただけで、バカ正直に条約を守る気などさらさらない。袁紹の利益になるならば袁術を使い捨てることも厭わないし、劉勲らもそう考えているだろう。

 だが元よりお互いに相手を裏切る腹づもりであろうと、やはり先に裏切られた側は納得できないものなのだ。

 

「いくら『勢力均衡』を国是と掲げようと、最終目標はやはり国益の確保……まぁ、劉勲さんも嘘は付いていないんですよね。嘘だけは」

 

 実際、行動自体は何ら条約に違反するものでは無い。曹操と仲の悪い同盟に参加したからといって、曹操と仲良くしてはいけない道理は無い。その逆もまた然りだ。

 

「ふん、その結果だれも曹操の小娘を止められなくなった。……李傕らなんぞを支援したところで当てになるものか」

 

 面白くもなさそうに田豊は鼻を鳴らす。

 だがその脳裏では既に次なる一手を打つべく、長い経験に裏付けされた打算と計算が高速で展開されていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――徐州・下邳

 

 

 列強の一角、袁術が諸侯会議から欠席するという事実は、早馬によって徐州にも届いていた。

 

「結局、劉勲は諸侯会議への参加を見送ったか。諸侯会議は中止になり、司隷はまた前みたく戦場になる……」

 

 伝令の報告に一刀はふぅ、と溜息をつく。

 劉勲のもたらした停滞と安定の5年間、劉備たちも疎かになっていた内政に力を入れ、徐州での名声を着実に高めている。特に活躍の著しかったのは、劉備軍の軍師として採用された諸葛亮と鳳統だった。洛陽体制によって、平和が保たれたが故に武官が活躍出来なかったという理由もあるが、何より劉備軍で正規の“実学”を受けたのはこの二人だけだったのだ。中でも諸葛亮は政務や組織運営といった事務仕事に長けており、基本的に素人集団の劉備軍では数少ないプロの文官として頼りにされていた。

 しかし、そんな彼女達ですら今回の一連の出来事を予測するのは不可能だった。

 

「袁術陣営は一応、劉勲さんは“司隷を見捨てない”と言ってますけど……」

  

「朱里、あいつらの言う事は言葉通りに受け取らない方がいい。」

 

 袁術らの真意を図りかねている諸葛亮に、一刀は渋面を作る。

 

「5年前に曹操に警告されたとおり、劉勲は信用できない。この前だって“中華の平和を守るため、曹操に対する包囲網を形成する”とかもっともらしい事言っといて、関税撤廃を要求してきただろ?」

 

 一刀の言葉に、鳳統も同意するように頷く。

 

「あの後、市場は大混乱に見舞われました。大方の予想通り、市場に供給される農作物量が増えたことで、物価の下落と中小自作農の没落が起こっています。ただ……」

 

 鳳統は少し困惑したような、納得のいかないような複雑な表情をする。

 

「短期的な混乱の後は、徐々に実体経済が上向きつつあるんです。税収は増えていますし、補助金や各種手当を無くした事で財政赤字も減少傾向にあります。

 てっきり景気が悪くなるとばかり思っていたのですが……今じゃどっちが正しいのか分かりません」

 

 よく誤解される事だが、競争に耐えられずとも自由貿易は利益をもたらす。

 穀物貿易で徐州は「負けた」が、安い袁術領の穀物が入ったことで領内の物価は下がる。生産者はその分だけ損をするが、消費者が安く穀物を変えるという利益で金額的に相殺される。しかし物価が下がったという事は以前と同じ額で、以前よりも多くの穀物を買えるのだ。

 

「う~ん、そう言われると俺も自信がなくなるんだが……実際、紙の上では好景気みたいだし。ただ、街を見渡しても活気が出てたようには思えないんだが……」

 

 いまいち納得できない、といった感じで一刀は眉根を寄せる。

 自由化以降、一刀たちに届いてくる書類の上では、確実に景気と財政は良くなっている。だが、どうも好況だという感覚が湧かないのだ。庶民の生活水準が上がった感じはあまり無いし、むしろ失業者などは増えた気すらする。実感なき景気回復、とでも言ったところか。

 

「朱里なら、これがどういう事が分かるんじゃないのか?」

 

 先生に難問の教えを乞う生徒のように、一刀は期待を込めた目で諸葛亮を見る。

 諸葛亮はやや時間を置いてから、あくまで推測ですが、と前置きした上で自らの考えを述べた。

 

「仮に“国全体”では利益を得ていても、特定の人たちは必ず損害を受けるでしょう。ですが理論上では、得をしている人は損をしている人より多くの利益を得てます。だから損を受けている人に補填をしても、まだ利益が残るはずなんです。ですが現実には……」

 

「……そんな補填は行われず、損する人とそれ以上に得をする人の2グループに大きく分けられてしまう。それが不公平感を蔓延させてるから、あまり好景気の実感が無い、ってことか」

 

「ぐるーぷ?」

 

「ああ、それは俺の国の言葉……じゃないな。英語だし。

 要するに、俺のいた世界である特定の集団を表す言葉だ。」

 

「そうなんですか……って、納得してる場合じゃなかったです!

 えーっとですね、基本的にご主人様の察した通りですけど、事情はもう少し複雑です」

 

 社会が2グループに分けられた時、少数の人が得をして多数の人が損をする構図だった場合、損する多数派は当然自由貿易に反対するだろう。“自由競争によって全体の利益が増える”と主張する自由主義者に対して、よく挙げられる保護主義の反論がこのパターンだ。

 

 しかし、逆に多数派が得をして少数の人が損をする場合でも、保護主義が根強いのは何故なのか?

 これは主に自由貿易によって増えた余剰が多数派、つまり社会全体に広く薄く分散してしまうことにある(例:100人が100の財をもっており、自由貿易を行った結果、99人は財が1づつ増え、1人は財が50減るとする。この場合社会全体では49の財が増えているが、得をした99人はいくら得をしたといっても1%程度の財の増加ではそれほど有難味を感じられないのに対し、損をした1人は財が半分になってしまっているので、分かり易い形でダメージを受けている)。

 つまり少数の損をする人は、失業や賃金減少など目立つ形で損失を受けるが、多数派の便益はわずかな物価の下落程度でしか目に見える形で現れず、一見すると小さな変化しかもたらさないのだ。

 

 

「それはともかく……袁術さん達が諸侯会議に欠席したことで、日和見を決め込んでいた他の列強や諸侯も参加を見送りました。ですが、これは主催者である袁紹さんからしてみれば、面目丸潰れもいいところです。今や両袁家の関係は完全に冷え切っています。」

 

 劉勲らが諸侯会議への欠席を表明すると、他の諸侯も次々とこれに続く形となっっていた。戦争する気満々の劉焉と曹操はもちろん、荊州牧の劉表も面倒な問題に巻き込まれたくないという理由から参加を見送る。加えて幽州牧の公孫賛までもが欠席を発表し、袁紹主催の諸侯会議は完全に有名無実なものと化した。

 

「白蓮ちゃん……大丈夫かな」

 

 劉備が不安そうに首をかしげると、軍略担当の鳳統が答える。

 

「反乱軍の食糧が切れたおかげで包囲は解かれたようですが……まだまだ予断を許さない状態です。気まぐれな袁紹さんの事ですし、いま司隷に向けられている野心が、いつ幽州に向けられるとも分かりません。」

 

 司隷の占領が思いのほか難しいとなれば、戦略を変更して窮地にある公孫賛を先に潰そうと考えても不思議はない。公孫賛もそれを考えてか、早々に司隷問題への不介入を発表し、領内の反乱鎮圧に勤しんでいた。

 

「諸侯会議でそのことを訴えるというのも一つの手ですけど、会議の主催者が袁紹さんですし、どの諸侯も司隷問題で忙しい事を考えると……あまり会議に参加する利はありません。むしろ反乱の最中に州牧ともあろう方が領地から離れれば、内乱が余計に長引くと考えたのでしょう。」

 

「そっか……それなら残念だけど、仕方無いね……」

 

 鳳統の推測に、劉備は悲しそうに項垂れる。彼女はどちらかといえば諸侯会議に乗り気で、袁家の掲げる“話し合いによる平和的解決”を額面通りに受け取っている節があった。そのため、徐州牧の陶謙にも直訴するなどして諸侯会議への参加を訴えていたが、この一連の展開で完全にお流れとなった。

 

「そもそも今の中華で列強と言えるのは、袁紹・曹操・袁術・公孫賛・劉表・劉焉の6人。その内5人が欠席したら、例え残りの中小諸侯から数人出ても意味ないからなぁ……」

 

「はい、ご主人様のおっしゃる通りです。問題は、諸侯会議の中止という今回の出来事が、洛陽会議以降ずっと保たれてきた諸侯間の均衡を崩しかねないということです。」

 

 諸葛亮が一言一言、確認するように言葉を紡ぐ。日頃は柔らかい彼女の表情も、どこか張り詰めているように見えた。

 

「反董卓連合戦の後、袁術さん達が中心となって諸侯間の力関係の均衡を図る事で、私たちは戦争を回避してきました。そこで重要だったのが、お互いの利害を調整するための諸侯会議です。ですが、これまで諸侯会議を主導してきた袁術さん達が参加を見送ったことで、もはや諸侯達は己の野心を隠そうともしていません。」

 

 一番警戒されているのは曹操だが、袁紹や劉焉なども大っぴらに司隷を併合する準備を始めた。

 例えば袁紹陣営は曹操の影響力が強い献帝を廃し、新たに別の皇帝を立てる計画を進めている。益州牧・劉焉の場合は更に露骨であり、皇族の血を引いていることを理由に、自分自身が皇帝になろうとすら画策していた。

 

「この劉焉さんですが、彼は司隷から益州に逃れてきた難民を『東州兵』として組織し、大規模な軍隊を揃えているようです。

 洛陽に息子がいるようですし、彼らの救出を大義名分にすればいつでも軍事介入が可能でしょう。これに曹操さんが呼応すれば、司隷の現政権は東と西で2正面作戦を強いられ、厳しい立場におかれるかと。」

 

「そういえば、袁紹さんも似たような事しようとしてたよね?馬騰さんと同盟結んで挟み討ち、みたいな。朱里ちゃん……こういうの何て言うんだっけ?」

 

 劉備がうーん、と唇に指を当てる。

 洛陽会議に端を発する“勢力均衡による平和”は、各諸侯の複雑な同盟関係によって成り立つもの。誰もが正義で、誰もが悪と成り得る。そして誰が味方で、誰が敵なのか。いや、劉勲の言うように“永遠の友も永遠の敵もなく、ただ永遠の利益のみがある”のか。

 勢力均衡を作り出した当事者達ですら、今や現状を把握するのが困難になってきていた。

 

「兵法三十六計の第二十三計、『遠交近攻』ですね。“遠きと交わり近きを攻める”……外交の基本ですが、今回の場合には皇帝の権威や経済問題も関わってる分、事態はもっと複雑です。」

 

 諸葛亮は地図を広げ、皆に分かるよう解説を始める。

 もともと司隷は接する州が多く、首都・洛陽と皇帝を有している為に利害関係は複雑怪奇。李傕ら3人の統治能力が皆無だった事もあり、まさに『中華の火薬庫』とも言うべき場所であった。袁術陣営というバランサーを失えば、様々な利害対立が激化するのは必然と言えよう。主なプレイヤーとその思惑を並べただけでも、外交官にとってパンドラの箱である事が分かる。

 

・袁紹:名士の支持を得て、支配を盤石なものにしたい。最悪、皇帝を殺して別の皇帝を擁立。

・袁術:勢力均衡の維持。ただし財政に負担はかけたくない。

・公孫賛:内乱で忙しいから基本的に不干渉。

・曹操:皇帝の確保&司隷の併合

・馬騰:司隷を経由する通商行路の安全確保。

・李傕ら:求心力の源たる皇帝の身柄を確保。李傕派と郭汜派の争い。李儒は中立。

・劉表:勢力均衡の維持。特に袁術の強大化は防ぎたい。

・劉璋:息子が洛陽にいるから救出。可能ならばドサクサに紛れて皇帝を殺し、自分が皇帝に。

 

「――以上が、各諸侯の大まかな思惑ですね。今や全ての諸侯が自分達の都合を優先し、司隷と皇帝陛下を狙っているのが現状です。」

 

「ふえぇ……頭がこんがらがりそうだよ……」

 

 諸葛亮なりに分析した詳細報告を見て、劉備が目を回す。

 

「はっきり言って、私や雛里ちゃんでも全ての利害を調整するのは無理でしょう。実際、劉勲さんが匙を投げたくなる気持ちも分からなくはありません。しかし『話し合いによる平和』を主導してきた張本人が自ら役割を放棄したとなれば、他の諸侯が続くのは自明の理。

 要するに“もはや話し合いでは解決できない”と大多数の諸侯が考え始めているんです。」

 

 話し合いでは解決できない――その意味するところはただ一つ。

 反董卓連合以降、封印されてきた“戦争”と言う名の解決方法が、再び市民権を得たという事だ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 兌州・陳留、曹操の執務室にて

 

「――以上が、各諸侯の様子です。現状で我々以外に、司隷に向かう可能性が最も高いと思われるのは益州牧・劉焉かと。兵は急きょ徴兵した寄せ集めらしいですが、益州の人口が多い事からも、数はそれなりになると予想されます。少なくとも7万は下らないでしょう」

 

 報告を読み上げる人物の姓は郭、名は嘉、字を奉孝という。最近になって曹操に仕えた軍師であるが、その有能さから既に国政の中枢を任せられるまでになっていた。

 彼女の報告を聞き、曹操は記憶を辿る。

 

「劉焉か……確か息子が皇帝陛下のもとに仕えているって話よね?なら、大義名分は“要人の保護”かしら」

 

「はい。未だに長男と次男が長安にいるようです。特に長男は将来的に家督を継ぐ義務もありますし、大義名分としては十分でしょう。おそらく彼らの保護を大義名分に司隷に軍を進め、途中で“李カクらの卑劣な奇襲”に遭い、“正当防衛および積極的自衛権”を行使するものかと」

 

 郭嘉が眼鏡をかけ直しながら、最も起こり得る可能性の高いシナリオを述べる。なにせ“○○の保護”というのは、古来からオーソドックスな侵略方法だ。厳重に警備されているにも拘らず、なぜか必ず誰かに攻撃されてしまう。その攻撃は“不幸な事故”だが、保護を掲げた国にとって都合が良い場合が殆どなのだ。

 

「如何なされますか?」

 

「構わず捨て置きなさい。自分から進んで諸侯の不興を買うのもアホらしいし、我が軍は州境で待機させるだけに留めて。……もちろん今の所は、だけど」

 

 最後に含みを持たせて、曹操は薄く笑う。

 

「御意。前線におられる夏侯惇、および夏侯淵の両将軍にもそのように伝えておきます。それと……念の為、劉焉殿にも激励文を送りますか?」

 

「そうね。劉焉にしても、味方(・ ・)は多い方が洛陽憲章を破りやすいでしょうし。“兌州牧・曹孟徳は益州牧・劉君郎の前途を祝す”みたいな感じで送ろうかしら」

 

 大部分の諸侯は曹操が真っ先に開戦すると思いこんでいるようだが、曹操に一番乗りする意志は無かった。

 

「麗羽たちの策の二番煎じっていうのが少し癪だけど、今回は堅実に勝たせてもらうわ」

 

 悪戯っぽい目で楽しそうに話しながら、曹操は細い指で顎をさする。

 

 青州出兵の時とは、外交を取り巻く状況が違う。前回は曹操を除く、全ての諸侯が現状維持を望んでいた。だが今回は、劉焉・馬騰・袁紹・曹操の4人が出兵に積極的であり、公孫賛は反乱発生によって動けない。劉表は領地が遠過ぎ、袁術も不可侵条約を結んでいる以上、直接手は出せないだろう。

 

 もはや誰もが、今まで通りの勢力均衡体制を維持できるとは考えていない。誰かが均衡を崩せば、全員が自分に都合よく解決しようとする。これを利用しない手は無い。 この調子なら、放っておいてもいずれ劉焉が均衡を崩してくれる。ならばそれに便乗すれば良いだけのこと。自分は迷っている劉焉の背中を、そっと後押しするだけでいい。

 

 戦争とは自分から仕掛けるものでは無い。他人に仕掛けさせるものなのだ

 

 

「……そう言えば、桂花から何か連絡は?例の交渉、なるべく今週中には結果を出すって意気込んでたけど」

 

 現在、筆頭軍師である荀或はこの場にいない。袁術の諸侯会議不参加を受け、新たに練った策を実行に移すべく外交交渉へ出かけたのだ。代わりに程昱が軍政を、郭嘉が外務を代行する事で彼女が抜けた穴を補っていた。

 

「昨夜に早馬による連絡が届きましたが、2日ほど遅れるようです。なんでも相手の軍師が中々首を縦に振らないだとか」

 

「まったく……慎重なのはいいけど、期日を守らないのは罰則ものよ。――帰ったらお仕置き確定ね」

 

「か、華琳様のおし…お仕置き……!」

 

 隣で何やら妄想した挙句、鼻血を吹いて倒れた郭嘉を横目に、曹操はすっくと立ち上がる。

 今や時代の流れは変りつつある。残る問題も、いずれ時間が解決するだろう――曹操は層考えていた。

 

 曹操は前回の失敗を繰り返すまいと、極上の餌を前に待ち続けた。それは飢えた猛獣が、獲物が近づいてくるのを待つ様子に似ていた。

 

 そして――

 

 

 ◇◆◇

 

 

 5日後、益州・司隷の州境にて

 

 

「我が勇猛なる兵士達よ!漢帝国と皇室に忠誠を誓った全ての民よ!」

 

 快晴の空の下で、一人の男が声を張り上げている。その名も劉君郎、天然の大要害・益州を統べる州牧その人であった。

 彼が司隷に兵を進めるにあたって、激怒した李傕により洛陽にいた2人の息子は殺されていた。しかし、それすらも扇動の道具として、劉焉は兵士に語りかける。

 

「李傕ら逆臣共は陛下を蔑ろにするばかりか、卑劣にも陛下の忠臣を虐殺したッ!私の息子達と多くの忠臣は、皇室に忠誠を捧げたが故に殺されたのだ!」

 

 何千、いや何万という完全武装の大軍勢。司隷からの難民を中心に選抜・訓練されたこの軍勢は『東州兵』と呼ばれ、開戦にあたって絶妙なタイミングで絶妙な配置についている。彼らの存在そのものが、この事態が“あらかじめ予期されていた”事を暗に示していた。

 

「諸君らの中には、董卓やその後釜である李傕らのせいで、家を失った者も少なくは無いだろう。家族を、友を失った者も少なくは無いだろう。……それでも諸君は李傕ら逆賊を許すのか!?」

 

 東州兵のほとんどは難民出身だ。答えは聞くまでも無く分かっていた――即ち、否と。

 

「そう、許せるはずが無いッ!答えは否、断じて否だ!我らはこの国と、正義と、そして犠牲者たちの魂に報いる為に奴らを打たねばならんッ!」

 

 ゆえに劉焉は命じる。

 州牧として。皇族として。彼の最初の臣民となった難民たちと、彼自身の野望の為に。

 

 

「全軍進撃ィイ!――目標は帝国首都、長安ッ!逆賊をこの手で討ち、同胞を圧政から解放するのだぁァァーー!!」

 




 近隣に暮らす人々の間の平和とは、人間にとって自然な状態ではない。それどころか、戦争こそが自然な状態である。

      ――イマヌエル・カント『平和のために』第ニ章より


 再び戦争が始まります。劉勲さんの作りだした平和は、小さなきっかけから諸侯が国益最優先でそれぞれが勝手に動いた結果、負の連鎖反応を起こして崩れてゆきます。見るからに不自然な平和だったんで“いつかこうなるだろ”と分かっちゃいましたが、戦争って意外と始まる時はあっけないものですよね。
 イラク戦争とかも“大量破壊兵器を持ってる疑いがある”とか割と無茶な理由でかなり唐突に始まってますし……そりゃフセインもブッシュと最後通牒をハッタリだと勘違いするでしょうねー。

 話は変わりますが、劉焉は息子の劉璋と違ってかなり有能な人間だったそうです。益州は事実上、劉焉の独立国家みたいになってたとか。ただ、李カク達が仲間割れした時に西涼軍閥と結んで攻め込み、返り討ち&洛陽にいた息子2人殺された後はいろいろ不幸が続いた挙句、病気で寝込んでしまったそうな。
 そんな訳で私の中では“そこそこ有能だけど不幸なかませキャラ”のイメージとなっております。
 


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第五章・終わりの始まり
46話:曹操の罠


  

 洛陽体制崩壊後の中華の諸侯は、ことごとく兵力の拡大と軍備増強にしのぎを削った。

 劉勲の築きあげた勢力均衡による国際秩序が、複雑すぎる外交関係と秘密条約の横行を招き、それを制御できなくなった結果、破滅的な暴走をもたらした――そう考えた諸侯はもはや、他人を信用しなかった。全ての仮想敵を同時に撃破できる軍事力、より洗練された戦時体制と兵力の膨張を伴った泥沼の軍拡競争。戦いの手法と展開はより複雑に、かつ大がかりになってゆく。

 巨大な軍事力を組織できる経済力と資金力をもった諸侯だけが、消耗を強いる戦争に生き残れる。その為には、国家の持てる全ての資源・資金・人材を最大限に発揮せねばならない。

 軍拡は領内に重い負担を、領外には一層の軍拡競争を招き、領民の不満は反乱に、政情不安は新たな戦争に結びつく。この相互不信と対立の悪循環こそが、袁術の経済支配と勢力均衡を失敗させた最大の要因だったのだ。

                            ――後漢書・仲国記

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 結論からいえば、劉勲らの消極的な対応は劉焉軍による司隷侵略を招く事になった。勢いに乗る劉焉軍は州境周辺にいた李儒軍を瞬く間に撃滅し、長安まであと一歩の所まで迫った。その目的が、李傕ら連立政権の力を支えていた皇帝を確保と、司隷の併合である事は誰の目にも明らか。

 ここに来て流石の李傕と郭汜も互いに矛を収め、李儒軍の残党と合流。自らの権力基盤である皇帝を奪われまいと、洛陽から長安に向けて10万の軍勢で進撃するのだった。

 

 

「くそっ!李傕の臆病者め、支援はどうなった!?」

 

 郭汜軍野戦指揮官の一人が、思わず苦悶の声をもらす。

 この日、郭汜軍所属の軍候(1000人ほどを指揮する部隊長)だった彼には、司隷連合軍の右翼を構成する部隊の一つを与えられていた。早朝から始まった劉焉軍の攻撃はこれで3度目であり、彼と彼の兵士の顔には疲労の色が見える。

 劉焉軍の襲撃自体はあらかじめ予期されていた事だが、対策がとれるかどうかはまた別問題。つい先ほどまで互いに争っていただけに部隊同士の連携が取れないどころか、反目しあって内部分裂寸前といった状況だ。それでも戦線が維持できているのは、ひとえに劉焉軍が自軍の損害を嫌って全面攻勢に出ていないからだった。

 

(仮に我らを倒したとて、被害が多ければ得たモノを横から掠め取られる……虎視眈々と機を伺う死肉漁り共のおかげで、我らは生かされているという事か。忌々しいっ……!」)

 

 劉焉軍と司隷連合軍の戦力差は8万対10万。指揮統制では劉焉軍が、兵力では連合軍がそれぞれ優位に立っている。どちらも決定的とは言えない戦力差であり、お互いが慎重に戦っている限り長く苦しい消耗戦となる。士気は最低ラインぎりぎりであり、隙間の無い隊列を構築し指揮官が目を光らせる事で、何とか脱走を防いでいるといった有様だった。

 

(だが、それは劉焉軍も同じはずだ……1日に3度も攻撃を行えば、どんなに士気旺盛な軍隊だろうと疲労困憊する。だから普通なら攻撃側の指揮官が敢えて消耗戦を行う利点は無い。

 でなければ何か別の策があるのか、あるいは……?)

 

 ――何かを待っているか。

 

「報告します!右前方から多数の敵が接近!……軽装歩兵がおよそ1000人規模、部隊間の隙間に割り込むものと思われます!」

 

 部下からの報告に、指揮官は一時思考を中断、軽く舌打ちする。本来なら戦列から部隊を抽出して抑えて回したい所だが、一度組んだ戦列の変更には多大なリスクが伴う。戦場ではほんの小さな混乱が戦線全体を崩壊させる事を考えれば、そのような危険を冒す訳にはいかなかった。

 

「――弓兵の援護射撃を回せ!敵は所詮軽装歩兵、鎧もろくに着てないはずだ!」

 

「ですが、矢が残り僅かしか……!」

 

 弓兵のいる方向に目を向ける。残弾数を分かり易くするべく矢は全て地面に突き刺さっており、部下の懸念が現実であることを示していた。その数は既に戦闘開始前の3割を切っていた。

 だが、一向に補給が来る見込は無い。司隷連合軍は兵士数こそ多いものの、先の内戦によって補給線がまともに機能していないのが原因だった。矢に限らず刀や鎧も折れたり曲がったりする消耗品であるため、それらが枯渇すれば文字通り肉の壁を作るしかない。

 

「補給は何とかして上に申請してみる!だがその前に、まずは目先の障害を取り除く事が先だ!――構えろ!弓兵は敵をよく狙ってから撃て!」

 

 号令を受けて、後方の射手達はゆっくりと弓を構え、慎重に狙いを定める。放たれた矢は緩やかな放物線を描いた後、重力に引かれて敵兵の頭上に降り注いだ。木製の簡易な銅鎧しか着けていなかった軽装歩兵が、次々に血を吹いて倒れてゆく。数分と待たず軽装歩兵部隊は退却し、血塗れになった死骸が辺りに残される。

 だが、ほっと一息つくな間もなく、彼らの目に新たに映ったのは別の敵部隊だった。

 

「新手の接近……!?」

 

 指揮官は目を細めて敵を確認する。移動の早さと舞い上がる土煙の多さからして、おそらく騎兵部隊だろう。数は300騎ほど――万全の態勢で迎え撃てば問題無いはずの数だが、矢が枯渇した現状では厳しいと言わざるを得なかった。

 

(ッ!……そうか連中、こちらの矢が尽きるのを待って……!)

 

 つまり先ほどの軽装歩兵部隊は、こちらに矢の消耗を強いる為の単なる囮。敵の本命は矢の脅威がなくなった所で、脆いが攻撃力に優れる騎兵を突入させることだ。目標は同じく戦列の隙間だろう。

 まんまと騙された事に苛立ちと後悔を覚える指揮官だったが、即座に気持ちを切り替えて命令を下す。

 

「部隊に警告!新たな敵騎兵部隊が接近しつつある!隊列を整えろ!」

 

 問題は戦列間の隙間をどう埋めるか。弓兵は矢を使い果たした。予備兵力も残っていない。増援が来る見込もない。となれば、残る手はただ一つ。

 

(唯一動ける歩兵――弓兵で近接戦闘をやるしかない……)

 

 考え得る限り、最悪の悪手である。弓矢を除いた弓兵の装備は短剣や手斧ぐらいであり、近接戦闘を行わせる事は自殺行為に等しい。時間稼ぎにはなるかもしれないが、間違いなく部隊は壊滅する。

 だが、他に方法が無いのもまた事実。こうして迷っている間にも、「全滅」の2文字が現実になろうとしているのだ。

 

「弓兵は手持ちの武器に持ち替え、間隙の防御につけ!」

 

 戸惑う部下を無視して、部隊長は声を張り上げる。

 

「急げ、時間が無い!全員、騎兵突撃に備え――「ふざけるなっ!」」

 

 部隊長の号令に、弓兵隊を率いていた副隊長の怒声が割り込む。

 

「弓兵に接近戦を行えだと!?――しかも相手は騎兵なんだぞ!俺らを皆殺しにする気か!」

 

 顔を紅潮させた副隊長が声を張り上げる。物資の不足と不利な戦況により、彼を含めた大部分の兵士は疲労の極みにあった。そしてここに来てもまた、全滅しろと言わんばかりの無茶な命令。いくら必要な行動とはいえ、そのような破れかぶれの玉砕戦法で部下を死なせる訳にはいかなかった。

 

「後退は許可出来ない!……騎兵が動いたともなれば、いくら上層部いえども放っておくことは無いはず!時間を稼げば必ず増援が来る!」

 

「この期に及んで“必ず(・ ・)増援が来る”だと!?そんな保障がどこにある!」

 

「甘ったれるんじゃない!戦場に保障などあるものか!いいか、これは命――「もう沢山だ!こんな無茶な命令につき合えるか!弓兵だけでも退却するぞ!」」

 

 そう言うが早いか、副隊長は部下に視線で指示を飛ばす。彼の部下はすぐに頷くと、敵に背を向け一目散に逃走を開始した。

 

「ま、待て!独断での退却は命令違反だぞ!?敵前逃亡は死刑に――……ぐッ!?」

 

 次の瞬間、部隊長の胸から血が溢れ出す。彼の背後に控えていた部下の誰かが、後ろから刃物で突き刺したのだ。部隊長は胸を両手で押さえながら、そのまま地面に膝をつく。

 

「き、貴様ら……!」

 

「――隊長は作戦行動中にて、名誉の戦死(・ ・ ・ ・ ・)を遂げられました。よって現場の判断は副隊長、貴方に委ねられます。ご命令を」

 

 自分を呼びかける声に、副隊長は短く“退却だ”とだけ返した。それに答えるように兵士達の足音が響き、その場から立ち去ってゆく。

 劉焉軍の騎兵が一斉に突撃したのは、その数秒後だった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「部隊の再編と補給を完了致しました。ご命令があれば、我が軍はいつでも出動できる状態です。」

 

 野戦用に作られた天幕の中で、劉焉は部下である張任の報告を聞いていた。

 この日の戦闘では結局、劉焉軍による4度目の突撃によって、司隷連合軍右翼を支えていた郭汜軍の戦列が崩壊。騎兵隊の後に投入した予備兵力が敵中央の側面に回りこんだ事により、片翼包囲の危険を悟った連合軍は退却を決意する。全滅こそ免れたものの退却の途中で行方不明(大半は脱走だ)になった兵も少なくは無く、不利を悟った連合軍司令官・李傕は長安を捨てて洛陽に逃走。もはや劉焉軍の進撃を阻む力は、司隷連合軍に残されていなかった。

 

「先ほど行われた戦闘により、連合軍は戦力の約半数を喪失。兵力の回復には最低でも1ヶ月、組織的な行動が行えるようになるには3か月以上かかる見込みです」

 

 もともと司隷連合軍の大半はゴロツキに毛の生えた程度のものであり、旧董卓軍系の精鋭部隊が彼らをフォローすることで成り立っている。戦列が崩れれば統制が利かなくなるのは火を見るより明らかだった。軍閥の寄せ集めでしかない連合軍ではいざという時の踏ん張りがきかず、劣勢になった途端に崩壊するという欠点を抱えていたのだ。

 

「我が軍にも3000名ほどの死傷者が出ましたが、来週には益州から1万の増援が到着予定であるため、作戦行動に影響はありません。長安に籠っている皇帝陛下をお守り(・ ・ ・)しつつ(・ ・ ・)、敵の残党を掃討出来るでしょう。」

 

 自軍の勝利を伝える報告を部下から聞きながら、劉焉は満足していた。

 これまでのところ、作戦は順調に進んでいる。もともと皇族だった彼には宮中に知り合いも多く、司隷の内部事情についてはかなり詳細な情報を得ていた。

 

 ――自分に対抗するべく同盟を結んだはいいが、李傕と郭汜が完全に協調できていないこと。内戦によって敵の兵士達に厭戦気分が広がっていたこと。これまでの無秩序な統治のせいで必要な軍事費が調達出来ず、物資の補給に問題を抱えていること。

 

 これらを考慮した上で、劉焉は戦力を的確に配置した。

 無理に包囲殲滅などの完全勝利を狙わずとも、補給切れに追い込んだ所で、どこか一か所でも戦列を崩せば後は勝手に自滅してくれる。そして軍隊は一度敗走すれば、再編成までの数ヶ月間は動けない。その期間は統制が取れていないほど、士気が低いほど、そして金が無いほど長くなるのだ。

 

「しかしながら、まだ油断はできません。袁術陣営は、李傕らの現政権支持を表明しており、資金援助や傭兵の給与が行われる可能性があります。また、交易路の安全確保を目的に、涼州の馬騰が出兵してくる危険性も否めません。」

 

「気にする事は無い。なぜなら私は曹操からは激励文をもらっている。――ゆえに問おう、この意味が分かるか?」

 

 芝居がかった仕草で満面の笑みを浮かべると、劉焉は部下の返答を待たずして口を開く。

 

「初期段階において、彼女は我々と同じ目標……司隷の併合を目指しているのだ。つまり曹操は我らの味方であり、現政権を打倒するまでは協力関係にあるということ。そして私と彼女以外の諸侯は動けないか、動こうとしていない。ならば必然の結果として、戦後は自分と曹操との間で争いが始まるだろう。……そうなった時、各地の諸侯はどちらを選ぶと思う?」

 

 劉焉は自分が皇帝になろうと画策しているが、地方への支配体制についてはあまり深い関心を持っておらず、現状維持――地方分権色の強い、諸侯による緩やかな連合体――でもよいと考えていた。

 一見すると「皇族による統治」という劉焉の目的とは矛盾しているように見えるが、この時代の“中華”というのは主に中原、華北平原のことであり、幽州や長江以南の土地はさほど重要視されていなかった。

 

「これまでの発言や領地の統治方法からして、曹操が目指しているのは強い君主権力と軍隊が支える中央集権国家に違いない。多くの諸侯は既得権益を守るために必ずやこれに反対するはず。彼らに適度な譲歩をすれば、優位に立つ事は可能だ。

 無論、中原の支配権を譲る気は無い。だが人体に頭と手足があるように、国にも中枢と末端がある。地方を手放して諸侯の支援が得られるならば安い買い物だ。そもそも偉大なる中華の大地に蛮族の血など不要。連中の住む不浄な土地など、成り上がり者にでもくれてやる」

 

 戦争とは戦場が全てでは無い。かつて袁術が反董卓連合でそうしたように、劉焉も戦後会議で諸侯の多数派を味方につけ、自分に有利な体制を作ろうと目論んでいた。

 

「曹操が活躍すればするほど、諸侯は過激な成り上がり者の彼女を恐れ、より穏健で確固たる権威と名声のある相手に縋ろうとするだろう。そもそも、なぜ私が帝位への野望を公式に公表せず、皇帝陛下の保護(・ ・)を優先していると思う?――全ては諸侯の警戒を抑えるため。同じ保護(・ ・)でも宦官の孫と皇族が言うのでは、天と地ほどの差があるのだッ!」

 

 『論語』の一節に次のような文がある。

 “父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直、其の中に在り。(家族の為に罪を隠す事は、人間の自然な形である”――社会よりも一族・家族を優先する儒教的家族主義がよく現れた言葉であるが、親しい人間同士の絆を重視する儒教思想は、良くも悪くも人々の感性に訴え易い。

 そして皇族の血を引く劉焉は、いわば現皇帝の遠い親戚といっても良い。劉焉が必要以上の欲を出さなければ、彼が現皇帝を保護するのに反対できる道義的な理由は無いのだ。

 

(皇族こそ至上にして最上の人間なり!由緒ある血統は、それだけで力なのだ!才能なのだ!権威なのだッ!!)

 

 皇族の血を引いているという事実は、それだけで劉焉に権威を保障する。家柄や血筋が重視される儒教社会では圧倒的なアドバンテージであり、そんな彼に取り入って権威を得ようという名士には事欠かない。袁術陣営のように計算高く実利的な諸侯なら、既得権益さえ保証すれば簡単に味方になるだろう。後はじっくりと時間をかけて宮廷での権力を拡大させながら、時期皇帝の座を既成事実化すればいい。

 

(残念ながら、ほとんどの皇族は血筋という力を生かし切れていない。我ら皇族を蔑ろにして宦官や外戚、そして外様の豪族が政治を思いのままにしているのが何よりの証拠。宦官らの魔手から解放されたかに見える現皇帝も、所詮は諸侯に担がれた傀儡にすぎん。

 ――だが、私は違う!生まれつき備わった血筋・権威・名声、その全てを使ってこの国の頂点となる!高貴な血筋を絶やしかねない乱世など、起こさせて堪るものか……!)

 

 結局のところ、劉焉の最終的な目標は『漢帝国の再興』という一点に集約される。皇帝一族が諸侯の傀儡へと墜ちた現状は、高貴なる血筋を持つ者こそが最上と信ずる劉焉には、到底認められないものであった。

 だから自らが『中興の祖』となり、分裂寸前の中華を再び中央から纏めあげる……劉焉もまた彼なりに国を憂いていたからこそ、今回の行動を起こしたのだ。

 

「この中華を下賤の輩が無責任に分割しているのを、これ以上見て見ぬふりはできん。国とは、選ばれた者が責任を持って指導する事で、初めて機能するのだ」

 

 どれだけ不正や腐敗が蔓延っていようと、平和ならそれでいい。意見が合わないなら、意見が合う者同士で纏まれば問題は起こらない――劉勲らの勢力均衡政策を支持する人間はそう考えている。

 だが劉焉の見たところ、それは単なる事なかれ主義、問題の先送りに過ぎない。目先の危機だけ回避しても、社会に残った傷は消えず膿として残り続けるだろう。膿の除去にはひどい痛みを伴うが、対処療法的に痛み止めだけ打ち続けていてはいずれ限界が来る。

 

「連中は分かっていない。この国には厳正な規律で人民を導く指導者が必要だ」

 

 異民族の問題もある。今まで中華が外国や異民族の支配を受けなかったのは、強力な中央集権体制によって巨大な統一国家を築いていたからだ。勢力均衡によって中華が諸侯間で分割されるような事になれば、外敵の侵攻を受けないという保証は無い。

 国内問題を解決するために国を分割し、その結果外敵に各個撃破されるような事になれば本末転倒。だが、長らく外敵との全面戦争を経験してこなかった諸侯の大半はその自覚に乏しい。

 

(この国は目覚めねばならん。いつまでも惰眠を貪っている訳にはいかないのだ!)

 

 そして愛すべき祖国を立て直すのに相応しい人物は、皇族の血を引く自分に他ならない――劉焉の中では中華再生への想いが激しく燃えていた。

 

 

「しかし、残念ながら全ての諸侯がそう考えるとは限らないでしょう。中には自己の利益のみを考え、皇帝陛下を長安から拉致、あるいは殺害しようと考える者もいるのでは?」

 

「フム……たしかに長安は包囲下に置いたとはいえ、数人程度なら警備の目をくぐり抜けられる。ならば念のため、監視と防衛の両方を兼ねられる函谷関を占領しておけ」

 

「了解しました。」

 

 函谷関は、長安と洛陽という2つの大都市の中間に位置する関所である。前漢では首都・長安を守る東の壁となり、首都が洛陽に移った後漢では西の壁となった。その重要性から楼閣や城壁で要塞化されており、8万の兵力を擁する劉焉軍が駐屯すれば落城はあり得ない。長安包囲と占領地警備の兵を差し引いても、6万程度は投入できるだろう。

 

「なぁに、焦る事は無い。全てが計画が終わった時、私は必要なもの全てを手に入れる。そう、私が漢帝国になるのだ……!」

 

 自分で自分に言った言葉に、満足げに頷く劉焉。

 もし彼の人生に絶頂期があったとすれば、間違いなくこの日、この瞬間だっただろう。誰もが憧れる皇帝の玉座に、劉焉は中華で一番近い位置にいた。

 

 ――だが、現実とは非情である。ひとたび人生の頂点に立てば、後は落下していくだけなのだから。

 

 劉焉の野望は、それが始まった時には既に終わりへと向かっていたのだ。

 

 

 ふと、天幕の外が騒がしくなる。劉焉が何事かと思っておると、一人の伝令が息を切らして駆け込んできた。

 

「たっ、大変です!曹操軍が……!」

 

 尋常では無い様子の伝令。その姿に少しの疑問を覚えたものの、劉焉は威厳を示すべく落ち着いた声を返す。

 

「焦るでない。曹操軍がどうかしたのか?」

 

 また袁術の横槍だろうか?曹操の軍事行動は、過去に何度も妨害されている。

 

「いえ、曹操が新たに軍事同盟を結びました!――相手は冀州牧・袁本初です!」

 

「なっ……何ぃィイイ!?」

 

 その瞬間、劉焉は自分の中で何かが崩れゆく音を聞いた。

 

 

「彼らは李傕達を司隷の正当な政府と認定、我が軍に対し“『集団的自衛権』に基づく武力行為を行う”とのことです!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 鉛色の空、その下に広がるのは黄土色に濁った大河だった。吹き抜ける強風が黄河の水平面を波立たせている。

 外套を着用した曹操が天幕の外へ出ると、既に大勢の軍師と将兵たちが待ち受けていた。およ6万に達する曹操軍は出撃準備を完了している。黄河を挟んだ対岸には味方である袁紹軍3万が待機。計9万にも上る大部隊が展開されていた。

 

「知っての通り、劉焉軍は諸侯に先んじて司隷へと軍を進め、公然と侵略行為(・ ・ ・ ・)を行っている!司隷の現政権を脅かす劉焉(・ ・)軍の行動は、明らかに中華の平和および安全に対する脅威であろう!」

 

 曹操が凛とした声で演説をぶつ。

 もはや騙す必要も隠す必要もない。荀或の立てた策とは、劉焉と連携して李傕らを倒す事では無く――

 

「これは洛陽憲章で定められた“諸侯の権利”を著しく侵害する行動であるばかりか、紛れもない侵略行為である!我々は社会の一員として、ただ座してこれを見過ごす事は出来ない!」

 

 ――劉焉が侵略するように仕向け、彼を悪と断定する事で、軍を進める大義名分を得ること。

 

「ゆえに我らは“ならず者諸侯”の侵略から司隷を解放し、漢帝国に秩序を取り戻すべく『集団的自衛権』を発動する!」

 

 『集団的自衛権』とは、他国が武力攻撃を受けた場合に、第三国が協力して共同で防衛を行うという権利だ。反董卓連合戦の後に全ての諸侯間で結ばれた『洛陽憲章』においても“不当に条約を破ったした諸侯に対し、その他の諸侯は集団で制裁する”との記載がある。

 だが、曹操はこれを逆利用したのだ。勢力均衡の維持と洛陽憲章の遵守を謳う事で(表向きは)、まんまと司隷に兵を進める大義名分を得た。

 

 曹操軍は李傕らの治める司隷を侵略するのではなく、劉焉に侵略された司隷から侵略者を追い出す為に参戦する――こう言われてしまえば、他の諸侯に曹操を非難する事は不可能だ。袁術とて、曹操が洛陽憲章の擁護を掲ている以上、これを止める事は出来なかった。曹操の行動を否定する事は、自身が主催した洛陽会議を否定する事になるからだ。

 

 これに加えて曹操は袁紹と軍事同盟を締結する事で、より確実な勝利を狙っていた。戦力の充実に加え、前回のような諸侯の介入を防ぐ為にも、強力なパワーを持った諸侯との同盟は必須。そこで同じく司隷への侵攻を目論んでいた袁紹に対し、曹操は軍事同盟を持ちかける。

 

 袁紹にしても、同盟が締結されれば兌州に睨みを利かせる必要もなくなり、冀州南部に展開していた軍をそのまま動員できる。動員速度と兵員の2つをいっぺんに獲得できるのだ。諸侯会議の失敗と煮え切らない馬騰の態度、劉焉軍の司隷侵略に焦っていた事もあり、袁紹はあっさりこれを承諾。同盟によって曹操の一人勝ちを防げるばかりか、万が一劉焉が皇帝を確保するような事態になっても曹操という心強い同盟軍がいる。加えてかつて皇帝を保護したという曹操の実績は、劉焉の手から皇帝を奪還する大義名分と成り得るだろう。

 曹操に不信感を抱いていた田豊にしても、これ以上の遅れを取る訳にはいかず、最終的には首を縦に振ったのだった。

 

 賽は投げられた――覇王・曹孟徳は剣をかざし、乱世の到来を謳い上げる。

 

「――総員、直ちに長安に向けて進軍せよ!」

  




 他人に戦争煽っておいて、それを逆手にとって使い捨てちゃう華琳様。2枚舌を駆使して世界を止める劉勲に対し、曹操さんもまた2枚舌でそれに対抗しました。
 ……劉焉はとばっちりだけどまぁ仕方無い。

 政治外交がメインだと、どうしても狐と狸の化かし合いみたいな話ばっかりになってしまいがちなんですよね。・・・どうしたものか。
 まぁ、そろそろ戦争だし、少しは「これが武人の誇り!」みたいなサッパリした話も……入れられたらいいなぁ。


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47話:狂った運命

         

 長安郊外におかれた劉焉軍の作戦司令部は、恐慌状態の一歩手前であった。突然の曹操軍からの宣戦布告に、外交などを含む戦略そのものの変更を迫られていた。

 

「う、うろたえるんじゃないッ!帝国軍人はうろたえないッ!」

 

 焦燥感に声を震わせながら劉焉が叫ぶ。

 

「確かに我が軍は不意をつかれた!しかし袁紹から宣戦布告は届いておらず、目下の敵は曹操軍ただひとつ!敵の数は所詮6万、すなはち我が軍の4分の3!つまり数ならこちらの方が有利!至急、迎撃態勢を整えて裏切り者を返り討ちにせよッ!」

 

 死亡フラグを連発しながら部下を鼓舞しようとする劉焉だったが、彼の元には各地から悲鳴のような報告が届いていた。

 

「袁紹の元より緊急の報告が届きました!――『司隷に対する侵略行為に対し、我々は益州牧・劉焉に最後通牒を通告する。 ①司隷からの即時撤兵 ②益州軍の縮小 ③益州牧以外の全ての官職の返上 以上の3つが受託されなかった場合、即時開戦も辞さない』とのことです!」

 

「おのれ、袁紹ぉおおおーーっ!……ええい、こうなったら両方とも叩き潰してくれるわ!よいか、連合軍とはいうが、まだ袁紹軍は動員が完了して無い。連中の動員が完了する前に各個撃破すれば――」

 

「馬騰から最後通牒です!司隷から即刻撤退しない場合、西涼は4万の軍を動員する用意があると言っております!」

 

「なっ……!くそっ、予想より早いッ!……やはり袁紹との密約の噂は本当だったのか!?」

 

 馬騰はかねてから司隷の交易安全に腐心している。単独で戦争をすることはないだろうが、便乗参戦は十分に考えられた。

 

「袁術は!?南陽の判断はどうなっているのだッ!?」

 

 劉焉は最後に残った希望――勢力均衡の担い手たる袁術陣営に一縷の望みをかけるも、人民委員会からの手紙は非情なものだった。

 

 ――我々は問題の平和的解決を望んでいる。が、我々は馬騰とも相互安全保障条約を結んでおり、彼らに危害が加わるような事があれば、これを見過ごす事は出来ない。諸侯には賢明な判断を期待する。

 

 要約すると、劉焉は袁術にも見捨てられたということ。それはつまり、中華の有力諸侯の大半が敵に回るか劉焉を見捨てた事に他ならない。素人目にも絶望的な戦力差だった。

 

「これは……げ、現実なのか……!?」

 

「現実です」

 

 現時点で宣戦布告してきた諸侯は曹操、袁紹、馬騰の3人。これに李儒ら司隷の現政権が加われば、劉焉軍の抵抗は絶望的になる。袁術は敵対的武装中立といったところだが、地理的に南方からも圧力が加わる形となり、まさに最悪の状況だった。

 

「……もう駄目だ。終わりだ……いや、もう終わった……」

 

 あまりの出来事に思わず絶句する劉焉。中華を代表する列強3つに、同時に宣戦布告される事など今だかつて無かった事だ。

 しかし、冷静に考えてみればあり得ない話ではない。袁紹主催の諸侯会議が中止になった後、曹操がすぐさま司隷に侵攻しなかった時点で、袁紹との同盟を疑うべきだったのだ。

 

 劉焉が司隷に攻め込むまでの間、曹操は軍に動員をかけたまま州境に待機させていた。だが、軍というのは単に維持するだけでも莫大な金が必要な金食い虫。常備軍を整えつつある曹操軍でさえ半数は半農半兵の屯田兵だ。もし仮に全軍を動員してもすぐ戦争を始めないとなれば、“何か”を待っていると考えるのが妥当だろう。

 

 そして劉焉はここで致命的な失敗を犯した。彼は元より司隷侵攻を行う予定であり、曹操は単に自分達の被害を少なくするべく、劉焉軍が先に洛陽に攻め込むのを待っているものと思いこんでいた。だが曹操にしてみれば劉終焉による司隷侵攻はあくまで“可能性が高い”だけであり、今まで僻地に引き籠っていた彼が本当にそれを行うという保証は無い。劉焉が動かなかった場合、曹操は莫大な軍資金を失う事になる。かといって単独で攻め込めば孤立してしまう。

 逆に袁紹は諸侯会議の開催を画策したり、各地の諸侯に工作を行ったりと精力的に活動しており、司隷侵攻はほぼ確実だ。ゆえに彼女と同盟を結んでおけば劉焉が動かずとも孤立せずに戦争を始められ、劉焉が動いてもより確実な大義名分と強力な同盟相手を手に入れられる。

 

「結局のところ、最初から曹操の本命は袁紹との同盟だったということか……!」

 

 曹操が裏切る可能性が思い浮かばなかった、と言う事は無い。だが劉焉は心のどこかで「皇族である自分を無下にするはずが無い」と胡坐をかいており、慢心があったことは否めなかった。

 

  

(もはや私は、いや皇室の権威など過去のものだと言いたいのか――曹操!)

 

 劉焉は内心で絶叫する。

 利用価値が限られていれば、たとえ皇族だろうと使い捨てる――劉焉には曹操が言外にそう言っているような気がした。古い権威など気にも留めず、己の道を突き進む覇王。その片鱗を思い知った劉焉は、どこか空寒いものを感じていた。

 

 彼の問いはある意味で正解であり、ある意味で間違いでもあった。より正確にいうならば曹操以外(・ ・ ・ ・)の諸侯全員も内心では、皇室の権威を安っぽい大衆向けプロパガンダ程度にしか感じていなかった。

 いや……それどころか、皇室を軽んじる風潮は皇族の中にすら存在した。

 

「荊州より報告です!『益州牧の行動は中華の平和を著しく脅かす行為であり、誠に遺憾である。即刻、司隷から撤兵する事を望む。さもなくば、我々は中華の平和と秩序を維持するのに必要な、あらゆる措置を講じる事になるだろう』――荊州牧・劉表からの公式声明です!」

 

「なんということだ……」

 

 劉焉は悲痛な表情で、天を仰ぐ。劉表が参戦すれば益州は直接攻撃を受ける可能性があり、下手をすれば曹操の参戦より危険な事態だ。

 

 だが、劉焉にとってより重要だったのは、同じ皇族である劉表にすら見放なされたという事実だった。自分と同じ皇族の血を引く劉表に、劉焉はどこかライバル意識を感じていた事もあってか、よく領土を巡って揉めていた。

 それでも、心の奥底では同じ皇族として、劉表は劉表なりに皇室と国の未来を考えているものだと思っていた。考えは異なれど皇族同士、いつかは分かり合えると期待していた。それなのに――

 

「劉表、お前もか……」

 

 劉表は曹操、袁紹の側に同調した。狙いは恐らく、経済圏を着実に拡大しつつある袁術陣営への牽制。袁術と仲の悪い曹操らに恩を売ると同時に、曹操達が司隷を占領した際のおこぼれも期待できる。皇族としてではなく、一諸侯として見れば極めて妥当な行動だ。

 

「どいつもこいつも、寄ってたかってこの私を……!」

 

 恨むべくは曹操か。それとも便乗参戦した諸侯たちか。あるいは、この足の引っ張り合いを画策した人物か。

 大方の予想に反して、勢力均衡システムはまだ(・ ・)健在だった。当事者の誰もがそれを守ろうとしなかったにもかかわらず、それは劉焉と曹操の一人勝ちを防ぐべく自動的に発動した。前回の失敗から慎重になった曹操は、同盟を組むことで図らずもバランスを維持する側に回り、一人勝ちする寸前だった劉焉は外交的に孤立し、一転して窮地に立たされることになる。

 

 劉焉軍にとって不幸中の幸いといえるのは、先行部隊が函谷関をほぼ無傷で占領したことぐらいであろう。通常の倍以上の高さを持つ城壁が3重に張り巡らされ、2層の楼閣が守りを固める大要塞。戦上手と名高い曹操との野戦が自殺行為である以上、劉焉軍が敵の侵攻を食い止めるにはここで防御に徹するしかない。

 

「やむをえん……東州兵とその他使える兵は全て投入しろ!全軍、急いで函谷関に向かえッ!軍需物資も出し惜しみはするな――総力戦だッ!!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「フッ、……やはりここは籠城戦に出るか」

 

 全軍で長安を守る関に籠った劉焉軍を見て、曹操は唇に薄い笑いを浮かべた。そんな彼女の前に、準備完了の報告を受けた夏侯淵が現れる。

 

「全部隊、所定の位置に着かせました。ご命令があれば、いつでも出動できます」

 

「麗羽たちの部隊は?」

 

「あちらはどうやら本隊の到着を待つようです。3日後には到着するとの話ですが……」

 

「――戦闘で私たちが疲弊するまで待つ、というのが本音かしら。麗羽はともかく、あそこの軍師の田豊が考えそうなことだわ。時間をかけて圧倒的な戦力を整え、それでもって敵味方双方に対し常に政治的優位性を確保する……戦後交渉まで見据えた手堅い戦略ね」

 

 田豊の思惑を読み取りつつも、曹操は敢えて函谷関を攻めることにした。戦いの主導権を袁紹に取られてしまうかもしれない、という危惧はある。だが曹操にとっての問題はそこでは無かった。列強中最強の一角、三公を輩出した名門袁家を戦場に引き摺り出す――その事実こそが重要だったのだ。

 彼女がもっとも憂慮すべき事態は、戦争で勝ったがゆえに孤立し、戦後交渉で負けること。逆に言えば、戦争そのものはどうにか出来る自信が曹操にはあった。

 

「以前、汜水関を攻めた時はまだ単なる太守だったけど、今の私はれっきとした州牧。攻城兵器も豊富に揃えてあるわ。――李典隊に通達、工兵は状況を開始しなさい!」

 

 函谷関を守る3重の城壁に対し、曹操軍も攻城兵器でもって対抗する。曹操軍は正面に陣取り、集めた木材で瞬く間に十数の攻城塔を組み上げる。兵が昇り易いよう梯子と階段も備わっており、城壁に乗り移るための渡り板、射手の為の足場まであった。さらに火を使った攻撃で焼かれないよう、剥いだ荷役獣などの生皮によって覆われており、大きい攻城塔には破城槌まで付けられている。

 

「よし!これが工兵隊の初仕事や!敵に目にモノ見せたるで!」

 

 ドクロの髪止めで紫色の髪を左右で束ねた少女――李典の指揮のもと、曹操軍工兵隊は少しづつ函谷関へと近づいてゆく。攻城塔の高さは函谷関を守る城壁とほぼ同じであり、劉焉軍との間で激しい矢の応酬が繰り返される。

 

「くそっ、アイツらいつの間にあんな巨大な攻城兵器を……!」

 

「まだ敵が俺達の前に現れてから、3日も経っていないんだぞ!?」

 

 劉焉軍兵士が数人、焦りと狼狽の混じった声で呻く。函谷関の城壁は通常の倍以上の高さであり、自分達は有利な位置から一方的に撃てると思っていただけに、それを覆された時の動揺も大きかった。攻城塔を作られるという可能性も考えない事は無かったが、攻城塔が完成するのはもっと先の話だと劉焉軍の誰もが考えていたからだ。

 実際、常識から言えば彼らの判断は間違っていない。攻城塔はその巨大さと重量から移動に難があり、大抵現地で資材を調達して組み立てられる。

 

 だが曹操軍は、製作時間と輸送の問題をいっぺんに解決する方法を編み出した。それは、本国であらかじめ規格の共通した部品をある程度まで作っておく、というシンプルなもの。半完成品が既に出来ていれば現地では組み立て作業だけすればよく、工兵の指示を仰げば専門的な知識の無い一般兵も製作に携わらせる事が出来る。更に曹操の領地である兌州と司隷は黄河で繋がっており、ブロック化した部品ぐらいなら船でも輸送可能だ。

 単純な話のようだが、『規格共通化』という概念はこの時代にはほぼ皆無。劉焉軍の目には、まるで曹操軍が魔法でも使ったかのように映っていた。

 

(ま、その『規格共通化』ってのが今の技術力じゃ難しいんやけどな。部品の長さや強度を統一するのにえらい時間かかるし、それも全部職人技や。組み立て時間しか掛かっとらんから、早いように見えるってだけで、製作時間全部合わせたら普通にその場で作った方が早い。曹操様がすぐに攻め込まなかったのも、ウチらが規格の同じ部品作るのに手間取ったからやし……タネを明かせば魔法でも何でも無い、おっかなびっくりのカラクリや)

 

 だが、それだけの時間を費やした甲斐あってか、李典の作りだした兵器群は劉焉軍を圧倒し始めていた。絶え間なく矢の雨を降らせ続ける攻城塔の下には、井蘭と呼ばれる車型の兵器や、雲梯という折りたたみ式のハシゴが付いた台車が移動しているのが見える。さらに数十台の衝車が正面から函谷関にぶつかっており、城壁が削り取られる不快な音が辺りに響いていた。

 

 

 ◇

 

 

「くそっ、このままじゃ城内に突入されて乱戦になる……!」

 

 劉焉軍指揮官の一人、張任は焦っていた。兵力では勝っているが、そもそも関所の構造は数の優位を生かすように出来ていない。曹操軍が函谷関に突入すれば、狭い建物内での乱戦になるだろう。乱戦では一対一の戦闘が多く、勝敗を分けるのは主として士気と兵個人の錬度。東州兵もそれなりのものがあるが、難攻不落の函谷関を破って意気揚々と突撃してくる曹操軍の精鋭相手では、いささか分が悪かった。

 

「仕方ない……弓兵以外は第一城壁から撤収させろ!どうせ乱戦になったら負ける!代わりに貴様らには別の任務を言い渡す!」

 

 張任の怒鳴り声を受けた劉焉軍が慌ただしく移動を始め、ほどなくして弓兵だけが城壁に残される。彼らは曹操軍の攻撃を少しでも鈍らせるべく、攻城兵器に火矢を撃ちこむ任務を言い渡されていた。

 この時代の攻城兵器は総じて木製であり、最大の弱点は高い位置からの火矢による集中射撃。だが李典たちの作った攻城塔は劉焉軍による攻撃を防ぐばかりか、逆に矢を撃ち返して劉焉軍の攻撃を妨害。激しい矢の掃射によって劉焉軍は他の攻城兵器を防ぐことまで手が回らず、奮戦空しく戦闘開始から一週間ほどで函谷関の外壁は突破されることになる。

 

「よし、突入を開始しろ!各部隊、周囲への警戒も怠るな!」

 

「「了解!」」

 

 だが、外壁を突破し意気盛んに乗り込んできた曹操軍兵士の前には、相手をすべき劉焉軍歩兵はいなかった。代わりに現れたのは簡易式の空堀と、それを掘った土で作られた土塁。

 

「くそっ!劉焉軍のやつら、数にモノを言わせて余計なマネしやがって……!」

 

 曹操軍指揮官の一人が思わず愚痴を漏らすも、もはやどうしようもない。

 張任は最初の城壁で稼いだ貴重な時間を無駄にせず、歩兵を動員して2層目の城壁の前に新たな陣地を張り巡らせていた。空堀には落とし穴としての側面もあり、これによって曹操軍の攻城兵器は投石機や攻城塔の援護射撃を除いて大部分が使用不能となってしまう。最終手段は空堀を突破した歩兵が城壁によじ登るかハシゴをかける事のいずれかとなり、函谷関を巡る戦いは一旦鎮静化することになる。

 

 

 ◇

 

 

 ――5日後、曹操軍の本陣にて

 

「ふぅ……」

 

 戦場の疲れが、曹操に何度目かの溜息をもたらす。予想以上に劉焉軍の抵抗はしぶとく、地の利も相まって曹操軍は苦戦を強いられていた。

 

「追い詰められた人間って厄介なものね。何もかも放り投げて逃げ出すか、死に物狂いで戦うかの2極端しかない。李傕達はアテにできないし、どうしたものかしらね……秋蘭?」

 

 主君に問われ、夏侯淵が前に進み出る。天幕の中央には地図が広げられており、両軍を表す駒がその上に置かれていた。

 

「このまま力押しで行けば、いずれは函谷関を奪取できましょう。袁紹軍の本隊に加え、再編成を完了した李傕ら連合軍が加われば20万近く集まります。

 また、もとより劉焉にこの地で決戦をする気は無く、本拠地たる益州の防御を万全にすべく時間を稼いでいるだけかと。この期に及んでも劉焉軍の士気が高いのは、ここで時間を稼がねば故郷が蹂躙されるという思いがあるからこそ。

 あるいは、こう着状態に目を付けた他の諸侯に仲裁を依頼する腹積もりなのかも知れません」

 

「袁術か……。だとすれば、私たちは一刻も早くここを突破しなければならないわね。問題は――やはり数か」

 

 曹操軍の抱えていた問題は、至極シンプルなもの。いくら百戦錬磨の精兵いえども人間である以上、長時間戦えば疲れるし休息も必要だ。短期決戦ならいざ知らず、地道に波状攻撃をかけるしかない攻城戦では、常にローテーションしながら戦い続けられる兵力数がモノを言う。

 

「それにしても……麗羽たち、遅いわね」

 

 曹操の表情が険しくなる。もともと曹操は足りない兵士数を、同盟相手の袁紹軍で埋め合わせるつもりでいた。増援の3万という数は決して少なくは無い。だが、袁紹の本隊がいっこうに現れないのだ。

 

「華琳様、もしや我々を裏切って……!」

 

 最悪の予想が夏侯淵の脳裏をよぎる。何せ他ならぬ彼女達自身が劉焉の味方につくような素振りを見せ、土壇場で裏切ったのだ。袁紹が自分達と同じことをしないとも限らない。しかし、曹操はかぶりを振ってそれを否定する。

 

「麗羽がそのつもりなら、わざわざ3万も増援なんて送らないわよ。例え戦闘になっても6万と指揮官不在の3万じゃ明らかに不利だし、かといって捨て駒には多すぎる。たぶん、一種の人質みたいなものよ。」

 

「では、単純に遅れて……?」

 

「そうとも言い切れないのよね。相変わらず袁紹軍本隊の動向が分からない以上、今は何とも言えないわ。……とにかく、警戒だけは怠らないように」

 

「……わかりました。配下の者にも気を抜くなと伝えます。」

 

 夏侯淵は頷くと、席を立って天幕を後にした。

 その後ろ姿を見送ると、曹操は余計な心配を振り払うべく再び地図へと視線を戻す。疑心暗鬼になっていては、いらぬ問題を自分から引き寄せるものだ。だがそう納得したところで不安が取り除かれる訳もなく、疑念が新たな疑念を呼ぶという悪循環。

 まるで嵐の前の静けさの中にいるような、そんな得体の知れない胸騒ぎ――。

 

「……何か、嫌な予感がするわね」

   

 ――やがて、その不安は現実のものとなる。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 徐州・某所にて

 

 電気が発明されるまで、夜を支配するものは暗闇だった。日の出とともに起き、夕暮れと共に眠りに付く。それが一般的な人間の生活であり、灯りといってもせいぜい寒さをしのぐ焚き火程度のもの。

 だが、どんな世界にも例外はいる――社会の支配層たる名士たちだ。松明と高級品である蝋燭をふんだんに使用することで、自らの屋敷に光を灯した。松明をもった兵が屋敷の周囲を巡回し、篝火が通路を照らす。暗闇という人の根源的な恐怖からの解放は、名士たちに自信と安心を与えた。

 だが、そんな環境に慣れてしまった人間は、もはや以前の状態には戻れない。安全を保証するものが失われた時、恐れ慄く以外の術を忘れてしまうのだ。

 

「敵襲だっ!見張りの兵がやられたぞ!」

 

「待て、矢を撃つな!こっちは味方だぞ!」

 

「クソッ、暗闇と煙で何も見えない!誰か篝火を持ってこいっ!」

 

 ここは、とある名士の屋敷。突然の夜襲によって、屋敷の中は恐慌状態に陥っていた。視界が悪い中、音だけが聞こえるというのは人に多大なストレスをもたらす。モノが割れる音、兵士の喧噪、誰のものだか分からない足音。それは暗闇の恐怖を忘れた人間を、夜という超自然的な存在が嘲笑うかのように見えた。

 

「な、何があった……!我らが曹家の者と知っての狼藉か!?」

 

 この屋敷の主、曹嵩――曹操の父親であり、太尉として徐州に赴任していた――は寝間着姿のまま、窓の外へと目をやる。外では松明を持った兵士が駆けずり回っており、曹嵩は尋常ならざる事態であることを確信させた。

 

「誰かっ、誰かおらぬのかッ!曲者だ、今すぐに――ぬぅッ!?」

 

 突如、乱暴に破壊される扉。部屋に飛び込んできたのは、血濡れの青年が一人。漆黒の外套を纏っており表情はよく見えないが、額に奇妙な刻印が彫られているのが印象的だった。

 

「――め、今頃になってこんな下らん仕事を押し付けやがって!……裏から操るなんてお上品な手段にこだわらず、最初からこうすれば良かったんだ……!」

 

 その端正な表情は何かに苛立っているようだったが、やがてゆっくりと曹嵩の方へ体を向ける。

 

「誰だ……お前は一体……っ!」

 

「俺の事より、自分の身を心配した方がいいんじゃないか?」

 

 青年は怜悧な瞳で、すっかり腰を抜かした曹嵩を見下す。曹嵩はせめてもの抵抗として青年を睨み返そうとし――思わず情けない悲鳴を上げそうになった。青年の瞳に映っていたのは、つい目を背けたくなるような、冷たく激しい憎悪。まるで世界そのものを憎んでいるような――。

 青年はそのまま懐に手を入れ、ギラリと輝くナイフを取り出す。

 

「ま、待て!もし、これが娘……華琳に関係のある事なら、わしは何も知らん!」

 

 曹嵩の話に偽りはない。彼と娘、曹操はもとより仲が良いとは言えなかった。悪いというほどでもなかったのだが、親子と言うには冷めた関係だった。それゆえ兌州牧となった曹操から陳留へ来るよう言われた時も拒否していたし、曹操もそれ以上は何も言わなかった。

 

「わしはただ、陳留へ来るよう言われただけだ!娘に関係のある情報はもちろん、徐州の事だって巷で言われている以上のことは知らんぞ!」

 

 曹嵩が徐州に来たのは数年前の事になるが、それは単に中原の大乱を避けてのこと。ごく普通に役人として生活していたし、自分の仕事以上の話には首を突っ込むこともなかった。

 だが、陶謙が袁術との関係を強化するにつれ、そうも言っていられなくなる。万が一のことを考え、曹操は今度こそ父を自領へ連れ帰る事にした。曹嵩は渋々ながらこれを受け入れ、近日中には兌州へと向かう予定であった。

 

「貴様が自分の事を何と思おうと、本当にどれだけの価値があるかなど関係ない。問題は周りから貴様がどう思われるかだ。」

 

 だが、青年は知らんと言わんばかりに曹嵩を一瞥すると、ナイフを振り上げた。

 

「は、話を聞けっ!話せば分かるッ!」

 

 ――その動作は流れるように美しく

 

「問答無用」

 

 ――今ここに、歴史の針は再び動きだす。

     




 西の長安でドンパチやってる間、東では曹操の親が暗殺されるというエライ事件が発生。灯台下暗しって諺もありますし、他人を騙したつもりでも実は自分も……なんて事はよくある話です。
 いくら警戒しても警戒し過ぎる事は無い、とはよく言いますけど、あんまし黒い事ばっか考えて疑心暗鬼に陥っても精神上よろしくないのですしね。世間で独裁者と言われてる人なんて、謀略に手を染め過ぎたおかげで最後は人間不信による被害妄想が……。

 作者は華琳様に限らず、諸侯全員の心身のご健康をお祈りしております!


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48話:嵐の予感

  

 曹操の父・曹嵩の死には謎が多い。陶謙が殺害を命じたという説、単なる部下の暴走という説、曹嵩を交渉の為の人質に取ろうとして失敗し、やむを得ず殺したという説。あるいは曹操自身が徐州侵攻の大義名分を得る為に謀ったとも、追い詰められた劉焉が曹操の目を逸らす為に殺したとも言われている。

 あまりにも考えられる要因が多過ぎ、かつどれもが決定的では無いため、真相のほどはわからない。ただ一つ言える事は、曹嵩の死が曹操による徐州侵略を招き、それが誰も予想だにしなかった破局へと向かって行ったという事だ。

                             ――後漢書・仲国記

 

 ◇

 

 

「徐州を攻めるわ」

 

 曹操の発したその言葉を、荀或は耳を疑う思いで聞いていた。

 先日、函谷関にて劉焉軍と対峙する曹操の本陣に早馬の知らせが届いた。内容は曹操の父・曹嵩が徐州の屋敷で惨殺され、犯人の行方は分からない、というもの。

 

 しかも噂によれば、どうやら犯人は徐州の兵士らしい――曹操軍内部で「徐州討つべし」との気風が出来るまでそう長い時間はかからなかった。

 

「まずは南皮に伝令を送って麗羽の支持を取り付けなさい。向こうの支持が得られたら、徐州に向けて最後通牒を」

 

(か、華琳様……!?)

 

 矢継ぎ早に出される主君の命令に、戸惑う荀或。

 確かに肉親を殺された憤りは分かる。冷めた親子関係だったとはいえ、たった一人の父親だ。それが唐突に、かつ理不尽に惨殺されたとなればいくら曹操でも平静ではいられないはず。

 

「陶謙め!華琳様を裏切るとは!華琳様、ぜひとも徐州侵攻の任を私に!」

 

 それは居並ぶ将軍たちも同じ。特に曹操の親戚でもある夏侯惇は、話を聞くなり憤怒の形相で開戦を主張した。いつもの荀或なら“猪は黙ってなさい!”ぐらいの事は言うのだが、流石に状況が状況なだけに口を挟む事が出来ない。

 傍らに立つ夏侯淵は沈黙を貫いているが、親しい者ならばそれは彼女が内心の怒りを必死に鎮めているからだと気づいただろう。

 

「それにせっかくの徐州を攻める大義名分を、みすみすドブに捨てたら勿体ないのですよー」

 

 続けざまに、のほほんとした声でそれとなく不謹慎な台詞を吐いた人物――その名を程、字を昱、真名を風という。郭嘉と共に新たに曹操に仕えた軍師であり、着実に参謀として頭角を現しつつある。

 

「徐州はずーっと平和でしたから。まだ防衛体制も兵力も平常運転ですし、攻めるなら早ければ早い方が良いのですよ。一度併合してしまえば、後はいくらでも既成事実化できますしねー」

 

 普段はおっとりとしているものの、こういう時にあっさりと冷徹な献策が出てくるあたり、さすが曹操に大抜擢されただけあると言うべきか。

 

(むしろ急がないと、“実は徐州は関与していなかった”なんて証拠が出るかもですよー)

 

 口には出さなかったものの、程昱自身は徐州がシロだと考えていた。彼女の主な担当は軍政であり、マクロレベルの軍事戦略が主な仕事である。当然ながら仮想敵の戦力配備にも注意を払っており、徐州にも多くの密偵を放っていた。そこからもたらされた情報によると“徐州は戦力が分散して配備されており、とても我が軍を背後から叩けるようなものではない”という。情報伝達の問題から分進合撃が一般的ではないこの時代において、攻勢は必然的に戦力の集中配備を伴うものであり、この時点で程昱はこの事件が徐州側の意図しないものであると確信していた。

 つまり今回の件は曹操陣営にとって完全に不意打ちだったが、陶謙や劉備ら徐州側にとっても同じこと。であれば、相手が防衛体制を固める前に急ぎこれを叩くべし、というのが軍事的に妥当な行動だ。

 

 彼女らに呼応して、周囲にいる将軍たちも口々に徐州攻撃を訴える。

 

「曹嵩様の無念、晴らさずしておくべきか!」

 

「ここは断固たる措置を取るべきです!我らの覚悟を見せつけてやりましょうぞ!」

 

「我々は不当な暴力には決して屈しない!徐州へ正義の鉄槌を!」

 

 まずい――と荀或は肌で感じた。周りを見る限り、大部分の将軍が戦争を望み、開戦を煽っている。そして場の雰囲気やムードというのは本人が思っている以上に、その人の判断や思考に大きな影響を与えるもの。時としてそれは理性よりも感情を優先させ、取り返しのつかない過失を生み出してしまう。

 

「お、お待ちください!まだ徐州側が、曹嵩様の殺害に関与していたという証拠はありません」

 

 荀或は何とか動揺を抑えて、周囲に冷静になるよう説く。

 

「曹嵩が亡くなられた事に対する憤りは分かります。ですが……このまま勢いに任せて報復を行えば、世間では華琳様が私怨のために徐州を侵略したという悪評がたってしまいます!」

 

 曹操を天下人に押し上げる為には、『皇帝の権威』が鍵になると荀或は考えていた。そこで彼女はかつて曹操が“皇帝を保護した”という実績を利用し、自軍を官軍とするように今まで説いてきた。その為には曹操軍は正義でなくてはならず、一時の怒りに任せた戦争などもってのほか。例えねつ造だろうと、黒幕は徐州だという証拠を揃える必要があった。

 

「いま徐州を攻めれば悪評が立つ、と荀或殿はおっしゃられましたが……本当にそうでしょうか?」

 

 それまで無言でじっと話に耳を傾けていた郭嘉が、不意に口を開く。

 

「今回の件は完全に徐州側の過失であり、我々が彼らに対して何らかの報復措置を取るのは当然のこと。父上である曹嵩様を殺された華琳様は被害者であり、そのような事態を引き起こした徐州は加害者……責められるべきは徐州であって我々ではありません」

 

 話は至ってシンプル。被害者は正義であり、加害者は悪である。ゆえに正義が悪を討つ、たったそれだけのこと。学の無い民衆にも分かり易い、単純な勧善懲悪の物語だ。

 

「郭嘉、あなた……」

 

「荀或殿の危惧はお察しします。私も勢いに任せて徐州侵攻を行う事には反対です。しかしながら――実の親を殺されたにも拘わらず何の動きも見せなければ、世間は我々を白い目で見る事でしょう。儒教に照らし合わせてみれば、むしろ仇討ちこそが必要なのでは?」

 

 儒教的な「徳」の考え方では、子は親に服従するべしという「孝」の実践が重要視されている。世間では親の仇討ちを行うことは孝であり善であるとされ、逆に仇討ちをしないと親不孝者という目で見られてしまう。

 

 別に儒教的思想に限ったことでは無い。例えどれだけ有能であろうと、実の親の死に何の感慨も抱かないような人物に、一体誰が惹かれるというのか?否、誰も惹かれはしない。理解しがたく血も涙もない「人でなし」として、遠巻きに敬遠するのみ。

 民の求める英雄とは、いかなる時も冷静に損得勘定の出来る商人ではない。泣き、笑い、怒り、悲しむといった人間らしさを持った王……時として屈辱的な平和よりも、名誉に包まれた破滅を求める指導者が支持されるのは、そこに感情があり、人間らしさがあるからなのだ。

 

 

「双方の意見、聞かせてもらったわ。でも、私の結論は変わらない。徐州はここで確実に攻め落とすわよ」

 

 頃合いを見て、曹操が口を開く。淡々と語る曹操の声は、つい先ほど自分の親が殺された人間とは思えないほど、無機質で冷静なものだった。

 

「もし稟の言うように仇討ちで評価されるなら、それに越したことは無いわ。でもね、徐州侵攻に必要な大義名分……これは本来なら他額の資金と人員、時間を用いた謀略によって初めて得られるものよ。それがたった一人の人間、しかも失っても社会的損失にならない人間の死によって得られたのなら、元より動かないという選択肢は無いわ」

 

 実の父の死を単なる駒として扱うような、非情ともとれる曹操の発言。実際、曹嵩はただ曹操の父であるというだけで、客観的に見れば彼の死は、曹操陣営に何の損失ももたらしていなかった。むしろタダで徐州侵攻の大義名分を与えてくれたようなもの。実の親の仇討ちともなれば、儒教思想の根強い中華でこれに反論する事は難しい。ほとんど全ての諸侯が曹操を警戒する中、この機会を見逃せば次があるかどうか分からないのだ。となれば、答えはおのずと決まってくる。

 

「例え父の死を利用した事が知れ渡り、世間から“乱世の奸雄”と呼ばれたとしても、徐州占領にはそれ以上の価値がある」

 

 曹操はきっぱりと断言する。そしてすっかり黙り込んでしまった荀或を見つめ、軽く微笑みながら言った。

 

「それに――この私がその程度の批判に、怯むとでも思ったのかしら?」

 

「そっ、それは……!」

 

 世評など恐るに足らぬ、そう言わんばかりに曹操は居並ぶ群臣諸将を見渡す。その言葉には、覇王としての威厳と自信、そして傲慢さがあった。

 

「言わなかったかしら?私はこの古い因習に囚われた世界を、実力中心の社会へ変革する。そしていずれは民意を、価値観そのものすら変えてみせると」

 

 逆境を覆してこその覇道。決して民意を軽んじはしないが、民意が覇道を阻むのなら力でねじ伏せるまで。それが曹操の信ずる覇道……“王”としての在り方だ。

 

「そのためなら犠牲も悪評も、全てこの身で背負ってみせる。――覚悟なら、とうの昔に出来ているわ」

 

 

 そうだった、と荀或は思った。

 王は自らの信念を疑ってはならぬ。無論、それは民意を頭ごなしに否定する事を意味しない。民がそれを受け入れられぬというのなら、自ら語って聞かせる義務はある。されど決して、民の声に怯えて尻ごみしてはならない。王は民意を作り出す存在であって、民意に飲まれる存在では無いのだから――。

 人によってはそれを理想の押しつけ、傲慢さのなせる業と受け取るだろう。だが自分はかつて、そんな彼女の姿勢に心惹かれたのではなかったのか。

 

 歴史は常に勝者によって作られる。そして尊敬する主は、いずれ中華全土をその手中におさめるべき人物だ。個人の実力が正当に評価される、そんな新しい世界を作りたいと、曹操はかつて自分に言った。そして必要ならば多小の悪評など意にかさず、ひたすら己の信じる覇道を追求すると……。

 なればこそ、これは避けてはならない最初の試練なのだ。

 

 

「仇討ちという大義名分を得て、機を逃さず徐州を併合する……その理屈は理解できました。」

 

 再び口を開く荀或。慎重論を述べてきた荀或だったが、それはあくまで曹操の評判を思ってこそ。敬愛する主君が世間から悪評を受けるのに我慢できなかっただけで、徐州を攻め落とす事そのものに抵抗がある訳では無い。曹操自身が気にせぬならば、もはや何も言うまい。

 だが。だがしかし――

 

「――今、目の前にいる敵はどうするのですか?」

 

 荀或が慎重論を州張する2つ目の理由。それは目の前にいる劉焉軍の存在だった。劉焉は依然として函谷関で抵抗を続けており、このまま徐州との戦争になれば東西で二正面作戦となってしまう。

 

「策ならあるわ」

 

 曹操が間髪入れずに答える。肉親を殺されて動揺しないはずがないのに、その頭脳は機械のごとき精密さで必要な策をはじき出す。

 

「いくら我が軍の精兵いえども、二正面作戦はやはり不利。だから先んじて、徐州に混水摸魚計を仕掛ける」

 

 混水摸魚とは兵法三十六計の第二十計、「水を混ぜて魚を摸る」のこと。いわば敵の内患を意図的に作り出し、それに乗じる戦法を指す。

 

「とりあえず犯人の身柄は勿論、公式の謝罪と徐州牧・陶謙の首、多額の賠償金と領土割譲を要求する最後通牒を送りなさい。万が一にでも徐州が受け入れれば、これからは良き友人(・ ・ ・ ・)でいられるかもしれないわね」

 

 皮肉っぽい曹操の口調が表す通り、かなり無茶な要求である。無論、曹操とて徐州がこの条件を飲むとは思っていない。

 それでも一定の猶予を与えておけば、向こうが自暴自棄になって先制攻撃を掛けてくることは無いだろう。話を聞く限り、徐州では徹底抗戦を主張する強硬派と、劉備ら穏健派との間で意見が2分されているという。「窮鼠猫を噛む」という諺もあるように、下手に追い詰めて徹底抗戦の腹を決めさせるよりは、適度に手を緩めて内部分裂を誘導した方が良い事もあるのだ。

 

「兌州にはまだ3万、屯田兵を含めれば10万の兵がいるわ。風が言ったとおり、徐州が即時開戦を決意するなら、向こうは碌な防衛体制も組めないまま蹂躙されることになる。」

 

 もちろん全軍で攻め込む事は出来ないだろうが、6万程度の戦力なら徐州に投入可能だ。対する徐州の防衛戦力はせいぜい4万ほど。人口約300万の徐州にしては少ないように見えるが、劉勲の洛陽体制下で長い平和を謳歌していた諸侯は、その大部分が必要最低限の兵力しか有していなかった。むしろ平時から軍拡に努めていた曹操などはかなり例外的な部類に入り、後は馬騰と公孫賛が異民族対策としてそれぞれ6~8万ほどの兵力を保持しているぐらいだ。

 徐州も動員をかければ10万人程度は揃えられるが、屯田兵制を採用している曹操軍に比べ、どうしても時間がかかってしまう。しかも戦力は各地に分散しており、時間差・空間差で各個撃破されてしまう可能性が高かった。

 

「逆に最後通牒の猶予期間を利用して守りを固めるようでも、それはそれで構わないわ。既に氾水関と虎牢関はほぼ無傷で手に入れている以上、ここで撤退しても劉焉は反撃に移れないはずよ。ここにいる5万の兵と本国の侵攻可能な部隊、合わせて11万の兵力で徐州軍と渡り合える。」

 

 どちらにせよ曹操軍が数において負ける事は無い。そして質においても、厳しい訓練と猛訓練で知られる曹操軍が徐州の軍勢に劣る事などあるまい。皇帝と長安を手に入れられないのは残念だが、元から同盟の見返りとして袁紹と山分けする話になっていた以上、洛陽を含む司隷の東半分を手に入れただけでも十分な成果と言えるのではないだろうか。

 

「……本当に、これで勝てるのですね。華琳様?」

 

 改めて荀或が問う。兵力に問題はないが、戦は生き物だという事を彼女は軍師としてよく弁えていた。徐州には関羽や張飛といった名のある武将も大勢いる。策は2重、3重に用意し慎重を期すべきなのだ。

 

 対して、曹操の答えは簡結だった。曰く――秘策がある、と。 

 

 

 ◇

 

 

 最終的に、占領した司隷東部は『共同統治』という方向で袁紹と交渉することに決定された。一見すると袁紹だけが得をしたように見えるが、曹操軍が徐州へ向かっている間の防衛は全て袁紹軍が担当する事になっており、劉焉軍の存在を考えれば悪い取引では無い。袁紹は東部司隷の統治権の半分を手にいれ、曹操は袁紹軍という盾を借りる……お互いにとって利益がある以上、袁紹も恐らく首を縦に振るだろう。

 そして曹操の言っていた“秘策”は、最後まで出兵に慎重だった荀或をも納得させるものだった。詳細は郭嘉が中心となって計画することになり、程昱と共にその実行に向けた微調整を行うことが決定された。

 

 

「で、残った私はまたあのクルクル髪のお馬鹿さんの所へ行かなきゃいけないのね……」

 

 徐州への大まかな対策を決めた夏侯淵が天幕から退出すると、一緒に歩いていた荀或が不満そうに声を上げる。

 

「もうッ!こんな事なら袁家と繋がりなんか作るんじゃなかったわ!なんで郭嘉や程昱はずっと華琳様の傍にいるのに、私はいつも出張ばっかり……!」

 

「まぁまぁ。少し落ち着け、桂花。袁家との交渉を全面的に任せられているのは、それだけ華琳様から頼りにされてるという事だろう」

 

「知ってるわよ!でも、それでも私は華琳様の傍にいたいのっ!」

 

 それってタダの我が儘なんじゃ……と夏侯淵は思ったものの、言ったら余計ややこしい事になりそうだったので何も言わない事にした。

 

「でも……今日の華琳様は大分怒っていたから、しばらくそっとしておいた方がいいんじゃないか?」

 

「え?」

 

 不意に夏侯淵がそんな事を口走る。一緒に歩いていた荀或が思わず振り向くも、夏侯淵は至って真面目な表情で返す。

 

「なんだ桂花、気づかなかったのか?」

 

「気づかないも何も、華琳様はずっと落ち着いてたじゃない!肉親の死を利用するなんて、よっぽど思考が冷静じゃなければ無理なはずよ」

 

「そう、そこだ」

 

 荀或が思わず反論するも、夏侯淵は更に一歩踏み込む。

 

「普段の華琳様なら、いちいち“父上の死を利用する”などと口に出したりしない。そんな当たり前(・ ・ ・ ・)の事を、我々全員の前で敢えて言う必要はない。そうだろ?」

 

「あ………」

 

 政治の闇の中では、人の命など軽いもの。愛も命も金も、全て等しく利用し利用される、ゲームのカードでしかない。プレイヤーにとってはそれが当たり前(・ ・ ・ ・)であり、普段なら当たり前(・ ・ ・ ・)の事をわざわざ宣言する必要はないのだ。ならば考え得る理由は一つ……口に出すことで、自分に言い聞かせるため。

 

「華琳様は強いお方だが、それでも一人の人間だ。多分あれは華琳様なりの、曹嵩様と御自分自身に対するけじめのつけ方なんだろう」

 

 そういうことか――夏侯淵の言葉によって、先ほどからずっと胸に残っていた違和感が氷解するのを、荀或は複雑な気持ちで感じ取った。

 

「はぁ……やっぱり従姉妹には敵わないわね。私じゃ、まだまだ華琳様を理解しきれない」

 

 ぽつり、と呟く。血の繋がりなど普段は意識しないが、やはりこういう時に外様は親族に敵わないと思う。こうやって他人に言われなければ気づけなかった自分と違って、夏侯淵は曹操の本心を言われずとも感じ取れる。それがなんとなく羨ましくて――少しだけ悔しかった。

 そんな彼女の様子に何か気付いたのか、夏侯淵が真面目な顔で問うた。

 

「………桂花、ひょっとして妬いてるのか?」

 

「う、うっさい!!あと、さっき言った事はアンタの姉には内緒よ!」

            




 曹操みたく国のトップに立つと「私」を殺して「公」人として振舞わなきゃいけません。相手が実の親だろうとそれは変わらず……。
 やっぱり自分なりの信念みたいなのが無いと、こういう事には耐えられないでしょうね。あっても辛いでしょうけど。


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49話:水面下にて

          

 ――荊州・南陽群

 

    

 この日、宛城にある袁術の居城では珍しい客が訪れていた。内容は南陽群太守・袁公路への公式な謁見。贅の限りをつくした煌びやかな謁見室へと通されたのは、桃色の髪をした少女だった。

 

「徐州牧・陶謙様のもとで、客将および小沛城主を務めさせて頂いてる劉玄徳と申します。袁公路様とは、洛陽以来になりますね」

 

 謁見に参列したのは彼女だけではない。劉備の周りには『天の御遣い』北郷一刀、『伏龍』諸葛孔明、『軍神』関雲長とかなりの豪華キャストがひかえていた。これには名門袁家いえども無下に扱う訳にはいかず、劉勲ら袁家家臣も社交儀礼的にお辞儀を返す。

 流石の袁術もそちらを10秒ほど凝視し――

 

「…………誰じゃ?」

 

 やっぱ綺麗に忘れてた。というか、まず劉備達の存在自体を知ってたかどうか疑わしい。

 

「どっかで見た事があるよーな、無いような顔じゃの……」

 

「さっすが美羽様!予想を裏切らない無知蒙昧っぷりに痺れちゃいます~♪」

 

「ふっふっふ、七乃よ。妾は家臣の信頼を裏切らない主君なのじゃ」

 

「きゃー!今日のお嬢様、なんか無駄にカッコイイですぅ!」

 

 やたらポジティブ、そして何事も自分に都合よく解釈する。相変わらずの強引過ぎる袁術クオリティーに、同じく一人お祭り状態の張勲。袁術を初めて見る関羽などは、思わずあんぐりと口を開いていた。

 だが、それも周囲に居並ぶ人々にとっては見慣れた光景らしい。誰も止めに入らない袁家家臣。早々に見切りをつけて、マイペースにネイルの手入れをしている劉勲。何かを悟ったような宙を見つめる孫家の面々――劉備ら一行の内心では、早くもこの場に来たことへの後悔がこみあげていた。

 

「(……ひょっとしてわたし達、なんか間違えた?)」

 

「(はわわ、人民委員より袁術さんへの面会申請の方が簡単に通った理由って、もしかしたら……)」

 

「(桃香様、今からでも遅くはありません。ここは早めに引き返した方が……)」

 

「(だから袁術は止めとけっていったのに……)」

 

 それはさておき、劉備達がわざわざ袁術のもとへ赴いた理由は一つ。来るべき曹操との戦争、あるいは交渉に備えての支援要請だ。徐州をとりまく情勢が、日に日に悪化していることはもはや自明の理。州牧の陶謙は藁にもすがる思いで袁術に協力を依頼したのだが、当の本人は領内をまとめるのに手一杯であり、代わって劉備ら一行が徐州の大使として宛城に赴いていた。

 張勲におだてられてひとまず満足したのか、袁術は再び劉備達の方へ向き直る。

 

「で、そち達がここに来た目的は……たしか妾の部下になりたいということじゃな。うむ、良い判断じゃ」

 

「違います」

 

 素でぽかんとする袁術に軽く眩暈を覚えつつも、劉備は辛抱強く当初の目的を告げた。

 

「わたし達と、軍事同盟を結んでもらえませんか?」

 

 徐州と袁術陣営はすでに自由貿易協定を結んでいるが、あくまで経済上の協力関係であり、それは軍事上の援助義務を伴うものではない。劉備達が曹操に対抗するには、袁術との同盟強化は何としても必要なものだった。

 しかし袁術は渋い顔をすると、ためらいがちに口を開く。

 

「う~む……じゃが、誰だって親を殺されたら怒るに決まっておるぞよ?」

 

 流石の袁術も徐州で曹操の親が暗殺された、という程度のことは知っていた。そして客観的に見れば、非は徐州側にあるということも。

 

「それにの、おとなしく曹操の言う事を聞けば済むことじゃろ?なんで妾たちが戦争に協力せねばいけないのかや?」

 

 曹操の要求は厳しいものだが、物理的に出来ない事は無い。素直に曹操の言うとおりに謝罪すれば、それで済む話ではないのか?――珍しく袁術が真っ当な事を言っている、稀有な事態に俄かにざわつき始める袁家家臣たち。そんな部下の驚きを知ってか知らずか、袁術は言葉を続けた。

 

「違うかの?」

 

 そう問いかける袁術の表情には打算も計算もない。子供らしく、ただ単に思ったままの言葉を口にしただけ。だが、その無邪気な問いかけこそが、劉備にとっては最も堪えるものだった。

 

「そ、それは……」

 

 劉備とて、完全に自分達の行動に納得した訳では無いのだろう。日頃は明るい彼女の表情も、どこか沈みがちだ。

 そんな彼女の手を、隣にいた一刀が握り締める。

 

「(ごっ、ご主人様……!?)」

 

「(桃香は間違ってなんかいない。俺達は陶謙様に恩があって、徐州の人々にもお世話になった。だから彼らを守るためにここにいる……そうだろ?)」

 

 一刀は小声ながらも、しっかりとした口調で劉備に語りかける。

 

 徐州牧・陶謙はどこの馬の骨とも分からぬ自分たちを厚遇してくれるばかりか、小沛城主という要職にまで着けてくれた恩人だ。小沛は兌州と豫州を臨む最前線であり、本来ならば決して素情の分からぬ義勇軍などに預けて良い場所ではない。にもかかわらず陶謙とその部下達は、全面的に自分達を信頼してくれた。徐州に住む人々も、不慣れな自分達の統治を暖かく見守ってくれた。

 

 そんな彼らの恩に報いたい――それが、劉備たち全員に共通する思いだった。義理や人情などといったものの無力さを思い知ってなお、劉備達に徐州を見捨てるという選択肢は無かった。

 やがて意を決したように、劉備はゆっくりと口を開く。

 

「……わたし達は袁術さんに、戦争の片棒を担いでもらおうなんて思ってません。陶謙様も同じ考えです」

 

「どういうことじゃ?」

 

「曹操さんとは一度きちんと話合って、こちらの事情も聞いてもらいたいんです。もちろん事件の犯人は、わたし達が必ず捕まえます。でも……でも、そのためには時間が必要なんです!」

 

 曹操が提示した猶予期間は一週間。それは恐らく、彼女が部隊を再配置するのに必要な期間なのだろう。もし猶予期間内に要求が認められなかった場合、曹操軍は即座に徐州へ雪崩れ込むに違いない。

 陶謙は懸命に猶予期間の引き延ばしを求めたものの、全て曹操に断られた。だが袁術という強力な同盟相手がいれば、交渉に持ち込めるかも知れないのだ。

 

「今回の事件において、わたし達に責任があることは確かです。でも、だからといって曹操さんが徐州に攻め込む理由にはならないはずです!」

 

 熱っぽく語る劉備。たしかに曹操には親の仇討ちという大義名分があるが、それを理由に侵略戦争を行うのは公私混同ではないだろうか。謝罪すべきは徐州の州政府であり、全ての住民が曹操の言いなりになる道理はない。

 劉備が袁術に向かって頭を下げ、そのままの姿勢で言葉を続ける。

 

「わたし達は戦争を望んでいません。出来れば話し合いで解決したいと思っています。……ですが、今のわたし達では曹操さんと話し合う事も出来ないんです!」

 

 『対話と圧力』、外交の場でよく使われる言葉であり、世にある真理の一つでもある。どちらが欠けていても、またどちらが強過ぎても交渉はできない。そして劉備たちが曹操と交渉を行うには、『圧力』が欠けている。

 

「袁術さん達は今まで、話し合いによってこの国を平和に導いてきました。わたし達と志は違えど、そのおかげで沢山の人が戦争に巻き込まれる事無く、今も平穏に暮らせています。だから――」

 

 劉備の真っ直ぐな視線が袁術を捉える。

 

「お願いします!せめてもう一度だけでも、平和に向けた努力を。みんなが仲良く笑って暮らせる、そんな未来を……わたし達と一緒に目指してくれませんか?袁術さん」

 

 劉備はもう一度、深々と頭を下げた。後ろに控える一刀たちもそれに続く。その姿に何かを感じるものがあったのか、袁術も彼女の言葉を噛み締める。隣に控える張勲や劉勲もまた、無言で主の言葉を待っている。

 そして……しばしの沈黙を経て、袁術ははっきりとこう告げた。

 

 

「――嫌じゃ」

 

 

 可愛らしい口から放たれたのは、明確な拒絶の意。唖然とする一同をよそに、袁術は諸葛亮に下がるよう手を振る。この判断に劉備たちは勿論、張勲たちですら驚きを隠せなかった。

 

「えぇ~~!?ここは普通“分かったのじゃ!”とか言ってカッコよくビシッ!とキメる所じゃないですかぁ?お嬢様、もう少し空気読みましょうよ、場の空気!」

 

「だって妾には関係ない戦じゃし、もし巻き込まれて妾の兵士やお金や蜂蜜を無くしたらもっと嫌なのじゃ。妾のモノはぜーんぶ妾の為だけにあるからの。びた一文まけてあげないのじゃ!」

 

 得意げに指を立ててドヤ顔を決める袁術。この上ない暴論だが、これはこれで袁術らしい。

 

「おお~!なんというオレ様理論!いよいよ悪代官っぷりも様になってきましたね、お嬢様!」

 

「驚くがよい七乃、これを勿体ない精神と呼ぶのじゃ!」

 

「いいえ、それはただのドケチですぅ♪」

 

 ばっさり切り捨てられた。

 

「うぅ~、そんな事言っても元々妾には関係ない話じゃからのぉ。会った事もない陶謙や民がどうなろうと知らぬ」

 

 いじける袁術の口からは、またもや暴論が放たれる。だが、その論理も考えようによっては正論とも取れるものだった。いや、子供らしさを極限まで突き詰めたと言うべきか。

 なるほど陶謙を始めとする徐州の人々は、劉備たちにとっては命を賭して守るべき恩人かも知れない。だが袁術にとっては赤の他人どころか、違う世界の住人とも言えた。そもそも大抵の人間は外国で起こった戦争で会ったこともない数十人が亡くなる事より、よく知る職場の同僚が事故で一人亡くなる事の方に心を痛めるものだ。子供なら尚更その世界は狭く、よく知りもしない人間から感じるものは少ない。

 

「とにかく、妾はそち達の兵や土地より、妾のモノの方が大事なのじゃ。……わかったかや?」

 

 袁術はもう一度手を振り、この面談を終わらせようとする。

 だが、劉備たちとてここで引き下がるわけにはいかない。今度は諸葛亮が前に進み出て、抗弁を始める。

 

「今、徐州は危機に瀕しています。正当性の問題はさておき、もし曹操さんの軍勢が徐州を占領する事になれば、そちらも困るのではないでしょうか?」

 

 劉備は先ほど、曹操との対話には圧力も必要だと認めた。だが、その2つが必要なのは何も敵との交渉に限らない。味方と交渉するにも『圧力』は必要なのだ。

 曹操という外圧を利用し、諸葛亮は瀬戸際外交を試みる。

 

「曹操さんの最終目標は天下統一です。対立を先延ばしても、いつかは衝突する時が来るでしょう」

 

「むぅ……確かに曹操が天下を統一するとか悪夢なのじゃ」

 

 洛陽会議以降の中華の歴史は、覇権を試みる曹操あるいは袁紹と、均衡を保とうとする中小諸侯連合との対立の繰り返しともいえる。陶謙は曹操の覇権主義に抵抗する有力な諸侯の一人であり、失うには大き過ぎる存在だった。

 そこまで考えが及んでいないにしろ、少なくとも曹操の強大化は好ましくない、という程度のことは袁術にも理解できた。袁術が話に乗って来たのを見計らい、諸葛亮が懐から一枚の巻物を出す。

 

「もう一つ、こちらをご覧ください」

 

「なんじゃ?この数字がびっちり書かれた紙は?」

 

「徐州と南陽群、そして豫州における収支統計です。無論、全ての資料が集められたわけでは無いので大雑把な情報になりますが、人民委員会の方々ならこの意味がお分かりになるでしょう」

 

 諸葛亮の言葉に、劉勲を含む数人の人民委員が無言で頷いた。

 徐州では袁術領とは違い、陶謙の安定した統治のもとで戸籍・計帳がきちんと整備されており、毎年一人ひとりを対象に年収を調査し課税・徴税するシステムが機能している。商人についても同様で、商いを行う者は必ず市籍に登録せねばならず、脱税が行われた場合には厳しい罰則があった。

 そのため役所には年ごとの詳細な収支データが記録されており、徐州は袁術領に対して大幅な資本収支の黒字ならびに経常赤字であることが確認された。

 

 要約すると徐州は輸出商品の競争力が無い為に輸入超過になっているが、袁術領から他額の投資を受ける事で国際収支のバランスを取っている、ということ。逆に袁術領では、輸出で稼いだ資金で金貸しを行っている。よってカネの流れは差し引きゼロとなり、収支の赤字や黒字そのものには損も得もない。

 袁術陣営にとって問題になるのは“大幅な”という部分だった。先の自由貿易協定を通して経済交流が活発化していたこともあり、財界は徐州の敗戦によって借金が返済されなくなることを恐れていた。

 

「つまり、アタシ達の経済は相互に深く依存し合ってるから、片方が潰れるともう片方も被害を被るってワケよ。曹操ちゃんが負債を引き継ぐとも思えないし、徐州に投資した商人にとって債務不履行は最悪の状況になる」

 

 今まで会議そっちのけで爪のケアをしていた劉勲が、ようやくここで話に参加する。それから何か面白いものを見つけたように、少しだけ眉を上げた。

 

「ひょっとしてアナタ、こうなった時のことまで見込んで、あの自由貿易協定を結んだのかしら?いざという時の保険も兼ねて」

 

「返答しかねる質問ですね……未来を予想することなど、誰にも出来ないはずです。違いませんか?」

 

 落ち着いた声で質問に答える諸葛亮。だが彼女が口ではそう言いながらも、一瞬だけ一刀と目を合わせたのを劉勲は見逃さなかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「……で、その後も賛成か反対かで話がまとまらず、袁術は決断を保留したと」

   

 その部屋は薄暗く、大量の書類と2人の人影が蝋燭に照らされていた。うち片方は来客らしく、起立したままもう一方の問いに答える。

 

「はい。結論は明日の中央人民委員大会で出されるものと思われます」

 

 来客……呂蒙はこの日、周瑜への定期報告に来ていた。彼女の前には大きな机があり、そこには書類に目を通す周瑜がいた。

 

「袁家の中ではどちらが優勢だ?」

 

「現時点では同盟賛成派が若干有利かと。ただ、劉書記長をはじめ財界の声を後ろ盾にした者の多くは反対に回っており、決定的とはいえません」

 

「そうだろうな。でなければ、今日中に結論が出ていたはずだ。……他には?」

 

「それから……明命から極秘連絡が届きました。内容は例の交渉(・ ・ ・ ・)についてです」

 

 再び口を開く呂蒙。周瑜への定期報告の中には、彼女や周泰を始めとする一部の者にしか知らされていない、極秘命令の報告も含まれていた。

 

「周瑜様の読み通り、彼は我々の存在を必要としています」

 

「……具体的には?」

 

 周瑜が書類を書く手を止め、呂蒙のいる方を振り向く。

 

「向こうの要求は一つだけでした。洛陽体制が崩壊しつつある現状で、誰もが喉から手が出るほど欲しているもの――優れた兵士からなる軍隊です」

 

「つまり来たる脅威に備えて、我々の軍事力を利用したいということか」

 

 周瑜はふっ、と口元に笑みを忍ばせた。

 

「よし……交渉はそのまま続行。それと、くれぐれも袁術の『同志達』には気をつけるように。どこで情報が漏れているか分からないからな」

 

「はっ」

 

 呂蒙は言われた言葉を一字一句、心に刻みつける。周瑜の言うとおり、何よりも気をつけなければならないのは『同志達』と呼ばれる非公式協力者だ。気を抜けばいつどこで密告されていてもおかしくは無い。そして袁術陣営ではどんなに実績を立てようと、『国家保安委員会』に敵と見なされた瞬間に全ての努力が水の泡と化す。

 

「……それと、もう一つ報告しなければならない事があります」

 

「ほう……」

 

 ためらいがちに口を開いた呂蒙を見て、周瑜は興味深そうに眉を上げる。どちらかというと引っ込み思案なこの新米軍師が、わざわざこの場で自分に直接報告するほどの情報だ。さぞや有益で――それ以上に危険な情報に違いない。

 

「まずはこちらをご覧ください。……陸遜さんからの手紙ですが、しばらく皆さんには内密にして欲しいとの話でした」

 

「穏が……?」

 

 いささか面喰った様子で手紙を受け取る周瑜。

 陸遜は彼女の一番弟子であり、孫家の副軍師的なポジションについているほどの切れ者だ。その彼女が、手紙の内容を自分と呂蒙以外には内密にして欲しいという。となれば、手紙の中味は必然的に他の孫家の人間に知られると困る類の内容のはず――そんな情報ともなれば、考えられる可能性は一つしかない。

 

「……裏切り、だな」

 

 周瑜は即座に看破する。陸遜の一族は『呉郡の四姓』とも呼ばれる有力豪族であり、厳密に言えば孫家直属の家臣ではない。あくまで陸遜が個人的に孫家に仕えているというだけで、他の一族の者はそのまま揚州呉郡に割拠し強い影響力を保っていた。

 揚州は中央から離れている事もあってか、昔から地元豪族の力が強い。もともとは孫家も揚州の小豪族であるし、周瑜自身も揚州の名門豪族周家の出身だ。袁術陣営はそんな地元豪族たちと癒着することで揚州を牛耳り、半植民地化を推し進めている。陸遜の一族もそんな地方豪族のひとつで、袁家との経済的な繋がりは年々深まる一方だった。

 

「自らは直接手を汚さず、孫家に内部分裂を引き起こしての漁夫の利狙い……相変わらずの金にモノを言わせた買収工作か」

 

 だが、呂蒙から渡された手紙を読むにつれ、周瑜の表情に不穏な気配が混じる。緊張しながら顔色を伺う呂蒙に、周瑜は不機嫌そうな声で告げた。

 

「予想通り裏切りの密書だったが……予想外の内容が2つあった。1つ目は、この手紙の差出主が穏に裏切らせようとしたのが我々ではなく袁術だということ。2つ目は、送り主そのものだ」

 

 周瑜はふん、と鼻を鳴らして机を指で叩く。

 成程、これなら穏が内密に自分へ手紙を送ったのも分かる。確かにこれは、他の孫家の者に聞かれたら不味い話だ。

 

 だが、もし見つかったのが周瑜や呂蒙であった場合には、困るどころか僥倖ともとれるものだった。

 

「いや……むしろ手紙の送り主は、穏を通じて我々に伝えようとしていた可能性が高いな」

 

「我々に伝えようと……?それなら、どうして直接こちらに密書を渡さないのですか?」

 

「簡単な話だ。孫家と我々のような直属の家臣は、常に『同志達』によって監視対象とされている。だが袁術と深いつながりのある穏の一族ならば、監視の目も多少は緩む」

 

 もちろん一定のリスクはある。国家保安委員会が監視の目を緩めるからには、穏の一族の大部分は袁術寄りのはず。この密書を渡された一族の者達も、即座に手紙を廃棄するか隠したに違いない。袁術に反乱分子との疑いをかけられては困るからだ。それでも同じ一族である穏なら密書の存在を知っていても不思議はないし、どこかで隠されていた物を複写でもしたのだろう。

 

「袁術に対する裏切りの要請ならば、放っておいても袁家に親しい陸遜さんの一族が勝手に証拠を隠ぺいしてくれる。でも手紙の内容を知った陸遜さんは、必ず孫家に伝えようとするはず。実際、密書は私を通じて周瑜様のもとに……」

 

「そういう事だ。我々と彼らの間で連絡がとれ、しかも袁術に知られずに、な。……まったく、食えない相手だ。“そういう人物”だと知ってはいたが」

 

 周瑜は相手を褒めるような口ぶりを見せつつも、どこか苦虫を噛み潰したような顔になった。その様子からは、周瑜が手紙の送り主と旧知の仲であることが伺える。

 

「どうしますか?」

 

「今は無視する。まだ向こうが本気かどうか分からない上に、袁術が裏切り者を網にかけるための自作自演かもしれん。――ただし、引き続き明命には監視の手を緩めるなと伝えろ」

 

「了解しました」

 

 呂蒙は深く頭を下ると、くりと背を向けて歩き出す。そのまま部屋から退出しようと扉に手をかけたとき、後ろから再び周瑜に呼び止められる。

 

「そういえば……蓮華様はどうなった?」

 

「どうなった、とはどういう意味でしょうか?」

 

「袁術との関係についてだ。孫堅様の死後、袁術陣営は露骨に孫家に仕える武官を冷遇する一方、文官を優遇している。洛陽会議の件といい、徐州の件といい、袁術陣営は積極的に接触を図っているようだが、蓮華様の反応が知りたい」

 

 孫家家臣は大きく武官と文官に分けられ、それぞれを孫策と孫権がまとめている。袁家はそれを利用して待遇に差をつけ、こちらでも孫家の内部分裂を狙っている――周瑜はそう読んでいた。

 

「ここ最近、蓮華様が雪蓮様に会う回数が減ってきている気がする。蓮華様の立場上、袁家文官との仕事が多いのは承知だが、しかし――」

 

「……失礼を承知で申し上げますが、周瑜様は蓮華様が袁家に取り込まれたとお考えなのですか?」

 

 呂蒙が珍しく強い口調で詰め寄る。彼女の忠誠心は主に孫権に向けられており、それを侮辱するような発言は例え周瑜だろうと見過ごすわけにはいかなかった。

 

「おっしゃる通り、蓮華様はは袁家の人間とも親しくしておられます。ですが、それは全て民の生活を思ってのこと。決して孫家を見限った訳ではありません」

 

「分かっている、亞莎。私もそう信じたい。……ただ、蓮華様はまだまだ若い。比べてあの女狐と、その取り巻きは狡猾だ。知らず知らずのうちに利用されている可能性が無い、とは言い切れまい」

 

 孫権に限らず、孫家の文官達が民の為を思って職務に励めば励むほど、それは最終的に袁術領を富ませ袁家に利することになる。一方の武官はというと、あからさまな待遇の違いに不満を持つ者が少なくない。周瑜も何度か家臣に忠告していたのだが、長い年月を経て袁家に対する憎しみと孫家への忠誠心は薄れつつあり、逆に武官と文官の溝は深まるばかりだった。

 

「……まぁいい。この件はまた追って話そう。こういう事に関しては私があれこれ思案するより、思い切って雪蓮様に相談した方がいいこともあるからな」

 

「はっ」

 

 もう一度振り返ってお辞儀をすると、呂蒙は部屋から退出した。その後ろ姿を見送りながら、周瑜は小さく溜息をつく。

 やらねばならない事は沢山ある。徐州との同盟、孫家の利用を図る相手との密約、陸遜からの手紙……問題は山積みだ。加えて呂蒙から渡された報告書の中に、気になる点がもう一つあった。

 

(徐州との同盟交渉で、劉勲が買収工作を行った痕跡がない……?)

 

 周瑜の知る劉勲の常套手段は、買収による多数派工作だ。賄賂のような直接的なものから、別件での支持の約束、天下りの便宜など実に多種多様な方法がある。これらは劉勲の持つ、財界のバックを背景とした資金力と、書記長という地位を生かした組織力があって初めて可能になるもの。劉勲は商人らしく、自分の使える全ての財を利用することで、今までその発言力を保ってきた。それをしない、ということは――。

 

(よほど賛成派を説得する自信があるか、あるいは別の解決策でも見つけたのか……?)

 

 そのいずれかだろう。劉勲の本質は小物だが、考え無しの馬鹿ではない。だからこそ今まで勢力均衡を維持し続けられた。彼女自身に問題を解決する力が無ければ、他者を誑かし利用することで己の目的を達成するのが劉勲だ。

 

(……結局、誰もが生き残りをかけて乱世に立ち向かっている、という事か。劉備も袁術も曹操も、それぞれが己の進むべき道を模索し、この国を飲み込む戦乱の波に抗おうと……。

 ――我々も、乗り遅れるわけにはいくまい)

 

 徐州への対応は明日に開かれる、中央人民委員大会で決定されるという。決定内容よっては、中華の情勢もまた大きく変化するだろう。これまで中原の戦乱に対して明確な方針を明らかにしていなかった袁術陣営が、ついに態度を明らかにするのだ。

 

「……これから、忙しくなるな」

         




 なんか久々に袁術陣営の面々が出てきたような気が……。忘れてたわけじゃないんですが、しばらくは徐州動乱やらで曹操さん辺りの話が増えるかも。


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50話:内憂外患

       

  孫家のもとに中央人民委員大会への出席要請が届いたのは、翌日の早朝のことだった。孫策と周瑜はすぐさま家臣達を集め、孫家の立つべき立場を決める事にした。

 とはいえ、最初から結論は出ているも同然だ。今の孫家は袁術の客将であり、独立するためにはこの止まった世の中を再び動かす必要がある。であれば、同盟に反対する理由などあるはずもなかった。

 

 

(――いいか雪蓮、これはお前の仕事だ。今回の会議、何としても非戦派を説得して開戦に持ち込ませてもらいたい。袁術軍が動けば、中華は――)

 

 孫家に与えられた屋敷の縁側に腰掛けたまま、孫策は親友の言葉を思い返す。

 

「分かってはいるんだけど……なんか引っかかるのよね」

 

 冥林らしくない――そんな感想を抱いたまま、諾々引き受けてしまった。

 当の周瑜はというと、別の用事があって出られないらしい。これから彼女抜きで袁家家臣と面倒極まりない議論をしなければならないと考えると、どうにも憂鬱だ。

 

「浮かない顔でどうしたのですか?姉様」

 

 背後からの声に振り替えると、正装した孫権が立っていた。彼女もまた会議に出席する事になっており、服装からして手抜かりはないようだ。

 

「んー、人生の意味についていろいろと」

 

「そうですか。納得できる答えが見つかったらいいですね」

 

「あっさり流さないで!?」

 

「で、次の会議で発言すべき主張についてですが……」

 

「だから無視しないでよ!……妹が仕事人間過ぎて心折れそう」

 

 不服そうに抗議するも、孫権はさして気にした様子もなく、次の会議での打ち合わせ内容を確認する。孫策はそんな妹の説明を聞きながら、ふと外へ視線を向けた。

 

 窓からのぞく街の、昼間の喧噪。商人の支配する市街地の外には、どこまでも続く貴族の大農園。両者の境界線上には掘立小屋の乱立するスラム街があり、つくづくこの国は金持ちの為の楽園だと気づかされる。

 しばらく孫策はそんな光景を見ながらぼんやりとしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「ねぇ……蓮華はどう思ってる?今の世界を」

 

 孫権の説明が止まる。風が吹き、桃色の髪がふわりとなびいた。暫しの沈黙の後、孫権は地面に目を伏せて呟いた。

 

「私には……よく分かりません」

 

 諦観と、達観とが混じった蒼い瞳。

 分からない、というのは正直な意見なのだろう。

 

「今の統治に不満が無いわけではありません。ただ、それでも……世の中はきちんと回っています。かつてないほどに」

 

 経済は順調に成長している。最近では農村部でも貨幣が浸透し、貿易量も増えた。農地開墾にも多くの資本が投下されるようになり、人口も回復傾向にある。どれも“平和な世の中”でなければ起こらない状況だ。

 現に『洛陽体制』が発足してからというもの、諸侯同士が争うような“戦争”は起こっていない。せいぜい豪族同士の主導権争いか農民一揆、良くて水賊退治といったところ。しかしそれすらも、パワーバランスが崩れることを恐れる諸侯たちの“平和維持と共生の為の助け合い”によって即座に叩き潰されている。諸侯間の勢力均衡を目的とした洛陽体制は中華に停滞と安定をもたらし、体制に反抗さえしなければ息苦しくも平穏な一生が約束されているのだ。

 

「だから分からない、か……。ま、それが普通の考えよねー」

 

 意外にあっさりと自分の意見を姉が認めた事に、孫権は驚きを覚えた。『打倒袁家』が孫家共通のスローガンとなっているだけに、本来ならば次期当主ともあろう者が口にして良い意見では無かったからだ。

 

「実際、現政権を倒した所で全ての問題が解決する訳じゃないし、もしかしたら今より悪くなるかもしれない。だったら今のままでいい。今のままがいい……袁術ちゃんに従ってる連中も、本音ではそんな風に考えてるのかも知れないわね」

 

 そう、あのとき劉勲はそう言っていた。世界を変えたからと言って、良い方向に変わるとは限らないと。世の中には悪意から生まれる悪よりも、善意から生まれる悪の方が多いのだと。

 

「それなら――」

 

「どうしてそんな危険を冒してまで変革を目指すのか、かしら?」

 

 質問を先読みすると、孫策は優しく妹に微笑みかける。どこか彼女の母親を思い起こさせる、そんな顔で。

 

「それはね――」

 

 再び窓から風が吹く。それが合図だったかのように、孫策はすっくと立ち上がる。

 

「結果がどうなるかなんて、やってみなければ分からないからよ」

 

 さて、そろそろ仕事に行こうかしら――そう言って孫策は歩き出した。しっかりと背筋を伸ばし、一歩づつ前へと進んでゆく。まるで行く先に何があっても乗り越えてみせる言わんばかりに、力強く地面を踏みしめて。

 

(本当に、姉様らしい答えね……。悩むより先に行動する。どこまでも真っ直ぐに。)

 

 姉はいつだって、あんな風に歩いていた。これからもそうなのだろう。

 その後姿を見送ると、彼女もまた踵を返した。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「お集まりの紳士淑女の皆様。これより、中央人民委員大会を開催したいと思います」

 

 会議室に集まった全員が、開会の宣言を厳粛な面持ちで聞いていた。劉勲ら閣僚相当の人民委員が列席するステージ状のひな壇と、まっすぐ向かい合う多数の議員席はまるで近代劇場を思わせる。議員席には孫家をはじめとした官位の低い豪族の参加も認められており、事態の深刻さがうかがい知れた。

 最初に口火を切ったのは張勲だった。

 

「どうするんですかぁ?このままだと皆さんは全員、どっちを選んでも失脚ですよ?」

 

 現在、袁家は難しい立場に立たされている。曹操との対決を避け、徐州を見捨てるか。あるいは劉備達の同盟案を受け入れ、共に曹操と戦うか。2つに1つしかないと、誰もが思っていた。

 

「いくら理があるといっても、曹操の態度は強硬過ぎるわ。徐州と軍事同盟を結ぶべきよ」

 

 最初に同盟を主張したのは孫策だった。彼女に続き、賈駆や閻象をはじめとする数人の人民委員がそれに賛成する。

 

「たしかに曹操がこれ以上強大化するようなら、勢力均衡の維持も危ういわね。今ここで劉備達を見捨てれば、間違いなく曹操は徐州を併合する。そうしたら、ますますボク達の手に負えなくなるわ」

 

「同志賈駆の言うとおりです。徐州という重要な市場を失えば、領内に住む商人と豪族に多大な損失が発生するでしょう」

 

 ところがこれに強硬に反対したのが、他ならぬ中央人民委員会書記局長・劉子台であった。

 

「経済的な要因から徐州は失えない、ってのは分かるわよ。でも万が一戦争になったら結局は軍資金が必要になるわけでしょ?戦争がどれだけ経済に悪影響を与えるかは、黄巾党の乱でとっくに思い知ったじゃない」

 

 たしかに徐州は主要な貿易相手だが、経済は貿易が全てでは無い。内需だけでもある程度は賄えるし、そもそも輸出・輸入先など他にいくらでもある。実のところ袁術領の財界では非戦派が主流であり、参戦を訴えているのは徐州と取引している一部の商人だけだった。

 

「それに“軍事同盟はあくまで交渉のための圧力”なんていうのは劉備ちゃんが勝手にそう思ってるだけで、曹操ちゃんも同じことを考えるとは限らないわよ。アタシたちが本気で曹操ちゃんとやり合うための事前準備と思うかもしれないし」

 

「それは……」

 

 言葉に詰まる一同。言われてみれば、軍事同盟を結ぶことで逆に曹操を刺激してしまう可能性は十分にあった。それでも孫策はまだ何かを言おうと立ち上がったが、劉勲はそれを片手で遮る。

 

「もう一つ、ちょーっと冷静になって考えてみて。今の袁術軍で、あの曹操軍に勝てるとでも?」

 

「あ、それムリ」

 

「でしょ?」

 

 ドヤ顔で偉そうに言うなよ……心の中で思わずツッコミを入れる一同。

 それはともかく、同盟反対の理由としては単純にして明快。曹操との戦争に巻き込まれるリスク、そして巻き込まれた時のリスクが大き過ぎるのだ。

 

「万が一にでも全面戦争になれば、絶対に勝てない――高級将校の6割を粛清した、このアタシが言うんだから間違いないわ」

 

「「・・・・・・」」

 

 もはや何も言うまい。劉勲による大粛清は、彼女が書記長に就任してから継続的に行われている袁術軍名物の一つ。

 現在までの間に将軍クラスの8割、将校クラスの半数が粛清され、士官全体の4分の1が何らかの理由で鉱山送りにされていた。反革命罪で逮捕された人間の半数が死刑を受け、残りは強制収容所や刑務所に送られ、罪状によっては部隊が丸ごと消滅。その主な要因は劉勲の軍に対する不信と、統帥権の掌握にあったと思われる。書記長というのは中央人民委員会書記局――事務などの日常業務を処理する機関――の局長であり、本来ならば軍に命令する権利はない。だが劉勲は過去の経緯から軍を殆ど信用しておらず、粛清を通じて反対派の排除と軍に対する影響力増大を狙っていた。

 

 もっとも権力掌握のための粛清などそう珍しい事では無い。曹操や公孫賛辺りも州牧就任と同時に粛清を行っているし、家督を継いだ大名諸侯が親の代からの重臣や親族を殺害する事などありふれた習慣だ。というより君主が若い場合は支持基盤が盤石で無い事が多いため、そうでもしないと実権を軍に乗っ取られてしまう。そして統帥権の弱い国家の大半が軍の暴走で滅んでいる事を省みれば、この大粛清は実に合理的な行動とさえ言えるのだ。

 

 だが、権力確立のために国防が犠牲とされた事は揺ぎ無い事実。古参の人民委員会の一人、楊弘が忌々しげな表情を浮かべながら尋ねる。

 

「……で、それを承知していながら、貴様は何の手も打たなかったと言う訳か。曹操の脅威を知りつつ、見て見ぬふりをしながら粛清を続けた――そう受け取っても?」

 

「あら、他に方法でも?それにもし何か別の方法があるのなら、なんでもっと早く言わなかったのかしらねぇ?」

 

 すっと劉勲の双眸が細められる。こういった相手は自分からは何も提案してこないくせに、他人が失敗した時だけやたら『責任』という言葉を使いたがるから厄介この上ない。

 案の定、楊弘は肩をすくめてしらばっくれた。

 

「仮に別の案を私が出したとして、貴様にそれを聞き入れる耳があったとは思えんね。今も昔もな」

 

「その言葉、そっくりそのまま返してもいい?ここでアタシが事前に策を講じたとか答えても、どうせ同志楊弘は満足しないんだろうし」

 

 売り言葉に買い言葉、といった調子で責任を擦り付け合う両者。流石に見かねたのか、張勲が仲裁に入る。

 

「すみませーん、お2人とも会議の邪魔なので後にして下さーい。いいですかぁ?」

 

 張勲はいつもの笑顔のまま、慣れた様子で2人を黙らせると話を元の流れに戻す。

 

「まぁ、劉勲さんの心配も分からなくは無いんですけど……お嬢様に好意的な諸侯を何もせず見捨てる、っていうのも世間体が悪いんですよねー」

 

 張勲の言うとおり、徐州を見殺しにすれば袁術陣営は一気に諸侯からの信頼を失うだろう。そして一度「自分本位な諸侯」というレッテルを貼られてしまえば、後々外交交渉で不利になる。例え行為に意味は無くとも、何かやったというポーズは最低限必要なのだ。

 

「といっても、お嬢様が先日言ったように客観的に見れば非は徐州にあります。同盟結んだら結んだで世間から悪評買うんでしょうけど……」

 

 困ったような苦笑を浮かべる張勲。すると今度は楊弘から別の意見が出る。

 

「袁紹に仲介を頼むというのはどうかね?向こうも曹操が強くなり過ぎるのは困るだろう」

 

 今この状況で曹操の動きを抑えられるのは袁紹だけだ。そして袁紹とはかつて『二袁協定』なる秘密条約を結んでおり、何度か裏で通じて曹操の覇権主義を抑えたこともある。張勲の提案は主にこの2点を踏まえてのものだった。

 しかし――対袁紹交渉を担当していた閻象によって、即座にその可能性は切り捨てられる。

 

「私の知る情報によれば、徐州侵攻によって曹操軍は占領した司隷東部の維持が困難になっており、袁紹と共同統治する方向へと話が進んでいるようです。こんなうまい話をみすみす捨てるはずありません」

 

 それに、と閻象は続ける。

 袁術陣営はかつて袁紹が主催した諸侯会議を中止に追い込んだ事があり、袁紹からは深く恨まれている。しかもそれに対抗するように公孫賛と孔融が軍事同盟を発効させ、中華の外交は曹操・袁紹同盟寄りか、それに反対する勢力に二分されつつあった。

 閻象が参戦を主張したのも、同盟合戦の波に乗り遅れることで自分達が孤立するのを恐れたからだった。外交的孤立の危険性は言うまでもない。

 

「袁紹との同盟も、可能性としてはありましたけどね。曹操陣営の打倒を考えれば、今が絶好の機会ですし」

 

「袁紹ちゃんには袁紹ちゃんなりの事情があるのよ」

 

 劉勲はそう言って苦笑すると、会議室の中心に置かれた中華の地図に視線を送る。

 確かに曹操軍は西の洛陽と東の徐州に兵を分けており、加えて北の袁紹とも戦う羽目になれば間違いなく滅亡する。曹操と長い付き合いのある袁紹や田豊なら、将来的に最も危険な敵になるであろう彼女はなるべく早い内に潰しておきたいはず。となれば、今が千載一遇のチャンスである事は疑いようがない。

 

 しかし袁紹達は同時に、曹操と事を構えるリスクを誰よりも承知していた。戦上手の彼女と全面戦争となれば、袁紹軍もただでは済まない。仮に戦争に勝利しようとも軍事的に大きなダメージを被れば、今度は自分達が公孫賛に叩き潰されてしまう。長年の対立もあり、既に公孫賛との関係修復はほぼ不可能だ。曹操もそれを見越して公孫賛に対袁紹戦を持ちかける使者を送るだろう。いや、それどころか既に送っている可能性の方が高い。

 

(アタシ達としては、そっちの方が嬉しい展開なんだけどね。公孫賛と曹操ちゃんが組んで袁紹ちゃんと潰し合ってくれれば、こっちもその間にいろいろ出来るし)

 

 問題は、決定権が公孫賛にない事だ――劉勲は頬にほっそりとした指を当てながら、公孫賛の最適行動を模索する。彼女が軍事行動を起こすには、基本的に袁紹が南部の安全を確保していない事が条件だ。一方で袁紹の行動もまた、曹操に大きく左右される。その曹操の動向を左右する諸侯は袁術、陶謙、劉焉、そして――

 

 

「書記長、外務委員会からの報告です」

 

 

 部下が足早に駆け寄り、彼女に一枚の文書を渡す。劉勲は思考を現実に戻すと、渡された報告書に目をやる。

 

「うふふっ……どうにか間に合ったみたいね」

 

「何がですかぁ?」

 

 嬉しそうに報告書を眺める劉勲に、張勲が問いかける。劉勲が無言でそれを張勲に渡すと、徐々に張勲の表情が変化していった。 

 

「劉勲さん、これは……」

 

「ええ。これがさっきアタシの言った、『事前に講じた策』よ」

 

 

 ◇

 

 

「……何かあったのかしら」

 

 人民委員達の様子に変化が生じたことを、孫策は敏感に感じ取っていた。劉勲らの様子からして、何かの外交工作でも成功させたのだろうか。

 

(どっちにしろ、私達から見ればロクでもない展開なんでしょうけど。また、あの女の3枚舌に騙される犠牲者が増えたのかしら)

 

 妹から聞いた話によれば、劉勲はかつて曹操に「世界を止める」と宣言したらしい。そしてその言葉通り、今日この瞬間まで『外交』によって時間の流れを黄昏の停滞へと縛り付けた。

 

(私たち孫呉の夢も、母上が亡くなった時から今に至るまでずっと……)

 

 だが今や『洛陽体制』は自らの抱える矛盾によって自壊寸前の状態だ。歴史の歯車はあらぬ方向へと回り始め、勢力均衡の崩壊と共にまやかしの平和も終焉を告げるだろう。袁術陣営とて例外ではなく、この国を覆う戦乱の渦に飲み込まれる。

 

(貴女の小細工もこれで終わりよ、劉勲。事態がここまで進んだ以上、もうだれにも止められない)

 

 その洗礼を最初に受けるのは、他でもない劉備たちの徐州だ。北からやってくる曹操軍によってかの地蹂躙される。覇王の軍勢は立ち塞がる障害をなぎ倒し、徐州の大地を我がものとするだろう。

 

「え?」

 

 不意に、孫策は何か引っかかるものを感じた。

 何かがおかしい。どこか変だという違和感を、彼女の勘が告げていた。

 

 最初に彼女の脳裏に浮かんだのは、洛陽で見た曹操軍の雄姿だった。覇王の命令を忠実に遂行し、全てを蹂躙する完全武装の兵士たち。圧倒的な暴力で敵をねじ伏せ、逆らう者を皆殺しにする天下無双の軍勢。しかしそれは――。

 

(それは私の知る、曹孟徳の軍じゃない……)

 

 孫策は、曹操と直接話した事は無い。せいぜい反董卓連合戦の時に遠目で見た程度のもの。だが、それだけあれば相手がどんな武将か把握するには充分だった。

 

(そうよ、あの少女がそんな戦いを望むはずない……!)

 

 プロの棋士が勘だけでかなりの正解手を指せるように、孫策ほどの武将ともなれば相手の戦い方を見るだけで、何となくその人となりを見抜く事が出来る。そして氾水関の戦いで共闘した時、孫策は曹操が強襲より奇襲を好むタイプの指揮官であると看破していた。

 

 なればこそ、曹操は見つけたはずなのだ。正面からの力押しに頼らない方法を。

 そして劉勲らもまた、それに気づいたに違いない。

 

(どうするつもりなの?曹操と劉勲は、この状況で一体何を考えて……?)        

    

 眉根を寄せて思案を巡らす孫策。

 彼女の勘が告げていた。

 

 ――この一連の事件には、まだ自分の知らない続きがあると。

    




 リアルが忙しくて前回の投稿からだいぶ間隔が空いてしまいました。なるべく暇を見つけて執筆活動を続けていくつもりですが、しばらくは投稿速度が大幅に低下する可能性が濃厚です。

 ただ、51話は50話の続きなので近日中に投稿出来るかと思います。


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51話:才媛の証

 

 先ほどから延々と続く会議を、北郷一刀は悶々とする思いで眺めていた。

 分かっていはいたが、人民委員会はいざとなれば徐州を見捨てる事を躊躇わない。彼らにとっては戦争の大義などどうでもいい事なのだろう。重要なのは、どちらの方が失う資産が少ないかというリスクマネジメント。特権階級による寡頭政ならではの強力なリーダーシップで、反対派を抑えつけて合理的な判断を下す――それが人民委員会という組織だ。

 それでも、曹操に対抗する為には袁術達を頼らなければならない。徐州一州だけでは、どうする事も出来なかったからだ。一刀の歴史知識をもってしても、曹操を止める方法は考えつかなかった。

 

(そもそも俺の知る『三国志』の知識は大まかな展開が分かるだけで、そう簡単に改変できるものじゃない……。だから、曹操の父親も……!)

 

 一刀はもどかしげに、ぐっと拳を握り締める。

 史実での『徐州大虐殺』を知る一刀は、その原因となった曹嵩の死を防ぐべく奔走した。政治問題に関わるからと陶謙を説得し、曹嵩の屋敷に怪しい者が近づかないように監視を続け、見張りの工作員も信頼できる人間を選んでもらった。

 それでも、何者かによって曹嵩は暗殺されてしまった。

 

(これが歴史の修正力って奴なのか……?)

 

 まもなく訪れるであろう乱世を想像し、一刀は戦慄する。反董卓連合戦の後、中華の歴史は大きく変わったはずだった。今までそう思い込んでいた。

 例えば史実で中原を暴れ回った呂布は、この世界では大人しく西涼に籠っている。曹操は青州黄巾党を手に入れられず、彼らは未だ野放し状態だ。勢力均衡によって戦争は抑えられ、民は平和を謳歌している。全てが董卓を倒した時のまま。まるでその時から、時の流れが止まってしまったかのように――。

 

(――いや、時の流れは止まった(・ ・ ・ ・)んじゃない。一人の女に、止められた(・ ・ ・ ・ ・)んだ。目の前にいる、この女に。)

 

 ざわつく会議場の中央に目をやると、劉勲と張勲が何やら話し込んでいた。他にも数人の人民委員が会話に加わっているが、恐らくは劉勲の子飼いなのだろう。先ほど彼女の元に部下らしき人物から報告書が届いて以降、ずっとそんな感じだ。

 しばらく眺めていると劉勲も一刀の視線に気づいたのか、翠の瞳をこちらに向けてきた。一刀は慌てて目線を逸らすが、気になってもう一度彼女の方を見ると劉勲はまだこちらを見つめていた。目が合うと劉勲は悪戯っぽい笑みを浮かべ、くすっと口元をほころばせる。無邪気な子供のようでいて、どこか大人の余裕を感じさせる微笑み。

 

「なぁに?さっきからじぃーっと見つめたりして、ひょっとしてお姉さんに見惚れた?」

 

「なっ……!?いっ、いや……えっと、それより何の手紙だったんだ?」

 

 一刀はとっさに思い浮かんだ言葉を絞り出す。我ながら気の利かない受け答えだと思ったが、劉勲は意味ありげな笑顔を浮かべたまま向き直って口を開いた。

 

「う~ん、そうねぇ……みんなが平和に暮らせる方法、とか言ったら信じる?」

 

「それは……この状況でもまだ策があるって事か?」

 

 半信半疑、といった様子で一刀が問う。見れば、周りの人間も似たような表情を浮かべている。準備不足のままの開戦、財政負担増大、仮想的敵の強大化と有望な市場の喪失、外交的孤立――どう転んでも八方塞がりといえる状況の中で、一体どんな策があるというのか。

 だが劉勲は気にした様子もなく、むしろ楽しんでいるような雰囲気すら感じられた。

 

「アタシの言った言葉、そんなに信じられない?」

 

「……本音を言えば、少し」

 

「ふふっ、正直ね。まぁ状況が状況だしう簡単に信じられるものでも無いでしょうけど……それでもアタシ、外交には結構自信あるんだよ?」

 

 劉勲はほっそりとした指に髪をくるっと巻きつけながら、なぞなぞ遊びでもするかのように告げる。

 

「曹操ちゃんはね、基本的に無駄な事はしない主義なの。起こした行動には必ず意味があるし、それも2歩3歩先まで見据えて動くのよ。まずはそこから考えてみて」

 

 劉勲に諭され、一刀はもう一度曹操の行動を思い起こしてみる。

 反董卓連合戦では連合軍の参謀を務め、真っ先に洛陽に乗り込んで皇帝を保護し、漢王朝に対して強い影響力を手に入れた。続く洛陽会議では兌州の州牧の地位を手に入れ、本拠地と自由に扱える兵を得た。そして、次に曹操がした事は――

 

「覚えてない?少し前に、曹操ちゃんがしつこく青州黄巾党討伐を目論んでいたコト。何故あんな治安も悪くて生産性も微妙な土地に、皇帝の勅命までもらって攻め込もうとしたのか疑問に思わなかった?」

 

「それは……」

 

 史実だと曹操は青州で30万の黄巾兵を手にいれている。なら同じように、青州黄巾党を自軍に編入する為ではないのか――そう言いかけた所で、一刀はハッとして口をつぐむ。

 

(待て、良く考えろ……本当なら、これは誰も()()()()()()()()()()出来事のはず……)

 

 一刀がこの結論に至った理由は、黄巾党の構成にある。一刀の知る史実では忠実で勇敢な兵とした戦った青州兵であるが、その内実は言ってしまえば無法者の集団。そんな連中を軍に加えるという突飛な考えを、果たしてどれだけの人間が受け入れられるというのか。こういった非正規軍は存在するだけで略奪や虐殺を伴うものであり、戦などによって恩賞が得られなければ、その刃は自分の領民にも向けられる。かといって平時から全員に給料を払えば国庫が破産するため、傭兵としての一時的な戦力補強以外の使い道は無いと考えられてた。

 

 つまり青州黄巾党の軍編入という、一刀の知る史実上の出来事は極めて例外的な事件であり、この時代の常識に照らし合わせれば“あり得るが、確率的に無視できる”程度のもの。結果論でしか語れない推測に過ぎない。

 だとすれば、別の理由があるはずなのだ。曹操が青州を攻めようと考える理由が。あるいは、青州を()()()()()()()()()()理由が。

 

 もし自分が曹操の立場だったら――そう仮定してみる。

 まず最初に考えねばならないのは、本拠地である兌州の防衛だろう。四方を囲まれた兌州は常に他正面作戦の危険を孕んでおり、戦争時には何としても時間差で各個撃破する必要がある。これは内線作戦と呼ばれ、一方面で防御の優位により戦力的劣勢を一時的に補って時間的猶予を確保しつつ、他方面に優勢な戦力を集中して迅速に勝利した後に防御部隊と合流し、残る敵を撃破するという作戦だ。作戦成功のカギはいかに素早く最初の敵を撃破出来るかにかかっており、弱い相手から順に倒すのが望ましいとされる。

 

(………っ!)

 

 一刀は弾かれたように体の向きを変え、周囲に目を走らせる。驚く一同をよそに、一刀はあるモノを探し――それを見つけた瞬間、頭に針でも刺されたかのような衝撃が走った。

 

 地図。中華の地図。

 

 会議場の隅に貼られた中華の地図には、広大な領土を区分する13の州が描かれていた。今回の騒動の原因となった徐州は袁術領から見て真東に位置し、東部は海に面している一方、西部の大部分を袁術の統べる豫州と接しており、南部には揚州が、そして北部の大部分は青州と接している。

 

「だとしたら、あの時の曹操がやろうとしていた事って……!」

 

 そこで一刀はようやく劉勲の言わんとする所を理解する。地図上では、徐州が無防備な腹を青州に晒しているのが見えた。  

 

「そゆこと。キミ、あのとき疑問に思わなかった?何で皇帝陛下の勅命までもらって、わざわざ他州の黄巾党を討伐しようとしたのか」

 

 そういうことか――劉勲の問いは、一刀も何となく疑問に感じていたことだった。

 なぜ、曹操はあれほど青州にこだわったのか。もし青州そのものが目的でないとすれば、何が真の狙いなのか。どうしてその為に青州が必要なのか。

 

「まさか曹操軍は……青州を、中立地帯を突破するつもりなのか……!?」

 

 

 ◇

 

 

 『泰山』、という山がある。標高は1500m以上あり、かの『兵法』を書いた孫武の生まれの地とも言われ、また道教の聖地である五岳の中で最も尊い山とされる。同時に多数の孔子廟が設置されるなど儒教においても重要な地とされ、皇帝が天下太平を願う封禅の儀式を行う山としても名高い。だが何よりも重要なのは泰山が『泰山山脈』の一部であり、長さ500kmにも及ぶ天然の大要害として曹操軍の前に立ち塞がっていること。しかもそれが、兌州と徐州の唯一の接地点だとということだった。

 

(素人の俺にだって、山越えが最悪の進撃ルートだってことぐらい分かる。曹操ほどの戦上手なら、必ず避けようとするはず)

 

 ぐるぐると渦巻いていた疑問がほどけてゆくような感覚に、一刀の鼓動がいっそう速まる。

 接地点が狭ければ、防御側は有利になる。攻撃側は攻勢正面を広く取れず、側面攻撃などの数の優位を生かした作戦も不可能になるからだ。適切な場所に陣地を構築し、兵を配備し、秩序だった防御が行えればそう簡単に負ける事は無い。となれば当然、長く曹操と対立していた徐州牧・陶謙は州境周辺で防衛しようとするはず。平和ボケしている現状では準備不足かも知れないが、その気になれば曹操軍に少なくない犠牲を強いる事が出来るはずだ。

 

 しかもそこには泰山山脈や淮河の支流といった、天然の要害までもが存在する。まともに正面から攻め込めんでも進軍には大きな制約が伴う上、陶謙の築いた強固な防衛線に阻まれてしまうだろう。無理に攻めれば突破できない事もないが、被害が増える上に時間もかかる。もたついている内に諸侯が仲介(・ ・)に乗り出せば、ただの骨折り損だ。

 

(ただし北に面した青州には、そんな天然の要害は存在しない。それどころか同盟国同士であるがゆえに、警備も防備も最小限。曹操は徐州に侵攻するために、補給が楽で敵の側面を付ける青州から迂回しようとしているのか……?)

 

 だが、そう考えると辻褄が合う。

 内乱続きで疲弊している青州に、曹操に抵抗するだけの軍事力は残されていない。曹操軍は苦もなく青州を攻め落とすだろう。それどころか、脅すだけで降伏する可能性すらある。あるいはそこまでいかずとも、青州を攻撃しない事を条件に軍隊の領内通過を黙認させるかもしれない。そうなれば、徐州は為す術もなく陥落する。

 

「ばっ、馬鹿な!……とても正気とは思えません!そんな暴挙がまかり通れば、この国の秩序は崩壊する!」

 

 傍聴席に座っていた関羽が反射的に叫ぶ。そして、それはこの場にいる全員が思っていた事だった。

 青州は今回の事件に対し、かねてから中立を宣言して不干渉を貫いている。にもかかわらず、徐州への侵攻ルートを確保するためだけにその中立の侵犯する――いくら軍事的妥当性があるとはいえ、考え得る限りで最悪の悪手だ。たとえ一度でもそんな暴論を認めれば、中華の法と秩序は完全に崩壊してしまうだろう。

 

「そんな……これはわたし達と曹操さんとの問題のはずじゃ……!」

 

 顔を蒼白にした劉備が声を絞り出す。

 

「だって青州の孔融さんはずっと中立を――」

 

「おやおや?劉備ちゃん、アナタ忘れてるかもだから一応言っとくケド、アタシ達もまだ(・ ・)中立だからね?」

 

 おどけるように告げられた劉勲の言葉に、劉備は驚いたような表情を浮かべ――その意味を理解すると同時に、苦悶の表情を浮かべた。

 

(……今は中立でも、もしかしたら孔融さんがわたし達と同盟を結ぶかもしれない。だから曹操さんは手遅れになる前に先制攻撃をかけようと……?)

 

 劉備はぎゅっと唇を噛み締める。

 袁術と同盟交渉をしていれば孔融とも交渉しているかもしれない――曹操の疑心暗鬼を招いてしまったのは、他でもない劉備たち自身の行動の結果なのだ。

 無論、中立を宣言しただけで戦争を免れるなどという保障はどこにも無い。だが暗黙の了解として、中立国への攻撃には周囲が納得する大義名分が必要とされるのが習わし。それが無視されつつあるという事実の持つ意味は、決して小さくなかった。

 

「ちょっ、ちょっと待ってよ!」

 

 突然、孫策の声が割り込んできた。他の出席者とは違い、表情には困惑の色が混じっている。

 

「だとしても、それに何の意味があるっていうの?たとえ曹操軍が青州から攻めてくるとして、戦争に変わりはないんじゃない?」

 

「――いえ、場合によっては戦争を回避できるかもしれません……!」

 

 だが諸葛亮は何かに気づいたらしく、はっとしたように手を口元に当てる。彼女が着目したのは、なぜ徐州への最短ルートを取らないかという部分だった。

 どういう事だ、という表情をする孫策達に、諸葛亮は興奮気味に説明を始める。

 

「簡単にいうと、曹操さん達はわたし達との正面決戦を避けたがっているんです。ただし、その為には、青州を(・ ・ ・)攻撃せざ(・ ・ ・ ・)るを得ない(・ ・ ・ ・ ・)……そこに逆転の機会が残されています」

 

 徐州と兌州は僅かながらも領土が接しているため、普通に考えればそこを通った方が早い。逆にわざわざ青州から迂回すれば補給線も延びる上に、中立侵犯の誹りまで被ってしまう。にも拘わらず、曹操は迂回ルートを選択した。

 

「もし青州からの迂回作戦に利点があるとすれば、『機動戦による短期決戦が可能である』という一点につきるでしょう」

 

 諸葛亮は地図を指さしながら、説明を続ける。 

 四方を他の諸侯に囲まれた曹操が、それを軍事力によって克服しようとしていることは、以前から諸葛亮も察知していた。それが袁術陣営なら言わずもがな。大量の密偵を放ったり、曹操と同盟を結んでいる袁紹の部下を買収して探らせたりと、あらゆる手段を用いて諜報活動を行った結果、劉勲は曹操軍のドクトリンを大まかに把握することに成功したのだろう。

 

 そして得られたデータから諸葛亮らが推測した曹操軍の計画は、以下のようなものだった。

 まず、兌州の防衛を考えるにあたって、郭嘉ら曹操軍首脳部は様々な仮想敵を想定し、あらかじめ戦争計画を立てておくことで迅速に対処しようとしていた。特に曹操の本拠地・兌州は四方を囲まれており、戦争時には何としても先制攻撃によって各個撃破する必要がある。そのプランの一つに徐州攻撃があったのだが、曹操が実際にが徐州に攻め込むにあたっては少なからず問題があった。

 

 一番の問題はやはり兌州が内包する地理的不利だ。

 だが曹操は彼女は北の袁紹と同盟を結び、更に函谷関までの土地を袁紹と山分けする事で西部・北部の安全を確保。南の袁術とは『豫州平和維持条約』なる不可侵条約を結ぶことで、第一の問題を克服した。続くもう一つの問題は、先ほど述べられていた徐州への侵攻ルートだ。

 

 

 それを回避する為に曹操が考えるであろう方法は2つ。

 一つ目の方法は徐州と兌州を分断するように存在する、豫州・魯国を突破して徐州の東部から攻めこむというもの。実際、劉備の赴任した小沛城はこの侵攻ルートの真上にある。ただし曹操は以前に袁術と不可侵条約を結んでおり、この方法だと確実に袁術を敵に回してしまう。劉勲は曹操軍と戦えば負けると言っていたものの、曹操とて無傷で済むはずもなく、疲弊した状態で徐州と戦う羽目になる。

 

 となれば必然、曹操が採用するのはもう一つの方法――徐州の北に位置する青州からの大迂回作戦だ。

 

「ふふっ、流石は伏龍・諸葛孔明といったところかしら。多分、アナタの推測で合ってるわよ。

 実際、青州方面に徐州軍はほとんど展開していないし、攻勢正面も広く取れる。だから機動戦によって短期決戦に持ち込めるはず……それが曹操ちゃんの考えた戦争計画、『黄色作戦』よ」

 

 一同の視線が再び劉勲に集まる。劉勲が国家保安委員会に調査させたところ、曹操軍は以下のような作戦計画を立てている事が判明した。

 作戦の第一段階では守りの堅い州境地帯の直接攻撃を避けつつ、陽動部隊を展開して陶謙軍主力を釘付けにする。その間に作戦は第二段階へと移行され、曹操軍主力部隊は奇襲によって青州領内へ電撃的に侵攻。補給拠点確保の完了をもって第三段階に移行し、主力部隊は続けて時計回りに旋回して防御の薄い徐・青州の州境を突破。第四段階ではそのまま徐州北部を制圧していき、兌州との州境にいる陶謙軍主力を逃がさず背後から包囲殲滅。敵戦力を撃滅した後、最後に総力をもって州都・下邳を落とす、というものであった。

 

「つまり徐州だけ(・ ・)と戦うより、青州と徐州の両方を相手にした方が与し易い。むしろそうで(・ ・ ・)無ければ(・ ・ ・ ・)困る(・ ・)――曹操ちゃんはそう考えているのよ」

 

 断言するように、劉勲はきっぱりと言い切った。諸葛亮もまた、その言葉に頷く。

 その推測に一刀たちはただ驚くばかりだった。普通に考えれば、敵は2人より1人の方が楽に決まっている。だが地理的要因から今回に限って言えば、曹操にとっての最善手は2つの州と同時に戦争を始める事だった。

 そして、逆に言えば――

 

「徐州一州としか戦争が出来なかった場合、曹操ちゃんは計画を変更せざるを得なくなる」

 

 もし青州からの迂回が不可能となれば、侵攻ルートは自ずと限定される。つまり、天然の要害が人の移動を妨げ、かつ徐州で最も防御の堅い地域に正面から衝突せねばならない。曹操は徐州侵攻は、間違いなく大きな損害を伴うものになるだろう。得るものより、失うものの方が多いと傍目にも分かるほどに。

 だからこそ、曹操は侵攻を急いだのだろう。時間が経てば経つほど陶謙は強固な防衛線を築くだろうし、袁術など他の諸侯の介入もあり得る。そうなる前に急いで徐州を撃破するには、青州からの迂回が必要だ。そして屯田兵制を採用した自国と他の諸侯の動員速度の差から、曹操はそれが可能だと判断した。

 

「本来ならば青州は今回の事件に対して、何の利害も持っていないはずなの。だから曹操ちゃんが青州を通過するには、それを既成事実化する必要がある。でも、もしここでアタシ達が“自由と平和”を護るために、青州の独立を保障したら?」

 

 劉勲の声が、会議室にこだまする。

 曹操の『黄色作戦』では青州の軍事力が弱体であり、それゆえ曹操軍の領土通過を黙って見過ごすしかない、という前提条件があった。しかし袁術による青州の独立保障は、この前提条件を覆すものだった。

 

 ここでいう独立とは州同士の内政不干渉という意味での独立だが、それを保障するという事は対象の外交権と領土の保全を尊重し、それが第3者によって侵犯されれば武力をもって排除する義務を負う、ということ。この場合、もし曹操が袁術の独立保障を受けた青州を侵犯すれば、孔融のみならず袁術とも自動的に戦争になってしまう。袁術が独立を保障してくれるのならば、青州も涙を飲んで曹操の領土侵犯を見過ごす理由もなくなる。

 

「これは曹操ちゃんへの警告よ。無視すれば、徐州・青州・豫州の3州が敵に回る。速攻をかけて各個撃破できる可能性も残ってるけど、失敗すれば滅亡が確実な博打なんて普通は避けたいはず」

 

 そもそも、曹操は本当に全面戦争をする気があったのだろうか……ふと、劉勲はそんな考えに至った。『黄色作戦』は、確かに軍事的には良くできた作戦計画だ。だが、中立侵犯に対する世間の評価といった政治・外交要因は完全に無視されている。あの曹操が、そんな杜撰な作戦計画に博打を打つような真似をするのだろうか。

 

(……もしかしたら“いつでも徐州を攻撃できる”と思わせること自体が、華琳ちゃんの狙いだったのかも知れないわね)

 

 戦わずして勝つ――それは孫子の兵法において最高の方法とされる。実際には戦う気が無くとも、その気があると相手に思わせ、同時に相手に「勝てない」と思わせる事が出来れば、一戦も交えることなく勝利が得られるのだ。戦争は始まる前に勝敗が決まっている事がほとんどであり、賢い君主なら戦場でそれを証明する前に降伏する。

 もし徐州が降伏するならそれでよし。犠牲をいとわずに戦うというのなら、青州を脅迫する事で徐州無血占領へのチケットを手に入れる。どちらにせよ曹操軍への被害は最小限で済む。

 

(曹操ちゃんは多分、置かれた状況の中で最善の手を打った。それに対抗するには、アタシも同じ“最善手”を打つ必要があった……)

 

 出来れば使いたくない手だったんだけどね――劉勲は心の中でひとりごちる。確かに自分達が青州の独立保障を行う事によって曹操軍の侵略は止められるだろう。だが、それは同時に青州という新たな紛争の火種を抱え込むことになりかねない。

 

 それでも、と劉勲は思う。これは必要な対価だった。

 独立保障とはいっても、今のところ単なるリップサービスに過ぎない。いざとなったら適当な理由付けてシラ切ればいいだけの話。忘れてはならない事は、パワーバランスを崩さず均衡を維持し続ける(・ ・ ・ ・)ことだ。既成事実は一つでも作ると、後から止められなくなる。

 

 目的は大陸の勢力均衡ただ一つ。終始一貫してそれだけだ。ゆえに例外や既成事実は、一つたりともあってはならなかった。

 

 そして世界は、再び動きを止めるのだ――。

 

 反応は様々だった。ほっと一息つく者、眉を顰める者、狐につままれたような顔の者……会議室に、様々な思惑の混じった形容しがたい沈黙が落ちる。

 それを破ったのは、やはり皮肉げな笑みを浮かべた彼女。

 

「いくら曹操ちゃんだって、得より損が多いと分かってる戦争なんかしない。戦争という交渉材料が使えないとなれば、曹操ちゃんも要求をいくらか緩めるはず。だから戦争なんて起きない――ううん、アタシが起こさせない」

 

 そう告げる劉勲の笑顔は、まるで何を考えているのか読み取れない表情だった。ただ、特徴的なエメラルドグリーンの瞳だけが、全てを見通すような光を放っていた。

           

「曹操ちゃんはよくやった。劉備ちゃんも頑張った。劉焉も、司隷の宮廷貴族達も、みんなアタシの予想を超える想定外のことをしてくれたわ。たしかに中華は再び乱れ始めている。でもね――」

 

 彼女は小さく笑う。よく出来ました、と年長者が年下を褒めるような笑顔だった。

 

「――それに、世界を変えるほどの力は無い」

 

 ゆえに均衡は崩れない。バランスは保たれる。神の見えざる手によって。

 だから世の中はいつまで経っても変わらない。変えられない。

 ただ時間だけが、悠然と過ぎてゆく。これまでずっとそうだった。そして多分、これからも。

 

 それは決して過信でも希望的観測でもない。冷静に“現実”を見つめることで得た、彼女にとっての“真実”だった。

 

「もう一度言うわ。曹操ちゃんは天才だし、劉表や李儒、田豊あたりだって馬鹿じゃない。今の中華には英雄が有り余るほど大勢いる。だけどね……そんな一握り(・ ・ ・)の人間じゃ、この世の摂理の前には無力なのよ。人の手で変えるには、世界は少しだけ大き過ぎる」

 

 だから世界は何も変わらない。一個人の死に世の中を動かす力などありはしない。人の世がこんな些細な(・ ・ ・)偶然と必然の連続で変えられるのなら、とっくに変わっているはずだ。

 

 

「あなたみたいに、そんな風に考える人がいるから………世界は変わらないのよ」

 

 ふと、孫策が恨めしげに口を開く。思わず漏らしたそれは、彼女が長い間心の奥底に封じ込めていた本音だった。脳裏にふっと映るのはあの日の絶望。

 

「母上はこの国のあり方を変えようとして……だから殺された。そして今も、大勢の人がこの“世界そのもの”に殺されている……」

 

 皆の希望だった母、孫文台が殺された日。

 事務的に渡された無味乾燥な戦死報告書。

 

 泣きながら必死に現実を否定しようとする末の妹と。

 悲しみを心の奥底に封じ込めて、仮面を被り続けるひとつ下の妹と。

 怒りに全身を支配されながらも、結局なにも出来なかった自分――。

 

「そう……かもね」

 

 だが、続く劉勲の反応は、孫策が予想したどれとも異なっていた。

 嘲笑うでもなく、黙殺するでもなく。激昂するのでも無ければ、慟哭するでも無い。ただ少し困ったような顔で、どう返したらよいものか悩んでいるような。そんな表情。

 

「……でも、仕方のない事よ」

 

 それは決して大きな声では無かった。だが乾いた風の如く擦れてなお、重みのある声だった。

 

「だって、この世界はどうしようもないほど残酷で――」

 

 そうだ、世の中にはあまりにも辛いことがあり過ぎる。誰もがそれを、一度は経験している。現実という名の不条理を。

 

「――でも、それを受け入れないと生きていけないから」

 

 彼女は驚くほど穏やかな表情だった。窓から差し込む夕日に照らされ、劉勲のくすんだ金髪が淡い輝きを放つ。美しく揺らめく瞳の中には、果たして何が映っているのだろうか。

 

「たとえ儒教が消え、貴族が消え、万人に平等な国が作られたとしても……悲しみや憎しみ、悪意と狂気は無くならない。だってさ――」

 

 何かを諦めたような、そんな眼差しで。でも希望を捨てきれないような、そんな眼差しで。

 彼女は告げる。ここに、一抹の真理を。

 

「――そこに住む、人が変わらないんだから」

      




前回のあとがきで「近日中に投稿する」とか言った割には時間がかかってしまい申し訳ありません。
 
 やっと明らかになった曹操軍の作戦計画。気づいてる人もいるかもしれませんが、元ネタは30年戦争の時のスウェーデン軍による北ドイツ占領とかww1のドイツ軍によるベルギー侵攻とかです。小国が中立を宣言しても邪魔なら侵略されるのは世の常。それを防ぐには十分な軍事力を持つか、外交で有力な味方を作るのがメジャーですね。ただ前者だと経済・人材的な負担が大きく、後者だと同盟相手の思惑に左右されるのが難点です。まぁ大国にしてみれば、小国の保護ってのも面倒ですからねー。


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52話:決意の刻

 

 そろそろ木が枯れてくる季節ですね……馬の背に揺られながら、劉備はそんな事を考えていた。

 彼女の生まれ故郷に比べると、内陸部にあるこの地方はやや乾燥している。雪が降る季節まではまだ時間はあるが、周囲の自然に水気は見られない。情景的にはどこか物悲しさを感じさせる風景だが、冬に備えて薪を切る人々の姿がそこかしこで見られるのが何ともアンバランスであった。

 

 次の峠を越えれば、袁術の領土を抜けて徐州に入る。だが、馬の手綱を握る手には力が入らず、頭の中に浮かぶのは先日まで自分がいた場所でのことだった。

 

「桃香」

 

 後ろから声を掛けられる。振り返ると、後ろから駆けてくる一刀の姿が見えた。

 

「やっぱり悩んでいるのか?桃香」

 

 自分の心の内面を見透かすような、一刀の声。普段はどこにでもいるような普通の青年なのに、こういう時は本当に『天の御遣い』という名に恥じない鋭さを感じる。それでいて自分を気遣ってくれているのが分かる、不器用な優しさも。

 

「確かに劉勲の言葉は真実の一つだと思う。でも、世の中はそれだけじゃないはずだ」

 

「……ご主人様」

 

 劉備は静かに振り返って、一刀と向き合う。

 

「わたし達は……わたし達がしようとしていた事は……――間違ってたのかな?」

 

 聞くのが怖かった答えを、劉備は想い人に問いかける。

 義勇軍を結成して以来、共に戦ってきた仲間達。辛い時も、楽しい時もずっと一緒にいてくれた大好きな仲間たち。だが出世して政治の世界へ足を踏み入れた途端、現実の非情さを思い知らされた。それでも皆が自分の理想の為にそれぞれの戦場で戦ってくれた。

 

 だけど、結果としてそれは良い選択だったのだろうか。今の自分には分からない。

 これから先は、さらに険しい道のりが待っているだろう。自分と共に進めば、命を落とす事だってあるかもしれない。もし無理をしているようなら、これ以上の負担は――。

 

「痛っ!?」

 

 こつんっと軽い音が鳴り、頭部に小さな痛みを感じた。その原因を作った張本人、北郷一刀は穏やかに微笑み、短く答えを告げる。

 

「言わなくても分かるだろ?」

 

「え?」

 

「その答えは、桃香が一番よく知ってるはずなんだから」

 

 ぽかんと口を開ける劉備。そんな彼女に、一刀は優しく笑いかける。

 

「桃香の理想は、決して楽な道なんかじゃないと思う。たぶん、今まで以上に厳しい道のりになるだろうな。でも……自分達で作った道なら、それも悪くないさ」

 

 前方に、関所が見えてきた。山の麓にそびえたつ検問所を通過すれば、小沛城はもうすぐだ。既に会議の内容は早馬で報告してあるから、早ければ明日にでも下邳からの報告が届くだろう。

 

「小沛城に着いたら、久々に街で散策でもするか。桃香はどこか行きたい店とかあるか?」

 

 隣を進む一刀の馬の速度が速まる。それに遅れないよう、劉備も手綱を握る手に力を込めた。

 

「う~ん、わたしはね――。」

 

 

 ◇

 

 

 実の父の死を利用してまで曹操が実行しようとした徐州侵攻は、土壇場で危機を迎える。彼女は最後まで袁術陣営のとった行動を非難したが、青州への独立保障によって道義的にも物理的にも不可能に近い状態に追い込まれていた。劉表や陶謙、公孫賛は袁術の行動を賞賛し、当時の曹操にそれを阻止できるだけの力は無かった。

 

 勢力の均衡――その維持を図るべく劉勲は複雑怪奇な政治外交を駆使したが、最終的な目的は一度たりとも変わっていない。彼女の目標はただ一つ。世界を止める――終始一貫してそれだけだった。李傕らの内戦に端を発した一連の騒動はここに決着の流れを見せ、最終的な勝利者は自ら直接手を下す事無く均衡維持を達成した袁術になるかと思われた。

 

 しかし、劉勲は知らなかった。

 

 確かに彼女は現状における『最善手』を打ったが、その最善手自体が“他の条件が一定ならば”という仮定のもとで想定されたもの。劉勲は、いわば将棋の盤上でしか物事を図れていなかった。全ての駒は、既に決まった動きでマス目を移動するものだと勘違いしていたのだ。

 

 ゆえに彼女は気づけなかった。現実には“変化を起こさないため”の『最善手』こそが、変革へ第一歩であったことを。そして彼女の知らない内に、連鎖的に戦争への引き金が引かれていたことに。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――わずかに時を遡る。

 

 

 劉備達が袁術と交渉していた頃、戦争の嵐は最北の地・幽州にも迫っていた。

 

「それは本当なのか……?」

 

 幽州牧・公孫賛は届けられたばかりの報告に、思わず耳を疑った。だが、続く趙雲の言葉が誤報でないことを確信させる。

 

「間違いありませぬ。先ほど袁術と孔融の大使にも確認を取りましたが、やはり徐州は恐慌状態にあると」

 

 徐州にて曹操の父・曹嵩、暗殺される。犯人は未だ捕まらず――しかも暗殺者は徐州の兵士らしい、という情報に公孫賛は絶句した。

 もし徐州側がこの事件に関与していたとなれば、確実に戦争になる。

 

「だっ、だが私の知る徐州牧・陶謙殿はこんな真似をするような人じゃない!何か裏があるんじゃないのか?」

 

「そうかも知れませぬが、そうで無いかも知れませぬ。問題は、徐州の地にて曹操の父君が殺害されたという事実。真実がどうあれ、陶謙殿は他州の要人の安全も守れぬ指導者として、周辺諸侯からの信用と評価を共に失いつつあるのです」

 

 そしてそれは、徐州と友好関係にある幽州にとっても他人事では無かった。世間的には親の仇討ちをする曹操が善とされ、陶謙が悪とされるだろう。最悪、曹操が皇帝から勅命をもらうような事があれば、徐州に味方する事は自分で自分の首を絞めるようなもの。連座で逆賊のレッテルを貼られれば、領内の豪族からも離反者が出かねない。

 

(だが、青州や并州に袁紹を止められる力は無いし、袁術は遠すぎる……各個撃破だけは避けなくては)

 

 ここで徐州を見捨てれば公孫賛は有力な同盟国を失い、曹操・袁紹連合に対して政治・軍事的劣勢に追い込まれる事になる。一番の問題は袁紹だ。もし曹操が司隷と徐州の両方で2正面作戦を行うような事態になれば、彼女は袁紹に対して大幅に譲歩せざるを得ない。然る後に、袁紹は曹操の裏切りを気にする事無く、全力で公孫賛を攻められるのだ。

 

「……」

 

 表情を崩さぬまま、沈黙を保つ公孫賛。だが、内心はその限りでは無いだろう。そのアンバランスさが、彼女の葛藤をより一層際立たせていた。

 だが彼女の逡巡も長くは続かず、やがて意を決したように口を開いた。

 

「星……軍を召集してくれ。それと、徐州に使者を送る準備もだ。――桃香達を、全面的に支援する」

 

「……よろしいのですか?徐州を支持すれば、曹操・袁紹連合との全面戦争になるやもしれませんぞ?」

 

 今回の件は客観的に見て徐州側に非がある。親の仇討ちは儒教思想的に支持されるべきものであり、それに反するような行動をとれば、領内の名士からの反発は必須――懸念をあらわに、趙雲が疑問を呈す。

 

「まず領内の意見を統一するのが先では?事を急げば、思わぬところで足元を掬われかねません」

 

「それはそうなんだが……桃香たちの相手はあの曹操なんだぞ?あまり悠長に構えていると手遅れになるんじゃないか?」

 

「むむ、それも一理ありますな。……しかし、だとしても動員は流石にやり過ぎでは?」」

 

「いや、やるなら今しかない。むしろ今だからこそ、やらなければいけないんだ」

 

 公孫賛は領主としての顔で、きっぱりと断言する。

 

「軍を動員する理由は二つある。一つは、私の手元には今、かつて無いほどの大軍がいるという事。私はこれを機に君主権力を確立し、幽州の支配を一枚岩にするつもりだ。」

 

 公孫賛は長らく名士と対立しており、その権力基盤は軍であった。これは権力と軍事力に優れる支配体制であるが、名士を敵に回す以上、どうしても地方の支配が脆弱になる。公孫賛はこれまでも何度か反抗的な名士や豪族を討伐しようと試みていたが、理由もなく軍を集めれば当然相手もそれに気づく。大規模な常備軍が一般的では無いこの時代、君主一人が支配権確立の為に兵を集めれば、地方領主達の元にはそれ以上の兵が集まってしまうのだ。

 

「だが、麗羽達が誘導した内乱のおかげで、今では3万の歩兵と2万の騎兵が私の直接指揮下にある。内乱中の動きと、徐州支持を打ち出した時の反応を探れば、誰が体制派で誰が反体制派なのかも分るはず。……例え再び内乱になろうと、今度こそ先手を討って各個撃破してみせる」

 

 公孫賛は覚悟を決めるように、拳を強く握り締める。自らの取ろうとしている行動が悪手だという事は、本人が一番よく分かっているだろう。しかし、これは領内を統一する千載一遇の機会でもあるのだ。チャンスは一度きり。今を逃せば次はいつになるか分からない。

 

 だが、理由はそれだけでは無い。もう一つの、もっと切実な理由が、公孫賛を軍事的冒険へと駆り立てていた。

 それは南に位置する列強、袁紹が曹操と結んだという事実。世間では司隷を併合するためと言われているが、袁紹軍主力部隊は南皮から動こうともしない。不気味なまでに沈黙を保っていた。

 

「本当に司隷に攻め込むつもりならば、私の行動は無駄どころか骨折り損だ。無能、悲観論者と非難されても仕方無いだろう。だが……」

 

 ――もし袁紹の真の狙いが幽州だったとしたら?

 ――曹操と結び、彼女の東西で戦争を煽る事で、後顧の憂いを無くすことだとしたら?

 

 口には出さずとも、己の主君が何を言いたいかは趙雲にも分かった。

 

「私が軍を動かせば、袁紹たちも当然同じことをする。最悪、彼女達と戦争になるかもしれない。

 それでも……私は幽州の州牧だ。此処に住む領民のことを、何よりも優先するのが私の責務だ」

 

 皇帝から地方の統治を任された州牧として、彼女には領民を戦乱から守る責任がある。そして戦乱が回避できないのなら、可能な限り被害を少なくするという義務も。すなわち最速で領内を統一し、州境上で水際防御を行い、必要ならば予防的先制攻撃にて敵を排除するということ。

 

「もしここで無責任に平和を信じ、何の準備もしないまま袁紹に蹂躙されるような事になったら、私は自分を一生許せないだろう。私のような凡人をここまで取り立ててくれた、陛下にも顔向けできない」

 

 そこまで言った所で、公孫賛は自嘲するような苦笑を浮かべた。

 

「いや……何を言っても所詮は言い訳でしかないか。結局のところ、私のやろうとしている事は幽州ただ一州の事情ために、中華全土に混乱を招きかねない行為なんだから」

 

 無理に笑顔を浮かべてはいるが、その裏では苦しい自問自答の繰り返しがあったに違いない。統治者としての責任感と、漢の臣下としての忠義が彼女を追い込んだのだろうか。

 

「だから星……分かってくれ、とは言わない。それでも――侵略されてからでは遅いんだ。」

 

 声に諦観と寂しさを滲ませ、公孫賛はゆっくりとかぶりを振る。

 

「平和の時代は終わったんだよ。勢力均衡体制が機能不全に陥るつつある以上、自分達の身は自分達で守るしかない。それには軍事力が必要だ」

 

「………」

 

 趙雲は何も答えない。公孫賛が漢帝国の臣下であることを誇りに思っているように、趙雲もまた公孫賛の臣下であることに矜持を持っている。ゆえに主君が心を決めたならば、全身全霊をもって応えるまで。それが臣下の務めなのだから――。

 

「もうすぐ中華全土を巻き込んだ戦争が始まる。もし徐州が墜ちれば……次は私達だ」

 

 静かに告げる公孫賛。決断は下された。

 黙って主の言葉を待つ趙雲に、幽州を統べる郡雄は静かな声音で断じる。

 

「――戦の、準備を」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 冀州・南皮――袁紹の本拠地であり、華北有数の大都市でもある。袁術の治める宛城ほどではないにしろ、ここもまた袁家のお膝元だけあって街は賑わいを見せていた。

 そしてこの日、南皮城内では主君である袁紹と軍師である田豊が、激しい舌戦を繰り広げていた。

 

「田豊さん!これは一体どういうことですの!?」

 

 袁紹は苛立ちを隠そうともせず、感情をむき出しにしたまま指で窓の外を指す――南皮城から見える練兵場には、地面を埋め尽くさんばかりの兵士に溢れていた。

 軽く見ただけでも、少なくとも4万人はいるだろうか。僅かな空間にさえ、収まりきらなかった兵が無理やり詰め込まれている。本来なら定員オーバーした分の兵士は場外に出す事になっているのだが、敢えて場内に押し込む理由があるとすれば、理由は一つしか考えられない。つまり、練兵場の外にはこれを上回る数の兵士が展開している、ということ。

 

「現在、南皮には約10万の兵を集結させております。装備も錬度も万全の態勢にて待機中。後は姫様のご命令さえ頂ければ、いつでも作戦行動に移れるかと」

 

「じゅ、10万……!?」

 

 袁紹の叱責に怯んだ様子もなく、田豊は堂々と答えた。その言葉に、周囲に居並ぶ家臣たちも改めて愕然となる。10万の兵が南皮に終結――それは冀州全体で動員できる兵力の実に3割にも及ぶものだった。そして常識的に考えれば、南皮に全ての兵士が集結しているはずもない。

 

「そんな事は聞いてませんわ!田豊さん、わたくしの言った言葉を覚えていませんこと!?」

 

「いえ、一字一句明瞭に把握しております。――確か“幽州に対して勇ましく、そして雄々しく圧力をかけなさい”、と」

 

「なら、どうしてそれが総動員(・ ・ ・)になるんですの!」

 

 袁紹は声音に怒りを滲ませながら叫ぶ。その表情は余裕を失っていた。

 いくら世間の評価が低いとはいえ、彼女もまた一州を治めるれっきとした州牧。自軍の「総動員」が中華全土に無視しえない影響を与えるであろうことは容易に想像できた。そして、彼女にはまだその覚悟がなかった。

 

「わたくしの華麗なる軍隊なら、そんな大袈裟なことをしなくても充分ですわ!北の貧乏太守や田舎の引きこもり州牧ぐらい、簡単にメッタメタのギッタギタにして差し上げますわよ!」

 

「姫様、それは無理だと何度も申し上げたはず。青州は袁術に取り込まれ、并州の動向も不明。公孫賛が総動員を開始した今、我らに限定戦争という選択肢はあり得ませぬ。部分動員では手遅れになりましょう」

 

 だが、田豊の方も一歩も譲らない。

 東の青州、西の并州、南の兌州、北の幽州……四方を囲まれた袁紹の冀州にとって、他正面からの同時攻撃は現実感を伴う恐怖であり、袁紹軍のドクトリンはいかにしてこれを防ぐかにあると言っても過言では無い。もし袁紹が部分動員しかかけず、その後に青州や并州が宣戦布告してきた場合には、兵力不足のまま多正面作戦を強いられてしまう。

 

 公孫賛は“我々の動員はあくまで非常事態に備えた圧力”と宣言しているものの、袁紹側からすれば単なる口約束に過ぎず、先制攻撃されないという保証はどこにもなかった。そもそも仮想敵国が動員をかけているのに自国は何もしない、というのは愚行でしかない。

 

「我々の軍は曹操軍と違って常備軍にあらず。豪族の私兵が中心の連合軍……悪く言えば寄せ集めの武装集団にすぎませぬ。戦争をするに当たり、各豪族の意見調整と役割分担、恩賞金や負担の分配など煩雑な作業が必須なのです。併せて集まった私兵集団同士の行動の統一、錬度・戦力把握が必要であるゆえ、動員計画の途中変更など不可能に等しいでしょう」

 

 これは名士を優遇し、彼らの協力を得ることで国力を充実させていた袁家ならではの弱点であった。この政策自体は大成功を収め、冀州は安定した統治によって大いに繁栄している。それに伴って人口も増大し、最大動員時の兵力は30万にも達すると言われていた。

 しかし、なまじ大所帯である分、何をするにしても時間がかかってしまう。加えて当時の戦闘は比較的短期間で終結する事がほとんどであり、開戦後に動員を始めるのでは戦争に間に合わない。だからこそ、開戦前に可能な限り多数の兵員を集結させる必要があったのだ。

 

 無論、こういった問題点は田豊ら袁紹陣営首脳部も痛感しており、それを解決するべく日々頭を悩ませていた。それゆえ袁紹陣営にもまた、曹操同様に大規模な戦争に備えた計画が以前から存在していた。

 

 ――『第17計画』

 

 袁紹軍の戦争計画の一つであり、青州と幽州を同時に敵に回した場合を想定したもの。北からの攻撃を防御しつつ青州を先に下し、然る後にすぐ軍を引き返して公孫賛軍を殲滅する。移動には主に船を使い、黄河と渤海を渡って大兵力を素早く輸送。戦略機動能力を強化することで局地的な数の優位を確保し、迅速で堅実な勝利を求める軍事ドクトリンだ。

 

「青州牧・孔融は袁術による独立保障を受け入れた。そして袁術は我らの敵、公孫賛と経済的に協力関係にある。転じて、孔融は敵の味方の味方……つまり我らの潜在的な『敵』なのです。表向きは中立とはいえ、どうして我らに連中を信じる事が出来ましょうか?」

 

 かねてから田豊は2つの戦線を同時に抱えるのは厳しいと考えており、まず弱体な青州から潰すべしと結論付けていた。もともと青州は袁紹派と公孫賛派の2つの派閥が存在しており、袁紹派がやや劣勢とはいえ、内部分裂ぐらいなら造作も無い。加えて青州は袁紹の本拠地である南皮から近く、青州黄巾党という内患すら抱えていたからだ。

 

「こちらとしても、中立を表明している諸侯への攻撃は望むところではありませぬ。しかしながら、公孫賛は我々の動員中止要請を断り、総動員を強行しました。先に向こうが啖呵を切った以上、こちらも総動員をかけて対抗せざるを得ないでしょう。さもなくば致命的な遅れが生じ、下手をすると全てを失いかねませんぞ」

 

「全てを……?」

 

「左様。軍事作戦上の制約を抜きにしても、限定動員は不可能なのです。理由は至極単純、兵力不足の恐れがあるゆえ」

 

 田豊とて、好きで袁紹の意見に反対している訳では無い。彼もまた一人の臣下として、可能な限り主君の意志を尊重したい、という気持ちはある。しかしシミュレーションの結果、それが不可能な事が発覚した。

 理由は司隷へ5万もの軍を送った事にある。先日、曹操のもとから派遣された荀或から『共同統治』案を提唱された袁紹は、当然ながらこれを即座に受諾。最初から派遣していた3万の兵に加え、増援として2万の兵を送ると約束してしまったのだ。

 

 そして袁紹軍首脳部の判断では、限定動員で支える事の出来る戦線は多くて2つとされ、それ以外の方面には中央に残した予備兵力であたることになっていた。

 だが、現実には司隷の内戦に介入してしまった為、この予備兵力にあたる兵力がいなくなってしまったのだ。劉焉の脅威が健在で曹操との約束も履行せねばならない以上、司隷方面軍を領内に退却させる事は不可能。かといって別の方面軍から兵を引き抜けば、今度はそちらの戦力が弱体化してしまう。加えてこの地方を拠点とする黒山賊などに備えた領内の治安維持等もあり、兵力を確保するには総動員しかないとされたのだ。

 

「……ですが、青州に攻め込めば、袁術さん達を刺激してしまう恐れがあります」

 

 袁紹に代わって口を開いたのは、不安げな表情をした顔良だった。

 

「青州の独立保障は劉書記長の肝入りで行われたものですし……私たちが正面から泥を塗るような真似をすれば、いくら袁術さん達でも黙っていないんじゃ……」

 

 下手をすれば、袁術軍の介入すらあり得る。それどころか袁術陣営の国益を考えれば、むしろ何の介入もないと考える方が不自然だ。

 

「でも、袁術軍って確かスゲー弱いんだろ?だったら戦争になっても、あたいらがブッ潰しちゃえば問題無いっしょ!斗詩は考え過ぎだってば」

 

 顔良とは対照的に、文醜は袁術がどう動こうが気にしていないようだった。袁術兵は中華一の弱兵とも言われ、軍事的な名声は無きに等しい。

 それでも、と顔良は思う。袁術陣営は全ての列強の中で最大の人口と経済力、財政力を有する巨大組織。諜報機関も発達しており、外交においても指導的な立場にある。その潜在的な力は計り知れない。それに――。

 

「仮にそうだとして……何か問題が?」

 

 にべもなく田豊に返され、全員が唖然とする。

 

「地図を見るがよい。万が一袁術が戦争に介入しようとも、その矢表に立つのは我らではなく曹操の小娘であろう?今は味方でも、いずれ排除せねばならない脅威だ。今のうちに両者が共倒れになれば、これ以上の僥倖はあるまい」

 

 またもや絶句する一同。だが、田豊の意見は完全に理に適っていた。両袁家の間には曹操の領地があり、直に矛を交える事は不可能。最近占領した司隷東部が唯一の接点だが、南陽群方面にもいくつかの関所が存在する為、守るだけなら問題ないはず。そう、仮に袁術と戦争になろうとも袁紹の懐は何も痛まないのだ。

 両者の共倒れを狙うという、傍から見れば下劣な謀略。だが田豊がそういった献策を行うのは、ひとえに袁紹のため。居並ぶ重臣たちもそれを知っているだけに、敢えてそれを指摘する者はいなかった。

 

「このまま動かずにいれば、曹操はますます力を付けるでしょう。かの者の実力は姫様が一番よくご存じのはず。袁術ごときの小細工で、動きを止められる相手ではありませぬ」

 

 曹操――その単語に、袁紹は黙り込む。

 思えば、彼女とは幼少時からの長い付き合いだ。生自の卑しさゆえに不当な評価を受ける事も多かった曹操だが、袁紹はあの優秀な幼馴染が決して侮れない相手だという事を誰よりも良く理解していた。そして曹操と共に、もう一人の洛陽で知り合った学友の事も。

 

(劉勲さん…………)

 

 だが袁紹が内心を外に現す事は無かった。じっと腕を組んだまま、臣下の議論の耳を傾ける。田豊はその意を汲み取り、続けて口を開く。

 

「“兵は巧遅より拙速を尊ぶ”……我らの取るべき方針も防御や傍観ではなく、先手必勝なのです。姫様、もはや一刻の猶予もありませぬ。どうか、ご命令を」

 

 語り終えた田豊は、袁紹に向けて深々と頭を下げる。

 

「……」

 

 言うべきことは全て語った。後は主君の判断を待つのみ……長年仕えてくれた老軍師が何を考えているのかは、言葉に出さずとも袁紹には伝わっていた。

 

(このわたくしに、袁本初に歴史を動かせと……。そういう事なのですね、じい……)

 

 袁紹は静かに目を瞑る。

 田豊は、主君である袁紹に対しても容赦なく反論するし、ダメ出しもすれば、数え切れないほどの小言も言う。だが決して主君の決断に逆らいはしない。もし袁紹がここでハッキリと総動員に反対すれば、その時は彼も一臣下として君命を忠実に実行するだろう。主君に媚びへつらいはしないが、臣下としての領分は弁える――そんな田豊の愚直さと頑固さは、袁紹が一番よく知っていた。

 

「……正直に言わせてもらいますわよ。わたくしは名門袁家の跡取りとして、幼い頃から英才教育を受けてきましたし、今でも田豊さん達のように優秀な方が周りに大勢いますわ」

 

 頭を垂れた姿勢で微動だにしない田豊。それと対を為すかのように、袁紹はゆっくりと立ち上がる。

 

「それなのに……何が正しくて、何が間違っているのか、どなたが味方でどなたが敵なのか、わたくしには未だによく分かりません。上辺ばかりで中身が無い、と巷で言われるのも仕方ありませんわ」

 

「姫様……!?」

 

 袁紹の言葉に、居並ぶ家臣たちが目を見開く。皆、袁紹とは長い付き合いだが、プライドの高い彼女が自身を卑下するなど、未だかつて無かった事だからだ。

 だが、彼女ももはや子供ではない。外面ばかりで中身が伴わない……自分が周囲からどう思われているか、薄々気づいていたのだろう。

 

「ですが……だからこそ、敢えて言わせてもらいますわ。袁家に勝利をもたらす存在は、このわたくしでは無いと!」

 

 袁紹は腰に手を当て、勢いよく剣を引きぬく。

 

「あなた方が!あなた方全員の力が!我ら袁家に勝利をもたらすのです!」

 

 高く掲げられた剣は日の光を反射し、全員をまばゆく照らす。太陽の光を浴び、金色の鎧を身に纏う袁紹の瞳には、一切の迷いも見られない。その自信に充ち溢れた堂々した態度は、名門袁家の当主という肩書きに違わぬものだった。

 

「わたくしは、みなさん全員の力を信じます!存分におやりなさい!責任は全て、この袁本初が取りますわ!」

 

 ――王とは臣民を導く者のみにあらず。

 

「汝南袁家の現当主・袁本初の名において命じます!――必ずや、袁家に勝利を!!」

 

 ――臣民を信じ、全面的に任せることもまた、一つの“王”としての姿。

 

 

「 「 「 袁家に、勝利を! 」 」 」

 

 

 華北に、戦の風が吹く。

 

 

「 「 「 必ずや、袁家に勝利を!!! 」 」 」

 

 

 今、歴史の歯車は再び軋みだす――。

        




袁紹軍の計画……知っている方はご存じの通り、シェリーフェンプランをモデルにしています。史実で

「あ…ありのまま今起こった事を話すぜ……。
 オーストリアがセルビアに宣戦布告したと思ったら、いつの間にかドイツがベルギーに攻め込んでいた……!」

 ってヤツです。

 本作でも公孫賛、袁紹、袁術、そして曹操も全員が「最善」手を打ってるはずなのに、それが「最悪」の結末に向かうという……。
 『囚人のジレンマ』がこれに近い状態かも知れませんね。知らない人同士じゃ相手の事なんて信用できないし、国なら尚更……。そう考えるとある程度相手と交流深められる「政略結婚」も悪くないんじゃないかと思ってみたり……。


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第六章・東の戦乱
53話:二袁の争い


 

「――あの忌まわしい戦争を防ぐことは出来なかったのだろうか。そもそも、なぜあんな事が起こってしまったのか……誰もが自分から開戦する気がなかったにもかかわらず、我々に用意された選択肢は一つしかなかったのだ」

 

                    ~魏書・袁紹列伝より抜粋。田豊の語録より~

 

 後に『全ての戦争を終わらせる戦争』と揶揄されたこの大戦のきっかけは、後世の歴史学者たちにとって最も興味深いテーマであり、大きな歴史の謎の一つである。

 

 当事者の一人だった劉勲でさえ、「我々は皆、混乱の内に戦争に突入した」と述べている。

 

 多くの文献で直接の原因とされるのは、曹操の父・曹嵩の暗殺だろう。父を殺された曹操はその責任を徐州政府に負わせ、領土拡大の為に占領しようと目論んでいた。そこで同盟相手である袁紹の支持を得た上で、曹操は徐州に最後通牒を叩きつける。親の仇討ちは儒教的な観点から見て咎められるものでは無く、孤立無援の状態に置かれた徐州には降伏か無謀な徹底抗戦の2択しか残されていないように見えた。

 

 また、徐州侵攻を実行するにあたって、曹操軍には『黄色作戦』呼ばれる攻撃計画が戦前から存在していた。曹操の治める兌州と徐州の州境には山岳地帯が広がっており、進攻を容易にするには別方面からの進軍が望まれていた。そこで曹操軍の軍師・郭嘉の考えた策は囮を州境に配置して徐州軍主力部隊を引きつけ、その間に曹操軍本隊は青州から迂回して徐州を側面から叩く、というものだった。

 

 しかしながら、この大胆な作戦には大きな欠陥が一つ残されていた。それは中立を宣言している青州内部を軍が通過するという根本的な部分であり、青州に脅しをかけて軍の領内通過を認めさせなければならない、という事だった。つまり『黄色作戦』は完全に純粋な軍事上の妥当性だけで考えられており、政治・外交を無視した「やろうとすれば、やれない事は無い」という程度の理屈倒れの計画だったのだ。

 曹操軍がそれをどこまで重視していたかは定かでは無いが、一説によれば郭嘉ら曹操軍首脳部は、元々そういった欠点を承知の上であくまで徐州に対する“脅し”のための本計画を練ったのであり、本気で実行する気は無かったともいう。そのため歴史家の中には「曹操に本気で戦争を行うつもりはなく、軍事力をチラつかせた恫喝外交によって徐州を服従させ、政治上の優位性を確保するのが目的だった」という見方する者も存在する。

 

 

 とはいえ、青州の弱小さゆえに『黄色作戦』にも成功の余地があった事が、事態をより複雑化させた。曹操軍以外の全ての諸侯が、曹操は本気で全面戦争をするものだと受け止めてしまったのだ。

 

 その内の一人が、徐州と親密な関係にあり、また袁紹と敵対していた公孫賛だった。曹操が青州・徐州を占領すれば中原の大部分は袁紹・曹操同盟の支配下となり、自らは孤立無援の状態に置かれてしまう――危機感を抱いた公孫賛は徐州への全面支援を打ち出す。徐州牧・陶謙も喜んでこれを承諾し、どちらか一方が攻撃された場合、もう一方も戦争に参加する義務を負うとされた。

 

 数日後、公孫賛はこの同盟にもとづき、幽州全土にて動員を発令。この事態を見越してあらかじめ5万もの兵力を手中に収めていた事もあってか、あえて逆らおうという名士はいなかった。ここに公孫賛は長年の悲願であった名士勢力の無力化・排除を達成する。また、この一連の動きにおける彼女の動機は、純粋に自領の保全の為であったことが近年の研究で明らかにされている。公孫賛は軍を基盤とした強力な君主権力を確立させることで、中央集権化による安全保障ならびに統治の安定・効率化を目指していたのだ。

 だが別の見方をすれば、それは幽州に公孫賛を中心とする軍事独裁政権が誕生した事に他ならない。華北にはかつてない緊張感が漂い、隣接する并州や冀州の豪族・名士の間では、事ある度に公孫賛を黒幕とする陰謀論がまことしやかに囁かれていた。

 

 

 しかし、この時点ではまだ諸侯の利害調整で事態を収拾できる可能性は残っていた。外交に長けた袁術陣営の指導者の一人、劉勲は曹操軍の意図を見抜くと同時に勢力均衡を維持すべく、急ぎ青州に使者を送る。その内容は「青州の中立の保障」であり、早い話が青州に対する軍事・政治上の支援だった。

 流石の曹操いえども3方で同時に戦火を交えれば、相当な負担を強いられる……『黄色計画』の欠点を的確についた彼女の機転により、ようやく事態は収拾するかと思われた。そう、劉勲は外交官としてこの時点で考え得る最善の手を打ったのだ。

 

 ところが袁術による青州の独立保障をきっかけとして、事態は更に思わぬ方向に進展する。

 皮肉にも戦争を止めるため最善手が、別の諸侯に開戦を決断させてしまったのだ。その諸侯の名は、袁本初――冀州牧として華北最大勢力を誇る名門袁家の跡取りだった。

 

 多くの諸侯と同じように、袁紹陣営もまた戦争に備えて動員計画を練っており、その内容は曹操軍のそれよりもさらに緻密で精巧なものだった。『第17計画』と呼ばれた作戦計画は、東の青州と北の公孫賛という2つの仮想敵を同時に撃破すべく作られたもの。その骨子は、最初に主力で速攻をかけて青州を打倒し、全軍で速やかに北にとって返して公孫賛と戦う、という内容だった。

 この計画の要点は、公孫賛が攻勢をかけてくる前に青州を倒すこと。それが実行できると思われたのは、公孫賛は領内に不安要素を抱えており、かつ青州の軍事力が非常に弱体である事に起因している。同時に反董卓連合戦で大軍の召集にまごついた経験から、袁紹軍は「先制攻撃」という点を何よりも重視していた。

 

 ところが袁紹軍首脳部の思惑通りにはいかず、曹操軍による徐州占領の野望に危機感を抱いた公孫賛が、牽制の為にいち早く動員をかけてしまう。更に青州の独立を袁術が保障した事によって「青州は弱体」という前提条件も崩れ、先制攻撃で時間・空間差による仮想敵の各個撃破を目的とした『第17計画』は根本から破綻しつつあった。

 

 問題は他にもある。袁紹陣営が名士・地方領主の支持を基盤とした政権であったことが、領内での軍事行動の選択肢を大幅に狭めていた。具体的にいうと、事前の相談なしに各地方領主の領土を進軍することが出来なかったのだ。古今東西、軍隊がある土地を進軍する際にトラブルが無かった例はなく、地方領主の立場からいえば当然ではあるのだが……自らの支持基盤を敵に回す訳にもいかないとなれば、後手に回る防御的なプランは非現実的。袁紹軍の行動は全て『敵地への先制攻撃』を前提とし、かつ「事前の計画通り」に行われねばならなかったのだ。

 

 公孫賛が動員を始めるなら、あるいは青州が軍事的に強化されるなら、袁紹軍がとるべき「最善手」はただ一つ……先制攻撃を受ける前に、戦争を始めるしかなかった。

 

 そして長い議論の末、ついに袁紹の決断が下る。ひとたび命令が下されるや否や、『第17計画』は機械仕掛けのような正確さで発動し、袁紹軍は予定通りに総動員を開始する。同時に袁術の介入を恐れていた曹操にとっては待ちに待った援軍であり、彼女は同盟相手の袁紹軍と共同で青州へと軍を進める。単独で青州、徐州、そして袁術とは戦えないが、袁紹軍がいれば話は別だ――曹操がそう考えた時、外交によって戦争を抑止しようという劉勲の目論見は潰えたのだった。

 

 そればかりでは無い。袁術が青州に独立を保障したことが、更なる波紋を呼びこんだ。この外交的優位の逆転は、思わぬ反応を徐州側にもたらしてしまう。孤立無援で曹操と戦争になると思われた矢先に、北方の軍事大国として知られる幽州からの全面支援。そして公孫賛、袁術がバックについた青州からの友好的な態度――これで強気にならないはずが無かった。

 結果として徐州の家臣達の間では、仮に戦争になっても他の諸侯が助けてくれるという楽観論が強まり、ここに来て再び強硬論が台頭。更に長年に及ぶ曹操との対立がこれに拍車をかけ、劉備達の努力も空しく主戦派が徐州を牛耳ることになる。

 

 幾多もの議論を経て、徐州牧・陶謙はついに徐州全土に動員を発令。曹操との州境付近に兵力を集中させる。ただしこの行動も曹操との全面戦争を決意したというより、むしろ領民や徐州の豪族を安心させる意味合いが強く、陶謙自身はまだ対話の可能性を捨ててはいなかったと記録されている。

 

 ――だが、当然このような弁明を曹操が信じるはずもなく、彼女もまた総動員を開始。兌州全土から屯田兵を含む15万もの兵が集められ、加えて6万の旧黄巾党系の兵士が予備戦力として駆り出される。そして曹操が正式に宣戦布告を発表するに至り、ついに戦端が開かれたのだった。

 

 勢力均衡を国是とし、これまで最低限の介入以外は控えていた袁術陣営。だが先日結ばれた青州との協定がある以上、これ以上の様子見を決め込むわけにもいかず、やむなく曹操・袁紹へと宣戦を布告する。この動きにかねてから曹操と対立していた劉焉も呼応し、一方で袁術・劉焉の勢力拡大を懸念していた劉表は曹操・袁紹と密約を結ぶ。

 合従連衡の波は次から次へと連鎖反応を起こし、やがて袁紹を盟主とする勢力(華北を拠点とする袁紹、曹操が中心となったため、現代では北部同盟として知られる)と、袁術を中心とした対抗勢力(主に河南以南の諸侯によって構成され、南部連合の呼び名が一般的)の2大勢力に集約。

 後に『二袁の争い』と呼ばれる大戦争の始まりであり、文字通り戦火は中華全土に拡大したのだった。

 

           ――『古代の歴史13章・三国志 二袁の争い』(20××年発行)より

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 荊州南陽群・宛城――

 

 豪奢な調度品、綺麗に飾られた名画、高価な陶器、精巧な作りの金銀細工、上質の絨毯――およそ庶民には手の届かない、絢爛豪華な貴族の世界。華美で知られる袁術の宮殿にも劣らぬ、屋敷の一室に彼女はいた。

 澄んだ翠色の瞳、白磁の肌、柔らかな亜麻色の髪……部屋が部屋なら、家主も相応という事だろうか。悔やまれるべきは、歪んだ表情がその美しさを損なっているという一点。彼女――劉子台はこみ上げる激情を無理矢理抑えこむのに必死だった。

 

「そうまでして社会を、この世界を動かしたいの……?」

 

 もはや戦争は不可避……諜報を司る保安委員会からの報告は簡結だった。

 言うまでもなく、曹操達の最終的な目標は――。

 

 勢力均衡を狂わせ、止まっていた時間の針を再び動かすこと。

 

 司隷への挑発行動、袁術との取引、劉焉への思わせぶりな態度、袁紹との密約……一見するとこれらの行動に一貫性は見られない。だが、劉勲が「勢力均衡」というただ一つの目的の為に無節操な外交を行ってきたように、「均衡の破壊」という観点に立てば曹操の行動は終始一貫している。

 

 永遠の敵もなく、永遠の友もなく。状況が変化すればそれは刻一刻と変化してゆく。

 劉勲が諸侯間の不信感を煽る事で均衡と冷たい平和を達成したように、曹操も諸侯間の不信感を煽る事で中華の全諸侯を完全な決裂へと導いた。

 

 ここに、ひとつ大きな見落としがある。勢力均衡による平和は、あくまで均衡状態の一形態に過ぎないということ。仮に戦争が起ころうと、パワーバランスさえ偏らなければ勢力均衡は維持され得る。

 つまるところ冷たい平和をもたらしたのは勢力均衡そのものでは無く、均衡を保つための会議。事なる利害を持つ諸侯が、相互に妥協・協調し、処理して秩序を維持する「話し合いの場」だったのだ。皮肉にも、袁術陣営は自らの手でそれを封じてしまった。

 

 そして諸侯は話し合いの場を失った。口で語る場を失った彼らは、己の拳で語るしかなくなった。均衡を保つためには、『話し合い』ではなく『戦争』をせねばならなかったのだ。

 そして、それこそが曹操の目的だ。長い停滞の時代にあって中華に溜まった膿を、曹操は外科手術によって一気に摘出しようとしている。下手をすれば患者が死にかねないほど、大胆な手術を。

 

 

「それでも、世界を変えるの……?」

 

 劉勲は軋むような声で言葉を漏らす。

 月明かりに照らされた翠色の瞳が、蝋燭の灯りで僅かに揺らぐ。

 

「前にも言ったのに……。世の中は何も変わらない、変えられない。世界は、個人の手には大き過ぎるのよ……」

 

 必然、無理に変えようとすれば必ず歪みが生じる。

 悲しみの数は増えるだろう。苦しみの数も増えるだろう。嘆きの数が増えるだろう。

 

 止まっていれば、何も変わらなかったというのに――。

 

 

「……それでも、アナタは変えたいんだ?――華琳ちゃん(・ ・ ・ ・ ・)

 

 

 ふっ、と思わず漏らした音は苦笑だったか。それとも嘲笑か。

 

「本当に、昔から自分勝手なんだから……」

 

 そう言って口を尖らせる様は、まるで拗ねた少女のような。

 あるいは、お転婆な妹に呆れる姉のようでもあって。

 だから――。

 

「うふふ………あははははっ!」

 

 思わず笑ってしまう。笑いが止まらない。自分でもおかしいと思いつつも、なぜか止めることができない。初めは小さく絞り出すような音でしかなかったそれは、やがて空気をつんざくような笑い声へと変化してゆく。

 

「はははっ、あはははは、アハハハハハハハ―――ッ!」

 

 この広い世界を。どうしようもない現実を。所詮は一介の人間でしかない存在で、本気で望み通りに(・ ・ ・ ・ ・)変えられるとでも? 笑止、可愛らしいにも程がある。

 

「いいわ。面白いじゃない! 世界を変えて、望み通りに変えられると思うならやってみなさいよ――」

 

 半世紀以上の長きに渡って続いてきた、儒教の呪縛を解けるというのなら。

 千年を超える中華の伝統と秩序を壊し、変革し再建するというのなら。

 劉備を、孫策を、周瑜を、袁紹を、劉表を、劉焉を、馬騰を、公孫賛を、そしてこの自分を。まとめて悉く一掃できると信じているのなら。

 

 ――やってみればいい。

 

 それを以て、彼女の覇道は完遂する。逆らう人間をねじ伏せ、邪魔な者は殺せば良い。曹孟徳の価値観が中華の全てを覆い尽くした時、その時こそ自分もまた敗北を認めよう。

 

「――まぁ、させないけどね」

 

 ゆっくりと、目に見えぬ質量を伴って劉勲は立ち上がる。蝋燭の灯りを受けて、幾つにも分かれた彼女の影が妖しく踊る。斯くして――魔女は、獲物を見定めようとその鎌首をもたげ始めたのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 青州・都昌、沿岸部にて――

 

 そこには、今次大戦を象徴するかのような光景が広がっていた。普段なら緩やかな波が陽光を浴びて輝いているはずのその湾では、無数の艦隊が水面を埋め尽くしていた。オーソドックスな闘艦や露橈から、大型の楼船まで、ありとあらゆる艦艇が停泊している。波に揺られる甲板からは次々に兵士が吐き出され、橋頭保を確保すべく内陸へと進撃を続けていた。

 

「各員報告!状況はどうなっている!?」

 

「高覧隊、目標地点に到達!なおも橋頭保への接近を継続中!」

 

「張郃隊より報告!前方距離8里ほどにて敵騎兵を視認――数は約700、威力偵察部隊だと思われます!」

 

 『第17計画』の発動から6日と3刻後の現在、作戦は第2段階に入っていた。

 第1段階においては袁紹軍の先遣隊が陽動のため南部の州境を突破、青州側の州境警備隊は直ちにこれに応戦し、現在も交戦が継続中だという。4日後、孔融軍主力が南部州境へ向けて移動を開始したとの報告を受け、袁紹軍筆頭軍師・田豊は陽動の成功を確信。総大将・袁本初によって袁紹軍青州方面北方遠征軍所属の全部隊に上陸作戦が伝達され、青州楽安国にある3ヶ所の河岸の町と1ヶ所の港町都昌に向けて強襲上陸が開始された。中でも最大規模の上陸が行われたのは都昌付近の海岸からであり、沿岸部をつたって2万もの部隊が投入されていた。

 

「顔良将軍より伝達!“必要以上の追撃をこれを禁ず。橋頭保の構築を優先せよ”とのことです!」

 

「よし!――聞いたか貴様ら!いいな、俺達の任務が後続部隊の為の拠点確保だという事を忘れるな!」

 

「「「 了解! 」」

 

 だが孔融軍もそう簡単には通してくれない。海岸特有の足場の悪さに四苦八苦する袁紹軍に、巧みにダメージを蓄積させてゆく。

 そんな自軍の兵士達を、顔良は旗艦の台座から眺めていた。彼女が乗船しているのは、楼船と呼ばれる巨大な木造船だ。船の周囲に防御用の板を張り巡らせ、乗員は少なくとも200人はくだらない。全長20m以上もあるこの大型船はオールと帆を動力とし、この時代では数少ない外洋船でもある。

 

「いよいよ、始まるんだ……。本当の、大戦争が……!」

 

 上陸部隊の司令官として平静さを装いつつも、事の重大さに気押されそうになっていた。理由はどうあれ、自分達は青州の中立を一方的に踏み躙ったのだ。ここまで来た以上、もはや後には引けないだろう。腹をくくって戦争を始めるしかない。

 

 

「ふむ……様子を見るに、ひとまずは我らの勝利ですな。敵もまさか海を越えてこれほどの大部隊が送る込まれるとは、想像だにしていなかったでしょう」

 

 そう言って顔良に声をかけたのは、逢紀という壮年の軍師だった。ひょろっとした線の細い男性で、同じく青州方面北方遠征軍に所属している。その言葉に顔良も軽く頷き、戦場の方へ視線を向けた。

 袁紹軍は小型船を使って負傷兵と新手の兵士をピストン輸送しながら、じわじわと目標の港町へ浸透している。このままいけば、もうしばらくで全ての拠点を確保できるはず。 

 

「あと少しで我々も上陸することになります。その後は基本的に田豊殿が決めたとおりに動く事を予定していますが、顔良将軍からは何か?」

 

「念のため、もう一度すべての士官に命令内容の確認をしてもらえますか?戦闘は可能な限り回避、橋頭保の確保を最優先にと」

 

「了解しました。では、私から部下にそのように伝えましょう」

 

 一礼して立ち去ってゆく逢紀の姿を見送りつつ、顔良は本作戦の前に伝えられた田豊の言葉を思い出す。

 

 

“――孔融軍主力が南部に向かっているため、北部での進撃は比較的容易だろう。お前達の目的は青州の州都・臨菑の制圧だ。兵站は基本的に現地調達で賄い、速度を優先せよ”

 

“――陽動で孔融軍主力を南部におびき寄せ、その間に北部から上陸し一気に州都制圧を目指す……そういうことですか?”

 

“――然り、理解が早くて助かる。我らの本命の敵は北の公孫賛だ。青州は可能な限り短期間で占領するに越したことは無い。”

 

 加えて北への兵力輸送には速度を重視して船舶を使用する予定であり、それまでに水軍との連携が取れるようにしておきたい、との思惑もある。田豊は続けて、もし孔解軍が方向転換して北へ向かった場合のプランを話した。

 

“――その場合は姫様の本隊が青州侵攻軍の主力となり、冀州から全面侵攻を開始する。上陸部隊は当初の予定を変更し、青州北部に複数の拠点を確保しつつ、孔融軍に対して遅滞防御を行う”

 

 

 要するに出来るだけ時間を稼げ、ということ。顔良たちが孔融軍を引きつけてくれれば、それはそれで本隊にかかる負担が減らせ、正面からの侵攻が容易になるからだ。

 まさに数の優位を生かした典型的な外線作戦といえよう。田豊の意見に従って総動員を行った袁紹軍では、最終的に30万もの兵が使用可能になる。“動員が完了するまでに時間がかかる”という弱点は、こちらから先制攻撃をかける事で克服した。後は各指揮官が己の任務をきちんと全うすれば、機械的に勝利は転がり込んでくるはず。

 

(どちらにせよ、私達が今なすべき事は変わりません……)

 

 雑念を振り払うようにして、顔良は戦場へと顔を向ける。

 先ほどの敵の主目的はやはり偵察であったらしく、先行していた部隊の一部に軽い損害が出たものの、本格的な反撃を受ける前に退却していった。落ち着きを取り戻した袁紹軍は後続部隊の安全を確保すべく、再び橋頭保を広げる作業に戻っていた。

 

「将軍、高覧隊は港湾地区の占領に成功したようです。張郃隊も再び進撃を開始しており、まもなく目標を達成するものと思われます。明日までには必要な縦深を確保できるでしょう」

 

 部下の報告を受け、顔良は小さく頷く。

 

「分かりました。では、目標を達成した部隊から順に休息を取らせて下さい」

 

「はっ!」

 

「その間に船から残りの兵を降ろし、哨戒と野営の準備を。――明日からは本格的に内陸侵攻を開始します」

 

 作戦はまだ始まったばかりだ。たとえ孔融軍を撃滅したとしても、次には公孫賛との戦いが待っている。華北を制し、地盤を盤石にするまで袁紹軍の戦いは終わらない。

 あの日、麗羽様はそう決断された。そして責任をもって大役を任せてくれた。ならば、自分もその期待に応えねば。

 

 袁家の将兵を預かる者としての責任を胸に、顔良は戦場を見つめる。その視線の先には、無数の死体と荒廃した大地が広がっていた。

               




               
 また前回の投稿から期間が空いてしまいました。その割には話があまり進んでないような……。
 でも一度まとめた方がいいと思ったので、曹操の父親暗殺からの流れをさくっと。

 史実だと董卓死後の漢は袁紹派(曹操、劉表など)と袁術派(公孫賛、陶謙など)に分かれてドンパチやってたそうですね。一応親戚なんだから仲良くしとけば袁家で天下とれたかもしれないのに……もったいない。


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54話:拡大する戦火

              

 徐州に戻ってきた劉備たちに転属命令が出されたのは、曹操からの宣戦布告とほぼ同時刻だった。曹操軍が到着するにはまだ数日ほどの余裕があると見られ、その間に可能な限り守りを固めるのが彼女達に与えられた任務だ。

 

 『――琅邪国にて現地の部隊と合流し、曹操軍の侵略に備えた防衛陣地を構築。増援の到着まで持ち場を死守せよ』

 

 上記の命令に従って彼女ら一行は琅邪城へと向い、命令通り防衛線――主要拠点たる本城と、それを支援する支城群――を構築すべく現場へ向かっていた。

 

 ただし、この遠征に劉備と北郷一刀、そして諸葛亮はいない。南陽で劉勲から伝えられた曹操軍の作戦計画を陶謙に伝えたところ、徐州からの援軍として青州に向かう事になったからだ。

 

 

 目的地へ進むにつれ、周囲の空気が変化していくのを関羽は感じ取った。人々は動きは慌ただしげになり、兵士の比率が明らかに増えている。いくつかの関所を通過し、自分達を不安そうに見上げる農民たちの視線を浴びながら数日ほど馬を走らせると、ようやく琅邪城が見えてきた。

 

 城、というより壁だな――それが、関羽が最初に抱いた感想だった。徐州の護りの要として、兌州との境界線上を封鎖するように張り巡らされた大要塞。地平線を横切るように作られたそれは、彼女の思ったとおり“城”と言い切るには不釣り合いな壮大さとみすぼらしさを内包していた。土塁を積み上げて作られた城壁の高さはせいぜい2mほど。石垣で補強された監視所には石造りの塔や木の櫓が設置され、その頂上には巨大な弩や投石機が備え付けられている。

 全体的には万里の長城をモデルとしたらしく、長大な城壁には砦が等間隔で計40ほど設置。大型の要塞には1000人程度の守備隊が配置され、加えて各所に30人ほどが駐在する監視所も多数存在している。中には城砦が発展して街となった場所もあり、付近から逃げ込んだ難民の受け皿となっていた。

 

 

「おお!ようやく来たか!」

 

 関羽達が主城に到着すると、司令官と思しき中年の男性が出迎えに現れた。頭部はすでに禿げかかっており、多忙そうなせわしない動作が目につく。

 

「いやぁ、待ちかねたぞ。なかなか活きのよさそうな顔つきをしているではないか!」

 

 はっはっは、と一人で笑い始める司令官。悪い人ではなさそうなのだが、なんだか凄く嫌な予感がする。

 

「関雲長、徐州牧の命により参陣した!これより、貴官の指揮下に入る!」

 

「うむ。元気があってよろしい!やはり若者はこうでなくてはな!」

 

 司令官は上機嫌な様子で関羽たちを見回す。一人一人をしげしげと眺めた後、今度はうって変わったような小声で呟いた。

 

「関羽くん、私達のような兵士の仕事は主に2つある。何だか分かるかな?」

 

「それは……侵略してくる敵と戦うことと、賊に備えて治安を維持することですか?」

 

「いいや。歩くこと、そして陣地を作ること……これが我々の日常の大部分を占めている。戦闘なんて仕事の一割にも満たない」

 

 言われてみればその通りだ。人はいつまでたっても終わらない作業を仕事と呼ぶ。戦闘なら始まって1日もあれば終わるが、陣地構築は続けようと思えばいくらでも続けられるのだから。

 

「見ての通り防御に回る私達の場合、陣地構築という地味だが非常に責任重大な任務が与えられている。だからこそ、この地の将来を担う若い人材である君たちには出来る限り活躍出来る場を与えたい」

 

 やりがいがあって若手が活躍出来る職場です……司令官は言外に笑顔でそう告げる。

 もし現代知識を有する北郷一刀がこの場にいれば、顔色を変えてこう言っただろう――それはやりがい(笑)を感じざるを得ないほどの仕事量があり、ベテランが逃げ出すから若手に頼らざるを得ない職場だと。

 

 

「さて……君たち、徹夜で働いた経験はあるかね?」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 袁紹軍の侵略は青州西部でも開始されていた。こちらは曹操軍との共同作戦が行われており、兵力数の多い袁紹軍主導で作戦が推移していた。

 文醜率いる冀州第3戦闘団もその一つで、攻撃の第一波として最初に孔融軍と刀を交えた部隊でもある。部隊は100人ほどの小部隊ごとに分かれ、それぞれが正方形の密集陣形を編成していた。、

 

「前3列!槍を前に!」

 

 密集方陣を組んだ兵士が盾を前にかかげ、その隙間から槍を2~3mほどの槍をつきだす。文醜はこの戦列を縦・横に複数並べており、その狙いが波状攻撃による突破である事は明白だった。

 

「行くぞ!みんな、あたいに続けぇえええーーっ!」

 

 文醜の命令に従い、部下も突撃を開始する。一瞬、砂嵐かと見紛うほどの土埃が舞い上がり、かつては美しい草原だったであろう草地が軍靴によって踏み固められてゆく。

 

「「「 うおおぉぉーーっ! 」」」

 

 雲ひとつない快晴の空の下、東から差す太陽光が袁紹軍をまばゆく照らす。突き抜ける風を受けて『袁』の旗がはためき、袁紹軍は天候すらも味方につけているようであった。

 彼らは重装歩兵を主力とする部隊であり、各々が金属製の鎧と兜、盾を装備している。文醜は装甲兵の生み出す強力な衝撃力を生かし、力押しの突撃によって序盤から戦闘を優位に進めていた。

 

「なぁ、そこの兄ちゃん。作戦会議で田豊のじーさん、何か言ってたっけ?」

 

「はっ!私の記憶にある限りでは“必要以上に敵兵を討たず、ひたすら正面突撃を敢行せよ”と言っておられました!」

 

 現在、戦場では袁紹・曹操の連合軍と孔融軍が対峙している。文醜のいる場所は中央の前衛であり、左翼には袁紹の本隊が、右翼には曹操軍が展開していた。一応は後衛として冀州の豪族軍もいるものの、連携が不十分と判断されたため完全に支援・予備兵力扱いとされている。

 

「そっか。ま、要するにあたいらは細かいこと気にしないで、とりあえず前に進めばいいんだ。倒せなかった敵は後ろの味方が何とかしてくれるっしょ!」

 

「「「了解!」」」

 

 文醜麾下の兵士は正面に盾を構え、隊列を乱さない程度の速度で前進。同時に後方からは友軍の弓部隊が放った矢が曲線を描いて飛んでゆき、前に立ちはだかる孔融軍を混乱させる。弓やによる曲線射撃は殺傷力こそイマイチであるが、それでも隊列を崩すには十分な効果があった。降り注ぐ矢の雨によって足並みの乱れた孔融軍に、重装備歩兵隊を止める力はなかった。

 巨大なローラーに押し潰されるように一人、また一人と踏みつぶされてゆく孔融軍。戦列の崩壊はもはや時間の問題であった。

 

「文醜さんだけに良い格好をさせる訳にはいきませんわ!わたくし達も攻撃しますわよ!」

 

 文醜隊の斜め後方には、袁紹の率いる本隊がいた。こちらにも完全武装の兵士達がずらりと集結しており、少なくとも1万は下らないだろう。この袁紹直属部隊に属する兵は袁家特有の金鎧を装備しており、遠くからでもかなり目立つ。もちろん本物の金ではなく綺麗に磨いた鉄に橙色の塗料を塗っただけのメッキではあるが、陽光を反射してひときわ存在感を出していた。

 

「この戦場には華琳さん、曹操軍も参加しています!見苦しい戦いをして名門袁家の名に泥を塗らぬよう、全力で戦いなさい!――いいですわね!?」

 

「「「御意!」」」

 

 最高司令官・袁紹の号令のもと、袁紹軍は全面攻撃を開始する。無数の矢による援護を受け、黄金の波が地響きを立てながら動きだす。

 

「雄々しく!勇ましく!華麗に前進なさい!華琳さんに袁本初の戦いを――真の王者の戦い方を見せつけるのです!」

 

 

 ◇

 

 

「すごい……」

 

 隣で攻勢を開始した袁紹軍を見て、許緒は無意識の内に感嘆の声を漏らしていた。

 

「これが、袁紹軍の戦い方………!」

 

 視界に映っているのは、圧倒的な戦力で文字通り敵を踏み潰していく袁紹軍。彼らは主力である重装歩兵の突撃を連続的に叩きつけ、立ちふさがる孔融軍を完全に粉砕していた。

 

「密集方陣の逐次投入なんて……そんな方法が……」

 

 軍師として数多の戦術を研究してきた郭嘉でさえ、袁紹軍のとった戦法は想定外のものだったらしい。他の多くの将軍と同じように、馬上から身を乗り出すようにして戦場を凝視する。

 

 袁紹軍は重装歩兵隊に密集隊形をとらせる事で、正面に対する衝撃力および殺傷力を極限まで高めていた。それを中央に配備し、ひたすら正面突破を繰り返す。それを後方から弓兵と弩兵が援護し、敵の隊列が乱れた所に主力である重装歩兵部隊が突撃をかける。数少ない騎兵は軽装歩兵と共に弱点となる両翼に配置され、側面を突こうとする敵部隊を牽制していた。

 目指すは圧倒的な戦力投入による中央突破。実に単純だが、それゆえに確実で有効な戦術だ。傍目には策という名の小細工を弄する曹操軍よりも、よほど『王者の軍』としての風格があるように見えることだろう。

 

 

「おおー。例の戦法、完成していたんですねー。――あのクルクルの嬢ちゃんも中々えげつない事やってくれるぜ」

 

 曹操軍の中でただ一人、程昱だけが普段の緩慢な雰囲気を崩していなかった。北方の軍政は彼女が担当していたため、以前から少なくない情報を獲得していたのだろうか。頭上の人形と会話する彼女に、全員の視線が注がれる。

 

「もともと袁紹さんは派手で分かりやすい、決戦を好んでいました。だから消耗戦でチマチマと敵を追い詰めるのではなく、正々堂々と戦って敵主力を殲滅するのが袁紹軍の基本なのですよ」

 

 そこで採用されたのが、決戦主義の権化ともいえる密集方陣。西洋のファランクスに代表される、正面からの激突を前提とした陣形だ。彼らの大半は槍・楯・鎧で身を固めた重装歩兵であり、豊富な袁家の資金力をもってすれば中華で最も優れた武装を整えた軍団が誕生する。

 しかし袁家の象徴ともいえる、この煌びやかな軍団にも致命的な弱点があった。程昱の腹話術によって人形の口から、袁紹軍の弱点が語られる。

 

「おうよ。密集してる分、コイツら動きがトロいんだよなぁ。川とかあると通れないし、ついでに一度動き出すと止められないから、回りこまれたらお陀仏ってわけだ。しかも陣形のどっかが一つでも崩れると、全部隊が崩壊しちまう」

 

 やはり機動力。密集方陣はその特性から『動く要塞』とも称されるが、もともと要塞は動くものでは無く留まるためにあるもの。足並みを揃えて素早く移動できるのは、よほど訓練された精鋭部隊に限られる。

 

「そこで連中は考えた。“なら部隊を細かく分けて、機動力と柔軟性を確保すればいい”ってな」

 

 密集方陣の人数を減らせば隊列維持の負担が減り、移動や方向転換が容易になる。しかも同じ人数でも、まとまった戦闘単位である部隊数は増えるため、より柔軟な戦術展開が可能となるのだ。もちろん方陣一つ当たりの衝撃力は減少するものの、作戦の幅が増える事にはそれ以上のメリットがあった。

 だが、それでも郭嘉には一つだけ腑に落ちない点があった。

 

「ですが風、それだと指揮系統が複雑化しませんか?部隊数が増えれば、それだけ下士官が必要になるはず……」

 

「風もそこが疑問だったんですが、さっき稟ちゃんが言った言葉がその答えのようですねー」

 

 袁紹軍のとった方法は単純だった。密集方陣の逐次投入による波状攻撃――大量の予備戦力を用意しておき、必要が生じるごとに新手を投入すればよい。複雑な命令を下す必要が生じた場合には、命令を分割して一つ一つの命令を単純化するのだ。部隊数が多いからこそ可能な荒技といえよう。そしてそういった状況把握・部隊指示は全て後方の軍師が行い、各部隊指揮官は個性をもたない駒として、下された命令を忠実に実行するのだ。

 

「そんな事が……」

 

 にわかに信じ難い、といった表情の郭嘉。

 この時代の常識に従えば、持てる戦力を全て一斉に投入するのが最良の手段だった。なぜなら予備の投入はタイミングが難しく、下手をすれば単なる遊兵になりかねないからだ。しかも命令伝達には時間がかかるため、予備戦力が現場に着く頃には戦況が変化している可能性が高い。

 

 だが、袁紹軍は同じように単純明快な方法で情報伝達の問題点を克服したようだ。

 見れば、本陣からは戦場からもハッキリ見えるような巨大な旗が掲げられていた。旗は複数あるらしく、定期的に揚げ替えている。

 

「これって……旗に描かれた番号で部隊を識別して、色で命令内容を伝達してるってことよね……」

 

「おー、さすが稟ちゃん。理解が早くて助かるぜー」

 

 かなり原始的な手旗信号とでもいうべきか。たとえば数字が“弐”の“赤旗”なら、文醜隊・正面突撃 などというような内容で命令を伝えるのだ。モノがモノなだけに複雑な命令は伝達できないが、基本的に正面決戦を主たる戦術としている袁紹軍ならばさほど致命的では無い。

 また、見やすさを優先したために「敵にも命令内容が解読され易い」という難点も残っているが、たとえ命令内容を解読したとして袁紹軍の攻撃を防ぐのは至難の業だろう。袁家の持つ豊富な兵力と無限とも思える物量を以てすれば、多少の小細工などあって無いも同然なのだから。

 

「本来なら袁紹軍にとって、策や謀略なんて必要ないのかも知れませんねー。大軍というのは、適切に運用されれば存在するだけで脅威ですから」

 

 袁紹軍が『数の優位』に執拗にこだわった理由もここにあった。数の優位はそのまま戦術、戦略上の優位となる。いくら細分化したとはいえ、それでも現在戦闘中の袁紹軍の総数は孔融軍を上回っている。そしてたとえ予備の投入に失敗しても、あるいは予備の到着に時間がかかろうとも――それを補えるだけの兵力が常に戦場にいれば、いつでも新手を投入して挽回できる。極端な話、初戦で負け戦になったと感じれば予備部隊を丸ごと引き揚げさせ、再び領地で戦力を揃えてリベンジを挑む事も可能なのだ。

 

 見れば、目の前にいる袁紹軍は少なくない損害を出しつつも、孔融軍の戦力を確実に削り取っていた。中には敵の反撃によって崩壊する部隊もあるが、すぐに別の部隊がその穴を塞いでしまう。「正面突撃を繰り返す」という至極単純な戦法を徹底的に極める事で、袁紹軍は『最強』の領域に達しようとしていた。

 

「袁家にはそれを可能に出来る財力と兵力、名声があるのです。『失敗しても取り返しがつく』という利点を最大限に活かしたのが、この戦法なのですよ」

 

 程昱の言葉に、居並ぶ曹操軍将兵は戦慄する。何の面白みも無い力押しの戦術だが、同様の戦術を自分達がしようとしても絶対に不可能だったからだ。

 所詮は成り上がり者でしかない曹操軍には、ただの一度の失敗も許されない。。たった一つの敗北が、そのまま組織の崩壊に直結する。もし軍団が一つでも壊滅すれば、その穴を補う兵力は残っていないし資金もない。しかも曹操軍の名声は軍事力によるところが大きいため、戦場で敗北すれば全ての支援者からの支持を失いかねないのだ。

 

 もちろん曹操は自らの弱点を知っていたからこそ、“一度たりとも敗北しない”ために軍を強化した。軍事を第一とする先軍政治を行うために強引な中央集権化を推し進め、領地にある全ての人材と資源を有効活用するべく政府の管理下に置いた。兵に厳しい訓練を施し、中華全土から優秀な人材を集め、絶えず戦争の技術を磨き続けた。その結果が中華最精鋭にして『無敗』の曹操軍。ただの一度でも敗北すれば中華から消滅する宿命を負ったがゆえに、未だ一度たりとも敗北した事のない最強の軍隊だ。

 

 

(袁紹と同盟を結ぶという、華琳様の判断は間違っていなかった。でなければ今頃……)

 

 こうなっていたのは自分達かもしれない――そんな想像が郭嘉の頭をよぎる。

 既に孔融軍は秩序を失って潰走を始め、袁紹軍は追撃戦へと移っていた。先ほどまで攻撃の主力を務めていた重装歩兵に代わって、今まで後方に控えていた地方豪族の私兵からなる混成部隊が投入される。いくら袁家の精兵いえども人間である以上、激しい戦闘の疲労は確実に肉体を蝕む。それを考えれば部隊の消耗を抑える意味でも、追撃隊の切り替えは適切な判断だった。同時に錬度も連携も不十分な豪族の混成軍の使い所としては、これが最良だろう。

 

(単純な戦法は、単純であるが故に裏をかきにくい。私達は、本当にこの突進を防ぎきれるの……?)

 

 眼下に映るのは孔融軍だった(・ ・ ・)もの。重装歩兵に踏み潰された兵士の亡き骸はほとんど原形を留めていない。かつては美しかった平原は見るも無残な姿へと変貌しており、そこかしこに血と泥が混じった肉片がまき散らされていた。

   




今回は袁紹軍のターン。作者の個人的な見解ですが、個々の将兵はともかく軍隊という組織でみれば最強の軍隊は袁紹軍というイメージです。
 古代の戦闘で「質の高い軍隊」って言うと「よく訓練された軍隊」というイメージが強いですが、実際には装備もかなり重要だと思うんです。この時代の兵士の大半は軽装歩兵ですので、金にモノを言わせた袁紹軍が完全武装の重装歩兵の大部隊を投入したら……現代のアメリカ軍みたいな感じかな?兵士個人の戦闘能力とかだとイスラエルあたりが圧倒的だけど、溢れるマネーと資源から生み出される最新鋭の武器と装備でゴリ押しするぜ!みたいな。

 あと密集方陣って何かよく分からないロマンがあります。ギリシャのファランクスからローマのレギオン、スペインのテルシオなどなど……たくさんの人間が整然としている光景はいいものです。


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55話:斉国の末裔

    

 中原の東には、渤海と黄海という海がある。それを分断するように存在するのが山東半島――すなわち中華を分ける13州の一つ、青州であった。

 その起源は春秋戦国時代に太公望によって建国された『斉』国を起源とする。海に面しているためか、穏やかな気候から漁業や製塩業が盛んな土地であり、平坦な地形と多くの河川に支えらた農業州でもある。

 

「酷い……」

 

 まるで戦場跡のようだ――馬車から外を眺めていた劉備はそう呟いた。

 陶謙直々の命令により『義勇軍』として宛城を出発し、徐州から馬で北上すること約4日。そこには荒涼とした平原が広がっていた。州都である北海城からそう遠くないはずなのに、開けた平原には廃棄された羊小屋と兵士の死体らしき残骸しかない。かろうじて存在している僅かばかりの田畑が人の営みを証明しているが、雑草が茂っていることから耕作放棄されてから久しいのだろう。

 

「……まるで廃墟じゃないか」

 

 同じように馬車の中から荒れ果てた光景を見ていた人物、北郷一刀も唸るように声を絞り出す。

 実際、その通りなのだろう。中華に存在する13の州の中でも青州は君主権力が確立されず、長きに渡って政情不安が続いていた。あぶれた者たちは黄巾党へと身を投じ、更には袁紹や公孫賛といった列強の思惑に国政は絶えず左右されていた。

 

(彼らもまた平和の(・ ・ ・)犠牲者(・ ・ ・)ということか……)

 

 劉勲の作り出した、平和という名の歪み。もともと彼女が平和維持のために掲げた、『勢力均衡』という概念の本質は現状維持にある。変化を恐れるがゆえに思考を止め、進歩を止め、万人を等しく悠久の停滞の中に閉じ込める……新たに生まれるかもしれない悲劇を回避するために、今そこにある悲劇を現状のままに留めるのだ。

 

 なればこそ袁紹派と公孫賛派が争う青州で、いつまでも内戦が終わらないのは必然と言えた。どちらが勝利してもパワーバランスは崩壊する。土地と人口がそのまま国力となるこの時代、戦争の勝利は勝者へパワーの一極集中をもたらす。そうなれば膨張したパワーは別の場所へ向かい、また新たな戦争が行われるだろう。以前より大規模で、より破壊的な殺戮が。

 

「でも……劉書記長の理論通りにはなりませんでした。勢力均衡は軍拡競争を生みだし、その重みに耐えきれなくなった各諸侯は結局戦争に活路を見出した……」

 

 

 勢力均衡は失敗だった……諸葛亮はそう結論づけた。

 だが、それは勢力均衡が他の安全保障に比べて劣る事を意味しない。南陽郡の発展、反董卓連合戦後の長期に渡る平和を省みれば、むしろ少ない犠牲で多くの効用を生み出したとさえ言える。

 

 とはいえ、犠牲が無かった訳では無いのだ。全体から見れば少ないだけで、彼らのように必要悪として見捨てられた者も確かに存在するのだ。

 

「私たちはそれを忘れてはいけません……たとえ必要な犠牲というものがあったとしても、無いに越したことはないのですから」

 

 

 彼女たちがこれから向かう先は、青州の州都・臨菑だ。

 聞いた話によれば青州軍主力は数日前に袁紹・曹操連合軍と交戦、圧倒的物量の前に大敗を喫したらしい。それからといもの、もともと列強のバランスを保つために祭り上げられた青州牧・孔融の求心力の低さも相まって、軍から離反するものが後を絶たないという。大部分の青州豪族も日和見を決め込み、残った兵士を引きつれて自領へ帰還。結果、未だに忠誠を誓っているのは孔融が若い頃に太守をしていた北海郡の部隊だけとなる。孤立した孔融は自分に従う全部隊を臨菑城へと集結させ、籠城の構えを見せていた。

 

 

 ◇

 

 

 それから馬車を進めること数刻、周囲を高い城壁で囲まれた臨菑の街がその姿を現す。敵に利用されるのを防ぐためか、付近の農村からは邪魔な民家や屋台などがすでに撤去されている。一方で多くの家を追われた難民が城に押しかけており、城門には長い長い列が出来ていた。

 臨菑城に集まってくるのは難民ばかりでは無い。城壁付近には幾つもの天幕が設置され、青州全土からかき集められた兵士が来たるべき出陣の時を待っている。

 

 城門には数十名の青州兵が整列しており、一刀ら徐州からの援軍に気づくとすぐさま馬を駆って出迎えた。

 

「徐州の諸君、よく来てくれた!我々は心より君たちを歓迎する!」

 

 城門前に到着した一刀たちに、馬に乗った若い男性が挨拶をする。引き締まった体躯を藍色の外套で包み、その手にはよく磨かれた馬上槍が握られている。被っていた羽根つき兜をおろすと、刈り込んだ金髪が目を惹く、気品に溢れた美男子が現れた。

 

「私は青州第一騎兵部隊隊長の太史慈という者だ!以後、お見知りおき願いたい」

 

「北郷一刀と申します。徐州牧・陶謙殿の命令により、援軍1万5000名を率いて参りました」

 

「なんと、これは心強い。――さぁ、どうぞこちらへ」

 

 

 警備兵が難民の列を退かして道を作ると、太史慈と名乗った男は軽い調子で話を進める。

 主な内容は近頃の青州の内情であり、先の敗戦の結果として敗北主義がまん延しているとのことだった。

 

「知っての通り、我々の状況は芳しいものではありません。とりあえず青州全土に戒厳令を発したものの、果たしてどれだけの諸侯が応じる事やら」

 

 軽口を叩いているが、内容は深刻だ。

 先日、曹操は青州に対して『軍の通行権』を要求。これは“軍隊の通行さえ許可してもらえるなら、青州の政治・経済・外交には一切介入しない”との内容を保証するものであり、勝利を諦めて自領の安泰を図ろうとする者にとっては抗いがたい魅力を放っていた。

 

「ですが、悪い知らせばかりでもありません」

 

 太史慈はくるっと振り返って、輝かんばかりの笑顔を向ける。

 

「あなた方は約束通り此処へ来てくれた!それが、私たちにどれだけ希望を与えてくれたことか!」

 

「は、はぁ……」

 

「見たまえ!道行く人々の表情を!つい先日まで死んだ魚のような目をしていた彼らの瞳には、今や未来への期待の光が宿っている!」

 

 爽やかな好青年といった佇まいを保ちながらも、興奮しながら語り続ける太史慈。初めはハイテンションな彼の言動に困惑気味だった一刀達も、道を進むにつれて段々とその理由がわかるような気がしてきた。

 

「希望、か……」

 

 より軍事的な表現で表すならば、『士気』という単語が適切だろう。青州ではもともと君主権力が弱く、州牧いえども直接指揮できる兵員は4万に満たない。後は有志の豪族の私兵軍を集めることになるのだが、不利な戦に身を投じる物好きはそう多くはない。袁紹・曹操といえば中華を代表する列強だ。軍事・政治・経済・外交・人口・資源……その全てにおいて青州は劣っている。

 であれば、嵐が過ぎ去るまで待つのが賢い選択というもの。豪族も、民も、兵士も皆そう考えていた―――これまでは。

 

 援軍の参戦……例えそれが気休め程度の規模だったとしても、援軍が派遣されたという“事実”は彼らの心を大きく勇気づける。

 

「俺達にできることなら、何でも協力しますよ」

 

「おお、それはありがたいことです!」

 

 一刀の言葉に、太史慈は目を輝かせる。続けて顔を一刀に近づけ、耳元でそっと囁いた。

 

「その、言いにくい事なのですが……実は今、少し面倒な事になっていましてね――」

 

   

 ◇

 

 

「これはれっきとした侵略ですぞ!」

 

「左様です。我々は不当な脅しには決して屈しない!」

 

「そうは言うが、現実を見たまえ!挙国一致で戦えば、敵に勝てるとでも言うのか!?」

 

「やってみなければ分からないだろう!」

 

 太史慈に案内されるがままに北海城へ入った途端、劉備達は先ほどの太史慈の言葉の意味を痛いほど理解した。評議場では激しい討論が繰り広げられ、傍目にも青州政府が機能不全に陥っている事が分かる。このような光景は何度か見たことがあるとはいえ、劉備達にとって一つだけ予想外の出来事があった。

 

「ただ単に軍隊の通過を認めるだけですぞ!それだけで我々は今まで通り平穏に暮らせるのです!」

 

 議場の中央から一人の男性が声を張り上げる。すると周りの人間も同調するように口々に曹操への妥協を主張し始める。どうやら、彼が反戦派の中心人物のようだ。

 

「太史慈どの、彼は……」

 

「ああ。まだお伝えしていませんでしたね。あの方は我らの君主にしてこの城の主……孔文挙さまです」

 

「なっ……!」

 

 思わず一刀は驚きの声を漏らす。盛んに曹操への従属を唱える非戦派の中心人物こそが、青州を統べる郡雄・孔融その人だったのだ。

 高名な儒学者としても知られる孔融だが、不健康そうな顔色と落ちくぼんだ眼からは学者というより宮廷に仕える宦官のような印象を受ける。いかにも理攻め然といった発言とは裏腹に声は所々で上擦っており、必死に虚勢を張って理論武装している様子が滑稽でもあった。

 

「曹操軍がこの地を草一本生えない焼け野原へと変え、住民を皆殺しにしようというならば、その時は私とて力の限りに抵抗する。だが、いくら曹操軍とて無法者の殺戮集団というわけではあるまい」

 

 孔融は公孫賛と親しい人物だと聞いていたので、一刀は彼の事をてっきり開戦派だとばかり思っていたが、どうやら思い違いだったようだ。

 聞けばつい最近までは公孫賛との同盟を重視して、徹底抗戦を唱えていたらしい。だが初戦で袁紹・曹操の同盟軍に完膚なきまでに叩きのめされてからというもの、その恐怖に怯えてあっさり反戦派に転向してしまったという。

 

「最初から要求を受け入れて我らに付け入る隙を与えなければ、戦争は回避できるのだ。そして戦争にさえならなければ、我々にも挽回の機会は残される」

 

 

(このオッサン、本気で言っているのか……?)

 

 一刀は孔融を信じかねる思いで見つめる。

 恐らく、孔融はこう言いたいのだろう。弱小国ならば戦争という純粋なパワーゲームに全てを賭けるよりも、大国いえども無視できないルールの存在する外交交渉に力を入れるべきだと。

 

(長期的に見れば、考え方それ自体は間違っていない。でも、まずは目先の問題をどうにかしないと……!)

 

 何度も袁術陣営に煮え湯を飲まされてきた一刀には分かっていた。たしかに大国いえども無視できないルールは存在する。だが、そのルールを決めるのは小国ではなく大国なのだ。大国の大国による大国の為のルールであり、それを世間では『秩序』と呼ぶ。

 

 

「孔融様、発言の許可を」

 

 見かねた一刀が意見を言おうと身を乗り出した時、隣にいた太史慈がすっと立ち上がった。軍部を代表する太史慈の発言に、全員の視線が注がれる。

 

「……申してみよ」

 

「軍部の主張は一つしかあり得ません。――今すぐ戦闘準備を行い、侵略者をね跳ね返すべきかと」

 

 予想通り、と言うべきか。太史慈の支持を得た開戦派は勢いづき、非戦派はそれ以上に激しく抵抗する。

 

 

「今や北部同盟は大陸に比類なき大軍だ!戦争になれば青州は為す術もなく蹂躙される!」

 

「要求を受け入れれば万事解決するとでも思っているのか!?一時の猶予を得られたとしても、その後に難癖をつけて潰されるに決まっている!」

 

「だから今すぐ破滅したいと!?」

 

「連中に飼殺しにされ、臆病者と大陸中から軽蔑された挙句に使い捨てられるよりマシだ!」

 

 名誉と誇りに殉ずる者。打算と計算によって生き残りを図る者。

 だが、彼らには共通点が一つだけあった。それは、“同盟軍の勝てる見込みは無い”というもの。

 

 

「諸君、落ち着いていただきたい」

 

 太史慈は再び檀上に立つ。

 

「袁紹と曹操が同盟を結んだのは、その地理的弱点を克服するのが一番の目的です。四方を敵に囲まれた彼らが戦争で勝利するには、時間差による各個撃破以外に方法はありません。こうしている間にも、北では我らの盟友たる幽州牧・公孫賛殿が軍を集めているのです。つまり時間を失えば失うほど、彼女らにとっては不利になる」

 

「だとしてもだ!連中の軍事力は合わせて50万にも迫る勢いなんだぞ!?要求を拒めば、その最初の一手は我々の頭上に振り落とされる!」

 

「無論、それは承知しています。しかし兵数が多いという事は、それだけ出費もかさむもの。あれだけの兵力を長期間にわたって維持できるとは到底思えません。臨菑城に兵力を集中して敵を引きつけ、長期戦に持ち込めば曹操は引き上げざるを得ないでしょう」

 

 切り出した意見に反論しようとする者を、太史慈は手を振って制す。立場からすれば不適当な仕草ではあったが、動作には気品と迫力があった。彼の軍人らしく力強くも優雅な所作は、満場の者達を制する力を十分に含んでいた。

 

「皆さん、『屯田兵制』という言葉をご存じですか?」

 

 続いて太史慈が言及したのは、曹操軍の特異な軍事システムだった。これは兵士に新しく耕地を開墾させ、平時は農業を行って自らを養い、戦時には軍隊に従事させる制度だ。

 もともと曹操の領地・兌州は黄巾党の乱以降、度重なる戦乱で人口が激減し、生産力もガタ落ちだったという。そこで曹操は荒れ地を屯田とし、流民化して戸籍を失った人々に土地や農機具を与える。更にこれを常備化し、戦時には兵士としても使用できるよう軍事訓練まで施したのだ。

 

 だが逆に言えば、こうでもしなければ人口減少と生産力低下に歯止めがかからなかったとも言える。実際に曹操は屯田と称して難民を半ば強制的に土地に縛り付けており、更に彼らを屯田兵として軍の監視下に置く事によって脱走を防いでいる。つまり本質的に曹操の経済は弱体であり、ある種の「先軍政治」によって軍事大国として列強の地位を維持しているのが実状。当然ながら長期戦に耐えられる財政基盤も存在せず、辛うじて農業を支えていた屯田兵が根こそぎ戦争に投入されたとなれば、彼女の兵站が長持ちしないであろうことは明白だった。

 

「袁紹にしても同じことです。彼女は曹操と違って豊かな領土を保有していますが、軍の内実は冀州豪族の寄せ集め。戦いが長引けば自領に引き返す豪族も現れるでしょう」

 

「……言っておくが、その点は我々も同じ(・ ・)だ。そして資金力では我らの方が袁紹に比べて圧倒的に劣っている事も忘れてはいないだろうな?」

 

 孔融が念を押すも、太史慈は動揺しない。逆にその言葉を待っていた、とばかりに笑顔で口を開く。

 

「ですが、我々には強力な同盟相手がいます。大陸最大最強の経済力を有する、商人の国が」

 

 もし北部同盟に対抗できる勢力がいるとすれば、それは袁術陣営をおいて他にはないだろう。全ての諸侯の中で最大の人口と経済規模、財政と資源を有する商業国家。かつて袁術は曹操の野望を防ぐべく青州に『独立を保つ』こと要求、間接的に自陣営に協力するよう要請した。青州はこれに応じ、その見返りとして袁術陣営からは多額の軍資金を受け取っている。

 

 

「……だがな、肝心の軍の召集はどうするのだ? 主な豪族はほとんど自領に引き籠ってる。私の州牧就任時にはあれほど忠誠を誓うと言っていたくせに、いざ自分の身に危険が及ぶと真っ先に逃げ出すような連中を再び召集するのか?貴公には悪いが、例え軍資金があったとしても集まるとは思えんね」

 

 小馬鹿にしたような孔融の言動。嫌味が必要以上に含まれてるものの、内容だけを見れば彼の発言も間違っていはいなかった。

 なぜなら大多数の諸侯の例に漏れず、青州もまた有力な豪族の連合軍からなる封建的な軍隊を保有しているからだった。土地や恩賞を与える条件として、地方領主や豪族は一定数の兵士を集める事を義務付けられ、彼らの家臣は自ら雇用する家来を同伴し、週または月単位で兵役を務める。それぞれの領主が召集した軍勢はあらかじめ指定された戦場に集められ、この寄せ集めの連合軍を総称して『青州軍』と呼ぶのだ。

 

「ええ。その点は私も重々承知しています。今この場におられる方も含めて、青州牧殿に忠実を誓う豪族の方々の兵数を合計しても、恐らく1万5000は超えないでしょう。それに私のような州政府の直属部隊が5000人ほど、合計して2万程度なので戦力的には全く不足しています」

 

 つまるところ青州軍は、孔融が他の豪族の上に立ってピラミッド状の指揮系統を保有しているわけではなく、あくまで豪族の一人として全員の纏め役を担っているに過ぎない。現代風に言うと、せいぜい『顔役』としてその地域一帯のギャングやマフィアを代表しているようなもの。組織として一身共同体という訳ではない以上、状況が悪くなればトップを見捨てて寝返ったり日和見を決め込む事は珍しくなかった。

 

「ですが、何も軍は常備軍や屯田兵、豪族が領民を集めた封建軍に限りません。もっと集めるのが簡単で、戦慣れした兵士がいます」

 

「っ!……傭兵か!」

 

「はい。袁術からの資金提供がある限り、傭兵はいくらでも戦い続けてくれます。そして劉書記長は青州の独立保障の条件として、我々の年間予算の半分以上の額を少なくとも10年は用意できると約束してくれました」

 

 太史慈の言葉に、再び議場は再びざわつき始める。本当にそれだけの額があれば、仮に傭兵を2万雇ってもゆうに2、3年は養えるだけの金額だ。

 

「我々は一人ではありません。それは此処にいる徐州からの助っ人が何よりの証拠です!よき隣人と手を携え、理不尽な北部同盟の侵略に対抗しようではありませんか!」

 

「結論を急ぐな! たしかに劉書記長の使者は青州の独立維持を条件に、多額の軍資金を約束してくれた。だが……そうだとしてもだ!袁術陣営が約束を守るという保証がどこにある?!」

 

「勿論、どこにもありません」

 

 もっともな孔融の反論を、太史慈はあっさりと肯定する。この男は袁術を頼りながらも、今はっきりと「袁術は信用ならない」と発言したのだ。支離滅裂な言動に数人の文官が非難の視線を送るが、太史慈はどこ吹く風だ。

 

「もし“約束”ならば、守られない可能性は高いでしょう。ですが……」

 

 太史慈はうっすらと笑う。

 

「それが“契約”なら話は別です。――我々軍部は今期の予算すべてを使い、袁術領から傭兵を雇用することを提案します!」

 

 

 袁術陣営を一言で言い表すならば、“商人の国”だ。安定した交易で富を得る事を至上の目的とし、円滑な商売を行うために長い年月をかけて中華の経済上のルール作りを主導してきた金満国家。金のためなら手段を選ばない貪欲な金の亡者達だが、そんな彼らがたった一つだけ神聖視するものがあった。

 

「南陽商人は契約を破らない……それが彼らの誇りであり、その事実が南陽を中華一の商業国たらしめる要因なのです。同時に、それがあるからこそ、各諸侯は信頼せずとも信用して袁術と商売が行える」

 

 

 一般的に言って、世間における袁術陣営の信頼はかなり低い。その原因は大きく分けて2つ。

 一つは袁術陣営の国是が勢力均衡であり、バランスを是正するために同盟相手を頻繁に変えることが原因だ。もう一つは政治と経済が完全に切り離されている事に由来する。『自由放任』を主たる経済政策として掲げる袁術陣営には、政府が商売を監視・監督するシステムが全く存在していなかったのだ。そのため商人達の間では「利益があれば敵国とも取引する」という商売魂が伝統となっており、彼らは自由な経済活動を妨げようとするいかなる動きにも抵抗した。

 

 だが利益のために手段を選ばぬ商人達は、逆に言えば利益に反する行為は絶対に行わない。一方的な契約破棄による信用喪失は、すなわち商人生命の終了を意味する。そしてそんな愚行を冒すような三流商人が、南陽での激しい競争に生き残れるはずもなかった。

 

「もし袁術陣営が信用できない、と主張するならば、失礼ながら事の本質が全く見えていないと言わざるを得ません。彼らの忠誠は長期にわたる特定の国家や個人に対してではなく、その場その場の“お客様”へ向いているのですから」

 

 金の切れ目が縁の切れ目……袁術陣営は己に利がないとみるや長年の友人や血縁者すら売り渡す合理主義者の集まりだが、利益をもたらしてくれる相手にはどこまでも誠実だ。

 

「加えて青州は同盟関係にある2大列強、公孫賛と袁術が唯一接触可能な地。此処を北部同盟に占領されれば、彼女らは南北に分断され、各個撃破の憂き目に遭うでしょう。袁術陣営がこの危機を座して見過ごすとは、私には到底思えません。必ずや我らを援助してくれるでしょう」

 

 袁術が支援してくれる――つい先刻まではあやふやだった未来図が、ここに来て現実味を帯びてくる。今まで中立を保っていた者達から開戦を唱える声が徐々に増え始め、次第に議場の空気は明るいものへと変化していった。

 

「言われてみればそうかも知れん。それに、此処には黄巾党に備えて兵糧も十分にある。立て篭もるだけならば、十分に勝算はあるぞ」

 

「徐州を通じて南陽から補給物資を受け取る事も出来る。我らがこの城で抵抗を続けている限り、曹操は南には手出しできないからな!」

 

「そうだ!かつて都昌で黄巾党の大部隊相手に奮戦した、太史慈将軍が保障するなら間違いない!」

 

 議論は次第に熱を帯び始める。太史慈は満足げに頷きながら優美な顔に微笑を浮かべ、自信たっぷりに告げた。

 

 

「我々は曹操にも、袁紹にも負けません。――我々はこの戦で、勝てるのです」

 

 

「おお……!」

 

 誰だって好きで理不尽な要求を飲む者はいない。曹操に屈したくないという感情、そして現実に勝てるのかという理性。その2つを制した太史慈に反論できる者はなく、会議はそのまま決した。

 

「議決の結果を伝える!――賛成30、反対4、棄権7!」

 

 開戦を推していた者は反対する筈もなく、中立派の者達も理路整然と説かれれば反対する理由はなかった。歓呼に湧く者。戦争に恐れ慄く者。様々な反応を示す評議場の中で、州牧・孔融は会議が終わらぬうちに「全員の意志を尊重する」と言い残して退席する。

 

「以上の結果をもって、青州は北部同盟の侵略行為に対し、これより防衛戦争の継続を宣言する!」

 

 戦争継続の議決を受け、軍部を代表して太史慈が再び檀上に立つと、群衆達は一斉に手を叩いて声を上げる。

 太史慈もそれに応えるように天に拳を振り上げ、声を張り上げ叫ぶ。

 

「今ここに改めて問おう!――北部同盟の属領と成り果てて奴隷となるか!栄誉ある独立を保って自らの土地を自分達で治めるか!」

 

 問うまでもなく、答えは決まっている。求めるは栄誉ある独立のみ。

 

 

「無論、我らは後者を選択する!これは戦国の七雄・斉の末裔たる我らの、侵略者に対する正義の抵抗なのだ!」

 

 

 かくして青州は徹底抗戦を宣言。州都・臨菑城に籠城し、最後まで曹操・袁紹と戦う道を選択した。

  




 恋姫世界はどうだか知りませんが、史実では国家直属の常備軍らしきものをもっていたのは魏ぐらいだそうですね。その魏でも初期はやはり有力な豪族の私兵に頼っていたそうで、常備軍っぽいのが組織化されたのは曹操が華北を統一した前後ぐらいにやっとだそうです。

 逆に呉は典型的な中世型軍隊で、有力豪族が独自に軍隊をもち、戦時にそれをかき集めて「呉軍」としたそうですね。

 蜀軍は割と特殊な部類らしいです。劉備なども含めて他の州からの流れ者が多く(というか首脳部は殆ど他州出身で、地元の益州出身者はむしろ少数派)、外人部隊を率いた傭兵隊長がドサクサに紛れて政府を乗っ取ったみたいな経緯で誕生してます。そのため劉備を頭とした外国人傭兵部隊が軍閥を形成し、それに馬超など他の外国系軍閥が次々に加わって形成された軍事政権・征服王朝みたいな?


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56話:守るべきものとは

              

 寒風の吹きすさぶ朝、幾つもの軍旗と軍勢が臨菑城を取り囲んでいる。軍靴の足音、兵士の悲鳴、剣戟の金属音、崩れる城壁、焼け落ちる民家――城下町の至る所からは煙が立ち上り、その姿はまるで荒波に飲まれる船を思い起こさせる。

 青州を統べる郡雄・孔融の本拠地として栄えてきた臨菑の町は、終わる事の無い戦火のただ中にいた。

 

 攻城戦というのは大抵の場合、退屈な戦と評される。どんなに優秀な戦術家が指揮しようが、強固な城壁の前では策の練りようがなく、単純な数押しによる陣地の奪い合いに終始する場合がほとんどだからだ。防御側にも同じことが言え、最良の策といえば城に立て篭もって敵の攻撃にひたすら耐えるだけ。

 

「工兵!盾を掲げて前進しろ!」

 

 だが、現場の兵士にとってはそうではない。縦横無尽に兵を動かす機動戦だろうと、人海戦術による単調な力比べであろうと、死に物狂いで戦わねばならない。どんな形で戦闘が行われようと、戦場の死神は等しく彼らの前に現れる。

 

「攻撃止めぇ!一時後退し、戦力再編に移る!」

 

 そしていかなる軍であろうと、兵士が人間である以上、休憩は必要不可欠。ただし、士官はその限りではない。戦死や脱走、怪我で戦闘不能になった兵士数を把握し、継戦可能な兵力を指揮官に報告する仕事が残っている。そして指揮官はその情報をもとに、次の戦闘でどの部隊をどこに投入するかを決定するのだ。

 

「被害状況は?」

 

「今回の戦闘では300人ほど失いました。特に南門の攻略に当たっていた部隊の消耗が激しく、戦死者の半数はそこからだそうです」

 

「南門……というと、たしか清河国の豪族が担当していた場所ですね」

 

 厄介なことになった、と顔良は表情を曇らせる。

 袁紹軍の6割以上は冀州豪族の保有する封建軍からなる。彼らは基本的に恩賞金や恩給地といった見返りと引き換えに袁紹軍に従っているだけなので、「大損害を出すような激戦区など願い下げ」というのが本音だろう。あえて無視する事も出来なくはないが、後々の関係維持や統治の事を考えれば袁家に不満を抱くような命令は避けたい。中央集権化によってほぼ曹操の私兵と化している曹操軍とは違い、袁紹の封建軍はあくまで盟約による緩やかな主従関係であるため、必要以上に強権的な態度で臨めば寝返りの可能性すらあった。

 

「……仕方無いですね。南門は、次回からはわたし達が担当しましょう」

 

「それが良いでしょう。被害が大きいと分かり切ってる戦場に他の豪族を当たらせた所で、戦力温存に走って泥沼化するのがオチでしょうし」

 

 顔良の判断に、補佐官の一人が頷く。

 

「それに――どうせ我らは囮に過ぎませんからね。少しでも激しく戦い続けて、この地へ敵の目を引きつけるための」

 

 補佐官の言葉に、顔良はうっすらと笑みを浮かべた。それが安堵から来るものなのか、不安から来るものなのかは彼女にも分からなかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 攻撃の第2波は、主に曹操軍を中心として行われた。正面からは典韋率いる2万3,000の軍勢が、沿岸部からは1万7000の楽進の軍勢が同時に攻撃を開始する。それに全軍を統括する魏の勇将・夏侯淵将軍配下の2万の兵、袁紹軍から増援として顔良率いる1万3000の軍勢が加わり、門ごとに最低5000の兵士を配備して城を完全に封鎖していた。

 

「敵発見!3時の方向からハシゴをつたって城壁を昇ってきています!」

 

 対して臨菑城に篭るのは青州軍2万と、袁術の軍資金によって急きょ編成した傭兵1万、そして増軍として参加した徐州の義勇軍3000人あまり。城攻めでは攻撃側は最低でも防御側の3倍の兵力が必要とされるため、なんとか曹操軍に対抗できる数字を揃えたと言えよう。もちろん兵の数だけが全てではないが、それでも戦局に与える影響は無視しえぬもの。日の出と共に始まった臨菑城の防衛戦は、やや防御側優位のもとで開始された。

 

「敵を城壁の上に辿り着かせるな!弓隊、前へ!」

 

 土煙でけぶる臨菑の空を切り裂くかのように、複数の矢が風を切って放たれてゆく。連鎖する敵兵の悲鳴を耳にしながら、太史慈は本日5度目になる敵の攻撃を半ば驚嘆する思いで見つめていた。

 

(いくら数の上で優位とはいえ、現状ではどう見ても敵の損害の方が多い。だというのに、よくも諦めずに戦いを続けられるものだ……)

 

 まだ城壁より内側へは侵入を許していない。時おり壁をよじ登ってくる曹操軍が城壁に到達することはあるものの、その程度では戦局全体への影響は限定的なものだった。城壁の下には弓矢で殺傷された同盟軍軍兵士の死骸が積み重なっており、血と肉の腐敗した臭いが辺り一面に立ちこめている。

 

(明らかに被害が大きいと分かっていて、敵はなぜ退かない……?)

 

 だが曹操軍は甚大な被害にも怯むどころか、その攻撃は回を増すごとに激しくなっていた。太史慈も今日だけで10人以上の兵士を倒したが、むしろ敵を殺せば殺すほど不安は増していくばかり。敵に大損害を与えているという事は、万が一にでも敗北を喫した時、それ相応の報復が待っていることを意味するからだ。

 無論、それは曹操軍の捕虜にも適応される。全てを得るか、全てを失うか……つまり曹操軍はそれだけの覚悟で戦に臨んでいるということ。四方を敵に囲まれた彼女たちには、たった一度の敗北も許されない。戦端を開いたその時から、曹操軍には完全な勝利か滅亡の2択しか用意されていないのだ。

 

(敵もそれだけ必死ということか……。もっとも、我々も領民の期待を一身に背負っている以上、易々と負ける訳にはいかないがな!)

 

 太史慈はこの戦争を、大国に対する小国の抵抗戦争だと考えていた。『力』という正義を振りかざして傍若無人に振る舞う大国に対し、これまで言いなりになるしかなった小国がその意地と誇りをかけて戦う――青州や徐州に住む民の間ではそう捉えられている。

 

(青州と徐州は共に弱小勢力だ。だがこの戦いで勝てば、そんな我々でも手を取り合えば理不尽な『力』に対抗できる事を証明できる……!)

 

 青州の参戦によって徐州は北部の護りを気にすることなく、西部からの攻撃に専念できるようになるはず。そして青州もまた、最前線での戦闘を担う代わりに徐州から大量の支援物資を受け取る手はずとなっている。

 たとえその物資が袁術からの借款によって賄われていようと、同盟軍の戦略を頓挫させる事が出来れば、それは多くの青州人、徐州人にとって希望となるはずだ。

 

(この戦いは我々だけのものではない。もし我々が敗れるようなことがあれば、その時は徐州も危機にさらされる。私たちの要請に応じて援軍を送ってくれた徐州の期待に応えるためにも、一秒でも長く連中をこの地に釘付けにせねば!)

 

 

 

「北壁に敵の攻城塔が接近中!至急、増援を要請します!」

 

 部下の報告を受け、太史慈は緊張を打ち消すかのように叫ぶ。

 

「分かった。弩兵は左手の外郭から連中の側面に回りこめ!2番、3番隊は私に続け!敵は今までの黄巾賊とはわけが違う、油断するな!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――徐州・琅邪城

 

 

 結論からいうと、琅邪城での仕事はブラックだった。到着するやいなや、休む間もなく劉備達には任務が与えられる。

 

『――友軍の陣地を補強せよ。詳細は現場の指示に従うべし』

 

 “防衛陣地の補強”という命令ではあったが、司令官によれば陣地はまだ6割しか完成していないとの話だった。理由は様々だが、中でも多くの兵士を困らせている問題は「民間人の管理」だという。本格的な戦争が始まれば農村は真っ先に略奪の対象となるため、多くの農民が戦火を逃れて琅邪城をはじめとする安全な城下町へ逃れて来ている。難民によって急激に人口の増加した城下町では、つられる様にトラブルも急増。需給バランスの崩壊によるインフレや治安の悪化も見過ごし難く、守備兵は何かある度に街へ駆り出されている。そんな状況では当然ながら敵軍監視・陣地構築に割ける時間は減る一方で、休憩時間を返上して何とか間に合わせているといった状態だ。

 

 しかも袁紹の大軍が青州に雪崩れ込んだとあっては此処だけに全部隊を投入する訳にもいかず、一刀など一部の人間は青州への増援として移動させられていた。当然、抜けた分の負担は城に駐屯する部隊へ重くのしかかってくる。

 

 これでは戦争が始まる前に過労死してしまう……兵士の間ではそんなジョークが笑えないレベルまで達しつつあり、“戦える内に曹操軍に襲撃してもらいたい”と本末転倒な事を言い出す者まで現れていた。

 

 

「う~、曹操の奴、なかなか来ないのだ!」

 

 一週間も経った頃、関羽たちがいつものように作業をしていると、張飛が不機嫌そうにばやいた。

 てっきり曹操軍と一戦交えるつもりで来ていた彼女の期待とは裏腹に、いっこうに曹操軍が現れる様子はない。予想では到着後2、3日で曹操軍が現れるはずだったが、未だにそんな気配はなく難民だけが途切れることなく流入していた。

 

 しかも上司から課されるノルマは日々悪化しており、苛立ちと不安だけが募ってゆく。それでも戦時中なので文句を言えるはずもなく、「月月火水木金金」が守備隊のスローガンとなる始末。おかげで毎日のように不眠不休で土木工事ばかりやらされ、幼い彼女の忍耐は限界に近づいていた。

 

「そう焦らずとも必ず曹操軍は来る。もう少し辛抱だ、鈴々」

 

 やんわりと関羽が宥めるも、張飛は納得いかない様子で口を尖らせてる。彼女のみならず陶謙軍の武将の誰もが、姿を見せようとしない曹操軍と今の自分達が置かれた環境に苛立ちを募らせていた。

 

(連日の激務による疲労に、一向に敵が姿を見せない不安……必要な作業とはいえ、これが長引くようだと士気に悪影響が……)

 

 そんな現状を、鳳統は冷静に分析する。労働環境の悪化で守備隊全員が気が立っている上、いつ戦闘が始まるかも分からない不安感。また、人は時として目の前にいる大軍よりも姿の見えない寡兵の方に恐怖を覚えるもの。あえて侵攻を遅らせる事もまた、曹操の策略の一部なのだろうか。

 

 

「にしても、まさかこんな場所があったとは……」

 

 小休止のために作業の手を止めた関羽が、ふと思い出したような感想を口にする。作業場からは遠くの陣地も見渡せるが、少し離れた所から見るとまるで子供の作りかけの積み木のような歪さがあった。

 

「洛陽で董卓との戦争があってからといもの、中華はずっと平和だった。この辺には異民族もいない上、戦争らしい戦争を経験してこなかった。それを考えると何というか……こういう物騒な場所を作る計画が昔からあったかと思うと、やや意外な感じがしないか?」

 

「鈴々もここまででっかいお城があるとは知らなかったのだ」

 

 張飛も小さく首をかしげる。

 この時代の常識からいって、城の建設というものはかなりの大事業だ。これだけの城塞群を築くには、相当な労働力と資材、そして資金が必要になる。数年前から周到に計画を練っていなければ、およそ完成するはずの無い代物だ。

 

「私の見たところ、陶謙殿はあまりこういった荒事を好まない人だと思っていたのですが……伊達に州牧を務めていた訳ではない、という事ですか」

 

「陶謙様は以前から曹操さんとの戦争を見据え、防衛計画を練ってきました。恐らくは“これ”が、陶謙様の出した答えのようですね」

 

 そういって鳳統は、ぐるりと周囲を見渡す。琅邪城は夕日を浴びて不気味な輪郭が浮かび上がらせ、その隙間を蟻のように兵士達がせわしなく歩いていた。

 

「徐州は曹操さんの治める兌州に比べて人口で劣っていますが、地政学的な問題から実際に投入可能な戦力はこちらとあまり変わりません。ただし、先ほども述べたように曹操軍の主力が常備軍なのに対し、私達は昔ながらの封建軍。最終的に揃う兵力はほぼ同数ですが、初期に投入可能な兵力は曹操軍が一歩秀でているんです」

 

 それを克服する為に陶謙が考えたプランは、州境にあって守り易い琅邪国に強固な防衛線を構築し、動員完了までの時間を稼ぐ、というもの。

 此処にあるような複合的な防衛ラインの特徴は、何といっても幅広い範囲をカバーできることである。。また、独立した複数の拠点を点在させた事でリスクが分散され、一度の攻撃で全滅する事もない。逆に言えば各個撃破されやすい、という事にもなるが、そこは腐っても城。1日や2日の攻撃で簡単に落ちるものでも無く、悠長に一つ一つ潰していれば、徐州側の動員が先に完了する。

 

「陶謙様はこの防衛線で曹操軍を釘付けにし、領内への侵攻を食い止めるつもりだと聞いています。ですが……」

 

「青州がどうなるか、だな。問題は」

 

 渋い顔で語る関羽の言葉に、鳳統も頷く。

 一応、青州に警告は出してある。だが、領内をまとめきれてない青州に、どこまでの準備が出来るのか。せめて屯田兵制をこちらでも導入していれば……鳳統はそう言いかけ、唇をぎゅっと噛む。

 

 今さらぼやいても、どうしようもない事だ。軍事力と生活水準のうち、かつての自分達は後者を優先した。ご主人様の国には「大砲かバターか」という言葉があるそうだが、限られた資源を効率的に配分するには犠牲にしなければいけないものも出てくる。そして洛陽体制下で平和が謳歌されていた数年前には、それが最良の選択肢だったのだ。

 

「ん?なんだか外が騒がしいな」

 

 そこまで言った所で、にわかに城の外が騒がしくなる。関羽は何事かと思いつつ、声のする方へ向かうと――

 

「こ、これは……」

 

 最初に城の外を覗き込んだ関羽が思わず言葉を失う。つられて一刀たちも外を見る。

 

「人……?」

 

 そこにいたのは人だった。数千、下手をすれば数万もの人が続々と城へ向かって来ている。

 だが、それよりも彼女らの注意を引いたのは、彼らの顔だった。みな何かに怯えたような顔をしており、パニックを起こして警備兵と乱闘になる者すらいた。

 

「おい、そこの兵!いったい何があった!?」

 

 関羽が近くにいた下士官とおぼしき兵を捕まえる。見れば兵の表情には疲れが滲み、服装は乱れている。彼も民間人と共に逃げて来たのだろうか。

 

「何があったかって?…ああ、曹操軍の焼き討ちだ!あの野郎ども、片っぱしから民家に火を放ってやがる!」

 

 まだ若さの残る下士官は、苛立たしげに今しがた起こったことを語る。

 彼の話によれば「曹操軍は2,30人ほどの少数部隊に分かれ、避難の遅れた集落を次々に襲撃している」とのこと。避難誘導にあたっていた彼の部隊も慌てて現場に駆け付けたものの、既にもぬけの空だったらしい。他の部隊も同じような状況で、曹操軍は民家だけを狙い撃ちにし、陶謙軍が来るとすぐに逃げ出してまるで勝負にならないという。

 

「焼き討ち……だと?」

 

 信じられない、といった面持ちで関羽が絶句する。

 曹操ほどの武人が、武器を持たない民を襲っている?しかも、駆け付けた陶謙軍と戦おうともせず、逃げ出した?いくら親の仇討ちという大義名分があろうとも、もはや許される限度を超えている。

 

「それで、民衆への被害は……?」

 

 恐る恐る、鳳統が質問する。しかし下士官から返って来た返答は、予想外のものだった。

 

「被害……被害か……。もし民衆へ被害があれば、どれだけ助かったことか……」

 

「それは一体どういう……?」

 

 全く要領を得ない返答。

 だが文脈から察すると、彼はまるで民への(・ ・ ・)被害を(・ ・ ・)望んでいる(・ ・ ・ ・ ・)ような――。

 

 そこまで考えて、鳳統はハッとしたように息を呑む。

 

「まさか……まさか、曹操軍は――!」

 

「ああ、そうだよ!クソッ、奴ら畑と(・ ・)家だけ(・ ・ ・ ・)焼いてやがる!」

 

 下士官は皮肉げに顔を歪ませ、唇を引きつらせる。そして続く彼の言葉が、3人を絶望の淵にたたきこむ。

 

「そうとも!民は全員無事(・ ・ ・ ・)だ!――この城に全員分の家と、食べ物は無いけどな!」

 

 溜まった鬱憤をぶちまけるように放たれた言葉。民の安全、それは本来ならば喜ぶべきはずの状況。だが、今となってはこれほど恨めしい状況もなかった。

 

 逃げてきた難民すべてを養う事は出来ない。城には兵士も2万人以上いるため、その両方を養おうと無理な努力を続ければ必ずどこかで限界が来る。そして食料不足が長く続けば、いずれ不満の溜まった民は暴動を起こす――。

 鳳統は表情を強張らせる。

 

(……かといって、自国の領民を追い払うなど問題外です……。敵の狙いは、わたし達を兵糧攻めにすることだった……!)

 

 曹操軍の進撃は遅れてなどいなかった。自分達が防衛線の構築に気をとられている間、彼らは周辺の村を破壊していたのだ。だが決して、怒りにまかせて民を虐殺するようなことはしなかった。それどころか、民に逃がす猶予すら与えていたのだ。数万の民で、こちらの兵糧庫を喰らい尽くす為に。

 

 自分達はとんでもない相手を敵に回してしまったのではないだろうか――鳳統は内心の動揺を隠すように、城壁に背を向けて歩き出した。

       

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 同時刻、徐州・琅邪国北部、とある監視所にて――

 

 最初に異変に気付いたのは、一人の騎兵隊員だった。いつものように軍馬の世話をしていると、妙に馬たちが神経質なのが気にかかった。より正確に言うと、彼の愛馬は何かに怯えているようだった。まるで戦場に出る前日のような――怪訝に思っていると、今度は厩舎の番犬が吠えだす。

 それは彼の担当地区だけではなかった。この日、琅邪国北部のいたる所で異変が起きていた。そして変化に敏感な動物たちは警戒を露わにしていた。一様に、北に向かって。青州のある、北の方角へと。

 

 時が経つにつれ、遠くから響く音が違和感の正体だと気づく。北から、何かとてつもなく大きなモノが近づいている……それは段々と強く、大きく、より激しくなってゆく。そればかりか、足元から振動すら感じる。兵士達は互いに顔を見合わせ、その家族は本能的に子供と家畜を安全な家の中へと連れ戻す。

 

「なんだ、ありゃあ?」

 

 監視塔にいた兵士が、北へ向けた瞳を細めて呟く。

 

「おい、何があったんだ?随分と北の方角がやかましいが」

 

「知らんよ、ここからだと土煙しか見えん。……いや、待て」

 

 風向きが変わり、視界を遮っていた土煙が晴れてゆく。

 そして、その兵士は見た。

 何千、いや何万もの騎兵が土を蹴りあげ、大地を疾走する姿を。

 

 

「敵襲だぁッ!あれは全部、敵の騎兵だぞぉおおおッ!」

 

 

 迫りくる騎馬の大部隊。先陣を切るは幅広の刀を携えた、片眼の女性。その武勇を中華全土に轟かせる、曹魏の猛将だった。

 

「我が姓は夏侯、名は元譲! 徐州の兵に告ぐ!名乗り出て一騎打ちを望むか、さもなくば道を開けよ!」

 

 慌てふためく徐州軍を尻目に、夏侯惇は部下を率いて敵陣を突破する。彼らは黒騎兵と呼ばれる精鋭騎兵であり、文字通り黒尽くめの装甲に身を包んでいる。数は2000と多いとは言えなかったが、その一糸乱れぬ動きを見れば厳しい訓練をくぐり抜けた精兵であろうことは一目瞭然だった。

 

 突然の奇襲と名の知れた猛将の登場に、徐州の兵は浮足立つばかり。混乱は恐怖に、怒号は悲鳴に、規律は騒乱へ。兵士は上官の命を無視して与えられた役目を放棄し、瞬く間に組織としての体を成さなくなっていた。

 

 夏侯惇に付き添う黒衣の精鋭を先頭に、2万もの騎兵が続く。彼らに与えられた役目は徐州内部へ直接侵入し、兌州に終結している徐州軍主力を背後から叩くこと。程昱らが北海城で青州の注意を引きつけている隙に、ゆえに今回の目的はこの場にいる徐州兵を全滅させることではない。逃げ出す徐州兵には目もくれず、ひたすら南へと馬を駆る。

 

「狼煙を上げろ!せめて下邳にこの襲撃を知らせねば……ッ!?」

 

 徐州軍の一人が慌てて声を張り上げるも、次の瞬間に一本の矢が彼の後頭部を貫く。そのまま声を詰まらせて崩れ落ちる兵士。

 だが周囲にいた幾人かの兵士は正気を取り戻し、慌てて油と火種を抱えながら狼煙台に昇る。

 

「将軍!あれを!」

 

 徐州兵の意図に気づいた黒騎兵の一人が、急ぎ夏侯惇に報告する。

 

「ッ!……狼煙か」

 

 夏侯惇は徐州側の行動を阻止しようと馬首を返すも、一歩遅かった。狼煙台からは狼を糞を使った黒く濃い煙が立ち昇り、遥か遠く下邳に緊急事態を知らせていた。

 

「……行くぞ」

 

 夏侯惇は興味を無くしたように短く告げ、南へと馬の向きを変える。

 

「よいのですか?」

 

「敵の連絡手段は狼煙だけじゃない。伝書鳩や早馬の存在も考えれば、遅くとも明後日には襲撃の噂が徐州全土に伝わっている」

 

 そして下邳にある陶謙の居城では情報が錯綜し、戦力配置の再編を巡って少なくない混乱が生じるはず。最前線である琅邪城にとってもそれは同じこと。多数の難民を抱えこんいる上、自らの背後が脅かされたとなれば士気は大きく低下する。その時こそ、曹操軍にとって絶好のチャンスだ。

 

「向こうが体勢を整える前に、一気にけりを付けるぞ!」

   

 




 「要塞が邪魔ならほっとけばいいじゃない」を割と地でゆく曹操軍。正史でも曹操軍はよく現地挑発に頼った挙句に兵糧不足で進撃停止したりしてるので、兵站に関しては案外適当だったのかもしれません。

 ちなみに今回の話、元ネタはお察しの通りアルデンヌ突破作戦です。ベルギー方面とマジノ線の両方で適当にお茶を濁して、本命をその間に突っ込ませたドイツ軍。でも兵站は現地調達に頼って地元のガソリンスタンドで補給してたのはご愛嬌。フランスだとインフラが整ってたおかげで補給無視して猛スピードでかっ飛ばせたそうですが、独ソ戦ではこの方法が完全に裏目に……。


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57話:破綻した戦略

                  

 徐州・琅邪国、州境要塞にて――

 

 周囲を埋め尽くす兵士の集団と、その背後に控える無数の天幕。断続的ながら数日前から琅邪城に攻撃を繰り返している北部同盟の軍勢だ。半数以上は『曹』の旗を掲げているが、時折『袁』も見受けられた。

 

「小川の砦がやばいぞ!至る所に敵兵が侵入して来ている!」

 

 この日、関羽の指揮する部隊が大規模な敵軍団と遭遇したのは、琅邪城南西区の防衛を担当している時だった。激しく雨が降る中、物見矢倉からの報告を受けた関羽は2000ほどの手勢を引き連れて現場に急行する。

 戦闘は既に開始されており、足元には泥と死骸が混ざり合った戦場独特の光景が広がっている。これらは全て砦の銃眼や城壁の上から弩による射撃を繰り返す徐州軍が、陣地へ浸透してきた同盟軍を素材にしてこしらえたものだ。今までは小規模な襲撃を繰り返すだけだった曹操軍だが、ようやく兌州からの本隊が到着したらしい。同盟軍の数は視界に入る範囲だけで1万は超える。唯一の救いといえば、山脈を強行突破してきた敵軍の動きが鈍っている事ぐらいだろうか。

 

「部隊ごとに隊列を組め!決して単独行動はするな!味方に誤射されるぞ!」

 

 ただでさえ雨の中では視界が悪い。ましてや雨中の移動によって泥まみれになった兵を見分けるなど、ベテランの射手であっても至難の技だろう。しかも数日前からの戦闘によって服装は見分けるのが困難なほどに汚れており、旗だけが敵味方を識別する唯一の目印だった。

 

「了解!お前らも聞いたか!固まって攻撃するんだ、いいな!」

 

 関羽の指示のもと、徐州軍は集合と同時に攻撃を開始。彼女らが敵を引きつけ、砦上の弩兵が敵の背中に太矢を叩き込んでゆく。

 

「邪魔だぁぁぁっ!」

 

 関羽は目の前の敵兵を切り裂き、周囲を確認しながら曹操軍を掃討していく。青衣の兵士達は次々へと斃れてゆくも、彼方からは新手の集団が接近しつつある。数は5000以上、汚れきった服装からは判別不可能だが、装備の質から考えて袁紹軍の部隊に違いない。

 

「将軍、左手の方向から敵影が多数接近中!真っ直ぐこちらへ突っ込んできます!」

 

「迎撃するぞ!私たちは正面から敵を迎え撃つ!」

 

 関羽は部下に命令を飛ばしながら、後方の砦を流し見る――城壁の上から弩兵の隊長らしき人物が、彼女の視線に応えるように親指を立てる。

 

「背後は砦の弩兵が守ってくれる!全員、武器を構えて前進しろ!」

 

 全員で一斉に突撃、雄叫びを上げながら袁紹軍に向けて突っ込んでゆく。興奮状態から思い思いの兵士が勝手に叫んでいるだけで、行為そのものに戦術的な意味はない。だが泥と血に塗れた兵士が狂ったように叫びながら向かってくる様は、結果的に袁紹軍の勢いを僅かに削ぐ形となった。そして関羽は敵が怯んだ隙を逃さず、先陣を切って突撃してゆく。

 

「はぁぁぁぁっ!」

 

 眼下を通り過ぎる袁紹軍兵士の上半身が、真赤な内臓ごと二つに引きちぎれる。続けざまに構造していた敵兵を青龍偃月刀の柄で殴りつけ、倒れたところで上から止めを刺す。

 

(これで、今日は14人目か……)

 

 関羽は大きく息を吐きながら、少しでも呼吸を整えようと背筋を伸ばした次の瞬間――彼女は見た。

 

 東の空に、狼煙が上がっている。それも一つではない。4つ、5つ……否、こうして見ている内にもその数を増している。そして東の空に狼煙が上げられたという事実は、考え得る限りで最悪の状況を表していた。

 

「まさか……曹操軍が、青州を突破してきたというのか……」

 

 それが意味するものはひとつ。兵力の大半を西側へと集中させた、琅邪城が無防備な背後から串刺しにされることに他ならない。たとえ琅邪城がどれだけ堅固な要塞であったとして、完全包囲されれば兵糧の消耗を免れる事は出来ない。曹操軍に家を追われた民間人を多数保護している以上、その速度は当初の予想を上回るスピードで進行するだろう。

 州境に築いた要塞群によって水際防御を行うという徐州側のドクトリンは、今まさに根本から覆されようとしていた。

 

 

 ◇

 

 

「くそぉッ!青州の連中は何をやってたんだ!」

 

 琅邪城の東部地区で警備任務に就いていた兵士の一人が叫ぶ。

 袁術陣営よりもたらされた曹操軍の作戦計画を踏まえ、徐州軍司令部は敵軍の主攻が青州方面であることを前提とした防衛計画を練っていた。そのため劉備ら青州派遣部隊に最精鋭の兵を配備し、青州内部で敵の主力を漸減、兌州から直接侵攻してくる部隊は琅邪城で防ぐことになっていた。

 

「このままじゃ個別に撃破されるだけだ!一度第2陣地まで後退し、ある程度の戦力を揃えてから反撃するぞ!」

 

「でっ、ですが敵には騎兵もいます!果たして間に合うかどうか……」

 

「弱音を吐くな!なんとか間に合わせるんだよ!」

 

 だが曹操軍はそんな彼らの読みをあざ笑うかのように、青州を華麗にスル―して琅邪城の弱点を的確に食い破りつつあった。関羽が“『城』というより『壁』”と評したように、琅邪城は万里の長城のごとく長大な防壁からなる要塞群であり、兌州方面に向けて最大限の防御力と攻撃力を発揮できるよう設計されている。逆に言えばそれ以外の方面に対しては極めて脆弱であり、特に東側や南側は友軍との連絡を円滑にするべく意図的に障害物が減らされていた。そのため青州を突破してきた曹操軍に対しては、全くといってよいほど無防備だったのだ。

 無論、それだけですぐ琅邪城が陥落すると決まったわけでは無い。州境を封鎖するように作られた長城には、敵の浸透を考慮して付近に幾つもの砦や防御陣地を張り巡らしてある。しかし――

 

(ここから先は、お互いに我慢比べってところか……)

 

 敵がここまで迫って来ているという事実を考えれば、既に後方の補給拠点や兵站線はズタズタだろう。下邳や袁術領からの物資補給は、現時点をもって完全に途切れたものと思った方がいい。後は琅邪城の倉庫に残った物資をうまくやり繰りして、敵の攻撃を凌ぎ切るしかない。

 

(いや、問題はそこじゃない……琅邪城に引き入れちまった難民の扱いをどうするかだな……)

 

 ここ一週間で琅邪城に保護した難民の数は実に3万に上る。城とはいっても実質的には複数の拠点を長城で結んだ防衛ラインであるため、内部にはかなりの数の難民が保護されている。そして人の数が多いという事は、それだけ食糧が必要になると言う事だ。そして戦いが長引けば長引くほど、ストレスから難民とのトラブルも増えるはず。

 

「こんな状況で、どうやって敵の攻撃を凌げばいいんだ……」

 

 その問いに答える者はおらず、琅邪城は混迷の色を深めていった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 徐州領内に同盟軍が侵入。兵站網は壊滅状態にあり――その知らせは遠く離れた青州・臨菑城でも大混乱を引き起こしていた。青州軍の戦略は臨菑城に敵主力を引きつけ、籠城戦によって戦力を漸減。袁術陣営あるいは公孫賛の援軍到着をもって反撃に移る、というようなシナリオだった。

 籠城に必要な物資は主に徐州を伝って送られる手はずになっていたため、曹操軍の浸透によって補給部隊は完全に身動きが取れなくなっている。加えて琅邪城に集結していた徐州軍主力が挟撃されるような事態になれば、青州は味方から完全に孤立する。そうなれば、もはや戦争どころではなかった。

 

「なぜ……こんなことに……」

 

 太史慈が呆然と呟く。

 

「どうして私は……もっと徐州方面へ見張りを用意しておかなかった……?」

 

 青州の州都たる、この臨菑城を無視するはずがない――そう高をくくっていた気持ちがあった事実は否めない。戦争とは陣取り合戦のようなもので、詰め将棋のように一歩一歩着実に敵を追い詰めていくものだと。

 だがその考えが甘かったことを太史慈は思い知らされる。曹操と袁紹は、はなから青州など眼中にない。乱世の奸雄、そして華北の覇者と称される彼女ら2人にとって、青州など言わば邪魔な石ころのようなもの。己に害が及ばなければ、無視してもなんら問題のない存在に過ぎなかったのだ。

 

「……こちらにはもう、打って出るだけの力はない。だから障害にならないと判断されたのだ……我々は……っ!」

 

 序番の戦闘で、孔融軍の主力は壊滅している。そこで太史慈は劣勢を覆す為に残存する青州軍の全部隊を臨菑城に引き揚げさせ、城に籠もって徹底抗戦の構えを見せた。攻城戦ならば数の劣勢は覆せる上、錬度が低くとも脱走の心配もない。それなりの蓄えもあるし、袁術からの補給物資も考えれば相当な抵抗ができるだろう。

 

 その読みは決して間違っていなかった。――曹操達が本気で臨菑城を攻略するつもりだったならば、だが。

 

 だが青州全土から臨菑城へ兵を引きあげた時点で、もはや青州軍は脅威たり得なかった。曹操と袁紹の最終目標は陶謙と公孫賛の打倒であって、青州の占領ではない。完全に屈伏させようとすれば少なくない時間と兵を失うだろうが、敵に打って出る力が無くなってしまえば、そのまま放っておいても済む程度の存在だったのだ。

 

 

「つまり今までの無謀な城攻めも、全ては囮だったというわけか……」

 

 城の外を眺めながら、一刀が呟く。つい先日まで幾つもの死体の山を築きあげていた同盟軍の攻勢は完全に停止し、今では城の周辺に天幕を張ってこちらを監視しているだけだ。先日も補給線の警備を強化するために1万もの兵士が抽出され、完全に持久戦の構えだ。この離脱と初期の激しい戦闘によって包囲網を形成している兵力は5万4000まで減少しているものの、それでも臨菑城の2倍近くの兵力である。

 

 臨菑城に籠っている分には問題ないが、城外へ出て敵を駆逐するには投機的過ぎる兵力差。そのうえ青州軍の半数を占める新兵と傭兵はただでさえ士気が低いため、安全な城での防衛戦以外にはほとんど使えない。一刀たちは臨菑城という籠の中に囚われているも同然だった。

 

(そもそも敵がギリギリの兵力で城攻めを起こっている時点で、違和感の正体に気づくべきだったんだ……)

 

 劣勢な青州軍が戦い続けるには、出来るだけ多くの戦力を城に集中させて立て籠もるしかない。それこそ、辺境の警備兵なども全て含めた可能な限りの兵力を。

 曹操たちは青州側が籠城すると読んだ上で、徐州へ浸透する部隊の存在を悟らせないために臨菑城へ攻撃を繰り返し、まんまと一刀達の目を欺いたのだ。

 

「俺達がもっと早く気づいていれば、徐州だってそれなりの対策が取れたはずなのに……っ!」

 

 同盟軍が作戦を成功させるには、少なくとも徐州に入るまでは侵攻部隊の存在を悟らせない必要があった。馬でどれだけ速く走ろうとも、狼煙や伝書鳩の伝達スピードには敵わない。そのため同盟軍は入念に計画を練り、青州軍を臨菑城に集めることで別動隊の移動を悟られないよう隠ぺいし、波状攻撃をかけることで他の場所へ目を向けさせないよう仕組んだのだった。

 

「俺達はただ、曹操達の望むがままに踊っていただけだった……」

 

 一刀たちが臨菑城の戦闘に目を取られている隙に同盟軍は少しづつ、気づかれないよう少数の部隊に分かれて青州をすり抜けていった。彼らは州境付近で合流し、そのまま一気に徐州内部へと侵攻。騎馬を主力とする部隊の後方撹乱によって、前線を支える臨菑城と琅邪城、そして後方の補給拠点たる下邳との連携を断ったのだ。連絡・兵站網を完全に遮断され、袁術の支援はおろか徐州軍同士の物資のやりとりすら出来ない状態だ。

 同盟軍は勢いをかって琅邪城に殺到し、守りの薄い東側の防衛ラインを次々に突破しているらしい。徐州側も可能な限り守りを固めていたものの、青州が敵の手に落ちない限り後方から襲撃される事はないと慢心していたのが仇となり、相当な苦戦を強いられているという。もっとも使用可能な物資に限りがある以上、どうしても危険度の低い地域の防衛は後回しにされてしまうのだが。

 

 

「わたし達じゃ、この戦いを止められないの……?」

 

 劉備は湧きあがってくる無力感を抑えながら、窓の外にいる曹操軍を凝視する。厳しい訓練によって鍛え上げられた、覇王の軍勢。曹操ただ一人に付き従い、心より忠誠を誓った天下無双の兵士たち。

 

「徐州のみんなは、大丈夫なのかな……」

 

 真実はどうあれ、曹操は父親が徐州で殺された事に憤っている。徐州侵略は基本的に国益を考慮して決断されたのだろうが、その中に私怨が混じって無いとは言い切れまい。

 

“――劉備ちゃんだって、本当は曹操ちゃんのコト信じられない(・ ・ ・ ・ ・)んでしょ?”

 

 劉備は、今になってやっと劉勲が言った言葉の意味が分かった気がした。

 人の心ほど不確かなものはない。そして曹操軍という存在は、良くも悪くも曹操という個人の体現なのだ。彼らが占領地でどう振舞うかは、曹操のさじ加減一つで決まる。

 

「わたし達は、これからどうすれば……」

 

 徐州の安全を確実なものにするには、何をおいてもまずは領内に侵入した曹操軍を撤退させるしかない。だが、現有兵力では侵攻部隊を叩くどころか、北海城を包囲している敵を破れるかどうかも怪しかった。

 

 

 

「……打って出るしかありません」

 

 

 そんな中、諸葛亮の声が重苦しい空気を破って響く。

 

「このまま同盟軍による後方撹乱を許せば、補給線を失った琅邪城の徐州軍主力はいずれ敗北するでしょう。そうなれば私達も同様に、補給を断たれた上で完全に孤立します。ですが――」

 

 諸葛亮はそこで一度話を切り、この場における最高指揮官である太史慈に目配せする。

 

 

「――それは敵も同じことです」

 

 

「ッ! 諸葛亮君、君はまさか……!」

 

 太史慈が傍目にも分かるほど大きく目を見開く。諸葛亮の言わんとする意図に、おおよその察しが付いたらしい。

 

「曹操軍はまだ(・ ・)徐州を占領していません。彼女達がこちらを各個撃破する前に先手を打てば、我々にも勝機はあります!」

 

 うろたえる太史慈を敢えて無視し、諸葛亮は起死回生の策を全員に告げた。

 

「方法は一つです!――臨菑城の包囲を突破し、先に同盟軍の補給線を潰すしかありません!」

 

 

 ◇

 

 

 臨菑から北へ歩を進めると、都昌という港町がある。初期の攻勢時に顔良によって占領された都昌は、改造されて同盟軍の一大集積拠点となっていた。

 計50万ともいわれる強大な力を有する北部同盟軍だが、その大軍を維持する上で重要なのは“いかにして彼らを養うか”という問題だ。できれば現地調達で賄いたい所だが、青州は治安の悪化によって生産力が大幅に低下しており、調達できる余剰物資は極端に少なかった。戦争以前から青州は袁紹派、公孫賛派、青州黄巾党の攻防の焦点となり、彼らによって現地調達が繰り返された結果、米や麦、飼葉の貯蔵は無きに等しい。兵站網の確保は当初から北部同盟の大きな懸念事項であった。

 

 そこで考えられた方法が、船を使った水上輸送である。幸いにも曹操、袁紹どちらの領土にも黄河が流れているため、それを利用しない手はない。兌州と冀州で生産された物資は黄河をつたって南皮まで運ばれ、そこで大型の外洋船舶に積み替えられる。そこから渤海を渡って都昌で荷揚げされた物資が、馬車によって各地の同盟軍に搬送されるシステムだ。

 

 つまり集積拠点たる南皮か都昌のどちらかを破壊すれば、同盟軍の動きは完全に麻痺する。とはいえ袁家のお膝元たる南皮の護りは堅く、逆に返り討ちにされてしまう可能性が高い。ゆえに残ったもう一つの拠点・都昌を少数部隊で襲撃し、港湾としての機能を喪失させるのが諸葛亮の狙いだった。

 

 

「……本当によかったんですか?」

 

 選抜された決死隊の数は2000人ほど。全員を騎兵でかためた機動力重視の編成であり、残る守備隊が揚動を行っている隙に、一気に城の包囲を突破する算段だった。

 劉備は太史慈らと違って揚動部隊に配属されており、落ち着かない様子で問いかける。

 

「何の事だい?」

 

「いや、元々わたし達が言い出した事ですし……何も一番危険な任務を太史慈さんが直々に指揮しなくとも……」

 

「いやなに、君が気に病む事はない。むしろ私は君たちに感謝しているとさえ言える」

 

 太史慈は颯爽と馬に跨ると、端正な顔に笑顔を浮かべる。

 

「そもそも今回の窮地は私の力不足が招いた結果だ。責任者が後始末をつけるのは当然の義務であり、名誉挽回の機会まで与えられたのだ。断るわけにはいかない」

 

 気にするな、といった様子で肩をすくめる太史慈。

 

「まぁ、流石に孔融殿の机を叩き割ったのは不味かったかもしれないがな。下手をすれば軍をクビになるところだった」

 

 冗談めかした太史慈の言葉に、劉備をつられて苦笑を浮かべる。

 諸葛亮が今回の策を述べるや否や、真っ先に反応したのは孔融だった。曰く、襲撃が成功する保証はどこにもない。仮に成功したとして、補給を断たれた同盟軍が物資欲しさに臨菑城を襲撃し、万が一にでも落城するような事があれば皆殺しは避けられない、と。しまいには青州を徐州の盾として使い潰すつもりだろう、などと諸葛亮を中傷するに至り、耐えきれなくなった太史慈が剣を抜いたのだった。

 

「大丈夫ですよ、劉備殿。この戦い、必ず勝てます」

 

 安心させるように自分の胸をどん、と叩く太史慈。

 結局、太史慈の行動に肝を冷やした孔融は「好きにしろ」と吐き捨てて退室。その後の話し合いの結果、「城の防衛に支障が出ない数なら」という条件付きで決死隊の派兵が認められたのだった。

 

「たしかに北部同盟の力は強大だ。だが力によって栄える者は、同じく力によってその身を滅ぼす――彼女達はやり過ぎたのです。もうすぐ、その身をもって知ることになるでしょう」

 

 決意を固めたように拳を握り締める太史慈に、劉備は僅かに心が震えるのを感じた。

 

 彼は自分達を信じてくれている。ならば、その期待に応えたい。

 青州の民のために。この地に住む、みんなの笑顔の為に。

 

「さて、君の友人たちも準備が出来たようだ。出発しましょうか」

 

「はい!」

 

 太史慈の合図を受け、臨菑城の門がゆっくりと開いていく。太史慈は目の前に集結した劉備ら揚動部隊に向けて声を張り上げる。

 

「総員、傾注せよ! 作戦の第一段階は、君たち揚動部隊が包囲部隊を引きつける事だ!この任務でどれだけの敵軍を引きつけられるかによって、我ら決死部隊の包囲突破成功率は大きく変動する!揚動任務の性質上、無理に戦えとは言わないが決して手を抜くな!いいな!?」

 

「「「了解!」」」

 

 了承の声と共に、1万を超える兵士が城門から出撃してゆく。包囲していた北部同盟軍もまさか敵が勝ち目のない野戦を挑んでくるとは思っていなかったらしく、嘘をつかれてうろたえる。

 

(わたしは、青州の人たちの期待に応えたい!皆と一緒に、この戦争の流れを変えてみせる!)

  

 後に続く決死隊の為、劉備ら揚動部隊はあらん限りの力を振り絞り、敵軍の中央へと突入していった。

   




 
 曹操軍「必殺、焦土作戦!」
 劉備軍「甘い!こっちも焦土作戦返しだ!」

 戦争は国家レベルで行う我慢比べなんです。どれだけ優勢でも先に音を上げた方が負けなんです。逆に言えばどんだけズタボロになっても突っ張ってれば勝ち。主にポエニ戦争とかベトナム戦争とか。


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58話:分たれる未来

            

 太史慈の直率する2000人の特別部隊が目標を補足したのは、臨菑城を抜け出してから2日後の夕刻だった。既に日は傾き、海岸沿いに構築された集積所がおぼろげに照らし出されていた。

 

「包囲網の突破は成功した。後は追いかけてくる敵と時間との勝負って訳か」

 

 付近の森の茂みに隠れながら偵察を行っていた一刀は、ふぅと大きく溜息をつく。

 劉備ら揚動部隊は、実によくやってくれた。幸運なことに彼女らが最初にぶつかった敵軍は、袁紹につき従う豪族を中心とした部隊だったらしく、突如として現れた敵軍に対処しきれず、手ひどい損害を被ったという。顔良ら袁紹軍本隊の救援があと少し遅れていたら、そのまま勝利を収めていたかもしれない。

 だが増援投入のために北部同盟は部隊の一部を抽出せざるを得ず、包囲網の密度が下がったところで一刀ら決死隊が一気に包囲を突破した。

 

 とはいえ同盟軍がやられたまま黙っている訳もなく、すぐさま楽進を指揮官とした6000人あまりの追撃部隊を編成。半日ほど遅れた距離に迫っており、まさに時間との戦いと言えた。

 

 

「……にしても、焼き討ちするのがもったいないぐらい凄い拠点だな」

 

 視界の大部分を占めるは、都昌という港町を接収して作られた補給拠点。北部同盟に占領されてからまだ2週間も経っていないというのに、かつては地方の一港町に過ぎなかった都昌は、見間違えるほど立派な軍港として発展を遂げていた。

 埠頭には船舶が接岸する岸壁や係留施設が並び、無数の水夫がせっせと荷さばきを行っている。貨物を借り置きする為の倉庫・保管施設も整備され、一部には貨物運送のために港湾道路まで作られている。だがそれでも膨大な北部同盟軍の補給を賄い切れていないのか、波止場には新しい桟橋が次々に設置されていた。いくつもの木箱でできた浮体を水上に浮かべてアンカーで固定し、陸岸と渡り橋で連結した浮き桟橋と呼ばれる建築物は、潮位差の大きく水深の深い青州沿岸部での港湾拡張を容易にしていた。

 

(さすがに華北一の名門と呼ばれるだけあって呆れた物量だな。戦争のために町ひとつ作るとか、どれだけ金持ちなんだよ……)

 

 袁紹軍の潤沢な兵站に舌を巻く一刀。現地調達が基本であったこの時代において、ここまで近代的な兵站線を備えている様は、もはや驚嘆を通り越して不気味にすら感じられた。 

 

「成程な。これが彼女らの力の秘訣、ということか」

 

 隣にいた太史慈が真面目な口調で告げる。

 

「私もずっと気にかかっていた事がある。あれほどの大軍を、袁紹はどうやって維持しているのかと」

 

 この時代の常識として、一諸侯が戦場に投入可能な兵力は多くて5万程度とされていた。勢力均衡によって覇権的な諸侯が不在だったという理由もあるものの、それ以上に兵站に問題があったからだ。

 現地調達で軍隊が1日に確保可能な食糧は、原則として1日の行軍範囲内。仮に10万もの兵力を略奪による現地調達で賄おうとすれば、1日の平均行軍距離である10kmほどの区域内に10万人以上の農民の存在が必要だった。現実にはそこまで密度の高い穀倉地帯はほとんど存在せず、かといって軍を分散させることもできない(少数部隊に分散させて略奪区域が重ならないよう別々のルートを通れば食糧問題は解決できるが、脱走兵や連絡の途絶、敵の各個撃破の餌食というリスクが高まる)。

 

 大軍というのは、ただ数を集めれば良いのではない。集まった兵士を一定期間確実に養っていけるだけの兵站網、給料、脱走防止システムや情報網の完備といった全ての問題をクリアして初めて、大軍として存在できるのだ。

 そして、もしそれを実現できる諸侯がいたとしたら……それは恐らく天下統一に最も近い人物だといっても過言ではないのだろう。それだけの財力と兵力、権力を持った上で、なおかつ自らの巨大組織を支えられる人材をも保有しているのだから。

 

 

「……俺達で勝てるんですかね?この戦争に」

 

「“勝てるか”じゃない。我々は“勝たなければならない”のだよ。――そのために、君の小さな軍師は単身で援軍(・ ・)を連れに向かったのだろう?」

 

 太史慈の返答に一刀は黙り込む。彼の言うとおり、もう既に“勝てるか否か?”といった議論の段階は過ぎている。戦端を開いてしまった以上、この戦いで勝つしか生きる道はないのだ。

 

 劉備は城を包囲する敵を引きつけるために出陣し、諸葛亮はこの襲撃を確実なものにするために援軍を連れに向かった。そして、自分に出来る事は――。

 

 

「太史慈殿」

 

 後ろから一人の兵士が近づいてくる。彼は太史慈と視線が合うと、無言のまま小さく頷く。別動隊の配置が完了した合図だった。

 

 作戦は3方向からの奇襲による一撃離脱を基本としている。主目的はあくまで補給拠点の破壊による兵站網の妨害。補給拠点の占領ではない。

 もちろん補給拠点を占領すれば敵の継戦能力を奪えるが、襲撃だけでも間接的にも大きな効果を及ぼすことができる。つまり兵站網が安全でないとなれば、同盟軍は大軍を維持する為にその防衛に多大な兵力を割かざるを得ず、また襲撃部隊を排除するためは防衛部隊とは別に索敵部隊を投入せざるを得ない。結果としてそれは青州、徐州方面に展開している北部同盟軍の圧力が低減されることを意味し、戦略的にも無視できない効果を与える事になる。

 

「前進開始。いいか諸君、絶対に音は立てないでもらいたい」

 

 太史慈の合図とともに、襲撃部隊はひっそりと移動を始めた。

 味方の数は2000、対する敵の守備部隊は5000前後。状況からして、奇襲は完璧なものでなければならない。ゆえに至近距離まで気づかれることなく接近し、第一撃で拠点防衛部隊を壊滅させて混乱を引き起こす必要がある。続けて拠点内部に突入し、戦闘を極力避けながら素早く兵糧の大部分を焼き払う。そして半日ほど後の距離に敵の追撃部隊が迫っている以上、戦闘時間は可能な限り短縮するのが望ましい。

 

 太史慈は大きく息を吸い込んだ。すでに全員が抜剣しており、目標指示も終えている。

 

「――突撃ッ!!」

 

 号令と共に、兵士は素早く走り始めた。

 

「「「うおおおぉぉぉぉぉぉっっ!!!」」」

 

 奇襲効果を増す為、部下には大声を張り上げるよう指示してある。突然の絶叫に驚いた敵兵が態勢を立て直す間もなく、襲撃部隊の第一陣は警戒ラインを突破した。人と馬が入り乱れ、雪崩のように轟音が連続して響き渡る。

 

「このおおおぉぉぉぉっ!」

 

 一刀も隠れていた茂みから飛び出した。彼の両脇には徐州から連れてきた兵士が並んでいる。

 背後から年配の兵士の叫び声が聞こえた。

 

「――坊主、左だ!」

 

 見れば、敵の騎兵がこちらに向かって駆けていた。曹操軍のトレードマークである藍色の衣を纏っており、その下に頑丈そうな鎧を着用している。軽歩兵主体の曹操軍において、鎧を着用するものはごく僅か。そこから一刀は彼を士官クラスの人間だと判断した。

 

「おらぁッ!」

 

 突っ込んでくる騎兵突撃をギリギリでかわし、馬の脚を狙って斬りつける。だが角度がまずかったのか、剣は馬の脚を殴打した直後に中央から真っ二つに折れてしまった。

 

「くらえぇぇぇッ!」

 

 再び馬首を返してこちらに突撃しようとする敵騎兵の先手をとり、一刀は折れた剣を片手に突撃する。相手もまさか武器が壊れた歩兵が単身突撃するとは予想してなかったらしく、少しばかり対応が遅れた。

 一刀はそのままジャンプして騎兵の胴体に飛びつき、重力に任せて馬から引き摺り下ろす。折れた剣で相手を刺そうとするも、敵も負けてはいない。曹操軍士官は一刀の頭を足蹴にし、這ってその場から避難する。続けざまに落とした騎兵刀を拾い、襲い掛かろうとした。

 

「――伏せろッ!」 

 

 その時、背後から太史慈の声がした。一刀はほとんど反射的に声に従って地面に倒れこむと、後ろから一本の槍が飛んでくるのが見えた。太史慈の放った1mほどの短槍は吸い込まれるように曹操軍士官の腹部を貫通し、彼は驚きに目を見開いたまま息絶えた。

 

「大丈夫かっ!?」

 

 振り返ると、太史慈が駆け寄ってくるのが見えた。同時に周囲の様子も目に入る。辺りには20人以上の曹操軍兵士の死体。青州軍や徐州軍の衣を着た死体も15人ほどあった。恐らく他の部隊も似たような状態なのだろう。奇襲が成功したとはいえ、大陸随一の精兵の名は伊達では無かった。

 

 

「副長、何人動ける!」

 

「ふ、不明であります!敵味方が入り乱れて戦況を確認できる状況ではありません!」

 

 やや離れた位置から曹操軍の将校らしき人物と、その副官と思しき兵士の声が聞こえる。

 

「旗を上げろ!兵士を集めて私に続け!」

 

 乱戦では不利と判断したその将校は、すぐさま部下に移動を命じる。部隊を混乱から回復するべく、都昌の外へ再集結するつもりなのだろう。

 

 

「……なんという錬度だ。予定ではもう少し削れるはずだったのだが」

 

 迅速な判断と行動のできる指揮官。それに従えるだけの訓練を積んだ兵士達。どれも青州軍には無いものばかりだ。

 太史慈は呆れと感嘆が入り混じった声で、やれやれと首を振る。

 

「これでは、勝てないな」

 

 太史慈の視線は都昌の外へと向かう曹操軍に向けられている。奇襲で600人ほどは倒したが、こちらにも300名以上の死傷者が出た。元より戦力で圧倒的に劣っていた以上、決死隊が勝利を収めるには混乱が収まらない内に敵を敗走させるしかない。

 だが曹操軍はそこまで生易しい相手ではなかった。不利な拠点内での乱戦を避け、数の優位を生かすべく遮るものの無い外の平野に兵を集めた。それどころか東から楽進らの追撃部隊の先遣隊が近づいてくるのが見えた。

 

「楽進将軍か……噂にたがわぬ仕事熱心なお人のようだ」

 

 太史慈は皮肉っぽく口元を歪める。

 状況から考えるに、楽進は速度を優先して夜通し走り続けたのだろう。睡眠不足と疲労によって士気は大幅に低下するが、守備隊と合流すれば兵力差で押し切れると踏んだに違いない。見れば守備隊の方も増援の到着に気づき、楽進らの到着を待つ事に決めたようだ。そして彼女らの合流が完了した時、太史慈ら決死隊の勝機は失われるはず。

 

「さて……私たちに出来る事は此処までだ。後はお手並み拝見といこうか。諸葛亮くん?」

 

 だが太史慈のは焦ることなく、冷静に集結しつつある曹操軍を見つめていた。

 

 

 ◇

 

 

(間に合った……!)

 

 楽進は燃え盛る都昌の町を眺めながら、落胆と安堵の入り混じった表情を浮かべていた。

 襲撃を完全に防ぐことは叶わなかったが、まだ拠点の全機能が失われた訳では無い。見たところ火の手は拠点全体の3割ほどにしか広がっておらず、急いで修理すれば2週間以内には回復するはず。

 

「勇猛なる我が将兵達よ!最大の危機は脱した!敵は拠点の破壊どころか守備隊の掃討にも失敗した!もはや我らに抗う力は残っていない!後はただ敵を討ち取るだけだぞ!」

 

 楽進が声を張り上げると、配下の軍勢から歓呼の声があがる。2000対1万1000という圧倒的兵力差を前に、否が応でもその士気は高まりつつあった。

 

 

 ◇

 

 

 曹操軍の歓声は、補給拠点に立て篭もる太史慈らの耳にも届いていた。

 曹操軍は勝利を確実なものとするべく、数の優位を活かして包囲網を形成しつつある。どうやら曹操軍の将・楽進は噂通り堅実な戦いを好む指揮官らしい。一気呵成に攻め込むのも一つの手だが、そうすると補給拠点への被害は免れない。確実に包囲網を形成する事で敵の士気を挫き、降伏を促す事で都昌を無傷で手に入れたいのだろう。加えて夜通しの強行軍で配下の兵士が疲労していることも考慮すれば、極めて合理的な判断だった。

 

(実際、今の私達では彼女らに勝てない。私達(・ ・)では……な)

 

 配下の兵士に動揺が広まる中、太史慈は相変わらず東の方角を一心に見つめていた。

 

 そして――。

 

 

「一刀くん!」

 

 

 不意に太史慈が声をかける。

 その声に応じて一刀が振り向くと、太史慈は顎で一刀にも視線を東に向けるよう促す。

 

 

「見えるか?」

 

「……はい、見えます」

 

 視線の先に映るは、反撃の用意を整えた曹操軍。一刀の瞳は、その先の軍勢を捉えていた。

 

「――待ちに待った、味方(・ ・)援軍(・ ・)です!」

 

 

 ◇

 

 

「……何だ?」

 

 補給拠点の外へ再集結した曹操軍の中で、最初に異変に気づいたのは一人の兵士だった。

 

「おい!そこのお前、何をよそ見をしている!?」

 

「す、すみません!ですが……」

 

 謝りはしたものの、その兵士はある一点を見つめたままだ。

 怪訝に思った上官が視線を追ってみるも、目に映ったのはただの丘だった。

 

「もっと左です……。左の丘の麓に何か……何かがいます」

 

「丘の麓?」

 

 上官は目を細め、そちらの方向を見やる。

 だが、やはり何も見ない。見えないのだが――

 

「明るく……なっている?」

 

 暗闇が、だんだんと明るくなっている。最初は月明りか何かだと思ったが、見ている傍から明かりはどんどん強まっていく。いや、それどころか音まで聞こえてきた。やがて、彼の目にはあるモノが飛び込んできた。

 

 

 旗が、見える。黄色の旗が。

 

 

「……まさか」

 

 見覚えのある旗だった。数年前にもこれと全く同じものを見たことがある。

 忘れようがない。今でもたまに夢に見る。全てを蹂躙する、黄色い津波。

 

「ひ………っ!」

 

 彼らはいつも大軍でやっていくる。殺しても、殺しても、殺しても止まらない。

 

 

「黄……巾………」

 

 

 それは、滅んだはずの軍勢だった。

 自分達が、完膚なきまでに滅ぼしたはずの軍勢だった。

 

 かつて数万の民を先導し、中華を震撼させた黄巾の教え子たち。彼らの王・曹孟徳が躍進するきっかけとなった、数に頼るだけの烏合の衆。

 その最後の残照が、かつての怨敵に牙を剥いた瞬間だった。

 

 

 

 ◇◆◇ 

 

 

 

 同時刻、徐州・下邳にて――

 

 北部同盟軍の徐州侵攻に伴い、州都・下邳では日に日に緊張が高まりつつあった。州政府は防衛戦略のな見直しを迫られ、新たな基本方針を巡って2つに割れていた。

 

「陶応、親父はどっちに付くと思う?」

 

 ここは陶謙の長男、陶商の部屋。人口4万の城郭都市である下邳の内城2階にあるこの部屋では、陶謙の2人の息子が密談をしていた。

 

「確証はありませんが……今までの経験からいって、最終的には援軍受け入れの方向に傾くでしょうね」

 

 そう答えたのは二男の陶応だ。眉間には深い皺が寄っており、その動きの節々に苛立ちが見える。

 兄弟の不機嫌の原因は、つい先刻ほど前に袁術から打診された援軍派遣の申し出だった。

 

「袁術め……何が“友軍への必要な協力と援助を惜しまない”だ。要は発言力を回復させるために、徐州に内政干渉したがってるだけだろうが」

 

 通常であれば、戦力を増強できる同盟国からの増援派遣は好ましい事態であり、諸手を上げて歓迎すべき状況だ。しかし危機的状況にある徐州では――いや、むしろ危機的状況(・ ・ ・ ・ ・)である(・ ・ ・)からこそ(・ ・ ・ ・)歓迎されていなかった。

 

「袁術との関係強化はこの地を蝕む。一方的な通商条約に自己中心的な3枚舌外交……自分の未来を他人任せにすることが、どれだけ悲惨な末路を辿るか父上は分かっていないのか!」

 

「まったくです。戦争で完全に疲弊した状態で助けを求めた我々を、袁術が対等に扱うとでも思っているんですかね?目先の勝利は容易に得られるかも知れませんが、代償としてこの先永遠に袁術の奴隷として磨り潰される」

 

 袁術とて慈善事業で軍隊を貸してくれる訳では無い。当然なにかしらの対価を要求してくるだろう。

 軒を貸して母屋を取られる――戦争を優位に進めるために第3者の力を借りるのはいいが、足元を見られて乗っ取られては本末転倒なのだ。

 

「仕方無いだろう、それが彼女らのやり口だ。結局、袁術は徐州が曹操軍の手に落ちて、本土が戦場になるのを避けたいだけなのだから。自分達は無傷のまま、戦後の中華に君臨し続けるために……な」

 

 吐き捨てるようにそう言うと、兄弟は互いにアイコンタクトを取る。

 いくら徐州の未来を憂いてるとはいえ、愚痴ってばかりでは何も始まらない。南陽の毒牙によって骨抜きにされつつある徐州を救うには、誰かが行動を起こして目覚めさせる必要がある。

 

「……やりますか、兄上」

 

「ああ、徐州を袁術の植民地にする訳にはいかん。それが俺たち為政者の役目だ。それに――父親の間違いを正す事もまた、俺たち為政者の息子の務めだからな」

 

 幸いにも、アテがないわけではない。徐州の高官たちも表面上は袁術一辺倒の弱腰外交に従っているように見えるが、裏では自立を望む者も多くいるのだ。

 兄弟は同時に頷くと、灯りを消して部屋から立ち去った。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「馬鹿な……っ!」

 

 楽進の背筋が震えた。発作的に起こった恐怖心を必死に抑えこみ、顔を奇妙に引きつらせる。

 ぱっと確認できるだけで、遠くから迫りくる黄巾軍の数は3万を超えていた。だが総兵力30万とも言われる青州黄巾軍のこと、後続の部隊がいる可能性は否定できない。

 

 しかも両軍が対峙しているのは遮るモノの存在しない平野だ。数で劣る太史慈ら決死隊相手には有利な戦場だが、圧倒的な兵力を誇る黄巾軍相手には最悪の戦場。そのうえ完全に背後と側面を敵に取られており、将兵に与える心理的ダメージは決して少なくなかった。

 遠くで揺らめく黄巾党を眺めながら、楽進は今とるべき最善策を検討する。いくら数が多いとはいっても所詮は歩兵。一気呵成に突撃して都昌を奪取し、籠城して本隊からの救援を――

 

(……いいや、それはできない。もし黄巾軍が戦場に到着するまでに都昌を奪還できなければ、挟み撃ちにされてしまう。仮に奪還できたとしても、本隊からいつ救援が来るのか分からない現状でそんな危険は冒せない……)

 

 楽進はこのまま突撃したいという衝動を抑えこみ、部下の方へ向き直ると大声で退却の旨を伝えた。

 

 

 ◇

 

 

「おお、よく頑張っているじゃないか。この調子で頼むよ」

 

「へへっ、言われなくても手抜きなんざしませんぜ。なぁ、そうだろ野郎共!?」

 

「おうよ!目の前に一生分あるかないかの食糧があるんだ!一粒たりとも置いてってやるもんか!」

 

 およそ軍人に似つかわしくない、粗野な笑い声がそこら中から聞こえてくる。ねぎらいの言葉をかける太史慈に応えたのは、黄巾のシンボルである黄色い布を纏った兵士達だった。戦闘が同盟軍の敗北に終わった後、青州黄巾党はその最大の目標である補給拠点の接収――つまり略奪に勤しんでいたのだ。

 

「いやぁ、同盟の連中がここに来てからは商売あがったりだったからなぁ。これでやっと嫁と子供たちにも腹一杯食わせてやることが出来ると思うと、此処まで飲まず食わずで走って来た甲斐があったってもんよ」

 

「おうよ、俺達の土地に入ってデカい顔しやがって。黄巾なめんな」

 

 両腕にたんまりと戦利品を抱え込みながら、黄巾党の兵士達が口々に笑い合う。

 

 これが、諸葛亮の策の正体。劉備たちが揚動を行った際に、もう一つ包囲網をすり抜けていった部隊があった。諸葛亮はわずかな手勢を引き連れて青州黄巾党を説得すべく、有力な黄巾の将軍・管亥の元へと向かったのだ。

 

 この時期、青州黄巾党は非常に微妙な状況に置かれていた。かつては青州政府の求心力が弱いのをいい事に好き勝手に暴れ回っていた彼らだが、7万を超える北部同盟軍が侵略してきてからはそうもいかなくなった。今までのように大規模な襲撃を行えば逆に返り討ちにあい、かといって小規模な略奪を繰り返すだけでは30万にも及ぶ黄巾軍とその家族100万を養う事など到底不可能。諸葛亮の提案はまさしく渡りに船だった。

 正面から曹操軍と渡り合うとなれば二の足を踏んだかも知れないが、太史慈ら正規軍が囮となって曹操軍を引きつけてくれるなら文句は無い。黄巾党は曹操軍の背後を付けるという絶好のポジションをリスクを負う事無く手に入れられ、仮に正規軍が壊滅していればそのまま退却すれば良いのだから。

 

「まさか黄巾党を味方につけるなんてな……」

 

 一刀は手頃な木箱に腰かけながら、北部同盟軍に同情の念を感じざるを得なかった

 通常の軍師ならば、まず袁術や陶謙といった同盟国の軍隊を頼りにするだろう。曹操軍とて馬鹿ではないので、当然ながら青州南部には多数の監視部隊を配置している。だがいくら数が多いとはいえ、所詮は盗賊の集団に過ぎない黄巾党に対しては最低限の警戒しかしていない。それゆえ諸葛亮は曹操軍に察知されることなく、また楽進もギリギリまで黄巾軍の接近に気づかなかった。

 

 もっともこの事実は楽進が周囲への警戒を疎かにしていた事を意味しない。

 “青州黄巾党”と呼ぶとあたかも一つの巨大組織のように思えるが、実際には統一的な指揮系統もなければどこかに拠点があって全員がそこに集結しているわけでもない。その実体は青州に住む複数の盗賊やゴロツキがそれぞれ勝手に黄巾党を名乗っているだけで、各犯罪ファミリーの総称をマフィアと呼ぶように青州の盗賊団を総称して“青州黄巾党”と呼んでいる。

 

 ただしマフィアに顔役がいるように一応は緩やかな連合がとれており、最大勢力を率いる管亥を説得する事で諸葛亮は青州黄巾党を動かしたのだ。都昌に現れた4万を超える黄巾軍は遠くからはるばる遠征してきたのではなく、管亥からの連絡を受けた地元の黄巾軍が勝手に群がってきた結果だった。

 

「つまり黄巾軍は最初からバラけて都昌周辺に居たって事だから、そりゃ気づけなくて当然だ。まったく大したもんだよ、朱里は」

 

 今さらながら一刀は諸葛亮の知謀に驚嘆する。常に相手の2手、3手先を見据えて軍略を組む。本当の天才というあのような人間のことを指すのだろう。

 

 

「さて、我々もそろそろ撤収しようか。後は彼らに任せても大丈夫だろう」

 

 そこからやや離れた場所では、太史慈が部下に退却の準備を命じていた。彼の周りでは生き残った青州軍兵士が、松明を空になった倉庫に投げ込んでいる。次第に火の手は広がり、遠くから焼け落ちた建物が崩れる音が響く。後は放っておいても勝手に被害は増大するだろう。

 現有兵力では占領した拠点を維持できないため、敵の再利用を防ぐには徹底的に破壊するしかない。焼き尽くされる都昌を後に、一刀たちの姿は闇の中へと消えていった。

   




 前回の更新からだいぶ時間が経ってしまいました。

 今回は黄巾党がいいとこ全部もってった感がありますが、実は最初は援軍として袁術軍か公孫賛軍を登場させる予定でした。ただ公孫賛軍が海わたってくるイメージが湧かなかったのと、信用の低い袁術軍がすんなり他州における軍の通過を認めてもらえそうになかった(それどころか陶謙の息子達には乗っ取り疑惑までかけられる始末)のでボツになりました。
 外国への援軍って面倒ですよね。送ってもやたら制限付けられたり陰謀論唱えられるし、送らなかったら送らなかったで文句言われますし。


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59話:その期待は戦場にて

     

 戦争が始まった日、我々は初め興奮に包まれた。

 

 これで長きに渡る憂鬱と沈滞の時代は変わるのだと。これからは数多の英雄が誇りを胸に、戦場で武勇と知略を競い合う……そんな栄光に包まれた輝かしい時代になるのだと信じて疑わなかった。

 若い兵士は勇敢に戦って武勲を立てる事に憧れ、領内に残った民も社会の変革を期待して熱狂的に軍隊を送り出した。

                 

 あの頃の我々は何と単純で無垢だったのだろう。

 誰もが新年を迎えるまでには終わると考え、残った人々にこう言ったのだ――「来年の正月は、豪華になりますように!」

 

                         ~とある曹操軍将校の日記より~

  

 

 ◇

 

     

 青州を出し抜き、防備の手薄な北東部から徐州へと侵攻を開始した北部同盟軍。その計画を知りながらも「青州が落ちない限り北部は安泰」と思いこんでいた徐州側の対応が間に合わなかった事もあり、快進撃を続ける同盟軍を止められる者はおらず一時は琅邪城を落とす勢いであった。

 

 だが、青州軍もやられてばかりでは無い。軍師・諸葛亮の提案で青州軍は臨時にゲリラ部隊を編成、包囲の合間を縫って同盟軍の補給拠点・都昌に対する襲撃を敢行した。これに対して曹操軍は楽進将軍の指揮する追撃隊を向かわせたものの、突如として出現した青州黄巾党を前に退却せざるを得なかった。青州黄巾党は都昌を徹底的に略奪、補給拠点を失った同盟軍の進撃スピードは大幅に低下した。以降、同盟軍は兵站線の防衛に多数の兵力を振り向けざるを得ず、これに公孫賛軍の南下も加わって同盟軍の戦略には大幅な狂いが生じることになる。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 徐州・琅邪城――

  

 つい二ヶ月ほど前に関羽ら一行が建設したばかりの要塞陣地は、一ヶ月を超える戦闘を経て完全に廃墟と化していた。彼方には多数の黒煙が立ち上り、今もなお炎上している区画もある。至る所に人の死体が放置され、矢倉や建物は破壊され朽ち果てていた。連日の戦闘による疲労と人員の欠乏のため、死体を焼いたり邪魔な建物を除外する余裕すらないのだろう。

 

「また、増えてる……」

 

 徐州方面軍指揮官の一人、許緒は消え入るような声で呟いた。

 彼女の視線の先には、いくつもの粗野な天幕が所狭しと並んでいた。付近にはボロ布を体中に巻きつけた兵士達が死んだように眠りこけており、すぐ隣には包帯を赤く染めた負傷兵が捨て置かれている。

 

「どこも似たような状況だ。圧倒的に物資が不足している」

 

 隣を歩いていた彼女の上官――夏侯惇が目の前にある光景の原因を答える。

 

「今や我々の補給線はズタズタだ。徐州軍だけじゃない。戦争による治安の悪化をいい事に、盗賊や黄巾党の残党までが我々の補給線の襲撃に加わっている」

 

 先月、徐州牧・陶謙は曹操軍の徐州侵攻に対抗するため、大規模な飢餓作戦を発表した。特別攻撃隊――選抜された正規軍兵士や、勢力の大きい盗賊からなる――は出身地別に組織され、地元の地の利を生かして徹底的なゲリラ戦を展開。敵補給部隊を奇襲し可能なかぎりの損害を与え、増援が到着する前に素早く撤退するという一撃離脱戦法を展開した。

 曹操軍もこれに対抗して騎兵からなる即応部隊を編成するも、地の利を知り尽くした徐州軍は巧みに沼地や森林に隠れたため、うまく罠にでも嵌めない限り壊滅させる事は難しかった。

 

 結局たいした進展もないまま時間だけが過ぎていき、備蓄した物資も日に日に少なくなっていく。やがてそれは将兵の心身を蝕み、ついには恐れていた命令拒否や脱走兵までが発生していた。

 

「春蘭さま、もし今の状態が続いたら……」

 

「その先は言うな。特に部下の前では、な」

 

 上に立つ者の義務として、部下に弱音を吐いてはいけないという不文律がある。先輩としてまだ経験の浅い許緒を戒める夏侯惇だったが、そんな彼女いえども内心穏やかという訳では無い。補給の不足、飢えと疲労、負傷と疫病、戦闘による死の恐怖……そんな極限状況に一ヶ月以上も置かれれば、どんなに屈強な兵士だろうと消耗する。

 

 いつまでこの不毛な戦闘は続くのだろうか――視線の向こう、廃墟と化した琅邪城では何時終わるともしれない命の削り合いが続いていた。

 

 

 ◇

 

 

「それで、話っちゅうのは一体……?」

 

 曹操軍の本営、その中には怪訝な顔をする李典がいた。彼女は攻城兵器の設置や土木工事を担当する工兵部隊の指揮官であり、堅固な防衛ラインである琅邪城の攻略には彼女達の存在が欠かせなかった。

 現在、北部同盟軍は琅邪城の30%ほどを支配下に治めており、そこで一度戦闘を停止している。その理由は、本作戦の総司令官たる曹操が配下の武将を一度に召集したからだった。

 

「単刀直入に言うわ。李典、工兵の作業をもっと急がせられないかしら?」

 

 曹操は僅かに焦りを含んだ声で問う。

 

「特に攻城兵器。歩兵部隊にこれ以上の死傷者を出せば、士気の低下は無視できなくなる。それを防ぐには、やはり攻城兵器を揃えて集中投入するしかないの」

 

「まぁ無理っちゅう事はないけど……今やったら敵さんの弩兵から集中砲火を受けるで?」

 

 李典が心配そうに答えた。現状ではまだ敵戦力の無力化に成功しておらず、そんな状態で攻城兵器の設置作業をすれば弩兵の格好のターゲットになる。

 

「……だけど、出来ない訳じゃないのね?」

 

 改めて、確認するような声。藍色の瞳でじっと自分を見つめる主君の意図に気づき、李典の顔から血の気が引く。曹操は言外に工兵に作業を強行するよう命じているのだ。

 

「で、でもなぁ……今この状況で作業なんかしたら……」

 

 優秀な工兵が多く失われてしまう――そう言おうとして、李典は口を噤む。表面上は隠しているものの、曹操の顔には隠しきれない疲労の色がある。彼女とてこのような強硬策は不本意なのだろう。だが、替わりになる作戦が無いのもまた事実であった。

 

「分かってるでしょう?このままだと、兵站がもたないのよ。今はまだ付近の農村から強制徴収(・ ・ ・ ・)した食糧があるからいいけど、包囲戦を続けられるだけの量はないの。そして兵糧以上に軍需物資が足りないわ」

 

 その指摘は正しく、徐州方面軍の兵站は危機に瀕していた。

 徐州侵攻に参加した同盟軍の内実は、曹操軍5万7000人および袁紹軍5万2000人の約11万人。大して豊かでもない徐州・琅邪国にこれだけの大兵力が駐屯するのだ。時の戦争の常として現地調達に多くを頼っていたが、それだけで賄いきれるはずもなく、青州から送られてくる兵糧に補給の大部分を依存している。また、防具や武器といった現地調達不能な消耗品、更には兵士への給料や各種日用品はどうしても本国からの輸送に頼らざるを得なかった。

 

 

 そのため北部同盟軍は千数百両の荷馬車と数千頭の馬および牛を用意して戦争に臨むも、南下を始めて間もなく、現地における物資調達が著しく困難であることが明らかになった。

 

 まず第一の理由は、劉備たちが徐州で行った『綱紀粛正』にある。貧困問題の原因が貴族や役人の職権濫用や横領にあると考えた彼女達は、そういった不正行為を働いたと思しき現地有力者を裁く裁判を行い、彼らの財産の大部分を農民に『再分配』した。この結果として彼らの力は大幅に弱体化し、北部同盟軍が侵攻した際に、通常行われる手段である「現地有力者貴族への協力要請による円滑な物資調達」が不可能になっていたのである。

 そのため北部同盟軍は各地の村へ略奪部隊を派遣するしかなく、しかも徴集ノウハウをもたない兵士による非効率で収奪的な現地調達はすぐ限界に達したのだ。加えて劉備達の手によって行われた所得再分配(・ ・ ・ ・ ・)――人気取りの為の大地主叩き&バラマキ政策という批判もあるが――により、民は徐州政府への忠誠心が強く極めて非協力的であった。

 

 第2の理由は、袁術との自由貿易協定である。保護関税政策に守られて非効率的だった徐州農業の大部分はこの時期に没落しており、ごく豊かな地域を除いて耕作放棄地が相次いでいた。特に小麦と米といった主要作物についてその傾向は顕著であり、痩せた土地で政府の保護抜きに存続できる農業といえば換金作物の栽培のみ。付加価値は高くとも腹の足しにはならない。

 

 

 こういった弱点を突くべく、劉備達は青州にて補給拠点への破壊工作を決行した。結果は作戦を立てた諸葛亮が予想した通りとなり、じわじわと効果を現しつつあった。当面は現地調達した物資を両軍と分け合うことで凌いでいるが、当初の倍近い速度で消費されていく物資に軍師達は悲鳴をあげている。一部ではすでに必要最低限の割り当てしか出すことができず、士気の低下が見られるという。

 そして徐州牧・陶謙もこのチャンスを見逃すほどお人良しでは無かった。臨時にゲリラ部隊を多数編成し、北部同盟の補給線へ波状攻撃を繰り返した。地の利を知り尽くした彼らは神出鬼没に補給部隊を襲撃、この攻撃は北部同盟にとって大きな圧力となり、警備に兵力を割かねばならなくなった上に食糧不足をより深刻化させた。

 

 もちろん同盟軍首脳部はこれに対抗すべく、ありとあらゆる手を打った。特に物量戦が基本の袁紹軍にとって、兵站網の壊滅は死活問題とされる。兵站が危機にあると知った田豊はすぐさま南皮へ帰還し、大陸中の商人へ使者を送って兵糧の買い付けている。同時に破壊された都昌軍港を再建すべく、南皮から大量の大工と護衛も派遣していた。

 

 しかし、こういった努力が実を結ぶまでは少なくともふた月を要する。いくら破壊された補給拠点を復活させようとも、兵站ルートが再び機能するようになるには、加えて輸送の安全を保障する必要があった。なぜならこの時代、専門の輜重兵が存在することは稀であり、大半の諸侯は曹操のように現地調達で賄うか、さもなければ『酒保商人』――兵糧の供給や輸送を担う従軍商人に頼るかのどちらかだった。

 袁紹軍は主に後者に頼っているが、彼らも結局は民間人。いくら軍にかかわりが深いとはいえ、命を危険に晒してまで物資を戦場に届けるはずもない。補給線の安全が確保されるまでは、青州からの物資は先細りになるに違いなかった。

 

 曹操もまた、兌州からの兵糧輸送を強化するよう命じているが、かねてから指摘されてたように泰山が大きな障害となって効果は今ひとつだ。

 

 

 加えて問題を更に悪化させているのは、公孫賛と袁術の存在だった。更に北部同盟の大軍が徐州で拘束されている現状を好機と見た公孫賛は、これを機に袁紹の脅威を排除すべく全面攻勢を開始。幽州の州境を超えて騎馬の大部隊が袁紹領へ侵攻した。本拠地が脅かされている事に仰天した袁紹は、すぐさま冀州への帰還を決意。田豊と対策を練っているという。

 

「もともと麗羽たちの『第17計画』では、第1段階として青州の無力化、第2段階で公孫賛軍の迎撃を骨子としている。青州軍の主力が壊滅した今となっては、本当なら麗羽達が徐州に留まる理由は無いのよ。今はまだ同盟相手である私達に配慮してくれてるみたいだけど、いつ本国へ引き揚げてもおかしくない」

 

 加えて南でも袁術が軍を動かす兆候があるという。だとすれば尚更、徐州の制圧は可及的速やかに行われなければならない。袁紹が軍を引き揚げる前に、袁術が参戦してくる前に、徐州を制圧する。これは時間との勝負なのだ。

 

「こちらの損害は物理的な面だけじゃないわ。精神的な面もそう。――信じられる?昨日はついに脱走兵が出たのよ」

 

 一度軍中に広まった厭戦気分はなかなか収まることなく、依然として琅邪城が継戦能力を保持しており、武器・食糧補給の欠乏も考え合わせると、徐州へ侵攻した北部同盟軍は戦闘能力を喪失しかけていた。指導層は士官の信頼を失いつつあり、従軍した貴族は領地への帰還を望み、兵士たちの間では規律が失われかけていた。そして北部同盟の支配が揺らいでいることを感じた徐州や青州の民の間では、再び大規模な反乱が頻発していた。

 

「これは命令よ、作戦を続行なさい」

 

 曹操は苦々しげに命じた。典型的な上意下達の組織である軍隊において、上の命令は絶対。逆らう事は許されない。

 李典は明らかに不満そうな表情をしていたが、自制心によってそれを抑えつけると、素早く敬礼をして前線へと戻った。

 

「劉備と諸葛亮、か……。この私に、あんな不様な言葉を言わせるとはね」

 

 上の命令は絶対だ。だからこそ、それを軽々しく使用することは許されない。伝家の宝刀として、本当に切羽詰まった時のみ使用されるもの。そして命令の強制という最終手段をとったことに、彼女は軽い苛立ちと自己嫌悪を覚えていた。

 

 ――やはり、劉備は危険だ。彼女本人というより、惹かれて集まる周囲の人間が。

 

 曹操はそう結論づけると、目を閉じて今後の動向について思案を巡らせ始めた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 一ヶ月後・琅邪城・外壁――

 

「放てぇッ!」

 

 関羽の号令と共に、200を超える矢が城壁へと押し寄せる敵軍へと降り注ぐ。

 琅邪城攻防戦が始まってから、もう2ヶ月以上も経つ。曹操軍同様、徐州軍も深刻な物資不足と連日の戦闘による疲労に悩まされていた。敵の攻撃は休むことなく続けられ、倉庫に大量に備蓄されていた物資も残量1割を切った。

 

「怯むな!苦しいのは敵も一緒だ!――いや、むしろ敵の方が苦しいはず!落ち着いて戦えば勝てるぞ!」

 

 ただし、敵に比べて幸運だったものもある。徐州軍はもともと消耗戦を想定していために、食糧割り当てなどの各種制度が組織的に整備されていた。そのため3万近くの難民を抱え込みながらも、物資の供給を最低限まで削る事で何とか対処できている。

 対する曹操軍は短期決戦を基本方針としていたため、消耗戦へ移行するに当たって少なくない混乱が生じたという。だが、それで徐州軍の負担が減る訳でもないのが、この戦争の悲しい所であった。

 

(だが、悪い展開ばかりでもない。途中からは工兵の集中投入によって短期決戦を狙っていたみたいだが、ようやく敵も息切れしてきたようだな)

 

 都昌陥落から約一ヶ月、同盟軍は広大な琅邪城全域での攻勢を中止し、作戦正面を限定してそこに集中的に兵力を投入するよう方針を転換した。この変更は効果を上げ、今では城塞の50%以上が敵の手に落ちている。

 

 だが、そこまでが限界だった。

 

 曹操軍本営で李典が指摘したとおり、戦闘の度にベテラン工兵が次々に失われていったのが原因だった。もともとこの新作戦は兵力の集中投入――特に攻城兵器と工兵を要所に重点的に投入し、攻城兵器の打撃力を最大限に高める事を骨子としている。だが、狭い地域に兵を集中させれば敵も同様の配置を取る事は必然であり、その矢面に立たされた工兵部隊の被害は時を増すごとに増えていった。

 そして高度なテクノロジーの産物である攻城兵器の建設は、優れた技術者でもあるベテラン工兵の存在抜きには成し得ない。補充の難しい彼らの連続的な損失は、同盟軍の攻城能力を着実に奪っていったのだ。

 

 

 ◇

 

 

 結局、この日もいつもと同じようにさしたる展開もなく戦闘は終結した。同盟軍の攻撃は日に日に低調なものに変化し、初期の攻勢に見られたような苛烈さは無くなっていた。

 もっとも徐州軍もその点では大した違いはない。一日に使用可能な矢の本数は当初規定の半数まで減っているし、食糧配給の減少によって兵の動きは目に見えて緩慢なものになっている。腹が減っては戦が出来ぬというやつだ。

 

「愛紗ぁぁ~……」

 

 城壁の壁を背もたれとしながら、張飛が情けない声で関羽を向ける。

 

「今日も少ない、変わらない、あとマズいのだ……」

 

 手元の食事の中身を見つめながら項垂れる張飛。

 

「2週間ずっと麦飯とカブの漬物だけ……もう飽きたのだ……」

 

「鈴々、これでもまだマシな方なんだぞ?一般の兵士達の食は一日2回のアワ飯だけだ。彼らのことも考えて、もう少し我慢してくれ」

 

「うぅぅ……でもマズいものはやっぱりマズいのだ……」

 

 事実、客観的に美味しいか否かで判断すれば間違いなく後者だ。比較的優遇されてる兵士達ですらこの有様なのだから、収容された難民たちの生活はより悲惨なものに違いない。 

 

 

 それからしばらく無言で食事を続けていた張飛達だったが、ふと関羽が思い出したように口を開く。

 

「……そういえば雛里、曹操軍が下邳への強襲を計画しているというのは本当なのか?」

 

「……っ!?……あわわ、どっ、どこでそれを?」

 

 不意に投げかけられた関羽の問いに、鳳統は動揺して箸を落としかける。

 

「部下達が噂しているのを聞いた。――それで、実の所どうなんだ?」

 

 鳳統はしばらく言うべきか迷っていたようだが、周囲を確認しながら関羽に近寄ると、周りに聞こえないよう耳元でそっと囁いた。

 

「先週、南陽から発表された声明文の内容は知っていますね?」

 

 確認するような鳳統の言葉に、関羽は首を縦に振る。

 開戦後初の袁術陣営による公式声明、その中で始めて義勇軍(・ ・ ・)の派遣が決定されたのだ。北部同盟軍は自軍に動揺が広がらないよう情報統制を敷いているが、噂は完全包囲下にあるはずの関羽達の耳にも届いていた。

 また、徐州では『天の御遣い』北郷一刀の提案により、各諸侯に先駆けて伝書鳩を試験的に運用している。そのため包囲戦の中であっても、外部の状況を定期的に得る事が出来るのだ。

 

「話によれば、義勇軍の到着予定は来月だそうです。もし袁術軍の派兵が真実ならば、琅邪城を包囲している北部同盟軍にとっては最悪の状況でしょう。となれば同盟軍の取るべき戦略は速やかに此処を占領するか、あるいは……」

 

「袁術の増援が辿り着く前に下邳を占領するしかない、か。さもなければ自分達が逆包囲されてしまう」

 

「その通りです。ただ……」

 

 何か気になる事があるのか、鳳統は言葉を詰まらせる。

 

「雛里?」

 

「い、いえっ!何でもありませんっ!ちょっと余計な事を考えてただけで……」

 

「ほう………」

 

 とっさに誤魔化そうとするが、そんな事で騙される関羽ではない。そのままジィッと見つめ続けていると、やがて観念したのか鳳統は小声で語り始めた。

 

「実を言うと……私は曹操さんがそんな事をするとは思えないんです。補給に問題を抱えた約11万の同盟軍、その維持だけでも手一杯な状況で新たな作戦を実行する余力があるとは思えません」

 

 下邳にはまだ1万4000の兵士がおり、攻者3倍の原則に従えば攻略には少なくとも4万人以上の兵が必要となる。加えて2万人の守備隊が立てこもる琅邪城の包囲に6万、占領地および補給線の維持に1万人近くの兵士が拘束される事を考えれば、いささかムリのある作戦だった。兵力的にギリギリできなくはないが、これに時間という要素を組み合わせれば話は別だ。州都である下邳の護りは堅いはずだし、この琅邪城でも後2ヶ月ぐらいは持つ。先に袁術軍が到着する可能性の方が高かった。

 

「それに袁術軍が参戦したとして、すぐ琅邪城救援に向かう保障はありません」

 

 そもそも袁術陣営が約束したのはあくまで『一ヶ月以内の義勇軍派遣』であって、具体的な兵力までは不明。要は「徐州を見捨てなかった」というポーズが大事なわけで、ほんの申し訳程度の数しか送られてこない可能性もある。

 それらを総合して考えると、曹操軍の早期撤退などというのは単なる希望的観測に過ぎない、というのが鳳統の意見だった。

 

「ただ、皆さんの前であまり悲観的な推測を公言するのも……」

 

 いつ終わるとも知れない籠城戦。前線で戦う兵士達は元より、生存ギリギリの環境に身を置く難民たちも心身ともに追い詰められている。ストレスが溜まった兵士と難民との衝突も頻発しており、いつモラルが崩壊していてもおかしくない環境なのだ。

 それでも依然として琅邪城は秩序を保っている。その理由の一つが、先ほどのような増援の存在なのだろう。もうすぐ袁術軍と合流して兵力を整えた味方が助けに来てくれる……その僅かな可能性に全員が一縷の望みをかけている。だからまだ我慢できる。まだ戦える――その気持ちに水を差すような真似は出来なかった。

 

「そうか……」

 

 関羽は成程、と納得したように目を瞑る。

 

「それでも……援軍が来るといいな。私たち指揮官にも、希望を持つ事ぐらいの我が儘は許されるはずだ」

 

 落ち着いた声で、でもほんの少しだけ期待を込めて。

 関羽は自分自身に言い聞かせるように小声で呟くと、明日の戦闘に備えて静かに寝息を立て始めた。

     




 食糧もそうですけど、武器や防具なんかも消耗品なんですよね。槍とか剣は案外簡単に刃零れするもんですし、弓矢はいわずもがな。流石に民家に武器や防具はそうそう置いて無いでしょうし、鍛冶屋や製鉄所もそう都合よく営業してないので、現地調達が出来ず本国からの輸送に頼らざるを得ないのはこーゆう軍需物資なんじゃないかと考えててみたり。
 あとは兵士の給料とか?昔の文献読んでるとたまに「給料を支払うための現金積んだ馬車が盗賊に襲われたので、給料未払いに怒った兵士が反乱を起こした」とかいう描写を見ます。


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60話:崩落の前

 収穫を終えた黄褐色の麦畑を貫く、地平線の果てまで続くような直線道路。それは東に向かうにつれて細くなっていき、比例するように雑草や石ころが目立つようになる。やがては周囲の草むらとの境界が曖昧になり、ついにはおよそ人の手入れが入っていない荒涼とした平原が見えてきた。

 普段ならば狼の狩り場にでもなるのだろうが、その日は少しばかり様子が違った。巣を掘り起こされた蟻の群れの如く、数多の人々が忙しなく蠢いていたからだ。服装も持ち物もバラバラだったが、その手に武器を握っているという一点のみが彼らを『兵士』というカテゴリーに区分し規定していた。

 

 そうした兵士たちに混じって、孫権は豫州東部・沛国にいた。目的は“北部諸侯からなる帝国主義勢力が侵略してきた場合”を想定した総合演習。今までも何度か姉に連れられて賊討伐の軍を率いた事はあったが、『袁術軍』として参加したのは今回が初めてだ。

 

「……ったく、これで3日目かよ。オレはいつまであの馬鹿女の命令を待ってりゃいいんだ?」

 

 彼女の隣には、ラフに着崩した軍服を纏う長身の武将。飢えた肉食獣のような印象を与えるその男が、この場にいる全部隊を率いる指揮官・紀霊将軍だった。

 

「よぉ、そっちは何か聞いちゃいないか?」

 

「書記長からは何も。 我々に下された命令は、あくまでこの演習を無事に終了させること。そして……万が一(・ ・ ・)演習中に徐州政府から支援要請があった場合、要請内容に基づいて適切な行動(・ ・ ・ ・ ・)を取る事が望まれます」

 

 そうかよ、と紀霊はつまらなそうに返す。

 

「ずっと思ってたんだが、どうして性根が腐ってるヤツに限ってやたら体裁を取り繕うんだろうな? お前もそう思うだろ、孫権」

 

「性根が腐っているからこそ、じゃないか?」

 

 辟易したような紀霊の問いに、うんざりとしたように答える孫権。というのも、彼らは演習に向かうにあたって“近々徐州で不穏な動きがあるかもしれない”と劉勲から警告されていたからだ。曰く、徐州政府の中に現政権に不満を持つ者が水面下で行動を起こしている、と。

 しかしながら未だ徐州の反体制派が動く気配はなく、かといって劉勲がリスクを冒してまで反乱を誘発するそぶりもない。あくまで“待ち”の姿勢を貫く現状は、戦闘狂の紀霊にとって獲物を目の前にして待ちぼうけをくらったようなもの。

 

「なぁ、いっその事こっちから挨拶しにいくってのはどうだ?案外、向こうさんとうまくやってけるかもしれねぇぞ?」

 

「さぁ……どうだろうか? ただ、敢えて一般論を述べるなら、独断専行はあまり褒められたものでは無い」

 

 孫権が曖昧な返事を寄こすと、紀霊は本気とも冗談とも知れない口調で話を進める。 

 

「そうかい。だがよ、あいにくとオレは他人に焦らされるのが苦手なんでね。それに戦場じゃ臨機応変な現場の判断(・ ・ ・ ・ ・)ってのが重要視されるもんだろうが」

 

 

 

「紀霊将軍」

 

 

 そこで後ろから会話に割って入る声があった。振り向くと、彼らと同じように軍服を着こんだ華雄が近づいてくる。片手には斧を構えており、その視線は油断なく紀霊を捉えていた。

 

「将軍、勝手な行動は控えろ。政治将校にいらぬ疑いを掛けられる」

 

「あ? オレぁ、まだ何も言っちゃいねぇぜ。まだ(・ ・)、な」

 

「つまり、その可能性はあるという事か? 知ってるとは思うが、故意の命令違反は袁家に対する反逆と見なされ、処罰では連帯責任が適応される。ここにいる私たちまで巻き込まないで欲しい」

 

「おうおう、上の命令は絶対ってか。汜水関で馬鹿みたく突っ込んだ脳筋とは思えねぇ台詞だなァ」

 

「貴様……ッ!」

 

 挑発的な言葉をちらつかせる紀霊に、華雄が憤怒の表情を浮かべる。汜水関の敗北によって自制心を学ぶ前、数か月前の彼女ならとっくに激昂して斬りかかっていただろう。もちろん、この先の展開次第では自重する気などさらさら無い。

 

「どうした、華雄ちゃんよぉ? 殺りたいってなら遠慮はいらねぇぞ」

 

「ほう、そこまでして死に急ぎたいか? 傭兵崩れ」

 

 刹那、同時に発せられる殺気。大斧を握る華雄の拳に更なる力が加わり、紀霊が腰に提げたナイフへと指を伸ばす。心拍数が加速度的に上昇し、アドレナリンが全身を駆け巡る。

 いくら演習といっても、その内容が人殺しの術である以上、完璧な安全など保障はできない。今回のように大規模な演習ともなれば、その最中に事故(・ ・)の1つや2つ――。

 

 

「はぁ……2人とも、少しは落ち着いたらどう? 言っておくけど、私たちの周りにいる護衛兵は大概が政治将校よ」

 

 呆れたような口調で仲裁に入る孫権。すかさず睨みあっていた両者の殺気が彼女へと矛先を変えるも、『政治将校』という単語が行動へと移るのを抑制していた。

 

「私闘は許可申請書を提出してから、第3者の立ち会いの下で行うこと――それが上の方針。私が今ここで警告を出した以上、無視すれば明確な軍紀違反として処罰の対象になる」

 

 袁術軍には一般の指揮系統とは別に、政治本部の統率下にある政治将校が存在する。彼らの目的は袁家の方針を作戦に反映させ、プロパガンダや反体制思想の取り締まりを通じた、シビリアンコントロールの徹底による軍人の監視にあった。作戦への介入こそ認められないものの、部隊の人事権や一時的な罷免権などが与えられており、正面からの反抗は自殺行為に等しい。

 

「チッ……なんか一気に白けたな。 わかった分かった、了解したよ。落ち着きゃいいんだろ」

 

 渋々、といった様子で矛を収める紀霊。それを見て華雄も斧を握る力を緩めるが、未だ武器から手を放そうとしないのは相手を完全には信用していないからだろう。

 

 そんな2人を見てやれやれ、と孫権は本日何度目かになる溜息を吐く。

 

 袁術軍、とは言ってもその内実はおよそ一つの『軍』と呼べるのかすら怪しい烏合の衆。紀霊のような傭兵崩れ、華雄のような外人部隊、そして自分のような客将、奴隷兵、強制徴募の農民兵――これら雑多な兵士を袁家直属の政治将校が監視・督戦することで、何とか規律を維持しているのがその実態といえよう。 

 仲間意識とまでは言わないが、最低限の協調性ぐらいは見せてもいいのではないか。今日だけで4度(・ ・)も仲裁に入る、こっちの身にもなって欲しい。

 

(いや、元より指揮官同士の不信を煽るのが目的か。袁術、というより劉勲らしいやり方ではあるが……)

 

 再び、溜息。劉勲が政権を握ってからというもの、財政支出削減の一環として袁術軍は減少の一途をたどっていた。そのためいざ軍を拡大するとなると、どうしても忠誠心の疑わしい非正規軍の割合が増えてしまう。そこで指揮官や部隊同士を反目させ、お互いを監視させながら袁家への不満を逸らすのが劉勲の選んだ回答だった。

 

 

「――孫権さま!」

 

 横から呼びかける声に、孫権は思考を現実に戻す。声のした方に振り向くと、若い兵士が一枚の書類を出している。それを受取って広げると、孫権の瞳が小さく見開かれた。

 

「そうか……あれは、そういう意味だったのか……!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「前方に敵発見!数は約50人、まだこちらには気づいていません!」

 

 下邳城内部にある市街地。その一区画では武装した2つの集団が戦闘を開始していた。

 

「このまま突っ込め!一気に蹴散らすぞ!」

 

「「「了解!」」」

 

 複数の応答を耳に入れながら、陶商は自ら剣を振るって突撃する。目的は下邳の制圧。身も蓋もない言い方をすれば、クーデターの決行だった。

 

「昨日、夜に紛れて早馬が袁術領に向かった!その内容が袁術への協力要請――事実上の植民地化の承諾であることは疑いようがない!州を統治するという州牧の責任を放棄した父上・陶謙のとった行動は、民に対する紛れもない背信行為である!」

 

 陶商は味方を鼓舞せんと、あらん限りの声を張り上げる。彼と共にある兵士はその大部分が生粋の徐州出身者であり、異邦人に振り回される徐州の現状を憂いていた。

 

(そもそも劉備などという、何処の馬の骨とも分からぬ小娘を重用したのが間違いの始まりだったのだ。父上はあの取り澄ました様な平和主義を真に受けて弱腰になり、徐州は主体性を失って余所者の傀儡となり果てた……)

 

 幸いにも彼は父・陶謙から新規に編成された部隊の指揮を任されており、北部同盟の徐州侵攻によって公然と多数の兵を下邳に集結させる事が出来ている。計画では非クーデター派の部隊を一掃した後、下邳の外壁を制圧・城門閉鎖によって完全に支配下に置く事を予定した。

 

(ましてや袁術に救援を要請するなど……!――ついに耄碌したか、父上!)

 

 ゆえに陶商は、故郷の未来を憂う仲間達と共に決起した。自分達の住む土地、その政治を異郷の人間の手に委ねる事は、自らを奴隷に貶める行為に等しい。結局この地の為に心の底から踏みとどまれるのは先祖代々この場所を育み故郷と思える人だけ。

 

「たしかに徐州は弱小だ。そして政治外交には強い力が必要な事も認めよう。 ――だが、力が必要なら何故自分達で力を蓄えない!?何故他人の力をアテにする!?」

 

 力が無ければ力のある余所に助けを求め、その為に余計な労力を割くのではなく、自分達で自分達の為の力を蓄えるべきなのだ。徐州は此処で生まれ育った人間だけのものであり、余所者のために徐州の民が犠牲になっていい訳がなかった。

 

「迫りくる曹操軍の恐怖に怯え、生きるために袁術の犬と成り果てるを良しとする者もいる。――だが、我々はそうではない!」

 

 陶商は背後に続く兵士達を見やる。徐州のために立ち上がった、真の志士たちを。この困難な状況から逃げずに、自分達で立ち向かう事を選んだ勇者達を。

 徐州は弱小勢力なのかも知れない。それでも……これだけの人がこの地を護る為に立ち上がってくれたのだ。歪んだ政治を正し、そこに暮らす人々が誇りを持ち続けられるよう、戦いに身を投じてくれたのだ。なればこそ――。

 

「この地を外様の好きにはさせん!我々の未来は、我々自身がこの手で築きあげるのだ!」 

 

 通路にこだます金属音――全員が走りながら、陶商の声に応える様に各々の得物を構えた。

 

「目標、前方!――売国奴共を、金に目の眩んだ金の亡者共を一掃せよ!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 その日、下邳からもたらされた情報に誰もが耳を疑った。

 

「馬鹿な……そんな馬鹿な事があってたまるか!」

 

 報告書を読んだ太史慈は思わず声を荒げる。城を包囲する同盟軍の目を掻い潜り、やっとのことで臨菑城に帰還した矢先の事だった。ただでさえストレスで蒼くなった顔色が、より一層白みを増す。

 

「下邳で内乱騒ぎだと……!?」

 

「内、乱……?」

 

 目を見開く一刀。隣にいた劉備は勿論、諸葛亮すらも驚きのあまり声も出ない有様だ。青州牧・孔融に至っては顔中が引き攣って情けない顔をしている。

 

「連中は状況が分かっていないのか!? この余裕の無い時期に、いったい何を考えている!?」

 

 ただでさえ強大な北部連合に対して青州と徐州は劣勢を強いられている。どんな理想や対立があるのか知らないが、身内で争っている余裕など無いはず。

 

「そんな……どこの誰がそんな真似を……!」

 

「……分からない。報告書にはただ“下邳で内乱が発生。徐州牧・陶謙の生死は不明”とだけ書かれている」

 

 そう言って太史慈は徐州から届いた報告書を見せる。公式文書にもかかわらず殴り書きのような乱暴な筆跡で書かれている事から、よほど時間が無かったと見える。つまり下邳ではそれだけ状況が混乱しているという事だ。

 

「いったい下邳で何が起こっているんだ……?」

 

 

    

 ◇◆◇

 

 

 琅邪城――

 

 

 同じ頃、内乱の知らせは関羽達にも届いていた。

 

「どうして……」

 

 張飛が呆然としたように呟く。関羽や鳳統も表情こそ平静を装っているものの、その顔色は見るからに青ざめている。

 

「鈴々たちはどうなるのだ?援軍は?このままだと……!?」

 

 泣きそうな声で、その場にいる全員の気持ちを代弁する張飛。いくら一騎当千の武将とはいえ、本来ならば独り立ちすらしてないはずの子供なのだ。ずっと我慢していたものが、ついに耐え切れずに溢れ出したのだろう。

 鳳統も声にこそ出していないが、その表情には恐怖の色がありありと見える。救援部隊の存在を否定しながらも、やはり内心ではどこか期待して心の支えにしていたのか。それがあっさりと覆されれば、彼女達で無くとも動揺する

 

「落ち着いてくれ、鈴々。まずは状況把握が最優先だ」

 

 年長者としての責任感からか、関羽は動揺を抑えつけながら状況把握を試みる。

 だが下邳から送られてくる報告は一貫性の無いものばかりで、それが現場の混乱を暗に伝えていた。

 

(どうする?情報が錯綜していて下邳からの報告はアテにならない。それにこの状況で反乱が起これば、敵軍も何かしら仕掛けてくるはず……)

 

 彼女が取り得る選択肢は2つ。一つは下邳の混乱が早急に回復することを信じ、このまま籠城を続けること。2つ目は琅邪城を放棄し、イチかバチかで突破を図る事だ。

 だがどちらにしても、下邳の状況次第となる。反乱軍優位ならば後者を選択すべきだろうし、逆ならば前者の方が有益だ。

 

 関羽達が決断を決めかねていると、ふと部屋の入口が騒がしくなる。

 

「おい!ここは将官以下は立ち入り禁止だ!言いたい事があれば手続きを踏んで……「そっ、曹操軍の一部が動いています!」」

 

 次の瞬間、部屋にいた全員が慌てて外へ駆けだす。急いで曹操軍が見渡せる高台に上ると、そこには先ほどの兵士が伝えたとおりの光景があった。

 縦に隊列を組んだ曹操軍騎兵が南へ向かって進んでいるのが見える。数は5000騎ほど。他にも数か所で撤収作業が開始されており、同盟軍の兵士が慌ただしく天幕を片付けている。

 

 内乱で揺れる下邳を横合いから殴りつけるつもりか――関羽はそう思った。

 あるいは――。

 

「罠……ですね」

 

 ぽつり、と鳳統が呟いた。

 狩りでは最初から全方位で追い詰めるようなことはせず、逃げ道を一つは残しておくという。そうすれば、獲物は必ずそこへ向かう。その場所こそが真の狩り場であるというのに……。

 

「――――!?」

 

 鳳統がそれを他の士官たちにも告げようとした瞬間、どこからか鬨の声が上がった。見れば、南側にいる友軍の一部が臨戦態勢に入っている。

 

「どこの部隊だ!?」

 

 要塞司令官が顔に怒気を貼り付けて叫ぶ。

 

「司令官、あれを!――南部を守る広陵太守・趙昱の軍勢です!」

 

「あのバカ共め……!」

 

 大音量の正体は、要塞南部に配置されていたであった。要塞司令部の判断を待たず独断で攻撃を開始したらしく、3000人ほどの部隊が先陣を切って曹操軍の防備が弱い場所へ突撃している。下邳へ軍を派遣するために配置転換をしていた曹操軍の包囲陣は一時的に緩んでおり、このまま行けば突破も不可能では無いように見えた。

 

「命令も無しに動くなど!いったい何の為の軍隊だと思っている!?」

 

 顔を赤らめながら苦々しげに呪詛を吐く要塞指揮官。しかし、一度起こってしまったことは止めようがない。それに徐州軍の中核が豪族の私兵集団である以上、いつかは起こる事だったのだ。

 

 

「お、俺達も続こう!全員で打って出れば、あの包囲網だって突破できる!」

 

 関羽の隣にいた若い士官が叫ぶ。

 

「州都がヤバいってのに、こんな辺鄙な所にいてもしょうがないだろ!?俺達がこの場にいる2万の兵を連れて下邳の窮地を救えば、上層部だって賞賛してくれるはずだ!」

 

 たしかに一理あった。だが関羽は同時に、震えながら訴える彼の真意が別の場所にあることに気づいていた。

 

「……まだ脱出の許可は下りていない。そんな状況で独断で城から撤退すれば敵前逃亡に……」

 

「非常時には現場の判断で一定の自由裁量が認められる!これは撤退じゃない、転進(・ ・)だ!」

 

 詭弁だ。目の前にいる若い男はこれ以上の籠城戦に耐えられず、この場から逃げ出そうとしている――関羽はその事実に気付きながらも、彼の事を責められないでいた。

 

 誰だって飢えと疲労で苦しんだまま、野垂れ死になんてしたくなんて無い。どうせ死ぬならまだ動ける内に戦って死にたい。自分達はもう充分戦った。徐州の為に充分苦しんで、給料分の働きはしたんだ。脱出を正当化できる大義名分だってある。

 

 ――違う。

 

 関羽は揺らぎ始めた自分の心をとっさに否定する。

 こんな事を考える様では、桃香様の理想は叶えられない。自分は「みんなが笑って暮らせう世界」作ろうとしているんだ。ここで自分達が逃げれば、残された難民たちには間違いなく悲劇が待っている。曹操軍は規律の厳しいことで有名だが、それでも虐殺や暴行と無縁の軍隊など存在しない。反董卓連合戦の折、廃墟と化した洛陽で充分思い知ったではないか――。

 

「……駄目だ。もし我々がこの地を放棄すれば、残った難民たちが……」

 

「奴らがどうしたっていうんだ!俺達はもう充分戦った!そもそも此処の生活が苦しくなったのは、大量の難民を抱え込んだのが原因だろう!?」

 

 ざわつく感情を抑えつけて必死に言葉を紡いだ関羽に返されたのは、およそ軍人とは思えぬ発言。しかし同時に、この場にいた将兵の大半が口には出さずとも内心で堪えていた思いだった。

 

「最初から難民なんて保護しなければよかったんだ!血気逸った曹操軍に何をされようが、俺達がそこまで責任持てるか!捕虜の身柄を保障するのは占領軍の責任だ!俺達じゃない!」

 

 洪水のように吐き出される呪詛。

 戦いもせずただ物資を消費するだけの難民に、本当に守るだけの価値があるのか。そんなものを守る為に、歴戦の兵士達の命をすり潰して良いのだろうか――。

 

「どの道、もう秩序は回復しない!広陵の連中が此処を出ていくのを見ただろう!? 主要な豪族とその部下達がまとめて逃げ出したんだ!無理に残留を命じた所で、どうせ他の部隊もそのうち逃げ出すに決まってる!!」

 

 そう、崩壊したモラルは容易には回復しない。特に脱走というのは一度始まると連鎖的に広がってしまい、歴戦の名将ですらそれを留める事は容易ではない。

 

 なんで別の部隊の連中は逃げたのに、自分達だけ戦い続けなければいけないんだ……こうした不公平感は戦時下においては致命的だ。負担が平等だからこそ、人は苦しくても耐え凌ぐことが出来る。その大原則が崩れてしまえば、誰もが自分の負担を減らすことを最優先に考えるだろう。やがてそれは兵士のモラルを失わせ、自国民への略奪や暴行へと走らせる要因となる。

 それを省みれば、このまま琅邪城に留まった所で部隊の統率が利かなくなる事は火を見るより明らかであった。士気の低下も容易に予想できる。

 

「あんただって本当は分かってるんだろう!?もし下邳が反乱軍の手に落ちれば俺達は袋の鼠だ!」

 

 まだ指揮系統が機能している内に、全軍で脱出を図るのが最善策ではないだろうか?少なくとも、兵士と難民のうち片方は助かる。

 

「今ならまだ間に合う!今ならまだ、生きてこの惨めったらしい場所から出られるんだ!」

 

 逃げられる。生きて此処から脱出できる――その言葉はこの2ヶ月間、地獄の攻城戦を生き延びた将兵達にとって麻薬にも似た甘美な響きだった。

 

 そして――。

 

 

「……脱出の準備を。この城はもう持たない」

 

 要塞司令官の命令に応じて、配下の将兵が慌しく動きはじめる。だが前もって準備もしないまま場当たり的に決められた脱出作戦は、曹操軍の陣からも容易に観測可能であった。

 

 

 

 

 後世、この判断には人によって大きく議論が分かれる。

 

 曰く、民間人を保護するという軍の任務を放棄し、極度のストレスでタガのはずれた同盟軍の中に難民を放り込んだ。

 曰く、状況的に琅邪城の陥落は時間の問題であり、貴重な戦力再編のために必要な撤退と犠牲だった。

 

 

 ――だがいずれにせよ確かであるのは、この脱出作戦の決定が後に『徐州大虐殺』として知られる悲劇を引き起こしたという事実だった。

 陰鬱で凄惨な消耗戦は、曹操らの予想を上回るスピードで兵士達の心身を蝕んでいた。極限まで擦り減っていたモラルが崩壊するには、たった一つの切っ掛けで充分だったのだ。

    




 安定の「ドサクサに紛れて漁夫の利狙い」の袁術軍。それを察知して徐州の独立を保とうとする陶謙の息子達。でも、それによって一層苦しい状況に追い込まれる青州。クーデターによる混乱の隙をついて徐州にワナを仕掛ける曹操。一方で関羽達は大きなジレンマに直面し……味方同士でも連携がロクに取れてないのがこの作品の平常運転。

 戦争に勝つために劉備達が行った飢餓作戦が、巡りにめぐって最終的には虐殺の原因になったのはまぁ、因果応報?みたいな。だいたい攻城戦って長引くと、落城時にイラついた兵士がヒャッハーしてますしねー。


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61話:2つの弔鐘

 注意:虐殺回なだけに些かエグい描写が入っているので、そういうのが苦手な方はご注意下さい。


  

 最も規模の大きかった南東の城門が破壊された後、城内の状況は急速に悪化した。徐州・青州のとった飢餓作戦によって餓死寸前だった曹操軍兵士が城内に放たれ、同じように飢えに苦しんでいた難民や逃亡しようとする徐州兵に想像を絶する蛮行を加えた。かれらは奪える限りの食糧、衣服、毛布、金品、牛馬といった価値あるもの全てを略奪し、家具や住宅は薪にするために破壊され、民が引き渡しを躊躇しようものなら容赦なく槍で突き殺された。

 

 略奪は数日間に渡って続けられ、その間に暴行を受けなかった民はなく、掠奪されなかった建物はない。扉や蓋は乱暴にこじ開けられ、物置はひっかき回され、倉庫にあったものは軒並み持ち去られ、家屋は使いものにならなくなった。そして皮肉な事に、これらの略奪品を運ぶのは難民と捕虜であった。

 曹操軍の蛮行が止む気配はなく、むしろ日に日に狂気の度合いを増していくように見えた。なぜなら毎日のように押し寄せる略奪部隊は誰もが、暴力によって更に多くのものを搾り取れると考えていたからである。彼らはありもしない「秘匿された物資」を探して難民を脅迫し、城に残っていた者は絶望の淵へ追いやられた。

 

 しかし中でも最悪の事態が発生したのは落城から2日目の夕方だった。この日、収容所で民間人に変装した徐州軍の武将が発見されたのだ。これが大義名分となって敗残兵狩りが容認され、僅かばかりの敗残兵と多くの無実の民間人が殺害された。その場で斬り捨てられたのはまだ良い方で、女性や子供ではかなりの数が虐待と強姦を受けた後に殺害されている。彼らは「身体検査」と称してうら若き女性を強姦し、「尋問」と称して子供の手足を切断した。容姿の優れた女性は体中に泥や糞尿を擦りつけ、兵士が“萎える”よう偽らねばならなかった。

 

 唯一の救いは、この悲惨な事件がわずか(・ ・ ・)4日で終わったことだ。なぜなら下邳を落とさない限り戦争は終わらず、悠長に略奪を続けている訳にはいかなかったからである。曹操は4日間の略奪を兵士に許可する代わりに、5日目には琅邪城から立ち退くよう指揮官たちに徹底させた。この地獄の4日間の間に捕虜のほぼ全てが処刑され、3万いた民衆のうち約4分の3が殺害された。もちろん生き残った難民はその大部分が、“使い道のある”年頃の女性だった事は取り立てて述べるまでもない。

 

                           ――後漢書・陶謙列伝より抜粋

         

 

 ◇

 

 

 黒々と立ち昇る煙が、空を覆わんとばかりに広がってゆく。

 琅邪城は一面の炎に包まれていた。

 

「なんという事だ……」

 

 血塗られた死屍累々の惨状を目の当たりにして、夏侯惇の顔が青ざめる。

 要塞内部にあった建物は全て黒焦げになり、そこかしこに死体が転がっている。人の原型を止めている死体はまだいい。年端もいかない少年少女が犯され、殺され、切り刻まれ、人間の尊厳すら失った姿で散らかっていた。

 

「どうして……こんな……」

 

 激しい戦闘の痕、焼け落ちた家屋、崩れかけの城壁、そして――そこかしこに散らばる無数の肉塊。つい先刻までは息をしていた人々が、血と汚物まみれの屍になって捨て置かれていた。

 

 そういった光景を見たのは初めてでは無い。ここ数ヶ月、毎日のように傷つき倒れた友軍兵士のそれを見ている。この手で肉を断ち、骨を砕いて命を奪った敵兵は数知れず。ゆえに死体などとうに見慣れたと思っていた。

 

 だが、そこにあったのはそのどちらでもない。年端もいかない少年の焼死体、強姦の痕が生々しく残る女性の絞殺体、首があらぬ方向に捻じ曲げられた老人の亡骸――どれも抵抗など出来そうもない民間人の屍だ。

 

 

 そして今も――内城の奥からは悲鳴と叫喚が響き渡り、それと同じぐらい歓声が上がっている。略奪と虐殺と破壊と凌辱と。鬼畜の所業は未だ休むことなく続けられ、それと比例するかのように友軍兵士の顔には不健康な生気が戻ってきている。その事実が、この蛮行が自分達の所業である事を強烈に意識させる。

 

「やめろ……」

 

 その声にいつもの覇気はない。おぼつかない足取りで夏侯惇は城の奥へと、地獄のただ中へと進もうとする。

 既に起こってしまった事はどうしようもない。だが、これから起こりうること、今起こっている事なら止められるかも知れない。修羅の連鎖を止めようと足を進めた、その時――彼女の腕を掴む者がいた。

 

「華琳様……!?」

 

「離れるわよ、春蘭。……私達は此処から先に行くべきじゃない」

 

 無機質な声で告げると、曹操は自分に着いてくるよう合図する。僅かな俊巡の後、夏侯惇が躊躇いがちに彼女の背後に続くと、曹操は俯きながら言葉を続けた。

 

「いい?今後もアレ(・ ・)を止めようなどと思っては駄目よ。私達の誰にも止められない。――本当なら、ああなる(・ ・ ・ ・)のが普通(・ ・ ・ ・)なんだから。むしろ、規律が保たれていた今までの方がおかしいのよ」

 

 夏侯惇は何も言えなかった。曹操の言う事を認めてしまえば、人として何かが失われてしまうような気がしたからだ。どうしようもない現実の前では夢も理想も無意味だと、そんな“現実”を受け入れられなくて――。

 

(では、どうすれば良かったというのだ……?)

 

 脳裏にこだます、自問の声。

 だが、その問いに答える者はいない。

 

「ごめんなさい……」

 

「華琳……様……?」

 

 思わず、敬称を付けるのを忘れそうになる。それほどまでに曹操の声はか細く、涙を堪える姿は弱々しく見えた。幼少時からの長い付き合いの中で、彼女のそんな姿を見るのは数えるほどしかなかった。

 

「私は、何もできなかった……。普段は偉そうに人に命令しているくせに、最初の虐殺が始まった時、ただ茫然と見ている事しかできなかったのよ? 城内に入った時だって、死体の傍で輪姦されている少女を見つけて……」

 

 今でもその娘の姿は脳裏に焼き付いている。自分を犯している兵士に殴られ、咳き込み、泣きじゃくりながら“気持ちいいッ!もっと、もっとぉッ!”とうわ言の様に繰り返す少女。それを卑下た笑顔で囃し立てる兵士達。傍にあった死体は5つ、年齢構成から見て彼女の家族に違いない――ぽつり、ぽつりと語る度に曹操の顔が苦しげに歪む。

 

「でもね、私はやっぱり何もしなかった。どん底まで下がった士気を短期間で上昇させるために、そのまま見殺しにしたの」

 

 どんな理想や高潔な大義名分があろうと、それだけで兵士は戦い続ける事は出来ない。人が人である以上、もっと物質的で具体的な褒賞(・ ・)が必要なのだ。

 しかも皮肉な事に、曹操軍がよく訓練された軍隊であることが、略奪強姦による士気回復効果を保障していた。例えどれだけ蛮行を重ねようとも、曹操軍は野党の群れに非ず。確乎たる軍隊であり、彼らの統率はその程度の蛮行では揺るがない。ある程度の兵が落ち着けば再び統制できるようになる。

 

「あんな状況でも私は……略奪と強姦を黙認することが合理的な判断だって、まるで機械みたいに冷静に計算できたのよ」

 

 全身を強張らせ、肩を震わせる曹操。

 こんな時でさえ、自分は感情に左右されず行動できている。人の生き死にを、単純な計算問題として勘定してしまう。内心で苦悩しようが葛藤していようが、己の頭脳は寸分違わず一点の狂いもなく“最適解”を導きだす――そして自分はそれを覆す事が出来ない。理屈の積み重ねで導き出される論理的帰結こそが最良の結果をもたらすと信じているが故に、その結果に囚われてしまうのだ。

 

 違う、と反射的に夏侯惇は口に出しそうになった。

 自分は曹操を子供の頃から知っている。いつも落ち着いているから冷血だと誤解され易いだけで、ちゃんと人並みに感情だってある――けれど、曹操の瞳を覗き込んだ瞬間、火照った顔から一気に熱が引いた。

 

 いつもの小柄な体、錦糸のような細い金髪、くっきりとした凛々しい顔立ち。にもかかわらず、その蒼い双眸に浮かぶ色は、苦痛のようで、悲哀のようで、狂気のようで。

 

「……昔ね、劉勲が似たような話をしてくれたことがあったのよ。あの子も言ってた。目の前で人が壊されていても、見ている内に心がすっと醒めていって、すぐに落ち着いて観察できるようになるって……。そんなこと理解できないって私も昔は思ってた。でもね――」

 

 違わない。何も理不尽な点などなかった。それどころか恐ろしいぐらい理に適っているから、それが(・ ・ ・)出来ない( ・ ・ ・ ・)人の方が( ・ ・ ・ ・)理解不能( ・ ・ ・ ・)だ。

 ささやくような声が、侵食するように夏侯惇の心に沈みこんでゆく。

 

「これが私の本性。つまるところ、歪んでいるのよ……曹孟徳は」

 

 ひどく乾いた声で独白する曹操の姿に、夏侯惇は鳥肌が立った。

 自分は恐れている。己が主君に怯えているのだと、抵抗もなく彼女は自覚した。長年付き合った彼女ですら知らない、曹操の内側にある“なにか”に。自分の理解が及ばない所にある、曹操の内面に。

 

 何か言わなければいけないような気がするのに、言葉が出ない。凍りつく夏侯惇に、やがて曹操はふっと微笑んだ。

 

「兵に伝えて。4日間の自由行動(・ ・ ・ ・)を終えて英気を養ったら、再び自分の隊に戻るようにと。――今月中に、下邳で決着を付けるわよ」

 

 ほろ苦い声でそう命令する曹操に、やはり夏侯惇は何も言えなかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

      

「もう、終わりだ……」

 

 

 琅邪城陥落――その知らせは遠く、青州まで届いていた。加えて袁術軍の動向が不明な事もあり、城を包囲していた北部同盟軍は敵の士気を挫くべく盛んに喧伝。同盟軍の戦略を狂わせた青州にも、いよいよ最期の時が迫っていた。

 

「降伏すれば命は保証する、顔良将軍はそう約束しています」

 

 同盟軍の元から届いた降服勧告。臨菑城の大広間に揃った青州の主要人物は一様に蒼い顔をしながら、同盟軍から派遣された使者、逢紀の言葉を聞いていた。

 

「徐州は琅邪城で2万の精鋭を失い、下邳は未だ混乱の極みにある。しかも南皮からは第2次動員を受けた3万の我が軍がこちらに向かっている。彼らが到着すれば、今まで日和見を決め込んでいた豪族達も身の振り方を変えるだろう。無論、より強く、より将来性のある陣営にな」

 

 逢紀は勝ち誇った様子で語る。

 青州にはもともと袁紹派の豪族も多くいる。ここまで戦局が同盟軍優位となった以上、もはや彼らに寝返りを躊躇う必要はない。青州側の高官は屈辱に身を震わせるも、逢紀の推測が全くの正論である事を認めない訳にはいかなかった。

 

「それで……降伏の条件は?」

 

「条件だと?この期に及んで、そんなものが認められるとお思いか?」

 

 青州には『無条件』での降伏以外は認めない――そう嬉々として語る逢紀。彼の口から出てきた『無条件降伏』という言葉が、何より同盟の余裕を物語っていた。

 一般的に無条件降伏と言えば「降伏対象の武装解除」、そして「勝者に対して全ての権利を譲渡する」という2つを意味する。下手をすれば自暴自棄になった敵部隊に戦闘継続の意志を焚き付けかねないだけに、よほど勝てる自信が無ければ使われない。逆に言えば、今の同盟軍には青州を完膚なきまでに叩き潰せる自信があるということだった。

 

 

「そんな……馬鹿なことを言うな……」

 

 無条件降伏――その言葉は、太史慈の心を打ちのめした。

 軍人の太史慈には、現在の自分達を取り巻く状況が良く理解できた。食糧の備蓄にはまだ少し余裕があるとはいえ、このまま徐州方面の袁紹軍の合流を許せば敗北は時間の問題だ。今となっては袁術はおろか、徐州からの援軍も満足に期待できない。傭兵の中からは脱走兵も出ており、士気は下がる一方。そしてここまで戦力差が開いた以上、間もなく豪族たちも同盟軍に鞍替えするだろう。

 

「……嘘だ。我々はまだ……まだ負けていない……」

 

 夢だ。これは悪い夢に違いない……震える声で太史慈が呟く。体が宙に投げ出され、地の底へ突き落されていくような気味の悪い悪寒。頭では理解していても、その心が敗北という事実を拒否していた。

 

「戦場は生き物なんだ……どれだけ戦力差があろうと、数倍の敵を打ち破った例は歴史上にいくらでもある!」

 

 だが、それでも太史慈は降伏という選択肢を認めることが出来なかった。否、分かっていても認めたくはなかったのだ。

 

「現に私達はまだ(・ ・)敵の侵入を一度たりとも許してはいない!」

 

 そうだ……まだだ。まだ全てが終わったわけではないのだ。もう何をやってもダメだと諦めた時、その時が負けなのだ。“必ず勝つ”という強い意志をもって抗い続ける限り、可能性はゼロではない。

 

「兵士を集めるんだ!敵の増援が北上してくる前に、この城の全部隊で敵を倒す!」

 

 自分達はまだ戦える。その意志がある。今ならまだ――

 

 

 

「もう……いいだろう」

 

 

 

 声が、響いた。

 

 その場にいた全員が、声の主へと振り向く。彼らの視線の先にいたのは、ゆっくりと椅子から立ち上がった青州牧・孔融だった。

 

「い……今、何と……?」

 

「太史慈――もう、この辺で止めにしないかね」

 

 半ば放心気味の太史慈に、孔融は達観したように告げる。

 

「我々はよく頑張った。少ない兵力で出来るだけの努力をして、不利な状況を覆して、一時は勝利を目前にして――。そして………最後に、負けたのだ」

 

 淡々と、決定事項を確認するように告げる孔融。青州側の変化を見て、逢紀が興味深そうに片眉を上げる。

 

「ほう? では、我ら北部同盟の要求をそっくりそのまま受け入れ降伏すると。そう解釈しても宜しいかな?」

 

「いや、そうとは言っていない。ただし……我々は袁家になら(・ ・ ・ ・ ・)降伏する用意がある」

 

 “袁家になら”、その言葉を聞いた逢紀は初めポカンと呆けていたが、やがて意を得たりとばかりに笑いだす。

 

「くくくっ……ははは、ハハハハハハハハハッ! 袁家に降伏する、成程そうですか!これはこれは……いや申し訳ない。とはいえ、いやはや何とも……」

 

 北部同盟ではなく、袁家に降伏する――それは裏を返せば袁紹の支配を許す代わりに、曹操との共同統治を認めず、曹操軍を青州から撤退させる約束を意味する。数万の民を虐殺するような連中に支配されるぐらいなら、そういった悪評のない袁紹に従う方がマシというもの。

 

「――なんとも悩ましい。これじゃあ断れないじゃないですか。くはははっ……我ら袁家は青州と300万以上の民を合法的に手に入れられ、失うのは曹操陣営の好感だけ。ですが、いずれ敵対する相手の好意など買っても仕方がない。

 しかも困った事に、仮に支配権を得れば私たちは貴方がたを無下に出来なくなる。片や虐殺、片や寛大な戦後処理……曹操の小娘と名門袁家の格の違いを世に示すのに、これほど分かり易い対比はない。なるほど、これは一本とられましたな」

 

「条約を交わした両者が共に得をするとなれば、悪い話ではありますまい?」

 

 未だ笑いの止まらない逢紀と、慇懃な態度を崩さぬ孔融。既に戦後処理について話し合っている彼らに太史慈はあっけに取られていたが、やがて擦れるような声を喉の奥から絞り出した。

 

「あ、貴方達は何を言っている……?」

 

 相手が目上の存在である事を忘れ、更には言葉を飾ることすら忘れて聞き返す太史慈。

 それに孔融は気分を害した様子もなく、出来の悪い息子を諭すように口を開いた。

 

「まだ分からんかね?降伏すると言っている」

 

「!?」

 

 孔融の結論は変わらなかった。無条件降伏を受けいれる――それはつまり、青州が完全に他者へ従属するということだ。最悪、抵抗を指揮した主な豪族や名士は殺され、残った住民は奴隷に売られるだろう。そこまでいかずとも青州は北部同盟の植民地、収奪の対象となる。中華統一を目指す袁紹と曹操の野望の為、切り捨てられる「小」として社会の底辺に置かれるのだ。

 

(そんなこと……!)

 

 そんなことが……認められるわけがない。それでは生きながら死ぬも同然だ。例えそれが全滅を免れる唯一の方法だとしても、太史慈は言わずにはいられなかった。

 

「ふ……ふざけないでもらいたい!我々はまだ負けた訳では――!」

 

「いいや、負けだ」

 

 孔融は反論を許さぬ強い表情で、きっぱりと言い放つ。

 

「袁術の増援は間に合わない。徐州軍は壊滅。そして我らは敵の包囲下にある。今のこの状況を見て、君はまだ勝てるというのかね?徹底抗戦などしてみろ。我々は皆殺しだ」

 

「だがっ……まだ我々は負けていない!勝負は時の運だ!たとえ圧倒的に劣勢であるとはいえ、実際に戦ってみなければ分からな――」

 

 

「貴様はそれでも軍人か!!」

 

 

 突如、孔融が怒声を放った。

 

「万に一つの確率で勝てばよい!だが残りの大部分の確率で我らは皆殺しだ!琅邪城がどうなったのか知っているだろう!?」

 

「……っ!」

 

 鬼気迫る表情で一喝する孔融に、太史慈は言葉を失う。

 

「戦えば――人が死ぬぞ。飲み仲間が体を削がれ、顔見知りの女性が犯され、親戚の子供が理由なき暴力を受け、最後には等しく屍を晒す。もしこの城が陥落して虐殺の憂き目に遭った時、貴様はその責任がとれるのかね?」

 

 現に徐州ではそうなったと聞いている。それが孔融の言葉に現実的な重みを加え、全員の心に突き刺さる。孔融は全員の内心を確かめる様に一人一人を順に見つめ、最後に太史慈の前でぽつりと告げた。 

 

「貴様がどうかは知らん。だが……少なくとも、私には無理だ」

 

 最後まで徹底抗戦を選択した結果、琅邪城では3万もの難民が虐殺されたのだ。長引く籠城戦でストレスが溜まり、なし崩し的に乱戦となったがゆえに兵は暴走し、上官が止めようとした頃には手遅れだった。元来曹操は略奪を厳しく取り締まっており、袁紹軍もそれなりに統制は取れていたはずだったが、長く苦しい包囲戦に耐え抜いてきた兵士たちはもはや自らの欲望を止めようとはしなかった。勝者の当然の権利とばかりに奪い、犯し、殺しつくした。

 青州が同様の悲劇を辿らないという保証はどこにもなかった。

 

「戦争は終わったのだ。これ以上の無謀な抵抗は更なる悲劇を招く。どうしても負けを認められないというのなら、その時は君一人で戦って来い。だから……君の自己満足の戦いに、これ以上青州の民を巻き込むのはやめてくれ」

 

 最後はほとんど懇願するような口調だった。そこにいるのは、もはや権威ある漢王朝の州牧などでは無い。死の恐怖と責任に怯える、一人の哀れな中年男性だった。

 

 

(あぁ……私達は、負けたのか……)

 

 自分達は追い詰められている。だから大勢の犠牲を払い、沢山の苦労を乗り越え、今まで積み重ねてきたもの全てをここで捨てねばならない。そうする以外に、自分達が生き残る道はない。

 答えは既に出ていた。本当の事を言えば、降服勧告が届く前からこうなるのでは、と太史慈も内心では理解していたのだ。いや、軍人として誰よりも理解していたが故に、その現実を認められなかったのか。

 

 

「……結論は出ましたかな?」

 

 重苦しい沈黙が場を支配する中、それを破ったのは逢紀だった。ちらりと横目で孔融の点頭を確認すると、満足したように告げた。

 

「では、私も顔良将軍の了承を取り付けねばならぬ故、今日は下がらせていただきます。さきほどのお言葉、ゆめゆめ忘れること無きよう」

 

 

 そう言った逢紀が退出するのを見届けると、孔融は再び口を開いた。

 

「それから……劉備、といったか?徐州の方々は今すぐ脱出した方がいい」

 

 驚く劉備に対し、孔融は如何とも形容しがたい表情で告げる。

 

「同盟軍の戦略を狂わせたのが、そちらの軍師の手によるものであるという事実は如何ともしがたい。同盟軍に捕らえられれば間違いなく処刑だろう」

 

 その言葉に劉備はは青ざめ、口を両手で覆う。可能性としては濃厚だ。今回は流石に事が大きくなり過ぎた。例え曹操や袁紹が能力を買って個人的に許そうとも、末端の兵士は絶対に納得しないだろう。

 自分達を飢えで苦しめ、同僚を死に追いやった仇敵が味方になり、しかも自分達の上官に?酔っ払いのジョークの方がまだ笑えるだろう。

「そんな……これじゃあ、わたし達は孔融さん達を見捨てることに……」

 

 劉備が申し訳なさそうに俯く。それでも「ここに残る」と言い出さないのは、彼女達も内心では生きて逃げられる事に安堵しているからか。あるいは、残った方がむしろ迷惑になると考えているのか……。

 

「代わりに、と言ってはなんだが……」

 

 孔融はそんな彼女達を一瞥すると、背を向けて小さく呟いた。

 

「太史慈も一緒に脱出させてくれ。彼がいれば、下水路あたりを伝って逃げられるはずだ」

 予想外の言葉に、太史慈は驚いた表情で振り返る。

 

「ま、待って下さい!私だけ脱出せよとはどういう意味ですか!?貴方は……孔融殿は、どうなさるつもりですか?」

 

「私は……青州の州牧だ」

 

 再び振り返った孔融は、その顔に悲痛な決意を秘めていた。

 

「青州は私が皇帝陛下から授かった領土だ。責任は全て私が取る」

 

「なっ……!?」

 

 太史慈は言葉を失っていた。周囲にいた劉備達も呆然とそれを見つめる。

 

「あ、貴方は何も悪くない!もし責任があるとすれば、それは戦争を煽った私にある!本来処罰されるべきは私であって、初めから講和を訴えていた貴方では……」

 

 

「分かっとる!!」

 

 

 再び、怒声。それが我慢の限界だったかのように、孔融の口から途切れることなく恨み節が放たれた。

 

「そうだ!私は何も悪くない!こうなると分かっていたから、私は戦争に反対だったんだ!徹底抗戦などしてみろ!その責任者が処罰抜きなどあるわけがない!だから私は最初から反対したんだ!なぜ貴様らの自己満足のための戦争に付き合って、挙句の果てに責任を問われるなど御免だ!」

 

 太史慈も、そして劉備達も顔を伏せる。それは紛れもない事実であり、孔融からみた現実だった。

 

「だがな……それでも私は青州の州牧なのだ。この青州を統べる最高位の名士なのだ。そして部下の不始末の責任は、上に立つ者が負わねばならぬ。責を負うに相応しい者が、負わねばならんのだ」

 

 孔融は唇を噛み締めていた。肩が小刻みに震えているのは、押さえきれぬ怒りと悔しさゆえだろうか。それとも己の無力に絶望しての事か。

 

「貴様らを逃がすというのは、せめてもの私の意地だ。劉備とやら、貴様達らの支援は害悪にしかならなかったと私は考えているが……それでも好意にはそれ相応の返礼をもって返すのが名士の流儀だ。同じく優秀な部下がいれば、その才を伸ばせる機会を提示するのも上司の役目。――死ぬのは、先のない年寄りだけでいい」

 

「………」

 

 誰も二の句が継げない。この場にいる全員が、黙って彼の言葉に耳を傾けていた。

 

「それに、な……私は青州人であることに誇りを持っている。この地で生まれ、育ち、ここまで出世した。今さら貴様らと見ず知らずの土地に逃げろなどと抜かすな」

 

 孔融は僅かに間を空けた後、悲壮感を漂わす口調で小さく呟いた。

 

「死ぬ時は青州で死ぬ……もう私はそう決めたのだ」

 

 

 ◇

 

 

 これから3時間後……青州牧・孔融は北部同盟軍に対して無条件降伏を受諾すると通達。青州はその大部分が袁紹の支配下に置かれる事となり、これ袁紹軍は公孫賛軍に対する反撃の準備を着々と整えてゆく。また青州が同盟の勢力圏内に入ったことで、徐州侵攻を進める曹操軍の勢いは以前にも増して苛烈なものとなっていった。

 

 青州の陥落――中華存在する13州の一つが無条件降伏したという事実は各諸侯に衝撃を与え、北部同盟軍の持つ力を改めて大陸全土に知らしめることになる。同時に北部と南部の間に決定的な亀裂を生じさせ、もはや和解は不可能な状態だった。ある諸侯は危機感を募らせ、またある諸侯は生き残りをかけて強者の側に与する。戦うも地獄、降伏するも地獄。そんな戦争の世紀、誰もが否応なく選択を迫られていたのだった。

    




 前半は虐殺回&華琳様の心の闇回。
 原稿ではもっと直接的な虐殺描写もありましたが、曹操軍がリアル世紀末にしか見えなくなったので止めました。なんか春蘭あたりが「汚物は消毒だ~!」とか言ってヒャッハーしてる姿が思い浮かんだので。
 
 後半は今まで小物感の強かった孔融さんの最初にして最後になるだろう見せ場です。脇役おっさんのツンデレとか誰得……。


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62話:蹂躙

                        

「まさか……そんなはずが……」

 

 下邳の町を外界と隔てる城壁、その接点である城門前で陶商は戦慄と共に呻いていた。

 彼はクーデター計画に従って下邳を制圧すべく、まず部下と共に城門の制圧に向かっていた。周辺の軍の再編成を任されていたこともあってか、下邳に限って言えば兵の大部分はクーデター派に所属している。だが徐州全体で見れば未だ陶謙に忠誠を誓っている部隊も多数存在しており、外部からの増援到着を阻むには城門の制圧が必須。逆に言えば東西南北に4つある城門さえ占領できれば、後は内城に籠る父・陶謙を廃してクーデターに正当性を持たせる事が可能になるのだ。しかし――。

 

「早馬を出せ!ここ以外の城門がどうなっているか、すぐ情報をもってこい!」

 

 彼の目の前にそびえる城門は、すでに門としての機能を失っていた。より正確に言い表すならば、開閉機構が破壊されていたのだ。

 計画が今まで順調に進んでいたので、そろそろ何かあるのではないかと疑っていた頃だが、流石に目の前の状況は想定外だった。

 

「わからん……父上は何を考えている!?」

 

 だが真っ先に陶商の脳裏をよぎったものは、目算が狂ったことに対する憤りでは無く、純粋な疑問だった。

 

「もし増援の到着を期待しているなら、城門の破壊にも一理ある。だが、それでは仮に私達に勝ったとしても……」

 

 陶商はその先を続ける事が出来なかった。部下が新たな敵影を発見したからだ。

 

「前方に敵影多数!曹』の軍旗を掲げています!」

 

 やはりか、と陶商は思った。同時に、先ほどの疑問に対して最悪の答えが返ってきた事に嫌悪感を隠せない。

 

(城門を破壊すれば増援到着の可能性は高まるが、同様に曹操軍の到着を防ぐ防壁も存在しなくなる。父上はその危険性を承知で城門を破壊したのか、あるいは……)

 

 ここで自分達と曹操軍を潰し合わせる気なのか。

 

 だとしても、やはりおかしい。仮に両者を潰し合わせたとして、陶謙が保有する戦力が増える訳では無いからだ。通常、戦闘では勝った側は全軍の1割、負けた側は3割程度の被害を被ると言われている。下邳にある軍の7割はこちらで掌握しているし、曹操軍も恐らくは同程度かそれ以上の兵力を有している。つまり陶謙の現有戦力では、漁夫の利を狙うには余りに少なすぎるのだ。

 単なる馬鹿、楽観論者として一蹴する事も出来るが、短絡的にそう決めつけられない程度には、陶商は父を知り過ぎていた。父親は無責任な上に強者にへつらう俗物だが、考えなしの馬鹿では無い。10年以上の長きに渡って徐州を曲がりなりにも統治し、州牧の地位を保ち続けてきたことからも有能さは伺える。

 

「父上、あなたは一体……」

 

 それゆえに、今回の行動は理解できない。

 そして人は理解できないものにこそ、真の恐怖を覚える。

 この時、陶商は始めて父・陶謙に恐怖を抱くと同時に、大きな不安を覚えた。

 

 ――自分はどこかで、致命的に間違ったのではないのかと。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 周囲一帯に立ちこめる腐臭。

 鮮血に染まった大地。

 内臓物がまき散らされた死体。

 

 その先に立つ、一人の少女。

 

「何ですか……これ……」

 

 言葉を失う。そんなはずがない――とっさに思考停止に陥りかける。。

 なぜ此処まで残酷なことができるのか。分からない。分かりたくない。

 

「どうして、ここまでやる必要があるんですか……!!」

 

 理解を超えた殺戮に、劉備は慟哭した。

 

「これは……」

 

 隣にいた一刀もまた、目の前に広がる景色に絶句する。付き従ってきた兵士の大半も青ざめ、諸葛亮は耐えきれずに嘔吐している。

 

「あいつら、ここまでやる必要が……ッ!」

 

 太史慈らの手引きで青州から脱出した後、昼夜問わずに走り続けやっとのことで徐州へ辿りついたが、そこは既に彼らの知る徐州ではなかった。

 見渡す限りの死体。豊かな土壌は無残に掘り返され、木々は焼け落ちている。かつては養分を豊富に運んでいた命の河は、赤黒く濁った死の河と化し、積もれた死体が流れを変えている。人はおろか、生命の気配というものがまるで感じられない。聞こえてくるのは風の音と、死体にたかる蠅の羽音のみ。

 

 刺殺、斬殺、射殺、斬殺、絞殺、磔殺、圧殺、屠殺、縊殺、溺殺、噛殺、殴殺、剥殺、焼殺、扼殺――いったいどれほどの人間が殺されたのか。

  男も女も老人も子供も兵士も民衆も。一切の区別なく公平かつ平等に死んでいる様は、ある意味で幻想的とさえ形容できた。

 

 “死が満ちている――”

 

 そんな言葉が彼らの頭をよぎる。陳腐ながらもそうとしか表現できない。曹操軍の破壊と殺戮は、世界を塗り潰すがごとく容赦がない。

 

「これが……あなたの『覇道』だとでも言うんですか――曹操さん!!」

 

 劉備が再び、絶叫する。

 洛陽で会合した時から、互いの進む道は相容れないであろう事は理解していた。

 だが、それでも――曹操には彼女なりの理由があると思った。信念があると信じていた。正義があると願っていた。

 

 その結果が、この地獄だと言うのだろうか。

 眼前に広がる鬼畜の所業が、曹操の求める理想の姿なのか。

 

(曹操さん……なんで、なんでこんな酷いことが……!)

 

 戦争というものを甘く見ていた、と言われれば首を縦に振らざるを得ないだろう。

 だが、それでも劉備は認めたくなかった。信じたくなかった。

 

 董卓軍を相手に、自分達と共に最前線で戦った曹操。本人とは一度洛陽で話をしただけだが、無用な殺傷を好む人には見えなかった。“平和には犠牲が必要”と冷徹に切り捨ててはいたものの、反董卓連合戦ではどの諸侯よりも規律を重んじ、民への被害を減らそうと努力していたはず。それなのに――。

 

 彼女もまた、一人の冷酷な独裁者に過ぎなかったというのか。

 

 

 『 ――曹操ちゃんの有能さは認めるけど、そこまで信用できないのよ。国をたった一人の人間に賭けられるほどには、ね 』

 

 

(………っ!)

 

 脳裏にこだます、一人の女性の声。ねっとりと絡みつくような不快さで、それは何度も何度も反復する。

 

(そんなはずは……!)

 

 だが、目の前にあるのは紛れもない大量虐殺の痕。その光景を感情で否定する。信じたくはない。

 あれほど己の理想を自信をもって語った曹操。そんな彼女が過ちを犯す筈がない。そう信じたかった。

 

 

 

「――桃香様、何か聞こえませんか……?」 

 

 緊張しているような諸葛亮の声。

 

「……あそこの“山”からです」

 

 そう言って彼女が震える指で示した先には、文字通りの死体が堆く積み重なってできた“山”。劉備は黙って頷き、一刀もまたそれに続いた。

 こみ上げる嘔吐感を堪え、3人は蝿の群れをかき分けながら“山”に近づいていく。

 

「ッ……!」

 

 思わず鼻を袖で覆い隠す。距離を詰めていくにつれ、これまでに無いほど強烈な異臭が襲ってくる。煙と血と精液と腐敗した肉、そういったモノが醸し出す戦場のフレグランス。“死”の香りだ。

 

「あ……」

 

 何かが動く気配がした。崩れた死体の山の、陰になっている部分で小さな影が動く。

 

「見て、まだ誰か生きてる!」

 

「よし!引き摺り出すぞ!朱里、悪いがそっちを支えてくれ!」

 

「はい!!」

 

 考えるまでもなく、3人は飛び込んでいた。

 死体の山をかき分けること数分、中から出てきたのは幼い少女だった。見たところ齢は10歳ほど。白い肌には無数の生傷があり、体中にはべっとりとした白濁液がこびりついている。

 

「まだ、するの?」

 

 焦点が定まらぬ瞳のまま、少女は生気の抜けた笑顔を浮かべる。

 何を、とは言われずとも推測できた。

 

「っ――!」

 

 劉備が駆けだし、少女を抱きしめる。

 

「ごめんね……本当に、ごめんね……」

 

 悲痛に歪んだ顔から、一筋の涙が頬をつたう。しゃくりあげながら、何度も何度も懺悔を繰り返す。

 

 きっと何万回謝ろうと、土下座しようと、許してはくれないだろう。既に起こってしまった出来事は、もう2度と取り返しがつかないから。ただ自分が犯した罪から許されたいがための自己満足、そう罵倒されても仕方ないだろう。それでも、今の自分にはそうする事しかできないから――。

 

「お姉ちゃん、どこか痛いの?」

 

「ぐすっ……ぅぅ……ううん、もう大丈夫だよ……?」

 

 その顔は、とっくに涙で濡れていたけれど。

 劉備はひたすら優しく少女を抱きしめ、柔らかな顔が一瞬だけ大人びる。

 

「もう大丈夫だよ。ここにあなたを傷つける人はいないから、安心して。ね?」

 

 にこりと満面の笑みを見せる。いつもの彼女が浮かべる、優しい笑顔を。

 

「うん……」

 

 劉備に抱かれ、少女の瞳が閉じていく。

 それは偽善かも知れない。同様の悲劇が当たり前に起こっている現実の前では、全くの無意味な自己満足かもしれない。それでも――。

 

「もう……こんなのは嫌だよ……」

 

 それは何に対してだったのか。

 残酷な現実に対してなのか。無力な自分に対してなのか。

 

「……駄目だね、わたし。泣いてばっかりじゃ……本当に何もできない」

 

「桃香?」

 

 少女を抱えたまま、劉備はゆっくりと立ち上がる。よろめきながらも、しっかりと足を前に進める。

 まずはこの少女を安全な場所へ。それからは下邳へ行こう。

 

(――それで、わたしには何が出来るの?)

 

 心の中でもう一人の自分が質問する。しかし答えは出てこない。

 

 それでも、足は次の一歩を踏み出す。

 立ち止まっていては、何を為す事も出来ないから。

 

 ひたすらに進み続ける。問い続ける。

 そのために紅蓮の戦場へと、その足を向けるのだ――。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「来たかの」

 

 下邳城の私室にいた徐州牧・陶謙は、曹操軍の到着を告げる部下の報告を受けて呟いた。

 

「部隊の展開状況は?」

 

「はっ。ご命令通り一度撤収させ、現在は所定の位置に着かせて待機させています」

 

 姿勢を整える部下の姿に、白髪の州牧は重く頷く。

 クーデターが発生してからというもの、陶謙派が抵抗らしい抵抗をしてこなかった理由はここにある。なんということはない。単に無駄な戦闘を避けつつ部下を下邳城の内城へ撤収させ、戦力を温存したというだけのこと。外では今頃、曹操軍とクーデター部隊が潰し合っている事だろう。

 

「しかし、徐州軍同士で争うのは……」

 

「あれは軍などではない、ただの暴徒じゃよ。軍というのは正規の指揮系統に従って行動する兵士のみを指す。いかなる理由があれ、正規の手続きを得ないまま武力を背景に破壊行為を行うような連中は暴徒以外の何物でもない」

 

 言いにくそうに呟く部下に、陶謙は冷静に返す。

 

「ですが、中心人物はご子息様達ですよ?一度話し合ってみたらどうです?『他勢力の傀儡になるべきではない』という彼らの主張にも一理あるとは思いますし――」

 

「ほう?」

 

 陶謙の眼光が鋭さを帯び、部下はその先を続けられなくなった。

 

「動機や理想がどうかなど、そんな感情論の是非に意味などありはせぬ。劉備ら他州の人間を追い出し、曹操軍に屈せず、袁術の経済支配から脱したい――その願い自体は結構」

 

 陶謙は皺だらけになった手を組み、机の上に置かれた中華の地図を見やる。

 地図にはそれぞれの勢力の人口が記されており、その上には兵力を表す駒が置かれ置かれている。曹操は徐州の3割増しほどの人口と約2倍の兵力を有し、袁紹はそれよりも多い人口と兵力を、袁術は兵力こそ平凡だが人口は徐州の3倍近くもある。

 

「問題はこの『現実』をどう覆すのか、それを示せていない事。反乱の結果どうなるのか、どうするのか、どうできるのか……その道筋すら示せず感情で動くようならば、この地の未来は任せられん」

 

「………」

 

 老人の瞳に浮かぶのは、ひたすらに黒い闇。

 それはどこまでも沈んでいくような、深く暗い沼のようでいて――。

 

 

「商、応……流石は我が息子達じゃ。人の上に立つ者として立派な志を持った指導者へと育った事は、父として嬉しく思う。だが――」

 

 ふと漏らした陶謙の声には、紛れもない賞賛と感嘆の響きがあった。自分の知らない内に、愚鈍だと思っていた息子達はこんなにも成長していたのか。強大な敵に恐怖することなく、ただ民と故郷を思って立ち上がる――世が世なら、救国の英雄になっていたかも知れない。あるいは、それを具現化する実力があれば。

 

「遺憾ながら政治家としては落第点。しっかり勉学を叩き込んだはずなのじゃが……あやつらめ、単純な引き算も出来んとはのう」

 

 この時代の常識として、人口は国力を図る指標である。農業生産力の増大や経済発展による社会の効率化、軍事力による治安回復といった生活の改善は、後世でいう『マルサスの罠』によって最終的には人口の増加という作用をもたらす。国が豊かになるのと比例して人口が増えていくのだから、当然ながら人口が多い国ほど国力が大きい、という訳だ。

 なればこそ、人口310万の徐州が人口440万の兌州に勝てる道理はない。何せ一人が一人を殺していけば徐州は全滅し、なお曹操のもとには130万残るのだ。いささか単純化し過ぎたきらいはあるが、極限まで突き詰めていけばそういう話である。

 

「まぁ、勇気と蛮勇の違いを教えられなかったのは、儂の落ち度でもある。どんな信念や理想にせよ、実力が伴わねば絵にかいた餅に過ぎん」

 

 陶謙は重々しく、刻みつける様に呟く。その長い生涯の中で、人生の辛酸も苦楽も全て見てきた男の言葉。経験に裏付けされた強さを持ちながら、同時に気慨を失った哀愁をも漂わせる……その姿がどうしようもなく痛々しい。

 

 

 もう少し、あと少しだけ時間があったのなら。

 親子で、もっと話し合う時間があったのなら。

 

 ――結果は、違っていたかも知れない。

 

 

「さて……そろそろ終わった(・ ・ ・ ・)と見てよいかな?」

 

「恐らくは」

 

 外へ耳を傾けてみれば、先ほどまでの喧噪はなりをひそめている。決着がついたのだ。

 

「ご子息方は、故郷を守るべく侵略者・曹操軍と戦って立派に戦死されたものかと」

 

「……そうか」

 

 陶謙は深く目を瞑り、静かに黙祷を捧げる。これで、全ての舞台は整った。後は、予定通りに事を進めるだけ。それで徐州は崩壊を免れるはず。だというのに――。

 

「思いのほか、つまらぬものじゃな……」

 

「は?」

 

「気にするな、老人の戯言だ。 それより、準備は万全かね?わざわざ出向いてくれた女性を待たせるのは失礼だからの」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 響き渡る轟音が聴覚を麻痺させ、焦げ臭いにおいが鼻をつく。下邳のどこかで起こった火災が、建物と中にいる人間を纏めて焼却でもしたのか。焦熱地獄の如く燃え盛る炎の中、曹操はただ黙々と歩みを進めていた。

 

 下邳城にいた徐州軍の主力は、すでに始末している。途中、州牧・陶謙の息子と名乗った男がいたような気がするが、夏侯惇が一瞬でその首を刎ねた。それなりに人望はあるように見えたし、袁術の傀儡政権云々やら徐州の自立がどうとか叫んでいた事から、恐らくあの男が実質的な徐州軍の指揮官だったのだろう。何を信じて戦っていたかは定かでは無いし、今となっては知る必要もない。

 自軍の戦力は徐州軍を上回り、それゆえに戦えば勝利する――それがこの場における唯一の“現実”。その裏にどういう人々の思惑があり、人生や理想があったなどという“真実”は、この場では無意味に等しい。

 

 睡眠不足による頭痛を堪えつつ、曹操は戦闘で疲労した体を動かす。彼女達とて、そう余裕がある訳ではない。限界まで肉体を酷使した自分同様、既に自軍は満身創痍。ゆえに素早く戦争に勝利せねばならない。その為に必要なのは、一刻も早く陶謙の首を取ること。

 だから曹操は急ぎ歩みを進める。傷ついた身に鞭打ち、軋む関節の痛みに歯を食いしばりながら。

 

「ここか……」

 

 ついに下邳城の内城に辿り着き、建物の内部に足を踏み入れる。内邸は数段の巨大な台座の上にあり、曹操は正面から階段を昇って両開きの扉を開け放つ。眼前に広大な謁見室が開け、その中央は一人の老人が座っていた。

 

「おや、思ったより遅かったのぉ。だいぶ疲れている様子だが、一杯お茶でも?」

 

「……不要よ」

 

「これはこれは。こちらの歓迎はお気に召しませんでしたかの? でしたら謝罪させて頂きたい」

 

 余裕のない表情の曹操とは対照的に、陶謙はいたって呑気な声音で声をかける。まるでお茶会でもするかの如き気の抜けた陶謙の対応に、曹操はこみ上げる不快感を禁じ得ない。

 

「ひとつ、いいかしら?この期に及んでまだ何か勘違いをしているようだけど、私は温情をかける気なんて微塵もないわよ。無条件降伏か否か、それだけを答えなさい」

 

「ふむ、これはお厳しい。ですが……後々の事も考えれば、あまり苛烈な条件を叩きつけるのも如何なものかと」

 

 つっけどんに告げる曹操とは対照的に、陶謙はあくまで穏やかな態度を崩さない。だが、柔らかな物腰の節々に見え隠れしている打算を、曹操は見逃さなかった。

 

「つまり、こういうことかしら? まだ袁術や公孫賛が残っている以上、私達の支配は盤石じゃない。だから自分たち徐州名士の協力が必要である。ゆえに寛大な処置を希望する、と」

 

「お分かり頂けたようで何よりじゃ。もし温情が頂けるようでしたら、徐州の名士には儂から話を通そう」

 

 義に篤い武人が聞けば激昂しそうな面の皮の厚さだが、こういった対応はこの時代そう珍しいものでもない。長い中華の歴史の中でも、完璧な中央集権政府が存在したのは始皇帝時代の秦国ぐらいで他の王朝は全て地元有力者の協力を必要としていた。ゆえに不安定な現状では徐州名士と完全に対決するより、彼らの歓心を買って協力を仰いだ方が安全であり、曹操もそうするだろうという予想もあながち的外れなものではなかった。

 しかし――。

 

「何度も言わせないで。でないと、今この場で貴方の首を刎ねるかも知れないわよ?」

 

 降伏か死か……話は終わりだと言わんばかりに、曹操は最後通牒を叩きつける。

 彼女が目的とするのは、正に秦王朝のような中央集権的な統一国家。ゆえに地元の有力者に妥協するつもりはないし、そもそも彼らのような存在自体を認めてない。

 

 だがそういった思考は、豪族達の協力抜きには存続しえない後漢にあって異端ともいえるもの。事実、海千山千の陶謙でさえ、彼女の真意を理解するまで数秒の時間を要した。

 

「ふむ……では、こちらの話を聞く耳は一切持たぬと?」

 

「くどい」

 

「成程、そうか……」

 

 此処に来てようやく曹操の本気を陶謙も悟ったらしい。

 覚悟を決めたのか、曲がりかけた背筋を真っ直ぐに伸ばす。

 

 

「では、仕方無い。交渉決裂じゃな」

 

 

「ッ……!?」

 

 予想外の陶謙の返答に、曹操は嘘を突かれる。が、それも一瞬のこと。次の瞬間には素早く剣を抜き、剣呑な表情で陶謙を睨みつける。

 

「陶徐州牧、貴方この期に及んで自分の立場が分かっていないかしら?残存していた徐州軍は今しがた壊滅させた。今の貴方に何が出来ると――」

 

「ほう?」

 

 ぞくり――と曹操の背筋に寒気が走った。

 既に力を失ったと思った老人……徐州牧・陶謙の黒い瞳が光を放つ。決して珍しい色では無い。だが見慣れた誰の瞳とも違う、陰のある暗い光を伴っていた。

 

「孟徳殿、年長者として貴公にひとつ忠告を送ろう」

 

「……何かしら?」

 

 曹操は陶謙に続きを促すも、その双眸は彼の一挙手一投足に油断なく注がれている。

 

「絶好の機会は最悪の状況で生まれる――そしてその逆もまた然り、じゃよ」

 

 

 

「……!?」

 

 そこで曹操は初めて異変に気づいた。

 地震が発生したわけでもないのに、室内が小刻みに揺れているのだ。

 同様の異変を兵士達も感じ取ったらしく、不安げに周囲を見回している。

 

「な、何だ……?」

 

 耳を澄ませば、遠くから何か大きな音が近づいてくる。

 音は徐々に大きくなり、今や轟音と呼んで差し支えない喧しさだ。

 とてつもなく巨大な、ナニカが下邳城に迫ってきている――! 

 

「うろたえるな!」

 

 大喝一声、曹操は動揺する兵士達を怒鳴りつける。それによって浮足立った兵士達もいくらか落ち着きを取り戻すが、依然として謎の轟音は止まらない。

 

「ッ……!」

 

 陶謙の見張りを部下に任せ、曹操は事の元凶を確かめるべく外へ通じる扉を開く。

 そして――迫りくるそれ(・ ・)を見た。

 

 

「―――ッ!!」

 

 

 声にならない曹操の悲鳴。それが聞こえた頃には、全ては終わっていた。それはもはや、人の手では止められない所にあった。

 

 ――大洪水

 

 飛沫を上げて押し寄せる泥色の波。数多の生命に命を与え、奪う自然の猛威。それが今、滝の如き怒濤となって下邳の街に押し寄せてくる。全てを覆いこむ濁流は城壁を砕き、家屋を水底へと沈め、付近にいた不幸な人間を瞬く間に飲み込んでゆく。

 

「総員、退却ぁぁぁぁぁくッ!」

 

 城下から夏侯惇の絶叫が聞こえる。しかしその指示はもはや手遅れだろうと、その場にいる誰もが悟っていた。

 下邳の街は泗水と呼ばれる黄河の支流付近にある。古来より度々洪水を起こしていた泗水であったが、歴代王朝が健在である時には堤防が立てられ、猛威を奮う事もなくなっていた。そして後漢の混乱の中にあってなお堤防を補修し、その恵みを民へ与え続けたのは陶謙の偉大な功績であったと言っても良い。

 

 それを今、彼は何の躊躇もなく破壊したのだ。

 文字通り捨て身のの一手は街を水没させるだけには留まらず、水圧によって簡素な家屋を吹き飛ばし、元より広いとは言えなかった通路を次々に遮断する。曹操軍の攻撃とそれに伴う火災によって基盤が緩んでいた多くの建物は、急な水圧に耐え切れず瞬く間に支柱が崩壊。支えを失った家屋のいくつかは町の人々を圧死させんと言わんばかりに通路側に倒れ込み、退路を遮断する。荒れ狂う波に流された木材は凶器と化し、杭となって人々の体を貫く。

 

 数刻前に陶商が訝しがった城門の破壊。その狙いは曹操軍を誘き寄せるに止まらない。続けて起こす堤防決壊と泗水の氾濫こそが、その策の本質だったのだ。

 結果として、その目論見は見事的中した。塞ぐことのできない城門から、膨大な量の水が流れ込む。その勢いはなおも止まらず、周囲一帯を濁った海へと変えてゆく。人の手で抗える限界を超えた猛威。戦争の狂気を体現するかのような破滅の奔流が、溢れる波浪となって町中を覆い尽くす。

 

「逃げろ!このままじゃ全員死ぬぞ!」

 

 半狂乱になって逃げだす曹操軍の兵士達。それでも運の悪い数人の兵士が家屋の倒壊に巻き込まれ、押し寄せる泥水の渦の中で生きたまま溺れてゆく。逃げ惑う同僚たちに押し倒され、そのまま踏み潰されて死んだ兵士も多くいた。そして数分と経たないうちに、視界と呼吸を奪われたまま水膨れの肉塊へと変化してゆく。なまじ重い鎧を着ていた精鋭部隊ほど、その重量ゆえに死からは逃れられなかった。どれほど厳しい訓練を積み、戦場で武を磨いた兵士いえども大自然の猛威の前には赤子に等しかったのだ。

 

「あ……」

 

 そして難を逃れた曹操達は、味方の兵士や数多の住民が為す術もなく流されてゆく様子を見つめることしかできない。最初の堤防決壊から半刻以上経過してもその洪水は勢いを衰えさせることなく、逃げ惑う全ての命を悉く殺しつくしていった。家を沈め、庭を沈め、性別も年齢も人種すら分け隔てなく捕え、暗い水底へで物言わぬ骸へと変えてゆく。大地を抉って人の世界を濁った水面で覆い、死の宴は終わることなく延々と続けられた。

   




 ※途中で人口についての話がありましたが、数は本作の独自設定なのであしからず。第4章あたりに載ってると思います。

 割とあっさり終わった陶商さんのクーデター。信用できない味方ごと曹操軍も水に沈めちまえ、とかフツーは考えないので、そこら辺は親父の方が一枚上手。
 下邳城の水没というネタは三国志からの拝借です。三国志では曹操が下邳城に籠った呂布を水攻めするために使ってますが、本作では陶謙が曹操軍を迎え撃つために堤防決壊を使っています。
 この戦術、オランダなんかではよく使われてたそうですね。なんと冷戦時代まで洪水線というものがあって、堤防決壊も立派な戦術としてしばしば作戦に組み込まれていたとか。


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63話:抗えうる力

 
※少し修正を加えました(10/6)



   

 曹操軍が下邳で戦闘を開始した――その知らせは瞬く間に中華を駆け巡り、劉備らは血相を変えて現場へと急行した。

 

(お願い……間に合って――!)

 

 脳裏をよぎるのは2つの光景。青州・臨菑城と徐州・琅邪城……従ったものと、逆らったもの。対比としてはこれ以上ないぐらい良く出来ている。 

 

 死にたくないと喚きつつも、最後まで為政者としての責任から逃げなかった孔融と青州の高官たち――苦渋の決断を下した彼らの姿が脳裏をよぎる。

 降伏の後、主な人物は処刑されるか軟禁状態に置かれただろう。少なくとも明るい未来ではないことは確かだ。より多くの民を生かす為に、己の命も誇りも全てを強者に差し出し、屈辱に耐えながら不様に許しを乞う。そして救った民からは国を守れなかった無能と蔑まれ、死ぬまで勝者にこき使われながら生きてゆく。それは青州の民衆にしても同じ。ただでさえ貧しかった青州は戦乱によって完全に荒廃し、今年の冬を全員が無事に越せるかどうかも怪しい……。

 

 ――ゆえに臨菑城は生き残り、それが出来なかった琅邪城は3万の屍と共に廃墟と化した。

 

  推測でしかないが、本心ではたぶん両者の間に大きな違いなどなかったのだろう。青州に住む人も、徐州に住む人も。共に自分達の故郷を愛し、勝利するまで戦い続けたかったはずだ。

 だが想いの強さで勝てるほど、戦争は甘くない。精神論が勝敗を決するなら兵法など無用。青州はギリギリでその現実に気づけ、徐州は手遅れだった――その少しの差が両者の結果をここまで分けたのだ。

 

(……でも、いやだからこそ――下邳までそんな目には遭わせない!もう悲しい事は充分だよ!!)

 

 ゆえに劉備は駆ける。祈るようにして、死の戦場へと走り抜ける。

 

 

 

 そして――少女は再び、地獄を見た。

 

 

 ◇

 

 

 つい先ほどまでは数多の人々が暮らしていたであろう痕跡とは裏腹に、下邳の空気は墓場のように凍りついていた。音が無いわけでは無い。たが擦れるような呻き声と阿鼻叫喚が風に乗って運ばれる様は、この地から『生』の要素を根こそぎ奪い取っていた。

 

「……水攻め、ですね。恐らくは、付近にあった泗水の堤防を決壊し、溢れ出た洪水で下邳は……」

 

 青ざめてはいるが、諸葛亮の分析は全く的確なものであった。今でこそ水も城外へ流れているが、数刻前は此処も水の底だったのだろう。地面は泥と化してぬかるみ、血の気を失った水死体がそこかしこにある事がそれを証明している。

 

「桃香様、内城に……!」

 

 諸葛亮が指さす先は陶謙の居城。屋敷は土塁と石垣を積み上げた天守台の上にあり、水没を免れた数少ない建築物だ。かつてあった城壁は洪水で破壊され、今は外からでも屋敷の様子が見える。そして開け放たれた門からは、室内に一人の少女が立っているのが見えた。

 

「おい、あれって……」

 

 続く一刀がが何か言うより早く、劉備は全力で駆けていた。

 

 

「――曹操さんっ!」

 

 

 非難の意をこめて呼び掛けた叫び。

 されど返答はなく、目的の少女――曹操は相変わらず不動の姿勢を崩さない。劉備は何やら得体のしれない混乱に苛まれたまま、不審感と警戒を抱きつつ更に距離を詰める。

 

「お願いです、何か言って下さい!いったい何が――」

 

 一瞬。曹操の身体が震えたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。だが曹操は無防備に背中を劉備達に晒したまま、一向に振り返ろうともしない。

 そんな彼女の様子を見て、劉備達は戸惑ったように動きを止める。

 

 その姿は間違いなく洛陽で見知った出会った金髪の少女。にも拘らず劉備は、目の前の少女が別人のであるかような印象を受けた。容姿ではなく、その身に纏う空気が――かつて彼女が放っていた、居並ぶ者を思わずひれ伏させるような強いオーラや自信はどこにも無い。

 そのときになって初めて劉備は、事態が異様な状況に陥っている事に遅まきながら気付いた。そして先ほどから抱いていた違和感が何なのかも。

 

(なんで……曹操さん達も傷だらけなの……?)

 

 見間違えでは無い。曹操の周囲に護衛の兵は10人程度しかおらず、しかも全員が満身創痍の状態だ。その意味に気づくと、先ほどまであった怒りも完全に引き去った。後に残ったのは薄ら寒さと、胸を押し潰すような圧迫感だった。

 

 ――では誰がこんなことを?

 

 冷やかな焦りが、劉備の背中に汗を流させる。真相は依然として分からないものの、何か裏がある、という予感だけは彼女の胸の内で確信へと変化していた。そして更に一歩踏み出すと、それまでは建物の陰に隠れて見えなかった複数の人影が視界に入る。

 

 屋敷の内部いる誰かが、ゆっくりと近づいてくる。曹操軍兵士ではない。もっと重装備で、上質な軍服を着た兵士達が武器を構えている。そして彼らの中心に立つ人物は、劉備達も良く知る人物だった。

 

 

「陶謙……さん?」

 

 

 ◇

 

 

「おお、玄徳殿も無事だったか。この混乱の中、此処まで来るのはさぞ苦労したじゃろうな」

 

 果たして現れたのは徐州を統べる郡雄・陶謙その人だった。その右手には儀礼用の剣が握られており、切っ先は曹操へと向けられている。彼の周囲には50人ほどの兵士がいたが、こちらは曹操の護衛と違って負傷も疲労もなく意気軒昂のようだ。

 

「陶謙さん、これは一体……?」

 

 状況が理解できない――劉備は青ざめた顔で尋ねる。

 

「見ての通りじゃよ。これから和平のための対話(・ ・)を行う」

 

 対話、という平和的な言葉とは裏腹に、陶謙の周囲の兵士達は一向に武器を下げようとはしない。

 その様子と言葉の裏にある意図を読み取り、曹操が怒りと屈辱で顔を歪ませる。

 

「貴方……」

 

 殺気をこめて陶謙を睨みつけるが、どうにもならない。逆に事態の深刻さを曹操に再確認させただけだった。どう考えても真っ当な対話にはならないだろうが、この場で彼女の生死与奪の権利握っているのは目の前の老人なのだ。

 

「……分かったわ。それで、要求は何?」

 

「ほう、若い割にもの分かりが良いと見える。実に結構なことよ」

 

 満足そうに言うと、陶謙は懐から取り出した紙を読み上げる。

 

「まず兌州はすぐさま軍を解体し、その兵力は4万まで縮小すること。そして今回の戦争において我が州が受けた損失を補填するための賠償金を支払うこと。最後に『3州協商』に兌州も加盟すること――以上の3点じゃ」

 

 体のいい降服勧告だ、と曹操は思った。これに従えば兌州は完全に従属状態に置かれる。軍を自らの支持基盤としている曹操にとって、それを失うことは死活問題に等しい。そして賠償金はただでさえ豊かとはいえない兌州の財政を破滅させ、その状態で3州協定――袁術が主導した自由貿易協定――に加盟すれば間違いなく半植民地的な収奪の対象となってしまう。

 しかも曹操が袁術らの自由貿易協定に加入すれば、それは袁紹への裏切りと同義である。公孫賛軍のこともあって即座に戦闘開始とはならないだろうが、今まで長い時間をかけて両者が築き上げてきた協力・信頼関係は破綻するだろう。

 

「もし以上の条件が受け入れられない場合には、非常に心苦しいが……」

 

 陶謙が右腕を上げると、それを合図として数人の兵士が槍を突き出しながら、曹操とその護衛を取り囲む。

 

(予想はしていたけど、やはり交渉は問題外ね。なら、一刻もここから脱出しないと……)

 

「―――」

 

 ちらり、と曹操は横眼で窓の外の様子を探る。

 たしかに洪水で多くの兵を失ったが、それは陶謙も同じ。多小の兵力は温存出来ているだろうが、主力を率いていた陶商の部隊は壊滅させたし、もともとの総兵力はこちらが上回る。屋敷の外では依然として自軍が優勢――

 

「ああ、水を差すようで申し訳ないがの。友軍の救助はアテにしない方が賢明じゃ」

 

「……つまり?」

 

 警戒心を露わにする曹操に、陶謙は溜息を吐きながら答える。

 

「分かっているはずじゃよ。たとえ数が多かろうと腕に覚えがあろうと、一度とて指揮系統を失った兵は戦力たり得ない」

 

 無線もGPSもないこの時代において、情報伝達の手段は限られる。有体に言えば、指揮官は自分の目が届き、声が届く範囲でしか兵士を制御できないのだ。ゆえに一度はぐれてしまえば命令を送ることはおろか、自軍の状況すら把握できない。仮に洪水で指揮系統を失った曹操軍が外に2万人いようが、それは1人の兵士が2万人いるだけで、2万人で1つの『軍』ではない。烏合の衆、と評してもあながちはずれてはいないだろう。

 

「そもそも、洪水などという災害にあった後、兵士がいつまでも被災地に残りたがると思うかね?建物が崩れる恐れもあるし、まともな神経の持ち主ならまずその場を避難して安全な外へ逃れるはずじゃ。場合によっては、上官の目が無くなったのいい事に脱走を図るやもしれん」

 

「………」

 

「加えて、あと少しで袁術の“救援部隊”が到着する予定じゃよ。聞くところによれば、紀霊将軍の指揮する4万5000の部隊が下邳の解放(・ ・)へ向かっているらしいの」

 

「へぇ……」

 

 曹操はふん、と鼻を鳴らす。何が裏にあったのかを推測するには、それだけで充分だった。

 確かに現状、曹操を討ち取ったとして曹操軍が退却する保証はどこにもない。夏侯惇あたりが軍を再編する可能性もあるため、彼女らにトドメを刺すには袁術軍の力を借りるしかないだろう。だが自軍を犠牲にしてまで同盟相手の支援を得ようという売国的な態度には、流石の彼女も眉を顰めざるを得なかった。

 

あの(・ ・)袁術軍にしては素早い動きじゃない。まるで(・ ・ ・)何が(・ ・)起こるか(・ ・ ・ ・)知ってた(・ ・ ・ ・)みたいに(・ ・ ・ ・)

 

幸運にも(・ ・ ・ ・)付近で大規模演習があったようなのでな。同盟に基づいて人道的な支援を行いたいという、書記長殿の御好意に甘えさせてもらった形になるのぉ」

 

「つまり、それが貴方のお友達(・ ・ ・)の計画って事かしら?」

 

 曹操の視線が鋭さを増す。

 

「それならこの暴挙も説明がつくわ。堰を崩壊させて敵味方もろとも下邳を水没させれば、私たちと貴方たち両方の力を削れる。かくして漁夫の利狙いの第3勢力・袁術が一番得をする、そんな筋書きかしら。……まったく、劉勲あたりが好みそうな策ね」

 

 曹操軍が到着する前に下邳へ増援部隊を送ろうとも、その後の戦闘で勝利できる保障は存在しない。彼我の戦力差を省みれば、曹操軍を城内に引き込んだ上で下邳ごと水没させた方が遥かに効果的な確実だ。しかも囮になる味方は全て徐州の兵士であり、成功しても軍を失った徐州の発言力を低下し、より袁術に従属せざるを得なくなる。仮に失敗しようとも袁術軍に被害は出ないため、袁術陣営から見れば実に合理的な作戦だと言えよう。

 

 

「今の言葉は……本当なんですか……?」

 

「必要な事だった。それ以上でもそれ以下でもない」

 

 呆然とする諸葛亮の問いに、陶謙はそっけなく答える。

 諸葛亮は何か言い返そうとするが、言葉が出てこない。一個人の感情を抜きに軍師として考えるならば、陶謙の言葉にも一理あるように思えたからだ。

 

 自軍の犠牲を前提とした非人道的な作戦だったとはいえ、圧倒的に不利だった状況を少なくとも五分まで持ちこめた。加えて曹操兵士の質は徐州軍より上であるため、失われた兵数が同じならダメージがより大きいのは曹操軍なのだ。しかも最初から下邳を水没させるつもりなら一定の対策もとれるはず。現に陶謙はクーデターというアクシデントがあったにもかかわらず一部戦力の温存に成功し、こうして曹操を殺せる状況を作り出している。

 

「曹操殿。弱小勢力が独立を維持していくのは、貴公の想像より遥かに困難な作業なのじゃよ。現実問題として、徐州は南陽の同志(・ ・)達の保護抜きには立ちゆかぬ。肝心なのは利がある側に与すること」

 

 もはや隠す必要もない。陶謙の発言は、直に袁術の干渉を認めていた。

 

「……前から気になっていたのだけれど、劉勲の誘惑ってそんなに魅力的なのかしら?自分の財産を貢いでまで、あの子に縛られ首輪を嵌められるのが、そこまで待ち遠しい?」

 

 袁術陣営に助けを求めれば目下の戦力は増えるかもしれない。だがその代償として徐州は主権を制限され、都合のよい盾として酷使されるだろう。もっとも――。

 

「では、貴公は違うとでも?」

 

「まさか。この曹孟徳に逆らった時点で選択肢は2つ。全てを捧げて私の覇道に付き従うか、死あるのみよ」

 

 そう、開戦という事態を引き起こしてしまった以上、徐州の命運はどちらにせよ尽きたと言ってよい。初めから負けの決まっていた戦争とまでは言わないが、敗北可能性が濃厚な戦争で普通に戦い、普通に都合のよい奇跡など起こらず、普通に負けたというだけのこと。

 ゆえに、残された道は3つ。曹操に逆らって滅ぶか、曹操に全てを捧げて降伏するか、自ら進んで植民地となって別の諸侯の庇護を受けるか。

 

「成程、それで袁術ね……目の付け所としては悪くないわ。特に劉勲なんかはそういうの好きだから。安全地帯から他人を唆して、足を引っ張り合う泥試合を見て喜ぶ。ほんと、あれは性質悪いわよ」

 

「だとしてもじゃ。 そもそも貴公はひとつ勘違いをしている。いいかね?――弱小な徐州にとっては、むしろ袁術による植民地化こそが最後の希望なのじゃよ。彼女らが欲しいのは市場と安全保障上の緩衝地帯であって、領土や民の支配ではないからの」

 

 曹操や袁紹のように農業や畜産を基盤とする勢力は土地と人口がそのまま国力に直結するため、強力な支配権を要求する傾向がある。だが大都市・宛城を有する袁術にとって富の源泉とは商売によってもたらされる商業利益であり、取引できる市場とそれを保障するルールがあれば、それ以上は欲しがらない。

 

「それに袁術自身が南陽群太守に過ぎない事もあってか、あそこは貴公らに比べると遥かに君主権力が弱い。しかも売官制を始めとする金権政治がまかり通っているがゆえに、金さえあれば一定の発言力は保持できる。戦争によって徐州の独立維持が不可能になった今、よりマシな従属先を探そうとするのは自然なことじゃ」

 

 陶謙は言葉の端に強い響きを含めて言い放つ。既に彼は徐州の崩壊を前提としたプランを立てており、いずれ袁術の傀儡となることも覚悟の上なのだろう。

 

「さて、話はここまでじゃ。なるべく平穏に済ませたかったのじゃが、今までの様子だと大人しく従う気はないようじゃの。出来れば生け捕りにしたい所ではあるが……此処はやはり確実に行くべきか」

 

 陶謙の瞳がすっと細められる。

 

「――曹兌州牧を殺せ。その首を袁家への忠誠の証とする」

 

 曹操が動くより先に、陶謙の周囲にいた兵士が一気に突撃する。数は約50、曹操の護衛の5倍であり装備やコンディションも上だ。部屋という密閉空間では逃げ回る事も出来ず、曹操目掛けて突き出される槍が宙を切る。

 

 

「ッ――!?」

 

 

 しかし次の瞬間、その場に耳をつんざくような金属音が響いた。剣が槍を阻んでいる。そして曹操と陶謙の間に立ちふさがるように、一人の人間が立っていた。

 

 

「……これはどういう事だね、一刀君」

 

 陶謙が静かに質問する。曹操の捕縛を阻んだ相手を、穏やかだが油断なく見据える。

 対して一刀は何かを堪えるように沈痛な表情で、絞り出すようにして応じた。

 

「もう一度、考え直してはくれませんか?」

 

「異なことを言う。儂は交渉の余地を与え、曹操殿がそれを蹴った。ならばもはや、話すことなど無いのではないかね?」

 

 対して答える陶謙の声は、親が優しく子供を諭すようで。それでいてどこか冷たい響きを含んでいた。

 

「でも!でも、こんな事よくないです……」

 

 次に口を開いたのは劉備だった。なおも武器を下ろそうとしない陶謙に向かって、彼女は身振り手振りを交えて必死に訴える。

 

「こんなこと間違っています!ここで曹操さんを殺して、袁術さんの庇護下に入って使い潰されて……そんなの、あんまりです……!」

 

「玄徳どの」

 

 陶謙は困ったように眉をしかめる。

 

「そなたの気持ちも分からなくはない。じゃが、それ以外にこの戦争で生き残る術があると思うかね?中華全土を覆う戦火に抗う力は、もはや我らには残されておらぬ」

 

 辛そうに黙りこむ劉備に、陶謙は続けて諭すように語りかける。

 

「それでも、たとえ主権や誇りを失おうとも民は生きてゆかねばならんのじゃ。そして為政者として、儂は民を確実に生かす方法を取らねばならぬ」

 

 ああ、この人も同じなんだ……劉備の頭に浮かんだのは、戦わずして降伏した青州牧・孔融の姿だった。陶謙もまた彼と同じように、生き延びて僅かな希望を未来へと残そうとしている。たとえそれが、どれほどの屈辱と犠牲を生むとしても、それが最善だと信じている。

 

「弱者は強者に縋らねば生きてゆけん。己の収入源を持たぬ子供や女性が、手に職を付けた男性に依存せねば生きられぬように。売り物になるだけの技術のない新人の職人が、見習いとして親方や組合に滅私奉公せねば一人前になれぬように。国や地方政府とてそれは変わらぬ」

 

 自立が出来るのならばそれに勝るものはない。

 だが現実問題、全てを一人で成し遂げ一流の域に達するという事は理想論はおろか妄想だ。なにせ単に「出来る」というだけでは到底足りない。他者との競争も考慮せねばならない以上、やるならばその部門で最上位に入らねば意味がない。農業も工業も商業も資源も文化も財政も政治も軍事も外交も。全てが一流にならねば真の「自立」はありえない。

 そして全てにおいて自立せんと欲するならば――砂漠の国家が砂地の上に農園を作るかのごとく非効率な作業を、多くの犠牲の上に成り立たせるしかない。

 

「でも、それを何とかするのが俺達の役目じゃないんですか!?貴方だって見てきたはずだ!一方的な通商条約、自己中心的な3枚舌外交、見殺しにされた青州……自分の未来を他人任せにすることが、どれだけ悲惨な末路を辿るか分からないんですか!」

 

 声を荒げる一刀の糾弾に、陶謙は呆れとも憐みともつかない表情を浮かべる。

 

「理想が高いことは結構じゃ。 だが、他に方法があると思うのかね? まさか奇跡を信じて一か八かの勝負に打って出る、などとは言うまい。一個人としては議論の余地があるが、少なくとも数万の民の命を預かる為政者が取るべき行動ではない」

 

「……だけど、それじゃ俺達を信じて戦ってきた人たちの想いはどうなるんですか」

 

 劉備の隣にいた一刀は顔を拳を握りしめ、低い声を絞り出す。

 力なき正義は無力である。それは分かった。納得できなくとも、ある程度は理解できる。何度も自問自答を繰り返していただけに、こういった回答も予想はしていた。

 

 しかし、それでも。一刀にはどうしても看過できない事がもう一つ。

 

「答えて下さい、陶謙さん。貴方は……いつから(・ ・ ・ ・)知っていたんですか?」

 

 水面下で進められた、袁術との黒い取引を。その過程で生じた数多の犠牲を。

 どこまで承知の上で行っていたのかと。

 

「少なくとも俺は、何も聞いていません。そして恐らくは、前線にいる兵士達も知らなかったと思う……」

 

 知っていたら、こんな事には手を貸さなかった。初めからこうする(・ ・ ・ ・)つもり(・ ・ ・)だったのなら、前線で傷つきながら戦っていた兵士達は何のために死んだのか。彼らの死に意味はあったのか。 

 

「徐州で虐殺が行われていた時、貴方は安全なこの場所で何をしていた? 何を命令を出していた?」

 

 護るべき民を殺し、それを対価に自ら進んで奴隷となる……そんな下種なシナリオを完成させるために、彼らは犠牲になったというのか――。

 

「俺達が頑張っていれば全員救えたとか、そんな夢みたいなことは言わない! でも、だけど――」

 

 一刀は胸を押さえ、訴える。

 

「何も真実を知らせないまま、人を捨て駒として使い潰していいはずがないんだ! 兵を死地に追いやるなら、せめて彼らに納得できる理由を与えて下さい!人の命は、政治の道具じゃない!」

 

 国の為に民があるのではなく、民の為に国がある……転生者である一刀にとって、それはごく当たり前の理屈。そして為政者とは、民を代表し彼らの代弁者となるべき存在だ。ならば民を蔑ろにして、為政者が勝手に政治を進めて良い道理などない。

 

「今まで徐州の兵が頑張って戦ったのは、袁術の奴隷になるためじゃない。自分達の住む土地を守りたい――その為にみんな俺達についてきてくれたんだ。そんな彼らの想いを、願いを貴方は踏みにじるんですか!」

 

 

「それが現実(・ ・)だ」

 

 

 陶謙がぴしゃりと言い放つ。

 

「何を言うかと思えば……戦う理由、死ぬ意味、そして“真実”とな」

 

 老人は深く、溜息をつく。

 

「そんなモノは知ったところで、いらぬ混乱を増やすだけじゃよ。目に見える現実があれば、それでよい」

 

 真実を知れば、恐らく誰も戦おうとしなかったに違いない。たとえ理屈で「大を活かすために小を殺す」ことが最善だと分かっていようと、殺される『小』の側はそれに耐えられるほど従順では無いし、それが人間というものだ。

 こればかりは立場の違い、と割り切るより他はない。全体を活かすために『大』として振舞う陶謙と、切り捨てられる『小』の側の一刀たちでは、視点も違えば各々の最適行動も違ってくる。

 

「そんなに、希望が持てませんか?」

 

 北郷一刀は静かに言って、一歩前へ進み出た。

 

「希望など最初から無い。――あるのはただ現実のみ」

 

 陶謙の瞳に宿るのもまた、決して引かぬという強い意志。

 

「どれだけ不様であろうと生き延びて、未来への余力を残す事こそが『力』を得る第一歩となる。目先の誇りや怒りに支配され、己の力量を見誤ればそこで全てが途絶えてしまう」

 

「でも……でも、他人の犬になれば同じことだろう!一度首輪を嵌められたら最後、力を削ぎ落されて死ぬまでこき使われるかもしれないだろ!」

 

「そうかもしれないし、そうでないかもしれぬ。じゃが今、徐州単独でこの戦争に立ち向かおうとすれば確実に破滅する。後に復活する可能性が未知数である前者と、零である後者……どちらの道を行くか、選ぶまでもない」

 

 陶謙の表情が鋭さを増す。抑えつけるような瞳の裏には、何が映っているのだろうか。

 

「例えどれだけ不様な生き方であろうと、生きている限り道はある。ゆえに我々は、生きねばならんのじゃ」

 

 その言葉を合図に、陶謙の部下達が再び突撃する。

 今度こそ、本物の殺意を滲ませて。

         




 なんだか後世ですごく評価が両極端に分かれそうな陶謙さん。「曹操と戦っても勝てないなら、いっそ袁術の配下になっちまえ」とエクストリーム売国。
 ただ、我々の感覚では分かりにくいですけど、当時は国民国家じゃないんで自分の領地ごと誰かの臣下になる、なんて事は珍しくはなかったとか。日本の戦国時代でも三好三人衆に負けそうになった松永久秀が、あっさり織田信長に恭順してますしねー。


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64話:少女の戦い


 一部に加筆修正を加えました(10/6)


             

 2日ほど時を遡る――。

 

 兌州・陳留にある曹操軍の大本営は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 

「それで、豫州東部に集結しつつある大部隊っていうのは……」

 

 出来れば聞きたくない、といった本音が垣間見える口調で荀或が部下に問う。

 

「まだ詳細は未確認ですが、目標は徐州と見てほぼ間違いないでしょう。数は最低でも3万、中には5万以上という報告もありますが……」

 

「要するに、下邳の華琳様が逆包囲を受ける可能性があるってことね」 

 

 はぁ、と深く溜息をつく荀或。最後に彼女が受けた報告によれば琅邪城が落ちた後、曹操の本隊2万5000は下邳へ向かったという。下邳には1万程度の徐州軍が存在すると見積もられており、攻城戦になれば袁術軍によって逆包囲を受ける可能性が高いと彼女は考えていた。

 もっとも――現実には堤防決壊作戦によって双方が一瞬で壊滅するのだが、この時点でそれを荀或が知る由もない。しかし彼女は宛城に潜り込ませていた密偵からの情報により、図らずして袁術による徐州侵攻計画を察知できていた。

 

「問題は、どうやって援軍を送るかになるわ」

 

 まず考えられるのは、別の部隊を下邳に移動させることだ。しかし東西2正面作戦を行っている曹操軍ではどこも人手不足であり、無理に引き抜けば別の問題が生じてしまう。もう一つは兌州で新規に徴兵することだが、こちらは訓練期間が絶望的に足りず間に合わない。

 

「となると、残るは同盟諸侯からの増援を期待するしかないんだけど……」

 

 最近の華北情勢を見る限り、期待は薄いだろうと荀或は断ずる。

 華北では公孫賛が、騎兵を活用した機動戦で数に勝る袁紹軍を圧倒していると聞く。袁紹軍の『第17計画』では当初「2正面宣戦を回避すべく、開戦直後に主力部隊を青州に投入。北部は防御に徹し、迅速に青州を攻略した主力部隊の帰還を以て反転攻勢に移る」とされていたものの、青州・徐州連合軍の飢餓作戦によって青州での戦闘が長引いたため、優勢な公孫賛軍に耐え切れず北部の戦線が後退。青州占領と同時に、慌てて兵力を北部に移動させているという最中だ。これでは徐州方面への増援など望めまい。

 

「だからこその袁術軍派遣……道理で今まで動かなかった訳ね。姑息というか、合理的というか……」

 

 実に袁術陣営らしい。常に自分は安全地帯にいながら、他者を争わせて漁夫の利を得る死の商人。傷一つ負わないまま、他者が戦の中で得た勝利の果実を掠め取る。それでいて博打は避け、勝てる戦いしかしない。徹底的に外堀を埋め、じわじわと敵を弱らせ、勝利が誰の目にも明らかになってから動き、当たり前に勝つ。現に、今まさに袁術陣営は必勝の布陣をもって戦に臨んでいる。

 だからこそ――。

 

(こっちだって、負けるわけにはいかない。 この戦争の主役は華琳様よ。今までずっと隅で傍観してただけの脇役が、トリを飾ろうなんて虫のいい事考えてるんじゃないわよ――!)

 

 袁術陣営には前も煮え湯を飲まされた。自分はその屈辱を忘れてはいない。ゆえに何としても今回は勝つ――静かな闘志を胸にたぎらせ、荀或は勝利を生み出すべく頭脳を回転させ始めた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

  

 下邳城の空は、その内情を映し出すかのように灰色の雲が垂れ込めていた。ぽつぽつと小ぶりの雨が降り始め、洪水によって家を失った人々の体力を奪ってゆく。統率を失った兵士は生来の欲望と生存本能に従い、強者から逃げつつ弱者を徹底的に喰らい尽くす。そうした命の削り合いが街のそこかしこで起こる例に漏れず、下邳城の一室でも2つの郡雄が真っ向からぶつかり合っていた。

 

「くっ……流石に厳しいわね」

 

 曹操が苦々しげに呟く。既に呼吸は乱れ、膝から下の感覚は無くなりつつある。されど、例えどれだけ消耗していようと彼女は戦い続けるしかない。動きを止めれば己が覇道、その過程で為してきた全てが無に帰すがゆえ。

 勝機はただ一つ……元凶である陶謙を討ち取ること。

 

「はぁ、はぁ……こっちの戦力は14人。敵は……」

 

 見たところ、ざっと50人といったところか。劉備ら3人を戦力から除外すれば、もはや口に出すのも馬鹿らしいほどの戦力差だ。

 50対14――人によってはさほど数の差を感じないかも知れないが、武道を嗜んだことのある人間なら相当に厳しい状況であることが理解できるだろう。俗に、どんな達人でも3人を同時に相手すれば勝てないと言われる。戦術、戦略レベルではまれに数倍の敵を撃破することがあるが、同じことを戦闘レベルで行うことは遥かに難しい。

 

 まず視界――1000人もいれば誰かが自分の代わりに状況を把握してくれるが、十数人程度ではそれぞれが自分の周囲を確認するので精一杯だ。しかも後ろに目は付いていないため、敵が3人もいれば高確率で背後を取られる。ゆえに一度に3人以上と戦う事を避け、建物などを利用しつつ背後を守りながら各個撃破する技術が必要とされる。

 だが問題はそれだけではない。肉体の疲労――10kg~30kgはある鎧を着たまま2kgほどの剣を30分も振り回し続ければ、全身汗だくになること間違いなしだ。剣を握る手は震え、足腰の関節は軋み、溢れる汗が目に入って視界を遮り、呼吸は徐々に困難になってゆく。そんな状態で仮に理想的な各個撃破の状況を作り出しても、果たして自分の体力が持つかどうか。

 付け加えるならば、陶謙の護衛兵として精兵。いつものように質で勝っている訳では無い。1対1ですら決して有利とは言えないのだ。ゆえに曹操らが曲がりなりにも抵抗を続けられている事は、賞賛されてしかるべきだろう。

 

「後は……」

 

 ちらり、と横に視線を向けると、悲しげな声で叫ぶ劉備の姿が映る。

 

「2人とも、やめて下さい! お願いします……!」

 

 劉備の手には剣が握られているものの、構え方はまるで様になっておらず、過度の緊張で震えていた。一刀はまだマシな方だが、諸葛亮を守らねばならない事を省みれば、戦力としては機能していないも同然だった。

 対して陶謙の返答は――。

 

「そこの3人。彼女らを見張ってくれんかのぅ? なに、無理に今すぐ(・ ・ ・)殺さんでもよい」

 

「……ッ!」

 

 息を飲む劉備。今の発言は、陶謙が劉備たちを明確な“敵”として認識したことを意味する。万が一のことを考えてか今すぐ殺す気はないようだが、対話を一方的に拒絶された事に劉備は動揺を隠せない。

 3名の兵に劉備達の監視を任せて、近づいてくる陶謙と徐州兵。

 

(これで47対14……全然、嬉しくないわね……)

 

 内心でそんなことを考えながら、曹操は苦笑する。

 多少はマシになったのだろうが、せいぜい誤差の範囲内でしかない。その証拠に――。

 

「ぐぅ……ッ!」

 

 腕に衝撃が走り、曹操が苦悶の表情を浮かべる。斜め右後方からの槍のひと突きが、彼女の腕の肉を一部抉ったのだ。数の優位を活かした、死角からの一撃。ぬるりと血が腕を伝い、腕に力が入らなくなる。利き手なだけに少々不味い。

 

「くっ――!」

 

 形勢不利を悟った曹操は一度飛んで後ろに下がり、敵の数を確認する。

 数は残り40名。こちらも7名がやられた。

 この状況でこの人数と戦うのはあまりに無謀すぎる。ならば――。

 

 元凶を倒すしかない。頭を失った蛇は無力。複数の味方の犠牲の上に、ただ1人のを討ち取る捨て身の突撃。離れた位置から指揮をとっている陶謙を殺すことが、唯一この絶体絶命のピンチを切り抜ける方策だった。

 

(問題は、そこに辿り着くまで生きていられるか……)

 

 だが、やらねばならない。残された時間は少なく、戦闘が長引けばそれだけこちらが不利になる。

 曹操は痛む腕に無理やり力を込め、再び足を踏み出した。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 南陽群・宛城―― 

 

 日は暮れて日没となっており、張勲は部屋に備え付けられた暖炉に薪をくべる。南陽群はどちらかといえば温暖な気候だが、初冬の夜間ともなると流石に冷える。

 

「いやぁ、今日もお疲れ様でーす。やっぱ戦争って疲れますねぇ」

 

 疲れたと言う割には、張勲の口調は至って呑気なものだった。

 

「……アンタは何もしてないでしょうが。さっきの人民委員会議だって、袁術ちゃん寝かしつけてたぐらいで……」

 

「それも仕事の内ですぅ。だいたい下手にお嬢様が起きてたら大変ですよ?軍事予算が蜂蜜の湖に化けますよ?」

 

「いやいや、いくら袁術ちゃんでも流石にそれは――」

 

 ないだろう、と言いかけて押し黙る劉勲。……やっぱり、あり得そうで怖い。

 

「でも定期報告書ぐらいはちゃんと読んどきなさいよ。情勢が情勢だし、いつ何が起こるか分からないんだから」

 

 椅子にもたれながら、劉勲は報告書を張勲に手渡す。徐州や華北での戦乱に直接巻き込まれずにいる袁術陣営ではあるが、かといって平時通りという訳にもいかない。目まぐるしく変化する情勢を把握し、今後の身の振り方を考えるためには積極的に諜報活動を行う必要がある。

 

 現状、『二袁の争い』は徐々に袁術の率いる『南部連合』優位に傾きつつある。初戦こそ袁紹ら『北部同盟』軍の先制攻撃を許し、青州を占領されるという失点があったものの、徐州にて曹操軍主力を壊滅させたことは大きな成果だ。北部でも同盟を結んだ公孫賛軍が袁紹軍を圧倒。

 西部戦線では曹操と対立していた益州の劉焉が南部連合側に立ち、袁術の勢力拡大を恐れる荊州牧・劉表と対立。ただし西涼の馬騰が中立を表明した事により、西部戦線はせいぜい小競り合い程度のもの。一方の司隷では益州と荊州、涼州の3すくみ状態の隙をついて李傕らが再び勢力を伸張。こちらも洛陽を占領する北部同盟軍と戦う関係上、袁術らには友好的だ。

 

「で、私たちはその間ドサクサに紛れて徐州を掠め取ろうと。劉勲さんって、ほんとしょうもない悪知恵だけは働きますよねぇ。ここまで来ると逆に尊敬しちゃいそうですぅ」

 

「頭脳派、って言ってよぉ。 ったく、そこらの脳筋と一緒にしないで欲しいわね。もっとこう、人生賢く生きていかなきゃ」

 

「ですよねー。正面切って戦争してたところで、疲れるだけで誰も得なんかしませんし」

 

「ねー」

 

 おどけるように同意する劉勲に、つられるように笑顔を浮かべる張勲。相変わらず、仲が良いのか悪いのかよく分からない2人ではある。

 

 

「それにしてもあの狸……」

 

「陶謙さんの事ですかぁ?」

 

「ええ、どうして中々、話の分かる男じゃない。今まで散々善人ヅラしといて、切羽詰まった途端に曹操軍もろとも住民まで水底に沈めるなんてさぁ。あんなのが為政者じゃぁ、徐州の庶民も大変でしょうに」

 

 その下種い作戦を立案した本人が言うのもなんだが、正直なところ陶謙が承認するとは劉勲も思っていなかった。劉備らを重用していることから、陶謙もああいう手合いだと思い込んでいたのだが、どうやら自分の見込み違いだったらしい。他者を矢面に立たせて裏から操る、自分の同類だ。

 

「こき降ろしてる割には、なんだか嬉しそうですね」

 

「あら、これでも褒めてるつもりなんだケド? なんだかんだいって、2面性のある男ってアタシ結構好きよ?惚れちゃいそう」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべて、しなをつくる劉勲。手慣れた仕草が妙に洗練されているだけに、激務のせいで痛んだ髪やら目の隈やらが残念でならない。

 

「というより、劉勲さんってオジ専でしたっけ? それとも単に守備範囲広いだけですかぁ?」

 

「何とでも言ってなさい。恋多き女には出会いも多いのよ」

 

「世間ではそれを尻軽と言うんですよ、劉勲さん」

 

 適当な軽口を叩き合った後、張勲が思い出したように言う。

 

「でも、少し意外ではありましたねぇ」

 

「何が?」

 

 胡乱げに首をかしげる劉勲に、張勲はうっすらと微笑みを浮かべる。 

 

「ずーっと戦争を避けてきた劉勲さんが、ここに来て裏工作をしてまで曹操軍を潰そうとするなんて。何か心境の変化でもありました?」

 

 対する劉勲はというと、当惑したような苦笑を僅かに浮かべただけだった。

 

「う~ん、そうかなぁ? アタシは今も昔も、勢力均衡を保とうとしているだけよ」

 

 積極的に中華を変革していこうという曹操や一刀達とは違い、劉勲はむしろ停滞を是としている。だからこそ彼女は現在の情勢を壊そうとする動きを許さない。ゆえに勢力均衡によってバランスを維持し、極端にパワーバランスが偏ることで既存の秩序が崩壊するのを防ぐ……彼女の目的は終始一貫してそれだけだ。

 

「ずっと変わらない、って案外大変なことなんだよ? 自分が望まなくても、周りが勝手に変わる。変わろうとする。その中で不変であり続けたければ、変わろうとする周りの足を引っ張るか、周りが変化した分だけ自分を成長させなきゃいけない」

 

 そうでなければ、気づいた時には一人ぼっちになって取り残される。皆はどんどん先へ行く中で、自分一人だけ置いてけぼりにされてしまう。そうならないためには――。

 

「後はそうね……何を思っても結局のところ、最後にモノを言うのは『力』だから、かしら」

 

 例え変わろうが変わることが無かろうが、この世界はいつだって誰にだって残酷で。

 酷薄で、冷徹で、容赦がなく、思い通りにならないから。

 

「願って祈って想いの強さで勝てるなんて、現実そんなに甘くない。少なくとも、アタシはそう思ってる」

 

 強い力がなければ、何を為す事も出来ないのだと――。

 

「……なーんてね。ちょっとカッコつけてみたんだけど、決まってたかしら?」

 

 それは随分と卑怯な聞き方だと、張勲は思った。

 何だかんだ言って、やはりその先が気になってしまうから。 

 本音が垣間見えるようなスレスレの場所で、結局いつも本心は謎のまま。

 

「そうですね、まぁ……悪くはないと思いますよ?」

 

 へぇ、と人を食ったような劉勲の眼差しに、張勲の唇が僅かに吊りあがる。

 

「でも、『政治家』としての劉勲さんには、もう一つありますよね? 曹操さんと戦う理由が」

 

「ああ、そういえばそんなモノもあったわね」

 

 劉勲の双眸がすっと細まる。まるで捕えた獲物を前にした蛇のような、全てを呑み込まんとする貪欲な商人の瞳。やはり劉勲は意地汚い笑みを浮かべながら、悪巧みをしている方が似合っていると、張勲は思う。

 

「――袁家は契約を破らない。対価をきちんと支払い続ける限り、決して契約内容を違えることはない。例えどれだけヤクザな取引だとしても、支払いに応じる者には相応の見返りを。……ただし」

 

 劉勲につられて、にやりと張勲も意地の悪い笑みを浮かべる。

 袁家は契約を破らないが、約束という概念はない。だから時として、小さな悲劇が起こり得る。青州のように。

 

「袁家とて万能ではない。それゆえ真に残念ながら時々、ほんの時々だが履行できない事もある……ええ、実に現実的ですねぇ」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「はあああぁぁぁぁッ!!」

 

 威嚇するように叫びながら突貫する曹操と生き残りの曹操軍兵士たち。その様子を見た徐州兵たちは、とっさに陶謙の周りに集結し護りを固める。だが――。

 

「なにっ……!?」

 

 正面に突撃するかと思われた彼らは、突如としてその方向を横に変更した。陶謙の周囲に兵が集まっていた事もあり、曹操軍は敵の包囲網を突破。途中、一人が脱落するも、残る姿をくらますべく柱や調度品に隠れながら移動する。

 だが陶謙らもやすやすと逃がすほど愚かではなかった。 

 

「衛兵、門を閉じよ! 屋敷の外にだけは出すな!」

 

 どこに隠れようが、門さえ閉じれば逃げられまい――とっさに判断した陶謙は間を置かず指示を飛ばす。曹操が全力で走り抜けるも、端にいた兵が門を閉じる方が僅かに早かった。

 

「行け! 兌州牧の首を取れば恩賞は思いのままぞ――!」

 

 立て続けに命令を発する陶謙。徐州兵を引き連れ、曹操の逃げた方角へ向かう。兵の動きに無駄はなく、訓練された動きで瞬く間に曹操を取り囲む。4方にそれぞれ10人づつ、それに陶謙を加えた41名が曹操と麾下5人を完全に包囲する。これで、逃げ道は完全に塞がったはず。だが、しかし――。

 

「へぇ……いい香炉を持ってるじゃない」

 

 にやり、という笑みと共に曹操の動きが止まった。彼女の前に置かれているのは、直径三尺ほどの大香炉。古来より香は臭気を除くと共に、不浄を払うものとして重要な調度品と見なされている。また香木は高価であったことから、豪華で巨大な香炉は権力の象徴としても使用されていた。

 

「しまっ――!」

 

 兵士達が気付いた頃には既に遅かった。曹操は高価な大香炉に愛用の鎌を突き立て、そのまま力まかせに破壊する。香炉が割れると同時に溜まっていた灰が舞い上がり、一瞬にして視界を奪われる。例えどれだけ数で勝っていようと、敵が見えねばその優位は発揮できない。同時に視界が回復するまでのタイムラグは、決定的な隙となる。

 

「ぬ……っ!」

 

 陶謙が歯噛みし、慌てて距離を取る。おそらく硬直時間は数秒に満たないが、曹操にはそれで充分だった。やや離れていた陶謙はまだしも、自分達により接近していた徐州兵は目を潰され、とっさの事態に対応が出来ていない。ならば――。

 

「「「 おおおおぉぉぉぉッ!! 」」」

 

 瞬間、曹操と生き残りの兵士達が正面――陶謙のいる方向へ突撃する。視界不良でたじろいだ徐州兵に、それぞれが必殺の一撃を加える。

 

「おの、れ……!」

 

 だが残った徐州兵も即座に態勢を立て直す。側面にいた兵士は慌てて煙幕から離れ、正面にいた兵士が1人が1人の相手をすれば――。

 

「遅い」

 

 敵が再びこちらへ向かってくるより早く、危機を感じた陶謙が避難するより早く、曹操は思いっきり飛び出していた。陶謙の前に躍り出て、そのま躊躇せず鎌を横に薙ぐ。

 

「――っ!?」

 

 絶句する陶謙。あらん限りの力を振り絞って突き出された曹操の鎌は、真っ直ぐに彼の元へと吸い込まれる。とっさに避ける間もなく、必殺の一撃は容赦なく陶謙に突き刺さった。

 

「か……はッ……!」

 

 骨の折れる嫌な音が聞こえ、陶謙の顔が苦悶に歪む。その脇腹には早くも鮮血が広がり、致命傷であることを否が応でも認識させる。

 己の脇腹から噴き出す鮮血を凝視しながら、陶謙は瞠目した。

 

「な……ぜだ………?」

 

 その時、何よりも早く陶謙の脳裏を占めたのは疑問の念。

 あり得ぬ。分からぬ。完全に有利な状況にいたのはこちらだ。煙幕という想定外の出来事があったとはいえ、もし仮に(・ ・ ・ ・)あと一人(・ ・ ・ ・)でもこちら(・ ・ ・ ・ ・)にいれば(・ ・ ・ ・)曹操を止め(・ ・ ・ ・ ・)られたのに(・ ・ ・ ・)――。

 

 曹操が自分に刃を突き立てられたのは、ほとんど奇跡のようなものだ。煙幕で視界を奪った僅かな時間に、5名の曹操軍兵士が正面にいる徐州軍兵士10名中5人を倒し、回復した正面の残る5名を足留めする。ゆえに側面にいた兵士が煙幕から逃れ再び向かってくるまで、ほんの一瞬だけ曹操の動きを止める者はいなくなる。そして自分は、その刹那に刃を突き立てられたのだ。

 

 よりによって、その程度。あと僅か1人か2人ほど自分に兵がいれば、防げたはずの事態。にもかかわらず、なぜ運命の悪い悪戯のような逆転(キセキ)が起こる? 

 それとも、もしこれが必然とでもいうならその因果はどこに―― 

 

(ああ……)

 

 記憶の糸を手繰るまでもなかった。

 

(そうか、あのとき彼女らを“敵”と認識したから……)

 

 彼女達との対話を拒絶し、兵を3名差し向けた。その程度の兵が減った所で対局は揺るがないと判断してしまったからこそ、本来起こるはずの無い奇跡が起こってしまったのだ。

 

(玄徳殿、だから貴女という人は……)

 

 やがて陶謙の体はグラリと横に揺れたかと思うと、そのまま地面へと崩れ落ちる。

 その瞬間、全ての戦闘が停止した。

 

 陶謙に従っていた兵士は初め唖然とした様子で呆け、次に怯えたように周囲をキョロキョロと確認し、最後は観念したように武器を置いた。自分達を指揮する主君を失い、改めて部屋の外にいるであろう曹操軍の大部隊を意識したのであろう。

 

 戦闘は陶謙の敗北で終わった。

 それは同時に曹操軍が、再び下邳の支配権を取り戻したことを意味していた。

 

 

 ◇

 

 

「………」

 

 徐州牧・陶謙は、部屋の中央で倒れていた。

 自分は、何か間違ったのだろうか……混濁する意識の中で、ふとそんな事を思う。

 

 自分はただ、純粋に故郷の未来を想い、己の信ずる正義に従って戦ったまで。

 他意は無かった。劉勲との取引は高くついたが、落日の徐州を救うには他に方法が無かったのも事実。

 ならば、いったい何が曹操に劣っていたというのか。それとも――。

 

「少し予想外の事態はあったけど――」

 

 自分を斃した少女が告げる。全身傷だらけで至る所から血を流しながらも、その瞳は強い光を放っていた。

 

「所詮はそれだけよ、陶謙。貴方ごときで私の覇道は阻めない」

 

 全身を蝕む激痛を堪えながら。言葉を紡ぐたびに肺が焼けるような苦しみに耐えながら。

 それでもなお、彼女は“勝者”の義務としての勝利宣言を忘れない。

 

 まるで、そうする事が敗者に対する労りであるとでも言うように。

 

「あれほどの犠牲を捧げて、まだ勝てんか……」

 

 呆れ半分、恨み半分で陶謙は呟く。

 

 兵に出血を強いた。民の命を捧げた。息子の想いを踏みにじった。そして自らの誇りと名誉を、全て泥に投げ打った。そこまでしたのに何故――。

 

 

「知らないわよ」

 

 

 しかし曹操は何一つ表情を変えず、その場で老人を見下ろしていた。碧の瞳に冷たい光を宿らせながら、それでいて鋭く燃える視線が注がれる。

 

「貴方が何を願い、その為にどんな犠牲を払ったか……そんなもの私は知らない。分かっているのは、私の覇道と貴方の考えは相容れないという一点のみ。ゆえに私達は戦い、そして最後に貴方が負けた。それが“現実”よ」

 

 老人の剣は若き覇王の皮を切り、肉を裂き、されど骨までは断てなかった。

 

「……薄氷の勝利だろうと勝利は勝利。敗北は敗北だと、そういう意味かの?」

 

「然り」

 

 最後に勝敗を分けたのは、曹操の策とも呼べぬ刹那の機転。そして、ほんの少し判断を誤ったがゆえに出来た隙を突かれたという、それだけの理由だった。

 劉備たちが居たから、などと責任を転嫁するつもりはない。彼女らの存在を考慮したところで、自分は遥かに優位に立っていたはずなのだ。それでも負けたというならば、下手に言い訳する方がみっともない。

 

 蓋を開けてみれば、何とあっけない結末だろうか。戦略でも戦術でも勝っていながら、戦場の流れ弾で敗死した歴史上の名将にでもなった気分だ。

 

「だが……これもまた、“現実”か」

 

 狙いとおり焦土作戦は敵味方に多くの犠牲を強いたが、精強を誇った曹操軍を確実に弱体化させるという目標は果たした。自分は自らの持つ何もかもを失ったが、代わりに曹操を彼女の持つ全てから切り離したのだ。

 琅邪城で虐殺された3万の民と兵、自らの血と家を継ぐはずだった息子の命、そして下邳の住民……それら全てを犠牲にして作りあげた刹那。曹操を彼女に従う全ての兵士から切り離し、無双の剣をへし折り鎧を剥いだその瞬間。

 

 下邳に立つは指揮官がただ一人。そこにいたのは、ただ一人の女。ただの曹孟徳という、個人に過ぎなかったというのに――。

 

「……それでもなお、儂の剣は届かなかった」

 

 所詮、それだけのこと。あまりに簡潔過ぎる結論に、思わず苦笑する。単純明快過ぎて、もはや恨む気持ちも、不幸を嘆く気にもなれない。

 

 ただ、……ほんの少しだけ悔しかった。年甲斐もなく、素直にそう思うのだ。

 

 

「そう、貴方の剣は届かなかった」

 

 ぽそりと、そんな呟きが漏れた。

 

「でも、見事だった」

 

 曹操の表情が、ふっと緩む。それが混じり気のない彼女の本心だと、なぜかそう確信できた。

 見下ろすような姿勢はそのまま、乱世の覇王は言った。

 

「たとえ下郎の奇策を弄そうと、この曹孟徳をあそこまで追い詰めたのは貴方が初になる。ならば、礼を尽くす事にやぶさかではない。――改めて、敬意を表しましょう」

 

 静かに、されど厳かに。そう宣言した曹操の声には、紛れもない賞賛の響きがあった。

 自らの誇りにかけて、この勝利は汚さないと。必ずや価値ある勝利として未来に繋ぐと。

 それが勝者として敗者に送る、せめてもの手向けだと彼女は言外に告げていた。

 

 

「―――……ならば、必ず守れよ」

 

 

 口の中に血の味を感じつつ、絞り出すようにして陶謙は声を紡ぐ。

 己の敗北が真に絶対のものであった言うなら、今後もそれを証明し続けててみせろと。

 

「―――――」

 

 刹那、眼前の少女が微笑んだような気がした。

  





 前書きも書きましたが、後半部分を再編集しました。
 最後の曹操と陶謙さんの会話は65話に乗せてたんですが、やっぱ同じ話にまとめた方がしっくりくると思ったので。


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65話:とある老人の物語

   

「華琳様!」

 

 大洪水によって激しく損壊した下邳城から出てきた曹操のもとに、夏侯惇と複数の兵が駆け付ける。彼女達も決して浅くはない傷を負っているが、夏侯惇は気にも留めていない。それよりも主君を守るべき立場にある自分達が、戦闘の最中に曹操の元を離れてしまった事を恥じていた。

 

「無事だったみたいね、春蘭」

 

「はい。洪水が起こったとき、一緒に流れてきた柱に掴まったのでなんとか……」

 

 夏侯惇は洪水が収まると、すぐさま部隊の再編成に向かった。しかし洪水が起こった直後はどの部隊も大混乱で戦闘どころではなく、軍の指揮系統が回復するまで予想以上に時間がかかってしまったのだ。

 

「申し訳ありません!すぐにでも駆けつけるべきでした! 私が臣下の役目を怠ったばかりに、華琳様に傷を……」

 

「いいのよ、春蘭。むしろこの状況下でよくやってくれたわ」

 

 真っ赤になって頭を下げる夏侯惇を、曹操は愛おしそうに見つめる。

 

「貴女の仕事は此処にいる兵士を指揮し、統率すること。主君の捜索は大事かも知れないけど、それは全軍を預かる指揮官の最優先業務では無いわ」

 

「はっ!」

 

 夏侯惇は大きな声で、改めて臣下の礼を取る。

 

「……曹操様、これを」

 

 部下の一人が傷を抑えるための布と、刃零れした武器を磨ぐための鑢を持ってくる。曹操は無言でそれを受け取り、改めて口を開いた。

 

「行くわよ」

 

 その言葉を受けて、夏侯惇以下の将兵も各々の武器を握り締める。

 そう、まだ戦闘は終結していない。徐州の先に、本当の敵がある。両軍を潰し合わせて漁夫の利を狙う、狡猾な商人達が。

 

「どうせ近くまで来ているんでしょう?――劉勲」

 

 

 ◇◆◇

 

 

 曹操が去った後、陶謙たちの残された部屋には静寂が訪れた。

 外にいるであろう袁術軍との戦闘に全力を注ぐ為か、それとも陶謙に敬意を示すためか、あるいは結果的とはいえ救われた恩を劉備達に返すためか。いずれにせよ、曹操軍の監視はなかった。

 

 そこにあるのは自分の為した行為の結果。戦闘によって滅茶苦茶になった部屋。放たれた扉から垣間見える、街だった残骸。そして……呆然と佇む桃色の少女と、彼女の仲間達。

 

「………」

 

 しばらくは、どちらも口を開かなかった。否、開けなかった。

 何故なら、聞きたい事があまりにも多過ぎたから――。

 

 陶謙は倒れたまま、未練たらしく剣を握ったままの右手に目をやる。折れた剣と、それを握る血まみれの拳。まさに今の自分そのものだな、と陶謙は小さく苦笑する。

 

「――玄徳どの」

 

「――何ですか?」

 

 やがて、陶謙が口を開いた。それに応えて、劉備も声を返す。

 出来る限り、いつもと同じ声で。出来るだけ、普段通りの微笑を浮かべて。

 

 まるで、失った時間を取り戻すかのように。何かを埋め合わせる様にして、老人と少女は向かい合う。

 

「先の、疑問に答えてくれんかの? まだ儂は答えを聞いていない」

 

 死の足音が刻一刻と迫る中、老人は純粋に疑問を投げかける。その疑問とは、すなわち――。

 

「……曹操さんのこと、ですか?」

 

「そうじゃ。未だに儂には理解できない……たとえ如何なる理由があろうと、琅邪城であれほどの蛮行を行った責任は曹操殿に帰結する。他人の痛みに敏感な貴公なら尚更、彼女を平和の敵と断じ生かしておけぬと憤慨するはず……少なくとも儂はそう思っておった」

 

 解せぬ。分からぬ。全くもって度し難い。ゆえに、真意を問わねばなるまい――劉玄徳は如何なる理由を以て、曹孟徳の死を防ごうとしたのかと。

 

「………」

 

 劉備は沈痛な面持ちで陶謙をじっと見つめ、やがて躊躇うように口を開く。

 

「生きている限り道は開けるって、そう思ったから……」

 

 それは、かつて陶謙が劉備に告げた言葉。

 

「死んでしまったら、後には何も残らない………違いますか?」

 

 されど、その意味するところは――。

 

「確かに、曹操さんを殺してしまえば今回の兌州と徐州との戦争は終わります。でも、袁術さんと裏取引をして、ほとんど騙し打ちのようなやり方で勝って……それで兌州の人達が納得するでしょうか?」

 

 どんな手段を使っても勝てば勝利、等というのは勝った側の認識だ。対して、負けた側は何かと理由を付けて敗北を否定したがるもの。

 

 我々に“勝った”だと? ふざけるな、第3国という虎の威を借りただけの狐が何を以て“勝利した”などとほざくのか。しょせんは馬鹿の一つ覚えのように、物量の差で押し切っただけであろう。戦争法規を遵守する我らと違い、野蛮な貴様らは容赦なく卑劣な戦法を使えたからであろう。我らは戦闘で一度たりとも負けてはいない。戦術でも個々の兵士の質でも常にこちらが勝っていた。条件が同じなら勝っていたのは我々だ―――例を上げればキリがないが、そう考える人間は決して少なくはないはず。

 

 加えて、一連の戦闘では双方に大きな損害が出た。長い籠城戦の末に、琅邪城では気の立った曹操軍兵士が降伏した捕虜や難民を虐殺した。下邳の戦いでは堤防決壊によって曹操軍も甚大な被害を受け、その後も混乱した両軍が街のいたるところで殺戮を繰り返した。死傷者は両軍合わせて3万人を軽く上回り、民間人も含めれば少なくとも倍の数字にはなる。

 これで、理性的な対応が出来ると思う方が可笑しい。いくら曹操が軍紀を徹底しようとも「戦友の仇打ち」と言う名の私的制裁や暴行は発生するだろうし、大多数の兵も内心では同じ思いに違いない。曹操軍によって多くを失った徐州の人々も、同様に復讐をしたいと考えているはず。

 

「沢山の人が死にました……徐州の人たちも、曹操さんの兵隊さんも。友達を殺されて、家族を失って、お互いに相手を恨んでいる人も少なくないはずです。

 それなのに……あんな(・ ・ ・)やり方で(・ ・ ・ ・)勝って(・ ・ ・)しまったら(・ ・ ・ ・ ・)何も解決しないじゃないですか!」

 

 瞼に大粒の涙を浮かべながらも、毅然と己の意見を述べる劉備。

 

「曹操さんは自分の考えをしっかり持ってて、実力も人望もあるから………そんな人が騙し打ち同然に殺されたら、残された人たちがどう思うのか……」

 

 夏侯惇に夏侯淵、荀彧、許緒、典韋、程昱、郭嘉、楽進、李典、于禁……曹操の下にはその人柄に惹かれて名だたる名将・名軍師が集まっているし、彼らが曹操に向ける敬意と忠誠の深さは劉備達にも伝わっていた。

 

 もし曹操が殺されていたらどうなっていたかなど、想像するまでもない。彼女が父親の仇討ちを契機として戦争を始めたように、今度は曹操の死がきっかけとなって別の戦争が生まれるだろう。報復の連鎖は次々に新たな戦乱の火種を生み、どちらかが絶滅するまで終わりなき殺戮が繰り返されるだろう。

 この二ヶ月に体験した様々な経験が、劉備の脳裏で交錯していく。

 

「こんな悲惨な戦争なんて、もう二度と起こって欲しくない……ううん、絶対に起こしちゃいけないんです。だから……!」

 

 これ以上、悲劇を増やさないために。もう皆に辛い思いをさせないために。

 

ただ戦争を(・ ・ ・ ・ ・)終わらせる(・ ・ ・ ・ ・)だけじゃ駄目で……未来へ禍根を残さずに終わらせなきゃ意味がないって、そう思うんです!」

 

 

「……そうか」

 

 ようやく合点がいった、というように陶謙は呟く。

 

「未来への禍根、か……成程、確かに儂の計画ではその点を見落としていたやもしれん。袁術の配下に入れば戦争を有利に進められるとはいえ、戦争そのものを無くせるわけではない。復讐に燃えた曹操殿の部下達とやり合うのは、中々に骨の折れる作業じゃろうて」

 

 あの場で曹操を殺し、今回の戦争に決着をつける事は易い。が、それで互いの憎みが消える訳ではない。むしろ第3者の介入や堤防決壊など道義的に問題のある手段を取っている以上、より恨みは増すだろう。

 ゆえに復讐の連鎖を起こさぬよう、曹操を和平の席につかせる必要があった。和平ならば少なくとも“自分の意志”で戦争を放棄している以上、力尽くで屈伏させるよりかは幾分かマシだろう。

 

「では、もし儂があの場で曹操の殺害ではなく、拘束を命じていたら……玄徳殿は従っていたのかな?」

 

「そっ、それは……」

 

「曹操殿をこちらで用意した“話し合い”の席に着かせよと、そう命じていたら大人しく従ったかのぅ?」

 

 陶謙は少しばかり意地悪な質問をかける。

 予想通り面食らう劉備だったが、それも長くは続かず――。

 

「はい」

 

 しばしの俊巡の後、劉備は意を決したように答えた。

 

「桃香様……!」

 

「桃香、それは……」

 

 一刀と諸葛亮が目を見開く。だが劉備が意見を曲げる事はなかった。これまでの彼女に無かった反論に、陶謙も驚いた様子で彼女を見つめる。

 

「その時には、曹操さんを説得して和平の席に着かせてみせます。今でもわたしは……“話し合う”ことが平和への一歩だと、そう信じていますから」

 

 瞳に強い光を宿し、はっきりと通る声で告げる劉備。決して、心からは納得した訳では無いだろう。質問に「力尽くで」という条件を加えれば、再び押し黙るかもしれない。だが、それでも――今、彼女は確かに「はい」と答えたのだ。それは揺るがぬ事実だった。

 

「ふっ……成長したな、玄徳殿も」

 

 思わず頬が緩むのを自覚する。これまでの劉備なら、実の伴わない理想論だけでものを語っていたに違いない。しかし今の劉備は平和をもたらすための具体的な方法を探し、その上で結論を出そうとしている。平和とその意味について深く考え、自分の思い至らなかった視点すら見出したのだ。

 

 であれば、せめてその程度は――彼女のことを認めてやらねばなるまい。

 

 

「……陶謙さんは」

 

 今度は、劉備が口を開く。

 

「陶謙さんは、どうして殺そうとしたんですか? 曹操さんを」

 

 陶謙の眉が一瞬だけ、苦しげに歪んだように見えた。しかしそれでも劉備の視線は揺らがず、老人の顔をひたと見据える。

 

「確かに曹操さんの性格からして、交渉が成功する余地は少なかったと思います。でも、零ではありませんでした。なのに、陶謙さんは交渉しようともしなかった」

 

 それどころか、わざと曹操を挑発しているようにすら見えた。不正を嫌う曹操の前で袁術との裏取引を自慢げに語ったり、露骨に武器をちらつかせて敵意を隠そうともしなかった。

 

「はて、そんなに意外かのぅ? 曹操は徐州の民を万単位で虐殺したのだ。同胞を殺されれば、仕返ししたくなるのが人情だと思うのじゃが」

 

 しれっと恍ける陶謙に、劉備は困ったような表情で返す。

 

「もう、はぐらかされませんよ? 街を水浸しにしたくせに……。わたしだって少しは学習します。陶謙さんは何を言おうと、最後には徐州の為になるように動くって」

 

 徐州に対する陶謙の純粋過ぎるほど想いは、並々ならぬものがある。でなければ自らの民や誇り、家族を全て徐州の為に投げ打つことなど出来はしない。そんな強い信念を持った人間が、一時の感情に囚われるなどありえないと……劉備は、彼女にしては珍しい諧謔で返す。

 

「だから、余計に分からないんです。わたしは政治に明るくありませんけど……もし曹操さんを説得できれば、袁術さんに対しても有利に事を運べたはずです。――違いますか?」

 

 曹操ほどの人物ともなれば、その身柄を拘束しているというだけで大きな交渉材料になる。彼女の本拠地・兌州に対する人質にもなるし、万が一袁術が交渉内容を破った時の保険としても機能する。無論、説得できるかは別次元の話だが、少なくとも“その可能性がある”と相手に思わせるだけで、外交は大きく変わってくるはず。

 

「そうじゃな……怖かった、とでも言うべきか」

 

「怖かった……?」

 

「左様、儂は曹操殿が怖かった。世の中が彼女によって変えられる事が、たまらなく恐ろしかったのじゃ」

 

 劉備が顔をあげると、陶謙は苦しそうに微笑んで見せた。

 されど、その瞳に映る光は強く鋭くて。

 

「今回の戦争……本当に父親の仇討ちなどという理由で、曹操殿が攻めてきたと思うのかね?」

 

「それは……」

 

 違う――劉備には分かっていた。かつて洛陽で劉勲らを交えて曹操と問答したことがある。その時、曹操は何と言っていた?

 

“――この国を再生しようとするなら、それを根底から変えるぐらいの意志が必要よ”

 

“――唯才是挙。人が生まれや血筋に関係無く実力で評価される、私はそんな世界を作りあげる”

 

 それはすなわち、既存の秩序の破壊。曹操が倒そうとしているのは、陶謙や袁術といった敵対勢力に限らない。何世代にも渡って中華で受け継がれてきた儒教的価値観、それ自体を破壊して新たな常識で社会を塗り替えようとしているのだ。

 

「もしこのまま中華が“変わって”いけば、この先どうなるのか……」

 

 遠い過去を思い出すかのように、陶謙は目を伏せる。

 

 陶恭祖は特段変わった経歴の持ち主ではない。州牧という位には就いているが、ずば抜けて有能だったとか目を見張るような功績を挙げた訳では無い。それなりに恵まれた家に生まれたがゆえに勉学に励み、周囲に勧められて官僚の道へ進み、それに見合った役職を与えられ、運よく出世街道から脱落せずに高位に昇りつめた。口にすれば、所詮それだけのこと。

 

「面白くもない人生じゃろう? 思えば、ただ周りの人間や環境に流されて、漫然と生きて無駄に齢だけ重ねてしまったものよ。じゃが……」

 

 確認するように間を置いたのは、劉備に対してだったか。それとも自分自身に対してか。

 

「それでも、儂の人生はそこにしかない。儂は漢帝国という枠組みの中で生き、その中で生きることしか知らぬ。たとえその行先が長くないと分かっていても、もはや儂の居場所はそこ以外に無い」

 

 それは洪水で今にも崩壊しそうな堤防を、補修し続けるようなものだったのかもしれない。長年にわたって積み重なった、ありとあらゆる社会問題が洪水と化して人々を脅かす。そして人々はいつ崩壊するかも分からぬ恐怖に怯えながら、老朽化した漢帝国という堤防を延々と補修し続ける。

 

「……儂は怖かった。生まれたときから慣れ親しんだ環境が変わり、今までの常識が通用しなくなる事が。200年、いや400年以上続いた漢帝国……その間に膨れ上がった怒りと怨念が破裂し、吐き出された先に何があるかなど予想もつかない」

 

 ゆえに自分は、中華を変えようとする曹操の死を望んでいたのかもしれない――。

 

 変化は必ず痛みを伴う。かつては価値あったものが一夜にして塵屑同然となり、どこの誰が変革の中で没落するのかは神のみぞ知る。それがどこに向かうのか――少なくとも、徐州に向けられる事だけは避けたかった。皇帝から徐州の民を任された州牧として、それだけは避けなければならなかった。

 

「……などと言うのは、やはり無駄に齢を重ねた老人の戯言かな? 世に言う『老害』、歳をとると何事にも臆病になる」

 

 ふっと、老人の口元に笑みが走った。

 

「そなたは……どうなのだ? ――怖くは、ないか?」

 

 視界が霞み、意識が遠のいてゆくのが分かる。自分の命はもう長くないだろう。むしろ、此処までよく持ったものだ。だから、どうせなら、最後にそんな事を聞いてみたいと思う。

 

 

 少女の唇が開く。

 

「ねぇ、陶謙さん」

 

 震える声の中には、弱さと憂いが。

 潤んだ瞳には、哀しみと痛みが――。

 

「誰だって、そうだと思うよ。変わっていくことが全然怖くない人なんて、いないと思う。――袁紹さんだって、劉勲さんだって。きっと……曹操さんも」

 

 それら全てを抱え込もうと、劉備は立っていた。

 逃げたい、隠れたいという本心を必死に押しとどめて、少女は正面から向き合おうとしていた。

 

「……だけど、怖がって自分の殻に閉じこもってるだけじゃ、やっぱり何も分からないから。何が変わっているのか、何を変えなきゃいけないのか、何を変えちゃいけないのかも」

 

 立つべき場所が違えば、それぞれ見えてくるものも違う。それは自身の経験に裏付けされたものだったり、文献から得た知識だったり、周囲にいる人達の言葉だったりと様々だ。

 だから理想や信念がすれ違う。例え同じ未来を目指していても、各々の最善と信ずる道はおのずと異なってくる。陶謙と彼の息子たち……全員が徐州の為を想っていたにもかかわらず、見えるものが違っていたばかりに、進む道は分たれてしまった。

 

「でも、だからこそ、――みんなが自分の知らない世界を知って、その中で自分なりの答えを見つけようとするんじゃないのかな?」

 

 青州の人たち……最後までそこに住む人々の期待に応えようと抗い続けた太史慈も。みっともない醜態をさらしながら、たとえ忌み嫌われようとも民の生命と財産を守った孔融も。降伏の際、彼らは何も言わなかったという。敗北を現実として受け止め、敗者として潔く頭を垂れ、全ての感情を押し殺して未来への希望を僅かにでも残す道を選んだ。

 決して楽な道では無いだろう。けれども――。

 

「……それが自分で見つけた、答えだったから」

 

 それは徐州の人たちも同じ。皆が弱小の徐州を、あらゆる手を尽くして守ろうとした。

 陶謙の2人の息子は純粋な郷土愛で徐州を救おうと立ち上がり、陶謙は袁術すらも利用して徐州を守ろうとした。前者は力無き理想家と蔑まれようとも、後者は弱腰と非難され売国奴の汚名をかぶろうとも――逃げる事だけは決してしなかった。

 

「他の誰でも無い、自分で見つけた答えだから……誰もが逃げずに自分で決めた役割を果たせたんじゃないのかな、ってわたしは思うよ」

 

 そして願わくば――いつか自分もそんな風に。

 

 

 静かに屋敷に佇む二人を、ゆっくりと静寂が包んでゆく。

 遠くからは聞こえる、軍勢がぶつかり合う歓声は掻き消されて。

 

「そなたは……見つけたのか? ――その答えを」

 

 老人が顔を上げると、少女がこちらを覗き込んでいた。

 陰のせいで泣いているかまでは分からないが、その姿はひどく頼りなかった。

 

「ううん……まだ、見つけてないよ。もっと、自分でよく考えてみたい。いろんな人の話を聞いたから、段々と分からなくなってきて」

 

 それでも、劉備は困ったような微笑みを崩さない。

 まるで、笑っていれば悪い事もいつかは良くなるとでもいうように。

 

「だから、探したいんだ」

 

 誰にともなく、桃色の髪の少女は呟いた。

 自分の意志で選んだ、平和への祈りを――。

 

 

「見つけたい答えなら、あるから」

 

 

 

「……そうか」

 

 陶謙は静かに、ぼそっと短く返した。集中が切れると同時に疲労が体を襲い、陶謙は仰向けになったまま目蓋を閉じる。 

 

(現実を知ってなお、その上で諦めきれんか……。じゃが、その妄想(ゆめ)、真摯な祈りから生じた狂気(りそう)はそなたを破滅へと導くぞ)

 

 護りたいものを護れないという狂おしさ。されど護る為の力を手に入れれば、却って他者を傷つけてしまう……きっと彼女は昔も今も、そしてこれからもそんな自己矛盾に苦しめられることだろう。

 そして自分の矛盾と苦悩を自覚しながらも、生来の善性ゆえにその歩みを止めることができない。

 

 それが陶謙の知る、劉玄徳という人間の素顔だ。聖人と狂人の2面を持つ、『大徳の英雄』。行動原理の根底には仁愛と優しさがありながら、本来なら常人を遥かに陵駕した異常者に与えられる“英雄”の称号を持つなど、皮肉でしかないだろう。

 

 だからこそ、そんな彼女に自分は――。

 

 

「強いな、玄徳殿は。儂などよりも、――ずっと」

 

 

 精一杯の応援と、皮肉を贈った。

 

 ――もしかしたら、本心では自分も彼女のようになりたかったのかもしれない。世間一般からどう思われようと、子供が持つようなしょうもない“夢”を諦めずに追い続ける。窮屈な世間体や無味乾燥な現実など知った事か、と青臭い理想に殉じる自由な人生を送ってみたかったのかもしれない。

 

 

「劉備殿……最後に一つだけお願いがあるのだが、聞いてくれるか?」

 

 懐から小さな木箱を取り出し、彼女に手渡す。

 

「これを袁術軍の元へ届けてはくれないか?」

 

 結局、自分は最後まで自分を縛るしがらみから逃れられなかった。しがらみの中で人生を送り、敷かれた線路にうまく乗り、最後まで一人の「陶謙」という個人では無く、陶「徐州牧」という社会の歯車として生きた。自分にとって最良の人生では無かったかも知れないが、それでも最終的には自分で選んだ道だ。だから最後まで筋を通す――と、子供のような意地を張ってみるのも悪くない。

 

「陶謙さん、これは……」

 

「中華に十三ある金印の一つじゃ。この印綬を以て、初めて正式な州牧位が授けられる」

 

 それはつまり、陶謙が徐州の支配権を劉備に託すということ。その上で、それを袁術に渡して欲しいという。州牧の金印を袁術が得れば、彼女は名実共に徐州の支配者となる。従来の経済のみを握った実効支配などより遥かに権威は増すだろう。

 だが誰の目にも袁術の勝利が明らかな今、それを改めて盤石にするような行為に何の意味があるのか。劉備一行は首をかしげる中、陶謙は小さく笑って劉備達に自分に近づくように言い、そっと小さく囁いた。

 

「だからこそ、じゃよ」

 

 劉勲の主導した外交の基本は勢力均衡――誰かが強くなり過ぎれば、周囲が足を引っ張るシステムだ。力のバランスを重視するがゆえに、突出したパワーを持った勢力の誕生を許さない。そう、たとえそれが自分自身(・ ・ ・ ・)であろうとも(・ ・ ・ ・ ・)

 

 劉勲はそのことを承知していた。だから直接支配しようなどとせず、陶謙を政権に座らせたまま経済支配に留める、などと回りくどい手段を取ったのだろう。その気があればいつでも徐州を占領できたにもかかわらず、わざわざ陶謙の救援要請があるまで孫権らを待機させていたのも、野心がないというパフォーマンスのため。

 

「だが劉勲が有能な外交官だとしても、袁術軍の全員がそこまで深く読んでいるわけではなかろう?」

 

 紀霊にしろ華雄にしろ、その本分は軍事であって政治ではない。州牧の金印といった重要品を徐州の方から差し出してくれるなら、喜んでそれを受け取るだろう。普通に考えれば大手柄なのだから。

 

「まぁ、劉勲あるいは張勲が軍を率いていれば、容易に防げた事態ではあるがのぅ。しかし彼女らは表舞台に出てこなかった。自らの臆病さと保身ゆえに、危険を冒そうとしなかった。……それゆえに」

 

 袁家は覇権を(・ ・ ・)握りかけて(・ ・ ・ ・ ・)しまう。2州と1郡、中華の全人口の4分の1を手に入れた彼女らを、他の諸侯が放っておくはずがない。しかも袁術軍主力部隊は徐州にいる。袁家の中枢・南陽群ではないのだ。

 加えて、敵は外ばかりではない。袁家はかつて母虎を謀殺し、虎の子を飼い慣らそうとした。されど猛獣は本来ヒトに懐きはしない。陰に潜み、小さくなって時が来るのを待ち、そして――。

 

「これが『外交』じゃ。覚えてくが良い、いずれ何かの役に立つやもしれん」

 

「はい……」

 

 一同が頷くと、陶謙はやっと肩の荷が降りたとでも言うように満ち足りた笑みを浮かべた。

 

「袁家の書記長殿には酷く恨まれるじゃろうが……まぁ、それもまた一興。もう見ぬ故郷に保険を残していけるのなら、それでも構わんさ」

 

 曹操が疲弊し、袁家もまた不安定。ならば、後はその弱みに付け込めばいい。相対的な力関係の差が縮まれば、もう徐州は一方的に理不尽な扱いを受ける事は無くなるのだ。

 対して、劉備は小さく一言。

 

「本当に……身内贔屓の激しい人ですね」

 

「郷土愛や愛国心など、突き詰めればそんなものじゃよ」

 

 お互いにくすりと笑い合う。

 老人は満足したように頷き、再び目を閉じた。

 

 ――明日はきっと、良い日になりそうだ。

 

 

 ◇

 

 

 徐州牧・陶謙、下邳城にて没す……。死因は事故死とされ、堤防決壊による混乱の最中に命を落としたと言われている。その死に際し、著名な名士たちの反応は大きく相反するものだった。以下に、著名な2つの評価をあげる。

 

「――道義に背き、感情にまかせて行動した。凡人でもここまで酷い事にはならなかっただろう」

                           陳寿の評より

 

「――美徳と武勇と知性を兼ね備え、性質は剛直であり、その統治は恩愛をもって行われた」

                           張昭の追悼の辞より

 

 無駄に人命を散らし、私利私欲のために実の息子すら謀殺した卑劣な売国奴か。

 あるいは、どんな汚名に塗れようとも故郷の為に何もかも捧げた真の愛国者か。

 

 後世に至るまで、未だその評価は定まっていない――。

    




 やっと陶謙さん殺せた……前話のまま殺しても良かったんですが、劉備たちが完全に道化になってしまうので、それも何だかなぁと。

 劉備の意見は、まぁアレですね。勝ちは勝ちでも、相手に恨まれるような勝ち方すると後々逆恨みとかされて困るっていう。
 史実でも第3国の援軍のおかげで勝てた場合とかは「俺ら戦勝国!」「いや、俺ら別にオマエに負けた訳じゃないけど? 1対1だったら勝ってたから!」みたいなノリで尾を引く事って結構ありますし。戦争の勝敗と軍隊の強弱は別問題だと思うんですが、まぁお互い気分的にスッキリしませんからね……。


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第七章・名門の誇りをかけて
66話:共振


            

 曹操軍によって戦端が開かれた徐州戦役は、あと一歩という所で州牧・陶謙の機転により思わぬ形での収束を迎える。終戦間際になって人道的支援(・ ・ ・ ・ ・)を名目に参戦した袁術軍によって徐州は解放(・ ・)され、曹操は残存兵力をまとめて北部の琅邪城まで後退した。

 

「あれは時間との勝負だった。こちらに増援を送る余力はなく、対して袁術軍はその数を日に日に増していた」

 

 後に曹操は当時の状況を振り返り、こう語ったという。

 袁術軍は豊富な資金力を生かして現地で次々と兵を集め、紀霊と華雄という2人の猛将の指揮のもと損害を気にすることなく戦場へと送りこんでいた。戦乱で荒れ果てた徐州では多くの人間が路頭に迷っていたため、数少ない生計手段である兵士に志願する者は後を絶たなかったのだ。数はそのまま力となり、地元豪族も大部分が戦う事無く寝返ってゆく。

 

 だが、曹操は何の勝算もなく残存部隊を琅邪城に終結させたのではなかった。

 巷では「袁紹軍の増援を待っているのではないか」という尤もな噂も流れていたが、公孫賛との戦いに全力を注いでいる袁紹軍に曹操は何の期待もしていなかったし、そもそも袁紹にこれ以上の借りを作る気も無かった。

 

「一日、いや一刻でも長く袁術軍をこの地に留めること。それだけが我々を救う最後の手段だった」

 

 曹操にそれを決断させたのは、陳留にいる荀或から届いた一通の手紙。そこには簡潔に『南陽群・豫州共に動員を行った形跡は見られず』とだけ書かれていたが、曹操に勝利を確信させるにはそれで充分だった。

 

「政治的には劉勲に一得点だけど、軍事的には一失点ね。常に政治を軍事に優越させる……彼女がそういう立場にいるのは知っているし、それも妥当な判断だと思うけど――」

 

 同時にそれが彼女の限界でもある……不敵な笑みを浮かべて夏侯姉妹にそう告げた曹操は、劉勲の意図を正しく読み取っていた。

 つまり動員を行えば他州への挑発行為と受け取られかねず、現時点で劉表――中立だが袁術を警戒しており、下手に刺激すれば敵に回りかねない――ら近隣諸侯との全面戦争を劉勲は望んでいなかった。そのため現有兵力のみで派兵が行われ、宛城の守備隊は必要最低限の数に留められたのだ。

 

 意外なようだが、袁術軍はその国力に比して軍隊の数は恐ろしく少ない。物量戦のイメージが強いものの、それは戦時に大量の傭兵や農奴を徴募するからであって、常に膨大な軍隊を抱えているという訳ではない。むしろ文官の力が強い袁術陣営では、常備軍は存在するだけで「軍人の影響力を強め、政治への口出しを助長する」と考えられており、危険分子として可能な限り抑圧すべきだと考えられていた。ゆえに南陽群・豫州を合わせた計900万以上もの人口を持ちながら、常備軍はせいぜい7万に届くかといったところ。兵の人口比で見れば、曹操のわずか4分の1程しかない。

 

 そんな袁術軍が動員もせずに軍の半数以上を動かしたとなれば――本拠地の守りは自ずと薄くなる。そして一時的にせよ、軍という鎧を失った袁術軍を見逃すはずもない人物が、其処彼処にいることを曹操は知っていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 劉表軍、南陽に向けて軍を発す。現在は州境付近に2万の軍が展開中――。

 

 

 その報告を聞いた時、劉勲は久々に背中から嫌な感じの冷や汗が流れるのを感じた。

 

「なんで!? どうして劉表軍が……!」

 

 信じかねるような声でそう言ったあと、劉勲は頭を抱えて近くにあったソファに座りこむ。秋の冷気で冷え切った革製のソファに体温が奪われ、元から白い顔がより一掃蒼ざめる。

 

「信じられない……え、だってホントに意味分かんないんだけど!?」

 

「これを」

 

 完全にパニック状態に陥った彼女に、情報を持ってきた部下・閻象はポーカーフェイスでもう1枚の報告書を差し出す。そこに書かれていた驚愕の事実は――

 

「うそ……陶謙が、死んだ?」

 

 内心叫びたい気持ちを抑えながら、震える声で聞き返す。しかし閻象はあくまでやんわりと、されど容赦なく無慈悲な現実を突きつける。

 

「孫権同志の報告によれば。加えて、むしろこちらの方が本質的な問題ですが……故陶徐州牧の遺言により、袁術様に金印が譲渡されたそうです」

 

「ちょ、ちょっと待ってよ! このタイミングでそんなコトされたら、アタシ達完全に悪役じゃない!こっちはあくまで……!」

 

 思考が追いつかない。つい現代語が出てしまっても気づかないほど、彼女は焦っていた。

 

 おかしい。ありえない。こんなハズではない。これは何かの間違いだ……そうに違いないし、そうであってくれなければ困る。

 自分の役割はあくまで脚本家であって、俳優ではない。曹操と陶謙を互いに疲弊させ、仲介者として漁夫の利を得る――そんなシナリオを描いていた劉勲にとって、メインキャストが突然降板するなどあってはならなかった。だが今、まさにその忌々しい出来事が現実となり、あろうことか脚本を描いた彼女自身が道化を演じる羽目になりかけているのだ。

 

 『可能ならば非公式に、不可能ならば公式に』

 

 このスローガンに代表される通り、これまで袁術陣営の基本的な統治方法は間接統治だった。政治・領土的な支配にかかるを行政経費を節約し、経済的利益のみを追求する。自分はあくまで株主であって、経営者であってはならない。

 ゆえに陶謙が曹操に語ったように、劉勲は徐州を占領する意志など持っていなかった。政権と要人はそのまま、徐州軍の存続も認めるつもりであったし、土地の領有権にも一切手を付けるつもりなど無い。ただ、“救援要請”に応じた見返りとして、外交と経済において袁家が優越権を持てればそれで十分。情報の限られたこの時代のこと。たとえ袁術が徐州の経済を牛耳っていたとしても、州牧が陶謙のままなら、大半の人は徐州が「独立した一勢力」であると錯覚する。『能ある鷹は爪を隠す』との諺を、文字通り実践できる――はずだった。

 

 だが今さっき突きつけられた現実はそうではない。徐州が正式に袁術領に編入……つまり袁家は漁夫の利を得て白昼堂々と徐州を掠め取ったハイエナとして、中華全土から軽蔑と警戒の対象となりつつあった。

 

「ま、このご時世で我々の掲げた“人道的支援(笑)”を本気で信じる郡雄もいないと思うんですが」

 

「いいの! 本音がミエミエでも、建前でゴリ押しするのが外交なの!」

 

 外交のコツは、とにかく周囲から傲慢だと受け取られないことだと劉勲は考えている。目的はストレートに要求するのではなく、相手の顔を立てながら目立たぬようひっそりと。Aを要求する相手に対して敢えてBを要求し、相手の自尊心を傷つけないよう注意しながら、徐々に話を本当の目的である要求Cに誘導する……逆に領地割譲などといった、あからさまな見返りを受けてしまっては馬脚を露わしたも同然なのだ。

 

 ――特に、領土というのは厄介だ。

 

 これが例えば遊牧民相手であれば違ったかもしれないが、農耕民族は伝統的に持てる財(労働投入なども含む)のほとんどを自分の土地に費やしているため、土地に対する執着が異様に強い。極端な話、不毛か肥沃かに関係なく“土地そのもの”に価値があるとし、理屈抜きで「大事な領土に“いる”も“いらない”もない」とするのが漢人の常識だ。

 

「まぁ……漢人の大半は、領土の広さが国力に直結すると思いこんでますからね。いやはや、我々には分からない世界です」

 

 だが歴代に渡って宮廷にどっぷり浸かり、更に大都市・宛城の商業利益こそを富の源泉とする袁術陣営で過ごしてきた彼らには理解しがたい思考だ。

 重荷にしかならない領地は売るか捨てる。必要になったらまた買い戻すなり奪うなりすればいい。過去にどれだけ血を流そうが投資しようが、それはもはや回収不能。経済学でいうサンクコスト(埋没費用)に分類され、領地を維持する為に赤字覚悟で予算を投入し続ければ、単に損失が増えていくだけ。ならば余計な在庫(領土)など持たず、必要なものを必要な時に……それが商業都市国家に近い性格を有する袁術陣営における常識だった。

 

 しかし、そうした考えは農耕民族である漢人の中では少数派であり、領土拡大はそれだけで外交的孤立のリスクを孕んでいると言わざるを得ない。面白い事に、自国が赤字を垂れ流すだけの新規領土を獲得した時、実態は強大化するどころか出費が増えて弱体化しているのにもかかわらず、他人からは警戒されてしまうのだから。

 

「では、全てなかった事にして徐州を放っておきますか?」

 

 閻象がそう進言するも、それこそあり得ない。曹操軍が捲土重来してくるかもしれないし、政府機能を失って無法地帯と化した隣国など百害あって一利なしだ。

 

(ヤバイ、どうしよう……)

 

 しかも彼女は指導者層として、こういう緊急事態に際して責任を問われる立場にある。「想定外の出来事」などという理由で、外交上の失敗を許すほど人民委員会は甘い組織ではない。タカ派には「軟弱外交と軍事軽視のツケ」と糾弾され、ハト派には「そもそも徐州問題への介入が間違い」と非難されるだろう。

 

(だとしたら、反対派が勢いづく前に何か別の成果を作らないとマズい……)

 

 もっと権力があれば――そう思わずにはいられない。後世のイメージとは異なり、当時はまだ書記局の権威は絶対的なものではなく、本来の業務である袁家家臣団の人事を担当しているに過ぎなかった。劉勲は袁家の運営という面では最高権力者であったものの、政治的な実権は外務人民委員として外交を任されているだけであり、軍事的な実権は無きに等しかった。

 ライバルは依然として袁家に多数存在し、外交上の失態を利用して彼女を失脚させようとする輩はここぞとばかりに責任追及を行うだろう。彼らを黙らせるには、それ相応の結果が必要になる。

 

「張勲に頼んで、南陽群からありったけの兵を動員させるしかない、か。それから念のため、豫州にも兵を寄こすよう伝えて……」

 

 とりあえず徐州は置いておき、劉勲はまず目先の問題を先に解決することにしたらしい。

 

「曹操に隣接する豫州の護りが薄くなるのは危険なのでは?」

 

「どうせ一時的な措置なんだから、現地で強制徴募でもすれば充分でしょ。曹操ちゃんは軍の再編も終わらないまま突撃するようなバカじゃないし、形だけそれらしく見せときゃ問題ないって」

 

 むしろ問題は南のほう。念のため軍隊は動員させるが、劉表との正面衝突は出来れば避けたい、というのが劉勲の本音だ。もしそうなれば曹操と劉表に南北から挟まれ、二正面作戦の愚を犯す事になる。

 

「閻象――至急、劉表と面会できるよう取り次いで。このままだと、確実に破滅するわ」

 

「……はっ」

 

 恭しく一礼し、了解の意を示す閻象。再び顔を上げると満足そうに頷く劉勲の顔が映り、ふと頭に浮かんだ疑問を彼女に問いただしたい衝動に駆られる。

 

 すなわち破滅するのは袁家なのか――それとも、彼女自身の事なのかと。

 

 

 

 ◇◆◇

 

              

 

 ――豫州・許昌

 

「くそっ、袁術軍め! バカにしやがって!」

 

 ここは中華に13ある州の長官、州牧の執務室である。地方政治の中心と言っても過言では無いこの部屋で、あろうことか真昼間から大量のアルコールで体に流し込んでいる男がいた。濃い無精髭を生やし、そもすれば酒場の酔漢にしか見えない彼の名を孫賁、字を伯陽という。孫家の一員であるが、州牧として豫州の統治を任されている人物だ。

 

「『――緊急の用件につき、急ぎ兵1万を南陽に送られたし。不足分はそちらで徴募し埋め合わせよ』だと!? 俺のことを使用人だとでも思ってるのか!」

 

 ふざけるな、自分は州牧なんだぞ……傲慢な袁術の態度に対し、怒りがふつふつと込み上げる。これで何度目だろう。思えば、洛陽会議からずっとこんな扱いだった。

 

 事の発端は反董卓連合戦の後、洛陽会議で袁術が豫州における軍事・外交の権利を獲得した事から始まる。その上、豫州では郡と太守の自治権が大幅に拡大することが決定されていた。これは袁術の勢力拡大を恐れる諸侯の計画を解くため、劉勲が権限の分散を提案したためだ。しかしながら、袁術陣営は多額の献金や天下り先の提供などによって現地豪族の殆どを懐柔しており、支配体制を強めていた。

 

 そのため豫州は名目上、州牧の孫賁が治めている事になっているが、実態は袁術の傀儡でしかなかった。州都は袁家の影響力が強い頴川郡の許昌に移され、実質的な仕事はほとんど袁術の息がかかった部下が代行している。外交・内政政策は全て袁家顧問の承認を得なければならず、また自治権が拡大した豪族の大半は自分達を孫賁と同等だと見なしていた。そのため何かをやろうとしても民主主義的(・ ・ ・ ・ ・)に反対されるばかりで、陰では『お飾りの州牧』として直属の部下にも内心見下される始末だ。

 

「それに雪蓮の奴もだ! この国を統一するんじゃなかったのか?」

 

 孫賁の脳裏に浮かぶのは従姉の雄姿。黄巾党の乱と反董卓連合戦で多大な功績を挙げ、小覇王として全国にその名を知られた孫策の姿だった。

 自分も孫家の一員だ――かつてはそんな自負を抱いていた時期もあったが、ここ数年でその気持ちは急速に冷え込みつつある。孫堅の死亡以来ずっと目立たぬよう息をひそめているだけの、孫家本流のやり方に不満はたまる一方だった。

 

「袁家の味方になるのか、敵になるのかハッキリしろってんだ。耐えるのが重要なのは分かるが、ずっと我慢しっぱなしなのは性に合わないんだよ……」

 

 時が来るまでひたすら耐えろ――理屈としては分かるが、それは口で言うほど易しくは無い。いつ訪れるかも分からぬ「好機」を、保証もないまま待ち続けるなど精神的苦痛以外の何物でもない。その点、孫賁は従姉妹より遥かに凡人であった。孫策のような揺ぎ無い信念もなければ、孫権のように強い意志もない。「孫家の一員」として袁術陣営に監視され続ける毎日は、彼の神経を確実にすり減らしていった。

 

「玉璽だって、肌身離さず持ってるくせに……なぜ使おうとしない……!」

 

 何もできないもどかしさ。自分より秀でた才能を持ちながら、遥かに多くの手札を持ちながらも中々動こうとしない従姉妹たちへの苛立ち。なのに、何時まで経っても現状を抜け出せない自分に対する鬱憤。それら全てが孫賁のプライドを傷つけ、酒に逃げる結果に繋がっていた。

 

「失礼します」

 

 再び酒に耽溺しようとした時、軽いノックと共に扉が開く。恭しく一礼して現れたのは、孫堅時代からの部下だった。初老の文官であり、困惑したような表情を浮かべている。

 

「……なんだよ。俺に用か?」

 

「その……手紙を預かったのですが……」

 

 恐る恐る、と言った様子で部下が渡してきたモノは――

 

 

 

「……からの密書、だと?」

 

 

 

 ◇◆◇

    

 

 ――冀州・鉅鹿郡

 

 袁術軍の介入によって徐州が混迷を深めていた頃、河北でも冀州の袁紹と幽州の公孫贊が支配権を巡って激しく争っていた。

 事前の予想に反し、初戦は大勢としては公孫賛軍有利に進み、袁紹軍は敗戦を重ねてしまう。青州で無敵を誇った袁紹軍がこうもあっさりと公孫賛軍に敗れた原因は、単純に戦力配分の問題だった。袁紹軍首脳部の考えていた『第17計画』は弱小な青州の早期降伏を前提としていたが、不利を悟った青州軍は袁紹軍の想定していた野戦を避けて“籠城戦”を選択。これによって短期決戦による早期占領の望みは失われ、袁紹軍主力が青州に拘束されている間、公孫賛軍は大した抵抗を受ける事無く冀州北部を制圧できたのだ。

 

 また、袁紹軍の編成にも構造的欠陥があった。反乱リスクを冒してまで粛清を含む徹底的な名士冷遇政策をとった公孫賛軍では、指揮系統が一本化されて君主を頂点とした迅速な意思決定と強力なリーダーシップを発揮できた一方、袁紹軍は旧来の豪族の私兵や農民兵を主力とする混成部隊だったからである。しかも皮肉な事に平和を享受していた袁紹の領地では実戦経験を積んだ将兵が少なく、異民族との戦闘に明け暮れていた公孫賛軍には訓練・戦闘経験において遥かに及ばなかった。

 

 機動力に勝る騎兵を中心とした公孫賛軍の快進撃は留まる事を知らず、やっとのことで袁紹軍が青州から主力を呼び戻した頃には、既に冀州の半分近くが公孫賛の手に落ちていた。現在では冀州・鉅鹿郡を挟んで北部・西部に公孫賛、南部・東部に袁紹が割拠する形となっている。

 ここまでの戦績だけを見れば公孫賛軍の大勝利だと言えるが、当人達はそれに酔いしれる事無く冷静に現状を分析し、袁家の反撃に備えていた。

 

「星、并州の反応はどうだった? 私達と同盟を結んでくれそうか?」

 

 この日、公孫賛は并州から帰還した趙雲を迎えていた。冀州の西に位置する并州との同盟が成れば、背後の安全は保たれたも同然。

 そんな期待が大きかっただけに、趙雲から「適当にはぐらかされましたな」と告げられた公孫賛のショックは大きかった。

 

「はぁ~。まぁ、そうだよなぁ……相手は袁紹だし、躊躇うのが当然か。そもそも、どうせ私なんかじゃ……」

 

「そう悲観なさるな、我が主。たしかに同盟の件は有耶無耶にされましたが、某が見たところ、張燕どのを始め多くの郡雄は迷っている様子。今後の戦況いかんでも味方につく事もあり得るかと」

 

「そうか……。だが星、そうなると……」

 

「然り。本格的に袁紹軍と一戦交え、我が軍の優位を天下に証明する必要があるかと」

 

 決戦は不可避――その事実を告げられた時、公孫賛がまず抱いた感情は「ついに来たか」という感慨だった。

 総兵力30万とも噂される袁紹が長期戦を決めれば、地力で劣る公孫賛の敗北は必須。そこで彼女はまず冀州を進軍して地元豪族を離反させ、袁紹を野戦に引き摺り込もうとしていたのだ。

 もちろん袁紹の本拠地・南皮への急襲も考えられたが、南皮は青州に近く、青州派遣軍が急いで引き返してくるリスクがある。逆に防備の薄い北西部から反時計回りに進軍すれば、占領地から徴兵も出来る上に袁紹の求心力低下も狙える。豪族連合軍の体裁をとっている袁紹軍にとってそれは致命的であるため、必ずや野戦に応じるだろうという発想だ。

 

「どの道、決戦なら望むところだよ。私たちとしても財政がそろそろ限界に近い。今は劉勲の“錬金術”で何とか凌いでいるけど、これ以上戦いを長引けば……」

 

 公孫賛が袁紹との決戦に踏み切ったもう一つの理由は、貧しい幽州の財力では長期戦に耐えられないことがある。特に主力の騎兵は歩兵の約11倍の維持費がかかり、それを支える兵站と財政の負担は限界に近い。略奪で補うのも一手だが、華北の豪族が袁紹から離反しかかっている好機に行うのは悪手だろう。

 

 その意味では、袁術との同盟は大成功といえた。劉勲らは援軍こそ送らなかったが、現代でいう『間接アプローチ戦略』にもとづく多額の軍資金援助を与え、この『魔女の黄金』は公孫賛の頼もしいパートナーとなった。国力の乏しい幽州が軍事大国になれたのも、かつて北郷達がもたらした『鐙』によって大量の騎兵を育成できたことと、金食い虫のソレを維持できる袁術の資金援助が組み合わさってこそ。

 

「まさに“金は戦争の筋肉”といった所ですな。領地の離れている袁術と盟を結ぶ益、よもやこのような形で現れようとは……流石は我が主、ここまでお見通しでしたか」

 

 悪戯っぽく聞いてくる趙雲に、公孫賛は苦笑で返す。

 

「よしてくれ、星。私だって袁術がここまで援助してくれるとは思ってもみなかったさ。 いくら金持ちとはいえ、遠隔地へ送金するには矢鱈と手数料がかかるからな。 だが劉書記長と来たら……」

 

 古来より同盟相手への資金援助は珍しい手段ではなかったが、劉勲の強みは為替(手形)取引が南陽で発達していたため、リスクとロスの少ない遠隔地送金システムを作れたことである。南陽から直接援助金を幽州まで届けなくても、袁家の重臣会議である中央人民委員会の公証する手形を使って、安全に遠隔地との取引が出来た。

 

 例えば袁術が金を公孫賛に送金する場合、まず袁術は南陽の両替商Aに金を渡す。すると南陽の両替商Aは受け取った金で、幽州との取引のある商人Bから手形を買い入れ、それを幽州の両替商Cに送る。両替商Cはその手形を再び幽州の商人D(袁術領と取引のある人物)に売りつけ、代金を両替商Aに代わって公孫賛に渡していた。最後に互いに取引のある商人Bと商人Dが、必要に応じて相互に手形を売り買いすることで相殺・処理すれば、現金を大量に輸送する事無く大規模な取引が可能となる。

  

「桃香の仲間の北郷、だっけ? 彼が発明したという『鐙』を見た時も驚いたけど、これも負けないぐらいの重大な発明だよ。惜しむらくは、発明の動機と経緯が不純過ぎるんだよなぁ……」

 

 ――何でも、劉勲が為替を思いついた大元の理由がワイロの隠ぺい手段だったとか。

 

 微妙な顔をする公孫賛に、趙雲もつられて「まぁ“汚職は文化”とか言ってる人ですし、今さら……」と言葉を濁す。

 ちなみに参考までに『ワイロの達人が伝授!絶対にバレないワイロの方法集:劉子台 著(非売品)』によれば、為替の原型となった方法は以下の通り。

 

 まず、劉勲に1万銭のワイロを送って不正に官職を得ようとする悪人がいたとする。しかし直に渡すと贈賄罪で逮捕されてしまう。そこで彼は劉勲とコネのある悪徳商人から、通常価格が1銭ぐらいの木簡を1万銭で購入し、悪徳商人から領収書を発行してもらう。そして劉勲子飼いの書記局に向かい、そこで先ほどの領収書を見せ、木簡を渡す事で不正に官職を得る。最後に書記局が劉勲の命を受けて、渡された木簡を最初の悪徳商人に1万銭で売却すれば万事問題なし、というわけだ。

 なお、悪徳商人は賄賂を預かっている間は無利子で自分の資金として運用できたため、手数料が少なくとも(あるいは存在しなくとも)、事実上の融資資金を得ているというメリットがあった。しかも木簡は他の悪徳商人や不正役人などと取引・売買することもでき、遠隔地にいながら現金輸送リスクを負わずに官職売買ができる便利さから、売官制の横行と相まって徐々に普及。次第に便利で安全な汚職方法という枠を超え、商人たちの間で発達・複雑化して為替(手形)の原型になったとか。……嫌な歴史である。

 

 いずれにせよ、袁術はこういった複雑な金融システムを構築し、外交と組み合わせる事で「間接アプローチ戦略」を実現していた。袁紹には公孫賛と孔融を、曹操には陶謙と劉焉をぶつけ、それぞれ2正面作戦を強いる事で敵を手一杯にさせ、自国は平和なままに……。

 

 やはり利用されていると分かっていると、どうにも良い気分はしない。が、かといって南陽からの資金援助がなければ、国力で勝る袁紹相手にここまで善戦出来なかっただろう。

 

「だが袁術への依存度が更に増せば、今後に禍根を残しかねない。この辺が潮時だろうな」 

 

 仮に戦争で勝っても袁術への負債が払えず、土地などを担保にされてしまえば結局は領民が困ることになる。そろそろ袁紹と決着をつけ、本当の意味で自立しなければ……そんな風に思いながら決戦に向けた決意を固める。

 

(もうすぐ……もうすぐ戦争は私達の勝利で終わる。いいや、民の為にも私達の勝利で終わらせなければならないんだ……!)

 

 期待と不安が入り混じり、そのプレッシャーに押しつぶされそうになる公孫賛。しかし彼女は州牧であり、弱音を吐く事は許されない。心配そうに自分を見つめる趙雲に「何でも無い」と無理に笑顔を作ると、公孫賛はさっそうと愛馬に跨る。

 

「私はこれから兵の訓練と視察に出かける。星もしばらく休んだら来てくれないか」

 

「はっ……お望みとあらば」

 

 その返答に満足したように笑い、公孫賛は愛馬と共に陣営地へと向かう。

 毛並みの良い白馬に跨って駆けてゆく様は、白馬将軍の名に相応しく純麗で。

 

「我が主……」

 

 その姿に何かを想ったのか――趙雲はしばらくその場に佇んでいた。

         




 新章の導入話です。南がキナ臭くなり、北には戦争の足音が……。

 劉勲さんがパニクってるのは少々わかりづらいですが、

 徐州を衛星国化しようとしたら、陶謙さんが死んで本物の植民地になった←他国から無駄に警戒される&責任問われる、みたいな。


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幕間:責務の在処

    

 無数の機材と人員を載せた馬車の隊列が、その周囲を取り巻く護衛兵に守られながら、崩壊した下邳の町へと進んでゆく。街の付近を流れる泗水には、これまた数え切れないほどの物資を積んだ舟が停泊していた。

 

「袁術さん達が強大だっていうのは知識としては知っていましたけど、改めて目の当たりにすると……」

 

 諸葛亮の言葉に、複雑な表情を浮かべる劉備ら一行。曹操が撤退してからも下邳に留まった彼女らの前に、袁術軍が到着したのは2日前のこと。続く3日後には徐州軍残存部隊が下邳に駆けつけ、徐州における南部連合軍の総兵力は15万(地方の守備隊を除いた実稼働兵力はこの半分だが)に達していた。

 もっと早く来てくれれば――今更ながら、そんな「もしも」を思わずにはいられない。徐州では「自由貿易と引き換えに袁術の庇護下に入った」との認識が強く、曹操と共倒れになってからやっと出動した袁術軍への強い不信感が根強く残っていた。

 

「北部では戦闘が続いているそうですが、今の所はまだ曹操さんが用兵の妙で凌いでいるみたいです」

 

 聞くところによると、猛然と追撃した華雄隊が待ち伏せにあって大損害を被ったらしい。敗走中にもかかわらず統率のとれた反撃が出来た曹操軍も驚異に値するが、長い平和に慣れ切ってふやけた袁術軍の経験不足が露呈した戦いでもある。加えて指揮官が華雄と紀霊という猛将タイプしかおらず、本来なら知略面で2人を補佐をするべき人間が不在であったのも問題であった。

 

「そういえば孫権さんも来てるって聞いていたけど、どうしたのかな?」

 

「どうも徐州豪族との折衝で忙しかったそうですね。軍事と政治の両方が出来る将は、彼女しか居なかったそうですし」

 

「つまり孫権が豪族を取り込み終えたとき、徐州にいる曹操軍の命運は尽きるって事か」

 

 相変わらず、政治を軍事より優先させる劉勲らしい舵取りである。もっとも、地元豪族の取り込みを行わずに軍事目標優先して失敗した例が曹操軍の徐州進行であるため、兵站と背後の安全確保という意味では間違ってはいない。それが吉と出るか凶と出るかは、神のみぞ知るところだ。

 

 

「――やっと見つけた。 ちょっとそこのあんた達、こっち向きなさいよ」

 

 背後から気の強そうな少女の声が聞こえたのはその時だった。

 

「少しボク達に付き合ってくれない? 重要な話があるの」

 

 振り返ると、徐州には余り見られない服装の少女が自分達を手招きしている。豪華な金色刺繍の施された絹製の上質な文官服に、肩章や飾緒など数々の服飾品――袁術陣営の人間だ。

 

「あなたが劉備ね?」

 

 何人もの軍服を着た男に護衛されながら、少女は劉備ら一行に詰問する。他にも文官が数人付いて来ていることから、それなりに高い地位の人物なのだろう。

 

「袁家の政治保安委員会議長・賈文和よ。そちらは小沛城主・劉玄徳とお見受けしたのだけれど、間違いないわよね?」

 

「え? あ、はいっ! そうです、けど……?」

 

 突然の来訪者にどもる劉備だったが、賈駆は軽く彼女らを一瞥しただけで平坦な調子で続ける。

 

「徐州牧・陶謙の遺言に従い、我ら袁家に州牧の証たる金印を無事届けた件、深く感謝する。しいてはその功績を讃え、袁家から感謝の印として謝礼を献上したい」

 

 形式ばった台詞を口にすると、賈駆は傍にいた部下に命じて大きな木箱を持ってこさせた。そのまま蓋を開け、中にぎっしりと詰められた銀貨を見せる。

 

「劉備殿は数年に渡って小沛(沛国)を問題無く統治した経歴があり、その功績を見込んで引き続き留任を依頼したい」

 

「え? あ……ありがとうござい「――ただし」」

 

 感謝の意を述べようとした劉備を遮り、賈駆はひときわ大きな声で高圧的に告げる。

 

「徐州軍は先の戦争で壊滅状態にあり、その職務遂行能力に大きな不安が残ると判断される。よって曹操の脅威から人民を防衛するため、要地である沛国に兵4000を駐屯させることを我々は強く望む。なお、駐屯地と駐留軍予算の3割は沛国側の負担とする。 ――返答は?」

 

 淡々と告げられた安全保障条約とその内容に、絶句する劉備たち。

 

「え、えーっと、文和…さん?」

 

 戸惑う彼女らの様子を見て、賈駆は失望と苛立ちの混ざった複雑な表情を見せる。

 

また(・ ・)か……ったく、徐州人って本当バカばっか。なんでボクがこんな連中の尻拭いなんか……)

 

 劉備達の反応は、賈駆にとって意外でもなんでもなかった。既に彼女は複数の徐州豪族と個別に似たような安保条約を締結させていたが、ほとんどの徐州豪族は劉備達のような反応を見せるのだ。自分の行動を省みることなく、図々しく見返りだけを求め、その為の対価の支払を渋る……。

 

「で、返答はどっちなの?」

 

 戸惑う劉備を意に介する事無く、賈駆は一方的に要件だけを告げる。我ながら態度が悪いと思うが、こちらが今まで徐州から受けた仕打ちを考えれば、このぐらいは許されるだろうとの判断だった。

 

「ええっと、その……なんでわたし達が駐留軍の予算を負担しなきゃいけないんですか?」

 

「さぁ? 知らないわよ。ボクは劉勲から伝言を頼まれただけだし、後で外務人民委員会にでも問い合わせたら?」

 

 冷然と言い放つ賈駆。暗にこれ以上は話せないという意志表明でもあり、また立場の差をわきまえろという事でもある。しょせんは一城主である劉備と違い、人民委員である賈駆は遥か高みの存在なのだから。

 

「で、でも……」

 

「何か問題でも? 劉備同志(・ ・ ・ ・)

 

 その瞬間、劉備はガラリと空気が変わったのを感じ取る。見れば、賈駆をはじめとする袁術陣営の面々の表情に友好的な色は一切ない。あるのは不信と疑惑に満ちた暗い感情だけ……。

 

「っ――!?」

 

 賈駆はいきなり劉備の胸倉を掴むと、凄みのある眼つきで彼女を睨みつける。

 

「はっきり言わないと分からない? 今のは命令(・ ・)なんだけど?」

 

 ドスの利いた賈駆の脅迫に、劉備は顔色を失う。

 

「わ、わたしは……」

 

「そっちの意見なんて聞いてないの。ボクの言葉に“はい”か“いいえ”でさっさと答えて。それとも……ここまで(・ ・ ・ ・)御膳立て(・ ・ ・ ・)してあげ(・ ・ ・ ・)てるのに(・ ・ ・ ・)、まだ足りないの?」

 

「えっ……? 御膳立てって……」

 

 何を言われたのか理解できない、といった様子の劉備。それを見た賈駆の視線が微妙に険しくなる。冷静さこそ失っていないが、劉備らへの苛立ちは隠しようもなかった。知らずと、溜まっていた不満が声に出てしまう。

 

「……前々から思っていたけど、劉勲の対徐州政策はあんた達に有利過ぎるのよ」

 

「俺達に有利……?」

 

「だってそうじゃない。ボク達がわざわざ徐州の人命と財産を守って(・ ・ ・)あてげる(・ ・ ・ ・)んだから。こっちは1万もの軍隊を、たった3割の負担で提供してあげようって言ってるのよ?」

 

 

(こいつら、方便とかじゃなく本気で自分が徐州救ってる気になってるのかよ……)

 

 少なくとも、賈駆はどうやら真面目にそう信じているらしい。徐州の平和のために。袁家が責任を持って軍を送るってあげるのだと。それを聞いた一刀は深々と溜息を吐いた。

 

「まさかとは思うが、本気でそう信じてるのかお前らは? そうだとしたら呆れて呆れて物も言えないな」

 

 徐州を植民地にしようとしている連中が、何を恩着せがましく言っている? 袁術の推し進めた自由貿易のおかげで徐州の農民は没落し、領内の土地や商会は次々に南陽を拠点とする外資系商会に買収された。さんざん自分達の都合を押しつけ、徐州を食い物にしてきた帝国主義の権化が、今さら徐州の人命と財産を守るだと? 笑止、徐州の民を奴隷として搾取し続けるための占領軍と『思いやり予算』を図々しく要求しているだけではないか――そう鼻で笑うと、一刀は更に言葉を重ねた。

 

「いくら袁家のプロパガンダ……情報操作に洗脳されたとはいえ、自分の正義を妄信するのも大概にしろ」

 

「情報操作って……ボクの方こそ、あんた達が何言ってるのか分からないんだけど? こっちは徐州に多額の投資をしてあげた(・ ・ ・ ・ ・)し、外交と軍事でも庇護して(・ ・ ・ ・)あげてる(・ ・ ・ ・)。曹操に占領されずに徐州の今があるのは、ボク達のおかげでしょ?」

 

「おかげ……か」

 

 なんという視野の狭い自己正当化だろう。以前に自由貿易を求めてきた孫権はまだ良識が残っていたようだが、袁術陣営の大半はこんなものか。面の皮が厚いにも程がある……既に怒りすら通り越し、一刀の顔には侮蔑の色が現れていた。

 

「危険が去ってからノコノコ出てきた腐肉漁りに、“徐州を庇護してあげてる”とか言われても誰が信用するんだよ。で、今度は“お金を払って下さい。そうしたら軍を送って植民地にしてあげましょう”と来たか。同盟結んだ相手を平然と見捨てるような2枚舌の戯言なら、俺はもう聞き飽きた」

 

 かつて徐州は袁家の主導する『三州協商』に参加し、その際に自由貿易を受け入れる代わりに安全を保障してもらう――本条約が締結された場合、徐州の施政下における、いずれか一方に対する武力攻撃に対し、所定の規定及び手続に従って共通の危機に対処するように行動することを宣言する――という条件で取引したはず。

 

「もう美辞麗句で自分のエゴを飾り立てなくてもいいぞ。さっさと薄汚い本音を言ったらどうだ? 俺達を誑かして奴隷として、曹操の盾として使い潰す、と」

 

 最大限の軽蔑を込めて糾弾する一刀。賈駆の方はというと、もはや体裁を取り繕うともせず、あからさまな敵意をたぎらせる。

 

「………話聞いてた? 条約にある義務は“共通の危機に対処”すること。必ずしも“戦争に間に合うように、充分な数の援軍を到着させる”とかそっちに都合のいいことは書いてない。 だいたい条約にそんな具体的な内容書いたら、絶対何かにつけて“遅い”だの“兵が少ない”だの文句をつけて条約違反だと騒ぎ立てるつもりでしょ」

 

「なるほど、それが袁家のやり口か。他人の心を読むというのは“自分ならこうする”と想像することにすぎない、とはよく言ったものだな。いや、勉強になったよ」

 

 一刀はフンと鼻で笑って肩をすくめる。こういった『マキャヴェリスト』はいつの時代に存在するし、相手がその手の輩と分かれば自然と冷静にも慣れた。

 元より外交において、限られた制限の中で自国の利益を最大化するのは当然のこと。誠実であったり義理堅い必要はなく、ひたすら損得で動くのみ。条約は都合良く解釈するもの………大方そんなことだろうと思っていた一刀だったが、しかし。

 

「ふん、まるでボク達と違って自分は清廉だと言わんばかりの態度ね。そもそもボク達から見れば、安全保障条約にタダ乗りしてる徐州の方がよっぽど悪辣よ」

 

 冷やかな視線を向ける賈駆。その目には失望がありありと浮かんでいる。

 

「逆に聞かせてもらうけど、もし仮にボク達が攻撃されてたら、あんた達はすぐ助けに来てた?」

 

 条約の序文で対処が定められているのは“徐州の施政下における武力攻撃”のみであり、袁術領についてはそもそも言及すらされていない。徐州に対する袁術側の防衛義務が曖昧なのは確かだが、そもそも徐州は袁術領に対する防衛義務を負っていないではないか。賈駆達が「徐州に有利」と称したのは、そういう理由からだ。

 

「もしボク達が徐州に防衛義務を負わなきゃいけなかったとしたら、逆にボク達が第3者に攻撃された時に徐州にも援軍派遣の義務が生じるってこと。 例えばそう、荊州の劉表あたりが攻めてきたら、徐州はボク達を守るために兵を何時ごろ何人ぐらい送る気だったの?」

 

「………他の諸侯に恨まれるのは、自由貿易を押しつけまくるお前たちの日頃の傲慢な態度が原因だろう。まるでお前らが勝手に始めた戦争だろうと、俺達は巻き込まれるのが当然とでも言いたげだな」

 

「今の言葉、いくつか修正して返すわね。“自由貿易の押しつけ”を“曹操の父親を殺した”にすればつい最近あった話になると思うんだけど」

 

 賈駆から言わせてもらえば自分達こそ、徐州が勝手に曹操と始めた戦争に巻き込まれた被害者だ。

 

「あと“曹操への盾にしてる”だっけ? 何をどう勘違いしたのか知らないけど、曹操に目を付けられたのは、ボク達との同盟に胡坐をかいて関係改善の外交努力を怠った徐州の失態じゃない」

 

 どうせ戦争になっても同盟を結んだ袁術が曹操を倒してくれる。ならば曹操に譲歩などせず強硬な外交で……そんなモラルハザードが徐州になかったとは言い切れまい。

 『モラルハザード』とは、元は保険業界の用語であり「保険に加入することで事故の損害が補償されるため、加入者の注意が散漫になり、かえって事故の発生確率が高まる」というリスクの事を指す。外交のおいても、大国と安保条約を結んだ事によって「仮に戦争になっても、大国が助けてくれる」という他力本願が醸成され、小国が戦争回避の為の外交努力を怠ってしまうという現象はよく聞く話だ。

 

「……外交交渉を続けていれば、曹操の徐州侵攻は防げたとでも? 違うな、曹操には最初から外交で解決する気などなかったさ。たしかにお前らとの同盟を過信する人間もいたが、徐州要人の大半は話し合いで解決しようと、何度も曹操に使者を――」

 

「あー、誰が正しいとか悪いとか、そういうのいいから。戦争の正当性なんて信じてるのは当事者だけだし、傍から見れば五十歩百歩だから。そうじゃなくて、外交では“戦争をした”事自体が問題なの。どうせ曹操軍と戦っても勝てないんだから、さっさと向こうの条件呑んでれば最小限の被害で抑えられたでしょうに」

 

「ッ……! 自分が当事者じゃないからって、知ったような口を…… 弱者は大人しく強者に食われとけと言われて、納得できる弱者がどこにいるんだよ!」

 

 ああ言えばこう言う。

 そんな押し問答を繰り返す2人を、劉備は沈痛な面持ちで見やる。

 

(どうして……こうなっちゃったのかな……)

 

 今まではずっと、袁術が自分たちを騙していたのだと思っていた。だがこうして賈駆の話を聞いてみると、どうも彼女達は彼女達なりに徐州に配慮をしていたらしいのだ。なのに何故、こうも擦れ違ってしまうのか。

 

 こればっかりは当事者と部外者の違い、と言う他あるまい。戦争などはその最たるもので、部外者にとっては物質的な損得のみが問題であるが、当事者にとっては自己のプライドやアイデンティティーといった人間の内面的な問題でもある。なぜなら当事者は戦争の原因について「自分は正しく、相手が悪い」と思いこんでいる場合がほとんどであり、相手の言い分を認めることと自己否定が同意義となるからだ。もし部外者のように「どっちもどっち」だと見なしていれば、純粋に物質的な問題になっただろうが。

 

(もう少し袁術さん達とも、きちんとお話しするべきだったのかも……)

 

 結局、自分は相手の事情を理解出来ていなかった――今更ながら、そんな単純なことに気づく。

 限定された情報だけで大局を見ようとしても、真実は見えてこない。賈駆の暴言の数々も、袁術陣営の立場から見れば当然のもの。自分達は袁術陣営が何を考え、自分達の行動をどう受け止めているかなど考えもしなかった。当然のことのように「自分の知っている事は、相手も知っているだろう。自分は相手の事を理解しているし、相手も自分の事を分かってくれているはずだ」と思い込んだまま、相手の立場になって考える努力を怠っていたのではないか、と。

 

「――桃香様」

 

「な、何かな? 朱里ちゃん」

 

 しばらく物思いに沈んでいると、諸葛亮から声を掛けられる。

 

「あの2人を見て、何を思いましたか?」

 

 諸葛亮は劉備より頭ひとつ小さく、愛用の帽子に隠れて表情は窺い知ることが出来ない。

 

「ご主人様の言葉と賈駆さんの言葉。その2つを聞いて、どうすべきだとお考えですか?」

 

 自分より年齢の幼い子供とは思えないほど、深刻な声だった。身じろぎ一つしない小さな軍師に、劉備は中途半端に立ちつくす。何と答えるべきか、何度か口を開こうとしてその度に口を閉じる。

 

「……わからないよ」

 

 やっとの事で声を絞り出す。

 

「わたしは……何も知らなかった。何とかしなきゃって思っても、何も知らないから……どうするべきかなんて分からないよ。だから、ただ見ている事しかできない」

 

「……では、見続けて下さい」

 

 そう言うと、ついに諸葛亮が顔をあげた。いつになく真剣極まる表情だった。

 

「たとえ何も出来なくとも、見続けるならできます。 何があっても目を逸らさず、何ひとつとして見逃さないで下さい」

 

 それはまるで罰を告げる審判者のようで。賈駆が一刀を押し切って安全保障条約締結のサインを求めてきた時も、劉備は黙って頷く事しかできなかった。

   




 初めての幕間です。徐州編は袁術陣営からの視点があまり無かったので、そっちの視点から見た徐州戦役を書きたくて……。

 ちなみに賈駆は、陶謙と劉勲の秘密条約は知りません。なので袁術陣営の主観で物事を捉えており、一刀が徐州の主観だけで事情を捉えているのと好対照を為しています。


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67話:均衡を継ぐ者

 前回の話ではなく、前々回(66話)の続きです。


            

 中華のほぼ中央を流れる漢水、その南岸に位置する襄陽は古来より交通の要所として栄えてきた。荊州牧・劉表の優れた統治のもとで、宛城にも負け劣らぬ安寧と繁栄の日々を謳歌している。そんな街の一角にある屋敷では、劉表と劉勲による対談が行われていた。

 

「徐州問題に関して不幸な行き違いがあったようですけれど、我々は互いに理解を深め合うことが出来ると思いますの」

 

 劉勲は内心の焦りを隠しつつ、艶めかしい笑顔と共に劉表の歓心を引くべく言葉を紡ぐ。本人は自らを脚本家だと称していたが、さり気ない仕草すら男性を魅了するよう計算されたその動きは、本職の舞台女優にも負け劣らない。

 

「ほう? どうしてそう思うんだい?」

 

 対する劉表の方も、『優雅』という言葉が服を着て歩いているような端正な風貌の持ち主だ。並の男性なら集中をかき乱されかねない劉勲のアプローチを、やんわりと紳士的に受け流す。この場が言葉という武器で戦う戦場でなければ、実に絵になる光景になっただろう。

 

 劉表――南陽から南側の荊州を統べる郡雄であり、地理的に近い袁術陣営とは伝統的に対立関係にある人物。そんな彼が袁術の徐州占領という事態を見過ごすはずもなく、自身の安全保障のために軍を動かすのは当然の帰結といえた。しかし逆に考えれば、本音では袁術との対立を望んでいない、とも見て取れる。実際、政治的な対立とは別に両者の経済的な関係は年を経るごとに強まっており、これまでも衝突が起こりそうになる度に首脳会談によって合意形成してきたのだ。

 

「こちらを」

  

 駆け引きを楽しむカップルのように、劉勲は媚びと打算が混じった動きで一枚の書類を取り出し、ほっそりとした指で上品に指し示す。そこには現在南陽群に展開中の兵を退いてもらう代わりに、劉表が推薦した人物を徐州牧に就任させると書かれていた。

 

 劉表が今回出兵を決意した理由は、経済的というより政治的な要因が大きい。すなわち袁家が純粋に徐州で商売をする分には止めはしないが、完全な支配を狙っているなら国防上の観点から捨て置けない、と。だが元より劉勲に徐州を占領するつもりなどなく、問題はいかに劉表にその事を信用してもらうかに尽きる。

 ならばいっそ徐州の政治を劉表にプレゼントしてはどうか――それが劉勲の回答だった。“推薦”などという紛らわしい表現でぼかしてあるが、要は劉表の子飼いが徐州牧になるという話である。その権限を利用すれば、徐州の政治を荊州のコントロール下に置くことなど造作もない。袁術に対する抑止力としては申し分ないし、本来なら真っ先に反対するべき袁術陣営が公認してくれるのだ。寛大という段階を通り越して、驚くほど劉表に有利な譲歩だった。

 

「すまないね。私としては、男性が女性に贈り物を与えるのが、本来あるべき姿だと思っていたのだけれど」

 

「たまには逆があっても面白いかと。こちらとしても経済(カ ネ)さえ頂けるのでしたら、行政府(カ ラ ダ)は好きにしてもらって構いませんわ」

 

「これはこれは。南陽の女性は率直で実利的と聞いていたけど、あながち間違いでもないようだね」

 

「だからこそ、中華の富が南陽に集まるのではなくて?」

 

 無論、袁術陣営にとってもメリットはある。まずは単純に目先の劉表軍という脅威を取り除けることであり、次に徐州の独立を劉表が保障してくれるという理由であった。劉表が推薦した人物が徐州牧に就任すれば、徐州を攻めることは劉表の面子を潰すことに他ならない。この交渉が成功すれば、徐州という市場を劉表によって守られたも同然なのだ。

 

「参ったな、一本取られたようだ」

 

 劉表は朗らかに微笑み、降参するように両の掌を見せる。相変わらず飄々として掴みどころの無い人物だが、ひとまずは納得してくれたらしい。

 

「では、さっそく条約の調印を――」

 

 

 そう、劉勲が言いかけた時だった。

 

「いや、少し待ってくれないかな? 君のように見目麗しい女性と話をするのは久しぶりでね。私としてはもう少し会話を楽しみたいのだが、構わないかい?」

 

 それまで劉勲のペースで進んでいた会話の流れを、始めて劉表が自分から断ち切る。されど洗練された劉表の語り口に強引さはなく、茶を嗜む老紳士の如く絶妙に加減を加える。

 

「話というのは他でもない、曹兌州牧についてのことだ」

 

「……女性と2人きりで話をしている時、他の女性を話題にするのは無粋ではなくて?」

 

 とっさに軽口で返すも、劉勲の表情が一瞬曇る。それはつまり、内心では彼女がこの手の話題を避けたがっていた証拠に他ならない。そして、そんな隙を見逃す劉表でもない。

 

「その点については謝罪しよう。 けれども徐州の未来について語るのなら、今回の件の当事者である彼女にも話を通すのが筋だと思うよ。もう戦う(・ ・ ・ ・)必要はない(・ ・ ・ ・ ・)とはいえ、事の顛末を聞く権利ぐらいはあるはずだ」

 

(っ……!?)

 

 もう戦う必要はない――その意味するところは、袁術軍に対する停戦勧告に他ならない。

 内心で舌打ちする劉勲に、劉表は生徒を優しく諭す教師ように語りかける。

 

「君も知っているだろう? 今回の曹操軍の出兵目的は『父親の仇討ち』で、その仇とされた徐州牧・陶謙はすでに成敗された。ゆえに彼女は兌州に帰る準備を進めている訳なんだが……とある事情(・ ・ ・ ・ ・)によって遅れているみたいなんだ。何事も(・ ・ ・)なければ(・ ・ ・ ・)、一週間もあれば兌州まで撤退できるらしいのだけれど」

 

 今回の戦役の大義名分からして至極まっとうな弁であり、曹操軍が徐州から撤退するならば、それを追撃する根拠はない。もし袁術陣営が“曹操の開戦理由は不適当であり、徐州を全面的に支持する”と宣戦布告でもしていれば話は違っただろうが、リスクを最小限に抑えたかった劉勲は“徐州の要請により、現地で人道的支援・治安維持活動を行う”とお茶を濁していた。そのため曹操軍との戦闘は全て“治安維持活動を妨害されたため、やむを得ず反撃した”という『正当防衛』の立場をとっており、逆に言えば曹操軍が『徐州から撤退する』と宣言してしまえば、どちらも相手に攻撃することは出来なくなる。

 しかし曹操軍が九死に一生を得る形となるのに対し、割を食うのは袁術軍だ。

 

「でっ、ですが……曹操軍が本当に撤退するという保障がどこに? そう見せかけて、戦力を増強して徐州を奪いに来るかも知れませんし……」

 

「さぁ、そればかりは曹兌州牧個人を信用するしかない」

 

「でしたら……!」

 

「だが、現に曹操軍は撤退している。それを妨げているのは、他でもない君たちじゃないのかな?」

 

 ぎくり、と僅かに劉勲の肩が震える。

 

「あまりこんな事は言いたくないのだけれど、“徐州の治安維持”という君の宣言が、この頃どうも信じられなくてね。私には、君たちが徐州問題を理由に曹操軍を滅ぼそうとしているようにしか見えない」

 

 まぁ実際その通りなのだが、そういう本音は口に出せないもの。声に出したが最後、外交の場で誰からも信用されなくなる。

 

「残念だが、その懸念が払拭されない限り兵を引く事はできないよ」

 

「そんな……いえ、それほどまでに我々は信用なりません? これでも劉表様との約束を違えた事はないハズですのに」

 

「いや、私は個人的に(・ ・ ・ ・)君のことを信頼しているし、約束を誠実に守る人だとも思っているよ。個人としては(・ ・ ・ ・ ・)、君の言葉を信じてもいい。 ただ、私も所詮は一人のつまらない人間だ。残念ながら荊州の豪族全てを纏め上げるほどの力はないし、人望もない。残念ながら、せいぜい軍隊を州境に貼り付けて見張らせるぐらいしか、私には彼らを納得させる方法が思いつかないんだ」

 

 袁術領を攻撃する気はないが、かといって兵を引く気もないという劉表。

 

「あるいは、こういう条件ならどうだい? 曹操軍の撤兵を確認するまで、そちらは徐州に充分な数の兵を駐屯させる。同様に私達との州境においても、お互いに監視のために軍隊を張り付ける。これなら不公平はないはずだよ」

 

「そっ、それは………」

 

 してやられた、という焦燥感が劉勲の心中を埋め尽くす。

 

(コイツ、ひょっとしてアタシの事情知ってて――!)

 

 冷や汗が流れるのを感じながら、思わず唇を噛む。劉表の提案は完璧に理に適っているものだ。袁術陣営としても損を被る訳では無いし、本来ならばこの辺が落とし所になるだろう。

 

 だが劉勲は(・ ・ ・)個人として(・ ・ ・ ・ ・)、今この場で決着をつけねばならない理由があった。

 

(ヤバい……このまま帰ったらゼッタイ自己批判させられる! 急いで成果を作らないと、アタシの立場が……!)

 

 実のところ人民委員会では、劉勲はかなり不利な状況に置かれていた。

 袁術が一人勝ちしたと思われる徐州戦役だが、舌三寸で陶謙を誑かして終わりではない。漁夫の利を得るにも入念な下準備――精密な情報収集、紀霊ら派遣軍の準備、曹操や劉備らにそれを気づかせないための隠ぺい工作――は必要だ。となれば計画が失敗した時、その発案者と最高責任者にはそれ相応の責任追及がなされる事は想像に難くない。

 

(徐州の政治的実権を劉表に渡すのは仕方ないとして、曹操軍をみすみす逃した上に、荊州との州境警備の増強……ダメ、どう考えてもリターンがコストに見合って無い。次善の策だといっても、そんな理屈で納得する連中でもないし……)

 

 たとえどれだけ赤字を最小限に抑えたとはいえ、赤字は赤字。担当者は責任を取るのが社会のシステムというものだ。ゆえに劉勲に限っていえば、認められるはずもない提案だ。既に水面下では反劉勲派の人間が動き始めており、孫家がその急先鋒となっている。何の成果もないまま劉表との対談を終えれば、権威と影響力の低下は免れないだろう。なにせ劉勲の公式の役職は、あくまで人事部の長に過ぎないのだから。

 

(とにかく、最低でも劉表軍は何とかして撤退さなきゃ……!)

 

 ぶっちゃけ曹操を逃してしまったことは、軍部に全責任を押し付ければどうにかなる(軍部との関係悪化は免れないが)。とはいえ、こちらは主に外交的な失態である。外務人民委員会議長を兼任している劉勲としては、是が非でも解決せねばならない問題であった。

 

「不服かな? 悪い条件ではないと思うんだが……それとも」

 

 劉表の眉がわずかに吊り上がる。

 ここまで来ればもう、劉勲の事情を知った上でブラフをかけているのだと嫌でも理解できる。敢えて最後の言葉を続けなかったのは、人前で女性に恥をかかせまいとする劉表なりの気遣いゆえ。もしくは、逃げ道を残す事で彼女がもがく様を楽しんでるだけなのかもしれないが。

 

「いっ、いえ……ですが、その……友人(・ ・)という間柄で、武器を向けるだなんて無粋だと思いません?」 

 

「そうだね。友好の証が睨みあう軍隊などというのは、私も正直あまり好ましくないと思っている」

 

 では、それなら君には何が出来るのかな?――視線でそんな事を伝えてくる劉表に対し、劉勲は改めてその非凡さを意識する。恐らくは自分の一挙一投足でさえ、劉表にとっては掌の上の出来事なのだろう。

 

 だとすれば下手に彼を欺いたり、値切ろうとするのは逆効果。愚鈍な金持ちはその場で騙して貢がせるに限るが、頭のいい金持ちにはまず自分から先に尽くすしかない。男が自分を彼の「所有物」と認識し「庇護する価値がある」と見なした時、初めて投資した労力と配当を回収できる。それまでは、ひたすら相手を悦ばせるしかあるまい。

 

 

「……そういえば、近頃は荊州でも不穏な動きがあったそうですわね」

 

 世間話でもするように、劉勲は荊州情勢について話を振る。平和なイメージの強い荊州だが、実は南部で張羨という人物が長沙・零陵・桂陽の3郡を中心に反乱を起こしており、劉表も手を焼いていた。

 

「ああ、張羨君のことか。今の所は捨て置いてるけど……いやはや、彼の身勝手にも困ったものだよ。州牧などと呼ばれてはいるが、どうも私には人望がないようだ」

 

 困ったとは口で言いつつも、劉表の表情は微塵も曇らない。実際、当時の荊州南部は未開発な後進地域だったので、虚勢では無く本音なのだろう。

 とはいえ、この時期には華北の戦乱を避けてきた難民がフロンティアを求めて南下しており、荊州南部は人口増加率が最も高い地域の一つだった。年々魅力が増している上、反乱をいつまでも放置していては州牧の権威に関わる。

 緊張で上擦りそうになる声のトーンを抑えながら、劉勲は最後まで残しておいた切り札をきった。

 

「あまり自身を過小評価なさらないで下さい。その証拠に、劉表様が逆賊・張羨討伐を決意されたあかつきには、我ら袁家も荊州の一員(・ ・ ・ ・ ・)として義務を(・ ・ ・)果たすべく(・ ・ ・ ・ ・)、充分な軍役代納金(・ ・ ・ ・ ・)を納めたく存じます」

 

 軍役代納金とは、主君に軍役を求められた時、臣下が諸事情によって応じられない場合に支払う免除料のことである。今や中華屈指の郡雄として知られる袁術がそれを支払う事に違和感を感じるかもしれないが、彼女の公式の役職はあくまで荊州南陽群太守。つまり形式的には劉表の部下であり、本来なら劉表の求めに応じて軍や労働力を提供する義務がある。

 

 劉勲はそれを利用し、軍役代納金という形で劉表へ資金提供を提案したのだ。無論、対価は劉表軍の撤兵であり、早い話が金を払って軍を引いてもらおうという漢帝国の伝統的な手法である。

 

 とはいえ……ここに一つの疑問が残る。たしかに金を払えば劉表軍は撤退するだろうが、その資金を負担することは別の問題を抱え込むだけなのではないか? と。

 

 戦費など個人のポケットマネーで出せるような額でもなく、となれば資金の出所は南陽群の政府予算となるだろう。しかし、それでは借金を解決するために別の借金を抱え込む多重債務も同然。そもそも“今すぐ”兵を退いてもらわねばならぬのは劉勲個人の事情であって、本来なら袁家は劉表に金を支払う必要などないからだ。保身のために劉表の提案した「両軍による相互監視」を蹴って公金を流用するなど、そんな提案が人民委員会に知れれば劉勲の政治生命は確実に終わる。

 

 だが――軍役代納金という形でなら、劉表に金を納めても責任を追及されることはない。それを批判する事は漢帝国の定めた役職と上下関係を無視しろ、と諭しているに等しいからだ。

 しばし思案していた劉表もその結論に辿り着いたのか、面白おかしそうに頬を緩める。

 

「ほぅ……人民委員会のために荊州を黙らせるのではなく、むしろ荊州に譲歩して人民委員会を黙らせる、か」

 

 まさしく詭弁、それでいながら正論。敗軍の将として自国へ帰還し失脚するよりは、敵の軍門に下り勝者として凱旋するべき……自己保身の為なら平気で周囲を喰い物にする、その生き汚さにおいて劉勲は指折りだった。

 

「素晴らしいよ、劉書記長。いや、お世辞ではなく本気で言っているんだ」

 

 劉表から満面の笑みと共に拍手を送られ、戸惑いながらも一礼を返す劉勲。僅かに頬が染まったのは安堵ゆえか、それとも掛け値無しの賞賛を得たが故か。

 

「こういう経験は久しぶりでね。なかなか楽しい時間だったよ」

 

 そう言って劉表は席を立つと、対談を終えて退出しようとする劉勲の為にドアを開ける。

 ようやく身の安全が保障され、劉勲にも心の余裕が出来たのだろう。今まで演じていた妖艶な雰囲気はなりをひそめ、帰り際に教師をからかうよう女子生徒のように明るく声をかける。

 

「そういえば劉表様、徐州牧には誰を推薦なさるのですか? “当事者なら、事の顛末を知る権利”があるのでしょう?」

 

 新たな徐州牧を推薦(今回は事実上の任命)するのは劉表だが、その人となりを知っておけば自陣営に取り込めるかもしれない。特徴としては“いざという時に切り捨てられ”、“周辺諸侯に警戒されない程度に劉表との関係が薄く”、“袁家への抑止力と成り得る”ような人物が推薦されるはず――。

 

 そんな劉勲の内心を知ってか知らずか、劉表はにこやかに微笑むと、隠す事無くその名を告げる。窮地を脱して上機嫌な劉勲を、一瞬の内に固まらせる言葉を。

 

「そうだね、陶徐州牧の遺言を伝えた人物………たしか劉玄徳といったかな?」

 

 

 後日―― 劉表は劉勲との約束に従い、南陽群付近に展開していた荊州軍を撤退させる事になる。見返りとして、徐州の州牧ほか数人の要人が彼の推薦によって就任。注目の的となった徐州牧に推薦された人物の名は、劉玄徳。『仁徳の名君』という名の爆弾が、袁家に放り込まれたのだった。

  

 

 ***

 

 

「さて……私としては最善を尽くしたつもりなのだけれど、満足してくれたかい? 荀彧君」

 

 劉勲が去った後、劉表は隣の部屋から出てきた少女に語りかける。

 袁術軍に曹操軍への全面攻勢を思い止まらせた今回の出兵、それを劉表に依頼したのが彼女だった。

 

「はい。この度は劉荊州牧に尽力していただき、感謝の念に堪えません。これで兌州と荊州の関係は、より一層強固なものになるかと」

 

 深々と頭を下げる荀彧。しかしこれが単なる社交辞令に過ぎず、本心から感謝などしていない事は劉表は十分承知しており、荀彧もまた隠す気などない。

 

 劉表にとって曹操とは、コストのかからない対袁術用の抑止力であり、彼女ら2人が北で争ってくれるからこそ荊州の安全が保たれている。ゆえに、どちらか一方に天秤が傾くような事態は避けねばならない。曹操軍の壊滅という危機に際して、何らかのアクションを起こす事は荀彧にも容易に予想できた。

 ただし劉表が楽観的に曹操軍の存続を前提として動くのか、あるいは悲観的に壊滅を前提として動くのか、そればかりは直接会わねば分からない。劉表軍にしても曹操が捨て身の一発逆転を狙うのか、ジリ貧を続けてチャンスを待つのか判断しかねる部分があるはず。それゆえ荀彧は直接劉表と対談し、徐州からの全面撤退の意志を伝え、そのために袁術軍を抑えて欲しいと頼んだのだ。

 

 かくして袁術の足を引くという、両者の利害は一致する。誰もが強くなり過ぎず弱くなり過ぎず、皆を等しく横並びに……劉勲の作り上げた勢力均衡(ち つ じ ょ)は、もはや彼女だけの専売特許ではないのだから。

 

「それはそうと……なぜ劉備を徐州牧に?」

 

 僅かに顔を顰めて、荀彧が問う。民の支持を得るべく地元の有力者を『お飾り』の最高権力者に就ける事は、間接統治の基本ではある。しかし適当な人物なら他にも沢山いるのではないか? より操り易く、より荊州に従順な……。

 そんな彼女の内心を知ってから知らずか、劉表は曖昧に顎を撫でた。

 

「そうだね、敢えて言うならば………誰も彼女を理解できないから、かな?」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 ――冀州・界橋

 

 袁紹軍、ついに北上す。やっとのことで前々から噂されていた、決戦の時が来たのだ。この報に万人が戦慄し、程度の差こそあれ驚きをあらわにした。

 

「確かにこれまで、わたくし達は始終負け続けていました。それは認めましょう。――しかし! それは青州に出かけていた留守に空き巣に入られただけのこと!」

 

 急速に勢力を拡張する公孫賛を止めるべく、袁紹は万を期して大軍を動員。歩・騎兵合わせて8万を超える大軍勢を編成し、両軍は界橋にて対峙する。

 

「ですが、今は違います! 苦しい青州の戦闘に勝利し、わたくし達は故郷に帰ってきたのです!ならば恐れることなど何もありません!」

 

 この会戦のために袁紹が集めた兵力は、重装歩兵5万5000(うち4万が戦時動員)、軽装歩兵1万5000と騎兵7000、それに直属の親衛隊1万を加えた8万7000人。筆頭軍師・田豊をして「もしこの人数で敗れる事があれば、袁家は2度と立ち直れないだろう」と言わしめた大兵力であり、それが袁紹の決意のほどを物語っていた。

 

 

「幽州の民よ!華北に住む、全ての民よ! 華北を我がものにせんと欲す袁紹の存在は、近隣諸侯にとって大きな脅威である!その証拠に彼女らは徐州で無実の民を虐殺した曹操を幇助しており、己が野望の為に青州を侵略した!」

 

 対して公孫賛が動員した兵力は5万と数では袁家には劣るが、その内実を見れば決して袁家より弱体とは言えない。軽騎兵1万、重騎兵3000、弓騎兵2000、それに3万の軽歩兵と精鋭部隊である白馬義従5000騎を加えた騎兵主体の編成であり、機動力の点では遥かに勝っていた。

 

「忠猛なる我が兵士達に告ぐ! 袁家を倒さぬ限り、もはや幽州の民に平和はない!全力を以て暴君を駆逐し、華北の地に平和をもたらそうではないか!」

 

 剣を掲げながら演説し、士気を昂揚させる公孫贊。この戦いが袁紹の天王山ならば、公孫賛にとっての大詰めであった。

 来る会戦に勝利すれば、諸侯の大半はこちら側につく……現状を見て、公孫賛はそう確信する。冀州の北部と西部はこちらの手中にあり、西に位置する并州の郡雄・張楊は積極的に自軍にすり寄ってきているし、黄巾党の一残党『黒山賊』からも協力依頼があった。そして豪族私兵の混成部隊である袁紹軍なら、劣勢が明らかになれば空中分解するはず。

 必要なのは、それを周囲に確信させるひと押しなのだ。

 

 

 ――袁紹との決戦が行われたのは、これから数日後のこと。

 

 後に『界境の戦い』と呼ばれる、華北の命運をかけた一大会戦であった。

 




 タイトル通り、今まで『勢力均衡』で他人の足ひっぱりまくってた劉勲さんが、今度は劉表さん(と荀彧さん)に足を引かれる話。64話で久々にチラッと出てきた荀彧さんが、やっと袁術陣営に一矢報いた形になりました。

 あと5章ぶりに復活した劉表さん。袁術陣営以上に引き籠って何もしてないのに、美味しい所はちゃっかりいただく腹黒ジェントルメン。
 ちなみに史実でも袁術が曹操と戦おうとした時、劉表さんは背後から攻撃して兵站潰したりしてます(しかも本隊も曹操にフルボッコにされたおかげで、袁術は本拠地から追い出されてたり)。
 


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68話:界橋の戦い

 

 華北に広がる大平原が、黄金と純白の二色へと塗りつぶされてゆく。

 南に展開する金色の波は、8万を超える袁家の勇者達。これに対し、北から風のようにさっそうと現れたのは、白き甲冑を纏いし人馬一体の精鋭部隊――公孫賛が誇る『白馬義従』だ。

 

 彼らは弓矢と軽装の防具・刀剣で武装した騎兵であり、遊牧民の専売特許である高度な達人技『騎射』を行える数少ない部隊であった。しかも征服した遊牧民で編成された弓騎兵が2000これとは別におり、重装騎兵と軽装騎兵も加えれば2万に達する。この当時にそれだけの騎兵を保持している群雄は、天下広しといえども公孫賛と馬騰の2名のみ。公孫賛が『白馬将軍』と呼ばれるのは伊達では無かった。

 

「困ったなぁ……僕の戦略ではこんな博打要素の強い決戦にはならないハズだったんだけど」

 

 部隊を展開させる公孫賛軍を眺めながら、袁紹軍の陣で小さくぼやいたのは1人の軍師だった。繊細な文学青年といった風貌の男の名を沮授といい、『監軍』という言わば参謀総長にあたる重要人物である。袁紹軍の軍事ドクトリン「第17計画」も骨子は彼の発案でもあり、有能な人物には間違いないのだが――

 

「予想より敵が多い……連中の国力では騎兵は多くて1万5000程度のはず。それが何で2万も……兵站への負担は歩兵22万人分なんだぞ!? しかも僕らはたったの(・ ・ ・ ・)8万7000しか居ないとか冗談じゃない」

 

 眼鏡をかけ直しながら、ぶつぶつと呟く沮授。

 

「青州があと一月早く降伏していれば、豪族の離反もなく公孫賛軍はせいぜい4万程度の軍しか用意できなかったはずだし、日和見を決め込んだ豪族も僕らに参加するはず。そうなれば僕が3年もかけて作り上げた計画通り、12万の圧倒的戦力で、僕の研究から導き出された攻者3倍の法則を達成できたというのに!」

 

 単細胞な袁紹と対照的な理屈っぽいオタ……研究者気質の持ち主なだけに、どうも数値上のデータや軍事理論に囚われ過ぎる上、専門以外の視野が狭いのが難点だ。『第17計画』の頓挫も、彼が外部の政治的干渉や兵の疲労など、理論として定量化できない要素を全て排除した事に原因が求めらる。

 

「うわぁ、沮授のにーちゃんってば、また小難しいことぼやいてるのかー。 ていうか、今日これで何度目だっけ?」

 

「7回だ。文醜君の前では3回目だけど」

 

「いちいち数えてたんだ……」

 

 何かかズレてる文醜と沮授の問答に、何かを諦めた様な表情の顔良。優秀な人には違いないのだろうが、どうして袁家はこうもクセのある人間が多いのだろうか。

 そんな彼女の悩みを沮授が知る由もなく、聞き手を得た彼は自論を熱く語り始める。

 

「そもそも、このような開けた場所では敵の騎馬戦力を最大限に活用されかねない。いいか、騎兵の速度は歩兵の約2倍。そして僕が古今東西の戦闘の文献を整理した結果、戦力は兵力×速度の二乗となる!つまり敵の実質的な戦力は2万×2の2乗+3万×1の2乗=11万で、僕たちは8万×1の2乗+0.7万×2の2乗=10.8万しかないんだ!」

 

「ほとんど変わらないじゃん」

 

「そういう慢心が命取りになるんだ、文醜君! 戦争は博打じゃない。精強な兵士を従え、圧倒的な数を揃え、完璧な計画を作り、誰にもケチをつけられないような華麗な勝利を収めること! それが僕の理想とする戦争の姿だし、現実もそうあるべきだ」

 

「あれ? その戦争観、前にどっかで聞いたような……」

 

 まんま袁紹の言葉である。

 

「だが袁紹様と来たら――「なーにを、さっきからグチグチと言っているんですのッ!?」」

 

 噂をすれば影。大きな声がした方角に目を向けると、当の袁紹がこちらへ向かってくるのが見えた。

 

「えっ、袁紹様!? 何故ここに……じゃない、その…本日もご機嫌麗しゅうございます」

 

 本人の登場を目にして、別人のようにかしこまる沮授。意外に律儀なのか、ただ単に小心なのか。……たぶん後者である。

 

「お、おはようございます、麗羽様」

 

「麗羽さまチーッス」

 

(文ちゃん……)

 

 最後になんか変なのが混じっていたが、とりあえず全員が袁紹に頭を下げた。

 

「みなさん、御機嫌よう。今日もいい天気ですわね……――じゃ、ありませんわッ!」

 

 カッと目を見開いて吠える袁紹。

 

「沮授さん、まーーーた懲りもせずに作戦に文句を言ってましたわね!? 決戦延期の話でしたらもう聞き飽きましたわ! いいこと? 袁家に“撤退”の2文字はありませんし“敗北”の2文字もありえませんッ!」

 

「いいえ!何度でも言わせてもらいます! 歩兵主体の我が軍では、野戦で騎兵主体の敵に勝ち目はありません。もっと戦力が揃うまで待つか、せめて陣地戦に持ち込んで騎兵の機動力を削ぐべきです」

 

「開けた場所の方が、敵の小細工がよく見えますわ!動きさえ分かれば対策もとれます! 数はこちらの方が多いのですよ!」

 

「兵力では勝ってますが、戦力では敵の方が上です。動きにくい場所か城に籠れば騎兵の戦闘力は半減し、後は純粋に数の勝負。敵の実質戦力は2万×1の2乗+3万×1の2乗=5万で、我が軍は8万×1の2乗+0.7万×1の2乗=8.7万と、最低でも2倍近くの戦力で戦える計算になります!」

 

「城に籠っている間に、敵軍が増えないという保障はありませんわ!」

 

 顔に皺をよせて理屈をこねる沮授と、身振り手振りを加えながら威勢良く叫ぶ袁紹。対照的な2人のスタンスを表すような討論を、顔良と文醜は「また始まった…」と呆れ顔で見つめていた。

 

「そもそも!戦力で勝っている上に率いる大将が名門なら、勝つのは当たり前です!策も軍師も必要ないですわ! 不利な状況でこその軍師ではありませんの!?」

 

「おっ、なんか姫様が珍しくカッコイイぞ?」

 

「でも冷静に考えると、要は丸投げなんじゃ……」

 

「聞こえましたわよ、2人ともッ!?」

 

 顔良を一喝して黙らせると、袁紹はその剣幕のまま矢継ぎ早に言葉を繰り出してゆく。

 

「それに、ここで戦わずして逃げれば、わたくし達は全ての冀州豪族からの信頼を失います!袁家こそが冀州の庇護者であるという信頼を!! いつ訪れるか分からぬ好機を待つより、今何が出来るかを第一に考えなさい!」

 

「それは……」

 

 バツの悪そうに眼鏡をいじる沮授。袁紹にしては筋の通ったもの言いに、つい反論のタイミングを逃してしまう。しかもよくよく考えれば、戦略的には理が通っているのだ。

 戦術面から見れば戦力が揃うまで待つのが道理だが、政治も含む戦略面から見れば必ずしもそうとは言い切れない。モタモタしてる内に公孫賛に鞍替えする輩も出てくるかもしれないし、何より領土が荒らされているのに敵を恐れて何もしない、となれば袁家に対する期待と支持は地に墜ちる。筆頭軍師である田豊が今回の出兵に反対しなかったのも、そういった政治面を考慮しての事かもしれない。

 

「……仕方ありません。ですが、僕が反対した事実は記憶して頂きたい」 

 

 結局、沮授は不承不承ながら頭を下げて承諾の意を示す。

 後に華北の覇権を決める決戦が始まる、数刻前の話であった。

 

 

 ***

 

 

 『界橋の戦い』は公孫賛と袁紹という2つの群雄が、華北における覇権を決定づけた戦として後世の記録にも残されている。両軍合わせて13万もの大部隊が激突し、戦場が平原であることを考えれば虎牢関の戦いをも上回る最大級の野戦であった。

 

 袁紹は当時の常識にならい、最もオーソドックスな布陣――歩兵を中央に配置し、両翼を騎兵でかためる――で部隊を展開させた。騎兵は補助戦力として位置づけられており、兵数が少ない事から走・攻・守のバランスのとれた槍騎兵が中心となっている。主力は中央の歩兵部隊であり、重装歩兵5万5000は横広に3段が配置(前衛、中衛に戦時動員の兵を2万づつ、後衛に常備兵1万5000)され、この後ろに1万の親衛隊(豪族軍ではない、袁家の直属部隊)という厚みのある配置だ。これに加えて後方に軽装歩兵1万5000が予備として温存されている。

 袁紹軍の戦術は単純にして明快だった。すなわち優勢な歩兵戦力をもって、しゃにむに中央を突破するというもの。重装歩兵の生みだす衝撃力と耐久力は強力無比であり、装備に劣る青州軍相手に無敵を誇った戦法だ。

 

 対して公孫賛軍の布陣も中央に歩兵、両翼に騎兵を置くのは袁紹軍と同様だったが、両翼の騎兵は先頭に白馬義従、側面には弓騎兵と軽騎兵が、後列には重装騎兵が控えていた。公孫賛の意図は両翼包囲にあり、中央で歩兵が敵主力を拘束している間に騎兵同士の戦闘で素早く勝利を収め、側面から敵を包囲することだった。

 

 片や歩兵の優位を前面に押し出した正面突破、片や騎兵の優位を生かした両翼包囲。しばしば後世の教本にも載せられるこの戦いは、両軍ともに堅実で基本に忠実な戦いとして大いに参考にされるほど。

 逆にいえば普通すぎ、用兵学の観点からの評価は決して高くはない。とくに袁紹軍では、本来なら暴走しがちな軍を統制せねばならない総大将が一番積極的に突撃を煽っていた事もあり、無為無策と思われても仕方ないだろう。

 しかし統率論の観点から見れば、決して間違っているとは言い難い。界橋の戦いは、古参の指揮官ですら経験がないほど兵の数が多く、その制御は困難を極めた。また袁紹軍の大半が傘下の豪族による連合軍である事からも、下手に策を弄する方が混乱を引き起こす可能性があった。

 

 ◇

 

 ――袁紹軍・中央

 

 重装歩兵6万5000対軽装歩兵3万。中央部に限って言えば、戦力差は圧倒的だった。

 ならば、このまま勢いで押すべし。袁紹はためらうことなく正面突撃を命令する。

 

「全軍前進っ! さぁ、袁家の兵に恥じない戦を見せるのです!!」

 

 堂々たる号令に対する返答は、数万の兵士が生み出す大地の鳴動。勝利を求めるときの声が張り裂けんばかりに響き渡り、その熱狂は次々に兵士達の心を侵食してゆく。

 

 数の優位というのは、それだけで兵の士気に直結する。指揮官クラスならまだしも、先月まで畑を耕していたような兵卒には小難しい戦術など分かりはしない。

 

 ――数は力。力こそが強さ。戦では強い方が勝つ。ならば、正面から正々堂々と。

 

 単純短絡、それ故に明瞭明快。軍師や軍事評論家から蔑視されるであろう知性の欠片もない戦法だが、その“分かり易さ”は教養などない一般兵にとって非常に力強く映ったのだ。

 

「「「うぉぉぉおおおおおっっ!!」」」

 

 士気の高い兵による力攻めほど厄介な攻撃はない。興奮した猛牛の如く、一心不乱に駆けだす袁紹軍兵士たち。敵の矢を防ぐために左手に持った盾をやや上に掲げ、右手に持った槍か剣を正面に構え、雄叫びを上げながらの全力ダッシュ。まさに気合いと筋肉に頼った脳筋戦法だが、時として下手に小細工を弄するより有効な攻撃と化す。

 そんな彼らと対峙する事になった、公孫賛軍軽装歩兵は不幸と言う他ない。もともと装備で劣る上、数も士気も敵の方が上なのだ。ばたばたと人が倒れ、戦列が崩壊する。運が良ければ鎧の隙間を突いて袁紹軍兵士をしとめる事も出来たが、すぐに完全武装の新手が仲間の仇打ちとばかりに切りかかってくる。損害と消耗を気に留めていないかのような袁紹軍の奔流が、公孫賛軍の戦列を呑み込まんとしていた。

 

 ◇

 

 しかし両翼ではこれと同様の光景が、今度は立場を変えて再現されていた。

 

「行くぞッ! 正面突撃しか能のない連中に、本当の戦を教えてやれっ!」

 

 馬蹄を轟かせながら、騎馬の大部隊が迫りくる。それを統率するのは、冀州でもその名を知られた趙子龍。名将の指揮する精鋭部隊の雄姿に、袁紹軍兵士は固唾を飲む。

 

「来るか」

 

 そう呟いたのは、生真面目そうな容姿の若い女性武将だった。自軍を質・量ともに上回るであろう公孫賛軍騎兵が、わき目も振らず自分の部隊に突っ込んでくるのを見ながら、左翼騎兵指揮官・張郃は表情を硬くする。

 

 もともと騎兵戦力では質・量ともに勝ち目はない。そのため主力の歩兵が中央突破を成功させるまでの「時間稼ぎ」が、彼女らに与えられていた戦術目標である。極めて妥当な判断であり、戦術の常道とも呼べる配置と指示。だが、それゆえに敵にも読まれ易い。

 

「我が軍の魚鱗と対になる包みの構え……敵の狙い、鶴翼と見た」

 

 魚鱗と鶴翼、突破と包囲。古今東西の戦を極限まで突き詰めると、先の2つに集約される。そして勝利の女神は、この競争を先に制した者に微笑む。 

 

「忠猛なる袁家の将兵に告ぐ! 聴力をもって知覚せよ!」 

 

 張郃は太刀を抜いて天にかざすと、兵に向かって高らかに呼びかける。

 

「我らはこれより、敵騎兵の更に外へと廻り込む! つまりは迂回だッ! 」

 

 騎兵という兵種は、基本的に側面からの攻撃に対して脆弱である。そこで張郃は敵騎兵の更に外側に移動することで、自軍より遥かに優勢な公孫賛軍右翼の側面を脅かそうと考えた。迂回攻撃に成功すればそれでよし、逆にこちらの意図が見抜かれていても敵兵力は引き剥がせる。張郃らの部隊を残したまま袁紹軍歩兵部隊を包囲するなど、逆包囲して下さいと言っているも同然の愚行だからだ。

 

「全騎進めぇっ! 敵側面に向かって進めぇッ!」

 

 張郃の号令を受け、袁紹軍騎兵が一斉に弾かれたように飛び出す。総勢3500の人馬が一体となって疾走し、華北の乾いた土を巻き上げる。

 

「華北の騎馬武者達よ、 敢えて言わせてもらおう。――戦場に張儁乂ある限り、すんなり包めると思わないことだッ!」

 

 ◇

 

 公孫賛軍の強みの一つは、かつて劉備を受け入れた時に北郷一刀から入手した『鞍』と『鐙』の存在であろう。この発明によって幼少より慣れ親しまなくとも乗馬術が比較的簡単に得られるようになったため、彼女は遊牧民に匹敵する質の騎兵をより多く揃えることが出来たのだ。

 彼女の精鋭部隊・白馬義従はその中でも特に優れた騎兵の集団であり、騎射が出来る正規軍でもある。軽装の防具と刀や槍なども保有しており、作戦よりも自分の命が優先という半傭兵的な遊牧民弓騎兵と違って、いざとなれば近接戦闘も可能であった。

 

「かかれ! 一気に敵騎兵を蹴散らしてやれ!」

 

 右翼騎兵の指揮官である趙雲の号令を受け、公孫越は白馬義従を率いて先陣を切る。彼らの目的は執拗に騎射を繰り返し、敵の陣形と士気を崩すこと。鈍重な重装歩兵にとっては天敵であり、同じ騎兵でさえ相手にするのは一苦労である――はずなのだが。

 

「……っ! 袁紹軍め、逃げる気か!?」

 

 こちらへ疾走していた袁紹軍騎兵が、突如として進路を変えたのだ。先頭の騎兵が斜め左(公孫賛軍からは斜め右)に方向転換したのにつられるように、後続の騎兵部隊も迂回を開始する。

 

(不利を悟って離脱したのか、なら連中は無視して、そのまま敵軍を包囲すれば……)

 

 飛び道具を持たない重装歩兵は、為す術もなく打ちのめされるであろう。そんな誘惑が公孫越の頭をよぎるが、すぐに頭を振って否定する。

 

(そんなうまい話、そうそう都合よく起こるはずもない……。敵の動きにも、何か意味があるはずだ)

 

 そうと分かれば、敵騎兵の意図を掴む事はたやすかった。全体的な騎兵戦力で劣る以上、袁紹軍騎兵が勝つには正面衝突を避けて側面攻撃に勝機を見出す他ない。ここで彼らを無視して歩兵部隊に向かえば、敵の思う壺だ。

 

「――総員に通達! 包囲は後回しだ! 右に移動せよ!」

 

 公孫越は瞬時に判断し、敵騎兵の進路方向を塞ぐように移動する。すると袁紹軍騎兵はそれに気づき、更に迂回しようとし、白馬義従もまたつられて外へ外へと異動する。上空から眺めると、両軍の騎兵隊は主戦場から離れる形になっていた。そう、両翼は中央から分離され、中央部は袁紹軍優位のまま突破されんとしていたのだ。

 

「っ……まずい! 全部隊、一時移動中止!」

 

 ここまで来て、敵の狙いに気づかないほど公孫越は愚かではない。主力たる騎兵隊が遊兵となりつつある現状を改善すべく、部隊を2手に分けて対応しようとする。だがそのためには部隊を一時停止せねばならず――全軍が騎乗して疾駆している最中に部隊を分割しようものなら大混乱に陥る――運の悪い事に張郃はその隙を見逃すような愚将ではなかった。

 

「いざ、推して参るッ!!」

 

 張郃を先頭に、袁紹軍騎兵が右旋回し突撃する。慌てて前方の白馬義従が騎射を開始するも、彼女は気にすること無く馬を走らせた。

 いくら騎射が脅威とはいえ、弓を馬上で扱う以上、その有効射程は100mにも満たない。騎兵が全力で駆ければ、撃たれる回数はせいぜい1度か2度。よほど熟練した弓騎兵ならパルティアン・ショットと呼ばれる移動しながらの騎射も可能だが、ぐらぐらと上下左右に揺れる移動中の馬上でブレずに照準を定める事はほぼ不可能であり、その上で高速移動する敵騎兵を仕止められる確率は更に低い。

 

「真っ直ぐにッ! 一直線にッ――!」

 

 同僚の脱落には目もくれず、槍騎兵の群れが突進する。まずは大きく散開した状態で走り、敵の第一射が終わってから徐々に隣にいる味方との間隔を狭め、速度を上げながら敵と衝突する寸前に最も高速かつ最も密集した形となる。典型的な槍騎兵のランスチャージであり、騎兵の持つ運動エネルギーを最大限に活かす突撃戦法だ。

 

「貫き届けぇッ! 我が無双の一突きッ!!」

 

 そのまま両軍はぶつかり合い、武器と防具の奏でる金属音が大気をつんざく。雄叫びと悲鳴が唱和し、敵味方が交錯する。長大な槍が敵を貫いたかと思えば、別の騎兵の刀で横薙ぎに腕を切り落とされる。

 しかし、全体として見れば袁紹軍が押していた。乗馬と騎射撃の腕では勝る白馬義従だが、接近戦は彼らの本分ではない。混乱は拡大し部隊の連携はとうに失われ、各々の兵士は全速で離脱を図ろうと懸命だった。

 

「我が槍の行く手をォッ! 遮るなァッ!!」

 

 背中を見せて敗走する白馬義従を追撃する袁紹軍騎兵。兵は手柄を立てて一旗揚げようと、将は有力な敵騎兵を一人でも減らそうと、獣のように逃げる獲物を追う。軍馬の数では劣る袁紹軍だが、それだけに騎兵は有力な豪族の子息で構成された精鋭であり、個人の技量では決して公孫賛軍に劣らない。己の武勇を示す絶好の機会とばかりに、兵士達はひたすら敵を追いかけ仕留めることに熱中する。

 

――ゆえに。

 

 

「勝つのは私だ」

 

「――っ!?」 

 

 軽騎兵を率いて追いかける趙雲が端麗な顔にうっすらと笑みを浮かべたのと、前進する張郃の表情から全ての興奮が抜け落ちたのは同時刻であった。




 「界橋の戦い」辺りは公孫賛の全盛期。恋姫原作だといつの間にか袁紹に負けてしまう公孫賛ですが、史実だと初期はむしろ優勢だったとか。

 レギオンとかファランクス的な重装歩兵で正面からガンガン押していく袁紹軍と、騎兵の機動力を活かした両翼包囲を狙う公孫賛軍。「兵力」は袁紹軍の方が多いですが、騎兵が少ないので「戦力」ではほぼ互角となっている点がミソです。現代戦で言えば歩兵師団VS機甲師団みたいなもんですかね?
 兵力と戦力は別物なので単純に「寡兵で大軍を~」みたいに兵数だけで比較できないのが戦史の面白い所だと思ってみたり。


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69話:包囲と突破

(待て、何かおかしい……!)

 

 その時、張郃の軍に異変が起きていた。いや、むしろ何も起こらなかったからこそ異常事態であった。

 

「……何故だ!? なぜ我が軍の陣形は崩れていない!?」

 

 当時の戦の常識として、いったん近接戦闘が始まると陣形は崩れるものだった。密集方陣でも組まない限り、どんな兵士でも隊列の維持より眼前の敵との戦闘を優先するため、少しづつ陣形は歪んでゆく。

 そして追撃戦が始まった時まで陣形を維持できるのは、戦闘に参加しない遊兵ぐらいのもの。なぜなら敵と戦っている兵士なら例外なく、あらぬ方向へとバラバラに逃走する敵兵を追っているからだ。個々の兵士に戦場全体がどうなっているかなど分からないし、彼らの興味と任務は周囲の敵を一人でも多く排除することであるからして、敵が背中を見せるという絶好の機会を逃す方こそありえない。運がよければ上官の制止で止まるが、上官ですら戦場の全てを把握しているわけでもないし、よっぽど声の響く上官でなければ命令は戦場の喧噪にかき消されてしまうだろう。

 

「いや、もしや敵が同じ方向に逃げているのか……!?」

 

 ゆえに追撃戦が始まって数刻経っているのというに、敵味方がバラバラにならず同じ方向へ移動しているというのは紛れもなく異常事態。敵の偽装退却という可能性もあるが、それにしてはタイミングが遅すぎる。

 たとえば遊牧民の弓騎兵などが得意とする偽装退却戦法において、囮部隊は殆ど戦闘は行わない。先にも述べたとおり、戦闘によって一度乱戦になってしまえば組織的な行動が取れないからだ。

 

 だとしすれば今、何が起こっているのだ? そんな疑問を胸に右方向を見た瞬間、張郃の顔が瞬時に青ざめる。

 

「なッ……身動きの取れない我らに向かってくる敵の新手!?」

 

 ここに来て、ようやく張郃は敵の顎に自ら首を突っ込んだという事実を自覚する。

 今回の敵の敗走は、ひとつだけが通常の敗走と違っていた。白馬義従は全員が(・ ・ ・)友軍に(・ ・ ・)向って(・ ・ ・)敗走していたのだ。

 

 彼女らは最初、主戦場から大きく左に移動し、追撃してきた白馬義従が停止したのを見て旋回攻撃をかけた。上空から見た時、例えば公孫賛軍歩兵隊を北側、袁紹軍歩兵隊を南側とするならば、白馬義従と袁紹軍騎兵は西から東(主戦場方面)へ移動している事となる。これを未だ戦闘に参加していない公孫賛軍右翼から見ると、目の前を敵兵が横断している状況となり、張郃らは無防備な脇腹を敵にさらけ出したも同然の状態となっていた。

 

 ◇

 

「かかれ!」

 

 趙雲の掛声と共に始まった公孫賛軍の反撃は、主君の性格に相応しく戦の常道だった。

 すなわち、数を生かした戦力の削り合い。友軍を追撃する敵騎兵に、横からぶつかる。特に動きは統制されておらず、各々の騎兵がバラバラに突っ込むだけ。敗走する友軍との衝突を回避するという一点のみ、申し訳程度に騎兵の機動力が発揮されていたと言えよう。

 

 だが、それで充分。戦術目標を達成するには、たったそれだけの動きが出来れば良い。乱戦に持ちこむ事さえできれば、敵は逃げる事もままならず数の多い自軍に勝利の女神は微笑む。

 

 趙雲が恐れていたのは、袁紹軍騎兵が「追えば逃げ、引けば追う」といった感じに自軍の両翼包囲を妨害することであり、その隙に袁紹軍中央が突破を成功させてしまうこと。ゆえに袁紹軍騎兵はまとめて潰す必要がある。しかし、あからさまに全騎兵を投入すれば逃げられてしまうし、中途半端な罠でも見抜かれる。

 

 ――ならば、あえて兵力を逐次投入するという愚策を犯し、敵を引き摺りだせばよい。

 

 優勢な騎兵を逐次投入するという戦術上の愚を犯した敵に、それを修正する間を与えず各個撃破する……張郃の判断は、むしろ良い意味で戦の教本通りであり、質・量ともに劣る袁紹軍騎兵が公孫賛軍騎兵に対抗しうる唯一の方法であったとさえ言えた。

 

 ――だが、いやだからこそ。張郃は戦術レベルで勝利し、作戦レベルで負けたのだった。

 

 追撃戦が終わるまでは、敵も眼前の敗残兵との戦闘に集中せざるを得ず、別方向からの攻撃に対処することができない。反転攻勢のような高等技術が無くとも、白馬義従が決められた方向に逃げられさえすれば味方が横合いから殴りつけられるのだ。

 

 別に公孫賛軍は特殊な戦法を使った訳ではなかった。何かの生物や道具を使った奇策を弄したわけでもなければ、後世で『釣り野伏せ』と呼ばれるハイリスク・ハイリターンな奇襲を見事成功させたわけでもない。いや、むしろ偽装退却であれば、歴戦の勇者である張郃なら見抜けたはず。そうではなく、本当に敗走していたからこそ、彼女は追撃を決意したのだ。

 

 結論からいえば、単純な波状攻撃。第一波で敵を拘束し、第二波が別方向から攻撃を加える……言葉にすればそれだけの戦法なのだが、囮同然の第一波に精鋭部隊・白馬義従を使ったことで張郃は見事この単純極まる作戦に引っ掛かってしまったのだ。

 なぜなら末端の雑兵ならまだしも、本来なら軍の中核を担うべき精鋭部隊を敢えて敗走させるなど、常識外れもいい所である。実際、公孫賛軍内部でも軍師と武将の過半数が反対意見を述べたほど。この戦が華北の将来を左右する一大決戦でなければ、まず採用されなかったであろうハイコストな戦法だ。

 

 袁紹が可能な限りの大軍を投入したように、公孫賛もまた彼女なりに持てる全てをこの一戦に注ぎ込んでいたのだ。

 

「くっ……横から新手だッ!各員、警戒せよ!」

 

 張郃は必死に叫ぶも、その命令がほとんど意味を為さないであろう事は、他ならぬ彼女が一番よく理解していた。

 騎兵という兵種はもともと方向変換が利きにくい。馬に乗る関係上、歩兵と違ってその場で方向転換できないし、第一前方の白馬義従をまったく無視するわけにもいかない。一口に敗走しているといっても全員が背中を見せている事は稀であり、追いつかれた兵がやむを得ず追撃する兵と戦う、といった場面はよくある話だ。

 

 そうでなくとも、戦闘中の兵士には上官の声など聞こえていない。罵声と悲鳴、剣戟の金属音の中で他人の声を聞き取るのは至難の業であるし、戦場で目の前の敵から少しでも注意を逸らせば命に関わる。ゆえに張郃の命令に反応出来た兵はごく僅か。これでは反撃など夢のまた夢だ。

 彼女に出来る事は可能な限り声を張り上げ、1人でも多くの友軍を趙雲らの槍撃から逃がす事だけだった。

 

 ◇

 

 同時刻、公孫賛はいつになく緊張した面持ちで、本営から全体の戦況を眺めていた。正面は袁紹軍に押されているが、それは当初より織り込み済み。となれば、両翼で行われている戦闘の展開が勝敗を左右するのだが――

 

「趙雲様より伝令! 敵右翼騎兵に対する誘引と側面攻撃に成功いたしました。こちらの攻勢を支え切れず、敵は壊滅寸前の模様!」

 

「我が軍の右翼騎兵隊も敵と交戦! 現状では敵が奮戦しており五分五分ですが、まもなく半包囲が完成するとのことです!」

 

「ほ、本当か!? 嘘じゃなく本当なんだな!?」

 

 額から一筋の冷や汗を垂らし、公孫賛が震える声で聞き返す。自分たちが軍議で決めた作戦ながら、にわかに信じ難い。伝令の報告を信じるならば、公孫賛軍は今まさに史上最大規模の両翼包囲殲滅を成功させつつあるのだ。司令官として冷静さを保たねばならないと理性が訴えているが、久々に沸き上がってくる興奮を抑えきれない。

 

「よし!敗残兵に逆襲されないよう、敵騎兵は完全に排除するんだ! ……と言っても、今からじゃ伝わらないか」

 

 本陣と両翼との距離はかなり開いており、伝令を飛ばしても辿りつく頃には、とっくに状況は変化しているだろう。戦闘中の味方の中から指揮官を見つけ出すのも至難の業であるし、隊列が密集していればまず辿りつけない。現代戦のように無線機でもあれば話は別だろうが、それ以前の戦闘では一度動き出した部隊に、本陣から追加の命令を飛ばす事など絵空事も同然。部隊が一旦動き出せば好むと好まざるにかかわらず、後は全て直属の指揮官の判断に委ねられる。

 

「まぁ、右翼には星が付いているし、左翼には従弟の越がいるから大丈夫か……。それより、急がないとな」

 

 眉を細めて前方を見やると、予想通り押されに押されている自軍歩兵が目に入る。刀で斬られるように戦列が分断突破されるような事態にはなっていないが、まるで巨大な圧力にかけられているかのように、一人また一人と確実に削り取られている。

 袁紹軍の先鋒を務めるのは文醜率いる部隊であり、指揮官の奮戦もあってか開戦以降も気力が全く衰えていない。複雑な作戦機動で気を煩わされる事のない正面突撃のような場こそ、文醜がもっとも実力が発揮できる戦場であった。

 

「みんな、ガンガン押せよー! 目指せ一番乗りぃぃいいいッ!」

 

「「「おおおおおぉぉぉぉッ!」」」

 

 雄叫びを上げながら突撃する袁紹介軍。突破と包囲の競争を制そうと、彼らも必死なのだ。重装歩兵には軽騎兵のような軽快さも重装騎兵の衝力もないが、ひた押しにジワジワと粘り強い攻め方をするのが特色である。単調だが隙が無く、ちょっとやそっとの小細工で足元を掬われるような事もない。知略の妙より単純な兵力差と武装の充実度がものをいうため、中央の歩兵同士の戦闘における袁紹軍勝利は揺るがないだろう。既に公孫賛軍の戦列は半分近く粉砕されており、急いでその勢いを削ぐ必要があった。

 

「予備の重装騎兵隊と弓騎兵隊にも攻撃するよう伝えてくれ。昨日の軍議で打ち合わせたとおり、両翼から袁紹たちを潰しにいくぞ!」 

 

 部下に伝達用の旗と銅鑼を用意させ、公孫賛自身も腰の剣を抜く。

 初冬の陽光を受けて剣は銀に輝き、準備を終えた予備部隊に緊張が走る。そして一瞬の静寂の後、剣が勢いよく振り下ろされた。

 

 

「――突撃っ!」

 

 それが合図だった。間を置かず、全ての予備部隊が出動する。

 駆け足で袁紹軍後方へと回り込まんとする2000の弓騎兵。彼らの後を追おうは、一糸乱れずに馬を走らせる重装騎兵。まずは弓騎兵の騎射によって敵の陣形を乱し、続いて重装騎兵の突撃によって粉砕、最後に趙雲らも含めた騎兵全軍で両翼包囲を完成させる。各兵種の特徴を活かした、華麗でありながら堅実さをも兼ね備えた戦法だ。

 

 既に前日の軍議で、作戦内容は全ての上級指揮官に伝えてある。それは今のところ順調に進んでおり、ならば今後も忠実に実行するだけ。

 

 幽州の精華たる騎馬武者達が、袁家を滅するべく一斉に動き出した――。

 

 ◇

 

 もしこの時、公孫賛が戦場全体を見渡せるような高地にいたら、はたして予備を投入しただろうか?

 両軍合わせて10万もの大部隊が展開している戦場中央。多少の起伏では遥か後方まで見通すことはかなわず、また無数の人馬が巻き上げる土煙も障害となる。それゆえに公孫賛は袁紹軍歩兵の布陣が、前衛と後衛では微妙に異なっていることに気付けなかった。

 

 袁紹軍の攻撃の特徴は、重装歩兵から構成される密集方陣の波状攻撃である。それは圧倒的な攻撃力を発揮するが、方陣とは本来その場に留まった防御にも威力を発揮する。『動く要塞』の異名通り、機動力がものをいう野戦を固定的な陣地戦に変化させる防御的な陣形ではなかったか。

 

「やはり敵は両翼包囲を目指す、か……沮授の予測した通りだ。後衛だけ長槍と盾に換装した甲斐があったようだな」

 

 袁紹軍の後衛を率いる武将の一人、麹義は敵影の姿を捉えると即座にあらかじめ指示されていた命令を実行に移す。

 

「進軍停止!――敵騎兵に備え、防御態勢に移る!」

 

 袁紹軍中央は全員が鎧を着込んだ重装備の歩兵で占められているが、前衛の主武装が片手剣と手盾であるのに対して、後衛は長槍と大盾からなる。西方でいえば前者が対歩兵戦闘に強いローマ軍団(レギオン)に近く、後者は騎兵にも対抗できるファランクスに近い。

 

「あと少しで前衛が中央突破に成功する! 後衛の役割は後方で踏み止まり、友軍の突破を支援することだ!いいか、最後の一兵までこの場で踏ん張れよ!」

 

 もうもうと土煙を立てながら突進してくる敵騎兵を見て、袁紹軍最後尾にいた幾つかの方陣が動きを止める。後衛は袁家直属の精兵で占められており、瞬く間に死角のない全周囲防御が完成する。

 

 ◇

 

 袁紹軍後衛がさっと重装槍兵による密集方陣を組む様子は、公孫賛軍騎兵からも確認できた。先鋒を務める武将・厳綱は、その整然とした動きに思わず舌を巻く。

 

「流石は袁家直属の親衛隊。こっちの馬にビビりもしねぇで、難なく迎撃態勢を整えてやがる」

 

 人馬が一体となって突撃する騎兵突撃は一見すると強力無比だが、実際には見かけ以上に脆い。馬上槍と歩兵の長槍では後者のリーチの方が長い場合がほとんどであるし、騎兵としても槍衾に正面から突っ込む訳だから存外にダメージは多いのだ。

 そのため騎兵突撃が成功する場面の大半は、相手が迎撃態勢を整える前に機動力を生かして突撃できた場合か、敵歩兵が猛然と迫りくる重騎兵の群れに恐れをなして隊列を乱したところへ突っ込めた場合のどちらかとなる。今回のように敵歩兵がきちんと密集陣形を組み、迎撃態勢を整えた上で激突すれば、むしろ不利になるのは騎兵の方。

 

「まっ、そのために俺らがいるんだけどな」

 

 そう言って厳綱が馬上で弓を構えると、彼に続く部下達も同様の行動を取る。先の騎兵同士の戦いでもそうだったが、まずは弓騎兵が騎射によって敵の隊列を乱すのが公孫賛軍の基本戦術。今までの戦闘では、この戦法によって数多の敵を撃破してきたのだ。

 

 とはいえ、相手も名門袁家が誇る親衛部隊。装備・士気・規律・個々の身体能力、と機動力以外の全ての面で勝っており、そう易々と突き崩せる相手でもない。また、肩と肩がぶつかるレベルで密集した方陣は、陣形そのものが個々の兵士の動きを制限する。脱走しようと考える袁紹軍の兵士が隊列を崩したくとも崩れないほど、彼らは強固な「動く要塞」へと変化していた。

 それゆえ厳綱らが騎射を始めて半刻ほどが経っても、崩壊した方陣はわずかだった。

 

「さぁて、いつまで耐えられるのかねぇ? 」

 

 楽しげに騎射を繰り返す厳綱。いくら方陣が堅いといっても、その鈍重さのために弓騎兵は一方的に射撃を加えられる。時間はかかるだろうが、このまま騎射を続ければ敵の隊列を崩せるはず……今までの戦歴から厳綱には自信があった。

 

「――げ、厳綱将軍! あちらを!」

 

 1人の部隊長が彼の名を呼んだのは、その直後だった。

 

「どうした?」

 

「あちらを見てください! 敵の予備が動いています!」

 

「あれは………」

 

 目を細めて部下の指さす方角を見つめると、袁紹軍予備とおぼしき軍勢が移動しているのが目に入った。大盾を背負った兵を先頭に、1万もの弩兵が攻撃準備を始めている。 

 

「やばいぞ……逃げろォっ!!」

 

 それを見た厳綱は慌てて退却命令を出す。弩の射程は300m(有効射程は100~150m)ほどと言われており、弓騎兵が馬上で使う短弓より射程が長く、撃ち合いになれば今度はこっちがアウトレンジで一方的に攻撃される。しかも前方の弩兵は巨大な大盾の陰に隠れて防備も万全。数も相手が5倍以上となれば、ここは引くのが得策だ。

 

 

 厳綱が次鋒として控えていた重装騎兵隊のところまで逃げると、公孫賛範をはじめ数人の武将が迎えに現れる。

 

「厳綱将軍! 何があったのだ!?」

 

「弩兵だ、弩兵! なんとか撃たれる前に大方の兵は逃げ切ったが、何割かははぐれちまった」

 

「……その前に密集方陣は崩せたか?」

 

「いや。無理だった。 多少は隊列を乱してやったんだが、今あんたらが突っ込んだところで槍衾の餌食だな。あと15回も矢を当てればどうにかなるとは思うが……先に連中を排除してもらわない事には、おちおち弓矢なんか撃ってられないね」

 

 そう言って袁紹軍弩兵を指さす厳綱。

 

「急いでくれ。弩兵の撃退にとまどってると、密集方陣が完全修復されちまう」

 

「しかし……我ら重装騎兵は突破の要だ。弩兵の掃討は軽装騎兵に任せた方がよいのでは?」

 

「おいおい、1万の弩兵にそれ以上の軽騎兵を突っ込ませるなんて単なる兵力の無駄使いだろ。それに俺らとあんた達の兵力だけじゃ、両翼包囲は出来ないぞ」

 

 小馬鹿にしたような厳綱のもの言いに、公孫範はむっとして反論する。 

 

「誰が軽装騎兵全軍で弩兵に当たれと言った。2万の軽装騎兵の内、右翼と左翼からそれぞれ3000騎づつを抽出し、それを弩兵にぶつければよかろう。6000騎もいれば弩兵は掃討出来るだろうし、もしそれによって彼らが両翼包囲に加われずとも、残った1万4000騎と我らを合わせれば兵力的には何とかなるはずだ」

 

「理屈の上ではそうなるがな……あんた、本気でそれが出来ると思ってるのか?」

 

「何が言いたい?」

 

「どうやってその6000騎を抽出するんだ?」

 

 後漢の全盛期には部隊単位がきちんと定められていたらしいが、この時代の軍隊になると兵の供給先は乱雑で、もはや統一された部隊単位は存在しないようなものだった。

 兵は募集・徴兵・懲罰人事・人身売買・拉致など実に様々な手段で供給されており、しかも中央政府ではなく地方官や豪族が独自に徴募していたのだから、当然規模も内実も違うに決まっている。その為ある将軍は1400人、またある将軍は7200人といったようにバラバラで、それは公孫賛軍とて例外ではなかったのだ。辛うじて兵種だけは統一できたものの、総勢5万もの大軍の中で、どの将軍がどれだけの兵を掌握しているかなど覚えられたものでは無い。

 

「それに軽騎兵の連中は、敵騎兵と一度やりあった後だ。死んだ奴もいるだろうし、部隊ごとに死傷者数も違うだろうから誰が何人の兵を持ってるかなんて分かりゃしないだろうよ」

 

 つまり今の軽騎兵隊はオンかオフかの2択しかないということ。やるなら全軍で突撃、やらないなら全軍で待機という訳だ。

 3000の重装騎兵と2万近くの軽装騎兵。片方を弩兵の掃討に、もう片方を敵主力への両翼包囲に使うとすれば、どういった振り分けをすべきか言うまでもない。

 

「……分かった。弩兵はこちらで何とかするから、そっちは散らばった弓騎兵隊をもう一度編成し直してくれ」

 

 小さく返して、公孫範は全軍に矛先を袁紹軍歩兵に変えるよう指示する。

 

 

「作戦変更だ! 我らはこれより、友軍を支援するべく敵弩兵を優先して排除する!」

 

 続いて槍を掲げた彼を先頭に、隊列を整えた重装騎兵が一斉に突撃を開始。

 

 重量感のある馬蹄音を轟かせて重装騎兵が急迫し、両軍の距離は瞬く間にに縮まってゆく。弩兵の弱点は発射に時間がかかるという点であり、公孫範は一気に距離を詰めてランスチャージに持ち込む。

 

「「「おおおおおぉぉぉぉぉっっっッッ!!!」」」

 

 見たことも無いような重装備で大きな馬に鎧を被せ、一丸となって突撃する公孫賛軍の重装騎兵隊。後世でいえば重戦車の大部隊が歩兵陣地に突撃しているようなもの。急速に迫る彼らの威圧感は凄まじく、ベテラン兵士ですら及び腰になる。

 

「 「っ――――ッッ!!」 」

 

 瞬間、鼓膜が破れるかと思うほどの大音量が轟いた。予想通り、袁紹軍の最前列は被害甚大。大盾が割れ、弩兵が馬蹄に潰され、指揮官が槍に貫かれる。長大な馬上槍が折れるほどの衝撃を受けた袁紹軍の被害は言うに及ばず、接近戦に持ち込まれた弩兵に為す術は無かった。

 

 ただ、問題があるとすれば数に圧倒的な差があることか。公孫賛軍重装騎兵の数はわずか3000騎であり、1万もの袁紹軍弩兵を掃討するには、これまた時間が必要であった。盤上の演習なら「騎兵が突撃し、弩兵が退却」で済むのだが、現実の戦闘ではこれに“時間”という障害が加わる。

 結果、袁紹軍弩兵の排除によって公孫賛軍弓騎兵は再び騎射を行えるようになったものの、予想通り突破の要である重装騎兵を拘束されてしまうという皮肉な事態になったのだ。

 

 ◇

 

 ――公孫賛軍右翼

 

 動きのとれない重騎兵に代わって、密集方陣への突撃を敢行することになった軽騎兵隊。重装歩兵の密集方陣に軽騎兵を突撃させるなどほとんど自殺行為に等しい作戦なのだが、他に妙手がない以上やるしかあるまい。弓騎兵の騎射によって敵の隊列は乱れている事が、せめてもの救いだった。

 

「くっ……思った以上に再編成に時間がかかっているな……」

 

 まずい――いつもの飄々とした雰囲気はどこへ行ったのか、趙雲の表情には焦燥の色が濃い。

 敵騎兵隊を追いかけて戦場から離れてしまった上、戦闘によって統制を失った部隊に再び指揮系統を確立させるのは彼女の予想以上に困難だった。敵騎兵を撃退した後、趙雲がすぐに戦場に戻れなかった理由はここにある。総勢2万騎もの大兵力を運用したのは公孫賛軍にとって初めての出来事であり、いかに趙雲とて慣れない大軍運用を演習同様にこなせるわけではなかった。

 

 いっそ弓騎兵の再編と援護を待たず、軽騎兵だけですぐさま敵の密集方陣を叩くべきだったかもしれない……そんなヒロイックな考えが一瞬だけ脳裏をよぎるが、すぐに理性によってそれを否定する。今や趙雲の軽騎兵部隊だけが唯一袁紹軍歩兵にトドメを刺せる切り札であり、それを冒険に賭けることは許されない。

 

 ――結果、再度集結した弓騎兵隊が騎射を済ませ、袁紹軍後衛に突撃できるようになったのはそれから半刻後のことであった。

 

 

「だいぶ予定より遅れたが……やっと両翼包囲に持ちこめる……」

 

 かなり時間はかかったものの、もう袁紹軍も予備を使い尽くしたはず……やっと見えてきた勝利への道筋に勇気づけられ、公孫賛軍将兵は最後の気力を振り絞る。

 

「すでに敵の後衛は崩れかかっている。あの方陣さえ崩せば、袁紹軍は前と後ろから完全に包囲されたも同然だぞ!」

 

 血濡れた槍を天へと突き上げ、趙雲が大声で叫ぶ。

 部下も彼女を上回る大音量でそれに応え、今まさに乾坤一擲の突撃を行おうとした、その時。

 

 

 ――袁紹軍の前衛から、爆発のような歓声が上がった。

 

 

 そう、忘れてはならないもう一つの戦場。両翼で双方の武将が武勇を競い、軍師の知略がぶつかり合う中、地道に正面から芸の無い殴り合いを続けていた戦場で、ついに決着が付いてしまったのだ。

 

 すなわち――。

 

「うおっしゃああああっっッ! やっと突破できたぜぇぇぇ!!」

 

 袁紹軍中央。その先頭で大刀を振るっていた文醜がひときわ大きな声で叫び、ガッツポーズを決める。彼女の前には公孫賛軍の戦列最後尾にいた兵が倒れており、開戦当初から続けられていた正面突破が成功したことを示していた。

 

 袁紹軍、中央突破に成功――その情報は瞬く間に戦場を駆け巡り、分断される形となった公孫賛軍は一挙に浮き足立ってしまう。騎兵部隊はまだ統制がとれていたものの、始終押されっぱなしだった歩兵部隊の士気は完膚なきまでに打ち砕かれ、また実際問題として中央突破によって指揮系統が寸断されてしまい、もはや歩兵部隊は戦力たりえなかった。

 

 

 ***

 

 

 ――こうして『界橋の戦い』は中央突破を成功させた袁紹軍の勝利として、後世まで記録されることになる。「巧遅より拙速を尊ぶ」という名言とおり、荒削りだが基本に忠実な正攻法で攻めた処に勝因があった。中央突破という単純明瞭な戦術目標を定め、両翼の騎兵・後衛の方陣・予備部隊などの動きも全て「時間稼ぎ」という点で統一されていた。

 

 対して公孫賛軍は各兵科の特徴や相性の差をよく生かして善戦したが、動きの複雑さゆえに戸惑う将兵も多く、大軍であることも加わってスムーズに作戦が遂行されたとは言い難かった。双方共に未だかつて運用経験がない大部隊を投入した一大会戦に臨むに当たり、作戦を可能な限り単純にすることで運用面でのトラブルを減らそうとした袁紹軍に対し、公孫賛軍は部隊運用に対する認識が甘かったと言えよう。日頃10人程度の部下しか動かしたことの無い人間が、いきなり50人の部下を与えられても同じようには動かせないのだ。

 これは後世の工場管理などでも言われる事だが、労働者の数が増えれば増えるほど命令伝達と労働者間の意思疎通が困難になるため、ムダを無くすための工程を組み込むと却って混乱が起こり逆効果になってしまうことがある。たとえば適材適所という言葉があるが、誰が・何を・どのぐらい作業すればいいか、等を見極めるコストを考慮すると、大規模な工場では却って一律の作業と待遇で接した方が効率的な場合もあるのだ。

 

 公孫賛軍も個別の戦いだけを見れば、常に相性の良い兵科を充てることで、袁紹軍に対して高いキルレシオを発揮している。しかしそのために小さな遅れや混乱、命令伝達と意思疎通の不調に起因する時間のロスが徐々に積み重なり、最終的にもっとも重要な「突破と包囲の競争」に遅れてしまったのが敗因といえよう。

 

 ――そして公孫賛軍がその遅れを取り戻すことは、この敗戦以降2度と無かったのである。

 

 敗北した公孫賛は残存部隊を率いて、遥か北の渤海郡まで退却。この会戦の趨勢に注目していた華北の諸侯は、競って勝ち馬に乗ろうと袁紹のもとに馳せ参じ、華北における袁紹の優位は揺ぎ無いものとなったのであった。 

 




 麗羽様大勝利! 勝因はとにかく「命令が簡潔だったこと」です(あるいは公孫賛軍が複雑すぎた)。
 袁紹軍の場合、出された命令は
 中央前衛・・・とにかく前進して攻撃
 両翼騎兵・・・なるべく戦場から敵を引き離して時間稼ぎ 
 中央後衛・・・ファランクス組んで防御
 予備部隊・・・後衛の援護

と一つの部隊に一つの命令しか出していないのに対し、公孫賛軍は 

 中央歩兵・・・ひたすら防御
 両翼軽騎兵・・・①白馬義従の攻撃と戦術的退却 ②主力軽騎兵部隊が敵騎兵を側面攻撃 ③味方の背面攻撃が成功したら両翼包囲
 予備騎兵・・・①敵後衛を弓騎兵が撹乱 ②続けて重装騎兵が突撃
 ※実際には①敵後衛を弓騎兵が撹乱→失敗 ②作戦を変更し重装騎兵が敵予備を攻撃 ③弓騎兵は戦力再編の後、再度敵後衛を攻撃 ④軽騎兵が重装騎兵の代わりに敵方陣を攻撃 ⑤方陣撃破の後、残存する全ての騎兵をかき集め両翼包囲

 とタダでさえ一つの部隊に対する命令の数が多い上に複雑で、しかも他の部隊との連携まで求められるという高度なもの。これを今まで経験した事の無い大人数でいきなりやった挙句、どんどん現場が「柔軟に対処」していったので混乱が重なり、モタモタしている内に中央突破された形になりました。

 当時の情報伝達能力だと「一つの部隊に一つの命令」が基本なので、複雑な作戦をしたければ戦力を小分けにするしかありません。もっとも、それはそれで下手すると戦力の逐次投入・各個撃破の危険がありますが……。


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70話:名門の距離感

          

 界橋の戦い以降、華北の情勢は一気に袁紹優位に傾いている。破竹の勢いで進撃する袁紹軍は瞬く間に冀州を奪還し、故安城に籠る公孫賛軍残党を包囲。公孫賛の本拠地・幽州の地に足を踏み入れていた。

 

 袁紹の大逆転は、ひとえに界橋の戦いでの勝利のみが原因ではない。田豊や逢紀、郭図、沮授など様々な名士が活躍している事からも分かるように、袁紹の統治政策は『名士優遇政策』であり、地元の有力者である名士・豪族がこぞって袁紹のもとに馳せ参じた事が大きい。対照的に公孫賛は中央集権化・君主権力の確立のために名士冷遇政策をとっていたこともあり、敗戦によって権力基盤である軍事的優位性が失われた途端、支配地域がドミノ倒しのように次々に袁紹陣営に寝返ってしまったのだ。

 

 

「麗羽さまー! 文醜隊、さっき中山国を占領しましたー!」

 

「常山国ですが、主な名士達はみんな袁家へ恭順するそうです。えっと、こちらがその連名表になりますね」

 

 冀州北西部の再征服を命じられていた、文醜と顔良が袁紹の前に現れる。公孫賛が土地勘の無い冀州での遅滞防御を諦めた事もあってか、どちらも苦労せず目標を達成したらしい。

 

「おーほっほっほっほっほ! 名門の跡継ぎたるこの袁本初に歯向かおうだなんて、やはり田舎太守には過ぎた思い上がりでしたわね! やはり勝利は名門にこそ相応しいのですわ!」

 

 次々と届けられる勝利の報告に、袁紹は上機嫌で高笑う。袁紹と袁術という2つの名門を旗頭とした『二袁の戦い』は、袁術側の2大巨頭であった陶謙と公孫賛が敗北したことにより、少なくとも華北一帯では袁紹の覇権が確立したといっても良い。

 

 注目すべきは、これらの成果が「敵を返り討ちにしたこうなった」というような受動的なものではなく、きちんと計画された大戦略の中に組み込まれていたという事である。その基本的な構想を提案したのは田豊や沮授といった名士たちであり、彼らは光武帝・劉秀の後漢成立故事をベースとした大戦略を一歩づつ、着実に実現させていた。

 後世においても、また当時においても個人的な評価は芳しくない袁紹であるが、明確な天下統一の方針と大戦略を掲げていた郡雄は、諸侯多しといえども彼女の陣営のみであった。彼女より有能とされる曹操や孫策などが野望こそあれど、まだこの時点では長期的な将来展望を見いだせないでいる中、凡愚と評された袁紹のみが天下統一に向けて着々とその勢力を拡大していたのだ。

 

 すなわち、第一段階として華北でもっとも豊かな冀州を拠点とし、第二段階で弱体な東の青州を制圧。第三段階では、そのまま反時計回りに兵を移動させ北の公孫賛を打つことで幽州を平定、第四段階でも同じく反時計回りに旋回して西の并州を従える。然る後に南下し、華北四州の総力を上げて華南征服に乗り出す。ここまで来れば中華の心臓部は抑えたも同然であり、後は洛陽にいる皇室の威光を利用できれば、天下統一は時間の問題となる……常に自分より弱い相手を下しながら勢力を拡大するという方針は、正しく戦略の王道に忠実であった。

 

「――此度の勝利、実にお見事でした。我ら軍師一同、改めて感服致しました」

 

 最大の仮想敵であった公孫賛軍を撃破した達成感と安心感からか、この時期の袁紹軍全体が戦勝ムードに包まれていた。評価の辛辣なことで有名な田豊ですら、珍しく主君へ褒め言葉をかける余裕があったじほどだ。何事にも厳しいこの老漢が人を褒めた事など、袁紹の記憶の中でも数えるしかない。しかも今回の戦いにおいて袁紹本人が立てた功績といえば、兵を煽って士気を高めたことぐらいか。沮授などは下手に煽り過ぎると暴走の恐れがあると、褒めるどころか諫めていたほどだが、田豊の見解は異なっていた。

 

 あの愚直ともいえる底なしの自信、己こそが至高と信ずる傲慢さ――いかなる状況であれ、それを徹底して貫き通せる人物はそう多くは無い。主が揺らいでいては、臣は道を見失う。生死の境目をさまよう戦場であろうと自己を失わず、強烈な意志でもって周囲の人間を導く……そんな人間こそが王に相応しい、田豊はそう考えていた。

 その意味では天下広しといえども、袁紹ほど揺らぎのない人間もまた2人といないだろう。

 

「では姫さま。次の作戦計画ですが……」

 

「即、全面侵攻ですわ!」

 

 田豊の話の腰を折って、相変わらずの脳筋思考……もとい、実に袁紹らしい解答が返ってくる。

 

「このまま勢いに乗って突撃!粉砕!そして勝利ですわ!」

 

「よろしい」

 

「えっ、認めちゃうんだ!?」 

 

 割とあっさり袁紹の意見を認めた田豊に、顔良は困惑を隠しきれない。無意識のうちに有能な軍師=慎重派みたいなイメージが出来上がっていた事もあるが、公孫賛軍の侵攻で荒らされた領地の再建もそこそこに反撃に移れば、一揆などで足元を掬われかねないとの懸念もあった。その事を田豊に問うと、経験に裏付けされたシビアな解答が返ってくる。

 

「姫様も言っておられたが、現時点で勢いは我々の側にある。大勝利の直後に勝者の召集令を断る豪族はいなかろう」

 

 この時代の多くの諸侯と同じように、袁紹の権力基盤は豪族・名士を中心に形成された家臣団である。日本でいえば戦国大名と国人集のようなもので、戦時には直属の常備軍というよりは家臣に軍役を課すことで軍を形成する。そのため配下の豪族・名士たちは主君と家来というよりは緩やかな同盟関係に近く、袁紹ら諸侯も絶対的な君主ではなく盟主に近かった。ゆえに配下の豪族が主君の意向を無視したり、軍の召集を無視することも多々あった。

 実際、公孫賛が優勢だった時期には様子見を決め込んだ輩も大勢いる。だが袁紹の優位が定まった現在なら、軍役を拒めば叛意ありと見なされ粛清されるため、召集を拒む間抜けは現れまい。

 

「つまり我らが配下の豪族に軍役を拒否する口実を与えずに、大軍を組織できるのは今しかない。そして――これは彼らの忠誠心を試す良い機会にもなるだろう」

 

 勝ち馬に乗りたければ相応の活躍を示せ……田豊は今度の侵攻を、彼らの忠誠心を試す踏み絵にするつもりであった。

 

「後は戦火で土地を失った農民の対処、だったか? それなら彼らが土地失う原因となった公孫賛にツケを払わせればよかろう」

 

「え……」

 

「土地を失った農民は、武器を与えて兵士にすると言っておるのだ。潜在的な反乱分子はこの際、公孫賛軍と一緒に死んでもらう」

 

 これぞ一石二鳥というものだ――青ざめる顔良に淡々とそう語った田豊の姿は、紛れもなく漢帝国が生みだした1人の怪物であった。民が守られるのは君主がそれを必要とするからであり、君主にとって必要のない民なら排除されるべきである……田豊は天才であると同時に、そういった「民は君主の付属物である」と考える古いタイプの人間でもあった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

    

   

 この時期、天下に最も近づいている諸侯が袁紹であるとするならば、もうひとつの袁家――袁術らは何をしていたのであろうか。

 

 それを知るためには彼女らの対外政策から始める必要があるが、袁術陣営は戦争のただ中にあっても、相変わらず軍事というハード・パワーよりも外交などのソフト・パワーを重視していた。『――軍などに頼らずとも、外交で全てを解決できる』などと言えばひどく傲慢に聞こえるが、曹操や公孫賛らが国益追求のために軍備拡張に熱を上げるのと同じように、袁術陣営は外交に力を注ぐことで自らの国益を最大化しようとしている点が特徴とされる。

 書記長・劉勲の言葉を借りるならば“――か弱い女子が身を守るには、自分で剣術を学ぶより、剣士と関係を持って護ってもらう方が効率的”であった。

 

 

 では逆になぜ、袁術陣営が外交重視の政策をとった、あるいはバランサーとして外交重視政策をとることが可能だったのか?

 それには、袁術陣営の抱える特殊な事情が大きく分けて3つ関係している。

 

 まず、袁術陣営は領土の拡大を必要としない、数少ない諸侯の一つだった。劉勲らに代表されるように当時の袁術家臣団には市民・商人出身の都市貴族が多く、他の諸侯の家臣団の大部分を占める地方貴族に比べ、民衆からの直接的な税収に頼る割合が低い。

 舗装された道路、水上航路、運河、商業特権、自由貿易、奴隷売買、金融取引、輸送・情報ネットワーク、豊富な低賃金労働者や農奴に支えられた安価な工芸品と農作物――等に代表される“市場”こそが、袁術陣営にとっての“領土”だった。

 

 ――商品が関所を越えられない時、兵士が関所を越える。

 

 ――統治は可能ならば非公式に、不可能ならば公式に。

 

 軍総司令官の張勲ですら、上の条件が満たされた場合のみ軍事力を行使すると明言している。つまり袁術陣営は経済活動の自由や権益の保護、市場の安定化といった条件さえ満たされるのならば、領土の獲得は必ずしも必要ではないと考えていた。むしろこの時代の政府支出の大部分が、軍事費で占められていた事を考えれば、直接支配はリターンの割にかかるコストが大きい。人口や領土が拡大すればするほど内にも外にも敵が増えてしまい、『国家収入を維持する為の軍事力』がいつの間にか『軍事力を維持する為の国家収入』へと変化してしまう事は歴史が証明している。

 

 更に袁術陣営は中央集権化を進める曹操らと違い、地域主権・地方分権の間接統治形態を好んだ。勢力圏内の豪族は経済的には従属下に置かれるものの、政治的には在来の身分や支配が保証される。反抗さえしなければ危険が無いどころか、市場さえ解放すれば自領で如何なる振る舞いをしようとも咎められず、この“自由放任”支配は豪族たちにとって都合の良い体制ですらあった。

 実際、この期間に袁術陣営が直接支配してたのは南陽群、汝南郡の2群のみ(もっとも、この2群だけで袁術領人口の半分ほどに達するが)。その他の勢力圏は全て現代で言う衛星国、保護国、自治領、租借地、委任統治領といった形体で、現地諸侯の大幅な自治が許されていた。彼らの要求はただ一つ……“自由に取引できるよう、市場を解放すること”のみであった。

 

 

 次に、袁術陣営の高度な金融・信用制度が挙げられる。

 元々袁術の治める南陽群と豫州は、中華の中心に位置し、商業が盛んであることから貨幣経済が進んでいた(公孫賛の領地などでは未だに物々交換がかなりの割合を占める)。よって保有する貨幣の量は抜きんでており、それらは袁術領のみならず、中華の広範にわたる運輸・商品取引・決済管理・信用業務を支えていた。

 

 また、黄巾の乱から続く政情不安によって戦費は増大する一方であり、各諸侯は対策を迫られていたが、過酷な増税は民衆反乱を呼び起こす危険を伴うため、最も手っとり早く安全な戦費調達方法は借金だった。となれば、商人や金貸しから大規模に金を借りようとするのは驚くに値しない。だが、袁家のように“絶対破産しないだろう”と誰もが認める金満諸侯ならいざ知らず、大半の諸侯はいつデフォルトに陥るか分からないため、必然的に民間からの資金調達は高利となる。低利で融資を受けられる、という点において、袁術との同盟・経済協力ほど魅力的な融資契約はなかった。

 袁術陣営の方でも積極的に勢力均衡政策を取り、『軍隊で戦争をする諸侯』では無く『金で戦争を支援する諸侯』の立場を取った事によって、彼女らの金融市場はいっそう大規模になり、取引も活発化した。

 

 

 3つ目の原因は、袁術陣営が中原の争いから距離を置いた事にある。

 伝統的に中華の政治・経済の中心は『中原』と呼ばれる華北平原周辺であり、多くの諸侯がしのぎを削っていた。だが袁術陣営は最低限の利権を維持するのみで、中原における勢力圏を積極的に拡大しようという動きはあまり見られなかった。ゆえに覇権主義を振りかざす袁紹・曹操に比べて、諸侯の警戒心も和らぐ傾向にあった。

 

 だが、これを平和主義や覇権主義の放棄と見るのはいささか早計だ。袁術陣営は華北のバランス・オブ・パワーを推進する裏で、江南ではむしろ覇権主義的傾向を見せていたからだ。この時期、劉勲は“袁家の将来は南方にあり”とのスローガンを掲げ、中原を巡って国力を疲弊させるよりも、もっぱら未開発地域であった揚州、交州を半植民地化する事を公式路線としていた。

 

 当時、長江以南は地元豪族が強い力を持つ、政治・経済の中心地からも離れた未開の僻地であり、そこまで列強の警戒を買うものでも無い。なお未開拓のうっそうとした森林が茂り、シカやサルにくわえて小型の象すらいたという。長江には淡水イルカが泳ぎ、大自然の中では水路や水田開発といった人工物は少数だった。入植者たちはこのような土地にクワを入れ、人が生活できる土地へと作り変え、都市も拡張し、以後の発展を担う。彼らと時を同じくして次々と袁家の商館も建てられ、地元の有力者と癒着することで莫大な利益を挙げていた。

 

 これは明らかに、中華の伝統的な華北重視の外交政策とは異なる。理由は諸説あるが、一番説得力のある理由は“ビジネスチャンスの有無”だといわれている。中原は早くから発達していた弊害として『行』――いわゆるギルドに近い同業組合――が既得権益化しており、彼らと戦うにしろ袖の下を送るにしろ、その市場参入コストは高くつく。

 ならばそんな所で余計な体力を消耗するより、中原より発展スピードの速いフロンティア・江南に活路を求めたほうがよっぽど将来性がある。しかも幸いなことに、中原と違って発展途上の江南に強力なライバルはいないのだ――南陽の商人たちが、そういった考えに至るのは自然な流れであった。

 

 結論づけると、中原で積極的に勢力均衡政策を行う一方で、南方では交易と経済支配によって影響力を増大させ、その富をもってバランサーとしての地位をより強固なものにする……その循環こそが、袁術陣営を中華のバランサーと成らしめた要因であり、基本的な外交方針であった。

 

 

 **

 

 

 徐州・下邳城――

 

 雷のように大きな銅鑼の音が街中に鳴り響く。それが合図に破壊から復興した下邳城のあちこちで歓声があがった。 

 

「ふわはははは――! 見よ七乃、すごい数なのじゃ!!」

 

 本城のバルコニーから下々を見下ろし、大いにはしゃぐ袁術。彼女の視線の先には、整然と隊列を組んで街路を行進する兵士たちの姿がある。隊列の先頭には煌びやかに飾り立てた騎兵が、街路の脇には軍楽隊が並び、勇壮な音楽を奏でている。そして騎兵の後ろには、鎧で完全武装した槍兵が続く。ガチョウ足行進と呼ばれる、膝を曲げずに伸ばした脚を高く上げる行進スタイルが特徴的だった。

 

「「「袁家万歳!!!」」」

 

 数万の群衆から歓呼が沸き起こり、空気に波紋を起こす。袁術は天真爛漫といった笑顔で、嬉しそうにそれに応えて手を振る。可愛らしい姫様が無邪気に喜ぶ様は、少なくとも一個人として徐州の住民に好印章を与えているようだった。

 

「ふっふっふ、みな妾を見て喜んでおる。これも妾の日頃の行いのお蔭じゃな! 」

 

「いや、あんた何もしてないでしょうが」

 

 背後から呆れたような賈駆の声――彼女の方はというと、泰然あるいは鷹揚な態度で拍手を繰り返している。保安委員会の長という地位も徐々に板に付き始め、安心したような、それはそれで嫌なような、微妙な気分で毎日を過ごしていたりする。

 彼女の隣では、同僚の張勲もまた、ニコニコと柔らかい表情でパレードを楽しんでいた。

 

「別に細かい事はいいじゃないですかぁ。せっかくの祭りなんですし、賈駆さんも楽しまないと損ですよ~」

 

「ぐっ、なんでこういう時だけ微妙に正論なのよ……」

 

「まぁ、賈駆さんに限っていえば、立場上あまり祭りにうつつを抜かされると困りますけど。万が一のことが無いよう、しっかり警備して下さいね~」

 

「祭りだから楽しまなきゃって言ったの誰だっけ!?」

 

 さらっと嫌な現実を見せられる。保安委員会議長という地位にいる賈駆は、今回の軍事パレードの警備責任者でもあり、もし暗殺騒ぎなどがあった場合には責任を問われる立場にあった。

 

「……やっぱり心配になってきた」

 

 念の為、近くにいた副官をひとり呼びつけて警備状況を報告させる。

 

「はっ!――現時点では窃盗による被害届が25件、酔っ払いによる迷惑行為が14件、未成年誘拐未遂が6件、公序良俗違反が9件、原因不明の爆発事件が3件、乱闘騒ぎが1件となっております!」

 

「治安悪っ!?」

 

 思わず大声で突っ込んだ賈駆だが、副官は“いつもんこんなんだし”と言わんばかりのやる気の無さ。もうどうにでもなれと思わなくもない賈駆だったが、張勲にクギを刺された手前もあるので放っておくわけにもいかない。一応、自分のクビもかかってるし。

 

「ああもう! 仕方ないから窃盗とかは後で対処するとして、騒乱とか爆発とか破壊行為を優先して止めなさい! 予備の警護兵はもう動員した!?」

 

「その事なのですが、――当の警護予備として控えていた傭兵隊の詰め所で乱闘があったので、そちらの鎮圧および処理に当たっています。ゆえに人手不足であります!」

 

「やっぱアンタたち無能でしょ!? 知ってたけど!」

 

「――そして乱闘の原因ですが、詰め所に出張役務していたと思しき風俗嬢を巡り、複数の兵が奪い合って暴行に発展したとのことです!」

 

「突っ込みどころ多すぎるけど、とりあえず勤務中に風俗嬢とか呼ばないでくれる!?」

 

 他にも治安維持する側が率先して治安乱してどうするのよ?とか、そもそも何で傭兵隊みたいな半ゴロツキ連中に警護任せようと考えたのかなど聞きたいことは多くあったが、上げればキリが無いので我慢して呑みこむ。

 

 この軍事パレードには徐州の要人も数多く集まっており、袁家の力を分りやすい形で示す絶好の機会。間接統治とはいえ、袁家の支配が始まって日の浅い徐州人には不満も持つ人間も少なくはない。強大な軍事力を見せつけることは、内憂に対する威圧効果と外患に対する安心感を増幅させる。逆にいうと失態を犯せば、袁家組み易しとの印象を与えかねない。

 苛立ちを抑えて“職務怠慢であると判断された職員は減俸と僻地に出向”との旨を、副官から兵士たちに伝えさせると、力が抜けたように賈駆は柵にもたれる。

 

「はぁ~、疲れた……」

 

 パレードで流される陽気な音楽も、今の彼女にとっては何かの嫌味にしか聞こえない。

 隣の張勲に目をやると、こちら同僚の苦労など気にも留めずに楽しんでいるらしい。相変わらずご立派な軍服を着こんで、独裁国家の指導者がよくやる感じの拍手をしている。一応は彼女も軍人なのだから当然といえば当然だが、いつになく糊のきいた軍服をパリッと着こなしている姿が新鮮だった。

 

「……そういえば今気づいたけど、また軍服新調したの?」

 

「ええ。劉勲さんと今日の巡行の計画を決めていた時、なんか“せっかくの閲兵式なんだし、軍服はもっとキリッとした感じの方がよくない? あ、でも飾り服とか装飾とか色々凝ってる方がカッコイイし、軍隊って見栄えも大事だからぁ、そうなるように変更できたりする?”とか言ってたので、思い切って新調してみました♪」

 

「うわぁ……」

 

 流石は名門袁家、金銭感覚が違いすぎる。気持ち的にダサい軍服の軍隊よりストイックな軍服着た軍隊の方がいいという感覚は分からなくもないが、ファッション感覚で士官制服まるごと変更するとか普通の諸侯ではありえない。貧しさに定評のある西涼出身の賈駆の思考回路がセコいだけなのかもしれないが、曹操軍あたりでも“そんな金があるなら優秀な武将雇うとかそういう方面に使った方が実利的”と考えるだろう。

 

「劉勲さんの押しで流行りの胡服の要素を入れてみたんですが、なかなか好評みたいですよ」

 

 胡服というのは、いわゆる洋服――体にフィットするズボンをはき、開襟で袂(たもと)がない筒形の袖と短い裾の上着――であり、本来は中央ユーラシアの遊牧民が、乗馬の際に便利なように作り上げた服装だ。今や国際商業都市になりつつある南陽には遊牧民も多数訪れ、実用性と目新しさも手伝ってか袁術領ではちょっとしたブームになっている。

 

「そういえば、劉勲ってつくづく胡服好きよね」

 

「私も詳しくは知りませんけど、胡服はゆったりした漢服に比べて身体の線がくっきりと出るので“カラダ見せつけるのに有利じゃない!?”とか、そーいう理由だった気がします」

 

「あー、なんか凄く納得したかも」

 

 劉勲、ちやほやされるの好きそうだし。

 

「まぁ、ボクとしては動きやすいし、西涼で慣れた服装だから有難いんだけどね」

 

 開襟の背広型上着、肩ベルトに乗馬用ブーツ、縦長の楕円形帽章、階級を表す肩章。その装飾には金の葉模様刺繍をふんだんに用い、後世のネクタイの原型となるスカーフがワイシャツに巻かれている。張勲の好みは青と白を基調としたタイプだが、他にも灰色や黒、濃紺、緋色、濃緑、茶褐色など様々なタイプがあり、所属する組織ごとに配色も異なる。

 戦闘能力はともかく、士官用の軍服デザインだけはやたら先進的で見栄えがする袁術軍であった。

 

「見て下さい、賈駆さん。槍兵の次は軍楽隊の行進ですよ」

 

 張勲の言に従い、下を見れば煌びやかな軍楽隊が行進しているのが見える。大規模な軍事パレードなだけあって、楽器の種類も実に様々だ。琵琶、二胡、秦琴、月琴、革故(中華風チェロ)、木笛、チャルメラ、竹笛、、洞簫、葫芦絲(ひょうたん笛)、腰鼓、、太鼓、銅鑼、揚琴……数々の楽器を巧みに使い分けながら勇ましい曲を奏でる軍楽隊の脇には、浮かれて興奮した数万の民。それが普段は見ること適わぬ袁家の姫を一目見んと、足を運んだ人々が人海と呼ぶにふさわしい密度で密集している。

 

「この歓呼の声をよーく覚えといて下さいね。今お嬢様を讃えている群衆の崇拝は、去年まで死んだ陶謙さんに向けられていたものですよ」

 

(―――っ!?)

 

 不意に投げかけられたのは、達観と鋭い洞察を含んだ張勲の声。

 

「賈駆さんには見覚えのある光景じゃないですか? ここに来る前、洛陽で」

 

 洛陽……それは賈駆にとって罪と辛苦を意味する単語。張勲の指摘通り、董卓軍は逆賊にされる前、都でまさに目の前にあるような熱烈な歓迎を受けていたのだ。周知の通り、それはいとも容易く利用され、罵倒と憎悪の感情へと変化していったのだが。

 

「「「袁家万歳!」」」

 

「「袁術様に栄光あれ!」」

 

 見れば脇では、袁術がバルコニーの上から道脇に集まる人々に手を振っている。群衆もまた花を持った花などを振りながら、大声で袁家万歳と歓呼する。これも移ろう数多の王朝が、ことごとく経験してきた光景なのだろう。

 

「……なんでそんな話をボクに?」

 

「袁家には優秀な人民委員が多く集まっていますが、仮に私が大衆の危険性を説いても耳を貸さないでしょうね。彼らは有能だからこそ分らないんですよ、大衆の移ろいやすさと愚かさが」

 

「一度身をもってそれを知った、ボクなら話が早いと?」

 

「ええ。従順を装う民の外見に惑わされず、忠実に職務を遂行して下さい。外様である貴女の立場を考えるに、そうするのが身のためですよ」

 

 張勲の微笑みを受けて、賈駆は微かに自分の指が震えていた事に気付いた。

 脅しと身の安全の保証、それを同時に示して一層職務に励むことと組織への忠誠を誓わせる――呑気な笑顔で取り繕ってはいても、やはり張勲もまた名門袁家の古参幹部なのだ。伊達に権力闘争を生き抜いてきたわけではないのだと、改めて再確認させられる。

 

「……そうね、忠告はありがたく受け取っておくわよ」

 

 同時に何ともいえぬ胸焼けを覚え、賈駆は新鮮な空気を吸おうと息を呑む。寒冬ただ中の冷たい風が、少しばかり喉に痛かった。 

                           




 前回の投稿からだいぶ間が空いてしまい、申し訳ございません。一応ここで生存報告を。

 話が進んでるような進んでないような今回の話ですが、とりあえず袁家は今日も安泰。でも権力と栄華は永遠ではなく、民も家臣も移ろいやすいがゆえに、権力者はいつひっくり返ってもおかしくない……そんなシビアな田豊さんと張勲さんの一面でした。


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71話:祝賀会にて

         

 南陽郡・某所にて……。

  

『――聞いたか? 袁家の連中、今度は軍事力を取り上げようとしてやがる。放っておけば、用済みになった俺たち孫家はいずれ粛清されちまう!』

 

 焦りと憤慨を露わにした手紙を、孫策は少し辟易しながら読み進めていた。差出人の名は孫賁。孫家の縁戚で、袁術陣営の傀儡政権と化している豫州の長官を務める男でもある。

 

『この前に曹操、劉表と緊張が高まってから、袁家の軍事顧問がやたらと介入するようになった。こっちは今じゃ農民反乱ひとつ潰すにも政治将校のお墨付きがなきゃ動けない状態だ。近いうちに農民の徴兵も始まるって話だから、モタモタしていると磨り潰されるぞ』

 

 手紙には増長する袁家への不満がずらずらと書き連ねられており、反逆を示唆させるような言動すら見られた。

 

「そんなこと、言われなくたって分かっているわよ……!」

 

 孫策は歯がゆい気持ちを抑えながら、孫賁に忍耐と自制を促す文をしたためる。これも何度目になることだろうか。

 思い起こしてみれば反董卓連合戦以来、袁家は全く隙を見せていない。袁術に統治能力があるとは思えなかったことから、孫策と周瑜はしばらく待てば自然と機会が巡ってくると予想していた。

 

 孫家の価値は端的にいえば、軍事力である。もちろん文官も揃っているが、固い結束で結ばれた有能な武将達は名門袁家が持っていない唯一の要素であるといっても良い。戦争が始まれば孫家に頼らざるを得ず、戦に勝利すれば孫策らの名声も高まる。しかも戦争中は袁家も監視を緩めざるを得ず、その隙をつく事で政権奪取とその正当性を訴えるつもりであった。

 

 だが孫家は、実に単純な方法で抑え込まれた。『戦争を起こさない』、この簡単なようで難しい外交上の成果によって。袁術陣営はバランサーとして実に慎重に立ち回ることで戦争を回避し、孫家を単なる治安維持部隊として飼殺すことに成功していた。

 それでも袁家の統治が苛烈で民の敵意を買えば、まだ政権奪取のチャンスもあっただろう。しかし(孫家にとっては)残念なことに、内政も極めて安定している。無論、だからといって善政を行い、民に慕われている訳ではない。『袁家は袁家にしか貢献しない』とは賈駆の評であったが、袁家はまさしく利己主義者の集団であった。利益を損なうものは容赦なく排除され、人口における奴隷の比率が最も高い諸侯であった。

 

 されど袁家も全知全能ではない。どれだけ膨大な財力・兵力・権力を誇ろうとも、鶏に金の卵を産ませることもできなければ、砂漠から水を吸い上げることもできない。彼らは権力のなんたるかを人並みには弁えており、民衆という宿主抜きには権力が寄生できないことを理解していた。反抗しない限りは迷惑を与えず、袁家に協力すれば富の一部と引き換えに栄光への切符を手渡す。反抗して失うものと大きさと、譲歩して得られるものを天秤にかければ、民が袁家のもとで飼いならされることを選ぶのは当然であった。

 

 『――痩せさらばえた狼であるより、肥えた豚のほうが幸福である』

 

 誰が言ったかは知らないが、少なくとも上記のように考える人間が過半数を占める限り袁家の支配は安泰であった。民の間で後漢末期の混乱の経験が抜けきっていないともなれば、戦を回避し最低限の安全を保障してくれる袁家は“比較的”寛大な支配者であった。

 

「今、下手に動けば逆に利用されるだけ。ここで失敗したら、何のために今まで耐えてきたか分らないじゃない……!」

 

 結局のところ孫家が袁家を倒して後釜に座るという事は、どんなに体裁を取り繕うとも謀反に変わりはない。豪族や士大夫の信奉する儒教は主君への忠誠を理想としているし、民に慕われているとは言えずとも袁家による支配は一定の支持を得ている。他の諸侯と戦争もしていないから、軍事負担に対する民の不満もない。加えて孫家には統治の実績がなく、武人としての名声はあっても内政面では彼女らの能力を疑う知識人は多かった。

 そんな状態で反乱など起こしたところで支持は集まらないだろうし、袁家が持久戦の構えを見せれば兵力で劣る孫家が不利。しかも内戦の長期化はかえって袁家統治時代の平和さを相対的に強調してしまうため、孫家は悪役として全ての責任を被せられた上で不満のスケープゴートにされてしまう恐れがあった。

 

 まだだ、まだ“その時”ではない……孫策は昂ぶる神経と血流を抑えようと深呼吸を繰り返す。長い雌伏の時は孫策を精神的に鍛え、彼女は以前に比べて忍耐強く冷静な判断を可能としていた。

 

(冥琳は今頃、どうしてるのかしら……)

 

 孫策は彼女の親友に思いを馳せる。いつもならこうした事務作業は周瑜に任せているのだが、彼女は現在この場にいない。なんでも下邳で大規模な袁術軍の閲兵式があり、それに強制参加させられる形で徐州へ出向いているとかいう話だ。

 

 取り留めもなくそんな事を考えていると、ふと窓の隙間から反対側の建物のバルコニーに立つ孫権の姿が目に留まる。

 

「蓮華……?」

 

 孫権は文官用のゆったりとした服を着こみ、手に持った書類を見つめていた。何を読んでいるのだろうか、などと首をかしげながら見つめている内に、孫権の顔色がどんどん暗くなっていく。綺麗に整った横顔には憂いが滲んでおり、書類を見つめる眼差しは、こちらの胸が苦しくなるほど哀しそうだった。だが孫権はもう一度書類を見つめた後、切なそうにかぶりを振ると、部屋へ戻っていった。

 

 

  

 ◇◆◇

 

 

 同時刻、下邳城では軍事パレードもやっと終盤に差し掛かってきた頃だった。

 

 (……さて、そろそろ私たちも用意した方がいいかもしれないですね)

 

 張勲は次に行われる祝賀会の準備にとりかかるべく、頃合いを見計らって袁術に声をかける。

 

「美羽様~、あんまり前に出すぎないよう気を付けてくださーい。墜落したら美羽様、熟れた石榴みたいになっちゃいますから」 

 

「ひっ! ……そ、それは嫌なのじゃ~! 」

 

「張勲、あんた自分の主君にも結構容赦ないわね……」 

 

 ちなみに下邳城の内城の城壁はけっこう高い。先の戦争の折、近くにあった堤防を決壊させても内城だけは浮かんでいたというから、実際に人が落ちれば怪我では済まない。

 

「うぅ……や、やっぱり妾は部屋に戻るぞ!」

 

 そして高さに対する恐怖をいったん意識すると、袁術の興奮も瞬く間に急降下し、安全な屋内に戻りたくなったらしい。

 

「そうですねー。この後にはまだ祝賀会とかありますし、少し休んだ方がいいと思いますよー」

 

 パレード中ずっとはしゃいでいた袁術が疲れて寝てしまわないとも限らない。外部の要人が集まるパーティーでそうした粗相を起こさないよう、張勲も彼女なりに袁術の体調管理に気を遣っていた。

 

 ◇ 

 

「遅ぉ~い! いつまで待たせてんのよぉ」

 

 途中で張勲らと別れて賈駆が屋内の休憩室に戻ると、さっそく拗ねたような女の声が響いた。人民委員にはいろんな人間がいるが、この何となく人を舐めたようなしゃべり方をするような人間といえば、1人しか思い当たらない。

 

「しんどぉーい、アタシ待ちくたびれちゃったー。だからお茶出してー」

 

「……なんだろう、このイラッとくる感じ」

 

 ふかふかのソファで足をパタパタさせる女性――劉勲もどうやら後のパーティーに備えて休憩に入っているようだった。しかも隣にはなぜか周瑜もいる。意外といえば意外な組み合わせに賈駆が首をかしげると、それに気づいた周瑜が補足を加える。

 

「孫家と周家は江南の豪族に顔が広い。今回の祝賀会には徐州と関係の深い江南北部の豪族も多く来ているから、袁家としても我々がいた方が何かと話を進めやすいというわけだ」

 

 不本意丸出しで語る周瑜。なるべく冷静に振る舞おうとしているようだが、その声は硬い。

 あまり深くは触れられたくない様子だったので、賈駆も話題を変えようと隣へ視線をずらす。

 

「で、アンタは此処で何を――………やっぱ別にいいや」

 

「えー」

 

 なんだか不満そうに構って欲しいオーラを放出する劉勲だったが、賈駆は気にしたら負けだと思って無視することを決意する。

 

「文和ちゃ~ん」

 

「目を潤ませて上目遣いで見上げても無駄だから。 あと勝手に名前呼ぶな」

 

「むぅ……もうちょい刺激が必要かぁ」

 

 ならば、とばかりに劉勲は妙に慣れた手つきで服を脱ぎだした。パレード用の軍服のボタンが外され、肌が透けそうな薄い白無地の開襟ワイシャツがのぞく。その下に付けている黒のブラジャー(特注品)が見事なまでに透けているが、彼女の性格的に狙ってやっているのだろう。と、そこで賈駆は自分の視線が彼女に注がれていたことに気づく。

 

「どう?興奮した?」

 

「……しないわよ」

 

「ふぅん」

 

 あくまで平静を装って徐々に視線を逸らそうとするが、劉勲は例の媚態じみた眼つきとポーズでじっと見上げてくる。既に下衣も脱いで生足が見えるようになっており、少し動いたせいで服に出来たシワが繊細に揺れ動く。

 

「じゃあ、試してみる?」

 

 ゆっくりと手を伸ばし、そぉっと賈駆の頬を撫でる。同性でも思わず見とれてしまいそうな、蠱惑的な笑み。

 

「動じないんでしょう?」

 

「っ……!」

 

「ふふっ、可愛い―――ったぁい!?」

 

 唐突にゴンッと大きな音が響き、劉勲が可愛らしい悲鳴を上げる。犯人は周瑜。即興で編み出されたピンクな空間は、そこで終わりを告げた。

 

「すまんな、蚊がいたもので」

 

「アタシ、思いっきり殴られたような気がするんだけど!?」

 

「ほう、よく分かったな。実を言うと、見るに堪えなかったので茶番劇に幕を引くべく鉄拳制裁を」

 

 もはや否定すらしない周瑜に、「やっぱコイツ嫌ーい」と劉勲は子供のようにじだばだ暴れ出す。そんなんだから周りに呆れられるんだと思いつつ、賈駆は投げやりに口に開く。

 

「どうせなら同性のボクとかじゃなくて、がっついてきそうな紀霊将軍あたりにでも見せたらどう? 傭兵隊の詰め所にでも行けば、喜んで襲ってくれるかもしれないわよ?」

 

「あー、うん。さっき行ったら20人ぐらいに襲われた」

 

 行ったんかい。ほぼゴロツキ同然の傭兵隊にその姿見せびらかすとか、意外と勇気はあるのか。

 

「いやいや、流石のアタシもヤバイかなーって思ったんだけど、やっぱ女の子的には新しい服買ったら周りに自慢したいじゃない?」

 

「普通は身体と命賭けてまで自慢したいとは思わないけどね」

 

「で、行ってみたら男共が血眼になって見つめてくるわけですよ、生脚を。はぁはぁしながら触ろうとしてくるわけですよ、胸を。――分かる? この乙女的な危険信号感じるんだけど、でもみんな必死過ぎてなんか笑えてくる感じ?」

 

 いや、その感性はおかしい。

 

「でねでね、気づいたら男同士で奪い合いになっちゃったみたいで。いつの間にか大乱闘になってて超笑えるの! あはははっ」

 

 本っ当、性格悪いなこの女! 無意識に突っ込もうと開きかけた口の筋肉を抑えたところで、賈駆はあることに気づく。

 

「あれ? あの騒ぎの元凶って、ひょっとして……」

 

 そういえば閲兵式中に副官から伝えられた警備状況の話に、そんな事件があったような無いような。

 

「やだ、文和ちゃんってば鋭すぎぃ」

 

「やっぱアンタなのね!? この際だから言うけど、そのせいでボクとばっちり受けて張勲に脅されたんだけど! しかも割と目が本気で怖かったんだけど!」 

 

「大変だったわねー。でも、もう大丈夫よ。お姉さんが守ってあげるから」 

 

「完全に嘘よね、それ。今唐突に考え付いた台詞をなんとなく言ってみたかっただけだよね?」

 

「うふっ♪」

 

 殴りたい、この笑顔。つい心の声を実行しそうになるが、すんでのところで自制する。

 

 そうやってギャーギャーと騒いでいた2人だったが、それに終止符を打ったのは小さな子供の声だった。

 

「――2人とも騒がしいぞ! 立って礼ぐらいしたらどうなのじゃ!」

 

 驚いて振り向くと、張勲を引き連れた袁術が立っていた。

 

「妾を誰だと心得ておる! 名門袁家の世継ぎ、袁公路なるぞ!」

 

「頭が高ぁい、 控えおろー♪」

 

 印籠でも出しそうな勢いでふんぞり返る袁術と、さらっと便乗する張勲。疲れて仮眠でも取っていたのかと思いきや、案外元気であるらしい。時に子供は興奮状態になると、大人より不眠不休で動き回れるものらしい。

 

「これは失礼、見苦しいところをお見せしましたわ。どうぞお座りください、袁南陽郡太守さま」

 

(切り替え早っ!?)

 

 ほとんど条件反射的に、ガラッと口調と雰囲気を変化させる劉勲。舞台女優の経験でもあるのかと疑いたくなるレベルの変貌ぶりだ。立ち上がって優雅に一礼すると、恭しく袁術に椅子をすすめる。

 

「そういえば、先ほど徐州の方から上質の栗入り月餅をもらいましたの。よろしかったら、お茶と一緒にお出ししますわ」

 

「うむ。大義である。ただ……その、妾は苦いお茶は好きじゃないのじゃ」

 

「でしたら……そうですね、天竺由来の砂糖を使った緑茶などではどうでしょう?」

 

 現代日本人の北郷一刀がいれば大いに突っ込みたくなるチョイスだが、グローバルスタンダードではむしろ砂糖入り緑茶がジャスティス。甘いお茶といえば緑茶、しかも南方からの輸入品である高級品・砂糖をたっぷり使うことは古き良き上流階級のステータスでもある。

 袁術の許可を得て使用人に指示を飛ばすと、劉勲は何かに気づいたように、にんまりと笑いを堪えながら質問した。

 

「袁術さま、次の祝賀会に使うお召し物はいかが致しましょうか? 何かご要望のものがあれば、すぐに用意させますわ」

 

「ええっと、そうじゃの、まずは金と赤の翟衣じゃ。あと、簪は出来るだけ大きな真珠が付いてるのがよい」

 

「仰せのままに。――ほら、早く持ってきて。周中郎将」

 

 悪意を含んだ笑顔で周瑜に合図をする劉勲。

 

「なぜ私に振る」

 

「だってお付きの使用人はお菓子取りにいっちゃったしぃ。 でも考えようによっては、袁南陽太守たってのご要望にご奉仕できるいい機会よ。光栄でしょう?」

 

「それほど光栄ならば、自分で持ってくればいいだろう」

 

「ううん、ひょっとして不満なの? まぁどうしても嫌っていうなら、アタシがやるけど?」

 

 一瞬、周瑜のこめかみが引きつる。今の状態で劉勲の提案を肯定すれば“袁術に対する奉仕という栄誉(・ ・)が嫌であり、不満をもっている”と受け取られかねない。

 

「……承知した」

 

 刺々しい空気をまき散らしながら劉勲を睨みつけた後、周瑜は踵を返して出ていった。

 

(そういえばボクが昔通ってた私塾でも、あんな光景があったような……)

 

 要領いい上に先生や先輩に甘えるのが上手なクラスの女王と、真面目で頭はいいのだがイマイチ人間関係的に孤立しがちな優等生。ちなみに賈駆は私塾の学生時代、いわゆる委員長ポジであった。

 そして袁術は目を丸くして底冷えするような女2人の諍いを見ていたが、周瑜が出ていくと緊張がとれたように可愛らしく肩を下ろす。

 

「な、なんだか怖い顔をしておったな」

 

「そうなんですよぉ、愛想悪くてアタシ達もどう付き合えばいいのか分んなくて」 

 

 いかにも困ってます風の表情を浮かべ、自分への同情を誘おうとする劉勲。別に嘘は言ってない。だから信憑性が増す。おかげで袁術もいろいろ誤解したまま劉勲の言葉を鵜呑みにしたらしく、少しだけ憤慨したように頬を膨らませた。

 

「まったくじゃ。あれでは皆が怖がるではないか。――妾も一瞬、反乱でも起こされるのかと思ったぞ」

  

 続く一言で、見事に部屋の空気を凍らせて。

 

 

 **

 

 

 祝賀会が始まったのは、それから数刻後のこと。徐州と南陽郡による合同閲兵式の成功と更なる発展を祝い、双方の交流を目的とした祝賀会が開かれる。各地の主だった名士が集い、友好を深めながら見合い話やゴシップに花を咲かせるのだ。

 

「まぁ、趙広陵太守は漢詩もお得意ですのね」

 

 広間の中央では案の定、見事なまでに猫をかぶった劉勲が、社交デビューに気合いを入れる徐州名士たちの輪に入って会話に花を咲かせていた。着替えも済ませ、明らかに異国のものだと分かる、大きく背中を露出させたホルターネックのイヴニングドレスを纏い、相手の反応を楽しむかのように身を乗り出している。そんな彼女に目をつけられた相手――趙昱はどちらかといえば育ちのよさそうなお坊ちゃんタイプで、思わせぶりな仕草で擦り寄ってくる劉勲に顔を赤らめていた。

 

「そっ、そんな……大袈裟ですよ! 僕みたいな田舎者にはとても……」

 

「ふふっ、そういう謙虚なところも素敵ですわ」

 

 絵になる逆ナンという意味不明な構図が展開されているのだが、それを上流階級は社交技術と呼ぶ。だがイイトコのボンボンを漁っているばかりではなく、政治家・外交官としての責務も完璧にこなしているからタチが悪い。

 

「今日は1人ではるばる広陵から?」

 

「いえ。同郷に陳登という知り合いがいるので、彼と一緒に来ました」

 

「ひょっとして典農校尉を務めていらっしゃる、あの名門陳家の?」

 

「はい。ええっと、どこかに……――あっ、いました! ほら、あそこで麋竺さんと話している背の高い人が……」

 

 向こうも劉勲たちの視線に気付いたのか、澄ました愛想笑いを浮かべて輪に加わる。こんな様子でどんどん人が集まってくるのだが、劉勲の対応は慣れたもので、華やかな笑顔を絶やさず、数え切れぬほどの名士たちとの挨拶をこなし、虚飾と美辞麗句で塗り固めた挨拶を交わす。それだけでも外交官としては十分であったが、驚くべきことに劉勲は接触する(あるいはしてきた)相手の姓名と役職、加えて来歴や趣味まで記憶しているらしく、最適な話題を提供することで相手が話やすい雰囲気を作り出していた。

 

(いったい何処からあれだけの情報仕入れてるのよ……)

 

 逆に考えれば、劉勲は会ったこともない相手の詳細な情報を知っているということ。その気になればあっさり警備の隙間をぬって暗殺、なんてこともあり得る――自分も諜報関係の仕事に就いているだけに、賈駆は戦慄にも似た何かを感じていた。

 

 それなのに会話相手が誰一人として劉勲に疑問を抱かなかったのは、ひとえに彼女の会話の上手さゆえか。よくもまぁ、次から次へと話題を絶やさずに舌が回るものである。その上で彼女は、ともすれば形式的になりがちな社交辞令も堅くならないよう、適度に話を広げたり、相手の話に相槌を打ちしながら場を盛り上げることも忘れない。

 すると相手も気分を良くして饒舌になるものだから、他人の痴話喧嘩から流行の音楽、有名人の失敗談にうまい儲け話まで実に様々な話題が耳に入ってくる。ネットも新聞もない時代、こうした社交の場で手に入る情報は金にも増して貴重なもの。社交能力の高さが、冗談抜きで国運を左右することすらあり得るのだ。

 

 

 

 そして劉勲ほどで無いにしろ、それなりの地位と名声を持つ人物にとって、社交パーティーで人脈を広げたり何らかの情報交換や依頼をするのは義務のようなもの。周瑜もまた、揚州の名士を中心に矢継ぎ早に顔合わせをして周り、特に孫家ないし周家と関係のある名士達と会合を重ねていた。

 

「実に答えにくい質問をするものですな、周瑜どの」

 

 江南名士の一人である張紘は、盗聴を気にするように声のトーンを落として言った。2人がいるのは下邳城の庭園片隅にあるひっそりとした東屋だが、用心に越したことは無い。

 

「袁南陽太守に対抗しようと、豫州牧殿が……?」

 

「孫賁殿とて孫家の一員だ。袁家の傀儡で満足するような柄ではない」

 

 重要人物の中にも袁家に反感を持つ者がいる、と伝えることで周瑜は遠回しに自分達への協力を依頼する。江南の要人が一同に会するこの祝賀会で、周瑜は出来るだけ多くの協力者を得ようと考えていた。 

 

「しかし、豫州は代々袁家が本拠地としてきた地域だぞ? 州牧一人が音戸を取った所で、民や名士が支持すまい」

 

「そうです。彼らは“袁家”に忠誠を誓っているのであって、“袁術”とは限りません」

 

 袁家は大雑把に分けて袁紹派と袁術派に分裂しており、本拠地の豫州とて例外ではなかった。むしろ本拠地である分、争いが激しいともいえる。周瑜は袁紹派を中心に切り崩すよう工作を仕掛けており、孫賁からの連絡ではそれなりに賛同が得られたという。

 

「ここ徐州でも、劉徐州牧は袁術との“同盟関係”には懐疑的という話です。袁家が手を広げ過ぎた今なら、機会は充分にあるはずです」

 

 周瑜は畳み掛けるように詰め寄る。本当のことを言えば袁術政権はそこまで脆くは無いのだが、そう思わせることが大事なのだ。

 

「最後に揚州ですが、あそこは元より親孫家の名士が多い。加えて我ら周家に穏家の支持があれば、間接支配の為に置かれている武装商船や商会の私兵などものの数ではありません」

 

「……君の話は分かった。だが、一歩遅かったな」

 

 張紘は大きく溜息を吐くと、やるせないといった表情で首を左右に振った。

 

「どういう意味ですか?」

 

「……これを見たまえ」

 

 張紘は懐から十数枚の書類を取りだすと、周囲を警戒しながらゆっくりとそれを広げる。

 

「『淮水―長江間連結計画』……?」

 

 そこに書かれていたのは、淮水と長江を繋ぐ大運河の建設計画であった。そして担当者の欄にはこう書かれていた。“――劉徐州牧名代・諸葛孔明および袁南陽郡太守名代・劉子台”と。

       




 やっと孫家が動き出す……かもしれない。


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72話:大運河建設計画

   

「少し前の話だ。徐州から袁家に内密に打診があった」

 

「徐州から……?」

 

 ますます分からない。周瑜は無意識に眉根に皺を寄せた。

 袁家が大規模な運河建設を勧めているというのも十分に驚きだが、張紘によれば依頼したのは劉備ら徐州政府だという。しかし今までの劉備らの対応を見る限り、袁家とは対立していたように見えた。それが何故今になって――。

 

「徐州の現状は知っているだろう。政府は戦時中の借金を返すので手一杯、民政には手が回らず難民対策は焼け石に水状態、物価上昇も天井知らずだ。このまま放っておけば暴動が反乱に昇華するのは時間の問題だよ」

 

 戦後の難民対策というのは実に厄介だ。生産手段を持たない難民から税を取ることはできないし、放っておけば食うに困って盗賊と化す。難民キャンプが幾らか整備されたとはいえ、やはり全員を収容しきれるものでもない。一刻も早く荒れた農地を再建し、難民が再び農民として立ち直れば万々歳なのだが、現状では不可能に近い。徐州政府も先の戦争の戦費返済が重く圧し掛かっており、農地が復興するまで難民を養う資金など残っていなかったのだ。

 

 もう一つの問題は、戦後インフレとでも呼ぶべき急激な物価の上昇。徐州は戦時中に多額の資金を借り入れており、それは年間予算の3倍にも達していた。戦時中は戒厳令と価格統制によって強引にインフレを抑え込んでいたものの、停戦と同時に戦時体制が崩壊。戦争による生産設備・物流拠点の破壊により供給能力が極度に低下している一方、戦後復興の需要は止まらず、急激なインフレーションに歯止めがかからない。それを見越しての買い占めなども横行し、物資不足と際限のない価格上昇に民の不満は爆発寸前だった。

 

「だが……配給制あるいは価格統制という案もあっただろう?」

 

「最初はそうしたさ。私も含めて皆がそういった経済統制案を支持した。しかし……」

 

 急激な引き締め政策と統制経済は市場経済を縮小させ、市場からの資金引き揚げは貨幣不足を乗じてデフレを引き起こす。インフレは収まったが、入れ替わりに市場が冷え込んでしまったという、典型的なデフレ不況に陥ったというわけだ。

 しかも統制経済や配給制度というのは、政府がそれを民衆に強制できるだけの権限と能力を保有していなければ成り立たず、戦争によって政府機能が大幅に弱体化した徐州政府が満足に遂行できたとは言い難い。あちらこちらで闇市場が生まれ、徐州政府は政策転換を迫られる結果となった。

 

「そこで浮かび上がった案が、先の大運河建設だ。いつも劉徐州牧に付き添ってる若造……『天の御使い』とかいったか?あれが対策として公共事業を起こせばいいと主張した」

 

 北郷一刀の出したアイデアは至ってシンプル。公共事業によって有効需要を作り出し、雇用の改善と景気回復を狙うというもの。この時代では相当に画期的な方法だが、後世では平凡とも揶揄されるほどスタンダードな景気対策だ。

 

 その目玉とされたのが、今回の大運河建設案だ。『山陽瀆』あるいは『邗溝』と名付けられた、長江と淮水を結ぶ大運河建設の利点は大きくいって2つある。

 まず第1の理由としては、大運河の建設には膨大な人民を必要とするため、耕作地を失った無数の難民の受け皿と成り得ること。難民が犯罪者予備軍となるのは生計手段を持たないからであり、彼らを労働者として雇用すれば失業問題は解決する。

 2つ目は運河という交通インフラが整備されれば、物流が大幅に改善されることは勿論、徐州は一気に交易の中心地という地位を確立できる。徐州は大運河によて中国の南北を連結し、南陽郡まで続く淮水によって東西とも結ばれる。発展の著しい江南への進出拠点としても徐州は栄えるはず――。

 

 理屈としてもさほど複雑なものでもないため、公共事業を行う意義と利点を張紘が説明していくと、周瑜はその効用をたちどころに理解したようであった。

 

「要点は理解したが……にわかに信じがたいな。一体何者なのだ?その御使いとやらは」

 

「さぁ?私にも分からない。 だが、彼自身はともかく、その提案は非常に魅力的だ」

 

 周瑜は訝しげに張紘の反応を伺うも、嘘を言っているようには見えない。本当に『天の御使い』について何も知らない様子であった。

 

「少し話が逸れてしまったな。ひとまずその件は置くとして……こんな事を言うのも何だが、いささか少し話が大き過ぎないか?」

 

「そう、そこだよ」

 

 眉に皺を寄せる周瑜に、張紘は話の続きを語り始める。

 

「我らには提案があっても、それを実現するだけの金が無い。実を言うと、最初は大運河建設など絵に描いた餅だと皆が一蹴した」

 

 大運河の建設が旨い儲け話だということは誰もが理解するだろうが、大事業なだけに巨額の資金が必要になる。当初は徐州の商人から資金を借り入れるつもりだったのだが、ものの見事に拒否された。商人たちにすれば、ただでさえ戦費の返済に苦しんでいる徐州政府に、とても運河建設に費やした借金が返済できるとは思えなかったからだ。株式によって「塵も積もれば」方式で小口のベンチャー資金を蓄積するという案もあったが、徐州の年間予算の2~4倍とも試算される大運河建設には懐疑的な意見が多数派を占めた。

 

「だがあの小さな軍師、諸葛亮殿は諦めなかった。毎晩のように地図を読みふけり、なんとか既存の運河を繋げて一本の大運河に出来ないかと努力したらしい」

 

 やがてその努力は実を結び、大運河建設に現実味が出てきた。「長江と淮水を繋ぐ大運河」というと何やら壮大な計画に聞こえるが、何も一から全てを作るという必要はない。もともと徐州は河川も多く水運が発達していた土地柄ゆえ、漢代には、小規模な運河なら既にかなりの数が作られていた。新しく作るのではなく、既存運河の改修ならばコストは大幅に削減できる。諸葛亮は無数の小運河を改修・増築しながら連結することで、長江と淮水を繋げるという計画に現実味を与えたのだ。運河の全長はやや伸びる結果となったのものの、コスト的にも当初の計画の7割まで削減できたという。

 

「だが、やはり金が足りない。徐州政府が出資できる金額は、借金をしてもせいぜい計画の5割が限度だった」

 

「そこで袁家の出番、というわけか」

 

 やっと納得した、という口調で周瑜が声を発した。

 

「ふむ……目の付けどころとしては悪くない。今の袁家は金余りだからな。投資先に困って裏で袁紹や曹操にまで金を貸してると聞く」

 

 劉勲が『勢力均衡』を公式路線として中原の覇権争奪戦から距離を置いて以来、南陽郡は自由化の推進によってかつてない繁栄を手に入れている。大土地所有と農奴制による農地の集約化、規制緩和による活発な投資、華北の疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、自由貿易の推進による輸出入の増加のおかげだ。

 しかし副作用として自作農の没落と格差の増大を招き、農業の集約化・機械化による過剰生産は深刻な豊作貧乏を引き起こしていた。「モノを作れば需要は後から付いてくる」と供給を編重した弊害がもろに現れた形だ。

 

 しかし低下した領内の購買力を高めようとすれば、自作農をはじめとした大衆の経済力を強化させるしかない。だが、それは諸刃の剣だ。そもそも袁術領の繁栄は、少数の名士や金持ちが多数の小作人や農奴から搾取するシステムによって生み出されたもの。対処をひとつでも誤れば体制が崩壊しかねず、同時に既得権益層からの激しい反発を受けるともなれば、中間層を増やして内需を増やすという政策が取れるはずもなかった。

 

 

 ゆえに袁家は低下した領内の購買力を回復させるのではなく、その販売・資本投下先を領外に求めた。その標的となったのが徐州と揚州であったが、問題はすぐに表面化する。

 まず揚州であるが、こちらは新興の発展途上地域ということもあり、インフラを始めとする市場の整備がまだまだ未成熟であった。南陽郡の資本と豫州の余剰作物を受け入れるには、あまりに購買力は低過ぎ、その経済規模は小さ過ぎた。将来ならいざ知らず、現時点では“急成長を続ける田舎”(商務人民委員・楊弘の評)でしかなった。徐州に関しては当初こそ思い通りに事が進んでいたものの、曹操軍による侵攻によって将来有望な市場は瞬く間に負債を抱え込んだ荒野となった。

 

 それに追い打ちをかけるかのように華北の戦乱は時を追うごとに広がり、中華の市場は大きく縮小する。かつての経済の中心地・洛陽と長安ですら荒廃したとなれば、行き先を失った資本が“比較的安全”かつ“よく整備された”南陽の金融市場に向かうのは当然の帰結であった。袁術以外にも、劉表など優れた外交手腕によって戦乱を逃れた諸侯は数あれど、金融センターとしての条件――規制が少なく、発達した貨幣経済があり、インフラなどの市場基盤が整備され、流動性が高く規模の大きな市場を持ち、戦争に巻き込まれておらず政治経済的に安定している――をまがりなりも備えていたのは南陽郡だけであった。

 

 

 かくして南陽郡には巨額の資本が流れ込む。それ自体は喜ぶべきことだが、先にも述べた通り格差の増大によって購買力が追いつかない。しまいには華北での戦乱リスクを嫌って南陽郡に逃れたはずの資金が、行き場を失い巡り巡って華北に再投資されるという、なんとも間抜けな事態に陥っていた。

 

 『 敵にすら金を貸し付ける』とは南陽商人の貪欲さをよく表現した後世の皮肉であるが、その裏には純粋に政治的な対立で片付けきれない複雑な事情があったのだ。しかし袁術陣営とて、本心から敵への投資を望んでいるわけではない。

 もし収益が確実に見込める、将来有望な投資先が見つかれば――袁術陣営のこうした切実な願いに諸葛亮が『大運河の建設』という解答を提示した結果、徐州と南陽郡の奇妙な協力関係が生まれたのだった。

 

 

「そういうことだ、周瑜殿。残念だが、貴女に協力を約束することはできない」

 

 机の上で指を組むと、張紘は真面目な表情で周瑜に告げた。

 

「徐州を立て直すには、袁家に協力を仰ぐ他ないのだ。我々だけではどうしようもない」

 

「たしかに袁家に協力を仰げば一時的に救われるかもしれませんが……彼らがこれまで何をしてきたか、その傀儡政権が誕生した豫州で何が起こってるのか、袁家に追従した青州がどうなったか、もう一度思い出していただきたい。曹操が攻め込んできた時、袁家は徐州を切り捨てようとした……そんな相手を信用できると?」

 

 その言葉に張紘はやや怯んだように体を引いたが、すぐに沈痛な面持ちになる。

 

「だとしてもだ。我々は未来のことを考える前に、まず現在を生きねばならん。袁家を頼る以外に、徐州を今すぐ復興させる方法があるのかね?」

 

 ◇

 

 結局、周瑜が張紘から引き出せたのは、袁術陣営が徐州に害を為した場合には協力するという曖昧なものだった。他の名士も基本的には似たり寄ったり。総括すると「袁家に頼りたくはないが、そうする以外に復興の目途がない」という消極的な袁術支持だった。

 

「ままならないものだな……」

 

 周瑜は誰にともなく呟く。その言葉の相手は諸葛亮か、自分か、あるいは――。

 いや、誰であろうと関係ない。とにかく自分は出だしから躓いてしまった。袁家と劉備たち、そして世間そのものを甘く見過ぎていたのかもしれない。

 

「明日に袁家を倒すため、今日は袁家と結ばねばならない……なんとも矛盾した世の中になったものだ」

 

 あれは依存性の強い酒のようなものだ、と周瑜は考えている。確かに短期的には害が無いどころか、目先の問題から目を反らせてくれる良薬にすら見える。だが多くの人が「何時でも止められる」と思いつつも、気づけば依存症になっているのだ。

 

 しかし彼らを一概に愚かだとは言い切れない。飢饉の年に来年の収穫を気にして種もみを食べずにいれば、年内に餓死する者も出てしまう。高利貸しはそういった時を狙って貸し付けを行い、現在と引き換えに農民の将来を奪って隷属させる。だが高利貸しがいなければ農民は飢饉の年を越せないため、嫌々ながらも彼らに頭を下げるのだ。こうした搾取の構図が幾度となく繰り返された結果が、今の中華の“社会秩序”だった。

 毎日のように袁術領では抗議の声があがるが、その度に潰されてゆく。名士も民も袁家の作り出す社会秩序から抜け出せない。

 

「やはり、力が無くては何もできないか……」

 

 周瑜は壁にもたれて目を閉じる。弱肉強食――自然界における唯一無二にして絶対的かつ普遍的な法則だ。人間社会では『道徳』や『倫理』といったものが幅を利かせているが、それを決めるのは支配者階級であり力の強い者たちだ。巧妙に隠されているだけで、本質的には強者が弱者の上に君臨する自然界と何ら変わりはない。決して「力を持っていれば何をやっても構わない」とは思わないが、「何かをやるには力を持たねばならない」、それが今の“社会秩序”なのだから。

 

 

 **

 

 

 その後、祝賀会では大運河の建設計画が正式に発表された。

 大規模な公共事業を行う事で徐州の難民に職を与え、経済の活性化も促す――『山陽瀆』と名付けられた、長江から淮水までを繋ぐ運河建設の発表は大きな驚きをもって受け止められたが、徐州名士には概ね好意的に受け入れられる。戦後復興が思うように進まない中、政府の積極的な介入を求める声が広がっていたからだ。

 

 むしろ袁術領や揚州名士の方が採算や実現性について疑問を投げる者が多く、張勲や賈駆など治安維持かかわる要人からも懐疑的な意見が多く出た。しかし財界からは、行き詰まりつつある景気を打破する一大プロジェクトとして支持される。

 最終的には徐州に対する復興支援金を削減する代わりに、運河建設費用の実に4割を南陽政府が出資するという内容で一応の決着をみたのだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――南陽郡・宛城

 

「はぁ……疲れた」

 

 徐州で開催された合同軍事パレードから2週間後、賈駆は最悪の気分で家路についていた。残業が終わらないまま、定休日に朝帰りする羽目になったからだ。もちろん家に帰っても、休日返上で自宅残業が待っている。それというのも、最近は連日のように領内外で様々な事件が発生しているのだ。

 

「週末にまた(・ ・)暴動とか勘弁してよ……被害報告とか責任追及とか犯人逮捕とか、本当にいろいろ面倒なんだから」

 

 初めのうちは小さな事件が時間・場所・内容・原因ともにバラバラに起こっていたため、単に領外の戦争による景気停滞のあおりを受けているだけだと考えられた。

 しかし小さな事件でも積み重なれば大きな社会不安となる。そのため賈駆は秘密警察の増員によって反体制派を検挙と事件のもみ消しを図るも、“近頃の保安委員会の増長は目に余る。有事だからといって無暗に秘密警察に権限を与えるべきではない”“安易に人員を増やすのではなく、もっと努力して効率のよい仕事をするべきだ”とライバル達の妨害によって思うように進まないのが現状だ。

 

「――ったく、必要な権限も資源も無しにどうすればいいんだか。面倒な作業と責任は全部ボクに押しつけるくせに」

 

 賈駆は毒づきながら、窓からのぞく宛城の風景を眺める。窓の外には落葉広葉樹の並木に沿って散歩道が中央広場まで続き、広々とした庭園が気持ちのいい街並みを演出する。官庁街から2里と離れておらず、しかも中心地区の喧騒とも無縁の高級住宅街――そこに袁家の重臣たちが集まっていた。彼女も例にもれず、この地区に屋敷をもっている。ただし屋敷とはいっても、賈駆のそれは保安委員会本部庁舎の別棟を借り受けたもので、派手好きの袁家家臣の屋敷の中では比較的こじんまりとしている方だ。2階構造の細長い建物で、全体的に天井が高いのが特徴である。家具の数は控えめで、調度品の配色もホワイトやブラックなどのモノトーンが多いため、やや殺風景ともモダンとも取れる内装だった。 

 

 

「――失礼します、同志。 ご不在時に発生した重要案件をまとめました。後で確認をお願いします」

 

 書斎に戻るや否や、彼女の元にはさっそく書類の束が届けられた。左手で茶を飲みながら、右手で書類をさっと広げ、じっくりと文面に目を通す賈駆。

 

「暴動7件、一揆が4件、放火2件……うち1つは官庁への襲撃、か」

 

 面白くない状況ね、と賈駆が片眉を上げた。報告を届けた秘書官は真面目な表情で頷き、確認するように手帳をめくる。

 

「はい。原因については目立った偏りはありませんが、うち半数が豫州で起こったものです」

 

「……まったく、この忙しい時期に。 豫州の同志たちは何をやってるのよ……」

 

「聞くところによれば、戦争による不景気が民の生活にも影響し始めているようです。豫州は対曹操の最前線ですし、不安と不満が政府への敵意となって膨らんでいるようです」

 

「豫州政府の対応は?」

 

 賈駆がら質問すると、秘書官が答えにくそうな表情になる。

 

「それが、“下手に刺激しない方がいい”と……」

 

「また?」

 

 賈駆は胡散臭そうに顔をしかめた。実は以前から豫州では暴動が多発していたものの、当の豫州政府や州牧である孫賁が中々動こうとしないのだ。“無理に押さえつけると却って暴発する危険がある”との主張にも一理あるが、それにしても呑気過ぎる。そのくせ“対策の為に人員を送る”と言っても“内政干渉だ”と拒否する孫賁には、賈駆もいい加減いらついていた。

 

「お飾りの州牧ならお飾りらしく素直に言うこと聞けばいいってのに……。 これだから自尊心高い奴は困るのよ。変に意地張ったあげく、一緒にボク達まで巻き込むのは勘弁して欲しいわね」

 

「では、告発しますか?」

 

 秘書官がさらりと言う。賈駆の指揮する人民保安委員会は、袁家が誇る世界最大の秘密警察・諜報機関だ。反体制派のテロ対策や傀儡政権の監視、言論統制、他にも様々な秘密工作を担当している。いわば暗部の集まりで、その気になれば「敵対勢力との内通」容疑で孫賁を逮捕し、裁判の場で“自白”させることも不可能ではない。

 

「……いや、今は止めておく。ボク達にはまだ他にやる事が沢山ある。――それより、この徐州で起こった事件の方が気になるんだけど」

 

 賈駆が問うと、秘書官は持っていたメモに目を走らせる。

 

「建設途中の大運河に対する放火事件ですか」

 

 メモによれば、逮捕されたのは大運河建設の際に農地を失った自作農たちだという。先の軍事パレードにとそれに続く祝賀会で、徐州豪族の大部分が運河建設を支持したとはいえ、無論そうでない者もいる。特に運河建設予定地周辺の農民は猛反発し、大勢が運河建設の為の退去を拒んでいる。報告書にはその一部が武器を取り、建設中の大運河に対して放火などの大規模な破壊活動を行ったと書いてあった。

 

「標的となったのは作業員の宿舎、資材倉庫、竹足場……まったく、これで作業が2カ月は遅れるわね。人的被害は、作業員8名が死亡、1名が行方不明、警護にあたっていた兵6名も殉職、か……」

 

 賈駆は報告書をファイルにとじ、秘書官に向き直る。こうした事件が起こるであろうことを、事前にある程度は予想していたらしい。冷静そのものの顔つきで、そっけなく告げた。

 

「早速、といったところね。遅かれ早かれ、ボク達を弱体化させようと狙う敵が大運河を攻撃すると思っていたのよ」

 

 思っていたより早かったけどね、と賈駆は付け加える。大運河が敵対勢力のターゲットにされるであろう事は、計画の発表段階から予測されていた。後世の鉄道と同じく、運河は軍事・経済的な重要性が高い割に防衛する事が困難なため、敵にとっては格好の標的となる。また、実際に破壊できなくとも長大な運河を防衛するために多大なコストを払って大軍を張り付ければ、結果として曹操や劉表などに軍事上の自由を与えてしまう。 

 

「敵対勢力の支援ないし介入があったと、同志賈駆はそうお考えですか?」

 

「たぶん、実行したのは外部の敵対勢力だと思うけど……」

 

 一度そこで話を切ると、賈駆は秘書官に顔を近づけるよう手招きする。

 

「ここだけの話、ボクは内部から手引きがあったと考えてる」

 

 内部からの手引き――袁家において、それが示すものはひとつしかない。

 

「……孫家、ですか?」

 

「ええ」

 

 秘書の問いに、賈駆は疲れたように頷く。徐州で開かれた閲兵式では、周瑜が祝賀会の最中に様々な徐州の要人と会談していたという記録がある。まだ本当のところは分からないが、状況からして何かを企んでいる可能性は高い。協力者は曹操か、劉表か、運河建設に反対する揚州豪族の誰かか、あるいは袁家内部の反対派かも知れない。いずれにせよ、早急に排除しなければ……。

 

「至急、徐州と揚州にいる“同志達”に連絡を。それから――」

 

 賈駆は紙に何か書くと立ち上がり、秘書官に渡した。

 

「劉勲にも取り次いで。ひとつ、徐州でやって欲しいことがあるから」

        




 今回の大運河建設は隋の京杭大運河の1つ、『山陽瀆』をモデルにしました。
 今の北京から杭州まで繋がる隋の大運河ですが、後の唐や宋の発展はこの大運河によって広大な中国が経済的に統一されたことが大きいそうです。

 隋は農民に労役を課すことで反感を買って滅びましたが、流石に劉備さんはそういうことはしないです。で、ちゃんと給料を払おうとすると、金が無いので袁家に出資してもらうしかなく、そうするとパナマ運河を巡るアメリカとパナマみたいに……。


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第八章・新世界への扉
73話:見えない敵


     

 陳留の街はずれにある酒場――表面上はそうなっている――では、非公式の会談が開かれていた。 曹操が程昱ら軍師たちに命じて作らせた極秘施設のひとつで、あまり表沙汰にはできない事情を扱っている。

 

「ほほー、そのような申し出ならば大歓迎なのですよー」

 

 とぼけるようにそう語る程昱に、目の前に座る客人は皮肉げな声で答える。

 

「いやなに、そちらには何度もお世話になっています。このぐらいの協力は当然のことですよ。友人が困っている現状で、支援を惜しむつもりはありません」

 

 客人と彼の所属する勢力が、自分たちに接触を図ってきたのはつい先週のことだ。徐州戦役で疲弊した曹操軍だが、程昱のもとにはこうして協力を申し出る客人が度々現れる。

 

「袁家は勝ち過ぎました。北も、南も。 そうは思いませんか?」

 

「そうですねー。あの2人が天下を統一してしまったら、それこそ悪夢だと風も思うのですよ」

 

 程昱の返答を最後に、客人は満足そうな表情で退室した。袁家を抑える――その一点で利害は一致しているはず。付け加えるならば、同盟者は自分より弱い勢力であることが望ましく、徐州戦役で疲弊した曹操軍は理想的な番犬に映っていたのだろう。今の曹操軍は昔に比べれば弱体化しているが、その分手綱は握りやすいという訳だ。

 

「まぁ、あの華琳様がこのまま黙っているとも思えませんけど」

 

 程昱は口元を手で覆い、くすりと笑う。たしかに徐州では少なくない犠牲を払った。だが、それを教訓として曹操軍は変わりつつある。より強く、より統一された覇王の兵士へと――。

 

「しばらくは踊ってあげましょう。能ある何たらは爪を隠す、ですよ」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 徐州・下邳にて――。

 その日の昼下がり、下邳城にあるオフィスでは諸葛亮がいつものように仕事に精を出していた。眠気に負けじと目蓋をこすりながら、大量の書類に目を通していく。袁家から大運河建設の資金を調達したはいいが、仕事はまだ山ほど残っているのだ。とりわけ最近になって頻発するようになった事件が、建設中の大運河に対する襲撃だ。現政権への不満から既得権益層の反発まで、表向きの原因は様々だが、背後に曹操や劉表などの影がちらついている。どれも一筋縄ではいかない相手ばかりだ。

 

 特に曹操軍はとりわけ厄介な存在だった。徐州から主力部隊を撤退させたとはいえ、未だに琅邪城には沢山の兵士が駐屯しているし、それが及ぼす悪影響も見過ごせない。反体制派や反乱分子がそこに逃げ込んでしまえば、諸葛亮らは手を出せないからだ。例えば先の運河襲撃事件も、実は曹操側が仕組んだ陰謀なのではないかという陰謀論がかなり幅を利かせている。

 

 しかし疲弊した徐州にもう一度戦争をやる余裕はなく、曹操軍もそれを見越して様々な策略を張り巡らせていた。数え切れないほどのテロ事件に加え、いくつもの反政府組織を支援している。戦後復興に手一杯だった徐州政府はこれを完全に取り締まることができず、徐州に多額の債権を持つ袁家は不満を募らせていた。

 中には徐州を完全に併合しようという過激な意見もあり、曹操陣営による破壊工作をどれだけ防げるかは徐州政府の目下の課題となっている。その対策に頭を悩ませていた折、ドアを叩く音に気づいて顔をあげると、扉から連絡係が顔を出した。

 

「劉書記長がお見えです」

 

 諸葛亮は驚いたような表情をして、慌てて窓の外を見る。すでに太陽は45度ほど西に傾いており、事前に予定されていた劉勲との面会時刻まであと僅かだ。

 

「分かりました。通こちらにして下さい」

 

 連絡係が劉勲を連れてくるまでの短い間に、諸葛亮は急いで身だしなみを整える。机の上にある鏡を見ながら跳ねている髪の毛を撫でつけたり、シワの出ないように漢服の乱れを直す。

 しばらくすると短くドアがノックされ、高級感のある革のバッグを片手に、劉勲が軽やかな足取りで入ってくる。諸葛亮が挨拶しようとすると、劉勲が人差し指を唇に当てて制した。

 

「結構よ。せっかくのお忍びなんだし、今日は堅苦しい挨拶は無しで――ね?」

 

 長い睫毛からのぞく翠の瞳に皮肉っぽい色をたたえ、劉勲はにっこりと微笑む。諸葛亮は彼女に脇にあるソファをすすめると、自らも傍に座る。

 

「それで、用件というのは……?」

 

「建設中の運河が襲撃を受けたって話は知ってるわよね?」

 

 諸葛亮は深刻な表情で頷く。あの事件では徐州の人間が15人も死んだのだ。実行犯は捕まったが、彼らの自白するところによれば、まだ裏には黒幕がいるらしい。この計画には徐州の未来がかかっているだけに、諸葛亮としても自体の収拾を図る必要があった。

        

「何か新しい展開があったのですか?」

 

「ええ。ちょっと見てくれる?」

 

 劉勲はバッグから一枚の紙を取り出すと、諸葛亮にもっと近くに寄るよう手招きする。紙に書かれていたのは、犯人からの押収品リストだった。

 

「これは、前に私が賈駆さんに送ったものですね。なるべく多くの取り調べ調書を送ってほしいと頼まれましたが……」

 

 本来なら徐州で発生した犯罪は徐州政府が担当するのが普通なのだが、何せ大運河建設は半分近くが袁家の出資で成り立っている。捜査に協力しろと言われれば、諸葛亮に断れるはずもなかった。

 劉勲はリストを手に持ったまま、諸葛亮にも良く見えるように肩を寄せる。

 

「ほら、ここを見て。押収された武器の一覧よ。投げ槍、矛、薙刀……土地を奪われた農民の報復なのに、使われた武器はやけに軍用品が多いと思わない?」

 

「たしかに……! 普通なら、農民たちは鍬や鋤といった農具を武器にするはず。軍用品を使っていたとなれば、誰かが手引きしている確率が高いかと」

 

 どうやら陰謀論は真実であったようだ。特に疑わしいのは曹操だが、劉表など他の諸侯である可能性も外せない。

 

「賈駆ちゃんもそう言ってたわ。それに、もし本気で大運河建設を妨害しようとしている黒幕がいるなら、こんな一度の襲撃で満足するはずがない、ともね」

 

 一度の決戦より十度の小競り合い――インフラ破壊などのゲリラ戦では継続的に被害を与えることが重要だ。となれば黒幕は次の襲撃のために、まだまだ多くの武器を溜めているはず。どこかに武器倉庫があるはずだ……そう考えた賈駆は、コラボレーターを使って手当たり次第に情報を集めた。

 

「そしたら広陵郡に新しく建てられた寺院に、大量の武器が運び込まれているらしいって話が出て来たの。情報提供を受けただけで、まだ確証は無いんだけど……どこか心当たりはあるかしら?」

 

「寺院……ですか」

 

 諸葛亮が呟く。当時の中華では、仏教はまださほど広まっておらず、今でいえば新興宗教扱いだ。黄巾の乱によって大損害を受けた諸侯は、当然ながら新興宗教をマークしている。仏教や五斗米道といった新興宗教の広まりは、徐州政府も依然から潜在的危険因子として危険視していた。

 

「ひょっとして……」

 

「何か知ってるの?」

 

 劉勲が好奇心に満ちた声で問いかけると、諸葛亮は嫌なものでも思い出すように、苦々しげに口を開いた。

 

「笮融さん、という人がいるんですが……広陵で仏教保護に篤く、しかも要注意人物といえば彼しかありえません。昔は陶謙様のもとで物資輸送の監督官を務めいたのですが、裏でそれを私物化して不正蓄財していた人物です」

 

「本当?だったら話が早いわ! 今すぐにでも逮捕してもらえないかしら?」

 

「ですが、具体的な証拠もなしに逮捕なんて……」

 

 ためらいがちに言葉を濁す諸葛亮に、劉勲は問題ないとでもいうように快活に口を開く。

 

「そんなもん拷問室に連れてけば欲しいだけ出てくるわよ。そうね、急いで自白させたいなら関節脱臼させるか、逆さ吊りがいいんじゃないかしら。あんまり外見に痕残らないし」

 

 自らが口にした拷問の様子を想像しているのか、うっとりするようなポーズを取ってみせる劉勲。鋭い犬歯がのぞき、見開かれた緑の瞳には嗜虐の色が浮かんでいる。

 

「後はそうねぇ、念のために家族も捕まえといて、目の前で拷問するってのはどう? こっちは逆に視覚効果重視で、ヘラで1枚づつ爪剥がすとか」

 

「劉勲さん!」

 

 諸葛亮はうんざりした声で劉勲の言葉を遮った。

 

「そんな残酷な事はしません。“疑わしきは罰せず”、それが徐州政府の方針であり、州牧・劉玄徳様の意思です。笮融さんを尾行して、もし証拠が集まったら法にのっとって逮捕します」

 

 劉勲は静かに諸葛亮を見つめた。興奮した表情が消え、一瞬だけ深い軽蔑の色が走ったかと思うと、いつもの注意深い冷静な目に戻る。

 

「そう、分かったわ」

 

 劉勲は軽い溜息をつくと、無造作に垂れていた髪を片方の耳に掛けた。耳元のピアスが小さく光沢を放つ。

 

「なら、この件は諸葛亮ちゃん、アナタに任せるから。賈駆ちゃんと人民委員会にはアタシから伝えておくから、なるべく早く犯人をつきとめて」

 

「構いませんが……なぜ私に?」

 

「アナタの事を信じてるからよ、諸葛亮ちゃん」

 

 そう言う劉勲の声は、内心ではあまり期待していないかのように無感動に響いた。まるで値踏みするような――出世に役立ちそうな部下を見定めている上司に近い感じとでもいえばいいのだろうか。

 

「もし犯人を見つけ出して運河を早急に完成させる事が出来れば、見返りは充分あるわ」

 

 暗にその逆もあり得るという意味を含ませ、劉勲は謎めいた笑みを見せた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 劉勲からの要請に従い、諸葛亮はすぐさま捜索部隊を編成し、北郷一刀がその任にあたることになった。劉備の側近と目されている一刀であるが、関羽・張飛のように将として軍に常勤しているわけでもなければ、高級官僚として諸葛亮や鳳統と同じ政治・事務作業を担当しているわけでもない。要は無任所大臣に近い形で、「人手が足りない時に特命を与えて、いろいろな業務を処理させる」という便利屋のような扱いである。

 

「あれから4日間、張り込みの収穫はゼロか……」

 

 その日の夕闇が訪れる頃には、今までの努力の全てが空振りに終わるのではないかと、そんな鬱屈した感情が一刀を苛んでいた。時間だけがのろのろと過ぎてゆく。

 

 4日前、一刀は諸葛亮に言われた通りに広陵に赴き、そこで確かに新しく建立された仏教寺院を見つけた。早速、その内部をしらみつぶしに捜索したのだが、出てきたのは大量の巻物と仏具、法衣といった陰謀とは無関係のシロモノばかりだった。

 もうひとつの捜索目標である笮融の屋敷でも捜査を行ったものの、年老いた家老と使用人が何事かと訝しげな顔をして一刀たちを眺めるばかりで収穫はなかった。彼らに当主の居場所を問うと、一刀たちが来る2日ほど前に行き先を告げずに出たきり、屋敷には戻ってこないという。

 

 タイミングとしては出来過ぎている――確証こそないものの、笮融が何らかの手段で逃走した可能性はかなり高いと一刀は見ていた。諸葛亮が袁家から聞いた報告によれば、身内に裏切り者が潜んでいるかもしれないという。もし笮融がクロで、内通者の助けでこちらの意図に気づいたならば、今頃はとっくに別の拠点を構えているだろう。あるいは裏で糸を引いている黒幕 (もしいるとすれば)の元に報告にでも言っているのかもしれない。

 

(クソッ、ギリギリで逃げられたか……?)

 

 それでも逃走先が分からない現状では、笮融が帰還する事に一縷の望みをかけて張り込みを続けるしかなかった。部下の兵士たち笮融邸と寺院を監視させると共に、広陵中の関所にも見張りを置いたが、今のところ成果は上がっていない。

 その上この手の仕事は退屈で、兵士たちにとにかく評判が悪い。毎日それぞれに割り振られた巡回経路を延々と回り続けるか、何時現れるとも知らぬ犯人を待って同じ監視場所で何日も寝泊まりする羽目になるからだ。必然的に士気も上がらず、不平を漏らす部下たちを宥めるのに一刀も苦労していた。

 

「北郷さん、自分達、いつまでこの手の捜査を続けなきゃいけないんですかねぇ?」

 

 糜竺という名の役人が、一刀に不満げに漏らす。彼の前にある机の上には大量の書類――ここ数週間の間に広陵郡の関所を通過した物資の出納記録がある。これを整理して、武器の搬出入量やその経路を調査するのが彼の担当だった。よほど面倒なのか、始終ひっきりなしに貧乏ゆすりをして一刀をイライラさせていた。

 

「何遍見ても怪しい記録なんてありませんよ。だいたい向こうがもし本気でやってるなら、馬鹿正直に関所通って武器を運んだりしませんって」

 

 常識で考えればその通りなのだが、万が一ということもある。そう考えて関所の記録を調査させた一刀だったが、努力もむなしく空振りに終わったようだった。広陵中の関所を調査しても武器が大規模に出入りした記録はなく、特に怪しい案件もない。

 

「別の何かに偽装して運び出しているって事はないか? 例えば、ここ数週間で急に特定の何かの搬出が増えたりとか……」

 

「無いですね、いつも通り平常運転ですよ。むしろ何も無さ過ぎて逆に怪しくなるぐらいです」

 

 あっさりと否定される。

 

「これだけ広陵中をひっくり返して何も見つからなきゃ、やっぱどっかから密輸されてるんじゃないんですかねぇ?」

 

 糜竺が投げやりに言う。その態度はともかくとして、武器が密輸されているのではないか?という疑問は否定できなかった。笮融が単独犯で自前で武器を作ったという可能性もゼロではないが、それらしき証拠は見つかっていないし、そもそも動機が不十分だ。状況から考えて曹操か劉表あたりが黒幕で、笮融はその手駒として動いていると考えた方が現実的といえる。となれば武器も外部から密輸されてると見るべきなのだが、問題はその運搬手段が分からない事だった。

 

「密輸っていうのは普通、小さくてかさばらないモノでやるもんだろ? どうやって関所も通らずに、武器みたいに重くて大きいモノを大量に運ぶんだ?」

 

「馬車とか?」

 

「だから、そんな大袈裟なものが通れる道路には全部関所があるって」

 

「じゃあ……人力?」

 

「真面目に考えてくれ。人力とか、逆に悪目立ちするだろ」

 

 というより人件費とか密輸作業員の食費などを考えると、コスト的に割に合わない気がする。曹操にしろ劉表にしろ、遠い自分の領土から遥々マンパワーで大量の武器を密輸するなんてアホな真似はしないだろう。

 

「船?」

 

「一度に大量に運べる分、まだそっちの方が可能性があるな………」

 

 続きを言おうとした所で、一刀の動きが止まった。糜竺の方も貧乏ゆすりを止め、2人で目を見合わせる。

 

「「――それだ!!」」

 

 2人で同時に叫ぶと、急いで部屋の隅にあった箪笥の中から地図を引っ張りだす。糜竺が徐州を中心にした中華東部の地図を見つけると、一刀は彼の手からそれを奪うように手に取り、書き込まれた河川の位置をじっくりと確認する。

 

「わかったぞ。恐らく……」

 

 目をしばたたき、一刀はもう一度地図を見た。広陵郡は徐州の最南端にあり、そこから南に行けばまだ未開の地の残る揚州が広がっている。そして両州の間には、互いを隔てるように流れる広大な河――長江があった。

 

「笮融は武器を揚州から運び込んでいたんだ……」

 

 

 **

 

 

 案の定、次の日に一刀達が長江沿岸の船乗りに聞き込みを行うと、近頃は知らない船を度々見かけるという。「知らない」というのはきちんとした港に停泊市に来ないために素性が分からない、という意味であるため、船乗りたちの間でも揚州からの密航船ではないかという疑念がもたれていた。

 

 

 一刀は急いで下邳に戻り、事の次第を伝えるために諸葛亮の執務室へと向かった。

 諸葛亮は突然現れた一刀に驚いた顔をしたが、興奮冷め止まぬ一刀の推論を聞くと表情を曇らせた。

 

「広陵郡では決定的な証拠は見つからなかった。ですが、代わりに別の手掛かりが見つかったと……そういうことですか? 揚州に犯人、あるいはその協力者がいるかもしれない、と」

 

「ああ。朱里、これは偶然なんかじゃない。広陵で笮融と大量の武器が消失したのとちょうど同じ時期に、長江近辺で密航船の目撃回数が増えているなんて、まぐれにしては話が出来過ぎてる」

 

 一刀が顔を紅潮させながら言う。諸葛亮の表情の変化にも気付いていない。

 

「多分、笮融は揚州から長江を渡って武器を運びこんでいたんだ。でも俺達が捜査を始めたから、危ないと感じて揚州に脱出した。その際、証拠となる武器も一緒に船に乗せて輸送したんじゃないか?」

 

 諸葛亮は目を閉じ、何かを考えているようだった。次に目を開いた時、その表情はどちらかといえば困り果てた様子で、諸葛亮は一刀ゆっくりと口を開く。

  

「それは、もしそうだとしたら……私たちは微妙な立場に立たされるかも知れません」

 

 仮に一刀の推測が正しかった場合、大運河建設を快く思わない者、あるいはその協力者が揚州にいるという事だ。

 

「袁術さん達が一枚岩ではない、という話は知っていますよね? この前の閲兵式後の祝賀会でも、劉勲さんと張勲さん、賈駆さんと周瑜さんがそれぞれが積極的に人脈を作ろうとしていました」

 

 人脈を作る、というのはこの場合、味方を増やすことと同義。そしてあの祝賀会に出席していた袁家の主要メンバーは、全員がバラバラに動いていた。単に分散して効率よく人脈を広げているだけという可能性もゼロではないが、諸葛亮の見た限りでは袁家家臣の間にそこまで強固な仲間意識があるようには思えなかった。となれば、野心に燃える袁家家臣たちのこと。華やかなパーティーの裏で、熾烈なコネクション作りの合戦が繰り広げられていても驚くには値しない。

 

「……ここから先の話は、他言無用でお願いします」

 

 諸葛亮は声のトーンを落とすと、盗聴を警戒するように一刀に近づき、耳元でそっと囁く。

 

「恐らく、袁家内部では再び権力闘争が起こっています」

 

 一刀は一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに険しい表情になる。言われてみれば、思い当たる節はいくつかある。

 例えば、この前の軍事パレード後の祝賀会。一刀も劉備の付き添いとして出席していたのだが、いつになく積極的に動く周瑜に違和感を覚えていた。これまでも何度か前徐州牧・陶謙と共に袁家主催のパーティーに参加したことがあったが、いずれも孫家が積極的に動く様子は見られなかった。恐らくは袁家に野心を疑われる事を警戒しての事だと一刀は推測していたが、その時はそんな様子は見られなかった。

 そこから考えられる可能性は2つ。袁家が完全に孫家を信用したか、あるいは何らかの理由で監視を緩めざるを得なかったか――だが、両者の関係を見る限り前者は考えにくい。恐らくは後者だろう。

 

 それに、未来の知識を持っている一刀は、史実で孫家が袁術に対して反逆することを知っていた。勿論その全てがこの世界に応用できるわけではないが、ことに袁家と孫家に関しては史実通りと見て良いだろう。両者の不和は周知の事実であり、巷でも孫家は遅かれ早かれ袁家から独立すると噂されていた。

 

(まさか、それが真相なのか……?)

 

 華北における袁紹の覇権により、軍司令官の張勲は勿論、劉勲もまた外交・経済的に苦境にある。長引く戦争は不況となり、不況は民衆の不満となることから、諜報機関を統べる賈駆も増え続ける反体制派に手を焼いていた。

 もし孫家が本気で反乱を起こすつもりなら、またと無い絶好のチャンスだ。もしかすると、この状況すら彼女らが仕組んだものなのかもしれない。だとすれば――。

 

「袁家と孫家の争いに、俺達も巻き込まれるかもしれないってことか……」

 

 無言で肯定の意を示す諸葛亮を見て、額を抑えながら呻く一刀。いずれ両者が対立するであろう事は予想していたが、まさかこのタイミングで巻き込まれる事になろうとは。 

 

(もし孫家が勝てば、袁家から資金を出してもらってる大運河建設は白紙に戻る……。逆に袁家が無傷のまま孫家の粛清に成功すれば、徐州は完全に袁家に頭が上がらなくなる。かといって、決着がつかずに内乱が長引けば……)

 

 間違いなく曹操に付け込まれる。軍を立て直すべく一旦本拠地に撤退したとはいえ、依然として彼女が脅威であることに変わりはない。

    

「……ひとまず、この話はここまでにしましょう。まだ確信にたる物的証拠がある訳ではありません」

 

 諸葛亮は硬い表情をしたまま、歯切れ悪く言葉を濁す。

 

「袁家には明日、私から今の話を伝えておきます。 それから念の為、雛里ちゃんにも相談しようと思います。万が一に備えて、いろいろ準備する必要も出てくるかもしれません」

 

「俺は? 何をすればいい?」

 

 諸葛亮は顎に手を当てて思案するような仕草をした後、おもむろに口を開いた。 

 

「一刀さんは揚州に向かって下さい。目的は運河襲撃事件に対する捜査協力の依頼という形で、まずは揚州牧・劉繇に会ってもらいます」

         




 前回の投稿から、かなーり時間が空いてしまいました。
 リアルが忙しいです。今後も更新速度は遅れたままかもです。

 最近、朱里さんがワーカホリック気味。


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74話:疑心の種

        

 一刀から報告を受けた後、諸葛亮はすぐさま宛城へと報告に向かった。巨額の富で潤っている宛城に着くと、さっそく郊外にある袁術の屋敷へと案内された。ケヤキや楢の木が点在する広大な庭園に、いくつもの東屋が立っている。そこからやや離れた孤立した丘の上に、壮麗な袁術の屋敷が見る者を圧倒するように建てられていた。

 

 諸葛亮はなだらかな階段を登って袁術邸に入り、大理石の豪華な玄関ホールを抜けると、広々とした応接室に着いた。中央にはクスノキで作られた円卓があり、それを囲むように人民委員たちがくつろいだ様子で座っている。諸葛亮は軽くお辞儀しながら中に入ると、そろった面々に素早く目をやる。

 

 まず目に入ったのが賈駆。元董卓軍の軍師という不利な立場を持ち前の聡明さで覆し、今では保安委員会のトップとして安定した地位を築きつつある。権力者にありがちな汚職や腐敗とは無縁で、秘密警察を使って社会秩序の強化に力を注いでいる。

 右側では劉勲が手鏡を見ながら、小さなメイクブラシで睫毛の形を整えている。こちらは豪華な私生活と派手な交遊関係で知られており、袁家の負の側面をもっともよく体現している人物でもある。権力闘争から男女関係までスキャンダラスな醜聞が絶えない女性だが、話してみると意外なぐらい気が利いてコミュニケーション上手な印象を受けた。もっとも、それすらも計算づくで動いていると言われても特に驚きはしない。

 

「ようこそ、諸葛孔明さん。袁家は貴女を歓迎しますよ」

 

 にこやかな笑顔と共に、張勲が諸葛亮を迎えた。世間における彼女の評価はパッとしないが、それは軍人としてのこと。他の家臣たちが互いに対立し疲弊してゆく中で、彼らと距離を置きながら権力の座に留まる……少し違えれば全員が敵に回るリスクのある、中立を取り続けられている時点で無能とは言い切れないだろう。

 反対側にいるのが、軍務委員長の袁渙。袁家の血縁者で、がっしりとした体格の偉丈夫だ。その傍にいる白髪まじりの血色の悪い壮年男性が、法務委員会議長の楊弘。皮肉っぽい性格の野心家で、権力闘争を生き抜く才はかなりのものがある。外務委員会議長の閻象は穏やかで人当たりのいい貴族だが、その私生活には謎が多い。劉勲の口添えで出世したこともあり、彼の指揮する外務委員会の決定には、書記局の意向が強く反映されているという。

 最後が周瑜で、その表情からは何の情報も窺い知ることはできなかった。袁家の下にいた期間が長かったせいか、近頃の孫家は以前より協力的だという。孫権ら若手の人間にはその傾向が強く、逆に周瑜ら孫堅時代からの人間は未だに袁家を憎む傾向があった。

 

「――袁家の皆さま、徐州牧・劉玄徳のもとで軍師を務めている諸葛孔明と申します」

 

 恭しく跪き、諸葛亮は奥にいる袁術に向かって頭を下げた。袁術は小さなカップで蜂蜜水をちびちびと飲んでいたが、諸葛亮を見ると挨拶代わりに満面の笑みを浮かべた。

 

「久しぶりじゃな、この前の祭りは楽しかったぞ」 

 

 軍事パレードで盛大にもてなした事もあってか、袁術は割と上機嫌だった。印象も悪くない。問題は他の人民委員たちだ。大半が賈駆のように不信の目で睨んでくるか、劉勲のように面白がって眺めている。張勲のように営業スマイルで本心を押し隠す者もいた。

 

「さて、ようやく主賓も来たところだ。そろそろ本題に入ろうか」

 

 さっそく、楊弘が口を開く。

 

「知っての通り、最初の議題は他でもない――かの大運河の進捗状況を聞くためだ。この手の捜査は保安委員会が担当しているはず。どうだね、同志賈駆?」

 

 賈駆は眼鏡の奥から諸葛亮を一瞥し、劉勲の方に視線を向ける。劉勲は彼女の視線に気づくと、軽くウィンクを返す。賈駆は了解したというように小さく頷くと、目で諸葛亮の方を示した。

 

「思いつく限りの情報提供者を総動員したけど、南陽郡では何も怪しい動きは無かったわよ。やはり当初の想定通り、徐州内部で犯行計画が練られて実行に移されたと思う。そっちは徐州内部の犯罪捜査は現地政府の管轄だから、そこにいる諸葛亮に聞いた方が早いでしょ」

 

 再び全員の視線が諸葛亮に集まり、彼女はゴクリと唾を飲んだ。テーブルの反対側にいた劉勲はそれに気づくと、安心させるように微笑む。

 

「緊張しないでいいのよ、諸葛亮ちゃん。さぁ、知ってる事を正直に話して」

 

 劉勲の口調と表情は優しかったが、緑の瞳に冷めたものがあるのを諸葛亮は感じた。まるで商人が品物を値踏みするような……恐らく、劉勲と賈駆は自分ひとりに捜査の弁明をさせる気だ。

 

「現状、徐州で妙な動きはありません。疑わしい人物を逐一捜査したところ、笮融という人物が捜査線上に浮上してきました」

 

「それで? 逮捕できたの?」

 

「いえ、残念ながら既に逃走した模様で……」

 

 案の定、ちらほらと失望の声があがる。袁渙が遮るように右手を振った。

 

「要するにだ。何も分からんという事だろう。まったく、これでは話にならん!」

 

 軍務委員会議長という立場についているものの、これは袁渙にとって甚だ不本意な任あった。軍務委員会は野戦軍として外敵からの防衛という任を負っているが、袁術軍にはこれと別に領内の反乱や暴動に備える保安委員会という2系統の軍が存在している。人民委員会では地方豪族や商人の力が強いため、野戦軍は潜在的な危険分子と見なされ、軍務委員もどちらかといえば出世コースから外れた役職であった。

 

 そして袁渙もまた、己の境遇を劉勲らとの権力闘争に敗れた結果として不満をもっていた。袁家の血を引いているがゆえに、辛うじて粛清されずにいる……そんな公然の秘密を内に抱えた袁渙が、この一連の襲撃事件を自らの復権に利用しようと考えたのは当然の流れであった。

 

「徐州駐屯部隊の兵力を増強する必要があるな。彼らの権限も強化して、もっと柔軟に活動できるよう取り計らうべきだ」

 

 袁渙は挑むような口調でそう主張すると、ちらりと横目で劉勲を見やる。非友好的な視線であった。

 

「外務委員会は一度、この事件から手を引くべきではないかね? 我々の方が遥かに成果をあげられる」

 

 袁家における統治の基本方針が『間接統治』であることは比較的知られているが、その裏では自身の派閥拡大を企む劉勲の意向が強く関係していた。間接統治とは裏を返せば「表向きは独立している」ということになるため、その管理対応は外務委員会が担うことになる。外務委員会に深いパイプを持つ劉勲としては、直接統治にして内務委員会や財務委員会に奪われるより、間接統治のまま外務委員会が管理していた方がよい、という訳だ。

 かつて権力闘争に敗れた袁渙にしてみれば、この一連の事件は賈駆への牽制と劉勲への復讐を兼ねる絶好の機会だった。

 

「袁術様、すぐに断固とした対策を打ち出すべきです。民はすぐに気づくでしょうし、敵も同じです」

 

 声を張り上げる袁渙だったが、そこで賈駆が横槍を入れる。

 

「軍務委員会の担当は外敵からの防衛だったはずよ。治安維持活動に慣れてないアンタたちの予算と人員を増やしたところで、本当に効果はあるの?」

 

「勿論だ。大事なのは秩序の回復と、政府が行動を起こしたという姿勢だ。私なら兵を大幅に増やし、昼夜問わずに徐州中を見張らせる。何かがあればすぐ動けるし、投資家や住民に安心感を与える事も出来る」

 

 何より大事なのは、運河に対するこれ以上の襲撃を予防すること。それさえ達成できれば極端な話、犯人は見つからずともよい……袁渙は言外にそう主張していた。その裏には自ら指揮する軍務委員会の組織強化という意図も含まれてはいるものの、袁術陣営にとっては一理ある意見だった。

 

「軍務委員会議長のいう効果が本当かどうかは分からんが、少なくとも“行動を起こした”という形は必要だろうな」

 

「私も賛成だ。経済界も既に大きな損失を被っている。生ぬるい対応では、商人たちは納得しないだろう」

 

「徐州にある駐屯地の数も増やすべきだろう。大規模な駐屯地がない場所には、区域ごとに派出所を設けるのはどうだろうか」

 

「――ま、待って下さい!」

 

 気まぐれで徐州の政治に介入されては堪らない。諸葛亮は無礼を承知で会話に割り込む。

 

「たしかに容疑者の確保には失敗しましたが、捜査の過程で分かった事もあります。私たちの推測が正しければ、揚州が関与している可能性があります」

 

 揚州は『袁家の箱庭』とも揶揄される、半植民地でもある。そこに不穏な動きがあれば袁家は重要視せざるをえないはず……つい焦った形になってしまったが、諸葛亮としてはそれなりに有効な手を打ったつもりだった。しかし――。

 

「揚州が? 何のためにだ?」

 

 予想に反して袁家の反応は冷たいものだった。というより、諸葛亮の報告を信じていない風にみられる。

 

「バカバカしい! 辺境にあるがゆえに貧困にあえいでいた揚州で開発を行い、積極的な投資と多額の援助を行ってきたのは我々だ。感謝こそすれ、我々を恨む理由などあるまい」

 

 自信たっぷりに周囲を見回す袁渙。少なくとも袁家の中では、自分たちの投資が揚州の発展を支えているというのが共通の認識であり、無条件に「揚州は親袁術派」との楽観論が多数派を占めていた。支配する側の傲慢と評すればそれまでだが、袁渙とて根拠もなしに論を展開したわけではない。

 

 曰く、袁家は血と剣によって制するのではなく、金貨と言葉によって統治が行われる。条約という法形式をとっているため、支配者のきまぐれで生命を脅かされることがないという点では、非人道的というより人道的である。ただ重税をかけるのではなく、経済発展のための投資を行っている点でも、収奪的というより恩恵的である……もちろん、これは袁家の一方的な視点から見た論理である。支配する側は往々にして、更に苛烈な支配が行われている地域と比べて「自分たちはそうでもない」と自己満足する傾向にある。

 

 

「――まぁ、たしかに揚州名士の大部分は袁家に好意的と見て良いだろうな」

 

 どこか含みのある周瑜の言い方は、暗に袁家の支配が末端まで及んでいないことを示唆しているのか。支配される側にしてみれば、そもそも「他人に支配されていること」そのものが問題なのだ。仮に袁渙の主張が全て真だとして、あくまで“植民地にしては”多少マシな統治を行っているというだけである。可能なら一切の支配から解放されて自立したいと思うのが被支配者の心理であり、それは“比較的”優遇されている孫家とて例外ではなかった。

 

「そうかもしれんな。揚州には特に気を遣っているが、何事も完璧などありえない。我らの目の届かぬところで、誰かが残りの少数派を焚き付けていてもおかしくはない」

 

 楊弘が嫌味っぽく毒づくと、周瑜は軽く肩をすくめた。

 

「仕方のないことでしょう。大きな力を得れば、それと同じくらい大きな恨みを買う。何も揚州に限ったことではないし、袁家に限ったことでもない」

 

 支配者としての袁家は格別に悪辣というわけではなかったが、同時に博愛主義者でもなかった。その力は外交や経済に頼る部分が大きいために、武力による統一を目指す諸侯に比べて血の匂いが薄いというだけのこと。覇権の本質は曹操や袁紹と変わるところはなく、周瑜の指摘した通り、それ相応の恨みも買っていた。

 

「ほう、随分と大きく出たな。証拠でもあるのか」

 

「もちろん。先ほどの言の裏付けではありませんが、ひとつ耳に入れてもらいたい情報が」

 

 冷静そのものの口調で、周瑜はさらに話を続けた。

 

「先ほど私の部下が、兌州から琅邪城に通じる道で曹操軍が動いているという情報を掴んだ」

 

 たった一言で、人民委員会はざわつき始める。曹操が動いているかも知れない……不確定な情報にもかかわらず、広間の空気が張り詰めた。主力が引き揚げたとはいえ、いまだに徐州北部に残存している曹操軍は2万を超える。徐州で万単位での虐殺を行った曹操軍は、今や中華全土で恐怖される存在になっていた。

 

「一度主力を兌州に撤退させた曹操軍が、なぜ今戻ってきたのか。 まぁ、思い当たる節はいくつかあるのだが」

 

 周瑜は最後に横目で賈駆を見やる。その反応を見る限り、どうやら賈駆にとっても初耳だったらしい。不意を付かれた賈駆はとっさに調査中だと返すも、かえって保安委員会には余力が無いという印象を周囲に与えてしまった。

 

 事実、袁術領の治安は悪化の一途を辿っていた。秘密警察の懸命な取り締まりにもかかわらず、暴動や抗議の件数は日に日に増えている。華北の戦争による悪影響が徐々に民衆の生活を圧迫し、その不平不満の矛先が権力者へと向かっているのだ。この隙を、曹操ら他の諸侯が見逃すはずもない――。

 

「まさか……いや、しかし曹操ならやりかねん……」

 

「確かにな。改めて考えると、目の前の事件に気を取られ過ぎていたのかも知れないな」

 

「近頃は物騒な事件が多いですからねぇ。保安委員会には少々、荷が重過ぎましたか」

 

 閻象をはじめ、何人かが不安そうな顔をする。今、こうしている間にも袁家の敵は恐るべき陰謀を企んでいるのかも知れないのだ。 議場が終わりのない疑心暗鬼に包まれる中、諸葛亮だけは周瑜の発言にキナ臭いものを感じていた。「揚州が絡んでいる」という一刀の報告が彼女にそう思わせたのか、あるいは同じ軍師として相手の本能的に裏があると踏んだのか……。

 

「つまり周瑜さんは、先の事件も曹操軍が裏で糸を引いているとおっしゃるのですか?」

 

 努めて冷静に口を開く諸葛亮。

 

「お言葉ですが、今回の事件が、曹操軍の犯行かどうかは不明です。疑わしい諸侯なら劉表さんを始め沢山いますし、他の反体制派かも知れません。奇妙な点がいくつもありまして」

 

「だが、曹操軍の動きと意図は把握できていないのだろう? シロとも言い切れまい」

 

 周瑜の論に数人の人民委員も同調する。今までの経験則からして最も疑わしいのは曹操であり、周瑜は彼女に対する袁家の猜疑心を刺激することで、巧みにこの場の論調を誘導していた。

 

「やはり徐州駐屯軍は強化されるべきだ! 曹操の脅威が迫っている以上、丸腰でいることなど出来ん!」

 

 袁渙が周瑜に賛同して威勢よく吠えると、他にも何人かが続いた。決して彼女の意見に肩を持とうとした訳ではない。しかし曹操の脅威を主張することで、結果的には自身の影響力拡大に繋がるとなれば話は別だ。

 

「他の物的証拠が無い以上、かの曹操が第一容疑者となるのは自然な流れだ。軍が動いているという話もある。今後はそちらにも人員と物資を割くべきだ」

 

 周瑜の発言内容は、どこまでも論理的だった。正面きって相手に道を示すことはない。ただ事実の一部を説き、相手自身に考えさせる。そうなれば最早その考えは周瑜の示した答えではなく、自分の頭で考えた答えとなる――少なくとも相手の頭の中では。

 

 自分で導き出した解答を疑う人間はそう多くはない。ましてやそれが自分にとって都合の良い方向に向かっているならば、出来るなら肯定したいという心理も働く。

 周瑜は解剖でもするかのような正確さで袁渙の心理状態を分析し、彼の望む情報を与えることで望み通りの反応を引き出していた。巧みな話術と感情操作は名軍師の名に恥じぬものであり、それを見抜いた者がいるとすれば同じく才能に恵まれた者か、あるいは――。

 

「……いくつか確認したいんだけど、いい?」

 

 探るような視線で周瑜を見つめながら、劉勲が慎重に尋ねた。鮮緑色と暗緑色の瞳から放たれる視線が交差する。

 

「仮にアナタの話が本当だとして、どうしてそれをアタシたちに?」

 

 言葉を選んでこそいるが、劉勲が周瑜を信用していないことは明らかだった。周瑜もまさか袁家のためを想って、などとタチの悪い冗談は言うまい。孫家と袁家の確執が依然として残っている以上、彼女の発言の意図を推し量る必要があった。

 

「なに、簡単な話だ。対曹操戦ないし揚州の反乱に備えて、我々の軍事力を重用してもらいたい」

 

 周瑜の直接的な要求に、劉勲は一瞬、虚を突かれたような顔になる。

 

「そんなに意外な要求だったか? 我々が再興を望んでいることは、今更隠すこともないだろう。何も雪連を袁術軍総司令官にしろといってる訳ではない。もちろん、ある程度の予算や権限拡大などは認めてもらうつもりだが」

 

 逃げも隠れもしない容疑者というのは、逆に逮捕されにくい。ついでに言えばここ数年の間、孫家は袁家の配下として働き、充分な実績を残している。何か上手い言いがかりを付けられないかと頭を捻る劉勲ら人民委員の内心を見通したように、周瑜は鷹揚に話を続ける。

 

「現状を整理しよう。大運河建設は袁家に大きな利益をもたらすが、それゆえ敵からの格好の標的ともなる。徐州を占領し、劉表ら周辺諸侯を警戒しつつ、その上で精強で知られる曹操軍を牽制しながら、長大な運河を防衛する。ああ、それと豫州でも最近は不穏な動きがあるとか何とか………いずれにせよ、それらの諸問題に今の袁術軍だけで対応できるのか?」

 

 劉勲は舌打ちを堪えた。周瑜の指摘は、袁家の抱える問題を的確に捉えていたからだ。

 大量の歩兵による物量戦を志向する袁術軍は、本質的に機動戦に向いていない。歩兵は粘り強く固定的な陣地戦に強いが、それゆえ移動速度が遅く、複数の戦場を行き来するような内線作戦をとることは難しいとされる。事実、以前に下邳のドサクサに紛れて主力部隊を徐州に介入させた際、突如として動いた劉表軍に対応できなかった。その点、少数精鋭の孫家はこういった流動的な戦場でこそ強みを発揮する。

 

「黄巾の乱以来、孫家は袁家の剣として幾多の戦場を潜り抜けてきた。我らの軍事的有用性は証明済みだと思っている。機動性のある戦略予備として使っても構わないし、曹操軍への備えとしても悪くはないはいずだ」

 

 言葉に詰まる劉勲。周瑜の言う通り、少しでも軍事力が欲しい現状では、孫家は非常に頼もしい存在に思える。例えそれが袁家に劇薬と投じることになろうとも――。

 

(孫家に裏がないとは思えない……とはいえ、それは他の人民委員たちも同じ……)

 

 劉勲はチラリと目を横に向ける。渋面を作りながら腕組みをしている楊弘、顔を真っ赤にして怒れる袁渙、胡散臭そうな顔をしている賈駆、笑顔の仮面で内心を押し隠している張勲……考えてみれば、誰に対しても同じような不安を感じる。どの人民委員も野心と地位、金と権謀術数にものをいわせて己の利益のみを求めている。その中で生き抜くために、自分もずっと同じことをしてきた。

 孫家の伸長を見過ごせば禍となり得る。しかし仮に孫家を押さえつけたとして、代わりに他の人民委員増長すれば、結局は同じことではないのか――。

 

 周瑜の播いた疑心暗鬼の種は、今や蔓のように伸びて人民委員たちの心に絡みついていた。それは劉勲とて例外ではなかった。

 

 ◇

 

 その後も議論百出、結論は得られそうになかった。最終的にはとりあえずの対処として、賈駆の保安委員会による取り締まりの強化と、揚州における諸葛亮らの調査の続行が決定される。

 

 一見すると何の実りもなく閉会したような形となったが、この会議で疑心暗鬼の種がまたひとつ、袁家の中に植えつけられた。それは象が針に刺された程度の小さな傷口に過ぎないが、それが原因となって化膿する確率もゼロではない。炎症を起こした傷口が広がり、それはやがて象を死に至らしめるのかも知れなかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――さて、実のところ揚州の名士たちはどうしていたのだろうか?

     

 かねてから揚州は田舎と思われていた節はあったが、今のように袁家の傀儡ではなかった。貧しいながらも自力で立っていた。逆に言えば独立は出来ていたが、辺境での生活はやはり苦しく困窮していたのである。ゆえに袁家から多額の資本投下を打診されたとき、揚州名士は諸手を挙げてこれを歓迎した。袁家資本によって開発と発展が進めば、その前途には無限のフロンティアが広がっているかに見えたからである。

 

 結果は、今日の状況である。袁家にとって揚州は江南を支配するための植民地に過ぎなかった。かつて袁家が両手に金貨を携えて揚州の名士たちを訪ねてきたとき、彼らは、袁家が揚州支配の過程において自分たちの協力を欲しているのだと考えた。それは一方では誤りではなかったが、大きな誤解を含んでいた。袁家が欲していたのは「力」のある同盟者であり、それは臨機応変に変えられるべきものであったのだ。

 

「近頃の袁家の傲慢は目に余る! 恩知らずにもほどがあるというものだ!」

 

 そう嘆いた揚州名士の数は1人や2人ではない。名士たちがその地において大きな力を有する限り、袁家はその協力を必要とする。が、ひとたび彼らが弱体化すれば、用済みとして新たな同盟者を探すのが袁家のやり方だ。袁家との蜜月に胡坐をかいていた彼らが冷徹な袁家の本質を理解した時には、すでに事態は手遅れになっていた。

 

 気付けば実権は地方政府から袁家出資の商館に移っており、これは揚州名士の財布とプライドの両方を傷つけた。彼らに残されたのは歴史や伝統ぐらいのもので、袁家あるいは人民委員会がこういった類を一笑に付しているのは明らかであった。古くなったら捨て、新しいものを買う――ファッション感覚で常に流行と最先端を追い求めるのが袁家のスタイルである。若い女性が季節ごとのトレンドに合わせて新しい服を買うように、古いものには見向きもしないのである。

 

 「古くからある店は常に新しい」とは劉勲の言葉であるが、その革新的で革命的な姿勢こそが、今日まで続く袁家の繁栄を作り上げた。対して旧守的な思考から脱却できない名士たちに出来た抗議といえば、せいぜい同じような人間を集めて愚痴を言う程度のものだった。

 

「余所者が大きな顔をしおって! 揚州は揚州人のものだというのに!」

 

 能力なき者が頼みとするものは、伝統と慣習である。自分が生まれる前から決まっているもの、努力せずとも既に手に入れているものがこの2つだ。血統や民族、宗教に同郷などといったコミュニティとのつながりを失えば、後に残った自分には何も残らぬ……能力なき者がそれに気づいた時、彼らは先の2つに身を委ねる。

 この時代にしても、一人でやっていける能力がある者ほど生まれた土地を離れ、能力が無い者は逆に、独り身で放り出されたら生きてゆけぬから、生まれた土地にしがみつく傾向があった。無論、能力さえあれば何処でも通用するとは限らぬが、何処でも通用する人間は概して能力があるものだ。

 

「――軒先を貸したら母屋を取られた」

 

 揚州名士が袁家との関係を自虐する際に、よく使われるフレーズである。店の一部を別の商人に貸したら、いつの前にか商売上手な相手のほうが繁盛して、もとの店主が店を奪われてしまった、というような意味合いで、要は「乗っ取られた」と言いたいのだろう。

 

 なんとも義憤を誘う話ではあるが、それに比例して虚しさも増大する。「他人に仕事を奪われた」とは奪われた側の一面的な視点であり、視点を変えれば「他人に奪われるような仕事しか出来ていなかった」というような見方も存在する。

 

 広い母屋で商売をしているにもかかわらず、狭苦しい軒先で商売をしているような間借商人に客を奪われるような仕事をしていた、店主の怠慢こそ責められるべきではないか……誰が先駆者であろうと、それに胡坐を欠いていれば衰退するのは分かりきった結果である。自由競争と資本主義的な立場に立脚すれば、業績の高い子会社が赤字を出した本社の経営を乗っ取る事は何ら悪ではない。

 

 

 袁家が無慈悲な商売と怜悧な外交によって、痛みを伴いながら少しづつ己を変化させていた間、長い伝統を誇る揚州名士たちは何をしていたというのか。不平不満を言う権利は万人にあるが、なぜ「袁家が揚州を乗っ取る」前に「揚州が袁家を乗っ取る」ことが出来なかったのだろうか。

 

 いずれにせよ、毎年のように出世競争で顔ぶれの変わる人民委員と同じように、揚州経済はかつてないテンポで変化している。後漢時代を通じて江南の開発と人口移動は大きくなる傾向があったが、袁家の介入でそれが更に促進された結果といえよう。よってGDPは毎年2、3%と驚異的な伸び率で増加しているものの、その何割かは袁家の息がかかった借り物の繁栄である。揚州の発展を支えたのが袁家であるなら、繁栄すればするほど袁家の都合(ルール)が揚州に押し付けられるのは必然であった。

 

 

 無論、必然であるからといって、それに納得できるかどうかは別次元の話である。揚州名士とて人の子だ。聖人君子を目指しているわけでもなければ、素直に繁栄を謳歌している袁家を讃えてやる義理もない。妬み引き摺り下ろすことに力を傾けるのもまた、本人の自由な意志である。

 

「袁家の専横、もはや放置しておけぬ」

 

 全員とまでいかずとも、この時期の揚州名士の間では袁家に対する不満が高まっていた。実害を被っている者はもちろん、仮初の繁栄から取り残された者にとっても南陽の商人たちは鼻持ちならない存在であった。

 

 だが、袁家をよく知る揚州名士たちだけに、正面きって名門袁家と戦うことのリスクもまた十分に承知していた。彼我の実力差からして、どう考えても正攻法の先に勝利はありえない。奇襲か、陽動か、はてまた漁夫の利を狙うか……どちらにせよ、袁家の注意を他に向けさせなければならない。

 

 袁家に不満を持つ名士たちの間でそんな話が交わされる中、一人の女性がふと、思い付いたように口を開く。

 

「そういえば、豫州でも不満が高まっているらしいですねぇ」

   

 南陽から実家に帰ってきたというその女性は、薄い緑髪に小さな丸い眼鏡をかけていた。姓を陸、名を遜、字を伯言という。呉郡の四姓がひとつ、陸家の次期当主――陸遜は極めて自然な口調で呟いた。

 

「特に、豫州牧の孫賁さんは筋金入りの反袁術派だとか」

    

 揚州名士たちの心に、小さな暗い希望の光が見えたのは、決して偶然ではなかった。

   




 この中に1人、人民の敵がいる!


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75話:内なる敵はいずこに

 

 宛城の奥にある最高執務室では、張勲がとある客を待っていた。ややすると部屋のドアが開き、召使が恭しく来客の到来を告げた。相手は保安委員会議長・賈駆である。

 

「ついさっき、豫州の同志達から知らせがあったわ。前々から監視を続けてた豫州牧のことだけど、そう遠くない内に決起するみたいね」

 

 本心からか、あるいは意図的にか。賈駆の眼鏡が冷たい光を放つ。

 袁家中枢部において、豫州牧・孫賁の叛意は、いわば公然の秘密ともいうべきものであった。とはいえ所詮は傀儡に過ぎない孫賁に、それを実行に移す兵と金があるはずもない。内心で何を企もうとも結局は実を伴わない妄想に過ぎず、潜在的反乱分子でありながら放置されていた所以でもあった。

 

 あるいは、更に悪辣な思惑もある。類は友を呼ぶというように、反乱分子の周りには自然と反乱分が集うもの。敢えて孫賁のような者を泳がせておけば、それに吸引されて集った反袁術派をも一網打尽に出来る。

 

「思ったより釣れたわね。孫賁の取り巻きだけじゃない。潁川太守に梁国、魯国の太守もよ」

 

 報告には冷笑の響きがあった。曹操と袁紹の台頭、華北の戦乱が経済に与える悪影響、徐州の大運河、それらを背景に頻発する暴動とテロ事件……たしかに袁家の足元はぐらつき始めている。それは事実かもしれないが、同時に当の本人たちが一番よく知っている事柄でもあった。であれば、それを好機と捉えた反乱分子が陰謀を張り巡らす、その機先を制してカウンターをかけることも不可能ではない。

 

「ほんと単純。ボクが暴動と徐州の件に忙殺されているって噂を流しただけで、すぐに反乱分子が群がってきたわ。どんなにコソコソ隠れたって無駄なのに」

 

 保安委員会の処理能力は飽和状態に達している――その事実を逆手にとって賈駆は罠をかけたのだ。誰が敵か分からない状態では手の打ちようがないが、孫賁というエサにつられて集まってくれば、まとめて粛清することも可能になる。かつて洛陽で生き馬の目を抜くような権力闘争を生き抜いた彼女にとって、その程度は動作もないことであった。

 

「さすがは賈駆さん。保安委員会の権限を増やした甲斐がありました。お疲れ様です」

 

 報告を聞き終えた張勲は頷き、賈駆と保安委員会の労をねぎらう。

 

「孫豫州牧はこの後、どうすると思います? 賈駆さん」

 

 顔に仄暗い笑みを浮かべ、張勲は問いを投げた。

 

「これはボクの推測だけど、曹操か劉表あたりとの連携を図ると思う。本人とその取り巻きだけじゃ、出来ることもたかが知れているし」

 

「あら、それは困りましたねぇ」

 

 張勲は唇を曲げてそう言うも、表情は正反対の相を示していた。その人を食っているような、あるいは相手を煙に巻いて楽しんでいるような態度は、彼女の同僚にも通ずるものがあった。しかし他者を弄ぶこと自体を愉しんでいる劉勲と違って、張勲にそのような傾向はない。柔らかな物腰とは裏腹に、人々を遥か高みから淡々と見つめているような、そんな底知れぬ不可解さがある。

 賈駆が粛清の要非を問うと、いつもの微笑を潜め、少しだけ真面目な表情を取り繕った。

 

「そうですね……今すぐ手出したら取り零しがあるかもですし、粛清後の台本もまだ用意できていません。私が直接、劉勲さんか外務人民委員の閻象さんに会って、反体制派を一掃した後の豫州をどうするかを聞いてきますね」

 

 何を悠長な、と賈駆は思ったが賢明にも口に出すことはなかった。さりげない発言ひとつが命取りになるのが袁家である。そうやって失脚した同僚を何人も見てきたし、彼女自身、政敵の発言の揚げ足を取ることで自らの立場を守ってきた。余計な勘繰りをされないよう、最小限の言葉で返す。

 

「……それで、ボクは何をすれば?」

 

「賈駆さんにはもう一度、豫州に潜む潜在的反乱分子の一覧表を作成してもらいます。それと、引き続き反乱分子の監視を怠らないこと。ただし当面は油断を装って、もう少し詳しい情報を集めて下さい。出来ますよね?」

 

 淡々と告げられた張勲の命令に、賈駆は即答しなかった。いつもなら賈駆が頷いて話は終わりであり、そのまま退出して、与えられた任務に全力を尽くしただろう。

 しかしこの時、彼女の心には小さな焦りがあった。

 

 賈駆は自分自身を、評判ほど公平無私ではないと分析している。前回の人民委員会議で袁渙らに批判されていたこともあって、早い結果を欲していた。結果が出なければ彼女自身の政治生命はもちろん、賈駆と共に袁術に下った旧董卓軍系の同胞たちの立場も危うくなるからだ。華雄や張繍を筆頭とした旧董卓軍の一部は洛陽脱出時に袁術軍に投降しており、その大多数が穢れ仕事を担う保安委員会に回されていた。もし賈駆が失脚すれば、彼らも芋づる式に粛清されるであろうことは明白だった。

 

「そのことなんだけど……」

 

 念のために即応部隊を準備したらどうか、賈駆はそうした内容の言を、本音を悟られないよう慎重に問いかける。

 

「万が一相手に先を越された時のことも考えて、有能な隊員を選抜して州境に展開させた方がいいと思う。もし許可がもらえるなら、すぐにでも張繍に命じて事に当たらせるわ」

 

 張繍――旧董卓軍の出身で、反董卓連合戦以降は華雄と共に軍を率いて袁術に降伏した将軍の一人。数少ない女性の政府高官でもあり、賈駆ですら躊躇するような弾圧を実行したこともある。そして今は、領内監視を任務とする保安委員会第2総局の局長として、反乱分子の摘発や軍の監視に心血を注いでいる人物でもあった。

 賈駆の真の目的は、反乱に備えるという建前で、彼女ら旧董卓軍出身者に独自の軍事力を持たせることにある。一応の筋は通っているし、自前の戦闘部隊が持てれば容易に粛清されることもなくなる。

 

 対して、張勲は即答しなかった。ややあって形のいい唇が緩いカーブを描いたのを見て、賈駆は己の軽挙を後悔した。

 

「あらあら、賈駆さんらしくもない勘違いですねぇ。その万が一を起こさないようにするのが、貴女の仕事なんじゃないですか」

 

 張勲の視線は冷たく、声には揶揄の響きがあった。口調も表情も変わっていないはずなのに、彼女を取り巻く雰囲気だけが変化している。少なくとも賈駆にはそう感じられた。

 

「それに、万が一も何も、豫州は主権を持ったひとつの自治体です。警告ぐらいなら出せますけど、そこから先は外務委員会の管轄です。きちんと話を通しておかないと、越権された閻象さん達が怒っちゃいますよ?」

 

 賈駆は口を閉ざした。もし張勲の言葉を額面通りに受け取れば、彼女は単に外交的儀礼を重んじているだけとなるが、本音は違うところにあるのだろう。袁家はとりたてて形式的という訳ではなかったが、全てにおいて事の本質を優先するという訳でもない。要はその時々に応じて便利な方を使い分けているのであって、そこが2枚舌と叩かれる所以でもある。柔軟性があるといえば聞こえは良いが、上に立つ者にとってまことに都合のいい慣習でもあった。

 

「……張勲がそう言うなら」

 

 結局、賈駆はその場を凌ぐために無為な部下役に徹することにした。反論することもできたが、それ以上は語るべきでないと理性と直感の双方が告げている。

 

 後でじっくり考えよう、それが彼女の出した結論だった。同時にそんな結論に至った自分の消極性を客観視して、賈駆は内心で苦笑を禁じえない。これでは前例・事なかれ主義のはびこる、袁家の組織風土を笑えないではないか。朱に交われば赤くなるという諺があるが、いよいよ自分も彼らと似てきた。袁家という名の病気に感染したのかもしれぬ。

 

 首を振りながら、賈駆は執務室に背を向けた。

 その後ろ姿を、張勲はやはり表情を崩さずに眺めていた。

 

  

 ◇◆◇  

 

 

 

 名門袁家の保有する財力、兵力、権力を統合すれば、間違いなく中華で並ぶ者のない巨大勢力になるであろう。その総資産は皇帝をも上回り、常備兵力は10万を超え、4世にわたって3公を輩出したことから宮廷にも強いコネクションを持つ。

 これは単一勢力としては比類なきものだが、だからといって袁家に敵がいないことを意味しない。曹操ら他の諸侯、劉備らのような信用できない同盟相手、孫家ら領内の不穏分子……むしろ袁家が栄え強大であればあるほど、敵もそれに比例して増えるかのようであった。恐らくすべての敵対勢力が連合すれば、軍事的にも経済的にも袁家と人民委員会を上回るであろう。

 

 しかし今日まで、それぞれの思惑の不一致と袁家の外交努力によって、袁家に敵対する諸勢力が団結したことはない。非友好的な勢力を近視眼的な対立によって分裂させ、徹底した相対的優越によって確固撃破するのである。

 これに大きな貢献を果たしたのが劉勲と外務人民委員会であることは広く知られているが、彼女らは別段に奇抜な策略や陰謀を駆使した訳ではない。そもそも個人の能力においては曹操や田豊、劉表といった他の諸侯の方が秀でていたぐらいである。

 

 だが史実をひも解いてみると、彼らは優れて有能で合理的な選択が出来るがゆえに袁家の外交術策に嵌ったといってもよい。一例をあげるなら、中途半端に終わった曹操と劉表の同盟計画があげられる。

 

 徐州の戦いの後、強大化した袁家を警戒した曹操と劉表は、互いに相手との同盟の可能性を探っていた。これが成れば、袁家を南北で挟み撃ちする形となる。『袁家の打倒』を目的とした場合、両者(・ ・)にとって最適な答えが曹操・劉表同盟であることは疑いようがない。

 だが、曹操と劉表は共に思慮深い政治家であり、互いに「自分の裏をかこうとしているのではないか」との警戒を怠ることはなかった。そこから考えられる可能性は2通りある。

 

 ①もし相手が同盟を破って袁家とこっそり通じていた場合、自分だけが袁家と敵対すれば背後の安全を確保した袁家との全面戦争に陥って大損害を被るであろう。となれば自分も袁家と結び、多少の譲歩で済ませた方が得である。

 ②もし相手が同盟を守って袁家と戦争になった場合、自分も袁家と敵対すれば戦争に巻き込まれる。しかし袁家と結べば、国力を温存したまま、疲弊した両者から漁夫の利を引き出すことが出来る。

 

 つまり相手の出方にかかわらず、袁家との同盟は自分にとって(・ ・ ・ ・ ・)一番得をする行動であった。曹操と劉表の第一目標が『袁家の打倒』ではなく、「自身の勢力拡大」である以上、いずれの場合でも上記の選択肢が合理的判断の結果として選択される。そして個別交渉のテーブルにつけば、袁家は相対的優位が確保できるため、強気の交渉に出て譲歩を強いることが可能となる。かくして反袁家勢力は合理的に行動すればするほど『囚人のジレンマ』に陥り、各々が自分にとって最適な答えを選んだがために、結局は袁家の伸長を助長してしまうという皮肉な結果となっていた。

 

 

 ところが、最近では団結とまでいかずとも、無言の共通認識のようなもので反袁家勢力が連動しているかの如き動きを見せている。『 闇を覗くものはまた、闇からも覗かれている 』といった格言があるが、反袁家勢力が合理的な選択として分裂を志向するように、袁家もその内側から分裂する危険性をはらんでいた。

 

 順調に覇権の道を歩んだ結果として、今や袁術と人民委員会の影響力が及ぶ範囲は南陽郡から北は豫州、東は徐州、南は揚州まで拡大していた。しばしば素早い侵攻が補給切れを引き起こすように、統治領域の急激な拡大は袁家の行政機構に大きな負担をもたらしていた。単純に人員が足りないという問題もあるし、組織が巨大化すれば調整もそれだけ大変になる。

 

 もとより袁家は袁術を頂点としたピラミッド状の組織ではなく、間接統治に各種の同盟関係、出資契約や婚姻関係と、クモの巣のように複雑な利害関係が絡んだ緩やかな連合といった体をなしている。これに出世競争やお家騒動に関連する面倒な裏事情も絡んでくるのだから、高位の人民委員ですら組織の全貌は把握しきれていないのだ。

 目標なき拡大とでも言うべきか。それはあたかも複数の頭を持つ伝説上の怪物が、共食いと再生を繰り返しながら成長し続けているようであった。

 

 ゆえに末端まで注意が行くはずもなく、袁家に敵対するものにとっては実に動きやすい環境にある。他州のスパイがウジ虫のように領土中にはびこり、テロと暴動件数はうなぎ登り。これを抑えるための軍需拡大も増税を招くから、一般人の不満も高まって潜在的な反体制派が更に醸成される。混乱は収まるどころかさらに酷くなる一方だった。

 中でも徐州と揚州をつなぐ大運河は大きな焦点だったが、状況は困難を極めている。格好の標的と判断した敵対勢力が盛んに攻撃を繰り返しており、あちこちで小競り合いが起こるも、一向に解決策が見つからないまま工事が何週間も遅れているのだ。

 

 そうした袁家体制の綻びは、徐々に至る所で見受けられるようになってきた。それを最初に察知したのは袁家中枢というより、むしろ末端に所属する人間である。所詮は末端と捨て置かれる分、むしろ下手に覆い隠したり行き当たりばったりの対処療法で視界が曇らないのかもしれぬ。

 徐州の特使として揚州に派遣されていた北郷一刀もまた、そうした時勢の変化にいち早く気付いた人間の一人であった。

 

 ◇

 

 一刀ら徐州使節団が訪れた揚州の州都・曲阿は、建業(現在の南京)からやや東の長江南岸にある。気候は温暖湿潤であり、冬でもそれほど冷えることは無い。徐州の特使としてこの街にやってきた一刀は、曲阿市内にある揚州行政府に立ち寄っていた。さっそく窓口で受付を済ませ、2階にある州牧の応接室に入る。

 

「失礼します」

 

 そこは天井の高い木張りの部屋で、窓からはにぎやかな曲阿の街並みを一望できる。部屋の中央には丸いテーブルが置かれ、周囲に椅子が3つ置かれていた。

 

「北郷一刀だな? そこに座れ、袁家から用件は聞いている」

 

 一刀の姿を認めると、部屋の窓際に座る大柄な男がぞんざいに言い放つ。齢は40ぐらいか。短く刈り込んだ髪と立派な頬髭が特徴的で、一目で有力者だと分かる出で立ちをしている。

 

「揚州牧・劉繇だ。さて、聞きたいのは運河の進捗状況のことか?」

 

「はい。こちらが徐州牧・劉玄徳様ならびに南陽軍太守・袁公路様からの、依頼状になります」

 

 袁家の印が押された封筒を恭しく差し出す一刀を、劉繇はつまらなそうに見る。封筒の中身には、最近の運河襲撃事件に対する捜査協力の依頼が書かれており、丁寧に人民委員会の承認を得たものであるとの証明書まで付けられていた。

 

「知っていると思うが、こちらで分かっている情報は全て開示してある。その上で更に何を求める?」

 

「ここ最近の運河襲撃事件のことはご存じでしょうか? 残念ながら、その犯人は未だに捕まっておりません。我々はそれを突き止めるべく、捜査に参りました」

 

「捜査」

 

 そうオウム返しに言って、劉繇はふんと鼻を鳴らす。あまり友好的な声音ではない。名目上は捜査協力の依頼となっているが、実質的には袁家からの命令に近い。一州の長を自認する劉繇からすれば面白いはずもないのだが、揚州に対する最大の出資者が袁家である以上、渋々ながらも従っていたのだ―――つい、この前までは。

 

「そちらには何度も伝えたはずだが、揚州の警察権はそれぞれの郡を統べる太守にある。安心なされよ、犯人は必ず我々が突き止める」

 

「存じております。しかし難航している捜査の助けになればと思い、我々も……」

 

「私の言葉が聞こえなかったのか? 揚州はひとつの州であり、また郡同士は対等である。袁南陽郡太守が同意なしに我々の管轄に踏み込めば、越権行為と見なす」

 

 南陽郡太守、という袁術の正式な役職を強調しつつ、ぴしゃりと突き放すように劉繇は言う。理屈としては間違っていないが、名門袁家の要求を堂々と撥ねつけているに等しい。前々から揚州は袁術の傀儡だという評判を聞いていただけに、一刀は拍子抜けした気分だった。

 

「失礼ですが……大運河は袁家と徐州、そして貴方がた揚州の有力者達の共同出資によって作られているはず。何か問題が生じれば、共同で対処に当たるのが筋では?」

 

 なぜ自分は袁家の肩を持つような発言をしているのだろう。今しがた自分でした発言に、一刀は小さな驚きを覚えていた。自分が袁家を嫌っていることを一刀は強く自覚していたが、同時に袁家の存在を除外して政治や社会問題を考えたことがないのもまた事実であった。

 袁家は強大である。それゆえに意識せざるを得ない。山脈や大河のようなものだ。好むと好まざるに関係なく、そこにあるのだから仕方がない。誰もが常にそこにある巨大なものとして、袁家の存在を肯定している……あるいは、それこそが袁家の力の源泉なのかも知れなかった。

 

「共同対処、か」

 

 面白がるような劉繇の反応だった。

 

「もしそう考えるならば、袁家は1人の州牧と1つの州に対し、然るべき礼と敬意をもって接するべきであろう。なぜ一つの州を統べる州牧が、一太守ごときに命令されねばならん?」

 

「それは………」

 

「そうした事がいかんというわけでない。たしかに袁家は大きい。力のある者が他者の上に立つのは世の理だ。しかし、それが袁家でなければならんという決まりもない」

 

 かつて袁家は揚州に存在しなかった。中華の長い歴史においてはむしろ新参者とさえいえる。袁家が存在しなくとも、中華の歴史は袁家抜きで紡がれるだけだろう。

 

「長く権力の座についていると、この世の果てまで見通せるかのような気分になる。だがな、変化とは初めから目に見える形で現れるものではない。知らず知らずの内にそれに感染し、食事の時にそれを味わい、歩くときにそれを吐く」

 

 言葉に詰まる一刀をよそに、劉繇は窓からじっと曲阿の街並みを見つめる。話すことはこれで終わりだと、その後ろ姿が告げていた。

 

「私が話せる事はここまでだ。今日の所はこれでお引き取り願おうか」

 

 劉繇は立ち上がり、徐州からの特使を丁重に送り出す。一刀が扉から出ていく瞬間、その目に不審の色がありありと残っているのを確認したが、劉繇は何事もなかったように扉を閉じる。

 

 

「――……よかったのかね?」

 

 一刀が退室すると、隣の部屋から4人の男が入って来た。会稽太守・王朗、豫章太守・華歆、丹楊太守・周昕、九江都尉・陸駿――いずれも名の知れた揚州の有力者たちだ。4人は挨拶もそこそこに、劉繇に詰め寄る。先ほどの会話内容を、ある程度は聞いていたのだろう。申し合わせたかのような、疑念の混じりの薄暗い表情だった。

 

「よかったのか、とは?」

 

「彼を帰したことだ。本人はともかく、随伴者の中には間違いなく袁家の密偵が含まれている。袁家に悟られないよう、まとめて殺すか監禁した方が……」

 

 不満げに口を開いた華歆を、劉繇は手で制する。

 

「そちらの方が逆効果だ。このところ袁家では強硬派が勢いづいている。いま問題を起こせば、彼らに介入の口実を与えるだけだ」

 

「一理あるのぉ。未だ戦の傷が癒えぬとはいえ、徐州が袁家の側につけば厄介な事になりかねん。徐州を気にしなくて済むようになるだけで、袁家にはいくつもの選択肢が増える。今しばらくは無難に事を進めるべきじゃろうな」

 

 2人のやりとりを傍で聞いていた王朗が頷く。山羊髭の小柄な老人で、任地の会稽を順当に発展させてきた有能な人物だ。その隣では周昕が真面目に相槌を打ち、ときおり神経質そうに薄くなった髪を撫でつけている。

 

「違う違う、そうではない! 私が気にかけているのは劉揚州牧、貴方のことだ」

 

 最後の一人、陸駿はぽっちゃりとした中年男だ。陸遜の実の父親で、王朗らの発言を受けてむっとしたように顔をしかめている。

 

「本当に、袁術と手を組むつもりはないのですな?」

 

「何度も言ったはずだ。どうやら私のことを親袁術派だと勘違いしているようだが、今までの袁家追従政策はそれに利があったからこそ。揚州名士の貴公らの不興を買ってまで手を組もうとは思わん」

 

 もともと揚州は中央から遠いゆえに地元豪族の力が強い土地柄だ。長江を超えれば漢帝国の威光などあってないようなもので、地元の有力者や山賊が跋扈する未開の地であったといえる。劉繇自信も州牧という地位に就いていながら、その実権は「有力な豪族」程度でしかなった。地元の有力者たちの不興を買ってしまえば、たちまち政治の表舞台から退場させられる。

 

「必要な時がくれば、私は必要な手を打つ。今はその時でないと判断したまでだ」

 

「……分かりました。 ですが、先ほどの言葉もお忘れなきよう」

 

 陸駿が釘を刺すように言うと、劉繇はフンと鼻を鳴らした。

 

「忘れるものか。呉の四姓――顧・陸・朱・張――の全てが結束し、かつその背後に盧江の名門・周家がいるとなれば、無視できるはずもない」

 

 劉繇は冷たく笑って窓際から離れると、重厚な作りの椅子に腰かける。

 

 自分は別段、袁家の滅亡を望んでいるわけではない。ただ、地元の有力者から暗殺されるリスクを負ってまで袁家に尽くす忠誠心がないだけだ。利があるから袁家に従う。それが無くなれば離れるのは当然であり、また必然でもあった。  

  




 張勲「劉勲さん? いえ、知らない子ですね」


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76話:乖離

  

 揚州牧・劉繇との会談が不首尾に終わった後、一刀たちは曲阿の大通りに向かった。会見でも充分に驚かされてはいたが、市街地にたどり着いた途端、それが序の口でしかなかったことを思い知らされる。

 

 伝統的な中華の都市というのは、自然発生的に形成されたというより、政治・軍事的な必要性に基づいて作られる。城壁が先に建造され、宮殿や官公庁などの建物を中心に、町全体を東西南北に貫く道路が作られるのだ。それが完成してから、埋め合わせるように建物が内部にも建築される。

 

 だが、曲阿の街は違った。臨海工業都市とでも評するのが妥当だろうか。街の至る所に金属精錬、染色、製材、織物といった工場が所狭しと並んでおり、大量の排煙が吐き出されていた。空を見上げると、変わりやすい揚州の天気は曇りつつあり、低く垂れこめた雲に工場の煙が混ざって空を黒く覆っている。すぐ隣を流れる長江には大量の廃棄物が流れ出し、泡立った水面はよどんでいた。

 

「この光景からは想像もつかないでしょうが、10年ほど前までこの町はちょっと大きめの漁村でしかなかったんですよ」

 

 揚州政府の役人が、一刀たちを案内しながら解説する。

 

「誇れるものといえば、月に数度開かれる魚市場ぐらいのもの。それが今では鉄に布に陶器、加工食品と何でもござれです。しかもモノが増えれば値段も下がるし、揚州は本当に豊かになりましたよ」

 

 声には誇らしげな響きがあった。一刀は解説にうんうんと頷きつつ、あるものに目を止めた。

 

「あれは……水車、だよな?」

 

「ええ。流石、いい所に目をつけられました」

 

 一刀が目を付けたのは、長江に張り出すように設置されている工業用水車だった。それも1つや2つではない。川沿いに何十とある工場から無数の水車が垂直に突き出しており、その回転による動力を歯車で伝達することで、様々な用途――臼挽、革なめし、研磨、ふいご、製材、石切り等――に使っている。

 後世で広く使われることになる蒸気機関にはパワー面で及ばないものの、水車を使った機械化によって単純作業にかかる時間は劇的に削減され、生産性は明らかに向上しているらしい。工業化と呼ぶのは早計だろうが、他の地域で一般的な家内制手工業からの決別は一目瞭然だ。古代版の臨海工業地帯とでも呼べるような、大量の水車に支えられたコンビナートがそこにあった。

 

「モノが増えた一番の理由は、やはりあの水車を使った工作機械の普及でしょうね。なんといっても、今まで人間が4,5人がかりでやっていた作業が、今では小型の水車ひとつで何日でも連続運転できますから」

 

「でも生産性が上がれば、原料の消費も増えるだろう? あれだけの原料を素早く、しかも安く調達するとなると……」

 

 つい厳しい質問をしてしまう。実は一刀もかつて徐州で工場制機械工業を導入しようとして、挫折したという苦い経験がある。試しに水車と風車を使った工場を作ってみたはいいが、生産速度の上昇に原料資材調達がついてこれなかったのだ。その時は製鉄工場だったのだが、すぐに周囲の木々を刈りつくしてしまい、遠方から輸送しようにも運搬コストが高くつき、結局は断念せざるを得なかった。

 未来知識があるからといって、必ずしも急速な近代化が出来るわけではない。知識はあくまで理論であって、現実に即した形にするのは別問題だからだ。知識だけで近代化がなされるのなら、アフリカの生活水準はとっくにアメリカ並みになっているだろう。

 

「おや、お忘れですか? ここ、揚州は水の国ですよ。水路を使えばどんなに重い原料でも、安く早く輸送できます」

 

 そういえば、中華の歴史は黄河から始まっていた。近代以降でさえ、大河の存在が物流に与える影響には計り知れないものがある。電車も車もないような時代ともなれば猶更であった。

 

「特に木材は何かと用途が多いくせにかさばるのが難点ですが、幸いにも揚州にはいくらでもありますからね」

 

 これは他の地域には見られない特徴だろう。木材はその用途の豊富さから重要な資源とされていたが、輸送コストがかさむために他地域では再生可能エネルギーとして細々と利用するしかなかった。しかし未開の地が多く残る揚州では、うっそうとした森林がまだまだ広範囲に広がっており、安価な輸送コストを提供する長江の存在がそれらの乱伐を可能にした。並はずれて大きい動力エネルギーを供給する水車も、本来ならば「川沿いにしか建てられない」という立地制限があるものの、長江とその支流が州全体を覆っている揚州では、ほとんど問題にならなかった。

 人口に比べて過多な燃料資源と、長江デルタのよる安価な輸送コスト、豊富な水資源を利用した工業用水車が提供する動力エネルギー……それらがもたらす生産性の増加を有機的に結び付けたネットワークこそが、揚州の繁栄の原動力であった。

 

「すごいな……」

 

 目覚ましい発展であることは間違いない。しかし何より一刀を関心させたのは、それが極めて自然発生的に起こっていたという事だった。結果だけを見れば紛れもない偉業であるが、各々をひも解いてみれば、別段に変わったことをしているわけではなかった。水車の利用にしろ、河川デルタの利用にしろ、エネルギー源としての森林伐採にしても、既に誰かが考えていたものばかり。どこにも奇抜なアイデアなどない。

 だが、そういった既存のものをうまく組み合わせ、そのネットワーク化をなし得たのもまた、揚州が初であった。

 

 しかし同時に、別の疑問も浮かび上がる。なぜ今になって急に発展しだしたのか、という問題だ。

 

 改めて考えてみれば、揚州にはもともと有利な条件が揃っていた。繁栄の芽も、既にあちこちで自然発生していたように思える。であれば猶更、もっと早くから発展しても良いのではないか、という発想に至っても不思議ではない。

 考えられる原因としては、今までは産業の発展に必要な資本蓄積が足りなかった、というのが第一にあげられる。機械化と工場制手工業を実施するためには、水車や大規模工場を建設できるだけの初期投資額が必要となる。だが、中華経済の中心地・中原から遠く離れた揚州にはその資本がなかった。

 

 一刀の脳裏に、ひとつの影がちらつく。それだけの資本をいとも容易く調達でき、かつ揚州のような辺境にまで投資できるだけの余裕のある諸侯。そんなものは1つしか思い当たらない。

 

「やはり、この繁栄の裏には袁家の……」

 

「――いいえ」

 

 一刀が最後まで言い終わらない内に、揚州政府の役人はそれを遮った。

 

「これは我々の(・ ・ ・)努力の成果です」

 

 釘を刺すような言い草だった。どうやら想像以上に揚州人は袁家を嫌っており、かつプライドの高い人種らしい。

 もっとも発言内容自体は――袁家の者がいれば大いに憤慨しただろうが――あながち的外れな意見ともいえぬ。袁家の資本がなければ発展できなかっただろうが、資本さえあれば発展できるわけでもない。最終的に繁栄をもたらしたのは揚州人と努力と創意工夫であるのだから、袁家主導で進められたかのように思われるのは彼らにとって不快なのだろう。

 

 思わぬ地雷を踏んでしまった……そんな気まずさを残したまま、一刀らは宿泊施設に案内された。案内の役人とはそこで別れ、隣の飲食店に入る。太い木材でできた頑丈そうな骨組みに、竹や漆喰を塗った木壁で作られていて、歩道の上にかかげられた看板が揺れていた。地酒と饅頭がおいしいと評判の店で、地元の名士たちもよく立ち寄るという店らしい。少々腹が減っていたこともあり、一刀たちは今晩の夕食をそこでとることに決めた。

 

 店内に入ると、きれいに磨かれたテーブルの周りに何人もの客が座っているのが見えた。とりあえず適当な食事を頼み、今日見たことについて話し合う。 

 

「おかしいな……うん、やっぱりおかしい」

 

 一刀がそう呟くと、糜竺が興味を引かれたような表情を見せる。

 

「どうしたんです?」

 

「劉繇も揚州も……俺たち、いや世間で言われていたことと違う。袁家の傀儡っていう評判だったけど、全然そんな感じじゃなかった」

 

「確かに。むしろ袁家の影響下から脱したい、と思っているような印象を受けましたね」

 

 「運河襲撃事件について協力を仰ぐ」という簡単な任務のはずだったが、それでは終わらないような気がしてくる。知らない内にもっと大きな事件に巻き込まれているような、そんなイメージが次々に心をよぎる。ここに来て徐州使節団の全員が、ひどく嫌なものを感じ取っていた。

 

「――やはり、噂は本当だったのか」

 

 しばらく無言でいると、一刀の隣からそんな声が聞こえてくる。ただならぬ気配を感じ取った一刀たちが振り返ると、先ほどまでのんびりと食事をしていた客たちが、真顔でいずまいを正している。よく見れば、客の大半はそれなりに上物の服を着ており、地元の有力者たちがかなり集まっているようだった。

 

「もっと詳しい話を聞かせてくれ。徐州で何があったんだ?」

 

 店内がしんとなり、ひげを生やした青年が立ち上がる。

 

「先週、取引があって下邳に行ったときの話です。下邳には沢山の難民収容所が建てられていますが、どうやら難民ばかりではなく、戦場で負傷した兵士もそこに送られるそうです」

 

 徐州の大部分から曹操軍は駆逐されていたものの、琅邪国などの北部は未だにその占領下にある。どうにか追い出そうと、袁術・劉備連合軍がたびたび攻撃をしかけているのだが、うまくいっていないのが現状だ。

 

「そのときに聞いた話では、4度目の琅邪城攻撃も失敗に終わったとか。連合軍は彭城まで撤退し、再編成をしていたところを逆に襲撃され、相当数の死者が出た模様です。袁家はその戦費を埋め合わせるために、増税を考えているらしい」

 

 一刀ら徐州使節団は、思わず顔を見合わせる。彼らは当然ながらその情報を知っているのだが、ここまで正確な情報が、こんなにも早く揚州に伝わっているのは意外だった。

   

「豫州でも各地で暴動が起こり、袁家はどんどん求心力を失っています。兵力が半数以下に減った曹操軍相手に、倍の兵力でも勝てないのがその証拠です」

 

 場がざわめき、あちこちでささやき声が聞こえる。続いて、腰のまがった老人が立ち上がる。

 

「しかもだ。袁家は反省の色を見せるどころか、反対する者をことごとく暴力でねじ伏せていると聞く。人民委員会は非情な報復こそが最善策だと思い込み、強制収容所には罪なき人々の悲鳴が響き渡っているらしいじゃないか」

 

 老人が言い終わると、誰もがそわそわした様子で身じろぎした。不安がる者、憤る者、顔をしかめる者……そんな中、気の強そうな女性が声を上げる。

 

「みんなで抗議するのよ! このまま泣き寝入りしていても、袁家は譲歩なんかしてくれない! 感謝されるどころか、残らず財産を絞り取ろうとするはずだわ!」

 

「どれもこれも戦争と袁家が悪い。揚州は平和に発展しているのに、あいつらのせいで……」

 

 一刀の近くにいた中年男性が、誰にともなく呟いた。揚州の人々の不満の原因は、そこにあったのかもしれない。『袁家の裏庭』たる揚州は、否が応でも袁家の影響を受けざるを得ない立場にある。袁家が戦争を始めれば、自動的に揚州にも負担がのし掛かってくる。だが、華北で起こっている戦乱は、本来なら揚州には関係ない話であるはず――。

 

 袁家にとっては差し迫った脅威である袁紹・曹操軍も、揚州人にしてみれば対岸の火事でしかない。いくら軍拡や社会統制の必要性を宣伝されたところで、数万里も彼方の出来事に実感など湧くはずもなかった。ましてや重税を課せられたり、見覚えのない容疑で秘密警察に絡まれる事を許容しろなど、はた迷惑以外の何物でもない。それならいっそ独立してしまえ、という論理にはかなりの説得力があった。

 

「しかもだ。今度は徐州まで大運河を建設すると来た。そんな事をしたら徐州人に富をむしり取られるだけだ」

 

 大運河が完成すれば、徐州と揚州の間でヒト・モノ・カネの移動は容易となり、ひとつの経済圏が誕生する。荒廃した徐州の人間から見ればいいことづくめだが、好景気に沸く揚州にとっては負債を抱え込むようなものだ。徐州からの難民が大挙して押し寄せてくれば社会不安が増大するし、曹操との戦争に巻き込まれるかもしれない。しかも運河建設費用の一部は、揚州が負担することになっているのだ。揚州人の袁家に対する視線は厳しいものとなり、不満が見え隠れするようになった。

 

 そして、ついに怒りが現実のものとなる。

 

 最初は小さな事件が動機も目的もバラバラに起こっていたため、原因は別のものだと考えられた。たとえば南陽商人の商館に石が投げられたり、袁家資本の工場で賃上げストが起こる程度のものだった。どれも規模はそれほどではなかったが、連日のように発生する事件と暴動は大きな社会不安の原因となり、何ら解決策を打てない袁家への失望は怒りへとつながる。そうした噂が職場や酒屋で繰り返し話題に上り、何度も尾ひれがつくことでスケールの大きい話へと変化し、やがて袁家支配への漠然な不満として大衆の心に根付きつつあった。

 

「だが、具体的にはどうするんだ? 腐っても袁家は名門、その気になればいくらでも金と兵をつぎ込んでくるぞ」

 

「他の諸侯がいるだろう。曹操の工作員が密かに武器を提供している、という噂を聞いたことがある。劉表あたりも、条件次第では資金提供をしてくれるだろう」

 

 あり得ない話ではない。が、どちらにしても妄想の域を出ないものだった。ある意味、これが現状での限界なのかもしれない。不満こそあれど、自らの身を危険にさらしてまで、虎に首輪を嵌めようとは思わない。議論が他人任せの方向に走ると、議論は段々と現実味を失っていった。やがて誰かが腰を上げ、それを合図としたかのように会合自体も終了した。

 

 しかし、このような光景が、今や揚州の各地で見られるようになっていた。そしてその回数と規模は大きくなる事こそあれ、小さくなることは無かったのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「また事件が?」

 

 部下の報告を受け、劉勲は算盤をはじく手を止めて渋面を作った。

 

「で、どこ?」

 

「今度は広陵です。移動中の警備部隊が襲撃されました」

 

 劉勲はそれを聞いて、またか、と息の詰まる思いをする。実を言えば彼女はこのところ、不信感のようなものに絡めとられて喘いでいた。それは些細な事柄が発する、何かがおかしいという漠然とした違和感の積み重ね、不安の積み重ねによるものであった。

 

 劉勲はオーバルタイプの伊達眼鏡を外し、夜の職場を見渡した。知的な印象が和らぎ、額に前髪が垂れて物憂げに見える。己の容姿を引き立てようと意識的にそういった仕草を取ることも多いが、この日ばかりは本当に憂鬱であるようだった。

 

 外務人民委員会――後世でいえば外務省と植民地省を兼ねたような部署であり、他の諸侯ないし勢力圏内の名士・豪族たちとの交渉を担当している。劉勲は特定のポストこそ持っていないが、要職に自派の人間を送り込むことで組織の実権を掌握していた。

 また、外務人民委員会は、交渉の窓口として大抵の地域に駐在員を派遣している。その裏には情報収集拠点としての目的もあるのだが、同時に賄賂を受け取る窓口としても名高い。しかし最近になって、それが随所で渋り始めている感触があった。『同志たち』と呼ばれる情報提供者からのリークも、賄賂で袁家にすり寄ろうとする人間もだ。

 

 こんな話も聞く。ある者は袁家の主催する事業に投資していた金を、他の袁家の関わらない事業にそっくり移し替えるか、土地などの堅実な物件へと変えてしまう。もちろん完全に引き上げられることはないが、こういったリスク回避的な傾向は、長期的には袁家に対する信用の低下に結びつく。

 

 同じような話なら、他にもある。以前ならば袁家主催の社交パーティーを開けば、会場に入りきらないほどの人間が集まった。要人が一堂に会する場での情報収集を目的とする者もいれば、パーティーに参加することで袁家との親密さのアピールしようという者もいた。

 ところが最近ではその参加が徐々に悪くなっているらしい。急に来なくなることもあれば、以前なら商会の頭が直々に来ていたのに、支店長クラスの微妙な人材だけが送り込まれたり、ということもある。まだ情報収集や外交活動に支障をきたすほどではないが、感覚的に距離を置がれているような印象があるという。

 

 袁家内部でも、状況は似たり寄ったりだ。例えば、ここ最近でやたらと離職率が増えている。これも他がいつも通りであれば、特筆するほどのことではないかもしれない。県令が辞め、他にも辞職した職員や、突如として行方知れずになった職員もいる。補充はされているものの、仕事に慣れない新規雇用の職員比率が増加し、仕事の能率は著しく下がっている。おかげで劉勲ら管理職と古参職員の残業も増えていた。

 人員不足による残業時間の延長だけではなく、新人による業務ミスの増加も大きな問題だ。それをなんとか隠ぺいするための煩雑な仕事も増えている。しかも外に漏れれば投資家からの煩い介入があるため、袁家はこれらの小さな不具合を外部に悟られることを望んでいない。そういった隠ぺい体質に加えて、ミス自体も新人ゆえの初歩的なミスなだけに、なんとか内部で処理しようという傾向になっていた。

 

 そして追い打ちをかけるかのように、治安の悪化が加わる。運河建設以来、袁術領では襲撃事件が続いていた。デモやストライキも増え続けており、今や暴動関係のニュースには事欠かない。

 こんなに秩序が乱れるものだろうか、という劉勲の疑問は、初期には笑いと同情を持って受け止められた。運河建設に劉勲は大きな役割を果たしており、成功如何がメンツと権威に関わるので神経質になっているだけだろう、と。劉勲自身、不安から逃げるようにそうなのだと思い込もうとしていた。

 

 しかしながら、治安の悪化がいよいよ本格的になると、周囲からは笑みが消えていった。そしていつの間にか、笑みだけではなく、同情の色もまた消えていった。残ったのは、腫れ物に触るような生暖かい気まずさだ。

 被害妄想じみている、と劉勲は自分でも思う。だが、劉勲は最近になって自分が孤立しつつある、という感覚を覚えるようになっていた。会食などに誘われる回数が減り、賄賂を贈っても受け取ることを躊躇う相手が増えた。会議で討論する時も、なんとなく自分の意見に同意してくれる人間が減ったような気がする。

 

 とるに足らない違和感の蓄積、ごくごく小さな不快感、普段なら気にも留めないわずかな祖語、おかしな印象を与える出来事……ひとつひとつは大したことのない変化に過ぎない。しかしそれらは積み重なり、気付けば劉勲と彼女を取り巻く人と世界の間に、目に見えない障壁を築いていた。周囲の世界に拒まれ、疎外され、排除されている感覚。

 

(でも……どうして?)

 

 どうにも納得できなかった。自分はただ、純粋に責務をこなしただけだ。与えられた地位と責任に相応しい振る舞いをしただけ。一から十まで私利私欲で動いているわけではない。派手なパーティーを開くのも、他の諸侯や傘下の豪族に袁家の財力を見せつけ、畏怖させるため。賄賂を贈ったり、政敵を謀略で排除するのも、政権を安定運営させて政治的混乱を最小限に抑えるため。美貌と肉体を活用して有力者に媚びるのも、人付き合いの延長線として避けられない事だってある。

 仮に儒家の望むような清廉な指導者であったなら、今ここに自分はいなかったはず。当人の意思がどうであれ、魑魅魍魎の跋扈する政界では手を汚さねば何もできなかったし、生き残れなかったのだから。

 

 それを「言い訳に過ぎない」と断ずる者もいるだろう。だが、正当な理由と言い訳の境界線はひどく曖昧だ。今や何もかもが信用できない。巨大組織の高位に属しているという安心感を奪われ、劉勲は寄る辺を失っていた。

 

 ここ最近の間に、何かが狂った……劉勲はそう思わずにはいられなかった。近頃はどこかおかしい。こういった社会不安の時勢には必ずといってよいほど陰謀論が囁かれるが、劉勲はそれを信じていなかった。自身が陰謀家であるがゆえに、その難しさを劉勲はよく知っている。どれだけ状況予測をしたところで、想定外の事態というのは纏わりついてくるもので、そうそう都合よく陰謀が成功することなど滅多にない。もし誰かが裏で糸を引いているとしても、そんなにうまく行くものだろうか――。

 

 そう思う一方で、ありきたりな陰謀論ぐらいでしか現状を説明できないのも理解している。偶然と断じるには、あまりにも状況がうまく出来過ぎている。元から猜疑心が強く小心な一面もあってか、治安の悪化に対する劉勲の危機感は周囲の人民委員よりずっと深かった。連続するテロと暴動、それは拡大しているように見える。このまま手をこまねいていれば、いずれ袁家は死滅するのではないか。

 

(北の戦乱……)

 

 そう、華北で戦乱が起こって以来だ。袁紹が公孫賛を撃破し、曹操が徐州を荒廃させてから、袁家もおかしくなっていった……劉勲は自分の理論展開に論理性がないことを承知していた。混乱と焦燥が感情を暴走させ、脳が混乱しているだけであると。

 

 にもかかわらず、日に日にそれは膨れ上がり、自分でも気づかぬうちに確信へと成長していく。自分に降りかかる苦痛、そのすべては戦争にある。そしてその戦争を引き起こしている何か。人か、あるいは社会か。戦争のせいで自分が苦境にあるという感触から、どうしても抜け出すことができなかった。

   




 袁術の住む南陽郡はたしかに大都市ですが、地理的な事情を考えると江南一帯が一番理想的な条件を備えているんですよね。
 殖産興業を狙って経済優先政策を取るとこまではいいとして、袁家は基本的に放任主義なので、気付けば本国そっちのけで植民地が発展してたり。 
 しかも技術的にはそこまで目新しさが無いという……。


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77話:泥沼の会議

         

 琅邪城は徐州北部の軍事境界線として、今は亡き陶謙が建設した防砦システムである。かの有名な始皇帝が建設した万里の長城をモデルとし、延々とのびる城壁と無数の城砦によって敵の侵入を阻むことを意図していた。

 

 しかし城の主は変わり、現在この城に掲げられているのは『曹』の旗であった。かつて陶謙が長城をもって北からの攻撃を防いだように、この壮大な建築物は、今や曹操を南から守る壁となっていた。

 城外に展開しているのは、袁術・劉備の連合軍4万。守備側の倍以上の数であり、しかも曹操軍の大半が『下邳の戦い』から逃げ帰った敗残兵。琅邪城も大きく損壊しており、城というより城だった(・ ・ ・)何か、としか傍目には見えない。それほど損壊は激しく、すでに放棄されたものと勘違いした連合軍が素通りしかけるほどであった。しかし蓋を開けてみると、思わぬ苦難に直面したのは彼らの方であった。

 

 瓦礫の山と化した城壁と、崩れ落ちた建物、そして通行が困難なほど荒れ果てた通路は、それ自体がバリケードや障害物としての役目を果たす。少数ならともかく、数千の軍勢が押し寄せれば直ちに大渋滞をひき起こしてしまう。迂回も試してみたものの、曹操軍は無数の破壊された建物を資材として、すぐ強固なバリケードを構築してしまうのが常であった。遠距離戦闘をしかけようにも、遮蔽物が多いために射線や視線が通りにくく、どうじても偶発的な近接戦闘が頻発する。騎兵と弩兵は無用の長物となり、陣形を組んだ組織的戦闘を行うこともできず、ただ個人の蛮勇のみが支配する戦場と化す。

 かくして明確な戦線が存在せず、作戦や兵站計画の立案が困難となったことも曹操軍優位に働いた。偶発的な戦闘が多発する戦場では流動的な対応を迫られるため、統制と指揮系統に問題のある連合軍では対応できなかったのだ。

 

 

 この稀に見る善戦を演出したのは、卓越した指揮能力を持つ一人の軍師・郭奉孝の繊細にして緻密な采配によるものだった。

 

「城を崩して時間に変えよ」

 

 郭嘉は無理に敵を撃破しようとするのではなく、障害物を利用しながら徹底的に時間稼ぎに徹していた。捉え方によっては消極的な戦術ともいえるが、これは曹操の戦略的な意図を汲みとってのもの。彼女にとって琅邪城は使い捨ての障害物に過ぎず、下邳で失った兵力が回復するまで敵を釘付けに出来れば、城そのものがどうなろうと気にしてはいなかった。

 

 そこで郭嘉は部隊を小規模に分けて運用し、臨機応変に奇襲・待ち伏せ・撹乱といった小規模戦闘を連続的に実施することによって、優勢な敵に消耗戦と神経戦を強いて士気の低下と戦線の泥沼化を狙ったのだ。

 結果、短期間でつくと考えられていた戦闘は予想外に長引くこととなる。曹操軍は障害物を巧みに利用して津波のように押し寄せる連合軍と粘り強く戦い、数度に渡る攻勢を悉く撃退していた。

 

 もっとも、連合軍側の不手際にも原因がある。「兵力10万」を豪語し、数的に優勢とされている袁術軍だが、戦闘が始まった時、そこには極めて少数の限定された戦力が存在するだけだった。当時の袁家は恐らく、大陸でもっともシビリアンコントロールが行き届いた組織であり、職業的な常備軍はわずか3万6000に過ぎなかったという。文官優位の体制下で軍部は抑圧され、その巨体に不釣り合いなほど小さな戦力しか擁していなかった。

 

 この極小の常備軍の不足を補うために、戦時には傭兵と強制徴募が実施される。正規兵1万、農民兵1万2000、これに徐州兵2万を加えた4万強の遠征軍が、袁術・劉備連合軍の実態であった。しかし農民兵の装備は簡素で訓練もほとんど受けておらず、通常は防具すら無いという有様。訓練と規律も欠けており、複雑な軍事行動には適していなかった。徐州兵はそれよりマシだったが、あくまで一時的なトップに過ぎない袁術のために命を懸けるはずもなく、士気は総じて低い。袁術軍もまた彼らを捨て駒としか見なしておらず、互いに足を引っ張り合うのが常態化。「徐州の解放」などといった崇高な大義名分とは裏腹に、その内実は反目し合う烏合の衆でしかなかったのだ。

 

 それでも当初は数にモノを言わせればどうにかなる、といった楽観論が大勢を占め、かくして連合軍による遠征が実行に移される。結果、連合軍は死兵と化した曹操軍と、郭嘉の洗練された指揮の前に散々に打ち負かされることとなったのである。

 

 

 戦闘が長期化するにつれ、そのコストは徐々に袁家を圧迫し始めた。単純な戦費もそうであるし、もとより3万程度しかいない常備軍、その3割が遠い徐州で消耗しているのだ。かねてからギリギリ最低限しかいなかった兵力は完全に不足状態となり、しかも広範囲に分散して統一した軍事行動がとれなくなっていた。

 

 これに呼応するように、勢力圏内にある豪族たちが不穏な動きを見せていることもまた、袁術軍の処理能力を飽和させる原因になっている。

 そもそも袁家の正規兵力が極小であった要因のひとつには、地元の豪族たちが保有する私兵を、有事の際に補助戦力としてアテにしていた部分がある。実際、小さな反乱や農民一揆などでは彼らの協力を仰ぐことも容易であり(もし一揆が成功すれば袁家のみならず自分たちも困るから)、そうであるなら常備軍は減らした方がコスト的にも遥かに安上がりだった。

 

 ところが、今回は事情が違った。従来の内憂ではなく、曹操軍という外患と戦わねばならない。だが豪族たちの協力を仰ぐには徐州は遠すぎ(豪族の私兵はあくまで彼らの領地を守るための軍なので、遠く離れた所へは行きたがらない)、徐州豪族は曹操との戦いで戦力の大半を喪失していた。

 当然、主役となるべきは袁術軍正規兵しかありえず、戦費もまた自らのポケットマネーで支払わなければならない。こうしたリスクを懸念して遠征に反対する者もいたが、結局は「疲弊した曹操軍など恐れるに足らず。兵力ではこちらが優っている」との声に押され、なし崩し的に遠征が決定されてしまった。

 

 その結果が今の惨状であり、袁家は曹操軍を打ち負かすことが出来ないばかりか、その軍事的敗北を世間に晒したことで、権威と名声は大きく傷ついた。勢力圏内の豪族たちの心はオセロのように裏返り、統治の不安定さに拍車がかかることとなる。

 

「今すぐ兵を増員して、袁家の権威と力を見せつけるべきだ!!」

 

 威勢だけはよい強硬論が、華雄ら武断派から出始めるのに長い時間はかからなかった。もはや傀儡いえども信用ならぬ。袁家に従わぬものは、すべて潜在的な敵と見なす風潮が大勢を占めてゆく。中立は許されず、敵と味方に2分する善悪二元論的な意見が方々で聞かれるようになる。

 

 「――我々の側につくか、反逆者の側につくか」

 

 こういった弾圧を実質的に担当しているのは賈駆の保安委員会である。実力に見合うだけの資金と人員を与えられた彼女は、順調に実績を積み重ねて出世街道を歩んできた。秘密警察を拡大し、更なる弾圧の強化によってテロを撲滅できると主張している。

 

「秘密警察の権限を増やしたおかげで、反乱分子への包囲網は強まっているわ。州境線を封鎖したおかげで、他州からの援助も先細っている。あと半年もあれば、全ての敵を根絶やしに出来るはずよ」

 

 自信たっぷりに言い放った賈駆だが、言葉とは裏腹にその表情は硬い。治安は一向に回復する気配がなく、次々に発生する襲撃事件やら暴動やらに追われて弾圧どころではなくなっていたのだ。こうした治安悪化の背後には、袁家の弱体化を狙う曹操や劉表の影もチラついている。賈駆も持てる資源を総動員して事に当たらせているが、雨後のタケノコのように増え続けるテロ事件に翻弄されているのが実態だ。

 

 最初は裏で誰かが手引きしているのではないかと疑っていたが、それにしては一貫性がない。逮捕者を尋問すればするほど、動機も目的もバラバラになってゆくのだ。目的を持ったスパイであることもあれば、単なる欲求不満で破壊活動を行う者もいる。反乱分子に政府関係者が刺されることもあれば、酔っ払いが役所で大暴れしただけという事もある。

 だが、いずれにせよ治安の悪化は隠しようがなく、人民委員たちは以前にも増して警戒過剰になっていた。護衛の数は倍に増え、睡眠や房事でさえ衛兵が付いている有様だ。

 

「昨日の衛兵じゃが、妾はあの澄ました態度が気に食わぬ。さっさクビにするじゃ!」

 

 しかも袁術などは注文が煩い。本音をいえばそんな些事にいちいち構ってられないのだが、無碍にするわけにもいかないのが辛いところだ。他の人民委員もだいたい似たようなもので、劉勲などは3日に一回ぐらいのペースで、やれイケメンがいいだの、飽きたから新しいオトコが欲しいだのと、煩い事この上ない。賈駆も適当に受け流すようにしているが、袁術は我慢を強いられたことで明らかにイラついていた。それを他の人民委員が見逃すはずもなく、賈駆が失脚するのを虎視眈々と待っていた。

 

「おや、あと6ヶ月も君は留任するつもりなのかね、同志賈駆。次の総会まであと3か月しかないのだから、そろそろ何かしらの成果を出した方がよいと思うが」

 

 法務人民委員長・楊弘が棘のある言い方で口を挟む。口元は皮肉っぽく歪んでいるが、タカのように鋭い眼光は獲物を追いつめる猛禽類を思わせた。

 

「選出など問題ではない!これは袁家全体の危機だ!」

 

 続いて、傍にいた軍務委員会議長の袁渙が声を張り上げる。がっしりとした体格の偉丈夫で、文官というより退役したベテラン軍人を思わせる姿格好だ。厳つい見た目の通り気性も激しく、若い頃から地方の行政官として辣腕を振るっていたという。袁家の傍流出身で、劉勲らとの政争に敗れてからはストレスを発散するかのように苛烈な振る舞いが目立つ。

 

「目と鼻の先で破壊活動が行われているんだぞ! 間違いなく、治安の悪化は中華全土に伝わっていく。徐州の苦戦もだ! 領内にいた間諜は雇い主の元に戻って、袁家が弱体化していると伝えるに違いない!」

 

 袁渙が太い指でコツコツと机を叩く。

 

「先週だけでも3件もの大規模な襲撃と5件の暴動が起こっているんだ! 揚州に限らず、そこら中で反乱やら暴動やらの話が囁かれている。我々は最大の危機に直面しているといってもいい。同志賈駆、君がグズグズしていればしているほど、袁家は敵という敵に付け込まれるんだぞ!」

 

「……治安が悪化しているのは、徐州で苦戦中の軍部にも責任があるんじゃない?」

 

「私は開戦前、もっと兵力が必要だと言ったはずだ! 曹操軍を甘く見てはならないと。 それに反対し、徐州派遣軍を3割以上も削ったのは同志賈駆、君たち保安委員会だ」

 

「……っ!」

 

 袁渙をキッと睨み付ける賈駆だったが、それ以上は何も言えずに腰を下ろす。心なしか顔が青いようにも見えた。事実として袁渙の反論は間違っておらず、戦争による軍務委員会の影響力拡大を懸念した賈駆は軍拡に反対した経緯がある。

 

(悔しいけど、今回は敵戦力を見誤ったボクにも責任がある。いくら精強を誇る曹操軍とはいえ、まさか敗残兵があそこまで粘るなんて……)

 

 曹操軍1万2000 対 袁術・劉備連合軍4万2000――いくら兵の質が違うとはいえ、これだけの戦力差があれば勝てると賈駆が考えても不思議はない。常識で考えれば、むしろ1万弱の敵のために6万もの兵を投入しようとした、袁渙の方が「自派の影響力拡大のため」と思われてもおかしくない状況だったのだ。

 ……というより、袁渙本人も初めはそのつもりだったのだが、徐州での苦戦が明らかになるにつれて、あたかも当初から苦戦を予想していたかのように振る舞っているだけだったりする。

 

 賈駆が言葉に詰まるのを見て、袁渙は勝ち誇ったように椅子に座ると、再び熱弁をふるう。

 

「いずれにせよ問題は明らかだ。保安委員会では充分な成果を上げられないし、軍は広範囲に分散している。我々への敵意は中華全土に広まっているにもかかわらず、な」

 

 袁渙はそう言って全員を見渡した。

 

「社会不安の長期化は、政治的にも経済的にも深刻な影響を与える。軍務委員会としては、軍の量的拡大を真剣に検討して頂きたい」

 

 最後の発言は袁術に向けられたものだったが、当の本人は目の前のトレイに山と積まれた菓子をしげしげと眺めるばかり。長ったらしい会議に辟易しているのか、幼い君主はうんざりした様子だった。

 

「今の妾たちでは、曹操で勝てぬと?」

 

「いえ、そういった意味ではありません。が、万が一ということも考えられます。迅速に事態を沈静化させるためにも、我々にはより強大な兵力が必要なのです」

 

 頭を下げる袁渙。待つこと数秒、やっとのことで袁術が袁渙と視線を合わせる。

 

「つまり、兵が足りんと言いたいのかや?」

 

「はっ、左様でございます。治安の回復には、やはり軍の拡大が必要不可欠であるかと」

 

「じゃが――」

 

 袁術が口を開いた。

 

 

「黄巾の時は、6万の兵でもダメじゃったの」

 

 

 瞬間、あたりに戦慄が走った。まるで空気が冷却されたかのような、硬質の沈黙。袁術を除き、時が止まったかのようであった。袁渙は青い顔をしながらも、揚げ饅頭を頬張る袁術と向かい合った。

 

「あ、あの時とは状況が違います! あの苦戦を教訓に、我が軍はより強く、かつ洗練された軍隊へと生まれ変わりました!」

 

 対して、袁術は「そうか」と短く返しただけだった。袁渙は体を強張らせたまま、しばらく何と言うべきか考えていたようだったが、諦めたように深く腰掛け直す。それを見た張繍が忍び笑いをし、張勲が物憂げにうつむく。他の人民委員も取り繕うような笑み浮かべたり、考え込むような仕草で間を保っている。幼い君主の問いは、それだけ問題の核心を突いていた。

 

 

 中でも印象的だったのは劉勲の反応だ。黄巾の乱における苦戦の元凶もある彼女は、一瞬で青白い頬を紅潮させ、屈辱と憤りがないまぜになった表情を浮かべていた。

 

 その根底にあるのは恐らく、黄巾軍に対して手も足も出なかったという劣等感。たかが農民あがりの反乱すら潰せなかったという事実は、それまで順調に出世していた劉勲のプライドを大きく傷つけていた。

 

 しかも彼女にとって腹立たしいことに、最終的に黄巾の乱を鎮圧したのは孫家の軍事力だった。孫策に周瑜、2人の天才に率いられた孫策軍は半数以下の兵力で黄巾軍を壊走せしめた。おそらく、それは劉勲のコンプレックスを大いに刺激した事であろう。袁家の最高幹部であるはずの自分が醜態を晒した直後、より不利な立場にあるはずの孫家が楽々とそれを解決してしまったのだから。

 

 

 ――これは意味のない仮定であるが、劉勲はエリートコースを歩めなかった方が、ひょっとしたら幸せであったのかも知れない。もし彼女が地方の小役人としてキャリアを歩んでいれば、その過程で政敵を蹴落とし、着実に出世街道を進む人生に深い満足感を覚えただろう。時には失敗することもあれど、下っ端ならば逆にそういった屈辱感との折り合いを容易につけられる。

 失敗したのは自分に権限がないから。もっと力のある誰かが邪魔をしたから。だから自分が失敗したのも仕方がない。自分にも権力さえあれば、と。あるいは、しょせん下っ端だから失敗するのは当たり前なのだ、と言い逃れしたのかもしれない。

 

 だが、書記長にそういった甘えは許されなかった。最高位の役職であるだけに、失敗すればすべて自分の力不足が原因。権限が足りないだの、上司が妨害しただのといった言い訳は嘲笑の対象でしかない。

 そもそも、失敗それ自体が許されなかった。失敗を認めてしまえば、自分は今の地位に相応しくないと発表するようなもので、分不相応に高い地位についてしまった責任を取らねばならない。社会的な信用も一瞬で地に堕ちる。それは築き上げてきたキャリアのすべてを否定し、自らの人格をも否定されることと同義であった。

 

 

 実に難儀な話である。書記長という位は、その肩書きを持つ者に、なんと多くの責任を要求することか。地位と責任と能力は、必ずしも一致しないというのにも関わらず。

 

 劉勲は本人と周囲が思っている以上には、真面目で責任感もあったらしい。彼女の振る舞いは劉勲という『個人』として見られるのではなく、『袁家の書記長』として周囲に認識されてしまう。失敗を犯せば個人の問題では済まず、袁家全体の失態として記憶されるのだ。だからこそ彼女は義務として、書記長の名に恥じぬよう振る舞わねばならなかった。常に完璧に、剛毅に、そして優雅に――。

 

 行政手腕によって領地を富ませ、謀略を巡らせて地位を守り、外敵を排除する……この程度(・ ・ ・ ・)のことは当然のように出来なければならない。無能な人間が、袁家という巨大組織の頂点に立つことは許されないのだから。

 

 あるいは――これも意味のない推測だが、もしかすると劉勲はその重荷に耐え兼ね、疲れ果てていたのかもしれない。いかに袁家が大きな組織で書記長の権限が強大であろうと、必ずしもその頂点に立つ者が周囲と隔絶した天才か超人であるとは限らぬ。身の丈に合わぬ強大な力は、しばしばその持ち主を不幸にしてしまうらしい。

 特に劉勲の場合、一から十まで自分の力で功績を立ててキャリアを積み上げてきたというより、派閥のパワーバランスや政治力学にもとづく微妙な駆け引きを利用しての出世である。あたかも「テコの原理」の如く他人の力を自分の力として利用することで、本来の能力以上のパワーを行使する……逆にいえば、劉勲個人の純粋な能力だけを見た時、それは彼女が振るう巨大なパワーに不釣り合いなほど、脆弱で平凡なものでしかなかった。

 

 もちろん袁術のように『お飾り』と成り果て、気ままに振る舞う人生を選ぶ、という選択肢もあった。が、それを認めることは敵わない。他者より秀でたいという劣等感をひとつの原動力として、彼女はここまで出世してきた。なればこそ、それが苦痛だからといって放棄すれば、結局は新たな劣等感を抱え込むことに他ならぬ。身の丈に合わない栄光を掴んでしまったがゆえに、劉勲はそれを克服することも放棄することも出来ず、パラドックスへと陥っていた。

 

 

 ただ、それは劉勲という個人のみならず、袁家全体にも言えることかも知れなかった。その繁栄と権力は、しばしば借り物に過ぎないと指摘される。『富国強兵』を掲げ、出来るだけ他者に頼らず領内を発展させようとした曹操らに比べ、袁家は勢力均衡や自由貿易など外交に頼る比率が高い。

 人民委員会はピラミッド組織の司令塔であるというより、寄り合い所帯の調整機関に過ぎず、連合国家というより国家連合であった。州同士の問題もそうであるし、領内においても名士層や豪族の力を借りなければ、およそ支配はおぼつかなかった。

 

 「あれは神輿に担がれた玉座に過ぎぬ。己の足で立っているのではなく、他人が支える栄光だ」《荀或の言》という辛辣な評価も、あながち的外れとは言えなかった(――もっとも「かの軍師は二兎を追う者の末路をご存じない」《袁渙の言》というような反論に見られるように、曹操らは何でもかんでも自分で抱え込もうとして中途半端に終わる傾向があったと言われるから、一概にどちらが正しいとも言えない部分はある)。

 それを証明するように、外務委員長・閻象の報告は悲観的なものだった。

 

「情勢は良好とはいえませんねぇ……こちらの工作員によれば、我々への不満は豫州でも広がっているそうです。頴川でも暴動が起こっていますし、沛国や陳国もすべて同じ状況。それなのに我々の兵力は常に不足しています。抗議運動、暴動、反乱が領地のあちこちで吹き出しており、中華全土の敵はひとつ残らず我々を狙っていると考えていいでしょう」

 

 閻象によれば、袁家が打ち立てた傀儡政権のほとんどで、反乱の兆しが見られるという。

 

「いやはや、なんとも困ったものです。他州からの襲撃が増えているばかりか、領内の反乱分子の数も増加。こうした治安悪化が更なる不満を招き、農民一揆や暴動が増える一因になっているかと」

 

 豫州西部では曹操の工作員と軍が衝突し、淮水では劉表の息のかかった水賊が暴れている。魯国でも袁紹の放った間者が数人、憲兵隊によって検挙。汝南郡では劣悪な労働環境に耐えかねた農奴が暴動を起こした……などなど。

 

「宛城の治安がまだ良好なのが、せめてもの僥倖。民は不安を感じつつも、変化や意見を持つことに慣れていないがために深く考えてはいません。しかし社会不安が大衆の心理を圧迫し、不満の声が広がっているのは間違いないでしょう。彼らは普段の習慣で政府に従っていますが、決して満足しているわけではありません」

 

 表立った抗議こそ無いものの、以前には見られなかった行動パターンが目立つという。兵士が近づくと無表情を装う、役所に入るときに目つきが険しくなる、テロの犠牲者の家の前で祈る、などなどだ。声高に不平を訴える者はまだ少ないが、この宛城でも政府への怒りはゆっくりと膨らんでいる。

 

「政情不安が長引けば長引くほど、我々はより困難な状況に置かれるでしょう。このまま内戦に突入しても不思議はありません。そうなれば最悪、宛城以外のすべてを失うことに……」

 

 議場がざわめき、数人がそわそわした様子で身じろぎする。そんな中、華雄を始めとした武闘派数人が納得していない表情で顔をしかめた。

 

「そんな大袈裟な。どうせ相手は戦い方も知らん農民か、コソコソ隠れるだけの間者だろう。内乱になって正面から歯向かってくるならば、そちらの方が好都合だ。正々堂々と打ち倒せばよい」

 

 己の強さのみを頼りとし、戦での勝利を至高と信ずる華雄らしい答えであった。策略と陰謀を友とする袁家の人間からは、かのような発想は生まれないだろう。それどころか楊弘など文官の大部分は、闘争を卑しいものとして蔑視するような風潮すらあった。

 

「これだから蛮族あがりの脳筋は困る。殴り合って解決するのは西涼までだ。貴様らは経済というものをご存じない」

 

 あからさまにバカにしたような楊弘の態度に、華雄は体を強張らせる。

 

「そこまで言うからには、何か解決策があるんだろうな?」

 

「もちろんだとも。いいか華雄、秘密警察と軍の強引な取り締まりが、そもそもの不満の原因だ。なら、なぜその原因を取り除かない? 答えは単純だ、連中と取引すればいい」

 

「貴様、正気か!?」

 

 華雄がうわずる声で、楊弘を睨み付ける。

 

「そんなものは完全な譲歩以外の何物でもない!」

 

「メンツにこだわって無為に被害を増大させるより、遥かに理性的だと思うが?」

 

 華雄は怒りに震えながら、拳で強くテーブルを叩いた。

 

「反逆者とは交渉しない!!」

 

 やはり、というべきか。華雄の言の是非を巡って、賛否両論がごうごうと巻き起こる。北郷の時代でも決着がついていない議論であるのだから、当時の人民委員会で結論が出るはずもない。会議は再び批判の応酬に陥るかに見えた。

 

「まあまあ、お二方、もう少し落ち着いたらどうです。そう熱くなられては、冷静な判断力も鈍るというもの。ここはひとつ、一息つく時間だと思って私の意見を聞いていただきたい」

 

 しかしその時、外務人民委員議長・閻象が口を開いた。相変わらずの柔和な微笑みをたたえ、怒れる華雄らの不機嫌な視線にも動じた様子はない。

 

「軍を引き揚げても問題は解決しないでしょう。むしろ敵に“袁家は疲弊している”との間違った印象を与えることになりかねません。しかし、戦いそのものは早く終わらせねばならない」

 

 今の袁家は何もかも収拾がつかなくなってきている。戦争も、暴動も、権力闘争も。それを破滅から救うには、今すぐに英断を下さねばならない。

 

「決定的な打撃によって徐州を迅速に制圧し、しかる後に兵力を引き上げるべきかと」

 

 妥当ではあるが、とりたてて独創性も具体性もない意見である。劉勲がこちらを見て、いぶかしそうに片眉をあげた。ほかの人民委員はむっとした顔をするか、バカにしたようなしぐさをしている。彼らはこう言いたいのだろう――それが出来ないから困っているのだろうと。

 だが、閻象には決定的なアイデアがあった。

 

「もちろん曹操軍を打ち破る策は考えてありますよ。答えは簡単です――精兵には精兵を。孫家を活用すればいい」

 

 閻象が予想したとおり、その発言をうけて場が一気にざわめいた。あらゆる人間が口をそろえて「問題外だ」「討論する価値もない」などと騒ぎ立てる。

 

「こうも異口同音に反論をされると、いささか心苦しいものがありますが……しかし申し訳ない事に、私には皆さんがなぜ反対するかがさっぱり分かりませんねぇ」

 

 言葉の集中砲火に晒されるも、閻象にはそうした中傷を気にかけた様子はない。むしろ言葉尻からは、皮肉の空気すら感じられた。

 

「我々が南陽を統治することが出来たのは、孫家の軍事力を効果的に運用することが出来たからこそ。前太守・張資を殺害し、その軍勢を散々に打ち破ったのは、今は亡き孫堅どのの活躍だったのでは?」

 

 正論ほど耳に痛いというが、多分それは事実なのだろう。袁家家臣がどんなプライドを持っていようと、その軍事的な危機を救ったのは常に孫家の軍事力であった。ただし正論だからといって、必ずしも共感できるとは限らない。人は得てして苦痛な正論より、心地よい甘言の方を聞きたがるもの。売国奴のレッテルを張られたくなければ、負けの決まった戦ほど必勝を叫ばねばならぬように……。

 

「勝てばそれで良し、仮に失敗してもこちら側に損はない。金銭的にも軍事的にも最も合理的な解決策のはず。なのに、この窮状を解決できる切り札を、なぜ封印しておくのですか?」

 

「――それは」

 

 冷ややかな声がした。

 

「アタシにそのつもりがないからよ」

 

 声の主は劉勲。彼女は椅子に座ったまま閻象に向き直り、厳しい声で宣告した。緑の瞳が病的にギラリと光り、猜疑心を湛えている。だが、それは不埒な輩に対する怒りの発露というより、漠然とした不安と恐怖の裏返しであるかのような印象があった。

 

 文官と呼ばれる人種は総じて、制御しにくい精兵よりも従順な弱兵を好む気質がある。精兵を動かすにはそれなりの軍事才能が必要だ。しかし劉勲にその能力はない。ゆえに自分の地位が揺らぐのを恐れて、孫家というカードを切れないのだろう。

 張勲やその他の軍人なら、もしかすると孫家を制御できたかもしれない。しかし孫家を含んだ軍事力の全てを統制化に置ける人間がいるとしたら、その者が真の実力者だ。劉勲はそうした人物の出現を脅威に感じている。歴史上、彼女のような文官によるシビリアンコントロールが機能したのは、軍部が分裂していた時だけだったのだから。

 

「番犬は弱過ぎると役に立たないけど、強過ぎれば主人に牙を剥くものよ。目の前の暴力すら制御できてないのに、もっと強大な暴力を持ち込むつもり?」

 

「おや」

 

 釘を刺すような劉勲の厳しい視線に、しかし閻象は苦笑と共に首を振るだけ。おかしくて堪らないといった様子で、細い目に好奇の色を湛えている。

 

「まさか貴女の口からその言葉を聞く日が来ようとは。意外なこともあるものです」

 

 たとえ優雅な振る舞いであろうと、丁寧な物言いであろうとも――主の持つ雰囲気次第で胡散臭くも醜悪にも見える。閻象もまた、そうした人間の一人であった。

 

「……何が言いたいのかしら?」

 

「いえ、別に深い意味は。――ただ」

 

 柔らかい物腰で劉勲と語らうその行為は、決して聖人の類ではない。例えるなら、傷口に塩を塗り込むかの如き所業。禿鷹が手負いの獲物をいたぶり、衰弱する様を愉しむような邪悪さを含んでいた。

 

「かつて孫家を使って黄巾の乱を鎮圧した貴女らしくもない、と」

 続く劉勲の反応は、中々に見物であったという。顔面を多量の血液が血管内を移動し、頬の筋肉が引き攣る。

 

「なっ……閻象、アナタ少しは自分の立場を弁えて!」

 

 劉勲がヒステリックに叫び、苛立ったように髪をかき上げた。

 

「バカげた考えで和を乱すようなマネは謹んで! でないと、アナタ自身に何か企みがあると疑われるわよ!?」

 

「はて、間接的な脅しであるように聞こえましたが」

 

「脅しに決まってるじゃない! それ以外の解釈があるワケ!?」

 

 厳正なはずの会議室に似合わぬ、レベルの低い罵倒が飛ぶ。往々にして熱弁を振るう者は議場を支配するものだが、この時ばかりは様相が違った。激しい言葉で攻め立てれば攻め立てるほど、それに反比例するかのように劉勲の姿は小さく見えた。圧倒しているのは閻象の方であり、劉勲は精神的劣位に立たされていたのである。

 

 つい感情を爆発させてしまった事を、彼女は数秒と経たない内に後悔するハメとなったが、既に時を逸していた。

 以降、彼女はこの失態を挽回すべく、より危険な博打へと手を出していくことになる。

      




 袁術軍は意外と少ない……。
 歴史上だと、人口が多い国ほど軍隊が多いってワケでもないんですよね。ナポレオン時代のロシアなんかもロシア遠征までフランス軍より小規模だったらしいですし、WW2の中国なんかも人口の割に兵員数は日本と大差なかったり。
 むしろ大国ほど、軍の規模が巨大だと管理しきれなくなって地方軍閥化して勝手に独立、なんて事もあって逆に少数精鋭志向になるという話も。


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78話:充たされた毒盃

    

 古来より中華の支配者は、自らを神格化しようと努力を重ねてきた。俗世から離れた高貴なものであるというイメージが人民に畏怖と敬意の念を抱かせ、それが支配を容易にすると考えたからだ。

 そうした中にあって、名門袁家はまこと世俗的であった。陰謀と策略、暴力と破壊の血塗られた歴史がひたすら続き、正義感の強い人間ならば嫌悪感を覚えざるを得ない。少なくとも、人徳と慈愛の鏡とは言えぬ。そうであるなら民から貪欲に搾取したり、敵を謀略で貶めたりするはずがないからだ。

 

 それを最も分かりやすく体現した組織が、賈駆の指揮する保安委員会だった。中華最大の秘密警察・諜報機関であり、その役割は軍民の監視、領内外における非合法工作活動、反乱分子の弾圧に粛清などと多岐にわたる。

 いわゆる「穢れ仕事」の総締めとでも呼ばれるような不人気部署だったが、賈駆などにとっては思いのほか居心地の良い職場だった。任務の重要性からほかの部署以上に実力主義で、それゆえ過去の経歴や男女・民族・年齢・身分などの差別を受けることもないからだ。何らかの理由で社会から排除された人間も多く、元董卓軍兵士や亡命貴族、元犯罪者に脱走兵などあらゆる種類の人間がいたが、評価の基準は実績だけだった。

 

「やっぱ気になる?」

 

 賈駆が声のした方を振り返ると、保安委員会・第2総局長の張繍の姿があった。女性の平均より小柄という以外はごく平凡な体格と、やや乱れた栗色のミディアムヘア。年齢は見たところ少女と女性の中間ぐらいで、つり目がちの瞳は鮮やかな琥珀色だった。麻で編み上げられた活動的な服装をしており、すばしっこい印象を与える。

 

「何の話?」

 

「そりゃ孫家の事だよ。監視の数を倍にしても、なーんの粗も出てこない。正直、ちょっと焦ってるんじゃないかと思って」

 

 余計なお世話だ、と賈駆は内心で舌打ちした。同時に張繍の鋭さに戦慄の念を禁じ得ない。机の横には分厚い書類の山が積み上げられており、孫家関連の監視報告書がほとんど。そして張繍の指摘通り、ここ数週間にわたって監視を続けた調査員の全員が、孫家に何ら怪しいところは無いという結論で締めくくっている。

 

(でも、そんな(・ ・ ・)はずない(・ ・ ・ ・)……)

 

 物理的な証拠は何も無いが、賈駆には確信があった。四六時中ずっと監視しているのに、孫家の全員が尻尾を出さない。疑わしい手紙や発言はおろか、最近ではそもそも孫家の人間そのものを見かけないような気もする。

 

 ――だからこそ、余計に怪しいのだ。

 

 まるで、自分たちから何かを隠しているような……。

 恐らくはそういう事なのだと、賈駆は推測していた。

 

 孫家は何かを企んでいる。だから周到に身を潜め、隠れるようにして袁家から距離をとっているのではないか――。

 

 そう考える一方で、裏付けとなる証拠は何も出てこないのも事実だった。これといった変化も起こらず、段々と自分の行動が馬鹿馬鹿しくなり、杞憂だったのではないかと思えてくる。

 

 保安委員会本部棟から北北西にしばらく行けば、孫家の屋敷がある。賈駆が2階にある自室の窓から、篝火に照らされた孫家の屋敷を見やると、木造のごく普通の建物が目に入った。いかにも平凡な豪族の居館といった佇まいで、多数の警護兵に囲まれた政庁にいる自分の方が、むしろ危険人物に思えるほどだ。

 

「詠ちゃんもさ、ひょっとして孫家はシロなんじゃないか――とか思ってたりする?」

 

 またもや内心に土足で踏み込まれ、賈駆は張繍を苦々しげに見つめた。張繍としては悪気があって言った訳ではないらしく、純粋に思ったことを口にしているだけらしい。そうだと分かっていても、やはり図星をつかれていい気分はしないものだ。

 

「ボクの推測はともかく、証拠がなければシロだって認めるしかないでしょ。劉勲も物的証拠を掴むまで粛清は控えろって言ってきたし」

 

 数日前、賈駆は劉勲に豫州の動向を告げていた。孫策の従弟で州牧をつとめる孫賁が名士の一部と結託し、袁家に対する反乱を起こそうとしているという情報を。それを聞いた劉勲は唖然とし、混乱しつつ「疑心暗鬼を引き起そうとして、意図的に流された噂じゃない?」と否定も肯定もできぬ様子であった。

 それを聞いた張繍は「ふぅん」と唇を尖らせる。

 

「でも劉勲ちゃんってああ見えて、なんか妙にお上品な所あるじゃん?」

 

「上品?」

 

「そ。ビミョーに緩いっていうか、ヌルい感じ」

 

 とてもそうは思えなのだが、張繍に言わせれば劉勲にはどうも甘いところがあるらしい。敵に寛容であるという意味ではなく、回りくどい上に生ぬるいのだ。例えば張繍にとって敵とは滅ぼし抹殺すべき対象だが、劉勲にとっては買収し逆利用すべき存在。戦争などもっての外で、血を流すことを無粋で野蛮な行為だと軽蔑している節すらある。外交官か政治家としては、それでも良いのかもしれぬ。そこは「アメとムチ」という言葉で表現されるように、厳格さと妥協の両方を使い分けてこそ一流とされる世界だ。それゆえ劉勲は不服従の態度を見せ始めた豪族たちについても、物理的な排除には慎重な姿勢を崩さなかった。

 

「だけど劉勲の言う事にも一理ある。仮にも一州の州牧を排除するともなれば、それなりの根拠が必要よ? 事を急げば、世間から軽挙妄動ととられかねない。そうなれば、反乱分子が喜ぶだけよ」

 

「少しくらいなら、悦ばせたげてもいいんじゃない?」

 

 張繍はごく自然に声を低めた。口元には無邪気な――それでいて残忍な笑みが浮かんでいる。 一見すると活発そうな明るい少女、といった印象を与える張繍だが、伊達や酔狂で秘密警察の実働部隊を動かしている訳ではなかった。むしろ直接指示を下して屠った人間の数は賈駆の数倍はあり、内実は虐殺者のそれ。特に抵抗も無いらしい。

 普段の人懐っこい表情とのギャップに、賈駆も始めの頃は戸惑うことが多かった。しかし慣れてくると、それがとても自然な事のように思える。純粋無垢な瞳で「お腹がすいた」と訴えかけてくる乞食の子供が、鶏を見つけた途端に嬉々として血塗れでそれを貪るような……彼女が発しているのは、そういった“悪意のない殺意”なのだ。

 

 張繍の中で殺人という行為は、食べる・寝る歩く・話す・調理する・本を読む・書類を整理する、といった日常的な行動と何ら変わりがなかった。人格が完全に破綻しているという訳ではなく、単に「人の命を奪う」という行為をタブー視していないだけ。「命の重み」が常人より軽いだけで、本人に言わせれば「歩く時に、いちいち潰した蟻の事なんて気にしない」という程度の感覚であった。ゆえに張繍は無意味な殺戮や拷問を愉しむような嗜好こそ無いものの、簡単な理由で無造作に虐殺を行い、それを何とも思わないような歪みを持っていた。ベテランの捜査員すら神経を擦り減らすスパイ狩りを、この少女はハンティング感覚で嬉々として執行できる。ゲーム感覚で人を殺められる、その歪さゆえに張繍は袁家の剣として機能していた。

 

「張繍、劉勲はこのまま静観するつもりだと思う?」

 

「ないない」

 

 賈駆の問いに、せせ笑うように返す張繍。

 

「あの人の性格的に、多分まずは取引でしょ。そんで時間稼ぎながら、相手をじっくり観察。イイ感じならそのまま交渉開始、無理っぽかったら裏工作、みたいな」

 

 典型的な南陽人の行動だった。経済的センスに長けた彼らは基本、論理的合理性と利己主義に基づいて行動する。一般的には賢い行動といえるが、それゆえに愚かな人間の行動を予測出来ないという弱みを孕んでいた。端的にいえば、どんな相手であろうと利を示せば取引に乗ってくるだろうという思い込みが、楽観的ともいえる期待に繋がっていた。

 

「焦ってるのは劉勲ちゃんも一緒だから。もし軍が反乱を潰したら、それは軍部の功績。逆に交渉で懐柔できれば、劉勲の外務人民委員会の発言力が上がる。黙って見てるだけってのは無いと思うな。もっとも――」

 

 張繍は流し目で賈駆を一瞥した。

 

「自分が反乱軍なら、その間に時間稼ぎと情報収集でもするけどね」

 

 あり得ない話ではなかった。孫家が裏で暴動を扇動し、反乱を決意しているのなら、下手な交渉は付け入る隙を与えるだけになる。――もっとも、本当に孫家が黒幕だとすればの話だが。

 

「劉勲ちゃんはさ、いろいろ考えすぎなんだよ。証拠とか、そんなのどーでもいいのに」

 

「……張繍、まさか今の本気で言ってるんじゃないわよね?」

 

「いんや、本気だけど」

 

 張繍はどことも知れぬ方角へ目を向けたまま続ける。

 

「だって証拠ないんでしょ? だったら誰が犯人(・ ・ ・ ・)でも不思議(・ ・ ・ ・ ・)じゃない( ・ ・ ・)って事(・ ・ ・)だよねぇ(・ ・ ・ )

 

「っ――!?」

 

 戦慄する賈駆に、張繍は屈託のない笑顔を向けた。賈駆はその狂喜に満ちた様相を見つめ、さらに深まった警戒心と嫌悪感を持て余す。この少女は災厄を歓迎し、事態が大きくなる事を望んでいるのか――。

 

(それじゃぁ、まるで全ての人が敵みたいじゃない……!)

 

 心の中で吐き捨て、視線を窓の外に戻す。暗くなった宛城の街並みが目に入った。そう、以前に比べて活気の減った市街地が。今では夜になると、死んだように人の動きが消える。つい数か月前まで「眠らない街」とも呼ばれたのが、まるで嘘のような変貌だった。

 

(……敵、か)

 

 考えれば考えるほど、張繍の言葉が反芻される。たしかに、そこら中に敵がいるみたいだ。他の諸侯、信用ならない地方豪族、不満を持つ人民、袁家内部の裏切り者……敵は何処にでもいて、だからこそ何処にもいないのかもしれない。今や、あらゆる人間が潜在的な容疑者だ。

 

「ここ最近で、どれだけの事件があったか覚えてる? よーく思い出して。何回、暴動が起きた? 何度、怪しい事があった? 何人、ヒトが死んだ? こんなに異常事態が続くのが、普通だと思う?」

 

 賈駆は脳内で何度も「でも」を連呼したが、はっきりと異議を唱えることは無かった。

 張繍の指摘でひとつだけハッキリと肯定できるのは、今がとてつもなく異常だという事だ。経験と直感から、それらには何か因果関係があるはず。逆に袁家で起こっている異常事態の全てが無関係である、と断言することは出来なかった。

 

「南陽じゃ何をするにもタテマエが大事らしいけど、最近いい加減ウンザリしてきたし。何も無理して劉勲さんお得意の社交会に付き合わなくても」

 

 張繍は唇の端をわずかに上げて、舌なめずりをした。

 

「むしろ皆に、『西涼式』を教えてあげたらどう?」

 

 ぱぁっと期待に目を輝かせる張繍を、賈駆は困惑の眼差しで見つめる。彼女の論理展開は矛盾に満ちているが、しかしその齟齬を指摘できない。それは理屈ではなく、直感の領域がそう告げているのだ。

 今の袁家は、明らかにおかしい。何かが狂っている――と。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 豫州・許昌

 

 その日は州牧である孫賁の主催で、豫州の有力者たち呼んだパーティーが開催されれていた。既にメインの宴はつつがなく無事に終了し、残った人々が気の合う人間同士で二次会を開いている。それらは上等な個室で行われ、部外者には聞かせられないような話を、内密にするにはもってこいの場所だ。そう……例えば“反乱”とか。

 

「おい、例の噂聞いたか?俺んとこの地元じゃその話でもちきりなんだが。」

 

 部屋にはざっと10数名ほどの人間が集まっている。誰もが、表向きは漢帝国とそこから豫州の統治を任された袁家に忠誠を誓う、地方の豪族達だ。

 

「アレかね?最近話題になっていた、なんたら取締法とかいう?」

 

「『弩弓刀剣類所持取締法』ですわよ。本当に、名前だけは御立派なことで」

 

 彼らの話題の中心に上っているのは、最近段階的に実施されている、新しい法制改革について。袁家主導で行われたこの法案では、犯罪抑止と治安回復を目的として、武器の所持を大幅に制限。その取り締まり対象は、武器本体の所持から購入・譲渡・輸出入など多岐にわたる。

 

「名前はともかく、これはゆゆしき事態だ。あの制度が現実となれば、我ら豪族は袁家の小間使いに墜ちてしまう!」

 

 初老の豪族が怒りもあらわに憤慨する。確かに袁術は南陽群の太守であり、豫州の政治経済を裏で操っているのも袁家だ。だが彼ら地方豪族は本来、袁家の家臣でも何でも無い。

 

「確かにあのふざけた制度には、我々の力を削ごうという魂胆が見え見えだ。もっとも、袁家の奴らは“治安維持の為”などとほざいているようだが」

 

「そもそもだな、本来袁家と我々の間に優劣は無いはずなのだ。地位や家柄が多少高いからといって、袁家があたかも皇帝のごとく振舞って良い道理は無い!」

 

 彼らに言わせれば、袁家も自分達と同じ一豪族に過ぎない。力の大小こそあれ、対等な地位に立っているはず。それゆえ袁家に敬意は払っても、無条件の服従を求められる義務は無い、という考えだった。

 

「だが、西部の連中はもう取りこまれたらしいぞ。自発的な協力もだいぶ進んでると聞く」

 

「どうせ大金を積まれたんだろ?カネをバラまいて多数派工作やってから、民主主義的に多数決で合法的にゴリ押しする――袁家の常套手段だ。」

 

「それもあるが、西部の豪族は元から商人寄りだからな。安全な都市部で呑気に長年暮らしていれば、軍事力の重要性も忘れるだろうし、平和ボケもするだろうさ」

 

 基本的に豫州の経済は、洛陽に近い西部で都市・商工業が発展しており、逆に東部は農村主体となっている。経済発展に伴って西部の豪族は段々と商工業に重点を置くようになり、今ではその大半が都市在住の不在村地主。収入の大半を都市から得ているため、黄巾党の乱でも大した被害を被っておらず、安全を脅かされた事も無い。

 その点、農村に立脚した東部の豪族は、自力で領地を守ったという事もあってか自治意識が高く、軍事力の重要性を痛感していた。また、同時期の袁術軍が敗走に敗走を重ねて全く役に立っていなかったことから、東部の豪族の間では袁家に対する不信感も燻っていた。

 

 

「やはり、と言うべきか……だいぶ盛り上がっているみたいだな。これなら……!」

 

 ヒートアップしてゆく豪族達を、孫賁は高揚を隠しきれない思いで見つめていた。このような会話は、今回が初めてでは無い。近頃では東部の豪族が集まる度に、袁家への不平不満が噴出していた。

 話の流れは、確実に反袁家へと向かっている。まさに、自分が望んだとおりの方向へと。

 

「袁家は商業発展の利益をダシに、豪族達を手懐けるつもりだったようだが……これがその限界か」

 

 カネの力はありとあらゆる人間を魅了する。国家、民族、人種、宗教を超えて不変な唯一の価値だと言っても良い。ゆえに大金は圧倒的な力であり、袁家はそれをチラつかせることで、豪族達をコントロールしようとしたのだ。

 実際、目論見そのものは非常に的を得ている。しかしながら、豪族全員(・ ・)がその恩恵にあずかれるわけが無い。どれだけ袁家が豪族に配慮しようと、必ず取りこぼしは存在する。そして利益や成功から取りこぼされた人間は、成功している人間を逆恨みするものだ。

 

 実のところ、豫州東部の豪族達も貧乏なわけではない。あくまで西部や南陽の豪族と比べれば収入が少ないだけで、全国レベルで見れば充分に豊かな部類だ。劉勲らが主導した、規制緩和で流入してきた大量の難民・移民の酷使によって収入は着実に増えている。

 

 とはいえ、人は遠くの貧乏人より近くの金持ちと自分を比べてしまうもの。一刀のいた世界でいうならば、東ドイツがそれに相当するだろう。年3%の成長率、世界で10~15番のGDP、東側陣営1位の国民所得があったとされ、食料自給率なども高かった。

 しかし皮肉なことに、隣に世界で3番目に豊かな西ドイツがあるせいで、ほとんどの東ドイツ人は自分達が豊かであるとは感じなかった。人口が西ドイツの4分の1、国土は半分、ルール地方のような工業地帯もなく、西に比べるて大戦による被害が大きかった事を考慮すれば、賞賛されてしかるべき偉業であったにも関わらず――だ。

 

「最近の袁家は商人ばかり優遇しているよな。ったく、いつオレ達豪族が商人の下に付いたってんだ!」

 

「その通り!こういう時には一度、連中に我ら豪族の力を分からせてやらねばならん!」

 

 元より中華では商人を卑しい職業として見なす風潮が強く、幼い頃から儒教教育を受けた豪族や士大夫の間ではその傾向が顕著である。そんな彼らからすれば、今の袁家は堕落の象徴そのもの。国の担い手たる豪族や士大夫がないがしろにされ、政治や行政はカネと利権をエサに、商人に隷属されているようなものだ。

 

「不穏当な発言は控えたまえ。いくら袁家が商人どもに牛耳られているとはいえ、彼らはれっきとした太守。下手に武力を行使すれば皇帝陛下に対する反逆に……」

 

「いいや、違う。反逆者は袁家の方だ。徳の無い政治を行い、民と政治を堕落させているのは袁家とその利権に群がる商人共。大義は常に、我らの側にある」

 

「そうとも、この中華は皇帝陛下と、陛下から領土を賜った我ら豪族のものだ!断じて商人共のものなどでは無い!金の亡者共の手先になんぞなって堪るものか!」

 

「儒教でも『易姓革命』を肯定している。まさに今がその時だろう」

 

 易姓革命とは、君主が善政を行えずに人心を失ったならば、その地位を譲り渡すべきだという儒教の概念だ。近代に生み出される『抵抗権』の一種と見なすこともできる。つまり袁家は単に領民から支配する権利を譲られているだけで、悪政を行えば、領民の側はいつでも革命によって抵抗できるという考えだ。

 

(……そろそろ、俺の出番か。ここで豪族達の同意を得られれば……!)

 

 高鳴る鼓動を抑え、孫賁は椅子から立ち上がる。いったん深く息を吸い込むと、大きく声を張り上げる。

 

「みんな聞いてくれ!俺達は長いこと袁家と共に、この中華とそこに住む民を支え続けてきた!今の中華の発展は、決して豪族の努力抜きには語れない!……だが、袁家は俺達を裏切ろうとしている!いや、奴らはすでに裏切った!」

 

 豫州牧・孫賁の発言に、豪族達はじっと耳を傾けている。いくら袁家の傀儡、お飾りの州牧とはいえ、名目上における豫州の最高指導者は彼なのだ。その発言には一定の権威と影響力が伴う。

 

「今一度考えてみてくれ!権力闘争ばかり繰り返す人民委員、保身と欲に駆られた官僚、腐敗と汚職にまみれた地方役人――今の袁家は迷走し、大義を見失っているとしか思えない!彼らは豪族の権利を蔑ろにし、商人と癒着して民を暴利を貪っている!俺は州牧として、このような蛮行を見過ごす事は出来ない!」

 

 しだいに熱を帯びてゆく孫賁の演説に、今や全員が聞き入っていた。部屋の中は静まり返り、ただ孫賁の声だけが流れてゆく。

 

「これは反乱でもなければ反逆でも無い、正義の為の決起だ!俺達は決して反乱軍なんかじゃない!袁家と共に腐敗と堕落を一掃し、儒教に基づいた統治を行う事こそが、皇帝陛下に対する真の忠義なんだ!」

 

 その意味するところは、袁家との全面対決。中華全土で13人しかいない州牧の一人が、多数の豪族の前で堂々と対決姿勢を打ち出したのだ。もはや言い逃れはできまい。

 

「そうとも!皇帝陛下に、我らの忠誠心を見せてやろうじゃないか!」

 

「商人の支配から民衆を救うんだ!きっと民も、俺達の気持を分かってくれるはず!」

 

「古き良き中華への回帰を!そのために袁家は排除されなければならん!」

 

 孫賁の耳に、部屋を揺るがさんばかりの歓声が響く。部屋の中を見渡せば、大部分の豪族が顔を赤らめて盛り上がっていた。

 しかし、そんな空気に水を差すように一人の豪族が口を開く。

 

「確かに孫賁どの仰るとおりですな。真の“人民の敵”が袁家であることには、疑いの余地が無い。

 ですが……果たして勝てるのですか?主張はどうあれ、勝たねば我らの大義は認められないでしょう。」

 

 狡猾そうに目を光らせ、彼は孫賁を見つめる。孫賁は袁家との対決を“正義の決起”と称した。だが“正義は必ず勝つ”などと信じるほど豪族達も単純ではない。正義は勝ってから、初めて認められるのだ。

 だが、孫賁は含みのある笑みを浮かべ、懐から一枚の紙を取り出す。

 

「勝算なら充分ある。――見てくれ、これがその証拠だ」

    




 容疑者に証拠がない? 逆に考えるんだ。証拠がない奴はみんな容疑者だと。

 改めて考えてみるとやっぱりおかしい……。


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79話:方向転換

 華雄は、自分の中に蓄積していく割り切れないものに困惑していた。賈駆から呼び出されて保安委員会の建物に向かう途中、人通りもまばらな裏道を馬で駆けながら、出勤することを憂鬱に思っている自分に気付いた。

 職場には同僚がいる。賈駆のような友人も、反董卓連合戦によって仕方なく此処に逃れてきた戦友たちもいる。最近では、ようやく西涼時代からの知り合い以外に、袁家に移ってからの友人や仲のいい上司・部下もできたところだ。強固な昔からの縁、新しく出来た絆、徐々に作られていく自分の居場所……それなのに、そこに居ることで疲れてしまう。周りとの関係を大事にしたいというより、そうしなければならぬという義務が優る。こんなことは初めてだった。

 

 夕方になると少しづつ通行人が減り、街灯が消える。暗闇の方が増えていき、それが華雄をなおさら不安にさせた。モノは周囲に溢れているのに、どこか孤独感を感じるのだ。ありとあらゆる“繋がり”から切り離され、空虚な世界の中で孤立して、一人ぼっちになってしまったような感覚。

 

 『汝の神は金貨なり』――かつて袁家の富と繁栄を誇り、傲慢ともとれる自尊心を誘ったはずの言葉が、今では空しく心に響く。それは己の栄華に絶対の自信を持つ者の台詞ではない。もっと寂しく虚しい、目の前にある物質の他に何も拠り所とするもののない、不安と孤独感に満ちた人間の言葉だ。無数の物質の海の中で、自分がどこにいるのか、どこに行きたいのかも分からず、遭難しているような気分にすらなる。

 

「どれもこれも、ここ最近に何かがおかしくなったんだ……」

 

 そう思うのも、理由がある。もちろん仕事の関係でいくつもの事件を知る機会はあるが、それより更に身近なレベルとして、同僚や知り合いが着実に減っているのだ。もともと友人がさほど多くもない華雄なだけに、かなり早い時期から彼女はそれを感じ取っていた。まだ殺されたりした者はいないが、唐突に実家に帰ったり、手続きもそこそこに転勤・出向で遠くに行ってしまう者が多い。たとえば突然、職場に来なくなり、どこそこにどういった理由で行きます、といった手紙だけが残される。時折、ツテを辿ってその後の情報が入ってくるので、失踪したのではないのだが、ある意味ではそれに似ていたのかもしれない。

 もっと広いレベルでも、やはり何かがおかしいと思わざるを得ないような事ばかりを聞く。運河建設以来、乱れつつある秩序と増え続ける社会不安。偶然で済まされる時期はすでに過ぎ、明らかに異常事態だと誰もが感じるようになっていた。こうした時に人気の陰謀論が、今週だけで新たに数十の仮説が立てられている。なるほど、と思うものも幾つかある一方で、真偽を疑いたくもなる。

 

 

 そうした中で、久々に違和感の少ない事件があった。孫賁をはじめとする、豫州の有力者たちによる抗議活動――実質的には殆ど反乱であるが――である。様々な理由で袁家に反感を持つ人間がなし崩し的に参加したことで、日和見の勢力も合わせれば豫州の6割が袁家の支配下を離れる大事件であった。

 これも大問題であることに違いは無いのだが、少なくとも因果関係はハッキリしている。目に見える形での反抗という点では、これまでの事件よりは幾ばくか救いがあった。

     

『 ――武器所有の権利―― 』

 

 抗議活動の理由として、孫賁らが発表した大義名分である。袁家支配からの脱却と既得権益の防衛という裏事情が見え隠れするも、袁家に対する武力抵抗を正当化する根拠としては無難なものといえよう。

 もともと中華には、古くから五行思想にもとづく『易姓革命』という概念がある。ありていに言えば近代の『抵抗権』と同じく不当な権力に抵抗する権利であり、それを孫賁ら豫州名士たちは「地方により権力を委託された、中央の不当な権力行使に対し、地方が抵抗する権利」と置き換えることで自らの抵抗(反乱)を正当化したのだ。

 

 

 ◇

 

 

 暗澹とした気持ちが残ったまま保安委員会議長室に入ると、中には賈駆と張纏がいた。賈駆は困惑したような表情をしている。それは張纏のとある提案が原因であった。

 彼女は豫州で起こった反乱の鎮圧に、孫家を利用すべきだいうのだ。

 

「疑わしきは何とやらって言うじゃん。とりあえず怪しげなトコから潰していけば、モヤモヤした感じも少しは晴れるんじゃない? いい機会だと思うんだけどなぁ」

 

 一種の『踏み絵』とでも形容すべきか。要するに疑わしい人間の忠誠心をテストすることで、敵と味方に区別しようというのである。まこと古典的な手法で、これといって目新しい発想ではない。それだけに一定の有効性は期待できるものの、内容が内容だ。華雄のような武人肌の人間にとっては、些か眉を潜めざるを得ないアイデアでもある。

 

「たしかに最も怪しい黒幕候補は孫家だが、だからといって余りにも短絡的過ぎはしないか? 何の確証もないまま篩にかければ……」

 

「だーかーらー、その確証をとるために篩にかけるって言ってるの! どんだけ雑でも一応確かめてみれば、ハズレでもスッキリするってもんでしょ。そもそも今まで誰も動こうとしなかったから、なんも分からなかったんじゃない?」

 

「む、それは……そうかもしれんが」

 

 テストされる側の事情はさておき、一抹の道理はある。

 

「張纏」

 

 賈駆は息を吐いた。張纏の理屈は分からないでもない。だが、手口があまりにも強引なのだ。独断と偏見だけで物事を進めてしまっては、仮にそれが正しくとも却って信頼性を下げてしまう。

 しかし張纏にそのまま言ったところで、恐らく彼女には理解できまい。軍と秘密警察の常識は「疑わしきは、とりあえず罰しておけ」であり、張纏はそちら側の人間である。それゆえ賈駆は別方向からの説得を試みた。

 

「有効かどうかはともかく、前の人民委員会議で孫家の軍事利用は否決されたじゃない。もし再度提出するにしても、劉勲をどう説得するつもり? あの感じだと、どう考えても同意は得られないと思うけど」

 

 だが張纏は首を傾げ、逆に「何を当たり前のことを言っているんだ?」といった顔で賈駆を見る。

 

「そりゃあそうでしょ。あの目は本気だったからねー。もっかいバカ正直に言ったら、マジで粛清されるんじゃない?」

 

 目を瞬く賈駆と華雄に、だから、と張纏は声を低める。

 

「袁術に直接言えばいいじゃん」

 

 賈駆は即座に否定した。

 

「それは暴挙よ」

 

「えー」

 

 一応の最高権力者は袁術なのだから、袁術の許可さえ取り付けてしまえば問題はない……はずである。そう主張する張纏の論理は(恐らく)間違ってはいなかったが、別次元で問題が多すぎた。しかし賈駆がそれを説明する前に、張纏は憮然とした表情で再び口を開く。

 

「手段はともかく、確かめることが大事なの! とりあえず敵も孫一族だし、反乱潰しに孫家を使えば敵か味方かハッキリすると思わない?」

 

「危険を冒して孫家を使ったところで、その程度しか分からない、とも考えられるわね」

 

 賈駆の眼光が険しくなる。

 

「孫家が反旗を翻せば、たしかに孫家が敵だという事は分かるわ。でも、本当にそれで全てが終わるとは限らない。前に張纏が言ったみたいに、孫家が氷山の一角に過ぎなかったら? また危険を冒しながら、次から次へと容疑者を篩にかけるの?」

 

「いや、だから」

 

「逆に反旗を翻さなかったとしても、それで綺麗さっぱり孫家の容疑が晴れたことにはならない。たまたま今回は袁家に従っただけ……そんな風にも考えられるわ。 結局のところ、大きな危険を冒して、周囲の評判と信用を下げて、得られるのはその程度のことよ」

 

 張纏は苛立ったように机を叩いた。

 

「じゃあさ、他に方法があるっていうの!? それとも、ただボーっと見てるだけ?」

 

「そういう意味じゃ……」

 

 何かいい言葉は見つからないものかと、賈駆は援護を求めるように華雄を見る。しかし華雄はすまん、と前置きして上で口を開いた。

 

「詠、今回ばかりは私も張纏に同意させてもらう」

 

「華雄まで……!」

 

「ここ最近で、どれだけの人が死んだと思う? それもまだ続いている。いや、むしろ被害は拡大しながら増えている。原因は特定できないし、対応も後手に回っている。目の前でこれだけの人が死んでる状況で、やっと原因解決に至る手がかりを見つけたかも知れないんだ。多少は荒っぽいからといって、何もせず事態を見守るのが最善とは思えない。我々の問題は、我々が自分で解決しなければ誰も助けてはくれないぞ」

 

 なんとかしなければならない。八方塞がりな現状を打破できるなら、どんな些細な手掛かりでもよい。どんなに愚かだと思える手段でも、確かめる値打ちがある……そのぐらい事態は逼迫しているのだ。敵は内だけではなく、外にもいる。グズグズしていれば、いつ曹操や袁紹に侵略されてもおかしくはない。

 

「この戦争で無傷なのは実質、袁家と劉表ぐらいのものだ。華北の諸侯は全員、この豊かな土地を喉から手が出るほど欲している。この調子で弱体化していれば、間違いなく来年には南陽は廃墟になっている」

 

 悪化する一方の社会秩序。膨大な数の人間が犠牲になった。異常すぎる日々、どれだけ規制を強めてもそれが鎮火する気配はない。不審な事件、それが社会不安を引き起こし、更なる暴動と混乱を引き起こす。

 ――たしかに敵は、袁家の至る所にいるのかもしれない。そもそも、これを普通の状態だと考える方にムリがあった。

 

「……悪かったわよ」

 

 賈駆が言うと、張纏も激高したことを恥じるように小さくなる。華雄も気にするな、と軽く返す。

 

「どちらかというと問題になるのは、もし本当に連中が黒幕だったらどうするかだな。 孫家に軍を与えて豫州に向かわせれば、絶対に反乱軍と連合を組むはず。そうなれば……」

 

 孫策軍とは氾水関でやりあった事があるだけに、華雄はその実力を身に染みて感じ取っている。残された袁術軍と自分たちだけでは苦戦は免れない――敢えてみなまで言わなかった所が、武人としてせめてものプライドだった。

 

「人質でもとれば?」

 

 相変わらず下種なアイデアだけは尽きない張纏であった。道理はあるが、道義はない。互いの立場さえなければ案外、劉勲あたりと気が合うのではないのだろうか。

 

「人質か……」

 

 倫理的な問題はさておき、中々に魅力的な提案ではあった。張纏は単に保険の意味で人質を提案したのだろうが、賈駆はその更に先を見ていた。

 

 人質は恐らく、孫権あたりが第一候補となるだろう。彼女を残すことを拒否すれば、それが叛意の証拠となる。豫州の反乱軍と合流させる前に敵であることが分かれば、宛城で安全に孫家の粛清にとりかかれるだろう。

 逆に、もし孫家に後ろめたいことが無ければ、人質を置いていくはず。特に孫権はその実務能力の高さと次期当主という重要性から、まず身内から切り捨てられることは無いだろう。孫権を人質に残すと決めた時点で、孫家が反乱軍と合流する可能性は限りなくゼロに近い。しかも人質の承諾は孫権を犠牲にした形となるため、やりようによっては孫家に楔を打ち込むことができる。孫家では近年台頭しつつある若手の文官を中心とした孫権派と、昔からの武官中心の孫策派の間に分裂しつつあり、その不信感は一掃増すだろう。そしてそれは、袁家にとって悪い話ではなかった。

 

 

 ***

 

 

 劉勲は思わず、報告を伝えに来た閻象の襟を掴んでいた。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ! もう一回言って。何があったの?」

 

 ですから、と閻象の声は宥めるようにゆっくりと低い。

 

「同志賈駆が孫家の軍事利用を提案、それを袁術様と同志張勲が許可したらしいとの噂です」

 

「嘘でしょ――」

 

 劉勲は絶句した。同時に小さな怒りのような感情も湧き上がってくる。依然の人民委員会で自分があれほど釘を刺したというのに、孫家の軍事利用を提案する者がいたということ。そしてそれを自分に何の相談もせず、張勲が頭ごなしにゴーサインを出したこと。これではまるで、自分の存在が無視されているようではないか。

 

「でも、どうしてよ!? 袁術様はともかく、張勲だって孫家を使うことの危険性は知ってるハズ……」

 

「私もそこが疑問なのですが、残念なことに“やってみれば分かる”の一点張り。同志張勲らしくないといえば、らしくないですねぇ」

 

「……それで、あの鬼畜メガネの方は何をするつもりなの?」

 

「私の見聞きしたところ、同志賈駆は孫策を反乱鎮圧部隊の指揮官に任命する一方で、叛意なき証拠として孫権を人質に残すとのことです。なお、実際に現場の指揮をとるのは同志張繍だという噂も……」

 

「冗談じゃないわ――」

 

 閻象から聞いた話に、劉勲は目を剥く。それだけは避けたい。張繍のような破綻者が陣頭指揮をとれば、却って真実の信憑性が下がる。人は得てして話の内容よりも、話し手の信用によって事の真偽を判断してしまう。どんなに孫家黒幕説を訴えたところで、担当者が張繍だと分かれば誰も信じようとしないだろう。彼女は実力主義の保安委員会において、No2に昇りつめるだけの実務能力と政治的手腕を合わせ持った聡明な敏腕官僚だが、それ以上に人格面での悪評が高い。

 しかも手段が手段である。保安委員会の暴走は止めねばならない。憶測を根拠とした場当たり的な対応は、失敗すれば取り返しのつかない不信を招く。

 

(いや、でも……)

 

 不意に別の考えがよぎる。これを放置しておくのもひとつの手かもしれない、と思った。保安委員会は劉勲の目から見ても間違いなく暴走しているが、事態を正確に把握している。

 

 保安委員会の暴挙を敢えて見過ごす。そうすれば彼らが孫家を挑発する。事前に警官隊を待機させておけば、たとえ人質を拒否した孫策がその場で暴発しても取り押さえられるだろう。特に張繍は人格はともかく、能力に関しては信頼がおける。

 人質に応じたとしても、それはそれで袁家が損をすることはない。どれだけ身内を信頼していようと、やはり人質に出されれば誰もが心穏やかではいらないだろう。孫家が2派閥――孫策を筆頭としたベテランによる武断派と、孫権を中心とする若手による文治派――に分かれつつある状況では猶更だ。しかも打倒すべき豫州の反乱軍の首謀者は孫賁、孫策の従弟にあたる。これで孫家の内部に不信感が生まれないはずがなかった。

 

 危険な賭けではある。だが座して静観していたところで、残り物の福にありつけるとも限らない。軽く髪をかき上げると、劉勲は呼び鈴を鳴らして部下を呼んだ。

    

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 後日、豫州で起こった反乱に対し、袁家は実に迅速に方針を決定した。武力鎮圧という決定には数分を要さず、反乱に加わった者は全員処罰する旨が直ちに決定される。会議の注目はもっぱら誰が司令官となるかという人事についてであり、幾人かの将軍が名乗りを上げる中に孫策と周瑜の名もあった。

 この事実は幾ばくかの驚愕をもって受け止められたとはいえ、内心では誰も孫家が本心から討伐を希望しているわけではなかろうとも考えていた。反乱軍の首謀者・孫賁は孫策の従弟である。どこに好き好んで身内を討ちたいと考える人間がいるというのか。両者が名乗りを上げたのは単に、袁家への叛意なき証として処断の口実を与えぬためだと思われた。

 

 しかし、ここで袁術の口から意外な人事が決定される。彼女の鶴の一声で、まさかの孫策が討伐軍司令官に決定されたのだ。

 

(ひょっとしてあの子、バカなの? 死ぬの?)

 

 とっさに孫策は袁術の真意(そんなのがあるとすれば、だが)を把握しそこねた。まさか本当に自分たちを信用して討伐軍司令官に推薦したという事はあるまい。もしかしたら張勲あたりが悪知恵を働かせて、孫家同士を潰し合わせようと考えているのか。とはいえ、そんな事をすれば自分たちが反乱軍と合流する事は明白だ。それがどういった意味を持つのか分からぬ張勲でもないはず――。

 

 とっさに孫策は隣に立つ周瑜を見やるが、周瑜は逆に緊張した面持ちで表情を殺していた。迂闊な対応が命取りになるとでもいうかのように、彼女は全身の神経を研ぎ澄ませているかのようであった。

 

「じゃが、お前らは信用できぬ。だから孫権を人質として置いてもらうぞ」

 

 不信を当の相手に向かってそのまま口にする袁術。慌てて張勲が「あ、今の忘れてください。孫権さんには宛城で私たちと共同作業してもらうだけですよ~」とフォローをするも、それが茶番に過ぎないことは明白だ。

 

(はっ、この私も甘く見られたものね。いっそこの場で切り伏せてやろうかしら)

 

 孫策の脳裏に、そんな考えが宿る。それも良いかも知れない。人民委員会議に入室するにあたって武器は取り上げられているが、その気になれば警備兵の得物を奪うぐらいの事は造作もない。いったん武器を手にさえすれば、瞬きする間に袁術の喉元へ刃を突き付けられる。文民統制の強い袁家中枢に、本当の意味での武将はほとんどいない。生粋の戦士たる孫策に言わせれば、袁家の武官などはせいぜい「軍服を着た文官」に過ぎなかった。例外は華雄と紀霊ぐらいのものだ。――しかし。

 

「(――落ち着け、雪連。周りをよく見ろ)」

 

 周瑜が小声で囁く。彼女の視線を追えば、数人の武官がチラチラち視線を交わせ合っているのが見えた。何かの合図、いや連絡をしているのだろうか。

 

(いや、それだけじゃない。隣の部屋にも人がいる……?)

 

 孫策はほとんど野生動物的な感覚で、会議室の外に大勢の人間が待機しているのを感じ取った。更に目を凝らすと、時おり会議室の窓に影やら反射した光やらが移っている。単なる野次馬ということはあるまい。巧妙に殺気を隠した兵士たち――ここまで孫策に気付かれなかったことからも、相当な手練れが集まっているのだろう。

 再び隣を見ると、周瑜はほんの僅かに首を振った。今は耐えろ、という事なのだろう。自分たちの命は敵の手の内にある。それが分かって尚、暴走するほど孫策も愚かではなかった。

 

「――我らは客将に過ぎぬ身分。ご命令とあらば、御意に従うのみ」

 

 堅苦しい台詞を口にしながら、屈辱の味を孫策は噛みしめる。隣にいる周瑜も同様であった。油断していた、というのは正確な表現ではないが、彼女らの心に一種の思い込みがあった点は否定できない。孫策らは孫策らで、不安定な孫家の立場を守るために十重二十重の防衛策を用意してはいた。

 

(おかしい……劉勲にしろ張勲にしろ、ここまであからさまな手口を使う人間は、今までの袁家にはいなかったはず――)

 

 周瑜は頭を捻った。口惜しさも感じるが、それ以上に違和感を感じる。

 “謀略は貴人の嗜み”という言葉があるが、ともすれば袁家のそれは芸術の領域まで高められていた。不義を誠実に、建前を本音に、無理を道理に、虚構を真実に。醜い欲望を社会的正義の名において巧妙に覆い隠し、多数派の好みそうな勧善懲悪のストーリーを作り上げるのが従来のやり口だったはず。

 

 しかし今回に限っていえば、そういった南陽流の“社交舞踏会”に見られるような洗練さが無い。むしろ自らの直感に忠実で、独断と偏見に満ちた泥臭い野性味がある。猜疑心の深さゆえに周到で慎重な劉勲の権謀術策はかなり理詰めな部分があるのに対し、今回の敵はどこか直感を優先させているように思えた。

 

「もう下がってよいぞ。2人とも」

 

 孫策らに退出を促す袁術。彼女は恐らく意識していなかったであろうが、この瞬間に袁家の方針は大きく転換したのだ。これまで飼い殺しにしてきた孫家を、再び世に送り出す――それが袁家当主たる袁術によって公認されたのである。

 檻に閉じ込められてた虎は、弱々しい首輪を付けて解き放たれた。総司令官は孫策、軍師は周瑜、人質は孫権。しかしながら、少なくともこの時点までは、事態は保安委員会の思惑通りに進んでいたのである。

     




 


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80話:反乱と失望

               

 豫州の反乱に対し、孫策率いる討伐部隊は交渉の期限が切れると同時に全面侵攻を開始。当初、反乱軍の数は豫州全土で約7万2000と見積もられ、対する袁術軍現地部隊は不正規兵を合わせて1万8000程度。これに孫策が率いる2万5000ほどの討伐部隊が加わるものの、それでも倍近くの兵力差があるのだから、少なくとも3か月はかかると予測されていた。

 しかし孫策軍は臨時徴募の兵を含むというハンデにもかかわらず、「無慈悲で電撃的な」と呼称された快進撃を続ける。獲物の喉元に喰いつかんとする虎となって疾走する孫策軍は、瞬く間に州境を制圧。橋頭堡を確保した孫策軍は休む間もなく進撃を再開するも、相変わらず敵の反撃は見られず、無人の野を行くかのようであった。さらに前進した孫策軍は早くも一週間後には反乱軍の本拠地・許昌まで辿り着く。途中で抵抗らしい抵抗も受けず、ほとんど落伍者を出すこともなかった。

 

「豫州の連中、何がやりたかったんだ?」

 

 孫策の監視役として随伴していた華雄が思わず頭を捻るほど、反乱軍は撤退に撤退を重ね続けた。斥候の情報から軍を集めていることは確からしいのだが、その行動からは戦おうという素振りも意思も無いように見受けられた。あまりの不甲斐なさに軍師の大部分がありもしない罠を疑い、当初の予想を超える侵攻スピードに補給が追いつかなくなるほどだった。

 

 こうして一か月も経たぬ内に孫策軍は許昌を包囲し、完全に反乱軍の生殺与奪の権利を握るに至った。途中でわずかに形ばかりのゲリラ的抵抗を受けた他は、大規模な決戦は一度として起こることは無かった。許昌にはまだ1万4000ほどの兵がいるという情報だったが、孫策が開門を迫ると許昌は何の抵抗もなく城門を開け放つ。

 

 かくして孫策軍は無血開城を成功させ、城下の盟を従わせるに至った。一度は地に堕ちたかつての栄光を、孫策は長い時を経て取り戻したのである。

 新生した孫策軍の、完全なる勝利であった。――少なくとも、表面的には。

 

「孫伯符……」

 

 孫策軍の快進撃は、華雄の想像を絶していた。

 弱体な敵に助けられたとはいえ、その用兵は実に見事だった。戦といえば戦場での戦闘のみが注目されがちだが、そればかりではない。将兵の意思統制から物資の調達、進軍速度の調整に兵の健康管理などといった後方業務も同じくらい重要だ。それには武官というよりはむしろ文官としての素質が重要であり、孫策と彼女を支える軍師たちが、単なる武一辺倒の人間ではないという事の証明であった。

 

 江東の虎、再来す――その噂は瞬く間に広まり、多くの民を熱狂させる。孫家の影響力が根強く残る揚州ばかりではなく、袁家の牙城たる南陽郡でもその名声は高まる一方だ。

 

「これで納得してもらえたかしら?」

 

 孫策に声をかけられ、華雄は我に返った。彼女の後ろでは孫家の武将が、兵士たちに向かって占領の指示を飛ばしている。治安を守るための巡回、武器の押収、敵残党の捜索等々……実に的確な指揮で許昌を再び袁家の支配下におさめる孫策軍。動きに迷いも見られず、袁術兵との連携も上々だ。

 

「……ああ」

 

「そう、分かってくれて何より。私たちに対していろいろ思うところがあるみたいだけど、これで少しは冷静になってもらえたかしら?」

 

 聞きようによっては挑発ともとれる孫策の言葉だが、不思議と怒りは湧いてこなかった。それどころか華雄は自分でも驚くほど、孫策の言葉を素直に受け止めている。

 

 ひと段落して、落ち着いてみれば孫策の言い分はもっともだ。言葉だけではなく、行動によってそれは示されている。自分の親類が反乱の首謀者だというのに、孫策は迷うことなく兵を進めたのだ。

 それに引き換え、自分たちはどうだったか。疑心暗鬼に駆られてロクに証拠を集めることもないまま、憶測と偏見で孫家を「反乱分子」だと決めつけた。愚かな事をしてしまった、という自責の念が湧いてくる。

 

 ――そもそも自分たちは孫家が反乱を起こすことを期待している訳ではない。むしろ孫家が袁家に忠実であるなら、それは望ましい事ではないか。

 

 心の中でそう言い聞かせても、どこか失望にも似た無気力感を感じずにはいられなかった。自分は本当に客観的な証拠に基づいて孫家を疑っているのか、それとも単に分かりやすい敵を欲して孫家を疑いたい(・ ・ ・ ・)だけだったのか……。

 

(そうかもしれん……)

 

 華雄は思う。自分は敵の見えない疑心暗鬼と恐怖から逃れたくて、心のどこかで分かりやすい標的を欲していた。他の人間も恐らくは似たようなものだろう。

 自然と自嘲のため息がこぼれる。用心と被害妄想を履き違えたまま、思い込みで行動してしまった。それは本来、あってはならないことだ。 ――本当に、愚かだった。

 

 

                 

 ◇◆◇

  

 

 

 『孫賁の乱』――袁家支配に抵抗する豫州名士たちによる武力蜂起。世間から注目を浴びたその反乱は、袁術の命を受けた孫策らの活躍により、実にあっけなく幕を閉じた。蜂起から鎮圧までひと月とかかっておらず、一度の大規模戦闘もないまま集結したこの事件は、過程だけを見れば袁家の大勝利である。

 

 だが、それが偽りの勝利であることはすぐに知れた。許昌に立て籠もっているとされた1万以上の兵の姿はどこにもなく、聞けば事前に用意していたらしい地下通路を通って脱出したのだという。他の占領地でもだいたい状況は似たようなものであり、反乱軍はまるで雲隠れしたように消え去ってしまったのだ。

 

 本当に消失したのではないだろう。可能性として最も高いのは、正規戦での不利を悟った相当数の将兵がゲリラとなって山や都市の暗部に籠ることだ。実際、残された豫州の役人たちはこぞって征服者たちにぬけぬけと説明した。反乱軍は僻地へと逃走したため、その動向は自分たちの知るところでは無い、と。保安委員会の執拗な追及にも知らぬ存ぜぬを決め込むばかりで、挙句の果てには「自分たちも被害者であり、戦災を補償するための援助金を頂けないか」と袁家にたかる様は、いっそ怒りを通り越して呆れを催すものであった。

 

 

 **

 

 

「豫州の話を聞いたか? いったい反乱軍はどこへ?」

 

「分からんが、このまま放置するわけにもいかんだろう。何か良からぬ企みのあってのことだろうよ」

 

「しかし、どんな名将だろうと敵が見つからなければ勝利もできん。上層部はどうするつもりなのか」

 

 そのような会話を、宛城の内外で賈駆は耳にした。

 

 今回の件において、袁術軍と反乱軍が正面からぶつかり合う決戦を期待していた人々――政治家や軍人、貿易商人、そして大半は単なる野次馬であった――は落胆した。今までの政情不安で感じていた、政治的な圧迫感を戦争が解消してくれるものだとばかり思っていたからだ。

 

「この状態はいったい全体、いつまで続くのやら。いつどこに反乱軍が隠れ潜んでるかも知れぬと考えると、おちおち外にも出かけられん」

 

「それにしても、保安委員会の監視網も大したことなかったな。あれだけの大軍が消失したというのに、未だに手掛かりをつかめてないとは」

 

 この反乱で最大の恩恵を被ったのが孫家であるとしたら、保安委員会はその対極に位置する存在であった。反乱軍の大半が雲隠れしたとあっては、その諜報能力と存在意義を疑われる。孫家を貶めるどころではない。保安委員会本部ではこの大失態に直面して、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。

 

「とにかく、ありったけの情報をかき集めて!」

 

 当然の指示が、保安委員会本部から出されていた。本部の指示に応えるべく、休日を返上してまで働いた保安委員会職員たちは、実に精力的だった。豫州中の“同志たち”を総動員することで、秘密警察は反乱軍の行方を“200か所も”見つけ出したのだ。作戦室の地図は、敵の存在を示すピンによって囲碁のように埋め尽くされた。

 

「くッ……!」

 

 賈駆は小さく舌打ちした。情報の量はともかく、精度を高めるには時間がかかる。されど悠長に調査している時間は与えられず、素早い成果を求められた結果がこのザマだ。情報の大部分はガセ情報であるか、既に賞味期限の切れた情報であるかのいずれかであった。

 

(それにしても、なんて狡猾な……!)

 

 腹立たしげに唇をゆがめて、賈駆は濁った声を押し流した。同時に言いようのない不安をも感じる。7万近くいたとされる反乱軍兵士の全員が参加することはないだろうが、それでも2万人ぐらいはゲリラ化するのではないだろうか。

 進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった反乱軍。だが、それは勝ち目の薄い大規模戦闘を早々と放棄することで、攻勢を受ける間に野へ下り、武器をこっそり隠して、攻撃を停止した袁術軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行う為だとしたら――。

 

「そんなに落ち込まないでよぉ。悪いことばっかじゃないって」

 

 今後の展望について暗い見通ししか立てられない賈駆だったが、張繍の方はというと、どうやら全く異なる受け取り方をしたようだった。

 

「豫州は“反乱なんて知らない”ってシラを切った。だったら反乱を起こした孫賁たちは、豫州にとっても重大な犯罪者ってこと。なら、重罪人を捕まえるために強制捜査とかやっても仕方ないよね?」

 

 反乱の首謀者たちの身柄拘束を理由に、張繍はすぐさま非常事態宣言を発令。賈駆らの不安を余所に、豫州と徐州、南陽郡から揚州に至る全ての袁家勢力圏での公安活動に対する“理解と協力”を“要請”する。措置には令状によらない逮捕・家宅捜索、集会などの取り締まり、手紙の検閲など様々な制限が含まれていた。

 当然ながら全領地から不満が噴出するも、張繍と保安委員会はこれを『反政府活動』と見なして多数の秘密警察を動員、敵対勢力を徹底的に弾圧したのだ。

 

 

『 街道はことごとく封鎖され、反体制派の拠点は武装した警官の大部隊に包囲された。戦闘が各地で展開され、無実の人間が乱暴に逮捕される中、逆らう者は殲滅の憂き目にあった。裏付けのない密告で多くの人間が摘発され、袁家への忠誠を宣誓した者だけが秘密警察の取り調べを免れた。袁術とその勢力圏は、さながら内戦の様相を呈したのである 』

                      ――後漢書・袁術伝より

 

 

 この暴挙に対し、賈駆は弱り切っていた。治安維持の観点からいえば張繍の行動は然るべき対応であったが、今回はあまりにもタイミングが悪過ぎる。最大の不安要素であった孫家は裏切りという手段をとることなく、しかも親族の起こした反乱を鎮圧したというのに、保安委員会は治安維持を名目に暴虐の限りを尽くしている……少なくとも大衆の大部分はそう見なすだろう。孫家の人気が天井上がりに伸びる一方で、保安委員会の評判は反比例するように下がっていった。

 

(それにしても……)

 

 賈駆は官庁街を歩きながら、苦いものを噛み殺していた。

 

 道行く官僚たちは、照れ隠しと自嘲を含んで笑っている。もはや孫家を疑う要素は皆無といってもよかった。「裏切り者なんているはずがなかったのだ」「やっぱり反乱分子なんてただの被害妄想だ」と笑い、迂闊に不安になって心のどこかで信じそうになった自分を笑っているのだ。

 

(真相がどうなのか、これじゃ余計に分からないじゃない……!)

 

 あまりにも手痛い、と賈駆は思う。これで自分が同じように「他州の工作員を見つけた」といっても信憑性はゼロに近い。それどころか孫家の行動は、袁家家臣が自発的にスパイを疑う機会をも奪い取ってしまった。もう誰もそんなことを考えたり、真剣に考えようとは思わないだろう。

 

 ◇

 

 考え込みながら保安委員会本部へ戻ると、応接室で劉備が待っていた。

 

「賈駆さん……」

 

 劉備の声は硬い。下邳から宛城へ急行してきた彼女の目的は、張繍の発令した『非常事態宣言』への抗議であった。限られた面会時間を精一杯使って、劉備は保安委員会の横暴を停止するよう願い出た。

 

「争いは終わったはずです! なのに、なんでまだ身内を疑う必要があるんですか!? わたし達も孫家の皆さんだって……!」

 

 劉備の声には隠し切れない怒気が含まれており、あまりに理不尽な袁家の行動に憤慨している様子であった。

 

「孫家の疑いは晴れたわよ、一応ね」

 

 劉備はきょとんとして、「それから?」と聞く。賈駆は疲れたように低く息を吐き出した。

 

「報酬を与えて、それなりの官位と兵も与えたわよ。宛城の一等地に屋敷を与えて、監視できる状態には置いてるけどね」

 

「じゃあ、やっぱり誤解だったんですね! だったら――」

 

 ぱぁっと顔を輝かせた劉備に、賈駆は「ただし」と声を低める。

 

「一番疑わしかった孫家の容疑が晴れたからといって、他の容疑者全員がシロになるわけじゃない。この社会不安が収まらない以上、敵は必ずどこかにいるはず」

 

 不景気、凶作、暴動、戦争、格差問題、内乱……袁家は数え切れないほど多くの爆弾を抱えている。しかし根本的な原因は依然として誰にも分からず、それを引き起こした切っ掛けが誰なのか、何なのかはまだ分からない。それでも袁家が何らかの被害を受けているのは事実であり、そうである以上はその元凶がいるはずなのだ。

 

「本当に、そうでしょうか?」

 

「………」

 

「袁家の皆さんのいう“敵”を裏付ける証拠は不確かですし、ひょっとしたら疑心暗鬼によって重大な間違いをしてるんじゃ……」

 

「たしかに、証拠は無いわね」

 

 賈駆はソファに身を投げ出す。

 

「孫家が証拠をくれると思ったんだけどね。そうすれば釣られて集まった反対派もろとも――」

 

 まとめて始末できたのに……そう言おうとして、賈駆は自分が失言をしたことに気付いた。とっさに振り返ると、劉備の顔色が変わっている。しまった、と思ったが時すでに遅し。

 

「どういう意味ですか? まさか……賈駆さん達はそのために孫家を利用したんですか?」

 

「いや、始めからそういうつもりだったワケじゃ――」

 

「そういえば……張勲さんの命令で、孫権さんだけが宛城に残したのは、袁家文官との共同作業の為という話だったはずですが……まさか」

 

 そこまで感づいたなら、もう隠し通せないだろう。賈駆は身を起こし、ため息交じりに告白する。

 

「ええ、そうよ。 少し試してみたの、あれでボロを出すかと思って」

 

「どうして、そんなことを……」

 

「どうして? じゃあ逆に聞くけど、民衆の不満を止められたとでも? 社会情勢が悪化し、不安が高まれば、人民が不満を持つのは必然よ。ボク達が孫家を焚き付けようと焚き付けまいと、遅かれ早かれ袁家を吊し上げるに決まってる。だけどボク達だってバカ正直に人民の不満を鎮めるための生贄になるつもりはない。どうせ止められないのなら、せめて有効に利用してやろうとと思っただけ」

 

「また、あなた達はそうやって……!」

 

 語気を荒げる劉備を、賈駆はやや苛立ったようにねめつける。

 

「あいにく、ボク達はなりふり構ってられないの」

 

 雨後のタケノコのように次から次へと湧いて出てくる事件を1つづつ解決していたら、いつまでたっても埒が明かない。敵に撤退を判断させるには、散発的な連射より、一度の一斉射撃で印象付けさせることが重要。希望というのは、それが高まれば高まるほど、打ち砕かれた時の絶望も深い。袁家が完膚なきまでに完全勝利を収めれば、もはや袁家に逆らおうとはするまい。

 そのため張勲は敵を煽って一か所に集結させ、それを一網打尽にすることで「袁家健在なり」とのアピールを行うと同時に、反対派の希望を一気に打ち砕こうとしていた。賈駆はその意を汲み、実行に移しただけだ。

 

「たしかに傍目からは、汚い手に見えるかもね。でも劉備、アンタが潔癖なことは分かってるけど、そんなこと言ってる場合? 連中はボク達より汚い手を使っているかもしれないのに」

 

 相手が汚い手を使っているのに、なぜ己にはそれが許されないのか? 民を救いたいのであれば、手段の是非は問うべきではない。それほどの余裕は袁家になく、これは2者択一の問題だ。袁家を救いたいのであれば、反体制派を根絶せねばならず、根絶せねば惨劇は止まない。だとすれば、手段の是非に拘るべきではない。

 それに、と賈駆は続けた。

 

「ボク達は孫家を嵌めるつもりだったけど、蓋を開けてみれば嵌められたのはボクたちの方かも知れない」

 

「それはどういう……」

 

「ボクたちも含めて、袁家の大部分が孫家に疑惑を抱いていた事は周知の事実よね? だから孫家はボクたちの策に踊らされた振りを装って、充分に注目を集めた上で真っ向から疑惑を否定した――というのが真相だとしたら?」

 

 誰だって、本心では身近な人間を疑いたくはないものだ。最大の不安要因だった孫家が反乱を起こさず袁家に従ったことで、他の諸侯や名士たちもそうだと思い込むに違いない。これで袁家の人間はますますスパイ説を信じようとはしなくなるだろう。裏切り者などいないと味方を無邪気に信じ、用心を怠る。疑心暗鬼になっていた自分たちの直感を否定し、「疑わしきは罰せず」の原則に立ち返るはず。

 だが、それすらも自分たちを陥れようとする“敵”の罠だとしたら――。

 

(まさか、そんな事……)

 

 狂っている――口には出さなかったが、劉備はそう思わずにはいられなかった。自分たちを騙そうとする、敵の罠を推測するのも賈駆ら軍師の仕事なのかもしれない。だが一度それを疑い始めればキリがないではないか。相手の裏を読み、されど相手も裏の裏を読んでいるかもしれないから、自分はそのまた裏の裏の裏を……と終わる事のない消耗合戦に陥るだけではないだろうか。

 

「不満そうな顔ね。……まぁ、だいたい何を考えてるか想像はつくけど。だけどね――」

 

 賈駆の口調は、劉備を窘めるようだった。

 

「その可能性(・ ・ ・)がある以上、放置して置くわけにはいかないのよ」

 

 劉備は沈黙したが、賈駆の言に納得したからではないことが表情からよく分かる。険しい顔をしたまま黙って目を伏せ、踵を返す。ドアを閉めるときに、深いため息を吐いたのが聞こえた。

 

「……分かってるわよ」

 

 劉備の主張には納得できないが、指摘された点は間違っていない。非難されても仕方のない行動をとってしまった、自分にも腹が立つ。

 残された賈駆は一人、俯きながら苦いものを持て余していた。

 

 ◇

 

 部屋を出た劉備もまた、ゆっくりとした足取りで廊下を歩いていた。

 

 袁家は今までにない危機を迎えている。秘密警察が身動きできなくなるほどの暴動。たしかに賈駆の言う通り、形振り構っている場合ではないのかもしれない。誰かがこの惨劇を止めねば。このまま放置することは許されない……そうした賈駆の気持ちは分からないではなかった。その任務の性質も分かっている。孫家を煽ったのは当然の義務であり、しかも彼女らが負う責任からすれば妥当な判断ですらあった。その結果は予測不能なものであり、責めても始まらない。

 

(けれど……)

 

 保安委員会の目指す場所が分からない。彼らが袁家を救おうとしているのは分かるが、何を以てそう思うのか。平たい言葉でいえば、そこに『徳』や『義』はあるのか。袁家には袁家の正義があるのだろうが、それと人質をとったり、民を弾圧することがどうして並び立つのだろう。

 自分の望む結果のためなら手段は選ばない――保安委員会のそうした振る舞いは、ひどく自己中心的なものに見えるのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 陸遜は二階の窓から、何度か家の前の坂道を見下ろした。以前は袁家の人間が数十人も通行人や浮浪者を装って監視していたものだが、いつの間にかその大部分が姿を消している。月に照らされた夜の坂道からは、今度こそ本当に人通りが絶えたようだった。

 佇まいを直し、窓辺から踵を返す。廊下を奥へと辿って、裏手に面した最も奥の部屋へと足を運んだ。廊下に面した樫のドアを開けると、中には書をしたためる周瑜の姿があった。

 

「こんな時間まで残業ですかぁ~、大変そうですねぇ」

 

「ああ、全くだ。どこかの被害妄想集団のおかげで、ここ数日は散々だった」

 

 周瑜は筆を止め、椅子にもたれかかる。

 

「取り調べやら監視やらで、おちおち仕事も出来なくてな。――もちろん、袁家から押し付けられる雑用の方ではないぞ?」

 

 陸遜は口元に手を当てて笑った。

 

「保安委員会の人たち、よっぽど驚いてたでしょうね~」

 

「そのようだ。あの時の連中の顔は、なかなか見物だったぞ」

 

 周瑜は何を思い出したのか、おかしそうにフッと笑う。

 

「それで、保安委員会はどうします?」

 

「さて、どうしてくれようか」

 

 周瑜が微笑み、墨の乾いた筆を指先で弄ぶ。

 

「――消しますか」

 

「それはあまり利口ではないな。表立って我々を糾弾した人間が不幸に逢えば、かえって怪しまれる」

 

「でしょうね」

 

 陸遜は部屋の中央にある湯沸かし器に向かい、急須から茶器にお茶を注ぐ。

 

「……そうだな、何人かには退去願おうか。我々の家に土足で忍び込むような、不届き者には出て行ってもらおう」

 

 陸遜から茶を受け取る周瑜。それと入れ替わるように、陸遜の手には周瑜のしたためた手紙が握られている。

 

「二度と、踏み込んで欲しく無いですね」

 

 ああ、とだけ周瑜は呟いた。陸遜はそれ以上何も言わず、部屋を出ていく。

 

「……早ければ明後日には連中の耳に入るだろうな」

 

 恐らく張繍か、あるいは更に下の人間から。孫家とその関係者に張り付けた密偵が、次々に連絡を絶っていることに気付く。賈駆はこちらの意図を理解するだろう。

 

 ――まだまだ、これからだ。やるべき事は沢山残っている。

     



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81話:霧の中

    

 南陽郡・宛城 徐州政府領事館にて――

 

 

「また、運河で事故ですか?」

 

 諸葛亮は読書をしていた手を止め、顔を上げて声の主を見返す。桃色の髪を櫛でとかしていた劉備は、どこか困惑しながらも頷いた。

 

「うん。せき止めていた堤防の一つが崩れて、ケガをした人たちが一杯いるって。現場監督の手抜き工事が原因って事になってるけど……」

 

 当の現場監督は行方不明だという。状況が状況なだけに、何か裏があったのではと勘ぐってしまう。

 諸葛亮は眉をひそめた。ついこの前には、豫州で反乱があったばかり。それ以前からも頻繁に暴動の話を聞く。どこそこでどんな事件があったという話が出ない日が、ここ最近で一体どれだけあっただろう。揚州でも南陽でも豫州でも暴動が起きている。偶然にしては、明らかに多すぎる……。

 

「曹操さんの送った工作員が、本当の犯人だって言う人もいるし……」

 

 劉備は思いつめた顔で息を吐いた。そういえば、と諸葛亮は思う。最近の曹操軍は目立つ動きを見せていない。専守防衛に努め、傍目には徐州戦役で疲弊した国力の回復に徹しているように見える。だが、本当にそれだけなのだろうか。密かに工作員を送り込んで相手を混乱させつつ、隙を見せるのを虎視眈々と待っているのでは――。

 

「曹操さんだけじゃないよ。袁紹さんかもしれないし、劉表さんだって怪しいって……もう何を信じていいか分からないよ」

 

 劉備はひとりごちた。その横顔に泣きそうな表情が漂うのを見て、諸葛亮は無理に明るい声を上げた。

 

「そんな陰謀論みたいなこと言わないで下さい。あの孫家だって、袁家を裏切らなかったんですから」

 

 そうだね、と劉備は笑ったが、やはり眉根が不安をたたえたように寄せられていた。

 

(工作員か……)

 

 諸葛亮は窓の外、すっかり秋めいた風景を見渡した。水鏡塾で勉強していた頃から少しも変化がない、荊州の秋。いつもと変わらないのどかな風景だ。穏やかで、落ち着いて、安穏としている――だが、目に見えないところで不穏なことが起きている。まるで物の怪の類が跋扈しているような、道術や妖術すら疑いたくなる不自然さ。

 

(……まさか)

 

 諸葛亮は劉備に声をかけようとして思いとどまった。

 

(孫家が袁家に従ったのも、機会を伺うために……?)

 

 諸葛亮はは密かに息をのんだ。孫家が黒幕ではないか、とは誰もが一度は口にしたことだ。しかし諸葛亮自身、その可能性を排除していた。そんなことは出来ないと心のどこかで思っていたし、そう思いたかった――これまでは。

 

 しかし、もし本当にそうであるとしたら。諸葛亮は櫛で髪をとかす劉備の横顔を伺う。これは彼女には言えない。言ってしまえば彼女は不安で胸の塞がれる想いをすることだろう。

 あるいは――仮に工作員の正体が分かったとして、自分たちはどうすればいいのだろうか? 曹操や劉表の手の者だと知ったら、それを理由に彼らと全面戦争に踏み切るのか? そもそも一体、これまでにどれだけの工作員が紛れ込んで、袁家にはどれだけの工作員が暗躍しているのか。

 

(きっと大丈夫)

 

 そのはずだ。孫家と袁家が反目していたのはだいぶ昔の話だ。これだけの期間、孫家は沈黙していたのだから、周瑜らも諦めたに違いない。

 諸葛亮は安堵の息を吐いたが、それでも背筋の下の方に鈍い悪寒が張り付いているような気がした。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 華雄は訓練場の前に立って、兵舎のほうを一瞥した。いつもと変わらないはずの光景。それが、最近になって乱れつつある、と思う。

 一つ一つは些細なことなのかもしれないが、彼女はそういったことの一切が気に入らなかった。

 

 袁家には袁家の規則(ルール)がある。これまで袁家はそれに従って動いてきた。なのに最近、その規則が少しも守られず、極めて無造作に破られていく。華雄はなぜか、それが自分への侮辱のように感じた。

 袁家に仕えて暫く経ち、ようやく仕事を覚えて職場の雰囲気にも慣れてきた頃だからだろうか。移民である華雄は苦労して袁家の規則に馴染んだだけに、余計に規則を破る者が許せないのかもしれない。それに、汜水関での敗北の反省も踏まえて、彼女は規則というものを重視するようになっていた。

 

 世の中には、覆されてはならない規則がある。これまで、確実にどこかの時点まで袁家はそれに従って動いてきた。それがだんだんと覆されるようになり、今や規則に従って秩序を保ちながら動いているものは何一つないといってもいい。

 

 華北の戦争は、それまでの『勢力均衡』に基づく中華の秩序と平和を破壊した。外交は顧みられなくなり、あらゆる紛争が武力で解決されるようになってしまっている。国力差に基づいてある程度の結果が予想できる外交とは違い、戦争は博打のようなものだ。結果は誰にも予想できず、それが中華全体の混乱をいっそう大きくしている。

 

 徐州への出兵は、元より弱小だった袁術軍を更に弱体化させた。曹操軍を撤退させたとはいえ、戦争による経済損失や戦費も大きく、財政赤字と市場の不安定化は大きな懸念事項だ。景気後退は社会不安をもたらし、社会不安は政府支出の増大をもたらし、政府支出の増大は更なる景気後退をもたらす。これが長引けば、経済成長の陰で無視されてきたあらゆる不満が噴出し、袁家は未曽有の混乱に見舞われるだろう。

 

 移民の急増は、社会不安を増大させた。華北の戦乱は膨大な数の難民を生み出しており、その大半が平和と繁栄を謳歌している江南に向かったとしても驚くことではない。もともと奴隷を確保するために、袁術領では以前から多くの移民を受け入れていたものの、華北の戦乱はその需給バランスを破壊してしまった。つまり移民という労働力の供給が、その需要を遥に上回ってしまったのだ。供給過多となった労働力は失業者となるしかなく、失業者の増大は貧困と社会不安を増大させる。

 

 他にもスキャンダル&トラブルまみれの大運河建設に、独立運動と反乱が頻発する植民地など、不安要素は山積みだった。

 

袁家はあるべき状態にない。どこかで歯車が狂ったまま、それが修正される様子もない。それどころか日に日に軋みは大きくなり、一切の規則が踏みにじられてゆく。

 

「まったく……どうなっているんだ」

 

 華雄は呟いて、練兵場の射撃場へと向かう。入り口付近の武器庫が開けっ放しになっているのを見て、顔を歪めた。武器はきちんと手入れと管理をしておけ、といつも言っているのに。

 

「おい! 部隊長!」

 

 ついイライラを抑えきれず八つ当たりするような形になってしまったが、続く部隊長の反応は火に油を注ぐ結果となった。そこにはあるべきはずのもの――恐怖に怯えた兵士の顔――が無かったからだ。

 上官が怒鳴れば、部下は恐縮して従う……それが袁術軍の規則だったはず。しかし目を顔を上げた部隊長の表情はどんよりと濁っており、目には卑屈さと不貞腐れた感情が凝縮されていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 揚州・曲阿にて――

 

 

 長江沿いの港街に、夕暮れが近づいている。街の中心にある市場からのびる裏通りでは、帰宅する住民たちの腹を満たすべく小さな露店が並んでいた。店の主人たちは点心などの軽食をを用意する傍らで、灯篭をともしたり椅子を道端に並べたりしている。

 そんな露店のひとつに北郷ら一行が座っており、テーブルには空になった料理の残骸が散らばっていた。空になった急須や饅頭が入っていた蒸篭、蒸し蟹の殻などなどだ。

 

 頻発する暴動や襲撃事件への協力を求めて揚州へ旅立った一刀らだったが、いざ着いてみると適当にあしらわれただけ。運河建設の件も、うやむやにされた。一応は衣食住に不便のない生活と自由行動が認められているものの、肝心な公務は一つも果たせていない。

 だが、収穫が無いわけでもなかった。揚州の発展は予想をはるかに上回るものであり、また揚州人の袁家への反発は相当に強いようだった。

 

「なんか胡散臭いな。……どうも気に入らない」

 

「何がですか?」

 

 同行していた部下――糜竺が心配そうに口を開く。

 

「劉繇も揚州政府だよ。なんだか信用できない。あれから何回か会話もしたけど、どうも世間体を装って俺たちから情報を集めようとしているみたいだった」

 

「しかし、外交官の仕事とは本来そういうものでは?」

 

「それはそうなんだけど」

 

 一刀の表情は晴れなかった。首の後ろで両手を組み、唇をすぼめる。

 

「俺が感じている嫌な感じっていうのは、それだけじゃないんんだよ。なんだかあいつら、袁家の連中に似ているような気がする」

 

 袁家のイメージは悪い。権謀術数、拝金主義、秘密警察、絶え間ない政争、膨大な奴隷と農奴を抱える人民の牢獄……それに加えて袁家の評判を落としているのは、人民委員ないし袁術領に住むエリート階級の価値観である。彼らは極端に利己的かつ個人主義的で、金と力の信奉者であった。

 

「ひょっとして揚州は、第2の南陽郡になろうとしているのかもしれないぞ。袁家にとって変わるつもりなのかも……」

 

 やや歯切れ悪く口を閉じる一刀。自分で言い出したことながら、段々と不安が込み上げてくる。袁家とそのシステムについて、昔から感じてきた嫌悪感と不吉な予感が、急に現実味を帯びてきたようだった。

 

 江南の支配権が漢帝国から袁家に移り、すでに相当の年月が経過している。その間の変化で最大のものが、商業の発達であることは異論がない。従来のように農業を主体として商業を補助とするシステムではなく、流通経済が前面に押し出されるシステムだ。

 しかし、これは農業の軽視を意味しない。商業はそれを扱う商品がなくてはなりたたず、一面では農業の発達をも意味するからだ。商品作物の流行がその代表格で、江南の農民は大量の消費を見込んで近郊農業へと乗り出す。野菜の栽培、魚の養殖、家畜の飼育が重要な商品となり、油や酢、酒と言った調味料も重要な商品だった。取引されるのは食品ばかりではない。繊維製品や漆器・紙などの加工品も登場したし、灯油や針・釘などの日用品も種類が豊富になってゆく。

 

 輝く絹に、なめらかな磁器、繊細な金銀細工……それらを供給し、支えているのは長江デルタを利用した水運ネットワークだ。都市部ともなれば、先に述べた品物は庶民の手の届く贅沢の範囲内となり、さかんに取引されている。商品は全国的スケールで動き、細やかな商業ネットワークで覆われていた。たとえば宛城では必要な品々と奢侈品が、江南の2000か所から供給されていた。化粧や防腐剤、料理に使う香料や香辛料などの珍奇な品々も南海から運び込まれ、その専門店もあったという。

 

「大袈裟かもしれないけど、この町をよく見てみろよ。あんなに大量の水車なんか、宛城にもないぞ。工場だって風車や水車みたいな機械を使った最新式のものだし、交通網も港から道路まできちんと整備されている……」

 

 後進地域であった江南はどんどん開発され、恵まれた自然条件に支えられて生産力は大きく上昇してゆく。北の混乱を身ひとつで逃れてきた多数の移民や在来の住民も、農耕に適した気候風土と豊富な資源のもとで生産性を高め、次第に力を蓄えていった。今や袁家の繁栄は、ここ揚州を含んだ江南によって支えられているといっても過言ではないだろう。

 

 

「北郷様、やはり袁家に伝えるべきでは? もし今の話が本当なら、劉揚州牧は何かを企んでいるとしか思えません。まさか揚州が、袁家に反旗を翻すなんてことはないでしょうが……」

 

「常識的に考えればそうだろうな。袁術兵は弱兵と言うけど、あれは戦乱続きで鍛えられた、曹操軍や董卓軍と比べた話だ。戦らしい戦の無かった益州や揚州の兵に比べたら、袁術兵は装備も訓練も行き届いている。つい最近だって、豫州の反乱を潰したばっかりだろ?」

 

 そもそも揚州が発展できたのは、袁家の資金力とその経済ネットワークをうまく活用したからだ。袁家に反旗を翻してそれを崩壊させることは、自分で自分の首を絞めることに等しい。

 だが、そう思ってなお、不安は去らなかった。それを言うならば、反乱を起こした豫州だって同じ条件だったのだから。

 

「どの道、揚州を告発するならもっと証拠が必要だ。今のままだと、もし揚州政府がシラを切った場合は逆に俺たちが疑われる。この前の賈駆の反応からして、袁家には嫌われてるみたいだしな」

 

 そう言って一刀は残っていた饅頭を手に取る。糜竺は何か言いたげだったが、結局黙りこんで食事を再開した。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 南陽郡・とある料亭にて――

 

 

 閻象が行きつけの料亭のドアを開くと、客は2人だけだった。梁綱と楽就、2人とも袁術軍の将軍だ。

 

「いらっしゃい。お久しぶりですね」

 

 店長の挨拶にええ、と閻象は呟く。店内にはどこか陰鬱なものが漂っている。そう思うのは、心なしか人が少ないからかも知れなかった。

 

「おや、橋蕤将軍は来ていないんですか。ここの常連だったはずですが」

 

「ああ。また豫州で反乱があったとかで、そっちに10日ほど出かけているみたいだ」

 

「また? 今月に入って何度目かしら……まったく、本当に何がどうなっているの」

 

 楽就が言うと、梁綱がため息交じりに答える。

 

「正直なところ、軍部も相当まいっているんだ。部隊の空気は悪くなるし、人民の反応も冷ややかだし」

 

 閻象が首を傾げると、楽就は苦笑した。

 

「はら、政府内に他州の工作員が紛れているなんて噂があるからよ。移民や難民に紛れて工作員が送り込まれている、ってね。今じゃ誰も信用できないんでしょう。しかも秘密警察と政治将校はそのせいで気が立ってるし、何かにつけて兵士に言い掛かりをつけるもんだから、部隊の空気は最悪な事に」

 

「そんなことが……」

 

 連続するテロや暴動に対して、他州の工作員の陰謀だという噂があったが、閻象はそれについて懐疑的だった。袁術領で事件が続いているのは事実だが、いくら情報提供者を探っても他の諸侯がそれを推進しているような動きを発見できないでいる。

 それはともかく、真面目に勤務している兵や民にとっては理不尽で堪らないだろう。袁家のために税金を納め、袁家の定めた法をきちんと遵守しているのに、当の袁家からは不信の目で監視されるのでは気も荒れるに違いない。

 

「本当に袁術様の領地はどうなってしまったんだろう。今の状況は尋常じゃないよ」

 

 そういえば、と閻象は首をかしげる。

 

「店長さん、店の改装でもするんですか? 入口の扉が取り換えられてましたけど……」

 

「ああ、そのことね」

 

 店長は苦笑する。

 

「別にウチの店だけじゃないですよ。どうも最近、みんな防犯に気を配るようになったようで、こういうのが流行っているんです」

 

「流行っている?」

 

 閻象はどう反応していいか分からず、複雑な笑いを浮かべた。

 

「そうですね、この近くだと李豊将軍の家ですか。警備兵を増やして、門の補強もしてたような気がします。それから堀をもっと深くして、物見櫓まで付けるみたいですよ」

 

「壁を高くしたり、秘密の抜け穴を作ったりする人もいるとか」

 

 楽就も同意する。

 

「秘密の抜け穴……ですか?」

 

「ええ。何でもいざという時に逃げ出せるように、だそうです。――まったく、この国はどうなってしまったんでしょうね」

 

 家の外を徘徊する目に見えない何かに怯え、それから身を守ろうとしているような。それぞれに聞けば古くなったとか、資産が増えたからとかそれなりに妥当な理由はあるのだろうが。

 

「……まるで皆、家の中に立て籠もる準備をしているみたいだ」

 

 

 

 ◇◆◇

  

 

 

「それにしても遅いな」

 

 ややあって、一刀が呟いた。

 

「糜芳なら、知り合いの揚州名士に会っているという話では?」

 

 肉粽を食べながら、糜竺が呑気に発言した。話題の糜芳は彼の弟であり、同じく使節団の一員として揚州まで同行していた。

 劉繇が好意的とは限らぬ――軍師らしい慎重さで、諸葛亮は一刀ら使節団を劉繇の元に向かわせる一方で、独自の情報収集ルートを使っての調査をも銘じていた。糜芳もその一人であるのだが、どれだけ待っても合流地点に姿を見せる気配はない。すでに時刻は夕方に達しており、日は沈みかけていた。

 

「だとしても、そろそろ戻ってきていい頃だ。いくらなんでも遅すぎる」

 

 いったいどこで何をしているのか。いくら何でも遅すぎると顔をしかめたところで、チリンと鐘のような音が聞こえた。金属同士がぶつかる乾いた音が、あらゆる方向から同時に聞こえてくる。

 

「……?」

 

 結果からいえば、糜芳が時間通りに現れなかったのは一刀らにとって僥倖といえた。一刀は彼の姿を捉えようと周囲に意識を凝らしており、ただならぬ状況になっているのを幾らか早く知ることが出来たのだ。

 

「待てよ、この音は……?」

 

 その時、通りを行きかう人々が道の左右に分かれ始めるのを見て、ようやく一刀は事態を悟った。

 

「……っ!」

 

 一刀は食べかけの饅頭を乱暴に皿へ戻すと、袖で口元を拭きながら視線を左右に向ける。

 

「北郷殿?」

 

「ここから移動するぞ。周りを見ろ、囲まれている……」

 

 この時ばかりは一刀の意見が正しいことは、疑う余地もなかった。その視線の先には、敷石の道に軍靴のかかとを打ちつけ、槍を構えながら迫ってくる数十人もの兵士たちの姿があった。金属製の鎧が耳障りな音を立て、道行く人々が慌てて逃げ出してゆく。

 糜竺もその意味と、これから何が起こるのかを察したらしい。張りつめた表情で立ち上がり、一刀と共に一般人の群れに紛れて脱出を図る。

 

「――いたぞ! あの2人だ、逃がすな!!」

 

 兵士の怒声が街路にこだまし、騒ぎが一段と大きくなった。少し前まで一刀の頭部が存在していた位置を、鉄製の太矢が通過する。両脇で矢が風を切って飛んでくる中を、2人はわき目を振らず走り出す。

 

「あれは……!」

 

 群がる揚州兵、その中の一人を見た糜竺の顔が驚愕に染まる。

 

「誰だ?」

 

「この訪問の原因――笮融です!」

 

「なっ……!」

 

 なぜ笮融がこんな所にいるのか。いや、それよりどうして彼が揚州兵たちと共にいるのか。最悪の想像が一刀の頭をよぎる。

 

「殺してはいかん。生かしたまま捕えよ!」

 

 続いて混乱の中でそう命じたのは、この場に不釣り合いに高価そうな服を着た中年男性だった。恐らくはこの男が、笮融も含めた揚州兵の一団を率いているのだろう。

 

「笮融、本当に連中が袁家の(・ ・ ・)工作員(・ ・ ・)なのだな?」

 

「勿論ですとも。徐州使節団が送られてくる数日前、諸葛亮と劉勲との間で会談があったそうです。しかもその少し前には、保安委員会から劉勲へ非公式の依頼が持ち込まれているという情報も」

 

(ふざけんな、冗談じゃない――!)

 

 勘違いもいいところだ。――しかも、よりによって“袁家の工作員”とは。

 

「偶然……にしては出来過ぎているな。分かった、袁家の工作員には然るべき報復を受けさせる。だがその前に、知っていることを洗いざらい吐いてもらわねば」

 

「違う! 誤解だ、俺たちは――「話すだけ無駄です!」」

 

 弁明しようとする一刀を、糜竺が大声で遮る。

 

「間者だと疑っている相手が“自分は間者ではない”と否定したところで、誰が信用するというんです!?」

 

「くっ……!」

 

 こうなってしまえば最早どうにもならない。説得は不可能だろう。彼らが納得することがあるとすれば、それは一刀らが自らを「袁家の工作員です」と認めた場合だけだろう。

 

 一刀たちは人ごみの中を泳ぎ回り、殴打され、突き倒し、転び、物を蹴散らしながら必死の逃走を続けた。捕まれば、まず自白するまで拷問にかけられるだろう。命の保証はない。

 

 死の足跡が、2人の後からひしひしと迫ってきていた――。

          



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82話:謎解けるとき

  

 『 有能な人材を発掘し、出自に関わらずそれを厚遇する 』

 

 いささか使い古された感はあるが、名将の素質としてあまりに有名な条件のひとつである。後世の記述では曹操や劉備がこれに該当し、血縁や同郷出身者ばかりで固める傾向のあった、袁紹ら他の諸侯と一線を画していると評された。

 

こうした論理に基づいて判断するならば、袁家は間違いなく前者の側に属していると断言できよう。縁故どころか、君主と家臣の個人的な信頼感という人間関係すら無視した、金銭という透明性の高い手法によって勢力を拡大しているのだから。

 

「――宮廷では官位が収入を決める。されど袁家では収入が官位を決める」

 

 曹操は後年、上記のように袁家の人事制度を皮肉ったと言われている。何を隠そう、世に悪名高い『売官制度』そのものである。

 しかし別段、売官制は袁家独自のアイデアというわけではない。古今東西の歴史をひも解けば、売官制やそれに連なる制度はごまんと出てくる。漢帝国においても、前皇帝・霊帝の治世などは『銅臭政治』と呼ばれ、賄賂による売官が後を絶たなかった。しかし袁家のそれは質・量ともに群を抜いており、芸術とも呼べる領域まで高められていた。袁家において金で買えない地位は無いに等しく、最高幹部である書記長の肩書を持つ劉勲ですら「金で買える安い女」《荀彧の評》であった。

 

 この制度には批判も多い。売官制はその誕生の瞬間から、常に否定的な意見に晒されてきた。結局のところ、金儲けしか取り柄のない人間が集まってくるだけではないか、というリスクは常にある。そこまで行かずとも、金に釣られて集まってくるような人間は、結局のところ金で他に釣られてしまう……その程度の忠誠心と器しか持ち合わせない人間が寄り集まったところで、果たして本当に袁家の発展につながるのであろうか。

 ただ、それも袁家の人間に言わせれば「――個人の嗜好まで吟味するほど袁家は狭量ではない。要求するものは報酬に見合う労働と成果のみ」との事であった。

 そうした背景があったからか、袁家は比較的新参者に寛容であった。

 

 たとえば孫家の屋敷では、孫権が夜遅くまで大量の書類と議題と案件を通過させている最中だった。これらは全て、袁家とその傘下の豪族たちから集まった嘆願書である。彼女はその一枚一枚に目を通し、関係者全員が納得できる形での仲裁案を考えていた。

 

「しかし大したものですね。つい先月までは潜在的反乱分子扱いだった私たちが、今や袁術領の地方行政に関わっているんですから」

 

 声をかけたのは呂蒙だった。反乱軍を倒してからというもの、孫家に対する待遇は格段に良くなっている。袁家は自らにとって有益な人物を厚遇し、それを物質的に実体化させることに努めており、それは孫家に対しても同様に適応された。管理職や出世コースには一切入り込めなかった孫家関係者にも門戸が開かれ、給与と人事考査は全面的に見直されていた。

 

「逆に待遇が上がり過ぎて、罠なんじゃないかと疑ってしまいます」

 

 中でも呂蒙ら若い世代は問題視される経歴もなく、論理的思考を得意とする点で袁家にすんなりと馴染んでいた。

特に目を見張ったのは孫権の栄達である。もともと素質があったのだろう。活躍できる機会と功績に見合うだけの待遇を与えられた彼女は、政治家として非凡な成果を上げていた。これまで10を超える豪族の領地経営に介入して、徴税や財務制度を改革し、適切な人事を行い、複雑な相続問題を仲裁して、袁家の統治を安定させてきた。袁家の収集した膨大な資料を閲覧する権限も与えられ、猛烈なスピードで袁家が蓄積した知識を学習している。

 

「袁家の考えは正直、私にも分からない。ただ、私たちにとっても悪い事じゃない。袁家の高官ともなれば、自由裁量でいろいろな事が出来る」

 

 袁家は人材を重んじる。有益だと見なした人材には、袁家の元での出世街道か、転落人生のどちらかを選ぶ権利を与えた。

 袁家は守銭奴ではない。協力者に対して報酬を惜しんだ事はなく、たった一度の功績によって一生遊んで暮らせるだけの恩賞を与えられた者もいる。例えば、かつて袁術に九九を覚えさせることが出来た教師は、その後の生涯を富と名誉で覆い尽くされた。

 

「とはいえ、急に仕事が増えるとそれはそれで、な」

 

 孫権は苦笑し、凝った肩をほぐそうと背伸びする。

 

「暴動、放火、殺人、破壊行為………これだけの数ともなれば、異常事態というのも頷ける。しかも原因が不明ときた」

 

 あるいは考え得る可能性が多過ぎて、かえって根本的な原因が見えづらいのか。いや、そもそも本当に根本的な原因など存在するのか。優秀なエリートを多く擁する袁家のブレーンでさえ、仮説こそ立てられど、その自説に確信を持てる者は皆無だった。

 

 人気のある仮説は、貧困を原因とするものだ。なぜなら暴動で逮捕された者のほとんどは、若年グループを中心とする貧困層だったから。戦争によって経済活動が停滞すれば、当然ながら彼らの生活は苦しくなり、不満は高まっていく。

 

 また、ある者は農奴制や小作制度の存在を理由にした。どれだけ働いても儲けの大部分を地主に持って行かれるような体制では、生活も厳しく将来に希望を持つこともできない。袁家が『自由競争』の名のもとに大地主制度や奴隷制を許容しているという背景は、人口の大部分を占める貧農を反政府活動に向かわせる。

 

 別の者は、警察への不信感を理由とした。袁家における警察の主な業務は通常の犯罪の取り締まりではなく(「小さな政府」志向の袁家では、そもそも法律や規制が少なく、現代から見れば無法地帯もいい所であった)、スパイ・テロリストの監視などの政治警察業務である。通常犯罪と違ってスパイ・テロ対策などは事件が起こってからでは遅く、相手もプロであることからまた証拠が少ない。そのため秘密警察では冤罪が発生しやすく、拷問など道義的に問題のある行動をとっても仕方ないとされる風潮が蔓延している。加えて最近の強権的手法と失態の連続によって、民の警察に対する不信感は強まるばかりだ。

 

「気が重いですね。蓮華さま」

 

 呂蒙の声には、孫権を気遣うような響きがある。それというのも、ここ数日の孫権は朝から晩まで仕事詰めだったからだ。必要な仕事とはいえ、自分の体の方も大事にして欲しい。

 そうした呂蒙の微妙な声音の変化を、孫権は敏感に感じ取っていた。嬉しさを感じる一方で、少し困ったような表情で口を開いた。

 

「そうね。でも、私には姉上のような戦の才は無い。だから地道に民の願いを叶え、少しづつ世の中を良い方向に変えていければ、と思っている。いつまでも気が重いとか、そういう贅沢は言っていられないわよ」

 

 そう……自分に出来るのはこれぐらいしかない。

 だから手の届く範囲で、やれる事をひとつづつ。確実に。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「あのさぁ、案ずるより産むが易しって言うじゃん?」

 

 無駄に甘ったるい果実酒を一気呑みした後、張纏は口から言葉とアルコールを吐き出した。目の前にある暗赤の酒――白酒をベースにリンゴやザクロなどの果汁を付け込んだもの――が盃から無くなるや否や、すぐさま傍で待機していた召使いが次の一口を注ぐ。

 

「頭で考えることも大事だけど、答えの出ない考えをいつまで続けても意味なくない?」

 

「いや、だけどさ」

 

 西方からの輸入されたガラス製の盃を揺らす手を止め、劉勲が張纏をジト目で軽く睨む。

 

「ロクに目途も立てないまま、闇雲に動いても無駄な労力使うだけじゃないの? 何か行動を始めるときには、それにかかる労力と得られる効用を見極めてから動くのが賢い行動よ」

 

「でも結論出てないじゃん。ただ考えてるだけだったら、それはそれで考え損じゃん」

 

「まぁ、それもそうだけど……」

 

 むすっとした表情でそう言い、劉勲は手元のナイフを動かす。箸ではなくナイフを使うのは西涼のスタイルだが、劉勲はやけに慣れた仕草で食事を続ける。直火で炙った羊肉の塊をナイフで一口サイズに切り、上品に口へと運ぶ。ゆっくりと噛んでから、細い指で絹の手拭きを摘み、脂に濡れた唇を丁寧に拭く。

 

 バリバリの中央育ちの癖にどこで覚えたんだろうなー、などと思いながら、ふと張纏は自分の皿を見る。乱雑に切り落とされた肉片、べっとりと脂まみれの盃、ナイフも一番大きい肉塊に突き刺さったまま。手づかみや指で千切ってる事も多いから、指には肉脂やら香辛料やらが張り付いている。実に対照的だ。

 対照的と言えば服装も同様で、張纏は半そでのシャツに3分丈のズボンとサンダルというラフな格好なのに対し、劉勲は焦茶のジャケットに白のフリルブラウス、黒のプリーツスカート(その全てがオーダーメイド品で)、下着ひとつで農民の生涯年収に匹敵した)。加えて完璧に整えられたメイクと、計算された髪型、ネイルも綺麗に磨かれている。

 

「……なんつーか、劉勲ちゃんは周りの事、気にし過ぎ。もっと気楽に考えて、やりたい事をやりたいよーにやればいいと思うよ」

 

 つまりは、そういう事なのだろう。とことん自分本位の張纏と違って、劉勲は外面に気を使う。だから何をするにも根拠と理由づけと、周囲の評判を吟味してからでないと動かないのだ。「アンタはアタシの母親か」と独り言のように呟いた劉勲の仕草も、やはり無意識に男の視線を意識したそれだった。

 面倒臭い人だなー、などと思いながら張纏は再び口を開く。

 

「劉勲ちゃんは、今ここで何が起こってるんだと思う?」

 

 肉汁を面包(パン)で掬っていた劉勲が顔を上げた。

 

「何って……」

 

 分かりきった事だ。袁術領全体がおかしくなっている。全てはそれに尽きる。対策は打っているが、まるで袋小路に迷い込んだよう。対策を打っても打っても、異常事態はそれをすり抜けてしまう。原因を探せば探すほど答えは遠ざかり、その間にも異常事態はじわじわと袁家を締め上げ、内側から蝕んでゆく――。

 

「ひょっとしたら、答えが分かったかもしれないんだ」

 

「ふぅん……本当?」

 

 劉勲の視線はひどく懐疑的だったが、張纏は気にしないことにした。

 

「工作員だよ」

 

「……はい?」

 

「だから、工作員だってば。密偵とか内通者とか間諜とか、言い方はいろいろあるけど」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

 これは何かの比喩なのか、あるいはタチの悪いのジョークなのだろうか。一瞬そんな考えが劉勲の頭をよぎるも、張纏は至って真面目な顔だ。

 

「ここ最近の、暴動と内戦の増加は異常過ぎるよ。小さな不況が次々に対立を引き起こして、あっという間に大恐慌になる。金持ちと貧乏人、移民と現地人がうまく強制していた社会に、突然すさまじい軋轢が噴出する」

 

「………」

 

「だけど、対立それ自体は問題じゃないよ。だって人間だもの」

 

 人は生まれも違えば、育ちも違う。移民と現地人、富豪と貧者、貴族と平民、有能と無能……多様な人民の存在は、多様な価値観をも生み出す。

 社会レベルでは革新と保守、個人主義と集団主義、政教一致と政教分離、多元主義と一元主義。

 政治レベルでは福祉国家と夜警国家、中央集権と地方分権、民主主義と権威主義、武断と文治。

 経済レベルでは自由市場と統制市場、インフレ政策とデフレ政策、自由貿易と保護貿易。

 軍事レベルでは軍拡と軍縮、攻勢と防勢、火力と機動力、短期決戦と長期消耗戦。

 外交レベルでは一国覇権と勢力均衡、穏健外交と強硬外交、孤立主義と介入主義。

 

 しかも袁家は後世の政府のような高度に中央集権化された組織ではなく、名士や豪族、貴族と呼ばれる様々な有力者によって統治されているのだ。領地の大部分もそうした者たちが支配しており、袁家が直接支配する地域は全体の1割にも満たない。法令と政策は合意形成を行わずして施行はされず、政府の権限は地方領主たちによって厳しく制限されていた。張勲ら袁家家臣は君主権力の確立に努める傍ら、反乱を避けるために地方有力者により一層の権限を譲渡することを強いられている。

 

『 ――6つの州境(徐州・兗州・青州・荊州・司隷)、5つの言語(江淮語・呉語・贛語・客家語・湘語)、4つの民系(北方民系・呉越民系・赣鄱民系・閩海民系)、3つの州(豫州・徐州・揚州)、2つの主食(米・小麦)、1つの君主 』

                           

 同時代の人間にこのように評されるほど、袁術とその支配圏は実に複雑な多様性を内包していた。様々な努力と偶然の巡り会わせの結果、袁家は人口希薄地帯であった江南に、突如として巨大な経済圏を誕生させたが、それは非常に脆い靭帯で繋がっているに過ぎなかった。

 

「そうよ、対立の火種なんていくらでもあったじゃない。これまでだって、対立がなかったわけじゃないでしょ」

 

 劉勲が口をとがらす。袁術の南陽郡太守就任以来、文化や習慣、価値観の違いから、異なる社会集団同士の対立が絶えなかった。

 4つの州に広くまたがる袁術領では、いくつかの文化を異にするグループが、いろいろな地域に複合的に混住し、なおかつその構成の状況は郡単位で異なっていた。例えば揚州では呉越民系が圧倒しているが、豫州では赣鄱民系がそれなりの勢力をほこっている。荊州南陽郡では『華夏族』と呼ばれる北方民系が最大グループではあるものの、それでも郡人口の4割に過ぎない。そして出生地のよく分からない移民は、どこの州でも全人口の1割を、最低でも占めていた。

 

 こうしたグループの対立の起源は、交通網の整備にまで遡ることができる。経済発展のために袁家が行った施策の一つは、道路や運河を建設してヒト・モノ・カネの流れを潤滑にすることであった。並行して関所の撤廃および通行税の廃止を行った結果、袁術領ではかつてない規模で人々が移動し始めた。小沛の農民が建業の漁村に出稼ぎに行き、宛城の職人が汝南に移り住む。そこそこ大きい商会に努める商人ともなれば、州をまたぐ転勤など日常茶飯事であった。

 

 

 社会階級間の対立もまた、大きな問題だった。当時の袁術領における身分別割合は、特権階級(貴族・豪族・高級官吏など)1.5%、商人1.5%、町人(都市労働者、役人、小間使いなど)10%、職人3%、農民77%、奴隷7%である。

 しかし支配階級は裕福な人間に限られており、先に挙げた特権階級と一部の商人だけが特権的地位を有していた。これに以前から人民の間では不満が高まっていたものの、支配階級側は軍隊と秘密警察でこれを抑えつけていた。しかし華北の戦乱によって監視が弱まりつつあるこの時期、被支配階級は活発に動き出した。工業を握る職人組合の発言力が増し、都市の拡大によって商人と町人もまた発言力を増した。

 そこで支配階級側は、人口の10%を有する都市住民と友好を結ぶことで、現政権を維持しようと考えた。これなら特権的地位を手放すことなく、社会の劇的な変化も起こらないからだ。こうして大きな経済力を持つ都市を味方につけたとはいえ、それでも所詮は人口の15%程度が体制側に回っただけ。その後も階級闘争は鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。

 

 これに対して袁家は、自分でも処理しきれなくなるほど、大規模なパージを行う事を決意した。「非常事態」「特別措置」の名のもと、次から次へと国家機関や役人の権限が拡大されたのである。秘密警察は締め付けを強化し、わずかな抗議にさえ非常事態を宣言し、軍と武装警察隊を導入して徹底的に弾圧した。

 

 このような袁家の強権的手法に対して、人民の側でも過激な行動を行う者が増えてきた。彼らは対話では力の前に押しつぶされるだけだと考え、大部分が武力闘争へと傾いた。かつての一揆はせいぜい高利貸しの家を取り囲んで借金の証文を燃やす程度だったが、今やひとたび一揆が起こればその家族と屋敷の使用人まで惨殺されるのが当たり前になってきている。

 

「そう、対立の火種は昔からあった。内紛を誘発する下地も、とっくに出来上がっていた」

 

「だったら……」

 

 言いかけた言葉を、張纏は遮った。

 

「でも、なぜ今になって(・ ・ ・ ・ ・)?」

 

 なぜ、今なのか。どうして、このタイミングなのか。対立の火種が昔から燻っていたのなら、もっと早い時期に危機が起こってもおかしくないはずだ。

 

「そんなの分かり切った事でしょ。華北の戦乱、あれが原因よ」

 

 何を今更分かり切ったことを、とばかりに劉勲が鼻を鳴らす。

 

(そう、危機が本格化したのは大運河建設あたりだけど、戦争が始まった時から予兆はあった……)

 

 かつて江南の経済成長を支えたのは、主として自由競争と自由貿易であった。しかし自由競争は格差を増大させ、華北の戦乱は交易を断絶し、比較優位説に基づく地域分業を構築しつつあった、袁家の貿易モデルを根本から揺るがせた。

 

 にもかかわらず、袁家は思いきった経済改革の実施に踏み切れなかった。なぜなら袁家では自由競争と地方分権の名の元で、政治でも経済面でも極限まで分権化が進められていたからである。袁家は“市場の失敗”について何ら処方箋を投与することが出来ず、バラバラな対応をとる地方政府の足並みを揃えることが出来なかった。経済危機が進行するにつれて、階級間の利害が対立して、かつては一枚岩であった袁家が求心力をもち得なくなっていき、その支配の正統性が崩れていった。ここにおいて、袁家の経済的、社会的、政治的危機はますます深刻化していくことになる。

 

 さらに経済危機は、袁術領内の地域格差をも際立たせることになった。地域格差の背景には、沿岸部(特に長江デルタ周辺の都市)では経済発展が進む一方で、内陸部(特に農村地帯)は非常に貧しく、不況のあおりを受けた領主が農民への搾取を強めるなどの問題が発生している。

 こうした地域格差を危惧する声が無かったわけではない。しかし格差是正のために農村内陸部への補助金を与えれば、当然ながら都市沿岸部から不満が生じる。特に揚州沿岸部では「なぜ自分たちが必死に稼いだ金を、内陸部にタダ同然で分配してやらなけばならないのか」という声が根強く、分離独立の動きすら見られる事態となっていた。袁家による抑圧が加えられた結果ではなく、むしろ自己の利益を優先させる先進地帯ゆえの経済的な要因が大きく作用し、それが反政府活動へと結びついている点で特徴的である。

 

 同時に経済危機に伴う、袁家の求心力の低下も問題であった。俗に“袁術領”と呼ばれる地域は、正確には“勢力圏”ないし“影響下の地域”である。袁術の公式な役職は『南陽郡太守』でしかなく、彼女がトップダウン的に地方豪族たちを支配するというより、地方豪族たちがボトムアップ的に袁術を担ぎ上げていると考えた方が正しかった。袁術の本拠地・南陽郡はほぼ一州に匹敵する人口(240万)を抱えていたが、それでも全体の15%ほどに過ぎず、地方豪族同士が組んで反抗すれば抑えようがなかった。

 そこで、求心力維持のために採用されたのが「小さな政府」「地方分権」「資本主義」の三本の柱である。

 

 1点目の「小さな政府」というのは、文字通り政府・行政の規模・権限を可能な限り小さくしようという政策である。自由競争や市場経済との親和性が高いために、今日では経済政策とみなされがちである。しかし実際には既得権益の維持をもくろむ豪族や名士たちが、君主権力に制限を加えた結果でもあった。袁家の側も彼らと全面的に対立することより、譲歩によって協力を引き出す共存を選んだ。

 

 2点目の「地方分権」も本質的には同じことであるが、広大で多様な領地を中央政府が一元的に管理するより、ある程度の行政権限を地方の有力者に付与した方が、適切で柔軟な統治を行えるという一面もあった。

 

 3点目の「資本主義」は、「拝金主義」や「利益至上主義」とも言い換えられる。「汝の神は金貨なり」との言葉とおり、袁術領では利益の追求が社会のあらゆる原動力であった。その本拠地が商業の発達した南陽郡・宛城であったこと、劉勲ら家臣の大半が商人と強い繋がりをもっていたこと、等が袁家に拝金主義の風潮を生み出した。名門出身とはいえ、袁術の本質的な力の源泉は商業利益によって生み出される富であり、曹操のように精強な軍隊でもなければ劉備のような大衆の支持でもなく、劉表や劉焉のような名族の威光でもなかった。

 このような背景が「拝金主義」の空気を生み出した側面は否めないが、同時に雑多なグループの寄せ集めに過ぎない“袁術領”の統合を維持する機能を果たしてきたことも指摘されなければならない。富はそれ自体は公平かつ中立的であり、定量的で流動的な唯一の価値であった。そのため袁家は富という共通の価値を最大限に保護することで、多様な領内の統合を保とうとしたのである。

 

 こうした体制は時代の要求にもマッチしたものであり、袁術は列強の一角として揺るぎ無い地位を築き上げる事に成功する。しかし曹操の徐州出兵を期に、袁家は政治・社会的危機に直面することになった。

 まず、三本柱の一つである「資本主義」が、華北の戦乱による市場縮小の煽りを受けて崩壊していった。そして人民委員会の指導力に疑問が持たれるようになり、袁家は求心力を失ってゆく。しかもその対応として行われた様々な非常事態宣言や政府の介入は、「小さな政府」「地方分権」という残りの2本の柱を自らへし折るものであった。既得権益を脅かされると感じた豪族や地方政府はますます分離・反政府的傾向を強め、それが更なる危機を生み出し、それを収束させるために袁家はより一層強権的なアプローチに頼るようになる、といった悪循環が生み出されていったのである。ここにおいて、内戦勃発の下地はでき上がっていたのであった。

 

「確かに、劉勲ちゃんの言うとおりだよ。華北で戦争が始まってから、袁家は領内で立て続けに起こった内戦や独立運動、地域紛争と暴動に巻き込まれてる。それだけのことが半年も経たない内に起って、今や軍はてんてこまい」

 

 肩をすくめる張纏。

 

「でもね、これ見てよ」

 

 そう言って張纏がポケットから取り出したのは、クシャクシャに丸められた数枚の紙だった。劉勲はそれを広げ、中身に目を通す。そこに書かれていたのは、ここ最近の領内で起こった暴動の詳細データだった。どういった原因で人々が集結したのか、誰が中心人物だったのか、破壊行為に及んだきっかけは何だったのか、といった情報が詳細に詰み込まれている。

 しばらく目を通す内に、劉勲はある事に気付いた。きっかけとなる対立は様々だが、その後で暴動に至るまでのプロセスは驚くほど似通っているのだ。

 

「一部の暴徒による投石や放火、略奪をきっかけに全面衝突が発生……」

 

 しばしばデモやストライキが破壊行為を伴う暴動へと発展するのは、こうしたファースト・ペンギン(集団の中で最初に行動を起こす者)の存在如何にかかっているという。そもそも暴動は破壊行為が目的ではなく、何らかの要求を相手に認めさせるのが目的であり、破壊行為はあくまで付随行為に過ぎない。むしろ一たび群衆が暴徒化すればかえって収集がつかなくなるため、運動の指導者は自制を呼びかけるほどだ。参加者も興奮状態にあるとはいえ、実際には理性がブレーキをかけることで感情のままに動き出すことは稀である。

 

 しかし、今の袁術領は違う。ここ最近というもの、どうやら領民全員が戦闘民族と化したかのようだった。

 豫州で、揚州で、徐州で、領地のありとあらゆる場所で対立や抗議活動が立て続けに起こり、一たび衝突が起これば、その殆どが暴動を経て内戦へと突入する。対立から暴動、そして内戦へ……それはまるでデフォルト機能か何かのように、あまりに自然な流れで進んでいった。ブレーキの故障した電車がレール上を高速で突き進むがごとく、そのほとんどが破滅的な終末へと急速発進してゆく――。

 

 あっという間に江南全土が混沌へと突入していった。「万人の万人に対する闘争」と評するにふさわしい、無秩序な世界が誕生しつつある。そして町中には落ち葉のごとく、無数の人民の躯が転がっているのだ。

 

 

 何故だ、と劉勲は自問せずにはいられない。それは彼女に限らず、人民委員の全員が抱いている疑問でもあった。

 どうして誰も紛争の激化を止めようとしない。なぜ対話もせず、互いの敵対心と恐怖を煽るのだ。いかなる理由で人々の心から寛容の精神が失われ、破壊衝動が皆を突き動かすのか。袁家は対立より共存を選んでいたはず。それが何ゆえ、共生が不可能なほど憎悪が拡大してしまったのか。

 

 なぜだ。どうしてだ。誰か答えを出してくれ。分からない――。

 

 

 ………工作員。

 

 

 ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。謎が、今まさに明かされようとしている。劉勲は抱え続けていた疑問が、ほとんど氷解しかけているのを感じた。

 

「そうだよ。それしか考えられない」

 

 張纏のささやきが、鼓膜を刺激する。澄んだ緑色の瞳を切なげに揺らめかせ、劉勲は張纏を見つめた。

 

「劉勲ちゃんだって、本当は分かってるんでしょ?」

 

 頭の内側が熱かった。血圧と体温が上がり、たまらなく熱い。頬も次第に朱を帯びてくる。熱病にでも冒されたかのように、息づかいが少しづつ乱れてしまう。

 

「張纏、それはダメよ。どうかしてる――」

 

 劉勲は必死に首を振った。赤い唇から、否定の声が洩れる。しかしその声に断固とした強い意志はない。それは怯えであり、恐怖だった。それを認めてしまったら、今までとは確実に何かが変わってしまう。

 

「どうして? ここに実例があるのに」

 

 再び、張纏の声が耳元で囁かれる。それは些細な対立から始まり、経験則からは考えられないほど急速に激化して、暴動を経て内戦を誘発する。現状を見る限り、明らかに法則性を持っているものの、本来なら法則性を持ちえないはず。これは単に既存の常識で説明できないだけでなく、何かがおかしい。対立が即暴動に結びつくとは限らないし、暴動が即内戦に結びつくとも限らない。和解や自然解消といった道をたどっても良いはず。状況は社会学的な常識を逸脱していた。

 

「で、でも……」

 

 劉勲の声は弱々しい。

 

「ここで工作員という存在を仮定すると、この奇妙な謎の答えが求まる。状況と綺麗に整合するわけよ」

 

 劉勲は返答に窮し、切なげにうめく。張纏はその様子を見て微笑むと、声に力を込めた。

 

「今の袁術領内では、対立が起こったら不思議と殺し合いたくなるみたい。でも、それで得をするのは誰?」

 

 暴動、あるいは内戦で当初の目的を達成したとしよう。しかし非平和的な解決方法は社会に大きな傷跡を残す。若者の多くが殺され、田畑は荒れ、社会インフラは破壊される。そんな状態で独立だの権利だのを獲得したところで、果たしてコストに見合う成果といえるのか。なぜ暴動を起こす側の人間はそんな単純な事に気付かないのか。

 

(それとも、気付いた上で、敢えてやっている……?)

 

 まさか、と劉勲は戦慄した。対立の連鎖と暴動の蔓延。工作員とは異常事態の別名なのだ。社会不安の原因があるとすれば、どこかに全ての黒幕がいると今までは考えていた。しかし特定はできなかった。誰もが犯人でないのなら、それは誰もが犯人であることと同義であるという張繍の暴論は、ある意味では正しかったのかもしれない。

 

「工作員の存在を否定するのは常識的な判断だけど、非常識な現実が残る。劉勲ちゃんはどっちを選ぶの?」

 

 張纏は低く笑ってから、ふいに表情を引き締めた。劉勲が返すべき言葉を失っているのに構わず、彼女の耳元でささやく。

 

「もし今の一連の異常事態に原因があるとしたら、誰か別の人間が煽っているんだよ。要因は内部だけじゃなく、外部にもある」

 

 劉勲は返答できなかった。そんな仮説はありえない――言えて当然の言葉が、なぜか喉を通らないのだ。

 今や異常事態は領土全体に広がっている。たとえば孫家が全ての黒幕であったなどではなく、逆に「孫家ですら氷山の一角に過ぎない」と考えた方が自然なほどに。

 

「それは人知れず始まった。袁家に侵入したそれは、空気のように拡大して、息を吸うようにいつの間にか人々の中に浸透している。こうしている間にも被害は広がって、暴動を引き起こす。負の悪循環は意志を持って、社会全体を蝕んでゆく。そして紛争激化を煽った先に、外敵が最大の利益を得る――工作員だよ。他にどう考えればいいの?」

     




 どことは言いませんが、暴動とか独立運動とかって、いつの間にか広がってるんですよね。そして気づくと、当初の予想を上回るスピードで事態が進んで行くのです。


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83話:長い夜

             

 その年は、袁家にとって多くの悲劇が起こった年であった。この頃の袁家は、保安委員会の独壇場であったといえる。

 

 『 ――親愛なる同志諸君! 刻下、我々の生活、尊厳、そして生命そのものが、周到で狡猾な工作員によって脅威にさらされている。犠牲となったのは、ごく普通の生活を送っていた善良な市民たち……我々の同僚、友人、家族、そして隣人たちである。この邪悪で卑劣な行為のため、何千という罪のない命が絶たれたことか!

 しかし私は確信している! 我々は強く、そして揺るぎない団結力を有していると!

 

 既に、郷土愛に燃える戦士たちは動き出している。偉大なる社会と、祖先から受け継がれた大地を守るために。工作員の攻撃は、我々の建物を崩すことは出来ても、その土台まで破壊することは出来ない。我々は大地にしっかりと根を下ろした野草のように、何度でも何度でも立ち上がる。

 

 我々の政府もまた、断固とした対応をとることを決意している。地方政府は被害を受けた住民を助けるべく休みなく働き、軍は一秒でも早く治安を回復させようと昼夜問わず安全を守っている。

 我々が優先することは、負傷した人々を助け、貴賤を問わず領内に住む全ての同胞を更なる敵の攻撃から守るため、あらゆる用心をすることなのだ!

 

 我々は諸君に訴える! 敵は今や、とらえどころのない存在と化している。あらゆる所にいて、されどどこにもいない。それは職場や街中に現われ、書籍やすべての噂の中にもぐり込んでいるのだ!

 

 しかし一連の卑劣な行為の背後にいる、工作員の捜索は進んでいる。軍と警察は、これらの事件に責任のある者を見つけ出し、彼らに然るべき法の裁きを受けさせるため、あらゆる手を尽くしている。

 我々は、平和と安定を欲している。邪悪な意志がそれを阻もうとするならば、我々は強固な意志を持って戦うべく、最後の一人まで立ち上がるであろう!

 

 我々は宣言する! 袁家は不退転の決意で工作員、そして彼らが振りまく脅威に立ち向かう!

 例えどれだけ道が険しくとも、我々は決して諦めない! 皆が同じ目標に向かって団結し、戦い、そして勝利するのだ!! 』

                        ――人民委員会にて行われた、劉勲の演説

 

 

 いわゆる“工作員との戦い”演説である。この頃の袁家は未曽有の大混乱を迎えており、内戦の真っ最中にあるともいえた。特に張繍は「外務委員会に265人の工作員がいる!」と有名な言葉を吐いただけでなく、政府諸委員会内の対外穏健派を次々に槍玉にあげて大鉄槌を振るっていた。暴動や分離運動の関係者はもちろん、彼らと対話の姿勢を見せた者、他の諸侯との繋がりが深い人間や、対外政策で融和的な態度をとった政治家は全て「反乱分子」「工作員」のレッテルを張られ、魔女狩りのごとく逮捕、投獄、追放の憂き目にあったのである。そして秘密警察の執拗な取り調べの中で拷問を受けた容疑者は、枚挙にいとまがない有り様であった。

 

 これによって袁術領の全土で、蜂の巣をつついたようなヒステリー状態が発生した。袁家の良識社会は、文字通り戦々恐々のパニック状態に陥っていたのである。各地で工作員の炙りだしを目的として、いわゆる白色テロルが展開された。袁家は既に勢力圏の内、貧困地帯を中心とした3割の地域のコントロールを失っており、支配地でもテロと暴動、内戦が繰り返されていた。

 保安委員会議長の賈駆はやむを得ず「殲滅指令」を布告し、「全ての地域における破壊分子を殲滅するために、警官隊は重度に武装し、全ての必要な手段をとる」よう命じた。保安委員会の指揮下で武装警官隊は掃討作戦を実行、秘密警察を含めた騎馬警官と水上警察まで動員して暴徒や反政府勢力との戦闘を開始し、その過程で政府支配下にない地域を破壊し、住民に危害を加えた。

 

               ――『古代の歴史18章・三国志 江南内戦より』(20××年発行)より

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「そんなバカな……」

 

 人民委員会議場の扉の前に立ち、袁渙はは困惑した気分で床を見つめていた。

 

「……よりによって工作員だと?」

 

 そんなはずはない。そういった陰謀論は巷では流行るが、人民委員ともなれば、そんな馬鹿げた噂で動くような立場ではないはずなのに。

 あり得ない――そう断じつつも疑念は深まるばかり。そのぐらい死傷者が多く、尋常ならざる情勢だった。噂では黒幕は曹操とも、劉表とも、人によっては袁紹だという者もいた。しかし具体的な証拠は何一つなく、それらしい噂だけが蔓延している。

 

(いいや、そんなものがあるはずがない。そもそも、証拠はどこにもないのだ……)

 

 自分を納得させるようにそう断じて、袁渙は廊下へと踵を返す。長い廊下には誰もおらず、ポツポツと灯される蝋燭だけが、申し訳程度に彼の安全を保障していた。

 

(工作員などデタラメに違いあるまい。……とはいえ)

 

 ――早ければ今週中にでも、警備兵の数を倍に増やそう。単なる気休めかも知れないが、気休めには気休めなりの意味があるのだ。

 

 再び、袁渙は歩き出す。人民委員会議場の廊下は長く、周囲に薄闇をまとわりつかせていた。時折、風で庭の茂みが揺れる。まるで誰かがそこに潜んでいるかのように――。

 

 

 **

 

 

「――っ!?」

 

 とある暑い夜、楊弘は異様な物音を聞いて目を覚ました。飛び起きてみると、隣の家から煙が出ている。慌てて表に出てみると、既に多くの見物人が周囲を取り囲んでいた。3時間後には兵士が駆けつけ、何者かによる放火事件だということが判明した。幸いにも死傷者は出なかったものの、宛城の高級住宅街、それも政府要人が集中する区域で起こったという事で、この事件は世間の注目を浴びることになる。

 

 楊弘は呆然としながらも、心のどこかでひとつの言葉を反芻していた。張繍が言った工作員という言葉が忘れられない。

 何かがいて、彼らが自分たちの死を望んでいるのだ。それは日常の中に紛れ、ふとした拍子に害を与える物の怪のような何かだ、という気がしてならなかった。それは自分の派閥を食らいつくし、いよいよ自分の家にまで迫ってきた。これから敵は自分の周囲で猛威を振るい、キャリアとコネクションを根こそぎ破壊するだろう、という予感がした。

 

(そんなはずはない……)

 

 工作員だなんて、ふざけている。そんなものを信じるのは、張繍のような狂信者だけだ。そしてその糾弾がどんな茶番に終わったか、自分だって知っている。

 

 だが、楊弘は一時的に身を寄せる政府公舎に向かいながら、馬車の窓から見た街の光景に、どこか禍々しいものを感じないではいられなかった。袁家では焼き討ち事件も相次いでいる。被害者は自分で4人目だ。別に陰謀じみたことを信じている訳ではないが、なんとなく不安を掻き立てられる。

 死んでいく人々、街を出ていく人々。逆に続々とやってくる移民と難民。多くは揚州人のように得体が知れず、西涼人のように野蛮だ。いつの間にか増えているスラムの貧民、そこここに出来た空き家と、暗闇に潜む何かの気配。街の中に侵入し、あちこちに潜んでいる工作員――。

 

(内なる敵だなんて、あり得ない。保安委員会の阿呆どもが自分の無能を隠すために作り出した、適当な言い訳に違いないはず)

 

 楊弘は自分にそう言い聞かせる。絶対にそれだけは無いと断言できる。けれども――。

 

 

 **

 

 

「顧奉が潁川太守を辞職した?」

 

 劉勲は閻象からの報告に、思わず声を上げた。

 

「それで、後任は?」

 

 まだ決まってませんよ、と閻象が返す。内心の疑念が感じ取れる表情だった。

 

「まったく、今の袁家では退職が流行っているんでしょうかねぇ」

 

 閻象の声は自嘲を含んでいる。

 

「誰か適当な人物をすぐ着任させられるよう、人事局に候補者の一覧表を作らせるわ」

 

「それだけで大丈夫でしょうか? 本件と直接の関わりはないのですが、その一族も揃って行方をくらましたそうです。突然に」

 

 劉勲はどきりとした。そういえば消えた顧奉は行方不明になる数日前から、保安委員会から接触を受けて領内にいる工作員狩りを準備していた。

 顧奉は辞任したのではなく、させられたのだ。そして消された。袁家を狙う敵、それが誰かは分からないが、彼らにとって邪魔になったから始末されたのだ――。

 

「どうしましたか?」

 

 閻象が首をかしげている。劉勲は背筋が凍るのを堪えて、首を振った。

 

「何でも無いわ。少し考えすぎたみたい……色々と」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 その日の午後、久々の休暇をとった劉備と諸葛亮は宛城の街を散策していた。しかし休日にもかかわらず、街は閑散として人気が無い。ここ暫くの滞在で知ったことだが、夜に人の姿が見えないのはもちろん、日暮が近づくと明らかに人通りが減る。昼はまだ減った感じはしないものの、活気が失われつつあるのが感じ取れる。みんな用がなければ外にでたくないのだろう。

 散々な、とでも形容できそうな有様である。かつて眩いばかりの栄華を誇った袁家は、ここまで食い荒らされてしまったのだ。             

 

 どうしてこんなことになったのだろうか、と劉備は改めて思った。袁家と運河建設の取決めを交わしたとき、こんな事態は想像もしていなかった。徐州は袁家の庇護下に置かれながらもその財力の一部を得て復興へと進むものだと思っていたし、袁家も乗り気であるように思えた。自明だと思われた未来は、今や何一つ分からない。

 あまりにも異常な様相。政府への不満だけだろうか、本当に。何かそういう、目に見える異常とは別の以上が進行しているように思えてならなかった。

 

「あの……朱里ちゃんは前に袁家で何が起こっているか、分かるかもって手紙に書いてたよね? 一体何が……」

 

 隣を歩く諸葛亮を、劉備はまじまじと見る。

 

「やっぱり一刀さんの報告通り、孫家絡みのことかな?」

 

「……孫家だけ、じゃないと思います」

 

 諸葛亮は一瞬だけ劉備を見ると、すぐに目を伏せる。

 

「この前から、ずっと工作員の脅威を宣伝している人の事を覚えてますか? 保安委員会の」

 

「張繍さんの事?」

 

「はい。あの人の話ですが……間違ってはいないと思います」

 

 劉備は動きを止め、目を見開いて諸葛亮を注視する。「そんな」と思う。しかし同時に「やはり」という思いもあった。

 

 

「どういう訳か孫家の陰謀論みたいにされて、大半の人々は孫家が全ての黒幕だと考えてるみたいですけど、そう簡単な話じゃないと思います。襲撃に一貫性がないのが証拠です。原因はひとつじゃないんです」

 

 原因が沢山あって、それが複雑に連鎖して袁家に害をもたらしている――諸葛亮は弱く微笑んだ。

 

「こんな意見が何の解決にもならない、ということは分かってます。でも、たぶん“敵”は何処かにいるんですよ。もし本当に袁家の敵が存在しないとしたら、袁家が傷つくはずがないでしょう?」

 

「そう……かもね」

 

 見えない敵だなんて馬鹿げている。だが被害が出ている以上、それが本当であっても不思議はない。劉備は俯きながら、自分に言い聞かせた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「おい、聞いたか? 張繍の話」

 

 一人の人民委員が口を開いた。

 

「工作員の事でしょう。そりゃ当然、知ってますよ。自分もあの演説の場に居合わせたので」

 

「保安委員会も本格的におかしくなってきたよな。もともと危ない組織だと思ってたけど」

 

「本当にそうだな」

 

 人民委員の一人が頷く。

 

「よりによって内通者に工作員、ですからな。そんなもの疑い出したらキリがないというのに」

 

 華雄は続く忍び笑いを、眉をひそめて聞いていた。

 

 疑い出したらキリがない? とんでもない――袁家に変事が起こっている。最近の事件は異常だ。偶然の要素も確かにあるかもしれないが、明らかに度を過ぎている。そんなことは彼らたちだって百も承知のはず。

 

(これは……まずいかもしれない)

 

 華雄は内心で独白した。この間までは誰もが不安を抱き、事態をいぶかしんでいたのに、「工作員」という解を出された途端に及び腰になっている。

 たぶん、怖いのだ。普段なにげなく過ごしている日常の中に敵が潜んでいる、などという仮定は想像すらしたくないのだろう。それを認めてしまえば、今までの日常が崩壊する。当たり前の日々が当たり前でなくなり、辛うじて保たれている平穏な生活も戻らなくなる。だから異常事態に直面し、それに非常識な答えを突き付けられ、それを否定するために異常だという現状すら否定しているようにすら見えた。

 

 だが、この現状は絶対に異常だ。何かが狂っている。工作員であろうとなかろうと、それだけは間違いない。それなのに。

 

(救いがたいな、これは……)

 

 華雄は小さくため息をつく。積極的に危害を加える者だけが敵ではない。敵の存在を知りながら、動こうとしない消極的な者もまた、広義の敵ではないのか。そう思えてならなかった。

  

 

 **

 

 

「――なんだか元気ないわね、大丈夫?」

 

 賈駆がそう言うと、袁術は「うむ」とだけ答えた。廊下を歩いていたら、たまたま鉢合わせた2人だったが、袁術の方は口が重く、ひどく億劫そうだった。それから二、三ほど会話を交わしたが、どうもおかしい。元気のない袁術の様子に、賈駆は驚愕を禁じ得なかった。いつもなら袁術の方から威勢よくまとわりついて、自分たちを辟易させるのに。

 

 いつもは元気な童女が塞ぎ込んでいる姿を見るのは、あまり楽しいものではない。そう考えたところで、賈駆はそのような考えに至った自分を不思議に思った。感情に動かされない合理的で冷徹な軍師――賈駆は日頃からそうあろうと振る舞っていたし、そのような人間でありたいと思っていた。袁術についても、お飾りの愚鈍な主君として、利用すべき対象だと見なしていたはず。

 だが、現実の自分はどうだろうか。目の前にいる幼女が落ち込んでいるのを見て、僅かに狼狽えている。さっさと去ればいいのに、言うべき言葉を見つからないまま立ち尽くしているのだ。

 

「袁家が好きか、賈駆」

 

 唐突に、思いもかけぬ問いを投げられた。

 

「さぁ、そんなの考えたこともなかったけど……」

 

 賈駆はとっさに言葉を濁す。そうした類の質問を張勲や劉勲からされた事はあるし、その時はあらかじめ用意したあった百点満点の解答で答えた。にもかかわらず、袁術の問いに賈駆はなんと答えるべきか決めかねている。

 

「アンタはどうなの? 袁術」

 

 自分でも卑怯な返しだと思う。しかし袁術は僅かの間を置かず、即答した。

 

「好かぬ」

 

「え……?」

 

「じゃが、嫌いではないぞ。つまり、その、ええと……」

 

 少しばかり袁術が考える。

 

「今の袁家より、昔の方が好きじゃった」

 

 絞り出されるような言葉に、賈駆はハッとした。袁術も子供ながらに、情勢が悪化していることを敏感に感じ取っていたのだろう。逆にいえば子供にすらそう思われているという事は、成人の目には袁術領全体が重苦しい空気に包まれていることを証明するものであった。

 

「変な話じゃが、妙に寂しくての。皆も暗い顔をしておるし、口数も少ない。七乃も、昔ほど妾に構ってくれぬ」

 

 賈駆は不意に、ぞわりと悪寒を感じた。

   

「妾は怖い。今の袁家は、まるで知らない国のようじゃ……」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 劉備と別れた後、諸葛亮は一人、街角の食堂で遅めの夕食をとっていた。このところ、街からは活気が失われているように見える。実際問題として、そこら中で毎日のように暴動とテロ事件が起こり、運河建設は遅々として進まず、豫州の反乱軍は依然として行方が知れない。外出を楽しむどころではないのだろう。

 

(大丈夫でしょうか……)

 

 とろみのついた溶き卵の汁物を口に入れながら、諸葛亮はふと思う。彼女が南陽に来た直後は、徐州とのつながりを強化したり貿易商人や、親戚の土地を相続しようという魂胆が丸見えな名士が何人もゴマを擦りに来たものだ。それが最近では日に1人か2人、3人いれば多い方だった。

 街の様子を見た限り、生活に支障は出ているほどでは無いようである。食糧は十分に供給されているし、袁家の財務状況が実は破綻寸前にある、といった噂も聞いたことがない。にもかかわらず、人々の顔は不安げで、日が沈むと逃げるようにそそくさと家に帰る。諸葛亮自身、今の宛城で夜の一人歩きはしたくないと思っている。

 

 食事が済むと、彼女もまた何かに急かされるように徐州領事館の執務室へと戻った。ここなら100人以上の警備兵がいるし、建物の周りも高い塀で囲まれている。

 物質的な安心感と共に諸葛亮が部屋に戻ると、机の上にぽつんと手紙が置かれていた。封筒に押された判子を見ると、徐州からの公文書だった。

 

(何の手紙でしょうか……?)

 

 業務の煩雑化を防ぐため、基本的に書類や手紙は早朝にまとめて提出されるのが慣例だ。よほど緊急の用件を除けば、昼過ぎに手紙や報告書が出されることは無い。何か嫌な予感を感じつつも、諸葛亮は封を開けた。

 

 『 北郷一刀を含む揚州派遣団、現地で行方不明。揚州政府は反政府武装勢力の犯行と断定―― 』

 

(っ………!)

 

 諸葛亮は息を飲み、しばらく手紙を凝視していた。

 

 ここ最近、袁家では何かが進行していた。明らかに異常な何かが。それが袁術領全体を蝕んでいる。それは段々と、領外にも広がっていくようであった。まるで疫病か何かのように。

 

 とうとう来たか――と諸葛亮は思った。それはついに徐州をも捉えたのだ。

 

 むしろ、今まで捕えられずに済んでいたことの方が幸運だったのだ。こんな悲劇は、ここ数か月の間にいくらでもあったことだ。特に最近では、毎日どこかであったようにすら思える。自分だけに降りかかってきた不幸ではない。

 けれども、涙が止まらなかった。なぜ、どうして、なんで、何が原因で――こんなことに。

    




 工作員が跋扈するから国が衰退するのか、国が衰退してるから工作員が跋扈するのか……難しい問題です。


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84話:出会いと再会

      

 一刀は目覚めた。しばらくの間は記憶が混沌としていて、闇を見つめているしかなかったが、次の瞬間にはハッとして飛び起きた。どうやら自分は道端の木陰で眠っていたらしい。隣では、糜竺が死んだように眠りこけている。あたりを見回し、まだ覚めきらない頭で状況を整理しようとする

 

(そうか、自分は揚州から逃げてきて……)

 

 騒乱の中、弩から放たれた矢を何本か体に受けている。重傷を負いながらも何とかで近くにあった小屋に逃げ込んで、留めてあった馬を盗み、死に物狂いで北まで駆けてきた。糜竺以外の使節団のメンバーとははぐれてしまった。

 

(早く、宛城にいる朱里に伝えないと……)

 

 一刻も早く諸葛亮に伝えなければならない。気持ちばかりがつのるものの、一刀の体力は限界だった。それでも一刀はふらつく足で立ち上がり、奇跡的にまだ逃げないでいた馬に近づく。倒れそうになるのを必死でこらえ、目を無理やり開けて意識を保つ。

 

(俺は今、どこにいるのだろう……?)

 

 付近を見渡すと、老朽化した家々が遠くにちらほらと見える。どれも徐州で見る建物より大きく、石造りで頑丈な作りだ。昔はさぞかし立派な建物だったのだろうが、今では所々が崩れかけて穴だらけになっており、少しでも使えそうな建材は悉く盗まれている。昔は広間だったらしい空間では、子連れのヤギが草を食んでいる。

 

 恐らく、数年前まではどこかの貴族が大農場でも経営していたのだろうが、戦争による不景気で没落して放棄されたのだろう。雑草が生え放題になっている荒れ地も、かつては多くの奴隷がせっせと商品作物を作っていた大農園だったのかもしれない。眼下に広がる廃墟の姿は、夕闇の中でいっそう荒涼とし、不気味にさえ思えるほどだった。

 

(たぶん、袁術領のどこかなんだろう)

 

 なんとなく周囲を見渡して、一刀はそう判断した。朽ちた建物が点在する荒野の中に、真っ直ぐな砂利道が見えたからだ。袁家の行ったあらゆる利己的な施策の中で、一刀が評価できる数少ない分野が交通網の整備であった。商業に聡い袁家は物流ネットワークを非常に重視しており、道路の整備に努めた。特に袁家のそれは馬車の走行を想定して、真っ直ぐで幅の広い道路である点が特徴だ。この点は軍事目的優先で道路を敷いた曹操、資金不足によって貧弱な道路しか作れなかった徐州と大きく違う。

 

 とにかく、宛城に行こう。夜道は危ない。一刀は眠っていた糜竺を起こし、出立の準備をする。

 開発の進んだ袁術領で野犬や熊などに襲われることは稀だが、とにかく夜は恐ろしいものだという感覚が一刀を怯えさせていた。闇に覆われた夜は、死の領分。人がどれほど自然を征服しようと、それだけは変わっていない。

 

「行くぞ糜竺、いつまでも寝てるわけには行かない」

 

 一刀はそう言って、馬に跨ろうとする。それを止めたのは、眠りから覚めた糜竺だった。

 

「……糜竺?」

 

「いやぁ、ここから先に移動するのは無理みたいですね。なんせ敵に囲まれてるもんで」

 

「――え」

 

 一刀は耳を疑う暇すら与えられず、続いて左肩に大きな衝撃を受けた。肉が避け、骨が砕かれる音。

 

「――ッッ!!?」

 

 声にならない悲鳴を上げながらも、一刀はなんとか馬から倒れずにへばりつく。左肩を見ると、一本の太矢が刺さっていた。反射的に隣の糜竺に目を移すと、こちらは寸でのところで茂みに隠れることに成功したようだった。懐から吹き矢を抜き、反撃に移る。

 

「ぐぁ……っ!」

 

 どさっ、と倒れる躯を、一刀は信じられない思いで凝視した。襲撃そのものに対してではない。倒れた襲撃者に対してであった。山賊や夜盗の類ではない。金のかかる弩を装備して鎧まで着込んだ襲撃者は、正規兵のそれ。

 あるいは――()正規軍兵士というべきか。その躯には、所属を表す目印となるものが無かったからだ(袁術にしろ曹操にしろ、大部分の諸侯は敵と味方を判別するために、何らかの目印をつけさせている)。

 

「脱走兵の一団か? いや、待てよ……」

 

 豫州、脱走兵……そこで一刀はある可能性に辿り着く。それを口に出そうとした時、暗がりの中から若い男の声が聞こえた。

 

「――ほう、気付いたみたいだな。察しがいい」

 

 目を向けると、十数人ほどの武装した集団が見える。彼らがどうやって自分たちを見つけたのかは分からない。それほど人数は多くないが、元正規軍兵士の一団ともなれば油断は禁物だ。

 

「……豫州反乱軍」

 

「勝てば解放軍だったんだけどな」

 

 端正な顔を皮肉っぽく歪ませ、リーダー格の男が笑う。

 

「やっと見つけた。いやぁ、なかなか骨が折れたよ。お前たちを探すのは」

 

「探していた……?」

 

「ああ、探したさ。揚州のアホ共がお前らを逃がした、って連絡があってからずっとな。曲阿の広場からまんまと逃げおおせる能力はあるくせに、そっから先はあっちこっちにフラフラと彷徨いやがって」

 

 一刀の背筋を、悪寒が走った。

 

「まったく、これだから中途半端に頭の回るクソガキは嫌いなんだ。これなら揚州のアホ共にやらせないで、俺が直接やればよかった」

 

「お前なのか……? 俺たちが“袁家の工作員”だと揚州兵たちに吹き込んだのは!」

 

 男は肩をすくめ、「まぁ、一応な」と軽く答えた。

 

「言っておくが、考えたのは別の奴だ。俺は言われたことをやっただけさ」

 

 そう言った男はどこか投げやりな態度だったが、もしその言葉が真実ならば聞き捨てならない。彼を操っている黒幕は、豫州反乱軍の残党と揚州の独立派の2つを操っているということになる。それが意味するところを考えて、一刀は生唾を飲み込んだ。

 

「誰だ、お前は?」

 

「おや、まだ気づかないのか? 俺はこれでも、この辺じゃちょっとした有名人だぜ?」

 

 せせ笑う男。一刀は改めてその姿を眺める。長身で、色黒の肌。目は青く、髪の色素はかなり薄い。元は良家の出だったのか、動作にはどこか気品がある……そこまで見て、ようやく一刀はある男に辿り着いた。

 

「そうだ……手配書で見たことがある。たしか――」

 

「危ない!」

 

 次の瞬間、男の仲間たちから一斉に太矢が放たれた。隣にいた糜竺が咄嗟に体当たりしてくれたおかげで、一刀はなんとか鼻の骨を折るだけで済んだ。

 

「北郷さま、ここは私が食い止めます。早く逃げてください!」

 

 吹き矢で敵をけん制しながら、糜竺が肩越しに叫んだ。

 

「でも……」

 

「早く!!」

 

 糜竺に押し切られる形で、一刀は再び馬に跨った。後ろ髪を引かれる思いで一度だけ後ろを振り返り、敵と交戦する糜竺を見やる。ケガと疲労で頭が痛むが、それ以上に胸の痛みの方が優っていた。どんな運命が糜竺を待ち受けているか、十分すぎるほど分かるからだ。

 すまない――馬の腹を蹴る足に力をこめながら、一刀は走る速度を上げた。 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 ――徐州

 

 

 張飛は報告書をもって兵舎を出た。年端もゆかぬ少女とはいえ、彼女も一応は将軍なので時折こうした書類を役所に届ける必要がある。この日は袁家の出先機関に、徐州の治安状況を説明した文章を届ける約束となっていた。

 

(変な感じなのだ……)

 

 そう思いながら、呼び鈴を押す。ほんの少し前なら、そんなことなどせずとも、門を開けてから声をかければよかった。しかし最近では昼間でも門は閉じられ、物々しい雰囲気が街を覆っている。

 すぐに門が開く音がして、袁家の役人が顔を出した。彼女は張飛を見るなり、一瞬の間をおいて、わざとらしい笑顔を浮かべた。取り繕ったような、内心を誤魔化す為に装った営業用の笑顔。

 

(何なのだ、いったい……!)

 

 自分は歓迎されていないのだろう。それは最初、気のせいだと思っていたが、今や確信となっていた。泣きたい気持ちを抑え、心の中で袁家を罵る。

 

「張飛様、ですね? 連絡を承っております。まもなく係の者が参りますので、しばらくお待ちください」

 

 袁家の役人は形式ばった応対を終えると、そそくさと門を閉じて事務所の中へと引きこもる。張飛はうんざりしながら頭を上げ、改めて門を一瞥する。櫓からは弩を構えた兵士が数人、外をにらむようにして警戒している。袁家の事務所ばかりではない。よく見ればどの屋敷も同じように、びっしりと兵士と篝火が屋敷と外界を遮断するようにしている。故郷の村では一度だって、あんなものを見たことはないのに。

 

 張飛は担当者の到着を待ちながら、ここ最近のことを考えていた。夜に出歩く人が減り、ずいぶんと寂しくなった。

 

(何か、とても怖いことが起こってる……)

 

 張飛にはそう思えてならなかった。いつも不安な気分で仕事を終え、家に帰ってもやはり落ち着かない。目に見えないところで何か恐ろしいことが起こっている。そして目に見えないのが一層不安だった。

   

 

 **

 

 

「あの……このところ奇妙な噂があるの知っていますか?」

 

 何の話だ、と返した関羽に、龐統は真剣な顔で声を低めた。

 

「工作員」

 

「ああ、それか。そうだな、そんな事を声高に叫ぶ奴もいるな」

 

「でも、袁家で変な事が続くのって、最近ですよね? 戦争が始まってからか、あるいは大運河を作り始めてからか――「落ち着け雛里、大丈夫だ」」

 

 関羽は龐統の手を握った。安心させるように、強く力をこめる。

 

「ご主人様なら、大丈夫だ。きっと生きている」

 

「っ……!」

 

「今は色々な噂が飛び交ってるが、所詮は単なる噂に過ぎん。たしかに普通じゃないぐらい人が死んでるが、工作員なら気を付けていればなんとかなる。だから、大丈夫だと信じろ」

 

「でも、そんな……」

 

「行方不明になったご主人様を案じているのは、みんな同じだ。でも、他に方法は無いだろう? 心配なのはよく分かるが、雛里が不安になって取り乱したら、部下にまで伝播する。だから問題ないと信じて、敢えていつも通りの行動をとるんだ。大丈夫だと部下に身をもって示す、ご主人様だってきっとそう望んでいる」

 

 そうですね、と龐統は目を伏せた。ようやく、心の中でざわめいていたものが落ち着いてきたのを感じた。感謝を込め、関羽の手を握り返す。関羽は微笑んで龐統の手を叩いて立ち上げり、階段を下りて行った。

 

 龐統はそれを見送ってから、椅子に腰かける。安心したのもつかの間、関羽が去ると、一刀が行方不明になったという事実が、揺るぎない現実として湧き上がってくる。自分は取り残されてしまった。だから、あれほど警戒してと頼んだのに。

 

(……工作員か)

 

 朱里に会えなくなって、一刀がいなくなって、桃香も遠くに行ってしまって。袁家から伝播する死の連鎖。伝染病のように、死を広げていく何か。

 

 龐統はふと宙を見据えた。里山で、民家で、街角で。袁家では何かが暗躍している。それは平穏な生活を容赦なく奪っていくものだ。外からか、内からかは分からない。だが袁家に侵入したそれは、いつしか全てを奪っていくのかもしれない。

   

           

 

 ◇◆◇

 

 

 

 一刀が行方不明になってから6日後の夜、諸葛亮は人の騒ぎ声で目を覚ました。身を起こし、窓を開けると冷気が流れ込む。外はまだ真っ暗だった。耳を澄ますと、領事館の入口から大声が聞こえてくる。

 

(こんな時間に何が……?)

 

 急いで外套を羽織り、窓から身を乗り出す。正門の前では兵士たちが集まって、何やら口々に話しているようだった。黒や灰色の制服を着た、袁術軍兵士や秘密警察も一緒にいる。そこに薄明るい茶髪の人影がチラッと見え、命令形の高い声が聞こえた。

 何があったのだろう、と思いながら諸葛亮は小走りで正門へと向かう。領事館の扉を開けて外へ出ると、多くの護衛に囲まれた劉勲の姿が目に入った。柔らかそうな上質のマフラーを首に巻き、厚手の綿生地で作られた白のコートにくるまっている。

 

「劉勲さん! 今夜はどういった要件で……」

 

 劉勲は一瞬だけ愛想の良い笑顔を浮かべると、そのまま無言で視線を地面に落とした。諸葛亮もつられて地面を見る。

 

 ぼろぼろになった男性が、うつ伏せで倒れている。服はあちこちが破けており、体の至る所に傷がある。かなりの重傷だ。しかし、諸葛亮はその人物に見覚えがあった。鼓動が速まるのを感じながら、諸葛亮は地面にしゃがみ込んだ。

 

「ご主人様?」

 

 諸葛亮は倒れている男に近寄り、その顔に張り付いた泥を払う。

 

「ひょっとして、コレって……」

 

 劉勲の眉間に皺が寄る。彼女は大勢の護衛に囲まれながら、汚らわしいと言わんばかりに少し離れた場所に立っていた。ときおり野次馬が覗き込もうとすると、素早く秘密警察が立ち塞がって追い払う。

 

「一刀クン? 揚州で行方不明になってた?」

 

「……はい」

 

 諸葛亮は恐る恐る手を伸ばし、顔を確認する。やはり、一刀だった。良く知ったその顔は、見間違えようもない。だが同時に、夢かもしれない、という恐怖に似た感情も湧き起こる。目を瞑った瞬間、消えてしまうのではないだろうか。祈るような気持ちで、もう一度よく確認する。

 

「間違いありません……揚州に派遣されていた、北郷一刀さんです」

 

 やや硬質の黒髪、細身だが鍛えられた筋肉も、しっかりと手ごたえがある。夢ではない。本当に一刀は自分の元へ帰ってきたのだ。喜ぶと同時に、二度と失うまいと強く思った。

 

「本当に? なら来た甲斐があったわ、諸葛亮ちゃん!」

 

 急に劉勲の表情が明るくなる。倒れている一刀に近づくと、目を素早く走らせながら全身を観察し始めた(ただし、相変わらず触れようとはしなかった)。

 

「どこをどう見ても、何かがあったとしか思えない状態ね。 だいぶ命に別状ありそうだし、これなら気になる話が聞けそう」

 

 劉勲の声は好奇心に満ちていた。

 

「ホントは盛大なお迎え会でも開きたいとこだけど、残念ながらあまり余裕は無いみたいね。たしか、近くに薬屋があったはず。急いで蘇生させれば、まだ間に合うわ」

 

 劉勲は一刀に近寄り、起毛ブーツの先でその脇腹をつついた。

 

「ほら、いつまで寝てるの? 早く揚州で何があったか、皆に教えて!」

 

 しかし一刀は完全に意識を失っているのか、劉勲がどれだけ命令しても、諸葛亮がいくら呼びかけても、まるで反応がない。周囲の兵士たちもどうしていいか分からず、遠巻きに見つめるばかりだ。

 

「どうしましょう、このままじゃ一刀さんが……!」

 

「諸葛亮ちゃん、落ち着いて。まだ脈はあるわ。死んでないなら、なんとかなるわよ」

 

 諸葛亮は立ち上がり、訝しげな目で劉勲を見つめた。

 

「何をするつもりですか?」

 

「今の彼は疲労と痛みで思考が麻痺してるから、それを和らげた後に刺激を与えてあげれば起きるハズ。そうね、濃縮したアヘンか大麻で痛みを緩和して……」

 

「そんなことをしたら、死んでしまいます!」

 

「かもしれないわね。でも、情報は手に入る」

 

 劉勲は右往左往していた部下の一人を捕まえ、矢継ぎ早に指示を出した。

 

「こっちよ! 急いで医者と、できるだけ強い麻薬を持ってきて。それから、記録をとる事務の人間もお願い。 早く! 出血も酷いし、すぐに処置をしないと情報を手に入れ損ねちゃう!」

  

 劉勲の目はぎらついており、声も心なしか興奮で上擦っている。とっさに一刀を渡してはならない、と諸葛亮は感じた。劉勲の手に一刀を委ねたが最後、もう二度と戻ってこないような気がした。それだけは耐えられない。

 諸葛亮は無意識のうちに、一刀を庇うように両手を広げて袁術兵たちの前に立ちはだかっていた。とまどうような表情になる劉勲。

 

「何のつもり?」

 

「一刀さんはこちらで保護します。報告は、一刀さんが回復してから……」

 

「回復してから、ですって!?」

 

 きしんだ声をあげる劉勲。

 

「それじゃ手遅れになるじゃない! 大体、回復する保証がドコにあるわけ?」

 

「今の彼に必要なものは、十分な治療と休息です。薬物を投与すれば目は覚めるかもしれませんが、そんな状態で質問してもまとな受け答えはできません!」

 

「っ……警備兵!」

 

 劉勲は一瞬ぎらりと目を光らせ、左右を見て叫んだ。

 

「諸葛亮ちゃんを別室へ連れていきなさい。可哀そうに……愛しのカレが傷ついて、取り乱してるのね」

 

「そんな事……っ!」

 

「でも大丈夫よ、諸葛亮ちゃん。この手の尋問は慣れてるから。後の事はアタシに任せて、今日はゆっくり休んで」

 

 諸葛亮が抗議するより早く、劉勲は指をパチンを鳴らした。背後から屈強な兵士が5人歩み出て、諸葛亮を取り囲む。そのまま諸葛亮を屋敷へと連れ戻そうとした時、わずかに呻く声が聞こえた。

 

「待ってください! 今、動きが……!」

 

「今の声……朱里なの……か?」

 

「ご主人様!」

 

 諸葛亮は兵士たちの間から飛び出し、一刀に駆け寄る。何度も呼びかけると、一刀の体がぴくりと動き、うっすらと目が開いた。

 

「一刀さん! 気づいたんですね! 私です!」

 

「やっぱり朱里か……そうか、宛城に着いたのか」

 

 絞り出すような声が一刀の口から漏れる。しかしまだ意識がもうろうとしているのか、目の焦点は定まっていない。

 

「生きてるなら報告しなさい! 揚州で何があったの? アナタをこんな目に遭わせたのは誰?」

 

 一刀は辛そうに目を開くと、劉勲の姿を認めたようだった。すぐに苦痛に満ちた表情(嫌そうな顔とも言う)になり、数秒の間を置いてから、諦めたように唇を動かした。

 

「笮融だ。揚州の連中とつるんでいるのを見た……」

 

 それだけ言うと、一刀は再び目を閉じてしまった。諸葛亮が一刀の耳元で呼びかけるも、呻くような声が漏れるだけで、やがて一刀は呻き声すらも発さなくなった。今度こそ、本当に意識を失ったようだ。

 再び場を沈黙が覆い、全員が無言で立ち尽くす。劉勲も立ったまま動かない。松明に照らされた顔は、普段より一掃蒼ざめていた。

 

「もし今の話が本当なら、可及的速やかに対策を練る必要があるわね」

 

 劉勲は諸葛亮たちへの興味を失ったように背を向け、部下を引き連れて歩き出す。

 

「まずは揚州の出先に事の真偽を確認するよう、早馬を飛ばしてちょうだい。それから引続き、各方面と対応を調整、情報を共有しながら、問題解決に向けて連携を図りつつ……」

 

 諸葛亮はほっとしたような、釈然としないような気分のまま、劉勲の後ろ姿を見つめていた。それから領事館にいた人間に命じて、一刀を担架で運ばせる。劉勲らが立ち去り、一刀が無事に収容されたのを確認すると、諸葛亮は深く息を吸った。

 

 劉勲たちは、大事な話を聞き漏らしていた。一刀は意識を失う寸前、すぐ近くにいた諸葛亮にだけ聞こえるよう、もう一つの情報を告げていたのだ。

 この事件の裏には、かつての豫州牧・孫賁らの一派が関わっているという、重大な情報を。

    




 劉勲「可哀そうに、愛しのカレが傷ついて取り乱してるのね(すっとぼけ)」

 心神耗弱は基本。


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85話:揚州動乱

                 

 むせる返るほどの異臭。もし風が吹こうものならば、耐えがたいほど濃厚な臓物と血の臭いを吸い込むことになるだろう。

 土砂降りの後の地面のように、その場所は大量の水分を吸収していた。もちろん雲から降り注いだ雨水ではなく、人体から流れ落ちた鮮血である。深紅の血液を吸い込んだ土は泥濘となり、その地をひとり歩いていた男の足を止めた。

 

「終わりか……つまらねぇな」

 

 地面に散らばる死屍累々を無造作に踏みつけ、紀霊は後処理を部下に命じる。

 今回もまた退屈な任務だった。領主が課した重い賦役に耐えかね、農奴が反乱を起こし、それを軍が鎮圧したというだけのこと。どうにも華北の戦乱によって景気が悪化しているらしく、今年はそういった類の仕事が多い。今しがた紀霊が軍を率いて全滅させた農村も、そんな場所のひとつだ。

 

「……チッ」

 

 苛立ちも度を越せば可笑しく思えてくると言うが、今の紀霊はまさにそんな表情をしていた。

 かれこれ数年間、まともな戦いをした記憶が無い。農民反乱や工作員狩りには事欠かないが、そんなものは戦の内に入らなかった。相手は満足な武器もなければ戦闘技術も身に着けておらず、家畜を屠殺するように死体へと加工すれば仕事は終わる。生来の残忍さから弱者をいたぶる趣味が無いわけではないが、そればっかりではどうしても飽きるのだ。

 

「久々にやりあえると聞いて、飛んできたらこのザマかよ。……笑えねぇ」

 

 徐州戦役も完全に肩透かしだった。ギリギリまでじらされた揚句、やっと戦いが始まったかと思いきや南陽から停戦命令が飛んできた。彼我の戦力差だか損得分岐だかが原因らしいが、そんなものは自分の知ったことではない。それから後は、ひたすら暴動と反乱を潰す日々。華北では袁紹と公孫賛がハデに争っているという情報が流れてくるだけに、なおさら今の境遇が不満だった。

 

「いつからだったか? こんなフ抜けた小競り合いしか起こらなくなったのは」

 

 懐古趣味など持ち合わせてはいなかったが、昔はもっといい世の中だった。競い争い、生と死の境界線はもっと曖昧で、その日その瞬間を生きていたはず。

 

「将軍、人民委員会から召喚状が来ております」

 

「そうかよ」

 

 苛立ちを隠そうともしない事で、紀霊は召喚状をひったくる。

 

「……………読め」

 

 紀霊は字が読めない。文盲である。現場からの叩き上げといえば聞こえは良いが、要するに真っ当な教育を受けていないという事である。

 なにせ当時の識字率は悲惨なほど低く、読み書きのできる者は支配者階級か商人ぐらいのもの。ゆえに平時に限れば、名家の出というだけで士官に抜擢され、更に金を積めば将校になれる袁術軍の人事制度は至極合理的なものであった(皮肉な事に、最も識字率の低い軍隊は実力主義の徹底された曹操軍であった)。

 ちなみに今日では何かと評判の悪い政治将校であるが、彼らは軍人である前に文官であり、読み書きが出来るという点では重宝されていたという。

 

 始めは不機嫌丸出しで剣呑な表情をしていた紀霊だったが、部下が書面を読み上げるにつれ、変化が見られるようになる。

 

「戻るぞ、宛城に」

 

 ややあって紀霊はそう告げた。心なしか口元が歪んでいる。彼の元に届けられたのは、どうやら吉報であったようだ。紀霊という異常者にとって、という条件付きではあったのだが。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 江南の地は、長らく漢帝国の一部でありながら『辺境』としての地位に甘んじていた。偉大なる漢帝国の威光も、時の首都から遠く離れたこの地に届く頃には薄まってしまうのだ。それゆえ政府の力が弱く、法律が充分に機能しないため分権化が進む傾向にある。

 もともとこれらの地域では、漢帝国の設立以前から血縁や地縁で結ばれた中小グループが数多く存在していた。これらは常に武装しており、政策等が中央政府と食い違ったり、外部勢力が侵攻してきた場合には、対抗して闘争を繰り広げた。ときには、集団内において抗争を繰り広げることもある。また、最近になって台頭してきた資産家や地主もまた、己の私有財産を守るために私兵を設けるケースもあった。

 

 漢帝国が事実上名前だけの組織になってからも、その状況は相変わらずであった。漢帝国に代わって江南を牛耳るようになったのは袁家だが、彼らもまた豪族たちが私兵を持つことを許可している。領地支配はコストのかからない間接統治に留め、地方行政・治安維持機能はそのほとんどを地元豪族にそのまま委任しているからだ。だからこそ袁家は江南で迅速に、また混乱も少なく勢力を拡大できたと言って良いだろう。

 

「現在、揚州には顧・陸・朱・張の4家からなる『呉の四姓』、周家、そして州牧の劉繇や会稽太守・王郎など大小23ほどの軍閥が存在し、これらの兵力を合算すれば10万ほどの軍勢に達します。最近では名家同士での婚姻を通じて、血縁による結びつきを強めているという話です」

 

 外務委員長・閻象の報告に、会議室がざわつき始める。揚州情勢における変動が原因ではない。その程度の事情はすでに全員が承知であり、むしろ何故いまさらそのような事を蒸し返すのかという疑念だった。

 

「10日ほど前、揚州へ派遣された使節団が帰路へつく途中、盗賊に(・ ・ ・ ・)襲われて(・ ・ ・ ・)行方不明(・ ・ ・ ・)になったという話はご存じでしょう。しかし、その内の一人が辛くも襲撃を逃れて脱出し、現在は我々の保護下にあります」

 

 そこで閻象は言葉を切ると、ちらりと横目で劉勲を見る。

 

「事情聴取をしたところ、重大な事実が判明しました。――彼らに襲撃を行った人物は笮融、運河襲撃事件の首謀者として指名手配中の人物です」

 

「それはつまり……」

 

「はい。揚州政府は我々に対し、虚偽の報告をしていたということになります」

 

 どよめきが起きた。なぜ揚州政府がそんな行動をとったのか。それは何か、後ろめたいことがあるからではないのか。

 

「――ほぉ、そういう話かよ」

 

 最初に反応したのは紀霊だった。にやけた笑みを浮かべ、周囲を見渡しながら言う。

 

「つまり今の話は、場合によっちゃ粛清ごときじゃ済まねぇって事か」

 

 紀霊はここに至って、ようやく理解していた。そもそも市街地の中心部で、襲撃事件が自然に起こるはずがない。ましてや指名手配中の人間が、そんな自殺行為をするなどあり得ない。独断で動いたのではないだろう。誰かが煽っていたのだ。

 それは揚州牧・劉繇かもしれないし、曹操のような外敵かもしれない。どちらにせよ、あるいはそれ以外の誰にせよ、紀霊にとって大差なかった。肝心なのは、「敵がいる」という事実だ。

 

 袁家の秩序と人民の安全を脅かす敵がいる。そして敵は実力で排除されなければならない――それさえ理解できれば、紀霊にとっては十分だった。

 

「もし揚州全体が関与していたなら、こりゃ袁家に対する反逆だ。そうなったら、揚州名士の大半を消す必要があるよなァ?」

 

 ほとんどの人民委員が息を飲む。最終的に、10万人もの軍勢を敵に回す可能性のある粛清を断行しなければならないとすれば、とんでもない大事である。下手に長引けば内戦まっしぐらであり、多方面に敵を抱えている袁家にとっては深刻な脅威となる。

 

「だが、まだ可能性の話だろう? そこまで性急に結論を出さずとも……」

 

「しかし近縁の揚州の急速な進歩と軍備拡張は、いずれ連中が我らの脅威になることを示唆しておる。反乱の芽は早いうちに摘んでおくべきだ」

 

 会議室は続く袁渙の発言に動かされて雰囲気が一変していた。議論は紛糾するも、論点は破壊をどこまで留めるかであって、揚州への対応は最初から決まっていた。州牧・劉繇およびそれに関係のある揚州名士については、全員を逮捕・粛清することに一切異論は出なかった。

 

 これまでの袁家は間接アプローチを是とし、力尽くでねじ伏せる行為を無能と蔑んでいた節がある。しかし今の袁家には、最早そんな余裕は残されていなかった。経済封鎖をしたり、交渉によって合意形成を行う時間はない。

 ここまでは袁家側の都合であったが、では交渉の余地があったのかと問われればそうとも言えなかった。そもそも先に強硬手段に出たのは揚州の側であり、まともな組織なら勝算なしに強硬策など取りはしない。もし袁家から商品の代わりに兵士を輸出されようと―――暫くの間は自分たちだけでやっていけるという自信があるのだ、揚州には。

 

 

 

 ◇◆◇ 

 

 

 

 外に対して脆弱な軍勢が、時として内には強い。袁術軍はまさしくそうした軍隊であった。これまでのところ、袁術軍はいかなる反乱をも、のさばらせはしなかった。人民委員会議で揚州への懲罰的な遠征が承認されると、袁術軍はすぐさま本領を発揮した。

 

 まず外務委員長・閻象は、袁家に次ぐ揚州のキーパーソンである荊州牧・劉表を中立化させる事に成功する。軍務委員長・袁渙の動きは更に迅速だった。財務委員会と連携し、戦費と調達と兵の動員を一ヶ月以内に完了させる。

 

 野山を埋め尽くす6万の軍勢は、まさに壮観の一言だった。4日後には追加の増援2万も参加する。対する揚州は総兵力こそ10万だが、各豪族の私兵の寄せ集めでしかないため、一度に集結できる数はせいぜい4万程度でしかない。誤解のないように付け加えると、揚州軍の動員兵力が少ないのではなく、袁術軍が多いのだ。

 

 袁術軍は強制挑発された民間船に乗って長江を超え、3週間以内に全軍が揚州の地に上陸した。先発部隊は既に遥か前方で展開しており、敵情報告をもたらしている。その伝えるところによれば、揚州軍は3万に達する兵力を要塞に集結させたという。

 牛渚要塞、ここには揚州軍の武器と食糧が蓄えられており、長江と湿地帯という自然の要害を利用して、防勢正面を狭めていた。もっとも、要塞そのものは城壁に囲まれた永久築城ではなく、強力な補給拠点といった類のものだった。

 

 この時、袁術軍には2つの戦術目標が与えられていた。1つ目は揚州軍の殲滅であり、2つ目は牛渚要塞の占領である。袁術軍総司令部は無益な攻城戦を避けるべく、短期決戦での包囲殲滅を狙う。具体的には部隊を3つの軍団に分け、囮が敵軍を要塞から引きずり出し、野戦で撃滅するという戦法である。

 

 第1軍団は囮を担当。司令官は紀霊。兵力1万2000

 第2軍団は要塞から誘引された敵軍の側面を圧迫。司令官は華雄、兵力2万4000

 第3軍団は敵後方に回りこんで退路を断つ。司令官は孫策、兵力は2万

 

 揚州動乱の緒戦となった“牛渚の戦い”であるが、その勝敗は半日も経たぬうちに決した。

 

 この日、最初に戦場に到着したのは紀霊将軍の率いる第1軍団であった。自軍より少ない袁術軍の姿を認めた揚州軍司令官・樊能は大きく悩まされる。防御の優位を捨てず要塞に籠るべきか、袁術軍が集結しない内に要塞から出て各個撃破を目論むべきか……熟考の末、樊能が選択したのは後者であった。

 

 両軍の接触はその二刻後であり、この時点で数的優位は揚州軍にあった。しかし袁術軍司令官・紀霊は彼我の戦力差をものともせず――それどころか作戦そのものすら無視して――猛攻を開始する。

 

「カハッ、ははははははははははは―――――ッ!」

 

 紀霊は戦場を跳ね回り、まるで加減を省みず武器を力任せに叩きつける。武器ごと敵の体を砕き、死体から得物を奪い、それで再び破壊をもたらす。

 

「遅せェ、遅せぇぞ! テメェらの力はそんなもんかよォ!!」

 

 常識で考えればまったくの異常事態。万を超える軍団指揮官が、自ら戦場で武器を振るうなど狂気の沙汰でしかない。

 だが、常軌を逸した行動に反して、紀霊の指揮そのものは適確だった。接近する揚州軍の姿を認めるやいなや、保有する弩兵と弓兵の全てを強引に前進させて足止めを行わせた。数で上回る揚州軍が浮ついたのは僅かな間でしかなかったが、紀霊は間髪入れずに全騎兵部隊を突撃させる。

 

 馬上槍突撃(ランスチャージ)――長大な槍を構えた騎兵による突撃、これが袁術軍騎兵の主な戦い方であった。銅鑼が鳴り響き、1000騎の騎兵が口々に大音声を発しながら愛馬を走らせる。20尺(約3.5m)前後の槍と剣で武装した袁術軍騎兵は、更に100騎ほどの小グループに分かれ、横列を組んで疾駆した。それぞれの小グループは広く散開し、揚州兵の黒目が見える距離まで速度を上げると、グループごとに密集しながら突撃する。

 

 もちろん揚州軍も必死に応戦しようとはした。しかし序盤の袁術軍による射撃で部隊の足並みが乱れている中、散開しながら高速で移動する騎兵を捉えるのは至難の業だ。全軍が乱れているために防御の構えを取るには時間が足りず、かといって弓兵で射撃しようにも照準ないし火力の集中が追いつかない。

 

 浮足立った揚州軍が放つデタラメな射撃をものともせず、袁術軍騎兵は敵軍の只中へと突入した。その威力は凄まじく、衝撃で騎兵槍の大半が折れてしまうほど。しかし大半の兵士は、騎兵の運動エネルギーを正面から受け止める前に逃亡していた。揚州軍の兵士たちは鎧を脱ぎ捨てて逃げまどい、戦列の至る所で虫食い状に穴が開き始める。それはさながら、水漏れの生じた決壊前の堤防であった。

 

 一方の袁術軍は、そのまま勢いに乗って総攻撃を開始する。騎兵の開けた戦列の間隙に向かって、後続の兵士たちが続々と突っ込んでゆく。

 

「いいねぇ、やっぱこうでなきゃなァ!! 戦場ってのはよォ!!」

 

 紀霊の顔が加虐の満足感に歪む。嬉々として肉を切り、返り血をさも美味しそうに舐めて拭き取る。一通り周囲の敵を一掃すると、新たな獲物を探し始める。そして見つけたのは、辛うじて戦列を維持している槍兵の一団。

 

「へぇ、こりゃあ驚きだ。やれば出来るじゃねぇかよ………てめぇら、簡単に死ぬんじゃねえぞ?」

 

 狂気の奔流が進路を変えた。落ちていた斧を引っ提げ嬉々として突っ込む司令官と、それに付き従う1万の軍勢。勝ち戦で調子に乗った袁術軍は、嗜虐の喜びに目覚めていた。血に酔った人間に特有の、異様な興奮に支配されているのだ。

 

 

 三刻後、揚州軍の陣営は壊走していた。要塞司令官・樊能は逃走。死傷者は確認できただけで5000名近くにも上る。牛渚要塞は無傷のまま、武器・食糧ともに袁術軍の手に落ちた。3万対1万2000という数的優位にありながら、この結果である。まさに惨敗であった。

 

 対する袁術軍は、これまでの弱兵ぶりが嘘であるかのような勝利を収める。否、現場にいた兵たちの言葉を借りれば「大勝利」であった。

 

 ――少なくとも、戦術的には。

 

 

 ◇

 

 

 翌日、「3倍の敵を蹴散らした名将」紀霊は身に覚えのない責めを受けていた。

 

「バカじゃないの!? 敵軍を蹴散らしてどうすんのよ!」

 

「あァ?」

 

 前線視察に来た劉勲から開口一番、功績を全否定するような言葉が飛び出る。この反応は紀霊としても予想外であった。これほどの大戦果、大勝利なのだ。特に出世や賞賛には興味のない紀霊であるが、一ヶ月は遊郭通い出来るだけの賞金ぐらいは期待しても罰はあたるまい。。

 しかし戦場に遅れて到着した2人の同僚(孫策、華雄)、そして劉勲に勝利を報告した彼に与えられたのは、女性特有の甲高い金切り声だった。

 

「ったく、自分から数的優位を捨てるとか信じらんない! せっかく完璧な計画を立てたのに……これじゃ作戦が台無しよ!」

 

 紀霊は訝しむ。目の前で自分を糾弾している女、劉勲が何を言っているかさっぱり分からなかったからだ。

 

「ンだよ、クソババァ。勝っちゃ悪ィのかよ」

 

「ええ、そうよ!」

 

「ババァも含めて否定しないのかよ」

 

 だいいち軍人に勝つな、というのは本末転倒もいいところだ。やはり何故責められているのか分からない。分かったのはせいぜい、やっと劉勲が若作りを諦めて婆の自覚を持った事ぐらい。

 

「紀霊、あなた絶対に“取りあえず目の前の敵を殴ればいいや”とか思ってたでしょ。そもそも作戦の意図って考えたことあるワケ?」

 

 怒れる劉勲は、立ちつくす紀霊に向かって嫌味と愚痴を連弩のように浴びせかける。

 

 ――こういう時は適当に相槌を打つに限る。反論したり、自分の意見を述べてはならない。

 

 紀霊の経験上、キレてる時の劉勲とは会話が成立しない。そもそも劉勲も会話をする気がないのだろう。事の正否は問題ではない。単にストレス発散のため、自分の言いたい事を言っているだけなのだ。ゆえに否定したり、会話を遮ってはならない。気の済むまで喋らせておき、精神の安定を――。

 

「……紀霊、アナタちゃんと人の話聞いてる?」

 

「ああ」

 

「じゃあアタシがなんで怒ってるか、原因を言ってみなさい」

 

 知るかボケ。 紀霊はそう思ったが口には出さず、辛うじて聞き取っていた(あるいは嫌々ながらも耳に入ってしまった)劉勲の言葉を反芻する。何となく、思い当たる節はあった。どうやら目の前の面倒な女が苦労して考えた“完璧な計画”とやらを、自分が台無しにしてしまったらしい。

 かなりアバウトにそう伝えると、劉勲はむくれながらも渋々といった様子で頷いた。どうやら彼女の方も、もともと紀霊の誠実さと理解力には期待していなかったらしい。

 

「まぁ、だいたいそんな感じよ。揚州は広いから、持久戦の構えを取られると厄介なの。だから敵主力を決戦に引きずり出して、包囲殲滅まで持ち込むつもりだったのに………これで泥沼確定だわ……」

 

 

 ともかく、揚州で起こった動乱は、当事者たちの予想以上に長引きそうであった。

 

 現状、軍の質と量、戦術・作戦レベルの全てにおいて袁術軍が優位にあるが、戦略レベルではそうとも言い切れない。袁術軍のみを相手取ればよい揚州軍に対して、袁術軍は徐州にいる曹操軍との2正面戦線。しかも徐州の劉備、そして荊州牧・劉表という油断のならない同盟者を抱えている。豫州には反乱軍の残党もいるし、本拠地・南陽郡ですら暴動と一揆が頻発している。

 獅子身中の虫を抱えた獅子……傍目には巨大でも、その内実は見かけ倒しでしかなかったのだ。




 袁術軍は弱くない!……いや、強い!

 数でごり押しとか言われてる軍隊だって、格下と戦えば少数で多数を撃破出来るんです。露土戦争とか……。
   


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86話:待ち伏せと罠

     

 北郷一刀はうす暗い部屋の中で目を覚ました。まったく見覚えのない部屋だった。肩から腕には包帯が巻かれており、胸の傷口には軟膏が塗られている。何がどうなっているのかわからず、一刀はしばらく呆然としていたが、気を取り直して周囲を見回す。

 

(そうか、俺はあれから馬で宛城まで逃げて……)

 

 一刀が寝かされていたのは、上等のベッドだった。布団も羽毛が詰め込まれた上物。小さな部屋の窓には布地のカーテンが引かれ、隅の方には煉瓦造りの暖炉が置かれている。入口の木扉は閉じられ、脇の机には蝋燭が灯っていた。そして机の傍にあった椅子には、小さな人影も。

 

「……一刀さん」

 

 掠れた声で、諸葛亮が自分の名を口にした。彼女は立ち上がると、一刀が寝ていたベッドに寄ってその手を握る。諸葛亮は目から小さな雫ををこぼし、二度と側から離れまいと力を込めた。

 

「っ――!」

 

「はっ、はわわっ! ごめんなさい!」

 

 つい強く力を入れ過ぎたようだ。諸葛亮は慌てて一刀から距離をとる。医者から命に別状はないと診断されたものの、しばらくは安静が必要だとも言われていた。

 

「すみません、しばらくじっとしていてください。お医者さんは、しばらくすれば良くなると」

 

「ありがとう、朱里」

 

 一刀は微笑もうとしたが、やはり傷が痛むのか少し顔をしかめている。

 

「それで……ここはどこなんだ?」

 

「宛城の徐州領事館ですよ。そこの門で気を失っていた一刀さんを、兵士の皆さんが見つけてくれたんです」

 

 宛城――その名を聞いて一刀は嫌な予感がした。諸葛亮も一刀が考えていることを察したのか、幾ばくか険しい表情になる。

 

 瀕死の一刀を保護した後、諸葛亮は厳しく追及されていた。劉勲の書記局からは辛辣な警告が届き、一刀への薬物投入を拒んだことを、捜査妨害と見なして告訴すると脅されさえした。

 その旨を伝えると、一刀は厳しい顔をしたまま黙り込む。なにか、思いつめているような表情であった。

 

 ◇

 結局、一刀と相談の結果、孫賁の件はしばらく伏せる事になった。一刀の部屋から自室へ戻ると、諸葛亮は机のそばに立ったまま考え込む。オフィスの窓には夜が迫り、外の通りはしんとしていた。体は疲れ切り、すぐにでもベッドに倒れこみたいという衝動に駆られる。

 中庭側のドアが突然ノックされたのはその時だった。とっさに諸葛亮は身を強張らせる。耳を澄ませていると、さらに続けて三回ノック。強い音ではないが、有無を言わせぬ意志が感じられる。

 

 こんな時間にいったい誰だろう――まずは恐るべき秘密警察の姿が思い浮かんだが、諸葛亮は邪念を振り払い、胸を張ってドアに近づく。取っ手を回してドアを開けると、果たしてそこに立っていたのは周瑜だった。深い知性を宿した瞳に、南方人の特徴らしい浅黒い肌。噂通りの知勇兼備の人物らしく、文官でありながら動きやすさを重視した服装をしている。

 

「お邪魔だったかな? 少し、中に入りたいのだが」

 

「は、はいっ! どうぞ」

 

 周瑜は軽やかな身のこなしで部屋に入ると、さっとドアを閉める。何が目的なのだろうか、と諸葛亮は考える。孫家と自分たちにはあまり接点は無かったはずだが。

 

「なに、ちょっと話をしに寄っただけだ」

 

 諸葛亮の思考を先読みしたように、周瑜が不敵に言う。

 

「それとも、仕事の邪魔だったか?」

 

「いえ、ちょうど終わったところです。話があるというなら、是非とも伺いたいですね」

 

 単なる世間話をしに来たという訳ではあるまい。孫家が無能で無いなら、先の一件もすでに耳に入っているはず。その上で自分に話を持ち掛けてきたという事は、何か狙いがあってのこと。諸葛亮はなるべく平常通りに礼儀正しく耳を傾けていたが、内心では周瑜の一言一句を聞き漏らすまいと集中していた。

 

「最近の人民委員会のやり口を見て、気付いたことがあるだろう。今の人民委員会は、ひどく不安定になっている」

 

 権力の分散は、独裁を防ぐ一方で意思決定の鈍化を招く。人民委員会ではこれまで、政治工作で多くの支持を得た者が多数決で最終決定を下していた。劉勲が影響力の強い財務・外交関係者の支持を得て、人事権で更なる多数派工作を行い、文官主導政治への反発が予想される武官達は、軍部のトップである張勲が抑える……両者の政治センスがあってこそ、この権力分散モデルは成功していたのだ。

 

「ところが乱世が始まってからというもの、過激な主張をする強硬派が台頭してきている。特に保安委員会の張繍と軍務委員会の袁渙はその筆頭だ。近頃の騒動に乗じて、劉勲らを蹴落として影響力を拡大している」

 

 戦争の激化とともに劉勲の影響力は低下した。中華の大部分が敵味方に2分される状況では、外務委員会の重要性は低下するのが当然だったし、戦争によって財務状況と景気はどちらも悪化していていた。張勲にしても同様で、平時ならともかく戦時下で軍部の強硬論を抑えることは難しかった。

 

「特に張繍、彼女は危険だ。袁渙はただの野心家だが、張繍は違う。あれは快楽殺人鬼のそれだ。袁家に混乱を引き起こし、それが広がるのを愉しんでいる」

 

 諸葛亮は黙って聞いていた。周瑜のような切れ者を相手にするときは、用心し過ぎてもしすぎることは無い。発言も、話が核心に入るまで控えるつもりだ。

 

「この前にあった、豫州の件などその最たるものだ。張繍があれを口実に、我ら孫家を潰そうと企んでいたのは周知の事実だ」

 

「容疑をかけられた事は存じています。そしてそれが杞憂に終わったことも」

 

 諸葛亮は慎重に言葉を選ぶ。もう少し、周瑜の出方を見るつもりだった。

 

「その通り。幸い、あまりにも事実無根だったから我々も事なきを得たが……このような事が2度と無いとは言い切れまい。ゆえに我々としては、保安委員会がこれ以上の力をつける事は望ましくないと思っている」

 

 つまり共同で保安委員会を抑え込もう、という事か。諸葛亮は心の中で軽くガッツポーズをとる。何かにつけて介入してくる保安委員会には徐州も手を焼いており、周瑜の提案は渡りに船といえた。

 しかし同時に危険度も跳ね上がる。未だに孫家を色眼鏡で見る人民委員も多く、うまく立ち回らなければあらぬ容疑をかけられる恐れもあった。

 

「しかし保安委員会は強大です。張勲さんや劉書記長とも協力関係にありますし、私たちに何か出来るとは……」

 

「ほう」

 

 周瑜が笑う。まるで面白い冗談でも聞いたように、口元と頬の筋肉が緩んでいる。

 

「たしかに諸葛亮殿の言われる通りだ。保安委員会は強大で、それに比べたら我々などちっぽけなものだ。だが……だからといって、何もしていないと。そう言われるか?」

 

 含みを持たせた言い方だったが、諸葛亮はたちどころにその意味を悟った。

 周瑜は気づいているのだ。自分が袁家に隠し事をしているということを。

 

「そう硬くならなくていい。隠し事など、誰にでもある事だ。それに、私とて全てを知っている訳ではない。せいぜい知っているのは、君たちが袁家に隠れて何かを探しているらしいという事だけだ」

 

 諸葛亮は体を強張らせたままだった。正直なところ、周瑜の耳の速さに驚愕を禁じ得ない。孫家の諜報機関は優秀だ、とは聞いていた。しかし、これ程だとは。組織の規模はともかく、質では保安委員会にすら匹敵するのではなかろうか。

 

「ええ。たしかに私たちは現在、内密に調査を進めています」

 

 諸葛亮は観念した。ここまで知られているからには、口で何と言われようと、調査の内容についても大よその見当は付けられているはず。だとすれば、シラを切り続けたところで意味はない。周瑜がその気になれば、すぐにでもバレるだろう。最悪、袁家に告発されるかも知れない。

 

「揚州の件の裏で、豫州反乱軍が関係している可能性があります。少なくとも我々はそう睨んで、調査を進めています」

 

「なるほど」

 

 声を低める周瑜。あまり驚いた様子ではない。むしろやっと腑に落ちた、というような表情だった。

 

「雲隠れした豫州の反乱軍がどこに逃げたのか、それは我々もずっと考えてきた事だ。揚州という線も一度は考えていたのだが、裏付けが無かったために保留にしていた。しかし、やはりか……」

 

 周瑜は顔をしかめた。

 

「正直、あまり考えたくは無かった事態だ。知っていると思うが、我々は揚州に多くの知り合いがいる。彼らにも豫州反乱軍について知っている事を聞いたのだが、その時は異口同音に知らないと言われた」

 

「誰かが虚偽の報告をして孫賁さん達を庇った、という事ですか?」

 

「残念ながら、そうなるな。我々とて一枚岩ではない。それが証明されてしまった訳だ」

 

 周瑜はわずかに苦笑いを浮かべると、一転して真面目な表情になる。

 

「孫家も捜査に協力しよう。周泰らにも探させる。内部に裏切り者がいるとなれば、もはや我々にとっても他人事ではないからな。 豫州反乱軍の居場所が判明したら、徐州政府にはその逮捕を頼みたい。彼らの逮捕に成功すれば、運河襲撃事件をはじめとする、一連の事件の手がかりも得られるだろう。その功績があれば保安委員会も抑えられる」

 

 たしかに周瑜の言う通りだ。徐州の発言力は間違いなく増大するだろう。実績さえあげれば、袁家が掌を返したように態度を変えるのは、孫家が豫州の件で証明済みだ。

 

 だが、危険も大きい。どうも足元を見られて、周瑜にうまく乗せられた気もする。袁家と同じく孫家も己の野望のために、自分たちを利用しているだけなのかも知れない。

 とはいえ、選択肢が他に存在しないのも事実。無策のまま手をこまねいていれば、今度の人民委員会議で劉勲は自分たちを生贄にするだろう。

 

「本当なら我々がそのまま逮捕したいところではあるが、知っての通り我々は保安委員会に目を付けられていてね。下手な動きを見せれば、あらぬ容疑で一斉検挙されかねない。その代わり、手柄は全てそちらに譲ろう――この話、頼めるかな?」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

(本当に、なんで自分はこんな所に来てしまったのか)

 

 廬江太守・陸康の気分は最悪だった。理由は単純、敵地のど真ん中にいるからだ。

 ここは荊州南陽郡・宛城。江南一帯を支配する、否、していた(・ ・ ・ ・)袁術の本拠地である。

 

 もちろん賓客や公人としてではない。身分を偽わり、“ある物”を受け取りに来たのだ。相手は揚州の独立運動を影から支援している人物で、袁家と戦う上で欠かすことの出来ない存在だ。

 

(だが、何もわざわざこんな危険な所を取引場所にしなくても……)

 

 つい愚痴が出てしまうが、そのぐらいは相手も承知しているはず。あるいは敢えて危険な場所を指定することで、こちらがどれだけ本気か試すつもりなのかも知れない。

 

 宛城来たのは初めてだったが、全体的に雑多な印象を受けた。目の届く限り地平を覆い尽くす都市。そこに無数の館、宿屋、煉瓦造りの倉庫、露店、骨董屋、木造の長屋、墓地、商館、売春宿、宗教施設などなどが連なり、市場の喧騒は遠くからでも聞こえるほどだ。建物の間の道路は幅が広く、両側に並木が植えられている。かと思えば曲がりくねった街路や、子供一人分の幅しかない裏道もあった。

 中心街のやや外れにある丘の上には巨大なドーム状の人民議事堂がそびえ、その反対側には大理石の外壁を持つ市政庁が立っている。それらのちょうど中間にあって、すべてを睥睨しているのが袁術の居城だった。

 

 指定された集合地点は、中央広場から東に半里ほどの荒れ果てた地域にあった。宛城の東区は貧民が多く住む区画で、倉庫や空き家が広がっている。この一帯は治安が悪いため、警官もほとんどいない。そういう場所だからこそ、今回の集合地点に選ばれたのだろう。

 

(目印は猫と戯れている人物、か。まったく、分かり辛い条件を付けてくれたものだ)

 

 陸康は道の脇から好奇の視線を投げてくる物乞い達を無視し、不衛生な通りを足早に進む。路地や静まり返った建物、窓や半開きの扉に絶えず目をやりながら、しばらく歩いては止まって耳を澄ます。路地のつきあたりに出ると、スラム街には珍しい二階建ての建物が目に入った。

 近くでは浮浪児の集団が何のものか分からない肉を漁っていたが、それと扉を挟んだ反対側に小さな人影が見える。ぼろ布をまとい、しゃがんだ状態で猫と戯れている。華奢な体格から判断するに、相手は子供、恐らくは少女だろう。

 

(あそこか……)

 

 陸康は通りを渡って、猫と戯れる少女に近づいた。

 

 ――もうすぐ、もうすぐだ。あと少しで目当ての物が手に入る。それがあれば、揚州での劣勢も覆せるはずなのだ。

 

 

 **

 

 

「……お目当ての奴が来たらしいな。朱里も見てみるか?」

 

 一刀が窓にかけられた布をめくり、諸葛亮は外をのぞいた。窓の先には、2人の人影が見える。

 

「どうやら、周瑜さんの情報は正確だったようですね」

 

 周瑜の訪問から2週間が過ぎた頃、再び連絡があった。まだ裏切り者の正体は掴めていないが、彼らと揚州反乱軍の高官が、大胆にもここ宛城で接触するらしい情報を掴んだという。

 

 誤情報ではなかったようだ――話し込む2人の人影を見ながら、諸葛亮はほっと胸をなでおろす。正直なところ、目の前の光景を見るまで諸葛亮は半信半疑だった。

 諸葛亮は後ろを振り返ると、控えていた徐州兵に頷いてみせる。それを合図として、徐州兵たちは音をたてないようにして散らばった。目標が逃げられないよう、退路となりそうな道を塞ぎに行ったのだ。

 

 徐州兵たちが出ていったのを確認すると、諸葛亮は再び窓の外に注意を向ける。2人はしばらく何やら話し込んでいたようだが、ややあって小さな人影の方が何かを手渡した。大きな人影の方はそれを大事そうに懐にしまい込むと、おもむろに立ち去った。一刻も早く遠くに行きたいように見える。

 

「どうやら話は終わったみたいですね。目標が移動し始めました」

 

「らしいな。じゃあ俺たちも――………っ!?」

 

 一刀が扉を半分ほど開けたその時、路地の物陰からすっと大きな影が現れるのが見えた。濃い灰色と黒の制服が暗がりに溶け込んでいたためか、まるで幽霊が突然出て来たようにも感じる。しかし輪郭は紛れもない人間のもので、しかも屈強な戦闘員のそれ。行く手を塞がれた男性は、明らかに狼狽えた様子だった。

 

「しまった、秘密警察だ」

 

 一刀は顔から血の気が引くのを感じた。そうこうしている間にも、警官がぞろぞろと集まってくる。数は11人ほど。哀れな男性を取り囲む形で、詰め寄っている。会話の内容は聞き取れないが、何やら言い争っているようだ。その内しびれを切らした警官の一人が剣を抜くと、他の警官も警棒やら矛槍で威嚇を始めた。 

 

 助けるべきか、それとも様子を見るべきか。一刀が判断しかねていると、警官の一人が男性の胸倉を掴み、乱暴に突き飛ばした。男性は何かを訴えるも、今度は別の警官がその脇腹をブーツで蹴りつけた。苦悶の表情を浮かべる男性を見下しながら、警官たちは前に一歩踏み出す。

 

 その時、建物の横から5つの影が飛び出してきた。目の前で倒れている男は宛城に乗り込むにあたって、護衛を付けることを忘れなかったらしい。法服のような黒い外套をまとった彼らは、突然のことに驚く警官たちに短刀を振り上げた。

 

「おのれ、仲間がいたか――!」

 

 警官のリーダー格が叫び、剣を構えた。部下の警官たちもそれに倣い、襲撃者たちと激しい戦闘を開始する。数は秘密警察の方が多いが、もともと実戦より捜査や警備などを担当する治安部隊なだけに、戦闘のプロである護衛たちに圧倒されていた。すでに3人の警官が倒され、2人が傷を負っている。

 しかし護衛たちの方も、隠密性を重視した短剣しか装備していなかったのが仇となって、長柄の武器を装備した警官たちがひとたび反撃に出てからは、リーチの差で苦戦を強いられていた。

 

 一方の男性はというと、すでにドサクサに紛れて逃走を始めていた。警官たちは戦闘に夢中で気付いていない。

 

「朱里、このままだと逃げられる! 後を追おう!」

 

 一刀は一息整えると、ベルトから短刀を抜いて走り始めた。後からは諸葛亮が必死に走ってくる。幸いにも男は自分たちが潜んでいた場所に向かって逃走している。一刀は先回りして、建物の影に潜んで待ち伏せた。

 

「んな……ッ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げ、男が斜め前方につんのめる。建物の横から飛び出してきた一刀のタックルを、もろに受け止めたからだ。

 バランスを崩して床に転がった男を見て、一刀は荒い息を吐きながら立ち上げる。

 

「動くな、私服警官だ」

 

「っ……」

 

 なおも男は逃げようとする。近くにあった建物のドアを蹴飛ばし、中に侵入する。

 しかし、それまでだった。部屋にはもう一つ出口があったのだが、運悪く家具がそれを塞ぐ形で置かれていたのだ。一刀は思いがけない幸運に感謝しながら、男に詰め寄った。

 

「逃げ道はもうないぞ。後ろでは別の私服警官が待機している。無駄な抵抗はよせ」

 

 咄嗟にハッタリをかます一刀。言っていることは一から十まで全てが嘘なのだが、男性には確かめようもない。なおも未練がましく戦闘を続けている護衛たちの方を見やるも、そこまでだった。現場では騒ぎを聞きつけた別の警官隊が到着し、護衛たちは完全な劣勢に持ち込まれていた。やられるのも時間の問題だろう。

 さらに男に追い打ちをかけるように、2人の徐州兵が姿を現した。この付近に配置されていたペアが、騒ぎを聞きつけて応援に来てくれたのだ。どちらも一刀と同様に私服を着ているので、徐州兵だとは分からない。男は私服警官の増援だと勘違いしたらしく、大きなため息を吐いた。

 

「これで終わりだな。さぁ、大人しく投降したらどうだ」

 

 声の震えを隠しながら、なおも一刀は演技を続けた。状況は急を要する。何としても秘密警察がやってくるより先に、目の前の男性の身柄を確保しなければならない。

 

「………わかった」

 

 ようやく男は観念したようだった。諦めたように両手を上げ、口を開いた。

 

「逮捕するなら早くしろ。できれば今すぐに、窓の無い部屋に連れて行ってくれ」

 

 怪訝な顔をする一刀に、男は切羽詰まった表情で言う。

 

「まだ分からんのか? 自分ほどの重要人物を、連中がみすみす逮捕させるとでも思うのか?」

 

 その時、一刀は見た。夜空に広がる暗闇の一点が、月明かりを反射して煌めくのを。

 次の瞬間、男の背後にあった建物の窓が割れ、真っ赤な鮮血が視界を染めた。

 

「狙撃!?」

 

 諸葛亮が叫ぶと同時に、男は衝撃で前屈みに倒れた。矢は心臓を一突きにしており、すでに致死量の血がどくどくと溢れ出ていた。

 

 ――口封じ。

 

 一刀と諸葛亮は同時に、その矢の意味を悟った。目の前で倒れた男もその可能性を案じていたから、あれほど急かしていたのだ。

 

「嘘だろ!? 窓の外から、どうやって狙いを……!」

 

「一刀さん! それより早く手当を!」

 

 諸葛亮に一喝され、一刀はハッと我に返る。このままでは不味い。今の怪しげな取引が何だったのか、それにはどういった背後関係が絡んでいるのか。全ての疑問が謎のまま闇に葬られてしまう。そして何より、目の前で人が死にかけているのだ。

 

「早く処置をしないと! 一刀さん、まずは傷口を塞いで……!」

 

「ああ……」

 

 一刀はすぐに自分の上着を脱いで、止血にかかる。だが、それでも血は止まらない。よほどの腕のいい狙撃手が狙ったのだろう。矢は背中から心臓を直撃し、循環器系を完全に破壊していた。心臓が動くたびに、本来血管に入るべき血液があらぬ方向へと噴き出してゆく。

 

「朱里、残念だが……」

 

 諸葛亮が慌てる傍らで、一刀が悔やむように言う。

 

「矢は心臓を完全に貫通しているみたいだ。だから、彼はもう………――ッ!?」

 

 話の途中で一刀の動きが止まり、体が強張る。原因は死んだ男の懐から転げ落ちた『ある物』だった。一刀はそれを手で摘むと、恐る恐る諸葛亮にも見えるよう持ち上げる。

 

「―――っ」

 

 金色に光り輝くその物体を目に留めると、諸葛亮は息を飲んだ。その物体を見たことは無かったが、話なら何度も聞いていた。

 

 

 『 受命於天 既壽永昌 』

 

 

 黄金の印鑑。竜の彫刻が施されたつまみがあり、大きさは4寸四方。印文には篆書で上記の文字が刻まれている。秦の始皇帝以来、時の皇室が代々受け継いできた、皇帝の証。

 

「伝国の玉璽………そういう事ですか」

 

 揚州牧が欲していたもの。漢王朝が生まれる前から、代々の統治者へと受け継がれてきた、中華の至宝。その権威は袁家など容易に凌ぐ。取引材料としての魅力は充分過ぎるほどだ。

 玉璽の権威で豪族たちの足並みを揃えるもよし、外交の席でも有利に働くだろう。宮廷で大きな発言力を持つ袁紹・曹操との同盟あたりを視野に入れていたのかもしれない。

 

 だが、今となってはそれも分からなくなってしまった。真相は闇に葬られたまま、もの言わぬ死体と輝く玉璽だけが残される。横からジャリ、と靴が地面を踏みしめる音が聞こえたのはその時だった。

 

「――貴様ら、何をしている!!」

 

 呆然としている一刀たちに、突然大声が飛んでくた。驚いて振り返ると、4人組の警官が武器を持って立っていた。一刀が弁明するより先に、警官たちは徐州兵に目を留める。

 

「その武器……さては、連中の仲間だな!?」

 

 乱闘が始まった。徐州兵2人に3名の警官が斬りかかり、一刀たちも逃げる間もなく、突進してきた別の警官の警棒で殴られる。隣では諸葛亮が息を飲み、ぼんやりと霞んだ視界に警棒を構えた秘密警察が映った。

 

「そこの女も動くな、警察だ! 殺人容疑の現行犯で逮捕する!」

 

 警官は続いて諸葛亮にも警棒を振り上げたが、一刀はなんとかその足を掴んで引っ張ることに成功する。バランスを崩した警官が倒れ、しばらく一刀と揉み合いになった。

 

「やめろ! 大人しく署まで……!」

 

 なおも抵抗を止めない一刀を抑えるべく、警官は懐からナイフを取り出し、切っ先を突き出した。幸いにも急所は逸れたが、上腕が切り裂かれる。一刀を悲鳴をあげ、警官から離れた。

 

「貴様ら……ッ!」

 

 逆上した警官は落とした警棒を拾い上げると、再び一刀に殴り掛かる。しかし横から諸葛亮が慌てて投げつけた玉璽が鼻に命中し、くぐもった悲鳴をあげた。鼻血を垂らして顔面を赤く染めた警官が体勢を立て直す前に、一刀は身を沈めて肘打ちを叩きこむ。ここまで来ると流石の一刀も逆上したのか、好戦的な衝動に支配されてしまったらしい。ぐったりした警官から警棒を奪い取ると、徐州兵たちに加勢する。

 タックルで一人を突き飛ばし、跳ね除け、奪い取った警棒で殴打をかわした。一方の警官たちも蹴飛ばし、斬りつけ、正当防衛による殺害も止む無しと考え始めていた。

 

 

「――はいはい、3人ともそこまで」

 

 

 呆れたような声に、全員の動きが止まる。振り返ると、賈駆が背後に立っていた。隣には面白そうに状況を眺めている張繍と、屈強そうな警官が大勢いる。矛槍や弩など本格的な武器を持った警官も何人かいた。

 

「この地区は完全に封鎖したわ。今は120人の武装した警官が見張ってるから、逃げようとしても無駄よ。大人しく武器を捨てて投降なさい」

    

「いや、俺たちは……その……」

 

 一刀らは咄嗟に弁明を試みようとするも、すぐに諦めた。血塗れになった自分たち、負傷した警官、目の前の死体。全ての状況証拠がこちらに不利に働いている。賈駆は再び呆れたような溜息をついた。

 

「北郷一刀と諸葛孔明、貴方たち2人を騒乱罪および公務執行妨害、そして殺人と反逆罪の容疑で逮捕する。 もし言いたいことがあるなら、話は署で聞くわ」

 

 賈駆が目配せすると、張繍が頑丈そうな金属の手錠を引っ張り出した。

           




 怒涛のフラグ回収回。ちなみに袁家は早い段階から警察が登場していますが、いわゆる“お巡りさん”ではなく、準軍事組織としての『国内軍』に近いです。袁家だと軍隊=国防軍(外敵からの防衛)、警察=国内軍(内部の治安維持や反乱鎮圧)みたいなイメージ。


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第九章・革命の空へ
87話:対なる選択


       

 孫権はここ3か月近く、必要が無い限り外出は避けるようにしていた。彼女ばかりではない。呂蒙ら他の家臣も同様に、屋敷と職場を往復する以外の遠出は避けている。不用意な外出で秘密警察の目を引きたくない、というのもある。

 孫家の屋敷から見える港――宛城には淮河から運河が引かれている――に入港する舟は、見るからに数が減っていた。港ばかりではなく、街も閑散としている。

 

( 随分と寂れたものだ )

 

 孫権は自室の窓から、宛城の街を見下ろしながら思う。

 

 ここ一ヶ月、商人も移民も依然と比べて少なくなった。商品が売れなくなり、多くの店が閉店した。商店街もほとんどの店が閉じており、開いているところも開店休業状態。倒産した商会も続出し、巨額の借金を抱えて破産した投資家の自殺が相次いでいた。もう一度人生をやり直そうにも、債権者がそうした経歴のある人物をブラックリストに載せてしまい、社会的に抹殺されたも同然の状態にされてしまうからだ。経営不振の商会や農園から解雇された労働者は凄まじい数にのぼり、辛うじて職を得た者も農奴のような身分に身をやつしていた。街にはあぶれた貧困層が行く当てもないまま、道端で物乞いをしている。

 

 この年、袁家は経済危機の中にあった。その原因となったのは、頻発する暴動と反乱である。

 

 曹操の徐州侵攻に端を発した戦争は華北の経済を麻痺させ、交易を含む商業は大打撃を受けた。治安の悪化に伴う輸送コストの上昇は貿易量を押し下げ、比較優位に基づいた地域分業体制を築きつつあった袁術の経済圏は最大の不利益を被った。投資も同様にして冷え込み、基幹産業であった金融部門は大ダメージを受ける。商業・金融セクターの不振は、そのまま袁術の基盤であった都市の弱体化に直結し、袁家の統治能力そのものを低下させた。もはや袁家は従来の方針――自由化と規制緩和によって経済全体を活性化させつつ、都市部を中心とする商業・金融業を抑え、その投資や融資によって他の産業を支配下に置く――に頼った経済支配を維持できなくなっていた。

 

 貨幣の価値が下がり、貿易量も低迷したまま回復の兆しが無く、高利貸しの融資ですら滞っていた。倒産する商会や廃業する商人が続出し、失業率もうなぎ登り。中央人民委員会議は景気刺激策を講じ、公共投資などの財政政策を行うも、状況は好転しなかった。必然的に、袁家の統治能力に疑問符がつく。

 

 統治の基本はアメとムチである。アメを与えられなくなった袁家から、傘下の豪族が離脱しようと考えるのは当然の帰結といえた。経済危機によって困窮した民衆もまた、不満の矛先を袁家に向けて暴動を引き起こす。袁術領全体が蜂の巣をつついたような騒ぎになり、豫州ではついに大規模な反乱まで起こる始末。袁家はそうした反社会的活動を武力によって封じ込めるも、防衛・治安維持関連の予算はとんとん拍子で上昇した。

 

 

 陰謀説が幅を利かせるのも、こうした苦しい時期である。

 

 曰く、敵の工作員が経済の弱体化を図って活動している。あるいは、重要な情報を工作員が漏えいさせているだとか、自分たちにとって不利な協定ばかりが結ばれるのはどこぞ州牧の陰謀である。あるいは売国官僚が他州の商人の便益を図るから、地元商人の経営が苦しくなる、等々だ。

 

 工作員が国益を脅かしているのならば、行政はそれを取り締まる責任と義務がある……保安委員会の職員たちは、まったくの正義感と郷土愛から、徹底的な工作員狩りと反政府分子の炙り出しを実行した。

 愛すべき祖国が危機にあるのに、暴動や反政府活動を起こして社会を乱すなど言語道断。全ては守るべき国のため、故郷のため、友と家族のため。正義感に溢れた秘密警察たちは疑わしい人物を逮捕し、反政府的な組織には容赦のない弾圧を加えた。

 

 

 そして血の滲んだ(滲むような、ではない)努力と献身の結果、ついに保安委員会は黒幕のひとつを突き止めた。

 揚州――多数の移民受け入れと耕地開発、そしてインフラ整備によって近年急速に成長している地域。そこに住む豪族と民は以前から非協力的であったが、ついに虚偽の報告をされるに至って袁家の寛容も限界に達する。

 

 袁術と人民委員会は揚州における大規模なパージの必要性を感じ、大規模な軍を派遣した。

 

 紀霊や孫策らを含んだ派遣軍は長江を渡り、揚州軍の重要拠点だった牛渚要塞を陥落させ、大量の食料や軍需物資を奪取。更に孫策は侵攻を続け、劉繇の部将・薛礼が守る秣陵城(後の呉の都、建業)を制圧する。揚州軍は笮融・于慈などに反撃させるも、孫策は伏兵を用いてこれを逆襲、敗走させることに成功した。袁術軍は順調に進撃を続け、揚州の州都・曲阿まであと一歩という所まで迫りつつあった。

 

 しかし、この時点で既に袁家では戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻しかけており、戦争継続派と講和派に分裂。人民の間でも思い戦費負担に耐えかねて厭戦ムードが漂い始めていた。

 

 付け加えると、戦争を通して優勢だったのは袁術軍だったとはいえ、純粋な戦闘以外では多くの不利な面も抱えていた。たとえば揚州とそれより北の袁術領の間には長江が流れており、袁術軍は援軍や物資を長江を越えて運ばねばならず、袁術軍には港湾から一歩離れれば兵站の問題が常に付いて回ることとなった。一方の揚州軍は簡単に兵や食糧を補充でき、その環境に順応できた。

 解決策としては略奪があげられるが、広大な揚州の統治には地元住民の支持が不可欠。中央からの指示を受けた政治将校たちによって略奪を禁じられた袁術軍は、軍事的に大きな制限を抱えることになる。

 

 しかも南陽の人民委員会が戦争の情報を受け取るには長い時間がかかり、現地の将軍が本部からの指令を受け取る時には情勢が変わってしまっていることが多々あった。それを防ぐには現場に指揮権を委譲せねばならないものの、軍を潜在的脅威と見なして文民統制(シビリアン・コントロール)を徹底していた袁術軍には無理な相談であった。

 

「姉様たちが華々しい戦果をあげる一方で、民の問題は放置されたまま。戦争に勝って、本当に腹がふくれるならば良いが……」

 

 いつの時代であっても、不況のしわ寄せがいくのは貧困層で、多くの人間が職を失って路頭に迷い、職があっても労働環境は大幅に悪化していた。

 「自由放任」の名の元で弱肉強食が徹底された袁術領では、福祉制度が全くと呼んでいいほど整っていない。職を失って収入源を絶たれ、日々の食べ物にも事欠く有様になった人々が街にあふれても、食糧が配給されることはない。

 

(袁家は、いや江東の地はどうなってしまうのだろう……)

 

 袁家は各地で戦い続けているし、華北の戦乱をきっかけとした景気後退も未だ回復の兆しが無い。中華の富を独占し、中原を差し置いて経済の中心地となった江東は、『黄巾の乱』以降最大の不況に喘いでいた。

    

 

 

 ◇◆◇

 

    

   

 一刀と諸葛亮は4人の警官と共に、格子窓のついた頑丈そうな馬車に乗せられていた。保安委員会本部まで護送されると、手錠を嵌められたまま大法廷室のような場所に連行される。扉の両脇には鎧を着込んだ衛兵が4人おり、何人たりとも通さぬよう斧槍を交差させている。

 

 部屋は重々しい作りで、得も知れぬ威圧感が伝わってくる。光りは2つの大きなアーチ状の窓から入ってくるが、それでも室内は薄暗く、いくつもの蝋燭がゆらゆらと不気味に揺れている。壁には巨大なプロパガンダ用レリーフが飾られており、兵士を引き連れた袁術が労働者と農民を導く様子を描いたものだった。

 

 法廷の前方には高い壇があり、大きな木製のテーブルが置かれている。そこは劉勲を始め、袁家の高官が何人か座っていた。袁渙、周瑜、賈駆などもいる。劉勲は気怠そうに顔を上げ、咳払いしてから口を開いた。 

 

「じゃあ大体みんな揃ったようだし、始めましょうか。賈駆ちゃん、説明して」

 

「はい、同志書記長。ボクたち保安委員会は、以前から複数の徐州政府要人の監視を続けてきました。もともと不穏な動きが目立っていた上、ここ最近は特にその傾向が強くなっていたためです。内乱未遂と思しき行為も見られます」

 

「事実無根だ! 俺たちは別に内乱なんて……――ぐぅッ!?」

 

 反論しようとした一刀に、横にいた刑務官が痛烈なボディブローをくらわす。諸葛亮が悲鳴を上げ、一刀は腹を抱えて椅子に倒れこんだ。

 劉勲は無感動に手を上げて刑務官を静止すると、「静粛に」と告げる。

 

「弁明の機会は後であげるから。今はちょっと黙っててくれる? ――賈駆ちゃん、続けて」

 

「はっ。最初に疑問を抱いたのは、徐州政府が揚州へ使節団を派遣した時でした。使節団の派遣そのものは同志書記長と外務委員会の正式な要請によるものでしたが、問題はその後です。運河襲撃事件について揚州政府に協力を仰ぐ、というのが当初の目的だったにも関わらず、使節団はそれとは異なる行動をとっていたのです」

 

 賈駆の黒い瞳が、諸葛亮たちをジッと見つめる。

 

「使節団は会談もそこそこに、なぜか曲阿の街中を歩き回っていたのです。しかもその間ずっと、傍には揚州政府の人間が同行していました。そう、すぐに反乱を起こすことになる揚州政府の人間が」

 

 人民委員たちがざわついた。揚州が反乱を起こした今となっては、接点があっただけで容疑をかけられる。

 

「その後は以前に報告があったように、笮融に襲われたそうですが……ボクたち保安委員会はそこに疑問を感じました。どうして、彼だけが生き残ったのかと。そして今日の夕方、療養しているはずの容疑者が、何故かまた領事館から出かけたのです。しかも行先は貧民街。明らかに不自然な状況でしたので、すぐに該当地区を封鎖するよう警官を動員しました」

 

 賈駆は手に持った書類をめくる。

 

「しかしそうしている間に、容疑者たちを尾行していた警官が何者かによって襲撃を受けたのです。しかも現場にいた警官の報告によると、手練れの戦闘員だったとか。そのために警官6名が殉職し、4名が負傷するという惨事を招いています」

 

 張勲が片手を上げ、質問する。

 

「その襲撃者というのは?」

 

「身元確認を進めている最中ですが、反乱軍の一人、廬江太守・陸康である疑いが濃厚です。つまり容疑者は、大胆にもここ宛城で反乱分子と接触していたことになります。その後は事前に報告のあったとおり、反乱分子と共に警察を襲撃していた所を逮捕しました」

 

「ま、待ってください!」

 

 一方的な証言を止めようと、諸葛亮は顔面蒼白になりながら抗議する。

 

「私たちは襲撃なんてしていません。放っておけば秘密警察の方が死んだ廬江太守を殺しかねなかったからです! 事情聴取のためには、生かす必要が……!」

 

 賈駆が胡散臭そうな目で諸葛亮をみる。

 

「ボクの部下はれっきとした保安委員会の正規職員よ。その捜査に落ち度があったとでも?」

 

 当たり前だ、という言葉が出そうになるのを諸葛亮は堪える。そもそもあんな残忍で暴力的な組織が、幅を利かせている時点で信じがたい。

 

「廬江太守を確保しようとしていたのは私たちも一緒です。しかし秘密警察が現れたことで、図らずも流血沙汰となってしまったのです」

 

 諸葛亮は一度深呼吸すると、袁術の目をしっかりと見据える。人民委員たちの目は猜疑心で満ち溢れているが、袁術だけは違うように見えた。今はそこに希望を見出すしかあるまい。

 

「袁術様。徐州が、今まで袁家に真っ向から反旗を翻したことがあったでしょうか? かつて我々は共に曹操の侵略と戦い、江東の秩序を守ってきました。徐州は、今も昔も袁家と共にあります」

 

 袁術はしばらく目をぱちぱちさせていたが、やがて合点がいったような顔になる。

 

「つまり、お前たちは妾の仲間というわけじゃな」

 

「はい! その通りです!」

 

「だ、そうじゃ。 賈駆もそんなに怖い顔をしないで、一緒に仕事すればよかろう。仲良しが一番じゃ」

 

 それを聞いた賈駆は不満げな表情になるも、ややあって低い声を出した。

 

「仲間……そうね、もしボクたちと仲間だというなら、どうして最初から協力を要請しなかったのかしら?」

 

「それは……」

 

 今度は諸葛亮が押し黙る番だった。その気になれば軍に応援を頼むことは出来たはずだし、秘密警察と共同調査にあたることも、劉勲など他の袁家要人と相談することだって出来たはずだ。

 だが、諸葛亮らはそれをしなかった。今までの事から、袁家を信用できなくなっていたからだ。しかしそれを口に出す訳にはいかない。

 

「この繊細な時期にもかかわらず、容疑者は袁家の誰にも報告せず、一人裏でコソコソ動いていた。自分たちの動きを、ボクたち袁家に悟られたくなかった。それこそ、何か後ろめたい事があるからではないでしょうか」

 

 賈駆は一度そこで言葉を切り、「あくまで憶測ですが」と付け加える。

 

「我々の弱体化を狙う工作員によって、すでに徐州政府は乗っ取られている可能性があります。もちろん中には善良な人間もいると思いますが、多数の政府要人に工作員の息がかかっているというような情報も掴んでいます。あるいは徐州政府の中の誰かが、揚州での反乱を煽っていたのかも知れません。それを知る上でも、今回の2人の容疑者は重要な証人となりえるでしょう。保安委員会としては、速やかな取り調べを希望しますが……いかかでしょうか?」

 

 工作員に上層部が乗っ取られている――まるで市井の三文芝居のような筋書だが、驚くべきことに反対の声は無かった。袁渙がフン、と鼻を鳴らす。

 

「当然だな。そもそも軍務委員会としては、前々から徐州政府を疑っていたのだ」

 

 目を輝かせた張繍がそれに続く。

 

「いいね! そうと決まったら、取り調べの担当を決めなきゃ。できれば自分がやりたいでーす」

 

 取り調べ、というフレーズに反応した劉勲も身を乗り出す。

 

「張繍、アンタがやったら供述そっちのけで解体作業になりかねないでしょーが。ここは信頼と実績からいって、このアタシがやるの筋じゃない? そうねぇ、水責めと吊るし責めなんかどう?」

 

「“親指締め”なんかもいいですよぉ」

 

「張勲いいこと言う♪ じゃあ、それも追加しちゃお」

 

 すっかり血の気の失せた諸葛亮たちを尻目に、拷問方法で盛り上がりを見せる人民委員会。軌道修正のために、賈駆は咳払いをする。

 

「それからもう1つ、保安委員会は容疑者が犯人であるという決定的な証拠を掴んでいます」

 

 もったいぶった言い回しの後、賈駆は背後にいる部下に目をやる。彼女の背後に控えていた、一人の警官が前に進み出た。両手で小さな箱を大事そうに抱えている。

 

「これが、その証拠です」

 

 賈駆がその箱を開くと、黄金の輝きが全員の眼に入った。

 

「なッ――!」

「それは……!」

「まさか――」

 

 袁家の人民委員たちが一斉に立ち上がった。法廷に驚愕が満ちる。箱に視線を集中させていた人民委員たちは、三者三様に驚愕の表情を浮かべていた。

 どの顔にも驚きと困惑しか読み取れない。劉勲は混乱とショックで血の気が失せており、袁渙は興奮で血圧が上がった顔を赤く染めている。楊弘は険しく堅い表情で、周瑜は無表情。張勲はすぐに袁術の反応を確認し、袁術はひたすら目を皿のように丸くしていた。

 

「賈駆ちゃん! こ、これがどういう事か、説明してもらえる?」

 

 張りつめた空気の中、劉勲が掠れた声を出す。

 賈駆は眼鏡をかけ直し、おもむろに他の人民委員を見回した。

 

「容疑者がこれを所有していました。かつて洛陽で永遠に失われたとされた皇帝の至宝……伝国の玉璽です」

 

 あまりの出来事に、人民委員たちは言葉を発することすらできなかった。彼らはまず事態の把握に数秒を要し、続いて今後の袁家と自分の身の振り方に思案を巡らせる。その間、彼らの視線は玉璽だけに注がれてた。

 

 ゆえに――――周瑜だけが、薄い笑いを浮かべていた事に気付いた者はいなかったのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 日の光が、隙間から優しく降り注ぐ。快晴の空の下には、大勢の子供たちがいた。遊び盛りの少年少女たちだが、いつものように鬼ごっこや隠れんぼをする子供はいない。この日は皆、地面に座っていた。まだあどけなさの残る顔で真剣に、中心に立つ年上の少女の話を聞いているのだ。

 

「はい、じゃあ次の字はこれ。読みはね……」

 

 唯一口を開いているのは、桃色の髪をした少女だ。とても穏やかな表情で、語りもおっとりとしている。

 劉備玄徳……現・徐州牧である。慈愛に満ち、誰にでも分け隔てなく接する、人徳の英雄。乱世に降り立った聖母。

 

 そんな彼女は今、雲一つない快晴の空の下、子供たちに読み書きを教えていた。いわゆる青空教室という奴だ。教育による人材の質的向上を目的として、徐州では初等教育が試験的に導入されており、劉備も暇を見つけては子供たちに教育を施していた。

 

「劉備さま、見てみてー。上手にかけたよー」

 

「本当だー! うん、すっごく上手にかけてるよ!」

 

「こっちも見てよ。劉備さまー!」

 

 屈託のない笑顔で、劉備に寄り添う子供たち。劉備も釣られて、晴れやかに破顔する。

 

 徐州における劉備の人気は高い。州牧に就任する以前から、彼女は前徐州牧・陶謙の元で積極的に民のために働いていた。加えて劉備の温和で誠実な人柄、おっとりとした可愛らしい容姿とくれば、民心が靡くのに長い時間はかからない。忙しい公務の合間を探して、普通の領主では行かないような所まで自ら足を運び、積極的に市井の者と会話する。孤児院や治療施設などもよく訪問し、その笑顔で彼らを元気づけていた。

 

 

「りゅ、劉備さまっ! 緊急事態です!」

 

 その和やかな空間は、慌てて駆けつけてきた関羽によって破壊される。

 劉備が驚いた子供たちと共に振り返ると、関羽は一呼吸おいてから有無を言わさぬ様子で口を開いた。

 

 

 **

 

 

 先の戦争で甚大な損害を受けた下邳に代わって、徐州は暫定的に劉備の任地だった小沛を州都としている。その小沛にある劉備の居城では、緊迫した空気が漂っていた。

 

「ご主人様と朱里ちゃんが、逮捕……」

 

 絶望感もあらわに、劉備が呻く。袁家で置かれている苦しい立場を脱するべく、2人が必死に努力していることは知っていたが、まさかこんな事になろうとは。

 

「理由は内乱罪の容疑……2人には工作員の疑いがかけられているそうです。また、袁家は徐州政府に対しても強制捜査の必要性を認めています」

 

 鳳統は感情を消した声で呟いた。宛城の徐州領事館とは連絡が途絶しており、どういう経緯で袁家が今回の暴挙に出たのかは分からない。だが、間違いなく袁家はこれを気に徐州を完全な統制化に置こうとするだろう。

 

「今こそ動くべきです!」

 

 関羽が机を叩き、立ち上がった。

 

「理不尽にもほどがある! ここは断固とした行動をとるべきです!」

 

「愛紗の言う通りなのだ! 袁術の好き勝手にはさせないのだ!」

 

 威勢よく対決を主張する関羽と張飛の2人だったが、鳳統は「無謀すぎます」として首を振る。

 

「袁家との全面対決は避けなければなりません。徐州には我が軍と同数の、2万の袁術軍が駐屯しています。琅邪城には曹操軍も残っており、もし衝突が起これば徐州は焼け野原に逆戻りです! 」

 

「では、捕えられている朱里とご主人様はどうするのだ!? 見殺しにはできない」

 

「いま私たちが動けば、それこそ袁家の思う壺です! 袁家は恐らく、私たちの反応まで予想しているはずです!」

 

 激論を交わす関羽と鳳統だったが、その時、張飛が何かに気付いて声を上げた。

 

「愛紗、雛里、桃香! あっちに何か見えるのだ!」

 

 全員が窓に駆け寄る。その視線の先には、400名ほどの武装した袁術兵が見えた。

 

 

 **

 

 

 劉備たちが外に出ると、袁術兵の中から何人かの士官が進み出る。袁術軍の指揮官を務める政治将校が、微笑みを浮かべて口を開いた。

 

「保安委員会より、徐州政府の内部に工作員が紛れ込んでいるという情報がありました。よって、こちらの城塞を一時的に監視下に置かせていただきます。ご理解とご協力を願えますか」

 

 慇懃な口調で、協力を要請する政治将校。もちろん形の上だけで、断れるとは言っていない。

 劉備は勇気を振り絞って口を開いた。

 

「そんな……わたし達は何もしていません! 工作員だなんて……!」

 

「身の潔白にご自身がおありでしたら、なおさら断る理由は無いでしょう。胸を張って潔白であると、ここで我々に証明する絶好の機会では?」

 

 それは詭弁だ――鳳統は苦渋を感じながら、袁家に抵抗できない現実に歯噛みする。

 

 小沛城には1200名ほどの兵士が常駐しているし、郊外にある駐屯地の兵力まで含めれば5000名近くにのぼる。関羽と張飛もいるし、その気になれば目の前の袁術軍を撃破することは容易い。ただし、それは袁術との全面戦争を意味する――。

 

 袁術が保有する現有戦力を、鳳統は18万程度と分析していた。揚州に8万、徐州に2万、豫州に5万5000、南陽郡に3万5000。圧倒的な戦力だが、兵士の8割以上が戦時になって召集された部隊であり、その錬度は低い。

 なぜなら袁術軍では、平時は極限まで兵力を抑えて出費を抑え、戦時に一気に大量の兵士を雇い、数で圧倒するのがセオリーとされていたからだ。つまり袁術軍はその軍資金が尽きるまで、いくらでも追加の兵士を動員できるということ。恐らく、その数は10万を超えるだろう――。

 

「どうされますかな、劉徐州牧?」

 

 政治将校の声につられるように、全員の視線が劉備に注がれた。関羽と張飛は徹底抗戦を、鳳統は忍耐を、それぞれ視線で訴える。熟考の後、震える声で劉備が言葉を紡いだ。

 

「……分かりました。徐州政府は袁家の要請の従って、捜査に協力します。 ただし……くれぐれも手荒な事は慎んでください」

          




  
 >壁には巨大なプロパガンダ用レリーフが飾られており、兵士を引き連れた袁術が労働者と農民を導く様子を描いたものだった――

 ノリで書いてしまったが、想像すると果てしなくシュール


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88話:殺意の矛先

                      

 張纏は部下と共に、街の外れにある雑木林にいた。摘発した反政府グループは女子供を含む30名ほどで、全員が縄で後ろ手に縛られ、膝をついた状態で目隠しをされている。この状態から逃げ出すには一度体勢を崩してから立ち直さなければならず、警備兵たちが弩を構えている現状での脱走は絶望的だった。

 

「へぇ、思ったより使えるじゃん」

 

 感心したような声で、張纏は一人の男を見つめる。齢は30代ほどで、どこにでもいそうな風貌。しかし彼もまた、この反政府組織の一員だった。――つい先週までは。

 

「つーか、仲間売るってどんな気分なわけ? やっぱ後ろめたい? それとも逆に、嫌な連中がまとめ消えて清々すんの?」

 

 張纏がくりくりとした大きな目で覗き込むと、男は俯いて目を逸らす。これから何が始まるかは、子供でも分かる。かつての同胞を裏切ったとはいえ、いや裏切ったからこそ罪悪感に耐えかねたのだろう。張纏は「理解できない」といった様子で肩をすくめると、近くにいた兵士に現金を渡すように指示する。

 

「はい、お礼の懸賞金。あ、それの使い道は自由だから」

 

 男は無言で金を受け取り、逃げるように去っていった。張纏はしばらくそれを見つめた後、捕えられた反乱分子の一人に声をかる。

 

「残念だったね。押し入れにあった反乱計画は読ませてもらったけど、もし成功すればいい感じに袁家は打撃を受けてたんじゃない? ――もっと人を見る目があれば」

 

 つーか自分から仲間売るとかマジありえないよねー、と張纏は続けるも、話しかけられた相手は答えない。しかし小刻みに体が震えていることから、内心では怒りに打ち震えていることが分かる。

 

「憎い? 殺したい? うんうん、分かる分かる。正直ジブンも殺したいんだよね、あーいう人間は」

 

 しかし、それは禁じられている――保安委員会議長・賈駆の方針に反するからだ。

 

 密告制度と秘密警察の体系化によって保安委員会を中華随一の抑圧・弾圧機関へと成長させた賈駆だが、彼女は密告を制度として定着させるために、「非公式情報提供者の素性と身柄の安全を保障する」という原則を徹底するよう命じていた。

 それまでも密告は行われていたのだが、お世辞にも密告者への対偶は良いとはいえなかった。警察関係者の間でも密告は卑劣で下種な行いだと考えられ、散々使い潰した挙句、用がなくなれば切り捨てるという、いわば捨て駒同然の扱いを受けていたのだ。

 

 しかし賈駆は情報こそが秘密警察が持つ最大の強みだと認識しており、その情報網の維持管理には密告が不可欠だと考え、彼らの信頼関係の構築に努めた。密告者を厚遇するという新姿勢には反発も多かったものの、それに対して賈駆はこう言い放ったという。

 

「――情報に貴賤なし。あるは有益無益のみ」

 

 こうして袁術領では「密告しても安全と秘密は守られる」という意識が、ゆっくりではあるが確実に人々の中に浸透してゆく。それに伴って非公式協力者も増え、その数は5万人とも10万人ともいわれる。こうして保安委員会は名実ともに恐怖の象徴となり、江南に中華最大の監視社会が誕生したのであった。

 

 

「――貴様ら、自分のやっている事が恥ずかしくないのか!?」

 

 反乱分子の一人が、怒りに震えながら口を開く。

 

「歪んだ社会に、腐りきった体制……そんなものを守るために、無実の人々が何百何千と殺されている! どう考えてもおかしいだろ!?」

 

 だが、張纏はむしろ面白い冗談を聞いたかのように笑顔になった。

 

「わぁお、熱いねー。骨のある男って、嫌いじゃないよ。ひょっとして民主主義者?」

 

 民主主義――それは以前から徐州で蔓延している、危険思想の総称である。徐州政府高官の一人、北郷一刀が広めたとされ、徐州牧・劉備もその思想に共鳴しているという。

 

 曰く、人間は生まれながらにして皆が平等で自由である。

 曰く、支配の権威は本来、民衆が有するものである。

 曰く、人間は誰もが平和で幸福に暮らせる権利を有する。

 

「少数の特権階級のために、多数の人間を奴隷にされて言いわけが無い! 人々の権利を平気で踏みにじるような連中に、支配者の資格があるものか!」

 

「ふぅん、そうなんだ?」

 

 張纏は明らかに内容を理解していない事が分かる様子で、取りあえず頷いてみる。無学な彼女は端から思想の是非を議論するつもりなど無く、「なんか必死でウケるwww」ぐらいの軽いノリでしかない。後世で政治団体の街頭演説を遠巻きにスマホ撮りしてる野次馬と同じ、政治的無関心層の一人であった。

 

 ――正直なところ、難しい話はよく分からない。何が正しいとか、どれが効率がいいだとか、そういった学術的な話は。上司の賈駆や劉勲、そして孫権なんかはああ見えて高学歴だし、こういった議論も好きそうだが、あいにく自分は真面目な話が苦手でしかない。分かるのは、実に単純な事柄だけ。

 

 人が死ぬのは悪い事だ。ゆえに多くの人が死ぬ事になる反乱は法律で禁止されている。そして法律を破った人間は処罰される。だから目の前の反乱分子たちは、処罰されなければならない。定められた法律に従って。

 

「とりあえず、罪状は……何だっけ? 反乱未遂罪とか危険物所持とか、まぁその、とにかく死刑になるやつ。 んで、死刑囚を処分すんのがウチら警察官の仕事」

 

 別に恨みはない。殺意もない。ただ単に法律でそう決まっていて、それが仕事だから人を殺す。

 まぁ、敢えて言うなら人殺しが好きで、いっぱい殺せそうだから警察に入ったのだが。それでも法律は守ってるのだから、むしろ模範的な市民の部類ではないだろうか。運のよいことに、自分は趣味と実益を兼ねた理想的な職場にいて、日々の生活を楽しんでいる。そうした毎日が、張纏は嫌いではなかった。

 

 しかし反乱分子の男は納得できなかったらしく、更に反論を続ける。

 

「そうした官僚的な態度が、今の惨状を作り出した! 少しは自分の頭で考えてみろ、自分のやっている事に疑問を覚えたことは無いのか!?」

 

 もしかすると、彼の語る理想はとても立派なものなのかも知れない。彼の主張は、より多くの幸福と人々にもたらし、世界を平和へと導くものなのかも知れない。袁家や秘密警察の大義名分は偽善でしかないのかも。だから――。

 

「まぁ、仕事終わって時間があったら考えてみるね」

 

 張纏は一呼吸置いてから、小型の弩を片手で構えた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 ――南陽郡・宛城

 

 書記局長・劉勲は午後の政務を早めに切り上げ、一人で廊下を歩いていた。廊下とはいっても、羊毛と綿で織られた絨毯が敷き詰められているような、南陽貴族の屋敷に多い洒落た通路ではない。頑丈な石材で作られた、地下牢へと続く道。

 通路は暗く、わずかに松明が灯されているだけ。手に持った燭台の上にある、蝋燭の炎がゆらゆらと蠢く。わずかな付き添いのみを引き連れ、劉勲はその通路を歩いていた。

 

(さぁて、ちょっと気分転換でもしようかなぁ、っと)

 

 地下牢を目指す、劉勲の足取りは軽い。まともな婦女子なら反射的に嫌悪感を抱くであろう場所を、むしろ目を輝かせて歩く様は、彼女もまた一人の異常者なのだと充分に証明していた。

 

(久々に愉しませてもらうわよ。今週は大変だったんだから)

 

 その言葉に偽りはない。たしかにここ数日というもの、袁家高官は例外なく多忙な日々を送っていた。揚州で戦争が始まったのだから、忙しいのは当然であるのだが、内政面でも問題は山積みである。

 

 

 ――いや、むしろ内政面での問題の方が大きいとも言えた。

 

 江東に広がる袁術領のGDPに占める揚州の割合は、おおよそ30%ほど。戦争でそれがごっそり抜けたのだから、額面上のマイナスとその波及効果を含めて、江東経済は前年比で4割近い落ち込みを見せるという恐慌状態と化していた。

 

 これに対応するべく、劉勲はありとあらゆる手段を用いて経済を刺激した。財務委員会や商務委員会など経済関連の政府機関と連動し、様々な金融・規制・財政政策を打ち出すも、すべては文字通り焼け石に水だった。公共投資として大運河建設の予定を早めて有効需要を創出しようにも、不景気という名の底なし沼に金が吸い込まれるばかり。道路建設などの公共事業で期待された乗数効果も、さほどの効果を上げず期待外れに終わった。反乱が起きた揚州や徐州のような田舎ならともかく、従来から順調に交通インフラが整備されていた南陽郡と豫州では、これ以上の経済効果は望めなかったのだ。

 

 貧困層の失業率が指数関数的に上昇する一方、彼らへの食糧配給率は急激な下降線をたどっている。今や宛城ですら餓死者が発生し、弱肉強食を根本原理とする、社会保障・福祉制度の薄い袁家の国家体制の問題点がさらけ出されていた。

 なぜなら飢餓の原因を調査したところ、食糧生産が不足している訳ではなく、流通システムが機能していない事が原因だと判明。行商人など流通関係の業者が破綻して機能不全になっていたり、さらなる物価上昇による利益を期待した大地主たちが売り惜しみをしているからだ。そのため都市では店頭にモノが並ばず閉店が続出し、商品作物に特化したプランテーション地帯の貧民が飢える一方で、穀倉地帯では倉庫に食糧がうず高く積み上げるという矛盾が生じていた。しかも物価上昇は失業して収入源を喪失した市民の財布を直撃し、消費は完全に落ち込んでいた。

 

 加えて多くの投資家や貴族が破産したことで、自殺も急増。資金繰りに窮した多数の商会が経営破綻し、有機的に結合された巨大経済は連鎖倒産を招く。高利貸しなどの金融機関はその債権を回収できない上、自前の投資資金を市場暴落で失って多大な損失を計上、経営が圧迫されていた。

 

 中華で最も高度に発達した袁家の経済は、その巨大さと複雑さゆえに制御を難しくしていた。この経済危機を解決できない劉勲に、人民委員会では批判が噴出していた。この機に乗じて、劉勲らの権力基盤を切り崩して出世を狙う輩も多い。

 

 世間に堪りつつある憤怒の空気を察知したのか、保安委員会は既に警官の重武装化を進めている。危険の目があるなら、早めに摘めるよう密告も今まで以上に奨励されていた。

 

 

 **

 

 

 地下牢と呼ばれる部屋は一般に、天守や塔の下層にある。そこは防衛施設としてもっとも堅固な部分であったから、壁の強度を保つために窓がない。それゆえ囚人を閉じこめておくための場所として使われていた。

 

「――いたいた」

 

 劉勲の目当ては、畏れ多くも袁家に敵対し、利敵行為を行った裏切り者だった。反乱を起こした揚州と接触を繰り返し、秘密警察を妨害し、玉璽を隠し持っていた袁家の敵――その者の口から、情報を聞き出すことを求めていた。

 

「さて、質問でーす。君の取り調べ担当者は誰でしょーう?」

 

 部屋にいた男がぴくり、と反応した。両手は拘束されていて、必死になってこちらを睨みつけている。とはいえ流石に地下牢に長時間拘束されていたせいか、そこに含まれる疲労までは隠せていなかった。

 

「……劉…勲………?」

 

 名前を呼ばれ、にっこりと微笑む劉勲。いつものようなドレスではなく、絹のナイトガウンを纏っている。光沢のある淡い紫色で、レース飾りを控えめにしたシンプルな作り。その下から覗く透明感のある白い肌は、世の男にとって目の毒でしかない。

「おおう、大正解。はぁい、一刀くん元気にしてた? ――――って、そんな嫌そうな顔しないでよぉ。連れないなぁ」

 

 劉勲はあざとく拗ねてみるも、一刀は露骨に顔をしかめた。

 

「……何でお前がここにいるんだ? こういうのは秘密警察の管轄じゃないのか? 賈駆はどうしたんだよ?」

 

 劉勲の戯言を遮って質問を重ねる一刀。あの眼鏡女も気に入らないが、目の前にいる面倒臭そうな女よりかは幾らかマシなはず。

 

「あー、そーいうコト言っちゃうんだ。せっかくキミのこと心配して見に来てあげたのに、他の女の催促ぅ?」

 

「………」

 

「あ、反応薄い。そーいう態度、お姉さん感心しないなぁ」

 

 むぅと頬を膨らませる劉勲に、しかし一刀は答えない。口もききたくない、という意思表示の表れなのだろう。

 拗ねちゃったか―、と劉勲は苦笑する。晴れ晴れしい、愛おしさすら感じさせる笑み。状況とのアンバランスなギャップが、耽美的な美しさを醸し出す。

 

「でも……ふふっ、拗ねたキミの表情も、すっごくイイ……」

 

 緑の目をうっとりと細め、ゆっくりと一刀に近づいていく劉勲。白い頬は上気してピンクに染まっており、無意識の内に息も早くなっている。

 

「もぉ、元気良くしなさいって言ってるのにぃ……カズト君ったら負けず嫌いなんだから。そんな風にずぅっとヘソ曲げてると……」

 

 ――お姉さん、お仕置きしちゃうぞ?

 

 にっこりと微笑む劉勲。続けて彼女の視線は部屋の隅――彼女お気に入りの古今東西拷問器具コレクションへと向けられ、再び一刀に戻る。

 

 口に出すもおぞましいような事を考えながら、じっくりと対象を観察する、深い緑色の双眸。

 ほっそりとした指が、剥き出しになった一刀の体を這う。糸に絡めとられた獲物を、味見する蜘蛛のように――。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 ――徐州・小沛

 

 

「はぁ……はぁっ………!」

 

 夜の裏路地を、一人の女性が走っている。言うまでもなく、夜の街というのは危険極まりない。当時の都市は清潔さとは無縁の場所で、領主の城や貴族の屋敷から一歩離れればゴミと汚物塗れの空間が広がっているのだ。不潔で薄暗いスラム街には多くの貧困層――犯罪者と同義であった――が住んでおり、夜に女性がそこを一人歩きするなど正気の沙汰ではない。しかもその女性が、まともな衣類を身に着けていないとなれば猶更だ。

 

 恐らくはどこからか逃げるようにして走ってきたのだろう。見たところ齢は20代半ば、ちょうど結婚適齢期の女性。元々は自分の服だったと思われるボロ切れを体に巻き付け、ふらつきながら必死に走っている。途中、何度も倒れながら彼女は走り続けた。並みの女性なら等に諦めているだろうに、彼女はそれを止めようとはしなかった。

 

 ――少しでも早く、ここを離れなければならない。逃げ遅れれば、自分の宝物まで壊されてしまう。

 

 それは執念。火事場の馬鹿力という諺にもある、覚悟を決めた者だけが引き出せる力。

 そして彼女から秘められた力を引き出した者の名を、秘密警察と言う。

 

 

 **

 

 

「ど、どうかお慈悲を! うちの娘は無関係ですっ!」

 

「うるさい、静かにしろ! 貴様も公務執行妨害で逮捕されたいのか?」

 

 城下を巡回していた関羽が宿屋の前で目撃したのは、秘密警察による逮捕劇であった。年端もいかぬ少女が手錠をかけられ、必死に懇願する母親を警官たちが押さえつけている。

 

「お願いします! 本当に何も知らないです! だからどうか、どうか娘だけは――」

 

「ハッ、どうだか。こんな時期に家を離れて宿に泊まっていた時点で、自分は怪しいって言ってるようなもんだ。どうせ当局から逃げようとして、宿に泊まっていたんだろ?」

 

 秘密警察のリーダー格は取り付く島もないといった様子で、涙を流す母親を乱暴に突き飛ばす。

 

「黙れ、この反乱分子が! 逮捕令状は出ているんだ。文句があるなら、まず役所に必要書類を届けてからにしろ」

 

 連座で再逮捕されなかっただけ有り難いと思え、そう吐き捨てて秘密警察の男は立ち去ろうとする。怯えた少女を連行して後ろを振り向いた時、その前に関羽が立ち塞がった。

 

「失礼。何があったか、説明願おうか?」

 

「あ?」

 

 秘密警察の男は胡散臭げな顔を関羽に向けたが、彼女の服装とその象徴的な武器――青龍偃月刀――を見ると、目を見開いた。

 

「か、関羽将軍……?」

 

「いかにも。 さて、さっきのは一体なんの騒ぎだ?」

 

 関羽の名を聞いた周囲がざわつき、秘密警察の顔色が変わる。悪行を咎められた類のものではなく、むしろ誇らしげな様子で警官は口を開いた。

 

「はっ! 街の平和を守るべく、反乱分子の捜索に当たっていたところであります!」

 

 話を聞けば、目の前で手錠をかけられている少女は、反乱分子の娘だという。母親の尋問は既に済ませたものの、そのときに改めて娘さんにも後ほど協力を願いたいと告げたところ、2人で逃亡を図ったため止む無く逮捕した……そう語る秘密警察の姿は、まさしく職務に忠実な警官の鑑である。

 

 それに横槍を入れたのは、先ほど突き飛ばされて伏していた母親だった。

 

「それはっ……あなた達があんな事(・ ・ ・ ・)をするから!」

 

 再び瞳に涙が溢れ、歯を食いしばりながら警官を睨み付ける母親。その尋常ではない様子に何かを感じ取ったのか、関羽は続きを促した。

 

「その……差し支えなければ、何があったか聞かせてもらえるか」

 

 しかし母親は、当惑したような目つきで再び黙り込む。沈黙――怪訝に思った関羽がもう一度問うも、それでも彼女は動こうとはせず、その視線は娘と秘密警察に向けられていた。

 関羽はどうしていいか分からず、無言で彼女の顔をじっと見つめる。その涙にうるんだ目を見ていると、やがて一筋の涙が頻をつたって落ちていった。

 

 

 ――その瞬間、関羽は全てを理解した。

 

 

 関羽は再び秘密警察に向き直ると、低い声で問い詰める。

 

「……そういえば、昨日はこのご婦人に尋問をしたそうだな。――貴様、いったい何をした?」

 

 関羽から剣呑ではない空気を察したのか、警官の方はやや困惑気味に口を開いた。

 

「か、簡単な取り調べだ。口頭尋問と、荷物検査。ああ、それから――」

 

 秘密警察の男はさも当然、というように言い放つ。

 

 

「――体に何か隠し持っていないか、身体検査もしたな」

 

 

 ◇

 

 警官のその言葉に、離れて状況を伺っていた群集――特に男たち――の剣幕が変わった。

 

「オイ、身体検査ってどういうことだ!」

 

「そういえば、取り調べを受けた若い娘が次々に自殺しているって噂も聞くぞ」

 

「まさか、コイツらが――」

 

 遂に、涙目になっていた母親が口を開き、毅然として語り出した。

 

 ――取り調べの際に、衣服を全て剥ぎ取られたこと。

 ――抵抗すれば殴られ、数人がかりで地面に押さえつけられたこと。

 ――頭に袋をかぶせられ、袋の穴から口と鼻に大量の水を注ぎこまれたこと。

 ――そして最後には鼻、口、肛門、膣に特殊な拷問器具を押しこまれたこと。

 

 すべてを言い終わると、母親はわっと泣き出した。群衆の半数は彼女に同情の眼差しが向け、残りの半数は殺気だった視線で警官を睨み付ける。今や秘密警察による取り調べは日常茶飯事であり、彼らにとっても他人事でもなかったのだ。この中に、自分も含めて秘密警察の取り調べと無関係でいられた者はいなかった。

 

「てめぇ、目の前の娘にも同じことをするつもりだったのか! まだ年端もいかない生娘だっていうのに!」

 

 一斉に警官へと詰め寄る男たち。流石にここに至って、ようやく警官も自分が失言を犯したことを悟った。ここは徐州、南陽ではない。弱肉強食という、彼にとっての常識は通用しないのだ。

 

 対して、民衆の方は暴発寸前だった。もちろん先ほどのような非道を聞いた憤りもあるだろうが、それ以上に男たちの心を支配されていたのは、恐怖だった。

 

「こいつら……俺たちの女房ばかりじゃなく、娘まで犯したのか……?」

 

 本人たちから直接聞いたわけではない。むしろ被害を受けた女性たちの身中を鑑みれば、言えるはずがない。男たちの心に渦巻いた疑念は、恐怖と怒りを統合し、さらに集団心理と結びついて暴力的なエネルギーへと昇華していった。

 

「ひっ……!」

 

 数の暴力。無数の群集から慌てて逃げ出そうとした警官の周りには既に彼を取り囲むようにして殺気立った人々が集まっていた。

 

「誰か! 誰かいな――」

 

 そこで彼の言葉は途切れた。次の瞬間には首が弾け飛び、胴体が血の噴水と化す。所在なげに硬直すること数秒、首が地面に落ちると同時に胴も崩れ落ちる。

 首には死ぬ間際の驚いた表情が張り付いており、その瞳の先には――

 

 

 青龍偃月刀を振り下ろした、血塗れの軍神が立っていた。

    




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 明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。


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89話:城へ、城へ

                    

「っ……!」

 

 関羽は血の滲むほど、強く唇を噛んだ。圧倒的な暴力を前に、己の無力を噛みしめる屈辱はこれで何度目だろう。袁家は徐州から自由を奪い、北郷一刀と諸葛亮を奪い、今度は民の命まで奪っていこうというのか。

 

 ――やはり、戦うべきだった。

 

 関羽の胸に、後悔が湧き起こる。続いて彼女は、今に至る経緯に思いを馳せた。

 

 そもそも、自分は何のために武器をふるっているのか。

 なぜ義兄弟たちと誓いを交わし、旗揚げをしようと決意したのか。

 

 誰もが幸せに暮らせる世界を作りたい……そう語った桃香の理想に共感したからだ。そう、自分は人々の幸福のために立ち上がったはず。それなのに、気付けば虐げられている人々を放置している自分がいる。

 もちろん現実は厳しい。理想通りにはいかないことも多くある。時には耐え忍ぶことも必要だと、諸葛亮あたりに諌められもした。

 

 だが、いつの間にか「現実」を言い訳にして困難から逃げていたような気がしないでもない。困難から目をそらし、妥協することに甘えてしまっていたのではないだろうか。

 

 たしかに荒廃した徐州を立て直すには、豊富な資金を持つ袁家の手を借りるのが一番てっとり早くて確実な方法だったかもしれない。しかし袁家の力を借りることと、その言いなりになって虐げられることを甘受するのは違う問題のはず。自分たちは袁家の奴隷ではないのだ。

 

 ああ、そうだ。我々だって人間だ。金持ちだから、権力者だからと遠慮する必要はない。同じ人間なのだから、理不尽な目にあった時は一歩も引いてはならないのだ。そこで譲歩すれば、自ら自分が相手より劣ると認めたようなものだ。

 

 戦おう――と、関羽は決意した。

 

 それが唯一の道だ、と言い切るほどの自信はない。武はあっても学のない自分の考えることだ。むしろ大いに間違っている可能性すらある。ひょっとすると今まで通り、袁家に服従する道の方が正しいのかもしれない。本当に正しい道なのか、正直なところ保障はできない。

 

 しかし、だからこそ試してみる必要もあった。死力を尽くして戦い、その結果を見極める必要があるのだ。

 

「みんな、よく聞いて欲しい。私は今から――――袁家と戦う」

 

 周りの人間が、一斉に息を飲む音が聞こえる。

 

「私はこれより、忍耐によってではなく、行動によって徐州を変えようと思う」

 

 無理強いするつもりはない。命や家族の安全を優先したい者は、遠慮せずにそちらを優先して欲しい。むしろ一刻も早くここから離れるべきだ。実際、どうなるか保障はできない。もちろん責任はとるが、それでも多くの人に迷惑をかけてしまう結果になるだろう――――だが、それでも。

 

「私は行動によって、新しい理想の世界を目指す! たとえ武器を持って戦うことになろうとも、これ以上は奴隷のように屈したりはしない!」

 

 関羽の演説の後、背後から叫ぶ声がした。

 

「――私も、戦います!」

 

 関羽が振り返ると、そこに立っているのはあの親子だった。全身を震わせながらも、毅然として口を開いた。

 

「将軍のした事は間違っていません! 将軍が助けてくれなければ、この子は絶対に酷い目に遭わされていました」

 

 だから自分の行動に責任を感じる必要などない。あの時の判断は正しかったのだと、むしろ胸を張ってそれを誇ってほしい……そう母親は訴え続ける。

 

「関羽将軍がいたから、私たちは理不尽な暴力から逃れることが出来たんです。将軍がいなくなってしまえば、また袁家は同じことを繰り返します」

 

 袁家は弱者に容赦しない。富める者はより豊かに、貧しき者はさらに困窮していく。せめてもの救いは伝統軽視の風潮のおかげで実績に応じた成り上がりも可能という点だが、そういった成功者もある意味では強者といえるだろう。本当の弱者とは力もなければ金も才能もない人間のことで、社会ではむしろそうした人間の方が多数派だ。

 

 能力のある者には、それに見合う権力を与える……それだけだと聞こえは良いが、裏を返せば才能を持たない人間には何の権利も与えられないということ。それを徹底した社会は最も原始的な法則――『弱肉強食』が生きる世界となる。食物連鎖の頂点に立つのは、少数の力を持った人間だけ。残りを占める多くの力なき人々は、彼らに捕食されるべきエサでしかない。

 

「たしかに袁家は強くて、私たちは弱いです。でも、だからといって………」

 

 理由のない暴力が平然と振るわれ、年端もいかぬ娘が犯されても泣き寝入りするしかない――。

 民は家畜同然の扱いを受けながら酷使され、老いて働けなくなれば野山にうち捨てられる――。

 隣人が互いを密告し合い、誰もがいつ殺されるか分からない恐怖に支配されて日々を過ごす――。

 

 

「こんな世の中は異常です! 絶対に、どこか間違っています!」

 

 一瞬、あたりを静寂が支配した。空気が張り詰めたような沈黙……しかし、その場にいた誰もが、体の内側から沸々と何かが湧き上がってくるのを感じていた。緊張した空気は周囲を震わせんばかりで、行き場を失って滞留した熱風が、勢いよく噴き出すはけ口を探しているようでもあった。

 

 直後、どこからか野次が飛んだ。

 誰もが待っていた、始まりの一声。

 

「――そうだ、その人のいう通りだ!」

 

 続けとばかりに、同調する声が次々に上がる。それは燎原の火の如く、だんだんと一過性の興奮による戯言では済まされなくなっていた。てんでバラバラに喋っていた声が、ほどなくして袁家への抗議へと収束してゆく。

 

 もう誰にも止められない――そう関羽は直感した。血が流れたならばなおのこと、果断に行動せねばならない。動くしかないのだ。

 

 袁家による反撃はどうするのか。抗議をして、どうする? 勝算はあるのか、死者はどれほど出るのだろう……そうした諸々の問いが頭をよぎらないではない。だが頭の片隅では、自分でも不思議なくらい迷いがなかった。

 

「行くか」

 

 小賢しい善後策など、とうに吹っ飛んでいた。何をすればよいかなど、行けば自然と分かるはず。自分でも驚くほど大胆な行動だが、既に賽は投げられた。

 

「行こう」

 

 関羽は再び口に出した。

 何処へ、という質問に対して関羽はこう答える。

 

「小沛城だ。囚われた主と、友を助けに行く」

 

 市民たちは互いに顔を見合わせ、互いの意を確かめるかのように頷き合う。将軍に続け、という掛け声がどこからか聞こてくる。次第にその声は大きくなっていき、やがて違う言葉へと変化していた。

 

「城へ」

 

 誰が教えたわけでもなく、誰が命じたわけでもない。強いて言うなら、皆が一斉に天の啓示でも受けたかのようだった。その証拠に、その言葉は勝手に人々の口をついて、おのずから大きな叫び声に変化していた。

 

「行こう、城へ」

「ああ、城へ」

 

 もはや戯言では済まされない。民衆の大合唱。数百、数千、いや数万の人々の声が、今やたった一つの掛け声に収束していた。 

 

「城へ、小沛城へ」

 

 さぁ、城へ行こう。

 

 囚われの劉備たちを救いに。

 関羽将軍を復権させるために。

 

 ――そして、悪い袁家を倒しに。

  

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 同時刻・小沛の中心街にて――

 

 夜が明けたばかりの小沛の街では、人々が広間を避けるように歩いていた。反乱未遂のかどで処刑された、100名を超える罪人たちが晒されているからだ。

 

「こりゃひでぇ……無残なもんだ……」

 

 人々の憩いの場であるはずの広場が、一日のうちに死刑の博物館と化していた。打ち首になった後に晒された者もいれば、吊るされた者もいるし、磔にされたり串刺しにされた者もいる。鞭打たれ、刃物で八つ裂きにされ、こん棒でぶたれ、皮を剥がれた幾つもの死体が、一週間以上も放置されていた。とうに腐敗していたり、鴉に啄まれて肉片をまき散らしている屍もある。

 これらは全て、保安委員会の意を受けた張纏の指示によるものであった。現在、張纏は下邳に着任しており、徐州での取り締まりを強化させていた。

 

「おい見ろよ、子供までいるぜ。いくら罪人の家族だからって、何もここまで酷い仕打ちをしなくても……」

  

「ああ、人間のやる事じゃねぇよ。袁家は鬼だ、人食いの鬼だ」

 

 無残な光景を前に身も凍る思いに震えながら、誰もかれもが憤怒の嗚咽を上げている。どこの居酒屋でも、商店でも、銭湯でも、顔を合わせた人々は例外なく袁家の冷血さを罵っていた。

 

「税金は上がりっぱなし、生活は窮屈になるばかり。ったく、本当に嫌な世の中になったもんだ」

 

「そうだそうだ。揚州反乱とやらのとばっちりで、税金どころか物価までひっきりなしに上がってやがる。なのに袁家の連中ときたら、私腹を肥やすばかりで来る日も来る日も贅沢三昧ときた。今月も大宴会やら宮殿の改築やらが目白押しだとよ」

 

「まったくだ。そもそも、途方もない費用をかけて南方の領土を取り戻したって、どうせ儲かるのは揚州に利権のある一部の商人だけさ。俺たち一般人には何の関係もない」 

 

 税金の話となると、皆おのずと暗い顔にならざるを得ない。親から資産を受け継ぎ、土地や奴隷を抱えているような身分の人間でさえ、今度の増税と物価の高騰は大きな悩みである。仕事を終えた市民が集まる飲み屋でも、話のタネはそのことばかり。

 

「お前、郊外に新築された書記長の別荘のこと知っているか? どでかい庭には人工の池やら浴場まであるって噂だ。あの女はたしかに美人だが、ありゃ妖婦の類だ。金の刺繍がびっしり入った絹の服をいくつも作らせるわ、手当たり次第に宝石は買うわ、全国から珍しい食材をかき集めるわ。おまけに旅先で気に入った場所があれば、すぐ別荘まで建てるときた。まったく、金遣いの荒いったらありゃしない」

 

「らしいな。なんでも袁術の宮殿より贅沢だっていうぜ。しかも退屈すればお気に入りの美男子や舞台俳優に囲まれて、毎日のように乱痴気騒ぎだとか」

 

「ああ、それなら俺も聞いた。若くてイケメンの男を見れば、誰構わず寝床に引き込もうとするって噂だ。もっとも結婚もしてない独り身じゃあ、盛りのついた女がいつまでも満足できるわけがねぇ。大きな声じゃ言えねぇがよ、ありゃ絶対に毎晩……」

 

「しっ、静かにしろ! 警察に聞こえる!」

 

 大通りを闊歩する警官隊が去っていくと、市民たちの間で再びに不満の声が燻り始めた。

 

「ちくしょう、クソ食らえってんだ!」

 

「何が名門袁家だ! 守銭奴どもがいい気になりやがって……今に痛い目をみるぞ」

 

 怒りの声を上げるのは、民衆ばかりではない。袁家に好意的だった名士や名族といった身分の高い人々の中にも、保安委員会のやり方に対して疑問を持つ者が現れ始めていた。

 

「下邳に着任してからというもの、保安委員会の連中はすっかり自分たちの天下だと思っております。やることはデタラメ、とにかく締め付けるだけしか策が無いとは、まったく嘆かわしい」

 

「まったくだ。先代の陶謙さまだったら、絶対にこんな事はなさらなかったはずなのに。あの時代が懐かしい……」

 

「しかも袁術様が幼いのをよいことに、その取り巻き連中がますます図に乗っているとか。娼婦と蛮族が江南の支配者ですと? 笑わせてもらっては困りますな」

 

 不満の対象は保安委員会だけではない。袁家が名士たちを徐々に疎ましく思い始めていたのと同様に、彼らもまた袁術とその家臣団への不満を募らせていた。日々の政務を支えているのは、家柄や出身を問わない物欲の亡者――人民委員たちである。中でも賈駆のような辺境出身者や、明らかに如何わしい方法で出世したとしか思えない劉勲は、やっかみの対象であった。

 

「それに何ですか、この前の書記長の温泉旅行は! たかだか女一人が温泉地に行くだけで、護衛の兵士が100人に召使いが300人、取り巻きの女官やら料理人、音楽家までいれて総勢600人ですよ!」

 

「しかも自分が通いやすいように街道の整備と別荘建築まで始めたとなれば、呆れて開いた口もふさがりません。それともアレですか、調子に乗って自分の力を見せつけているのですかな?」

 

「それを言うなら袁家も袁家だ。そもそもあんな右も左も分からぬ子供が統治しているから、ああいう連中がのさばってしまうのだ。頼みの資産も、戦争と不況のせいで今やほとんどカラだとか。今度の増税は貧乏人ばかりではなく、富裕層にも重い負担だ」

 

「揚州との戦争は、このままいつまで続くとも知れません。にもかかわらず無駄な贅沢にばかり国庫金を使っているとは、冗談じゃありません。皆さんもご存じだと思いますが、今度の景気刺激策も失敗に終わったようで……」

 

 

 いつもの場所での、いつもの愚痴。悲しいかな、いつの時代も上に立つ人間は決まって腐敗していて、強欲なうえに無能なのだが、一市民の身ではどうしようもない。せめて愚痴を言うことで、自分が不幸なのはお上のせいだという事にして、多少の自己満足を得るのである。

 それゆえ、彼らはこの日も同じように仲間内で不満をぶちまけた後、適当な頃合いを見計らって店を出ようと考えていた矢先の事だった。

 

「おい、あれは何だ……?」

 

 この日は、いつもと少しばかり様子が異なっていた。最初の一人が声をあげると、残りの面々も釣られて同じ方向――窓の外を見やる。

 

(………っ!?)

 

 その日、彼らが目にしたのは城へと向かう民衆の群れだった。何千、いや何万という民衆が城へ向かって行進しているのだ。明らかに尋常ではない。彼らは互いに顔を見合わせ、ひとつの結論に達した。

 

「――俺たちも、行ってみるか」

 

 

 **

 

 

 劉備が袁家から“工作員”捜査要請を受けて数日、弾圧の嵐は徐州全体を覆おうとしていた。勤労が美徳とされている秘密警察は精力的に働き、昼夜問わず犯人探しに奔走する。

 

 ところが捜査手法は乱暴なもので、勝手に民家に押し入って家中をめちゃくちゃにするなど日常茶飯事。その他にも、法律を悪用して実に様々な乱暴狼藉を行っていた。たとえば“証拠品の押収”といえば金品を巻き上げることと同義であったり、少しでも口答えすれば“公務執行妨害”、武器や密書を隠し持っていないか調べる“身体検査”の5割は、なぜか若い女性が対象であった。

 

 保安委員会徐州支部の取り調べは苛烈を極め、その横暴ぶりは本部から派遣された隊員が目を顰めるほどのものであったという。これは人員の優先順位が本部(南陽)、豫洲、揚州、徐州の順であったため、徐州支部には低質な人材や、左遷された人間ばかりが送られてきたのが原因とも言われている。

 

 もちろん徐州の民は大いに憤慨した。もともと徐州は前徐州牧・陶謙の元で比較的公正な統治が行われており、その後を継いだ劉備もまた、民の平和と幸福を第一に考えた政策を行っている。ゆえに徐州の民は過酷な統治――軍隊と法律による厳罰的な統制が行われている曹操領、熾烈な競争・格差社会が当たり前の袁術領、異民族の遊牧地に隣接するため常に臨戦態勢にある公孫賛・馬騰領、伝統を重んじるがゆえに身分・階級制度の厳格な袁紹・劉表領などに比べれば、徐州は民にとって過ごしやすい地域だった――に慣れておらず、他の領民なら諦めているような事柄にも抵抗した。

 

 そのため秘密警察の行動は様々な妨害に遭い、それが秘密警察のやり口を一層過激なものにし、結果として住民がさらに彼らを敵視するようになるという悪循環に陥っていた。

 

 ――反乱の下地は、すでに出来上がっていたのだ。

 

                              後漢書・袁術伝より抜粋――。

 

 

 ◇◆◇ 

 

 

(い、いったい何が起こっているんだ……!?)

 

 その日、小沛城の警備に当たっていた兵士たちは、己の目を疑った。

 眼前には、数万の群衆。それが自分たち目指して進軍しているのだ。

 

 ――まさか、民衆が蜂起したのか。

 

 警備隊長の脳裏に、最悪の事態がよぎる。数万もの人間が集まれば、それだけで脅威となる。いくら武器を持っているとはいえ、背筋が寒くなるのを禁じ得ない。蜂起の噂は絶えなかったし、つい先日も警官が一人行方知れずになったばかり。そんな推測を補完するように、今までには考えられない光景が飛び込んできた。

 

 行進を続ける民衆の前で、兵士たちが走っている。たしか、彼らは役場や城門など市内の要所に配置されていたはず。その彼らが、勝手に持ち場を離れて逃げ出している。

 それが意味することは明白だ。すなわち、一回の戦闘も無いまま市内の戦略的要所および公共施設のすべてが民衆の手に陥ちた、ということ。

 

「――劉備さま達を解放しろ!」

「――秘密警察に捉えられている、無実の人々もだ!」

「――ここは徐州だ! 袁家は南陽へ帰れ!」

 

 それが民衆の声だった。乗り込んできた民衆は道も家も関係なしに蹂躙し、周辺からも押し寄せた数万もの人海は途絶える様子がない。民衆は愚かだが、それゆえに脅威でもある。彼らは子供のように我慢を知らず、その野蛮さと節操のなさは一応の教養を修めている貴族たちの比ではない。

 

 大通りを封鎖する部下の兵にも動揺が広がり、士官ですら逃げ出したい気持ちに駆られる。しかし、群集の姿がはっきりと見えるようになってくると、その印象が微妙に変化した。

 

 槍だの弓だのといった、本格的な武器を携行する輩もたしかにいる。しかし大部分は包丁や農具などを担ぐにとどまっており、数の上では角材が主装備だ。いや、それっぽい武器を構えられればまだ上出来な部類で、そもそも武器など持っていない丸腰の人間や単なる野次馬、運悪く人の波にのまれて逃げ出せなくなっただけの通行人までいた。

 

 

「――止まれ、ここから先は立ち入り禁止だ!」

 

 計画された武装蜂起ではない。単に一時の場の雰囲気に呑まれた民衆が日頃の鬱憤を晴らしに来ているだけ……警備隊長はそう結論づけた。部下にも臨戦態勢を取らせ、槍と弩で威嚇する。

 

「とまれ! 止まらんと撃つぞ!」

 

 兵士たちの威圧行為は、一時的にではあるが、民衆の動きを止めたようだった。戸惑いの声も聞こえる。

 しかし後列の人々は前列の停止に苛立ったのか、罵声を上げながら前へと進もうとする。野次も再燃した。

 

「軟禁された劉備さまを解放しろ! 秘密警察どもに逮捕された人々もだ!」

「というより、なんで袁家が徐州でデカい顔をしているんだ。さっさと南陽に帰れよ!」

「無実の人々が大勢、冤罪で捕えられてるって聞いたぞ!」

 

 口々に自分たちの主張を叫ぶ民衆。声ばかりではない。ガンガンと物が打ち鳴らされ、足が地面を踏み鳴らす音は地震のように大気を震わせる。

 

「一体どうなっているんです! 米も薪もありません! どうやって冬を越せというんですか!?」

「減税しろ! これじゃ生きていけねぇだよ!」

「子供が腹を空かせているんです! せめて食料品の値段をもう少し安くしてください!」

 

 同じ主張ばかりでは、やはり無学な大衆いえども飽きるのだろうか。政治的な主張をしていたはずが、いつの間にか話題が米の値段やら物資不足に変化している。

 さすが低学歴ども、支離滅裂だ――貴族出身の警備隊長は、そんな懇願をする人々に向かって大声で告げた。

 

「黙れ! これ以上騒ぐと収容所送りだぞ! こちらには攻撃許可も出ている!」

 

 解散せよ、さもなくば攻撃する……警備隊長は片腕を上げ、攻撃の準備をした。実際にはそんな指示は出ていないが、ハッタリとしては有効なはず。そう、今までもこうやって民衆を黙らせてきたのだから、今回だってきっと収まるはずだ。

 

 しかし、そんな彼の予測は覆された。

 

 

「――おう、俺たちとやろうってのか!?」

 

 何処からか聞こえたその叫びが彼の耳に届く。さらに、彼がその声の主に反論する前に前方の群衆の中から同意の声が無数に上がる。そしてその熱狂は人々を更なる批判へと駆り立てた。

 

「みんな聞いたか! 袁家の奴ら、俺たちを皆殺しにするつもりだ!」

「連中、最初からそのつもりだったんだ! やっぱり話合いなんて無駄だったんだ!」

「くそっ、やられる前にやっちまえ!」

 

 どういう理屈だ、と警備隊長は思いながら、反論しかけた口を閉じる。そもそも理屈が通じる相手ではない。仮に論破に成功したとして、その頃には後列の群集はさっきの支離滅裂な論法に同調しているだろう。

 

「黙れっ!いいから下がれと言っているんだ!」

 

 そう怒鳴り返しながらも、彼は困惑していた。今までなら、こんなことは無かった。その間にも、人々はまるで波のように、広場に向かってゆっくりと進み続ける。

 

 どう対応すればいいのか分からない。だが、部下の手前で逃げ出すわけにもいかない――そんなジレンマに引き裂かれそうになりながらも、彼は必死に権威にすがって叫び続けた。

 

「これは上の命令だ! 袁家に逆らうのか!?」

 

 最後はほとんど悲鳴に近かった。しかし、民衆が歩みを止める気配は皆無だった。仮にその意思があったとしても、もう止まることが出来ないのだ。ひとたび動き出した人の群れは、いまや巨大なエネルギーとなり、自然現象と同様に人の手が届かぬ領域に達していた。

 

(……ひっ!)

 

 それは殆ど動物的な本能だった。命の危機に、生存本能が反応する。それは申し合わせたかのように、兵士たちに一様の行動を促した。

 

 

 **

 

 

「おい! あれを見ろよ!」

 

 民衆と共に小沛城に向かって進む関羽の耳に、誰かが叫ぶ声が聞こえた。

 

「袁家の連中、逃げていくぞ!」

「なんだって!? 今の話は嘘じゃないだろうな!」

 

 ざわめきは瞬く間に広がっていき、数分もしないうちに行進に参加した民衆全員がひとつの情報を共有することになる。

 

 ――袁家の軍隊が逃げ出した。自分たちは、小沛を取り戻したのだ。

 

「勝ったぞ!俺たちだってやれば出来るんだ!」

 

 誰かが威勢の良い声を上げ、続いて何人もの人間が呼応した。最初の爆発が落ち着いて、興奮はなお覚め止まず、それどころか一層浮つき始めた。

 

 

 関羽もしばらくは思考が追いついていない様子だったが、ようやく自分を取り戻したようだった。

 

 ――ついにやってしまった。もう元には戻れない。

 

 これで袁家は完全に敵に回る。徐州の民も、袁家との徹底抗戦を決めたようだった。であれば発端の責任のある自分も、一緒に腹をくくるしかない。

 だが、不思議と不安は無かった。袁家の報復を考えると決して状況は楽観視できないのだが、同時に関羽は吹っ切れた者に特有の清々しさをも感じていた。一種の興奮状態ともいえる。

 

 それに、考えてみれば悪い事ばかりではない。改めて考えると、自分が大人しく従ったところで、袁家が自分たちの生命を守る保障はどこにもない。従えば一時的に安全は守られるかもしれないが、執念深い保安委員会のことだ。舌の根の乾かぬ内に冤罪とでっち上げの罪状で、無実の民を強制収容所にぶち込むに違いない。

 なればこそ、万が一にでも勝つ可能性に懸けて戦うべきだったのだ。いや、どのみち一緒だとすれば余計に決して逃げるべきではなかったのだ。

 

 見れば、周囲では未だ興奮冷め止まぬ民衆たちが互いの健闘を讃えあっている。どの顔も明るい表情で満ちており、袁家に支配されてから久しく見る事の出来なかった表情であった。

 

 何はともあれ、小沛の民衆は、恐怖の権化だった保安委員会を自力で押し返したのだ。

 それは徐州の民が自らの手で掴んだ民衆の勝利、記念すべき解放の記念日であった。

                        




 無血開城に成功した関羽さん。やっぱ数は力ですね(適当)。
 さて次回、解放された劉備と袁家はどうするのか――?


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90話:民を導くもの

 

 部屋の中には一人の男が、台に縛り付けられ裸で横たわっている。男の両手足は革ベルトで固定されていた。足元にはヤギがいて、足裏を熱心に舐め回している。

 

「もぉ、緊張しなくてもいいのにぃ。連れなくされると、わたし寂しくて泣いちゃうよ?」

 

 その隣では、ゆったりとした薄いガウンを着た若い女性――劉勲が愉しそうな表情を浮かべていた。気味が悪いほど丁寧に服を脱がせていき、細い指で一刀の顎を持ち上げる。

 

「それ、牛革でつくった特注品なの。革製の方が肌傷めないからね。付け心地最高でしょ」

 

 既に三日にわたって、一刀への取り調べが行われている。その間一刀は一睡も許されず、ぶっ通しで責め立てられていた。

 

「もう一度、質問するわね。そっちの企みについて知っていることを洗いざらい吐きなさい。そしたらラクにしてあげる」

 

「ぁ……はぁっ……俺は……何もッ!」

 

「あぁん、そんな顔で睨んじゃダメだってば。アタシ、滾っちゃいそう」

 

 獲物を嬲る獣のような微笑みを浮かべ、劉勲は次なる拷問に取り掛かる。相手が反抗的であればあるほど、彼女の愉しみも増えるのだ。

 袁家の取調べにおいて拷問は禁じられていないが、証拠としての信ぴょう性は下がる。そのため容疑者を責め立てるためには、工夫が必要だった。拷問ではないと解釈できる責め立て方法――法で重要なのは解釈だ。実質的に拷問でも、拷問ではないと解釈できればよいのだ。文官のトップに位置する劉勲が、そうした事実を知らないはずがない。

 

「これで完成♪ うんうん、苦しそうで実によろしい」

 

 一刀は、身をよじりながら痙攣していた。既に何時間もヤギに足を舐め回され、笑い過ぎて体中の筋肉が強張っている。日頃は端正な顔も、汗と涙と鼻水とよだれが混ざり合って憔悴しきっていた。

 

「うぅん……やっぱりキミの目、すっごくイイ。キミのそういう目、表情……アタシすっごく好みかも」

 

 わざとらしく言う劉勲。一刀の口は、特殊な器具によって開きっぱなしになっている。劉勲はそこからクジャクの羽でできた小さな羽箒が出たり入ったりさせ、一刀がそれを口いっぱいにほおばりながら、濁音交じりの嘔吐を繰り返す様子を観察していた。

 

「が、がはっ!ごはっ!」

 

 苦しげにもがく一刀。痙攣するように身をよじらせるも、劉勲は容赦なく羽箒で一刀の喉を刺激し続ける。激しい嘔吐感がこみ上げ、脳内の中枢器官が胃の内容物を逆流させてゆく。嘔吐反射を何度も繰り返したせいで、体中の筋肉も悲鳴を上げていた。

 

「ムリムリ、頑張っても自分の意思じゃ制御できないわよ。ニンゲンのカラダって、そーいう風にできてるんだから」

 

 満面の笑みを浮かべ、頬を上気させた女が言う。

 

「もぉ……カズト君ってば可愛過ぎ」

 

 劉勲は嬉しそうな顔でそう告げると、今まで挿入されていた羽箒を取り出す。

 

「げぇ……はぁ、はぁ、はぁ…………」

 

 やっとの事で吐き気から解放された一刀の、荒く短い息が地下牢に響く。目の前の女は恍惚とした表情ででそれを眺め、唾液まみれの羽の先端を赤い舌でゆっくりと舐めていく。完全に下の、逆らえない存在を嬲るように、見せつけるように――。

 

「苦しかったでしょう? ふふっ、でもね、コレも慣れると気持ちよかったりするんだよ。実際、アタシは苦しかったり痛くされるのも好きだし、その内――っ!?」

 

 一刀は呼吸を乱しながらも劉勲を睨み付けると、その顔に唾を吐いた。劉勲は目の周りについたそれを白く細い指でふき取ると、「ちょっと止めてよね。化粧が崩れちゃうじゃない」と頬をふくらます。

 

 しかし、それは決して起こっている風ではなくて。そうした小さな抵抗すら楽しもうとしているようであった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――小沛城が陥落した

 

 その知らせに、徐州名士たちは民衆ほど我を忘れて狂喜しなかった。冷静に考えれば、城がひとつ落ちたくらいで袁家の屋台骨は揺るがない。州都・下邳には依然として、袁家の軍勢が控えている。その兵力が投入されれば、烏合の衆でしかない民衆暴動など一瞬で鎮圧されるだろう。

 

「浮かれるにはまだ早い。まだ暴動でしかないのだから」

 

 民衆の勝利が続くとは思えなかった。下邳の駐屯部隊だけならともかく、南陽に無傷で温存されている袁術軍本隊は恐るべき脅威である。

 それ以上に危惧すべきは内部崩壊だ。いまは袁家憎しでまとまっているものの、生活も価値観も千差万別の民衆がいつまでも団結できるとは思えない。正直、あそこまで一致団結して小沛城を落としたという事実のほうが異常なのだ。

 

 

 街では今なお、民衆の歓声が轟いていた。兵士たちを指揮していた大隊長を討ち取り、その上領主の身柄を確保できたのだから、大勝利と言って間違いない。これまでずっと袁家の恐怖政治に怯えていた徐州の民は、袁術軍を撃退した快挙に自信と誇りを取り戻し、興奮していた。

 

 しかし、そんな歓喜が渦巻く中にあって、劉備はひとり顔をゆがませていた。奪還したばかりの領主官邸の寝室で、ひとり部屋の片隅で悩む劉備。彼女の脳裏にあったのは、歓喜に沸く民衆の姿だけではない。破壊された家と、小競り合いの犠牲者たちの姿、これから起こりうる袁家の報復――。

 劉備の口から、ぼそっと呟きが洩れる。

 

「どうしよう……」

 

 袁家は今回の件を決して認めるまい。大衆運動に対して為すすべもなく屈した……そんな評判がたてば政府の存在意義が疑われてしまう。報復として、さらに強硬な手段をとると考えた方が自然である。

 

 かたや徐州の民は、小沛城を落とした実績を以て袁家恐れるに足らずとして、いよいよ全面的な闘争に入る勢いだ。徐州から袁家を追い出し、独立戦争を戦い抜くつもりなのか。

 

 ――しかし、それで徐州は乱世を生き残れるだろうか。

 

 答えは否、とは言わざるを得ない。もともと袁家という共通の敵がいたから、本来ならば目的も価値観もバラバラな集団が、たまたま敵を前にして共闘しているに過ぎないのだ。そこにあるのは互いへの信頼関係などではなく、単なる一時的な利害関係だ。一時的な利害の一致による団結は、同じく一時的な利害の不一致によって容易く分裂する。

 

 それは袁家として同じ。たとえ一時的に力の論理でこちらの言い分を認めさせても、本心から納得していなければ機会を伺って再び報復にかかるはず。必要なのは、心からの共感をもって支持させること。すなわち、袁家自身に徐州の独立を認めさせることなのだ。

 

 それには、やはり対話しかない――劉備なりの信念はあった。徐州にだって言い分はある。それを袁家は理解するべきだった。少なくとも、理解しようという姿勢ぐらいは見せるべきだった。

 しかし、残念ながら袁家は言葉ではなく暴力で、自分たちの論理だけを押し通そうとした。

 

 ――だが、だからといって自分たちは抵抗だけしていればよいのか。

 

 袁家と戦い、滅ぼすのが目的ではない。自分たちは、ただ自分たちの生き方を認めてほしいだけなのだ。

 それは暴力によってではなく、言葉によって、相手を共感させることで達成されるべきなのだ。

 

 

 **

 

 

 広場に集められた人々の前に立った劉備は、自分に集まる視線に圧倒されていた。目の前を埋め尽くす何百人もの人々が、ただ自分ひとりに視線を注いでいる。それは無形の圧力となって、彼女の小さな身体を押しつぶそうとするかのようであった。

 しかし、ぎゅっと拳を強く握りしめて、劉備は覚悟を決める。そして、胸いっぱいに息を吸うと、圧力に負けじと声を張り上げた。

 

「わたしが現・徐州牧の劉玄徳です」

 

 陶謙の元で小沛城主を務めていた頃から、すでに彼女の名声は徐州全土に響き渡っていた。人徳に溢れた仁義の聖母……噂にたがわぬ可憐な容姿の少女に、あちこちで息を飲む声が聞こえる。

 

「あんたが袁家の代わりに徐州を治めてくれ! 州牧さま!」

「劉備様はいつだって、俺たちの事を気にかけてくれていた。だから俺たちも劉備様になら喜んで従いますぜ!」

「そうだそうだ。あんな異民族と売女どもに支配されるなんて、真っ平ごめんだね!」

 

 格好の神輿を見つけたとばかりに、劉備は民衆に担ぎ上げられていた。

 

「なぁ、劉備さま。もし袁家の軍隊が攻めてきたら、戦うんだろ? その時にゃ、俺たちも戦いますぜ!」

「そうだ、そうだ! 袁家に復讐するんだ! 秘密警察どもを血祭りにあげなきゃ気が済まねぇ!」

 

 どうやら小沛城を落としたことで、ある種の精神的な垣根を超えてしまったらしい。毒食らわば皿まで、という訳だ。身内を殺されたのだから、犯人を死刑にしなければ腹の虫が治まらない。袁家の報復を恐れての防衛案は、いつの間にか積極的な復讐戦へと屈折していた。

 しかし劉備の口から出た言葉は、そんな彼らの期待を真っ向から裏切るものであった。

 

「復讐はしません。暴力を振るっても、何の解決にもなりません」

 

 想像すらしていなかった劉備の拒絶に、誰も彼もが耳を疑った。戦いの当事者である民衆たちはもとより、良識のある名士たちから見ても、この劉備の拒絶はあり得ないものだった。

 差し向けられるであろう南陽の討伐軍は、小沛城の民衆をまとめて皆殺しにできるだけの兵力を揃えて来るはずである。暴力抜きで、どう対抗しようというのか。

 ざわつく広場を鎮めるように、劉備は落ち着いた口調で語りかけ始める。

 

「暴力をもって為された変革は、暴力によって封じられます」

 

 暴力によって達成された理想があるとすれば、その正当性は根源である暴力でしか保証されない。であるならば、その理想は暴力によって支えられ、変質し、壊される。変革側が暴力によって自己を正当化するならば、体制側もまた圧倒的な暴力でそれを弾圧することで己を正当化できるのだ。

 

「それでは何も変わりません。袁家の作った暴力という秩序の枠組みの中で、ただ立場が入れ替わっただけのこと」

 

 役者が変わっただけで筋書きは一緒。強き者が弱き者を虐げるという構図は、何も変わっていない。

 

「あわよく袁家を追い出したとして、新しい政府は暴力によって生まれ、存在しているものになります。それでは袁家と同じです。新政府は暴力によってでしか存続しえず、また暴力によって打ち倒されるでしょう。私たちは、この負の連鎖を断ち切らなければいけません」

 

 劉備は暴力を否定するという。では、どうやって?

 

「私たちの武器は、暴力ではなく言葉です。相手が理不尽でも、暴力による抵抗はしません」

 

 この時、劉備の真意を理解した者はほとんどいなかっただろう。事実、後世までほとんどの人間が、無抵抗で弱腰の非暴力主義と勘違いされている。

 

「ですが暴力を振るう相手には、たとえ殺されても従いません。それこそが、私たちが持つべき最大の武器なのです」

 

 この主張において、劉備は楽観的な非暴力主義者と一線を画す。彼女の主張の肝は、むしろ後半の「不服従」にこそある。たとえ命を奪われようとも、暴力を振るう者には従わず奴隷にならない、という主張であった。

 

 これは戦争の、数倍の覚悟がいる行動である。なぜなら自らが生命の危機に瀕しても、暴力による防御をしてはならないからだ。ただひたすらに、対話を求め続ける。それは無力を覆い隠すための「非暴力・無抵抗」ではなく、死すらも恐れず自らの意志を相手に伝えるための「非暴力・不服従」であった。

 

 

 **

 

 

 情報が錯綜している――それが張纏の抱いた最初の感想であった。

 

 彼女の元へは、小沛が大事になっているとの情報が、様々な筋からもたらされていた。だが、どれも信憑性に欠ける。本来ならば事態が整理できるまで待ちたいところだが、状況がそれを許さなかった。かくなる上は、自ら確かめに行くしかない。

 

 そう決断した張纏は早速、子飼いの部隊を率いて小沛へと急行していた。

 『武装警察軍』………秘密警察である保安委員会が組織する、独自の軍事兵力だ。領内活動向けに新設された準軍事組織であり、軍務委員会の統制する通常の軍隊とは指揮系統も予算も編成も違う。その任務は関所の警備や要人の護衛、そして難民の統制や反政府活動の弾圧などの汚れ仕事ばかりでなく、通常の戦闘行為も含まれている。

 

「張纏司令――」

 

 なにやら不穏な感覚を覚えたらしい。張纏のすぐ傍にいた新人が、不安げな表情で告げた。

 

「なんかヤバげな雰囲気じゃないっすか」

 

 街路を進むうちに、その言葉に現実のものとなった。前方に、100人を越える人々が道を塞ぐように立ちはだかっているのが見えたのだ。適当な廃材で作られたバリケードすらあり、怪しい雲行きである。

 ただならぬ空気に、張纏たちも陣形を組んで周囲の警戒を強化する。

 

(また抗議運動? だとしたら、よく飽きもしないで続けるもんだ。いつまでも反抗的なのを許すわけにはいかないけど、いま強硬手段に出るのは得じゃない。適当な頃合いを見て、食糧の特別配給を実施するとでも言っとけば機嫌も直るだろうし)

 

 しかし頭の中で懐柔策をめぐらせつつも、張纏は異様としか言いようの無い光景に困惑していた。いつもなら獣のように大声を張り上げるはずの市民たちが、全員直立不動のまま声1つあげないのだ。警察軍の兵士たちも逆に不安に駆られ、奇怪な圧迫感に包まれた雰囲気に危うさを覚えていた。

 

 そして緊張の糸がぶつりと切れたかのように、抗議の声が次々と上がった。

 

「この前の事件のことを説明しろ!」

「もっと物価を下げろ!」

 

 ものの数秒も経たない内に、あちこちので雄叫びの大合唱が沸き起こった。

 

「政治犯を解放しろ!」

「増税反対!便乗値上げを許すな!」

 

 老いも若きも、四方八方に配置された先導役の一人として、市民たちを煽っていた。戸惑いと恐怖をあらわにしていた人々も、次第に熱気を帯びる叫びにつられて、知らず知らずのうちに声を上げている。

 

「秘密警察は帰れ!」

「夜間外出禁止令を取り下げろ!」

 

 男も女も、証人も農民も、顔という顔はみるみる紅潮して狂騒に酔い始める。広場のどこかしこでも、若芽がにょきにょきと伸びるように観衆が立ち上がっていた。

 せめてもの幸いは、劉備の演説にあった「非暴力・不服従」のフレーズのおかげで、兵士たちに危害を加えた者がいなかった事だ。しかしそれも、当事者である張纏たちにとっては気休め程度でしかない。

 

「……っ」

 

 張纏は舌打ちした。保安委員会としては、ここで引くわけには行かない。元々禁じられている無許可の集会――そもそも許可される集会などないが――を前にして、秩序維持を目的とする保安委員会が引けるはずもない。その実働部隊たる、警察軍が出動しているとなれば猶更だ。ここで撤退しては組織のメンツにかかわるし、何より存在意義が疑われる。

 

「貴様らッ! 何をしている! ただちに解散しろ!」

 

 民衆の罵倒に耐え兼ねた、副隊長が激昂する。しかし、そんな命令に対して平民達は引く気配を見せない。さらに悪いことに、時間を経ることにその人数は徐々に増えているようだった。

 

 一触即発のにらみ合い……そんな状態がしばらく続く。その膠着状態に終止符を打ったのは、群集の中から現れた劉備その人だった。

 

「はぁ……はぁ……、これは一体、何の騒ぎですか……?」

 

 どうやら騒ぎを聞きつけて、慌てて駆けつけたらしい。隣には関羽と鳳統の姿もある。劉備の視線が集まった民衆から、苦笑いを浮かべる張纏へと移る。

 

「その軍服……保安委員会の方ですか?」

 

「初めましてだね、劉徐州牧。自己紹介は……時間がもったいないから後にしよっか」

 

 なるべく余裕を装いつつ、張纏は口を開く。暴力装置は、恐れられてこそ意味がある。少しでも隙を見せれは、怒れる民衆に文字通り飲み込まれてしまう。

 

「さっそくだけど、小沛城で大規模な暴力事件があったとか。事情聴取のために、一緒に署まで一緒に来てくれる?」

 

 それを合図に、周囲にいた兵士たちが一斉に弩を構えた。もちろん事情聴取というのはお題目で、その真意は劉備を監禁することにある。小沛城に閉じ込められていたはずの劉備がここにいる時点で、小沛城で何があったかは想像がつく。当初の目的は達したものの、あそこまで罵倒されて手ぶらで帰れば後々「保安委員会は民に怯えて逃げ出した」と批難されかねない。

 

 身構えた民衆たちを意識しないようにして、張纏は劉備の周りをぐるぐると回りながら続けた。

 

「あっそうそう、宛城のご友人についてはご安心していいよ。こっちが責任もって警護しとくから」

 

 劉備の表情に、苦いものが混じる。要するに張纏はこう言いたいのだ――もし抵抗する素振りを見せれば、宛城にいる諸葛亮たちの身に不幸が起こる、と。

 

 秘密警察らしい卑劣な手法――しかし劉備は、臆することなく張纏と対決した。

 

「分かりました、事情聴取に応じましょう。小沛城で何が起こったか、知る限りの事はお答えします――雛里ちゃん、紙と筆を」

 

 実にあっさりと、劉備は事情聴取に応じた。鳳統が紙と筆を用意するのを見て、張纏は内心で舌打ちする。もとより事情聴取など単なる名目に過ぎず、本来の目的は劉備を同行させて身柄を拘束すること。

 

「では、何からお話しましょうか?」

 

 毅然とした表情で、劉備が問いかける。複数の弩を突き付けられてなお、その顔には恐れも迷いもない。武器を持っているはずの張纏たちの方が、丸腰の劉備に戸惑っていた。

 

(あー、こりゃ良くない展開だわ……)

 

 顔に薄笑いを張りつけながらも、張纏の黄色い瞳は周囲をせわしなく観察し続けていた。そこに移るのは、続々と集結する徐州の民。リアルタイムで人の牢獄が作られているような感覚に、流石の張纏も本能的な危機感を隠せなかった。

 

(こうなったら……!)

 

 とりあえず身柄さえ拘束しておけば、後はどうとでもなる――張纏が目で部下たちに合図を送ると、すぐさま兵士たちが劉備を取り押さえようとする。

 だが兵士が劉備の肩に手をかけた途端、誰かが叫ぶ声がした。

 

「劉徐州牧を守れっ!」

 

 興奮状態にあった大衆を刺激するにはそれで充分だった。それが2度目のきっかけとなり、前方にいた民衆が劉備を守ろうと兵士たちの前に立ちはだかる。

 

「ええい、貴様ら邪魔をするな! 全員監獄へしょっ引くぞ!」

 

 副隊長が民衆を一喝する。しかし民衆の動きが止まることは無く、兵士たちとの間でもみ合いになった。

 

「劉備さんは渡さねぇぞ!」

「袁家の狗は帰れ!」

 

 民衆は雪崩を打ったように、一斉に袁家へ罵声を浴びせかけた。それは誰もが持つ政府に対する不満という共通意識を土台として、さらにその周囲の人々から外周に向けて同種の影響を与え、その意識はまるで伝染病のようにして瞬く間に広がっていく。誰かが今まで内心で圧殺していた不満意識の噴出をこらえきれなくなったのだ。

 

「何が袁家だ!クソ食らえ!成り上がり者!」

「偽善者の人殺し!」

「南陽に帰れ!」

 

 そんな言葉と共に、警察軍へと殺到する民衆。前にいる人間は後ろの人間に押され、人の波となって兵士たちを圧迫する。これだけの数なのだ、もはや兵士たちは劉備を逮捕するどころではなくなっていた。

 

 荒ぶる民衆の波に押しつぶされつつある中でも、張纏は周囲に目を凝らして制止するための声を挙げようとする。

 

「静かに! これは警告――――」

 

 そんな時、揉み合いの中で振り回された腕が張纏の横顔に直撃した。

 

「くッ……」

 

 張纏の口から一瞬、呻きが漏れる。どんなに鍛えた人間でも、頭部への衝撃を受けてはただでは済まない。張纏も例外ではなく、右の額から血を流していた。

 

 

「このおっ!」

 

 一向に止む気配を見せない民衆の圧力に、我慢がならなくなった若い兵士の一人が弩を構える。今にも引き金を引こうとする寸前、張纏の鋭い声が飛ぶ。

 

「待って!」

 

 その言葉に怯えていた兵士は一瞬動きを止めた。

 

「落ち着いて。大丈夫、……引き金から指を離して」

 

 張纏は優しくも厳しい声で、引き金から指を放すよう告げる。この状況で流血沙汰になれば、最終的にはこっちが皆殺しにされてしまう。

 

「しかし――!」

 

 それでも興奮した隊員は止まらない――いくら武装警察軍が精鋭部隊だとしても、ここまで多くの群集に囲まれた経験などそうは無い。そもそも彼らの主武装としている弩は、多数の暴徒を鎮圧する任務には向いていない。最初からこれだけの民衆を相手にすると聞かされていたならまだしも、予想外の展開が次から次へと起きては対処のしようがなかった。

 

 そして、初めての戦闘――と呼べるのかはわからないが――に興奮したその隊員は引き金を引いてしまった。

 

 

 ◇

 

 

「え……?」

 

 緊迫した場に不釣り合いな、気の抜けた声が響いた。声の主は、最前列で民衆と兵士の両方に落ち着くよう宥めていた劉備。興奮した兵士が思わず放ってしまった太矢は、そんな彼女の腹に突き刺さっていた。

 

 どう、という音と共に劉備は地面に倒れる。致命傷ではないが、意識を失うレベルの出血。

 だが、民衆の目には劉備が射殺されたようにしか見えなかった。

 

 そして劉備が撃たれたという事実は、興奮した民衆に残された最後のブレーキを取り払ってしまった。

 

 ――袁家が、丸腰の劉備を射殺した。

 

 劉備の隣にいた関羽が拳を振り上げたのと、張纏が飛びのいて逃げ出したのは同時だった。

 続いて爆発したような大音量と共に、一斉に民が動き出す――。

         




 南陽は今日も平和


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91話:復讐の招き

  

 どうしてこんなことになったのか。深い闇、しかし仄かな蝋燭の明るさの中、ただ聞こえるのは犬のような息遣いと脳に電流が迸るような嬌声。霞む視界の中ゆっくりと近づいてくるのは、白く細い指だ。顔を上から撫でるようにゆっくりと迂回し、唇に触れてくる。その先は妖しく濡れていて、妙に蠱惑的だ。

 唇に触れるそれは冷たく、まるで幽鬼のよう。されど一刀に抗う術はなく、ゆっくりと口を開いてそれを含んだ。

 

「あ……っ、ん……そう、それでいいの……」

 

 霞んだ視界の先にいるのは、満面の笑みを湛えた一人の女。すっと伸びた鼻筋、丸みを帯びたアーモンド状の目に、色の薄い唇。乱れた前髪が汗で貼り付き、目尻のアイラインが滲み、それまでの激しさを物語っている。

 思い通りになって堪るか。視線が合った瞬間、劉勲は縦に体を震わせた。

 

「きゃっ♪ キミ、いま一瞬、すっごく怖い顔したぞ?」

 

 目を細め、クスクスと笑う劉勲。

 

「てめぇ……」

 

「今ここで解放したら、アタシどうなっちゃうのかしらねぇ? 殴られる? 犯される? それとも両方?」

 

 劉勲はそう言うと、テーブルに置かれた小瓶から、一刀の傷口に白い塩を塗り込む。とたんに弾けるような悲鳴が響く。縛られた状態の一刀は大きく痙攣し、硬直する。

 

 永遠に続くかと思われた拷問が終わったのは、それからしばらく後の事だった。

 

「書記長閣下、書記長閣下!」

 

 扉を強く叩く音が聞こえ、保安委員会の服を着たひとりの士官が入室する。劉勲は不機嫌そうな表情で、お楽しみを邪魔した士官に文句を言う。

 

「一応、アタシ今日の仕事は終わりなんだケド? 緊急かつ重要度の高い要件以外は、秘書官に取り次いで明日に……」

 

 袁家高官ともなれば様々な特権が付くだけに、さぞかし懸命に働いているに違いない……と思いきや実はそうとも限らない。例えば張勲などは袁術の昼寝時間ぐらいしか働いていないので、実質労働時間は2、3時間ほど。張纏は週休3日で一日6時間労働であり、「いざという時の為に、気力と時間に余裕を残しておく」という顔に似合わぬホワイト思考だ。逆に賈駆は働き過ぎの部類で、休日なしで毎日12~14時間も働き続けている。

 劉勲はその中間ぐらいで、昼食~夕食前後の7時間ほどを政務時間とし、終わらなかった分は休日に持ち越して、午前中になんとか終わらすという割と健康的なスケジュールである。

 

「その緊急かつ重要度の高い要件です!小沛にて、武装警察軍が民衆の襲撃を受けました」

 

「……へ?」

 

 尋常ならざる事態が現在進行形で起きている事を告げられ、劉勲はようやく傷口に塩を塗り込む指の動きを止める。小さく舌打ちすると、部下に詳細の報告を求めた。

 

「被害状況は?」

 

「ほぼ全滅かと。詳しい内容は確認中ですが、小沛そのものが民衆の手に落ちた今となっては……」

 

 既に2人は一刀から離れ、部屋の外へと向かっている。両手足は拘束してあるし、あれだけ痛めつけたのだから放っておいても問題はないと判断したらしい。放置された一刀は最後の気力を振り絞り、一言でも多くの情報を知ろうと耳を澄ませた。

 

「随分と大事みたいね……また庶民の暴動なのかしら?」

 

「いいえ閣下、これは革命です――――」

 

 それが、薄れゆく意識の中で一刀の聞いた最後の言葉だった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 揚州の反乱を契機とした不況……揚州への派兵から僅か数か月後のことであった。それは先の戦役で被害を受けた徐州において、ことに厳しいものであった。農民やその家族は、凍てついた住居で飢餓すれすれの食料で暮していた。抗議活動が民衆たちの間で再び頭をもたげ始めたのは、こうした時期であった。人びとは耐え難い日常と化した飢餓、独裁、それに迫害を打破する何か根本的な変化を待ち望んでいた。

 

「こちらも防衛の為に、敵からの攻撃に備えて武装するべきだ!」

 

 その頃、小沛城では今後の対応について活発な議論が交わされていた。張纏ら武装警察軍の姿はなく、街を支配しているのは民衆だった。議論の中心にいるのは関羽。主戦論を唱える彼女の主張に、少なくない数の民衆が同意する。

 

「異議なし!奴らが黙ってるワケがない!」   

 

「袁家が我々に攻撃を加えようとしているのは明白だ! 準備は早ければ早いほどいい」

 

 張纏らを撃退したとはいえ、小沛城の防衛能力は脆弱そのもの。かつては徐州の前哨基地として有数の堅城であったが、袁術の傘下に入ってからは防衛費削減の煽りを受けて弱体化している。城壁などはともかく、食糧や武器の備蓄はおよそ1週間分しかない。

 

「汝南には、袁術軍の兵站基地があります。そこを襲撃すれば、兵糧も必要分を賄えるはず――」

 

「いけません」

 

 主戦論で盛り上がる場を鎮めるかのように、小さな声が聞こえた。鳳統だった。

 

「しかしだな、雛里……」

 

「袁家にも面子があります。こちらが先に袁家を攻撃すれば……戦争は避けられません」

 

「この期におよんで何を言っているんだ!? 相手は桃香を撃ったんだぞ!?」

 

 関羽が唸る。あの事件の後、重体の劉備はすぐに医者の元へと運ばれ、辛うじて一命を取り止めた。しかし意識はいまだに戻らず、予断を許さぬ状況だ。

 

「あれは事故で……」

 

「事故で済むもんか! 桃香は殺されかかったんだぞ!? 我々が許したところで袁家は感謝なんてしない! 2度目、3度目の“事故”で今度は何人が殺される!?」

 

 周囲は静まり返った。人々は不安そうな顔を浮かべ、関羽と鳳統、どちらに付くべきか迷っているようにも見受けられる。

 

 鳳統は関羽に近づき、その目をじっと見つめた。

 

「まだ袁家からは何の公式発表もありません。攻撃してくると決まったわけでは無いんです! わたし達が話し合いもせず一方的に決めつけて先制攻撃をすれば、それこそ交渉の糸口は断たれます!」

 

「そんなもの、ただの時間稼ぎに決まっている! 袁家は端から話し合う気などない! 何度も見ただろう!」

 

「だとしても、です。袁家に抗議するなら、なおさら袁家と同じになってはいけません!」

 

 汝が深淵を覗き込むとき、深淵もまた汝を覗き込んでいる……これは後世のとある哲学者の言葉だが、ここで暗示されているのは物事の相対性だ。袁家の暴力に対抗するために暴力を振りかざす、そうした矛盾は必ず自身へ跳ね返ってくる。

 

 しばらく鳳統と関羽は睨み合っていたが、やがて先に折れたのは関羽の方だった。

 

「……わかった。先制攻撃はしない」

 

 だが相手が攻撃してきたらこちらも反撃する、そう言い残して関羽は踵を返した。

 

 鳳統はほっと胸をなでおろしながら、大切な友へ心の中で感謝するのだった。だが同時に、恐らく関羽の方が意見としては常識的なのだろうとも考えていた。

 

 袁家は敵に容赦しない。それが己より弱い敵となれば、猶更だ。

 

 

 **

 

 

 そして鳳統の悲観的な予想通り、劉備の想いは南陽には届かなかった。同時刻、人民委員は隣接する都市に戒厳令を布告し、抗議活動を行った人間を即座に殺すよう命令を下していた。

 

 

「庶民共が、まさかこんなことを起こすとは……」

 

 南陽の宮殿で、そう呟いたのは法務委員長・楊弘だった。周囲には急遽集められた人民委員たち及び高級官僚達で溢れていた。

 

 この頃、宛城には次々に凶報が届けられていた。反乱の火の手は大方の予想を裏切って瞬く間に広がり、あらゆる領地で役所や官公庁が襲われている。

 

「広陵、東海、彭城、梁国、陳国、魯国……やれやれ、これでは東部一帯が火の海ではないか」

 

 当初は単なる庶民の蜂起だと思って甘く見ていたものの、それが僅か一週間ほどで燎原の炎の如く広がってしまった。いつ他の地域に飛び火してもおかしくない状況であり、予断を許さなかった。

 そんな危機的状況においても、相変わらず人民委員はひとつにまとまり切れていなかった。楊弘などは意気揚々と賈駆らの責任追及にかかる有様だ。

 

「同志賈駆、これは君の責任だぞ。今回の件をどう説明するつもりだ?」

 

 コイツは事の重大さが分かっていないのか。もはや怒りさえ通り越し、賈駆は可哀そうなものを見るような目で楊弘を見つめる。

 

「そうね。確かにボクたち保安委員会は、今回の事件を止められなかった。副議長・張繍と精鋭部隊たる武装警察軍まで出したのにも関わらず、蜂起の鎮圧に失敗した」

 

「ほう、やっと自己批判する気になったか」

 

 一瞬、勝ち誇るような表情を浮かべた楊弘を無視して、賈駆は再び口を開いた。

 

「これが何を意味しているのか……結論は一つしか無いわ。――警察では力不足だという事よ」

 

 袁家の支配地域において、秘密警察の権力は絶大である。しかし賈駆はその長として、同時に限界をもまた熟知していた。秘密警察の持つ最大の武器は「恐怖」に代表される『権威』であり、物理的な強制力である『権力』は考えられているほど強大ではないのだ。

 

 まさに最悪のタイミングだった。豫洲では農民反乱が起こり、徐州は関羽らを中心とした反政府勢力によって小沛が占拠、おまけに揚州の戦闘は膠着状態に陥っていたからだ。鳳統ら一部の人間は劉備の意志を継いで対話の可能性を捨てていなかったが、もはや袁家の側に対話に応じるような余裕はなかった。

 

「軍を出すしかあるまい! それ以外に方法はない! あの愚昧なる平民どもに今一度我らの力を示し、傷ついた政府の威信を取り戻すのだ!」

 

 軍務委員長・袁渙の大声が大広間に響く。彼の威勢の良い言葉に続くようにしてそうだそうだ、と周囲の貴族から賛同の声が上がった。

 

「しかし、軍の主力は既に揚州に……」

 

 大広間の中の空気が軍隊による治安維持に決まりかけた中、閻象が疑問を投げかける。

 

 揚州では、依然として袁術軍と揚州軍の戦闘が続いている。現地には8万に及ぶ大軍が進駐しているが、連日のように増援の要請が来ている。そのうえ補給面での負担も馬鹿にならず、揚州派遣軍は袁家の金庫を瞬く間に食い荒らしていった。

 

 直接口には出さなかったが、閻象はこの辺りが引き時だと考えていた。撤収とまではいかずとも、派遣軍の規模を縮小するぐらいは検討すべきだ、と。

 そんな彼の発言の真意を理解したのか、袁渙は慌てたようにして必要以上の声で叱責する。

 

「いまさら戦いを止めろとでも言うのか!? 揚州を完全に制圧する、それが開戦時の決定事項だったはずだ!」

 

「交戦期間は最大2か月、予算は3年分の歳入を超えないこと……この2つも開戦時の決定事項だったはずですが」

 

 自身の発言がブーメランとなって跳ね返り、黙り込む袁渙。

 

 開戦時、揚州北部を破竹の勢いで進んだ袁術軍であったが、南部への侵攻は難航していた。揚州南部は地形が山がちな上、長江のような河川が無いため補給にも支障をきたす。短期決戦、という前提で組み上げられた臨時予算は既に大幅にオーバーしていた。

 

「だったら徴兵を……」

 

 

「――その徴兵対象である平民が反乱を起こしているんでしょう? いま奴らに武器を与えれば何をするか分かりません」

 

 荒れる会議を鎮めたのは、遅れて入室した張勲だった。その後ろには劉勲と取り巻きたちも付いている。

 文句があるなら解決策の一つでも出してみろ、と言いたげな袁渙の表情を見て、張勲がうっすらと笑う。

 

「そうですねぇ、領内に兵がいないなら外部から雇えばいいじゃないですかぁ?―――傭兵、とか」

 

 指を立て、いかにも名案だとばかりに一人でうんうんと頷く。が、周囲の反応は芳しいものではない。

 

「傭兵だと? まぁ、案としては悪くないが……腕の立つ傭兵の大部分はとっくに華北へ移動したと聞く。あそこは以前から曹操やら袁紹やら公孫賛やらが争ってるからな。新規契約できそうな腕利きの傭兵となると、もう中華にはほとんど残ってないだろうよ」

 

「あら、どうして中華限定なんですかぁ?」

 

 さらっと返された張勲の返事に、一斉に息を飲む音が聞こえた。強硬派の袁渙すら、思ってもみなかった解決策に狼狽の色を隠せない。それほどまでに、張勲の発言は常軌を逸しているものであった。

 

「それはつまり……」

 

「ええ、その通りです。――異民族、使っちゃいましょうよ」

 

 それは即ち、蛮族を以て中華の民を殺戮することに他ならない。政府が外国人兵士を使って自国民を虐殺するのだ。

 

「漢人の部隊は遠隔地へ移動させましょう。その代りに、西涼から傭兵を補充します」

 

「しかし……!」

 

「目下、最大の問題は兵の忠誠心です。彼らの一部は反乱軍に親近感を抱いていますからね。その点、異民族ならば申し分ない。お嬢様の施しに、剣と血で答えてくれるはずです。――違いますかぁ?」

 

 張勲が要求するのはただ一つ、袁術への忠義である。そこには漢民族も蛮族も関係ない。

 

「異民族である彼らの場合、お嬢様以外に後ろ盾はありません。傭兵なんて不安定な身分じゃ、自分達を雇ってくれるお嬢様だけが頼りです。だから美羽さまには絶対服従ですよ」

 

 加えて異民族の兵士ならば、中華の土地に地縁も血縁もないはず。反乱分子に知り合いもいないし、彼らに仲間意識を感じられるほど社会に同化できてもいない。だから雇い主の命令で、虐殺でもなんでも簡単に出来るのだ。

 

 あるいは、もっと切実な理由もある。外国人であり容貌も違い言葉も不自由な異民族が傭兵隊から逃亡しても、すぐに異民族傭兵だとわかってしまう。逃亡してもすぐに見つかってリンチに遭うのは明らかであり、最後まで軍に留まって戦うしかない。好むと好まざると、彼らは逃亡する事ができないのだ。

 

 ならば猶更、お嬢様にとって都合がいい……張勲は自分でも名案だと思いながら、ほくそ笑んだ。彼らは死の瞬間まで、美羽さまに忠誠を誓って戦い続けるだろう。

 

 

 そうと決まれば動きは早かった。外務委員長・閻象に命じて傭兵を集めさせる。特に西涼のような厳しい環境の土地には強兵が多く、貧しさゆえに兵の成り手も多い。

 

 そして保安委員会には、反乱軍の親戚全員を逮捕し一人残らず収容所へ連行するよう劉勲から指示が下った。抵抗した場合にはその場で処刑も止む無し、との許可もある。名目上は危険人物の監視であるが、その内実が人質の確保であることは衆目の一致するところであった。

 

 

 **

 

 

 この卑劣な行いに対して、小沛の市民は激怒した。彼らは一線を越えてしまったことで、同時に精神的な恐怖感をも乗り越えてしまったらしい。袁家の脅迫に憤りを覚えようとも、恐れを抱いた者はいなかったのである。

 

「雛里!もう我慢でないぞ!あんな卑怯な事されて黙ってられるか!」

 

 有無を言わせぬ口調で、関羽が血走った瞳で鳳統を睨み付ける。

 

「こっちも人質を――!」

 

「それはダメです!」

 

 声を荒げる関羽の口を、鳳統が塞ぐ。

 

「何故だ雛里!? 人質を取るなんて真似されて、お前は平気なのか!」

 

「そういう問題じゃありません! わたし達がなぜ此処にいるのか、その意味を思い出してください!」

 

 此処にいる意味。自分が槍を振るう意味。そんなもの、一つしか無い。関羽は歯ぎしりしながら、絞り出すように告げた。

 

「……桃香の、理想の為だ」

 

 みんなが笑って暮らせる世界を作る、それが劉備の理想だった。自分はそのために戦っている。

 

「であれば、私たちは憎しみに飲み込まれてはなりません!復讐心に駆られて、袁家と同じ非道を行ってはいけないはずです!」

 

 彼女には珍しい、大きな声で熱弁を振るう鳳統。

 

「だが……!」

 

 それでも、関羽の表情は険しいままだった。頭では理解していても、感情が同意できないのだろう。それは鳳統にもよく分かる。彼女だって、内心では煮えくり返る思いだからだ。

 

「………それが、桃香さまの意志でもあるはずです」

 

「っ――!」

 

 大きく息を飲む関羽。それは彼女にとっての、呪いの言葉にも等しい。

 

 敬愛する主人を守れなかった――口には出さずとも、関羽が例の一件で激しい自責の念に駆られている事を、鳳統は知っていた。もう長い付き合いだ。彼女の思考も行動も、ある程度は把握している。彼女はきっと、この言葉には逆らえないだろう。

 そんな風に計算してしまう自分に自己嫌悪を覚えながらも、鳳統は関羽の答えを待ち続けた。

 

「……勝手にしろ」

 

 そっけなく吐き捨てると、関羽はさっとその場から退出する。無礼と言えば無礼な態度なのだが、これが彼女に出来る精一杯の譲歩。鳳統は心の中で感謝しつつ、その後ろ姿が見えなくなってから部下を呼ぶ。

 

「小沛城にいる捕虜の事ですが、どうするかは桃香さまと事前に取り決めています。彼らの自由と安全を保障するように。街の人々にも、乱暴は避けるよう通達してください」

 

 それを聞いた部下は一瞬、驚いたような表情をする。鳳統も予想はついていたのか、少し疲れたような苦笑いを浮かべた。

 

「武器を下ろしたなら、もう敵も味方もありません。彼らに復讐した気持ちは分かりますが、どうかそれを抑えてください。袁家を憎むあまり、わたし達が袁家になってはいけないのです」

 

 剣に頼る者は、剣によって滅びる。先代徐州牧・陶謙は曹操軍という暴力から民を守るために、同じ暴力で対抗しようとした。

 しかし結果は共倒れにも等しいもので、最終的に別の暴力――袁家によって徐州は支配されることになったのだ。それを間近で見ていた主――劉備には、何か思うところがあったのだろう。だからこそ「やられたらやり返す」という従来の抵抗とは別の、なにか違う方法によってこそ徐州の自立は達成されるのではないだろうか。

 

 怪物と戦う時は、己も怪物にならぬようにせよ。劉備は安易な暴力に頼らない困難な道を敢えて進むことで、覇道を突き進む曹操や袁紹とは違う王道を歩んできた。だからこそ、暴力や財力とは違う、平和という理想を民の前の掲げられたのだ。

 

 なればこそ、ここは復讐という常識的な手段を取ってはならぬ時。もし暴力という“常識的”な手段を選んでしまえば、その瞬間に劉備は他の諸侯と何ら変わらぬ存在になってしまうからだ。

 

 

 もっとも、市民の間では、どちらかといえば関羽寄りの意見が多数を占めた。「袁家討つべし」と息巻く市民たちを前に、鳳統らは平静と理性を求めて辛抱強く説得を続ける。無い時間の合間をぬって彼らの前に現れ、捕虜を含むすべての民に話し合いを呼びかけたのである。

 

 

 これと並行して鳳統たちは食糧の優先供給を拒否、一般市民と同等の待遇に身を置くことで彼らの決意のほどを示した。食糧は病人と子供に優先して配給されるようになり、結果からいえば袁家の脅迫的行為は失敗することになる。それは小沛の民衆を分断するどころか、却って団結を促したのであったのだから。

 

 

 また、鳳統の指示によって、捕虜にも常識では考えられない厚遇が施された。夜の寒さに震える彼らには空き家が寝床として提供されたばかりか、燃料として余った薪すら配られたのだ。思いもかけぬ施しに、元袁術兵たちは困惑した。

 

「どうして……俺たちにそこまでしてくれるんだ? 俺たちは……敵だったんだぞ」

 

 多くの元袁術兵にとって、それはまったく理解不能な出来事であった。袁家ならば、こうはいかない。首謀者は見せしめとして公開処刑され、それ以外の者は収容所で死ぬまで酷使される。

 

「我々は、君たちの友人を殺したかもしれないんだ。それなのに、我々が憎くないのか……?」

 

 そう、本来なら市民たちは捕虜を処刑してもおかしくないなのだ。袁家が人質をとっているという噂すら流れてきている。怒りに駆られて嬲り殺しにされるのが、常識だったはず。

 

 しかし民衆の代表は悲しげに首を振ると、困惑する元袁術兵を前に口を開いた。

 

「正直に言えば、わだかまりが完全に溶けたわけじゃねぇ。だがな、あんたらだって元は俺たちと同じ庶民だろ? 今は色々あってこんな事になっているが……きっと分かり合えるはずさ。少なくとも、劉備の嬢ちゃんはそう信じてる」

 

 劉備の気高い理想は、誰一人隔てることなく平等だった。傍から見れば、笑ってしまうほど非合理的な理想論。だが、劉備は長年にわたって公正な政治を心掛けてきたことは、小沛市民の誰もが知る所だった。

 

「最初はみんな冷めた目で見てたよ。あんな小娘に何ができる、ってな。実際、言ってることが空回りしてる事も多かった。でもな、何度追い返されても馬鹿にされても、劉備の嬢ちゃんは諦めないで俺たちの事を理解しようと頑張ってくれた」

 

「………」

 

「俺たちには、それが嬉しかった。そんな領主は見たことも聞いたこともねぇ。何十年も生きてて、初めての事だった」

 

 だからこれは恩返しだ、と。

 

「たしかに袁家のやる事は“合理的”って奴なのかもしれない。南陽に行ってきた友人が言ってたよ、あそこは使い切れないぐらいのモノが溢れてるってな」

 

 ただし、その代償が密告に怯える監視社会であるのなら。身内や友人すら、敵と見なさねばならない競争社会であるのなら――。

 

「俺たちは現実の見えない間抜けでも構わない。劉備の嬢ちゃんたちに付いていく」  

   




体制側の切り札「外国人傭兵」

 現代人視点から見ると色々問題ありそうな方法ですが、近代的な「国民軍」の登場以前は、兵士の半分ぐらいは外国人だったそうな。まぁ、そもそも「国民」意識自体があんま無かった時代なんで、あんま気にしてないだけなのかもしれませんが……。


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92話:声が聞こえる

        

 小沛では、袁家が武装攻撃を準備しつつあるということがいよいよ明白となってきた。しかし劉備たちは袁家の邪推に反し、いかなる武装蜂起をも意図していなかった。というより、今までの動きも実のところ、なんら計画されたものではなかった。

 もし彼女らが本当に袁家妥当を意図していたのであったら、そもそも一刀や諸葛亮らが未だ宛城の地下深くに囚われている時期に蜂起を開始しはしなかったであろう。武器や食糧に関しても、もう少し準備をしたに違いない。

 

 という訳で、この一連の騒動は、袁家支配に不満を覚える人びとの自然発生的な行動であった。それゆえ小沛は袁家の混乱を拡大するための謀略など考えもしなかったし、軍事的な攻撃計画などは立案すらされていなかった。

 蜂起はあくまで要求を袁家に認めさせる手段でしかなく、彼らはなお袁家との対話を模索し続けていた。この時点における劉備らの目的は革命ではなく、体制の枠内における改良だったのである。

 

 

 対して袁家は、軍、官僚、秘密警察の全てをあげて強権的手段を採る事でこれに応えた。揚州からは華雄が呼び戻され、小沛攻略作戦の指揮官に任命された。

 

 この時、華雄は敵が素人であることから、当初は近隣にいる部隊の投入で充分であろうと考えていた。小沛の人口は4万人をわずかに超える程度で、武装した1万程度の市民ならば、同数の兵士で鎮圧できるだろう、と。

 

 「――今夜から明日の朝にかけて、小沛城は強襲によって奪取さるべし」

 

 それゆえ華雄のとった方針は速戦速決の強襲攻撃であった。反乱発生から10日後、彼女からよって発せられた攻撃命令によって、袁術軍はついに攻勢を開始する。

 

 この時、華雄はまだこの事件の本質に気付いていなかった。真の敵は武装した小沛市民などではなく、その主義主張に本能的に魅せられている自軍の兵士と、全ての民衆であったのだ――。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「袁術軍工兵部隊、投石器による投擲を開始! 敵目標を西門と断定、反撃の許可を!」

 

(ついに始まりましたか………)

 

 慌ただしい戦況報告を受け、鳳統は厳しい表情になる。こうなる事は予測していたが、やはり現実に起こると平静ではいられない。

 攻城兵器の威力は凄まじく、市民たちは大混乱に陥っていた。ある者は恐怖で青ざめ、ある者は泣き言を喚き散らし、ある者は怒り狂って敵を罵倒し、ある者は徹底抗戦を叫んだ。鳳統らに求められる最初の仕事は、いかにして騒然となった彼らを鎮めるかだ。迅速な対応による意思の統一が、勝敗を左右すると言ってもいい。

 

「住民の避難を最優先に。それから城壁および障害物の修復を急いでください」

 

「反撃はついては……?」

 

 傍らの元徐州軍将校が、不安げに尋ねた。

 

「小沛は市街を囲む高い市壁により、いまや難攻不落の城郭都市です。包囲戦はもちろん、投石器に対しても絶大な防御力を誇ります。しかし、敵兵が梯子などで強襲をかけてきた場合、非暴力では……」

 

「かもしれません。ですが、敵は目の前にいる袁家の兵では無いんです」

 

 たしかに袁術軍から確実に街を防衛しようとすれば、弓矢で応戦するのが最も現実的なのかもしれない。

 

 だが、それを実行すれば対立は決定的になる。小沛側は、袁家の兵に語り掛ける言葉を失ってしまう。唯一の武器である、“声”が相手に届かなくなってしまうのだ。

 

「立ち向かうべきは、袁家の権力者たちです。兵士たちのほとんどは、自分がなぜ戦っているのか分かっていません。ただ袁家上層部に言われるがままに従っている……こちらの立場と私たちが立ち上がった理由を話せば、彼らだってきっと共感してくれます!」

 

「しかし……!」

 

 逡巡する元徐州軍将校。本当に自分たちの声は届くのだろうか、そんな懸念が胸に渦巻く。

 

 だが、鳳統の主張が間違っているとも言い切れない。袁家の兵力は膨大だ。たとえ今回の攻撃を頓挫させても、やがては物量の前に磨り潰されてしまう。勝機があるとすれば正規戦での勝利ではなく、もっと別の何かだ。そう、袁家を内側から崩壊させるような、何かが――。

 

 

 **

 

 

 攻城兵器による攻撃は、まるまる6時間以上も続いた。華雄は堅固な城壁を少しでも破壊しようと、投石器と共に弩砲による砲撃を繰り返す。金属の弾や矢羽のついた槍、石などが打ち出され、袁家の火力をこれでもかと見せつける――。

 

「撃て、撃ちまくれ! 敵は素人だ! 徹底的に砲撃すれば士気は崩壊する!」

 

 袁術軍の陣地では、華雄が大音量で工兵に投擲を命じていた。しょせん相手は素人でしかない反乱軍。大量の攻城兵器の集中運用で物理的に城壁を破壊してしまえば、すぐに戦意喪失して降伏するだろうと華雄は踏んでいた。

 

 結局のところ、反乱軍は袁家に不満を持つ素人の集団に過ぎない。秘密警察を追い払ったことで興奮し、一時的に盛り上がっているだけだ。にわかに燃え上がった怒りは、鎮火するのも早い。

 

 それに、と華雄は思う。小沛市街には数百人に上る袁術軍捕虜と、蜂起を快く思わない市民がいる。本格的な攻撃が始まれば市民の士気は挫け、今度は親袁術派の民衆が命惜しさに寝返るのではないか……。

 

 

 しかし、華雄の甘い考えは見事に覆されることになる――。

 

 

 **

 

 

 壊れた城壁の復旧作業を続ける関羽の元に、袁術軍捕虜の一団が近づいたのは昼過ぎだった。

 

(っ――)

 

 鳳統の許可で、袁術軍捕虜たちには行動の自由が約束されている。その彼らが隊列を組み、軍靴お音を高らかに鳴らして近づいているのだ。反射的に警戒するのも無理は無かった。

 

 やがて太鼓の音までが聞こえ、ほどなく誰の目にも揃いの特徴的な背広型軍服を着込んだ元袁術軍兵士の姿が見える。弱兵の袁術軍いえども流石は元正規軍、丸腰であろうと整列すると迫力が段違いだった。

 

「小沛駐屯軍・第3歩兵中隊はこれより、関羽将軍の指揮下に入ります。ご指示を!」

 

 肩章付きの軍服を着た士官が進み出て、関羽に味方する意志を伝えた。目を丸くする関羽たちに向かって、士官は照れ隠しのように続ける。

 

「我々は元は袁術軍ですが、たった今から集団脱走することにします。同じ徐州の民として、どうか仲間に加えてはくれませんか?」

 

 士官がそう言うと、配下の兵士たちも口々にそれぞれの思いを叫んだ。

 

「袁家のやり口にはウンザリだ! 俺も一人の市民として戦いたい!」

「人民委員会のクソッタレめ!敵味方お構いなしに攻撃しやがって!もう我慢できねぇ!」

「修復作業を手伝わせてくれ! 俺たちも加勢するぞ!」

 

 攻城兵器による無差別攻撃は、捕虜たちの最後の忠誠心を打ち砕いた。あくまで非暴力を貫いた反乱軍に対して、容赦ない破壊で応えた袁家の暴挙に激怒したのだ。捕虜の多くはその場で認識票を地面に投げ捨て、蜂起する市民たちに合流したのであった。

 

「よく言ってくれた! お前らは今日から俺たちの仲間だ!」

「きっと分かってくれるって信じてたぜ! 一緒に袁家から街を守ろう!」

 

 あっという間に市民も集まり、次々に握手と抱擁を求めた。元袁術軍捕虜の寝返りは瞬く間に街中に広まり、にわかに小沛中がお祭り騒ぎのような興奮に包まれる。

 

「民衆の底力を見せてやれ!」

「おうよ、今こそ小沛の総決起だ!」

 

 士気も上がっている。関羽はそのことを、はっきりと感じ取ることができた。

 金持ちと貧乏人、商人から兵士まで。同じ目標を見据えながら、今や小沛は完全に一つになったのだ。

 

 

 **

 

 

 異変は小沛だけではなく、総攻撃を始めた袁術軍でも起こっていた。付近に展開した袁家の反乱鎮圧部隊では、兵士の不平不満がかつてないほど高まっていたのだ。

 

「寒ぃよぉ………、これじゃ寝てる間に凍死しちまう」

 

 季節は真冬で、ときおり猛烈な寒波がを吹き荒れている。雪が舞い降り、兵士たちは身動きすらままならなかった。

 

「急かしやがって、クソ将校め……なら、せめて防寒具ぐらい準備しろってんだ。くそったれ」

 

「まったくだ。昨日から今日までで、寒さにやられて何人駄目になったと思ってやがる」

 

 反乱軍に時間を与えまいとする、急ぎの作戦だったことも裏目に出ていた。布団や冬服などの冬季装備はまったく不十分であり、真冬の吹雪きの中で野営する袁術軍は大勢の凍傷患者を抱えることになる。特に軍靴は長距離進軍に耐えるため底に鋲が打ってあり、足に冷気を伝え凍傷の原因となった。下士官ですらまともな配給をうけられず、薪の不足から凍った食糧を食べた兵士たちは下痢と腹痛、風に悩まされていた。

 

「服だけじゃねぇ、飯も酷いもんだ。食事が唯一の楽しみだっていうのによ」

 

 食糧事情の悪化も深刻であった。開戦に伴い、早急かつ最低価格での兵糧調達が必要とされたため、品質は二の次とされたからだ。その結果、最前線に届いた肉は腐敗していたり、また不衛生な管理で汚染された食糧までが平然と出回る事になる。これら食用に適さない低品質な兵糧により、前線の将兵は赤痢や食中毒に苦しむこととなった。

 

 

「お、俺は会稽の出身なんだ。北の寒さには慣れていなくて……」

 

「お前だけじゃねぇよ。つか、ここにいる連中はみんな南部の出身だよ」

 

 鎮圧軍の兵士は、そのほとんどが揚州の出身である。徐州の冬は華北ほど厳しくないとはいえ、南方出身の彼らを苦しませるには充分であった。

 この人事には、それなりの理由がある。反乱鎮圧にあたって、袁家は地元出身の部隊を信用しなかった。そのため鎮圧部隊は地元民に共感しないよう、揚州派遣軍は豫洲出身、徐州鎮圧軍は揚州出身といった遠方出身者で占められていたのだ。

 

「まぁ、傭兵の連中は知らんがな……」

 

 一人の兵士がボソッとつぶやき、ちらりと横を見やる。大部分の兵士が戦意に欠ける中、多少なりとも本気で攻撃しているのは1500人ほどの傭兵部隊だった。それも普通の傭兵ではなく、西涼や南蛮から来た異民族の兵士たちだ。 

 

「しかも上の連中、異民族ばかり優遇しやがって……いつから江東は異民族に乗っ取られちまったんだ?」

 

「あいつらと来たら、平気で女子供でも笑いながら殺してるって噂だ。俺にはそんな事はできねぇ……」

 

「ああ、小沛の反乱軍も俺たちも、同じ漢人だ。仲間殺しを命じられたら、躊躇するのが当たり前じゃねぇか。それを上の連中、『腰抜け』だと……!」

 

 異民族傭兵の投入もまた、兵士たちには酷く評判が悪かった。たしかに反乱軍にシンパシーを感じないという点で、彼らの活躍は目覚ましいものがあった。しかし外国人傭兵が自国民を虐殺して賞賛されるという構図は、袁術軍兵士の士気を低迷させ、上層部に対する不信感を増大させていった。

 皮肉にも異民族傭兵の投入によって、袁術兵はこの時、初めて反乱軍と自分たちが「同じ漢人である」という事に気付いたのであった。

 

「なぁ……そういえば、これは何の反乱なんだ? 小沛の連中は何をしたんだ? 脱税でもしたのか?」

 

「さぁな。上は“命令に従え”の一点張りだ」

 

 劣悪な装備と環境で攻撃を強制された袁術軍に、最初の砲撃ほどの勢いほどは無かった。時間が経つにつれ、徐々に自分たちの行動に疑問を抱く者が増えてゆく。それに比例するように、至るところで不満と愚痴が漏れ出していった。

 

「……おふくろ、元気にしてるかな」

 

「今年の冬は厳しいからな。なのにマトモな服も買えない……俺の親父も風邪とかひいてなきゃいいんだが」

 

「揚州で反乱、豫洲でも反乱、そんで今度は小沛で反乱ときたもんだ。ちょっと前まではみんなが羨む豊かな地域だったのに……いったい江南で何が起こってるんだ?」

 

「上の連中は、曹操の工作員に唆された民衆反乱だと言ってるが……」

 

「州牧の劉備が私利私欲で扇動したって話も聞くぞ?」

 

 その時、一人の兵士が市壁を指さして大きな声を上げた。

 

 

「――おい、あれを見ろよ!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「桃香さま、戻ってください! まだ安静にしていないと……!」

 

 ふらつく劉備に、泣きそうな顔で縋りつく鳳統。関羽ら作業中だった人々もその姿を見つけると、唖然として動きを止める。

 

 

 ――事の起こりは半刻ほど前、昏睡状態だった劉備が目覚めたのだ。

 

 

「……行かなきゃ」

 

 鳳統から現状を聞くと、開口一番、劉備は現場に向かうことを決意した。まだ怪我も完治しておらず、長く眠っていたせいで体力が弱っているにもかかわらず、である。

 当然ながら鳳統らが反対するも、こういう時に劉備は意外なぐらい頑固な一面を見せる。自分が現場に行くと言ってきかず、反対を押し切るようにしてやってきたのだ。

 

「桃香、城壁の上は危険だ!」

 

 関羽が切羽詰まった表情で叫ぶ。

 

「それに、まだ病み上がりじゃないか。無理をすれば、また倒れるかもしれないんだぞ!?」

 

「だとしても、だよ。今が、絶好の機会なんだ」

 

 劉備をゆっくりとかぶりを振り、ふらつく足を無理やり動かして前へと進む。

 

「今なら、向こうの兵隊さんにわたし達の思いを伝えられる」

 

「だとしても、何も城壁に立つ必要はないはずだ! 口頭で伝えてくれれば、代わりに私が城壁に立って話をする!」

 

「それは駄目だよ。わたしが言わなきゃ」

 

 これは自分で言い出したことなのだ。どんなに危険であろうと、自分の口で伝えなければ意味がない。安全な後方で、危険な役目を人に押し付けるようでは、誰も話を聞いてくれない。

 

 正直に言うと劉備自身、怖くてたまらなかった。投石器から飛ばされる巨大な石や、鎧を易々と貫く弩砲の一斉射に、恐怖で足がすくみそうになる。

 だが、逃げてはならないのだ。自分は暴力ではなく、対話で中華に平和をもたらすと決めたのだ。たった一万の兵を前にして逃げ出すようでは、到底その先は望めない。弓矢の一本や二本、腕に刺さっても話を続けるぐらいの覚悟を見せなければ。

 

「………っ」

 

 病み上がりで息の上がった体が、ついに最後の階段を昇り終えた。城壁から下を見渡すと、無数の兵士が整然と並んでいるのが見える。その後ろには、巨大な投石器や弩砲が威嚇するように佇んでいる。

 

 

「――いたぞ、あれが劉備だ! 打ち取った者には褒美を与える!」

 

 ひときわ大きな声が、袁術軍の中から響いた。鎧に身を包んだ白髪の女性が、巨大な斧を振り回している。鎮圧部隊の指揮官で、かつて汜水関で戦った華雄だ。

 

 華雄の命令に従って、何人かの射手が弓を自分に向けたのが見えた。死ぬかもしれないという感覚が現実のものとなった瞬間、凄まじい恐怖に襲われる。膝は震え、心臓は激しく動悸を打つ。胸の奥から吐き気がこみ上げ、呼吸が乱れてゆく。

 

 

「――袁家のみなさん、こんにちは。徐州牧の劉玄徳です」

 

 全力で顔の筋肉を動かし、明るい笑顔を浮かべる。今さら引くことなど、できはしない。多くの人々が、自分を信じて付いてくれているのだ。踏み留まらなければならない。

 

(怖がることなんてない、だってあの人たちは敵じゃないから……!)

 

 自分に言い聞かせるように呟き、一歩前へと進み出た。

 

「今日は皆さんにお話ししたいことがあって、このような形で挨拶させていただきました。少しだけ、わたしの話を聞いてもらえないでしょうか」

 

 胸元で祈るように手を重ねる劉備。

 

「いま、あなた達は袁家から、この小沛の街を攻撃するように言われているはずです。昨日まで武器を持たない素人だった民衆など敵ではない、と」

 

 静寂が隅々まで広がり、劉備の声は遠くまで響き渡る。

 

「そうです、それは事実です。もしあなた達が本気を出せば、わたし達など一捻りでしょう」

 

(桃香、いったい何を言っているんだ――!)

 

 思いもよらぬ劉備の言葉に、関羽は衝撃を受けていた。そんな事を言えば、敵の士気が上がってしまう!

 

「袁家の持つ力は膨大です。万を超える兵士、重装備の騎兵、長江に浮かぶ大艦隊、巨大な攻城兵器……そのどれをとっても、わたし達には到底及びません。こうした物質的な“力”こそが、袁家の勝利を約束しています。平和に対話、絆といった概念には、これを破壊する力はありません。――ええ、戦えば袁家の勝利は間違いないでしょう」

 

 困惑と動揺のささやきが、民衆の側にも兵士の側にも広がった。

 

「ですが、その勝利の後に」

 

 劉備は声を強めて続けた。

 

「いったい何が残るのでしょうか」

 

 劉備はそこで言葉を切る。続いて、数秒の沈黙。

 

「袁家は、今まで全ての戦いにおいて勝利を収めているように見えます。けれどもその勝利は、大きな犠牲をわたし達一人一人に強いました」

 

 しばし目を瞑り、自分を落ち着かせるように劉備は深く息を吸う。

 

「袁家が成し遂げた事は、確かに偉業と呼べるのかもしれません。精強な軍隊と洗練された市場、数々の公共事業によって、袁家はほんの数年で江東を発展させました。今や江東は中華でもっとも成長の著しい地域です。社会は目まぐるしく変化し、少しでも立ち止まれば瞬く間に置き去りにされてしまう。だから自分のしている事の意味を考えることもなく、がむしゃらに進み続ける」

 

 それは袁家の兵士にとっても、身に覚えのある話だった。わずか数年の間に袁家は沢山の娯楽や利便を生み出し、凄まじい勢いで江東を発展させてきた。しかし繁栄のスピードが速まれば速まるほど、そこから脱落していく人もまた増えていったのだ。

 

「わたし達の生活の為の繁栄が、いつの間にか繁栄のためのわたし達の生活へと、手段と目的が逆転してしまっているような気がします。わたし達は貴族のように豊かな生活をするために、朝から晩まで奴隷のように働かなければなりません。わたし達は外敵から自由を守るために、囚人のように秘密警察の監視を受けなければなりません」

 

 鳳統は、自分の視線が釘付けになっているのに気付いた。劉備の演説は、どんどん力強さを増している。病み上がりである事が信じられないほど、動きにも声にも人を引き付ける魅力があった。

 

「わたし達はいったん立ち止まって、自分たちが何をしているのか考えるべきではないでしょうか? 繁栄から取り残された貧しき者の叫び、戦勝の影で泣く未亡人たちの嘆き、体制維持の犠牲者となった無実の者たちの慟哭……こうした声にも、もっと耳を傾けるべき時ではないでしょうか?」

 

 いまや袁術兵は、完全に劉備の演説に呑まれていた。一介の兵士とて、年齢と同じだけの人生を歩んできた人間なのだ。誰かの子であり、親であり、友人である。袁家の歪んだ繁栄の影で、どれだけの犠牲が生まれているか知っている。

 

「わたし達はそれが言いたくて、今回のような行動に出ました。苦しむ民衆の声を聴いてほしくて、志を同じくする、市民の皆さんと一緒に立ち上がったのです。袁家を倒したいわけでは無いんです。ただ、話を聞いてほしい。そして、変わってほしいんです」

 

 鳳統は、劉備が無意識の内に、もっとも効果的な手段に出た事に気付いた。袁家の功績を全て否定するのではない。袁家による正の影響は素直に認め、その上で負の影響を訴える。体制ごと転覆させるのではなく、あくまで体制内での変革を求めるのだ。そちらの方が、兵士たちにとって心理的に受け入れられやすい――。

 

「袁家のやり方に問題がある事は、皆さんも薄々気づいていると思います。でも、口に出せば秘密警察に密告されるかもしれないし、政治将校に粛清されるかもしれない……そうした疑心暗鬼と恐怖心が心の中に巣食っている。だとしても、それに負けないで欲しいんです」

 

 劉備の声には、悲哀と説得力が織り込まれていた。これまでの彼女には見られなかった、カリスマ性すら感じられる。

 

「互いに争うのではなく、互いに話し合いましょう。わたし達は戦をするために立ち上がったのは無いのです。あなた達と共に語り、生活を豊かにするために話し合いたいのだけなのです」

 

 劉備は兵士たちを見据えて、最後に短く締めくくった。

 

「皆さんの力を貸してください。この世の中を、もっと良くするために」

 

 

 **

 

 

 袁術軍の兵士たちは、その光景を前にして無言で立ち尽くしていた。

 

「隊長、今のは……」

 

 若い兵士が、困惑した顔で尋ねる。質問された隊長は、まずその若い兵士を、続いて唖然としている副官と、悩んでいる表情の同期、そして最後に自分の隊員全員を見つめた。

 

「今のは、敵の情報操作ですよね!? こちらを動揺させ、士気を挫くための……」

 

 若い隊員は混乱している様子で、なおも問いかける。自分たちの属する正義、袁家の主張する大義名分を信じたいのだ。劉備たち反乱軍は秩序と平和を乱し、社会を混乱させる『人民の敵』だという――。

 

「彼らは“敵”……なんですよね!?」

 

 必死に問い詰めるも、隊長は答えない。

 声が出ず、手が震える。

 

 ……そして。

 

「――――いや」

 

 隊長は武器を地面に置くと、小沛城へ向かって一歩を踏み出す。

 

「隊長!?」

 

 咎めるような副官の叫び。しかし隊長はそれを無視して、もう一歩前へと進む。

 

 さらにもう一歩を踏み出すと、後ろから金属が鳴る高い音が連続して響いた。

 武器が捨てられる音だった。何人もの兵士たちが、同じように武器を捨てている。

 

 互いに顔を見合わせ、頷き合う。それからゆっくりと、再び足を前に進めた。

             




 結論:反乱鎮圧に自国民兵士は使ってはいけない

 バスティーユ襲撃といい、ルーマニア革命といい、リビア内戦といい、革命のときに最後まで体制に忠実なのは外国人傭兵という悲しい現実。
 
 なお、天安門は思想的優位があったから例外の模様(震え声)


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93話:嵐来たる

         

 

 「――まさに作戦が開始されんとした時に、第2軍団の半数が進撃を拒否した。粘り強い政治将校の努力によって、ようやく彼らは夜間の出撃を始めたように見えた。しかし彼らは反乱軍の南部城壁に到達するや否や、一部の部隊がまるごと敵に降服してしまい、政治将校だけが引き返してきた。

 夜が明けると、他の軍団も同じ途を辿ったということが明らかとなった。第4軍団だけが、危うく降服しそうになっていた部下を連れて引き返した 」

 

 『小沛城叛乱』 帝立出版所。

   

 

 **

 

            

「いったい、何が起ている……!?」

 

 その様子を、関羽は目を丸くして見ていた。袁家の兵隊は次々と武器を地面に投げ捨て、その動きは急速に袁術軍の間に広がっていった。工兵も、次々と投石器の照準を市壁から外している。

 

 一万もいたはずの袁術軍は、もはや軍の体をなしていない。戦うまでもなく崩壊している事が、素人目ですら分かった。華雄ら士官クラス以上の者が必死に命令をきかせようとするも、兵士の大半は武器を放り棄てて命令を拒否。中には政治将校を含めて、まるごと全員が寝返る事すらあった。

 

「見てください、桃香さま! 袁家の兵士たちが……!」

 

 鳳統の歓喜の声を上げる。彼女だけではない。万を超える袁術軍が一戦も交えず自壊したのを見て、多くの民衆が喜び勇んでいた。

 

(―――っ)

 

 ついに、劉備は堪え切れなくなって号泣を始めた。

 

(やっと声が……届いた……!)

 

 涙に霞む視界の先では、多くの兵士たちが一直線に小沛城の門へと向かっている。小沛の側も彼らを受け入れ、門を開けて互いに喜び抱き合う。攻撃を受ければひとたまりもないが、それでも小沛を目指す人々の勢いは止まらなかった。各部隊の指揮官は劉備の指揮下に加わると宣言し、それは瞬く間に全軍に伝播していった。

 

 華雄ら袁術軍指揮官は、それを茫然と見ることしかできない。督戦しようにも、ほぼ全ての部隊が寝返ってはどうしていいか分からないようだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 ――宛城、行政府庁舎

 

 

 息を切らして賈駆が駈け込んで来た時、張勲は新調した袁術の衣装を仕上げている最中だった。

 

「張勲っ……大変よ……!」

 

「落ち着いてください、賈駆さん。一体どうしたんですか? 私はこれから、異民族傭兵部隊の運用について担当者と打ち合わせの予定が入っているんです。要件があるなら書類にまとめて後日……」

 

「それどころじゃないわ!」

 

 賈駆はドン、と強く机を叩く。驚いて振り向いた張勲に、早口でまくしたてた。

 

「小沛に派遣した軍団が寝返ったのよ! 今じゃ軍全体に同様が広がってるわ!」

 

 

「…………………………………………は?」

  

 

 **

 

 

 鎮圧部隊、造反す――その報告は瞬く間に宛城に届けられた。翌日早朝には緊急の会議が開かれ、寝ていた人民委員も強制的に叩き起こされた。中には寝癖のついたままの人民委員もいるし、女性の大半は化粧の途中だった。

 

「一万の軍勢が、半刻も経たぬ内に消滅しただと……!」

 

 造反の詳細を聞くなり、人民委員会では動揺が走った。

 

「将校以下、ほとんどの兵士が反乱軍に合流。華雄将軍らは体勢を立て直すべく、一時避難しているとの事です……」

 

 報告する方も聞く方も蒼ざめている。一回目の、袁術軍の総攻撃は惨憺たる結果に終わった。ほとんどの部隊は進撃を拒否するか、交戦せずに小沛側に降伏したのであった。

 

「反乱に同調する気風を封じ込めるべきだ! 全ての都市に戒厳令を敷いて、有事に備えた処置を……!」

 

「戒厳令など認められるか!これは行政を私物化しようとする、軍部の専横である!」

 

「その通り! 軍内部の統制すらままならぬ状況では、却って状況を悪化させるだけだ」

 

 しかしこの危機下においてさえ、袁家ではなかなか意思の統一がなされなかった。揚州出兵が停滞気味なこともあり、戦争を糧に拡大した軍務委員会の影響力は膨れた時と同じ速度で萎んでいる。文官たちはここぞとばかりに軍を吊し上げ、血の気の多い袁渙ら武官たちを憤慨させた。

 

「とにかく、動かんことには始まらんだろうが! 手をこまねいているだけでは、ますます叛徒どもを付け上がらせる事になる!」

 

 今後の作戦方針や戦闘指導を巡って会議は紛糾し、主導権を巡る武官と文官の対立は組織全体を巻き込む内紛へと発展しつつあった。

 

「だとしても、治安維持業務は保安委員会の管轄よ。軍務委員会が行うというのならば、越権行為と見なすわ」

 

 一方で賈駆の保安委員会は、戒厳令そのものには賛成だが自分たちが主導権を握るといって譲らない。当然ながら火に油を注ぐ形となって、袁渙を激怒させた。

 

「黙れよ小娘! こうなったのは、貴様ら秘密警察の怠慢だろうが!」

 

「なに? 今更その話を蒸し返すつもり?」

 

「過ぎた話だとは言わせんぞ! 元はといえば、小沛が叛徒どもの手に堕ちたのは貴様らの失態だろう! むしろ貴様が未だに保安委員会議長の椅子にいるのが不思議なぐらいだ!」

 

「ちょっと! それってアタシの人事に問題があるって言いたいワケ!? 書記局にケンカ売ってんの?」

 

「責任追及は後にしてください!」

 

 議論は白熱し、日頃は穏やかな張勲が思わず声を荒げるほどだった。もっとも幹部同士で批判合戦が巻き起こり、肝心の反乱はほとんど議題に上らなかったのだが。

 

 それ以降も袁術軍は攻撃を繰り返すも、ついには公然と命令拒否が発生。脅迫と説得で前進させても、士気低迷する部隊はことごとく敗北する。あるいは敗北ならまだいい方で、寝返りが止まらず、戦力差は反比例の関数を描いていった。

 

 そうした動きを見てか、一部の豪族や農村でも劉備たちをを支持する風潮が広まりつつあった。保安委員会は必死になって反乱軍を支持するような活動を取り締まろうとするも、劉備が立ち上がったと知った徐州の市民たちは各地で抗議活動に参加した。抗議活動は徐州に留まらず、豫洲や袁術軍部隊内にまで出回り初めていた。

 

 せめてもの僥倖といえば、張纏や華雄ら将校クラスの人間が無事に逃げおおせていた事ぐらいである。兵はともかく、上昇思考の強い中堅幹部たちにとって袁家は未だ忠誠の対象であったからだ。ひとたび栄達の階段に足をかければ、無名の青年が壮年期には州の要人となることも珍しくは無い。彼らはなまじ現在の体制下で苦労して出世しただけに、現体制の存続を強く望むようになる。

 

 ◇

 

 負傷から回復した張纏が保安委本部に戻ると、そこは前線指揮所と化していた。壁一面は地図で覆われ、部隊展開を示す軍隊符号がところどころに貼られている。

 

「――遅いわよ、張纏」

 

 地図を睨んだまま、賈駆が言葉を投げかけてくる。合理主義者の彼女らしく、ねぎらいの言葉などは一切無いらしい。

 

「酷いなぁ、これでも死にかけたんだけど?」

 

「それも含めての給料よ」

 

 そんな事よりこれを見て、と賈駆は一枚の紙切れを渡した。袁家に対する批判を書き連ねた反政府ビラで、反乱を煽るような文句で締めくくられていた。

 

「似たようなビラが何枚も、兵士たちから押収されている。それが何を意味するか、分かってるよね?」

 

 当然、と言わんばかりに張纏は肩をすくめた。

 

 軍の内部にまで、危険思想が蔓延しつつある。事態は想像以上に深刻のようだった。軍が正常に機能しなければ、反乱は鎮圧できない。このままでは、更に被害は増えていくだろう。

 

「今の所、ボクたちは完全に後手に回っている。でも、叛徒の全員が高い意識をもって動いているわけじゃない。扇動している連中さえ押さえれば、後は烏合の衆よ」

 

 自分にそれをやれ、という訳か。賈駆が何を考えているか、手に取るように分かった。張纏は顔の端ににやりと笑みを浮かべる。

 かくして予想通り、賈駆が一枚の紙を差し出した。そこには諸葛亮および北郷一刀らを含む、『人民の敵』を公開処刑にする旨が書かれていた。

 

 

「時間がない。ボクたちは今すぐにでも始める必要がある」

 

「へぇ……それで、何を始めるのかな?」

 

 これは茶番だ。次にどんな言葉が出てくるか、張繍以上に熟知し、かつ愉しみにしている人間もいないだろう。賈駆もそれを知りながら、敢えて宣言する。

 

「1つしかないでしょ。粛清……」

 

 否、ただの粛清ではない。賈駆は訂正する。

 

 

 これは『大粛清』である、と。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 それから3刻後、賈駆と張繍は張勲の執務室にいた。一刀たちの処刑を控え、どうしても彼女にその決断を認めてもらう必要があったからだ。

 

 あえて張勲を選んだのには理由がある。ただならぬ気配を感じたのか黙り込む張勲に、張繍はかれこれ一刻以上も演説を続けていた。

 

「――だからさ。本来は正規軍が平民の反乱軍ごときに負けるはずがないって、それが言い分なの」

 

 張繍の主張のひとつが、それだった。つまりは敗北の理由が知れない。どうして事前に察知できなかったのか、それについても判然としない。

 

「どうして、兵士が脱走し続けるんだと思う? どうして、こうも立て続けに反乱が起こるの? それで得をするのは誰?」

 

 誰もが抱くようになった疑問。ところが、そこにたった一言を加えるだけで、たちどころに全てが氷解してしまうのだ。シンと静かになったところに、張繍は言葉を投じた。

 

「ああ、そうだよ。裏切り者だ、袁家の中に“工作員”がいる」

 

 事実として、軍部には反体制派が多い。政治将校が見張っているから問題はなかろうと、あらゆる疑わしい人物が軍に終結していたのである。兵を使い捨ての駒としか考えない袁家のこと、反体制派ならいくら使い捨てても惜しくはない、という計算もあった。

 

 武器も装備も上の正規軍が、素人主体の反乱軍に負けるはずがない。もし負けるのだとしたら、背後からの一突きがあったのではないか……そんな風に黒幕の存在が疑われるのは、当然の帰結だった。人望だの、元徐州牧だのを別にしても、一から十まで劉備がやったとすれば、出来過ぎの感は否めなかった。

 

 一刀らが玉璽を有していたという点も、単なる偶然とは考えにくかった。劉備が実は密かに玉璽を手に入れて漢王朝に代わろうとしていたのだと、そこまで深読みはせずとも、単独犯ではないと考えた方が何倍も自然だ。

 

「もしかすると、本当の敵はもっと別の場所にいるのかもしれない。劉備たちだって、氷山の一角に過ぎないのかも」

 

 愚かで汚れを知らない劉備は、言葉巧みに騙されているのではないか。例えば劉表などに、弁舌さわやかに言いくるめられたのではないだろうか。荀彧の陰謀に乗せられて、うまく誘導されてしまったのではないか。

 

 もちろん劉備は認めないだろう。だが、否定すればするほど却って怪しく見えるものだ。

 

「そうだよ、工作員がいる。いつでも、どこにでも」

 

 張繍は2人に向けて繰り返す。そうだとすれば、これからも戦いは続く。いつまた裏切られるとも限らない。これは袁家存亡の危機だ。非常事態であり、手段など選んでいる場合ではない。超法的な措置をとり、断固として対処しなければならない。

 

 だからこそ――。

 

「やはり、粛清しかない」

 

 ただの粛清ではない。大粛清だ。長江が血に染まるほどの、大規模な殺戮を行うべきだ。事態はそれほど切迫しており、とてもじゃないが悠長に裁判などしている暇はない。

 

「そうね、ボクもそう思う。粛清しか道はないわ」

 

 後を受けたのは、賈駆だった。無茶苦茶な事を言っているとの自覚はある。考える限り最悪の形で猜疑心が暴走しているとも思うのだが、形振り構ってられないとの思いの方が強かった。

 

「もしかすると、無実の人間を殺しちゃうかもしれない。だけど、工作員だという疑いをかけられるような振る舞いをしていたら、信用したくてもできないでしょ? だから全員殺すしかないじゃない」

 

 返事はない。張勲は無言のまま。顔色が悪いというレベルを通り越して、まるで死人の様だ。今まで保身のために直接動くことを避けていた彼女にとって、今回のような決断は重過ぎるのだろう。

 

 それでも、逃げはしない。そこがいつも逃げ道を作って保身を図る、劉勲との最大の違いだ。もしかすると賈駆が思っていたより、責任感が強い女性なのかもしれない。袁術のために一命をささげて悔いなしと、本気の覚悟もあるのだろう。

 

 だからこそ、張勲には今すぐ決断してもらわなければならない。

 

「張勲、もう時間は残されていないのよ。ボクたちが工作員を根絶やしにしないと、ここにいる全員が殺される。ボクも張繍も、アンタも、袁術もね」

 

 袁術、という言葉に張勲がビクッと反応した。額から噴き出した汗をハンカチで拭い、垂れた髪を直すと、やっと張勲は口を開いた。

 

「軍をもう一度、再編するという手もあります」

 

 対立を激化させるのではなく、もっと穏健に対処する方法もあるはず。よく話合って兵士の不満を解消すれば、裏切る要因はなくなる。そう反論しようとしたが、賈駆は予想していたように先手を打つ。

 

「裏切り者は信用できない。一度裏切った人間は、次もまた裏切るに決まっている」

 

「付け加えさせてもらうとね、もたもたしてると全てが終わっちゃうよ」

 

 と張繍も続けた。いまや地方は袁家に決定的な反感を抱いている。独立派の蜂起も予断を許さない。曹操や劉表の脅威もあるし、まだ反乱軍は各地に跋扈している。刺客が宮殿に送り込まれない保障もない。

 

 断固とした措置が必要だ。今の袁家を立て直すには、劇薬を投与するほかない。

 

「何か行動が必要なの。ボクたちは、人民を救済しなければならない。誰かが敵を駆逐しなければ、江東は壊滅する。それも、もう時間がない」

 

 強い言葉で、賈駆は迫る。自分だって工作員狩りには抵抗がある。しかし領地の惨状をこれ以上、無視はできない。冤罪を恐れて工作員を見過ごすか、冤罪を覚悟で工作員を根絶やしにするか。自分なら後者を選ぶ。なぜなら工作員を見過ごせば、結局は大勢が死ぬからだ。それは一連の反乱で、すべての領民が思い知ったことだ。

 

 今も、領地では死が続いている。冤罪で殺されることは酷いことだからといって、工作員から身を守るために敵を排除するのは許されないのか?

 

「誰だって、本当は自分や自分の家族が死ぬなんて望んでない。張勲だって、それを止めたいはずよ」

 

 賈駆は逃げ道をふさぐように、張繍と2人で張勲を囲むように進む。

 

「ボクたちが反乱分子の立場を慮って譲歩を示せば、連中も譲歩してくれるとでも思う? たしかに向こうだって必要があって、やむにやまれず工作員になっているのかもしれない」

 

 脅されてるのか、あるいは人質とられているのか。そういった理由で仕方なく工作員になる者は多い。かくいう自分も、そういった人間を多く使ってきた。ああ、たしかも哀れだ。同情もしよう。だがしかし。

 

「そりゃ工作員も人間だし、冤罪で死ぬ連中もそうだけど。感情もあるし、それぞれの人生があるし、家族も大事な友人もいるでしょうね。その点は善良な市民や愛国者たちと何も変わらないわ。でも、それを理由に見逃したら、本当に何の罪もない人たちが大勢死ぬのよ」

 

 張勲はとっさに目をそむけた。背けざるを得なかった。

 

 賈駆はこの数か月で、大きく変わった。彼女に続いたら、自分も変わってしまうだろう。否、誰もが変わらざるを得ないだろう。

 彼女の言うとおりに大粛清を始めてしまったら、江東は地獄へと変貌する。

 

 ――自分は、そんな世界を袁術に見せてよいのだろうか。

 

 ◇

 

 窓の外には、暗闇と静寂――夜の街に人の姿はなく、崩壊に瀕した廃墟のようにも見える。かつては賑わっていた宛城も、今や廃墟と成り果てつつある。

 

 賈駆が自分のためを思って言ってくれているのは分かる。彼女は大運河建設以来、捜査に追われてロクに休む暇もなかったはずだ。洛陽に続いてかつてないほどの心労を負い、憔悴した姿を見れば哀れに思う。それは自分に想像すらつかないほどの心労であっただろう。

 

 だが――彼女は張繍と共に無実の人間を生贄に使おうと言うのだ。これからどんな地獄が待っているのか、想像するだけで背筋が凍る。

 

 端から殺す前提で釈放する気もないくせに、様々な拷問を繰り返し、司法取引を持ち掛けて心を揺さぶり、どうしたら都合のよい自白を引き出せるかと実験する。自白したからといって釈放する気はなかった。工作員は敵であり、生かしておくことはできない。元よりそう心を決めている。そして利用価値が無くなったと見るや、民衆の不満と不安をそらす体の良い生贄として公開処刑する。

 

 だが――それは組織や国家にとって必然なのだろう。敵を滅ぼさねば自身が滅ぶ。肉食獣を同じで、命を狩って己を生かす。好き嫌い関係なく、そうするしかないのだ。でなければ、自らが飢えて死ぬ。それを非難することは、獲物を狩らねば生きられぬ肉食獣を、命を奪うのは悪だと断じ、飢えて死ねよと命ずるに等しい。

 

 秘密警察の行動は軽率で野蛮であったが、それでも人民委員会が袁家のために尽力していることは疑いない。善意と焦るあまりの暴挙だともいえる。

 

 そう、暴挙。蛮行。秘密警察のやり口は蛮行に等しい。それなりの正義と理屈はあるが、冷静になって見ればどれだけ常軌を逸しているか一目瞭然だ。

 工作員という存在がなく、しかも領民を救うのだという大義名分がなければ、秘密警察の行為は凶器の末の暴挙にしか見えないだろう。いや、それがあってさえ傍目にはそうとしか見えない。

 

 そこまでする必要があるのか、と自問する。大虐殺を引き起こしてまで、工作員狩りをしなければならないのか。袁家を、組織を、国を守ることは、それほどの事までして守らなければならないものなのだろうか。

 

 いや、それは問題ではない。問題なのは、そうした暗部を袁術に見せてしまって良いのかという事だ。

 

 賈駆が変わってしまったように、袁術も変わってしまうのではないか。穢れを知らず、天真爛漫なあの笑顔を、二度と見る事が出来なくなるかもしれない。それは大いなる恐怖だ。

 

 そこまで考えて、張勲は答えを発見した。

 

「だったら……隠してしまえばいい」

  




張勲の脳内
 袁術>>>>>(越えられない壁)>>>義務とか愛国心とか何とか>無実の人々


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94話:大粛清

 ちょっと時系列をいじって大幅に修正


 

 攻撃は、ずっと以前から始まっていた。何かきっかけがあった訳でも、袁家の行政機構を麻痺させる絶好の機会があった訳でもない。それでも地獄の釜は、少しづつ開いていたのだ。

 

 孫堅が不自然な死を遂げた直後から、袁家を牛耳るようになった劉勲らは次々に政敵を粛清していった。それまで武官の脇に追いやられていた劉勲ら文官としては、一刻も早く足場を固めなければならなかったからだ。

 

 この時点における粛清とは政治的な手段であり、あくまで権力掌握のための方便に過ぎなかった。いかに劉勲が猜疑心の塊のような女であるとはいえ、彼女なりの理性をもって計画的に粛清は執行されていたのだ。

 経済発展に人民は満足していたし、官僚たちも甘い汁を吸おうと劉勲にすり寄ってゆく。放っておけば毎日のように面談や賄賂が届けられ、劉勲も我が世の春を大いに謳歌していたものだ。

 

 ◇

 

 しかし幸福な時代も長くは続かない。最初の試練は、曹操による徐州侵攻であった。また、その頃から格差と貧困、景気後退といった袁家統治の矛盾が表面化し始めていた。そうした大小様々な不満は次第に最高統治機関である人民委員会へと向けられ、事実上のトップである劉勲の心にも大きな影を落としていた。

 

 ――彼女はいつクーデターが起こるのかと、眠れぬ夜を過ごす。

 

 もともと新参者といっていい劉勲が、袁家で力を得たのは経済発展という波にうまく乗れたからだ。裏を返すと、このまま不景気が続けば、袁家に強固な基盤を持たない彼女は後ろ盾を全て失う事になる。

 

 もしそんなことになったら――と劉勲は背筋を凍らせる。失脚して力を失えば、次に粛清されるのは自分である。

 

 劉勲が経済の立て直しに東奔西走している隙に、反対派は着々とクーデター計画を立てて彼女を失脚させようとするであろう。かつて劉勲が政敵にしたのと同じ拷問と粛清を、今度は自分が味わう番になるのだ。実際その考えは正しく、ライバルたちは虎視眈々とその隙を窺っていた。

 

 そこで劉勲は大運河の建設をはじめとする大規模な財政出動を行う一方で、災いの芽は早めに刈り取ろうとした。それこそが、周瑜の仕掛けた壮大な罠だということにも気づかずに――。

 

 しかしそれだけでは、まだまだ大粛清には程遠かった。粛清は、袁家政権という『身体』を反体制派という『病気』から守るための『薬』でもあったからだ。「薬を過ぎて毒とする」という周瑜の目論みも、経済が上向けば水泡に帰したかもしれない。

 

 ◇ 

 

 ところが『大運河建設』という景気回復を狙った大規模な財政出動は、結果的に江東の経済を低迷させてしまうことになる。

 

 ――では、何が問題だったのだろうか?

 

 後世の分析によれば、驚くべきことに計画そのものは完璧に近い状態だったという。天才軍師・諸葛亮の緻密で入念な計画は、当初の予算内で十分に工事を完了させうるものであった。労働者にも適切な給料が支払われ、事故などのリスクも織り込み積み。計画通りに運河を完成させて淮水と長江を連結した時の経済効果も、数年以内に借りた資金を利息付きで返済できるほど莫大なものだったという。

 

 問題だったのは、「運河が完成すれば」という部分に目が行き過ぎて、「運河を作っている間」を楽観視し過ぎていたことだった。

 

 このあまりに大胆な計画を遂行するために、袁家は領内のありとあらゆる商人から資本を調達し、それを建設予算に充てていた。問題はその比率で、公共事業であったにもかかわらず袁家の出資率は1割程度しかなく、残りは全て領内の商人や豪族からの負債だった。

 

 それだけ運河建設には巨額の費用が必要だったという事であるが、袁家は資金の調達に成功した。「運河が完成すれば」、膨大な見返りがあることが誰の目にも明らかだったからである。

 

 ところが、運河建設というものは4、5か月で完成するものではない。本格的に利益が上がるのは完成後であるため、それまでの間、投資された資金は大部分が固定資産化する。袁家のバランスシートは、借方の大部分が固定資産かつ貸方の大部分が負債という、極めて危険な状態へと変化していった。

 

 しかも当時の会計に、複式簿記などという便利なものは普及していない(伝統ある商会が、経験的にそれらしきものを秘伝の技として運用している可能性がある程度)。

 

 袁家が地方分権色の強い政府だった事も、財務の不透明性の一因だ。運河建設の費用は袁家が一元的に調達・管理・運用していたのではなく、各州・郡レベルまで細分化された上でバラバラに調達されていたため、政治的な思惑から情報の開示と共有が十分になされているとは言えなかった。 

 

 あるいは、そもそも計画が巨大すぎて当時の技術レベルでは計画の全貌を把握することなど不可能であった。

 

 そのため袁家は膨大な資産を保有しながら、その大部分が固定資産化してしまったため、「運河が完成するまで」自由に動かせる流動資産を失ってしまったのだ。一時的な財源不足とはいえ、不況時に景気対策の柔軟性が失われた事は致命的であった。

 

 

 もちろん袁家が財源不足に陥っただけで、すぐに大不況になるとは限らない。当初は運河建設という公共事業で新たな雇用が生まるたため、彼らが景気を支えるのではないかという予想が主流であった。

 

 しかし蓋を開けてみれば、巨額の支出は金利を上昇させ、却って経済活動が抑制されるという真逆の効果が発生した。借り手が増えれば当然ながら利子が上がるため、投資は減少する。

 

 

 江東中の資金が運河建設に雪崩れ込む一方で、それ以外の経済活動はむしろ縮小していく。しかも運河建設に使われた資金は、完成まで動かせない。

 

 とどめは、豫洲と揚州で起こった反乱だった。

 

 不景気で、ただでさえ不満が高まっている時期に起こった反乱……袁家に譲歩するという選択肢はなかった。弱腰と舐められないよう、断固とした措置をとる必要がある。人民委員会はすぐさま軍隊の派遣を決定した。

 

 体制存続に関わる非常事態である。反乱が広がる前に、急いで鎮圧せよ。経費については幾ら掛かっても良い――前線にはコストを度外視し任務達成を優先せよという、これまでの袁家では考えられない要求が送られた。

 

 結果的に豫洲は制圧され、揚州も長江周辺の主要都市も全て袁家の手に堕ちることとなった。これで周瑜は大事な駒を2つも失ったように見える。

 

 だが、華々しい勝利の裏で、袁家は記録的な大赤字を計上していた。

 

 あと一押しだった。周瑜が少しづつ袁家に飲ませた毒は、あと一押しで全身に回る。

 そして――。

 

 

 宛城で、北郷一刀と諸葛亮が逮捕される。

 

 全ては計画通り。陸遜を使って揚州で彼らを襲撃し、豫洲で地下活動をしていた孫賁を使って宛城まで向かわせた。周泰を使って玉璽が一刀たちに渡るよう画策し、黄蓋が協力者の口封じをする。

 

 そして秘密警察の魔の手が伸びた。一刀と諸葛亮は逮捕され、徐州の劉備らも軟禁状態に置かれる。未だ袁家は健在であったが、立て続けに起こった一連の事件は人民委員たちの心に暗い陰を落としていた。

 

 次は一体、誰が裏切るのか、と。

 

 最も反抗的だった劉備たちを蹴落としたとはいえ、袁家が安心することは無い。袁家は長引く粛清と権力闘争で、全員がお互いに不信感を抱いている。いつ誰に裏切られるかも分からない不安と猜疑心で、ある種の集団ヒステリー状態にすらあったといえよう。当初は失笑を買うだけだった張繍の「工作員」説が現実味を帯びてきたのも、こうした下地があったからだ。

 

 

 **

 

 当時、袁術領の人々は社会的な不安の中で暮らしていた。長引く華北の戦争、農民の反乱、伝染病の流行、飢饉、格差の増大など。

 こうした不安に拍車をかけたのが住民たちの対立である。華北の戦乱を逃れてやってきた移民たちが流れることで、江東の人口は爆発的に増加していた。生活習慣や文化の違いに加え、袁家の自由放任政策によって格差も増大したため、人々はお互いを警戒するようになる。こうした民衆の不安と疑いを火種に、密告は激しさを増してゆく――。

 

 そして人民委員会議は、一連の反乱には協力者がいるにちがいないと考えた。そして、現政権に不満をもっていると思われる人物たち――密告されたのは移民や物乞い、元犯罪者や離婚経験者など社会的弱者だった。

 

 仕事熱心な秘密警察によって彼らはすぐに逮捕され、過酷な取り調べが行われた。もちろん最初は誰もが容疑を否認していた。当たり前である。ほとんどの者は立場の弱いだけの、善良な市民であったのだから。

 

 しかしこのとき、秘密警察は再び司法取引を持ち出す。冤罪だと分かれば、組織としてのメンツも個人の評価も大きく下がるからだ。容疑者の側も少しでも刑を軽くするため、司法取引に応じた。秘密警察と全面対立して恨みを買えば、どんな報復が待っているか分からない……こうして彼らは悪魔の取引に応じ、検察に促されるがまま、更に証言をし続けた。哀れで愚かな被告は協力者の存在をほのめかし、再び『工作員』が発見されてゆく。

 

 

 秘密警察の動きは迅速だった。すぐさま容疑者への尋問が行われ、恐ろしい拷問の末、人民委員会は「自白」を引き出した。告発された人間たちは皆、弱い立場にあったために経験上の知恵として自白したほうがよいと判断した。どんな理不尽な事であろうと、従っていれば抵抗するより酷い目にはあわない。そう信じて……。

 あるいは、そう信じたかったのか。例えでっちあげでも袁家が望む答えをすれば、自分は許されるかもしれない。最終的に摘発された『工作員』の数は、一か月で1万人にも上った。翌日から特別裁判が開かれ、次々に有罪を下された。そして有罪が決まれば、次の日には死刑が待っていた。

 

 

 本当の意味で大粛清が幕をあけたのは、ここからだった。

 

 

 それまでは社会的弱者が主な標的となっていたが、とある裁判では、なんと古参の家臣で大勢の尊敬を集めていた魯粛が工作員としてあげられたのだ。流石にこれは抗議が殺到し、40人以上の政府高官が無罪放免を求める嘆願書を出す。

 

 もう少し嘆願書を出すのが早ければ、あるいは荒唐無稽な展開を見せるのがもっと早ければ――彼女の命は救われてかもしれない。

 しかしこの時期になると、工作員に対する恐怖はどんどん肥大化していき、ほとんどの人民委員から理性的な判断を奪っていた。このままでは処刑されてしまうと、魯粛は怯えた。拷問を受けながら彼女は、ついにこう“白状”した。

 

「軍上層部には、他に205人の工作員がいる」

 

 最期の裁判では、さらに多くの工作員が軍にいるという驚きの証言が飛び出したのだ。「魯粛ほどの人物が白状したのだ。真実なのではないか?」そう考えた袁家の人々はパニックに陥った。もともと文民統制の強い袁術軍では、人民委員会に不満を持つ上級軍人は少なくはなかった。あり得ない話ではなかったのである。

 

 しかも相手が高位軍人となれば、今までの反体制派とは話が違う。立場の弱い今までの『人民の敵』と違って、今度の敵はその気になれば武力を用いてクーデターを敢行できるのだ。

 

 もはや一刻の猶予もなかった。

 

 秘密警察を使った礼状抜きの捜査と、形だけの杜撰な裁判。翌日には、宛城にいいた16人の将軍の内、7人が処刑されたのである。

 

 そしてこの事件は、袁家を更なる混乱の泥沼へと引きずり込んでいく……。

 

 ◇

 

 衝撃の発言から10日後、魯粛は『人民の敵』として絞首刑にかけられる。これに残った人々は恐慌状態に陥った。古参幹部で派閥色も薄かった魯粛でさえ処刑されたとなると、だれも無事とは言えなかったからである。中には、工作員だと申し立てれば命は助かると信じて、告白する者も出てきた。なにせ愛国心の証明は、悪魔の証明なのだから。

 

 次々と実行される処刑。もちろんその多くは罪など犯したこともない愛国者たちだった。特に貧しいものは賄賂を渡して逃げることもできなかった。

 

 そのうち秘密警察ですら密告の対象となり、密告をしなかっただけで怪しまれる風潮すら生まれた。自分が助かるために友人を密告し、その友人もまた密告される前にと密告し、最後には2人とも処刑――などという笑えない冗談が現実となってゆく。『工作員』の数はどんどん膨らんでいった。

 

 実に不思議な事態が発生していた。次々に『工作員』が見つかり処刑されて安全になっているはずなのに、袁術領全体に不安と猜疑心が落とす影はどんどんと密度を増してゆく。暴走する密告はとまらない。高名な軍人たちが次々と裁判へ引き出されていく。裁判で無実を主張すれば、待っているのは残酷な拷問だ。殴る蹴るはもちろん、睡眠妨害に水責めなどで無理やり自白へと追い込まれてゆく。ひとたび密告されたら最後、逃れる術はなかった。

 

 これに対し、「秘密警察に原因がある」と主張した者もいたが、秘密警察側からの告発を受け工作員とされてしまう。

 

 やがて工作員狩りは袁術領の全土へと拡大。秘密警察に逮捕された容疑者が自分への疑いをそらそうと、他人の名をあげることで広がってゆく。そのぐらいしか、愛国心を証明できる手段がなかったからだ。2月と経たないうちに、より多くの政府官僚、将軍、大商人といった名士たちまで処刑されてしまう。

 

 どんなに疑わしくない人であれ、裁判に引き出されれば確実に有罪――もはや異常事態であることは、誰の目にも明らかだった。とはいえ、こうした粛清に対して疑問の声をあげれば、今度は自分自身が工作員の疑いをかけられるかもしれない。人々は「次は自分の番ではないか」という恐怖から静かにするしかなかった……。

 

 この頃には人口1700万ほどの袁術領(南陽郡、徐州、豫洲、揚州)で、8万人以上の人間が工作員として逮捕され、辻褄が合わない事態にやっと疑問の声が上がり始める。

 聡い者は、この悲劇を秘密警察による恐怖政治の、構造的欠陥だと気付いて人々に訴えた。

 

「秘密警察と密告制度こそが、ありもしない『工作員』を生み出しているのだ!」

 

 理路整然とした説明に、人々も『工作員』などいないのではないかとと思い始めた矢先、保安委員会副委員長である張繍がとんでもない声明を出す。

 

 

「皆さん、油断してはなりません! 工作員は時に愛国者を装って、私たちの前に現れるのです!」

 

 

 

 これは文字通り「悪魔の証明」だった。なにせ「工作員では無い」ことの証明は非常に難しい。仮に「工作員である」ということを証明する場合、容疑の一つでも見つければよいが、「工作員ではない」ということを証明したければ全ての活動を検査せねばならなず、それは事実上不可能だからだ。

 

 秘密警察的な考えからすれば、「外国の本を読んだ」人間は「思想を洗脳されている」可能性があり、「外国人と話した事がある」人間は「工作員に情報を漏らした」可能性があり、「外国に行った事がある」人間に至っては、行為それ自体が容疑とされる。極端な話、生まれてから地元を一度も出たことがなく、地元民との接触しかなかった人間でなければ容疑は免れない。ほとんど悪魔の証明である。

 

 

 ――こうして、大粛清は最後の歯止めを失った。

 

 

 大粛清の波が最後に訪れたのは、揚州の大地だった。最前線で戦う孫家に工作員狩りの魔の手が届く寸前、周瑜はほくそ笑んだという。

 

「……勝った」

 

 袁術領の全てを巻き込んだゲームに、周瑜はとうとう勝った。致命の一手を打てた、と思っていた。無実の名将を敗死させることができたのだから。袁家に深い猜疑を植えつけることに成功したのだから。

 

 ――あとは、勝利の分け前をもらうだけだ。

  



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95話:袁家の一番長い日

 宛城の中央広場。そこから伸びる大通りへの出口には騎兵が陣取り、放射状路では武装した兵士たちが隊列を組んで盾を構えている。物々しい雰囲気の中、兵士たちが木製の通行封鎖版を並べ、バリケードを作っていく。

 その中央にはボロをまとった集団が集められ、周囲から槍を向けられている。彼らの一人――諸葛亮は処刑台の上、柱に縛られ括り付けられていた。

 

(………っ)

 

 一刀の姿を探すと、やや離れた位置にある馬車に乗せられているのが見えた。知らぬ間に酷い拷問を受けていたらしく、ぐったりとしている。

 

「劉備たちを頼ろうとしても無駄だよ。分かってるでしょ?」

 

 隣にある死刑台の上には、秘密警察の上級将校服を着た張纏が立っていた。諸葛亮を見下ろす彼女の手にあるのは、死刑用の斧。

 

「本当はこんな事したくなかったんだけどねぇ。一応、劉備たちにも反乱を止めないとこうなる、って言ったんだけど、あっちは完全無視。まぁ、理由は分かるよね――見捨てられちゃったんだよ、君たちは」

 

「まさか……桃香さまが、そんな事……ッ!?」

 

「普段から友愛だの絆だと適当な事ほざいといて、いざとなったらバッサリってね。今じゃ君の味方は一人もいない、一人もね」

 

 そこで張纏の背後から、複数の人影が近づいてきた。どうやら公開処刑の準備が完了したらしい。張纏は小さく頷くと、死刑を見物に来た観客に向かって声を張り上げた。

 

「――これより、公開処刑を開始する! 名門袁家の名において、平和を乱す人民の敵を処断するのだ!」

 

 常識で考えれば、これは暴挙以外の何物でもない。暴挙以外の何物でもない。仮にも張纏は役人なのだ。政府に名を連ねる官僚であり、警官なのだ。それが自ら法を破るような真似をしようとは。いくら暴徒とはいえ、反乱軍の士気を挫くためだけに裁判にかけずに処刑するなど正気の沙汰ではない。

 

 だが、袁家にはそれを可能とするだけの『力』があった。必要とあらば法すらねじ伏せ、逆らう者を物理的に従わせる『力』が。

 

「……ひ、……うぁ……」

 

 小沛で起こった反乱の事は、彼女ら死刑囚の耳にも入っている。世の中は変わりつつあるというのに、此処は何も変わらない。袁家という絶対的な力が君臨するだけで、諸葛亮はひたすら孤独だった。ボロボロと涙が溢れる。その原因は恐怖か、悲哀か、屈辱か。

 

「あ……ぁ……」

 

 言葉が出てこない。どうやって口の筋肉を動かせば音を発せられるのか分からない。今まで何度か戦場に身を置いた事はあるが、それとは別種の恐怖が湧いてくる。

 

「斧を構えろ!」

 

 張纏が声を張り上げると、諸葛亮の他にも何人かの死刑囚が絶望の呻きを漏らした。しかし、そんな彼女たちを前にしても刑務官の表情は揺らがない。こういう場は見慣れているのだろう。張纏も鬱陶しそうな調子で「早くしろ」と急かした。

 

「殺せ!」

 

 命令と同時に、刑務官は処刑用の斧を一切のためらいもなく振り下ろした。迷うことで余計な痛みを与えまいとでも言うかのように、斧の切っ先が首をめがけてゆく。

 

 

 ――そして。

 

 

 

 凄まじい衝撃が、処刑台にいる張纏たちに襲い掛かった。それは居並ぶ秘密警察たちをなぎ倒し、彼らの立っていた台座を粉々に打ち砕いた。

 

 

 **

 

 

「っ……なんだ?」

 

 吹き飛ばされた数名の警官が、呆然とした様子で呟く。

 

(何が……?)

 

 張纏もまた、自分の身に起ったことが理解できなかった。こん棒で殴られたような衝撃が頭を襲ったかと思うと、弾かれたように体が台座に当たり、腰を軸に回転していた。死刑台の上から石畳の地面に叩き落されたらしい。鎧が多少の衝撃を吸収してくれたが、肩や背中に激痛が残る。骨折は免れたが、体の至る場所が打撲して動けなかった。

 

 そして目の前には、一人の女性が立っていた。切りそろえた紫色の髪に、特徴的な捻り褌。佇まいは静かだが、そこから放たれる殺気は尋常なものではない。

 張纏はその女性を知っている。その名と、その素性を知っている。

 

「甘……寧……ッ!」

 

 張纏は苦々しげに甘寧を睨み付ける。たしか彼女は孫権の親衛隊長を務め、常にその傍らに控えているはず。それが、何故こんな場所にいるのか。

 

 張纏の疑問を視線で感じ取ったのか、微かに甘寧の表情が動いた気がした。しかし彼女は何も語らず、ただ右手を大きく振り上げた。

 

 それが、合図だった。

 

 広場の端で大きな音が聞こえたかと思うと、とんでもない光景が張纏の目に入る―――兵士たちが互いに殴り合いをしていた。

 高級将校が、部下から槍の一撃を受けて地面に転がった。動きが鈍くなったところを部下たちが囲んで殴り掛かる。警備員の数人がバリケードを壊し、暴徒達を迎えいれていた。

 

(っ……こんな所にまで工作員が……!)

 

 呪詛を口に出す前に、今度は北の空が赤く染まった。鼓膜に負荷をかける轟音と共に、空気の振動を肌で感じる。空に向かって火柱が吹き上がり、混乱した状況に拍車をかけていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 揚州。宛城から離れた都市。ここには淮河から宛城まで続く運河の、起点となる閘門が存在する。

 周辺に光源は無い。閘門には常に松明が灯っているはずなのだが、この日に限って全ての灯りが消されていた。

 

 そして夜の闇に包まれた都市の周辺には、無数の軍勢が待機していた。少数の常備兵と、多数の徴用兵。その中心には多数の天幕があり、一番奥には指揮官用の大天幕が設置されていた。

 

 大天幕の中では、孫策が椅子に座っている。活動的な彼女にしては珍しく、ずっと同じ姿勢でひたすら何かを待っているようだ。一秒が永遠にも思われた数時間、孫策は待ち続けた。

 やがて、ひとつの人影が天幕に入ってくる。ある重大な一言を告げるために。

 

「冥林」

 

 待ち続けた親友の呼びかけに、周瑜は耳元で囁くことで応じた。

 

「――始まったぞ」

 

 孫策はうっすらと笑う。己の右腕たる軍師の一言で、全身の血を滾ってゆくのを感じていた。

 

「袁家は完全に麻痺状態に陥っている。一部の連中はやっと事態の深刻さに気付いたらしいが、劉勲を始めとした人民委員の大半は責任の擦り付け合いに終始している」

 

 周瑜が最新の報告を伝えると、孫策は呆れたような顔をする。

 

「結局、袁家はどれだけ大きく見えても、自分の事しか考えない利己主義者が寄り集まっただけの、烏合の衆だった訳ね。全員で一致団結でもすれば、まだ勝機はあったでしょうに」

 

 まさにそれこそ、孫家の付け入るべき隙だった。各個撃破は戦の基本だが、謀略においてもそれは変わらない。「数は力」というが、逆に数が増えれば増えた分だけ、集団としての統一性は落ちる。膨大な兵力を誇る袁家といえども、ここまで分断されてしまえば殆ど個と個の戦いのようなものだ。

 

 軍とは、単なる兵士の集まりではない。統一された指揮系統の下で動く兵士からなる、一枚岩の組織なのだ。

 

「数千いようが数万いようが、統制のとれない雑魚が寄り集まった所で、我々の敵ではない」

 

 闇雲に拡大を続けてきた袁家と、血縁や強い主従関係を重視する孫家ではそこが決定的に違う。端的にいえば、一体感が違う。片やバラバラな個の寄せ集め、片や1つの個として完成された集団。戦えばどちらが勝つかなど、一目瞭然だ。

 

「待機中の全部隊に伝えよ」

 

 それが合図だった。そう、これは数年にわたる屈辱と雌伏の末に始まる、孫家の復讐と隆盛を告げる鐘の音だ。

 

 「孫家は袁家に負け、客将に堕ちた」などと言われて、もう何年経った事か。しかし孫策は、ただの一度たりとも敗北を認めた事などない。孫堅が死んでからも、孫家は常に戦い続けてきたのだ。生き延びて力を蓄え、時を待つという戦いを――。

 

(勇猛なる孫家の兵士たちよ……時は来た!)

 

 だが、それも今日この日まで。今この瞬間から、孫家は白日のもとにその姿を晒す。

 孫策が天幕から出ると、一斉に歓声が上がった。そして孫家の総大将もまた、彼らの声に応えるように剣を抜き放つ。

 

「我々はずっと苦しめられ続けて来た!袁家に!あの忌まわしき守銭奴どもに! だが、それも今日で終わる!今日が全ての終わりであり、全ての始まりの日なのだ!」

 

 彼女の手に握られている剣には、見覚えのある者も多くいた。南海覇王――先代当主・孫文台から娘・孫伯符へと受け継がれし、伝家の宝刀だ。

 

「我らの盾は、何のためにある!」

 

「「――家族と隣人を守るために!」」

 

「我らの剣は何のためにある!」

 

「「――倒すべき敵を討つために!」」

 

 孫策軍の士気の高さは、今や万人の目に明らかであった。

 孫策は剣を高々と天に掲げ、全軍に告げる。

 

「侵攻を開始せよ。――袁術、討つべし」

 

 戦を告げる孫策の声。眠れる虎は、ついに目覚めたのだ――。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 崩壊が、始まった。

 

 夜明けと共に、袁術の帝国は音を立てて崩れ落ちてゆく。

 

「馬鹿な……孫策が反旗を翻しただと!?」

 

 孫策離反す――その報告に、人民委員会はかつてないほど騒然としていた。

 

「現在、孫策軍は建業・広陵の両市を中心に勢力を拡大中! 旧孫堅軍を中心として編成されているようですが、揚州豪族の一部も参加しているとの報告が……」

 

「徐州から報告です!――下邳で軍を再編していた、華雄将軍との連絡が途絶しました! 劉備軍との関係は不明です!」

 

「先ほど、揚州から早馬が到着しました! 現地で寝返り多数、主要施設はほぼ孫家の手に堕ちた模様!」

 

 役人や大臣たちは明らかに混乱していた。無理もない。これまで孫家は何の素振りも見せずにいたため、孫家との確執を知らない若手は狼狽していた。

 

「落ち着け!全く、どいつもこいつも慌ておって!」

 

 ほとんどの人民委員たちが取り乱す中、ひときわ大きな怒声が部屋に響く――軍務委員長の袁渙だ。

 

「話は聞かせてもらった。――なに、大した事はない。推定される孫策軍の兵力は2万に満たない上、徐州や揚州の叛徒と連携した様子も見られなん。兵の数はこちらが圧倒的に有利だ!」

 

 袁渙は冷静さを保ちつつ、適切な指示を出す。彼とて袁家を支える重臣、伊達に重役を務めているわけではないのだ。

 

「広陵は籠城して防御に専念させ、建業に主力部隊を回せ!それから淮河を使って、徐州に進軍中の軍団を直ちに揚州に呼び戻させろ!」

 

 まずは戦力を再編し、しかる後に反撃すべし――袁渙の的確な分析と指示によって我に返った官僚たちは、すぐに彼の指令通りに動き出す。

 

 

 ところが、こうした袁渙らの努力は遅きに失したと言わざるを得ない。指示は適切だったが、それを出すのがあまりにも遅すぎた。

 

 あるいは――軍事的には正しくとも、政治的な意味では完全に手遅れだった。袁家の腐敗政治と社会矛盾は、民に犠牲を強い過ぎた。1つや2つの反乱を防ごうとも、すぐに次の反乱が発生する……。

 

「豫州の州政府から救援要請! 汝南、頴川、梁国、陳国および魯国にて、同時多発的に官庁が襲撃されている模様との事です! 恐らくは孫家の手の者かと……」

 

 状況は悪化する一方だった。ついには、袁術のお膝元である南陽郡でも農奴の集団脱走が発生。加えて豫州で密かに武器を蓄え、野に潜んでいた孫賁が大規模な反乱を扇動。揚州の孫策軍と連帯する動きを見せ始める。やがて農民反乱は全土に拡大し、農村出身者が大半を占める袁術軍兵士の間に大きな動揺を引き起こしていた。

 

「建業に向かった、李豊将軍の第4軍団が苦戦中!至急、援軍を――!」

 

 参謀は悲鳴にも近い声で、逐一と届けられる凶報を報告する。

 

「報告します!揚州南部で豪族連合軍が総反撃を開始、我が軍は崩壊寸前です!」

 

 報告を聞く限り、戦況はどこも似たり寄ったりだ。すなわち、袁術軍が全域にわたって崩壊している。

 

「広陵、孫策軍の攻撃により、かっ……陥落! 徐州から抽出した部隊も、現地住民の襲撃によって転進が大幅に遅れています!」

 

「っ――しかたない。寿春と合肥、劉表に備えた兵を呼び戻せ!直ちに伝令を走らせろ!」

 

 作戦指揮室には、袁渙のほか張勲の姿があった。普段ならば指揮権が云々と煩い袁渙だが、この状況ではそんな事も言っていられない。藁にも縋る思いで、2人の手を借りることにしたのだ。

 

「兵の忠誠心はアテにできませんね……。とりあえず『督戦隊』を編成して、なんとしても兵を前線に押し出してください。戦意の低い兵士は、士官が背後から弩で射殺するように」

 

 張勲の顔は険しい。

 

「さらに鎮圧部隊内の同郷者比率を最高でも6割、可能なら3割以下に引き上げると同時に、命令拒否した兵士を裁判で死刑にしてください!なんとしてでも規律を取り戻すのです!」

 

「だが、それでは……」

 

 袁渙が苦悶に満ちた表情を向けてくる。張勲にも、彼の言いたい事は分かっていた。

 

 たしかに同郷者を減らし、兵士間での意思疎通を困難にすることで、反乱計画を立てにくく出来る。だが、その代償として、部隊内の団結と連携は完全に失われてしまう――。

 

「ですが、他に打つ手がありません……」

 

 

 絶望感は軍部だけでなく、後方の人民委員会中枢にも拡大しつつあった。

 

「こ……広陵が陥落ですって!? そんな……!」

 

 もはや軍事素人の劉勲ら文官たちにも、袁術軍が崩壊の危機にあることが明らかになりつつある。恐慌状態となった人民委員たちの内心では、次第に絶望感が覆い始めていた。

 

「軍は何をしてたワケ!? 担当者を呼んで! どう責任を取るつもりなのか、弁明してもらいましょうか!」

 

 ところがこの期に及んで、袁家は団結するどころか内部分裂を始めていた。部下に責任を転嫁し、ライバルの揚げ足をとる。そうした自己中心的な振る舞いが、更に前線の兵士たちの士気を低下させているとも知らずに……。

 

 自己の保身と栄達への野心だけで今の地位についた彼らには、間違っても自分を犠牲にして全体に奉仕するなどという発想は出てこなかったのだ。

 

 ◇

 

 

 更に一週間が経つと、もはや袁術軍はコントロール不能な状態であった。

 

「建業守備隊、全滅です! 紀霊将軍は北方へ向かって退却中!」

 

 司令部はなんとかパニックを治めようとしたものの、軍では脱走兵が相次ぎ、指揮系統は麻痺に陥っていた。脱走兵と錯綜する情報のせいで、どの部隊が何処にいて、どれだけの兵力があるのか、将軍たちは殆ど把握していなかった。

 

 鎮圧部隊の総入れ替えを行うという張勲の案も、今度は輸送を担う馬借や船頭たちが反乱軍側に寝返った事で頓挫した。彼らは集団で職務放棄を決行。軍需物資の輸送を拒否し、兵士に叛乱まで呼びかける。

 

「兵士の諸君! 孫策軍は我々の敵ではない!自由の為に彼らと合流しよう!独裁に反抗して叛乱を起こすのだ!」

 

 

 混乱が混乱を呼び、口伝えで更に話に尾ひれがついてゆく……。例えば手違いで補給物資の到着が遅れただけでも、上層部に伝わる頃には全部隊が包囲殲滅されている事とになっていた。

 

 こうした絶望感に拍車をかけたのが、移動中だった寿春と合肥の軍が孫策軍の夜襲を受けて壊滅したという情報だった。

 この両都市が突破されたとなれば、南陽までの道のりに孫策軍を阻止する障害物は存在しない。軍主力は長江以南の揚州と、はるか東方の徐州に出払ってしまっていたためである。南陽周辺の戦略予備は、虎視眈々と侵略の機会を伺う劉表と曹操に釘付けにされていた。

 

「南陽に敵の大軍が押し寄せているが、もはや我々に阻止する力は無い……。敵は我が軍を包囲しつつある。反撃計画は頓挫した……もう誰にも止められん」

 

 いつになく弱気になる袁渙。軍部は既に、敗北が避けられないものだと認識し始めていた。

 

「我が軍はもう終わりだ……全ての戦線は部隊が崩壊している! 我々は負けた!袁家は敗北する!!」

 

 聞き捨てならない発言であったが、張勲は打ちひしがれる袁渙を責められないでいた。袁術軍はすでに満身創痍であり、降伏を拒否した忠実な部隊は、退却することすら出来ずなぶり殺しにされていた。

 

「孫策軍、南陽へ向けて進行中!」

 

「残存兵力を南陽に集めてください! 異民族の傭兵部隊もありったけ投入し、奴隷にも弩を突き付けて従わせます! 何としてもここで食い止めてください!」

 

 それでも――額に冷や汗を浮かべつつ、張勲は指示を飛ばし続ける。

 

(少しでも弱気を見せれば、各地の太守や領主はこぞって袁家を見限る……)

 

 彼女は状況を理解していた。元より王の器などない袁術が、かくも広大な領土をの支配出来た理由。

 

 それは欺瞞という霧のベールで、暗部を巧妙に覆い隠していたからに他ならない。バブル景気や豪華な宮殿、地方分権という名の形だけの支配によった領地拡大……すべては外面だけが派手な紛い物だ。その皺寄せは、社会の最も弱い者たちに押し付けられる。

 

(民衆は……わたし達を捕えれば間違いなく八つ裂きにしようとするでしょうね)

 

 袁家にとって統治とは、損得勘定で利益を出す事だ。意見や利害が対立すれば、より大きい利益が見込める方を取り、その反対を切り捨てる。その結果が、中華一の競争・格差社会だ。少数の勝者が全ての利益を得て、大多数の敗者は惨めに暮らすしかない……。

 

(大の為に小を殺す――それ自体は間違っているとは思いません。ですがが、殺される『小』の側だって黙ってただ殺される筋合いは無いと)

 

 そう、ゆえに『小』を殺すのに失敗すれば――。

 

 

 

 その時は『大』が死ぬ番だ。

  

   




ちょっと補足。

 一見すると袁家が圧倒的に不利に見えますが、データ上では未だに袁術軍は圧倒的な規模を誇っています。しかし広大な領地に広く分散している上、孫家のゲリラ攻撃によって情報が錯綜し、上層部も現場も大混乱に陥って士気が低下、大量の遊兵を生み出したところを各個撃破されてる感じです。

 モデルはキューバ革命。政府軍の方が兵力は圧倒的だったのに負けちゃった好例。
 「裸の王様」バティスタ=袁術、カストロ&ゲバラ=孫策&周瑜みたいな構図が浮かんでしまう不思議。


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96話:金の暴力

 

 日は既に暮れゆこうとし、藍色の幕が下りてくる空を背景に火の手が上がる。最初の標的となった、市長の館が焼き討ちにされたのだ。

 大歓声と口笛が耳をつんざく。近くの豪奢な屋敷にも火が放たれ、ごうごうと燃え上がる炎の音があたりに響く。大理石の壁が、木の屋根が、棍棒でたたかれ、石を投げられ打ち崩される。道路脇に並ぶ商店には、イナゴの群れが押し寄せるように暴徒達がなだれ込み、軒先を壊して中の商品を奪い去る。

 

 突然の悪夢に驚愕し、怒る間もなく逃げ惑う人々の声もかき消されるばかり。肌を斬るような冷たさに重く湿っていた空気は、ひるがえって肌を焼く炎の熱が充満してカラカラに乾いている。忌まわしい黒煙が夜のとばりを覆い、金粉が踊り狂うように火の粉が飛ぶ中、容赦ない破壊と略奪は続けられた。

 

「やったぞ、はははは!」

 

 次の放火先を探してながら、めらめらと燃える松明を振りかざしていた男が叫んだ。それを聞いた暴徒たちは、昂ぶりきった表情でいっせいに反応した。

 

「袁家を倒せ!」

 

 大合唱と共に歩く群れの中には、涙を流す者も、狂ったように高笑いする者もいる。袁家打倒の掛け声は炎と共に広がり、宛城に一晩中響き渡っていた。やがて暴徒は踵を返し、大宮殿の方へと未開始める。

 

 暴動の発端となった広場を中心にして、数々の重要な建物が火事に見舞われた。政府要人の大邸宅から、大商人の商館まで、ほとんどの建物が焼き尽くされた。暴徒達は、いよいよ袁家の大宮殿にも火を放つ。

 複雑なレリーフの彫られた正門も、その奥の人民委員会議事堂も、黒い煙と赤い炎に包まれる。

 

 処刑場らへの襲撃を合図としたように、張勲の目の前で宛城の街は様変わりしていった。

 

 処刑場のあった中央広場は突如として正体不明の武装集団に占拠され、大通りでも所属不明の鎧を付けた一団が表通りを進んでいた。謎の武装勢力はその後も続々と数を増やし、瞬く間に道路や各種重要施設を制圧し、政府機関を包囲して大勢の役人を投降させた。宛城のあちこちにある警官の詰所を中心に、夜の街には断続的に剣戟の音と悲鳴が続いている。恐らく今も、警官と兵士と民衆が殺し合っている事だろう。

 

 部下の報告によれば、今回の騒動に対して大半の名士たちは自衛をしながら時間を稼ぎつつ、屋敷や別荘から本当に大事な書類や財産などを手にして、避難を始めているらしい。謎の武装集団はやたら統制された動きで交通機関を次々に封鎖していき、さらには民衆を扇動して暴徒化させている。このまま放置すれば、三日と経たない内に袁家は分断され、人民の海に埋葬される事になるだろう。

 

 

 恐れていた事が現実になった――張勲は自室の窓から、行政府庁舎や豪邸の周囲で火災が発生していく様子を見続けていた。念のため、袁術も隣にいる。

 

 中央区画外縁では、政府機関に詰めている警備兵と警官が反撃を始め、苛烈な市街戦が始まっていた。通りでは火災の煙をぬぐって、矢と石が飛び交う。建造物の一部が砕け散り、直撃を受けた人間が倒れ、死者と瓦礫が折り重なっていく。

 

 行政機関に襲撃をかけてきた暴徒に対し、袁家は数少ない兵士を動員して防衛させていた。対人戦闘のレベルではプロである袁術軍兵士たちの方が優っているようだが、暴徒達は多数の損害を出しながらも次々と溢れてくる。郊外の駐屯地や要塞に詰めている部隊にも出動命令を出してはいるが、その到着にはまだ時間が必要だった。

 

「状況は!? いま外がどうなっているか把握できましたか?」

 

 張勲が入室してきた侍従に問う。その顔には珍しく焦りがあった。彼女だけではない。傍にいる袁術も含め、全員が蒼ざめた表情で報告を待っていた。

 

「現状、確認できた侵入箇所は25か所。奮戦虚しく、そのすべてが暴徒の制圧下に置かれつつあります」

 

 武装した暴徒は街中を暴れまわっており、政府のコントロールは分断されつつあった。どうやら扇動者は、入念な計画を練っていたらしい。袁家では様々な情報が入り乱れ、何が起こっているのか誰も正確に把握できない様子であった。

 

 ――既に最初の蜂起から、8時間以上が経っている。人民委員会議も中断されたまま、一同は肩を縮め、息を凝らしてひたすら嵐が過ぎ去るのを待っていた。まだ外は明るさが残っているというのに、美しいモザイク画に彩られた広間は深い暗雲が垂れ込めたかのようだった。

 

 少しでも気を紛らわそうと、張勲は隣にいる袁術に声をかけた。

 

「美羽さま、昼寝はもういいんですかぁ? 眠れないなら、私が歌でも……」

 

 しかし袁術は心配そうに張勲を見遣り、ふるふると首を振った。普段の陽気な彼女とはまるで違う、凍り付いた青白い人形のような姿であった。

 

(美羽さまをこんなに怯えさせて……!)

 

 頭の中を駆け巡るのは、このまま反乱軍が宮殿に押し寄せてくるのではないかという恐怖以上に、不甲斐ない軍隊と家臣に対する怒りだった。

 

「軍と警察は何をしているんですか!? それから他の人民委員たちは今どこに?」

 

「その事なのですが……」

 

 言いにくそうに口を開いた侍従を見て、張勲は嫌な予感がした。

 

「劉書記長を始め、人民委員の大半は持てるだけの財産を馬車に積み込み、郊外にある軍の駐屯地に避難したそうです。残っているのは忠誠心のある家臣と、逃げ遅れた人間だけかと」

 

「………っ」

 

 案の定、あっさりと主君を見捨てて逃げていた。ある程度の覚悟はしていたものの、ここまで多くの、しかも高位の人間が逃げ出したとなると、流石に茫然として項垂れた。

 

「……つまり、本来お嬢様を守るはずの家臣たちが安全な所に逃げおおせ、君主であるお嬢様だけが逃げ場のない片隅に取り残されているという訳ですね」

 

 こういう時ほど、誰が敵で誰が味方かはっきりすることは無いと張勲は思った。今更のように、仮面を被っていた家臣たちお顔が脳裏に浮かぶ。楊弘、袁渙、閻象……そして劉勲。

 

 もちろん反撃の為に、一時的に避難したという事もありうる。しかし脱出してから既に半日が経とうというのに、軍の反撃があったという話は一向に聞こえてこない。

 

(あの女狐……!)

 

 悔やんでみるが、どうしようもない。張勲は深いため息をつき、肩をがっくりと落とした。袁術の下に留まる方が得なのか、反乱軍に寝返った方が賢いか、もう少し静観して様子を見ようというのである。賢しい劉勲らの考えそうな事ではある。取り巻きの貴族どころか、日々命がけで自分たちを守るはずの軍隊すら仮面を被っていたという事実に、衝撃を隠せなかった。

 

 

「――気を付けろ!倒れるぞ!!」

 

 誰かが叫んだかと思うと、続いて地震と間違うほどの振動が張勲たちを襲う。外を覗き見れば、火災によって宮殿の塔が崩れ落ちていた。行政府庁舎の巨大な庭にも、煙が満ちる。やがて煙の中から現れた暴徒の姿に、張勲には目を見開いた。

 

「破城槌!?」

 

 煙の中から、出現したのは巨大な丸太。先端は威力と強度を増すために金属で補強され、十数人が両側から抱え持っている。

 

 破城槌を抱えた暴徒の集団は、行政庁舎の正門へと近づいて行った。警備兵が建物の影から攻撃を続けるが、数に勝る暴徒は被害を出しつつも前進していく。中には弩のような飛び道具で武装した暴徒までおり、退避しようとする警備兵に射撃を加える。

 

「急ぎなさい!――いいですか、一秒遅れるごとに一人の命とお嬢様の寿命が一秒分縮まると思ってください!」

 

 ようやく腹をくくった張勲は、遅ればせながら脱出の指示を飛ばす。認めたくはないが、早々に宛城を脱出した劉勲らの判断は正しい。

 

(今の宛城は絶海の孤島も同然。ここじゃ外で何が起こってるか分かりませんし、外にいる友軍も美羽さまの安否や残存兵力の把握が出来なければ動けない……)

 

 大多数の諸侯や武将が静観を決め込んでいるのは、袁術の安否が不明だという点が大きいと思われる。袁術軍は典型的なピラミッド状のトップダウン組織であり、上の指示なくして下は動けない。それには軍の暴走や反乱を抑止するという効果的があるも、上の指示が無ければ何も出来ないという負の側面もあった。

 

 単に勝ち馬に乗らんとする不届きな輩もいるだろうが、誰が敵で誰が味方で誰が中立なのかを知る上でも、宛城の外に出る必要がある。どの道、援軍のアテもないまま籠城するのは愚策でしかない。

 

「七乃よ――あれはどうするのじゃ?」

 

 思案にふけっている張勲に、袁術が声をかけた。視線の先には幾段にも積まれた木箱があり、中には金貨がずっしりと入っている。袁術が貯め込んだ、個人的な資産だ。こんな時でもまだ、袁術は呑気に場違いな事で悩んでいるらしい。

 

「お嬢様、残念ですが嵩張るものは置いていくしか……」

 

 残念だが、放置するしかないだろう。あれだけの財宝を移送するとなると、脱出計画は大きく遅れることになる。

 

「嫌じゃ! あれは妾のものじゃ!」

 

 しかし正論で納得するなら袁術ではない。案の定、駄々をこねて突っぱねる。

 

「愚民どもにタダでくれてやるなど、もってのほかじゃ! 金をあげるからには、妾も何か貰うわんと気が済まぬ!」

 

「……っ?」

 

 不意に、張勲の手が止まった。袁術の言葉に、何か違和感を感じたのだ。

 

(そうか……“タダ”では……!)

 

 張勲は驚く袁術をよそに、小柄な彼女を力一杯抱きしめ、大声で叫ぶ。

 

「お嬢様……お嬢様は、天才です!」

 

 

 **

 

 

 破城槌が正門扉まで達すると、暴徒たちは容赦なくそれを扉へとぶつけた。木片が飛び散り、一目で高価と分かる扉が見るも無残な残骸と化す。不利と見た警備兵たちは態勢を立ち直すべく、庁舎内へ後退している。

 

 もはや暴動のレベルではなかった。そこで行われているのは訓練の差こそあれ、武装した2つの戦闘集団による市街戦だ。

 

 

「行政府庁舎の陥落も、時間の問題だな」

 

 甘寧と孫権は、名士たちの豪邸が並ぶ富裕地区に近い丘に立っていた。勝ち誇った気分で視線を移し、火災の黒煙が噴き上がっている中央地区に向けた。名士たちの豪邸はすでに暴徒によって破壊と略奪の限りを尽くされており、街は無法地帯となっている。

 いまだ多くの煙が上がっている宮殿周辺には、直属の戦闘部隊を送り込んである。彼らは袁家の兵士と交戦中のようだった。

 

「甘寧、まだ安心はできない。袁術と袁家高官を確保しない限り、必ず将来に禍根を残すわ」

 

「ですが、それも時間の問題です。組織だった抵抗は、昨日から報告されていません」

 

 甘寧の意見はもっともだ、と孫権も思う。もはや袁家の命運は風前の灯だ。

 

 頭に血を昇らせた暴徒達は、郊外から中央区画へと雪崩を打って襲い掛かっていた。役所を荒し、破壊行動を続ける。普段から溜まりに溜まった怒りを爆発させ、数にモノをいわせて歴戦の兵士たちを圧倒する。多数の死者が出て遺骸が道に折り重なるも、破壊に酔いしれた暴徒たちが留まる様子は見られなかった。

 

(これが、あの栄華をほこった袁家の最期なの……?)

 

 正直な話、孫権は未だに信じかねる思いだった。

 

 袁家は膨大な軍隊を持ち、いくつもの大きな都市を造った。至る所に運河と道路を作り、その支配下で江東の人口は倍増した。

 

 孫権は内政担当という職業柄か袁家にも多くの知り合いがいるが、彼らはおしなべて賢かった。袁家家臣の大部分は孫家に残酷な仕打ちをしたが、そうでない者たちもいる。似たような立場にあった賈駆や華雄は同情的だったし、紀霊などは他人に興味が無いがために公平だった。

 

 しかし、彼らもまた袁家の一員であることに変わりは無い。際限のない欲望と、自分さえ良ければいいという自己中心主義。最終的には、それが彼らの首を絞める事になったのだ。

 

「……あれは」

 

 ふと孫権が目を凝らすと、行政府庁舎の屋上に誰かが立っているのが見えた。豪奢な服をまとった袁家幹部に、警護の衛兵。そして使用人と思われる人々が、大きな木箱を次々と建物から運び出していた。

 

「まさか……張勲と袁術か!?」

 

 

 **

 

 

 幼い領主の突然の登場に、暴れていた民衆は呆気にとられた。一時的に物を壊す手を止め、袁術をよく見ようと視線を凝らす。後ろの方にいて良く見えない者は、前にいる人間を押して近づこうとしたため、大勢の人々が行政府庁舎前に集まる事となった。

 

 そのタイミングを見計らって、袁術は張りのある声を響かせる。

 

「皆の者!そち達は大きな勘違いをしておる! ――妾たちは、民の味方じゃ!」

 

 あれだけの弾圧と恐怖政治を敷いておきながら、何を今更――張勲の言葉は民を鎮めるどころか、却って火に油を注いだようだった。罵詈雑言の嵐が吹き荒れ、さすがの袁術も顔を強張らせる。

 

「もう一度、はっきりと言おう。袁家は民の味方であると!」

 

 袁術が大声で言う。その姿に、孫権はひどく嫌な予感がした。

 

「これが、その証拠じゃ!――七乃!」

 

「はい!」

 

 張勲は使用人たちに合図し、木箱の蓋を開けさせる。ガシャリ、と金属同士がぶつかり合う音が響いた。

 その箱の中にギッシリと詰められていたのは、袁家が貯め込んだ古今東西の金銀財宝。袁術の持つ、最後にして最強の武器だった。

 

「皆の者、今までよくぞ耐えた!そち達の我慢の成果が、この財宝なのじゃ!」

 

 群集が「おお」と声を上げる。

 

「袁家当主、袁公路の名のもとに命ずる! これは褒美じゃ!――受けとれぃ!」

 

 袁術を彼らに見せびらかすように金貨を掴むと、思いっきり遠くへ放り投げた。張勲ら家臣たちも袁術に倣い、人々の頭上に雨のように金銀財宝をばらまいた。

 

「か、金だぞ! 本物の金貨だ!」

 

 民衆の一人が、素っ頓狂な声を上げる。

 

「本当だ! 金だ! 金貨だぞ!」

 

「おお、こっちは宝石だ……こりゃ凄ぇや」

 喧騒は瞬く間に辺り一面に広がった。群集の視線は、すっかり地面にばら撒かれた金貨に釘付けである。むべなるかな、田舎では金貨一枚で一月はゆうに暮らせるのだ。

 

「この金貨こそが、袁家が民の為を思っているという動かぬ証拠! 手に取って、噛んで確かめてみよ! 妾がそち達に与えるのは、生活の役に立つ金貨なのじゃ!」

 

 じゃり、と金属音が鳴り響き、人々は武器を捨てて金貨を追う。空から落ちてくる財宝をかき集めんと、我先にと群がってゆく。

 

「どけっ!それは俺のだ!」

「んだとぉ!? 俺の方が早かったじゃないか!」

「あんた達、争ってるヒマがあったらさっさと拾いな。時間がもったいないよ」

 

 もう誰一人として武器を取る気は無かった。袁術を武器で脅す暇があったら、地面に落ちた財宝を探したほうがよっぽど得だからだ。それほど袁術の撒いた財宝は多く、鷲掴みにして服にねじ込もうとする者もいれば、両手に抱えきれず口の中にまで宝石を詰め込む者すらいた。

 

 袁家に対する怒りなどどこかへ吹き飛んでしまったかのように、民衆は金集めに没頭していた。皆が顔を紅潮させ、興奮しながら必死に金貨を回収する。暴徒どころか孫家の工作員たちですら、民衆に交じって金貨を集めていた。

 

「待てっ! みんな待つんだ!」

 

 甘寧が叫ぶも、この狂乱の中では無意味だった。そんな彼女をあざ笑うかのように、袁術はよくもこれだけの金があったものだと感心するほどの財宝をぶん投げている。張勲はそれすら面倒なのか、木箱ごと投げ捨てていた。

 

 

「妾はこれでそち達の忠義を買おう! 袁家に従えば、いずれもっと沢山の金貨を与えようぞ!」

 

 

 忠誠心を金で買う……賢い統治者である曹操や孫策なら、そんな安い忠誠心を鼻で笑うだろう。金で忠義を買えると思っているような暗愚な君主、それが袁術だ。

 

「妾は袁家に忠誠を誓う全員に、目に見える金貨を与える!それで家でも服でも何でも買うが良い!」

 

 しかし、愚かだからこそ。彼女は同じく愚かな大衆を制御できるのだ。

 

 情けない勝利かも知れない。

 

 ――だが、それでも。

 

 

 これは正真正銘、袁術の力で手に入れた勝利なのだ。

 

 

 耳を凝らせば、先ほどまでの罵詈雑言が「袁家万歳」の歓声に代わっている。民が袁術を賞賛すれば、袁術も応えるように追加の金貨をばら撒いてゆく。

 

 金の切れ目が縁の切れ目――裏を返せば、金がある限り縁は続くという事だ。あっさりと手のひらを返した民衆を、甘寧は信じられないような目で見ている。孫家の武将として、意識を高く持つ彼女には信じがたい光景なのだろう。

 

 あやふやな大義や理想のために武器を取るより、目の前の金貨のために武器を手放す――その姿はまさしく愚民。しかし、それを責められる人間がどれだけいるだろうか。むしろ暴動に参加した人間の多数が食い詰めた貧乏人となれば、金に釣られるのは当然の結果ともいえる。

 

(いつの世も、変わらぬのは人の方か……)

 

 茫然とする甘寧を見守る孫権の瞳は、ひどく哀しげだった。

 

 金の暴力。金持ちだけが手にできる大金という、強大な暴力だった。有無を言わせずすべてを押し潰す、圧倒的な資金力。その前では、言葉も大儀も全てが無意味になる。

 

「あれほど袁家を恨んでおきながら、現金を出された途端に手の平を返して……!」

 

 民衆のあまりの愚かさに、甘寧は毒づかずにはいられなかった。

 

「だが、それが人の本質でもある……」

 

 自分自身に言い聞かせるように、孫権が言う。苦労しながら少ない資金で孫家の運営をやりくりして来ただけに、民衆の心情が理解できた。

 

(本気で袁術に忠誠を誓っている者など、ほんの一握りに過ぎない。今回の危機で劉勲らが一目散に逃げ出したのが何よりの証拠)

 

 結局のところ、正義や夢、理想や忠義より目先の幸せが欲しい――それが普通の、そして大多数の人間の心理なのだ。

 そしてそれを実現できるのは、理念や絆といった抽象的な概念ではない。目に見え、手で触れてることのできる物質………服を買え、家に住め、飯を食うことができる金なのだ。

 

 

 **

 

 

「そうか、蓮華さまと思春は失敗したか……」

 

 宛城における蜂起の失敗が、建業の周瑜の元に届けられたのは翌日だった。

 

「さ、作戦の失敗を受けて孫権様と甘寧様の両名は宛城から脱出。賈駆の率いる武装警官隊が反転攻勢に出たことにより、南陽郡は敵に掌握されました」

 

 そして宛城を制圧した張勲は持ち前の政治センスを生かして、間髪入れず袁術の生存および勝利を全土に向けて宣言した。

 軍事的には勝利に程遠いその場しのぎだとしても、宛城の一件が政治的に持つ意味は重要だ。人口250万を誇る南陽郡はそれだけで1州、例えば公孫賛の持つ全ての領民数に匹敵する。

 

「日和見ないし我々に寝返った豪族や名士たちの間に、きな臭い動きが見られます。加えて再編成を済ませた紀霊軍団が南陽郡に到着、行方不明だった華雄将軍が合流したとの報告も……」

 

 その後も孫家にとって喜ばしくない報告が続いた。全ての報告を聞き終えた後、周瑜は緊張する部下を「気にするな」と言って下がらせる。

 

(ッ……!)

 

 内心で舐めきっていた袁術にしてやられた事に、今更ながら少しの後悔を覚える周瑜。どう取り繕おうが、慢心して足元をすくわれた事実は揺るがない。

 

(劉備を真似て民衆を扇動した結果が、このザマという訳か)

 

 ロクな訓練もされていない大衆など、やはり烏合の衆の過ぎない。そんな連中を頼りにしたのが、そもそも間違いだったのだ。劉備の件は恐らく、例外だったのだろう。

 

「少なくとも今回の件で、方針はハッキリと定まった。やはり……信じられるのは、苦楽を共にした仲間たちだけだ」

 

 周瑜はそう呟くと、机の上に置かれた地図の駒を並べ替える。

 

「江東はほぼ制圧、残るは宛城のみ。揚州南部の豪族たちは……しばらくは放置しておくか」

 

 所詮は利害が一致する間だけの仲間だ。袁家を始末すれば、後は切るだけ。孫権などは「曹操や劉表などの外圧に備えて協力関係を築くべき」という融和論を唱えているが、彼女も今回の件で考え直すだろう。

 

「部隊の配置も考え直さなければならんな。流れは未だ我が方にあるとはいえ、油断は出来ない」

 

 そう、孫家が優勢を保っているように見える現状でさえ、薄氷の上を歩いているようなものなのだ。奇襲によって混乱を引き起こし、圧倒的な戦力差を一時的に誤魔化しているに過ぎない。何か1つ歯車が狂えば、瞬く間に全てが水泡に帰してしまう。

 周泰からは、曹操や劉表が不穏な動きを見せている、という報告もあった。

 

(だが……負けるわけにはいかない。あともう少し……あともう少し耐えれば江東は我々のものになる。今度こそ、孫家の悲願を……!)

 

 先人たちと仲間たちの無念が、胸を押し潰しそうになる。周瑜はそれを受け止めつつ、彼らに報いるために改めて策を練るのだった。

 

 

 **

 

 

 先手、先手と先を読み、着実に手を打ち、主導権を握り続けてきた孫家一党。しかし、やはり、彼らは神ではなく、思わぬ誤算が静かに始まっていた。

 

 袁家は瀕死状態にある……大多数の人の目にはそれが事実のように映っており、それは真実でもあった。辛うじて首の皮一枚でつながったとはいえ、あくまで一時しのぎ。孫策の率いる本隊が到着すれば、南陽にいる弱体な袁術軍はひとたまりもないはず。

 

 しかし、その時だった。袁術、張勲、そして劉勲。袁家の頂点に君臨する三者が織りなす政治的魔術に、中華はまもなく腰を抜かすことになる――。

            

   




 金>>>>>理想とか、やりがい(笑)とか

 これをしっかり弁えてる袁術は間違いなくホワイト経営者


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97話:想定外の事態

  

 豫洲、許昌にて。

 

 孫家、袁家に反旗を翻しその領土を制圧しつつあり。袁家は辛うじて宛城を維持するも、苦戦中――。

 

 この報告を耳にした兗州牧・曹孟徳は、すぐに配下の武将に命じて兵を動員させた。曹操軍は徐州で受けた大打撃からやっと回復し、その恨みを晴らすべく訓練に明け暮れていた。彼らの矛先が、内乱で疲弊した袁家に向かうのはごく自然の流れと言えよう。

 

 当時の曹操陣営における最大の悩みは、なんといっても袁紹の存在だった。『界橋の戦い』以降、北方での戦いを優位に進めており、華北の統一も時間の問題。静観していれば、いずれ飲み込まれるのは明らかだ。

 

 このとき曹操には、2つの選択肢があった。

 

 一つは直接袁紹と対峙する方法であり、公孫賛と組んで袁紹を挟み撃ちにするというもの。メリットは軍事的に極めて妥当な戦略であり、デメリットは同盟相手を裏切ったとの汚名が付くことで政治・外交的には不利になってしまうということ。

 

 もう一つは袁術の領土を平らげてから袁紹と対峙する方法であり、豊かな袁術領を得られれば国力の増加と内政の充実・安定が見込めるというメリットがある。

 

 問題は、その大義名分だ。徐州を巡って争った経歴はあるものの、両者の間には全面戦争を始めるほどの外交問題は起こっていなかった。

 

 ――これまでは。

 

 

 

『 南陽郡太守・袁公路に伝玉璽横領の疑いあり 』

 

 

 孫家が反旗を翻すにあたって、袁家討伐の大義名分としたのが上記の理由である。

 

 事実、袁家は北郷一刀から回収した『伝玉璽』を保持していた。孫家はそれを理由に、「袁術には皇帝就任の野心がある」とでっち上げたのだ。

 

 当然ながら袁家にそのような意図はなく、根も葉もない流言であった事は後に周瑜自身が認めている。しかし袁家にはそれを証明する方法がなく、民衆の大半がそれを真実だと考えれば“そういうこと”にされてしまうのだ。

 

 そして『大粛清』によって民心を失った袁家に、民が同情を寄せることは無かった。うまい具合に大義名分を得た民衆と諸侯は、それを理由に袁家を滅ぼそうと考えていた。

 

 

 もちろん、曹操もその一人である。馬鹿馬鹿しい流言だろうと、使えるものは何でも使う。それが彼女の流儀なのだから。

 

「全軍、袁術領へと侵攻せよ――」

 

 予てよりの計画に従い、直ちに7万の大軍が先陣を争うように進撃を開始する。州境では既に「曹操軍来襲」の噂を聞きつけた兵たちが脱走しており、曹操軍は全くの無抵抗で袁術領へと足を踏み入れたのだった。

 

 

 ◇

 

 

 ついに、ここまで来た。宛城の城門を前にして、孫策は勝利を確信した。

 

「これで袁術軍も終りだ。袁術も、劉勲たち人民委員も」

 

 周泰の報告によれば、袁術は籠城を決め込んだという。

 

「雪蓮、宛城の守りは堅い。――ここが、一番の正念場だ」

 

 周瑜の表情は厳しい。瞬く間に袁術領を平らげたように見える孫策軍だが、それが綱渡りに等しいのは軍師である彼女が一番よく知っていた。

 

 そもそも孫家の勝因は、広範囲に分散した袁術軍の指揮系統を寸断・麻痺させることで、士気の低下と各個撃破を成功させたところにある。逆にいえば、袁術軍は物理的な損害をほとんど被っていないということだ。

 

(いくらか増えたとはいえ、私たちの兵力は2万程度。劉備と揚州の豪族たちを入れてやっと6万……対して袁術軍は少なくとも10万、傭兵と新規徴兵の部隊も入れれば更に膨れ上がる……)

 

 もっとも、その懸念は曹操軍の侵攻によって払しょくされつつある。

 しかし、孫策にはもう一つ速攻で袁家を倒さねばならない理由があった。

 

 ――兵站だ。

 

(今は降伏した袁術軍の物資で捕っているが、それもいつまで持つか……)

 

 さすがの周瑜といえども、この短期間で兵站網だけは作り出すことは出来なかったようだ。そんな金は無いし、そもそも物資を運ぶ手段がない。

 

 仮に兵士一日当たりの食事を1kgとすると、1万の兵士をたったの10日間養うだけで10トンもの物資が必要となる。騎兵なら兵士とその十倍の秣を必要とする馬のセットなので、110トン。これに水やら衣服・防具・病気に備えた替えの馬などを含めれば、歩兵1万騎兵1千の部隊を約一ヶ月支えるのに必要な物資は、実に1200トン近くに達するのだ。

 

 街道・港湾の整備と大量の馬車・輸送船舶、そして兵站計画を立てる管理部門が組織されていなければ無理な相談でしかない。いや、それらを保有していても現地調達抜きには成り立たないだろう。

 

(だが、現地調達は民の怒りを買う。時間が経てば経つほど、民心は私たちから離れてしまう……)

 

 そのための短期決戦。ほとんど薄氷の上を歩いているようなものだ。孫家が最も恐れる事態は、袁家が分散した膨大な兵力を再度集結させ、重要拠点に集中配備すること。あとは籠城で時間さえ稼げば、先に干上がるのは孫家なのだ。

 

(何か一つ歯車が狂えば、全てが終わる。その程度の勝利でしかない……)

 

 だが、包囲網を敷いてから三日と経たない内に、孫策軍には前代未聞の危機が生じる事となる……。

 

「北方から軍勢だと!?」

 

「確認できたのは、騎兵が2000ほど。ですが、これからさらに増える事も予想されます……」

 

 孫策の頭にまず浮かんだのは、袁術軍が救出に来たという可能性だった。許昌には、有力な袁術の家臣が多く逃げ込んでいる。

 

「だが、袁術軍にそこまで余力があるとは思えない……となると考えられるのは―――」

 

 考えられる可能性は、一つしか無い。

 

 

(曹操軍………ッ!)

 

 杞憂であってくれ、そう願う孫策たちであったが、届けられる情報の大部分が所属不明の軍隊が曹操軍である事を裏付けていた。大規模な騎兵部隊も、北に展開しているというのも、袁術軍では考えられない。

 

 

「孫権様――『曹』の旗です!目の前の大部隊は、曹操軍です!」

 

 

 その言葉に孫策は言葉を失う。

 

「……戦闘配置だ!陣形の転換を急げ!」

 

 孫権はかすれた声でそう命じると、自らも兜を取り上げた。眼下では部下たちの手で、慌しく迎撃の準備が進められていた。包囲網が解かれ、南下してくる曹操軍を迎え撃つべく陣形を整えてゆく。緊張が高まる中、見張りの一人があっと声を上げる。

 

「何だ、あれは……!」

 

 自軍の両側面。そこには、信じがたい光景が広がっていた。兵士ばかりか馬をも鎧で完全武装した、重装騎兵の大部隊がこちらに向かって押し寄せているのだ。ここから見えるだけで、2000騎はいる。見張りは慌てて銅鑼を鳴らす。

 

「重装騎兵が向かっているだと?」

 

 興奮した見張りが指差す方向を仰ぎ見て、孫策は顔をしかめた。冬空が広がる豫州の大地に、煌めく鎧をまとった軍勢が風のように駆けている。先頭を行く騎兵が捧げ持つ旗を目にした孫策は絶句した。袁家を示す橙色の旗と、曹操軍の藍色の旗――そして、人民委員会を示す赤旗。

 

 眼前の軍勢は、どこから湧いて出て来たのか。少なくとも、袁術では無い。宛城の包囲網は完璧であった。であるとすれば、別の誰かが手引きをしていたに違いない――。

 

「劉勲……!」

 

 しばらく姿が見えないと思ってはいたが、こういう事だったのか――孫策は震える拳を握りしめる。

 目の前の光景は、両陣営の結託を証明していた。どんな手品を使ったのかは知らないが、劉勲と曹操は手を結んだのだ。

 

(――いや、違う)

 

 今の袁家に、曹操と対等な立場で交渉できる力は残っていない。劉備ならともかく、曹操は冷徹な政治家だ。袁家に対して完全な屈服を要求するだろう。

 

 つまり、劉勲はそれを飲んだという訳だ。名誉も誇りも忠義も無く、ただ保身のために全ての義務を放り投げる最低のクズ――孫策の脳裏に、媚びるような笑みを浮かべて曹操におべっかを使う劉勲の姿が思い浮かぶ。

 

「売女めが……!」

 

 孫策は憎々しげに罵ると篭手を嵌めた手で地面を殴りつけた。

 

「雪蓮、あの鎧は恐らく……」

 

「分かってる。南陽製の板金鎧でしょ」

 

 鎧というのは、存外に高価なものだ。袁紹あたりならともかく、並の諸侯が2000騎もの重装騎兵を配備しようとすれば破産を覚悟しなければならない。

 

(富の袁術と武の曹操が結ぶ、か……最悪の展開ね)

 

 孫策軍の場合、部隊の6割が槍兵で占められている。しかし機動力を生かした接近戦を重視した短槍兵であるため、対歩兵戦には有利でも対騎兵戦には滅法弱い。特に攻撃力と防御力の高い重装騎兵には不利で、戦場が豫州の平野ともなれば猶更だ。

 

「雪蓮!」

 

「分かってる……!」

 

 焦った様子の周瑜に、孫策は悔しげに答える。

 

 ここは退くべきだ。運よく勝利できたとして、こちらの被害も馬鹿にならないはず。

 

「退却だ……ッ!」

 

 

 ◇

 

 

 少し、時をさかのぼる――。

 

 兗州と豫州の境にて、曹操は少数の護衛と共に待機していた。時間を確認すると、曹操は大きく息を吐いて愛馬に跨る。

 

 やがて彼女の跨る馬は前へと進んでゆき、州境の検問所まで辿り着く。ちょうど曹操が馬から降りたとき、検問所の扉が開いて中から30名ほどの集団が進み出た。

 

 先頭を歩くのは劉勲――袁家書記局長その人が、丸腰で曹操へと近づいてゆく。その姿は宮廷にいた頃と変わっていない。髪も肌も手入れを欠かした様子はなく、およそ戦場には似つかわしくない煌びやかな衣装を纏っている。

 富と権力を失ってなお、かつての栄光に縋りつくような姿は滑稽でもあり、同時に一種の危うい執念すら感じさせられるものであった。

 

 曹操は姿勢を変えぬまま、遅れて登場した劉勲を半眼で静かに睨みつける。両者の距離が数歩となった時、視線が一瞬交錯する。

 無言のにらみ合い。鋭い眼光で相手を射抜かんばかりの曹操と、愛想の良い視線を向ける劉勲。

 

 数秒後、先に目を逸らしたのは劉勲だった。彼女は片膝を付き、頭を垂れ、膝を地面につけると媚びるような声で曹操を歓迎する。

 

「お待ちしておりましたわ。御祝いを申し上げます、丞相閣下」

 

 自らも近づき、曹操は実に鷹揚に命じる。

 

「出迎え大義である。面を上げよ」

 

「はい」

 

 曹操は無表情なままの曹操に、劉勲はあくまでにこやかな笑みを浮かべて口を開いた。

 

 

「不幸な行き違いによって剣を交えた事、まずは深くお詫び申し上げます。これからは誠心誠意、心からの忠誠を閣下に捧げることをお誓い申し上げます」

 

 

 しれっと白々しい世辞を述べる劉勲。実に清々しい笑顔である。

 

「周知のとおり、我々袁家は長らく江東の地を平和に治め、富と人を増やしてまいりました。しかし現在、平和を愛する我らは逆賊・孫家の反乱によって苦境にあります。どうか、我らと共に漢帝国に仇なす反乱分子・孫策を討伐して頂けないでしょうか。さすれば漢帝国と丞相閣下の威光も、改めて天下に轟く事となるでしょう」

 

 相変わらずの劉勲の長広舌に、曹操のこめかみが僅かに引きつった。しかし劉勲はそれに気づいた様子はなく、全員を見渡すように両手を広げて演説を続ける。

 

「逆賊討伐の暁には、我ら一同も今まで以上に職務に励み、丞相閣下のご活躍を支える手足となりましょう。皇帝陛下よりお預かりした江東の領地を富ませ、これまでの税に加え、更に毎年の富を献上いたします」

 

 要するに、「後でお金あげるから助けて」という意味である。なんとも虫の良い話ではあるが、袁家統治時代の江東の繁栄を顧みれば、その富の1割を貰えるという話には旨みがあった。

 

「――此度の勝利、ひとえに丞相閣下のお力の賜物かと存じます」

「――これからは我々も同志として、共に漢帝国を支えましょうぞ」

「――然り、然り。一刻も早く乱世を終わらせ、太平の世を築かねばなりません」

 

 彼女に続き、取り巻きたちも似たり寄ったりの美辞麗句を並び立てる。流石に上流階級なだけあって言葉の耳触りは良いが、肝心の中身は何もない。征服者が望んでいると思われる脚本を、舞台俳優よろしく筋書通りに演じているだけだ。

 

 

「劉勲――これはどういう事だ!?」

 

 狼狽した様子の袁渙が、人ごみを分けて前へと進み出る。

 

「“全ての富を献上する”だと?貴様、曹操に袁家を売り渡す気か!?」

 

 劉勲の提案は、事実上の無条件降伏にも等しいもの。これは流石に想定外だったのであろうか。あらかじめ聞かされていた劉勲の取り巻き以外は皆、血の気の失せた顔を並べている。袁渙は怒りと情けなさの混じった表情で声を絞り出す。

 

「これではまるで、売国ではないか!我らにも卑しい売女の真似事をしろと!?」

 

「あら、不思議な事を言うのね。売り渡すも何も、漢帝国の忠臣として丞相閣下に助けを求めているだけよ。逆賊・孫家を討つために、ね」

 

 劉勲の唇の両端が吊り上がり、機械めいた台詞が吐き出されてゆく。これほど身勝手な言葉を耳にした者は、人民委員いえども稀であっただろう。全盛期には歯牙にもかけなかった「漢の臣下」としての役割を、都合のいい時に都合のいい部分だけ抜き出して使おうというのだから。

 

「献上にしても、人に助けてもらったらお礼するのは当然の事じゃない。それこそ命を助けてもらったんだから、収入の全部ぐらい安いもんでしょう」

 

 劉勲の瞳が狡猾に光る。

 

「そ・れ・に・随分と偉そうなこと言ってるけど、そんな貴方が公費をどれだけ貯め込んでいるか、幾つの商会から賄賂を受け取って事業の斡旋をしたか、娼婦との間にできた庶子をどれだけ堕胎死させたか、アタシは全部知ってるんだケド?」

 

 悪意が言葉に宿るとすれば、劉勲の声はまさにそれだった。

 

 かっとなった袁渙がずい、と一歩前に進み出る。しかし彼と劉勲との間に、藍色の軍服を着た曹操軍兵士が立ちはだかる。彼らは劉勲を守るべく肉体の壁をつくり、威嚇するように槍の穂先を構えた。

 

 

「――――劉勲、話は終わりかしら?」

 

 曹操の声に、劉勲は恭しく鳶色の頭を下げた。

 

「失礼いたしました。袁家人民委員会は、丞相閣下に逆賊・孫家討伐の依頼を要請し、そのために必要なあらゆる支援をさせていただきます」

 

「……それだけかしら?」

 

 それを聞いて、顔を伏せた劉勲の口元が歪む。やはり喰いついた、と。

 

「忠誠の証として、丞相閣下にはこちらを献上いたします」

 

 とどめとばかりに、劉勲は懐から最期の交渉材料を取り出した。輝く金色の塊――両の掌に乗せて掲げられたそれは、『伝国の玉璽』。かつて劉備たちから押収した玉璽を、劉勲は密かに持ち出していたのだ。

 

「ふむ……袁術が玉璽を手に入れたという噂は、本当だったのね」

 

 玉璽を持ち上げ、曹操はその輝きを瞳に映す。

 

「袁術に関しては、気になる噂もあったのだけれど……」

 

 曹操の瞳が、射抜くように袁家家臣を見つめる。袁術が帝位を狙っているという、孫家の流したプロパガンダのことだ。

 

「あんなもの、孫家が苦し紛れにほざいた戯言に過ぎません。袁家は今までも、そしてこれから、漢帝国の忠実な臣下であります」

 

 劉勲はにこやかに答え、再び頭を下げる。疑惑の玉璽を、こうして差し出した事が何より証拠。孫家の発言は、妄言に過ぎない……。

 

 それに最悪、袁術がその気だとしても自分たちには関係ない。その時は主君を排除して、別の者を立てればよい。君主の責は、家臣の責ではないのだ。

 

 だが劉勲が再び顔を挙げた時、そこには予想外のものがあった。

 

 

 ――曹操が、玉璽を自分に差し出している。 

 

 

「え?」

 

 この時になって初めて、劉勲の笑顔の仮面が剥がれた。

 

「あ、あの……丞相閣下?」

 

 ぽかんと呆ける劉勲とその取り巻きに、曹操は押し付けるように玉璽を渡す。

 続いて放たれた言葉は、耳を疑うものであった。

 

 

「やっぱり、袁術には皇帝に即位してもらうわ」

        




 劉勲が無条件降伏するくだりは、銀英伝のアレがモデルです。外国の軍隊頼るのはアルスラーンとかでも見ましたけど。

 外国の軍隊連れてくるのは常識……国民国家になる前までは。中世なんて同じ地域の貴族と農民より、貴族同士のネットワークの方が強い繋がりでしたしね。

 それにしても、劉勲さんのトリューニヒト化が止まらない……。


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98話:長い短刀の夜

     

 劉勲の降伏より2か月前、陳留にて――。

 

 

 この街の主・曹孟徳は中央と地方にそれぞれ官位を持っていた。前者は漢帝国の丞相であり、もう一つは兗州の牧である。兗州の州都は濮陽であるが、曹操はもっぱら太守であった頃に住んでいた、陳留の屋敷に滞在することを好んでいた。

 

 そして今その屋敷にある一室で、曹操の前には一人の女が引っ立てられていた。煽情的な絹の下着はところどころ擦り切れ、髪の毛もほつれて無造作に垂れ下がっている。

 

「随分な恰好ね、劉勲」

 

 首元に剣を突き付けられているその女の名は、劉子台。項垂れた状態で両手首はきつく縛られ、こすれて紫色に腫れあがっている。

 

「民と兵に見放された挙句、主を見捨てて恥も外聞も無く命乞いしに来るとはいい度胸じゃない」

 

 大方、反乱祭りの江東より、安定した兗州の方が安全だと踏んだのだろう。腹立たしいことに、その読みは間違っていない。相変わらず小賢しい知恵だけは回る女だ。

 

「貴方のそういう大胆なところは好きだけど、仕方なく私の領地に逃げて来たってのは気に入らないわね。出来れば私なんかより、劉表のところに行きたかったんじゃなかったかしら?」

 

 曹操が試す口調で話しかけると、ようやく劉勲が顔を上げた。

 

「そんなこと……!」

 

 真っ直ぐに曹操に向けられた目には、涙が浮かんでいた。そこには信じてもらえない事に対する哀しみまで滲ませている。

 

「華琳ちゃん、違うの! アナタなら、きっと会ってくれると信じてたから……」

 

 全身を使って必死に命乞いする劉勲。ほんのり色づいた肌、潤んだ瞳、辛そうな声音、ぷるぷると震える肩、熱っぽい息遣い……思わずころっと騙されそうになるような、迫真の演技だった。

 

 すると数人の家臣――主に男性だが――は彼女に同情的な視線を送っており、何を期待しているのか既にそわそわし始めている者すらいた。

 本当に女は恐ろしい、と曹操は思う。抜け目のない劉勲のことだ。どうせ何人かはとっくに買収したか、いかがわしい手を使って篭絡しているのだろう。

 

「華琳さま、やはりこの女に喋らせておくと危険です。今すぐ牢に戻したほうが……」

 

 雰囲気が変化していることに気づいた夏侯淵が提言をするも、曹操は片手でそれを遮った。

 

「判断は私がするわ。ここで使い道があると示せれば相応の保障はする」

 

 裏を返せば、使えないと見なした瞬間に斬り捨てるという事でもある。 

 

 だが、劉勲にはよほど自信があるらしい。意味深な表情を浮かべると、目を伏せて語り始めた。

 

 

 

 ――やがて彼女が語り終えると、ドンッと大きな音が響いた。

 

 

「話にならん!」

 

 音の発生源は、机を叩いた夏候惇だった。青筋が立ち、拳がひびの入った机にめり込んでいる。

 

「衛兵!この売女を連れていけ!広場で私が直接その首をへし折ってやる!」

 

「春蘭、落ち着いて。判断するのは貴女では無く、この私よ」

 

 曹操の声は穏やかだったが、明らかに制止の響きが込められていた。曹操は目の端で探るように劉勲を見る。

 

「物的証拠は揃っているんでしょうね」

 

「もちろん」

 

 自信たっぷりに頷く劉勲。こればかりは、演技でもハッタリでも無く真実だった。袁家の張り巡らした諜報網は、中華随一なのだ。

 

「……それで、袁術はこの事を知っているの? 万金にも等しい情報を勝手に売り渡したと知ったら、貴女のお仲間も黙っていないんじゃない?」

 

 劉勲はにやりと笑った。

 

「まさか。丞相閣下のお役に立てたと知れば、大喜びするでしょう。全ては閣下のお心のままに」

 

 劉勲の顔に浮かんだニヤけた笑みは、夏候惇に髪を引っ張られて消えた。

 

「この女は正真正銘のクズです。華琳さま、どうか……」

 

「もう決めたわ」

 

 曹操は両手を軽く合わせて身を乗り出した。

 

「劉勲の案をとる」

 

 これは決定事項だ。曹操が立ち上がると、居並ぶ家臣たちは一斉に頭を下げた。

 

「劉勲、貴女は一度江南に戻って工作を進めなさい。協力は惜しまない」

 

「では……」

 

「ええ。――袁術を、偽帝に」

 

 漢帝国の丞相にあるまじき発言。だが、それを指摘する者は一人としていない。それが主君の決断ならば、黙して従うことこそ臣下の務め。その不文律を理解できぬ者は、曹操軍には居なかった。

 

 ただ……夏候惇、夏侯淵姉妹の心には、一抹の不安が燻り続けていた。

 

 

 華琳様は、何を焦っておられるのか、と―――。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 建安2年(197年)正月は、袁術が誇るべき革命的な記念日である。その日に袁術は自らを中国神話の舜の血筋を引くと自称し、仲王朝を起こした。

 

 献帝が長安からほうほうの体で脱出し、曹陽で大敗し明日をも知れぬ状態であったことを聞き、袁術は漢朝の命脈がつきたと予感し、帝位につく意思を側近達に漏らした。『典略』によると、讖緯書『春秋讖』にある「漢に代わる者は当塗高なり」のくだりから、「塗」には道という意味があり、自分の名の「術」、字の「路」も道という意味があるため、当塗高は自分を指していると考えたのだ。また、「天の御使い」北郷一刀から確保した『伝国璽』が袁術に渡ったことも一因である。

 

 これが歴史的な偉業に至る経緯である。歴史的というのは、それが真の意味での『革命』であったからだ。

 

 ――では、何が革命だったのか?

 

 漢語の『革命』の語源は、天命が革(あらた)まるという意味である。古来より中華では易姓革命など、王朝の交代一般を指す言葉であった。

 

 しかし、仲王朝のそれが従来と違うのは、単なる王朝交代にとどまらず、古い政治秩序の破壊と新しい政治秩序の構築をもたらす動態的かつ抜本的な変革であったからだ。有り体にいえば「支配する者、と支配される者がひっくり返る」のである。

 

 これまでの王朝交代では、例えばある王が殺され、別の人物が代わって王になっていた。厳密にいえば、これは革命ではない。社会秩序は変わらず、支配する側と支配される側が回転していないため、誤解を恐れずに言えばクーデターの亜種とすら呼べる。

 

 しかし仲王朝では、支配する側とされる側が逆転した。支配する側・袁術と、支配される側・人民(を代表するとされた人民委員)の立場が逆転したのだ。

 

 この皇帝就任という茶番劇の筋書きを書いたのが人民委員会にして書記局長たる劉勲であるというのも、立場の逆転を見事なまでに表している。劉勲は脚本家であると共に監督であり、袁術は主演であるだけの役者に過ぎなかったのだから。

 

 もちろんこの天地を揺るがすような大事件が、平穏無事に進むはずもない。袁術の皇帝即位については、張勲など家臣の間でも反発が多かった。国内の混乱を煽っているとしか思えない行動である上、漢王朝に真正面からケンカを吹っ掛ける事になりかねない。周囲の諸侯のほぼ全てが袁術の皇帝就任を認めないであろうことを考えれば、張勲の猛反対は当然の結果であった。

 

 なにより『皇帝』という仰々しい称号とは裏腹に、皇帝・袁術の権限は一太守にすら劣るものだった。仲帝国という劇団において、袁術という主演女優に一切のアドリブは許されていないのだ。

 

 それを端的に示したのが、玉璽を献上したときの劉勲の台詞であろう。

 

「――皇帝としての権利を譲渡する代わりに、皇帝として即位していただく」

 

 矛盾。首尾一貫した支離滅裂。袁家のお家芸ともいえる伝統が遺憾なく炸裂した瞬間であった。

 

 即位すれども統治せず! 他の何者にも真似できない独創的な発想によって、仲王朝はその成立過程において、一人の死者も出すことなく、何が起こったのかよく分からぬ間に発足した。

 

 こうして袁術は皇帝に即位したが、同時に皇帝としての権利は剥奪された。

 

 

 それでも革命は革命、しかも素晴らしい事に無血革命である。

 

 支配者に対する、人民(を代表する人民委員)の勝利が刻まれた瞬間だった。

 

 

 かくして仲王朝が誕生する。後に袁術は正式な国号を『仲人民連合帝国』(通商:仲帝国)と改め、それをきっかけに人民委員会議は大胆な改革に着手した。

 

 国家の頂点にあるのは、全ての人民を代表するとされた「労働者・農民・兵士の評議会」(現:中央人民委員会議)である。

 人民委員たちは「全ての権力を評議会に」というスローガンを掲げ、この新しい国家は皇族や名族によって築かれた既存の国家機構を破壊して、選挙で選ばれた人民の代表及び彼らによる新しい官僚組織が立法と法を執行する新たな国家機関であるとした。

 

 『 皇帝は君臨すれども統治せず 』

 

 当時の偉大な指導者の一人、中央委員会書記局長・劉子台はこの原則を上記のように要約した。

 

 そして皇帝・袁術は大勢の強大な上流階級の意向により、その権力をかなり制限されていた。初代皇帝・袁術、そして彼女に続く歴代の皇帝は(そんな人間がいるとすれば、だが)、こうした皇帝権力の制限を確約した条項を承認し署名することを余儀なくされた。

 

 皇帝即位に際しての重要な誓約の一つともされ、皇帝は人民の諸権利を尊重することを義務付けられた。皇帝は「帝国の所有者」や「人民の支配者」ではなく、「人民が所有する国家」の代表たる「人民の第一人者」であると規定された。

 

 人民委員たちも同様に立場に応じて様々な制限を加えられており、こうした「法の優位」あるいは「法治主義」を仲帝国権力中枢における相互不信の現れと見る者も多い。そもそも法の優位は、権力者が権限を濫用して他者の自由や権利を侵害する可能性を前提とするものである。

 袁術という類稀なる無能な君主を持った袁家家臣たちの、君主権力の不信感の集大成こそが「法治主義」の正体であった。

 

 これらは『帝国大憲章』として成文化され、この実質的な貴族共和国における政治原則とは「我々の国家は人民の監督下にある法によって支配される」というものだった。

 

 ここに、もう一つ仲帝国の成立が『革命』であると称される所以がある。

 

 つまり仲帝国はそこに住まう全ての人民を法に従わせる政治形態であり、法の上に最高権力者がいるわけではない。これは仲帝国設立の裏で、曹操が糸を引いていた事と無関係ではないだろう。『仲帝国』が「法」によって縛られている限り、彼女は「法」とそれを決定する「人民委員会」を通じて、裏から支配できたのだから。

 

 しかし過程はともあれ、ある意味では近代的な『法治主義』の先がけとも呼べるものであった。当時のほとんどの国家で見られた、有能な人物の裁量や裁断を中心に治める『人治主義』とは明らかに一線を画している。当時の人々にとって、袁術による中華初の立憲君主国の誕生が、果てしない衝撃を与えていった事は想像だに難くない。

 

 実際、多くの人が「袁術は乱心である」と受け取った。なにせ誕生の過程も謎であれば、理屈も意味不明、そして誕生した帝国の内情はさらに理解不能であったのだから。

 

 しかし、笑って流すわけにもいかないのが朝廷である。さっそく全土の諸侯に向けて逆賊討伐の令が発せられるも、これすらも巧妙に仕組まれた茶番劇だった。

 

 

 **

 

 

 仲帝国設立から一月と経たぬ内に、朝廷が偽帝討伐の兵を募っているという噂が全土を駆け巡った。当然と言えば当然の対応であるが、諸侯の反応は様々だ。 

 

 ただちに応じた諸侯には、曹操と同盟関係にある袁紹、そして益州牧・劉焉などがいる。それぞれが用意した兵力は2万人ほどで、朝廷の顔を立てつつも、完全には取り込まれない程度の数といえよう。同時にそれが両者の、曹操に対する距離感を表していたりする。

 

 一方で西涼の馬騰と荊州牧・劉表はというと、兵を送る約束はしつつ、適当な理由をつけて本格的な派兵は見送るという風見鶏な対応に徹した。袁術と関係の深かった両者は曹操が旧袁術領を制圧することを本音では歓迎しておらず、かといって正面から朝廷にケンカを売るほどの愚行も出来ず、苦渋の選択であった。

 

 問題となったのは、袁術に対して反乱を起こした孫家である。朝廷と同じく打倒袁術を目的としているものの、朝廷と共に戦えばせっかく奪った旧袁術領を横取りされかねない。

 

 実際、曹操はそのつもりだったのだから、孫家は苦しい舵取りを迫られる事になる。連合に参加すれば領土を横取りされ、参加しなければ敵と見なされて朝廷の大軍を差し向けられかねない。

 

 

 ほとほと困り果てていたところに、曹操から直々に招待状が届いた。直筆の招待状ともなれば無視することも出来ない。結局、孫策は相手の内情を探る意味も含めて、曹操の招待を受けることにした。

 

「挨拶がてら、すっかり偉くなった丞相サマサマの顔で拝みに行ってくるわ」

 

 疲れたような表情で洛陽に向かう孫策の表情が、孫家の厳しい現状をあらわしていた。

  

「……絶対に、気を抜くんじゃないぞ」

 

 最期まで強硬に反対したのは、他ならぬ周瑜であった。とはいえ「じゃあ招待を蹴って曹操の連合軍と戦う?」を返されれば、返答に窮するしかない。最期は苦虫を噛み潰したような顔で、孫策を見送る他なかった。

 

 

 **

 

 

 かくして、諸侯たちは再び逆賊を討つべく洛陽に集った。

 

 諸侯たちの連れて来た兵力を合算すれば、実に11万にも達する。流石にそれだけの兵士が一度に洛陽に入られても困るため、入城を許された少数の護衛と共に宮殿に足を踏み入れた諸侯たちはあっと驚くことになる。

 

 反董卓連合戦争の折に焼け落ちた宮殿――それがまるで何事も無かったかのように復旧している。宮殿だけではない。そこに至るまでに通過した洛陽の街もまた、かつての賑わいを取り戻しつつあった。

 

(曹孟徳……)

 

 洛陽に入城した孫策もまた、曹操の行政手腕に驚きを禁じ得なかった。あの災厄からたった2年ほどで、ここまで洛陽を復興させた人物とは、一体どれほどの人間なのか。

 

 孫策は改めて曹操に興味を覚え、宮殿に足を踏み入れる。

 

 宮中にある、謁見の間――壁には巨大な龍が描かれ、広さも豪華さも半端ではない。だが、広間にはピリピリとした緊張感が広がっていた。

 集まった諸侯たちの目は、皇帝の座る玉座――その前に立つただ一人の少女に注がれている。小さな体から発せられる圧倒的な『気』に、その場の人間は全て飲まれていた。

 

(あれが、曹操……)

 

 最後の一人であった孫策が入室すると、低い音を立てて金属の扉が閉められる。

 居並ぶ諸侯たちを見回し、曹操は鋼を思わせる硬質の声で語り始めた。

 

「遠路はるばる、洛陽まで大義であった。これより――卿らの断罪を始める」

 

 一体何を言い出すのかと、諸侯一同は唖然とする。

 

「卿は偽帝と通じて、今日に至るまで多くの利権を貪り、私腹を肥やし、帝国に対して多くの罪を重ねた」

 

 どうやら、冗談でも乱心でもないらしい。曹操が片手を上げて合図をすると、横から沢山の文書を抱えた劉勲が入室する。

 

(劉勲――!)

 

 姿をくらましていたと思ったら、こんな所にいたのか。思いがけず仇敵を発見した事に驚いたのも束の間、孫策の頭に一抹の疑問が浮かぶ。

 

 なぜ、劉勲がこんなところに居るのか。彼女の持つ、大量の書類は何なのか。そして、自分たち諸侯の前で曹操は何をするつもりなのだろうか。

 

(……まさか)

 

 孫策の頭に浮かんだ最悪の予感は、すぐに的中した。曹操本人の口から、想像した通りの言葉が流れ出す。

 

「人民委員会書記局長・劉子台の証言および証拠書類を調査した結果、汝らにかけられた容疑は限りなく真実に近いとの確信に至った」

 

 中華随一の規模を誇った、袁家の諜報機関。カクの保安委員会が有名だが、内務委員会や外務委員会、軍務委員会なども独自の諜報機関を有している。かれらが時には競い、時には協力してかき集めた情報は、最終的に閲覧禁止書類として公文書館に保管される。それを管理するのは書記局の仕事であり、劉勲の力の源泉ともなっていた。

 

 劉勲はそれを、惜しげもなく曹操に渡した。その価値の分かる相手に、一番高く売りつけるたのだ。

 

 そして曹操はまた、情報の効果的な利用法を熟知してもいた。

 

「これは勅命である。汝らを内通罪の容疑で逮捕し、取り調べを行う」

 

 騒然とする謁見の間。茫然自失の時間が過ぎ去ると、諸侯たちはいっせいに騒ぎ出した。

 

「ば、バカなっ!我々が袁術に協力しただと?」

「過去に取引した事があっただけだ!言い掛かりにもほどがあるっ!」

「最初から、騙し討ちにする気だったんだな! この卑怯者!」

 

 諸侯たちは口々に非難するも、勝負はすでについていた。多少の護衛を連れてきたところで、外には完全武装の曹操軍が万単位で控えている。荊州の劉表と、袁紹に仕える軍師・田豊のみが曹操の目論見を見抜いて難を逃れることに成功していた。

 逆にいえば、その他の諸侯は皆が曹操――劉勲に騙された事になる。

 

「容疑が偽りだと信じるならば、なおのこと捜査に協力して身の潔白を証明せよ。捜査に非協力的な態度をとれば、後ろめたい事情があると解釈する」

 

 曹操は目の前で騒ぐ諸侯たちを冷ややかな眼差しで見降ろし、勝利宣言を行った。

 

「羽林の兵に告ぐ、全員を逮捕せよ」

 

 その声と共に扉が放たれ、武装した兵士の群れが軍靴を鳴らして雪崩れ込んできた。

    




 曹操による白色テロ回。分かる人にはタイトルがネタバレ。
 
 前話で曹操が袁術の皇帝就任を黙認したの裏は、こんな陰謀があったのでした。


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99話:皇帝宣言

             

 

 曹孟徳、宮廷にて大規模な粛清を実行……その知らせは、中華全土を激震させた。

 

 

 

 時は乱世といえど、これまで曲がりなりにも守られてきた形式や法といったものの一切を踏みにじる蛮行であったからだ。

 

 

 

 粛清は皇帝の名の元に発表され、これによって朝廷を脅かす地方領主の多くが排除された事になる。その中には孫策や劉焉、馬騰といった名だたる大諸侯も含まれており、辛くも粛清を逃れたのは欠席していた劉表と華北の戦場にいた袁紹ぐらいのものであった。

 

 

 

 これによって朝廷の力は一時的に強化されたが、皇帝の権威ではなく軍隊の権力によってそれが為されたという事は、軍務を一手に握る曹操らの影響力がより強固なものになったという事でもある。

 

 

 

 

 

「あんの小娘ぇ…………!」

 

 

 

 その報を聞いて、袁紹は怒髪天に達した。

 

 

 

 なりふり構わぬ曹操の覇道に憤りを感じた……という至極まっとうな理由で。

 

 袁紹の場合、物事を深く考えないというだけで、根は常識人なのであった。

 

 

 

「由緒正しき伝統ある漢帝国の歴史に泥を塗りたくるなんて、絶っぇぇぇえッ対に許しませんわッ!」

 

 

 

 曹操……昔から彼女のやることは、常に正しかった。幼い頃から付き合ってきただけに、誰よりよく分かっている。過程はともかく、結果は常に最善にして最高。しかも単に頭が良いというだけではない。

 

 

 

 ―――人を惹きつける人望に、どんな重圧をも撥ね退ける精神力。

 

 

 

 そして時には周囲を押し切ってでも信念を貫き通す、決断力と苛烈さを兼ね備えていた。

 

 

 

 

 

 自信家の幼馴染はそのまま成長し、無名の宦官の孫から一国の宰相にあたる地位まで登りつめた。

 

 旗揚げ時は夜盗かと見紛うほどのみすぼらしい私兵集団だったのが、今では中華最強の軍隊だ。

 

 

 

 

 

(華琳さん、貴方という人は名族でも無いくせに………本当にズルいですわ)

 

 

 

 

 

 いつからだったのだろうか。

 

 

 

 

 

 そんな彼女に対する嫉妬が、憧れへと変化し、いつしか尊敬へと変わっていったのは。

 

 

 

 

 

 

 

 ――だからこそ。

 

 

 

 

 

 

 

(どうして“あんな”真似を……!)

 

 

 

 認めたくはなかった。そして何より、信じたくなかった。

 

 

 

 自分がライバルと認め、密かに目指すべき目標とも仰いだ幼馴染が、騙し討ちで諸侯を虐殺したなどという話が受け入れられるはずもない。

 

 

 

 乱世の奸雄・曹操いえども人の子だ。いかに非凡な才を示そうとも、王者を目指す者ならば王道を歩む志を持ち合わせているはず。その点は、あの幼馴染だって変わらない。そう、信じたかった。

 

 

 

 

 

(ッ………!)

 

 

 

 

 

 その反面で袁紹は、やはりこうなってしまったか、と何処か冷静に納得してもいた。

 

 

 

 

 

 まったくの想定外だった、といえば嘘になるだろう。自信満々な幼馴染の表情の裏に、どこか深い闇や陰を感じるものが潜んでいるような気がしていたからだ。

 

 

 

 成長するにつれ、彼女のそうした暗い側面は鳴りを潜めていった。袁紹はそれを単純に成功して気が晴れたからだと楽観的に捉えていたが、それは誤りだった。

 

 

 

 

 

 ――曹操は単に、演技をするのが上手くなっただけなのだ。

 

 

 

 

 

(それでも貴女は……この袁本初が認めた、たった一人の好敵手ですのよ!?)

 

 

 

 

 

 もっと器の大きい人間だと思っていた。もっと志の高い人間だと思っていた。

 

 だというのに、この情けない有様はなんだというのか。自分は彼女を見損なっていたのか。

 

 

 

 

 

 分からなかった。

 

 

 

 

 

 どうして旧友がこんな暴挙に至ったのか、まったく理解出来なかった。

 

 

 

 あれほど宮廷闘争に明け暮れる漢王朝を憂いていた彼女は、自分の知らぬ間に権力欲に塗れた政治屋に墜ちてしまったのだろうか。

 

 

 

 いかに対立し、嫌味を言い合い、時には剣を交えたとしても。

 

 同じ様に乱世を憂い、同じ様に平穏を願った友だった、――筈だった。

 

 

 

 

 

「ふ、ふふふふ………………」

 

 

 

 

 

 やがてその口許に不敵な笑みが浮かび、体が小刻みに震えだす。

 

 

 

「おほほほほほほ―――――おーっほっほっほっほっほ!!!」

 

 

 

 ついには堤防が崩壊したかのごとく、膨大な笑い声の奔流が一気に噴き出した。

 

 

 

 分かっていたはずだった。これこそが、自分のよく知る“華琳”だ。

 

 

 

 常人では想像もつかないような発想と、いかなる困難も容易く乗り越える行動力。

 

 ついぞ自分はそれを理解することが出来なかった。それが今も続いているというだけのこと。

 

 

 

 

 

「――華琳さん、やはり……わたくしには貴女が何を考えているか理解できませんわ」

 

 

 

 悲しいかな、非凡な幼馴染に対して、自分は情けないぐらい残念な頭脳しか持ち合わせていない。

 

 

 

 ならば――。

 

 

 

 

 

「このわたくしが、今度は“直接”聞きに言ってやりますわ」

 

 

 

 

 

 そう、直接問い詰めるしかない。本人の口から直接、自分にでも分かる簡単な言葉で。

 

 説明してもらうのだ。どうして、こんな暴挙に出たのかと。何を考えて、そこに至ったのかを。

 

 

 

「華北四州は、まもなく袁家の手に落ちるはず……」 

 

 

 

 公孫賛はよく持ちこたえているが、そろそろ潮時だ。脱走兵や内通がちらほらと出始めているし、沮授の考えた“秘策”も発動まで秒読みの段階。そして易京城さえ落とせば、華北四州は完全に袁家の支配下に落ちる。

 

 

 

 

 

 ――あとはただ、圧倒的な兵力をもって南下するのみ。

 

 

 

 

 

 今のところ、全ては計画通りに進んでいる。

 

 袁家の誇る天才、田豊と沮授の思惑通りに。

 

 

 

「華琳さん、首を長くして待っていらっしゃい」

 

 

 

 袁紹は腕組みをしたまま視線を南方へと向ける。

 

 天子と、曹操、そして己がこれから君臨すべき土地へ――。

 

 

 

 

 

「おほほほ、おほほ、おーッほっほっほっほっほ!!」

 

 

 

 

 

 もはや彼女の脳裏に、和平だの交渉だのといった単語は存在しない。

 

 そこにあるのは、袁家の輝かしき勝利と栄光のみ。

 

 

 

 彼女に付き従う黄金の軍隊と共に、袁紹は天下統一に王手をかけようとしていた――。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

「うわぁ……」

 

 

 

 思わず素でドン引きしてしまった張勲は、コホンと咳払いをして平静を装った。無理もない。孫家から南陽を取り戻した彼女たちの前には――。

 

 

 

 

 

「「「袁術さま万歳、万歳、万々歳!!」」」

 

 

 

 

 

 劉勲ら主君を見捨てて脱走した旧家臣たちが、何食わぬ顔でずらりと並んでいた。

 

 

 

(なんですか、これ?)

 

 

 

 彼女たちの思考回路を推測するのに張勲は、とてつもなく長い数秒間を必要とした。それほどに劉勲らの態度は理解しがたく、本心から意味が分らなかった。

 

 

 

(つい昨日まで美羽様を見殺しにしておいて、なんで当然のように顔を出せるんですかねぇ……)

 

 

 

 笑顔が引きつり、眉が小刻みに揺れる。そんな彼女の静かな怒りを知ってか知らずか、さも当たり前のように美辞麗句を並び立てる人民委員たち。

 

 

 

「袁術さま、ご機嫌麗しゅう。よくぞお戻りになられました」

 

「逆賊討伐、お見事でした!感服いたしました!」

 

「我ら一同、いっそうの忠誠と奉仕を宣言します!」

 

 

 

 媚を売りつつ、自己弁護を図る旧家臣たち。明らかに嘘だと分かる、しらじらしい言葉が連続する。

 

 

 

 彼らにしてみれば、袁術など自分たちに都合のいい人形に過ぎない。お飾りとしての機能しか求めていない事を隠そうともしていなかった。

 

 

 

(後で全員、家族と一緒にぶっ殺してやりましょうか……)

 

 

 

 凍りついた笑顔の中に、どす黒い感情をたぎらせる張勲。

 

 

 

 薄っぺらい言葉に、ぶ厚い面の皮……こちらが不利になれば当たり前のように裏切り、有利になれば当たり前のように味方面をする人民委員たちの態度は、さすがに許容の限度を超えていた。

 

 

 

「久しぶりね、張勲。元気してた?」

 

 

 

 そんな不忠者たちの最前列にいるのは、相も変わらず上質なドレスと芳しい香水に身を包んだ女だ。まるで休暇をとってただけとでも言いたげな軽いノリで、この騒乱が起こる前と変わらぬ調子で張勲の前に立つ。ふわり、とジャスミンの香りが漂う。

 

 

 

「こっちは曹操ちゃんと取引して色々と大変だったわ。で、これがその成果よ」

 

 

 

 対して、劉勲が自信満々で懐から取り出したのは、上質な紙でできた一枚の書類。

 

 

 

 まるで張勲らに選択肢は無いと言わんばかりに、劉勲は一方的に話を進める。懐から上質な紙を取り出すと、確定事項を通達するように文面を読み上げる。

 

 

 

 

 

 

 

「――漢帝国は仲帝国を冊封国として認め、宗主国として朝貢を受けることを受容する」

 

 

 

 

 

 

 

 冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係である。つまりこの場合、仲帝国は漢帝国を宗主国と認め、その臣下となる事を意味する。

 

 

 

 文書はそれに留まらず、続きには以下のように記されていた。

 

 

 

「貢期は半年ごと、洛陽・宛城間の道路を貢道とし、南陽郡における税収の1割を“方物”として天子に献上されること」

 

 

 

 

 

(えぇ………)

 

 

 

 

 

 張勲は自らの顔面から血流が消えうせるのを感じ、自分の知る常識が今や過去のものとなったを知った。

 

 

 

 劉勲と曹操が交わした取引は、「袁術は漢帝国から独立した新王朝を建てるが、漢帝国に従属する」というもの。

 

 

 

 とはいえ地方は元から独立しているようなものなので、実利的な違いは何もない。『冊封』自体も概念的なもので厳密な規則があるわけでもないので、正直な話、言葉遊びの領域に近い。

 

 

 

 ただ、『冊封』という形態をとった事で、仲帝国の側は『朝貢』と称して様々な利益を治める義務を負う。一応「朝貢を受けた宗主国は貢物の数倍の宝物を下賜する」という決まりがあるものの、官位や印章などでも代用可能だったりする。

 

 

 

 しかも仲帝国は形式上は独立国であるため、漢帝国の側には統治に関する一切の責任がない。仲帝国に形ばかりの下賜を行って貢物を受け取る代わりに、南陽郡の支配は袁家に一任する。

 

 

 

 分かり易い話が、「仲帝国は漢帝国の経済植民地となる」という事だ。何を隠そう、袁家の得意としていた非公式帝国主義が、今度は立場を変えて自分たちに適応されるというだけのこと。

 

 

 

 随分と回りくどい手に思えるが、自国の一部を植民地化するにはそれなりの理由がいるものだ。これを聞いた北郷一刀は、次のように憤ったという。

 

 

 

「一部の日本人が同じ日本人から搾取することを正当化するために、日本の中に新しく植民地を作る……そんな馬鹿な屁理屈があってたまるか」

 

 

 

 つまり、劉勲らは自分たちの権益と立場を曹操に保障してもらう代わりに、領民たちが本来持っていた「漢帝国臣民」としての権利の一切を放棄させたという事になる。

 

 

 

 

 

(袁家の全てを売りとばしてでも、自分だけは生きながらえようという腹ですか)

 

 

 

 売女め、と内心で毒づく張勲。

 

 

 

 劉勲は、彼女らしいやり方で、曹操に『特売』をかけたのだ。袁家の領地と、家臣団、そしてその象徴たる袁術の身柄――その全てを、はした金同然に買い叩かれる代わりに、自分だけは免除してもらう。

 

 

 

 

 

 それが認められたのは、漢帝国そして曹操にしても魅力的な案だったからだ。

 

 

 

 そもそも領民の保護などという国家の義務は、国家の側からすれば面倒事でしかない。貢物という形で税さえ搾り取れれば、領民がどうなろうと知った事ではないというのが本音だ。

 

 

 

 であれば南陽郡を「仲帝国」として独立させれば外国と見なせるため、盗賊やら水賊やらが出ても漢帝国がそれを討伐する義務を負うことはない。

 

 

 

「それからもうひとつ」

 

 

 

 劉勲は淡い茶髪をほっそりとした指先に器用に巻きつけながら言う。

 

 

 

「なお、冊封国として漢帝国に帰順した仲帝国には、朝廷の代理人として『大行令』が駐在する事となる」

 

 

 

 指先に巻きつけた髪を耳にかけ、劉勲は謎めいた笑みを浮かべる。

 

 まさか、と張勲が目をしばたたかせると、そこには我が意を得たりと言わんばかりの劉勲の顔。

 

 

 

 

 

「皇帝と丞相の名において、劉子台を『大行令』に任命し、関連する業務を司る権利をここに授ける。大行礼の言葉は、朝廷の御言葉と心得よ!」

 

 

 

 

 

 『大行令』とは、秦代に帰順した周辺諸民族を管轄した典客を起源とする官位である。外務大臣、もしくは近代の植民地総督のような役割を担っており、劉勲はそれに任命されたのだ。

 

 

 

 

 

(や、やられた……)

 

 

 

 張勲は額の生え際から汗が滴るのを感じた。

 

 

 

「お嬢様のご恩を忘れて、今度は曹操さんに尻尾を振ることにしたんですか」

 

 

 

「尻尾だけじゃなくて、腰も振ったわよ。とても悦んでたわ」

 

 

 

「………最低」

 

 

 

 張勲の瞳に深い軽蔑の色が走った。

 

 

 

 虎の威を借りる狐――今の劉勲には、ぴったりの表現だろう。優れた男を彼氏にした事で、自分まで優秀になったように錯覚して、悦に浸っている勘違い女。

 

 

 

(とはいえ、ここまで来ると逆に清々しいですね……)

 

 

 

 張勲の表情に、露骨すぎるほどの焦燥と不快感、そしてそれを上回る諦念とした表情が貼り付く。

 

 

 

 たしかに劉勲は道化なのかもしれないが、自分たちはそんな彼女によって完璧に組み伏せられてしまったのだ。恐らく彼女はこうやって、幾度となく自分と他人の両方を騙し、振り回していったのだろう。

 

 

 

 ほとんど完全敗北といった状態の袁家にあって、唯一彼女だけが無傷で、それどこか以前にも増して影響力は増大していったのだから。宿主を食い潰して壊死させ、それによって自分は肥え太る寄生虫。

 

 

 

(なんだか嫌な予感がしますね……)

 

 

 

 曹操らは劉勲を利用することで袁家を影響下に置いたつもりなのかもしれないが、あるいは――。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 それから時をおかず数日後、袁術軍は戦おうともせず南陽まで曹操軍を迎え入れ、あっさりと降伏した。

 

 

 

 宛城に入場した曹操に対して劉書記長は膝をつき、最敬礼で次のように言い放ったという。

 

 

 

「我が仲帝国は漢帝国の徳を慕い、臣として方物の献上いたす」

 

 

 

 ここでいう「臣」とは「天子」の「臣」、つまり漢帝国を主とした主従関係を結ぶことを意味し、「方物」はそれに伴って政治的従属を示す為の貢物を差す。

 

 

 

 長らく中華と異民族との間で行われてきた冊封と朝貢を、朝廷と仲帝国の間で行うと言うのだ。袁術は献帝の家臣として冊封を受け、仲帝国は属国として漢帝国に朝貢する代わりに庇護を受ける……早い話が「顔も立てるし金もあげるから攻めないで……ね?」という事だ。

 

 

 

 理屈はこじつけ以外の何物でもないが、どちらにとっても旨みのある話である。

 

 

 

 曹操は袁術から莫大な献上品を毎年受けられるし、袁術は曹操の軍事的保護を受けられる。そして領土を接する両者は共に、互いを警戒しなくて済む。

 

 

 

 とはいえ、全ての関係者がこの講和を快く思ったわけでは無い。

 

 

 

 特に曹操陣営にとって袁家は徐州戦役を狂わせた仇敵と見なす考えが強く、また恥を恥じとも思わぬ厚顔ぶりに眉を顰める者も多かった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

「朝貢だと? 何考えているんだ、あいつらは」

 

 

 

 大袈裟な追従を繰り返す劉勲らを見て、憎々しげに吐き捨てる夏侯惇。声にははっきりと軽蔑の感情が含まれている。

 

 

 

 人の上に立つ者は、それ相応の責任を負う。日頃は民から搾取しておきながら、不利となるや民も主も責任も放り出して逃げ出すような連中に、果たしてどれだけの価値があるというのか。

 

 

 

「主君と領地を売りとばしてでも、自分だけは生きながらえようという腹か……ふんっ!気に入らない!」

 

 

 

 見るのも不快だと言わんばかりに、夏侯惇はそっぽを向く。彼女ほど露骨でないにせよ、多かれ少なかれ、投降した袁家高官を見つめる曹操軍将兵の目は暗い。

 

 

 

(所詮は大衆を誤魔化すための方便に過ぎない、という訳か……)

 

 

 

 比較的穏健な夏侯淵でさえ、例外では無かった。

 

 

 

 彼女もまた、劉勲たちが孫家相手に最後の抵抗を試みるという可能性を捨てきれずにいたのである。人民の代表、大衆を導く選ばれし者、などと胸を張るからには、その誇りの為に自らの生命と賭ける気骨があるのではないかと考えていた。 

 

 苦労せずに袁家を従えたというのに、釈然としない気分だけが残る。

 

 

 

 何の罪悪感も覚えず手の平を返すような連中が口にする忠節に、いったいどれほどの信用が置けると言うのだろうか。薄っぺらい言葉に、ぶ厚い面の皮……こちらが不利になれば当たり前のように裏切り、有利になれば当たり前のように味方面をする人民委員たちの態度は、さすがに許容の限度を超えていた。

 

 

 

 

 

「華琳さま、本当にこれで良かったのですか? この際、袁術陣営を攻め滅ぼして我らの統治下に置いた方が……」

 

 

 

 夏侯淵は釈然としない思いを、曹操に伝える事にした。

 

 

 

 劉勲も賈駆も、特異な才の持ち主ではあるが、味方に引き入れるには少々危険ではないか。いくらでもやりようはあったはずなのに、曹操は最後まで彼らを手放したくなかったように思える。いつもの曹操といえばそうかもしれないが……少々釈然としない。

 

 

 

「つまり劉勲は信用できない、と?」

 

 

 

 口元を歪ませ、曹操が質問する。

 

 

 

「はい、あのような輩はいずれ、我らを裏切ります。我らに従うというのなら、それ相応の行動をしてもらわねば信じられません。口先では何とでも言えますので」

 

 

 

「あら、辛辣ね。じゃあ、足でも舐めさせてみようかしら?」

 

 

 

「か、華琳様!」

 

 

 

 冗談よ、と返す曹操だったが、夏侯淵は半信半疑だった。実際、彼女の主だったらやりかねない。ついでに言うと、劉勲も割と平気でやりそうだ。

 

 

 

 四つん這いの状態で、なまめかしい喘ぎ声と共に犬のように舌を滑らせる劉勲と、目を細めてそれを見下ろす曹操……。

 

 

 

「と、とにかくッ! 恥もなく軽々と主を変えるような売女は信用できません!絶対に裏切ります!」

 

 

 

「でしょうね」

 

 

 

 あっさりと曹操は裏切りの可能性を認めた。それを承知でなお、曹操は劉勲たちを使うと言っているのだ。

 

 

 

「秋蘭、貴女の言い分は正しいわ。劉勲は単純に私と袁術を天秤にかけて、私についた方が得だと判断しただけ」

 

 

 

 天秤が逆に傾けば、劉勲は躊躇いもせず裏切るはず。曹操にはそんな確信があった。

 

 しかし――。

 

 

 

「そういう女なのよ、あの子は」

 

 

 

 劉勲の行動は賞賛されるものではないが、かといって不可解な事とも思わない。

 

 

 

 寄らば大樹の陰。長い物には巻かれよ……昔からそう言うではないか。

 

 

 

 むしろ異常なのは揺るぎなき忠誠心の方ではないのかと、曹操は考えてしまう。もし人間が合理的な生き物なのだとしたら、利が大きい方につくのは当然の事なのではないだろうか。

 

 

 

「昔から変わらないのよ。子供らしいというか女らしいというか……とにかく計算高い」

 

 

 

 子供は大人の前では無力だし、男がその気になれば大抵の女は組み伏せられる。

 

 

 

(だから強い相手には逆らっても無駄だという現実を、本能的に知っている。生きるために戦うべきかどうか、勝算があるかどうかを瞬時に判断しながら行動する……)

 

 

 

 合理的な生存戦略だった。一度戦わないとなったら、徹底して服従する。戦う気力も実力も無いのに余計な反発をしたって逆効果。睨まれるより、気に入られた方が楽に生きられる可能性が高まるのだから。

 

 

 

 そして劉勲のような女は、他人を騙す前にまず自分を騙してしまう。一種の自己暗示のようなもので、それを繰り返している内に自分でも騙している事を忘れ、嘘が「真実」になっていく。

 

 

 

 

 

 昔から劉勲は天性の女優だった。彼女は相手が求める人格を敏感に感じとり、それをそのまま無自覚で演じきることが出来る。

 

 

 

 彼女が誰にでも見せる媚びの表情は演技ではなく、その場限りの「本気」だ。金のために近づいた醜悪な上司に本気で惚れ込む事も出来るし、いずれ使い捨てる予定の部下を我が子のように慈しむ事も出来た。

 

 

 

 だからこそ何人もの男を手玉にとれるし、どんな交渉事でも相手を信用させられる。実際、交渉をしている時の彼女は誠心誠意、“尽くす女”だからだ。良くない噂があろうと、対面した相手に「今度こそは」とか「自分だけは」と思わせてしまうのだ。

 

 

 

 何のことは無い。彼女は本気で袁術に仕え、曹操に仕え、何より自分に仕えている。複数の他人から求められる人格を、相手によって使い分けているようなものだ。

 

 

 

(今思うと、洛陽で一緒に学んでいた頃の劉勲は私より賢かったわね……)

 

 

 

 洛陽の学舎は、単なる教育機関ではない。名のある学舎ともなれば名士の子弟が多く集まるため、社交の場としても機能する。学舎での人間関係が出世に影響する事も珍しくはない。

 

 

 

 当時の劉勲は名のある教師に媚びを売って、名家の御曹司を悦ばせて、計算高く、ずるく、せせこましく、大人しく言う事を聞いていた。入学当初は無名で最下層に属してたにもかかわらず、入って半年も経たない内に金と護衛に取り巻き、そして高級官僚の覚えを手に入れた――。

 

 

 

(もっとも、それだけ賢しいなら今の私たちの窮地にも気づいているでしょうね……)

 

 

 

 夏侯淵を始めとする部下の大半は、自分たちが劉勲らに対して圧倒的優位にあると考えている。だからこそ真摯のかけらもない劉勲らの態度が気に喰わないし、分不相応な講和条件にも不満を持っていた。

 

 

 

 しかし、と曹操は思う。本音を言えば今の自分たちにそれほど余裕がある訳ではないのだ。

 

 

 

(今は使える人間が一人でも多く欲しい。袁家を抱き込めば、江東の旧支配層がまとめて手に入る……)

 

 

 

 夏候惇を含めた大多数の武官が今回の件を快く思っていないのは、曹操もよく分かっている。

 

 

 

 だが、曹操には彼らが必要だった。

 

 

 

 危ない橋を渡ってでも人材と資源を手に入れなければならない

 

 

 

 

 

 ―――――なぜなら。

 

 

 

 

 

 

 

(…………麗羽)

 

 

 

 

 

 徐州で足元を掬われた結果、袁紹との差は大きく開いている。今や公孫賛の領地は本拠地・易京城周辺だけとなり、中華でもっとも豊かな大地である華北四州は袁紹の手に落ちた。勢いに乗った彼女が南下してくるのも時間の問題だろう。

 

 

 

 

 

 ――総数55万。

 

 

 

 

 

 華北四州を制圧した時の、予想される袁紹軍の兵力である。公孫賛との決戦であった「界橋の戦い」を除いて、袁紹軍はほとんど消耗していない。

 

 常に敵を上回る兵力で圧倒する一方で、所領の安堵をチラつかせる。この古典的な「アメとムチ」により、諸侯の大部分は戦わずして彼女の傘下に下ることを選んだ。

 

 

 

 曹操が動員可能な兵力は、多く見積もってもこの半数程度でしかない。袁紹と違って中央集権化を志向しているので、既得権益を脅かされる諸侯とは必然的に対立するのだ。精強な軍と効率的な官僚制度が整備できる一方で、内外には敵も多く作ることになる。

 

 

 

 もちろん曹操も袁紹に対抗すべく手は打っていた。司隷に兵を進め、洛陽と長安を支配下に置くことに成功している。しかし戦乱で荒れ果てた司隷を組み込んだところで即戦力にはならない上、副作用として西涼の軍閥や異民族を束ねる馬騰と敵対することになってしまった。

 

 

 

 この上、孫策に江東を抑えられてはかなわない。孫家と同盟する事も考えたが、荊州の劉表との対立が決定的になる上、後々の禍根になる事は分かり切っている。

 

 

 

 だからこその、袁術との和平。そして騙し討ちにも等しい粛清。

 

 

 

(袁家はしょせん、孫家という虎の威を借りる狐。だけど狐は虎と違って飼い主を殺すことは無い……)

 

 

 

 虎は飼い慣らせない。必ず牙を剥く。それは孫家が袁家に対して二度も反乱を起こした事で自ら証明してしまった。

 

 

 

 ならば遅かれ早かれ、殺すしかなくなる。そして袁紹の脅威が目前に迫っている今、曹操に手段を選んでいる余裕はなかった。

 

 

 

 たとえどんな手を使ってでも着実に力を付ける必要がある。

 

 状況は、それほどまでに厳しいのだ。

 

       




更新が止まった後もちょいちょい感想をくれる人がいたので投稿。


リアルが忙しくて再会の目処は未定


更新止まってた間に真・恋姫†夢想-革命シリーズで新キャラが何人か出てきたのですが、
既に出しちゃったキャラはそのままで、まだ出してないキャラは新シリーズから出す方針です


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100話:嵐の終わり

 夜明け前の長江に咆哮が轟く。次いで軍馬の嘶き。二つの軍勢が唸りを上げて激突する。大河を渡ろうとする孫家の軍勢を、袁術軍が攻撃する。高名な武将であっても困難とされる退却戦であるが、精兵揃いの孫策軍だけあって終始袁術軍を圧倒しているのは流石と言えよう。

 

 

 

「これ以上は持ちません! 最悪、逃げ遅れます――」

 

 

 

 呂蒙の言葉に孫権は頷く。どちらの顔色にも疲労が強く表れており、それが彼女たちの置かれた状況を物語っていた。袁術軍は膨大な資金力にものを言わせて次から次へと傭兵やら武装した流民やらをぶつけており、これといった戦果こそ上がらなかったが確実に疲労という名の傷を孫家に負わせていた。

 

 

 

「冥林たちは!?」

 

 

 

 孫権の問いに、呂蒙は首を横に振る。

 

 

 

 闇夜に紛れて退却するつもりであったが、どこからから情報が漏れていたようだ。袁術軍の奇襲を受け、暗闇の中でかれこれ数時間が経過している。自分の部隊ですら安否が確認できないのに、ましてや他の部隊のことなど知る由もなかった。

 

 

 

「ですが、あの方が後れを取るとは思えません。それより、今はご自分の身を案じた方がよろしいかと」

 

 

 

「そうだったな。できれば全員、江南へ返してやりたかったが……」

 

 

 

 孫権が無念そうに呟いた時だった。

 

 

 

 前方からどよめきと馬の嘶きが沸き起こったかと思うと、袁術軍と戦っている最前列が崩れた。

 

 

 

「どうした!?」

 

 

 

 呂蒙が鋭く叫ぶと、傷ついた斥候が慌てて駆け寄る。嫌な予感がした。

 

 

 

「前方に敵の増援!旗印は曹操のものです!」

 

 

 

「……ッ!」

 

 

 

 呂蒙は思わず舌打ちした。孫権と互いを見あわせ、顔色を変える。

 

 

 

 袁術軍の弱点は、突破力に欠けることだ。歩兵主体で数は多いから陣地戦には強くても、ここ一番の爆発力には欠ける。だが、これに強力な重騎兵を持つ曹操軍が加わったとなると……。

 

 

 

「―――孫権さま!」

 

 

 

 今度は長江を見張っていた兵が声を張り上げる。

 

 

 

「西の方から……船が見えます!」

 

 

 

「旗は!?」

 

 

 

「り、劉表軍です!」

 

 

 

「なっ………」

 

 

 

 劉表軍現る―――その報せは湖面の波紋のように瞬く間に広まった。

 

 

 

「……こちらの味方でしょうか?」

 

 

 

「もしそうだったとしたら、母上の一件を不問にすることもやぶさかではないのだがな」

 

 

 

 呂蒙が反応に困る皮肉を言っておいて、孫権はその可能性を微塵も信じてはいなかった。あの日和見主義の劉表のことだ。この状況で落ち目の勢力につくはずがない。

 

 

 

 一目散に逃げようにも、もはや手遅れだった。

 

 

 

 荊州水軍は現状において中華最大最強の水軍だ。何よりその首領である黄祖といえば、先代当主・孫堅を討ち取るほどの猛将である。誰もが恐怖で顔を引きつらせ、身動きが取れない。

 

 

 

(海と陸の両方から挟まれた……完敗だ)

 

 

 

 孫権が思わず天を仰ぐと同時に、荊州水軍から一斉に雄叫びが上がった―――。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中華全土が腰を抜かした、袁術陣営と曹操陣営の結託から二か月後――。

 

 

 

 

 

 昨秋から中華の耳目を集めていた内乱が、まさかこの様な形で終わりを遂げようとは、これを画策した本人達を除いて誰もが思わなかったに違いない。

 

 

 

 結果からいえば、袁術・曹操連合軍の完勝であった。

 

 

 

 曹操の援軍を得て南陽の支配権を取り戻した袁術は、さっそく反乱の早期鎮圧に向けて露骨な買収を始める。

 

 都市部での暴動を鎮静化させるべく、商人から米や小麦をことごとく買い上げて民衆にタダ同然で配ったのだ。中には贅沢品であった蜂蜜まであり、袁術みずから蜂蜜を子供や老人に配る様子は、南陽の民を大いに感動させた。

 

 

 

「おお、袁術さまが蜂蜜を配っておられる……!」

 

 

 

「しかもメチャクチャ安いじゃねーか!」

 

 

 

「誰だよ袁家が敵とか言った奴。ぜんぶ嘘っぱちだったんだ!」

 

 

 

 南陽での大盤振る舞いはすぐに噂になり、大勢の民が袁家のバラまく食糧を求めて列をなすようになる。劉勲ほか袁術陣営首脳部はバラマキ政策の効果を実感し、すぐさま江東中に「袁術に従えば食糧を与える」とのお触書を知らせるように指示した。

 

 

 

「餌で暴徒を釣るんだ!金でも酒でもなんでもくれてやれ!そうすれば多少は大人しくなる!早く孫家との連携を引き裂け!」

 

 

 

「それより食糧だ。兵士と民衆の飢餓を防ぐぞ。言い値でいいから急いで曹操と劉表から買い付けるんだ!金が足りなきゃ借金でも売官でもして資金を調達しろ!」

 

 

 

「名士や豪族への根回しも忘れるな!関係者への説得と買収工作だ!孫家が対抗策をうってくる前に江東を取り戻すぞ!!」

 

 

 

 豫洲、そして揚州の民衆は、その大部分がこの買収に応じた。袁家に対する不満はあるが、だからといって孫家に尽くすほどの義理はない。抗議や暴動はあくまで秘密警察の過剰な取り締まりや長引く戦争疲れからであって、日々の食糧が保障されてそれぞれの生活を侵されない限り、誰が支配者を名乗ろうと構わない……それが民衆の本音であった。

 

 

 

 諸侯たちもまた、圧力から懐柔への大きく交渉の舵を切った袁家へ祝辞と賛辞を惜しまなかった。無論、彼らの自治や地方における特権を認める限りにおいては、の話ではあったが、逆に言えばそれに触れぬ限り態度を豹変させる事はない。

 

 

 

 反乱にあたってスピードを重視した孫家は、それゆえ支配を徹底させることが出来なかった。曹操が目指したような中央集権化を諦め、昔ながら封建的な豪族連立政権で止む無しとしたのである。

 

 

 

 こうなると豪族の側も仰ぐべき旗を袁家から孫家に変えるだけなので大した抵抗も起こらないのだが、逆に孫家から袁家に旗を戻すときにも大した抵抗は起こらない。北郷の時代における遊戯であるオセロのように、実にダイナミックに盤上の色がひっくり返ったのである。

 

 

 

 かくして劉勲らの筋書通り、内乱は終結したのだった。袁家は再び南陽郡と揚州を支配し、江東の支配者として返り咲いたのである。

 

 

 

 もはや江東で曹操・袁術の連合軍に抵抗する勢力は、徐州の劉備のみとなっていた……。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 現在、徐州は再び袁術の大軍によって埋め尽くされようとしていた。江東から孫家を駆逐した袁家はその大部隊を北上させ、その魔の手はついに徐州の首都・彭城をも覆い尽くさんとしている。

 

 

 

 これに加えて東からは曹操の軍勢が加わっており、ギリギリのところで均衡を保っていたパワーバランスは完全に崩壊してしまった。現状は誰が見ても覆しようのない、絶望的なまでの兵力差が存在している。

 

 

 

「そもそも正確には、一度だって互角に戦えたことはありませんでした……」

 

 

 

 鳳統は城壁の上から、地平を埋め尽くす袁術軍を眺めながら疲れたように呟く。

 

 

 

 かつて『彭城の奇跡』と呼ばれた、劉備の必死の説得によって袁術軍が戦わずして瓦解した事件があった。だが、奇跡は何度も起こらないからこその奇跡であって、いま同じように劉備が説得を試みても目の前の袁術軍は戦を放棄したりしないだろう。

 

 

 

 孫家が反乱を起こしている間は、曲がりなりにも独立を維持できていた。それは劉備の平和主義に袁術軍が恐れをなしたというより、単に孫家ほど脅威ではないと放っておかれただけだ。

 

 

 

 しかし孫家亡き今、決して埋められぬ戦力差が目の前に突き付けられる。辛うじて彭城がまだ落ちていない事で劉備軍の士気は維持されているが、それも単なる時間稼ぎに過ぎない。

 

 

 

 鳳統は徐州にいる全ての軍をここ、彭城に集結させた。その結果、袁術軍は被害の大きい攻城戦を避けて、先に徐州の平定に乗り出しているのだ。つまり劉備軍はひたすら城にたてこもって籠城するしか選択肢が無いのに対し、袁術には彭城を包囲しながらも他の地域に占領地を広げる余裕があった。

 

 

 

 そして刈り取るべき領土が無くなった時、袁術軍は総仕上げとして彭城に情け容赦のない攻撃を仕掛けてくるだろう……そうした鳳統の悲観主義は袁術の思わぬ申し出によって覆されることになる。

 

 

 

 

 

「妾は別にかまわぬぞ?」

 

 

 

 

 

「…………はい?」

 

 

 

 思わず間抜けな声が出てしまう。あわてて口を手で塞いだ鳳統の目の前には、きょとんと首をかしげている袁術の姿があった。

 

 

 

「だから、妾は別に劉備が州牧のままでも構わぬと言ったのじゃ」

 

 

 

 今度こそ、開いた口が塞がらなかった。鳳統だけではない。関羽も張飛も一様に唖然としている。

 

 

 

「だからですね~、美羽様は全て許すとおっしゃったんですよ~。そんな事も分からないんですかぁ? 伏龍とかいう御大層な仇名が付いてても、案外たいした事なかったりするんですね~」

 

 

 

 なぜ袁家の偉い人間はいちいち人を煽らずにはいられないのだろうか。張勲の特に理由のない嫌味にカチンとしつつ、何かの罠ではないかと勘ぐる。

 

 

 

「いや多分、安心させといて背後からブスリみたいな心配してるなら杞憂だと思いますよ~。劉勲さんならともかくお嬢様はそんなに陰険でないですし、やるならこの場で正面からブスリといっちゃってますから」

 

 

 

 それもそうか、と関羽あたりは納得したらしく矛を下した。確かに袁術ならそんな回りくどい手は好まないだろう。というより、そんな頭脳はない。

 

 

 

 だが、そもそもの理由が分からない。裏切りの罪は重いのが常識だ。それを何のペナルティもなく無罪放免というのは、いささか旨い話過ぎるのではないだろうか。

 

 

 

「袁術さん……!」

 

 

 

 後ろでは感激した劉備が涙目になっているが、あいにくと鳳統はそこまで楽観的ではない。ついで言えば感極まった劉備が袁術に抱き着こうとするのを、張飛に頼んで取り押さえて引き離すぐらいには袁術陣営を信用していなかった。

 

 

 

 なにせ状況は圧倒的に袁術が有利なのだ。劉備を無罪放免にする理由が分からない。

 

 

 

 

 

「――――それには私が答えるわ」

 

 

 

 

 

 不意に背中から声を掛けられた鳳統は、その声の主を見て驚いた。分厚い兵士の壁を分けるようにしてやってきたのは、覇王・曹孟徳その人だった。

 

 

 

 こちらが本命か。確かに同盟を結んでいる以上、袁術の独断ではなく曹操の意向がはたらいているとみる方が自然であった。鳳統は慌てて曹操に向き直る。

 

 

 

「じょ、丞相閣下……ご機嫌うるわしゅう」

 

 

 

 あからさまに他人行儀で警戒する鳳統だったが、曹操が気にする様子は無かった。体の前で腕組みをし、右手を顎に添えて劉備陣営の一人一人を、頭から爪先まで値踏みするかのごとく舐めるように見ている。

 

 

 

「ふふっ、洛陽で董卓を討った時より凛々しい顔つきになったわね。身体つきも少し鍛えのかしら?」

 

 

 

 これが脂ぎった中高年男性であれば単なるセクハラなのだが、同じことを美少女がするだけでこうも妖しい雰囲気になるものである。ましてや真意を計りかねて警戒していたところへ不意打ちで、思わず顔を赤らめてしまう劉備たち。

 

 

 

 しかし、そんな気持ちはすぐに吹き飛ぶ事になった。

 

 

 

「関羽、貴女は私の下へ来なさい」

 

 

 

「……なっ!?」

 

 

 

 関羽の口から驚愕の声がこぼれた。何を言われたのか分からず、ポカンとした顔をしてしまう。曹操の後ろに控える夏侯惇も寝耳に水だったらしく、驚いた表情を見せている。唯一、劉勲だけがニヤニヤとした笑みを浮かべていた。

 

 

 

「聞こえなかったのかしら? 私の下に来る様に言ったのよ。貴方のその力、我が覇道のために振るわれるべきだわ」

 

 

 

 自信たっぷりに微笑を浮かべたまま、曹操は関羽を真っ直ぐに見つめた。関羽がこの断る事はあるまい、と確信している者の表情だった。

 

 

 

 しかし関羽に首を縦に振るつもりは無い。

 

 

 

「申し訳ないが……」

 

 

 

「貴方の武は聞いているわ。袁術に対して反乱を起こした時、1000人の袁術軍を単騎で追い払ったそうね。それほどの力は、我が下にあって最大限に活かす事が出来る。違うかしら?」

 

 

 

 関羽はかぶりを振った。そういう理由ではない。

 

 

 

 確かに武人として己の武がどこまで届くのか試してみたい、という好奇心はある。しかし劉備を裏切るつもりは毛頭なかった。

 

 

 

「我が主はとうに劉玄徳殿と決めている。何と言われようと、この命が尽きるまで忠義を尽くすつもりだ」

 

 

 

「貴様、華琳様の誘いを断るつもりか!」

 

 

 

「春蘭!」

 

 

 

 関羽に食掛かろうとする夏侯惇を、曹操が語気を荒げて一喝した。

 

 

 

「別に劉備を裏切れと言っている訳ではないわ。しばらく客将として私のところで武を磨いてみる、というのはどうかと言っているの。その間、徐州の安全は私が保障するわ」

 

 

 

 曹操が徐州の安全を保障する、ということは袁術もまた劉備の徐州統治を認めるという事でもある。戦で劉備たちに勝ち目が無い以上、破格の条件と言えるだろう。

 

 

 

 関羽は返事に詰まり、困ったように劉備を見る。劉備は鳳統としばし顔を見合わせ、関羽に向き直って頷いて見せた。

 

 

 

「……分かりました。ではこの関雲長、しばしの間、我が武を丞相閣下にお預けする事を誓いましょう」

  

 

 

 ***

 

 膝を屈する関羽たちと鷹揚に頷く曹操の様子を、劉勲は少し離れた場所からニヤニヤと眺めていた。

 

(華琳ちゃんも大変ねぇ、いつの前にか立場が変わっちゃって)

 

 場所が場所なら今すぐにでも大笑いしたいところだが、それを堪えてニヤけ笑いに留める。

 

(関羽ちゃんたちも可哀想と言えば可哀想よねぇ、あっさり華琳ちゃんの詐欺に引っかかちゃって)

 

 関羽たちには知らされていない情報を劉勲は知っていた。というより、包囲されてた劉備陣営以外の人間なら皆が知っている事だ。

 

 50万vs30万……それが近々予想される、袁紹と曹操の戦力差だった。

 

 しかも経済力の差や同盟関係まで考慮すれば、圧倒的に曹操が不利である。だからこそ、曹操は少しでも多くの兵力を集めなければならなかった。

 

 関羽たちに降伏勧告などという生ぬるい条件で妥協したのは、少しでも自軍の兵力を失いたくないが為。降伏した関羽たちに帰順を求めたのも、少しでも多くの戦力を確保したいがため。なんなら相容れないはずの自分たち袁家と同盟を組む事自体が、曹操の余裕の無さの表れであった。

 

 かつて袁紹はその自信に比して実力が追い付いておらず、曹操はその逆であったが今や両者の立場は逆転している。曹操は「戦上手」との名声を利用して上手く立ち回っているが、その内情はかなり危ういものだ。戦で勝ち続けることで、辛うじて求心力を保っていると言っても過言ではない。

 

(さて、最後に勝ち残るのは誰かしらね。華琳ちゃんか、麗羽ちゃんか、それとも―――)

 

 独白する劉勲の口の端が、狐のように吊り上った。

 

 




ようやく江東の動乱も集結。孫策、劉備が脱落し、漁夫の利を得た曹操がほぼ一人勝ち、袁術は勝者だけど領地がメチャクチャなので辛勝といった感じです


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101話:最果ての地で

袁紹VS公孫賛、ついに決着――。


 

 自分たちの居場所を求めていた。数多の煌びやかな英雄たちが輝く乱世において、そうでない普通の人々が普通に暮らせる居場所が欲しかった。

 

 英雄たちの引き起こす栄光ある勝利と死から置き去りにされた者たちが、豊かでないにせよ平和に過ごせる日々……公孫伯珪が求めたのはただ、それだけだった。

 

 

 

「あと少しでその夢に、手が届くと思ったのだがな……」

 

 

 

 中華の遥か北の果て、最後に残された拠点である易京城にて公孫賛はひとりごちる。己の運命を受け入れたような声だったが、そこに一抹の寂しさが浮かんでいるのを趙雲は見逃さなかった。

 

 

 数万の大軍勢、巨万の富、先祖代々の悲願の実現、中央からの独立、貴族の圧政からの開放………南方の英雄たちが目指した夢は、そのどれもが素晴らしい英雄譚だった。色あせた漢王朝の旗を引きずりおろし、自らの手で未来を切り開かんとする英雄たちの活躍は多くの民衆にも夢と希望を与え、我もまたそれに続かんと時代に変革を要求している。

 

 

「しかし私はどうやら、その波に乗り遅れてしまったようだ」

 

 

 時代の行く末を見誤ったのか、あるいは時代を乗り切るだけの手腕が無かったのか、もしくはその両方か。公孫賛の掠れた声が、抜け殻のように響く。

 

 

「僭越ながら……主は大陸の誰よりも領民を愛し、その生活と領地の安定のために尽力を尽くした者と存じます」

 

 

 趙雲の声に曇りは無い。本当に心の底からそう思っているのだ。

 

 

 救世救民に私財を投げうち、大陸の最果てである幽州の地にいくつもの市場を作り上げた。公孫賛がいたからこそ、軍隊・貴族・農民の3者がバランスを保ちながら平和共存できた。他にも―――。

 

 

 続けて口を開こうとする趙雲に、公孫賛は首を横に振った。

 

 

「だとしたら……そのせいで私は負けるのだ」

 

「ッ………!」

 

 

 反董卓連合が解散してから「二袁の争い」が始まるまでの間、中華の各地に散らばる諸侯たちは全く違う道を歩んだ。

 

 

 民や貴族の生活を犠牲にしても多額の税を絞って軍を鍛え続けた曹操――。

 

 民と軍を犠牲にし、ひたすら商人と貴族を保護して金儲けに邁進した袁術――。

 

 

 対して、公孫賛はそのどれをも行わなかった。強いて言えば対立が起こらぬよう、ひたすら妥協と説得を重ねて争いの火種の消化に努め、平和共存の道を模索し続けた。バランスがとれているといえば聞こえはいいが、裏を返せば全てが中途半端ということ。

 

 

 その意味では袁紹もまた、曹操ほど軍事に偏らず、袁術ほど金儲けに偏らなかった半端者といえるが、彼女の場合は元々の勢力に余裕があった。長短のないバランス型というのは、実力以上の力を発揮することは出来ないが、かといって足元をすくわれる事も無い。公孫賛のような弱小諸侯においては器用貧乏にしかならないが、袁紹のような大諸侯であれば隙が無いという事になる。

 

 

 既に易京の戦いが始まって1年以上が経過しており、その意味では10倍以上の兵力を誇る袁紹軍に対して公孫賛軍はひたすら防戦に徹し、よく持ちこたえていたといえよう。

 

 だが、逆にいえばそれだけだ。罠に引っかかって一気に落城ようなミスを犯すことは無いが、事態を打開して逆転できるような秘策や爆発力があるわけでもない。

 

 時間が経つにつれて、次第に両軍の国力の差は明らかになっていく。豊富な兵力と潤沢な資金力によって絶え間ない攻撃を繰り返してくる袁紹軍に対し、公孫賛軍は確実に消耗していった。

 

 公孫賛の立て籠もる易京城は、難攻不落の名城だった。彼女はここに十重の壕を持ち、壕ごとに土壁を築いた。ここに300万石を備蓄し、中央にそびえる天守からきめ細かく指示を飛ばして戦線の崩壊を防いだ。

 

 もし相手が袁紹でさえなければ、彼女はこの城に籠城することで敵を退却に追い込めたかもしれない。だが、彼女の相手は名門袁家の正統な当主たる袁本初であった。それが公孫賛の運の突きだった。

 

 

 数か月前から、袁紹軍は城の真下まで坑道を掘り、そで坑道の柱に火を放って焼き捨てるという戦法を使って地道に城攻めを続けていた。地味といえば地味な戦法だが、確実に十重の城壁をひとつひとつ、味方に大した損害を与えることなく攻略している。

 

 通常であれば数年がかりになろうという大工事であるが、袁紹はその物量にモノを言わせてたったの半年で易京城を覆う十の重の城壁を瓦礫へと戻していた。決して焦ることなく、優雅に堂々と、数と物量の優位を活かして、一歩一歩確実に息の根を止めにかかってくる袁紹軍――――そして公孫賛にはもう、それに抵抗するだけの兵力は残っていない………。

 

 長きにわたって外敵の侵入を防ぎ続けてきた易京城が、ついに最期の時を迎えようとしていた。

 

 

 

「昨日の夜、袁紹から降伏勧告が届いた」

 

 

 公孫賛が重苦しい声を吐き出し、一枚の手紙を差し出す。無駄に豪奢な装飾が施され、一級品の蝋で封がされたそれを見るだけで両軍の差が伺えるというものだ。

 

「降伏すれば命はとらない。地位と領地も相応のものを与える、だそうだ……」

 

 随分と寛大な条件である。それほどまでに余裕があるという事なのだろう。もはや自分ごときでは脅威にすらならない、との高笑いが聞こえてくるようであった。

 

 

 かつて華北の覇権を巡って激しく争った事が嘘のように、この数年間で大きな差が両軍の間には開いていた。趙雲の武勇や易京城の十重の城壁を以てしても覆しようのない、それほどまでに絶望的な戦力と国力の差だ。

 

 

「しかし、まだ南方には曹操と袁術がおります! 外交交渉の成果次第では、敵の目を南に反らす事も可能でしょう。希望を捨てては……!」

 

 

「曹操と袁術は既に、新しい幽州牧の擁立に動いているそうだ」

 

 

 疲れ果てた苦悶の呻きが公孫賛の口から漏れ、趙雲が息を呑む音が聞こえた。曹操と袁術にとっても、自分たちはとっくに“滅びた”と見なされているということだ。

 

 裏切られた、あるいは見捨てられたという憤り以上に、もはやその程度の扱いなのだという虚ろさが、この場により一層の閉塞感を生み出す。

 

 

 

 

「星……お前には感謝している。星がいたからこそ、今日まで戦ってこられた」

 

 

 

 それは公孫賛の本心だった。趙雲のおかげで公孫賛軍は見違えるほど強くなった。反董卓連合の時に比べれば、兵も将も遥かに鍛え上げられている。

 

 

 だが逆に言えば、それでもなお覆しようの無いほどの差が、袁紹の黄金の軍勢との間には開いているということだ。

 

 

「そして、星の忠誠心にも感謝している。こんな状態の私に、よくぞ最後まで付き従ってくれた」

 

「まだまだ、これからです………最後などと」

 

 主の境遇に、趙雲も思わず言葉に詰まる。今や、この場には公孫賛と趙雲の二人しかいない。その他の将や貴族は皆、彼女を見限って袁紹軍に下って行った。

 

 

「いいや、これで最後だ。星、私は君の武勇をここで終わらせることを望まない」

 

 

 はっきりとした声で公孫賛が告げる。平凡な将である自分にはもったいないほど、趙雲の武勇は輝いていた。それを使いこなすことが出来なかった事は残念だが、だからこそ彼女の伝説をこんな場所で終わらせてはいけないと強く思う。

 

 

 

「最後の命令だ―――趙雲子龍、ここから逃げてくれ。そしてその力を、力なき民のために振るってくれ」

 

 

 

 長い沈黙が続いた。二人ともしばらく口を開かず、互いの目を見つめていた。

 

 ややあって趙雲がゆっくりと口を開く。体の奥底から絞り出すような声だった。

 

 

「……かしこまりました、我が主よ」

 

 

 ちらり、と主を伺う趙雲だったが、公孫賛は口をつぐんだままでいる。次の主は自分で決めよ、という意味なのだろう。あるいは主を決めず、気ままに生きるのも全て趙雲の自由、という事だ。

 

 

「最後に公孫伯珪に仕えたこと、そして幽州で過ごした日々は我が人生の宝であるとお伝えいたします。今まで本当に、お世話になりました……」

 

 

 最後に一礼すると、趙雲は静かに去っていった。その後ろ姿を見送り、公孫賛もまた立ち上がる。彼女にはまだ、最後にやらねばならない仕事があった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「おーっほっほっほっほ!! 無様ですわね、白蓮さん」

 

 

 

 瓦礫の山となった易京城に、袁紹の尊大な声が響く。彼女の前には公孫賛とその一族の子女、および最後まで仕えてくれた使用人たちが膝をついていた。

 

 

「さぁ、そこに平伏しなさい! 漢帝国随一の名門たる袁家に逆らったこと、そしてこの私の覇道をまる1年も遅らせたことを心から謝罪なさい!」

 

 

 傲慢極まりない袁紹の言葉―――だが、そこにかつてのような大言壮語の色は残っていない。その自信は空虚な先祖の七光りではなく、彼女の背後に控える10万以上の大軍勢に裏付けされた確かなものだった。

 

 

 日が昇ると、黄金の鎧を身にまとう袁紹軍は、眩い陽光を反射してあたかももう一つの太陽のように燦燦と輝いた。その中心にいる袁紹の声には、言葉では言い表せぬ王者の風格がある。

 

 

「なにを惚けているのです? ひょっとして、この私のあまりの眩しさに今さら恐れおののいているのかしら?」

 

 

 

「いや実際眩しいしな、この金ピカ鎧」

 

「文ちゃん静かにしてて。いま珍しくイイ感じにキマッてるんだから」

 

 

 傍らでごにょごにょと口を挟む側近二人のツッコミすらも、自信たっぷりな袁紹の余裕を揺るがすには至らない。その表情には、僅かな揺らぎも不安も感じられない。

 

 

(完敗だ……)

 

 

 公孫賛は己の敗北を受け入れた。兵力差や国力差といった理屈ではなく、心の底から今の袁紹には勝てないのだと、自分でも驚くほど納得ができた。

 

 

 彼女、袁紹はもはや裸の王様ではない。その溢れんばかりの自信も反董卓連合戦の頃のような、生まれからくる実体のない虚栄に支えられているのではない。

 

 今や彼女の膨れ上がった尊大な自尊心は、中華随一の圧倒的な兵力と財力に支えられた本物だ。

 

 

 己こそが最も豊かで、己こそが最も強い……その自信は嘘偽りのない袁紹の本心で、周囲に何と言われようと愚直なまでに信じて行動を続けた結果、彼女はそれを現実にしてしまった。

 

 

 名実ともに、中華で最強の諸侯―――――それが今の袁本初だった。

 

 

 

「降伏、する………」

 

 

 ついに公孫賛が膝を屈すると、袁紹軍から凄まじい歓声が沸き上がった。数万の将兵が、己が付き従う王者の完全なる勝利を讃えている。

 

 

(っ………!)

 

 

 数年前に失った権威そして権力を、公孫賛は改めて思い知らされた。袁紹の部下の中には、かつての同盟相手や自分の下にいた元部下も多く含まれている。見知った顔もいくつかあった。

 自分はその全てを奪われ、対する袁紹はその全てを手に入れたのだ。

 

 

 

「おーーっほっほっほっほ! よろしいですわ! よく言えました、白蓮さん!」

 

 

 

 袁紹は勝利に酔いしれて大きな高笑いをした後、今度は穏やかな声で公孫賛に話しかける。

 

 

「袁家は寛大です。そしてこのわたくし、袁本初は慈悲深いのです。白蓮さん、愚かにもこの私に逆らった貴女の罪を許しましょう」

 

 

 袁紹の言葉は恐ろしく傲慢だったが、公孫賛を見るその瞳はどこまでも真摯で澄み切っていた。

 彼女は敗者に恥をかかせようとしているのでも、打算で帰順を促しているのでも無い。本心から、公孫賛に思ったままの言葉を伝えている。今の袁紹には、敗者に慈悲の心を示すほどの余裕すらあった。

 

 

「この戦は通過点に過ぎません。貴女の未来はまだまだこれからですわ。貴女もまた、このわたくしの作る新しい世界に必要な人材なのですから」

 

 

「本初、お前……」

 

 

 そうか、と公孫賛は改めて納得した。

 

 

 なぜ自分が袁紹に勝てなかったのか。簡単な事だ。袁紹は自分より遥か先の未来を見ている。

 どうやって袁紹から自分の領地を守るかで精一杯だった自分と違って、彼女は戦乱の世の先に訪れるであろう新しい中華をも視野に入れているのだ。

 

 

 これが覇者の風格、王者の余裕というものだろうか。

 

 

 気づけば、公孫賛は自然と袁紹の前に膝をついていた。あまりにも大きな格の違いを見せ付けられ、自分でも驚くほど素直に彼女の勝利に心の底から納得することが出来る。かつて「白馬長史」とも称された公孫賛にそうさせるだけのオーラを、今の袁紹は身に纏っていた。

 

 

 そんな公孫賛の様子に満足したように袁紹は頷くと、袁家に伝わる剣をゆっくりと鞘から引き抜く。黄金の剣が天に向かって突き立てられると、大軍勢の歓声がぴたりと止む。皆が王者の言葉を待っているのだ。

 

 

 

 

「南へ!!!」

 

 

 

 

 たった一言、袁紹はそう叫んだ。

 

 

 それが何を意味するかは明白だ。

 

 曹操を打ち破り、袁術を撃ち倒し、今度こそ中華に覇を唱える。

 

 

 

 ついにその時が来たのだ。

 

 

 

 

「「「「南へ!!!」」」」

 

 

 

 

 軍の中から歓声が巻き起こる。彼らにあるのは、目先の勝利と、その先にある栄光のみ。

 

 袁紹は飽きたらず再び黄金剣を突き出し、南の方向を指し示す。

 

 

 

「南へ!!!」

 

 

 

 袁紹がそう叫ぶと、再び雷のような大合唱が巻き起こる。それは袁紹から放たれる王者の威厳がもたらす、新しい変革の光であった。

    




 あっさりと袁紹に滅ぼされた公孫賛。作中ではあまり易京城の戦いの描写もないですが、まぁ籠城戦ですし公孫賛ですし普通に戦って普通に粘って普通に負けた感じです(雑な途中経過の解説)




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