照らされざる君に (山石 悠)
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本編:照らされざる君に
7/20(金)~7/21(土) 「開幕」


 少しだけ期待していた。

 もしかして、と思っていた部分は確かにあった。

 

 だけど、今ならはっきり言える。

 この気持ちは、永遠に叶えてはいけないものだ。

 

「大和さんのことが好き、です」

 

 だって、僕は最初から舞台の上になんて立っていなかった。

 

「……言えないくせに」

 

 僕が立っていたのは、客席の遥か上階。舞台を照らすライトの裏側だったのだから。

 

 

 

 

 

 7月の定期公演が終わり、我ら青蘭高校演劇部もまた夏休みを迎えようとしていた。

 定期試験直後の公演はかなり大変だったが、無事に納得のいく舞台を作り上げられたと思う。

 

 傍で部長と副部長が話しているのを聞き流しながら、僕は舞台の感想が書かれたアンケート用紙をめくった。

 

「さて、次はどうしたもんか。大会に向けて新しい脚本を書くか?」

「やっぱり、大会は既作よりもオリジナルがいいよ。山科はどう思う?」

「え、僕?」

 

 部長の高橋から急に振られて答えに詰まる。

 

 公演が終わったばかりということもあり、今日は練習よりも反省会の色が強い。アンケートの集計や顧問がとってくれていた映像を見返しながら、各々が自分達の課題について考えている。

 かくいう僕もアンケートの束をパラパラとめくって内容を確認している途中だった。

 

 僕が質問に詰まって間が空いてしまったからか、高橋と一緒に話していた副部長の柴田がアンケートを軽く覗き込んできた。

 

「山科に対する意見、あったか?」

「全然」

「そりゃそうだ。照明や音響の演出について書く奴なんて、普通はいねぇ」

 

 僕はこの演劇部で唯一の専属裏方だ。舞台に出ることはなく、音響や照明装置を操作している。

 アンケートを書いてくれる観客のほとんどは、演劇に詳しくないか役者の二種類。だから、裏方的な部分に対する意見を書いてくれる人っていうのはほとんどいない。

 

「悪く書かれてないってことは、違和感を与えずにいられたってことでしょう? なら、それはきっといいことだよ」

「……ま、そうだな。っても、山科のライトワークにケチ付けるのはかなり難しいわけだが」

「確かにね。山科の演出とライトワークはプロでもそれなりにやっていけると思うよ」

「いやいや、それは言い過ぎだよ」

「言いすぎじゃねぇって」

 

 柴田と高橋が妙に褒めちぎるからくすぐったくなる。

 僕は専属の裏方として活動している分、みんなよりもライトワークがうまくなっているだけだ。それなのに、みんな褒めてくれるので恥ずかしい。

 

「今度、劇団で照明触ってる人紹介するから、会ってみろよ」

 

 柴田が「どうだ?」と言った。

 彼はプロの劇団の人達とも芝居をしており、その演技の技術は並の高校生では比較にならないほどだ。

 

「え、プロが使ってる機材が見れたりする!?」

「ああ、かもな」

「行きたい!」

 

 高校の設備を悪いという訳ではないが、それでもプロが使っているものに比べれば幾分か劣る。

 演劇部に入って照明や音響機材にハマってしまった身としては、プロが使っている機材が見られるというのは心が躍ってしまう。

 

「皆の話をたまにするんだが、普段は劇場で照明触ってる人が山科に興味があるって」

「柴田、僕のこと誇張して話してたりするからじゃない?」

「公演の記録見せてそう言ったんだから違う。山科には実力ある」

 

 柴田は僕の手を握った。

 

「夏休み中に日程調整するから、絶対空けとけよ」

「分かったよ。大会までに裏方の勉強もしたいし」

「決まりだ」

 

 柴田がいつもは見せない笑みを浮かべたところで、高橋の方を見た。

 

「そういえば、今日は先生が来るんじゃなかったのか?」

「ああ。なんでも、次の公演について話があるって──」

 

 高橋がそこまで行ったタイミングで、教室のドアが勢いよく開いた。

 

「よう、お前らいるか?」

 

 唐突なことに教室にいた全員が黙り込み、ビデオから流れる舞台の時の音だけが流れている。

 

「……せ、先生?」

 

 皆がポカンとしている中、高橋が少し早く正気を取り戻した。

 そして、ゆっくりとドアの前で、してやったりと嬉しげな表情を浮かべている先生の方に向かった。

 

「おはようございます」

「おう。反省会の調子はどうだ?」

「まだ、途中です」

 

 高橋が教室の方を示しながら説明をする。

 先生は「振り返りも大事だが、ほどほどにしておけよ」と声をかけて高橋の方に向き直った。

 

「……で、別にそれはどうでもいいんだった」

「あ、はい」

 

 いつものことだけど、切り替えが早い人だ。

 

「実は、次の公演のことでみんなに話があってな。ちょっと集まって」

 

 先生は手早く話題転換すると、軽く僕らに手招きをした。

 各々が手に持っていたアンケート用紙やビデオを置くと、先生の近くに移動した。

 

「さて、次の公演についてだが、一つ提案したいことがあるんだ」

「提案ですか?」

「ああ」

 

 一度僕達を見渡して、間を開けた。

 

「次の公演、別の高校と一緒にやってみないか?」

「別の、高校?」

 

 合同公演ということだろうか。

 でも、いきなりどうしてそんな話に……?

 

 みんなが顔を見合わせてざわつきだすが、先生が軽く手を叩いてそれを静めた。

 

「実は、知り合いに別の高校で演劇部の顧問をしている先生がいてな。飲みの席で『一緒にやってみないか?』って話になってな」

「なるほど」

「相手が女子高で、うちが男子校。やるには十分な理由だろ?」

「面白そうですね」

 

 女子がいる舞台になるのなら、僕らの演劇の幅は大きく広がる。

 女装でどうにかするのは高校生の技術ではやはり難しく、僕らのやる舞台では女性のキャラクターを登場させられないのが常だ。

 しかし、女子高と一緒にできるのなら、作れる舞台の種類は格段に広がる。

 

「それで、どこの高校ですか?」

 

 手を挙げながら柴田が聞いた。

 

 皆も頷きながら先生の方を見る。

 先生は「どこだったかなぁ……」と思い出すそぶりを見せてから「そういえば」と手を叩いた。

 

「羽丘女子学園だ」

「やります!」

 

 柴田が食い気味に答える。

 

「どうした、柴田。そんなに急いで決めなくても」

 

 他のメンバーが苦笑しながらそう言ったが、柴田の表情は変わらない。

 

「何ってるんだ! 羽丘っていうと、あの瀬田薫がいる高校だろ! やるしかねぇ! むしろ、俺一人でもやらせてほしいくらいだ」

 

 柴田がそう言うと、みんなが「あの瀬田……!?」とざわつきだした。

 人の名前を覚えるのが苦手なせいで、その瀬田という生徒に覚えがない。誰だったっけ。

 

 こっそりと隣の肩を叩いた。

 

「ねぇ、瀬田って誰? 何に出てた人?」

「おいおい、山科ってば忘れたのかよ。瀬田っていえば、去年の大会で演技賞をもらった立役者だよ」

「え、覚えてないって。役名とか言ってくれない?」

「役? えっと確か、異国の貴公子が立ち寄った国の平民の娘と恋に落ちるっていう……」

「あ! 『その月の名を呼ばない』のルーク王子!!」

 

 確かに、彼……いや、彼女はとてもオーラのある役者だった。

 思い返せば、大会では審査員に「柴田君と瀬田さんは、高校生とは思えない素晴らしい演技を見せてくれた」なんて言われていたのを覚えている。

 

 そうか。だから、柴田が躍起になっているのか。

 

「……決まり、みたいだな?」

 

 先生が高橋に尋ねた。

 高橋は全員を見渡してから、力強くうなずいた。

 

「もちろんです。ぜひ、やらせてください」

「じゃあ、明日の練習は代表者で羽丘に行ってくれ。細かい時間はまた連絡するから」

「はい! 分かりました」

 

 先生がそれだけ言うと、職員室に戻っていった。

 

 

 

 

 

 翌日。

 高橋、柴田、僕の三人は羽丘女子学園に来ていた。

 

「……女子がいるぞ」

「女子高なんだから、当たり前だろ」

 

 高橋の呟きに柴田がツッコミを入れた。

 校舎はかなり綺麗で、ここ最近できたように見える。学校には女子生徒ばかりで、男子校にいる身としては中にいてもいいのか不安になってくる。

 

「っと、ここか」

 

 通りがかりに受ける女子生徒の視線を気にしないようにしながら、なんとか教室にたどり着いた。

 高橋がノックすると、向こうから「はーい、どうぞー」と声がする。

 

「行くぞ。……失礼します、青蘭高校演劇部です」

「あー! 君たちがね! 待ってたのー! 入って入って!!」

 

 部屋に入ると、肩先まで髪を伸ばした快活そうな女子生徒がこちらにやってきて僕たちの手を引いた。

 

「迷わなかった~? っていうか、そもそも女子ばかりで戸惑ったよねぇ。今更だけど、迎えに行った方がよかったかなぁ~。あ、飲み物ってお茶でよかった? ジュースがよかったなら、こっちにまだあるけど…………って、みんなは練習しててってばー。気になっちゃうのは分かるけどねー。ほんとごめんね、やっぱり男子と関わる機会ってないからみんな珍しがっちゃっててさ~」

 

 マシンガントークをかます彼女は部室の中央に用意された席まで案内し、慣れた手つきで飲み物を用意している。

 あれだけのスピードの言葉を噛まずにはっきり伝えているところを見ると、きっと役者(キャスト)なのだろう。基礎錬をしっかりとしている人であることは想像がついた。

 

「って、自己紹介もまだだったね」

 

 コップを僕らに渡したところで、彼女はくるっと回ってバッチリとポーズを決めた。

 

「はじめまして、私は新藤(しんどう)七海(ななみ)。二年生で、この演劇部の部長です。よろしくね」

「はじめまして。俺は高橋(たかはし)修平(しゅうへい)、同じく二年生の部長です。よろしくお願いします、新藤さん」

「もー、修平君ってば硬いよー。七海でいいって。同い年なんだしさ」

 

 新藤さんはバシバシと高橋の背中を叩いている。妙に距離が近い人だけれど、不思議とそのことに対する嫌悪感のようなものはない。

 ただ、高橋が助けを求めてるような視線を送っているから、助けには入ろう。

 

 僕は新藤さんの前に移動しながら、頭を下げた。

 

「はじめまして。二年生の山科(やましな)(はるか)です。僕は裏方代表ということ出来ました。こちらは、同じく二年の柴田」

柴田(しばた)克之(かつゆき)役者(キャスト)代表ってことで」

「うんうん。遥君に克之君ね。よろしく!」

 

 僕らが新藤さんと握手をすると、新藤さんが後ろの方を振り返った。

 

「おーい、薫君! 麻弥ちゃん! こっち来てー!」

 

 新藤さんが声をかけると、二人の生徒がこちらにやってきた。

 一人は見覚えがあるような……

 

「……瀬田、薫」

 

 柴田がぼそりとつぶやいた。

 そうだ。彼女は、去年演技賞を手にしたルーク王子こと、瀬田薫さんだ。

 

「そういう君は、柴田克之だろう?」

「……知ってるのか?」

「ああ。先月の劇団MoonLightの公演を見に行ったんだ。そう、確か君は天涯孤独の苦学生役で出ていただろう?」

「『黎明』を見に来てくれたのか!」

 

 柴田がグイッと瀬田さんに詰め寄った。

 

「一度、あんたとは話してみたいと思っていた」

「私もだよ。君の演技について、いろいろと聞いてみたいことがあったんだ」

「そんなの、いくらでも話してやるよ!」

「ああ、ぜひこちらに。今、ちょうど即興劇(エチュード)をしていたんだ。君もどうかな?」

「俺も参加させてくれ」

 

 柴田と瀬田さんは、あっという間に意気投合して役者達が練習しているスペースに行ってしまった。

 

「……薫君と演技の話ができる人、初めて見たよ」

「……柴田の熱についていく人なんて、初めて見た」

 

 新藤さんと高橋がポカンとその様子を見送っていた。

 柴田の性格はともかく、瀬田さんもかなり個性的な性格をしていることは今のやり取りだけでも十分わかった。

 

 そして、僕は自分の隣に視線を向けた。

 隣にいるのは、眼鏡をかけた茶髪の女子生徒だ。多分、彼女が裏方担当の生徒なのだろう。なんとなく、雰囲気で分かる。

 それは、相手もそうだったのだろう。向こうも僕の方を見て曖昧に笑った。

 

「山科遥です。よろしくお願いします」

「大和麻弥です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 これが、彼女との出会い。

 

 僕はきっと、彼女に抱いたこの気持ちを、生涯忘れることはないだろう。




演劇部のくせに薫さんはそんなに出ないです。大和さんがメインヒロインというか、唯一のヒロインです。

例によって音楽はほとんどしないと思われます。今回は演劇をしてもらうだけになりそうです。


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7/21(土) 「出会い」

演劇に関する話題が延々と出てきますが、分からなかったら適度に読み流して大丈夫です。読めなくたって、楽しめるようにしているつもりです。たぶん。


 大和麻弥、という彼女の第一印象は「可愛い人だな」だった。

 

 街を歩けば誰もが振り向くような華やかさはない。しかし、しっかりと彼女を見れば美少女なのはよく分かった。

 正直に言って、下手に話しかけにくい一般的な美少女よりも僕の好みのタイプだ。

 

 はっきり言おう。

 今、すごくドキドキしている。

 

「……どうかしました?」

「え!? あ、いや、別に、何でもないです」

 

 ずっと見つめてしまっていたかもしれない。これは気を付けないと、変な人だと思われる。

 

「えっと、大和さんが裏方の担当ですか?」

「はい。ジブンがいろいろさせてもらってます。山科君も、裏方の担当ですよね?」

「そうですね。こっちの機材をいろいろ触らせてもらうと思いますが、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 軽く会釈すると、新藤さんが大和さんに声を掛けた。

 

「麻弥ちゃん。遥君を体育館に連れて行ってあげて。設備を見てもらった方がいろいろと早いと思うし」

「分かりました。……ということですけど、行きますか?」

「ええ、ぜひ!」

 

 早速、ここの機材を見せてもらえるらしい。

 思わず笑みがこぼれる。

 

「山科。あんまり機材について質問しまくって迷惑かけるなよー」

「わ、分かってるって」

「え?」

「ん?」

 

 高橋に言い返したタイミングで隣から大和さんが驚いたような声を上げた。

 気になってみてみれば、少し嬉しそうな表情をしている。

 

「山科君、機材には詳しいんですか?」

「え? 詳しいって程ではないですけど、割と好きです」

「そうなんですか!? ちなみに、どんな機材が特に?」

「照明機材ですね、特にスポットライト。一番触ることが多いので、思い入れが深いというか」

「いいですよねぇ! やっぱり普段よく触るものってこだわりが多くなりがちっていうか、できるなら自分でカスタムしたくなるというか──」

 

 大和さんが一気に明るい表情をして饒舌になる。先ほどまでの落ち着いた雰囲気はどこに行ったのか、とてつもないスピードで飛んでくる質問に少し戸惑ってしまう。

 これが、彼女の素?

 

「ま、麻弥ちゃん! 暴走しかけてるよー!」

「はっ!? ……すいません。ジブン、そういう機材が好きで、つい熱くなっちゃうと言いますか……フヘヘ」

 

 大和さんが少し照れた笑みを見せた。

 そんな印象はなかったけれど、かなり詳しい人らしい。意外な気もするけど、こうして聞いてみると納得している自分もどこかにいる。

 

「そ、それじゃ、さっそく体育館に行きましょうか」

「はい、お願いします」

 

 

 

 演劇部を出て体育館に移動する。

 土曜日で少しは人数が減っているようだが、たまに通りすがる度にこちらを見られる。

 

「うちは女子高ですし、やっぱり男子がいるのは珍しくて」

「ですよね。逆でもやっぱりそうなっちゃう気がします」

 

 軽い雑談を挟みながら移動する。機材の話は、またヒートアップしてしまうから避けているらしい。

 

「大和さんは、機材以外に何か好きなものとかあるんですか?」

「趣味とかですか? ドラムをやってます」

「へぇ、バンドとかされてたり?」

「してます。山科君はバンドとか詳しいんですか?」

「全然です。音楽はあんまり得意じゃなくて。楽譜もろくに読めないし、今ではリコーダーすら吹けないでしょうね」

「ジブンも、リコーダーはちょっと自信ないかもしれないです」

 

 興味がないわけではないけれど、何となく縁遠い世界だし触れたことはない。

 兄さんは、そういうロックなのとかバンドとか詳しいらしいから曲は聞いたことあるが、その程度だ。

 

「大和さんのバンドって、何て名前なんですか?」

「pastel*palletsっていうバンドです」

「かわいらしい名前ですね」

 

 聞き覚えはない。

 

「ガールズバンドなんです」

「ガールズバンド? 女の子だけとか、そういうことですか?」

「はい。女性だけのバンドをそういうんです。ジブンはドラムをさせてもらってて」

「へぇ。じゃあ、他のメンバーもこの学校の人ですか? やっぱり、学祭で演奏したりとか?」

「いえ、学祭には出たことないですね。メンバーも他の学校の人もいますし」

「あ、そうなんですか」

 

 他の学校の人もいて学祭にも出たりしないのか。思ったより、本格的なバンドだったりするのだろうか?

 後でちょっと調べてみよう。

 

 と、思ったところで大和さんがクスリと笑った。

 

「山科君、あんまり詳しくないんですね」

「え?」

「あ、ここです。たぶん、他の運動部が練習してるかもしれないのであんまり大掛かりな操作はできないかもしれないですね」

「あ、はい。今日は最初ですし大丈夫です。また、どこかで触れれば」

 

 ……何が詳しくないんだ?

 

 

 

 体育館の中では、バスケ部やバレー部が練習中だった。

 ここでもやっぱり、男子が珍しいのか注目を集めてしまう。

 

 しばらく立ち尽くしていると、バレー部の方から女子生徒がやってきた。

 

「大和ちゃん、これから演劇部の練習?」

「今度の公演は青蘭高校の演劇部と一緒にすることになってまして、案内してる途中なんです」

「そうなんだ。薫様はやっぱり出るのよね?」

「本人はそのつもりだと思いますよ。『かのシェイクスピアも言っている。「名前とはいったい何? 他のどんな名前で呼んでも、薔薇は甘い香りを放つでしょう」つまり、そういうことさ』って言ってましたから」

 

 大和さん、意外とモノマネが上手だ。

 瀬田さんのことはほとんど知らないけれど、それでも彼女の特徴を感じさせる話し方だった。

 

「やっぱり出てくださるのね! 分かったわ。他の部活には私からも話をつけておくから、自由に練習して」

「ありがとうございます。さ、行きましょう、山科君」

「あ、はい」

 

 体育館の端の方を移動しながら、少し大和さんに顔を近づける。

 

「あの、瀬田さんって有名人なんですか?」

「薫さんは、この学園の王子様みたいな人で、すごい人気なんですよ。ファンクラブとかもあるくらいで」

「そういうの、本当にあるんですね」

「ええ、薫さんは演技力もある方ですし、うちの演劇部の花形です」

 

 体育館のステージ前に着くと、大和さんは「こっちです」とステージの中央に立った。

 

「まず、照明の簡単な説明から始めますね」

「お願いします」

 

 大和さんに頭を下げると、大和さんはぐるっとステージの周りを見渡した。

 

「えっと、この体育館にある照明器具は4種類ですかね。まず、頭上にあるボーダー」

 

 ボーダーはステージの上からステージを照らしてくれるライトだ。

 ステージ全体を明るくする役割がある。この学校の体育館はカラーフィルムを入れることで、ステージ全体の色調を三原色の組み合わせで変えることができるらしい。

 

「ボーダーは3つごとで一纏まりに設定されていて、3つの明るさを組み合わせて照度を調整します。ボーダーを含め、体育館の照明器具は下手にある調光卓で一括で操作できます。客席の照明もここで調整している仕様です」

「なるほど。ちなみに、明るさの調節はどうやって?」

「普通にバーで調節できますよ」

 

 舞台の天上部を見るが、明かりはボーダーしか見えない。サスやホリゾントはないらしい。強いて言うなら、ボーダーがこれらの役割を兼ねていくのだろう。まあ、サスの仕事はできないだろうけれど。

 

「後、舞台近くで使うのはフットライトだけですね。こちらはいつも、ステージ降りてすぐのあたりを台で底上げしてから設置してます。こちらもスイッチを下手の調光卓付近まで引っ張って操作するようにしてます」

「調整は効きますか? うちの高校のは、付けると消すしかないんですけど」

「調整できないの不便ですね……。うちはできますよ。ただ、普段はなかなか出すのが大変なので眠っていることも多いですけど」

 

 フットライトは足元からステージを照らすライトで、上手く使えば舞台や役者を綺麗に見せることができるようになる。

 ステージ下に台を設置してから、ということだから準備するのはそれなりに労力を必要とするかもしれない。

 

「ステージ周りは基本的にこの辺だけですね。続いては、体育館の向かいです。二階席の方ですね」

「シーリングとスポットライトですか?」

「よく見えましたね。そうです」

 

 二階席、と言っているが体育館脇の二階席と比較した感じ、三階席の方が表現的には近いように見える。体育館の天上ぎりぎりの位置に設置してある場所だ。多分、あそこは客席として用意されているわけではないように見える。

 

「あそこは照明やら体育館の設備が置かれてる場所ですね。あそこから屋上に上がって整備をしたりすることもあるらしいです。あそこでは、シーリングの調節とピンスポの操作がメインになります」

「本番中、あそこは一人ってことですね?」

「そうですね。でも、インカムがあるので、それを使って演出が指示を出したりすることになります」

「本当ですか!? インカムあるっていいですねぇー」

「青蘭はないんですか?」

「ないですよ」

 

 僕は基本的にあの位置で仕事をすることがメインになる。あそこは本番中に舞台の情報を得る手段がなくなるので、唐突なアドリブもすべてその場で照明を操作することになる。それができる裏方が僕だけ、という訳だ。

 ちなみに、うちの高校はスマホの使用が禁止なのでスマホをインカム代わりにすることはできない。

 

「まあ、今回はそういうこともないでしょうから、安心してできると思います。……って、まだ山科君があそこに立つって決まったわけじゃないですけどね」

「あはは、そうですね」

 

 何もなければあの場所に立つつもりではあるが、確定事項ではない。

 

「この舞台を、あそこから見れたらいいな……」

「山科君は裏方の仕事、好きなんですか?」

「好きですね。最初は、役者をやるのが恥ずかしかったからなんですが、気が付いたらこっちが楽しくなってて」

「その気持ちは少しわかります。ジブンもあまり人前に出るのが得意な方でもないですし、見栄えがいいわけでもないので、気持ちが引けてしまうんですよね。ジブンはドラムをしていることもあって音響機材が好きになって、機材を弄っている時が一番楽しい時間です」

「大和さんって、意外とマニアックというか詳しい人ですよね」

 

 先ほどからしている照明器具の説明も、僕のレベルを見ながら説明しているのが伝わってきた。少なくとも、後半に行くにつれて説明が薄くなっていったのは間違いない。

 

「いえ、山科君も想像以上に理解されていましたし、説明がしやすくて助かりました。これ以上は、説明するよりも実際に触ってもらった方が早い気がします」

「確かに。自分自身で一通り操作した方が分かりやすい気もします」

 

 習うより慣れろ、とは金言だと思う。

 何があるかを説明してもらったら、後はどこがどのように動くかを自分の手と目で確認してしまった方が、より良い操作を身に付けられるはずだ。

 

「照明器具の操作は流石に今はできないと思うので、今は止めておきましょう。山科君は、今日は何時までいるんですか?」

「今回は打ち合わせ程度ということだったので昼で帰るくらいのつもりでしたけど、多分、柴田が帰らないでしょう」

 

 瀬田さんと意気投合して演技熱が一気に上昇した柴田を止められる者はいないだろう。

 

 そして、

 

「僕も、ここの照明を弄り倒すまでは帰りたくないです」

 

 僕もまた、柴田のことを言ってられない立場になっていた。

 

 

 

 結局、舞台は約一か月後の8/25の土曜日に決定した。

 体育館から羽丘演劇部室に戻ってくると、高橋が僕と柴田を呼び、部室の隅で三人がそれぞれ話したことを伝えあっている。

 

「お互いに合同で出来る様な台本は書いてないだろうからってことで、今回は既作を使用することで一致した。俺達青蘭は山科以外が役者志望ということもあって、山科だけが裏方で作業、後は役者として役の奪い合いをすることになるんじゃないかと思う。極力、役は多めにするつもりだけど」

「俺は構わない。山科は?」

「僕も大丈夫。脚本は誰が探すの?」

「俺と新藤さんの二人。今回、演出と監督は部長二人で担当することにしようって話になってて。俺が演出、向こうの新藤さんが監督になると思う。この辺は二人で二役の方が近いかもしれないけど」

「まあ、分かりやすいな」

 

 高橋の話に柴田がうなずく。

 確かに、極力公平な立場になるようにしてあると思う。

 

「脚本は急だけど今週末には決めておこうって話になった。来週の頭にはまた集まって台本を発表して希望する役を聞く。そして、一週間後は全員で羽丘に来て顔合わせ兼オーディションって感じ。出だしは急だけど、始まればある程度落ち着くと思う」

「でも、高橋。そんなに急に脚本が決められるのか?」

「柴田、そこは大丈夫。実は俺も新藤さんも、話が決まった時点で先に調べてたんだ」

「用意がいいな」

「部長ですから」

 

 高橋が自慢げに胸を張った。

 出だしは順調に始められそう、ということだろう。

 

「幸い、お互いに今週末は一日中活動できるみたいだから、この期間に俺達三人が、みんなの混ざりやすい空気を作っていきたい。特に柴田と山科には負担をかけるけど、よろしくな」

「……俺はいつも通り芝居に集中するだけだし」

「僕も、裏方の方はできる限り把握しておくようにするよ」

「頼む」

 

 高橋は僕らに負担が、と言っていたけれど、一番負担を受けるのは高橋自身だろう。

 二つの学校のかけ橋になっている上、詳しくないメンバーと設備に対して演出と監督の仕事をしなければならないのだから。

 僕と柴田の仕事は、それぞれで頑張ることだけじゃなくて、高橋を支えることでもあるはずだ。

 

「こんな機会、二度とないだろう。精一杯、頑張ろう」

 

 高橋の言葉に、僕らは力強くうなずいた。

 

 

 

 運動部の人達は4時ごろに部活を終わるので、それから設備を触らせてもらえることになった。運動部が早めに終わるのは、暑さもあるが瀬田さん効果が大きかったらしい。

 運動部が終わる時間までは、簡単に音響設備や大道具関連の話を聞きつつ大和さんと時間を潰すことになった。

 

「大和さんは、役者で出られたりはするんですか?」

「いえ、ジブンは演技はからっきしなので。もっぱら音響関連の仕事だけですね。山科君もきっと、照明関連だけなのでは?」

「基本的にはそうですね。でも、うちは人数が少ないので裏方はもちろん、役者もやったことありますよ」

 

 裏方の仕事は全部やったことがある。

 照明、音響、演出、大道具、脚本、監督、メイク……どれもこれも、人数の少なさゆえにせざるを得なくなった仕事達ばかりだけれども。

 そして、演技ももちろんしたことがある。演劇部ですもの。

 

「え、演技もするんですか?」

「まあ、舞台に立たないだけで、演技練習はしてるんです。最低限、みんなとレベルを合わせにいかないといけないですし、滑舌や即興劇(エチュード)に参加したりはしますよ」

 

 ただでさえ人数が少ないのだから、みんなが一つの専門を持ってなどいられない。

 僕は裏方全般に加え、非常時の役者としての役割を担っている。

 

「大和さんはその辺の基礎練習もあんまりされてない感じですか?」

「ジブンはパスパレの方で喋ることもあるので、基礎錬のあたりは。でも、活舌だけで即興劇(エチュード)はあんまり参加できてないですね」

 

 大和さんが苦笑する。

 でも、そうやって一つの仕事を専門としてできるというのは素敵なことだと思う。それだけの仲間がいる証拠だし、好きなことをしっかりとやれるということでもある。

 

 それにしても、バンドで活舌練がいるのか。ライブの時とかに喋ったりするってことだろうか。漠然としたイメージだけど、そういうのはボーカルの人だけがやるものだと思っていた。

 

「まあ、役者はあんまりできないですけど、裏方の方はある程度知ってますから何でも聞いてください」

「ある程度知ってるだなんて」

 

 ものすごく詳しいの間違いだろう。

 

 この舞台がどうなるのかは想像もつかなかったけれど、この大和麻弥という女の子に会えたことは、僕のとても大きな収穫の一つになるに違いない。




演劇部の詳しい設定は、僕が演劇部をしていた頃の設備を思い出しながら書いています。
用語などは確認していますが、間違っていたら教えてください。直しておきます。

山科君がパスパレを全く知らない様子は、僕が昔AKBを全く知らなかった時のことを思い出しながら書いてる感じです。実際フライングゲットくらいまでは、このくらい知らなかったです。
パスパレの知名度ですけど、個人的には興味のない人が名前を聞いたことがあるかないか、くらいにしています。テレビを話題になり始めたくらい、でしょうか。その手の番組を見ている人なら知っている。見ないなら知らない、くらいだと思います。


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7/21(土) 「体験」

 4時が過ぎて運動部の人達が練習を終えた時間帯。

 裏方担当の人達は、連れだって体育館に移動した。これから、照明や音響の機材を実際に触っていくのだ。

 

 体育館に着くと、暗幕を閉めていく。本番の時は閉めたうえでテープで完全に明かりを遮るようにするのだけれど、今回は触ってみるだけということで暗幕を閉めるだけだ。

 暗幕が閉まり体育館の照明だけになったところで、大和さんが僕を手招きした。

 

「山科君、こっちです」

 

 大和さんに呼ばれるままステージ下手にある調光卓の場所まで移動する。すぐ後ろには音響卓もあり、音響と照明の基本的な位置はここになるのだろう。

 大和さんは調光卓と音響卓の近くにあったスイッチを二つ押して明かりをつけた。これが作業灯らしい。

 

「今のが作業灯です。まず、客席側の照明を落としますね。ちょっと見比べててください」

 

 大和さんが下段のつまみを動かすと、それに従って照明が落ちていった。二階席下の部分と二階席、天井の三種類に分かれている。また、その三つを同時に操作することのできるようだ。

 

「つまみと実際の変化にラグはないので、違和感なく操作できると思います。どうぞ」

「ありがとうございます」

 

 実際に調光卓の前に移動した。

 つまみをゆっくりと上下させながら、どのように変化するのかを確認していく。僕がつまみを上下させるのとほとんどタイムラグなく明るさが変化していく。特定の照明を消したり特定の照明だけを点けたりする。

 どの照明がどの程度の明るさか、どこまでを照らせるのかを自分の目で確認していく。

 

「山科君、楽しそうですね」

「え?」

 

 大和さんが声をかけてきたことで気が付いた。

 

 つまみを触る手は熱を帯び、口元には笑みが浮かんでいる。

 なるほど、確かに傍目から見れば楽しそうに見えることだろう。

 

「ええ、とても楽しいです」

 

 初めての舞台で初めての機材を触ることがこんなに楽しいだなんて。これで舞台を作ることができたら、どれほど楽しいのだろうか。

 

「他のも触って大丈夫ですか?」

「はい。ボーダーも操作してみましょうか」

 

 ボーダーは客席側の上、上段に設置されている部分だった。ボーダーは三つおきに一纏まりになっているので、その三種類と三つをまとめたつまみが用意されている。

 こちらも順番に操作しながら、明るさやその変化の様子を確認していく。基本的にはうちの高校と変わらないので、扱いやすそうだ。

 

 一度、全部の照明をつけて大和さんの方を振り返る。

 

「どうでした?」

「うちの高校と感覚部分では大きな違いもなかったのでやりやすかったです。照らせる範囲や明るさはなんとなく把握したので、演出に反映させられるといいなと思います」

「あれ。思ったより、しっかり考えてたんだ?」

 

 その場にいた別の女子が驚いたような表情を見せていた。

 思わずそちらに視線を動かすと「あ、ごめん! バカにしてたとかじゃないんだけど」と手を振った。

 

「すごい楽しそうだったし、ずっと上下に忙しなく動かしてたから、楽しくて遊んでるのかと思っちゃった。ごめん」

「ああ、いや、全然そんなことないよ。実際、遊んでたのと変わんないし」

 

 実際、気持ちは楽しんでいるだけだったので否定することはできない。

 

「じゃあ、次は音響卓の方を触っていきましょうか」

「分かりました」

「今CDを……あ、体育館の入り口に置いてきちゃったんで、ちょっと待っててください」

「あ、はい」

「じゃあ、私が開けて説明しておくね」

「はい。涼さん、お願いします」

「まかせて」

 

 そう言って大和さんが袖からいなくなると、涼さん、がこちらを向いた。

 

「自己紹介まだだったよね? 私は二年の葛西(かさい)(りょう)。よろしく」

「二年の山科遥です。よろしく」

 

 ぺこりと頭を下げると、葛西さんが不思議そうな表情をした。

 

「山科君って、私の時はタメでしゃべるんだね」

「え? ……ああ。それはどちらかというと、大和さんには敬語で話してしまう、っていう方が近いかも」

 

 大和さんはずっと敬語なので、つられてずっと敬語になってしまうのだ。大和さんがタメでしゃべるようになったら、僕もタメでしゃべるようになるんじゃないかと思う。

 

「あ、それはないよ。だって、麻弥ちゃんって誰に対しても敬語だもん」

「……そういえば」

 

 思い返してみれば、先ほど葛西さんに話しかけていた時も敬語だった。

 

「まあ、仲良くなったらもう少しは砕けるとは思うけどね。山科君も、機材オタクなんでしょ?」

「いや、僕は全然詳しくないし」

「そうかなぁ?」

 

 大和さんと話していてよく分かった。

 大和さんは機材の仕組みやメーカーブランド等についても詳しく、僕は使い方しか知らない素人でしかないと感じた。

 

 葛西さんは鍵を取り出して音響卓の扉を開けて、卓の電源を入れ始めた。

 

「まあ、そんな詳しくない山科君に、もっと詳しくない涼ちゃんが解説するよ」

「あはは、よろしく」

 

 冗談めかした口調で、葛西さんが慣れた手つきでスイッチを押していく。

 

「まず、これが主電源ね。舞台の音響にはCDだけ入れるから、使うのはこのCDデッキの部分だけ。CDって書いてあるし、分かると思う」

「うん、大丈夫」

「後はまあ、一般的なものと変わらないと思うんだけど、トラックを変えるのがこのボタンで、音量ミキサーはこっち。CDはここから入れるようになってて、最大で3枚まで入るけど、普通は1枚しか入れないかな」

 

 DVDやマイクなど、種々の音響関連の機材の一角が演劇の舞台で使用するCDデッキだ。舞台で使用する音響は一つのCDに焼いて、それを流すようにしている形式になっている。

 音響卓の左上に主電源があり、卓の中央辺りにCD関連の部分がある。中央にはデジタル表示の部分があり、ディスク番号、トラック番号、音量などの情報が表示されている。

 

「音量は0から100の表示で、BGMは30程度、効果音は60で十分だと思う。それ以上は、うるさすぎるかもしれない」

「なるほど」

 

 頷いたところで、足音が聞こえ大和さんが戻ってきた。

 

「すみません。今戻りました。どこまで説明しました?」

「ほぼ全部。今、麻弥ちゃんが戻ったところでCD入れて曲流してみよう、って言うつもりだった。ナイスタイミングだね」

「あはは、ありがとうございます。じゃあ、さっそく入れてみますか」

 

 CDを入れてトラック番号1の音を再生すると、小さくピアノの音が聞こえてきた。

 

「ちょっと客席の方に移動してみて。どの音量でどれくらいに聞こえるのかやってみるから」

「分かった」

 

 葛西さんの言葉に従って客席の中央辺りに移動する。すると、他の人達が舞台で簡単な即興劇(エチュード)を始めた。

 

「どうですか?」

「台詞を邪魔しないで聞こえるのは、確かにこの辺までになりそうですね」

 

 一緒に来た大和さんに答える。

 すると、大和さんが何かを取り出した。手に収まる程度のサイズで、コードから伸びたマイクのようなものが大和さんの口元に近付く。

 

「じゃあ、効果音お願いします」

 

 大和さんがそういったところでピアノの音が止み、ガラスが割れるような音が響いた。

 不意打ちで来た音に体が跳ねるのを見て、大和さんが笑った。

 

「びっくりしました?」

「そりゃしますよ」

 

 僕は割と根に持つタイプだ。

 いつか、絶対にやり返す。

 

「すみません。……あ、これインカムです。つけてみてください」

「あ、ありがとうございます」

 

 大和さんが取り出してくれたもう一つのインカムを受け取る。

 イヤホンを耳に嵌めてみると、くすくすと笑ったような声が聞こえてきた。

 

『今のが60の音量の効果音。びっくりした?』

「葛西さん……」

「音響の方はもう大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫だと思います」

『じゃあ、片付けておいてもいいかな?』

「お願いします。ジブンは山科君と二階席に行くので、そちらの片づけはお願いします」

『りょうかーい』

 

 大和さんは僕のインカムを取って、あるスイッチを押した。

 

「ここでマイクのオンオフが切り替えられます。喋らないときはオフにしておけばいいですけど、まあオンにしっぱなしでも大丈夫だとは思います。あと、設定すれば特定の相手にだけ話が伝えられますけど、基本的には使わないので説明は割愛しますね」

「はい、分かりました」

「じゃあ、山科君が一番好きなあれを触りに行きましょうか」

「はい!」

 

 そして、大和さんに連れていかれながら僕らは二階席へと向かった。

 

 

 

 二階席は思ったよりも広かった。

 体育館の照明につながっているのであろう大型のケーブルや屋上につながるドアがあり、明らかに関係者以外は入れない場所であることが分かった。

 

「あれです」

 

 大和さんがある機材を指さした。

 それは、ステージの方からも少しだけ見えていたシーリングとスポットライトだ。

 

「シーリングとスポットライトは、普段はコードを抜いているので使う時はそこのコンセントにさしてください」

 

 大和さんがコードを差すとコントローラのデジタル表示が光った。

 

「シーリングの操作は照明卓と一緒です」

「ですね」

 

 つまみを操作しながら、明るさを確認する。時折、ライトの部分についている羽根を弄りながら明るさの範囲を調整してみる。

 

「スポットライトは説明が必要ですか?」

「いえ、大丈夫そうです」

 

 スポットライトは僕の学校にあったのとほとんど同じなので使い方は分かる。うちの高校では大きさしか調整できないのだけれど、ここのは明るさまで調整できるらしい。

 羽丘の設備は、どれもこれも青蘭の設備よりも良くてありがたい。

 

「使います?」

「もちろん!」

 

 思わず鬼気迫った表情をしてしまった。大和さんを驚かせてしまったようなので、すぐに表情を戻す。

 

「あ、すみません。使わせてください」

「……あ、はい! もちろんです! どうぞどうぞ」

「では、失礼して……」

 

 スポットライトの左に立つ。

 軽く様子を確認して左手で正面にある持ち手を、右手はライトの後ろにある持ち手を掴む。これがホームポジション。

 こういったスポットライトにはポインタが付いていたりするものもある。僕は大会の会場でしか見たことないし、流石に羽丘のこれにもそれはなかった。

 

「じゃあ……」

 

 ライトについている絞りを調整してライトを閉じてからスイッチをオンにする。隙間から強烈な光が漏れるのを確認してから、ほんの少しだけ絞りを開く。

 

「うん、イメージ通り」

 

 明かりがない状態ならともかく明かりがある状態で、スポットライトの絞りはほんの少しだけ開いたとしても、客席側からは確認することができない。正確に言うなら、そんなものがあると思っていない観客は見つけられないのだ。

 これは、ポインタがない状態でライトを操作する方法として覚えているものだ。

 

 一度、ライトから手を放してインカムをオンにした。

 

「葛西さん」

『ん、何?』

「あ、よかった。つながった」

 

 インカム越しに葛西さんの声が聞こえる。

 

「ちょっと暗転してもらえないかな?」

『うん、いいよ。ちょっと待ってて』

 

 しばらくすると、体育館中の明かりが落ちる。

 インカムのマイクを襟元に付けてライトに手をかけた。

 

「葛西さん、そのままステージ中央に出てきてもらっていい?」

『中央? うん、分かった』

 

 ガサガサと音がして、葛西さんの姿がステージに出てきた瞬間ライトをつけた。

 

『うわっ!?』

 

 ステージに出てきた瞬間に葛西さんにピンスポが当たる。

 

「ふふっ。ほら、中央に移動してよ」

『あー! 絶対、さっきの根に持ってたでしょ!』

「持ってない、持ってない。ほら、動いて動いて」

 

 葛西さんがため息をついてステージの中央に歩いていくので、それを追いかけていく。

 

『……山科君、追うの上手だね』

「まあ、基本的にこれしかやってないから」

 

 好きなのだ、この仕事が。

 

 僕自身は全く注目されていないけど、僕の動かすライトの輝きがその舞台を彩っていると感じる。

 このステージを作っている中に僕がいるんだと感じることができるから、僕はこのスポットライトというのを好きでいるのだ。

 

 葛西さんが中央まで終わったタイミングで、フェードアウトする。

 初めて触ったライトではあるけれども、いつも通りの仕事ができていると思う。

 

「ありがとう」

『山科君のライト、滑らかだね』

「そう? そう言ってもらえると嬉しい」

 

 ライトを元に戻してから大和さんの方に振り返った。

 大和さんは少し奥の方で「大丈夫でしたか?」と確認してきた。

 

「ええ、大丈夫でした。一通り触らせてもらってありがとうございます」

「いえいえ。いい舞台を作るためですし、気にしないでください。あ、もういいですか?」

「はい、大丈夫です」

 

 返事をすると、大和さんは電源が消えていることをその場から確認してコンセントを抜いた。

 

「やっぱりこの景色、いいですよね」

「景色、ですか?」

「はい」

 

 この場所は、舞台のすべてを見ることができる。

 客席も、ステージも。舞台のすべてがこの眼下に映っている。

 

「僕はこの特等席から芝居を見るために、ここにいるのかもしれません」

 

 この場所から物語を眺め、そして僕が物語を作る一端を担う。

 その満足感は、他の役職では得ることができない、特別なものだと思っている。

 

「この場所が、この仕事が、すごく好きです。だから、できればこの舞台もここから関われたらいいなって思っているんです」

「いいですね、そういうの」

「そうですか?」

 

 ちょっと自分でもクサいこと言ったかなと思ったけれど、大和さんがそう言ってくれるなら大丈夫だ。

 

「さて、そろそろ降りましょうか」

「はい。……大和さんは、この景色見ていかないんですか?」

「え? ……あー……ジブン、高いところがあまり得意ではなくて」

「そ、そうだったんですか!? すみません、苦手なのにわざわざ」

「いえいえ。高所恐怖症と言うほどでもありませんし、足場が不安定な場所にいると怖い、くらいの話なので」

 

 大和さんはテキパキとコード類を片付けると、少しだけ速足で扉の方に移動した。

 

「さあ、行きましょう。本番まで時間もないですし、頑張っていきましょう!」

「はい!!」

 

 

 

 帰り道。

 

「ねえ、柴田」

「どうした?」

「瀬田さんはどうだった?」

 

 そう尋ねると、柴田は少し考えこんだ。

 

「あれは、日頃から演技しているから上手いのか? 素が演技みたいだから上手いのか?」

「え?」

「俺も同じ部屋で聞いてたけど、なんていうか言動がいちいち芝居がかってる人だったな」

「そう、だな……」

 

 と、柴田が少し立ち止まって、うつむいた。

 いつもの、演技をする前の精神統一だ。

 

「『やあ、少年。ところで、君の方はどうだったのかな? あの子猫ちゃんと、どんな儚い時間を過ごしたんだい?』」

 

 声はいつもの柴田よりも高めだが、女性としては低め。動きは少し大げさで舞台に合うようなジェスチャーが混じっている。

 距離感がいつもよりはっきりとして、僕に質問をするときの距離の近さはかなりのものだ。

 そして何より、その芝居ががったような、少しゆったりとした喋り方と声音。

 

 なるほど、大和さんの時も感じていたが、これが瀬田さんなのか。

 

「ま、こんな感じだ」

 

 そして、不意に瀬田さんから柴田に戻る。

 

「評価としては、変人だな」

 

 柴田がしみじみとそう言うと、僕と高橋が呆然と顔を見合わせた。

 

「うーん。柴田に言われたくはなさそう」

「確かに。柴田に言われたくはないだろうな」

「おいこら、どういう意味だ!」

「そのままの意味かな? ね、高橋」

「そうだな、山科」

 

 僕と高橋がうなずき合うと、柴田が納得いかなさそうに吼えた。

 

「なんだよそれ!」

「いや、柴田も大概、変人だよ」

 

 演劇バカ、と呼んでもいい。

 

「うるさい! それを言うなら、山科だって機材オタクだろ」

「僕は大和さんと出会ってよく分かったよ。僕は機材オタクを名乗るわけにはいかないってね」

 

 大和さんみたいな、筋の入ったやべー人が本当の機材オタクというものだ。

 僕みたいな「好きー」って言ってるくらいの人間は、オタクを名乗るのは早い。

 

「それ、山科のさらに上を行く機材オタクっていうだけで、山科が機材オタクであることは否定できないんじゃないか?」

「あっ! それ言っちゃいけない奴だって、高橋!」

 

 まあ、別に言われたところでだから何かあるわけではないけれど、こうなると高橋も巻き込んでしまいたくなる。

 

「高橋なんて、新藤さんとお菓子つまみながらおしゃべりに興じてたわけでしょう?」

「えっ、ちょっ」

「『女子とお菓子食べながら話してた』とか言ったら、どう思うだろうなぁ?」

「おい、ちょっと柴田!」

「普段女子と関わる機会がない皆は絶対に天誅しにくるよ」

「違いない」

「お前ら!」

 

 三人だけで女子高に行ってる時点で、皆から揶揄られることは分かっている。

 だったら、三人仲良く天誅されればいい。

 

 

 夕焼けが眩しい道を、僕らはわいわい騒ぎながらゆっくりと帰った。

 

 この、特別な日々の始まりを祝うように。



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7/28(土) 「ドラマーでアイドルな彼女」

 台本が決まった。

 

 今回やることになったのは「Binary Star」という作品だ。舞台の時間は1時間半から二時間、登場する役者(キャスト)は十人。

 シリアスなテーマを持ちつつも基本はコメディ調で進む作品らしく、場面の空気をどう切り替えていくかに僕ら全員の腕が試されている。

 

 青蘭では大会要項である一時間程度の作品をやることがほとんどなので、二時間かかる作品というのはかなりの長丁場になる。セリフも裏方の仕事も、一カ月でできるのか分からない。

 しかし、高橋と新藤さんは自信ありといった様子で、「必ず成功するし、成功させる」と意気込んでいた。

 

 台本は月曜には全員に配布されて、必要な役についての説明が行われた。

 役者を担当する皆は、これから自分のやりたい役を決め、それから週末にあるオーディションに向けて練習をする。

 

 

 

 一方で、裏方はオーディション等をする予定はない。

 僕らは、高橋と新藤さんの二人からある程度のイメージをもらい、そのイメージの通りに大道具や小道具、照明や音響をどうするかについて話し合うのが最初の仕事だ。

 

「……と、こんな感じなんだけど、大丈夫かな?」

 

 新藤さんがイメージをまとめた用紙を渡しながら確認してきた。

 

 台本と用紙を交互に見ながら、舞台の雰囲気を考える。

 大事なのは演出や監督が求める雰囲気をどうやって作りだすか。そして、それが時間的あるいは人員的に実現可能なのかを考慮して、この舞台を彩っていかなければならない。

 

 それらについて考えながら目を通したところで、僕は新藤さんに頷いた。

 

「僕は大丈夫だと思いますよ」

「ジブンも、問題ないと思います」

「うん。この人数なら十分やれると思う」

「ありがとう! そう言ってもらえて嬉しい!」

 

 高橋と新藤さんを抜いた、裏方の担当は全員で8人。

 その中で、僕と大和さんと葛西さんの三人が、リーダーとして大まかな方針を決定する役職に任命された。

 

 青蘭側の方は僕だけになっているけど、羽丘側は二人だ。

 どうやら大和さんはバンドの練習やライブ、葛西さんは華道部の活動があるらしく、羽丘側のリーダーは片方がいなくても回るようにしているらしい。

 

 新藤さんがオーディションの方に向かってから、僕は二人の方に向き直った。

 

「そういえば、忙しいなら二人以外でもよかったんじゃないの?」

「うーん……まあ、一番詳しいのが私と麻弥ちゃんだし、ここは外せなかったんじゃないかな」

「そうですね。後の人は、ほとんどが役者と裏方を半分半分にやっているメンバーばかりなので」

「なるほど、ね」

 

 僕ら三人は、部室の隅っこに机を寄せて話し合いをしている。

 他のメンバーはオーディションの審査員等として駆り出されているらしい。

 

「まあ、ジブン達はジブン達で、この舞台の演出を考えていきましょうか」

「そうですね。少なくとも、大道具や小道具類は早めに決めておかないとまずいですし」

「確かに。じゃあ、最初はそこから決めていくことにしようか」

「そうしましょう。では、順番に必要そうな道具を書きだしていくということで」

 

 何からどう始めるかが決まり、僕らは台本を開いて舞台に必要な道具のリストアップ作業を始めた。

 

 

 

 昼休み。

 僕と大和さんは、羽丘の食堂にお昼ご飯を食べに来た。先ほどまで一緒だった葛西さんは、お弁当派らしく部室で他の部員達と食事をしている。

 

「大和さんは、普段から食堂なんですか?」

「はい。ジブンは基本的に食堂ですね。お弁当は用意するのが大変ですし」

「確かに」

 

 カツカレーを食べながら返事をする。

 大和さんはいつもうどんらしく、今も麺をすすっている。

 

「そういえば、大和さんのバンドって、どんな感じなんですか?」

「パスパレですか?」

「はい。前に聞いてから考えてたんですけど、大和さんがロックな感じにドラム叩いてるのもイメージ湧かなかったので」

 

 大和さんがバンドで活動しているというのがあまり分からなかった。ライブハウスのスタッフでバイトをしているといわれた方が、百倍信じられる。

 大和さんは「そうですね……」と言いながら箸をおいた。

 

「パスパレは、アイドルバンドなんですよ」

「アイドル、バンド……?」

 

 脳裏に可愛い衣装を着て、きゃぴきゃぴした感じで歌って踊る大和さんをイメージする。

 

「んー……んん?」

 

 人前に出るのが苦手そうな大和さんが、そんなことをしているのが全くイメージできなかった。

 あ、いや、バンドのドラマーだから、歌って踊ってはないのか。

 

「大和さんが……アイドル?」

「やっぱり、ジブンには似合わないですよね」

「え? あ、いや、大和さん可愛い方だと思いますよ」

「か、かわっ!?」

 

 とりあえずフォローを入れたけど、普段女の子を褒めないので、適切な語彙が出てこなかった。引かれたりしないだろうか。

 

 まあ、容姿はともかく、本人の性格とアイドルの二つがうまく結びついていないだけだ。

 あんまり目立つのが好きそうではない、というイメージがあるために、アイドルをしていることに違和感しか感じない。

 

「そうですね。そもそも、ジブンは事務所に所属しているドラマーだったんです」

「事務所所属?」

「はい。事務所の撮影やイベントでドラムを演奏するんです」

「ああ、なるほど。じゃあ、もともとバンドとは関係なしにドラムをしてたんですね」

「そうです。それで、パスパレ結成の時にも、助っ人としてドラムをやっていたんですが……」

「大和さんがアイドルの素質を見出されて、正式に所属することになったんですね」

「い、いや、ジブンなんて、そんなことないですし……」

 

 顔を赤くした大和さんは、そっぽを向いて手で顔をあおいでいる。

 本当ならさっきみたいに「可愛かったし、そのまま正式に所属することになったんですね」くらい言ってみたいけど、生憎と僕の対人能力と心臓はそこまで強くない。

 

「ま、まあ、デビューライブまでに正式なメンバーが決まらずじまいだったので、結局自分が所属することになったんです」

「デビューライブ…………ってことは、パスパレって事務所がプロデュースするようなバンドってことですか……?」

 

 よく考えたら、事務所所属で助っ人に入っている時点で推測できる内容か。

 大和さんは驚いたような表情を浮かべて僕を見つめる。

 

「はい。テレビとかにも最近は出始めたりしてるんですけど、本当にご存じないですか?」

「知らない、ですね」

 

 テレビはほとんど見ない上に、その手のアイドルやらバンドやらに全く興味がなかったのだ。

 

「前にパスパレの名前を挙げても、普通の高校生バンドのように反応されたのでもしかしてと思っていたんですけど……」

「すみません……不勉強で……」

「いえいえ! 気にしないでください、ジブン達がまだまだ知名度の低いバンドってことですから!」

「でも、テレビとか出てたんですよね? 音楽番組とかですか?」

「最初はそうでしたね。今は、個人でもバンドでもですけど、バラエティに出ることもありますよ」

 

 どうやら僕は、本当に何も知らなかったらしい。兄さんがこういうのには詳しいので、帰ったら少し聞いてみよう。

 それに何より、知っている人が出ているというのなら興味がある。

 

「や、大和さんが出てるなら見てみようかな……」

 

 少しだけ恥ずかしいけれど、頑張って口にしてみる。

 ちょっとしたアピールというか、そういうもののつもりなのだけれど、効果はあるのだろうか?

 

 チラリと大和さんの方を伺ってみると、大和さんは嬉しそうにうなずいてくれた。

 

「ぜひぜひ! 他のメンバーの皆さんはとっても素敵な人達ばかりで! それこそ、ジブンなんかよりもずっと可愛いですし、綺麗な人達です!」

 

 といって、大和さんがスマホを取り出した。

 少し早口でテンションの上がった声に、少しだけ嫌な予感がする。

 

「あ、あの、大和さ――」

「これ見てください! ボーカルの彩さんなんですけど、アイドルを夢見て一生懸命頑張ってきた人なんです!! 大事な場面でドジってしまうことも時々ありますけど、どんな困難にも挫けない凄い人なんス!」

「は、はあ……」

 

 大和さんの口調が加速していく。初めて会った時にも見た光景。大和さんの語り癖が発動しているらしい。

 勢いに完全に飲まれてしまって、相槌しか打てない。

 

「こっちはイヴさんなんですね! イヴさんはフィンランドからのやってきたんですけど、日本の勉強にモデルの仕事、部活は掛け持ちで所属しているんス! これ見たらわかると思うんスけど、すっごくスタイルがよくて憧れちゃいますよね~! それでそれで! こっちは千聖さんなんですけど――」

 

 大和さんの語り口は止まるどころか加速していき、もう止めることなんてできやしない。

 

 どうやら僕のアピールは、あまり意味をなさなかったらしい。

 

 

 

 結局、大和さんの語りが止まったのは、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったタイミングだ。

 

「あれ、チャイム……?」

 

 我に返った大和さんは手に持っていたスマホで現在時刻を確認する。ちなみに、今は昼休みが終わる13時半だ。

 僕は、事態を把握できていない大和さんに向かって、曖昧にほほ笑んだ。

 

「大和さん、すごくバンドメンバーのことが好きなんですね」

「あ、あ~……すみません! 本当に申し訳ないっス! ジブン、一度話し出すと止まらないっていうか……」

「大丈夫ですよ、別に」

 

 実際、大和さんのおかげでパスパレについてそれなりに詳しくなれたと思う。

 何より、パスパレのことについて話している大和さんは、パスパレのことが本当に好きなんだなと感じさせた。目は輝いて、楽し気な口ぶりは、その言葉よりもはるかに大和さんの気持ちを物語っていた。

 

「山科君はバンドやアイドルに興味ないって言ってましたし、あんまり興味なかったですよね」

「いや、そんなことないですよ」

 

 兄さんも割と似たようなテンションで話すときがあるし、どちらも好きだからこその語りなんだと思う。

 

「今度、ライブとか何かがあるなら、見に行ってみようかなって思いました」

「本当ですか!? そう言ってもらえると嬉しいです」

「近いうちにあったりするんですか?」

「そうですね、8月の12日にライブがありますよ。……あ、良かったら来ますか?」

 

 約二週間後の話だけど、今からでもチケットは買えるのだろうか?

 あまりこういうのには参加したことないから分からないけれど。

 

「いえ、ジブンが知り合いを招待する用のチケットがあるので、それで来たらいいですよ」

「いいんですか?」

「はい。ジブン、普段は全然使わないですし、興味を持ってくれたのなら嬉しいです。何より、後でライブハウスの設備について案内できますけど」

「行きます!」

 

 間髪入れずに返事をすると、大和さんは想像通りと言わんばかりに笑った。

 

「フヘヘ……山科君なら、そう言ってくれると思っていました」

 

 まだ一週間ほどだけど、大和さんも僕の扱いを分かったらしい。

 

「詳しい話はまた後でしますね。とりあえず、昼休みも終わりましたし、部室に戻りましょう」

「了解です」

 

 

 

 舞台において裏方の仕事はあまり目立つ者ではないかもしれないけれど、役者の演技以外すべては裏方の仕事と言っても過言ではない。

 音も照明も大道具や小道具、役者の衣装からメイクまで。それらすべては裏方の仕事によってなされている。

 

 そんなたくさんの仕事がある僕らには、話し合うことがたくさんある。

 

「14ページのところですが、照明はフェードインの方がいい気がします。役者が(かみ)から歩いてくるのに合わせて、中央に置いたベンチに着くちょっと前で終わるような形に。調整できますか?」

「もちろん、できますよ」

 

 大和さんがこちらをチラリと伺ってきたので、問題ないと普通に返事をする。

 すると、隣の葛西さんが驚いた顔でこちらを見た。

 

「まだ決まってないけど、羽丘(うち)のキャストでも?」

「歩くスピードに合わせるだけだからね」

「さらっと言うよね、山科君」

「まあ、できるものはできるから……」

 

 役者の歩くスピードに連れてフェードを調節するのは意外と大変な作業だけど、できないものではない。

 そこのところは役者に言っておいて、お互いに気にしていれば何とでもなると思う。

 

「でも、これって調整するのボーダーとシーリングですよね? 僕がどちらかを触ってても、もう一人の人ができないとだめなのでは?」

「じゃあ、もう一つは私がするね」

「葛西さんが?」

「うん。山科君には負けてられないし、私だってこっちでは裏方やってきたプライドがあるんだもの」

 

 羽丘で裏方専門でしっかりやってきたのはこの二人ということなので、僕ら三人が照明、音響、二階席の三つを担当することになるのは分かり切っていた。

 大和さんは音響関連の方に詳しいらしいので、きっと葛西さんがずっとこちらで照明を触ってきたのだろう。

 

「この間は山科君のライトワークを見せつけられるだけだったけど、私だって見せつけて見せるからね!」

「あはは、お手柔らかに」

 

 何を競っているのかはお互い分かってない気もするけど、こうやって切磋琢磨する感じは悪くないと思う。

 

「うぅ……ジブンだけ仲間外れになっているような気分です……」

「じゃあ、音響もフェードで入る? なんか違うとは思うけど」

 

 葛西さんが冗談を言うけど、本人が補足したように曲を入れるタイミングはそこじゃない。

 

「ですよね。ここのBGMってフェード終わったタイミングで入れるのがいい気がします。曲次第ですが」

「そうなんですよ。曲のイメージはついているんですけど、それを考えると山科君の言うタイミングがいいと思うんです」

「もう曲のイメージがあるんですか?」

「え? はい。っていうか、曲のイメージがないと、入れるタイミングが決められないじゃないですか」

「それも、そうですね……」

 

 そう言われ、そもそも僕はこのタイミングで音響のことを考えたことがなかったのを思い出す。

 いつも先に曲を調べてから、それを台本に合わせていた。そうじゃないにしても、照明や台詞に連動して決めることが多かったはずだ。

 

 やっぱり、バンドなどで音楽に対しての知識がある分、こういう時にどんな曲がいいのかイメージしやすいのだと思う。

 

「ちなみに、どんな曲なんですか?」

「どんな曲かですか? えっと、そうですね……」

 

 大和さんが音楽プレイヤーを取り出す。

 

「あ、それ」

 

 前に音楽プレイヤーを買うために調べていた途中で見かけたことがあるが、ものすごく高いのだった記憶がある。

 

「これですか? いいでしょう? 凄い良いんですよ、これ! 容量はもちろんですけど、それだけじゃなくて。ワイヤレスのイヤホンにしてても画像と音にラグがないんですよ! その上、高音質で特に高音の響きが最高に綺麗なんですよ!」

 

 大和さんがニコニコしながら解説していると、やがて探していた曲を見つけたようで「どうぞ」とこちらにイヤホンを貸してくれる。

 

「これです。少しポップなイメージです。これはピアノですけど、ギターの方がいいかなって悩んでます」

「なるほど……」

 

 ピアノとギターで、どういう風に変わるのかが全くイメージできないけれど、曲の雰囲気自体は確かに舞台に合っていた。

 僕はそのイヤホンをそのまま葛西さんの方にも渡す。

 

「なるほど……。確か、こんな感じのギター曲なかった? 私達が入るより前の公演で使ってた気がする」

「本当ですか?」

「うん。CDがあるかは分からないから、後の休み時間のあたりで探してはみる」

「それなら、今から探さない? 三人じゃ大変なのかもしれないけど」

 

 午前中に話し合った必要そうな大道具のピックアップ作業。その中で、いくつかの道具は過去の公演のものを使えそうだという話があった。

 オーディションが終わり、選考からは落ちてしまって正式な裏方になる人が決まる前に、ある程度はないものを知っておけるといいと思ったのだ。

 

「まあ、三人じゃちょっと大変かもだけど、山科君もいるし大丈夫かな」

「そんなに多いんですか?」

「うちは、割と大道具もしっかり作ること多いから色々残ってて探すのも一苦労だよ。山科君にはいっぱい動いてもらうことになると思うけど、大丈夫?」

「大丈夫ですよ」

 

 力仕事には自信がある。

 もともとあまり得意な方ではなかったけれど、演劇部で大道具の移動をするようになってかなり力が付いたと思う。

 

「じゃあ、私が昔の音源を探してみるから、麻弥ちゃんと山科君は大道具の方をお願いしてもいい? CD見つけたら言うから」

「了解です。大和さん、頑張りましょうか」

「はい。ジブンも、山科君には負けないっスから、任せてください!」




一応「全てタメが葛西さん」「敬語とタメが混じるのが山科君」「全て敬語なのが大和さん」って感じです。

この演劇部達がやることになった台本「Binary Star」は現実にないです。元々は実際にあるフリーの台本を借りるか悩んだんですけど、こういう使い方は作者に申し訳なかったので、自作する方向にしました。
ということで、この台本を自分で一から書くわけなんですが、ワードの通常設定(印刷方向:横、文字方向:縦 に設定を変更するけど)で50ページ弱くらいかかりそうなんで気が遠いです。今まで舞台脚本を書いてた感じ、2時間の台本の長さならそのくらいかと思ってます。

一応、実際に舞台脚本として作成する予定で、簡単な話の流れ自体は考えてたりします。
14ページ目にフェードインの描写があるかは与り知らぬ話ではありますが。もしなかったら、こっそりと、実際にあるページに差し替えてたりはするかもしれません。

演劇部で活動していた時の知識が生きるのはいいですね。
既に舞台脚本として発表されている作品を「既作」と言いますが、羽丘は調べてる感じ既作(それも、名作)が多いような印象です。オリジナルで作ることは少なそう……?

演劇用語やなんやらが分かりにくかったら、訊いていただければ補足なりを入れるようにしていこうと思います。


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7/28(土) 「倉庫の隅で」

 演劇部の倉庫は、部室に隣接していた。

 部室自体も教室くらいの広さがあったが、この倉庫も教室とは言わないまでもかなりの広さがあるらしい。

 

「うちの演劇部は学校できた頃からあるみたいで、昔から本格的な部活だったらしいので部室が大きいんですよ」

「へぇ」

 

 部屋には通路らしきものがあるが、それはあくまでも()()()()()()()()()()()以上の意味はないように見えた。

 確かに、ここからものを探すのは簡単ではなさそう……。

 

「一応、種類分けはされているらしいので、それを目印に頑張りましょう」

 

 今回探す道具は、公園のベンチ、自動販売機の描かれたパネル、街灯の三つ。他にも大道具はいくつか必要なのだが、後は部室にないものや普段使っているから探す必要のないものばかりだ。

 

「パネルが一番探しやすくて奥にあるので、そこから探してみましょうか」

「了解です」

 

 大和さんの後ろにつきながら部屋の奥に向かう。

 少し埃っぽくて薄暗い部屋の中で、足元と大和さんの背中だけを見て移動する。

 

「ここですね」

 

 大和さんが立ち止まった場所には、足を外したパネルが何枚も重ねられていた。

 わずかな隙間からは、建物の絵や部屋の絵といった様々な絵が描かれている。

 

「ここには、今までの舞台で使われたパネルが置かれているんです。ほとんどは一度か二度程度しか使われてないで放置されてばかりのものです。剥げてる部分とか壊れている部分があったら直さないといけないですね」

「なるほど。ここから探すんですね」

 

 パネルはそう多くはないが、パネルが何列分かに分かれているので手前の方をどかすなりしないと奥の方を探せない。

 まずは、手前の方を調べていくことにしよう。

 

「自動販売機の描かれたパネルがある場所って、どの辺りかは分かるんですか?」

「あー……去年の公演に使ったのが最後なので、おそらくこの辺りにあると思うんですけど」

 

 大和さんがパネルを持ち上げて確認していくので、見終わったパネルを押さえておく。

 

「どうですか?」

「そう、ですね…………ああ、ありました」

 

 大和さんは掴んでいたパネルを引きずり出した。そこには赤い自動販売機のイラストが描かれている。

 これが探していたパネルだ。

 

「これですね。剥げていたりはしないようですから、普通に使えそうですね」

「足は後からつける感じですか?」

「そうですね。足があるとスペースが取ってしまいますし、足分の材料も節約できますしね」

 

 大和さんからパネルを受け取ると、大和さんが隅に置いてあったパネルの足の部分を二つ手に取った。

 

「さて、とりあえずこれを出して続きの探し物をしましょうか」

「ですね」

 

 頷きながら来た通路を戻る。

 パネルを持っている分、足元の様子が確認しにくいが歩けない程ではない。

 

「やっぱり、大道具の在庫がすごいですね……」

 

 青蘭の部室は倉庫程度のスペースしかない。だから、普段の練習は教室で行い、大道具類は部室で保管するような形式になっている。

 少なくとも、ここのように沢山の大道具を保管するような場所はどこにもない。

 

「なんていうんでしょう。大道具は関係ないですけど、普通に高校演劇よりは宝塚の方に寄せ気味なところはあると思います。華やかさ、みたいなものを重視する方向ですね」

「そういえば、衣装もしっかりと作り込まれたものが多いですね」

 

 演技というものは、その場に無いものすら()()と思わせる力を秘めている。

 分かりやすい例を挙げるのなら、落語だろう。座布団に座って扇子を持つだけであらゆる場面を想像させるのは、まさに演技や語りの力だと言える。

 

 素人の僕が語れる話では無いけれど、舞台演劇の力というものはテレビドラマとは少し違ってくる。

 無くても、演技だけであると思わせられる力を必要とされる。なんでも用意していれば、それはドラマと変わりない。舞台であるからこそ、舞台であるがゆえに、物は不要となっていく。

 

 そういった方向性を考えると、羽丘の大道具や小道具類は、いささか量が多いように思われた。

 

「人数もあったので、割と凝ったものを作れましたし。何よりそれが残せる環境がありましたからね」

 

 パネルを表に出して近くの壁に立てかけておく。

 大和さんから足を受け取ってそのそばに置くと、すぐにまた部屋の方に戻っていく。

 

「うちはオリジナルの台本を使うことがほとんど無いんです。有名な作家、それこそ最近は薫さんの趣味も混じってシェイクスピアとかをやったりすることが多くて。大会でお会いした人と話してても思いますけど、やっぱりうちは少し毛色が違うみたいですね」

「ですよね」

 

 演劇部に入って、たまに大和さんが挙げたようにシェイクスピアとかをやるのかと聞かれたことがある。でも、今時、高校の演劇でそういうのをやっているというのはあまり聞いたことがない。もちろん、うちがやったこともない。

 

 羽丘と一緒にやってみて感じることは多いと思っていたが、僕が想像していたよりもずっと多いのかもしれない。

 

「大和さんは、お芝居とか観に行かれたりするんですか?」

「行きますよ。でも、ジブンはどちらかというと音響の方に意識が向いてしまうことが多くて……。山科君もそうじゃないですか?」

「……よく分かりましたね」

 

 前に柴田と一緒に芝居を観にいったが、ライトワークの上手さに感動して話や芝居についてはほとんど見ていなかった。

 

 正直に話すと、大和さんは笑みを浮かべた。

 

「山科君ならそうだと思っただけです。山科君のことは、どことなく男子になったジブン、みたいに思ってたりしてるんですよ」

「男子になった大和さん、ですか?」

「あ、嫌でしたか? だったら申し訳ないですけど……」

「いえ、そんなことは!」

 

 大和さんのことは、ちょっと気になるあの子みたいに感じていた。それに、僕の知識は大和さんに全然及んでないことも分かっていたから、そういってもらえるとは思っていなかった。

 

「ジブン、山科君が来てくれてから凄く楽しいんですよ。涼さんは機材の話をしてもあんまり乗ってくれないですし、他の人は演技の方が好きで、聞いてくれることも少ないですから。それに比べると、山科君は楽しそうに聞いてくれるんで、凄く感謝してるんです」

「楽しそうに聞いてました?」

「ええ! 気付いてないかもしれないですけど、山科君って機材の話を始めると口が少し緩んでますよ」

「え!?」

 

 慌てて頬を押さえるが、大和さんはそれを見て「フヘヘ」と笑った。

 

「いいんですよ、笑っててくれて。そうやって楽しく聞いてついて来てくれるだけで、ジブンはとっても幸せです。山科君との出会いだけでも、今回のことは十分な価値があると思ってるんですから」

「あ、ありがとうございます」

 

 予想だにしない言葉に照れ臭くなってしまう。

 少し大和さんの様子を窺うと、大和さんの方もどこか恥ずかしそうにしている様子だった。

 

 僕は羞恥心を払うように軽く頬を叩いた。

 

「さ、さあ、探し物を続けましょうか」

「そ、そうですね!」

 

 

 

 大道具自体は、想像よりも早く見つかった。

 パネル以外は特徴的なものばかりだったし、比較的見つけやすかったのだ。

 

 最後の街灯を置くと、ドアを押さえててくれた大和さんが倉庫に戻ろうとしていた。

 

「お疲れ様です。山科君は休んでてください」

「大和さんは?」

「ジブンはちょっと物を戻そうと思って……」

「僕もやりますよ」

「いや、一人でも終わりますし、気にしなくても」

「いやいや、流石に一人休んでるのは居心地が悪いので」

「うーん……じゃあ、お願いしてもいいですか?」

「はい」

 

 二人で倉庫の中に戻って動かしたものを戻す。

 特に、ベンチは上に物が重なっていたので、どかした物を戻さなくちゃいけない。

 

「ベンチがない分、全部は戻せないかもしれないですけど、通路ができる程度には空けておきたいですね」

「じゃあ、こっちの方に置いておきましょうか」

 

 僕が渡して大和さんが戻す、という作業をリズミカルに繰り返していく。

 なんとか通路が空き、奥に狭いスペースができたあたりで、大和さんが手を止めた。全部移動し終わったのだ。

 

「これで終わりですね」

「お疲れ様です」

 

 と、大和さんが崩れるように壁際の狭いスペースに座り込んだ。

 

「大和さん、制服汚れちゃいますよ」

「大丈夫です。普段から掃除してるので、埃はないです」

 

 確かに、倉庫と言う割には埃が舞うようなことはなかった。

 

「いや、こういう場所は落ち着きますね……」

「狭いところ、ですか?」

「ええ。…………あ」

「ん?」

 

 明らかにリラックスしていた大和さんの表情が凍る。

 僕は少し大和さんの方に近づいた。

 

「どうかしました?」

「山科君……こういうのは、あんまり分からないですか……?」

「狭いところですか? まあ、静かで一人になれる場所は嫌いじゃないですけど」

「えっと……ジブン、こういう狭い場所に入るのが好きなんですけど……」

「へぇ」

「…………山科君がジブンに似ているので、こういうのも好きなものだとついつい思ってしまって……」

 

 警戒してなかったけれど、僕の反応が鈍かったのをキッカケに気がついたらしい。

 確かに妙な好みだとは思うけど、ちょっと興味があるのも事実だ。

 

「落ち着くんですか?」

「はい! よかったらどうぞ」

 

 と言って、大和さんがスペースを空ける。ちょうど二人が座れる程度だが、かなり密着してしまいそうな気がする。

 だが、ここで変に意識するのもよくないだろう。

 

「じゃあ、失礼します……」

 

 大和さんの隣に腰を下ろす。

 普通に座ろうとすると肩が当たってしまいそうなので、少し荷物に肩を寄せるように体勢を傾ける。

 

「どうですか? 落ち着きませんか?」

「あー……確かに、いいですね……」

 

 隣に大和さんが座っていることを気にしなければ、すっぽりと自分が収まるスペースというのは心地が良かった。

 一人で広い場所にいると不安感を感じるようなことがあるが、ここは狭い場所なのでそうした気持ちにはならない。一人しかいられない場所だからこそ一人でいてもいい、という孤独に対する肯定感のようなものを感じる。

 

「大和さん、よくここにいたりしますか?」

「そうですね……たまに、ですかね」

 

 大和さんがここの掃除をしているのは、きっとここに座るためなのだろう。

 

「演劇部は楽しいですけど、たまに静かな場所に行きたくなったら、ここに来るんですよ」

「ちょっと分かります」

 

 演劇部の仲間達は好きだけれど、ふとした時にその騒がしさに疲れてしまう時がある。だから、たまに一人になる時間を作るのだ。

 でも、それは演劇部だからじゃなくて、僕や大和さんが本能的に静かな場所を好む性質がある人だからなのかもしれない。

 

「なんか、一度座ったら立てなくなってきました」

「じゃあ、ちょっと休憩がてら座ってましょうか」

「そうですね」

 

 ちょっとだけ、と言い訳しながら座り込む。

 大道具の陰になって日差しは入らず、かといって真っ暗という訳ではない。ちょうどいい暗さの中で、僕達は同じ方向を見ている。

 

「……なんか、静かですね」

 

 しんと静まった部屋の中でぼそりと呟く。

 

「そうですね。ジブン達以外、誰もいませんから」

 

 独り言のつもりだったけれど、大和さんが返事をしてくれた。声の感じからして、体勢はそのままで声を出したんだと思う。

 

 そこから、僕達はちょっとだけ眠気を感じたような思考の中で、ぽつぽつと会話を重ねた。

 

「葛西さんがCD見つけたら、それを聞いてBGM決めていきましょうか」

「大道具もパッと見は大丈夫そうでしたけど、改めて確認しておきたいですね。パネルに足を付けてないですから、それもしておかないといけないです」

「簡単に決めたら、ステージで実際にタイミングを確認していきたいですね」

演者(キャスト)が早く舞台に立てるようになるといいですね。二時間の舞台はほとんどしたことがないので、みんなも大変でしょうし」

「確かに。僕達も、二時間も作業するのは意外と体力使うんでしょうね」

「使いますよ。ジブンは仕事で体験したことがありますけど、やっぱり時間が倍になるって楽じゃないです」

「やっぱりそうなんですか……」

 

 この掛け合いが、妙に心地よかった。

 少しだけぎこちなかった歯車が綺麗にかみ合ったみたいに、言葉が滑らかに口からこぼれだしていた。

 

「一カ月で、間に合うんでしょうか」

「ジブン達がやれるだけのことを、精いっぱいやり切るだけだと思います。きっと、みんななら成功させられると思います」

「……そう、ですか」

 

 ずっと、少しだけ不安だった。この舞台が本当に成功するのかどうか。

 

 初めて会った人達との合同、やったこともない二時間の台本で、自分がうまくやっていけるのかどうしても不安だった。

 高橋や柴田は「山科ならやれる」と言ってくれるけど、僕にはそんな言葉がどうしても信じ切れなかった。

 

 だけど、

 

「大和さんがそう言ってくれるなら、頑張れそうな気がします」

 

 まだ知り合って間もない彼女がそう言ってくれるのなら、僕は自信をもってこの舞台を彩っていけるような気がした。

 

 

 

 結局、僕達は十五分程度の休憩を挟んでから、葛西さんのところに戻った。

 

「あ、ちょうどよかった。今見つけたところだから、二人も聞いてみてよ」

 

 葛西さんは見つけたCDを嬉しそうに見せながら、CDカセットを操作していた。

 大和さんが葛西さんからCDのケースを受け取っていつの舞台の物かを確認する。僕はそれを横から覗き込んだ。

 

「あー、これはまだ見てなかったですね。涼さん、お願いします」

「任せて」

 

 葛西さんが再生ボタンを押すと、静かなギター曲が流れ出した。

 落ち着いた雰囲気で、寝る前とかに聞いていたいような雰囲気の曲だった。

 

 僕達は台本の話を読みながら、この曲と合わせるイメージをする。

 

「……いいんじゃないでしょうか?」

 

 最初に口を開いたのは、たぶん一番音楽に素養のない僕。

 軽く顔を上げて二人の様子をうかがうと、大和さんがわずかに顔を上げた。

 

「ジブンも良いと思いますよ。イメージに近い曲です」

「よかった。じゃあ、曲はこれで大丈夫そう?」

「はい。ただ、権利関係が不安なので、少し調べてから使いましょうか」

「そっか、確かにそうだよね。そっちは私がやっておくよ」

「よろしくお願いします。ジブン達はどうしましょうか」

 

 葛西さんが権利関係の確認をするというのなら、全員でやっていた演出の話し合いはいったん止めて個々で仕事を片付けるのがいいだろう。

 大和さんが僕と葛西さんの方を窺うと、葛西さんは「それじゃあ」と役者達の方を指さした。

 

「ちょっと向こうの様子見てきて貰っていいかな? 役者が決まったんだったら、残った人が裏方に回るんでしょ? 誰がいるか把握しておいた方がいいだろうし、特にお互いの学校のメンバーとは挨拶した方がいいと思うから」

「確かに。じゃあ、僕は様子を見てくるよ。オーディションは終わってるかな?」

「さっき弁当食べてるときに聞いた感じだと、演技自体は昼食べてすぐに終わるって。たぶん、今は話し合いしてる途中かもう決まってるくらいだと思う」

 

 午前中は練習していた役者側の人達は、今はもう雑談をしながら交友を深めているように見えた。

 高橋と新藤さんの姿は見えない。たぶん、別の場所で話し合いをしているんだと思う。

 

「ここまで真面目に進めてきたし、残りはゆっくりやっていけばいいと思うし」

「そうだね」

 

 幸いここまではテンポよく進んでいて、きっと今月中には大まかな方向性は決まるんじゃないかと思う。

 少なくとも一番時間のかかる、大道具や小道具の作成と捜索はいつでも始められる。

 

 僕はメモするために台本とペンを手に取った。

 

「じゃあ、案内しますね」

「お願いします」

 

 大和さんの後ろをついていきながら、僕達は部屋を出た。



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7/28(土) 「確信したこと」

 大和さんに連れられて部屋を出る。そこからしばらく移動すると、給水器やベンチのあるスペースが見えた。ちょっとした休憩スペースらしい。

 そこには、台本を見ながら話をしている高橋と新藤さんが見える。

 

「この役をこの人に任せて、こっちはこんな感じで……。どう思う?」

「悪くないと思うけど、私としてはこっちの組み合わせの方がいいと思うの。この二人は絡む場面が多いから、この二人ってきっと相性がいいんじゃないかと思うし」

「なるほど」

 

 現在は配役について相談しているようで、僕達が傍に来ていることにも気が付いていない様子だった。高橋の真面目な姿は幾度も見てきたけれど、いつも笑顔が絶えない新藤さんが真剣な表情をしているのは初めて見た。

 僕と大和さんは、しばらく立ち尽くしてから顔を見合わせる。

 

「……声かけていいんでしょうか?」

 

 小声で大和さんに尋ねる。

 話の腰を折るよりは切りのいいタイミングを見計らいたいと思うけれど、チラッと見える高橋の台本には配役がほとんど記入されていない。まだ確定していない証拠だ。

 

「一応、状況だけ聞いておきましょうか」

「そうですね」

 

 僕は頷いてから高橋の肩を叩いた。

 

「高橋」

「ん? うわっ!? 山科!?」

「え!? え、遥君に麻弥ちゃん!? いつから!?」

「ついさっきから、かな」

 

 リアクションの大きな二人を前に苦笑する。

 僕は台本を軽く持ち直しながら、表紙に書かれた配役欄を指した。

 

「それで、今はどんな感じ?」

「オーディションが終わって、今は話し合い中だな。たぶん、もう少しで終わると思う」

「大方は決まってるから。三十分以内に終わるとは思うな」

「分かりました。配役が決まったら教えてください」

「うん。……あ、みんなにもそう伝えておいてくれる?」

「はい、伝えておきますね」

「ありがと~」

 

 新藤さんの言伝を聞いてから、部室に戻る。

 後三十分くらいで終わるといっていたけれど、それで終わる気がしない。だけど、別に今日いっぱい使うほどでもなかったみたいだし、そこまで心配することはないだろう。

 

「とりあえず、部屋に戻って役者の皆に声かけましょうか」

「そうですね。役者側は二人の様子見に行けないでしょうし」

 

 オーディション受けてる人がその相談を聞いちゃうのは、なんとなくまずい気がする。

 後方から聞こえる話し合いの声が遠のくのを感じながら、僕達は部室に戻った。

 

 

 

 部室に戻ると、柴田が僕の方にやってきた。

 

「高橋のとこ行ってたんだろ? 後どれくらいかかるって?」

「三十分。でも、もうちょっとかかるような予感がしてる」

「そうか」

 

 それだけ伝えると、「話は変わるが」と柴田がスマホを出した。

 

「劇団の人紹介するって話しただろ?」

「え? ああ、うん」

 

 柴田の知り合いの裏方の人に、プロの裏方の人達の様子を見せてもらうって話だ。

 

「今、ちょうど劇団ファンタジアの宮川タカユキさんがやってる舞台に関わってるらしくて」

「え? 宮川タカユキさんって、演出家の?」

 

 宮川タカユキといえば、数々の舞台を手掛けてきた人物だ。

 僕も柴田と一緒に見に行ったことがある。普段は照明等にしか目がいかない僕ですら、あのときはそんなことを考える余裕もない程に舞台にくぎ付けにされていた。

 

「そうだ。今忙しい時期だけど、一日だけ見学ってことで予定が開けられるらしくて。8月2日だから……来週の木曜だが大丈夫か?」

「うん、強いて言えばこれの準備だけど……」

 

 と言葉を継いで大和さんの方を見ると、大和さんは「大丈夫ですよ!」と頷いた。

 

「一日くらいなら全然問題ないですし、あの宮川タカユキさんの舞台で裏方やるような方のお話なら、きっと身になると思います! なんなら、ジブンが行きたいくらいです!」

 

 大和さんが羨ましいと尊敬が同時にこもった表情をしているので、僕は柴田を見た。

 

「ねえ、柴田」

「ん? 大丈夫だぞ。一人も二人も変わらん」

 

 何も言ってないが、用件は伝わったらしい。

 

「それで、あんたも行けると思うが、来るか?」

「え? あー、ジブンはその日パスパレの活動で行けないんです。本当に残念ですが……」

 

 先ほどの興奮した表情とは一転、表情を暗くして肩を落とす。

 

「まあ、ジブンのことはお気になさらず。山科君は行ってきていいと思います。今の進捗状況なら、二人が欠けても十分仕事は回ると思いますし」

「そうですか? ……じゃあ、柴田、頼んでいいかな?」

「そう伝えておく」

 

 柴田がメッセージを打ち始める。

 横では「そういえば」と大和さんが呟いた。

 

「宮川タカユキさんといえば、千聖さんが舞台に出てた時の方でしたね」

「千聖さんって、パスパレのメンバーの人っていう? 舞台にも出てたんですね」

「千聖さんはもともと子役で芸能界に入って、音楽はパスパレが初めてだったはずです」

「へぇ」

 

 確か、モデルをしていた子もいると言っていたし、パスパレというグループの活動範囲は広いのかもしれない。

 

「ジブンも千聖さんが出るということで見学させてもらったことがあるのですが、やはりプロの舞台は作りこみが全然違いますね。ジブンも頑張っていたつもりでしたが、まだまだ未熟だなと感じました」

「そんなにですか……」

 

 普段は客席側から見ているだけだから分からないこと、というのはある。

 そういった、普段は見えない部分を知ることができるのは貴重な機会だ。

 

「……なあ、今、千聖って言ったか?」

「え? ああ、はい」

 

 メッセージを打っていた柴田が、大和さんの方を見ていた。

 

「それって、あの白鷺千聖? 知り合いなのか?」

「はい。Pastel*Palettesというバンドのメンバーで」

「ああ、そういえば白鷺千聖がバンドを始めたというのは知ってたが……」

「おや、千聖の話をしているのかい?」

「ん? なんだ、お前も知ってるのか、瀬田」

 

 柴田の後ろから声をかけてきたのは瀬田さんだった。

 

「千聖は私の幼馴染さ。……と、克之」

「どうした?」

「あの二人が熱く語らっているのなら、私達はダンスでもどうかと思ってね」

「普通に練習しようって言ったらいいだろ」

 

 疲れたように柴田がツッコミを入れると、こちらに振り向いた。

 

「まあ、連絡はしておいたからまた追って連絡する。……山科の連絡先教えてていいか?」

「いいよ」

「分かった。直接来るかもしれんから、そのつもりで」

「ありがとう」

「気にすんな」

 

 柴田が瀬田さんの肩を叩いて「いくぞ」と声をかけて役者達の輪の中に戻っていく。

 いつもはあんまり人と関わるのが得意ではない方だけれど、様子を見ている感じだと心配する必要はなさそうだった。柴田も柴田なりにやっているのだろう。

 

「山科君、宮川タカユキさんの舞台を見学しに行くなんて、すごいですね」

「そうですね。柴田には感謝しなきゃ」

 

 有名な演出家の舞台の裏方を見せてもらえるなんて凄く嬉しい。鼓動がいつもより早くなっているのが、手を当てなくても分かった。

 少し落ち着くために、胸に手を当てて軽く深呼吸をした。

 

「…………うん」

 

 後、一週間も待っていられないかもしれない。

 

 

 

 その後、役者が決まったのは僕達が予想していた通り一時間後だった。高橋と新藤さんが申し訳ないと謝っていたが、納得いく結果になったのならそれでよかっただろう。

 葛西さんが確認していたCDについても、インターネットにあるフリー素材だったため、今回の使用に関しても問題なかった。

 

 役者が決まって時刻は4時を過ぎ、キリがいいタイミングだったのもあって今日は解散、ということになった。

 オーディションに落ち、裏方になった人達との顔合わせも行えたので今日の成果としては十分ではないかと思う。

 

「疲れた……」

 

 リビングにあるソファに沈みながら、ぼうっと天井を眺めた。

 

 今日から活動が始まり、初日にもかかわらず忙しなく動いていた。きっと、これからもあれこれと忙しく動き回ることになるのだろう。

 そうなれば、疲労は今日の比ではないはずだ。一応、裏方の責任者みたいなものだから、他の人にも目を配らないといけないだろうし。

 

「でも、きっと大丈夫」

 

 少しめげてしまいそうな心に、そっと言い聞かせる。

 昨日までの僕ならダメだったかもしれないけれど、今の僕には大和さんの言葉が残っているから。

 

「皆で頑張れば、きっとうまくいく」

 

 僕は、僕のできる努力をすればいい。

 僕ができるすべての力を以ってこの舞台で出来ることをすればいいはずだ。

 

 体勢を変えず、ポケットからスマホを取り出した。開いたメッセージアプリには「大和麻弥」の名前が表示される。

 これから連絡する機会が多くなるだろうからということで連絡先を交換したのだ。

 

「……よろしくお願いします、とか送った方がいいのかな」

 

 連絡先を聞いたタイミングからずっと考えているけれど、7時を過ぎた今になってもメッセージは送れていない。

 入力欄に『これからよろしくお願いします』とか『お疲れ様でした』とか『明日も頑張りましょう』とか『ご機嫌麗しゅう』とか、いろんなメッセージを入力しては消す作業を繰り返す。

 

「あー、もう分かんない。送らない方がいいかなぁ……」

 

 結局、メッセージを送るのを諦めて体を起こすと、兄さんが奇妙なものを見つけたようにこちらの様子をうかがっていた。

 

「…………」

「な、何?」

「さっきから変だぞ、お前」

「そ、そう?」

「ああ」

 

 兄さんはこちらを見たまま、リモコンを手に取って録画していたらしい番組を一度止めて返事をした。

 テレビでは銀髪の女の子が鍵盤を肩にかけてキーボードを演奏している姿が映っている。どこかで見たような気はするが、思い出せない。

 

「部活で何かあったわけ?」

「んー、まあ、ね」

 

 どう説明したらいいのかも分からないので適当に言葉を濁した。

 そもそも兄さんは青蘭卒だから女子と関わってる機会はほとんどない。下手に女子と一緒に部活することになった、なんて説明した日には締められそうな予感がする。

 

 兄さんが訝し気な顔で口を開くよりも早く、僕はテレビの女の子を指さした。

 

「ね、ねえ。その人って誰?」

「これか? イヴちゃんだよ。pastel*palletのキーボードの子で、武士道が好きなんだよ」

「武士道が好きな、イヴさん……?」

 

 それ、どっかで聞いた気がする。

 いつも「ブシドー!」って口癖にしてて、いろんな部活に入ってて、何でも全力で取り組んでいる凄い子が――

 

「――あ! パスパレだ!」

「なんだよ、知ってたのか」

「え、あ、いや、これは大和さんに教えてもらったからってだけで……」

 

 その瞬間、冷汗が伝った。

 兄さん相手に名前を出すのはまずい気がしてきた。

 

「大和さん?」

「あー……」

 

 跳ねるようにソファから立ち上がって、一瞬で兄さんとの距離を開ける。

 

「いや、本当に何でもなくって! ちょっと部活の人に教えてもらっただけだから別にそんな大したことがある話じゃなくて!」

 

 とりあえず言い訳を始める。

 だけど、兄さんは「嘘つけ!」と僕を指さした。

 

「お前、さん付けしてるってことは女子だろ! 女子と連絡とるので悩んでたんだろ! ……その、大和って女子と! ……大和?」

 

 兄さんはハッとした顔でリモコンを手に取って録画を再生し始めた。

 すると、テレビの中でドラムをたたいている短髪の女の子が登場した。眼鏡こそないものの、間違いなく大和さんだ。

 

「大和麻弥。やっぱり麻弥ちゃんの名前って大和だよな……。おまけに部活は演劇部、だったか」

「き、気のせいじゃない?」

「挙動不審になりながら否定しても、説得力ねぇよ」

「うっ……」

 

 全部見破られてる。

 これ以上の言い訳は思いつかず、僕は両手を挙げて降参の意を示した。言い逃れてもいいが、これまでの反応を見る限りどうしたって無理だろう。

 

「それで、本当に麻弥ちゃんと知り合ったのか?」

「演劇部の活動でたまたま知り合いになって……」

 

 あんまり聞かないでよ、と少しにらみを付ける。兄さんも視線の意味を理解したのか「落ち着けって」と苦笑しながら僕をなだめてきた。

 アイドルオタクとして過激な姿をよく知っているから、我が兄ながらあまり信用ならない。

 

「とりあえず、難しいことは言わん」

「いや、いきなり何を頼もうとしてるのさ」

「何言ってんだ! 弟が推しのアイドルと知り合いになったんだぞ! このチャンスを逃す理由があるのか? いや、ねぇよ!」

「う、うるさい」

「まずは、サイン貰ってきてくれ! 頼む!」

「え、えぇ……?」

 

 「何でもするから!」と無駄にキレのある動き方で兄さんが頭を下げた。その姿はいつになく真剣で、大学受験の時よりも気合入ってるような気がする。

 ……でも、大和さんについて知るには兄さんに聞くのが一番早いはずで、それなら兄さんに恩を売っておくのも悪い話じゃないのかもしれない。

 

「じゃあ、代わりに、パスパレのことを教えてよ」

「それでいいのか?」

「僕は全然知らないし」

「おう、任せろ!」

 

 兄さんは再生していたビデオを終了して、DVDを出してきた。

 

「それは?」

「俺が集めた、パスパレのビデオだよ。特に麻弥ちゃんについて集めてる分」

「編集したの?」

「まあ、個人用なら大丈夫だしな。これのために動画編集の勉強したんだぜ?」

 

 自信満々に話しながら、DVDをセットしている。

 僅かに読み込む時間がかかってから、ドラムをたたく大和さんの姿が映った。

 

「麻弥ちゃんはパスパレのドラマーだ。もともとはスタジオミュージシャンをやっていて、ドラムの腕は贔屓目なしで一級品。スタッフからアイドルになった経緯は、シンデレラストーリーだって有名な話だな」

「それは本人も言ってた」

 

 兄さんの解説に合わせるように、テレビの向こうの大和さんがドラムパフォーマンスを行っている。いや、動画が合わせているんじゃなくて、兄さんが編集した内容を思い出しながら内容に合わせて喋っているだけだ。

 

「パスパレは演奏できるアイドルだけど、ベースはパスパレをきっかけに始めてる初心者、キーボードもブランクありだから、技術レベルの話をするとそんなにうまくない。最初の方はマジで俺の方がうまかったと思う」

「え、そんなのでいいの?」

「良くはないな。……まあ、初期はいろいろあったからなぁ。とりあえず、その辺は置いておこうか」

「う、うん」

 

 最初はそんなに大変だったんだろうか?

 

 そんなことを考えている間に、映像はドラムを叩いているシーン集からバラエティ番組に出ているものに変わっていた。

 

「テレビに出るようになったのは割と最近だな。デビュー自体もそんなに昔ってわけでもないし。むしろ、短期間でこんなに露出が増えたのは凄いよな」

「テレビにも出てたんだ……」

 

 僕の知っているはずの大和さんは表に立つのが得意そうではなかったから、こうして大勢の前でドラムの演奏をしている大和さんの姿は異様な光景に見えた。

 

「麻弥ちゃんはもともとスタジオミュージシャンだったり、本人が機材オタクを自称していることもあって、そういう連中向けの雑誌に出ることが多かったんだが、ある特番がきっかけでクイズ番組へのオファーが増えたな」

 

 映像が少し早送りされ、森の中を歩き回っている大和さんの映像に切り替わった。

 ナイフを持って果実を回収したり、本を片手に周りへ指示を出している。

 

「これは?」

「パスパレのメンバーが無人島でサバイバルをするっていう特番。この時の麻弥ちゃんは凄かったんだぜ? スタッフが用意してたミッションを、発表される前にクリアしていってさ」

「へぇ」

 

 しっかり者だとは思っていたけれど、そういった姿を見ることはなかったのであまりイメージができずにいる。

 しばらくドタバタ珍道中を経て、ピンク色の髪の女の子が大声で新曲の告知を叫ぼうとしたところで次の映像に切り替わった。

 今度はクイズ番組みたいだ。

 

「こっちはクイズ番組に出た時の。時事ネタはあんまり得意じゃなかったみたいだけど、雑学的な知識やパズル系の問題はサクサク解いてたよ」

 

 画面の向こうでは、さっき兄さんが話していたパスパレに所属する経緯の話をされ、恐縮している大和さんがいた。

 作業等で出てくる私服も可愛い系の物がないため、アイドルの衣装を着ている大和さんの姿に違和感を感じてしまう。

 

「普段の麻弥ちゃんってどんな感じなんだ? やっぱり、テレビで見たまんまだったりするのか?」

「うーん……」

 

 答えが、すぐに出てくることはなかった。

 

 そもそも僕と大和さんが出会ったのは一週間前だし、一緒に話している日数は二日しかない。僕は()()()()大和さんを語ることができるほど、彼女のことを知らないのだ。

 もしかすると、アイドルとして追いかけてきた兄さんの方がよっぽど大和さんのことを理解しているかもしれない。

 

「どうなんだろう……」

 

 僕が知っているのは、裏方が好きで、機材が好きで、ついつい熱くなり過ぎちゃって、舞台に一生懸命に頑張れる女の子、ということだけ。

 

 無意識にテレビを見つめれば、画面の向こうでは慌てながらもクイズに正解して胸をなでおろしている大和さんの姿が映っている。芸能人という縁遠い世界の人のはずなのに、画面の中での一挙一動がずっと目の前で見てきた大和さんの姿そのままだった。

 

「……あ」

 

 機材の話を振られて、勢いよくMCの人に語っている姿は、僕にパスパレのメンバーについて話している時とそっくりだった。

 練習風景でメンバーの演奏にアドバイスを送っているのは、裏方の責任者として話をしている時と同じだった。

 

 テレビの中にいるアイドルと、僕が知っている大和さんが徐々につながっていく。

 大勢の人の前でドラムを演奏している姿も、裏方として役者をより魅せる方法を考えている姿も、アイドルとしての可愛い服を着ているところも、制服で周囲に指示出しをしているところも。

 

 それに気が付いてしまえば、違和感はなくなっていた。

 

「……きっと、イメージ通りだよ」

 

 彼女は、アイドルで裏方の女の子だ。どっちかが彼女という訳でもなく、どっちもあって大和さんになるんだ。

 僕が知っていたのは裏方としての大和さんで、みんなが知っていたのがアイドルとしての大和さんだった、というだけ。

 

 僕はスマホを取り出してメッセージアプリを起動する。そして、『テレビに出ている姿、見ました』と、何も考えずにそれだけ送信した。

 すぐに既読の表示が出てきて、メッセージが追加された。

 

< やまとまや

今日

      
既読

22:43

テレビに出ている姿、見ました

そうなんですか? 22:44
      

何か出てましたっけ? 22:44
      

      
既読

22:45

兄さんがパスパレの出演番組をまとめてて

お兄さんが?ちょっと恥ずかしいですね 22:45
      

      
既読

22:45

クイズ番組とか、無人島のを見ました

……へんなところ、なかったですか? 22:46
      

Aa          

 

 大和さんの質問に一瞬詰まったが、僕はすぐにテキストボックスに文字を入力していく。

 

「これでよし」

 

 送信ボタンを押して、メッセージが表示された。

 ちゃんと既読が付いたのを確認したところで、兄さんがスマホを覗こうと近付いてきた。

 

「なんて送ったんだ?」

「秘密」

「なんだよ、麻弥ちゃんのこと教えてやっただろ?」

「それはサインでチャラだから」

 

 すぐに電源ボタンを押してロック状態にする。

 

「恥ずかしいから、絶対に教えない」

 

 手に持ったスマホがバイブレーションして、ロック画面に大和さんからのメッセージが表示された。

 兄さんにはバレないように内容を確認する。

 

「おい、にやけてるぞ」

「にやけてないし」

 

 澄ました表情を作ろうとするけど、多分兄さんが言った通り、今の僕は表情がにやけてしまっていると思う。

 だけど、今だけは許してほしい。

 

「教えてくれてありがと。サインの件は聞いておくから」

 

 兄さんにそれだけ言って自分の部屋へ逃げる。

 

 

 

 今の僕の大和さんへの気持ちがどういうものなのかは、僕にもよく分からない。

 

 恋と呼ぶにはきっと弱すぎるけど、ただの友人というにはいささか甘すぎた。

 これを“()()”と表現するのは間違いないかもしれないけれど、想い人なのかファンなのか仲間なのか、その区別がついていない。

 

 だけど、一つだけ確かに言えることは、

 

「ふ、ふへへ…………なんてね」

 

 これからも大和さんと一緒に舞台をやっていけることがたまらなく嬉しい、ということだけだ。




大和さんのイベントに「舞台裏のメソッド」というのがあります。
本作を気に入っていただけた方ならきっと好きになれるだろう、羽丘演劇部をメインにした裏方の物語です。

この話はイベントよりも前に投稿していまして、この作品の相違点が出てきてしまいました。ですが、特に設定に修正等はしないつもりです。もう遅いので……。
先に書こうとすると、こういうところで問題が出ちゃうんですよね。


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7/29(日) 「君までの距離」

 見慣れた景色が流れていく。

 

 羽丘は僕の家と青蘭の間にある。電車の駅でいうなら僕の家・羽丘・青蘭の順だから、羽丘は定期券の利用圏内だ。青蘭は夏休み期間中も夏季授業があり、定期券は継続しているので羽丘への交通費はかからない。

 交通費がかからないというのは、お金のない高校生にはありがたい限りだ。

 

 一駅過ぎてちょうど電車が止まり、人が乗り降りするタイミングで空いた席に座る。今日は妙に早起きしてしまったせいで少し眠い。着くまでに数駅はあるので、先に少し寝ておくことにしよう。

 

 足元に下ろしていたリュックを持ち上げて、抱き込むようにして体を丸める。

 後は黙って目を閉じれば、ぐっすり眠れ――

 

「あれ、山科君?」

 

 ――なかった。

 

「や、大和……さん?」

「おはようございます。山科君もこの電車だったんですね」

 

 そこにいたのは、まぎれもなく大和さんだった。

 僕に手を振って隣の席に座ると、イヤホンを外してカバンにしまった。

 

「山科君もこの電車を使ってたんですね」

「はい。いつもはもうちょっと遅いんですけどね」

 

 早起きしたこともあって、今日は少し早めに家を出た。

 いつもはこの時間には乗らないけれど、席はいつもより空いているし起きれるならこの時間に出るのは悪くないかもしれない。

 

「大和さんはいつもこの時間なんですか?」

「はい。ジブンは、いつもこの時間のこの車両ですね。ここからだと、降りやすいので」

「そういうのありますよね」

 

 降りる時に都合のいい場所で乗るというのは僕もやる。実は青蘭の最寄り駅で降りる時も、この車両に乗っておくのが一番都合が良かったりする。

 

「そういえば、昨日は夜にメッセージ送っちゃってすみません」

「いえいえ。こちらこそ見てくださって嬉しいです」

 

 お互いに頭を下げ合う。

 改めて調べてみるといろいろな番組に出演しているらしく、僕としては今までパスパレのことを全く知らなかったのが申し訳なくなってくるほどだった。

 

 アナウンスが流れ、扉が閉まる。

 出だしの衝撃に少し体を揺らし、電車は再び動き出した。

 

「知ってる人がテレビに出てるのって初めてなんで、なんだか不思議な感じでした。兄さんはパスパレのファンだったみたいで、すごい興奮してましたよ」

「そうなんですか?」

「はい。……それで、実はお願いがあるんですけど」

 

 僕が恐縮しながら大和さんの方を見ると、大和さんは思い当たることがあるような、納得した表情を浮かべた。

 

「サインですか?」

「ええ。他の皆さんの分もお願いしたい、って。……できるんですか?」

 

 よく知らないけれど、アイドルのサインをこんな方法でもらっていいのだろうか。事務所とかに文句言われないだろうかと不安になってくる。

 

「そこは一応確認してみますね。大丈夫だったら、皆さんにお願いしてみます」

「すみません、ありがとうございます」

「気にしないでください」

 

 快諾してくれたことに礼を言ったところで、大和さんが「あ」と声を上げた。

 

「山科君の分も欲しいですか?」

「僕の分、ですか?」

「はい。今のはお兄さんの分、ということだったので」

 

 それは全く考えていなかった。

 

「えっと……」

 

 兄さんの分もあるし、そもそもパスパレのことを全く知らなかった僕がもらってもいいのだろうか?

 

「そんなの気にしないでください。まだジブン達のことが知られていないなら、ジブン達はそれ以上にパスパレのことを知ってもらえるように頑張るだけですから」

 

 そこには、誰かに届かない、という気持ちはないように見えた。

 必ず、すべての人達にパスパレの音楽が届くと確信しているような表情。そこには何の理由付けもなかったけれど、不思議とうまくいくのだろうと感じた。

 

 気づけば、言葉は自然と口に出ていた。

 

「……なら、大和さんのサインをください」

「ジブンの、ですか? 他の皆さんのは?」

「大和さんのだけでお願いします」

 

 「それでも、大丈夫ですか?」と、大和さんの方を伺ってみる。

 

「その、こういうのもあまりよくないと言われているんですけど……ジブンのでいいんですか?」

「大和さんのが、いいんです」

 

 大和さんや兄さんから聞いて分かるように、他の人もきっと素敵な人達で多くのファンに元気を与えているのだろうと思う。

 だけど、結局のところ僕は他の人達を知らない。

 

 僕がこの舞台で自信をもって頑張れるように応援してくれたのは大和さんで。大和さんだからこそ、僕はその証がほしいと思った。

 僕が大和さんに出会って、確かに勇気をもらえたのだという、その証を。

 

「……分かりました。山科君の分もお渡しできるように聞いてみます」

「わざわざ、ありがとうございます」

 

 大和さんはスマホを取り出して、どこかにメッセージを送った。早速、確認の連絡を飛ばしてくれたらしい。

 

「分かったらまた連絡しますね」

「お願いします」

 

 そして、アナウンスが鳴った。

 次が羽丘の最寄り駅だ。

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

 僕達は荷物を持って立ち上がった。

 

 

 

 

 

 今回の舞台「Binary Star」はとある公園を舞台にして物語が進行していく。

 試合帰りの高校生、ストリートライブをするバンドマン、リストラを家族に告げられない中年男性、近所に住む主婦等々、公園を訪れる人々の群像劇だ。

 

 場転はなく、この公園だけで物語は進む。

 気を抜く暇など一切存在しない、二時間の体力勝負になることは考えるまでもなかった。

 

「役者も決まったことですし、今日は細かい小道具類について話し合いましょうか」

 

 昨日の時点である程度の音響と照明、大道具についての話し合いは終わっている。

 これは別に確定したという訳ではなくて、役者の演技等によって今後変わることもある。

 

 今回の小道具は特に役者に影響される要素が大きいので後回しにしていたが、役者が決まったので考え始めることができるようになった。

 とりあえず役者の決まった台本を眺めてみると、すぐにあることに気が付いた。

 

「……僕、羽丘の人のこと全然知らないです」

「ジブンも青蘭側の方は全然分からないですね」

「まあ、まだ始まったばかりだしね」

 

 役者のイメージが分からなければ決めるものも決められない。

 担当を作って知っている人が決めてもいいが、せっかく一緒にやっているのだからできれば三人と役者本人で決められると嬉しい。

 

「じゃあ、最初は役者の方を見に行ってみます?」

「そうですね。今は、読み合わせの途中でしょうか?」

「だと思います。柴田が意気揚々と台本持っていくのが見えたので」

 

 席を立って役者側の方を見に行くと、そこでは役者が円を作って読み合わせをしているのが見えた。

 そこから少し離れたところでは、裏方になった人達がベンチやパネルを綺麗にしている。少し剥げていた塗装を修復する作業をしてもらっていて、今のところは順調に作業が進んでいるみたいだ。

 

「うん、読み合わせしているみたいですね」

「じゃあ、少し見に行ってみましょうか」

 

 台本だけ持って役者達の近くに移動する。

 今はちょうど柴田と瀬田さんの二人の場面になっているらしく、二人が台本と相手を見ながら読み合わせをしていた。

 

座りますか?

ありがとう。ちょうど足が痛くて痛くて。ヒールで走るもんじゃないわね

うわ、たっか……すごく走りにくそうですね

まあね。君のは走りやすそうでいいわね。部活帰り?

大会の帰りです。あっちの運動公園でテニスの大会があって

あー、あそこね! 分かるよ、私も大学でテニスサークル入ってるから

 

 いつもは少し不機嫌気味で固定されている柴田の顔が、今は少し自信なさげな青年のものになっていた。瀬田さんの方もいつもの王子様然とした独特な口調はどこにもなく、とても女性らしい雰囲気を感じさせてた。

 瀬田さんは王子様的なキャラしかやらないのかと思っていたが、こういう女子大生の役をやることもあるらしい。それが、とても意外だった。

 

「薫さんは、演技に関してはストイックな人ですよ。きっと、今回も素敵な演技をすると思います」

「へぇ……すごく信頼してるんですね」

「まあ、薫さんはうちの花形ですし。山科君だって、柴田君のことを信頼しているんじゃないですか?」

「そうですね。柴田はきっと、瀬田さんに負けないくらい演技には真摯ですから」

 

 今日は読み合わせの初回。

 

 一回目の読み合わせの時点ではほとんどの役者が台本を見たままでしゃべることが多い。台本の内容を覚えきれていないからだ。しかし、先ほどから二人はお互いを見合っている。それはつまり、二人が台本の内容をある程度覚えていることの確かな証拠だ。

 一日もない間に、柴田は必死になって練習してきたんだろう。そうやっていつも頑張ってきた姿を知っている。

 

 他の役者の番も聞きながら簡単にではあるけれど、台本の隅にメモを取っていく。

 キャラのイメージはもちろんだけど、役者の雰囲気や出てくる場面の雰囲気も併せて記録しておかなければいけない。

 もちろん今回が初回の読み合わせであるから、キャラの雰囲気などはこれから大きく変わることも多い。しかし、とっかかりとして理解するのは大切なことだ。

 

 場面が徐々に進み、コメディからシリアスな場面に切り替わる頃だ。

 この二つの場面のメリハリをつけることは、今回の舞台の重要なポイントに関わってくる。

 

じゃあ、それなら私はどうなるっていうの!

 

 瀬田さんの怒号が聞こえて、思わず顔を上げた。

 

 先ほどまでは年下の男の子をからかう大人の女性だった。しかし、今は歯を食いしばって憎悪の色さえも感じさせるほどに表情が歪んでいた。

 周囲の空気が一気に張り詰めたのが分かる。

 

君がそんなこと言ったら! 私は! いったい何のために頑張ってきたっていうの?

 

 瀬田さんとはほとんど話していないけれど、彼女もきっと柴田と一緒なのだろうと思った。

 

 この表情は即興で作りこめるほど単純なものではないことくらい、演技に疎い僕にだってわかる。きっと、役が決まってから読み合わせまでにしっかりと読み込んで、役のイメージを少しでも固めてきたのだろう。

 ふと柴田の方に目を向けると、その瞳には熱が灯っていた。

 

じゃあ、無駄だったんですよ! 僕も! 貴女も! 結局、時間を無駄遣いしてきただけなんだ!

 

 僕が柴田を部活のターボエンジンと呼ぶ理由はこれで、初回からこれだけの演技を見せられれば、どんな役者だってやる気に火が付く。部活に本気で打ち込んでいる人も、ちょっとした趣味程度の人も、その人が役者である限りこの胸の高鳴りには勝てないはずだ。

 

 今回は瀬田さんと柴田という、二人のターボエンジンがいる。

 この舞台でも中心のキャラを演じる二人が、この舞台の演技レベルを向上させるだろう。

 

こらこらこら、ちょっと熱くならない。どうしたんだよ二人とも

 

 そこで、他の役者のセリフが入る。

 僕が大和さんと話していた時よりも役に近付いている気がした。いや、もしかすると、少しだけ役者自身の本音が混じっていたのかもしれない。

 

「……あ、もうこんな時間」

 

 不意に時計が目に入り、読み合わせを聞き始めてから舞台の半分以上を聞いていることに気が付いた。

 

 チラリと役者を見渡す。少しだけ聞いているつもりが、それなりの時間が経過してしまっている。少なくとも羽丘側の生徒の様子を知ることができたのなら、僕は撤退しても構わない。

 僕は大和さんと葛西さんの二人に近付いた。

 

「……僕はとりあえず大丈夫だけど、二人は?」

「私も大丈夫かな」

「ジブンも、最低限は把握できたと思います。細かいところは、また後で本人を呼んで相談しましょう」

 

 小声で話すと、そっとその場を離れる。

 役者や監督達は、読み合わせに入り込んでいて気付く様子もなかった。

 

 

 

 

 

 役者側はまだ読み合わせの後の話し合いが終わらないようで、裏方の方は先に昼食を取っておくことにした。

 

 パネルやベンチを修復していたみんなは作業をしながら仲良くなったようで、その面子で昼食を食べに行ってしまった。葛西さんは昨日と同じで弁当派の人達と部室で食べるらしい。

 結局、一緒に食べる仲間もいない僕と大和さんは二人で食堂で食べることになってしまう。

 

「みんなが仲良くなったのは良いんですけど、なんで僕達は仲間外れにされてしまったのか……」

「あ、あはは……なんででしょうね」

 

 なんとなく面白がられて二人にさせられたんだろうということは、考えなくたって分かった。

 現に、少し離れたところで僕達の方を見て面白がっている見知った顔がいるからだ。……修復終わったら、絶対に面倒な仕事させてやる。

 

「…………はぁ」

「ま、まあ、気にしないようにしましょう」

「そう、ですね」

 

 苦笑している大和さんを見つめる。

 

 どうやら何人かは、僕と大和さんがそういう関係になるのではないかと面白がっているらしい。確かに、僕にそういった気持ちが全くないと言うと嘘になるだろうけど、大和さんはどうなんだろうか。

 大和さんは僕のことを“男子になったジブン”と評してくれた。ならば、この気持ちもすらも、僕達の共通項になるのだろうか。

 

 ……いや、止めよう。

 

「冷めちゃいますし、食べましょうか」

「はい。いただきましょう」

 

 思考を止めて、大和さんとの昼食に専念することにした。

 どれだけ考えたところで分かる話ではないし、仮に好き合っていたとしても戸惑いが先に来て素直に喜べる気がしなかった。

 

「大和さん、やっぱりまたうどんですか?」

「安くて早いですからね」

 

 そもそも、こちらに向いている視線を除けば、大和さんと二人で話す時間があるというのは悪くなかった。周囲に気にすることなく機材の話を聞かせてもらうことができるから。

 

「そういえば、作業してて思ったんですけど、羽丘の演劇部は割と用語を多用するんですね」

「そうですか? ジブンはあまりそこまでだとは思わなかったんですけど……」

「僕のところが少ないからかな?」

 

 業界というものがあれば、用語というものが出てくるのは必然だ。

 演劇の世界も歴史がそれなりにあるので、用語もそれなりに存在している。

 

「分からない用語とかありました?」

「いえ、用語は使わないだけで把握はしてますけど」

 

 大会ではプロのスタッフさんに手伝っていただくことがあり、そうした時には用語が当たり前のように出てくるので理解はしている。でも、普段使う理由はないので、部活の時は特に用語を使うことはあまりない。

 

「普通に使うものなのかな、と」

 

 こういうことを言うのはよくないかもしれないが、高校生の間の部活動としてでしか関わらない世界の専門用語をここまで覚えて使うのだろうか。

 ……いや、なんだかんだで覚えているわけだし、使うところは使うか。

 

 羽丘の演劇部は世間一般の演劇部とは雰囲気が違いすぎるので、なんとなく先入観があったかもしれない。

 

「ジブンは仕事の方でも多少使いますから。なので、皆さんが使うのもジブンの癖が移ってしまったのかもしれないですね」

「なるほど」

 

 大和さんはアイドルになる前にはスタジオミュージシャンだったらしいし、現場のプロということになるのだろう。

 

「そういえば、どうして大和さんはスタジオミュージシャンになろうと?」

「どうして、ですか?」

「はい。スタジオミュージシャンといえども、舞台に立つ場面もあるでしょうし。こういうのもどうかとは思うんですけど……」

「ジブンが表に向いてる人間には見えない、ですか?」

「あー……はい」

 

 本人に言い当てられたので肯定する。

 僕や大和さんはあまり表舞台に立つ方のタイプではないと思う。それは別に嫌いだからとかではなく、それ以上に裏方が好きであるはずだから。

 

「確かに、ジブンも表に出るよりは裏で仕事をするのが好きですし、性にあってると思います。でも、どこか変わりたいと思っているジブンもいたんです」

「変わりたい?」

「はい。……あの時の、引っ込み思案だったジブンから、もっと一歩先に踏み出せるジブンに」

 

 その言葉に、妙な反抗心を抱いた。

 

 別に、表に立つのがつまらないとか良くないとか、そんなことを思っているつもりはない。僕だって脇役で舞台に立ったことがあるけれど、あの時の胸の高鳴りを覚えている。

 あの感覚のために舞台に立っている人がいるのを、僕は確かに受け入れているはずだ。

 

 でも。……いや、だからこそ。

 

 大和さんにそう言われてしまったことに対して、どこか黒い感情を抱いていた。まるで、裏切られてしまったような、身勝手な気持ち。

 

「少し、意外でした」

 

 僕は、自分の内の黒い感情を出さないように言葉を選んだ。発した言葉に僕の心がチューニングされて、少しだけ気持ちがフラットに戻る。

 気持ちを落ち着けるなんて、簡単な即興劇(エチュード)みたいなものだから。

 

「山科君は、そう思ったことはないですか?」

「僕、は……」

 

 僕は表に立ちたいと思ったことがあるのだろうか?

 

「……ない、です」

 

 僕は舞台に立つよりも裏方でいるのが好きだ。あの、客席の上から舞台を見ていたいと思っている。

 自分がステージに立つ側になりたいなんて、思ってもみなかった。

 

「舞台の上でライトを浴びて、メンバーと一緒に演奏するのはすごく楽しいです。ジブンはバンドというものに憧れていましたから、余計に今のパスパレの活動が好きなんです」

 

 大和さんは僕のことを似ている人だと表現したけれど、それはきっと間違いだ。

 

「へぇ」

 

 僕達の間には大きな差が確実にある。

 それは、僕達の中ではあまりに重要過ぎる要素だった。

 

 この気持ちは共感なんかじゃない。

 僕と大和さんは別の人で、決して似た者同士でも何でもなくて。

 

 ……それなら、

 

「なおのこと、ライブが楽しみになってきました」

 

 僕が大和さんへ抱いているこの気持ちは、いったいなんだっていうんだ?




今までのエピソードでは「共通点」をメインに描いてきたので、ここからは少しずつ「二人の差異」も描けていければと思います。

僕が演劇部だった時は、最近作られた作品や部で作った脚本をやることが多く、少なくともシェークスピアの舞台をやってるところは見たことなかったですし、用語を多用するほどのこともなかった印象です。
なので、羽丘の演劇部は山科君(作者)の視点からいうと、ちょっと変わった演劇部みたいに描かれ続けると思います。


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7/30(月) 「始動」

 窓の外から見える入道雲は、山の向こうから西の空を覆うように伸びていた。

 教室に吹き込んでくるぬるい風がページを勝手にめくり、ノートの端がパタパタと音を立てる。半袖から伸びた白い腕はじわりと汗をにじませ、定期的にズボンで汗をぬぐう。

 

「暑い……」

 

 七月も終わるこの時期の昼間は暑い。特に今日は天気もいい分、気温がいつもより高くなっている。

 校舎の外から聞こえてくる車や蝉の声をBGMにして、板書された内容を必死にノートに書き写していく。

 

「えーっと、この和歌にはいくつもの技法が使われていて、そのひとつ目が文章中で触れられている、カキツバタ、を頭に持ってくることだ。こうした、和歌の各句の先頭に特定の言葉を置いて詠む技法を、折句という」

 

 先生が各句の先頭を丸で囲うのを見て、ボールペンで同じように囲って“折句”とメモをしてボールペンを机に放り投げた。

 

「この和歌には、他にも多くの修辞法が使われていて、これから順番に説明していくぞ」

 

 昨日の大和さんの言葉が、僕の心のどこかに詰まったままだった。

 

 僕は裏方として話の合う大和さんを気に入っていたのだと思っていた。確かに、大和さんは僕よりも機材の知識に詳しくていろいろなことを教えてくれる。何よりも、裏方として頑張ることの熱意に関して同意見でいてくれる人を僕は彼女以外に知らない。

 そんな大和さんに表にも立ってみたかったと言われ、僕は裏切られたような気分になった……はずだ。

 

 だけど、問題はそこじゃない。

 最も重要なのは、僕がそのことで()()()()()()()()()()()()()()ことだ。

 

 僕が大和さんを明確に好きだと思えるようになったのは、機材が好き、裏方が好きという共感だったはずで。

 だからこそ、その前提が崩れてしまえば、僕の気持ちは一緒に失われてしまうものだと思っていた。

 

「じゃあ、いったい……」

 

 僕の気持ちは、どうして揺らいでいないのだろうか。どうして僕は大和さんのことを好きだと、この指向性の分からない好意を抱いたままなのだろうか。

 それが、昨日の大和さんとの会話をした後から、僕がずっと考えていたことだった。

 

「だから、この和歌には二重の意味が込められている、ということだ。……っと、時間は――」

 

 と、先生が時計を確認したところでチャイムが鳴った。

 思考が途切れ、反射的に顔を上げる。

 

 先生がチョークを黒板において、軽く手を払った。

 

「じゃあ、ここまでか。続きは次回にするから。ここまでの内容はしっかり確認しておくことな」

 

 それだけを言い残して先生が教室を出た。それを何となく見送ってから、考え込んでいる間に書き込まれた板書を手早く写していく。

 

 今日の授業はこれで終わりで、それぞれ部活や遊びに行くことになる。

 青蘭演劇部はすぐに羽丘に移動して練習を始めることになるだろう。昼食は道中で適当に買って食べるはずだ。実際、僕がそうするつもりだったし。

 

「っと、危ない」

 

 板書を写し終わった僕は、すぐにスマホを取り出した。

 

「連絡しておかないと……」

 

 昨日、青蘭にあるスーツの様子を確認するという話をしていたので、この後に見に行くつもりだった。他のみんなは今にも荷物をまとめて出ていくだろうから、僕が到着するのはみんなよりも少し遅れてしまうはずだ。

 

 とりあえず、演劇部のグループで衣装を着る予定のメンバーを呼び出すのと遅れる旨を簡単に連絡する。高橋から『了解』のメッセージを受け取ると、すぐに大和さんとのトーク画面を開いた。

 ほんの少しだけ打つ内容を考えて、文字を入力する。

 

< やまとまや

今日

      

12:43

今から衣装確認しますので遅れます

Aa          

 

 ……簡潔すぎるかもしれないけど、変なことするよりはましか。

 

 大和さんからの返信は、荷物をまとめ終わった頃に届いた。

 

< やまとまや

今日

      
既読

12:43

今から衣装確認しますので遅れます

分かりました 12:45
      

もし衣装が大丈夫なら、うちで保管できそうです 12:45
      

      
既読

12:47

問題なければお願いすると思います

      
既読

12:48

到着は30分から1時間くらい後です

Aa          

 

 面白味もない内容だけど、なぜか気持ちが高揚していく感覚がした。実際、口元が少し上がっているのが自分でもよく分かる。

 頭の中でこんがらがっていたこと全てがどうでもよくなってきた。

 

 大和さんはアイドルでいようが裏方でいようと大和さんだった。

 僕が大和さんへの好きだという気持ちが変わらなかったのは、大和さんがどこにいようと大和さんでしかなかったから、なんだろう。

 

「それだけ、か」

 

 単純なことだと気が付いたら、もうどうでもよかった。

 気持ちは一気に上向きになり始めて、口笛さえ吹いてしまいたくなってくる。

 

 もしかすると、ただ悩みを先送りにしているだけなのかもしれない。

 

「山科!」

「今行く!」

 

 でも、裏方として一緒に働く大和さんがいなくなるわけではないのなら、今はそれで充分だった。

 

 

 

 

 

 部室のカギを借りて衣装のケースを漁れば、スーツは思いの外あっさりと出てきた。

 埃は特にないし、強度的な部分に関しても問題はなさそうだ。問題はサイズだけだけど……。

 

「大丈夫そう?」

「ああ、問題ない」

 

 試しに着てもらったが、動くのに不都合がないようだった。

 目の前で屈伸や軽いダッシュをしてもらったが、動きを邪魔するような部分はなさそうだ。

 

「じゃあ、衣装はこれをベースにしようか」

「頼むわ。なんか他に衣装や小道具で用意した方がいいものってあるか?」

「うーん…………あ、カバンくらいはあったらいいかも。サラリーマンが持ってるような、あの、手持ちの感じの」

 

 名前が出てこないけど、肩掛けだったり手持ちだったりが自由な、革製のバックが脳内のイメージにある。

 

「これだよな? ビジネスバッグって」

 

 スマホを出してパパっと調べる。

 見つかると没収されかねないので周りを確認するのも忘れない。

 

「うんうん、これこれ。というか、そのままの名前だったんだ……」

「分かりやすくていいじゃん。ともかく、こういうのだよな。部室にあるか?」

「見覚えはない、かな。羽丘の方にないか少し確認してみるよ」

「おう。なかったら親父にでも借りてくる」

「分かった。それでよろしく」

 

 それだけ打ち合わせをして、スーツを回収する。問題はなかったのでこのまま羽丘に持って行って、向こうにしばらく置かせてもらうことにする。調整も、向こうで練習する以上は向こうでした方が効率もいい。

 

「あれさ、裏ってどんな感じ?」

「どんな感じって? 一応、イリハケのタイミングは教えてもらったし、音響と照明の簡単なところは決めたよ」

「いやいや、そっちじゃなくって」

 

 大きく肩を落としながら、チッチッチとわざとらしく指を振られる。

 

 演劇部に入って役者をするようになると、こういう動作が素で出るようになる人がいることがある。日常の単純なジェスチャーよりも、少しだけ動きが大きくて遠くからでも見やすい動きだ。

 こういう姿を見ると、演技の習慣がしみついてしまっているんだろうなと思う。

 

「俺は役者側の子しか知らないけど、裏の方はかわいい子いないの?」

「そっちかぁ」

「そりゃ、そっちに決まってんだろ」

 

 言いたいことを理解して苦笑した。でも、男子校の僕達からすれば当然の反応ともいえる。

 男子校で女子と関わる機会なんて、今回を逃したらいつになるか分からない。

 

「うーん……羽丘の人、みんな美人だからなぁ」

「それな。顔面偏差高すぎだろ……気後れしちゃうぜ」

「本当に?」

「ほんとよ、ほんと。いやぁ、緊張しちゃって全然喋れないのなんの」

 

 そう言って大げさに肩をすくめて見せるあたりなんて、実際に緊張しているような様子はみじんも感じさせない。女の子にもこの調子で喋っているような気がしてくる。

 

「んで、結局どうなの? オーディションやってた子とは喋ったけど、専属の裏方してる二人とは喋ったことないんだよね」

 

 脳裏を、大和さんと葛西さんの顔がよぎる。

 

「大和ちゃんってさ、あのパスパレの大和麻弥でしょ? テレビにも出てるアイドルだぜ、やばくね?」

「そういわれると、そうか……」

 

 僕の知った順序が逆だっただけで、普通の人は()()()()()()()()()として彼女のことを見ることになる。

 

「二人だと、葛西さんの方が話しやすそうかな。初対面でも冗談言えるくらいには気安いかな。趣味とかはあんまり知らないけど、しっかりした人だなって思う」

「なんか曖昧だな」

「あ、それと照明ができる」

「それ、山科以外に刺さんねーよ!」

 

 ツッコミの手が入ってお互いに笑う。

 確かに、アピールポイントとして照明の技術が入っているのもおかしい話だ。

 

「大和さんの方は、なんて言ったらいいんだろう? 大和さんの言葉を借りるなら、女子になった僕、かな」

「なるほど、分かったわ」

「早くない!?」

「十分だろ。テレビでも見てるイメージも合わせるなら、重度の機材オタク。これで完璧だろ」

「僕より詳しいし」

「そこは張り合うところじゃないし、何のフォローにもなってねーよ!」

「ステージにも立つし」

「それは山科もだろ?」

 

 テンポよくボケとツッコミを繰り返す。二人で話す時はいつもこの調子だ。

 

「ま、山科とほとんど変わらないのな。それはそれで話しやすそうだ」

「それで決めつけちゃっていいわけ?」

「問題ないだろ? 山科は普通に話せてるんだろ?」

「うん」

 

 普通に話せている……と思いたい。

 少なくとも、僕の気持ちが伝わっていなければ、それで構わない。

 

「最低限、お前が話せる関係でいるなら問題ないだろ。お近づきにはなりたかったけど。俺、イヴちゃんが好きなんだよ」

「ぶしどー、の人?」

「そうそう。めっちゃ可愛いんだぜ? 俺、グッズもあるの? 見る?」

「別に、今はいいかな」

 

 ちょっと意地悪するように断ると、案の定オーバーリアクションで落ち込んで見せてくれる。

 

「パスパレっていうか、アイドルには、あんまり興味はない、かな」

 

 パスパレはあまり詳しく知らない方がいい気がした。

 

「そうか」

「うん」

 

 あまりに知りすぎれば、僕が大和さんを今まで通りに見る自信がなかったから。

 

 

 

 

 

「すみません、遅くなりました!」

 

 結局、タイミングのいい電車がなかったこともあり、到着は予測していたよりも少し遅くなってしまった。

 慌てて部室に駆け込めば、大和さんがこちらに気付いて近づいてきてくれた。

 

「山科君、お疲れ様です! 衣装はどうでしたか?」

「これです。本人も着た感じ問題なかったみたいなので、これで行きたいと思います」

 

 持っていたスーツを渡す。

 大和さんは簡単にスーツを広げて様子を確認した。

 

「お、いい感じですね」

「それはよかった。……ちなみに、ビジネスバッグってありますか?」

「ビジネスバッグですか? いや、なかったと思います」

「まあ、ですよね」

 

 スーツの衣装がなかった時点でそうだろうとは思っていた。

 ビジネスバッグは、本番までにお父さんに借りて用意してもらうことになるだろう。

 

「今は何の作業を?」

「山科君が来るまでは、とりあえず指示出しの方を。一応、使うであろう物を整理して出してもらう作業ですね。ちょうど指示出しが終わったところです」

「なるほど」

 

 今、ほかのメンバーがいない理由は、それを取りに行ってるからということだろう。

 

「話し合いは昨日で終わってますよね? なら、そろそろ……」

「はい! 今日から、実際に制作に取り掛かれればと思っています」

 

 土日をかけて話し合いをしてきた。

 大まかな舞台の方向性があって、それに合わせた大道具や小道具、衣装のことも決めた。

 

 カレンダーを確認すれば、残りは一か月を切っている。

 お盆の時期にはみんなが帰省することがあるだろうということで、事前に8月10~15日を盆休みに設定している。少し長いのは、これ以外に休みを一切作ることがないから。

 これを差し引けば、実際に活動することができる日数は3週間もない。

 

 いつも通り一時間の舞台であるなら多少の余裕を持って取り組むことができるのだけれど、今回やるのは二時間の舞台だ。単純計算で倍の時間がかかってしまうわけだから、余裕をもって取り組むなんて考えてはいられない。

 練習後半では実際に体育館で通しを行うことになるはずだけど、道具の運び込みに午前を費やすだろう。台本通り2時間の通しをして、その反省会をするので同じくらいの時間は要する。すると、一日に一度しか通しができない計算になってしまう。

 余裕をもって舞台を始められるようにするには、公演日の一週間前である8月18日を目標にリハができるようにしておきたい。

 

 と、逆算的に日程を組んでいくと、裏方が準備をするのに与えられた時間は既に二週間を切っている。

 今決まっているのはあくまでも舞台を一切見ることなく決めたものであり、実際に舞台に立つことで出てくる問題点というのはたくさんある。それの修正も……と考え始めると、本当に手が回らないのだ。

 

「それじゃあ、さっそく買い出しですか?」

「そうですね。自分と山科君で行こうと思うんですけど、大丈夫ですか?」

「ええ、もちろんです。葛西さんはこっちに残って指示出しを?」

「涼さんはジブンよりも指示が上手ですし、モチベーションを維持するのが得意ですから」

 

 アメとムチの使い分けがうまいんです、と大和さんがしみじみと呟いた。

 

「それと、青蘭はいつもどこで買い出ししてますか?」

「うちですか? うちは、いつもショッピングモールですよ、線路沿いのところにある」

 

 この辺りで品揃えのいい店はあまり多くないし、複数の店をわざわざ渡り歩くのも大変だ。

 その点でいえば、ショッピングモールはモール内の店でほぼすべてが揃うので重宝している。

 

「それで、お店がどうかしました?」

「いえ、ジブン達もそこで買い物するんですけど、他にもお店をご存知ならそっちによることも考えようと思っていただけです」

「昔はうちの近くの商店街とかも使ってたらしいですけど、ほとんどシャッター街になってしまったので……」

 

 基本的な買い物はあそこで済ませることになる。

 お互い同じ場所で買い物しているわけだし、今回もショッピングモールに向かえばいいだろう。

 

「大和さんは準備できてますか?」

「はい、大丈夫です。山科君は?」

「僕の方も大丈夫ですよ」

 

 メモ帳、スマホ、シャーペンといった簡単な作業や確認ができるものだけ用意している。

 台本は大和さんの方が持っているようなので、僕が用意しておく必要はないだろう。

 

「じゃあ、涼さん! 二人で買い出しに行ってきます!」

「帰るときにはまた連絡するから」

「わかったー! 荷物多そうなら応援向かわせるから、いつでも連絡してねー!」

「お願いします」

 

 葛西さんに対してそれだけ言って、僕達は教室を出た。

 

 

 

 

 

 ショッピングモールは、夏休みの時期ということもあり人でにぎわっていた。

 いつも僕が買い出しに来るときは土日の昼過ぎと客の多い時間帯になるけれど、今日はそれ以上に人でにぎわっている。

 

「とりあえず、どこから行きましょうか」

「人が少ない場所がいいですけど……」

 

 見渡してみるが、人の少ない場所、というのが全く見当たらない。

 

「……とりあえず、下から見ていきますか? 古着屋が二階にありましたよね?」

「スポーツショップの隣ですね。ちょうどそこにもよるつもりですから、そこから行きましょう」

 

 行先を決めて移動する。建物の中は分かっているので、特に調べることもない。

 肩を並べて通路を歩いていると、ふとあることが気になった。

 

「大和さんは、その、変装みたいなことはしないんですか?」

 

 芸能人がそういうことをしているイメージが、なんとなく頭の中にあった。

 でも、大和さんは眼鏡をしているかという違いはあれど、他に何かをしている様子はなかった。

 

「最初は自覚がなかったからなんですが、今までに一度も声をかけられたことはないのでそのままなんです」

「一度もないんですか?」

「ないですね。周りの皆さんが有名すぎて、ジブンはあんまり目立たないというか……」

 

 脳裏に瀬田さんの姿が浮かぶ。

 瀬田さんは普段から芝居がかった言動の人だし、確かに大和さんよりもはるかに目立つかもしれない。

 

「薫さんはこの辺の有名人ですし。ジブンもパスパレでは人気の方というわけでもないですから。こうして声をかけられることはないですね」

「そうなんですか……」

 

 意外と言いたかったが、正直なところ大和さんが周りから「パスパレの麻弥ちゃんですよね!」みたいに言われている姿の方が想像できない。

 こうして見ている分には裏方気質がにじみ出ているので、アイドルのイメージとつながることはない。

 

「まあ、こうして声をかけられないおかげで買い出しに来れているので、そこには少し感謝ですね」

 

 フヘへ……と、大和さんが苦笑する。

 声をかけられていれば、来れていなかったのは事実だ。

 

「あ! あそこですね、行きましょう。まだ昼過ぎとはいえ、時間は足りないくらいですし」

「ですね。ちょっと急ぎましょうか」

 

 そして、僕達は少しだけ足を速めた。

 

 買い出しは、始まったばかりだ。




今回は前回と次回の場つなぎみたいな感じなので、割と場転とかが増えてます。申し訳ない。特に内容が薄い気もする。だからこそ、書くのつらいんですが。
まあ、次回はデート回(?)なので許して。別にイチャコラしないけど。


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7/30(月) 「買い出しは議論と共に」

 古着屋は、清潔さよりもレトロ感を意識した店内だった。

 

 ショッピングモールはほとんどは白い滑らかな床や壁だが、この店内だけはレンガ調の壁に変わっている。通路は非常に狭く、カートは少し雑な並びだ。

 商品は店内にあるカートに投げ込まれており、特に畳まれたり整理されているような印象はない。最低限、上着、ボトムス、シャツといった分類はされているものの、雰囲気や季節感といった部分での仕分けは行われていないようだった。

 

 この店で扱っている商品は古着というものであるため、新品に比べれば他人が使っていたものに対して抵抗感を持つ人もいる。しかし、この店はその古着の特徴を逆手にとった、雰囲気作りや利益率の高そうな商品の置き方をしている辺り上手いなと思う。

 こうした工夫というのも、舞台の大道具や小道具を用意するときに参考になるので、割と気にしているのだ。

 

「あの、山科君」

「何ですか?」

 

 大和さんに声をかけられて視線を戻す。

 大和さんは僕を見ながら楽しそうに笑っている。どうしたのだろう。

 

「今考えてたこと、当ててみましょうか?」

「え? あ、はい?」

「今、店内のレイアウトのこと考えてましたよね。雰囲気作りとか、そういうところの」

「あ。……お、おっしゃる、通りです」

 

 大和さんに普通に言い当てられて恥ずかしくなる。

 まさに、たった今考えていたことそのままなのだから。

 

「別に気にしないでください。ジブンも見てましたし、気にしちゃう気持ちもわかります」

「そうですか? それならよかったです」

「いえ。……あ、ちなみに、山科君ならこの店内をどうしますか?」

「僕ならですか?」

「はい。山科君は、ここに手直しをするとしたら、どう直しますか?」

「そう、ですね……」

 

 少し店内を見回す。

 

 狭いとは言いつつ、高いものがあるわけではないので明るさは確保されている。

 店内にはマネキンや商品棚のようなものはなく、基本的には視界が開けている。奥には試着室も用意されていて、そちらの方はそれなりの広さがあるのが分かった。

 

「僕なら、照明を落としますかね。赤レンガの雰囲気をさらに強くするために、色は暖色にした方がいいと思います」

「でも、そうすると服の色を適切に見られないですよね?」

「あ、そっか」

 

 レイアウトや演出を考えるときに一番大事なのは、何を目立たせたいのかだ。

 やりたいことをよりよく演出するために、僕達は照明や音響、様々な道具を用意する。

 

 今回、一番やりたいことは商品を売ること。つまり、商品を売る上で障害にならないように、かつ買いたくなるような雰囲気を演出しなければならない。

 

「服の様子を確認できるような場所を用意して……いや、そうすると普通に移動が面倒ですね。なら、商品の上に明かりを用意しておく方がいいでしょうか」

「確かに、移動の手間を作るのは悪手かもしれません。ここでどうすれば商品を買ってもらいやすいかですが、値段の安さを感じさせるポップを用意するのはどうかと思いました」

「そういえば、あまり値段に関する部分はないですね」

 

 そもそも、店内には文字がほとんど見当たらない。

 レイアウトとしての看板のようなものも、商品の値段を掲示するような張り紙もない。

 

「雰囲気が赤レンガ調ですから、テキストは欧文ポップ体を使ってみます。そして、周囲よりも安い商品であることを強調した方がいいんじゃないでしょうか。特にここはショッピングモールですから新作を売る店は少なくありませんから、勝負するなら安さだと思います」

 

 店の雰囲気や周囲の店との兼ね合いを考えた作戦だ。確かに上手いと思う。

 

 そして、大和さんの意見を聞いて新しい考えが浮かんでくる。

 こういうのが、話し合っているときの醍醐味だ。

 

「そういえば、この店は商品の買取もしているようですね」

「確かに、レジの方に書いてありましたね」

 

 そうすると、この店にある商品はたまたま買取された商品であり、店が調べて入荷したものではない。

 

「なら、この店で今しか出会えない、次に来る保証もない、といった偶然性に訴えてみるのも面白いかなと思いました」

「それはいいですね」

 

 人の心をどうやって掴むかを考える。

 役者は人との関わり合いで学ぶ部分も多いと思うが、僕達のような裏方はこうしたデザインや演出を元に新たな学びを得るのだ。

 

「そういえば、あの舞台の公園はそれなりに年代の立ったものでしたよね?」

「そういう設定だったと思います」

「色を塗りなおしてもらいましたけど、そこから年代を感じるような加工をしたらどうでしょう?」

 

 頭の中にイメージしているものを、何とか言語化しながら説明する。

 大和さんは目を見開いて僕の両手をつかんだ。

 

「ウェザリングですか! いいですね!」

「ウェザリング?」

 

 聞きなれない単語だ。初めて聞いたかもしれない。

 

「プラモデル等で、年月を感じさせるような塗装をすることだそうです。本来はweathering(風化する)という言葉がもとになっているそうですね」

「大和さん、プラモとかもされるんですか?」

「いえ、スタジオミュージシャンの知り合いに好きな方がいて。いくつか見せていただきましたが、雰囲気のある素敵な作品を仕上げられていました!」

「なるほど」

 

 ちょっとスマホを取り出して調べてみると、泥まみれになりながら進もうとするガンダムとか、戦場帰りの空母みたいなプラモの画像が表示された。

 確かに、僕が言いたかったのはこういう加工方法だ。

 

「先に連絡だけしておきましょうか」

「ですね」

 

 大和さんが葛西さんとのトーク画面を開いて、先ほど話していた内容を端的に説明する。

 既読はすぐについて、しばらく店内を見ている間に返事がやってきた。

 

『いい案だとは思うけど、加工するものがなさそう』

「うちは、そういうことしないですからね……」

「じゃあ、僕達がここでついでに模型店にでも寄ってくればいいんじゃないですか?」

「そうですね。そうしましょうか」

 

 簡単に打ち合わせをして大和さんがテンキーを打っていく。

 

『それなら、ジブンと山科君で一緒に買ってきます』

 

 すぐに、葛西さんから鳥みたいなゆるキャラが『任せた!』というスタンプが送られてきた。

 どうやら大丈夫そうらしい。

 

「それなら、ここで早めに衣装の候補を見つけて、行きましょうか」

「そうですね。ここで調べるのは、美大生の衣装でしたっけ?」

「他には、シンガーソングライターの衣装ですね。今回はこの二人の」

 

 何人か探す人はいるが、古着屋で探せそうなのはこの辺りだろう。

 女子大生は部員の誰かの服を借りるか違う服屋で探したほうがいいし、高校生はユニフォームなのでスポーツショップの方がいいはず。他も、ここで探すようなキャラはいないだろう。

 

「その二人なら、確か……」

 

 大和さんが台本を出してメモを確認する。キャラのイメージと役者のイメージを合わせて、衣装のイメージを作っていく。

 後は、この店にイメージに合うものがあるかどうか、だけだ。

 

「美大生の方は、こういう方向性で行きたいですね。シンガーソングライターはこっち」

 

 大和さんはマーブル模様のパーカーと、若木色をした薄手のジャケットを手にとった。

 どちらも、それぞれのキャラを連想させるような服だ。

 

「いい感じじゃないですか? えっと値段は……って、そもそも、今回の予算っていくらですか?」

「ちょっと待っててくださいね。今回分の予算をカバンに入れてるので。ちなみに、山科君の方はどれくらいありますか?」

「すみません、今日はいきなりだったのでちょっと用意してないです。金額的には……」

 

 スマホを取り出して、予算に関するメモを確認する。今年、残る公演は今回を含めて6回。予算配分を考えると、必要になる額は――

 

「このくらいですね」

 

 電卓に打ち込んだ数字を大和さんに見せる。大和さんも封筒に入った紙幣を軽く見せてくれる。

 お互いに、同じくらいの値段だ。

 

「流石、合同公演……。いつもより贅沢ですね」

「そうですね。二時間舞台といっても衣装や大道具にかかるお金が変わるわけでもないですし、いつもより豪華に使ってもよさそうな額ですよね……」

 

 ごくり、と唾をのむ。

 鼓動がいつもよりも早まって、脳裏で悪魔が何かをささやこうとしている姿が見えてくる。

 

 いつもの倍の金額を使える、という事実が僕と大和さんの中でエコーしていた。

 普段は目をつぶり妥協してきた、多くのあれやこれやにお金を使うことができる。簡単な修正で済ませてきた大道具類とか、普段は割とあり合わせで間に合わせる衣装とか。これまで抱えてきた不満を一気に解消するチャンスかもしれない。

 

 一回きりでもいい。

 この一回だけは、贅沢に作りたいものを作ってみたい。

 

「あの……」

「いいですか?」

 

 お互いに顔を見合わせる。

 

 頭の中で、この舞台で用意したい様々なものが浮かんでは、それらに大量の優先順位がつけられている。どこまで叶えることができるのだろう。

 僕達の脳内はそれに支配されていたが、かといって僕と大和さんの願望が一致しているとは限らない。

 

「大和さん、お腹すいてないですか?」

「奇遇ですね。ジブンもそう言うつもりでした」

 

 僕達の求めるものが同じなら別に構わない。

 しかし、もしも違うものだったならば、その時は――

 

「なら、フードコート行きましょうか」

 

 それ以上の言葉は、必要なかった。

 

 

 

 

 

 フードコートは昼時を少し過ぎたこともあって、賑わってはいるものの空席があった。

 僕達は適当にハンバーガーと飲み物を買って二人用の席に座る。

 

「人多いですけど、空いてて良かったですね」

「ちょうど昼食の時間帯が過ぎて、過ごしずつ学生の友人連れやカップルが来る時間帯になってるみたいですからね」

「え? あ、ああ、そうですね」

 

 周囲を見れば、確かに家族連れが減り学生くらいの若者が増えている。男女二人組で楽しくおしゃべりしている辺り等は、きっとカップルなんだろうと思う。

 

「ほんと、増えてますね……」

 

 そして、それは傍から見た僕達も一緒だ。

 お互いに制服なので、お互いの学校が終わってすぐに会いに来たカップルみたいに見えるのかもしれない。

 

「まあ、とにかく座りましょう」

「あ、はい」

 

 大和さんに言われて席に着く。

 ……大和さんは、僕と二人でいることを意識したりはしないのだろうか。

 

 いや、意識して気まずい雰囲気になるのも嫌だから別に構わないんだけど、何も思われていないというのはそれはそれで思うところがある。

 我ながら面倒な思考回路だ。

 

「それで、山科君。話すべきことは一つだと思うんです」

 

 大和さんがこちらに身を乗り出す。

 

「この予算、どうやって使いますか?」

「どう、しましょうかね……」

 

 気迫に押されそうになったが、とりあえず相手の様子をうかがう。

 先制攻撃を仕掛けるにはまだ早い。

 

「もちろん、全額を今すぐ使うのはアウトです。先に、いくらかは今後の分として残しておかないといけないですよね」

「それなら、二割は残しておきましょう。二割程度の額があれば、不測の事態にも対応できると思います」

 

 メモを取り出して、合計金額の二割を削る。

 残りは八割。

 

「まず、最低限必要なものをピックアップしていきましょう」

「もともとは服を買いに来たんですよね」

「女子大生、OL、高校生、回想に出る二人は部員が近い服を用意しつつ、状況を見て購入という形でしたね」

「警官とサラリーマンは衣装が置いてあったので、そちらを使うことになりました。細かい小道具類もほとんど購入する必要はないでしょう」

「となると、今回買うのは先ほど言っていたシンガーソングライターと美大生」

「ですね。後は、各キャラに必要な小道具類が少々」

 

 内容をメモしながら、先ほどの服の値段を思い出す。

 あそこから逆算すると……

 

「衣装や小道具に必要な額は、五割あれば足りますかね」

「足りると思います。少し多めに見積もっておきましょう」

「なら、残りですね。ウェザリング用のモノを買いたいところですね」

「他には特に挙げられていませんでしたよね?」

「そうですね」

 

 互いの目に火が付く。

 ここからが、戦争だ。

 

「さて、山科君は何か買いたいものがありますか?」

「そうですね。実は、大道具の方でうちの物を使うって話が出てましたよね?」

「はい、ありましたね」

「あれの補強と改造をしたいと思ってまして……」

 

 先制は僕の方だった。

 

 前々からあの台の強度とサイズには問題があると思っていた。前に飛び跳ねるような動きをしたタイミングで、落ちることこそなかったものの穴が開くような事故があった。普通に歩くだけのような演技なら構わないが、今後の公演の中で荒い動きを要求される場面が出てくる可能性は十分ある。

 今回をきっかけに、それの修理ができればと思っていたのだ。

 

 予算は一年を通して出ており、これ以外の予算が出ることはほとんどないと言って構わない。なら、こうした改修は毎回の公演で少しずつ節約したタイミングで行わなければならない。

 今回は人手も資金もある。少しずるいとは思うけれど、背に腹は代えられないのが現実だ。

 

「どう、でしょうか?」

 

 大和さんの顔をうかがう。

 大和さんがどのような要求を持っているのかは分からないので、どんな反応が返ってくるのか予想がつかない。

 

「なるほど……でも、それより重要なことがあると思うんですよ」

「重要なこと?」

 

 大和さんは写真を見せてくれた。

 

「これ、うちのメイク道具です。少し種類が心もとないと、長い間考えていたんですよ」

「なるほど」

 

 舞台用のメイクは、一般的なメイクとはやり方が大きく異なる。

 女性用のメイクというのをやったことはないので分からないが、男性よりもメイクをするイメージがある以上、僕達が普段使うよりも様々な色の種類を用意する必要があるのかもしれない。

 

「今回は役のバリエーションが広いので、少し種類に困っているんです。できれば、種類を足したいな、と」

「そういうことですか」

 

 僕は大道具の改修。

 大和さんはメイク道具の拡張。

 

「残りでどれほど賄えるでしょうか」

「メイクで用意したいと思っているのは、この程度です」

「うわ、結構な種類ですね……」

「この辺が下地。こっちにあるのがアイライナーです。で、こう続きます」

「あ、これならうちに似た色があるので、代用可能だと思います」

 

 カウンターを打つ。

 ここで金額を削っておけば、平和に両方の金額を賄うことができるかもしれない。

 

「なら、それでお願いします」

「ちなみに、山科君の方はどれくらいの金額が?」

「僕は木材が必要なので、この辺です。釘やのこはあるので純粋に木だけが買えれば大丈夫です」

 

 木は丈夫なものを選択している。その分、金額はかさんでしまっているわけだけれど。

 

「これ、こんなに必要ですか?」

「こんなに、とは?」

「ここまでグレード必要ですか?」

「できれば。このレベルがあれば、かなり丈夫になると思うんです」

「そうですか? ジブンの経験的には、この程度で十分だと思いますよ」

 

 大和さんが僕のスマホを少しだけスクロールして、一覧に載っていた別の木材を表示した。

 この辺りはギリギリであるものの、確かに問題はないだろうとは思う。

 

「…………」

「…………」

 

 金額はどちらも購入するには足りない。

 

「今回は間違いなく、大道具に割いた方がいいです」

「いえ、確実にメイクです!」

「今回は喧嘩するような演技とかが入りますから、確実に大道具の方を強化している方がいいと思います」

「そうでしょうか。その台は後ろの方ですし、荒い演技は前方が多いので、そこまで気にしなくてもいいんじゃないでしょうか」

「それなら、メイクも衣装で区別が大きくできる部分は多いんじゃないでしょうか? 特に、今回は現代日本なので、凝ったメイクをする必要はないですよね」

 

 お互いに引く様子も見せずに睨みあいの構図が続く。

 

「…………」

「…………」

 

 しばらくお互いに見つめ合い、やがて大きく息を吐きだした。

 

「……後で、葛西さんを混ぜて話しましょうか」

「……そうですね。今のままだと平行線でしょうし」

 

 話はいったん休止の方向にして、買ってきたものを食べることにする。

 話が熱中している分、ハンバーガーは冷めてしまっていた。

 

「とりあえず、服とウェザリングの道具を用意するのが最初ですかね」

「そこから残った分を元に、また話していきましょうか」

「ですね」

 

 食べながら軽く打ち合わせる。

 何はともあれ、まずは買うものを買わないといけない。もしかすると、金額が増える可能性は十分にあるわけだし。

 

 スマホを確認すると、時刻はそれなりに進んでいて3時を近くになっている。帰る時間を考えると、あまり時間に余裕がない。

 

「ちょっと、急ぎましょうか」

「そうですね。早く行きましょうか」

 

 お互いにポテトやドリンクを一気に消化してしまう。

 あんまり慌てて食べない方がいいのは分かっているけれど、僕達の目的は別に仲良く遊びに来ることではないのだから。

 

「食べ終わりました?」

「はい。終わりました」

 

 食べ終わったのを確認して、そろって立ち上がる。

 簡単にテーブルの上を掃除して、二人のトレーを重ねる。

 

「じゃあ、行きましょう」

「はい」

 

 そして、僕達は先ほどの古着屋へと足を踏み出した。




 ショッピングモールで服を買って、フードコートで食事休憩なんて、本当に理想のデートコースですよね(なお、会話の内容)マジでこいつら何しに来てるんだろっていうか、周囲からは変なカップルにしか見えなかったと思う。

 それと名誉のために言っておきますが、別に全国の演劇部の裏方がこういう思考をしちゃうわけではなく、たまにそういう変態がいるというだけです。この二人が珍しいんです。


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7/31(火) 「君の来ない舞台/貴方が来る舞台」

 昨日の買い出しは結局、服とウェザリングに必要なものを用意するので時間がいっぱいだった。

 荷物は羽丘の演劇部室に置いてあり、それを使って実際に作業をするのが今日以降の予定となっている。

 

「失礼します」

 

 羽丘の部室に来るのも慣れたもので、特に緊張もなく部室の扉を開く。

 みんなで部室に入ると、すぐに葛西さんが僕の方に手を振ってくる。

 

「あ、山科君、こっちこっち!」

「早いね、葛西さん」

「まあ、今日は麻弥ちゃんいないしね」

「そうなの?」

 

 そういえば、大和さんの姿は見えない。

 

「病欠?」

「ううん。パスパレの練習。今日から三日はそうらしくて、麻弥ちゃんはお休みだよ」

「あ、そういえば」

 

 確かに二週間後にはパスパレのライブがあるそうなので、それに向けた練習をしておかないといけないのだろう。そういえば、僕がプロの方にお会いするときも練習の予定があると言っていた記憶がある。

 

 考えれば、舞台にライブと忙しい人だ。

 

「だから、今日は私と二人だね」

「うん、よろしく」

 

 最近は僕と大和さんで動いていたので、葛西さんと二人で動くのは久しぶりな感覚がする。

 というか、ほとんど初めてかもしれない。

 

「結局、昨日教えてもらっただけだったけど、ウェザリングっていうのをしたいんだよね?」

「そうそう。こういう感じの」

 

 僕は履歴から昨日見ていたウェブページを出して葛西さんに見せる。

 

「公園のベンチとかを、少し年代を感じさせるようにデザインしたいんだ。今は色を塗りなおして新品みたいになってるでしょう?」

「うんうん、こんな感じって言ってたね。じゃあ、ちょっとやってみようか。……裏方集合してー!」

 

 声をかけてメンバーを集める。

 

「みんな、今日はベンチの加工作業をするね。必要なものは昨日、麻弥ちゃんと山科君が買ってきてくれたから、それを使って。公園の、ちょっと錆びたベンチを作るから、そういうイメージでお願い。詳しいやり方は調べてきたから、これをみんなで共有して」

 

 葛西さんはファイルからルーズリーフのメモを取り出して、それを一人に渡した。

 ちらりと見えたが、テキトーに作ったメモではなく丁寧に手順や道具類についてまとめられたものだった。詳しいことについては聞かれたので僕や大和さんで調べて説明はしたけれど、まさかこうしてまとめられているとは。

 

「……どうかした?」

「いや、何でも」

 

 凄いな、と思っただけだ。

 

 大和さんも技術力が高くて凄いと思っていたけれど、葛西さんも気遣いや段取りのまとめ方がうまい。技術の方についてはまだ見る機会がないけれど、少なくとも段取りの上手さはこの短い間でよく理解している。

 大和さんはアイドルとしての活動もあるから、基本的にこの部の裏方は葛西さんによって回っているのだろう。

 

「やることは一通り書いてあると思うけど、分かりにくいところとか問題があったら教えて」

 

 葛西さんが指示を出している間に、僕は買ってきたものを用途別に仕分けて置いていく。

 大和さんと葛西さんには助けてもらってばかりだから、僕も負けないように頑張るしかない。

 

「やぁ、二人とも、ちょっといいかな?」

「薫ちゃん? どうしたの?」

「少し尋ねたいことがあってね。構わないかな?」

「大丈夫だよ」

 

 裏方の方に顔を出してきたのは瀬田さんだった。

 役者の方を見ると、全員でどこかに移動しようとしているのが見えた。どこで練習するんだろう。

 

「実は、今日は体育館が開いているようでね。未だに台本をもって練習してはいるが、一度ステージで練習しようという話になったんだ」

「なるほど。それで、私達も必要?」

「ああ。音響や照明も既に決まっているのだろう? なら、それに合わせて動きたくてね」

 

 瀬田さんは少し裏方の顔を眺めた。

 

「麻弥がいないようだが」

「今日はパスパレの練習でお休み。だから、照明しか揃ってないけど、大丈夫?」

「いないのならば仕方ない。音響は次の機会にしよう」

「じゃあ、私達が行こうか。……ごめん、みんな。何かあったら電話して」

 

 葛西さんが電話のジェスチャーをしながら、部屋の隅からインカムを四つ取り出した。一つを受け取る。

 インカムを装着し、自分の荷物をまとめる。葛西さんの方を見れば、養生テープから他のインカムまで雑多な荷物を裸で抱えている。

 

「持つよ」

「ごめん、ありがと」

 

 インカムや台本、筆箱、養生テープ等、慌てて抱え込んでいた荷物を預かる。

 

「みんな先に行っている。急ごう」

 

 

 

 

 体育館に到着すると、先に来ていたみんなが準備をしていた。

 

「お、裏方も来たか」

「待たせてごめん。これ、インカム」

「おお、ありがと」

 

 体育館の中央で指示出ししていた高橋と新藤さんにインカムを渡す。葛西さんは照明卓の操作をするために下手の方に移動していた。

 

 ステージの方では赤と青のカラーフィルムを入れている途中らしく、ボーダーが下の方まで下ろされている。

 そして、窓際の方に目を向ければ、みんながカーテンを閉めようとしている。見たところ明かりが漏れていて、養生テープを使っていないのが分かった。

 

「養生あるー?」

「ない! 持ってる?」

「ある! 行くよ!」

「頼むー」

 

 二階席に養生テープを投げる。二階席でカーテンを閉めていたメンバーのところまでテープが届く。

 

「二階でそれ回して!」

「おー、分かったー」

 

 上がテープを張りだすのを確認してから、一階の方でカーテンを閉めていたメンバーのところに近づく。

 

「これ、養生テープ」

「ありがとう。えっと……」

「山科です。裏方で、スポットライトの方をやると思うから、よろしく」

「う、うん」

「じゃあ、これ、渡すから一階の方で回してね」

 

 ステージに立って練習できる時間は限られている。あまり長々とお喋りをしているような時間はない。

 手短に自己紹介と用件だけを言い残して、舞台袖に移動する。

 

「葛西さん、鍵ある?」

「鍵? ……あ、上のね。これだよ」

「ありがと」

「準備できたら教えてね?」

「うん、了解」

 

 葛西さんは上の鍵をこちらに渡すと、つけているインカムをとんとん叩いた。……そういえば、インカムを着けていなかった。

 慌ててインカムを装着して電源を入れると、急いで上階へ急いだ。

 

 

 

 

 全体照明とスポットライトの準備が終わったところで、インカムマイクをオンに切り替える。

 

(うえ)、準備オッケーだよ」

(しも)の照明も大丈夫』

『了解』

 

 準備完了を伝えると、葛西さんや監督側からも答えが返ってくる。客席のところにはこちらを見上げている高橋と新藤さんの姿も見え、僕はスポットライトを天井辺りで軽く動かすことで返事をした。

 裏の方の準備が完了し、役者もすでに配置についた。これでいつでも始められる。

 

「それじゃ、始めるよ!」

 

 新藤さんの声がインカムではなく、普通に地声で聞こえてくる。別の誰かが喋っているわけではないけれど、ここまでしっかりと声が届いてくるのは簡単なことじゃない。

 とりあえず、全体照明の前に移動してスイッチを手に取った。

 

『開幕、よろしく』

『はーい』

 

 葛西さんの返事と共に、暗幕がゆっくりと開き始めた。

 幕が決めた場所まで開くのをきっかけに、全体照明をカットインした。

 

 下手から台本片手に――本番では自転車を押しながら――高校生役の柴田が入ってくる。自転車のペースを考えて少しゆっくりと歩きながら、舞台の奥の方に自転車を止めるようなそぶりを見せて中央のベンチ――今はパイプ椅子が三つだけど――に座った。

 

あー……疲れた

 

 ボーダーに赤いフィルムを入れているので、舞台全体が赤く彩られている。

 

もう動けねぇ。足ガクガクだし……

 

 柴田が座り込んだところで、下手から女子大生役の瀬田さんが駆け足で入ってきた。

 

はぁ、はぁ……きゃっ!

 

 瀬田さんが舞台の中央で転ぶ。柴田の視線が瀬田さんに向いた。

 

え、嘘、ヒール折れてる? あー、もう最悪

あの、大丈夫ですか?

え? ……あ。ご、ごめんなさい

いえ、気にしないでください。……座りますか?

ありがとう。ちょうど足が痛くて。ヒールで走るもんじゃないわね

 

 柴田が瀬田さんを助け起こし、さらに言葉を交わしながらベンチに案内する。

 

 時刻変化を感じさせる演出のために、全体照明を数パーセントほど落とした。意識しても認識できるか分からないほど微小な変化だ。

 今回は場転がない予定なので、夕焼けから夜へと移り変わる空模様を意識させるような照明演出が採用された。

 僕が全体的な明るさを調整しつつ、色は葛西さんが赤から青へと変化させていく予定だ。

 

えっと……大丈夫ですか?

大丈夫。ヒール折れたのと、ちょっとすりむいちゃったくらいで

大変じゃないですか! ちょっと待っててください

 

 柴田がリュックを漁る演技をしているところを見ながら、ページをめくる。

 ここまでは台本の通りに進んでいる。さすがの記憶力というかなんというか。

 

テニス部? 準備がいいのね?

よくケガするんで、いっつも持ってるんですよ

へぇ……私も大学でテニスしてるけど、そういう人いないけどなぁ

 

 瀬田さんと柴田の会話がしばらく続く場面に来たところで、僕はインカムをオンにした。

 

「あの、客席から見て夕焼けの赤ってどう?」

『うーん……赤みがちょっと強すぎるかな。夕焼けっていうよりは、火事?』

『やっぱりかー……単色の赤じゃ厳しいよね』

「それはそうだと思う」

 

 全体照明を数パーセント落とす。

 

「オレンジのフィルムってある?」

『ないよ。三原色だけかな』

「混ぜる?」

『それしかないと思うよ』

 

 いつの間にか、客席で見ている監督二人をそっちのけにして葛西さんと言葉を交わす。

 三原色で夕焼けのオレンジを作り出すのは、至難の業というか、なかなか難しいのではないだろうか。前に試行錯誤したことがあるけれど、納得のいく色を出なかったことを思い出す。

 

『でも、仕方ないからね。オレンジって、どうやって作ればいいの?』

「緑と赤の比率をどうにかいじってたらできるんじゃなかったっけ?」

 

 普段からフィルムを入れて色を作ることが多いわけではないので、光の三原色に関する記憶に自信がない。

 頭をひねりながら、どうすればいいかを思い出す。

 

「緑のフィルムって入れた?」

『一応、全部のフィルムは入れてたはずだよ。…………うん、袖からも入れてるのは見えた』

「分かった。じゃあ、少し緑足してみようか」

『全体照明は一度落とす?』

「いや、つけた状態で夕焼けの色を出したいんだから、普通に入れてていいんじゃない?」

『そうだね。ちょっと足してみる』

 

 その返事が聞こえ、少しすると赤みが少しずつオレンジに変化していく。

 

『どう?』

「……夕焼け、とは言いにくいかも。最初よりも近くはなったと思うんだけど」

『確かに。もう少し……暗く?』

「青足してみる?」

『青?』

「夜の空って青と赤を足したり、光量を落として作るよね?」

『うん、そのつもりだけど』

 

 本当は明るさを落として普通に暗くしたいとは思うけれど、光量を落とすと役者の表情や動きが見えなくなってしまう。

 それは決して許されないので、青を使って夕暮れから夜の空を表現していきたいところである。

 

「赤を基本的にずっとつけておいて、最初は黄色を足している感じ。そこから、徐々に青を足すことで夜にグラデーションさせていくのがいいかなって」

『ふむふむ……ちょっとメモする』

 

 葛西さんの方からペンで何かを書くような音が聞こえてくる。

 

 台本を確認して、全体照明を数パーセント落とした。

 

『……それで? 結局、どうすることになったんだ?』

「えっと、ボーダーの色については今後も練習しながら調整していく方向かな」

『一応、黄色と青をいじりながら夕焼けの赤から夜の黒に近づけていく予定だよね』

「うん。客席からの印象を大事にしたいから、監督二人の意見を取り入れていきたいかな」

『私達の? うーん……修平君はどう?』

『俺? そうだな……もうちょっと落ち着いた感じが欲しいよな。今の赤は刺激が強いっていうか』

 

 客席にいる、新藤さんと高橋が話をしている。

 確かに、上のここから見ても夕焼けの赤というにはいささか赤みが強すぎる。一番最初よりは確かに柔らかくなっているものの、それでも微妙であることは変わっていない。

 

『落ち着きって言ってるし、緑とか青を足す感じかな?』

「そうだと思う。赤を少し落としてみるのもありじゃないかな?」

『確かに。ちょっと落としてみる』

 

 もともとの方針である、夜に近づくにつれて夜の色に移り変えていく演出は忘れないまま、色の調整を続ける。

 光量を落とし続けている全体照明も、そろそろ10パーセント近くを削ろうとしていた。

 

『これの調整は、今日明日で済みそうか?』

「うーん……ずっと体育館を使って作業できるなら、だけど……」

 

 僕達がずっとここで作業していては、部室で作業しているみんなへの指示出しができなくなる。

 それに、そもそも体育館は運動部も使うことになっているのだから、むやみやたらに作業をするわけにもいかない。

 

『難しいだろうね』

「その辺りはいろいろ勉強したり調べたりしながらやってみるよ」

『よろしく頼む』

 

 高橋の言葉にうなずきながら、僕は再びステージに視線を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……みなさん、ちょっといいですか?」

 

 事務所の一室。

 練習の合間の休憩時間でジブン――大和麻弥――は、パスパレのメンバーに声をかけた。

 

「麻弥ちゃん、どうかしたの?」

 

 みんながジブンの方を見つめる中、代表して彩さんが代表して質問をする。

 その返事に答える代わりに、手に持っていた紙袋からあるものを取り出した。

 

「……色紙?」

「実は、皆さんのサインをいただけないかと思いまして。一応、事務所の方には許可をもらってます」

「えっと、これは誰に渡されるものなのでしょう?」

「ジブンの友人の、お兄さん、ですかね」

 

 イメージするのは、少しだけ背の伸びた山科君。

 お兄さんにあったことがないので、山科君のイメージしか出てこないのだ。

 

「実は今、演劇部が他校と合同公演をすることになりまして」

「……それで、その別の高校の友人のお兄さんがパスパレのファンだった、ってことかしら?」

「そうです! 流石、千聖さん!」

 

 千聖さんの理解が早くてとても助かる。

 

 持っていた色紙とペンをみんなが座っているテーブルの中央に置いた。

 

「色紙一つに五人分のサインを収める感じで、よろしくお願いします」

「りょうか~い! ちょちょいっと、書いちゃうから!」

 

 日菜さんがすぐさま飛びついて、勢いよくサインを書き始めた。後は、時計回りに色紙が渡されていく。

 

「そういえばマヤさん、合同公演をする高校とは、どこでしょう?」

「青蘭高校です。実は、今日も八月末の合同公演に向けて準備してる最中なんですよ」

 

 思い浮かぶのは、昨日用意したウェザリングのパーツのこと。

 きっと、山科君や涼さんがしっかりと指示出しをして作業を進めてくれているだろう。ジブンは今日参加できない分、後日しっかりと手伝わないといけない。

 

「そういえば、青蘭高校って男子校だよね? 男子と一緒に舞台をしてるの?」

「はい。いつもは女子だけですから、舞台の幅も広がって楽しみなんです」

 

 役者側の人とはあまり話せていないが、みんな真剣に演技に向き合っている人達ばかりなのでいい人達だと思う。山科君が自信を持っているのだから、きっとそうだろう。

 

 と、一人で考えていると、

 

「ねえ、麻弥ちゃん」

 

 千聖さんが冷たい声音でジブンの名前を呼んだ。

 

「それって、男の子と仲良くなってるということかしら?」

「え? そうですね」

 

 ジブンに似て、機材を見ると少し……いや、かなりテンションが上がってしまう彼の姿を思い浮かべる。

 出会ってまだ二週間も経っていないというのに、彼のことをかなり信用しているジブンがいた。今まで、男の人と友人になったことはないけれど、彼に関しては親友と呼べる仲になるだろうという確信がある。

 

「麻弥ちゃん。貴方はアイドルなのよ? あんまり、男の子と仲良くなるのは危ないんじゃないかしら?」

「いや、でもジブンと彼に関してはそういう感じじゃないですし……」

 

 昨日の買い出しだって、議論を交わしてどうすれば舞台をよくすることができるかしか考えていなかった。

 千聖さんが考えているような、男女交際とか、恋愛とか、そういった要素はジブン達には不要な要素としか思えない。

 

「当人同士がどう思っていようと、それを信じるかどうかは受け取る人次第よ。別に、私だってむやみに人間関係に口を出したいわけじゃないけど……」

「ち、千聖さんが気にすることはないですよ! ジブンが考えてなかったわけで……」

 

 千聖さんの懸念は理解できた。

 確かに、ジブンと山科君の関係がどうであろうと、それをどう受け取るかはファンの方やメディア次第だ。ジブンにはまだ他人事のような気持ではあるが、その意図するところは分かる。

 

「まあ、部活で会っているだけなら、そうそう問題になることもないと思うわ。……でも、くれぐれもプライベートでは気を付けてね?」

「は、はい……。気を付けます」

 

 強めの念押しに頷く。

 ジブンが批判されるのはともかく、その矛先が山科君にまで影響してしまっては申し訳ない。

 

 みんなが書いてくれた色紙の空いたスペースに、ジブンのサインを書き込んで紙袋の中にしまう。紙袋はいったん席の方に置いた。

 席に座ると、日菜さんがこちらに近寄ってきた。

 

「それで? 麻弥ちゃんが仲良くなった男の子ってどんな人なの? 面白い人?」

「ちょっと、日菜ちゃん! ……で、でも、私も気になるかも」

「彩さんまで……」

 

 とはいえ、パスパレのみんなは女子高で男子と関わる機会は少ない。

 男子の友人というのが気になるという気持ちはよくわかる。

 

「そうですね……男子になったジブン、というと近いでしょうか」

「それは、マヤさんのように、機材が好きということでしょうか?」

「そうです! 彼……山科君は青蘭の専属の裏方をやってる人なんですけど、照明機材がすごく好きな人でして!」

 

 青蘭演劇部との活動の思い出は、すなわち山科君との活動の思い出だ。

 

「実際、ライトワークも上手なんですよ。止まる時や切り返す時の動きが高校生としては滑らかで綺麗で」

 

 ジブンはあまり高いところが得意ではないので、上からのライトワークを経験はほとんどない。だからこそ、彼のスポットライトの技術には尊敬の念を抱いている。

 

「確か、明後日辺りに、宮川タカユキさんの舞台に見学に行くことになってるそうで」

「それって、前に千聖ちゃんが舞台をやった時の演出家の人だよね?」

「ええ……確かに、来月舞台があって近くで練習をしていると伺ったことがあるわ」

「あ、きっとそれですね。プロの舞台機材を見せてもらうという話でした」

 

 ……ということは、明日は涼さん一人で裏方を回すことになる、ということだろうか。練習が終わった後、二人に状況を確認しておく必要があるかもしれない。

 

 今日はウェザリングを実際にやってみるという話だったけれど、どんな風になるのか、どの程度の時間が必要なのかが全く分からない。だから、進捗は早く聞きたいところ。

 

「……麻弥ちゃん、考え事?」

「え? あ、すみません。舞台について考えてて」

 

 声をかけられたので意識を戻す。

 

 そうだ、今はライブに向けて練習がある。

 次のライブには山科君も来ることになっている。バンドを知らない彼が初めて見るライブなのだから、これが基準になるはずで、だからこそカッコ悪いところを見せるわけにはいかない。

 

「じゃあ、そろそろ練習を再開しましょうか」

 

 席から立ちあがる。

 

 アイドルとは言えないジブンだけど、彼がサインを欲しいと言ってくれたから。

 ジブンをアイドルと認めてくれた人だからこそ、その相手に恥じるような舞台を見せたくはなかった。




今回は10話記念……というわけではないですが、大和さん視点のエピソードを挟んでみました。好評というか、反応が悪くなさそうなら今後も入れることがあるかもしれないです。まあ、入れても1,2回くらいですけど。

さて「ジブン、アイディアル」という大和さんのイベントがあります。
アイドルとして不適なのではと悩む彼女と、そんな彼女の背中を押すパスパレのメンバーのお話です。
とても素敵なお話ですので、良ければぜひぜひ。


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8/2(木) 「新しい誘い」

 駅前でスマホを見つめながら、額の汗をぬぐった。

 

 昨日から八月になり、気温は30度に達しようとしている。駅前の往来は夏休みの遠出や街で遊ぶ人達が多く、人口密度によってさらに温度と湿度が高くなっていた。

 

「もうすぐ時間か……」

 

 今日は、前に柴田に勧めてもらったプロの人と会う予定だ。直接連絡を取って、9時に駅前集合ということになっている。後10分ほどだけど、少しずつ心臓が高鳴っているのを感じる。

 

 手持無沙汰にスマホを開くと、最後に見ていたメッセージアプリでのやり取りが表示された。僕と大和さんと葛西さん、裏方のまとめ役三人のグループだ。

 昨日と一昨日は大和さんが休みだったので、その時の活動の内容についての報告。そして、今日は僕と大和さんの二人がいないこともあり、今日の活動内容についての相談を行っていた。

 

 今日の活動はウェザリングの最終調整と衣装合わせにすることになったので、役者の衣装を着た写真が随時送られてくる予定だ。現に、既にノリノリで衣装を着ている瀬田さんの写真が上げられていて思わず笑ってしまう。

 去年の大会で見た王子の衣装も映えていたけれど、今回のような今どきのオシャレな女子大生っぽい格好も似合っている。本当に役柄の広い人だ。

 

 衣装について簡単に意見を送ったことろで、プロの方からメッセージが飛んでくる。

 どうやら、駅前に到着したらしい。

 

「どこだろ」

 

 顔を上げて周囲を伺う。

 すると、少し離れた位置から二十代くらいの若い男性がこちらに近づいてきた。話で聞いていた見た目に合っているし、この人だろう。

 

「山科遥君、だよね?」

「はい、青蘭高校演劇部2年の山科遥です。原田さん、ですか?」

「うん。劇団ファンタジアの原田(はらだ)(しゅん)です。よろしく」

「よろしくお願いします」

 

 自己紹介をして頭を下げると、原田さんが「そんなにかしこまらなくてもいいよ」と笑った。

 

「今日は、本番でやる会場の下見を兼ねた練習があってね。立ち話してるのもなんだし、早く行こうか」

「お願いします」

 

 

 

 

 

 原田さんに案内されたのは、駅から近いところにある劇場だった。客としては来たことあるけれど、裏方として来たことはないので裏側がどうなっているのかは全く知らない。

 客席側から入ってみると、あちこちで演技の練習や照明を指さして打ち合わせをしている人達の姿が見える。

 

 きょろきょろと見ていると原田さんが動き出したので、その後ろをついていく。

 原田さんが向かっていたのは、客席の前方で役者の方をじっと見ている男性だった。

 

「宮川さん、話してた子連れてきましたよ」

「ん? ああ、君か」

「青蘭高校演劇部2年の山科遥です。今日は、よろしくお願いします!」

 

 原田さんが挨拶したところで誰かを悟り、全身が震える。

 この人が、あの宮川タカユキさん本人なのだ。

 

「劇団ファンタジアで演出やってる宮川だ。こうやって、若者が見学に来てくれるのは歓迎だ。今日は、思う存分吸収していってくれ」

「はい! ありがとうございます!」

 

 宮川さんは軽く僕の肩を叩いて激励してくれると、視線を原田さんに移した。

 

「原田君は案内が終わったら、練習に戻ってくれ。君のシーンは飛ばしてるが、少し気になってるところがあるんだ」

「わかりました」

 

 原田さんが宮川さんと軽く言葉を交わすと「こっちだよ」と僕を促した。

 

「あの、原田さんも舞台に立つんですか?」

「ん? ああ、そもそも俺は役者だからね」

「え、役者なんですか?」

 

 柴田は裏方の人、と言っていたはずだけれど。

 

「俺は裏方も役者もどっちもやってるんだ。劇団ファンタジアでは役者をやってるけど、状況によっては裏の仕事もやってる。……こう言ったらあれだけど、役者だけで生きていけるほど上手いってわけでもなくてね」

「なるほど」

 

 原田さんに案内されて下手から舞台袖に入る。舞台袖には特に物もなく、広いスペースになっていた。隅では担当らしき人が機構の操作盤をいじっているのが見える。

 

「そういえば、山科君は将来こういう進路を考えているのかい?」

「進路ですか? ……いえ、まだそういうのはさっぱりという感じで」

 

 将来の夢というのがあるわけではない。

 なんとなく、裏方の仕事ができると楽しいなと思うことはあるけれど、だからといって詳しく調べているかというとそういうわけでもない。

 

「機材の知識は最低限動かす程度でしかないんです。そもそも、どうやってプロになるのかも知らないですし」

「なるほどね。じゃあ、機材の話もだけど、そういった方向の話もしていこうか」

「ありがとうございます」

 

 袖のところにある階段を上がって、上の階の扉をくぐる。一般の客ではなく、完全に裏方でなければ通らない通路に入った。

 

「基本的に、プロの舞台で機材を動かすようになりたいっていうのなら、劇場とかに就職することになると思う。資格等は強要されてないけど、あるといいよね」

「資格があるんですか?」

 

 それすらも調べたことはなかった。

 でも、確かにありそうなものではある。

 

「うん。いくつかあるけど、山科君はどの方面がいいの?」

「方面、ですか?」

「あー……照明? 音響?」

「照明ですかね。スポットライトを動かすのが好きで」

 

 音響も好きだけど、どうしてもスポットライトを動かすあの快感に比べると劣ってしまう。

 それに、僕はあまり耳がいい方ではないので、音の違いがいまいちピンとこない。

 

「いくつか資格があるんだ。照明はほとんど民間の資格が多いかな。でも、国家資格の一部を持ってても面白いかもね。詳しいところは、後でまた説明しよう。口頭じゃ分かりにくいだろうし」

「お願いします」

 

 通路を進み、さらに階を上がっていく。

 ここまでくると、行先がどこかなんて考えるまでもなかった。

 

「あの、この先って……」

「想像通りの場所だと思うよ」

 

 原田さんはそう言って、通路の奥にあった扉に鍵を差す。

 

 階段を上った回数的に、既に劇場の天井付近まで登っていることは想像に難くなかった。こんな場所にある設備なんて一つしか思いつかない。

 この先にあるのは、間違いなくスポットライトだ。

 

「この先だよ」

 

 原田さんが扉を開け、その中に足を踏み入れた。

 

 

「――――ッ!」

 

 

 思わず、息をのんだ。

 

「ここの景色、初めて見るとびっくりするよね」

 

 原田さんの言葉に肯定する余裕すらなかった。

 

 そこは、空調用の大きなパイプが通っている部屋だった。

 ……いや、床と呼べる場所はないので、部屋というよりはただの空間だろう。

 

 壁紙等もなく、壁や天井は鉄筋コンクリートがむき出しのままにされている。本当に機能を果たすこと以外は何も考えていない作りだ。

 足場としてあるのは、パイプの間を縫うようにして設置されている少し錆びた通路。メッシュの足場と形式的につけられた手すりだけがあり、触れれば手に赤さびが付いた。

 

「すごい……」

 

 手についた錆を落としながら、空調の唸り声を聞く。足元を見ればメッシュの下には何もなく、眼下のパイプの隙間から僅かに床が見えた。高さ的に、二階分はあるだろう。

 

 どこから吹いているのかも分からない冷たい風に吹かれながら、僕は胸の高鳴りを感じていた。

 

 普段は決して見ることができないような劇場の裏側を見ている実感がわいてくる。

 劇場という非日常的な空間に足を踏み入れるだけでもドキドキが止まらないが、ここはさらに非日常を感じさせた。これからどんな景色を見るのか想像もできず、これから起こることが楽しみで仕方なくなってくる。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 原田さんの後ろを付いていく。

 パイプをよけるような通路を通りながら歩いていくと、少し小さな扉の前についた。

 

「着いたよ」

 

 扉をくぐって中に入ると、そこは先ほどと違って絨毯の床になっていた。照明はなく、このスペース自体は暗い。しかし、正面にある窓から入る舞台の明かりが、唯一の光源として機能していた。

 

 ここは、舞台の最上層。

 観客も、演者も、何もかもを眼下にし、そのすべてを照らしだす場所だ。

 

 

 

 

 

 僕が普段好んでいるスポットライトは、フォローピンスポットライトと呼ばれる種類のものだ。

 いわゆる世間一般にイメージする“スポットライト”がこれであり、舞台の一点を照らして観客の注意を向けさせるのに使う。

 

 基本的に一点を照らすことしかできないわけだが、一点の大きさや明るさを調整したり、色を付けたり、舞台中を動き回ったりと、様々な機能が存在している。

 シンプルに見えて、その実はとても奥が深い。

 

「使い方は大丈夫?」

「はい。分かります」

 

 大まかな見た目やスイッチの位置等は僕が普段使っているものと同じだった。でも、青蘭にあるものよりもはるかに機能が充実している。

 用意されていた座席について、目の前にあるスコープを覗いた。スナイパーのような照準の向こうでは、舞台上の役者さん達が演技している姿が映る。

 

「柴田君から山科君のライトワークはいいって聞いてたから、気になってたんだよね」

「いや、僕のなんて……」

 

 褒められたことにむずがゆくなりながら、右手は後方の取っ手に、左手は前方に用意されたレバーに添える。

 

 前方に用意されたレバーは二つ。範囲の調整レバーと光量の調整レバーだ。いつもは範囲調整しかできなかったこともあり、少しだけ慣れない。

 前回の大会でも二つのレバーを間違えて操作しそうになったことがあったので、より一層気を引き締める必要がある。

 

「……へぇ」

 

 自分の中での感覚を理解するために、光量レバーと範囲レバーの二つをそれぞれゆっくりと開いた。

 

 範囲レバーは徐々に照らされる範囲が増えるので、ある一点を起点として周囲が明るくなる。

 一方で光量レバーでは、特定の範囲が徐々に明るくなっていく。

 

 微妙な違いに見える二者ではあるけれど、演出面で見ると大きな違いに感じられた。

 

「光量の方はフェードインに使いやすそうですね」

「フェードインで?」

「はい。スポットは基本的にカットインになるので、こっちの範囲を絞るレバーの方がいいと思うんです。小さな一点から広がっていく様子や、最初から光量が最大なのも、スポットライトのカットインとして便利そうだな、と」

 

 原田さんが聞き役に徹してくれるから、普段は触れない機材を触ることができる興奮も相まって口がよく回った。

 

「一方で、フェードでライトを付けたり…………いや、ピンスポならフェードアウトで消す方が綺麗かもしれないですね。徐々に、明かりが落ちて暗転していくような感じで」

 

 カットで照明を入れ切りするのは、観客の意識を切り替えるようなスイッチの役割がある。

 カットインでスポットを入れれば観客の意識はライトへ向き、カットアウトすれば意識が途切れて再び舞台全体へと意識が向かう。

 

 シーンの勢いを感じさせるタイミングではカットというのは便利だが、ゆったりとした空気感や余韻を残すような演出には向いていない。代わりに、カットには向かない演出を行うのに向いているのがフェードだ。

 フェードは観客の意識をゆっくりと一点に向けさせることができたり、逆に意識を切らせることなく次の場面に移すことができる。

 

 スポットライトを使ったキャラの独白シーンで、カットアウトすれば転がるように場面が移り変わっていくだろうし、フェードアウトすれば事態は水面下で静かに行われていることを印象付けることができる。

 

「だから、光量と範囲の二つが調整できるのって、やっぱり大事なんだなって思いますよ」

 

 もちろん、他の照明との兼ね合いも考えた光量にする、みたいに普通に利用する際にも便利だと思う。

 

 レバーが一つ増えるだけで、演出方法は二倍にも三倍にも増えていくのだ。

 

「楽しそうだね、山科君」

「え、あっ! すみません、はしゃぎすぎてしまって……」

「いやいや、気にしないでいいよ」

 

 原田さんは面白そうに笑った。

 

「演劇っていう世界は、どうしても役者が目立って、裏方にスポットライトが当たることはない。当たり前だよね、観客の前に立つのは彼らだけなんだから」

 

 それは、裏方である僕達が少なからず抱いている気持ちだ。

 

「裏方っていうのは、どうしても褒められない。普通は役者の演技に目が向いて、俺らの仕事はあまり目立つことがない」

 

 タイミングがいいのは、演出家の腕がいいから。舞台が映えるのは、役者の腕がいいから。

 でも、上手くいかないのは、僕達がミスをしたからだ。それは裏方として一生付き合っていく宿命みたいなものでもあるかもしれない。

 

 

 ――観客は、裏方を評価しない。

 

 

「でも、それが僕達ですもんね」

 

 そうだ。

 

 僕達は評価されないと少し寂しい表情を浮かべたところで、結局はこの仕事が好きなんだ。

 この大きな舞台という機構を動かす技術者として、観客を夢へと運ぶ案内人として、僕達はこの仕事に確かな喜びと誇りを抱いている。

 

「山科君。俺が役者と裏方を両方やっているのは、二つの視点があって初めて見える姿があると思ったからなんだ」

「二つの視点?」

「そう」

 

 原田さんは眼下にある舞台を見つめていた。

 僕の視線も、それにつられて舞台へと降りていく。

 

「役者の立場から見える舞台。裏方の立場から見える舞台。その二つの視点があれば、もっとすごいことができるんじゃないかって思ってるんだ」

「もしかして、原田さん……」

「ああ。俺はね、本当は演出家になりたいんだよ」

 

 この人は、表も裏もすべてを知り尽くして、その先に見えてくる新しい視点(ステージ)を目指しているんだ。

 

「ここまで話していて、山科君の熱量はすごく感じてた。柴田君と初めて会った時もそうだったけど、若い層の熱量っていうのはとんでもないよね」

「柴田はともかく、僕はただ気持ちが先走ってるだけですよ」

「そりゃそうだよ。最初は誰もが気持ちから先走るものさ。技術なんていうものは、心の熱があれば後からどれだけでもついてくるものだ」

 

 原田さんが僕の方を向いた。

 

「俺はいつか、自分の劇団を持ちたいと思ってる。実は今、その足場づくりをするために頑張っているんだよ」

 

 次に来るであろう言葉が、不意に僕の脳裏をよぎった。

 

「山科君の熱量はまさしく本物だ。君はまだあまり自覚がないかもしれないし、初めてすぐ故の熱かもしれない。でも、俺はその情熱を信じたい」

「原田さん……」

「もし、劇団を作って舞台をやりたいといった時、ぜひとも君に来てほしい」

 

 これがどこまで本気なのか、全く見当がつかなかった。

 ただ粉をかけているだけなのか、本気で僕を誘ってくれているのか、僕にはその違いを見極めるだけの余裕もなかった。

 

「別に、すぐに答えをくれなくてもいい。人の人生を左右するような言葉だってことは、俺が一番分かっている」

 

 原田さんは名刺を取り出して何かを書きつけた。

 

「後で資格や進学に関すること、教えられるだけ教えるよ。分からないことがあったら、いつでも俺に連絡してくれていい」

「……ありがとう、ございます」

 

 名刺を受け取って、目を通す。

 裏面に目を向ければ、そこには先ほど書いていたのであろう別の連絡先があった。

 

「その連絡先は、今の俺の夢に関することで使ってるやつだよ。もし君が一緒にやってくれるというのなら、その時はその連絡先にメッセージを送ってほしい」

「は、はい……」

 

 演出家になりたい? 情熱を信じたい?

 

 原田さんの言葉があまりにも僕の予想を裏切りすぎていて、正常に飲み込めている自信がなかった。

 

「いきなりこんな話してごめんね。でも、スポットライトを楽しそうに使っている山科君を見てると、どうしても抑えきれなくてね」

「いえ、それは、全然……」

 

 むしろ、高校生になってから機材を触り始めたこんな素人に対して、ここまでの言葉をくれたことの方が嬉しかった。

 今までの公演で僕の技術を褒められるという機会はあまり多くなかっただけで、こうした直接的な言葉が余計に心に響いていた。

 

 原田さんは「良かった……」と胸をなでおろすしぐさを見せると、席から立ちあがる。

 

「一度、下に降りようか。俺も宮川さんに呼ばれてるし。この後は自由に見て回ってもいいと言われているから、音響や照明卓の方も含め、好きに楽しんでいってくれ」

「あ、はい」

 

 原田さんの言葉にうなずき、僕も座席から立ち上がった。

 

 

 

 

 

 客席の方に降りると、宮川さんの傍に僕と同い年くらいの女の子がいるのが見えた。先ほどまではいなかったので、僕達が下りている間に来た人なのだろう。彼女も劇団の人だろうか。

 

 原田さんは、その女の子に気が付くと軽く手を挙げた。

 

「あれ、千聖ちゃんじゃないか。いらっしゃい」

「原田さん、ご無沙汰してます」

「今日はどうしたの?」

「いえ、こちらで練習しているというお話を聞いたので、挨拶に来たんです。宮川さんには舞台に来ないかと誘っていただいたものですから」

 

 チサトちゃん、という彼女はどうやら外部の人らしい。だが、まとっている雰囲気からして演劇業界に身を置いている人であるのは察しがついた。

 どこかで見たことあるような気もするけれど、それこそどこかの舞台で見たことがあるのかもしれない。

 

「それで……原田さん。そちらの彼は?」

 

 チサトちゃん、が僕の方に視線を向けた。

 

「彼は裏方の方の見学に来ている子で、山科君だよ」

「初めまして。山科遥といいます」

 

 軽く頭を下げると、彼女も改まって僕の方に向き直ってくれた。

 

「山科さんですね。初めまして、白鷺千聖です。宮川さんや原田さんとは、前に舞台で一緒にやらせてもらったことがあるんです」

「なるほど、演者の方なんですね」

「え?」

 

 役者であることを確信すると同時に、原田さんの方から意外そうな声が聞こえてきた。

 

「あの、山科君。彼女のこと知らない?」

「え? すみません、今パッと出てこなくて。出演作品と役を聞けば思い出せるかも……」

 

 原田さんに言われて恥ずかしくなってくる。

 そんなに有名な役者だったとは全く知らなかった。僕が見てる作品に出ていたのだろうか。

 

「いやいや、そういうことじゃなくて」

「……どういうことです?」

 

 雲行きがおかしくなってきた。

 

「だって、千聖ちゃんって言えば、山科君の世代からすれば大人気ガールズアイドルバンド、pastel*Palletsのメンバーじゃないか」

「……え?」

 

 思考が停止した。

 表情が引きつっているのを理解しながら、白鷺さんの方に視線を向ける。

 

「……いつも、麻弥ちゃんがお世話になっています」

「は、はあ……」

 

 いつだったかに演劇部で話していた内容が脳裏をよぎった。

 あれは確か――

 

「元子役でしっかり者なベースで、瀬田さんの幼馴染な、千聖さん……?」

「知ってくれているみたいで嬉しいわ」

 

 白鷺さんは少し僕に近づいた。

 

「少し早いけど、お昼でもどうかしら? ここの劇場のカフェ、ランチメニューがお勧めなんだけど」

「え、えっと……」

「麻弥ちゃんからも聞いていたから、少しお話ししてみたかったのだけれど」

「は、はい……」

 

 なぜか、逃げられる気がしなかった。




今回は、物語最初のターニングポイントにしていたプロとの出会いでした。
本作は山科君の一人称視点ということもありまして、山科君の実際のところの技術レベルについては分かりにくくなっているかと思います。今までは意図的に分かりにくくしてた部分もありますが、彼のスペックは初心者にしては伸びがいい有望株・期待の新人、くらいの技術として書いてます。

劇場の中を歩いてスポットライトのある部屋まで移動する経路は、僕が初めて行った劇場のルートを参考にしています。あの興奮は普段の6500字程度では収まらなかったので、7500字まで伸びてしまいました。これでも抑えた方なんや……。

ちなみに、宮川タカユキさんはオリキャラじゃないです。
詳しく知りたい人は「つぼみ開く時」のイベストを読もうね!!


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8/2(木) 「役者は自由気ままに」

 劇場のカフェは、客がいなかった。

 窓はどこにもなく開放感は少ないものの、店内のBGMや少し暗い照明が落ち着いた雰囲気を演出している。

 

 店員に案内されて奥の席に座ると、白鷺さんは持っていた紙袋を持ち上げた。

 

「最初に、これを渡しておくわ」

「何ですか?」

 

 紙袋を受け取って中を見ると、そこには色紙が2枚入っている。よく見れば、書かれているのはパスパレのメンバーのサイン。

 

「これは……」

「貴方が麻弥ちゃんにお願いしていたもの。そうでしょ?」

「ええ」

 

 それは確かに以前、大和さんにお願いしたサインだ。

 兄さんの分と僕の分、両方が入っている。

 

「でも、どうしてこれを……」

「部活のタイミングで渡すようになると、周囲が麻弥ちゃんにねだってしまうかもしれない。かといって二人での帰り道なんかに渡すようにすれば、メディアに取り上げられる可能性だって出てくる」

「……なるほど」

 

 アイドルのゴシップ記事が脳裏をよぎる。

 

 白鷺さんはこれを防ぐために、このタイミングで僕にサインを渡したのだろう。このカフェ自体も外から見える場所というわけでもないし、他の客もいない。逆に言えば、この状況を記事にされるようなことはない。

 

 これらのリスクを考えたうえで行動しているのかもしれない。

 流石は元子役。芸歴の長さは、こうした日常生活でのふるまい方にも出てくるのだろう。

 

「後、別に敬語で喋らなくてもいいわよ。同い年なんだし、貴方は芸能界の人というわけでもないのだから芸歴も関係ないもの」

「そう? ……なら」

 

 少し気持ちを緩めながら、色紙の入った紙袋を傍に置いた。

 

「それで? どうして僕がここにいるって知ってたの?」

 

 偶然と片付けることはできない。だって、ここには僕が大和さんに頼んでいたサインがある。白鷺さんは既に、大和さんにサインを頼んだ主が僕である上、その僕が今日ここに来ると知っていた。そうでなければ、彼女がこれを持ってここに来る理由がない。

 少なくとも、何かしら大和さんから僕のことを聞いていたはずだ。

 

「サインを書いてほしいと頼まれたときに、貴方のことを聞いたの。でも、舞台のお誘いがあって挨拶に伺おうと思っていたのも本当よ」

 

 柴田や瀬田さんもそうだが、役者というのは舞台に立っていない時も演技をしているのではないかと思えてならない時がある。

 分かりやすい瀬田さんや、付き合いの長い柴田はともかく、初めて会う白鷺さんについてはどちらなのかが全く分からない。今、僕が相対しているのは演じている白鷺さんなのか判断する方法が存在しない。

 

「お昼は何がいいかしら? 私のお勧めは日替わりランチだけど、貴方はどうする?」

「……同じので」

 

 特にメニューを見たわけではないけれど、今白鷺さんから視線を外すのが少しだけ怖かった。

 白鷺さんを全く知らない僕は、彼女が何を考えて僕に会いに来たのか全く分からない。

 

 白鷺さんはボタンを押して厨房の方を見る。

 すぐに奥から店員が出てきて、僕達の席にやって来た。

 

「ご注文は?」

「日替わりランチを二つで」

「パンとライスはどちらにしますか?」

「私はパンで。貴方は?」

「……ライスで」

「サイズは?」

「普通で」

「かしこまりました」

 

 店員さんが厨房に引っ込んでいくのを見送ってから、白鷺さんは僕の方に向き直った。

 ごくりと唾をのんでから自分の口が乾いているのをやっと理解して、コップの水を口に含ませた。

 

「……それ、で」

 

 言葉が続かない。

 

 別に白鷺さんに何を話されるのか想像がついているわけじゃないし、彼女が恐ろしい表情をして僕を威圧しているわけでもない。

 もともと人見知りなのもあるけど、この緊張はいつものそれとは絶対に違っていた。

 

 この場の雰囲気は、確実に白鷺さんのペースで進んでいる。

 

「どうして、私が貴方に会いに来たのか、でしょう?」

 

 切り込まれた。

 

 返す言葉も出ない。

 

「心当たりはあるんじゃない?」

「……いや、別に」

 

 話のテーマというか、中心人物は分かる。大和さんだ。

 

 でも、大和さんについて、わざわざ白鷺さんからあれこれ言われるようなことはなかった…………と、思いたい。

 

「本当にないの?」

「う、うん」

 

 僕は芝居や舞台の世界に多少身を置いているとはいえ、所詮は高校の演劇部程度の素人だ。

 芸能界のしきたり、決まり事というものに対する知識は全くないと言ってもいい。だから、白鷺さんから何か問題を起こされていたと判定されても、僕には知りようがない。

 

「…………」

「…………」

 

 もし。

 

 もしも、だ。

 

「大和さんのことなのは、分かるけど」

 

 もし、この話が、

 

「だけど、僕が大和さんに、わざわざ何か言われることをしたかというと、よく分からない」

 

 大和さんに対する気持ちであるというのなら、話は大きく変わってくる。

 

「どうして、白鷺さんはわざわざ僕に会いに来たの?」

 

 白鷺さんが僕のこの気持ちに気が付いているというのは、大和さんが僕の気持ちに気が付いているという可能性を大きく示唆する。

 

 それは、とてもまずい。

 

「それが、話の内容?」

 

 口が、少しずつ回りだした。

 

 そういえば、心理学だったかでは、嘘をつくときには多弁になると聞いたことがある。今は完全にそれだと思われても仕方ない状況だけど、それでも喋らなければ主導権を取れない気がした。

 

 白鷺さんの返答に意識を向けながら、頭の中で次の言葉を組み立て――

 

 

「ええ、そうね」

 

 

 ――言葉(セリフ)が、すべて飛んだ。

 

 会った瞬間から、主導権を握られっぱなしだった。

 場所選びから昼食のメニューまで。すべては彼女が主導権を握っていて、僕は突然のことに動揺しながら流されているだけだ。

 

「麻弥ちゃんと出会ってまだ、二週間も経ってないのよね?」

「……まあ」

 

 改めて思い出すと、確かにそうだ。羽丘の人達と一緒に舞台づくりを始めて、まだ二週間も経っていない。

 

「裏方が好きなのよね?」

「はい」

「特に、照明とも聞いてるわ」

「そうだね」

 

 ……周りくどい。

 

 早く切り込むと思ったら関係ない世間話を始めるし、様子をうかがうのかと思えば切り込んでくるし。

 

「舞台は好き?」

「うん」

 

 何を考えているのだろう。

 それが全く分からない。

 

「じゃあ、麻弥ちゃんは?」

「え――――ッ!?」

 

 慌てて口を閉じる。

 いきなり何を聞いてきてるんだ。

 

「あら、なんて言おうとしたの?」

「いきなり、なんてことを!」

 

 慌てて言葉を返すと、白鷺さんは少しだけおかしそうに笑った。

 

「ごめんなさい。ちょっとからかいすぎたかしら」

 

 そこで、ようやく冗談であることに気が付いた。

 

「あー……もー……」

「面白い反応で楽しかったわ」

「いや、本当に勘弁して」

 

 急に張り詰めた空気が破れ、僕は疲れて深く椅子に座りこんだ。息を吐きながらコップに手を伸ばして、中身を一気に飲み干す。

 

 軽く、ひと呼吸。

 

「結局、何がしたかったの?」

「お話がしてみたかっただけよ」

「……用件は?」

「特にないわ」

「え?」

「別に、用件はないわ。それとも、麻弥ちゃんには気安く近づかないで、とか言った方がよかったかしら?」

「い、いえ、別にそういうわけではないですけど」

 

 慌てて返事をすると、白鷺さんはまた少しだけおかしそうに笑った。

 

「私は、ちょっと知りたかっただけなの。麻弥ちゃんが仲良くなったっていう男の子が、どんな人か」

 

 白鷺さんは僕から視線をそらして、コップに手を伸ばした。

 

「私もだけど、パスパレのみんなは女子高で男の子の友達なんてほとんどいないから。もちろん仕事で男性と一緒になることはあるけど、それはあくまで仕事。勉強や部活を一緒にするような人なんていなかったわ」

「だから、物珍しさで僕に?」

「ええ」

 

 と、返事をしたところで、奥から料理を持った店員さんが出てくる。

 注文した日替わりランチの内容は知らないけれど、ここにいる客は僕と白鷺さんの二人だけ。間違いなく、僕達の注文した品だ。

 

「日替わりランチです。鉄板が熱くなっておりますので、お気を付けください。そして、こちらがパンになります。失礼します。こちら、ライスです」

「ありがとうございます」

「ごゆっくり」

 

 店員さんが奥に戻っていくのを見て、日替わりランチを見る。

 どんなメニューが出るかと思っていたが、今日は煮込みハンバーグだったらしい。少し深い鉄板に、ハンバーグ、ニンジン、ブロッコリーが入っている。傍にはコンソメスープとライスがある。量も十分あって美味しそうだ。

 

「冷めないうちに食べましょうか」

「う、うん」

 

 フォークとナイフを手に取って食事を始める。

 とりあえず、ハンバーグの味が知りたかったのでためらうことなくナイフを入れる。肉汁が切れ目からあふれてソースと混じっていくのを見ながら、ゆっくりと口に運ぶ。

 

「おいしい」

「でしょう?」

 

 白鷺さんが嬉しそうに笑った。

 

「そういえば、演劇部の麻弥ちゃんって、どんな感じなの?」

「演劇部の大和さん?」

 

 世間話みたいな気安さで聞いてくる。

 僕の印象を答えるだけでいいのだろうか。

 

「うーん……すごく、真摯な人かな?」

「真摯?」

「うん。しっかり周りを見て、舞台を作ることを一生懸命考えてる人だなって」

 

 機材が好きで、それに彩られる舞台が好きで、誰かを魅力的にすることが楽しいと思える人だと思う。

 誰かのためを思って頑張れる人は、きっと素敵な人なんだと思う。

 

「麻弥ちゃんとは、一緒にいる方なの?」

「え? まあ裏方、それも取りまとめ側にいるから、話す時間は多いかな」

「まとめてるのは麻弥ちゃんと二人で?」

「三人だよ。僕と、大和さんと、葛西さんって人の三人」

 

 そもそも僕が知っている大和さんは、きっと白鷺さんも知っている大和さんの姿だと思う。

 大和さんはいくつもの顔を持てるほど演技力の高い人ではない。

 

「確かに、麻弥ちゃんは分かりやすいというか、嘘をつかないタイプね」

「だから、白鷺さんが知ってる大和さんとそう大差ないと思う」

「そんなことが分かるくらいには、仲がいいのね」

「え、ああ、まあ」

 

 大和さんとの仲は悪くないと思う。

 大和さんの言う“男子(女子)になった大和麻弥(山科遥)”という評価は、表面的には何も間違っていないだろう。僕と大和さんは機材に対する愛情をきっかけに仲良くなっているわけだし。

 

「山科君は、プロを目指すの?」

「……それ、さっきも原田さんに聞かれたんだよね」

 

 今の高校生で将来の姿を明確に描いている人がどれだけいるのだろう。僕には、高校を卒業した後の自分ですら既に想像することができない。

 そんなに将来の話をされても、僕には答えられない。

 

「白鷺さんは、自分の将来を考えてるの?」

「ええ」

 

 返事は早かった。

 

「私は目指すべき自分の姿が決まってる。今は、その道の途中よ」

「……すごいね」

 

 それは、純粋な尊敬だった。

 

 僕は確かに舞台が好きだ。照明が好きだ。でも、それを将来のモノとして定めるほどの理由が僕にはない。

 舞台照明との、スポットライトとの出会いだって偶然の物だ。この先、照明のような……いや、それ以上の出会いがあるかもしれない。

 

 「前途ある若者」「未来は可能性に満ちている」なんて言葉を聞くたび、そう思う。

 まだまだ僕には可能性があって、これがすべてじゃないかもしれないんだって。

 

「……そう」

 

 長い人生の中で、人はいつ自分の未来を決めるのだろう。

 僕はいつ、自分の将来を見定めるのだろう。

 

 未来にあふれているなんて言う癖に、そのタイミングは誰も教えてくれやしない。

 

「みんな、すごいよね。将来の夢とか、これだと言えるモノがあるのって」

 

 大和さんはアイドル、ドラム。柴田や瀬田さんなら芝居。

 みんな自分の将来を見定めていたり、熱中できるだけのものがあって羨ましいと思う。

 

 その出会いは、どうやって確信するものなのか、皆目見当もつかない。

 

「……って、ごめん。つまらないこと言って」

「いえ、気にしないで」

 

 ふと素に戻って謝ると、白鷺さんは本当に気にしていないような様子で笑った。

 これが演技なのか素なのか、本当によく分からない。

 

「そういえば、そのサインって片方はお兄さんので、もう片方が山科君のなのよね?」

「うん」

 

 そう言われ、袋から色紙を取り出した。

 

 五人のサインはどれも個性を感じるものだった。

 白鷺さんのはいかにも芸能人という感じの、流れるような筆記体のサインだ。逆に丸山さんと氷川さんのサインはアイドルっぽくて可愛い人達なのだろうと思うし、若宮さんは字が綺麗でまっすぐな人なのが分かる。

 大和さんのサインは回文を意識させるような感じだ。なんていうか、サインが思いつかなくて頑張ってひねり出そうとしている大和さんの姿が、容易に想像できた。

 

「兄さんに頼まれて、とりあえず言うだけなら、って。本当にありがとう」

「こちらこそ。ファンとして応援してもらえているのは、嬉しいもの」

 

 白鷺さんは大和さん一人だけのサインが書かれた色紙に視線を向けた。

 

「山科君は、どうして麻弥ちゃんのサインだけを頼んだの?」

「知らないからだけど」

「それって、パスパレのことを?」

「うん。知らないアイドルのサインをもらうのって、申し訳ないなと思って。だから、知ってる大和さんのだけを頼んだんだ」

 

 それは、前にも大和さんに話したことがあるような記憶がある。

 

「山科君は、麻弥ちゃんのことは好きなの?」

「恋とか、そういう話?」

「別に、どういう意味でもいいわよ?」

 

 少し、試すような眼をしてきた。

 僕程度の演技(ウソ)なんて、すぐに分かると言いたい目だ。

 

「……好きか嫌いなら、きっと好きな方だよ。すごく機材に詳しいし、舞台づくりにも熱心だから」

 

 この気持ちは確かに好意というべきものだとは思う。

 今はまだ、その種類を定義することはできないけど。

 

「今後も、いろいろ教えてもらえるといいなとは、思ってるかな」

 

 大和さんとの出会いは、どんなことがあっても確かに僕の中で大きいものになるだろう。

 今日の原田さん達に出会えたこともそうだけど、将来を考える上で大切な要素になってくることは想像に難くない。

 

「舞台が終わってからも?」

「え? うん、そうだといいね」

 

 舞台が終わった後、か。

 その後、僕は大和さんとまた話し続けられるのだろうか。これまでの関係を続けることは、難しいような気がする。

 

 もしも関係が続くというのなら、それはきっと、僕のこの気持ちが――

 

「……ご馳走様」

「え?」

 

 白鷺さんの皿は空だった。

 

「山科君」

「何?」

 

 白鷺さんは一口水を飲んで、中身を空にした。

 

「私達、アイドルなの」

「う、うん」

 

 それは最近ではあるけれど、知っている。

 

「不用意な関係はスキャンダルのもとになる。そういう記事で姿を消した人を、私は何人も見て来たわ」

「……うん」

 

 話の中身が、見えてきた。

 

「麻弥ちゃんとの付き合い方、少しでいいから真剣に考えてくれると嬉しいわ」

 

 白鷺さんは伝票をもって立ち上がった。

 止める、という思考すらない。

 

「じゃあ、私はパスパレの練習があるから、お先に失礼するわ」

 

 止めるような暇すらなく、白鷺さんはレジにぴったりの額を置いて帰って行った。

 

「あー…………」

 

 そこで、ようやく僕は理解した。

 

「全部、演技だったのか」

 

 最初に(“序”)主導権を握ったのは(観客)の平常心をかき乱すため。

 次に(“破”)、冗談という形を利用してある程度の距離まで接近。

 最後に(“急”)言うべき言葉(セリフ)を的確に言い放って去っ(ハケ)ていく。

 

「なる、ほど」

 

 聞きたいことだけすべて聞き出して、自分のことは大して喋ることもなく退散していった。

 

 つまり僕は、最初から最後まで白鷺さんの掌の上で踊らされていたということだ。

 彼女は自分が欲しかった情報を完璧に引き出して、僕に置き土産まで残して舞台から去った。

 

「…………」

 

 これは、つまり。

 

「……気安く近づくな、ってことかな」

 

 大和さんとの関係に、くぎを刺されたということだろう。




個人的に、山科君の対人能力はくそ雑魚。演技や芸能界での立ち回りまで考えられる、対人能力のプロフェッショナルである白鷺さんには翻弄されるしかないかなって思いました。
 ちなみに、白鷺さんは意図的に原作っぽい感じを殺しているんですが、上手く芝居と思えるような殺し方ができていたでしょうか? 自信はあまりない。

 高校で将来の夢が決まる人ってたまにいますけど、どうしてそうしようと思えたのかあんまりよく分かりません。
 その辺に関しても、次の午後からの見学とかで見えてくるものがあるといいですね。


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8/2(木) 「精緻に、熱烈に」

 午後からの見学は、一人で自由に見て回っていいとのことだった。

 

 ただし、行ける範囲はスタッフのいる場所に限る。簡単に言えば、上手下手の舞台袖。調光室*1、音響調整室*2、上手と下手を繋ぐ通路、客席。

 この程度で申し訳ないと原田さんには謝られたが、むしろそれだけの場所を自由に見て回っていいと言ってもらえたことはとても嬉しい。そういえばスポットライトの方には行けないが、原田さんはこれを見越して午前中に連れて行ってくれたのかもしれない。

 

 今いるのは客席の中央辺り。舞台では原田さん達が練習しているのが見える。もともとは見に行く予定のなかった舞台だけど、ここからチラチラ見ているとどんな舞台か気になってくる。今度、柴田や高橋を誘ってみようか。

 

 と、それはともかく。

 この後行く先について考えるため、もらった見取り図に目を落とす。見れば、どうやら調光室や音響調整室は下手の舞台袖から移動する形になるのが分かる。

 

「……上手から、かな」

 

 上手の舞台袖を見て、そこから裏の通路を通って下手の方に移動。そこから、調光室や音響調整室の方を見に行く形にするのがいいだろう。

 ちょうど、この順序だと最後に調光室がやってくる形になる。

 

 時間は限られているわけだし、一番時間がかかりそうな調光室を最後に持ってくるのは悪い選択じゃない気がしてきた。

 時計を確認してみると、現在の時刻は13時前。帰りは16時ということになっているので、残りは3時間しかない。

 

 予定を決めると早速、上手の方に向かう。舞台を経由して上がると申し訳ないので、客席脇の通路に出てから上手の袖に入った。

 

「失礼します……」

 

 挨拶をしながら入るけれど、別に誰かがそこにいるわけではない。ほとんどの人は下手側で練習をしている。

 上手に誰もいないことを確認すると、ふらふらとあちこちの様子を見て回ることにする。

 

 舞台袖は、舞台に立っていない役者や大道具類が待機する場所だ。他にも、スタッフ達があれこれと大道具の運び込みをするために待機していたりする。今は特に本番の舞台があるというわけでもないため、特に大道具類があるわけでもなく殺風景な場所だ。

 

「……あそこが搬入口」

 

 奥の方を見れば、下手の舞台袖に移動するための通路と、外から大道具類を搬入するための出入り口がある。

 大会の時には学校にトラックが来て、そのトラックで大会の演目で必要な道具類をここから搬入することになる。特に、僕は裏方専門として青蘭演劇部に所属しているので、大会の時の道具の搬入については僕が段取りをすることになっている。秋にある大会でも搬入をしなきゃいけないのだろう。

 今年の大会の会場がどこかは分からないけれど、去年の会場が建て替えになるそうなので、今年はここになるかもしれない。

 

 とすると、

 

「ただの見学じゃない?」

 

 今日の見学は、秋の大会に対しても大きな意味を持つ時間になる可能性があるということだ。

 

 その事実に気が付くと、少しだけ気持ちが引き締まる。

 もう少ししっかり見ていこう。実際に歩いた感覚というのはきっと大きな意味を持つ。

 

「……やっぱり、きれいじゃないな」

 

 ステージの床は木製で、ところどころに穴や傷がついている。大道具を置くときに根釘*3を打つこともあるので、それの傷が残っているのだろう。そして、本番に近くなればバミテ*4が貼られていることも想像に難くない。

 

 軽く床を撫でてから上を見れば、舞台の方には様々な照明器具が付けられているのが見える。ぱっと目視できたのは、ボーダー*5、サス*6くらいだろうか。本来なら、ホリ*7もあるのだけど、今は奥の方にある引割幕*8が閉められているので見えない。他の幕は見たところ開いていて、分かる範囲では一番手前の緞帳*9や袖幕*10があった。

 

 舞台は練習の途中なので、袖幕のところからこっそりとライトの様子をうかがってから、奥の方に引っ込んだ。

 これ以上は特に見る場所もないので、奥の通路から下手側の舞台袖に移動することにする。

 

 少し重い扉をゆっくりと開けて通路に出る。

 通路はシンプルなリノリウムの床で、途中には控室がいくつかあるのが分かる。部屋の中までは分からないけれど、通路自体はそれなりの広さが確保されていた。ここは舞台袖よりもさらに見る場所がないので、うろつくこともなく下手の方に移動する。

 

「……ん?」

 

 ふと、スマホがバイブレーションしているのに気が付いた。

 取り出して確認してみると、そこには“大和麻弥”の名前で着信が来ている。……ほんの一時間ほど前にあった白鷺さんとの会話を思い出しながら、通話を選択して耳に当てる。

 

「もしもし、山科です」

『もしもし、大和です! 今、お時間大丈夫ですか?』

「え、ええ」

 

 少し焦ったような大和さんの口調に違和感を覚える。

 

「どうかしました?」

『いや、そっちに千聖さん行きましたよね?』

「あ、はい」

 

 返事をしながら、なぜ大和さんが慌てているのかを理解した。思わず鼓動が早まるけど、電話口で悟られないよう気を付けながら口を開く。

 

「白鷺さんとは会いましたよ。サインありがとうございます」

『いえいえ……って、そうじゃないですよ!』

 

 なんだか、慌てている大和さんが珍しい。白鷺さんが僕に会いに来ることは、大和さんにとってもかなり想定外だったらしい。

 そういえば、別れ際にパスパレの練習に行くと言っていたから、さっき事後報告で知らされたのかもしれない。

 

『その、千聖さんに何か言われませんでしたか?』

「な、何かってなんですか?」

『それは、その……』

 

 大和さんが言葉を濁した。

 僕は一瞬生まれた間を逃すことなく、すかさず自分の言葉を続ける。

 

「白鷺さんとは、そこまで大した話はしてないですよ」

 

 嘘だ。

 僕だけの問題ではないというのに、言い出せずにいる自分が恨めしい。

 

『本当ですか?』

「え、ええ」

 

 正直に話してしまえば大和さんに迷惑をかけてしまうし、場合によってはこれから一緒に活動するのも難しくなるかもしれない。

 でも、そうなるのはどうしても嫌だった。

 

『…………』

「…………」

 

 電話口で大和さんが押し黙る。

 何かを言い出そうとする素振りだけは感じられるので、こちらからもむやみに声をかけにくい。

 

『いや、なんでもないならそれでいいです。お騒がせしてすみません』

「何かあったんですか?」

『な、何もないですよ。気にしないでください、あはは……』

「それなら、いいんですけど……」

 

 大和さんが何かごまかすような口ぶりでそう言った。

 向こうが何をごまかしているのかは分からないけど、僕も隠し事をしている以上むやみに尋ねることもできない。

 

『突然電話してすみませんでした。見学楽しんできてください!』

「あ、はい。大和さんも練習頑張ってください」

『ありがとうございます。それでは』

 

 電話が切れたので、スマホをしまう。

 

 大和さんはどこまで知っているのだろう。

 ゴシップ的な話を気にするなら、確実に僕の存在は迷惑だ。……いや、白鷺さんが大和さんに話さない理由がない。大和さんは大なり小なり忠告されているだろう。

 

「……まあ、今は気にしないようにしよう」

 

 慌てて顔をあげて頬を軽く叩く。

 

 こんな気持ちで見学していては、いろんな人に失礼だ。今は、今だけは楽しんでいこう。

 

 

 

 

 

 通路を進み、下手を抜けると、次に目指す場所は音響調整室だ。

 

 午前中にピンルーム*11へ移動する時に通った通路に入り、途中で階を上がらず直進する。こっちの方向に、調光室や音響調整室があるらしい。

 

 突き当りまで移動すると“音響調整室”と書かれた部屋が見える。ここが音響調整室らしい。

 軽くノックをすると、奥から「はーい」と声が聞こえる。ゆっくりとドアを開けて様子を窺いながら、中の人に頭を下げた。

 

「お邪魔します。見学に来させていただいてます、山科遥です」

「ああ、君が例のね。どうぞどうぞ。なんもないけど見ていってよ」

「ありがとうございます」

 

 挨拶をして奥に入る。

 

 音響調整室は、ちょうど舞台の正面に位置していた。後方の入り口の真上くらいの位置だろう。

 ホール側は完全にガラス張りとなっていて、客席を含めたホールの様子全体を確認することができる。今も、舞台上では練習をしている原田さん達の姿が見えた。

 

「ちょっと見てみる?」

「あ、はい!」

 

 声をかけられたので、スタッフさんのすぐ後ろに立つ。

 ホールが確認できるような向きで機器は設置されていた。ディスプレイ式のモニタで音響機器全体の様子が確認できるようになっている。

 

「今は本番で使う予定の演出を順番に確認している途中」

 

 手慣れた様子でつまみを操作しながら、スタッフさんが説明してくれる。

 劇場の音響設備はほとんど触ったことがなく、調光室でも見るような大量の調整バーを見て目がくらむ。どれがどの設備の物なのか、どの程度動かせば音が出るのか覚えられる気がしない。

 

 照明はこんな感じだけど、音響に関してはダイヤルが一つだけだったせいもあって、余計に混乱してしまいそうだった。

 

「こういう場所、来るのは初めて?」

「はい。今までピンスポの方がメインだったので……」

「ああ、スポラの方か。じゃあ、調光室も入ったことないかな?」

「ですね」

 

 頷きながら装置をしげしげと眺める。

 マイク、スピーカー、ディスプレイ、操作盤……と、いろいろな装置がこの狭い部屋に凝縮されている。ヘタに触れるとどんなことになるかが分からない。

 

「まあ、物は多いけど難しくはないよ。このバーを上げたり下げたりして音量を調節。以上」

「え?」

 

 簡潔すぎる説明に、思わず声をあげてしまった。説明って、それだけ?

 確かに、機器のほとんどは調整用のバーなのでこれの操作がほとんどになることは想像がつくけれど、それにしても……それだけ?

 

「あんまり難しい話しても仕方ないしね。……まあ、後はモニター見たり、袖と相談しながらその場でいい感じにするけど、他に言えることないんだよなぁ」

 

 そう言いながら、スタッフさんはブツブツと独り言を唱えながら舞台と操作盤の二つを交互に見つめる。

 

「えっと、今はBGMを流してる。んで、それを操作してるのがここ」

 

 視線は舞台の方を見ながら、つまみとディスプレイを指差した。確かに、その部分のつまみは上がっている。

 

「んで、こっちでも確認できる」

 

 ディスプレイには現在音を出している機器が表示されており、確かにonの表示になっているのが確認できた。

 

「こういうの確認して、舞台の方から音量がどうかとか意見もらって、微妙に調整しながら本番にはジャストな音を流す」

「なるほど」

 

 その流れは、演劇部でもずっとやって来たことだ。

 納得がいくまで試行錯誤して、音量やタイミングを考えながら舞台が一番映える音を探していく。単純で、地味で、だけど何よりも大事なこと。

 

「あんまり喋ることなくて悪いね。次行く?」

「そう、ですね。とりあえず見てくるだけ見てこようと思います」

 

 問いかけにうなずく。

 後から見直す機会があるなら、とりあえず今は全部を見てくる方が得策だろう。時間が余ったタイミングでまた見に来ればいい。

 

「いいよいいよ。次は調光室?」

「はい、そのつもりです」

「じゃあ、隣か」

 

 スタッフさんが壁の方を指さした。

 

「暇だったらまたおいで」

「ありがとうございます」

「はいはーい」

 

 挨拶をしてから部屋を出る。誰もいない通路でスマホを取り出して時刻を確認すると、現在時刻は15時を過ぎていた。

 なんだかんだで、移動中にあちこちを見ているのが予想以上に時間をかけていたらしい。

 

 ドアの前で一度深呼吸をしてからノック。

 そして「どうぞー」という声をきっかけにして、ドアを開けて中に入った。

 

「失礼します」

 

 部屋の中は音響調整室とあまり変化がなかった。

 正面はガラス張りになっていて客席を含めたステージの様子が確認できる。音響機材があった場所には、照明機材が置かれていて、機器以外には特に差異がなかった。

 

 機材の前にはスタッフさんが座っていて、ちらりと僕の姿を確認して視線を戻した。

 

「見学だろ?」

「あ、はい」

「こっち」

「はい」

 

 調光室にいたスタッフさんは、音響調整室のスタッフさんとは対照的に淡々とした口調をした人だった。

 とりあえず、呼ばれたとおりに後ろについて卓を覗き込む。操作用のつまみは、やはり上下に動かすことができるバーになっている。

 

「サス」

「はい?」

 

 不意な言葉に驚くが、よく見るとスタッフさんはつまみのバーを指差していた。

 

「ここ一角がサス。こいつが舞台奥。こっちは手前」

「……なるほど」

 

 どうやら、各バーと照明の関係を説明してくれていたらしい。上手にいた時に照明の位置を確認していたので、その位置関係はなんとなく理解することができた。

 

「ボーダー、ホリ」

「はい」

 

 専門的なことは一つも言われていない。

 ただ黙々と照明機材の位置とつまみの位置を説明されている。その説明に、どれほどの意味があるかは全然分からないけれど、むやみに口を挟むことはできる気がしなかった。

 

 舞台周りの照明から、客席の照明の位置を順番に説明されていく。視線はホールと卓を交互に行き来し、その場所を把握するために頭を動かす。

 音響調整室の時とは全く違う雰囲気に飲まれている。

 

「……以上」

「は、はい」

 

 やがて、説明が終わる。

 スタッフさんは静かに立ち上がって、席を指した。

 

「座れ」

「はい」

 

 おずおずと席に座る。

 先ほどは肩越しに見えていた卓が、僕の目の前に、触れられる位置に存在していた。

 

「見ろ」

 

 そう言われ、後ろから紙の束が出てきた。

 

「23ページ」

「はい」

 

 すぐにページを開くと、セリフと演出に関するメモが書かれている。

 

「あの、これ……」

「やれ」

「え?」

「早く」

「は、はい!」

 

 有無を言わせぬ言葉に従い、すぐに台本に目を通す。音響に関する話も書かれているが、今は気にしない。必要なのは照明の部分だけだ。

 

 やることはそこまで多くはないようだった。

 慌てながら、客席の照明を落とす、ボーダーを付ける、明るさは調整して細かい部分はサスで調整する、といった種々の手順を確認していく。

 

 そこで、ようやく理解した。

 最初の淡々とした説明は、これをさせるために必要だっただけだ。

 

「宮川さんの合図で始め」

「わ、分かりました」

 

 指示にうなずいて、やらなくちゃいけない操作を確認する。

 触らせてくれるのは嬉しいけど、唐突なこと過ぎて喜びよりも緊張の方が大きい。宮川タカユキさんは厳しいと有名だ。いきなりだし、ミスったらいきなり叱責が飛んできそうだった。

 

 軽く深呼吸をしてから、宮川さんの方を見る。何か役者の方に指示を出しているのが分かるが、どのような内容を話しているのかまでは分からない。

 

「行くぞ」

「はい」

 

 返事をして手を添える。

 しばらく待っていると、宮川さんが手を構えた。始まる。

 

「いけ」

 

 その言葉は意味がなかった。

 宮川さんが手を叩くと同時に、客席照明は落とされボーダーが付く。体は無意識に卓を操作していた。

 

 役者が動き出し、舞台が進行する。

 セリフを聞きながら、台本の先を追いかける。次に照明を操作するタイミングを確認し、その時の動きを頭に入れる。

 

 やることは多くなく、実際に手を動かすのは一瞬のことだ。だけど、脳は必死になりながらライトの位置とつまみの位置ときっかけを確認している。

 タイミングが遅れることは一切許されない、一回こっきりの仕事。だからこそ、一息を付く暇さえ存在しない。

 

 最初はまんべんなく舞台を照らすために、最初はボーダーをメインにしている。だが、会話が続き次のシーンに移る頃には、ボーダーを落として下手サイドに設置されたサスの光力をあげていく。片方からの光量を増加させて、舞台の雰囲気を変えるのだ。

 わざわざ色を入れずとも、明かりの調整だけでできる舞台演出。静かに、でも確かに舞台の姿を変化させる技だ。

 

「すごい……」

 

 思わず言葉が漏れていた。

 こうして実際にやって、目の前の舞台で広がることで分かる。無駄に色を足したりしなくたって、僅かな明かりの操作だけでこれほどまでに舞台の顔を変えられるのか。やっていることが単純であるだけに、それを効果的に使いこなしている宮川さんの技量に驚きを隠せない。

 

 次に来るシーンを確認して、つまみを操作をする。

 役者の動きを、セリフを、音響を。あらゆるものをきっかけに、複雑に絡んだ演出が一つの“()()”を形作っている。

 

 焦りも興奮も、この心を満たす感情のすべてを振り切って、僕の体は忠実に照明器具を動かす装置と化していた。

 

 操作は不要な感情をこめず精密に。しかし、決して機械的になってはいけない。僕達は裏方という人間である以上、その動きには人の熱を持たせるべきだ。

 この矛盾を抱えたまま、僕達は舞台に彩を添えていく。

 

 ホリを付け、サスの明度を変える。

 絶え間なく明るさを確認し、変更するときは微調整せずに済むよう一度で切り替える。

 

 ただ無心に、体を突き動かす情熱に身を任せたまま、操作を続け――

 

「はい、オッケー!」

 

 

 ――宮川さんの声で、意識が戻ってきた。

 

 

 軽く頭を振って意識のピントを合わせ、大きく息を吐いた。

 そして、すぐに台本を閉じて席から立ち上がった。

 

「あの……これ、ありがとうございました」

 

 台本を渡しながら頭を下げる。

 時間は大したことなかったはずだけど、それでも今日で一番濃密な時間になっていたと自信を持って言える。

 

 スタッフさんは台本を受け取りながら、僕の目を見た。

 

「好きか?」

「……裏方が、ですか?」

「ああ」

 

 その言葉に対し、思考する間もなく僕はうなずいていた。

 

「好きです」

 

 こうして操作にのめりこんでいた以上、好きではないという答えはあり得ない。

 僕は裏方という仕事が好きだ。

 

「そうか」

 

 僕の返事に満足したのか、スタッフさんが頷いた。

 

「……また来たら、今度は舞台にある明かりについても説明してやる」

 

 それだけ言うと、スタッフさんは座席について卓の操作を始めた。もう言うことはない、ということらしい。

 会ったばかりなのに「らしいな」と思ってしまった僕は、そのまま後ろに下がってドアの前に立った。

 

「ありがとうございました」

 

 頭を下げて、部屋を出る。

 

 スタッフさんは、こちらを振り向きもしなかった。

*1
舞台の照明機材を操作するための部屋。通常は、客席の後方などに置かれていることが多い。

*2
音響機材を操作するための部屋。配置は調光室とあまり変わらない。

*3
大道具を固定するために打つ釘

*4
場見(ばみ)るテープ」の略。舞台等の壁や床に目印としてテープを張っておくことを「場見(ばみ)る」という。

*5
ボーダーライト。舞台の上部につるし、舞台全体を均等に照らすライト。舞台上の照明の基本となる。

*6
サスペンションライト。舞台の天井から下に向けて照らすライト。

*7
ホリゾントライト。舞台後方にあるホリゾントという幕や壁に向かって照らすライトで、ホリゾントを染める。また、模様を投影することなどもある。

*8
舞台の中央にあって、左右に開く幕。緞帳の代わりや場転の準備等に使われる。

*9
舞台と客席を仕切る幕。吊って昇降する形で開く。左右にひく場合は引幕という。

*10
舞台脇にある様々な機材や袖に隠れている役者達を見えないようにする幕。

*11
スポットライトを操作する部屋。客席後方の高いところに設定されていることが多い。




見学では二人のスタッフが登場しましたが、この二人は僕が実際の演劇の大会でお会いしたスタッフさんのイメージです。
ちょっとフランクだけど説明が下手くそな人と寡黙な職人肌の人です。なんとなく、こういう技術職って説明下手くそなイメージあります。僕だけ?


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8/3(金) 「新しい演出」

 プロの舞台の見学会が終わり、翌日。

 一日しか休んでいなかったにも関わらず、羽丘演劇部室に顔を出すのは妙に久しぶりな感覚がした。

 

「あ、山科君、おはよー」

「おはよう、葛西さん」

 

 部室に入ると、葛西さんが声をかけてきてくれた。最初よりも軽い口調になった辺り、僕も彼女も互いに仲良くなれたのかなと思う。

 手前が役者達の練習場所になっているので、発声練をしているみんなに会釈だけで挨拶をしながら奥に行く。

 

「大和さん、おはようございます」

「山科君、おはようございます」

 

 大和さんと会うのは三日ぶりだ。

 

「昨日は見学お疲れさまでした。どうでしたか?」

「すごく参考になりました。少し台本に沿って機材も触らせてもらったので、今日はその時に感じたことをこっちに反映させられたらいいなって思います」

 

 話しながら、昨日の照明操作の時のことを思い出す。

 

 宮川さんの演出のセンスはもちろんだけど、プロの充実した機材を用いた舞台は本当に圧巻の一言に尽きた。色も付けず、ただ明かりを細やかに操作するだけで雰囲気を変えるのは並大抵のことではないが、この舞台にもどうにかして反映させたい。

 今回の舞台の地明かり*1は、最初から色を入れておくようにしているが、その明るさの調整は単純な光量の調整によってなされる。きっと、生きる場面はあるはずだ。

 

「今日は体育館で練習できたんでしたっけ?」

「はい。前回はジブンがいませんでしたから、今回は音も照明もありということらしいです!」

「楽しみですね!」

 

 思わず笑みが浮かんでしまう顔を抑えないまま、お互いにうなずいた。

 こうして実際に機材を動かすのは本当に楽しいの一言に尽きる。

 

「って、二人とも! その前に、自分達のやりたかった物を確認してよね」

 

 葛西さんが僕と大和さんの肩を叩いてから、奥の方にある布がかけられた何かに近づいた。

 

「やりたかった物?」

「これだよ、これ」

 

 葛西さんが何かに近づいて、布をはぎ取る。

 

「す、すごい……」

 

 布で隠されていたのは、ウェザリングを頼んでいたベンチだった。

 足元の方は土やコケが生えており、背もたれの木にはへこみや切り傷が付いている。綺麗な緑であっただろうペンキは、少しくすんだように汚れた緑に変化していた。

 

「涼さん、凄いっス! これは本当に流石と言わざるを得ません!」

「僕が最後に見た時は綺麗なベンチだったのに……」

「劣化させるために、最初は綺麗なのを作る必要があったからね。ウェザリング加工自体は、二人がいない昨日やろうってなって」

 

 葛西さんはベンチに腰を下ろす。

 ウェザリングされたと言っても、もともとは普通のベンチだったため軋みをあげたりすることもない。

 

「とりあえず、手早くできそうな土を付けたりは試しにしてみたの。でも、やっぱり動かすとボロボロと崩れるから、この辺は練習するか本番当日にその場でやるしかないかなって思う」

「なるほど……」

 

 舞台道具である以上、運ぶという作業は必須だ。それで剥がれてしまうようなものであるなら、対応はきちんと考えておかなければならない。

 

「座り心地も新品みたいな感じだから、座席の木の部分もやすりで削って滑らかにしたいかなって。他にも、ボルトの部分をちょっといじって、軋む感じも再現する予定」

「すごいこだわり……」

「一か月ある上にメンバーが多いからね、いつもよりできることが多いおかげだよ。それに私、これ結構気に入ったし」

「ウェザリング?」

「それもだけど、こういう物の加工全般かな」

 

 と、葛西さんがスマホを操作して、画面をこちらに向ける。

 すると、そこにはアンティークなカップが写っている。一部のパーツが欠けたようだが、それすらもデザインであるかのように修復されている。

 

「ウェザリングについて調べている時にたまたま見つけたんだけど、金継ぎ*2っていう欠けやひび割れを直す修復方法があるらしいの」

「へぇ……なるほど」

 

 割れた皿を戻すというイメージがあまりないけれど、確かに便利そうな技術だと思った。

 

「それで、この金継ぎをうまく利用したアートっていうか、ひび割れ自体を使って新しいデザインを入れるっていうのがすごく面白そうだなって思うんだよね」

「やっぱり、涼さんって凝り性ですよね」

「そう? 麻弥ちゃんほどじゃないと思うなぁ」

 

 葛西さんが照れたように笑う。

 凝り性という言葉で照れを見せてしまったり金継ぎに面白さを見出したりしている時点で、やはり葛西さんも裏方根性みたいなものが染みついているんだろうなと思う。華道部の活動の方も、こんな感じでいろいろな部分に凝って作るのかもしれない。

 

「っと、話がそれちゃったけど、ベンチの方はこれで一度止めて先に違うのを作る予定。余った時間でクオリティをあげていく感じにしたいと思うけど、それでも大丈夫?」

「大丈夫。ありがとう」

「いいっていいって。私も指示出しとか連絡とかで、実際に作成してたわけでもないから」

 

 やりたいと言っておきながら丸投げしてしまっていたのは申し訳なかったが、こうして初めてとは思えないクオリティで作り上げてくれたのは本当にうれしい。

 

「残ってるのはなんだっけ?」

「えーっと、大道具の方だと、後は平台を使って花壇を用意するくらいでしょうか。レンガ調に見せるために、平台の周囲にレンガの模様を付ける感じです」

「それなら、布あったよね? あれに模様つければいいかな」

「はい。それを平台の周りに巻いてしまえばいいかと」

 

 花壇の位置は、舞台で言うなら奥の方。

 客席の高さとステージの高さを鑑みるに、水平面からどう見えるのかさえ確認しておけば後は特に問題はないだろう。

 

「これに関しては作業場を開けておきたいのもあるので、後で用意した方がいいかと」

「だね。じゃあ、本格的に小道具類の準備の方かな」

「小道具の一覧はこれの通りだけど、今のところはどこまで揃ってそう?」

 

 チェックリストを取り出して三人で見られるように机に広げた。

 大道具、小道具、衣装類のチェックリストは用意しておくと非常に便利だ。どれを揃えているかが一目でわかる。とりあえず、前に買い出しに行った時の物は既にチェックを入れてある。

 

「えっと、こっちは役者側から持ってきてもらった。それと、こことここも終わってる」

「ふむふむ」

 

 葛西さんが確認しているものにチェックを付けていく。

 今回、衣装類はこの前買ってきたもの以外は、各自で用意するか部にある衣装を使うことになっている。細かい小道具こそ用意しなければいけないが、細かい部分は予算と相談という形になるだろう。大道具はベンチが終わればほぼ終わりだったはずだ。その他の小道具も特筆して用意が大変なものはなかったと思う。

 

「じゃあ、ここからは残りの物を揃えてクオリティをあげていく感じにしたいかな」

「役者がまだ衣装合わせてなかったはずですから、そっちの確認も必要ですね」

「じゃあ、今日はそっちにする?」

「そうですね」

 

 立ち*3なので、衣装を着て動いてもらいながら確認してみるのは悪くないかもしれない。

 

「体育館に入るのは午後からだから、午前中に衣装を出して役者に着替えてもらうようにしようか。運動部が撤収する昼休みの時間帯ですぐに始められるように準備する感じで」

「じゃあ、裏方はちょっと早めに昼食にした方がいいかも」

 

 特に、照明や音響を触る僕達三人は午前中に食べる必要があるだろう。

 少し脳内でタイムテーブルを考えてみる。

 

「今が9時半だから、衣装を出して10時から衣装合わせ。こっちは他のみんなに任せて、僕達は先に食堂か売店で食べるものを買っておく感じかな」

「昼食を用意したら運び込む荷物の準備。最悪、ステージに置くだけなら午前中にさせてもらってもいいかもね」

 

 12時に運動部が練習を終えて撤収する流れになるはずなので、そのタイミングで大道具類の運び込みをしたい。そして、役者が昼食を終えて午後一番に立ちに入る。他の裏方のメンバーには、立ちをしている間に二つのグループに分かれて遅めの昼食をとってもらう形にする。

 

「……こんな感じ?」

 

 話している内容を簡単にメモにまとめて二人に見せる。

 

「はい、大丈夫だと思います」

「私も大丈夫だと思う。じゃあ、今日はこんな感じで頑張っていこうか。私が監督と演出に話してくるから、二人が指示出しの方をお願い」

「分かりました」

「うん、任せて」

 

 葛西さんが高橋や新藤さんの方に行くのを見送ってから、僕は裏方のメンバーの方を見た。

 

「はい! 裏方のみんな集合!」

 

 

 

 

 

 一通りの準備が終わり、僕は体育館の二階席――ピンスポのある場所――に移動する。ライトを所定の位置にセットしてから、買ってきた菓子パンを取り出した。

 

(うえ)、準備できました」

『音響、オッケーです』

『照明も大丈夫』

 

 インカムの向こうから大和さんと葛西さんの声が聞こえてくる。三人の準備ができたところで下の方を確認すると、カーテン等もきちんと閉められているので完全に準備は終わったのだと思う。

 

『何とか間に合ったね』

『役者はもういる?』

「うん、今来た」

 

 下の方を確認しながら、役者が体育館に入って来たのを確認する。新藤さんがこちらに勢い良く手を振っているのが見え、こちらからも小さく振り返した。

 新藤さんの隣にいた高橋がインカムを付けるようなしぐさを見せてから、こちらの方を見た。

 

『役者来たけど、裏の準備できてる?』

『大丈夫です』

『了解』

 

 大和さんの返事に高橋がうなずく。

 

『じゃあ、すぐに始めようか。今回は衣装の確認も兼ねてるから、役者はセリフや動きだけじゃなくて、そっちのことも考えて動いてみて。一応、今回は動きの多そうな場面を中心にやっていくから』

 

 高橋の指示がインカム越しに聞こえ、傍にいる役者達の返事も少し小さく耳に入ってきた。

 

『照明や音響のプランは変更してる?』

「いや、してない」

 

 特に前回の立ちの時から、僕や大和さんが欠席していたのもあって演出については特に話はされていない。強いて言うなら、今回の練習を踏まえて練習をしていくことになると思う。

 ……ああ、そういえば、明かりの夕焼けの茜色をどうやって出すかについては考えることになっていたはずだ。でも、それくらいだと思う。

 

 僕は役者が舞台袖に入っていくのを確認してから、インカムの電源を切って菓子パンを咥えた。他の裏方のみんなは立ちの間に食べることになっているけれど、僕達三人はそうする時間もないため作業をしながら食べることになる。

 口をもごもごと動かしながら台本をめくる。行儀は悪いけれど今は誰も見ていないから問題ないと自分に言い聞かせる。

 

「んー……」

 

 荒い動きが出る場面を確認すると、序盤から中盤辺りだろうか。コミカルな場面や喧嘩をするシーンがあるため、この辺りは荒い動きになりやすいと思う。

 と言っても、僕は明かりの強さを変える程度の仕事しかないので、特に大きな問題はない。途中に挟まる回想シーンでピンスポを動かすことになるのだけど、荒い場面にはそういうシーンがない。

 

 なので、前回の練習でもやっていたけれど、夕焼けから夜に移り変わっていく様子をライトに……

 

「あぁ!」

 

 顔を跳ね上げて舞台の方を見る。

 

 ――夕焼け空

 ――ピンスポ

 ――カラーフィルム

 ――宮川さんの舞台

 

 脳裏にいくつものイメージが脳裏を出てきては消えていく。それらは、新しい舞台のイメージを作り出していた。

 急いでインカムの電源を付けて「あ、あの! あの! あのさ!」と叫ぶ。

 

『どうしたの?』

「夕焼けを再現しない?」

『夕焼けの再現? 色はもう入れるって話してたと思うけど』

「そうじゃなくて、夕日の眩しさを舞台に混ぜ込めないかな?」

 

 舞台の客席方向を南、上手が東で下手が西。ピンスポや全体照明を使うことで、西から差し込んでくる夕日の演出ができるようになるのではないかと思ったのだ。

 今までは色しか再現していなかったが、これもできるようになればさらにリアルな公園の空気を出せるんじゃないだろうか。

 

「どう、かな?」

『スポットライトから照らせる範囲を考えても、夕日のような角度は作れないんじゃないか? それこそ、体育館側方の二階席でも使わないと』

「確かに……」

 

 試しにピンスポを付けて移動できる限りぎりぎりのところまで移動してみる。

 

「ダメそう、だね」

 

 あまりいい感じには見えなかった。

 無理な意見だったかと思いながら静かに肩を落とすと、『あの……』と大和さんの声をあげた。

 

『なら、フットライトはどうでしょう?』

『フットライト? でも、光量の調節は……』

「あ、羽丘のフットライトは可変だ!」

 

 高橋の言葉を振り払うように言葉を繋いだ。

 今回の舞台ではフットライトを使う予定がなかった。そして、フットライトは演劇部の照明装置で唯一固定されていない照明装置だ。二階席に置くことができる。

 

「フットライトを二階席に運んで、そこから動かす感じで!」

『確か、二階席の手前の方なら照明卓にも操作が届いたと思う』

 

 葛西さんがさらに援護射撃をくれる。

 前にフットライトを見せてもらったことがあるけれど、二階席でもある程度小回りを利かせることができる程度には小型のものもあった。

 

『試してみる価値はあると思います』

『面白そうだしね』

 

 大和さんと葛西さんは賛成してくれた。僕の方は高橋の方を見る。高橋も新藤さんの方を見た。

 

「どう?」

『良いんじゃないか? 照明に関しては、俺は山科を信じてるからな』

「……ありがとう」

『フットライトは準備できそうか?』

「ちょっと調整に時間をもらうことにはなると思うけど……」

 

 今手元にフットライトはないので、部室まで取りに行くことになるだろう。高橋に「信用してる」と言ってもらった以上、それに応えるのが裏方という人種だ。

 

『昼食が終わり次第、他の裏方のメンバーに運んでもらうようにしましょうか』

「振り回して申し訳ないですけどね……」

『まあ、そこは今更だけどねー』

 

 苦笑しながら、裏方のグループにメッセージを送る。すると、すぐに「任せろ!」と返信が来た。

 

『大丈夫そうですね』

「じゃあ、とりあえず最初はフットライトなしで、来てからライトを設置してもらうようにしておきましょう」

 

 運んで設置して電源を繋いで、と作業をしていればそれなりの時間になる気はするので、今日はできるかの確認程度だろう。

 

『始めても大丈夫そうか?』

「うん、大丈夫だよ」

『じゃあ、行くか』

 

 高橋の確認に返事をすると、新藤さんが手を上げた。

 

「じゃあ、20ページからいくよー」

 

 指示されたページ数を開き、シーリングのボリュームを調整する準備をする。

 そして、新藤さんが手を下ろした。

 

「スタート!」

 

 新藤さんの声が体育館中に響いて、僕はシーリングのボリュームを跳ね上げた。

*1
基本となる明かりのこと。ボーダーライト等で作る。

*2
漆を用いて陶磁器の破損を修復する。金繕いともいう。

*3
立ち稽古のこと。台本を持った状態で行っている場合は、“半立ち”と呼ぶこともある。




そういえば、アニメの2期が終わってふと「羽丘って、体育館よりよっぽど演劇向きの講堂あるやん……」って思ったんですよね。そこでアニメの8話と9話を見返してたんですけど、スタッフのアドリブ力とか設備の充実具合にビビりました。すごいっすね。でも、ピンスポが使えない設備だったので結局は没にしました。一応、このお話ではそういう設定ということにしておきます。

 後、今回思いついた演出ですが、マジで書きながら思いついた話です。山科君の思い付きとほとんど変わらないノリでした。こうした人とのやり取りや新たな価値観から生まれるものもあるので、侮れないですね。
 今後もこのような形で新しい演出や大道具、小道具類が実装されることがありますが、その時はよろしくお願いします。


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8/3(金) 「蜘蛛糸を掴むように」

 二階席にフットライトを置くことで、夕日を演出しようという作戦は結果的に成功した。

 

「結構、良い感じじゃない?」

『こっちからも操作できるけど、どんな感じ?』

「ん、良い感じに差し込んでると思う」

 

 葛西さんが動かすのを確認する。

 コードの長さ等が心配されていたけれど、設置位置を調整することで解決した。無理にコードを引っ張るなんてことをしなければ、問題なく舞台で使えるだろうと思う。一応、動かないように固定する方法を考えておいた方がいいかもしれない。

 

『フィルムは、少し調整したのを入れたいな』

 

 赤みが強い光を見ながら、高橋が呟く。

 確かに、単色の赤だから夕日とは言いにくい色合いになっている。

 

「そこは、複数のフィルムを使うか、赤フィルムに穴をあけてもともとの白い光も当たるようにするのがいいかなぁ」

『ちょうどいいフィルムがあれば、それが一番なんですけどね……』

「確かに」

 

 カラーフィルムは、別に三原色しかないわけではない。当たり前だけど、別の色だって存在する。ただ、ここにはないだけだ。

 

『確認はもういいか?』

「あ、ああ、うん」

 

 不意に声をかけられて慌てて返事をする。

 客席から光源の存在が眩しくなってしまうのではないかと少しだけ心配していたけれど、高橋達の様子ではあまり問題はないらしい。

 

『これで使えそうか?』

「うん。ただ、前回から話し合いの内容に上がっていた色の再現については、夕日が出たのもあってさらに大変にはなったかな」

 

 それぞれの色の遷移の様子を再現するために、ボーダーを一種類だけを使う予定だった。しかし、今回でフットライトが登場したことによって色付きのライトが二種類に増えてしまったので、両方の調節が必要なのだ。

 

『……できるのか?』

「できるかじゃなくて、()()()()だよ」

 

 どんな無茶ぶりをされたって、それが舞台をよくするものなら、必ず実現するのが裏方根性だ。

 

 幸い、公演まで20日以上ある。

 舞台を使える日数こそ限られてはいるだろうけど、じっくり時間をかけて調整していけばいい。

 

 

 

 

 

 ライトの確認が終わると、大和さん、葛西さん、僕の三人は一度休憩時間がもらえた。今日最初の休み時間だ。

 

「疲れたねー」

「そうですね、ずっと動きっぱなしでしたから」

 

 食堂のテーブルに倒れこみながら葛西さんが呻く。

 もともと衣装の調整も兼ねていた立ち練だったので、他のみんなは僕達が休んでいる間に衣装の確認作業をしている。

 

「それにしても、あの演出どうして思いついたの?」

「ああ、あれ?」

 

 葛西さんが僕の方を見て首をかしげる。

 

「フットライトを二階席に置くなんて、普通しないですもんね」

「それは昨日のことがあったからですかね」

 

 思い出すのは、昨日の見学。実際に照明機材を操作して、宮川さんの演出を自分自身の手でやった時のことだ。

 僕は、あの時の言葉にならない気持ちを必死に言葉に直した。

 

「って、感じなんだけど」

「そんなことが……」

「プロの演出の手伝いなんて、普通じゃできない経験だよ」

「だよね。今考えると、全身がくがくだもん」

 

 僅かに震える体を抱えるそぶりを見せる。手汗がいつもより多いのがなんとなく分かった。

 

「だから、あの時のことが脳裏をよぎって、もしかしたら行けるんじゃないかなって」

「そうだったんだ。早速生きて良かったね」

「ただ、ちょっと大変になっちゃったけどね」

「そこはみんなで頑張っていくしかないね。私達の代になってからは色を使うような演出はあんまり使ってなかったし、試行錯誤って感じかな」

 

 スマホを出して“茜色”と検索をかけてみる。夕焼けと言えば、茜色というイメージがある。

 

「とりあえず、こんな色を目指す感じなのかな」

「色の比率はこれを見ればいいんだっけ」

「“#b7282e”?」

「うん、カラーコードだよね」

 

 葛西さんがネコのキャラクターが描かれたメモ帳を取り出した。そして、セットで付いているらしいシャーペンをノックして芯を出す。

 

「光はRGBで表せるでしょう? その三原色を16進数で順番に並べたのがカラーコードだったはず」

 

 そう言いながら、メモ帳には「R:b7 G:28 B:2e」と文字、もとい数字が並ぶ。

 

$R: b7_{(16)}: 12\times16+7=184_{(10)}$

$G: 28_{(16)}: 2\times16+8=40_{(10)}$

$B: 2e_{(16)}: 2\times16+14=46_{(10)}$*1

 

「ね? こういうこと」

「この割合で色を混ぜるってこと?」

「だいたい……9:2:2ですね」

「どうやって混ぜたらいいんだろ?」

「いや、そもそもそこから色を変化させるわけだし、変化した後の色も決めておかないと」

「そっか」

 

 夜の色に類する名前がパッと出てこない。藍色とか、紺色とかだろうか。

 とりあえず、紺色で検索をかけてみる。

 

「紺色だと、“#1d3156”だね」

「じゃあ……」

 

 葛西さんがペンを走らせる。

 

$R: 1d_{(16)}: 1\times16+13=29_{(10)}$

$G: 31_{(16)}: 3\times16+1=49_{(10)}$

$B: 56_{(16)}: 5\times16+6=86_{(10)}$

 

「こうかな」

「それで、茜色から紺色になればいいんだよね?」

「そうですね」

 

 そして、葛西さんがそれをまとめなおす。

 

$R: 184\to29$

$G: 40\to49$

$B: 46\to86$

 

 大きく変化するのは、RとBの二つ。今回の舞台で言えば、Gの変化は誤差と言ってもいいだろう。

 

「夕焼けをやるわけだし、フットライトにはRを単色で使うようにしたらいいかもね」

「ボーダーにGBの二つを付けるってこと?」

「そうそう。後、フットライトだけじゃ足りない赤みを出すのに、多少はRはボーダーにも用意しておくべきだとは思う」

「……確かに、そっか」

 

 こうすれば、気にするのは赤の色合いだけになる。

 

「Bが倍になることは分かってるから、最初のシーンでのボーダーは半分に設定しておきたいね」

「Rが4倍以上になるので、様子を見てもう少し弱めておくことも考えておきましょう」

「暗くなりすぎないですか?」

「そこは要調整ですね」

「そもそも、これで綺麗に色が出るのかは分かんないもんね」

 

 葛西さんのメモをそのまま使い、出てくる意見をまとめていく。とりあえず、色の入れ方や変化のさせ方はなんとなくイメージできるようになってきたと思う。

 

「戻ったら、すぐに試してみようか」

「みんなはまだ衣装の確認中かな? だったら、その間に進めておきたいよね」

「とりあえず、体育館に戻りましょう」

 

 バタバタと、興奮した気持ちを抑え込むように飲み物等を片付けて、僕達三人は早足気味に体育館へと戻った。

 

 

 

 

 

 正面玄関から外に出ると、今の僕の技術では到底作り出せなさそうな眩しい光が目を焼いた。じっと目を細め、焦がれるような茜色を網膜に刷り込む。

 これが、僕が最後に作り出さなくてはならない色だ。

 

「山科君、おつかれー」

「お疲れ様です」

「二人とも、お疲れ様」

 

 時間はあっという間に過ぎ、気が付けば既に下校時間になっていた。

 衣装の調整部分はだいたい確認し終わり、残りの日数を使って細かい調整をしていくだけの予定だ。照明についてはフィルムを入れて確認をしたが、細かい色の調整をしていけばおそらくものになりそうな様子だった。

 

 校門を出ると、葛西さんが僕と大和さんに手を振る。葛西さんは徒歩通学で、電車通学の僕達とは移動する方向が違う。

 

「じゃあ、また明日ね」

「お疲れ様です」

「また明日」

 

 葛西さんと別れ、僕と大和さんは駅に向かう道を歩き出した。

 

「疲れましたね」

「そうですね」

 

 大和さんの言葉に返事をしながら、僕の頭は違うことを考えていた。

 視線は、彼女の横顔に向かう。

 

「どうかしました?」

「あ、いえ、何も」

 

 慌てて視線を戻す。

 

「すみません」

 

 僕は、未だに昨日の白鷺さんの言葉を持て余していた。

 

 隣を歩いている大和さんと、どんな距離感でいればいいか分からない。

 僕にとってはマニアックな話をできる貴重な友人で会ったとしても、彼女がアイドルであることは間違いのない事実。そこに、僕の認識が入る余地なんてない。

 今こうして隣を歩いている瞬間も、大和さんに迷惑をかけてしまうかもしれないのに。僕は、彼女の隣から離れることができない。

 

「…………」

「…………」

 

 僕も大和さんも沈黙でいることに抵抗感がないため、特に会話することがない限りはあまり喋らない。今は、その沈黙がとてもありがたかった。

 

 今度は、ばれないように大和さんを盗み見る。

 僕よりも平台一つ分くらい低い身長で、その体は本当にドラムをしているのか疑ってしまうくらい華奢だ。肩の上くらいまでで切りそろえられた髪は、眼鏡と共に横から表情を確認させてくれない。

 

 一つ一つ確認していくと、胸の鼓動が早くなるのに気付く。顔も熱い。夕日がなければ、きっとバレバレだっただろう。

 視線を外して、少しうつむく。

 

「…………」

 

 これが、好き、という感情なのだろうか。

 青蘭という男子校でずっと生活してきた身としては、女子に対する免疫がないせいなのか、大和さんのことが好きだからなのかの区別をつけることができない。

 

「あ、あの」

「え?」

 

 唐突に大和さんが声をかけてくるせいで思わず立ち止まり、大和さんもそれにつられて立ち止まった。

 人一人が入るかどうかの微妙な距離を開けて、僕達は互いの方を見た。

 

「あー……えっと……」

 

 大和さんが言いにくそうに口ごもる。

 少し待つが、言葉が続くようには見えなかった。

 

「……すみません、なんでもないです」

「そう、ですか?」

 

 そう言われると、強くそのためらった言葉を尋ねることもできなかった。

 言葉が出ない居心地の悪さに負けて、僕は代わりに「あの」と口を開いた。

 

「白鷺さんって、どんな人なんですか?」

「千聖さん、ですか?」

「はい。昨日話しましたけど、大和さんから見るとどんな人なのかなと思って」

 

 そうだ。まずは、あの言葉の意味をできる限り正確に知りたい。

 僕は白鷺さんのことを何も知らないのだから、最初はその人となりを知るところから始めてみよう。

 

「千聖さんは、何事にも真剣に向き合う人だと思います」

「真剣に向き合う人?」

「はい。もともと千聖さんは子役として芸能界に入って、舞台にも出てるんですけど」

「宮川さんの舞台とかですよね?」

「そうです」

 

 宮川さんと話す白鷺さんの姿を思い出す。

 正直、彼女が僕と同い年というイメージがない。あまりにも舞台女優としての姿が似合いすぎていて、もっと大人な印象がしみついている。

 

「千聖さんはパスパレのことも仕事のことも真剣に努力できる人です。それに、人への気配りが上手いんですよ。ジブンはドラムや演奏のことくらいしかできないので、千聖さんにはいつも助けられてばかりで」

 

 昼食をとりながら白鷺さんとした会話を思い出す。

 あれも、パスパレ――大和さん――のことを考えた上での言葉だったのだろう。そのために、僕の人となりを見極めようとしてわざわざ僕の前に現れたのだ。

 

「仲間思いな人なんですね」

「はい! 大事なパスパレの仲間です!」

 

 無条件に僕が拒絶されなかった理由は分からないけれど、僕が大和さんに迷惑をかけてしまうような状況になれば、白鷺さんは確実に僕を大和さんから離すだろう。

 それだけは、確かな事実として認識した。

 

「そういえば、山科君は部活以外に何かしているんですか?」

「僕ですか? いえ、何も」

 

 突然の話題の転換に驚くが、特に気にすることもなく答える。

 

 僕はそもそも、長らく好きになれるものがなかった。

 それを考えると、照明はこれまでの人生の中でもかなりのめりこんでいる方だと思う。原田さんに持ち掛けられたプロにならないかという誘いも、すぐに拒否できないでいるのもそのせいだ。

 どんな進路になるのか想像がつかないからこそ二の足を踏んでいるが、何かきっかけがあればその道を選びそうな自分がいた。

 

「大和さんは、将来ドラムやアイドルを続けていくんですか?」

「そう、ですね。パスパレは、このまま続けられたらいいなと思います」

 

 大和さんは薄く笑みを浮かべた。

 

「大好きなドラムやパスパレは、これからも一緒だと嬉しいと思います。でも、こんなジブンにアイドルが続けられるかな、とは思いますけど」

「え?」

「えっと、そもそも、ジブンってこういう性格じゃないですか。こんなアイドルっぽくないジブンが、来年、その先とアイドルを続けていられるのかなって思うんです」

 

 前に、アイドルっぽくない、と言った自分の言葉を思い出す。

 確かに大和さんはアイドルらしい性格ではないと思う。どちらかというと、そのアイドルの舞台を彩るスタッフの方が似つかわしい。

 

 でも、そう言うのはなぜか躊躇われた。

 

「他のみんなはすごくアイドルらしくて、素敵な人達ばかりなんです。だから、ジブンが足を引っ張ってしまわないかって思っちゃったり」

「大和さん……」

 

 碌な言葉が出てこなかった。

 僕は、建設的な意見が出せるほどアイドルの大和さんを知らない。

 

「って、こんなこと言ってすみません。山科君はジブンに似てると思うからか、ついつい喋ってしまって」

「いやいや、気にしないでください。僕でよければ聞きますから」

「あはは、ありがとうございます」

 

 大和さんの言葉には納得するし、僕が大和さんの立場なら同じようなことを考えたはずだ。それは間違いない。

 だけど、大和さんの言葉に違和感を覚えている自分がいるのも確かだった。

 

「えっと……僕はアイドルの大和さんを全然知らないわけですけど」

 

 そう、僕は知らない。

 だからこそ、言えるのは一つだけ。

 

「続けられたら、いいですね」

 

 この、大した重みもない、つまらない慰めだけだ。

*1
n進数を提示する必要がある際は、その数字nを下付き添え字で記載する。




本作は一応、二章と“ジブン、アイディアル”の間くらいの気持ちでいます。細かい時系列は考えてないというか、バンドリ時空歪んでますからね、あまり正確には決めてないです。

そういえば、作品書くときには曲を聴いているのですが、再生リストを作ってたりします。良ければ聞いていただけると嬉しい。
このお話にマッチするような曲を選んでいるつもりです、一応。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLu6yiYjIlrj2vCXti4uIXXZoOWDkX4PUD


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8/5(日) 「この気持ちの正体」

 大和さんのことを知る度に、親近感と違和感の両方が積み重なっていく。

 同じ人生を歩んでいるわけでもないのだから当然ではあるのだけど、それでもどうしてこんなにボタンを掛け違えたような気持ち悪さを感じてしまうのだろう。

 

「おはよう」

「あ、おはよう、山科君」

 

 今日は8月5日。大和さんのライブ一週間前だ。

 今日はその準備のため、大和さんは来ない。

 

「今日は昨日の続きだし、頑張ろうね」

「うん。衣装は順調に進んでるし、今日は大道具の方だよね?」

「そうそう」

 

 葛西さんと話しながら、その顔を見つめる。

 僕が大和さんに恋をしているのか、女子に免疫がないだけなのか、それを確認するには他の女子ならどう感じるかを調べるのが一番早いはず。

 

 それが、いろいろと考えて出てきた結論。

 

「山科君、作るもののリスト持ってる?」

「ああ、うん。これだよね」

 

 持ち込むリストを取り出して見せる。

 作らないといけないものはいくつかあるけれど、少しずつ作業は進んでいる。この調子なら、比較的余裕をもって完成させられると思う。

 

「じゃあ、今回作るのは……」

 

 葛西さんが出したリストを覗き込む。隣り合うように立ち一つの紙を見る形になるので、その距離は肩が触れるほど近くなった。

 唐突なことで驚いたけど、そのことを悟られないように平常心を保つ。

 

「この辺、かな」

 

 リストを指さしてみる。

 この舞台自体、あまり多くの大道具を用意する予定はない。一番大変になると考えられていたベンチもほとんど完成している以上、この舞台で時間を要するようなものはあまり多くない。

 

「そうだね。今日はこれにしようか」

 

 大和さんよりもわずかに身長が高いので、顔がかなり近くなる。

 作業をするためシンプルなヘアゴムで髪をまとめているから、人よさそうな笑顔が横眼からでもよく分かった。

 

「どうかした?」

「え? あ、いや、髪長いと大変なのかなぁって」

 

 ポニーテールになってる部分をジェスチャーで示すと、葛西さんは「ああ」と納得したようにうなずいた。

 

「確かに、こういう作業の時は邪魔になっちゃうよね。でも、ここまで伸ばすと切るのももったいなくなっちゃってさ」

「伸ばすのって時間かかるものなの?」

「もちろん。すっごく大変なんだから」

 

 葛西さんの髪は腰にも届きそうなほど長い。

 いつもはシンプルに垂らしたままだったり、器用に編んであったりとバラバラだが、ポニーテールは初めて見たような気がする。

 

「それにしても、珍しいね」

「何が?」

「山科君がそんな話題振るなんて」

「そう?」

 

 まあ、確かに今までそういうことを話した記憶はない。

 

「他の男子は、結構いろいろ聞いたりするよ? それこそ、彼氏いるか、とかね」

 

 葛西さんが少し離れたところにいる何人かの青蘭生を指さした。確かに聞きそうな顔ぶれで、僕と視線が合うと何やら目配せをしてくる。ごめん、分かんない。

 

「なるほどね」

 

 と、視線を戻すと、葛西さんが僕の方を見ていた。

 ……聞いてくれ、って意味だったのだろうか?

 

「えっと、葛西さんは彼氏いるの?」

「いないいない。……っていうか、そんな『とりあえず聞いた方がいいのかな?』みたいな顔しないでよ」

「あはは、ごめん」

 

 苦笑しつつ、違ったかなと内心首をかしげる。

 ダメだ、こういう話をしないので分からない。

 

「山科君、こういうのに興味ないと思ってたから新鮮」

「興味ないわけじゃないけど、ずっと青蘭だったからよく分かんないんだよね」

「分かる分かる。私もずっと羽丘だったし」

 

 だからね、と困ったように葛西さんが言葉をこぼす。

 彼氏がいるかとか、そういう話をされても困るだけだったのかもしれない。

 

「あ、ごめん……」

「いいよいいよ、気にしないで。山科君はなんかそうでもなかったし」

「え?」

「あれだけ機材とか演出とか加工の話をしたんだもん。山科君はもう、そういうのとは違う方面って感じだし」

 

 葛西さんはそこまで言って時計を確認する。

 僕もつられて確認すると、もう活動開始予定時間になろうとしていた。

 

「もうこんな時間。そろそろ行こうか」

「だね」

 

 リストをしまい、そっと胸に手を当てた。

 葛西さんは僕のことを恋愛対象とは違う関係だと言った。なら、僕はどうなのだろう。

 

「…………そう、か」

 

 鼓動は、いつも通りだった。

 

 

 

 

 

 今日の昼休みは、葛西さんと食べることになった。

 まあ、一緒に食べるとは言うものの、僕達の座っている席にはカレンダーが置かれている。昼食時間を利用した今後の方針会議だ。

 

「今週の金曜から盆休みに入るから、今のうちに予定を確認しておこうと思って」

「なるほどね」

 

 8月10日から15日までは、盆休みということになっている。僕達の短い、本当の夏休みだ。

 これを活動日から抜けば、残りの活動日は今日を入れて2週間分しかない。余裕を持って活動しているとはいえ、何が起こるかは分からない。

 

「監督達によると、18日までにはすべての準備を終わらせて公演が可能なようにしてほしいって話だった」

 

 それも除けば、残りは一週間分しかない。

 

「18日ってことは、盆休みが明けてからは2日か」

「この時間は最終調整の時間に充てたいから、実質作業に使う時間は今週の木曜までにしておきたいの」

「だね。ウェザリングが必要なベンチはもう少し直前でもいいとして、それ以外は終わらせておきたいね」

 

 残りの物を考えれば、おそらく終わるだろうとは思う。

 

「衣装は役者の練習予定もあるから、できればこれが最優先。大道具や小道具類は空き時間を見てやろう」

「後は、細かい丈の調整だけだったよね?」

「うん」

 

 基本的に衣装は買ったり自前で用意してもらうような形にしているので、そこまでやることは多くなかった。

 

「メイクの方は決めてあったっけ?」

「あ、それもあった!」

 

 葛西さんが予定に慌てて書き足す。

 

「多分、役者の方も衣装と合わせてイメージはあるだろうから、そこはそれぞれに話を聞いて決めていこう」

「今回はフィルムで色を足すから、そこの色とメイクの兼ね合いをしておきたいね」

「確かに」

 

 リストを見ながら、それぞれの進捗を確認していく。裏方全体で作成するモノについては、こんな感じで何とかなるだろう。

 問題は、それ以外のものだ。

 

「……色の方は、どうかな」

「こればっかりは、体育館が借りられない限りはどうにもね」

 

 色の調整は、体育館が使えるタイミングでなければ何もできない。

 場合によってはフィルムの出し入れのためにボーダーをいちいち降ろさなくてはならないので、かなり時間がかかる作業なのだ。

 

「体育館使えるのって、18日までに何回ある?」

「えっと……7、8、17、18……だから、4回?」

「割とあるね」

「ここは、薫君のおかげだよ。運動部のみんなも、薫君のファンだから協力は惜しまないって。代わりに、いい席は頼むって言われてるけど」

 

 いたずらっぽく笑う葛西さんにつられて笑ってしまう。いつの間にそんな協定を結んでいたのか。

 でも、別に収益を求めているわけでもないから、観客が増えるというだけで充分ありがたい話ではある。

 

「照明同士、頑張ろうね」

「だね」

 

 僕と葛西さんが本番で照明を担当することになっている。

 連携はとっても大事だ。

 

「そういえば、麻弥ちゃんはどれくらい来れるんだっけ?」

「えっと、確か……」

 

 スマホを出して、僕達三人のグループを確認する。

 大和さんは来週のライブに向けての練習が本格化するので、ほとんど来られなさそうだと聞いている。

 

「今週は7日が最後みたい。ライブが終わった後、盆休み明けからは毎回参加できそうって感じらしいけど」

「なるほどね。じゃあ、7の体育館の練習は気合入れなきゃね」

「音響と照明と演技の三つを合わせる、最後の機会だもんね」

 

 今回は特殊なSEを入れるような予定はないため大変ではないと思うけど、BGMの入りはきっちり確認しておきたいところだ。

 

「とりあえず、話すことはこのくらいかな?」

「多分ね。ぎりぎりまで忙しそうで大変だね」

「ほんとだよ。せっかくの夏休みなのに、全然遊びに行けないもの」

 

 実際は全員が毎日来ているというわけではなく、交代で休日を用意している。ただ、僕や葛西さんは裏方の取りまとめもしているので、毎日来ることになっているだけだ。

 

「早めに終わらせたら、長めに盆休み……とか、言ってもよさそうだけどね」

「と言っても、1日か2日くらいだけどねー」

 

 お弁当に箸を付けながら、葛西さんがぼやく。

 確かに、他のメンバーよりは休みが少ないのは事実だ。

 

「山科君は休みの間何する予定?」

「僕? 僕は、夏休みの宿題を片付けるくらいしか」

「趣味とかないの?」

「特にないかな。葛西さんは?」

「私はね、アクセ作りをしようかなって」

 

 葛西さんはスマホを少し操作してから、僕の方に向けた。

 

「ほら、こんなの作ってるの」

「これ葛西さんの手作りなの?」

「そうそう」

 

 画面に映っていたのはブレスレットだった。黒っぽいゴム製のバンドに星等のつけられている。飾り気こそ少ないものの、そのシンプルさが綺麗な一品だ。

 手作りだなんて到底思えないほどのクオリティだった。

 

「こういうの作るの趣味なんだ。いくつかは周りにあげたり、ネットで売ってるの」

「へぇ、すごいね」

 

 前に金継ぎに興味を示していたのもそうだけど、葛西さんはこういうのが好きらしい。

 

「興味ある?」

「面白そうだと思うけど……難しくない?」

「そんなことないよ。大道具や小道具作るようなものだし。ショッピングモールにも、こういうのが売ってるお店があるんだ」

 

 葛西さんは少し調子を上げながら説明を続ける。

 実際に見たわけではないのでよく分からなかったけれど、ウェザリングの時に葛西さんの段取りの良さが特に目立ったのは、この趣味が生きていたからなんだと思う。

 

「……って、山科君聞いてる?」

「あ、うん。聞いてる聞いてる」

 

 愛想笑いを浮かべて、首を大げさなくらい振る。

 話に集中しないと、怒られてしまいそうだった。

 

 

 

 

 

 昼休みが終わると、午後からは作業の時間だ。

 今は、裾が長いという衣装を調整するためにちまちまと針仕事を進めていた。制服のボタン付けをしたりすることが多い関係で、ミシンよりも手縫いの方が慣れている。

 

「よし、オッケー」

 

 綺麗に縫えたのを確認して、もう片方の裾に手を付ける。長さは既にまち針で留めてあるので、その通りに縫うだけだ。

 

「山科、調子はどう?」

「いい感じ」

「お、きれいじゃん」

 

 後ろから他のメンバーに声をかけられたので、既に終わっている方の裾を見せる。

 

「そっちはどんな感じ?」

「今は着てもらって確認中。オッケーが出たら終わり」

「お疲れ」

「ほんとだよ。裁縫とか家庭科でしかやらねぇって」

 

 大きく伸びをしながら僕の隣に座ると、彼は衣装の確認をしている方を見た。

 

「山科はさ、彼女作ろうとかないの?」

「どうしたのさ、いきなり」

「いや、今朝の話もあったし」

 

 そういわれ、朝の葛西さんとの会話を思い出す。

 

「聞いてたんだ」

「聞こえるって。そんなに離れてるわけでもなかったし」

 

 今朝、僕に向かって意味あり気な目くばせをしていたのを思い出す。

 

「前に葛西ちゃんに聞いたら、好みのタイプは“趣味を共有できるしっかり者”って言ってたぞ」

「そう」

「そう、じゃないだろ。山科ならいい線言ってると思うぞ?」

「そうかもだけど、今朝の聞いてたんでしょ?」

 

 葛西さんは僕を恋愛対象として見ていない。

 そして、僕が葛西さんのことに恋している可能性もないだろう。

 

「いやいや、友達から始まる恋というのもあってだな?」

「ないよ」

 

 返事をすると、離れたところから葛西さんがこちらを指さした。

 

「ほら、そこ手動かして!」

 

 叱られてしまった僕達は、互いに顔を見合わせて首をすくめた。

 

「……ちぇっ、ばれちまった」

「時間ないんだし、仕方ないよ。ほら、もうひと頑張りしよう」

「だな」

 

 彼が戻っていくのを見送ってから、また自分の胸に手を当てる。

 

 僕の大和さんに対して感じていた鼓動は、決して女子への免疫がないからではなかった。それは、今日の葛西さんとのやり取りで十分理解することができた。

 僕が葛西さんに抱いている感情はきっと友人に対する好意で、それは葛西さんが僕に向けてくれているものもそうだ。

 

「はぁ……もうちょっと」

 

 この仕事が終わったら、いったん休憩を挟ませてもらおう。

 

 そう決めて軽く肩を回しながら針と衣装を持ち直すと、後方のドアが開く音が聞こえた。

 葛西さんが「あれ」と声を上げるのが聞こえた。

 

「今日来ないんじゃなかったっけ?」

「いや――」

 

 その声が聞こえた瞬間、僕は後方を振り返っていた。

 

「練習が早く終わったので、顔出しておこうかと……」

 

 短めの茶髪。赤い縁の眼鏡。誰に対しても変わらない敬語。

 

 本当は、この後も他の女子で確認してみようかとも思っていたけれど、これ以上は無意味だと感じた。

 こんな反応をしてしまう相手なんて、二人も三人もいるわけがないのだから。

 

「あ、山科君、お疲れ様です」

 

 その言葉が聞こえるだけで、心臓が早まるのを理解した。

 

「お疲れ様、です」

 

 この気持ちにどんな名前が付くかなんて、もう一つしか思いつかない。

 大和さんに返事をしながら、心の中では「やっぱりそうだったんだ」という納得の言葉が繰り返されていた。

 

「今、どんな感じですか?」

「え、えっと、今のところは……」

 

 近付いてくる大和さんに決して悟られないよう、顔をそらして資料を探す。

 

 

 ――僕は、大和さんに恋をしているらしい。



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8/6(月) 「君のためにできること/貴方のためにできること」

 どうやら僕は大和さんに恋をしているらしいと気付いて、一日。

 恋をすると世界が色づいて見えるのだという言葉とは裏腹に、僕が手に入れたのは猛烈な睡眠不足だった。

 

「ね、むぃ……」

 

 眠い目をこすりながら、揺れる電車の中で睡魔と戦う。

 昨日はずっと眠れずにいたせいで、今朝はずっとこんな調子だ。

 

「あと、なん……えき」

「5駅ですよ」

 

 羽丘まで何駅かを確認しようとすると、その答えが返ってくる。親切な人がいたものだ。

 

「あ、ありがとうございます……」

「いえいえ」

 

 お礼を言うと、その人は僕の隣に座った。

 

「眠そうですね」

「はい……ねれなくて……」

 

 僕が、大和さんに恋をしていることは分かった。

 

 そうすると、次の問題が浮上してくる。

 この気持ちをどこにやるのか、というところだ。

 

「着くまで寝た方がいいですよ」

「いや、でも……」

 

 きっと、好きになったのなら告白をするのだろう。

 

 でも、僕には白鷺さんの言葉がある。

 大和さんはアイドルとしての生活があり、プライベートにそんな隙を作らせるわけにはいかない。それは僕でも何となく分かる。

 

 だから、僕はこの気持ちの行き先を決めなくちゃいけない。

 アイドルということを承知で大和さんにこの気持ちを伝えるのか、迷惑はかけられないと気持ちをしまい込んでなかったことにするのか。

 

「ジブン、起こしますから」

「あー……たすかり、ます……」

 

 赤べこみたいにガクガクと振り続けていた首を落とす。

 

「おやすみ……なさい」

 

 “気持ち()”の次は、“行動()”を決めないといけないのだ。

 

 

 

 

 

 流れるように寝入った山科君を見ながら、いろいろと働いて大変だったんだろうなと思う。

 

 横から見える山科君の顔は、いつもの穏やかながら瞳に熱が籠った姿とは打って変わり、どこか幼さを感じさせた。

 少し長めの黒髪は整髪料を使っている様子もなく、癖がないからさらりと重力に従って垂れたままだ。

 

「お疲れ様です」

 

 そう言ってみると、電車の揺れにつられたせいで力なく落ちている頭が横に揺れる。まるで、いつものように「いえいえ」と言っているようで、思わず笑みがこぼれた。

 

 趣味というのは人を仲良くさせるのにはうってつけなんだと、彼との日々を思い出す度に思わされる。

 以前は、機材の話を人とすることができなかった。パスパレに入ってからはイヴさんや日菜さんが聞いてくれるようになったけれど、それは語り合えるという意味ではない。

 

「……あか、つよすぎ……」

 

 そういう意味では、機材の様々なことを同じような熱量で話し合うことができる山科君という存在は、大和麻弥(ジブン)の中で大きいものになっているのだと思う。

 様々な舞台機材の世界に足を踏み入れて、少しずつその存在を知っていく山科君の姿はいつかのジブンを思い出させてくれる。

 

 この趣味を受け入れてくれる人達ができて、とうとう語り合える仲間までできた。

 これはとても素敵なことで、得難い存在だと思う。

 

 ……だからこそ、その距離感は考えなければならない。

 

「ジブンは、アイドルなんだから」

 

 思い出されるのは、前に千聖さんに言われた言葉。

 

 ジブンはパスパレのドラマーで、れっきとしたアイドルだ。だから、そのプライベートにはある程度の注意を払うことが必要になるのは当然。

 決して、周囲に迷惑をかけてはいけないのだ。

 

 ジブンと山科君は同じ趣味を共に語り合うことができる、得難い友人だ。

 だからこそ、その距離感を間違えれば周囲からは問題として捉えられてしまうことがあるかもしれない。そうなってしまえば、その被害はジブン一人では決して済まない。パスパレのみんなも、山科君も巻き込んでしまうことになる。

 

 ただでさえアイドルらしくないのだ。

 まだまだパスパレのみんなにも応援してくれる人達に対しても胸を張れるジブンでいられないのに、そうした責任問題すらまともに扱えなければ、それこそ中途半端どころではない。

 

「それだけは」

 

 それだけは、絶対に嫌だ。

 

 山科君への迷惑を考えるなら、最低限の関係にするべきなのかもしれない。少なくとも、この舞台が終わった後も会い続けるのはあり得ない選択肢だ。

 でも、彼との関係をこの一夏だけのものにするにはあまりにも惜しく、ジブンはその魅力を知ってしまった。

 

 誰かと一緒に何かをやる楽しさはパスパレを通して知っていて、それで満足できていると思っていた。なのに、その上でジブンは「もっと! もっと!」と強欲に、彼との舞台を一緒に作る魅力に惹かれていた。

 山科君がいて、涼さんがいて、みんながいる舞台を彩るのは楽しすぎるのだ。

 

 この魅力に、どうして抗えるだろう。

 

「あ、後一駅」

 

 電車が止まり、もうすぐ着くことに気が付く。隣の山科君はまだ眠っていて、起きる様子は見せない。流石にそろそろ起こさないといけない頃だ。

 

「あの、山科君」

「ん……まだ、ねる……」

 

 その言葉で手が止まる。

 彼や涼さんに負担をかけているのは、まさにジブンがライブの準備で参加できる時間が減ってしまっているせいだ。

 

 裏方の進行予定はもらっている。

 最終調整を済ませないといけないこのタイミングに限ってライブの準備で参加できない。これは、ジブンのわがままが引き起こした問題だ。

 

 そう思ってしまうと、彼を起こすことができない。

 

「あ、」

 

 そして、ジブンの中途半端さにまた気付く。こういう時は、些細なことも自己嫌悪の材料になってしまう。

 パスパレのドラマー(アイドル)としても裏方(ただのジブン)としても中途半端で、どちらも掴み取ることもできないまま。

 

 両方を取れないなら片方に決めてしまった方がいいのに、そうすることもできないジブンに対して、言いようのない嫌悪感が胸にうずいた。

 

 

 

 

 

 作業合間の休憩時間になり、飲み物でも買おうと自販機に向かうと、そこには飲み物を買おうとしていた大和さんがいた。

 視界に入っただけで心音が加速するのを自覚する。

 

「大和さんも休憩時間ですか?」

「はい。山科君もですか?」

「ですね。喉乾いちゃって」

 

 大和さんがしばらく自販機を見つめてから、前を開けてくれた。まだ決まっていないらしい。

 僕は小銭を入れてランプが付くのを確認する。

 

「悩んでる感じですか?」

「そうですね。山科君は何にするんですか?」

「スポーツドリンクですかね。部屋、窓開けてても暑いし……」

「汗かいてますしね」

 

 エアコンは学校側が一括で管理しているので、むやみに付けることはできない。だからこそ窓を開けているのだけど、それでも吹き込む風は熱を帯びていてどうにも涼しくならなかった。

 そして、とどめと言わんばかりの人口密度の高さは、かなりの地獄を生んでいた。

 

「室内と言っても、あれだと流石に熱中症になりますよ」

「確かに。気を付けてくださいね」

「それはもちろん」

 

 スポーツドリンクでも二種類あるのに気付いて手が止まる。

 

 ちょっと、あることを思いついた。

 僕はボタンから手を離して大和さんの方を振り向いた。

 

「大和さんは、結局どうするんですか?」

「ジブンもスポーツドリンクですかね」

「どっち派です?」

「右の方の」

「なるほど」

 

 とりあえず、大和さんが指さした方のボタンを押す。すぐにガコンと音を立ててドリンクが受け取り口に落ちてくる。

 僕は、それを取り出して大和さんに差し出した。妙に顔が熱いのは、決してこの気温のせいだけではないだろう。

 

「はい、どうぞ」

「え?」

「朝のお詫びです」

 

 今朝、電車で眠っていた僕は一駅分寝過ごしてしまったのだ。

 そして、一緒に座っていた大和さんをそれに付き合わせてしまったのだ。朝にもたくさん謝ったけれど、流石にそれだけでは足りないと思っていた。

 後は、きっと見栄だ。

 

「でも……」

「まあ、大した金額じゃないですし、お気になさらず」

「……ありがとうございます。次はジブンが奢りますから」

「お詫びだから、返さないでくださいよ」

 

 そうは言いつつも、気持ちは分かるので隙を見せないようにするように気を付けることにしよう。大和さんが忘れてしまえば、何の問題もない。

 僕はそっと自分の分も買ってお釣りを回収した。

 

「戻りましょうか」

「はい」

 

 先に行く大和さんの背を少し見つめる。

 何が嬉しいのかはよく分からないけど、でも確かに嬉しいと感じている自分がいた。こういう感情が恋なんだろうか。短くても言葉を交わせるだけで幸せを感じてしまうような、これが。

 

「…………」

 

 少し遅れて、その背中を追いかける。

 

 僕がどんな行為を選択するにせよ、幸せが心に注がれるようなこの感情を恋と呼ぶのなら。今はこの日常を、苦しいほどギュっと抱きしめたくなった。

 

 

 

 

 

 筆を持ちながらぼうっと大和さんのことを目で追っている自分に気付き、慌てて視線をそらした。

 

「もうちょっと……」

 

 周囲に気取られないように視線を手元に集中させながら、少しずつ作業を進めていく。

 

 もともと、大和さんのことを目で追ってしまう回数は多かった方だという自覚はある。少なくとも、部活動の中で一番追っている時間も回数も大和さんが一番だった。それは、調べるまでもなく明らかだろう。

 そして、今日――恋心に気付いてから――は、それが顕著であることもまた明らかな事実だった。

 

 周囲に恋愛をしている人があまりいない上に自分も恋愛経験がからっきしということもあり、この気持ちを持て余している自分がいるのは否定できない。

 今までは意識していなかったのが鎖のようなものだったのだろうけど、こうして自分の感情を理解してしまった今となってはそれもない。完全に自分の感情に振り回されっぱなしだ。抑え方が分からない。

 

「山科君、今どんな感じ?」

「もうすぐ終わるよ」

 

 幸いなことに、今はまだこの気持ちを誰かに悟られている、ということはないと思う。演劇部で少しは演技の練習をしたおかげかもしれない。

 知られてしまった日には、それこそどうしたらいいのか分からない。

 

 線だけ描かれた布に絵の具を塗りたくり終えると、絵筆を近くのバケツに突っ込んで数度ゆすぎ、布で水と絵の具を拭き取る。

 そして、反対側の方を担当していた葛西さん手を上げて終わったと合図する。

 

「お疲れ」

「お疲れ様。いったん、乾かそうか」

 

 今回使用した画材は布で、絵の具はアクリルガッシュを採用した。

 

 絵を描く、色を付ける、と言ったところで様々な種類や方法がある。

 水彩、油絵、アクリル、墨、ペンキ、変わり種なら色紙を切り貼り……と、知識の浅い僕ですら指折りしていけばそれなりの数が挙がり、これに対して、筆で塗る、漬けて染める、スプレーを吹きかける、という方法が出てくる。

 その時々、作りたいものと環境によってそれらは容易に変更していく。

 

 今回は“布に塗れる絵具”、“すぐに乾いて平台に貼れる”、“低予算で済む”の三点が大きなポイントだった。その点で言えば、アクリルガッシュは都合のいい絵具と言えた。

 まず、アクリルガッシュは近隣の中学の美術の授業で採用されており、既に持っている人が多かったために買う必要がなかった。そして、布に塗れて乾くのが早い。また、耐水性もあるので何かあった時に濡れても問題ない、等も挙げられる。

 

「少し休憩にして、乾いたら平台に貼ろうか」

「うん」

 

 布に描かれたレンガのタイルを見る。

 近くで見ると、完全にべた塗りしているので綺麗ではない。ただこれは背景素材の一つであるため、リアリティよりもはっきりとレンガだと分かるような色の強さが必要だった。その点で言えば、綺麗に描けていると思う。仮に違和感を覚えるとしても、乾いていれば上から色を塗りなおすこともできるので修正もしやすい。

 

 後は、これを平台の側面に張り付けて花壇の代わりにして、舞台後方に設置して終わりだ。

 

「張り付けるのは釘だっけ?」

「うん、その予定」

 

 それなりに強力だし、釘を抜くだけで済むので今のところはそれを想定している。それに、これなら複数公演で使いまわすこともできるというのも魅力的だ。

 今回は素材を出した羽丘側に置いておくことになっている。

 

「他のところの進捗はどうかな?」

「悪くはなさそう。他のところも終わりそうだね」

 

 今回、布は4枚用意してみんなでそれを一気に塗った。見れば他もすでに終わろうとしているか、僕達よりも少し早く塗り終わった、といったところだろうか。

 

「みんな、塗り終わったら平台と釘を出して一度休憩しようか。私達が平台取ってくるから、釘の用意してて」

 

 葛西さんが声をかけて、僕と葛西さんは平台と釘を探しに移動する。釘は部室の隅に置かれているのを見たことがあるのが、平台を見た記憶はない。

 見たことがない、ということは隣の倉庫になっている部屋にあるのだろう。

 

「平台って隣?」

「うん、そうだよ」

 

 その肯定を聞いて、僕達は隣の部屋に移動する。

 

 部室から出ると、葛西さんが「そういえばさ」と僕に声をかけた。

 

「山科君って、麻弥ちゃんが好きなの?」

「ん゛ん゛っ!?」

 

 リズムを崩してよろけた。

 

「やっぱりそうなの?」

「な、なんで……?」

 

 バレバレだった? そんなに?

 

「だって、いつも麻弥ちゃんのこと見てるし、昨日の反応なんて露骨だったよ?」

「あ、いやそれはその」

 

 慌てて反論しようとするけど、言葉が出てこない。

 これでは肯定しているのと何も変わらないじゃないか。

 

「まあ、みんなはそんなに気にしてないと思うけど」

「……そうなの?」

 

 それは吉報だ。

 

「うん。多分、気付いてるの私だけだよ。このままだとどうか分からないけど」

「そうだよね……」

 

 それは、自覚している。

 

「他のみんなは割と自分達の方が気になったりしてる感じだろうし。恋に部活に、大忙しだね」

 

 他人事みたいに葛西さんが笑いながらドアを開けた。中に入る。

 

「まあ、今から気を付ければ同じ趣味の友人ができてテンション上がってる、くらいで済むよ」

「……気を付けます」

 

 奥に進むと、平台が置かれているのが見えた。

 特に前方に邪魔になりそうなものがあるわけでもないし、そのまま持ち出せそうな感じだ。

 

「そっち持ってもらっていい?」

「うん、任せて」

 

 せーので持ち上げる。一人でも持てるけど、葛西さんが持てるかは分からないし二人で行った方が安全なのは間違いない。

 足元に注意しながらゆっくり進む。

 

「そういえば」

「なに?」

 

 僕は、葛西さんに一つ疑問をぶつけた。

 

「いつから、僕が大和さんのこと好きだと思ったの?」

「え? ……明確にいつってわけではないけど、少しずつそう感じることが多かった、って感じかな」

「そうなんだ」

 

 葛西さんの言葉で、少し納得する。

 明確に気付いたのが昨日というだけで、僕はもう少し前から大和さんのことが好きだったのだろう。それこそ、初めて会った時から。

 

「それで告白す(コク)るの?」

「えっと、それは……」

「まあ、麻弥ちゃんそういうの興味なさそうだしねー」

 

 それは確かにそうだ。

 大和さんが誰に恋しているとか、そういうイメージは全然わいてこない。

 

「頑張るなら、私応援するよ?」

「え?」

 

 葛西さんの言葉に思わず声を上げた。

 

「そういうの見てるの好きだし。麻弥ちゃんと山科君、普通にいい感じになると思うし」

 

 葛西さんの顔を見る。

 いつもと変わらない表情のせいで、葛西さんが何を思ってそんなことを言い出してくれているのかが分からない。善意なのか面白がっているのか、まるでこの前の白鷺さんに翻弄されていた時みたいだ。

 

「頑張るなら、いつでも声かけてね」

 

 葛西さんは、ポーカーフェイスのままウインクを飛ばしてくる。

 

 そこから感情を読み取ることなんて、僕程度には全然できやしなかった。




どうなるんでしょうね。先を知っているとは言いつつも、自分自身もドキドキしながら書いてます。正直、ちゃんと恋してる感じ出せているのか分かんないです。絵具の話してる時の方が10倍くらい自信あります。


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8/7(火) 「一寸先の未来すら」

 体育館の三階相当。つまり、ピンスポの置かれているスペースからは、みんなが準備をしている姿がよく見える。

 

『やっほー、山科君』

 

 不意に葛西さんからインカムで連絡が飛んできたのは、ライトの準備を一通り終えたタイミングだった。舞台の方を確認すれば、舞台袖から葛西さんが顔を覗かせている。

 

『あ、今は山科君にだけ向けてるから喋らないでね。多分、麻弥ちゃんは教えてないだろうし、後で教えてあげるよ』

 

 その言葉で、マイクをオンにしようとしていた手を止める。確かに、大和さんがそんなことを話していたような記憶がある。

 

『それで本題なんだけど、この前のことは考えてくれた?』

 

 話題が話題だっただけに、思わず唸る。

 

 なんだか、この夏は女の子に振り回されてばかりだなと思うことが多い。

 大和さんに翻弄され、白鷺さんに弄ばれ、とうとう葛西さんにまで振り回されそうになっている。今まで男子校で経験しなかった分を一気に受けているようで、恥ずかしさと困惑が混じったような、そんな気分だった。

 

 違う学校の人達と舞台をやることになって、プロの劇団の見学に行かせてもらって、好きだと思える人ができた。

 たくさんの“初めて”に大変さを感じるけれど、今はその目新しさがどうにも楽しくて仕方ない。僕自身が昨日とは違う新しい僕に成長しているのを全身で感じている。

 

 と、そんな風に思い返していても、時間はあっという間に過ぎていく。今この瞬間を全力で過ごしていたとしても、周りはこれからのことを考えろと言う。

 

『難しく考える必要はないんだよ』

 

 なにも答えを返していないというのに、葛西さんは僕の心を読んだように笑った。

 

『後、二週間あるわけだし、別に関係はこれっきりでもない。未来のことを考える、なんて難しく思う必要はないの。ただ、今したいと思うことを続ければいいんだよ』

「今したいと思うこと、か……」

 

 ならば、今はこんなことを考えず今に集中したかった。

 初めての恋に高揚する気持ちのまま、この日々を楽しんでいたかった。いつかの終わりを、今はまだ考えたくはなかった。

 

未来に向かって進むわけではない。進む方向に未来があるだけだ

「え?」

『私は、そういうことだと思うな。じゃーねー』

 

 そして、通信が切れる。

 舞台袖に出ていた顔も奥に引っ込んでおり、本当に言いたい事だけ言って引っ込んでしまったらしい。

 

「さっきの言葉って……」

「じゃあ、そろそろ始めるぞー」

 

 監督兼演出である高橋の声が聞こえ、慌てて手に収まっていたシーリングのスイッチを握りなおす。

 

 今日は盆休み前で最後に全員が揃ってできる立ち練だ。

 最近ライブの準備でなかなか参加することができない大和さんもいる、最後の機会。色についても、ここできっちり決めてしまいたいところではある。

 

『準備はいい?』

『大丈夫だよ』

『大丈夫です』

 

 インカム越しから、高橋の隣に立っている新藤さんの声が聞こえ、葛西さんと大和さんがそれに答えていた。

 僕も慌ててインカムを取り出してマイクをオンに切り替えた。

 

『僕も大丈夫』

『オッケー! じゃあ、始めようか!』

 

 その言葉に、一人で静かにうなずいて舞台の方に視線を向けた。

 

 今日は開幕するところから、閉幕まで通す予定になっている。今までは切りのいい部分で休憩を挟むなどしていて、二時間通しでやったことはない。

 そういう意味では、今回の練習は全員が初めて経験する本番と同じ舞台だ。

 

 いつもの倍近く厚い台本を手に取り、最初のページを開く。照明、音響についてのたくさんの情報が書かれて、その中身にもう一度目を通す。

 本番中は、自分のことだけではなく他の動きにも気を使い、非常時にはそれに合わせて行動しなければならない。アドリブをするのはなにも役者だけではない。

 

「始めるぞ! 3、2、1!」

 

 カウントダウンの後に、手を叩く音が鳴る。体育館中の明かりが落ち、効果音(ブザー)が響き、幕がゆっくりと左右に開いていく。

 全体照明と太陽に似せたフットライトがフェードイン。僕もシーリングのスイッチをオンにして、0%だった明るさをゆっくりと上げていく。

 

 舞台が赤く染まり、僕は傍に置いてあったペンを手に取った。

 

「葛西さん、赤が少し強い」

『うん。どっちを下げた方がいい?』

「ボーダー」

『了解』

 

 柴田の下手入りを視界に入れつつ、意識は舞台の色に向けた。

 

 

 

 

 

 ゆっくりと幕が閉まるのを見送りながら、僕は崩れるようにしてその場に座り込んだ。

 

 二時間も立ちっぱなしでの作業だったので足はがくがくと震え、夕焼けの色を眺め続けていた目はもう正しい赤を認識できているのか自信がなかった。

 台本の傍に置いていたペットボトルを手に取って、一気に中身を口に含んだ。照明や音響のタイミングを微調整していたこともあって、ずっと喋りっぱなしだったのだ。

 

 台本にはかなりの量の書き込みが増え、微調整すべき内容を改めて整理しなければいけない。

 

『お、お疲れ……』

「おつかれ。大変だったね」

『ですね。調整も同時にしていたとは言っても、これほど疲れるとは……』

 

 汗をぬぐいながら、もう一度ペットボトルに口を付ける。

 ちょっと変な味がするのに気付き、そのまま一気に飲み干してしまう。これ以上残しておくと、もっと悪くなってしまう。

 

 体育館という施設は、非常に暑いところだ。

 特に舞台をやる時になれば、カーテンも窓もドアも全て締め切ってしまうため熱が逃げる場所はない。その上、舞台の機材はどれも熱を発するモノばかりで、さらに暑くなっていく。

 

「……これは、あれだね」

 

 マイクをオンにしたまま、みんなに向かってしゃべる。

 

「観客が熱中症にならないようにする方法を考えておかないと、二時間も座ってられないよ」

『客席側もかなり体力必要だった……休憩を挟む形式にするか?』

「この体育館、空調とかないの?」

『あるけど、そんなに効かないよ』

「そっか……」

 

 多少の暑さは、夕方の暑さが残る公園という舞台設定によって問題ないと思う。むしろ、多少は暑いくらいの方が感情移入しやすいかもしれない。

 だけど、二時間座りっぱなしで舞台を見ていることに苦痛を感じるようになっては意味がない。

 

『まあ、効かないとは言っても、使わないよりはマシだろ』

『確かにそうですね』

『窓も開ける?』

「風でカーテンがはためいて、光が入ったりしないかな?」

 

 ただでさえ、夕焼けの色を作るのには苦労しているのだ。これに加えて自然光を考慮して作ることになったらたまったものではない。

 

『でも、涼しかったとしても二時間座りっぱなしは大変じゃない?』

『大変かな……』

「休憩はあった方がいいかもしれないね」

『だとすると、今度はその休憩をどこに挟むかなんだよ』

「あー……」

 

 この舞台は暗転をしない。場面は絶対に転換しないし、だからこそ公園の雰囲気を作り続けるための夕焼けの演出を採用している。

 だというのに、休憩時間を挟むようなことにしてしまっては、舞台に支障が出る。

 

 何より、この舞台にはそこまでタイミングよく切れるような場面はない。

 

「これに関しては、しばらく考えるしかないよね……」

『演出部分のことを考えても、空調等で体育館を涼しくしていくのが一番の目標だね』

 

 台本の最後、裏の白紙の部分に書いていたメモスペースに“二時間、暑さを気にしないでいい方法”とメモしておく。ここには、今までに見つかった課題をまとめていて、これを一つ一つ潰していくようにして作業を進めている。

 

『ひとまず、二時間ぶっ続けでやったし、休憩にするか』

『うん、お腹すいちゃったよ……』

 

 葛西さんの言葉に首を縦に振った。

 このまま練習を続けるのは、流石に勘弁だ。

 

『ってことですから、お昼行きましょうか』

『ですね。涼さんはどうしますか?』

『んー、私は弁当だしいいよ。二人で行ってきてー』

『分かりました。山科君は学食ですか?』

「その予定です」

『じゃあ、一緒に行きましょうか。下で待ってますね』

「ありがとうございます」

 

 礼を言ってからインカムを切り、とりあえず台本だけまとめる。

 そして、少し駆け足気味に階段に足を向けた。

 

 

 

 

 

 食堂は昼休みの時間が少しずれたこともあり、かなり空いている。

 先に注文した料理を受け取ってからどこに座るかと見渡していると、僕達よりも先に来ていた役者のメンバーが既に座っているのが目に留まった。

 

「おい、山科!」

 

 席に座っていた柴田が僕の方に向かって声をかけてきて、僕と大和さんは集団の方に近づいた。

 

「山科は学食か」

「柴田も?」

「いや、コンビニでおにぎりだけ買ってきたんだが、瀬田がせっかくだからって」

「へぇ、珍しいね」

 

 人と一緒に行動するのがあまり好きではない柴田にしては珍しい理由だった。

 いつもなら一人になる場所か、誰かと一緒だとしても二、三人程度がせいぜい。先ほどのように楽しそうに話している姿は、なかなか見ない光景だった。

 

「まあ、普段は関わらないようなメンツとの交流は刺激になる」

「そうだね」

「せっかくなら、二人もどうだ?」

「いいの?」

「ああ」

 

 他の役者のみんなも頷いているし、僕は少し後ろを振り返って大和さんの反応を確認する。

 

「なら、せっかくですし」

「そうですね」

 

 料理をテーブルに置いて、そのまま座る。

 今日は役者10人全員が揃っていて、結構な大所帯だった。テーブルをつなげて僕達も含めた12人が座れるようにしており、反対側の声はあまり届かない。

 

「じゃあ、食べよー!」

 

 皆に声をかけたのは、シンガーソングライター役の人。

 羽丘の生徒なので詳しくは分からないが、いつも役者達の取りまとめをしている姿を見るのでリーダーみたいな感じになっているのかもしれない。

 

 全員で手を合わせてから、昼食が始まる。

 裏方のみんなと食事をする機会はそれなりにあった記憶はあるけど、役者達と食事をするのは初めてだ。

 

「そういえば、山科とこっちで飯を食うのは初めてか?」

「そうだね」

 

 柴田も僕と同じことを考えていたみたいで、おにぎりを咥えたまま僕の方を向いた。

 すぐに手で「食べて食べて」と促し、僕自身も定食のメインである豚の生姜焼きに手を付けた。

 

「最初だし、役者と裏で別れて作業する場面が多かったからね」

「確かに、裏方の方のみんなとはあんまり話せてないよね」

 

 OL役の子が同意し、他のみんなも頷いた。

 

「せっかく違う学校の人と一緒にできるんだから、いろいろ話とかしたいよ」

「っていうか、別に今回限りってことじゃなくてもいいんじゃない?」

「そうだな! 長期休みを使うようなタイミングなら行き来もしやすいし」

「花咲川とも合同公演してるし、せっかくなら青蘭ともやっていきたいよね」

 

 僕達を置いてけぼりにして、話がトントン拍子で進んでいく。

 端っこな上に普段の空気を知らないこともあり、僕は同じく話に混ざれていない大和さんの方を見た。

 

「花咲川って、近くの女子高ですよね? 一緒にやってるんですか?」

「たまにですね。花咲川とは近くの女子高同士ってこともあって縁があるんですよ。パスパレのメンバーもいるんですよ」

「あ、他の学校ってそこだったんですね」

 

 初めてパスパレの話を聞いた時に、そんな話を少ししたような記憶がある。

 

「でも、今後もできるんでしょうか?」

 

 もしそうだとしたら、これからも大和さんと……

 

「どうでしょうか? 花咲川は徒歩で行ける距離ですけど、青蘭は電車が必須ですからね」

 

 互いの学校を行き来するのは現実的ではない。少なくとも、学校のある期間に合同公演を企画するのはかなり難しいと言えるだろう。

 すると、可能なのは春休みと夏休みの二択。

 

「まあ、新入生歓迎公演とか、そういうのを考えると年一の恒例企画にはなるかもしれませんね」

「だったら、僕達は最初で最後ですね」

 

 今の僕達は二年生。

 来年の夏は引退済みで、きっと進学や就職といったそれぞれの進路を選んでいる時期だろう。

 

「そういえば、大和さんは卒業したら進学はされるんですか?」

「ジブンですか? そうですね……今のドラマーもですけど、エンジニアになるのもいいなとは思っていて。理工学部のある大学に進学できればと思います」

 

 大和さんが、少し恥ずかしそうに答えた。

 その少し赤くなって視線を逸らす姿に目を取られるが、すぐに視線をそらして意識を戻す。他の人もいるのだから、注意しないといけない。

 

「山科君の方は決まっているんですか?」

「え、僕ですか?」

 

 大和さんに聞かれて言葉に詰まる。

 

 僕は自分の進路なんて全く決まっていない。

 なりたい自分も、やりたいことも、目指すべき目標すらもない。ただ今この瞬間を生きているのが精いっぱいで、将来のことを考える余裕なんてどこにもない。

 

「え、えっと、僕は……」

 

 いったい、何をしたいんだ?

 

「俺の舞台で照明をやる」

「……え?」

 

 その言葉は、少し離れたところから飛んできた。

 

「その予定なんだ」

 

 声の主──柴田──は僕の方を見ながら「なぁ?」と同意を取ろうとしてくる。

 だけど、僕はその言葉に答えることができない。

 

「俺が舞台に立って、山科がライトを照らす。俺はそうなると思ってるが?」

 

 その目だ。

 僕には、その強い眼差し(きもち)がないんだ。

 

 みんながいつどこで見つけたのか知らないけれど、僕にはそれを見つける暇はなかった。今でさえ、僕自身のそれを見つけられるとは思えない。

 僕一人だけが置いて行かれたようで、不安感がひたすらに募るのを理解した。

 

 だけど、そんな僕を放ったまま、いつまでも答えられない僕の代わりに他のみんなが次々と話を繋いでいく。

 

「それは、とても儚い夢だね」

「……瀬田は、いつも“儚い”って言ってるな」

「まあ、薫さんの好きな言葉ですから」

 

 何もない僕を置きざりにして、夢追い人(みんな)の会話は続いていく。

 それは同時に、僕には何も語ることがないのだと証明していた。

 

「柴田君は、役者になるんですか?」

「ん? ああ、卒業したら劇団に入るつもりではある。……演技を学ぶための進学も悪くない、とは思うが」

 

 夢があれば、こうして自分の未来を語ることができる。

 だけど、それがない僕には何かを口にすることができない。

 

「やっぱり、プロになるんだ?」

「ああ、山科だって誘われたんだろう?」

 

 だから、僕には語るべき口がない。その問いに対する()()がないのだから。

 

「それは、そうだけど」

 

 確かに原田さんからプロの裏方としてスカウトをされたけれど、それにだって返事をしたわけではない。

 舞台裏方は非常に魅力的な進路ではあっても、僕の将来の仕事にしてもいいかという程熱があるかと問われると、自信はなかった。

 

「まあ、僕は考え中かな。……って、みんな昼休みも有限なんだし、早く食べよ」

 

 曖昧に笑いながら、有無を言わさぬ強さで答える。

 そして、少し強引にこの話を終わらせた僕は、再び話題を振られることがないように食事に意識を向けさせる。

 

「…………」

 

 なんだか、ものすごく責め立てられているような気がした。

 僕自身に夢がないことを、目標がないことをけなされているような気がした。

 

「…………いや」

 

 そうじゃない。僕はただ嫌なだけだ。

 

 

 みんなは見つけているのに、僕には光明すら見えない夢。

 ただ流されるままで、何があるかも分からない真っ暗な将来。

 大和さんをはじめとした、いつか訪れる数々の別離。

 

 

 僕は、みんなと違って未来へ希望を持つことはできない。

 「上手くいくといいね」なんて思ってもない希望をさも信じているかのように語り、夢はきっと見つかるんだと信じて探し続けるのは、もう疲れた。

 

 ライトの当たる場所にいる花形(みらい)を見るより、そんな誰かを見ている裏方(いま)を楽しんでいる方がいい。

 

 だから、

 

「……ん? どうかしました?」

「いえ、何でもないです」

 

 そんなどうなるかも分からない未来より、大和さんが確かにここにいてくれる今を、僕は選びたい。




18話ですが、暗い話題ですね。伏線的な用意していたつもりなのですが、それを本格的に暴いていく話でした。
色恋の行く末は分かり切っておりますが、コッチはどうなるのかな……と、見ていただければと思います。


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8/8(水) 「今ここにある日々と」

 音響や照明を含めた通しでの練習があり、翌日。

 

 昨日で部活の疲労が限界を迎えたのか、帰ってきた瞬間にベッドに撃沈した。今朝は、そのせいもあっていつもより少しだけ早く目が覚めた。

 寝すぎて逆に怠くなった体をゆっくりと起こしてスマホを見ると、ロック画面には大量の通知が付いている。

 

「うぅ、寝すぎた」

 

 今日からは大和さんがライブの方に向けて準備しなければならないため、練習には来れなくなる。次に会うのはライブのタイミングになるだろう。

 いや、ライブはライブで忙しいかもしれないし、もしかしたら盆明けになるかもしれない。

 

 そのことに気付くと、少しだけ気が重くなった。

 

「はぁ……」

 

 最長で一週間は会えないかもしれないという事実に気分を落としながら、バッジ通知*1が来ているアプリを起動していく。

 

「……ん?」

 

 通知はよく動く友人や部活のグループばかりだったけれど、今日は珍しく大和さんの名前が並んでいた。

 中身を確認してみると、大和さんの要件は『週末のライブのチケットを渡し忘れていたから、空いてる時間帯を教えてほしい』とのこと。

 

「あー……」

 

 ライブに行くのはもちろん、演者に誘ってもらうことなんて経験がない。アイドルバンドのライブだからドレスコードとかはないと思うけど、確かに準備をしておく必要はあるだろう。

 舞台の準備が忙しすぎて、完全に失念していた。

 

「まあ、細かい準備は兄さんに聞くとして」

 

 とりあえず、チケットの受け取りだけは済ませないといけない。僕は練習以外すべて空いてるから、どちらかといえば大和さんの方に合わせた方が都合がいいだろう。

 その旨を大和さんに送って予定を確認する。練習終わりか休みの日……いやでも、直近になるのは大和さんにも迷惑だろう。行くのは今日明日辺りで済ませたい。

 

 一度スマホを置いて着替えに手を伸ばすと、再びスマホがバイブレーションする。先に着替えだけを済ませて手に取ると、大和さんから返事が来ていた。

 

< やまとまや

昨日

夜分にすみません、大和です 23:54
      
週末のチケットなんですけど、渡し忘れているのに気づきまして… 23:55
      

今度渡したいのですが、いつにしましょう? 23:55
      

今日

      
既読

6:32

遅くなってすみません

      
既読

6:32

部活以外は空いているので、大和さんに合わせますよ

分かりました 6:33
      

なら、今日の部活後でもいいですか? 6:32
      

      

6:38

了解です

      

6:38

場所はどこがいいですか?

Aa          

 

 メッセージを送ってから今日の部活の終了時刻を確認し、部屋を出る。

 

 我ながら現金な話だけど、大和さんに会えるのだと思うと少し気持ちが上向きになった気がした。

 

 

 

 

 

「ねぇ、山科君」

 

 練習の合間の休憩時間。

 

「聞きたいことがあるんだけどさ」

「何?」

 

 外に飲み物を買いに出ていると、一緒に来ている葛西さんが声をかけてきた。

 

「15日……部活休みの最終日なんだけど、予定ある?」

「休みの最終日? 何もないよ」

 

 この夏の予定は特にない。

 いや、正確に言うなら、この夏の予定も特にない、だろうけど。

 

「なんか残ってる作業があった?」

「ううん、別にそういうわけじゃないの」

「別件?」

「うん、個人的な用件。だから、その日は空けておいてくれないかな? 詳しくはまた連絡するから」

「いいよ」

 

 スマホのカレンダーに、“葛西さんと出かける?”とメモをする。

 

 葛西さんとは個人的なことを話すことは多くないので、こうやって誘われるのが意外だった。

 ……もしかすると、大和さんとの件だろうか。催促されているわけではないけれど、早めに答えを抱いておいた方がいいのも事実ではある。

 

 入力を終えてスマホをしまうと、自販機の前に到着した。

 葛西さんに手で「お先にどうぞ」と先を促してラインナップを眺める。葛西さんは買うものを決めていたみたいで、すぐにお金を入れてボタンを押した。

 

「後、このことは他言無用だからね。知られると面倒だし」

「どういうこと?」

「私、盆休み中はお爺ちゃんの所に行ってるから遊びに行けないってことになってるの」

「最終日に帰ってくるんだ?」

 

 それにしては妙な言い回しなことに首を傾げつつ、自販機の前に立ってとりあえずお金を入れた。

 

「鈍いなぁ、山科君は。……お爺ちゃんの所には行かないの」

「え?」

「ちょっと青蘭の人に誘われたりしちゃってね……」

「ああ、なるほどね」

 

 事情は大まかに理解した。

 デートに誘われたけど帰省を名目に断ってるから、僕と出かけることを知られると面倒なわけだ。

 

 脳裏には、候補になりそうな数人の姿が浮かぶ。

 まあ、誰だったとしても居心地が悪いのは間違いない。青蘭のメンバーから仲を取り持ってほしいとか頼まれてたのをはぐらかしてたけど、ちゃんと断っておいてあげた方がいいかもしれない。

 

「それにしても、葛西さんってモテるんだね」

「んー、まあ、ミステリアスで可愛いし?」

「確かに」

 

 ツッコミを期待した言葉だったんだろうけど、あえてスルーしながら自販機のボタンを押す。

 

 実際、その評価は別に間違ってない。

 ミステリアスに感じるのは一緒に活動するのが僕や大和さんばかりで話す機会が多くないからだろう。容姿に関しては、クールな雰囲気の美人な上に、髪型やシュシュの種類が毎回変わるのもオシャレだと思う。

 少なくとも、僕はそういったオシャレは舞台美術としてしか興味がないので、自分を着飾るなんてやろうとも思わない。

 

「ちょっと。ツッコミしてくれないと恥ずかしいんだけど……」

「ごめんごめん」

 

 本当の葛西さんは、工作好きで悪戯っぽくてよく表情の変わる人だ。

 特に、アクセサリー作りの話になると熱がこもるあたり、不思議と親近感がわく。好きなものに熱中している姿は、ライトの前の僕やドラムについて語る大和さんみたいに“好き!”という感情が溢れ出している。

 

 自販機から買ったスポーツドリンクを取り出して振り返る。

 

「っていうか、モテるだけなら山科君もそうじゃないの?」

「僕?」

「うん。うちのメンバーが噂してるの聞くもん」

 

 僕は聞いたことないんだけど。

 

「落ち着いてて、困ってるタイミングでさりげなくフォローが入るのがいいんだって」

「まとめ役だから、見てなきゃでしょ?」

「だとしてもだよ」

 

 反論をその場で止められて何も言えなくなる。

 

「だから、もしかしたら予想してない誰かからアプローチが来ることもあるかもね」

「え?」

 

 思わず声が出る。

 そんなことされたら、どんな反応をしていいのか分からなくなってしまう。

 

「少なくとも、そんな困った顔しちゃダメだからね」

「は、はい」

 

 確かに、こんな表情をすれば傷付けてしまうだろう。それくらいは分かる。

 

「……っと、もうこんな時間」

「そろそろ戻ろうか」

「だね」

 

 大和さんがいないので今日の練習は照明だけになっているが、夕焼けの色作りはかなりモノになり始めた気がする。

 練習中はずっと細かい修正を繰り返しているけれど、監督や役者陣のお墨付きもあり、最初よりも遥かにいいものになっているとは思う。……ただ、同じ色を見すぎて色覚が狂っていないかだけが不安の種ではあるけれど。

 

「色は他の裏方のみんなにも一回見てもらって、そこで考えようか」

「そうだね」

 

 道具や衣装制作の方はほぼ完了した。後は、ベンチのウェザリング等、当日付近で行うモノやブラッシュアップとして行うことしかない。

 こちらに関しては、熱心にやってくれたみんなに感謝するばかりだ。

 

「じゃあ、休憩して元気も回復したし、この後も頑張ろっか」

「だね。残った課題もなんとか解決できるようにね」

 

 もう終わりかけの照明の色の件もそうだけど、暑い体育館で二時間公演をする方法等も残っている。

 みんなで頑張ればきっと終わる内容だ。

 

 キャップを開けて、口を付けないように気を付けて飲む。夏の暑い時期は口を付けると、そこから雑菌が繁殖しやすい。特に、体育館みたいな暑い場所でのスポーツドリンクは酷いことになる。

 そんな雑学を、先日の練習をきっかけに知った。

 

「よし、行こう」

 

 キャップを閉めて駆け足気味に体育館へ向かう。

 

 不意に吹き抜けた風に涼みながら、今ならなんだってできそうだなんて思った。

 

 

 

 

 

 部活が終わり、僕は家の最寄り駅ではなく、市街地の方の駅に出た。

 大和さんに連絡したところ、まだ事務所にいる様子だったので僕の方が受け取りに行くことにしたのだ。

 

「結局、出たんだろうか……」

 

 もうすぐ出る、というメッセージ以降、既読はついてない。

 とりあえず、もう一度メッセージを確認してみる。

 

< やまとまや

      
既読

18:13

部活終わりました

      
既読

18:13

大和さんの方はどうですか?

すみません!まだ事務所にいまして… 18:20
      

もうすぐ出るので… 18:20
      

      

18:21

じゃあ、どこで待ち合わせましょう?

      

19:00

大丈夫ですか?

      

19:01

とりあえず、そちらに伺いますね?

      

19:06

電車乗りました

      

19:29

着きました

Aa          

 

 相変わらずリアクションがないので、パスパレの所属事務所の場所を調べてそちらに向かうことにする。

 僕が大和さんの名前を出して事務所に入れてもらえるような気はしないけど、現状そうするしかないだろう。

 

 地図アプリで表示した行先を確認しながら、とりあえず歩き始める。

 

「えっと、この向きだから……」

 

 この場所に来るのは、一週間ほど前にあった舞台の見学会以来だ。あの時は原田さんに案内してもらって、宮川さんの舞台を見せてもらった。

 それに、プロにならないかと誘われたりもしたっけ。

 

「すみません、通ります」

 

 お盆の時期が近くなり帰省ラッシュに衝突するこの時期、地方に向かう起点となるこの駅はかなりの人が行き交うことになる。

 

 定期的にスマホに通知が来ていないか確認しながら歩いていると、反対方向に向かう二人組の女性の話し声が耳に届いた。

 

「パスパレがいるなんてびっくりだよね」

「ほんとほんと、私すごくびっくりしちゃった」

 

 思わず振り返るが、向こうは僕に気が付くことなく流れに乗って雑踏に消えていく。すぐに人の間を縫うようにして先を急ぎながら、先ほど聞こえてきた会話の内容について考える。

 

 今、確かにパスパレと聞こえた。

 僕が知っているパスパレだとしたら、大和さんが連絡できなかったのはファンの人に見つかって捕まってしまっていたからってことになる。

 

「ありがとねー!」

 

 人が事務所のあるに向かいながら、歩いていると途中で今しがた解散したような人だかりが目に入った。中心には三人の女の子が立っており、去っていく人だかりに向かって手を振っている。

 そして、そのうちの一人に目が留まり、ほっと息をついた。

 

 僕はその三人組にゆっくりと近付いて、そのうちの一人──大和さん──に声をかけた。

 

「大和さん」

「あ、はい。……って、山科君!? どうしてここに!?」

「いや、大和さんからの連絡がなかったので、事務所の方まで伺おうかと思いまして」

 

 スマホを出してトークの画面を見せると、大和さんが自分のスマホを取り出して通知を確認する。

 

「す、すみません! 完全に見てなくて」

「出たら、なんかすぐにファンの人に捕まっちゃったもんね」

「ファンの方を無下にするわけにもいかず……」

「それは、日菜さんがあんなに目立つからじゃないですか!」

 

 日菜さん、と呼ばれた女の子が照れたように笑っており、もう一人の外国人? ハーフみたいな女の子は申し訳なさそうにしている。

 どうやら、彼女もパスパレのメンバーらしく、名前は確か……

 

「何でもできちゃう天才肌な日菜さん、と、武士道が好きなフィンランドから来たイヴさん、だっけ?」

「はい! 若宮イヴと申します! よろしくお願いします!」

「ご、ご丁寧にどうも。山科遥です、よろしくお願いします」

 

 若宮さんの礼に思わず体が動く。日本語もかなり丁寧だったし、そういえばサインもかなりの達筆だったのを覚えている。真面目な人なんだろうというのが第一印象だ。

 

 ……で、問題はもう一人の方。

 

「あの、えっと」

「ん? どうしたの?」

「そんなにまじまじと観察されると、どうしたらいいのか分からないんですけど」

 

 僕と若宮さんが話をしている間、ずっと僕の方をじっと見つめているのだ。ここまで隠すことなくじっと見つめられると、流石に恥ずかしさというか居心地の悪さを感じてしまう。

 

「すみません、山科君。これから会うと話したら、会ってみたいと……」

「ああ、なるほど」

 

 白鷺さんの姿が脳裏をよぎった。このままだと、パスパレのメンバー全員と会うことになってしまうのではないかという気さえしてくる。

 後会っていないのは、ドジが多いけど夢を諦めずに頑張ってアイドルになった彩さんだけだ。

 

「ねぇねぇ、麻弥ちゃん」

「何ですか?」

「この人が麻弥ちゃんに似てるっていう山科君?」

 

 日菜さんは、僕の全身を訝し気に眺めてから首を傾げた。

 

「ふーん」

「えっと……」

「ねぇねぇ、どうしてライブに来ようと思ったの?」

「え?」

「なんで照明が好きなの? 麻弥ちゃんのサインだけでよかったのはなんで?」

「ちょっと、日菜さん!」

 

 唐突な質問の連続に思わず戸惑う。

 なんていうか天真爛漫な、アイドルっぽい可愛いタイプの女の子かと思っていたけど、全然そんなタイプではなさそうだった。

 

「あたし、彼と麻弥ちゃんが似てるようには見えないんだよね」

「そうですか? 私は、マヤさんみたいに礼儀正しい方だと思いますよ」

「イヴちゃんの言いたいことは分かるんだけど、なんていうか彼はポカーンって感じなんだよ」

「ポカーン、ですか?」

「そうそう」

 

 日菜さんは、若宮さんの言葉に同意しながらも何か思うところがあるらしく、訝し気な視線を僕に向けている。

 僕も彼女の方を見つめ返すと、その黄色い瞳には戸惑った表情の僕が映っていた。

 

「ねぇ、麻弥ちゃんに似てるって、自分でも思う?」

 

 白鷺さんには演技という裏打ちされた技術を以ってすべてを見抜かれていた。だけど、日菜さんはそういうタイプには見えない。役者としては技術で演技をしないタイプだと思う。

 確かに違うのだと理解はしているというのに、その底知れなさは白鷺さんよりも恐ろしい。

 

 ホラーは分からないことこそが恐怖につながるらしいけど、日菜さんに対して感じているのはまさしくその類だった。

 

「僕、は……」

 

 白鷺さんのように釘をさすことなんて考えてすらいないだろう。もしかすると、応援すらされてしまいそうな予感すらある。

 だからこそ、彼女が何を知りたいのかが分からない。

 

「僕は、そんなに似ていないと、思っています」

 

 ただ事実を述べる。

 

 新しい場所へ踏み出すことができて、なりたい自分がある大和さん。

 今いる場所から動くことができず、夢すら見つけられない僕。

 

 似ているかなんて、明白だった。

 

「大和さんは僕より機材に詳しいし、ドラムもできちゃう凄い人ですからね」

 

 取り繕うように言葉を重ねる。

 この感情は、大和さんへの恋心以上に知られてはいけないものだ。

 

「こんな答えで、大丈夫ですか?」

「ふーん……そっか」

 

 日菜さんは何か納得したように小さく一つだけ頷いて、若宮さんの手を取った。

 

「じゃ、行こっか、イヴちゃん」

「どこにですか?」

「帰るの。……じゃ、麻弥ちゃん、山科君、またねー」

「ひ、ヒナさん! えっと、お二人とも、またー!」

 

 手を振りながら二人があっという間に遠ざかっていく。

 結局、僕に何を聞きたかったのかも分からないし、何に納得したのかも分からない。

 

「い、行っちゃいましたね」

「そう、ですね」

 

 二人が去っていった方角を呆然と見ながら、大和さんの返事をする。

 そして、お互いに顔を見合わせて一息。

 

「えっと……そういえば、チケットを渡すんでしたね」

「あ、そうでした。わざわざ来てもらってすみません」

「いえ、僕の方こそ何も聞かずにいてすみません」

 

 大和さんがカバンからチケットの入ったクリアファイルを取り出した。

 

「これ、チケットとパンフです。後、ライブには行ったことないってことでしたから、必要そうなものはまとめてますから参考にしてください」

「本当ですか? わざわざありがとうございます」

「いえいえ、誘ったのはジブンですから」

 

 大和さんは何でもないようにそう言うけど、ライブに必要なもののリストはしっかりと作られている。

 これがあれば、ライブに行くのに不都合はないだろう。

 

「当日は、これをパンフで印をつけた受付に持って行けば問題ないはずです」

「なるほど」

 

 実際にパンフも確認しながら大和さんの説明を確認する。

 じっとパンフレットを眺めていると、大和さんが「あっ」と声を上げた。

 

「路上で立ち話するのもよくないですね。山科君は時間ありますか?」

「あ、はい。大丈夫です」

「もしよかったら、どこかお店に入ってでもいいですか?」

「大丈夫です」

「なら、一度移動しましょうか」

 

 頷き、クリアファイルをカバンにしまう。

 

「せっかくですし、今日の練習の話も聞かせてもらえませんか?」

「もちろん」

 

 今日は盆休みまでに立ち練習ができる最後の機会だったので、その辺りのことだろうか。照明の問題はかなり解決したので、残りは体育館の気温のこと等、いくつかの問題についてだ。

 特に、体育館の気温については解決策が出ていないので、要検討といったところだろう。

 

「とりあえず、ファストフードでいいですか? ジブン、ちょっとお腹が空いてしまって……」

「練習、大変みたいですしね」

 

 苦笑を漏らしつつ、大和さんの後をついていく。

 

 こうして二人で話す時間ができたことに心が弾むのを自覚しながら、僕は日菜さんのことをいったん忘れた。

*1
アプリの右上に出る赤丸に数字が書かれたもの。現在来ている通知数を表す。




パスパレのメンバーと出逢う19話です。この話というよりは先の話の伏線みたいな感じでしょうか。
それと、実は以前の話では既に実装済みなのですが、某アプリ風のチャット画面を実装してみました。
極力見やすい形になるようにしているつもりですが、見にくいようなら感想やDMに投げていただけますと幸いです。あまりにも反応が悪いなら使わない描写に変更することも考えています。


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8/10(金) 「気持ちを詰め込んで」

 今日、8月10日からは盆休みに入り、部活は一週間ほど休みの予定になっている。

 

 正直な話、休みになったとしてもやることなんてなかった僕は、この休みの初日をライブの準備に使うことにした。せっかくライブに招待してもらっているわけだし、差し入れみたいなのも用意した方がいいとも思ったのだ。

 

 実際にあれこれと調べてみると、安直にこれが一番、というモノはあまり出てこなかった。

 食品がいい。手紙がいい。あれはダメ。これは確認をとれ。等々、大量のオススメと注意事項にぶつかってしまったのだ。バンド向けとアイドル向けの両方を探したのが仇になってしまったような気がする。

 でも最終的には相手次第、なんて締めのページも多かったので、結局は大和さんのことを考えて一番いいものを選ぶしかないのだろう。

 

 家で調べているだけでは悩み続けて堂々巡りになりそうだったので、今日は市街地の方に出て実物を見ながら考えてみることにした。

 

 

 

 一昨日も来たのである程度は理解していたが、市街地の方はかなり蒸し暑い天気だった。日差しを遮るような雲はなく、アスファルトに容赦なく日差しが降り注いでいる。

 

「あー、涼しい……」

 

 汗を拭いながらデパートに入って、案内板を確認する。

 

 ここでならいいものも見つかるだろう。学校に近いショッピングモールでも良かったのだけど、贈り物に向きそうなものはどちらかというとこちらにある気がした。

 

「ここ、と……ここ……後は、この辺かな」

 

 店の場所を確認し、歩き出しながら実際にどちらがいいのか考えてみる。

 今回は予算が一切読めないので、2000円を目安に考えることにした。本当に物差しがないので、足りないようであればまた考えるつもりではある。

 

 差し入れに関しては、いくつかの制限等はあらかじめ確認しておいた。

 飲食物はパスパレの事務所が差し入れNGとして挙げていたので、今回はなし。仮に渡すにしても、後日に大和さん経由でクッキー等を贈るのがせいぜいだろう。

 手紙はメンバー分を用意できないので却下。特に、まだ会ってない彩さんに至っては書けることがない。

 化粧品は舞台メイクとしては知っているけど、通常の化粧としてはよく分からない。でも、スキンケア用品とかであれば多少は知識が生きてくれるかもしれないと思う。

 

 通りかかる店をチラチラと伺いながら、少し考えこむ。

 

 差し入れはやはり全員分がいいのだろうか。文句は言われないだろうけど、一度だけだとしても会っている人もいるわけだし、何かしらあった方がいいのかなとは思う。

 こんなことなら、恥ずかしがらずに兄さんにもう少しでも尋ねてみるべきだったかもしれない。

 

「どうしよう」

 

 しばらく歩きながらスマホでその辺りを調べていると、目の前に本屋が見えてきた。

 店頭には今月号の雑誌や新刊が並んでいて、その中には見覚えのある人が写っていた。

 

「……大和さん?」

 

 少し近づいて手に取ると、“ドラムス!”という雑誌の表紙には大和さんの写真が大きく載っている。よく分からない品番かメーカー名の中で、『ガールズバンド時代の先端を行く』の文字が踊っていた。どうやら、ドラム専門の雑誌らしい。

 中を開くと、演奏技法とか最新の商品とか自分に合うドラムの選び方とか、いろんな情報が載っている。大和さんに関する情報があったのは、中盤でカラー特集にされているページだった。インタビュー形式で、中央にはドラムセットの前でスティックを構える大和さん。

 

『アイドルとバンドというのはミスマッチな印象がありますが、大和さんのドラムは非常に曲にあっていますよね。演奏で気をつけていることはありますか?』

『そうですね。自分は、もともとスタジオミュージシャンとして事務所に所属していましたから、その場面場面によって曲に合わせて空気感を変えることも多かったんです。ですからパスパレの演奏も、他のみなさんの癖を基準にして、みなさんが演奏しやすい空気づくりを心がけていますね』

『アイドル以前から培ってきた技術が、今のパスパレでのドラムに生きているわけですか』

『そんなに大げさな話ではないです。一人のパフォーマーであればカッコよく技術の全てを活かすのもいいと思いますが、バンドは一人でするものではないと思っています。リズム隊としてメンバーが演奏しやすいようにサポートするのが重要だと思います』

『チーム全体のことを考えた演奏プランを作っていくわけですか。まさに、縁の下の力持ちですね』

 

 そこからは、具体的なメンバーの演奏の特徴や、それに対してどのような合わせ方をするかといった、本格的な話が書かれている。そして、そこからの大和さんのセリフ量の多さが一気に増していく。きっと、パスパレのみんなの演奏を気にしていて、それを魅力的に引き出すことを考えている。

 こうして見ると、大和さんはパスパレのドラマーになってもなお裏方的なスタンスを持ち続けている。

 

 これがきっと、アイドルらしさでも裏方らしさでもない、()()()()()()()なのだと思った。

 出会ってすぐの頃にも似たようなことを考えた記憶があるけど、あの頃よりも大和さんのことを知った今となっては、より確信的なものになっていた。

 

「って、いけないいけない」

 

 雑誌を棚に戻して、他の雑誌を見る。

 今日は差し入れを買いに来たんだから、そこを忘れてはいけない。

 

「こっちのは、どうだろ」

 

 今度は“IDOL×IDOL”という雑誌を手に取ってみる。

 様々なアイドルのライブ情報や、アイドルにアンケートを取ったまとめ、グラビア写真、相談コーナー等。先ほどのドラムスとは違い、ポップな書体で書かれたこちらはアイドル専門雑誌であることがなんとなくわかった。ライブの日程についても、明後日のパスパレのライブのことが書かれている。

 

 パラパラとめくりながら差し入れや事務所への手紙の送り方等を探してみる。

 巻頭グラビア、アンケート、コラム、ライブ情報、プレゼント企画……

 

「……ない、かな」

 

 ひとまず一巡してみるけれど、特にそういったことに関する記述はなかった。アイドル専門雑誌だから、もしかしてと思ったけれど、そこまでは書いてないらしい。

 一応、見落としがないかを確認するのも兼ねて二週目に入ってみる。

 

「ん、これは……」

 

 見つけたのは、アイドルのお部屋を覗き見するという小さな企画もので、今回は僕達と同い年くらいのアイドルの部屋が掲載されている。

 部屋は本人の衣装とは打って変わってシンプルな部屋だけど、窓際や机にそっと飾られている花が非常に印象的だった。

 

「これ、ボックスフラワーっていうんだ」

 

 簡単な解説も入っており、これを自作するのが趣味なのだと書かれている。

 小さな箱の中にテーマを決めて花を詰めていく。造花やドライフラワーにすることで長期間持たせることもできるようだ。

 

 少し気になったので、スマホでも調べてみる。

 自作する場合は百円ショップで一通りの材料を揃えることもできるらしく、造花にすればより簡単に用意することもできるらしい。また、専門店も存在するらしく、このデパートにも店があるとのこと。

 

「これなら……」

 

 もう少し調べてみると、予算は一つ3000円からが多いとのことなので、明らかに想定金額を超えている。ましてや、5人分用意するのはかなり厳しい。店で購入する手は無理だろう。

 となると、自作することを検討しないといけない。簡単に調べた辺り、小道具を作るのとそう変わらない感覚で作れるだろうし、今日明日があればサイズ次第だけど難しい問題ではなさそうだ。メンバーにはイメージカラーというのがあるらしいから、それに合わせて花の色を変えてみるのも悪くないかもしれない。

 

 これを棄却したところで他の案が出るわけでもないので、現状の有力候補としておくことにする。他のを選びながら、デメリットも含めて考えてみた方がいいだろう。

 

「まあ、悪くはないよね」

 

 メモをして雑誌を置く。

 そして、次の候補を求め、本屋から静かに離れた。

 

 

 

 あれから、フラフラとデパートの中を彷徨ったけど、これといってよさそうなものは見当たらなかった。

 

 デパートが基本的に高めになっていることもあるのかもしれないけど、どれもこれもかなりの金額になるのは間違いなかった。もっと早めにライブのことを知っていれば準備することもできたが、一ヵ月もなければ貯金する余裕もない。

 結局、僕の持っている全額を考えて5人分の贈り物を用意するのなら、ボックスフラワーの自作がちょうどいいのかな、と思った。

 

 材料を調べながら、デパートの雑貨屋に寄る。

 

 今回は造花で作る予定なので、あれこれと大量に用意しなければいけない材料はない。箱、造花、固定用の糊、装飾に使うモノが少々といったところ。

 五人それぞれについて用意するのなら、違いを出すのは花の部分にして箱は全員同じものにするのがいいかなと思う。サイズを統一しておけば慣れも出てくるだろう。

 

 小物入れのコーナーを眺めながら、いい感じの箱がないかを探してみる。特にこれといったイメージはないので、現物を見ながら自分の直感に従う。

 革や布、木といろいろな素材の箱があるが、実際どれがいいのだろう。花を入れるということを考えると、やはり木製にするのが一番いいような気もする。

 

「あ、これ……」

 

 そこで、ある箱を見つけた。

 薔薇と蔦が彫られている、白塗りの木箱だった。蓋が付いているようで、金属製の留め金も用意されている。サイズは僕の手に載せられる程度で、だいたい$10 \times 15 \times 5cm$といったところだろうか。

 

「これ、いいかも」

 

 大きさの割には軽く、値段もそこまで高くない。数も5人分用意できる。

 半分一目惚れするような形で箱を決定すると、急いでレジに箱を持って行った。

 

 

 

 

 丸山さんの分を作り終わり、今までに完成している分と並べると我ながら初めてにしては上出来な結果になっているんじゃないかと思った。

 

 ボックスフラワーの制作が思いの外簡単だったのは、嬉しい誤算だった。

 練習用に一つ作ってみたけれど、それにかかった時間が約1時間。そこから、慣れやイメージが固まっていったこともあり、一つにつき45分程度で作成できるようになっていた。

 

 早めに夕食と風呂を済ませ、そこから休みなしで作業を進めていたけれど、かなりコツをつかんできたんじゃないかと思う。

 

「5つできたら、葛西さんに自慢してみようかな」

 

 葛西さんはこういうの好きそうだし、なんなら僕以上にこの手の作業には慣れてるはずだから、もっとすごいものを作ってきそうな気もする。

 

 現在できているのは、大和さん以外の四人へ贈る用だ。パスパレの公式サイトで趣味やイメージカラーを調べながらなので、リスト順に作成している。

 次が最後で、大和さんに贈る用だ。

 

「よし、頑張ろう!」

 

 自分で気合を入れて、箱と花を並べる。

 

 グループということもあったので、今回は花の種類も統一することにした。ちょうどメンバーそれぞれの色に対応する薔薇の造花があったのだ。

 

 まずは、花が箱から少し溢れてしまうような高さになるまで底上げをする。

 底に詰めるものなので何でもいいのだけど、今回は家に余っていた発泡スチロールを切って箱に合うサイズにそろえる。

 カッターナイフでゆっくり切り込みを入れながら、削りだすようにしてほしい形を作る。本当は発泡スチロールカッターがあればよかったのだけど、あいにく家にはないし買う程でもなかったので見送った。

 

 細かいサイズを調整しながら、箱に発泡スチロールがぴったり収まるように調整する。余裕ができてしまうと、完成したときに中身がガタガタとずれてしまうことがあるのだ。

 

「……まあ、こんな感じかな」

 

 ぴったり収まったのを確認して、次のステップに移る。

 

 次にやるのは、花のレイアウトを考えて仮組みをするところだ。

 造花は生花と違って劣化を気にする必要もないので、試しに詰めて調整することができる。今回は今までのと構図を変えるつもりがないから、簡単に確認程度で済ませる。

 

 パスパレのメンバーにはイメージカラーが設定されていて、ライブでは応援するメンバーに合わせてサイリウムやTシャツの色を変えるらしい。ちなみに、丸山さんがピンク、白鷺さんが黄色、氷川さんが水色、若宮さんが紫、大和さんが緑だそうだ。

 

 レイアウトとしては、中央に贈り相手の薔薇を配置し、四方に他のメンバーの薔薇を置くような形にした。あまり奇をてらったようなものにするより、シンプルに五人で一組というイメージを作ったほうがいいと思ったのだ。

 

 中央に緑の薔薇を差し込み、隅の方に四色の薔薇を配置する。隙間は小さな花や葉で埋めて下の発泡スチロールが見えないように調整。これが見えるとあまり見栄えが良くない。

 最悪の場合を考えて発泡スチロールを茶色く着色することも考えたけど、木箱が内側まで白く塗られているタイプだったため、白が見える方がいいかと考えた。

 

「よし、問題なし、と」

 

 仮組みしたところで、その様子を一度撮影して細かい配置を後で見られるようにしておく。

 

 撮影が終わったら花を一度取り出してグルーガンを取り出した。

 グルーガンは、銃の形をした接着用の工作道具だ。棒状の固まった糊を熱で溶かし、必要な場所に塗ることができる。

 

 花の下にグルーガンで溶かした糊を付け、発泡スチロールに茎の部分を差し込む。

 そして花が刺さった状態のまま、花弁の下の方を少しだけ持ち上げてから糊を付ける。二重に接着しておけば、そう簡単には外れないだろう。

 

 緑の薔薇が中央に差し込まれたのを確認して、他の薔薇を手に取る。

 

 そういえば、買うときに少し調べたのだけど、薔薇の花言葉は色によって違うというのを知った。

 丸山さん(ピンク)は“可愛らしさ”、白鷺さん()なら“献身”、若宮さん()なら“尊敬”、氷川さん(水色)なら“神の祝福”。

 どれも素敵な意味が込められていて、きっとみんなに似合う色なんだと思う。

 

 そして、中央に飾られた大和さん()の意味は“希望を持ちうる”らしい。

 

「うん、いい感じ」

 

 花言葉に理屈も何もないのは分かるけれど、少しだけ不思議な気持ちになる。なぜ、緑の薔薇は“希望”ではないのだろうか。

 なんだか、ちょっと回りくどいような、今は希望なんてないみたいな不思議な言い回しだと感じた。

 

 僕は、大和さんと出逢って少しずつ変わっている。

 恋をして、こうして自分から何かをしようと思えるようになった。誘われたからやるのではなく、自分から動き出すことができる僕がいる。これはきっと悪い事じゃないし、この気持ちに正直になるのなら、大和さんはまさしく僕自身の希望だと思う。

 

 こうして少しずつ前に進んで、今回はパスパレ全員に渡すように用意したけれど、いつかは大和さんだけに、ただの贈り物として何かを用意するような日も来るのだろうか。

 親しい友人として誕生日のプレゼントを贈り、いつかは恋人として──

 

「……って、早い早い!」

 

 頭を振って雑念を飛ばす。

 あまりにも都合がよすぎる妄想だ。大和さんが僕のことを好きかどうかも分からないというのに。

 

 大和さんとの迷惑を考えていたところで、結局僕自身は大和さんとそういう関係になることを望んでいるのかもしれない。

 今の公演が終わってしまえば、大和さんとの関係はそれまでになる。だからそれまでには、せめて友人として続いていけるような関係になりたい。

 

「よし、完成かな」

 

 グルーガンを置いて、完成したボックスフラワーを確認する。最後ということもあって、かなり綺麗に作ることができたんじゃないかと思う。

 

 少しだけ悦に浸ってから、名刺サイズのカードを用意する。縁にだけ色が付いているタイプで、様々な色がセットで用意されている。そこから、薔薇と同じようにメンバーのカラーに合わせてカードを選んで、それぞれの名前を記入する。外は同じ見た目なので、こうしておかないとどれが誰のか分からないのだ。

 カードをマスキングテープで箱に張り付ける。あまり接着力が高くないマスキングテープであれば、後からはがすことも簡単にできる。

 

 全員分のボックスフラワーを完成させ、ラッピングする。

 これで、明後日の準備は問題ない。他の荷物は大和さんのくれたメモに従えば簡単に準備が済んだ。

 

「そろそろ寝るかな……」

 

 時刻はかなり遅くなっており、そろそろ寝た方がいいだろう。生活リズムが崩れると、ライブの時間に眠くなるかもしれないし。

 荷物をまとめてリュックにしまい、ラッピングしたボックスフラワーだけは別で用意した手提げに入れる。

 

 そして、明後日のライブへの期待を胸に抱いたまま、僕は部屋の明かりを消した。




後日のライブに向けて準備する休日1日目でした。

作中で山科君が作成しているボックスフラワーですが、材料や道具は全て百均で揃えられます。
今回の物品を全て百均で購入したとすれば、花(10本程度)、箱5個、グルーガン、カード、マスキングテープ、ラッピング用の袋とリボンですから、5人分で2000円程度でしょうか。いくらか材料が余りますから、原価はもう少し下がっていると思います。

ちなみにですが、本当に初心者でも作れるのか自信がなかったので、一度自分で5人分作ってみました。少し仕様は変わってますが。
https://twitter.com/iwaki_haruo/status/1159411324398342144?s=20
簡単にではありますが、こちらに写真付きで作り方も載せています。完全初心者の僕でもこの程度は作れたよー、って感じです。山科君は僕より遥かに丁寧で器用ですので、もっといい感じに作ってると思います(小並感)。


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8/12(日) 「背負えないモノ」

 パスパレのライブ当日。

 屋内ライブではあるものの、外は清々しくなるような快晴だった。日差しこそ強いが涼風が吹いているため、辛さは特にない。

 

 電車で数駅進んだところにある会場に向かうと、まだライブまでまだ時間があるというのに多くの人でにぎわっていた。

 あちらこちらに行列ができていて、いったいどれがどこに続く列なのかすらもよく分からない。

 

「すごい人……」

 

 整理のために用意された仕切りと大勢の人を見ながら、昨日の内に一度下見に来ていたのは正解だったなと心の中で自分を褒める。散歩がてら受付する場所を確認していたのだけど、確認していなかったら確実に迷子になっていただろう。

 

「えっと、受付は確か」

 

 パンフレットを見ながら、受付の方に移動する。

 

 大勢人が並んでいるところから離れ、あまり人がいないような場所に向かって移動する。

 先ほどとは人の数がかなり変わってしまった上に同じ方向に歩く人がいないため、本当にこちらで合っているのか不安になってくる。

 

「あそこ、かな」

 

 やがて周囲に入り口だと言われた場所にたどり着いたが、やはり人はいない。いるのは、受付だと印をつけられたところの前に立っている人だけだ。

 

 恐る恐る立っている人に近づきながら、静かに「すみません」と声をかけた。

 

「あの、ここ、受付ですか?」

 

 チケットを出すと、受付の人がそれを確認してからタブレットを操作し始めた。

 

「そちらは、どなたから頂いたものですか?」

「大和さ……あ、えっと、大和麻弥さんからです」

「お名前は?」

「山科遥、です」

「身分証明書はお持ちですか?」

「はい」

 

 学生証を取り出して見せると、しばらくタブレットを確認してから表情を緩めた。

 

「はい、確認しました。順路に従って奥にどうぞ」

 

 道を開けてもらえたので、学生証を受け取ってそのまま奥の方に進む。

 

「……もしかして、これって」

 

 ただのライブのチケットだと思っていたけれど、身内向けみたいな特別な種類のものだったのではないだろうか。

 

 そのことに気付けば、本当に自分がもらってもよかったのだろうかと、更に不安が募った。

 

 

 

 と、そんな不安な気持ちを持っていられたのは、会場に入るまでだった。

 

「うわっ、すごっ」

 

 会場は外観から分かってはいたけれど、かなりの人数が収容できるようなサイズだった。確か、客席数は五千とか書いてあった気がするので、かなり大規模なライブである。

 席は三階まで用意されていて、僕がいるのは二階席の上手側に近い位置。正確に言うと一階と二階の間くらいの高さに調整されており、ここに入るための通路も他の客席とは少し違っているようだった。

 

 不安な気持ちよりも会場設備に目が行ってしまった僕は、そのまま観客が入っている途中なのをいいことに、荷物も下ろさず周囲を見渡すことにした。

 演劇部に入ってからついてしまった癖だけれど、初めての劇場に行くとそこの照明設備が気になってしまうようになっていた。

 

「あ、モニターとかあるんだ」

 

 奥にあるステージはかなり広く、楽器も間隔を置いて設置されている。

 

 設置されているモニターはかなりのサイズで、奥の方であったとしても演者の表情を確認することができるようにするためなのだろう。テレビの収録では見たことあったけど、ライブでもあるとは。今まではテレビのニュース等でちらりと見る程度だったから、こんな仕掛けがあるのだとは気にしたこともなかった。

 

 足元の方には、間を置くように配置されたフットライト五つをはじめ、複数の種類のライトが設置されている。おそらく、回転等の動きがあるタイプも混じっているのだと思う。

 

 一方で、舞台の上部の設備はこの席から確認することができないので、そちらについては全く分からない。だが、舞台斜め前方にも、彫り込まれた意匠かのように設置されているサイドライトの存在感が、この会場の照明設備の豪華さを証明していた。

 三階席上方にあるピンルームが確認できたし、三階には黒いガラス(マジックミラー)で仕切られているのであろう調光室や音響調整室の存在が見えずとも理解できる。

 

 ライトの種類はパッと見えるだけでも部活で使っている数を超え、舞台上に存在するモノを考慮すれば倍以上の数にもなるだろう。

 

「はぁ……すごい」

 

 一通りどこに何が設置されているのかを確認したところで、一度落ち着くことにした。

 あれこれと見て回るのは少しだけ自重。流石に、人がたくさん入って来たので、これ以上きょろきょろしていると恥ずかしい。

 

 時刻は間もなく18時。

 もう幾ばくかで始まるライブに向けて腰を下ろし、ゆっくりと息を吐きだした。

 

「荷物入れとくかな」

 

 差し入れ用に用意した紙袋だけは奥に置き、リュックを席の下に置く。

 

 僕と同じように身内からチケットをもらって入場した人達はあまり多くないのだろう。僕がいるこの位置と、その反対側、つまり下手側の位置に似たようなスペースが用意されている。

 反対側にも数えられる程度にはまばらな数の人が座っており、もともとこの種類のチケットの数は少なかったのかなぁ、という感じもする。

 

 少し空き気味のこのスペースに比べると、一般の座席はほぼいっぱいにまで埋まっていた。

 やって来た人は、工事や駐車場で案内に使ってる光る棒みたいなのを取り出して、いろんな色に変えて「パスパレ―」とかメンバーの名前とかを叫んでいる。こういうの、コール、とかいうんだっけか。

 

「もうちょっと、かな」

 

 開演時間まで一分を切って、もういつ始まってもおかしくない状況になった。

 

 今更になったけど、僕も他の人みたいにあの光る棒を持ってきた方が良かっただろうか。いや、どんな色にしたらいいのかもよく知らないから、持ってきたところで迷惑かけてしまう気もする。

 

 と、考えたところで、避難灯以外の全照明がフェードアウトした。

 

「…………!」

 

 前方から、足音が響く。硬い靴が鳴らすようなリズミカルな音。

 数は複数だが、そのタイミングは綺麗に一致していた。

 

 暗くなった視界に、目が徐々に慣れていく。

 ステージの方に人影が微かに見えたような気がした。

 

「1,2,3,4……ッ!」

 

 不意にカウントがとられ、軽快なリズムが流れ出す。

 何の曲が流れ出したのか分かったのか、観客達は一斉に棒の色を紫に変え──

 

 

「ッ!!」

 

 

 ──目が眩んだ。

 

 カットインした舞台照明に思わず目を細めるが、すぐに目を慣らして舞台に視線を向けた。

 

 ステージにいる五人の少女は甲冑をイメージしたような衣装に身を包みながらも、そんなことを感じさせないような軽やかさで楽器を取りまわしている。

 観客は曲に合わせて掛け声を入れ、紫色の光が会場を包んでいる。

 

 奥のモニターでは、若宮さんがキリリと顔を引き締めながらも、どこか楽しそうな様子でキーボードを演奏している。

 

 

 ここまできてようやく、ライブが始まったのだと理解した。

 

 

 開演のブザーもなければ、幕は最初から上がっていた。

 舞台の開始を告げるものなんてフェードアウトした照明一つだったというのに、この会場にある何もかもが一瞬にしてステージにいる五人の少女へと、その熱量の全てを向けていた。

 

「これが、ライブ……!」

 

 静かに深みへと歩みを進めていくのではなく、まるで初めからそこが深みであったかのような錯覚に陥る。

 引きずり込まれたのではなく、初めからそこにいたのだと思わせるような、そんな感覚。

 

 ただ曲を聞いているだけではない。

 声援も、ライトも、そのありとあらゆるものがこの舞台には必要で、この熱は今この瞬間にしか作り出しえない確かなもので、それは僕も例外ではない。

 

「はっ! はっ! はっ! はっ!」

 

 気付けば、僕自身も声を合わせていた。

 どこで声を出せばいいのかは知らないけど、なぜかタイミングは理解できていた。

 

 大衆の熱量を受けて、心臓が強烈に鼓動している。

 始まるまでは座って静かに聞いているつもりだったのに、今はもう立っていなければ落ち着かなくなってしまっていた。

 

 

 

 曲が終わって、会場が静かになると、ボーカルをしていた丸山さんがマイクを口元に当てた。

 

「一曲目、天下トーイツAtoZどうでしたか? 先月出たばかりの曲でしたが、皆さんすぐに気付いてくれて、すごく嬉しかったです!」

 

 今の曲、そういうタイトルだったんだなと思いながら、手元のメモに『天下統一AtoZ』と書く。

 舞台でどんな演出がされていたのかをメモするために持ってきているのだけど、今回はライブで流れた曲をメモすることしかできないかもしれないな、と思った。

 

「コールのタイミングも完璧で、本当にアッパレでした! 皆さん、とってもスゴイです!」

 

 若宮さんが笑顔で会場へ呼びかければ、紫の光が客席全体を彩った。

 そうだ、若宮さんのイメージカラーが紫だから、若宮さんイメージのこの曲は紫で彩られていたのだ。

 

「イヴさん、この曲をいつも口ずさんでますもんね」

「はい! パスパレの仲間達との、ブシドーの証ですから!」

 

 ドラムの前に座っている大和さんは、映像で知っていたとはいえ、本当に眼鏡をかけていなかった。制服姿や部活用のTシャツ姿しか見ていなかったので、それ以外の衣装を着ている大和さんを初めて見たかもしれない。

 こうして見ると、より可愛らしさが引き立ってると思う。

 

「でも、麻弥ちゃんだって合わせて歌ってるし、なんならペンや指でリズムまで取ってるじゃん」

「いやそれは、イヴさんが歌っているとこう、落ち着かないと言いますか、つい……」

 

 フヘへと大和さんが笑い、会場の空気が柔らかくなる。

 先ほどの演奏中の熱狂した空気感とはまた違う、パスパレの作る柔らかい日常の空気が、会場の中を包んでいた。

 

「さて、本日はPastel*Palettes初めての単独ライブに来てくださって、ありがとうございます! 司会をしているのは、まんまるお山に彩を! Pastel*Palettesのふわふわピンク担当、丸山彩でしゅ!」

「あーあ、また彩ちゃん噛んじゃった」

「もー! 日菜ちゃん、言わないで―!」

 

 丸山さんとは直接会って話す機会はなかったわけだけど、大和さんから聞いていたイメージとそのままで、なんだか少し面白かった。

 

 失敗を引きずることなく頑張れて、何があっても前に進むことのできる人。

 観客のことを考えてトークも笑顔も練習してきて、それでもなお失敗してしまうような。でも、そんな姿が彼女の魅力なのだろう。

 

「次は、噛まないように気を付けましょうね」

「千聖ちゃんまで~!」

 

 なるほど、確かに“アイドルらしい人”であるように見えた。

 応援してあげたくなるような、そんな人。そして、その結果がこの会場にいる五千人というわけである。

 

「大和さん、楽しそう……」

 

 大和さんがいつにない程楽しそうで、舞台機材を触っている時のとは違う、僕が普段見ないような笑みを浮かべていた。

 趣味に裏方(機材)アイドル(ドラム)を上げるのは、それぞれに違った魅力があって、違う楽しさを見出しているからなのかもしれない。

 

 今までアイドルとしての大和さんをあまり見てこなかったけれど、これからはグッズとかも買っていいかな、という気持ちになってくる。

 写真とかは恥ずかしいけど、せめて大和さんを応援して何かしら繋がれるような、そんなものがあったらいい。

 

 もし、余裕があるならライブ終わった後とか、ダメなら明日以降の休みの日にでも、大和さんのグッズを探しに行ってみようか。

 

「続いて、ドラム! 大和麻弥!」

 

 ちょうどメンバー紹介をしていたようで、大和さんがドラムをカッコよく叩いている。

 僕にはどのくらい上手なのかとか分からないけど、でも大和さんのドラムは、心地よくて、とても好きな音だ。

 

「以上、五人でライブを続けていきたいと思います!」

 

 「よろしくお願いします」と五人が頭を下げ客席からは声援が飛ぶ。

 

「大和さーん!」

 

 みんな好きに叫んでいるようだったので、歓声に紛れて大和さんの名前を呼んでみたら、大和さんが僕の方を向いた。

 

「みなさん、ありがとうございます!」

 

 大和さんはこちらにスティックを持ったまま手を振ってくれた。

 同じ方角からは、きっと僕と同じように思った人が嬉しそうに声を上げている。

 

「今日は、真夏の暑さに負けないくらい、熱いライブにしていきたいと思いますので、皆さんついてきてくださいね!」

「じゃあ、次の曲だね!」

「うん! 身体は温まってると思うので、もっと熱い曲で行きたいと思います! Y.O.L.O!!!!!」

 

 そして、再び会場は音の波に包まれた。

 

 

 

 

 

 ところどころにトークを挟みながらライブは続いた。

 

 トークの部分では、氷川さんが即興で演奏を始めたのに大和さんが乗っかって、それを白鷺さんに叱られちゃったり。丸山さんがあんまりにも噛むから、丸山さんがライブ中に噛むかを予想し始めたり。若宮さんが最近の部活でやったことを楽しそうに話していたり。

 きっと、いつもの彼女達がしているのであろう会話を少し覗き見ることができるような感じがして、なんだか不思議な気持ちになった。

 

 楽しい時間は瞬く間に過ぎて、ライブはとうとう最後の曲を迎えていた。

 

「次が、最後の曲です!」

「本当に次が最後なんですか!? なんだか、まだライブが始まったばかりみたいな気持ちだったのに……」

「私はまだまだいけるよ~。あ、せっかくなら違うのやる?」

「もう、日菜ちゃんってば……」

 

 軽率に面白そうだと思ったことを始めようとする氷川さんを、白鷺さんが窘める姿はこのライブ中でもう見慣れてしまった。

 

「ちゃんと、段取りがあるんだから守らなくちゃダメよ」

「は~い」

 

 会場から笑いが漏れる。

 

 白鷺さんはずっとどんな人か分からなかったけれど、きっとパスパレのことをすごく大切にしている人なんだということは、ライブを通して理解した。五人でいるパスパレという居場所が大事で、その居場所を守るために戦えるような、そんなすごい人なのだと。

 

 僕が釘を刺されたのはきっと、そのパスパレという場所を脅かすような危ない存在だったから。

 中途半端な気持ちで関わってパスパレに迷惑をかけるくらいなら、大和さんから距離を取ってほしい、という彼女なりの言葉だったのだと、今となっては分かる気がした。

 

「パスパレが、こんなに広い会場で単独ライブをさせていただくのは、これが初めてです」

 

 白鷺さんの視線が会場を彷徨う。

 

「パスパレを結成してから大変なことがたくさんあって。でも、その度にみんなに助けてもらいながら、ファンの皆さんに応援してもらいながら、ここまでやってくることができました。本当にありがとうございます。……みんなも、ありがとうね」

「ちょ、ちょっと、千聖ちゃ~ん」

「彩ちゃん、涙声になってるわよ」

「だって……そんなの、急に言われたら……」

 

 ライブの原稿にはなかったのだろう、アドリブで入った感謝の言葉に丸山さんが嗚咽をこぼす。

 力いっぱい白鷺さんを抱きしめる丸山さんの姿がモニターに映り、他の三人が微笑まし気にその姿を眺めている。

 

 白鷺さんは視線を客席から丸山さんに戻した。

 

「もう……泣かないの。次の曲もちゃんと歌うんだから」

「うん、うん……」

 

 兄さんから、パスパレのデビュー当時の話は少しだけ聞いた。

 きっと普通ならそのまま消えてしまっていたはずなのに、彼女達はそれでも諦めることなく頑張り続けて、そしてやっとこの大きな舞台でライブをするに至ったのだろう。

 

 僕はその姿を何一つ知らないけれど、彼女達はもう形だけのアイドルバンドではない。自分達で演奏して、これだけの人を動かすことができる、そういう五人(アイドル)になれたのだ。

 

「本当に大変なことがあっても五人で乗り越えてきて、今まで子役として役者として一人でやってきましたが、初めて私の居場所だと思える場所が、ここにできました」

 

 まだ結成して長くの時間は経っていないものの、五人の絆を深めるには充分すぎる出来事がたくさんあった。

 

 そして、再び視線はこちらの方を──

 

「だから私はこれからも、できるだけ長く、この五人でパスパレを続けていきたいと思っています」

 

 ──目があった。

 

「今日来てくださった五千人ものファンの皆さん。今日ここには来れなかった皆さん。パスパレを応援してくれる、全ての人のため。そして何よりも私達五人の意志で頑張っていきたいと思います」

 

 心臓を、鷲摑みされたような気がした。

 

「どうかこれからも、皆さんの応援よろしくお願いします」

 

 これは、山科遥へ向けた言葉だ(ファンへのメッセージではない)

 

 頭を下げる白鷺さんへと送られる無数の声援が、僕の意識からフェードアウトしていく。

 でも、頭の中ではうるさいくらいに声が響いていた。

 

 ステージから視線をそらし、客席の方に視線を移す。

 

「あ、ああああ……」

 

 (ファン)がいる。

 パスパレを、大和さんを応援する(ファン)が、こんなにもいる。

 

 会場にいる五千人(ファン)

 ライブに来れなかった大勢(ファン)

 

 何千、何万という(ファン)がパスパレを、大和麻弥(アイドル)のことを応援しているのだ。

 

「では、最後の曲をやらせていただきます。……みんな、大丈夫?」

「うん、任せて!」

「ぎゅい~んといっちゃうよ~!」

「ダイジョウブです! 最後まで全力です!」

「ジブンも問題ないです。いつでも行けますよ」

 

 五人がお互いにうなずき合う。

 

 パスパレは、この五人でなければいけない。

 たった一度のライブで、僕はそれを間違いなく理解した。

 

 理解して、しまった。

 

「…………」

 

 糸が切れるように、座席に崩れ落ちる。

 イントロが流れ出しても、もう体は何一つ動こうとはしていなかった。

 

 僕の気持ちに正直になれば、多くの人に迷惑をかけることになるかもしれない。とてつもない数の人を巻き込んでしまうのだ。

 それを理解してもなお、僕は大和さんに気持ちを告げることができるのか。

 

「……無理、だよ」

 

 できるわけ、なかった。

 演劇部で舞台に立つ勇気すらない僕が、どうして大和さんへ気持ちを伝えることができるだろう。

 

 裏方が舞台の一部を作ることはできるのかもしれない。

 でも、役者以外に台詞はない。

 

「…………」

 

 僕に与えられた台詞はない。僕には、語る価値のある言葉がない。

 舞台に上がらない限り、その勇気がない限り、僕にはこの気持ちを伝える権利など存在しない。

 

 唇をかんで、零れそうな涙を押しとどめた。

 

「僕、は……」

 

 少しだけ期待していた。

 もしかして、と思っていた部分は確かにあった。

 

 だけど、今ならはっきり言える。

 この気持ちは、永遠に叶えてはいけないものだ。

 

「大和さんのことが好き、です」

 

 だって、僕は最初から舞台の上になんて立っていなかった。

 

「……言えないくせに」

 

 僕が立っていたのは、客席の遥か上階。舞台を照らすライトの裏側だったのだから。




ライブというのに行ったことがないし、そちら関係の知り合いもいないので、本当に身内席みたいなのがあるとかは知らないです。今回は山科君が立ったり座ったりと忙しそうなので、近くに人がいないような環境を用意してあげた次第です。具体的な雰囲気とかは他の作品や偏見で書いています。一番詳しいのは照明設備だったと思います(小並感)。
ちなみに、ホールですがパシフィコ横浜を基準に一部改変を加えた設計にしました。施設図を見ながら細かいとこ決めたんですが、描写する理由もなかったのでしてないです。
なんか違和感とかあったら、そろっと指摘していただけますと修正を考えます。大規模なら諦めます。

後、最後の部分の文章、もし見覚えがあるなぁって思った人は、そっと一話の冒頭に戻っていただけますと納得するのではないかと思います。
このイベントは、エンドがどうなるか決めてなかった頃からこうなると決めていたものです。一話のをここで使ったというより、ここで使うものを一話に先出ししたって感じですね。

さて、最後に。
もしよろしければ作業用のBGMを置いておきます。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLu6yiYjIlrj2vCXti4uIXXZoOWDkX4PUD
今回は夢乃ゆきさんの「sign」のサビがいいなぁ、と思いながら書いてました。まる。


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8/13(月) 「届けることはなくとも」

 昨日のライブは、途中からの記憶が曖昧だった。

 

 最後の曲の後にアンコールが二曲あり、ライブは無事に終了。

 その後は楽屋の方に挨拶に向かい、大和さんに舞台裏を簡単に案内してもらいながら、最後にボックスフラワーを渡して帰ってきた。

 

 あの時、僕はちゃんといつも通りでいられただろうか。大和さんの知っている山科遥のままで。

 

「…………」

 

 葛西さんには、二人はうまくいくんじゃないかなと言われた。

 

 僕も確かにそう思う。

 大和さんと趣味も感覚も似ている部分が多いし、いい関係を築けているだろう。もし演劇部の公演が終わってしまっても、その気になれば僕達の関係はずっと続けていくことができるのかもしれない。

 

「……いや」

 

 だけど、白鷺さんの言葉はそれ以上に正確に事実を把握していた。

 

 大和さんはアイドルであることを僕が知らずにいたからとしても、それが事実であることは変わらない。

 僕と大和さんの関係は、僕と大和さんだけの問題に留まってはくれない。

 

 大和さんにこの気持ちを伝えるのであれば、僕は大和さんが背負っているものを、僕自身も背負わなければならない。

 だけど、僕にそれができるかといえばきっと無理だ。

 

 僕には勇気も、意志もない。

 流されたまま生きてきて、ようやくその勇気の持つための光明を見出せそうになってきたのだ。

 

 何も入っていない、空になった紙袋が視界の端に映る。

 あのボックスフラワーは僕の小さな勇気の印だった。小さな箱の中いっぱいに詰め込んだ緑色の薔薇(持ち得る希望)

 

 だけど、希望は持てなかった。

 持ちうるはずだった希望は、絶たれてしまった。

 

 飛び方を覚えようとしていた鳥に、嵐は過酷すぎる。

 勇気の出し方を覚えようとしていた僕に、この問題は過酷すぎた。

 

「…………僕、は……」

 

 アイドルとしてステージに立つ大和さんは、本当に可愛かった。素敵だった。好きだと思った。

 裏方として一緒に何かを作れる大和さんも好きだけれど、ああして舞台に立つ大和さんだって魅力的だった。

 

 だから、あのステージに立つ大和さんの笑顔を曇らせるようなことだけはしたくない。

 

 だから、

 

 だから、

 

「…………」

 

 この気持ちは、絶対に伝えてはならない。

 

 

 

 

 

 葛西さんから『今すぐ駅前に集合』と連絡が来たのは、『大和さんに気持ちを告げる気はない』とメッセージを投げた直後だった。

 まるで待ち構えていたみたいなスピードで呼び出しを受けた僕は、とりあえず急いで駅の方に向かった。

 

「やっほー、山科君」

「こんにちは、葛西さん」

「あれ、思ったより元気だね? もうちょっと分かりやすく落ち込んでると思ってたんだけど」

「全然落ち込んでないよ」

 

 当たり前だけど、今日の葛西さんは私服だった。

 生地の一部がメッシュのワンピースになっていて、通気性もよく涼しそうだった。日焼けするのを嫌がってか、つばの大きめの帽子を被っている。

 そして、何よりも目立つのは少し大きいようにも見える眼鏡だった。

 

「葛西さんって、目が悪かったの?」

「え? ああ、これは特に実用性はないの。ほら」

「……あ、度がない」

「そうそう」

 

 眼鏡がある無しでは、人の印象というのはかなり変わる。

 今の葛西さんはお爺さんの家に帰省しているという予定なので、知り合いに会うと少し面倒なのだろう。

 

「まあ、それはいいの。ほら、早く中に入ろ。私、流石に暑くてさ」

「う、うん」

 

 葛西さんに手を引かれ、そのまま近くにあったカフェに入る。お菓子が売りのお店らしく、ケーキやクッキーがショーケースに綺麗に並べられている。

 僕達は手早くお会計を済ませると、買ったケーキとドリンクを持って近くの席に座った。

 

 僕がチーズケーキにアイスコーヒーで、葛西さんがベリータルトに紅茶。

 何を話せばいいか分からなくて、とりあえずコーヒーに口を付けたところで、葛西さんが「いきなり本題に入るけど」と口を開いた。

 

「あのメッセージ、本気?」

「うん」

 

 大和さんに気持ちを伝えない。

 僕と大和さんの関係は、この舞台でそれっきり。

 

 これだけは、何があっても決して変える気はない。

 

「……昨日のライブで、何かあったの?」

「それ、は……」

 

 言葉に詰まり、コーヒーをテーブルに置いた。

 口の中が苦いのは、きっとコーヒーのせいだけではない。

 

 昨日のライブは確かに、決定的な理由ではある。

 僕はアイドルとしての大和さんの生活を脅かすかもしれないという事実に耐えきれなくて、それを脅かしてもなお関係を続けることを拒んでいるのだから。

 

 でも、本当の問題はその“勇気がない”部分だ。

 得意なことも追いかける夢もなくて、ただ舞台の外から決して光の当たらない場所で、光の当たる誰かを照らすことしかできない。

 

 僕は、有象無象として舞台に立つことすらできないのだ。

 

「ふーん」

 

 葛西さんは紅茶を一口飲んだ。

 

「言いにくい事?」

 

 静かにうなずく。

 

「一時の感情じゃない?」

 

 違う。

 

「もう、決めたことなの?」

 

 ああ。

 

「…………」

 

 葛西さんが黙ってこちらを見つめる。

 嘘を許さないというその強い眼差しから、目をそらすことができない。

 

 僕が語れることは、語る資格のあることは、何一つない。

 裏方に台詞は与えられない。

 

「……そっか」

 

 まだ何か思うところがあるかのようなその口ぶりだった。

 

「でも、山科君さ」

「何?」

「すごく苦しそうな顔してるよ?」

「────ッ!」

 

 顔がこわばったのが分かった。

 

「確かに後悔してないのかもしれないけど、納得いってないっていうか」

「そんなこと」

 

 ないわけが、なかった。

 

「そんな、こと」

 

 大和さんがアイドルじゃなかったら、こんなことはなかったのだ。葛西さんみたいに普通の人だったら、こんなことにはならなかった。

 

 いっそ他の四人みたいな人であればよかった。

 絶対に関わることがないような、無関係な人のままでいてほしかった。アイドルなんて今まで知らなかった。興味も関係もない、違う世界に住む人達のままでいてほしかった。

 

 どうして、どうしてこんなに近いくせに、遠い場所にいるんだろう。

 僕と同じ光の当たらない場所にいてくれないのだろう。

 

「…………っ」

 

 裏方で、機材が好きで、舞台を作るのが楽しくて、波長が合って。

 シンクロする度に惹かれていって、気持ちが積み重なっていた。

 

 夢があって、技術があって、舞台に立てて、前に進めて。

 僕が喉から手が出るほど欲しかったものがあって、胸が急に苦しくなっていた。

 

 どちらか一つなら、初めから答えは一つしかなかった。

 なのに君は両方持っていて、それはあまりにも残酷すぎた。

 

 これじゃあ、自ら火に飛び込んで自殺している虫みたいじゃないか。

 

「私はね、押しとどめる必要なんてないと思うんだ」

「伝えないって、言ったじゃないか」

 

 語調が荒れる。

 気を使っている余裕がない。

 

「伝えるだけが、気持ちを開放する方法だと思う?」

「……え?」

 

 顔を上げた。

 

「山科君は麻弥ちゃんと似ているって、みんな言うよね」

「そう、だね」

 

 似ている。

 苦しい程に基本的な性質が似ていて、決定的な部分が乖離している。

 

「だけど私は、山科君に一番似ている人は私だと思うんだ」

「葛西さんが?」

「うん」

 

 葛西さんはケーキを一口食べて紅茶を飲む。

 その表情は少し楽しそうで、でも何を考えているのかよく分からない、いつも通りの葛西さんだった。

 

「私もね、好きな人がいるんだ」

「……そうだったの?」

「うん。だから、あんまり声かけられるのも困るっていうか」

 

 ずっと女子高だったからよく分からないと言っていたけど、あくまでもそれは方便だったらしい。

 

「私には趣味とか特技といえることがなかったの」

「え、アクセサリー作るのは?」

「それはね、恋してから覚えたんだ」

 

 葛西さんは紅茶をまた一口飲んで、「男の子と恋バナとか、慣れなくてちょっと恥ずかしいかも」と笑った。

 

「私の好きな人は周りからも凄いモテて、周りからいっぱいアプローチされてたの」

 

 どの人達もオシャレで可愛くって。

 お菓子作りが得意な子はクッキーを焼いて渡したり、字の綺麗な子は手紙を書いたり。みんなが、それぞれ得意な方法でその人にアプローチしていた。

 

「でも、私は料理なんてできないし、字は上手じゃないし、歌だって、勉強もスポーツも、全部が中途半端で、何もできなかったの」

 

 なんだか意外だった。

 

 葛西さんは部活の段取りもしっかりしていて、周りへの指示出しは完璧だし、担当している部分の作業はやり直しの頼みようがないくらい上手だ。

 そんな葛西さんが何も取り柄がないなんて、想像しようがなかった。

 

「中学の時に修学旅行で広島へ行くことになったんだけど、千羽鶴を折ることになったんだ」

「あるね。僕も小学校の修学旅行でやったよ」

「山科君は千羽鶴、折れる?」

「え? 折れるよ」

 

 肯定したけど、あの頃はあまり覚えていなかった気もする。

 演劇部の小道具として折り紙を使う機会があって、その時にいろいろと覚えたので、もしかすると鶴もその一つだったかもしれない。

 

「クラスに折れなかったり、下手くそな子がたまにいるでしょう?」

「いるいる。代わりに女子に折ってもらってたよ」

「私はそういう子に教えてあげたり、代わりに折ってあげてたんだけど、それを知った好きな人が、私に言ったの。『君は器用で教え上手なんだね』って」

 

 それは、葛西さんにとって天啓だったらしい。

 

「ずっと得意なことなんてないと思ってた。だから、それって私にとって初めての“特技”だったの」

 

 それから、葛西さんは少しずつ変わった。

 

「最初は折り紙。次は華道。そこから演劇部に入って小道具作りを覚えて、今はアクセ作りを始めて」

「すごい成長だね」

「ううん。全部、その人のおかげなんだ。好きな人が凄いと褒めてくれたものだから、私はまた新しい作品を作れる。その人がきっとまた凄いと言ってくれるから」

 

 気持ちを伝えることはなくとも、この気持ちに正直になることができる。

 

「告白なんてしなくたって、好きでいられるんだもの。相手が応えるかなんてどうでもいい。だって、好きかどうかなんて私達の気持ち以外が口出しできるわけないんだもの」

 

 葛西さんは頬を赤らめた。

 

「私は今、好きな人が魅力的になるようなアクセを作りたいの。世界の誰よりも、その人に似合う最高のアクセを」

「その人に似合う、アクセ?」

「うん。私が最高のアクセを作って、その人がそれを付けて最高に綺麗になって、私に『凄いね』って言ってくれるなら、それほど幸せなことってないと思わない?」

 

 一方通行の思いだったとしても、好きな人が魅力的になれて、自分のことを褒めてくれるのなら。

 それはきっと、思いが通じ合うのに負けないくらい素敵なことなのだと。

 

「山科君が気持ちを告げない理由は聞かない。それは、山科君の中にだけしまっておいてもいい」

 

 葛西さんは僕の手を取った。

 

「もし気持ちを告げないことが苦しくて仕方ないのだとしたら、せめてその人のためにできることをしたらいいと思うんだ」

「大和さんのために、できること……?」

「うん。山科君が麻弥ちゃんのためにできること」

 

 そんなことが、僕にあるのだろうか。

 僕と同じ知識や技術を僕以上に持っている大和さんに対して、僕ができることなんて。

 

「あるよ」

「どうしてそんなこと言えるのさ」

 

 僕にはなりたい姿を見つけることだってできないのだ。

 ましてや、相手にできることを見つけるなんて……。

 

「『未来に向かって進むわけではない。進む方向に未来があるだけだ』」

「それ……」

 

 それは、葛西さんが以前口にした言葉だ。

 

「好きな人が私に言ってくれた言葉なの。なりたい未来の姿を思い描けないのなら、今ここでやりたい自分になればいい。未来で変わるんじゃなくて、今この瞬間に変われる範囲で変わればいい。変わり続ければ、それはいつか本物になる、って」

 

 いつかの未来で本当になれるのなら、それは今にとっては確かに“なりたい自分になれた未来”に等しい。

 

「だから、今この瞬間、山科君自身にできることをやればいいと思う。小さなことでも、些細なことでも」

 

 変わりたいと願った瞬間、もうその人は変わっているのだから。

 

「……って、柄にもなく熱くなっちゃったね」

 

 葛西さんは僕から手を離して、紅茶を一口飲んでケーキを食べた。

 

「あ、それ一口もらってもいい?」

「え? ああ、いいよ」

「ありがとう! あ、チーズケーキも美味しいね。こっちも食べる?」

「いいの?」

「いいよ、私も貰ったんだし」

 

 葛西さんが差し出してくれたケーキを少しだけもらう。

 タルトの生地が口の中で崩れて程よい触感が美味しい。ベリーの部分も甘みと酸味の加減が絶妙で、これは次に来た時はタルトを頼むのもありかもしれないと思った。

 

「……ねぇ、葛西さん」

「どうしたの?」

「もしかして、他の人にもこんな感じ?」

「なんで?」

「……男子高生なんて、こんなことされたら勘違いされるよ?」

 

 女性経験がただでさえないメンバーなのだからなおのことだ。

 僕だって好きな人がいるとか、そんな話をされていなかったら勘違いしてしまうところだっただろう。

 

「……まずい?」

「まずい」

 

 新藤さんみたいなのは誰にでも近いんだろうと思うような明るさがあるけど、葛西さんの場合は普段ガードが堅そうなのにこういうことするから勘違いする人が増えるのだと思う。

 

「好きな人にも、いろいろと勘違いされるかもしれないから、気を付けた方がいいと思うよ」

「え!? あ、うーん…………そうだね、そうする」

 

 葛西さんは少しだけ歯切れ悪そうにしながら頷いた。

 

「ま、まあ、ともかく。もしも何かするんだったら、私も協力するよ」

「ありがとう」

「ううん。私がやりたくてやってるだけだから」

 

 気にしなくてもいいよ、といつも通りの表情で笑う葛西さん。

 

 ずっと、なんで僕に協力的なのだろうと思っていたけれど、それはきっと今の僕が昔の葛西さんに似ていたからなのかもしれない。

 いつかの自分に好きな人がしてくれたように、僕のことを助けているだけなのだろう。

 

「……葛西さんも」

「何?」

「葛西さんも、何かあったら、相談してほしい」

 

 助けられているばかりでは申し訳ない。

 何かしてあげられるなら、僕も助けてあげたいと思う。

 

「ありがたいけど、まずは自分のことを何とかしてからね」

「それはそうかもだけど……」

「私は本当に大丈夫だよ。山科君みたいにあれこれと動くっていう状況でもないから」

 

 強がりでも何でもなく、本当にそう思っているような口ぶりだった。

 

「まあ、気持ちは嬉しいから、本当に何かあったら頼るね」

「うん」

「あ、それと」

「何?」

 

 チーズケーキを食べる手を止めて顔を上げる。

 

「明後日の件なんだけどさ」

「うん」

「もう一人連れて行っても大丈夫?」

「葛西さんの知り合い?」

「そうそう。大丈夫?」

「僕は別にいいけど……」

 

 僕の知らない人だろうか。

 邪魔なら引いた方がいいのかもしれない、とも思うけど。

 

「三人で行きたいんだ。山科君が大丈夫なら、また詳細は明日にでも投げるから」

「いいよ」

 

 もともと用事があるわけでもないし、気分転換になるなら好都合だ。

 

「ありがと。楽しみにしてて」

「うん。ちなみに誰? 僕の知ってる人?」

「演劇部の子。誰かは秘密ね」

「……分かった」

 

 本当に誰か言う気はないらしいので、追及を諦める。

 

 ケーキを食べて、コーヒーに口を付ける。

 

「薄い……」

 

 氷が解けて、コーヒーはもう苦くなかった。




葛西さんがどうして協力的だったかの理由はだいたいこれだけです。
そして、葛西さんの好きな人はこんな人で……とかも決めてるんですけど、この物語はあくまでの山科君の物なので、きっと描かれることはないでしょう。

メッセージ性、という意味で言えばこの話が一番強いのではないかと思いますし、これが“転”の要素だと思います。
個人的な信条の話ですが、全く分からない将来の姿よりも、今日なりたい自分になるのが一番素敵だと思っています。「壮大な未来」よりも「昨日より0.1秒速く走れる今日」「昨日解けなかった問題が解ける今日」を生きる方がいいな、と。


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8/15(水) 「翳り」

 午前9時50分。

 

 僕はここ数日で何度も訪れた駅の改札口の前で、来るはずの二人を待っていた。

 一緒に来ることになっている演劇部の誰かについては何も教えられていないけど、演劇部の誰かなら顔は知っているから会えば分かるだろう。

 

 待ち合わせの時刻まではもう少しだけ時間があるようだし、もうすぐ来るはず。

 

「というか、そもそも今日はどこに行くんだろう……」

 

 葛西さんは「後で説明するから!」と言うばかりで、行先については何も詳細が出てこなかった。まあ、行きたい場所があるということだったから、そこに行くことになるのだろう。

 

 長距離の移動をする可能性を考慮して少し多めにお金を用意したけど、足りなくなったりしないだろうか。

 

「せめて、予算くらいは教えてほしいよね」

 

 葛西さんは、距離が近くなると意外と強引になるのだと最近になって理解した。この前の大和さんへ気持ちを告げないと伝えた時の行動もそうだけど、押しの強い場面が少し増えたような気がする。

 まあ、それも葛西さんと多少は仲良くなった、ということなのかもしれないけれど。

 

「うーん……そろそろかな」

 

 時刻を確認すると、5分前なのでもうすぐ揃う時刻。

 スマホをしまって周囲を伺うと「あれ……?」という声が聞こえ、思わず振り返った。僕は、この声の主を聞きたがえたりはしない。

 

「やっぱり、山科君?」

「大和さん……?」

 

 そこにいたのは、私服姿の大和さんだった。

 シンプルなノースリーブの黒いシャツにジーパン。そして、腰に薄手のジャケットを巻いている。

 

「もしかして、涼さんに呼ばれていた演劇部の人って山科君だったんですか?」

「え、じゃあ、葛西さんが来ると言ってた演劇部の人って大和さん?」

 

 どうやら、僕達はお互いに誰が来るのかを知らなかったらしい。

 正直、大和さんとの関係は最低限にしておきたかったので、こういう事態になったのは少し都合が悪い。

 

 この前のライブの時は気持ちをなんとか誤魔化せたけど、あまり話す機会が増えればそれも難しくなるかもしれない。

 感情が表に出ないように気を付けながら話題を必死に探っていると、遠くから「二人とも!」と声が聞こえてきた。

 

「あ、ごめん。遅くなっちゃった」

 

 葛西さんが駆け足気味に到着。ひとまず、これで全員が揃ったことになる。

 

「もしかして、今日のメンバーってこの三人?」

「なんだか、見慣れたメンバーですね」

「うん。いつもは部活であれこれ話し合いとかしてるだけだし、この三人で遊びに行ってみたかったんだ」

「普通に言ってくれればよかったのに」

「ちょっとびっくりさせたかったんだよね」

 

 といって、僕と大和さんにウインクを飛ばしてくる。

 でも、大和さんが来るとなっていたら来ていなかったような気もするので、これは葛西さんなりの作戦だったのかもしれない。

 

「このメンバー、私は結構気に入ってるんだよね」

「確かに、気も合いますしね」

 

 演劇部での活動を思い返しても、この三人で行動している時間が一番長い。

 趣味も合うし、一緒にいて楽しいと思える人達だと思う。青蘭のみんなも好きだけど、こちらは趣味が合うという部分が非常に大きい。

 

「それで、今日はここに行くとか、そういうのは決めてたりするの?」

「全然」

「え?」

「そこはまあ、行き当たりばったりとか、その時に行きたい場所にしてみようかなって思ってたんだ」

「……葛西さんって、実は計画立てるの苦手だったりする?」

「涼さん、普段はしっかりしてる分、こういう時には弾けますから……」

 

 大和さんと顔を見合わせて苦笑する。

 

「でも、行先の候補だけはピックアップしておいたよ」

 

 今日の行き先として挙げられたのは、近所の遊園地、公園、街中の三つだった。

 

 遊園地──花咲川スマイル遊園地──は、最近ガールズバンドによって大掛かりなリニューアルをされた場所らしい。ふわキャラや水族館の訪問、他にも夏休みということもあって様々なイベントが催されている。

 公園では手作り雑貨の市が開かれているようで、お菓子やお茶もできるスペースが用意されているらしい。普段は屋内で活動することも多いので、久しぶりに外で遊んでみるのも楽しそうではある。

 街の方は、デパートでショッピングをしたりカラオケに行ったりするような、普通の高校生らしい感じの遊びになるような予定らしい。

 

「どれがいいかな?」

「どれも楽しそうだけど……」

「もちろん、他に何かあればそっちもいいと思うしね」

 

 三人で互いに顔を見合わせながら行先を考える。

 遊園地、公園、街……僕達にとって一番いいのは、たぶん……

 

 

 

 

 

「ねぇ、これいいと思わない!?」

「はい。あまり主張しすぎないので、気軽につけられるデザインだと思います」

 

 葛西さんがケースの中から小ぶりな十字架を取り出してこちらに見せてくる。心なしか飛び跳ねているように見えるのは、きっと葛西さんが興奮しているからだと思う。

 

 結局、僕達は街の方に出ることにした。

 明日から部活が本格的に再開するとなると体力が必要で、ただでさえ外に出て遊びまわる機会が多くない僕達にとっては大変ではないかという結論に至ったのだ。

 

「山科君、ちょっとこっち来てよ」

「うん」

「こうして……あ、似合う似合う!」

「本当?」

「私はかなりいいと思うよ。麻弥ちゃんはどう?」

「ジブンも似合うと思いますよ」

 

 まず訪れたのは、葛西さんがよく来るというお店。アクセ作りの材料になるようなパーツや工具が売られている店で、アクセ以外の種々の細工に使えるような道具も売っているらしい。

 

 葛西さんが普段作るのはネックレスやブレスレットで、これらは初心者でも簡単に作れるようなモノらしい。

 

「やっぱり、材料を加工するって部分が難しいから、チェーンとか飾りみたいな既製品を組み合わせて作るのが基本かなぁ」

「というか、家庭で金属の加工できる人とかいるの……?」

「まあ、凄い人なら工場を個人で所有してる人もいるけど、私には無理かな」

 

 どのようなモノづくりもそうだけど、“どの工程から始めるか”によって難易度が変化する。

 金属を用いたアクセ作りであれば、金属を掘り出し、精錬、使うサイズや形状へ加工、組み立て、完成というプロセスを経る。戻れば戻るほど難易度は高くなっていけれど、その分自由度が増えていく。

 これは世の中のほとんどの産業できっとそうだ。僕達は自分達でその工程を行う技術がなかったり非効率だから、お店に頼むのだ。

 

 料理だって、家具作りだって、きっとそういうモノだ。

 

「いつかは、指輪とかも作れるようになってみたいよね」

「涼さんなら、普通に作れるんじゃないでしょうか?」

「もし作れたら、二人にもプレゼントするよ」

「本当ですか? ありがとうございます」

 

 いつか、なんていう日を考えて少しだけ顔が曇る。

 

 葛西さんはきっと、僕と大和さんの関係がここで切れることをよく思っていない。

 いくら似た者同士だからといっても、どうしてそこまで考えてくれるのかは僕にも分からないけど、僕はこの二週間を精一杯楽しむことができればそれで充分だった。

 

 今、こうして隣に大和さんがいて、三人で笑っていられるこの時間があれば、僕はもうそれだけで満たされているはずなんだ。

 

「そうだ。二人もこういうの、作ってみない? 公演が終わってからでもいいからさ」

「確かに面白そうですし……山科君はどうですか?」

「僕も実は興味があって。自作出来たら、小道具作りの幅も広がるだろうし」

「衣装だけじゃなくて、アクセも自作出来たらいいですよね!」

 

 実際にいくつか手に取ってみる。

 パーツそれぞれに値段が決まっているわけだから、普通にアクセサリーを買うよりも、より細かく予算を設定することもできる。もちろん、デザインもそうだ。

 

「あ、これいいかも。ちょっと買ってきていい?」

「いいよ」

「ありがとー、すぐ戻ってくるから!」

 

 普段はしっかりしている葛西さんがスキップしながらレジへ向かっていくのを見送る。

 

 僕と大和さんは頑張ってこらえようとしていたけど流石に耐え切れず、少しだけ吹き出した。

 

 

 

 

 

 お店を出て一度昼食をはさんだ後は、楽器店に向かった。こちらは、大和さんの行きつけの場所。

 なんでも店主の趣味がいいらしくて、どれも最高のチョイスなのだという。

 

「これですよ! これ! あー、今日はこの子に逢えただけで満たされた気持ちっス……」

 

 店の姿が見えるなり、急に早足になって最後の方は走っていた大和さんは、とある機材の前でキスでもしそうな勢いで張り付いていた。

 

「ちょ、ちょっと麻弥ちゃん」

「あ……す、すみません……つい興奮してしまって……」

 

 とりあえず落ち着いたらしい大和さんは、申し訳なさそうに頭を下げた。

 幸い周囲に人はいなかったから特に問題にはなっていないと思うけど、正直アイドルがしていていい顔ではなかった。

 

「そんなにいいんですか? それ」

「聞きますか!?」

「あ、いや、やっぱりいいです……」

 

 ついていけそうな気がしなかったので、そっと遠慮しておく。

 嬉しそうだった表情が少しだけいじけたようなものに変わって、ちょっと肩を落とす大和さん。あからさまに残念そうな様子を見せているのが、なんだかおかしかった。

 

 楽器店というのに訪れた経験はいままでなかったけど、店内には楽器だけではなく、それ以外のいろいろな機材等も置かれている。

 今回の大和さんが見たかったのは、これらしい。

 

「楽器店って、楽器しかないんだと思ってました」

 

 いや、楽器にまつわる機材なのだから、ある意味では楽器なんだろうけど、なんていうかスピーカーとか、エフェクターとか、そういう感じのがあるようなイメージはなかったのだ。

 

 近くにあったキーボードに近づいてなんとなく鍵盤を押してみる。すると、思ったよりも大きな音が鳴って、思わず手を引っ込める。

 

「実際に触って、音を確認できるようにしてるのもあるんですよ」

 

 大和さんはそちらに少しだけ近づいてから、触れようとしていた手をぴたりと止めた。

 

「……大和さん?」

「あ、いえ、何でもないです」

 

 そのまま少しだけ離れたと思うと、すぐに「あ! あれは!」と叫んでそちらに走り出してしまう。

 

 僕は、一緒に取り残された葛西さんに視線を向ける。

 だけど、葛西さんは「どうしたんだろうね?」と苦笑した。

 

「なんか、今の大和さん変じゃなかった?」

「そう? いつもの麻弥ちゃんだと思うけど」

「……まあ、それならいいけど」

 

 僕より付き合いの長い葛西さんの方が信用できる。

 

「ってか、置いてかれてるよ。急ごう!」

「あ、うん」

 

 キーボードを一瞥してから、大和さんが走っていった方に向かう。

 

「…………」

 

 キーボードに触れようとする直前、僕の方を一瞬だけ見たような気がしたような気がしたのだけど、やはり葛西さんが言っていたように気のせいなのだと思うことにした。

 

 

 

 大和さんはそこから楽器店を出るまでの三時間、ひたすら機材の解説をしながら愛で続けることで費やしていた。

 

「すみません……ジブンばかり舞い上がってしまって……」

「いやいや、聞いてる私達も楽しかったよ。ね? 山科君」

「そうそう。だから、全然気にしなくても大丈夫ですよ」

 

 最近はライブや部活であまり遊んでいなかったこともあり、かなり興奮していたらしい。

 

「次は山科君の番だけど、行きたい場所とかある?」

「僕? あー、えっと……」

 

 二人は普段街の方に遊びに来るらしいけど、僕の方は全然だ。遊びに出るということがほとんどないので、こうしたときに案内できるような場所は特にない。

 

 いったいどこに行けばいいのだろうと考えていると、どこからともなく着信音が聞こえてきた。

 

「あ、ごめん」

 

 電話がかかってきたらしい葛西さんが「ちょっとごめん」とその場を離れる。葛西さんの「もしもし?」という声が聞こえなくなったところで、大和さんと少しだけ顔を見合わせた。

 

 大和さんと二人というのは、妙に居心地がよくない。

 嬉しいけど、過度に近づいてはいけないと理解しているから、どんな距離感でいればいいのかがよく分からない。

 

「あ、そういえば山科君」

「はい? どうしました?」

 

 大和さんが声をかけてきて、心臓が大きく鼓動する。

 

「実はですね、あの時頂いた……」

「ボックスフラワーですか?」

「あ、はい。みんなすごく喜んでたので、お礼が言いたくて」

「いや、そんな! 素人の手作りでも喜んでもらえたなら、良かったです」

 

 実際、直前になって偶然見つけることができたものだし、作り終わってからも少し改善点があったなと反省することもあったので、あんまり褒められると恥ずかしい。

 

「本当に素敵でした。あれ、初めてだったんですよね?」

「はい。偶然見かけたので、良い感じだったらお渡ししてみようかなと思って。ちょうど、メンバーの色に合う薔薇が揃ってたのもありましたから」

「また作ったりするんですか?」

「どうでしょう? 作っても渡すような機会もないですからね……」

 

 あれは、きっと最後の勇気だったと思う。

 大和さんへ気持ちを伝えるために用意した、いつか僕が手に入れうる希望。

 

 でも、その次はもう来ない。

 

「だから、次はあんまりないかもしれないですね」

 

 葛西さんの言っていた、相手のためにできること、というのを思い出した。

 大和さんが、僕に何かを求めるだろうか。大和さんが求めるものを、僕が用意することができるんだろうか。

 

 いくら考えても、そんなことは絶対に存在しないような気がした。

 

「大和さんも、ライブ凄かったですよ。誘ってもらえて本当に良かったと思いました」

「本当ですか? ありがとうございます」

 

 ずっと裏方向きの人で、舞台に立つのは似合わないと思っていた。

 でも、大和さんには舞台裏と同じくらい、舞台上が似合うのだ。どっちがいいとか向いているではなく、きっと両方とも大和さんの魅力を引き出すことができる場所なんだと思う。

 

「丸山さんは大和さんが言ってたみたいに凄くアイドルらしい可愛い人でしたし、白鷺さんもファンへのサービスとかトークが上手だなって思いました。氷川さんや若宮さんはすごく自分のスタイルを大事にしているなと思う場面が多かったですね。でも、それがアイドルとしての個性というか魅力というかになっているような感じで……」

 

 ライブが終わった後にも感想を口にしたけど、整理がついているのか今の方がちゃんと喋れていた。

 全員が重なることなく、それぞれのアイドルとしての個性を発揮しているのが、パスパレの魅力なんだろうと思った。

 

「大和さんも凄く楽しそうに演奏してて、なんだかこっちまで楽しくなってくるっていうか。元気がもらえるような、そんな風に感じました」

 

 大和さんについては、普段とのギャップとかが混じるので、他の人ほどあれこれと語るのが難しい。

 そこには、どうしても僕の内心が入り混じってしまうから。

 

 自分で話題の方向性が悪いことに気付いた僕は、急いで話の方向性を修正しにかかる。

 

「あ、えっと、話題は変わるんですけど、大和さんはいつ葛西さんに誘われてたんですか?」

「ジブンは休みに入る頃でしたね。山科君は?」

「僕は入る直前でしたね」

 

 タイミングは、そう違わなかったらしい。

 

「まさか、この三人で遊びに来ることになるとは思ってなかったです」

「ジブンもです。でも、こうして遊ぶのも楽しいですね」

「はい。羽丘の人と関わるのはなんとなく部活だけだと思っていたので、始まる前はこうなるなんて全然思ってもみませんでした」

 

 すべては、たった一ヵ月もない間の出来事だ。出会って好きになって諦めている今まで、僕の人生の中ではたった一か月に過ぎない短い出来事でしかない。

 だからきっと、この日々は大切な宝物としてしまい込めるような、小さな気持ちになっているはずだ。

 

 自分が納得できるようになるまで、何度だって言い聞かせ続ける。

 

「ジブンも、初めて山科君と会った時はこうなると思っていませんでした」

「全部、機材を触るのが好きだと分かってからですよね」

「ですね」

 

 大和さんはいろんな感情が入り混じったような顔をしていた。

 なんと形容したらいいのか分からないけど、何か憂いがあるような表情。

 

「どうかしました?」

「え?」

「あ、いや、なんか考え事か何かでもあるのかなって……」

 

 今日はたまに違和感を覚えていたけど、やはり何かあったのだろうか。

 でも、僕にはその違和感の正体がどうにも掴むことができない。

 

「い、いや、何でもないですよ。気にしないでください」

「大丈夫ならいいんですけど……何かあるなら、言ってくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 

 大和さんが何でもないと手を振ったところで、葛西さんが戻ってくる。

 

「おかえり」

「ただいま、ごめんね、遅くなっちゃって」

「全然大丈夫ですよ」

 

 葛西さんは少し息を整えると、僕の方を見た。

 

「それで、山科君は行きたいところ決めた?」

「あ、うん」

 

 とりあえず、頷いて外の方を指さした。

 

「葛西さんが言ってた、公園の市っていうのが気になっててさ。それに行ってみてもいいかな?」

「いいよ、行こう!」

「ずっと屋内でしたからね、ちょっと外に出てみましょうか」

 

 とりあえず二人の賛同を得ることができたので、外に出ることにする。

 

「…………」

「……どうかした、山科君?」

「え、ああ、いや、別に何でもないよ」

 

 楽器店の時もそうだけど、大和さんへの違和感は、やはり僕の勘違いではないのではないかと。

 そう思った。




大和さんの違和感とやらは、“説明されても分からない人には分からない”くらいの感じで書きました。
さて、違和感を覚えたでしょうか?


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8/16(木) 「軋む舞台」

 一週間ぶりの羽丘の部室はなんだか懐かしさを感じた。

 今日からまた部活が始まり、一週間ほどの練習の後に公演がある。小道具類の作成はほとんど済んでいるため、ここからはより舞台を良くしていく段階だ。

 

 部室に入ると、先に来ていた大和さんが視界に入る。なんだか少し眠そうで、昨日遊びに行った疲れが残っているのかもしれない。

 

「大和さん、おはようございます」

「……あ、山科君。おはようございます」

 

 大和さんが眠い目をこすりながら頭を下げた。

 今まで眠そうな大和さんなんて見たことがないから、なんだか新鮮な光景だ。

 

「眠そうですね?」

「はい……ちょっと、考え事してたら眠れなくて……」

「仮眠しますか? 練習まで時間ありますし、移動するときになったら起こしますよ?」

「でも……」

「前に同じことしてもらいましたから。その時のお礼ってだけですよ」

「なら、ちょっとだけ……」

「はい。どうぞ」

 

 電車で寝坊した時のことを思い出す。

 あの時は大和さんに寝かせてもらったので、今度は僕がお返しをする番だ。

 

 大和さんがその場で横になるので、すぐそばに置いてあったブランケットをかけて隣に座る。

 

「おやすみなさい」

「…………」

 

 完全に寝入ったらしい大和さんを一瞥して、部室の様子を眺める。

 みんな休み明けということもあって、少し気が緩んだような様子だ。でも、準備をする手が止まっているわけでもないから、練習が始まれば普通に動けるだろう。

 

 問題は、先ほど大和さんが語っていた“考え事”の方だ。

 夜眠れなくなるほどの悩みとは、いったい何だろう。今までそんな悩みがあるなんてそぶりもなかったから、多分ここ数日で起きたことなのだとは思う。

 

 何があったのかと尋ねたい気持ちもあるけれど、不用意に関われば僕自身が大和さんの問題になってしまうことだってある。

 

「最低限。最低限」

 

 誰にも聞こえないような小さな声で、そっと自分に言い聞かせる。

 急に離れれば不自然だけど、少しずつ距離を開ければそんなことはないはずだ。部活動の事務的な連絡以外、大和さんと会話する機会をなくす。そして、部活が終わったタイミングで自然消滅するように。

 

 そうすれば、僕の傷も、大和さんへの迷惑も、全ては問題なく終わるはずだ。

 

「…………」

 

 もう一度大和さんの顔を確認すると眼鏡をかけっぱなしだったのに気付いて、そっと手を伸ばす。起こさないように気を付けながら、そっと眼鏡をはずして傍に置いた。

 

 少し幼く見える寝顔が妙に可愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。小さくリズムをとるように胸元が動き、静かに息をする音が漏れる。

 ただ眠っているだけなのに、どうしてこうも安堵を感じてしまうのだろう。この寝顔を見ているだけで僕の胸が高鳴るのは、僕が今でも確かに自分の気持ちから決別できていない証拠だ。

 

 捨て去らなければいけないモノだと理解すればするほど、大和さんへの好意が確かな存在になっていく。

 

「抑えきれないなら……」

 

 葛西さんの言葉の通り、抑えきれないのなら相手のためにできることをすればいいのだろうか。

 

 僕が大和さんにできる一番のことは、アイドルとしての大和さんの邪魔にならないように離れること。だけど、それが僕にはできない。

 離れようとすればするほど、真綿で首を締めるように苦しくなる。

 

 他にできることなんて何一つありはしないというのに、それすらもできないなんて。

 

「……はぁ」

 

 考えを一度断ち切って、部室のみんなを眺める。

 

 今は、舞台の方に意識を向けておこう。

 せめてそうしておけば、大和さんへのこの気持ちを抑え込むことくらいはできると思うから。

 

 

 

 

 

 今回公演する『Binary star』は、不幸の最中にいる人達の物語だ。

 

 自分のミスで試合に負けた高校生。

 彼氏に振られてしまった大学生。

 リストラされた中年。

 いつまでも売れないシンガーソングライター。

 家族との折り合いがつかない主婦。

 母親が急病で倒れたOL。

 将来の生活が見えない美大生。

 

 人生の中で経験する多くの失敗や不幸を経験している人達が出会い、何かを見つけて再び歩みだす。

 

 ただギャグに走って不幸を笑い話に変えてしまうわけでもなく、シリアス一辺倒で重苦しく受け止めるだけでもない。辛い出来事を少しだけコミカルに、だけど正面から向き合う。

 そんな人達の姿を描いたのが、この物語だ。

 

「よし、オッケー」

 

 シーリングとピンスポのある上は、相変わらず熱っぽくて薄暗かった。

 

 舞台から一週間前ということもあって、体育館を一日中借りて練習する機会はかなり多めに用意してもらった。少なくとも、二日に一度は貸してもらえるように話が付いている、とのことだった。

 

 休み明け初日の今日は、さっそく舞台を使わせてもらえるようで、今日は午前中から体育館に移動しての通しからだった。

 夏の暑さはまだ収まるところを知らず、体育館の中は午前中だがそれなりの気温になっていた。今でさえこんなに暑いのだから、午後になる頃には溶けてしまいそうな気温になるだろう。

 

「……やっぱり熱いな」

 

 汗をぬぐいながら、シーリングとピンスポのコンセントを差して状態を確認する。

 前回触った時から位置等は変更していないので問題はないと思うけど、チェックはしておくに越したことはない。

 

(しも)の照明、問題ないよ』

(うえ)の方も大丈夫』

『了解。演者や音響も大丈夫か?』

『うん、下の方は準備できてると思う。(かみ)も……大丈夫そう』

『分かった。じゃあ、さっそくだけど始めようか。今回は休み明け最初だし、どんなことをするか思い出すようにやっていこう』

 

 大道具や小道具もほとんど出して、衣装まで着てもらった。状況は本番とほとんど変化はない。

 スイッチの調子を確認しながら、手元のスイッチを少し握りしめた。

 

「行くぞ!」

 

 と、高橋が合図をかけ、手を叩く音が聴こえる。

 

 そして、開演を告げるブザーの音が鳴り響き──

 

「……ん?」

『どうした?』

『麻弥ちゃん?』

 

 ブザーが鳴らない。

 みんなが呼びかけると、大和さんが『え……?』と声を漏らした。

 

『あ、は、はい!? すみません、今鳴らします!』

 

 大和さんの慌てた声が聞こえ、すぐにブザー音が鳴り響く。

 

 照明が切り替わり、ゆっくりと幕が開き、雑踏の音が小さく混じる。

 奥には花壇、中央にはベンチ、上手の端には自動販売機のパネル。舞台の初期配置図の通りだ。

 

 舞台袖から現れるのは、試合に負けた高校生を演じる柴田だ。

 自転車を押しながら下手入りした高校生は、そのまま下手の花壇の前に自転車を置いてベンチに座った。

 

あー……疲れた

 

 荷物をベンチに放り投げ、高校生が疲れた様子でベンチに座り込んだ。

 

もう動けねぇ。足ガクガク……

 

 台本とは少し違う台詞で、動きも最初の頃より少しだけ荒くなっている。崩し気味のユニフォームやこうした動きは、全て柴田が自ら少しずつ高校生について向き合い、具体的な演技の内容を考えた結果だ。

 他のみんなも少しずつ演技や台詞について考え、少しずつ改修が加えられている。

 

 ため息をつきながら高校生が黄昏ていると、上手から女子大生役の瀬田さんが駆け込んできた。

 

はぁ、はぁ……! きゃっ!

 

 この物語の中心になるのは、この男子高生と女子大生の二人だ。

 傷付きやすく感情的な二人は違う境遇でありながら、どこか親近感を覚えながら日が沈むまでの2時間を過ごす。

 

嘘! ヒール折れてる!? ……あー、もうサイアク

 

 最後まで奇跡はどこにもなく、試合は負けたままで高校生の本番に弱い性格はいつまでも治らないし、女子大生の彼氏は後輩に取られたままで帰ってくることもない。

 

あの、大丈夫ですか?

 

 でも、二人は最後にはまた前に向かって歩き出す。

 

 悩んで、感情をぶつけて、言葉を交わしたその後に、みんなが自分なりの答えを見つけてまた前に進み続けるのだ。

 

あ、ごめんなさい

いえ、別に

 

 明るさを少しだけ落とす。

 

 夕焼けの茜色はかなりの再現度になっており、色だけであればかなり本物に遜色ない出来になっているという自負があった。

 これもすべて、葛西さんや大和さんをはじめとしたみんなが、一切の妥協なくこだわり続けてきた結果だと思う。

 

 今回の舞台の演出で追及したのは“現実味”だ。

 あらゆる演出は、この体育館を公園にするためのものだ。夕方の色合いや雑踏が観客を舞台の中に引き込み、だからこそありふれた悩みがフィクションではなく共感できる悩みとして届く。

 

 ──だけど、

 

あ、手当てするんで、脱いでもらっても大丈夫ですか?

 

 彼らのように不幸の最中にいる僕からすると、どうして彼らがまた歩みだせているのかが分からなくて、現実味なんて感じようもなかった。

 

 

 

 

 

「……十回、か」

 

 通しでの練習が終わり、僕は台本を見返した。

 

 十回というのは、この通しの間に大和さんがミスを犯した回数だ。

 この舞台では音響関連の演出はあまり数が多くなく、この回数は大和さんが音響演出のほぼ全てでミスを犯していたことを意味している。

 

 ミス自体は最初のブザーの時が一番酷かったと言える程度の小さなもので、細かいタイミングにミスがあったという程度だ。

 少なくとも今までの大和さんはこんなミスをしていないので、今回の様子は明らかに異常だった。

 

「あの、大和さん」

『どうしました?』

 

 インカム越しに聞こえる大和さんの声はいつも通りのようにも聞こえ、ますます違和感を覚える。

 だって、大和さんなら今のミスのことは確実に気付いているはずで、それを気にしているのが普段の大和さんだからだ。

 

「えっと、さっきの通しなんですけど」

『あ、それ私も気になった』

『あの……もしかして、ジブン、何か間違えてましたか?』

「え?」

『え?』

 

 僕と葛西さんが声を上げる。

 大和さんが今のミスに気が付いていない?

 

『麻弥ちゃん、本当に気付いてないの?』

『は、はい』

 

 その声に嘘は混じっているようには聞こえなかった。大和さんは、本当に先ほどのミスに気が付いていないらしい。

 

『……山科君』

「えっと、どうしましょうか」

 

 大和さんの演出は、はっきり言って舞台に支障をきたすほどのミスではない。

 だけど、ここまでこだわってきた僕達としては、こんな些細な治せるミスを見逃すなんてありえなかった。

 

 今のまま練習したところで、練度が増すわけではない。

 大和さんの気持ちは、今ここにはないのだから。

 

『あの……二人とも』

「えっと、回想シーンに入るところ。タイミングは照明のフェードに合わせて雑踏のBGMをフェードする形になってましたよね?」

『はい』

「さっきの通しだと、大和さん、早めにカットアウトしてました」

『その場面の終わりのところも同じミスをしてたね』

『え、嘘……』

 

 高橋や新藤さんは触れていなかったし、おそらく演出としては些細なミスだろう。

 カットは急に叩き起こされるような感覚で、意識を明確に切り離すような感覚を覚える。それを考えると、緩やかに回想に入るタイミングで急に音を消されては困るのだ。

 

『ごめん、山科君。いったん切るね』

「え、ちょっと」

 

 葛西さんのマイクがオフにされたのか、音が急に途切れる。

 聞こえてくるのは、大和さんの方のマイクから拾われた音だけだ。

 

 僕は慌ててした方を見下ろすと、客席の方に高橋と新藤さんがいる。

 

「高橋! 新藤さん!」

 

 インカムを外しているらしい二人に声をかけ、舞台袖の方を指さした。

 

「なんか、大和さんの様子がおかしいみたいだから様子見てほしい! 僕も今から降りるから!」

「え、ちょっと山科!」

「頼むから!」

 

 返事も聞かずに扉を開けて階段を駆け下りる。

 

 インカムをつけっぱなしにして声を聞こえるようにしたけど、ピンスポのある上と一階を繋ぐ階段は壁に囲まれている場所なので、声があまり届かない。

 

 螺旋階段状で段数が少ないので、手すりを掴んで飛び降りるようにして下に降りていく。

 無心で着地しながら、ただただ急いで飛び降り続ける。

 

「せめて、これが……」

 

 僕が大和さんにできること。

 

 飛び降りながら、これしかないのではないかと思った。

 何かに悩んでいる大和さんを助けてあげることが、この気持ちを抑えてはなれることすらできない僕にできる唯一のことなんじゃないか?

 

 何をしたらいいのか、本当に僕にできるのか、もっと迷惑をかけてしまうのではないか。

 そんな考えが脳裏をよぎるけど、今はそんなこと気にしている暇がなかった。

 

 大和さんの悩みは、演出に影響が出るほどだったのだから。

 

「ッスト!」

 

 最後の階段を飛び降りてドアにしがみつく。

 ドアを開けようとノブに手をかけて、勢いよく開け放つと、インカムがようやく繋がったらしく、人の声が聞こえてきた。

 

『ジブンらしくないって、何ですか? 何がジブンらしいんですか!』

 

 走り出そうとしていた足が止まった。

 

『……すみません。しばらく一人にしてください』

 

 そして、マイクが切れる音がして大和さんがステージの方から飛び降りてきた。

 

「大和さん!」

「一人にしてください」

「いや、でも……」

「お願いですから!」

 

 引き留めようとしたが、足はまったく動かなかった。

 いざ本人の前に立つと何を言えばいいのか分からなくて、体育館を出ていく大和さんを見送ることしかできなかった。

 

「山科君!」

 

 舞台袖から三人が出てきて、呆然としている僕を見る。

 大和さんのことを聞こうとしたのだろうけど、僕の様子を見て何かを察したようで沈んだ表情をしていた。

 

「えっと、何があったの?」

 

 僕はあのやり取りを知らない。

 大和さんの声しか聞こえていなかったのだから。

 

「えっと、何から話したらいいのかな……」

「新藤はとりあえず落ち着け」

 

 高橋がおろおろする新藤さんを抑える。

 

「なんて言ったらいいんだろう。麻弥ちゃんの悩みを刺激しちゃったというか……」

「悩み?」

 

 ふと、先ほどの言葉を思い出す。

 

「自分らしさ、って話?」

「うん。ちょっとは聞いてたんだけど……」

 

 知っていただけに、追及しすぎてしまったのだろう。

 

 葛西さんは僕の方に近づいて、外の方を向かせた。

 

「ごめんけど、刺激した私達より山科君の方がいいと思うから、行ってくれないかな?」

「でも、一人にしてほしいって……」

 

 それに、僕が追いかけたところで今みたいに何も言えなくなるのがオチな気がした。

 何かを言いたいような気持はあるけれど、そもそも大和さんが何を悩んでいるのかすらよく分かっていないのだから。

 

「お願いだから行ってきて。ちょうどお昼休みだし、ご飯でも買ってね」

「いやでも、どこにいるかも分からないし……」

「大丈夫。校内からは出てないだろうし、練習の時間は過ぎてもいいから、お願い」

 

 あんまりにもお願いされるから、僕は大きく息を吐いた。

 

「あんまり、期待はしないでね」

「山科君なら完璧にやってくれると思っておくから」

 

 僕は、葛西さんの言葉を聞かなかったことにした。

 

 

 

 

 

 お昼を二人分買って、僕は大和さんの居場所を探し始めた。

 

 まずは下駄箱で大和さんの靴があるかを先に確認すると、外靴の方が置いてあったので探すのは屋内に絞る。

 一階から空き教室等を回りながら歩きながら探してみるけど、大和さんの姿はどこにもない。

 

「……どこにいるんだろう」

 

 こういう時、大和さんはどこに行くのだろう。

 

 歩きながら、一人になりたいときに行きたい場所を思い浮かべてみる。

 

「人が来なくて、暗くて、狭くて……」

 

 そこで、ふとある場所のことを思い出した。

 大和さんが偶然教えてくれた、一人になりたいときに行く場所。

 

「あそこか!」

 

 あの場所に行ったのはいつのことだろう。

 会ってまだ早い頃だった気がする。確か自動販売機のパネル等の大道具を探していた時だ。

 

 少し急ぎ気味に足を動かし、たどり着いたのは演劇部の大道具類がしまわれている倉庫。

 静かに中に入って、僅かに空いた通路を進んでいくと、やはりそこには人影があった。

 

「見つけましたよ」

 

 ゆっくりと大和さんに近づく。

 

「…………」

「……え、えっと、ご飯、食べました?」

 

 じっと僕の方を見つめる彼女に対してどういう表情をしたらいいのか分からなくて、僕はとりあえず苦笑いを浮かべながらパンの入ったビニール袋を見せた。




本格的に「binary star」の内容にも触れています。どんな物語か、ここからお楽しみにいただけますと幸いです。
舞台の演出もこういう風に形になるんだなぁ、と思っていただければいいんじゃないでしょうか。今回はリアル志向に走りましたが、違う演出を考えてもいいかもしれませんね。


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8/16(木) 「指切りと夕焼けと」

 大和さんがいた場所は、前に大和さんが落ち着くのだと教えてくれた場所だった。

 曖昧に笑っていると、大和さんが少しにらんだような調子で僕を見つめる。

 

「呼び戻しに来たんですか?」

「いや、そういうつもりは全然」

「ならどうして……」

「とりあえず、探しに来ただけといいますか」

 

 葛西さんに言われて探しに出て来たけど、結局大和さんを呼び戻す方法なんて何一つ思いついていない。むしろ、大和さんの悩みを解決する手段があるなら今すぐ教えてほしいくらいだった。

 

 何をどうすればいいのか分からなくて、僕はとりあえず大和さんの隣を指さした。

 

「隣、座ってもいいですか?」

「……どうぞ」

 

 少しだけ場所が空き、静かにその隣に座る。

 いつもなら心臓が高鳴っているのかもしれないけど、今は何を言えばいいのか分からない不安と困惑で胸がいっぱいだった。

 

「えっと、これ食べませんか?」

「……いただきます」

 

 大和さんの隣に座っていると、肩越しに熱を感じる。

 こんなに大和さんの体温を感じたとしても、僕は大和さんの気持ちの1%だって知ることはできない。

 

 袋からパンとジュースを取り出して大和さんに渡し、自分の分を取り出す。

 何を買って来たらいいか分からなかったので僕の趣味で選んだけれど、食べているようだから問題はなかったと思うことにした。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 会話もなく、ただ食べ続ける。

 大和さんと無言のまま隣にいる状態に居心地の悪さを感じたのは、これが初めてかもしれない。

 

 この空気に耐えきれなくて、少しだけ考え事をする。

 

 大和さんの悩みは“自分らしさ”というのに関係あるらしい。

 だけど、僕からすれば大和さんがなぜそんなことに悩んでいるのか、何一つ分からなかった。僕なんかよりもずっとすごくて、いろんなことを知っているのに、その上で何を悩む必要があるのだろう。

 

「…………」

「…………」

 

 大和さんが動きが止まったので「まだありますよ」と袋を差し出すと、二つ目のパンが大和さんの手に渡る。

 隣に座っているので大和さんの表情を見ることはできないけど、ほんの少しだけ空気が和らいだような気がした。

 

「あの」

 

 気が付けば、口が自然と動いていた。

 次に何を言うのか自分ですら理解できないまま、僕は自分の衝動に従った。

 

「一つ、聞いてもらっていいですか?」

「どうしました?」

 

 僕には大和さんの話なんてできはしない。大和さんの悩みは分からない。

 でも、似たような悩みを抱えている人を知っている。

 

「これは、僕の話なんですが」

「山科君の話ですか?」

「はい。友人とかではなく、僕の話です」

 

 自分でも何を言っているかあまり分かっていないけど、ただ口だけが動いていた。

 

 そうだ。僕には僕の話しかできない。

 “自分らしさ”だなんて、僕が一番知りたい事なのだから。

 

「僕は、何になるといいと思いますか?」

「……何に、なる?」

「はい。将来の夢です。僕の将来の夢は、何がいいと思いますか?」

 

 大和さんの呆然としたような反応が、見なくても分かった。

 

「僕は、ずっと好きなものがないんです。やりたい事とか、特技とか、誰かに自慢できる何かとか。僕が、僕として誇ることができるモノが、何一つないんです」

「いや、山科君は……」

「成績は平均以上です。運動だってそれなりにやれます。ピンスポも上手いと言われました。でも、所詮は少しできる程度なんですよ」

 

 誇れる何かっていうのは、そういうモノじゃないはずだ。クラスで一人くらいできるようなことでもなく、部活で少しやったくらいでできるようなことでもない。

 もっとすごくて、もっと上手で、もっともっと誰にも真似できない何か。

 

 僕にはそれがない。

 誰でもではなくても探せば簡単に見つかってしまう程度の、本当に大したことしかできやしないのが、僕だ。

 

「だから、柴田がすごく羨ましかったんです。僕ができないことを平然とやって、それを凄いことだと理解してて、将来の夢があって、それを目指して動いてて」

 

 瀬田さんだって、葛西さんだって、大和さんだってそうだ。

 その技術や知識は決して誰でも持っているような簡単なものなんかじゃない。

 

 僕が求める本当にすごい特技、技術だ。

 

「どうして好きなものが挙げられるんですか?」

「やま、し…………」

 

 僕が悪かったのか? 運が悪かったのか?

 そんなことを問いかけたところで、僕の現状は何一つ変わったりしない。

 

 僕は出会えなかった。

 それが全てで、それが現実だ。

 

「どうしてやりたいことがあるんですか?」

 

 羨ましくて羨ましくて。

 

 これは間違いなく嫉妬だ。

 みんなのことが羨ましくて、僕は自分という人間を信じられない。僕みたいなやつが何をやったところで凄いことなんて何もない。

 

「どうして自分から動けるんですか?」

 

 僕がこんなに羨んで悩んでいるというのに、どうして大和さんが、どうして持っている人が僕と同じことを口にするのだろうか。

 

 口に出せば出すほど体中が熱くなって。

 気付けば、僕は大和さんを壁に追い込むようにして覆いかぶさっていた。壁ドンだなんて揶揄する余裕すらない。

 

「どうしてそれだけ持ってるのに、何を悩んでいるんですか?」

 

 口にしながら自分の汚さに嫌悪感を抱いた。羨ましくて仕方ないという意地汚い自分に吐き気を感じた。自分のことを話しているうちに、いつの間にか大和さんのことを心配している余裕を失っている。

 

 いや、もしかすると、僕は初めから慰めることなんて考えてもいなかったのかもしれない。

 この衝動のままの言葉は、きっと大和さんを責めたかったから出てきたものに違いない。

 

「『ジブンらしさ』? それだけのものを持っているのに、なんで悩んでいるんですか? 機材に詳しくて、ドラムに詳しくて、舞台にも立てて…………。僕よりもずっと持ってて、僕よりずっと個性があるのに、どうして悩んでいるんですか?」

 

 両腕を壁に擦り付けて、首を垂れる。

 

「僕は、大和さんに悩んでいてほしくない。何があるのか分かりませんけど、それでも僕は……」

「山科君……」

 

 ふと、両の頬に熱を感じた。

 そして、顔が持ち上げられて、大和さんと視線が絡む。

 

「やっぱり、山科君は似ていますね」

「……似てる? 大和さんに?」

「はい」

 

 声は、僅かに潤んでいた。

 悲しいことに気が付いてしまったような、そんな顔。

 

「山科君を見ながら、気が付いたんです」

 

 吐息すらかかるほどの距離なのに、近づくことも離れることもできない。

 

「ジブンも山科君も、自分に自信がないんですね」

「……自分に、ですか?」

「はい」

 

 周りがすごいから、それと比べて自分の弱さを実感する。

 自分は大したことない人間だと思って、周りが羨ましくて仕方なくなる。

 

 つまり、大和さんが抱いていた悩みというのは、そういう方向のものだった。

 

「山科君は、機材が好きで裏方気質のフヘへと笑うアイドルは、アイドルに向いていると思いますか?」

「それって……」

「はい。ジブンは、アイドルに向いていないんだと思うんですよ」

 

 可愛らしさもなくて、ファンのことを考えられているわけでもなくて、ステージに映える魅力や性格でもない。

 

「山科君の感想を聞いて、改めて思ったんです。『ジブン、アイドルっぽくないな』と」

「そ、そんなこと……!」

 

 視線を逸らそうとした大和さんの両頬を押さえて、今度は僕が視線を合わせた。

 

 パスパレのライブを見て、僕は確信した。

 大和さんは裏方だけではなく、アイドルとしても素敵だったんだと。アイドルとしての大和さんだって、僕は確かに好きになったのだ。

 

 大和さんがアイドルに向いていないなんて、絶対にありえないことだった。

 

「それは違いますよ。違うと、思います」

 

 何がどう違うかなんて言葉にできないけど、でも確かに違うと思った。

 

「パスパレのみんなもそう言ってくれます。でも、どうしても信じられないんですよ」

「どうして!」

「みんながそんな嘘をつくわけではないとは思っても、どうしても優しい嘘なんじゃないかって思うんです。信じられないんです。確かな証拠がないと、ジブンがアイドルだって信じられないんですよ」

 

 目に見える、確かな証拠。

 

 それがあれば、大和さんはジブンのことを認められるのだろうか。

 大和さんをアイドルだと言ってくれる何かがあれば、信じてもらえるのだろうか。

 

「……じゃあ」

「え?」

「具体的にどんなものがあればアイドルである証拠だと思いますか? 大和さんにとって、アイドルってどんな人なんですか?」

 

 その証拠を用意することができたら、僕は自分の気持ちを諦めることができるだろうか。代償行為として成立しうるだろうか。

 

 いや、もう、これしか残っていない。これを逃したら、僕はもうきっと笑顔のまま大和さんへの気持ちを諦めることなんてできないだろう。

 そんな確信めいた気持ちで、僕の頭の中でいっぱいになった。

 

「ジブンにとっての、アイドル……」

「どんな人がアイドルなんですか? どうなれたら、大和さんはアイドルになれたと言えるんですか?」

「……ジブンにとって、アイドルというのは『自分を貫いて輝き、その姿で人に勇気を与える存在』です」

 

 胸の中に、大和さんの言葉を刻む。

 

「じゃあ、誰かがありのままの大和さんの姿に勇気をもらったら、大和さんはアイドルだって認められるんですよね?」

「そうですけど……」

 

 大和さんは「でも」と僅かに言葉を漏らした。

 

「こんなジブンに、誰が勇気をもらえるんでしょうか? アイドルっぽくない、こんなジブンを見て、誰が頑張ろうと思えるんでしょうか?」

「いますよ! きっと!」

 

 分からないけど、探してもないけど、でもきっといるはずだ。

 大和さんの姿に勇気をもらって、頑張ろうと思えた誰かがどこかにいるはずだ。

 

 大和さんがその誰かを知らないというのなら、僕がその誰かを見つけ出してみせよう。

 

「約束を、してくれませんか?」

「約束?」

「はい。来週の土曜日、本番の公演が終わった後。ここで、僕が証拠を出してみせます」

 

 小指を出しながら、一度だけ頷いた。

 

 期日は今日を入れて十日。大和さんと会う最後のタイミング。

 これで大和さんがアイドルとしての自分に自信を持つことができるようになったのなら、それはきっと想いを告げるよりも素敵なことだと思う。

 

 あの舞台上で楽しそうにドラムを叩く大和さんを、誰でもない大和さんに認めてほしい。

 

「……どうして」

「え?」

「どうして、そこまでしてくれるんですか?」

 

 大和さんのことが好きだからと言えたら、どれほど楽だろう。

 

 でも、それは今以上にアイドルとしての大和さんの邪魔になる。

 僕という存在は、大和さんの生活を脅かす脅威でしかないのだから。

 

「だって、僕よりも前にいる大和さんが悩んでいるなんて、おかしいじゃないですか」

 

 だから、僕は恋を隠す代わりに、今まで誰にも見せなかった嫉妬心を隠さないことにした。

 大和さんだけには、この気持ちを正直に伝えることにした。

 

「何もない僕なんかと、同じ悩みを口にしているだなんて許せないんです」

「山科君……」

「だから、大和さんには自信を持っててもらわなきゃ困るんです。柴田みたいに、瀬田さんみたいに、『ジブンは裏方もアイドルもできる凄い人なんだ』って、思ってもらわなきゃ困るんですよ」

 

 そうじゃなきゃ、舞台に立つことすらできない僕は、もっとみじめじゃないか。

 

「だから、僕のために、約束してください」

「……分かりました」

 

 大和さんの小指が僕の小指と絡む。

 僕達は、黙ってそれを上下させてから、

 

「指切った!」

 

 約束をした。

 

 

 

 

 

 あれから、僕達はその日の練習をさぼった。

 本当はまずいのだと理解はしていたけど、なんだかそんな気分だったのだ。

 

 昼から夕方の今まで、僕達は倉庫で二人並んで昼寝をして過ごした。

 

 高橋には『少し時間かかりそうだから、鍵は僕達がやっておく』とだけ連絡して、部員のみんなは先に帰ってもらい、二人でぼうっと茜色の空を眺めている。

 

「もう、夕方ですね」

「本当ですね」

 

 斜陽の差す倉庫で僕達は、並んで微睡んでいた。

 お互いに肩を貸し、二人で薄暗い部屋の中で同じ虚空を見つめている。

 

「涼しいですね」

「夕方ですから」

 

 窓も空いた部屋の中は、夕方の涼しい風が吹き込んでくる。

 日中こそ日が強く熱さを感じるものの、夕方の空気は涼しくて居心地がいい。

 

「そういえば、公演で暑いのどうしようかって、話してましたね」

「二時間も熱が籠る体育館で座りっぱなしって辛いですから」

「こんな風に涼しかったら苦労しないですけどね」

「本当ですね」

 

 日中の三十度を超えるような蒸し暑い体育館で二時間を過ごすなんて、新手の拷問みたいだった。今の夕方の風が吹くこんな涼しい環境なら、いくらでも舞台に集中できるだろう。

 

 …………。

 

 …………。

 

「ん?」

「え?」

 

 今、なんて言った?

 

 微睡む意識の中で呆然と交わされたやり取りが、徐々に鮮明な言葉になっていく。

 

「そうか! 公演時間だ!」

「あ、なるほど!」

 

 僕と大和さんは不意に立ち上がった。お互いに頷いて、急いで体育館に向かう。

 

 体育館は明日も練習があるため、照明設備がそのままにされている。

 僕と大和さんは体育館に駆け込むと、カーテンや窓を開け放ったまま照明をつけた。

 

「大和さん、これ!」

「行けそうな気がします!」

 

 体育館はステージが北側になるように設置されている。

 下手側、つまり西からはフットライトで用意した夕日ももちろんだが、()()()()()()()()()()()

 

「この気温なら、大丈夫じゃないですか?」

「はい。問題ないと思います」

 

 昼間が熱いのなら、昼間に公演する理由なんてどこにもない。

 むしろ、同じ時間帯にしてしまった方が都合がいいに決まっている。

 

 気温に関しては問題ない。

 

「ちなみに、ライトを使わない場合はどうなりますか?」

「ライトを使わないと、役者の顔が綺麗に見えないかもしれません」

「じゃあ、やっぱり明かりは必要ですね」

「カーテンをいくつかは閉めて、光量を調整する必要もあると思います」

 

 そして、自然光を使うこと。

 今の僕達には、実際の夕日を照明として取り込もうという考えがあった。

 

 客席側の明かりは落としておきたいので、客席に光が差し込まないようにカーテンを閉める必要があるだろう。西日が差すのが困るので、閉めるのは下手側のカーテンだけでも充分なはずだ。

 

「外の電灯はどうしましょう」

「むしろ、公園らしさも出るので、そのままでもいい気がします」

「……それもそうですね」

 

 二人で舞台を確認しながら明かりの色を調整する。

 

「もう一度、照明の調整をかけないといけないですね」

「でも、やる価値は充分ありますし、まだ一週間あります」

「当日の天気って晴れですか?」

「はい、その予定ですね」

「分かりました」

 

 僕はすぐにスマホを出して、高橋にメッセージを送った。

 

 すると、すぐに高橋の方から電話がかかってきた。

 

『おい、山科!』

「最高の案だと思わない?」

『戻ってこないと思ったら、唐突になんだこれ! お前、何むちゃくちゃなこと言ってんだ!?』

 

 高橋の懸念はもっともだった。

 普通、舞台は外の光が入らないように完全に仕切ってやるものであって、自然光を使って舞台の照明にしようなんてことは普通ない。

 

「やったらわかる! 明日、明日の練習で夕方にやらせてほしい。絶対に行けると保証するから」

 

 高橋に話しながら、僕の頭の中では演出プランの練り直しが起きていた。

 

 まず、回想シーンではカーテンを閉める役目の人が必要になる。大道具の移動はなく、黒子を必要としない舞台であるため、今回は裏方のみんなにこのカーテンを開け閉めする役を頼んでおきたい。

 そして、自然光を使うのでより違和感のない色に変更しないといけないし、その上で役者の顔が綺麗に照らせるように調整をかけないといけない。

 

『……本当に行けるんだろうな?』

「今、この目で確かめてるから間違いないと思うよ」

『間に合うのか?』

「間に合わせられるよ」

 

 余裕を持って舞台を作ってきたおかげで、その調整をするだけの時間は存在している。

 後一週間もあれば、確実にこの演出は形にすることができるはずだ。

 

「公演の案内もまだ日付しか出してなかったよね? 公演時間は、作中の日没時間と現実の日没時間を合わせて逆算しよう」

『何時だよ、それ……』

 

 スマホを出して、日没時間を調べる。

 本公演の日没時間は18時20分頃。これなら、19時までには舞台を終えることができるだろう。充分、学校で活動することができる時間帯だ。

 

「行けると思うんだ」

『……山科の言うことだから信じるよ。明日、この目で見て決めるから』

「絶対に頷かせるから」

 

 スポットライトの前に立ちながら、舞台上で明かりの確認をしてくれている大和さんを見下ろす。

 この色なら、この景色なら、絶対にみんなを頷かせることができるはずだ。

 

「大和さん!」

「何ですか?」

「明日、実際にやるって話になりました!」

「分かりました!」

 

 大和さんとの約束。

 新しい演出。

 

 十日の内にやらなければならないことは数多くあるが、不思議と失敗する気はしなかった。

 

「……よし」

 

 僕は頬を叩いて気合を入れると、ライトの電源を切って階段を駆け下りた。




約束と問題の解決。二つの内容を載せた感じになりました。
これで、演劇部の公演に立ちふさがっていた障害は現状全て解決したことになるのでしょうか。新しい仕事が増えてますけどね。


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8/17(金) 「始まりを告げる赤」

 昨日の、現実の夕焼けを演出に取り込むという案を考えてから翌日。

 午前から昼休みまでのほとんどを、みんなへの説明に費やした。もちろん反対意見は出て来たけど、青蘭のみんなは僕が説得し、羽丘の人は大和さんが説得をしてくれたおかげもあって、何とか今日の実験だけはさせてもらえることになった。

 

 昼休みが終わり、午後は実験する前に細かい調整について打ち合わせをする予定に変更。

 昨日思いついた内容はあくまでも構想段階に過ぎないから、午後の内に詳細を詰めてみんなとすり合わせをする必要がある。

 

「予定では、カーテンは上手の一部……えっと、3つ目だよね?」

「うん」

 

 葛西さんの問いに頷く。

 現状だと、上手側のカーテンを開けてもらうような形になるだろう。

 

 僕が葛西さんに対する説明をし、大和さんが上でカーテンを引いてもらう役の人へ説明をしている。

 

「下手の方は西で夕日が差してくるから、眩しいかなと」

「なるほどね」

 

 上手だけ、と葛西さんがメモしたところで「いや、別に開けてもいいぞ」と声が聞こえてきた。

 振り返ると、近くにいた高橋がこちらを見ていた。

 

「山科とか葛西さんは裏方専門だから実感ないかもしれないけど、舞台の上ってかなり眩しいから夕日がさしててもそんなに変わらないと思うぞ」

「そうなの?」

「さ、さあ」

 

 思わず葛西さんに確認を取ってしまったけど、確かに僕達は舞台に立ったことなんてほぼない。

 少なくとも僕が舞台に立った時は、セリフを間違えずにいえるかを気にしてばかりで、照明がどうだったかなんて気にする余裕もなかった。

 

(した)……観客の方を向けばまだ眩しくないけど、普通はそこ見てるわけじゃないし。そもそも夕日は斜めから差すんだから、気にしなくてもいい」

「なるほど」

 

 小さく頷いて下手側のカーテンも開けるように変更する。

 

「じゃあ、(かみ)(しも)を含めれば二人用意すればいいかな?」

「と思う」

 

 ある程度開けることも考えていたけれど、舞台以外に光が差し込まないためには開けるカーテンの数を増やすわけにもいかないという話になっていた。

 現在は(かみ)(しも)それぞれで、舞台に光が差すようなカーテンを一つ開けることで話が進んでいる。

 

 そして、日没を確認してからカーテンを少しずつ開けていく。

 夕方は光量が多くて客席にまで光が入るが、日没後は逆に限界まで照明を絞るので外の電灯等の光を取り込んで顔や動きがちゃんと見えるようにしておく必要がある。

 

「色の方はどうする?」

「色を足すか、シーリングを落とすかだけど……」

「前方の光が増えてるし、シーリング落とす方がいいと思うな」

「そう? じゃあ、そうしようか」

 

 メモを追加する。

 シーリングには色を入れていなかったので、これで多少は色味のバランスを調整することができると思う。

 

「それで、実際にどれくらい落とすか確認したいから、(うえ)に行っても大丈夫?」

「うん、いいよ」

 

 その言葉に頷き、台本等を持って立ち上がる。

 話している高橋と新藤さんに「シーリングの調整に行く」とジェスチャーで合図だけ送ってから、その場を離れた。

 

 体育館中央から階段の方に向かいながら周囲を見渡すと、舞台上やカーテンの方、いろんな場所でみんなが練習している姿が見える。

 今日の提案で新たな手間が増えたと言うのに、こうしてみんなが全力で手を貸してくれるのが本当にうれしかった。この初めての合同公演を成功させるためには何でもするという熱を感じる。

 

「みんなが了承してくれて良かったね」

 

 扉を開けて階段の方に移動したところで、葛西さんが僕の思考を読んだかのようにそう呟いた。

 

「本当にね。一人でも反対してたら、どうしようと思ってたから」

「私はそんなことならないと思ってたけどね」

「え?」

 

 演出が上手くいくと確信していた僕ですら、みんなに納得してもらうのは難しいと思っていたのに。葛西さんの口ぶりは、その悩みが杞憂であると言うかのようだった。

 

「まだ会って一ヵ月も経ってないのに一つの部活みたいに頑張ってるの、なんだか不思議だと思わない?」

「普通だったら、最低限の関係で止まってそうなのにね」

 

 違う学校というだけでなく、男子校と女子高という二つなのだから、対立が起きてもおかしくはなかった。

 でも、現に僕達はこうして一つになって頑張れている。

 

「私は、なんとなく分かるよ」

「そうなの?」

「うん。私達と、部長達と、柴田君達がいたから」

 

 “達”という言葉の範囲は聞くまでもなく分かった。

 僕と大和さんと葛西さん、高橋と新藤さん、柴田と瀬田さんだ。

 

「始まった時から、裏方も役者も監督も。それぞれの中心になってる人が一緒に頑張ってきたんだもの。周りだって影響受けるよ」

 

 僕達がそれぞれ相手と一緒に活動してきて、みんなもそれを見て一緒にやってきてくれた。

 binary starという一つの舞台を完成させるという目標を全員が見据え、僕達のようにお互いの生徒が手を取り合えたから。

 

 だからこそ、僕達はこうしてやっていられるのだと。

 

「今日の演出についても反対意見だって、確認くらいの話だったと思うよ。みんな、ずっと山科君や麻弥ちゃんの仕事を見てきたんだもの」

「そうなの、かな」

「うん。二人がみんなに信頼されてたから、こうしてみんなが手伝ってくれているんだよ」

 

 その言葉は、僕達三人がやってきたことが何一つ無駄じゃなかったと証明してくれているようだった。

 

「私は、どっちかというと演出が上手くいくかの方がよっぽど不安かな」

 

 それはもっともだった。

 

 自然光を取り入れた演出なんて今までやったことないから、本当に上手くいく保証なんてどこにもない。そもそも当日が本当に夕焼けになるのかすらも分からないのだから、本当に賭けをするような話だと思う。

 

「天気に関しては賭けの部分も大きいけど、ダメなら通常通りにカーテンを全部閉めて公演すればいい。だから、せめて綺麗な夕焼けが見えた時には、この演出をさせてほしいと思う」

 

 実際、気温の問題は時間で解決する。

 夕焼けの光を本当に取り込むかは置いといても、夕方に公演するという選択肢は、暑い体育館での公演に対する確実な対策だ。

 

「……まあ、確かにそうだね。これをしたところで、今までの調整が無駄になるわけではないし」

「そうそう」

 

 葛西さんの同意が得られたところで、安堵の息を漏らした。

 もとより技術面に関しての問題は何も危惧していない。葛西さんなら問題なく調整してくれると確信していた。

 

「とりあえず一度、やるかやらないかはそれから考えても遅くないもんね」

「ありがとう」

「いいよいいよ。今までやったことないから、私もちょっと楽しみだし」

 

 今日の天気は晴れで、空は綺麗な茜色に染まりつつある。条件としてはこれ以上ない。

 

「みんなにも説明したし、大丈夫だよね?」

「多分ね」

「今回は色の調子を確認したいだけだから、声出して指示も入れるつもりだけど……」

「まあ、インカムでも飛ばせるから」

 

 本番でもない上に初めての試みだから、それくらいは問題ないだろう。

 自然を相手にする以上、不確実な要素が増えてしまうのは重々承知しているけど、それでもやってみたかった。

 

「……それにしても」

「ん?」

 

 葛西さんが「話は変わるけど」と言いたげに、声のトーンを変えた。

 

「昨日、何があったの?」

「え?」

「だって、麻弥ちゃんが飛び出してから、二人とも最後まで帰ってこなかったし。かと思ったら、こんな演出を提案してくるし」

 

 そういえば、その件に関しては大和さんが「もう大丈夫です」といつも通りな調子で終わらせていた。

 午前も昼間も演出の説明の方が大ごとだったのもあって、昨日の大和さんの事情について説明をしているような時間はどこにもなかった。 

 

「みんなが戸惑ってるのって、そっちもあると思う」

「そう、なんだ」

 

 そんなの考えるまでもない事だった。

 大和さんがああやって取り乱すことなんてめったにあることではないだろう。出会って一か月の僕ですら理解しているというのに、羽丘の人達がそれを理解していないわけがなかった。

 

「……本当に大丈夫なの?」

「うん、大丈夫だと思う」

 

 昨日、誰も入る余地のない場所で、僕達は二人だけの約束を交わした。

 アイドルとしての自分に自信が持てない大和さんのために、大和さんに勇気をもらった誰かを連れて来なければならない。

 

 今の夕焼けの演出もそうだけど、僕はその誰かを探す必要もある。

 

「中身は教えてくれない感じ?」

「うーん……」

 

 少しだけ考える。

 

 葛西さんは大和さんの悩みについても聞いていたというし、僕もそれなりに話を聞いてもらっている。全員に話すことはしないとしても、葛西さんだけには話しておいてもいい気はする。

 

「もしかして、告白しちゃったとか?」

「それだけはないよ」

 

 この気持ちは知られないままにする。

 大和さんにとっての僕は、同じ趣味を持った周囲へのコンプレックスを抱えている人。それ以上になる気なんて、どこにもない。

 

「他に何か言いにくいことがある? あんまり嫌だったら、無理に聞いたりしないけど」

「いや、そういうわけじゃないけど……」

 

 今の僕の話すかどうかという問題の原因は、そんな難しいものではない。

 

 ただ、話すかどうかを考え──

 

「やっぱり、黙っておくよ」

「どうして?」

 

 ──言わないことを選んだ。

 

 相談したら葛西さんは手伝ってくれるだろうけど、一人でやりたいと思っている、とか。葛西さんには大和さんへの好意しか話していないから、この嫉妬心の方まで知られるのは憚られる、とか。

 そういうのは、些末な理由だった。

 

 僕はにやりと口元を緩め、人差し指を口元に当てた。

 

「二人だけの秘密って、いいと思わない?」

 

 ようやく手に入れたこの特別を、僕は思いの外嬉しく感じていたらしかった。

 

 

 

 

 

 空が赤く染まるのを見ながら、僕は時計を確認した。

 時刻は間もなく公演予定時間だ。

 

「みんな、準備はどう?」

(しも)の照明は準備できてるよ』

『音響も大丈夫です』

『二階の方もオッケー!』

『役者の方も問題なさそう』

 

 全員の返事を確認したところで、小さく頷いた。

 今回は僕と大和さんが、高橋と新藤さんの代わりに指揮を執ることになっていた。細かい演出の指示をするには僕達がした方がいいだろう、ということらしかった。

 

『では、始めましょう』

 

 大和さんの声が聞こえ、僕はシーリングのスイッチを握りしめる。

 インカム越しに、全員が構えるのを感じた。

 

『3、2、1』

 

 大和さんのカウントダウンの後、体育館にブザー音が響いた。

 

 ゆっくりと暗幕が開き、舞台が姿を現す。

 暗幕が所定の位置まで開いたところで、僕と葛西さんは照明を上げていく。同時に、車の音や雑踏の音が少し大きく鳴り響き、その音に混ぜるようにしてカーテンが静かに開く。

 

 体育館中に光が差し、闇に慣れた目が眩む。一瞬目をつぶりながらシーリングを予定された位置まで上げ、ゆっくりと目を開く。

 白く塗りつぶされた視界が中央から赤く染まっていく。

 

「──っ!」

『あ──』

 

 インカムから聞こえた声が誰のものだったのかを気にする余裕はなかった。はっきりと映る眼下の光景を確かめながら、僕の心臓はこれ以上ないくらいに高鳴っていた。

 後方の壁を仄かに照らすオレンジが見え、熱を持っていながらもどこか涼しい風が首元を撫でる。

 

 今まで作ってきた赤にも自信はあった。

 だけど、今となってはまだまだだったと思わざるを得なかった。

 

「できた……」

 

 それは、間違いなく夕日の差す公園の姿だった。

 花壇やベンチが赤い光に染まり、普段とは違った表情を見せる。きっと、僕が再現できる中で最も夕方に近い夕方の景色だったと思う。

 

 バクバクと、抑えずとも分かる胸の鼓動の音が頭の中で響き、どこか呆然としたような意識の中で柵に体重をかけた。

 

あー……疲れた

 

 高校生が下手から入り、重苦しい感情を吐き出すような声が漏れる。

 疲労をにじませながら荷物を置いた高校生は、そのままベンチに深く座り込んだ。

 

もう動けねぇ。足ガクガク……

 

 震えた声からは、抑えていた感情が確かににじんでいた。

 

 彼は試合に負けた。もう少しだった。もう一歩進めていれば、そのラケットは届いたかもしれなかった。しかし、あれは確かに自分の限界で全力だったという確信と、いつもなら届いていたはずだという後悔があった。

 

 頬とユニフォームを赤く染めながら、静かに拳を握りしめる。

 この赤が数時間前の色に戻ることはない。どれだけ思い悩んだとしても、それだけは確かなことだった。

 

ふぅ……

 

 昨日の演技と同じはずなのに、妙に胸を締め付けるような感覚がした。夕日が、一日の終わりを告げる斜陽が、彼がもう戻ることのできない場所にいることを伝えていた。

 たとえ僕が、本公演の観客と同じように高校生がどんな信条でいるのかを知らなかったとしても、彼が何かよくないことがあったのだろうと言うことは理解できる気がした。

 

 まだ始まって3分も経っていないというのに、僕の意識は既に舞台の中に引き込まれていた。

 

はぁ、はぁ……! きゃっ!

 

 やがて、女子大生が上手から駆け込んできた。

 ヒールを軽快に鳴らしていた彼女は、やがてバランスを崩して転ぶ。

 

嘘! ヒール折れてる!? ……あー、もうサイアク

 

 彼女は捨てられた。

 彼氏が後輩と会っているところを目撃し、それに詰め寄っていくだけの胆力があった。だが、彼女は選ばれなかった。何が悪かったのかなんて今となっては振り返るだけ無駄で、彼はもう帰ってくることはない。

 

 疑問と苛立ちを漏らしながら、荒れる感情を押さえつけるように深く深呼吸する。

 

あの、大丈夫ですか?

 

 高校生が様子を窺うように女子大生に近づいていく。

 万有引力みたいに距離が近づいて、くるくると話は回り始める。連星(binary star)の名の通り、止まったままの二人は互いの引力で再び動きだす。

 

 太陽は間もなく沈み、夜が始まる。

 眩い光に隠れてしまう光でも、一つだけでは足りない光でも、誰かと一緒ならまた地上まで届く光になるから。

 

 夕方は一日の終わりを告げる時間だ。

 彼らの失敗や不幸にあふれる一日はこうして終わった。今から始まるのは、そんな彼らも輝ける優しい夜だ。

 

 僕達が作り出した夕焼けの赤は、彼らの始まりを告げる光だ。

 

 

 

 

 

 高校生と女子大生が、それぞれ反対方向に歩んでいく。

 互いに少し手を振りながら、だけど前へ向かう足は止まることがない。

 

 二人の姿が舞台上から消えたのを確認したところで、ゆっくりと暗幕が閉じていく。辺りは真っ暗だが、徐々に消えていく光で目を慣らしていた僕達にとって、それは完全な暗闇ではなかった。

 夜の明かりが体育館を照らしている。

 

「……はぁ」

 

 言葉にすることができない余韻に浸りながら、僕は静かに息を吐きだした。

 舞台中ずっと呼吸を忘れていたかのような感覚に陥っている。

 

「みんな、お疲れ様」

『あ、ああ』

『お疲れ様』

 

 絶え間なく続いていた照明の微調整に追われていたので、僕や葛西さん、カーテンを閉める役を任せていた二人は、かなり疲弊していた。

 いや、それ以外のみんなだって舞台に全神経を集中させていたのだから、かなり消耗していると思う。

 

「高橋」

『なんだ?』

「行けるって、言ったでしょう?」

 

 いつになく自信にあふれた物言いだと思った。

 

『……そうだな。当日晴れたら、これをやろうか』

『うん。気温も涼しくて、かなり見やすかったしね。照明が少なめで気温が上がりにくかったのもあるかも』

 

 二人のその言葉をきっかけに、インカムの向こうから良かったという声が聞こえてくる。

 認められるかどうかに関しては、このイヤホンから聞こえてくる声が何よりの証明だった。

 

『公演日時は、この予定に合わせて始めよう。時間厳守になるから大変だろうけど、みんなよろしく』

 

 高橋が客席で見ていたみんなに向かって話している。

 無事に意見が通ったことに安心して、僕はその場に座り込んだ。

 

「…………後は」

 

 本公演までの課題は一つクリアした。後は、本番までひたすらブラッシュアップしていくしかない。

 そして、僕に残されたのは大和さんとの約束だけとなった。これに関しては手だてが何もないのでどうしようもないけれど、何とかして探すしかない。

 

 後一週間。

 

 それは約束を果たすまでのタイムリミットでもあり、僕の気持ちを完全に捨て去るまでの猶予だ。




前話で大和さんと約束をして、その後に思いついた新しい演出の話です。
演出については話が付いたので、ここから約束を果たすための人探しが始まります。ジブン、アイディアル的に言えばファンレターを用意するパートですね。

舞台の方も同じシーンばかりが出て他のシーンが登場しないのであれなんですが、話の設定等については少しずつ明かしている感じでいます。はよ舞台の続きも書きたいところです。

プロの舞台を見に行ったり、白鷺さんに釘刺されたり、ボックスフラワーの贈り物を作ってライブ見に行ったり、三人で遊びに行ったり。
いろんなイベントがありましたが、その辺のことを踏まえながらいい感じにまとめられればと思います。


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8/18(土) 「灯台の下にある夢」

 それは、嵐のようにやって来た。

 

「えっと、今日はどんな……」

「え? 山科君とお話したかっただけだよ」

 

 何でもないようにそう言われても、何の話題があるのか分からない。

 初めて会った時にも思ったけど、彼女の考えは全く読めない。何を考えて行動しているのを理解しようとすること自体、そもそもの間違いなのかもしれないとさえ思えてくる。

 

 目の前から視線を外すと、食堂では少し離れた場所で数人がこちらの方を窺っているのが見える。大和さんと昼食を食べる時と同じような構図なので、正直助けに来ないのだろうと思う。

 一人で乗り切るしかないんだと諦めると、楽し気に僕の方を見つめている彼女──氷川日菜さん──に曖昧な笑みを向けた。

 

「話っていったいどんな……」

 

 恐る恐る問いかけると、氷川さんは「えっとねー」と前置きをして、首を傾げた。

 

「山科君ってさー、夢ってどういうものだと思う?」

 

 

 

 

 

 氷川さんと会ったのは、本当に偶然だった。

 

 今日は体育館を運動部が使うとのことで、体育館で通しもできない日だった。そのため、それぞれが部室や外で、それぞれ練習や準備に取り掛かるというのが今日の予定。

 役者はもちろん舞台の練習をするわけだけど、裏方の方は既に仕事が完了しているわけで作るものは特にない。かといって仕事しないのもどうかという話をした結果、本番前に一度くらいは衣装を洗っておいた方がいいだろうということになった。

 

「これで全部だよね?」

「うん、これで終わりだよ」

 

 羽丘の顧問の先生に掛け合ったところ、家庭科室にある洗濯機を使わせてもらえた。とりあえず、フル稼働で全ての衣装を洗濯機に叩き込み、後は洗濯し終わるのを待つだけ。

 洗濯を手伝ってくれた子と話しながら部室に戻ろうとしたところで、職員室の方から見覚えのある人が「失礼しました~」と出てきた。

 

「あの人は……」

「……ん? あ!」

 

 元気よく職員室から飛び出してきた彼女は帰ろうと下駄箱の方に目を向けたところで、僕の姿に気が付いた。少しだけ嬉しそうだった顔に笑みが差し、黄色い瞳がきらきらと輝いた。

 彼女は、僕達が棒立ちになっている間に一瞬で距離を詰め、僕の前に立った。

 

「山科君だよね!?」

「あ、はい……」

 

 白鷺さんの時もそうだったけど、パスパレの人達を前にすると「逃げられない」という気持ちでいっぱいになる。蛇に睨まれた蛙、みたいな。口調も思わず敬語になってしまうし。

 よく分からないけど、オーラみたいなのに呑まれていたりするんだろうか。

 

「ねぇねぇ、今から時間ある?」

「えっと、今から昼休みだから、大丈夫ですけど……」

 

 洗濯が終わったら昼休みに入ろうという話にはなっていたので、別に問題はない。少なくとも昼休みの間なら時間はある。

 

 そう答えると、氷川さんは僕の手を握った。

 

「じゃあ、ご飯食べながらお話ししよ!」

「え?」

 

 抵抗する暇もなく、僕は一緒に帰っていた子を置いて食堂へと連行されてしまっていた。

 

 

 

 

 

 気付いたら、あっという間にご飯を買って席に座っていた。反論を挟む余裕すらなかったし、メニューもあっという間に決められていた。

 

 そして、何てことないように最初の質問をぶつけてきた。

 

「夢について、ですか?」

「うん」

 

 それは二週間ほど、大和さんへの気持ちについて考えるのが手いっぱいで考えるのを忘れていた問題だった。

 

 僕には夢がない。

 夢にするほどの何かが僕にはなくて、だから僕にはなりたい未来がない。

 

「どうして、いきなりそんなことを?」

 

 柴田は、裏方のプロになれと言う。僕には能力があるのだと。

 でも、僕は僕自身がそれを信じることができない。僕が持ち得る裏方としての技術は、所詮は一年程度のもの。柴田がお世辞で人を褒めるタイプじゃないことも理解しているけど、僕はどうしてもそれを信じることができない。

 

 前にプロの舞台を見学させてもらった時だって、劇団の原田さんにプロを目指さないかと誘われた。

 僕は、その誘いに未だ答えを見つけることができていない。原田さんが僕にあると言うだけの熱量が、本当に僕の中にあるのか自信がなかった。

 

 今の僕にとっては、大和さんとの約束の方が大切だ。

 将来のことは今でなくても、この夏が終わった後でもいい。だけど、大和さんとの関係や約束、この気持ちは今でなければいけないのだから。

 

「麻弥ちゃんは、山科君のこと『ジブンに似てる』って言ってたけど、あたしはそう思わないんだよね」

「確か、前にもそう言ってましたね」

 

 表面的には似ているだろう。でも、核心的な方向へと進むたびに僕と大和さんの差は歴然となる。だから、僕達は何も似ていない。

 氷川さんはその違いが分かるのだろう。前にも一目見て僕と大和さんを「違う」と言ったのだから。

 

 白鷺さんは僕の嘘を全て見破って、巧みな芝居で僕の核心を引きずり出してきた。

 だけど、氷川さんはそうじゃなくて。簡単な計算問題を解くみたいに、当然のように僕の核心を抉り出してくる。

 

「それに麻弥ちゃん、この前のライブの後からまた何か考えてるっぽかったし。たぶん、山科君が原因なんだろうなって」

「それは……」

 

 解決した話題を掘り返されたような気持になったが、氷川さんが知らないのも無理はない。約束をしてから大和さんは演劇部にしか来ていないから、氷川さんが今の大和さんの様子を知らないのは当然だろう。

 

 僕がライブに行った時の感想をきっかけにしていたので、その指摘は間違いじゃない。

 

「その件は、とりあえず大丈夫だと思います」

「え、何かあったの?」

「話すと長くなるので……」

 

 葛西さんにすら話していない約束のことを氷川さんに話すのは嫌なので、すぐに「それで」と口を挟ませないように言葉を継いだ。

 

「夢について、でしたよね。僕と大和さんが似てないことと、どういう関係が?」

 

 嫌な空気を感じて引いてくれる性格ではないと思っていたけど、誘導には乗ってくれたようで「えっと」と話の流れに乗ってくれた。

 

「前に、麻弥ちゃんが『アイドルとしての夢がない。アイドルなのかも分からない』って言っててさ」

 

 それは、約束の時に僕も聞いた内容だった。

 周りがアイドルとして活躍している中で、自分は今までと何一つ変わっていないのだと。今の自分は、アイドルではなく裏方のまま舞台に立っているのではないかと。

 

「麻弥ちゃんは夢が分からないって言ってたけど、なんかあたしとは違う感じだし。でもさ」

 

 目が合った。

 

「山科君は分かりそうだなって。夢ないみたいだし」

「え?」

「どうしたの? 夢、ないんだよね?」

「そんなこと言いましたっけ?」

「ううん。でも、山科君見た感じなさそうだったし」

 

 あっさりと言われた言葉に、思わず顔が歪む。

 やっぱり、パスパレの人達は苦手だ。どうしたらいいか分からない。

 

「あるの?」

「……ない、です」

 

 しぶしぶ頷く。

 あるなんて嘘をついたってしょうがないのは事実だ。

 

「大和さんは、夢を持つ前の段階にいるんだと思います」

「前の段階?」

「そもそも大和さんは自分がアイドルとして不適だから、アイドルにならなきゃって思ってる」

 

 アイドルになりたいと思っている人が、アイドルとしての夢を持てるわけがない。

 アイドルとしての夢は、アイドルでなければ持つことができないのだから。

 

「だから、まずは大和さん自身に、“大和麻弥はアイドルだ”と理解してもらう必要があると思うんです」

「え? でも、麻弥ちゃんはアイドルだし、夢とかは関係なくない?」

「ありますよ」

 

 大和さんはそこで思考を止められない。今アイドルの仕事をしているのだからアイドルだ、なんて単純に考えることができない。

 自分で違和感を覚えてしまったら、それを解決するまでは納得できない。

 

 仮に、今の大和さんが“ドームライブをしたい”なんていう夢を抱いたとしても、次に考えるのは「そもそも今のジブンじゃ……」という否定だ。

 今の大和さんでは仮にも夢ができたところで、それを自分自身で潰してしまう。

 

「なるほどねー。じゃあ、まずは麻弥ちゃんを“アイドルにする”ことから始めないといけないんだ」

「そうです」

 

 頷く。

 

 大和さんに自信を持ってもらうこと。それが、僕と大和さんの約束。それを果たすことができれば、大和さんは夢を持つためのスタートラインに立つのだと思う。

 そして、今のように悩んでいる姿ではなく、本人が心からアイドルとして舞台に立つ姿を見ることができたなら。その時はきっと、僕はこの気持ちを諦めることができるんじゃないかと思う。

 

 氷川さんは納得したように言葉を咀嚼するそぶりを見せると、僕を見て少し首を傾げた。

 

「……さっきから思ってたけど、山科君って前に会った時から何か変わった?」

「変わった?」

 

 覚えはない。

 強いて言うなら大和さんへの気持ちを諦めたことだけど、それは関係ない、と思う。

 

「前に会った時はなんか、何もなくてつまんなそうだっけど。今は、ちょっとだけ麻弥ちゃんに近くなった気がする」

「大和さんに?」

 

 意外なことを言われた。似てないと、つい先ほど言われたばかりだったのに。

 

「似てないけど、前よりは似ているみたいな?」

「はぁ……」

 

 分からないけど、どうやら僕自身も気付かないうちに変わっているらしい。

 

「まあ、変わったところで、夢を持てたわけでもないんですけどね」

 

 結局、僕は何も手に入れてない。

 大和さんへの気持ちを手に入れたけど、あっという間に捨てなければならなくなった。新たに手に入れたものなんて全然ない。

 

「山科君は、どうして夢が持てないの?」

「どうして……」

 

 どこまで話すか考えて、取り繕うのは無駄なんだろうと思った。きっと、白鷺さんの時とそう変わらない。

 

「だって、僕には得意なことがないですから」

 

 芝居も、楽器も、運動も、勉強も。照明の操作だってそうだ。

 僕には何一つ人に誇れるものがなくて、夢にするべきものがない。

 

「なにそれ? どういうこと?」

「僕はどれも半端で、人に誇れるものがないですから。自信を持って、夢にできるモノがないんですよ」

 

 なれるものがない僕には、夢がない。

 自分を語れない僕には、夢を持つ資格がない。

 

 自嘲気味に答えると、氷川さんが首を傾げた。

 

「それ、なんかおかしくない?」

「…………え?」

 

 それは、予想外の否定だった。

 

「どうして、できることじゃないと夢にならないの?」

「それは……」

 

 何を言われているか分からなくて、口が動かない。

 

「イヴちゃんは武士になるなんてぜったいに無理だって思える時でもなりたいって、夢だったって言ってたよ? 彩ちゃんだって、セリフ噛むしリズム合わせるの下手で失敗ばっかりで得意だなんて言えないけど、アイドルになるって夢を叶えたよ?」

「それは……!」

「夢を持つのに、資格っているの? なりたいと思ったら、それが夢なんじゃないの? 山科君の夢は違うの?」

 

 幼子が大人の袖を引いて質問をするように、氷川さんは僕の言葉を本当に理解できていないみたいだった。

 ただただ浮かぶ疑問をひたすらにぶつてくる。

 

 その言葉の意味は分かっても、頭は理解を拒んでいた。

 

「でも! 何にもできないままで『プロ野球選手になる!』なんて言ったって無理じゃないですか。僕が言ってるのは、そういうことで──」

「でも、それも夢じゃないの? 叶えるか諦めるかなんて、夢を持った後に考えることじゃないの?」

「────!」

 

 氷川さんの言葉には、何の間違いもなかった。

 

「山科君は、今のままやりたいと思ったことを、夢だと言っていいと思うんだけど」

 

 「なんで? なんで?」と僕を見る氷川さんに、返事をすることができなかった。

 

「…………あぁ」

 

 僕もまた、大和さんと一緒だったのかもしれない。大和さんが言う似ているとは、そういう意味だったのかもしれなかった。

 

 ずっと自分のことを認めることができなくて、何者にもなれていないと思い込んでいただけなのかもしれない。大和さんがみんなにアイドルだと言われても信じられないように、僕もみんなの言葉を信じることができいなかった。

 

「そういうこと、だったんでしょうか」

 

 ただ自分を少しだけ認めてあげる。

 僕に必要だったのは、それだけのことだったのかもしれない。

 

「山科君は夢が分からないわけじゃないんでしょ? じゃあ、持てるんじゃないの?」

「僕の、夢……」

 

 いったい僕は何がしたいのだろう。

 将来──十年、二十年先の未来──で、僕はどんな姿でありたいのだろう。

 

「パスパレのみんなと話してた時に聞いたんだけど、“夢と目標はグラデーション”なんだって」

 

 あやふやな未来を望む夢から、確かに道程を得た目標。

 (ゴール)があるからこそ、目標(ルート)が生まれていくのかもしれない。

 

 いきなり遠くに飛ぶのではなく、今行ける確かな一歩をまずは考えてみること。

 

「……今やりたいこと、は」

 

 そんなの、一つしかない。

 

「僕は、大和さんにアイドルとして輝いてほしいです」

「じゃあ、それが山科君の夢?」

「分かりません。それに、僕が叶えるというのとは、また違うし……」

 

 映像やライブで、僕はパスパレとして活躍する大和さんの姿を見てきた。

 その時間は裏方で共に過ごしてきた時間とは比べ物にもならないほど短いけど、確かに僕はアイドルとしての大和さんの姿に心を奪われたのだ。

 

 楽しそうにドラムをたたいて舞台で輝く姿を永遠にしていたかった。

 

「……でも、何か掴めそうな気がします」

 

 恋の熱とも違う、熱い感情が沸き起こっているのを自覚した。

 苦しさなんてどこにもない、純粋な興奮。だけど、今はその姿をはっきりと認識できないから、どこかもどかしい気持ちもある。

 

 この一瞬で夢を得られるとは思っていなかったけど、確かに何かを得た気がする。

 夢へと続く、最初の一歩。

 

「あたし、夢を持つ瞬間って初めて見たかも!」

「氷川さんのおかげです」

 

 氷川さんの一言が、僕に夢への一歩を教えてくれた。

 

 大和さんとの約束は、僕は大和さんを諦めるための代償行為じゃない。僕の夢を見つけるための、かけがえのない光明だ。

 それを今、理解したのだ。

 

「大和さんの悩みは、僕が解決します。そういう、約束をしたんです」

「そっか」

 

 氷川さんはいつもより少しだけ大人っぽい笑みを浮かべた。

 

「じゃあさ、もう一回聞いてもいい?」

「何ですか?」

 

 今なら、どんな問いにだって答えられそうな気がしていた。

 

「山科君ってさ、夢ってどういうものだと思う?」

「そう、ですね……」

 

 少しだけ考える。

 今、僕の胸の中にある感情を言い表すことのできる言葉を探す。

 

「役者を照らすライト、でしょうか」

 

 役者は舞台に立つだけで観客に見てもらえるわけではない。暗転していては意味がない。誰もが自分の人生の主人公だからと言って、常に光が当たっているわけではない。

 だから、これはきっと照明だ。舞台に立った役者を誰よりも輝かせ、人々を魅了するための光。

 

 僕達は夢を持つからこそ、輝く場所を歩いている。

 この胸にある衝動は、フィラメントの熱にだって届きうるはずだから。

 

「役者を照らすライト! 凄いね! あたしじゃ絶対に思いついてない!」

 

 氷川さんは嬉しそうに僕の手を握って上下に振った。

 

「夢は目標とグラデーションだし、その人を照らす光。あたしも、少しずつ夢が何か分かってきたかも」

「氷川さんには夢がないんですか?」

「え? ないよ? あたしには、夢がよく分からないし」

 

 それは、なんだか意外だった。

 

「氷川さんって夢について分かって嬉しそうだったし、それを知りたいのかと思ってました」

「それはあってるよ? あたしは、夢が何か知りたいの」

「……じゃあ、それは夢じゃないんですか?」

 

 夢が何かを知りたい。

 それは、夢を知らない人が持つ夢にはなりえないのだろうか。

 

「…………」

 

 しばらく沈黙した後、氷川さんが慌てたように自分を指さした。

 

「じゃあ! あたしの他の人のことが分からないから面白いし、もっと知りたいっていうのも、夢?」

「かも、しれないですね」

 

 僕もまだ夢を見つけたわけじゃないから、その確証はない。

 でも、今の僕と同じような話だった。

 

 夢の存在に気付いていなかったような、そんな感じ。

 

「夢じゃなかったとしても、僕みたいに、夢に届くきっかけになるかも」

「……そっか! あたしも、ちゃんと夢あるんだ!」

 

 氷川さんは嬉しそうに声をあげた。

 

 氷川さんはすぐに何でもできる人だと聞いた。

 だから、できないことなんてなくて、いつかという気持ちは今叶ってしまう。その結果が、夢を抱くことができないというモノだったのだろう。

 

 なら、きっと。

 

「あたし達、夢見つけちゃったね!」

「ですね」

 

 僕達が一緒に見つけた、今やりたいこと。

 それは夢に続くものになるはずだ。

 

「山科君、面白いね!」

「そうですか?」

「うん!」

 

 よく分からなかったけど、悪い気分じゃなかった。

 

 遠くから僕達を見つめるメンバーをよそに、僕達はこの胸の内に隠れていた夢の存在を捉えた喜びを二人で分かち合った。




今回は氷川さんとの邂逅ですが、パスパレでは白鷺さん以来の一対一でしたね。
もともとパスパレは氷川さんと白鷺さん二人しか出さない予定でしたが、何とかその通りで終わろうとしています。

パスパレは“夢”をよくテーマに持ち出すので、本作でも取り扱っています。
ずっと「得意なことがないから」と夢を語らなかった山科君ですが、夢とはそもそも何かを問う話です。夢がないメンバーである氷川さんが出たのは自然なチョイスでした。前回は意味あり気に消えていきましたからね。
今回二人が見つけたのが夢かどうかは、これから当人達が決めることです。ですが、きっと夢を見つけるヒントにはなるのではないかと思っています。


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8/20(月) 「君がくれた今、この夢」

 最後の週末が明け、舞台までは今日を含めて6日となった。

 それは、僕と大和さんの約束まで残り日数が6日ということだが、僕は未だに“ありのままの大和さんに勇気をもらった人”というのを見つけることができていない。

 

「……っていうか、どうすれば見つかるんだろう」

 

 安請け合いしたというわけではないけど、確かに無謀な話だったなと思っている自分もいる。

 パスパレの人達ならファンの声を拾ってくることもできたのかもしれないけど、僕はただのファン側の一人にすぎない。それに大和さんのことだから、きっとネットの声を用意しただけでは納得できないだろう。

 

 ちゃんとその人の存在を感じることのできるような、そんな証拠を用意しなければならない。

 

「はぁ……」

 

 ため息をついて、今しがた自販機で買ったジュースを一気に飲む。

 

 なまじ舞台の方が順調なのもあって、こちらが進んでいないことに焦りを感じている。

 本格的にあれこれと動きたいけど、舞台を直前に控えているからあまり動き回ることもできない。

 

「どうするかなぁ」

「何か、不安なことでもあるのか?」

「っひゃぁ!」

 

 誰もいないベンチで独り言をつぶやいていたつもりだったから、急に声をかけられて跳ね上がる。

 慌てて声のする方向を振り返ると、そこには僕と同じように飲み物を買った柴田が立っていた。

 

「あれ、舞台の方は?」

「ん、今から始めると夕方に入るから、それなら待った方がいいだろうって話になってただろ」

「そうだっけ」

 

 よくよく思い出すと、高橋がそう言ってた気もする。

 

「……山科」

「なに?」

「お前、やっぱり変だぞ」

 

 柴田が分かりやすく眉をひそめた。

 

「合同公演が始まってしばらく後から、ずっと様子がおかしいとは思ってたんだ」

「え?」

「お前、ずっと悩んでいただろ」

 

 それはちょうど大和さんへの気持ちについて悩み始めた時期だ。

 僕はずっと、自分の将来や大和さんについて考えてきた。何も知らない柴田からすれば、確かに僕はずっと悩んでいるのかもしれない。

 

 柴田は、僕の隣の隣に座ってお茶を一口飲んだ。

 

「やっぱり、プロになる話か?」

「……それもあるかな」

 

 今の悩みではないけれど、確かに僕は自分の将来について悩んでいる。

 

「すまん、多分焦ってた」

「え?」

 

 柴田はいつだって淡々と自分のやることを見据えて進む人間だ。焦るなんて言葉、柴田には全然似合わない。

 

「俺は山科にプロまで一緒に来てほしかった。役者でダメなら、せめて裏方で……と」

「え……え?」

 

 訳が分からなかった。

 

「ちょっと待って! え、それじゃあ、柴田は僕に役者でプロになってほしかったの!?」

「ああ」

「でも、僕は演技なんて……」

 

 僕は一年生の最初しか舞台に立っていない。なんなら、一年前には既に専属の裏方になろうと決意すらしていたはずだ。

 少なくともずっと劇団に出入りしてプロを目指す柴田が僕を誘う理由が全く見えない。

 

「お前、本当に俺がお前に声をかけている理由、分かってないんだな」

 

 柴田がおかしそうに笑った。

 

「山科は、なんで俺がお前の技術を褒めていると思う? 山科遥のライトワーカーとしての強みは何か、知っているか?」

「僕の、強み?」

 

 考えたことすらない。

 僕にはそんなものないと思っていたのだから。

 

「山科の裏方としての強みは、そのまま役者としての強みにもなる。そして、俺はそういう山科だからこそ欲しかったんだよ」

「じゃあ、柴田は僕の強みを知っているってこと?」

「ああ」

 

 なんだか、変な話になってきた。

 僕が役者として強みがあるだなんて、裏方として以上に考えようのない話だ。

 

「俺達が入部してすぐの頃、全員で一つの劇をすることがあっただろ?」

「ああ、うん」

 

 それは僕が唯一、純粋な役者として参加した舞台だった。

 僕達の代が全員参加で、みんなで演技について考えながらやったのを覚えている。

 

「経験者は一人もいなかったから、俺は別に周りに期待してなかった」

「今でも、柴田レベルってほとんどいないでしょ」

 

 全国大会まで行けば見つかるだろう、くらいの話だ。

 少なくとも地方の大会ではあまり見つからない。

 

「俺もそう思ってたんだ。……山科を見るまでは」

「え?」

「俺は山科の演技を気に入ったからお前と仲良くなったんだよ。裏方だからじゃない」

「で、でも、先輩には下から数えた方が早そうって言われたし」

「かもな。でも、お前は確かに原石みたいなものだったんだよ」

 

 柴田が冗談を言わないのは理解しているけど、それでもやはり信じられるような内容ではなかった。

 

「山科は役作りの時、最初に何を考えてた?」

「え? えっと……どんな人なのかな、って」

 

 役のことが分からないと何も始まらないので、もちろん役のことを研究する。趣味とか、何を考えているかとか。

 その役の人となりを理解するところから始める。

 

「でも、それって柴田から教わったことだよ」

 

 それも、今話している最初の舞台の練習で教わったことだ。

 

「僕は結局、柴田から教わっただけで何か特別なことをしたわけじゃない」

「いや、したよ」

 

 柴田は僕の言葉を優しく否定した。

 

「山科は確かに技術が足りなかったが、それは初心者なんだから当然だ。でも、練習だけじゃ磨けないところに、俺は山科の強みを見つけたんだ」

「練習では磨けない場所?」

 

 柴田の言葉に引っかかる。

 練習では磨けないモノ。僕にしかなかった何か。

 

 それは、その言い方ではまるで──

 

「俺は、山科の才能を気に入ってるんだよ」

 

 ──僕に特別な何かがあるみたいだった。

 

「僕の、才能?」

「ああ。山科遥にある、特別な才能」

 

 柴田は強く頷いた。

 

「山科は、自分が思っているよりずっと才能があるよ。お前がそれに気が付いてないだけだ」

「……本当に?」

「ああ」

 

 そこに嘘が入り込む余地はなさそうだった。

 

「芝居に絶対的な正解はないと思う。リアリティがあればいいわけじゃないし、特徴を掴むだけでいいわけでもない」

 

 芝居は表現の一つで、だからこそ演者の個性を感じることができるモノがいい。

 その役者でなければならない芝居がいい。

 

「少なくとも、俺はそう思っている」

 

 柴田はあまり芝居についての話をしない。

 だから、こういう話を聞くのはなんだか新鮮だった。

 

「一年の時の舞台で、俺は山科の芝居を“優しい”と思った」

 

 柴田と視線が絡んだ。

 目を逸らせない。

 

「……やさ、しい?」

「ああ」

 

 芝居の感想としてはあまり聞かない言い回しだ。

 少なくとも、その真意を正確につかむことができない。

 

「役のことを見ていけば、いろんなことが分かる。いいことも悪いことも。そして、役者は自分なりの解釈でその役を理解して演じることになる」

 

 柴田が求める“その役者の個性”というのは、解釈の中にこそあるのだろう。

 

「役も人である以上、悪い面というのも当然ある。嫌だなと思う性格だって見つかる」

 

 犯罪者の役をすることもあるのだから、それは当然だろう。

 

「でも、山科の解釈は、笑っちまうくらいに優しかった」

「え?」

「お前は、どんな相手でも良いところを見つけ出してくる。どんなにみんなが屑だと思う下衆でも、山科だけはそいつの魅力を見つけ出してくる」

 

 それは、周囲が喧嘩っ早いと名指しする不良に対して、捨てられた子猫を助ける優しさを見出すように。

 どんなに広大な泥中であろうと、必ず蓮が咲いていると信じているように。

 

「山科遥は相手を否定しない。一時の感情で悪く思うことはあれど、最後にはちゃんと相手の行動に優しさを見出す」

「そんなこと……」

「お前がいくら否定しようと、これまでの積み重ねが確かに証明している。お前は、絶対に人の良いところを見つけ出せる」

 

 つまるところ、柴田が言う僕の才能というのは、

 

「お前は誰よりも人の魅力を知ってるからこそ、そいつを魅力的に伝えることができる」

 

 ただ単に僕が優しいのではない。

 誰かの中にある優しさを見つけ、それを素直に認められる。

 

 世界(ぶたい)のどこにいようと必ず見つけ出して光を当てる。

 誰でもない僕自身が、誰かを世界で一番輝かせることができる。

 

「演者なら、芝居で自分の役や、周囲の役の魅力を引き出すことができる。山科の芝居には、その舞台の登場人物を誰よりも魅力的に演じさせる能力があるはずなんだよ」

 

 柴田は中身が少し残ったペットボトルを軽く握りつぶした。

 

「技術を磨くことなら誰だってできる。でも、山科の持つ誰よりも優しい才能は、絶対に真似して手に入るようなモノじゃない」

「柴田……」

「だから俺は、今すぐにでも山科には役者に戻ってほしい。本格的に芝居を勉強して、今よりもずっともっと舞台に立ってほしい」

 

 柴田が脇役として僕を舞台に立たせようとしていた理由をようやく理解した気がする。脇役でもいいから、舞台に立っていてほしかったのだ。

 

「山科の裏方としての能力は、間違いなく山科の才能をライトで使っているってことだ。演技ではなく照明でその役の魅力を引き出している」

「じゃあ、何も演者に限らなくても……」

「ダメだ!」

 

 今度の否定は、強気だった。

 

 苛立ちというか、悲しさというか。

 言いようのない感情を胸の内に秘めていたように見える。

 

「山科は裏方になってずっと舞台を彩って、俺達を照らし続けてきた。でも、それを観客の誰が知っている? 誰がそれを認めてきた?」

「────ッ!」

「裏方は誰も褒められない。褒められるのはいつだって役者ばかりだ」

 

 公演が終わる度に、僕達は観客から感想をもらってきた。

 でも、裏方である僕へ向けられた感想が来たことは今のところ一度もない。

 

 僕は、観客(ファン)から褒められたことなんてない。

 

「それが俺には許せない。山科はもっと認められていい、褒められていい。俺達だけじゃない。観客から、審査員から、もっと多くの人に認められるべきだ」

 

 つまり、柴田は、

 

「山科が誰にも褒められなくて、でも山科はそんなこと気にしてないみたいで。他人の良いところばっかり褒めて認めてるのに、山科自身が褒められないのが我慢ならねぇんだよ!」

 

 僕のことを、みんなに認めてほしいのだろう。

 頑張っているのに褒められない僕を、もっとみんなに知ってほしいのだろう。

 

「……そっか」

 

 なんだか、僕の方が泣きそうだった。

 

「柴田は、僕のために焦ってたんだね」

「違う! ……違う、そうじゃないだろ」

「そうだよ。ずっと気付かなくてごめん」

 

 半分くらい泣いているかもしれなかった。

 でも、僕のためにこんなに声をかけてくれる人がいるなんて知らなかった。

 

 僕はずっと裏方で、自分の評価よりも誰かの評価の方がずっと大切なことだったから、認められることなんてありえなかった。

 

「なら、それなら! 舞台に立てよ、山科。お前は、今よりもっと光に当たっていい。照らすだけじゃない、照らされていいんだよ」

 

 柴田の誘いは唐突ではあったけど、凄く嬉しかった。

 

「この合同公演が終わったら、今度は本格的に演技の練習をしよう。大丈夫だ、俺がついてる。遅れは確実に取り戻せる」

 

 嬉しい。

 

 嬉しい、はずだ。

 少なくとも、この胸にある温かい感情が悪いものであるはずがなかった。柴田の優しさを信じられないわけがなかった。

 

「柴田」

 

 その誘いは嬉しくはあれど、()()()()()()()()()

 

「僕は裏方が好きなんだ」

 

 舞台を上から見つめるのが好きだ。

 観客の視線が舞台に釘付けになっているのを見るのが好きだ。

 舞台に立つ役者を照らすのが大好きだ。

 

 僕はとっくの昔に、裏方として舞台を彩ることの魅力に取りつかれてしまったのだ。

 

「だから、役者は目指せない」

 

 役者になりたくないわけじゃない。脇役で立つこともあるから、その魅力は知っているつもりだ。

 でも、それは裏方の魅力には勝てなかった。

 

「僕は裏方でいたいんだよ」

 

 裏方にしかなれないわけじゃなかったと。そう分かった今だからこそ言える。

 僕は確かに、自分の意思で裏方を選んでいたんだ。

 

「……そうか」

「うん」

 

 改めて言葉にしながら、少し自分のことが分かった気がした。

 僕は裏方が好きで、きっとこれを続けていたい。誰かを照らす魅力に取りつかれているのだから。

 

「ありがとう」

「いや、俺は何もできてなくて……」

「ううん。僕はずっと、僕には何もないと思っていたから。なんか意外で」

 

 正直、今でも自分の才能というモノをあまり信用していない。

 

「山科が自分のことを認めてないのは、ずっと知ってた。だから、お前は客観的に評価した方がいい」

「してるつもりだったんだけど」

「できてない」

 

 反論する暇もないくらいの勢いで否定された。

 

「山科遥の才能は“人の魅力を見つけること”だから、お前が自分のことを認められてない時点でできてないってことなんだよ」

「それは……」

「山科遥がお前のことを見れば、絶対に見つけられるはずなんだ。俺よりもずっと詳しく」

 

 照明は決して自分自身のことを照らすことはできない。

 だけど、僕は照明じゃない。

 

 僕は、僕自身を照らすこともできるはずだから。

 

「山科が本当に裏方としてやっていくなら、俺はその舞台に立ち続けるから」

「うん」

「山科が俺を照らす限り、俺に対する評価は全てお前に対する評価だ」

「うん」

「だから……」

「柴田、もう大丈夫だから」

 

 たとえ観客に認められることがなかったとしても、僕にはこうして認めてくれる役者がいる。

 万人が僕のことを知らなかったとしても、僕のことを絶賛してくれる一人がいるなら、それだけで僕は世界で一番幸せな裏方なのだと胸を張れる。

 

 残っていたジュースを一気に飲み干して、ペットボトルを握りつぶした。

 

「戻ろう」

「……ああ」

 

 僕達には居場所がある。

 それは決して義務や責任ではなく、誰でもない僕達が選んだ場所だ。

 

 なら、きっとそこはどんな光で照らされても負けないくらい、僕が輝くことのできる場所だ。

 

 

 

 

 

 練習が終わり、家に帰るとまっすぐ自分の部屋に入った。

 今回の公演は通しの練習が二時間かかるので、疲労が普段の公演の倍だ。絶えず明るさを調整し続けるので、なおのこと苦労は増える。

 

「週末かぁ」

 

 ふと思い返せば、今日で顔合わせをしてちょうど一か月になることに気が付いた。

 大和さんと出逢って、まだ一ヵ月しか経っていないのだ。

 

「……約束」

 

 結局、約束の相手を探すのにも難航しているけど、部内で少しずつ情報収集をしている。きっと見つかるはずだ。

 

 ベッドの上で体を転がすと、壁に飾った大和さんのサインが目に入った。前に白鷺さんに渡された日以来、ずっと目に入りやすいあの場所に飾っている。

 あの時はアイドルのことなんて何も知らなくて、ただ大和さんへの好意を恋か友情か測りかねていた。

 

 ベッドから起き上がってサインを手に取った。

 あの時は、大和さん以外のパスパレメンバーを知らなかった頃だから、書かれているのは大和さんのサインだけ。

 

 合同公演が上手くいくか不安だった僕に、()()()()()()のは確かに大和さんだったのだから。

 

「……え?」

 

 手元にあるサインに目を落とす。

 

 あの約束を交わした日、大和さんとのやり取りが脳裏をよぎる。

 

──……ジブンにとって、アイドルというのは『自分を貫いて輝き、その姿で人に勇気を与える存在』です。

──じゃあ、誰かがありのままの大和さんの姿に勇気をもらったら、大和さんはアイドルだって認められるんですよね?

 

「……ああ」

 

 探す理由など、どこにもなかった。

 答えは、確かにこの手の中にあるのだから。

 

「そうか……そうか」

 

 僕がなればいいのだ。

 大和さんをアイドルだと言わせることができる証であり、舞台に立つ彼女をアイドルなのだと照らす明かりに。

 誰でもない、僕自身がありのままの大和さんに勇気をもらってきたのだから。

 

 合同公演へ不安だけじゃない。

 夢も、恋も、全部大和さんがいなければ絶対に存在しなかった今だから。

 

「よかった……」

 

 アイドル・大和麻弥のファン。

 

 それが分かったら、もう何も怖くはない。

 彼女が舞台で輝くことができると言うのなら、大和さんにアイドルとしての自信もを持たせることができると言うのなら、

 

「見つかった」

 

 この恋心を捨て去れない理由は、もう何一つ残っていなかった。




この話は書きたいと思っていたものの一つです。
今までずっと、山科君を怖い人だと思っていたりしても、最後にはいい人だと意見を変えています。多分、例外はなかったと記憶しています。
本人が優しいのではなく、相手が優しいと認められる才能。僕はどんな技術にも負けない才能だと思って書いています。

最後の内容は、ずっと決めていました。
大和麻弥をアイドルにさせる存在。“ジブン、アイディアル”におけるファンレター。有象無象のファンの中の一人にスポットを当てたのが、山科遥というキャラになります。


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8/22(水)~8/25(土) 「それは悲劇ではなく」

 斜陽に向かって手をかざしながら歩く。

 今日は体育館が使えないため練習も空が赤くなった時点で解散となった。明日と明後日──本番の前日と前々日──は体育館で練習するため、この時間に帰るのは今日が最後となる。

 

 僕は日が沈まないうちに少し急ぎ気味で進む。

 本番になるその前に、ほんの少しでもいいから夕焼けの公園という景色を自分の目に焼き付けておきたかった。

 

「結構広いな」

 

 地図アプリでおおよその大きさは理解していたけど、自分の目で見ると改めてそのスケールを理解する。羽丘から少し移動した先にある公園で、僕自身は来たことがない。

 とりあえず、イメージを固めるのも兼ねて座れそうなベンチを探すことにする。理想は舞台と同じ状況である南向きのベンチだけど、ダメなら違うのでもいい。

 

「えっと……」

 

 ふらふらと公園内を散策していると、人が座ってはいるが南向きのベンチを見つけた。後ろ向きなので顔は見えないが、羽丘の制服を着ている背の高い人だ。

 人が座っているとはいえ、ベンチの様子を確認するだけならじろじろ見なければ問題はないだろうか。少し迷いながら歩いていくと、ベンチの前方の方に座っていた女子生徒の方から「おや」と声をあげた。

 

「遥じゃないか」

「瀬田さん?」

「電車通学の君がここを通るなんて、とても運命的だね」

「瀬田さんこそ、どうしてここに……」

 

 知り合いの可能性は少しだけ考えていたとはいえ、まさか瀬田さんがいるとは思っていなかった。

 瀬田さんの手元に視線を落とすと、そこには台本が収まっている。

 

「瀬田さんもイメージ固め?」

「役を演じていれば、いろいろなことを思う。彼女が何を思ってこのベンチに座っていたのかを、少しだけ感じたくなったんだ」

 

 彼女というのは、瀬田さんの演じる女子大生のことだろう。

 

「君も座るかい?」

「いや、別に────」

 

 僕は出演するわけではないから、どちらかと言うとベンチを眺められるような位置にいた方がいい。そう分かり切っているというのに、なぜかここで瀬田さんの誘いを断るのは、なんとなく躊躇われた。

 

「じゃあ、せっかくなら」

「ああ」

 

 中央に座っていた瀬田さんが少し端によってくれたので、空いた方に座る。

 

「遥のおかげで、さらに舞台の雰囲気に近づいたよ」

「僕が男子高校生ってことね」

 

 柴田の代わりも運動部の高校生の代わりになれると言ってくれるのが、少しだけ嬉しかった。

 

「こうして二人で落ち着いて話すのは、初めてだね」

「確かに。今までは部活の中でしか話してないもんね」

 

 裏方と役者、青蘭と羽丘。

 僕達は対照的な位置関係だったのもあり、事務的な内容ばかり話していた気がする。少なくとも、瀬田さんと雑談を交わした記憶というのはほとんどない。ましてや二人で落ち着いて話す機会など一度もなかった。

 

「最近は、よく遥の話を聞くよ」

「そうなの?」

「克之はよく遥の話をするし、羽丘のみんなも遥のことを評価している。もちろん、私もね」

「いや、僕は全然。それよりも瀬田さんの方がすごいよ」

 

 実際、運動部が大会に向けて精力的になるはずの夏に、体育館での練習時間をたくさん用意できたのは瀬田さんのおかげだ。

 観客だって瀬田さんを目当てに来る人がたくさんいるらしい。瀬田さんの演じる女子大生は中心人物だし、彼女の功績はとても大きい。

 

「遥は謙虚だね」

「瀬田さんこそ」

 

 あまり話したことはないが、瀬田さんはなんだか掴みにくい人だ。表情を隠しているようにも見えるけど、なんだかんだで見た通りのような気もする。ただ、悪い人には全く思えなかった。

 

 瀬田さんはいつもの不思議な笑みを浮かべながら台本を取り出した。

 

「そういえば、遥に聞いてみたいことがあったんだが、聞いてくれるかい?」

「僕でよければ」

 

 カバンから自分の台本を出した。瀬田さんが終盤のページを見せたので、僕も同じ場所を開く。

 瀬田さんは開かれたページのある場所を指さした。

 

「ここに座って、ずっと考えていたんだ。彼女は、最後に恋人のことを吹っ切る。『私、もう彼のこと、なんとも思ってないみたい』……という台詞と共に」

 

 男子高校生と共にいろんな人の話を聞いて、その最後に女子大生の出した答えがそれだった。

 

「このセリフの意味をずっと考えているんだ。彼女が何を思って言ったのか、本当の気持ちは何だったのか」

「それが分からないってこと?」

「私自身、恋をしたことも失恋をしたこともない。もちろん役の上でならあるけどね」

 

 瀬田さんは少し困った顔をした。

 

「相手のことを忘れてスッキリしたのか。あるいは本当の想いをひた隠す強がりの言葉なのか」

「確かに、そこの解釈は複数取れそうだね」

 

 瀬田さんの言葉に頷きながら、少しだけ考えてみる。

 

「彼女は、恋人に事情を問い詰めていけるほど胆力も強さもある女性だ。だが、その胸の内は非常に儚い」

「そうだね。だからこそ自分の想いを安易に人に語ることもできなかった」

 

 誰もがそうであるように、女子大生もまたいろんな不安を抱えている。だけど、強いが故にそれを一人で抱え込んでも潰れないでいられる。

 女子大生は、恋人に「もっと頼られたかった」と捨てられることになる。甘えてくれる人の方が彼の好みだったから。

 

「だから、彼女への解釈を深めるためにここへ足を運んだのさ。話題というわけではないが、できれば遥の意見も聞いてみたい」

「ちなみに、瀬田さんは決めているの?」

「彼女がずるずると想いを引きずり続ける性格には見えない。だから、私はすっぱりと諦めた演技にしようと思っているよ。星空を見上げながら、どこか澄んだ気持ちになったような儚い演技を」

 

 この問いに正解はない。なんなら瀬田さん自身の解もあるから、おそらく僕の答えは僕の考えを知る以上の意味はないのだろう。

 本当に単なる話題の一つにすぎないらしい。

 

 失恋し、その思いを吹っ切る。確かに僕も女子大生が想いを引きずるようには見えない。どちらかと言えばすっきりした方が近い気がする。

 でも、それが例えば僕の話なら……

 

「……悲しい、かな」

「それは、想いを引きずっているということかい?」

「ううん。それはすっぱりとけじめがついたんだと思う」

 

 もし僕が大和さんへの想いをすっぱり諦めることができたら、それはきっと素敵なことだと思う。彼女の邪魔にならず、すぐに消えることができるのだから。

 

 でも、本当にそうなったのなら。

 きっと僕は、自分が嫌で仕方なくなるような気がした。

 

「だって、一日で諦められるような恋だったのかなって思ったら、悲しいから」

 

 こんなに好きで、苦しくて、嬉しくて。感情が濁流みたいに自分でも操作できない日々が恋だ。

 だというのに、そんな感情が一瞬で止まってしまったら、なんだか空っぽになってしまったように感じてしまう。

 

 今まで恋に恋をしていたのではないか、本当に相手のことを好きだったのか。それすらも分からなくなって。

 最後には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事実を突きつけられる。

 

「ずっと必要だと、君がいないといけないって信じてたのに、諦められちゃったら」

 

 そんな、一人でいる強さを持ってしまったことがたまらなく悲しい。

 だから私は、一緒にいられなかったのだから。

 

 僕が女子大生の立場でその台詞を口にするのなら、なんとも思っていない自分に対する自己嫌悪だけだ。

 

「想いを振り切ってしまったからこそ、その想いへの悲しみを語る。遥は、そう思ったんだね」

「本当は女々しく引きずりたい。今までの日々に思い入れがないなんて嘘だ。僕はこの想いを捨て去りたくない」

 

 ああ、そうだ。

 大和さんへの想いは捨て去る。捨て去らなくちゃいけない。僕には捨てる理由があって、想い続ける理由がない。

 

 だけど、それでも僕はこの恋を捨てたくない。

 

「ごめんね、こんな女々しい答えで」

「いや、そんなことはないさ」

 

 瀬田さんは優しく笑みを浮かべ、僕に視線を合わせた。

 

「抱いてきた恋に対する気持ちが伝わる、とてもいい回答さ」

「そうかな?」

「ああ。それに『その想いを捨てたくない』という気持ちこそが想いを吹っ切れていない証拠だと、私は思うよ。彼女はきっと、自分の恋を一番素敵な形で思い出にしまうことができたんじゃないだろうか」

 

 諦めなければ先に進むことはできない。でも、捨て去ってしまうのはあまりにも人として空しいから。

 

「そのままの形で、宝箱にしまえたさ。その恋は今の君には不要だけど、きっと大切なものだったはず」

 

 瀬田さんの優しい肯定が沁みたような気がした。

 僕もきっと、そういう未来を目指せばいいのだと言ってくれたような気がした。

 

「彼女の未来はまだ長いから、またここから新しく踏み出していけばいい。そうすれば、互いに想いを交わせる相手が現れるはずさ」

「そうだね」

 

 今すぐに完全に割り切らなくてもいい。思い出にしまい込んで、そこからゆっくりと歩き出せばいい。

 ここから変われる範囲で変わっていけば、きっと最後にはちゃんと整理の付いた未来に辿り着くことができるはずだから。

 

「『未来に向かって進むわけではない。進む方向に未来があるだけだ』……か」

 

 小さくつぶやくと、それが聞こえたらしい瀬田さんが「おや」と声をあげた。

 

「それは……」

「葛西さんから教えてもらったんだ。葛西さんも、誰かにこの言葉をもらったって言ってたけど」

 

 遠い未来を思い描けない今は、今思い描けるレベルで一歩を踏み出せばいい。

 そういう優しい言葉を、ふと思い出していた。

 

「それは私だよ」

「え?」

 

 瀬田さんの言葉の意味を図りかねた。

 

「以前、将来に悩んでいると言っていた涼に私が送った言葉さ」

 

 頭を殴り飛ばされたような気がした。

 

「そう、なの?」

「ああ。それにしても懐かしいね、中学生の頃だったかな?」

 

 呆然とした思考のまま、当時のことを思い返している瀬田さんを見つめた。

 その言葉の主のことを僕はよく知っている。

 

 だって、葛西さんはこの言葉をもらった相手のことを──

 

「……そっか」

 

 ──僕はそれ以上考えるのを止めた。

 

「瀬田さん、だったんだね」

 

 葛西さんがどんな歩みの中で瀬田さんにこの言葉をもらったのかは分からない。あの日の葛西さんの表情の意味を僕は知らない。

 きっと彼女は、未来を歩く僕なのだろうから。

 

 あの表情の意味を知るのは、きっと未来のことだ。

 

「……僕からも、一つ聞いてもいいかな?」

「なんだい?」

 

 急な話題転換でも、瀬田さんは嫌な顔一つしなかった。

 

「瀬田さんは将来について考えているの?」

「将来について、か。難しい問いだね」

 

 言葉とは裏腹に、彼女は相変わらず笑みを浮かべていた。

 

「私はいつだって誰かを笑顔にするために演じ続けるだけだよ。王子を、姫を、それ以外のなんであってもね」

「プロの役者になるってこと?」

「それはどうだろうね」

 

 演じ続けるというのに、芝居を続けるわけではないのだろうか。

 

「かのシェイクスピア曰く、『この世はすべて舞台であり、男も女もその役者に過ぎない』とね」

 

 少し言葉の意味を考える。

 

「……たとえステージの上でなくても、観客がいるならそこが瀬田さんの舞台になる。演じる場所になるってこと?」

「ふふ。つまり、そういうことさ」

 

 なんだかはぐらかされたような気がするけど、分からなくはなかった。

 瀬田さんはきっと演じるという人生から逃れることはできないし、きっと逃れる気もないのだろう。

 

 与えられた役を演じ続ける。

 そんな役者としての日々を歩み続けるということなのだろうか。

 

「迷ったりはしないの?」

「いや。人々が求めるから、私はきっと舞台に立ち続けたい。それだけだよ」

 

 瀬田さんは自分が求められないなんて考えていないように見えた。

 

「私はハロー、ハッピーワールド!というバンドでギターをしているんだ。世界を笑顔にするためのバンドさ」

「ハロー、ハッピーワールド!……」

 

 バンドまでしているとは知らなかった。

 でも、なんだか楽しそうな雰囲気のバンドだ。

 

「今までの演技の経験がハロハピのパフォーマンスを豊かにし、ハロハピでの経験は私の芝居を豊かにする。立った舞台の数だけ、演じた役の数だけ、その次に立つ舞台は儚いものになっていくのさ」

 

 一つの舞台で一つ変わる。

 そうして変わり続けた先に、瀬田さん自身の()()があるのだろう。

 

「ありがとう。参考になったよ」

「それはよかった。私も、遥の言葉には助けられたよ。本番までに、もう少しだけ考えてみるつもりさ」

 

 僕達はベンチから立ち上がった。

 気付けば日が沈み、空には星明りもちらついている。

 

ねえ、あれ見える?

「え?」

夏の大三角で見る星、わし座のアルタイルよ。意味は“飛翔する鷲”

 

 それは、binary starの最後のセリフだ。

 

アルタイルは連星って呼ばれる種類の星なの

「え、えっと……それが、どうしたの?

連星っていうのは、互いの重力に影響しあってくるくる回る星って意味。こんな感じで

 

 女子大生が僕の手を取った。

 ベンチから少し離れて、彼女は軽やかな足取りで僕をくるくると回し始めた。

 

加速度がついてエネルギーを蓄えたら、またきっと羽ばたけると思わない?

 

 どうだろうか、僕には分らない。でも、余計なことをみんな振り切っていける気がした。

 二人でワルツを踊っていると、なんだか急に笑えてきた。楽しくてしかたなくなってきた。

 

 ゆっくりと回転が止まると、僕達は目が回らないように互いを支えにしてバランスをとった。

 

「演技というのは舞台もライトもなくたって、ただ観客がいるならきっとできる」

 

 瀬田さんはその身をもって演技に舞台が不要であると今ここで証明してくれた。

 

「だけど、一人では一人にしか届けられない」

 

 暗くて見えなければ、その姿は遠くの誰かには届かないから。

 

「だからこそ、私達は舞台やライトを必要とする」

「瀬田さん……」

「見ていてくれ遥。誰よりも高い場所で、君が照らした舞台がどれほどの人を笑顔にしたのかをね」

 

 パッと手を離して、瀬田さんは颯爽とカバンを手に取った。

 

「今日はもう遅い。気を付けて帰るんだよ」

「う、うん……」

 

 最後のが何だったのかは分からなかったけど、多分元気づけてくれていたんだと思う。笑顔じゃなかった僕を。

 歩いていく瀬田さんの後姿を見送ってから、僕も静かにその場を後にした。

 

 今度は、いつもより笑っていられたような気がする。

 

 

 

 

 

 とうとう、本番当日になった。

 リハーサルも乗り切って、準備はもうやり切った。もう後は本番をやり切るしかない。

 

 スポットライトの様子を確認していると、葛西さんが上にやって来た。

 

「そっちはどう?」

「問題ないよ。今から始まっても大丈夫なくらい」

 

 心臓は高鳴っているけど、不安な気持ちはあまりなかった。

 下の方を見るとそこには観客が公演が始まるのを今か今かと待っている。開演までもう十分を切っており、空の赤が体育館に差し込んでいた。

 

「緊張してる?」

「ちょっとだけね」

 

 葛西さんは恥ずかしそうに笑った。

 

「だって、青蘭と羽丘の初めての合同公演だもの。失敗できないよ」

 

 観客も学校での公演では絶対に見ることがないような人数がいて、それだけでもう緊張してきそうだった。

 

「下手にいると動けなくなりそうだったし、少しこっちに来たの。大丈夫、時間厳守だしすぐに戻るから」

「ううん、ぎりぎりまでいたらいいと思うよ」

「ありがと」

 

 実際、戻る時間を考えても、もう五分くらいならいても大丈夫だと思う。

 

「そういえば、時間もないし一つだけ聞いてもいいかな?」

「何?」

「この公演が終わったら、麻弥ちゃんとはもう会わないの?」

「そのつもりだよ」

 

 僕という存在はアイドルとして頑張っていく大和さんの邪魔になるのは自明だ。

 今後、会わないようにするというのは必然であって、僕の意思が介在するような内容ではない。

 

「だけど、麻弥ちゃんの方が会いたいって言ったら?」

「それは……」

「恋人としてじゃなくたって、一緒の趣味を話せる友達として一緒にいたいって言ったら? どうやって断るの?」

 

 意地悪な質問だったけど、考えないといけないことではあった。

 

「その時は連絡先を断つ、かな。葛西さんには申し訳ないけど、そうなった時は……」

「私はしないからね。絶対にしない。それは、山科君が責任を持つところだよ」

 

 …………。

 

「分かった」

「うん。この公演が終わったら、話をするんでしょう?」

「部室の隣の倉庫で」

「じゃあ、そこに人がいかないようにはしておく」

「ありがとう」

「気にしないで」

 

 葛西さんは「ありがとう、気がまぎれた」と立ち上がった。

 つけていたインカムを少しだけ操作して、マイクをオンにしながら扉に手をかけた。

 

『頑張ろうね』

「……うん」

 

 息を吸って台本を手に取った。

 ここから二時間の長丁場だ。

 

 葛西さんを見送ってしばらくしてから、高橋が『みんな』と声をかけた。

 

『一分前だ。配置について準備してくれ』

『きっと成功させようね。大丈夫、ここまで頑張ってきたんだから』

 

 新藤さんの声も聞こえた。

 

「…………」

 

 深く息を吸って、一ページ目を開いた。

 冒頭のシーン、これから始まる長い舞台。

 

 時計の針がカチカチと残りの時間を刻んでいく。

 

『10秒前…………5、4、3、2、1』

 

 ブザー音が会場に響き渡る。

 ざわついていた会場が静かになり、ゆっくりと幕が開いていく。

 

 

 ──“binary star”の開演だ。




葛西さんが「未来に向かって進むわけではない。進む方向に未来があるだけだ」を言ったのは、7日の「一寸先の未来すら」と13日の「届けることはなくとも」の二回です。特に13日の方に詳しくあるので、見るならそちらをどうぞ。山科君が少し口ごもった意味が伝わればと思います。

途中星の話が出てきたのは、僕の趣味が少し混じった結果です。まあ、タイトルの連星(binary star)というので少し察していた方もいらっしゃるかもですが。
物語と天文学的な意味をいい感じに絡めていけるような話にできていればいいなと思っています。


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8/25(土) 「孤独じゃないから、きっと」

 幕が開いたタイミングに合わせて、シーリングをゆっくりと上げる。

 雑踏が少し大きく鳴り、緩やかに落ち着く。シーリングから放たれた白熱球の熱が夕闇の涼しさを取り払い、興奮と相まって僅かに手に汗が滲んだ。

 

 暗かった舞台を想定通りの茜色に染め上げることに成功した。舞台奥には花壇と自販機、中央にはウェザリングでどこか古めかしく加工されたベンチ。どこにでもありそうな、夕方の公園がそこにはあった。

 ブザー音によって、期待に満ちていた会場の熱が緩やかに静まる。

 

 下手からはゆっくりと男子高校生が疲労を滲ませた足取りで登場した。

 花壇の手前で押していた自転車を置くと、背負ったリュックと自分の体をベンチへと投げつけた。程よくボルトを緩めたベンチが、客席でも分かる程度に軋んだ。

 

あー……疲れた

 

 体勢を変える度に響くベンチの軋みが、男子高生の疲労感をなおのこと演出していた。リアリティを求めるという目的のためだけに準備したものだが、この結果は予想外の効果を生んでいた。

 いや、もしかすると柴田はそれを理解していて、あえて芝居の中に取り入れたのかもしれない。

 

 観客の意識は既に、言葉少なに座っている男子高生に向けられていた。

 今日という日が終わり、彼の胸の内にあるのは後悔だけ。そんな彼に何があったのかは、これから明かされていくことだ。

 

もう動けねぇ。足ガクガク……

 

 悔恨を抱いたまま天を仰いで脱力していると、上手から足音が響いてきた。上手から入りの女子大生だ。

 カツカツとヒールの音が鳴り、登場した彼女の姿で会場は息をのんだ。

 

はぁ、はぁ……! きゃっ!

 

 鬼気迫った女子大生の表情に気圧され、観客達には瀬田薫の登場を喜ぶ余裕すらない。

 ヒールを鳴らしながら走ってきた彼女はベンチの前のあたりで盛大に転び、観客席からは戸惑ったような息遣いが聞こえてきそうだった。

 

嘘、ヒール折れてる!? ……あー、もうサイアク

あの、大丈夫ですか?

 

 地面に座り込んだ女子大生に、男子高生がベンチから立ち上がって声をかけた。

 女子大生は周囲を見ていなかったのか、男子高生の姿を驚きながらも把握し表情をすぐに軟化させた。

 

あ、ごめんね、恥ずかしいとこ見せちゃって

いえ、気にしないでください。……座ります?

ありがとう、ちょうど足が痛くて。やっぱり、ヒールで走るもんじゃないよね

 

 二人がベンチに座る。

 

 このタイミングで僅かに間を開けたことで空気がいったんリセットされ、会場は再び静かな空気に戻った。

 会場の空気にまで気を遣う、さりげない演技だ。

 

大丈夫ですか?

大丈夫よ。ヒール折れたのと、ちょっとすりむいちゃったくらいで

大変じゃないですか!? ちょっと待ってくださいね

 

 男子高生が救急キットを取り出し、女子大生は彼のリュックの形状に目を止めた。

 

テニス? 準備がいいのね

よくケガするんで。いつも準備してるんです

私も大学でやってるけど、そういう人いないな

そうなんですか? 僕がどんくさいだけっていうのもあると思いますけど

そんなことないって

 

 女子大生が優しい口調で男子高生の言葉を否定した。

 

それに言葉、無理に敬語にしなくても大丈夫よ?

あー……いやでも流石に……

気にしないで。私が堅苦しいの苦手なだけだし

そうなんですか? ……って、あ

ごめんごめん。難しいこと言っちゃったね。気にしないで、話しやすい方でいいよ

すみません、年上の人に敬語使わないのってなんか変な感じで。……手当てするんで、脱いでもらって大丈夫ですか?

ありがとう

 

 男子高生がベンチから立ち上がり、女子大生の前で膝立ちになる。

 

 照明を一段階落とし息を吐く。

 空に合わせて色を変え続けなければいけないので、僕達に休む暇は存在しない。

 

このくらいは別に

 

 台本をめくり、次のページに進む。

 だいたい5分に一度くらいの頻度で変更する予定だから二時間で24回。他にも演出で一部変更をするので、合計すれば30回くらいにはなるんじゃないだろうか。

 

おっとと……

ちょっと、大丈夫ですか?

 

 少し台本を確認していると、いつの間にか中年男性が登場していた。

 リストラされた事実を家族に告げることができず、再就職先をずっと探している人物だ。真面目で温厚だが、人の頼みを断ることもできず、結局はこうして首を切られてしまっている。

 

歳かなぁ、やっぱり

 

 缶コーヒーを買った彼は疲れた様子でそれを傾けた。

 

仕事ですか? お疲れ様です

いや、私はクビ…………あ

首?

えっと、首の辺りが痛くて仕方ないんだよ。やっぱり机仕事は堪えるって言うかね

 

 高校生と中年男性が上手側で話している間に、下手側ではシンガーソングライターがなれた手つきで路上ライブの準備をしている。

 

あー、そこの人達、よかったら聞いていかない?

路上ライブ?

そうそ。一応、オリジナルの曲歌うけど、リクエストも受け付けてるよ。知ってる曲なら弾き語りするしさ

 

 少し小柄な格好には少しだけ大きいアコースティックギターを抱え、彼女は組み立て式の椅子に座った。

 

いつもは全然人いないけど、今日は盛況だね

 

 ギターをかき鳴らしながら彼女は嬉しそうに笑った。

 プロを目指して、地方からこの街に出てきた。バイトをして生活費を稼ぎながらライブやイベントに挑む日々。小さなライブイベントに少しだけ呼ばれることもあるけれど、夢のデビューというにはまだ遠いのが現状だった。

 

ってまあ、いきなり言われても困るよね。じゃあ、最初はアタシの歌を聞いてもらおうかな

 

 観客三人はベンチに座り、歌手はその三人が見やすい位置に移動した。

 組み立て式の椅子を用意してギターを構える。

 

それじゃ、ちょっとだけね

 

 歌手の彼女はもともとギターができたわけではないが、ギターの演奏ができた瀬田さんに少し教えてもらったそうだ。もちろん技術としては大したものではないのかもしれないが、芝居に演奏技術は必要ない。観客に()()()と思わせれば充分なのだ。

 そもそもマイクもなしに音を客席後方まで届ける手段はないので、自然と効果音に頼ることになる。

 

 雑踏の音が時間をかけてフェードアウトし、歌手が演奏を始めたタイミングに合わせてギターの演奏が始まる。これは、一番最初に新藤さん達がイメージしていたBGM探しで登場したギター曲。本来はBGMとして使う予定だったけど、こうして演奏の曲として再利用されることになった。

 

 歌手がギターを弾きながら歌う。

 歌詞はもともと台本にあったものを、曲に合うように改変したものだ。ちょっと大変な日常を面白おかしく歌ったもので、考え方を変えれば今日は少しだけいい日になるというもの。

 

『みんな、大丈夫そう?』

(うえ)は問題なし。客席の方にも光は当たってなさそう」

『二階席も大丈夫だよ』

『舞台袖も特にトラブルはなし』

 

 新藤さんから確認が来たけど、他のところも特に問題はないようでよかった。

 今回は特殊な演出を数多く入れていることもあり、不測の事態はいつ起こるか分からない。ライトの調子が悪い、みたいな既知のトラブルならともかく、夕焼けの演出関係の問題が発生したら即座に対応できるか自信がない。

 

最近は不審者も確認されているんだ。君達も危ないから気を付けた方がいい

どんなことしてるんですか?

スケッチブックを持ち歩いて、住宅街で何かを書き込んでいるらしい。夜間に現れるそうで、空き巣の準備をしているかもしれないからね

 

 歌手の歌が終わったので、ライブ中に通りがかるOLと主婦の二人が既に舞台に登場している。さらにもう少しだけ話は進んでおり、今は警官の登場シーンだ。

 

 誰よりも親切で怖がりな彼は、罪を犯している人に近づくことができない。悪い人からみんなを守れるようにと警察になったのに、少しぐれた子供に声をかけることさえままならない。

 いざという時に勇気が出なくて、仕事に向いてないと言われた彼は、この不審者の件を解決できなければ警察を辞めることすら考えないといけないから。

 

不審者ってなんか大雑把でよく分からないですよね。なんか、とってつけたような感じで

まあ、実際に事件を起こしたというわけでもないからね……

ちなみにどんな感じだったら不審者なんでしょうね?

見た目ってこと?

こう……全身黒ずくめみたいな

それ、殺人犯じゃないのかい?

ですよねー

 

 話がテンポよく進む。

 

 ここからはコミカルに話が進んでいくパートだ。BGMも雑踏の音から、少しポップな雰囲気の曲に切り替わる。

 僕もライトの段階をまた一つ変化させていく。日没にはまだ少し早いが、東の空は既に紺色に染まっている。日没になるのは舞台の中盤から後半に近くなった辺りなので、現状ではまだだが遠くないうちに西の空もこの色に染まっていくのだろう。

 

実際の不審者は身長が175cm程度で細身。スケッチブックを持ちながら歩いているんだけどね

…………

…………

…………

 

 下手向きの警官が手でサイズ感を示しながら話していると、上手から不審者の格好にそっくりな青年が登場する。

 彼こそが不審者と呼ばれている正体、美大生だ。

 

呼びました?

あああああああああ! 出たァ!!!!!!!!!!!

幽霊みたいですね

そんなに目が死んでたら、幽霊にも見えちゃうよ

 

 美大生はその軽薄そうな容姿には似合わないほどの死んだ目で警官の肩を叩いた。

 

 幼い頃から絵の才能があると言われ、実際にコンクールで賞も取り続けてきた。実力も自信もあった彼はそのまま美大に進学したが、現実は非情だった。

 現実の美大は美大生のように才能があると言われた人間だけが入る場所。いや、美大生以上の才能の持ち主の方が多いといっても差し支えなかった。

 

 将来の生活もままならない不安から不眠症を患った彼は、いつも絵を描き続けている。

 それは絵が好きだからではない。ただ、絵以外に自分の強さを知らなかったからという強迫観念に過ぎない。

 

っき、きききききき君が、不審者かい!?

ちょっと、お巡りさん落ち着いて

だって、刃物とか持ってたらどうするのさ!

それこそ警察の担当では?

 

 警官は驚きすぎて主婦の後ろに隠れている始末だ。

 中年男性が美大生に相対しており、何かあった場合は彼が被害を受けるような構図になっている。

 

あ、ああああ危ないですよ!

だからお巡りさんがなんとかしてくださいよ!

無理です無理です!

あの……何の話っすか?

 

 美大生が戸惑った様子で首をかしげている。彼は事情を把握してない。

 

君、最近この辺に出ている不審者だろう?

不審者……?

ああ。悪いことは言わない。君もまだ若いんだ、将来もあるんだから……

将来……?

今ならまだ間に合う。今からでも

間に合う?

 

 中年男性が必死になだめようとしているが、美大生は逆にショックを受けたような顔をしている。

 

マジか……落ちることろまで落ちたな……

あ、あの、君

卒業後の進路も見えないと思って寝ずに描き続けたのに、そうしたら今度は犯罪者呼ばわり……

 

 自分には才能がないと分かったから、今度は努力を始めた。そこで折れる奴らも多かったけど、美大生はその挫折を新たな始まりにすることができる人間だった。

 周りが大学をやめたり評価されたりする中で、美大生はどちらにもなれなかった。

 

 描いても描いても絵は評価されず、されど諦めるにはもったいない程度の可能性があった。

 不安はいつか眠りを彼から奪い去り、昼は大学で制作をして夜は街中を歩きながら景色を描き続ける。筆を止めたら、本当に終わってしまうような気がしてならないから。

 

だが、描いても描いても認めてもらえない。技術はある。だがそれだけだ。俺には致命的にセンスが足りない、と。だから

お兄さん、一曲聞いていかない?

曲? ……ああ、アンタもそういう口か

うん。だから、どうかな?

頼むよ

 

 歌手の問いかけに美大生がうなずいた。

 プロを目指して努力してきた。でも、誰にも認められなかったから。認めてもらえないままだから。

 

君には、この曲を贈るよ

 

 BGMが止む。歌手がギターを弾くのに合わせてギター曲が流れ出す。

 音楽と絵。それぞれの分野は違うけれども、きっとつながるところはあるはずだから。

 

…………

 

 歌手が歌い始めると、美大生はおもむろにスケッチブックを開いた。

 弦とペンが走り、二人はお互いだけを見つめている。

 

 凄いねと褒められてきた。それを純粋に信じてきた。自分には才能があると思ってきた。

 それを世辞だと分からなかったから。現実を知らなかったから。子供のままだったから。

 

 だから二人はここにいる。この街の中で、誰にでも許された公園にしか居場所を見つけることができなかったから。

 

 やがて、曲が終わった。同時に美大生もペンを止めた。

 周囲からは拍手が送られ、二人はお互いに頭を下げあった。

 

……凄く、良い曲だった

君の絵も素敵だね

 

 美大生の絵を見ながら歌手が笑った。

 ほんの数分の出来事だったはずなのに、寂しそうで、でもどこか力強い歌手の姿が描かれていた。

 

 美大生はスケッチブックからその絵を切り離して歌手に差し出した。

 

礼だ。今は価値がないが、十年もすれば数万にもなるだろう

じゃあ、私の演奏と一緒だね

 

 現実は非情だ。二人はまだそれぞれの道で生きていけない。

 

 だけど、ずっとみんなが認めてくれてきたから。家族や友人はその背を押してくれたから。

 なにより、違う場所で同じように歩いている仲間がいると分かった。そして、その仲間が認めてくれたから。不安な気持ちは今もあるけれど、まだもう少しだけ頑張っていくことはできる。

 

 二人はまだ、挫けない。

 

私、もうちょっと頑張ってみるよ

俺も。まだ時間はあるからな

 

 二人はそれぞれの荷物をしまい、立ち上がった。みんなに手を上げて挨拶をすると、二人は上手と下手それぞれにハケていった。

 

 ライトをまた一段階切り替える。

 夕日は既に沈み、空はもう地平線付近が僅かに赤らんでいる程度だ。

 

結局、何もできなかった

別に犯罪者とかではなかったんですから、それで良いじゃないですか

それは、そうだけど……

みんな怪我がなくて良かった

おじさんが話し出した時、本当に怖かったですよ

 

 ビビっている警官を慰めている主婦。

 

 最近引っ越してきた彼女だが、家族との関係が上手くいっていない。旦那は仕事、子供は部活で帰りが遅く、三人暮らしのはずが孤独な気持ちばかりが胸に募る。

 いったい自分は誰と生きているのか、不安定な足場にいるような気持ちが消えてはくれない。

 

いつもそうなんですよ……大事なタイミングで怖がって動けなくて、だから僕は……

大丈夫ですよ、お巡りさん

 

 それは、きっと自分に向けた言葉でもあった。

 

 引っ越す前は仲のいい家族だった。ただ、生活リズムが変わって一緒にいられなくなっただけだ。だから、勇気を出せば前に進めるはず。

 そう分かってはいても、頭で理解しても勇気が出るわけではない。

 

そうですかね?

お巡りさんは、ちゃんと自分のこと分かってるじゃないですか

 

 何をすればいいのかは分かる。それをするだけの技術と体力もある。だって、ずっと誰かのために頑張れるように頑張ってきたのだから。

 警官に足りないのは、それを行動に移す勇気だけだ。

 

なら、奥さんも大丈夫ですよ

 

 警官は微笑んだ。

 

だって奥さん、こうして僕に声をかけてくれたじゃないですか

 

 どんな人かも分からない、会ったばかりの人にだって優しく声をかけられるのだから。

 ならば、家族とだって話すことができるはずだ。仲良くあったはずの家族だったのだから。

 

今も怖くて仕方ないですが、少しずつでも頑張らないといけないんですよね

 

 勇気の出し方なんて分からない。

 だけど、こんな優しい人を助けてあげるためならば、少しだけ頑張れるはずだから。

 

 勇気の在り処なんて分からない。

 だけど、自分には確かに勇気があったのだと、教えてくれたから。

 

今から、さっきの学生さんに声かけてきます。結局、深夜に歩き回っている件について注意くらいはしておかないといけませんから

私も、帰ったら家族と話をしてみます

 

 人は一気に変われないから、今変われる範囲で変わるしかない。

 毎日一歩を踏み出すだけの勇気を持つことができたのなら、きっと遠いいつかは憧れた場所へたどり着けているはずなのだから。

 

 主婦と警官がお互いに頭を下げあって別れた。

 二人とも駆け足気味に、きっと辿り着きたい場所に向かって。

 

追いつけるんですかね?

どうだろう? でも、大事なのはそこじゃないと思うし

追いつけたらいいよね

 

 男子高生、女子大生、OLが話していると、中年男性がぼうっとしている。

 

 ライトをさらに一段階切り替えて、時間を確認した。

 時刻は既に一時間を大きく過ぎており、残りの時間もかなり少なくなってきた。

 

「……ふぅ、もうちょっと」

『はい、頑張りましょう』

 

 マイク越しに大和さんの声が聞こえた。

 耳元で囁かれているような気がして全身が熱くなるが、すぐに頭を振って雑念を払う。

 

 みんなの問題は解決していない。

 歌手と美大生は頑張ったところで現状は何一つ変わらないし、警官と主婦は勇気を出したところで好転するとは限らない。

 

 今までの、大和さんへの想いを引きずり続けた僕には分らなかったけど。この想いを振り切った今の僕ならば、きっと彼らの気持ちが分かる。

 僕の、山科遥の才能ならば、きっと彼らのことを魅力的に照らすことができるはずだ。

 

「……よし!」

 

 一度だけ深呼吸をして、僕は台本のページをめくった。




舞台としては内容が多いので、セリフに関してはかなり削っています。作品を知るのに必要な情報は地の文で補っているところが多いですね。本当はもう少し台詞を多めにしたいのですが、舞台のセリフだけってあまりにも状況が分からなすぎるので……。正直、兼ね合いが難しくて上手く書けてない気もします。

binary starは8人、不幸の最中にいる人が登場する話です。それぞれを二人セットにして、お互いに関わり合って前に進むような形になっています。ここまででは、歌手と美大生、警官と主婦ですね。


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8/25(土) 「君に届けたかった言葉/貴方から届いた言葉」

 舞台は半分を過ぎ、舞台に残されたのは男子高生、女子大生、中年男性、OLの四人。

 

 走っていった警官と主婦を見送りながら、中年男性がぼうっとしている。

 

どうしました?

私も、勇気を出さないといけないと思ってね……

 

 中年男性はベンチに座り込んで、ため息をついた。

 

実は、今日は仕事帰りではないんだ

え?

先日リストラされて、今は無職で……

 

 それは、家族に言えてない事実だった。

 子供は進学の予定もあり、このままでは諦めてもらうことも考えなければいけない。今は仕事に行くふりをして就職活動をしているわけだが、その結果もあまり芳しくはない。

 

 この先の問題は一人だけの問題ではない。

 早く事実を告げねばならないとは理解しつつも、心配を掛けたくないという気持ちが告げることを躊躇わせていた。

 

明日は一体どうなるのかと、ずっと不安に駆られている

 

 告げることだけならできよう。

 だが、告げたところで変わるのは、不安に駆られるのが一人から四人になるという点だけだ。

 

リストラって……

大して偉くもなく、歳だけとった荷物はいらないということだよ

 

 若い者にカッコつけようとした結果がこれだった。

 情けは人の為ならずと言ったところで、現実はそんな都合よく幸福になれたりなどしない。

 

そんな……

少しくらいずる賢く生きていた方がいいのかもしれないけど、私にはどうしても合わなくてね

だけど、そんなの

 

 中年男性が自嘲気味に呟くが、誰もそれに反論することができない。

 最も年上のOLですら中年男性よりも若い。彼の積み重ねた日々に反論するだけの重みが三人にはない。

 

でも、家族のこと考えられるの、凄いと思います

 

 OLは弱気に呟いた。

 

 母が倒れてこの街に戻ってきた。父は亡く、病に侵された母は介護がなければ日常生活がままならない。入院するには健康で、老人ホームに入るには若すぎる。自宅で生活しなければならないが、一人では決してできない。

 最低な親であれば気安く見捨てることもできたのだろうが、自分を一人で育ててくれた母を見捨てることはできなかった。

 

 OLにだって生活がある。結婚をして家庭を持ちたいという気持ちがあった。だが、母の介護をしながらではそれも難しい。

 彼女にとって、自分の将来と母の日常を天秤にかけなければいけない現実が辛かった。

 

頼りなくはありますが、親ですから

 

 中年男性は優しく頷いた。

 

親は子供の将来が気になるものだからね。それは、きっと貴女のお母さんだってそうだと思うよ

そういうモノでしょうか

ああ

 

 少なくとも、OLの母親は彼女の幸せを願える人だと思えた。だって、こんなに母のことを想える娘が育っているのだから。

 

……なら、きっと、貴方のご家族も大丈夫だと思います

 

 彼の言葉を咀嚼しながら、OLは半分無意識でそう呟いた。

 

子供だって、親のことが大切ですから

 

 時には嫌だと思うこともあるけれど、ここまで育ててきてくれたから。

 だから、きっと悪意で報いたりはしないと思うから。

 

だから、ちゃんとお子さんも話を聞いて考えてくれるはずです。学校なら奨学金制度もありますし

 

 親だからこそ、子供に迷惑をかけたくないという親の気持ちを察することはできる。

 子だからこそ、親の困りごとに手を貸してあげたいという子の考えを想像することはできる。

 

 相手が誠実な人だからこそ、その家族だってきっと誠実であると思えるから。

 

……帰ったら、話してみようと思います

私も、家族に説明してみるよ

 

 将来に不安があっても、きっと支えてくれる誰かがいる。大切な誰かがいる。その誰かに勇気をもらっているからこそ、前に進む力が出てくる。

 どうなるか分からない未来を繋いでくれるのは、いつだって勇気をくれる大切な人だ。

 

 中年男性は残っていたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。そして、互いに少しだけ頷き合って、やはり今までの人達と同様に歩き去っていく。

 

みんな、行っちゃいましたね

そう、ね

 

 残されたのは、最初にこのベンチにやって来た女子大生と男子高生。

 

じゃあ、今度は私が、君の話を聞いてあげようかな

え?

何かあったんじゃないの? わざわざ部活帰りに公園に寄る理由なんてないだろうし

それは……

 

 もう少しだったというのに、試合に勝てなかった。練習通りの実力であれば確実に取れる内容だったはずだ。

 だけど、試合になるとどうしても体が動かなくなる。不意に頭が真っ白になって、暗い底から不安がよじ登ってくる。

 

試合に、負けたんです

 

 ずっと本番に弱かった。

 一度失敗すると、二度目の失敗を恐れた。二度目の失敗に対する不安がそれを現実にし、それが三度目の失敗を連想させる。

 

初戦はいい。勝ち上がっていくほどみんなが期待してくれて、期待されるたびに失敗したときのことを考えちゃって、そうすると本当に失敗して……

 

 実力がないのならそれでもよかった。

 でも、彼には確かに実力があって周囲から期待されてきたから、諦めるわけにはいかなかった。

 

いつもそうなんですよ。大事な場面でいつもやらかして迷惑かけて

本番に弱いんだね

はい

 

 自分はダメだ。能力があるとしても、それを活かすことができないなんて意味がない。

 実力を発揮しなければいけないと思えば思うほど、それが逆に不安を強くして失敗を繰り返す。

 

……そういう、貴女は?

え? あー、そうだよね。私の方が、よっぽど何かあったって感じだよね

 

 女子大生は怪我の治療のために靴を脱いでいた足を振った。

 

彼氏にね、振られたんだ

失恋、ですか?

いつの間にか後輩のことが好きになってたんだって

 

 ずっと好きだったし大切にしていたはずだった。

 あまり束縛が強い人だと思われないように距離感も考えてたし、プレゼントやデートの内容だってちょうどいいものを選んでいた。

 

 だけど、それがそもそもの間違いだったと知ったのは、今しがたの話だった。

 

恋人はわがままな方がいい。自分に頼ってくれる人の方がいい。そう言われちゃった

 

 恋人として無理のない心地の良い距離感は悪手だった。

 気遣いができてしまうことが、彼女の致命的な問題だった。

 

迷惑かける彼女になれなんて、そんなの無茶じゃない。私には無理だったの

 

 恋は正しいものが正解とは限らない。相手の好きなものが正解になるだけ。それは、時に間違いだといわれることでも正解だったりする。

 

 女子大生は、致命的に正しすぎたのだった。

 

って、ごめんね、君の話だったのにね

いえ、こっちのは大したことないですから

ううん、そんなことない。私の方がつまんないことだもの

 

 女子大生は靴を履いて静かに立ち上がった。

 

私ね、この性格は直らないんじゃないかなって思うんだ。君の本番に対する弱さも、きっとそう

ここって、せめて場数を踏んで慣れようとか。そういうアドバイスをするところじゃないんですか?

だって、言われ慣れてるでしょう?

…………

 

 確かに、ずっと彼は聞いてきた。

 試合を繰り返していけば慣れていく。そうすればいつかは本番に対する緊張だってなくなって、きっと本番に弱い性格も直るんじゃないかと。

 

君は何度だって緊張して、不安に駆られて失敗してしまう

 

 だが、それを直しても仕方がない。

 失敗をしない人生なんてない。恐れてしまうのは仕方のないことだ。

 

 そして、女子大生はそんな彼の性格に少しだけ救われていた。

 

君は、私の怪我をちゃんと治療してくれた

 

 ぴょんぴょんと飛び跳ねてみせる。痛みはあまりない。

 

その性格は直らないかもしれないけど、その性格だったから君は治療する準備を日頃からしていたわけでしょう? そして、そのおかげで私はちゃんと治療してもらえた

……そんなこと

あるの

 

 女子大生は要領がいい。気遣いもできるしミスをすることも少ない。だからこそ、男子高生の言葉を全て肯定してあげられる。

 彼氏に振られてしまった要素は、ここで彼を助ける強みになる。

 

ありがとう、ございます

ううん。私の方こそ聞いてくれてありがとう

 

 少しだけ晴れやかな女子大生の表情に、男子高生は首を傾げた。

 

ショックだったんじゃ、ないんですか?

うん、辛かったかな。でも……

 

 振られたのは悲しかった。自分のやって来たことが見当違いだったなんて思ってもみなかったから。

 

私、もう彼のこと、なんとも思ってないみたい

 

 女子大生は男子高生と向き合うよう、観客に背を見せて()()()()()()()()()()()

 

……そうですか

うん

 

 振り返る。

 表情は既に今までと変わらない女子大生のままだ。僕達には、彼女のその心情を推し量る術はない。

 

 彼女は男子高生に手を差し伸べて彼を立たせた。

 

ねえ、あれ見える?

あれ?

 

 女子大生は空に向かって指をさした。

 

夏の大三角で見る星、わし座のアルタイル。意味は“飛翔する鷲”

はあ

アルタイルって、連星って呼ばれる種類の星でね、知ってる?

いえ

連星っていうのは、互いの重力に影響しあってくるくる回る星って意味。こんな感じで

 

 女子大生が、握っていたままの男子高生の手を引いて回り始めた。

 

私一人じゃこんな勢いはつかない。でも、誰かと一緒ならそうじゃない

 

 二人の力で回転はさらに増していく。

 

 短所があったからこそ、女子大生の怪我を手当てする用意を持っていた。

 長所があったからこそ、男子高生の言葉にきっと違う道を提示できた。

 

加速度がついてエネルギーを蓄えたら、またきっと羽ばたけると思わない?

 

 この失敗は、挫折は、不幸は、決して人生最大級のモノではない。今後の人生で起こりうる数ある問題の一つに過ぎない。

 たとえありふれた失敗だとしても、一人では立ち直れないことだってある。

 

 だけど、一人ではなく二人なら。

 一人では決して耐え切れなくても、二人でなら頑張れることだって確かにあるから。

 

私達は変われないけど、明日からまた頑張ろう

 

 変わらなくてもいい。そのままでいい。

 今まで積み重ねてきた日々を否定する必要なんてどこにもない。

 

……なんか、一方的に元気づけてもらってすみません

ううん、違うよ

 

 女子大生は立ち止まって、男子高生から手を離した。

 

君は私をまた歩けるようにしてくれたから

 

 それは大したことのない治療だったかもしれない。

 だけど、失恋して逃げ出して、その果てに転んで足をくじいた彼女にとっては、本当に救われることだったから。

 

 また歩けるようにしてくれた魔法のようだったから。

 

君はどこの誰よりも早く、私を勇気づけてくれたもの

 

 女子大生はさらに男子高生から離れた。

 

じゃあ、私は帰るね。本当に、ありがとう

こちらこそ、ありがとうございました

 

 女子大生がゆっくりと歩き出し、男子高生はベンチに置いていたリュックを背負った。

 

…………あ、あの!

ん?

 

 女子大生が振り返る。

 

えっと、俺、何度でも治療しますから!

……ありがとう

 

 それが、最後の言葉だった。

 

 二人がゆっくりと歩き出し、それに合わせて幕が閉まっていく。

 

 

 

 

 

 ライトを切って、どこか夢見心地な気持ちでその場に立ち尽くした。

 どこか酩酊した意識の中で観客席から拍手が響き渡り、インカムの向こう側から『お疲れ!』という声が聞こえている。

 

 一分か二分か。

 無意識のまま舞台挨拶をするキャスト達にスポットライトを当てていると、徐々に舞台が終わったのだという実感がわいてきた。

 

「おわ、った?」

『うん、終わったよ。お疲れ様』

『お疲れ様です』

 

 インカムの向こうから、大和さんと葛西さんの声が聞こえてきた。

 

「二人とも、お疲れ様です」

『お疲れ。大変だったけど、何とかなったね』

『アクシデントなく終わって良かったです』

 

 キャスト達の挨拶が終わりキャスト達も舞台袖にハケると、舞台は完全に終了だ。

 この後、キャスト達は観客の見送りや配布していたアンケートの回収を担当する。裏方の僕達は機材後片づけだ。

 

 シーリングとスポットライトの主電源を切って舞台の方を確認すると、インカムの向こうが少し静かなのに違和感を覚える。

 

「あれ、他の人は?」

『二階席の子はもう降りてるし、監督達ならインカム外して入り口の方に走っていっちゃったよ』

「あー……本当だ」

 

 下を見下ろすと、インカムを外して見送りの方に交じっている二階席の子や新藤さんと高橋の姿も見える。

 僕達はこの一か月の間ずっとつけていたせいでインカムがあることに違和感を覚えないけど、普通はすぐに外してしまうらしい。

 

「二人はいかないの?」

『CD出したので、今から出ます』

『私も簡単に確認だけしてから行くよ。インカムの回収もしておかないとだし。山科君も下で待ってるね』

「うん」

 

 返事をしてライトを奥の方にしまう。

 

 そして、ふとこの後に待っている出来事を思い出した。

 

「……ふぅ」

 

 これから、大和さんとの約束を果たさなければいけない。

 あの倉庫でかわした約束の通り、僕は大和さんにとってのファンにならなければいけない。

 

 持ってきていた荷物をまとめて中を確認する。

 台本はもちろんだけど、直接話に行けるように約束の話に関係のあるものも持ってきている。

 

 手提げを持ってみんなのいる場所を見下ろす。

 客席付近では葛西さんがインカムを回収している姿があって、舞台袖の方では大和さんがインカムを付けたままひょっこり姿を現しているのが見えた。

 

 この場所からでも意外と顔はよく見えて、舞台袖付近にいる大和さんの表情も見える。

 

「……大和、さん」

 

 大和さんがふと顔を上げて視線が絡む。

 

 その名前を口にする度に鼓動は加速して、言いようのない感情が胸を締め付ける。

 視線を合わせているのがなんだか気恥ずかしくて、僕は大和さんからゆっくりと視線を逸らした。

 

「僕は、大和さんのことが……」

 

 この想いを口にするのは、これが最後だ。

 約束を果たすためアイドル・大和麻弥のファンとして想いを捨て去るその前に、一度でいいから言葉にしたかった。

 

 僕は、

 

 山科遥は、

 

「ずっと、ずっと、好きなんだ」

 

 恋をしている。ずっと一緒にいたいと思った。

 

 だけど、この気持ちは捨て去らないといけない。

 僕という存在は大和さんにとっては障害にしかなり得なくて、だからこそここで姿を消すべきだ。

 

 今日でお別れ。

 僕達の道は決してつながることはない。

 

「……言えたら、良かったのに」

 

 インカムを外して階段への扉に手をかける。

 

 そうだ。

 僕の想いは、決して照らされてはいけないのだから。

 

 

 

 

 

 音響卓からCDを取り出したところで、そっと息を吐きだした。

 

 青蘭高校との初めての合同公演。

 今までやったことのない夕焼けの演出。

 

 たくさんの初めてがある舞台は注目も高く、今日の観客の数はいつもよりもずっと多かった。

 正直言うと、こうして無事に舞台を終えたことに対しては嬉しさよりも安堵の方がずっと強かった。

 

『おわ、った?』

「うん、終わったよ。お疲れ様」

「お疲れ様です」

 

 どこかぼうっとした様子の山科君の声が聞こえて苦笑する。

 舞台終わりの、ふわふわとした夢見心地な感覚がいつになっても慣れないのは分かる。

 

『二人とも、お疲れ様です』

「お疲れ。大変だったけど、何とかなったね」

「アクシデントなく終わってよかったです」

 

 キャスト達が最後の挨拶を終えて見送りのために入り口の方に行く。

 

『あれ? 他の人は?』

「二階席の子はもう降りてるし、監督達ならインカム外して入り口の方に走っていっちゃったよ」

『あー……本当だ』

 

 山科君の苦笑が聞こえてくる。

 CDをケースにしまって、涼さんから鍵を受け取る。

 

『二人はいかないの?』

「CD出したので、今から出ます」

「私も簡単に確認だけしてから行くよ。インカムの回収もしておかないとだし。山科君も下で待ってるね」

『うん』

 

 涼さんが簡単に周囲を確認すると、インカムを外して客席の方に出ていった。

 音響卓の鍵を閉めてジブンも改めて確認をしてから、舞台袖から舞台の方に出た。

 

『……大和、さん』

 

 ふと、山科君の声が聞こえて顔を上げる。

 ピンスポがあるはずの場所には山科君がいて、こちらを見ているのが分かった。

 

 いつもの山科君にしては妙に熱っぽい声音に違和感を覚えながらも、山科君から視線を逸らすことができない。

 

『僕は、大和さんのことが……』

 

 聞くな。

 この言葉を聞いたら、決定的な何かが変わってしまうような気がした。

 

 その続きに来るようなセリフを、ジブンは一つしか思いつかないから。

 

『ずっと、ずっと、好きなんだ』

 

 言葉が出なかった。

 何を言われているのかが全く理解できなかった。

 

『……言えたら、良かったのに』

 

 いつから? どうして? なんでジブンが?

 

 数多くの疑問が湧いては消えていく。

 客席の方の声が引いて、まるで世界にジブンと山科君の二人だけになってしまったかのような錯覚さえ陥ってしまう。

 

 山科君はこれが聞こえているだなんて思ってもいないのだろう。

 だけど、それを聞いてしまったジブンは、この後の約束にどんな顔をして向き合えばいいのだろうか。

 

「う、そ」

 

 辛うじて出てきた言葉はそれを否定しようとするもので、今の短いひと時の意味は分からないことだらけだったけど。

 

「どうして……」

 

 一つだけ確信できたのは、ジブンと山科君はきっと一緒にいられないのだろう、という事実だけだった。




binary starは無事に閉幕しましたね。アクシデントを想像していた方はいたかもしれませんが、あれだけ練習したんだから本番は上手くいってほしいという親心(作者心)が働きました。
今回の舞台の内容(彼らの不幸とそれに対する答え)は、山科君が見つける答えに合わせています。そういう風になればいいなと思って作りました。

閉幕以降の会話は、僕がこの作品を考えた時に一番最初に書いたシーンでした。
「インカムのマイクを切り忘れて失言するなんてあるの?」という方はもちろんいらっしゃると思いますが、世の中そういうことをする阿呆がいます。僕です(内容は告白ではなかったですが……)。
このエピソードは、僕が演劇の大会で実際にやらかしたミスを元にしております、ということで。


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8/25(土) 「照らされる君に」

 階段を下りて客席の方に移動すると、葛西さんの姿を見つけた。客席の傍でインカムのチェックをしているらしい。

 手に持っていたインカムのコードを簡単にまとめながら葛西さんに声をかける。

 

「葛西さん」

「あ、山科君。インカム回収するね」

「ありがとう」

「全然。それより、この後も頑張ってね」

「うん」

 

 インカムを渡し、その顔を少しだけ見つめる。

 

 僕と同じ道を歩いていて、きっと僕より先の道を歩いている人。葛西さんがいなければ、この舞台だけではなく僕自身のこともどうなっていたか分からない。

 大和さんへの想いについては、葛西さんのアドバイスがなければどうにもなっていなかったはずだから。

 

「葛西さん、本当にありがとう」

 

 気持ちは自然と口から出ていた。

 

「どうしたの? そういうのは、麻弥ちゃんに取っておきなよ」

「ううん。葛西さんにだって、たくさんお世話になったから。ちゃんと伝えたかったんだ」

 

 真正面からちゃんと伝えると、葛西さんは少しだけ照れたように頬をかいた。

 

「すごい感謝されてるけど、全然気にしないで。私の方こそ、山科君には勇気をもらったんだから」

「僕から?」

「うん。舞台ではたくさんのアイデアをもらったし。抱えきれないくらいの荷物だから」

 

 僕が葛西さんにできたことなんてほとんどなかったと思うけれど、葛西さんがそう言うならきっとそうなのだろう。

 葛西さんが僕と大和さんの約束を知らないように、僕は葛西さんの全てを知っているわけではない。

 

 僕がこの一か月でたくさんのモノを手に入れたように、葛西さんもまたこの一か月で何かを得たのだと思う。

 

「私へのお礼はもうたくさん受け取ったから、後は麻弥ちゃんのために頑張って」

「うん、分かった」

 

 話しながらも葛西さんがインカムの電源を入れなおして設定の確認をしていると、ふと「あー」と声を上げた。

 

「山科君のインカム、マイクつけっぱなしだったよ。終わる時はちゃんと切っておいてね」

「あ、ごめん。完全に忘れてた」

 

 思わず頭を下げるけど、その言葉でふと体が固まる。

 

 ……マイクがオンだった?

 

「あの、大和さんは?」

「麻弥ちゃんなら、先に行くって言ってたよ」

「どんな感じだった?」

「ぼーっとした感じで。やっぱり、舞台終わった時ってなんか寝起きみたいな感じになるよね。……あ、麻弥ちゃんはこの後のこともあるかもね」

「……そ、っか」

 

 葛西さんの言葉に何とか返事をしながらも、僕の心臓は異常なくらい早くなっていた。

 

 あの時、大和さんはインカムを付けたままだった。

 なら僕のあの最後の告白もすべて聞こえていたのではないだろうか。少なくともインカムはマイクをオフにすることはあっても、イヤホンをオフにしておくことはない。

 

「……僕も、先に行っていいかな?」

「分かった。みんなには私から言っておくから」

「ありがとう」

 

 葛西さんに頭を下げて、振り返る。

 

 すると、葛西さんが「山科君」と僕に声をかけた。

 

「何?」

「私、男の子の中では山科君のこと、一番好きだよ」

 

 少し前ならともかく、その言葉の意味をきっと理解してしまっている今なら、動揺することもない。

 

「僕も、葛西さんに会えてよかったよ」

 

 それだけ告げて走り出す。

 体育館脇の大きな金属製のドアを開いて、きっと僕のことを知ってしまったであろう彼女の下へと向かった。

 

 

 

 

 

 倉庫に駆け込むと、いつものスペースの前に大和さんが立っていた。

 

「やま、と、さん……」

「山科君」

 

 少し荒い息を必死に整えながら大和さんの前に移動する。

 

「約束を、果たしに来ました」

「はい」

 

 返事を聞いて、一度だけ深呼吸をした。

 

「ですが、その前に一つだけ確認したいことがあります」

「なんでしょう?」

「インカム越しの言葉、聞こえてましたか?」

「────っ!」

 

 大きく見開いた目を見て確信する。もう言葉で答えてもらう必要なんてどこにもなかった。

 

「聞こえてたんですよね?」

「……はい」

 

 いざ肯定されると、自分で思っていたよりもずっと落ち着いているなと思った。

 

「聞こえちゃったなら、もう大丈夫です」

「でも、あれは……」

「気にしないでください」

 

 この想いを告げないことに意味があった。

 でも、伝わってしまったのなら隠したところで意味はない。

 

「僕はずっと大和さんのことが好きで、だから大和さんには悩んでいてほしくなかった。アイドルとして頑張る大和さんにとって、僕という存在は邪魔になると思ったので告げる気はなかったんですけど」

「それ、は……」

「白鷺さんにも言われてたんです。大和さんと関わるならちゃんと考えて、と」

 

 僕には、大和さんのアイドル人生やファンの人達の期待を、全て背負う勇気がなかった。

 意気地なしの僕は、その責任を果たすことができなかった。

 

「たとえ好きでも、大和さんへの迷惑になるくらいなら諦めようと思いました」

 

 そして、その代償行為として、大和さんの悩みを解決しようと思った。

 もし一つでも大和さんのために何かをできたのなら、それは充分気持ちを諦める理由になりえると思ったから。

 

 好きな人が、最後には少しでも僕のことをいい人だと思ってくれれば嬉しいと願って。

 

「僕が大和さんと約束したのは、そのためです」

「そうだったんですか……」

 

 きっと今の今まで知らなかったのだろう。だけど、それは僕がちゃんと今まで隠すことができていた確かな証拠だ。

 

「告白の返事はいらないです。もとより、貰う気もなかったわけですし」

 

 そもそも、これが最後の会話になるのだから返事をしてもらう必要がない。

 そして、伝えないために捨てるつもりだったのだから、この想いを諦める理由もなくなってしまった。

 

「それよりも、今は約束の話をさせてください」

 

 僕は手提げから、大和さんにもらった色紙を取り出した。

 

「これは……」

「大和さんのサインが書かれた色紙です」

 

 大和麻弥が正真正銘のアイドルであるという、間違いのない証拠だ。

 

「僕は羽丘との合同公演が上手くいくか不安でした。初めての人達と一緒になって頑張れるか分かりませんでした」

 

 だけど、そんな僕の背中を押してくれたのは大和さんだ。

 きっと大丈夫だと言ってくれて、この舞台を頑張る勇気をくれたのは大和さんだった。

 

「大和さんに勇気をもらったから、僕はこの舞台を頑張ることができました。プロの舞台を見てそれを活かそうと思えたのも、大和さんが悩んだ時に頑張れたのも、全部大和さんが勇気をくれたからできたことです」

 

 ずっと人に流されるままに生きていた。自分で選んだことなんてほとんどなかった。

 

 でも、大和さんに勇気をもらって、頑張ろうと一歩を踏み出すことができるようになった。

 この初めての恋に対して、自分から動こうと勇気を持つことができるようになった。

 

「大和さんに勇気をもらった証を一つでも残したかったから、このサインをもらいました」

 

 パスパレの人達とは何人も出逢ったけれど、僕に勇気をくれたのはたった一人だけだ。

 僕のアイドルになってくれた人は、目の前にいる彼女以外にはありえなかった。

 

「大和さんは、僕のアイドルなんです」

 

 この胸にあるのが恋だったとしても、ありのままの大和さんに勇気をもらった事実は揺るがない。

 大和麻弥はそのままで誰かに勇気を与えられる、正真正銘のアイドルだから。

 

「…………」

「大和、さん?」

 

 大和さんが俯いていた。

 僅かに肩を震わせて、両手で顔を覆っていた。

 

「うぅっ、うぅ……」

 

 少し顔を覗くようにすると、指の間から滴が垂れた。涙だと気付いた。

 

「ずっと、ずっと、アイドルなんて名乗れないと思っていました。裏方としてもアイドルとしても中途半端だったから」

「そんなことないです。大和さんは裏方としてもアイドルとしても活躍していました。両方、ちゃんとできてました」

 

 言葉を重ねる。

 

 大和さんが抱えている不安は僕が全部振り払う。

 僕が大和さんから勇気をもらったように、僕は大和さんから不安を取り除いであげられるはずだから。

 

 一人では頑張れなくても、二人でなら頑張れるようになるはずだから。

 

「フヘヘと笑って、機材のことに熱くなってしまう。そんな、アイドルらしくないジブンでも、アイドルだと胸を張っていいんでしょうか?」

「もちろんです。大和さんが嫌だといっても僕が証明します。大和さんが、自分をアイドルだと信じられるようになるまで、ずっと」

 

 恋をしている。でも、それと同じくらい応援している。

 

 だから、一人のファンとして好きなアイドルへこの想いを伝えよう。声が枯れるまで、何度でも。

 

「……本当に証明してくれるなんて、思ってもいませんでした」

「好きな人のためですから、当然です」

「当然、ですかぁ」

 

 涙声から、少しだけいつもの調子に戻ってきた。

 

「ありがとう、ございます……」

「いえ、僕は自分のしたかったことをしただけですから」

 

 そう、これはただの恋を諦めるための代償行為なのだから。

 大和さんの不安を取り除くことができたのなら、それだけで充分すぎる成果だった。

 

「僕は、本当に大和さんのおかげで変われたんですよ」

 

 自分の才能を信じられなかったけれど、今なら僕は“山科遥の才能”というものを信じることができる。

 勇気なんて何一つ持ち合わせていなかったけれど、こうして大和さんのために頑張るだけの勇気を手にれることができた。

 将来の夢なんてなかったけれど、今は心の底からやりたいと思えることができた。

 この想いを変えることなんてできないけれど、それでも僕には僕なりにできることがあった。

 

 それは、演劇部のみんながいたからこそできたことではあるけれど、大和さんがいなければ始まってすらいなかったことだから。

 

「だから、一つだけ」

 

 気が付けば、自然と口が動いていた。

 

「僕の夢を聞いてくれませんか?」

「はい」

 

 柴田との会話で、自分が裏方でいることを望んでいるのだと分かった。

 氷川さんとの会話で、大和さんがアイドルとして輝いていてほしいのだと思えた。

 

 だから、

 

「僕は、プロのライトワーカーになります」

 

 プロの舞台で活躍できる裏方になりたいと思った。

 

「そして、いつの日かパスパレとして舞台に立つ大和さんを照らしたい」

 

 世界中の誰でもない僕自身が、大和さんの魅力を一番引き立てることができるライトワーカーだと信じて。

 

 

────きっと素敵な舞台で、照らされる君に、愛を込めて。

 

 

 それが、僕の手に入れたかけがえのない夢だ。

 

「……ダメ、でしょうか?」

 

 大和さんの顔をまともに見られなかった。

 恥ずかしいことを言っている自覚はあったけれど、それ以上に大和さんにこの気持ちを余すことなく伝えたかった。

 

「山科君」

 

 反射的に顔を向けた。

 

「それなら、ジブンからも一つ、いいですか?」

「もちろんです」

 

 大和さんが一歩近付いてきた。

 近付いた距離の分だけ離れようとしたけれど、大和さんは素早く僕の手を取った。

 

 大和さんの体温が手のひらから伝わって、言葉にできない多幸感で頭が眩んだ。

 手を握られただけでこんなに幸福になるというのなら、これ以上を望めば僕はきっと死んでしまうかもしれないと思った。

 

「今まで、本当にパスパレのメンバーとして相応しいのか自信がありませんでした。輝いている素敵なメンバーの中で、ジブンがアイドルだとは思えませんでした」

 

 手に力がこもった。

 鼓動が加速する。

 

「でも、山科君にアイドルだと認めてもらった今なら、ジブンにも夢と言えるようなモノが見つかったような気がします」

 

 視線が絡む。

 目を離すことなんてできるわけがなかった。

 

「ジブンみたいに舞台に立ってもいいのかと、ジブンなんかって悲観的になっている人が、きっとジブンや山科君以外にもいるんだと思います。だから」

 

 その一挙一動が網膜に焼き付いて離れない。

 僕は、この時間を絶対に忘れることができない。

 

「今までのジブン達に、照らされざる皆に、勇気を届けたいと思います」

 

 表舞台に立てないと思う多くの人達、裏方でいなければいけないと思っている人達に向けて。

 

「ジブンは照らされざる皆のためにアイドルとして頑張りたいです。だから、山科君には……」

「はい、分かってます」

 

 そんな彼女の姿を客席の一番後ろにまで届ける、最高の輝きを贈ろう。

 

「約束を、してくれますか?」

「もちろんです」

 

 照らされざる皆のために大和さん(アイドル)が頑張り、アイドルの魅力を伝えるために(裏方)が頑張る。

 アイドルと裏方にできるのは、本当にそれだけのことだった。僕達の関係は、それだけで充分だった。

 

 繋いだ手をゆっくりと動かし、小指だけを絡ませる。

 

「ゆびきった」

 

 僅かに手を上下に振って、小指が離れた。

 

 指先に残った体温を抱きしめる。

 

 これから僕達はきっと歩き始める。その道中で、一人では頑張れない不幸があるかもしれない。

 だけど、アイドルはファンに勇気を送り、ファンはアイドルの不安を取り去る。僕達は決して一人ではない。

 

「行きましょうか」

「はい」

 

 今日という日が終わったら、僕達はもう出会わないのだろう。

 

 僕は大和さんへの恋心を捨てきれないまま、約束を果たすために歩き続けるのだと思う。一緒にいたいという気持ちを抱き続けながら、誰よりも大和さんを魅力的に照らすために。

 そして、僕は大和さんと過ごした一か月の日々を、いつまでも大切に抱きしめ続けるのだろう。

 

 

 

 僕達は、二人にとって恋人以上の契約を結び、さよならを受け入れた。




約束はこうして果たされました。
裏方としての「照らされざる君」から、アイドルとしての「照らされる君」へと。
夢も勇気もない「照らされざる君」から、夢と勇気を手に入れた「照らされる君」へと。


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a few years later 「貴方のためのカーテンコール」

 ざわつく舞台裏で、ふと時計を確認した。

 ライブまで残り一時間を優に切っており、開場も間もなくだろう。ジブンもそろそろ控室に戻って準備をしないといけない時間だ。

 

「……十年、か」

 

 今日は、パスパレの十周年記念ライブ。

 長い月日が経ったことに想いを馳せたくもなるが、それ以上に思い出すのは一番最初のライブのことだった。

 

 ここは十年前、初めてライブをしたジブン達が強烈な挫折を味わったあの会場。今度は間違いなく、ジブン達の手でファンの皆さんに届く演奏をしてみせると五人全員が意気込んでいる。

 今日は十周年を祝うライブではあるけれど、それ以上にかつてのリベンジを果たすためのライブでもあった。

 

「よし、頑張ろう」

 

 決意を新たにしていると、遠くから「おーい」と声が聞こえた。

 

「おう、姫さん。最後の確認をしに来たぜ」

「あ、お疲れ様です。……それと、姫さんは恥ずかしいから止めてほしいって言ってるじゃないですか」

 

 声をかけてきたのは、今回のライブで裏方の取りまとめをしている長峰さん。パスパレのライブにはよくお世話になっている人だ。

 仕事に関してはとても信頼できるけれど、いつもジブンのことを“姫さん”と呼んでくるのに少しだけ困っている。

 

「アイドルで俺達の仕事に精通している子なんて、世界のどこを探しても姫さんくらいだぜ? だから、あんたは間違いなく“裏方の姫様”だよ」

 

 確かに今着ている衣装はお姫様みたいな可愛いものではあるけれど、本当にお姫様と言われると気恥ずかしい気持ちになってくる。

 

「っと、時間がないんだった。簡単に連絡事項だけな」

「はい、お願いします」

「基本の進行はすっ飛ばすぞ? 今朝も説明したし、覚えているな?」

「大丈夫です」

 

 パスパレのメンバーと裏方の間を取り持つのは、いつの間にかジブンの役割になっていた。

 緊急時のマニュアル等はメンバーにも覚えてもらうけれど、特にジブンは裏方でしか把握しないような部分まで頭に入れることにしている。

 

 裏方の動きが分かれば、非常時に裏で何が起きているのかが分かるようになる。

 少なくとも、そうしたアクシデントの時にみんなのフォローがしやすい。

 

「……っとまあ、このくらいだな。大丈夫か?」

「はい、大丈夫です」

 

 頷きながら、今聞いたばかりの説明を頭の中で簡単に反芻する。

 

「気にすんな、仕事だからな。姫さんは姫さんの仕事を頑張ってくれや、俺達は姫さんのファンでもあるんだからな」

「ありがとうございます」

 

 長峰さんの言葉に礼を返すと、「そういえば……」と何かを思い出すそぶりを見せた。

 

「実は昨日、スポラ担当の奴が一人が親が倒れたって言って実家に帰ったんだよ」

「ええっ!? それ、大丈夫なんですか?」

「命に係わるとかではないらしいけどな。でも、大事もあるしってことで今日は代わりの奴を連れてきたよ。リハはそいつがやってたんだが、違和感はなかったか?」

「いや、全然気が付きませんでした」

 

 言われた今でも全然違いが分からなかった。

 前の人もかなりのベテランだったし、かなりの腕の人を連れてきてくれたのだろう。

 

「実は最近目をかけてる奴でな。話をしたら二つ返事で来てくれたよ」

「え、新人なんですか?」

「いや、新人っていうわけではないが。まあ、ライブが終わったら姫さんにも紹介してやるさ」

「ありがとうございます」

 

 来てすぐの舞台であれだけのパフォーマンスをすることに尊敬の念を抱きつつ、改めて時計を確認する。もう時間だ。

 

「では、時間なので行きますね」

「ああ。姫さんの演奏、楽しみにしてるからな」

「よろしくお願いします」

 

 こうして応援してくれる人がいることに嬉しさを感じながら、少し駆け足気味でみんなのいる場所に向かった。

 

 

 

 ライブの会場をどこにするかという話になった時、ジブン達は満場一致でここがいいと言った。

 あの日のリベンジは、みんなが心のどこかで誓っていたのだと知った。

 

「すみません、遅くなりました」

 

 控室に戻ると、すぐに頭を下げた。

 

「あ、麻弥ちゃん、おそーい!」

「すみません日菜さん……」

「もうすぐ始まりますから、マヤさん座ってください」

「はい、すみません」

 

 イヴさんに促されて、最後に身だしなみのチェックを行う。

 

「もうすぐライブ始まるね」

「彩ちゃん、今日は何回噛むかな?」

「今日は絶対噛まないってば!」

 

 パスパレとして十年の月日を過ごした今でも、みんな変わったような感じはしない。

 成長していないというわけではないが、確かに大切な何かは昔のままここにあるような気がしている。

 

「麻弥ちゃん、緊張してる?」

「いえ。……いや、少しだけ緊張しているかもしれません」

 

 千聖さんからの問いかけに肯定した。

 いつもの意気込むような気持ちとは違う、僅かな不安があるのを自覚した。やはり緊張はあるのだと思う。

 

「ダイジョウブです! 皆さんと一緒なら、きっと上手くいきます!」

「そうだね。私達の最高のライブを見せようね!」

 

 いつも通りなイヴさんと彩さんの言葉にどこかほっとさせられた。

 十周年なんて言ったところで、結局は普通のライブだ。今までと変わらず、その時できる最高の演奏を披露するしかない。

 

「みなさん、準備お願いします!」

 

 スタッフさんに声をかけられ、全員で頷き合った。

 

「行こう!」

 

──ライブが始まる。

 

 

 

 

 

 十年前から会場は少し古くなっているように感じたが、舞台にはいろんな痕跡が残っていて、それだけの積み重ねが少しだけ眩しいと思った。

 

「みんな! 今日は本当にありがとう!」

「彩ちゃん、それもう三回目!」

「でも日菜ちゃん!」

 

 MCパートに入り、少しだけ肩で息をした。

 曲数は既に十曲を超えており、ライブも折り返して後半に入っている。

 

 客席はサイリウムの海に飲まれていた。

 視界を埋め尽くす数多の光は、ジブン達のイメージカラーである五色に染まっており舞台の照明以上に輝いている。

 

「私、またいつかここでライブをしなきゃいけないって、ずっと思ってたから」

 

 一番最初のライブのことを忘れたことなどない。

 あの苦しい日々を忘れてはいけないと思っていた。それはたとえ指示されたものであったとしても、やることを選んだのはジブン達だから。

 

「あのお披露目ライブで、私達は来てくれた人達を裏切っちゃった」

 

 客席からは「気にしないで!」とか、慰めるような言葉が投げられる。

 こうして優しい言葉をかけてもらえるようになったのは、ひとえにここまで真摯に頑張ってきたからだ。

 

「ありがとう。……そう。だから私はここで、この十年で成長したんだって証明したいと思ったの」

 

 彩さんの言葉にみんな頷く。

 

 それは、彩さんだけの気持ちではない。

 ジブン達全員が言葉にせずとも抱いていた想いだ。それは、このライブの場所を全員ここにしようと言った時、お互いに確認したこと。

 

 口パクもアテフリもない、本当にジブン達自身の演奏をする。

 いつだって最高のライブにするのが、パスパレらしさだから。

 

「だから、今日来てくれたことはもちろんだけど、こうして十年間応援してきてくれたことがすっごく嬉しいの」

「何度伝えても足りないくらい?」

「もちろん!」

 

 彩さんが問いかけてきた千聖さんに向かって強く頷き、そして客席の方に視線を戻し──

 

「だから、これまでの日々を私達は……っ!?」

 

──唐突に、照明とBGMが落ちた。

 

「え……?」

 

 会場全体がいきなり暗転し、サイリウムの光だけが光源となっている。

 舞台上に向かっている光は軒並み落ちており、お互いの姿を確認することができない。

 

「すみません! 機材トラブルだと思います! 今、事情を確認しますから、落ち着いてください」

 

 千聖さんが素早く観客に向かって声をかけてくれる。

 こうした咄嗟の判断と行動の速さには、いつも助けられてばかりだ。

 

「すみません、何がありましたか?」

『すまん、今事情確認中だ。音響も照明も落ちてるってことは、おそらく電源周りだとは思う。今、どの機材が動いて、どの機材が動かないのかを確認してる』

「分かり次第教えてください」

『分かった』

 

 長峰さんとの会話を短く終わらせる。

 ステージ上では彩さんが「えっと、えっと……」と困惑した表情を見せている。

 

 十年という月日の中で不意のアクシデントには慣れてきたけど、やはり十年前のことを思い出してしまっているのかもしれない。

 

 ……いや、思い出さないわけがなかった。

 今は幸い曲の途中ではなかったけれど、それでも機材トラブルで止まったのはあの時のようだった。

 

「麻弥ちゃん」

「電源周りのトラブルらしいです。今は状況の確認と対応をしているみたいで」

「どうする?」

「マイクは機能していますし、今すぐ楽器の確認をすれば演奏自体はできると思いますけど……」

 

 演奏は可能だが、ちゃんと演奏できるかと言われたら怪しい。

 少なくともジブンはできるし、おそらく千聖さんも合わせてくれるだろう。だけど、珍しく厳しそうな様子の日菜さんとか、完全に過去のことを思い出している彩さんが動けない可能性がある。

 

 言葉でつなぐにしても、このアクシデントの中で不安がる観客のざわつきを止める術がない。

 

「どうしたら……」

 

 音じゃない。

 目に見える何かが、この声を届けるための──

 

「え?」

 

 

──その時、赤い光がジブンの周りを照らし出した。

 

 

 それはまるで、唐突に声を呼びかけられたようだった。

 唐突にジブンのことを照らしたその光が、まるで何かのメッセージみたいに思えた。

 

 しんと静まり返った会場で、ジブンはそのオレンジみたいなスポットライトを浴びていた。

 

「これ、は……」

 

 僅かに呟くと、ライトは徐々に青みを帯びて消え、今度は普段通りの緑のライトを当ててきた。

 

 そのライトに声はついていなかったけれど、その意味をジブンは完全に理解することができた気がした。

 なぜなら、茜色から藍色…………いや、()()()()()()()に変化する演出なんて、ジブンは一つしか知らないから。

 

 胸の高鳴りを自覚しながら、マイクをオンにした。

 

「パスパレに入った頃、ジブンにはアイドルができていないと思っていました」

 

 場を繋ぎつつ観客をなだめるように、ゆっくりと喋りだす。

 

 これは、彼が作り出してくれた光だ。

 最高の舞台で客席の一番後ろにまで届く、大和麻弥を誰よりも魅力的にすることができる、最高のライトワーカーが贈ってくれた照明。

 

 証拠はない。根拠もない。

 ただ、そうだという確信だけがあった。

 

「でも、ジブンのことをアイドルだと認めてくれる人がいたから、こうしてここまでやってくることができました」

 

 ずっと約束を果たす時を待っていた。

 普通は無理だと常識的なジブンが訴えていたけれど、それでも信じていた。

 

 だって彼は、大好きな人(ジブン)のためになら当然だと言ってくれたから。

 

「アイドルとしての日々を十年間積み重ねてきました。大切なことはあの頃のままに、変えたいことは重い扉を開けるようにゆっくりと」

 

 一人では歩んでこれなかった。

 

 パスパレという五人だったから。

 アイドルとファンという二人だったから。

 

 この十年の日々を余さずこの胸に抱えて来れたのは、これまでの日々をジブンが大切に思えていたからだ。

 

「ジブン達が歩んできた今までの日々を、忘れることができない日々を、忘れないように」

 

 他のスポットライトがついて、みんなを照らし始めた。

 徐々に他の照明も回復し、ゆっくりと会場全体が明るくなっていく。

 

 次の曲は確認するまでもない。

 今この気持ちを届けるにふさわしい曲だから。

 

「だから、この曲を贈りたいと思います」

 

 彼が最高のライトを届けてくれたのだから、今度は自分が最高の曲を届けなくてはならない。

 

 ドラムステックを打ち付ける。

 みんながそれぞれの楽器を手に取って構えた。

 

 1、2、3というカウント共に演奏が始まる。

 

「ぎゅっDays」

 

 忘れられない日々しかない。

 カレンダーを指折り数えるように、ジブン達の過ごしたあの日々は、決して忘れることなどありえないものだから。

 

 前奏が始まり、サイリウムが一面の緑に染まった。

 

──なんでかな? 心の奥がヒリヒリして泣きたくなる 解決策がハテナ?

 

 ずっと、疑っていた。

 こんな表に出るのが得意ではないジブンがアイドルをしていてもいいのかと。

 

──どうしてなの? キラキラになれないジブンを責めて

 

 みんなが羨ましかった。

 あんなに綺麗に輝いていて、裏方気質なジブンがどうしても場違いに思えた。

 

──理想と現実 見比べる

 

 彩さんの言葉に憧れて始めたけれど、ジブンにはどうにもアイドルが分からなかった。

 何をすればアイドルになれるのかとずっと考えていた。

 

──ふーりふーりふらー 振り子みたいな

──中途半端は嫌だ

 

 裏方とアイドルのどちらにもなり切れないジブンが嫌で仕方なくて。

 だけど、そんな不安や悩みを彼が振り払ってくれたから。

 

──私で

──私を

 

 今、この場所に立っていられるんだ。

 

──捕まえて

 

 彩さんがパートを飛ばした。

 

 驚いてそちらを確認すると、彩さんからアイコンタクトが飛んでくる。

 きっと、先ほどの話から何かを想ったのかもしれない。

 

──ぎゅっと

──ぎゅっDays ぎゅっDays

──気持ちと

──ぎゅっDays ぎゅっDays

 

 観客からの合いの手が聞こえてくる。

 頭の中が真っ白になって、だけど確かに体は動いていた。

 

──自分自身で重い扉を開けに行くぞ

 

 心の奥底から、嬉しい気持ちが沸き起こってくる。

 この声が、この音が、会場中に響き渡っているのを感じていた。

 

 今ジブンがいるここは、きっと約束にふさわしい最高の舞台なんだと思った。

 

──みんなを

──ぎゅっDays ぎゅっDays

──だいすき

──ぎゅっDays

 

 ふと、このライブが終わったら彼のところに行こうと思った。

 

──ありのままでいよう

──胸を張れ

 

 そして今のジブンを、約束を果たすに足るアイドルとしてのジブンの姿を、最高のライトワーカーになった彼に見てもらいたいと思った。

 

──ハートくるくる満タン

──ぎゅっDays ぎゅっDays

 

 彼と約束を交わしてからの数年間を過ごし、それまでの日々を積み重ねてきた。

 それはお互いに約束を果たすため、歩き続けなければならなかったから。

 

 でも、約束はこうして果たされた。

 

──これから先も

 

 このライブが終わったら、また再び彼と一緒に同じ日々を積み重ねていきたい。

 

 だから、ジブンと彼の新しい日々の始まりは、

 

──信じていこう

 

 

 あの日言えなかった、告白への返事をするところから始めようと思う。




歌詞は書きながら唐突に入れようと思いました。まる。



活動報告に後書きと感想を用意しています。
もしよろしければ、覗いていただけますと幸いです。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=226730&uid=22426


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番外編:山科遥~照らされざる君に~
a few years later 「もう一度、ここから」


 駅前では、イルミネーションが始まっていた。

 

 いつもは地面からのわずかな白色の光が輝いているだけの木々も、この時期は大量のLEDライトを付けて演出装置としての役割を果たしている。

 色合いは青と白を基調としており、アクセント的に暖色系の光が彩られている。木々のそばにはサンタやトナカイの人形が置かれており、どこかから聞こえるきよしこの夜と合わさって今日はクリスマスだったことを思い出した。

 

「イルミネーション、興味あります?」

「あ、大和さん」

 

 後ろから声をかけてきた大和さんのおかげで我に返る。大和さんの方を振り向いてからすぐに時計を確認すると、いつの間にか約束の時間5分前になっていることに気が付いた。

 

「早かったですね」

「早かったですね、ってジブンよりも早い山科君に言われても……」

「それもそうですね」

 

 当たり前なツッコミに苦笑する。

 

「それで、山科君はイルミネーションするんですか?」

「うーん……別に設備があるわけでもないですからね」

 

 よく知らないけど、かなり大変なんじゃないかとは思う。そもそも今の僕はアパートでの一人暮らしだし飾る場所がない。

 

「イルミネーション用のLEDって、かなりの値段しますよね……」

「まあ、昔よりも安くなったとはいえ、白熱球などに比べればやはり値段は上がるはずですから」

 

 LEDライトは白熱球よりも寿命が長く、電力消費当たりの光量が大きい。またライト自体が熱を持ちにくいため火傷を気にする必要もない。色合いも他の電球よりもはっきりと出る。

 イルミネーションがこれほどにまで普及したのは、ひとえにLEDというライトが向いているからに他ならない。

 

「ただLEDでイルミネーション設備を整えるってことは、確実に数年にわたって使うことを想定しないとじゃないですか。正直、今の状況でいつまであの家に住んでいるかも分からないですからどうしようかなと」

「初期投資が馬鹿になりませんからね」

 

 結局、今の僕のような賃貸暮らしの身ではなく、自分の家を所有している身でなければ難しいのが現実だろう。

 

「それに自分の家だと少し寂しい感じにもなりますし、僕はこうして街中のを見るので充分ですよ」

「それもそうですね」

 

 と話し込んでいると、周囲から鐘の音が聞こえてきた。早めに会えたというのに、いつの間にか約束の時間を過ぎてしまっていたらしい。

 

 揃って時計を確認して、互いに顔を見合わせる。

 

「そろそろ行きましょうか、屋外だと寒いですし」

「そうですね。こっちです」

 

 

 

 

 

 お互いに日中は仕事があったので、今日はご飯にいくだけ。

 そこに何も思わないような年齢でもないが、何か特別な意味を込めているという保証もまたなかった。

 

「どうかしましたか?」

「いえ、なんだからしいなと思ってしまって」

 

 今日やってきたのは個室の居酒屋。

 大和さん自身がアイドルとして活動しているというのは当然あるのだろうが、それと同じかそれ以上に大和さん自身の好みも含まれているのだろう。

 

「狭いところが好きなのは相変わらずなんですね」

「はい。やっぱり落ち着くといいますか、おさまりがいいといいますか」

 

 部屋に案内された僕達は、とりあえず何品か注文して歓談に興じていた。

 

 十周年ライブが終わった後に連絡先を交換したが、こうしてちゃんと話す機会ができたのは初めてだった。

 大和さんと過ごした高校二年生の夏休み。あの一か月の思い出さえあれば、僕はそれで充分だと思っていた。だけど、約束を果たすためにひたすら歩き続け、こうして僕達は互いに約束を果たした。大和さんはアイドルとして最高の舞台に立ち、僕は裏方として最高の輝きを届けた。

 

 今こうして僕がまた大和さんと新しい日々を積み重ねることができることは、僕にとって最上の報酬なのかもしれない。

 

「えっと、今日は来てくれてありがとうございます」

「いえ、僕の方こそ誘ってくれてありがとうございます。それにしても、今日はいったい……」

 

 二人だけでなんて、何の理由もなく誘うわけがない。少なくとも、そうだったら白鷺さんが許してくれないだろう。

 

「約束を果たしたので山科君と話したかったんですけど、休みがどうしても今日くらいしかなくて」

「なるほど」

 

 僕は大和さんのことをメディアを通じて見てきたけれど、大和さんは僕の歩みを知らない。

 

「なら、まずは僕の話を少しだけさせてもらいましょうか」

「ありがとうございます」

 

 大和さんと別れた後の僕の歩み。それを少しだけ思い返した。

 

「あの夏、僕がプロの劇団の見学に行ったのを覚えていますか?」

「宮川タカユキさんのところに行ったのですよね? 千聖さんのこともありましたから、ちゃんと覚えてますよ」

「あの時は盛大に釘を刺されましたね……」

 

 その見学の件があり、僕は劇団の原田さんや劇場のスタッフさん達との繋がりを手に入れた。

 

「高校を卒業した後はそうした繋がりに助けてもらいながら、劇場スタッフの専門学校に進学しました」

 

 照明専門のコースに入り、プロの裏方になるための道を歩み始めた。

 僕と同じように舞台を照らすことを好きでいる仲間達と共に、僕は柴田を始めとしたみんなに認められてきた技術を磨いてきた。

 

「そして、専門学校に通いながらではありますが、柴田が入っていた劇団の裏方として活動してましたね。だから、専門学校時代はあの時とほとんど変わらないですよ」

「演劇を続けてたんですね」

「はい。でも、大和さんだって映画とか出てたじゃないですか」

「そんなことも確かにありましたけど、ジブン全然演技できてなかったですし……」

「全然そんなことなかったと思いますよ」

 

 葛西さんと一緒に映画を見に行ったけれど、大和さんの演技は結構堂に入っていたと思う。

 

「え、涼さんとも繋がってたんですか!?」

「あの夏で連絡をしなくなったのは、大和さんだけですよ」

 

 驚いた様子の大和さんに思わず笑ってしまった。

 

 あの日々の中で僕は大和さんに恋をして、それを悟られず諦めるために頑張ってきた。だけど、結局ばれてしまって、想いを諦める必要もなくなった。だからこそ僕は今でも大和さんのことを想っているけれど、僕の存在が大和さんの邪魔になるという事実自体は変わらない。

 

 もともと告白の返事なんて必要なかったし、返ってきたところで断られるだけなのは考えるまでもない。

 だから、僕は大和さんに連絡することができなかった。連絡をしたところで、どんな風な顔をすればいいのか分からなかったから。

 

「涼さん、全然そんな話してなかったのに。いや、最近はあまり連絡も取れてませんでしたけど」

「僕が共通の知り合いに頼んでたんです。本当は、大和さんが僕のことを忘れていたとしてもおかしくないと思っていましたから」

「そんなことありえませんよ! ……山科君にとって忘れられないように、ジブンのアイドルとしての日々の中でも忘れられない出来事でしたから」

「そう言ってもらえて嬉しいです」

 

 僕のやったことが大和さんのためになっていたというのなら、これ以上のことはない。

 僕の一方通行で充分だったのに、大和さんもまた僕との日々を大切に思っていてくれた。大和さんを薄情だと思っていたわけではないが、きっと「そんなこともあったな」と思う程度の、そんな遠い過去の思い出になっているだろうと思っていたから。

 

「まあ、そんな感じで専門学校を卒業した後はすぐに就職してずっと頑張り続けました。いつか、大和さんが立つであろう最高の舞台で、裏方として呼ばれるように」

 

 そして、そのきっかけは僕の予想よりも早くやってきた。

 

「あの時、本当は僕はいなかった。でも偶然にも欠員が出て、そのヘルプとして僕が呼ばれたんです。僕がずっと『パスパレの舞台に裏方として参加したい』って言ってたのを長峰さんが知っててくれたんだと思います」

「ジブンも本番前に聞きました。欠員が出て急遽補充をしたって。その時は誰か分からなかったですけど、あの光で気が付きました」

「あれは割と独断に近い形でやったので、後からどやされましたよ……」

 

 セットリストが分かっていたので、大和さんの曲が来ることも承知で照らすことができた。

 色については本当にただの思い付きではあったのだけど、こうして分かってもらえていたのなら、どやされてでもやったかいがあるというものだ。

 

「山科君のおかげで本当に助かりました」

「いえ、あれは大和さんが自分で観客の皆さんを落ち着かせてくれたからです。長峰さんが『流石は、裏方の姫だぜ!』って言ってましたから」

「あの人はまた……」

「いいじゃないですか、裏方のお姫様(アイドル)。僕は好きですよ、大和さんらしくて」

 

 アイドルでもあり裏方でもあるという、大和さんらしさが非常に出ている呼び方だと思う。

 

「僕のこれまではこんな感じです」

 

 と、話題が一度落ち着いたところで扉からノック音がした。どうやら料理が届いたらしい。

 

「とりあえず、料理食べましょうか」

「そうですね」

 

 キリもいいので、僕の話はこれで終わりにする。

 

 思い出してみれば、楽しいことも大変なこともたくさんあった。

 それでも、こうして大和さんがいてくれる未来が来てくれたというのなら、これまでの日々は何一つ無駄ではなかったのだと確信できた。

 

 

 

 

 

 居酒屋を後にしてからは、酔い覚ましもかねて少し夜風にあたることにした。

 

 店からしばらくイルミネーション等を眺めながら歩いていると、長いベンチが目についた。ちょうどあの舞台で見たような、二人でかけられるような大きさのベンチだ。

 ベンチは後方からライトアップされており、まるでスポットライトが当たっているみたいにも見える。

 

「大和さん、大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です」

 

 お互いに酔いつぶれるほど飲んだというわけでもないので、意識ははっきりしていた。この分なら帰るのにも問題はないだろう。

 

「今、何時でしたっけ?」

「今ですか? 11時近くですね」

 

 街はまだ明るいが、気温は確かに落ちている。待ち合わせた頃は家族連れも多かったが、今はもう恋人達が行きかうばかりだ。

 ……僕達も、そういう二人に見えているのだろうか?

 

「山科、くん」

「はい、何ですか?」

「今日誘ったのは、これまで山科君の話が聞きたかったのもそうですけど、もう一つあったんです」

「もう一つ、ですか?」

 

 何か話題になるようなことがあった記憶はない。あの夏でのことだろうか?

 

「あの日の告白の返事を、したいと思っていました」

「え?」

「山科君と約束をしてから、ずっとそれを考えていました」

 

 大和さんは僕の方をあまり見ていなかった。

 ただ、訥々と自分の気持ちを語っているようだった。

 

「あの時のジブンにとっては、山科君の気持ちは意外で、ジブンが山科君のことを好きかどうかなんて、考えたこともありませんでした」

「だと思います。大和さんは自分のことで精いっぱいで、そんなこと考える余裕なんてなかったから」

「はい。だから、あの約束を交わしてから山科君のことを、恋というものについてずっと考えていました」

 

 ずっと自分には関係ないと思っていたから、考えたこともなかった。

 でも、僕の告白をきっかけにして、大和さんはようやく考え始めた。

 

「十年近く考えて思ったんですけど、考えたこともなかった時点であの時のジブンはきっと山科君のことを好きではなかったんだと思います」

「そうですね」

 

 大和さんの好きは友人として、同好の士としての好きだ。

 それは決して僕が大和さんに抱いていた気持ちと同じではない。僕の抱いていたものはもっと焦がれるようなもので、苦しさと幸せが伴ったものだったから。

 

「だから、あの時の返事はきっと『すみません』だと思います」

「……わざわざ、言っていただいてありがとうございます」

 

 こうして断ってくれたのは大和さんなりの優しさだと思う。

 あの一か月は良くも悪くも僕を縛り付けている。だからこそ、あの日の憂いをすべて断とうとしているのだ。

 

「山科君と再会すると思ったら、あの時のことはすべて終わらせておきたいと思いました。あの日の続きではありますが、だけど今この瞬間からの新しい日々を始めるために」

「はい」

 

 これは、前に進むための話だ。

 僕達が今までのアイドルと裏方としての関係ではなく、新しい友人としての関係のための。

 

「それで、これからの話をする前に、一つだけ聞いてもいいですか?」

「大丈夫ですよ」

 

 大和さんはそっと僕の手を握った。

 あの約束の時のように、互いの存在を確かに感じるための温もりだった。

 

「ジブンはアイドルです。先日十周年を迎えましたが、これからも舞台に立ち続けると思います」

「はい」

「山科君はジブンとの約束を果たしてくれましたけど、これからはどうしますか?」

「どうする、ですか?」

 

 その意図をいまいち図りかねた。

 

「山科君は約束を果たしました。なら、これ以上ジブンを照らす必要はないわけじゃないですか」

「……ああ、なるほど」

 

 大和さんの言いたいことを、何となく理解した。

 

 これまで僕は頑張って大和さんのいる舞台を目指してきた。

 だけどその約束は果たされて、僕達を繋ぐ約束は何も残っていない。大和さんはそれが気になっているのだ。

 

 僕は少し言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「あの約束の内容、大事なのは『大和さんが一番輝く舞台で大和さんを照らすこと』ではないですよ」

「そうなんですか?」

「はい。僕が大和さんに誓ったのは『大和さんに舞台で輝いてもらうこと』です」

 

 それは、たった一度の舞台で叶えられるものではない。

 

 大和麻弥というアイドルが舞台に立つのなら、僕は何度だってそれを照らし続ける。僕達の約束は確かに果たされたが、それは約束が終わったことを意味しないのだから。

 

「大和さんが()()()()()()姿()()()()()()()()()()()()()、たとえ舞台に立つことがなくても照らし続けるということです」

 

 僕に夢と勇気を送ってくれたアイドルというのは、そういう存在だ。たった一度だけではない。あの夏の日から約束を果たすまでの何年もの間、僕は勇気をもらい続けた。

 だからこそ、僕はそれに対して同じだけの光を届けなければいけない。一度の舞台では足りないから、何度でも舞台を照らし続けよう。

 

「だから、大丈夫です」

「……よかった」

 

 大和さんは小さく呟いた。

 

「なら、改めて約束をしてもらっていいですか?」

「いいですよ」

 

 何度だって約束を交わそう。僕はそれを躊躇ったりなんてしない。

 だって、僕の現在は君にもらったものなのだから。

 

「山科君はこれからもずっとジブンのことを、見ていてくれますか?」

 

 愚問だった。

 

「もちろんです。僕はずっと大和さんだけを見て歩いてきましたし、大和さんを照らすためにここまで来ました」

 

 大和麻弥を最も魅力的にできるライトワーカーは僕しかいないと信じている。今はまだそうではないとしても、そう遠くない未来では確実にそうなっているはずだから。

 

 小さくうなずいてから、僕はクリスマスプレゼント用にラッピングされた小包を取り出した。

 

「これは?」

「頑張ってきた大和さんへのクリスマスプレゼント……ですかね」

「あ、ジブン、気が利かなくて……」

「気にしないでください」

 

 大和さんと贈りあうと言ったわけでもない、僕が勝手に用意したものに過ぎない。

 

「開けても、いいですか?」

「どうぞ」

 

 リボンをほどき、中を開く。

 大和さんがラッピングから小さな箱を取り出して、ゆっくりとそれを開いた。

 

「ネックレス、ですか?」

「はい。WitchCraftというブランドのものです」

 

 ガラスの靴をモチーフにしたシンプルなものだ。

 

「つけてもらってもいいですか?」

「あ、はい」

 

 大和さんからネックレスを受け取って、背を向けた大和さんにつける。

 

「仕事柄つけることが増えたとはいえ、やっぱりなんだか慣れませんね」

「大丈夫です、似合ってますよ」

 

 大和さんは少し自分の胸元のあたりを見下ろしている。

 その姿がなんだか大和さんらしくて、少しおかしかった。

 

「先ほども言いましたが、僕は大和さんが舞台に立つ限り、ずっと光を当て続けますから」

「…………」

 

 大和さんは、少し微妙な表情をしてから苦笑した。

 

「どうかしました?」

「いえ、山科君らしいかなと思いまして」

 

 そう言って、大和さんが僕の手を握った。

 

 全身が熱くなって心臓が早く鼓動する。何年経ったとしても、やっぱり僕は目の前にいるこの人のことが好きなんだと理解した。

 

「これからも照らしてくれるんですよね?」

「はい」

 

 確かめるように何度も繰り返す。

 もしかしたら、僕達は気づいてないだけで酔っているのかもしれなかった。

 

「ならきっと、山科君は裏方の王子様なのかもしれませんね」

「え?」

 

 カッと顔が熱くなる。

 

「それって──」

「じゃあ、そろそろ行きましょうか」

 

 大和さんが僕の言葉を遮るように立ち上がった。

 

「これからも、よろしくお願いします」

「え? ああ、こちらこそよろしくお願いします」

 

 今の言葉の意味を、僕は正確に理解できなかった。

 ガラスの靴を贈ったからなのか、大和さんがお姫様といわれることに対する対比なのか、それとも……。

 

「それで、この後はどこに行くんですか?」

「そうですね……」

 

 続きを問うことを止めた僕は、一緒に立ち上がって大和さんの隣に駆け寄る。

 

 大和さんがどう思っているのかは分からないけれど、僕が本当に実力だけで最高の舞台で大和さんを照らせたのなら、その時は──

 

「とりあえず、駅の方に行きましょうか」

 

 

──もう一度、この想いを告げてみたいと思った。




遅刻ギリギリですが、クリスマス的な番外編。
基本書くのが遅いのでドタバタで書いたので大丈夫かなと不安だったりもします。個人的にこういうイベントに合わせて書くの、苦手なのです……。
その後のお話や、しれっと別の番外編の内容に触れるようなものも仕込んでたりします。



で、これが本題なんですけど、
「ぎゅっDAYS」のCDが出ますね!!!!!!!!!!!!!
めちゃめちゃ待ってたのもあって、すごく嬉しいです。
みんなも大和さん推していこうね……。


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番外編:葛西涼~魔女と王子とガラスの靴~
ブリキの恋、次なる舞台


 私は魔女。

 灰を被った少女を美しくする、不思議な魔法使い。

 

 カボチャは馬車、ネズミは白馬に。

 そして、ガラスの靴を彼女に差し出す。

 

──王子と結ばれるのは美しい彼女であって、私じゃない。

 

 

 

 

 

 青蘭高校との合同公演が終わって数日が経った。

 片付けや反省会もそこそこに、みんなの気持ちは既に大会へ向かっていた。

 

 夏休みも終わって二学期に入ると、今度は秋の地区大会に向けての練習が始まる。

 高校の演劇部にとっての大会というのは、全国高等学校演劇大会の一つしか存在しない。秋に開催される地区大会を最初に、都道府県、地方、全国へと一年をかけて行われる大きな大会だ。

 

 今年の地区大会の開催予定日は10月14日で、大会までもう既に二か月を切っていた。全国の演劇部はこの一度きりの大会に向けて全力を尽くして準備をする。それは、私達だって例外ではない。

 青蘭との合同公演の片付けが終わると、早速部会が開かれることになった。

 

「まずは、みんな合同公演お疲れ様。大変だったけど、すっごくいい舞台だったと思う」

 

 部長の七海ちゃんの言葉に、みんながうなずく。

 合同公演は大会ではやらない二時間という長丁場に加え、初めての人達と作り上げたものだ。普段の練習や公演では得ることのできない、貴重な経験を得ることができたと思う。

 

「そして、次はその経験を生かして、地区大会に向けて準備をしていきたいと思います」

 

 そう言いながら、七海ちゃんが紙の束をみんなに向かって配っていく。

 

「これが、次の大会で使う台本。タイトルは“【再上演】シンデレラ”」

「再上演、シンデレラ……?」

「うん。今年は、これで行こうと思う」

 

 台本を受け取って、軽く中を確認する。

 

 タイトルの通り、この作品はシンデレラを基礎にして描かれた物語のようだった。

 しかし、本作で主役をやるのはシンデレラではなく、魔女と王子の二人。シンデレラでは本来描かれていなかった二人の様子を描くような形にして作られたのが、この物語らしい。

 

 作ったのは、普段から脚本を担当している未来ちゃん。

 合同公演では普通に裏方を担当していたから、その間に作ったのだろう。

 

「みんな、どうかな?」

 

 少し周囲を伺うけど、特に異論のあるメンバーはいないようだった。

 実際すごく面白そうな作品で、今からどんな演出にしようかと私の頭の中ではもう演出プランが練られている。

 

「ありがとう。次に、監督は麻弥ちゃん、演出は涼ちゃんにお願いしてもいいかな?」

「大丈夫です」

「私もいいよ」

 

 お願いとは言っているが、七海ちゃんが役者として参加するときは、私と麻弥ちゃんが舞台の監督と演出をやることが多い。今までもそうだったし、特に問題はない。

 今回は、本当にいつも通りの形で準備をしていくことになるらしい。

 

「次に、オーディションについてだけど、時間もないから明日には終わらせてしまいたいと思ってる」

 

 役の数はそんなに多くない。

 準備をする時間はともかくオーディション自体は明日で終わらせることができると思う。

 

「とりあえず、私の方からは以上かな。後は、麻弥ちゃんと涼ちゃんに任せてもいい?」

「分かりました」

「任せて」

 

 頷いて麻弥ちゃんと二人で前に出る。

 

「それじゃ、最初は日程の確認から始めるね」

 

 大会についての資料は既にもらっている。

 

「まず、大会の本番が10月14日。今から一か月と二週間ってところかな。次に、会場で実際に打合せを行うのが9月26日。これに関しては必要なメンバーだけで参加するけど、予定としては頭に入れておいてね」

 

 演劇の大会は劇場を借りて行われるわけだが、その準備は劇場のスタッフさんに手伝ってもらうことになる。大会で使用する大道具の搬入や演出内容について確認するのが、この日。

 そのため実質この日までには演出や演技を確定させておかなければいけない。

 

「今週までに配役とかを確定させて、来週からすぐに練習に入れるのが一番だと思うから、そのつもりでよろしくね」

 

 三週間で変更が出ない程度には演出を確定させ、残りの三週間でひたすらブラッシュアップ。

 平日の学校がある分、その準備は夏休みの時よりもずっと大変になるであろうことは、考えるまでもなかった。

 

「日程についてはこんなところかな。次は、具体的なオーディションの内容について話していくね」

 

 いろんなものが足りないけど、そんなのはいつものことだ。私達は限られた時間と予算の中で、最大限の舞台を作り上げないといけない。

 

 私はまた始まる新しい舞台への興奮を抑えないまま、台本のページを開いた。

 

 

 

 部会が終わり、私は大きく息を吐きだした。

 

 オーディションについての説明はした。明日はオーディションをもとに配役を決め、明後日には具体的な練習や演出について考えていくことになるだろう。

 

「涼さん、お疲れ様です」

「ありがと、麻弥ちゃんもお疲れ」

 

 思わずそばにあった椅子に座り込むと、麻弥ちゃんが苦笑しながら隣の椅子に座った。

 

「日程、大変そうだね……」

「まあ分かってたことですけど、こうして改めて確認すると息をつく暇もないですね」

 

 本来、羽丘の大会準備は夏休みから始まる。

 前回の青蘭との合同公演は私達の大会準備の時間を大きく削ることは分っていたけれど、それでもみんながやってみたいと思った。

 

 だから、これはだれでもない私達が選んだ結果ではあるのだ。

 

「麻弥ちゃんは、やらない方がよかったと思う?」

「いえ、決して」

 

 珍しく断言するような口調の麻弥ちゃんを見て、安心したような気持ちになる。

 

 山科君との出会いは、私や麻弥ちゃんにとってすごく貴重なものだったと思う。

 特に麻弥ちゃんが前よりも自分に自信を持てるようになったのは、間違いなく山科君のおかげなのだろう。もっとも、私は山科君の頑張りをほんの一部しか知らないのだけれど。

 

「涼さんは、どうでしたか?」

「私?」

 

 その問いかけを受けて、少しだけ気持ちを掘り返す。

 山科君との出会いは、すなわち昔の私を振り返ることでもあった。

 

 初めての感情を持て余してどうすることもできなかった頃の私。遂げられないと理解してもなお捨てることのできない感情を抱えた私。

 そんな彼は、私の代わりに前へと進んでくれた。私が手に入れることのできなかった可能性を手に入れた。

 

 それは、私にもそういう未来がちゃんとあったんだと教えてくれた。

 諦めが錆みたいに張り付いてしまった私にはもう無理だけど、ちゃんと私にも頑張れる未来があったのかもしれないと証明してくれた。

 私のような道を進まないでいてくれた。あの頃の彼女みたいに、手を差し伸べさせてくれた。

 

 ただそれができただけで、私は満足していた。

 

「私も、やってよかったと思う」

 

 あの人になりたいわけじゃないけど、彼女に少しでも近づけたのだと思わせてくれただけで充分だった。

 

「ああ、本当にその通りだね」

「……薫君?」

 

 私の言葉に賛同するように、薫君が微笑みながら近づいてきた。

 

 不意なことだったけれど、私の胸はもうあの頃のように高鳴ったりはしない。

 錆びついてしまった感情はあの頃の輝きを持っていないくせに、どこにも動かすことができないまま私の真ん中に居座っていた。

 

「えっと……それで、私か麻弥ちゃんに何か用事?」

「ふふ、流石は涼。私の考えなどお見通しのようだ」

 

 なんとなく雑談ではないのだろうなと思いながら問いかけただけだ。ずっと見てきたから、それくらいは分かってしまうというだけ。

 

「実は、涼に頼み事があるんだ」

「私? どうしたの?」

 

 薫君は必要であれば人に頼むことを躊躇しないタイプだけど、私にそれが回ってきたことは今までなかったと思う。

 

 薫君は私の手を握り、自分の胸元に引き寄せた。

 

「涼、私と一緒に舞台に立ってはくれないだろうか?」

「いい…………ん?」

 

 何も考えずに了承しようとして、ふと言葉に詰まる。

 今、薫君が何を言っているのかこれっぽっちも理解できなかった。

 

 隣にいた麻弥ちゃんも、戸惑ったように薫君の方を見ていた。

 

「あの、薫さん。それって……」

「涼には魔女の役でオーディションに出てほしいんだ」

 

 何でもないことみたいに言う彼女に半分呆れつつも、きっと何か意味があるのだろうと自分を納得させる。

 

「……とりあえず、説明をしてもらってもいいかな?」

 

 ここからが、私の恋の本当の始まり。

 

 私はきっと、この舞台を作るまでの日々を、生涯忘れることはないだろう。




お久しぶりの更新です。
次の番外編は葛西さんに焦点を当てた物語「魔女と王子とガラスの靴」です。

時系列的には合同公演から数日後。山科君と大和さんのやり取りがあってすぐの話ですね。
本編では描かれなかった葛西さんの詳しい話はもちろんですが、a few years laterにたどり着くまでの大和さん達についても注目していただければ嬉しいかなと思います。

追記
“【再上演】シンデレラ”についてですが、お察しのようにまた僕の自作です。


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