女子大生こいし【完結】 (指ホチキス)
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序章
開幕


その日、博麗大結界は一部を欠損した。

それを管理していた八雲紫は非常に険しい表情で、長時間に渡って展開した臨時結界の概算に勤しむ。
一部が決壊した博麗大結界は、外から余計なものを受け入れ、必要なものをいくつか吐き出してしまった。
回収に成功はしたものの、この幻想郷を揺るがしかねない事象を、たかが20も生きぬ矮小で浅慮な人間の手で引き起こされた事に強い怒りを覚える。


「……」


オカルトボールについて、もう少しばかり警戒するべきだったか。そんな後悔は、起きた事象に意味を成さない。
博麗大結界の急速な復旧、見直しが必要である。
自らの式を呼ぶと、妖怪の賢者は仕事をこなすべく博麗神社へと向かった。

唯一回収し損ねた、幻想の存在に気付かずに。


―――それは、初めて見た光景だった。

ふらりと歩き、ふと目に入ってきた情報過多な光景に思わず我に返る。

 

 

「……え?私、あれぇ……?」

 

 

希薄な意識が、急激に心へ満ちた。

久方ぶりの感情に、頭が混乱する。

捨てたはずのそれに心が動く。

 

 

「―――ちょっと君、お話いいかな!?」

 

 

背後より掛けられた大声に、緩慢な動作で振り返れば青い服を着た大柄の男。

恐怖を感じて咄嗟に向けた手には、大振りのナイフと黒電話。

 

 

「―――オイ!待て!!落ち着けッ!!DD店前にて国籍不明の少女が刃物を所持する事案発生、至急応援求む……!」

 

 

何やら騒がしくなり始めた目の前の光景に、私の感情は困惑と恐怖を帯びる。

懐かしむべき喪ったそれが、急激に満ちた反動からか心を強く動かし、涙腺を刺激した。

 

 

「落ち着いてくれ。ナイフを捨てて、そのままゆっくり手を上げるんだ……」

 

 

とても怖い表情で指示を飛ばす人間に、とりあえず従う事にした。

ナイフを落し、ひょいっと手を上げる。

思うように口が動かないが、震えるこちらを見て、人間はどこか申し訳無さそうな色を表情に混じらせた。

 

 

「えーっと、ごめんなさい、これ、そこで拾っただけで」

「あー……日本語が話せるならありがたい。そうか、とりあえず交番まで来てもらう事になるけど、いいかい?」

「交番?」

「そうだよ。……少女を確保。交番に向かいます。あぁ、すぐ近くだ。念の為に言っておくけれど、逃げないように」

「はぁい」

 

 

気の抜けた返事をして男へと着いて行く。

 

―――どうにもここは、幻想郷ではないらしい。

現世、というやつだろうか。あまりにも緑は少なく、淀んだ空気が地底の奥の瘴気を思い出させる。

 

幻の内側へと包まれる前、遥か過去に見た風景はどこにも見えないが。

妖気の著しい制限が掛かっている上に、能力の一部は封じられた状態も、現世ならばと納得ができるというものだ。

 

現に、こうして意識して行動をしていることが、能力を扱えない何よりの証拠であった。

 

 

     ○○○

 

 

 

「さて、名前からいいかな」

「古明地こいし」

「こめいじ…ってどう書くんだい?」

「古く明るい土地」

「日本語?変わった苗字だな…じゃあ質問」

 

 

狭い空間。テーブルをはさんで椅子に座る男の顔は、優しさの裏に猜疑を含んでいる。探るような視線がどうにも心地悪くて。

どこか撫でるような声に苛立ちが募るものの、表情には出さない。

 

 

「君、何歳?こんな時間に一人で何をしていたのかな?」

「……」

 

 

どう答えようか迷う。

確か元服は……何歳だったか、思考そのものが久々昔過ぎて忘れてしまった。

少なくとも、子供であることはこの場ではマイナスな気がする。

 

 

「21歳。お腹空いたから歩いてた」

「……随分と童顔なんだね。身分証明書とかは?」

「持ってるのは拾った黒電話だけだよ」

「そりゃ困った」

 

 

疑うような視線だが、私の身分など知っても意味は無い。

面倒なのでどうにか能力を……

 

 

―――ふと背後から感じるは、妖の気配。

慣れた瘴気が頬を撫で、湿った暗鬱な空気が肌を蝕む。

 

 

気がつけば、とある扉の前にいた。

 

 

「……あっれ?」

 

 

記憶はない。

先程まで狭い部屋の中にいた筈なのに、今では外にいる。

それはまるで、能力が発動したかのような。

 

 

「あぁ、上がって上がって」

「!?」

 

 

腕を引っ張られたので顔をあげれば金髪が目に入る。

よく似た妖怪から胡散臭さを抜いたような、そんな顔がそこにはあり。

 

 

「……八雲紫?」

「誰それ。ほら、早く……」

「ん……」

 

 

バタン、とドアが閉まる音が背後で聞こえる。

深夜2時。人は妖魔と相見えた。

 

それが覚らぬ覚り妖怪の、数奇な時間の始まりとなる。



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1

「貴方は誰かしら」

「私は私。私は貴方では無いし他の誰でも無いと思う」

「うーん、哲学的問答は疲れるから勘弁して欲しいわね」

 

 

6畳のリビング。

地霊殿よりふかふかのソファーに座りながら名も知らぬ女性と言葉を交わしていた。

未だ状況など分からないが、敵意が無い事だけが救いである。

 

 

「逆に貴方は誰?」

「あら、言ったじゃない。マエリベリー・ハーンよ」

「マエリィヴ、マエリュ……ハーンさんね。うーん、聞いた記憶は無いなぁ」

「酷いわねぇ」

 

 

ふるふると首を振り、キッチンへと向かうハーン。

僅かな水音がした後、目の前のテーブルに水の入ったコップを置かれ、ハーンがこちらを見て目を細めた。

 

 

「飲む?」

「……酷い匂いのする水だね」

「浄水も度を過ぎれば清めてないのと一緒だという意見には同意するわ」

 

 

喉を通せば薬品の香り。

どうにも幻想郷の地下水と比べてしまうのはどうしようもない。

 

 

「さて、もう一度訊くわね。貴方は誰かしら」

 

 

その質問に含まれた意味は、きっと複数だろう。

こちらを見つめるハーンの金瞳は、笑っていなかった。

 

 

     ○○○

 

 

蓮子に会えないからと早めに帰った夕暮れ。

ふとアパートの自室を出て、飲み物を買おうとしていた時に興味をそそられる事件が発生する。

警官に連れられて歩く、緑がかった銀髪の少女を見かけたのだ。

格好は何処かおかしく、何かのキャラクターのコスプレでもしているような不思議な管をぶら下げているところも、目を引いている。

更に見ているだけで、何か境界が揺らぐのを感じていた。

 

あまりにも気になったものだから、ひっそりと尾行、交番内で少女が警官と会話するのを遠目に観察してみる。

暫くはなにも無かったのだが、突如としてそれが起きた。

 

少女の背後に境界の裂け目が発生、反射的にお得意の瞳で微かに見つめれば、ほんの僅かだが裂け目が開く。

―――気がつけば少女は“目の前”にいた。

 

 

「ずぅっと見ていたね。貴方はだぁれ?」

 

 

虚空のような、空の瞳。

少女は笑顔を貼り付けた無表情で、首を傾げる。

下から覗き込むように、僅かに首を傾げてこちらを見続ける少女に、まるで未知の生き物に観察されているかのような強い恐怖を覚えた。

 

 

「え、あ……マ、マエリベリー・ハーン、です」

 

 

驚愕と未知への恐怖が喉を詰まらせるが、喉からは何とか文章が漏れる。

空っぽの少女は頷く動作を繰り返した後、ゆらりゆらりと体を揺らした。

 

 

「私は誰だろうね」

「……私にはわからないわ」

「そうなの?不思議だね」

 

 

言葉に意味は無い。

彼女と同じく、空っぽの言葉が宙へと吐き出されていく。

 

 

「そうだ!私を貴方の家へ連れて行って」

「え?」

「帰る場所が分からないの。お願い」

 

 

そうして、有無を言わさない雰囲気に負け、連れて帰ってきたのである。

 

 

     ○○○

 

 

「私は誰だろう……」

 

 

交番近くの時とは明らかに違う、中身の入った瞳が不安定に揺れる。

体から伸びたアクセサリー?の管がウネウネと動く様は、まるで生きているようだった。

 

 

「……まぁ、いいわ。ところでそのアクセサリーはどうやって制御しているの?」

「アクセサリー?あぁ、アクセサリーねぇ……」

 

 

日本でコスプレやそれに準ずる格好をした人間はよく見かける。

彼女もそうかと思い、話題を逸らすために発した言葉に対する反応は苦笑。

困ったような、諦めたような。

そんな苦笑だった。

 

 

「うーん、くっ付いたまま外れなくなっちゃったからそのまま」

「……それ大丈夫なの?いつから?」

「生まれた日から」

 

 

巫山戯ていると、そう思った。

揶揄うようにクスクスと笑う彼女に、私は苦言を呈しようとして、辞める。

 

彼女のその顔は、複雑に絡み合った感情を表面に貼り付けて泣いているようで。

かける言葉は見当たらず、彼女との会話のタネを探る。

 

 

「……名前は見つかった?」

「初めから持ってるよ。生まれた時から私を表現している名前だし」

 

 

頭が疲れてきた。

 

 

「じゃあ誰って訊いても答えてくれなかったのは?」

「存在を答えるのと、名前を答えるのはまた別だよ?名前は未だ訊かれていない」

「うーん難儀な性格ねぇ」

 

 

屁理屈の様だが、確かに私は名前を訊いてはいない。

 

 

「じゃあ名前を教えてくれるかしら」

「こいし。古明地こいし」

「そう……こめいじ、こいし。ね」

 

 

黄色のリボンがついた黒い帽子を外し、こいしは真っ直ぐな瞳でこちらを見る。

 

 

「私は誰だろうね」

「古明地こいし、じゃないかしら」

「それは私だけれど、今の私じゃないかもしれない」

 

 

暫く宙を彷徨うこいしの瞳。

困った顔でもう一度こちらを見ると、ゆっくりと土下座の姿勢へと移行していく。

 

 

「今日、泊めてくれる?」

「家は……」

「事情で帰れない。あ、家出じゃあ無いよ?」

「なら構わないわ」

「お、太っ腹。お代に非常食として体ぐらいなら差し出すよ」

「残念ね、食人趣味は無いの」

「言っちゃなんだけど、あったらどうしようか困ってたね」

「ふふ……えーっと、こいし」

 

 

迷った呼び名で声を掛ければ、弓形に曲がる目尻。

 

 

「なぁに、ハーン」

「明日の予定とかあるの?」

「んんん……帰る方法探しかなぁ」

「……?」

「帰れないんだ。帰る方法も分からない」

「記憶喪失とか?」

「うんにゃ、ただ帰り方が分からないだけ」

 

 

不思議ちゃんで間違いない。

嘘を吐いているようには思えないこいしの顔を覗き込んで溜め息。

年齢は分からないが、見た目だけ見れば少女。

一人で外に放るには不安があった。

 

 

「じゃあ暫くここに泊めてあげようか?」

「んー迷惑じゃない?」

「迷惑ならその時に言うわ」

「じゃあお願い」

 

 

さらりと決まったルームシェアに、こいしは嬉しそうに笑う。

 

『蓮子、明日紹介したい人がいるんだけどね』

 

タブレットのアプリを開き、慣れた仲間に向けて打ち込んだ文字は、心なしか楽しげに踊っているように見えた。



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2

「こんにちは」

「こんにちは。綺麗な子ねぇ……メリーの親戚?」

 

 

街の些細な喫茶店。

隣には、管を隠せる様に貸した黒のゆったりとしたワンピースを着るこいし、向かいには蓮子で座るは四人用のテーブル。

一応何かあったほうがいいかとコーヒーは頼んだ。

 

美人だなぁと言いながらツーショットを撮る蓮子のコミュニケーション能力に驚きを得ながら、私は頬を掻く。

 

 

「知り合い」

 

 

嘘ではない。

互いを知っているので知り合いではある。

対して蓮子は顔を驚きに染めた。

 

 

「へぇ、人見知りの知り合いとは」

「失礼ね」

 

 

断じて人見知りではない。

ただちょっと他の人より人間関係に慎重なだけである。

親しくない人に対し、若干目が泳いだり、声が小さいことは自覚しているところであるが、抱く感情の探り合いとはそういうものだ。

そう、ある意味でそう見えるそれらは交渉術の一環である。

 

人見知りという点には断固として声を上げていきたい。

 

 

 

「しかしやっぱり海外の人は容姿が整う法則でもあるのかしら」

「私褒められてる?」

「……あ、メリーも日本人じゃ無かった」

「どう言う意味かしら」

 

 

相変わらずの蓮子ににっこり笑う。

するとこいしが照れたように頬を掻いている姿が見えた。

 

 

「家族以外から美人なんて言われたの初めて」

「ホントに? 絶対モデルとかやっててもおかしくないって」

 

 

確かにこいしの容姿は並外れて整っている。

緑がかった銀髪や、珍しい翡翠色の瞳も合わさり、さも人間ではないかのような印象すら得るほどだ。

 

……これで人工知能搭載の人形だったと言われれば、まぁ色々な問題に発展するわけだが。

 

 

「んで、どうして私に紹介?」

「あー実は気になることがあってね」

 

 

かくかくしかじか……等と古き良き表現があるが、私は四角い座敷を丸く掃く性格だ。

要点を掻い摘んで話す。

 

 

「……境界、ねぇ」

「多くは物や現象で発生するけど、個人に対して境界が発生するのは稀なのよ」

 

 

悩み混む蓮子は、まぁ随分と美人である。

普段の言葉遊びや皮肉を発する際は、無邪気な子供の様に歪む顔も、引き締めれば年相応の女性でしかない。

ボーイッシュに秘めたワンポイントの女性らしさもまた、ギャップだろう。

 

……例えば下着はレースが施された大人っぽいものが好きだとか。

 

 

「えーっと、そういえば名前は?」

「古明地こいし」

「今更だけど私は宇佐見蓮子よ。って、日本名?」

「多分生まれも育ちも日本」

 

 

私は海外生まれなので同様の件を知っていて違和を感じなかったが、確かに日本人じゃない容姿で日本名は不思議に感じる事もあるだろう。

 

 

「へぇ、どこ育ち?」

「ここより自然的」

「うーん……田舎育ちの妖精。売れるね」

「馬鹿言ってんじゃないの」

 

 

しかし帰り方が分からないのに育った場所を覚えているとは不思議な話だ。

だが光景を断片的に覚えているのであれば、そういう事もあり得るのだろう。

 

 

「変わった子ね。でもメリーの知り合いだから変な人間かと思った」

「失礼しちゃうわ」

 

 

変な人間など私の周りにはいない。

少なくとも、“私より変な人間”は探してもそういないだろう。

いや、蓮子も変な人間の一人ではあるのだが。

 

 

「しっかし境界に憑かれた子ねぇ……自覚はあるの?」

「さぁ、訊いてないわ。昨日は色々忙しくて」

 

 

疑問より先に色々する事があったのだ。

具体的に言うと布団の準備とか、着替えを探したりとか、明日の朝御飯が足りるかなどの確認とか色々である。

 

 

「ねぇこいし、肩が重いとかない?」

「蓮子、それ怨霊の話じゃない?」

「いやぁ……私怨霊に憑かれると死んじゃうからなぁ。あ、肩は重くないよ」

 

 

こいしが困った様な笑顔で呟いた。

しかしなんだ、どうにも怨霊について詳しい口調である。

 

 

「怨霊について知ってるみたいだけど……あ、そういえばこいしって何歳?」

 

 

大学の民俗学でも専攻しているのか聞こうとして、そもそも年齢を知らない事に気がついた。

質問に対してこいしは暫く考え込む様にして、口を開く。

 

 

「21」

「すごい童顔なんだね。羨ましい……」

 

 

子供の様に見える姿は女性が羨む若々しさの塊である。

やはり血の影響か、純日本人に比べれば顔立ちが早熟な身としては少しだけ思うところがある。

本当に容姿といい、反則的だ。

 

 

「じゃあ大学生か。専攻はどこ?」

「んんん、卒業も退学もしていないから學生ではあるのかな。でも、敢えて言うなら放浪者」

「……放浪者」

「そうだよ。ただ、無意識の情動に身を任せて狭い世界を放浪してる」

 

 

なんだか凄い事を聞いた。

 

 

「メリー、どうしよう。私、こいしにとても興味があるわ」

「そうね。でも場所を移しましょう」

 

 

ここでは話せない事も、この先出てくるかもしれない。

少なくとも彼女の境界については、話せるわけもなく。

 

 

「家、はめんどくさいなぁ」

「貴女片付けしないものねぇ……私もだけど」

 

 

以前蓮子の部屋を訪問した際は、それはもう素敵な光景だった。

当然悪い意味で、だが。

 

 

「じゃああっち行く?」

「そうね」

 

 

いつもの提案に頷き、席を立つ。

 

 

「こいし、行きましょう」

「どこに?」

「いつもの場所ってやつよ」

 

 

ウインクをすれば、こいしが頬を赤らめた。



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3

大学構内の清算話は大空魔術から。
新型酒、旧型酒は旧約酒場に拠るものです。


「……?」

「どうしたのこいし」

 

 

いつもの場所へと向かって歩く最中。

バッと頭を押さえたこいしに妙な目を向ける。

何処か恐ろしげな顔をしている事から、何かあった事だけは伺えた。

 

 

「……面を持っていた時に頭が凹むぐらいお祓い棒でボコボコにしてきた巫女の気配がした」

「どんな巫女よ」

 

 

そもそも巫女という職業は神棚を見なくなった頃より規模縮小して久しく、今では神社こそ維持されているが、神主や巫女がいるかはまた別である。

 

 

「田舎にはやっぱり神社ってあったの?」

「二つあったよ。ご利益は知らないけどねぇ」

「巫女も?」

「それぞれにいたよ。怖いのと頭おかしいの」

「どっちもどっちねぇ……」

 

 

神に仕えると何処か狂うのだろうか。

狂信者はどの時代でも恐ろしいものだ。

少なくとも怪しいカルト系の狂信者程、社会が警戒を高める存在はそうそう居ない。

 

 

「今の時代で狂信者、ねぇ」

「いるっちゃいるわね。メリーは十字架系じゃなかったっけ?」

「いや無宗教よ。この時代に宗教を信じる酔狂さは持ち合わせていないの」

 

 

こいしは不思議そうに首を傾げる。

 

 

「私は一応仏教徒だよ。一応」

「昨日肉も食べて安酒も飲んでいた恐るべき仏教徒ね。まぁ、この時代で信仰してるっていうのはそんな感じだろうけど」

 

 

宗教については色々と調べている。

ちょっと前には修行体験というものが、寺院での異文化という扱いであったとは資料で見た。

 

さて、と訪れたのは大学構内のコンビニ。

 

 

「ここがいつもの場所?」

「いいえ、少し買っていきたい物があるの」

 

 

そう言って生分解性の缶を二つ手に取る。

当然だが、コンビニに高価な旧型の酒は無い。

新型の酒が多く置いてあるだけだ。

 

 

「こいしはどんなお酒が好き?」

「呑むの?」

「新型でも多少舌が回る事もあるわ。気分と自分にしか酔えないけど」

 

 

酔い潰れない工夫がされている新型酒は所詮安酒だ。

安いほうがより健康というのは不思議なものだが、今の時代で不健康になるにはお金がかかる。

生活習慣病になるために努力しなければならない現代では、非生活習慣病と改名すべきと言われ続けている。

 

 

「私はしんがた?とかはよく分からないしハーンに任せる」

「新型が分からないってどういう育ち方よ。田舎は田舎でも酒蔵育ち?」

「まさか。酒蔵の子は外に出ないでしょう、出る意味も特に無いし」

 

 

現存する旧型の酒を作る施設は国に保護され、文化保護として山の奥地にある。

高価な旧型酒を求めて盗人も多く、秘伝される技術も多い。

旧型酒造りに携わる一族の子は、そこにいるだけで就職先は大手で、婚約相手など腐る程見つかる程度に良物件扱いだ。

わざわざ外に出る意味も少ない。

 

 

「ま、放浪生活で酒を呑む機会も少なかったって話じゃ無いの?」

「え?いや星熊盃の純米大吟醸なら何度か呑んだことあるけど」

「「え?」」

「……えっ」

 

 

今、なんと言った。

 

 

「純米大吟醸?」

「うん。浴びる程呑んだ」

「「浴びるほど!?」

 

 

新型に大吟醸の名を冠する酒は無い。

確実に、あの純米大吟醸だろう。

 

 

「え、えーっと……どこで?」

 

 

途端にしまったという顔をするこいし。

 

 

「あー故郷の、一番力が強い人がくれた」

 

 

恐らくだが、こいしは酒蔵の家系に近しい人間である事がほぼ決まった。

こいしの言う力が強いという表現が、権力的では無く腕力的な意味合いであることは。

 

 

「…まあいいわ。取り敢えず適当に買って行きましょう」

 

 

荒ぶる思考を収めるために蓮子の手を引いてレジへ引き摺る。

学生カードで支払いを終え、次に向かうのはマンション。

 

 

「さて、と。じゃあまた借りまーす」

 

 

合鍵でマンションに入り、エレベーターでいつもの階に登れば。

蓮子が慣れた手つきで鍵を開けながらチャイムを鳴らす。

 

ピンポーン…

 

 

「…あ、やっぱいないっぽいね。借りまーす」

「こいし、こっち」

 

 

この部屋は、とある教授から預かった部屋。

時々掃除する代わりに好きに使う事を許されている部屋である。

 

 




静かな部屋の中。
初めて気が付いたのは、九つの尻尾を持つ妖怪だった。


「…まだ外に妖がいる…?」


少し前で若干だが、博麗大結界に穴が開いた事を確認。
術式の綻びではなく、人為的に開けられたものだ。

しかし一時期境界を暴く事に躍起になっていた人間に対し、当時不穏な動きを察知した八雲霊夢が原子の陽子と中性子の境界を曖昧にさせる事で原子核を崩壊させ、事故という形で研究施設全体を放射能で汚染、崩壊させた筈。

それなのに人の手で綻びが生じたとは、妖の気がある者という可能性が大きい。


「調べてみるか…霊夢!!」
「あい」
「少しここをあける。後は頼んだ」
「分かったけど…外界に行くなら注意してよ」
「今期のスキマ妖怪は心配性だな」
「愛しの紫様じゃなくて悪かったわね」
「…頼んだぞ」


ある日を境に博麗霊夢にスキマ妖怪としての姓を与えて姿を消した主人は何処へ居るのか。
どれほど後を追っても分からない背を思い続け、どれだけ時間が過ぎただろう。
今回の件が手掛かりになれば良いと、そう思いながらスキマを通って外界へと降り立つ準備を進めるのだった。


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4

例えば、女子大生二人が自由に使える、そこそこ広い部屋の使い方。

安酒を本当に酔い潰れないのか一晩中呑んだりとか、

女同士だし、とノリで全裸で揚げ物に挑戦したりとか、

境界について、警察に見つかれば即事案級の資料を持参して研究をしたりだとか、

しょうもないものから重大なものまで幅広い用途がある。

 

今ではここが秘封倶楽部の活動拠点(家主には無断)となりつつあった。

 

 

「お、自動掃除機放ってるから床はある程度綺麗だね。あの教授も学んだか」

「前回は色々沸いてたからね。防塵服着て殺虫剤を撒くことを真剣に提案したのは人生で初めてだった」

 

 

そう豪語するのは相方の蓮子。

お前の部屋も似たようなものだろうとは言わずに、買った荷物を背の低いテーブルにゴロゴロと並べる。

 

 

「こいしは座って待っててね。蓮子、グラス三つあるー!?」

「ちょい待ち……あるある!つーかジョッキだこれ!」

「正直なんでもいいわ。とは言うけどジョッキねぇ」

 

 

テーブルに置かれたのはどうにも発泡酒向けですと姿で主張してくるジョッキ。

無言のままに果実風味の新型を注げば、それはまるで視覚野への暴力のようだった。

 

 

「何だろうこのミスマッチ」

「面白いけどジョッキが泣いているようだ……」

 

 

結露である。

 

 

「ホイホイ他のグラスを見つけたって何その面白物体」

「望まぬ中身を受け入れた末路」

「拒否が許されない、余りにも酷な選択だった……」

 

 

そう言いながらこいしが少しだけ新型に口を付ける。

ジョッキの半分ほど呑んでから、喉を鳴らして首を傾げた。

 

 

「果実酒……の匂いだけで美味しくは無いね。酒っぽさも薄い」

「そりゃ純米大吟醸と比べられたら全てが霞むわよ」

「でも果実水として飲む分には面白いかも。結構好き」

「そうね。旧型と違って深酔いが出来ないから所詮はジュースと一緒」

 

 

健康を気にし過ぎて、娯楽が薄まった。それが今の新型を表す言葉である。

蓮子が普通のグラスを2つ持ってきたので、買ってきた新型を注ぐ。

キッチンの方へ戻る蓮子をよそに、軽く一口。

 

 

「あ、その名前のお酒、おねえちゃんが好きなやつだ」

Southern Comfort(サザンカンフォート)……お姉さんはカクテルとか好き?」

「そうだね、好きって言ってた。そのお酒と……アマレッツ? を混ぜたのが一番好きって」

Amaretto(アマレット)ね。じゃあSicilian Kiss(シシリアン キッス)だ。まぁ私達はあんまりカクテル呑まないから、適当ブレンドで楽しむんだけどね」

 

 

現在は海外で製造される洋酒も、新型が多くなっている。

旧型と同じ名を持った新型もあり、味だけは同じだ。

それによって敷居の高かったカクテルは酔いにくくなり、昔に比べて女性人気が更に上がっているので、私達も少しは覚えていた。

 

しかしカクテルを作る程、私達は角ばった呑み方をしない。

何となく美味しそうだと思った新型同士を混ぜて、その味を楽しむ事が多い。

 

 

「そういえばこいしはどんなお酒が好きなの?」

「お姉ちゃんが前に作ってくれたカクテルで、Sex on the beach(セックス オン ザ ビーチ)が凄く美味しかった」

「知ってるけどよりによってそれかぁ……」

 

 

名前のインパクトが強過ぎて覚えていた。

 

 

「まぁ滅多に飲めないんだけどね。お姉ちゃん手間掛けて丸ごとパイン絞るから、パインが必要で」

「あー確かに手に入れるには懐がね」

 

 

こいしの『パインが必要な時は八雲紫と取引しないといけないから』という考えの齟齬に、気づくことは無い。

 

 

 

「蓮子、お料理まだー?」

「先呑んでていいよー」

「もう呑んでる」

「それはそれで癪だなぁ!」

 

 

なんてやりとりは置いておいて。

こいしがジョッキで呑む様子を肴に呑むが、本当に何者だろうか。

純日本人では、無いと思う。

髪色は染めた感じはしないし、瞳もカラーコンタクトでは無い。

最近の整形では毛根や瞳孔を変えられるらしいが、手術痕も見当たらず。

 

 

「……こいしのお姉さんってどんな人なの?」

 

 

取り敢えず身の周りを探ってみようと思い、質問を口に出す。

煙に巻く言い方が多いが、こいしは嘘を言う性質に見えない。

すると思案するように暫し上を向いて沈黙したこいし。

 

 

「えー……っとね、お姉ちゃんは私と、何歳離れてたっけな……」

「えぇ……」

 

 

かなりあやふやな言葉が飛び出してきた。

年齢差が曖昧なんて事があるのだろうか。

 

 

「あ、仕事は施設の管理してるかな。あと動物が好き。めっちゃ好き」

「へぇ!何か飼ってるの?」

「……猫とか烏とか」

「烏?んー……条例違反とか言うのは野暮か」

「まぁ飼ってるっていうか、家にいるだけってのが正しいかも」

 

 

まぁ、そもそも境界暴きなどしている私達にとっては条例違反など今更である。

流石に殺人犯や強盗犯と同一に見られるのは遺憾であるが。あまり人の事は言えない。

 

 

「というか管理職なんだね。年はまあそこまで離れて無いだろうし……もしかして超頭いいとか?」

「お姉ちゃんって頭いいのかなぁ。苦労人ってイメージしかない」

 

 

押し付けの可能性もあるので仕事については聞くのを辞めた。

次はルーツ不明の容姿についてだ。

ジョッキに注げば嬉しそうに呑むので、少しは口も緩くなるだろう。

 

 

「そういえばお姉さんも髪の色とか一緒なの?」

「全然違うね」

「へぇ!私と同じ金髪とか?」

「生まれた時から多分紫」

「紫!?」

 

 

毛根を研究室に回せば人類の新たな可能性が見えてくるのでは無いだろうか。

 

 

「はい、取り敢えずご飯よー」

「わぁいお母さんー」

「私なら同い年の母は父親の頭を疑うね。今回のメニューは適当ビビンバ丼。適当さは私の気分です」

「肉の加熱は大丈夫でしょうね……?」

 

 

蓮子が置いた丼にはビビンバが適当に盛り付けられていた。

正直男飯と言われても納得の出来である。

 

 

「ま、大丈夫でしょ。こいしはアレルギーとかダメなのある?」

「……多分無いよ!」

「よっし、じゃあお嬢ちゃんには肉多めでおじさんあげちゃうぞ」

「同い年でしょうが」

 

 

こいしが21なら私達も生まれは同い年である。

ひょいひょいと自らの器から肉を多めに入れた蓮子が座り、テーブルの三席が埋まった。

 

 

「じゃあ適当カクテルいきまーす!今回は……それとそれ!」

「はいはい、比率は?」

「3:7ぐらい」

 

 

大学の中でも上位の頭脳を誇る女学生が、こうも適当でいいのだろうか。

そんな風に思うが口論で蓮子に勝てた試しはないので言わない。

感覚派は理論派に口で勝てないのは自明の理。

 

 

「こいしもいる?」

「じゃあそっちだけ」

「よし、じゃあ乾杯だ乾杯!面白い人に会えた記念に!」

 

 

三人でグラスとジョッキを軽く合わせる。

 

 

「「「乾杯」」」

 

 

お洒落な雰囲気は、ジョッキのかち合う漢らしい音と男飯ビビンバ丼で掻き消された。



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5

どうにも、メリーの連れてきた子には妙な魅力がある。

 

神秘的な容姿。

不思議な言動。

不鮮明な身分。

 

その全てが気になってしかたない。

ジョッキで果実酒を呑む今の姿すらも……いや、嘘。

流石にゴッキュゴッキュ呑む姿は何とも言い難い。

色々聞いてテーブルに突っ伏して静かな寝息を立て始めたメリーを横目に、こいしに話しかける。

 

 

「こいしって旅してるんでしょ?お金は?」

「無いよ。あ、でも最近は見世物みたいな感じで遊んでたらお金くれる人がいたなぁ」

「……え、それ大丈夫なの?」

「一種の芸能ではあるのかな。あの面霊気なら何か知ってるのかも」

 

 

芸能の人、成程。

移動サーカスとかそう言った活動をしていたのだろう。

相当儲かっているから純米大吟醸を呑んだことがあった、など可能性として高いのはその辺りか。

 

 

「どんな事してたの?」

「んんん……黒電話使ってたり、驚かせたりとか……?」

「お化け屋敷かな?」

 

 

人成らざる異形の者は居ないと言われて何年が経過した事か。

境界の一件で断じることは出来ないが可能性は0に等しいと言われてもう長い。

それでも人間は闇と未知には恐怖を感じるもので、分かっていてもお化け屋敷は現存する。

 

 

「へーぇ、面白いなぁ。旅って一人じゃなかったんだ」

「……そうだね、一人ではなかったかな」

 

 

懐かしむ目はどこか遠く。

 

 

「でも今は一人になっちゃった」

「何か凄い濃厚な人生送ってるね」

 

 

聞けば聞くほど素性が分からなくなっていく。

それがとても、魅力的に思えた。

 

 

「これからどうするの?」

「んーハーンが泊めてくれるって」

「あぁ……お金持ってるからなぁ」

「そうなの?」

「まぁ普通よりかはね」

 

 

メリーの預金通帳は凄い。

凄いを通り越してもう怖い。

 

嬉しそうな顔で寝息を立てる姿はそんな事を微塵も感じさせないが、金はあるタイプの人種である。

 

 

「じゃあ割と会えるんだね」

「ん? えっと宇佐見は私と会いたいの?」

「蓮子でいーよ。んで会いたいね。是非会って話してたい。面白いもん、普通じゃなくて」

「酷いなぁ」

 

 

少し悲しげに目を伏せて笑うこいしに、頭を下げる。

 

 

「ごめんね、馬鹿にしてる訳じゃ無いの。ただ、私はこいしの事が気になってる」

「……えっ」

 

 

酔いが回ったせいか、若干顔の赤みが増したようなこいし。

ただ分かって欲しいのだ、この感情を。

 

 

「頭の良さじゃなくて、もっと違う何かを知ってるこいしの事を知りたくてさ」

「……んーごめんね、私その気持ちがよく分からないや」

「そっか」

「……でもそうだね、もっと蓮子の事を知ればその気持ちも共感できる日が来るのかな?」

 

 

なんだか会話が難しいが、言いたい事はただシンプルな事である。

 

 

「私を教えれば、こいしの事を教えてくれるのかしら」

「…ッ!? い、いや、そんな急に困っちゃうよ……でも、うぅん……」

 

 

モジモジとし出したこいしに、これは気遣いが足りなかったかとスッと立ち上がる。

途端にビクリと体を縮こませるこいし。

そういえばトイレの場所もまだ言っていなかった。

言うタイミングにも困っていただろう。

 

 

「ごめんごめん、気が利かなくて」

「えっ」

「ほらこっち、着いてきて」

「あっ、そのっ、ハーンがいるからとかそういうっ、えっ」

 

 

ものすごい勢いで顔を赤くするこいしに、首を傾げる。

 

 

「ほら、こっち」

「そんなグイグイ来るね!?」

「ん? 迷って変なとこ入りたく無いでしょ?」

「何処入っても変な事になりそうだけどね!?」

「いや御手洗い一択でしょ……」

「よりにもよって!?」

 

 

何を騒いでいるのだろう。

もしかして酔いの回りがテンションに直結するタイプだろうか。

漏らされると困るので早々に着いて来て欲しいのだが。

 

 

「あーなんて言うの、漏らされると困るし早く……」

「待ってそんなに上手いの!? 正直私慣れて無いんだけど!!」

「んぇ!? 上手いとか慣れてないって何!? 旅中は野外オープンな感じだったの!?」

「どんなフリーダム!?」

「そう言ってるのはこいしだよ!?」

 

 

待て待て、何かがおかしい。

一旦落ち着け深呼吸。

 

 

「その、用を足したい訳じゃないの?」

「……え?いや別に?」

「あ、そうなのごめん、勘違いしてた」

 

 

平然とまた座れば、釈然としない顔でこいしが隣に座る。

 

 

「……まさかそんな(性に)直接的なタイプだと思わなかった」

「あーごめん、あんまり(言葉を)濁すの得意じゃなくて。(言葉)遊びは得意だけど」

「遊びが得意!?」

 

 

その日、夜にメリーが目を覚ますまで、何故かこいしに距離を取られた。

あと何かメリーにこいしが囁くと、冷え切った目で見下された。

 

解せぬ。



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6

「ごめんねウチの相方が」

「いや……まあ、ちょっとビックリはしたかな」

「普段はいいやつなんだけどね。不思議な事があると夢中になっちゃう性格というか」

 

 

すっかり暗くなった帰り道。

メリーが頭を撫でながら、困ったような笑みで蓮子のフォローを入れてくる。

まぁ蓮子が善人なのは知っている。

紅白巫女の勘ではないが、蓮子に独特の邪悪な気配は無い。

無意識が扱えれば本人の深層に眠る“本質”を表面化させる事も可能なのだが、必要も無いだろう。

 

 

「いーのいーの。今日は笑えて楽しかったから」

「そっか。私はこいしの色々な事が知れて良かった」

「あら嬉しい」

 

 

何とか誤魔化せる部分は誤魔化しているが、時折素が出てしまうので、詮索も程々にしておいて欲しいとは思うものの、関わる事は楽しいので近くにはいたい。

自覚している事だが、私の本質は無邪気である。

子供の様な心が、私の妖怪としての本質に根付いているのだ。

 

 

「さ、ただいまー」

「おっじゃまー」

「ただいまでいいのよ、ただいまで」

 

 

それを言うと、ここが家の様になってしまうのだが。

 

 

「何その不思議そうな顔。一時的なルームシェアだから実質ここが貴方の家よ?」

「……ただいま」

 

 

家がある、と言うのはなんともむず痒い。

帰る場所はあったが、あそこは厳密には家とは言えず。

住むためだけの家、と言うのは地霊殿が出来る以前の話であった。

 

 

「先にシャワー浴びちゃってていいよ!」

「えーっと、ボタン押すんだっけ」

「そうよー!」

 

 

部屋の奥でガサガサ音と共にメリーの声が届く。

地霊殿は外界の技術を一部取り入れているので、ある程度の事は分かる。

そのお陰で、メリーには怪しまれずにいるものの。

 

 

「あ、お風呂のお湯入れてくれると助かるわ!赤い方の蛇口ね!!」

「はーい」

 

 

一日借りたワンピースを脱ぎ、ショーツを脱ぐ。

ブラ替わりのサラシを取っている最中に、ふと廊下を通ったメリーと目が合った。

咄嗟に管の付け根を自然な動作で隠す。

 

 

「あ、ご、ごめん!ってサラシ付けてたの…任侠だっけ?みたいね」

「ハラワタが出ないように締めるってやつね。まぁ私はブラジャーとか着けるのが面倒でこれ使ってるだけなんだけど」

「へぇ!ってそのサイズを締め付けてたの…?」

「ん?まぁ、そうだね。邪魔だし」

「蓮子に言ったら憤怒の表情浮かべるわねこりゃ」

 

 

サラシを外した胸のサイズは、流石に抑えねば不便な程度である。

お姉ちゃんは肋骨が浮く程度に痩せ型なので、よく温泉で羨ましそうに触ってくるのが懐かしい。

そういえば最近は元気だろうか。

 

 

「っとごめんなさいね。タオルを置いたらすぐに出て行くわ」

「ん」

 

 

ところで、ここの浴室は狭い。

水が外に出ない様に扉を閉めると、シャワーやボトルが並んでいるので、座る程度のスペースしか無くなる。

背丈のあるお空だったら狭いんだろうなぁ、なんて思いながら湯船にお湯を入れておき。

 

 

「ふぅ……」

 

 

密室で一息。

蛇口を捻ればシャワーが体を濡らして行く。

 

何故ここで私が居られるのか分からない。

 

それが今の現状だった。

本来であれば、妖は外で生きる事が出来ない状態だった筈。

それが何故、平然と形を保てているのかが不思議でならない。

 

 

「……え?」

 

 

ふと目の前の鏡を見れば、手が生えていた。

爪が長く、細くて白い女の手だ。

人間なら悲鳴を上げてもおかしくないが、生憎人間でない自分は驚きもしない。

そういう妖怪もいるかと幻想の常識でそれを見て、次に現の常識に照らし合わせて、ようやくそれがとんでもない異常事態であると気付く。

取り敢えずシャワーを当てると、びっくりした様に手が動いた。

 

 

「こんな妖怪いたっけなぁ?」

 

 

などと言っていると、前に張り出た胸の先端を爪で掻かれる。

 

 

「いッダァ!!?」

 

 

敏感な部分を爪で掻かれたのだ。

口からは悲鳴が漏れる。

 

 

「このやろ」

 

 

ボタンでシャワーの温度を上げて行く。

妖怪にはただのお湯など効かないので、僅かに妖気を混ぜ込んで攻撃をとする。

すると人間なら確実に火傷をしている温度の妖気水を浴びた腕は、必死に逃げている様に見えた。

暫くして水面に引っ込む様にして鏡の中へと消えた腕を前に、首を傾げる。

 

 

「……なんだったんだろ」

 

 

その後、温度を変え忘れて熱湯を頭から浴びたせいで、浴槽に悲鳴が響く事となる。




「アンタ、何その腕」
「いやぁ、なあに。生意気な奴に攻撃されてな」


八雲藍は攻撃的な笑みを浮かべて八雲霊夢の向かいに座った。
手には爛れた火傷の跡があり、非常に痛々しい。


「橙?」
「名を与えて相応しい振る舞いを知った橙は賢い。こんな事などしない」
「はいはい」


言葉の節々から漏れる溺愛っぷりにうんざりと顔を歪めた霊夢だが、次の瞬間には表情が締まる。


「で?大妖怪のアンタに傷を与えられる妖怪なんて外にいるの?」
「事実、いた。攻撃には妖気が練りこまれていたから妖の類で間違いない。無用意に怪しい境界に侵入したが、思ったより手痛い反撃があった」
「へぇ……私は必要?」
「いや、いらん」
「あ、そ」


途端に興味無さげとばかりに寝転がる霊夢。


「なんか面白い事分かったら教えてね」
「はいはい」


世界のどこかにある家でのやり取りは、非常に盛り上がりに欠けていて。


「絶対に仕返ししてやるからな……」
「あーあ、だから狐は陰湿で嫌なのよ」
「誰が陰湿だ!」
「間違いなくアンタ」


マイペースな人妖に遊ばれる狐という光景は、いつもの事である。


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7

「なんか悲鳴聞こえたけど大丈夫?」

「あー……シャワーの温度が予想以上に熱くなっていてビックリしただけ」

「時々あるよね」

 

 

ほかほかと湯気を立ち昇らせるこいしを見て、先程の悲鳴について尋ねた。

結果としては、よくある話だと共感。

私がやらかすのは、お湯だと思って水を浴びる事だが。

人間が好む程度に常時水分子を活発化させる技術は開発されていないので、稀によくある話である。

 

当然だがこの時、まさかこいしが75度のお湯を頭から数秒浴びたなど知らない訳で、よくあるよね、なんて共感してしまった訳だが。

 

 

「湯船は溜まった?」

「溜まった溜まった。あ、私が浸かった後だから何か浮いてたらごめん」

「浮いててもわざわざ言わないわよ!」

 

 

時折デリカシーを捨てた発言さえ無ければ、美人にしか見えないのに、そこで残念感がプラスされている。

結局美人であることに代わりはないのだが。

 

ところでマジマジと裸体を見た訳ではないので、こいしの体毛の色は知らない。

髪が緑がかった銀なので、体毛も銀色なのだろうか。

 

 

「……こいし、ちょっと来て?」

「え?んーっとっとっと!?」

 

 

近寄ってきたこいしの頬を手で包み、瞳を覗き込む様な姿勢をとる。

困惑に揺れる濡れた翠色の瞳は、宝石の様に美しい。

 

 

「えちょっ、近い近い……ッ」

「あぁ、ごめんなさい。ちょっと気になる事があったの」

「もう、驚くから先に言ってよ」

 

 

睫毛を見たのだが、色は髪と同じ色。

人間なら有り得ない色であり、そのミステリアスさに好奇心が抑えられない。

 

 

「ねぇこいし……」

「何?どうかしたの?」

「こいしのアンダーヘアって何色?」

 

 

瞬間、部屋の体感温度が5度下がった。

思考の波から生じた失言に気が付いたのは、こいしが若干距離を取り始めたあたりである。

 

 

「あっ、そういう意味じゃないの!」

「……私の周りに変態しかいない」

「待って、違うの!! 具体的に言うと私が性的欲求から知りたいって思ってる部分が違うの!」

「具体例を上げた時点で怪しすぎるんですけどォ!!」

 

 

前回と同じ黒のワンピースを着た体を掻き抱いて震えだしたこいしの目はどこか諦めに満ちていて。

 

 

「助けてお姉ちゃん……犯される……」

「ガチの反応やめて!?」

 

 

などと言えば普通にへらりと笑って立ち上がるこいし。

お腹をさすりながらリビングのソファーに座るとそのまま寝転がった。

 

 

「そんな冗談は置いといてさ、お風呂冷めるよ」

「あ、そうだったそうだった。ごめん行ってくる。さっきのは忘れて!」

「聞かなかったことにしておくよ」

「ありがと!」

 

 

さて、さっさとお風呂の暖かさを感じようと脱衣所に入った瞬間、肌が粟立った。

 

 

「……え」

 

 

ある程度隠されてはいるが、明らかに、境界の歪みが生じている。

それも、私の力とは比較にならない程の強力な能力によるものでこじ開けたものだ。

尋常ではない、異の空気が脱衣所に漏れ出ている。

 

 

「……こいしー! ちょっと来て!」

「何、私の毛でも見つけたの……?」

「忘れて頂戴よぉ!!」

 

 

不承不承と姿を現したこいしが、こちらを見て目を開く。

 

 

「そんな……お風呂に着衣したまま……!?」

「違う違う話が早すぎてフライングしてる」

 

 

取り敢えず平然とするこいしを見て心が落ち着いた。

恐る恐る手を伸ばして浴室の扉を開ければ。

 

 

「ん……匂いに異常無し」

「あ、そういえばシャンプー高くない?凄い髪がサラサラになった」

 

 

若干こいしの体臭と混ざった石鹸の香りが、湯気と共に脱衣所へと溢れ出した。

そこに魔は一切───

 

 

「……鏡?」

 

 

体を洗うスペースにある、一枚の壁貼りの鏡。

その見慣れた鏡に、薄い境界が見えた。

 

 

「開きは……しないか」

 

 

能力を使おうとしても、ガッチリと互いが互いを噛んでいてこじ開けられそうもない。

まるで、“強力な力で塞がれたような”境界を奇妙な目で見る。

 

 

「……呪いかな?」

「呪われそうな自覚は?」

「ありまくりすぎて困るわね」

 

 

境界暴きは魔を寄せ魔を見る行いに等しい。

現代で祟りだ呪いだと騒げば精神病棟行きだが、まぁ有り得ない話ではないと言うのが今までの経験から言える。

 

 

「もしかしてこいしがやったの?」

「……石鹸齧った話してる?ごめんいい匂いすぎて味が気になった」

「えっ何してるの? 歯型ついてるのは別に良いけど体には良くないわよ!?」

 

 

話を誤魔化すような仕草で舌を出してウインクをするこいしと話していれば、境界は消えてしまった。

 

追求しても無駄だろう。

そう判断し、服を脱ぐ。

 

 

「……え、なんで脱ぎ始めたの怖い怖い」

「用は済んだし、脱衣所だからねここ」

「ふーん」

「出て行くとかしないかなぁ普通!」

「いやアンダーは何色かなって」

「忘れてェ!!」

 

 

赤面しながらこいしを脱衣所から押し出して浴槽へ突入した。

シャワーを浴びて湯船に浸かれば冷静さが戻ってくる。

 

 

「……まだまだ知らない事が多いなぁ」

 

 

こいしを知れば、きっと秘封倶楽部は何かを掴むことができる。

そう確信して、大きく息を吐いた。

 

……因みに一応と見渡して、お風呂に浮いていた毛は全て緑がかった銀髪だけであった。

どの毛かは不明である。

 

誰にも言えない宝探しは、何とも微妙な結果と、背徳感と羞恥と罪悪感を平均より膨らんだ胸へと落としていった。



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8

秘封倶楽部の二人の専攻は夢違科学世紀のテキストに拠るものです。


「おはよう」

「───んんん……」

「朝弱いなぁ…トースターにパン突っ込んどくよ」

「お願い……」

 

 

腹を出し、ベッドから落ちそうなハーンの腕から逃れて、朝日を受けながら伸びをする。

抱き枕にされるのは、二日目にして慣れた。

シングルベッドで二人、身を寄せ合って寝ているのだが、どうにもお姉ちゃんを思い出す。

時々ベッドに忍び込んでは、一緒に寝ていたものだ。

 

トースターに加熱用合成四角パンを突っ込み、未だベッドから起き上がらないハーンの頬を指で突く。

 

 

「起きてー」

「まだ朝……」

「朝だから起きるんだよ」

「…………それは一概に言えないわ」

「そうだね。でもハーンは夜に寝たのだから朝に起きるべきだよ」

「……あと5分」

「お空みたいな事言うなぁ」

 

 

ハーンが起き上がるまで、まだ時間がかかりそうだ。

暇なので小さなモップを手に取りフローリングを拭く。

取っ手のボタンを押すと、構造は不明だが、モップ部に付着した埃が塊となって捨てられる、便利な道具である。

 

 

「……おはよ」

「パンツから上が全部見えてるけど」

「別にいいよ胸ぐらい……」

 

 

寝間着を脱いでリビングに出てきたので、形の良いものが揺れていて非常に目に毒なのだが、彼女が気にしないなら別にいいだろう。

ショーツのみの姿でさも平然とトーストを頬張り始めたのは流石に目を疑うが、今の現世ではおかしくないのかもしれない。

受け入れておこう。

 

 

「ところで今日は何をするの?」

「ん……今日は講義があるのよね。蓮子は暇だった気がするから蓮子と一緒にこの街を回ってみたらどうかしら」

「お、それいいかも」

 

 

蓮子が襲ってこない限りは楽しい1日になるだろう。

現在の蓮子の印象は、酔うと積極的になる女性であった。

本人が聞けば渋面を作ること間違い無しである。

 

 

「私は夕方ぐらいに合流出来るわ。えーっと……そういえばこいし、携帯持ってる?」

「携帯? あのパカパカ開くやつは持ってないなぁ」

「どれだけ昔の携帯のことを言ってるのよ。で、持ってないのね。予備用の端末だけど……はい、一応渡しておくわ」

 

 

そう言って手渡されたのは、向こうが透けて見える四角の何か。

 

 

「どうすればいいの?」

「あ、G系じゃなくてI系しか使った事無い? いっそ業界も端末の使い方を統一してくれるといいのにねぇ……」

 

 

そう言って目の前で色々動かして見せてくれるハーン。

電源の入れ方、連絡の仕方、検索の仕方を覚えた。

曰く、これで最低限の操作らしいが、これの複雑さで最低限だとすれば、最高の操作までいくと複雑化したコマンド入力によって変形してロボットになったりするのだろうか。

夢は広がるばかりである。

 

 

「まぁ蓮子もいるし困ったら訊いてね」

「ん、分かった」

 

 

そう言ってトーストを胃に収めたハーンは、のんびりと寝室の方へ戻っていく。

 

 

「寝ちゃダメだよ」

「着替えるだけよ!」

 

 

5分後、布団に半裸で寝転がったハーンを叩いて起こすことになる。

 

 

     ○○○

 

 

「という事でめっちゃ暇」

「暇潰しに何したい?」

「散歩」

 

 

そう言いながら街の大通りを歩くのは、ハーンから借りたゆったり系の黒い服を着る私と、黒いブラウスの蓮子である。

合流早々に飛び出た発言には、案内される側の私もびっくりであった。

 

 

「どこ行きたい? 娯楽場? ギャンブル系? 居酒屋?」

「何その選択肢。真昼間から選ぶところじゃ無いでしょ」

 

 

世捨て人ももう少し賢明だろう。

否、よくよく考えれば幻想郷の世捨て人は妖怪の目の前で自殺するので世捨て人という前提の時点で既に賢明では無かったか。

因みに世捨て人の肉は非常に不味い。

不健全で惰弱な精神を持った肉など、美味しさを感じる点0である。

状況を作って、適度に怖がらせて、生存本能を刺激させて、とわざわざ面倒くさい調理工程を挟まなければいけないので、強い妖怪は見逃し、弱小妖怪が飢えを凌ぐための食料とする場合が多い。

 

 

「じゃあ暇だしスイーツ探しにでも行くかぁ」

「お、それ女の子っぽくていいね」

「女の子って言うには中々辛くなり始めた年齢だけどね……」

 

 

幻の内側においては齢など飾りである。

更に言えば幻想郷縁起に縛られた身ではあるが、そこに少女と書かれている限り、己は女の子。

完璧な理論であった。

 

───その理論に当て嵌まらないため、己では弁護できなかった蓮子が、端末を操作を中断してこちらを見る。

 

 

「ん、良し。大学行くか」

「なんで學校?」

「あそこ面白いんだよ。街の案内よりよっぽどね」

「ふーん、じゃあ着いてくよ」

「おっけおっけ。じゃあ行こうか」

 

 

結局ハーンと同じ場所に行くこととなり、二度手間の面倒さを感じるが、それもまた行き当たりばったりの面白いところだ。

 

大學に向かうまでは、蓮子の事について少し話してみよう。

蓮子に着いて行きながら、若干考えて口を開いた。

 

 

「蓮子って普段何をしてるの?」

「えーっと、学生だから勉強よ。だけって訳じゃあ無いけどね」

「へぇ、どんな勉強をしてるの?」

「専攻は超統一物理学……まぁ最近は先も無くて行き当たった状態だから、それぞれに繋がりが無いのかを調べる通称“ヒモの研究”をしているわ」

「……難しくて分からないなぁ」

「まぁ結果的にそこに居るだけで、私が好きなのは民俗学の方なんだけどね」

 

 

話が難しい。

この時代の學生を知らない私には、蓮子が相当に難しい事をしていると言うことしか分からなかった。

 

 

「じゃあハーンは何をしているの?」

「メリー?専攻は相対性精神学で……最近は意識の研究をしていた気がする」

「意識?」

「無意識と有意識の明確な境界を研究しているんだってさ」

「無意識と……有意識」

 

 

幻想郷で私を呑み込んでいた無意識と、今私がここにいると言う有意識。

その境界が分かれば、もしかしたら能力の制御も多少効くようになるのだろうか。

 

今度ハーンに聞いてみよう。

 

 

「あ、ほら大学が見えた」

「んー……あれ本当に學校?」

 

 

メリーがお酒を買った際に一度敷地内に入ったが、改めて見ると私の目には、街にしか見えない。

 

 

「あの辺全部大学よ。国の中でも大きい方だから驚くかもしれないけどね」

「……ちょーっと予想外」

 

 

大昔にいた學校と、人里の寺子屋しか知らない私には、それは少し大き過ぎる學校であった。




『ママ、少し相談があるの』

端末に入ってきた通知に、目を細めた。
日本でメジャーなチャットタイプのアプリで連絡をしてくるのは娘ぐらいである。

『どうしたの。研究に行き詰まった?それとも男?」
『違うわ。少し同性の同居人が増えてね』

これは意外な報告だ。
人見知りの娘がルームシェアとはどういう風の吹きまわしだろう。

『お金が無いの?』
『ルームシェアをしたのはそう理由では無いわ。ただ、少し食費が増えるかも』

成程、そう言う相談か。

『他人にお金を分ける趣味は無いのだけれど』
『ごめんなさい。でも、どうしても身の上話を聞きたい人なの』

どう言う事だろうか。
娘の意図が分からない。

『まぁいいわ。使い過ぎないように』
『ありがとうママ!大好きよ!!』

現金な娘である。
しかし娘は大切にしなければならない。
特に、あの瞳がある限り。

『だけど…そうね、シェアする人の名前だけ教えてくれるかしら。それが条件よ』

しばらくの間が空き、娘が送ってきたメッセージに、思わず息が止まった。

『古明地こいし。緑がかった銀髪が特徴よ』


「……古明地、こいし」


懐かしい名だ。
とある時期を境に消息不明になり、地底の管理者である姉から何度も捜索を頼まれた記憶がある。


「……今の日本で、何故……?」


友人とお揃いの扇子で口元を隠して思案する。

癖で扇子を閉じて宙を切るように仕草し、何も起きずに一人笑う姿を見るものは、誰もいない。
とある街並みに埋もれた一室で、心底面白そうな笑い声が響いていた。


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9

「ハーンさん、何だか楽しそうね」

「……レポートを出せと言われた直後の私が楽しそうに見えたというのなら、貴方はとても素晴らしい目をしているのね」

 

 

とある講義室の中。

大学内の数少ない知り合いに声を掛けられ、思わず微妙な顔をした。

皮肉や嫌味を言わない性格なのは分かっているので、気にする事でもない。

言葉に若干の棘が入ったのは、仲ゆえのご愛敬である。

 

 

「男か」

「貴方は同じ相対性精神学を専攻しているのに人の心情が読めないのね」

「それは心理学」

「似たようなものよ」

「全然違うわよ。ところで誰!? あのハーンさんが惚れたのって誰!?」

 

 

話を聞かない人間には困ったものである。

全世界が同じ言語を扱えれば戦争は無くなると言われ続けてどれ程が経ったのかは知らないが、翻訳機能を持った携帯媒体が発売された今でも争いの根本を潰すことが出来ないのは、こういう人間がいるからではないのだろうか。

若干の苛立ちから高速化する思考を抑え、ニッコリと目を細める。

 

 

「綺麗な銀髪の、モデルも出来そうな位容姿の整った人よ」

「くっそぁ! 私も欲しいなそんな人ッ!!」

 

 

嘘は言ってない。

恋愛的にではないが、惚れかけているのは事実だし、相手も男とは言っていない。

 

 

「くそー何故宇佐見さんとビアン疑惑のあったハーンさんに恋人が出来て私にはできないんだ……顔か。やっぱり顔なのか……」

「ちょっと待って何その話」

「え? 一部では有名な話よ?」

 

 

聞けば二人きりのサークル、泊りで旅行に行く、などなど確かに勘違いさせそうな情報が多々出てきた。

が、あくまで私は自覚している限り、異性愛者である。

 

 

「まぁそんなことはどうでもいいとして。いつ! どこでそんな素敵な人に出会ったの!?」

「道端で」

「私も拾いたいなそんな人ォ!」

 

 

嘘は何一つ言っていない。

して、外より昼食を食べに出た同じ研究をする男メンバー二人が帰ってきた。

 

 

「あれ何人だろうな!絶対日本人じゃないって」

「整形……にしては跡が無さすぎるし、天然だとしたらスゲェな、いやマジで」

「宇佐見の知り合いかな。紹介して貰えねぇかなぁ……?」

 

 

何やら気になる単語が飛び出している。

生憎彼らが話す宇佐見は、私の知る宇佐見の筈だ。

という事は彼らの話題はこいしだろう。

話に耳だけ傾ける。

 

 

「モデルかな? マジで超美人だったよな」

「連絡先さえ知ればワンチャンあると思えば、宇佐見に話しかける事も悪くない……」

 

 

どうやらこいしはモテモテらしい。

容姿は整っている上に、人離れした不思議な魅力を持っている。

彼女は誰でも引き付けるだろう。

 

「誰か私を見初める男はいないのかしら」

「探せば?」

「恋人持ちの余裕羨ましいっすわぁ!」

 

こいしより私の隣で嘆く彼女にアタックを仕掛けた方が成功確率は絶対高い気がするが、男は美人に群がり易いので仕方がないと言えばそれまでである。

 

 

     ○○○

 

 

食堂に座ったはいいが、チラチラ見られているような気がして落ち着かない。

 

 

「こいし、目立ってるねぇ」

「うん……」

 

 

非常に居心地が悪いが、無視すると決め込めば存外気にならないものである。

管は隠しているので、外見上はちゃんとしたただの人間に見える筈だが、やはり目立ってしまうものだろうか。

 

 

「美人は何しても衆目を浴びるからねぇ」

「……美人?」

「こいしは整った容姿をしているから目立っているのよ」

 

 

やれやれと首を振る蓮子の顔は、若干嬉しそうで。

 

 

「……なんでそんな笑ってるの?」

「いや、なんか嫉妬とかなくて、ただこいしがそう思われているのがなんか嬉しくてね」

「ふぅん?」

 

 

良く分からないが、そんなものなのだろう。

 

―――なんて話していれば、端末が震えた。

ポケットから取り出してみれば、一件の通知。

送られてきたメッセージが画面に映っている。

 

 

『こんにちは、無意識の少女』

 

 

その短い文章に、ぶわりと冷や汗が吹き出た。

送り主は『ママ』。ハーンの母だろうか。

 

無意識の少女。それを知っているのは何故だろう?

訳も分からない不気味なメッセージに返信しようと、端末のロックを解除し、チャットを開く。

 

 

『誰ですか?』

『貴方が知っている者よ。名は明かさないけどね』

 

 

返信した瞬間に、更なるメッセージが続く。

 

 

『貴方が何故そこに居るのかは分からないわ』

『けれど、貴方が居なくなるのはそれはそれで困るの』

『だから、少しだけ取引をしましょう?』

 

 

なんなのだ。

この、全てを見透かされるような感覚は。

手が震える。

顔は、真っ白になっているかもしれない。

 

 

「こいし?誰からのメッセージ?顔が青いけど……」

 

 

蓮子が首を傾げながら覗き込んできた。

しかしそれを気にする余裕もなく、脂汗が滲む。

 

 

『調べたけれど、貴方は戸籍を持っていないようね。取引の代価は仮の戸籍と大学に入学しているという身分をあげるわ。どう?話に乗る気はない?』

 

 

震える手で、不気味な相手へとメッセージを送る。

 

 

『内容は?』

 

 

あまり話す気にはなれない。

そんな感覚のまま、相手の返答を待つ。

若干の沈黙の後、軽快な通知音が鳴った。

 

 

『貴方の記憶で手を打ちましょう』

 

 

その取引内容は、あまりにも奇妙で、胡散臭かった。



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『樹海の髪』編
10


月面ツアーのお話は大空魔術より、
人工森林は伊弉諾物質から抜粋です。


「やっぱりいた。ってこいしは?」

「あー……今お手洗いに」

 

 

食堂の一角で、慣れた顔に話しかける。

講義は終わり、漸く暇になったのでちらちら話が聞こえていた食堂に来てみたのだが、案の定蓮子がいた。

 

 

「物凄い噂になってたわよ。こいし」

「そりゃあれだけ衆目を集める見た目をしてればねぇ」

 

 

容姿が整っている上に幻想的な髪色と瞳。

誰だって目を惹かれるだろう。

 

 

「んで、今日は何するの?」

「何が?」

「メリーもついにボケたかしら。サークル活動よ」

 

 

そう言えばこいしの方でバタバタしていたので活動の事をすっかり忘れていた。

活動に関する事で、どうも最近気になる話があったのだ。

 

 

「あの……どこだったっけ。森の髪の毛ってやつ」

「富士の方じゃなかった?」

「そうそう。今日じゃ無いけど、あれ調べに行かない?」

「何で数ある謎の中から変なの選ぶかねぇ」

「直感ってやつよ」

 

 

第六感は実在する。

そんな研究結果が発表されて100年近くは経過したが、私の直感は当たるも八卦外れるも八卦といった具合であった。

 

 

「ふぅん……まぁ、いいけどね」

 

 

蓮子の反応は微妙。

まぁ、髪の毛など腐るほど毎日見ているだろう。

それだけに興味は薄いらしい。

 

 

「で、こいしは?」

「連れて行くわよ。勿論」

 

 

本人の許可など知らない。

こいしは連れて行く。彼女は民俗学を専攻していたのか、そういった事に妙に詳しいので必ず役立つはずだ。

 

 

「まぁ、そうね。しかし妙な事にならないと良いけど」

「夢に関しても最近は安定しているし、まぁ大丈夫でしょう」

 

 

少し前まで、私の夢はおかしかった。

妙な夢を見て、実際にそこで手に入れた物や受けた傷が現実にまで反映される。

そんな恐ろしい体験をしていたのだ。

 

 

「ただいまーってハーン、いたの?」

「随分と酷い言い草ね」

「ごめん。ちょっとびっくりした」

「まぁ、いいんだけどね」

 

 

こいしが帰ってきたので、にこりと笑う。

少し顔色が悪い気もするが、元々白く美しい彼女の顔では判別もつかない。

 

 

「失礼」

「しなくていいから、座りなさいな」

「はーい」

 

 

蓮子の隣、向かいに座ったこいしの目を見て、ちょっとした噂について話すことにする。

 

 

「さて、実は私達ちょっと行きたい場所があるの」

「どこ? 宇宙?」

「いつだか月面ツアーの話があったわねぇ」

 

 

少し前に号外というレベルで騒ぎになった話である。

まぁ“一般化”はすれど、“庶民向け”では無かったわけだが。

 

 

「ま、そんな遠いところじゃないわ。少し身近で遠くを見たいお話よ」

「ふぅん……で、どこ?」

「富士の森。幻想を見たくてね」

 

 

今でこそ過ぎた環境保全から来る人工の見かけだけの森林がある日本各地だが、天然の森だって数は少ないが点在する。

例えば、自殺が絶えない富士の樹海だとか。

 

 

「こいし、一緒に行こう」

「……幻想、ねぇ」

 

懐かしむような、そんな遠い目をするこいし。

普通とは違うその反応に、私は更に興味を惹かれ。

 

 

「出発は明後日。夜に準備しましょ」

「ま、気になるし当然一緒に行くけど、もうちょい相談して欲しかったなぁ」

 

 

苦笑するこいしから目を離し、蓮子に嬉しさからウインク。

 

 

「……帰り道に繋がっているといいんだけどね」

 

ボソリと呟いたこいしの声は、全く聞こえずに、私は心を躍らせたのだった。




『何が知りたいの』

無意識の少女からの連絡に、口端が上がる。
娘から端末を預けている事を聞き、接触を図れば大当たり。
それはそれは、随分と幸運な事だった。

『貴方はいつ、何処から来たの?』

私が知りたいのは、彼女がいつ幻想郷から姿を消し、いつ現世へと出てきてしまったのかと言う事だけだ。
暫くの時間を持ち、返ってきたのは短い文章。

『素敵な巫女が治める小さな世界。来たのは二日前』

そのメッセージに、思わず眉を顰めた。
二日前まで幻想郷にいたと言う事ならば、彼女が失踪した頃より遥かに複雑化した大結界をどうやって抜けたと言うのだろう。
ならば質問を変えよう。

『貴方は貴方?』

無意識に呑まれているならば、彼女は彼女でありながら彼女では無い。
それを暗に含めて言えば、彼女の返答はすぐだった。

『私は古明地こいし。私は私以外の何者でも無い』

あまりにもハッキリしたその言葉に、大昔の印象は崩れ去った。
振り回されるのではなく、御していると言うのか。

『いいわ。また後で連絡を取るから他の人には話さないように』
『ハーンにも?』
『えぇ。メッセージは消しておくわ』
『分かった』

そう言い、送ったメッセージを全て取り消しておく。
椅子に背を預け、天井を見た。

「……何がどうなっているのかしら」

どうにも状況は単純では無い。
仮定と想定をいくつか挙げ、扇子を閉じたり開いたりしながら大きく息を吐いた。


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11

ヒロシゲは卯酉東海道より抜粋です。


今日は何もしていない。

それが馴染んだと言えるのか、浮いてると言えるのかは分からない。

ただ、ハーンが何かを求める訳でもなく、私と言う存在を欲しているのは直感的に察した。

 

 

「うーん、こいしの服は何を持って行こうかしら」

「何でもいいけどねぇ」

「ダメよ。体のサイズや顔に合うか合わないかって点でも考えなきゃいけないわ」

 

 

管を隠すためにゆったりとした服装を多く選ぶハーンに、やはり不思議な部分も自然と受け入れられている事を実感する。

これはあまりに異な事だ。

人は標準からズレる事を嫌う傾向にある。

あまりにも特出して歪な存在の私に、ハーンが施してくれる理由は何か。

そこに理由は無いとしたら、お人好しが一周回って恐怖すら感じさせる。

人らしく無い、と言う事をさも平然と行う姿は不気味以外の何者でも無いのだから。

 

 

「あ、そういえばこいしの私物って何かある?」

「服ぐらいかなぁ」

 

 

手に持っていた黒電話と大振りのナイフは、“無意識の産物”であり、形而下として存在しているわけではない。

あれはそういう“概念”の形をしていただけなのでノーカン。

今も作り出す事は出来るが、それは“メリーさんの電話”という現象を引き出す事と同義である。

必要とも思えない今は、控えた方がいいだろう。

 

 

「うーん……じゃあ一緒に行動するし、予備の端末ぐらいしかいらないか」

「そうだねぇ」

 

 

果てにはお金も何も必要では無い。

別に食べなくても死にはしないのだから。

古明地こいし、という存在に傷が付かない限り。

それが、妖怪の特性である。

 

 

「あぁ、そうだ。ヒロシゲのチケット取らないと」

「ひろしげ、か」

 

 

聞き覚えのあるひろしげは歌川広重ぐらいなものだ。

絵でも見に行くのだろうか。

 

 

「そ。まぁ東京行きは基本空いてるから急がなくても取れるだろうけどね」

 

 

そう言いながら端末を弄って暫く。

満足そうに頷いたハーンが荷物の整理を再開した。

 

 

「やっぱり空いてたわ。わざわざこの時期に東京に行く人なんて少ないものねぇ」

 

 

東京の彼らには理論が大切で、答えしか扱わないから精神が脆弱な人が多いのよ、なんて愚痴を零す姿を見るにどうにも良い印象は抱いていない様子。

今の日本がどういった区分で県を分けているのかは知らないが、文字通りならば今から向かうのは東らしい。

 

 

「ハーンや蓮子は脆弱な精神をしていないの?」

「まぁ……東京より京都は心と精神にも重きを置いているからね」

 

 

確かに、見かけた人間を不味そうだと思った事は一度も無い。

恐怖心の薄さから、美味しそうとも思わないが。

 

 

「精神に重みを置かないから神亀の遷都が行われたのよ。心に豊かさのない人間は前時代的だわ」

「心なんて目に見えないものを信じるの?」

「有る無しではなく、存在するって方の在る。目に見えないから信じない、なんてそれこそ科学に向き合っていない証拠よ」

「……科学は傲慢だねぇ」

「否定はしないわ。神の発生も、妖怪の存在も、人が生きている方法も、全てを明かそうとしてしまったから。まぁ、それらも再度見返しがされている最中なんだけどね」

 

 

どうやら時代は大結界が閉じた頃とは逆転し始め、目に見えない物を信じない為の科学ではなく、目に見えない物すら取り入れる科学へと発展を遂げているらしい。

これでは大結界も揺らいでしまうのではないだろうか。

かなり古くから幻想郷を知る身としては、若干の心配をしてしまう。

 

 

「結局は、形而上の事柄すら科学の範疇よ」

「……ハーンは都市伝説とか信じるタイプ?」

「うーん、それに関してはとても難しいわね。そういった事はほぼ“絶滅”してしまったから。境界に触れば情報はあるけれど……」

 

 

私達の世界に都市伝説が入ってきた事情には、そう言った背景もあったのか、なんて一人で納得する。

そんな会話をしていれば、ハーンが荷物を詰め終えて立ち上がった。

 

 

「よし。明日は下調べをしましょう。それで出発ね」

「そう思うと荷物纏めるの早くない?」

「気が早ったのよ。さ、お風呂は先に入って良いわよ」

 

 

そう言ったハーンの顔は、若干恥ずかしそうだった。




ここで端的に説明。
互いの想定する時間軸にはズレが生じています。
少し分かりにくい場合は、秘封倶楽部の世界観を調べてみましょう。


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12

本の質の話は燕石博物誌より、
バー・オールドアダムは旧約酒場より、
竹林の夢は夢違科学世紀に拠るものです。


「図書館の匂いは好き嫌いが分かれる気がする」

「今では本が集まる場所自体が貴重だから、好き嫌いするなんて贅沢なんだけどね」

 

 

大学構内の、一般公開されている資料保管室のソファーでこいしとハーンの話を聞く。

 

ここは、厳重に保管された本の全てが貸し出し用タブレットにスキャン、記録され、それを閲覧することの出来る場所だ。

学生カードがあれば、漫画から稀覯本まで、果てにはもう現存しない本までも読むことが出来る。

瞬時に莫大な情報が手に入る現代では“質”が絶大な価値を誇り、“質”を持った本が集まっているだけでも、ここに付加価値が生じているようなものである。

 

 

「で、樹海の髪……何処で聞いたんだっけ」

「バー・オールドアダムよ。記憶を失うまで呑んだことは無い筈だけど?」

「あぁ、あそこね。道理で曖昧な記憶な訳だ」

 

 

バー・オールドアダムは、とある経由で知り得た貴重な情報収集の場だ。

旧型の酒を出す珍しい店であり、とある人々が集まる場所でもある。

 

それは、“不可思議な体験談”を持つ者が集う酒場。

あそこは幻想と空想が入り混じる、秘封倶楽部にも似た空気がある。

時折そこに赴いては情報を集めて、気になる話を探すのが最近の活動形態であった。

 

 

「で、髪……髪ねぇ」

「何かあったかしら?」

「うーん……樹海に関する怪奇は多く見つかったけど髪に関して情報は無いね。どんな話だったっけ」

「貴方の記憶は酒に呑まれてしまったようね」

 

 

呆れ気味にメリーが首を振るが、旧型の酒は酔いが深い。

記憶は曖昧になるし、後に効く。

それを楽しむための旧型なのだが、それに溺れてしまうのもまた旧型だ。

 

 

「えぇっと……以前髪の信仰云々を話していた人からの情報ね。富士の樹海で髪で首を吊った人間の髪だけが動き、人を襲う話だったかしら」

「それ境界と関係ある? もうB級ホラー映画じゃない」

 

 

なにか気になるものでもあったのか、フラフラと歩いた末に窓から外を眺め始めたこいしを見ながら、メリーはため息を吐いた。

 

 

「本題はそっちじゃないの。その人の背丈ぐらい長い髪の毛を見ると気が狂うって話が気になったのよ」

「……情報過多な髪束だなぁ」

「狂気に苛まれた人間は、霧に包まれた末恐ろしい場所を幻視するらしくてね。それこそ、私の夢の中に出てきた幻想のような場所よ」

 

 

それはメリーが以前に見た、そして体験した夢にとても近い。

確か大鼠に追われて、炎に包まれた女の子と遭遇したのだったか。

しかし文字に起こして読んでみれば、それは幻想的(ファンタジー)どころか、とんだ狂気的(インサニティ)である。

 

 

「じゃあ、髪が幻想への境界を開き、人がそれを幻だと思い込んだ?」

「可能性はあるわ。どこにだって境界の隙間は存在する。それこそ、小さければそこら中に」

 

 

そう言いながらメリーが掌を私の瞼に被せてくる。

途端に暗くなる視界と、徐々に見えてきたのは先程まで見ていた資料室の風景。

席が一人分ズレた視界に脳裏が若干の齟齬を起こすが、すぐに処理されメリーの見る世界を幻視する。

小さな指ほどの歪みが見え、事実を再確認した。

 

 

「まぁ、そうね。そこら中に隙間はあるからね」

 

 

やれやれと首を振って、メリーが掌を瞼から外そうとしたその瞬間。

 

―――ほんの一瞬、メリーの視界を借りたまま、こいしの姿が視界の端に映る。

 

 

「…え?」

 

 

まるで袈裟切りのように、こいしの体に大きく走る亀裂。

通り過ぎるかのように一瞬見えただが、それははっきりと記憶に刻まれた。

その亀裂の中から、空虚な瞳で微笑むのは“こいし”。

体の中にもう一人がいるようなその不気味な見た目に、私は思わず立ち上がった。

 

 

「うわ、……蓮子?」

「……ハ……ハァ」

 

息が荒い。

胸が締めあげられるような痛みに呻く。

 

 

「……メリー、こいしは貴方の瞳でどう見えているの?」

「こいし?うーん……一度だけ巨大な境界に憑かれていた事はあった。でもそれ以降は何も」

「あぁ、そう」

「何かあったの?」

 

 

不思議そうに覗き込んでくる彼女の目には、こいしは普通に見えているらしい。

あの光景の不気味さを表現する方法は持ち合わせていないので、見た物をそのままメリーに話す。

途端に考え込むように固い表情をするメリー。

 

 

「……後でこいしに訊いてみるわ」

「そうして頂戴。今この場で聞くと答えによっては私が今日のあまりぶっ倒れるかもしれないわ」

 

 

精神の疲弊は積み重なると狂気に成り得る。

今は少し心を休めたい。

 

 

「で、髪の話だけど、説明の最中に一つだけ気になるのは見つけたわ」

「仕事が早いね」

「まぁ妖怪の話だから話半分で聞いて」

 

 

その妖怪の名は髪鬼、又の名を鬼髪。

女の怨念が人の髪に宿った妖怪であり、切っても際限なく伸び続ける上に逆立つなど動くという。

 

 

「ふぅん……妖怪ねぇ」

「髪が勝手に動くのは日本人形を例に挙げればメジャーだし、信仰の原初も髪に纏わる事が多いわね。つまり、髪は身近でありながら神秘的でもあるのよ」

「……でも髪を調べに行くって言うのもモチベ上がらないなぁ」

「ま、富士の麓の蕎麦屋さんが美味しいらしくてね。少し行ってみたかったのよ」

「そっちが本音か!」

 

 

秘封倶楽部の次の活動は、どうやら蕎麦を食べに行くついでになりそうだった。



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13

「そういえばこいしって二重人格?」

「どしたの急に」

 

 

資料室から出て暫く。

蓮子は用があるからと大学内の研究室に向かい、現在は二人でコンビニへと歩いていた。

 

先程の問いかけに対するこいしは首を傾げて悩むような仕草を見せている。

 

 

「さっき蓮子が境界を見たの」

「……ふと思ったけど境界って何?」

「えっ」

 

 

境界とは何か。

それはとても難しい質問だ。

 

 

「ん……大っぴらには話せない事とだけ。場合によれば罪に問われるわ」

「ふーん。で、二重人格じゃ無いよ。私は私」

「だろうねぇ」

 

 

相槌を打てば、こいしは曖昧な笑みを浮かべて目を細めた。

 

 

「ただ、意識が無意識に乗っ取られる事はあるけどね」

「意識?」

「そ。例えば指を握るという行為が意図的であるかそうで無いかを意識と無意識の違いとすれば、私は気がつけば手を握っている」

「厳密には意図的かそうでないかは意識と無意識の例えとしては不十分。必要性や状況も含めて考えないと、反射などの偏りがあって良くないわ」

「……確かにそうだね。流石に普段からこういう話に触れてる事はある。それを踏まえて、私は意識せずに動く事が時々ある。それに人格は無いけれど、私では無い。そういう意味で二重人格“では”無い、と言えるかな」

 

 

成程。それはとても複雑な事だ。

人格は無い。けど、それはこいしでは無い。

 

 

「……私と出会った時を覚えているかしら」

「多分、無意識の内に出会ったんだろうね。私からすれば交番? だかの中で色々聞かれて、気がついたらメリーが扉を開いて私を招いていた」

 

 

何となく分かってきた。

彼女に取り憑く境界は、“無意識”のトリガー。

境界が開くと彼女の意識は封じられ、意図しない彼女の無意識が動き出す。

又は境界から這い出た何かに、意識を乗っ取られている可能性もある。

次にこいしの境界を見かけても、開けないほうがよさそうだ。

 

なんて思考に耽っていれば、コンビニに着いたので晩御飯の惣菜と飲み物を補充しておく。

 

 

「何か欲しいのは?」

「んー……え、この噛む紙って何?」

「ネタ系の食べ物よ。人工食物繊維を和紙のようにしてあるお菓子。若干甘いし付属のチョコペンで何か書けるわ」

「えっ、和紙……食物……えっ?」

「言葉通り、食べられる紙、よ」

 

 

今ではあまり必要とされない情報媒体である紙。

一部の実体至上主義の方々は紙を好むが、それ以外で使用されるとなると、同人誌など個人単位がいいところである。

最重要機密文書など、流出すると困るものは紙で、などという意見も、世から完全に切り離されたローカルサーバーなどに保管されて久しい。

製紙工場も、今ではかなり数を減らしていた。

今では生き残りに色々な案を打ち出している。このネタお菓子もその一つであった。

 

 

「いる?」

「いらない」

 

 

食い気味の反応に思わず笑ってしまう。

味は悪く無いが、紙という時点であまり食欲を誘うものでは無い。

その反応もまた当然と言えた。

 

 

「じゃあ明日は早く出るし、軽く腹に入れられるおにぎりかパンで好きなの選んでいいわよ」

「おにぎり……にしようと思ったけど何このラインナップ」

 

 

こいしが目を細めて口を歪める姿に、そんなにおかしいものがあったかと一緒に見る。

 

 

合成マーマイト味

合成チョコ味

合成タイヤ味

 

 

「こいし、おにぎりはやめましょうか」

「……世界の常識が分からない」

「やっぱりネタ系のおにぎりは普通の人なら食べないからねぇ。罰ゲームには人気だけれど」

 

 

大昔に変わり種グミを発売していた有名会社と企業締結した食品工場が生産するネタおにぎりは、割とコアな人気がある。

普段は普通に美味しい食品を作っているだけに、こういうスタンダードから外れたものは希少価値を持つらしい。

 

 

「パン……は普通か。じゃあコッペパンがいい」

「はいはい。なんだったらジャムも一緒に買うけれど」

「いらない」

 

こいしがパンをカゴに入れ、買う物はもう無い。レジで学生カードでの支払いを済ませてしまう。

袋詰めは自動なので楽でいい。

 

 

「今日はどっか寄るの?」

「んー成果も出なかったしこのまま家でゴロゴロも悪く無いなぁ」

「お姉ちゃんみたいなこと言うね」

 

 

懐かしそうに微笑むこいしに、ふと気になった事を聞く。

 

 

「そういえばお姉さんに最後に会ったのいつ?」

「え? んー……いつだったかな。一年以内には会ったような……」

「記憶が曖昧って事はそう言うことね」

 

 

あまり会うことはないようだ。

でも確かにこいしのお姉さんみたいに社会人になれば、家族に会う機会も減るのかもしれない。

出勤という概念は、この時代でも無くならない文化である。

 

 

「じゃあ今日の午後は家でゴロゴロか」

「そうね。じゃあ家で境界について話してあげるわ」

 

 

外で話せない事も中でなら話せる。

監視カメラなどが街に並び、個人がカードで買った物を全てデータとして残され把握されるような監視社会だが、流石に部屋の中までは見られていない。

プライバシーと社会安全の天秤はいつだって曖昧に傾き、適正な位置を探し続けている。

緩やかに日本の人口は減り続けているが、それでも大人数の目線がある限り適正は存在しない。

 

「現実より幻想の方がよっぽど素敵よ」

「…」

 

無意識に、何かで濡れた口元を拭うような仕草を見せたこいしを後ろに、ゆっくりと帰り道へ足を進めた。



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14

買い物袋からいくつかを冷蔵庫に仕舞い、リビングのソファーに寝転がる。

 

 

「だらしないよ」

「いいじゃない。自室ぐらい楽でいたいわ」

 

 

楽にできない自室など自室ではない。

正確にはここは自室ではなく、共有のスペースではあるのだが、こちらの主張にこいしはやや納得したように頷き、自身も床へ寝転がった。

 

 

「確かにそうだ。なので私も緩むことにする」

「それでいいのよ。部屋でくつろぐのは正しい事」

「うーん堕落」

「あはは、地獄に落ちちゃうわね」

「もう落ちるを通り越して住んでる」

「……それは素敵な言い方ね。今度真似させてもらうわ」

 

 

にへらと美しくわらうこいしを見ながら、そんなくだらない言葉を交わす。

賢い会話は嫌いではないが疲れるので、意味の無い薄い会話は疲れなくて大好きだ。

内容が薄い会話をダラダラと続け過ぎれば、流石に辟易としてしまうが。

 

 

「じゃあ境界の説明だったっけ」

「そうそう。境界って何?」

 

 

途端に思考がのんびりしたものから、真剣なものへと切り替わる。

 

境界とは。

 

一時期研究されていたことだが、情報は全て削除済み。ネットに接続されない端末で研究資料をまとめるなど、アナログながらに効果的な手法を取っていたらしい。

サイバー攻撃が数度あったらしいが、誘導の末に攻撃先を特定したとの噂もある。

そんな、国が秘匿するレベルの境界をどう説明するかと言えば簡単だ。

 

「目を閉じて」

「すでに閉じてるよ」

「開いてるじゃない。ほら早く。言葉じゃ説明しにくいのよ」

「……変なところ触らないでね?」

「はいはい」

 

 

後ろに回り、瞼にそっと触れると、こいしが体を震わせた。

 

 

「何が見える?」

「……ハーンの部屋……だけど、何かおかしい?」

「私の見ている景色だから、若干の位置ズレがあるわ」

 

人の視界を私自身は見る事が出来ないので、特有の酔いは分からないが、なんとなくVR系の気持ち悪さは理解できる。

 

「さて、じゃあ目の前の歪みは見えるかしら」

「あの小さな……なんて言うんだ……切れ目……歪み?」

「そう。それが境界」

「あ、ごめん吐きそう」

「三半規管弱いのね! せめてキッチンで!」

「…ウッ」

 

 

     ○○○

 

閑話休題

 

     ○○○

 

 

「で、あの境界がなんだっけ」

「まだ何も言ってないわ」

「ごめんもうどうでも良くなった」

「そうね。あれだけ片付けに時間かかったら、もうなんだっていいわね」

 

 

気が付けば夕暮れ。

窓より入ってくる光の色は赤。

燃えるようなその色は、何処か美しさと同時に怖気を感じさせる。

 

 

「まぁ掻い摘むと、この世の境界は“暴く”と何らかのアクションを起こすわ。怪奇現象然り、異常現象然り」

「……暴く?」

「うーん、閉じている境界を開く、と言うニュアンスが正しいかしらね。境界は境目。つまりその蓋を突き破って、向こう側を暴くの」

「へぇ……」

 

 

暫し考え込むこいし。

既に風呂へと入り、ジャージ寝巻きに着替えてはいるものの、何故かその姿が酷く恐ろしく見える。

何かを探し、何かを壊そうとしているような、誰も止める事の出来ない不安定さが垣間見え。

 

 

「……こいし?」

「うん、明日が楽しみだね」

 

 

ニッコリと口だけの笑顔に、思わず体が強張った。

そんな時、ポストからカタリ、と軽い音がする。

 

 

「……配達、いや手紙?」

 

 

こんな時代にわざわざ手紙を寄越す友人はいない。

配達物は身に覚えがなく、何かを送られる様な事も無い。

気になって玄関まで行って見てみれば、手紙ではなく封筒。

しかし宛名として書かれているのは、私ではなく。

 

 

『古明地こいし様』

 

 

短く書かれたその名前に、冷や汗が噴き出した。

誰だ。

彼女の名を知る者は、蓮子ぐらいしかいない。

彼女がここにいる事を知る人は少ない。

何故、ここに彼女宛の手紙が届くのか。

嫌な汗が背に滲む。

 

ポケットに入れた端末が軽快な通知音を鳴らしたのは、そんな恐怖に思考が蝕まれていた頃だった。

 

 

「……ッ!?」

 

跳び上がる程に驚いた。

それはあまりにも急で、心臓に悪い。

落ち着いて深呼吸。

端末の画面を見れば、ママからのメッセージが一件。

 

 

『今届いたみたいね。サイトで確認したわ。古明地こいしさんにプレゼントよ。貴方も仲良くね』

 

 

全てが抜け落ちるような気がした。

重い足取りでリビングへと戻り、こいしに封筒を渡す。

 

 

「こいしへ、私のママから」

「……!」

 

 

若干驚いた顔をして、恐る恐る封を切るこいし。

こちらに見えないよう中を覗き込み、暫く考えた後にトイレへと駆け込んだ。

 

 

「何が入っていたの?」

 

 

まさかとは思うが嫌がらせじゃないだろうな。

吐くほど嫌な物を送りつけたとしたならば、あまりにも悪趣味が過ぎている。

ママに限って、そんなことはないだろうが。

 

 

『こいしに何を送ったの?』

『彼女に必要な物よ。きっと彼女も喜ぶわ』

 

 

なんとも胡散臭い話である。

ちょっとして戻ってきたこいしは、空の封筒を持っていて。

 

 

「ちょっと出掛けてくる」

「うーん……私も着いて行くわ。心配だし」

「ダメ。ちょっと出掛けるだけだから、気にしないで。一応端末は借りて行くよ」

「え? あ、ちょっと!?」

 

反論などさせないとばかりに、フラリと外へ行ってしまったこいし。

慌ててドアを開けるも、もう見える場所にこいしはいない。

 

 

「……帰ってくるわよね?」

 

 

彼女の先程の様子を思い出し、不安が込み上げる。

 

───そして約1時間後。

普通にこいしは帰ってきた。

 

 

「ただいまー」

「遅かったじゃない!」

「ごめんごめん、住民票と大学の学生カードを少しね」

「……え?」

 

 

そう言ってこいしのポケットから出てきたのは、こいしの顔写真が貼られた、よく見る慣れたカードで。

 

 

「えっ」

 

 

何がなんなのか分からないが、どうやらこいしと同級生になったらしい。




封筒の中身
・こいしの国民カード(その時代での個人情報が全て記憶されたもの)
・学生カードと住民票の取り方説明書(特別推薦書付き)

ようやくタイトル回収です。


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15

振動も音も感じない。

スクリーンに映る東海道が、網膜に煩く訴えかけてきた。

 

「…えっ。こいしウチに入ったの?」

「嫁入りした記憶はないのだけれど」

「個人的には婿より嫁がいいわ」

「えー私が婿ぉ?」

 

そう言う話ではない。

対面に座る蓮子と薄い会話をしながら目を細めた。

昨晩、鬼のような勢いで端末を触っていたハーンが横の座席で寝息を立てている。

 

「で、なんでウチに?」

「その方が楽だから、かなぁ」

 

そんなハーンを横目に、私は大学に何故入ったのかを、蓮子から柔らかく追求されていた。

 

「ふーん…それで、入れた理由がよく分からないのだけど」

「知り合いが推薦してくれて、それが通った。間違いはないよ」

「それが全てでも無い気がするんだけどね」

 

そう言いながら先程購入した紙パックのジュースを啜る蓮子の目は、猜疑よりも興味に傾いている。

未知を知ろうとするのは人間の良いところだが、どうにも行き過ぎた理解をしないと納得しないのも人間というもので。

 

「そいえば、蓮子は蕎麦がどれぐらい美味しいと思う?」

「最近お蕎麦食べてないからなぁ…久々だし超美味しく感じるかもね」

 

手持ちの端末で、こちらにも見えるように検索を始めたのを見ながら、昨晩の記憶を辿る。

 

届いた封筒の中身には、色々入っていた。

ハーンに見られるとマズイものもあると判断し、トイレで開けたのは正しかったのだろう。

“ママ”からのチャットには、『またお話を聞かせて頂戴』とだけ書き込まれており、目を通して5秒後にはそのメッセージも消されていた。

 

狙いも望みも分からないが、この現世で自分を証明できる書類を手に入れられた事は、非常にありがたかった。

 

「あ、多分これだ。【蕎麦処 鈴】。…へぇ!合成蕎麦じゃなくて手打ち蕎麦なんだ!!」

 

ほうほう、などと相槌を打ちながら、聞き慣れない『合成蕎麦』について調べてみる。

情報を漁れば、現代では蕎麦の食感と風味を再現する事に成功し、小麦と合成蕎麦の元を合わせて蕎麦を、通称『合成蕎麦』を安く作る事が可能、という事が判明。

ついでに合成蕎麦が登場して以来、蕎麦処を名乗って良いのは、合成蕎麦ではなく手打ち蕎麦を出す店だけ、という豆知識も出てきた。

 

と、ふと懐かしい気配がした。

ピクリ、と顔が引き攣るのを見てか、蓮子が感心したように頷く。

 

「ここは富士の樹海の真下辺りよ。昔に乗ったときも過敏なメリーが境界の裂け目があるって怖い顔をしていたわ」

「霊峰富士の近くかぁ…そりゃまぁこの気配も納得だ」

 

それから暫く。

体から違和が抜け、弛緩したと同時に蓮子が端末に何かを打ち込むのをやめて顔を上げた。

 

「んで、蕎麦の話題だったっけ」

「そうそう。合成蕎麦と手打ち蕎麦って味違うの?」

「うーん…難しいなぁ。でもやっぱりちょっと違うよ。厳密には手打ちの方が蕎麦って感じがする」

「気持ちの持ちようじゃんそれ…」

「あら、プラシーボ効果は病気すら直す程よ。気持ちの有無は結果に十分関与するんだから」

「それ合成蕎麦でも思い込めば手打ちと一緒って事を遠回しに肯定していない?」

「ノーコメントですわ」

 

クスクスと互いに笑い、外を見る。

気がつけばプロジェクションマッピングにはスタッフロールが流れ、もう53分が経とうとしているのかと端末を見た。

私が幻想郷で飛ぶより遥かに速いヒロシゲは、もう東京へと着こうとしているらしい。

 

「一旦実家寄るのも良いかもなぁ」

「お、挨拶しなきゃ」

「ちょっと恥ずかしいから勘弁して」

「残念」

 

前回メリーと寄った際は、外国の子と仲良くなってと偉く喜ばれたそうで。

延々と身の上話を親から友人へマシンガントークで話されるのを見る苦痛は、まぁ何となく分からないでもない。

…純妖怪に親などいないわけだが。

 

「さて、もうそろそろメリーを起こして」

「ほいほい。ハーン、ハーン…」

 

ムチムチと頬を突けば、ハーンが薄っすらと目を開けた。

しかしいつまで経っても覚醒しないハーンに痺れを切らし、体の各所を突く。

 

「ほら、起きないとキスするよ!」

「あ、何こいしってそっちのケがある感じ?」

「ないよー」

 

蓮子のヤジは放置。

少し慌てた様子で身を起こしたハーンは、端末で時間を確認する。

 

「…もうじき東京か」

「荷物纏めときなよ」

 

いつでも出られるよう荷物を纏め、端末から気になった富士の樹海の噂について書かれたページを開いた。

 

「…役立つの無さそ」

 

よく分からない噂話が羅列する画面を見て、人間は未知を恐れるくせに、未知が好きなのだと改めて実感した。

 

ヒロシゲの車内アナウンスが流れる。

卯東京駅まであと僅か。

時間が流れるのは早いものである。



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16

この章は、卯酉東海道、大空魔術、夢違科学世紀を主としてプロットを練り上げました。

東京に関しての描写は卯酉東海道に拠るものです。


ガラス張りのギラついた風貌の高層ビルが並び、奇怪な格好をした人が歩く昼。

アスファルトで舗装されている道には罅も多く、時折香霖堂の本に描かれていた車が走り難そうに動いているのを見かける。

東京を暫く歩いた印象は、京都より“居心地が悪い”。

存在の根幹が揺らぐような、そんな浮ついた感覚が奥底で燻っていた。

 

「あ、凄い凄い。ド派手」

「また妙なものを買ったね…」

 

虹色のチーズが伸びるアメリカンドッグのような物を齧りながら、ハーンは喜々として街を見回している。

視界への暴力とも言うべき、人類の網膜に対する冒涜的な食物を横目にふらりふらりと“Takeshita Street”と書かれたアーチを抜けた。

 

「渋谷は以前訪れたんだけど、こっちの方は初めてで」

「ふーん、まぁ私も東京を観光したのは初めてだけどね」

「お、一緒一緒。もう暫くしたら山梨の方に向かうから、それまでダラダラ過ごしましょ」

 

ハーンは何処か楽しそうにしているが、私の中ではどうにも気持ち悪さが渦巻いている。

 

そして思い出した。

この芯に響く痛みは、“妖怪の性質”に関する痛みであると。

消滅程ではないが、この街ではどうにも“未知を認めない風潮”が京都より強いらしい。

 

忘れていた。

現世で忘れ去られかけたから、幻想郷が出来たのだという事を。

 

「…こいし?顔色悪いけどどうかした?」

「いやぁ、そんな色の食べ物を食べているのを見たらね…」

「んー美味しいけどどう?」

「いや間接キスとか恥ずかしいから…」

「そんな初心じゃないの知ってるわよ」

 

試しに一口。

目を閉じればサクサクした衣、ふかふかの中身にとろりとしたチーズ。

間違いなく美味しいが、瞼を上げれば口から伸びるのは虹色のチーズ。

 

咀嚼音が妙に頭の中に響く。

どうにか飲み込んで次に口から漏れ出た言葉は短く。

 

「……おいしいね」

「顔と合っていないわよ」

 

多分、苦々しげな顔をしている事だけは何となく予想できた。

ハーンが歩き始めたので、何となく着いて行く。

目的地は決まっているような足取りなので、わざわざそれを聞く無粋な事はしない。

 

「昔は、人が集まる場所だったんだって」

「東京?」

「そ。遷都する前は、だけど。さっきのあそこも独特のファッション文化の発信地だったらしいわ」

「ふーん…そう言えば不思議な服がたくさん置いてあったね」

 

ハーンが指で示すのは、先程抜けた“Takeshita Street”のアーチ。

紅白巫女と共によく見る、白黒魔法使いのような服もあった。

 

「何か欲しい服はあった?」

「いやぁ?必要なのはないなぁ」

 

唯一言えば、どこかに置いてきてしまったお気に入りの黒い帽子が欲しいぐらいである。

服には困っていないので別に今はいい。

最近は露出度低めの黒のワンピースを借り続けているので、服が欲しいとは少し思う節もあるのだが。

 

「っと、蓮子がこっち戻って来るって」

「どこで合流するの?」

「東京にはとっておきの待ち合わせポイントがあるのよ。今向かってる所だけどね」

 

そう言いながらハーンは空を見上げる。

 

「やっぱりこっちの空気は苦いわね」

「東京は嫌い?」

「精神的に発展が少ない都市っていう印象ね。数値とデータに支配されていた土地。今でこそ人らしくなってきたけれど、昔は酷かったわ」

 

話す内容は、日本が歩んできた道のり。

世界の人口は増加から減少へと転じ、その影響が大きく出た日本は、デメリットをうまく回避し、選ばれた人間による勤勉で精神的に豊かな国民性を得ることが出来た。

しかしそれは、時代の流れが加速していったという事。

置いて行かれた精神的に貧しい、デジタルでありながらアナログな人間は、遷都せずにこの東京で数字を追い続けているという話だった。

 

「東京は勤勉だったけれど、精神的に豊かではなかったの」

「…確かに、ここの人たちはあんまり―――」

 

―――美味しくなさそうだ。

 

続く言葉を飲み込み、私は管を撫でる。

どうりでこの街は居心地が悪いわけだ。

精神が豊かではない、余裕のない人間達が集まる街には、“魔”がいらない。

それは、人が恐怖を感じる対象が“魔”ではないからである。

 

大昔、民を虐げていた君主の支配していた集落もそうだった。

妖怪が人を襲えど、恐怖が“美味くない”。

心と言う器にひとたび罅が入れば二度とは元に戻らない。

人という生物は、豊かでこそ恐怖という余裕を感じられるのだ。

 

「ま、ちょっとずつ昔らしさも戻ってきているけどね」

「昔らしさ?」

「そ、東京は江戸の血を引いているからね」

 

その言葉に、懐かしい光景を想う。

 

「…それはいい事だ」

 

大昔、刀を引っ提げた人間の“強さ”を思い出し、艶やかに笑った。

するとハーンが端末を触り、顔を勢いよく上げた。

 

「っと見えた!ほら、東京の有名な場所」

「…犬?」

「忠犬ハチ公の像。それはもう有名な待ち合わせポイントよ!」

 

東京の寂しくも煩いビル群を縫って歩く。

その街並みは、話を聞く世前よりずっと寂れて見えた。



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17

窓の外に見える光景は、東京に比べて随分と緑が多くなってきた。

とは言え、遷都以降は関東一帯の廃村化も増え、自然が多いという情報を端末から調べ上げているので、情報は正しかったのか、という以外に特に感想も無いわけだが。

 

「この…携帯食?はあんまり美味しくないね」

「持ち運びやすさと腹持ちと栄養素を突き詰めたから、味は後回しだったのよ」

 

時刻は昼前。

ヒロシゲと違い、気にならない程度の電車の揺れと音が五感を刺激している。

右横のこいしが携帯食を口に含むのを見ながら、端末で到着時間を確認しておく。

 

「京都から直接行くより、ヒロシゲに乗って東京からちょっと遠回りした方が安いのどうにかして欲しいわよね」

「まぁ、京都から富士山に行く人間は東京に行く人間より少ないから…」

 

通勤で東京から京都に往来する人間は多いが、富士山に往来する人間は比べて圧倒的に少ないだろう。

最近では富士山に登山する人間も緩やかに減少しているらしい。

世界の人口が減っているのだから、順当な結果ではあるわけだが。

左に座る蓮子が指でくるくると宙をかき混ぜる仕草を目で追えば、何となく酔った気分になってきた。

 

「…でもまさか自殺する人間が減って、富士山までの交通費が大幅に減ったなんて、本当に日本は変な国だったのね」

「ちょっと昔は、ね。自殺者も減り続けて素敵な事よ」

 

日本が自殺者を減らすために本腰を入れて暫く。

遷都を期に、豊かな精神を目指す方針は子供たちの人格形成を正しく導き、大人の働き方を大きく変えた。

自殺者は減り、それに準ずる事件も大きく数を減らして久しい。

 

故に、遷都前の自殺スポットなどは、その集客数を減らしていた。

 

「でも富士山の影響力はまだまだ大きいわ」

「むしろ富士山の無い日本は日本じゃないわよ」

 

窓の外を見て表情をコロコロ変えるこいしを見ながら、蓮子は優しく笑う。

 

「今の日本は、平和でいいわね」

「本当に。忙しくはあるけどね」

 

端末を見れば、乗り換えまであと1駅。

ふと顔をあげれば、こいしが端末を触っていた。

 

触るのは初めてではないのか、慣れた操作に感心する。

聞いた話だと初めてだと言っていたが――――

 

ふと目に入ったのは、拙い操作で文字を打ち込んでいた端末の画面。

微かなバイブレーションと共に、上から新着メッセージが入ったとの通知が見えた。

 

「あれ?誰か登録したの?」

「え、何が?」

「いや、そっちの端末のメッセージ系アプリに登録した人は全員消しちゃってたからさ」

「……え」

 

若干考え込むような素振りの後、納得したようにこいしが頷いた。

 

「あぁ、メッセージ系アプリって言われたから分からなかった。そうそう、偶然友達を見かけたからさ」

「へぇ!こいしの友達ってどんな人?」

「うーん…私の友達か。無表情で踊りが上手くて感情豊かな奴、かな」

 

その時のこいしの顔は、空虚な表情。

表情は無く、顔の中身がまるで()り抜かれた空洞かのような、軽薄さを帯びていて。

こいしの背後に、境界を垣間見る。

 

「…」

 

さして大きくはなく、ほんの僅かな力が漏れ出る境界を軽く閉じると、大きく息を吐いた。

 

「変わった人ね。類は友を呼ぶ、かしら」

「間違っちゃいないかなぁ」

 

そう零すこいしの表情は、疲れた笑顔。

そこには人間らしい重みがあった。

 

電車が速度を緩め、金属の軋む音が聞こえる。

昔ながらの良さというものも、悪くはないものだ。




『貴方は誰?』

先程の、後で連絡を頂戴というメッセージを見たのか、無意識の少女からのメッセージに端末が震えた。
テーブルから端末を手に取り、椅子に座る。

『前も言った通り、私は貴方の知り合い。他に何か?』
『この端末に登録してある“ママ”は、誰の事?』

…何の話をしているのだろう?
無意識の少女の意図が分からず、暫し考えて再度メッセージを送る。

『少なくとも、その“ママ”は間違いなく私の事よ』

既読され、30秒もの時間が空いた。

『分かった』
『で、要件はなに?』

短い言葉の連投。
返答に間違いがあったか。
そう若干の後悔をするが、要件さえ達成できれば別にいいだろうと割り切った。

『富士山に行くみたいね。情報を頂戴』
『どうして知ってるの?』
『その端末のGPS機能を見ているの。その方角には富士山しかないわ』

再度時間の空白が開く。

『樹海の髪について調べに行く。今は、それだけしか分からないかな』
『ありがとう』

それを期に全てのメッセージを消し、息を吐いた。
背凭れに体を預け、前髪を触る。

「…どういう意味かしら」

ママとは、誰の事なのか。
無意識の少女に対する正しい返答は未だ分からず。

端末を無意識の少女に貸したという娘の報告を聞き、そちらの端末の電話番号からアカウントを登録して連絡したという現代ならではの手法を知らぬ無意識の少女は、一人かってに不信感を募るのだった。


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18

設定や状況が分からない時は感想欄で挙手、質問して頂くと私が解答致します。
言い難い方の為に匿名での感想も可能に致しました。
場合によってはストーリーの矛盾発見に繋がりますので、お気軽にご利用ください。
普通の感想も、心よりお待ちしております。


鰹出汁ベースの蕎麦つゆの香りが、口内へと滑り込む蕎麦の風味と共に鼻へと通る。

富士山の麓にある、【蕎麦処 鈴】。

夕方前の時間、食後に探索を予定し、現在はそこで腹ごしらえをしていた。

 

「やっぱり日本の蕎麦は啜ってこそね!」

「紙でエプロン作ってまで啜るかね…」

 

見事な音が、時代を感じさせる店内へ響いた。

今では珍しい、木造建築の店内が見てきた時代へと想いを馳せるハーンを横目に、同じように蕎麦を啜る。

 

「ふふ、最近じゃあ珍しい若いお客さんだねぇ」

 

四人座りを想定して製作されたであろう、一枚板のテーブルに、白い割烹着の老婆が座る。

 

「素敵なお店ね。味も最高だわ!」

「嬉しい言葉だね。ありがとよお嬢ちゃん」

 

そう言いながら三角巾を解く老婆。

白髪混じりのオレンジに近い茶髪が零れ落ちた。

老婆が腰に下げた鈴の音が鳴る。

 

「富士山の麓も最近は寂れてきちゃってねぇ。人も減ってるし、当たり前なのかもしれないけど」

「そうですねぇ、名がある店は近畿に…ってすみません」

「気にしなくていいのよ。私の代でこの店もおしまいだから、ここにいるだけだもの」

 

そうケラケラ笑う老婆の顔は、童女のようにも見え。

そこで私は初めて、この世界で“食欲”を刺激される。

蕎麦を啜り、咀嚼。

老婆を見ながら、まるで幻想郷のような雰囲気を感じる店内に目を走らせた。

 

年代を感じさせるが埃は少ない。

レジ横に積んである厚い本はいくつもの付箋が貼ってあり、奥には蓄音機が見える。

最近入ったどの建物より、“懐かしさ”を感じる光景だった。

 

「あ、蕎麦湯欲しい人いるかい?」

「蕎麦湯?」

「蕎麦の茹で汁さ。蕎麦つゆと割って飲むのがいい。合成蕎麦が出来てからは、蕎麦湯なんて物も滅多に見なくなったがね」

 

そう言って奥から湯桶を持ってきてテーブルに置く老婆。

 

「ちゃんとした蕎麦湯は美味いよ。試しにどう?」

「あら、いただきます!」

「ありがとうございます」

「ありがとー」

 

三人それぞれにお礼を言い、蕎麦湯を蕎麦つゆと混ぜて山葵を溶いた。

すると老婆が薄い目を僅かに見開く。

 

「…ありゃ?お嬢さんは慣れてるね。その食べ方は今じゃ珍しいよ」

「そう?」

 

まずったか。

いつもの様に慣れた動作を出してしまった事を若干悔やむ。

 

「こいし、蕎麦湯飲んだことあるの?」

「んーまぁちょっと昔だけどね」

 

ハーンがどう言う割合が美味しいのか、ちびちび足しては飲んでを繰り返すのを横目に、蓮子に答える。

ちょっと昔だ。

最後にまともな蕎麦を食べたのは、“私の中で”ちょっと昔である。

 

「しかしこの店はすごいわね。あの蓄音機が時代を感じさせるわ。それに本物の本がある!」

「ふふ、母から貰ったの。他の小物もそう。捨てられないから、代々引き継がれているそうよ」

「由緒ある家系とか?」

「蓮子、詮索は良く無いわよ」

「いいのいいの。祖母から聞いた話だと、ご先祖様はどこかで貸本屋を営んでいたみたいでね、その仕事の際に色々貰ったそうなの」

 

そう言いながら、レジ横の本を一冊取った老婆。

黒い革表紙には、赤い霧と、紅の月。

小さく書かれた文字は、私には読めない文字だった。

 

「…どこの国の言葉ですか?」

「さぁ?私にも分からないわ。でもなんでかしらね、何となく何が書かれているのか分かるのよ」

「それは面白いお話だわ。何が書かれているの?」

「幻想の物語。誰が書いたのか、誰が作ったのかも分からない、幻想の物語が書かれているわ」

 

老婆は、本に挟まれた封筒を取り出すと、こちらを見渡して微笑んだ。

 

「うふふ、そしてこれ、吸血鬼から頂いた手紙らしいのよ」

「それは…」

「私も信じていないわ。でもいつまで経っても、まるで封筒と中の手紙の時間が止まったみたいに劣化しないなんて、不思議だと思わない?」

 

中の手紙にはびっしりと英語が書かれている。

あまり英語は得意ではないので、ハーンに任せれば、要約して内容を教えてくれた。

 

「んー何かに協力して、それの感謝状っぽいわね」

「もし本物だとしたら、一体何に協力したのかしら。人攫い?」

「こら蓮子!んー…読む限りだと逃げたペットの捕獲かな」

「随分と吸血鬼らしくない…」

 

その話を聞き、幻想郷の吸血鬼を思い出す。

あの吸血鬼なら有り得なくは無い話だというのが、印象から導き出した結論だった。

まぁ、老婆のご先祖様が貰ったというので多分別の吸血鬼だろうが。

 

「名は…駄目ね、文字が掠れてる」

「ま、そんな眉唾のお話が聞ける蕎麦処よ。どうかしら?」

「「また来たいです」」

 

二人が声を揃えた。

しかし私としては、ここの雰囲気はあまり落ち着かないのが本音である。

どうにもここは、“幻想郷に近い雰囲気がある”。

恐らくは木造の木が、霊峰の影響で微かに魔を宿してしまい、それに囲まれたこの蕎麦処の中が魔の充満した状態となっているのだろう。

老婆は立ち上がると、大きく伸びをした。

 

「追加注文は如何?」

「いえ、私たちはこれで」

「あらあら。それじゃあ気をつけて」

 

料金は既に払っている。

ハーンと蓮子につられて立ち上がると、店の暖簾に手をかける。

 

「「「ご馳走様でした!」」」

「お粗末様でした。また来てね」

 

【蕎麦処 鈴】。

不思議な雰囲気と美味しい手打ち蕎麦がウリの食事処。

ハーンと蓮子の二人は、その店をとても気に入ったようだった。

 

次に向かうは富士の樹海。

満腹の三人の足取りは軽かった。



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19

樹海の髪【前編】です。
途中文字化けが入りますが、解読しても無意味です。


富士の樹海は、昔から変わっていないとされている。

人の手を入れるには、そこはあまりにも神聖過ぎた。

富士の樹海は伐採されず、昔の日本の姿を保っていた。

 

比較的整備された道を歩きながら、ハーンがにこやかに笑う。

夕暮れ前の樹海は爽やかな風が吹き、美しい木漏れ日が道を照らしていた。

 

「いやー、ここは空気がいいわね」

「そう?その割には顔が引き攣ってるよ」

「至る所に境界が見えるからね…害があるのも大きいのも無いから、まだいいんだけれど」

 

そう言いながら、指で宙を弾くハーン。

私には何も見えないが、見える人間には見える光景があるのだろう。

 

「蓮子は…何をしているの?」

「いやーお土産に石でも持ち帰ろうかなって」

「自然公園法や文化財保護法に引っ掛かるわよ」

「うーん…土産屋で石を買うのは当たり外れがありそうでなぁ」

「法律ぐらい守りなさい」

「それをまさかメリーに言われる日が来るとはね!」

 

いつものように二人で言い合いを始めたのをよそに、自然な動作で管を撫でた。

 

ここもまた、“懐かしい”。

最後に富士山を訪れたのはもう随分と前だが、以前と殆ど変わっていなかった。

 

荘厳さに隠れる魔の顔も。

美しさの裏にある濃密な死の気配も。

強い信仰を集めていた昔程ではないにしろ、懐かしさを感じる程度にはその気配がある。

 

「んー…お姉ちゃんに見せてあげたいな」

「あ、じゃあ端末で写真撮ったら?撮るだけタダよ」

「成程」

 

ハーンから操作説明を聞いていると、蓮子が片目を眇めた。

 

「んー?何か動いた?」

「そう言う話はやめてよね。こいし、ここで撮るのはやめておきましょ」

「ん」

 

蓮子が見たのはただ風で揺れただけの葉である。

それを口に出すことは簡単だったが、面白くないのでやめた。

 

「しかし樹海の髪って誰が言い始めたの?」

「さてね。今のネットに発信者を言えって聞いてみれば?」

「生みの親が分からない世界は嫌ねぇ」

 

噂や情報が集まるものの、それが嘘かどうかは分からず、誰が言ったのかもわからない。

それがネットという物だ。

 

「髪…髪ねぇ」

「ハーン、髪はすごいのよ?」

「こいしに言われなくても知ってるわよ。原初の信仰対象でもあるんだから」

 

流石に知っているか。

そう満足気に頷き、端末を弄る事を再開した。

しばらく歩き、数枚写真を撮っていたところ、突如バランスを崩したように蓮子が数歩後退する。

 

「あ痛。足捻っちゃった」

「砂利道だから気をつけてね。歩ける?」

「大丈夫そう。って蛇!?」

「―――ッ!!?」

 

蓮子の声に振り向き、“それ”が目に入った瞬間、赤い瞳を幻視した。

 

それは、束の髪の毛。

色は紫がかった白。

まるで麻縄のように編まれたせいで蛇にも見えるそれは、地を這うようにして蠢いていた。

咄嗟に蓮子とメリーを庇うようにして一歩を踏み出す。

 

―――筈だった。

 

「あ、ぉ膁諣膊」

 

口から出たのは二人の無事を確認する言葉ではない。

それは、無機質で抑揚の無い、人の口から出ていいような言葉ではなかった。

 

突如として酷く視界が回る。

全方向から覗かれているような恐怖。

有りもしない視線が身に刺さり、聞こえるはずの無い笑い声が頭に響く。

 

私は、古明こいし

おね妖えちゃ膯

わたシは、コ明地こ鏣膄
             

臣膯古明こいし

わたシは、コ明地こ鏣膄

ワタしは、古めイ颎냣膓
       

駣膆韣芇蓣膗蝰

タ臥辤鲰鏣膄

ꃣ膮깫活鉤櫥鮣ꭰ镭础苣肂                    

腺꣣芓ꃦ鲨裣莏ぬ雦鲴

꣣膊볣膁腀歰鷣み膆

ꇦ蒏飣迨궘

韣膍ꯣ膳냣膌黣膓
                

裣膟듣が莀ꙶ

賦궣ꋣ膷拣膗迥궐臣膍껥ꊃた詸듣莀ꙶ

膦賦궣ꋣ膷拣膗迥궐臣膍

膦賦の궣ꋣ膷拣膗迥궐臣膍껥おꊃ詸
                

꿥螶

釣膾賨늴맣膮睰꣨蒳ꋣ

膦ふ賦궣ꋣ膷拣膗䃣莑さ淣膫

賧膰볣膫냣膗鿥Ꞌ뻣
                

芄诣膪ꇣ芒裣膗鳣芊ꫣ膌解芏

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鱳櫨ꎜ다뢊賣芋鏣膨

诣膮꟣膗蟣膆苣膝賣膯냩賣

떷賨늴다뢊

苣芋껣膋苣膂駣芉迣

閌釣膾
                

 

 

     ○○○

 

 

「こいし!」

「メリー!何が見えるの!?」

「分からない…ただ、今までとは境界の桁が違うッ!!」

 

微かに見ただけで、視界が歪んでいる。

こいしの背で見えないが、ほんの一瞬見えたそれは、怖気が走るほどの恐怖と狂気を振り撒いていた。

そしてほんの数瞬見えた、横幅3メートル程の境界の割れ目。

 

恐怖から硬直したように動きを止めたこいしの肩を掴んで揺するも、反応は無い。

 

「こいし…こいしッ!」

「メリー、落ち着いて一旦戻りましょう。ここは少し危ない」

 

冷静さの中に、強い恐怖と焦りを隠せない蓮子の声に、喉が詰まるような息を漏らしながら必死に頷く。

 

「…こいしを引き摺って行くわ…目を伏せて、前を見てはダメ…」

「分かった」

 

端的な指示を飛ばせば、蓮子が硬い口調でこいしの肩を掴んだ。

驚くほど軽いこいしの肩を持ち、ズルズルと後退。

枯れた葉が割れ、ブーツに石が当たる音と、土を削る音が夕暮れの樹海に響く。

目を伏せ、必死の思いでこいしを引き摺って後退を続ける。

 

「痛っ」

「…蓮子?」

 

ふと動きが止まったのは、蓮子が動きを止めたからだった。

 

「あ、竹…?」

「え?」

 

咄嗟に振り向けば、周囲を竹で囲まれていた。

周囲には薄く霧が掛かり、微かな風が遥か上に見える笹の葉を揺らしている。

 

「……ここは…」

 

私には、見覚えがあった。

以前、夢の中で走った竹林に間違いない。

 

「…とりあえず、誰かいないか探しましょ。多分、さっきの蛇はいないわ。ただし、声は出さないように」

「うーん、私には状況が良く分からないのだけれど」

「これは幻と現の間。下手をすれば鳥船遺跡の時より酷い事になるわよ」

「気をつけろって事は良く分かったわ」

 

ちょっと前、境界の向こう側で遊んでいた際に、私は怪物に襲われて怪我をした。

その場所が鳥船遺跡であり、その際にちょっとした“予想外”も起きてしまった。

それ以来、その話を出すときは“要注意”のサインとなったのである。

 

「こいし…」

 

恐らく、私たちを庇ったのであろう。

彼女の突き出たように動いた一歩目は、先を見せないように私たちの視界を奪った。

彼女が何を見たのかは分からない。

 

ただ少なくとも、それを知りたいとは、先程ほど思わなくなっていた。

 

―――竹林の微かな斜面で平衡感覚が狂う。

 

風には涼しさが混ざり始めた。

空には紅が差し始め、日没が近い事が窺える。

端末は当然のように使えない。

 

頬に冷や汗を垂らし、私は気を引き締めた。



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20

富士の樹海【後編】です。


梟にも似た鳴き声が遠くに聞こえる。

 

 

「…少し休憩しよう」

「蓮子からの提案とはね。賛成」

 

 

こいしを座らせ、岩に隠れるように二人で座る。

背に感じていたこいしの温もりが消え、自らの体が冷えている事に気がついた。

 

 

「蓮子、寒い?」

「……少しだけ冷えてきたわ」

「今ぐらい強がらなくていいの。はい、上着」

「ごめん、借りる」

 

 

空の色は紅。

サラサラと葉の擦れる音が、不気味さを帯び始めている。

互いに上着を着ると、身を寄せた。

 

 

「さて、どうしましょ?」

「境界の向こうに遊びに来た時とは、少し状況が違うわ。竹林から出る方法は不明」

「うーん…夜になれば月と星を見られるけど、長居をしたくないのが本音」

「じゃあこれだけ決めましょう。―――ここを動くか動かないか」

 

 

その言葉に、蓮子は考え込むように目を伏せる。

 

 

「………竹に跡をつけて歩くのは可能?」

「無理。傷をつけても暫くすると消えているわ」

「それはヘンゼルとグレーテルも真っ青だ。お菓子の家は何処かしら」

 

 

ため息を吐く蓮子の肩を撫でつつ、警戒のために視界不良の左目を閉じて周囲を探ってみた。

境界の解れは一切無い。

これが髪を見た事による幻視だとするならば、その質感はあまりにリアルすぎる。

ヴァーチャルとリアルがほぼ同じになって久しいが、この状態を幻視と言うには流石に無理があった。

 

と、背後で衣擦れの音。

 

 

「…あれ、なにしてんの?」

「え」

 

 

慣れた声が聞こえて振り向けば、こいしがそこに立っていて。

 

 

「こいし?大丈夫なの?」

「あはは、なにがー?」

 

 

この状況に似つかわしくない程の眩しい笑顔を浮かべたこいしに、先程の様子は何だったのかと問い質そうとして口を噤む。

その瞳は、透明なガラス玉のよう。

透けて見えるほどに純粋で何もない。

表情は仮面のよう。

表情筋が動いただけであり、そこに意志を感じない。

 

背後に境界は見えないが、確信できる。

 

 

「…これが無意識、ね」

「ふーん、私が何か喋ったのかな?」

「メリー、どういう事?」

「貴方が以前見た、“境界の中の”こいしよ」

「……状況判断は任せるわ」

 

 

それだけを言い、周囲を警戒するように目を動かす蓮子。

そんな様子を面白そうに眺めたこいしは、歪むように笑みを広げた。

 

 

「あ、隠れてないで出ておいでよ、兎さん」

「…兎?」

「私には見えているよ。そのスカートも、ニーソも、ローファーも、焦ったように自分の体を見直すその様子も、全て見えている。ほら、出てこないの?臆病な兎さん?」

 

 

明らかに様子のおかしい、虚空に語り掛けるこいしの背後に二人で隠れるように身を縮ませると、何処からともなく声が聞こえてきた。

 

 

「…成程ね。久しぶり過ぎて誰か分からなかった」

「私に波長は無い。全てが通り抜けるだけで乱されないから、波長を弄るのは無意味だよ」

「知っているわ。そんな奴は二人も見たこと無いしね」

 

 

そう言ってこいしの前に姿を現したのは、女子高校生だった。

否、服が女子高生っぽいというだけで、容姿は並みの女子高校生からはかけ離れている。

 

微かに紫を帯びた白い髪は肩で切り揃えられ、バニーガールのような兎の耳が頭から生えていた。

目には包帯を巻き、美しい顔立ちの筈なのに不気味さが際立っている。

話し掛けてはいけないタイプの匂いがする人だった。

 

 

「深追いする人間の対策に髪にくねくねの特性授けて徘徊させてたら、また変なのが引っ掛かったなぁ」

「やっぱり怪異の狂気だった。気持ち悪さに覚えがあったからそうだと思ってた」

「…ところで後ろの人は?」

「秘密。貴方には教えない」

「あっそー。ま、どうでもいいんだけどね」

 

 

そう言ってクルリと回れ右したかと思えば、その兎人間は思い出したというようなそぶりを見せる。

何かを投げてきたので、私がどうにかキャッチすると、薄笑い付きで話し掛けてきた。

 

 

「それあげるから早く帰りなよ?もう暫くすると戻れなくなる」

「これ…」

「特製の目薬。目から受け取った狂気は目から引っ張り出すのが手っ取り早いから」

 

 

試しに左目に点せば、若干霞んでいた視界が異常なほど鮮明に―――

 

 

「…二度と来ないでよね。昔ほど平和じゃないんだから―――」

「え?」

 

 

一瞬にして竹林は幻のように消え、いつの間にか夜の樹海に戻っていた。

隣には蓮子もいて、“境界の閉じた”こいしが少しボーっとした状態で立ち竦んでいる。

 

 

「ここ、は。…メリー、帰ってきたって事でいいのかしら」

「そう…だと思うわ」

 

 

暫く、紺色の空に浮かぶ月を見る蓮子。

 

 

「…場所は間違いなく富士の樹海。時刻は日が暮れたばかりかな」

「じゃあ本当に帰ってきたのね」

「こいしは…」

「多分だけど、目薬を点せば元に戻ると思う」

 

 

どういう原理なのかは分からないが、事実私はそれで戻った。

こいしを抱き寄せ、その大きな瞳に一滴づつ。

 

 

「…ぅ」

「さ、帰るわよ。じゃあメリーがこいし背負って、考察はまた後日」

「ちょ、ちょっと待ってよ!私疲れてるんだけど!?」

「暫くしたら歩けるようになるでしょ!ほら!早く!!」

 

 

夜の樹海に声が響く。

富士山の麓で起きた、謎の竹林に迷い込む事件。

考察は後でいいので、ともかく今は、

 

 

「待って!寒くてお手洗い行きたいの…!!我慢してたから背負うの無理ィ!!」

「はぁ!?その辺で済ませなさいよ!!」

「この歳で非文化的行為は嫌!!」

「贅沢を言うんじゃない!」

 

 

早く、文化的な建物に入りたかった。




…ワイワイと騒ぐ女二人の声が聞こえる場所から、遠く遠く、富士の樹海の奥深く。
まるで蛇のように這う、編み込まれた白い髪を拾う姿があった。


「……元巫女から報告があって見てみれば、まったくまた変な事を」
「うぅ…すみません」
「まだまだ未熟ねぇ。バッサリ切ったと思ったらこんなことに使って」


優しげに兎の耳を頭から生やした女性の頭を撫でるのは、赤と青の二色ドレスを着た女性。


「隠すなら、まるで無いようにするのが一番よ」
「証拠を残す私が馬鹿でした…」
「ハイハイ。じゃあ罰は自分で考えなさい」
「そんなぁ~罰くださいよぉ」
「罰を貰って罪悪感を薄れさせないように。私は甘くないの」
「うぅ…」


その会話を聞いた者は、その二人以外には存在せず。
軽快な会話を交わしながら二人は樹海の闇に紛れ、そして姿を消した。

―――満月が照らす樹海は、大昔からの姿を保ち続けている。
日本を見続けたその木々たちは、不気味な風を受けて揺れていた。

まるで、懐かしいものを見つけたと、囁くように。


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21

樹海の髪【エピローグ】です。
プロローグは無いのにエピローグはあります。


「おはよう。適当だけれど、朝ごはんだよ」

「わぁ!ありがとうございます!!」

 

 

昨晩、樹海から出てきた先で蕎麦処がまだ開いているところを発見。

こいしがぐったりしていたので休ませていたところ、そのまま流れで宿泊に。

 

 

「あ、すごいお茶碗が焼き物だ」

「私が暇で暇でしょうがない時に作ったのよ」

「形も整ってるし…凄いですね」

「あら、ありがとね。サービスしちゃおうかしら」

 

 

朝日がよく磨かれた窓から入って来る。

年代を感じる一枚板のテーブルを照らし、反射が眩しい。

メリーが席に座り、手櫛で前髪を直すのを見つつ、三人目が見当たらない事に気がつく。

 

 

「そういえばこいしは?」

「あの娘かい?お腹空いてないし、ちょっと散歩に行ってくるってさ」

「病み上がりで元気ですこと」

 

 

老婆が釜から白米を掬いながら、窓の外を見た。

甘さにも似た良い匂いが、こちらまで流れ込んでくる。

ことり、とまず目の前に置かれたのは老婆手作りの茶碗と、漆塗りの器。

 

 

「まずは味噌汁とご飯から。おかずはもう少し待ってね」

「「いただきます」」

 

 

手を合わせる事は、感謝の意。

日本の伝統である。

 

 

「あ、このご飯美味しい」

「おぉ、分かるかい?出汁炊きって手法でな…」

 

 

老婆がおかずを皿に盛り付けながら、楽しそうに笑う。

久しぶりに誰かに作ってもらったご飯は、とてもおいしく感じた。

 

 

     ○○○

 

 

樹海に足を踏み入れた。

枝を踏み落ち葉を踏み、朝露で湿った空気に“乾き”が潤っていく。

 

人に紛れて乾いてしまった、妖の根本が満たされていく感覚がした。

深呼吸をすれば、幻想郷に比べると薄いが、確かな魔の匂い。

良い空気を堪能しながらしばらく歩けば、目的のものを発見する。

 

 

「…ん、あったあった」

 

 

白く長い髪を一本拾うと、そのまま目の前で揺らす。

 

…何も起きない。

なので今度は瞳に妖気を宿して目の前で揺らす。

 

 

「……やっぱり、迷いの竹林の月兎か」

 

 

くねくねと揺れる髪を見て、若干視界と周囲が歪み始めたのを確認して目を瞑った。

ハーンと蓮子には言っていないが、昨晩の記憶は若干残っている。

すべて憶えていないと誤魔化したが、微かに覚えている事はあった。

 

今回は恐らく、境界暴きに来たハーンの同類のような人間に対する罠だったのだ。

 

兎の発言はうろ覚えだが、確か変なのが掛かった、と言っていた。

つまり、この樹海で、境界を認識できるような人間がこの髪を見ると、一時的に別の空間に迷い込まされるといった罠だったのだろう。

 

 

「しっかしまた悪質な」

 

 

見ただけで狂気を振り撒き、迷わせる怪異。

恐ろしい話だ。

蓮子も共に迷い込んだ、ということは周囲を巻き込んで発動する怪異である。

下手をすれば数百人すら巻き込むことも出来るだろう。

それはつまり、それをキッカケに幻想を警戒させる原因になったかもしれないという事だ。

 

人は排他的な生き物である。

見えないものは見えるように。

怖いものは怖くないように。

取り除けないものは取り除けるように。

そうやって人は生きてきた。

 

 

「……よかったねぇ。八雲紫に殺されなくて」

 

 

幻想郷の中でも、特に活発で最も敏感な妖怪の賢者にバレていたら、罰は間逃れられなかったであろう。

下手をすれば妖としての根幹を弄られていた。

それ程の行為だったのである。

 

 

「ま、残りカスでも面白いから利用させてもらうよ」

 

 

今では、この髪も怪異の名残が残る残りカスだ。

これを媒体に再度幻想郷に入ることは不可能だろう。

 

白い髪をポケットにしまい、大きく伸びをした。

残念にも現世にまた戻って来てしまったわけだが、あの二人ともう少し遊ぶのも悪くない。

 

端末を開くと、“ママ”に何があったのかを打ち込んだ。

 

 

「…しかしこのママって本当に誰なんだろ」

 

 

ハーンの母だと私の警戒を薄めさせるための、その名前なのか。

誰なのかも分からない。

ただ、私を知っていて幻想郷も知っている存在。

どういう扱いをすればいいのかに、未だ困っていた。

 

…蕎麦処に戻ろう。

あの二人に心配をさせると後が面倒で仕方ない。

 

 

「………ここは少し、私らしくなっちゃうな」

 

 

“いつの間にか大振りのナイフを手に持っていた”のでそれをポイっと捨て、歩き出す。

 

―――湿った地面に突き刺さったナイフは、暫くすると溶けるように消えていた。



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幕間

幻想郷、迷いの竹林。

そこは平衡感覚の狂う微かな傾斜に深い霧、広範囲に渡って鬱蒼と生い茂る竹が特徴の区域だ。

幻想郷でも、好んで入る物好きは少ない程には危険地帯である。

 

その奥には、見事な和屋敷が建っていた。

庭では兎が跳ね、餅をつき、月を楽しむ。

そこは、そんな光景がずっと続いている場所だった。

 

その和屋敷の中に、人の形をした者が三名。

人払いを済ませたせいか、異様に静かな屋敷の中で座っていた。

 

白い素朴なドレスに身を包み、ほぼ無表情。傍らに桜の枝を置く人妖。八雲霊夢。

黒い生地に星を鏤めたブラウスとスカートを着用し、霊夢の対面に座って薄ら笑いの月人。八意永琳。

永琳の隣で白装束に身を包み、鈍い汗を掻きながら顔を青くする月兎。鈴仙・優曇華院・イナバ。

 

―――これは今回の件について事情を把握した霊夢に、お前覚悟はできてるな?といった内容の手紙を手渡された鈴仙が、大慌てで永琳に泣きついて2時間後の光景である。

 

 

「さて、弁解を聞こうじゃない」

「うーん。何も無かったで処理できないかしら」

「…ほう」

 

 

途端に膨れ上がる、超高圧的な妖気。

鈴仙はその妖気に中てられ、堪らずに震え出した。

涼しい顔の永琳も、その額には汗が滲む。

 

 

「その言葉は、私の能力を知っての言葉なのよね」

「勿論。八雲としての力を知っていてこれを言うわ」

 

 

個人としての、霊夢の能力は、【空を飛ぶ程度の能力】。

そして妖怪としての、八雲霊夢の能力は【事象に干渉する程度の能力】。

前スキマ妖怪であった八雲紫の【境界を操る程度の能力】を、更に強大にした能力である。

 

ある程度の制約はあるが、それは“万物の事象”の隙間に対して意図的な“干渉”を引き起こすことが可能な能力。対象が概念として存在するならば、その概念に触れることの出来る能力であった。

過去には不老不死という事象の隙間に干渉し、藤原妹紅の蓬莱の呪いを一時的に消した事もある。

つまり場合によっては、蓬莱人すら殺すことが可能。

 

それが、現スキマ妖怪の八雲霊夢であった。

 

 

「…いいわ。聞きましょう」

「そうね。まずは、気付いた人間が一人もいない事」

「証拠」

「富士の樹海から竹林に迷い込んだ数人の素性を洗ったわ。全員が無職かつ家族はいない。既に遺書も準備してあって―――」

「……で、今回の事を無しにしろと。おかしいわね。私が間違っていなければ、失敗に対して何の補償も賠償も無く、確証はないがバレていないから許せ、と言ってると思うのだけれど」

 

 

途端に、胸を抑えてゆっくりと倒れ込む優曇華。

えずくような荒い息に、咳き込むような嘔吐。

永琳がそっと優曇華の手首に指を当て、胸に手を当てる。

 

 

「…狭心症。何をしたの?」

「“生命活動”という事象に軽く干渉した。殺す気はないし、アンタがいる限りそいつは死なないでしょう」

 

 

スッと立ち上がり、スキマを開く霊夢。

 

 

「そろそろ学んで欲しいわね。私からの罰は、今のところそれだけでいい」

「あら、優しいのね」

「…“綺麗な足”ね」

「はいはい」

 

 

音も無く、スキマに身を浸しながら無感情な声で応答。

暗に足を無くしてやろうかという霊夢の発言に、永琳はやれやれと首を振った。

桜の香りを薄く残し、スキマが閉じていく。

 

 

「―――そういえば。外から迷い込んだ人間の中に妖怪がいたらしいわ。また、外に帰ったらしいけれど」

「あっそ」

 

 

その言葉を最後に、永遠亭から霊夢は姿を消した。

 

 

「……さて、狭心症の原因は…」

 

 

片手で、荒い呼吸を繰り返し青い顔の優曇華を担ぐと、永琳は応接室から出る。

 

 

―――迷いの竹林には、兎たちが住んでいると言われていた。

そしてその元締めは、月から来た人だとも。

 

迷いの竹林は、寂しさに近い静寂を保つ。

―――ただ時々、兎たちの歌が聞こえた、などという人間もいた。

それは鼻で笑われることが大半だが、真実を知る数少ない人間は皆口を揃えて笑う。

 

“奥まで入り込んで、狂わず迷わず、帰って来れてよかったな”、と。




これで樹海の髪編はおしまいです。
次の秘封倶楽部の活動は一体なんでしょう?


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『呻く古井戸』編
22


この章は、蓮台野夜行、燕石博物誌を主としてプロットを練り上げています。
お楽しみください。


「待って何で手ぶらなの?」

「私だってサラシぐらい巻くわ」

「いやそういう手ブラじゃないから」

 

 

人多き、大学の通路。

富士の樹海の境界暴きから一か月後。

どこかふわふわした表情で頬を掻くこいしは、あの竹林の出来事を何も覚えていなかった。

少なくとも本人はそう言っている。

蕎麦処を出て、樹海に入って以降の事は覚えていないらしかった。

 

現在はそれなりに大学を満喫し、ちょっとした不思議ちゃんとして日常を過ごしている。

人離れした美貌と人を惹き寄せる人柄は、いともたやすく環境に馴染んだ。

女性から若干の羨望を受けながら友人として、男性からは異性として大人気である。

 

 

「で、こいしは手ぶらで今何を?」

「ハーンのお手伝い。今はハーンの助手扱いだからね。私には端末以外必要な物も無いんだ」

「ふーん、いいわね。確かそっちは旧型のノートを使ってるんだったっけ」

「私は使いやすくて好きだよ」

 

 

旧型のノートはクラウドではなくメモリにデータを保存するタイプである。

データを手元に置いておくという事は、クラウド化が進んだ現代では少なくなった。

紛失、データ損失、故障、盗難などなど、クラウド保存に比べてデメリットの多いメモリ保存であるが、しかしそれでも代えがたい強みはある。

 

それは、“機密性”。

手元にデータがあり、それを外に出さないというアナログな手法は、サイバー攻撃が素人でも可能な現代では重要文書などによく使用されている。

 

 

「旧型はいいわ。重みがあって」

「え?新型と重量は変わらないよ?」

「ふふ、質量やニュートンなんかの重量以外にも“重さ”はあるのよ」

「…まぁ、そうだね」

 

 

どこか納得したようなこいしと並び、歩き出す。

 

 

「で、どこに行くところだったの?メリーがいつもいる講義室とは逆じゃない?」

「いや、また呼び出されてさ」

「…あー…私も着いていくわ」

「そう?ありがとね」

 

 

相変わらずこいしは色々なところに人気らしい。

特に、男から。

 

 

「今度は誰?」

「んー…いや名前も知らないなぁ。どっかのスポーツサークルの人って事だけは」

「特定が難しすぎる…」

 

 

この大学のスポーツサークルは多い。

それだけの情報で特定するには余りにも難しかった。

 

 

「タダの勧誘だと良いわねぇ」

「男でしょ?無い無い。それだったら同性で警戒薄めるって」

「間違いない。…メリーは何か言ってた?」

「早めに帰って来てねーって。ついでに飲み物買ってくれると助かるとも」

 

 

私の相方は、あまりにも危機感が無さすぎる。

こんな可愛い子が拉致誘拐されたら一体どうするつもりなのだ。

それをなんだ。お使いの片手間とは…

 

 

「んー…で、今回はどうするの?」

「いや興味ないですって言うよ。下手したら初めに誰ですかって言っちゃうよ」

「妥当妥当。そんなんで十分よ」

 

 

建物の外へ出れば、曇天の空。

雨は降りそうにないが、湿っぽい空気が肌に纏わり付くようで不快さが強い。

 

 

「うーん…えっと、ぉ、あそこかな?」

「あ、見た事ある顔だ」

 

 

端末を見ながら周囲を見回す男。

顔は程よく整っていて、誠実よりかは気楽に見える風貌。

こいしは目を細めて興味なさげにため息を吐いた。

 

 

     ○○○

 

 

「誰アレ」

「テニサーの奴じゃん。うわー…」

「んえ?テニサー?」

「テニスサークル。なんかこうフワッフワした感じの集まりだよ」

「へぇ」

 

 

興味なさげに男にふらふらと近寄ると、手を上げた。

 

 

「やっほ、初めまして」

「お、来た来た、あのさ」

「忙しいし興味ないし後でいい?」

「え、ちょ」

「じゃあ後で。蓮子ぉー!コンビニ行こー!!」

「はいよー」

「待ってって!」

 

 

程よく手加減されて手首を掴まれる。

痛みはない。

人の扱いには手慣れているのだろうか。

しかしなんだ。江戸の人攫いすら逃れた私を掴むとはいい度胸である。

 

 

「よいしょっとぉ」

「!?」

 

 

手首を捻って拘束から逃れ、流れるように手を掴んで小手返し。

肘の駆動域を超えようとする痛みに、人体は逆らえない。

バランスを崩して倒れ込む男を置いて歩き出す。

 

 

「そういえば最近ゲテおにぎりにハマった」

「ホントに言ってる!?」

「いや、未知の味だね。嫌いじゃない嫌いじゃない」

「…ちなみにオススメは何味?」

「パン味のおにぎり」

「舌が弄ばれてそうな味ね」

 

 

食感は米で味と匂いはパン。

始めは頭が混乱したが、今ではかなり好きの部類に入る。

おねえちゃんに食べさせて感想を聞きたいぐらいであった。

 

 

「あ、そういえば今日は教授の家で次の活動決めるわよ」

「一応メリーにも伝えとく」

「助かるわ」

 

 

そう言って蓮子は自動ドアの前で手を上げる。

 

 

「ついついやっちゃうのよね」

「楽しそうで何よりです」

「何故に敬語」

 

 

蓮子と笑いながら、思考をフラットに戻す。

この一か月で、気がつけば私は秘封倶楽部にカウントされていた。

 

大学のオカルトサークルは秘封倶楽部だけらしいので、ある意味では“好都合”である。

 

操作にも相当慣れた端末を開くと、チャットアプリを開いた。

 

 

『活動開始の報告』

 

 

そう打ち込んで30秒ほど。

既読の文字と共に、メッセージの通知が端末を揺らす。

 

 

『了解。また定期報告よろしくお願い』

 

 

“ママ”からのメッセージに目を通すと、端末の電源ボタンを押した。

 

富士の樹海に訪れてから早一か月。

秘封倶楽部が動く日は、近い。



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23

とあるマンションの一室。

教授が借りていて、学生に掃除を任せる代わりにほぼ帰らないから自由に使っていいというその部屋は、現在、文化を忘れかけた状態にある。

何がどうしたかと言えば、下着姿の三人組が鍋の乗ったテーブルを囲んでいた。

 

とある術でサードアイと管を透明化させることに成功した私は、惜しげもなく肌を晒しながら表情を理解不能とばかりに歪める。

 

 

「毎度思うんだけど、何で脱ぐの?」

「万が一服のシミになったら面倒でしょう!?」

「そうよ!キムチ鍋の染みって抜きにくいんだからね!?」

「いや…皮膚の保護と服の染みを天秤にかけて服を取るのは自愛が足りてないんじゃないかな」

「火傷は跡も無く簡単に治る時代。でも服の染み抜きは有料。当然服の方が高いわ」

「えぇ…」

 

 

黒いレースの下着を晒してそう豪語するハーン。

その断言には、細々とした困惑の吐息を漏らすしかなかった。

 

 

「で、なんでこの時期に鍋なの?まだ夏だよ?」

「いや夏こそ鍋でしょ」

「理由を教えて」

「夏は暑い!鍋は熱い!暑い時に熱いものを食べられるのは夏だけ!よって夏に鍋!」

「おかしいなぁ。蓮子はもっと理論と根拠を組み立てて話せる人間だと思ってた」

「じゃあ、私が突然鍋を食べたくなって誰も反対しなかったから」

「うーん。着いた途端に脱げって言われて、既に鍋が目の前にあった私には拒否権が無かったという事か」

「心の中で訊いた」

「…口に出して言わないと、私には分からないかなぁ」

 

 

若干、表情が歪むのを感じる。

意図しないその言葉には、思うものが多すぎた。

引き攣るように口端を上げ、どうにか笑みの表情を浮かべて目を細める。

 

 

「んで、キムチ鍋」

「そ。鍋の元が安かったからさ。具材は肉、ニラ、白菜、もやし、豆腐、その他」

「へぇ。…待ってその他って何」

「っともう食べ時か。よーし、食べるよ!」

「その他って!!なぁに!!?」

 

 

鍋の蓋を開ければ、辛そうな色と香り。

赤に沈む具材が、沸騰により微かに上下を繰り返していた。

無数の気泡が弾け、汁が飛散する。

 

 

「んぐゥ!?目ッ!目がぁ!」

「…なぁに蓮子?三分間待ってあげるの?」

「汁が目に入ったんだよ優しくないなぁ!」

 

 

そう言ってキッチンへとふらふら歩く蓮子をよそに、ハーンが具を拾って自らの深皿へと入れていく。

 

 

「あ、直箸でいいよね?」

「いいよー」

 

 

ひょいひょいと具を拾っていくハーンに続き、とりあえず鍋に箸を入れた。

と、何かに刺さるような感触。

刺し箸は好ましくないが、とりあえず箸を上げてみれば妙な物が刺さっていた。

微かに赤の染み込んだ白い円筒状で3センチほど。

 

 

「……」

 

 

早速その他を引いたらしい。

見た事も無く、餠のような見た目のそれに、思わず箸が止まった。

 

 

「あ、トッポギ入れてたんだ」

「とっぽぎ」

「韓国の煮込み料理。それはお餅を棒状に伸ばした物よ」

 

 

口に入れてみれば、熱さに混じるピリッと辛い味と香りに、餅の甘みと食感が美味い。

かなり好きの部類に入る味だった。

 

 

「おいひい」

「ふふ、飲み込んでから喋りなさい」

「ほぉい」

 

 

白菜と肉を同時に口へ運ぶハーンに注意されつつ、鍋を見た。

意外にも辛みはマイルドだ。

舌が痺れるほどじゃないし、味に深みがある。

再度とっぽぎが欲しいと箸を入れれば、再度何かに刺さった感触がした。

上げてみれば、球体を切ったような見た目で色は赤。

 

 

「…蕃茄(ばんか)?」

「トマトも入ってたんだ」

「とまと」

 

 

またその他を引いたらしい。

蕃茄を食べるのは久しぶりだが、口に含めば辛みと酸味、そして微かな甘み。

深皿に掬ったスープを啜ればスープの旨味を更に強く感じる。

蕃茄をスープの味を深めるために使うとは、思いもよらない使い方だった。

 

 

「この…とまと。すごく美味しい」

「合成食品だけどね。んー食べた事無かった?」

「いや、お姉ちゃんが料理として出してくれたことはあったよ。柔らかいチーズと目帚(めぼうき)と一緒に食べると美味しいんだよ」

「じゃあカプレーゼかしら。お洒落な食べ方ね」

 

 

あまりに美味しいのでもう一つ蕃茄を探していたところ、蓮子が帰ってきた。

蓮子のシンプルな灰色の下着にはハーン程の色気は無いが、しなやかな健全さが垣間見えて素敵である。

そう考えて鍋を漁りながら見ていれば、その蓮子と目が合った。

 

 

「ただいま」

「「おかえり」」

「味はどう?」

「美味しいね。こいしが変わり種にハマってるよ」

「ふっふーん。その他も美味しいでしょ!」

「美味しい!流石蓮子!」

「もっと褒めていいのよ!!」

 

 

得意げに胸を逸らす蓮子。

ハーンに比べると控えめで女性らしい胸が曲線を描き、とても可愛らしい。

こういう仕草に異性は惹かれるのだろう。

そう思いながら、蓮子は異性に興味が無さそうだとも同時に思った。

 

 

「あ、そうだお酒持ってくる」

「それは最後でもいいんじゃないかしら?」

「蓮子、お酒は早いうちに入れると楽しいのよ?」

「…じゃあ旧型持って来て騒ぎましょうか」

「お!太っ腹!!」

「メリーより細いし!!」

「そう言う意味じゃないけどね!?」

 

 

姦しいマンションの一室。

鍋を囲んだ夜は、始まったばかりである。



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24

…気管へと入り込む空気は苦く、肺が重い。
獣瞳を晒さないように、糸目を意識するのも疲れてきた。


「……暑いな」


夕暮れの京都を、女が一人歩く。
肩ほどの長さの金髪を後ろで一つに纏め、凹凸を強調する白の縦セーターに紺色のストール、細く長い足を際立たせる黒のスキニーパンツという服装が、スタイルの良さと同時に、その並外れた容姿を更に押し上げていた。


「さて、と。何処へ行こうか」


瞼に隠れた細い瞳孔が、若干開くのを自覚する。
この感情は、不愉快か、はたまた興奮か。


「…」


少なくとも苛立ちが含まれていることには間違いない。
コツリコツリと黒いハイヒールが荒い音を立てて舗装された石畳を叩く。
疲れから電光標識に手を付けば、錆びだらけの、マヨヒガの庭に映えた無数の標識を思い出し。


「…そろそろ片付けに来てくださいよ」


細い声を紡ぎ、女は前髪を指で弄んだ。
情報の少なすぎる調査に戻るため、女は再度京都の町に消えていく。
―――女が数秒前に通り過ぎたマンションに、目的の人物がいるとも知らずに。


「…やっぱりこいし、お酒に強くない?」

「そりゃまぁ、呑んできた年季が違うからねぇ」

 

 

鍋の締めに投入した白飯とチーズでリゾットを作りながら、だらりと寝ころんだハーンを見る。

酒が入ったせいか、微かに紅くなった肌が過剰なほどの色気を持っていた。

…ただ顔が顔なせいで、色気を感じた所で勝手に罠を警戒するスイッチが頭の中で入ってしまうのは悪い癖である。

 

 

「やく…じゃなくてハーン、現代の人はみんなお酒が弱いの?」

「さぁね?でも旧型を呑む人は少ないし、旧型に耐性が無いのは確かなんじゃないかなぁ」

「ふぅん」

 

 

学生の本分は飲酒では無く勉学なので、別に強くない事については構わない。

ただ、そこで酔いつぶれて寝転がっている蓮子ほど弱いのは流石に如何なものだろうか。

ふと時計を見れば時刻は10時を回り、深夜に差し掛かりつつある。

こんな時間にこのようなものを食べるのは体に悪そうだと思いながら鍋リゾットを散蓮華で掬うと、程よく熱で溶けたチーズの伸びること伸びること。

 

 

「ぐ…圧倒的…ッ圧倒的美味さ…ッ!」

「なぁんで最近腹回りを気にしてる私の方をちらちら見ながら食うかな」

「美味い…美味すぎる…」

「十万石幔頭?…いやそれ関東のローカルネタよ?知ってるけど」

「ボケを拾ってくれるととても嬉しい」

「はいはい。あ、私にも頂戴」

「お!この時間にそれを食べるとは度胸あるね!!」

「うるさいわよ!?」

 

 

鍋リゾットの入った深皿を渡せば、辺りを見回すハーン。

どうやら近くに自らの箸は無いかと探しているようだが、そこに箸は無い。

蓮子の方を指で示せば、ハーンは蓮子の下敷きになった自らの箸に気がついた模様。

すい、と目を細めると、沈黙を挟んで息を吐く。

 

 

「…こいしの貸して」

「お、美少女との間接キッスは高いよ?」

「唾液の交換ぐらい別にいいじゃない。いまなら酔いに任せて濃厚なキッスでもしてあげましょうか?」

「私に対して妙に大胆になるの何なの…」

 

 

顔に熱が昇るのを自覚しながら、ティッシュで散蓮華を拭いた。

流石にその辺は気恥ずかしさが勝ったのである。

立ち上がって散蓮華を渡せば、その手首を引かれた。

咄嗟の事で硬直した体は重力に引かれ、妖力の制限された現世では浮く事も叶わずハーンを押し倒したような姿勢になる。

下着姿に、酒気で微かに朱を含んだ肌色がひどく艶やかに思えた。

するりと首に腕を回され、ハーンの肌の白さの中で際立つ桃色のぷっくりとした唇が微かに動く。

 

 

「…私、美人は好きよ?」

「悪酔いしすぎじゃないですかね!?」

 

 

あざとくも剥き出しの色気に、思わず叫んだ。

そしてその声に身を動かした人間が一名。

 

 

「頭いった…何…?」

 

 

ゆっくりと蓮子が身を起こし、ぼんやりとした顔でこちらを見る。

ハーンに押し倒された状態のまま、そんな蓮子と目が合った。

 

 

「…おやすみ」

「おやすまないで!?」

「あーあー…私何も知らない蓮子ちゃん。ぴゅあっぴゅあの21歳」

 

 

耳を塞いで再度寝転がる蓮子に助けを求めるも反応は無い。

覚悟を決め、そういうのはちょっと慣れていないのでせめて優しくして欲しいと懇願しようとして。

 

 

「ま、冗談なんだけどね」

「流石に怖いわ!」

「蓮子ーリゾット出来てるわよー」

「無視!?」

 

 

のそのそと起き上がってきた蓮子に鍋リゾットの入った深皿を渡して、自らは散蓮華でリゾットを口へ運ぶハーン。

暫く呆然としていたが、完全に遊ばれたのだと思うと少し機嫌が斜めに。

 

 

「あーこいし、スプーンとか無い?」

「手で食べれば?」

「手食文化の無い日本でそれをすると猿人扱いかしら」

「そんな蓮子に日本文化を授けよう」

「箸」

 

 

日本の二本の文化で西洋料理に挑戦し始めた蓮子をよそに、ハーンに向き直る。

 

 

「さて、秘封倶楽部の次の活動、どうする?」

「あーほへなんはへほ、ひょっほひにはるはなしが」

「口を空にしなさい」

「はぁいママ」

「ママではない」

 

 

そもそも私が孕んだら何が生まれるのだろうか。

妖怪同士で子を成すことはほぼ無い。

人の恐れや畏れから生じた概念が受肉するか、はたまた生物の変異が“存在する妖怪”の発生である。

 

それを踏まえると、妖怪の胎は良く分からない。

ガラクタ屋の店主のように人妖なんてハーフがいるのだから、孕むことは出来るのだろうが。

 

なんて思考に耽れば、口内を空にしたハーンが改めて口を開く。

 

 

「今度はポルターガイスト、よ」

「ほう」

 

 

秘封倶楽部の今回の活動は、騒霊の調査らしい。



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25

「こいし…こいし…ッ!」


何故そんなに泣いているのだろう。
私によく似た顔が、涙と鼻水と汗と…それらが混じってぐちゃぐちゃになっていた。


「どうして…ッ」


嗚咽に混じって吐くように絞り出された言葉に、私は首を傾げる。
何かおかしなところでも?
…むしろ正常とは何だろう?

私たちは妖怪だ。
その存在は既に不安定で安定している。
どうしてなどと疑問を抱くのもおかしなことだ。
―――気がつけば、お姉ちゃんのサードアイに大振りのサバイバルナイフが刺さっていた。

痛みに泣き叫ぶことも無い。
ただただ、お姉ちゃんはいつの間にか涙の代わりに瞳から血を流して。


「…そう、これで一緒ね」


ゆっくりと、氷のように冷たい腕が腰に回される。
気がつけば、目の前にある顔は私で。


「私は誰?貴方は本当に私?」


その言葉を最後に、意識は急速に引き上げられた。


それはそれは、酷い目覚めだった。

酔いが醒めた頭は目の前の光景を鮮明に認識する。

 

窓の外に見えた景色は曇天。

厚い雲が空を覆い、鈍く押し潰されるような気配を感じさせる天井があった。

 

 

「…ん」

 

 

これだったら地霊殿から見た空模様の方が重く、それでいて圧迫感がある。

懐かしい岩天井を思い出し、最近地上ばかりにいたものだとふと思った。

 

無意識に振り回される心と感情。

表裏一体ではなく、癒着し絡み合う無意識と有意識。

どれ程無意識が私の心に表面化していたのだろう。

 

地霊殿に帰らなくなって。

お姉ちゃんの顔を見ずに過ごしてどれだけが経ったのだろう。

……もう、それすらも憶えてはいない。

 

夢見が悪かったせいか、どうにも心が沈んでいるようだ。

 

 

「……いや何してんの」

 

 

暗く陰っていた心は、何故か全裸で寝転がるハーンと、そのハーンの乳を鷲掴む蓮子を見てどうでもよくなった。

 

 

「ほら、起きて」

「う゛ぅん…」

「いや揉めじゃなくて」

 

 

寝転がったまま指だけを動かす蓮子。

深い眠りについたままのハーンは若干の鼾を立てて動かず、彼女の二日酔いが予測された。

目を細めて自らを見返せば、今更ながら胸のサラシが無くなっていた事に気がつく。

 

 

「…うわ!?ハーンの脱ぎ癖がうつった!」

 

 

人に服を着ろとばかり言ってられない現状に、思わず天を仰いだ。

 

 

     ○○○

 

 

「あったま痛い…」

「なんで次の日講義があるのに旧型を呑んだかね…」

「ぅ…昨日の私に聞いて…」

「自分に責任転嫁は愚者のやる事だよ?」

「この時代に旧型を呑むのはみーんな馬鹿よ」

「そうかい」

 

 

講義ホールの後方で前に座る学生に隠れてグッタリとするハーン。

蓮子は別の講義を受けているので引き摺るようにして連れてきた訳だが、かろうじて出席すれど学べるわけもなく。

さてさてどうしたものかと電子ノートを起動した。

短い期間とは言え、情報を引き出す媒体には困らなかったわけで、現世にも相当慣れたものである。

今の大学では紙媒体での記録は衰退し、全て電子ノートをクラウド保存するようになっていた。

個人の保有する端末で大学のページからログインすれば取ったノートを日付から検索もでき、保管にも困らない。

私の知る學校からは、かけ離れた授業風景だった。

 

暫く講義を受け、大画面先の教授の終了の言葉と共に席を立ち始めた学生たちに混じり、また一つ面白い事を知れたと心躍らせる私に対して、突っ伏したままのハーンは寝息を立てていた。

 

 

「…えぇ」

 

 

酒に呑まれて学生の本分を疎かにするとは…

 

 

「―――いっだァ!!?」

 

 

乳ビンタの刑に処した。

痛そうに自らの胸をガードするハーンを放置し、端末を触る。

蓮子から合流できるかという連絡が来ていたので、できると送ればすぐに返信が来た。

資料保管室で待つ、という短いメッセージに、ハーンを見下ろす。

 

 

「…蓮子が資料保管室に来いって」

「ぅう…むりぃ。コンビニでくすりかう…」

「はいはい。じゃあまた後でね」

 

 

そう言って荷物を纏めると、ハーンを置いてホールを後にした。

 

 

○○○

 

 

「で、また資料保管室っと」

「まぁ、ネットよりこっちの方が色々あって面白いからね。で、メリーは?」

「コンビニに頭痛薬買いに行った」

「何してんだか」

 

 

そう言って端末で色々調べる蓮子は、どこか慣れた関係を匂わせる表情をしていた。

多用途ソファーに座って蓮子と色々調べていると、ふと遠くより視線を感じる。

目を向ければ、メガネを掛けた暗そうな女性が一人。

 

相対性精神学を専攻していて、ハーンを通して数度会話した事のある女性だった。

気になるので軽く手を振ると、少し笑みを浮かべて近寄ってくる。

艶のある黒髪を後ろで一つに結んでいるのが、特徴的だった。

 

 

「やほー古明地こいしだよ」

「こんにちは。伊吹結香(いぶき ゆいか)です」

「……鬼って信じる?」

「えっ」

「いやごめん、なんでもない」

 

 

八雲紫によく似たハーンの近くには、伊吹萃香によく似た名前の少女がいるときた。

偶然にしては、よく出来過ぎている気がしないでもない。

 

…後で“ママ”にでも聞いてみようか迷う。

謎多き人物ではあるが、彼女は幻想郷を良く知っているようなので、何かわかるかもしれない。

 

 

「んでえっと…さっきからこっち見てた気がするけど…」

「あ、ごめんなさい。気を悪くした?」

「そんな事は無いよ。ただ気になっただけ。どうかした?」

「うーん…訊いてもいいのかな」

 

 

若干悩んだ表情をして、女性は口を開く。

 

 

「…こいしさんって、ハーンさんの恋人?」

 

 

隣で資料を漁っていた蓮子が、思い切り噴き出した。



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26

端末による資料探しに熱中している“風の”蓮子からオラ行って来いという圧を籠めた肘での攻撃が、目の前の彼女からは見えないように脇腹を刺激する。

渋々とソファーから立ち上がり、目の前の彼女を手招きした。

 

 

「ここで話すのも何だから、場所移そ。えーっと、伊吹さん」

「…え、その反応ってつまり…」

 

 

ゆっくりと資料室のドアを開け、蓮子に一言断って部屋の外へ出た。

どこか嬉しそうな表情の伊吹さんを連れて、大学の廊下を歩く。

隣に並んでみれば、意外にも背は低い。

 

 

「―――伊吹さんの専攻って、相対性精神学だよね?」

「あっ…まだ面と向かって話した事は無かったっけ」

「もう話してるよ。…伊吹さんはハーンとは仲良いの?」

「え、あ、いや、ぼちぼち…ぼちぼち?普通よりちょっと良いぐらい…かな」

「自信なさげだね…」

 

 

伊吹萃香の関係者かと思えば、この性格はどうにも正反対である。

前髪が隠す彼女の瞳は、不羈奔放、何ものにも拘束されず、思いどおりに振る舞う伊吹萃香には全くと言っていいほど似ていない。

名前ばかりが似ているだけの、別人な可能性が高い気もする。

当たり障りのない会話をしながらしばらく歩き、大学構内の喫茶店へと入店した。

 

 

「うぉお…私ここ入ったこと無いんだよね…」

「え、場所変える?」

「いや、大丈夫。一人で入るのが怖かったってだけだから…」

「あー…一人で入ろうとする機会無くてそのへんはちょっと分からないな」

「ヒィ…美人と私の住む世界の違いを叩き付けられた…!」

 

 

とりあえず開いている席に座ると、メニュー端末を開く。

おどおどと座る伊吹さんに目を向ければ、思い切り目が合った。

 

 

「……そんなに見つめられると照れちゃうな」

「ご、ごめんなさい!そんなつもりじゃ…ッ」

「いや、揶揄っただけだよ、ごめんごめん。私は頼むの決まってるし、どうぞ」

 

 

メニューを手渡せば、そそくさと注文を確定する伊吹さん。

暫く沈黙が流れ、とりあえず縮こまる彼女に話しかける事にした。

 

 

「んで、どしてさっきの質問を?」

「え、あー…いや、実はハーンさんと少し前に恋愛の話になったことがあってね」

「ほうほう…」

 

 

     ○○○

 

 

「…ふーん、ハーンがそんなこと言ってたんだ」

 

 

コーヒーを啜りながら、伊吹さんの発言を反芻する。

惚れた人、という対象が私で、しかしハーン本人は恋人や想い人だと一言も発言していない。

 

 

「そうだなぁ、一部違うけど、ハーンに拾われたのは事実だよ」

「え」

「事情で家が無くなっちゃってね…それで今は住まわせて貰ってる身」

「じゃあ…同棲してるって事?」

「そうだね」

 

 

その発言に、伊吹さんは顔を赤らめた。

 

 

「えっとその…本当にハーンさんの恋人…なの?」

「あ、それは違う」

「…ん?」

「ほら、ただ拾われただけだし。恋人ではないよ」

「でも惚れたって…」

「人間性の話だね。要するに、言葉遊びで揶揄われたんだよ」

 

 

伊吹さんはどこか呆けたような表情になり、そして困ったように笑う。

手元のケーキを口に運び、視線はこちらの瞳へ。

 

 

「はーあぁ。また遊ばれた」

「伊吹さんってそんなに揶揄われるの?」

「あ、伊吹さんじゃなくて伊吹でいいよ。多分同い年でしょ?」

「…そうだねー」

 

 

彼女が並の人間ならば、どう考えても年齢差は3ケタである。

 

 

「…あれ、ハーンさんから同い年って聞いたんだけど、もしかして違った?」

「いや、あってるよ」

 

 

年齢差は、3ケタである。

 

 

「ま、伊吹でいいよ。私も古明地って呼んでいい?」

「苗字より名前で呼んで。そっちの方が分かり易くて」

「分かったわ。あ、これ連絡先。専攻一緒だし何かあったらここによろしくね」

「助かるぅ」

 

 

その後は何事も無く、喫茶店内で談笑した。

暫く続いた会話も、伊吹のケーキが無くなったところで打ち切りに。

 

喫茶店を出て伊吹と別れ、資料室へと戻る最中に、彼女の事を考える。

 

―――私から見た伊吹の評価は、地味で自信をあまり持たないが、芯は強く心も強い。

とても美味しそうの部類だった。




それは、洗い物と選択を終え、暫し休憩にとネットで美味しい料理を探していたところだった。

『伊吹萃香を知っている?』

無意識の少女から送られてきたメッセージにより、端末が軽快な音を立てて振動する。
アプリを開いて見れば、なんとも興味深いメッセージである。

…というより、質問から考えて彼女は未だ私の正体に気がついていないのだろうか。
昔ほど腹芸をする機会も無くなり、のんびりした思考から漏れ出る素の会話から、正体がバレてもおかしく無いのだが…
まぁいい。バレていないのならバレていないで特に何が変わるわけでもない。

『勿論、知っているわ』

返すメッセージは肯定。
まぁ幻想郷で知らぬ者などいなかった程に有名だった鬼だ。昔を知る者なら、誰であろうが知っていておかしくはない。
暫くの沈黙。

『伊吹萃香に子孫っている?』


「は?」

どういう意味だ。
伊吹萃香に、というよりある程度の妖怪には正確な性別が無い。一応孕む事も孕ませる事も可能だが、アレが子を残すなどあり得るのか…?
鬼の子孫は実際にいる。ただ、伊吹萃香程の鬼の子孫ともなれば、必ず耳に入る筈なのだが…
最近では幻想郷でも大人しいと聞く。
揺り籠椅子から立ち上がり、化粧品の並ぶ鏡台の前に座った。

「…隠岐奈、聞きたい事があるの」

宙に呟けば、鏡台に置かれた扉を模した置物が開く。
15センチ四方の両開きで奥行きは3センチ程の置物だが、勝手に開いた扉の奥は漆黒に染まり、奥が無いように見えていた。


「久し振り。あんまり繋げると現スキマ妖怪にバレるから端的にお願い」
「伊吹萃香の現在を手紙に書いて後で渡して」
「はいよ。報酬は扉の前に置いてくれると助かる」
「…毎回言うけどいい加減、端末持ちなさいよ。連絡が面倒なんだけど」
「私も毎回言っているだろう!あのような機械、誰が好き好んで使うものか!」
「でたよ頑なに新しい物を認めない老害」
「大体お前もそうやって人との関わりを増やすことで…!!」
「うわうるさ」


声が聞こえていた奥を塞ぐように無理矢理扉を閉めれば、未だ奥から声が聞こえていたが、3秒ほど経過するとピタリと止んだ。

―――さて、鬼の事だが、どういう意図なのだろうか。
よく分からないが、気になるといえば気になるものだ。
端末に文字を打ち込む。

『よく分からないけど、調べておくわ』
『そう』

メッセージを確認すると、端末を置いて、急須に茶葉と湯を入れた。
湯呑に注げば、良い香りが部屋に広がる。
日本風の家屋では無いのに緑茶の匂いが充満する空間が、どうにもおかしくて。


「…ふふ、快適」


茶菓子として微笑のまま取り出したバームクーヘンを口に運んだ。

―――対して、短い返答の先で、無意識の少女はその返答が煙に巻いたものなのか、本当に知らないのかという疑心暗鬼に囚われるのだった。


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27

「ただーいまー!」

「あぁ、おかえりなさい」

 

 

ドアを開ければ、美味しそうな香りが漂っている。

短い通路を抜けてリビングに入れば、ハーンがキッチンで何かを炒めていた。

二日酔いで先に帰ると言っていたハーンも、回復したようで何よりである。

 

 

「調子は?」

「ゲロったら治った」

「…雑な作りしてるんだね。頭が」

「失礼な。あ、今日の晩御飯はボロネーゼソースのニョッキよ」

「手が込んでるなぁ…」

「そうだ、机片付けといて」

「はいよー」

 

 

言われるがままに机を片付ければ、目に入ったのは小さな段ボール箱。

想像より少し重く、重さからして金属の部品か何かだろうか?

重心から鑑みて、大きさは拳ほどな気もする。

 

 

「ハーン?この段ボールどうすればいい?」

「えー…?あ!それその辺に置いておいて!」

 

 

意外にも大きな声で返答が返って来てビックリした。

大切なものなのだろうか?良く分からないが、とりあえず指定された場所に置いておく。

 

 

「片付け終わったよー」

「OK、もう少しでできるから待ってて」

「じゃあ部屋でも片付けとく」

「助かるわ!」

 

 

その声を背に、隣のハーンの部屋へと足を踏み入れた。

扉を開ければ、ハーンの甘い香りがする。

それは、少女ではなく、年頃の“女”の匂いだ。

ハーンの体臭の染み付いた布団に顔を埋めれば、ほんの微かに“私”の匂いもした。

 

 

「……私の匂いって、こんな匂いだったっけ?」

 

 

服も、シャンプーも、石鹸も。

全てハーンの匂いに変わってしまった。

自分の匂いが分からなくなっている。

 

出不精なお姉ちゃんの、柔らかくそれでいて埃っぽく汗臭い匂いが懐かしい。

旧地獄は気温が高く、汗を掻きやすいのだ。

 

なんてことを思いながら、粘着ローラーで床を掃除する。

 

 

「おっしまいっと」

「出来たわよー」

「あーい」

 

 

リビングに戻れば、蕃茄の良い香り。

テーブルの上には二枚の皿。

 

 

「冷めないうちにね」

「ほいさ、んじゃあ…」

 

 

ハーンの対面に座って手を合わせる。

 

 

「「いただきます」」

 

 

フォークでニョッキを拾えば、ボロネーゼが絡んでクリーム色の体が赤く染まっていた。

その団子状のパスタを食めば、柔いながらに弾力は強く、よく炒められた挽肉と玉ねぎ、そして時折刻んだマッシュルームの食感が混じる事で、歯でも楽しめる。

麺とはまた違う美味しさに、顔が綻ぶのを感じた。

 

 

「美味ひ!」

「そりゃ良かった」

 

 

蕃茄の味は酸味がマイルドに抑えられ、仄かに香る蒜が空腹を刺激する。

噛めば旨味が染み出すようで、歯で楽しみ舌で楽しんだ。

 

 

「あ、そういえば今日伊吹と仲良くなった」

「…何か言われた?」

「ハーンの恋人?って訊かれたかな」

 

 

途端にハーンの顔が渋くなる。

紅茶風味の加工水を口に含み、ハーンはゆっくりと頷いた。

 

 

「まさか本人確認しに行くとはね」

「あ、同居してるって言っちゃった」

「…もしかして肯定した?」

「いや恋人じゃないよってハッキリ言った」

「なら良かったわぁ」

 

 

安堵したように加工水を啜るハーン。

対して再度ニョッキを口に含み、目を細める。

 

 

「…因みに面白い話聞いたよ」

「どんな?」

「蓮子とビアン疑惑」

「もー勘弁してよ…」

「でも、ビアンかどうかは知らないけど、私と蓮子に対する距離感は近いよねー」

「まぁほら、眼の事もあって人間関係が築き難かったから、寂しがりの依存し易い精神になってるとは思うよ」

「自分で言うんだ!?」

「精神について学ぶ上で、自己分析は基本よ」

「へぇ…」

 

 

同じベッドで寝ている時に、寝惚けながら足を絡めて首に手を回す、まるで誘うような姿勢は果たして寂しがりで片付けられるのかは兎も角として、自己分析は基本、か。

 

私の本質は無意識か有意識なのか。

無意識の時には考えられなかった事を自己分析してみるのも面白いかもしれない。

 

 

「ご馳走さま。先お風呂入ってるわね」

「じゃあ乱入しまーす」

「…貴女の方がビアンの可能性高くないかしら?」

「まっさかー」

「まぁ襲わないならいいけどね」

「ぐへへ…信用してよ…話変わるけど綺麗な肌だね…」

「信用性皆無になったわ!今!!」

 

 

皿を食器洗浄機に置いて風呂場へと向かうハーンを尻目に、ポケットの中で震えた端末をちらりと見る。

伊吹かと思えば、送り主の名前はママだった。

妙に緊張しながら、アプリを開く。

 

 

『伊吹萃香の件だけど、本人が所在不明で分からなかったわ』

 

 

…?どう言う事だ?

オカルトボールの奪い合いの際、無意識故に記憶は曖昧だが、伊吹萃香を博麗神社で見かけた気がする。

嘘をつく意味も分からない。

 

だが、突如地底から地上へと飛び出していった彼女の行動を把握する事も困難な話である。

所在不明ならば、それを信じるしかない。

胸に靄を抱えながら、食べ終えた食器を洗浄機に置いて洗浄開始すると、衣擦れの音が微かに聞こえる脱衣所へ歩み寄って勢いよくドアを開けた。

 

 

「邪魔するよおおお!!」

「きゃああああ!!?」

 

 

ドアを開けた先。

まさか本当に乱入するとは思っていなかったのか、ブラジャーを外し終えたばかりのハーンが、胸を隠すように衣服を掻き抱くのが見えた。



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28

「…んぐぅ!?」

 

 

無防備な体に衝撃が走る。

周囲を寝惚けたままに見回せば、ベッドから落ちた事に気がついた。

暗闇の中で、ハーンの寝息が聞こえる。

 

…徐々に目が慣れて、部屋全体が見えてきた。

無造作に立ち上がって厠に行こうとすれば、リビングに置きっ放しだったマナーモードの端末が小さく震える。

厠のある廊下へ行くにはリビングを通らねばならず、その様子を目にしてしてしまったので取り敢えず手に取った。

 

 

「何…蓮子…?」

 

 

暗闇に慣れた目には眩しい画面。

目を細めて見れば、メッセージの送り主は“ママ”だった。

途端に目が醒める。

 

丁度起きた瞬間にメッセージを送ってきたと言う事は、暗に監視しているとでも言いたいのか?

よく分からないが、取り敢えずメッセージを見てみる。

 

 

『ごめんなさい、バックアップに失敗して追加してたメリーのアカウントが消えちゃったから、その右上の友達紹介っていうアイコンを押してアカウントを教えてくれないかしら』

『何時だと思ってるの…』

『あ、ごめんなさい。日本は夜だったわね』

 

 

…何?日本は夜だった?

察するに“ママ”は外国にいるという事か。

 

 

「……え?」

 

 

おかしい。

何故、幻想郷から遠く離れた海外で伊吹萃香が所在不明だと分かったのだ?

日本ならまだしも、八雲紫が徹底的に管理する幻想郷の情報を外国から仕入れる事など出来るのか…?

 

ここで一つの仮説が組み上がる。

“八雲紫”から許可されているとすれば、どうだ。

その場合、考えられる理由は二つ。

八雲紫にメリットがあるか、又は拒否できない、のどちらかだろう。

前者は、多分無い。

幻想郷の情報を外へ出す事を許す奴では無い。

となると、拒否できないという可能性が大きいということだ。

 

それはつまり、八雲紫が能力を持ってして制御できない存在という事である。

八雲紫と同等かそれ以上の強い力を持ち、人間の世界で平然と暮らせる。

そんな存在、“妖怪の賢者”ぐらいのものだろう。

 

頬が引き攣った。

そうだ、改めて考えてみれば、おかしな点がいくつもあった。

ハーンから貸してもらった端末に突如現れた覚えのない“ママ”というアカウント。

誰から聞いたわけでもない筈なのに、無意識の少女と初めから知っていて接触してきた事。

不審な点は多い。

 

……そして、妖怪の賢者繋がりでハーンの容姿についても気になる事がある。

何故あれ程までに、八雲紫に似ているのか。

これはあくまで仮説だ。仮説でしかないが…

 

 

“もしかしてハーンは、八雲紫の娘ではないか?”

 

 

そして“ママ”は、八雲紫から娘の監視を請け負った妖怪…

そう考えてみれば、ある程度腑に落ちる。

思わず、メッセージのチャットに文字を打ち込んだ。

 

 

『ねぇ、嘘を言わずに答えて』

『何かしら?』

『貴方は人間?』

『正真正銘の人間だけどどうかした?』

『ハーンって人間?』

『あの子も正真正銘の人間だけど…』

 

 

「いや違うんかーい」

 

 

勢いで聞いたはいいが、改めて考えればハーンは間違いなく人間だ。

妖気なんて欠片も無いのだ。

それにハーンのチャットアカウントを持っていたという事は、間違いなく彼女の母という事になる。

恥ずかしい考察をしてしまった。

 

 

『あー…最後に一ついい?』

『何?』

『八雲紫と親しかった?』

 

 

暫しの沈黙。

 

 

『長い付き合いだったわ』

 

 

…なるほど、友人だったか。

あの胡散臭さの塊が人間の友人を作るなどどういうつもりかは知らないが、まぁいい。納得は出来た。

友人だからこそ、幻想郷の内部を知る事が出来たというわけか。

過去形なのは気になるが、追求する事でもあるまい。

 

 

『[まえはん]』

『これであってる?』

『確かにあの子のアカウントね。ありがとう』

 

 

端末をリビングのテーブルの上に戻し、厠へ向かう。

この夜中のやりとりで、こいしは少しだけママへの不信感を和らげたのだった。




お礼のメッセージを送ったのを確認すると、端末の画面を落として眉根を寄せた。


「…どういう事…?」


先程の質問。
こちらの正体を八雲紫に近しい人物だと思っていながらに、その正体までは分かっていない様に思えた。
とっくに察せられてるのかと思えば、そうでも無いらしい。
取り敢えず嘘は言っていないが…


「変に突っ込むとこっちが足を掬われるし…もどかしいわねぇ」


彼女から色々な事を聞いたが、どうにも信用ならない。
話す情報を間違えれば、今の幻想郷から追われる可能性だってあるのだ。
それに、


「……探してる、ねぇ」


隠岐奈の置いていった手紙には伊吹萃香に関する情報の他に、スキマ妖怪がお前を探していると書いてあった。


「…古きを忘れて、新しい事に目を向けて欲しいものだけれど。頑固だからなぁ…」


ゆっくりと身を起こすと、目を細める。
その顔は、人間味の薄い笑みを浮かべていた。


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29

変なところがあったりしましたら感想等で教えて下さると幸いです。
…普通の感想もお待ちしておりますよ(コソッ)


石の足つぼを踏んだ蓮子が背を曲げた。

 

「ここめっちゃ痛い!めちゃくそ痛い!!」

「ちょっと、言葉遣い汚いわよ」

「あっひゃっひゃ!!痛い痛い!!無理!!」

 

騒ぐ二人をよそに、私は簡単な栄養食を口に放る。

長野に訪れた私たちは、ふと見かけた公園で休憩をしていた。

 

ヒロシゲと電車で長野まで来たが、長野の道の廃れ方は東京よりかはマシだった。

時折車も通り、車に頼らずとも全て電車で賄える東京よりは道路の必要性が高いのだろう。

かといってしっかり整備されてる訳でも無いのだが。

 

「お昼は?」

「さっき食べたでしょう」

「そうだっけ?」

「痴呆症かな?」

 

こいしは寂れたブランコに座って端末に視線を落としている。

どうしてこの二人はこんなにマイペースなんだと首を振った。

 

「今からポルターガイストについて調べに行くんでしょ?」

「調べに行くけどそれはそれとしてこういう雰囲気の場所好きなんだよねぇ」

「こいしの気持ちも分かるけど…」

 

寂れた村。

廃れた道路に面した、錆びた遊具並ぶ公園。

人の気配が殆ど感じられない程に、長野は人が引き上げて久しい。

発電開発などで家が取り壊された部分は多くあるが、山の麓などはこうして人が暮らしていた痕跡が多く残っている。

 

「で?これからどこに行くの?」

「廃村…でも元々は市だったから廃市か」

「ふぅん…」

 

ここから暫く歩けば、目的地へ辿り着く。

 

…しかしなんといってもこの辺は私にとってあまり相性が良くない。

すごく小さな境界がうねるように多く点在し、時折何かが這いずり出てくるかのように歪み、そして消えては現れるを繰り返している。

正直、蓮子とこいしがいなかったらここには近づかなかった自信があるぐらいここが苦手だった。

 

「なんか肌がピリピリするのよ…」

「どしたの?過敏?」

「いや、どうにも小さな境界がちらほらあってね」

「ん…じゃあ信憑性が高まったわけだ」

 

にっこりと笑みを浮かべた蓮子が、靴を履く。

 

「こいし、何かわかった?」

「ん…ポルターガイストの目撃例…というか体験談?から分かったことは…“この地域”が範囲って事ぐらい」

「広いなぁ。こういうのって曰く付きとか、事故物件限定じゃないの?ねぇ、メリー」

 

公園を出て、道路を歩きながら話は続く。

凹凸の激しい道路に足裏を押されるのを感じながら、やはりヒールやブーツで来なかったのは正解だったとつくづく思う。

 

「さぁね。でも今時曰く付きじゃない廃村なんてほとんど無いと思うけど」

「そりゃ…間違いないわね」

 

人口の減少していった日本で、廃村化する村は少なくなかった。

特に都会へ身を移さない高齢者の多い限界集落は、孤独死を含めて問題を抱え、結果として廃村になっているケースが多い。

集落全体が高齢化。果てには地方医師も高齢化し、回診どころか施療すらままならない。

どうにか薬の処方はドローン技術でできていたようだが、容体の急変や急死には対応できないものだ。

そして、足腰が弱い高齢者は無人配達で身の周りを揃えるため、外に出る事も無く隣人の変化にすら疎い。

 

よって、大量孤独死と放置される仏様で土地全体が曰く付き、という訳だ。

 

そしてそれを知ってまで、そこに住む人間なんていない。

土地開発も手を出しにくく、しっかりと埋葬はするが、それ以上は手を出さず廃村化、と。

 

「今じゃ土地の買い手もいないから、廃棄施設になってるところも多いね」

「そうねぇ…ってこいし?」

 

こいしが、脇道の奥を見て目を細めている。

脇道と言うよりか、荒れた田んぼのあぜ道という所か。

その奥には生い茂る森があり、日が差し込まない程度には暗く見える。

 

「……なんか、面白そうなところだね」

「お!良い感性をしていますねこいしさん!ヘッヘッヘ!」

「キャラの方向性どっち!?」

 

ワイワイと騒ぎながら、また道路を歩き始める。

 

―――こいしが見た先。

森の奥には、一軒の小さな小屋があった。



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30

閑静な住宅街…というにはちょっと寂れすぎているぐらいの街並み。

京都や東京よりは田舎に見えるが、そこまで田舎でも無いというのが第一印象である。

 

「元々は市だった…か。思ってたより発展してたんだねぇ」

「あら、蓮子はどんな街を想像していたのかしら」

「そりゃもう、昔話の村みたいな?」

「…ちょっと分かっちゃうのが悔しいわ」

 

カップルみたいに腕を組んで進む蓮子とハーンをよそに、路側帯を歩く。

道は思ったより広く、ここまで発展しておきながら廃墟と化しているのが少し信じられない。

幻想郷とは違う“現代”に触れて、もう一か月と少し。

改めて、京都と東京は人が多いのだと実感する。

 

「さてさて…心霊体験をしに来たわけだけど、これ結構怖いわね」

「…奇遇ね蓮子。ここまで街に人気がないと、ちょっと不安になって来るわ」

 

そう言い、そそくさと私の両腕を掴む二人。

 

「これで安心」

「…別にいいけどさ」

 

辺りを見渡せば、寂れてはいるけれど荒れた印象は無い。

ただ、すっぱりと人がいなくなったような街並み。

看板の壊れたコンビニには商品の置かれていない陳列棚だけが残り、床にゴミは無く、ただ埃が積もるばかり。

恐らく、店員が清掃をして、片づけをしてここを去ったのだろう。

この場所は、捨てたわけではなく、しっかりと準備をして立ち退いた場所である。

 

他の場所もそうだ。

 

看板を取り外したファーストフード店。小型電子掲示板が扉にぶら下がったままの居酒屋。少し壁が崩れた民家。遊具が撤去された公園。

 

全てが、人が捨てた場所ではなく、人がいた場所として残っている。

故に、人が“暮らしていた”気配を強く感じさせた。

 

「ハーン、今何か見えたりする?」

「え?ん…ん?おかしいな。そういえばこの街に入ってから境界が一つもないわ」

「ふぅん」

 

道にあれほどあった境界が無い。

どういうことかと首を傾げるが、まぁそのうち分かるだろう。多分。

 

「しかしすごいね、この街。曰く付きどころか何もない印象なんだけど」

「そう?私はずっと背筋がぞわぞわしてるわ」

「風邪かな?」

「えっ、メリーは感じない?私だけ?」

「いや、私もぞくぞくするわ。こいしが鈍感なだけだと思う」

「…私がおかしいの?」

 

おかしいな。特に何も感じないのだが…

結局。街を歩き回ってもポルターガイストどころか人も何も無かったので、本題。

 

「よし!キャンプしましょうか」

「えっ、ホントにするんだ」

「その辺の公園でいいでしょ。誰もいないし」

 

蓮子が前々から言っていたキャンプしたい、という要望を叶えることに。

遊具の無い公園にポータブルバーナーと小型骨組み椅子を置いて完成。

収縮寝袋もあるので睡眠にも困らない。

これらを合わせたキャンプセット!なんとミニショルダーバックに入ってしまうぐらいコンパクトにしまえちゃう!!

 

ということで。

 

「今夜は野外で簡易生活体験です」

「いぇーい!じゃあハーン、料理よろしくね!」

「はいはい。甘く美味しいマシュマロトーストにしましょうか」

 

背負っていたバッグから食材を取り出すハーンの動作に、ふと気になった。

 

「…もしかしてハーンも楽しみにしてた?」

「とっても!」

 

案外、ハーンもこういうことは楽しいようだ。

幻想郷での野外生活には慣れたものだったが…

 

「あ!待って焦げそう!これ蓮子のね」

「普通自分のじゃないそういうの!?」

「ハーン!そっち、そっちマシュマロ落ちそう!」

「おっとっと!」

 

三人で姦しい野外も、まぁ悪くない。



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31

……蓮子?

 

虫の音が遠く聞こえる寝袋の中。

誰かが入り込んできた感覚にほんの少し目が覚めた。

狭くなった寝袋の中。ほっそりとした指が服の中に入り込むくすぐったさに身をよじる。

 

「…ん、や…」

 

キャンプ故にパジャマではない。

寝袋で温まった肌より冷たい指がブラウスの隙間を通り、ヘソの横を、下腹部を、そして…

 

「…!?」

 

太腿を割り、つぷりと指の入る感覚。

そのあまりの行為に目が覚めた。

小声で咎めようとすれば、耳元で聞こえたのは、

 

「…あら?」

「ッ!!」

 

聞いたことのない、酷く耳障りな女の声。

ガバリと身を起こし、手指から逃れてそこを見れば、目を閉じた蓮子がいた。

物音で目を覚ましたハーンが顔だけ出してこちらを見る。

 

「…ん、こいし…?どうかした…?」

「……いや、何でもない。虫っぽいのが見えただけ」

「え、虫…!?」

「気のせいだったけど」

「なんだ…おやすみ…」

「はいはい、おやすみ」

 

蓮子を動かすのは面倒なので、代わりに蓮子の寝袋に入りながら、今の数秒の出来事を思い出して肌が粟立つ。

蓮子では無かった。

何かが、蓮子を操って、私に何かをしようとしていた。

じっとりと嫌な汗が滲む。

 

ヴ…

 

端末が震える。

深夜に通知なんて、あの人しかいない。

本当に胡散臭いタイミングでしかメッセージを送ってこないものだ。あのママとかいう存在は…

起動して、暗闇に慣れた目が端末の光へと順応するまで暫く。

 

『起きてたりする?』

『_(┐「ε:)_』

 

通知欄を見れば、ママではなく伊吹だった。

 

『起きてるよ。どしたの』

『いや寂しくて』

『(´・ω・)』

 

……お前は恋人かっ!

あと妙に顔文字入れてくるの可愛いな。

改めて時刻を確認すれば3時頃。

 

『こいしは何かしてた?』

『ハーン達とキャンプしてるよ』

『キャンプ!?どこで???』

『長野県だね。星空が綺麗だよ』

『そんなとこにいるの!星空…ロマンチックねぇ。二人きり?』

 

……ちょくちょく恋物語っぽく結びつけようとするのは何故だろう。

 

『いや、蓮子もいるよ』

『あら残念』

 

少しは本音を隠せ。

しかし星空が綺麗なのは事実である。

隣からは唸りにも似た寝息が聞こえており、私以外に起きているものはいない。

時折風が葉を揺らす音を遠くに、自然を感じる。

 

あくまで公園の中なので、森で寝るより人工的ではあるが。

 

『伊吹は何かしてた?』

『ネットサーフィン。んで怖いの見て寝れなくなった』

『(´・ω・`)』

 

本当に何をしているんだか。

 

『どんな話?』

『八尺様って知ってる?』

 

知ってるどころか都市伝説の異変で遭遇してます。

なんて言えるはずもなく。

 

『知ってる知ってる。比較的有名な都市伝説だよね』

『そうそう!で詳しく知らなかったから興味本位で読んじゃってね…』

 

暫く間が空いて、伊吹からメッセージが届く。

 

『トイレ行けなくなった///』

 

……子供か!

 

『トイレ行くまで通話していい?』

『(>人<;)』

 

……子供かっ!!

 

『ちょっと待ってて』

 

寝袋を抜け出し、靴を履いて公園の外へ出る。

電話を掛ければ、伊吹がすぐに出た。




ヴー…

「ヒィ!!」

通知が突然すぎて変な声が出た。
端末の画面を見ればこいしからの着信である。
すぐにスライドして応答を選択。

『もしもーし』
「ごめん驚きすぎて心臓が痛いからちょっと待って…」
『えぇ…』

ちょっと深呼吸。

「ごめんね、こんな時間に」
『別にいいけどね、偶然起きてたし』
「ふぅ…で、ちょっとトイレ行くまで話さない?」
『いいけど、トイレまで部屋からどれぐらい?』
「4歩」
『切っていい?」
「泣く」
『はいはい…漏らす前に行きなさい』
「ありがとう…!」

廊下へのドアを開ければ、玄関まで一直線の暗い道。
スイッチで明かりを点ければちょっとマシになった。

『パンッ』
「きゃっ!?」

突如通話先から聞こえた拍手のような音に肩を震わせる。
…ここだけの話、下着がちょっと湿った。

「こいし…ほんとに驚かせるのやめて…」
『え?私何かした…?」
「そういうのやだぁ…拍手したでしょ…」
『拍手…?…パン、パンッ」
「それよそれ!もう…泣きそうだから!」
『待っパンて、拍手なんパンてしてパンッ』

会話に挟まるように聞こえる拍手の音。
そして、突如通話が切れた。

「…えっ?」

慌てて掛け直すが、出ない。

「…」

死ぬ気でトイレまで駆け込むと、ドアを閉めて施錠する。

トイレには間に合ったけど、朝まで出れなかったしなんなら泣いた。

『恨むぞこいし!!!』
『。゚(゚´Д`゚)゚。』


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32

「…ただいま」
「おかえりなさい!」
「ん、あぁ、橙。いたのか」
「マヨヒガの結界修復が終わりましたので、今日はこっちに来たんです。料理も出来ていますよ!」
「嬉しいな。ありがとう」

卓袱台を囲んだ二人の妖獣は、残る一角に自然な動作で茶碗と箸を置き、それぞれの位置に座ると沈黙した。
まるで、まだ同席すべき人が来ていないかのような“待ち”の時間。

やがて、ポロリと涙を流したのは黒猫の妖獣だった。

「…ふらっと帰ってくるような気がするんです。だから…だから」
「いいよ。言わなくていい」
「ごめんなさい」
「構わないさ。むしろ、それでいい。さ、食べようか」

やがて口数少なく、二人の団欒が始まった。

卓袱台に乗ったままの逆さまの茶碗と箸は、この日もいつも通りに飯に触れる事がなく。

食事が終わり、綺麗なままの茶碗を仕舞う狐の目は、微かに濡れていた。


「…切れたし」

 

端末を見れば、電波の強弱を表すマークの横で線がグルグルと回っている。

どうにも電波が悪いらしい。

 

「まぁ、いいか」

 

端末をしまい、ふらりと公園の外を見る。

 

 

――――誰かがいる。

 

 

路地裏に入っていく人影を追おうとして一歩踏み出し、即座にUターン。

 

……あの場所にハーンを放置するのは危険か。

 

むしろ通話で席を外すのも危険だったかもしれない。

速足で戻れば、何事も無く二人がそこに居た。

 

「ハーン」

「……んー…」

「違う違う、今はそうじゃない」

 

寝惚けた目で“寂しいの?おいで?”と言わんばかりに腕を広がるハーンのほっぺを引っ張る。

ちなみに“今は”の意味は、時々彼女のベッドで寝ているときに抜け出して帰って来ると、この仕草をされて抱き枕にされるからであった。

 

「いふぁ…なに、どしたの?」

「人影が見えた」

「…えっ、幽霊?行きましょう今すぐに!ほら蓮子!目を覚ましなさい!!」

「いや目覚めるのはっや。というかもう少し優しい目覚めをだね」

 

蓮子の胸倉をつかんでゆっさゆっさと揺らすハーン。

当の蓮子が完全に白目を剥いている訳だが、その辺りどうなのだろう。

 

……多分、見えてないな。

 

ハーンの頬をもう一度摘んだ。

 

「落ち着いて。蓮子が白目剥いてる」

「うわ本当だ。女の子の顔じゃないわ」

「おい加害者」

 

可哀想な蓮子は、そのまま寝袋に仕舞われた。

 

「置いていく?」

「いやぁ…本物だったら一人は良くないと思うのよ」

「それもそうね。ほら、起きなさい。蓮子。蓮子ォー!!!」

 

ひょっとしてハーンは起こし方を知らないのだろうか。

叫びながらゆっさゆっさと揺らす蛮族の起こし方に、若干引いた。

 

しばらくして、ようやく蓮子が目を覚ます。

 

     ○○○

 

「頭が痛い」

「ちょっと蓮子大丈夫?病気?」

「病気!?どこ?頭?」

「メリー」

 

粗雑な寝起きに、蓮子は痛む頭を押さえた。

 

「うーん…なんかグワングワンする…」

「二日酔い?」

「お酒なんか飲んで無いのに何に酔うのよ」

「雰囲気」

「確かにね」

 

軽口を叩いて夜の街を歩き始める。

虫の声は微か。

街の中にいるのに、人の音は一切せず。

寂寥感のある暗闇が、そこには広がっている。

 

「…やっぱり、境界が何一つとして見えない」

 

ハーン曰く、夜は境界がよく見える。

それですら何一つとして見えないのは、あまりにも変である。

 

……コツン

 

「!」

 

どこかで、音が聞こえた。

硬い石畳を、ハイヒールで踏み叩いたかのような快音。

ハーンも蓮子も気がついていない。

だが、確かに聞こえたのだ。

 

明らかな、人の音が。

 

「ハーン、何か聞こえた」

「本当?何の音かしら」

「ハイヒールで歩いた音みたいな」

「…ポルターガイストって足はあるのかしら」

「足のあるポルターガイストがいたっていいと思うの」

 

事実、足のある騒霊はいる。

楽器担いだちんどん屋とか。

 

…いや、むしろなんで足があるんだろう…?

 

ちょっと気になってきた。

それはそうと、時間を確認するために起動した端末には、未だ電波が届いていない。

空虚にぐるぐると回る受信強度のマークが、酷く不気味に見える。

 

「時間が知りたいの?私に聞けばよかったのに」

「あー…そう言えばそうだった。今何時?」

「ハイ、午前2時32分デス」

「何その口調」

「いやふざけただけ」

「あのねぇ…ん?」

 

コン……コン…

 

「…!ハーン!」

「えぇ、今度は聞こえたわ。確かにハイヒールみたいな音ね」

 

先ほどとは違い、ゆっくり歩くような音。

それも、さっきより近い。

 

コン……コン……コン、コン、コン、コッコッコッ!!!

 

快音だったその音は、まるで走るように連続性を増していく。

近づいている。それも、走って。

 

人はいない。

その筈の街で、走り寄る音が聞こえる。

おかしい。

 

おかしい事は、警戒すべきである。

こいしは、懐に手を突っ込んだ。

 

指で摘むは、人だろうが怪異だろうが、問答無用で狂気に堕とす一本の髪。

危ないならば、即座に取り出せるように準備し、もう一方の手で蓮子の手を握る。

 

強く握り返された手の冷たさを意識しながら、音を聞く。

 

距離にして、100メートルも離れていない。

廃墟に反響する打音。

 

やがて、それは現れた。

 

コッ、カカッ

 

「…靴?」

「タップシューズだわ」

 

石畳の上で跳ねる、汚れたタップシューズ。

表面は剥げ、紐は切れている。

そんなタップシューズが、自ら石畳の上で音を奏でていた。



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33

快音が響いた。

細かなリズムを刻みながら、靴が踊る。

 

「…ポルターガイスト、ではあるのかな?」

「想像とだいぶ違うけどね」

 

靴裏のタップスを古びた石畳に叩きつけ、跳ね、弾け、音を曲へと昇華させていくタップシューズ。

物が動いているので騒霊とも言えるが、これはイメージと大きく異なっていた。

 

こいしと蓮子は、興味深そうに音に耳を傾けている。

しかし私はその靴を前に、“私だけ”の観点から首を傾げた。

 

なぜ、ここには境界が無いのだ。

 

現代は、暴かなければ見る事すら叶わぬ程に“幻想”が姿を消した。

過ぎた現実主義は秘匿を良しとせず、曖昧を許さなかった。

病的な程に未知を既知へとする方針は、“痛い目を見る”まで続き、そして収束していったのだが、その方針の影響は残る。

 

もう、幻想は“暴かなければ”見えない。

過去には触れるほど身近だったものは、探し、感じ、こちらから接触を図らなければいけないほど、薄く、脆く、そして弱い。

 

だからこそ、“この靴”が動いている理由が、私には分からなかった。

境界が無い。

それはこの靴が、“幻想が発生しない”筈の現代に境界からの干渉の一切が無いまま自然発生したものである、という事に他ならない。

在り得ないものが在る。

それは一体、どういう事だろうか。

 

「ハーン、タップシューズってどんなもの?」

「ん、タップダンスって言う音を奏でながら踊る時に履かれる靴よ」

「ふぅん…タップダンス。すごいねぇ」

 

こいしがキラキラと目を輝かせる様を横に、私は更に首を傾げた。

これがポルターガイスト。

確かに物体の移動という点では、ポルターガイストと言えるだろう。

ただ、この靴は動かされているというより、自ら動いてるような素振りすら見せる。

これはポルターガイストというより…

 

「付喪神」

「そうそれ。って心読んだ!?」

 

酷く傷ついた顔を一瞬して、ぎこちなく笑みを浮かべるこいし。

 

「…心は読めないかなぁ」

「そんなことは知ってるわよ。それよりこいしもそう思う?」

 

靴は踊る。

否、靴“が”踊る。

 

ポルターガイストとは“外的要因”による現象である。

解釈として霊、悪魔などが物を動かす心霊現象。

次に、無意識のうちに発動された念力によるもの。

様々な説があるが、そのどれもが“誰かによって”引き起こされたものだ。

 

ところが、日本にはそれに相反する概念がある。

 

“自ら”、“内的要因”によって物が動く。

物に命が、魂が宿るという性質。

物にすら魂を見出す特異観点の産物、“付喪神”である。

 

「日本の妖怪は…蓮子!」

「私も詳しい方じゃないんだけどね!?」

 

蓮子がいつもの帽子を深く被り直した。

 

「例えば永い年月を経たり、強い信仰を受けたり、理由はどうあれ霊性、仏性や神性を得ると物に精神が宿る。それが、付喪神。ただ、そうなる条件は色々あるらしいけど」

「打ち出の小槌で下克上狙ったりとかね」

「なんじゃそりゃ!?」

 

こいしが訳の分からない事を言うのはいつも通りなので無視。

と、タップシューズが踊りながら移動を始めた。

 

「どうする蓮子、付いて行ってみる?」

「いいよ。行ってみようか」

 

一人、妙な方向を見たこいしの手を取り、シューズの後を追う。

 

「…死体は狂わないんだよなぁ」

 

こいしが視線を向けていた街の奥。

微かに見えていたものは、人の形をしていた。



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34

ハーンに腕を引かれ、靴を追う。

気がつけば蓮子に残る片手を取られ、両手を引かれる状態になっていた。

 

「く、結構早いわね」

「ところであのシューズ、歩いているのは何故かしら」

「それはどういう意味?」

 

罅の入った石畳を叩く靴。

その動きに疑問を得たのか、ハーンが不思議そうな声を漏らした。

 

「シューズって二つじゃない?」

「一足だけど」

「左右で二つ。そうでしょ?」

「まぁ、そうだね」

「左右に分かれた存在がどうして互いに“歩く”という動作を行うのかしら」

 

その疑問に、蓮子が眉を顰める。

 

「確かに不思議ね。あの靴は二つで一つの存在として成り立っているとか?」

「そりゃそうでしょ。一対で“靴”になるんだから。あ、歩いたり踊ったりしてるのはあの靴が覚えているからだと思う」

「覚えている?こいしは何か知ってるの?」

 

覗き込んできたハーンの目には、妙な光が宿っていた。

若干の怪訝さを感じながら、多分と頭に付けて言葉を紡ぐ。

 

「付喪神っていうのは使われた物が力を得たもので、使われ方を覚えているの。だから靴は歩く」

「覚えるって事は、記憶しているってこと?」

「さてね。私は付喪神について詳しくはないから。狸とかに聞いてみたら?」

「それじゃあ化かされておしまいだ」

「皿とか壺が歩き出すよ」

「化かされてるじゃない」

 

二人がクスクス笑うが、付喪神に関しては狸が一番よく知っている。

当の狸には“化かし甲斐の無い”、“心の読めないサトリは人間に化けない狸”みたいな心無い暴言を吐かれた記憶もあるが、無意識中の事だ。別に気にしていない。

……気にしてはいないのだ。

 

「こいしどうかした?」

「いや別にぃん!?」

 

突如、腕が左右に引っ張られた。

 

「…えっ何コレそういう拷問か何か?」

 

左に蓮子。右にハーン。

私の腕を引っ張ったまま、二人が不思議そうに顔を見合わせた。

 

「メリー、私はシューズを追っていたはずなのだけど」

「えぇ、奇遇ね。私もそうよ」

「私にはあちらへ行ったように見えた。メリーは?」

「逆側に行ったように見えたわ。こいしは?」

「今見たけど、二つ見える」

 

三人揃って首を傾げた。

と、ここで蓮子が手を上げる。

 

「音で判断しよう」

「その手が!その手が…その…うーん…」

 

妙に響いて聞こえる靴の音。

どうもおかしい。

 

「これ、マズいんじゃない?」

「そうね。一旦戻りましょう」

 

蓮子とハーンが真顔で頷き合う。

私としてもその意見に同意だ。

靴は二方向に進んでいった。

 

片方は町中に消え、もう片方は街の外へと出て行った。

どちらを追うにしても、“遊び”では無くなってしまう予感がした。

 

「夜が明けてからまた散策しよう。夜は暗いし危ないから」

「…こいしの言う通りね。ちょっと目が冴えちゃったけど、公園まで戻りましょう」

 

ハーンの言葉が決め手となり、公園へと戻ることにした。

 

     ○○○

 

残ったマシュマロを口に運び、ポータブルバーナーでパンを炙る。

こいしは寝袋の中で眠そうに眼を擦り、蓮子は私の隣に座って大きな欠伸をしていた。

 

「はーしかし不思議な体験だったわねぇ」

「私、タップダンスを始めて聞いたよ」

「どうだった?」

「すごかった!」

 

目を輝かせたこいしは、嬉しそうに口角を上げる。

 

「お姉ちゃんに話すことが増えたよ」

「こいしのお姉さんって何か凄い人じゃなかったっけ?」

「うーん、仕事には真面目な人だよ。ん、ありがとう」

 

串で刺した炙りマシュマロを受け取り、思い出すように目を細めた。

 

「今何してるんだろうな」

「…こいしは家に帰らない感じがするわね」

「まぁね。居心地が悪いわけじゃないけど、楽しい方が好きだから」

「そういえばメリーは家に帰らないの?」

 

突如投げられた蓮子の質問に、私は深いため息を吐き出した。

 

「パパとママは忙しいから、私が帰るより向こうがこっちに来るのよ」

「…次に来るのはいつ?」

「さぁ…結構突然来るから分からないのよね。気になるの?」

 

結構食い気味なこいしに目を向ける。

ちょっとだけ目を泳がせ、こいしはゆっくりと頷いた。

 

「居候の身だしね…」

「あぁ…そういうね。ママがいいって言ってるんだから大丈夫よ」

「そっか」

「よし、お腹も膨らんだことだし、もう寝ましょう」

 

寝袋に入り、おやすみと言葉をかけて目を閉じる。

一分と掛からずに、満腹感から来る眠気に身を任せた。




「…?」

一人だけで帰ってきた靴を見て首を傾げる。
試しに放ってみたのだが、引っ掛からなかったらしい。

先の接触を含めて、ただの人間達では無いようだ。
少なくとも、一人は人間ではない。
“直に”触ったから分かる。

運が良ければ誑かせないものかと思ったが、靴に付いて来ないあたり、人の臆病さも兼ね備えているらしい。

「玩具に出来るかと思ったのだけれど」

淡い青の髪を揺らし、女の形をした何かは静かに首を振る。
変に警戒され、ここを追いやられるのも面倒だ。

今回は静かにしていよう。
そう決め込むと、目の前の可愛い可愛い冷たい体を撫でた。

「──…」
「残念ねぇ」

今回のお仕事は無いのだから。
そう言うと、女の形をした何かは目を細めた。
街の外。森の奥にぽつんと建った一軒の小屋。
そこに居た“何か”の言葉を聞く者はいない。


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35

夢と現に関するお話は夢違科学世紀に拠るものです。
最近ハイペース投稿なので、矛盾点や気になった点があったら是非感想欄で聞いてください。私にとっても勉強になる事が多いです。
評価も感想もお待ちしております。私の励みになります。


アラームの音に、目が覚めた。

寝袋から顔を出せば、心地よい風が頬を撫でる。

重い瞼を上げれば、誰かの姿が目に入った。

 

「ん…」

「おはよう」

 

緑がかった銀髪が見える。

整った輪郭も、微かに浮き出た体のラインも見える。

 

「…うーん」

「蓮子ぉー起きてー」

 

寝返りを打てば、後ろから頬を揉まれた。

 

「セクハラ…」

「セクハラって何?」

 

もっちもっちと頬を揉まれながら、ゆっくりと身を起こす。

こいしの、綺麗な緑の瞳と目が合った。

 

「おはよ…」

「おそよう、寝坊助さん」

「いつ起きたって何処かでは早朝なのよ」

「それを言うと何処かでは夜だけどね。おはよう蓮子」

 

既に起きていたのか、メリーが視界に入る。

どうも仲間外れは私だけのようだ。

寝袋に下半身を突っ込んだまま、大きく伸びをする。

太陽の位置は未だ高くない。アラームから流れた音楽からして、多分9:30ぐらいか。

1時間おきぐらいにアラームがセットしてあり、9:30の最終アラームは特に耳に障る音にしてある。

 

「蓮子すごいよ。アラームが鳴るたびに寝惚けて消すんだから」

「そりゃ誰だって寝ているならそのまま寝ていたいわ?」

「あら、私はそう思わないけどね」

「夢でも起きてるような人間は珍しいの」

 

誰しも寝れば夢を見る。

記憶に残っていないだけで、微かな夢を見るのだ。

夢についての研究は数多いが、結局は何なのかよく分からないままである。

脳の記憶整理とも、記憶の反芻とも言われているが、メリーの夢を知っている私からすれば、そのどれもが見当違いに思えた。

 

「ま、最近は向こうに連れてかれる事も減ったけど」

「その代わり自分から行くようになった、ってね」

 

境界を見る瞳。

瞼を閉じている時は、何処を見ているのだろうか。

無意識に、妙な境界を注視している可能性は否めない。

 

「ハーンはその目に振り回されてるの?」

 

瞳のことを知ってはいるが、メリーの過去を知らないこいしが首を傾げる。

 

「今はそうでも無いよ。昔は酷かったけどね」

「ふーん」

 

昔は酷かった。

私が知っているのは、大学のメリーだけだ。

それより前の事は、あまり聞いたことも聞き出そうともしたことがない。

ただ、大学に入ったばかりのあの頃より酷かった時期があるのなら、それは本当に辛いことだろう。

以前は、“夢と現なんて同じ物”と言っているほど、彼女の中では起きている時と寝ている時の境界が無かったのだ。

 

「で、すっかり目が覚めたんだけど、何するんだっけ?」

「決まってるじゃない」

 

何処からか取り出したフリフリのエプロンをこいしに着せると、パッとメリーが目を輝かせた。

 

「breakfastよ!」

「もうbrunchでしょ」

「はいこれ。トーストとコンポタ」

「私のエプロンは何!?」

 

こいしのエプロン姿を端末で撮ると、何も言わずにコンポタを啜る。

 

「えっ、このエプロンは何…?」

「こいし、はいチーズ」

 

今度はバッチリウインクと目の横にピースを作った。

容姿も相まって反則的可愛さである。

 

「まぁまぁ、服を汚さないためのものと思いなさい」

「こんな可愛いナプキン知らない」

「そんな顔しないの。1足す1は〜?」

 

満面の笑顔の写真データが一つ増えた。



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36

呻く古井戸【前編】です。
トリフネの会話は鳥船遺跡と伊弉諾物質に拠るものです。


朝は晴れていた空はいつのまにか雲に覆われ、涼しい気温に上着を一枚羽織った。

 

蓮子、ハーンと共に街を歩く。

 

人が歩かなくなった道には塵が積もり、足跡をよく残すものだ。

昨晩の付喪神で“足跡の残った方”は、街の中心へ向かっている。

街中へ消えた靴は蓮子の見た方であり、ハーンは首を傾げた。

 

好奇心とは、燻るものである。

そしていつしか、勢いよく燃え上がるのだ。

私達は足跡を追い、更なる街中へと迷い込むのだった。

 

 

     ○○○

 

 

「改めて見ると、人が居ないだけでえらく不気味なものね。そう思わない?」

「人工物はどう頑張っても自然じゃないのよ。人工物を意味するArtifactはArt(人為)Fact(犯罪)を組み合わせて出来上がっているでしょう?罪を犯せば戻れないものなのよ」

 

コンクリート一つ取っても、水に解ければpH12〜13と非常に高いアルカリ性を示す。

自然に戻るには、相当な時間が必要だ。

まして、こんな鉄筋コンクリート仕立ての人工物だらけの街ならば。

 

「このご時世に無実の地があれば良いけどね」

「今時無いわよそんな場所。無罪を装った有罪だらけ」

 

あ、でも。とメリーが空を指差した。

 

「あるわね、罪から逃れた場所が」

「トリフネ、か」

 

人の手を逃れた無秩序な楽園を、二人は知っていた。

怪物の住まう、宇宙のとある閉鎖空間。

ヴァーチャルの世界ではいくら見ることが出来ても、あれ程網膜に焼きつく自然の姿は今の時代では殆ど無いだろう。

 

前を歩くこいしに付いて歩きながら、あの密林に想いを馳せた。

 

「蓮子ぉ、前見ないと危ないよ」

「へ?うわっ!」

 

こいしの声に我に帰るも、時既に遅く。

回避行動虚しく、錆だらけの標識に体をぶつけた。

 

「くぅー!痛い!」

「馬鹿ね蓮子。前を見て歩かないと」

「あ、ハーン危ない」

「え?きゃっ!」

 

得意げな表情で歩いていたメリーが、石畳が捲れ上がってできた段差に躓いた。

受け身は取れているものの、その顔は赤い。

 

「あれ?どこを見て歩けばいいんでしたっけ?」

「うるさいわね…」

 

パンパンと埃を払うメリーを煽りつつ、錆だらけの標識に触れる。

 

「…なんだか、この辺の荒れ模様はすごいわ」

「そうね。今時そんな標識が残っているんだもの。発展が遅かった地区かしら?」

 

耐食性の低い金属製の標識なんて、今時滅多に見ることがない。

この寂れた街でも、この辺以外は電子標識だった。

風化しきって塵になっていない辺り、この前時代的標識もそこまで古くは無さそうだが。

 

「んぁ?」

「どうかした?」

 

こいしが立ち止まったので近寄ってみると、こいしの目の前で足跡が消えていた。

どこかに飛び跳ねたわけでもなく、急にそこで消えたかのような跡だ。

 

「ハーン、この辺の境界は?」

「あら?そういえばここは小さな境界があちこちに見えるわ」

「そっか」

 

こいしはぴょん、と跳ねると、道路脇にある一軒の家を指差した。

足跡の途切れた、すぐ横の家である。

 

「わかった。これが付喪神を生み出した存在だ」

「へ?この家が?」

 

劣化か、天災によるものか。

半分ほど姿を崩したその家は立方体に近い形をしており、どちらかと言えば近代的構造をしている。

 

「勝手に入るのは良くないから、その辺に座ってお話ししよっか」

「え、えぇ…」

 

折り畳み椅子を道のど真ん中に組み立てると、三人で輪を作った。

文字通りの鼎談である。

私の目の前で、こいしはにっこりと笑った。

 

 

     ○○○

 

 

「さ、じゃあどうしてこの家が付喪神を生み出したのか。まずは付喪神って、どうやって生まれるでしょう?」

「永い年月を経たり、強い信仰を受けたり、理由はどうあれ霊性、仏性や神性を得ると生まれる。と、言われているわね」

 

私の問いかけには、蓮子が答えてくれた。

目の前の家を見る。確かに長い年月は経っているだろう。

 

「正解。流石蓮子。頭いい」

「ふふ、もっと褒めてもいいのよ?」

「こいし、蓮子には構わなくていいのよ」

「ま、それはそれとして。あの靴はどうして付喪神になったと思う?」

 

三人で家の方を見る。

 

「あの靴を長年使っていた人が住んでいた」

「ハーンの考えは正しいよ。でもちょっと足りない」

「その口振りだと、もうこいしの手には完璧な答えがあるみたいね」

「勿論。だからドヤ顔でこんな事話してる訳だし」

「ドヤ顔の自覚あったのね」

 

当然だ。表情ぐらい意識している。

無意識に表情が作られる事は今のところ無い。

 

「永い年月は経過して当然。つまり、その靴に霊性か何かを吹き込んだものは何か、って事でしょ?」

「蓮子は話が早いね」

「メリーと違って頭脳派だから」

「馬鹿って言いたいのかしら?」

「いや、メリーは“感覚派”でしょう?私はメリーと違って考える事しか出来ないんだから」

 

二人で目を合わせ、 くすっと笑うが、置いてきぼりにされた私の事を考えて欲しいものである。

しかし蓮子がそこまでわかっているのなら答えはすぐそこだ。

 

「もうほぼ答えだよ」

「うーん…メリー、境界で答えを暴けない?」

「生憎だけど、この辺の境界は意味の無いものばかりよ。と言うより、なんだか暴きたく無いものばかり」

「あ、この辺の境界は弄らない方がいいよ。いい事無いから」

 

私のその言葉に、蓮子はパッと顔を上げる。

 

「怨霊…!なんらかの怨恨でこの家に住んでいた人間が怨霊と化し、そしてその影響で物に霊性が吹き込まれた!違う?」

「近いけど根本で違う」

「うーん違ったか…悪い境界なんて、怨霊ぐらいしか思い当たらないんだけどな」

「怨霊だったら私近寄らないよ。死んじゃうもん」

「まぁ、確かにそうね」

 

蓮子は怨霊を知らないからふわっと死を思い浮かべる程度だろうが、妖怪にとって怨霊は本当に危険なのだ。

 

「んー…?そもそもこの幻想の消えた現代で霊性を吹き込める存在って何がいるの?神様とか仏様とか?」

「あ、正解」

「へ?」

 

正解だと思わなかったのだろう。

はたまた、この時代に神や仏などいないと思っていたか。

怪訝な顔をする蓮子に、私はにっこり微笑んだ。



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37

呻く古井戸【後編】です。
神頼みに関するお話は鳥船遺跡から、
Dr.レイテンシーは燕石博物誌に拠るものです。
この話には宗教に関するお話が出てきますが、感想欄で宗教名を出すことはご遠慮ください。
よろしくお願い致します。


───人はいないと分かっていても、神頼みしてしまうものだ。

どんな現象でも、成功率は100%に満たない事が多い。

例え失敗率が0.001%だとしても、“失敗する確率”がそこにある限り、人は願ってしまうのだ。

「お願いだから、失敗しないでくれ」と。

そして例え成功率が100%でも、人は不安から願うのだ。

「お願いだから、何も起きないでくれ」と。

 

神は実在しない。と、この現代ではそう言われている。

現代において神は器のようなものだ。

人からの願いを受け入れるだけの、透けた器のような概念。

願いを言い、祈るにも関わらず、いないと一度言われてしまえば、人はいなかったことにしてしまうのである。

 

しかし現代まで残った微かな境界の神秘は、過去の神秘の存在を裏付けた。

伝説は嘘にしろ、神と呼べるであろう存在が本当にいたかもしれない、という可能性は、誰も否定することができない。

人はそこに“観測不可能な存在”がいることを証明できないのだ。

 

「ちょっと待ってこいし。そこに神がいるって事?」

「そうだよ」

「……そう。続けて」

 

今、観測不可能な存在を“観測”出来る可能性が浮上した。

内心の好奇心を抑えられない。

こいしがそうと言うならば、そうなのだろうと信じる私がいた。

 

「ま、神と言っても二人が思うような神じゃないよ。少なくともこの状態の神は、人間が信仰していいような神様じゃないからね」

「良し悪しどころか、神様を信仰する人自体が少ないけどね」

「…そっか、だから山の神様も

 

ぼそりと呟いた言葉は、私にはよく聞こえなかった。

どこか同情するかのような微妙な表情を作ったこいしは、そのまま言葉を紡ぐ。

 

「神様って、二面性があるのは知ってる?」

「アステカ神話の創造神オメテオトルかしら?」

「誰それ」

「対立する二つを兼ね備える完全なる存在。万能の主ともされているわ」

「うーん…日本以外の神様についてはあまり知らないんだよね」

 

そう言いながら手で十字架を作るこいし。

 

「ま、それはそうとして。和魂と荒魂ってものがあるの」

「あらみたまに…にみたまま」

和魂(にぎみたま)だよ」

「日本語は難しいわね」

「生麦生米生卵」

「生グミ生ゴミョ生マママ」

 

キリっと真面目な顔で噛みまくるメリーに、こいしが噴き出した。

…話が進まない。

 

「ひぃ…ふぅ…よし、話を戻すね。神様って不思議で、いろんな分社に自分と同一の分身みたいなものを生み出すことが出来てね」

「そう考えると一神教どころか、多神教と比べても神様の数が多いわね…」

「まぁ、神社を持たない神も合わせるとそれこそ八百万だからね。そんなわけで、自分の存在を分けるんだけども…」

 

ひょいっとこいしが家の方を見る。

 

「当然、あそこにも神様がいるんだよね」

「家の神様かしら」

「ううん、そっちじゃない。その下にいる神様。弥都波能売神(みづはのめのかみ)。そこの神様としては大井神と長井神かな」

 

名前から察するに水関係だろう。

家の下で水。名前も分かりやすく、ここまでくれば私にも察しが付いた。

 

「井戸、じゃない?」

「さっすが蓮子。そう、井戸」

 

ニッコリと上機嫌に、こいしは更に続ける。

 

「生活に不可欠な清水って大昔じゃ貴重でね。それを汲み上げる井戸は神聖視されて、井戸は死の世界に繋がっているとされた。確か弘仁の頃に人間が井戸から地獄に行って働いてたって逸話も残ってた筈。それも相まって、井戸は強い霊性を得てしまった」

「そういえば20世紀後期だかなんだか忘れたけど、その頃に井戸のホラー映画が流行ったらしいわね。なんだっけ、蓮子わかる?」

「あー…有名なやつよね。見たら呪われる都市伝説の。その後色々パロディ出てたような」

「へぇ見たら呪われるなんて…って確かに目から呪われるのは効率的か」

「なんで?」

「呪いって霊的手段で攻撃する行為なんだけど、物を動かすんじゃ不確実。遠隔で魂を攻撃するには手順が多すぎる。呪われた物質を触れさせるには警戒を解かせなきゃいけない。けれど、視覚から霊的攻撃をするのは簡単なんだ。瞳は物を映すものだからね。呪いの何かを見せれば呪いを映してしまうんだよ。写真みたいに」

「確かに水晶体を通して網膜に映している。そうか、それで呪いが網膜に刻まれるのか」

「だから目から呪われるって言うのは効率的なの」

 

思い返せば、前回の樹海もそうだった。

目は、霊的攻撃に対して弱いという事に気がつく。

そしてそこから、とある事に気がついてしまった。

今言うことではないが、後で確実に話すべき事だ。

 

「で、井戸。神様が宿っているのは当然として、霊性を持った場所だから、当然埋めたり、壊すときに神社の神主様とかがお清めとかをするんだけど…」

「もしかして…されてない?」

「うん、そこの家は多分井戸をそのまま埋めたね。で、そのせいで辺りに霊性が溢れ出すほど荒ぶってる。ここで最初の二面性の話が出てくる訳だ」

「生麦生米生卵の」

「違うけどその時のやつね。和魂と荒魂。さ、ここで問題。今まで散々井戸の恩恵を受けて、感謝もせずにそのまま埋めた。神様はどう思う?」

「そりゃあ…」

 

あぁ、そう言うことか。

それはそうだ。

誰だってそんな事をされたら怒る筈だ。

 

「うん、これがポルターガイストの真相。そもそもポルターガイストでは無く、古井戸から漏れ出した霊性が付喪神を生み出し、それが動いていた」

「なるほどね。あぁ、道理で街に入るときにゾワゾワした訳だ」

「神社で言う神の懐に入った訳だからね。あまり長居すべき場所じゃないんだここは。街が寂れた理由は他にもあっただろうけど、多分ここも原因の一つだと思う」

 

人は自分勝手だ。

都合の良いものを信じ、都合の悪いものは見ない。

神を知らないままに、神頼みをするのが殆どの人間である。

 

「さ、帰ろっか。私の話を聞いてまだ境界を暴きたいなら残るけど」

「いいえ、私も嫌な思いはしたくないもの」

「蓮子は?」

「私も同じ。むしろ、貴重な物を見られただけで充分だわ」

 

三人で顔を見合わせると、井戸の方に一礼。

色々モヤモヤしたものはあるが、一応何があったか分かっただけで満足をするべきなのだ。

 

「忘れ物は無いかしら」

「お土産は買った?」

「pricelessな土産話は持ったわよ」

「じゃあ、Dr.レイテンシー。期待してますよ」

 

同人誌の事を考えながら、私達はのんびりと歩き出した。

───コッコツ。

背後で聞こえた、タップの音に振り返る事も無く。

 

人がいた頃は暖かった寂れた街に、冷たい風が吹き抜けた。

神に二面性があるように、人にも二面性がある。

掌返し。表と裏。

 

恩恵を受けながら、自分勝手に井戸を埋めたのも見事な掌返しだ。

神と同じ二面性で、人は失敗したのである。



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38

呻く古井戸【エピローグ】です。
何故かプロローグは無いのにエピローグはあります。


ガタンガタンと旧式の電車の揺れを感じる。

尻が僅かに沈み込む柔らかさと、窓の外をゆっくりと流れる景色に、旧式の電車を好む人の気分が分かるような気がした。

私達以外誰もいない車内で、ヴィンテージ・ワインの様に時間を重ねた事で深みを感じさせる空間を味わうというのも、贅沢なものである。

私と蓮子は何も言わず、外の景色を眺めていた。

唯一こいしだけが、俯いて端末を触り続けている。

何度もバイブ機能で震えているので、誰かと連絡でも取り合っているのだろうか。

 

「今回の件は、宗教の縮小も原因に絡んでいると思う」

「あら、蓮子はそう思うの?」

「神社は化学施設の敷地拡大に追われ、信仰者も人口減少で減るばかり。いつのまにか管理者不在の教会や寺院、神社も増えていってる。あの古井戸は、お祓いをしなかったんじゃなくて、出来なかったんじゃないかな」

 

蓮子は少しだけ視線を落とすと、指を組む。

 

「今、日本に残る神主や住職は、金銭的な問題でどんどん居なくなってる。宗教は今の時代で生き残れないからね。だけど、そうやって人が減ると、今回のように説明のできない現象が発生してくる」

「…そうね。確かにもっと神主が多ければ、身近にいれば何か違ったかもしれないわね」

「さっき調べてみたら、昔は不動産屋が手配していたみたいだけど、今は3Dプリンターで家が作れるし、どれだけ安くできるかに視点を当てた結果、お祓いを削ったみたい」

「昔の日本みたいね。人件費を削って大失敗したって話の」

「宗教の縮小は、人々に必要ない事って思わせてしまった結果で、そこから負の連鎖を生んでしまったのね」

 

古い宗教でも信仰する人は減り、科学の進みすぎた今の世界は、随分と機械的で、見えないものが大切にされなくなってしまった。

数式の介入しない偶然や奇跡といった現象は、もう無いのかもしれない。

そんな事を思っていると、蓮子が息を吸う音が聞こえた。

 

「メリー、私の話を聞いてくれる?」

「勿論。何かしら?」

 

私、蓮子、こいしの並びで座っているもので、耳横から聞こえた声に少しだけ擽ったさを感じる。

 

「呪いの話、覚えている?」

「映画の話かしら?」

「いいえ、瞳の話」

 

ほんの少しだけ、蓮子の声が低くなった。

言いたい事は解っている。

解っては、いるのだ。

 

「境界暴きは、メリーにとって負担じゃない?」

「言いたい事ぐらい解っているわよ。でも、それを含めての秘封倶楽部だわ。それに」

 

ひょいっと、端末に釘付けの少女を顎で示す。

 

「守ってくれそうじゃない。謎の美少女が」

 

暫しの沈黙。

 

「…メリーに何かあっても私が助けるからね」

「えぇ、お願いしますわ」

 

景色が流れていく。

心地よい揺れの中で、私は目を閉じた。

 

     ○○○

 

『ごめんなさい、すっかり忘れてた』

『急にメリーと貴女の場所がわからなくなったから焦ったわ』

『一時的に通信が繋がらない状態になっちゃって』

『今の時代にそんな場所あったかしら?』

『長野のとある寂れた街。埋められた古井戸がお清めしてなかったらしくて、霊性が漏れ出して付喪神が発生してた。通信が繋がらなかったのは多分霊障の一種』

『え?それはおかしいわ?』

 

だって、現代は問答無用で神が排除された時代だもの。

そう続いたママのメッセージに、私は蓮子の言葉を思い出した。

……神様を信仰する人自体が少ないけどね。

そうだ。おかしいのだ。

“何故この時代で霊性を持った存在がいるのか”

ぶわりと、冷や汗が噴き出した。

幻想郷の常識とこっちの外界の常識が混在していて気がつかなかったが、そもそも神がいる事自体異常だったのだ。

 

『貴女、本当に神を見たの?』

『見たわけじゃない。けど、明らかに神の気配はした』

『…おかしなものが、近くにいたりしなかった?』

 

おかしなもの。

あぁ、思い返してみればいたとも。

人が居なくなって数十年は経過していそうな街なのに、白骨化どころか腐敗化も一切していない、ポツンと一人だけ放置された、“形の残った死体”とか。

 

『完全に形の残った死体があった。多分気がついたのは私だけ』

 

暫く時間を置き、端末が震えた。

 

『もしかして額にお札が貼ってあったりしたかしら?』

『顔は見えなかった』

『そう。ちょっと調べてみるわね』

『何かわかったら教えて』

 

了承!と書かれたキャラクターの画像が画面に流れてきて、ここで一先ずママとの会話は終わった。

よし、次だ。『。゚(゚´Д`゚)゚。』の絵文字が見えるトーク画面を開く。

 

『ごめん伊吹!!通信が急に途切れちゃって』

 

暫く時間が経ち、メッセージに既読の文字が付く。

 

『トイレから出られなかったんだぞー!』

『ほんとごめん!今度何かお詫びする!』

『お菓子!』

 

なんだろう。伊吹を相手していると子供を扱っているかの様な気分になってくる。

いや、年齢比率的には間違っていないのだが。

人など、60を超えても子供の様なものだ。

 

『どんなお菓子?』

『今度一緒に選びに行こうよ』

『わかった。デートね』

 

また暫くの時間があき。

 

『不束者ですがよろしくお願いします』

『さては顔真っ赤でしょ』

『何でわかったの!?』

 

電車に揺られ、私は窓の外を見た。

いつのまにか蓮子とハーンは互いに寄りかかる様にして寝ている。

静かな車内の中で、私は大きく欠伸をした。

 

気がつけば、私の中の妖力が以前より小さくなっていた。

体調や存在に変化がない辺り、元々私の存在が妖怪として破綻していた事が影響しているのかもしれない。

第三の目を閉じた覚り。

散々に言われたあの性質もまぁ、この二人ともう少しいられるのなら悪くない気がした。




鏡台の前に座り、扉の置物に向かって話しかける。

「隠岐奈」

すると扉が開き、真っ黒な空間が見えた。
光を吸収する様な黒の色の奥から、声が聞こえてくる。

「ちょっと待て、こっちが忙しい」
「…またお人形さん作り?はぁ、品の無い。自我の無いお人形さんの何が面白いのかしら。少女趣味?」
「お前の式だって似た様なものだろう」
「いいえ、忠誠を誓わせてから式を与えるの。それも向こうから受け入れる様にして。上品でしょう?」
「最悪だお前は!」

そう言うものの、声が扉の前に近づいてきた。

「なんだ」
「幻想郷の邪仙が外界に出ている可能性があるわ」
「…壁をすり抜ける奴か」
「妖怪は存在が妖力によるものだから長く持たないけど、仙人は人が至った姿。結構な間外で活動していた可能性があるわ」
「博麗の…じゃなくてスキマ妖怪に伝えればいいんだな」
「えぇ、お願い」

その言葉を最後に、扉が閉まる。
溜め息を吐いてハーブティーを啜り、体を伸ばした。

仙人は、仙界と呼べる空間を作る事が出来る。
あの邪仙が考えることなどわからないが、現世でも作れる様な俗界より隔絶した仙界を擬似的に作り、その中で神霊達が生き延びられる世界を作ろうとした可能性がある。
良し悪しはともかく、真相は私に探る事が出来ない。

ただ、外界で未だに神を生かす方法がある事には驚いた。
荒魂だったようだが、それでも神は生きていたのだ。

「シャワーでも浴びようかしら」

カップを洗浄機に突っ込むと、シャワールームへ向かう。

自然と溢れた鼻歌は、女の上機嫌を示していた。


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幕間

実態と幻の話は東方求聞史記の八雲紫欄に拠るものです。
時々前書きで引用元を紹介していますが、実本or実テキストを開いて読んでみて欲しい願いからです。


「おい」

 

煎餅を齧っていた八雲霊夢は、ぼーっとした顔のまま声の主を見る。

少しばかり疲れた様な顔の八雲藍を見ると、間髪入れずに言葉が出た。

 

「嫌」

 

出鼻を挫かれた藍は更に疲れた顔を作ると、霊夢を、霊夢の“背中”を指差す。

 

「もう、来ている」

「げぇ」

「げぇとは何だスキマ妖怪」

 

にゅっと背中から生えてきた腕に、頭を叩かれる霊夢。

いつの間にか霊夢の背中には両開きの扉があり、そこから腕だけが生えていた。

 

「お人形さん好きの少女趣味が何か用かしら」

「お前もあの女と同じ事を言うのか…」

 

扉の奥から言い返す気力も無いのか、だらんと垂れ下がる腕。

藍は摩多羅隠岐奈の言う“あの女”が誰を示すのか察し、寂しそうな顔を数瞬作った。

腕は直ぐに立ち上がると、指が宙に円を描く。

 

「邪仙、と言うんだったか。壁をすり抜ける」

「嫌」

「話を聞け」

 

ぱこーんと軽く叩かれ、扉から顔が生えてきた。

 

「幻想郷の外で大きな活動している可能性があるぞ、あいつ」

「すぐ行くわ。藍は大結界に異常が無いか確認して」

 

途端に真顔になり、スキマを開く霊夢。

しかし、ピタリと動きを止めると背の扉に問いかけた。

 

「それは誰からの情報?」

「さてな」

 

パタリと閉じた扉に対し、霊夢は一度スキマを閉じ、もう一度スキマを開き直した。

 

「もしもーし。…うわうわうわぁ…」

「ッ!?」

 

隠岐奈の住まう後戸の国に入って早々、霊夢はスキマを閉じる。

目に残る肌色に、狂った笑みと踊り。

人形造りの最中なのか、積み重なってカタカタと動く四肢と飛び散る赤。

見るんじゃなかったと眉を顰め、藍の顔を見る。

 

「最悪」

「紫様も同じ事を言っていたよ」

「…慰めているつもり?それ」

「嫌そうな顔をするな」

 

背に扉が出現し、頭を叩こうとしている腕を感知。

咄嗟に隠岐奈の頭上にスキマを繋げ、腕を送り込んだ。

きっと今頃は自分で自分の頭を叩いている事だろう。

 

「ちょっと行ってくる」

 

スキマに姿を消した霊夢を見送ると、藍は自分の仕事に戻るのだった。

 

     ○○○

 

「青いのを出せ」

「酷い挨拶があったものだ」

 

静かな神霊廟。

そこの主である豊聡耳神子は、突然の来訪者に驚くわけでもなく、ボロボロの体で奥へと霊夢を招き入れた。

 

「すまないね。お迎えを追い返したばかりなんだ」

「どうりで」

 

ガランとした廟は、以前に増して人が少ない。

 

「今回も何人か連れて行かれた。私達仙人に対して地獄は当たりが強くないかい?」

「不当に寿命を延ばすというのはそういう事よ。嫌なら天人にでもなるのね」

「そう簡単に言ってくれるな」

 

天人くずれの不良天人は兎も角、天人になる為徳を積むのは人の一生では時間が足りなさ過ぎる。

時間が経ち、尸解仙から仙人の中で最も位の高い天仙になった彼女も、まだまだ仙人という枠組みの中なのだ。

 

「まぁ座ってくれ。茶ぐらい出そう」

「茶菓子も付けてくれると助かるわ」

「君は人の頃から何も変わっていないな」

「結局は私だからね」

 

木製のテーブルを囲み、仙人と妖怪が対面する。

緊張感は意外にも無く、どちらかと言えば神子が笑顔であった。

 

「で、青娥か」

「どうせあんたも知らないんでしょ?」

「勿論」

「じゃあ私がここに邪仙を連れてきたら縛ってくれるかしら」

「連れて来られるならね」

 

その言葉を待ってましたとばかりに、霊夢は虚空に手を伸ばした。

当然延ばす先にはスキマがあり、暫く弄るような時間が経過する。

ふと、顔を嫌そうに歪めて手を引き抜けば、霍青娥がスキマより引きずり出された。

 

「あら?」

「はい、縛って」

「…まさか本当にやるとは思わなかったよ」

 

しかし約束は守る神子である。

壁をすり抜ける術を使えないように仙術で浮かせ、紐で吊るした。

 

「あらあらあら?」

「えー…っと、触りたくないし関わりたくないので地獄に引き渡すわね」

「端的が過ぎますわよ」

 

笑いながらぶらんぶらんと揺れる青娥に、霊夢は溜息を吐いた。

 

「以前言った気がするけど、自分に害が及ばないのなら、仙人の一人や二人地獄に落ちたってどうでも良いの。今回は私に害が及んだ。申し開きがあるなら聞くけれど」

「私が何かしたっていうの?」

「外に出る程度なら構わないわ。力のある奴は結界ぐらいすり抜けられるしね。壊すのは勘弁して欲しいけど」

「ではどうして私は縛られているのかしら?」

「結界を維持する妖怪から報告が来た。何をしたのか知らないけど、場合によっては地獄に落とす」

 

仙人が地獄に落ちた場合、非常に重い罰を受ける。

幻想郷の地獄は、いつでも仙人の受け入れ態勢が出来ていた。

少しばかり顔色を悪くした青娥が、弁解に舌を動かし始める。

 

「私は貴方にとっても得のある事をしていただけなのよ?」

「…」

「外界でも万が一に備えた“安全地帯”が作れるか試していただけですもの。妖気を用いない仙界なら、神も、小さな付喪神さえ消滅せずに存在を保てるってことがわかりました」

「…」

「外の世界は目に見えないものを否定しましたが、人の可能性を引き出す研究をしているの。だから、人間の至った姿である仙人は外でもあまり力が弱まらないの。すごいわ。人間が進歩した結果、進み過ぎた私達と同じ世界を見られる可能性が出てきたのですから」

「…」

 

無言の霊夢。焦る青娥。面白そうな顔の神子。

スッと立ち上がった霊夢を前に、青娥は体を揺らした。

しかし心底疲れた顔をした霊夢から可哀想なものを見る目を向けられて、青娥は呆けた顔を作る。

 

「…あんた、それが外の世界で仙人が発生する可能性がある事を自分の体で示した上に、外の世界と反転する幻想郷では仙人の力が弱まっているって気がついてる?」

「へ?」

「仙人は妖怪に近いけど、まだまだ人の延長線。外の世界で仙人が生まれた時、あんたはどうなっているのかしら」

 

ようやく霊夢の言葉の意味に気がついたのか、青娥と神子が揃って目を見開いた。

八雲紫は、幻想郷の中を幻の世界、外の世界を実体の世界という境界を作る事で、幻と化した存在を幻想郷に引き込んでいった。

この境界は博麗大結界に組み込まれ、今でも能力を発揮し続けている。

 

「外の世界で幻が実態を得るほど、幻想郷では実態が幻になるの」

 

それだけ言い残すと、霊夢はスキマを開いた。

 

「あぁ、私からの罰は無いわ。“その必要が無いもの”」

 

神子のボロボロの体を一瞥。

修行を怠っていないにも関わらず、回を追うごとにその傷が増えている事を、霊夢は知っていた。

 

「次のお迎えは、誰かしらね」

 

姿を消した霊夢の言葉が、二人の耳に残った。

神子は自らの体を見返し、苦々しげに目を伏せる。

 

神子が手ほどきし、仙人になった人間は意外にも多い。

しかし、今生き残っている仙人はほんの一握りほどである。

 

「…修行をしなければな」

 

神子の凛とした声は、静かな廟に虚しく響いた。




これで呻く古井戸編はおしまいです。
次の秘封倶楽部の活動は一体なんでしょう?


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『朽ちた硬貨』編
39


この章は、蓮台野夜行、大空魔術、旧約酒場を主としてプロットを練り上げています。
お楽しみください。


長野より帰った私たちは、それぞれ家に帰って各自の時間を過ごす。

貴重な体験をしたもので、ハーンは大興奮で何かを端末に打ち込んでいた。

何をしているのかと問えば、“同人活動”というやつらしい。

サークル活動をしたり同人活動をしたり、活動してばかりである。

 

そんな翌日の大学構内カフェテラス。

相も変わらず縮こまる友人を前に、私の口からは溜め息が出た。

 

「はぁ」

「えっ、何?」

「泥棒じゃないんだからもっと堂々としたら?」

 

目立たないロゴ入りの黒パーカーに、大人しめのスキニーパンツ。

テーブルを挟んで座る伊吹は、一体何に怯えているのか、しきりに周囲を見回している。

マグカップに入ったカフェラテを両手で掴み小さく啜る姿は、まるで小動物のようだ。

 

「慣れないの、ここの雰囲気」

「逆にどういうとこなら落ち着くの?」

「自分の部屋」

「私が伊吹の部屋に行けばいいの?ベッドで隣に寝てあげようか?」

「それは落ち着かないどころか色々ちょっとなぁ!」

 

フォークで切り分けたガトーショコラにホイップクリームを付け、口に運ぶ。

もったりとした濃厚な甘みと舌触り。とても美味しい。

 

「…で、あの、何で呼び出したの?」

「デートの日取りでも決めようかなって」

「ふ、ふーん。いいじゃん」

 

こちらの揶揄いに、微かに耳を赤らめた伊吹が、必死に余裕そうな顔を作っているのが見えた。

唇が震えている辺りで既に面白いのだが、目が右往左往する辺りで耐えられなかった。

 

「ふ」

「───こいし、あまり揶揄わないで欲しいわ…」

「ごめん」

 

伊吹も無理をする事に耐えられなかったらしい。

顔を手で覆うと、とても小さな声が聞こえてきた。

 

ガトーショコラが美味しい。

 

「まぁ半分は本当だよ。お菓子食べに遊びに行こうって話」

「あの時のやつね。次からは本当にやめてよ…?次は泣くからね」

「悪戯じゃないんだけど」

「はい怖い。この話はここまで」

 

ショートケーキを口に運び、伊吹は耳を塞いだ。

嘘ではないのだが、それを言っても聞く耳は持つまい。

コーヒーの苦みで口内の甘みを消すと、手をひらひらと降った。

 

「で、どこのお菓子を食べに行きたい?」

「…東京」

「へ?」

「東京のお菓子食べたい」

 

東京。

てっきり京都内だと思っていただけに、ちょっとばかり驚いた。

 

ギラギラと光る街並みに反し、不味そうな人々の群れ。

精神の疲弊しきった艶の無い人が多かったイメージしかない。

 

「いいけど…ってあ、東京だとハーンに聞かないとだ」

「ハーンさんは貴女のお母さんか何か?」

「半分は否定できないんだよな…」

 

正確に言えば、“ママ”に全て借りている身なので、たとえ交通費と言えど勝手に使うのは憚られる。

更にある程度の自由は許可されているが、幻想郷と違い“自由”の範囲が広すぎて、困ってしまう事も多い。

 

「とりあえず聞いてみるよ」

「わーい」

 

今度はホイップクリームを付けずに、ガトーショコラを食べようとフォークで取る。

すると嬉しそうにカフェラテを啜る伊吹が、ふと思い出したかのように顔を上げた。

 

「そういえば」

「ん?」

「なんで端末のやりとりじゃなくてここでそんな話を?」

「なーんだ、そんな事。それはね」

 

苺を口に含んだ伊吹に優しく微笑むと、自分の唇に人差し指を当てた。

 

「可愛い子には会いたいものだよ」

「お会計お願いしまーすッ!!」

 

思わずと言ったように立ち上がる伊吹。

私は伊吹を見上げると、ガトーショコラを口に入れる。

ホイップクリームで隠されていた微かな苦みと、芳醇な香りと甘み。

 

顔を火照らせた伊吹の顔が見えて、顔が綻んでしまう。

 

あぁ、美味しい。



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40

合成食の話は夢違科学世紀より、
本の質の例えは燕石博物誌に拠るものです。


「ただいまー」

「おかえり」

「うわ全裸」

 

帰って早々目に飛び込んできた肌色に目を背けた。

ハーンは家の中で服をあまり着ないらしく、慣れた今では普通にその辺を歩き回っている。

正直、食事中などは味に集中できないのでやめてほしい。

 

「服を着て」

「ナイスバディに見惚れてもいいのよ」

「処理が甘い」

「サイテー」

 

クスクスと笑うハーンに促されてソファに座ると、目の前のテーブルに小さなクッキーが置かれた。

 

「蓮子が面白いの見つけたからこいしにって」

「蓮子が?えぇ…」

 

手にとって見てみると、綺麗な小麦色。

どこをどう見てもクッキーなので、取り敢えず口に含んでみた。

 

サクサク、ホロホロと砕ける、程良い食感。

視覚、聴覚、感覚は完璧だ。

鼻に抜ける大根の味と香りで、味覚、嗅覚が混乱するが。

 

「…ナニコレ」

「味と風味を完全再現した野菜クッキー」

「私の脳がクッキーを食べているのに、鼻と舌がこれは野菜だって騒いで頭がおかしくなりそう」

「それがウリみたいよ。はいこっち」

「………ニンジンだね…」

 

食感は完全にクッキーである。

ただ、香りと味の野菜感が強すぎて気持ち悪い。

慣れ親しんだものは、慣れたものだからこそ美味しいのである。

 

「いらない?」

「よくハーンは食べられるね」

「そりゃあ、合成食でしかないからね」

 

これは密かに驚いた事だが、この外界ではもう自然栽培された野菜や果実などは殆ど出回っていないらしい。

味と風味と食感を再現し、栄養分を調整した“合成食”が安価で販売され、人はそれを食べている事が多い。

というより、基本的には合成食しか食べないのだ。

 

天然物なんて、本と同じく質に価値を見出した金持ちの道楽でしか無いのである。

 

人は、自分達で自分達の食料を補完する事に成功していた。

 

「合成食の中でもまだご飯味のパンの方が食べやすかった…」

「クッキーと野菜はかなり毛色が違うからね。脳が受け入れにくいのかもしれないわ」

 

そう言ってクッキーを齧るハーン。

人は味を作れるようになって久しく。

いつの間にか、美味への探求を忘れてしまっていた。

 

見た目と食感と味と栄養を作れる事は食に対する冒涜と言われていたが、低迷する食料自給率を前に誰しもが口を閉じた。

閉じざるを、得なかったのだ。

 

「ハーン、相談だけど、東京行っていい?」

「あら?それはまたなんで?」

「伊吹とデートしたくて」

「ふーん、寝取られたって講義室で騒いでやろうかしら」

「伊吹は多分引くぐらい大泣きするよ」

「…そうね、確かにそういう性格だわ」

 

本気では無いにしろ、実際にやったら伊吹は多分引くぐらい大泣きして家に引きこもる気がする。

精神力は強いのだが、どうにも子供っぽさが残っているのだ。

 

「いいわよ。なんならヒロシゲのチケットも取ってあげようか?」

「お願いしてもいい?」

「いいわよそれぐらい。それよりシャワーでも浴びてきたら?」

「ありがと」

 

端末を弄り始めたハーンをよそに、脱衣所へ向かう。

一糸まとわぬ姿でバスルームに入れば、湯船にお湯が張ってあった。

 

「ハーン!このお湯って入っていいやつー!?」

「いいわよー!ぬるければお湯足してー!!」

 

リビングから返ってきた声を聞くや否や、手桶でかけ湯して飛び込む準備をする。

 

のだが、その前で失敗した。

 

「あづぁい!!!?」

 

お湯の温度は、ハーンが設定した温め直しで50度まで上がっている。

伝え忘れたとはいえ、並の人間なら火傷しているところであった。

 

ちょろちょろと水を入れながら、先に髪を洗う。

浴びたのは熱湯だが、気分が冷えてしまい。

日本語とは難しいものだと考えながら、こいしはガシガシと髪を洗うのだった。

しかしその動きも3秒ほどで止まった。

 

「…このキシキシは…まさかボディソープ…?」

 

深い深い溜め息が、バスルームに響く。

ボディソープお湯で洗い流すこいしの目は、虚ろだった。

 



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41

誰も居ない街に、ハイヒールの音が響く。
街を歩き、周囲を見渡す金色の獣瞳。

八雲藍は疲れた顔で付喪神を回収し終わった事を確認すると、周囲の仙界を解いた。
酷く冷えた風が吹き、妖怪の根幹を冷たい手で触られたような感覚がする。

「あぁ、寒い寒い」

決して寒くはない気温の中で、凍えるような冷えが喉を締め付けた。
外の世界は、藍にとってあまりにも厳しい世界である。
冷え切った根幹は鑢で削られるように、チリチリと摩耗していった。

居てはならない世界に身を晒す事は、あまりにも辛い。
妖気を全て奥底に封じ込め、自らを人の身へと貶す。

じんわりと暖かくなった掌を太陽に向け、藍は歩き出した。

「───眩しいな」

尾を下げぬ足取りは、素晴らしく軽やかである。
そこに、重みがないように。


ハーンの朝は遅い。

起こしても起こしてもベッドへ戻る彼女をどうやって覚醒させるかが最近の悩みである。

 

「おはよー。こちらはアツアツのタオル」

「熱いわねえ!?」

 

朝食に使った湯の余りをタオルにかけ、ハーンの胸に放った。

火傷はしないだろうが、裸で冷えた体にはさぞ熱く感じた事だろう。

一発で目が覚めたのか、渋々ソファまで来たハーン。

 

「胸が溶けるかと思った」

「脂だしね」

「言い方ぁ!」

 

女の肉は男と比べて柔らかで美味いが、胸は脂分が多過ぎて胸焼けするものだ。

そういう点で蓮子は全身美味しい。

言ったら怒られそうだが。

 

「朝ごはんはキノコとマカロニのスープ。あとパン」

「うーん、優雅な朝食ね」

 

優雅に振る舞う前に、せめて下着は履けと言ってやりたい。

手掴みで食パンを食べている姿は、正しく原始人のそれである。

マグカップに入ったインスタントのスープを啜り、溜息を吐いた。

 

「講義は?」

「昼過ぎ。だから別に寝ていてもいいでしょう?」

「寝る子は育つと言うけれど、寝る大人は腹しか育たないよ」

 

今のところ括れているが、いつか美味しい腹になるだろう。

食べる気もないので、固かろうが柔かろうがどうでもいいが。

 

「ん、そういえば伊吹とのデートはいつなの?」

「……そういえばまだ決めてないな」

「早めに決めたほうがいいわよ。当日でもチケットは取れるだろうけど、位置の悪い席とかしか残らなかったりするし」

「今聞いておくよ」

 

伊吹とのチャットを開く。

 

『東京行けるよ。行くのいつにする?』

 

一度食パンを食べるために端末を置き、もそもそと口に押し込む。

暫くの時間を置き、テーブルの上で振動音を鳴らした端末を取ると、予想とは違ったメッセージが入っていた。

 

『長野の件、仙人がいたみたい』

 

ママだった。

なんとも言えない顔になると、返信のために文字を打ち込み始める。

 

『仙人が外の世界で何を?』

『外の世界への進出を画策していたみたい』

『馬鹿じゃないの?』

 

わざわざ幻想郷を出てまで身を晒すなど、よほどの馬鹿か、自殺願望か。

安寧の地より冷徹な地を求めるなど、何を考えているのだろう。

 

幻想郷に、行き過ぎた自由は無い。

だが、それを求めて外の世界に出れば、存在の自由すら無い。

ちょっと考えれば分かりそうな話だが、仙人の考えなど知る由もなく。

 

『とりあえず話はわかったよ。それと近日中にハーンと別行動して東京に行く』

『あの子から聞いたわ。楽しんでらっしゃい』

『ふと思ったんだけど、なんで私に優しくするの?』

 

暫しの間を持ち、端末が震えた。

 

『私が母だから』

 

なんとなく、その言葉に嘘は無い気がした。

お金に関する感謝の言葉を送り、端末を置く。

 

「…ハーン、食べながら寝ないで」

「うーん…はっ!これは玄米!」

「それはパンだよ」

「パンダ!?」

 

寝惚けて手に持ったパンを落としたハーンを見て、なんとなくだが子育てに苦労したんだろうなぁ、と思った。




───私も母だから。

その言葉を己の中で反芻する。
メリーを産み、育ててきた私は、確かに母なのだ。

母の像など無い。
そもそも私に母などいないからだ。
手探りの“母”だったが、私は間違いなくあの子の親なのである。

「…懐かしいわねぇ」

朝の弱いあの子の髪を梳かしてあげた記憶が蘇る。
私と同じ、サラサラの金の髪。

懐かしい気持ちのまま、キッチンへ向かう。
あの子が小さい頃、とても好きだったパンケーキをふと作ろうと。

娘の笑顔を思い出し、自然と優しい笑みが溢れていた。


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42

人の脳をすべて解き明かす事は、ある意味で不可能かもしれない。

そんな男の声が、講義室に響く。

 

「他人の脳を調べて、客観的な正解を導き出すことはできる。

だが、それを嘘ではないと証明するのはとても難しい。

かといって、自分の脳を自分で弄って主観的な正解を導く狂人は今のところ“少ない”。

そしてそんな優秀過ぎる研究者ほど、長生きをしていない。

脳の働きで今の所判明している“殆ど”は客観的正解でしか無いのさ」

 

黒いパーカーを着た教授は呟きながら巨大な電子ボードを操作し、自らの頭をポンポンと叩く。

若いとも老けているとも言える典型的日本人の容姿をした教授は、その顔に表情を浮かべないまま口だけを開いた。

 

「僕が触るものは精神学なので、物質的な脳の働きについては無知に等しいとも言える。

僕の発言は間違っているかもしれないし、正しいかもしれない。

大切なのは、ふと疑問に思った事を外に出す事だ。

疑問に思った事は調べる。

正しい知識があればそれを識り。

答えが無ければそれを論文に纏めればいい」

 

さて話が逸れた、と教授は電子ボードに文字を打ち込んだ。

 

「申し訳ないね、復旧までの雑談に付き合ってもらって。んじゃ引き続き無意識と有意識の講義を始める」

 

パンパンと手を叩き、教授は薄い笑みを浮かべた。

 

教授は、教え子達に持論を叩きつける。

教え子は、教授に疑問を叩きつける。

 

疑問に答えを返す教授が、この日最も面白いと感じた疑問は「有意識しか無い人間と無意識しか無い人間はどんな存在か」である。

それに対する教授の答えは───

 

一人対多数の応答式講義は、さながらかなり昔の法廷のように見えた。

 

 

音声データ並びに映像データの保存を確認し、端末を置いた。

講義はデータ管理が基本である。

 

「……」

 

自らの投げた問いに対する教授の回答に、こいしは難しい顔をして端末に目を落としていた。

 

有意識しかなければ、必ず生活に支障が出ます。

呼吸をする。立っている場合はバランスを考えねばならず、目が乾燥したら瞬きをする為に瞼を下ろさねばならない。

あぁ、歩くなんてとんでもない。

手を動かし足を動かし、左右へのバランスを考えて足首を動かし、重心を変え、それを先程行った事と合わせて行う。

同時にいくつもの事を進行していくんだ。

ほぼ失敗するだろうね。

 

そして、無意識だけ。

こちらは逆だ。自我が介入しないんだよ。

テーブルに置かれているケーキを美味しそうだと思い、フォークを手に取り、それを刺して口に入れる。

これは意識的動作だ。

このケーキを食べる動作が全て無意識になると、突然犬食いをし始めるかもしれないし、手掴みで食べるかもしれないし、フォークだけを口に入れるかもしれない。

それも無意識に行なっているから、当人はそれを知らない。

そもそも、知る自我が無い。

もう殆ど無機物とも言える存在だね。

 

 

教授はにこやかにそう答えていた。

 

「…ハーン、晩御飯何にする?」

「へ?うーん…手軽にサンドイッチとか?」

「そのアイデアいただき」

 

いつも通りの笑顔で席を立つこいし。

その背は、どこか沈んで見えた。

 

 

大学構内のコンビニには、ある程度の惣菜も売っている。

というよりその辺のスーパーマーケットに負けず劣らずの品揃えだ。

 

「生ハムとかって無いの?」

「あー…火を通すなら別だけど、そういうのはちゃんとしたところ行かないと美味しく無いよ。合成肉専門店とか行くのがいいと思う」

「ふーん、チーズは?」

「いつも家にあるチーズが美味しいやつ。まだあったしそれ使えば?」

「それいいね。挟む野菜は…」

「野菜味のクッキーが残ってたけど」

「絶対食べない」

 

わいわいと買い物かごに商品を入れていく。

大学の学生は老若男女おり、雰囲気は本当に街中のスーパーのようであった。

 

「お酒は…」

「お酒って新型でしょ?いいよジュースで」

「おっけ。ってあれ、あの後ろ姿は…」

 

こいしが目を眇める。

歩き出したこいしについて行けば、陳列棚と歩く人々に紛れ、見覚えのある背が見えた。

粉物類を物色する、覇気のない猫背。

 

「伊吹」

 

声をかければ、ビクンと背が伸びた。

ゆっくりと振り返る顔は、完全に怯えている。

やがて私達の顔を認識したのか、大きく溜息を吐いた。

 

「驚かせないでよ…」

「勝手に驚いたんでしょう…」

 

ホットケーキミックスを片手に、灰色のパーカーと黒いジーンズ。

その姿はハッキリ言って、地味。

どこからどう見ても伊吹結香である。

 

足元の買い物かごには、スナック菓子の山。

 

「「うわぁ」」

「なんだその反応はぁ!」

 

いくら不健康な部分を削ぎ落としたとしても、自ら努力しない努力をしてまで生活習慣病に突き進む患者は時々いる。

例え医療が発達したとしても、習慣を正す治療は苦しいものだと調べればすぐに分かるものだが、それでも人は甘えていく生き物なのだ。



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43

「「ただいま」」

「お邪魔します…」

 

買い物袋を引っ提げ、おまけ付きで帰宅。

テキパキと冷蔵庫に食品を突っ込むと、ソファに座り込んだ。

 

「…座ってもいいんだよ?」

「ハイ」

 

リビングの入り口で棒立ちになった伊吹を右に座らせると、それを見たハーンが左に座る。

 

「これが両手に花か」

「貴女が一番花だけどね」

「ハーンも綺麗だよ」

「どうも」

 

そんなやり取りを聞いて、伊吹は怪訝な顔をした。

 

「本当に付き合って無いんでしょうね?」

「「無い無い。それは無い」」

 

口を揃え、否定する。

ハーンとは嫌いでは無いどころか相性がいい。

しかし夫婦になろうとは思えなかった。

 

妖怪に、明確な性別は無い。

奪衣婆や子泣き爺など性別の決まった存在もいるが、性別の決まっていない妖怪の方が多い。

ある意味では人から生まれたとも言える私達は、恐れの概念として性別を持ち合わせていないのだ。

 

なぜ少女の姿をとっているのかといえば、恐ろしい男性より恐ろしい少女の方が人により恐怖を与えられるからである。

威圧による恐怖より、未知への恐怖の方が長続きするものだ。

比較的、危害を加えずとも長期的に恐怖を引き出し続ける事ができる。

得てして妖怪とは、明確な性別の概念が無く、その場その場で己の姿を変貌させるものであった。

ただし幻想郷においてはその必要が無いため、ものぐさに人の姿のまま食事を行う妖怪も多く、そもそも変貌できない妖怪も増えているらしいが。

 

かといって、今更変貌しろと言われても困る。

紅白巫女や白黒魔法使いに面霊気などなど、多くの存在に認識され続けた事によって、古明地こいしは少女の姿である。と名に結びつけて存在が定まってしまったからである。

更に言えば幻想郷縁起に名と姿形を記された事で、古明地こいしという存在が固定化された。

 

もう、男の姿にも獣の姿にもなる事はないだろう。

全くもって優秀な、人里の守護者であった。

 

「ハーンさんの家というか部屋って広いよね」

「一軒家じゃないからなんとも…蓮子の部屋よりは広いけれど」

「だってこいしと二人で住んでるじゃない」

「いや、一人分のスペースを二人で使ってるよ」

「えっ…ベッドは?」

「「一緒に寝てる」」

「本当は恋人だったりしない?」

「「無い無い、それは無い」」

 

釈然としない顔の伊吹だが、無いと言えば無い。

無いのだ。

 

「そういえば東京行くのいつにする?」

「あ、ごめん返信忘れてた!」

「私サンドイッチ作ってくるから寛いでて。伊吹は嫌いな食べ物ある?」

「人参。あとピーマンとゴーヤ」

「分かったわ」

 

キッチンの方へ向かうハーンを見送り、端末を見る。

 

「この日とこの日が予定のない日だけど、伊吹は?」

「うーん、ほぼ全部被ってるわね。明日ぐらいかしら…」

「じゃあ明日行こうか!」

「えっ」

 

思い立ったが吉日。

予定は長伸ばしせずに、早いうち早いうち。

 

「そう、鉄は熱いうちに打て!だね」

「合っているような間違っているような…」

「こいし、スクランブルエッグ失敗したから食べて」

「あーい」

 

困惑する伊吹を前に、皿に乗ったスクランブルエッグをスプーンで掬い、口に含む。

 

「あっづ!!!」

「熱いなら打たないと」

「でも美味しい!」

「舌鼓を打った訳ね」

 

誰が上手いことを言えと。



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44

「伊吹って普段何食べてるの?」

 

エッグサンドをもっちゃもっちゃと咀嚼する伊吹に、ふと尋ねた。

ドローン配送に買い物袋を渡したからこそ身軽だが、スーパーで買っていたお菓子の数々の量はおやつというには多すぎる。

 

「えー…甘いもの。あとサプリ」

「…」

 

生存に必要な栄養素を摂るだけならば、万能食というものがある。

1日に必要な栄養素を詰め込んだだけの、味も何も無いサプリだ。

非常食としても優秀、栄養を摂る意味での食事においては、それ一粒が最も効率良い。

 

「サプリには無いカロリーを自分で補ってるのよ」

「そう考えるとまぁ…いいのかなぁ?」

 

錠剤で栄養が補えても、料理を作る人間は多い。

味気ない食事は、人の心を貧しくする。

味を自由に変えられる事で美味への欲求は薄まっていったが、食べると言う行為の重要性は損なわれなかったのだ。

 

万能食の製造メーカーもそれを分かっているので、カロリーをかなり抑えた上で、あくまで『食事では足りない分を補うもの』と謳っている。

 

好きな物を食べ、サプリで栄養を調整する人は意外にも多いのだ。

少し前には、野菜の栄養素が比較的多く入った『万能食 肉食派』と、肉などのタンパク質が比較的多く入った『万能食 草食派』などが発売されている。

 

「でも今日は万能食食べなくても良さそう」

「ちょっとは考えて作ってるからねぇ」

 

ハーンが自慢気に胸を張った。

 

「この時代にちゃんと料理してる人はすごいよ」

「ママが料理好きで、私も好きになっちゃったの」

 

ママの名前が出て、ハーンがどんな幼少期を過ごしたのか思いを馳せる。

朝に弱く、服を着ず、髪を梳かさず。

ひょっとして子供時代から変わっていないのでは。

 

「明日にしたの?」

「へ?」

「東京に行くの」

 

ハーンの声に、我に返る。

危うく、ハーンの幼少期の妄想にのめり込むところだった。

 

「そう、明日」

「私朝から蓮子と出掛けるし、一人で起きて朝ごはん食べて出掛けてね。ご飯は適当に作って置いておくわ」

「「お母さん…」」

「誰がお母さんよ」

 

苦笑。

伊吹はそろそろ家に帰って準備をしなければならないらしく、名残惜しそうにサンドイッチを食べていた。

 

「持ち帰っていい?」

「いいけど、そんなに美味しかった?」

「誰かの手作り料理食べたの久し振りで…」

「家庭…家庭料理かなこれ?」

 

店で出される料理は、基本的に機械が作っている事が多い。

少なくとも、大学構内のいつものカフェは機械が料理を作っている。

接客係として人を雇ってはいるのだが、機械を修理する技術者も兼ねているそうだ。

少なくとも機械が作っていない、全て純粋に人の手で作った料理を出している店は、今のところ【蕎麦処 鈴】ぐらいしか知らない。

 

それを思うと、幻想郷の子供が作った大きさがまちまちの団子や、箸で掴むと一本ごとに長さ太さが違う饂飩が懐かしいものだ。

均等というものは平等だが、特別感を消してしまう。

 

「じゃあ明日の10時に酉京都駅で」

「寝坊しないでね」

「だ、大丈夫!」

 

若干不安そうな顔をした伊吹。

そんな彼女も、家を出るときには大事そうにサンドイッチの入ったタッパーを抱えて幸せそうな顔をしていた。

 

考えてみればハーンといい、伊吹といい、性根が素直というか子供っぽいと感じる。

だが子供は精神が美しい事に気がつき、納得した。

子供は美味しい。

恐怖一色に心を染めるほど、その精神は純粋なのである。

 

「そういえば今日は脱がなかったね」

「流石に伊吹の前では脱がないでしょう」

「私の前だと?」

「脱ぐわ」

「脱ぐな脱ぐな」

 

いつものハーンがリビングに出現した。



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45

本文におけるヒロシゲに関する描写は卯酉東海道に拠るものです。


酉京都駅。

停止したヒロシゲの中で、柔らかな椅子に尻を沈める。

 

「…伊吹、少しは落ち着いたら?」

「いやぁ、誰かと遠出するのは久し振りで」

 

隣で嬉しそうに口角を上げる伊吹に、ちょっと微笑ましい気分になる。

と、同時に、交通料金の安さを鑑みるに誰かと出掛けること自体少なかったのかもしれないと考えが至った。

 

何も言わずにクッキーを一枚あげた。

 

「え?」

「あげる」

「あ、うん…ありがとう」

 

釈然としない顔でクッキーを受け取った伊吹は、一口で口に入れると動きを止めた。

やがて錆びたネジが緩むような速度で、こちらを向く。

 

「なにこれ」

「クッキー」

「食感以外完全にほうれん草なんだけど…」

 

何も答えず、ふいと目を逸らした。

 

「クッキーダヨ」

「クッキーはこんなんじゃない!」

「私もそう思うけどそれはクッキーなんだよね…」

 

納得は出来ないが事実なので諦めるしか無いのである。

出発のアナウンスが流れ、音も無くヒロシゲは動き出した。

地下を進むため、地上の雑多とした音は一切聞こえない。

 

一切の揺れもなく、加速は続く。

最高速度を出せば53分もかからないにも関わらず、あえて53分に拘った速度の中で、眉尻を下げた。

 

「…揺れが無いと違和感がすごいな」

「え?電車って揺れないのが普通だと思うんだけど」

「長野の電車はそりゃあもうガタンゴトン揺れてたよ」

「あー…」

 

苦笑。

今どき揺れる電車など、廃線間近の場所ぐらいしか通っていない。

あの人のいない街も、やがて遠くから歩かなければ入ることの叶わぬ場所となるだろう。

 

手の届く範囲を豊潤に。

 

人は昔からそうやって力を伸ばしてきた。

隣人を、集団を、集落を、村を、街を、国を。

次第に手の届く範囲は広がり、やがて誰かの手と当たる。

その手を取るか叩くかは、その人次第である。

 

「人口減少のせいで、税金が集中化してるのは問題になってるよ」

「うーん…都市部以外に住んでる人はどうなるんだか」

「そうなんだけど、都市部以外に住んでる人は国からの干渉を求めてない人も多いみたいで、問題提起してるのは外部の人間」

「…傲慢?」

「そうかもしれないね」

 

上下を除いた全てが窓の半パノラマビューのお陰で、映し出されたカレイドスクリーンの景色が流れていく。

荘厳な富士山の姿。

周囲に構造物の無い、実際より美しく見えるそれも、私にとっては退屈なものだった。

 

美しく美しくと求められた富士に神秘や神々しさを感じる事はなく、ただの印刷物のような薄っぺらさしかない。

綺麗だと感じていても、心打たれる景色では無かった。

楽しんでいる伊吹には悪いので口には出さず、薄ぼんやりと外を眺めていることにした。

 

ふわり、と風も無いのに髪が揺れる。

 

「…」

 

頸がピリピリと痛んだ。

大きく伸びをすると、端末を取り出した。

 

「折角だから二人で写真でも撮ろうよ」

「えっ?あぁ、うん。そうだね」

「伊吹は撮るの上手い?」

「…全然。自撮りなんてするように見える?」

「いや全く」

「ちょっとは歯に絹を着せてよぉ」

 

パシャリ

 

鳴らす必要が無くても、人間はシャッター音を消さなかった。

写真と言えばこの音、という認識が大きくなってしまったのだ。

人は古い文化を意外なところで継承していたりする。

 

無意識のうちに、印象が固定されているものも多いのだ。

 

53分間に及ぶ東海道の旅は、もうじき終わる。

卯東京まで、あと少し。



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46

太陽の光はただただ眩しく、暖かみのないギラつきがある。

鉄筋コンクリートの冷たい街並は、人の心を映しているようだ。

京都よりずっと冷たい空気が、喉奥を通り肺へと入ってくる。

再度東京の地を踏んだわけだが、相変わらずあまり良い印象が無い。

 

「伊吹、それでどこに行きたいの?」

「えーっとちょっと待ってね」

 

端末を触る伊吹をよそに、街並みを見た。

活気はあるように見えるも、どこか冷たい。

路地裏の寂れたネオンの看板は点滅し、奥には遊女らしき姿も見える。

 

低俗とまでは思わないが、何処か重みが無い。

歴史を感じるが、それを継いでいると言う意識も薄く、得る印象は上面の錆の上に新しく塗りつけた塗料のような安っぽさ。

 

「あった、こっちだね」

「はーい」

 

振り返る事もなく、伊吹の後を着く。

前を向くのは客寄せばかりで、すれ違う人は皆精神が磨り減ったように顔に覇気がない。

直感で美味しくないと感じる人ばかり集まるこの土地は、呪われていると言われてもおかしくないほどだ。

 

───歩を進めれば、一軒の煉瓦造りの店に辿り着いた。

真っ黒な煉瓦で組まれた建築物など今まで見たこともなく、そもこの外界では煉瓦などを見るのも久々であった。

建築物の殆どはのっぺりとした材質であり、漆喰に近いと思ったが全く見当違いで、ハーン曰く「特殊樹脂」と聞くも未だ正体は分からず。

久々に見た古い建築物に、心惹かれた。

 

「…で、何してんの?」

「え、あ…入る?」

 

逆に入らないならなぜ来たのだろう。

入り口前で躊躇するように周囲を見る伊吹に、苦笑しながらため息を吐いた。

 

「入るよ」

 

営業中と書かれた看板の下がる、木製の扉を押す。

隙間から漏れ出したほのかに甘い香りが、鼻腔を擽った。

 

「いらっしゃい、お嬢さん方。好きなところに座ってくれ」

 

中に入れば声をかけられた。どうもこの長身の男が店主のようだ。

内部は狭く、カウンター席しか無い。

見た目だけで言えば、バーのようにも見える。

 

むしろ店主がスーツ姿のせいで、バーにしか見えない。

 

「伊吹、ここほんとに合ってる?」

「調べたのは『黒煉瓦』って店だよ?間違ってると思う?」

「…逆にこれで間違ってたらすごくない?」

「それは私の台詞だよ」

 

席に座り、コソコソと話す私達を見て、店主は微笑みを浮かべた。

 

「ここに来たのは初めてかな?」

「えぇ…」

「やっぱり。ここは昼はカフェ、夜はバーを経営していてね。初めはバーだけのつもりだったから内装がちと酒場寄りなんだ。さて、お嬢さん方は炭酸を飲めるかな?…おっと、それではお嬢さんにはこちらのジュースをサービスだ」

 

私にはレモネード、伊吹にはオレンジジュースを渡し、店主はメニューを取り出した。

レモネードを口に含みながらメニューを目で追う。

 

「黒煉瓦っていうバームクーヘンがうちの一番人気でね。パンケーキやフレンチトーストなんかも人気だよ。下に書かれてるトッピングは3つまで自由。決まったら僕に言ってくれ」

 

目を白黒させる伊吹に、私は溜め息を吐いた。

全くもって期待を裏切らない反応に、仕方なく手を差し伸べる。

 

「二人で違うのを頼めば分けられるよ」

「…!その手が!」

 

ひょっとして複数頼むつもりだったのだろうか。

もう少し頭を捻って欲しいものだ。

 

ふと、姉とデザートを分けた記憶が蘇る。

懐かしい。確かあの時はお空が───

 

否、記憶が何かと混ざっているようだ。

そもそも地霊殿にお空なんて名前の妖怪はいないではないか。

どこかで聞いた名前が記憶に混ざり込んでしまったらしい。

 

「お姉ちゃんとの記憶が蘇るなぁ」

「仲良く分けっことかした?」

「したした。美味しいものはみんなで食べないと」

 

こうして選ぶ時間もまた、私にとっては楽しい時間であった。



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47

真っ黒のバームクーヘンを美味しそうに頬張る伊吹。

名は黒煉瓦だが、円筒状なだけに煉瓦感はあまり無かった。

 

「これすごい美味しい!」

「そう言ってもらえると嬉しいよ」

 

店主は手早く片付けを済ませ、伊吹の食べる姿を微笑ましそうに見ている。

若い見た目だが、今は老人のような落ち着きがあった。

余ったトッピング用のチョコソースを掬って口に運ぶ店主を眺めていると、ふと目が合う。

 

「ん?あぁ、僕は甘党でね、カフェを始めたのもそれが理由」

「そうなんですか」

 

心を読むまでもなく、何処か誤魔化すような言葉に嘘だと断じた。

しかし害のある嘘では無い。

自分の事を隠すような嘘を暴く事は覚りの本懐だが、今は別に腹を満たす必要も無かった。

暴きだけで言えば伊吹だけで十分お腹一杯である。

 

「そういえば気になっていたんだけど、その首元の…硬貨?」

「ん、あー…当たり。この古銭には産業を意味する稲穂、歯車、水の意匠が施されていてね。更に五円玉ときた」

「そりゃまたご縁の良いことで」

「はは、客商売には良縁が大事だからね、ペンダントにしたんだ」

 

そう言いながら指先で古銭を触る店主。

珍しいものだ。この時代に縁起を気にする人がいるとは。

それも、京都より精神の貧しい東京で。

 

「今は古銭っていう扱いだけど、昔はこれが流通してたと考えるとちょっと面白くてさ」

「経済的な話?」

「難しい話じゃ無いんだ。今この五円玉を買おうとすると大体…60倍の価値になるんだよ」

 

それを聞いて伊吹がバッと顔を上げた。

 

「綺麗な小銭全部取っておこう…!」

「価値が上がる頃は多分生きてないよ」

「そっかぁ…」

 

そもそもハーンから聞いた話だと、今の外界では小銭など滅多に見ないようだ。

端末にお金が情報として入っているらしく、ハーンからそう言われて私もこれで払う事が多い。

念の為に現金として千円紙幣を持たせて貰っているが、現金で支払うことなど稀というレベルだった。

 

遠出しない限りは学校敷地内で買い物をするため、学生証で大体のものを買えてしまう。

 

そう思えば現代では情報の価値が非常に大きいと言える。

信用が通貨となったように、胡椒が通貨となったように、黄金が通貨となったように。

貴重な物は価値を持ち、価値を認められて通貨となる。

 

この時代では貨幣となる情報が、ある意味で最も貴重なのだろう。

 

「ま、価値が上がっても本質は変わらない。5円は60倍の価値を得ても貴重なだけで5円だって事だよ」

「…やっぱり難しい話じゃん」

「いやいや、そうでもない。ここからは僕が気になった話なんだ。六文銭って知ってるかな?」

 

店主が奥から取り出したのは、六枚の硬貨。

ピカピカで作りたての様に綺麗だが、この形には覚えがある。

 

「寛永通宝…?」

「ん!?お嬢ちゃん物知りだねぇ!ひょっとして古銭好きかい?」

「いや、知ってるだけ。でもそんなに綺麗なのは初めて見た」

 

知ってるだけというか見ただけというか。

寛永通宝は一応幻想郷でも流通している硬貨だ。

それが六枚程度あれば団子も2、3本は食えるかもしれない。

 

───まぁ、私はそもそもお金を使った記憶も無いが。

いつも気がついたら口に団子が入っていただけである。

 

「…新しいと言えど、これは古銭のレプリカさ。記念硬貨みたいなものだよ」

「古いものを新しく作ったって事?」

「そうだね。これは一枚3300円で買えたから…当時の値段で換算すると100倍の価値かな?」

「100ッ!!?」

 

伊吹がバームクーヘンを皿に落とした。

慌てて現金用小銭入れに入った硬貨を漁り始めたが、彼女は人の話を覚えていられないらしい。

 

「とはいえ新しく作った訳だから贋作とも言える。価値は不明って言うのが正しいかもね」

「ふーん…で、六文銭がなんだっけ?」

「そうそう。って君は六文銭を知っていそうだ」

 

店主はにこやかにカウンターの下からティーセットを取り出すと、首を傾げた。

 

「ご馳走するからお話聞いていくかい?」

「乙女は甘いものに弱いんだよ」

「ははは、君達にはチョコソースをトッピングしてあげよう」

 

紅茶の入ったティーカップを私達に渡すと、店主はパンケーキを焼き始める。

甘い香りが店内に広がり、伊吹は目を輝かせた。

 

「追加メニューだ…!」

「お嬢ちゃんが古銭を知っていたからね。気分がいいんだ」

「ナイスこいし!」

 

いえーい、とハイタッチ。

長い食事になりそうだと思いながら、紅茶をゆっくりと口に含む。

 

鼻を抜ける香りは、どこか空っぽの様だった。




寛永通宝=訳33円程度
金一両=訳13万円からの計算です。


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48

パンケーキを食べながら、私は店内を見渡した。

今時煉瓦造りなど中々見ないので、貴重な体験だ。

 

どちらかと言えばアンティーク寄りの内装は、スイーツを高級な物に魅せてくれる。

各所に置かれた年代を感じる品々も、良い雰囲気だ。

こう言った場所が酒場になると考えると、それもまた映える。

 

パンケーキをのんびりと頬張っているこいしが、私のグラスへと手を伸ばした。

 

「ちょっと頂戴」

「いいけど、レモネードまだ残ってるよ?」

「今はこっちの気分なの」

「あぁ…どうぞ…」

 

気まぐれというか何を考えているか分からないというか。

少なくとも無料でパンケーキを食べることができたのはこいしのお蔭なので、断るつもりもない。

ほんの少しだけ口に含み、グラスを戻すこいし。

 

「…美味しいね、それ」

「お嬢ちゃんもいるかい?」

「レモネード飲み終わったらそっちがいいな」

「畏まりました」

 

さて、と前置き。

店主はカウンターから出てくると、内装に同化していた椅子に座り、背凭れに身を預けた。

 

「まずは、暇人の会話相手になってくれてありがとう」

「美味しいから会話ぐらい幾らでも相手になるよ」

「そう言ってくれるならありがたい」

 

古い五円玉の穴からこちらを覗き、店主は薄い笑みを浮かべる。

 

「冥銭。三途の河の渡賃である六文銭を指す言葉だ」

 

先程こいしが反応した古銭を懐から出し、掌の上で広げた。

 

「この六文は現代の値段にして約二百円。当時の価値で言うなら三百円程度だったみたいだけど、これは時代によって渡賃が変動していると言える」

 

店主の言葉を聞きながら、私はパンケーキを飲み込んだ。

こいしは話を聞いているようだが、私には難しい話がよく分からない。

 

「六文銭という価値が基準ならば、それに応じた冥銭を渡せばいい。しかし、価値はそれこそ秒単位で変動するものだ。いざ足りないなんて思いはしたくない」

「確かにそうだね」

「いつしか人は死に、死後の世界があるのかないのか僕にはわからない。ただ、僕は不自由無く渡れたのならそれが一番いい」

 

店主は寂しそうに鼻息を一つ。

 

「だから僕は、間違いのない六文銭を棺に入れた」

 

店主の言葉は、誰かに向けて放たれた言葉だろう。

どこか遠くを眺めるような店主は、静かに立ち上がった。

 

「さ、お嬢さんはオレンジジュースを御所望かな?」

「えぇ、ありがとう」

 

空っぽになったグラスの中。

氷が音を立て、静かになった店内に響く。

 

「また食べにおいで、お嬢さん達。僕はいつでも待っているよ」

 

店主の話す気が失せたらしい。

お開きを匂わせる発言に、こいしが淡く笑みを作る。

 

「…次は友達と一緒にお酒を飲みに来る」

「それは待ち遠しい」

 

店主は六文銭を懐にしまい、柔らかく微笑んだ。

オレンジジュースを飲み終えたこいしの支払いはワンタッチ。

支払いに間違いは無く、一銭たりとも払い損じはあり得ない。

 

「またのご来店を」

 

電子決済ならば、価値が変動しても渡賃を払う事が出来るだろう。

ただし、三途の河にキャッシュレスが通じるかは、死んでみないと分からないのである。

 

 

「今日はありがとう」

「面白い店だったね」

「確かに」

 

京都の大学構内。

帰ってきた実感は薄く、目を閉じればまだあの不思議な雰囲気を思い出せる。

 

「次はハーンさんと行くの?」

「まぁね。ハーン達はお酒好きだし」

「そっかぁ」

「…伊吹も行く?」

「私はお酒苦手だからいい。旧式でしょ?」

 

店の奥に並んでいたのは旧式の瓶だった。

旧式に不慣れで悪酔いしてしまう人はかなり多いのだ。

 

「今度またお菓子食べに行こうよ」

「そうだね」

「…じゃあ、また?」

「うん、またね」

 

別れの言葉は素っ気無く。

しかし伊吹は顔を綻ばせた。

 

京都の空は既に黒く、夜は暗さを増していく。

人の明るさが夜空を白けさせるが、それもやがて消えていくのだろう。

 

「───ただいま」

 

どこかの玄関で、少女の声が響いた。

その声は消えるが、どこかにはそれを拾う者もいる。

 

「おかえり!って蓮子!!それは私のよ!!」

「おかえりー…いいや!メリーが間違ってる!それは私のだね!」

 

明るさは、夜空の下だけとは限らない。

 

「楽しそうだね、二人とも」

「「楽しそうだって!?」」

 

それは、天井の下だったりするものだ。



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49

合成、天然の話は夢違科学世紀に拠るものです。


鍋を囲って三人が箸を構えた。

狙うのは白菜。

合成ではない。天然栽培の白菜である。

 

「奮発しすぎじゃない?」

「白菜鍋が食べたい気分だったのよ」

「まだ季節じゃないと思うんだけど」

「季節関係なく美味しければいいのよ」

「それはごもっとも」

 

今回は隠し味無し。

純粋な白菜の味を楽しみたいと、薄味の鍋である。

もう既に白菜の半分は私が帰ってくる前に食い尽くしたらしく、帰ってきた時に騒がしかったのは奪い合いによるものだったと聞いた。

そして、残る半分の争奪戦がもうじき幕を開ける。

 

───まぁ、開けるのは幕じゃなくて蓋だが。

 

「じゃ、開けるよ」

 

特に飢えてもいないので、白菜を取る上でロスが大きい、鍋の蓋を開ける役として仕事を果たす。

籠もっていた湯気がぶわりと膨らみ、腹を空かせる匂いを広げた。

そんなことを感じていれば、既にハーンと蓮子は箸を器用に使いながら、高速で白菜を取り皿に引き寄せていた。

 

「…うわぁ」

 

あまりのがっつき具合に若干引いた。

ちょっぴり食べられればいいので、ちまっと2枚ぐらい取り皿に入れる。

 

争奪戦を繰り広げる鍋など知らないように、ゆっくりと汁を啜り白菜を噛んだ。

しゃくり、と程よく煮えて僅かな食感の残った感じがとても美味い。

味はほんのりとした甘さを薄い汁が引き立て、確かに“白菜”を強く感じさせた。

 

「…うまぁ…」

 

目の前では激戦が繰り広げられている。

が、我関せずのマイペースだ。

しゃくしゃくと白菜の歯応えを楽しみ、甘味と汁の混ざりを楽しむ。

とても良い。天然栽培というだけでもう美味しい。

 

人は価値に左右されるのだ。

感覚もまた、ある程度は影響を受けてしまうものである。

そう考えると、あの店主が言っていた事を思い出した。

 

六文銭の価格変動。

死神からは聞いた事がない。

旧地獄暮らしだった私ですら聞いた事のない話だ。

ただ、死神と碌に話した事もないので何とも言い難い。

 

暇だしママに聞いてみるか。

 

『六文銭はキャッシュレス対応してる?』

 

白菜を食べ、豆腐と白滝を食べたあたりで返信が返ってきた。

 

『大喜利かしら?』

『はいママ早かった!』

『多分してないと思うわ』

『3点』

『えぇ…』

 

面白い事を言う前振りをしておきながら真面目とは…

困った奴だ。無茶振りをした私が。

 

『結局キャッシュレス対応してないって事?』

『現代のキャッシュレスはすべて履歴が残るし、そもそも地獄で見ているのは金銭じゃなくて“その人の残した結果”よ。お金が欲しい訳じゃないから現物じゃないといけないわ』

『ありがと』

 

そうか。

船頭はお金を欲しているわけではなく、それが仕事だった。

 

死者はその身一つで死後を歩む。

例えどれ程の富豪でも、極貧でも、等しくその身一つなのだ。

なので死後に持っている纏う服も、冥銭も、全て副葬品によるものだ。

 

死を悼まれ、棺に入れられた物こそが、多少なりともその人間の善性を示している。

少なくとも、善性無くして死後も丁重に扱われる事など無いのだから。

 

「「あ」」

 

なんて事を考えていれば、ふとした声に顔を上げた。

鍋の上。一つの白菜の両端が端で摘まれている。

 

「…蓮子、これぐらい譲りなさい。最後の一切れは購入した私のものよ」

「メリー、そうやって必死にならなくてもいいじゃない。1回目の時は貴女にたくさん譲ったのよ?優しさがないのかしらね」

「どこが譲ったっていうのかしらね?むしろ私より食べていなかったかしら?遠慮と言う日本人の美徳はどこにあるのかしら」

「今時そんな時代遅れな事しませんわ。メリーに感謝の気持ちはあるけれど、それはそれ。いいじゃないの切れ端ぐらい」

「切れ端と言えども天然の白菜には変わりないのよ?」

 

言い合いを始めた二人の会話をぶった切るように手を挙げた。

 

「箸渡しは行儀が悪いよ。子供じゃないんだから」

 

二人はハッとして白菜から箸を離した。

鍋に落ちる白菜。

それを私が掻っ攫って自分の取り皿に入れる。

 

「「あ」」

「喧嘩するぐらいなら私に頂戴」

「…そうね、こいしまだ全然食べてないもんね。蓮子もそれならいいでしょ?」

「勿論。こいしが食べたいなら食べちゃって!」

 

先程の罵り合いが嘘のように、和やかな雰囲気になった。

場を収めるつもりは無かったが、箸渡しを行儀が悪いと思ったのは本当だ。

特に地獄の話を考えていた時に、箸渡しをされては縁起も悪い。

 

箸渡しは遺骨を壺に納める時に行う行為だ。

食事の時にすべきでは無い。

 

「まったく…私が二人の仲を取り持つなんてね」

 

橋渡し役となった訳だ。

そう、箸渡しだけに。

 

…しゃくり

 

「美味い」

 

上手くはない。



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50

「…三途の河でキャッシュレスって何…?」

無意識の少女からの奇怪な問いを考え、眉間にシワを寄せる。
ソファーに寝転がった、だらしない姿でも咎める者は居ない。

「電子マネーの…宗教に関わるやつ…?」

試しに調べてみるが、当たり前のように無い。
チラリと『宗教団体が立ち上げた企業の電子マネー』という記事が目に入るも、全く関係無いだろうと視界の外へ。
次に、宗教の縮小における未払い問題や、跡取り不在のまま放置された土地などの検索候補が続々上がってくるが、求めている情報はそれでは無い。

「そもそも死後で電子決済しようとしたら何を副葬品として入れればいいのやら」

端末か、それともICカードか。
そもそも電子決済には、少なからず電気と電波が必要である。
今はどこにいても衛星により電波が届く時代だが、三途の河まで電波が届いている訳もなく。

「…真面目に考える事じゃ無いわね、これ」

スライドをピタリと止めれば、【調査】未回収賽銭箱の中に古銭が眠っているかも?という記事が。

「…神に祀った物に興味を持つなんて、不敬極まりない」

賽銭として祀られた銭は、神職によって使われない限り永久に神の物である。
端末を柔らかいクッションの上に放り投げると、そのまま目を瞑った。


「そういえば気になる酒場が見つかった」

 

鍋を片付け終わり、ふわっとした雰囲気の中で口を開く。

キッチンから聞こえる水音が止まり、メリーが手を拭きながらソファーに座った。

 

「東京のお店?」

「そうそう。昼はスイーツで夜はお酒。それも旧式のお酒があるお店」

「ひょっとして伊吹と一緒に行ったところかしら」

「うん。煉瓦造りの店で中の雰囲気はアンティークというか時代を感じると言うか。そして店主が古銭好き」

「面白そうね」

 

風呂場から物音。

 

「あがったー」

「…ハーン、そういえばなんで蓮子がいるの?」

「今更じゃない?」

「そうだけれども」

 

大体この家で鍋なんて初めてやった。

いつもはあっちの貸部屋でやるのに。

 

「蓮子が部屋でやらかしたのよ。で、仕方ないからいつもの向こうの部屋に行ったら珍しく教授がいてね。なんか詰めてるらしくて使えず。それでこっちに来たのよ」

「泊まるの?」

「そういう事になるわね」

「ふーん」

 

そんな会話をしていると蓮子がリビングに入ってきた。

偉い。風呂上りにちゃんと寝巻きを着ている。

どこかの誰かとは大違いだ。そう、どこかの誰かとは全然違う。

それにしても、もこもこで灰色水玉なのがかなり可愛い。

 

「…可愛いね」

「いいでしょ。欲しい?」

「私が着たらハーンが鼻血噴くからやめとく」

「噴かないけどね!?」

 

そう言い残し風呂場へと向かうハーン。

上気した肌を手で煽ぎながら、蓮子が代わりにソファーへと座る。

 

「部屋で何したの?」

「あー…いや、別にそんなね?すごい事とかはしてないんだよ?ただちょっと失敗というかめんどくさがっただけでそんなにすごいことは」

「何したの?」

 

早口で視線があちらこちらへ動いた蓮子。

わかりやすく相当な事をしでかした事がよくわかる。

 

「…床抜いた」

「は?」

「アパートの二階に住んでたんだけど、その床を抜いた」

「…は?」

 

床を抜いた。

抜いたってことはつまり、穴を開けたと言うことだろうか。

いやいや、まさか文字通りという事はあるまい。

そんな床に穴を開けるなんて家具をどれだけ置けばいいのやら。

 

「部屋の片付けサボってめちゃめちゃ本を積んでたらこう、ズボッと」

「うわ本当に穴の方じゃん…」

 

聞けば、読む時間が足りないまま、本を積んだ結果下に落ちたらしい。

幸いにも怪我人はいなかったらしいが、建築法に抵触する脆さの可能性があるため現在帰れないらしい。

そもそも床が抜けている時点で帰ってもどうするのか、だが。

 

「いやぁ…やっぱり賃貸物件は造形素材を気にすべきだったかなぁ」

「造形素材ねぇ…蓮子のところは何だったの?」

 

造形素材について一切分からないが、とりあえず話を合わせておく。

 

「ん?特殊硬化系熱可塑性樹脂。一般的な立体建築よ」

「ふーん」

「興味無さそうね」

 

興味が無い訳ではなく、適当に話を合わせて間違ったら面倒なだけだ。

立体建築は以前少し聞いた。

この時代では家などの構築物を大工の手で組み上げるのではなく、設計された図面を巨大なぷりんたー?所謂立体印刷機のような物で0から印刷していくらしい。

理解が及ばず、感覚としては最早魔法に近い。

 

とはいえこの時代では、恐らく魔法を徹底的に否定しているのだが。

進み過ぎた科学は、魔法を知る己にとっても魔法に見えてしまうものである。

 

「お風呂出たわよー」

「服着てねー」

「嫌よー」

 

リビングにほかほかの全裸が出現した。

 

「あっ蓮子居るんだった」

「私も居るんだけどねー?」

「こいしはいいや、別に」

「別に!?」

 

文化の進んだ世界では、人は服を纏うものである。

猿から進化し、人は弱点を隠す服という概念を発見した。

とすれば、ひょっとすればハーンはまだ原始人かもしれないし、

もしかしたらハーンには弱点が無いから隠す必要が無いかもしれない。

 

ぶにっ

 

「……」

「…………こいし?」

「……………」

 

ひじょうにやわらかでおいしそうである。

 

「お風呂行ってくる」

「行ってらっしゃい」

「これっ、これはあれだから!あれ、あの、油断だから!いつもはもっと締まってるから!」

 

弱点が無い?まさか。

指で摘んだ感触は、例えるなら狼に食べられる羊の感触であった。

原始人も、あそこまで油断した腹にはならない。

要するに何故脱いでいるのか分からない。

文明への反抗だろうか。だとすれば凄まじい反骨精神である。

 

「こーれーはーゆーだーんーなーのーよー」

「ハーン、分かったから覗きはやめて」



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51

逆鉾は伊弉諾物質のテキストに拠るものです。


ハーンの部屋で談笑していれば、なんだかんだで寝る時間。

寝る為に、いつも通りの定位置へと収まった私は目を瞑る。

 

そう、いつも通りの位置で。

 

「…えっ本当にそれでいつも寝てるわけ?」

 

蓮子が怪訝な目を向けてくるが、私は何も言わない。

ノーコメントだ。

 

首に絡む細腕に胸に埋まる鼻先。

女の甘い匂いにはもう慣れた。

 

「大体こうよ。うちの抱き枕は最高級」

「うっわメリーを見る目が変わりそう」

「蓮子から見た今の私は?」

「ベッドの上でロリ顔美少女を下着姿で抱き抱える変態」

「ん〜…言い逃れできない」

「変態は言い逃れして欲しいな、ハーン」

 

ベッドの上。

いつも通りハーンに抱き抱えられる形となった私は、面倒とばかりに息を吐く。

 

「寝る場所があるだけいいんだよ蓮子…」

「あー…その言葉は分かる気がする…」

 

酒を呑み、店は閉まり家は遠く交通は無い。

暗い空の下、眠気の中で足を引き摺り帰路に着く。

蓮子は、そんな記憶を思い出していた。

 

「寧ろ蓮子はソファーでいいの?」

「普段薄い布団で寝てるからちょっと硬いぐらいが好きなの」

「分かる…」

 

畳の上に敷いた薄いお布団。

その良さが分かるとは、と感動する。

今でこそベッドで寝ているが、ここに来たばかりの頃は時々ソファーで寝たりもしていた。

今はハーンのお願いにより抱き枕と化しているが、布団で寝たくなる時だってある。

 

「今度一緒に寝よっか」

「えっ」

 

引かれた。

 

「違う違う、私もお布団好きなんだよ」

「ふーん、低反発マットや柔軟素材ベッドが流行っているのに布団が好きとは…こいしも物好きだね」

「蓮子が言う?」

「それもそうね。んあ、メリー、明日は特に予定無いし私の事起こさなくていいよ」

「朝ごはん出来たら起こすわよ。ソファーにいて邪魔だし」

「はいはい、じゃあおやすみ」

「「おやすみ」」

 

リビングのソファーへと向かう蓮子の背を見送ると、ハーンが大きな欠伸をしたのが見える。

 

「さっき話し忘れた事は明日でいいかぁ」

「……うん」

 

もう眠気に身を委ね始めている。

鍋のドタバタが疲れたのだろうか。

 

「…明かり消すね」

 

部屋の明かりを落とせば、そう時間を置かずに寝息が聞こえ始めた。

 

 

 

「───愛しき─────汝国の人草一日に千頭を絞殺そう」

「───愛しき─────吾一日に千五百の産屋を立てよう」

 

巨大な岩を挟み、暗闇に蹲る女と草原に立つ男。

叫びに近い言葉は、岩越しに感情を伝えていた。

互いにその表情は異なるも、共通するは悲哀。

 

やがて昏く昏く、遥か地下深くへと這い摺る様な音が遠ざかる。

それを耳に、男は表情を歪めた。

 

 

───妙な夢を見た気がする。

微睡から引き上がる様に、重く意識が覚醒した。

 

「蓮子、時間よ」

「うーんもう一杯」

「朝から何を言っているのかしら」

「もう二杯」

「ただの水でボケないで」

 

リビングで二人の声が聞こえる。

妙に重たい瞼を上げれば、ベッドから落ちた手が何かを握っていた。

 

重い。

持ち上げてみれば、手で掴める程度の白箱。

 

「…なんだこれ…」

 

以前何かで見た気がする。

重心を考えると、中に何かが入っているような───

 

「あれ、逆鉾だ。そんなところに置いたっけ?」

「…おはようハーン。朝ご飯出来た?」

「おそよう、よ。お寝坊さん。もうブランチの時間だわ」

 

白箱をベッドの下に仕舞うと、リビングに向かう。

 

「あ、おはよう」

「行ってらっしゃい」

「行ってきまーす」

 

丁度入れ違う形で蓮子が家から出て行くのを見送り、瞼を閉じる。

どうにも今日は眠いのだ。

妙に重く感じる体をソファーに沈ませると、眠い目を擦る。

 

「朝ご飯は何…?」

「ブランチだって。フレンチトーストよ」

 

美味しそうな匂いを堪能していると、先程の夢が朧にフラッシュバックした。

まったく、何が楽しくて誰かの痴話喧嘩を夢で見なければいけないのだろう。

なんて考えていれば、目の前にフレンチトーストが。

 

「それを食べたら大学よ」

「うーん…」

 

喉は鈍く、どうにも怠い。

熱は無いので体の変調は謎のまま。

 

「お菓子くれたら行く」

「早く食べて行くわよ5歳児」

 

抗議のため、なるべくゆっくり食べることにした。



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52

今回の話は大空魔術のテキストに拠るものです。


大学構内のカフェテラス。

夕焼け空を遠目に、珈琲を啜る。

 

「う、苦い…?」

「サイフォン式よりは薄いでしょう」

「濃くても薄くても苦いものは苦いんだよ」

「それは…確かに」

 

立体構造椅子に座るハーンが、空を見上げた。

対面に座っているため、どこを見ているかはよく分からない。

こちらの頭上の何処かを見つめて瞳が揺れる。

 

「そういえば一時期話題になったわね、サイフォン」

「そうだっけ?」

「あら、結構話題になってたけど…旅をしていた貴女はそういうの興味無さそうね」

「興味は無いね。全くもって無い」

「月面旅行がニュースになった時だから結構前よ。沸騰しながら凍りつく珈琲があるの」

 

人工衛星にオープンしたカフェでは、珍妙なものばかり売っている。

サテライトアイスコーヒーもまたその一つであり、未だ人気メニューとして愛飲されていた。

 

「それ美味しいの?」

「面白いとは思うわ。美味しいかは…どうかしら」

 

価値が付く、というにも色々ある。

食べ物で言えば、美味、希少性、珍味などがあり、美味しいから人気とも言い切れない。

 

「あれ、飲まなかったんだ」

「そもそも人工衛星まで行ってないわ。大金払ってまで行きたいとは思えないのよ。…この話前もした気がするわ」

 

思い出した、とばかりに手を叩くハーン。

笑顔を浮かべると上機嫌で珈琲を一口。

 

「前に蓮子とここで話したの。その時も月面旅行の話で」

「ここで?」

「まだ発表されたばかりの時期にね。蓮子ったら物理の話で盛り上がってさ…」

 

そんな話を聞きながら苦いコーヒーを啜り、空を見上げた。

青紫に染まる空も、やがて黒へと変わるだろう。

 

月を見上げ、ふとある事に気がついた。

 

「あー、そういえば昨日言った東京のお店なんだけど、もしかするとすごい面白いかもしれない」

「勿論行くけど、なんかすごい推してくるわね?」

「思い返すとちょっと気になる事があるんだよ」

「…?」

 

私の予想通りなら、確実に見えるものがあるはずだ。

しかし、確証は無い。

何故なら私の目は境界を見る事が出来ないのだから。

 

「お酒飲みに行くついでに境界を覗きに行こう」

「おっ、そういう事ならすぐ行きたいわ!」

 

お酒が呑める上に面白い体験もできる。

そう言われれば、ハーンは乗り気になるだろう。

 

今回、私は私で個人的に気になる事があった。

それを確かめるために、ハーンを利用しようとしている。

 

若干の自己嫌悪を感じるが、ハーンと蓮子の二人と一緒にお酒を呑みたいという気持ちも強い。

 

「…危険では無いからいいんだけどねぇ」

「何が?」

「こっちの話ー」

 

端末を取り出し、ママへとメッセージを送る。

 

『また東京で遊ぶ予定。今度はハーンと一緒」

 

空と同じ色の珈琲を啜る。

この苦味が、先程よりも心地よく感じた。



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53

朽ちた硬貨【前編】です。
バー・オールドアダムと旧型酒取扱店の見た目については旧約酒場のテキストに拠るものです。


計画通りに予定を空けた週末。

ヒロシゲに乗り、三人は東京に訪れた。

 

「…いや黒いな…」

「夜闇と同化しているわ…」

 

黒い四角。

小さな窓から、橙色の光が漏れている。

扉に掛かっているのは電光看板では無く、木彫りの看板。

 

喫茶店【黒煉瓦】改め、バー【BLACK BRICK】

 

蓮子とハーンが思い思いの感想を述べる中、扉を開ける。

店主がベルの音に振り向き、驚いた顔を作った。

以前と違う、細身に黒いYシャツ姿がよく映えている。

 

「いらっしゃ…い。随分早かったね」

「友達が待ち切れないってさ」

「それはありがたいなぁ。さ、入って入って」

 

私の後を追い、蓮子とハーンが中に入ってきた。

 

店内はよく見る白い光では無く、電灯ランプの橙色の光が薄暗い店内を照らしていた。

昼の静謐なアンティーク調が夜には一転し、まるで海賊が利用する酒場のような荒々しさを秘めている。

不思議なことに、私は店内にどことなく懐かしさを感じていた。

 

そしてその内装を見た蓮子が、目を見開いて固まった。

 

「き、汚く無い!?」

「うわっ蓮子がいきなり失礼ブチかました」

「あっ、いや、旧型酒を取り扱う店って基本的に汚いから」

「蓮子…すみません。とても綺麗な内装ですね」

「いいよいいよ、そう言う店が多いのは僕もわかっているからね」

 

カウンター席に案内され、三人並んで座る。

客は私たちしかいない。

 

「えーっと、とりあえず準備が必要だから聞くけど、おつまみとしては肉か魚、どっちがいいかな?」

「お肉」

「肉がいいわ」

「肉でお願いします」

 

私、蓮子、ハーンの順で好みを言えば、店主はニッコリと頷いた。

まずは新型酒のカクテル。

シェイカーを経て、細長いカクテルグラスに注がれた、赤と橙のグラデーションが美しいカクテルが三人に渡される。

 

「これはサービスのTequila Sunrise(テキーラ・サンライズ)。新型酒を使うとジュースに近くて美味しいんだ。まずはそれで乾杯しよう」

「うわぁ…これはお洒落だ…」

「いつもの感じと違いすぎて落ち着かない…」

 

ソワソワと店内を見渡す二人に、思わずため息を吐いた。

落ち着かない仕草が伊吹にそっくりである。

 

「ショートの飲み方は一気に煽っても美味しいけど、新型だからジュース感覚でおつまみのクラッカーとかと一緒にチビチビ呑むのも美味しいよ。マナーに関係なく好きに飲んでくれると嬉しい」

 

生ハムとクリームチーズの乗ったクラッカー数枚が置かれる皿をそれぞれに渡すと、店主が自分のカクテルグラスを掲げる。

 

「さ、乾杯」

「「「乾杯」」」

 

ちび、と口に含む。

酒の感じはあるが薄く、奥にある柑橘系の清涼さが鼻を抜ける。

続いてクラッカーを齧ると、舌に残った水分を吸い、濃い味付けとブラックペッパーの香りがカクテルを促した。

 

「これからおつまみを作るけれど、まずはカクテルの種類を聞こうかな。ウチではお酒をいくつか選んでそのお酒を使ったカクテルを出すんだ。テキーラ、ウォッカ、ウイスキー、リキュール、ブランデーとかね。無いお酒もあるから、とりあえずは好きなお酒を選んでくれるかい?」

「えーっと、メリー」

「えーっと、こいし」

「私?店主のオススメはどれ?」

 

二人ともあまり分からないのだろう。まぁ、私もだが。

回ってきたので店主に聞けば、しばらく悩んだ後に、特に好みがないのなら料金安めでこちらの好きに作るよ?との回答を頂いた。

 

「二人ともそれでいい?」

「いいよー」

「私もいいよ。面白そうだし」

「じゃあお任せで」

「畏まりました」

 

調理場で作業を始めた店主。

その手際をボーッと見ていれば、ハーンが私の太腿を指で突いた。

 

「ちょっとこんなところで」

「…ここじゃなければいいの?」

「そう意味じゃ、無いけど」

「ふぅん…ならどうして顔を赤くしてるの?」

「あんたら何してんの…?」

 

蓮子がこちらを怪訝そうな目で見ていたので即座に両手を上げる。

ギョッと硬直した蓮子へ、間髪入れずに無罪を主張した。

 

「私は何もしてない」

無抵抗アピール(hold up)されてもねぇ」

「ハーンが私の常識を強奪(hold up)していったの」

「そりゃ私がお手上げ(hold up)だわ」

 

手をひらひらと振り、ハーンの方へと振り返る。

 

「では被告人、弁解をどうぞ」

「すでに訴えられてる扱いじゃない。被疑者にしてよ」

「それはそれでどうなのさ」

「いや、悪ふざけしたけど、こいしの言ってた面白いものを訊きたかっただけなの」

 

二人に疑わしき目を向けられ、流石のハーンも真面目な顔を作っていた。

店主の方を一度見て、相変わらず首に掛かった硬貨を見て、溜め息。

 

「お酒が入ったらね」

「ならいいけれど」

「んぁ、カクテルを先に呑むかい?」

 

肉を焼く音が店内に響く。

焼き加減を見ていた店主が顔を上げたが、三人揃って首を振る。

 

「「「空きっ腹に旧型酒はキッツいので」」」

「…経験済みかい」

「「「そりゃあもう」」」

 

新型酒は健康に悪影響を与えない。

当然酔いも心地良い程度だ。

所詮、錯覚と言える程度でしかない。

 

が、旧型酒は違う。

中枢神経系を抑制する効果が急性で現れるのだ。

要するに、旧時代で言われていた酔いが発生する。

 

空きっ腹に酒を入れれば胃から小腸へと一気に流れ込み、あっという間に酔いが回って泥酔状態となってしまう。

旧型の急激な酔いは吐き気、昏睡などを引き起こし、場合によっては呼吸困難を引き起こし死に至る。

 

蓮子とハーンはバー・オールドアダムで一度。

こいしは無意識とはいえ旧地獄で“数百度”。

 

空きっ腹に酒はやめた方がいいと知っていた。

 

「はい、おつまみ完成」

 

調理を終えた店主がそれぞれに皿を渡す。

正直ボリュームを見ると、おつまみどころか立派な料理と言っても過言では無い量であった。

 

「ミディアムレアで焼き上げた質の良い牛肉とマッシュポテト。飾りっ気はあまり無いけれど味は保証するよ」

 

そのまま店主は続けてカクテルを作り始めた。

幾つかのボトルを開けてシェイカーへと注ぎ、シェーク。

カクテルグラスに注がれたものは、半透明な黄色のカクテル。

 

bahama(バハマ)。このカクテルは肉に合っているかな。甘味と酸味が感じられるカクテルだね」

 

僕も頂こう、と自分の手元にもカクテルを置く店主。

 

「…飲んでいいの?」

「いやぁ、お客も君達ぐらいしか来ないし大丈夫。それより料理と酒の味を楽しんで欲しいな。あ、フォークもナイフも箸もそこにあるから使ってね。

 

上機嫌に笑う店主が促すままに、フォークで肉を口に運ぶ。

少しの山葵と醤油を付けて口に含めば、驚く程柔らかい。

 

「ん!?…んー…うま」

 

僅かな血の香りが残り、バランスの良い赤身と甘い脂がとても美味い。

ハーンと蓮子も肉を頬張りながら、目を細めて味を楽しんでいる。

バハマを口に含めば、僅かに感じる果実の甘みにレモンの酸味。

サッパリとしたその味が、舌に残る肉の脂を落としてくれる。

 

「さーて、折角お客さんもいるし僕も楽しい話題を提供するかな」

 

分かりやすくテンションを上げた店主が、シェイカーを弄りながらこちらを見た。

 

「非科学的な事は好きかい?」

「…丁度オカルト好きばかりが集まっていますよ」

 

口角を上げていたハーンが途端に真面目な顔で身を乗り出す。

既に目は興味津々といった光を宿していた。

 

「いやね、話半分で聞いてくれれば嬉しいんだけどね。とある条件を満たすと同じ夢を見ることが出来るんだ。それも、現実と変わらないほど明確な夢を」

「ほうほう。どんな夢を?」

「もう会えないはずの大事な人に会う夢なんだ。さらに不思議な事に、手元に持っていた物が少しずつ無くなっていくんだよ」

「…メリー、覚えがある話だと思わない?」

 

蓮子が薄く笑みを浮かべている。

ハーンの境界を見る瞳が今ほど強い力を持っていない頃。

夢として入り込んだ世界から、物を持ち帰ったという話を思い出す。

 

「無くなったものは、夢の中で落としたり紛失したり、誰かに渡したりしましたか?」

「すごいな君は!そう、夢の中で渡すと実際に無くなっているんだ!面白いだろう!」

 

その言葉に、ハーンが考え込むように目を伏せた。

夢の世界へと物を置いてきたという点で、ハーンの瞳の力に類似した能力を持っている可能性がある事に気が付いたのだろう。

 

店主が興奮した様子でよく冷えたミキシンググラスに酒を数種類入れて軽く掻き混ぜる。

その動作で、いつの間にか三人のカクテルグラスが空になっている事に気が付いた。

 

「話に夢中になっちゃいけないね。次のカクテルは Affinity(アフィニティ)。まろやかな味だけど度数はさっきより強めかな。次の料理までの繋ぎにどうぞ」

 

新たなカクテルグラスの中で、透明な赤から下にかけて橙へとグラデーションのかかるカクテル。

添えて出されたレモンピールも、新鮮そうな黄の色が美しい。

 

「本来はレモンピールを絞る作り方だけど、味の変わりを楽しんで欲しいからそこはセルフって事で。次のおつまみも頑張って作るから、肉とカクテルの味を楽しんでね」

「…そういえば何も頼んで無いけれど…」

 

高そうな肉を頬張って今更だが、蓮子が不安そうに店主を見る。

しかし当の店主は気持ちの良いぐらい笑っていた。

 

「気にしなくて大丈夫!一応注文とかもできるけど、元よりおつまみはカクテルに合わせて提供するスタンスなんだ。それに…」

 

店主がこちらを見て楽しそうに目を細める。

 

「僕の直感が君達にはサービスしろと囁くんだ。安くしておくよ」

「いいんですか?」

「いいも何も、店を経営するのは僕だからね。僕の匙加減が全てだよ」

 

店主は奥の調理場で再度作業を始めた。

その様子を見て、蓮子は目を輝かせる。

 

「どうしよう、このお店が好きになったかもしれない」

「おっ嬉しいね。さて、さっきの話の続きでもしようか」

 

肉を焼く音が店内に響き、今度は香りまでもが伝わってくる。

カクテルを口に含めば、まろやかだが喉に感じる酒の辛みが強かった。

レモンピールだけを齧ると、甘みの奥にある苦味と酸味が、カクテルとよく合って美味い。

 

「夢が醒めて無くなった物は副葬品。大切な人の棺桶に入れた物が無くなる代わりに、僕は夢の中でその人と出会うんだ」

「…副葬品?」

「あぁ、“六文銭”なんだけどね。既に五つは無くなり、最後の一つを残すだけ」

 

肉が焼け、油の跳ねる音が妙に大きく聞こえ。

 

「君達は、死後の世界が本当にあると思うかい?」

 

ハーンはカクテルを煽り、蓮子は面白そうに口角を上げた。




hold upには強奪、強盗などの意味もあります。


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54

朽ちた硬貨【後編】です。


肉を齧り食感と香りを楽しみ、カクテルの辛みを喉で味わう。

 

「死後の世界…ねぇ」

 

私は明確な死後の世界を知っている。

人が死ねば魂となり、地獄での裁判を経て輪廻転生へと戻る事を知っている。

が、それは幻が現と反転する幻想郷での話だ。

 

幻想郷で現と化した死後の世界は、現世では幻という事ではないか。

幻が現で表が裏で表裏一体がぐむむむ…

 

「なんかこいしが口から煙出しそうな顔作ってる…」

「うわすごい顔。写真撮っておこうかしら」

 

それはさておき。

 

「…寛永通宝、無くなったの?」

「あぁ、寝る前にはあった物が綺麗サッパリ無くなっていたんだ。不思議だろう?」

「それはどこかに転がって失せた、とかじゃなくて?」

「枕元に置いても同じ。気になって録画してみたけど、深夜にノイズで画面が映らなくなったと思えばパッと消えてしまうのさ」

 

店主は面白そうに笑っているが、この時代で非科学を前に笑っていられる店主の豪胆さには目を見張る。

人は認めたくないものを否定していく方向で舵を取った。

その結末として現世は幻を喪失したわけだが、それはつまり人の心は幻との決別を意味している。

 

ハーンや蓮子などの境界暴きをして幻を追う者を別として、普通の精神ならば幻を受け入れられない筈なのだ、が。

 

「…マスターは怖くないんですか?」

「ははは、ブロンドのお嬢様。僕はね、この不思議な事をとっても嬉しいと思っているよ」

 

一品目の肉を食べ終わったこちらを確認すると、店主は調理の速度を上げた。

あっという間に調理が終わり、飾り付けされた皿がこちらに差し出される。

 

「次のおつまみはハンバーガー。バンズは香ばしく、レタスは柔らかく、オニオンは瑞々しく、チーズは濃厚で牛肉100%パティはジューシー。僕の得意料理だ」

 

上からピンが刺さり、零れ落ちないように整えられたハンバーガーが三人へ渡される。

小腹を満たすためのものではなく、料理として完成したハンバーガーだ。

かなり大きく、口をいっぱいまで開けて漸く齧ることが出来そうなサイズである。

 

「さっきのカクテルの辛みとそのハンバーガーはよく合うよ。半分ぐらいまで食べたら次のカクテルを作ろうか」

「大きい…」

「ナイフとフォークで上品に食べるのもいいけど、僕は丸噛りを勧めるよ。こう…ちょっと圧縮する感じで。潰しすぎたら良くないけどね」

 

言われた通りに、軽く潰してみる。

少し熱く感じる柔らかなバンズがふんわりと指の形に沈み、その部分を大口を開けて歯を立てた。

バンズの甘味と香ばしさを抜ければ、オニオンの匂いとシャキッとした食感を越え、レタスの青い香りとふにふにとした面白い食感が来る

そして、チーズの香りが鼻に抜け、胡椒を奥に感じるガツンとした肉の味が舌に乗った。

 

美味い。

それぞれの全く違う香り、味がともかく美味い。

 

「……」

「美味しそうだね。表情を見ればよく分かる」

 

三人揃ってブンブンと首を縦に振る。

喉を通せば旨味が腹へと落ちていくのを感じた。

深呼吸してカクテルを少し。

口内の旨味がまろやかさに流され、先程の肉とはまた違う美味しさが滲みる。

 

「ふぅ…おいし…」

 

顔が酔いで僅かに火照っているのを感じる。

唇に付いた脂をペロリと舐めれば、こちらを見て息を呑んだ蓮子と目が合った。

 

「…なに?」

「いやエッロ…」

「やめてよ外で」

 

耳が熱くなるので勘弁して欲しい。

 

「カクテルも楽しんで頂けたようで良かった」

「えぇ、とても」

「メリーは…いつもより酔ってないのね」

「カクテルが体に合っているのかしらね。酔ってはいるけれど、あくまで上機嫌程度よ。蓮子は逆にいつもよりキツそうね」

「うーん…どうだろう。でも料理が美味しいからまだ眠れないなー!」

 

蓮子が明かに酔っている。

常時揺れながらニコニコ笑っているのも珍しいので、端末で動画を撮ることにした。

 

「蓮子蓮子、ピース」

「え?撮ってんの?いえーい!」

 

超笑顔でピース作った蓮子を動画に収めたので、後でハーンと共有しよう。

 

「……」

「店主?」

「どうかしたかい?」

「なんか遠い目をしていたから気になって」

 

ほんの数秒。

遠くを見つめて寂しそうな笑みを浮かべていた店主が妙に気になった。

 

「…嫁を思い出したんだ。彼女も酔うと明るい人でね」

「もしかして大切な人って…」

「そう、亡くなった僕の嫁だよ」

 

手元のカクテルを煽り、店主は調理場の椅子に座る。

その顔は優しく、しかし疲れていた。

 

「病気や怪我は簡単に治せても、逃れられない死はある」

 

医療技術が幾ら発達しても、どうしようもない事だってあるのだ。

大怪我をして処置が遅れれば死ぬ事もあるし、蘇生処置が間に合わない事だってある。

どれだけ死を遠ざけても、不幸は起こり得るものだ。

 

「…どうして彼女は夢の中で会いに来るのだろう」

「聞いてみたい?」

「そりゃあ、聞きたいさ。けど夢の中の彼女は言葉を聞かせてくれない」

「成程。よーし、じゃあ覗いてみようか。ハーン」

「…そういう事ね。今回の秘封倶楽部の活動は人のために、か」

「店主、残った寛永通宝を貸して。必ず返すから」

「ふむ…んはは、いいよ。君に従った方が面白そうだ」

 

カクテルを一口。

楽しそうに笑う店主が店の奥へと入っていく。

その背を見送れば、ハンバーガーに悪戦苦闘するハーンが何かを考え込むように額に皺を作っていて。

 

「…私達以外に境界の中に入った人がいる…?」

「ハーン、それはちょっとだけ違うよ」

「どういう事?」

「店主は入ったんじゃなくて、引き摺られただけ」

「自分からじゃない点で、私達とは違うって事かしら」

「そうだね」

 

店主は恐らく、なんの力も持たない人間だ。

ただ巻き込まれた…と言うのも違うか。

幸運で不幸な、ただの人間である。

 

「持ってきたよ。これこれ、最後の一つ」

「ハーン」

「…見えるわ。暴く事も出来る」

「じゃあお願い。蓮子、ほら掛け声」

「よーし!夢の世界へレッツゴー!!」

 

ベロンベロンの蓮子の掛け声で、私達は暴かれた境界を潜り抜けた。

 

 

金の装飾、銀の模様に宝石埋まる朱漆塗りの豪華絢爛な橋の上。

行くも戻るも、霧がかかっていて橋の端は見えない。

明らかに人の世では無い空気に、根幹が満たされる。

 

「…ここは」

「店主の夢の中…みたいなものだよ」

「綺麗ね」

「うはー!すっごい!!」

 

店主を含めた四人が、周囲を見渡した。

約一名、泥酔者が橋の手摺りを観察してはしゃいでいるが、楽しそうなので良しとする。

 

「…ちょっと予想と違うな」

「こいし?」

「いや、私の予想だとこう、“死者の国”とかそう言うものに繋がっていると思ったんだけど…」

 

現世では無いが、明確な幽世でも無さそうだ。

むしろこの橋がなんの橋なのかもよく分からない。

 

「店主はここがどこか分かる?」

「…夢の中ではよく見る。けど、ここがどこかはわからない」

 

曰く、この橋の前で夢が始まる。

手には六文銭があり、誰かに一文払うと橋に乗る事が許され、途中まで渡れば嫁と会う事が出来るらしい。

一切会話する事はできないが、触れることだけが出来る。

 

「…成程ね。なんとなく分かってきた」

「メリー!下の川がすっごく綺麗よ!!」

「ハーン、蓮子が奇行に走らないうちに服の端でも掴んでおいて」

「幼児扱いなのね…」

 

しかし言った通りに服を掴むハーン。

流石に境界暴きの経験が多いおかげか、警戒心があるようだ。

寧ろ蓮子の能天気さが心配でならない。

 

「…向こうから誰か来るわ」

「店主」

「いつも通りだ。けど、僕には何も見えないよ…?」

 

あぁ、成程。

彼女の姿を見て、漸くここが何処か理解できた。

 

「ここは三途の河だ」

「…え?」

「そうだ、あそこでは距離で決まっていたけど元来は仕分けによるものだった…!」

 

幻想郷の三途の河は、死神の能力によって死者の魂を扱っている。

死神に渡す金銭によって河幅の距離を決め、死神が船を漕ぐのだ。

その金銭は本人の物ではなく、生前に親しくしてきた者が本人のために使った金銭を換算するのだが、それは幻想郷のシステムであり、元は違う。

本来の三途の河では善人、罪の軽い者、罪の重い者で渡る場所が違うのだ。

そして善人は、“ 金銀七宝で作られた橋”を渡る。

 

「全てが分かった。あまり長居はできないね」

 

遠く遠く。

背後から視線を感じ、目を細めた。

 

 

こいしが橋の奥を見て動きを止めたのをよそに、現れた人影を見る。

橋の奥から現れたのは、白装束の綺麗な女性だった。

マスターの前で立ち止まったその女性は、耳元で何かを囁いている。

 

「…そうか、そう言う意味だったんだね」

 

何も聞こえないが、マスターには何か聞こえているらしい。

くい、と服の裾を引っ張られた。

 

「…メリー、メリー、何か見えてる?」

「蓮子には何も見えない?」

「うーん…ダメ。何も見えない」

「じゃあ目を貸してあげる」

 

蓮子の瞼に触れる。

私が見えているものを共有した。

 

「…あれがマスターの奥さん?」

「多分そうだと思う」

「綺麗ねー」

 

未練、だったのだろうか。

死してなお、マスターが会いに行き、奥さんが会いに来る。

不思議な光景だ。

愛という具現化する事の無い感情が、二人を動かしたとでもいうのだろうか。

 

「…酒のせいでどうにもロマンチストになっていけないわね」

「いいじゃない。素敵だと思わない?」

「そうね」

 

マスターには女性の姿が見えていないのかちょっとズレたところを見ているが、声だけはしっかりと聞こえているらしく、愛の言葉が聞こえて来る。

 

「これ以上見るのは野暮ってやつね」

「あら、メリーにデリカシーがあるなんて」

「酔っ払いに言われたくないわ」

 

そんな会話をしていれば、妙に霧が深くなった気がした。

 

どれ程の時間が経ったのだろうか。

 

なんだか感覚が麻痺してきた気もする。

 

妙だ、私は一体何を…

 

「ハーン、帰るよ」

「あら、どこに帰るの?」

「東京の酒場でハンバーガーとカクテルを楽しんでいたマエリベリー・ハーン。境界暴きはお終いにしましょ」

 

あぁ、そうだった。

何を考えていたのかしら。

 

「マスターは?」

「ここにいるよ」

「あらいつの間に」

 

すぐ横にいたマスターに驚いた。

 

「帰るよハーン」

「そうね」

 

これ以上いても良い事は無いらしい。

皆に触れると、マスターが手に握っていた寛永通宝の境界を再度開く。

グイと背を引かれるように境界から───

 

「あ」

 

こいしの存在が、私の手から落ちたのを感じた。

咄嗟に手を伸ばす。

 

届かない。

 

もう一度入り直して間に合うか───

 

「ありがと」

「え?」

「あぁ、気にしないで」

 

いつの間にか、手の中にこいしがいた。

 

 

肉の匂いがする。

思い返せばちゃんとハーンの力で境界の向こうへ行った事は初めてだったが、まぁ不思議な力だこと。

 

「ハンバーガーが冷めてなくてよかったねぇ」

「食い意地すごいわね…」

「これだけ美味しければそりゃ食い意地だって張るよ」

 

美味い飯は沢山味わいたいし、いっぱい食べたい。

 

「おっと気がつけば、もうハンバーガーを半分も食べてたか!次のカクテルは…っと」

 

店主がサッパリとした顔で氷の入ったロックグラスに酒と割り下を注ぎ、スライスライムを添えて三人に渡す。

 

Gin and Lime(ジン・ライム)のロック。普通よりライムジュースを多めにしたから口をサッパリできるよ。度数は…さっきよりちょっと低いかな」

「ありがとー!」

 

絶賛酔っ払いの蓮子。

上機嫌で受け取ったグラスの半分まで一気に飲んだ。

 

「…お嬢ちゃん達、この子大丈夫?」

「……まぁ明日予定が無いので…」

「そっか…」

 

貰ったカクテルを口に含めば、ロックらしい冷たさを唇で感じ、サッパリとしたライムの酸味が舌に乗る。

酒の辛みが喉を通り、鼻を抜ける清涼とした香り。

ハンバーガーの強い脂感が流されて、スッキリとした口内に僅かな酒感が残っている。

 

「最後のおつまみをすぐに準備するから、それまで味を楽しんでいて欲しいな」

 

再度店の奥へと消えた店主を見送ると、ハーンがこちらを見た。

結構呑んでいるはずだが、酔っているようには見えない。

 

「…マスター、境界の中に入っても驚いて無かったわ」

「六文銭の三文払ったあたりで驚くって事を諦めたんじゃない?」

「そうかもね…でも」

 

カクテルを飲み、余ったレモンピールを噛みながらハーンは続ける。

 

「どうしてお金を払ったら亡くなった奥さんに会えたのかしら」

「…優しさ…なのかな。どうしてだろう」

「優しさ?」

「三途の河で六文銭を渡す相手は誰か知ってる?」

「えーっと誰かしら。閻魔大王?」

「奪衣婆、だね。奪衣婆は死者の衣服を枝に掛けて、その枝のしなり具合で死者が三途の河のどこを渡るか決めるんだよ」

 

ハンバーガーを一口。

チーズの香りがさっきよりも強く感じる。

 

「六文銭は要するに賄賂なんだ。渡せば、罪に関係なく船に乗って三途の河を渡る事が出来る。そのための六文銭だよ」

「じゃあマスターが払ったのはどういう意味?」

「…通行料、とか?」

「はい?」

「渡賃は六文。けど、渡り切らずに観光するだけなら一文だけだったとかかなって」

 

何かを見逃している気がする。

が、それが何かも全く分からず。

 

「とりあえず死後の世界に足を踏み入れただけ活動としては良しじゃない?」

「十分すぎよ」

「只今戻りましたっと。もうハンバーガーもカクテルも無くなっている時間かな?最後のおつまみ兼デザートだよ」

 

出てきたのは真っ黒のバームクーヘン。

以前食べた物と同じだ。

 

「黒煉瓦。店名を冠するウチの名物さ。後はデザート用のカクテルを…っと」

 

シェイカーを経て、カクテルグラスに注がれたものは乳白色の綺麗なカクテル。

上にちょこんとチェリーを乗せ、手渡された。

 

silk stockings(シルク・ストッキングス)。甘さはサッパリとしていて、まろやかな味わいが美味しいよ」

「へぇ…綺麗ね」

 

絹のストッキング。

そう思わせる白さが美しい。

 

「さて、今日は三品と各種カクテルを楽しんで頂けたかな?」

「十分過ぎるほど。ねぇ、蓮子」

「うん…うーん」

「寝ないで蓮子」

「…んぇ?私酔ってないわよメリー…」

「それもうダメなやつじゃない」

 

カウンターに突っ伏した蓮子を他所に、私とメリーはバームクーヘンをナイフとフォークで食べ進めていく。

濃い甘味を引き立てる僅かな苦味。

カクテルのサッパリとした甘さと混ざり、くどさを感じない。

 

「僕は今日の体験を忘れない。ありがとう、お嬢ちゃん達」

「お礼言われたよ、ハーン」

「…うん、そうだね」

 

にへら、と笑ったハーンも、いつの間にか眠そうな目をしている。

 

「早めに帰るかぁ」

「じゃあ蓮子の分食べちゃう?」

「食べちゃお食べちゃお」

 

二人で分け、甘味を味わう優雅な夜。

カクテルの美味しさが素晴らしい。いい味だ…

 

 

「またのご来店をお待ちしております」

 

日はいつの間にか変わり少女達は店を後にした。

それぞれが千鳥足で酔いに浸り、今日の出来事を思い返す。

 

愛は世界をも越えるのかもしれないし、越えないのかもしれない。

でも、そう考えるのがロマンチックだとマエリベリー・ハーンはそう思う。

死して尚、体無くして消える事のない感情とは何なのだろうか。

 

「蓮子、手繋いでもいい?」

「…んー、いいよぉ」

 

人は生きている事を実感する事など殆ど無い。

ただ、暖かい掌を感じ、東京の街で生を実感した少女が一人いた。




何処かの橋の上で、一人の老婆が立っている。
河に流れる水の小さな音だけが聞こえていた。
手の上に乗った五枚の寛永通宝を握ると、大きく溜め息を吐く。

澄み切った穢れ無き空気が、肌を撫でた。
老婆はゆっくりと歩き出す。
自分の仕事に、戻るため。


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55

朽ちた硬貨【エピローグ】です。
不思議なことにプロローグは無いのにエピローグはあります。


一日中電車は運転しているらしく、京都まで帰って来た私達は全員でハーンの家に辿り着きダウン。

そこからの記憶は曖昧だが、夜中に手洗いの方で水をぶちまけたような音が聞こえて来たのは覚えている。

 

「───すみませんすみませんすみません…もう二度としません許してください許してください」

 

あと蓮子の謎の謝罪の声も。

そんな夜も明け、朝が来た。

 

酔いのせいか、目覚めは引き摺り上げられたかのような不快感。

辛うじてベッドに辿り着こうと努力はしたのか、ハーンの部屋へ繋がる扉にもたれかかって寝ていたようだ。

とりあえず体を起こせば、惨状がそこにあった。

 

まずソファの背凭れ“に”寝る蓮子。

服は乱れている上に、どういう事なのか袖が背で結ばれ、腕が裾から出ていた。

 

そしてハーン。

テーブルに乗って寝ていた。これはもう行儀が悪いとかのレベルでは無い。

しかも何を考えたのかブラジャーが頭に巻かれている。

柄に見覚えが無く、サイズがハーンのものと違うので多分蓮子のやつだ。

 

───今蓮子はノーブラなのだろうか。

 

まぁそんな事はどうでもいい。

どうでもよくない。いいか。

 

体の各所が軋む感覚。

雑魚寝は不慣れでは無いものの、やはり良いものでは無い。

 

「…んー」

 

体を伸ばせば、ボキボキと各所が鳴る。

誰かが動く気配を察知したのか、ハーンが薄らと目を開けた。

 

「……うん」

 

よく分からないが、納得された。

一回頷きそのまま目を閉じる。

絶賛二日酔い中らしい。

いつもなら介抱しながらこの部屋で一日潰すが、今日は出掛けることにした。

 

「えーっと…要らない紙…なんて無いし、端末に連絡入れておけばいいか」

 

端末のメッセージで外出を伝えておく。

ハーンの端末から軽快な通知音が鳴ったのを確認し、着替え始めた。

 

「───あれ?」

 

昨晩履いていたストッキングを脱ぐと、あるはずの物が無い。

探してみれば、覚えのある布地が洗濯カゴの中に見えていて。

脱いだ記憶も無く、昨晩の記憶を思い出しても分からない。

 

「……」

 

思考停止。全て無意識のせいにした。

 

 

準備も終わる頃には、ハーンがのそのそと動き始めていた。

瞼が重いのか、手探りで周囲の物を確認している。

 

丁度その動作を見た時に、ハーンが蓮子の尻を鷲掴みにした。

 

「……こいし?」

 

何を思ってそう判断したのか問い質したい。

 

「いや、この薄さは蓮子か」

 

両者に失礼だぞ。

 

「こいしはもっと肉厚」

「セクハラだよハーン」

「おはようグラマラス」

「誰がグラマラスだむっちり」

「傷ついた!傷つつつ…うぅ頭痛い…」

 

昨晩は余裕そうだったが、やはり旧型酒なだけあり、後日に尾を引く。

外の世界では旧型酒経験は総じて少ないらしく、例に漏れずハーンと蓮子の二人はいつも通りに二日酔いでダウンしていた。

 

「出かけてくる」

「じゃあ蓮子のパジャマにベルトコンベアがね…」

「はい?」

「だからぁ、蓮子のパジャマにはベルトコンベアのね…」

 

どうやら夢と現の境界を彷徨っているらしい。

よく分からない事をゴニョゴニョと呟くハーンに毛布をかければ、やがて寝息が聞こえてくる。

冷蔵庫の中のメロンパンを頬張ると、そのまま外に出た。

 

───が、ふと興味本位でUターン。

 

ぺろりと布を摘んで捲る。

何とは言わないが、蓮子はつけていなかった。

 

スッキリした。

やはり悩んだ事を持ち越すのは良くないのだ。

 

───冷静になった。

 

今度、蓮子に何か奢ろうと決めた。

 

 

看板は掛かっていない。

昼頃になってしまったが、目的地へと辿りついた。

扉を開けて入れば、思わず頬が緩んだ。

 

懐かしい臭いだ。

前よりも濃く、明確な臭い。

以前に懐かしいと感じた理由が漸く分かった。

それはそうだ。この臭いは、あまりにも嗅ぎ慣れている。

 

───死臭だ。

 

それも腐臭では無い。

濁り無き、死人の香りである。

 

「…渡したんだ、最後の寛永通宝」

「あれ、お客さんすみません、今日はお店休みで…」

「客として来てないから見えない」

「えっと…?」

 

カウンターでは無く、客席側に置かれている座椅子に座っていた店主が顔を上げ、ほんの僅かに笑った。

 

「なんだ、君かい」

「こんばんは、古銭好きのお兄さん」

「はは、店主と呼ばないあたり真面目だね」

 

客として来ていないのだから、店主と呼びたくない。

気分の問題だ。

今の私達の関係は、ただの知り合いである。

 

「まぁ座りなよ。立ち話も疲れるだろう?」

「じゃあ遠慮無く」

 

対面に置かれていた椅子には座らず、客席に座った。

狭い店内なので、話すならここでも十分である。

 

「こっちには座らないのかい?」

「特等席に座わらせてナンパするならやめておいたほうがいいんじゃない?少なくとも、怒った顔で出迎えられたくないでしょ」

「…知っているんだね」

「その席が貴方の大切な人のものっていうのなら分かるかな」

「いいや、そっちじゃない」

「…これだけ死の臭いがしてるもの。分かるよ」

 

彼は少しだけ溜め息を吐き、静かに笑った。

 

「カクテルを奢るから、また少しだけ話を聞いてくれるかい?」

「いいよ」

「ありがとう。ちょっと待ってて」

 

カウンターの方でガチャガチャと何かを探す音。

暫くして目の前に置かれたのは、カクテルグラスに入った乳白色のカクテル。

 

「この前と一緒のsilk stockingsだけど、いいかな?」

「なんでもいいよ。でも旧型をタダでいいの?」

「いいも何も、僕にはもう必要の無いものだから」

「そっか」

 

深い笑みを作った彼は、元々座っていた座椅子へと腰掛けた。

首元の古銭を弄りながら、静かに首を揺らす。

 

「…あいつ、泣きながら来ないでって言ってね」

「奥さん?」

「そうだよ。姿は分からなくても、声は今でも鮮明に覚えている」

「来ないで、って言われたんだ」

「そりゃあもう、今まではあんなに楽しそうだったのに、君達と一緒に行ったあの橋の上だと来るな来るなの繰り返し」

 

カクテルを少しだけ口に含む。

 

「困ったよ。拒絶された事なんてあんまり無かったからね」

「惚気?」

「ははは、惚気」

 

カクテルが甘ったるく感じてきた。

彼は戯けたように手を振ると、遠くを見る。

 

「でもまぁ、寂しい?って聞くと、寂しいって答えるんだよなぁ」

「…随分愛されていたんだねぇ」

「ビックリだよ。でも同時に、嬉しく思った」

 

彼は笑いながら、店内に飾ってあった指輪を手に取り、輪の内側を覗き込む。

 

「その嬉しさが、今生きている価値を上回った」

「…それで渡したんだね」

「夢の中とは言え、お婆さんから何度も確認されて笑っちゃったよ」

「馬鹿な人間だって言われた?」

「まぁね」

 

カランコロン

 

出入り口の扉にぶら下がったベルが鳴る。

どうにも今日は、店が開いていないのに人が来る。

 

「いらっしゃいませ」

 

店主が入ってきた人物を見て、少しだけ眉を上げ、そして満面の笑みを作った。

 

「…おや、そこにいるのは」

「また、会ったね」

 

どうしてここにいるのか、とは問わない。

入ってきたのは初老の女性。

まるで喪服のような黒い着物に身を包んでいる事と、吊り上がった目尻から、どこかハッキリとした印象を得る。

 

「ふむ、ここは酒を出す店と思ったけど…何か酒はあるかい?」

「ちょっと待っててくださいね。とっておきがあるんですよ」

 

調理場の方へ入っていった彼を目で追い、女性は私の隣に座った。

 

「随分若く見えるけど」

「この時代に皺くちゃでいたらアンチエイジングの宣伝を路端でしつこくされてね。あとはお墓の宣伝とか」

「貴女にお墓の広告とは、笑えるね」

「全くもって」

 

三途の河で待ち構える者にお墓の宣伝とは、何という冗談だろう。

聞くだけで笑いがこみ上げる。

 

「初めまして、奪衣婆。名前は知らないからお婆さんって呼んでいい?」

「初めましてではないだろう、お嬢ちゃん。お姉さんとお呼び」

「お姉様」

「…それはまた違くないかい?」

 

困ったように笑う奪衣婆。

カクテルを一口含むと、まずは第一の質問。

 

「なんで妖が現世にいられるの?」

「…厳密に言えばアタシが妖どうか微妙なところだけど。答えるならば、現代の死生観が影響している、とでも言っておこうかね」

 

幻想は排除された。

謎は全てが理論に結びつけられ、イメージや空想は形となる。

理解できないものを突き詰めて解き明かすのが人の(サガ)

 

しかし多くの幻想が解明された事により、“ある条件の下”で人々は幻想を想像した。

これこそが反動。

人の心は相反する衝動を持っていた。

 

「流石に遥か太古とまではいかないけれど、ある一定の時期を境に死後の世界を信じる人間も増えたのさ」

「…そんな話、聞いたことも無かった」

「人が想像できる範疇で、未だに数字の干渉出来ない世界。人の魂、輪廻転生を解き明かすことが出来ないからこそ、人は死者の世界を想像していく」

「だから、現世に干渉できるんだ」

「あー…それはまた、違う…とも言えないけど…違う…違くないか」

 

古銭好きの彼の話を仄めかすと、奪衣婆が目に見えて顔色を悪くした。

どうにも、単純な話でも無いらしい。

などと話していれば、店主が戻ってきた。

手には一升瓶。

流れる様に奪衣婆の隣に座ると、笑顔で瓶を掲げた。

 

「お待たせしました、大吟醸です!」

「…なぜそれを?」

「自分への御供物みたいなものですよ」

「六文銭の時点で思っていたけれど、貴方面白いわねぇ」

 

供物とは、死者を悼む事とは別に、地獄での罰を和らげる意味合いもある。

奪衣婆に酒を振る舞う事は、確かに御供物としての役割を半分ほど果たしていると言えた。

かと言って、死者本人が直接渡すのは微妙だが。

器の深いカクテルグラスに大吟醸を注げば、どこかお洒落に見える。

 

「うーんこういう時は乾杯じゃなくて献杯、ですかね」

 

葬式では無いのだが、彼の言いたい事は分かる。

だから私は、グラスを手に取って彼へ傾ける。

奪衣婆も同様に、グラスを手に取り淡く笑みを作った。

 

「貴方の素晴らしい今までの人生と伴侶に、献杯」

「貴方の魂のこれからに、献杯」

 

彼の、深い愛へと敬意を示す。

 

「では、私と私の伴侶に。そしてこれまでとこれからに。献杯」

 

チン、と小さな音が鳴った。

大吟醸の透き通った冷たさに酒の辛味が喉を洗う。

こうして、三人の小さな小さな送別会が始まった。

 

 

「そもそも、僕は過去ばかり見てきたからいつ死んでも後悔はしなかったんだよねぇ」

 

店主ではなくただの酒飲みと化した彼は、どこか楽しそうにそう言った。

確かに、趣味は古銭蒐集、店では旧型酒を主に出すなど、彼の意識は過去に向いている。

 

「だからアイツのことも忘れられなかったのかなぁ…」

 

突如ふにゃりと体の芯を失ったように背を丸めた彼は、グスグスと泣き始めた。

奪衣婆がよしよしと頭を撫で始めたので、面白い物を見たと目を細める。

 

「なんだい、その顔」

「お婆ちゃんじゃんもう」

「せめて母とお呼び」

「お兄さんとの年齢差幾つよ」

「四桁は確定だね」

「お婆ちゃんでも優しいぐらいでしょ」

「地球なんて母と呼ばれているけど約50億歳ぐらいじゃないか」

「比較対象が大きすぎる」

 

そのまま奪衣婆に撫でられたままカウンターに突っ伏して寝始めた彼を横目に、漸く本題に入る。

 

「さて、と。何故、番人とも呼ぶべき者がわざわざ生ている人を幽世に引き寄せたわけ?ひょっとして怨霊とかそっちのケ?」

「誰が怨霊だ縁起でも無い。まぁ…事故だよ事故。彼が“こんな時代に”正しく副葬品なんて入れるから起こった事さ」

 

奪衣婆は懐から巾着袋を取り出し、中から幾つかの寛永通宝を取り出した。

表面が錆びている。半ば砕けている。そんなボロボロの硬貨が並ぶ中、一際の損傷が無い綺麗な寛永通宝が見える。

 

「…不運と言うべき、なんだろうね。副葬品として私の手に渡った六文銭は、現世と幽世の縁が切れていなかった」

「なんで?死者に供えたものは基本的に現世と幽世の存在として分かたれるでしょ?」

「それは随分昔の話だよお嬢ちゃん。今じゃ死んだら墓に入る事も少ない。辛うじて魂の回収は出来ているけど、正しく昇天していない者が多すぎる」

「どういう事?」

「宗教観が薄れた事もそうだけど、葬儀が余りにも粗雑すぎるんだよ。最早儀式と呼ぶのも烏滸がましいぐらいだ」

 

死ねば、骨は壺に入り墓に入る。

それはこの時代では既に、“昔の文化”になるつつある事柄だ。

現代の多くの人は死後に骨粉を海や好きな土地に撒いたり、圧縮して小物や宝石にしたりと自由度が高い。

 

更に言えば見えない物を祀るという文化がかなり希薄なので、肉親の骨が無い墓などにお参りする事も無くなり、墓の所有者が曖昧など問題になったりもしている。

と、それはさておき。

 

「ひょっとして(もがり)をしていない?」

「古い言葉を知っているな…ま、そういう事。通夜をしていないんだ」

「…待って、それだと地獄に行かないと思うんだけど」

「通夜がないからある意味では神式でも仏式でも無いけれど、日本の地獄は亡者を回収するだろう?黄泉は違うけどな」

「あー…あぁ、そっかぁ」

 

悪事を犯した亡者を地獄へと運ぶ、火車という存在がいる。

幻想郷では魂自体が明確に存在を持ち、閻魔や死神や冥界の姫、博麗の巫女などが回収して輪廻転生の道に戻す事も有れば、妖怪に食われる場合もあり、そのまま浮かび続ける場合もある。

幻想郷と外の世界では、色々な事が違うのだ。

わかっていても、時々忘れてしまう。

 

……?

 

ふと、何か違和感があった。

火車について何か知っている様な気がした。

ただ、その違和感の正体は結局分からなかった。

 

酒を一口。

どうも、頭が重い。

飲みすぎたのだろうか。

 

「さて、そんなこんなである日、一人の女が三途の河に来た。目を疑ったよ。手に、しっかりと六文銭を握り締めていてな」

「そんなに珍しいの?」

「そりゃあ、ちゃんとした寛永通宝を持ってきた奴なんぞ久々過ぎてな。驚き過ぎて四度見ぐらいした」

「女の人怯えたでしょ」

「あぁ、涙目だった」

「可哀想に…」

 

奪衣婆はクスクスと笑う。

和服とよく合う美熟女とも言うべき顔と相まって、とても上品に見えた。

 

「一応地獄で働いているからな。この時代の葬儀などを知っていただけに、まさか本物の六文銭を準備するとは思わなかったんだ」

「で、受け取ったと」

「まぁ、こればっかりはアタシが受け取らざるを得なかった。何故なら、本物の六文銭だったからな」

「逆に偽物ってなによ」

「紙に書かれていたり木製だったりと、冥銭の代役としたものは時折あったぞ。冥銭としての役割は完全では無いが、六文銭と同程度の当人が悼まれ弔われた事として判断される。まぁ、だからこそ久々に本物を受け取ったわけだが…」

 

手元の真新しい寛永通宝を店内の照明に翳す。

一際輝いている硬貨は、キラリと光を反射した。

 

「まさか、現世との縁が切れていないとはなぁ…」

「葬儀は悼む事と現世との縁切りの意味もあるからねぇ、副葬品もちゃんとした葬儀を経ていないと曖昧な状態だよね」

「そうなんだよなぁ、お蔭でアタシの手に渡った、“死後の世界の物”を持った彼をこちら側に引き摺り込んでしまった」

「…ひょっとして事故だった?」

「初めにも言ったけど。まぁ…せめてちゃんとした葬儀がされていればこんな事にはならなかったんだが」

 

日本酒をグイと煽る奪衣婆。

するとその隣で寝ていた彼がむくりと起き上がった。

 

「うわっとと…おはようございます」

「おはよう。まだ寝てていいんだぞ?」

「いやぁ、主役なので」

 

にへら、と笑った彼は酒を一口。

奪衣婆の手にある古い方の寛永通宝を見て、更にその笑顔を深めた。

 

「うわー!下野国足尾銭だ!すごいすごい!本物の下野国足尾銭だ!!」

「貴方みたいに死者を悼んだ人達の物だから、欲しいなんて言わないでね?」

「当然ですよ!しかしよく考えると僕の寛永通宝がそこに並ぶと思うと…あはは、興奮してきました」

「ほ、本当に変わっているわね貴方…」

 

若干引いた声で巾着に硬貨を仕舞う奪衣婆。

最後までその手元を見ていた彼は、やがて大きく溜息を吐いた。

 

「…死因はなんですか?」

「おや、早いね」

 

彼は。彼の“体”は。

まだ、カウンターに伏したままだった。

こうなる事を知っていたのか、彼自身は清々しい顔をしている。

 

「急性アルコール中毒、だな。不審な点も見つからず、事故扱いになるだろう。昨晩の夢で言った筈だが、身支度は整えてあるだろうね」

「それは大丈夫です」

「そうか、じゃあ…そろそろ行くかね。酒の代金はいるかい?お嬢ちゃんの分も含めて払うが」

「いいえ、いりません。御供物になりませんから。あ、お嬢ちゃん」

「はい?」

 

彼が、カウンターの横に置かれていたバッグを指差した。

 

「そこにお土産がある。君が、君達があの橋に連れて行ってくれなければ、彼女の声を聞く事が出来なかった。聞く事が出来たからこそ、最後の冥銭を渡す“選択”ができた。そのお礼だよ」

「…そっか、ありがたく受け取ります」

「うん、君の友達と美味しく呑んでおくれ。そこの大吟醸はお姉さんに」

「一貫して御供物としての体を保つかい」

「閻魔様と美味しく呑んでくださいな」

「じゃあ貰っとくよ」

 

瓶に栓をして袂に入れると、奪衣婆は立ち上がる。

彼も追随して立ち上がり、ゆっくりと店内を見渡した。

やがて満足したのか、一つ頷いて大きく深呼吸。

 

「さ、お嬢ちゃん。僕の最後のお客として見送らせておくれ」

「…お酒、美味しかったよ店主」

 

バッグを背負えば、瓶の重み。

きちんと固定されているのか、接触する音はない。

 

「ありがとうありがとう。またいつか、あの世で僕の酒でも呑んでくれ。それじゃあ…」

 

彼に、店主にとびっきりの笑顔で送られて。

 

「ご来店、ありがとうございました」

 

返事をする前に、彼の姿は無くなっていた。

風に揺られ、扉に下がった看板が揺れる。

 

残った奪衣婆に無理矢理懐から取り出したものを押し付けると、卯東京駅へ向かう事にした。

 

「これは…なんだい?」

「彼のカクテルは美味しかった。私は彼の死を悼む」

「…確かに六文、受け取ったよ」

 

振り返る事はない。

もう、振り返る事は無いのだ。

 

 

───人は、死を出来る限り遠ざけた。

 

遠ざけたからこそ、死の先を考える事も徐々に減っていった。

宗教の収縮もまた、それらを加速させたのだ。

死後に罰せられたいと願う人間は元より、

死後に幸せになりたいと考える人間も少なくなっている。

 

ただし、死を悲しみ、死者を悼むこと。

それだけは、時代が変わり、形が変わっても変わる事が無かったのだ。

“ある条件の下”で、人々は幻想を想像する。

 

自分が死後どうなるかは考えない。

ただし、身近な人の死後は考える。

 

幻想の排除された時代で、人が幻想に近寄る時。

それは喪って初めて認識し、踏み入れる事が多いものだった。



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幕間

地獄の財政難につきましては東方求聞史紀、中有の道欄を参照下さい。


三途の河、此岸側。

 

奇妙な静寂の中、衣擦れの音だけが聞こえた。

やがて、ピッ、ピッと水の上を石が跳ねる。

頷きながら跳ねた数を数え、11まで数えて女は満足そうに頷いた。

 

「…なんでお前がいるんだい」

「おっかえりー、何故かと言えば面白そうな話を聞いたからかな」

 

朱の髪に青い着物。

幻想郷の三途の河担当、小野塚小町がそこにいて。

気さくに手を挙げた死神に、奪衣婆は眉を顰めた。

 

「アタシ一人でこの三途の河は間に合ってるよ。帰れ帰れ」

「いやぁ、困った事に船に首長竜が噛み付いてね。暫く船頭は廃業になったのでした。めでたしめでたし」

「あーあー、折角財政難を切り抜けて新調したと思えばすぐ壊れちゃあやってらんないだろうね、そっちの閻魔も」

 

現世も幻想郷も同じく、地獄は死者の増加に伴い、各所の拡張と改装で財政難に陥っていた。

しかし、それももう過去の話。

人口減少に伴って、緩やかに死亡者数も減っている。

お蔭で地獄の獄卒達も、今では余裕を持って仕事をこなしていた。

 

「凄かった時に比べると静かな三途の河だねぇ。死者が一人も見えないなんて、こっちじゃ考えられないよ」

「そりゃどっかのサボり魔が悪癖で時間をかけているから溜まっているだけだろう」

「善人ばかり渡しても面白くないと思うんだよな」

「こっちじゃあ距離を変える事が無いから、善人も悪人も船に乗せりゃ同じ事さ」

「へっ、そうかいそうかい、この楽しみはもう人間を長い間乗せてない婆には分からないだろうよ」

 

死神が面白くなさそうに石を川へ投げ込んだのを見て、思わず笑った。

 

「それがなぁ、いたんだよ。それも最近」

「はぇ?」

 

ぐるん、と死神が奪衣婆の方を向く。

興味津々と言った表情で、奪衣婆にずいと近寄った。

 

「いつ!?どんな奴だった!?」

 

こんな時代に、わざわざ六文銭を準備する物好き。

三途の河の船頭としては最高に興味を唆る話題だろう。

 

「若い女でな。そいつの夫が六文銭を供えたんだよ」

「かぁー!この時代にそんな時代遅れがいるたぁいいじゃ無いか!あたいが運びたかったなぁ!そいつ!!

「時代遅れというか古銭収集を趣味にしただけだがな」

「いやぁ…でも冥銭供えるなんて奴は今の時代にゃ中々いないだろ?」

 

冥銭としての六文銭は、三途の河を船で渡るためのもの。

三途の河は辿れば仏教に起因するものであり、宗教に関する事である。

そして人が死ぬ事に宗教が介入しないこの時代では、ただでさえ薄れていた冥銭という文化は尚更無くなっていき。

 

すっかり古びた船の縁に腰を下ろし、奪衣婆は溜め息を吐いた。

 

「で、お前は何故ここに来たんだったか」

「面白い話を聞いたからだよ、生者を引き摺った奪衣婆さん」

「…はぁ〜…最悪だよ最悪。早く帰れサボり魔」

 

面白い話を聞いたという時点で察しはついていた。

手を払って死神を祓おうとする奪衣婆。

しかし不真面目な死神はその程度で帰る訳もなく、足元の石をなんの気無しに積み始めた。

 

「なんで引き摺ったんだい?」

「意図したものじゃ無い。女の六文銭を受け取らなければ起こらなかった事だ」

「真面目だから受け取ったんだろ?賄賂」

「普通は逆だがな。真面目な奴は賄賂なんて受け取らん」

「確かにそうだ」

 

六文銭は一種の賄賂である。

亡者の衣類を枝にかけ、三途の河をどう渡るかを決める奪衣婆に金を渡す事で船に乗せて渡してくれる、そんな賄賂。

 

元は死を悼むという事を金銭化する事で分かりやすくしようとした地獄側の意図と、金銭を余分に受け取ろうと腐敗化した一部の僧の意図が図らずに合致した結果とされている。

流石に昔すぎて奪衣婆も覚えていないが、取り敢えずそんな事を考えていた僧は揃いも揃って地獄に落ちることだけは知っていた。

 

「でも久方振りだっただろうに、溜め込む意味も無ければ六文銭を受け取る意味も無い。なんで受け取ったんだい?」

「そりゃあお前、人が死を悼んで供えたものを閻魔様…ある意味で地蔵菩薩様の元で働いてるアタシが粗末にしたら良く無いだろうよ」

「…やっぱ真面目だなぁ」

「結果的に受け取ったら、地蔵菩薩様…閻魔様の意図を汲まない現代の葬式が影響して一人余分に船で渡す事になっちまったがね」

 

苦笑。

怨霊や幽霊とは違い、れっきとした地獄で働く者として、奪衣婆は生者を彼岸に引き摺る事を望んではいなかった。

 

奪衣婆が懐に入れた、彼岸の物となった冥銭が現世との縁の切れぬままになっていると知ったときは、それはもう焦ったものである。

生者の金を盗む事は出来ず、かと言って自ら縁を切る事は出来ぬ。

 

苦肉の策として彼から六文銭を回収する意味で、夢という生死の境界が曖昧になる時に彼を呼び、三途の河にかかる橋の観光料として一文を受け取っていたのである。

 

渡り切ってしまえば彼岸へ至ってしまうが、途中までなら問題無い。

ある意味でイレギュラーが起こった際は、男と娘達が万が一でも渡らないよう注視していたが、その時以外は男一人をその場に釘付けにしてしまえば良かった。

 

例えば、知り合いを呼んで話をさせる、などである。

どうにも彼は橋の上で誰かと出逢っていたらしいが、奪衣婆はそれを見ていない物とした。

奪衣婆は自らの失態と、冥銭の事に関して予知できなかった反省と謝罪の意から一人の亡者を三途の河まで連れてきた事を知る者はいない。

 

偶然、橋の上に一人の亡者がいた。そこに偶然男が観光しに来て、更に偶然にも男の知り合いだった。

それにより、偶然にも男は不慮の事故で彼岸へと至る事がなかったのだ。

 

「ふーん、だけど今聞いた話だと男を亡者にする理由は無い気がするんだけど」

「それが困った事に、アタシに最後まで六文銭を払っちまったのさ。一文程度なら影響は薄いからそこで回収をやめておくつもりだったんだけどね。どうにも変なのが入り込んで、覚悟を決めちまったらしい」

「変なの?」

「あー…気にするな、結局は愛だよ、愛」

 

幽世には“黄泉竈食ひ”という物がある。

神道の文化であるが、似た逸話は各神話でも多く、異界の物を取り入れた、糧とした時点でその者は異界に属する者となる文化だ。

これでわかるように異界の物というのは基本的に異界以外に住む者には毒となる。

 

奪衣婆が速かに回収しようとした理由はこれであり、真面目故に判断を誤ったとも言えるし、逆に正しかったとも言えた。

 

男が死を迎えた理由は、奪衣婆に六文銭を渡してしまったから、という理由が大きい。元より彼岸の物ではあるが、二つ存在するために別のものであるとも言える。

三途の河で六文払えば、そしてそれを奪衣婆が受け取れば。

払った者は、“三途の河を船で渡る者”となる。

 

奪衣婆は殺す気が無かったが、男が死ぬ気ならばそれを止める事はできない。否、地獄の者として苦言を呈する事は出来るが、死に干渉してはならない。つまり、“止めてはいけない”。

 

そして過程ではなく、逆説的な結果により、男は彼岸へと至ったのだ。

 

何も知らずでは無く。

六文全てを払えばどうなるかを知り。

その上で最後の一文を渡さないという選択肢を捨て。

男は愛を選んだのである。

 

それら全てを聞き、死神は大きく溜め息を吐いた。

 

「楽じゃ無いね、三途の河勤務も」

「お前もだろうが」

「そりゃそうだけれども」

 

互いに一息。

奪衣婆は懐から寛永通宝を取り出すと、指で弾いて掌の上に載せる。

 

「…おかしいよな、価値ってのは古いほど上がっていく」

「あん?」

「新しいものに価値は無いのかってふと考えたのさ。六文銭を受け取るのも久々でな、これまでは金について考えることも無かった」

「そりゃあ、あれよ、プレミアってやつよ」

「…希少性だな。100あったものは半分が完全に形を無くし、更にその半分が半ば形を失い、更にその半分が…と続けて、時間から生き残った物が価値を持つんだろうな。」

「急に難しい事を言うなよ。婆のボケ話に付き合う気は無いんだからね」

「そうかい。まぁ、死後じゃ“価値”は不変だから関係ないか」

 

男が不思議に思っていた三途の河の渡賃。

 

答えとしてはそこに値段は関係無く。

奪衣婆は悼まれた供物の価値を見て、河を渡る者に恩赦を与えていた。

また、場合によっては閻魔の判決にすら影響する。

 

値段はどうでもよく、ただ、供物に含まれる価値が大事なのだ。

六文銭を払えば船に乗れるだけであり、別に丁寧に六文銭を払わずとも恩赦を受ける事は出来る。

そこには、船に乗れるか乗れないか程度の違いしかないのだ。

 

と、ここで石を踏む音が聞こえた。

誰かと思って二人がそちらを向けば、一人の妖怪がこちらに歩いてくるのが見える。

 

「あぁ、お燐ちゃん、回収お疲れ様」

 

声を掛けられた妖が、顔を上げた。

赤い髪と、黒に緑の意匠が施されたドレス。

幻想郷より派遣された火車、火焔猫燐が仕事を終えて帰ってきたのだ。

 

「あい、戻ったよ。依頼された範囲に亡者はいなかったね」

「そうか…報酬はいつも通り秦広王様のところで貰っとくれ」

「はいよ」

 

火車は死神の方をチラとだけ見て、何も言わずに橋を渡り秦広王のいる方へと向かう。

居心地悪そうに身を縮ませた死神は積んでいた石を蹴っ転がし、背を伸ばした。

 

「あたいも映姫様の方へ戻ろうかな」

「さっきから早く帰れと言っていただろう。帰れ帰れ」

「婆の話し相手になってやったってのになんて言い草だ」

 

嘘泣きを始めた死神を放置し、久々に人を乗せた船の整備へと戻る。

これ以上構ってくれないことに気がついたのか、死神はトボトボと橋を渡り始めた。

 

「あ、そういえば」

「なんだい?」

「幻想郷から外界に出てきていた奴に会ったよ。白緑っぽい髪の奴だ」

「あー…なんで幻想郷の奴って分かるんだい?」

「お前らの幻想郷ぐらいだろ、まともな寛永通宝が流通してるの。さっき言った男の分で六文貰ったんだよ」

「…妖怪が人の死を悼むってのは珍しい話だね。外界にいる時点で変わり者ってのは分かるけど」

「それだけだ。早く帰れ」

「呼び止めておいてそれかい!全く酷い婆だよ…」

 

もしもここに火車がいたのなら、この話に飛びついていただろう。

しかし火車はここにはいないし、もしもの可能性はいまを過ぎてしまえば起こらない。

 

話は途切れ、死神の足音も遠くに消える。

もう、静かな水の音しか聞こえない。

 

ざぶり、ざぶりと流れるは三途の河。

此岸から、渡ってしまえばそこは彼岸。

 

言い換えてみれば、三途の河とは生と死の境界なのである。

もしも川に居続ければ、ある意味で不老不死なのかもしれない。

顕界でも冥界でもある世界(ネクロファンタジア)とは、意外な場所を示しているものだ。




これで朽ちた硬貨編はおしまいです。
次の秘封倶楽部の活動は一体なんでしょう?


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『証明無き血統』編
56


この章は、燕石博物誌を主としてプロットを練り上げています。
お楽しみください。


ハーンの朝は遅い。

彼女の腕の中からもぞもぞと抜け出し、リビングのソファに腰掛ける。

 

「んー…」

 

ベッドの方から、私を探すハーンの寝ぼけ声が聞こえてくるが無視。

戻れば当分離してくれない。

タイマー設定されたポットと、マグカップ、そして珈琲のドリップバッグを二人分準備し、一応寝室の方へ声をかける。

 

「ハーン、朝だよー」

「……ぅ…」

 

これで起きてくればいいのだが、滅多に無いので期待はしない。

 

マグカップにドリップバッグをセットしてお湯を注ぐ。

目覚めた時に湯が沸いていることは本当にありがたいものだ。

お土産に持ち帰りたいぐらいである。

 

リビングに、珈琲の香りが漂う。

これでもう少し埃っぽい匂いがすれば、好きな匂いに近づくのだが。

 

……久し振りに帰りたい気がしてきた。

だが、当分は無理だろう。

幻想郷に関する境界があれば、ハーンに開いて貰って帰る事はできる。

だが、博麗大結界をこじ開けて妖怪の賢者とか妙なのが出てきても困るのだ。

 

それに、幻想郷に繋がる境界が存在するのかどうかすら分からない。

なんだかんだ現世を楽しんできたが、もうそろそろ帰らなければ。

 

帰る。

…帰る?

 

どこに…?

 

私はどこから、来たのだったか。

幻想郷。そうだ、幻想郷の…旧、地獄から。

帰る…帰る…地霊殿に、帰らないと。

 

「…」

 

どうにも頭が重い。

寝起きだからだろうか。

少し、記憶が混濁している。

 

珈琲の匂いがする。

珈琲。そうだ、この匂い。

お姉ちゃんの匂いだ。

 

「───こいし」

「何、お姉ちゃん」

 

ふと聞こえた声に振り返れば、ハーンがいた。

頬に熱が昇る。

 

「お姉ちゃんダヨ」

「寄せる気がまったく無いことはよく分かった」

「いや、揶揄ってるだけ」

「知ってる」

 

もう片方のマグカップを差し出すと、僅かに口端を緩め。

不思議そうにマグカップの中を覗き込むハーンの目の前で、珈琲を啜る。

 

「…私のぶんは?」

「自分で淹れて」

「あの可愛いこいしはどこに行ってしまったのかしら…」

「今も可愛いでしょ?」

「否定できないのが尚悔しい」

 

自分で珈琲を作り始めたハーンをよそに、端末で最近の情報をチェックする。

瓦版や天狗のものと違い、この時代の情報は客観性が強い。

 

───21世期初頭より、人は情報に直接触れる機会が多くなっていた。

インターネットの普及によって人の手が入らない、生の情報を直接閲覧できる機会が増えたのである。

 

時代の流れに沿って、人々も情報の入手手段を変えていく。

より早く、より生に近い、欲しいものだけを手に入れられる手段が欲しい。

その結果として残ったものは、現実で起こったことを簡素なタイトルと共にただ並べたものだった。

 

客観性、もとい一切人の手が介入しない情報だけが無機質に並ぶ、言ってみれば本棚のようなものである。

 

目に入った【東京 喫茶店 店主 死亡】というタイトルをタップすれば、文字が画面に広がった。

人の心を感じない無機質な文章。

事実だけを淡々と書き連ねた文章は、どこか冷たく感じてしまう。

 

“先日、東京 台東区 喫茶店【黒煉瓦】の店主「糸部 秋」が店内のカウンターに突っ伏して倒れていたと通報あり。死後3日ほど経過しており、死因は急性アルコール中毒である。他殺の可能性は薄く、自殺または事故死の可能性が高い”

 

ふぅ、と口から息が漏れた。

不可解な点は見つからず、何事も無く処理されたようだ。

 

「…ハーン、店主から貰ったお酒は大切に呑もうね」

「そうね。昨日チラッと呑んでみたけど美味しかったわ」

「───呑んだの?」

「べ、別にちょっとだけよちょっとだけ!!そんな一杯美味しかったからもう一杯なんてそんなことは無いのよ!?本当よ本当!!」

 

途端に慌て始めたハーンに半目を向け、それでもまぁいいかと思う。

あの店主の事だから、美味しければ何でもいいとまで言いそうだ。

 

「でもやっぱり日本酒が美味しかったわね。えーっと…“結目”?」

「そんなお酒があったんだ」

「日本の酒蔵で造られているお酒ね。随分高価だと思うんだけど、良かったのかしら」

「店主が渡してきたからいいんじゃない?」

「ところでその“結目”に境界がチラつくのよ」

「はい?」

 

ハーンがゴソゴソとキッチンの方から酒瓶を持ってきた。

貼られた青のラベルには、黒い文字で堂々と結目とだけ書かれている。

 

 

「蓮子と一緒に境界、暴いてみない?」

「面白そうでいいね」

「さーて、何が見えるのかな」

 

珈琲を啜る。

苦味の奥に、深い深い香りが鼻を擽った。



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57

情報の氾濫が起きた時、人は無意識に選別を始める。

必要と不必要ではなく、意志の介入しない無作為な廃棄と拾い上げ。

 

やがて脳は、ふと拾い上げた情報を薄く残し、他を意識外へと追いやるものである。

 

「窃盗?」

 

ベンチに座る蓮子が、眉をへの字にして顔を上げた。

大学構内、珍しく講義を終えた秘封倶楽部の“三人”は、昼の暖かさの下で軽食を摘んでいたところである。

 

端末で情報を垂れ流しにしていたハーンが、ふと気になったニュースを挙げたところ、蓮子が食いついた。

 

「そ、なんか酒蔵で窃盗があったみたい」

「酒蔵ぁ!?よくセキリュティ潜り抜けたわね…」

「盗まれたのは五本。奉納?に使うお酒だったらしくて、流通には影響ないみたい。犯人は不明」

「それでも五本でしょう?セキュリティ潜り抜けた時点でどういう技術力よって話だけど、逮捕されていないって事は証拠も残していないって事じゃない。本当に人間?」

 

逮捕されていない。

それはつまり、最先端技術のセキュリティをすべて通り抜けて、足跡も、映像に残る筈の姿すら一切なく、毛根の一つすら残していないという事である。

 

「さぁね。少なくとも私達以外は人間だと思っているんじゃないかしら」

「…あぁ、それはまぁ、そうでしょうね」

 

人以外であるはずがない、という当然の先入観。

確かにセキュリティを突破し、一切の痕跡を残さずに策を持ち帰ったのは宇宙人だ!などと主張すれば笑い者だろう。下手すれば“治療”に連れて行かれるかもしれない。

 

「これは…オカルト、かしら?」

「さぁね。こいしはどう思う?」

 

蓮子の声に、口の中の不快感から顔の中心へ皺を寄せながら答える。

 

「これは、はずれだ」

「そりゃあ、ゲテおにぎりは大体失敗よ。それは何味?」

「美味しいのもあるけど、ね。メロンソーダ味」

「チャレンジ精神が強すぎる」

 

米の粘りを持つ食感。

色は白く、臭いは無臭に近い甘さがある。

食めば舌に乗る味は甘ったるく、微かな炭酸風味が鼻を抜け───

端的に言って不味い。それも、非常に。

 

「飲み物…飲み物…」

「さっき買ったやつあげるよ」

 

先程売店で蓮子が買っていた生分解性ペットボトルが差し出された。

合成水なので液体に色は無く、パッケージもシンプル。

とりあえず喉に流し込もうと受け取り、キャップを開けてぐいと煽る。

 

「蓮子、それメロンソーダ」

「あ」

 

硬直した。

 

 

「で、なんだっけ蓮子。メロンソーダ?」

「可哀想なこいし。脳がメロンソーダに…」

「しゅわしゅわ…しゅわ…」

「ほら蓮子、早く謝りなさい」

「ごめんこいし」

「いいよ。じゃあこのおにぎり食べといて」

「許して無い許して無い、それは許して無いやつだよこいし」

 

しかし受け取った蓮子に笑顔を向けると、先程の話を思い出す。

 

「私はセキュリティとかは良く分からないんだけど、そんなに凄いの?」

「酒蔵は半ば国で保護されているレベルの施設だからねぇ」

 

旧型の酒を製造する施設は、総じて“酒蔵”と俗称されている。

正確には蔵でない所も多いのだが、新型の製造施設と明確に呼称を分けるためにそう呼んでいた。

 

「ふぅん、でも盗んだのは人の可能性の方が高いと思うけど」

「それはどうして?」

 

───もしも人成らざる者ならば。

まず、お酒を欲する理由がないから、と言うのが思う所である。

凄まじい程にお酒が好き種族を知っているが、あれは恐らくは“奪う”筈だ。

それに、自分たちの酒があるのに盗みなど姑息な事はしないだろう。

 

上手く言葉にするならばどう言うべきか。

 

「…物に高価だと価値を見出すのは人間だよ」

「あら、人以外をよく知っているような口ぶりね」

「そうかもよ」

「はぐらかすの上手いわねぇ」

 

ハーンが苦笑するが、事実“そう”なので閉口。

凄まじい顔でおにぎりを咀嚼する蓮子の肩に手を置くと、深く頷いた。

 

「メロンソーダいる?」

「ユルシテ」

 

限界は近い。



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58

目が覚めた。

意識は覚めず、ただ瞼を上げて天井を見る。

遠くから、何かの音が聞こえていた。

 

「………」

 

体を起こし、そのまま暫く。

 

「は?」

 

───何故、己は寝ていたのか、という疑問が湧き上がった。

感覚的にはついさっきの昼頃から今起きたまでの記憶が一切無い。

 

酒の香りはしない。

何か体に異常があるわけでも無い。

 

昼食を食べ終えてハーンと蓮子と何かの話をして、そして、そして。

そこで遮断されたように、スッパリと記憶が無いのだ。

忘れたのか、消えてしまったのか。

 

「…ハーン?」

 

横に人の暖かみは無い。

ただ、“静寂”という音が耳に入ってくる。

 

端末を見る。

日付は記憶にある日の翌日。

要するに、半日以上の記憶が無いことになる。

異常だ。明らかに普通では無い。

 

「えーっと…まず蓮子…」

 

焦っている。

焦ってはいるが、冷静になろうとしている事も自覚できる。

ともかくこの状況を共有できる蓮子に連絡を取ろうと通話を試みた。

 

───リビングの方から、着信音が聞こえる。

 

「蓮子?」

 

音のするリビングに行くと、まるでそこで蓮子の体だけが消えてしまったかのように、衣服とポーチだけが落ちていた。

とりあえず服を漁る。

 

「……可愛い下着履いてるな…」

 

ヒラヒラしている感じの下着を摘み上げたところで、脱衣所の方から勢いよく扉の開く音が聞こえた。

ビクッとして脱衣所に繋がる廊下を見ると、勢い良く蓮子が飛び込んできて。

 

びしょ濡れの全裸だった。

 

「こいし!私昨日何してたっけ!?…あー!?私の下着ィ───!!?」

「蓮子、落ち着いて落ち着いて。まずはバスタオルで体拭こうね」

「……一理あるわね」

 

スン、と真顔になってUターン。

全裸が廊下の奥へと消えていった。

そして2秒後、廊下に何かが落ちたような音がして。

 

「あ゛!ッだぁ───い!!?」

「蓮子…?」

 

廊下を見れば、蓮子が尻を押さえて転がっていた。

濡れたフローリングはよく滑る。

私はまた一つ賢くなった。

 

 

 

着衣済の蓮子が、紅茶を啜りながら顳顬を揉む。

 

「気がついたらお風呂にいた。昨日の夕方から記憶が飛んじゃってて…旧型を飲んだ記憶も無いからすごく気持ち悪いのよね」

「私も起きた場所以外は蓮子と殆ど一緒。ただ、私はお昼から記憶が無いんだよね」

 

その言葉に蓮子が目を閉じた。

 

「メロンソーダの時かしら」

「そうだね」

「じゃあ“日本酒”の話は覚えていないのね?」

「……ダメ、思い出せない」

「そう。メリーはどこ?」

「ハーンの事も分からない」

 

沈黙。

蓮子が大きく溜め息を吐き、腕を組んだ。

 

「まずは昼から夕方迄何があったかを説明しないとね。メリーの事はそれから考えよう。私の予想通りなら、私だけじゃ手が出せない」

「わかった」

 

紅茶をぐいと飲み干し、蓮子が立ち上がる。

 

そしてもう一度座り直し、カップをこちらに差し出した。

 

「……もう一杯頂戴」

「美味しかった?」

「とても。いい茶葉を使っているからかしら」

「いいや私の技術の賜物だね」

「じゃあ両方という事にしましょう」

 

紅茶を啜る。

良い香りに目を細めた。

こうも喉を潤せば、目だって冴えると言うものだ。

 

「───秘封倶楽部の活動は“既に始まっている”、でしょ?蓮子」

「そうね。多分そう。……いいえ違うわね」

 

新たな紅茶に角砂糖を一つ。

 

「そうでしか無いのよ」

 

紅茶を一気に煽り、蓮子は喉を鳴らした。

 

「行きましょうか、メリーを探しに。昨日の説明は歩きながら話すわね」

「そうだね」

 

───私には見えていた。

おそらく無意識か、酷く焦りの色を孕んだ蓮子の瞳が。

ただ、それを指摘するつもりはない。

 

私も焦っていた。

ただ、この感情が正しいものかわからない。

 

考えが纏まらない。

何かがおかしい。

 

「こいし?」

「うん、よし行こう」

 

考えが纏まらないなら考えなければいい。

ある意味、得意な事である。

 

扉を開け、外の空気を吸った。

感覚的には“薄い”空気が肺に満ちる。

今日は、随分と暖かい日であった。

 




懐かしい臭いだ。
この時代の、それもこの場所で絶対に嗅ぐはずの無い臭い。

否、今ではもう、嗅ぐはずの“無かった”臭い、か。

困惑と驚きと、そして嫌悪が隠せない。

隣の部屋からよく聞いた音が聞こえた。
それは時に笑い、時に呆れ、時に悩んだ音だった。
しかしそれを見る事も出来ないまま、大きく溜め息を吐く。
あぁ、嫌だ嫌だ。
全くもって本当に嫌になる。

───なぜなら、人の脆さを知っているから。
知っているけど、知りたくなかったから。


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59

ヒールが石畳を打つ。

硬質な音を立てながら、くるりとハーンが振り向いた。

黒いガウチョパンツがヒラリと揺れる。

いつもみたいなスカートならば、捲れ上がっていたことだろう。

 

 

「ところで蓮子は?」

「それを探しに来たんでしょう」

「いやどの辺にいるのかなーって」

「多分研究室じゃ無い?」

「…あれ、蓮子って研究室に戻ったんだっけ」

「ちょっと、しっかりしてよね」

 

 

能天気にぐるぐると回る独楽に溜め息を吐き、大学へと入る。

忘れ物を取りに研究室へ戻った蓮子から『ちょっと手伝って』とメッセージが入り、それから音信不通となっていた。

大方荷物運びか何かを手伝わされるのだろうが、場所を言ってくれなければ憶測でしか動けない。

 

 

「縺ゥ縺薙↓陦後▲縺溘?縺九@繧」

「え?どうしたの蓮子」

「んぁ、さっきの紅茶をストアで探してるだけだから気にしないで」

 

 

端末からパッと顔を上げた蓮子が、ずり下がったグレーのキャスケットを直しながらえへへ、と笑う。

 

 

「気に入っちゃったから値段が気になって」

「ふーん、私はどれも美味しく感じるからなぁ」

「それも間違いじゃ無いよ。美味しいものは全部美味しいから」

「メロンソーダは?」

「少なくとも米との相性は悪かったね。他に期待」

「餅米とか?」

「もしそれが発売されたら、企画を出した奴は絶対に味見して無い」

「それには同意せざるを得ない」

 

 

大股で歩けば、緑の和柄模様が各所に入る黒のサルエルパンツがよく伸びる。

合わせで着た黒のオーバーサイズシャツも動きやすくて気持ちがいい。

シャツの中心でがおーと顔横に書かれたパッションピンクの怪物を改めて見て、蓮子が首を傾げた。

 

 

「それより何その服」

「派手でしょ。可愛くない?」

「可愛いというか…かわ…なんだっけそのファッション、なんかの雑誌で見た気がする」

「あ、一応言っておくけどこの服はハーンのじゃないよ」

「メリーがその服着たらギャップで色んな奴がやられるね」

「惚れちゃう?」

「いや、言ってみて思ったけど急すぎて驚く。私だったら腰抜かす」

「失礼が過ぎる」

 

 

クスクス笑い、大学構内へと足を踏み入れた。

昨日の昼頃、ハーンと蓮子を探しに研究室まで行ったのだ。

そこから、記憶が無い。ハーンは今どこに───

 

……?

 

何かがおかしい気がする。

しかしそれを考えようとする前に、蓮子に手を掴まれた。

 

 

「縺ゅ◎縺薙↓陦後▲縺ヲ縺ソ繧医≧」

「ハーン、研究室はそっちじゃ無いと思うんだけど」

「え?…あ、本当だ。流石こいし、賢い!偉い!美人!」

「それ程でもあるかな」

 

 

胸を張れば、白のブラウスがパッツンパッツンになった。

自覚すれば恥ずかしいもので、すぐに背を丸める。

そんなこんなで蓮子がいるであろう研究室まで辿り着けば、案の定蓮子が段ボールを持って部屋から出てきた。

 

そして目が合った次の瞬間には、笑顔でダンボールを押し付けられる。

 

 

「ついてきて!」

「説明、説明が足りない」

「簡単に言うと私一人じゃ無理だから運ぶの手伝って」

「なんだって?」

「遘∽ク?莠コ縺倥c辟。逅」

 

 

広場に並ぶ、ベンチとしても使えるモニュメントに座り、蓮子は空を見上げた。

その顔は若干歪んでおり、笑顔にも、何かに悩んでいるようにも見える。

 

 

「こいし、結局メリーがどうなったかは思い出せないのね?私の記憶だとこいしがメリーと一緒に妙な男の子と話してるとこまでしか覚えていなくて…」

「男の子…日本酒じゃなくて?」

「日本酒の境界を開いたら男の子がいたのよ」

「それがつまり、記憶の飛んだ原因だって訳ね」

「そう睨んでいるわ」

「男の子の特徴は?」

「……分からない」

「そっかー」

 

 

非常に難しい顔で目を伏せた蓮子に、私は理解した。

これは覚えられない、又は記憶に残らない怪異の類である。

性別が分かるならば必ずそれに応じた、性別を捉える印象があった筈。

それが思い出せないというのなら、それは“そういうもの”なのだ。

 

───考えすぎだろうか、少し頭が混乱しているようにも感じる。

蓮子は蓮子で、黙って何かを考え始めた。

 

何かがおかしい。

しかしそのヒントがあった。

後は蓮子に任せ、私は頭を空っぽにすることにした。

 

 

「……」

「こいし、すごい顔してる」

「すごい顔とか言うな」



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60

廃棄物置き場にダンボールを投げ込み、手を払う。

 

「あ…まぁいいか」

「なんかやらかした?」

「いや?あの中に色々入ってただけ。結局捨てるし雑でいいよ〜」

 

蓮子が適当に分別してゴミを投げ捨てているのを尻目に、ふと廃棄硝子のブースが目に入った。

何かで作られたのか、完成品が割れたのか。色の違う硝子同士が、溶解して混ざり合って固まっている。

ひょいと拾い上げてみれば、つるりとした表面が気持ちいい。

 

「おぉ…お宝発見…」

「何かあった?旧型?」

「パッと浮かぶ宝がそれなの…?」

「逆にパッと浮かぶ宝って何よ」

「えー?うーん…」

 

指で硝子の表面を撫でながら考える。

宝、宝と言われれば何が浮かぶか。

 

「…… 十種神宝(とくさのかんだから)とか?」

「強そうな名前が出てきた。強いの?」

「うーん強いか弱いかで言えば強いね。だいぶ強い。国家が滅亡する」

「もうそれは宝じゃなくて兵器か何かだよね」

 

間違ってはいない。

 

「硝子繋がりで思い出しただけだけどね」

「それは硝子なの?」

「いや、十の神宝の中に鏡が含まれているんだ、正確には銅鏡だけど」

 

鏡の歴史は古く、始まりは水面と言われていた。

日本では古来から鏡が神聖視されており、様々な文献で鏡を見つけることができたりする。

そんな事を考えていれば、蓮子がふと視線を上に向ける。

 

「私、鏡って好きなんだよね」

「蓮子は自分の顔が好きなんだ。可愛いもんね」

「そういう意味じゃ無いわよ。鏡は真の姿を映すって言うでしょう?オカルトチックでワクワクするの」

「化粧鏡を手にワクワクしてたら化粧失敗するよ」

「もうした」

「したんだ…」

 

硝子をブースに戻し、外で待っていたハーンの前で化粧鏡を開いた。

慌てて鼻を隠したハーンが、暫くして首を傾げる。

 

「どういう事?メイクも崩れてないわよね?」

「今日も完璧で可愛いと思う」

「口説いてる?」

「閨の話は誰もしてないよおませさん」

「…今、口説かれたらベッドまで連れてかれるチョロい女ってディスられなかったかしら?」

 

口をへの字に曲げたハーンの瞳を覗き込み、ふとした興味を口にした。

 

「鏡は境界みたいなものだけど、ハーンはワクワクしないの?」

「あぁ、そういうこと。確かに鏡は境界とも言えるわね」

 

ハーンが鏡を覗き込み、指を二本“突っ込んだ”。

暫くして指を抜けば、僅かな砂を摘んでいて。

 

「鏡の境界はあんまり面白くないものが多いのよ。昔は楽しかったみたいだけど」

「ハーンって昔から境界が見えたんだ」

「さぁ?それは分からないわ。ママが言ってただけだし」

 

指先でクルクルと前髪を弄び、鏡を使って整える。

 

「やっぱり鏡はこう使わないとね」

「ところでさっきはなんで鼻隠したの?」

「…そういえば蓮子、気になる話があるんだけど」

「ねぇなんで?」

「蓮子〜!こいしがいじめる〜!!」

 

嘘泣きをしながら抱きついてきたハーンを引き剥がし、服を払いながら蓮子が目を輝かせてこちらを見て。

 

「そんな事より気になる話って何?こいしも知ってるんでしょ?」

「縺昴s縺ェ莠九h繧翫▲縺ヲ驟キ縺上↑縺」

「蓮子、結局夕方私達は何をしていたの?」

「私達はいつもの部屋に行ったのよ、掃除道具を買ってから」

「ふぅん、なるほどね」

 

コンビニで携帯食を手に取り、蓮子の籠に入れる。

値段を暗算で確認しながら、蓮子が不思議そうに首を傾げた。

 

「そういえば私、昨日の昼は何をしていたんだっけ?」

「研究室の掃除してた気がするけど」

「…?うーん記憶があやふやになってきた」

 

蓮子の反応で、少しばかり予想が変わった。

認識に関わる怪異ではなく、記憶に干渉する怪異だろうか?

蓮子の記憶力は良い方だ。忘れているのはおかしい。

 

「蓮子、ちょっと気になる事ができた。それ食べながら話そう」

「いいね。頭に栄養を回せば賢くなれそうだ」

 

ウッキウキで支払って店の外に出たら、一歩目で足を挫いた。

 

「こ、こいしー!!」

「ぐぅうう…私の事は置いて先に行け…」

「オッケー、じゃあこいしの分のお菓子も食べとくね」

「げ、外道───!!」

 

───寧ろ足挫いて痛そうとお菓子を貰った。やさしい。



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61

虫に喰われたように欠落した記憶のせいで、強い違和感が纏わり付く。

何をしたのか、何をしたのかと意味も無く思い返しては答えは出ない。

 

先週読んだ本のプロローグを暗唱する事すら容易だと言うのに、何故昨日の昼のことだけが思い出せないのか。

酒は入っていない。

覚えていなければおかしいような事を、何一つとして思い出せないのが気持ち悪い。

隣に座っておにぎりを口に含むこいしをチラリと見て、水を煽る。

 

「…こいし、気になることって何?」

「私は最初、認識がおかしくなったのかと思ってた」

「なんだって?」

「蓮子男の子が思い出せないって言ってたでしょ?だから、認識がおかしくなったのかなって」

 

こいしの言葉を脳内で咀嚼し、なんとか形にした。

 

「脳の異常?」

「ちょっと違う。内的なものじゃ無くて、外的な概念だよ」

「…幻想の存在?」

「そうだね。私はそう言ったものだと思っていた」

「けど違うってわけね?」

「分からないじゃなくて、私達はそれを知らない可能性」

「…未知ではなく未体験、と言うことかしら」

 

にぱ、とこいしが笑う。

頭を揺らし、瞳をぐるぐると回した。

 

「記憶が喰われた」

「はい?」

「獏って知ってる?」

「哺乳綱奇蹄目有角亜目バク科の事なら知ってる」

「なんだそれは…」

 

なんだと言われても、乳綱奇蹄目有角亜目バク科の事である。

困惑した顔のまま、こいしはこちらの手を取り掌に指で文字を書き始めた。

 

「んふ、ちょっとくすぐったい」

「この漢字が獏ね。悪夢を食う生き物」

「…生き物?妖怪じゃないの?」

「妖怪だよ。でも扱いは伝説の生き物って感じ」

「あぁ、日本は幻想の存在全てを妖怪で纏めるからそうなるのね」

「そういう事」

 

その辺、日本の枠組みは実に大雑把である。

神など明確な存在を除き、モンスターやフェアリー、デビルなどと呼ばれている存在を基本的には全て妖怪と呼称できるのだ。

 

とりあえず獏がどんな生き物なのか想像してみるが、頭に浮かぶのは乳綱奇蹄目有角亜目バク科のイメージばかり浮かぶ。

しかしなんだろう、頭が、クラクラしてきた。

 

 

「で、その獏が私達の記憶でも食べたって?」

「…可能性の話ね。蓮子は時系列を辿って、どこまで覚えてる?」

「昨日の朝、夕方、今日の朝、と…今日の夜?」

「…は?」

「待って、私、今日の夜の記憶がある…!!」

 

混乱したように頭を押さえ、暫くしてこちらを見た蓮子はさも不思議そうな顔で口を開いた。

 

「…?なんの話をしていたんだっけ」

「!?蓮子っ」

「螟懈?縺代∪縺ァ蠕後o縺壹°」

「ハーン、酒の境界って小さいの?」

「そうねぇ、活動には丁度いいんじゃないかしら」

「危険じゃなければ嬉しいなぁ」

 

掃除を終えた疲れから、ハーンの横で寝転がった。

いつものマンションの一室で、料理を作り終えたハーンが三人のグラスに日本酒【結目】を注いでいく。

テーブルを囲み、合成肉の唐揚げを摘んだ蓮子が酒瓶を見た。

 

「結目って名前で境界があるの、面白いわね」

「むすびめ、だからね。破れたものを結んで閉じているって考えれば暴くのも楽しいじゃない」

「おっメリーは脱がすの好きか〜?」

「もう飲んでる?」

「いえーい!!いや素面」

「テンションの落差怖い…」

 

すん…と笑顔から真顔になった蓮子。

若干引いた顔をしたハーンが、トーストにバターを塗りながらグラスを見る。

 

「でも、歴史や逸話が介入しない物に境界が現れるの不思議なのよね」

「お酒に逸話はたくさんあるでしょ」

「あー、結目は新しいお酒だからって意味だったけど、酒っていう大枠で捉えると確かに逸話は沢山あるわね。大体がお酒に拠る失敗の逸話だけど」

「熊曾建とかね」

「私が知ってるのはイーカリオスの話かしら」

「んー?私それ知らない」

「じゃあお酒を飲みながら話そうかしら。じゃあ…」

 

三人揃って手を合わせる。

 

「「「いただきます」」」

 

その言葉を皮切りに、夕食が始まった。

バターを塗ったトーストに唐揚げを挟んでソースまで掛けて食べ始めたハーンに、お腹周りの心配をしつつ、白米と一緒に肉を噛む。

 

「ギリシャ神話の話なんだけどね、デュオニューソスってお酒の神様がいるのよ」

「へぇ、やっぱりどこにでもお酒の神様っているのねぇ」

「そりゃあ文化と密接に関わってきたものだからね。んでその神様がとある村でイーカリオスって農夫にもてなしを受けたことがあってね。お礼にワインの製法を伝授したの」

「人に知識を与えたんだ。よほど善性に溢れていたんだろうね…」

「けどそのイーカリオスが同村の人にお酒を振る舞ったら、酒を知らないわけだから酔いを理解できていなくて、毒だと誤解されてしまったの。イーカリオスは殺されて、その娘も自殺。それを聞いて神様が超怒ったってお話」

 

あー…と喉から息が漏れた。

日本神話の酒の失敗に比べると、人に“優しい”。

日本の酒の逸話なんて八岐大蛇を殺したとか熊曾建を殺したとかそんな話ばかりである。

 

「じゃあその村が滅んでおしまいだ」

「いや、誤解が解けてイーカリオスと娘が供養されて、その場所は葡萄の名産地になったらしいわよ」

「へぇ」

 

くぴ、と日本酒を飲む。

 

「…あ、これ熱燗が美味しいかも」

「熱燗…熱するんだっけ。お酒を沸騰させる?」

「そんな事したら酒精飛んじゃう…」

 

蓮子もハーンも基本的に酒は冷やして飲むため、幻想郷を出てからは一度も熱燗を作ったことがない。

というよりも、新型はサワーが多くてお酒は冷やすもの、ぐらいのイメージが強いせいもある。

マグカップに日本酒を入れ、少し深めの適当な器に水を入れる。

 

「軽くラップしてレンジにこのお酒突っ込んで。時々見て温度確かめるから」

「え?温度設定できるけど」

「何その便利機能すごい。えーっと熱い風呂ぐらい…45度とかできる?」

「出来るよ。あっためるね」

 

暫く待機。

 

「熱燗って美味しいの?」

「蓮子は飲んだことない?」

「うーん、そもそも旧型の日本酒を飲む機会があんまり無いからね…」

「私も飲んだことないわ」

「ハーンもかぁ。新型の日本酒はどうなの?」

「旧型に較べるとどうしても美味しくない。シンプルに」

「あー…」

 

レンジが音を鳴らす。

 

「できたよ、はい」

「ありがと。えっとマグカップをそこの水に入れて」

「冷ますの?」

「まぁそんな感じ。えーっと前にカクテルで使ったバースプーンあったよね?それで軽く混ぜて完成。さっき調べた」

 

少しばかり冷やし、マグカップのままちょいと味わう。

冷酒と違い、酒精を喉で感じる熱さが口内に広がったような感覚。

喉を通せば熱がゆっくりと落ちていくのが解る。

 

「ふぅ…」

「こいし、ちょっと頂戴」

「いいよぉ」

 

蓮子に渡せば、新感覚に目を見開くのが見えた。

何も言わずに自分の分の日本酒をマグカップに入れてレンジを起動したのを目で追い、少し笑う。

 

「ハーンもいる?」

「ちょっと欲しいわ」

「じゃああげる」

 

───ハーンが何も言わずに自分の分の日本酒をマグカップに入れて蓮子の後ろに並ぶ。

少しどころか、だいぶ笑った。



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62

「───見失った。…誰を?私…何か忘れている…違う、私が見ていない…?何を、弄られた…?」

虚空を掴んだ手を見て、眉を顰める。
口に出した言葉の意味を考える。
記憶が無いのは“結果論”だ。
ただ、それに至るまでの道筋が解らない。

何故、記憶が抜け落ちているのか。

解らなければ、解けない。
問題文の無い問題は、計算式すら組み上げられない。

「…何を、していた…のか…」

自我が溶けていくような感覚。
全てが曖昧になり、能力を持ってして引き留めることすら叶わない。

「ぐ…隙間が無い…?」

昏い空間の中で、女は疑問を口にした。

「蟾。繧雁キ。縺」縺ヲ蜿取據縺吶k」

女は、卓袱台に突っ伏してお茶に手を伸ばす。
その行動に、一抹の疑念すら抱く事はない。

「藍、煎餅どこに置いてたっけ」
「知らん。自分で探せ」
「…この会話、ついさっき聞いた気がするわ」
「いつも自堕落だからだろう」
「……?あれ…?」

女は首を傾げるが、答えへ辿り着くことは無い。
何故なら、そこは通過点。
結果にして、未だ歩みの途中である。


唐揚げが皿から消え、ただの白米をもそもそと食べる。

呻き声のする方に目を向ければ、頭に手を当てて寝転がったハーンの真っ赤な顔が見えた。

 

「…なんだか呑み過ぎた気がするわ」

「熱燗をぐいぐい飲んでたらそうなるよ」

 

蓮子はハーンほど酔いが回っていないのか、テーブルの前でハーンが残した唐揚げサンドを食べている。

何も言わずに口に押し込むと、こちらを見て咀嚼。

 

「脂」

「バターに唐揚げはそりゃそうだよね」

「やばいよ。脂で酒が超進む」

「うん。明日絶対後悔するから程々にね」

 

何の感情も感じさせない顔でハーンの残した唐揚げサンドを口に運ぶ姿はシュールな面白さを感じる。

───なんとなく、今の蓮子に懐かしさを感じるのは何故だろう。

 

どこかで、今の蓮子に似た誰かと会ったような気がする。

 

「ぅん!!境界パーってしよっか!!うんうん!!」

「泥酔ウーマンが何か言ってるよ蓮子」

「私より脂摂取してるからテンションがヌメヌメしてるんでしょ」

「なるほどなぁ」

「どこがヌメヌメしてるって言うのよ!やっだ谷間が汗掻いてヌメヌメしてるわ!?ごめんね蓮子!!本当にごめん!!」

「こいし、メリーの腕掴んで」

「うん」

「やだ!私に乱暴するつもりであ゛あ゛ぁ゛あ゛っ゛づぉ゛ぉ゛っ゛お゛!!!?」

 

見惚れるほど綺麗な笑顔で、先程レンジで温めた合成肉の角煮をハーンの口に押し当てる蓮子。

トロトロのペースト状のタレがすごく美味しそうな匂いをさせながらハーンの唇に付着した。

 

「あ゛ぁ゛っ゛づ!だいぶ熱いだいぶ熱い!!熱過ぎて味も感じないわこれ!!?」

「火傷しない程度の熱さだから熱いだけだよ大丈夫」

「熱いから大丈夫じゃ無いわ!?とっても熱い!!」

「反省した?」

「したした!すっごいした!!」

「じゃあ角煮食べる?」

「ロジカル!あれっ!?ロッ、ロジカル!あづぅい!!」

 

騒ぐハーンから手を離し、日本酒を啜る。

美味い。とても美味い。

 

「そういえば境界、どうするの?」

「開くか」

「んー開きましょうかね、あそーれ」

 

ハーンが指をグルグルと回した。

酒瓶が薄っすらと光る。

金属同士が擦れる音が何処かから聞こえてきて。

 

───酒瓶の表面から、子供の小さな手が出てきた。

 

「ヒッ」

「ハーン!!」

「閉じ、っ」

 

次いで、その子供の手首を掴むように何も無い場所から手が出現する。

子供の手が、一度開いて、グッと力強く握られた。

 

「豬√l陦後¥逅?h縲∬カウ繧呈ュ「繧√※關?∪繧」

 

夕空の元、大学構内のモニュメントに座る蓮子の顔を覗き込んだ。

当の蓮子は頭を押さえて、ゆるゆると首を振る。

 

「そうだ、メリーは…お母さんに…」

「…何の話をしていたんだっけ」

「時系列順でどこまで覚えているのかって話。蓮子が今日の夜の記憶があるって言ってたんだけど…」

「えっ、いや未来の記憶なんて無いよ」

「…記憶が食われたって話は覚えてる?」

「獏でしょ?うーん…記憶、記憶か…」

「何か思い出した?」

「“メリーが今どこにいるか”って話、私したっけ?」

「…してない。ずっと知ってた?」

「少なくともさっきまでの私は知らなかった。こいしは何か思い出した?」

 

頭の中を漁り、先程までの思考と矛盾している点を探していく。

───“あった”。

 

「私、ハーンが境界を開いた瞬間を知ってる。覚えてる…!」

「…それ、思い出せない。覚えてない!」

 

現在進行形で記憶が変化している。

ただ食われているのではない。

一定期間中の記憶が、常時変化しているのだろうか。

 

「…何かに記そう。次のタイミングで何が起きているか分かるように。思い出した話はそれからにしよう」

「そうね。私も同じ事を考えた」

 

端末のスリープを解除し、メモ機能を起動する。

 

日は天頂を過ぎ、夜へと向かい始めた。

蓮子はどこか落ち着きを取り戻し、口端が笑みの形を描いている。

 

もう“安全”なのだ。

だから、これを“楽しむ”。

 

「蓮子」

「何?」

「謎を暴いちゃいましょうか」

「…そうね、仕上げはメリーに暴いて貰わないと!」




「───」
「───…」

ため息の音が聞こえた。
目を開けば、見覚えのある…

「ここは───」


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63

「あっぶないなぁ…そんな事するかね普通」

必死になっちゃってまぁ、なんとも人間らしい事。
咄嗟に使った能力が、ちょっと過剰すぎたのは否定できない。

「…こんばんは、お嬢ちゃんたち」

おや、予想とは違うところに出たかな───


紙に記した時系列順の記憶。

所々抜けているところはあるが、大体書き記せた。

 

大雑把に分けて二日を十分割。

朝、昼前、昼、夕方、夜で二日分だ。

 

朝、コーヒーを飲んで情報を確認した。

昼前、メロンソーダの罠に嵌められた。

昼、蓮子と共に資料の片付けと廃棄。

夕、曖昧。

夜、境界を開いたところまでは覚えている。

 

そして朝、目覚めて蓮子が家にいた。

昼前、大学構内に入って雑談。

昼、今。

夕と夜は未だ先。

 

こう見てみると、昨日の夜以外の記憶はほぼ揃っている。

あんなにも空白だらけだった記憶が、いつの間にか戻っていたのだ。

 

「…蓮子、私の記憶殆ど戻ってる」

「これ…えーっとなんだっけな。戻ってるんじゃ無くて、同じ動き、だったかな?まだちょっと思い出せないな」

「どういう事?」

 

蓮子が悩む様に唸る。

 

「“時間が凝縮されてる”んだよ。確かそう説明してたはず」

「…記憶が食われた訳じゃない?」

「一直線がバラバラになって、それを無理矢理掻き集めた無茶苦茶な話を、聞いた。聞かされた。あぁ、じゃあもう直ぐだ」

「?」

「忘れたんじゃない。まだ、過ぎていないんだよ」

「縺薙>縺励■繧?s縺倥c縺ェ縺?°」

 

酒瓶から出てきた手は、子供の様な手だった。

もう一方の手はいつの間にか消え、残っているのは酒瓶の手。

 

「ハーン、境界は閉じないの!?」

「私の力じゃ無理!境界が歪んでる!!」

「…こんばんは、お嬢ちゃんたち」

 

声は、声変わり前の少年の様。

歪みを引き裂く様に、奥から現れたのは男の子だった。

背丈は私とほとんど変わらない。

 

「ふーむ、紫んとこかと思ったけど、どうにも違うかぁ?」

 

色の抜けた茶短髪。

白いパーカーに、紺のデニムパンツ。

赤ストールに半分ほど埋まった顔は何処か上機嫌そうで。

 

「…鬼…!?」

「よく知ってるねぇ。ってわかるか。角、立派だろう?」

 

何よりの特徴は、側頭部より左右へ伸びる双角。

捻れながら30cm程度伸びた角は、黒布で簡素に飾られている。

 

鬼はゆるりと部屋に立ち、こちらと目があった。

 

「───こいしちゃん?」

「はい?」

「何でこんなところにいるんだい?さとりが随分と探してたけど」

「何故私を知ってるの?」

「なんでってそりゃあ…姿が違ってもこの角でわかるだろう?」

「…誰?」

「こりゃ参ったね。他人の空似じゃないんだろうけど」

 

ゆるゆると首を振った鬼は、次いでハーンを見た。

 

「んん!?」

 

鬼はズカズカとハーンの目の前まで歩くと、じっと瞳を覗き込む。

危害を加えるつもりはなさそうなので暫く見守っていれば、やがて鬼は大口を開けて笑い始める。

 

「あっはっは!!どうりで見つからない筈だ!!」

「あ、あのぉ〜」

「はぁ、ふぅー…はいはい、どうかした?」

「貴方…誰ですか…?」

 

おずおずと尋ねた蓮子に、鬼は顎に手を当てた。

 

「金髪のお嬢ちゃんの先祖の知り合いさ。どこまで遡ればいいか知らないけどね」

「はい?」

「姓は伊吹、名は萃香。いやぁ、まさか境界を開ける人間が外の世界にいたとは驚いた!!」

 

何処かで聞いたことのある名前をどうしても思い出せず、私は眉を顰めた。



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64

「…えぇと…伊吹…さん。あの、えーっと…」

「なんだい!聞きたいことがあるなら言ってごらん!!私は嘘を言わないよ!!」

「音量調節機能が壊れてる」

「こいし、よく言った」

 

蓮子がしみじみと頷いた。

当の鬼は、申し訳なさそうに笑って頭を掻く。

 

「いやぁ、ごめんごめん、少し興奮してね」

「それよりどうすんの。フワッとした存在じゃなくて明確に境界の中からとんでもない存在出てきちゃったけど。流石にヤバいんじゃないの?」

「うーん…」

 

蓮子の言葉にハーンが顎に手を当てた。

三人とも怯えは驚きで塗り潰され、一周回って冷静である。

 

境界暴き自体が大問題。

それなのに、暴くどころか幻想の存在が出てきた。

境界を暴く事は、境界を開き奥を見る行為。

小さな物を境界を越え、持ち帰ってしまう事はあれど、境界から外へ、意思を持って“こちら”へ姿を出すなど今までから鑑みて有り得ない事なのだ。

 

それが、出た。出てきてしまった。

鬼を目撃されたら、どう頑張っても隠す事など出来ないだろう。

特にこの角が大きすぎて目立つしどうしようもない。

ではどうするか。

 

「誰かに目撃される前に早めにお帰り願おうか」

「そう…なるわね。すいません、ここは一つお引き取り頂けると…」

「こらこら、そんな無体を言うんじゃないよ」

 

どかっとその場に座った鬼は、紫の瓢箪に口をつけないようにして中の液体を飲む。

 

しかし、とんだ大物が出てきてしまった。

境界を暴く事はあくまでこちらの意図によるものであり、相手方の察知はほぼ不可能と言ってもいい。

それを、示し合わせたかのように腕を突っ込んできた。

 

先程の腕もよく分からないが、まずこの鬼自体がよく分からない。

伊吹萃香。何処か見覚えがあるが、思い出せず。

伊吹結香とよく似た名だが、関係は無いだろう。

やはり、何処かで…否、こんな存在と出会って忘れるはずも無い。

 

その鬼と言えば、必死に記憶の海に釣竿を垂らすこちらなど意に介さず、マイペースにハーンと蓮子に話かけていた。

 

「実は、さっき言ったお嬢ちゃんの先祖を探していてね」

「…はい?」

「僅かでも手掛かりが無いかと幻想と現世の狭間を漂っていたんだ。そこで覚えのある手応えがあったからこれだ!と思って出てきたらココだったって訳」

「───え、メリーの先祖って人じゃないの?」

「知らないわよそんな事。そもそもママより上の代なんて見たことも無いわ?」

 

む、と鬼が唸る。

角に巻き付いた黒布を指で弄りながら俯いた鬼は、暫くして笑みを作り顔を上げた。

 

「頼み事なんだけどさ。鬼の酒、少しあげるからお嬢ちゃんを貸してくれないかい?」

「…だってメリー。私は反対、詳しいこと分からなくて怖いし」

「うーん…あんまり得がないのよね。鬼の酒も怖いし。こいしはどう思う?」

「そもそも鬼が怖いね。怖い尽くしだ」

 

うんうん、と三人で頷き、声を揃える。

 

「「「お帰りくださいませ」」」

「こいしちゃんまで言うかね。人との交渉は昔から苦手なんだよなぁ。鬼の名に誓って危害を加えない事を約束するって言ってもダメかい?」

「困ったなぁ。嘘じゃない?」

「鬼は嘘が嫌いなんだ。騙すなんか以ての外」

 

胸を張る鬼は、少しばかり可愛らしい。

どことなく女性らしい仕草が目立つが、妖怪とは基本的に性別が関係ないものだ。

 

しかし行動の節々に違和感がある。

否、鬼など“初めて見る”のだから違和など無い筈だが…

 

「…どうして奪わない」

「こいし?」

「鬼は、どこまでも妖怪らしい奪う存在。何故、交渉するの?」

 

こちらを覗き込み、にんまりと鬼が笑う。

 

「外での鬼は“斃される者”だ。奪えば喪う。そうだろう?」

「聞かれても知らないよ」

「くぅ…本格的に参ったなぁ。紫を探しに来ただけなのに…」

 

ハーンと蓮子は困惑した様にテーブルの上にあった菓子を摘んだ。

危害を加える事は無いという言葉に僅かな緊張感も消え、すっかりとリラックスしてしまっている。

 

「…まぁ、取り敢えず座りましょ。急かしても帰らないんでしょう?」

「そうだね、取り敢えずお酒の味でも楽しんで貰うとしましょうか」

「ほら、こいしも座って座って」

 

テーブルを囲うように腰を据えた三人。

既に宴会ムードと化した雰囲気に水を差す訳にもいかず。

 

「…ちゃんと帰ってよ?」

「はいはい、用事を終えたらね。それ、こっちおいで」

 

腰を据えれば、ハーンが思い出したように棚を漁り、更なる菓子が追加された。

鬼の宴会が、幕を開ける。



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65

 

鬼が出した赤い瓢箪に入った2L程の酒。

口に含めば酒の辛味が喉に来るが、恐ろしいほど飲みやすい。

鬼の酒は、あっという間に消えていく。

 

「…これは、きっつい!」

「美味かろ美味かろ」

「うまぁあああい!───ウッ」

 

グビグビと鬼の酒を飲んだ蓮子が、にっこり笑って後ろ向きに倒れた。

次いでハーンがにまぁと笑いながらテーブルに突っ伏す。

 

「潰れるの早いな…」

「人には強すぎるんだよ。そういうものなのさ」

 

鬼はどこか遠くを見て、ゆっくりと此方に目を合わせた。

 

「何してるんだい、こいしちゃん。こんなとこで」

「…私も知らない。気がついたらここにいた。ハーンに拾って貰う前の記憶は…思い出せない、から…」

「古明地こいし。第三の瞳を閉ざしたさとり妖怪。姉は古明地さとり。何もわからないのかい?」

「古明地、さとり…」

 

頭がジリジリと焦げる様な感覚がする。

痛い、それを、思い出さなければいけない筈なのに。

───思い出す?何を?

 

「…」

「ダメか」

 

鬼は角を撫で、手を数度握って困った様に笑う。

 

「うーん、人妖ぐらいまで格を堕としてるから困ったね」

「私にはよく解らないんだけど、貴女は何をしたいの?」

「さとりの元に帰したい、って言うのが願いさ」

 

酒を煽り、鬼が真剣な顔で此方を見た。

あまりの視線の強さに、恐ろしいほどの迫力を感じる。

 

「さとりが慰みにこいしちゃんを想起したのはいいんだが、あまりに本人が姿を見せないせいでいつの間にやら現実と想起の区別がつかなくなっちまってね。ちょいとおかしくなっちまったんだ」

「ふぅん…」

「八雲に頼んでも妹の存在が確認できず、想起した虚像を本物だと思い込んで独り言ばかり。朝も夜も一人でも誰かと居てもずーっと喋ってるんだよ。そろそろ正気に戻したくてね」

 

鬼にグラスを差し出された。

ひょいと受け取れば、鬼が自らの瓢箪を突き出した。

 

「乾杯」

「…うん、乾杯」

 

くぴ、と口に含んだ酒は、先程よりも辛味が強く感じて。

 

「すごいね、このお酒。さっきと味が違う」

「あぁ、“そういう事か”。沢山味わうといいよ」

 

のんびりとスナックを齧りながら、酒の味を楽しむ。

美味い。先程よりも更に飲みやすく感じてしまう。

酔っているのだろうか。

 

「今回準備したのは特別な酒でね。美味さで人を惑わす酒さ。紫に渡すつもりだったけど、交渉には出し惜しみはしない性質でね」

「…盛ったな」

「さぁてね」

 

ぐらぐらと視界が揺れ始めた。

 

「流石に妖怪と言えど“人に化てりゃ”よく効くだろう」

「…?」

「そのうち分かるさ。さて、そこのお嬢ちゃん借りてくよ」

「こら、待て、待って…ほら、蓮子も起きて…」

「起きてる起きてる…うーん…起きてる…」

 

ひょい、とハーンを抱き抱えて、鬼が拳を作る。

 

「お嬢ちゃんの縁を萃めてっと…ふむ、遠いな」

「何を…」

「伊吹萃香の名に誓ってお嬢ちゃんは無事に返す事を約束しよう。…じゃあ、またね。こいしちゃん」

 

そこで、抗えない眠気に襲われた。

 

「蜈ィ縺ヲ縺ッ鬆?分騾壹j縺ォ」

「ただいま」

「メリー!」

 

夕焼け空を背景に、金の髪が見える。

全てを思い出した。

そうだ、ハーンは鬼に連れられて…

 

「…何その大量の袋」

「いやーお土産?」

 

両手に大量の袋を抱えて帰ってきた。

中を覗き込めば、お菓子に服に…

 

「どこ行ってきたの?鬼は?」

「それ含めてお話しするから一旦家帰りましょ。大学にポイってされたから荷物を家に置きたいのよ」

 

疲れた顔で髪を掻き上げ、ハーンは眉をへの字に歪める。

 

「なんなのあの鬼…」

「同意」

「同意」

 

3人で顔を見合わせ、苦笑した。




「…驚いたな。紫の顔にそっくりだ」
「誰?」

家の中。
私以外誰もいない筈なのに、声が聞こえた。

「あんたの祖先の知り合いだよ。八雲紫、知らないかい?」

空中に顔だけ浮いて、此方を見る瞳。
性別は違うが、どことなく見覚えのある顔だった。
ならば、嘘は通用しない。
怖がる演技も嘘となるため、できず。

「そんな女はもうこの世に居ないわよ」
「…あんた、この時代にこんな事が起きても驚かないんだな。娘と同じく能力持ちか?」
「メリーに何をしたの?」

思ったよりも、硬い声が出た。

「いいや、危害は加えていないさ。それより八雲…いや、聞き方を変えよう。あんた、伊吹萃香を知ってるな?」
「…えぇ」

ダメだ、誤魔化せない。
嘘は言えない。鬼は、嘘に敏感だ。

「そうか、母に聞いたか?」
「…面倒な問答は辞めにしましょう、萃香。貴方こういうの嫌いでしょう」

鬼は、此方を見て目を見開いた。
軈て口端が上がり、歯を見せる。

「はぁ、ここまで探すなんて馬鹿じゃ無いの?」
「何とでも言うがいいさ。悪いのは紫だ」
「…私はそんな名前じゃ無いわ」
「そうかい」

鬼が境界より頭を出し、体を出し、やがて娘を引き摺り出した。

「…ねぇ、再度聞くわ。メリーに何をしたの?」
「そんな顔やめろよ、お酒飲ませただけだって。ちょっと強めの」
「最悪」
「仕方ないだろ、こうでもしなきゃここまで来れなかった」
「…可哀想なメリー、私のせいでごめんね」
「悪かったよ。それより話があるんだ」

鬼を睨み付けて優しく娘の額を撫でれば、柔らかな髪が手を擽る。
───久々に娘に会えたと言うのに、これだから鬼は自分勝手で嫌なのだ。


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66

ハーンの一室。

着せ替え人形にされながら、写真を撮りまくる蓮子に視線を送った。

 

た す け て

 

大きく口パクで伝えるも、蓮子のほら笑って、と言われたので額に皺を寄せて笑ってやった。

 

「何その顔…」

「笑ったぞ、これで満足か」

「ごめんごめん、でも似合うと思ってこいしのために貰ってきたのよ。喜んでくれると私は嬉しいわ」

「…ありがと」

 

ハーンにそう言われてしまうと、感謝しか言えなくなる。

次いで渡された黒いドレスを着てみれば、背が大きく開いていて涼しすぎた。

 

「いや、やっぱり恥ずかしいわ」

「ねー!可愛いからー!!」

「このドレスだとブラ見えるし」

「ヌーブラ貸そうか?」

「いらない。はい脱ぎまーす」

「あぁ…」

 

するりと脱げば、ハーンが勿体無いと吐息を漏らす。

お土産と言われた服を片付け、下着姿のままベッドに飛び込んだ。

なんとなく、慣れたふわふわ感が久し振りに思える。

 

「で、あの鬼はなんだったの?」

「…目的は、何かを聞きたかったらしくてね。気がついたらママの所にいたの」

「ママって、海外の?」

「わからない。どこの国なのかしら、あそこ」

「どういう事?」

「…街に出る事は出来なかった。窓の外は夕焼け色。端末も開かなかったから時間はわからない。言葉を交わす時間は少なくてね、用無しとばかりに鬼がすぐこっちに戻したのよ」

 

頭を力無く振り、ハーンが目を伏せる。

 

「異様に境界の大きな鏡がある化粧台。部屋は随分と様変わりして引っ越しをしたのかもしれない。私も全然帰らないし、ママも引っ越しを言わないからよく分からなくてね。けど彼処は間違い無く私の家だった。いえ、ママの家だった」

「まぁいいや、収穫は?」

「ママがくれたお土産と、鬼からは酒を辿れ、って言葉を貰ったわ」

「…それだけ?」

「それだけ」

 

ふむふむ、と蓮子が数回頷いた。

窓の外を見ればすっかり夜で、蓮子は泊まるつもりなのだろうかと考えていれば、チョコ菓子が差し出される。

 

「服以外のお土産ね。ベッドから降りて食べましょ」

「ホットミルクと一緒に甘いディナーにしよっか」

「お、いいねぇ」

 

と言うハーンは既に、ミルク入りのマグカップをレンジに入れていた。

 

「昨日今日と随分グチャグチャしてたんだけど、ハーンはなんか知ってる?」

「鬼が時間を凝縮させたらしいの」

「は?なにそれ」

「詳しくは知らない。逃げるためっていうのだけ聞いたわ」

「…あの鬼、本当に何がしたいのかよくわからないんだけど」

「何かに追われて、私の祖先を探していたっていうのだけはわかったんだけど…」

「なーんにもわかってないけどね、それ」

「それはそう」

 

ハーンがホットミルクをテーブルに置き、菓子の準備を始めたので、のそのそと立ち上がってソファに座る。

カーペットに座った蓮子はチョコを摘みながら、時計を見ていた。

 

「ふと気になったんだけど、いくらなんでも時間を凝縮させるって滅茶苦茶じゃない?全世界どころか万物万象に影響するわ」

「確かにそうなのよね。けどそれに準じた事は起きてたでしょう?」

「多分だけどね。自らの主観でしか時間を観測できないから、経過した時間の流れを知る事は出来ても経過する時間の流れを感じる事は出来なかった。こいしは?」

「蓮子に同じ。私としては物理や数式を無視して時間を凝縮されたって言われると、ああそうなんだなって思い込むしかない」

「…例えばアインシュタインの方程式では重力場が強ければ強いほど時間は遅く流れていくの。時間を凝縮するという事は、それだけで凄まじいエネルギーを必要とするのよ」

 

ホットミルクを啜り、蓮子は指をグルグルと回す。

 

「特殊相対性理論の一つだけどね、ウラシマ効果。光速に近づけば近づくほど時間の流れは通常に比べて遅くなっていくと言うのがあるわ。逆説的に言えば、仮に全世界の時間を凝縮して進んでいると進んでいないを曖昧にするぐらい干渉すると言うのは、万物万象に光速に近いエネルギーを“持たせる”と仮定するぐらい有り得ないの」

「あー…小学生のたかしくんが60km先の店に自転車で2分後に着きました、みたいな?」

「秒速500mの問題を作る教師がテストの問題より難解な問題ね。マッハ1.5で街中を走行する自転車って何を推進力としているの?原動機付き自転車なんてあったらしいけど、そんな音速超える化け物自転車あってたまるもんですか。でも、そういう事ね」

 

ハーンが隣に座って、チョコを摘む。

ホットミルクを啜り、ハーンと同じものを口に含めば、甘さの中に果実の香りが混じり、非常に美味である。

 

「有り得ない。でも、そうと言われればそうとしか言えないのが幻想なのよね」

「蓮子は嫌?そういうふわふわしたもの」

「いいえ“大好物”よ。解き明かせないものほど神秘的でゾクゾクする」

 

ハーンに向かってウインクを一つ。

ひょっとして蓮子はこのタイミングで口説いているのだろうか。

微かに耳を赤くしたハーンが、何かを思い出したように顔を上げる。

 

「そういえばあの部屋の片付けしてくれた?鬼が親切心か何かで貴方達を私の家に届けたって言うのは聞いてたんだけど」

「「あ」」

 

殺虫剤と消臭スプレーを持っていく事は確定した。




理論を調べている最中に、昔設計の授業で計算間違えて効率100%以上を叩き出した事を思い出していました。紙上に永久機関が発生してしまった懐かしい思い出。


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67

感想で頂きました19話の文字化け。
確かにスマホだと読みにくいなと思いましてチョチョイと弄って面白い感じに修正してみました。


「じゃ、お風呂借りまーす」

「え?蓮子泊まるの?」

「逆にメリーはこんな時間に年若い乙女を外に追い出すの?」

「……泊まっていきなさい」

「寝巻きはいつもの借りるわね。今日は何色がいいかなあ」

 

 

ハーンの下着や寝巻きが収納された小さな箪笥の三段目。

自分専用の寝巻きを漁り始めた蓮子を横目に、ハーンがミルクを啜った。

 

 

「酒を辿れって…やっぱりあの結目の事よね」

「あれ黒煉瓦の店主から貰ったんだけど、それ含めて鬼の仕込みだったのかな」

「違うと思うけどね。そもそもこいしがあそこに行ったのって伊吹の…伊吹…」

 

 

ハーンが大きく目を見開いた。

 

 

「伊吹結香の、提案だった…」

「名前、似てるよね」

「待って、じゃあ伊吹は鬼の関係者って事?」

「知らない。偶然かもしれないし、偶然じゃないかもしれない。でも以前鬼について訊いた時は…」

 

 

───何故、私はあの時に伊吹に鬼の事を訊いたのだ。

彼女に初めて出会い、名前を聞いた時。

私は彼女に「鬼って信じる?」と尋ねた。

何故彼女の名前を聞いて、その言葉が出たのだ。

 

何の意味もなく尋ねるような事ではない。

脈絡も無くそんなことは言わないし、ましてあの時は初対面だ。

 

───まさか。

 

まさかあの時、あの瞬間。私は伊吹萃香の存在を知っていた…?

 

 

「…こいし?」

「ん、んん…前聞いた時は何も知らなそうな顔してたよ」

「むしろ何でそんな事聞いたのよ。まさかとは思うけど境界暴きの事とか話してないでしょうね」

「全く話してないよ。何で聞いたんだかは思い出せないけど」

「なら、いいんだけどね」

「メリー、私のナイトブラどこしまったー?」

「え、そこにないの?おかしいなあ」

 

 

ソファから立ち上がって蓮子と一緒に下着を探し始めたハーンを意識の外に追いやって、考え込む。

 

伊吹萃香の事を、以前は知っていた。

 

そう考えれば伊吹結香に鬼の事について尋ねた意味がわかる。

名前が似ていたから、そう尋ねた。

なんの脈絡も無く意味も無く尋ねたよりは、余程現実味がある。

 

ならば何故忘れている?

そもそも鬼は私の事を知っていた。

かなり親しげで、私の姉についても───

 

 

姉?

 

 

私に姉なんていただろうか。

 

 

「あれー?どこにしまったっけ。蓮子持ち帰ったりしてない?」

「2つ置いてるし絶対1つはあると思うんだけど」

「うーん仕方ない、お風呂入ってていいよ。その間探しとく」

「お願い。まあ最悪ニップレス貼って寝ればいいでしょ」

「えぇ…」

 

 

ふと、二人の会話に思考が途切れる。

記憶が定かではない事が判明した。

今は、それだけ覚えておけばいいだろう。

 

 

「安心して蓮子、見つからなかった時は私が昔使ってたサラシ巻いてあげる」

「よし、じゃあ安心して風呂に入れるわね!行ってきまーす!」

 

 

意気揚々と脱衣所に向かって行った蓮子を見送り、ミルクを啜る。

チョコの甘味が、さっきより苦く口内に残っていた。

 

 

───最終的にナイトブラどころかサラシも見つからず、ニップレスすら切れていて。

 

風呂上りの蓮子は、擦れるのが嫌だからと全裸で寝た。

 

それでいいのか。

 



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68

「───おかーさん?そっち大丈夫?」

ゲーム筐体とお菓子の空袋が散乱する部屋の中で、女は端末に話しかけた。
限りなく鮮明に、さもそこにいるような音質の声が端末から聞こえる。


『結構忙しいよ。ちょっと前の処理がまだ終わってなくて大騒ぎ』
「私戻ろうか?」
『ゆいが戻りたくなったら戻ってきなさい』
「それずるい」
『あはは、こっちの心配はいいから自分のことを頑張りなさい。友達、できたんでしょ?』
「それはもういいからぁ」
『ま、そのうち帰ってきなさい。体には気をつけてね」
「そっちこそ。じゃ、またね」

軽快な音と共に、通話機能が終了する。
女はお菓子を手元に寄せ、大きく息を吐いた。


スニーカーが床を擦る。

左右上下ガラス張りで外が見えるのに太陽の眩しさを感じず、蛍光灯が無ければ暗闇になってしまいそうな不思議な通路を歩いていた。

 

「いぶこ〜」

「うわびっくりしたあ!」

 

大学内研究室の前で、目的の人物を発見。

後ろからちょいと服の裾を引っ張れば、背筋がピンと伸びる。

相変わらず人混みに溶け込む地味な服装なので、見つけるのに時間がかかってしまった。

 

「今から私とお茶しない?」

「…いいけど、どしたの急に」

「愛の告白かもしれない」

「えっ、えっえっえっ」

 

機能停止した伊吹結香を大学構内のカフェへと非常に、優しく、とても優しくエスコートして連れ出した。

 

 

いつもの部屋で、水音が止まった。

流石に一夜で食材が腐る訳もなく、食器等を蓮子と洗い終えたので一息。

リビングに座り込んだ蓮子は、“結目”の酒瓶を無造作に持ち上げて揺らす。酒も僅かに残っているだけで、チャポチャポと小さく音を立てた。

 

「どうする、これ」

「なんかすごい変な境界が見えるから超触りたくない」

「メリーがそう言うぐらいか…」

「目を貸してあげるから見てみなさいって」

「…うわ、うわうわ!?」

 

酒瓶の上から下に走る境界。

その裂け目はゆらゆらと揺れて歪んでいる。

更にその裂け目の奥にも複数の裂け目が見え、かなり気持ち悪い。

 

「…最初からこんなだった?」

「ぜーんぜん違う。最初は拳ぐらいよ。多分鬼がこじ開けたせいでおかしな事になっちゃったんじゃない?」

「境界って腕力で開くのか…」

「説明しにくいけど、服の綻びに指突っ込んだら大きく拡がっちゃうのと同じ事。境界を開く“力”があれば開くわよ。あの鬼がどうやって開けたかなんて知らないけどね」

 

消臭機能付きの空調機を止め、ゴミを纏める。

掃除と片付けは終わったので帰るために蓮子に声を掛ければ、あまり触りたく無さそうに酒瓶を持っていて。

 

「……別に開かない限り害は無いから落とさないでよね。いいお酒なんだから」

「違う器に入れ換えない?」

「お酒に境界がくっついてくるから意味無いわよ?」

「うーん、まあなんか起きたら酒瓶を即座に投げるね」

「白昼!酒瓶投げ女現る!」

「メリーに」

「白昼!女子大生の殺人事件!」

「犯行理由はなんか怖かったから」

「嫌な動機ね…」

 

扉が閉まり、施錠する音。静かになった部屋の中で、空調機の自動清掃機能の小さな音だけが鳴っていた。

 

 

カフェは意外にも混んでいて、辛うじて座れたものの、いつものような静謐さは無い。

目の前で困惑した表情の結香が、レモンティーに口を付けた。

 

「えっと、何かあった?」

「いや、前回のデートの話を急にしたくなってね」

「うん」

「愛の告白では無いんだけども」

「あ、うんうん」

「ちょっと期待してた?」

「い、え、あっ、そんな事はない!ないです!」

「…静かにしようね」

 

シフォンケーキにホイップクリームを乗せる。

自らの声量を自覚したのか、縮こまった結香を見ながら紅茶を啜る。

 

「前回、どうしてあの店を選んだんだっけ」

「え、黒煉瓦の事?なんかのサイトで見たんだよね。それで行きたかったんだけど…何かあった?」

「んん、んー…サイトかあ」

 

ネット情報という事は、鬼が介入したという可能性が下がった。

否、それ自体が嘘であるという可能性を否定できた訳ではない。

 

「なんかあったの?」

「店主から貰ったお酒がすごく美味しくてね。どこであんないいお店知ったのかなって」

「あれ、お酒なんて貰ってたっけ?」

「もう一回行ったのよ。お酒目当てでハーン達と一緒に」

「なるほどね。なんてお酒?」

「結目ってお酒」

「へぇ!美味しかったんだ!そっかそっか…」

 

嬉しそうに目を細めた結香の表情が不思議で、首を傾げた。

 

「お酒に名前似てるから嬉しかった?」

「ん、そのお酒、私の名前が元になったやつなの」

「…え?」

「私の実家、酒蔵なんだ」

「旧型作ってる、あの酒蔵?」

「そうだよ」

 

暫しの沈黙。

 

「マジで?」

「マジマジ」

 

 

大学の講義が終わり、コンビニで飲み物を買おうとすれば、おにぎり売り場でこいしが難しい顔をしているのが見えて。

 

「へーいお嬢ちゃん。美人だねえ」

「ごめんね後に…なんだハーンか」

「ハーンだよ。何かあった?」

「…悩み事だよ。部屋の片付けは?」

「ちゃんとやったわ。講義があるのは家出るときに言ったでしょ?」

「あー、聞いた気がする」

「もう」

 

珍しく目覚めが悪かったのか、ぼーっとしていたこいしを置いて片付けのために蓮子と朝から片付けに向かったのだ。

伊吹結香に話を聞いてくると言っていたが、鬼との関わりがあったのか、はたまた無かったのか。全く無いならばこいしが悩む事も無いはずで、つまり───

 

「伊吹、どうだった?」

「ちょっと待っておにぎりの具で悩んでるから」

「あっはい」

 

随分と随分な悩み事であった。

 

 

帰路にて、こいしがおにぎりを食む。

 

「伊吹、鬼の関係者じゃ無いと思う」

「あ、違ったんだ」

「少なくとも私があそこに行ったのは偶然で、意識的なものじゃ無さそうだった」

 

こいしがそう感じたのなら疑う事はない。

ならば、あの鬼があの酒から出てきたのは全て偶然だったのか。

 

「伊吹ねえ、酒蔵の娘だって」

「ふーん…なんて?」

 

ぼーっとしていて聞き逃した。

 

「伊吹、酒蔵の娘」

「酒蔵って…あの酒蔵?」

「その酒蔵」

「へぇ」

「すごい顔してるけど大丈夫?」

「すごい顔とか言わないで」

 

驚きすぎればそんな顔にもなる。

 

「なんかポロッと話してくれた」

「軽く話すにはかなりすごい内容ねえ」

 

普段付き合いの中で尋ねる事も無ければ伊吹が言う事もなかったので、今まで知らなかった。

彼女にとってはそれほど重要な事でも無かったのか、はたまたそこまで親しい仲と思われていなかったのか。

多分前者とは思うものの、少しもやもやする。

 

「結目の話をしたら、それ私の名前から取ったやつなんだーって流れでね。隠してたわけじゃないけど自分から話す機会なんて無いからって言ってた」

「あぁ、確かに実家の話なんてする機会滅多に無いものね」

「で、その結目は今どこに?」

「一旦家に持ち帰ったわ。大学に旧型持っていく女だと思われたくないもの」

「風呂上り全裸で彷徨いて酒飲んで挙げ句の果てに私にセクハラ働く女なのは事実でしょ」

「周知の事実では無いから良し」

「良しじゃない」

 

こいしが無造作に袋からおにぎりを取り出し、溜め息を吐きながら包装を剥いて齧り付いた。

もっちゃもっちゃと咀嚼し、やがて動きを止める。

ゆっくりとした動きで包装の印字を見て、それからこちらを見た。

 

目を落としてこいしが手に持った包装を見れば、《期間限定 サイダー味 くっきり炭酸感》の文字。

 

「……」

 

定期的に思うが、なぜ合成味おにぎりを買うのだろうか。

そんな不思議ちゃんな部分もまた、可愛いのだが。

 

「はーん、たしゅけて」

「無理」

 

涙目もまた可愛い。




───衣擦れの音が、女には妙に大きく聞こえた。

「え、貴方、何それ…?」
「あー、ちょっとね」
「ちょっとじゃないわよ。祟り神にでもなるつもり?」
「そりゃあ私に聞かないでくれ───」


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69

酒瓶を前に、若干引き気味なハーン。

先程目を貸してもらって見たが、確かにその反応にもなるだろう。

 

「えー…本当に暴く?今から鬼にクーリングオフとかできない?」

「無理でしょ。どうやって呼ぶ?今どこにいるかもわからないのに?」

「うーん、鬼はいいから取り敢えず蓮子呼ぶか。一旦帰しちゃったけど、最悪どっか飛ばされても蓮子さえいればコンパスになるわ」

 

ぽちぽちと蓮子との通話を開始。

端末のコール音が鳴り、暫し待機。

 

『あい、宇佐見です』

「蓮子今どこにいる?」

『家でご飯食べてるけど』

「今日の晩ご飯は何?」

『普通にパンとインスタントスープだけど…』

「まさか“あの”スープじゃないでしょうね」

『いやあの効率最高スープ』

「信じられない!貴方それでこの前鼻が効かなくなったの覚えてないの!?」

『いやこれ食ってれば死なないじゃん』

「そのスープのネットレビュー見た?栄養満点味零点、劣化合成食を劣化合成した風味、サプリを水に溶かした方がマシって書かれてたのよ!?」

 

すごい言われようである。

ひょっとして私が冒険心で時折買っている合成味おにぎりより酷いのではなかろうか。

 

試しに期間限定サイダー味おにぎりのページを開いてみる。

 

『いつもどおり安心不安定の味(褒め言葉)』

『なぜ米でその味を再現しようと思ったのか(褒め言葉)』

『毎度企画担当者は頭おかしいんじゃないの(褒め言葉)』

『前回より炭酸感が増してて何考えてんだ(褒め言葉)』

 

…よし、完璧な高評価だ。

やはり合成色おにぎりは大人気商品で間違いない。

素晴らしい一体感を魅せるレビュー欄を眺めていれば、ハーンが通話を終えていて。

 

「来るって」

「今から?」

「今から。ご飯作るわよって言ったら二つ返事」

「わあ」

 

自分の事になると何処までも適当になる蓮子と、それを甘やかすハーン。全くもっていつもの光景だった。

 

 

 

 

キッチンから鼻歌が聞こえる。

シチューの甘いような香ばしいような何とも言えない香りが、リビングまで来た。

 

「ハーン、換気してる?」

「え?あ、してない!」

「私のお腹の虫が暴れ出しそうになってるよ」

「あら、じゃあお腹の虫さんにはお皿でも準備してもらおうかしら」

「虫の居所が悪くて出てきてくれないから私がやりまーす」

「ありがとう、助かるわ」

 

食器棚から幾つか受け皿を準備していれば、チャイムが鳴る。

どうせ蓮子だろう。ハーンは手が離せないのでさっさと迎えに行く事にした。

玄関扉の奥には人の気配。鍵を開ければ、見慣れた顔だ。

 

「ごめん待たぐぇ!」

「うわごめん」

 

ワイヤーフックが掛かったままだったため、蓮子が初動に失敗。

開く筈だった扉に、つんのめるようにして顔をぶつけた。

 

「うぅ…可愛い可愛い蓮子ちゃんのおでこが…」

「ごめんね、ワイヤーの事すっかり忘れてた」

「血とか出てないよね?…待ってめっちゃいい匂いする」

「おっと腹の虫二匹目が出現した。早く入って、準備できてるから」

 

靴をぽいぽいっと脱ぎ捨てて、荷物を下ろし。

リビングまで二人で行けば、さらに濃厚な良い香り。

キノコが見え隠れする美味しそうな乳白色が、小さな鍋になみなみと入っていた。

 

「手ぐらい洗いなさいよ。ご飯はそれから」

「はーい」

 

元気よく返事した蓮子がキッチンで手を洗うのを横目に、ソファに腰掛ける。

遅れて蓮子がカーペットに直接座り込み、手を合わせた。

 

「「「いただきます」」」

 

受け皿にキノコシチューを掬い入れる。

深めの木製スプーンで口に運べば、濃厚な甘さにも近い味。

キノコが多めに混ざっているお陰で、食感も楽しい。

 

「あ、マカロニ入ってる」

「更に食感を楽しくね。キノコも結構な種類入れたのよ?」

「えーっとシメジにエリンギ、エノキにマッシュルームも入ってる?」

「わかんないわ。キノコの盛り合わせパックが売ってたから適当にドバドバ入れたの」

 

歯を動かせばキノコ類のコリコリ、フニフニ、モフモフと異なった食感が連続するため、噛むのが楽しいシチューだ。

時折キノコに混ざったマカロニのもっちりとした食感が、アクセントとなるため飽きが来ない。

キノコは噛むたびに味と香りが発生するため、口内で次々と変わる味もとても楽しい。

 

「そういえばキノコって数少ない非合成食材よね」

「一部キノコは違うけどね。大量栽培に成功したから合成キノコを作るなんて話が出なかったってやつでしょう?」

「そうそう、コストに見合わないし栽培の方が安上がりって結論が出たのよね。トリュフとかキヌガサタケとか…マツタケとか、そういった高めのキノコは大量栽培法より合成食で安価に食べようってなったけどね」

「で、生の方が衰退していったと」

 

ハーンと蓮子の話を聞き流しながら、器にもう一杯掬い入れた。

数度口に運んでいるうちに気がついたが、マカロニも数種類の形が入っており、筒、リボン、捻れと全く違う食感が楽しめる。

シチューの味を吸い、柔らかながらしっかりと食感を楽しむことができる程よい固さが歯に応えてきた。

ほんの僅かな塩気と、ミルクとは違う小麦粉の甘み。

それがまたキノコとよく合い、歯と喉がよく動く。

 

「───合成食は安いからね。でも栽培してる人が合成食の権利を買い取った件も沢山あるでしょ?なんだっけ、ブランド品の…」

「メロンね。糖度と味を参考にして実物に近づけた合成食は盗品に当たるって判決が下された有名なやつ。生まれる前だからあんまり詳しくは知らないけど…」

「それ以来各合成食の味が落ちたって言われてるのは研究職務の怠慢かしら」

「今じゃあ美味しい合成食はブランドに紐付けられてるからね。効率ばかり重視する研究者は良し悪しといったところね」

「あら、さっき聞いた様な話だわ?」

「…効率重視スープは栄養完璧だから」

「他がダメすぎるのよ研究者気質さん」

 

つんつんと、ハーンが蓮子の鼻を指で突いていた。

 

それはそうと鍋底はキノコがより多く沈殿しており、味も濃い。

狙うは鍋底ギリギリだ。

 

「…こいし、そんなに美味しい?すごい勢いだけど」

「これ超好き!」

「そう?良かったわ」

 

シチューの味に満面の笑みを浮かべていれば、部屋端で充電していた端末が振動する。

連続する振動はただの通知ではない。通話の呼び出しだ。

近くに座っている蓮子に取って貰えば、何事だろうか。

 

───伊吹結香からの、着信だった。




酒瓶が並ぶ。
それぞれに中身は無い。否、正しくは中身が無くなった。

拒否しても拒否しなくても、一方通行なのは変わらない。
それは透き通る様な、澄んだ味だった───


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70

ハーンがこちらの端末を覗き込む。

 

「彼氏?」

「伊吹」

「彼女かあ…」

「はいはい」

 

応答のアイコンをスライドし、テーブルに置いた。

 

「もっしもーし。今日のご飯はキノコシチュー」

『えっ』

「こちらは、おにぎりのサイダー味が好評でご機嫌の古明地こいしです。ご用件の方は、ピーと音が鳴った後にご用件をお話しください」

『えっ』

「…」

『…』

「……」

『……』

「………」

『………』

 

キノコシチューを無言で食べる。

底に近い方は味が濃く、沈殿した具が多い。

味に舌が慣れてしまったところに感じる濃い味は、シチューをより味わうことができる。

 

水を一口。

 

口内の“味”を洗い流せば、次の一口は驚く程濃く感じるもので。

キノコも、マカロニも、新しい味のように感じる。

食事と水は切り離せない。口内を無味で洗い流す行為は麻痺した味覚を元に戻す。味覚の公正液とも言えるだろう。

小さな麦パンなどと組み合わせれば奥歯などに残る味を吸わせた後に水で流せるため、更に口内の公正が確かなものとなる。

 

パン…パンが欲しくなってきたな。

 

「ハーン、パンある?」

「伊吹との通話は?」

「あっごめん」

『えぇ…』

 

美味しすぎるキノコシチューがいけない。

 

「伊吹もそう思うよね!」

『えーっと、えーっと…?』

「今テンション高くて頭おかしいから気にしなくて良いのよ」

「頭おかしいとはなんじゃあ!」

『ハーンさんも近くにいるの?ご飯中だった?』

「美味しく三人でキノコシチュー食べてた。なんかあった?」

『いや、えっと…おかしな話があってね。待って三人?』

「宇佐見蓮子もいるよ。今…今何してんのそれ」

「シチューの上澄みを掬うベテラン職人の真似」

「そんな職人はいない」

 

そんな下らない会話をしていれば、端末から息を吸う音が聞こえた。

緊張を僅かに孕んだ事すらわかってしまうほど明瞭な音質。

その雰囲気に、三人揃って手を止めた。

 

『その、作り話…って思って貰って構わないんだけどさ』

「うん」

『瞬間移動とかタイムスリップって信じる?』

「えーっと、蓮子」

「瞬間移動はまだ無理。質量保存の法則の話になってくるんだけど瞬間移動について最近はまた原子交換論が上がってて…うん、この話は長くなるからやめとこうか。で、時間移動に関しては…」

 

鬼の事を思い出したのだろう。

暫く上を向いて額に皺を作った蓮子は、ハッとした顔で頷いた。

 

「時間移動は!できてない!」

「そんな元気に言わなくても分かるから」

「伊吹はなんでそんな事を急に?」

『…酒蔵の娘っていうのはこいしには話したよね。ハーンさんと宇佐見さんには、初めて言うけれど』

 

ハーンは知っていたのでそれほど反応はしないものの、蓮子は目を見開いた。

私と端末を交互に見るので、人差し指を唇に当てる。

 

「はいはい。で、酒蔵がどうかした?」

『暫く前にニュースになったと思うんだけど、うちからお酒が五本盗まれたの。商品じゃなくて、奉納のための御神酒だったんだけど…』

「蓮子と話したわね。セキュリティを抜けて証拠すら残さないなんて本当に人間かしらって言った覚えがあるわ」

「メロンソーダの時のやつね。覚えてる覚えてる。覚えてるよね蓮子」

「ごめんって」

「でも伊吹のところのだったんだねえ。もしかして本当に人間じゃなかったとか?」

 

冗談半分の言葉に、真剣な声音が返ってきた。

 

『カメラの映像を確認したら、消えたの。パッとね』

「…はい?」

『まるで最初からそこに無かったみたいに、パッと消えたのよ。酒瓶ごと』

 

ハーンと顔を見合わせた。

 

「カメラの故障とかじゃなくて?」

『映像が掠れてて復元に時間が掛かったんだけど、いざ復元してみたら本当に、突然消えてたの』

「…どうして私と通話を?」

『こういう時、こいしぐらいにしか相談できるような人がいなくて…』

「私?うーん…ハーンはどう思う?」

「それ私達より警察とかに渡したほうが良くないかしら?」

『商品用の監視カメラじゃなかったから、安い映像カメラでね。再生時間を弄られてる可能性があるって警察の人が判断したたんだけど、私は何かおかしいなって思って』

「…なるほど」

 

キノコシチューはいつの間にか無くなっており、鍋を洗浄装置に入れたハーンが紅茶を淹れ始める。

私がチョコ菓子を準備すれば、蓮子は腹を撫でながら寝転がった。

 

「寝てすぐ寝ると牛になるわよ」

「反芻しちゃいそう」

「絵面最悪だからやめてよね…」

 

ゆるりとした食後の時間。

端末に向き直り、チョコ菓子を摘む。

 

「デザートは栄養補給という意味もあるらしいけれど、私達に足りない栄養が補給できるかしら」

「伊吹、話を詳しく聞かせてよ」

 

胃が満たされても、まだ足りず。

これから“お腹いっぱい”になるかは、まだわからない。



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71

蓮子は頭の下にクッションを敷いて寝転がる。

既に眠いのか、目は半分ぐらい閉じていた。

 

「酒蔵の内部はあんまり言えないんだけど、こう、神様を祀ってるその…場所?棚?に御神酒を捧げるの。昔は四種類のお酒を奉納してたらしいんだけど、色々略式化して今は五種の人気酒を納めてるのね」

「神様も喜びそうね。酒造に関わる神…酒解神、大山津見神だったっけ」

『ううん、うちが祀っているのは七首大明神様』

 

ハーンがふんふんと頷いているが、私としては初めて聞く名だった。

神道は神が多いので、流石に全てを知っている訳でも無いのだが。

土地神や産神などの類だろうか。

 

「なんか物騒な名前ね。頭が7つある神様なの?」

『私も詳しくは知らない。でもお酒が大好きな神様とは昔からよく聞いてたの』

「ふーん。なるほどね。で、その神様に供えてた五本のお酒が消えちゃったと」

『神様のお酒を盗むなんて罰当たりなんだけど、どうも盗まれたって感覚じゃなくって』

「と言うと?」

『その場所まで入れたなら、もっと価値あるものが沢山あったの。何とは言えないけど、お酒よりは高い価値のものがね…』

 

伊吹の不思議そうな声が部屋に響く。

要するに、と口にしながら蓮子が起き上がった。

 

「口を挟むけど、酒蔵のセキュリティを突破する技術力があって、商品や高価なものを盗める可能性がある中で、なぜか御神酒を選んで取ったって事でしょう?」

 

それはどういうことか。

私が訊くより先に、ハーンがその言葉を継ぐ。

 

「つまり、“御神酒を盗る理由”があるって事ね」

「ま、これはあくまで本当に盗まれたのならの話だけど」

『…うーん、でもそれなら御神酒だけ取っていった理由になるのかあ』

「私達にわかるのはそこまでね…」

 

蓮子は眠そうな顔のまま再度寝転がった。

眠気に勝てないらしい。

むにむにと言葉にならない音が唇の隙間から漏れていた。

 

『そっか、でもちょっとスッキリした。話聞いてくれてありがとね』

「大変だとは思うけど、なんと言うか、頑張ってね」

『うん、じゃあ…切るね』

「はーい」

 

通話は終了し、ゆっくりと頷く。

 

「なにしようとしてたんだっけ」

「さあ…」

「あ、そうだそうだ。七首大明神調べようとしてたんだ」

 

聞いた事が無かったので、気になっていたのだ。

ハーンも気になっているようで、私の端末を渡す。

七首とまで打ち込めば、予測検索欄に大明神と出てきた。

そのまま検索すると、酒蔵のサイトが出てきて。

 

「えっと、八塩酒蔵。伊吹のところのかな?」

「多分そうなんじゃない?ハーンほら、見せて見せて」

「これ普通に酒蔵の公式サイトね。七首大明神についての情報サイトは…無い…?」

「え、無いなんてことある?」

「なんだろ、何かに紐づけられてるか、まだデータサルベージされてない情報かな」

「データサルベージ…?」

「あぁえっとね───」

 

昔、インターネットに載っていたデータの欠落が発生した。

各国から“大規模なネットワーク障害が発生した”という声明が出された以外に、詳細な情報は無い。

国によるサイバー戦争、インターネットの情報を保管するサーバーにテロを仕掛けた団体がいるなどの噂は見られるものの、異常な事に“未だ何の情報公開が無い”のである。

世界の誰とでも繋がる事の出来ると言われた時代通り過ぎて尚、真相を知る人間すら誰が公表されていなかった。

 

失われたデータの復元は殆ど終わっているとされるが、未だ失われたままのデータもある。

 

「ん?あ、情報あったあった!随分下だな…えーっと…何々、神の血を引く者が首を断たれ、それぞれ違う神と化した。首を断たれた後、断面から首が七つ生えた。それが七首大明神と呼ばれ祀られている…いやどんな神よ」

「神道はよくわかんないからそこはいいけどね」

「権能は健康に関する事みたい。お酒が好きだって」

「そんな神いたっけなあ」

「書いてあるって事はいるんじゃない?ちょっとシャワー浴びてくるから調べてみなよ」

「そうする」

 

着替えも持たずに脱衣所へ突入したハーンを横目に、情報を見る。

神としては新しいようで、古事記と日本書紀に記載は無い。

人に祀られて神と成った存在らしい。

 

「…神社が、無い?」

 

ふと気になったのは、七首大明神の神社が無い事だった。

ただ、記載されていないだけで、もしかしたら“あった”のかもしれない。

神社が無くなっているのは、そこまで少ない話では無いのだ。

 

「首が七つねえ。八岐大蛇じゃあるまいし」

 

参考文献や出典などが全く示されていない不十分な情報と書かれているページを閉じ、他に情報は無いか調べてみる。

 

「神宮本庁の崩壊…?何してんだ全く…」

 

ふと気になったサイトが出てきたので開いてみれば、神宮本庁の腐敗化と各神社の神主不在による宙ぶらりんな状態の長期化により事実上の崩壊と言える、との文字。

神を望み神を祀り神に願う存在であった筈の人が、宗教として管理した結果としてはありきたりな結果と言えるだろう。

神はいる。ただ、人はそれに願い祈り言葉にして形に落とし込んだ。

ただ、時代を経るにつれ、信心は薄れ概念も薄れていき。

 

残ったのは形だけで、その形すらも端から崩れていく。

 

人の寿命は短いからこそ、よくある話だった。

 

「……」

 

なんとも言えない気分で、蓮子の寝顔を見る。

いつもと違い、何も考えていない寝顔はとても可愛らしい顔だった。

 

───あっカーペットにヨダレが。

 

見なかったことにした。



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72

目が覚める。

朝の日差しと、ハーンのもっちりとした肌の感触。

 

起き上がるために腕をどかし、離したく無いとばかりに伸びてきた手にその辺にあった小さなモップを掴ませる。

 

「…ぁーこいし毛深くなった…?」

「……」

 

寝惚けたままモップを撫で回すハーンを見下ろし、深呼吸。

寝起きとはいえ、一瞬で目が覚めた。

キッチンの方で紅茶を淹れ、モーニングティーを味わう。

 

一杯。僅かに苦味が出てしまった味を喉に入れ、大きく頷いた。

飲み終わったカップを手に、モップを撫で回すハーンの前で笑顔を作る。

 

「おはよう」

「あっづづっざぁ!!!!?」

 

胸に先程まで熱々の紅茶が入っていたティーカップを押し当てた。

モーニングティーは中身とカップで目覚ましに二度使える。

うんうん、なんて便利なのだろう。

 

 

「えーっと…ごめん眠くてうろ覚えなんんだけどシチュー余ってる?」

「おはよう蓮子。玄関はそっちだよ」

「ねぇー!そうやってすぐ追い出そうとするー!」

「私とは体だけの関係だったのね!?」

「状況がグチャグチャすぎる」

 

酷いことになっている食卓の会話。

朝食はトマトスープとトースト。昨晩の残りか、キノコが沢山入っていた。

 

「休日だけど、どうする?境界暴く?」

「そんなコンビニ行くみたいなノリで…」

「邪悪な感じがしないのよね、お酒の境界。見た目が超気持ち悪いけど」

「超気持ち悪いのが問題では」

「うーん否めない」

 

トーストをもそもそ食べながら、ハーンはちらりと床の酒瓶を見る。

彼女の目には、奇妙な境界が見えているのだろう。

私には、ただのお酒にしか見えないが。

 

「ねえ蓮子、酒瓶取って」

「おっ昼から飲酒たあ気前がいいねえ!」

「宇佐見蓮子のちょっといいとこ見てみたい!そーれイッキ!イッキ!」

「いつの間にか攻守逆転している件」

「攻守どころか加害被害のレベルだけどね」

 

そう言いながら酒瓶を渡してくれたので、少し揺らす。

蓋を開けて匂いを吸い込めば。

 

「ま゜」

 

強い刺激臭に、呼吸が止まった。

心臓も止まったかもしれない。

 

「んげ、ッば、ゴホ、なんだこれ!?」

「え?何こいし、毒でも吸った?」

 

くい、と瓶口を蓮子の鼻の前に突き出す。

 

「ぬ゜」

 

鼻いっぱいに素敵な香りが広がったのか、蓮子が息を詰まらせた。

強い酒の匂いだ。それも、日本酒の微かな甘いような言い表し難い匂い。

 

「これ、中身が違う。結目じゃない」

「匂いに覚えがある…鬼の…鬼の酒だこれ…」

「うわあ、この距離でも匂いがする。部屋がお酒臭くなりそう」

 

空調を点けて換気を始めたハーンが、酒に蓋をする。

 

「ひょっとして、結目の中に鬼の酒が入っていたから境界の中に境界が見えていた…?」

「じゃあ奥の境界は───」

「…鬼の、境界ね」

 

ハーンは酒瓶をテーブルの中央へ置くと、トマトスープを啜った。

目を瞑ってゆっくりと瞼を上げ、金の瞳で酒を見る。

 

「沢山ある中で暴けそうな境界の数は、2つ。…それ以上は無理」

「無理って、メリーならなんでも開けるんじゃないの?」

「うーん、私よりすごい力で潰された境界は、見えるけど暴けないの。開くには力が足りないわ」

 

鬼も鬼でなんらかの力があるのだろう。

パンにバターを塗り、少し焦げた表面を齧る。

脂っぽい甘味と焦げの苦味が食感と合わさって美味い。

 

「…どうするメリー、暴いてみる?」

「そんなワクワク顔で伺われても困っちゃうわ」

「あら、顔に出てる?おっかしいなあ」

 

鬼がひょっこり出てきたことで蓮子の恐怖心は無くなってしまったらしく、ハーンに笑いかけた。

その笑顔は男児のような、好奇心に溢れている。

 

「…はあ、蓮子って馬鹿よね」

「おっと聞き捨てならないな。馬鹿という認識の定義は人によって違うでしょ?もしも知能的な事を指して馬鹿と言っているのであれば私はそれを否定しなければいけない」

「賢い人は危険な事をしないのよ」

「ん、じゃあメリーも馬鹿だね」

 

言われて気がついたのか、暫く宙に視線を彷徨わせ、ハーンは困ったように笑った。

 

「確かに」

「よし、じゃあ馬鹿同士で境界の奥を見てみようか」

「ちょっとお二人さん、熱くなってるところ悪いけど手元は冷めていってるよ」

 

二人の湯気の昇っていたトマトスープはいつの間にか常温に戻り、トーストも冷えてなんとも言えない状態になっていて。

 

「…冷めちゃったかあ」

 

温かいうちに美味しくスープとトーストを胃に収める事ができたので、酒瓶を揺らしながら二人がスープを温め直すのを眺めていた。

 

スープは、会話で熱くなってはくれないのだ。



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73

証明無き血統【前編】です。
トリフネに関する話は鳥船遺跡を、
善光寺に関する話は伊奘諾物質を参照ください。


部屋着から外行きの服へと着替えたこいしが、室内で靴を履いて酒瓶片手に仁王立ち。

 

「よし」

「よしじゃないが」

 

絵面が最悪なものとなっているが、当の本人は気にした様子もない。

蓮子は食器を戸棚に戻しながら、酒瓶を見ていた。

 

「誰かを酒瓶で殴りに行くの?」

「日本の伝統芸能じゃん」

「そんな伝統は無い」

 

酒瓶の中身が揺れるたびに、境界の奥の境界も一緒に歪む。

見ているだけで酔ってしまいそうだ。

アルコール的な意味では無く、三半規管的な意味で。

 

「じゃあ境界、暴くわよ。何かあったらすぐに戻ってくるから落とし物なんてしないでね」

「おっとポケットから私お気に入りのゲテおにぎりが」

「万が一トリフネみたいなところに繋がってそれを落として拾えなかったら、後世で大騒ぎになるからね。まさかここにこれを常食としている味覚と頭のおかしい奴が訪れていた…?って」

「言い過ぎでしょ」

 

私と蓮子はこいしから目を逸らした。

多分それを好んで毎度買うのはこいしぐらいしかいないのではないのだろうか。

コンビニ店員兼設備メンテナンスの人も、最初は罰ゲームかと思ったのか微笑ましい目をしていたものが段々とまた買うのか…?という目に変わっていき、最近では笑顔に戻った。真相は謎。

 

「ポケットにいらないものを詰めない事。ボールペンとか役立ちそうなものぐらいにしておきなさいって」

「じゃあ十億徳ナイフ持って行くね」

「それは…何?万能超えて億能なナイフ、多分概念的なものが含まれているわね?」

「これを持っているだけで魂が救われます」

「その機能を期待してそのナイフを買っちゃう人がいたら、多分買い物のセンスが無いと思うのよね」

 

馬鹿を言えば、緊張感も薄れるものだ。

境界の奥。歪む境界をこじ開けた。

鼻に吸い込んだのは、湿った土の匂い。

 

「おう、待ってたよ」

「…えぇ、普通にいる…」

「伊吹萃香の境界へようこそ」

 

森の中なのか、木々に囲まれ薄暗い。

切り株に腰掛けた青年が、ゆっくりと立ち上がった。

鬼の面で顔が隠され、表情は窺い知れない。

 

しかし、声に覚えがある。

鬼の声だ。

以前見た頭横の角は無く、緩く着崩した着物は赤の色。

 

「ここは…」

「どこかの山さあ。どうだ、煩いだろう」

 

遠くから、太鼓の音が聞こえている。

人の声と時折混じる笛の音。

明らかに現世では無い。

 

「…遥か昔に失われた風景さ。どうだい」

「なんというか、澄んでいる…?」

「この風もこの土も、もうどこにも無いものだ。澄んでいると思ったのなら、そういうものなんだろ」

 

鬼…否、青年はゆっくりと酒瓶を取り出した。

硝子製の瓶が、周囲の古い景色から浮いて見える。

お猪口に注がれた酒が、三人に差し出されて。

 

「名は“口吸”。一口ずつ飲みな」

「怪しいから帰っていい?」

「もう遅いよ」

「う、ん…蓮子、こいし、落ち着いて聞いてね。鬼に閉じ込められたみたい」

「人聞き悪い事を言うんじゃあ無い。酒を飲んで欲しいだけだ」

「…怪しすぎる…」

「交渉は苦手だが嘘はつかない。危害なんか加えないさ。ほれ」

 

渋々三人ともお猪口を受け取る。

口内に含めば、香りは甘かった。

味は独特。喉に来る辛みはさほどでも無い。

 

妙に、目が熱くなった。

蓮子は普通に味わっているが、こいしは顔を歪めて宙を掴んでいる。

 

「何、を」

「まずは、一本」

 

浮遊感。

 

足元を見れば、三人を飲み込むように境界が開いている。

私の力ではない。

 

「まだ、一本」

「ぐぅうううう…!」

 

こいしの呻き声を横に、石畳の硬さを踏んだ。

周囲を見渡せば何処かの寺の前。

木材は朽ちておらず、綺麗に掃除が行き届いている。

つまり“確実に”現代ではない。鬼の心情風景だろうか。

 

「…う、うぅ…目が熱い」

「メリー、こいしも大丈夫?」

「私は大丈夫。こいしは…」

「今は大丈夫。さっきだけこう奥がぐわっとぐわわわみたいな」

「とにかく無事なのね?」

 

こいしが不思議そうに首を傾げる。

───しゃりしゃりと、石畳を擦る音がした。

 

「やあ」

「また出た」

 

恐らくは、男児。

中性的な顔立ちなので不明だが、資料で見るような古い日本の着物を身に着けている。

声は全く違うが、今度の姿には角があった。

 

「さっきのは何」

「お酒だよ。日本酒は嫌いかい?」

「…」

 

完全に警戒の眼差しになったこちらを気にせず、鬼はまた懐から酒瓶を取り出した。

 

「ここは、どう見える?」

「お寺…こんなに綺麗なのは初めて見たわ」

「綺麗と言うか、ここのお寺は新しいのよね。メリーと以前見にいった善光寺と違って木材の色が違う」

「そりゃあ、違うだろうさ」

 

どこか懐かしそうに寺を眺め、鬼が鼻を鳴らす。

鬼にとってこの寺がどのようなものかは分からないが、無関係という訳でも無さそうで。

ひょいと差し出された升には、なみなみと酒が入っていた。

 

「名は“鬼切”。なんだってこんな名前なんだろうねえ」

「自虐?」

「───ひょっとして怨恨かもなあ」

「誰からの?」

「町娘」

 

言葉は短く、鬼は口を噤む。

升を受け取ると、鬼は私の目を覗き込んだ。

酔いが回ってきているのか、頬が熱い。

受け取った升の中で、透明な液体が揺れている。

 

「ほれ、ぐいっと」

「…じゃあ、いただきます」

 

喉に来るのは辛み。

香りも強く、鼻に抜ける慣れない香りに目が潤む。

 

目が、疼く。

奥が蠢くような、妙な感覚が生じていた。

 

「そして、二本」

「…!」

 

足下に開いた境界に落ちる。

踏んだのは、木材の硬さ。

どこかの街並みの、食事処の中だろうか。

───それにしては誰もいない。木組みの建築と段差の上に敷かれた茣蓙から察するに、店自体はかなり古いものだろう。いつの時代なのかすらわからない。

樹海でお世話になった【蕎麦処 鈴】のような雰囲気だった。

 

屋外からは、雑多とした生活音が耳に入ってくる。

 

「…ねえメリー、これ途中で帰れないの?」

「うーん、無理というか、私が開けない境界に迷い込んじゃったみたい」

「なんじゃそりゃ」

 

周囲の景色が珍しいのか写真を撮ろうとするこいしから端末を取り上げながら、蓮子にどう説明しようか考える。

 

「境界の中の空間から、別の境界の空間に移動しているような状態なの。要するに私の力じゃ出口が開かない空間にいるのよ」

「はいはい理解。道筋を戻るのは?」

「…できるかわからないかな」

「まあ安心してくれや。危害なんて加えねえからよ」

 

店へ、長身の女が入ってきた。

性別は違うが、少しばかり大人びた鬼の顔と声だ。

着崩した青の着物は、艶やかだが下品では無い。

かと言って上品さもなく、豪快と表現するのがピッタリだろう。

 

引き戸だったため、女が顔横に伸びる角を引っ掛け、戸が破壊される。

豪快な音を立てるも、店の外から誰かが入ってくる様子も無く、店の奥から人が顔を覗かせる事も無い。

 

「んあ、やっちまった」

「ちょ、えぇ…」

 

気にした様子は無く、鬼は茣蓙へと上がり込んで座った。

ちょいちょいと手招きされたので、三人揃って靴を脱ぎ茣蓙へと上がる。

蓮子もこいしも、酒気が回っているのか顔が赤い。

私も、目の先がぐらぐらと感じていた。

 

「女にもなれるの?」

「ん、稗田の資料が焼けたからな。姿が不定になっちまった」

「…?」

「あぁ、男にも女にもなれるさ。妖怪に性別なんざ無いんだよ」

 

居心地の悪そうに頬杖に頭を預け、溜息を吐く。

そんな鬼の姿に、少しばかり見惚れてしまった。

 

「…で、何をさせるつもり?」

「酒を飲んでもらいたいだけだ。それ以外は望まん」

「わからないけど、信じるわ」

「鬼に横道は無い。安心して飲んでくれや」

 

酒の入った木の器がテーブルの上に置かれた。

誰が置いたのかはわからない。気がついたら“置かれていた”のだ。

升より浅くお猪口よりは深い。

よくわからないコップのようなものに、鬼は酒を注ぐ。

 

「名は“神便鬼毒酒”。確実に恨まれてんなあこれ」

「私はよく知らないけど、毒の酒なの?」

「毒なんか入ってりゃしないさ。飲むやつ次第だがな」

「そのお酒が毒になる人もいるってことかしら」

「…神便鬼毒酒は、鬼にとっては嫌な酒なのさ。人にとっては、ちょっと美味しすぎるかもしれんがな」

「あはは、ハーン、飲んでもいいんじゃない?」

「…こいし?」

 

振り向いて、目を疑った。

“境界が見える”。

こいしの頭部に、ほんの小さな小さな境界が在った。

 

それは、その境界は。出会ったばかりの頃に見えた、あの境界だった。

気がつけば一緒にいるうちにいつの間にか閉じてしまっていて、それを思い出せず、“忘れていた”ような境界。

 

「…飲んだ、お酒のせい…?何、これは…」

「気にせず、飲んでみればいい」

 

鬼は、ただ笑っていた。



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74

証明無き血統【後編】です。
作品内に登場するお酒を、実在するお酒並びにメーカーと結び付けて感想で出すのはお控えください。よろしくお願い致します。


こいしの頭部に、境界が見える。

境界の奥は空っぽで、何も無い黒の色。

 

「…このお酒、何かおかしい」

「どこがおかしいんだい?」

 

少しばかり困った顔で、鬼は言う。

酔った頭では上手く言葉にできないが、おかしいものはおかしいのだ。

蓮子も、コップに伸ばしていた手を止める。

 

「あなたは、嘘をつかないんでしょう?」

「そうさ、鬼は、私は、伊吹萃香は…嘘を嫌う。ちょっとは、言うかもしれないがな」

「じゃあ質問するわ。私達の事を、騙そうとしてる?」

「いいや、騙す気はない」

 

即答だった。

ただ、答え方が少し気になった。

 

「私達が騙される可能性はあるのね」

「そうだな。私は騙す気なんてないが、勝手に騙される事もある」

「…私に隠し事をしている?」

「ああ、しているとも」

 

鬼の瞳は、どこまでも真っ直ぐである。

あまりにも強い視線に、思わず目を逸らした。

この境界を見る瞳が、鬼の瞳の奥に何かを見て、畏れたのだ。

 

「ただ、危害を加えない事に変わりはない。それだけは変わらない」

「質問は、まだしていい?」

「そのお酒を飲んだらね」

「…蓮子、こいし」

「はーいよ」

 

ぐい、と酒を煽る。

 

「いいねえ、3本目だ」

 

目を閉じれば、倒壊しそうな鳥居が目の前にあった。

鳥居の片側は朽ちており、奥に見える寂れた神社に人気は無い。

神社周りに鬱蒼と生い茂った木々が、酷く不気味に見えて。

 

「蓮子、太陽を見て何かわかる?」

「…方角がわからないから何とも言い難い。でも天頂に近いし昼頃なのは確か。星が見えないから場所までは無理」

「せめて夜だったら良かったわね…」

 

境内は雑草が茂っており、人が立ち入った形跡すら見当たらず。

もはやここが、現実なのか境界の中なのかすら区別がつかない。

酔いが進み、どうにも頭が回らない。

 

───ガランガランと、下駄の音。

 

「おう、質問いいぞ!」

 

豪快な声で登場したのは、童女の姿をした鬼。

和服を着ているものの、何故だかあまり似合わない。

真横に伸びた角は、先程見た大人の姿よりも若干短かった。

 

「ここはどこ」

「わからん」

 

これもまた、即答であった。

 

「多分私が関係する神社だろ。又はこの酒に関係するところかな」

「…今度のお酒は何?」

「名は八塩折之酒。八岐大蛇を倒すために作られた酒と同じ名前さ」

 

酒瓶が、目の前に差し出される。

手に取れば、ラベルに“八塩酒蔵”の文字が見え。

酔った勢いで、ふとした疑問がそのまま口から出る。

 

「ひょっとしてこのお酒、御神酒?」

 

鬼は、笑顔のまま固まった。

 

「…そうだよ。これは、神に捧げられた酒だ」

 

ああ、では、当たっていたのだ。

やはり酒を盗ったのは、人では無かった。

 

「どうやって盗んだの」

「失礼な事を言うんじゃない。これは私の…いや違うか。勝手に私に押し付けられた酒だよ」

「どういうこと?」

 

鬼は神社の方にドカドカと歩き出し、賽銭箱に座り込んだ

 

「こっちおいで、酔って立ち話も嫌だろう」

「わーい」

 

こいしは酔っているのか、妙にテンションが高い。

頭の境界が先程よりも大きく見えるが、視界がぼんやりしているのでよくわからなかった。

 

賽銭箱の前で一礼し、神社の(きざはし)に腰掛ける。

鬼は瓢箪を咥え、居心地が悪そうに座り直した。

 

「その酒を作った酒蔵はなあ、何を間違えたのか私を神として祀っちまいやがった」

「───七首大明神の話かしら」

「やめろやめろ、そんな神なんざ“どこにもいない”」

 

鬼はどこからか取り出した木製の杯に八塩折之酒を入れると、三人に手渡した。

 

「話を聞くのに酒の一つも無いんじゃつまらんだろう。飲みながら聞けばいいさ」

 

礼を言い、酒を受け取ろうとすれば、ひょいと杯が隠された。

 

「礼を言わないでくれ。酒を味わうのはいいが、礼を言われちゃ困る」

「…そういうものなの?」

「あぁ、そういうものなのさ」

 

今度は無言で受け取る。

満足そうに頷いた鬼は、自分の瓢箪から酒を煽り遠くを見た。

 

「…七首大明神は、嘘の塊だ。そんな神はいないし、首を絶たれて七つの首が生えた鬼なんかもいない」

「鬼…?神の血を引く者としか聞いてないけど、そう言われている鬼と、知り合いだったの?」

「気付いているだろう、お嬢ちゃん。その首を斬られた鬼が私なのさ」

 

どことなく、気付いてはいた。

先程の自らが祀られたという話から、殆ど確信に変わっていた。

 

鬼は、ゆっくりと首を撫でる。

 

「首を斬られた私は、死んだ。人に騙され、鬼として死んだんだ」

「今、目の前にいる貴方は何者かしら」

「ここに居るのは伊吹萃香さ。あの頃呼ばれていた名の鬼は死んだが、妖怪は一度死んでも“無くなる”訳じゃない」

 

どこか懐かしむ鬼の顔には、寂しさと、微かな怒り。

その目には、どのような情景が映っているのだろうか。

 

「…話を戻そうか。ある日、私は境界の中から顕界に出てきた」

「私が境界を暴いた時の事かしら」

「そうだね。あの時は境界の中から開ける者を探していた。そこでお嬢ちゃんが引っかかった訳だが、顕界に出てきた時、私の体に異変が起きたんだよ」

 

鬼は腕を組み、大きく息を吐く。

 

「気色悪い神力が纏わりついたのさ」

「神力…?」

「要するにこんな時代のこんな宗教衰退一直線の世の中で、何をどう間違ったのか私を信仰する奴がいたのさ。それも、“嘘”を信仰していやがった」

 

少しばかりの間。

杯が揺れ、酒を持っている事をふと思い出した。

啜ってみれば、意外にも果実の香りが鼻を抜ける。

 

「恐らくは私に流れる伊吹の血…八岐大蛇の話を織り交ぜて嘘を吐いた奴がいて、誰もその嘘を嘘だと見抜けなかった」

「…嘘を嘘だと見抜けないなんて事、あるのかしら?」

「それがあるのさ。例えば、“真実が空白になった時”とかにね」

 

ため息混じりの鬼の言葉に、目を見開いた。

データ欠落のタイミングで嘘が織り交ぜられた話は時折聞く。

大概は元データのサルベージによって真偽が見破られるものだが───

 

「失われた真実の穴は仮想と想定で埋まっていく。その埋まった場所を違うと言えるのは、“真実を知る”者だけなのさ」

「誰かの嘘が、嘘だとわからなかった…」

「ま、嘘とは断じられないが、間違いが真実と成ってしまったのは事実。お陰で訳の分からない神力が私に回ってきちまってね」

 

瓢箪を煽って喉を鳴らし。

鬼はゆっくりと立ち上がった。

 

「だから私は、信仰を突っぱねる事にした」

 

階に、境界の線が伸びる。

 

「さあさあ4本目。次で、最後だ」

 

暗転。

最後に降り立ったのは、見慣れた一室だった。

マンションの、初めて鬼と出会った一室。

 

そこに、鬼はいた。

最初に出会った時と同じ、少年の姿。

服装は、着物ではなく現代風だ。

 

「最後は、ここになったか」

「ここは…現実…」

「いいや、まだ境界の中さ」

 

酔いがかなり回っているせいか、鬼の声が少し遠い。

 

「最後の酒は、もう分かっているだろう?」

「う、ん。結目ね」

「そうとも。名は結目。これが最後だ」

 

ガラス製のグラスに、結目が注がれる。

こいしも蓮子も、酔いのせいか口数が減っていた。

 

「質問は、まだいい?」

「あぁ、いいとも。答えよう」

「どうして、境界の中に私達を呼び込んだの」

「…答えは、現実じゃ“権能が使えない”からさ」

 

意味がわからない。

意味がわかるほど、思考が働いていない。

ただ、目の前の酒を飲んだ。

そうすればいい事だけは分かっていたから。

 

───目が熱い。

ぶわりと、鬼の体に幾本もの線が走った。

更に、空間にも線が飛び出していく。

 

「う、あぁ、ぐ…ぅううう…」

 

こいしの呻き声を横に、拳を強く握った。

恐ろしいほど多く、大きな境界が見える。

ともすれば飲み込まれてしまいそうな光景に、喉が鳴る。

 

「おっと、お嬢ちゃん目を閉じてくれるかい」

「ぅ」

「こいしちゃんも、こっちにおいで」

 

瞼を落とせば、鬼が頭に触れてきた。

すぐ隣に、こいしの荒い息遣いが聞こえる。

 

「祓おうぞ、祓おうぞ」

 

凛とした声が聞こえた。

鬼の声だが、さっきよりずっと澄んでいて、違う声にも聞こえる。

 

「我が名は“首塚大明神”。首から上の障りを祓おうぞ」

 

目の熱さが引いていく。

鬼の手が頭から離れた頃には、もう何も感じなかった。

恐る恐る瞼を上げれば、先程の境界など何一つとして見えない。

 

「これがお嬢ちゃん達を引き込んだ理由。現実で忘れられた神は、境界の中じゃないと権能を振るうことすらままならない」

「神じゃ、無かったんじゃないの?」

「七首大明神なんて神じゃあ無いだけさ。長年生きてりゃ、神だった事もある」

 

酔いは醒めず、眠気がこみ上げる。

まだ昼頃の筈なのに、頭が醒めない。

 

「あぁそうだ、こいしちゃんをよろしく頼んだよ」

「待って…」

 

瞼が重い。

もう、動く気すら起きなかった。

やがて、何も聞こえなくなり。

 

 

 

───静かになった部屋の中で、鬼は自らの首を撫でる。

 

「…ああ、これでいいだろう、紫」

 

独り言に応える者などいない。

 

「まったく、お前がどうにかしろよな」

 

ポロリと落ちた鬼の頭が、床に転がった。

首の断面から血は流れない。

無造作に自らの頭を掴んで脇に抱えると、鬼は目を瞑る。

 

「はあ、あ。人も神も妖も、在り方ってのは難儀なもんだ」

 

遥か昔を思い返す鬼の言葉は、深いため息と共に宙に溶けた。

 

 

妖も神も、非実在と括られて互いが曖昧となって久しい。

時代が進み進み、進み続けた先。

その地点だからこそ見えるものもあれば、置き去りにしすぎて見えないものも、また“在る”ものだ。

 

一度失ったものを元に戻そうとしても全く同じにならないように、情報もまた、一度完全に失伝してしまえば再現する事は困難である。

 

そうならないためにも、粘土板に、木板に、紙に、電子に、人は情報を残していく。

 

しかし、それでも何らかの状態によって情報が失伝してしまった時。

そして限りなく正解に近い予想と仮定で埋められ、玉石混合となった情報の空白を、それは違うと指摘できる者がいなくなった時。

 

───その瞬間が、情報の死ぬ時なのである。



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75

証明無き血統【エピローグ】です。
妙な事にプロローグは無いのにエピローグはあります。


───重い。

 

太腿に、何かが乗っている。

意識が眠りから引き上げられると共に、歪むような痛さが頭を走った。

 

「…う、んぐぐ…」

 

旧型を飲んだ者にしか体験できない“二日酔い”である。

これを体験できるのは滅多にない事だ。

 

「メリー、水いる?」

「ちょうだい…」

「ぅ…?」

 

蓮子の声が何処かから聞こえて、掠れた声で答える。

酒に焼けた声に反応してか、下腹部の方がモゾモゾと動いていて。

薄っすらと目を開け、ようやくここが自分のベッドの上だと気がついた。

 

「あ゛ー…」

「はい水」

「あ゛」

 

乾いた喉を水で潤せば、意識も醒めるというもので。

 

「───うん、おはよう蓮子」

「はいはい、おねぼうさん」

 

時計を見れば22時。

おはようなんて時間でも無かった。

二日酔いだが日を跨いでいないのでこういう時はなんと言えばいいのだろうかと、意味も無く考える。

 

「えーっと…境界暴いて、お酒飲んだんだよね」

「飲んだというか飲まされたというか」

 

腰のこいしを見れば、彼女の境界が目に入り、ビクッと体が跳ねた。

 

「ぬぐぇ!」

「あっごめんごめん!」

 

跳ねた足に頭が揺らされ、歯の当たる音。

むくりと起き上がったこいしは、顎を押さえながらビックリした表情でこちらを見る。

 

「…殴られた?」

「殴ってないからね、違うからね」

「うぅ、ん。頭いたたた…」

 

モゾモゾと丸まったこいしを足の上から退かし、リビングのソファまでふらふらと歩く。

座り込んで、しばらくぼーっと宙を見て。

 

「トースト焼いたけど、どう?」

「ぅん、無理…スープとかじゃないと喉を通らなさそう…」

「じゃあポタージュでも作るよ。粉末どこにしまってる?」

「キッチンの調味料とか色々入ってるボックスの中。わかる?」

「時々使ってるし、わかるよ」

 

キッチンの方に向かった蓮子の背を見て、目を瞑る。

見える景色がなんだか妙で、頭が疲れてしまった。

 

「はい、まだ熱いよ」

「うん…」

 

湯気の立つ器をテーブルに置き、蓮子が隣に座る。

風呂上りなのか、僅かに髪を湿っていた。

 

「いつから起きてた…?」

「ん?3時間前とかだよ。私そんな酔ってなかったし」

「そっか…鬼の境界から出れたのなら、まあいいかあ」

 

ジャムの蓋を開ける音。

甘ったるい匂いを、すぐ横から感じる。

 

「───暇だったから、少し鬼について調べてた」

「何かわかった?」

「鬼の情報サイトから、有名な鬼のリンクが幾つか無くなってた。多分その中のどれかがあの鬼だと思ってね」

「伊吹萃香、鬼、とかで検索した?」

「したした。名前じゃあ流石に出てこなかったけど、伊吹童子って鬼がヒットしてね」

 

蓮子は端末を弄り、その画面をこちらに見せてきた。

伊吹童子。八岐大蛇が若い男に変化した姿。又は酒呑童子の父とも、幼名とも言われている。

 

「なんとも曖昧ねえ」

「で、あの鬼は八岐大蛇の血を引くって言ってたでしょ?だから伊吹童子じゃなくて、どっちかと言えば酒呑童子の方かなって考えたのよ」

「成程ね。で、酒呑童子は?」

「“サルベージ待ち”。欠落域にガッツリ入ってたみたいで、情報が殆ど無い。ここまでを鑑みれば鬼の言葉と辻褄が合う」

 

トーストを齧り、蓮子はグルグルと指を回す。

 

「ちなみに、もう一方はヒットした」

「もう一方?」

「首塚大明神。鬼が口にしたその名前で検索かけたら、ある心霊スポットがヒットしてね。ずっと昔に山の中で朽ちた神社跡なんだけど、どうもそこで祀られてた神様らしいのよ」

「えぇ、神社なのに心霊スポット扱いだったの…?」

「酒呑童子の首が祀られてたんだって。それ以上の詳細はどのサイトにも載ってないから追えなかったけど…七首大明神の話と、対になってるわね」

「切られた首と体。首は神になったけれど、体は鬼曰く偽りの神だった、と。…私には、神が神に成る条件がわからないわ」

「さあね、信仰の仕方が気に入らなかったら神になんかならない、ってなるんじゃないかしら」

 

───神は信仰されねば神成らず。

しかして逆に、信仰されれば神成りて。

 

人は漠然とした未知や力に対し、祈り、祀り、願った。

神の根源とは“そこ”である。

 

「鬼は、信仰を突っぱねるって言ってたわね」

「御神酒を私達に飲ませる事が目的みたいな事も言ってたっけ」

「…途中の、お礼を言うなってところが重要だと思うのよね」

「ひょっとして、御神酒を下げ渡すんじゃなくて突き返すのが目的だったんじゃない?」

「えーっと…あぁ、奉納品の拒否って事ね。あり得る話だわ」

 

そして鬼は、信仰を拒否した。

それはつまり、神に成る事を拒んだのである。

 

「それよりまず、神って事は神宮とかがいるいないを判断できそうなものだけど」

「結構前から神宮も大変みたいだし、むしろこの時代に神を祀る方が奇特だと思う」

「嘘を嘘だと指摘できるのは真実を知る者だけ。私達の時代には、真実を知る者がもう居なかったのね…」

 

ポタージュを啜れば、味が舌に残る。

 

「嘘が嫌いって言ってたし、存在しない偽りを祀られるのを嫌ったからこそ私達に酒を押し付けた訳ね」

「強情というか、頑固というか。嘘をついたからこそ競争に勝って人類に成った私達には耳の痛い話だわ」

 

人は嘘を吐くものだ。

一説によれば、ホモサピエンスが最も繁栄した理由の一つに嘘が挙げられる程、人と嘘は結びついている。

 

「私としては、お酒が美味しかったから満足なんだけどね」

「蓮子のそういう即物的なところ好きよ」

「まあ、タダ酒ほど美味しいものはないからね」

 

くすくす笑い、部屋の片隅に残った結目の酒瓶を見た。

 

その酒瓶の境界は、もう私の目には見えなかった。

 

 

 

 

境界暴きの翌日に訪れた大学のカフェテラス。

ハーンと蓮子が近くの席でコーヒーと紅茶を片手に何か話しているのを遠くに聞きながら、ガトーショコラにフォークを刺す。

 

「結局、お神酒はどうなったの?」

 

対面に座る伊吹結香にそう訊けば、困ったような笑み。

 

「うーん、分からずじまい。売り捌かれたりしてない感じだし、ご先祖様の言う通り、悪い事は全部鬼のせいにしたよ」

 

───蓮子の咽せる音が聞こえた。

 

「鬼…?」

「あ、えっとね。私のずーっとご先祖様がね、悪い事は全部鬼のせいって言葉を残しているの。鬼に攫われて子を成したみたいな逸話が残ってるんだけど、本当なのかねえ」

 

神として祀るより先に、ご先祖様という遥か遠い関係で鬼と繋がっていた訳だ。

それにしても祀っている神がある意味で鬼なのだが、ご先祖様は家主の枕元で恐ろしい顔をしていないだろうか。

 

いや、しているだろう。

霊障が発生するぐらい家主をサンドバッグのようにタコ殴りしている事だろう。

 

「じゃあ伊吹は鬼の子孫なのかな?」

「まさかまさか。鬼なんて実際にいないでしょ?でも突然頭から角が生えてきたらどうしようかな」

「寝返りができなくなると思う」

「あっはっは、そーんな真横に伸びる訳ないでしょ」

 

乾いた笑いを零した。

つい最近、絶対に寝返りできなさそうな存在を見たばかりだったから。

 

談笑しながら、ケーキを摘む。

なんだか、いつもよりもケーキが減るのが早い気がした。

 

 

───そんな私達を他所に、近場の席で声を潜める女子二人。

 

「…そういえばあの鬼、町娘に恨まれてるみたいな事言ってなかったっけ」

「もしかして、本当に…?」

 

神秘とは、意外と身近に或るものだ。



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幕間

ゆらりゆらり、葉が揺れる。

妖怪の山の姿だけは、今も昔もさして変わらない。

 

「ねえ」

「…なんだい」

 

落ち葉に寝転がっていた鬼が、目を開けた。

知った声だったから、無視も出来ず。

面倒だったので、鬼は起き上がりもしなかった。

 

「アンタ、外に出たわね?理由は何?」

「なんだっていいだろ」

「───八雲紫に、会ったわね?」

 

鬼の目には、宙から生えた指が見えていた。

額に触れようとするその指に対し、大きく溜息を吐く。

 

「“暴くな”。喰うぞ」

「…で、質問の答えは?」

「何をそんなに焦っているんだ?」

「答えは?」

 

苛立ちを隠せないその声に、上半身を起こした。

 

「八雲紫なんて妖怪はもうどこにもいない」

「……」

 

それっきり、気配は消える。

 

───風が吹いた。

 

「お久しぶりですね」

「…天狗かい。なんだこんなところまで」

 

鬼の記憶と違い、その天狗は赤の着物を身に付けていた。

山伏のような姿はどこにも無く、まるで動く事を考えていないかのような出立で。

その事に、鬼は少しだけ目を細めた。

 

「“久々に”貴方の姿を見かけたので、挨拶に来たんです」

「大昔みたいに下手に出て追い出そうとはしないんだねえ」

「天狗社会も意識改革が進んでいるんです。排他的な上も変わって、ある程度は融和に進み始めていますから」

「しかし、天魔が直々に顔を出さないとはどうなってるんだ」

「───天魔様は…いえ、私ももう相応の地位に着いているんです。私より上を出すとなると足腰に問題があるのしか出てきませんよ?」

「おっと、烏丸も鳶も崇郎もみんな老いぼれになっちまったか。じゃあ、文でいい。今日は立場なんぞ気にせず、少し酌をしてくれないかい?」

「酒も肴も持ち合わせて無いですが…」

「面白い話と酒は持ってきた。それでいいだろ」

 

酒瓶と升を天狗に差し出した鬼は、いつもより優しげな顔をしていて。

思わず天狗は動きを止めた。

 

「なんだ?」

「…いえ」

 

訊きはしない。

天狗は酒瓶を受け取り、昔を思い出しながら升に酒を注ぐ。

 

「…ちょっくら外の世界まで出てきてなあ」

「外の世界ですか。何か、新しいものはありましたか?」

「あったあった。文、あんた子供作った事あるか?」

「え?いや、えーっと…当たった事が無いので無いですねえ」

「当てた事は?」

「さあ…見たこと無いので無いと思います」

「だよなあ!」

 

はっはっは、なんて勢い良く鬼が笑う。

升をグイと煽り、喉を鳴らし。

 

「当てた!」

「…えぇ!?いたんですか!?いつの子ですか!?」

「多分…大江山の時代かあ…?いや、源の野郎にやられた後に幻想郷に来たから全然知らなくてな。今回ヒョイっと出てみたら遭遇した」

「びっくりですよ。なんですかその話」

「私も驚いちまってな。それも私を神と祀ってると来て笑っちまったよ」

「…禍根とか無いんですね」

「や、ありゃガッツリ恨まれてんな。神の話は私と気付いて無かった。子孫が酒造してたんだが、酒の名前が鬼切に八塩折之酒に神便鬼毒酒とくらあ」

「うわあ…」

 

大江山の時代より数世紀。

何世代と経て尚もその言葉が出てくる辺り、余程恨まれていたのだろう。

 

「しかも私の情報なんて殆ど無いんだぞ?それなのによくもまあ神便鬼毒酒なんて言葉を探し当てたもんだよ」

「偶然かもしれませんよ?」

「いいや、“必然”だね。人の恨みは時に妖怪を超える。恐ろしいもんだ」

 

そう言う鬼の顔は、笑っていた。

升をグイと煽り、喉を鳴らす。

 

「はああ、全く味も何もかも酷いもんだ。でもまあ、懐かしむには丁度いい」

「…その体、まさかこの酒…」

 

酒瓶には、ラベルが無い。

それでも天狗には、この酒の名が分かってしまった。

 

鬼の指先が崩れ、皮膚は爛れ、綺麗だった首は斬られたように血が流れ出している。

 

「試しに一本買ってみたが、怖いもんだなあ。逸話ってのは」

「神便鬼毒酒…!」

「鬼の子を孕んだ娘の恨みは引き継がれてるらしい。いやあ、これだから人の恨みってのは恐ろしい」

 

神便鬼毒酒を飲み、動けなくなった酒呑童子は首を刎ねられて死んだ。

故に、酒呑童子は神便鬼毒酒を飲めば魂魄に異常が発生する。

 

何故なら、神便鬼毒酒は酒呑童子を“殺した”酒であり。

何故なら、酒呑童子は神便鬼毒酒に“殺された”鬼だから。

 

それでも鬼は、升を空にした。

 

「鬼に横道は無い。が、こんな毒なら飲んでもいいかもしれんなあ」

「…やはり貴方は、気位が高すぎる」

「なんだなんだ、ゲホ、褒めてるのかい?」

「えぇ、今では貴方のような妖怪を地上で見る事も減りましたから…」

 

そう溢した天狗の指には、ペンダコも無くなっていて。

ただ、鬼と同じ昔を思い返す目をしていた。

 

「あの天狗が昔を懐かしむかい」

「懐かしみますよ、時には」

「そうかいそうかい。もう一杯、注いでおくれ」

 

───随分と昔に守矢神社へと引かれた索道は朽ち果て、河童の手によって撤去が進む。

 

妖怪が人を襲えば、人は神に祈る。

神は信仰心を手に入れ、妖怪は恐れを喰らう。

 

双方は人によって成り立つが、双方とも人の上に居る者だ。

 

神は賢い。

 

徐々に幻想郷の実態を掴んだ神は、思考する。

結果として、より“効率的な道”を選んだ。

そして幻想郷の妖怪もまた、神の選んだ道に便乗する。

 

 

昔を知る、烏天狗の目には。

今を知る、烏天狗の目には。

変わらない鬼の妖怪としての姿が、非常に尊いものに見えていた。




これで証明無き血統編はおしまいです。
次の秘封倶楽部の活動は一体なんでしょう?


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『無意識の境界』編
76


この章は、秘封倶楽部の活動を主としてプロットを練り上げております。
お楽しみください。


フライパンに油を敷き、ベーコンを焼く。

香ばしい匂いに、口角を上げた。

 

「こいし、トースト持ってきてくれない?」

「はーいさ」

 

キッチン周りにて、女二人のささやかな日常。

トーストの上にベーコンを乗せ、簡素な朝食をテーブルまで運ぶ。

いつの間にかソファーに座って虚空を眺めているこいしの頬を突けば、ゆっくりとこちらを見た。

無機物のような、さも能面がこちらを見ているかのような感覚。

 

「……」

「こいし」

「んあ、何?」

 

名を呼べば、ガラス玉のような、透明で美しい瞳に意志が宿る。

そんな光景が、日常に溶け込みつつあった。

 

 

鬼の境界より帰還して暫く。

いつの間にかマエリベリー・ハーンは、境界を暴くことはできても足を踏み入れる事が出来なくなっていた。

 

境界の中に入り込むほどの力が無くなっていて、それが鬼の酒による影響なのか、はたまた別の原因なのか。

宇佐見、こいし、ハーンの三人は、その現象について首を傾げた。

 

───ただ、宇佐見だけは。

意図せず、安堵の息を吐いていた。

惜しむ声の裏で漏れたその息を、自覚できなかったが。

 

そしてもう一つ、以前と比べて変わった事があった。

 

それに気がついているのは、ハーンだけである。

 

 

ぐるり、と部屋の中を見渡した。

 

以前より、確実に見える境界が減っている。

鏡などの在るべき境界は見えるので、瞳がおかしくなったわけでは無い。

 

ただ、力が“減った”ように感じていた。

境界の中に入れない事は元より、以前に比べて境界を暴く力を多く使うし、何より以前ほど暴けない。

この能力が衰えたのか、はたまた何かの前兆なのかもわからず。

ただ、少しばかり昔に戻ったような気分だった。

 

「ハーン、今日は出掛けないの?」

「なんの予定もないのよねえ」

 

ソファーにだらりと寝転がり、こいしの太腿に頭を預ける。

上を向けば、こいしの整った顔が見えた。

 

“在る”。

 

彼女の体中をチラつく、既に開いている境界。

瞳を走り、肌を走り、首筋を走るそれは、時折止まっては“此方を覗く”。

彼女に会ったばかりの頃の境界と同じ気配がするものの、あの時のように中にこいしが見えるというものでもない。

 

ただ一つの瞳が、境界の奥に見えるだけである。

 

「……」

 

そして、瞳が此方を覗く時。

こいしから、生気を感じなくなる。

 

合成プラスチックを前に生命体だと感じないように。

鉄板を生き物だと主張できないように。

 

生気を感じない美しい顔は、精巧に形作られた非生物らしさをより強調する。

 

この事は、まだ蓮子に話せていない。

こいしも自分の様子に気付いていないようで、私しか知らない。

例え外に出ても、境界の瞳が覗くのは私だけである。

 

「……」

 

ぶに、とこいしの頬を両手で挟んだ。

境界がするりと動き出し、こいしが潰れた唇でむにむに喋る。

 

「あとぅい」

「こいしのほっぺは冷たくて気持ちいいわね」

「ねーえー…」

 

もっちもっちと揉んでいればなすがままに受け入れて。

満足したので離せば、思い出したように端末に何かを打ち込み始めた。

 

「…蓮子は今何してるかな」

「大学にいるか、サボって部屋で本でも読んでるんじゃない?」

「あーありそう」

 

本人が聞いても否定しないだろう。

しかし暇である。

なんの予定もない日というものは結構あるものだが、する事が無い日というのは意外にも無いものだ。

 

「あ、掃除でもしようか」

「いつもなんか丸いのがうぃんうぃん動いてるじゃん」

「床は綺麗だから他のとこを掃除しましょうよ。もしかしたらお宝が出てくるかもしれないし」

「十種神宝とか?」

「なんだっけそれ」

「つよいやつ」

「突然語彙が無くなった…」

 

それでも手伝ってはくれるようで、何をすればいいのかと周囲を見回していて。

 

「どこから掃除する?重箱の角まで掃除するけど」

「そんなほじくり返すように掃除しなくていいから。ぱぱっとやっちゃいましょう」

 

そう言って立ち上がり、キッチンで手を洗い始めたこいしを眺める。

何かをしていれば、境界の奥から此方を眺められる事もない。

 

ただ、少し不気味なその境界に、理由はわからないが心惹かれていた。

既に暴かれていて、そのまま閉じる事なき境界。

それが何を意味するのかはわからないが、こいしの様子を見るに何らかの影響は出ている。

 

───好奇心が擽られた。

蓮子に相談したい。彼女にもこれを見せたい。

 

この感覚を、共有したい。

 

「ハーン、掃除する道具とかあるの?」

「…え?えぇ、ちょっと待ってね」

 

かけられた声に、肩が跳ねた。

不審そうな目でこちらを見るこいしに謝りながら、道具を出す。

 

気になりすぎて、日常にすら支障が出てしまいそうだった。



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77

───軽快な通知音。

端末を手に取って通知は何かと見れば、メッセージが入っていた。

『久しぶり、思いつきで聞くけど元気?』

娘の同居人から来たメッセージに困惑する。
多分、何の意図も無いのだろう。
だからこそどうしたものかと迷うのだが、何の捻りも無く返信する。

『元気よ』
『ふーん、そっか』
『困りごと?』
『実は私は私の事を知らないらしい』

そのメッセージに、少しだけ口角が上がった。

『気づいたのね』
『知ってたの?』
『まあ色々聞いたのよ』

暫しの間。

『鬼はなんて?』
『さあね、自分で探しなさい』
『わかった』

端末を置き、化粧鏡を見る。
少し疲れているのか、隈が出来ていた。

「おい」
「…なんだか、忙しい日ね」
「今すぐこの戸を壊して火で焼け」
「本当に、忙しい日」

化粧台の置物から聞こえた短い警告に、大きく溜息を吐く。
これだから人から成った妖は恐ろしい。
人の淀みと、妖の穢れを併せ持っているから。

───端末が震える。

『ありがとね』

返信する時間は、もう無かった。


───京都駅の方まで、目的もなく足を運ぶ。

薄ぼんやりと買い物でもしようかなという望みはあるものの、家を出た理由の大半はじっとしていられなかったからである。

 

「服もママのところから持ってきたのがいっぱいあるし、特に買いたいものもないのよね。こいし、アクセサリーでも買う?」

「うーん、飾り物を選ぶの苦手なんだよね。なんかいいのある?」

「私が時々行くお店は置きの店じゃないから自分で作れるわよ?人工宝石も自分の好きな形に作れるし、本体も石留めごと3Dプリンターで作れるからオリジナルが簡単にできるのよ」

「わからんわからんなにもわからん」

 

混乱したように眉を潜めるこいしの額を指で揉み解してあげて、腕時計に目を落とした。

ママからの贈り物である、デジタルではない針の動く腕時計。

耳を澄ませば、秒針の音が聞こえる。

 

「やっほ」

「はい遅刻」

「ごめんごめん。ちょっと色々ね」

「…寝坊と準備のどっちで遅れた?」

「そりゃあもう、どっちも」

「良し。ご飯蓮子持ち」

「やったあ、時価の店探そ」

「遠慮とか手加減とかそういう次元じゃない」

 

苦笑いを浮かべる蓮子だが、こいしも私も急な誘いに来てくれただけ感謝していた。

寝坊はいつもの事だ。

時間がわかる夜ですら平然と遅刻してくる蓮子に遅刻するなと口を酸っぱくするだけ無駄なのである。

 

「で、何買うの?」

「いやね、決めてないのよ。なんとなーくふらっと出てきちゃったというかなんというか」

「…本当に?」

「本当よ。少しだけ話したいっていうのもあったけどね」

「ふーん」

 

限り無く実物の質感に近い3Dホログラムが街並みに溶け込む光景。

触れてしまいそうなほど精緻なデザインの“広告”を眺めながら、腕を組んでふらりふらりと歩く。

 

自分の腕に触れていないと、自分の存在すら3Dホログラムなのではないかという漠然とした不安感に襲われるこの場所が、昔からどうにも好きになれなかった。

 

「うわわ」

「こいし、それオブジェじゃないのよ」

 

躓いて手を付こうとしたのか、人間大サイズに拡大された口紅のホログラムに肩まで埋まったこいしが声を上げる。

受け身を取って立ち上がったこいしだが、あまりに驚いたのか、スカスカとホログラムを触れようとして輪郭と内部を往復する手。

 

「…こんなに存在感のある幽霊が…!」

「どういうボケなのそれ」

「ところで口紅の幽霊ってなんだと思う?」

「さあね。付喪神ならありそうだけど。そもそも無機物の幽霊っているの?」

「ポルターガイストは…ちょっと違うけど、あれは無機物だよ」

 

こいしの言葉に、確かにそうだと頷いた。

 

「そう考えればポルターガイストと付喪神は似ているわね」

「似ているというか殆ど同じと言ってもいいんじゃないかな。ただポルターガイストを引き起こす存在は“広い”から付喪神から離れてる場合もあるけどね」

「物から動いても、物が動かされてもポルターガイストと呼ぶ…って事かしら」

「そういう事。そう思えばあの時のポルターガイストは前者だったね。付喪神と言える存在だったし」

 

そんな話をしながら、こいしは街に並ぶホログラムに腕を振って突き抜ける様子を見ては上機嫌に笑う。

幻影に負けぬその“実質”を見ながら、組んでいた腕を解いた。

 

───宙に無い物を有るように見せるそれは、神秘と何が違うのだろうか。

人が現在まで観測“できなかった”神秘と、人が作り出したホログラムの本質は似ているものだ。

 

実物に近い幻をついぞ世界へと投影した人は、いつの間にか神秘から遠ざかった末に一周回って神秘へと近づいていたのかもしれない。

 

「あ」

「痛ァい!」

「その看板は実物よ…」

「突き指した…!」

 

慣れていくうちに、幻と実物の境界が曖昧になっていく。

技術革新の末に電子化が進み、実質が劣化していった過去の時代はきっと、そんな感覚だったのかもしれない。



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78

ヴァーチャルとリアルの話は卯酉東海道より、最も澄み渡る空と海のテキストに関係しております。前述のテキストは、私にとってはかなり考えさせられる文章だと捉えております。


駅近くの複合店に入り、通路から見える各店舗の陳列を流し見ながら歩いていく。

今や“置き”の店は少なく、態々買い物のために外へ出る事自体が少数になりつつある時勢。

店舗を建てようと場所へ金を払う利点は少なく、その分広告に金を出す企業が大半だ。

 

「あ、このチーク良くない?」

「いいじゃん。後でページ見せてよ」

 

すれ違った女性が端末で広告を撮っているのを見て、やはり店へ置くにはそれなりの理由や訳が無ければネットワークへと移動するだろうなと常々思う。

だからこそ人は徐々に土地へ無頓着になっていったと言えるのだが。

 

「メリー、最新のVRゴーグルあるけどどう?これなら着けられるんじゃないかしら」

「多分ダメよ。結局はその在り方が相性悪いもの」

「ダイブショッピングとか一緒にしたいんだけど、そうよねえ」

 

ネットサーフィン。

遥か昔に電子の海から来た情報の波を移っていく様をそう呼称し始めたのは、一体誰だったのか。

 VR (ヴァーチャルリアリティ)という現実に限りなく近づいた仮想現実が作り上げられたのは、その言葉が生まれて半世紀と経っていない頃だったらしい。

 

サーフィンから転じて、VRゴーグル等を用いて五感を電子の海へと沈めていくさまをネットダイビングと言い始めたのも、今では誰かわからない。

安価で自分の操作するアバターを仮想空間に立体作成し、非実在の街で買い物を行うダイブショッピングは、言葉と共に世界に馴染んで久しく。

未だ通貨の統一は為されていないものの、海外の品ですら実物に近いモデルを実際に目で見て手に取って購入できるというのは、ネット通販によって“置き”の店が減っていく流れを更に加速させていった。

 

「ハーン、ダイブショッピングって何?」

「電子で出来た仮想現実の世界で買い物をするの。実際にサイズ感や細かい部分が家から一歩も出ずに手に取って見ることが出来るわ。元々実体の無い電子書籍とかゲームの売買から派生した文化よ」

 

商品を見せるための並べる場所を必要とせず、立体情報へ変換するための業務用スキャナーを用いるだけで電子の世界でほぼ実物に近い存在を客に見せることができる。

それは“探す”という無駄の削減に繋がった。

 

「えぇ、じゃあ電子の世界に入れるって事?」

「そこまではまだ無理よ。五感を限り無く仮想現実と連動させることはできるけどね。結構安く買えるわよ」

 

ヴァーチャルの感覚は、現実より強く過度に刺激を与えてくる。

仮想が現実へ密接に近づいた今では、最早互いを区別できないとまで言われている。

 

───そんな常識も、私にとっては違うのだが。

 

「ハーンは持ってるの?」

「“水遊び用”のはね」

 

仮想現実とこの瞳は相性が悪い。

仮想現実というものはある意味でどこまで現実に近づこうと明確な、実在と非実在の境界が薄っすらとだが存在しているもので、境界を隔てて“確かに”分断されている。

故にこの瞳は、開かずとも存在している大きな境界の膜を通してで無ければヴァーチャルの光景を楽しめず、視覚をゴーグルによって覆われて見える全方位境界の光景には“酔って”しまう。

夢と現が区別できず、人間と胡蝶も区別できない世の中だが───

 

 

“仮想現実”と“現実”は、この瞳にとっては似て非なるものなのだ。

 

 

だからこそディスプレイに仮想現実を映し、触覚と聴覚を連動させるダイビングとは言えない“ちょっとした水遊び”用の物ぐらいしか持っていないのだが。

 

「む、ちょっと気になるかも」

「だったら今度私のを持って行こうか?」

「ふーん、蓮子は持ってるんだ」

「まあね。とは言えメリーのお下がりだけど」

「私にはどれだけ良い物だって使えないんですもの。だったら使える人に使ってもらった方がいいじゃない」

 

持ってるというより元は貰い物だが、使わずに埃を被るのも可哀想で、VRゴーグルとVRグローブ等は蓮子へと渡していた。

結構高いものだったのか、それぞれの反応性は良いものだった記憶がある。

 

「ふと思ったんだけど、メリーは仮想の境界を暴こうとは思わないの?」

「嫌よ。ヴァーチャルの境界は簡単に言えば新しすぎる人工の神秘。変に開いて指を突っ込んだら超薄型基板に触って感電なんて笑えないわ」

「確かに、そりゃ笑えない」

 

ヒロシゲのカレイドスクリーンに映し出される壮大な風景のように。

人の五感を刺激するのは、“そう作られた”ヴァーチャルの方がリアルより遥かに強い。

ヴァーチャルよりリアルの方が、なんて前時代的な事を言えば失笑される世の中で、私は買い物のために家を出た。

 

───人は、古さを捨てる為に何を捨てねばならないのか。

 

ニコラ・テスラの偉大な発明より遥かな時代を経た現在、“未だ”電気によってヴァーチャルが形成される世の中に生きる私にとってその問いは、少しばかり難しい。

 

「お、なんか知らないけどスイーツの新作発売だって」

「あら、行ってみようかしらね」

「じゃあ蓮子の奢りね。たくさん食べようっと」

「こらこら」

 

ただ、新きを知る事は、さして難しい事ではない。

それは、蓮子ほど頭の良くない私でも解る事だった。



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79

店前でクルクルと回るホログラムのケーキを見て、蓮子が端末の預金を確認し始めた。

 

「わぁ、桁間違えてない?」

「あってるわよ。天然フルーツ盛り合わせなんて誰が頼むのかしら」

 

豪華という言葉では足りないようなそれを目の前にして、なんとも言えない気分になる。

昔はあれほど食べてみたいと願っていた天然の果実を前にしても、不思議なことに欲しいとか食べたいとかそういう気分が湧いてこないのだ。

いつの間にか、“天然”への憧れが薄まっているのかもしれない。

 

買おうと思えば高い事には高いが買えない事は無いし、漠然とした未知への憧れは近づく事によって薄れていく。

それを自覚して、少し寂しくなった。

 

「うへぇ、流石にここは無理よ無理。もっと安いのにしてよ」

「私達もそんなに鬼じゃないわよ」

「なんせ寝返りが打てるからね」

「ふふ、そうね。角を引っ掛けて扉を壊すことも無いわ」

 

三人揃ってクスクスと笑う。

この例えは、分かる人にしか分からない。

 

「違うお店探そっか」

「そうね。逆に何が食べたい?」

「そうだなあ、タルトとか食べたいかも」

「じゃあ下の階ね」

 

店を後にし、ガラス張りのエレベーターに乗って階下へと向かう。

特殊強化ガラス張りの箱は、豪華な棺桶にも見えていた。

足下には強化ガラスの下に液晶パネルが貼られており、下の景色が映し出されている。

上がる時は空を飛ぶようで楽しいのだが、下がる時は首が縮んでしまうぐらい恐ろしい。

 

「…イカロスはどんな思いをして空へ近づいたのかしらね」

「さして現代のエンジニアと変わらないと思うわよ?未知への探究心、不可能への挑戦…ただ、ちょっと間抜けだっただけで」

 

───チン、とイカロスと同じ“間抜け”な音が聞こえて両扉が開く。

 

「あった。あそこの角に見える店」

「じゃあ入ろっか」

 

通路を歩いて店の入り口に足を踏み入れる。

センサーが人数を数え、空いている席への道筋が足元にホログラムで浮かび上がった。

 

「うわわ、すごいね」

「こいしと一緒に入った事が無いだけで、外のお店はこういうところの方が多いのよ?人のいない方がどちらかと言えば普通なんだから」

 

機械化、自動化が進み始めたのは、いつからだったのだろうか。

潜在的に進んだそれらは、いつの間にか表に顔を出していた。

 

人から仕事を奪うと噂されていた自動化だが、元より技術は人の幸福を原動力として発展していく。

例え兵器だろうと、武器だろうと、大凡にして人のために、家族のために、己のために技術はアップデートされるものだ。

結果として自動化は、“人の幸福”に大きく貢献した。

 

人から仕事を奪うのではなく、人の苦痛を和らげるために。

機械は人に使われる場所から、人に並ぶ場所へと昇った。

関係性は変わったが、結局のところ在り方は大きく変わってはいない。

 

大昔に一部凍結した“人工知能の自我”の研究がその結果に関わっているかどうかは、未だに答えが出ていないが。

 

───少なくとも、機械の反逆は、未だ観測されていないらしい。

 

 

深い皿のような形状のタルト生地を満たすただ一つの気泡すら見えない透明なゼリーに、思わず感嘆の息を漏らした。

“クリア”フルーツタルトを注文した訳だが、これは予想よりクリアである。

 

なんら色味の無い透明さは無味無臭を想像させるものだが。

半月状のタルトを適当なサイズに切って口に運べば、味覚と嗅覚を刺激する複数の果実の味と香り。

しかも同じ色の筈なのに、ゼリーの食感には柔らかさともっちりさが含まれていて、タルトのサクサク感と共に楽しめて非常に美味い。

 

「で、話って何?」

「いやあ、結構な話なんだけどね」

 

透明なゼリーを食べながら、蓮子の問いに対して少しばかり考える。

 

「───こいしの境界がまた見えるのよ」

「え、私の話?」

 

全く同じクリアフルーツタルトを美味しそうに頬張っていたこいしが顔を上げた。

蓮子は顎に手を当てて上を見ると、不思議そうな顔で頷く。

 

「…あぁ、なんか結構前にそんなことを聞いた気がするわ。すっかり忘れてたけど」

「そう、私も忘れててね」

「いつから見えてなかったんだっけ」

「多分だけど、富士の樹海から戻ってきた頃だったかしら」

「で、見えるようになったのは?」

「境界が上手く開けなくなって、暫くして気づいたのよね」

「ふーん…じゃあ鬼が関係してるのかな。こいしは何かわかる?」

 

蓮子の尋ねに対して、こいしはなんとも言えない顔で首を振った。

 

「え、私って境界に憑かれてるの?」

「あれ、こいしに話した事無かったっけ」

「……いや、聞いた記憶は無いなあ」

 

樹海に行く前、出会った頃まで記憶を辿る。

そうして記憶を辿ってみるが、こいしと出会った頃の記憶が希薄になっていてわからない。

 

「確かこいしのいる前でメリーが私に話してた。だから私がその話を知っている訳だし」

「そうだったかしら」

「メリー?」

 

少しばかり目を細めた蓮子は、ココアを口に含んだ。

 

「二人とも、いくらなんでも忘れすぎよ」

「そうね、ごめんなさい」

「で、境界についてだけど…暴くの?」

「もう開いているわ」

「……はい?」

「もう開いてるのよ。ポッカリとね。ただ、中には何も見えないわ。真っ暗なだけ」

 

こいしがパタパタと自分の頭を触っているが、触れたところで何が起きるわけでもない。境界自体は体の周りをスイスイと動いているだけだ。

 

「えー怖いなあ」

「でも今のところ害は無さそうなんでしょ?じゃあ今は様子見しかできないんじゃ無いの」

「そうよねえ」

 

でも、この事が少しばかり気になっていたから吐き出せてよかった。

 

「まあ、それだけよ。それだけ」

「面白そうな話ではあるけどね。何も無いならなんかあったときに考えましょう」

「それも確かにね。さ、後はタルトを楽しむ時間よ」

「ご馳走様です!」

「はっはっは。え、これほんとに私が払うの?」

 

わいわいと騒ぐ二人を見て、ゆっくりとタルトを口に運ぶ。

甘く濃厚で複雑だが、見た目は透明で面白い。

 

“味わう”とは、見た目や香りも大きく影響している。

味覚を楽しむために視覚や嗅覚も刺激させようと試行錯誤する人という生き物は、贅沢で我儘な生き物だ。

 

しかしいつしか“美味しそうに見える”という価値観に異変が生じた。

飾り付けは豪奢に、派手に、煌びやかに、美しく。

食欲を刺激させるための価値観に、いつしか満足感や探究心を刺激させる価値観が混ざっていった。

 

しかし“味わう”とは、初めから純に味だけを求めたものではない。

多くの事はいつの間にか、根底は同じまま表面だけが変わっていく。

それを自覚できた時こそ、真に事柄を楽しめていると言えるのではなかろうか。

 

水で口を濯ぎ、また一口タルトを口に運ぶ。

先程と違い、ゆっくりと舌と鼻で果実の味と香りを割り出すのもまた、根底は同じままの、事柄の楽しみ方と言えるだろう。

 

 

───それはそれとして、会計は蓮子が全て払った。

 

ご馳走様でした。



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80

買い物袋の中身を冷蔵庫に詰め終え、漸く一息。

ソファの上で限りなくだらけた姿のハーンをよそに、ふと自分が何者であるかと自問する。

 

己は、人である。

人の筈であり、何らかの事情でここにいる筈だ。

ただ、あの鬼の言葉が引っかかっている。

 

 

「さとり…ね」

 

 

呟いたところで何かを思い出すわけでもない。

さとりという人物の元に、私が居たかのような話をぼんやりと覚えていた。

他に何かを聞いたような気がするが、どうも思い出せない。

 

 

「ハーン、私の家族の話したことあるっけ?」

「んえ?うーん、旅してたって話は覚えてるよ。あとなんだっけ、お兄ちゃんだかお姉ちゃんがいるってのも聞いたような気がするけれど」

「そうだっけか。ありがと」

「もしかして…忘れてる?」

 

 

気遣うような表情のハーンの言葉に、ゆっくりと頷いた。

 

 

「思い出せない。多分、境界のせいなのかもしれない」

「いつから?」

「それも思い出せない。記憶が虫食いみたいになってるのかもしれないし、ある点だけごっそり抜けてる可能性もある」

「インターネットサルベージみたいな話ね…どこが消えたかわからないから復元のしようがないってやつ」

 

 

のそりと起き上がったハーンが目を閉じて、瞼を上げる。

どこか瞳の金色に紫が混ざるように見えるも、その色は光の加減だったのかすぐに消え。

ゆるりとこちらの額に触れようと手を伸ばすハーンの目が、どこか虚なものとなった。

 

 

「……」

「ハーン」

「ん」

 

 

ハーンが、瞬きを一つ。

降りた瞼を上げた時、金の瞳と目が合った。

 

 

「何してんの?」

「何って…何…を…」

 

 

こちらの額に伸ばしていた手を見つめ、不思議そうに首を傾げる。

 

 

「…変ね」

「うーん、とりあえず私の境界を見ないようにできる?」

「難しいわ。私の瞳は境界を見ようとして見ている訳じゃあないからね」

「むむむ…はぁ、お腹すいた」

「今日は何の気分?」

「めんま」

「どんな気分なのそれ」

 

 

そんな会話をしながらハーンが端末を弄り、暫く。

ふらっとハーンが部屋から出て行き、玄関のドアを開錠、そして施錠した音が聞こえた。

 

 

「ハーン?」

 

 

先程何かおかしな様子だった事から、不安を感じる。

何か嫌な予感がして、ハーンを追おうとすれば。

 

 

 

───醤油ラーメンメンマ大盛り&メンママヨ丼が見える。

 

 

「…えぇ」

「いや、だからメンマ」

「本当に…?」

 

 

お盆のようなものにラーメンと丼を乗せたハーンが帰ってきた。

訳がわからないものの、とりあえずソファーに座って箸を準備する。

テーブルに置かれた拉麺を啜れば、しっかりとした醤油味の中に魚介系の香りが鼻を抜ける。

麺は伸びておらず、スープの熱さも丁度いい。

 

 

「…?どこで拾ってきたの…?」

「ん、さっき頼んで空送で届いたの」

「くうそう…?」

「無人航空機配達…通称のドローン(drone)から取ってDD(drone delivery)って呼ばれてるんだけどね。時々街で小さい箱が飛んでるの見ない?」

「あー、なんかいるなあとは思ってたけどこれかあ」

「大昔に事故があったせいで京都とかの一部地域でしか見られなくなっちゃったけどね。昔はもっといっぱい飛んでたらしいよ」

 

 

失敗は、時に技術を停滞させるものだ。

失敗は成功の母という言葉があるが、責任と賠償、信用や評価などを内包して生じる失敗もある。

 

 

「まあいいや、美味しければなんでも」

「技術の結晶を味わう贅沢はいかが?」

「最高…ずるる」

 

 

好きなものが手軽に食べられるというのは、本当に良いものだ。

 

 

「でもハーンの手料理も好きだなあ」

「…手作りでメンマ作る?」

「そこまでは流石に」

「そうよね。まず作り方よく知らないし…」

 

 

そう言いながら端末を触るハーンを他所に、ラーメンと丼を味わう。

合成食なのだが、米や麺の味は本物と相違無い。

違うものから殆ど同じものを作る技術力は、本物と模造の区別を曖昧にしていく。

 

 

「あ、食べられるメンマって商品売ってる」

「逆に食べられないメンマって何?」

「さあ…竹のまんまとか?」

「それもうメンマって言わない。マンマ」

 

 

どこかに突出した個性を付け足すのは、そういった曖昧さから逃れようと足掻いているのかもしれない。

独自性を見つけるにも、殆どは既出ばかり。

人は未知を既知に変え続け、いつしか未知を“探す”ようになっていった。

 

知識欲とは、理性的な概念に反して本質は本能的で獰猛なものである。



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81

人間はいずれ死ぬ。

それに逆らおうとしたのは誰で、それを潰したのは一体誰だったか。

 

───この電子書籍も、ハズレ。

 

スライドで画面外に文字群を追いやり、端末をティーカップの横に置く。

 

 

「はぁ」

 

 

メリーもこいしもいない静かな喫茶店内では、カリカリとメモに文字を綴る万年筆の音が妙に大きく聞こえていた。

レポートの作成中、気分転換にふと開いてみた新しい電子書籍はなんというか好みではなく、それ故に気分が落ちてしまい。

ノートパソコンを閉じてバッグにしまうと、ハーブティーを啜った。

 

 

「…おぉ、ちょっと片付けないとな」

 

 

ノートパソコンだけではなく、テーブルにまで貼り付いた付箋を剥がしてそれぞれの情報をメモにまとめながら書き写す。

熱中していたせいか、意外にも多いメモを頭を捻りながらわかりやすいようにまとめ、書き漏らしがないようにメモを仕分け。

 

 

「やっほ、あ、ケーキ貰うよ」

「うん」

「やったあ、蓮子大好き」

「うん」

「じゃあね〜ケーキありがと」

 

 

書き終えたので、一息。

顔を上げ、楽しみにしていたガトーショコラを食べようとすれば、そこには空っぽの皿があった。

 

 

「…え?」

 

 

集中している間に食べたのかと思って口周りに触れるが、そんな場所にガトーショコラなどくっついているはずもなく。

舌で口内を探るが、欠片どころか味すら感じない。

下に落ちたかとテーブルの下を見て、皿の上を見て、周囲を見て。

 

 

「き、消えた…!?」

 

 

静かな店内に、悲痛な声が響いた。

 

 

 

 

『これって秘封倶楽部の案件では?』

「天文学的な確率でテーブルと地表を前触れなくガトーショコラの原子が全て通り抜けた可能性があるわよ」

『運動量0でガトーショコラを構成する原子が全て通り抜ける確率なんて天文学的を超えてるけどね』

 

 

蓮子からの通話要求に応えれば、訳の分からない事を言い始めたのでどうしようかと迷う。

 

 

『今何してる?』

「こいしと料理してる」

『何作ってるの?』

「ワンタンスープよ。来るなら少し多めに作るけど」

『行く行く。で、無くなったのよ。ケーキが』

「私に言われても困るわ。食いしん坊な蓮子ちゃんが知らぬ間にぺろっと食べちゃったんじゃないの?こいし、蓮子来るからワンタンもうちょっと作って頂戴」

「はーい。あ、丁度コーンスープの粉末と紅茶の茶葉とお醤油が無くなってたし、ついでにおつかい頼んだら?」

「いいわねそれ。聞こえてた?」

『ケーキが消えた上にパシられる蓮子ちゃん可哀想』

「ハイハイ、可哀想可哀想。じゃあ待ってるわね」

『買い物含めて2時間後ぐらいに着くと思うからよろしくね』

 

 

通話が切れたので、ワンタンの製作に戻る。

皮に胡椒を少しばかり混ぜた挽肉を包むだけだが、慣れれば楽しいものだ。

一人でやる気は起きないものの、誰かがいるならなんとなく作るのもありだと思って始めたワンタンの製作も、気がつけば効率的に綺麗に包めるようになっていて。

 

 

「何、蓮子の食いしん坊が発動した?」

「よくは知らないけど、ケーキが勝手に消えちゃったって。境界の中に奪われた…なんて仮定は無理があるわね。街中で勝手に開くものではないし」

 

 

境界は未知との境目とも言えるが、しかしそれを開くには相応の能力が必要だし、何より無くなるような事が起きれば流石の蓮子でも気がつくだろう。

 

……メリー、私講義室にバッグ丸ごと忘れた。

……メリー、ひょっとして私まだ何も注文してない?

……メリー、読書して気がついたらヒロシゲが帰ってたの。

 

───やっぱり気が付かないかもしれない。

それでも、何かが起きれば相応の事象は発生する筈だ。

 

 

「無意識に食べちゃったのかしらね」

 

 

喋りながら、もはや意識的に作業を行わなくてもワンタンを包めるようになっているのを自覚しながら、そんな事を呟いた。

こいしがむに…と皮の隙間から挽肉を溢れさせる様子を見て、お湯を沸かすために立ち上がる。

 

慣れた動作は、最終的に無意識に飲み込まれるものだ。

立ち、歩くという行為は、その極地と言えるのかもしれない。

幼児は皆、自らの未知を既知へと変えていく偉大な学者なのだ。



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82

───忘れてしまった記憶は、何処に溶けて消えてしまうのか。

ワンタンを食べた次の日、そのまま泊まった蓮子と共に大学敷地内のよくわからない場所を歩いていた。

 

「記憶喪失?急にすごい話が出てきたな…頭ぶつけた?検査行く?」

「多分そういうのじゃない。もっとフワッフワしたやつ」

「綿菓子に頭ぶつけたの?」

「そういうフワッフワじゃなくてね」

 

キャラメルマキアートの甘さを味わいつつ、歩を進める。

いつも三人で使っているマンションの一室の持ち主に話があるとのことで同行しているが、よく分からない場所は少し怖い。

ぬ、ぬ、なんてコンクリート製を踏む時とは全く違う、くぐもった低い足音がするもので、なんとも言えない奇怪さがあった。

 

「メリーからメッセで来てた“マジヤバいホントヤバい”ってそれの事だったか」

「いや、多分それはクラウドに保存してた提出書類データを別ファイルで上書き保存しちゃったやつだと思う」

「それは確かにヤバいわね」

 

白壁は切れ目すら見えず円形に歪み、通路の端以外には角も無い。

通路はまるで踏まれた事が無いかのように真っ白で人影以外に影も無く。故に円の中を浮遊して歩いてるかのような錯覚に陥った。

 

「…この通路酔いそう」

「これがちょっと前の最先端だったらしいわよ。限りなく無駄を省いたシンプルで流線型なスタイル。上品さは感じるけれど、豪華さや気品は感じる事ができないわね」

「装飾美より造形美って事でしょ。このスタイルを流行らせた人は服を着なかったのかもしれないよ?」

「そう言われてみれば、大昔の石像が時代の最先端とも言える時代だった訳だ」

 

クスクスと笑った蓮子が、通路の端に手を伸ばす。

 

「遊び心の一つでも無いと、どうにも寂しく見えちゃうわ」

「それなら蓮子は毎日楽しくパーティーしてるじゃん」

「そりゃもう全身遊び心の塊よ」

 

音もなく開いた扉の奥。

通路の雰囲気とは真逆とも言える、雑多とした大部屋が見えた。

床に散乱した何かの部品と、壁に浮かぶ図面のホログラム。

部屋端の本棚には、整列とはとても言えない並び方をする本が乱雑に重なっていて。

真正面のデスクには、よくわからない本が積まれていた。

 

「教授、入ります。あぁ、また…この時代に本をそんな扱い方する人はいませんよ」

「ん?宇佐見さんか。何かあった?」

 

後ろで白髪混じりの黒髪を一つに束ねた女性が、デスクチェアに座って本を読んでいた。

薄汚れた作業着の上からジャケットを羽織っている、何とも不思議な格好である。

そして何より、若いとは決して言えぬ風貌に“物珍しさ”を覚え。

本をデスクに投げ置いた女は、不思議そうな顔で首を傾げた。

 

「大家さんから口座を変えたのかって確認されました」

「あらら、後で確認しておくわ。ごめんなさいね、端末が壊れたばっかりに」

「久々に来ましたけど、ここも掃除した方がいいですよ」

「埃っぽい方が古臭くて好きなの。宇佐見さんもそうでしょう?」

「否定はしませんが、埃っぽいのを古臭いと表現するのは間違っています」

「でもこの匂い、いいでしょう。埃被った古びた紙の匂いなんて滅多に嗅げないのよ?」

 

そこらの本を手に取り、顔を近づけて深呼吸をする女性。

これだけでわかる。この人は普通じゃない。

 

「今日は友人と来てるので程々にしてください」

「え、あららら?宇佐見さんにハーンさん以外の友達がいたなんて」

「私のことをなんだと思っているんですか」

「秘密。さてこんにちは。古本教授こと、工学部で教授をやってる伊藤弥恵よ。多分ここに来たのは初めてよね?」

「少なくともこんな辺境の地には来た事がないと思いますよ。その辺の外国より近寄り難い場所ですし」

「まぁ…否定できないのよね。工学部の子達ですらここまで来ることは少ないし。やっぱり通路の前時代的意匠が嫌いなのかしら」

「前々時代的な古本教授が怖いからだと思いますけどね」

「あら酷い」

 

曖昧な笑みを作った古本教授から目を逸らし、室内を見る。

なんというか、古臭い感じがするのは事実なものの、壁の至る所に浮かぶ立体ディスプレイのせいでちぐはぐな印象だ。

以前訪れた古井戸の町のような“中間”をすっ飛ばした、古さと新しさを混在させたような内装。

 

古本教授の雰囲気と合わさり、なんだか違う時代に来てしまったかのようだった。

 

「じゃあ、これで失礼します」

「はいはい。いつも掃除してくれてありがとね」

「たまには帰ったほうがいいですよ。なんか色々届いてましたし」

「何が届いてた?」

「何かの部品ですね。大きなバネとか特殊フィラメントBだかDだか」

「…急いで取りに行くわ。今日行く」

「そうしてください」

 

部屋から退出すれば、蓮子が薄い笑みを浮かべている。

喜色に近い感情をそこに見て、なんとなく尋ねることにした。

 

「蓮子はあの教授好きなんだ」

「面白い人よ。前々時代的…古いことが好きな人。やってる事は最先端技術なのがチグハグでね」

 

老いを楽しむ数少ない人でもある、という蓮子の次いだ言葉に、風貌に物珍しさを覚えた訳を理解した。

美容技術が進んだ事で誰もが気軽に皺とシミを消し、老化を隠すことが一般となっている世の中で、“老い”を見たのが久々だったのだ。

 

未だ不死には程遠いが、人は死を遠ざけ続けていた。

病に怪我に果てに老いすら遠ざけ始めた時点で、恐怖を遠ざける“人間”らしさは増していく一方、“ヒト”らしさは減っていき。

不自然に若く見える人ばかりが増え続けた世の中は、果たして健全と言えるかどうかは難しい。

 

そんな事を考えていれば、蓮子がポンポンと頭を撫でてきて。

 

「で、記憶喪失だっけ」

「そうそう。私の髪みたいにふわふわのね」

「…PCのデータって書き換える事は出来ても完全に消すのが大変なのは知ってる?」

「ん、そうなの?」

 

突如として切り替わった話題に首を傾げる。

続く言葉は既に決まっていたようで、蓮子は考える事もなく口を開いた。

 

「データは物質のように気化したり空気に溶けたりしない。画面上消去されたデータは、特殊な方法を使わないと、限りなく限りなく小さく折り畳まれて奥底のメモリに積もっている」

 

そして少しばかり考えた後、蓮子は宙に指をぐるぐると泳がせた。

 

「記憶喪失はまだ解明されていない部分が多いけれど、こいしの記憶は脳が欠けたりしていない限りは、まだどこかに残ってると思うんだ」

「ひょっとして慰めてる?」

「いや、ただの考察」

「そこは慰めてるとか言ってよ」

 

苦笑を零し、ちょっとふざけて言葉を返す。

 

「でもメモリと違って人間は色々出すし、記憶が排泄物に溶けて出てる可能性あるかもよ」

「それはそれでやだなあ」

「蓮子の忘れちゃった約束も、ひょっとしたら汗になって布団に染み付いてるかも」

「通りで朝起き上がって布団を出たら忘れちゃってる訳だ」

「次は布団に包まって約束の場所まで行くしかないね」

 

電子の記録は溶けないが、人の記憶は溶けるのか。

この疑問は、未だ“解けそう”にない。

 

「起きたらまず布団を食べてもいいかも」

「それは名案」

 

小さな二人の笑い声は、やがて空気に溶けた。



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83

PC版で文中文字サイズが変に見えるとのご報告を頂きました。
読みにくい場合はスマホ版でお試し頂ければ幸いです。


暗闇の中、“私の声”が聞こえる。

 

───どうしたの。

 

どうしたのって、何が?

 

───わからないの。

 

わからないのって、何が?

 

───忘れたの。

 

何を言っているのかわからない。

何も分からず、ただ宙を浮かぶ眼球がゆっくりと歪んでいく。

 

───そうだね。

 

そんな言葉と同時に、眼球は潰れた。

粘性な音が聞こえ、広がった赤の色は嫌に目に残る。

 

───どうして。

 

ぼんやりと歪み始めた意識の中。

目の醒める寸前に聞こえた最後の声は、私の声ではなかった。

 

 

頭が重い。

胎の奥が痛く、体は軋んでいる。

凄まじい倦怠感に、立つ事も億劫だった。

昨日蓮子と共に歩いたから風邪でも引いたのだろうか。

珍しく先にベッドから抜け出したハーンが紅茶を淹れるのを遠目に、唇を開く。

 

「ハーン…なんか、だるいというか調子が悪い」

「ん、熱測ろうか」

 

ベッドに寝転がったまま、どうにも動く気力が無い。

額に何かが近づき、離れていくのを薄目で見る。

 

細長い棒のようなものをこちらに向けながら、ハーンがその側面を見ていた。

 

「熱どころかちょっと低いね。……いつもより重い?」

「違う。単純に調子が悪いだけ」
「……ぅ?」
                     

「そっか。ちょっと待ってね、紅茶淹れるから」

「レモンティーがいいな。さっぱりしたい」
少女は、ふと“目を覚ました”。
                     

「はーい」
突然すぎたが故に、現状が分からず。
                     

 

足音が遠ざかり、ゴソゴソと何かを探す音が聞こえる。

重い手をベッドに付き、上半身を起こした。
「…私?」
                     

夢見が悪かったせいだろうか。

冷たくなった手指を淡く握りしめる。
目の前には、古明地こいし。己と同じ姿。
                     

夢の内容など覚えていないものの、嫌な夢だったのは何となく覚えていた。

 

「う、んしょっと」
「え、なん…いや、うん?」
                     

「んー大丈夫?」

「キツイけど、ぬ、ううう…う」
何故か、無くした筈の記憶が有る。
                     

「…ちょっと、本当に大丈夫?」
己の存在と、幻想郷という知識。
                     

突如として戻った記憶に頭を抱える。
                     

リビングから心配そうに覗くハーンを気にする余裕も無く。

力勢いに任せてぐい、と体を起こせば、緩く着た黒いショートパンツの隙間より太腿を伝う赤の色。

 

「───え?」
「…んぇ?」
                     

「うわわ!タオル持ってくる!!」

もう一人の己の経血に首を傾げる。
                     

二人いる点も分からないと言うのに、
                     

それを見て、脱衣所へと走り出したハーン。
妖怪の己に生理などある筈も無く。
                     

 

「えっもう一人の私なに?えぇ怖ぁ…」
                     

終ぞ足を伝い床へと落ちる赤の色。

それは、子宮より剥がれた内膜の色。
しかし、もう一人の己は偽物ではない。
                     

子を宿すために胎が備える活動の色。
理由は判らないが、確信していた。
                     

 

人の胎で起こる生命の奇跡。
「…ハーンには私が見えてなさそうだな」
                     

恐怖に在る妖には存在しえぬ、増えようとする生物の理。

なれば、何故この胎に。
反応を見て、現状を分析。
                     

この胎は、“活きていない”のに。
幽体離脱に近い状態なのだろうか。
                     

 

───?

 

どうして、今私は己が人ではないと考えたのだろう。

人以外に生きた事など、無いというのに。

 

無い。

無い筈なのに。

頭が割れるように痛い。

立っていることも辛く、その場に倒れ込む。
「…えっなんかもう一人の私ヤバそう」
                     

意識は、そこで途切れた。

 

 

重みのある音がした。

乱雑にタオルを掴み、ベッドの方へと走る。

 

「こいし、大丈夫?」

 

流石に無断で服を脱がすのは気が引けるもので、ショートパンツの紐を緩めてタオルで足に垂れた血を拭い、シーツが汚れる事も厭わずにベッドへと横たえる。

冷えた手指に簡素な電熱カイロを握らせると、部屋の暖房の温度を上げて加湿器を起動した。

マエリベリーの手際に、少女が拍手する。
                     

小棚より鎮痛剤を取り出し、レモンティー用に加熱中だった給湯器を保温に切り替えてゆっくりと息を吐いた。

「えっすごいな。超手早いじゃん」
                     

「もう、違くないじゃないの」

そして拍手の音に反応も無い点で、
                     

無理をして隠していたのか───
認識されていない事を確信した。
                     

はたまた、本当に違うと思っていたのか。

これが初めてなんて事は無いだろうし、流石に周期は把握している筈だが。

 

「うーん、色々試してみるかあ。
                     

「…ん」

誰にも聞こえぬ声で、少女は呟く。
                 

そういえば、と、この機会にふと思うは彼女の胎の事。

彼女の洗濯物をある程度知る身として、そこそこの期間一緒にいた訳だが、生理用の下着を履いていた事は無く、そういった痛みを訴える事も一度として無い。

ならばひょっとして、久々なのだろうか。
「あーこれ触っても気付かれないな」
                     

 

「これどうするのが正解かなあ」
マエリベリーの胸を揉みながら少女は頷いた。
                       

先程から色々試したが、全く意味を成さず。
                       

リビングに戻り、レモンティーを淹れる。
寧ろ加減なく当たってきたので、結構痛い。
                       

デリケートな話題で、触れていいものか迷う。
不意に近寄ってはいけない事を学んだ。
                       

とりあえず起きて薬さえ飲めば、ある程度は楽になるかもしれない。

 

手元のティーカップに視線を落とし、水面の境界を見る。

遠く遠く、どこまでも沈めそうな“深み”を奥に見ながらため息を吐いた。

視線を上げれば、ぐったりと寝転がったこいしがいて。

 

「───あれ?」

 

境界が無くなっている事に気がついたのは、その時だった。

 

 

「痛みはどう?」
少女はベッドから二人を見る。
                       

「だいぶ、良くなったかな」
段々、現在の状態が分かってきた。
                       

「そう?良かった」
恐らく妖怪としての本質が発露している。
                       

しかし、何故己を自覚できているか分からない。
                       

リビングにあるソファに座り、良い香りを吸い込んだ。

もこもこのパーカーに身を包み、マグカップを両手で掴む。

薬のお陰か多少痛みは薄れたものの、気力は未だ戻っていない。

本日二度目の目醒めを経て色々した訳だが、久々過ぎてこの痛みを忘れてしまっていた。

 

「違うって言葉が嘘になっちゃったね」
「…ふあ、眠ぅ」
                       

「自覚してなかったならしょうがない。今日はゆっくりしよう」

「やったあ」
少女は不意の眠気に目を閉じた。
                       

次いで開けた瞼の奥。その瞳に理性の光は無く。
                       

レモンティーを啜ると、胃に温かさが落ちていく。

「…………」
                       

「うぉお、指先に力が入らないぞ」

「無理しないでね。何かあったら助けるから」
少女がふらりと立ち上がる。
                       

「背中痒い」
部屋を出て、そのまま家を出て。
                       

「介護かな?」

誰にも気付かれず、その背を追う者はいない。
                       

そう言いつつも背中を掻いてくれるハーンにお礼を言い、一息。

どうにも違和感がすごいが、どこにそれを感じているのかもわからない。

 

「そういえばこいしの境界が無くなってるんだけど」

「えぇ、何急に」

「何かあった?」

「何かあったというか、現状何かあっちゃってるんだけど」

「…確かに。何か関係あるのかな」

「タイミングを考えると全く関係ないとは思えないけどね」

「それは確かに」

「じゃあ、次の活動対象は私かな?」

「それも面白そうだね。とりあえずこいしの事は蓮子にも伝えとくよ」

「はいはい」

 

下腹部をさすり、目を閉じる。

この痛みは、一体いつ以来に感じたものなのか。

 

思い返せど思い返せど、私にはどうしても思い出せなかった。



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84

大学の講義も何度か休みながら5日を経て。

 

「復かぁあああああつ!」

 

リビングでゴロンゴロン転げ回り、ポージング。

微妙な目で見られている事を気にせず、違和感程度まで和らいだ痛みに全身で喜びを表した。

 

「大丈夫?お腹もそうだけど特に頭」

「腹は大丈夫。頭はダメだね!ぐべろぼんぴょぺろ」

「急に発狂しないの。ねぇこんな言葉初めて言った」

「常時言ってたらヤバいよ」

「間違い無いわね」

 

紅茶をぐいと煽り、近寄ってきたハーン。

微妙な顔で、もちもちと頬を捏ねくり回されて。

 

「復活したけど境界は戻らず。記憶、生理、境界。何の繋がりがあると思う?」

「さあ、記憶曖昧なので何もわからなぁあああい」

「今日テンション高いわね…」

 

しかし、いざ活動対象とされてみて。

ハーンと出会った“最初”と違う点。

思い返せば。否、思い返せど。

 

最近のことすら、曖昧になり始めている。

 

「共通点、漢字二文字とか?」

「はいはい。二文字二文字」

「超適当」

「まず真面目に考える気がないでしょう」

「うん」

「はぁ、ちょっとは真剣に考えてよね」

 

苦笑を一つ。

ソファーに寝転がり、ハーンの目を見た。

 

「言われて気づくような境界に自覚なんてないし、生理も勝手に来るものでしょう?」

「そもそも生理来てた?」

「…確かに。あれ、初かもしれない」

「初潮!?そんな事…まあ、無くはないのかな」

「記憶の限りは初だね」

「それそもそも記憶無いから思い出せてないだけだと思うんだけど」

「少なくともハーンと会ってからは初だったね」

「そっか。いやそれはそれでちょっと問題だけどね。今のところ記憶はどこまで辿れる?」

「ハーンと出会う前は何も。出会った後も今から遠いほど曖昧になってるかなあ」

 

顎に指を当て、宙に視線を彷徨わせるハーン。

窓から入り込んだ日光に金瞳を照らされながら、唇がむにと歪む。

 

とりあえず喉が渇いたので、そんなハーンを放って冷蔵庫から林檎ジュースパックを取り出す。

グラスに注いで飲みながら、紙ともプラスチックとも思える謎のパックを見ていれば、原材料が目に入った。

 

果汁も果実成分も入っていない、よくある味も香りも色すら合成の表示。

林檎ジュース味と呼称すべき味に舌を濡らしながら、ハーンの紅茶が入っていたマグカップにもジュースを注ぐ。

 

「…境界に奪われた?」

「ん」

「境界は開いていた。中には“何も無かった”…?。残ったあの瞳が何かはわからないけど、本質は精神の融和…?ううん、失ったからあれも何か意味があった…」

「答え出た?」

「出ないわ。謎が多すぎる。私の記憶も曖昧だし蓮子が欲しいわね」

「蓮子は今何してるの」

「絶対寝てるわ。又はコーヒー片手に目の下にクマ作ってるわね」

「もう昼ァ!!」

「はいはい」

 

グラスに口を付け、喉を濡らしたハーンが数度頷いた。

 

「蓮子にメッセージ送っといて。気になってしょうがないから境界探すわよ」

「そもそも境界って探せるの?足が生えて逃げ出す訳じゃ無いでしょう」

「逃げる事もあるわよ?正確に言えば、憑き憑きで乗り換えのように人々を行ったり来たりする奇妙な境界もあるってだけだけど」

 

今分かっているのは、と続く言葉には自信が込められている。

 

「こいしに見た境界は、そんな簡単に無くなるものじゃない筈ってこと。私が忘れていたのも含めてなんらかの理由や意味はあるだろうし、それを探すのには暴きという表現がまさしく正しいでしょう?」

「うん、その本質を覗こうとする行為は確かに境界“暴き”だね」

「そもそもなんの境界だか分からない訳だから、情報集めから始まる訳だけど」

「そうなるのか」

「そうなるのよ」

 

境界探す、とだけメッセージを送れば、即返信が来た。

 

「ハーン、蓮子から。さっき課題終わったから寝かせてだって」

「別にそんな急じゃなくてもいいのに。明日でもいいし」

「しょうがないからそっち行って寝る。夜からね。って今来た」

「何がしょうがないよ。大方ご飯目当てでしょ」

「本当に来るみたいだから布団だけでも準備してあげる?」

「どうせソファで寝るからいいわ。適当でいいの適当で」

 

冷蔵庫にパックを仕舞い、大きく伸びをする。

生理中よりは体調は良いものの、未だ体は重い。

境界を失ったせいなのか、はたまた別に理由があるのか。

 

まだ何もわからない。

それは、己の事すらも。



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85

ソファに寝転がった細身の体が、ゆっくりと寝返りを打つ。

日は沈み、窓外に夜空が見えていた。

昼からそこで寝ていた蓮子が、漸く上半身を起こす。

 

「んー、で、月の話についてだっけ?」

「今日は三日月よ」

「残念、三日月は明日だ」

「月の満ち欠けの一日なんて、大凡三十分の一程度の違いしか無いじゃない」

「四葉のクローバーが発生する確率よりは大きな数字だよ」

「天然の、ね。今じゃ幸運の証が量産されてるなんて、青い鳥も立つ瀬が無いわね」

「幸運が安売りされ過ぎて、顔を真っ青にしてるかも」

「幸運の鳥は顔で体調不良が判別できないっていうのは新説だわ。学会で提唱してきたら?」

「あんな頭のおかしい奴らのところでそんなことを提唱したら、本当に青い鳥を“作って”くるぞ」

「それもそうね」

 

二人がスラスラと言葉を並べるのを聞き流しつつ、ベッドから立ち上がる。

紅茶を優雅に啜るハーンの横腹を指でつつき、溜息を吐いた。

 

「会話が一歩も進んで無いの気付いてる?」

「一歩は進んだわ。天体の月の話ではない事がわかったから」

「パンチしていい?」

「いけないわこいし、まずは話し合いましょう。話し合いは文化的行為だと思わない?」

「思わないからパンチするね」

「いけないわこいしそれはいけない」

 

拳を振り翳して近寄る私から逃げるように、ハーンが後退る。

話がズレ始めたのはハーンのせいであるし、そのまま乗った蓮子も悪い。

二人の話は方向を見失い、迷子になって仕方が無いのでこちらから話を出す。

 

「境界が消えた。記憶が無くなった。生理が来た。ハイ」

「改めて、結構大変な事じゃない?特に二番目」

「大変だよ。大変じゃ無い訳がないよ」

「まぁ、そうよね。で、メリーはどう考えてるの?」

「私は…境界に記憶が奪われたと思ってた。ただその場合は生理に関係が無いのよね。引き金と捉えればいいのかしら」

 

鬼の酒以降、こいしの境界が再度見えるようになり、その時点でこいしは自らの記憶が曖昧になった事を自覚した。

次いで生理が来て境界は消え、こいしに変化は無い。

 

「一応補足として、こいしの境界は一時的に消失、再度出現したという説を推すわ」

 

鬼の酒によって境界が復活、その時点でこいしの記憶をなんらかの形で境界が奪い、そのまま消えたというのがハーンの考えだった。

 

「あと私の記憶も曖昧になってる。同じ境界に奪われた可能性も否定できないわ」

「えっメリーの記憶は初耳なんだけど…そっか、この前の忘れてたってそのせいか。元々その境界はこいしに憑いてて、また出たと思ったら消えたって認識で合ってる?」

「昔の方は蓮子の話でしか分からないけど…それを含めて考えればそうだと思う」

「記憶を奪った…奪った、か。忘れたのでは無く、記憶を奪われた。非科学的ね」

「それはどうか知らないけど、非科学的なのは今更じゃない?」

「確かに、今更過ぎるわね」

 

現代一般人の日常生活において言えば、“非科学的”という概念に遭遇する事は少ない。

空を飛ぶ事、透明になる事、果てに祟りと呼ばれた事象さえ。

論理的に紐解かれるか、“科学”によって実現されている。

 

化学とは、そこに多数の学問を内包し、時として形而下を超えて繋がりを見出す事すら有り得るもの。

幽霊をいるいないという程度の話では無く、観測不可能な物質と定義する説などが大真面目に交わされる現代において言えば、曖昧に“非科学的”と当て嵌める事は科学を理解していない浅学の露呈する物言いと言えるのだ。

 

ただし、マエリベリー・ハーンの瞳は、その“例外”であるとも言える。

瞳を取り出すことも無ければ頭蓋を開く気もない本人にとっては、どちらが“非科学的か”などと言う疑問に興味はない。

ただ非科学的という言葉は、彼女にとっては身近なものである。

それだけだ。

 

「記憶を取り返す方法は?」

「消えた境界を暴く。多分それが答えだわ」

「確信があるわけね」

「無いわ。境界に記憶を奪われたのなんて初めてだもの」

「……無いんだぁ」

「初めては何事も勘と経験で乗り切るしか無いのよ」

 

ハーンがどこか諦めたような笑みで言葉を溢す。

 

「蓮子はどう考える?」

「私はメリーみたいに境界が見える訳じゃないから今までの流れから考えるんだけど、始まりは鬼の境界から帰ってきたときでしょ?」

「確かにあの頃から境界がまた見えるようになったのよね。あそこが始点と言えるかも」

「メリーの瞳の力が弱くなったのもその辺り。こいしの境界の中は真っ暗なんだっけ?」

「今思い出すと鬼のとこから帰ってきてすぐの頃は目が一つだけ見えていた…気がするのよ。どうも何も存在感のない真っ暗…というかのっぺりとした真っ黒のイメージしかないけど」

 

蓮子が首を傾げ、向かい合うハーンも首を傾げる。

自らの境界の話をされているが、記憶がないため聞くことしかできない。

 

「こいしは境界に関してどう思ってるの?」

「記憶がないから何もわかんないけどね。そういえば前ほど力が出ない気がする。冷蔵庫の扉がなんか重くて」

「それ生理中にほぼ寝転がってたのが原因じゃない?」

「……あ、そうかも」

「解決しちゃったわね。でも、境界が真っ黒かあ…それは奥に何も無いって事なのかな」

 

鏡の境界、水面の境界、魂魄の境界、精神と肉体の境界、幻と現の境界、現世と幽世の境界───

それは“面”を隔てた世界の表裏。

 

真っ黒と言う事は、そこになにも無いと言う事。

闇と捉えればまた違ってくるだろうが、闇では無く黒と表現したのならば、話は変わってくる。

そして何も無ければ、境界という壁の意味は無い。行き止まりの壁にもう一つ壁を重ねるようなものである。

故に境界の意味が分からず、蓮子は眉根を寄せた。

 

マエリベリー・ハーンは感覚派。

道筋を無視して答えに辿り着く事は多いが、こうして理論立てて異常に気づく事を苦手としていた。

だから、宇佐見蓮子が横に居ることには重要な意味がある。

 

一つの目。

 

それが境界の“意味”とすれば。

 

「真っ黒の境界の奥は、瞼を閉じたと言う事…とかかな」

「はい?」

「瞳があって、目を閉じたから記憶が奪われて境界も消えたっていうのは結果であって、目が開いている状態が本来の境界の奥だったんじゃない?」

「目を閉じた理由は?」

「知らない。理由は…タイミングを考えると生理が来るから?血を嫌った?」

「血を嫌う、ねえ」

「逆の可能性もあるけどね。瞳が閉じて、境界が消えたから生理が来た。何かを堰き止めていたか、はたまた生理という現象に意味があるのか───」

 

 

額に皺を作り、蓮子が真剣な顔で言葉を紡ぐ。

 

 

「取り敢えずお腹すいたからなんか頂戴」

「…あのねぇ」

「頭を使うとお腹減るのよ。寝起きだし」

「まあ、そうね。こいしは何かいる?」

「あったかいの食べたいな」

「じゃあグラタンでも作りましょうか。こいし手伝ってくれる?」

「いいよ!」

 

空気は弛緩し、ハーンがキッチンへと向かう。

ソファの上に半ば寝転がったまま、蓮子は未だ難しい顔を作っていて。

 

「…メリー、私チーズ多めで」

「はいはい」

 

あっという間に、その難しい顔は笑顔になった。



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86

奥の無い境界。

境界の消え方。

最初に見えた一つの目。

 

───宇佐見蓮子は考える。

 

生理が来て境界が消えたのか。

境界が消えて生理が来たのか。

鬼の酒で境界がまた出てきたのか。

はたまた境界は最初から開いていたのか。

 

メリーが未だ境界がある時点で、過去の境界の事を忘れていた理由は。

既に記憶を奪われて思い出せなかったのか。

ひょっとして見えていても気づけないのか。

それともその境界を覚えていられないのか。

 

又聞きした私は、境界を覚えてはいた。

然し人に境界が憑いているならば、メリーは目を貸して“見せる”のでは無かろうか。

思い返せど、私に境界を“見た”記憶は無い。

メリーは私に見せなかった?

理由があるのか、はたまた私も忘れている可能性もある。

 

不自然な点が幾つもあり、何故それが生じているのか分からない。

答えがわからない気持ちの悪い問題が山積し、並列して思考する。

 

 

境界の特異性は、記憶の事と奥の光景の二点。

現象は生理の周期異常と記憶の欠如。

聞いた限り、こいしは大半の過去を忘れ、メリーはこいしの境界周りを忘れている。

 

奪った。奪った理由。境界に自我が在る?

覚えられたら困るから記憶を奪った?

否、奪うということに理由が無いこともありえ熱い。

 

 

「あっづ!」

「焼き立てって言ったでしょ」

 

 

思わずスプーンをグラタンの中に落とした。

ヒリヒリと痛む唇を舐め、霧散した思考をかき集める。

 

 

「考え事しながら食事すると溢すわよ」

「今いいところだから」

「しょうがないわね。はいあーん」

「んむ」

 

 

口内にグラタンが運ばれる。

ホワイトソースをベースに、マカロニとジャガイモとベーコンとチーズ。

それぞれ明確に異なる食感と味が口内に入ってきて熱い。

 

 

「味どう?」

「あっふ」

「ちょっとは冷めてるでしょ」

「ん、おいしいよ」

「良かったわ。こいしはどう?」

「ん〜薄味でうまうま」

「結構ベーコンの塩味効いてない?」

「そう?味の薄い部分だったのかも」

 

 

味は薄味というよりか濃い味な気もするが。

当然、合成食にも味ムラはある。

真に均一化された味というのは、不思議な事に人気が無い。

一説では均一な味は“飽き”が早い、なんてことも言われているが、合成食の歴史が浅いため、未だ解明されてはいなかった。

 

 

「んで、気になる部分が形になってきた?」

「挙げるとしたら…特に引っ掛かるのは境界が記憶を奪った理由と、境界を聞いた事はあれど私が見た記憶の無い点。メリーなら私にも目を“貸して”見せてくれると思ったんだけど、私にはその記憶が無い。メリーはどう思う?」

「……確かに、見せる気がする。という事は蓮子も記憶を奪われてる可能性があるって事…?」

「過去の事は分からないけどね。答え合わせも出来ないし。けど、もし私が境界を見せて貰って、そこだけを忘れているのだとしたら、また話は変わってくるの」

 

 

美味しそうなマカロニをスプーンで掬い、チーズと共に咀嚼する。

マカロニはモチモチの食感がしっかりと残っており、表面の焦げたチーズの香ばしさが鼻を通った。

───少女が、目を覚ました。
                    

「記憶を部分的に奪われたって説もあるけれど───例えば別説として、記憶を奪われたのでは無く、その境界を直接認識していた事実を思い出せない…なんてどう?」

「…私は瞳を通しての“認識”だから、思い出せていないって事?」

「まず記憶を失う前のこいしが、自身に憑いた境界の事を知っている、って前提が必要だけどね」

 

蓮子の横で、少女がグラタンを見つめる。
                    

紅茶を一口。
「蓮子の方が焦げチーズ多いな」
                

乾いた喉を潤し、考えを形にしていく。
羨ましそうな声に反応する者はいない。
                    

 

「よし、貰っちゃうね」
                

「なんらかの自覚を持っていた場合、私の“伝聞された”記憶だけが残っている理由を考えるとそうかなってだけなんだけど」

「それはおかしくない?私が境界の事を話して、蓮子から確認として尋ねられた話を私かこいしが聞いていたら、それは伝聞された記憶になるんじゃ無くて?」

「いいや、メリーやこいしの言葉は実際に認識した上での話でしょ?実感を伴っているのならば、それは明確な認識になっているのよ」

「でも蓮子も私の目を通して見た可能性があるんじゃないの?」

「そう、メリーの目を“通して”ね。ある意味で私はメリーの認識を“分けて貰った”だけなのよ。それを私の認識と捉えるかは難しいところだから、メリーがそれを覚えていないのなら同一記憶である私も一緒に忘れている可能性もあるって事」

「待って。話が飛躍しすぎていない?」

「まあ仮説よ仮説。流石に突飛すぎるけど、奪われたって認識から違う可能性もあるんじゃない?って事。なんか違和感あるのよね」

「蓮子の記憶っていう追加情報も出てきたし、どういう事なの…」

「んぁ、難しくてわからん」
                    

 

頭に浮かぶ幾つもの仮説。  
困った様に少女は笑う。
                

現状の把握すらままならない。
「私に気づいてくれればなあ」
                

諦観を滲ませる声が漏れた。
              

スプーンを置き、手を合わせる。
                  

「ついこの前、メリーは最後に境界を認識したのは樹海の時って言ってたよね」

「…それ、言った記憶がない」
「よし、ご馳走様でした」
                

「そっか。鬼の時の様に時間云々の可能性…は、無いよね」

「でもあの時みたいに個人差はある。何が正しいのかなあ」

「そういう性質みたい、としか言えないのよね」
少女は満足そうに頷くと部屋を後にした。
                      

「考察どころか現状把握すら不確かだと仕方ないわ。あら蓮子、グラタンのおかわりいる?」

「…………えぇ?」

 

 

メリーの声に、そんな食いしん坊に見えるかと返そうとして、言葉が詰まった。

無い。

まだ残っていたはずのグラタンが無い。

 

 

「ねえこいし、私の食べた?」

「え?いや私自分のもまだ食べ切ってないよ?」

「メリー、私食べてた?」

「うん?気にして無かったし…」

「私、メリーの目の前でずっと喋ってたと思うんだけど」

「……」

 

 

呆けた表情を締め、メリーが周囲を見回す。

金の瞳が細かに動くが、顔を引き攣らせて瞼を閉じた。

 

 

「それらしき境界は無いわ」

「少し前もこんな事あったのよ。私がパシられた時の話なんだけど」

「ごめんって」

「不幸が起こった人間にコーンスープと紅茶と醤油を買ってこいって言った人がいた時の話なんだけどね」

「ごめんって」

「ワンタンスープのおかわりあるからね食いしん坊の蓮子ちゃんってクッソ弄られた時の話でもあってね」

「ほんとごめんね」

「まあ根に持ってないんだけどね。根に持ってないよ。うんうん。根に持ってないからね」

「ほんとごめんね!?」

「んで、今回の記憶の話に関わってると思う?」

「……無関係では無いと思う。これも一種の“覚えていない”という同様の現象と言えるもの」

 

 

メリーとこいしは何故か認識できないようで、私だけが気づく事のできるこの現象。

恐らくは二人の日常にも頻発しているのだろう。

ただ、気が付けていないだけで。

 

 

「…暫くはこの部屋に泊まっていく」

「そうしてくれると助かるわ。何かあった時に私達は“気が付けなくて”困るから」

 

 

境界の消失に、異様な現象。

身の回りで、何かが起こっている。

 

しかしそれが“何を意味するのか”は、何一つとしてわからない。

ただ、残る結果だけが目の前にあった。



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87

───表現するなら、希薄と言うべきか。

未だ早朝。ベッドの上に、古明地こいしが寝転がっていた。

 

メリーに抱かれて眠る姿に、ふと目が寄せられ。
視線の先にいる少女は目を見開く。
                      

 

「……?」     
「お?ひょっとして見えてる?」     
                     

 

“それがどういう物か理解できず”、凝視する。
少女は己の背後を確認し落胆した。
                     

古明地こいしだ。古明地、こいし。
その場を離れても、視線は変わらず。
                     

 

細い手足は、シーツの皺と同化した様に。    
「なんだ、漸く見えたのかと思っちゃったわ」
                        

緑がかった銀の髪は、メリーの金髪と混ざる様に。

その体は、毛布に溶ける様に。
少女は残念そうに呟くと、
                   

存在感が薄すぎて、忘れてしまいそうな程で。
リビングのソファに倒れ込んだ。
                     

 

「…………ん」

 

寝息が聞こえる。

メリーのものではない、呼吸の音が聞こえた。

それだけで、存在が明確に認識できて。

近寄って頬に触れれば弾力のある肌に指が沈む。
「おっセクハラか?」
                       

擽ったそうに口をモゴモゴと動かすのを見て微笑めば。

───金の瞳と目があった。
少女は茶化す様に呟いた。
                     

 

「……えっそういう?
「ハーンも言ってやってよ」
                     

「起きてるんなら言ってよ」

 

ゆっくりと起き上がったメリーの頬を摘むと、顔面の中心に皺を寄せるような表情を作る。

 

「おはよう。今日はお寝坊さんじゃないのね」

「私は起床就寝のタイミングがおかしいだけで、起きるのが遅いのはメリーの方でしょう」

「否定はしないわ」

「肯定をしろ」

 

もっちもちと頬を捏ねれば、されるがままの顔。

完全に起きてはいないのか、その柔らかな頬を揉み放題である。

ここぞとばかりにふわふわの感触を楽しんでいれば、眠そうな緑の瞳と目があった。

少女がリビングのソファから立ち上がる。
                      

「えぇ、そういう…?」           
「おぁ、ここに櫛置きっ放しじゃん」     
                       

「起きたなら言ってよ」        
テーブルに置かれた櫛を手に取って。
                        

 

瞬きを数回。    
「ハーン髪ヤバいよ」
              

未だ完全に目覚めてはいない様子。
櫛を金髪の少女に手渡した。
                       

こいしが聞き取れない声で何かを呟きながら毛布に顔を埋める。

 

「ん、ありがと」
「はいはい、ちゃんと梳かしてね」
                     

 

そんなこいしを見ていれば、メリーも漸く意識がハッキリしてきたようで、櫛で髪を───

お礼に手を振って返し。
                  

「その櫛、どこから取った?」

「…」      
「私がって危なァ!?」
              

 

ぶん、と横に手を振るうメリー。     
少女は寝室のカーペットに尻餅をついた。
                     

その手指は何にも触れず、空を切る。

手応えの無い空間を二人でぼんやりと見つめ、溜め息を吐いた。

 

「今、おかしかったわね」
「今の当たったら超痛いよ!?」」
                     

「その櫛はベッドから届く場所に置いてなかったから…昨日リビングで見たもの」

「さっき私、ありがとうって言わなかった?」

「多分言ってたわ。少なくともそこに違和感を覚えてる感じでは無かった。当然の事として受け入れてる感じだったね」

「…なんて言うんだろう、変は変でも、こう…当たり前の様に馴染んで、言われて考えるまで違和感が無いのよね」

 

メリーに腕を引かれてベッドに倒れ込めば、瞼に指が当てられる。

自分のものではない、現実の筈なのに仮想現実に近い視界。

慣れた己の呼吸による視界の揺れも、自然的な視線のズレも違う。

そんな、自分のものではない世界が見えた。

 

「何か見える?」

「…おかしな点は無いわ」
「美少女が見えてるでしょほら真っ正面」
                     

 

普段通りの光景。
宇佐見の目の前で、少女が唇を尖らせた。
                     

各所に小さな境界は見えるが、些細な事。
真正面に立てど、誰の目にも見えていない。
                     

これといった異常は見当たらず。
触れたところで、気づいてくれる筈も無く。
                     

 

「なにか見えればなぁ」
「見つけてよぉ」
                     

 

メリーが目を閉じた。
ふと、少女がマエリベリーの目を手で覆う。
                     

視界は暗く、闇に包まれて。
思いつきで行われたその行為。
                     

考え込む様な沈黙。
然しその思いつきは、大きな意味を持った。
                     

暫し待つも、何も発言せず瞼も上げず。
宇佐見の顔を見て、少女は目を見開く。
                     

 

「…………メリー?」
「……蓮子、気付いた?」
                     

「ん?」

「どこ見てる?」
マエリベリーの目を覆ったまま顔を綻ばせる。
                      

「どこって…部屋だけど」
少女は、その反応を求めていた。
                     

「はい?」

「え?」
「よく分からないけど流石蓮子!」
                     

 

異常が起きている。
原因の少女も異常の内容を把握しないまま。
                     

その事に気付けば、即座に頭を切り替えて。
事態が進展を迎える。
                     

 

「そのままでいて。動かずに」

「わかった」
「はーい」
                     

 

緊張を孕む声が部屋に響いた。
間延びした声が部屋に響いた。
                     

 

その目は、何を捉えているのか。
その目は、何を捉えているのか。
                     

 

その本質を、紐解き“暴く”。



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88

PC版で文中文字サイズが変に見えるとのご報告を頂きました。
読みにくい場合はスマホ版でお試し頂ければ幸いです。



───少女は縛りを設けられていた。

行いが全て、人の無意識に溶けていく。

だから少女は、“発案”を望んでいた。

「───メリー、部屋は見えてる?」

「見えているわ」
「頼む、私はここにいるぞ……!」
                      

「今、何か変わった点は?」

「……ないけど?」
少女が期待に目を輝かせる。
                      

「そう」

「本当は触れたとこで気づいて欲しいけどね」

その言葉でメリーの鼻先に挙げた手を下ろす。

見えていると認識しているだけで、実際には見えていない。

借りたメリーの視界は黒のまま、何も変わっていないのだから。

 

「錯覚かしら?見えていると脳が誤認識を起こして視界を補完している。……幻覚?」

「えっ私幻覚見てるの?」
「幻覚っちゃ幻覚みたいなものかも」
                      

「わからないわ。うーん……なんだろうこれ……」

気づいてもらおうと、少女が一度手を離し。

パ、と電気をつけたように視界が戻る。
そして再度ハーンの目を隠す。
                      

そしてまた目を覆われるように暗転。

 

「……んん?」
「蓮子なら気がつくよね」
                      

「えっなになになになんか起きてるの?」

「なんか一瞬見えた。んでまた暗くなった。これ実はメリーが目を閉じて悪戯してるだけの可能性ある?」

「目は開いてるわよ?眼球触る?」
「私の悪戯とは言えるけどね」
                      

「そこまでして確認はしたくないかな……」

 

点灯と点滅。

怪異、それも人の視界を奪う?

しかしメリーは見えていると認識しているし、一人ではその怪異の行いにすら気が付けないということ。

敵意は無いようだがどうしたものか。

 

「私の声が分かるなら素早く2回メリーの視界を戻して」

「モールス信号か何か?」
その“発案”を、少女は待ち望んでいた。
                      

「……ほう、なるほどね」
「はいはい、2回ね」
                      

「えっ本当に反応あった!?私視界変わらないからわかんないんだけど!」

 

視界が2回ほど戻った。

無差別的で現象的な怪異ではない。

この怪異とは、意思の疎通が可能である。

 

「文字は書けるか。YESなら3秒間戻して、NOなら素早く戻す」

「人の視界でコックリさん始めてる?」
「誰がコックリさんだよ」
                      

 

返答は3秒。
そうは言いつつ少女は指示通りにする。
                      

返答の最後に一度暗転し、そして今度は視界が正常に戻る。

「書くからちょっと待っててね」

「文字が書けるのか……コックリさんより有能。聞こえてたら今から30秒以内に何かを書いて」

「今時コックリさんなんて言葉を知ってる人がどれ程いるのやら」

「時代遅れとか言うのやめてよ」

「おはよ……何やってんの」

「うわっ」

 

メリーの視界を見ているままなので、急な動きに驚いて声を上げた。

寝癖を手櫛で直すこいしが、私を……メリーを眠そうな目で見ている。

 

「怪異遭遇中」

「……怪異?ハーンがそうって事?」

「この行為は蓮子を襲ってるわけじゃないのよ。今視界貸し出し中」

「ふーん、そうなんだ」
「書くものが無い……」
                      

「えーっと……音声認識、モールス信号一覧……っと」

 

意思疎通の方法を考えてメリーの目の前で端末を弄れば、メリーの視界が若干細くなった。

多分半目なのだろうと想像できるが、気にせずにそのまま端末を弄っていれば、いつの間にかテーブルの上にティッシュが広げて置かれていて。

その上に、赤い文字が書かれている。
「ケチャップで文字を書くの難しいわ」
                      

 

わたしはここにいる

 

「……口下手なダイイングメッセージか何か?」

「あっこれケチャップだ。文字書く紙が無いからとりあえずこれに書いたのかな」

 

これも立派なポルターガイストだが、共に見る景色に異常は無く。

境界がそこにある訳でも無く、突然テーブルにティッシュとケチャップ文字があった。

 

そこには何もいない。

ならば何故、怪異がハーンの視界を奪った事に私は気が付けたのか。

見えないのに視界を奪われた。

そういう怪異という認識でいいのだろうか。

 

「メリー、ちゃんと書くものとかある?」

「うーん……棚のどこかに何かの紙とペンがまだ何処かにあったはず。取り敢えず手を離すわね」

「わかった」

 

自分の視線へと戻り、“酔い”が覚めるまで周囲を見回した。

暫くして机の上に紙とペンを置き、文字が書かれるのを3人で待つ。

 

「……何このコックリさんみたいなの」

「あっこいしもそう思う?わかる!」

「なんちゃって降霊術より遥かにヤバいことしてるけど」

「降霊どころか既に“居る”んだよね」

「うん?うわ、いつの間にか書いてあるわ」

 

相変わらず時間が止まったように、結果だけが残っていた。

何かが書かれている紙を三人で見つめ、首を傾げる。

 

「うわっ」
「まあそういう反応だよね」
                      

「偽物……?そういう怪異?ドッペルゲンガー?」

「ん、蓮子これなんて書いてある?」
少女は苦笑いを浮かべた。
                      

「メリーは見えない?」
しかし次の言葉に、少女は首を傾げる。
                      

「文字の上に境界が走ってて見えないのよ。多分その文字に意味があると思うんだけど…」

「境界……なんで?」

メリーが目を細め、こいしが眉根を寄せた。

私は文字の意味を考えて唸る。
想定外の異常。
                      

紙に書かれた文字とは。
少女の意図せぬ事象が起きていた。
                      

 

私は古明地こいし

 

過程は有らず、結果だけが残る。

異様な怪異は、己を古明地こいしと名乗った。

 

 

「……私?」



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89

こいしが息を飲む。
「そうだよ。私さ」
                      

心を落ち着けるように指を組み、頭を回す。

少女が寂しそうに笑う。

「メリー、境界は?」

「……あるの。あるけど、奥には何も無いわ」

「そう、“同じ”って事ね」

 

私は古明地こいし

 

そう記された紙を手に取ったメリーが目を眇めた。

メリーの伝えてきた情報は、無くなったこいしの境界と同じだという事。

 

一枚の紙。

表面で文字を象るインクが姿を変える訳もなく、隣の少女の名が確かに書かれていた。

 

「こいし、何か心当たりは?」

「……無い。から、怖い」

「───そうね」
「もう、随分と人間らしいね」
                      

 

怖いとは珍しいなどと言おうとしたが、表情の強張ったこいしを見て言葉に詰まった。

怪異に対してどこか余裕を持ち、いつでも楽観にも似た遊びを感じさせる彼女が明確に怖がっている姿に、茶化す気が失せる。

 

「ドッペルゲンガー、または名を騙る何かって認識でいいのかな」

「分身、成り代わりに関する怪異として警戒しましょう」

「接触はした。相手が何をしたいのかがわからない」

「私の目では見えない。蓮子は認識できていたけど姿は不明。こいしを騙っている理由は何?」

「ん?これ警戒されてるな?」

不明点多数。

異様な怪異は既に部屋の中にいる。
想定より反応が悪い。
                      

境界を超えて。
少女は言葉選びの失敗を悟った。
                      

幻想は現世へと出てきているのだ。

コミュニケーションは可能なものの、鬼と違い成り代わろうとしているのならば害意を持っている可能性すらある。

改めてそう思えば、途端に恐ろしくなった。

「ちょっと紙貸して」

息を浅く吐き、こいしの手を握る。

紙を取り、机で文字を書き始める。

入口となった境界は何処だ。
「ぁ、マズい瞳が閉じちゃう」
                      

少女は焦るように書く速度を早め。

「メリー、紙見せて」
「せめてこれだけは───」
                      

「…あれ?さっきまで持っていたんだけど」

「蓮子、また机の上に」

ふらりと少女が立ち上がる。

また時間が飛んだかのように、メリーが持っていたはずの紙が机の上に置かれていた。

端が僅かに皺になっていて。

覗き込めば、新たな文字が見える。

その瞳はガラス玉のようだった。

 

私は古明地こいし

認識できない

どっちも偽ものじゃない

もうじきわたしたちきえる

みつ

 

 

先程と比べ、途中から突然急いで走り書いた筆跡。

漢字を使う余裕も無かったのか、崩れた平仮名が紙の上に連なって。

最後の文章は、書ききれなかったのか途切れている。

まるで、何かに追われて逃げ出したかのような文字だった。

 

「……何?」

「名前以外に境界は無いわ。後半はかなり急いで書いたみたいね。内容は…偽物じゃない?」

「私達消える…消えるってどういう事?」

「わからないよ。でも、偽物じゃないなら何?私分身したの?」

 

内容を噛み砕こうと、読み返す。

認識が出来ない。恐らくこれは性質と状況を指している。

どちらも偽物ではないというのは向こうの主張であり、害意を持っている可能性があるならば信用してはいけない。

もうじき消える、と言うのは文字通りだろうが、私達…複数を仄めかす言葉には、なんらかの意味があるのだろう。

 

「私達、ってどういう意味だと思う?」

「状況的に考えるならば、怪異が複数いるか、または怪異自身と…こいしを言っているのかのどちらかじゃないかしら」

 

ぎゅ、と握り返された手は、力が入らないかのようにか弱く。

こいしが消える。

消える、とは?

 

「悪趣味だわ。ジョークのセンスが無いと見える」

「センスどころか姿も見えないけど」

「それはそう。んー最後が書き切れて無い理由は何かしら」

「……時間制限があった。けど、最初の文はしっかりした筆跡だったし、急に何かから逃げたみたいね」

「ねえ蓮子、ハーンの目を借りて周囲に呼びかけてみたら?」

 

こいしの提案に、手を繋いだまま目を閉じる。

 

「メリー、お願い」

「わかった」

 

瞼に触れられた感覚。

自らのものでは無い、ズレた視界が来る。

 

「……そこにいるならメリーの目を隠して」

 

──────30秒ほど待っただろうか。

 

反応は無い。

いつまでも視界は明るいまま、変わる事はなかった。

 

「どう?変わった?」

「ダメね。もうここにはいないみたい」

「書ききれなかったのは部屋から出て行ったから、か」

 

少なくとも怪異側にも事情はあるらしい。

部屋にいないならば、少しだけ恐怖も和らぐというもの。

メリーが手を離したので、また紙を見る。

 

「最後はみつ……けて、と続くのかな」

「認識できないことはわかってるけど見つけてって事?なんで?」

「さぁ……そこが大事なんだけどね。見つけたところで、言ってることが本当ならもう一人こいしが見つかるだけだと思うけど」

「偽物はいない。同一人物って言ってもクローンじゃあるまいし……」

 

一卵性の双子。限りなく同一に近いが、そういった話では無いだろう。

名が同じと言うなれば、そこに意味はある。

絶対に、二人とも同じ存在など有り得ない。

 

───本当に?

 

まだクローンの可能性を模索した方が現実的なのに。

異様な違和感から逃れられない。

何が違う。何処が違う。

私は何を見落としているのか。

 

覚えている記憶を漁れ。

仮説でいい。

この境界は、“見えてるだけ”では暴けない。

 

明確に古明地こいしを狙っているのなら、暴かなければならない。

その理由を。その意味を。

先入観が混じっているなら何処なのか。

 

名を騙る怪異は認識が出来ない。

境界が記憶を奪った。

境界はこいしから無くなった。

境界は、古明地こいしに憑いていた。

 

先程の双子の話を思い出す。

一卵性。受精卵が別れて生まれた双子。

一つが二つとなった存在。

 

怪異は一度として、同一とは言っていない。

その主張は、偽物では無いということ。

 

 

───あぁ、“先入観はあった”。

 

だがこれは。

 

「最初、から……」

「蓮子…?」

「───ねえ、憑かれていたというのが勘違いで」

 

もしも。

これはもしもの仮定だ。

初めから。前提から既に間違えていた可能性。

 

境界に憑かれていたのではなく。

境界に奪われてしまったのではなく。

“元より境界あってこそ”だったという、そんな仮説。

 

「こいしの境界もまた、こいしだったって事は無い?」

 

メリーがこの言葉を聞き、咎めるように眉根を寄せるのが見えた。



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90

「蓮子、それは」

 

 

“わかっている”。

この意味を、私はわかっている。

境界もこいしだと言う、その意味を。

 

 

「記憶を奪われたのではなく。その記憶が元々境界の中に居た何かのものだったとしたら」

 

 

低く、呻くようなメリーの声を遮り、言葉を続ける。

始点。元々考えていた事が、初めの部分で間違えていたとしたら。

 

私達は、境界と共に在る者達を既に知っていた。

人では無い、幻想の存在を。

この事実を、わざわざ記憶を失ったこいしに突き付けたくはないが。

───もしも、境界の中に居た存在、同じ記憶を共有する者を、古明地こいしだとするならば。

 

境界に憑かれていたのではなく、境界とあってこその存在であったという、大前提の転覆。

 

記憶とは個を個として確立する、形而上で重要なもの。

記憶喪失とは、個の喪失にも繋がるものである。

奪われたのではなく、失われたのだとすれば、境界はどれほど彼女において重要な部分だったのだろうか。

こいしの“一側面”が別離したというには、大きすぎる欠落。

むしろ、逆に一側面が残ったと考えれば───

 

 

「わ、私は……人…じゃ、ない?」

「厳密に言うとそれを忘れてるって状態なのかな」

 

 

記憶を失う前は、一度も言う事は無かったものの、こいしは幻想の存在としての自覚はあったように思える。

 

どこか不思議で、どこから来たかもよくわからない。

そして本人はそれらすべてを理解しているような風だった。

初対面、明言せずとも俗世離れした雰囲気は、言葉通りに“人間離れ”していた。

 

 

「まだ決まったわけじゃないわ。蓮子、可能性はどれぐらい?」

「否定しないならもうわかるでしょ?」

 

 

ほぼ、そうだと思うのよね。とは言葉を続けない。

 

ぐ、とメリーが唇を結ぶ。

どこか、そうではないかという考えはあったのだろう。

私たちが恐らく失った、こいしの境界の奥に見た光景を思い出したいものだ。

そこに、答えが見えていた可能性もあるのだから。

 

古明地こいしは、印象だけで言えば“おかしくなった”。

こいしは出会いより日を経れば経るほど俗っぽくなっている。

否、“人間らしさ”を感じるようになった、という表現が近い。

 

メリーの幻想が見える瞳ではどう見えていたのかはわからないが。

少なくとも出会ったとき、私の瞳には、同じ人間とはとても思えなかった。

 

 

現在、こいしは人間にしか見えない。

俗世離れしたあの不思議な雰囲気は無く、私たちのよく知るこいしとなって久しい。

───そう思えば、生理が突然来た理由もそこにあるのかもしれない。

謎のままというのは気持ちが悪い。境界が答えてくれればいいのだが。

 

 

「もしも本当にそうなら、恐らく今のこいしは幻想の存在では無いわ」

 

 

ただし現の存在とも、断言できない。

そう言外に告げたメリーの堅い声に、言葉を重ねる。

何故なら。

 

 

「境界に何も無い」

 

 

それが意味する事は。

 

 

「今のこいしは、あるべきものと別離した状態」

 

 

境界は古明地こいしであり、幻想の存在だと仮定したこの説。

もしも正しければ、幻の離れた残滓が今のこいしの正体。

魂魄という考え方で言うなれば、それらが乖離しているようなもの。

 

 

「見えない存在が、こいしの境界から抜け出して形を持った幻想の存在、仮に魂に類するものだとするならば」

 

 

メリーの瞳のように、幻想を暴くことのできないこの瞳では。

時として見えない事もあれば、感覚的ではないが故にわかる事もある。

 

───仮説、そしてその結論。

 

いなくてはならないものがいない。

本来溶け合った幻と現が境界を引き、別離した状態を何と言うのか。

 

 

「体外離脱……またの別名を、幽体離脱」

 

 

現状を指す表現として、言い得て妙である。

幻側、魂は消え、残ったのは現のみ。

その怪奇現象こそ、今回私達が暴くべき怪異の名。

 

境界を、そして境界の向こうを探さねばならない。

暴く事ではなく、暴いた先を目的として。

 

 

「古明地こいしを見つけましょうか」

 

 

観測出来ないのではない。

在る筈なのに、気付くことが出来ないという事が問題点。

それが“古明地こいしの性質”というのなら、暴き方も考えねばならない。

 

現を彷徨う幻想を追うために、少女たちは立ち上がった。

幻想を見る瞳を持ってすら掴めぬ存在をどう見るか。

 

 

そして黒の瞳は、金の瞳は───

 

不安に揺れる、緑の瞳は。

 

 

───その先に、何を見るのか。



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91

無意識の境界【前編】です。


幽体離脱。

 

分離した魂───

否、蓮子の説を信じるなれば、分離元の魂という表現が正しいか。

魂の行く先など判る筈もなく、目的が決まった事は良いことではあるものの、手順は不明なまま。

 

 

「こいし、魂の行く先の予想は?」

「知らないよ……」

 

 

予測。

魂の在り方。その行動分析。

何らかの事情で家から出たのであれば、書き置きを中途半端に残す意味は無く、書き切ってから出ればよかった筈。

しかしながら紙に書く前までは遊ぶように目を隠してコミュニケーションを取っていた理由とは。

急にその場から立ち去らなければいけなくなった事柄として挙がるのは、何かに追われたか、何かの法則に縛られているかというぐらいだろうか。

 

 

「仮称こいしソウルが急に家からいなくなった理由は何?」

「……もっといい呼び方なかった?」

「こういうのは適当よ適当。じゃあ蓮子ならなんて呼ぶ?」

「こいしver.1.1」

「アップデートされてるじゃない。幽体離脱で境界側が大元だとするとver.1.0じゃないの?」

「じゃあそれで」

 

 

略称としてこいち(1)ということになった。

 

 

「それだと私がこいし1.1?」

「半分だからこいし0.5」

「じゃあそれで」

 

 

略称として5いしということになった。

判別しにくいため3秒後に撤回された。

 

 

「そんな事はどうでもいいのよ。問題は行き先。こいしがどこにいるか見当をつけて探す方がいいと思うの」

 

 

魂の行く先。

手書きの文字を読む限り、本人が意識的に何処かへと動いている可能性。

 

 

「大学?」

「可能性はあるわね。この場所、家という環境に原因があるのならば、ここ以外のどこかに動き続けていれば遭遇できるかもしれないし」

 

 

条件に縛られている場合、考えられるのは対象か環境。

人、時間、場所など、どれかに限定的にしか滞在、接触できないというのもあり得る。

しかし魂は結局のところ、こいしからそうは離れられないと検討をつけていた。

引き剥がれてはいけないもの。

魂側にも自我はあり、死を望んでいないのならば離れすぎることは無い筈である。と、不明瞭ではあるがそう考えている。

 

 

「本来は同一。つまり分かたれる方が異常であるということ」

「だからこいしと一緒に行けば会える確率は上がる?そんな簡単にいくのかしら」

「かといって魂を寄せる方法なんて知らないわよ。私の目じゃ認識できないみたいだし」

 

 

ひとまず。

 

 

「ここにいるよりはマシ。そうでしょう?」

「間違いない」

 

 

 

 

「そもそも幽体離脱ってなんなのかって話よ」

「体外離脱…自己像幻視とも呼ばれているらしいわよ」

 

 

せっかく大学に来たのだからと、資料保管室まで足を運び、幽体離脱についての蔵書を漁る。

調べ物はネットで行ってもいいが、欠落域の事もあり、欠落前と比べるとどの情報も信用度が低い。

更に言えば境界についての記載はほぼ全て“検閲済み”ため、ギリギリのラインを攻めた記載はネットの深い位置に行くより、実物として残る本や資料を探した方が早い。

一応と、スマホで情報を見ていたこいしが目を細めた。

 

 

「ネットだと幽体離脱は夢であるって結論に至ってるみたいよ」

「夢だったら良かったんだけども」

 

 

幽体離脱とは、己の目からは見えぬものが見えた状態。

“魂側”の主張があってこその怪異である。

 

 

「臨死体験をした者が、自分の体が見えていたと言った。意識を失っている最中に室内でどうあっても視認できなかった場所にて行われていた行為を言い当てるなど、奇妙な事例があった。だってさ」

「こっちはドッペルゲンガーの話が出てきたわ。超常現象とされるドッペルゲンガーは、己と同じ姿の者を見る幻覚である。肉体と霊魂が分離、実体化したものとも言われているってこれ、まさに今の状態よね」

「あれ?でもドッペルゲンガーって遭遇すると死んじゃうんじゃなかったっけ」

「それも書いてある。本人が遭遇すれば死ぬ。他者も2度見れば死ぬ。いやこれ結構怖くない?」

「怖いどころの騒ぎじゃないんだけど」

「まあドッペルゲンガーは意思の疎通を行わないので今回のとはそこが違うけどね。けど、ドッペルゲンガーの状態には相当近い」

 

 

幽体離脱は主に体から魂が抜ける状態。

こいしの現状を体だけと言うには、“自我が残りすぎている”。

 

 

「幽体離脱って言い切ったけど、ドッペルゲンガーって言った方が良かったかも」

「そこはなんとも難しいところね、どちらとも言える訳だし。ただ、遭遇したらどうこうの前にそもそも見えないっていう」

「そこなのよ……こいしの魂がどのような性質を持っているのか分かれば、見える条件を満たせるかもしれないのに」

「メリーじゃ気付けない。私だけじゃ見えない。こいしはわからない。何かヒントとかない?」

 

 

書かれていた内容は“見えない”では無く、“認識ができない”。

その書き方にこそ、意味がある。

 

 

「蓮子の言う通り、認識ができない。いるのに私達じゃわからない」

「そうね」

「いるのならば、痕跡は残るでしょ?」

「それは……どう、だろう。そもそも魂が物質的であると考えていいのかな。ペンに触れていたとは思うけど、ドアを開ける音すら私達には認識ができなかったし」

「関わった事象全てが意識からすり抜けてしまうのかしらね。あれ?でもそうなると私たちが紙に気付けたのは……」

「私がそこに居る事に偶然気がつけたから、でしょ」

「そう、そうだったわね」

 

 

蓮子が気付いたからこそ、そこからの流れで生じたこいしの魂が関わった事象に気付く事が出来たのか。

しかしそれでは、居ると認識出来たことで芋蔓式に他の痕跡が出てきても良いのではなかろうか。

 

 

「まさか痕跡に気が付けていないだけ?」

「また家に逆戻りする?」

「……ありかもしれない。大学来たついでにちょっと研究室に顔出すから先帰ってて」

「わかった。その間に何かないか部屋を片付けてみるよ」

「お願い。あ、ついでに洗濯機に服とかもろもろ放り投げておいて。今日のバタバタで洗い忘れたから」

「了解。かといって急いで帰ってくる途中で怪我しても困るし、ほどほどでね」

 

 

ソファーに座る眠そうなこいしを蓮子が呼ぶ。

先に帰る二人と別れて研究室に行き、PCのメールを確認。

教授と軽く会話して帰路に着く途中、見知った顔が向かいから歩いてきて。

 

 

「あら?」

「お、久しぶり」

 

 

伊吹が手を振って近づいてきたので、少し急いでいる事を伝えれば残念そうな顔で笑われた。

 

 

「なんだ、ご飯に誘おうかと思ってたのに。こいしによろしく」

「ええ、伊吹が好きって言ってたって伝えておくわね」

「違ぁう」

 

 

口をもごもごする伊吹と別れ、そのまま大学を出る。

暫く歩いていれば、タブレットが振動して。

見れば古明地こいしからの着信であり、迷わずに通話を開始した。

 

 

「こいし?どうかした?」

『こいしが力が入らないって。衰弱しているようにも見える』

『……ごめんねハーン、ちょっと力入らなくなっちゃった』

 

 

力なく、薄く小さな声音に緊急事態と判断。

幽体離脱の影響が出ているというのならば、今すぐに戻らなければならない。

 

 

「急いで帰るわ。どんな状況?」

『家には着いてベッドに寝ている状態。力が入ってないのと……手足の先に感覚が無いらしい。救急車を呼ぶような話ではなさそうだし、メリーの目なら何か分かるかもしれない』

「わかった。待ってて」

 

 

通話を終え、走りだそうと顔を上げる。

ふと目に入った路地裏に何かが動いたような気がして。

偶然に意識すれば、薄暗い路地に何か蹲っているような影があった。

 

居ると言うより、気が付けば居た。

ただ、何気無しに蹴っ飛ばした石に意識を向けるような、些細な事が無意識下から意識上に入り込むように。

明確に意識した瞬間、それに“気付いて”しまった。

 

 

「開いた」

「見た」

「こっち見てる?」

「薄暗い」

「不思議な目」

「見ているかも」

「知ってる人だ」

「今日は月が細い」

「ハーンがいるよ」

「いたね」

 

 

影。真っ黒のシルエットにも見えて、同時に色味があった。

頭部と思わしき場所は緑がかった銀の髪のような、黒いような。

ビー玉の様な無機質な瞳が、恐らくこちらを向いている。

剥製にも近い、生気の無い黒とも白とも言えぬ肌がそこに在り。

 

───何か、喋っているように聞こえて。

 

知った存在によく似ているようにも見える姿だが、この瞳によって正体は異なるものだと判っていた。

 

 

「……境界が、形を成している?」

 

 

人型の境界。

質感も、色も、どこからどう見ても人という存在に見えているのに、同時に境界として見えている。

顔は有る筈なのにぼんやりとしか認識できず、表情は見た事実が脳をすり抜けるように記憶できない。

まるで、紙に重ねて書かれた異なる情報が互いを塗り潰すような。

薄く霞む訳でも無く、然して二つの状態が重なっているかの様な異形が其処に居た。

 

街灯で照らし切れぬ夜闇の中で、無機質な焦点の合わぬ双眸が揺れ動いている、筈。

向けられたそれに、興味も畏れも何も感じない。

何も、感じられない。

 

 

「見えてる?」

「動く」

「追った」

「見えてる」

「見られてる」

「わあ」

 

 

ゆらゆらと動く境界を目で追えば、その場で小さくなった。

しゃがみ込んだのか、はたまた体積が小さくなったのかがよくわからない。

よく聞けば、子供のような無邪気な声質だが、声ではなく街並みに溶ける些細な雑音に近く、異様な程に心をすり抜ける。

聞いた音をそのまま口で繰り返して曖昧に意味が理解できる様な。

そんな目の前の境界から連続して発せられる音は、明らかに“一人分”では無い。

 

 

「……何?」

 

「何って?」

「私は古明地こいし」

「こいし?」

「こいしだよ」

「私はこいし」

「貴女を知ってる」

「少し開いてる」

「ハーン」

「私のお友達」

 

連続する音。

暗闇の中で、その境界は立ち上がるような素振りを見せる。

徐々に人型から輪郭は曖昧になり始め、辛うじて何かが居るという事が分かる程度まで存在は“薄く”なっていた。

認識を続けようと目を凝らせば、その境界の隙間を覗いてしまう。

 

人型の奥、ずっとずっと奥。

吸い込まれるように。遠くを凝視するように。

境界の奥へ、不意に焦点を合わせてしまった。

暗闇のような世界の奥に、ポツンと白い何かが見える。

 

まだ遠い。辛うじて形が何かぼんやりとわかる程度。

しかし徐々にその白い何かが小さくなり、まるで瞼が閉じるように白は上部からその面積を狭め───

 

 

 

 

あれは、瞳だろうか。

 

 

 

 

「目」

「帰れない」

「閉じた」

「溶ける」

「曖昧」

「見てはいけない」

「無意識を」

「私を」

「だめ」

「閉じて」

「目を」

 

「目を閉じて」

 

ふと、視界が暗くなった。

 

 

「…ぇ」

 

 

目に痛みが走り、反射的に瞼を閉じれば、その瞼が何かを挟んだ。

それが己の指だと気が付き、咄嗟に顔を仰け反らせる。

 

心臓の鼓動が苦しい程に速くなった。

今、誰に強制された訳でも無く、自らの目を指で突こうとしていた。

その行為が潰す目的か、はたまた抉り出そうとしたかはわからないが、濡れた指の腹だけは事実としてそこにある。

口内は乾き、呼吸に掠れた音が混ざる。

 

目を伏せた。

見てはいけない。

何も見てはいけない。

 

後退り、反転すると一目散に家へと走る。

何があったかわからないまま、しかし強い恐怖を胸に地を蹴った。

 

思い出せない。何故逃げる様に走っているのかもわからない。

ただ、先程あった事を漠然とした恐怖として心根に刻み付けた。

消して忘れることは無いだろう。

 

───遠ざかる足音を聞き、輪郭の歪んだ黒い人型は縛られる様に動きを止めた。

 

 

「いない?」

「薄暗い」

「帰れない」

「お姉ちゃん」

「帰っちゃった」

「開くよ」

「また足音だ」

「見えてない」

「縛られた」

「知らない人」

「気づくかな」

「無いや」

「無くした」

 

 

「寒い」

 

 

路地裏に、誰も気に留められない音が鳴る。

さも、道端に転がる小石が如く。



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92

無意識の境界【中編】です。


体当たりをするように鍵のかかっていない扉を開け、靴を脱がぬままバタバタと部屋に転がり込む。

何事かと、ギョッとした顔で蓮子がこちらを振り向いた。

 

 

「なになになに!?メリー!?」

「ハァ……オェ……ハァ……」

 

 

呼吸は乱れ、慣れぬ急な運動が吐き気を誘引する。

蓮子を手で制してその場に座り込み、荒い息を落ち着けようと深呼吸。

ようやく思い出したかのように額が発汗し始めて、顎へとファンデーション混じりの汗が伝う。

 

 

「酷い顔よ!?こいしのために急ぐのはわかるけど、メリーが怪我したらどうするのよ……」

「……ふぅ、そうね、ごめんなさい。ちょっと……怖くなったから走って帰ってきたの」

「怖くなった?ストーカーか何かにでも追われた?」

「いや……いや?何で、怖くなったのかしら。私、何を?」

 

 

蓮子が不審なものを見るような目を向ける。

しかし思い返せど思い返せど、強い恐怖ばかりを覚えているだけで、何があったのかはわからない。

 

 

「怖くなったけど、その理由を覚えていない……まあ、その話は後で聞くとして、とりあえずこいしを見てよ。もうベッドで寝てるから」

「そう、ね。そうよね。こいしのとこに行こう」

 

 

明らかな異常である事理解した。

ただ今はそれどころではないので、緊急を優先する。

寝室へと行けば、ベッドにこいしが寝転がっていた。

 

 

「あぁ、ハーン。おかえり」

 

 

寝転がっている、筈だ。

 

 

「ひっ」

 

 

叫ばなかったのは、怯えに声が詰まったから。

───顔と手足が無い。

否、よく見れば、服に隠されていない箇所が陽炎のように霞み、薄れている。

 

 

「れ、蓮子はこいしがどう見えてる?」

「どうって、力なく倒れてるようにしか見えないけど」

「……目を貸すわ」

 

 

蓮子の瞼に手を置けば、その口が悩ましげに歪む。

境界を見る目では透けて見えるが、通常の目では普通に見えているという事実。

 

 

「これは……どういうこと?」

「ひとまず落ち着きましょう。こいし、ただいま。腕と足は動かせる?」

「んぐ……っ、うん、無理だね」

 

 

肩とふとももの付け根が力を込めて震えるものの、薄れた四肢は殆ど動いていない。

顔は喋ることができているだけ、まだマシという状態といったところか。

 

 

「触ってもいい?」

「変なとこ触んないなら」

「冗談言えてるだけまだ大丈夫そうね」

 

 

透けた手と足を触るが、ごくごく普通に実体はある。

体温はあまり感じないが、重さは確かにそこにあった。

 

 

「……蓮子、ちょっと脱がすの手伝って」

「はいよ」

「おっと情熱的。まさかこんな明るいうちから……」

「どちらかといえばもう介護だけどね」

「そう言われてみれば完全にそう」

 

 

服を脱がせて下着姿にしてみれば、顔は首から上、腕は肩より先、足は太腿の付け根から先が透明化している。

断面は境界特有の歪んだ状態となっており、この現象が境界に深く関わっている事が伺えた。

 

 

「……すごいな」

「ナイススタイル?」

「まあ、それはそうだけども」

「否定はしないんだ……」

「間違ってはいないし。ただ、この状態は治療とかができないわね。そもそも境界に関する事だし、恐らく現実に侵食してるだけでこの事象は境界の向こう側の出来事だわ」

 

 

大前提、境界に関することは大半が違法である。

この状態を病院に引き渡すわけにはいかないし、恐らくは治療できるものでもない。

 

幽体離脱。

 

その影響が如実に現れ始めている。

だとすれば、乖離した側を戻さねば、このまま体が境界に呑まれていくのだろうか。

 

 

「とりあえず、これ以上進んでる様子は無いからひとまずは安心ね。ゆっくりもしてられないけど」

「あ、そう?じゃあ喉乾いたんだけど紅茶ちょうだい。あと服着せて」

「横柄になったな……」

「いやあ、なんか吹っ切れたというか開き直ったというか。どうにでもなれ〜!って感じ」

 

 

楽観的ながら、諦観を含む言葉。

こいしを励ますように頭をワシワシと撫で、蓮子を見る。

 

 

「さっきの……私がここに来る最中にあったであろう事なんだけど」

「恐怖を感じたけど覚えてないってやつ?」

「そう、それ。このタイミングでそんなことが起きるのは、絶対に無関係じゃ無いと思うの」

「……考えを聞かせて」

「おーい、その前に服着せてほしいんだけど」

 

 

若干顔を赤くしたこいしを見て、蓮子と顔を見合わせる。

真面目な顔が、同時に苦笑へと変わった。

 

 

 

 

要求通りに紅茶を入れたので、こいしの背を起こして飲ませてやりながら、先程の感覚を思い出す。

 

 

「明確に恐怖を覚えていた。ただ、その恐怖の内容がわからないの」

「パニックを起こしていた?」

「それにしては始点が不明なのはおかしいわ。途中を覚えていないならまだしも、恐怖の始点はわかるはず」

「覚えていない……最近よくあることね。メリーもそうでしょう?認識ができないってやつね」

 

 

覚えはある。

そしてそれを思い返せば、この現象はこいしの幽体側だという線も見えてくるものだ。

 

 

「……でもどうして怖くなったのかしら。認識できないなら、何かをされても気付けないのに」

「逆に考えましょう。認識できないまま、何をされたのか。あの紙を見る限り、理性のある感じからして、コミュニケーションを図ろうとしたのならば過激な手段は用いないはず」

 

 

確かにそうだ。

筆談とはいえ、会話ができる程度に理性があり、それでいてあの様子では害意を加えるとは思えない。

とはいえ、恐怖を感じたのは事実であり、認識できていない、覚えていないという状態は今までと同一の現象だ。

 

 

「認識できていない……いや、覚えていられない、のかな」

「そうね。大学でも話したけど、今回のでほぼ確信したわ。忘れた、というよりかは無意識に何かをしてしまったときのように、それらの起こした全てが私達の記憶に残っていない」

 

 

だとすれば。

恐怖を覚えているということは。

 

 

「無意識のうちに何かを認識してしまい、何かが起きた。私で言えば、直接的接触じゃなくて……境界を見てしまい、何らかの現象が起こったとかじゃないかしら」

「あぁ、ありえそうね。そして今までの現象と繋げれば、それはこいしの魂側である可能性が高いってことまでは読める」

 

 

答えまでの道筋を作ろうと、幾つもの仮定が浮かぶ。

無意識的な行為。物をふと置いてしまって探すような、起きた現象に対して記憶ができていない状況。

それはこいしの魂側の起こす現象全てに適用され、紙と、漠然とした恐怖以外に覚えていることはない。

 

 

「例えば、無意識的に、パッと見た本の1ページの1単語が突然頭に浮かんで来るように、ふとしたタイミングで突然こいしの魂を見ることができたとか」

「……なるほどね。だとすると、こいしの魂をふと認識できるのは私の瞳だけであり、逆に言えば見えてしまうから記憶の無意識化が強いってことになるのね」

「その仮説はありだね。私は幻想が見えないから無意識化が少なく、こいしは魂の影響で無意識化された記憶が多すぎた」

 

 

ならば、こいしの魂は。

 

 

「無意識の中、魂は無意識と有意識の境界の奥にいる」

 

 

それが導き出した答え。

蓮子もほぼ同じ結論に至ったようで、目を合わせて頷いた。

 

 

「加えて言えば、その境界は認識できないだけでそこにある」

「あぁ、これも先入観だったわ。見えてるものだけが全てじゃないなんて、特に私の分野だったのに」

 

 

幽体離脱したこいしの魂は、恐らく認識外に入り込んでいる。

そしてそれは完全な幻想まで行かず、現状を見る限り現世に干渉可能な隙間にいるということ。

それらを現し世に引き摺り出すなら、入り込んだ境界を暴いてそこから隙間を見ればいい。

 

瞳では、意識的な認識が不可能な境界。しかし、そこに確かに在る事は“解る”境界。

意識と無意識の境界線にこそ、それは存在していた。

 

 

うつらうつらと眠そうな、半透明化したこいしと目を合わせて、目を大きく開く。

境界は見えないが。

 

 

「開いて頂戴……」

 

 

何処にでも在って、何処にも無い。

 

それこそが、境界が見つからなかった理由。

 

 

「あなたの魂への道を!」

 

 

ぐ、と歯を食い縛り、こいしに対して境界を開けるように力を入れる。

境界が見えない場所への暴きは、普段ならしない。

だからこそ見つからず。

これもまた、先入観による失敗だと思った。

 

 

認識できないまま、しかし確かに境界が暴かれる。

 

 

それは成功であり、しかし正答では無く。

出来てしまった故に、現世では有り得ない筈の膨大な妖気が溢れ出した。

 

 

───現の世界において、幻はその全てを制限されている。

それは存在していないという土台の上に居るからであり、存在の否定をされているという前提の縛りを科せられているから。

 

そして科学によって未知を暴かれ続けた世紀において、それは顕著に表れていた。

 

富士の樹海の奥、自然信仰のお膝元かつ、自殺の名所と呼ばれ続けてそういった場所だと噂されてなお、数段格を落とした怪異の属性を付与された髪程度しか存在を保てなかったように。

 

人の居なくなった街、現が薄く、荒御魂の存在した地に仙人が手を加えて、一帯を現と幻の境界を曖昧にしてようやく一時的な避難地程度にしかならなかったように。

 

死という解明しきれない形而上の事柄の先、現世において解明できぬ限られた幻ですら、冥銭という太い縁を通してようやく現の世界に姿を現せたように。

 

大妖と呼ばれるほどの器と神格を併せ持ち、現世にて偽りながらも信仰されて尚、格を落とすどころかほぼ人という枠組みにまで己を変容させてすら、存在は大きく制限され、現側には長居できなかったように。

 

幻はその全てを制限され、条件によって僅かに制限が緩和されるほど神秘の消えた現世。

 

現において幻の居場所は、最早無い。

無い筈だった。

 

 

科学はいつしか、幻を現へと引き摺りだす。

しかしその過程において、境界を踏んだ状態の現と幻の曖昧な状態が生じるものだ。

 

そしてこのとき。

 

偶然にも、現し世における無意識への研究は、佳境を迎えていた。

 

 

無意識の研究において、科学が幻と現の境界線を踏んでいる状態で、偶然その根源を同じとした幻想が現の世界に居たからこそ、古明地こいしという無意識を纏う幻が現の世界でその全てを見せられるようになったということ。

 

境界を暴く瞳が暴いた、暴いてしまった境界は、古明地こいしの本質が入り込んだ現世とその隙間、“無意識と有意識を隔てる境界”ではなく。

現実の存在と成りかけている現側の古明地こいしと、幻想の存在である古明地こいしが居た、現在では空白の幻側の境界であった。

 

開くべきは確かに推理した通り、無意識と有意識の境界であった。

しかしそれは古明地こいしという境界を暴くのではなく、乖離した本質側を見て、明確に無意識の存在を認識した上で暴くべきだったのだ。

 

それは、境界を暴きすぎた事による失敗。

幻想の存在という強すぎる歪みを隔てた暴きは、容易く無意識という現世の隙間を超えて、幻想の世界までの境界すら開き。

 

 

幽体離脱していた古明地こいしの魂はその存在を“集合的無意識のうちの1”へと変貌させ、ベッドに寝ていた古明地こいしすら現実の姿を塗りつぶすほどの妖気に中てられ、古明地こいしという妖のうちの一端と化して“集合的無意識のうちの1”へと変貌した。

 

 

無意識の妖がその全容を現へと引き摺り出されていく。

 

 

幽体離脱、分離した2つの古明地こいしはそれらのどちらともを古明地こいしとされ、そして本質へと戻る。

 

 

何処にでもいて、何処にもいない。

 

現の境界線を踏み越えた先、本来であれば認識できない域において、少女は確かにそこに居た。

 

室内という密室は外界との境界となり、現世ながら幻想の様相を呈す。

しかしそこは確かに、未だ現世のままであった。

 

少女は幻想の奥より溢れ出した妖気を背に。

暴かれた境界より、その境界の総てが形を持って歩み寄り。

ついぞ暴かれた境界よりこの世界に現れた。

 

現の世界で有り得ぬはずの、妖の本領。

溢れ出す妖気は未知という原始的な恐怖を与える瘴気にも似て、人間の恐怖心を強く煽る。

 

ガラス玉のような瞳が、ゆらりと二人に向けられて。

 

そこには、現し世に在ってはならない真正の妖が居た。

 

 

「やっほー、久しぶり。それとも、はじめましてかな?」

 

 

───耳をすり抜けるような声。

 

その声へ、なにかを答える前に。

ぽたりぽたりと、赤の色が床を濡らした。



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94

無意識の境界【後編】です。


───魂と肉体。

それは個人総てを単体で見たとき、現と幻という概念をそれぞれが内包する。

精神は魂という概念に含まれ、肉体と繋がりそれを肉塊とせずに生き物たらしめる。

 

だが、古明地こいしは人ではない。

肉体はそもそも在らず、根源的恐怖から存在を起した、生物では無い妖怪の一つ。

 

故に。

故に古明地こいしは、全てが同じである。

魂も、後付けの肉体も、幻想郷縁起に縛られている存在概念も。

すべてが同一であり、別離していたとして、それらの本質は無意識の妖怪。

 

だから、古明地こいしはいなくなった。

蓮子とハーンの知る古明地こいしは、いると言えばいるが、いないと言えばもういない。

 

集合体無意識を、単体個別することなどできないのだから。

 

 

 

 

 

境界を暴いたハーンは、幻想が強く作用する瞳を持っているが故に、一時的に肉体と魂が……幻と現が分離した。

 

これは擬似的な臨死体験に近く、境界を超えたと認識して幻の世界に入り込んだのでは無く、意識せず……否、意識を出来ないまま真の幻想を暴いてしまったからこそ、魂が現を失う感覚を経て“死を錯覚した”のである。

 

そしてそれとは異なり、蓮子はある程度の無意識が作用し、気を失っていないながらも直立したまま思考を停止した。

 

───死の錯覚により、半ば自動的に肉体から魂がすり抜けて幽体離脱状態となったハーン。

 

本来であれば魂を失った肉体は、思考のできぬ生命維持のみを行う肉塊となるものであるが、魂の代わりに飽和する幻想が無意識を充満させ、さも擬似的な個人であるかのように振る舞った。

 

そして魂は、無意識に作用されて理性無く、肉体には起こせない思考通りに振る舞った。

 

つまり。

 

ハーンの肉体は無意識の内に外的願望を叶えようとし、

ハーンの魂は無意識のうちに内的願望を叶えようとした。

 

 

腕を伝い、垂れた水滴。

その色は赤く、紅く、朱く。

 

願いはかくして、歪な形で叶えられる。

 

 

マエリベリーが、瞳を己の指で潰した。
蓮子が、瞳をマエリベリーの指で潰された。
                      

 

 

無意識的に傷を負ったとき、人は反射を起こすものだ。

焼けた鉄に触れれば飛び上がったり、腕を咄嗟に引いたりするように。

 

それぞれが、痛みによって無意識から意識を引き戻される。

 

「え……目……私の目ッ!」
「ど、うして、メリー……?」

                      

 

歪な願いの結末は。

幻の視界を、失った。
現の視界を、失った。
            

 

 

ふらふらと、瞳を失った顔が揺れる。

痛みは鈍く、鈍く、五感が遠ざかるように響いていく。

 

 

ああ、かわいそう

か わ い そ う に

 

 

恐怖が、苦痛が、古明地こいしを満たす。

それが妖怪としての本懐。

 

「あぁ……あああ!!」

「挨拶を返す余裕もなし、ね」

 

叫びは悲痛の色を含む。

どれほど望んだとて、戻らない。

否、それを心から望んだのは───

 

「気丈に振る舞って、気がつかない振りをして、それでも尚無意識に潰してしまうほど───」

 

顔を押さえた掌が何かで濡れる。

しかしそれももう、“見えない”。

 

心の奥底に沈んだ、己の願望。

幻想の排除された世界において、幻想を観測できるというその個性は、幻想と同じように排除されるものだ。

排他と孤独、幼少期よりそれらに影響されたハーンの心は、肉体は、根底は、無意識の内に何を願ってしまうのか。

 

 

「己の瞳を疎んでいた」
「人の瞳を羨んでいた」
            

 

 

無意識は、理性的行動の上を行く。

自制の存在しない行動は、願望を如実に反映したもので。

 

なんだこれは。

どうして、こんな。

 

「あぁ、でも」

 

思い出したように、少女はパッと声を明るくした。

 

「これでその瞳を起点にしていた、無意識の暴きが強制的に中断されたね」

 

いつしか幻と現の混ざりあった空間は、互いの否定を行いながら別離し始める。

そしてそれは、少女達にも影響を及ぼし始めるものだ。

 

暴き暴かれ極限まで神秘の薄くなった現において、幻が否定されるように。

反転して神秘の濃くなった幻においては、現は拒否されるように。

 

杭となる瞳は失われ、二人の存在を幻は拒否していく。

引力が働くように、徐々に現へと押し出されていき。

 

「だから───」

 

だから。

 

「ごめんねハーン。今までありがとう」
「ごめんね蓮子。今までありがとう」

                   

 

古明地こいしが優しく撫でたのは、管で繋がる第三の目。

覚妖怪の名残りは、人妖まで格を落としていた時に、鬼の妖気によって強制的に萃められて瞼を上げていた。

 

ここまで読んでいたのか、はたまた誰の指図か知らないが。

 

「私にこれは、いらないから───」

 

 

魂が失った瞳を。
肉体が損なわせた瞳を。
             

辛うじて混ざり合う幻と現の間だからこそ、それらを補える。

 

「失った幻の瞳の代わりに」
「失った現の瞳の代わりに」
                

 

見えないはずの光が、瞼の隙間から見えた。

あまりの眩しさに、目を開くことも出来ない。

 

「きっと、この無意識の中に沢山のことを置いてしまって、思い出せないと思うけれど……」

「待って!!」

 

辛うじて残る、現としての古明地こいしは溶けて消え。

霞んだ視界の先。

瞼を上げた先に、見えたのは。

 

「元気でね、大切な私のお友達」

 

綺麗な顔が、泣いていた。

 

 

───ふと顔を上げ、周囲を見る。

いつの間に寝てしまっていたのだろう。

床で寝るなど、酒の飲み過ぎだろうか。

旧型を飲み漁るなど、そんな贅沢をした記憶も無いのだが。

 

だらしない顔で床に寝ている蓮子を見て、何をしていたんだっけと思い返す。

 

「蓮子、起きて」

「うーん……メリー?」

 

眠そうに目を擦る蓮子の頭を軽く叩き、ため息を吐く。

 

「もう夜よ。泊まってくの?」

「……あれ?ここ、メリーの家?」

「他にどこに見えるのかしら」

「えーっと……何してたんだっけ」

「私も覚えてないわ」

 

寝ぼけ眼の蓮子と、ゆっくり目を合わせる。

“どこか緑色の入ったような黒い瞳”が、困ったように揺れた。

 

「私も何も覚えてない。なんでここにいるんだっけ」

「はぁ……まあ、どうせ寝不足でぶっ倒れでもしたのかしらね。とりあえず晩御飯作るかな」

 

寝転がる蓮子とは対称に、ゆっくりと立ち上がってキッチンへと向かう。

準備をして、のんびりと料理を作ろうかと気合を入れた。

 

「さぁ!作るかな!」

「待ってまーす」

 

 

───少女は気付かない。

無意識のうちに、三人分の皿を準備してしまったことに。

 

きっと間違えたのかしら、などと思い、なんの引っ掛かりも覚えずにそれを片付けてしまうのだろう。

 

そしていつしか、部屋で見つけた自分の着ないような服は、なんでこれ買ったのかしら…と思って捨ててしまうのだろう。

 

なんの違和感も覚えず、意識もできない。

 

そうして徐々に、誰かの形跡は消えていく。

 

全て、無意識のうちに。




何故蓮子の瞳に緑の色が入っているのか。
文章の主観では見えなかったものが、相当量の白文字で隠されています。メニューの閲覧設定で背景に色を付けるのが有効です。
無意識の境界編83話から、結構な隠し白文字が登場してますよ。



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95

無意識の境界【エピローグ】です。
おかしなことにプロローグは無いのにエピローグはあります。


窓から風が入り込む。

 

 

「───やあ」

「……食事中なんだけれど」

 

 

玄関ではない場所に、突如として現れた扉。

ひょっこりと顔を出したのは、頭の両横から太い角を生やした鬼。

 

 

「締まりが悪ければ漏れ出すように、話を終わりまで見なけりゃ不満が漏れ出すタチでね」

「後戸を通ってきてるってことは、妙なルートを通ったわね。脅したのかしら」

「まさかまさか、交渉さ。嘘は嫌えど、交渉事ができないわけじゃない。苦手ではあるがな」

 

 

生ハムの乗ったサラダを口に運びつつ、女は顔を顰めた。

最高とまではいかないが、まあまあ良い結果に落ち着いた古明地こいしの件。

それをわざわざ掘り返しに来るなど、何を考えているのやら。

 

 

「終わった話でしょう」

「いいや、まだだね。協力者に報告を怠るのは良くないってもんだ」

「はぁ……何が知りたいの?」

「全部。把握している全てを知りたい」

 

 

その言葉に、フォークを置く。

 

 

「最初から、ね」

 

 

最初から。

聞いた限りで、多くの情報は欠落しているけれど。

推理のように、全てを言葉として形にしていく。

 

 

「まず古明地こいしが博麗大結界から抜け落ちたと考えられるタイミングから。色々考えていたけれど、恐らくは地霊殿での八咫烏憑依の一件より後で、オカルトボールによる異変で本格的に博麗大結界を見直す前。その期間中に、どこかで抜け落ちたと考えているわ」

「理由は?」

「見直すあのタイミング以外にはそれらしいゆらぎも無かったし、地霊殿の異変の最後に見た姿は“空っぽでは無かった”から」

 

 

流石に昔すぎて曖昧だが、もしも空っぽだとしたら何らかの違和感として印象に残っているはず。

後の貧乏神と疫病神が起こした憑依する異変の時は……もう片方の存在感の強さに隠れて覚えていない。が、既に薄れ始めていたのだろう。

 

 

「無意識の妖怪という性質。幻でありながら、幻にすら認識できない無に近い存在。後天的とはいえ、その性質は下手をすれば無縁塚から逆ルートを辿れてしまうぐらい博麗大結界の条件と相性が悪い」

 

 

忘れ去られたもの、現が拒絶した幻を内側へ滑り込ませる博麗大結界の在り方において、無意識の妖怪というものは、その根幹が漠然としすぎていた。

元々が覚り妖怪だったが故に、辛うじて自我を残しながら妖怪として存在していたが、本来であれば無意識の妖怪などという意識すらできない、“恐れ方もわからない”概念の妖怪が現れるなどおかしい話なのだ。

 

 

「で、運悪くすり抜けた。それも恐らく、誰も気付けないまま、ずっと外の世界にいた」

 

 

これには多くの疑問が残る。

何故現の世界で長時間生存できていたのか。

何故今になって姿を表したのか。

何故娘に接触したのか。

それらの問いが残るも、本人すらわからなさそうなことを追求できるはずもない。

 

 

「仮定になるけど、無意識という現の世界ですら解明されきっていない現象を根幹としていたがゆえに、他の妖怪より消耗が少なかった。消耗が進み、存在を保てるギリギリ……人妖かと思えるレベルまで妖気が低下して妖怪としての本質が薄れて人格が前に出てきて今回まで至った、とか」

「可能性はどれぐらいなんだ」

「いくら当時解明が進んでいなかったとはいえ、今まで保たせるのはほぼ不可能ね。ほぼというか、確実に不可能」

「じゃあ、なんで生きてたんだよ」

「そこは私にもわからないわ。でも、生きていた事は確かでしょう?」

 

 

博麗大結界の欠損による、吐き出しと吸い込み。

その中で現と幻の隙間に落ちた妖怪一つを回収し損ね、その妖怪が長い時間をかけて狭間から緩やかに落下していくように現の世界に出てしまったなど、前例無き異常だったが故に誰も想像できるわけもなく。

古明地こいしという存在は、突如として時間軸のズレた現の世界に飛び出したようになってしまっていた。

 

 

「あれ?でも博麗大結界見直し後でも、こいしちゃんを見たような気がするんだけど」

「輪郭だけ」

「おん?」

「輪郭だけが、幻想郷に残っていたのよ。古明地こいしという存在は外に出たけど、無意識の妖怪という根幹は幻想郷から欠損することは無い」

 

 

外殻とも呼ぶべき、妖怪としての根幹を秘めた体。

自我、魂と呼ばれる個が失われど、それらは“それであると覚え恐れられ続ける限り”、暫く残るものだ。

 

 

「……私達が無意識的に行った動作を、古明地こいしのせいにしたから古明地こいしの残滓が在り続けた……?」

「まぁ、そういう事ね。そのうち残滓も消えて、無意識的に行った行為の押し付けが空振りとなり、無意識の妖怪の古明地こいしは幻想郷から完全に居なくなったってわけ」

「居ないけど居たってのはそういう理由か」

「無意識の妖怪としては確かに幻想郷に居たのよ。ただ、古明地こいしという個を失い、体だけ……根幹だけが残ってるってだけでね。完全に古明地こいしという残滓が消えたあとも、恐らくは無意識の妖怪が居たといえば居たのよ?名前を持たない無意識の妖怪が」

 

 

古明地こいしという個は幻想郷から居なくなったが、古明地こいしという記憶は皆の中に残り、言われ続けて擬似的な古明地こいしが発生した。

 

妖怪が恐怖によって無から生まれるように。

無意識の妖怪として、記憶から無より生まれたもの。

 

古明地こいしと仮称されたそれは、古明地こいしであるように振る舞ったが、そこに中身は無い。

元より空虚な者であったことは否めないが、有ると無しではやはり存在の据わりが違う。

 

気付けば名を持たぬ無意識の妖怪はそのまま皆の無意識に溶け、そのまま根幹が故に認識できなくなった。

 

ただ一人、古明地こいしの全てを知る古明地さとりだけが、名を持たぬ無意識の妖怪を古明地こいしと仮称し続けることでそれらしい動きをさせていたが。

 

 

「誰にも認識できない無意識の妖怪だからこそ、対外的に見て古明地さとりはおかしく見えていたって事か。じゃああれは……おかしくなったわけでは無かったんだな」

「……いいえ、おかしいわよ。少なくとも普通ではないわ」

 

 

言うなれば他人に家族の名を与え、そう振る舞わせる事を強要するようなもの。

それが古明地こいしと同じ妖怪だとはいえ、それは古明地こいしでは無かったのに。

 

 

「次、古明地こいしに何が起きていたのか」

 

 

現象の詰めは後。

中心人物の身に起きていた事の推察。

 

 

「既に現世における無意識の妖怪であった古明地こいしはほぼ溶け切って、残るは“古明地こいし”という人に認識された個でしかなかった」

 

 

ごくごく原始的で制限された、未知という存在への恐れが古明地こいしという妖の形を保っていた生命線。

現の世界では吹けば消えてしまいそうな、認められざる幻想の生命線だ。

 

 

「死にかけだったのよ。いつ消えてもおかしくない。少なくとも身近な二人が忘れれば、現が反転して幻想郷にまた発生するかもとは思ったけれど」

「それなら手っ取り早く忘れさせればよかったんじゃないか?」

「私は娘第一。他の優先度は下がるわ。わざわざ記憶を消すなんて面倒事を起こす気も無いし」

「……人間らしいといえば、らしいな」

 

 

合理的思考ではなく、感情的思考。

管理者として正しくはないが、管理者ではないのだし良いだろう。

短命だからこそ、感情の色はどこまでも濃い。

 

 

「しかし、妖怪は祓われ根幹を砕かれないかぎり幻想郷でまた出現するだろう?死んだとて、幻想郷でまた生まれるんじゃないのか?」

「……いいえ、前提が違うわ。まず、忘れられば現の世界に弾かれて最終的に幻想郷に戻るかもしれないとは言ったけど、考えてみれば娘に接触するまで幻想郷に戻されていないってことは、“無意識という存在の一部を現に受け入れられていた”ってことでもある。忘れられても死んでも、現の世界で完結する可能性は十分にあるわ」

 

 

妖怪としてギリギリ生き、妖怪として存在が死滅する寸前に無意識の妖怪としての存在が希薄化して自我が表面化、そのタイミングで偶然か、はたまた何らかの理由で娘と接触し、ほんの僅かな未知への恐怖で根幹を補いつつ弱々しく生き繋いでいた、というのが予測である。

 

弱々しい妖として死にかけの存在を博麗大結界が正しく認識できるかどうかは断言できないものだ。

無意識の要素のみを引き入れ、現に認知された古明地こいしという要素が現に残り続ける可能性も否定できない。

そして何より。

 

 

「存在が…古明地こいしという個が外にいるせいで、幻想郷の中では再発生しないのよ。一度幻想郷に存在が入れば、同様に外で発生することは無いはずだけれど」

 

 

幻想郷の中で妖怪が祓われる以外の形で消えても、名と恐れによりもう一度幻想郷内に出現することはあるだろう。

しかし現の世界で消えれば、幻の世界で再発生は出来ない。

 

 

現の世界での死は人間と等しく、同じく、再出現などという幻のルールが無い、明確な終わり。

古明地こいしも例外ではなく、現の世界で死ねば、それで終わりであったのだ。

 

 

「結局は根幹…古明地こいしという存在が外にいる状態が問題なのよ。内側に入っていればそこで循環するけれど、外で消えたら戻らないわ」

 

 

数度幻の域まで入ったようだし、そこで運良く死ねれば、とは思うものの、娘の前でそのような現象を起こしてほしい訳でもなく。

 

だから、送り返した。

正確に言えば、その存在を強烈な妖気の補充によって一時的に取り戻させ、妖怪として、拒否すべき幻としてこの現の世界に認識させたのだ。

 

本質を発露させて全てを無意識に融かし、意識できないような別れ方にした。

 

 

「で、次。古明地こいしの身に何が起きていたか。妖気を分け与えたならわかるとは思うけど、さっきも言った通り、あのときの古明地こいしは本当にギリギリだった」

「人妖…それも、スッカスカな妖怪部分しかなかったからね」

「その時点で、幻の身でありながら、現へ適応しようと歪な形になっていた」

 

 

最初より徐々に幻としての存在が削られていき、現において未知を恐れるという僅かな根幹のみで存在を補っていたということ。

それは、細くとも脆くとも、実際に現に適応しようとした新たな妖としての形とも呼べる。

 

 

「現において古明地こいしに境界が憑いていたのではなく、適応にあたり強すぎる妖怪の部分、幻想の一部が剥離した結果、境界が“出来上がってしまった”」

 

 

徐々に見えなくなっていったというのは正しく、意識できなくなっていたのはその強すぎる幻が現によって段階的に弱まり、薄れていったから。

時折娘の境界暴きによって幻想を補充しながら、緩やかにその存在を弱めていっていた。

 

 

「で、弱まったそれを無理やり充填すれば、境界を抜いて現における妖怪ではなく、幻としての妖怪の面が強く発露する、と思っていた」

 

 

娘の瞳に溜まった障り、妖気を鬼を介して集めさせ、それを古明地こいしに渡したという一石二鳥な手。

結果として幻を根幹としない現の世界の成分しか持たないこいしと、現を根幹としない元の古明地こいしが明確に分離し、魂魄の剥離……幽体離脱状態になってしまったのは予想外だったが。

残された現の部分は妖怪としての一面を全て剥がされ、完全に人に等しい存在になっていった。

消えかけていたあの異常な状態は、幽体離脱そのものが原因ではなく、幽体離脱によって幻が全て奪われ、存在そのものが欠けた歪な人として形を成してしまったのが原因であった。

 

しかしあの状態までいけば、現の古明地こいしが死んだとて、現の成分を持たない純粋な幻としての古明地こいしは博麗大結界へ取り込まれるだろうと踏んでいた。

 

流石に、現の成分が持っていた奥底の空っぽの境界、“無くなった強すぎる幻への接続口”を娘が開けてしまうのは予想外だったが。

最終的にまあまあな結果に落ち着いたので良しとする。

 

それを説明すれば、鬼は面白そうに笑う。

 

 

「お前さんのお願いってのは、そこまで考えてのものだったのか」

「あの子の瞳に障りが溜まってたのは知ってたからね。それを祓うついでにあの子の友達も救えるなら、それが最善。そうでしょう?」

「さっきとは違って合理的ではある……が、合理的すぎるな」

「ただの人間が、自分の力を超えた奇跡を思うがままに起こせる訳ないでしょう?感情的に取捨選択をしたら合理的見えてしまった。それだけよ」

 

 

呆れたような口調で零されたその言葉に、鬼は優しげに笑い、眉を釣り上げて興味津々という顔を作る。

 

 

「で、結局、どうなるんだ?」

「此処から先は憶測になるけれど……重要なのは集合体無意識という根幹に関係する部分。無意識は深いところで繋がっているように、無意識の妖怪は必ず繋がっているものよ。認識される無意識の妖怪が幻へ戻った古明地こいしという核を得て古明地こいしに成るだけね」

「……そうかい。理解はできたよ」

 

 

ボリボリと頭を掻き、なんとも言えない顔で後戸の中から女を見て。

 

 

「あーあ、やっぱりここの空気は美味しくない」

 

 

不味くて、息を吸うのも面倒で。

幻を拒絶する現の世界は、あまりにも居心地が悪く。

 

 

「戻っては来ないんだろう?」

「……私は、この空気を美味しいと感じるから」

「そうかいそうかい」

 

 

仕方ないとばかりに目を細め、また、と小さく呟いて。

 

 

「それじゃあ……元気でな」

 

 

鬼は、神は、幻は。

その言葉を最後に、現の世界を後にした。

 

部屋に残るは、人間が一人だけ。

 

 

「さて」

 

 

パチン、と扇子を閉じて女は立ち上がる。

のんびりとした動作でルージュを取ると、唇に色を伸ばす。

 

 

「あぁ」

 

 

にぃ、と笑えば、鏡に映る朱が横に伸び。

 

 

「やっぱり、人の色って素敵ね」

 

 

窓から入り込んだ風が女の金髪を揺らす。

その風は人工的な香りで、どこか冷たくも機械的で。

 

そして、これ以上ない程に現実的だった。



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終幕

 

月明かりが路地を照らしていた。

コツリコツリとヒールが劣化したアスファルトを叩く音がよく響く。 

 

 

「メリー、今日はどんな境界を暴くのかしら」

「さてさて、どうしましょうかねえ」

 

 

端末を手に、二人で夜の街を歩く。

金髪の少女は黒髪の少女の問いに対して目を見開いた。

 

それは、本来であれば見えないもの。

 

ほんのちょっぴり歪んだそれらに焦点を合わせていく。

今日も、瞳の調子は絶好調である。

 

 

「あの路地裏、何かあるかも」

「雰囲気があっていいわね」

 

 

ここに在るという、どこまでも連続した現実感。

それらに混ざり溶け込んだ、境界があって。

 

好奇心に引かれるようにして暗闇を往く。

 

 

「蓮子、その写真の場所は間違いないのよね?」

「夜空が映ってるのよ?私ほどの頭脳が間違いを犯す訳無い。そうでしょう?」

「間違いを犯さないのは何もしない者だけだろうと、私は思うわけ。謙虚に想定外も考えてよね」

「それを言うなら我々の性格は、我々の行動の結果なりってね。この傲慢さも、私の完璧さが産んだものなり」

「アリストテレスにビンタされるといいわ」

「普通に痛そうね……そういえば古代ギリシアの不可思議オカルティックな記事をこの前見つけたのよ!」

 

 

ワイワイと楽しそうに、二人で現の世界を歩む。

境界を暴き、隠されたものにこそ神秘を見出した少女達。

 

そんな、黒髪の少女の知性的な黒い瞳には。

そんな、金髪の少女の幻想的な金の瞳には。

 

現の者には見える薄い緑の色が混ざっていた。
幻の者には見える薄い緑の色が混ざっていた。
                       

 

 

 

現の世界から忘れられ、拒絶され、失われた者達の楽園、幻想郷。

自然豊かで、どこまでも現実的では無い素敵な素敵な地。

 

そんな幻想郷の僻地。

汗滲むような蒸し暑さを感じる地底の底で。

 

 

「……?」

 

 

紫髪の少女が椅子に座り、呆然としていた。

 

古明地さとりという名を持つその妖怪は、どこか疲れたような表情を浮かべていて。

朝から数度、慣れぬ大声を出したものだから、昼前になろうとも未だに薄っすらと残る頭痛に苛まれていた。

 

妹が、急にいなくなったのだ。

否、義理の妹とでも呼ぶべきだろうか。

 

想起によって投影されたそれを空っぽな無意識の妖怪が拾い、妹として動いていたもの。

本当にいなくなってしまった妹、古明地こいしの代わりに、地霊殿に居た子が突如として消えてしまった。

 

原因はわからない。

死滅したのか、休眠状態に陥ったのか。

現在の状況は分からず、現象へのアプローチの仕方すら不明。

サードアイから伸びる管を手で弄り、思考を回す。

結局自分での解決はほぼ不可能だと覚り、誰に相談すれば解決するかと頭を悩ませながら、ふと顔を上げたとき。

 

 

───見覚えのある少女が、目の前に笑顔で立っていた。

 

 

その少女は、古明地こいしと記載された、どこかの学生証を手に持っていて。

 

 

呆けたような表情を浮かべる姉に、少女は気さくに手を挙げる。

 

───読心できない。

しかしその存在は、化けたものでも空っぽのものでもない。

それは想起された妹の記憶では無く、他の誰でもない。

想起ならざる現が、確かに幻の内に在り。

 

 

「ただーいま!お姉ちゃん!」

 

 

閉じた第三の目が、姉の第三の目に触れた。

 

 

【女子大生こいし】 完





ここまで読んで頂きありがとう御座いました。
100話まで頑張った私へのご褒美にどうか評価をお願いします。

正式な後書きは活動報告に掲載されております。
本当にありがとう御座いました。


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