恋を紡ぐ指先 (ぽんぺ)
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#1

初めまして。



 

 二月、風は冷たい。

 

 道行く人々は皆マフラーやコートを着込み、寒さを凌いでいる。

 吐く息は白く、暖かいところを求めて足を急がせているようだ。

 本日の最高気温は五度。

 猛暑なんて言われていた半年前など数年前のように感じる。

 太陽光が当たる面積だけで夏とここまでの気温差が発生するのだから、まさに太陽様々である。

 

「はぁ…」

 

 手に息をかける。

 手袋をしていても指先は悴む。既に沈みはじめた太陽は未だに暖かいが、どうにも体を暖めるには至らないようだ。

 せめて小銭を出すときには動くようになるといいのだが、なんて思いつつ歩幅を大きくした。

 あのパン屋まで、あと百メートル。

 硬いブーツ底がコンクリートに当たる硬質な音と共に歩みを進め続ける。

 つい二週間前に降り積もった雪は未だに溶ける気配を見せず、雪かきされたまま道端に積もっていた。

 

 今年は例年より降雪が少ないとニュースで聞いた。

 この地域は元々あまり雪が降らないところではあるが、今期は特に初雪が遅かった。

 積もる量も必然的に少なくなり、交通に関してはかなり楽になっている。

 もちろん相当に降り積もる年もあり、そういう日は大体商店街全体に雪かきの音が響いているものだ。

 

 幼少期、雪であんなにはしゃいでいた自分はどこへやら、最近では雪かきが大変だとしか思わなくなってしまった。

 成長するに連れてあの時のような無邪気さは失われていくばかり。気がつけばもう中学卒業間近である。

 

「しかしまぁ、受験前に呑気なことで」

 

 帰り道に寄り道とは、受験を三週間後に控えた生徒とは思えない行動である。それだけ重要な場所だと納得していただきたい。

 

 通りをぬけていくと、お目当てであるパン屋の看板が見えてきた。

 看板に書かれた文字は「やまぶきベーカリー」

 去年の夏休みあたりに見つけたお店だったが、味の良さに取り憑かれてからというものほぼ毎日通っているお店だ。

 近づくに連れて漂ってくるいい匂いに心を弾ませながら進む。

 

 店の前にたどり着くと、窓から中を覗く。

 地域でも有名な店であるから、やはりこの時間になると品薄になってくる。

 客足も多いが、この分ならいつもの奴が買えそうだ。

 

 窓を覗くのをやめ、扉に向かう。

 おしゃれな作りの扉を開けると、扉の上についていた鈴が鳴った。

 それと同時に、暖かい空気が身を包む。2月の空気で冷えた身体にはやはり良く効く。

 鈴の音で店員がこちらに気づいた。

 

「こんにちは。山吹さん」

「お、キミかぁ。いつもの、あるよ」

 

 柔らかく笑って山吹さんが迎えてくれる。

 ここの娘で長女なのだそう。僕と同じ歳でお店の接客の殆どを担当しているそうで、本当に同年代なのか疑問に感じることもある。

 しかし、内面はやはり女の子な模様。僕が通いはじめた頃からよく話をしている間柄だ。

 

「本日も繁盛しているようでなにより。僕も一ついただいていくとしましょう」

「うん! 毎度あり!」

 

 いつもの食パンを取ってレジに持っていく。

 チョココロネやあんぱんも美味しいが、シンプルな味を好む僕としては食パンが一番なのだ。

 このスタイル、始めの頃は山吹さんにも不思議な顔をされたもので、今でも時々他のパンを薦められる。

 まぁ、実際に買ったことがあるのは塩パン位だが。

 

 会計を済ませながら、世間話に華を咲かせる。

 最近はもっぱら受験の話。

 山吹さんは中高一貫校のようで、受験について聞かれるのは大抵僕なのだが。

 

「キミもそろそろ受験なんじゃない? こんなところに寄り道してて大丈夫なの?」

「それさっき考えてた。まぁ、受験勉強よりもここのパンを食べる方が僕にとっては重要だと捉えてくれれば」

「お、嬉しいこと言ってくれるね。それで、高校どこ受けるんだっけ?」

「隣町の公立高校。ほら、吹奏楽が有名なあそこ」

 

 学力のレベルもそこそこで、自分に良く合っていると感じていたから、中二の頃から目をつけていたところでもある。

 

「あそこかぁ。遠くない?」

「そうでもないさ。僕の家は駅から近いし、そこも駅から近いから、実質の移動時間とか疲労とかは今より少ないかもしれない」

 

 まぁ、ここには進学しても来ますけどね。

 

「なるほどねぇー……っていうか、キミ見てると受験が甘く思えてきちゃうんだけど」

「いやいや。僕が緩いだけで受験の時期は皆ピリピリしててね。特に難関校なんか行く人は見るたび勉強してるよ」

「キミはもう少し危機感を持つべきじゃないかな……」

 

 他愛ない話も、続けば続くほど華が咲くもの。

 …それも、唐突に終わりを迎える。

 

「っと、後ろ後ろ」

「わ、ごめんなさい」

 

 振り向くと既に次の客が並び始めていた。

 謝罪をして、レジから離れる。山吹さんが作業に戻る前に声をかけた。

 

「それじゃあ山吹さん、またね」

「うん。またね」

 

 店に入ってから出るまで、一〇分と満たない短い時間。その中で、山吹さんと会話するのは、僕の楽しみだった。

「またね」と、約束するような挨拶をして店を出る。

 最初は「ありがとうございました」

 次は「いつもありがとう」

 そして今は「またね」

 少しずつ短くなる距離は心地のいいもので、自分も常連客になれていると感じる。

 

「さてと。帰って勉強でもしますかね。あんなこと言っておいて受からなかったらなんて言われることか」

 

 さっきより傾いた太陽は、既にその身を地平線に隠し始めている。

 気温は更に下がり、東の空に星が輝き始めた。暗くなる前に帰ろうと、パンを大切に抱えて帰路を急ぐ。

 

 何気ない日常の一幕。変わり行く環境の中で作り出す、幸せな一時。

 

───指先はもう、悴んではいなかった。

 



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#2

 

「疲れた」

 

 電車の座席に体を預けながら一言、張り詰めた息を吐くように言葉を放つ。

 

 高校に入学して早一ヶ月。

 中学の進級でも変化に疲れているのに、進学ともなればその変化はより大きいものになる。

 新しい教室に新しいクラスメイト、スピードが上がり始めた授業に、熱烈な部活勧誘。怒濤の日々についていくのに精一杯で、帰りの電車に乗ればこの様である。全く体力が無い。帰宅部の宿命か。

 

 下校時刻直後の列車には、あまり人は乗っていない。

 普段は友人と駄弁りながら帰るので、今乗っている電車の一本から二本ほど後の電車に乗ることが多いのだが、今日は下校時刻から間に合うギリギリの電車で帰っている。走ってきたせいで汗の量が多い。

 

 最近は日も長くなってきて、今現在ちょうど窓から夕日が射し込んでいた。

 未だに着なれない制服のネクタイを緩めて暑さを逃がし、楽にする。

 山吹ベーカリーには相変わらず通い続けている。春休み頃に山吹さんの妹達こと純くんと紗南ちゃんと顔を会わせたのだが、どうやら懐かれてしまったようで、面倒をよく見るようになった。大体僕が小学生の体力についていけずギブアップしていたが。

 

 本日もやまぶきベーカリーには行くのだが、今日は、というか今日からは客ではない身分で通うことになるだろう。

 高校生たるもの、財布は常に薄くなりやすい。

 趣味、部活、遊び……多岐に渡る支出に対応するため、多くの高校生が通る道。

 

 そう、バイトである。

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

 やまぶきベーカリーに着くと、いつも通り扉を開ける。普段と違うのは、迎える人が彼女の母親だということ。

 

「こんにちは。千紘さん」

「あら、友也(ともや)くん。早かったわね」

 

 山吹千紘さん。三児の母である。

 本当に山吹さんの母なのかと疑うほど若々しく見える美人さんだ。

 体が弱いのだからよく休んで欲しいとは山吹さんの弁。

 

「ええ。まぁ。……山吹さんにバレたくないのもありますけど」

「あら? もしかして沙綾に言ってない?」

「少し恥ずかしくて。言う機会もあまりありませんでしたからね」

「なるほど……それじゃあ、さっそく準備しないとね。あの娘驚かせてあげなきゃ。ほらほら、こっちこっち♪」

 

 そう言って、店の奥に案内される。

 僕の仕事は基本的に接客とパンの補充。山吹さんに秘密で、亘史さんや千紘さんに教わっていた。パン作りに関しては、今でも修行中ではあるが。

 ……それはそうと千紘さん、やっぱり人を弄るの好きなんじゃないだろうか。知り合いがレジの向こうにいるなど、ドッキリも同然である。

 

 スラックス、Yシャツの上からエプロン等を装着。

 手洗い、うがいもしっかりとし、食べ物を扱う準備ができた。

 

「………よし」

 

 気合いを入れるように呟く。バイトはもちろん初めてだ。

 失敗は許されないと思うと、なかなかどうして体が固まってしまう。

 緊張を解しているうちに、千紘さんから声が掛かった。

 

「そろそろいいかしら?」

「ええ。大丈夫です」

 

 返事をして店の奥から出る。

 既に客は多く居て、さっき解したはずの緊張が戻ってくるようだった。

 

「あら。よく似合ってる」

「えっ、あ、ありがとうございます」

 

 突然千紘さんから褒められた。

 張り詰めていた緊張に針を刺されて、萎縮していた気分が少しだけ膨らむ。

 というか、エプロン姿が似合っているとはこれいかに。将来は専業主夫だろうか。

 

「ふふ、そんなに固くならなくていいのよ。それじゃ、よろしくお願いできるかしら?」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 改めて気合いを入れる。

 それと同時に、一人目のお客さんがレジに向かってきた。

 

 さあ、アルバイトの始まりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論からいうと、非常にやりやすかった。

 

 考えてみればいつも目にする人たちがレジの向こう側にたっていただけの話だ。

 毎日目にしていた主婦の方々に「あら、友也くん婿入り修行かしら?」などとからかわれるのが殆どで、それに応対しながらレジを打っていればレジ回りの仕事は済んでしまう。

 はじめのうちは拙かったレジ打ちも、何度かこなすことで慣れることができた。

 

「合計で六七九円になります」

「おや、友也くんじゃないか。アルバイトかい?」

「ええ、もう高校生ですから。元々ここでバイトしようとは思ってました。こちら、レシートとおつりが30円です」

「そうかそうか。がんばれよー」

「はい。ありがとうございました。またお越しください」

 

 お客さんが扉をくぐって外へ出ていく。

 いくら顔見知りとはいえ、流石に疲れてきてしまった。これは早く慣れないとなと思いつつ店内を見渡す。

 今の人で区切りがついたようで、レジに並ぶ人は今のところいない。

 ふぅ、と息をはいて少し体を楽にする。

 

「友也くんお疲れさま。これどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 

 丁度いいタイミングで千紘さんがお茶を出してくれた。

 まだバイトは終わらない。一息ついたらまた接客だ。

 

「慣れるの早いわね。感心しちゃった」

「前々から教えてもらってたおかげですよ。何から何までありがとうございます」

「後を継いでくれたら助かるのだけれど」

「そのネタでからかうのやめません……?」

「あら、否定はしないのね」

「ぐっ……」

 

 僕をからかいながらクスクスと笑う千紘さん。この人やっぱりSっ気あるよ。

 というか後を継ぐってそれは……いや、今考えるのはやめておこう……。

 

 千紘さんと話をしながら、再び立ち上がる。

 丁度お客さんが来たようで、迎え入れる準備をする、のだが。

 

「あら、帰って来たみたいね」

「え? ………あ」

 

 外に見えた人影は僕のよく知る形をしていて、それが山吹さんだと気づくのにそう時間はかからなかった。

 

「おかえりなさい、沙綾。無理して早く帰らなくていいのよ?」

「ただいまー。いいの。お店を手伝うって言ったのは私だから」

「おかえり。山吹さん」

「あ、(おおとり)くん。もう来てたんだね、いらっしゃい」

 

 僕の挨拶にもきちんと返してくれる山吹さん。

 そそくさと手伝いの準備をしながら応えている。いつもこんな急いでいるのだろうか、とそんな事を考えていると、突然山吹さんの手が止まった。

 

「…………え」

 

 何かに気づいたようにこちらを凝視する山吹さん。

 やがて信じられないものを見るように目を見開いてわなわなと口を開き、こちらを指差しながら言った。

 

「……ど、どうしてキミがそこにいるの……?」

 

 そこ、というのはレジの向こう側、ということだろう。その質問待ってました。

 

 少しだけ胸を張って答える。

 

「今日からここでアルバイトすることになりました。どうぞよろしく」

 

 再び山吹さんが固まる。

 少しだけしてやったりなんて思ってしまった。

 しばらくしたのち、山吹さんが少しずつ口を開き始めた。

 

「……母さんからも父さんから聞いてないんだけど」

「言わないでおいてくださいって言ったから」

「……やけに慣れてるようだけど」

「教わりましたから」

「……聞いてないんだけど」

「そりゃあ言ってませんから」

「…………………」

 

 山吹さん、顔がとてもひきつっている。

 大方、「家に帰ったら知り合いがバイトしていた」という状況に混乱しているのだろう。

 ……僕なんかとバイトしたくないというのが顔に現れてああなっている、とかだったら流石に泣く。

 固まっている山吹さんと、どうにも出来ない僕。しばらく沈黙が続いていると、それを眺めていた千紘さんがなにか思い付いたような顔をした。

 

「沙綾、ちょっとこっち」

「え、ちょ、母さん?」

 突然山吹さんを僕から離れた場所に連れていって話を始めた。

 

「ど、どうしたの母さん」

「…彼、今日からバイト始めたのだけれど、近所の奥様方にずっと「婿入り修行かしら?」って言われてるの」

「………えっ」

「母さん、娘に貰い手が出来て嬉しいわぁ」

「ちょっ、ちょっと! そんなのからかいに決まってるじゃない!」

「あらそう? 母さんも彼に後を継いで欲しいって言ったら別に否定はしなかったわよ」

「…………え」

 

 小声で話を続ける山吹さん親子。内容は聞こえないが、やっぱり気にはなる。

 というか、さっきから山吹さんの表情がいつも以上にコロコロ変わっていて見ていて面白い。

 

「お会計お願いします」

「あ、はい」

 

 危ない。お客さんが来ていた。向こうも気になるが、とにかくこっちを頑張らないと。

 

「少し気になってるんじゃないの?」

「……そりゃあ、同世代でよく話す異性なんて彼だけだけどさ……」

「あらら、脈アリかしら? 母さん期待しちゃうわ」

「もう! 私は手伝いするから、母さんは休んでてね!」

「はいはい。私は若い二人を見守ってるわ~」

 

「──ありがとうございました。またお越しください」

 

 あ、戻ってきた。なんか山吹さんが膨れっ面で千紘さんがツヤツヤしてるけど。

 

「それじゃ、私は先にお休みを頂くわね」

 

 そう言って店の奥へ向かう千紘さん。僕の横を通り過ぎる瞬間、声をかけてきた。

 

「それじゃ友也くん、沙綾を頼むわね~」

「え」

 

 それはどちらの意味ですか。もう一言くらい付け加えてもらわないと返答に困ります。

 正直どちらもOKですが……冗談です。

 

「ほら! 母さんは早く休んでて!」

「ふふふ~」

「…………」

 

 戻ってきた山吹さんか隣に立つ。

 山吹さんの帰宅を皮切りに、だんだんとお客さんが増えてきた。

 

「もう、母さんたら……」

「相変わらず若々しいな千紘さん」

「元気ならそれがいいんだけどね……」

 

 前述したように、千紘さんは体が弱い。

 もともと貧血気味なのだそうで、あまり長い時間働いていると危険なのだそうだ。

 山吹さんが毎日早く帰ってくるのは、お店の手伝いをするためなのだと千紘さんから聞いた。

『あの娘にはやりたいことをやって欲しい』

 とは、千紘さんも亘史さんも言っている。

 

「……これからはバイトとはいえ多少手伝いに入れるし、協力するよ」

「ごめんね、わざわざありがとう」

 

 山吹さんが少し申し訳ないような表情で言う。別に謝る必要などないのだが。少しだけ空気が重くなってしまうと思った直後。

 

「っていうか、キミって結構エプロン似合うんだね」

「ぷっ、あはははは!」

 

 流石に吹き出した。

 

「ちょっと、どうしたの?」

「いや、山吹さんが千紘さんと同じこと言うから、つい」

「あはは! そっかぁ、やっぱり家族なんだなぁ」

 

 山吹さんとひとしきり笑ったあと再び仕事に戻る。

 さっきまでの重たい空気は消え去っていた。

 山吹さんが笑顔で言う。

 

「とにかくこれからよろしく、(おおとり)くん」

「ああ、こちらこそよろしくね、山吹さん」

「ふふ、この挨拶は初めてだね」

「それを言えば、この後のお疲れさまの挨拶もはじめてになるね」

 

 これで少しでも山吹さんや千紘さんの体が休まると良いな。パン作りを覚えたら亘史さんも。

 小さな決意と共に改めて接客に挑む。

 

 心の火種は燻り始めて、少しずつ熱を灯していた。

 



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#3

 

 やまぶきベーカリー、閉店時刻。

 

「山吹さん、お疲れ様」

「お疲れ様」

 

 あれからも接客は滞りなく進み、閉店時刻まであっという間に終わってしまった。

 パンの売れ筋も良かったらしく、陳列棚には空白が多い。

 山吹さんの仕事の早さは流石と言うべきか、慣れ始めた僕の数倍は早かった。その早さに助けられたのか、あれから疲れを溜めずに仕事が出来た。

 

「いやはや、流石パン屋の娘と言うべきか」

「キミも初めてにしては慣れが早いよ。凄く助かっちゃった」

 

 お互いに褒め合いながら店内の掃除を進める。今日はカラッと晴れていたが、雨の日雪の日ともなると掃除も大変そうである。

 店内は薄い白熱灯に照らされてオレンジ色に染まり、外は繁華街のようなネオンライトもないので、道端に佇む街灯がポツポツと道を照らしていた。

 既にほぼ全ての店が閉まっており、商店街全体が静まり返っていた。

 

「いつもこんな時間まで手伝っているの?」

 

 夜も深くなる外を見ながら訊いてみる。

 

「そうだね……。母さんと父さんに任せきりにするわけにはいかないし、純と紗南はまだ小さくて、こんな時間まで手伝わせられないからね……」

 

 それを聞いて少し心配になる。

 それはつまり、今日僕がバイトを始めるまではこの閉店時間までかなりの忙しさで働き続けていたということだ。

 

 中学時代、僕が通っていた時間帯はちょうど山吹さんが帰宅して手伝い始めた頃だった。 彼女が接客のほとんどを担当していたのは僕が通い始めた頃から知っていたが、帰宅してからずっとだったとは知らなかった。

 

「……無理、してない?」

 

 彼女に課せられた仕事の量を鑑みれば、自然と発せられる言葉である。

 バイトをし始めてわかった。これは一人でやるような仕事の量ではない。それは山吹さんだけでなく、千紘さんにも当てはまることだった。

 

「……ううん、大丈夫。私がやりたくてやってることだから」

 

 山吹さんが笑顔で返してくれる。しかしその笑顔にもやはり疲れが見てとれる

 やはり、僕ではまだ助けになれないか。少しだけ、情けなく感じてしまう。

 

「それならいいんだけど……。僕に出来ることがあればなんでも言ってね」

 

 いいセリフなど出てくるはずもなく、月並みな言葉だけを紡いだ。もう少し何かなかったのか。

 

「ありがとう。でもキミに無理はさせられないよ」

 

 気を使わせてしまった。……少し心が痛い。

 

「それより、最近学校はどうなの?」

 

 空気を変えようとしたのか、山吹さんが話を振ってくる。最近学校どう? ってテンプレ過ぎません? 

 

「どうって……普通さ。いつもどおり友人と駄弁って人並みに勉強してるだけだよ」

「違う違う! そっちは共学校でしょ? なにか浮いた話のひとつとかないの?」

 

 山吹さんがニヤニヤしながら聞いてくる。なんだそりゃ。

 

「まだ入学して一ヶ月だよ? 誰だってないさそんなの。しかも僕はことなかれ主義だからね。三年間、安泰に過ごさせていただきますよ」

「えー、つまらないなぁ。折角の高校生活だよ? 青春しなきゃダメでしょ」

「そんなキラキラしたものは僕にはあいません。あー眩しい眩しい」

 

 いつもの雑談を交わしながら掃除を続ける。しばらくすると、店の奥から千紘さんが顔を出してきた。

 

「二人ともお疲れ様。友也くんも、始めてなのによくやってくれたわ」

「あ、千紘さん。ありがとうございます。正直、山吹さんに助けられてばかりでしたけど」

 

 不慣れとはいえお世話になりすぎた。まったく頭が上がらない。

 

「いやいや、さっきも言ったけど(おおとり)くんが居なかったらこうもスムーズにはいかなかったって」

「そう? 僕は山吹さんの足を引っ張ってないかずっと心配だったんだけど……」

「人手が増えるだけで凄く助かるのよ。私も早く休ませてもらっちゃった」

「……まあ、なんにしてもお役にたてたなら嬉しい限りです」

 

 あまり謙遜するのも失礼だろう。自分がいることで助かっているなら、それはとても嬉しいことだ。

 

「あ、(おおとり)くん照れてる」

「照れてません」

「友也くんちょっと顔見せてみなさい」

「照れてないからやめてください」

 

 別に照れてません。顔が熱いだけです。だからやめて。お願い。

 そうこうしているうちに掃除も終わり、僕の初バイトも終了しようとしていた。

 

「おっ、お疲れ様でしたー!」

「うん。お疲れ様ー」

「ふふ。お疲れ様」

 

 弄りから逃げるように挨拶をして店内を去る。ニヤニヤしながらこっちを見ないでください。

 

 二人から逃げ出し、着替えようと荷物を置いていた場所に戻り始める。

 初めてとはいえやはり疲れた。学校帰りだと尚更か。やはり体力をつけたほうがいいかもしれない。

 

「……あ、亘史さんのところに寄っておこうかな」

 

 亘史さんにも挨拶をしようと厨房へ向かう。着いてから覗いてみると亘史さんもちょうど作業が一段落ついたようだったので、中に入っていった。

 

「亘史さん、お疲れ様です。今日はありがとうございました」

「ああ、友也君か。お疲れ様。初バイトはどうだった?」

「流石に疲れました……早く慣れなきゃいけませんね」

 

 もちろん弄られたのを含めて。

 

「大丈夫、そういうものさ。これからちょっとずつ慣れていってくれ」

「ありがとうございます。またパン作りの方もよろしくお願いします」

 

 亘史さんには余裕があるときにパン作りを教えてもらっている。元々料理が好きで、やまぶきベーカリーに通っているうちにパン作りにも挑戦したくなったのがきっかけ。いつか自分で一から作って誰かにプレゼントしてみたいと思っている。

 

「ああそうだ。ちょうどいい。友也くん、これを持っていきなさい」

 

 そう言ってビニール袋を持ち出してくる亘史さん。中に入っているのはパン……だろうか。

 

「労いみたいなものさ。持っていってくれ」

「わ。ありがとうございます」

 

 ありがたい厚意に感謝して、中身を確認する。

 コッペパン、塩パンとほとんどが僕がいつも買っているパンだった。流石に亘史さんにも僕の好みは伝わっていたらしい。

 中身を眺めていると、ふと嗅ぎ慣れない匂いがあることに気がつく。匂いを辿って袋を漁ると、少なくとも僕が見たことのないパンが出てきた。

 

「……これは……?」

「ああ、それかい? 新作でね。こういう類いなら、シンプルな味が好きな君も食べられるんじゃないかなと思って作ってみたのさ」

 

 なんと。新作。まだ棚にすら並んでいないものを入手できてしまうとは、少々抜け駆けした感があるが嬉しいことだ。

 食べるのはまた家に帰ってからだが、今触っているだけでも柔らかい触感が伝わってくる。

 

「おお……ありがとうございます……」

「こちらとしても励みになるから、食べてみたらぜひ感想がほしいね」

「わかりました。次の時までに考えておきます。……おそらく第一声は「おいしかった」になるでしょうけど」

「嬉しいこと言ってくれるね。……あと、少しだけお願いがあるんだけど……いいかい?」

「何でしょう?」

 

 首をかしげる。新作を貰ってしまったのだから、何であっても応えたいとこだが。

 亘史さんは周りを見渡して確認したのち、こちらに顔を近づけて小声で言った。

 

「……沙綾と仲良くしてくれると、私としても嬉しい。あの娘は無自覚のうちに無理をする癖があるからね。君がストッパーになってあげておくれ」

「……ああ、やっぱり……」

 

 やはり山吹さんは無理をするタイプの人だったか。僕の見立ても馬鹿に出来ないものである。

 

「……任せられるかな?」

「ええ。任せてください」

 

 即答。快く承諾する。

 今日一日見ているだけでも、山吹さんの仕事の大変さは多少なりとも理解できる。両親から見ても、心配されているのだろう。

 

「……ありがとう。……さぁ、そろそろ帰ったほうがいいだろう。疲れているだろうから、しっかり休みなさい」

「……はい。お疲れ様でした。またパン作り教えて下さい」

 

 僕の言葉に亘史さんが笑顔で応えてくれたのを見て、厨房を出る。

 任された以上はやらねばなるまい。山吹さんのキツそうな顔は僕も見たくないから。

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 着替えを終えて、再び学校の制服に戻る。

 最後に挨拶をしようと、山吹さん宅の居間の方を覗く。

 居間には、山吹さんの他に純くんと紗南ちゃんがいた。

 

「あ、兄ちゃん!」

「友也お兄ちゃん、こんばんは!」

 

 僕の姿を認めた純くんと紗南ちゃんがこちらに駆け寄ってくる。うーむ、今日もかわいい。

 

「純くん、紗南ちゃん。こんばんは……っていってもこれから帰っちゃうんだけどね」

「「えー、残念……」」

「ごめんね。これで許してくれる?」

 

 そう言って二人の頭を撫でる。いつだったか、なんとなく二人の頭を撫でてしまって以降、遊べない時がある度に撫でていた。やっぱり二人ともかわいい。本物の妹や弟みたいに懐いてくれるから、ついついお兄ちゃん面したくなる。

 

「いつも面倒見てくれてありがとね」

「とんでもない。こっちも楽しいからwin-winってやつだよ」

 

 一人っ子の自分にとっては、他人の兄弟姉妹は結構羨ましかったりするのだ。

 

「よし、じゃあ僕はそろそろ行くね」

 

 あまり長居をしても夕食の邪魔になってしまうだろう。今日は亘史さんからパンも貰ったし、帰って食べたいという気持ちもあった。

 

「兄ちゃん、帰っちゃうの?」

「うん。二人とも、今日はあまり遊んであげられなくてごめんね」

「ううん。大丈夫! ありがとうお兄ちゃん!」

 

 純くんと紗南ちゃんに挨拶していると、台所から千紘さんも出てきた。

 

「あら、友也くん帰る? 今日は本当にお疲れ様。いつか夕飯も食べに来てちょうだい」

「ええ、いつか。僕も千紘さんの料理食べてみたいです」

 

 千紘さんの料理。パン屋のイメージが強いけど、家庭ではどんな料理が並ぶのか気になるところ。

 

「お兄ちゃん、またね」「またねー!」

「うん、純くんも紗南ちゃんも元気でね」

 

 純くんと紗南ちゃんにも別れを告げる。

 

「今日はホントに助かっちゃった。ありがとうね」

「役に立てたなら嬉しい限り。これからも山吹さんについていけるように頑張るよ」

 

 皆にひとしきり挨拶をして、裏の玄関から山吹さん宅を出る。

 ドアの外に出た直後、山吹さんに呼ばれた。

 

(おおとり)くん」

 何、と返事をする間もなく、山吹さんの端正な顔が迫ってくる。息遣いが感じられる距離で、小さな声が耳元に響いた。

 

「……また、よろしくね」

「……了解」

 

 少しドキリとしたのは秘密。

 また今度、母さんに沢山教えてもらわなきゃな。

 

「……それじゃっ! また今度ね!」

 

 離れた山吹さんの顔はほんのり赤く染まっていた。彼女は急ぐようにドアの向こう側へ隠れてしまう。

 

「……ああ、また今度」

 

 少しだけ扇情的な行動のせいで、僕が挨拶を返せたのは目の前のドアが閉まってからだった。

 

「…………うん、帰ろ」

 

 暫く固まった後に、さっきのことは気にしないと決めて歩き始める。

 ……嘘です。さっきのは流石に反則。心臓が少しばかりうるさい。

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 

 歩き始めた外はもう夜の帳が落ちており、地上に届くのは月の明かりくらい。

 

「こんな時間に帰るのも始めて、かな」

 

 中学時代はこんな時間に商店街を歩くことはなかった。高校生になってから活動時間も延びたのだろう。

 変化が起きているのは学校生活だけではないようで、少しだけ新しいものを発見したような少年らしい気持ちに包まれた。

 夜の商店街は静かではあれど、多くのお店から暖かい光が漏れでていた。

 時折聞こえる柔らかい笑い声を聞きながら足を進める。

「笑う角に福来る」なんて、よく言ったもの。笑顔はまた、違う人を笑顔に出来る。笑顔であることが福であるし、そんな人だからこそ福を招くことが出来るのだろう。

 自分はどうなるのか。やまぶきベーカリーで働いた今日だけでも、僕が笑顔を与えるよりお客さんから笑顔を分けてもらった事が多かったと感じる。

 

 商店街を抜けて、さらに人通りが少なくなる。

 時々通る自動車の赤いランプに照らされながらコンクリートを踏みしめた。

 

『沙綾と仲良くしてくれると、私としても嬉しい。あの娘は無自覚のうちに無理をする癖があるからね。君がストッパーになってあげておくれ』

 

 亘史さんの言葉が反芻する。

 

 即答してしまったけれど、正直どうすればいいのかわからない。

 山吹さんが無理をするのは恐らく、体の弱い千紘さんを思ってのことだろう。それはよく分かる。

 僕も山吹さんや千紘さんの助けになればとあそこでバイトを始めたのもある。

 だが、僕が山吹さんのところも負担するとなると彼女は拒むだろう。

 山吹さんはかなりお人好しな性格だ。見ている限り、特に家族については。

 だから、自分が家族の助けになろうと頑張っている節があると思う。

 

「他人に頼ることを知らないってことかな」

 

 なんでも一人でやろうとする性格の人には、他人に頼ることを拒否することが多いように思う。

 このままいくと、山吹さんは倒れてしまうだろう。僕が入ったとはいえ、彼女が倒れるまでの時間を長くしただけのことだ。

 だから山吹さんのやる仕事を少なくする必要がある。

 

 もちろん、山吹さんだけではない。

 

 亘史さんはパン作りをほとんど一人でやっているし、千紘さんは言わずもがな体が弱い。

 これから働く人数が増えれば一人一人の仕事は楽になるだろうが、しばらくは僕がどこまで出来るかで状況が変わるだろう。

 

「やっぱり、早く慣れるしかないな……」

 

 働きすぎは良くない。僕が倒れてしまえば、山吹さんは僕を働かせないようにするだろう。当たり前の判断だ。そうなれば僕が働く前に逆戻り。山吹さんが接客のほとんどを担当することになり、僕は山吹さんに無理をさせないという亘史さんとの約束を破ることになる。

 

「……通学、走ったりとかしてみようかな」

 

 大人であれば上手いやり方が思い付いて、それを実行できるのだろうが、生憎と僕はまだ子供。自分にできることから選りすぐってやるしか方法がない。

 

 ごちゃごちゃと考えてみたが、とどのつまりはそういうことだろう。

 僕は決して、天才とかそういった人間じゃなく、ごく普通の高校生。

 でも、そんな平凡な僕も僕自身の未来を変えることは出来るはずだ。

 今はまだ始まったばかり。

「これから」は「今から」変えていけばいい。

 

「疲れたし、帰って早めに休むとしよう」

 

 少しだけ前向きになった頭を上げ、残り少なくなった家への帰路を歩く。

 まだまだ未熟で、まだまだ子供な僕だけれど。

 

「いつか、誰か一人だけでも僕の力で……」

 

 ……笑顔に出来たらいいな、なんて。

 

 少し恥ずかしくて、誰も聞いちゃいないのに最後の方は口に出来なかった。

 



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#4

 

 初バイトから一週間。

 

「いらっしゃいませ!」

 

 あれからほぼ毎日働き続けて、常連さんの接客にもようやく慣れてきたところ。

 未だに僕が働いていることに驚く人もいるけれど、そういった人もやがては慣れてくれるはず。

 

 そういえば最近、営業スマイルを習得した。

 これで僕も立派に接客の基本を履修したことになるだろう。

 残念ながら……いや、なかなか嬉しいことに使う機会はないけれど。

 

「三点でお会計四二〇円になります」

 

 生活に変化はない。

 いつも通り学校に行き、教科書とにらめっこ。たまに来る小テストと気だるげな担任から漠然と伝えられる模試の予定。

 入学したばかりの僕らは、どこかふわふわとした気持ちで高校生活を送っている。

 

「ありがとうございました! またお越しください!」

 

 桜も既に散り、緑が顔を覗かせる。

 ドアから吹き込んだ風も、少しずつ暖かくなっていた。

 

(おおとり)くん、お疲れ様」

「あ、山吹さん。お疲れ様」

 

 山吹さんが声をかけてくる。

 ちょうど客足も少なくなったようだ。

 

「常連さん多くて助かるな……」

「お、仕事にはもう慣れたかな?」

 

 そういってこちらを眺めてくる山吹さん。

 

「…………?」

「……ちょっと、どうしたの?」

「いや、その対応……」

 

 ……この既視感……あ。

 

「教育係の上司……?」

「……私はOLじゃないよ?」

「言い方と言葉選びがそれっぽくて……」

 

 山吹さんはどうにも大人っぽいのだ。

 自営業を手伝っているせいなのか、(たたず)まいといい、動きといいデキる女上司感がある。

 英語でやったな。mature。

 

「……まあ、すっかり慣れたようでなにより。高校の方も充実してる?」

「ほどほどに。そろそろ勉強にも身を入れないと不味いかなとは思ってるよ」

「………? なにかあるの?」

「何って……そろそろ高校最初の定期テストでしょ? 割と勉強してるつもりだけど、高校のテストがどんなものかいまいち掴めなくてね……」

 

 テストは辛い。

 勉強してるつもりなのにとれなかったり、たまに意地悪して高度な引っかけしてきたり。

 ある意味先生の性格テストとも言える。

 

「定期テスト……?」

「このあたりの高校は二週間後くらいにやるって聞いたよ。花女も近いんじゃない?」

 

 ピシリと効果音がつきそうな勢いで山吹さんが固まる。うーん、この反応。

 

「…ゴメン(おおとり)くん。勉強教えて」

 

 そういうわけで、勉強会開催が決定した。

 

 

 

 

 

 

 ──────

 

 

 

 

 

 

 週末、やまぶきベーカリー前。

 

「~♪」

 

 勉強会当日。

 あれから山吹さんが声をかけたらしく、僕を含めて6人で勉強会をすることになった。

 山吹さん宅では狭いので、山吹さんの友人の家に集まることになり、その家を知らない僕は山吹さんに案内してもらうべく待っているところ。

 

 今日はやまぶきベーカリーも定休日だそうで、ちょうどいいからとこの日になった。

 山吹さんとの集合時間まではまだ時間がある。

 イヤホンから聴こえてくる音楽に鼻歌を合わせつつ、暇を潰す。

 

「…いい天気になったなー…」

 

 春先の朝、暖か過ぎず寒すぎない気温は非常に過ごしやすい。

 今日の服は青を基調に風通しのいいもので固めた。時々吹いてくる風が心地いい。薄手のブラウスは正解だったようだ。

 遊び心でつけたペンダントも、多分浮いてないはず。

 

 普段を制服で固めている僕にとっては、休日の予定にあわせて私服を選ぶのは一種の楽しみだったりする。

 といっても、別にセンスがあるわけではない。 せいぜい自分に合った服装を考えるのが精一杯というところだ。

 

 勉強会、柄にもなく楽しみにしていた。

 そもそも一人で勉強することが多かった僕にとっては、勉強会という響きが新鮮で輝かしいもの。

 しかも相手は皆女子。緊張もしているが、どんな人たちなのかとても気になる。僕もれっきとした男子なのだから意識するのは当然というものだろう。

 

 耳からイヤホンを外して、鞄にしまう。

 しばらく待っていると、ガチャリとドアを開く音が聞こえた。

 

「おはよう。山吹さん」

「わ、早いね。おはよう」

 

 僕の早めの登場に驚きつつも笑顔で挨拶を返してくれる山吹さん。

 そんな山吹さんも今日は私服。少しフリルのついた白ブラウスに、レモン色の長スカート。全体のシルエットが優美な曲線を描いている。

 髪飾りもいつもと違う模様。

 

「……どうしたの? ジロジロと」

「そっちだって同じじゃないか、わかってるくせに」

 

 お互い、ニヤリとしながら言う。

 言うまでもなく私服の事だろう。

 

「やっぱり、お互い私服は珍しいね」

「そうだね。いつもエプロン姿しか見てないから、余計に新鮮に感じるよ」

 

 やがて、山吹さんの案内のもと歩き始める。

 商店街は今日も繁盛。最近出来たショッピングモールに負けず劣らず、客を集め続けているようだ。

 

「あら、沙綾ちゃんに友也くんじゃない。これからデートかしら?」

「おはようございます。残念ながらデートじゃありませんね。これから勉強会ですよ」

「おお、偉いねぇ……。よく励むんだよー。楽しんでやっておいで」

「はい」

 

 商店街の人たちに話しかけられることも少なくない。

 すっかり定番になったからかいをあしらいながら、足を進める。

 

「そういえば山吹さん、いつもと髪飾り違うんだね。それもよく似合ってる」

(おおとり)くんこそ、ペンダントなんて珍しいね。結構似合ってて女子としてはちょっと悔しいかも」

 

 ファッションの話をしたり、勉強会の予定を話したりしながら進む。

 山吹さんとの会話は時間が経つごとに弾んでいった。

 

「今日のことは突然でホントにごめんね。教えられる人は多い方が良くて……」

「構わないよ。僕もいいリフレッシュになる」

 

 申し訳ないというように山吹さんが言う。

 謝る必要なんてない。先も言ったように、僕は今日を結構楽しみにしてたのだから。

 僕の心を表すように段々と陽は登って、コンクリートで舗装された道に日差しを注いでいる。

 

「しかし、女子の花園に男子である僕が入るのは、いささか躊躇されるけどね……」

「それは大丈夫だよ。皆フレンドリーだし、なんとキミの知ってる人もいるからね」

 

 そうだといいのだが。

 知ってる人もいるとはどういうことだろう。同年代で知り合いの女子など限られてくるはずだが、検討がつかない。

 

「…そんなにわからないかな? 結構身近な人だよ?」

「心当たりはあるんだけど、いまいち山吹さんと結び付かなくて……」

 

 やまぶきベーカリーのお客さんだろうか。

 いやあるいは山吹さんがうちのクラスメイトと知り合いだったりすることもあるな……。

 

「まあ、見ればわかるよ。……ほら、着いたよ」

「………おお、立派な家……」

 

 造りは純和風。規模がかなり大きいから、随分前からここにあるのだろうか。

 庭も広く、蔵もある。掃除もきちんと行き届いている辺り、ここに住む人の性格もなんとなく推測できる。

 門に掛けられた表札には「市ヶ谷」と達筆な字で書かれている。市ヶ谷さん、いちがやさん。覚えた。

 

「高校に上がってからは集まるときはここに来ることが多いかな」

「……山吹さんのご友人凄い……」

「ふふ、かわいい人だから仲良くなれば()()()()()()もあるかもよ?」

 

 門を通って扉へと向かう。

 かわいい人、ねぇ。

 

「まさか。女子高通いのJKにとって、男子なんて得体の知れない不審者でしょ」

「それは流石に言いすぎじゃないかな……?」

 

 山吹さんは慣れたように、僕は少し身構えながら歩く。

 やがて扉の前に着き、山吹さんがインターホンを押した。ぴんぽーん。

 

「はーい!」

 

 扉越し、奥の方から声が聞こえた。声の質と高さ的に女子、おそらく山吹さんの友人だろう。

 

「おはようー! 私だよー!」

 

 山吹さんがその声に応えるように挨拶する。

 こちらに走ってくる音が聞こえる。

 ……なんかリズム踏んでません?楽しそう。

 

「ふふ、やっぱり楽しそう」

「山吹さんもそう聞こえるんだ」

「ホントにかわいい人だから。気も絶対合うと思うよ」

 

 山吹さんが笑顔で言う。

 やがて靴を履く音が聞こえ、それから間も無く扉が開かれた。

 

「早かったですね。沙綾……と、あなたが…?」

「うん。今回の助っ人。うちのバイトさんだよ」

 

 山吹さんの言っていたことは間違っていなかった。というか正直予想をぶっちぎってきた。

 

 扉から出てきたのは、男子校生徒がおおよそ思い浮かべる「美少女像」にベストマッチしているであろう少女。

 サイドできちんと纏められた、清潔感のある綺麗な金髪。

 顔が整っているのはもちろん、自分の生かし方をわかっているかのような薄い化粧。

 きちんと食べ、きちんと寝る。規則正しい生活を送ってきたことが窺えるすらりとした身体。

 

 あと大きい。どこがとか言わない。

 あ、山吹さんに睨まれた気がする。ごめんなさい。

 

 結論、美少女だった。

 

「まだ何も準備してないですよ……」

「それなら好都合かな。少しばかり手伝おうとは思ってたから」

「…いや、客人に手伝わせるのはまずいでしょう……」

 

 落ち着いた声で話す市ヶ谷さん。なんとなく上品な感じがする。

 ていうかこの子敬語で話すのか。礼儀正しい。

 

「……あ、そっか。(おおとり)くんがいるから猫かぶりなのか」

「ちょ」

「猫かぶり?」

 

 今一度市ヶ谷さんの方に向き直る。

 落ち着いた様子から打って変わって、酷く焦っているように見えた。

 

「あ、いや、そのですね………」

「市ヶ谷さん、他人に人見知りして近づけないようにするから……私たちにはかわいく接してくれるのに……」

「かっ、かわいくねぇ! ……はっ!」

 

 息吐く間もないツッコミ。お見事です。

 

 これが市ヶ谷さんの本性ですか。成程。

 あとなんか山吹さんがイタズラが成功したような顔してこっち見てる。

 ……なるほど計画的。さっきの発言は釣り餌ってわけですか。

 千紘さんを彷彿とさせる弄りですね。血には抗えないと。

 いいだろう。ノッてやろうじゃないか。

 

「なるほどかわいい」

「かわっ……だから! かわいくねぇって!」

「っあははは! やっぱりキミ察しがいいよ!」

 

『かわいい』という言葉が地雷なのだろう。

 なるほど。これが弄る方の楽しみか。千紘さんが毎度毎度弄ってくる理由がよく分かる。

 

 ……というか事実顔も性格もかわいいのに、かわいいという言葉に弱いのは致命的じゃないか。

 いや違うか。かわいいという言葉にかわいくないとかわいく反応するその行動がかわいいのであって、この性格があるからこそ市ヶ谷さんのかわいいが加速するのかなるほど。

 

 つまり市ヶ谷さんはかわいいのか。

 

「あーもう! さっさと案内するからついてこい!」

 

 自分の中でかわいいがゲシュタルト崩壊したところで市ヶ谷さんが言った。

 

「あ、猫かぶらなくなった」

「もう関係ない!」

「……あ、あいさつが遅れました。私、鴻友也(おおとりともや)です。よろしくお願いします」

「自己紹介遅い! あと敬語やめろ!」

 

 楽しい。

 

 

 

 

 

 

 ──────

 

 

 

 

 

 

「うん。僕、市ヶ谷さんとは仲良くなれそうだよ」

「あはは! ほら、私が言った通りフレンドリーでしょ?」

 

 居間に通された僕と山吹さんは勉強会の準備をしていた。

 市ヶ谷さんはお茶請けの準備をしてくるらしい。

 なんだかんだ言って友達思いのいい子なのだろう。誉めたら照れるけど。

 

「今日来るのはあと三人だっけ?」

「そそ。皆いい人たちだから……というか、キミの知り合いもいるから、すぐ馴染めると思うよ」

「その知り合いがいまいちわからないんだな…」

 

 約束の時間まではあと30分ほど。

 3人ともちょうどその頃に来るらしいが、僕らは既に準備をほとんど終えていた。

 ちょうど準備が終わったところで市ヶ谷さんが手にお茶請けを持って戻ってきた。

 

「ありがとな二人とも。助かった」

「いやいや。こっちがやりたかったからやりに来ただけだよ。助けになったなら良かった」

「……おう。ありがとう」

 

 なんだか妙な態度で応対する市ヶ谷さん。その訝しげな目はなんですか。

 

「……なんでしょうか」

「……お前、意外と気が利くやつだったんだな」

「第一印象があれだからね……それは申し訳なかった」

「べつに謝らなくていいって」

 

 他人の第一印象は、自分の中の「その人の像」を形成する最も大きな要因だ。

 

 見た目、姿勢、態度、話し方。色々な要因でもって最初に形成されたイメージは自分の中に深く張り付いて、塗り替えるのが難しい。

 心理学の用語で、確かハロー効果と言ったか。

「意外な一面」なんてのはそれの最たるものだろう。

 

「まあ、アレも僕の一面ってことで。まあ、市ヶ谷さんが弄られやすいってのもあると思うけどねー」

「そうそう、有咲はやっぱり弄られやすいんだよ」

「二人して言うな! お前らが弄るの大好きなだけだろ!」

「「ほら、そうやって反応しちゃうところとか」」

「うっ……!」

 

 山吹さんとのハモり攻撃で怯む市ヶ谷さん。

 やっぱり弄りやすいなこの人。

 第一印象の「綺麗で礼儀正しい人」ってイメージが遠く離れていくよ。

 

「私たちが来たときも、廊下からウキウキしたような足音が聞こえてきたし」

「あー、確かに。こう、スキップ的な」

「ウキウキしてねぇから! スキップも踏んでねぇからぁ!」

 

 市ヶ谷さんを二人で弄り倒して遊んでいる内に時間が経ったのか、気がつくともう約束の30分が経過していた。

 

 ピンポーン

 

「有咲ぁー! 来たよー!」

 

 インターホンが鳴る。

 それと同時に、元気な女の子の声が響いた。十中八九、勉強会の参加者だろう。

 

「……来やがった」

 

 呆れた感じの台詞に似合わず、嬉しそうなトーンと表情で市ヶ谷さんが言う。

 友達が来て嬉しいのだろう。素直じゃない、とはこれのことか。

 

「来たねー。さ、迎えに行こっか。キミの紹介もあるからね」

「ああ、そっか。了解」

 

 市ヶ谷さん、山吹さんに続いて立ち上がる。

 

 玄関に向かうと、扉の向こうに3つの影が見えた。なんか猫耳っぽいものが見えるのは気のせいか。

 

「ほら、開けるから待ってろ」

 

 市ヶ谷さんが扉をあける。頬、緩みっぱなしですよ。

 

「お邪魔しまーす!」

「お邪魔します」

「お邪魔するね、有咲ちゃん」

 

 開いた扉から3人とも入ってくる。

 さっき声をあげていた子が元気に挨拶をし、それに他の2人も続いた。

 

「有咲おはよー!」

「ちょ、いきなり飛び込んでくるな香澄!」

 

 否定しつつもめちゃくちゃ嬉しそうな市ヶ谷さん。素直じゃない。

 市ヶ谷さんに飛び込んだ彼女に見覚えはない。

 山吹さんが言っていたのは誰なのかと、他の2人に向き直る。

 

 で、ちょっとばかり驚いた。

 

「あ、友也だ。おはよう」

「あ、ホントだ! 友也くん、おはよう!」

「わ、花園さんに牛込さん!」

 

 やまぶきベーカリー常連客。花園たえさんに牛込りみさん。

 僕と同年代でやまぶきベーカリーに通う数少ない常連客で、メロンパンの人&チョココロネの人。ちなみに僕は食パンの人です。

 

 3人揃ってやまぶきベーカリー三銃士。

 名前の考案は花園さん。

 

 牛込さんに至っては中学時代からの付き合い。いつもチョココロネを買う姿が印象的で、山吹さんを通じて仲良くなった。

 花園さんとは高校に入学してから。山吹さん、牛込さん繋がりで仲良くなったものだ。うさぎさんたち、元気ですか。

 

「牛込さんは花女なの知ってたけど、花園さんも花女だったんだ……どうりで見ない顔が山吹さんと仲良くしてたわけだ。やっと花園さんの謎が解けたよ」

「友也くんにはいつも助けてもらってるよ~。ホントにありがとう」

「沙綾が言ってた助っ人って、友也のことだったんだね」

 

 2人とは、僕がやまぶきベーカリーでバイトを始めてからも会っている。

 相変わらず二人ともメロンパンとチョココロネを沢山買っていくけど。

 

「ほらね? 知ってる人、居たでしょ?」

「牛込さんはまさかと思ってたけど、花園さんは完全に予想外さ。驚いた」

 

 これならやりやすい。山吹さんの采配に感謝である。

 

「キミからパンの匂いがする!」

「うおう」

 

 3人と談笑していると、突然後ろから声を掛けられた。

 そういえばまだ自己紹介してなかったな、と後ろを向くと、猫耳が見えた。なにこれ。なんかピコピコ動いてる。

 視線を落とすと、さっき市ヶ谷さんに飛び込んでいった人がいた。

 

「えっと、香澄さん……だっけ?」

「うん! 私は戸山香澄! 花女の一年だよ! やっぱりパンの匂いがする!」

 

 元気な挨拶。

 なるほど、戸山さん。覚えた。

 

「僕は(おおとり)友也。やまぶきベーカリーで働かせてもらってるよ」

「そっか。だからさーやと同じ匂いがするんだね。…友也、ともや………うん! ともくんだね!」

 

 ともくん。あだ名なんていつぶりだろう。

 友人からは「親友」なんて呼ばれてるし。とてもあだ名とは言えないだろう。

 

「よろしく! ともくん!」

「うん。こちらこそよろしく、戸山さん」

 

 握手。めっちゃブンブン振ってきた。この子凄い元気だな。

 全員との面会を済ませ、皆で部屋に戻る。

 部屋に戻った後、話しながら勉強の準備を始めた。

 

「ともくんは頭いいの?」

「友也くん頭いいんだよ~。教え方が上手でわかりやすいの」

「私も(おおとり)くんにはかなりお世話になってるかなー。なんだかんだ、中学時代ちょくちょく教えてもらってたから」

「…照れくさいな…」

 

 確かに、二人に勉強を教えたことはあったな。

 二人とも教えれば理解してくれてたから、一緒にやってて楽しかった思い出がある。

 

「有咲も頭いいんだよねー。なんと学年首席」

 

 なんと。

 

「え、すごい。じゃあ入学生代表だったりするのか」

「有咲ちゃん、努力家だもんね。凄いことだよ」

「……ま、まぁな。褒めてもなにもでねぇぞ」

「有咲照れてるー」

「て、照れてねぇ!」

 

 やっぱり弄られる市ヶ谷さん。

 市ヶ谷さん頭いいんだな。学年首席って凄い。

 

 やがて皆の勉強の準備が出来たところで、山吹さんが一声あげる。

 

「よし!それじゃ、勉強会始めよっか!」

「「「「「おー!」」」」」

 

 テストは2週間後。

 

「頼りにしてるよ、(おおとり)くん」

「…まあ、上手くやれるよう頑張りますよっと」

 

 僕らの勉強会が始まる。

 



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#5

 

「あー、山吹さん。これ因数分解ミスってる」

「え? どこどこ?」

「ほらここ。符号逆転しちゃってる」

「あーほんとだ……これいつも逆にしちゃうなあ…」

 

 勉強会が始まって一時間半が経過した。

 

 僕が理系科目、市ヶ谷さんが英語を含めた文系科目を教えるという構図で、勉強会は充実している。

 

「友也くーん! ここの問題なんだけどー!」

「了解、ちょっと待っててねー」

 

 飛んでくるヘルプは大体数Ⅰのもの。

 三乗の展開公式と因数分解、二項定理に恒等式が主なものとなっている。

 化学生物は暗記なので、後回しにしている人が多いようだ。

 

「…ねえ有咲。これってどうやって訳したっけ?」

「be動詞に過去分詞、の形。思い出してみな」

「………ああ、受動態! じゃあこれは『オッちゃんは私にブラッシングされる』になるんだね」

「そう、正解………じゃねえ。オッちゃんどっから出てきやがった」

 

 市ヶ谷さんが担当する文系科目も捗っている模様。花園さんの花園節は今日も絶好調らしい。

 

「ごめんね友也くん。二項定理がいまいちよくわからなくて…」

「いちいち謝らなくていいよ牛込さん。こっちがやりにくくなっちゃうって」

「ご、ごめ……じゃなくて、わかった。ありがとう」

「うん。それでいいよ。……えっと、二項定理だったね。あれはさ……」

 

 牛込さんに説明しながら、周りを見渡す。

 

「さーや、ここどこが間違ってるのかわかる?」

「あ、これはね──」

 

 最初に電源が落ちかけた戸山さんも、すっかり集中しているのか山吹さんに聞いたりしながら勉強している。

 市ヶ谷さんが一番の心配だと口にしていたが、やはりスイッチが入ると一気にやれるタイプだったらしい。

 

「じゃあこれは『オッちゃんは─「だからrabbitが出る度にオッちゃんって訳すのやめろ!」

 

 僕や市ヶ谷さんも、「教える」という行為が勉強になっている。

 曖昧だったり、抜けがある知識では、人に教えることは出来ない。だから知識の確認という意味で勉強になっているのだ。

 ……花園さんに教えるのは何故か超難関クエストと化しているけれど。

 

「──っていうわけだけど、どう? わかった?」

「ありがとう友也くん。すっごく分かりやすかったよ~!」

「そいつはどうも」

 

 教科書の内容と照らし合わせながら、噛み砕いた説明をする。

 牛込さんのお礼を受けとると同時に、十二時を知らせる音が壁掛け時計から発せられた。

 

「もう二時間経ったのか。早いな」

「丁度いい頃合いだし、そろそろ休憩にしよっか」

 

 山吹さんの一声で一気に空気が緩む。

 各々、目を休めたり体を伸ばしたりして気を緩める。

 

「有咲~、疲れた~。私頑張ったよ~」

「だからって抱きつくなって! 暑い!」

「有咲はふわふわしてて抱き心地がいいから仕方ないんだよー」

 

 戸山さんはさっそく市ヶ谷さんに抱きついている。

 抱きつくな言いながら頬を緩ませては全く説得力がありませんよ市ヶ谷さん。

 

「そこ! 変な目で見てないで助けろー!」

 

 市ヶ谷さんのヘルプを無視して微笑ましい光景を見ていると、隣から「きゅるる」とこれまたかわいい音が聞こえた。

 

「………………」

 

 振り向くと、お腹も押さえながらこちらを見てブンブンと顔を横に振る牛込さん。

 ……私じゃない、というようにこちらを見ても残念ながら逆効果です。

 少しため息をついて話しかける。

 

「……牛込さん。チョココロネ持ってきたけど食べる?」

「えっ!? チョココロネあるの!?」

 

 反応と同時にまた「きゅるる」と鳴るお腹。今度は流石に隠せない。

 顔を赤くしてお腹を押さえる牛込さん。

 

「あう………いただきます……」

「了解」

 

 食欲には抗えないでしょうそうでしょう。

 

 パンを持っている山吹さんにアイコンタクトしてパンを貰う。

 あらかじめスタンバイしてた辺り、本当によく周りを見る人だなと思う。

 パンを受け取り、状態を確認。

 今日は気温もそこまで高くなく、チョココロネを常温で持ち歩いても中のチョコは溶けたりしなかったようだ。

 

「それじゃ、はい」

「ありがとう~! やっぱりやまぶきベーカリーのチョココロネはいいよね~!」

 

 僕からチョココロネを受け取ると、ぱあっと明るくなって幸せそうにチョココロネを食べ始める牛込さん。

 ふにゃりと崩れた顔が小動物みたいでかわいい。

 

「いかん。僕もお腹空いてきたな……」

「りみりん、本当に美味しそうに食べるからお腹空いてきちゃうよね」

 

 花園さんいつの間に隣に来たんですか。

 花園さんが喋ると、牛込さんがチョココロネを守るように抱えた。

 

「……いくらおたえちゃんでも、これはあげないよ?」

「大丈夫。盗ったりしないよ」

 

 そう言いつつもチョココロネから目を離さない花園さん。牛込さんが警戒して食べられてないからやめてあげて。

 

 時間もそろそろお昼時。

 皆のお腹が悲鳴を上げ始めるのも仕方のないことだろう。

 勉強は立派にエネルギーを使う。

 頑張れば頑張るほど、お腹も空くだろう。

 

「うん。香澄も皆も頑張ったし、そろそろお昼にしよっか」

「やったー!」

 

 お昼と聞いてテンションが一気に戻る戸山さん。

 それはいいのだけど、戸山さんを見つめる山吹さんの目線が完全に母親のそれなんですが。

 

「お昼にするってんなら、うちの婆ちゃんがご飯作るって言ってたけど、それでいいか?」

 

 戸山さんのホールドから解放された市ヶ谷さんが提案する。

 いち早く反応したのは戸山さん。

 

「それがいいよ! 有咲のおばあちゃんの料理は美味しいからね!」

 

 周りの皆もそれに賛同している様子。市ヶ谷さんの祖母の料理はさぞ美味しいのだろう。

 他の家の料理を食べる機会もないので、これはいい体験になりそうだ。

 

「そんなに美味しいなら是非ともいただきたい」

「よし、皆賛成だな。じゃあ準備するから……」

 

 そこで待っていてくれ……と続く予定だったのだろう。

 だが、普通に待つなど僕と彼女が黙っていない。

 

「わかった。何からやればいい?」

「じゃあ私、お皿とかは並べておくね」

「話をぶったぎってまで手伝おうとするな!」

 

 驚かずにツッコミをいれるあたり流石ですね市ヶ谷さん。

 

「じゃあ私も手伝おうかな」

「私もやるよ~」

「もちろん私も手伝うよー!」

「こんなに要らねー! わかったから友也と沙綾だけ来てくれー!」

 

 僕と山吹さんに続いて私も私もと声を上げる皆。

 市ヶ谷さんの叫びで、昼食の手伝いは僕と山吹さんがやることになった。

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

 

「悪いねぇ、手伝ってもらって」

「いいんですって。こっちがやりたいって言ったことですから」

 

 市ヶ谷さんのお婆さんと隣り合って、昼食の準備を進める。

 今回は和食にするそうで、煮物などを作った。

 昼食にしては豪勢な手料理が今のテーブルに並んでいる。

 今はもう仕上げ。味噌汁を作っている途中だ。

 普段僕の家では煮干しだけで出しをとるので、昆布でだしをとるのが新鮮だった。

 

 側を通った市ヶ谷さんと山吹さんが覗き込んでくる。

 既に箸や皿は戸山さんたちも手伝って用意してくれたようで、後は味噌汁の完成を待つだけとなっている。

 

「……お前って結構なんでも出来るのか?」

「家事全般は出来るようにしておけって言われてるからね。料理は自分で料理本読んだりして作ってるよ」

 

 要は暇なのである。

 勉強会以前、ほぼ毎日バイトを入れていた時点で察してほしい。

 

(おおとり)くんのお味噌汁、楽しみだな~」

「そこまで期待されちゃ、頑張るしかないね」

「ふふ。美味しいのを期待してるよ」

「……婆ちゃん位美味しいのを期待してるぞ」

「そいつはちょっと無理な相談じゃないかな…?」

 

 さっき煮物を味見させてもらったけど凄く美味しかった。あれがベテラン。あれがおふくろの味か……。

 

「有咲、居間に行こ」

「え、やだよ。また香澄が抱きついてくるから」

「……市ヶ谷さん、別に嫌そうじゃなかったよね」

「そんなことない!」

 

 全く素直じゃない人である。

 

「ほら、皆が市ヶ谷さんがいなくて寂しがってるんだから」

「さ、寂し……しょうがねぇな!」

 

 上手く市ヶ谷さんを丸めて連れていく山吹さん。

 広間へ戻っていく二人を見送りながら味噌を投入。あと少しで完成だ。

 

 火を止めたところで、お婆さんから話しかけられる。

 見た目以上に若々しく、足腰も丈夫なこの人は凄く健康的だと思う。

 食生活を観察したいと思って、手伝いを申し出たのもあるほどだ。

 

「うちの孫と仲良くしてくれてありがとうね」

「そんな、僕は今日知り合ったばかりですよ」

 

 感謝するとしたらそれは戸山さんにだろう。

 市ヶ谷さんが一番楽しそうにしていたのは、戸山さんと関わっている時だったから。

 

「知り合った期間じゃないわ。あなたがあの子と仲良くしてくれてるのが嬉しいの」

「……今日だけかもしれなくても?」

「それでも、よ。しかも今日だけだなんてそんなことないでしょう?」

 

 柔らかく微笑んで語りかけてくる。

 全く、大人というのにはどうしてこう敵わないのだろう。

 

「あはは……そうですね。……なんというか、これからもよろしくお願いします」

 

 降参、というように肩を竦めて言う。

 確かにあの五人との縁は、早々切れるものではない。

 彼女らとの繋がりを切るには、僕はもう随分とその繋がりに浸りすぎている。

 

「よろしい。お味噌汁ありがとうね」

「なんてことないですよ。盛り付けて皆のところに行きましょうか」

 

 味噌汁をきっかり七人分盛り付けて、お盆に乗せる。

 家族で食べるのとは違う、何人分か増えた重さを心地よく感じながら、溢さぬように慎重に運ぶ。

 居間に繋がる襖を開けてもらい、中に入った。

 

「お味噌汁できたよー。ほら、みんな運んでねー」

 

 僕が入ると同時に、皆が反応する。

 

「ともくんの味噌汁だー!」

 

 戸山さんがはしゃいで。

 

「おいしそうだね。ほら、皆も運ぼ」

 

 花園さんが巻き込んで。

 

「わぁ…ホントに美味しそう…早く食べたいね~」

 

 牛込さんが空気を緩めて。

 

「おいこら、そんな人数で行ったら邪魔だろ!」

 

 市ヶ谷さんがツッコんで。

 

「ほらほら、持っていくなら順番にね」

 

 そして、山吹さんが柔らかくまとめる。

 

 勉強会をした午前中だけで、すっかり皆のサイクルに組み込まれてしまったようだ。

 

「山吹さんの言った通りだったな」

「何が?」

「『皆フレンドリーだからすぐに仲良くなれる』って言ってたこと」

「そうだったでしょ? キミもすっかり馴染んだみたいだね」

 

 全くその通り。

 つい数時間前まではこんなにフレンドリーに話すなど想像していなかった。

 中学時代から変わらず、山吹さんと関わっていると沢山の初めてに出会える。

 

「ほら、早く行こ? お味噌汁冷めちゃうよ」

「そうだね」

 

 お盆に残った最後の二つの味噌汁をそれぞれ手に取り、テーブルを囲む。

 

 僕らがテーブルについたのを確認すると、市ヶ谷さんのお婆さんが声を上げた。

 

「それじゃあ、いただきます」

「「「「「「いただきます!」」」」」」

 

 もちろん、こんな大人数でテーブルを囲むのも初めて。

 少しだけ特別な昼食の時間だ。

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

「ん~! やっぱり有咲のおばあちゃんの料理は美味しい!」

「あらあら、ありがとうね香澄ちゃん」

「あんまがっつくなよ香澄。喉に詰まらせたりするんからな!」

 

 本日の市ヶ谷家の食卓は賑やかだ。

 皆で囲む食卓に、僕も皆も、市ヶ谷さんお婆さんも笑顔が絶えない。

 まず、やはり市ヶ谷さんのお婆さんの料理は美味しかった。

 筑前煮が凄く美味しい。弁当に入れて学校で食べたいくらいだ。

 

「お味噌汁も凄く美味しい~」

「家の癖でつい薄味にしちゃったけど大丈夫?」

「その薄味が丁度いいんだよ」

 

 僕が作ったお味噌汁も好評な模様。

 シンプルに豆腐、わかめ等でまとめたが、薄味といい感じに合っているようだ。

 我ながらいい出来だと思う。

 

「有咲のおばあちゃん、おかわり!」

「早っ!」

「えへへ……ついついご飯が進んじゃって…」

「いいわ、たくさん食べて頂戴。ほら、盛るからお茶碗をかしてちょうだいね」

 

 食べ初めてからほぼノンストップで食べていた戸山さんがおかわりを所望。

 市ヶ谷さんのお婆さんが盛り付けている間に、「そうだ!」と、何か思い付いたのか市ヶ谷さんに詰め寄る。

 

「有咲有咲、後でギター弾いていいかな!」

「いやダメだろ。テストあるんだぞ」

「そんなぁ~! 息抜きにいいでしょ~」

 

 提案と同時に即答で否定される戸山さん。

 すがるように市ヶ谷さんに抱きつく。本日何回目だったかな。

 

 というか。

 

「戸山さん、ギター弾けるの?」

「うん! まだきらきら星くらいしか弾けないけれど、これからどんどん増えていく予定だよ!」

 

 楽器が弾けるのは凄いな。

 

「凄いね……僕は楽器はからっきしだからなんとなく羨ましいよ」

 

 使ったことある楽器は鍵盤ハーモニカとリコーダーだけです。

 僕の質問に一通り答えると「有咲~お願い~」といいつつ再び抱きつく戸山さん。

 

「……………」

 

 その光景を僕の隣に座っていた山吹さんが眺めている。

 その横顔がどこか変で、顔をチラリと覗くと明らかに曇っているのが見えた。

 

「………山吹さん?」

「? どうしたの?」

 

 話しかけるとハッとしたようにこちらを向く山吹さん。反応も鈍いとは心配だ。山吹さんらしくない。

 

「いや、山吹さんの顔が一瞬曇ってたから、体調でも悪いのかと……」

「ううん! なんでもないよ!」

「んー、そっか。それならいいんだ。春は風邪引きやすいし、体調には気を付けてね」

 

 慌てて否定する山吹さんに、勿論のことながら違和感を覚えてしまう。

 秘密すら、言い合えるような仲が一番だけれど、まだまだそれは遠いのかな、なんて思ってしまう。

 

「そういえば、まだ山吹さんから味噌汁の感想を貰ってないなー」

 

 はぐらかすような、伸びきった声。

 考えてることがバレなければいい。彼女が笑えるなら、それはまだ、余裕がある証拠だ。

 

「ふふ、母さんには及ばないけど、美味しかったよー」

「千紘さんと比べないでくださーい。ベテラン母親に勝てるわけないでしょう」

 

 だから今見たことは心の隅に流して、いつもの如く軽口を叩き合う。

 

「だぁー! わかったわかった! 午後も頑張ったらギター貸してやるから、これまで頑張れ!」

「やったぁ! ありがとう有咲ー!」

「わかったなら強く抱きつくなってー!」

 

 向こうも一段落ついたようで、戸山さんが喜びながらご飯を受け取っている。

 市ヶ谷さんは疲れたように再び箸をもつが、戸山さんの事が心配なのかその場から離れようとはしない。やっぱり友達思いでいい子なんだな。

 

「みんなで食べると余計においしく感じるね~」

「そうだなぁ……たまにはこういう日があってもいいかもね」

「……そうだ。テストとかの度にこうやって有咲の家に集まろうよ。次は文化祭の前とか」

「いいよそれ! みんなで楽しくご飯を食べよう!」

「あら、いいわね。是非いらっしゃい。私も賑やかな方が楽しくていいわ」

「婆ちゃん!」

 

 会話はどんどん弾む。

 

 気がつけば一時間も経過していたようで、そろそろ勉強会を再開しようかという話になった。

 

 いただきますと同じように、市ヶ谷さんのお婆さんから声がかかる。

 

「それじゃあ、ごちそうさまでした」

「「「「「「ごちそうさまでした!」」」」」」

 

 

「よし! それじゃあ片付けてまた頑張ろっか!」

 

 山吹さんが声を上げると、戸山さんが曇った顔をする。

 

「うええー……もうちょっと休もうよー」

「もう十分休んだろ。頑張らないと、さっきの約束無しにするからな」

「わわわっ! 頑張る! 頑張ります!」

 

 ギターを弾くために突然頑張り始める戸山さん。

 それを見て「なるほどな……こういう風にすればいいのか」と呟く市ヶ谷さん。市ヶ谷さんが戸山さんの扱い方を少しだけ掴んだらしい。

 

 そうして皆で片付けを始める。

 市ヶ谷さんのお婆さんに負担はかけられない、という戸山さんの一声で六人で片付けをすることが決まった。

 

「はい鴻くん。これお願いね」

「了解ー。どんどん持ってきて」

 

 僕と山吹さんで食器洗い。

 

「これでいいかな?」

「凄く綺麗になったね~、香澄ちゃん流石だよ~」

 

 戸山さんと牛込さんでテーブルの掃除。

 

「これはここでいいかな?」

「おう、あってるぞー」

 

 市ヶ谷さんと花園さんで食器の片付け。

 

 そうして、それぞれが分担して早くに片付けを終わらせた。

 片付け終わったテーブルに、再び勉強道具を並べる。

 

「よし!それじゃあ午後も頑張ろー!」

「「「「「おー!」」」」」

 

 そして、再び六人で囲んだテーブル。

 皆で意気揚々に声を上げて、午後の勉強会がスタートした。

 



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#6

 

 午後五時。

 

 夕焼けが夜に呑まれていき、空に星が光り始めた黄昏時。

 戸山さんが「キラキラドキドキだー!」と言っているが、これは星の事でいいのだろうか。

 

 昼食から所々に休憩を挟みながら勉強して、暗くなってきたから帰ろうとなったところ。

 皆それぞれ帰る準備をして、市ヶ谷さん宅の玄関の前にいる。

 

「今日は有咲も(おおとり)くんもありがとうね」

「僕もいい勉強になったよ。ありがとう」

 

 助っ人として入るのは中々知識が試されているが気がして緊張感があった。

 しかも、休日は一人で過ごすことの多かった身としては、こうやって大人数で集まるのも新鮮で

 それに。

 

「今日は、皆ともさらに仲良くなれたからね。それが一番、嬉しかったかな」

 

 皆の方を向いて呟く。その言葉に、皆が笑顔を向けてくれた。

 

「私も! ともくんと仲良くなれて嬉しかったよ!」

 

 元気一杯、笑顔が眩しい戸山さん。

 

「久し振りでも、友也は変わってなかったね」

 

 どこかミステリアスな花園さん。

 

「長い間一緒にいたから、私も友也くんともっと仲良くなれた気がするよ~」

 

 優しくて、皆を和ませてくれる牛込さん。

 

「わ、私も……楽しかったから、まぁ…満足だな」

 

 相変わらず素直じゃない市ヶ谷さん。

 

 不器用な言葉遣い。

 それでも思いはちゃんと伝わっているのか、皆微笑んで市ヶ谷さんを見ている。もちろん僕も。

 その視線に晒された市ヶ谷さんは、「な、なんだよ……」と言いながら顔を赤くなっていく。

 

「…………だぁー! やめろー! そんな目で見るなー!」

「あはははっ! やっぱり市ヶ谷さんはかわいいや!」

「かわいい言うな沙綾!」

「かわいいー」

「友也まで! 止めろってー!」

 

 オーバーヒートとした市ヶ谷さんに「帰れー!」と言われながらも、笑顔が絶えない僕ら。

 

「あははっ! 皆仲良しなのは嬉しいね!」

 

 皆を見守って、いつも優しく包み込んでくれる、山吹さん。

 

 三者三様十人十色。一人一人全く違う個性があって。

 それでも元気なことには変わりはなくて、皆で作り出す空気はいつも周りを巻き込んで笑顔にしてくれる。

 

「それじゃあ有咲、また学校でね!」

「有咲ちゃん、またね~」

「またね、有咲」

「今日はありがとう。またね、市ヶ谷さん」

「市ヶ谷さんお疲れ様。また機会があればよろしく」

 

 だからこそ、別れの時までその顔に現れた笑顔は崩れることはない。

 僕は今日が、今までの人生で一番楽しかった日だったと思える。彼女たちと過ごす日常なんて、想像しただけで心が踊ってしまう。

 

 それぞれが別れの挨拶、そして「またね」とまた会う約束をして市ヶ谷さん宅を後にする。

 離れるとき、市ヶ谷さんが小さく「……またな」と言っていたのを、僕は聞き逃さなかった。

 

 

 

 

 

 

 ──────

 

 

 

 

 

 

 

 日の入り直後、既に空は暗くなり、夕焼けも地平線へと沈み始めたこの時間。

 少々心配事があった僕は、道路に出た直後に皆へと話しかけた。

 

「もうそろそろ暗くなるけど……皆で近い人の家から送りながら行こっか?」

 

 女子高生が暗闇を歩いていては危険だろう、という心配。

 男子が一人居て、人通りの多い道を通るようにするだけでも、襲われる心配は減るはずだ。

 山吹さんが、納得したように頷いてくれる。

 

「あー……そうしよっか。ごめん、お願いしていい?」

「了解。じゃあ一番近い人が先頭でお願いするよ。僕は後ろにつくから」

 

 皆も頷く。

 この時間でも人通りの多く、道幅の広い道路を選択して、皆で歩き始めた。

 そこからは皆、有咲がかわいいだの、テストバッチリだの、雑談をしながら過ごす。

 

「ともくんのおかげで数学のテストはバッチリだね!」

「友也くんは疑問を的確に答えてくれるからわかりやすいんだよね~」

「それは良かった。二週間後、楽しみにしてるよ」

「頑張るのはキミもだからね?」

 

 皆で笑い合いながら暗くなる道を歩く。

 突然、戸山さんが「あ!」と声をあげる。

 そのまま僕らの前に躍り出て、いつもの笑顔で話し始めた。

 

「そうそう! テストが終わったら文化祭だよ!」

「………あ、そっか。香澄は編入生だから花女の文化祭は初めてだっけ?」

「うん! ……楽しみだなぁ~!」

 

 文化祭に期待を膨らませる戸山さんに、山吹さんが微笑みながら話す。

 そうか、もうそんな時期なのか。

 

「花女の文化祭は中学高校合同だったっけ?」

「うん、そうそう。中学の頃は、高校生の発表に驚いてばっかりだったねー」

 

 高校生も合同で文化祭を行うのは、中高一貫でもない限り珍しいんじゃないだろうか。少なくとも、僕は花咲川以外でそういった話は聞いたことがない。

 

「そうだ! 私、文化祭の実行委員やろうかな!」

 

 夕焼けの残光が、戸山さんを照らす。

 

「か、香澄ちゃんがやるの……?」

「えー!? なにその反応!?」

「香澄が企画立てたら、天体観測になりそうだね」

「あー、それは言えてるかも……」

「さーやまでー!」

 

 中々に酷い言われようである。

 

「……むー。じゃあ、沙綾も一緒にやろうよー」

「えー、私?」

「うん。沙綾ならしっかりしてるから」

 

 なるほど。

 

「いいんじゃないかな? 山吹さんなら上手く意見とか纏められそう」

「皆のお姉さんって感じで、柔らかさがあるもんね」

「沙綾ちゃんがやってくれるなら安心できるかな」

「私の時と反応が随分違うね!?」

 

 戸山さんの猫耳……っぽいものが項垂れる。どうなってるんですかそれ。

 

「あはは………うーん、そうだね……そんなに言うなら、立候補はしてみようかな?」

「ホント!? ありがとうさーや!」

「わわっ、香澄!」

 

 嬉しそうに飛び跳ねた戸山さんが、山吹さんに抱きつく。抱きつかれ慣れているのか、山吹さんの身体はしっかりと戸山さんを受け止めた。

 

「さーやがいるなら百人力だよ!」

「それほどではないよ……」

「今年のA組の催し、楽しみにしてるね」

「僕も行こうかな。花女の文化祭は大きいから、どこかのタイミングで行ってみたかったんだ」

「キミまでそう言うのー? まったくもうー」

 

 すっかり上機嫌になった戸山さんと、それに微笑む山吹さん。そんな二人を眺めながら、あるいは楽しく話しながら、帰り道を進んでいく。

 

 暫くしないうちに人数は減っていき、話し声は少なくなる。それでも、皆の中から笑い声が途絶えることはない。

 

 気がつかないうちに、僕は山吹さんと二人になっていた。夕日はもう沈み、空には沢山の星たちが瞬き始めている。

 

「山吹さん家、一番遠いんだね」

「逆。皆が近すぎるだけだよ」

 

 市ヶ谷さんの家から離れて、皆を送っているうちに、月が昇り、地上を明るく照らしていた。

 向こうに見える街の灯りが眩しいが、それでもこちらでは星が見えている。

 スマホのロック画面に表示された時計は18時を指していた。

 皆といるときはとても楽しかったから、時間が経つのも早かったようだ。

 

「静かだね」

「皆がいるときは騒がしかったからねー」

 

 町はまだ活気がある。

 両端の民間から聞こえてくる笑い声に、時々通る自動車のエンジン音、遠くから聞こえてくる商店街の喧騒。

 

 ただ、今、この二人の空間だけは静寂に包まれていた。

 

「今日はホントにありがとうね」

「何を今更。僕も楽しかったから感謝するべきは僕の方さ」

「またまた謙遜しちゃって」

「お礼なら、テストの結果で見せてくれれば十分だよ」

 

 僕が今日教えたことが少しでも実になっていれば、嬉しいことはない。

 

「そう言われちゃ頑張るしかないね。(おおとり)くんも私に負けないように頑張るんだよー」

「そもそも問題が違うでしょ……」

 

 雑談をしながらも、商店街はどんどん近づいてくる。

 そろそろお別れだろうかと思った矢先、隣を歩く山吹さんが「あ! 思い出した!」と声を上げる。

 

「どうかしたの?」

 

 突然の大声に驚きながらも聞き返す。

 

「いやあ、どっかのタイミングで言おうとは思ってたんだけど、ついつい忘れちゃっててねー」

「はぁ……」

 

 山吹さんは続けて、ニヤリとしながら言う。

 

「私さ、キミのこといつも「(おおとり)くん」って呼んでるでしょ?」

「うん」

「で、キミはいつも私のことを「山吹さん」って呼んでるよね?」

「……ああ、そうだね」

 

 ああ、そういうことか。

 

「私達、知り合って半年経つんだしそろそろ名前で呼び合わない?」

「……皆に感化されたな……?」

「ふふ、そういうこと」

 

 名前呼び。

 別に抵抗があるとか、恥ずかしいとかはない。

 

「まあ、構わないけど…」

 

 しかし、しかしだな。

 

「……僕的には、「沙綾さん」って呼ぶと逆によそよそしい気がしてくるんだけど」

「……あっ……」

 

 わかる、というような顔をする山吹さん。理解してくれたかい?

 

 僕は基本的に同世代の人には名前にさん付けはしない人物なのだ。

 友人は呼び捨てだし、クラスメイトは「山吹さん」のように名字にさん付け。

 つまり名前にさん付けがかなり慣れないのだ。

 

「だから僕はいつもみたいに「山吹さん」の方が落ち着くんだけど」

「た、確かに……私も「沙綾さん」は落ち着かないかも……」

 

 心底納得してくれたようでなにより。

 

「それじゃあ仕方ないね。キミはいつも通りでいいや。私はこれから「友也くん」って呼ぶね」

「それはもうご自由に。なんとなくそっちの方がしっくり来るよ」

「ふふ、やったー。友也くん、友也くんねー」

 

 名前呼びが新鮮なのか、なんども僕の名前を呼ぶ山吹さん。

 はしゃいでいるのはかわいいが、なんかこう、背中辺りがくすぐったい。

 

 山吹さんが僕の名前で遊んでいると、やがて商店街に入った。

 商店街に入っても山吹さんの上機嫌は収まらず、そのまま道を歩いていく。

 

「あらあら沙綾ちゃん、随分とご機嫌ね。何かいいことあったのかしら?」

「あ、八百屋の奥さん! ご無沙汰してます。ええ、ありましたよー、いいこと」

 

 僕の方を見ながら言う必要性はなんですか。

 

「あら、うふふ。友也くんも隅に置けないわねぇ」

「いや多分奥さんが想像してることとは違うと思うので、その生暖かい目線を止めてくださいっ」

 

 逃げるように少しだけ早足で去る。

 山吹さんを甘やかすと危険だな。将来お酒とかで酔ったら上機嫌で止められなくなりそう。

 

 その後も商店街中でからかわれて、やまぶきベーカリーに着く頃には僕は疲れているのに、山吹さんは上機嫌でステップを踏んでいるという図になっていた。いくらなんでもはしゃぎすぎではありませんか。

 

「あ、着いちゃった。ふふ。キミと……いや、友也くんと過ごしてると時間が経つのが早いねー」

「そんな名前呼び気に入ったんですか。まあ、山吹さんが楽しそうでなによりですよ」

 

 そのうち慣れていつものように戻るだろうと、諦めたように呟く。

 随分と長かった今日も、もうお別れの時間。

 山吹さんが玄関に向かっていく。

 僕らも、またねと約束を交わして別れる時間だ。

 

「あ、でも」

 

 山吹さんが振り向く。

 

「いつかは、私の名前も呼んでもらうからね!」

 

 ちょっとだけ膨れっ面になってそう言う彼女。

 気分が高揚した彼女はとても表情豊かで、見ているだけでこっちも笑ってしまう。

 

「……ふふ、わかったわかった。そのうちね」

「ふふっ、言質、取ったからねー。……それじゃ、またよろしくね、友也くん♪」

「ああ、また明日」

 

 最後に今日一番の楽しそうな声で僕の名前を呼んだ山吹さんは「ただいまー!」と元気よく家に入っていった。

 彼女に向かって振った手を下ろして、僕も帰路を歩き出す。

 

 今日はまた一段と濃い一日だったな。

 市ヶ谷さんと戸山さんに出会って、花園さんと牛込さんとも久し振りに会って。

 

 ……ああ、それと山吹さんの私服も見られたね。

 

 勉強会をして、皆でお昼を食べて。…あ、味噌汁美味しかったかな。

 

 帰り道で沢山、たくさん話して。

 

 ……山吹さんに、名前で呼ばれるようになって。

 

 最後に上機嫌な彼女が見られたのは貴重だったかも。

 休日に会うことが、こんなにも楽しいことだったなんて。

 高校生になってから変化の連続だ。こんなにも世界が彩られて見えたことなんて、今まで無かった。

 

「いつかは名前で……ねぇ……」

 

 そんな風に、今より親密になれる日が来るのだろうか。少なくともやまぶきベーカリーに通い始めたときよりは、仲良くなっているけれど。

 商店街の通りに、僕以外の姿は見えない。

 今なら誰にも聞かれないかな、と、小さく小さく口を開く。

 

「山吹さん……沙綾さん……沙綾……っ…」

 

 試しに読んでみた名前は、何故だか思った以上に言葉にするのが恥ずかしくて、顔に熱が溜まってしまう。

 

「……あんなにあっさり呼ばれるのは、ちょっと悔しいかもしれないな」

 

「その時」が来たら堂々と言ってやろうと決意して、コンクリートを踏みつける足取りに力を込めるのだった。

 



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#7

 

 勉強会から数日。

 

「いらっしゃいませ」

 

 今日もパンの売り上げは上々。

 いつもより食パンが売れていて、この分だと彼の買うものがないなぁと思いつつ、一つだけストックする。

 この前の勉強会のお礼とでも言って渡してしまおう。いやでも、お礼なら私が焼いたパンを渡した方がいいかな。

 父さんほどじゃないけど、私だってパンは焼けるし。

 

 今日の接客は私一人。

 彼はテストに向けて友達に勉強を教えるんだって。

 早めに終わらせて来るって言ってたけど、どうせ彼のことだから、お店に来たとたん「大変そうだし、手伝うよ」とでも言うのだろう。

 彼は私のことを優しいっていうけど、私は「キミだって十分お人好しですー」って言ってやりたい。

 

 お店の扉につけた鈴がチリリン、と音を立てる。お客さんが来た証だ。

 

「いらっしゃいませー……ってモカか」

「モカか、とはなんだモカか、とはー」

 

 相変わらず元気のいいこと。

 羽丘もテストが近いだろうに、パンを優先する辺り実にモカらしい。

 というか、そもそもモカって頭良かったんだっけ。案外、テストは問題じゃないのかも。

 

「パン、まだまだあるから買っていってね」

「おおー。今日は早めに来て良かったよー」

 

 大食いのモカは一度に買っていくパンの量が多い。

 常連となった今だからこそ来るタイミングが分かってきたけれど、最初こそ売り切れ多発で驚いたもの。

 一度、モカが来た後に来店した彼が「食パンも塩パンも消滅してる……」と悲壮な顔をしていた事があったっけ。あれももう中学校の頃の話か。懐かしいなぁ。

 

 それにしても「大食いのモカ」ってなにかの称号みたい。

 おたえ、りみりん、友也くんで「やまぶきベーカリー三銃士」なんて言ってたけど、モカも入れていいんじゃないだろうか。

 名付けて「やまぶきベーカリー四天王」なんて。

 

「ふふっ」

 

 自分で言っておいて笑う。今度からそうやって呼ぼうかな。

 彼辺りは察しそうだな。「間違いなく青葉さんが四天王最強じゃないか」って。

 

「なんかさーやご機嫌だねー。何かあったのー?」

「そう? 特になにもないけど……」

 

 彼のことを考えていたから? ……なんて、そんなわけない、ないってば。

 そんなことを考えているうちに、お店の扉がもう一度開く。

 

「おいモカ……今回は随分と走ったじゃないか……」

「ともちんおっそーい」

「あ、巴。いらっしゃい」

 

 扉から現れたのは汗だくで息を切らしている巴。

 常連で、よくモカの付き添いで来てくれるのだが、今回は……。

 

「モカ、やっぱり走ってきたんだね」

「授業が終わるのが遅かったんだよー」

「モカがパンに関わったときは普段の何倍も素早いよな……」

 

 トレーに次々とパンを乗せていくモカを見ながら巴が呟く。

 モカのパンへの執念にはよく驚かされる。売る側としては嬉しいんだけどね。

 この前父さんが新作を出したときにはいち早く来て食べてたなぁ。

 でも父さんは「それを食べるのは二人目になるね」って言ってたっけ。それを聞いたモカの悔しそうな顔は珍しかったな。

 

「今日はやまぶきベーカリーのパンが比較的早くに売り切れる日だからね。逃すわけにはいかないよー」

「……そうなのか?」

「私もわからない……」

「ふっふっふー。やはりモカちゃんの長年の研究には、さーやも敵わないようだねー」

 

 む。それは聞き捨てならないぞ。

 

「ふふ。そのパンの量を毎日調節して並べてるのはだーれだ」

「はっ! まさか、パンの量が調節されて売り切れ時間の誤差が少なくなっているというのか……モカちゃん、参りましたー」

「ふふーん」

 

 毎日お店に並ぶパンの量は私と父さんで調節して、閉店時間と同じくらいに売り切れるようにしているのだ。

 パン屋の娘として、そういうところは譲れない。…りみりんのチョココロネ観察眼には負けるけどね。

 

 モカとふざけ合っていると、はっとしたように巴が聞いてきた。

 

「あ、そういえば沙綾。今日はあいつ居ないのか?」

「あー。そういえばともくん居ないねー」

「彼は同級生と勉強だって。もともと今日はシフト入れてなかったみたいだし」

 

 初バイト前にシフトを決めたらしいのだが、当初の予定ではほぼ毎日手伝いが入っていたんだとか。母さんと父さんが止めたらしいけど。

 

「……で? 最近何か進展はあったのか?」

「皆そういうこと言うよね……」

 

 別に気にならない訳じゃないし、最近は何かと一緒だなー、とは思うけど、皆はそんなに気になるのかな。

 

「モカちゃんもさーやの恋路は気になりますねー」

「恋路って……私と彼は皆が言うような()()()()()()は無いよ」

「そうは言うけどなぁ……」

 

 納得がいかない、というように私の顔を見つめる巴。

 

 そのとき、私の背後から声がした。

 

「巴ちゃん、その見立て間違ってないわよー」

「あ、千紘さん。ご無沙汰してます」

「母さん!?」

「こんにちは、千紘さんー」

 

 まずい。母さんが出てくるのは予想外だった。今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られる。

 

「で、千紘さん。間違ってないっていうのは?」

「たしか、二人は知らないんだっけ?」

「ちょっと母さんそれ以上は」

 

 母さんが言おうとしていることなんて名前呼びのことに決まってる。

 あの後部屋に入って呟いていたのを聞かれていたらしい。

 あの時も恥ずかしかったが、今ここで言われるのはもっと恥ずかしい。

 

「どうせ知られるんだから変わりないじゃない」

「今この場で言うのは違うと思うよ!?」

「いやもうここまで来たら聞くしかない。お願いします千紘さん」

「巴!」

「私もそれ聞きたいです千紘さんー」

「モカまでー!」

 

 私の抵抗も虚しく、母さんが話し始める。

 

「沙綾、少し前に友也くんと勉強会をしたの」

「二人で?」

「みんなで!」

「まあ私はその場に居たわけじゃないからよく分からないのだけど、沙綾がその日帰ってきてからやけに上機嫌でね」

 

 この時点で食い入るようにこちらを見つめてくる二人。思わず目をそらす。

 

「何かあったのか、って聞いても答えてくれないから夕食の後で私が部屋に行ったのよ」

「ふむふむー」

「そしたら扉の向こうから『友也くん、友也くんかぁー』って嬉しそうに呟く沙綾の声が」

「も、もうやめてーっ!」

 

 もう耐えきれなくなって母さんの話を中断させる。

 しかし事の全容は二人に伝わってしまった。ニヤニヤと見てくる二人の視線が痛い。

 

「ほおほおー……さーやも立派に青春してますなぁ……」

「ここまで慌てる沙綾も珍しいよな……」

「違う、違うの……! あれは決してそういう意味じゃないの……!」

 

 あの夜の青春らしいやりとりに少し心が踊っていただけ。きっと。

 

「逆に今まで「(おおとり)くん」って読んでる方が珍しいんだよ」

「それそれー。ともくんと知り合いの人で、ともくんの事名字呼びしてたのさーやだけじゃない?」

「初めて名前聞いたときに難しい名字してるなーって思って、覚えようとしたら…」

「変えるタイミングを見失ったと」

「その通りです……」

 

 ここぞとばかりに私を弄ってくる二人。

 まさか、母さん以外にこの話題で弄られるとは思ってなかった。

 

「……全く、立派に進展あるじゃないか」

「ホントだよー。嘘はよくないよさーや」

「もぉー、二人とも……あと母さんは休んでて!」

「はいはーい。うふふ」

 

 母さんが店の奥に去っていく。

 

「さーや、遅れたけど会計よろしくー」

「はいはい……ってこれまた随分と買うね」

「いつもより多いんじゃないか?」

「久しぶりだから、この後時間をかけて堪能しようと思ってねー」

 

 雑談をしている間に会計を終えた。相変わらずモカのポイントカードの量は凄かった。

 

「はい、これ。落とさないように気を付けてね」

「ありがとうね、さーや」

「それじゃ、あたしらもそろそろ行こうかな。また今度たっぷり話を聞かせて……」

 

 巴がサラッと恐ろしいことを言おうとしたところで、突然言葉を切る。目線はドアの向こう。

 

「? どうしたの?」

「……予定変更だ沙綾。今からたっぷり聞かせてもらうぞ」

「え」

 

 こちらに向き直り、悪い笑いを浮かべた巴が言う。

 どういうことかと思案していると、お店の扉が開き、今一番来てはいけない人物が来店した。

 

「こんにちはー……って宇田川さんに青葉さん。いらっしゃい」

「友也くん!?」

「ホントに名前呼びになってるな。よお友也」

「おー、ともくんだー」

 

 母さんが来たときより悪い予感が頭をよぎる。

 今このタイミングで来るのはマズイ。母さんがいなかったのが不幸中の幸いだった。それでも差し引き不幸だけど。

 

「亘史さんが話があるってライン来たから早めに切り上げて来たんだけど……」

「友也、ちょっとこっち」

「なんだい宇田川さん。なんか悪い顔してるけど」

「気にすんな気にすんなー」

 

 彼が不思議そうにこっちを見る。「これは一体なんだ」って言いそうな顔。

 

「さあさあ、沢山お話ししましょー」

 

 ああ、彼も巻き込まれるんだなぁ……。

 もう逃げられないなと諦めて、彼に苦笑いを返す。

 

「いらっしゃい、友也くん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「酷い目に遭った」

「止められなくてごめんね……」

 

 亘史さんから「話がある」とラインが来たから、やまぶきベーカリーに来たわけだが。

 正直、嵌められたのかと思うほどタイミングが悪かった。

 

 着いた途端にたまたま来店していた青葉さんと宇田川さんにレジ前まで誘われ、訳のわからぬまま捕まり。

 山吹さんの苦笑いから「これはヤバイ」と思ったけど時既に遅しで、勉強会の事、特に帰り道での事について根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。

 千紘さんが居なかったのが不幸中の幸いだったのだが、それでも僕と山吹さんは二人まとめて弄られまくった。

 

 ちなみに、話している中で意外だったのが()()()()()()に疎いはずの青葉さんがぐいぐい来たこと。やっぱりあの人も青春に興味を持つ女子高生だった、ということだろうか。

 ってか、そういえば青葉さんにも「ともくん」って呼ばれてたな…。初対面からそうやって呼ばれてた気がする。

 

「どこからあの話漏れたのさ……」

「母さんに……」

「ごめん、もうわかった」

 

 その言葉が出た時点で、どういう経緯でどのように伝わったのか理解した。

 うーん千紘さん、若々しい。

 

「まあ、知られたものは仕方ないよね。どうせは知られてたと思うし」

「……そういうことにしておこうかな。うん」

 

 あ、宇田川さんと青葉さんは帰りました。

 青葉さん、相変わらず凄い量のパンを買っていったよ。食べきれるのかな。食べきれるんだろうな。

 

「じゃあ、僕は亘史さんに呼ばれるまでお手伝いするとしますかね」

「あ、それはダメ」

「なんでさ」

「キミは少し働きすぎ。いくら仲がいいって言っても、バイトにそこまでさせられないよ。少しは休みなさいっ」

 

 こちらにずいっと顔を近づけて忠告する山吹さん。近い、近い。

 謎の圧に気圧された僕は、素直に「了解しました」と応答した。

 

「よろしい。店の奥には入ってていいから、早く話聞きに行ったらどう?」

「んー……仕方ない、そうするよ」

「うむ。いってらっしゃい」

 

 山吹さんに手を振ってから厨房の方へ。

 店の奥を厨房の方へと進んで行くが、いざ着いてみると厨房の電気がついていない。

 僕がこっちまで来たときはいつも亘史さんは厨房にいたから、厨房にいないとなるとどこにいるのか分からない。

 どうしたものかと思案していると、後ろから山吹さんがすっと現れた。ビックリした。心臓に悪い。

 

「あー、父さん厨房に居ない? じゃあ家の方だね」

「……なるほど。ありがとう。それじゃ、ついでに紗南ちゃん達の相手もするかな」

「すっかり二人のお兄さんだねー……。お願いしようかな」

「ん、任せて」

 

 厨房から少し戻って、山吹さん宅へ。

 山吹さんの言った通り、亘史さんがリビングで紗南ちゃん達と遊んでいた。家族の暖かみを感じる。

 

「こんにちは、亘史さん」

「お、友也くん。急に呼び出して悪かったね」

「いえいえ、特に忙しくもなかったので大丈夫ですよ」

 

 友人との勉強会は別に大事な用事ではない。すまない。

 

「お兄ちゃん、こんにちは!」

「こんにちはー!」

「うん。紗南ちゃんも純くんもこんにちは」

 

 今日も今日とて慕ってくれる二人。

 ホントに妹と弟に欲しいくらい僕のことを慕ってくれているのだが、もし反抗期が来たらと思うとなかなか怖いものがある。

 

「いつも娘達の面倒を見てくれてありがとうね」

「いえいえ、むしろこっちが楽しませてもらってるのでお礼を言いたいくらいですよ」

 

 ひとしきり紗南ちゃん達をかわいがった後、亘史さんと向き直る。

 

「それで……今日呼び出したのは一体どういう……?」

「ああ、それはね……」

 

 随分と溜める亘史さん。

 クビとかだったら怖いなと身をすくめる。

 

「友也くん、テストはいつだったかな?」

「えっ……と、今日から数えて十日ですね。再来週の水曜から三日間です」

「なるほど……じゃあ、その週の日曜日空いているかい?」

「……そうですね、今のところなにも予定はありません」

 

「よし、それなら……」と何かを思案する亘史さん。週末にパンパーティーでもやるのだろうか。それはそれで楽しそうだが。

 変に考えを巡らせる僕に、亘史さんが話し始める。

 

「友也くん。その週末、朝早くから家にこれるかい?」

「ええ、早起きは得意ですけど……何をするんですか?」

 

 僕の問いに、亘史さんはニヤリとしながら答えた。

 

「そろそろ、友也くんにパン作りを覚えてもらおうかと思ってね」

 



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#8

 

「おはようございまーす……」

 

 静まり返った商店街に、こんな時間ならば響かないはずの小さな鈴の音が響く。

 

 今日は約束の日。亘史さんにパン作りを教えてもらう日。

 亘史さんには「六時に来てくれる?」と言われていたので、張り切って五時起きした。別に早起きは苦手ではなかったから起きられたのだが、慣れないことをしたせいで凄く眠かったりする。

 あ、ちなみに先日のテストはよくできた。山吹さんに自慢したら悔しそうな顔を見せてくれると思う。

 

 店内はまだまだ暗い。

 日の出直後の日はまだまだ東の空を上りだしたばかりで、やまぶきベーカリーには届いていない。この店も、商店街も店の明かりが点いているところはないようだ。

 ただし、それも表の話。裏方では今も開店の準備をしているところがあるだろう。もちろんここも、厨房の方から光が漏れ出てこちらに届いている。

 だんだん自分の更衣室と化してきた店の奥の空き部屋で身支度を整える。

 パンを実際に扱うなど初めてだ。高校に上がる前は見学させてもらったり、知識的なことを教えてもらってばかりだったから。

 上手くできると……というか、初めてで上手くできたらそれはそれで驚く。

 いつもより腕捲りをきつく、手洗いもきちんとして厨房へと向かった。

 

「亘史さん、おはようございます」

「お、友也くん。おはよう。よく起きてきたじゃないか」

「まだちょっと眠いですけどね……。亘史さんこそ、毎日こんな時間から準備してるんですか?」

「まあね。でももう慣れてしまったよ」

 

 亘史さんの顔にはもう汗が滲んでいるし、厨房全体の温度も高い。僕が来る数十分前にはもう準備を始めていたのだろう。

 

「しかし、キミがパン作りを覚えてしまっては私の立つ瀬がないよ」

「その覚えるまでが大変なんでしょう?」

「ははは。キミならすぐに人にあげられるものが出来てしまうさ」

 

 だといいんだけどね。料理はセンスが問われるからなぁ……。時間とか舌とか、一流の料理人とかってコンマ一秒まで気にしてるんだとか。凄過ぎる。僕は家庭料理が美味しく作れれば十分ですよ。

 

「よし、準備もできているようだし、始めようか」

「わかりました……お手柔らかに」

「ふふ。やまぶきベーカリーの未来を担うかもしれないからね。厳しく行こうかな」

「未来って………まぁ、がんばります」

 

 それからは時間を忘れてパン作りを教わった。

 基本的な生地の練り方から、形の作り方、窯に入れるタイミングまで。事細かに教えてもらう。

 

「あ、それ力入れすぎかも。あまり力入れちゃっても膨らまなくなるからね」

「わ、わかりました」

 

「他人に教えたことなんてない」なんて亘史さんは言っていたけれど、流石に店を構えているだけある。自分のやり方をきちんと理解しているのか言葉にするのがとても上手かった。

 おかげでなんとか窯に入れるまでやりきり、あとは焼き上がりを待つだけになった。

 

「……これで、よし……と。友也くん、お疲れ様。結構手際良かったんじゃない?」

「いやいや、何もかも亘史さんのおかけですよ。ホントに手取り足取りありがとうございました…」

 

 時計の針は七時二十分を指している。お店の外で雀が鳴く声が聞こえた。

 赤く燃える釜の窓を前に亘史さんと話す。漂ってくるいい匂いをかいでいるうちに、自分がまだ朝御飯を取っていないことに気がついた。

 

「すいません、まだ朝御飯食べてなかったんで一旦家に……」

「あ、そうなのかい? じゃあ家で食べていくといい」

「いやそんな、そこまでお世話になるわけには」

「いいからいいから。嫁自慢さ。妻の美味しいご飯を是非食べてくれ」

 

 む……そこまで言われては断れない……というかこの人、僕が押しに弱いのわかっててやってるよね。

 そんな僕の困った表情を肯定と見なしたのか、亘史さんが自慢気に頷く。

 

「……もしかして千紘さんから押し方聞きました…?」

「お、よくわかったね。その通りさ」

「千紘さん………」

 

 だめだ、どんどん僕が弱くなるのを感じる。もう既に亘史さんと千紘さんには勝てなくなってしまった。

 諦めて、山吹さんの家でご飯をもらうことにした。

 家の台所ではいつの間に起きたのやら千紘さんが、せっせと朝御飯の準備をしている。

 

「おはようございます、千紘さん」

「あら、おはよう友也くん。朝御飯、ちゃんと準備してるわよ」

 

 あっ、これもともと帰す気無かったやつだ。

 

 あと朝食に招待されたはいいが、このままだと僕は手持ち無沙汰である。実に落ち着かない。

 千紘さんに全部やらせるのも申し訳ない気がしたし、せめて手伝いはさせてくれ、と訴えて皿並べなど簡単な手伝いをすることに。

 最初は渋られたが、逆に「何かやらせてください!」と頼み込んだらサラッと了承した。なんかニヤリとしてたのは気のせいだ。たぶん。

 というかそもそも千紘さんは頑張りすぎである。体が弱いのだから、僕が手伝えるときは手伝わせて欲しいものだ。

 

「まるで友也くんが家族になったみたいね。頼りになるわ」

「こんな朝から入り浸ってれば流石に……というかホントにもらって大丈夫ですか?」

 

 そう言うと千紘さんがムッって唸った。こういうところ、山吹さん受け継いでるんだなあ…。

 

「もう、人の厚意は素直に受けとるものよ」

「……それなら、昼御飯は僕に作らせてくださいよ? 朝御飯のお礼として作ります」

「あら、午前中も居てくれるの?」

「どうせ純くんと紗南ちゃんに捕まりますって」

 

 最近はテストもあって遊んであげられていない。僕がうちに居るとわかれば絶対に捕まえてくるはずだ。

 朝日が射し込んで、部屋を明るく照らす。普段はもう少し朝御飯は早いらしいのだが、日曜日は少しばかり遅く店を開けるらしい。

 そのせいなのか、未だに山吹さんの姿を見かけない。

 

「千紘さん。山吹さんまだ起きてきてないんですか?」

「あ、それよ」

 

 僕の言葉に、千紘さんが突然思い付いたように言う。なんか悪い顔してるよ……。

 

「友也くん、沙綾達起こしてきてくれる? あの子、昨日頑張ってたからぐっすり寝てるのよ」

「なんで僕に頼むのか分からないです」

 

 僕に女子の部屋に向かえと申しますか千紘さん。いくら仲が良いとはいえ、山吹さんにだって入られたくない場所ってものがあるでしょうに。

 

「今私も夫も手が離せないのよー。さっき「何かやらせてほしい」って言ってたから♪」

「……言質取られていたのか………っ」

 

 確かに言った。「手伝いをしたいから何かやらせてください」と。なんという不覚。さっきの笑顔はそういうことだったのか。

 

「お願い、できるかしら?」

「…………………わかりました………」

「ふふふ。お願いね?」

 

 上機嫌になる千紘さん。娘のプライバシーをもっと大切にしてください。

 そういうわけで見事にやらかして断れなくなったので、素直に呼びに行くことにした。

 

「あの人の事だし、起きてるとは思うけど…」

 

 よく掃除された綺麗な階段を登っていく。二階には3つほど扉があり、そのうち2つにかわいくデコレーションされたネームプレートが下げられていた。

 足音を立てないように歩いて、平仮名で「さあや」と書かれたプレートの前に立つ。

 一度、深く、深く深呼吸をして─────

 

「………紗南ちゃん達から呼ぼうかな」

 

 もうひとつのネームプレートの方へ向かった。つまり逃げました。無理。

 数十分前の自分を殴りたい。なんで「何かやらせてください」なんて言っちゃったんだろう。

 

 自分の選択に後悔しながら、山吹さんの部屋より手前側にあった紗南ちゃん達の部屋の扉を3回ノックする。

 

「二人とも。起きてたら返事が欲しいな」

 

 そういえばノックの国際標準って4回らしいね。この前友人が「ノック2回はトイレ用」って言ってたから調べてみたことがあったけど。かじりっぱなしだし、もう一回きちんと調べてみようかな。

 

「……お兄ちゃん?」

 

 声を掛けてから数秒後、疑うような声が聞こえてきた。紗南ちゃんか。

 

「ああ、お父さんとかから聞いてなかったかな?」

「……あ! そうだ! 今日は兄ちゃん一緒に朝御飯食べるってお母さん言ってた!」

 

 ……千紘さん。僕に選択権は無かったんですね。悲しい。

 

「…うん、それでそろそろ朝御飯だから、二人を呼んできて欲しいって言われたのさ」

 

 そう言うと、直ぐに扉が開かれて中から二人が飛び出して来た。きちんと服も着替えている。

 飛び出して来た二人を受け止めて、優しく撫でる。二人とも笑顔で接してくれて、朝からいい癒しだ。

 

「お兄ちゃん! 今日は一緒に遊んでくれる?」

「ああ、いいとも。沢山遊んであげよう」

「やったあ!」

 

 やっぱり捕まってしまった。最近は二人と遊んであげられてなかったから、千紘さんに「兄ちゃんと遊びたい」とでも言ったのだろう。

 かわいい二人の願いを快く了承して笑顔を向ける。

 

「さ、早く遊びたかったら早くご飯を食べよう。先に下に行っておいで」

「「うん!」」

 

 元気よく返事をして階段を駆け降りていく二人。朝からとても元気だ。小学生の体力は恐ろしいものである。

 そんな二人を見送ってから、再び立ち上がる。

 

「さて……と」

 

 ちびっ子たちはまだいい。正直我が子を起こすような気持ちだった。

 が、相手が山吹さんとなれば話は別。変な気を起こせば即刻社会的に抹殺される。今の世の中、男は常につり革に両手で掴まっていなければ死んでしまうか弱い生き物なのだ。

 

「……大丈夫……大丈夫……きちんとノックして声を掛ければ大丈夫………」

 

 半ば願いの如く呟いて、山吹さんの部屋の扉をノックした。

 コンコンコンと、暖かみのある硬質な音が廊下に響く。続けて、扉の向こう側の住人に向かって声をかけた。

 

「山吹さん、起きてる? 千紘さんが朝御飯食べるから降りてきてくれって……」

 

 声を掛けている途中から、なかからごそごそと物音が聞こえてきた。どうやら起きてはいるようだ。

 

「んー、わかったー」

 

 山吹さんの生返事が聞こえる。随分とリラックスした声だな。

 少しだけ待ったあと、こちらに近づいて来る足音と共にドアノブが下方向に回転した。

 どうやら準備は出来ているらしい。特に変なこともなく終わりそうで良かっ──

 

「……んー、おはよー……なんか父さんが呼びに来るのって珍しい……」

「え」

 

 確かこういうのをフラグ回収と言うんだっけ。

 僕は、きちんとノックをして声を掛ければ酷いハプニングは起きないと確信していた。だからこそ油断していた。

 なんで僕のことを父さんと呼んでるの等、色々とツッコミどころはあったのだが、そんな僕の考えは山吹さんを見て吹き飛んだ。

 

 部屋から出てきた山吹さんの格好は、パジャマ。上のボタンがひとつ外れていて、その隙間から鎖骨と下着が見え隠れしている。下着の色が白だと瞬間的に理解した僕を殴りたい。ていうか変な声出た。

 山吹さんが寝るときにパジャマを着る派だったとかそういうことは今は気にしてられない。

 髪の毛がボサボサなのも含めて、今の山吹さんの姿はあまりに扇情的だった。もともと素材がいいのだから、過剰に効果が現れている。

 ヤバい。とにかくヤバい。見ていちゃいけないはずなのに、本能がそれを拒否している。目線が外せない。

 

「………………」

「………………」

 

 二人して石化。不動。山吹さんは僕の顔を見たまま固まっているし、僕は山吹さんの首もとから目が離せていない。完全に僕が変態じゃないか。だめだこれ。

 

「………な………な……」

 

 やがて山吹さんが動きだし、こちらを指差してわなわなと口を開く。

 それに反応して、僕の体もやっと言うことを聞き始めた。

 

「……あ、あのさ!」

「はい!」

 

 山吹さんの言葉を遮るように声をあげる。それに驚いたのか、山吹さんも声をあげた。

 僕はそこから少しだけ躊躇して、その後に「よし」と覚悟を決めて一言、言い放った。

 

「と、とりあえず前を閉めませんか?」

「…………………?」

 

 なぜか敬語が出た。僕も相当混乱している模様。山吹さんが扇情的な格好をしているのが悪い。

 

 僕の言葉を咀嚼するように、ゆっくりと首元に目を向ける山吹さん。

 その顔が首元のボタンに向けられたとき、山吹さんの顔が真っ赤に染まった。

 

「~~~~~~~~っ!」

 

 素早い手つきで首元のボタンを閉めた山吹さん。胸の前で腕を抱えて、真っ赤になったままこちらを見ている。

 

「……み、み……み……」

「……あ、あの、えーっと……」

 

 二人とも再びどもってしまう。

 もはやどうすればいいのかわからなくなってしまった僕は、何もかもを忘れて本来の任務を遂行することにした。

 

「……え、えーとね山吹さん。朝御飯出来そうだから下に降りてきてくれって千紘さんが」

「ごっ、ごめんね友也くんっ!」

 

 僕が言うべきことを言い終わる前に、謎の謝罪と共に山吹さんが階段を駆け降りていく。途中、「見られた……見られた……見られた……」と呟きまくっていたのを聞いた。ホントにごめんなさい。

 

「…………僕も降りるか……」

 

 なんだかコマ送りのアニメを見ているかのように時間がゆっくりと過ぎていた。

 思考と気力を完全に削ぎ落とされてしまった僕は、階段をだらしなく下りながら、ただたださっきの光景を思い返すことしか出来なかった。

 

「……あー……山吹さん、色っぽかったな……」

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

 

 なんてことだ。

 

 友也くんが来るのを知らなかった訳じゃない。昨日母さんから「明日は友也くん朝御飯食べにくるから」と言われていたのに、お店を回して疲れきっていた私はそれを話し半分で済ませて早々に寝てしまっていた。

 

「ああああーっ……もうーっ」

 

 で、朝から寝ぼけて彼の前でやらかしてしまった。

 彼の前にパジャマで出てきたことにやらかしたと思ったら、前のボタンほどけてたなんて……。

 しかも彼の事父さんと間違えるし、気の抜けた返事返しちゃうし……。

 

「……恥ずかしい」

 

 洗面所で顔を真っ赤にして悶えているなんて我ながらどうかしてると思うけど、今だけはそんな事気にできないくらい恥ずかしかった。

 

「やだなぁ……だらしない人って思われたかな……」

 

 こういう時なんて言うんだっけ。お嫁に行けない?違う違う………なんだっけ?

 

「ああもう、絶対彼と目合わせられないよ……」

 

 洗面所に逃げ込むときに聞いた母さんの「友也くん、今日一日家にいるからー」という声が忘れられない。

 これから迫る朝御飯の時間。午前中はいいにしても昼御飯からはバイトも一緒。もしかしたら夕御飯も。まずいなぁ。大丈夫かな。

 

「さーやー! そろそろ朝御飯食べるわよー!」

 

 扉の向こうから私を呼ぶ声が聞こえる。母さんだ。声の感じからしてニヤニヤしてるに違いない。全くもう。

 というか、彼が私を起こしに来たのはもしかしたら母さんの差し金じゃないだろうか。これはあとで問い詰めるしかない。

 

「はーい!」

 

 少し、あと少ししたら顔を出そう。

 あと少しだけ、顔の熱が引いてくれたらね。

 



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#9

 

 温水が出るようにノズルを傾けた蛇口から、水が勢いよく流れ出る。

 右側に積み上げられた皿から一枚取って、泡立てたスポンジで汚れを拭き取り始めた。

 

「ホントにおいしかったですよ。ごちそうさまでした」

「そう言ってくれると嬉しいわ。お粗末様です」

 

 泡で浮かせた汚れを千紘さんが洗い流し、水を切る。そしてそのまま乾燥機に食器を入れていく。残った食器の量も少ない。あと少しで片付けは終わりそうだ。

 

「片付けの手伝いもありがとね、友也くん」

「このくらいなんてことないですよ。どうせ暇なんですから」

 

 亘史さんと山吹さんは、既にお店を回し始めている。

 

「午後から…というかお昼頃から動いてくれるんでしょう? 今のうちに休んでおいた方がいいんじゃない?」

「あの二人の相手ですぐに休めなくなりますって。大して苦でもないので大丈夫ですよ」

 

 今はリビングでゆっくりしている純くんと紗南ちゃんのことを考えながら答える。

 あの二人、今日は何をして遊ぼうと言ってくるのだろう。元美術部、現帰宅部の僕が小学生の有り余る体力についていけるわけがないのだから、アクティブな遊びは避けたいところ。

 

「それなら甘えさせてもらおうかな……で友也くん」

「……なんでしょうか」

 

 千紘さんが突然ニヤリとする。

 なんでしょうか、なんて惚けたけれど、何の話かなんてもう分からないわけがない。

 

「今朝、沙綾と何があったのかしら~?」

「………………」

 

 露骨に目を逸らす。絶対わかってるってこの人。わかってからかってるよこの人。

 

「もう、沙綾ったら分かりやす過ぎるわ。我が娘ながらからかい甲斐があるわねー」

「山吹さんがかわいそうですよ……」

 

 朝御飯の場はそれはもう賑やかだった。勉強会の時の昼御飯程ではないけどね。

 純くんと紗南ちゃんが何より元気。「兄ちゃん、あれ取って!」だとか「お兄ちゃん、これ貰っていい?」だとかで、朝御飯から二人の相手をすることになるとは思わなかった。

 

 山吹さんとは………ほとんど目が合わなかった。ていうか合わせられなかった。向こうも合わせようとはしなかったし、僕も山吹さんと目が合ったらさっきの光景を思い出してしまいそうだったから。

 ああでも、純くんためにサラダを取ろうとした時。その一度だけ目が合ったっけ。あの時はお互い顔が赤くなってたと思う。すぐに目を逸らしたから知らないけど。

 そのことで山吹さんと僕は千紘さんに沢山からかわれたな。

 

「でも私が聞きたいのはそこじゃなくてね」

「………はあ」

「君が沙綾の事をどう思っているか聞きたいの」

「どうって……」

 

 さっきあんなことがあったのだ。もちろん気にならないわけがない。

 中学の頃とは違って、僕と山吹さんの距離は明らかに縮まっていた。正直なところ、山吹さんと()()()()()()になることを想像したことがないわけじゃない。

 ただのバイト仲間、店員と常連客、仲良し。どう定めるのであれ、山吹さんがいつも僕の心の何処かにいることを否定は出来なかった。

 

「気にはなります。でもこれが好意かどうかと聞かれると……まだわかりません」

「あら、思った以上に進展してるじゃない。私の知らないうちに沙綾は大人になってるのね……若いわぁ……」

「言い方っ。………からかわないでくださいよ。気になり始めたの、だいたい千紘さんのせいですからね。あと千紘さんもまだ十分若いです」

「あら。嬉しいこと言ってくれるわね」

 

 うふふ、と笑う千紘さん。

 何度も言うようだが、この人は本当に三人の子供の母親なのかと思うほど若く見える。山吹さんの顔があんなに整っているのも、この人を見れば納得できる、というほどに。

 

「ふふ、あとで友也くんに口説かれちゃったって夫に言ってこようかしら」

「勘弁してください」

 

 マジトーンで返答する。恐ろしいことを言わないでください。

 千紘さんのからかいに振り回されながら食器を洗い終えて、自分の手も洗う。家族5人プラス1人。全員が使った食器を洗い終えた。

 

「うん、食器洗いご苦労様。お昼まではゆっくりしてていいけど……」

「まあ、ゆっくり出来ないでしょうね。純くんたち元気ですから」

「ふふ、すっかり家族の一員みたいね。友也くんしっかりしてるから、うちじゃ一番年上かしら」

 

 山吹家の一員ね……。千紘さんにからかわれるとかで日々疲れそう。楽しそうなのも認めるけれど。

 ……あ、そういえば。

 

「…千紘さん、昼御飯の献立どうします? どうせならリクエストがあると作りやすいんですけど……」

「あ、それなら……ペペロンチーノをお願いしようかしら」

 

 意外。麺類だとかご飯ものだとかのリクエストが来ると思っていたが具体的な名前でリクエストするとは。誰かの好物なのだろうか。

 もちろん、拒否するつもりなどないので了承する。

 

「ペペロンチーノですね。わかりました。あとで買い出しに行ってきます」

「あ、お金は……」

「ああ、お金はいいです」

「それは申し訳ないわ。作ってもらうのだから、お金くらいは」

「それでしたら、さっきもらった朝御飯が十分なお代ですよ」

 

 なお「む」、と食い下がらない千紘さん。こういうところも山吹さん受け継いでるよね。

 まだ何か言いたそうな千紘さんに、最後の一押しをする。

 

「それに、人の厚意は素直に受けとるものだって言ったのは千紘さんですよ?」

「……ふふ、それを言われちゃしょうがないわね。…それじゃあ、素直にお願いしようかしら」

「お任せください。……それじゃ、お昼楽しみにしててくださいね」

 

 やっと食い下がってくれた千紘さんにお別れを言って、台所を去る。

 

 腕によりをかけて作りますかね。大口叩いたんだから絶対に美味しいって言ってもらわないと。

 ペペロンチーノに合わせた献立を考えるうちにリビングに出た。

 

「あ、お兄ちゃん!」

「もう遊べるのー?」

 

 いけない。こっちがあった。

 

 タイミングよく突撃してきた二人に脳内の献立案を吹き飛ばされた僕は、素直に二人と遊び始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 

「あーあ。らしくないなぁ」

 

 日光で暖かくなったレジの机に突っ伏す。あ、お客さんは今居ないから大丈夫だよ。ちゃんと店内はみてから休んでいるのです。

 って、それよりも彼のことさ。

 

「ここまでってなると流石にね……」

 

 流石に、彼を意識しているのを否定するつもりはない。自分でもわからないくらいほだされていたみたいだけど。

 

 彼とは、朝の一件から今に至るまで全くコミュニケーションをとれていない。

 朝食の時に目が合っちゃったけど、母さんのからかいに耐えかねて逃げるようにこっち来ちゃったし、朝の件について彼とはなにも話せてない。

 今だってきっと顔赤くなってるし。

 

「………だめだぁー………顔が熱い……」

 

 朝の一件を思い出すだけでこれだ。引きずり過ぎってわけじゃないはず。こんなところモカとかに見られたらなんて言われるのかな。

「さーや、ともくんと進展あったのー?」って言ってくるに違いない。からかい好きだし。

 

 ………別に朝の一件があったから意識してるだけだし彼とはそういう関係にはならない……はずだし。

 でも、このところずっと彼の事で悩まされているのも事実。だいたい、母さんがこんなにかき乱さなければー、なんて、八つ当たりのように脳内で叫ぶ。

 

「だめだなぁ………」

 

 お店を開いてからずっとこんな調子。お客さんの一人二人にも心配されちゃうし。

 なんとかしないと午後に一緒に働く時も気まずい空気になっちゃうし。

 

「悩んでるみたいねー、沙綾」

 

 うっ。

 

「か、母さん……」

 

 店の奥から、朝食の片付けが終わったらしい母さんが出てきた。またからかわれるのだろうか。というかタイミングが悪すぎる。

 

「そんなに身構えないの。からかいに来たわけじゃないわ」

「それじゃ、どうしたの?」

「ふふ、沙綾が、友也くんのことどう思ってるのかってね」

 

 今考えてることをドンピシャで言い当てて来ないで欲しいな。

 

「…………からかったりしない?」

「しないしない」

「………ホントに?」

「うん。本当に」

 

 ここで母さんに吐露したのはきっと気まぐれ。

 

「…………一言で言うなら、わからない」

「気持ちが?」

「そういうこと。間違いなく私が体験したことない気持ちだから」

 

 だから、と続けようとして、母さんに止められる。

 

「……そっか。うん、聞かせてくれてありがとね。でも、それは母さんが教える事じゃないかな」

「……母さんって読心できるの?」

「そういうわけじゃないわ。でも、なんとなくわかるのよ。娘が考えてることくらい」

 

 母さんがずいっと顔を寄せてくる。

 

「だから、自分の心に従って考えなさい」

「……うん。わかった。ありがとう」

 

 私の言葉を聞いて、満足したように微笑んで離れる母さん。

 

「よろしい。……じゃあ、私が父さんを落とした時の方法を教えようかしら。沙綾、私の娘なんだから友也くんなんてイチコロよ」

「母さん!」

 

 そして、結局いつもの母さんに戻る。イチコロなんて言葉久しぶりに聞いたよ。

 

「うふふ、でも母さん、沙綾が立派に青春してて嬉しいわぁ」

「………むぅ……」

 

 前だったら否定できたのだろうけど、今は出来ない。そんな私の反応を見てさらにニコニコする母さん。完全に悪循環だよ。

 

 それから私が昼休みで戻るまで、ずっと母さんはニコニコしながら接客していた。うっかり話しそうになるから、私はずっとハラハラしながら「いらっしゃいませー!」と叫ぶのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

 

 

「疲れた」

 

 電車帰りの時に席にどっかと座って吐く台詞を、小学生と遊んだときに発するとは思わなかった。小学生体力すげぇ。冬場に半袖半ズボンで生活してる子は違うぜ……偏見だけど。

 ていうか、ホントにそういう子いるんだよね。あの時、駅前歩いてたあの子は風邪引かずに元気にしているだろうか。心配だ。

 

 二人とはまあ、かくれんぼしたり、少しだけ外に出て鬼ごっこしたり。久しぶりに童心に帰ったよ。二人ともめっちゃくちゃ強かったけど。

 

「二人とも相変わらず元気だよな……」

 

 元気なのはいいことなのだが、いかんせん僕の体力がない。元美術部、現帰宅部の体力などたかが知れているというものだ。

 

 あ、そういえば、朝自分で焼いたパン食べました。堅かった。フランスパンかと思いました。冗談です。

 どちらにせよ、僕が作りたいのはフランスパンではなくふわふわに柔らかいパンなのだから、反省して精進しなければならないだろう。これからも亘史さんに教えてもらう日が取れるといいのだが。

 

 現在ペペロンチーノを作っている真っ最中。時間は午後零時。材料を切り終わって、もう包丁は使わなくなった段階だ。

 

「しかし、ホントに上手くいってるぞ今回……」

 

 意気込んで作ったのがよかったのか、今のところ全てが上手くいっている。熟練主婦の出す家庭料理ほどに上手くいってるんじゃなかろうか。これは「楽しみにしててください」と千紘さんに言ったことも有言実行できそうだ。

 

 ちなみに材料のうち、ニンニクと唐辛子は商店街で買った。いつも売る方でお世話になってるからね。

 パスタとかオリーブオイルに関しては、せっかくなので最近出来たショッピングモールまで足を運んでみた。休日だけあってかなり混んでたよ。

 

「~♪」

 

 気分がノッてきて、ついつい鼻歌を歌う。

 いい音を立てるフライパンを揺すって、火加減を調節。順調にことを進めていると、後ろから声が掛かった。

 

「あ、ペペロンチーノだ」

「お、山吹さん。お疲れ様」

 

 後ろからニュッと飛び出してきたのは山吹さん。僕が作っているモノに目を輝かせている。

 正直ビックリした。今日まともに会話したのは今が初めてのはず。朝の事とかもう気になってないのだろうか。それはそれで僕が勝手に気にしているようだけなようで、悔しい気もする。

 

「……ペペロンチーノが私の好物だって、どこで知ったの?」

 

 あ、そうだったんだ。千紘さんがリクエストしたのはそのせいなのか。

 

「へぇ、ペペロンチーノって山吹さんの好物だったの。千紘さんにリクエスト頼んだら、「ペペロンチーノ」って言われたから作ってたんだけど」

 

 フライパンに集中しながら答える。既に山吹さんは気分が舞い上がっているようで「ペペロンチーノ、ペペロンチーノ~♪」となんか歌っている。こんな姿は珍しいな。

 

「いつできるの?」

「あと醤油を入れて、麺と絡ませるだけだからあと少しかな」

 

 それを聞いて、嬉々としてお皿を用意し始める山吹さん。そんなに楽しみですか。

 ……仕方ないな。山吹さんがお皿を落としたりしないうちに聞いておこう。

 

「山吹さん」

「なーにー? 友也くんー」

「あの、朝の事だけどさ………」

「朝の……って、う……あぅ……」

 

 いずれその話が飛んでくるとわかっていたのか……あるいは、わかっていなかったのか。

 朝の話を振りだした途端に、彼女の顔が羞恥で赤くなる。もちろん、釣られて僕も。

 

「……あの、なんかごめんね。僕が色々とやらかしちゃって……」

 

 僕が謝罪すると、バッと顔をあげて彼女が反論する。

 

「ごめんだなんてそんな! 友也くんは私を起こしに来てくれてああなっちゃったんだから、私のせいだって! …むしろ、だらしない子って思われてないか心配で心配で…」

「あ、そんなことはないよ。むしろ山吹さんの珍しい姿が見られてちょっと嬉しかったかなー、なんて……ははは……」

 

 ははは、なんて言っているが実際は笑ってない。冷や汗をかいている。

 言ってて気が付いたが今僕は相当にマズイことを言ったのでは? あんな姿をみて嬉しかったかなとか変態のそれだね。だめじゃん。

 

「……嬉し………ぅ…」

「………いやごめん。許して」

 

 頬の赤みを増して俯いてしまった彼女に謝罪。さっきから彼女に釣られて僕も顔の熱の変動が激しい。朝食の時のように目を合わせられないままお互い準備をする。

 数分後、フォークを配置し終わった彼女が突然声をあげた。

 

「あっ、あのさ!」

「ん! はい! なんでしょうか!」

 

 びっくりした。

 テーブルとキッチン。背中合わせの構図のまま、彼女は意を決したように言葉を紡いだ。

 

「けっ…今朝のことは忘れてね?」

 

 恐らく、勇気を振り絞っての一言だったのだのう。僕はもちろんその期待に応えたいと思った。

 ………けど、けどね……。

 

「……あー…ちょっとそれは無理かもしれない」

「えっ」

 

 まあ多分、どちらも朝のことを思い出してパニックになっていたのだろう。山吹さんもいつもらしからぬ言動だったし。

 

 うん。でもごめんよ。嘘はつけない性格なんだ。

 

「……男子高校生にはいささか刺激が強すぎて、無駄に鮮明に頭に残ってるんだよ……山吹さんのパジャマ姿とか、山吹さんの下」

「わぁぁぁーっ! 何いってるのーっ!」

 

 もうヤケクソだと暴走し始めた僕に困惑する山吹さん。

 結局、千紘さんが台所を覗きに来るまで、僕はずっと茶番のような会話を続けているのだった。

 

 ……あ、ペペロンチーノは無事に完成しましたよ。

 



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#10

 

「「おいしーい!」」

「それは良かった。おかわりもあるから沢山食べてね」

 

 朝と変わらず賑やかな昼食の時間。

 なんとかペペロンチーノが完成した後、他に買ってきていた野菜でサラダや和え物を作った。朝に千紘さんが作った料理は朝のうちに皆食べきってしまったようで、今食卓に並んでいる料理は全て僕が作ったものとなっている。

 

「ホントに良くできてるわね。美味しいわ」

「前から料理ができるとは聞いていたが、ここまでとはね。流石だよ」

「口に合ってたなら良かったです。今回は結構上手く作れたつもりなので……」

 

 千紘さんや亘史さんにも好評な模様。気合いを入れて作った甲斐があるというものだ。嬉しい。

 

「む、おいしい……」

 

 なにやら難しい顔でフォークを回している山吹さんもおいしいと言ってくれている。……いや、おいしいと言ってくれているのに、なぜそんなに難しい顔をしているのか。

 

「…どうかしたの、山吹さん。なんか食べにくかったりした?」

「あ、ごめんね。そういう訳じゃないんだけど…」

 

 そこで言葉を切ると、もう一度うーんと唸る彼女。え、やっぱりなんか入れるべき隠し味とかあったのだろうか。好物だからこそ、アレンジしているところとかあったんじゃなかろうか。

 

「……なんか、女子として悔しいなって…」

 

 ……割とかわいい悩みだった。

 そんな彼女の様子を見て、千紘さんが口を開く。

 

「これなら、夕食も友也くんに任せちゃおうかしら」

 

 みんなに好評だから、ということだろう。

 まだ財布には幾らか猶予はある。もっと作りたいものもあるので異論はない。

 

「ああ、別に僕は構いませ「待って! 夕食は私が作る!」

 

 僕の言葉を遮って山吹さんが名乗り出る。

 勢いよく言い放った彼女は、そのまま僕の方にぐるりと向き直ると、

 

「友也くん。好きな料理は何?」

 

 と。

 その謎の対抗精神はなんですか。乙女心と言うやつですか。わからない。

 まあ山吹さんの料理は食べたことがないので是非とも食べてみたいけど。

 

 好きな料理か……。特に決まったものはないかもしれない。あえて言うならパンだが、それはこの場で言うには違うだろう。あ、あとで売り切れないうちにコッペパン買っとこ。

 

「……和食……かな」

「和食……何が品名とかは?」

「……ごめん、思い付かないや。折角だし、そこは山吹さんにお任せするよ」

 

 考えたけれど、残念ながら具体的な品名は思い付かなかった。僕はレストランで頼むときも決まったメニューはないからね。

 そういうわけで、夕飯は山吹さんの和食フルコースに決定した。

 

「夕御飯、お姉ちゃんが作るの?」

「そうだよー。楽しみにしててね」

「姉ちゃんの料理、久しぶりだー!」

 

 純くんと紗南ちゃんの様子を見るに、彼女の料理もとても美味しいのだろう。期待できそうだ。

 

「確かに、沙綾が作るの久しぶりになるわね」

「愛娘の手料理か……楽しみだ」

「楽しみにしてるよ」

「ふふん、任せて!」

 

 期待に応えるように胸を張って言う山吹さん。

 夕食もこんな感じで賑やかなのだと思うと、今から夜が楽しみになってきた。

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

「友也くん、こんにちは。今日も繁盛してるかい?」

「はい、おかげさまで。いつもありがとうございます!」

 

 午後になって、僕の仕事の時間が回ってきた。

 休日だからなのか、やまぶきベーカリーは午後の開店時間から多くのお客さんで賑わっている。

 

「ごめん友也くん、レジお願い!」

「了解。任せて」

 

 山吹さんと協力して接客を行う。ピークは過ぎたようで、少しずつお客さんの数は少なくなってきていた。

 夕方近くになればまた増えてくるが、それまでは二人とも楽ができそうだ。

 

「ひとまずお疲れ様ー」

「うん、お疲れ様。こういう時はやっぱりキミがいてくれると凄く助かるよ」

 

 結構な量のお客さんをさばいたが、僕も彼女もそこまで疲れは見えていない。二人の仕事の量もバランスよく配分できている辺り、彼女も僕のことを頼ってくれているのだろうか。

 

 時間と共に減っていくお客さんを眺めながらレジを行う。すっかり顔馴染みになった常連客の人々と言葉を交わすのも、もう慣れたものだ。

 

「───ちゃん、チョココロネ買っていっていいかな……?」

「いいね! 私もパン買ってこー!」

「ついでに沙綾たちに挨拶してこっか」

 

 ある程度お客さんが減ってきたところで、店の外から聞き覚えのある声がいくつか聞こえてきた。

 

「ふふ、来たね」

「チョココロネ足りそう?」

「ストックあるから大丈夫」

「メロンパン」

「十分余ってるよ」

 

 ちょっとだけ微笑みながら山吹さんと言葉を交わす。その会話から少しとしないうちに、扉のベルが鳴った。

 チョココロネ、メロンパン、その他諸々の準備は万端だ。いつでもかかって来なさい。

 

「こんにちはー!」

「か、香澄ちゃん、お店だから大きな声は……」

「こんにちは」

 

 扉から入ってきたのは、戸山さん、牛込さん、花園さん。三人ともいつも通り、というか、いつも以上に元気なようだ。ただ、少し違うのが……

 

「いらっしゃい、皆。……その背中のは……」

「あ、ともくん! こんにちはー! ……で、後ろのこれ?」

 

 戸山さんはそこで言葉を切って、おもむろに背中のそれを肩からおろした。

 

「ふっふっふ……これはね……」

 

 で、少し自慢げに微笑むと黒いケースからなにかを取り出す。それを肩に掛けると、ポーズを決めてドヤ顔になった。

 

 ああ、もしかしてこれ、勉強会の時に言っていた……

 

「じゃじゃーん! ランダムスターなのだー!」

「ギターか! なるほどね……」

 

 全体を赤でカラーリングした星形のギター。いわゆる「変形ギター」の一種だろう。とても鮮やかな赤と、ボディに散りばめられた小さな黄色い星が戸山さんによく似合っている。

 音楽、ひいてはバンドに疎い僕でも、これがとても高いものだと瞬間的に理解できた。

 

 ……少しだけ、本当にバレないように山吹さんの方をチラリと見る。勉強会の時に見せたあの表情が気になっていたが、今は顔を曇らせることなく戸山さんのギターを見ているようだ。

 安堵と、やっぱり少しの引っ掛かりを胸に覚えて目線を戻す。

 

「……他の二人も、背負っているのはギター?」

「私はギターだけど、りみりんはベースだよ」

「……はて、ベース」

 

 なるほどベース。残念だがよく知らない。今度調べて見るべきかな。

 でも確かに、牛込さんが背負っているケースは花園さんが背負っているケースより少しばかり大きい。

 

「ベースは低音を支える楽器だよ。バンドとか見る機会があったら、低い音に注意して聴いてみると分かりやすいかも」

「あ、もしかしてイヤホンで音楽聴いてると響いてくるアレ?」

「それだね」

 

 スピーカーで流すのと、イヤホンで流すのとで聴こえる音が増えたように感じることがあったけど、あれがベースなのか。納得。

 

「私の心はチョココロネ~」

「牛込さん、ご機嫌だねー」

 

 その話題の牛込さんといえば、チョココロネを前にウキウキと歌を歌っているが。

 牛込さんの手に取られたチョココロネは全部で六つ。……市ヶ谷さんも含めて配るとなると牛込さんが食べるのは三つだろうか。

 

「私もメロンパン買っちゃおうかな。テスト頑張った自分へのご褒美」

「お、ありがと。毎度ありー」

 

 本日もやまぶきベーカリーの売り上げは順調。戸山さんもチーズのパンを買ってくれるようだ。

 そういえば、花咲川もテスト終わってたんだね。

 

「戸山さん、テスト終わったからなのかやけに元気だね」

「ふふーん! テストが終わった私に敵はないからねー!」

 

 心なしか、戸山さんの髪のセットの一部、通称猫耳もピコピコ動いているような気がする。

 

「ああ、妙にテンションが高いのはそういう……」

「香澄、出来は大丈夫なの?」

「ふっふっふ……この前の勉強会で私の学力は大幅に上がったからね。今回は補習もない! はず!」

 

 どうやら自信もある模様。「あの時はありがとね! ともくん!」と眩しい笑顔を向けてくる戸山さん。「どうってことないよ」と返しておいた。……山吹さんの目線が感じられた気がしたけど、きっと気のせい。

 

 三人とも目当てのパンを取ったのか、まとめてレジに出してくる。それをさばいている間も、山吹さんたちは仲良く話していた。

 

「はい、じゃあこれレシートね」

「ありがとう! じゃあ私たちそろそろ行かなくちゃ!」

 

 やがて三人のレジを終えると、そろそろ出ていくのか戸山さんがギターをケースに収め始めた。まだしまってなかったんですね。

 

「…そういえば聞いてなかったけど、皆はこれからどうするの?」

「実は、今度有咲の家の蔵でおたえに認めてもらうためのライブをするんだけどね。その練習をするからって……」

 

 と、そこで言葉を切る戸山さん。ハッとしたような顔をしてから、みんなに向かってこう言った。

 

「…そうだ! ともくんもクライブに招待しようよ!」

 

 ……はぁ。くらいぶ、とは。

 

「いいね。友也にも私たちのこと、知ってもらいたいし」

「私も賛成だよ」

 

 状況が掴めないままどんどん話が進んでいく。くらいぶ、なるものがどんなものなのか理解できない僕はただただ困惑するばかり。

 混乱している僕の様子を察して、山吹さんが一声入れてくれた。

 

「ちょっとちょっと。友也くん混乱してるって。ちゃんと説明してあげなきゃ」

「……うん、そうしてくれると助かるかな」

 

 困ったような仕草を取ると、戸山さんが少しだけ眉を潜めて申し訳なさそうにしてきた。

 

「ごめんね……いきなりすぎたかな?」

「大丈夫、だいじょうぶ。ちゃんと説明してくれればいいから」

 

 戸山さんの表情が明るくなる。それと同時に、戸山さんが「クライブ」ひいては、バンドの結成について、一から説明してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 ──────

 

 

 

 

 

 

 

「………っていうわけで、今度クライブをやるから、ともくんにも来てほしいなってことだよ」

「…うん、ありがとう。よくわかったよ」

 

 あれから二十分程、戸山さんの話を聞き続けた。

 

 戸山さんが子供の時に感じた「星の鼓動」の話に始まり、高校生になってから「バンド」というものを知ったこと。

 市ヶ谷さんと出会って、星形のギター「ランダムスター」を見つけたことや、初めてアンプに繋いで音を出したの時のこと。

 初めて見たライブで感動して、ライブハウス「SPASE」でライブをするためにメンバーの募集と練習をしていること。

 

 そして、花園さんがバンドに加入するために突きつけた条件を達成するために練習している、という話まで説明してもらった。

 

「しかし、こうやって聞いてみると皆やっぱり個性的だな……」

「あはは! やっぱりキミもそう思う?」

「そ、そんなに個性的かな……?」

「確かに香澄は個性の権化って感じかな。うん」

「それは褒められてるの!?」

 

 花園さんに抗議する戸山さん。

 戸山さん、経緯から思うに「個性の権化」という表現もあながちどころか間違ってない。

 

 しかし、クライブか……。折角だし見に行きたい気持ちはやまやまなのだが、いかんせん千紘さんの負担が怖い。

 

「あ、そうそう。クライブには私も誘われちゃってるんだ」

「山吹さんもなのか。……うーん、じゃあ僕は遠慮した方がいいな……」

 

 説明してもらったクライブの日は、別にやまぶきベーカリーが閉まっている日ではない。山吹さんも行くというなら、一人くらい残っていないとマズイだろう。

 

「え!? ともくんクライブ来られないの?」

 

 僕の発言を聞き取った戸山さんが、心底悲しそうな表情で見てくる。後ろにいる花園さん、牛込さんも同様の顔をしていた。

 

「いや、山吹さんもクライブに行くなら僕ぐらいは残っていないとまずいかなって」

 

 山吹さんがすかさずそれに反応する。

 

「だったら友也くんが行かなきゃ! バイトに店を任せて遊びに行くなんて、私には出来ないよ!」

「でも……」

 

 まずいな。このままじゃ平行線は免れない。「山吹さんが行くなら」の一言は抜いておくべきだったか。

 戸山さんたちも考え込んでくれているようだが、打開策が見つからない。ごちゃごちゃと考えていると突然、背後から声を掛けられた。

 

「はいはい、それには及ばないわよー」

「千紘さん!」

「母さん!」

 

 まるでタイミングを図ったかのように店の奥から出てきた千紘さん。ちょうど昼食の片付けが終わったのだろうか。

 続けて、千紘さんが切り出す。

 

「私は一日くらい大丈夫よ。二人とも楽しんでらっしゃい」

「そうはいわれても……」

 

 やっぱり不安だ、と続けようとしたところで、千紘さんが制止するように人差し指を立てる。

 

「沙綾にも友也くんにも、いつも助けられてるんだもの。たまには、大人として、母親として頼ってちょうだい」

 

 微笑んでそう言う千紘さん。

 そこまで言われて、「どうしようか」と山吹さんの方を見る。

 山吹さんも「これは譲らなそう」というように諦めた表情をしていた。この分だと、ここから覆すのは無理だろう。

 うーむ。仕方ない。折角の厚意を無下にするわけにもいかないだろう。

 

「……じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。でも、くれぐれも無理はしないでくださいね」

「そうだよ母さん。頼るのは今回だけだからね!」

「うふふ。二人ともそれでいいの」

 

 結局千紘さんに押しきられてしまった。なんだか申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちが混在している。

 

「それじゃ、香澄ちゃん、二人ともお願いね」

「はい!」

 

 ここまでの会話から、僕がクライブに行けることが分かったのであろう戸山さんが元気よく、笑顔で返事をする。

 

「よろしくね、二人とも!」

「ああ、こちらこそよろしく。…皆もよろしくね。演奏楽しみにしてるよ」

「まかせて。最高の演奏にするよ」

「わ、私もがんばるね!」

 

 花園さん、牛込さんにも声を掛けるとこれまた言い返事が。言い演奏が期待できそうな眼差しに、思わず気持ちが踊る。

 

 ……割と流された気がしなくもないけど、そんなこんなで僕のクライブ鑑賞が決定した。

 

「それじゃ、楽しみにしててね!」

「了解。ありがとね」

 

 戸山さんたちが店を去る。

 僕が来るとわかって、また練習に気合いが入ったのだろう。今すぐにでもギターを弾きたいという顔をしていたように見えた。

 

「香澄、相変わらずだなぁ」

「……山吹さんの時もそうだったの?」

「私の時はまた特殊だったよ~」

「と、いいますと?」

 

 話を催促するように合いの手を打つ。

 山吹さんのことだから、パン絡みで誘われたりしたんじゃないだろうか、なんて予想。

 

「入学式の時、クラスの確認してたら香澄とぶつかったのが初めてだったなぁ。そしたら突然「パンの匂いがする!」って」

「あっはは! 予想した通りだなー」

 

 見事予想的中。正直斜め上だったけど。

 

「こうやって聞いてみると、僕の時とは正反対なんだね」

「あー、確かにそうかも。キミは話しかけるとかあまりしてくれなかったものねー」

 

 ジト目で意地悪にこちらを見つめる山吹さん。

 実際そんな感じで、やまぶきベーカリーに通い始めた当初は彼女と必要以上の会話はしてなかったと思い出される。

 

「……仲良くなりたいとは常々思ってたんだけど、なかなか行動に移せなくてね……」

「あれ?じゃあ話すようになったきっかけって何だっけ?」

 

 え、忘れたんですか。

 

「あれだよ。食パンが売り切れてたときの」

「ああ! キミが珍しく閉店直前に来たときの!」

「そうそう、それが話すようになったきっかけ」

 

 中学時代、部活引退後だというのに下校するのが遅くなってしまったときがあった。

 その日も閉店直前になってやまぶきベーカリーに行ったのだが、その時にはもう食パンが売り切れていて。

 すっかり意気消沈してしまった僕に、山吹さんが笑顔で「いつも食パンとるから、ひとつだけストックしてありますよ」と話しかけてくれたのが、今の関係の始まりだった。

 

「……今思うとそこまで大きな出来事じゃなかったって思えるかなー」

 

 確かに、ほとんど一緒に行動するようになった今では、あの出来事は小さなものかもしれない。

 

「でも、あれが僕らの関係を変えたのも事実でしょう?」

「それは否定しないけどね~」

 

 人との関係を作るのには、僕と山吹さんの時、戸山さんと山吹さんの時の様に時間の掛かり方に違いがあるけれど、その「きっかけ」は非常に些細なものだったりするのだろう。

 

 山吹さんと知り合って、半年が過ぎた。

 

 緩やかに変化する関係にも、急に縮まる距離にも、彼女との出来事全てにドキドキしながら、二人の関係は進んで行く。

 

「じゃあ、これからもっと色んな出会いがあって、皆との関係も変化していくのかな」

「……ま、僕には未来のことなんてわからないから、今を呑気に過ごすだけだけどねー」

「キミはそういうところ変わらないなぁ」

「アイデンティティーと言ってよ」

 

 お互い軽口を叩いて、その内容で笑いあって、日々を過ごす。

 

「それはそうと。山吹さん」

「ん? なーに?」

「夕食、楽しみにしてるよ。是非とも僕が作ったペペロンチーノを越えてくれたまえ」

「む!」

 

 不機嫌そうに頬を膨らませる山吹さん。そんな彼女をつついているうちに、扉のベルが鳴った。

 

「ほーら、お客さん来たよ」

「むー……いらっしゃいませー!」

 

 現在時刻、午後二時。まだまだ始まったばかりの「今」を僕らは駆け続けている。

 



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#11

 

「これでよし……」

 

 お店の扉の前に着いた看板を、「OPEN」から「CLOSE」に裏返す。

 今日のやまぶきベーカリーの業務もおしまい。同時に、今日の僕のバイトも終了となった。

 

「さてさて、掃除しちゃいますかね」

 

 ここの掃除も手慣れたもの。掃き掃除からモップ掛けまで、丁寧にこなしていく。

 これが終われば夕食、つまり山吹さんの手料理が楽しめる時間が来る。

 

「山吹さんの手料理か……楽しみだなー……」

 

 掃除をしながら、呆けたように呟く。無意識の一言だったのだが、後ろからそれに反応する声が聞こえた。

 

「あら、沙綾も幸せ者ね」

「千紘さん!? いや、ちょ、今のは」

「うふふ、夕食が出来たから呼びに来たらいいこと聞いちゃった」

 

 誰にも聞かれてないと思っていたのに。この人いつどこに出てくるかわかったもんじゃないな……。

 

「大丈夫よ、沙綾には言わないから」

「そうしてくれると、僕の羞恥心を煽られずに済みます……」

「あらら、今のを聞いてたのが沙綾だったらどうしたのかしら」

 

 多分、したり顔でこっちを見てくると思う。「へぇー、そんなに私の料理が楽しみなんだー」って。絶対そうしてくる。

 

「楽しみにしてて正解よ。なんか随分気合い入ってたみたいだから」

「それは僕のペペロンチーノに対する対抗精神なのでは?」

「それもあるけど……ね?」

 

 意味深に微笑む千紘さん。それ「も」って、その他って言ったら普通に料理を作る楽しみとかじゃないんですか?

 

「……まあ、いいです。夕食、こっちの掃除が終わったら行きますね」

「それじゃあ、私も手伝おうかしら。早く終わった方が、ご飯もゆっくり食べられるでしょう?」

 

 僕がモップを、千紘さんが台布巾を手にとって掃除をする。

 掃除の間も、他愛ない話を続ける。大抵は山吹さんのことだけれど。

 

「今日の献立、どんな感じです?」

「ご飯にお味噌汁、筑前煮に肉じゃがだったかしら」

「ホントに和食ですね……リクエストしたのは僕ですけど……」

「あ、特にお味噌汁。凄く真剣に作ってたわ。何かに影響受けたようにダシも変えてたし……」

 

 こっちを見つめて呟く千紘さん。あ、やっぱりわかってるんですね。

 

「……まあ、勉強会やったときに少しばかりお味噌汁作りましたけど。そこまで対抗されるのは予想外ですよ」

「あの子、ああ見えて頑固だから。下手に美味しいおいしい言ってるだけじゃきっと納得しないわよ」

「食レポは苦手な部類なんですけど」

 

 そんなこんなと駄弁っている間に掃除も終了した。というか、千紘さんのおかげで凄く早く終わった。ありがとうございます。

 最後に、台を拭いた布巾を洗って物干し台に掛ける。手が冷えた。この時期でも水は冷たいな。

 

「……よし、お疲れ様。それじゃあ夕食食べに行きましょう。夫以外は揃っている筈だし、その夫もすぐに仕事を終わらせてくるはずだわ」

「そうですね。行きましょうか」

 

 お店の電気を完全に落とす。暗闇の中で、山吹さん宅の方向から、暖かい光が射し込んでいた。

 その方向に歩いて、リビングに出る。

 

「あ! 姉ちゃーん! お母さんと兄ちゃんが戻ってきたー!」

 

 真っ先に出迎えてくれたのは純くん。僕らを確認すると、大声で山吹さんを呼んだ。

 

「お母さんも、お兄ちゃんも、おつかれさま!」

「うん、出迎えありがとう、紗南ちゃん」

「ありがとう、紗南。お姉ちゃんのお手伝い、ご苦労様」

「えへへ……ありがとうお母さん!」

 

 続いて、紗南ちゃんが出迎えてくれた。千紘さんが紗南ちゃんの頭を撫でる姿がなんとも微笑ましい。家族の暖かさを感じる。

 二人の様子を眺めていると、タッタッタとこちらに向かってくる足音が聞こえた。

 

「母さんも友也くんもお疲れ様。もうご飯出来てるから、テーブルに運ぶの手伝ってくれる?」

 

 足音の正体は山吹さん。エプロン姿。なんだろう、このあるべきところに収まっている感。

 

「……やけにエプロンが似合うね」

「そう? お店の手伝いとかで馴染んでるのかも」

「それ以上に馴染んでるよ。もしかして山吹さん、エプロンの申し子……」

「何変なこと言ってるの。ほら、運んじゃお。キミが楽しみにしてるって言うから、ドンと気合い入れて作ったんだよ」

 

 そう言ってまた台所へ行く山吹さん。それについて行くと、台所のスペースに沢山の料理が並んでいた。

 

「……凄い。これ全部山吹さんが……?」

「実は母さんにも手伝ってもらっちゃって……」

「それでも十分凄いさ。これはホントに楽しみだな……」

 

 千紘さんが言っていた筑前煮と肉じゃが以外にも、多くの料理がある。まさかこんなご馳走をもらえるとは、なんと運の良いことか。

 山吹さんたちの作った料理をテーブルに運ぶ。

 筑前煮など、大きなものは僕が。それ以外を山吹さんたちが運ぶ。

 純くんや紗南ちゃんも箸を並べたりして手伝ってくれて、すぐに食べられるようにまで準備出来た。

 

 準備が終わって、皆が席についてから少しした頃、お店の方から亘史さんが戻ってきた。

 

「おお、今日はまた一段と豪勢だな。ご馳走じゃないか」

「これ、ほとんど山吹さんが作ったんですって」

「……そうか……沙綾も成長してるんだな……」

 

 目の前に並べられた豪勢な料理の数々に、娘の成長を感じたのか少し寂しそうに呟く亘史さん。やっはりこの人も父親なんだな。

 

「ほら、あなたも座って。沢山あるから、早く食べないと残しちゃうわ」

「そうだね。早速頂こうかな」

 

 亘史さんが席に着いて、普段は埋まることのないであろう長方形のテーブルが囲まれる。

 皆が席に着いたのを確認すると、千紘さんが声を掛けた。

 

「それじゃあ、いただきます」

「「「「「いただきます!」」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

 

「いやホントに、ビックリするくらい美味しかったよ。参りました」

「ふふ、良かったでしょう。気合い入れて作ったんだから。女の子の本気ってものを思い知ってくれたかな?」

 

 夕食を食べ終わって少し。

 台所にいるのは、僕と山吹さんの二人。夕食の片付けをしていた。

 

「あの量を作っておきながら味も良くできてるって、ホントに敵わないな……」

「沢山褒めてくれてありがとう。やっぱり、料理がおいしいって言ってもらえるのは嬉しいよ」

 

 山吹さんの料理は本当に美味しかった。

 筑前煮と肉じゃがに味がよく染みていたのも良かったけど、いつからダシを取っていたのかお味噌汁の味が深かった。完全に負けました。

 

 あ、ちなみに千紘さんに言われた通り食レポしましたよ。ちゃんと出来たかとか聞かないでください。

 

 短く会話を交わしながら、片付けを進める。

 手に当たる水は冷たく、指先がだんだん赤くなっていくのがわかる。

 温水に設定すれば良かったかなと少しばかり後悔したが、電気代も使うし、どのみち洗い物もあと少しなのでこのまま冷水でやることにした。

 

「……それ、水冷たいままだけど大丈夫?」

「大丈夫だいじょうぶ。洗い物も量無いし、平気だよ」

「それならいいけど……無理そうだったら言ってね。変わるから」

「それはありがたい。その時が来たら甘えさせていただきますよっと」

 

 お気遣い痛み入る。山吹さんはホントに良いお嫁さんになるよ。料理美味しくて家事出来て、面倒見もいいと三拍子揃ってるんだもの。夫になる人はヒモになってしまうんじゃないだろうか。

 

 バレないように、山吹さんの横顔を盗み見る。

 

やっぱりというか、まあ当たり前のことなんだけど。

 

 改めて、端正な顔立ちだと思う。

 ローズブラウンでウェーブが掛かった髪に、淡青色の透き通った目。手入れを欠かしていないのだろう健康的で白い肌。

 近くにいるとなかなか気がつかないとは良く言ったもの。当たり前のようにしていたが、やっぱり山吹さんは美少女なのだ。

 初めて見たときから思っていたけど、山吹さん程整った人はなかなかいないんじゃないか?

 

 見ているのがバレないうちに、目線を戻す。気がつけば洗い物も後少し。早く終わらせなきゃと、既に洗っていた木の椀を水ですすぐ。

 

「山吹さん、これ」

「─あっ、ありがとー」

 

 返事が遅れた? 気のせいかな。

 少しだけよそ見をして、左隣にいる山吹さんにお椀を渡そうとする。下手に見たら、また見とれてしまいそうだったから。

 

 

 結論から言えば、それがまずかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

───────

 

 

 

 

 

 

 

「それはありがたい。その時が来たら甘えさせていただきますよっと」

 

 これは絶対言わないなぁ、キミは我慢強いからね。相変わらずお人好しなんだなぁ、キミは。

 なんて思いつつ隣にいる彼の様子をチラリと見た。すぐに目線戻しちゃったけど。

 気遣っても、わざわざこっちが申し訳なくならないように断るんだもの。けど、わかっちゃう私に効果はないよー。

 

 隣、一メートルとない距離の向こうにキミがいる。

 あまり同世代の男の子と関わる機会なんてなかったから、ここまで近い距離にいると流石に緊張しちゃってるのかもしれない。それでもキミがいると少しばかり身体がポカポカと暖かい。なんでかな。

 

 もう一回、彼の顔を覗く。

 キミは男の子なのに、やけに肌とか目が綺麗だし、身長が私より高いからかっこよく見えちゃうし。男の子ってずるいかも。今だって、キミを見上げるように見てるんだもの。

 私にとって初めての体験ばかりくれるキミは、まるで輝く星みたい。

 

「山吹さん、これ」

 

 はっとして、すぐさま返事をする。

 

「あっ、ありがとー」

 

 咄嗟だった。なんでもなく聞こえてたかな。

 様子を伺うけれど、キミは水の流れる蛇口の方を見たままこっちにお椀を出している。

 

 キミがこっち見てなくてラッキーだったなー、なんて思いながらお椀を受け取ろうと手を伸ばす。

 見られてたらなんて言われてたかな。どうせキミのことだから「どうしたの? 役割交代なら大丈夫」って言うんだろうな。心配性ったらありゃしない。

 

 

 それでも、やっぱりキミに見とれてたんだと思う。よそ見をしてた私が悪かったのかな。

 

 

 

 

 

 

 

───────

 

 

 

 

 

 

 

 

 刹那、指先()が触れた。

 

 

「………っ!?」

「…………あっ!?」

 

 最初は、何が起きたのか良く分からなかった。

 

 一瞬指先に伝わったその熱が一瞬で心を沸騰させて、身体が言うことを聞かなくなる。

 反射だけで、咄嗟に手を引っ込めたが、それだけで収まるはずがない。

 心拍が速い。指先から伝わる熱が、全身に、顔に充満していくのを感覚で理解する。

 目線が動かせない。体が動かない。それほどまでに、今指先に伝わった熱は、強く鮮烈に「()()()()」という存在を心に叩きつけてくる。

 

 数秒して、やっと脳が「山吹さんと指先が触れ合った」ことを理解する。でも、未だに僕の頭はそれを受け入れようとしていない。キャパオーバーというやつである。

 山吹さんも驚いたのか、手を引っ込めていた。

 顔は赤く、透き通った目は驚いたように見開かれていて此方を見つめている。

 

 二人の間、台所の金属の台に木製のお椀が落ちる鈍い音。リビングのテレビからニュースを読み上げる男性キャスターの声が聞こえる。

 蛇口から流れ出る水の音、台を転がるお椀の音、遠くから聞こえる純くんと紗南ちゃんの声。全て、今この二人の空間には届かない。

 

「………………」

「………………」

 

 僕は左手、彼女は右手。

 指先の熱は収まることを知らずに、心臓に早鐘を打てと命令を下してくる。

 全力疾走並みだろうか。僕の知らない速さで心臓が動いている。

 山吹さんの赤い顔を知らないうちに心に保存して、やっと動き始めた身体でなんとか蛇口の水を止めた。

 

「……やっ、山吹さん」

「……なんでしょうか」

 

 山吹さんらしからぬ敬語も気になど出来るわけがない。僕は未だに、今起きたことを受け止めきれていないのだ。

 

「……えっと、その、なんかごめんなさい……」

「……いや、こっちこそごめんなさい……」

 

 恥ずかしさも衝撃も、朝のそれとは比べ物にならない。指先が触れただけなのに、身体の一部が触れ合うということは、ここまでドキドキするものだったのか。

 

「……うん、うん、うん。オーケーオーケー……」

ダメだなあ……恥ずかしいなあ……

 

 目の前に山吹さんがいるにも関わらず、なんとか精神を落ち着かせようと小さく呟く。

 山吹さんも両手を所在なさげにもじもじと絡めていて、なんともかわいい…………ってこんなこと考えてる場合じゃない。

 

「……とっ……! ……取り敢えず、片付け終わらせましょうか!」

「……うん! そうだね! そうしよう! うん!」

 

 二人して恥ずかしい気持ちを抑えるように言い合う。

 そうして二人、隣を決して向かないようにまた片付けを再開する。

 蛇口から精一杯冷水は吐き出されているのに、一向に指先は冷えてくれないし、心臓の心拍も収まらない。

 

 そうしてまた、どうしても彼女のことが気になって、お皿を一枚洗う間にも隣を盗み見てしまうのだ。

 目線だけ向けても、さっきほどちゃんとみることが出来ない。

 彼女もこちらのことが気になるのか、ほぼ同時に二人とも隣を向いてしまう。

 

 そうすると、結局向き合う形になるわけで。

 

「…………………ごめん」

「……………ううん、私こそごめん……」

 

 また二人して、既に紅潮した頬をまた赤く赤く染めるのだった。

 



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#12

 

 カチャリ、と最後の皿が乾燥機の中に積まれる。

 スイッチの入れられた食器乾燥機が、中で温風を吹き出し始める。

 

 同時に、絶え間なく聞こえていた水の流れる音が止んだ。台に飛び散った水を布巾で拭き取って台所を綺麗にする。これにて、夕食の後片付けは終了。僕の今日のお役目もこれにて御免だ。

 

「…………………」

「…………………」

 

 静寂。互いに背中合わせのまま喋らない。

 二人の指先が触れあって以降、ずっと黙ったまま片付けをしていた。

 もう何回目になるか──もう一度、チラリと隣を覗く。彼女がが僕を見たタイミングもほぼ同時。

 

「………っ」

「………………うぅ…」

 

 さっきから、チラリと隣を見ては山吹さんと目があってしまう。そしてまた赤くなって目を逸らす。そんなことをこの短時間に何回も繰り返していた。

 二人の顔はずっと赤いままだし、心臓もまだまだうるさい。頭が、山吹さんに支配されているみたいに働いてくれない。

 外で鳴いている鈴虫の声も、リビングから響く元気な声も聞こえているのに、僕らの周り、この台所だけ時間が止まっているようだった。

 

「そろそろ片付け終わったかしら~?」

「……っ!? ……お、終わりましたー」

「……う、うん! 終わったよ!」

 

 突然近くから聞こえた声に、いつも以上に過敏に驚く。

 声の正体は千紘さん。確認に来てくれたようだが、それに対してしどろもどろな対応をしてしまう。

 二人の対応は明らかに変で、「なんでもない」じゃ済まされないものだった。

 

 僕らの表情と様子を見た千紘さんが「あらあら、うふふ」と笑う。

 

「そろそろ八時になるけど……どうせだし、友也くん泊まってく?」

「かっ、母さん!」

「い、いやいやいや、流石に遠慮しておきますって……!」

 

 二人して千紘さんに抗議する。全く否定になってないけど。

 

「うふふ、仲睦まじいようでなにより~」

 

 僕らの反応がおもしろいのか、千紘さんはニコニコしたまま台所を去っていく。

 後に残された僕らは、千紘さんが引っ掻き回した空気のおかげで、更にいたたまれない気分になっていた。

 

「……も、もうすぐ八時だっけ?」

「……うん、母さんはそう言ってたけど……」

 

 ちょうどいい頃合いだ。そろそろ帰るとしよう。

 一刻も早く、この空間から脱出しなければならない。

 

「じゃあ、時間もいい頃だし……」「……わ、私はキミさえ良ければ……」

 

 二人が言葉を発したのは全くの同時。互いに発した言葉を聞いて、互いに驚く。

 みるみるうちに赤くなる山吹さん。

 

「……山吹さん今なんて言おうと「きっ! ……キミさえ良ければ…良ければ……そう! キミさえ良ければ、今日のお礼にパンをもらってほしいって言おうとしたの!」

 

 僕の質問が届く前に大声で弁明する山吹さん。

 お礼は夕飯でたっぷり貰ったし、そもそもパンは売り切れているはず。

 

「………山吹さん……」

「……ごめんね………今日の私、ちょっとおかしいや……熱でもあるのかな……?」

 

 先程の弁明がおかしいことなど、二人とも気づいている。彼女が言おうとしたことなど、あの前の千紘さんの発言から見ても明らかだろう。

 

 本日何回目になるかわからない赤面。全身を巡る血潮の温度すら上がっているのではないかと錯覚する。

 

「……と、とりあえず僕は帰るよ。山吹さんも疲れただろうから、早く休んでね」

「……う、うん」

 

 顔から溢れ出る熱を抑えながら、台所を出る。

 出たときに、リビングにいた千紘さんたちから目線が送られたが、一旦無視。なるべく顔を見られないように荷物が置いてある空き部屋へと向かう。

 

 トイレに駆け込むかのように空き部屋に入った僕は、一度大きくため息を吐いて、ドアに体を預けたままズルズルと音を立てながら床にへたりこんだ。

 

「……今日は、僕もおかしいな……」

 

 発端が何だったかなど、最早わからない。

 朝はパン作りを学べることへの嬉しさでここに来た筈なのに、今の頭の中はほぼ全て山吹さんの事で埋め尽くされている。僕の彼女に対する意識が変わったことなど、僕が一番よくわかっているつもりだ。

 

 今日は明らかに、山吹さんのことを一人の女の子として見ていた。顔面を巡る熱がその証明だった。

 

「……ああ、ちくしょう……」

 

 これは恋なのだろうか。こんなことなど初めてだと何度も言っているだろう。誰かどうか、この気持ちを教えてくれないか。

 答えが知りたい。そうすれば、この苦しさから解放される気がするから。

 

 心を縛るこの感覚の正体を、僕はまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 

 

 

 

 

 

 

 パタン、と丁寧にドアが閉められる音。

 急いでいるのにドアは大切に扱う辺り、やっぱり彼らしいな。

 

「……はぁ……」

 

 疲れと安堵から、大きく、大きくため息をつく。

 台所の床にしゃがみこんで顔を覆った。顔から伝わる熱さで手のひらがじんわり暖かくなる。

 

「……あ~……もう……」

 

 少しばかり悪態をつく。別に彼のせいじゃないが、ここまでやられてしまうと偶然なのか疑いたくもなってしまう。

 朝からずーっと彼のことばかり。同性の友達でも起きたときから一緒だなんてこと無かったのに、彼はどんどん私の中に入ってくる。

 

「こんなだから母さんにもからかわれるのかな…」

 

 心臓が一回、トクンと跳ねるごとに、体に熱が広がっていくのが分かる。思考が彼に染まっていくのが分かる。彼のことを考えるだけで、心が跳ねるのが分かる。

 彼が異性であるなんて当たり前のこと、どうして今まで意識しなかったんだろう。

 

「……まともに顔合わせられないよ……」

 

 朝の時と同じ事を言いながら、ブンブンと頭を振る。

 彼の事で思考も心も埋め尽くされた私が、せめて彼を送り出そうと考えられるようになるまでに、結局10分程費やすハメになってしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 

 

 

 

 

 

 一〇分。

 

 僕の顔が落ち着いてくれるまで、それだけの時間を要した。まだちょっと顔は赤いのかもしれないけれど、それは目覚ましに頬を叩いたのだとそういうことにしておく。

 あまりいると心配されるだろうと、荷物をがさつにまとめてバッグに詰めた。そして、ドアの前で大きく深呼吸をして空き部屋を出る。

 リビングに出ると、山吹さんを除いた千紘さん、亘史さん、純くん、紗南ちゃんが迎えてくれた。

 

「あら、友也くん帰る?」

「ええ、今日は本当にありがとうございました」

「またパン作り教えるよ。近いうちに」

「ありがとうございます。また家でも勉強しておきますね」

 

 パン作りもまだまだ精進しなければならない。また教えてもらえるなら嬉しい限りだ。

 

「お兄ちゃん、今日は遊んでくれてありがとう!」

「兄ちゃんのスパゲッティおいしかった!」

「二人ともありがとう。また遊びに来るからね」

「「うん!」」

 

 純くん、紗菜ちゃんにもさよならを言う。今日はたっぷりと遊んであげられたから、二人も満足してくれているようだ。

 

 最後にチラリと、台所の方を見る。

 山吹さんはまだそこにいるようで、明かりが煌々と点いている。

 彼女にも挨拶をしようかと思ったが、今会ってしまったら、今彼女の顔を見てしまったら、折角10分間かけて引かせた頬の熱が戻ってきてしまいそうで、十数秒の柔順の後帰ることを決意した。

 

「……それじゃあ、行きますね」

 

 千紘さんたちにもう一度だけ挨拶をして、リビングを去る。少しだけ寂しさを覚えたけれど、どうせまた明日にも会えるのだ。そう思えば痛くはない。

 というか、そう思わなければ今にも踵を返して台所に突っ込んでいってしまいそうだった。

 

 リビングよりも気温の低い玄関。暖かなオレンジ色の電灯を頼りに靴紐を縛る。誰も見ていないのに、もたもたしている振りをして。

 こうやって靴紐を縛っている間に、彼女が見送りに来てくれないかな、なんて、他力本願に考えながら。

 

「………これで、よし…と…」

 

 そんなことは叶う筈もなく、いつもより何十秒も遅く、丁寧に靴紐を縛っただけとなった。

 立ち上がり、ドアノブに手を掛ける。外気から伝わった金属の冷たさが手のひらを覆う。

 

 その時か。後ろからスリッパで駆けてくる足音。

 

 うわべでは、なんだよ来ちゃったのか、なんて思っているのに、僕の心は正直に心臓を跳ねさせる。

 一瞬だけ、あの熱が、彼女の指先が恋しくなって、振り返ってしまった。

 

「……山吹さん」

「全くもう、挨拶もせずに帰っちゃうなんて、私の部下としての自覚がないの?」

 

 口では怒っているような声をあげるくせに、声色と表情が伴っていない。

 山吹さんは演技派とはいえない性格だな、なんて下らないことを考えながら、適当に返事を返す。

 

「僕はやまぶきベーカリーの正社員じゃありませんよー。……それでも、挨拶しなかったのはまずかったね。うん。……また明日、山吹さん」

「よろしい。……また明日、友也くん」

 

 短く、小さな声で別れの言葉と約束を交わして、今度こそドアノブを回す。

 押し込んだドアの向こう側から流れ込んでくる外気に一瞬だけ表情を歪めて、元に戻す。

 

 最後、ドアを閉める直前に山吹さんにそっと笑い掛ける。

 置き土産のようにそれを残して、家の光から離れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 外から響く靴音が離れていくのを聞いて、私も踵を返す。向かうのは自分の部屋。

 

「姉ちゃん、顔赤くなってるー!」

「あらあら、友也くんに何かされたのかしら?」

 

 リビングを通るところで家族が何か言ってるけど、全部無視。今の私はそれどころじゃない。

 

 暗くなっている二階の廊下の電気もつけずに、自分の部屋に入る。続けて、廊下と同様、電気をつけることもなくベッドに倒れ込んだ。

 

「…………反則っ」

 

 何の仕返しだろうか、彼が最後に向けてきた微笑みは私をおかしくするのに十分な力があった。

 おかげでまた顔は熱いし、心臓もさっきから凄くうるさい。

 彼といると、自分がどんどんダメになっていくような感じがする。「らしくない」ってこういうことを言うのかな。

 

 

 

 

「らしくない……」

 

 冷えている筈の空気の中、いつもならポケットに手を突っ込んで歩くのに、無意識に手を出したまま夜道を歩く。

 今更になって、最後のお土産が恥ずかしくなってきた。顔が熱い。家に戻るまでに治っていればいいんだけどな。

 今日一日、本当に色んな事があった。でも、そのほとんどに山吹さんが関わっているのだ。今日だけで、僕が見たことのなかった彼女の姿をいくつ発見したのだろう。

 

 

 

 

 顔と頭を冷やそうと思い切り窓を開けてベランダに出る。

 六月直前の夜風はもう冷たいとは言い切れないのかもしれないけれど、今の私には十分過ぎるほどの冷却材だった。

 彼も今頃、同じ星空を見上げているのかな、なんてロマンチストみたいに考える。

 

 

 

 

 彼女も同じ景色を眺めていたら嬉しいなと、空に輝くおとめ座を見上げた。

 山吹さんと夜の商店街を歩くときは、いつも星空を見上げていると思い出す。

 

 

 

 

 夜の商店街は暗いから、星の明かりがよく見えて。二人揃って、空を見上げるのだ。

 彼は星座にだって詳しいから、あれは春の大三角、あれはうしかい座、なんて教えてくれる。

 

 

 

 

 そのたびに彼女は僕の指先が指す方を向いて、星座を見つけて。見つけたことに感動しては「よく知ってるね」と言ってくれて。

 

 

 

 

 私の喜ぶ様子を見てはそのたびに、彼は自慢気に「ロマンチックなことは好きなんだ」と語って。

 

 

 

 そうやって二人して笑い合うのだ。

 

 

 

「「ああ、もう………」」

 

 

 

 気がつけばお互いの事ばかり考える。また一段と指先が熱くなって、続くように顔が熱くなって。

 

 ──僕らの指先に灯った熱は、私たちの心拍を加速させて。

 

 

 

 

「「熱いなぁ……」」

 

 

 

 

 夜風は冷たく感じるのに、二人の指先はいつまでも、熱を放ち続けるのだった。

 



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#13

 

 コツン、と。

 

 靴底がコンクリートにぶつかって、軽快な音を立てる。人混みに吸い込まれるその音を聞き流し、一歩足を進める度に変化する景色を見渡しながら、商店街を進み続ける。

 今日はクライブの日。いつもより一本早い電車で帰って来た僕は、十分余裕を持って市ヶ谷さんの家に向かっていた。

 半ば強引に取り付けられた約束だったけれど、いつも頭の中にはあった辺り満更でもないのかもしれない。

 

 商店街の喧騒が、一段と増す。見慣れた四つ角が見えてきたところで、ふと漂ってくる美味しそうな匂いに反応した。

 

「……あー、差し入れとか持っていくべきかな」

 

 匂いの根源はやまぶきベーカリー。今日も変わらず賑わっているようで、入り口の扉はせわしなく開閉を繰り返している。蝶番の負担が、軋む音となって現れていた。

 山吹さんたちは学校が終わったら直接市ヶ谷さんのところに行く、と言っていたので、まともに差し入れなど準備してないだろう。パンを学校に持っていったりしたら戸山さんと牛込さんが食べてしまいそうだ。

 

 と、そこでポケットに突っ込んでおいたスマホから口笛の軽快な通知音。恐らくメッセージアプリだが、一体誰からだろうか。

 

『そろそろ商店街に着いた頃かな? できれば、母さんからパンを受け取ってもらいたいんだけど……』

 

 液晶に表示されたのは山吹さんからのメッセージ。

 やっぱりあの人は用意周到だな、と思いながら片手でスマホを操る。

 

『了解。ちょうどやまぶきベーカリーの前にいたよ。受け取っておくね』

 

 手慣れた動作でメッセージを送ると、すぐに既読がついた。……まだ何かあるのだろうか。

 

『皆が、楽しみにしてて欲しいって』

 

 なるほど。

 

『めちゃくちゃ楽しみにしてるって言っておいて』

 

 そう送信してから画面を閉じて、やまぶきベーカリーの入り口の前に。扉に下げられた「OPEN」表記のプレートの奥に、多くのお客さんの姿が見える。

 扉を開けて、中へと入っていく。いつも通りのベルの音。かわいらしい音も、お店の賑わいへと溶けていった。

 

 いつもの食パンのところには行かず、直接レジの方へ。ちょうど会計が終わった千紘さんに声を掛ける。

 

「千紘さーん!」

「あ、友也くん。来たわね。沙綾から連絡もらったの?」

「そうです。差し入れのパンを受け取ってくれって、さっきちょうどに」

「あら、もうすっかり行動を把握されてるのね」

「……それはそれで怖いですけど……」

 

 確かにタイミングは良すぎた。ほぼ毎日通っているから、行動時間を把握されるのは当たり前なのかもしれないけれど。

 

「うふふ、差し入れのパンなら厨房の方にあるわ。夫もいるから、声をかけてから持っていってちょうだいね」

「ありがとうございます」

「あ、そうそう。チョココロネ、沢山入れておいたわよ」

「あははっ、それは牛込さんが喜びそうだ。ありがとうございます」

 

 他愛ない話をしながら、レジの奥へ行き、厨房の方へ。身体を包む空気が一段と暖かくなる。釜の火がまだ点いている証だろう。

 明かりの漏れだす部屋を覗くと、今も汗を浮かべながら作業をしている亘史さんが見えた。

 

「こんにちは、亘史さん」

「おお、友也くんか。差し入れのパンだね。……はい、これ」

 

 大きめの紙袋に入ったパンを受け取る。早速中身を確認してみると、千紘さんの言った通りチョココロネのロール型とチョコが目立っている。

 

「娘から、チョココロネと食パンは多目にしてくれって言われててね。チョココロネは八つ、食パンは五枚入れてあるよ」

「それはありがたい気遣いなことで……っと、あれ?」

「どうかしたのかい?」

 

 手に伝わった違和感に気付き、思わず声を出してしまう。これは……。

 

「……コッペパンの三つ目、焼き方でも変えたんですか? 随分と固い気がしますけど……」

「……お、気づいたかい?」

 

 よく気づいてくれた、と言わんばかりに亘史さんが笑顔になる。やっぱり焼き方でも変えたのだろうか。

 

「……友也くん、随分と娘に好かれてるじゃないか」

「……ど、どういうことです?」

 

 なぜそこで山吹さんが出てくるんですかね。

 

 先日の色々を思い出してちょっとばかりギクリとする。偶然とはいえ、あれは中々に堪える出来事だった。意識しないようにしていたのだが、山吹さんと会ったときに再燃してしまいそうだ。

 

「朝、娘が随分と早く起きてきて、パン作りをしてたんだ。でも自分で食べるわけでもなく、作ったパンを釜に入れて直ぐに学校に行ってしまった」

「…………いやいや、まさか」

 

 それは僕的には一大事ですよ。心の準備を整えられないうちに爆弾が飛んできそうで、その先を聞くのを躊躇する。

 それでも亘史さんは、笑顔のまま話しかけてきた。

 

「……そのまさか、さ。そのコッペパンは今朝、娘が手作りで作ったものなんだ」

「…………マジですか……」

 

 まさか、この僕が異性からの贈り物を受け取る日が来ようとは。いや正直今更な気はしてるけれど。この前手作り料理はもらったけど。

 手作りのパンなどそう易々ともらえるものではない。驚きと喜びが混在して、少し言葉遣いが荒くなってしまった。

 

「向こうに行った時にでも、感想を伝えておくといいさ。きっと喜ぶよ」

「そ、そうします」

 

 柄にもなく興奮してしまい、少しばかり恥ずかしさを覚える。山吹さんが作ってくれたパンを別の袋にストックして、亘史さんに挨拶をした。

 

「差し入れありがとうございます。それじゃあ、行きますね」

「ああ。みんなにも、よろしく頼むよ」

 

 厨房を出る。沢山のパンが入った袋を大切に抱えながら再びレジの方へと戻り、千紘さんにも挨拶をした。

 

「それじゃあ千紘さん、いってきますね。くれぐれも無理はしないでくださいよ」

「大丈夫よ。久しぶりだから体力も有り余ってるわ。沙綾にも心配ないって伝えておいてね~」

 

 後ろ髪を引かれる思いでやまぶきベーカリーを出る。 千紘さん本人が大丈夫と言っても、僕らはいつだって心配なのだ。山吹さんだって、いつも千紘さんのことは口にしている。

 

 お店を出てからは、市ヶ谷さんの家まで歩き始めた。

 だんだんと太陽の沈む方向も北西から西へと変わっていっている。後ろから照らす夕焼けが、やけに背中を暖めた。

 歩みを進める度に、紙袋の中のパンがガサゴソと音を立てる。潰さないように、柔らかく包んで僕は歩く。

 

 市ヶ谷さんの家までは意外と遠かったように感じる。

 勉強会の時は山吹さんも一緒だったから、あまり長く感じなかったのかもしれない。

 だんだんと、山吹さん無しの生活が考えられなくなっているのかな。それもこれも、多分あの日のせい。

 

 前と同じように門をくぐり抜け、今度は母屋ではなく隣に見えている蔵へと向かった。

 

「なんだこれ……質屋?」

 

「質屋 流星堂」と達筆な字で書かれた看板が、僕を出迎える。市ヶ谷さんの家、質屋なんてやってたのか……。今日の会場はここらしいが、中から人の気配が感じられない。ホントにここなのか? 

 一応ノックをして、中からの反応を待つ。

 

「はーい」

 

 しばらくしないうちに、中からゆったりとした聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 やがて重苦しい扉が開けられ、中から市ヶ谷さんのおばあさんが出てきた。

 

「あらあら、友也くん。あなたも来てくれたのね」

「ええ、勉強会のときはお世話になりました」

 

 市ヶ谷さんのおばあさんと顔を合わせるのは、勉強会以来になる。いつか時間があれば料理でも教えてもらいたいと思っているのは秘密。この前山吹さんの料理が美味しかったこと、結構悔しかったりしているのだ。

 

「……ところで、今日市ヶ谷さんたちが演奏するのって、ホントにここであってますか?」

 

 肝心なのはそこである。中を覗いた限り戸山さんなどの姿は確認できない。

 まだ来てない、などということはないだろうし、流石に心配になってきたのだが。

 

「ええ、この蔵の地下でやる予定ですって。さ、友也くんも早く降りてあげてね。皆さん待ってるから」

「…………あ、ホントだ。階段がある…………」

 

「地下」というワードに一瞬理解が及ばなかったが、案内してくれた先にあった下へと続く階段を見て、やっと納得した。

 階段の向こうから戸山さんや市ヶ谷さんとおぼしき声も聞こえてくる。今日も今日とて仲睦まじい様だ。全く微笑ましい。

 

 階段を慎重に降りる。

 地下の明かり、電灯の明かりが僕の足を包み始めた頃、中からの声が一旦止んだ。

 そして、僕の視界が晴れた頃、そこには小さなライブハウスが現れた。

 

「……やっぱりもうみんな来てたんだね。こんにちは」

 

 地下の空間には既に多くの人が集まっていた。

 いつかの赤いギターを肩にかけた戸山さんが、こちらに気がついて全力で挨拶をしてくる。

 

「ともくんだー! こんにちはー!」

「ああ、戸山さん。こんにちは。今日も元気だね」

 

 戸山さんの挨拶を引き金に、色んな人が挨拶を投げ掛けてくれる。

 

「友也くん、こんにちは」

「よ、友也」

「こんにちは」

 

 いつもの三人に。

 

「こんにちは、友也くん」

「ああ、こんにちは、山吹さん」

 

 山吹さん。

 

 今日はこの六人だけじゃないようで、僕の知らない人たちも来ていた。

 

「ええと、はじめまして。鴻友也(おおとりともや)っていいます。やまぶきベーカリーで働かせてもらってます」

「じゃあ、私たちも自己紹介しなくちゃね。……私は牛込ゆり。高校三年生よ」

「……えーっと、私は戸山明日香です。中学三年です」

 

 んー。どちらも聞いたことのある名字。

 

「……牛込に戸山……ってことは……」

「ええ、私はりみの姉。……で」

「私はお姉ちゃ……戸山香澄の妹です」

 

 なるほど。今日のお客さんはみんな親族が多いのか。

 それにしても、やはり男女比率的に窮屈に感じてしまうな……。

 

「じゃあ、ゆり先輩、明日香ちゃん、でいいかな……?」

「私はそれが一番呼び慣れてるから構わないわ。よろしくね、友也くん」

「ええ、よろしくお願いします、ゆり先輩」

「あ、あすかちゃん…………男の人に呼ばれるのはなんか新鮮ですね……」

 

 う。流石に一つ下なだけの子にちゃん付けは厳しいか……。

 

「まずかったら変えるけど……」

「ああいえ! 大丈夫です!」

「……えーっと、じゃあよろしくね、明日香ちゃん」

「は、はい。よろしくお願いします、友也先輩」

 

 ギクシャクしながらもなんとか呼び方が決まったところで、一つ息をつく。

 

「……で、花園さん。このかわいらしいウサギさんは一体……」

「オッちゃん」

 

 即答で答えが飛んでくる。勉強会の時に英文で騒いでいたオッちゃんとはこの子の事か。

 いかんせんネーミングが謎なのだが…………。

 

「オッちゃん……オッちゃん…………あ」

 

 オッちゃんと正面からにらめっこしている間にわかった。案外簡単じゃないか。

 

「オッドアイのオッちゃん……か」

「友也、凄い。私が答えを言う前に答えるなんて」

「ものを見るのが得意ってだけだよ。しかも分かりやすかったからね。いい名前だと思うよ」

 

 花園さんとウサギを可愛がる。利口な子なのか人懐っこいのか、警戒することなく近づいてきてくれるのがかわいい。

 

 ところで、さっきから視線が痛いのですが、牛込さん。

 

「……と、友也くん」

「……うん、うん。わかってるよ。この袋だよね」

 

 チョココロネの匂いに反応したのかわからないが、さっきから牛込さんの視線が痛かった。

 

「……はい、そういうわけで、やまぶきベーカリーからの差し入れです。クライブが終わったら食べてねってことらしいので、牛込さんはその伸ばした手を納めてくださいねー」

「そ、そんな~! それは殺生だよ友也くん~!」

「ふふ、相変わらずりみはチョココロネ大好きねぇ。あまり食べ過ぎちゃいけないよー」

「お、お姉ちゃんまで~!」

 

 姉妹で仲睦まじい。こういう光景は物凄く心が暖かくなる。

 

「……お姉ちゃん、ホントに頑張ってよ……」

「まかせてあっちゃん! ちゃんと練習したんだから!」

「あー、ほら裾曲がってる……。こっち来てお姉ちゃん」

 

 向こうも向こうで立派に姉妹…………というか、明日香ちゃんの方がお姉さんしてないか? 

 

「そろそろ、始まるかね? お茶請けを持ってきたよ」

「ば、婆ちゃん!」

 

 ここに来て市ヶ谷さんのおばあさんも来た。

 流星堂の地下室はすっかり賑やかになって、皆を見守る山吹さんや僕の視線も自然と暖かくなる。

 

 そんな中、手持ち無沙汰で僕の持ってきたパンを漁っていた花園さんがスッと立ち上がった。

 クライブが終わってからですからね? 

 

「……それじゃあ、皆。そろそろ時間だし始めよっか」

「うん! 皆揃ったし、やろう!」

「オッケー」

「が、頑張るね!」

 

 花園さんの声に反応して、四人がステージへ。

 赤い星形のギター、青いギター、桃色のベース、白いキーボード。

 各々が楽器を弄って音を調整していくのと同時に、空気が張り詰めていくのを感じる。

 静かに見守る僕らからも、自然と言葉は消えていった。

 

「山吹さん、どうしたの?」

 

 やけに真剣に、それでもどこか寂しそうにそれを見ていた山吹さんが気になって、思わず声をかける。

 山吹さんはそれに振り向かずに答えた。

 

「ううん……みんな、頑張ってるなって」

「……演奏前から、もう……?」

「……そう。もう香澄たちの出番は始まってる」

 

 小さなステージかもしれないけれど、今からここはライブハウス。

 これから奏でるのは、四人の音。

 四人が作り出す、ハーモニーの楽園。

 

 さあ、クライブの始まりだ。

 



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#14

 

 機材から流れるザラザラとしたノイズ。

 弦の擦れる音。

 誰かの息遣い。

 

 誰一人喋ることなく、マイクの前に立つ彼女の言葉を待つ。

 

「──こんにちは!」

 

 スピーカーから若干ハウリング気味に響く、元気のいい声。

 スタンドにセットされたマイクに笑顔で喋るのは戸山さんだ。

 

「今日は来てくれてありがとう! 一曲だけだけど頑張って演奏するから、最後まで聴いていってね!」

 

 よく澄んだ、明るい声が蔵の地下全体に反響する。

 戸山さんがマイクから離れると、他の三人の姿勢が整う。

 

 市ヶ谷さんは鍵盤を指でなぞり、花園さんはギターのツマミを調整、牛込さんは緊張をほぐすようにベースを担ぎ直して、戸山さんは一度マイクが離れ、深呼吸をする。

 ステージを包む空気が締まり、奏者も観客も、曲の開始を待つ。

 

 今日演奏する曲は、牛込さんが作ったオリジナルの曲なのだそう。

 チョココロネへの愛を曲にしてしまうあたり、アーティスト気質なところもあるんじゃないだろうか。

 

 ─空気の音が消えて、一瞬、本当に刹那、すべての音が停止する。息遣いすら調子を合わせたかのように止み、空軍が無音に包まれる時間。

 この感覚は知っている。コンサート、ひいては合唱コンクールでも味わえる、()()()()()()()

 

 そんな感覚が頭を巡ったか否か、その思考を優しく包むかのように、キーボードの美しい旋律が響き始めた。

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 

 スピーカーから聞こえていた残響が止む。

 バックグラウンドで流されていたドラム音声も同時に止み、静寂。しばらく誰も動かなかった。

 

「……ありがとうございました!」

 

 再び響く戸山さんの声。

 

 それに続けて、パチパチパチ…………といささか物足りないくらいの拍手が地下室に響き渡る。

 演奏が終わった三人は少しばかり呆けているようだったけれど、戸山さんも含めて四人とも、何かがはっきりしたように笑顔を浮かべ始めた。

 

「……す、凄かった……なんか、皆の音がよく聞こえて……」

「有咲ちゃんも? 私もだったよ!」

「こう、皆の音がギューッって集まってパアァッてひろがったよね!」

「……それは、ハーモニーってことかな?」

 

 皆、矢継ぎ早に感動の言葉を口にする。

 観賞しているだけでも、音が重なる瞬間とかがあって見ていて感動したのだが、演奏していた本人たちは僕らが感じている以上に音を合わせる楽しさを味わっていたのだろう。

 音楽には疎い僕だが、音を合わせる気持ちよさ位はわかるつもりだ。合唱コンクールとかが良い例だろう。

 

 頑張って覚えた楽器で皆と楽しく演奏できたのだから、その感動は筆舌に尽くしがたいものの筈だ。

 

「いやあ、凄かったね。妹が作った曲をバンドでカバーしてもらうと、こんなに誇らしい気持ちになるなんて」

「私、あまりバンドとか音楽とか詳しくないですけど、皆さんとってもかっこ良かったです……!」

 

 一緒に見ていたゆりさん、明日香ちゃんからも賞賛の声が上がる。ゆりさんはうんうんと頷いていて、明日香ちゃんはその綺麗な目を爛々と輝かせている。

 

「ありがとうお姉ちゃん。私、ちゃんと出来てたかな?」

「もちろん! よく演奏できてたよ」

「えへへ、嬉しいなぁ……」

 

 片や立派に姉妹をする仲睦まじい二人。

 

「あーちゃん! 私はどうだった?」

「……お、お姉ちゃんも、かっこよかった」

「うふふーっ! ありがとうあーちゃん!」

 

 片やちょっと素直じゃない妹と、素直すぎる姉の図。

 

 そんな中、戸山さんを呼ぶ声が響く。

 

「……香澄」

「ん? どうしたのおたえ?」

 

 戸山さんの反応にすぐには応えず、何かを掴むように両手を開いたり閉じたりする花園さん。

 やがてその手を握ったかと思うと、うん、と一度頷いた。

 

「確かに、このままじゃSPASEには出られないね」

「……う、そっかあ……」

 

 落胆するような表情を見せる戸山さん。

 しかし、その表情を否定するように花園さんが続けた。

 

「でも、今日は凄く良かった。皆で合わせるのが、こんなに楽しかったなんて」

「…………!」

「だから、私も一緒にSPASEを目指させてほしい」

 

 花園さんの言葉。

 その意味を正しく受け取った戸山さんが、暗かった表情を再び明るく染め上げた。

 

「ありがとう! おたえ!」

 

 今日一番の笑顔で、そう言う戸山さん。

 その笑顔につられて、他のみんなも笑顔になっていく。

 戸山さんの笑顔は、魔法のようだ。

 いつだって周りを幸せにして、明るく導いてくれる強さがあって。

 どんなことにもまっすぐぶつかる彼女だからこそ、花園さんも振り向いてくれたのかもしれない。

 

 少し離れて、改めて向き直る花園さん。

 視界にみんなを収めるような距離で笑顔になる。

 

「これからよろしくね、みんな」

 

 いつものように落ち着いていて、よく感情の読めない声だったけれど。

 今は、その笑顔が、彼女が喜んでいる何よりの証拠だった。

 

「ああ、よろしくな」

「よろしくね、おたえちゃん」

 

 市ヶ谷さんは微笑んで、牛込さんは笑顔で応える。

 

「おたえがいれば百人力! SPASEも夢じゃ無くなってきたかも!」

「練習は厳しくいくよ」

「そ、そんな~…………でも、SPASEに出るためだもん。頑張るよ!」

「その意気その意気」

 

 いつものように会話を繰り広げる二人。

 花園さんが加わったことで、これで戸山さんのバンドは四人になった。

 これから、ドラムのメンバーを探しながらSPASEでのライブの為に練習を重ねていくのだろう。

 

 あれ、そういえば。

 

「……ねぇ、戸山さん」

「ん? どうしたの?」

「……このバンド、名前は何て言うの?」

 

 まだ、このバンドの名前を聞いていない。さっきから「戸山さんのバンド」と読んでいるだけだ。

 やっぱりバンドたるもの、立派な名前があるのだろう。戸山さんのことだからまた奇抜な名前をつけているのかもしれないけれど。

 

「そうだよ! バンド名!」

「「「あ」」」

「えっ」

 

 バンド名を決めずに、真っ先に仲間集めをするあたり、とても戸山さんらしい。

 すぐさま戸山さんのところに集まり、話し合いを始める4人。

 

「私考えても良い?」

「いやダメだろ。香澄語全開になる」

「うさぎって混ぜても良い?」

「いやダメだろ。メルヘンじゃねぇか」

 

 あーだこーだと相談を始めるも、冒頭から躓いている模様。花園さん、うさぎを混ぜるってどういう。

 隣に居た山吹さんたちとその様子を観察しながら、雑談をかわす。

 

 

「バンド結成も、現実味を帯びてきたねー」

「……戸山さんがバンドやるって言ったのはいつ頃?」

「五月の初め……キミがうちで働き初めたのが五月に入って少しした頃だったから、それの少し前くらいかな」

「へぇ、じゃあ一ヶ月くらいでここまで……」

「あー確かに。そう思うと早いものだね」

 

 僕の知らない間にも一生懸命練習してきたのだろう。人間、熱意とかやる気でいくらでも成長できるものだ。

 

「まあ戸山さん、やるって言ったら必ずやりきりそうな性格してるし」

「まあ、お姉ちゃんは昔からそうでしたから……」

 

 明日香ちゃんが少し呆れたように呟く。

 それでも視線の先はみんな同じ、戸山さんの方を向いていた。

 

 戸山さんは本当に、周りを巻き込んでいくのが得意だと思う。

 弾けるような笑顔と常に熱のこもった喋り声は、相当でもない限り突っぱねるのは憚れるだろう。

 そんな強引な戸山さんだからこそ、こんなにいい仲間が見つかるのかもしれない。

 

 かれこれ十分程、彼女らは相談を繰り広げていた。

 あれがいいのこれがいいの、それは違うだの香澄語はやめろだの。

 そんな会話の後、戸山さんが仰向けに倒れる。

 

「──だめだあー、いいのが思い付かない……」

 

 バンド名はこれからの活動に一番ついて回るもの、そう簡単に決まるものではなかったのだろう。

 

「そうトントン拍子で決まるようなもんじゃないしな……」

「どうしよう……」

「うーん」

 

 他の三人も考えが煮詰まっている模様。

 いつまでも難しい顔をしている皆を見かねて、山吹さんが動いた。

 

「よし! みんな!」

 

 大きな声と、パンッとならされた手のひらが、張りつめた空気を緩める。みんなの視線は彼女の元に集まっていた。

 

「今急いで考えても仕方ないよ。そんな簡単に決まるものでもないでしょう? 今は、クライブの成功と花園さんの加入祝いをしよ!」

 

 言うが早いが、山吹さんは持ってきていた荷物から沢山の袋を取り出した。中身はお菓子、ジュース等々、学生の打ち上げにはよく名前の上がるもの。

 ちゃぶ台の上に、次々と積まれていくお菓子たち。

 

 少しの間、あっけからんとその様子を見ていたが、ハッとして僕も近くに置いておいたパンの袋を引っ張ってきた。

 

「うん、そうしようか。ほら皆、やまぶきベーカリーのパンもあるんだし、早く食べないと悪くなっちゃうよ」

「チョココロネ……!」

「メロンパン……!」

 

 反応が早い牛込さんと花園さん。目を輝かせて、茶色い紙袋を穴が空かんばかりに見つめている。

 

「二人とも落ち着いて。まずは、きちんと準備してからね」

「う、うん。わかってるよ?」

 

 今にもパンに食いつきそうな二人を嗜めて紙袋の中身を空けていく。

 

「ほら、ゆりさん、明日香ちゃんも。皆で打ち上げしましょう?」

 

 後ろで見ていた二人にも声をかける。

 打ち上げなのだから、仲間外れは無し。さっきの演奏を楽しんだ人達全員でやるのが当たり前というものだろう。

 

「誘ってくれてるなら、混ざらせてもらおうかな」

「……えっと、じゃあお言葉に甘えて……」

 

 二人も承諾して、ちゃぶ台のそばに寄ってくる。

 比較的小さなちゃぶ台だったが、今回はただお菓子を置くためだけに使ったので混雑などはない。

 広めの地下室を八人で広く使って、その場に座る。

 

 やがてちゃぶ台の上一杯にお菓子とパンが広げられた。

 もちろん、例のコッペパンは僕の手に握られている。

 

 周囲は甘い匂いで包まれるが、不快感はない。

 皆それぞれ、思い思いの飲み物を入れたグラスを持つ。

 乾杯の音頭は山吹さん。

 

「─それじゃあ! クライブの成功と、花園さんの加入を祝って!」

 

「かんぱーい!」

 

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ、お疲れ様」

「牛込さん、今日は良かったよ」

「うん、二人ともありがとうね。また明日~」

 

 ガチャリ、とドアが閉められる。

 周囲はすっかり暗くなっていて、いつかの勉強会の時よりも遅い時間で帰っている僕らはそろそろ夜目が効いてきてしまった。

 

 牛込さんを家まで送った僕は山吹さんと二人になった。

 周りから聞こえる鈴虫の声も、時を経るにつれて大きくなっているように感じる。

 

「それじゃあ、最後のエスコート、お願いね」

「はいはい、了解しましたよ、お嬢様」

 

 そんな軽口を交わして、商店街に向けて歩き出す。

 空には既に月が昇っている。

 大きく欠けた月は、地上を照らすには残念ながら不十分な光だけを放っており、さらにそこに叢雲がかかっているので、地上に月明かりはあまり届いていない。

 僕らの影も、見えないくらいに薄くなっていた。

 

 しばらく軽口を交わした僕ら。

 ちょうどいい頃合いかと、僕にとっての本題を切り出した。

 

「そういえば、今日食べた食パン、凄く美味しかったよ」

「お、やっぱり父さんから聞いてたんだね。ふふ、ありがと」

 

 こちらに微笑みかける彼女。僕はそれを見つめたまま、気になっていたことを質問した。

 

「あのパン、なんでまた?」

「日頃の感謝ってものだよ。それと、君に私のパン作りの実力を見てもらうためかな」

 

 夜道は暗い。側溝に足を突っ込んでは危険だと、実はさりげなく彼女を道路側に移していたり。いかんせん、彼女との距離が近いような気はするけれど。

 

「ちゃんと美味しかったよ。僕もまだまだだなぁ」

「ふふ、キミのことだからすぐに上手くなるよ」

「それ、前も聞いたかも」

 

 叢雲は晴れない。道路脇にある照明と、時々通る車のヘッドランプが、僕らの光源だった。

 

「じゃあさ、なんで直接渡さなかったの?」

「…………それは……」

「言いたくない?」

 

 前から軽自動車が来た。ヘッドランプの明かりが下げられ、僕らの目を焼くことはない。

 運転手がこちらの姿を認めてくれたようで、僕らを避けるような軌道を見せる。

 

……直接渡すのが、恥ずかしかったから……

 

 山吹さんがそう言うのと、軽自動車が僕らの影を作りながら通り過ぎていくのは同時だった。

 

 もしも、もしも彼女との距離がもっと広ければ、聞こえていなかったのかもしれない。

 あるいは今通りすぎたのが大型トラックなどだったら、今の山吹さんの言葉は僕の耳には届かず、僕は山吹さんに聞き直していたことだろう。

 

「そ、そっか……」

「えっ…………聞こえたの…………?」

「まあ、あれぐらいで聞こえなくはならないよね。……ていうか、今の狙ってやってたのか」

 

 ……恥ずかしいなら言わなければいいのに。

 考えた言葉とは裏腹に、みるみる顔が熱くなる。

 わざわざ言ってくれたことに嬉しさを覚えながら隣を見れば、わずかに照らす月明かりの中でも山吹さんの頬が染まっているのが見えた。

 

 先日に色々あってから、山吹さんとはずっとこんな調子。

 正直、顔を合わせることですらあの事を思い出してしまって赤くなるほどなのだから、双方かなり堪えてはいるのだろう。

 だから、さっきのようなことを言われてしまうと、それはそれはまあ、意識してしまうわけで。

 夜の歩道で、二人して顔を熱くしてしまうのであった。

 

「……と、とにかく、僕は山吹さんの手作りパンが食べられて嬉しかったよ」

「……そ、それはありがとう……」

 

「手作りパン」っていう響きが、やけに耳に残る。自分で言ったことなのに。

 

 二人とも無言のまま、暗い道を歩く。

 何かを話そうにも、いざ口を開こうとすると言葉が出てきてくれない。

 コンクリートから空気に響く足音が、二人の耳にやけに響いてしまう。

 

 

 ふと、湿り気を帯びた向かい風が吹き付ける。

 山吹さんが少しだけ目を細めて空を見上げた。

 風は二人の髪を巻き上げ、遥か後方へ吹き抜けていく。

 もうそろそろ、雨が多くなる時期だろう。蝙蝠傘が活躍する日が極端に増えそうだ。

 

 商店街に入った直後、やっと顔の熱が引いた頃、山吹さんが喋り始めた。

 

「……ねえ、私がキミと知り合って何ヵ月経つのかな」

 

 いつもより少しトーンが低い声。

 

「……僕が初めてやまぶきベーカリーに行ったのが去年の十月くらいだから……そろそろ八ヶ月になるかな」

「そっか……もうそれだけ経つんだね……」

 

 隣を見れば、どこか懐かしむような、そんな雰囲気を滲ませた声を放つ彼女。

 明かりのない空間では彼女の輪郭が朧気に見えて、彼女がどんな表情なのかが掴めなかった。

 

「香澄がバンド始めるって言って、そこに皆が集まって。気がついたらこんなに大きなことになっててさ」

 

 商店街も、明かりは少ない。

 暗闇に慣れてきた目で見た山吹さんは、これまであまり見たことのない表情をしていた。

 そんな姿が珍しくて、相槌も忘れて話を聞く。

 

「私はそういうこと、出来ないからさ。ちょっと羨ましいなって思うんだけどね」

「……でも、それはお店があるからで」

 

 商店街の入り口からやまぶきベーカリーまでは、そう遠くない。山吹さんとの話も、これが最後になるだろう。

 

「ううん、違うの。母さん、普段の家事も張り切っちゃうから体調崩すことも多くて」

「…………お店だけじゃ、ないんだ」

「……うん。だから」

 

 暗い道の向こうに、見慣れた看板が見えてきた。

 隣接する家の窓から、オレンジ色の光が漏れている。

 

「私はまたお店の手伝いとか忙しくなるし、文化祭の実行委員もやるって言ったら、みんなのこともあまり見られなくなっちゃうからさ」

 

 そこまで言って、駆け出す山吹さん。やまぶきベーカリーまでの距離はもう百メートルも無く、僕らはそのまま山吹さんの家の前まで到着した。

 さっきまで叢雲のかかっていた月が、少しだけ顔を出す。僕らの背後に影を作る。

 追い付いてきた僕を見て、山吹さんが少しだけ寂しそうに言った。

 

「だからさ、みんなのこと、よろしくね」

 

 その言葉と表情がいやに気になって、思わず口を開きかける。

 でもその寂しそうな表情は一瞬で消えて、その顔はいつもの微笑みを浮かべていた。

 

「今日はありがと。……またね、友也くん」

 

 そのまま振り返り、扉へと向かっていく山吹さん。

 その姿が見えなくなると同時に、僕も歩き出す。

 

 先刻の寂しそうな表情はなんだったのか。

 こういう時に限って、山吹さんの考えていることは読み取れない。あんな表情を見慣れないからだろうか。

 胸に少しの引っ掛かりを覚えたまま、足を進める。

 

 突然、ポケットのスマホが震える。

 

 山吹さんから連絡かと思ってポケットから取り出したスマホには、ポップアップ表示は無い。

 電源ボタンを軽く押してやると、時計と共に一つ通知が入っていた。

 

 何の変哲もない、ニュースアプリからの通知。

 例年より早い九州地方の梅雨入りを伝える表示をフリック操作で消去すると、再びポケットにスマホを入れて歩き出す。

 

 

 六月。

 商店街の空にも、灰色の雲が掛かり始めていた。

 



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#15

 

「いらっしゃいませー」

 

 店内に響く自分の声。

 始めの頃よりかは声量も上がっただろう声に、入ってきたお客さんも応えて挨拶を返してくれる。

 

 クライブから数日経つ。

 山吹さんの妙な表情はあれ以降見ることはなく、いつも通りに毎日を過ごしている。

 何かを抱え込んでいることに間違いはないのだろうが、いかんせん手がかりが少な過ぎるがゆえに予想も想像も出来ないでいる状況。

 

 直接聞いて嫌な気持ちにさせるのも如何なものかと思い、結局心に引っ掛かりを覚えたままこうして接客をしているのだが。

 

「時に友也くん」

「なんでしょうか」

 

 レジが空いた隙に、隣から山吹さんが声を掛けてくる。

 顔を見ると、何やら考えている様子。先日の件がどうこう、という表情ではないが、どうしたのだろうか。

 

「……あれから私、結局文化祭の実行委員をやることに決めたんだけど……」

「お、それなら安心して発表が見られそうだ」

「あはは! それ、香澄が聞いたら傷つくよ~」

「それはマズイ。是非とも黙っていて欲しいね」

 

 戸山さんが企画を立てるとなると、良し悪しはともかくきっと予想もつかないことをやらかしてのけるだろう。ブレーキ役として、山吹さんは適任なんじゃないだろうか。

 

「ところで、何をやるとかはもう決めたの?」

「そう、それなんだー」

「……ああ、さっき悩んだ風にしていたのはそういう……」

「そういうこと。それで、物は相談なんだけど……キミから何か案は無いかな?」

「僕に発案を求めますか。花女とか、クラス発表どころか文化祭に行ったことすらないんだけども」

「そこはほら、何も知らないからこそ、ってことで」

 

 いや、僕は文化祭の発表とか、そういう類いの発案者になるような人物じゃないんですけどね。

 しかし、特色があって、かつ中高生にウケのいい企画とな。都合よく思い浮かぶようなものじゃないと思うのだけれど。

 

 山吹さんも中々案が浮かばないようで──というか、僕に相談をもちかける時点で案は浮かんでいないのか──二人して似たように唸る。

 

 ずっと考え込んでいるわけにもいかず、接客もしなければと、そんな考えが浮かんだところで、ドアのベルがかわいらしい音を立てて鳴った。

 

「こんにちは~」

「あ、りみりん。いらっしゃい」

「お、いらっしゃい、牛込さん」

 

 ドアから姿を覗かせたのは牛込さん。

 学校帰りのようで、茶色い制服に身を包んでいる。

 

「こんにちは、沙綾ちゃん、友也くん。チョココロネ、あるかな?」

 

 ちょっとだけ頬を染めて、キラキラした目で訪ねる牛込さん。

 それもいつものことであるから、僕らは微笑んで返事をする。

 

「もちろん! ちゃんといつものところにあるよ」

「残りも多いはずだから、好きなだけ買っていってね」

 

 その言葉を聞くな否や、チョココロネのコーナーへとトレーを持って向かっていく牛込さん。

 角を曲がり、その目にチョココロネの像を映した途端「ふわぁ~!」と声を上げるものだからかわいらしい。

 普段の動きを動画編集で倍速にしたかの如くするすると沢山のチョココロネが置かれた前へ行くと、嬉々としてトレーにチョココロネを置き始める。

 

 やまぶきベーカリーのチョココロネがおいしいのは、いつも食べてくれる牛込さんのために亘史さんが研究を重ねているから、なんて噂もある。

 まだ僕が客であった時期、山吹さんにチョココロネの中身のチョコについて熱弁する牛込さんを何度か見かけた事がある。

 

 もちろん、チョココロネに限らずやまぶきベーカリーのパンは美味しい。そんなことは僕と青葉さんあたりが証明しているはずだ。

 商店街の周りに住む人で通っている人は多いが、いかんせん僕のような高校生の客足は少し離れたデパートに向かうことが多く、このお店のパンを食べたことがないなんて同級生も見かけたことがある。

 まったく、もったいない限り……………ん?

 

「……ねぇ、山吹さん」

「? どうしたの?」

「花女の文化祭って、毎回かなりのお客さんが来るよね?」

「そうだね。この辺りでは敷地も大きい学校だから、その分規模も大きいかな」

 

 ならば。

 

「ならさ、ここのパンを出すカフェ的なものをクラスでやったらいいんじゃない?」

「うちのパンを?」

 

 文化祭である以上、友人、旧友等の関係で、訪れる人々は必然的に中高生が多くなる。

 そこを狙って、普段やまぶきベーカリーを訪れない人達にもやまぶきベーカリーのパンを味わってもらい、あわよくばリピーターになってもらおうという算段。

 字面だけ見ると中々計算高い商売人のように見えるが、動機は「やまぶきベーカリーのパンを知ってもらいたい」という一心である。

 

 ……山吹さん目当てでリピーターになる人もいそうだな。この人、普通にかわいいし。

 

「いい案なんじゃないかな? 今度、クラスで言ってみよっか」

「私も賛成かな。チョココロネが減っちゃうのが少しだけ寂しいけど……」

 

 いつの間にかチョココロネを取り終えた牛込さんも、話を聞いていたらしい。今日はチョココロネ5つですね。

 

「……まあ、受けはいいとしても、やまぶきベーカリー側の負担が心配なんだけれど……」

 

 クラス単位、文化祭で販売する規模となると、必要数もかなり膨れ上がるはずだ。

 クラスで了承されたとしても、当のこちら側が無理となっては企画倒れもいいところだ。

 

「うちのパンを文化祭で販売……か。いいんじゃないか?」

 

 レジで聞くのは随分と珍しい声が、後ろから聞こえた。

 

「あ、父さん」

「わ、亘史さん。珍しいですね」

「こ、こんにちは」

 

 振り向いた先には亘史さん。どこから話を聞いていたのか、感心したような表情をして立っていた。

 

「数に関しては問題ないよ。増えるだけならいくらだって焼けるさ」

「え、そうなんですか」

 

 意外とあっさり解決してしまった数の問題。心配が杞憂に終わって、なんだか力が抜ける。

 

「そうだね。折角だから、その日は休みにして花女の方にお店を開こうか。もちろん、娘のクラスメイトの協力でね」

「それは………山吹さん、大丈夫?」

「大丈夫だと思うよ。皆、文化祭には積極的だし、なにより香澄が引っ張っていってくれるだろうから」

 

 トントン拍子で進む計画。頭の隅で問題がないか考えてみるも、十分に解決できそうなものばかりだ。

 

「ふふ、さしずめ『やまぶきベーカリー 花女支店』と言ったところかな?」

「唯一の問題は、りみりんが商品を食べちゃうかもしれないことかな?」

「さ、沙綾ちゃん!」

 

 僕がパッと思い付いた案にどんどん肉がついていく。

 せめて手持ち無沙汰にならないようにと、亘史さんに尋ねてみた。

 

「……接客とかは山吹さんがやってくれるし……あとは運搬とか………何か、僕に出来ることはありますかね?」

「……そうだなぁ……じゃあ、当日にパンを運び出すのを手伝ってもらいたいかな。そこは男の人手が欲しい力仕事だからね」

「わかりました……えーっと、あとは………」

 

 それからも接客をしながら少しずつ計画を練る。

 計画の骨格が出来上がった後は、提供する商品のラインナップ、内装の飾り付け等まで話していた。

 

 話し込むこと数十分。結局、話し合いがまとまる頃には外はちょうど暗くなり始めるところだった。

 

 

 

「それじゃあ、またね沙綾ちゃん、友也くん」

「うん、じゃあ、明日学校でね。りみりん」

「お疲れ様。牛込さん」

 

 星が瞬き始めた外、いや、雲がかかって見えない星も多い空へと、牛込さんの姿が消える。

「やまぶきベーカリー 花女支店」計画は、かなり細かいところまで練り上がった。あとは、学校でこれを提出、シフトなどの調整を行っていくのだそう。

 意外なことに発案者になってしまって少々困惑していたが、我ながらいい計画を思い付いたんじゃないかと思っている。きっかけになった牛込さんには今度チョココロネを奢ってあげよう。

 

 再び戻ったレジで、残り少ない勤務時間を過ごす。

 客足はだんだんと少なくなり、山吹さんと他愛ない話をする時間も増えてきた。

 

「……文化祭、いつだっけ?」

 

 唐突に、山吹さんから投げ掛けられる質問。

 空を見つめる両目は、どこか遠くを見ている気がした。

 

「……例年通りなら、あと三週間後、月末だね。詳しいことは山吹さんの方が知っているはずだけど」

「……そっか。あと三週間なんだ……早いね…… 」

「まあ、僕がここで働き始めてから一ヶ月経つし、それと同じ期間を過ごすと思えば。しかも、山吹さんは実行委員なんでしょ? 準備忙しさですぐに過ぎた様に感じると思うよ」

「…………うん、そうだね」

 

 いつものように投げ掛ける軽口。

 それに応える彼女の声は、少しばかり気の抜けたような、上の空のような雰囲気を纏っていた。

 まるで夜の曇り空を映したような、それでも光を反射してキラリと輝く彼女の瞳孔は、つい数日前に見たものによく似ていた。

 

「……文化祭の準備で忙しい期間は任せてよ。接客はこなせるようになってきたから、山吹さんは、クラスメイトの皆を引っ張っていってあげて」

 

 夜は、人の姿をありのままに映す。

 心のどこかにわだかまりを覚える彼女は、その姿を夜に映したまま、僕の言葉に応える。

 

「……そうだね。もしかしたら準備で遅くなるかもしれないから、その間は、お店のこと、母さんのこと、よろしくね」

 

 いつもより、息の吐く量が多く、空気に紛れて薄くなる彼女の声。

 

 お客さんの開けて行ったドアから、湿り気を帯びた風が入り込んで、僕らの横を吹き抜けていった。

 

 

 明後日から5日間、雨が降る。スマートフォンの通知が、それを伝えていた。

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 蝙蝠傘を回す。

 

 傘に溶けられない水滴が撒き散らされて、コンクリートに打ち付ける雨と混ざって、地面を暗色に染める。

 地面から反射した水滴が、黒い靴と、灰色のスラックスの裾を濡らしていた。

 暗く灰色に染まった乱層雲は、重く空にのし掛かって雨を降らせる。

 

 梅雨前線は近畿地方にもその勢力を伸ばし、その余波は僕らの住む地方にまで雨をもたらしていた。

 商店街中に色鮮やかな蝙蝠傘が浮かび、皆それぞれが雨から身を守っている。

 

 僕は今日もバイト。そろそろ働きすぎと言われてもおかしくないかもしれない。

 雨に降られたやまぶきベーカリーは、その看板から水滴を滴らせながらも暖かい光を店内から漏れ出させている。

 

 いつも通り、お店の入り口から入っていく。

 

「こんにちはー」

「あら、友也くん。お疲れ様」

 

 レジから僕を迎えてくれたのは千紘さん。

 

 店内に、お客さんの姿は少ない。やはり雨の日は積極的に外出しようとする人も少ないのか、パンの残りもいつもより多いようだ。

 

「ごめんね、こんな日まで。雨、結構降られたでしょう?」

「いえいえ、これくらいなんてことないですよ。どうせ学校の帰りで濡れるのはわかってましたから」

 

 千紘さんと会話しながら、いつもの空き部屋へ。

 少し濡れてしまった靴下と、裾が濃い灰色に染まったスラックスをそのままに、ブレザーを脱いでエプロンを装着。足元が少々気持ち悪いが、気にするほどではない。

 最早着替えと呼べるのかすら怪しいが、数分とかからずに着替えてすぐにレジへ。

 

「千紘さん、変わりますね」

「ありがとう、友也くん。それじゃあ、少し休ませてもらおうかしら」

 

 午前から店番をしていたであろう千紘さんと、接客を変わる。

 とは言ったものの、先に言った通り今日はお客さんが少ない。

 変わってから、中々レジにお客さんが来ないでいると、後ろで座っている千紘さんから声がかかってきた。

 

「……今日は、沙綾は遅いのかしら?」

「そうですね。文化祭の企画とかで遅くなるって、さっき」

 

 いつも隣にあった暖かさが無いのは、すぐに慣れられるものではない。

 僕が働くときには、ほぼ毎回、山吹さんも一緒に働いていた。

 レジに二人並んだときの感覚は、僕にとっては当たり前のことで、それがない、ということはどうしても落ち着かないものだった。

 雨のせいなのか、彼女がいないせいなのか。いつもより体に触れる空気が冷たい。左隣のスペースはいつもより広くて、少しだけ左側に移動した。

 

「友也くんと二人でいるのも、珍しいわね」

「まぁ、いつも山吹さんがいましたから」

 

 反対に、千紘さんと二人で一緒にいる時間はほとんどない。

 千紘さんと一緒にいるときは、山吹さんであれ、純くん、紗菜ちゃんであれ、そこに誰かしらがいたはずだ。

 バイト中も基本的に僕が来たり、山吹さんが帰ってきたら休んでもらっているから、一緒に働く機会も必然的に少なくなるというもの。

 

「……そうね。じゃあ、沙綾もいないことだし、少し話でもしましょうか」

 

 だからだろうか。

 

「……話、とは」

 

 いつもよりトーンが低くて、やけに真剣身を帯びた声。その声がとても珍しくて、僕の背筋も自然と伸びるのがわかった。

 店内にいた最後のお客さんの会計を済ませて、千紘さんの方を向かないまま話を聞く。

 

「……いずれ、貴方には話そうと思っていたこと。沙綾について、貴方に知っておいてもらいたいことがあるの」

「………それは」

 

 雨が強くなった。

 

 屋根に打ち付ける水滴は店内まで音を響かせ、ドアの向こうのコンクリートは勢いよく雨粒を反射する。

 外との明るさの違いで、窓に僕らの姿が映る。その窓にも水滴がついては、尾を引いて流れ落ちていった。

 

 その中でももちろん、千紘さんの声は聞こえる。

 

「……これから話すのは、沙綾の過去。一年前の、貴方が沙綾と知り合う前の出来事よ」

 

 空を染める灰色が、一層厚くなった気がした。

 



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#16

 

 山吹さんの、過去。

 

 その言葉に反応できず、後ろを振り替える余裕もない僕に向けて、千紘さんは少しずつ喋り始めた。

 雨粒が一滴、窓ガラスを渡る。

 

「過去って言っても、十年前とか、生まれた直後とか、それほど昔じゃないわ。むしろ逆。ちょうど今から一年前の話よ」

 

 一年前。山吹さんが僕と知り合う数ヵ月前。二人が未だに、中学生だった頃。

 

「沙綾、その時期のことについては絶対に話さないから。知ってるのも、私と夫と、あと少しの人たちだけよ」

「そのあと少しっていうのは、戸山さんとか……ですか?」

「いいえ、あの子たちじゃないの」

 

 それを聞いて、動きにまでは表さないものの驚いてしまう。

 山吹さんと今のところ一番親しく接しているのは戸山さん達だと認識している。

 僕が知ることなど、戸山さんが知っていることの一つに過ぎないと思っていた。それほどまでに、彼女たちは仲が良かった。

 その戸山さん達にすら話していない、山吹さんの秘密。

 

「……そんなことを、僕に」

「貴方だからこそ、よ」

 

 僕にそんなことを伝えたところで、という僕の思考を、口に出した直後に否定される。

 

「貴方だからこそ、知っていて欲しいことなの。今、一番沙綾の近くにいるのは、友也くん、貴方だから」

「そんな───」

 

 そんなこと、と反射的に否定しようとしたところでその口をつぐむ。

 自惚れではない。この人の言っていること、僕らを一番近くで見てきてくれた千紘さんが言うことだからこそ、この言葉は真実になる。

 少し思い返してみれば、僕と彼女の距離というのは思春期の男女として「ただの友達」などとはとても言い難いもの。

 同性の友人なら「仲が良い」だけで片付く距離感も、異性となるだけでとても近く感じてしまう。

 

「沙綾、お店の手伝いばかりしてたから、家に誰かを呼ぶなんてことが少ないの。家の玄関から家族以外の人が出ていくなんて、結構珍しいことなのよ?」

 

 追い討ちをかけるような、千紘さんの一言。僕はつくづく、押しに弱い人柄なんだなと自覚する。

 

「………わかりました。話、聞きます」

「ありがとう、友也くん」

 

 諦めたように一言告げる。

 

 一体いつから、こんな引き返せないところまで足を踏み入れていたのだろうか。

 

 山吹さんと密接に過ごしたのは一ヶ月程でしかない。

 一ヶ月など、クラスメイトとそれなりに話す程度まで進展するだけで費やしてしまうほどの、短い時間だ。

 だが間違いなく、この一ヶ月間は僕らの関係の大きな変化があった。

 中学の頃、あの短い時間では成し得なかった変化。

 

 一体いつから?

 

 初バイト? 勉強会? クライブ? それとも、あの日?

 彼女と過ごしたこの一ヶ月を、走馬灯のように振り返る。

 決定的な変化は一日一緒に過ごしたあの日だっただろうが、それだけが全てではない。

 

 彼女と過ごす日々は、どこまでも輝かしかった。

 初バイトも、勉強会も、クライブも。

 彼女といると楽しくて、話していると心が弾んで。彼女と過ごす時が、なによりも楽しみで。

 彼女のことをもっと知りたいと思うほどに、彼女の深みへと沈み込んでいく。

 

 だから、だからこそ。

 陽の目ばかり見ていたから、そろそろ陰にも目を向ける時が来たのかもしれない。

 

 

「それじゃあ、本題を話すわね」

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 話は去年の春、沙綾が中学三年生になったところまで遡るわ。

 さっきは「最近のこと」なんて言ったけど、振り返ってみると随分と懐かしい気もするわ。

 

 当時、沙綾には花女の中等部に入学した時から仲の良かった友達がいたの。

 沙綾がお店の手伝いで忙しいときがあっても、ずっと一緒にいてくれた友達。いつでも仲良しで、ずっと4人で固まってたのを覚えているわ。

 花女、羽丘バラバラに進学して、貴方が名前も知らないような子たちだけれどね。

 

 中学一年、二年と一緒に過ごしてきて、周りから見ていても本当に仲が良かった。

 夏休みみたいな長期休みは、沙綾とその子達を一緒に見ない日はないくらい………っていうのは言い過ぎかしら。でも、それくらい一緒にいたわ。

 

 

 

 じゃあ、前置きはこれくらいにして。

 

「……友也くん、SPACEは知ってるわよね」

「ライブハウスで……ガールズバンドの聖地、でしたっけ。戸山さんたちが目指してるっていう」

 

 そう。

 

 二年生の冬休み、ちょうど年末だったかしら。

 いつもの四人組のリーダー役……沙綾と一番仲が良かった子ね。その子が沙綾たちをSPACEの年末ライブに誘ったの。

 花女の高等部からもバンドが出るからっていうことで、四人とも行ったんだけどね。

 

 そうそう。その夜帰って来た沙綾の顔。

 あんなに目を輝かせて話をしてくれたのはいつ振りだったかしら。

 家に帰ってくるなり、台所にいた私のところに来てね。それで、こう言ったのよ。

「私たちも、バンドがやりたい!」って。

 

 

 

「………バンドって」

 

 今まで断片的だった手掛かり。

 勉強会の時。クライブの時。その帰り道。

 その全てが、線で結ばれていく。

 

「……そろそろ察して来る頃かしら?」

 

 戸山さんのギターを見たときの表情。

 演奏を見たときの目を細めた表情。

 夜風が湿っていたあの道での、あの喋り方。

 別れ際に一瞬見せた、寂しそうな表情。

 

「沙綾はね、その四人とバンドを組んでいたの」

 

 そして、千紘さんの口から紡がれる「過去」の語り。

 

「………そのバンドは、どうしたんですか」

 

 もう結論など明らか。

 なのに、それなのに、それを認めようとせずに意味のない質問を返す。

 

「………今は、どうなっているのかわからないわ。でも、結成当時のメンバーでなくなっていることは確かよ」

「つまりそれは」

「沙綾は、そのバンドを脱退している、ということ。今もそのバンドがあったとして、結局当時の四人が並ぶ光景は見られないわ」

 

 千紘さんが言葉にすることで、嫌が応でも僕の頭はそれを認識する。千紘さんの言葉でなければ、真実を真実と認められなかった。

 

「……仲が良かった、んでしょう? なんで……」

「……続きを話すわ」

 

 

 

 バンドをやるって決めてからのあの子たちは早かったわ。

 

 四人でやるものを決めて、本格的に練習し始めたのは……三年生になる前くらいだったわね。

 春休みの後半なんかは、毎日練習してたかしら。

 花女は中高一貫校だから。沙綾たちはそのまま高等部に進学するつもりだったから受験勉強の心配もなかったの。だからバンド活動も気兼ねなく出来たみたい。

 

 沙綾が担当したのはドラム。

 バンドにのめり込んでからは、二階から練習のために何かを叩いている音をよく聴いていたわ。

 あの子ったらとっても楽しそうに練習してるんだもの。私がたまに覗いても気がつかないなんてこと、しょっちゅうだったわ。

 皆で集まって練習する日なんかはいつもより早起きだったりする程に楽しみにしてた。

 

 私も、その頃はまだ体調も良くてね。

 沙綾がバンドに集中できるようにってちょっと無茶したりしてた。

 そのおかげか沙綾はバンドに打ち込めていたようだけど、無茶するのはまずかったのでしょうね。

 

 

 

「……………」

 

 千紘さんの体が弱いのは山吹さんから聞いた話。それも中学卒業間近の頃だ。僕がやまぶきベーカリーに通う前の千紘さんを、僕が知るわけがない。

 

 ここまで言われてしまえば、何があったかなど察してはいる。僕が未だ関わっていない時にそういうことがあった、というのは後から聞かされる程悔しさだけが湧き出てくるのだった。

 

 後ろを振り向かないまま黙って耳を傾けているうちに、やがて話は核心らしき場所へと移り変わっていく。

 

 雨音は、一向に止まない。

 

 

 

「……それで、バンドが組まれてから数ヶ月後」

 

 その時期、商店街の催しがあってね。沙綾達はその催しの途中で発表をしないかって誘われたの。

 商店街の人達にも、沙綾がバンドを組んだことは伝わっていたから。初めてのライブはぜひここで! っていう計らいだったみたい。

 

 沙綾達はもちろん承諾。具体的な目標が決まったことで、みんなのモチベーションも上がってね。

 沙綾たちの練習時間が増えるのと比例して、私の働く時間も増えたわ。

 時々純と紗南も手伝ってくれたけど、あの子たちには手伝いはまだ早いと思っていたから、手伝いをさせたのは本当に少しの時間だったはず。

 

 商店街の催しまであと一週間の時。

 直前に迫った発表の為に練習が多くて、中々お店の手伝いが出来なかった沙綾が、一度私のことを心配して声を掛けてくれたことがあったわ。「少しくらい手伝うよ」ってね。

 

 思えば、あの時に素直に受け入れていれば良かったのね。変に意地を張りすぎたのかもしれなかったわ。

 

 

 それで、沙綾たちのライブ当日。

 

 

 少しずつ体調を崩しがちだった私は……ええ。恐らく限界だったのよね。

 

 沙綾が家を出ていった後に倒れたの。間の悪いことに、沙綾にその連絡が行き届いたのは発表の直前だったらしいわ。

 

 

 

「───────」

 

 わかっていたことでも、言葉に出されるだけで重みが違う。

 山吹さんがやっていたバンドを止めたのも、間違いなく千紘さんが倒れた影響だろう。普段千紘さんを気遣う様子から、お店の手伝いの為にバンドを脱退したことはハッキリと伺える。

 誰も悪くない。今の話で誰かが責められることはない。

 だからこそ、彼女を襲った理不尽が腹立たしい。

 

 ゆっくりと話す千紘さんの声には、いつの間にか寂しさが入り交じっていた。

 

 

 

「目が覚めた時、そばにあの子の顔を見つけたときは……正直、泣きそうになったわ」

 

 私が目を覚ました時にはもう夕方でね。

 ベッドに寝ていた私に向かって、純も紗南も沙綾も皆して「ごめんなさい」って言うの。夕焼けが眩しかったのに、それでも三人ともわかるくらいに目を赤く腫らしてたわ。

 倒れて迷惑を掛けたのは私だったのにね。

 

 その後に沙綾から話を聞けば、ライブ会場を飛び出してきたって。その話を聞いて、初めて「やっちゃったんだな」って思ったわ。

 

 その日から、沙綾は学校から帰ってくるのが早くなった。店番をしている私を休ませて、エプロンをして。

 沙綾が学校から帰ってから、お店が閉まるまでの数時間、あの子は一人でお店を回していたわ。

 

 もちろん、バンドの子たちとは中々連絡を取れなくなった。沙綾の場合は、初ライブをダメにしちゃったからっていう責任も感じていたのでしょう。

 それでも、私の体調が治ったら復帰するっていう一つのボーダーラインはあったみたい。

 

 

 

 ──千紘さんの体調は、まだ回復したとは言えない。

 それは、つまり。

 

 

 

 ええ、私の体調は見ての通り。

 沙綾は最終的に、皆をこれ以上待たせるわけにはいかない、って言って脱退することを決めたの。

 

 

 

 そして、沙綾が涙を流したまま、家の扉を開けて帰って来たのは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……僕はいつか、自分のことを割と察しがいい人間だ、とか言った事があった。

 どうか、それを撤回させて欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──去年の十二月。今日みたいに風が湿っていて、道端に雪が降るような日だったわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………ちょっと、待ってください」

 

 本当に、耳を疑った。

 

 そんな心とは裏腹に、僕の頭は言葉の意味を刹那のうちに理解してしまう。

 

 去年の十二月といえば、僕がもうやまぶきベーカリーに通い始めていた時期だ。

 僕が通い詰めていたあの時でも、山吹さんは今と変わらないあの笑顔で僕の前に立ってくれていた。

 

 

 ──それだけのことを抱えていたというのに。

 

 

 僕は、その笑顔の裏に在るものを何も読み取れていなかった。

 彼女が考えていたものも、彼女が見ていたものも、彼女が心を決めていたことも。

 あの10分間、それだけあれば見抜けていたかもしれないのに、それが出来なかった。

 

「僕が未だ関わっていない時にそういうことがあった」だと? 関わっているじゃないか。それも彼女が一番心を苦しめていた時期に。

 

 

 

「……友也くんが責任を感じることじゃないわ」

 

 僕の心中を察したかのように、千紘さんが声を掛けてくれる。

 それでも。

 

「……それでも、悔しいですよ。何も出来なかったっていうのは」

 

 苦しんでいる人が目の前にいるのに、手を伸ばしてあげられない。それが何よりも僕の心を痛めつけていた。

 

「……そう。じゃあ、一つお願いをしようかしら」

 

 少しだけ、声のトーンが明るくなった。

 僕の返事を待たずに、間髪入れず千紘さんは続ける。

 

「……沙綾のことを、よろしくお願い。あの子の隣に居てくれるのは、貴方がいいなって思っているの」

 

 話終わるのと同時に千紘さんが立ち上がり、向こうへと消えていく足音が響く。

 

 僕にわざわざ山吹さんの過去を話したのは、そのお願いをするためだったのだろう。

 僕ならば、このことを聞いても彼女と付き合っていけるだろうという、信頼。

 

 いつかの、亘史さんからのお願いを思い出す。

 あの人の「よろしく」には、このこともきっと含まれていたのだろう。

 

 わからない、わからない。

 そこまでの信頼を、僕に向けてくれる理由がわからない。

 

「……でも、僕は──っ!」

 

 振り返った先には、誰もいない。僕の疑問に答えてくれる人はいない。応えるのは、ただ屋根を伝う雨音だけ。

 

 

 お店の扉が開く音がする。本日久方ぶりのお客さんかと、振り向いていた姿勢を整える。

 

 ただ、僕を出迎えるのは。

 

「……うわー、びしょびしょ。靴下気持ち悪いや……って、あ、友也くん」

「山吹さん………おかえりなさい」

 

 茶色いスカートの端を濡らして、山吹さんが帰ってくる。その顔にはいつも通りの微笑みが浮かべられていた。

 

「ふふふっ。なにそれ、家族みたいじゃん。……うん、ただいまっ!」

 

 僕に向かって咲く、彼女の笑顔。

 半年前と何も変わらない、彼女の笑顔。

 

「……………っ………」

 

 瞬時に目線を逸らす。

 

「……? どうかした?」

「……いんや、なんでもないさ。ほら、早く着替えてきなよ」

 

 彼女の笑顔とは対照的に、酷く歪んだ僕の顔を見せないようにして、彼女から遠ざかる。

 

「……だめだ」

 

 小さく、小さく呟いた。

 

 彼女のいつも通りの笑顔は、確かに本心から咲かせている筈なのに。

 僕にはその笑顔が、とても薄っぺらいものに感じられてしまって。

 どうしても、まっすぐに見つめることが出来なかった。

 



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#17

 

 梅雨の気まぐれか、厚い乱層雲の掛かっていた空から晴れ間が覗く。

 

 コンクリートの凹みに溜まっていた雨水が、日の光を僕の目に反射する。

 頭で意識するでもなく目をつむった僕は、本日何回目ともわからなくなった溜め息を吐いた。

 

 光が差し込む空とは裏腹に、僕の頭はいつ雨が降るかもわからないような、曖昧な雲が覆いつくしているばかり。

 天気を恨むことなどしないが、どうか、この空に差し込む光を僕の心にも照らしてほしい。

 

 手に握られたスマートフォンには、一件のポップアップ表示。

 真っ黒な画面を無理矢理叩き起こす事の出来るアプリなど一つしかなく、通知の送り主はきっと、僕が悩んでいることなど微塵も知らないだろう。というか、知っていて欲しくない。

 

「エプロン作りの手伝い………か」

 

 連投されたメッセージには、文化祭で使うエプロンを作ること、その手伝いを頼みたいことがつらつらと書かれている。

 その全てに目を通し、「バイト終わってからならOK」と短く返した。

 

 千紘さんから話を聞いたあの雨の日から、既に何日も経っている。

 6月も中盤に差し掛かり始めて、花女の文化祭も開催まで一ヶ月を切った。

 

 僕が彼女らの手伝いをする機会は無く、裏方、山吹さんの負担を減らすように日々やまぶきベーカリーで働いている。

 あの話を聞いてから、どうにも山吹さんと接しづらくなっている。

 もしかしたら、山吹さん自身がもうそこまで気にしていないのかもしれない。あるいは、僕や千紘さんが知らないだけで、もう前のバンドのメンバーと学校で仲良くしているのかもしれない。

 

 けれど、山吹さんのあの表情──戸山さんを眩しそうに見つめる、あの表情──を思い出す度に、その考えを肯定できなくなってしまう。

 

 彼女は今、何を考えているのだろう、と画面の文字列を眺める。自分が送ったメッセージの時刻表時の上に、小さく「既読」と文字が浮かんだ。

 

 目を見て、笑い合って、喋ってすら分からなかったと言うのに、メッセージで何が判るのかと自嘲気味に笑う。

 

 ふと気がつけば、もうやまぶきベーカリーの前。

 

 燻り続ける感情を無視してそのままアプリを閉じると、手慣れた動作でスラックスの右ポケットにスマホを突っ込んだ。

 

 いつものように、扉を開けて中へ。

 嗅ぎ慣れたパンの匂いが僕を包んだ。

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

 

 パチリと音を立ててスイッチが沈む。

 

 店内に満ちていた暖かい光は刹那の内に消えて、代わりに外灯から漏れた僅かな光が、がらんどうになった店内の商品棚を照らす。

 

「ふぅ………」

 

 吐いた溜め息は天井へ。

 掃除したての床から高い音を鳴らして、山吹さんの家の方へ。

 明かりの点いている方へと進むと、少しずつ笑い声だとか、叫び声だとかが聞こえてきた。

 声はやがて大きくなり、誰の声かもわかるようになって。

 

「ほら香澄、危ないからちゃんと針見てろって!」

「ご、ごめんってー」

「沙綾、私うさぎの刺繍を入れたいんだけど」

「沙綾ちゃん、ここって………」

「はいはい、二人とも待っててね……っていうか、うさぎの刺繍はレベルが高すぎないかな……?」

 

 リビングから聞こえてくる、幾つもの声。

 いつもより賑やかな部屋には、いつもの5人が集まって手を動かしていた。

 

「あ、友也くん、お疲れ様」

「やってるね、山吹さん。……さて、何から手伝えばいいのかな?」

 

 リビングに出てすぐ、僕を迎えてくれる山吹さん。

 器用にも牛込さんと花園さんの相手をしながら、こちらにも目を向けてくれている。

 

「出来ればりみりんを……って、大丈夫? 疲れてたら逆に危ないし、頼んでおいてあれだけど休むなら帰った方が……」

 

 僕の様子を一瞥して、心配そうに眉をハの字に曲げる山吹さん。

 

 彼女の目は間違っていない。

 いつも以上に疲れた体を引きずってここに来たのは事実だし、溜め息だって今日ほど吐いたことはなかった。

 

 やはり精神的に万全と言えない状態で仕事をするのも流石にまずかったようで、常連のお客さんの幾人かには「大丈夫?」と聞かれることもしばしば。

 その度に笑顔で返していたが、果たして僕の営業スマイルは不自然ではなかっただろうか。

 

「大丈夫だって。まだまだ体力はあるさ」

 

 まるで気にしていない、というように返して、さっさと皆が座るテーブルの方へと向かう。

 山吹さんはまだ気になるような目線を向けていたが、それも花園さんから助けを求められたことによって逸れていった。

 

「それじゃ牛込さん、どこを手伝えばいいかな」

「えっと……」

 

 空いていたイスに座って聞いてみるも、どこか遠慮がちに言葉を渋る牛込さん。

 

「僕なら大丈夫だって。ふざけられる程度に余裕はあるんだから、気にしないで」

「うん……それならいいんだけど……」

 

 僕と山吹さんの会話を聞いていたのだろう。実際、肉体的な疲労はいつもと大して変わらない。

 疲れているように見えるのは、きっと考え事をしていて気難しいような顔をしていたから。きっと、それだけ。

 

「大丈夫。万が一危なかったりしたら直ぐに止めるからさ。発案者の僕にも、文化祭の手伝いをさせて?」

「……うん、わかった。約束だよ? ……えっとね……」

 

 牛込さんを言いくるめて、僕も作業に参加する。

 

 エプロンとしての形は僕がせっせと働いている間に出来上がっていたらしく、牛込さんから任されたのは首からぶら下げる紐とポケットの取り付け。

 手縫いでやった方が早そうだ。

 

 太めの糸を手に取って二本取り。糸の端を手際よく玉結びすると、順調に紐を縫い付けていく。

 昔から料理だの掃除だの裁縫だの、家庭的な作業は得意な方だった。家庭科の評定は何もしなくても高い、とかそういう程度だったけれど。

 

「友也くんって器用なんだね……なんでも出来ちゃいそう……」

 

 僕の手元を覗き込みながら、感心したように声を漏らす牛込さん。

 

「余所見してると危ないよ牛込さん。針握ってるんだから、怪我しないように気を付けてね?」

「わわわっ、ごめんね……」

 

 慌てたように向き直す彼女の姿を横目に見ながら、僕も作業を続ける。

 

 硬い紐の布から、薄いエプロンの布地へ。

 針を通しては糸を引いて。白いキャンパスに規則正しく点線を描くように、赤い糸で縫い合わせていく。

 

「有咲! ポケットってこんな感じでいいかな?」

「……んー、いい感じ……あ、ポケットの入り口の左右は折り返しで縫えよ」

「了解ー!」

 

 戸山さんの扱うミシンが、会話を挟みながら音を立てる。戸山さんと市ヶ谷さんのところももう完成が近いようだ。

 

 こちらも既にエプロン紐は縫い付けた。

 ミシンが無くても特に問題が無かったので、そのままポケットを縫い付けている。

 手伝い始めてほとんど時間は立っていないが、そもそも手伝い始める時間が遅かったので当然と言えば当然なのかもしれない。

 手元も順調。難しい作業でもないので、特に詰まることもなく手が動いてくれる。

 

 単純な作業を続けていると、目は手元に集中しているのに頭は別のことを考えているという事がある。

 

 あの日、千紘さんから聞いた話は、何度も僕の頭の中で反芻され続けている。

 あの時の雨粒の音も、後ろから響いていた千紘さんの声も、彼女の笑顔が、薄っぺらく見えてしまったことも。

 ミシンの音が聞こえない方──その延長線上にいる彼女の事を考えてしまうのは、今の僕にとっては必然なのだと感じる。

 

 反対に、彼女は今何を考えているのだろう。

 

 彼女はいつだって笑顔を浮かべていた。

 たとえそれが満面の笑みじゃなかったとしても、彼女はずっと、笑顔を浮かべてくれていた。

 今までわかったように交わしていた会話も、関わる度に見せてくれた表情も、全部ホンモノだったのかと疑いそうになってしまう。

 

 少しだけ、彼女の方へと目を向ける。

 さっきまで考えていた通り、いつものような笑顔を浮かべる彼女。

 ああ、いつだったか。僕が一日、山吹さんの家にお世話になった日。

 あの時、戸山さんがギターを見せてくれたときと変わらない微笑みをその顔に浮かべている。

 

 ……もしも千紘さんから話を聞かなければ、その微笑みも───

 

───痛っ!?

 

 左手の人差し指に鋭い痛みが走る。

 

 反射的に手を引っ込めてみれば、指先の腹にぽつりと赤い点。

 

「………えっ!? ちょっと友也くん、大丈夫!?」

 

 隣に居た牛込さんがいち早く反応する。

 皆がその声に反応してこちらを向く間に、人差し指に乗った赤い点はどんどんその直径を膨らませてゆく。

 

「あー、やっちゃったなこれ……ごめん山吹さん、ティッシュとかあるかな?」

 

 牛込さんによそ見は危ない、とか言っておきながら僕自身がよそ見とはなんという体たらくだろうか。

 取り敢えず止血しようと、山吹さんにティッシュの在りかを尋ねる。

 

 ただ、その質問に応える声は無い。

 

「ちょ、ちょっと! 大丈夫!?」

 

 いつの間にか駆け付けていた山吹さんが、僕の手を掴む。あまりの柔らかさに少し驚くも、心配させまいと落ち着いて言葉を投げる。

 

「いやいや、大丈夫だって。きちんと止血して、絆創膏でも張れば問題はないから。別に針に毒が塗ってあるわけでもないんだからさ」

 

 僕の平気そうな様子を確認したのか、山吹さんの後に駆けつけてきた戸山さん、市ヶ谷さん、花園さんも安堵したように息をつく。

 山吹さんが取り敢えず、と出してくれたポケットティッシュで止血を始める。

 

「突然りみりんが声あげるから心配したよ……いや、今も心配してるんだけど」

「ご、ごめんね? 隣でケガされたから、つい……」

「いや、そもそも僕が不注意でケガをしたのが悪いんだし、牛込さんは謝らなくていいよ」

 

 そう会話を交わす間にも止血を続けるが、深く刺しすぎたのか、刺した場所が悪かったのか、中々血を止めてくれない。

 既に血の滲んだティッシュは3枚。赤黒い染みが点々と真っ白いティッシュを染める。

 

「や、やっぱり疲れてたんじゃないかな? 無理矢理手伝わせちゃってホントに───」

「ストップ、牛込さん。それこそ牛込さんが謝ることじゃないさ」

 

 謝罪の言葉が続くであろう牛込さんの言葉を途中で遮る。

 

「山吹さんがわざわざ心配してくれたのに、それを振り切った僕の責任さ。謝るのはこっちだよ」

 

 じわりと痛む指先を押さえながら、ごめんねと謝る。

 

 ティッシュを取り替えると、滲む血の量も途端に少なくなった。止血の方も、特に問題なく済みそうだ。

 

「…………ところで山吹さんは?」

「あれ? さっきまで居たのにね」

 

 忽然と消えた山吹さん。さっきまで言葉を交わしていた筈なのだけれど。

 

「沙綾なら、急いであっちに──」

「──ごめん! お待たせ!」

 

 彼女が消えた先を花園さんが扉を指差すと同時に、その扉が開かれる。中から現れたのは、まさにその山吹さん。

 皆の視線を一気に浴びた彼女はその手になにやら箱を抱えていた。

 

 その箱には、大きく赤い十字の印。

 

「いや山吹さん、軽い刺し傷だから。止血も済んだし絆創膏で大丈夫だから」

 

 そう言う僕の言葉を無視して、机に救急箱を置いてはすぐさま中身を取り出し始める山吹さん。

 

「それでも! 針に何かついてたらまずいでしょ? せめて消毒だけでもするの!」

「お、おおう………」

 

 山吹さんの剣幕に圧されて、一同沈黙。

 渦中の彼女は、手際よく救急箱から必要な物を取り出すと、有無を言わせず僕の左手を取って治療をし始めた。

 

 きっと、こういうところなのだろう。

 

 姉、だからなのかもしれない。

 人一倍、他の人の事を気にかける性格は、きっとバンドを抜けるときにも何かしらの影響を与えた筈だ。

 

 多分、山吹さんのキズは癒えていない。

 沢山のキズ口を、消毒して、ガーゼを貼って、包帯をくるくると巻いて。そうやって、キズ口を塞いでいるだけ。

 

 どんな人だって、そうすることでしか心のキズは埋められない。キズを癒しきれる人なんていない。

 ただ山吹さんみたいな人は、包帯を巻く回数がとても、とっても多くて、キズを隠すのが上手いだけ。

 

 きっと、僕が亘史さんや千紘さんに任されたことは、その包帯をほどくことなのだろう。

 古くなった包帯をほどいて、痛みの滲んだガーゼを取って、もう一回消毒し直して、キズを塞ぎ直すことなのだろう。

 キズはきっと、そうやって処置し直さなければ、痛みが包帯に滲んでしまうから。

 

 僕の指先にも、包帯が巻かれる。

 刺し傷を包んで、くるくる巻かれる。

 

「はい、完了。友也くんは今日はもう手伝い禁止! あんまり無理しないでね?」

 

「ともくん、無理しないでよ?」

 

「こればっかりは沙綾に賛成。無茶はするなよ?」

 

「友也くん頼りやすいから、ついつい無茶させちゃうのかもね。無理だったら、絶対言ってね?」

 

「友也、頑張り屋さん過ぎ。少しは皆みたいにゆったりしていいんだよ?」

 

「いや、香澄はともかく「酷い!」……沙綾はそんなにゆったりしてねぇだろ」

 

「……………あっ、次のウサギにはカスミとか、サアヤって名付けてほしいってこと?」

 

「いや皆ってウサギのことかよ! 紛らわしい!」

 

 各々、僕の事を心配してくれている模様。

 

「お気遣い、痛み入るよ。……その言葉に甘えて、今日はアドバイスに徹するとするかな」

 

 素直にその言葉を受け取り、返事を返す。

 僕の言葉に皆一様に頷くと、再び作業を再開し始めた。

 

 

 左手の人差し指には、白い包帯。結び目は固く、傷口は簡単には開かないだろう。

 

「わざわざありがとうね、山吹さん」

「いいってこと。ホントに、無茶は厳禁だよ?」

 

 また、いつも通りの微笑みを浮かべる山吹さん

 

 彼女は、僕の傷を丁寧に処置してくれた。

 皆は、僕の事を気遣ってくれた。

 

 僕は、彼女のキズに優しく包帯を巻けるのだろうか。

 

 ゴミ箱の中のティッシュは血を滲ませて、すっかり赤黒く。

 彼女のキズは、開いたらどんなに血が溢れてしまうのだろう。

 

 心の雲だけは、未だに晴れない。

 



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#18

 

「完成ー!」

 

 バッとエプロンを掲げる戸山さん。

 

 僕が左手を怪我をしてから数十分もしないうちに、皆のエプロンは次々に出来上がっていった。

 最後に大きな星型の刺繍(ししゅう)を入れていた戸山さんも、たった今完成してこのように喜んでいる。

 

「みんな、お疲れ様」

 

 手持ち無沙汰だった僕に出来たのは、飲み物を一度淹れたことくらい。

 頼まれたのに、あまり力になれなかったのは不甲斐なく思う。

 

「友也くんもお疲れ様。無理に手伝ってもらってごめんね?」

 

 左手の人差し指は、血は止まってもまだ傷が塞がっていないらしく、動かすと鋭く痛みが走る。

 

「こっちこそ、ごめん。怪我の処置までしてもらって……」

 

 今日は迷惑を掛けてばかりだと、思う。

 気が滅入(めい)っているのかもしれない。

 

「いいのいいの」

 

 そう言って笑う山吹さん。

 

「……疲れてるなら、バイトとか見直そうか?」

「いやいや、そこはしっかりやりますとも。今日は偶々(たまたま)疲れてるところに無理しちゃっただけだって」

 

 咄嗟に言葉を返す。

 そこだけは、千紘さんの身とか、そういうものを考慮すると外せない。

 彼女は、(いぶか)しむような目を向けていた。

 

「ちょっと腑に落ちないけど……ま、疲れてるのは確かみたいだし、ほらほら、早く帰って休んで?」

 

 心配するように声のトーンを下げ、優しさを滲ませる。

 僕もこれ以上、ここに居る意味は無い。彼女に心配を掛けるわけにはいかないだろう。

 

「了解。今日は早めに休んで、また次から頑張らせていただくとするよ」

 

 そう笑って、荷物を纏める。

 教科書が入ったリュックはいつもより重かった。

 きっと、肩が凝っていたんだと思う。

 

 

 店の外に出ると、もう夜空が広がっていた。

 最近は日も長くなっていたと思うが、流石にこの時間になれば当たり前か。

 

「それじゃあ香澄、歌詞作り頑張ってね」

 

 戸山さんは山吹さんの家に一泊していくらしい。

 文化祭で発表するオリジナル曲の歌詞作り。

 山吹さんがいた方が寝ないだろうという計らい。

 明日はやまぶきベーカリーも休業日。千紘さんたちも快く受け入れてくれたのだそう。

 

「皆も、気をつけて帰ってね」

 

 今日は他の3人を家に送り届けることはしない。

 勿論申し出たのだが、市ヶ谷さんを筆頭に「早く帰れ」と言われてしまった。

 

 ゆっくりと動く空。冷え込む街。

 長く話をしない内に、各々解散し始めた。

 

 明かりを背に、やまぶきベーカリーを離れる。

 最後の最後に、振り返った。

 

「戸山さん」

 

 今まさに家に戻ろうとしていた戸山さんに声を掛ける。彼女はすぐにこちらを向いてくれた。

 

「山吹さんのこと、よろしくね」

 

 一瞬、困惑するような表情を見せる彼女。

 言わんとすることは分かるし、その表情を見て、やっぱりまだ知らないんだと、わかった。

 それでも。

 

「……うん! 任せて!」

 

 直ぐに笑顔になって、自信ありげにそう言う。

 それを見て、きっと、と思った。信頼が出来た。

 

 再び山吹さんの家に入っていった彼女を見送って、僕も歩きだす。

 癖のように、ポケットからスマホを取り出した。

 暗所に光る液晶が眩しくて、一瞬顔をしかめる。

 

 スマホに表示された時刻は19時30分。

 梅雨の気紛れは、未だ雲で空を覆ってはいない。

 

 ああ、確か今の時間なら。

 

 東の空を見上げる。

 外灯の明かりはあれど、明るく煌めく一等星はその存在を僕の目に示してくる。

 

 ベガ……デネブ。織姫に、天の川を繋ぐ橋。

 

 では、彦星は?  ……残念ながら、彼を示すアルタイルは、見えない。

 

 空を見上げるのが今より早い時間であれば、そもそも星は見られなかった。

 あるいは空を見上げるのが今より遅い時間であれば、アルタイルも天球に輝き、先の二つの星と共に三角形を作っていた筈。

 

 この時間だからこそ、アルタイルは空にいない。

 ああ、まるで風刺画みたいじゃないか?

 

 橋を渡されていたって、今の僕が彼女と同じ空に輝くことが許されていないみたいで。

 

 その例え話すら、前提には二人の関係がある。

 最早、空に瞬く星に自分を重ねることすら烏滸(おこ)がましいのかもしれない。

 

「……帰ろ」

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 その日の夜に、また雲が空を覆い尽くした。

 

 星々の輝きは乱層雲に遮られ、地上に降りるのは僅かな月明かり。

 

 結局その夜、アルタイルがその姿を僕の瞳に映すことは無かった。

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 あれから、数日が経つ。

 

 意外と沢山のことがあった。

 

 

「──バンド名、決まったんだってさ」

 

 山吹さんの口からそんな言葉が発されたのは、僕が怪我をしてから2日後、休業日の次の日のことだった。

 

「結構早く決まった……のかな? 僕にはわからないけど……」

 

 彼女の口から「バンド」という単語が出たことに、少し動揺していた。

 

「『Poppin‘ Party』だってさ。かわいい名前だよね」

「考案は戸山さん?」

「ううん、元は市ヶ谷さん」

「それは意外。結構メルヘンチックなところあるのかな……?」

 

 会話を重ねるうちに、いつもの調子を取り戻す。

 

「あ、あとドラマー探しは諦めかけてるみたい」

「…それは残念。文化祭どうするつもりなの?」

 

 山吹さんはまるで、狙っているかのようにこちらの動揺するようなことを言ってくる。

 自分でも驚くくらい、「山吹さん」と「バンド」の話は僕を動揺させるのだ。

 

「バックでドラムだけ流して演奏するって」

 

 あの日から、山吹さんの声には少しだけ寂しさが浮かぶようになった。

 クライブの帰りに見せたような、少しトーンの低い声。

 

『山吹さんはドラム、叩かないの?』

 

 そう言いそうになる口を無理矢理押さえつける。

 

「……そっか。でも、ドラマー見つかるといいね」

「うん」

 

 多分、僕も声のトーンは低かったと思う。

 

 

 長い時間、考えた。そのせいで学校の授業が疎かになったりもした。

 

 千紘さんや、亘史さんが僕に寄せてくれた信頼に応えたい、と思った。

 どうすればいいなんて、最初から一つしかなかったんだとようやくわかった。

 真正面からぶつかっても、きっと、という思いがあって、千紘さんは話を聞かせてくれたのだろう。

 

 この前の戸山さんの反応で、山吹さんの過去を知っているのが僕だけであると確認できた。できて、しまった。

 

 文化祭まで、もう時間は少ない。

 山吹さんをバンドという場所に引き戻す為に、文化祭の戸山さんたちの初ライブは、これ以上ないチャンスだと思えた。

 

 

 また、日は過ぎる。

 

 

 千紘さんの話を聞いてから、既に一週間が経過した。

 相変わらず梅雨前線は日本列島を乱層雲で覆い、しとしと、しとしと、雨を降らし続けている。

 

 蝙蝠傘を差す回数も、もう数えきれなくなった。

 台風のような激しい雨もなければ、中々止むこともない。

 毎日毎日、地面を濡らし続けている。

 

 日が落ち、バイトも終わった。

 モップを持つ手に、自然と力が入ってしまう。

 

 後ろには彼女が、同じようにモップを握って掃除をしている。

 多分、今が絶好のチャンスだろう。

 

「……………」

 

 されど、僕の履いたスニーカーが、濡れた床を擦る音は響かない。

 

 振り向くための、最後の踏ん切りがついてくれない。

 どう切り出せばいいのかわからない、だとか、どう伝えればいいのかわからない、なんていう、言葉に出しもしない言い訳だけが、頭の中を駆け巡る。

 

 僕が固まっている間に、窓に貼り付いた雨粒が二つ落ちて、窓枠へと溶けていった。

 

 後ろから、靴の擦れる音が聞こえる。

 

「あのさ」

 

 背を向けたままではなく、さっきは微動だにしなかった足を動かして、彼女の方を向く。

 目は合わせない。

 

「最近の友也くん、何か変だよ」

 

 本気で心配しているような声だった。

 

「上の空でいることが多くなったし、何かいつも考え事してるし」

 

 声のトーンは低く、弾まない声。

 雨のように、ただ落ちていくだけのような、重たい声。

 

 その、僕を心配してくれる声が、やっぱり、どうしても気になってしまう。

 どうして、その気持ちを自分に向けてあげられないのかって。

 どうして、もっと自分を甘やかさないのかって。

 

 あれだけ躊躇した言葉も、勝手に出てきた。

 

「──山吹さんの過去のことを、聞いたんだ」

 

 その告白を聞いても、彼女の表情は変わらなかった。

 もしかしたらもう、分かっていたのかもしれない。

 だとしたら相当演技が下手だな、僕は。

 

「……もしかして、その事で色々おかしかったの?」

 

 彼女は冷静に尋ねてくる。

 反して、僕の感情は酷く昂っていた。

 

「うん」

「……一週間前、私が帰ってきたときも?」

「ああ」

「……ついこの間、針で怪我したときも?」

「そう、なるね」

 

 山吹さんはゆっくりと口を閉じて、考えるように向こうを向く。

 

 対して、僕は特に行動できるわけでもない。

 ただモップを握って、掃除を続ける。

 

 屋根に、窓に、地面に。

 降り注ぐ雨粒は、少しだけその勢いを弱めた。

 

 彼女がこちらに振り返る。

 

「ありがとう、私なんかの為に、そんなに悩んでくれて」

「そんなことないさ。現に、僕は山吹さんに言われるまで、そのことを話せなかったと思うし」

「……やっぱり、キミは優しいんだね」

 

 彼女がまた、微笑みを浮かべる。

 

 千紘さんが僕に、話を聞かせてくれた日。

 あの日も、今日みたいな雨の日だったと記憶している。

 

 雨に降られた山吹さんは、それでも、こちらを見て微笑むことを優先してくれた。

 紛れもなく笑顔であったそれを、僕は薄っぺらいように感じられて、目を逸らしてしまった。

 

 もしかしたら今だって、僕の目がおかしいだけなのかもしれない。

 ただ、健気に微笑む姿が、痛ましく感じられただけなのかもしれない。

 

「………ここで話すのはまずいからさ」

 

 でも、その時は間違いなく、彼女はその声に。

 

「私の部屋、いこっか」

 

 いつかのような寂しさを込めていた。

 



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#19

 

 初めて入った山吹さんの部屋は、雨と夜のせいで随分と暗かった。

 

「入っていいよ」

「……お邪魔します」

 

 二階に続く階段を上ったのは、これで二回目。

 あれが一ヶ月前なのかと思うと、彼女との関係も短い間に随分変化したものだと思う。

 

 家具はシンプルに。

 無駄なものは無く、かつ必要なものは十分に。

 一人でいるには丁度良い広さの部屋は、山吹さんの性格をよく表す。

 

 部屋をじっくりと観察する余裕は、今の僕には無かった。

 

「お茶も出せなくて、ごめんね?」

「……別に、問題ないよ」

 

 今日は、彼女と二人でいても殆ど話をしない。

 彼女の声に、さっきの寂しさは感じられない。

 カチコチ、カチコチ、秒針が鳴る。

 

「どこか、適当に座ってよ」

 

 彼女は、自分のベッドに腰を掛けた。

 木材の軋む音が、ほんの一回、秒針の音を掻き消す。

 

 カーペットの敷かれた、小さなテーブル。

 彼女とテーブル越しに向き合う形で座る。

 戸山さんが頭を捻って歌詞を書いたであろうそのテーブルに、消しカスなどは一つも残っていなかった。

 カチコチ、カチコチ、秒針は鳴る。

 

「……私の話、母さんから聞いたの?」

 

 切り出したのは、彼女からだった。

 彼女の目とは、少しだけ違う方向を見ながら答える。

 

「ああ、そうだよ」

「やっぱり。母さん、友也くんにはいつか話すだろうなぁって、なんとなく思ってはいたから」

 

 声のトーンは低くない。

 代わりに彼女の声は落ち着いていた。いつもより、ずっと。

 

「それで、様子がおかしかったんだ」

 

 ふらり、ふらり。ベットから伸ばされた彼女の足が前後に揺れる。

 右足から数えて四往復。一〇秒の空白の後、彼女が口を開いた。

 

「私、バンドはやれないよ」

 

 先回り。

 

「……僕が居ても?」

「尚更。裁縫の件だってあったし、母さんの代わりに今度はキミが倒れたりなんかしたら、私、嫌だよ」

「……それは、随分と耳の痛い話だ」

 

 僕が倒れたら元も子も無い。それこそ、亘史さんと話したときに考えたことだった。

 

 会話の合間の空白は、次第に少なくなっていく。

 

「僕は、山吹さんにバンドをやってもらいたいよ」

「だから、無理だってば」

 

 目を逸らして否定する彼女。

 もうバンドに対する気持ちを隠すつもりも無いらしい。

 

「それは、千紘さんがまた無理をするから?」

「それだけじゃ、ないよ」

 

 会話を重ねるにつれ、彼女の声に寂しさが宿り始める。僕の意思とは関係なく、彼女の核へと近づいていく。

 

「別に、千紘さんが倒れたのは山吹さんのせいじゃないよ。話を聞く限りでも、その、言い方は悪いけど、必然ではあったかもしれないけど、タイミングは偶然じゃないか」

 

 千紘さんが倒れたことに、彼女が負い目を感じているのだとしたら、それは違うのだと、そう言いたかった。

 

「分かってる」

 

 その狙いは、空回りに終わったけれど。

 

「──怖いの」

「……え?」

「怖いんだ。バンド、やるの」

 

 意外だった。

 だから、聞かざるを得なかった。

 

「……それは、どういうこと?」

「母さんが倒れたのは、ただの偶然。それは分かってるの。確かに、キミが手伝ってくれれば、母さんは倒れなくなると思う。キミだって、倒れるまで働くなんてことはしないって思ってる。……それでも、怖いの」

 

 そして、後悔した。

 

「──ドラムを叩いていたら、また誰かが傷つくんじゃないかって。そんなことないはずなのに、もしかしたら、私の大切な誰かが、また倒れたりするんじゃないかって、怖くなる、んだ」

 

 

 ──母親が倒れるって、そういうことなの。

 

 

 過去の後悔が、まるでトラウマのように彼女を苦しめている。

 千紘さんが倒れて、後悔した。

 バンドを抜けて、後悔した。

 後悔して後悔して、やっと彼女が落ち着いたのが、家族を思うことだった。

 

 だから、僕だって後悔した。

 あの時。例えば、僕が彼女と初めて話をした時でもいい。

 なんの関係も無かった僕が「進学したら、ここでバイトしたい」なんてポロッと口にしたりするだけで、もしかしたら彼女は()()()()()()()()ことだってしてくれたんじゃないかって。

 僕を理由にして、バンドを続けてすらいてくれたんじゃないかって。

 

「だから、私はバンドはできないの」

「……………」

 

 いつの間にか、彼女の語気も荒くなり始めている。

 聞きたかった筈の彼女の本心に迫る度、心は苦しくなる。

 この苦しさから脱したい。

 彼女の助けになりたい。

 彼女に、本当に自分のやりたいことをやって欲しい。

 

 だからきっと、それは最悪な選択だった。

 

「……山吹さんは、もう、バンドをしたくないの?」

「───────っ!」

 

 彼女の明らかな変化を認めた瞬間、失敗したって、そう思った。

 

 

 「そんなわけ、ない!」

 

 

 空色の目は見開かれ、少しだけ瞳が揺れる。

 カーペットに足を着けて立ち上がった彼女は、さっきまでの落ち着いた様子をどこにも見せていなかった。

 

 間違いなく、言ってはいけなかった。

 

 嗚呼、否。

 

 彼女の本心を聞くという点において、これは正解だった。

 犠牲は、高くつくけれど。

 差し引きマイナス。結局不正解。

 

「やりたいに……っ、決まってるじゃん! でも、でも! ダメなの! 離れない、離れないんだよ。あの日、電話越しに聞こえてきた泣き声、母さんが倒れたって言葉が……っ!」

 

 僕の言葉によって、乱暴に剥がされた心。

 痛みと共に顕になったものを、僕などが視るべきではなかった。

 

「皆! 皆、私の為って言っては、練習時間を減らそうって、手伝うって………っ、それで、いいの!? 皆、皆、私の事ばっかり! それで、楽しいの!? 皆に甘えて、私だけ楽しんでいいの!? いいわけないじゃん!」

 

 彼女の空色の瞳が、さらに揺れる。

 目尻に、キラリと輝くものが見えている。

 

 (せき)を切って溢れだした彼女の心が僕を圧倒するには、最早一言でも十分過ぎた。

 

「山吹、さん……」

 

 何に(すが)ろうとしたのか、空虚に呟いて彼女に向けて左手を伸ばす。

 

「───っ!」

 

 乾いた音。

 

 打ち払われた左手は宙を舞い、テーブルの上に落ちる。カツンと乾いた音と共に、鋭く痛みが走った。

 

 人差し指に巻かれた包帯から、血が滲んだ。

 傷口が開いたらしい。

 

 彼女はそこで落ち着いたのか、声の大きさは小さくなっていく。

 寂しさを含んだ声色は、外の雨音に溶けるように弱々しい。

 

「……苦しいんだよ。皆、皆優しくて、つい甘えそうになるの。母さんも、父さんも、純も紗南も。CHiSPAも、ポピパも、キミも」

「……そんなに、頼るのが嫌なの?」

「私は、皆に迷惑を掛けてまで、バンドなんてやりたくない」

 

 さっき、激昂してまで叫んだ彼女の願いは、彼女の思いによって押さえ付けられる。

 どこまでも、彼女は優しかった。

 彼女の声は、揺れていた。

 

「私ね、香澄が羨ましいの」

「戸山さん……?」

 

 突然飛び出した戸山さんの名前に、少しだけ驚く。

 

「香澄はいつも、思ったことはすぐに行動に移すからさ。私みたいにウジウジ悩んでなくて、だからあんなに仲間も集まって」

「………………」

「過去のことをいつまでも引きずってるだなんて、嫌な女だよね、私。……でも、でもね、お願い。分かって。私は、大切な人は絶対に大切にするんだよ……って……っ」

「……うん、分かってる。山吹さんがいつも皆のことを思ってるのは、とてもよく分かるよ」

 

 彼女は頷いて、「ありがとう」と言った。

 

「キミだって……っ、そうなんだよ?」

「それは、嬉しいね」

 

 揺れ動く声に伴った暖かい言葉と、感情の(ともな)わない、随分とハリボテな言葉だった。

 

「最初は、別に普通のお客さんだなって思ってたのに、な。おかしいよ、こんなに大切になるなんて。聞いて、ないよ……っ」

 

 目尻に溜まった暖かい涙は、窓に貼りついた雨粒なんかよりも、確かに、残酷な程、人の体温を持っていた。

 

 一筋、流れる。

 

「……友也くんが私を助けてくれるには、もう、私たちは()()()()()()()()()()()

 

 彼女は、余りにも優しいから。

 彼女が相手を大切に思うほど、彼女は大切な人に迷惑を掛けないようにする。

 決して、頼ることはない。

 どれだけ彼女と近くなったとしても、いや、彼女と近くなればなるほど、彼女の核心へは迫れなくなる。

 

 もう、そんなことを考えても何もリアクションを起こさない程度には、僕は諦めていた。

 

「だから、もう一度だけ、言うね」

 

 もうすっかり涙声となった彼女の声が告げる。

 一度顔を(うつむ)かせて、再び此方に向けられるその顔。

 

「──────────」

 

 彼女は、微笑んでいた。

 涙を流しても、それでも微笑んでいた。

 その微笑みがどんなに僕の心を(えぐ)るのか分かっているだろうに。

 君は、こんなときまで微笑むのか。

 

 そして、止めは刺される。

 

「──私には、できないよ」

 

 微笑み、涙声で告げられる彼女の思い。

 これはもうダメだと、思った。

 僕は結局、約束を守れなかった。

 

「……山吹さんの気持ちは分かった。……また今度、来るよ」

 

 それだけを目を逸らしながら言い残して、彼女の部屋から出る。

 その間彼女は、何も言わなかった。

 

 ドアの閉まる音は、数十分前より比べものにならないくらい無機質に聞こえた。

 

 今日は、雨に打たれて帰ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あはは、嫌われ、ちゃったかな……」

 

 彼が出ていったドアを見つめて、呟く。

 

 いつからか、彼ばかり目で追っていた。

 香澄たちと比べても、彼は特別に距離が近かった。

 だから、いつかきっとこんな日が来るって分かってた。

 

 涙は、降り続ける雨みたいに止まらない。

 

「……やだなぁ、()()ああなるのはやだなぁ」

 

 力が抜けたように呟く。

 

 階下から、玄関の扉が開く音が聴こえて。

 直ぐに、ガチャリと閉まった。

 彼が家から出ていった音だった。

 

 もしかしたら、もう二度と彼と話せなくなるかもしれない。

 それを示す、音だった。

 

 

「──────あぁ」

 

 

 人は、失ってから初めて大切なものに気付く、なんてよく言う。

 私は、家族が好きだ。

 香澄を含めた、ポピパが好きだ。

 ずっと話せていないけれど、CHiSPAの皆が好きだ。

 その延長線上で彼も好きだと、そう思っていた。

 

 認識が甘かったのかな。

 素直に認めれば良かったのに、な。

 

「ああ…………あああ………っ」

 

 膝からゆっくりと、カーペットに崩れ落ちる。

 

「………嫌、嫌だ、嫌だよ……嫌だよ……」

 

 どうしてこんな時に気がついてしまうんだろう。

 どうして、今まで気がつかなかったんだろう。

 

「……こんなの、ないよ………」

 

 

 もっと早く、知りたかった。

 

 

 もっと後で、知りたかった。

 

 

 もう、知らないままで良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──────好き」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉を受け取ってくれる人は、誰も居ない。

 それでも、呟く。

 ぐちゃぐちゃに歪んだ視界で、彼の出ていった扉を見つめて、呟く。

 

 

「好き、好き。友達とかじゃなくて、そうじゃ、そんなんじゃなくて、っ! 男の子として、好き」

 

 

 好き。

 その優しさが好き、笑った顔が好き。

 私をからかう姿が好き。真剣に働く姿が好き。

 全部、全部。私の知る彼の姿、その全てが、好き。

 まだ知らない彼の姿だって、絶対に好きになる。

 

 

「好き、好き……っ、好き、すき……すき……っ」

 

 

 言葉にする事に、涙が流れていくのが分かる。

 手のひらを濡らす涙は止まらず、溢れた分が零れ落ちて、カーペットを濡らした。

 

 胸がきゅっと締まる。

 こんなに切なくて、こんなに苦しくて、それでも。こんなにも──愛おしい。

 

 

「──私は───」

 

 

 私は、彼に、恋をしているんだ。

 



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#20

 

 溜め息を吐く。

 

 閑散とした店内には僕一人。本日十回を越えた溜め息は、耳障りな程空気を揺らす。

 どこからか入り込んだ冷たい風が、左手側を抜けていった。

 

 今日も、雨は止まない。

 

 あれから数日が経つ。

 崩れ気味な営業スマイルと、無理して張り上げる声でバイトをこなす。

 時折掛かる僕を心配する声にも「大丈夫です」と返すので精一杯だった。

 

 彼女とは顔を会わせていない。

 帰宅時刻はもとより、手伝いの時間も文化祭の準備に物を言わせてズラされる始末だった。

 

「……友也くん」

 

 後ろから響く、千紘さんの声。

 いつの日かと違って、今度は振り向く。

 

「……大丈夫……には、とても見えないわね」

「……そんなに酷い顔してますか」

 

 こくりと、頷かれる。

 それを見て(こぼ)れた自嘲気味な笑いが、何よりの証拠だった。

 

「……山吹さん、どうしてますか」

 

 最後に記憶している彼女の表情は、何度も、何度も見てきた柔らかい微笑み。

 

 頭の中で回想される記憶は、何日経ったとしても僕を苦しめるばかり。脳裏には、あの笑顔だけが浮かび上がる。

 こんなことなら、という言葉だけはなんとか飲み込んで、千紘さんに訊ねる。

 

「ごめんなさい、私も分かることは少ないの」

 

 眉をハの字に曲げて、声のトーンを落とす千紘さん。

 

「あの娘、私たちの前でも気丈に振る舞うから。私の前だと、尚更」

 

 分かるのは、お互い傷ついてしまったという事実だけで、彼女の心境がいかなものかなどわかるはずもない。

 お店を訪れる戸山さんたちの様子を見ても、とても山吹さんのことを知っているとは思えない。

 顔を合わせれば分かることもあるだろうに、もう一度あの部屋に入る勇気が、無い。

 

 雑に絆創膏が巻かれた、左手の指先を見つめる。

 あのとき開いた傷口の治りは遅く、ことあるごとに痛みが走る。ズキリ、ズキリと。

 ふとした瞬間に響く鈍痛に、悲痛に歪んだ彼女の顔がフラッシュバックする。

 

 我ながら、精神的に参っていた。

 後悔にも似た感情だった。いや、後悔を含んだ自責の念だった。

 日を跨ぎ、朝目覚める度に、心に穿たれた穴が広がっている。

 外出するときにはなんとか強がって平静を装っていたが、千紘さんにとって、そんなハリボテは始めたときからバレていたに違いない。

 

 自ずと力の入る手のひら。じわりと痺れる指先。

 

 "もう、私たちは仲良くなりすぎたんだよ"

 "だから、もう一度だけ、言うね"

 

 あのときの、雨の音も、苦しさに裏返りかけた声も、口元が歪んだ綺麗な微笑みも、全てが画家の一枚絵のように鮮明に思い出される。

 

 中途半端。

 

 彼女の心を知ったのは、正にあのとき。

 今まで彼女が必死に押し殺して、必死に隠し通してきた感情を目の当たりにして、僕は逃げ出した。

 真正面から感情を叩きつけられて、いかに自分が彼女を知らなかったを思い知らされた。

 

 足りなかった。

 知らなかった彼女を目の当たりにしても、それが彼女なのだと認める覚悟が。

 山吹さんだから、と無条件に信じる覚悟が。

 僕はここまで踏み込んでおきながら、最後の最後に彼女を裏切った。

 彼女の()()を、信じられなかった。

 その事が、酷く僕を痛め付けていた。

 

 考えれば考えるほど思考も声風も、自ずと落ちていく。

 手袋越しに握るパンの暖かさを感じる余裕もなくなっていた。

 雨に濡れていた指先は、赤く冷たい。

 

「友也くん」

 

 ハッとして、顔を上げる。

 そうしてからやっと、自分が(うつむ)いていたことに気がつく。

 再び上げた目線の先、千紘さんは微笑んでいた。

 嗚呼、似ている。胸がチクリと痛む。

 母と娘だ。当たり前なのだけれど。

 

「──少し、休もっか」

「……え?」

 

 何を、にあたる主語の欠落に頭を傾げる。

 

「最近と言わず、友也くん働き詰めだもの。たまには、きちんと休まなきゃ」

 

 休みを、ということらしい。

 ああ、そういえば彼女もそんなことを言ってくれていた。

 

「……無理は、良くないですよね」

「一回きちんと休んだ方が、整理もつくものよ。……大丈夫。友也くんは間違ってないわ」

「……現に、こんな状況でも?」

 

 それでも千紘さんは顔を縦に振る。

 

「諦めないでほしい、友也くんにはあの娘と居て欲しいっていう願いも、あるのだけれどね」

 

 ああ、この人は。

 この人はこんな僕であっても、まだそんなに信頼を寄せてくれるのか。

 ボロボロと崩れ落ちる思考では、どう返せば正解なのかわからない。

 

「……そう、します」

 

 零れ落ちた言葉は、自分でも分かるほど弱々しかった。

 

 雨が降っている。

 妙に(ぬる)くて、僕らにとっては冷たい雨。

 

 文化祭まで、あと二週間を切っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼と喧嘩をしてから、一週間が経った。

 

 ここのところ毎日、身体が重い。きっと心に引っ張られての結果なのだろうけど、日が経つ度に重くなっている気がする。

 ちょっとだけ、寝る時間も増えた。目覚まし時計が必要になる日もあった。

 

 それと、何度も泣いた。

 

 母さんは気遣って純と紗南を言いくるめてくれたし、暫くは母さんに任せてって言ってくれた。

 そのときは、母さんに頼った。暖かかった。

 そしてまた、彼に頼れなかった後悔で泣いた。不器用な自分が不甲斐なかった。

 

 数日と経たずに手伝いは出来るようにした。

 学校でも平静で居られていると思う。多分。

 時々目が赤いのを心配されるけど、皆の前では泣いたりなんてしなかった。

 

 彼には、会えなかった。

 

 自分から突き放しておいて寂しくなってるなんて、あまりに自分勝手だってわかってる。

 今更隠すことなんて無かったのに。彼がいるからって甘えられたら、信じられたら、きっと笑えたのに。

 

 ぐっと身体を縮める。

 ベットのシーツとパンツが擦れて、高く、小さく音を立てた。

 

 好きだったら、いっそのこと離れないように。

 いつでもおかえりって、お疲れ様って、そう言ってくれるようにしておけば良かったのに。

 

 そんなこと、彼にはできないけれど。

 

 濡れたタオルは二枚、こっそり洗濯に出した。

 結構びしょ濡れだった。

 自分で言ったのに、仲良くなりすぎたんだ、だなんて。

 二人とも傷付くってわかっていたのに。

 

 仮初めでも、上面でも、彼と笑っていた方が幸せだったのかもしれない。

 数か月前の私の方が、今よりずっと笑っていたのに。

 

 行かないで欲しい。

 

 また涙が一筋零れる。

 目を瞑って、悲しい夢を見るみたいにシーツを濡らす。

 やだなぁ。また目が赤いって香澄に言われちゃうよ。

 

 ずっと、仲良くならなければって考えていた。

 だから言ったんだよ。「浮いた話の一つでもないの?」って。

 ない、なんて聞いたときに心のどこかで「もしかしたら」なんて囁く自分が居た。

 こんなに近いのは、キミが初めてだったんだもの。

 

 失恋、なんだろうか。

 何年かしたら街で、キミと、私じゃない誰かが笑いあってるのかな。

 左手の薬指に銀色に輝く契りを嵌めてさ。恋人つなぎなんかしちゃって。

 そしたら私、立ち直れないだろうな。

 

 眼前に持ってきた右手を、開いては閉じて、開いては閉じて。

 そこに絡まる左手が無かったから、私の体温で暖かくなったタオルを掴む。

 指を絡めて離さないようにって。私はこのタオルみたいに、彼の手を掴むことは出来なかったけれど。

 

 思わず手に力が入る。濡れ始めていたタオルにシワが付く。

 部屋の中は静かだった。雨音もしなくて、静かで、寂しかった。

 

 何十時間ぶりか、部屋のカーテンを開けようと思った。

 一分以上使って起き上がる。半分這ったように進んでカーテンの端を掴むと、赤い光が差し込んだ。

 

「……あぁ、夕焼け」

 

 そのまま、半分投げ出すような形でカーテンを開ける。

 勢いよく動いたカーテンレースが悲鳴みたいな甲高(かんだか)い音を立てた。

 見つめていれば、どんどん沈んで行く太陽。光を失っていくようで、なんだか余計寂しくなった。

 

 夕焼けをこうやって見るのは、随分久しぶりなことだった。

 

 最初は、彼を迎えようとして。

 初バイト以降だったかな。彼がいつも私より先に家に来てるものだから、たまには迎えてやろうだなんて息を切らして走って帰ってきた日。

 私が汗だくなところを、涼しい顔をした彼に発見されて「大丈夫?」だなんて。

 ちょっとだけ悔しかった思い出。

 

 最近は、彼に会おうとして。

 家に帰れば、彼がいるのが当たり前で。働いているときだって、彼に話しかけては一緒に笑って。

 思い出すだけで目頭が熱くなる。

 

 私がドアノブに手を掛けるのは、東の空が蒼く染まり始めた頃だった。

 

 ふらふらと、覚束無(おぼつかな)い足取りのまま、部屋を出る。少しだけ背筋を伸ばす。部屋での私の様子は、誰も知らないから。

 普段より大きく足音を立てて階段を降りる。

 階下から声が聴こえないあたり、リビングには誰も居ないみたい。

 

 電気をつけぬまま、椅子に掛けっぱなしのエプロンを取ろうとして手を引っ込める。冷たい空気が欲しかった。

 外の空気を浴びようと玄関先でサンダルを引っ掛ける。

 磨りガラスから差し込む光に目を細めながら、ドアノブに手を掛けた。

 

 

 商店街を抜けた先、彼と夜道を歩いた道でみる夕焼けは、とても眩しかった。

 いつも彼が帰る方向、私が彼を見送る方向。

 ちょっと傾斜がかかってて、向こう側にいる人なら大きく影が伸びてくるようなそんな坂道に夕日が沈んでいく。

 

 眩しくて、眩しくて。

 少しでも目を開けば、目の奥がつんと熱くなって。

 それが眩しさ故のものじゃないとわかったのは、視界が歪み始めてから。

 

 また、まただよ。

 

 最近は涙脆くていけない。彼がいないと私はこんなに弱いんだってわかってしまう。

 零れ落ちそうになる雫を必死に抑え込んで、顔を(うつむ)ける。

 

 二人並んで、隣り合わせで働くのも。

 

 弟たちと遊んでるキミを見るのも。

 

 またキミと料理を作りあったりするのも。

 

 例えば、またキミと夜道で話をするのも。

 

 

「──もうおしまい、なのかな」

 

 

 こらえきれなくなった涙を、袖で拭う。

 一度(せき)を切ってしまえば、温かな涙は矢継ぎ早に溢れてきた。

 

 やっぱり嫌、かも。離れ離れ。辛いよ。

 

「……いか、ないで……」

 

 まるで呪いみたい。

 もうダメかもしれなくても、想いは溢れて溢れて止まらない。

 忘れないように、なくしてしまわないように。必死に掻き集めては、この一週間何度も呟いてきた想い。

 

 

 やっぱり、私は。

 

 

「──キミが、好きなの」

 

 

 また、誰も聞いていないのにそう呟く。

 部屋の中のように反響してくれることすらなく、どこか遠くから聞こえてくる車のエンジン音が容易(たやす)く上塗りした。

 

 一度夕焼けを背にして、商店街に戻る。

 下を向いて、自分の影を見つめて。今の私なら、影もふらりとどこかに消えてしまいそう。

 

 家の前まで戻ってきて、もう一度夕日を見上げる。

 さっきより少しだけ沈んだみたい。

 

「……これでおしまいは、嫌だよ……」

 

 口にしてしまったが最後。

 涙が一筋頬を伝って、顔を離れる。

 一滴、ぽたり。コンクリートに染みを作る。

 ぽたり、ぽたり。染みを作る。

 もう顔を拭うことも忘れていた。

 

 叶わない願いも、やり直したい後悔も、ない。

 

 ただキミが、今その坂道の向こう側から現れてくれれば、サンダルでだって走ってみせる。

 

 来ない筈のキミを待って、立ち尽くしていた。

 沈み続ける夕焼けを、なにも出来ずに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

「──さーや?」

 

 

 

 

 振り向いた。

 

 

 

 

「……香澄……」

 

 

 

 

 泣き腫らした目を隠しもせず、そこにいる彼女を見つめる。

 ギターを背負って走ってきたのだろう、額に汗を添えて。夕焼けに照らされた瞳は、私なんかよりずっとキラキラと星のように輝いている。

 彼女は私の目元を見て随分と驚いた顔をしたけれど、その表情はすぐに硬いものに戻った。

 

「……どうしたの? こんなところまで来るなんて。パン、買いに来てくれたの?」

 

 そんな冗談では、香澄の表情は緩まなかった。

 

 それもあるけど、と前置きして一度口を閉じると、彼女は深呼吸をする。

 

 

「……ねぇ、沙綾。少しだけ話、できる?」

 

「──────」

 

 どこか落ち着きを払ったような表情と声。力の籠った瞳。

 今の私とは大違いな、彼女の姿。夕日を背にしているのは私のはずなのに、香澄はとても眩しかった。

 

 嗚呼、香澄も知ってるの?

 

 

「……いいよ、中、入ろ?」

 

 

 私には、それだけを絞り出すので精一杯だった。

 



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#21

 

『今からうちに来られる?』

 

 右手に握っていたスマホが、軽快な着信音を発する。

 真っ黒だった液晶は叩き起こされ、とても暗い藍色に。

 画面中央のポップアップ表示は、千紘さんからのメッセージを映し出している。

 

 駅構内の喧騒をBGMに、流し目でメッセージを眺める。

 突然の呼び出しに驚きやら疑問やら様々な感情が駆け巡るも、千紘さんからの呼び出しに応じないという選択肢は無かった。

 先程まで足を縛っていた倦怠感がいくらか軽くなる。

 実に三日振りになるやまぶきベーカリー。

 普段よりも赤みの深い空を背景に、懐かしさすら覚える道を歩き始めた。

 

 七月が近いと言えど、どうしても日は傾く。

 背中で受ける日差しが暑い。リュックを背負っていても、うなじには直接日が当たる。

 じわりと暖まる首筋を撫でると、べったりとした汗がついた。

 ふと曲がり角を覗けば、ブロック塀と住宅街が影を作る。真っ黒ではなく、暗いグレーに染まるアスファルト。

 

 大気を突き抜けた赤い光が、不気味なほど空を赤く染める。今日は随分と夕焼けが綺麗だ。振り返ったら、眩しさに目が(くら)んだけれど。

 

 空に浮かぶ雲も薄い。降水も少なくなってきた。天気図の停滞前線は、いつの間にか北海道にまで移動していた。

 辺りから駆動音が聞こえてこないのをいいことに、空を見上げながら歩く。

 道路の向こう側で、小学生らしき影が別れの挨拶を交わしていた。さよなら、また明日。

 彼女の声でそれを聴いたのは、いつが最後だっただろうか。

 

 踏みつけた地面が、黒光りするアスファルトから茶色を基調とした石畳に変わる。

 喧騒が戻ってきた。

 時折呼ばれる僕の名前に笑顔で応えながら歩みを進める。

 八百屋の店長さんは相変わらず活力に満ちている。

 いつもやまぶきベーカリーに通ってくれていた主婦が、向こう側から歩いてきた。

 珈琲店、精肉店などが立ち並ぶ十字路が見える。

 あと少し。

 錯覚かもしれない。でも、パンの香りがした。

 

 窮屈に空を覆っていた雲が晴れ、空は随分高く見える。

 (ほの)かに紫が差す夕焼け空、天頂より東側には煌めく星も見え隠れ。

 

 

 夏は近い。ひまわりの綺麗な季節が来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃい、友也くん」

 

 やまぶきベーカリーは休みだった。

 代わりにリビングに通される。

 

「……兄ちゃん」

「久しぶり、純くん」

 

 足元に純くんたちが寄ってくる。気のせいか、目元が赤い。優しい声が出せていればいいけれど。

 黄昏時、電灯をつけようかつけまいか悩む時間帯。

 いつも彼らが座っている椅子には別の顔があった。

 

「友也、こんにちは」

 

「友也くん、こんにちは」

 

「……こんにちは」

 

 花園さん、牛込さん、市ヶ谷さん。表情は硬い。

 彼女らと対面になるようにして座る。隣には千紘さん。

 ここに彼女らがいるということは、多分。

 

「山吹さんのこと、ですか」

 

 店が閉まっていた時点で、予感はしていた。

 

「……どこまで、話したんですか?」

「……この前の雨の日のことまで、ね」

 

 目の前の彼女らの表情が硬いのも納得がゆく。

 千紘さんの表情も心無しか暗い。

 

 あの日は雨だった。鮮明に頭に過る、雨音と彼女の微笑み。一週間顔を合わせていなくても、その景色はずっと僕を縛り続けている。縛り続けてくれている。

 

「……戸山さんは?」

 

 山吹さんのことを知っているからこそ、三人はここに来たのだろう。友達のことになれば彼女が止まっていないはずだ。

 

 花園さんが黙って上を指差す。

 

「香澄は、上。私たちはその後を追って来たの」

 

 瞬間的に上を向いた。

 訪れた沈黙をバックに耳を傾けると、小さく声が聞こえてくる。間違いなく戸山さんと、彼女の声。

 

「……それならなんで、僕が……?」

 

 覇気の無い声だった。

 この期に及んで、僕にできることが思い浮かばなかった。

 きっと、戸山さんができることの方が多い。

 俯けた顔はきっと、情けなく歪んでいるはずだ。

 

「私たちは、友也くんを信頼してるから」

 

 千紘さんの言葉。

 彼女との距離に戸惑ったとき、いつも僕の支えになってくれた言葉だった。

 

「悔しいけど」

 

 市ヶ谷さんが口を開く。一見鋭いように感じる目つきも、どこか優しい。

 

「沙綾に一番近くて、沙綾が一番信じてるのは、友也だと思ってる」

 

 顔を赤らめても、しっかりと目を向けて力強く。

 でもそれは、戸山さん何じゃないかと、思う。

 相手を突き動かすのは、いつだって戸山さんだから。

 

「友也くんの話、聞いたよ」

 

 きゅっと拳を握って、こちらを見て。ベースを演奏するときのように力の籠った牛込さんの目線。

 

「相変わらず、頑張り屋さんなんだもん。友也くんなら、きっと大丈夫! 友也くんも沙綾ちゃんは、そんなに簡単に離れたりしない!」

 

 憧れの姉を追いかける、どこまでも透き通って、キラキラと光る目。

 頑張っているのなら、それは君たちだと言いたい。

 僕は、頑張りきれなかったから。

 

「友也はさ」

 

 いつも通りに。どこか抜けているように見えていつも確信を突く、花園さんの重い言葉。

 

「沙綾に似てるよね」

「え?」

 

 予想外の言葉に、かなり間の抜けた声が出る。

 

「頑張り屋さんで、仲間想いで。気遣いができて、なんでも一人でできる……ほら、似てる」

「…………………」

「だから友也なら、沙綾の気持ちも分かるはず」

 

 少しだけ眉をつり上げて、目に力の籠る花園さん。

 そんなに、僕は優しい人ではないよ。

 どうして、どうして。

 どうして君たちは僕を、僕を。

 

「僕はあのとき、山吹さんに向き合ってあげられなかったのに……」

 

 また、また彼女の微笑がリフレインする。

 天井から声が響いている。できるよ、できないよ、って。

 まるで自分のことを見せられているかのような言葉たちに、自然と手に力が入っていく。

 

 突然手を包まれた。隣に座る千紘さんだった。

 左手の怪我は、昨日治ったばかりだった。

 赤い点となった傷痕が残っている。

 

「友也くんは、このままでいいの?」

「……それは」

「このまま、沙綾と離れ離れのままでいいの?」

「……そんなわけ、ありません」

 

 欲張りなのかもしれないけれど。彼女と笑い合う日常を忘れろというのは、無理なことだった。

 指先が触れたキッチン。窓から吹き込んだ風が足元を駆け抜けていく。

 沈み行く夕焼けが、僕を後ろから照らしている。

 彼女との距離が一番近かったあの瞬間、指先が触れたあの一瞬を忘れられなかった。

 

「じゃあ、大丈夫じゃないかしら?」

 

 まだ、言葉は紡がれる。

 

「間違えても、(つまず)いても、貴方が沙綾の隣にいてくれるって言うなら、私は安心して貴方に娘を任せられるわ」

 

 でも、と口に出しかける。

 また天井から声が聞こえた。

 

「一緒に、考えさせてよ……」

 

 ハッとする。

 聞いたこともないような戸山さんの声。確かに弱々しいかもしれないけれど。

 山吹さんに「できない」と言われてもなお、力になろうとする声。それが戸山さんなんだ。

 いつか、僕がたどり着きたかった場所。

 いつか、僕が届かなかった場所。

 僕がまだ、やり残した場所。

 

「兄ちゃん」「お兄ちゃん」

 

 声と共に、制服の袖が引っ張られる。

 隣で立っていた、純くんと紗南ちゃんの仕業。

 

「姉ちゃん、いっつも一人で頑張ってるからさ」

「お姉ちゃんのこと、助けてあげて」

 

 赤く泣き腫らした目を、大きく見開いて、こっちを向いて。短く発した言葉は、とても重かった。

 

 でも、を飲み込む。

 

「……僕はまだ、山吹さんの力になれるのかな」

 

 三人とも、声を揃える。

 

「「「もちろん!」」」

 

 背中がむず痒い。大事な親友を僕に任せると言ってくれたのだ。唯一無二の大切な親友を。

 その重さが今は嬉しかった。背中を押されていた。

 千紘さんがにこりと笑う。

 

「大丈夫。友也くんは私たちを頼ってくれた。だから、友也くんは安心して沙綾を支えてあげて?」

 

 いつも、いつだってこの人は僕を信じてくれる。

 

「どうして、千紘さんは……僕をこんなに信じてくれるんですか?」

 

 その言葉を受けて、この人はまた微笑むんだ。

 

「友也くん、沙綾のことあんなに大切に見てくれてるんだもの。それこそ、私が娘を思うようにね」

 

 だから期待に応えたいと思うんだ。

 

「……はは、ぞっこん、ってやつですか?」

「あら、愛の重さで負けるつもりはないわよ?」

 

 そんな冗談まで口からこぼれ出てしまう。

 もう大分、目線は下を向かなくなったみたいだ。

 

 階段。フローリングを踏む足音が聞こえる。

 目尻に涙を溜めて、それでもそれを溢さないように。

 強い足取りで降りてきた戸山さんは、僕の姿を認めてこちらへ向かってきた。

 

「ともくん」

「うん」

 

 椅子から立ち上がり、応える。

 

「さーやから聞いたよ。ともくんのこと」

「うん」

 

 あの雨の日の話。

 彼女はなんと言ったのか、僕には分からないけれど。

 

「私は、さーやにドラムを叩いてほしい。やりたいことをやって欲しい」

「うん」

 

 一滴(こぼ)れそうになって、それを急いで(ぬぐ)った。

 

「私たちと一緒に、お弁当を食べて欲しい。私たちと一緒に、居て欲しい」

「うん」

 

 声が揺れる。

 

「だから、私は絶対に諦めない」

「─────」

 

 それでも声は、力強かった。

 それが、戸山さんの強さだった。

 だから僕も、へこたれるわけにはいかないって思えたんだ。そんなこと決意したの、つい数秒前だったけど。

 

「……うん、わかった。戸山さんの思い、伝わったよ」

 

 たりないトコは、半分こ。

 僕にも山吹さんにも、足りないところがある。

 だから今度は、彼女の番。

 

「……友也くん」

 

 今一度、振り返る。今の僕はきっと、良い目で応えられているはずだ。

 

「沙綾も友也くんも戻ってきたら、純も紗南も、もちろん香澄ちゃんたちも」

 

 みんな、みーんなで。

 

「ご飯、食べましょ?」

 

 笑顔で言う千紘さん。

 やっぱり笑顔っていうのは、人を明るくするものなのだろう。苦しくて笑うものじゃないのだろう。

 

「……ありがとう、千紘さん、皆。……行ってきます」

 

 戸山さんと入れ替わり。

 

 三回目になるフローリングの階段を、一歩ずつ登り始める。

 

 足取りはもう重くない。

 

 

 指先はきっと、彼女を掴める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嵌め込まれた窓から差し込む赤い光。

 

 啜り泣く声。

 

 さっきタンスから取り出したばかりの、濡れたタオル。

 これは三枚目。

 

「あーあ」

 

 漏れ出た声は、語尾が揺れて涙声になる。

 情けない声と分かっていても、抑えることはできなかった。

 もう後戻りはできないかも。

 

「ごめんね、香澄」

 

 目尻一杯に涙を溜めた親友の姿を思い出す。

 他人の泣き顔なんて見るの、久しぶりだったなぁ。

 声、下まで響いてたかも。

 母さん、純と紗南のこと見ててくれたのかな。

 

 後悔ばかりが募る。

 キミを拒んだあの日から、変な方向に吹っ切れちゃったみたい。

 胸の奥が痛い。

 ナツの顔と、香澄の顔が交互に浮かぶ。

 挨拶されて無視するの、辛いのに。

 

「キミは?」

 

 キミはどうなるんだろ。

 挨拶くらいは交わすかな。一応、仕事仲間だし。

 でも、隣に立ったって話せない。

 それは、すごくつらいや。

 

 ポロポロ、涙が落ちる。

 雨粒みたいに冷たくなくて、でも濡れていて、気持ち悪くて。

 タオルを持ちかえては、乾いた場所で目元を拭う。

 

「どうすれば、いいのかな」

 

 きっと、もう元には戻れない。もう、おしまい。

 つい数十分前に思ったことなのに、思い出すだけで涙が溢れてしまいそう。

 

 タオルの乾いている場所がなくなった。

 掴んでも濡れていて、拭っても濡れていて。

 立ち上がって、またこっそり洗濯物に紛れ込ませよう。

 

 座り込んでいたカーペット。拭い切れなかった涙が落ちて、ところどころに染みがついている。

 踏みつけるように立ち上がって、またドアノブへと向かう。

 

 その手が伸びる前に、硬いものがぶつかる音が、向こう側から聞こえた。知ってる。これはノックの音。

 律儀に三回。これも、知ってる。私が寝ぼけてたときのノックの回数。

 

 言葉を発する前に、聞き慣れた金属音と共にドアノブが回転した。

 キミは、随分と優しくモノを扱うんだね。

 

「山吹さん」

 

「……友也くん」

 

 声の主は、キミで。

 

 押し込まれたドアの向こうには、一週間前と変わらない、キミの姿。

 

「……もう少しだけ、話をしようか」

 

 それだけでもう、涙が一粒、(こぼ)れてしまった。

 



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#22

 

 目元は仄かに赤く染まり、涙の跡が頬になだらかな曲線を描く。

 空色の瞳は光を揺らし、目尻には小さく輝く雫。

 綺麗な双眸は、しっかりとこちらに向けられいた。

 

「……友也くん」

 

 電気の落ちた部屋で、彼女の顔を地平線に輝く残光が暗く照らす。

 瞬きするごとに視界から光が落ちても、左手側にあるスイッチを押す気にはならなかった。

 

「もう少しだけ、話をしようか」

 

 微笑みすら剥がれてしまった彼女の姿を見るのは、二度目。引き結ばれた唇が小さく開く。

 

「……どう、して?」

 

 信じられないものを見るように、とまではいかない。でも山吹さんにとって僕は、ここで現れるには意外な人物だったようだ。

 聞き返す声はさっきまでしゃくりあげていたせいか震えていた。

 手には真っ白なタオルが握られている。

 涙の跡を伝って、涙が一筋流れた。

 

「……ほら、また来るって言ったじゃない」

 

 思い出したように呟く約束。

 半ば諦めていたけれど、情けない悪足掻きも僕と彼女を繋ぐパスにはなってくれたらしい。

 彼女の顔をきちんと見るのも、あの日振りだった。

 

「だからもう少し、山吹さんの話を聞かせて欲しいな」

 

 彼女は目を逸らして顔を俯ける。

 顔にあたる紫色の光は瞳で反射する。

 ひまわりが成長して空を覆い隠してしまうように、光は太い茎に絡め捕られて。

 赤紫の光芒は、心まで照らしてはくれなかった。

 

「……前も言った通りだって。やっぱり私にはバンドはできないよ」

 

 ぎゅっと握られる手は、静かな部屋に音が響きそうなくらい強く丸まる。

 頬になぞる跡をもう赤くしないように、堪える涙はさっきと変わらず目尻にある。

 

「戸山さんは、なんて?」

「……君と同じようなこと。バンドやろうって、私のこと、話してくれって」

 

 僕は、山吹さんの気持ちを知らない。

 僕にできるのは、人並み程度に相手の気持ちを読み取ろうとすることだけ。

 

「香澄はすごいよ。何回できないって言ったって迫ってくるんだもの。いまだに仲直りできない私とは大違いだよ」

 

 自分を責めるように、過去の自分を諫めるように呟く。

 心底苦しそうだった。

 やっぱり山吹さんは優しすぎる、と思う。

 

「前のバンドがバラバラになっていったとき、私は何もできなかった。見ていることしかできなかったから」

 

 一度結束した友達がバラバラになっていく苦しみを知っている。

 何もできない辛さを知っている。

 だから、そもそも遠ざけようとする。踏み越えさせない一線を保っている。

 僕がこの前、その一線を越えてしまったのだけれど。

 

「キミも香澄も、すごいよ。私は前に進めてないのに、ね」

 

 戸山さんの目はいつも輝いている。

 皆といることが、とても楽しいようだった。

 僕が初めて会ったときからそうだった。

 多分、山吹さんが初めて会ったときもそうだった。

 

「だから、私のことは置いて、前に進んでよ」

 

 いつもよりゆっくり。時間を掛けて息を吐く彼女。

 深呼吸とも言えず、かといって普段通りの呼吸とも言えない、曖昧な息遣い。

 声だけでなく、息も揺れている。

 既視感とは程遠いけれど、こんな山吹さんを僕は知っている。

 しんしんと雪の降る夜、大切な友人に別れを告げた後の彼女はきっと、今と同じような表情をしていたはず。

 そしてこのまま僕が背を向ければ、また泣いてしまうのだろう。

 

「山吹さん」

 

 そんなことは、望んでいない。

 山吹さんの語ったことは、大体合っていた。

 合っている、というより事実そのものだった。

 

「山吹さんは優しいよ」

 

 小さく彼女が首を振る。横に、だった。

 

「千紘さんのことが辛かったんだよね」

「うん」

 

 今度は声が漏れた。

 涙のように、こぼれ落ちる声だった。

 

「一度別れた友達と、顔を合わせたりできなくなったんだよね」

「そう」

 

 でも、間違っているところもあった。

 そんな、冷たく語るようなものではないはずだった。

 

「バンドをやったら、また前のバンドみたいになるかもしれないって思ってるんだよね」

「……そう、いうこと。だから──」

「だったら、やっぱり山吹さんは優しいよ」

 

 言葉を遮られた彼女が、これまた意外そうにこちらに目を向ける。

 なんで? なのか、どうして? なのかはわからないけれど、明らかな疑問の色のある表情だった。

 

「戸山さんの思いに応えたいけれど、でもそれはどうしたって一年前の千紘さんのことを思い出してしまう」

 

 千紘さんが倒れて、きっと整理できない頭で沢山考えたはずだ。

 例えば、これからどうしよう、とか、皆になんて言おう、とか。

 

「この前、山吹さんは「怖い」って言ってくれた。紛れもなく、山吹さんの本心だったよね」

 

 今思い返してみても、あれが初めてのことだったことに変わりはない。あれが僕に初めて伝えられた、彼女の奥底だったことに変わりはない。

 彼女の本心は本心。でも、受け取り方は前と変わっている気がする。

 

「あんな状況でなきゃ話してくれないくらいに、山吹さんはその事の重さを知っている。山吹さんの過去を話せば、今まで通りの関係じゃいられなくなるって知っていた」

 

 怖い、だなんて、他人にはどうしようもない。

 それは自分自身にしか解決できないことだ。

 山吹さんにしか解決できないことだ。

 

「それが、怖かったんだよね」

 

 戸山さんたちと笑い合うことが、僕と居ることが楽しかったから。変えがたいほどに幸せだったから。

 変えたくなかったから。

 

 首を振る。今度は、縦に。

 

 それなら良かった。

 僕の推測は間違っていなかったことになる。

 彼女はやっぱり、優しいんだ。

 

「苦しかった」

 

 小さな唇が紡ぐのは、小さな声だった。

 

「キミが去って、香澄が去って、辛かったけど、これでいいんだって」

 

 ふと、窓から光が差す。

 半月に近い、歪な形の月が地平線から上り始めていた。

 

「……でも、でもね?」

 

 ふらり、ふらりと声が揺れる。また涙が落ちそうだ。

 

「……まだ、皆で居たい」

 

 歪に崩れる表情。

 

「キミと居たい」

 

 月明かりが照らす瞳。

 

「これで終わりは、いや、なの──」

 

 彼女にとっては、口にしてはいけなかった言葉。

 彼女の本心。

 家族を思う優しさと、友達を思う願い。

 一人の少女が抱えるには大きすぎる矛盾。

 

「……僕だって、そうだよ」

 

 誰も悪くない。でも、誰かに悪いことが降りかかる。

 不幸というのはそういうものだ。

 

「あの後、ずっと落ち込んでた」

 

 千紘さんが倒れたのは不幸だった。

 タイミングは最悪で、ライブは台無しになって。

 

「どうしたら良かったんだろうって、何がいけなかったんだろうって」

 

 山吹さんは友達と疎遠になって、千紘さんは自分を責めて。

 

「わからなかった。どうしようもなかったよ」

 

 そうして山吹さんは、バンドを辞めた。

 僕はのうのうと、彼女の元に通っていた。

 

「……本当は、今日こんなことになるなんて思ってもなかった」

 

 視界が少しだけ揺れていた。

 しっかりと言葉にしなければならないのに、それに反して感情のコントロールは効いてくれやしない。

 

「でも、皆の話を聞いて、千紘さんから信じてもらって、そして戸山さんから託されて」

 

 手に込めた力を抜けば、今にも涙がこぼれそうだった。

 

「皆に支えられて僕はここにいる。だから次は、山吹さんを支えなくちゃならない」

 

 正直、自分でも何を言っているのか分からなくなり始めていた。

 でも、確かに伝えたい思いがあった。

 目の奥がつんと熱くなった。頭の中はぐしゃぐしゃだった。

 

「僕だって、こんなまま終わりたくない」

 

 不幸は仕方のないことだ。

 

「皆だって、山吹さんと居たいって言ってくれた」

 

 でも、それは誰も悪くないということだ。

 

「僕だって、山吹さんと居たいに決まってる」

 

 誰も悪くないのなら、やり直せる。

 

「山吹さんがいるから、僕らは楽しいんだ」

 

 そこでやっと息をつく。

 息継ぎもせずに喋っていたから息が荒い。

 身体中が火照っていた。

 

「ズルいよ、そういうこと言うの」

 

 少しだけ、表情が明るくなった気がする。

 でもそれは月明かりのせいだとすぐに気づいた。

 暗闇だったときよりも、彼女の表情がよく見えた。

 

「キミにそんなこと言われたら私、心変わりしちゃうよ?」

 

 困るよ、と彼女は続ける。

 

「私がバンドをやったら、また───」

 

 その先を喋ることなく口をつぐむ。

 彼女は立ち止まっている。

 一歩踏み出せばみんなの元に行けるのに、その一歩を怖がっている。怖がって、一年も立ち止まっている。

 どこにも行けずに立ち止まっている。

 

「──だったら」

 

 千紘さんも戸山さんも、その一歩を踏み出させる役ではない。皆は、待っていて受け止める人だから。

 山吹さんの居場所を守り続ける人たちだから。

 

「僕を、僕を使ってよ」

 

 だからきっと、手を引くのは僕の役目。

 手を伸ばして、指先を絡めて、手のひらを繋いで。一歩を踏み出して、光に向かって彼女と一緒に飛び込む。

 

「僕に存分に手助けさせてよ。僕が山吹さんにできることなんて、それぐらいなんだ」

 

 伸ばした手が掴まれるのを待つのではなく、伸ばされかけた彼女の手を掴んで。

 そうでもしなければ、彼女はきっと進んでくれない。

 

「……だめ、だよ。そんな、そんなの、キミが無理するでしょ? 皆と居られても、それじゃ──」

 

「僕が居るだけで山吹さんが皆といられるなら、僕はなんだってやるよ」

 

 些か言い過ぎでも、それでいい。

 僕は山吹さんを手離しかけて後悔しかけた。それでも、後悔しかけただけで済んだのだ。

 だから、今度は離さない。

 

「もう、いいんだよ」

 

 君は。

 

「山吹さんは、もう一人じゃない」

 

 夢は、目を閉じて見るものだけれど。

 

「戸山さんが、牛込さんが、花園さんが、市ヶ谷さんが───僕が、いる」

 

 夢は、目を開いて見るものだから。

 

「皆がいるから。僕だって、一人じゃないから」

 

 僕の言葉は、そこ途切れる。

 山吹さんが手を差し出していた。

 握手に随分似た形だったけれど、多分違う。

 

「手、繋いでくれる?」

「うん」

 

 迷わず、彼女の手を取る。伸ばされていた手を取る。

 暖かくて、とても柔らかくて、そして、とても小さな手だった。

 この手に溢れるほど、彼女は思いを溜めてきた。

 握ってみると、握り返してくる感触があった。

 

「キミの手、暖かいね」

「山吹さんだって、暖かいよ」

 

 月明かりが僕らの顔を照らしていた。

 静かな部屋で、彼女か泣いていた。

 

「伝わる、伝わるよ、キミの暖かい気持ち」

 

 溜め込んでいた思いが溢れていた。

 僕は彼女の顔を見ていた。

 

「……こんな私でも、まだユメを見ていいの?」

「もちろん、何度だって。当たり前だよ」

 

 山吹さんはもう、目を開けていいんだよ。

 

「──ありがとう」

 

 彼女の言葉は、それが最後だった。

 

 彼女の涙が、僕の手の甲に落ちた。

 とても暖かかった。人の暖かさだった。

 とても沢山の思いが詰まった涙だった。

 

 彼女は微笑んでいた。

 泣いていたけれど、いつもの暖かい微笑みだった。

 いつかのような、貼りついた笑顔ではなかった。

 彼女の微笑みだった。

 

 キラリと、彼女の頬が光る。

 月の明かりが、彼女の涙を照らしていた。

 彼女は銀色を溢しながら、微笑んでいた。

 



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#23

 

 彼女が泣き止むのに、そう長い時間は掛からなかった。

 

 部屋に響いていた涙声は途絶え、静寂が包む。

 涙を拭った彼女は、相変わらず僕の手を握っている。

 

「あはは、私も泣き虫になっちゃったなぁ」

 

 彼女が笑う。自嘲気味な笑いなのにどこか明るくて、そこにさっきまでの悲しそうな瞳は無かった。

 月明かりが彼女と僕を照らす。

 そこでやっと、今まで電灯をつけていなかったことを思い出した。

 

「ね、友也くん」

 

 多分今胸中に溢れている気持ちは、きっと喜びだと思う。

 

 強い瞳だった。

 強く輝く空色の瞳が、僕を見つめている。

 

「下、降りよっか。みんな待ってるよね」

「うん、そうだね。きっと待ってる」

 

 名残惜しく手を離す。

 指先、中指の先が離れるまで彼女の暖かさを身に刻む。

 ドアノブを握る。蝶番が軋む音と共に、足元に光が差し込んでくる。

 先程までは聴こえなかった声が、小さく耳に届く。

 

 ふと思い立って、後ろを振り向く。

 ドアに沿うように彼女に通路をあげる。

 

「先、いいよ」

 

 一瞬、きょとんとした顔をする彼女。でもすぐにふふっ、と笑いだした。

 

「なあに、それ」

「いや、後ろで見ていようかなって」

 

 僕は、先に立って手を引っ張る役じゃない。

 ここから皆の元へは、山吹さん一人の意思で向かわなければならない。

 皆が彼女の手を引くための、最後の一押し。

 最後に背中を押す役だ。

 

「でも、後ろにキミがいてくれるのは、嬉しいかな」

 

 ありがとう、と続けて扉を潜っていく。

 気のせいかもしれない。でも、暖かな光に包まれた彼女はなんだか眩しかった。

 彼女の後に続いて僕も扉を抜ける。

 入り口側のドアノブを握ると、丁寧にドアを閉める。

 蝶番が再び軋み、寂しげな部屋は僕らに別れを告げる。

 

 電灯の落ちた部屋には、もう誰も取り残されていなかった。

 

「それじゃ、行こっか」

 

 彼女が優しく告げる。

 こちらを見て、微笑んで。

 

 後ろについていくつもりだったのに、彼女は何故か隣に並び立ってきた。

 別に狭くはないけれど、これはこれでなんだかこそばゆい。

 そんなことを思ったけれど、隣の彼女の笑顔を見たら、これはこれでいいんじゃないかと思えた。

 

 階段を一段、降りてゆく。

 並び立つ足音は僕のそれよりも少し小さく、けれど足取りは確かだった。

 隣から伝わる熱が、とても心地いい。

 階段を一段、降りてゆく。

 足音が響くたびに、下の階の喧騒は大きくなり、明かりは強くなる。

 眩しいような気もしたけど、それはさっきまで暗い部屋にいたせいだと気づいた。

 階段を一段、降りてゆく。

 広く開けた空間が見える。

 階段の終わりだ。

 暗い空間は、もう終わりだ。

 

「────沙綾、ちゃん……!?」

 

 階段を降り切った先。足音を聴いて待ち構えていたのであろう牛込さん。

 山吹さんがいることに、その綺麗な双眸を大きく広げて驚いている。

 その牛込さんの、驚いた声が奥まで響いたのだろう。

 

「沙綾!?」

「さーや!?」

「沙綾って、本当?」

 

 台所から次々と皆が飛び出してくる。当然、千紘さんも。

 

「皆……」

 

 一歩だけ後ろに下がる。

 最後に、背中を押すために。

 

「……私、わたし、は──」

 

 少しだけ声が震える。

 皆が彼女に注目している。

 後ろに下がりそうになった。

 一歩、足を後退させそうになった。

 

「──私は」

 

 踏みとどまる。

 きちんと、決めたから。

 過去は全部吐き出したから。

 

「私は、バンドがしたい!」

 

 僕が背中を押すまでもなく、彼女は前に進んだ。

 自分の足で。皆の元へ。

 とても強い足取り、とても強い一歩だった。

 

「皆と、みんなと一緒にいたい!」

 

 眩しい、眩しい光だったけれど。

 何も見えなくたって、光の先に確かな()があると信じて。

 

「私は──!」

 

 彼女の手を取るのは、僕だけじゃない。

 皆が手を取り、繋いで、進んでいく。

 手のひらに伝わる暖かな鼓動は、確かにそこにあるから。

 

「──もっと、夢を見てみたい!」

 

 戸山さんが近づいてくる。

 きゅっと握り締められた山吹さんの手を取る。

 両手で包んで、そっと、そっと一言呟いた。

 

「待ってたよ、さーや」

 

 果たして、手は取られた。

 今度は前に出て、彼女の顔が見えるように立つ。

 今にも泣きそうな彼女の顔があった。

 半泣きといったほうが正しいかも。

 

「──香澄、その、私──」

「いいんだよ。こうやって来てくれたんだもん」

「でも……!」

 

 でも、とそこで堪える。

 申し訳なさそうに曲げられた眉を緩めて。

 目尻の涙はあるけれど、それでも口元に弧を描いて。

 

 こういうとき。嬉しいことがあったときは。

 

「……うん、うん! ありがとう、ありがとう!」

 

 いつの間にか、視界が少し歪んでいる。

 周りを見てみれば、皆その瞳を揺らしている。

 牛込さんなんか感極まって泣いちゃってるけど。

 

 でも、嬉しいことだった。

 嬉し涙だった。

 気がつけば涙が一粒溢れていた。

 拭って、彼女の方を見る。

 涙で崩れそうになる顔を、頑張って笑顔にして。

 

 やっぱり彼女は、笑っている方がいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ね、友也くん」

 

 千紘さんが腕に縒りをかけて作った料理は、人数が人数なだけあって一晩で無くなってしまった。

 机を囲む椅子の数も、皿をつつく箸の数も、食卓の賑わいも、いつかの時よりもずっと多かったし、大きかった。

 

 ─洗い物は、二人でお願いね。

 

 台所に彼女と並び立つのも、結構久しぶりな気がする。

 久しぶりと言っても、二回目なんだけど。

 いつかと同じく、彼女は左側に。

 水道から流れる水が僕の手を濡らしている。

 

「皆、元気だったね」

 

 布巾を片手にほう、と呟く彼女。

 力が抜けたように頬を緩ませている。

 

「山吹さんがいたからだよ」

 

 近くから聴こえる喧騒、陶器が掻き鳴らす硬質な音、その全てを覆う水。

 飛び散る水滴、手渡される皿、並び立つ影。

 そして、柔らかく交わされる会話。

 本当に、いつかのようで。

 

「はい、これお願い」

「了解、任せて」

 

 自然と受け渡される声、慣れた距離感、不慣れなお皿渡し。目線は、逸らした、というより向けていなかった、というものだったけれど。

 

「「…………!」」

 

 暖かく、あるいは熱く痺れる左手、そしてその指先。

 触れる爪も、染まる頬も、喧騒へと溶けてゆく。

 少しだけ固まる。顔が熱い。

 でも、いつかのようなぎこちなさも無くて、ただ照れくささと共に跳ねる心があって。

 

「えへへ、ごめんね」

「…………いいや、こっちこそ」

 

 ちょっと嬉しそうに笑う彼女はとても幸せそうで。

 取り戻したささやかな幸せはちっぽけだけれど、でも大きかった。

 

「ほらほら、早く進めちゃおう?」

 

 何故か長く感じる時間は、きっとお皿の量が多いせい。

 わざわざ目を向けなくても、彼女の幸せそうな様子はその鼻歌が伝えてくれる。

 どこかで聴いたことのあるメロディーだった。

 そう考えてすぐに、ペペロンチーノを作ったときに彼女が鳴らしていたメロディーだと気がついた。

 

 水の音が止まる。

 カチャリと、皿が音を立てる。

 綺麗に積まれたお皿と、滴を足らす両手。

 

「お疲れさま、友也くん」

「うん、こちらこそ」

 

 短く会話を交わして、タオルを手に取る。

 

「山吹さん」

「ん?」

 

 手元に目線を落としたまま、喋る。

 

「なんていうか、ごめん」

「どうしたの、突然」

 

 笑って返す彼女。

 

「この前は、何も考えずに山吹さんの過去のことに踏み込んでたからさ」

「………………」

「正直、泣かれるとまでは思ってなかったんだ。それも考え無しだったゆえなんだけど」

 

 そこまで話したところで、ストンと頭に何かが落ちる。

 突然だった。

 目線を上げると、山吹さんが僕の頭に手刀を落としていた。

 

「ごめん、は禁止!」

「……え?」

 

 少しだけ眉間に皺を寄せて、でも目元は優しくて。

 そんな表情で彼女は話す。

 

「私だって、皆の前では言葉を選んだんだよ? ごめん、って言ったら、香澄絶対怒るから」

 

 ああ、そうか。そういうことだったのか。

 

「私はキミに助けられたんだもの。だから、もっと胸を張ってよ。キミは凄いことをしたんだ、って」

 

 頭に感じていた暖かい感触が離れる。

 視界の上で、彼女の腕が落とされるのが見えた。

 

「……そっか。そうか。うん、了解」

「分かったなら、それでよろしい。ほら、皆のところ、行こ?」

 

 そう言って彼女が振り返る。

 後ろで纏め上げられた髪がふわりと揺れた。

 見覚えのある髪飾りが、電灯に当てられてキラリと光る。

 これはたしか、勉強会のときにつけていたものだったっけ。

 そこまで考えて、あらかじめ纏めておいた荷物を手に取る。

 

「友也くん」

 

 不意に声が掛かる。

 山吹さんではなくて、千紘さんだった。

 

「今日は、ありがとうね」

 

 柔らかく笑う表情に少しだけ彼女を重ねて──すぐに引き離した。

 

「いえ、こちらこそ」

 

 もう夜が空を覆う時間だった。

 皆は外で待っている。話し声がここまで響いてくる。

 

 玄関に続くフローリングは白色光によく映える。

 そのフローリングを滑る足音は、綺麗に重なったり、あるいはバラバラとずれてしまったり。

 歩を進める度に大きくなる話し声はとても明るくて。

 玄関口を照らす光が、彼女らの影をガラス越しにこちらに映している。

 

「皆、まだまだ元気そう」

「そうだね」

 

 二人で笑いながら進む廊下。

 たった数秒の間でも、響く笑い声は少なくない。

 不意に彼女が立ち止まる。

 並び立って靴を履く。彼女はサンダルだけど。

 その音に気がついたのか、ドアの向こうの話し声が止んだ。

 

 ドアノブを捻る。

 閑静な廊下に、ガチャリと大きな音が響く。

 廊下の明かりの代わりに、玄関口の明かりが周りを照らしている。

 

「あ、二人とも」

 

 いつもと変わらない笑顔で皆が迎えてくれる。

 市ヶ谷さんだけは、なんだか照れくさそうに頬を染めているけど。

 

「皆、やるよ!」

 

 突然声を上げる戸山さん。

 

「おっけー」

「う、うん!」

 

 続いて頷く花園さんに牛込さん。

 

「マ、マジでやるのか……?」

 

 恥ずかしそうな市ヶ谷さん。

 これはどうやら、僕は捌けておいた方が良さそうな雰囲気。

 

「じゃ、いくよー……!」

 

 ふっ、と風が吹いた。

 四人が息を吸う音が重なる。

 

 

「「「ポピパ! ピポパ! ポピパパピポパー!」」」

 

 

「さーや! Poppin‘ Partyにようこそ!」

 

 そうやって、満面の笑顔で両手を広げる戸山さん。

 それとは対照的に、面食らったように目を丸くする山吹さん。

 

 暫くの静寂。その後、ふ、と山吹さんが吹き出す。

 

「あはははは! うん! こちらこそよろしくね、香澄!」

 

 ひとしきり笑ってそう言う彼女。

 市ヶ谷さんが恥ずかしそうにしてたのはこのせいなんだと納得する。

 

「……あー! もう! なんでこんなこと……!」

 

 耐えきれなくなった市ヶ谷さん。

 それでも山吹さんのためにやってしまうあたり、本当に市ヶ谷さんらしい。

 

「恥ずかしがらないで、有咲」

「もとはと言えばおたえのせいだからな!?」

「ふ、ふたりとも、折角しっかりできたのに……」

 

 結局、僕らが来る前と同じような騒ぎになってしまう。

 もちろん心地のいいものだけれど。

 

 そんな四人を横目に、再び山吹さんの隣に立つ。

 

「ね、友也くん」

「うん」

 

 楽しそうな皆を眺めながら山吹さんが話す。

 

「私、よかった。ポピパに入れて」

「うん」

 

 長いようで、短い道のりだった。

 

「ホントにホントに、よかったよ」

「うん」

 

 それは僕もだ。

 山吹さんがまた皆と笑えるような、そんな日常が戻ってきた。

 とても、嬉しかった。

 

「だから、ね」

 

 ふと、山吹さんが向き直る。

 それに応えて、自然と僕の顔も彼女の方を向く。

 

 

「ありがとう、友也くん」

 

 

 とくり、と心臓が音を立てた。

 ふ、と一瞬、一瞬だけ音が消える。

 一瞬で音が戻ってくる。

 彼女の微笑みは、小さなひまわりのように。

 小輪のひまわりだって力強く咲いている。

 

 ああ、そっか。

 

「うん、どういたしまして」

「ふふ、うん。それでよろしい」

 

 得意気に笑って、また皆の方へと向く彼女。

 一瞬、いや一秒だけ遅れて僕も向き直る。

 

 星の綺麗な夜だった。

 月明かりの下でも輝く一等星は、天の川の両端に。

 

 六月末の静かな夜だった。

 少しだけ跳ねる心臓が煩いくらいに、静かな夜だった。

 



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#24

 

 空はすっかりと晴れた。

 

 道の凹凸に溜まっていた水溜まりもいつしか蒸発して、濃く染まっていたコンクリートは、少しずつ乾いて、薄い色を取り戻している。

 空に浮かぶ雲は白い。

 綿のようにちりばめられたそれは、青い海に浮かせたようにふわふわと漂っている。

 

 隣に立つ人影はない。

 その違和感にもそろそろ慣れる頃。

 

「ありがとうございました」

 

 ドアの閉まる音を聞き届けて息を吐く。

 時間の進みがゆっくりに感じる休日の午後。

 蒸し暑い空気はどこかへと。

 カラリと乾いた風がドアから吹き込んでいる。

 

 ポピパが結成されて三日が経つ。

 長い、長いいざこざを終えた僕らには、緩やかに過ぎていく日常は遅すぎるほど穏やかだった。

 

 文化祭まで、あと一週間。

 

 毎日ドラムスティックを持って家を出ていく様子は幸せそうだと、千紘さんから聞いた。

 休日の朝は、僕が彼女を「いってらっしゃい」と見送る。

 そんな日々が続いている。

 

「お疲れさま、友也くん」

「いえ、こちらこそ」

 

 僕が休みをもらっていた間お店を仕切っていたのは、当然ながら千紘さん。

 本人は、無理をしたとも大丈夫とも言わない。

 気にしないでくれているのか、あるいは。

 少しだけ心配ではあった。

 

「山吹さんも、文化祭が終わったらまた調整するとは言ってましたから。それまでは気合いを入れて頑張りますよ」

「ふふ、頼もしいわね」

 

 体は軽い。

 重い足取りでこのお店に通っていた時期が嘘のよう。

 こうして山吹さんのいない空間は、喧嘩した後の時間よりもバイトを始めた頃を彷彿とさせる。

 

 朝が過ぎ、昼が過ぎ、少しずつ日の傾き始めた空は、次第に赤を帯び、青を薄め始める。

 

 いつだったか。

 ほとんど僕が先にやまぶきベーカリーに着いていた日々の中で、一度だけ。

 一度だけ、彼女が先に帰っていた事があった。

 入り口で息を整えている彼女を不思議そうに見つめていたら、不満そうな目線を向けられた覚えがある。

 

 手のひらを握り締めて、もう一度開いて。

 未だに実感は無い。

 現実味を帯びない一連の出来事が、夢の内容を鮮明に覚えているかのような感覚に僕を陥らせる。

 その全てがあっという間で、足がついていないような浮遊感がある。

 下手に歩き出してしまえば、足を縺れさせて転んでしまうような、朧気な気分。

 

 それでも。

 

「……あら、ふふふ。随分と急いで来たみたいね」

「……? ああ」

 

 不意に、ドアから影が差す。

 見慣れた形をした影だった。

 後ろに纏められた髪がふわりと揺れて、影もそれに従う。

 ふと視界に映った自分の手。袖口に皺が寄っている。

 なんだかみみっちいような気がする。

 もう一度ドアの目を向ける。

 けれど、逆光で彼女の顔がよく見えない。

 でも、その手がドアに掛けられたのは見ることができた。

 蝶番が来客を知らせて、鈴の音が短く、優しく鳴る。

 その間に少しだけ袖口を整える。ついでに襟も。

 

 目線を上げれば、同じようにこちらを見た彼女と目が合う。

 なにかを待っているみたいに動こうとしない。

 ああ、と思い至る。

 

「……おかえり、山吹さん」

 

 同じ挨拶をしたのが、一昨日のことだったから。

 彼女を迎えることには、あまり慣れない。

 でもそこで初めて、彼女は笑う。

 

「うん、ただいま、友也くん」

 

 柔らかくて、とても聞き慣れた声。

 ふわり、と漂う香りにハッとする。

 夢の中いるような気分は気のせいなのだと、目の前の彼女が教えてくれている。

 

「練習、お疲れさま」

「そっちこそ、バイトお疲れさま」

 

 どこからか、お疲れ様、と声が飛んだ。

 店内に居た幾人かのお客さんも、慣れた様子で彼女に声を掛けているらしい。

 その全てにきちんと答える彼女。

 それを見届けながら、僕も言葉を挟んでゆく。

 

「みんなの様子はどう?」

「ついていけないくらい元気」

 

 荷物を下ろしながら、疲れた様子で歩く彼女。

 それを流し目に見ながらエプロンの紐を縛り直す。

 

「でも、楽しいよ」

 

 気がつくと、彼女がこちらを見ていた。

 笑顔のような、でもそうでもないような、曖昧な表情。

 ああ、これは微笑だ。

 久し振りに見たそれは、とても幸せそうな笑い方だった。

 

「──そっか」

 

 自然と口元が弛むのが分かる。

 彼女の微笑が伝染したかのように、ただ暖かなモノが胸に溜まっていくのを感じた。

 

「うん、それじゃ手伝うよ。エプロン着てきちゃうね」

 

 彼女が奥へと消えていく。

 その後ろ姿を見て、あんなに大きかっただろうかと思った。

 何もかもが元通りなわけではない。

 変化はあるのだ。きっと。

 取り戻したものも、勝ち得たものも、まだ掴みきれていない。

 

 それでも、ただ。

 

「お待たせ! あと少し頑張ろっか!」

 

 その笑顔だけは、出会った頃と確実に変わっているのだろうと分かる。

 ただ純粋に笑えているのだと、そう思う。

 

「ああ、頑張ろう」

 

 隣に熱が灯る。

 ああ、そういえば一つ新しいことを覚えた。

 

 今は、この指先に灯る熱に名前を付けることができる。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 穏やかな日常はあっという間に過ぎ去ってゆく。

 気を抜いているうちに、朝は来る。

 

 カーテンの隙間から覗く朝日が眩しい。

 耳元で鳴り続ける目覚まし時計の音が、どこか朧気に聞こえている。

 なぜ普段セットしない目覚ましなんて、とそう思ったところで急に思考が一つに纏まった。

 

 ああ、今日は文化祭だったっけ。

 

「────!」

 

 パチリ、と目が冴え渡る。

 朧気だった目覚まし時計の音が急にけたたましく聞こえるようになった。

 身体に覆い被さっていた布団をどかしたところで、目覚まし時計を止める。

 

 二度寝を誘う睡魔は襲ってこない。

 勢いのままカーテンを開けて、空気を入れ換えるべく窓まで開ける。

 もう夏だ。朝の風であろうと寒くない。

 

 空は晴れ渡っている。

 もう梅雨が明けたのではないかと思ってしまうほどに、陽に当てられたフローリングが眩しい。

 雲ひとつ無い、というわけではなかったけれど、照りつける朝日が黄色に近い朝焼けを作っていた。

 

 吹き込んだ風が、壁に書けておいた制服を揺らす。

 長袖のワイシャツの袖を見て、そろそろ衣替えの季節だとも思った。

 クローゼットから半袖のワイシャツを取り出す。

 窓から離れ、着替えを済ませる。

 肘から先が自由になって、解放感に驚く。

 

 着替えまで済ませてしまえば、頭も冴えてくる。

 ああ、そうか。

 今日は山吹さんが初めてライブをするんだ。

 ステージに立ち、戸山さんたちと一緒に演奏する彼女の姿。

 きっとみんな笑顔で、楽しそうに。

 想像するだけで、自然と笑みが溢れてしまう。

 

 十分に空気の入れ換えられた部屋。

 窓を閉めて、部屋を出る。

 あれだけ長く思えていた一日。

 ましてや一週間が、よもやここまで早く過ぎていくとは思わなかった。

 

 母親が用意してくれていた朝食を取る。

 時計の長針が文字盤を半周する頃には、もう一度自分の部屋に戻っていた。

 改めて身だしなみを整えて、机の上に置いていたスマートフォンから充電ケーブルを抜き取る。

 机に落ちた端子部分が、硬く音を鳴らした。

 

 同時に点灯する液晶。眩しさに目を細める。

 通知が一件。それも不在着信。

 誰かと思えば、亘史さんからだった。

 

 ああ、今日の運搬で何かあるのだろう。

 そんな風に軽く考えて、物珍しい亘史さんの番号をプッシュする。

 何の気もなく、軽い気持ちだったのだ。

 

 よく聞き慣れた発信音が右耳を叩く。

 その間にも、左手だけで荷物の準備を進める。

 発信音がブツリと途切れたのは、一通り荷物を準備してしまってからだった。

 

「もしもし、亘史さんですか?」

『ああ、友也くんか』

 

 すかさず返答が帰ってくる。

 電話越しでもよく分かる男性の声。

 

「着信履歴があったんですが……どうしたんですか?」

『そう、そのことでね』

 

 何故か、少しだけ気を張っているような、そんな強張った声だった。

 気のせいなのかもしれないけれど。

 本当に、軽い気持ちだったのだ。

 

『──妻が、病院に運ばれてね』

「…………え」

 

 妻、病院。それはつまり。

 突然、電話以外の何もかもが無音になる。

 

『貧血のようなんだが、沙綾が付いていくと言って聞かなくてね』

 

 荷物を詰めたバッグを肩に掛ける。

 ここから、病院。

 走るしかない。

 

『パン運びは私がやっておく。それは、私の仕事だからね』

 

 ドアを開け放つ。

 発表までに時間はある。

 

 

『だから、友也くん』

 

 

 玄関に向かう間に、母親が何か言っていた。

 沙綾ちゃんによろしく、だとか、何とか。

 

 

『沙綾のことを、よろしく頼む』

 



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#25

 

 彼女との関係は、分からないことだらけだと、分からないことだらけだったと思う。

 

 思い返せばいくらでも彼女との思い出は言葉にでてくるのに、言葉にするほど現実味を帯びずに響いている。

 慣れないことだらけのこの頃は、夢の中にいるようにふわふわとしていて。

 思い出して確かめていないと、すぐにでも忘れてしまいそうで。

 

 ああ。

 

 いつ出会ったんだっけ。

 いつ初めて話したんだっけ。

 いつ敬語が外れたんだっけ。

 いつ名前を呼んでくれたのだっけ。

 いつ本心を打ち明けてくれたのだっけ。

 

 思い出の情景に時計は映っていない。カレンダーも映っていない。

 ただ、彼女の姿だけが鮮明に浮かんでいる。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 さっきからとても頭が熱い。

 

『沙綾のことを、よろしく頼む』

 

 照りつける朝日が目を焼いてしまうから、ずっと目を細くしている。

 足に注意を向けた途端がくりと膝が折れてしまいそうな気がして、すぐに別のところに意識を集中させる。

 あと、どれくらい。

 肺が熱い。痛い。酸素を求める喉が悲鳴のような甲高い音を立てた。

 

 きっと、下ろし立ての半袖の背中も汗に濡れている。

 触覚の一部が狂ったみたいに、足を貫く鈍痛だけがはっきりと意識を刺激する。

 地面を踏みしめる度に響く衝撃が思考を邪魔する。

 でも、なんのために走っているのかだけは忘れずに。

 見慣れた景色はもう通り過ぎてしまった。

 名前も知らない街路樹を通りすぎる度に、肌を光が焼く。

 車が通り過ぎる音を何回聞いただろう。

 うんざりするような風切り音を聞き流して、ただ走る。

 一際強い風が吹いて、顔をしかめて、逸らす。

 もう一度前を向いたとき、弓なりに曲がった地平線、坂道を下った先に、亘史さんから伝えられた病院が見えた。

 

 ポケットに突っ込んでおいたスマホを取り出す。

 ロック解除の指紋認証に二回失敗して、三回目でやっと画面が開く。

 緩慢に確認した時間は、既にお見舞いができる時間を示している。

 もう涼しいとも言えなくなってきた時間帯だと認識して、同時に約束までのタイムリミットを肌で理解する。

 開いた画面に、戸山さんとのトーク画面が表示されている。

 

『約束したんだ。今度こそステージに立とうって』

『まだ、さーやは初ライブもできてないかったから』

『お願い、ともくん』

『さーやのこと、待ってる』

 

 少しも歩を緩めること無く、坂道を駆け降りてゆく。

 靴と足の僅かな隙間で摩擦が起きて、無視できないほどに足が熱くなる。

 次第に膨らんでゆく病院の姿だけを見つめながら、入り口はどこだったかと必死に探し求める。

 救急患者の入り口を通り過ぎて、小さめの押し扉を見つける。

 逆光で眩しく反射するガラスの向こうに、澄ました顔で座っている受付の看護師が見えた。

 

 走ってきた勢いのまま扉を押し開けて、中へ。

 受付の人は、こんなに急いだ客に慣れているのか、冷静に用件を聞いてくれる。

 

「山吹、千紘さんの、──っ、お見舞いで──」

 

 行きも絶え絶えと、実に聞き取りにくいであろう僕の言葉を、看護師はきちんと聞き届けてくれた。

 

「はい。山吹千紘さんですね」

 

 説明された部屋番号と、受け取ったカードを首からぶら下げる。

 首に掛けた紐からぬるりとした感触がして、その感覚でやっと、自分が大量の汗をかいていたことに気が付いた。

 気が付いて、それを無視して走った。

 まともに運動をしない生活を送っていた代償は大きかった。

 行く先に他の人がいないのは幸いだった。

 エレベーターを見つけて、それでは遅いと判断する。

 階段を駆け上がる度に響く足音がやけに大きく聞こえて、誰かの迷惑になっているだろうかと心配する。

 心配して、踊り場の床を踏んだ瞬間にそれを忘れる。

 

「────あそこ……」

 

 階段を上り終わってから、三つ目の曲がり角を曲がった先。

 ずっと頭の中で復唱していた番号が目の前に。

 金属製の取っ手の目の前で止まり、肩を揺らして何度か荒く息をする。

 ベタついた手が取っ手を掴むのを少しだけ躊躇する。

 初めて足を止めたその瞬間に、頭を振って忘れていた不安の種が思考の内に根付いた。

 僕に何ができる。

 前のあれはたまたまだろう。

 一人じゃなにもできなかっただろう。

 そんな思いが芽を出して。

 

『僕に存分に手助けさせてよ。僕が山吹さんにできることなんて、それぐらいなんだ』

 

 その芽を強引に踏みつけようとして、それを止めた。

 ああ、あるじゃないか。自分で言ったんじゃないか。

 僕にできることは、それだけで。

 僕にできることは、きっとその程度のこと。

 その間にも何度か息をして、結局そのままドアをスライドさせた。

 

 

 開け方に応えてか、静かにスライドしたドアの先。

 ドアから一番近い場所にあるベッドの上と、その周り。

 病室は穏やかな話し声に包まれている。

 さっきまでの頭の中の喧騒はいつの間にか静まっていて、ただ彼女らを見つめ続ける。

 

 彼女らは驚いたような表情をしていた。

 

「──はぁっ──っ、はあっ──」

 

 何と言えばいいのかと考えて、耳障りな呼吸音が喉から震え出ようとする言葉を溶かし落とす。

 開きっぱなしだったドアが、後ろで閉まる音がした。

 

「山吹、さん」

 

 やっと、やっと彼女の名前が出てきた。

 言葉を紡ぐのに、何度も肺が苦しく締め付けられる。

 

「もう、大丈夫だから」

 

 考えたうちの一欠片しか言葉にならない。

 伝えたいことだけは言葉にならない。

 余分な飾りだけが、ざらざらとした喉を通り過ぎていく。

 

「後は、僕に任せてくれ」

 

 なんて拙い言葉だろう。主語ぐらい付け加えなければ。

 それも既に忘れて、次の言葉を考えている。

 彼女の顔が見えない。どんな表情をしているのだろう。

 

「だから、山吹さんは──」

 

 目蓋に流れてきた汗に目を閉じる。

 腕で粗っぽく拭って、また目を開ける。

 

「ね、友也くん」

 

 僕の名前を呼ぶ声は彼女だった。

 その声にハッとして、彼女の顔を真正面から見る。

 彼女は一歩だけこっちに近づいて、微笑(わら)って。

 

「私、香澄と約束したんだ。一緒のステージに立とうって」

 

 それは聞いたよ。

 やっとそれが果たせるっていうときに限って、こんなことが起こってしまったんだ。

 また山吹さんがステージから離れていくんだ。

 

「母さんが運ばれて、でも約束は果たさなくちゃいけない」

 

 でも、彼女は泣いてなんかいない。確かに笑っている。

 強がりでもなく、ただ僕が来たことに安堵を覚えるように。

 

「友也くん」

 

 呆けるように思考を止めた頭に、彼女の声が響いている。名前を呼ばれると、ハッとして彼女の顔にピントを合わせる。

 

「私は、大丈夫。ちゃんと約束は守る。守りたい」

 

 静かな病室、というのは錯覚だと思った。

 本当はきっともっと沢山の話し声だとか、物音だとか、誰かが歩く音だとかが聞こえてくるのだと思う。

 でも今だけは、彼女の声だけが僕の耳を揺さぶっている気がした。

 

「だから、友也くんに頼らせて」

 

 彼女の姿だけにピントが合っている。

 瞳の内の僅かな光の揺れ動きまで、自然とその姿だけに目を向けている。

 

「友也くん」

 

 ああ、また名前だ。名前を呼ばれるんだ。

 その声が、その言葉が、僕の脳を揺さぶっていて堪らない。我慢ならない。それを聞くだけで、迸る思考を全て溶かされてしまう。

 

「母さんと、妹たちをお願い」

 

 その言葉で、やっと彼女からピントが外れる。

 彼女から一歩奥のベッド、その上と周辺にいる三人の姿を認めた。

 彼女がそちらの方を向く。

 

「いってきます、母さん」

「ええ、いってらっしゃい、沙綾」

「純と紗南も、母さんの言うこと聞くんだよ」

「うん、分かった」「いってらっしゃい、お姉ちゃん」

 

 そんな会話を見つめていた。

 彼女はもう一度こちらに向いた。

 晴れやかな、というか、すっきりした、というか。

 曖昧だけれど確かに明るい顔で、彼女は言う。

 

 

「頼りにしてるよ、友也くん」

 

 

 ふっ、と。右隣に風が吹いた気がした。

 彼女がそこを通って言ったのだと分かったのは、後ろから廊下の冷たい風が入り込んできたときだった。

 

 ああ、強いな。

 僕が心配なんかせずとも、彼女はもう振りきれていた。

 誰かに頼ることを知った。そして、もう頼れる誰かがいた。

 彼女を縛るものはもう無かった。

 ただ、親友との約束のために走ることができるようになっていたんだ。

 

 ああ、嬉しい。

 烏滸がましくも、僕がいたことでできることがあるのだと、確かめられたから。

 根付いていた小さな不安の芽は枯れている。

 

「友也くん」

 

 僕を呼ぶ声。千紘さんのものだった。

 同時に、病室に響く喧騒が一斉に僕の耳に届いてくる。

 冷めきったワイシャツが急に気持ち悪くなって、着替えるものもないからとそのままに。

 声に誘われるように、千紘さんの横たわるベッドの側へと向かう。

 

「来てくれてありがとう、そしてごめんなさい。また迷惑を掛けてしまったわね」

 

 少しだけ目を伏せている。

 山吹さんに似て──いや、山吹さんが繊細なのが、千紘さん譲りなのだろうかと漠然と考える。

 それに声を掛けようとしたけれど、刹那、千紘さんが顔を上げる。

 

「それでも、ありがとうの方が大きいわね」

 

 そう微笑む千紘さんに何も言えなくなる。

 きっと最近の無理が祟ったのだろうと思う。

 思い当たる節は、僕が彼女と喧嘩をしていたときくらいだ。

 あの頃から、千紘さんがお店に顔を出す機会は多かったから。

 きっとまだまだ解決しなきゃいけないこともある。

 山吹さんは進み始めたばかりだから。

 進み始めたばかりの君に。

 僕ができることは、どれだけあるのだろう。

 

「ね、友也くん」

 

 意識を頭から視覚に切り換える。

 なぜだか千紘さんが不思議そうな顔をしていた。

 

「沙綾のこと、好き?」

 

 音が消えた。

 僕に声を届ける彼女がいないから、本当の静寂が僕を襲う。

 込み上げてくるものがあった。

 けれど、決して戸惑うようなものでは無かった。

 返答は決まっている。

 音はすぐに戻ってきた。

 

「──はい、好きです」

 

 自然に、ふわりと、風が吹くように。

 予想以上に優しく、落ち着いた声で返事をする。

 その言葉を発してから少しだけ間があって。

 千紘さんはまた、ふっと微笑んだ。

 

「そう、うん。友也くんなら安心ね」

 

 その言葉を聞いて、なんとなく彼女の気持ちを知る。

 なんだか、自分の気持ちを知るのにとても長い遠回りをしていた気がする。

 

「きっとあの娘も友也くんのこと、好きよ」

 

 特に驚くわけでも無かったけれど、すとんとその言葉が耳に響いていた。響いて、そこら中で跳ね返っていた。

 

「ね、友也くん。あの娘のこと、よろしくね」

 

 何度か聞いたことのある言葉だった。

 でも、今まで聞いたどの時よりもその言葉が実感を伴って聞こえていた。

 

 手を握ってから開いてみる。

 窓の向こうを覗いた。

 確か今日はまだ雲があったはずだけれど、窓から見えた空は確かに、雲一つ無く晴れ渡っていた。

 



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#26

 

 地面を叩くスニーカーから軽快に音が鳴る。

 息を吐く音に一定のリズムを感じる。

 天頂に近付きつつある太陽が、頭上から強い日差しで照らす。

 常に吹き付ける向かい風も、時折背中を押す追い風も、そのどちらもが涼しい。

 見慣れた景色を遡るように、追いかけるように、後ろへと流し続ける。

 

 いつか、こんな風に走ったことがあった。

 そう、キミがうちで働き始めた頃。

 お店の前で見たキミの涼しい顔がすぐに思い浮かぶ。

 

 お客さんの名前を覚える機会は少ない。

 特に、私と同じくらいの世代の人たちは常連であっても名前を知らないことの方が多い。

 そう思うと、彼は不思議だ。

 沢山いる、名前も知らないお客さんの中で、彼と関わる確率はどれくらいだったんだろう。

 

 

 あの日、星が浮かび始めたばかりの夜。

 蒼空が窓から覗いていた時間。

 思い出した。冬だ。

 雪の降らない、寒い冬の夜だったんだ。

 

「……売り切れ……」

 

 情けない声を上げるキミ。

 お店の中には他に誰もいなくて。

 含みのある言い方をするなら、二人きりだった、なんて。

 他のパンへと目を移すキミに、袋に入れたコッペパンを持ち出して。

 

「いつもコッペパンとるから、ひとつだけストックしてありますよ」

 

 そうやって声を掛けたのは、大きな出来事でもない、ありふれた偶然だったのだろう。

 初めて、面と向かって話をした気がしたんだ。

 レジの向こう側のキミじゃない、一人のキミと話ができたから。

 

「いつもコッペパンを買いますよね」

「シンプルな味が好きなだけですよ」

 

 一度距離が縮まってしまえば、その先の歩みはだんだんと早くなって。

 口調が崩れたのは、いつだったかな。

 名前を知ったのは、いつだったかな。

 

「……山吹さんは、どんなパンが好きなのかな」

 

 ああ、そうだ。

 キミが最初に名前を読んでくれたんだ。

 なんだかちょっとくすぐったくて、でもそれを表情に出さないように堪えて。

 でも、キミもなんだか照れくさそうにしていた。

 

「──ところで、キミの名前。私はまだ知らないんですけど」

 

 その場の勢いで。

 多分自然に尋ねられていたんじゃないかな。

 キミの真似をして、お互い名字で呼び合って。

 寒さの厳しい冬の中で、暖かな手の熱を感じるのが嬉しかった。

 

「鴻くん、合格おめでとう。はい、これ」

「これはサービス? こちらこそ、ありがとう」

 

 いつの間にか木々の芽が出るような時期になっていた。

 父さんや母さんとコソコソ話すキミを見かけるようになった。

 秘密にされていることにちょっと距離を感じたりした。

 妬いてるわけでは無かったはずだ。まだ。

 

「おかえり、山吹さん」

 

 とても、とっても驚いた。

 ふわふわとした天気の日だったから、まさか幻じゃないかと疑って、でも幻でもなんでもなくて、隣にキミがいるという不思議がなんだかとても心地良くて。

 

「これからも、よろしくね」

 

 夜を背景に背中を向けるキミが珍しくて、ちょっとだけ悪戯をしてみたり。

 すぐにドアを閉めたのは恥ずかしかったからだって、今なら素直に認められる。

 

「そろそろ名前で呼び合わない?」

 

 夜に紛れて、闇に紛れて。

 赤くなった頬が隠せていれば良かったけれど。

 友也くん、友也くん。

 彼にもそろそろ、私のことを名前で呼んで欲しいかな。

 

「ああもう、絶対彼と目合わせられないよ……」

 

 だらしない人と思われなかったかな。

 変な女の子とだと思われなかったかな。

 そんなことばかり心配していて、そんな理由で目を合わせられなかったという幸せを、どう言い表せばいいのだろう。

 

「あ、ペペロンチーノだ」

 

 私の好物がペペロンチーノだなんで、どこで知ったのだと思いきや、母さんからの入れ知恵とは。

 律儀に作ってくれるキミも優しいんだろうけど。

 自分で作るよりもちょっとだけ味が薄くて、パスタが固めで。

 ああ、なんだかキミらしいかもなんて。

 

「やっぱり、料理がおいしいって言ってもらえるのは嬉しいよ」

 

 とても美味しそうに食べてくれるものだから。

 機会があればもう一度くらいご馳走させてほしいかな。

 

 ああ、そうだ。

 その後だったんだ。

 

 

 街路樹が並ぶ大きな道路を通り過ぎた。

 景色が変わると、学校までの距離がより具体的に掴めるようになる。

 このまま走って、あと十分もない。

 少し細く、でもきちんと整備された道を走り続ける。

 今までBGMのように小さく聞こえていた息の音が、急に大きくなったように感じられた。

 今は何時だろう。

 約束まで、あとどれくらい残されているんだろう。

 分からない。分からないけれど。

 

 大丈夫。絶対に間に合う。

 

 

 ああ、そう。お皿を洗っていたんだ。

 ちりっ、と。

 まるで火傷したかのような感触だった。

 

「…………っ!」

 

 まるで沸騰したように心は跳ね回っていて。

 お椀が転がる音も、さっきまで聞こえていたリビングの向こう側の話し声も、流れ続ける水の音でさえ。

 一瞬は消えて、でもまた戻ってきて。

 時間が経つほどに、指先の熱だけは冷めることがなくて。

 

「ああ、もう…………」

 

 暗い部屋、星空の見える窓の、その縁。

 手を掛けても、ただ手すりの冷たさを感じるだけで。

 

「熱いなぁ……」

 

 夜風に当たる顔も、頬も、指先も。

 ああ、そうだね。

 心も、熱かったんだよ。

 

「……ねえ、私がキミと知り合って何ヵ月経つのかな」

 

 暗い、でも空はそれなりに明るい帰り道。

 少しだけ湿った風の吹く、雨の前の日だった。

 

「みんなのこと、よろしくね」

 

 本当は、今こんな風に走っているなんて想像もできなかった。

 私は、ステージの下から見上げるだけだって思っていた。

 輝き続ける香澄たちを、ただ近くで見守るだけだと思っていた。

 

 

 学校が見えた。

 入り口から校舎の中まで人で溢れかえる中を、半ば強引に、走ってきたままの勢いで駆け抜けていく。

 下駄箱で靴を履きかえるのに手間取って、落ち着け、落ち着けと懸命に自分に言い聞かせて。

 よく知る自分の学校を、何かにぶつかったら危ないくらいの速度で駆けていく。

 あと、少し。

 あと少しで、約束が果たせる。

 長くて苦しいときがあった。むしろ、その方が長かった。

 

 

「最近の友也くん、何か変だよ」

 

 ああ、来たんだ、って。

 いつか、彼だって知るときが来ると分かっていた。

 その先の暗闇から目を背け続けていて、避けられない別れを知らない振りをして。

 

「もう、私たちは仲良くなりすぎたんだよ」

 

 あのときに、心にヒビが入った気がした。

 それが何なのか、すぐには分からなかった。

 でも、すぐに分かったんだ。

 

 

「────好き」

 

 

 壊れに壊れて。

 割れて、粉々に飛び散ったそれは、とても綺麗な色で輝いていた。

 割れてから見つけたそれを、それを。

 

「──キミが、好きなの」

 

 香澄とまで喧嘩をして。

 ボロボロで。

 でも、目の前に飛散するそれは眩しいくらいに輝いていて。

 綺麗に光るそれを集めようとすれば、指先も、手のひらも、赤く傷つく。

 青くて、痛くて。

 集めるのを、簡単に諦めようとしていて。

 

「もう少しだけ、話をしようか」

 

 そこに、向こう側から手が伸びてきたんだ。

 かき集める度に傷つく手を見て、赤く斑点を作るそれを見て、どうして、って、なんで、って。

 

「山吹さんは、もう一人じゃない」

 

 苦しそうな、痛そうな。明らかにそんな顔をしながら。

 でも口元はどこか笑っていて。

 集めた欠片を、一つも溢さないようにこちらに差し出すキミの姿。

 

「キミの手、暖かいね」

 

 一人の手じゃ包めなかったそれを、二人で。

 人の目を見て泣いたのは、初めてだったかな。

 繋いだ手の暖かさが、とても愛しくて。

 零した涙が暖かいことに、その時初めて気が付いて。

 

「ありがとう、友也くん」

 

 隣にキミがいることが、何より幸せだった。

 出会いが偶然だったとしても。

 積み重なる日々のそれぞれが、大したことのないものだったとしても。

 声を交わして、言葉を紡いで、手を重ねて、手のひらを合わせて、指先を絡めて。

 そんな()()()()()()()()日々の積み重ねが、私たちの想いを紡いでゆく。

 泣くのも、笑うのも、喧嘩をするのも、全部が全部、キミとの大切な想いの欠片。

 確かに私は今走っている。

 私は確かに、前に向かって走っているんだ。

 

 

 そうだ、だから私は──。

 

 

 気がつけば、目の前に扉があった。

 スマホの時計を見る。発表まで、あと一○分程。

 体勢を立て直して、息を重ねる。

 この先。

 この先に、ステージがある。

 この先で、香澄が、みんなが待っている。

 

「行ってくるね」

 

 誰にも聞こえないはずの言葉。

 でも確かに、きっと、伝わっているはずだ。

 最後に小さくキミの名前を呼んで、重たいドアを開け放つ。

 光はきっと、走り続けた先にあるから。

 

 

 ──だから私は、キミに恋をするんだ。

 



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#27

 

 さっきまで、うたた寝をしていた。

 

 日が傾くにつれて病室を訪れる人々は少なくなった。

 静かな病室には時折暖かな風が吹き込み、小さく音を立ててカーテンが揺れている。

 純くんらは眠たげな眼のまま、まだ日が沈まないうちに、退院した千紘さんに連れられていった。

 病院の入り口で千紘さんたちとは別れた。

 

『あの娘のこと、よろしくね』

 

 来たときよりもゆっくりだったけれど、駆け足で花女へ向かった。

 道中、ポピパのポスターを見かけた。

 チョココロネだとか、星だとか、ウサギだとか。

 色んな絵の描かれた中に、メンバーの名前が書いてあった。

『Dr. 山吹沙綾』と書かれていた。

 

 花女に着いたときには、もう文化祭を訪れている人々の姿はなかった。

 代わりにメッセージが届いた。

 

『もしかして、母さんから迎え頼まれたりしてる?』

『頼まれてる。どこに行けばいい?』

『遅くなるから、先に帰ってていいよ』

 

 近くの公園で待つことにした。

 

 

 夢を見ていた。

 どんな夢かは忘れてしまって、ただ、何かを見ていたという曖昧な暖かさがだけが身体に残っている。

 どこまでが夢だったのだろうか。

 慣れない場所で見る夢は、現実との境目を曖昧にする。

 スマホからメッセージを確認してようやく、ああ、公園まで戻ってきた後に眠ってしまったのか、と理解した。

 身の回りを確認して、何も盗まれたりしていないことを確認する。

 公園に立てられた時計は七時過ぎを示している。

 足にまとわりつく疲労と、背中を伝う冷たい風が少しだけ気持ち悪い。

 乾かないワイシャツを、気休め程度に揺らしながら立ち上がる。

 

 生暖かい向かい風が、自然と気分を落ち着かせる。

 彼女は、驚いてくれるだろうか。

 それとも、苦笑いして迎えてくれるだろうか。

 多分後者だと思う。

 

 一人でいると、声を出す機会も少ない。

 鈴虫の声と、自分の足音、遠くから響いてくる車の音を全て混ぜて聴きながら、普段見慣れない学校を目指す。

 街灯の少ない道は月明かりが頼りになる。

 

 ふと、戸山さんの影がちらついた。

 星が綺麗に見えていたからだろうか。

 久しぶりに見上げる空には、目を凝らさずとも天の川が見えている。

 三方に散りばめられた明るい三つの星も、月明かりに負けじと輝き続けている。

 上ばかり見上げていたら、足がもつれかけた。一際大きな足音を立てて体勢を立て直す。

 

 夜は、緩慢に過ぎてゆく。

 さっきから、同じような制服を着た人たちと通り過ぎる。

 ちらりと覗き見る顔は笑っている。

 吐いた息が、影も形も作らぬまま空へと溶けていく。

 皆、僕のことなど見えていないように歩いていく。

 沢山の足音がする。

 そのうちの一つが急に止まった。止まったと分かったのは、それが近くで止まったから。

 見たことのある靴だった。顔を上げると、彼女がいた。

 どうやら、さっき校門を出てきたばかりだったらしい。

 彼女が笑った。

 

「もう、先に帰っててって言ったのに」

 

 通行人のうち幾人かが、興味を示したようにこちらを見る。すぐに立ち去る人もいれば、止まって様子を見ている人もいた。それら全てを無視した。

 

「お節介ですまなかったね」

「ううん、嬉しいよ。ありがとう」

 

 笑って、そう言う。

 彼女の方へ歩み寄る。並んでから、彼女が歩き出した。

 

「それじゃ、帰ろっか」

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 進路を変えてから五分くらいが経った、と思う。スマホを開いていないから分からない。

 彼女と話していると時間が早く過ぎるような気がするから、実はもっと経っているのかもしれない。

 人は疎らで、少なくとも今歩いている道に人影は見当たらない。

 街灯の数もさらに少なくなり、空を透かした白い月明かりが彼女の髪を照らしている。

 

 色んな話をしていた。

 初ライブは大成功を納めたらしい。ライブが終わった直後、戸山さんと牛込さんが飛び込んできて大変だったとも話していた。なぜだかその光景が目に浮かぶ。

 あと、友達がビデオを撮っていたらしい。それを見せてくれるそうだ。

 家族の皆にも見せてあげなよ、と言った。もちろんだよ、と彼女は返した。

 

 やまぶきベーカリー花女支店は大盛況だったらしい。

 

「これからまた忙しくなるよ。みんな来るって言ってたもん」

「それは、いいことだね」

 

 あ、と彼女が声を上げる。

 

「香澄たちも、お店手伝ってくれるってさ」

「……それは、大丈夫なの? バンドとか、山吹さん的には」

「忙しくなるのは事実だし、キミだけに任せるわけにもいかないもの」

 

 表情に影は見られない。文化祭の興奮が未だに冷めやらぬ様子で、声のトーンもいつもより若干高い。

 意外だ、という感想を得てハッとする。

 山吹さんの周りにはもうこれだけ人がいるんだ。

 もしかしたら僕の方が意固地になっていたのかもしれない。

 

「なんだか、僕がいなくても大丈夫な気がしてきたよ」

 

 戸山さんが、その代表だった。

 山吹さんに拒まれても、それでも諦めないと彼女は言っていたのを思い出した。

 きっと僕がいなくても、彼女は山吹さんを連れ出していたに違いない。

 正直な感想で、正直な悔しさで、認めざるを得ない嫉妬だった。

 急に、山吹さんが遠くにいるように感じてしまった。

 

「そんなわけないよ」

 

 あっさりと、その全てを否定される。

 遠くにいるように感じてしまった彼女は、確かに今、僕の隣で歩いていた。

 

「ここまでやってこれたのは間違いなく、キミのおかげだよ」

 

 偶然だった筈だ。

 ただの、店員とお客さんの関係で、歳が同じだっただけで。

 友達でも、ましてや同級生でも無かった、ただの他人だった。

 

「あの時、私は確かにキミに救われたんだよ」

 

 正直に、分からないと思う。

 結果的に成功しただけで、山吹さんを連れ出すという選択が正解だったかなんて、あの時は分からなかった。

 頭に熱が上っていて、訳も分からず手を差し伸べただけだった。

 

「キミが私に、夢を見ていいんだって、そう言ってくれたんだよ」

 

 僕は、彼女らのように凄くない。

 

 楽器という、音楽という、バンドという、彼女らにとってのそういったものの大切さが分かっている訳ではないし、その熱意も計り知れなかった。

 

「キミがいたから、私はここまでやってこれたんだよ」

 

 けれど────。

 

「キミがいたから、私は────」

 

 けれど確かに、何かが変わったのだろう。

 彼女に必要とされるだけの理由が僕にはあるのだろうと、ちゃんと分かる。

 実感もなにも伴わない曖昧な感覚だけれど、悩んで、考えて、必死になったことが無駄じゃなかったと分かる。

 それだけで「僕がいて良かった」と、そう思えた。

 

「だから、そんなこと、いなくても大丈夫とか、そんなこと、言わないで」

 

 だんだんと声量が大きくなっている。それに気圧されて、ただ彼女を見ながら歩いている。途中で言葉が途切れても、そこに僕が付け入る隙はない。

 

「私にはキミが必要なんだよ」

 

 長く、沈黙する。

 彼女が足を止めて、こちらを見ている。突然止まった彼女に驚いて、彼女から一歩だけ離れた場所で僕も止まっていた。

 彼女は僕を必要としてくれている。ちゃんと、分かる。

 それは、とても嬉しいことだった。

 

「…………うん、分かった。ごめ……いや、ありがとう」

「うむ、よろしい」

 

 ちゃんと、ありがとうと、そう添える。それに彼女は微笑んで応えてくれる。その笑顔を気付かれないように見つめる。

 彼女が大きく一歩を踏み出して、僕との距離を詰める。それを皮切りにまた僕らは歩き出した。

 気がついたら、辺りはさらに暗くなっていた。

 地平線すれすれに見えていた夕焼けもいつの間にか消えていた。

 

「キミと外で話をするの、なんか夜が多いよね」

「そういえば、そうだね」

「勉強会の時も、蔵イブの時も。あと、仲直りした時も」

「……ああ、そうだね」

 

 全て、とても昔のことのように思えてくる。

 つい一週間とか、二週間とか。あるいは一ヶ月とか、二ヶ月とか。それほど最近のことなのに。

 彼女が突然走り出す。

 既視感を覚えて、そういえば蔵イブの帰りにこんなことがあったと思い出していた。

 

 でも彼女は僕から離れずに、僕の目の前に回り込んだだけでこちらを振り向く。

 月明かりが彼女を照らしている。けれど、以前のような寂しさだとか、そんな表情は浮かべていなかった。

 彼女に進路を阻まれた僕は、素直に彼女の前で歩みを止める。

 

「ね、友也くん」

「うん?」

「そろそろ私のこと、名前で呼んで欲しいかな」

 

 そこで初めて、彼女の顔を真正面から見た。

 彼女の頬が僅かに紅潮しているように見えた。なぜか僕の心拍は早くなっていた。

 周りの空気がやけに冷たくなった気がした。でもそれは僕の頬も少しばかり紅潮しているせいだと思った。

 沙綾さん、なんて解答は求めていないはずだ。

 

 勉強会の後の帰り道を思い出す。そういえば、あれから彼女の名前を呼ぶ練習はしていない。ああ、堂々と言おうだなんて、そんなことはできそうにない。

 大丈夫だろうか。ちゃんと、噛まずに呼べるだろうか。沙綾、さあや、と。

 

 彼女は今か今かと待っている。

 喉の奥から言葉が中々出てこない。待ち受けて、やっと出てきたものを舌の上で転がして、吟味して、ようやく口から出す。

 

「……分かったよ、沙綾」

「えへへ、なんだかくすぐったい」

 

 存外にすんなりと名前が出てきたように見える。

 でも名前の前に、分かったよ、と付け加えなければならなかった。それくらいには照れくさい。

 僕と同じように、目の前で照れくさそうに頬を染めて、でも僅かに微笑む彼女を見た。とてもかわいらしい。それを見つめているだけで、抵抗感も照れくささも、ふわりと浮かんで消えてしまう。

 

「そうかな、沙綾」

「む、からかってるね?」

 

 彼女が眉をつり上げる。威嚇の意思などまるで無い。

 沙綾、沙綾。とても新鮮で、とても優しい響きで、なんて安心する旋律だろう。

 彼女が向こう側へ振り向く。歩き出した彼女の隣に、早足で追い付いて並び立つ。

 近くなった距離の間で、お互いの手の甲が触れたり離れたりしていた。

 向かい風が吹いてくる。冷たいような、でも生暖かくて、眠くなるような心地よさの風だった。

 

 あとどのくらい話していられるのだろう。

 ずっととは言わない、ああでも、別れの挨拶をするその時には時間が止まって欲しいなんて思ってしまうのだろうか。

 

「もう夏だね」

「海とか行く?」

「いいかも、ポピパも一緒でどう?」

「……海はみんなで、か。じゃあ、花畑とか」

「夏といえば、ひまわりかな。枯れないうちに見に行きたいね」

「じゃ、ひまわり畑に行こう」

「それは……じゃあ、二人で」

「うん、二人で」

「そっか、えへへ」

「楽しみだ」

「うん、楽しみだね」

 

 月明かり、星明かり、数少ない街灯。

 僅かな光が彩る道の向こう側に、小さく商店街の入り口が見えてきた。

 乾いていなかったはずのワイシャツが乾いていることに、やっと気がついた。今更、そんなこと気にも止めなかった。

 

「もう七月なんだね」

「熱中症の患者とか、増え始めたらしいよ」

「うわぁ、私も気を付けなきゃ」

「沙綾まで倒れるとか、それは嫌だよ」

「……えへへ、善処します」

「なんで嬉しそうなのさ」

「名前、ようやく呼んでくれるんだなぁって、さ」

 

 彼女がいる今日が、もうすぐ終わる。名残惜しい。まだ話していたい。そんな気持ちが言葉に先行して歩みを止めようとする。

 でも、明日がある。

 明日だってまた、きっと彼女に会える。

 

「空気、冷えるね」

「夏といっても始まったばかりだし、もう夜だからね」

「手袋がいる、ってそんなことは言わないけど、少しは冷たいかな、なんて」

 

 また、手の甲が触れる。その感触を辿るように、彼女の手に指を這わせていく。

 右手に熱が灯る。とても暖かくて、握り返してくる感触が例えようもなく愛おしい。

 右手を伝って、身体全体にも熱が灯るような気がした。

 顔が熱かったけれど、繋いだ手を離そうとはしなかった。彼女も、離そうとはしなかった。

 不思議だった。自分にしては大胆が過ぎていた。

 なんでこんなことができてしまったのだろう。

 

 ああ、きっと夜のせいだ。

 きっと街灯のせいだ。きっと星明かりのせいだ。きっと、月明かりのせいだ。

 儚げな白い光に照らされる彼女は、筆舌に尽くしがたいほど綺麗で、可憐だった。

 

「ね、友也くん」

「ん?」

「これからも、手を繋いでくれる?」

 

 とても穏やかな声だった。そんなこと、聞かなくてもわかっているくせに答えさせようとする。

 

「ああ、いくらでも」

「うん、嬉しい」

 

 不意に手がほどかれる。互いを惜しむように、全てが離れることの無いように。

 彼女の人差し指が、僕の人差し指と中指の間に入り込んで来た。

 それに従って、指が絡まり合ってゆく。

 手のひら同士が触れた。

 

 ああ、言葉が漏れる。

 言ってしまえ、言ってしまえ、と頭のどこかが叫んでいる。

 

 唇が引き結ばれることはなかった。

 舌で転がす間もなく、あまりにもそのままの形で、すらりと言葉は紡がれた。

 

「大切にする、絶対、幸せにする」

「うん、ありがとう」

 

 どこかで鈴虫が鳴いている。優しい音色だった。

 ふと隣を見る。満面の笑みではなかった。

 でも、彼女は微笑んでいてくれた。

 

「でも私は、もうとっても、これ以上無いくらいに」

 

 そう、そうやって、彼女にとても似合う素敵な笑顔で、笑ってくれている。

 

「うん、──この世で一番、幸せだよ」

 

 絡められた手が、少しだけ、少しだけ。

 指先が全部手の甲に触れるくらいに。されど優しく、決して痛くないように、きゅっと握り絞められていた。

 




次回、エピローグです。


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エピローグ

 

 蝉が鳴いている。

 

 夏本番、と言ったところだろうか。

 蝉の声を聞いているといよいよ夏らしさが溢れるように感じる。

 冷房のよく効いた、涼しい部屋で聞く蝉の声は好きだ。あまりうるさいとその限りではない。

 

 ドアを開けて、お客さんが一人入店してくる。

 湿気の多い、お世辞にも暖かいとは言えない空気も一緒に入り込んでくる。

 日傘を閉じる音と共にドアも閉まる。いらっしゃいませ、という挨拶に丁寧にお辞儀をして、そのお客さんは店内を歩き始めた。

 

 文化祭の熱も抜けきり、伏兵のように潜んでいた期末テストも終わった、七月下旬。夏休みまでの短い期間は、どこか浮かれたような気分になる。

 一月程の夏休みをどう過ごそう、だとか、そんな声が飛び交うクラス。全開にされた窓を見て、あるいは授業中に教科書の頁が捲られるのを見て、ああ、夏が来たのかと感じされられることも多い。

 夏休みの課題、高校最初の成績表、まだ真っ白な進路表。

 漠然とした大きなものに不安を覚えながら、それに対して何もできないまま日々を過ごしている。

 

 朝、窓を開けた時に飛び込んで来る風も、あまり涼しいとは言えなくなってきた。

 少し外を小走りするだけでも汗が吹き出るこの時期は、子供の頃と比べて苦手になっている気がする。

 ガラス越しに外を覗いても、向こう側の景色は光に覆われていてとても白んでいる。

 街路樹の影の形が、時間が正午に近いことを教えてくれた。

 

「今日の最高気温、三二度だってさ。暑いね」

 

 窓の外を眺めていて、近づいてくる気配が掴めなかった。

 レジを挟んだ対面に彼女が立っていた。

 

「真夏日か……もう何とも思わなくなってきた」

「学校に行って帰ってくるだけで汗が凄いよ」

「夜もなんだか蒸し暑いし。最近寝付きが悪い」

「それは私も」

 

 今日は珍しく彼女も一日オフだそうで、お店の方を手伝っている。折角のオフなのだから店番など任せてくれればいいものを、「キミと一緒にいる時間も少ないから」と言われた。まったく、敵わない。

 

「在庫の補充は終わったの?」

「ちょうど今さっき」

「そろそろお昼だけど……」

「確かに、ちょっとお腹空いてきたかも」

 

 会話を切って、彼女がこちら側へ入ってきた。

 間もなくもしないうちに、お客さんがトレーを持ってやってくる。

 もう随分とこなれた手さばきで会計を済ませてしまうと、「ありがとうございました」と見送る。

 紙袋を片手に抱えたその人は、眩しそうに空を見上げてから、木陰に逃げるように小走りに店の前を去っていた。

 

「二人とも、お疲れ様」

「お疲れ様です、千紘さん」

「あ、母さん」

 

 千紘さんの体調もこのところ良いらしい。

 本格的に夏を迎えても暑さで体調を崩すことはないので、時々お店を手伝ってくれる戸山さんたちには頭が上がらない。

 

「二人にお願いなんだけれど……店番はやっておくから、お昼御飯の買い出し、頼めるかしら? 父さんも店番してくれるっていうから、折角だもの。沙綾も友也くんも、二人で、ね?」

 

 悪戯っぽく笑う千紘さんと、苦笑いしながらも僅かに頬を染める彼女。

 こちらに向かって手を振る千紘さんを背中に、二人で出掛ける準備をする。

 

 僕はといえば、小さな肩掛けバッグに水のペットボトルと財布などを入れる程度で済んでしまう。

 けれど彼女は少しばかり時間が掛かるらしく、僅か数分だけれど、ドアの前で彼女を待っていた。

 ドアの前にいるだけでも、外で煩く鳴く蝉の声が届いてくる。薄手の靴下とスニーカーで揃えてきたけれど、それでも蒸れてしまうだろうか。

 床を歩く足音に気がついて、その音の方向を向く。

 

「おまたせ」

「そんなに待ってないよ」

 

 デートの待ち合わせに到着したみたいなやり取りを交わして、彼女が靴を履く。

 爪先で何度か地面を叩いて、彼女が小さく「よし」と呟く。それを聞いてドアノブを掴んだ。

 

 朝よりもよっぽど熱い風が顔に叩きつけられて、思わず顔をしかめる。開けかけたドアを、勢いのまま開け放ち、そのまま外に出る。

 日差しは真上から差している。

 遮るものもなく、天頂で悠々と輝く太陽が妙に恨めしく感じられて、腕で光を遮りながら空を睨んだ。

 

「うわ、予想以上にあっつい」

 

 後ろでドアを閉めながら彼女が苦く笑う。まったくその通りだと同意して、帽子も持ってこなかった自分を後悔した。

 道に一歩だけ飛び出す。近くの塀に手をついて、その熱さに小さく悲鳴をあげながら離した。後ろで彼女が笑っていた。頭に乗せたキャペリンは、僕の見たことのないものだった。

 

「それ」

「ん?」

「帽子、買ったの?」

「夏って言ったらこれかなぁって。似合ってる?」

 

 そう言って、両手で唾を摘まむ。

 目元が影に隠れていても、確かに笑っていると分かる。

 

「そりゃ、もちろん」

「ふふ、ありがとう」

 

 手元に持っていた折り畳み傘を開く。さっきから直射日光がじりじりと肌を焼いていて、気になってしょうがない。

 僕が傘を開いたのを確認すると、彼女から先行して歩き始めた。

 彼女は前後をしきりに確認すると、そのままこちらを振り向いて、後ろ向きで歩いていく。

 

 乾いた空気と、澄み渡る青空、その向こう側、摩天楼の間を縫うように入道雲が背を高く伸ばしている。

 それをバックにした彼女は、とても綺麗に映えていた。

 

「あー、これ夕立来るよ」

「じゃあ、今日は早めに上がる?」

「……いや、夕立ならすぐに上がるだろうし」

「そっか、それは嬉しいな」

「……長く居られるから?」

「もちろん」

 

 彼女はニコニコと笑ったまま、こちらを向いている。

 最近彼女は笑顔を浮かべることが増えた。喧嘩をする前よりも、ずっと。

 それが、僕が彼女に与えられたものなのかどうかは分からないけれど、正直どちらでもいい。

 僕は彼女に隣に居て欲しくて、彼女は僕の隣に立ってくれているから。

 ただ、それだけあれば良かった。大袈裟に言うなら、それだけで満ち足りていた。

 

 彼女が隣に寄ってきて、けれど傘の下には入らない。

 跳ねるような動作で戻ってきたせいで、頭のキャペリンがふわりと揺れた。それさえも綺麗に見えた。

 

「入らなくていいの?」

「私には、ほら。これがあるし。ちゃんと日焼け止めも塗ったからね」

「暑かったら言ってよ。傘ぐらい貸すからさ」

「心配性だなぁ、キミは」

「そりゃ、大切な彼女のことだからね」

「……心配性だなぁ、キミは」

 

 少しだけ笑ったら、彼女に小突かれた。

 頬を紅潮させながら優しく叩いてくる彼女が、面白くて、可愛らしくて、愛おしくて、今度は声を上げて笑った。

 彼女は少しだけ力を強くして小突いてくる。

 ひとしきり笑い終わったあと、彼女はまだ不機嫌そうに頬を膨らませていた。

 

「……ほら、早く行かないと」

「うん、そうだね。行こうか」

 

 涼しい顔をした僕のことが余程気に入らないようで、傘を持っていない僕の右手を掴むと、手を繋いだまま傘の中に入ってくる。

 左肩が少し傘の影からはみ出たけれど、気にしない。

 繋がれた手は、こんな真夏日の下だというのに暖かく感じる。

 

「汗っぽかったら、ごめんね」

「そんなの、全然気にしないったら」

 

 さっきまでの不機嫌そうな顔が嘘のような笑顔を浮かべて、彼女が答える。それを見て、彼女が幸せそうならそれでいいかと、そう思った。

 

 不意に、きゅっと手が握られる。

 手のひらよりも暖かい、指先の部分が、僕の手の甲に触れていた。

 ああ、彼女の指先はこんなにも暖かかったのか。

 初めて手が触れた日のあの熱も、存外錯覚じゃなかったのかもしれないと思った。

 こんなに小さくて、細やかなもので、僕らは想いを紡いできたんだ。

 

「ところで、昼御飯どうしよっか」

「はい、じゃあ麺類かご飯類、どっちがいい?」

「うーん、麺類で!」

「じゃあペペロンチーノだ」

「お、じゃあ美味しいの期待してようかな」

 

 沢山傷ついて、幾度か掴み損ねて、中々届かなかった、小さな手のひら。その指先。

 とても口下手で、とても不器用な二人だったと思う。

 言いたいことは伝えられないし、素直にはなれないし、中々踏んだり蹴ったりで、前に進めなかった二人だったと思う。

 

「あ、そうそう!」

「どうしたの?」

「海に行く計画だよ。夏休みの中盤あたりでどうかって香澄が」

「お、いいね。今からなら予定に組み込んでおけるよ」

「海かぁ、楽しみだなぁ」

 

 ああ、そうか。

 口下手な僕らの素直な想いを繋いだのが、きっとなんてことのない指先だったんだ。

 彼女と繋いだ右手に、少しだけ力が籠る。

 なんてことのない、それでも、僕らにとっては特別なそれ。

 

「じゃあ、ひまわり畑の方は?」

「んー、夏休みの終わり? でも枯れてたら嫌だなぁ」

「夕方を狙って、でもいいかも」

「……それは虫が多そう」

「確かに」

 

 じわりと伝わる暖かさが、何より大切だった。

 伝わる気持ちが、何より愛おしかった。

 傷跡が残っていたとしても、それすらまとめて包み込んでいる。

 

「あ、でも服装は決めてあるんだ」

「へぇ」

「白いワンピース。写真で見たのが綺麗だったんだ」

「絶対似合いそう」

「えへへ、ありがとう」

 

 傷ついて、治して、触れて、繋いで、絡めて。

 

「もっと楽しみになってきたよ、夏休み」

「僕も」

 

 僕らは淡く、ささやかに想いを作る。

 

「ね、友也くん」

「ん?」

 

 

 僕らが繋いだそれは、きっと──

 

 

「ありがとう、大好きだよ」

 

「ああ、僕もだよ、沙綾」

 

 

 ──恋を紡ぐ指先、なのだから。

 




一言だけ。
読了、ありがとうございました。


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