Komeiji's Diary《完結》 (ptagoon)
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初めに ―日記に導入を入れるセンスのなさは尊敬できます—

 嫌われ者。この言葉を聞いて、あなたはどう思うだろうか。もしかすると、具体的にある人物を思い浮かべていたり、自虐的に自分のことだと偏屈な笑みを浮かべているかもしれない。

 

 だが、確実に言えることは、この言葉に良い印象を浮かべる者はほとんどいない、ということだ。私、実は運動ができないの、という人はいるかもしれないが、私、実は嫌われ者なの、という人はいないだろう。運動ができないことに価値を見出すことはできるが、嫌われていることに価値を見出すことはできない。そもそも、本当に嫌われ者だった場合は、そんなこと言われなくても分かっている、と突っぱねられてしまう。

 

 では、管理者と言われたらどうか。組織の長、リーダーと言い換えてもいい。こうすると、逆に好意的に考える人が多いはずだ。すごい。格好いい。憧れる。頭を垂れて忠誠を示し、靴に頬ずりをして崇め奉りたくなる。大抵の者はそう思う。一部の者、例えば、知り合いの橋姫は嫉妬心を青く燃やすだろうし、これまた知り合いの胡散臭い妖怪は、だったら変わって欲しいものね、と思ってもいないことを言い放つだろう。だが、そんな例外はさておいて、なれるものならなってみたい、そう思わせるほどの魅力を、“リーダー”という言葉は秘めている。

 

 ならば、私は聞きたい。嫌われ者たちのリーダー。この言葉を聞いたとき、どのような反応をするのが一般的だろうか。悪い印象を抱くのか、いい印象を抱くのか。正解は私には分からない。例の胡散臭い妖怪は、喜ぶべき、といっていたが、私にはそれが正しいとは思わなかった。“嫌われ者たちのリーダー”という言葉を聞いたとき、私が抱いた感想は、ふざけんなクソババア、ただそれだけだ。

 

 その日に何があったかを示す日記という物の役割とは少し外れるが、過去のことを初めに記しておく。これは、あの忌まわしきスキマ妖怪に対する正確な分析結果であり、後世に彼女の残酷さを残すため、必要だと思ったからだ。決してストレス解消ではない。断じて。

 

 

 明治17年9月18日

 

 今でも忘れないあの日。幻想郷なるものが出来て間もない頃、度重なる混乱も収まり、小康状態に陥っていた妖怪の楽園で、いつものように姉妹で食べ物を取りに行こうとしたあの日。私たちの目の前に、見知った妖怪が現れた。意気揚々と歩いていたところに、突然現れたものだから、驚きのあまりつい全力で顔面を殴ってしまったが、あれは私は悪くない。

 

 だって、考えてもみてほしい。いきなり目の前の空間が裂け、ぎょろぎょろとした目が無数に蠢く空間の裂け目が現れたのだ。普通の妖怪だったら、きっとショック死してしまう。しかも、それに加えて、そこから金髪を靡かせた艶めかしい女性が飛び出してくるわけだ。咄嗟に手が出てしまうのは、仕方がない。むしろ、正当防衛だ。

 

 だが、悲しいかな。きれいに鼻をへし折ったかと思ったのに、彼女の高い鼻は一切の傷もなかった。腰を利かせた私の全力の拳は、彼女にとってそよ風と同じようなものだったのだろう。だとすれば、ますます私は悪くない。相手に傷を負わせていないのだから。むしろ、傷ついたのは私の自尊心の方で、被害者は間違いなく私の方だった。

 

「随分と、ご挨拶ですわね」

 

 口元を隠す様に扇子を広げた彼女、八雲紫は、怒りを隠そうともしなかった。そう。文字通り、その気になれば隠すことも出来る癖に、私たちの能力を遮ることが出来る癖に、そうはしなかった。心を読む程度の能力を持つ、私たちさとり妖怪の前なのに、堂々と心を丸裸にしている。不気味だ。鳥肌が立ち、吐き気がした。

 

「急に出てくるもんだから、びっくりしちゃいました」申し訳なさそうな顔を作り、頭を下げる。

「びっくりで殴られたら、たまったもんじゃありませんわ」

「その割には元気だね」

 

 およよ、と泣きまねをする八雲紫に、我が愛しの姉妹が囁いた。大妖怪あいてに物怖じせずに口撃するさまは、正しく勇者そのものだ。いいぞ、もっとやれ、と心の中で囃し立てる。だが、心を読まれてしまったみたいで、三つの目で睨まれた。

 

「あらぁ、そんなこと言っていいのかしら。折角おいしい話を持ってきたというのに」

「おいしい話?」

「え、何ですか? 向こうで餡蜜の特売でもやってるんですか?」

 

 期待に胸を躍らせて三つの目を使い辺りを見渡すも、それらしいものは見当たらなかった。これだからこの妖怪は信用ならない。そう思い、隣で大きな帽子をいじっている可愛らしい少女に同意を求めるも、ふるふると首を振られた。

 

「もしかして、今のは嫌味ではなく素だったの?」目を丸くした八雲紫が訊いた。

「恥ずかしながら。まだまだ子供なんだなーって思うよ」

「あなたも苦労しているのね」

「全くだよ」

 

 はぁ、とため息を吐いた二人の会話についていけなかった私だが、それでも彼女たちが私を馬鹿にしているのは分かった。“私がいないと本当に駄目なんだから”という心の声が聞こえたからだ。これは口癖のようなものらしく、私は耳にたこができるほど、第三の目の角膜が擦り切れるほど、聞いてきた。そして、大抵この言葉が聞こえる時、私は馬鹿にされているのだ。

 

 何故だか分からないが、生温かい目で見られていることに耐えられず、「それで、本当は何しに来たんですか」と話を戻す。ああ、そうだったわね、と近所のお婆ちゃんのような反応を見せた八雲紫は、手に持った扇子をぱちりと閉じ、怪しげに微笑んだ。結局あおがないなら、広げなければいいのに、と思ったが、“格好つけたかったんだよ”と心を読まれたのか、隣から返事が返ってくる。なるほど、年甲斐もない。

 

「あなた、管理者って興味がない?」

「管理者、ですか」

「そう。組織の長、外来語でいえばリーダーといっても良いわね」

「リーダー」

 

 いつ聞いても魅力的な言葉だ。名は体を表す、とはよく言ったもので、リーダーという響きは、それだけで聞くものを虜にする。酒池肉林、豪華絢爛、満漢全席。多大な妄想が頭をよぎった。

 

「あなたさえ良ければ、リーダーを任せたいのだけど」

「是非やらせてください」

 

 二つ返事、とはこのことだろう。考えるまでもなく、反射的に答えてしまった。今でもこのことは後悔している。私の数少ない失敗談の一つだ。“熟考という言葉を知らないの?”と心で嫌味をぶつけてきた可愛らしい少女に、自信満々に言い返した自分が今では恥ずかしい。

 

「大丈夫ですよ。だって、考えてもみてください。リーダーですよ、リーダー。誰もが、すごい、格好いい、と憧れて、頭を垂れて忠誠を示し、靴に頬ずりをして崇め奉りたくなる。そんなリーダーになれるんですよ! 考えるまでもありません」

 

 返事はなかった。彼女の心の中は、呆れと哀れみで充満していた。すでに心を閉ざした八雲紫の心からも、僅かに同情の感情が溢れ出ているくらいだった。その時には、なぜ彼女が私に同情しているのか分からなかったが、今ならわかる。というより、同情する気持ちがあるのなら、こんな騙すような真似はしてほしくなかった。

 

「そう、ならついて来て」

 

 短くそう言った八雲紫は、手をゆっくりと虚空に掲げた。すると、真っ青だった空に不自然に亀裂が走り、境界が生まれる。その境界はみるみる広がっていき、いつの間にか、人ひとり分の大きさとなっていた。中を覗き込むと、全方位にまばらに目が蠢いていて、全てがこちらに視線を向けている。嫌悪感が体に走った。趣味が悪いことこの上ない。

 

「行かない方がいいよ」

 

 一足早く“スキマ”の奥に飛び込んだ八雲紫を見て、珍しく真剣な顔でそう言った。

 

「どうせ碌なことにならない」

 

 彼女の心は、不安と恐怖、そして猜疑心に包まれていた。人間や動物、妖怪や怨霊ですら心を読むことができる私たちにとって、相手を疑うということは不慣れなはずだ。だって、相手が何をしようとしているか、何を企んでいるのかが、一目瞭然なのだから。ただ、そんなさとり妖怪には珍しく、彼女は疑う心を持っていた。ただ、よくよく考えれば、心を読ませてくれない八雲紫を疑うのは当然のことであって、何も彼女が珍しいわけでもなく、正当な判断といえるのだが、その時の私は、どうしてこんなにも捻くれて育ってしまったのかしら、としか思っていなかった。本当にごめんなさい。

 

 そして賢明な我が同胞を愚者と決めつけた私は、鼻で笑い、馬鹿にして、勢いよくスキマに飛び込んだ。空を飛んでいるときのような浮遊感が体を襲うが、実際に飛んでいるときのような、風の心地よさや、太陽の暖かみがないからか、非常に不快だ。出来ればもうスキマには入りたくないな、と思っていたが、その後幾度となく使う羽目になるとは、もちろん私は思っていなかった。

 

 スキマから出たときの感動は今も鮮明に頭に焼き付いている。自慢げに鼻を鳴らしていた八雲紫はうざかったが、それを許してしまうほど、私は衝撃を受けていた。

 

 スキマを抜けた先にあったのは豪邸だった。それも、本やおとぎ話でしか見たことがないくらいの、外来風のものだ。黒に、赤色または紫色の市松模様に彩られた床、虹色に輝く窓、森くらいあるんじゃないかと思えるほどの中庭、すべてがすべて、魅力的に映った。

 

「これは……すごいですね」

「そうでしょう。今日からここ、地霊殿があなたの家よ」

「本当ですか!?」

「私は嘘はつかないわ。はぐらかすことはあるけどね。だから、あなたも嘘はつかないように。きっと、ここでは嘘吐きは嫌われるわよ」

 

 今まで、私たちが暮らしていたのは、家というには酷すぎるものだった。小さな洞穴にそこら辺から拾ってきた枝を敷き詰めた、鳥の巣のような場所だ。心が読めるという性質上、人間からも妖怪からも嫌われるので、隠れるようにして雨風を過ごすしかなかった。そう考えると、この大豪邸、つまり今私がこうして日記を書いている場所だが、ここは段違いに過ごしやすい。だが、やっぱり私は愚かだったといえる。普通に考えて、無償でこんなことをしてくれるお人好しなどいないし、目の前の八雲紫という妖怪は、お人好しとは縁遠い妖怪だったからだ。

 

「すごい家だね。私たち二人じゃ広すぎる」

「でも、あの洞穴よりはよっぽどいいじゃないですか」

「まあ、ね」

 

 どこか腑に落ちなそうに首をかしげながら、彼女は八雲紫を睨みつけていた。

 

「それで、ここはどこなの? なんか溶岩とか流れてるんだけど」

「溶岩?」

「ほら、足元」

 

 指さされた通りの場所を見ると、確かに赤く、どろどろした何かが溢れるように飛び出している。それは、豪邸の下から噴き出しているように見えた。驚き、狼狽える。

 

「あなた達、地獄って知ってる?」突拍子もないことを八雲紫は訊いてきた。

「地獄?」

 

 それは、あなたが将来行く場所じゃないですかね、と口の中で唱える。

 

「そう。あの閻魔が仕切ってるとこよ。その地獄がね、結構前に範囲を縮小したのよ。スリム化ってやつね」

「はあ」

 

 一体なんの話をしているのか、てんで見当がつかなかった。

 

「それで、地獄の跡地、旧地獄が出来たわけだけど、そこの建物とかは結構きれいに残っていたのよ。それで、とある事情により地上に愛想を尽かした鬼たちが住み着いて」

 

 おに! あの強力な妖怪の! そんなのがいるところには絶対に行きたくないですね、と適当に相槌を打ったが無視される。

 

「鬼たちが地上にはいられない妖怪、嫌われて追放された妖怪を積極的に招き入れ始めたのよ。まあ、それはそれで都合がよかったわ。こちらも何かしでかした妖怪は地底に封印すればいいわけだし。ただ、問題が一つあって」

「問題?」

 

 そもそも、そのようなやばい奴らを一か所に集めること自体が問題だとは思ったが、口にはしないでおいた。また、馬鹿にされてはたまらない。

 

「統率が取れていないのよ。もともと自由奔放な妖怪に統率を取らせる方が難しいけど、あまりにも酷すぎる。このままだと、地上にも影響が出るかもしれない。だったら、その前に、何か手を打たなければならないでしょ。例えば、管理者の配置とか」

 

 嫌な汗が背中を濡らした。焦りと、困惑で目がチカチカする。悪い予感しかしない。いつの間にか隣にいた賢明な同胞に背中を強く叩かれた。ほれ見たことか、と言わんばかりだ。

 

「さて、そういう訳で、幻想郷を管理する者として、あなたを旧地獄、嫌われ者の巣窟、地獄よりも恐ろしい地底の管理者に認定します」

 

 いやだ、とは言えなかった。もうここまで連れて来られた以上、反抗することは出来ない。そもそも、私の能力は読心に頼っているので、それが通じない相手に対しては、そこら辺の人間と大差ないのだ。逆らって、殺されるわけにはいかない。だが、言いなりになるのも気に入らない。だから。

 

「ふざけんな、クソババア!」

 

 普段の敬語も忘れて、精一杯に吠えた。

 

 

 

 これが、私が今の地位に立っている理由であり、八雲紫の暴虐さを表す典型的なエピソードだ。あれ以来、時々負け犬の遠吠えと馬鹿にされるが、決して気にしてはいない。それよりも、管理者として、暴れまわる鬼や、嫉妬を止めない橋姫、内気で凶暴なつるべ落とし、血の池地獄にはまった船幽霊、入道使い、鵺などの方がよっぽど頭を悩ませることになるのだが、それを書いてしまうと、もはや日記ではなくなってしまうので、割愛する。

 

 ただ確かに言えることは、八雲紫は酷い、家族とペットは最高、ということくらいだ。

 これから書く日記には、もっと楽しい思い出を書けることを願い、切実に願い、結びとする。はやく食卓にむかって、唯一の家族と共にご飯を食べよう。よい明日でありますように。




リーダーに対する思いが強すぎるような気がしますね。いずれにせよ、八雲紫の提案にほいほいのってしまう時点で自業自得かもしれません。


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第119季2月10日 —1日坊主とは流石です—

 第119季2月10日

 

 以前書いた日記が書斎の奥底から見つかったため、また書き始める。もっとも、私がなぜ地霊殿の主などという大層な役職を押し付けられているかについて書かれているだけだったので、実質的には今日が初日といえる。紙が何枚か破れていたり、くしゃくしゃになってしまったが、仕方がない。

 

 ただ、唯一まずかったのは、この日記の存在を知られてしまったことだ。誰にか。誰もにだ。見つけたのは書斎を掃除していた、みんな曰く"しっかりしている方の古明地"こと私の自慢の家族だ。最近では、彼女の方が主に向いているのではないかと、密かに思っている。ちなみに私はしっかりしてない方、と思われているわけではない。怖くて、嫌味な奴と思われている。理由は知らないが、心を読んだので間違いない。

 

 それで、私の日記を発見した彼女がまずはじめに何をしたか。音読だった。地霊殿に住み着いた動物たちにも聞こえるように、大きな声で読み始めたのだ。流石の私も困惑した。困惑のあまり、胸辺りにある第三の目を投げつけてしまった。痛かった。そして、最悪な事に、たまたま来ていた八雲紫と、あとで詳しく話すが、鬼の四天王なるものの一人、星熊勇儀にも聞かれてしまったのだ。きっと、今では地底中に広まっているだろう。まあ、八雲紫が最悪な奴で、可哀そうな私は健気に頑張っていると思ってもらえるのであれば、それも悪くないかもしれない。そう自分に言い聞かせる。

 

 そもそもなぜ八雲紫が来ていたのか。この理由は単純だ。地底に新入りが加わるのだ。いつものように、"封印"や"追放"といった形で。その打ち合わせと情報のすり合わせのために、わざわざ地底まで来やがったのだ。

 

「お前なら、八雲紫の心すら読めるんじゃないのか?」

 

 護衛として来てもらった星熊勇儀は、こう訊いてきた。いつものように「難しいですね」と単調に返したが、実際は難しいわけではない。出来ないのだ。だが、以前そう言ったところ、「嘘はよくないぜ。私の前では二度と嘘を吐くなよ」と鬼気迫る表情で言われてしまったため、それ以来曖昧な言い方にしている。鬼の中でも随一の腕力を持っている彼女も、他の鬼と同じく、嘘を嫌う性質を持っていた。だが、私の言っていることは嘘ではない。にも関わらず、まともに取り合ってくれないのだ。

 

「今度あたらしく来る子は、土蜘蛛の子なのよ」

 

 地霊殿の応接間。無駄に広く、大きなソファが鎮座しているそこで、くつろぎながら八雲紫が言った。私と星熊を交互に見ては楽しそうに笑っている。気持ちが悪い。

 

 八雲紫の話など、さらさら聞く気がなかった私は、自分の膝の上で眠っていた黒猫の背中をさすっていた。猫又のように見えるが、一応は火車という妖怪らしい。名前は火焔猫燐。趣味は死体集めだ。私が名づけたのだが、本人(本猫)は気に入っていないらしい。気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らし、二つに分かれた尻尾で足をくすぐってくる。可愛い。

 

「聞いているの? 地霊殿の管理者様」

 

 あまりに猫を撫でるのに夢中になっていたからか、八雲紫が私の前に境界を作ってきた。私が苦手なのを知って、何かある度に作ってくるのだ。どうして、こいつよりも私の方が嫌われているかが理解できない。が、今回にいたっては全面的に私が悪い。まったく聞いていなかった。

 

「当然」聞いていませんでした。そう口を開く前に、隣に座った星熊がガハハと笑い肩を叩いてきた。あまりの衝撃に、失神しそうになる。口から内臓が飛び出しそうになるのを、必死にこらえた。

 

「おいおい、誰に口をきいてるんだ? こいつはさとり妖怪だぞ。心の声が聞ける奴が、人の話を聞いてない訳ないだろ。こいつは地底中の心の声を常に聞いてるんだよ。嫌な奴だろ? だけどな八雲紫。こいつは私が認めるほどの強者なんだ。腐っても地底の管理人だぞ、あんまり舐めないでほしいな」

「勝手に腐らせないでください」

 

 いやあ、悪い悪いとまた、肩をバシバシと叩かれる。小さく嗚咽が漏れたが、幸運なことに星熊に聞かれることはなかった。

 

 なぜ彼女が私をここまで過大評価しているかは分からない。出会った時からそうだった。"喧嘩はやりたいけど、こいつとは嫌だな"と初対面のときに心の声が聞こえた。なるほど、こういう嫌われ方もあるのね、と驚いたものだ。

 

「あら。随分とその子のことを買っているのね。鬼の四天王が実力を認めるなんて、珍しいじゃない」

「馬鹿にするなよ、幻想郷の管理者さんよ。流石にこれほどまでの強者を見逃すほど、私は落ちぶれていないよ。見る目には自信があるんだ」

 

 きっと、彼女の目の網膜には深い傷がついてしまっているのだろう。自慢ではないが、私はペットの狸にすら負けたことがあるのだ。弱者の中の弱者といってもいい。

 

 "あなた、勇義になにをしたの?"

 

 八雲紫が、意図的に心を開いて訊ねてきた。心当たりなんてある訳ない。

 

「何もしてませんよ、本当に。私はただ広い家でおいしい食べ物を食べたかっただけなのに。いつか責任を取ってもらいますよ。というか、今取ってください。助けて」

 

 八雲紫は返事をせず、眉をひそめただけだった。何かを考えるように、また扇子を広げて口を隠している。かっこうつけ、と小さく呟く。

 

「なんだなんだ? いきなり訳の分からないこと言い始めて。というか、古明地がそんなに会話しているのをはじめて見たぞ」

「ちょっと、心を読みましてね」

 

 やっぱり読めるんじゃないか、と責めるような目つきで星熊に睨まれる。いえ、今のはたまたまです、というが、鼻で笑われた。"何がたまたまだよ"と悪態をついている。

 

「というより、この子は地底ではあまり会話しないの?」

 

 絹のような金髪を艶めかしく揺らしながら、八雲紫は勇義に扇子を向けた。いつの間にかそれは閉じられている。かっこうつけ。

 

「私の知っているこの子は、あり得ないくらいにおしゃべりなんだけど」

「またまたー、嘘は良くないぜ」

 

 また、ガハハと笑う。"スキマ妖怪にしては面白い冗談だな"と驚いているのが分かる。何が面白いのか、さっぱり分からない。

 

「そう、なのね。ならば普段のこの子はどんな感じなの?」

「どんな感じって言われてもな」

 

 どこかの誰かさんのせいで、地底の管理人として右往左往しています。いつも必死に、事実死にかけたことは一度や二度ではないですが、とにかく仕事のせいで休めません。助けてください。そんな思いをこめて、全ての目を使い八雲紫を睨むが、目を合わせてはくれなかった。

 

「実際に見たほうが早いんじゃないか?」

「見る?」

 

 不思議そうに首をかしげる八雲紫とは逆に、私は戦慄していた。星熊が何を考えているのか、何をしようとしているのか、分かってしまったからだ。拒否権がないことも、だ。

 

「こいつの普段の態度を見るなら、こんな屋敷に引きこもるよりも、やっぱ街に繰り出さなきゃな」

「なるほど」

「私は反対です」

 

 勇気を振り絞り、精一杯の反抗を試みる。蟷螂の斧、ということわざのように、ささやかな抵抗は、中々に格好いいものだ。

 

「私は家が好きなんです。ほら、外はおっかないじゃないですか。怖い妖怪がうじゃうじゃいるし、怨霊もたくさん。私の幸せは美味しいものをゆっくり食べることなんです」

「おい古明地」

 

 肩に手を置かれる。星熊の腰まで伸びた金色の髪が、鼻をくすぐった。星熊が顔を近づけてくる。額に伸びた大きな角が刺さりそうで、びくりと体が震えた。

 

「嘘はよくないぜ」

 

 嘘ではない、と言うことは、もちろんできなかった。

 

 

 私たちの家の地霊殿は、ここ旧地獄の中心に位置している。当然、旧地獄で最も栄えている場所、人呼んで旧都からも距離は近く、飛んでいけば、5分もあれば着く。ただ、旧都から近いということは、それだけ目立つ場所にあるわけで、今はめっぽう減ったが、一時期はカチコミが絶えなかった。

 

 境界をつくって行こうとした八雲紫を宥め、空を飛んでいった私たちだったが、旧都についた途端、思わぬ妖怪と会うことになった。

 

「おう、キスメじゃないか」

 

 星熊の声に驚いたのか、びくりと体を震わせ、大きな桶に身体を隠してしまった少女は、おいおい、そんなに邪険にしなくてもいいだろ、という言葉を聞き、「なんだぁ、ゆうぎか」と安堵の息を吐いた。"危なく、首を狩っちゃうところだったよ"と別角度で安心していることに気がついているのは、おそらく私だけだろう。

 

「こんなところで、何をしているんだ? いつもなら竪穴のところにいるだろ?」

「いや、その。ちょっと、地霊殿の主に用があったんだけど、行きづらくて」

 

 桶からひょこりと顔だけ出したキスメは、見上げるようにして星熊を見つめていた。青緑色の髪を左右に束ねて、なぜか白装束を着ている。種族はつるべ落としだ。可愛らしい子供のような姿だが、妖怪の強さは見た目で決まらないから、恐ろしい。

 

「だったら、都合がいい」得意げに星熊が言った。

「どうして?」

「だって、丁度ここにいるから」

 

 体をずらし、私たちを指差した。ちょうどキスメからは死角だったのだろう。私たちを見たキスメは、驚き、恐怖し、興奮した。"やられる前にやる"彼女の本能からの声が、嫌と言うほど聞こえてきた。

 

 私が後ろに下がるのと、キスメが斬撃を放つのは同時だった。仕組みは分からないが、桶に入ったまま、一直線にこちらに突っ込んできて、真っ直ぐに手を振り下ろしてくる。当然、そう来るのは分かっていた。いくら本能的に咄嗟に攻撃したとしても、妖怪である限り、私たちは心が読める。が、いくら心が読めようが、行動が読めようが、対処できるかといえば別問題だ。自分の想像よりも、キスメの動きは素早く、また殺意も異常だった。ここら辺が地底に封印された理由かもしれないな、と呑気に考えていたが、彼女の攻撃を避け切れないことは明確だった。後ろに下がりながら、何とか体を左にひねる。別に意図があったわけではない。ただ、左で微笑んでいる八雲紫の陰に隠れて、矛先を彼女に変えてやろうと、そう思っていたのかもしれない。

 

 ひゅん、と耳元で音が鳴り、キスメの手が振り下ろされた。私の目のぎりぎりを通過し、その手は地面に叩きつけられる。痛みはない。が、何本かの髪の毛が切れてしまい、パサリと宙を舞っていた。あの子だったら、自慢の黒い帽子が切れた! と憤慨するだろう。

 

「あら、中々に攻撃的ね。これが地底流の挨拶なの?」

「そんな訳ないじゃないですか」

 

 よくあなたが避けられたわね、と心配する素振りもなく訊いてきた八雲紫に、切れた息を整えながら、あなたのせいですよ、と呟いた。今度、おはぎでも差し入れてください、と。

 

「いやー、やっぱり古明地は意地が悪いな」

「え?」

 

 どこから取り出したのか、大きな盃を手に持った星熊は、それに口を付けながら、やっぱりいけ好かないな、と正直に言った。

 

「今のも、避けようと思えば、もっと早くに動けたはずだ。敢えてぎりぎりで避けて、相手の精神を参らせようとするなんてな。実力差を考えろって、暗に伝えてるんだろ? 現にキスメは、ほら」

 

 私の足元にいるキスメに目を落とした。表情は見えない。桶に身体を折りたたむようにして入って、カタカタと小さく震えている。うちのペットの火焔猫燐みたいだ。だが、彼女の心には、はっきりとした恐怖が刻まれていた。当分夢に出るくらいの、だ。

 

「いや、私はそんなつもりはないですよ。誰もがあなたみたいな反射神経と、身体能力を持っているわけじゃないんです」

「またまた」

 

 呆れるように肩をすくめた。また、いつものように私の言葉は届かない。

 

「なるほど、大体あなたが陥っている現状は分かったわ」

 

 眉間を指で押さえた八雲紫が苦々しく、口を歪めた。その仕草はおばあちゃんみたいですよ、と伝えるも、無視される。

 

「勇義。単刀直入に言うわ。あなたはこの子を過大評価し過ぎよ。この子自身の実力は大したこと無いわ。愚直だし、軟弱だし、すぐ食べ物につられるし、人の話を聞かない、そんな子よ。あなたが思っているような、強者では断じてない」

 

 そこまでこき下ろさなくても、とも思ったが、星熊を説得するには事実よりも盛る必要があると、勝手に納得した。したが、すぐにそれは無駄だと分かる。勇義の心は分かりやすかった。"何言ってんだこいつ"と呆然としている。驚くでもなく、怒るでもなく、呆然としていたのだ。"疲れているのか? それとも頭がおかしくなったのか?"と真に受けてすらいない。彼女の中では、私が強者なのは常識で、例えば砂糖が甘いだとか、抹茶は苦いだとかと同じ扱いなのだろう。私だって、砂糖が苦いと言われたら同じ反応を見せる。つまり、説得は不可能だ。

 

「紫は変な奴だな」

 

 結局、そう結論付けた星熊は、キスメの頭をガシガシと撫でた。怖かったな、でも、何か用があるんだろ? と子供を諭すように優しく語りかけている。その優しさを、少しでも私に分けてほしいものだ。

 

「キスメ。あなたの要件は分かりました。新入りの子に興味があるんですね?」

「なん、で」

「なんで分かったか。単純です。私はさとり妖怪だから、ですよ。それで、新入りの子でしたね。ちょっと能力がえげつないですが、まあ妖怪にはほとんど害が無いので大丈夫でしょう。性格もはつらつとした子らしいので、内気なあなたとは息が合うかもしれません。竪穴の管理が一人では大変? まあ、あそこは外界とつながってますから、確かに侵入者を防ぐという面では一人では大変かもしれませんね。なるほど。では、そこに新入りの子も配置することにします。最初は大変かもしれませんが、仲良くやって下さいね」 

 

 ひと息に言い切って、小さく息を吐く。一人で話し続けるのは私の悪い癖だ。だが、今更直すことはできない。さとり妖怪の性といってもいいだろう。ただし、あの子は違うみたいだが。

 

「だってよ。良かったなキスメ」

「う、うん。あ、ありがとうございました」

 

 小さく頭を下げたキスメは、一目散に飛び立っていった。心に刻まれた恐怖が、より深さを増している。私にはもう会ってくれないかもしれない。

 

「勇義。この子はいつもこんな感じなの?」

「そうだな。大体こんな感じだ」

「大分会話していたように見えたけど」

「あれは会話じゃない。言葉で滅多切りにしているんだ」

 

 源頼朝みたいだったな、と勇義は愉快げに頬を緩めた。会ったこともない源頼朝に心の中で土下座する。一緒にされてごめんなさい、これも全部八雲紫が悪いのです。

 

「まあ、大体この子の様子は分かったわ。付き合ってもらってありがとうね」

「本当ですよ」

「まあまあ、そうカリカリすんなって」

 

 結局、旧都に来たにも関わらず、ものの30分で地霊殿に戻ってくることになった。途中、甘味屋の近くを通り過ぎた時に、八雲紫の袖をつかんで「寄って行きましょう」と引っ張ったのだが、また今度ね、とお茶をにごされてしまった。その時の、これだからこいつは、みたいな顔は絶対に忘れない。

 

 星熊は他の鬼に絡まれて、具体的にはもう一人の四天王である伊吹萃香に喧嘩を仕掛けられていたため、巻き込まれないようにと置いてきた。なので、広い地霊殿の応接間には、私と八雲紫の二人っきりだ。ペットもどこかに退散しており、あの子も自室で眠っていた。

 

「あなた、才能あるわよ」

 突然、八雲紫がそう言ってきた。

「そりゃ、私は天才ですから。何だってできます」

「面白くない冗談ね」

「地霊殿の主なのに、どうして馬鹿にされるんでしょうか」

「あなたが馬鹿だからよ」

 

 彼女はわざわざ心を開いて、それが本心であることを示してきた。ムカつくことこの上ない。

 

「どんな生き物にも、どんな個体にも何かしら才能があるというけど」

「けど」

「まさかあなたに才能があるだなんて」

 

 なんでそんな才能がない奴にこんな役職を押し付けたのか、と問いただそうとしたが、止めた。きっと、嫌われ者のリーダーは、一番嫌われている奴がやるべきだ、と思っているに違いない。

 

「それで、私にはどんな才能があるんですか?」

「簡単よ」

 ふふ、と魅力的な笑みを浮かべた八雲紫は、また、扇子を広げた。

「嫌われる才能」

 

 ああ、と声が零れてしまった。確かにそうだ。そもそも、さとり妖怪という時点で嫌われる運命にあるのに、さらにもまして嫌われる才能があるのだとしたら、それは、もう最強じゃないか。多分、そんな妖怪はどんな奴からも嫌われるだろう。

 

「八雲紫」

「なあに?」

「あなたは私のことは嫌いですか?」

「好きに決まってるじゃない」

「そうですか」

 

 高い高い天井を見つめた。昔の洞穴だと、まともに立つこともできなかったことを考えると、大きな進歩だ。人間に闇討ちされる心配もない。食べ物にも困らない。あの子も楽しそうだしペットも可愛い。

 

「でも、私はあなたのことは嫌いですよ」

「可愛くないわね」

「私は可愛いですよ」

 

 でも、どこか心に空虚さを感じる。第三の目に、ぽっかりと穴が空いてしまったかのようだ。恵まれた地位に立って、初めて気づくこともあるのかもしれない。

 

 私のことを好きといった八雲紫が、心を閉ざしたままだったことに気づいた時、私はふとそんなことを思った。

 

 いま、ペットの火焔猫燐が私をよんでいる。どうやら晩御飯の様だ。八雲紫は、もう帰ってしまった。広い広い応接間で、延々と日記を書き続けた私の腹は、あまり空いていない。だが、きっと家族と食べるご飯はおいしいのだろう。そう願った。

 

 それでは、よい明日でありますように。

 

 




八雲紫は案外色んなことを考えて選んだと思います。多分。


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第119季2月13日 —こんなこともありましたね—

 第119季2月13日

 

 結論から言えば、今日は楽しい一日だった。美味しいものもたくさん食べられたし、仕事も少なかった。

 

 そして何より、新入りの土蜘蛛が地底にやってきたのだ。名前は黒谷ヤマメという。以前、八雲紫と話し合っていた子だ。彼女はとてもいい子だった。健気で、誰にでも優しくて、そして見ていて楽しい。地底という、ある種暴力でものを解決している世界において、彼女は唯一の良心という存在になってくれるだろう。八雲紫もそれを期待したのかもしれない。

 

 こうして日記を書いている今も、彼女のことが頭にある。最近よく人間の姿に化け始めたお燐(火焔猫燐は気に入っていないからこう呼べと言われた)に日記を書くのを妨害されているが、それも気にならないくらいには機嫌がいい。最近は、地獄烏の霊烏路空とも仲がいいらしく、二匹で私の仕事を手伝ってくれる。ありがたいのだが、あの子に「まるでブッダみたい」と言われてしまったのは気に入らない。どちらかといえば、彼女の方がペットに好かれているというのに。少しだけ、羨ましい。

 

 黒谷ヤマメに話を戻そう。彼女は八雲紫の境界によって、強制的に旧都に下ろされた。新入りが来るときは大体そうだ。きっと、地上で寝ているときに連れ込まれたのであろう。地面にそのまま寝そべっていた彼女は、ゆっくりと目を開け、辺りを見渡した。久しぶりに新入りが来るとあって、多くの妖怪が旧都に集まっていた。鬼の中には、星熊、伊吹萃香という四天王ふたりもいる。さらには竪穴の管理をしているはずのキスメも、橋姫の水橋パルスィの姿さえあった。当然、地霊殿の主である私も例外ではない。ただ、あの子は来ていない。ペットと遊んでいたらしい。

 

 体を起こしたヤマメは、自分を見つめている多種多様な妖怪たちを見て、絶望していた。目が覚めたら知らない場所にいて、自分より遥かに強い妖怪が円になって自分を見下ろしていたら、誰でも同じ反応を示すだろう。彼女は“あ、死んだ”と呆然としている。後ろに括られた金色のポニーテールを細かく揺らしながら、襲ってきませんように、と祈るように両手を組んだ。初々しい反応に、笑みがこぼれる。

 

「大丈夫、襲いませんよ。ここの連中は喧嘩は多いですが、虐めはしません」

 

 子供をあやすように、優しく語りかける。が、なぜか分からないが、黒谷ヤマメの恐怖心は収まるどころか激しさを増していった。“助けて、殺される”と何回も繰り返している。

 

「殺しませんって。そもそも、私はあなたを殺すほどの力を持ってませんし。うそ? 嘘じゃないですよ。……ああ、自己紹介がまだでしたね。私はここの管理をしている、しがないさとり妖怪です。古明地と呼んで下さい。え、なんでって。それは私が心が読めるからですよ。さとり妖怪とはそういう者です。気持ちが悪い、ですか。よく言われます。まあ、慣れているので気にしないでください。むしろ、罪悪感を抱いていて下さることに感謝します。感動を覚える程ですよ。ここの連中ったら、そんな感情とは無縁でして。ああ、ここですか。ここは地底、旧地獄です。そう、その嫌われものの集まりであってますよ。これからよろしくお願いします」

 

 ペコリ、と頭を下げて歓迎の意を示した。だが、ヤマメは恐怖心が消え去っておらず、あたふたと慌てふためいている。懇切丁寧にここは安全ということを説明したのに、何がまずかったのだろうか。

 

 御馳走でも置いておけばよかったかと首をかしげていると、後ろから見慣れた二人が近づいてきた。伊吹萃香と星熊勇儀、鬼の四天王コンビだ。

 

「おいおい古明地、いきなり新人いびりとは酷いことをするなぁ」いつものように、星熊は楽しそうに言った。

「流石は地霊殿の主」

「え、それは私が新人にいびられるってことですか?」

「どうしてお前は心が読めるくせにとんちんかんな事を言うんだい? とぼけているのか?」

「そういうな。萃香だってよくやってるじゃないか」

「まあね」

 

 この二人が話し始めたのを皮切りに、周りの妖怪がにわかに騒めき始めた。私が話しているときには、一言も手助けをしてくれなかったのに、と責任をなすりつけたくなる。その会話のほとんどが、これからヤマメとどう接したらいいんだろうか、という相談だったが、大体の鬼は、酒盛りをすれば何とかなる、と思い込んでいるようだった。これだから鬼は、と声が零れる。

 

 当のヤマメはというと、突然まわりが騒めきだし、不安な様子ではあったが、注目が自分から外れたからか、少し安堵のため息を吐いていた。

 

 この時の私は酷く困っていた。今までの新入りは、ここが地底だと分かるなり、暴れるか、逃げるかのどちらかだった。そして、ほとんどの場合、拳と拳で語り合うことになる。そして友情が育まれるのだ。これを私は“地底の妖怪は鬼になる”とよく表現する。喧嘩で友人を作るのは、鬼の専売特許だからだ。

 

 だから、今回のヤマメのような、しおらしい妖怪に対する接し方が分からなかった。こんな時に限っていない“頼りになるほう”と呼ばれているあの子は何をしているのだろうか、と考え、現実逃避していた。きっと、黒い帽子を霊烏路空に盗まれ、その肩口にかかる髪を棚引かせながら、追いかけまわしているのだろう。

 

 座り込んでいるヤマメに近づく存在に気づいたのは、その時だった。木で出来た、大きめの桶がまるで蛙のように、ぴょんぴょんと跳ねている。奇妙で、可笑しい光景だった。ヤマメも警戒すべきかどうか迷っているようで、微妙な顔をしている。

 

 その桶は、ヤマメの目の前まで来たかと思うと、一度大きく真上に跳ねた。突然の出来事に、ヤマメは目を丸くしている。“え、何これ!? ”と驚愕しているようだ。だが、私も同じように、いや、それ以上に驚いていた。あの人見知りのキスメが、あの絶望的なまでの凶暴さを隠しているキスメが、こんなことを考えるなんて、思わなかったからだ。

 

 空に飛び立った、といっても地底なので空は無いが、とにかく見えなくなるまで上に飛んだ桶は、ゆっくりと回転しながら落ちてきた。最初は不規則だった回転が、地面に近づくにつれて、一定方向に収束していき、まるでコマのように横回転を始める。回転数はますます増していき、もはやそれが桶であるかどうかも分からなくなっていた。

 

 突然、中から何かが飛び出した。私の目には緑色がちらりと見えただけだったが、ヤマメの動体視力は私よりいいらしく、女の子、と声を漏らしていた。

 

 桶から飛び出した女の子、キスメは桶より早く地面に降り立つと、着地の衝撃で埃が舞う中、どこからか一本の棒切れを取り出した。それを天高々と真上に掲げている。

 

 歓声が上がった。鬼たちが、いいぞ! と囃し立てているのだ。彼らもキスメの思惑に気がついたらしい。

 

 桶は鋭く回転したまま、真っ直ぐに落下してくる。キスメに一切の動きはない。まるで桶と棒の先に糸が張っているかのように、一直線に向かっていく。棒に桶が触れた。キスメは膝を軽く曲げ衝撃を吸収させる。棒の先には見事、桶が乗っかっている。

 

 歓声が爆発した。あちらこちらから拍手と、指笛が木霊している。キスメは、少し怖気づいたのか、辺りをきょろきょろ見渡していたが、意を決したかのように、桶を棒で小突いた。

 

 桶から沢山の花びらが舞い散った。どれも地底にはない物ばかりだ。きっと、竪穴に零れ落ちたものを、毎日拾い集めていたのだろう。色とりどりの花びらが宙を舞っているなか、桶を持ったキスメは、腰を下ろし、ヤマメと目を合わせて、手を伸ばした。

 

「ようこそ、地底へ。歓迎するよ!」

 

 一瞬かたまっていたヤマメだったが、差し出された手を見て、表情を崩した。顔をくしゃりとさせ、子供の様に歯を見せる。

 

「うん! これからよろしく!」

 また、割れるような歓声が地底を包んだ。

 

 

 

 

 

「いやぁ、やるじゃないか。キスメにそんな特技があったなんて!」

 

 キスメの大道芸の直後、すぐに宴会が始まった。どこから取り出したのか、酒や食べ物が溢れんばかりに並び、思い思いにそれを口に放り込んでいる。ただ、今回の主役であるヤマメ、そしてキスメは鬼たちに絡まれて、その酒を楽しめていなかった。

 

「ずっと隠してたなんて、水臭いぞ!」

 

 星熊が、桶に隠れようとしているキスメの体を無理矢理つかみ、酒を飲ませている様子が見えた。ヤマメがそれを楽しそうに見つめている。まあ、キスメは本心から嫌がっているが。かわいそう、とは思うが助けることはできない。私にはやるべきことがある。そう。少しでも多くの御馳走を頂かなければならないのだ。色々あり過ぎて目移りしてしまうが、急いで皿に盛りつける。無くなる前に食べておかなければ。

 

「あんなにチヤホヤされちゃって、全く妬ましいと思わない?」

 

 肉の燻製を盛り付けていると、隣にいた橋姫の水橋パルスィに声をかけられた。手には、半分ほどしか入っていない酒瓶が握られている。

 

「パルスィ。あなた酔ってますか?」

「酔ってないわ。溢れ出る嫉妬心に酔いそうだけれどね」

「ばっちし酔ってますね」

 

 よく見ると、彼女の絹のように白い肌はわずかに赤く上気している。私と同じくらい、つまり少し肩にかかるかどうかくらいに伸びた金色の髪が、汗で湿っていた。その特徴的な緑色の目を潤ませて、妬ましいと言い捨てる彼女は、どう見ても泥酔している。

 

「あんなに歓迎されているヤマメって子も妬ましいし、早速仲良くなったキスメも妬ましい。その二人に絡む勇儀も妬ましいし、それをにこやかに見ているあなたも妬ましいわ」

「え、私も妬んでいるんですか?」

「当然じゃない。いわば、あなたはここのトップなのよ。それだけで妬ましいわ」

「なら、変わります?」

「絶対に嫌」

 

 妬むならばきちんで妬んで下さいよ、と軽く肘で小突くと、だったら、妬まれるように努力しなさいと返ってきた。なぜ、そんな努力をしないといけないのか分からない。分からないので、とりあえず、皿に盛ってあった肉の燻製を口に入れた。歯を当てるだけで肉汁が溢れ出て、得も言われぬ旨味が口の中をおおった。ゆっくりと租借し、鼻から息をはく。こうばしい香りが抜けていき、思わず頬が緩んだ。

 

「ホントに美味しそうに食べるわね」

「妬ましいですか?」

「いや、そうでもないわ」

「そこは妬んで下さいよ」

「嫌よ、というか」

 

 彼女は手に持った酒瓶を持ち上げ、口元に運んだ。ぐびぐびと喉が鳴る音が聞こえる。私の知る焼酎の飲み方ではなかった。

 

「あなた、心が読めるんだったら、私が妬んでいるかどうかなんて分かるんじゃないの?」

「いいんですか?」

「いいって何が」

「心を読んでも」

 

 あ、と声を漏らし、今のは無かったことにして、と慌てている橋姫を無視し、第三の目を彼女に向けた。必死に顔の前で手をバタバタと振っているが、そんなことをしても意味はない。

 

「ふむ。別にそんなに隠さなくてもいいじゃないですか。キスメに親しい友人が少ないことを気にしていたから、ヤマメと触れ合ってくれて安心していると。まるで母親みたいですね」

「止めて」

「新入りの子が真面目ときいて、地底になじめるか不安だったけど、大丈夫そうで私もうれしい、ですか」

「止めて」

「ただ、勇儀を取られるのは妬ま」

「止めてって!」

 

 彼女は手に持っていた酒瓶を強引に私の口に突っ込んだ。喉が焼けるように熱くなり、むせる。上等なはずの焼酎の味は、もはや分からなかった。

 

 息が苦しくなり、頭がくらくらする。目の前で、まったく妬ましいわ、とにこやかにこちらを見てくる橋姫が二人いるように見えた。その時の私は、そういえば彼女は分身ができたな、とのんびりと考えていた。

 

「いやぁ、やっぱりパルスィは優しいですね。嫉妬という感情は羨望と表裏一体ですから。嫉妬したいということは、相手に幸せになってもらいたいってことでしょうか」

「そ、そんな訳ないでしょ。なに? お酒が足りなかったの?」

「いやあ、幸せですねぇ」

 

 この時の私は、酷くお酒に酔っていた。当然、記憶もあいまいで、その時には自分は酔っていないと頑なに信じていた。だが、とある理由で鮮明にこの時の記憶を突きつけられることとなる。これは、後で話そう。

 

 とにかく、たくさんの御馳走と心地良い酔いに包まれた私は幸福感に包まれていた。だからだろうか。普段は言わないであろうことも、口からポンポンと零れ出る。それこそ、地底に来る前のように。

 

「いつも橋姫には感謝してるんですよ」

「橋姫って。突然どうしたの? 悪寒が凄いわ」

「そんなの、心を読めばいいじゃないですかー」

 

 読めるわけがないじゃない、とぶっきらぼうに突き放した橋姫だったが、その心には困惑と、心配と、少しの嫉妬が入り混じっていた。それが堪らなく嬉しくて、また同じ言葉を繰り返す。感謝してますよー、と春告精のように何度も何度も言った。

 

「ちょ、ちょっと待って。酔い過ぎじゃない? もしかして下戸だったの?」

「ゲコゲコー。なんてね!」

「ええええ、これが地底の管理者の本性なの? 演技? いつもあんなに恐ろしいのに」

「そうですか? いつもこんな感じだと思いますけど」

「そんなこと無いわ。いつもは、こう。妬ましいほどに陰険で、暴虐で、いかにも“これからあなたの心を蹂躙します”って感じだったわよ。心を読まれるってだけでも嫌悪感が半端ないのに、そんな雰囲気を醸し出しているなんて、本当に妬ましいわ」

「わたしぃ、誰かの心を蹂躙したことなんてありましたっけ」

「むしろしてない時が無いわよ」

 まじですか! と大声で叫ぶと、またもや橋姫はえええ、と目を丸くした。一体どうしてそんなに驚いているのだろうか。

「どうした古明地、そんなに大きな声を出して」

「勇儀! いいところに」

「本当にどうしたんだよ」

 

 キスメとヤマメを解放したらしい星熊は、酒瓶をこれでもかと抱えて、私たちの隣に腰を構えた。かなり酒臭いが、あまり酔っているようには見えない。

 

「古明地が酔っちゃって大変なの」

「酔った? 古明地が?」

 酒を飲みながら笑うという器用なことをしながら、星熊は橋姫の背中を軽く叩いた。

「そいつはまずいな」

「でしょ」

「地底が滅ぶかもしれん」

「どういう意味ですか」

 

 たまらず聞き返す。なぜ私が酔うと地底が滅ぶのですか、そもそも私は酔ってませんよ、と早口で詰問するも、返ってきたのは豪快な笑い声だけだった。

 

「だってよ、お前みたいな妖怪の天敵のようなやつが暴れ出してみろ。この私ですら止められるか分からん」

「そうね。私もそう思う」

「無理ですって。私は猿にも勝てないか弱いさとり妖怪ですよ」

 

 まただ、と思った。もはや驚きすらしない。星熊をはじめとする地底連中はなぜか私を過度に恐れる。一時期は、いつものように嫌われているだけだと思っていたが、状況はそれよりも酷いものだった。嫌われ、恐れられている。私と極力会いたくないどころか、会ったら心臓が止まりそうになった、と腹の底で思っている奴も少なくない。

 

「はぁ、過度な謙遜は皮肉と同じよ。全く妬ましいわ」

「そうだぞ、強者なら私みたいに堂々としていろよ」

「勇儀はもう少し大人しくした方がいいと思う」

「なんだと!」

 

 言い合いを始めた二人を肴に、星熊が持ってきた酒を手繰り寄せた。なんだか、酒を飲んでないとやってられない。そんな気分になっていた。先程の橋姫のように、ぐびぐびと飲む。

 

「星熊さん」

「うぉ、何だ急に。星熊だなんて久しく呼ばれてないぞ」

「いつもありがとうございます」

「本当にどうした急に!」

 

 なにか企んでいるのか、と肩を大きく揺さぶられる。失礼この上ないが、本心から言っているのが分かるので、呆れるしかなかった。

 

「私、知ってるんですよ」

「知ってるって何を」

「星熊さんは豪傑ではあるけれど、その実友人に対しては繊細なまでに気を使っているってことを、ですよ。例えば、“パルスィは嫉妬を活力としているんだったら、なんか自慢話でも考えておくか”みたいな感じで」

「おいこら」

「はぁ……。少しはその優しさを私にもくれればいいのに」

「いや、それは無理だ」

 

 そう断言されることは分かっていた。“こいつには隙をみせてはいけない” 強迫観念ともいえるまでの思い込みが、常に頭の片隅に付きまとっている。これも地底の住民全て、橋姫にすらいえることだった。

 

「いったい私が何をしたんですかねー」

 

 ねー、と星熊に顔を近づける。が、思ったよりも平衡感覚が定まらず、足元がふらつき、そのまま星熊に向かって倒れ込んでしまった。

 

「おっと」

 

 私を受け止めた星熊は、一瞬だけ恐怖で体を固まらせたが、しっかりと私を受け止めた。あまりにも無防備な私の姿を見て、かなり困惑している。“まぁ、私たちも酒で痛い目にあったから、人のことは言えないか”と勝手に納得していた。

 

「意外に柔らかくて心地いいですねー」

「お、おい。暴れんな」

 

 体を普段のお燐のように回転させるようにして擦り付ける。そのたびに星熊は慌て、橋姫に助けを求めた。“こいつ、本当に古明地か? ”と疑ってすらいた。

 

「地霊殿の主の知られざる本心、ってやつかしら」

「信じらんねえな。いつもはずっと殺気だっているってのに」

「もしかすると、私たちは彼女を誤解していたのかもしれないわね」

 

 そうだな、と朗らかに笑った星熊の腕の中で、私の意識は途絶えようとしていた。目がまどろみ、闇の中へ落ちていく。

 

「ただ、こいつが恐ろしくて嫌いな奴ってのに変わりはない」

「そうね」

 

 ああ、これも本心からの言葉だな。そう認識したとき、私は完全に正気を手放した。

 

 

 

 目が覚めると、地霊殿の自室のベッドに寝かされていた。ズキズキと痛む頭をさすりながら、いつの間に帰ってきたのかを思い出そうとするが、上手くいかない。

 

「大丈夫?」

 

 頭上から声がした。可愛らしい聞き慣れた声だ。答えるために身体を起こそうとするも、吐き気がして、途中でベッドに倒れ込んだ。

 

「もう、あんなにお酒を飲むからだよ」

 

 ほら、口を開けて、と水差しを私の口にあてがってくれる。“ペットのみんなも心配してたんだよ”と口に出さず心で教えてくれた。

 

「ベッドで眠っているのを円で囲うようにして寄り添っていたから、まるでブッダみたいだった」

「止めて。ブッダに殺されちゃいます」

「大丈夫だって、仏は三回までならなんでも許してくれるから」

 

 適当なことをいった彼女は、おもむろに第三の目を私に向けた。何をするつもりなのかと訊こうとして、止める。彼女が何をするかなど、心を読めば分かるからだ。もっといえば、今の彼女であれば、心を読むまでもなく、分かってしまうが。

 

「『地霊殿の主に会わせてほしい』ってお客さんが来てるよ。今は応接間で待ってもらってる」

 

 “でも、お酒で記憶がとんでるみたいだから戻してあげるよ。話が合わないと大変だし”

 

 なんて優しいんだ! と感動していたが、今思うと無理にでも彼女を止めるべきだった。相手の話に合わせることは、私たちさとり妖怪の得意とすることであったし、別に私の記憶がなかろうが、相手の心を読めば問題なかった。

 

 それよりも、【酒の席でのやらかし】を思い出すこと、そしてそれを家族に見られることの羞恥の方が問題だった。

 

 ゆっくりと、記憶の箱が開かれ、そこから波が押し寄せるように、自分の行動が鮮明に思い出されていく。途中、何度かこらえきれずに吹き出す声が聞こえたが、意図的に無視をした。自分の顔が赤くなっていくのが分かる。

 

「あ、ありがとう。もう大丈夫です。本当に」

「えー、あと少し」

「十分です!」

 

 くすくすと、口の中で転がすような笑い声を尻目に、逃げ出すようにして部屋をでる。二日酔いはもはや消え去っていた。

 

 

 応接間にいたのは今日の主役二人だった。ヤマメはともかく、キスメと直接話すことはないだろうと思っていたので、少なくない衝撃を受ける。

 

「あ、あの!」

 

 ソファに座っていたヤマメが私を見た途端に勢いよく立ち上がった。言葉を発したいが、なかなか出てこないのか口をパクパクとさせている。足はガクガクと震え、肩は小刻みに揺れていた。

 

 正直に言えば、この時点で彼女たちが何のために来たのかは分かっていた。分かってはいたが、言わなかった。

 

 頑張れ、と呟いたキスメの声に小さく頷いたヤマメは大きく息を吸った。よし、と自分を鼓舞するように声を出して、勢いよく頭を下げた。

 

「あの、さっきは失礼なことをいってごめんなさい!」

 

 誰かに頭を下げられたのなんて、いつぶりだろうか。あまりにも慣れていなかったので、つられて頭を下げてしまった。彼女が謝ってくると分かっていたのに、だ。

 

「あの時はちょっと混乱してて、その、これから地底のみんなと仲良くなっていくので、これからよろしくお願いします!」

 

 なんていい子なんだろうか。地上でも見たことがないくらいに優しくて、純粋な子だ。どうしてこんな子が地底に来ることになったのか。世の中の理不尽を嘆きたくなるほどだ。

 

「いえ、こちらこそお願いします。あなたのような妖怪は地底では珍しいので。キスメと一緒に竪穴の管理をお願いしますね。期待しています」

「はい !」

 

 元気に返事をした彼女の唇は、まだ震えていた。私に対する嫌悪感は消えていないのだろう。ただ、感情というものは単純ではない。地底の誰もが私に対する嫌悪感を持っているが、それでも星熊や橋姫のように話しかけてくれる者もいるのだ。彼女もそうなってくれるだろうか。もしかして、キスメも。

 

「キスメもよろしくね」

「ひっ!!」

 

 声をかけた途端、桶に引っ込んだキスメは一目散に部屋の外へと飛び出していった。やっぱり、そう上手くはいかないか。まってよー、とヤマメがぴょこぴょこと跳ねる桶を追っていく。だが、扉を開けた瞬間、思い出したかのようにこちらに振り返り、深々とおじぎをした。

 自然と頬が緩む。ヤマメが見ているか分からないが、大きく手をぶんぶんと振った。やっぱりヤマメはいい子だ。

 

 私の日記の妨害に飽きたお燐が、人間の姿となって私の書物を荒らし始めた。さすがにこれ以上は見ていられないので止めなければならない。ごはんだよー、という声が聞こえるが、残念ながらもう満腹だ。私の分もお燐に食べてもらおう。

 

 それでは、よい明日でありますように。

 

 

 

 




酒を飲むと本心がでるといいますよね


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第119季2月20日 —流石にこの日は忘れません―

 第119季2月20日

 

 地上では、例年以上の大寒波が襲ってきていて、人間も妖怪も中々に大変らしいが、ここ地底は一年を通して暑い。それは地上が大変な今でも変わりはなく、床暖房完備という無駄な機能をもった地霊殿ではキンキンに冷えた水が必需品だった。もっとも、ペット達はこの暖かさは気に入っているようだったが。

 

 なぜ、いきなり気温の話をしたかといえば、何も会話のネタに天気の話がうってつけだと聞いたからではない。確かに、地底の皆に嫌われている現状をどうにかしたい、と八雲紫に相談したところ、「天気の話でもすればいいんじゃない?」と雑な返事が返ってきて、そんなものか、と納得したが、今回の話とは何の関係もない。

 

 今日の早朝、目が覚めた私は体の違和感に気がついた。頭がぼぅとして思考がまとまらない。それどころか、思ったように体をコントロールすることすらできなかった。二日酔いかとも思ったが、昨日酒を飲んだ覚えはない。

 

 強い倦怠感に堪え、なんとか小柄な自分には不相応なほど大きいベッドから抜け出す。だが、ふらつく二本の足ではうまくバランスを取ることができず、その場に倒れ込んでしまった。

 

 助けを呼ぼうとするも、上手く口が動かない。ならばと心の中でSOSを叫ぶも、それでも助けは来なかった。

 

 ああ、私はこんなところで死ぬのか、と半ば諦めかけていると、救世主が部屋に入ってきた。ペットの内の一匹、地獄烏の霊烏路空だ。

 

「おーい、朝ごはんだって、って死んでる!?」

 

 勝手に殺さないでほしい、と思いつつも口に出す元気は残っていない。ただ、幸運なことに人間の姿に化けている彼女なら私を運ぶことはできるだろう。そうすれば、何とかなるはずだ。

 

「えっと、えっと、まずはどうしよう」

 

 慌てふためいていた彼女であったが、あ! と大きな声を出し、とてとてとこちらに駆け寄ってきた。運んでくれるかと思ったが、そのえげつない思惑を覚り、悲鳴を上げたくなる。

 

 私の体をひっくり返して仰向けにさせた彼女は、自分の手を祈るように重ねて、私の胸に優しく置いた。心音を確認するようにゆっくりと手の位置を調整している。やめて、と息を振り絞ったが、聞こえている様子はなかった。

 

「たしか倒れている人妖がいたら、心臓マッサージをすればいいんだったっけ」

 

 彼女の全体重が私の胸に突き刺さり、肋骨がボキボキと悲鳴をあげる。鈍い痛みが体を襲った。私の呻き声が聞こえていないのか、彼女は躊躇なくまた体重をかけてくる。痛みで脳が麻痺し、何も考えることができない。

 

 ああ、私の妖生はペットに殺されて終わるのか。痺れる頭のなか、せめて最後に餡蜜が食べたかったなあ、と考えているうちに意識は暗闇に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

「妖怪が熱中症だなんて、聞いたことがないよ」

 

 頭上に乗せられた氷袋を落とさないように、ゆっくりと頭を動かす。心配そうに見つめる第三の目が、顔のすぐ近くにあった。

 心臓マッサージをされて死にそうになっている私は、お燐によって発見された。いまだ私の肋骨を折ろうとしている霊烏路空を宥め、三つ編みの髪を揺らしながら必死に医務室に運んでくれたのだ。

 

「いや、死ぬかと思いましたよ」

「熱中症で地底の主が死んだら面白かったね」

「面白くはないです」

「面白いよ。同士討ちで死ぬくらい面白い」

「同士討ち?」

「この前よんだ本であったの。人間が洗脳されて、仲間同士で殺し合いさせるやつ。敵の“操られていたとはいえ、こいつはお前がやったんだ”って台詞がよくてさー」

「悪趣味です」

 

 というか、実際に死にそうになったのは霊烏路空の心臓マッサージのせいだったのですが、そんな感じのことを心を通して伝えると、彼女はああ、と納得するように頷いた。

 

「それ、お空は悪くないよ。普通だれか倒れてたらやるでしょ」

「心臓マッサージを?」

「そう、心臓マッサージ。常識でしょ?」

 

 そんな常識は知らなかったし、知りたくもなかった。そんな常識のせいで、私の可愛い肋骨は危うく折れそうになったのだ。

 

「いやー、私の『命を救おう! 救命講座』も無駄じゃなかったんだなー」

「何やってるんですか」

 

 頭が痛いのは、熱中症のせいだけではないだろう。基本的に自由奔放な彼女だが、まさかペットたちに救命講座をしているとは思わなかった。体の強い妖怪に、そんなことを使うべき時があるのだろうか。

 

 "私たちは体が強くないから、必要でしょ"

 

 なぜか得意げに鼻を鳴らしている彼女に向かい、分かりやすくため息を吐く。どうして彼女が"頼りになるほう"と呼ばれているか、分からなくなってきた。

 

「どうせ教えるなら、助けの求め方とかにしてください」

「えー、分かったよ」

 

 絶対に分かっていないことが、私には分かった。

 

 

「古明地姉妹が二人で外出なんて、明日は雪でも降るんじゃないかい?」手に持った瓢箪を口に運びながら、伊吹萃香は言った。

 

 新しく入った子の働きぶりが見てみたい! そう言って、とてとてと走り去っていく困ったちゃんを追いかけているうちに旧都にまで来てしまっていた。これでは、姉妹と言うよりも母娘だ。ただ、私もヤマメの様子を確認しておきたかったし、熱中症の病み上がりであったため一人で行くのも不安ではあった。もしかすると、彼女はそういった私の心を読み取ったのかもしれない。

 

 ただ、旧都で伊吹萃香に出会ったのは予想外だった。鬼の四天王の一人である彼女は、その私と同じか、それよりも低い小柄な体を大の字に広げ、地面に横たわっていた。茶色の長い髪は砂まみれになっていて、頭に生えた大きな二本の角は、呼吸して体が動くたびにカツンと音を立て、地面とぶつかっている。

 

「あー、萃香が倒れてるー」

 

 なんとか無視できないかと思考を巡らせていた私であったが、その努力は水泡に帰した。気づけば、何時のまにか萃香に寄り添って、確かめるように彼女の体にさわっている。

 

「萃香も熱中症かな?」

「いえ、ただ酒に溺れているだけでしょう」

 

 だから放置して早く竪穴に行かないと、そう心で訴えるも、彼女は聞こえていないのか、それとも聞く気が無いのか、おもむろに伊吹萃香の胸に手を置いた。よいしょ、と肩を上げ少し腰を浮かしている。

 

「倒れている人妖がいたら、まず心臓マッサージをしないとね」

 

 ちょっと待って! と私が叫ぶのと、彼女の手に体重が加わるのは同時だった。痛ったい! と叫ぶ声が聞こえる。ああ、私たちはついに鬼の逆鱗に触れてしまうのか。土下座したら許してくれないかな、そう考えていたが、悲鳴をあげて、辛そうな顔をしているのは、心臓マッサージを施そうとしたやぶ医者の方だった。

 

「萃香の胸凄いよ。もうカチコチ。手をねんざするかと思った」

「それは鬼だからでしょう。鬼の体は鋼のように硬い」

「でも、勇義の胸は柔らかかった」

「それ以上は止めましょう」

 

 純粋な心は時に人を傷つける。伊吹萃香が自身の体について特に劣等感を抱いているとは思えないし、姿を自由自在に、それこそ山のように巨大化させたり、霧のように実体のないものにすら変身できる彼女にとっては関係のない話だろうが、火種は極力撒かない方がいい。それが私たちの生きる道だ。

 

「うーん? 誰の胸が硬いって?」

「あ、おはよう萃香」

 

 ただ、一度撒いた火種が回収できないということも忘れてはいけない。

 

「いえ、やっぱり鬼の体は強靭だな、と思いまして」

「当たり前だろ」

 伊吹萃香はカチコチの胸を張った。

「私たち鬼はそこんじょそこらの雑魚とは違うんでねぇ。というか、さっき私の体にさわってただろう? 何をしようとしてたんだい?」

「あ、それは」

「心臓マッサージだよー」

 

 伊吹萃香の心に疑惑が満ちていく。"何だよ心臓マッサージって"と訝しんでいた。そう、それが普通の反応ですよね、と思わず同調したくなる。

 

「心臓マッサージっていうのは、死にそうな人妖にやったら、もしかしたら助かるかもしれない救命方法だよー。胸の辺りを軽く押すの」

「そんなんで生き返ったら苦労しなくないか?」

「コツがいるんだってー」

 

 鬼が心臓マッサージをやったら、確実に胸が潰れて死んでしまう。倒れている自分の胸に手を置く伊吹萃香の姿を想像した。恐ろしい。だが、私が死にそうになっている中、伊吹萃香が必死になって心臓マッサージをしてくれるとは思わなかった。

 

 ふーん、と生返事をした伊吹萃香は、ところでと話を変えてきた。彼女の心に明確な目標が立っていることを覚る。私たちから聞き出したい情報があり、それはまた何とも言えないものだった。にやけそうになる顔を何とか引き締める。

 

「古明地姉妹が二人で外出なんて、明日は雪でも降るんじゃないかい?」

「地底で、ですか」

「地底でも雪が降るかもしれないだろ」

 

 八雲紫と伊吹萃香は親交があったらしいという話を思い出した。なるほど、もしかすると彼女も困ったら天気の話をすればいいと言われていたのかもしれない。にしても、雪はふらないが。

 

「えー、雪は降らないでしょ」

「じゃあ、何が降ると言うんだい?」

「そんなの、分かるわけないよ」

 

 ニヤニヤと笑いながら、彼女は第三の目をくるくると回した。どうして鬼に挑発的な態度をとれるのか、不思議で仕方がない。感心するほどだ。

 

「まあ、何も降ってこないならそれでいいんだ。それで、姉妹水入らずでこれからどこへ行くんだい?」

 

 察しがついているだろうに、伊吹萃香は訊ねてきた。心なしか少し声が上ずっているように聞こえる。いつも豪快な鬼にしては、珍しく遠まわしだ。照れ隠しなのか、それとも鬼として彼女は異端なのか、いずれにせよ、口元の笑みを隠すことが難しくなってきた。

 

「竪穴に行くんですよ。ヤマメの仕事ぶりを見てくるんです」

「へー」

 

 興味がなさそうな顔をして、少し顔を逸らした。あまりにも分かりやすすぎる。霧という不定形の形をとれば、私たちの読心の能力が及ばないことは分かっているはずなのに、それでも彼女は普段の姿で質問してくる。それが面白くて仕方がない。

 

「まあ、ヤマメなら心配することはないと思いますが」

「まあ、あの土蜘蛛はなかなかに良い奴だしねぇ」

「ええ」

「ヤマメって子は、そんなにいい子なの?」

「私が思う限り、地底で二番目にいい子です」

「いちばんは?」

「私です」

 それはない、と二人が声を合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

「ヤマメって子、かなり好かれてるんだね」

「ええ」

 

 伊吹萃香と別れた(振り切ったと言ってもいい)私たちは、無事竪穴へとたどり着いていた。どんなに見上げても先が見えないほど長いこの竪穴は、地上への入口へとなっている。そのため、地底に封じられた妖怪が逃げ出したり、地上のものが迷い込んだりするのを防ぐ必要があるのだ。だから、本来地底に封印された側のヤマメが警護するのは少し問題があったが、ヤマメなら逃走なんてしないだろう、と誰もが思っているのも事実だった。

 

「でも、萃香がヤマメにあそこまで好意的とは思わなかったなあ」

「私もです」

「もっと、喧嘩が強い奴のことを気に入ると思ってた」

 

 先程の、伊吹萃香のことを思い浮かべる。彼女が私たち二人を見た時、真っ先に浮かんだのがヤマメのことだった。"もしかして、この二人はヤマメに何らかの罰を与えようとしているのではないか"そんな疑惑が浮かんでいた。だから、彼女は私たちの目的を探ったのだ。いったい彼女がヤマメのどこを気に入ったかは分からない。おそらく本人も分かっていないだろう。だが、ヤマメのことを無意識に気に掛けるくらいには好意的のようだった。少し過保護だとは思うが。

 

「ますますヤマメって子に会いたくなってきたなー」

 

 竪穴の壁から生えている無数の鍾乳石を避けながら、ゆっくりと竪穴を進んでいく。熱い地底と寒い地上で温度差があるからか、全体的に霜が降りてきて、うっすらと視界が白く霞んでいた。だからだろうか、なかなかヤマメとキスメの姿が見当たらない。

 

「ねえ、気がついてる?」

 突然後ろから話しかけられたものだから、驚き、その場でふらついた。未だに飛ぶのはなかなか慣れない。

「気がついているって何がですか?」

「何もかも」

 そんな曖昧な事を言われても分かるわけがない。心を読んでも一緒だ。"本当に分からないの?"といわれても、困る。

「分からないなら、いいや」

 

 くるりとその場で一回転してみせた彼女は、楽しそうに鼻歌を歌い始めた。自分も真似しようと思ったが、普通に墜落しそうになり、止めた。

 

 何かが落ちてきたのはその時だった。私よりも大きな物体が勢いよくすぐそばを猛スピードで落下していった。遅れて、鈍い音が底の方から聞こえる。岩だろうか。にしては、不自然なほどに落下速度が速い。

 

「いま、何が落ちていったのか分かりますか?」

「え、何か落ちてきたの?」

 

 他のことに気を取られていたのか、彼女は落ちていったものについて気がついていなかった。衝突しなくてよかったと、心から思う。

 

「一応、確認しに行きましょう」

 

 えー、と不満を漏らす彼女を無視して勢いよく底へと向かっていく。嫌な予感がした。背筋に冷たい汗が流れる。お願いだから、気のせいであってくれと願うが、大抵こういう予感は当たってしまうのだ。

 

 何分降りたのか分からないが、気がついたら足に地面がついていた。遮二無二下ってきたから、時間の感覚が曖昧だ。ただ、そんなことを吹き飛ばすくらいに衝撃的な光景がそこには広がっていた。

 

「いや、びっくりだね」

 近づいていった彼女は、口元に手を当てて驚いている。

「雪は降らないと思ったけど、まさか」

 うつ伏せに倒れていたそれを仰向けにひっくり返した。と、さらに酷い現状が目に入り、思わず小さく悲鳴をあげてしまう。

「まさか蜘蛛が落ちてくるなんてね」

 血まみれで倒れているヤマメの姿が、そこにはあった。

 




心臓マッサージ、常識ですよね?


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第119季2月27日 —私にしては珍しい判断ミスでした―

 第119季2月27日

 

 今日はいいニュースと悪いニュースがあった。もっとも、地底の主としてここに来て以来、いいニュースなどほとんどなかったから、まだマシともいえるかもしれない。

 

 まずはいいニュースから記そう。一週間前に重傷を負ったヤマメが目を覚ましたのだ。7日前、私が熱中症になったあの日、ヤマメが竪穴から落下してきた。その衝撃によるものなのか分からないが、彼女の体は酷く傷ついていた。綺麗な金色だった髪の毛は薄黒く染まり、左腕はあり得ない方向に曲がっていた。なぜ捩じ切れていないのかが不思議なほどで、いっそのこと、切ってしまった方がいいくらいだった。そして、何よりも酷かったのが胸腹部だ。腹からは内臓が飛び出し、赤黒い塊が辺りに散乱していた。肋骨だろうか、胸からは幾多もの骨が飛び出し、折れ、息をするたびに、口や耳から噴水のように血がふき出す。正直、私はもう助からないだろうと諦めていたのだが、どうやら土蜘蛛という妖怪は意外と丈夫らしく、地霊殿の医務室で匿っているうちにみるみる傷口が塞がっていき、今ではほとんど元の状態に戻っている。そして今日、ようやく意識を取り戻したのだ。

 

「いや、迷惑をおかけしたねぇ」

 

 ヤマメは目が覚めて私の顔をみるなり、そう言った。敬語が取れていることだとか、意外に取り乱さないのだな、とか色々な考えが頭を巡ったが、まず最初にお礼を言われるとは思わなかったので、焦った。焦って「こちらこそ」なんて頓珍漢なことを言ってしまった。

 

「もう体は大丈夫なんですか?」

「大丈夫……とは言い切れないけど、まぁ死にやしないさ」

 

 あはは、と力なく笑う姿には覇気がなかった。まだ地底に来た直後のガチガチで私に怯えながら敬語を使っているときの方が、ましだ。

 

 醜い。それが、満身創痍な彼女の第一印象だった。

 

「何か、欲しいものでもありますか?」

「いやに優しいねぇ、何か企んでいるのかい?」

 

 彼女は口にした後で、酷く苦い顔つきになった。恥じるように髪の毛をガシガシと掻いている。

 

「いや、忘れてくれ。恩人に失礼だった」

「いえ、慣れてますから」

 

 やはりあなたは優しいですね、そう言い残し私は席を立った。彼女の失礼な物言いに腹を立てたからではない。むしろ、彼女の優しさを再認識できた。そんな優しい彼女が欲しいもの、願っていることを叶えるために、部屋から出たのだ。一つは誰か友人を連れてきてほしいということ、そしてもう一つは、私に去ってほしい、ということだった。

 

 いいニュースはこれで終わりだ。きっと、これで地底に蔓延していた不安感は和らぐだろうし、ヤマメの友人――ほとんどの地底の住民たちともいえる――は喜ぶだろう。そう思っていた。だが、ここで悪いニュースを告げられることとなるのだ。

 

 ヤマメのために地霊殿に連れてきたのは星熊だった。とくに理由はない。強いていうのであれば、彼女と会うことが容易だったからだろうか。ヤマメが怪我をして以来、キスメをはじめとする妖怪と中々会わなくなっていた。ヤマメの大けがに傷心しているのか、それとも私に一人で会いたくないのか。きっと両方だろう。そんな中、いつもと変わらず旧都にいた星熊は、すぐに見つけることができた。

 

 そんな鬼らしい豪快な精神を持った星熊が、応接間で佇んでいる私に悪いニュースを告げた。

 

「ヤマメ、誰かにやられたらしいぞ」

 

 やられた、という曖昧な言葉では、何を指しているか分からなかったが、彼女の心に渦巻いている怒りを考慮すれば、考えるまでもなかった。つまりは、ヤマメは何者かによって大怪我を負わされた、もしくは負う羽目になった、ということらしい。

 

「許せませんか」

「当たり前だ!」

 

 星熊は顔を赤くした。鼻の穴を膨らまし、これでもかと眉間にしわを寄せている。そのまま、太くて強靭な腕で私の胸元を掴み上げた。気管が詰まり、息が苦しい。死ぬ! 死んじゃう! と叫んでも良かったが、そうするとさらに怒りが爆発する気がした。

 

「正々堂々と喧嘩をしたのだったら良かった。正面立って、拳で語り合うのなら良かった! だが、だがなぁ、闇討ちは、不意打ちは駄目だ。駄目なんだ。分かるだろう? さとり妖怪のお前なら。強者のお前ならよぉ!」

 

 分かるわけないじゃないですか。そう小さく呟いてしまったのは、日頃のストレスのせいか、口が緩んでいるのか。いずれにせよ、しまったと思った時にはもう遅く、星熊の手に加わる力が強くなった。長い金髪は逆立ち、額の角がいつもよりも大きく見える。“そうだよな。お前はそういう陰湿なことが大好きだったな!”と心で糾弾してくる。

 

「落ち着いてください。争いは何も生みません」

「これが落ち着いてられるかってんだ! お前はなんでそんなに落ち着いてられるんだよ。仲間が下衆にやられたんだぞ。許されるわけないだろ!」

 

 彼女は拳を振り上げた。きっと、あの拳が振り下ろされるときは、私の命が終わるときなのだろう。内心、冷や汗が止まらない。助けてー! 誰かー! とずっと心の内で叫んでいた。その拳は絶対に振り下ろされることはない、そう分かっていても怖いものは怖かった。

 

 そのまま星熊はしばらく硬直していた。歯が割れてしまわないか不安になるくらい食いしばり、眉間の皺は奈落のように深い。けれども、その拳を振り下ろそうとはしなかった。

 

「……落ち着きましたか?」

 

 ピクリと眉を動かした星熊は、大きく息を吐いた。怒りを、虚しさを全て孕んだその息は熱く、重かった。

 

「ああ、すまなかった」

 

 拳をひき、胸倉を掴んでいた手を離した。きまり悪そうに鼻の頭を掻いている。

 

「ずるいなぁ、古明地は。やっぱり性格悪いよ」

「そうですか?」

「そうだな。紫ぐらい悪いな」

「心外すぎる!」

 

 思わず叫んでしまった私を見て、星熊は苦笑いを浮かべていた。そこまで言わなくても、と紫を憐れんでいる。

 

 鬼。妖怪の中でもトップクラスの実力を誇る彼らは、強靭な肉体と桁外れの力を持っている。それは性格にも表れていて、真剣勝負を好み、陰湿な戦いを嫌う。忠義に厚く、仲間思いで、敵には一切の容赦がない。そんな連中だ。

 

 その中でも星熊は、鬼の中の鬼。四天王のうちの一人だ。性格も鬼を突き詰めたようなもので、仲間が理不尽に半殺しに遭ったとすれば、怒り狂ってもおかしくはない。だが、義に厚い彼女は、決して理由なく、一方的に仲間をいたぶったりはしないのだ。例えその仲間がどんなに気に入らなかったとしても。

 

「それで? ヤマメは何て言ってたんですか?」

「何てって言われてもなぁ」

 

 彼女はヤマメとの会話を思い出していった。体の調子の確認、地底の状況、昨日酒を飲み過ぎて橋姫に怒られたこと、様々な会話をしていたようだ。だが、肝心のヤマメがケガをした原因についての記憶は、僅かしかなかった。

 

「なんかよ、竪穴の警備をしていたら、突然糸が。ああ、あいつは土蜘蛛だから、竪穴のてっぺんに糸をくっつけて、ぶら下がって警護してたみたいなんだが、その糸がいきなり切れたらしいんだ」

「へえ」

「んで、気がついたら地霊殿のベットにいたらしい」

「それだけなら別に誰かにやられたとは決まらないんじゃないですか?」

 

 実際には、私はそんな甘い考えをしていたわけではなかった。ただ単純に、そうだったら良かったのに、と希望を捨てたくなかっただけだ。

 

「よくよく考えろ。土蜘蛛の糸なんて、自然に切れるものじゃない。誰かが切ろうとしなけりゃまず不可能だよ。それに、いくら竪穴が深いからといって、妖怪のヤマメがあそこまで怪我をするとは思えない。というか、普通だったら途中で飛ぶしな」

「そうですね」

「ってか、お前なら心を読めばそんなこと分かるじゃないか」

「そうですね」

 

 性格が悪い、と大声で笑う星熊を他所に、私は想像以上にまずい事態に肝を冷やしていた。正直、先程の星熊の話はほとんど耳を通り過ぎていて、こうして日記につけている内容もほとんど憶測だ。

 

 まずい。何がまずいか。全てだ。全てがまずい。もしも、今回の事件を起こした犯人が外部犯、つまり地上の存在だったら。これは一番駄目だ。ただですら私の言うことなんて聞く気がない連中ばかりなのだ。地上に明確な敵ができた場合、カチコミに行く可能性が高い。そうなった場合、私が八雲紫に殺される。境界で首をちょんぱされてしまう。嫌だ。彼女にはまだ餡蜜を奢ってもらうという約束があるのだ。その前に殺されるのは御免だ。

 

 だとすれば、地底の誰かがやったということにしなければならないし、事実そうであろう。地上からの侵入者なんて、私が地底に降りてから一度も起こっていない。ということは、星熊にとってみれば、仲間の内の誰かが裏切ったということになる。その事実に彼女は気づいているのだろうか。いや、確実に気がついていない。

 

「でも、ヤマメが無事で何よりです」

「無事ねぇ」

 首を捻りながら、星熊は立ち上がった。

「あれが無事に見えるかい?」

 

 広い応接間の壁をなぞるように歩いていく。他に聞き耳を立てている奴がいないか、確認しているのだ。

 

「ヤマメは深い傷を負った。そうだろう?」

「見たところ、もう完治していましたが」

「馬鹿だな。お前の第三の目は何を見ているんだ」

 責めるように、私の目を指さした。

「妖怪ってのはな、身体は丈夫だが精神は脆いんだよ。だからみなお前を恐れるんだ。ヤマメの精神はもうボロボロだよ。そりゃそうだろ? 地底に来て、そうそうこんな目にあったんだから」

「まあ、そうですね。あなたに精神が脆いと言われても、何とも言えませんが」

「分かってないなあ」

 

 いつも橋姫が見せるような自嘲的な笑みを浮かべた星熊は、軽く頭を叩いた。鈍い音が応接間に響き渡る。

 

「もし私が本当に図太かったら、地底になんて来ないさ」

「確かに」

 

 大きく息を吸い、思いっきり吐く。心なしか体が重い。私は弱小妖怪だ。確かに心は読めるが、逆にいえばそれしかできない。そんな私に期待をしないでくれ、と大声で叫びたかった。そんな無理難題を突き付けないでくれ、と。

 

「だからよ」

 

 気づけば、私の隣に来ていた星熊が私の肩を掴んだ。無意識に力が入っているのだろう。肩が潰れそうなほど痛い。

 

「犯人さがし、頼んだぞ」

 

 また今度、美味しい物を奢って下さいね。そんな事しか口に出すことができなかった。

 

 

 

 去っていく星熊の背中を見ながら、私はとある決意をしていた。真面目に犯人を捜そう、と思ったのではない。むしろ逆だ。こんな面倒で難しいことを私が解決できる訳ないのだ。だったら、どうするか。八雲紫に押し付ける。それしかなかった。

 

「あんまり紫さんに頼りきりじゃだめだよー」

「……いつからいたのですか?」

 

 最初から、と彼女は悪びれずに言った。星熊があんなにも警戒していたにも関わらず、どうして気がつかなかったのだろうか。それよりも、心を読める私ですら気がつかなかったのは、異常だ。

 

 私と色違いの第三の目をくるくる回しながら、彼女は「これからどうするの?」と気軽に尋ねてきた。その無邪気で可愛らしい姿に、張り詰めていた頬が緩む。

 

「とりあえず、ヤマメの部屋にペットを連れ込みましょう」

「どうして?」

「え、ペットと遊ぶのは楽しいじゃないですか」

 

 癒しですよ癒し、と指をふって説明するも、彼女は不満げに顔をしかめるだけだった。何か間違っただろうか。

 

「仕方ないですね。でしたら、私の秘蔵の甘味を分けてあげましょう。みたらし団子がちょうど3本あったはずです。きっとそれで元気になります」

「馬鹿じゃん」

 

 半目の三つの目が私を睨んでいた。“私がいないと本当に駄目なんだから”といつもの言葉が聞こえる。どうやらまた私は呆れられているようだ。

 

「そんなんで元気になるのは、頭がからっぽな奴だけだよ」

「それは遠まわしに私の頭が空っぽだといってるんですか?」

「違うよ」

 彼女はぶんぶんと首を振った。

「遠まわしじゃなくて直接そう言ってるの」

 

 いつからこんなに辛辣なことを言う子になってしまったのだろうか。これが噂に聞く反抗期なのだな、と一人でうんうんと頷いていると、第三の目を思い切りはたかれた。痛いという言葉ですら生易しいような、激烈な刺激が襲う。

 

「ちょっ、まって、流石に家庭内暴力は受け入れられない」

「それほど変な事を言うからだよ。今のはきっと仏でも怒ったね」

「三回までなら大丈夫なんじゃないんですか?」

「私は仏じゃないから」

 なるほど、その通りだ。その通りだが納得いかない。

 

「心をよめるのに、どうしてそうも人の心に鈍感なのかな」

「妖怪の心じゃなくて?」

 当然のように、私の言葉は無視される。

「ヤマメは今疑心暗鬼に陥っているの。新しい環境で誰かに攻撃されたとしたら、そうなるでしょ? だから、早く犯人を見つけることが大事なの」

「なるほど」

「だから犯人を捜そう!」

 

 推理ショーの始まりでーす! とびしりと人差し指を私に向けた。彼女の心には、ただ一つの感情しかない。“面白そう”。ただそれだけの理由で彼女は私の第三の目を殴ったのだ。きっと、八雲紫が持ってきた推理小説かなんかに影響されたのだろう。つまり、八雲紫が悪い。

 

「そもそも、私たちだったら犯人に会えば分かるじゃないですか」

「なんで?」

「なんでって、心がよめるから」

「でも、多分会えないんじゃないかな? 私が犯人だったら絶対にさとり妖怪には会わないようにする」

「だったら、見かけない奴が犯人ですよ」

「そう上手くはいかないと思うなー」

 可愛らしく首を傾げ、ぴょんと踊るように私の前に跳んだ彼女は気味の悪い笑みを浮かべた。

 

 “だって、犯人以外の奴らからもさとり妖怪は避けられてるでしょ?”

 ぐうの音も出すことはできなかった。

 

 結局、姉妹揃って明日から犯人さがしを行うことになってしまった。まるで幼子のように目を輝かせていた彼女を前に、断りきることができなかったのだ。決して、餡蜜を買ってきてあげるよ、という言葉につられたわけではない。

 

 だが、そう上手くいくとは思えない。いや、むしろ上手くいってしまっては困る。やっぱり、八雲紫に頼るしかないだろう。仕方がないが、煎餅でも出しておいてやるか。

 

 大声で、霊烏路空に煎餅を持ってくるように頼む。すると、「食事前にお菓子は駄目ですよー」とこれまた大声で返ってきた。いったい私はペットにどう思われているのだろうか。これから心を読んで確かめてこようと思う。ただ、どんな結果でも怒ったりしないとここに誓おう。だって、仏の顔が三つあるように、私の目も三つあるのだから。

 




何だかんだいって、心のどこかでは八雲紫を信頼しているのですかね


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第119季3月1日—意外に悩んでたり、いや、意外ではないですか―

 第119季3月1日

 

 山椒魚は悲しんだ。最近流行っている文芸作品の冒頭にこんな書き出しがあった。内容は知らない。ただ、のっぺりとして悩みがなさそうに見える山椒魚ですら悲しむことがあるのだとすれば、毎日つらい仕事に精神をすり減らし、まさに地獄の日々を送っている私が、悲しみのあまり大声で泣いても何の問題もないのではないか。そんなことを考えた私は、思いの丈を鬼畜な八雲紫にぶつけた。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、かすれる声でそう言ったのだ。

 

「確かに、あなたの苦労は分からなくもないけど」

 我が物顔で地霊殿のソファに座っている八雲紫は眉を下げた。

「だけど、みたらし団子を地面に落としたからって、そこまで泣かなくても」

 

 この地底の暑さを地上に分けてほしいわね、と寝そべるようにしてくつろいでいる彼女に対し、すぐさま口を開こうとしたが、涙のせいで言葉が詰まった。ひっく、と情けない声しか出ない。小さく深呼吸をして、震える喉を精一杯に開いた。

 

「だって、楽しみにしてたんです」

「……そう」

「地底では中々手に入らないんです」

「そうみたいね」

「唯一の癒しだったんです」

 

 深く考えるとまた涙が浮かびそうだったので、小さく首をふって頭から悲しみを追い出す。だが、それでも胸を締め付けるような感覚は消えない。

 

 そんな情けない私を見かねたのか、八雲紫は小さく息を吐くと、いつものように扇子を口元で広げた。

 

「二つほど、いいことを教えてあげましょう」

 声に出さず、小さく頷く。

「一つ、山椒魚は肉食の両生類で、川の中にいる魚を食べて生活しているわ。ただ、食欲旺盛でね。共食いをすることも少なくないらしいわよ。つまり、山椒魚は決して『のっぺりとして悩みがない』わけではない」

 

 彼女がいったい何を言おうとしているのか、分からない。ただ、励ましてくれる気はないということは確かだった。

 

「二つ、『山椒魚は悲しんだ』で始まる井伏鱒二の小説は、岩穴に入って出られなくなった山椒魚が、ストレス発散にその岩穴に入ってきた蛙を閉じ込めるって話なのだけれど」

「まるで私たちみたいですね。地底に閉じ込められた哀れな蛙が私で、意地悪な山椒魚はあなた」

「私は出られるけどね。むしろ地底の連中からしたらあなたが山椒魚よ」

 確かに、と納得してしまった。

 

「ともかく、その小説の終わりでね、空腹で死にそうな蛙に山椒魚がこう問いかけるのよ。『お前は今何を考えているんだ』ってね」

「へぇ」

 その話は私のみたらし団子に関係があるのか、と訊ねたくなる。

「それで蛙はこう答えるの。『今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ』と」

「いい話じゃないですか」

 

 いま地底において最も足りていない寛容の心をその蛙は持っていたのだ。やっぱり、何でもかんでも喧嘩で解決してしまうのは良くない。特に私が巻き込まれやすいという点が駄目だ。

 

「でもね、20年くらい前に結末が改正されて」

「ほう」

「その部分がまるごと消されたの」

「え」

 それでは改正じゃなくて改悪じゃないか。

 

「つまりね。最初は和解したはずの蛙と山椒魚は、結局和解できないことになったのよ。どう? 残酷だと思わない?」

「思いますけど、それと私のみたらし団子はどう関係するんですか?」

「関係ないわよ。ただ、私が言いたかったのは」

 パチンと音と共に扇子が閉じられる。その奥にあった彼女の頬は吊り上がっていた。

「あなたと一緒にされた山椒魚が可哀想ってことよ」

 私はまた大声で泣きたくなった。

 

 

「それで? あなたが私を呼び出すなんて、なにか問題でも起きたの?」

 一通り私をいじめ終わって満足したのか、表情を引き締めた彼女は背筋を伸ばした。その不敵な笑みはそのままに、白い手袋を軽くさすっている。熟考している時の彼女の癖だ。

 

 頬を軽く叩き、涙を引っ込める。真剣な彼女の前では、不思議とこちらの気も引き締まった。

 

「この前、新入りの土蜘蛛が何者かに襲われまして、地底中がその犯人さがしに躍起になっているんですよ」

「それは……面倒ね」

 

 これだから地底の連中は、と声を低くして唸っている。どこか飄々としている彼女にしては珍しく、なかなか結論を出さないでいた。

 

 仲間が襲われた、だから犯人を捜す。もしかすると、それは当然のことなのかもしれない。だが、地底においてそれは非常事態と言ってもいい。喧嘩が多い地底だが、それはあくまでも喧嘩。お互いがお互いを拳で語り合う。それは基本的には一対一で、たまにグループ同士で、ごくまれに星熊勇儀対大勢で行われているが、それは問題ない。なぜなら、実力が拮抗しているからだ。酷いけがを負うことはあるが、そこから恨みつらみをもって、敵対することはない。むしろ、清々しい顔で一緒に酒を飲みあっている。それが地底と言う場所での常識だ。

 

 だが、喧嘩ではなく、今回のように一方的に相手を襲った場合、仲間たちは犯人をどうするか。反省するまで叱りつけるか、二度とそんなことをできないように痛めつけるか。

 

 違う。殺す。

 

 奴らは確実に犯人を殺す。鬼を筆頭に、身体が残らないくらいにまで徹底的に殺す。それはあの星熊勇儀でも例外ではない。だから緊急事態なのだ。もし、犯人が悪党だったら問題ない。もっといえば、私と関わり合いがない奴だったらいい。殺されても自業自得だ。だが、もし私の知人だったら? 私のペットだったら? そう思うと、恐怖で足がすくんだ。

 

「どうしたもんかねぇ」

「地上の誰かを犯人ってことにして連れてくるってのはどうでしょうか」

「却下。鬼にそんな嘘は通用しないわ」

 

 見下すように、ため息をつかれる。そんなんだからペットに馬鹿にされるのよ、と鼻を鳴らした。私は正直にいえば、ペットたちに馬鹿にされているとは思いもしなかったから、え、そうなの、と声を出しそうになったが、ますます白い目で見られそうだったので、代わりに恨み言を呟くことにした。

 

「なら、何か意見を出して下さいよ」

 

 私の言葉を聞いた途端、露骨に嫌な顔をした彼女だったが、すぐに表情を緩ませた。そうねぇ、と目を細くし、面白い玩具をみつけた子供のようにニタニタと笑っている。気味が悪い。

 

「あなたが犯人と名乗り出れば鬼も納得するんじゃないかしら?」

「冗談じゃない」

「あら、結構いい案だと思うのに。犯行方法も面白い物だったら、より信用されるかも」

 事実、本当に納得されそうで恐ろしかった。むしろ、その光景が頭の中にありありと浮かぶ。

「やっぱり、なんとか風化させなければなりませんね」嫌な想像を遮るように私は言った。

 

 それができたら苦労しないわよ、と顔をしかめた彼女は、机の上に置いてあった煎餅をつまんだ。手袋を付けたままでいいのかと問いかけると、気まずそうに咳ばらいをし、伸ばしていた手を引っ込めた。心なしか頬が赤くなっているように見える。きっと、気のせいではないだろう。

 

「ゆかりんも意外とかわいいとこあるんだねー」 

 

 突然うしろから声が聞こえ、驚きのあまり素っ頓狂な叫び声を上げてしまう。いくら聞き慣れた声と言っても、真後ろでいきなり声がすれば誰だって腰を抜かす。が、さっきの煎餅の意趣返しなのか、八雲紫は嫌味に笑い、パタパタと私に向かって扇子をふっていた。うざい。

 

「そんなに驚かなくてもいいじゃん」

「いや、急に出てきたら驚きますよ」

「心が読めるなら気配にぐらい気づいてよ」

 

 そんな無茶な、と私は笑う。四六時中聞き耳を立てていられないように、つねに心をよんでいられるわけではないのだ。目の前の優秀な誰かさんとは違って。

「というか、二人ともさー」

 

 えい、っとジャンプして私たちの間にある机に飛び乗った彼女は、その場でバレリーナのように体をくねくねとよじっている。

 

「どうして犯人を捕まえようって発想にならないのかなー。それで万事解決じゃん」

「そうですか?」

「犯人を見つけて、懲らしめて、終わり! たったの三手順だよ」

 

 確かに、大抵の推理小説では、犯人を見つけて、懲らしめて、終わる。だが、現実ではそんなにうまくことが運ぶだろうか? 

 

「しごく単純な意見だけれど、それ以外手がないのも事実。鬼たちに懲らしめられて無事でいられるかは分からないけど、その犯人には犠牲になってもらおうかしら」

 

 ゆっくりと、重い腰を引き上げるようにして立ち上がった八雲紫は、これしかないといわんばかりに拳を叩いた。

 

「分かるんですか、犯人」

「あら、それを見つけるのはあなたの仕事でしょ」

「私は探偵になったつもりはありませんが」

「あなた如きに探偵は無理よ。せいぜい山椒魚くらいね」

「もう訳が分からないです」

 

 ふふっと不敵に笑った八雲紫は、それでは行きますか、とおもむろに境界を私の目の前に作り出した。また、素っ頓狂な声をあげて、大きく尻もちをついてしまう。くすくすと馬鹿にするような笑い声が部屋を包む。誤魔化す様に煎餅をかじり、どこに行くんですか? と話題を逸らす。“分かりやすいなー”と心を突かれるが、気にしない。

 

「そう、ね。やっぱり竪穴に行かないといけないかしら」

「事件は現場で起きてるんだね!」不思議なことを彼女は愉しそうに言った。

「いま、なんて? 事件が起こった場所を現場と呼ぶのではないですか?」

 

 分かってないなあ、と呟いた彼女は現場百回! と叫んだかと思うと八雲紫がつくった境界に飛び込んでいった。止める暇すらなかった。

 

「ほら、あなたも行くわよ」

「行かなきゃ駄目ですか」

「いつから引きこもりになったの?」

 

 呆れるように肩をすくめている八雲紫から目を逸らし、応接間の天井に目をやる。豪華なシャンデリアが部屋を照らしているが、そのガス灯を束ねている煌びやかな姿が小さく見えるほど、天井は高い。ペットのキリンですら余裕で入れる。まさしく夢のマイホーム。折角こんないい場所に住んでいるのだ。わざわざ外に出る必要はない。だが、時々思うのだ。もう遥か昔のことのように思えるが、地上で姉妹二人で怯えながら体を寄せ合って寝たあの洞穴のことを。そして、あの辛い日々が時々たまらなく愛おしく感じる時がある。だからこそ、私はここから出たくない。竪穴に行ってしまったら、ここに帰ってきたくなくなってしまいそうだったから。

 

 みたらし団子の件で涙を流したからか、そんなナイーブなことを考えていた。しかも、後で訊いた話では声に出ていたらしく、ばっちり八雲紫に聞かれていたらしい。死にたい。だが、そんな私の思いを知っていたにも関わらず、楽しげに笑った八雲紫は、私の前に扇子を突き出した。顔から血の気が引いていくのが分かる。心はよめなくても、彼女が何を考えているのかは一目瞭然だった。

 

「一名様ごあんなーい、ってね」

 

 お茶目な声が聞こえた途端、私の足元に境界が生まれ、ストンとそのまま落ちていく。ああ、結局私は彼女には逆らえないのだな、と改めて認識させられる。仮に私が山椒魚なら彼女は一体なんなのだろうか。きっと、洞穴自体が彼女に違いない。この洞穴ババアー! と叫んだ声は、むなしく虚空へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

「やっぱり、現場に行ったからといって犯人が分かるわけじゃないんだね」

 

 辺りの壁をつつきながら、うーんと可愛らしく首を傾げた彼女は、悩ましげに帽子をいじくった。

 

 結局、私たちはヤマメが落ちてきた竪穴を調べることにした。とはいうものの、推理小説のようにポンポンと証拠が見つかる訳でもなく、美術館を巡るように、ゆっくりと竪穴を昇っているだけだ。こんなことをして意味があるのだろうか。まだ地霊殿でペットの背中を撫でている方が有意義だ。

 

 竪穴の様子は前来た時と、つまりヤマメが落下してきた時と大して違いはなかった。無愛想でゴツゴツしている焦げ茶色の岩壁は、時々私たちを牽制するかのように鍾乳石を突き出している。だが、飛行の妨害となるほどのものではなかった。実際に邪魔になりそうなものは既に折られている。きっとキスメかヤマメがあらかじめ折ったのだろう。

 

 ゆっくりと上を見上げる。いつの間にか二人とは距離ができていて、暗さのせいか姿を捉えきれなくなっていた。慌てて追いかける。あの日みたいに霧が出ていたら、きっと彼女たちの姿を見失っていただろう。不幸中の幸いだ。

 待ってくださいよ、と叫びながら彼女たちの背中を追うが、一向に近づく気配がなかった。

 

「遅いと置いてくからー」とすでに置いて行っているにも関わらず、のうのうと言ってくる。そんなにはやく進んでしまったら、証拠に気が付かないのではないか、と考え、なんか文句を言われたらそう説明しようと心に決めて、追いかけるのを諦めた。私の体力の無さは筋金入りなのだ。

 

 八雲紫からの攻撃を避けられたのは偶然だった。突然こちらに振り返った彼女は、「諦めは人を殺すわよ」と微笑み、無数の光の玉を私めがけて放ってきたのだ。いくらあの八雲紫でもそんな突拍子もないことをするとは思わなかったので、反応が遅れた。不規則に、猛スピードで迫ってくるそれらを目で追うことはできず、発作的に八雲紫から距離をとろうとする。しかし、それよりもはやく七色の弾幕が迫ってきて、みるみる距離が縮まっていった。視界が光に包まれる中、壁から飛び出した鍾乳石が目につき、必死にその影に飛び込んだ。爆風と凄まじい音が竪穴中に木霊する。埃が巻き上げられ、ケホケホと咳き込む。どうやら光弾は追尾性のものではないらしく、そのまま穴の奥底へと消えていくものと、鍾乳石にぶつかって消えるものだけで、私に直撃するものは無かった。

 

「あら、まさか避けられるとは思わなかったわ」私を見下しながら、八雲紫は楽しそうに言った。

「ちょっと、死ぬかと思いましたよ!」

「あなたがノロマだからよ。歩みの遅い奴は殺していい、って常識でしょ?」

「そんな常識があってたまるもんですか」

 

 子供の様に地団太を踏んで、このやり場のない怒りをぶつけようとしたが、残念なことにここは空中だったので、代わりに思い切り鍾乳石を蹴り飛ばした。鈍い音が響き、私の足に鋭い痛みが走る。あまりの痛みに、折れました! 骨も心も! と叫んでしまった。そのまま鍾乳石の上でうずくまる私を見て、上空の二人は呆れたのか、哀れに思ったのか、ゆっくりとこちらに降りてきた。その目は理不尽に半分閉じられており、睨むような、さげすむような、とりあえず私を不安にさせるような目つきだった。

 

「何やってんの。馬鹿じゃないの」

 

 姉妹として恥ずかしいんだけどー、と反抗期の娘のように訴えてくる。妖怪に反抗期があるとは思いもしなかったが、悲しみよりも彼女の成長に対する喜びの方が僅かに勝った。が、八雲紫の「遊んでないで、早く行くわよ」という一言で、私の心はまた奈落へと落ちていく。天秤の右側にピンセットで慎重に喜びを積み上げていき、やっとのことで左側の悲しみの分銅と釣り合ったかと思ったのに、そんなもの知らないとばかりに左側の皿を両手で押し込まれた気分だ。遊んでなんかないし、いきなり殺そうとしてきたあなたが悪い。そもそも竪穴なんかで推理ごっこをしたところで意味はないんじゃないか。そう言いたかったが、残念なことに足りなかった。何がか。勇気だ。

 

「山椒魚には勇気が足りないんです」

「何いってんの。馬鹿じゃないの」

 今度の反抗期の言葉は、心の天秤の右側ではなく、左側に乗っかってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「ここより上に出ると、地上になってしまいますよ」

「そうね。そろそろ降りましょうか」悪びれもせず、八雲紫は笑った。

 

 結局竪穴を昇っていったところで、たいしたものは見つからなかった。それはそうだ。もしあったとしても私なんかでは到底見つかりそうにないし、他の二人は実のところ真面目に探してすらいなかった。現に、反抗期となった古明地家の問題児は、「地上の風って冷たいんだったけ?」と無邪気に地上へと続く穴を見上げている。日光が差し込んでいるのか、僅かな光が辺りを照らしているが、それもか細いもので、暗闇といって差し支えのないほどだった。にも関わらず、私は思わず目の前に手をかざした。地上の光、太陽の光を見てしまったら、何かが壊れる気がしたのだ。どこかの西洋妖怪のように体が灰になるわけではないが、自分を構成する何かが、音もなく崩れていくような、そんな嫌な予感がした。

 

「地上までけっこう距離があるのに、こんなに風って吹いてくるもんなんですか?」その風が私の嫌な気分まで吹き飛ばしてくれれば良かったのに、そこまで風は優秀では無かった。

 

「普段はそんなこと無いわよ」八雲紫は困るわぁ、と微笑んだ。元気すぎる孫に手を焼くおばあちゃんのように、優しく、柔らかに眉を下げる。

「今は特別に寒気が強くて吹雪が収まらないのよ。きっと、桶屋は大儲けしてるわね」

「風が吹いたら桶屋が儲かる?」

 

 八雲紫らしい、面白くもない洒落だ。肌寒いのは、風のせいだけではない。風邪をひいてしまう前に、早く帰りましょうと踵を返した時、あっ、と叫ぶ声が聞こえた。私と八雲紫は顔を見合わせる。何かに気がついたのか、問題児は既に問題を起こすのではなく、答える方にまわっていた。気のせいか、頭の上に豆電球が浮き出て、ピカンと光ったかのように見えた。

 

「そういえば、見当たらないじゃん!」

「見当たらないって、何がですか?」

「彼女だよ! 前はいたのに」

 

 彼女とは誰のことだろうかと考え、すぐに思い至った。いるはずの彼女の姿がない。竪穴は地上と繋がっている。この一点のみ警戒すべきことではあるが、むしろその一点があまりにも恐ろしい。そんな場所を一通り見て回って、無人であるはずがないのだ。竪穴の管理を任せている、桶に入った臆病で凶暴な少女。恐るべき井戸の怪こと、キスメの姿がないのだ。

 

「そういえば、ヤマメの見舞いにもキスメは姿を見せていなかったですね」てっきり、竪穴に籠っていると思っていたが、違ったようだ。

「ん? ああ、そうだったかもねー」小さく首を捻って、“急にどうしたの?”と訝しんできた。自分が言い出したことだろうに、どうして困惑しているのだろうか。他の誰かのことを考えていたの? と心で訊ねるも、“知らなーい”と返ってくるだけだった。興味を失くしたのだ。

 

「竪穴にいないなら、キスメは一体どこに行ってしまったんでしょうか」

「キスメって、あのつるべ落としの? たしか土蜘蛛の子と仲がいいとかいう」

「ええ、そうです」

「その子が姿を見せないの?」

「ええ、そうです」

 

 鼻で笑った八雲紫はあなたねぇ、と語尾を強めた。嫁をいびる姑のようだなぁ、とどこか他人事のように考えていたが、肩を掴まれ、目を強引に合わせられる。

 

「その子、無茶苦茶怪しいじゃない。どうして早く言わないのよ」

「そんなこと言われましても」

「早く探しましょう」

 

 そもそも犯人を捜す気なんてなかったんですから、そんな私の戯言は、いざ、犯人さがしへ! という勇ましい声にかき消されてしまった。

 

 昇る時よりもさらに速く私たちは竪穴を下っていた。そんなに急ぐと途中でキスメがいても気がつかないんじゃないか、と思ったが、八雲紫がそんなへまをするのも想像できなかった。できれば昇りの時も同じくらい集中して辺りを見渡してもらいたかったが。

 

 下から、生暖かい湿った向かい風が頬を撫でる。辺りが暗いせいで、自分がどのくらい降りてきたか、分からない。時間的にはもうそろそろかな、と思ったところで、少しずつ地面が見えてきた。見えてきて、驚いた。昇る時にはぶっきらぼうなくらいに平坦だったそれは、みるも無残に掘り起こされていたのだ。綺麗に円状にくぼみができていて、その中心からは僅かに煙があがっている。何かが高速で思いっきり地面に突っ込んできたかのような、そんなくぼみだ。

 

「これ、あなたの光弾のせいではないですか?」

「そうみたいね」

 

 あっけらかんと言い放った八雲紫を殴らなかったのは、奇跡に近い。何がそうみたいね、なのか。地面がえぐれるほどの弾を私に打ち込もうとしていたのだ。確実に息の根を止めにかかっているとしか思えない。もし避けられなかったら彼女はどう責任を取るつもりだったのだろうか。

 

「でも、私はあなたが避けられると信じていたわよ」

「よく避けられたわね、とか言ってませんでしたっけ」

「覚えてないわ」

 

 私の心をさとり妖怪でも無いのに読み取ったのか、彼女は適当なことを嘯いた。もういっそのこと、犯人は八雲紫です! と発表してしまった方が、気が楽になりそうだ。

 

 意図的に八雲紫と目を逸らし、大きくへこみ、ひび割れてしまった地面に足を下ろす。焦げ臭いにおいが鼻につき、自然と眉にしわが寄る。何かが燃えたような、息苦しい匂いだ。

 

「あれ、なにかしらね」

 

 いつの間にか私の後ろにいた八雲紫が扇子を突き出していた。彼女に従うのは癪だったが、大妖怪の雰囲気にのまれたのか、勝手に視線が動いてしまう。八雲紫が差していたのは、くぼみの中央付近、煙が漂っている場所だった。どうやら、この焦げ臭さはあの煙から発せられているようだ。

 

「あの煙がどうかしたのですか?」

「折角三つも目があるのに、あなたは何を見ているのかしら? その下よ、下」

 

 こいつはいちいち私を蔑まないと物を喋れないんじゃないか、と本気で不安になる。人を馬鹿にして喜ぶような奴が幻想郷の賢者なんてやってていいのだろうか。きっと、こいつの部下は随分と苦労しているに違いない。

 

 いやいやながら、煙の下へと足を進める。黒色と白色が混じった煙からは、顔を背けたくなるほどの異臭が、相変わらず漂っている。その発生源を確かめるべく目を凝らしながら近づいていくと、地面と同じ、茶色の物体が燃えているのが見えた。見えた瞬間、息が詰まる。匂いに堪えられなかったからではない。その煙の発生源があまりにも衝撃的過ぎて、呼吸をすることさえ忘れてしまったのだ。

 

「紫さん。あの、これ」

「ほら、私の言った通りじゃない」得意げに八雲紫は笑った。

「風が吹けば桶屋が儲かるのよ」

 

 パチパチと音を立てて燃える桶を見ながら、私は呆然とするしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これ、キスメの桶ですね」

 

 ところどころ黒く炭化している桶を見おろしながら、私の頭には一抹の不安が浮かんだ。もしかすると、八雲紫の光弾によってキスメが死んでしまったんじゃないか。それこそ体が消滅してしまうほどに。一度そう考えてしまうと、どんどんとその想像が膨らんでいき、背筋を凍らせる。ああ、もしそれが本当なら、地底と地上で戦争になってしまうかもしれないな。私は何処かへ逃げようかな。そんなことを考えていると、「キスメは死んでいないよー」と間の抜けた声が聞こえてきた。大きな帽子を揺らしながら、スキップをして私の肩に手を置く。

 

「普通に考えて、桶が残ってるのにキスメだけ吹き飛ぶことなんてありえないでしょ。多分、地面に埋まってたのがゆかりんの光弾で掘り起こされたんだよ。よく見ると湿った土がついてるし」

 

 もう一度、桶をしっかりと見つめる。確かに、所々に濃い色の、牛のフンのような土がついていた。

 

「でも、なんでキスメの桶が地面に埋まってたんでしょう?」

「そんなの簡単だよ!」

 勢いよく私にむけてビシリと指を突き出した。あまりに鋭い動きに、てっきり目を突かれると思った私は、おののき、顔の前に手を突き出してしまう。

「証拠隠滅って知ってる? キスメはこの桶が証拠になるから隠したかったんだよ!」

「証拠?」

「そう。ヤマメを殺した証拠を、性懲りもなく隠したのさ!」

 

 どうしてそんな気取った言い方なのか、そもそもヤマメは死んでいない、というかその駄洒落は八雲紫並みだからやめて、と言いたいことは無数にあった。あったが、口にはしなかった。どうしてこれがヤマメを突き落した証拠になるのか、そっちの方が気がかりだ。

 

「えー、分からないの?」何も言っていないのに、彼女はいやらしく笑った。私の心をよんだのだ。

「ほら、もっとよく見てよ。桶の口のところ。何かついてるでしょ?」

 

 これでもかと顔を近づけて、桶を観察する。匂いが酷いが、気合で我慢する。恐る恐る、桶の口の辺りを手で触れた。ザラザラとした木の感触の他に、べちょりと粘り気があるものが手についた。咄嗟に手を引き、指先を見つめる。キラキラと輝く白い糸が爪についていた。

 

「蜘蛛の糸」

「そう! ヤマメの糸だよ」

 満足そうに頷いた彼女は、犯人は一人! と決め台詞なのか、よく分からないことを叫んだ。

「犯人はキスメで決まりだ!」

 

 

 頼むから、絶対に口外しないでくれ、と二人に頼み込み、桶を持ち帰った。八雲紫は当然よ、と微笑んでいたが、もう一人の探偵気取りは「えー、せっかく推理ショーしようと思ったのに」と口を尖らせた。なんとか、今度いっしょに遊びにいく、という約束で満足してもらい、とりあえずその場はしのぐことができた。

 

 正直、キスメが犯人と聞き、そんな馬鹿な、と思うよりも、やっぱりか、と思ってしまった。彼女が時々みせる凶暴性はつるべ落としとしての威厳をこれでもかと見せつけてくる。もしかすると、その本能が理性を凌駕し、発作的にやってしまったのかもしれない。

 

 ただ、これではっきりしたことがある。今回の事件は絶対に表に出してはいけない。正直、この日記に書こうか迷ったくらいだ。この秘密は墓まで、地獄まで持って帰ろう。どうか仏様、蜘蛛の糸を切ってしまった哀れな桶少女を救って下さい。

 そして、明日目が覚めて、犯人が知れ渡っているなんてことがありませんように。

 

 

 

 




地上に帰りたいのに帰れない。悲しいですね


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第119季3月20日—終わりの始まりだったのですね―

 第119季3月20日

 

 運命っていったい何だろうか。きっと、この質問をされたら、以前の私は笑ってしまう。何を生娘のようなことをいっているんだ。自分に酔っていて恥ずかしい。そのセリフはくさすぎる。まだドリアンの方がましだ。だってドリアンはおいしいけど、その質問は青臭いだけだから、と。だが、実際に今日この質問をされた時、私は何も言うことができなかった。真面目に返答をすることも、馬鹿なことだと嘲笑することも、ユーモアがありますねと笑い飛ばすこともできなかった。だが、いったい誰がそれを責められるだろうか。あの時の彼女に何か言葉をかけてやることができたら、誰かが救われただろうか。それはない。絶対に。なぜなら今回の件で救われなかったのは、おそらく私だけなのだろうから。

 

 奇しくも今日はヤマメが地霊殿を去る、いわば退院する日だった。寂しがるペット達に笑顔を振りまきながら、また来るから、と去っていく彼女の背中は、どこか小さく見える。いつものように扉の前で振り返り、ぺこりとお辞儀をしたヤマメの眉はハの字に下がっていた。心をよむまでもなく、キスメのことを考えているのだと分かる。どうしてお見舞いに来なかったのか、不安がっている。だが、それでもキスメを疑っているわけではなかった。

 

 "嫌われちゃったかな。仕事、ひとりで任せちゃって、申し訳ないな"

 

 頭の中で、なんて謝ろうか、お土産に菓子折りでも持っていこうかと考えているほどだ。お人好しにもほどがある。かえって怖いくらいだ。そんなに人を信用していると、いざ裏切られた時、取り返しがつかないくらい心に傷が刻まれるのではないか。そんな疑念が浮かんだ。そして、残念なことにそれは今日現実となってしまったのだ。

 

 ヤマメを見送った後、優雅に書斎でティータイムを嗜んでいたところ、地霊殿に招かれざる客が入ってきた。八雲紫でも、星熊勇儀でもない。もっといえば名前すら最早ない彼らが突然部屋に来たのだ。驚きのあまり紅茶をふき出しても、何もおかしくないだろう。そのせいでこの日記に染みができてしまったとしても。

 

 地霊殿にやって来たのは怨霊だった。死してなお、責め苦を受け続ける悪しき魂。そういうと少しかっこよく聞こえるが、要するに成仏すらできなかった悪人の成れの果てだ。そんな奴らが地霊殿にやって来たのは初めてだった。確かに地底では、旧地獄ということもあり、怨霊など見慣れたものなのかもしれないが、私はほとんど見かけたことがない。なぜか。嫌われているからだ。怨霊にすら嫌われるとなると、逆に誇ってもいいかもしれない。

 

 そんな怨霊が、地霊殿にやって来た。それも一匹二匹ではない。蟻が列をなすように大量に入ってきたのだ。壁をすり抜け、口が緩んだロケット風船のように天井をビュンビュンと飛び回っている。彼らの悲痛な心の叫びがきこえ、鬱陶しい。確か、怨霊の管理はお燐に一任していたはずだ。真面目な彼女が職務を放棄したとは思えないから、きっと何かしら事情があるのだろう。だからといって、これほどまでの怨霊が部屋にいては、たまったものではない。仕方がない。外に出るのは億劫だが、お燐に会いに行こう。そして主人らしく叱ってやるのだ。確か、猫のしつけには霧吹きが有効だと八雲紫が言っていた。火車に霧吹きが効くとは思わなかったが、念のため懐にしまう。

 

 椅子から立ち上がり、歩きはじめようとした瞬間、縦横無尽に飛び回っていた怨霊たちが動きを止めた。ピクリピクリと痙攣するように震え、一度大きくぷゆんと揺れたかと思えば、示し合わせたかのように、一斉に動き始めた。統率のとれた軍隊のように、きびきびとした動きで、私と扉との間から一瞬で離れる。まるで海を割るモーセになった気分だ。

「もしかして、怨霊も霧吹きが苦手なのでしょうか」

 そんな訳ないじゃん、と言われた気がした。

 

 

 

 

 

「緊急事態ですよ! 助けてください」

 

 やっとのことで見つけ出したお燐は、深刻な表情でそう叫んだ。地霊殿を出て、地底中を探し回っても、なかなか彼女は見つからず、結局いちばん最後に向かった旧都の入り口付近で見つけた。ひどく怯えている彼女は、体をこれでもかと丸め、小さくカタカタと震えていた。私を見つけるなり、“やっときてくれた!”と安堵のため息を吐いていたため、とりあえず何があったかを聞く前に、霧吹きを顔に吹き付けた。グミャ~、と変な叫び声を上げた彼女は、こんなことしている場合じゃないですよ! と憤慨し、私を責めた。どうやら八雲紫の情報は当てにならないらしい。

「いったい何があったんですか?」

「口で説明する時間もないので、はやく心を読んでください!」

 

 焦りながら、旧都の中心へと私を引っ張っていく彼女の心は恐怖に包まれていた。“やばい、キスメが殺される”としきりに悲鳴をあげている。つられて、私も悲鳴を上げたくなった。 

 

 キスメのことがばれてしまった! 

 

 なぜばれたか、キスメはまだ無事なのか、ヤマメにこの事実は知られてしまったのか。様々な疑問が頭の中を駆け巡る。恐れていた最悪の事態が起きてしまった。「どうしてもっとはやく伝えてくれないのよ!」お燐は悪くないと分かっていながら、つい責めるような口調になってしまう。

 

「すぐ助けを求めましたよ! この前の『助けの求め方講座』で教わったとおりに」

「はい?」

「この前、地霊殿でやってたんですよ。“面倒くさがりな人は普通に助けを求めても出てこないんだよね-。だったら、その人を困らせるようなことをすればいいんだよ”って」

「あの馬鹿!」

 

 口は災いの元という言葉をこれほど実感したことはなかった。これからは地霊殿でペットに講座を開くことを禁止しようと心に決める。結局不利益を被るのは、いつだって私なのだ。

 

 今後、怨霊を使って呼ぶのは禁止だ、とお燐に伝えると、「分かりました! ご主人様にしか使いません!」と返ってきた。何も分かっていないので、もう一度霧吹きを顔に吹き付ける。あと、そのご主人様も止めてほしい。きっと八雲紫に盛大に勘違いされる。

 

「何とか言ったらどうだ!」

 

 下らない会話は終わりとばかりに、旧都の奥から星熊の猛烈な叫び声が聞こえてきた。思わず、舌打ちしてしまう。よりによって星熊か。これは間違いなく骨が折れることだろう。もちろん、物理的にだ。

 

 声の方に向かっていくと、人だかりができているのが見えた。誰もが殺気立っているからか、心なしか彼らの上に白い湯気が漂っているように見える。正直、あれを仲裁にいくのは気が引けるが、やるしかない。腐っても、地霊殿の主なのだから。

 

「一体、何の騒ぎですか?」

 彼らの心を読み、私の声が頭に響く適切なタイミングで声を張った。少し裏返ってしまったが、きちんと彼らには伝わったようで、私に視線が集まる。

「おう、古明地じゃねぇか」

 遅かったな、とまるで甘味屋で待ち合わせをしていたかのような気軽さで、星熊は右手を挙げた。「もう始まってるぞ」

「始まってるって、何がです?」

「見たら分かるだろ。エンディングだよエンディング。犯人を見つけたんだ」

 

 星熊の後ろをのぞき込むと、一つの桶がぽつんと置いてあった。中でキスメが顔を青白くして震えている。第三の目を向けて、キスメの心をよんだ。よんで、すぐに目を背ける。そして後悔した。こんな事があっていいのだろうか、と絶望する。なるほど、真実はそういうことか、と頭では分かったものの、こんな現実は受け入れたくない、と心が叫んでいる。

 

「すこし、落ち着いてください。なんでキスメが犯人だと分かったんですか」

「なんでって、こいつが嘘を吐いたんだよ」

「嘘?」

「そうだ。ヤマメが怪我してから全然キスメを見なかったから、心配になって探したんだ。そしたら井戸ん中に隠れててよ。なんでそんな所に隠れてんのか、もしかしてヤマメについてやましいことでもあんのかって聞いたんだよ。そしたら」

「あ、心をよんだんでもういいです」

 あー、そうかい。と抑揚のない声で星熊は言った。

 

 キスメは嘘を吐いた。確かにそれは事実だ。そしてキスメがヤマメに負い目がある。これも事実だ。でも、だからといって彼女が袋叩きにあってもいいか。答えは決まっている。

 

「それで、今キスメを問い詰めていた、ということですか」

「ああ。でも、もう必要ないな。古明地が来たなら、隠し事もできないだろ」

 

 小さな桶がビクンと震えた。中のキスメがひょこりと顔を出す。“ごめんなさいごめんなさいごめんなさい”誰に謝っているか知らないが、延々と同じ言葉を繰り返している。このままでは、彼女の心が壊れてしまうだろう。その前に、何とかしなければ。

 

「結論から言えば、ヤマメが落下したのはキスメのせいといえます」

「やっぱりか」

「ただ、キスメが悪いか、といえばそうとも言い切れません」

 

 私は必死に頭を動かす。針のむしろとなっている彼女は、実はそこまで悪くないということを、伝えなければならない。

 

「あれは事故だった。そうですね?」

 はぁ? と星熊が眉をひそめるのと、キスメが桶から驚くように飛び出すのは同時だった。そんなにキスメが驚くと思っていなかったので、少し面食らう。

「古明地、嘘はよくねぇよ」蔑むように、まわりの鬼たちが睨んでくる。あまりの恐怖で手に力が入り、隣にいたお燐の尻尾を強く握りしめてしまったが、表情には出さずにすんだ。

 

「嘘じゃないですよ。ほら、ヤマメの歓迎会おぼえてますか?」

「そりゃあ覚えてるけどよ」

 

 それがどうかしたか? と星熊は首をひねった。内心で小さくガッツポーズをする。話を聞く姿勢もなく、いいからキスメを処罰しようと言い出すことも否定できなかった。それに比べると、星熊の姿勢はまだ柔らかい。キスメを“敵”とはまだ認めていない。いや、認めたくないのだ。

 

「そのとき、キスメが隠し芸をやったのも」

「ああ、覚えてる」

「あれです」

「は?」

「あの大道芸は、一度桶をかなりの高さまで飛翔させますよね。しかも凄い回転した桶を。それを竪穴で練習していたんですよ。まあ、仕事をさぼるなと言いたいところですけど、問題はそこじゃないです。それで、いつものように桶を飛ばしたキスメだったんですが、新入りのキスメが竪穴の壁に糸を張っているのを忘れていたんです。それで」

「それで桶が糸を切り裂いた、と」

「そうです」

「そんな馬鹿なことがあるわけないだろ」

 

 実際、そんな馬鹿なことがあるわけなかった。キスメはそんな事故ではなく、きちんと自分の意思で、彼女の糸を切った。まさか、こんな大事になるとは思わなかったらしいが、悪意は確実にあった。

 

 大道芸の技術を用いて糸を切ったという私の話に嘘はなかった。真実は、こうだ。キスメはヤマメと仲がよかった。親密であったといってもいい。彼女たちは出会って間もないにも関わらず、親友といってもいいほどに互いを好意的に見ていた。だからこそ、キスメは複雑な感情を胸に蓄えていた。ヤマメは性格がいい。それこそ、たかが大けがを負っただけで、地底が犯人捜しで躍起になるほどに。

 

 簡単にいえば、彼女は嫉妬をした。橋姫が絡んでいるかは分からないが、彼女の心は嫉妬で狂っていった。自分の親友であるヤマメと仲良く話している相手にも、そして一瞬で地底に溶け込んだヤマメ自身にも、彼女の暗い心は及んだ。そして、爆発した。あの日、彼女はヤマメの糸を狙い、桶を飛ばして、確実に彼女の糸を断ち切ろうと、一番負荷がかかるところに桶をぶつけた。キスメは、きっとヤマメは少し体勢を崩すだけだと高を括っていた。少し悪戯をして、彼女を困らせたいという幼稚な発想も含まれていた。実際、本来ならばそうなるはずだったのだが、とある理由により事態は取り返しのつかないほど大きくなった。だから、彼女はここまで隠れていたのだ。糾弾されることを恐れて、処罰されることを恐れて、そして何よりヤマメに嫌われることを恐れた。

 

 キスメの心には当時のことが鮮明に刻みつけられていた。桶を糸にぶつけ、思ったより下に落ちていったヤマメを見に行くと、血まみれで倒れていたその瞬間の恐怖が、絶望が、否応なしに私の目に映った。そんな彼女をこれ以上追い詰めると、取り返しのつかないことになる。

 

 それに、本来責められるべき妖怪は彼女ではない。

 

「それで? まさかそんな嘘をいうために来たんじゃないだろうな。何とかいったらどうだ、古明地さんよぉ」星熊の近くにいた、筋骨隆々な鬼が睨みをきかせてくる。

「なんとか」とっさに口に出してしまい、肝が冷えた。こんな巫山戯たことをいっては、私が殺される。必死に、次に続く言葉を探した。

「なんとか、キスメを許してくれないでしょうか。彼女はヤマメを今でも親しく思っていますし、きっとヤマメも許してくれると思います」

 

 ヤマメという名前を聞いた途端、キスメの顔に苦々しさが宿った。後悔と罪悪感で打ちひしがれてしまいそうだ。もしかすると、何もしなくとも、彼女は勝手に自滅してしまうかもしれない。

 

「許す、ねぇ」

 深刻そうにうなずいて見せた星熊だったが、彼女が許す気がないのはすぐに分かった。いや、彼女自身は許してもいいと思い始めている。キスメのことも随分と買っているようだし、当人同士で解決すればいいと、納得もしている。だが、それが許される段階はすでに超えてしまっていた。この地底にくすぶった雑念は、犯人不在では収まらない。誰かがつるし上げられなければ、鬼は納得しない。それを星熊はよく分かっていた。

 

「許せない、ですか」

「分かってるだろ? 心がよめるんだから。キスメがすぐに名乗り出て、ヤマメに謝ればよかったんだ。こそこそと隠れて、犯人じゃないふりをするなんて、見て見ぬふりをするなんて、卑怯だろ」

「だから、暴行を加えるんですか? 弱い物いじめは嫌いといっていたじゃないですか」

「”敵”には容赦しないともいった」

 敵。彼女はそう断言した。つまりは交渉が失敗した、ということだ。

 

 隣で震えていたお燐が心配そうにこちらを見上げてくる。キスメが地底中から処罰されるのを、望んでいる妖怪なんているのだろうか。少なくともお燐は助けたいと思っているし、星熊だってそうだ。ただ、一度動き出した車輪は、誰かにぶつかるまで止まらない。もしキスメがヤマメを殺そうと思っていたのだったら、まだましだったのに。やはり犯人など見つけるべきではなかったのだろう。

 

 どうしたら、キスメを救うことができるのか、彼女がつるし上げられるのを防ぎ、罪悪感で心を壊すのを防ぐ方法を考える。だが考えれば考えるほど、無理じゃないかと諦めそうになってしまう。もし八雲紫なら、こんな時はどうするのだろうか。彼女の言葉を思い出す。が、自分に対する罵詈雑言しか思い出せなかった。

 

 だけれども、何とかするしかないのだ。

 

「星熊勇儀。少し冷静になって考えてください」

「どうした、急に」

「キスメとヤマメは仲が良かった。それは間違いありませんね」

「ああ」

「でも、キスメはヤマメに手を出した。何故だかわかります?」

「さあな」

「それは……」

「それは?」 

 

 次の言葉を口にしようとしたが、喉が詰まった。口をパクパクと鯉のように動き、言い淀んでしまう。口が回らなかった訳ではない。本当にこの選択で正しいのか、上手くいくのかと直前で不安になったからだ。だが、腹をくくるしかない。

 

 “あなたには才能があるのよ”そう、八雲紫の声が聞こえた気がした。

 

「それは、私のせいです」

「は?」

「すこし、悪戯をしました」

 

 口を半開きにし、呆然と佇んでいる星熊を前に、私は小さく息をのむ。今度は、嘘をつくなと言わないのですね、嘘なのに、と声が零れそうになった。

 誰かが車輪を止めなければならないなら、犠牲にならなければならないなら、私がなればいい。地霊殿の主として、嫌われ者のトップとして、嫌われ役は慣れている。そう結論付けた。

 

「竪穴の二人の心を少しばかりいじくりまして、まさかこんなことになると思いませんでしたけど」

「いじくったって、何をしたんだ」

「なにって」

 

 まさか問いただされるとは思っていなかったので、言葉に詰まる。当然だが、私は他人の心をいじくる事などできない。いったい何と言えば彼らは納得するのだろうか。

 “犯行方法も面白い物だったら、より信用されるかも”

 

「同士討ちっていいと思いません?」

「え?」

「彼女たちを、興奮状態にしたんですよ。闘争心むき出しの。だからキスメはヤマメを攻撃し、ヤマメは体の自由がきかなかった。もし、キスメがもう少し遅かったなら、先にヤマメが攻撃していたかもしれません」

 

 桶が跳ねあがった。以前、ヤマメのことを聞きにきたときのように、飛びかかってくる。鬼たちの間を縫うように移動し、あっという間に私の前に躍り出る。一瞬見えた彼女の瞳には、確かに涙が浮かんでいた。

「よくもヤマメを! 私の親友を!」

 彼女は叫んだ。私の首に狙いを定めながらも、力一杯に叫んだ。だからだろうか、私が少し動くだけで、余裕をもって躱すことができた。攻撃を外したキスメは、地面に座りこんで、その小さな手を地面に叩きつけている。悔しさと無力感に溢れていた。

 

 実際はもちろん私が彼女の心を操ったわけではないのだから、キスメが彼女の糸を切ったのは本人の意思だ。だが、それを暴露してしまったら、今度こそ彼女の心が壊れてしまう。その代わりに、私は覚えたての言葉を使った。私に対する恨みでキスメの罪悪感を消すために。

 

「でも、操られていたとはいえ、ヤマメをやったのはあなたですよ」

「ひぅっ!」

 桶に身体を引っ込めたキスメは、一目散に逃げていった。カツンカツンと建物や井戸にぶつかりながらも、全速力で去っていく。その彼女に向かって、煽るように声をかける。

「歩みの遅い奴は殺していいらしいですよー」

「てめぇ!」

 

 星熊はついに怒りの沸点を超えたらしく、私にズカズカと近寄ってくる。その目は怒りに満ち溢れていて、今にも殴り掛かってきそうだ。その鋭い瞳にはもはやキスメは映っていなかった。その星熊に追従するように、周りの鬼も私を中心に円状に並んでいる。となりのお燐はいつの間にか何処かへいなくなっていた。

 

「どうして、そんな事をしたんだ?」

 つい、吹き出してしまった。どうして彼女たちを同士討ちさせたのか。そんなの、私が知りたい。

「そうですね。強いて言うならば」

「ならば?」

「同士討ちで妖怪が死んだら面白かったから、ですかね」

 大きく腕を振り上げた星熊は、私めがけて一直線に腕を振り下ろした。

 

 

 

 目の前を星熊の太い腕が通り過ぎる。体を捻るようにして、何とか躱すも、腕が通り過ぎた後の衝撃波で体が吹き飛ばされる。体勢を整える前に地面に背中が叩きつけられるが、反射的に左へと大きく跳躍した。元いた場所に巨男の鬼が突っ込んできて、砂ぼこりが辺りを包む。視界が悪くなり、相手の影が見えなくなるが、心は見える。上から三人くらいの鬼が弾幕をはろうとしている。地面を滑るように浮遊し、範囲外へと逃げる。待ち構えていた小鬼が銃を構えてくる。近くにあった小石を蹴り上げて、標準を狂わせる。

 

 もう、何度繰り返したか分からない。が、確実に私の体は傷ついていった。右腕は捻じれ、感覚がない。右足は根元からおかしな方向に曲がっていて、まともに立つことすらできなかった。腹には風穴があいていて、溢れんばかりに血が流れだしている。意図したかは分からないが、ヤマメと同じような傷を負っていた。

 

「いい加減、本気を出したらどうだ」つまらなそうに、星熊は吐き捨てた。

「鬼相手に手加減するなんて、いい度胸じゃないか」

 

 もちろん、私は手加減なんてしていないし、する余裕もない。だが、それを訴える元気すらもう残っていなかった。血を流し過ぎたからか、意識は朦朧とし、気を抜けばその場に倒れてしまいそうになる。このまま私は死んでしまうのではないか、と何度思ったか分からない。だが、それでも倒れる訳にはいかなかった。

 

「そろそろ、許してはくれませんかね」

「ああ!?」

「疲れました。もう動きだって遅くなってきてます。次はまともに避けられません」

「歩みの遅い奴は殺してもいい、っていってたじゃねぇか」

「いってませんよ」

 

 星熊が一歩足を引き、身体を半身にして腰を落とした。私の第三の目には彼女が何をしようとしているか、はっきりと映っている。確実に息の根を止めるために、彼女の全力をぶつけるつもりなのだ。心なしか、取り巻きの鬼が私たちの間から一歩引いたような気がする。

 

「なあ、古明地。この前の宴会のこと覚えてるか?」

 顔を伏せたままの星熊は、拳をひきながらそう訊いてきた。

「この前の、ヤマメの歓迎会を覚えているか?」

「もちろんです」

「あの時、私は思ったんだよ。古明地のことを嫌っていたけど、それでもいい所はあるんだなって。喧嘩をするのは御免だったが、酒を飲むのは楽しいかもって、そう思ったんだ。でも、やっぱり私はお前のことが嫌いだ。嫌いだったよ」

「ええ、知ってます」

「そういうとこが駄目なんだよ」

 

 顔が見えないので、今彼女がどんな表情をしているのかは分からない。が、きっと笑っているのだろう、クツクツと押し殺すような笑い声が聞こえてくる。嫌いだった。つまり今は嫌いですらない。その言葉がどうしようもないくらい悲しくて、ただですら折れていた心がさらに脆くなっていく。そして何より、星熊が私以上に悲しんでいることが驚きだった。“でも、お前と話すのは嫌いじゃなかった”そう確かに心が訴えていた。

 

 星熊が動いた。踏みしめていた地面が割れたかと思えば、彼女の姿が消えた。彼女がこちらに向かい全力で突っ込んできているのだ。だが、私には舞い上がる砂煙しか見えなかった。相手の姿が見えないが、私を殴り殺そうとしているのは分かる。何とかその場から逃れようと体を動かそうとする。が、動かない。頭が真っ白になる。折れ曲がった腕や足の感覚が完全になくなった。もはや飛ぶことすらできない。気がつけば、いつの間にか目前に星熊が迫っていた。張り詰めた弓のように体をしならせ、今にも拳を振り下ろさんとしている。

 

「三歩必殺!」

 泣きながらそう叫んだ彼女は、三歩も歩いてなかったですよ、と私が言い終わる前に拳を振り下ろした。

 




焦っていたとはいえ、他にもやりようがあったというのは酷ですかね


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第119季3月20日(2)—この日はいつにも増して長い日記ですね。まあ、それも当然ですか―

 音が消えた。目の前が真っ暗になり、世界が闇に包まれたかのように錯覚する。地面に寝そべっていたはずなのに、身体がなんだかふわふわして、宙に浮いているような気分だ。もしかして、私は死んでしまったのだろうか。今朝来た怨霊のように、白い風船のような醜い存在になってしまったのだろうか。

 

 だとすれば残念だ。私にはまだやらなければならないことがあった。最近地底にできたかき氷屋にも行ってないし、あの子と一緒に遊びに行くという約束も果たしていない。そして何より八雲紫に餡蜜を奢ってもらえていないのだ。これは許されない。食べ物の恨みは恐ろしいということを身をもって味わってもらおう。幸いなことに、怨霊となったならば憑りつくことができるはずだ。

 

「怨霊になって幸いなんて、洒落でも面白くないわよ」

「え?」

 

 どこからか、聞き慣れた声が頭に響いた。実際に耳にした訳でもなく、心の声でもな

 い。直接頭に流し込まれているような、妙な感覚だ。

 

「鳩が豆鉄砲をくらったというより、さとり妖怪が心をよまれたような顔をしているわね」

 

 体の感覚が急激に戻ってきて、腹の奥がえぐられるような痛みが襲う。粘り気のある液体が口から溢れ、せき込んでしまった。手で拭うことすらできないが、生臭い鉄の匂いがすぅと抜けていく。それと共に、暗闇だった視界も段々と開けてくる。ゆっくりと目を凝らし、開けたはずなのに一向に暗い目前を凝視すると、空中に浮かぶぎょろりとした瞳と目が合った。声を上げ、逃げ出しそうになるが、身体が思うように動かず、ただ呻くだけで終わった。どうして。なんで。こんなところに。

 

「まさか、あなたがこんなことをするなんてね。正直、見直したわ。同時に見損なったけれど」

 いったい、なぜ八雲紫が来ているのか。

 

 

 

 

 

 

「どうして来たのか、って顔してるわね」

 動けない私を持ち上げながら、八雲紫は微笑んだ。こっちとしては笑い事ではないのですが、と小さく呟くも、無視される。

 

「本当はこの問題に関わりたくなかったわ。地底の問題に地上が介入すると、碌な事がないですもの。ただ、あなたのペットが面倒なことをやらかしてくれまして」

 

 視線を右に向けた八雲紫にならって、同じ方向を向く。そこには、私を心配そうに見つめるお燐と、星熊と睨みあっている伊吹萃香の姿があった。

 

「あのクソ猫が萃香を誑かして、地上で色々と騒ぎを起こさせたのよ。それで文句を言おうとあなたに会いにきたら、死にかけていたってわけ。全く、ペットの管理ぐらい頑張りなさいよ」

 

 こちらに向かい、ドヤ顔で親指を立てているお燐は、私の顔を見た途端、勢いよく飛び跳ね、大急ぎでどこかへ去っていった。私はまだ彼女に何も言っていないにも関わらず、全力で逃げていく。きっと、呆れと怒りで眉間の皺が凄いことになっていたのだろう。彼女の心は“褒められると思ったのに、怒られるなんてひどい!”と愚痴を吐き続けていた。知ったことではないが。

 

「萃香、紫。どうしてそいつを庇った」あとでお燐をどう折檻しようかと考えていると、星熊が声を荒らげた。

「ヤマメをやった犯人をどうして庇った!」

 

 八雲紫に変化はなかったが、伊吹萃香は目にみえて動揺していた。私を何回か見直した後に、私がいない間に何があったんだ、としきりに首を捻っている。が、考えることを諦めたのか「そんなの、私の勝手だろ」と鼻を鳴らした。

 

「というか勇儀だって、私に無断で古明地と喧嘩してたじゃないか」

「これは喧嘩じゃない」

「殴り合いをすれば、それはもう喧嘩だよ」

 いえ、一方的な虐待でした、と言おうとするも八雲紫に口をふさがれた。余計なことは言うな、と耳元で囁いてくる。くすぐったいが、それよりも怖い。あと、口からいい匂いがした。

「よし、分かった。勇儀、ひとつ取引をしようじゃないか」

 何が分かったか分からないが、伊吹萃香はうんうんと頷きながら、大きく手を叩く。

「取引だ?」

「私が勝ったら、古明地の処遇は私に一任しろ。お前らの恨みつらみは知らん。忘れろ。もしお前が勝つことができたら、古明地は煮るなり焼くなり好きにしてくれていい」

 

 勝手に人の命を取引しないでください、と叫ぶも、八雲紫の白い手袋に口が覆われているのでもごもごとくぐもった声しか出なかった。無理に声を出そうとしたからか、少し口端に血が垂れる。が、誰も気にしてくれない。

 

「そんな取引に応じるとでも思っているのか」

「おいおい、鬼の四天王である星熊勇儀が、まさか喧嘩の申し込みを断るのかい?」

「言ってくれるじゃないか!」

 

 何とも簡単な語られる怪力乱神はあっさりと挑発に乗った。私の苦労がばかみたいだ。こんなことならキスメが殺されそうなときに来て、助けてやればよかったのに。いや、駄目だ。キスメはヤマメに怪我をさせてしまったという事実にすら耐えられそうになかった。やっぱり、私が犠牲になるしか、キスメの凶行をも私のせいにするしか方法はなかったはずだ。そう自分に言い聞かせる。

 

「おいお前ら! 今から四天王の私たちが喧嘩するんだ。手出しをしたらただじゃすまないと思え」星熊が叫んだ。

「あ、あと酒の準備よろしく」伊吹萃香が星熊を挑発するように軽い調子で私たちを見つめる。

 

 “今んうちにどっかで治療しに行っといてくれ”

 

 こちらを一瞥し、片目をつぶった伊吹萃香に危うく惚れそうになった。だが、彼女の混沌とした内心をみてしまうと、とても感謝する気にはなれない。鬼なのに、鬼らしくない。でも鬼らしい。それが伊吹萃香という存在だ。

 

 八雲紫に、今のうちに地霊殿の医務室へ、と伝えようとするも、相も変わらず、彼女の白い手袋を口に押し付けられているので、また、もごもごと鈍い声が出るだけだった。

「あら? 何をしているの? 私の指はおいしくないわよ」

 馬鹿ですか、と口の中で唱える。

「なんて、冗談よ。それじゃぁ、私たちは酒を持ってくるから、終わったら連絡してくださいませ。景品はきちんと私が預かってるから。それじゃ、またねぇ」

 私は景品ではないですよ、と嘆く私の声は、薄気味悪いスキマの奥底へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

「それで? どうして死にかけていたの?」

 真っ白なベッドに寝かせられた私は、全身を包帯でグルグル巻きにされていた。地霊殿の医務室は、ヤマメがいた頃とは打って変わり、閑散としている。真っ白な天井を見上げる形で横たえてはいるが、包帯で体が思うように動かせないので、横たえるというより、置かれていると言った方が正しい。目もあまり状態が良くないらしく、時々視界に白い靄のようなものが映った。腹に風穴が空いていて、こんな治療で大丈夫なのかと、当然の疑問を呈するも「多少けがをしていた方が、どっちに転んでも得するのよ」といつものような曖昧な言い方で誤魔化されてしまった。多分得するのは私じゃなくて八雲紫だろう。

 

「どうして死にかけって言われましても、話せば長くなりますが」

「そうねぇ。大体予想はついているんだけど、一応本人の口から聞きたいじゃない? どうしてそんな馬鹿な発想に至ったのか」

「私なりに考えたんですけど」

「馬鹿はどう頑張っても馬鹿なのよ」

 

 私の首元に枕を差し込んだ彼女は、これで少しは楽になったかしら? と慈愛に満ちた表情で微笑んだ。確かに楽にはなったが、彼女のその気色悪い笑顔のせいで相殺される。あなたは私の母親か何かなんですか、と言いそうになるが、それだと相手が喜びそうなので、おばあちゃんか何かですか? と口にした。口にした途端、頭を支えていた枕が消え去り、布団に後頭部を打ち付ける。ポスンという軽い音の割には、鈍い痛みが頭を襲った。痛かったが、私の気分は晴れた。やはり、八雲紫はこうでなくては。

 

「まあ、ざっくり言えばキスメが土蜘蛛の糸を切ったことがばれまして、しかもキスメはその罪悪感で押しつぶされそうでしたので」

「それで?」

「ヤマメを怪我させたのも、キスメが血迷ったのも私のせいでした、って言いました」

「よく信じてもらえたわね」

「私は嫌われる天才ですから」

「そうね」

 

 胸を張っていいのかは分からなかったが、怨霊にだって嫌われるんですよ! と自慢げに話すと、頭を扇子でパチンとはたかれた。腹に穴が開いている病人になんてことするんだ、と訴えるも、頭に風穴を開けてもいいのよ、と真顔で言い返される。単純に怖かった。

 

 八雲紫の後ろの、医務室と応接間を遮る扉に目を向ける。八雲紫と会話することに疲れたからではなく、事実疲れていたからかもしれないが、とにかく、そこに誰かしらの気配を感じた私は、第三の目を向けた。無理に身体を動かしたからか、全身に激痛が走り、目には涙が浮かぶ。が、さとり妖怪として、本能的に相手の心をよもうとしてしまい、それは耐えきれるものではなかった。

 

 “ああ、やっぱり怖いなあ。怒られたくないなあ”と心の声にも関わらず、猫撫で声がきこえた。お燐の声だ。もう怒っていないから、早く出てきてほしい。ペットは癒しだ。

「あらお憐。どうしてそんな所に丸まってるの?」

 

 ガタン、と扉に何かが当たる音がした。ひぃっ! と甲高い悲鳴をあげたかと思えば、お空、お空と親友の名を連呼している。「やっぱ、お空も一緒に謝るの手伝ってー!」と叫ぶ声が段々と遠ざかっていった。ドタバタと騒がしい足音が過ぎ去った後には、静寂だけが残る。私と、八雲紫のため息が部屋を包んだ。いったい私はペットにどう思われているのだろうか。

 

「やっぱり、あなたは嫌われる天才ね」

「それ、褒めてますか、貶してますか」

「当然」

「当然、どっちなんですか」

 

 椅子から腰を上げた八雲紫は、さあどっちでしょう、と嘯きながら、私が寝ているベッドの端、私の頭の近くに正座をするような形で座った。ふわりと甘い香りがし、目がチカチカする。

 

 頭を撫でられる。突然のことに驚き、咄嗟に顔を背けようとするが、包帯で固定されているからか、ピクリともしなかった。私の短めのくせ毛を梳くように手をすべらせてくる。八雲紫が何を考えているか分からない。さとり妖怪なのに、分からないのだ。

「もし伊吹萃香が負けてしまったら、私は殺されますかね」

 赤くなる頬を誤魔化すように、早口で言った。

 

「さあ? 萃香しだいとしか言えないわね」

「ですね」

 もしあの時、八雲紫と伊吹萃香が助けてくれなかったら、私は死んでいたのだろうか。星熊は覚悟を決めていた。だが、同時に後悔もしていた。何に対しての後悔なのかは分からない。もしかすると、私に会ってしまったことかもしれない。

 

「私の選択は、間違っていたのでしょうか」

 何となしに、八雲紫に尋ねた。たぶん、私は怖かったのだ。今回の件で星熊と八雲紫、つまり地底と地上の間で軋轢が生まれてしまうことを。そして、本当にこれでキスメとヤマメが平穏な生活に戻れるかどうかを、恐れていた。

「間違っているかどうかは私が決めることじゃないわね」

「なら、誰が決めるんです?」

「あなた自身よ」

 いつものように、意味深な笑顔を浮かべた彼女は、「じゃあ、私はお酒を集めてくるわね」と言い残し、ベッドから腰を上げた。が、すぐに立ち止まり、目を丸くしてこちらに振り返る。久しぶりに、彼女の心から感情が漏れ出ている。どうしたのだろうか。

 

「どういう風の吹きまわしかしら?」

「どうって、何がですか」

「手よ」

 

 て? と疑問に思うが、すぐにそれは解決した。彼女が手といったからか、私は無意識に自分の右手に視線を移していた。そして、八雲紫以上に衝撃を受ける。私の手は、白いフリルがついた絹のドレスを固く握りしめていた。つまり、包帯で動かしにくいはずの指を器用に使い、八雲紫のすそを離さないようにと引っ張っていたのだ。それも、私の気づかないうちに。

 

「まったく、地霊殿の主が幼子のような真似をしなくてもいいでしょうに」

「え、ええ。そうですね」

 

 照れるように頬を掻いている八雲紫から目を逸らし、鉄板に焦げ付いた肉を引き剥がすように、指を一本一本離していく。彼女のスカートにはくっきりと皺がついていた。「それじゃ、今度こそ行くわね。また後で」と手を振り、スキマに飛び込んでいく八雲紫に適当に返事をした私は、ぼんやりと自分の右手を眺めていた。いったい、どうして彼女のスカートを握りしめていたのか、理解できない。もしかして、寂しかったのだろうか。いや、ないと首をふってその考えを振り払う。たとえ寂しかったとしても、八雲紫にあんな恥をさらすような行為はしない。きっと、一種の気の迷いだ。または、急激な緊張緩和による筋収縮が始まり、たまたま右手がスカートを巻き込んでしまったのだ。そうに違いない。

 

 痛む体を無視して、強引に上体を起こす。背中を壁にもたれかかるようにし、背筋を伸ばした。怪我による腫れと包帯で少し大きくなってしまっている手で、自分の頬を軽く叩く。自分の選択が正しかったかどうかを決めるのは自分自身。まさにその通りだ。まだこの事件は終わっていない。解決していない。ということは、まだ解決できるかもしれないということだ。

 

「そうは思いませんか? 萃香さん」

 天井にかかっていた靄が揺れたような気がした。

 

 

 

 八雲紫が去った医務室は、壁にかかった時計の音が鮮明に聞こえるくらいに静かだった。それは心の声も同じで、どれだけ辺りに第三の目を向けても、誰の声も聞こえてこない。だから、普通に考えればこの部屋には私しかいないはずなのだ。だが、この部屋に伊吹萃香が潜んでいると確信していた。彼女の心がよめないのは、彼女が霧に姿を変えているからだ。

 

 姿が見えない伊吹萃香に語りかけるように、ゆっくりと口を開いた。それこそ、名探偵が推理を披露する時のように。

 

「ヤマメが落ちてきたあの日、竪穴には霧が充満していました。その時の私は、きっと地上との温度差のせいだと思っていましたが、もう一度訪れた時には霧が一切なかったんです。地上は相変わらず寒いのにもかかわらず。どうしてか分かります? 分かりますよね? あの霧は、あなただったんじゃないですか? あの時、私たちと会話を終えた後、ヤマメが心配で竪穴まで着いてきた。そうですよね?」

 

 今考えると、キスメが鬼達から責められていたあの時、鬼たちの上に漂っていた白い湯気も、おそらく彼女なのだろう。そして、今医務室の天井に浮いている僅かな白い靄も、彼女だ。

 

「それと、竪穴に生えていた鍾乳石。あれ、いくつか折れてたんですよ。八雲紫が放った地面にくぼみを作る程の弾幕を耐える鍾乳石が、です。とてもヤマメやキスメの仕業だとは思いません」

 あなたのせいですよね、と声をかけるも、依然返事はなかった。ただ、部屋全体に散らばっていた靄が、私の頭上付近に纏まっていく。はやく、続きを話せ、と催促しているように感じた。

 

「つまりは、こういうことです。あの日、キスメによって糸を切られたヤマメは、落ちている途中で鍾乳石にぶつかり、引っかかった。体勢を整える前に、です。運悪く頭をぶつけた彼女は気を失ってしまった。それを見たあなたは、きっと焦ったのでしょう。妖怪がその程度で死なないことは知っているでしょうに、ヤマメを何とかして助けなければならない、と決意した。そして、倒れているヤマメに」

 

 そこで私は一度言葉を切った。ヤマメのひしゃげた胸を思い起こす。血と体液でぐちゃぐちゃになっていて、土気色の臓器が痙攣するように動いていた、あの瞬間を頭に描く。いったい、どうしてこうなってしまったのか。あの子がいったような、推理小説のようにはいかない。犯人を見つけて、懲らしめて、終わりとは問屋が卸さないのだ。事実は小説より奇なりというが、正確には、事実は小説より救いなし、だ。

 

「倒れているヤマメの胸に、心臓マッサージを行ったのですね」

 

 なぜなら推理小説のように、明確な悪人なんていないのだから。

 

 

 

 

「お前はつくづく嫌な奴だよ」

 後ろから声が聞こえた。はっとして、振り返ろうとするも、例のごとく体が動かなかったので、諦めて第三の目だけを後ろに向ける。そこには伊吹萃香の姿があった。天井の露はいつの間にか無くなっている。

 

 さすがの彼女でも、星熊の喧嘩を前に無傷でいられなかったのか、全身のあちこちに傷を負っていた。が、擦り傷やちょっとした切り傷ばかりで、軽症といっていいくらいだ。私の方がよっぽど酷い。

「お前はつくづく嫌な奴だ」

 念を押すように、伊吹萃香は繰り返す。鬼である彼女にしては珍しく、俯きがちに、悔いるように言った。

「そんな一々説明しなくたって、心をよめば全部分かっただろうに。あの時のことをいう必要なんてないだろ。思い出させなくてもいいだろ!」

 

 彼女は、私たちさとり妖怪のことを一切信頼していなかった。あの日、私たちが言った〈様子を見る〉という意味を完全にはき違え、つまりは新入りのヤマメに私がお灸をすえに行くと勘違いをし、それを止めようと密かに竪穴に先回りをした。そこで待っていたのは、想像を超える状況だった。私から守るはずだったはずのヤマメが、鍾乳石の上で仰向けに倒れていたのだ。最初は眠っていただけかと思ったが、どうも違うと彼女は気づいた。気づいて、戦慄した。私がすでにヤマメに何らかの罰を下し、亡き者にしようとしたと、勘違いをした。私に対する怒りのあまり、彼女は一瞬だけ、いつもの姿に戻ってしまった。この時、あの子が伊吹萃香の存在に気がついた。私に、何か気づかない? と言っていたのは、いま、萃香いなかった? という意味だったのだ。

 

 そして、混乱していた伊吹萃香は直前の私たちの会話を思い出していた。あの子が言った心臓マッサージの話だ。「胸の辺りを軽く押す」「コツがいる」この二つの情報しかもっていなかった彼女は、とりあえずヤマメの胸を軽く押した、つもりだった。実際には、煮えたぎる私への怒りと、急な展開による動揺で、力を上手くコントロールできず、思ったよりも力を籠めてしまった。

 

 目の前に血しぶきが舞った。鬼の優れた動体視力は、ヤマメの胸がトマトのように潰れていく様子をしっかりと見ていた。胸が裂け、臓器が顔に飛び散り、骨が砕け散る様子を、脳裏に焼き付けていた。

 落下していくヤマメをみていた彼女の心境は計り知れない。心をよんでもなお、知ることができないくらいに、後悔が奥底まで染み付いている。不幸中の幸いと言えば、胸を押しつぶす瞬間をキスメに見られなかったことくらいだろうか。そんな彼女になんと言葉をかければいいか、私にはわからなかった。

 

「お前は、本当に嫌な奴だよ」

 消え入りそうな声で、彼女はまた同じ言葉を繰り返した。

「なんであんな嘘をついたんだ?」

「嘘、ですか」

「お前が、キスメとヤマメを操ったっていう嘘だよ」

 

 それしか方法がなかったから。キスメとヤマメを救い、地底の安寧を保つためには、あれしかなかったから。私は既に嫌われているから。思いつく理由はいくつもあった。でも、それを伊吹萃香に口にすることはできない。彼女が言いたいのは、そういう事ではないのだ。そうではなくて、“どうして私を庇うような真似をした”と憤っている。なぜそんな余計な真似を! と糾弾しているのだ。

 

「よく、考えてみてください。今回の件で、あなたが地底中から断罪の標的にされたとします。ですが、あなたほどの実力の持ち主なら、そう簡単に負けることは無いでしょう」

「当たり前だ」

「それが問題なんですよ。萃香さん、あなたは本気で殺しにきた相手を生きて返したりはしないでしょう? 鬼の四天王とそれ以外が本気の殺し合いをする。ほら、もうこれだけで緊急事態です」

「随分と合理的なんだな」と伊吹萃香は肩をすくめた。

 

 医務室の、ツンとする薬の匂いにようやく慣れてきた。それでも、腹の痛みは治まりそうにない。穴が空いているからか、それともストレスによるものか。おそらく両方だ。

「でも、それだけじゃないですよ。他にも理由はありました。知ってますか? 私は勇気が無いんです。勇気のない山椒魚。そんな私がこんな決断をした。なぜか分かります?」

「何が言いたい」

「ヤマメを助けようとしたのに嫌われてしまうなんて、あまりに残酷じゃないですか。そんな酷い話はありませんし、私は認めません」

「優しいんだな、さとり妖怪のくせに」

 

 一言多いですよ、と苦笑した私は、壁にもたれていた背中を、少し丸めた。包帯の中の汗に風があたり、心地がよい。だが、腹の痛みは一向に収まる気配はない。それどころか、鈍い痛みのせいで吐き気にまで苦しめられていた。

 

「でも、それだとお前はどうなんだ?」

 

 いつの間にか私の目の前に伊吹萃香は現れていた。驚きのあまり三つの目を見開いてしまったが、彼女はそれに気づいた様子もなく、手に持った瓢箪を口にした。まずい、と肩をすくめて、お前のせいだと責められる。酷い言いがかりだ。せめて、もっとましな理由で怒ってほしかった。

 

「認めたくはないが、お前もキスメとヤマメ、そして私のことを助けようとしたわけだろ? それなのに責められるのは、認められないんじゃないのか?」

「でも、仕方がないんです。そういう運命ですから」

 そういう、嫌われる運命ですから。自嘲気味にそういうと、伊吹萃香は「運命っていったい何だろうか」と肩を落とした。また、静寂が訪れる。カチカチと秒針がたてる音すら煩わしい。運命とは何か。そんなものは知らないし、知ったことではない。だが、もし運命を操れるような奴がいるならば、私はそいつを心底軽蔑するだろう。もう少し、さとり妖怪にも優しい運命をくれても良かったのに、と胸倉をつかんで問い詰めたい。

 

 すぅ、と息を吸い込む音が聞こえた。伊吹萃香が、何かを口にしようとして、戸惑っている。が、当然私はその内容を心から読み取っている。

 

「私もお前が嫌いだよ」

 なぜか照れ笑いを浮かべながら伊吹萃香はそう言った。

「どんな理由があれ、嘘をつく奴は嫌いだ」

「そうですか」

 

 踵を返し、去っていく彼女の背中を見つめる。それはどこか寂しげで、心なしか二本の角も垂れ下がっているように見えた。彼女の心に寂しいなんて感情はないにも関わらず、だ。だからだろうか。遠ざかっていく彼女の背中に、分かりきっている質問を投げかけた。

 

「星熊との決闘、勝ちましたか? 負けましたか?」

 目を丸くした伊吹萃香は、吹っ切れたかのように清々しい笑みを浮かべて振り返った。

「当然」

 そのあとに続く言葉を、彼女は意図的に発しなかった。

 

 




犯人は一人! という決め台詞は間違っていたんですね


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第119季3月21日─やっぱり、地上と地底は関わり合いになるべきではないですねー

 第119季3月21日

 

 一件落着。まさに今日がその日だった。当然、その一件というのはヤマメが酷い目に遭った件である。それが、名実ともに今日で解決した。昨日、包帯でぐるぐる巻きにされ、ベッドの上で眠っていた私には分からなかったが、壮大な宴会が旧都で行われていたらしい。例の一件を落着させるための宴会だ。

 

 当然、その話を聞いた時、主役はヤマメとキスメだと思った。まあ、それも決して間違いだという訳ではなく、一番酒を飲んだのは、飲まされたのは彼女たちだったようだ。勇儀はキスメに謝り、キスメはヤマメに謝り、ヤマメは全員に謝った。それで全て水に流れた様だ。唯一、伊吹萃香だけが浮かない顔をしていたらしいが、まあ大よそ大団円といったところか。

 

 八雲紫を含めた彼らは盛り上がり、豪華な酒と高級な料理を楽しみ、絆を深め合った。その、高級な料理を食べられなかった事だけが唯一の心残りだが、すべて私の理想通りだといっていいだろう。誰も傷つかず、地底は壊れず、地上との争いも避けられた。ただ、一つだけ。一つだけ私の予想と違った点がある。それは何か。名前だ。この大規模な宴会の名前が予想外だった。私は、ヤマメの復活を祝う会だとか、キスメに謝る会、だとばかり思っていた。だが、実際は違う。その宴会の本当の名前は、前夜祭だった。古明地に一泡吹かせるための前夜祭、という名前だったのだ。

 

 

 

 

「そんなに包帯をまく必要はあるのか?」不思議そうに首を傾げた星熊は、肩をすくめた。

 

 身動きの取れない私は、伊吹萃香に抱えられ、旧都に連れてこられた。寝起きだったので、最初はお燐か誰かが食堂に連れていってくれていると勘違いしていた私は、自分を抱きかかえているのが彼女だと知り、これ以上なく驚いた。驚き、そして絶望した。死刑に向かう囚人も、きっと同じ気分なのだろう。

 

「まあ、でも萃香に感謝するんだな。私は腑に落ちないが、約束は守る」

「昨日、あんなに殺す気でいたのに」

「殺していいんだったら、殺してやるよ」

 ガハハと豪快に笑った星熊は、身動きが取れない私の肩を叩いた。

 

 彼女のその言葉に嘘はなかった。もし、伊吹萃香の一言が無ければ、私の命はもう無かっただろう。九死に一生を得たといえるかもしれない。いや、いえないか。今から行われる残虐な行為に、私の体が耐えられるとは到底思えなかった。

 

「煮るなり焼くなり好きにしていいとはいったが、殴っていいとは言ってないからな」

「本当にずるいよ、萃香は」

「できれば、煮るのも焼くのも止めて欲しいのですが」

「そんくらい我慢しろよ」

 

 大してつらくもないだろ、と眉をひそめた伊吹萃香に、軽くおののく。それで辛くないのは鬼だけだ。

 

 昨日、星熊と伊吹萃香の勝負はどうなったか。当然、伊吹萃香が負けた。というよりも、彼女は初めから勝つ気ではいなかった。鬼である以上、喧嘩というものに燃えないはずはなかったが、それでも彼女は負けを予見していた。だから、わざわざ勝負の前の条件を自分で言ったのだ。「もしお前が勝つことができたら、古明地は煮るなり焼くなり好きにしてくれていい」と。つまりは、彼女はこれで勝っても負けても私が死なないようにと保険をかけてくれていたのだ。その言いがかりともとれる条件を、星熊が飲むことを知っていて、そしてそれを屁理屈だと捨てないことも知っていて、彼女はそう言ったのだ。ただ、彼女の誤算は、私が煮たり焼いたりすることに堪えられそうにないということである。

 

「私は煮ても焼いても美味しくないですよ」

「心配しなくても、誰もさとり妖怪を食べようとはしないさ」

「そうなんですか?」

「絶対に腹を壊すからな」

 

 大声で笑う星熊の心には、昨日の鬱屈とした暗さは消えていた。鬼らしい、豪胆で強気なものに戻っている。きっと、飲み会ですべてを洗い流したのだろう。なんとも単純なものだ。だが、さすがに私に対する嫌悪感や憎しみまでは、キスメとヤマメとを同士討ちさせたことに対する憎悪だけは、消えていなかった。分かっていたが、それでも悲しい。

 

「お燐たちは、私が今日、煮て焼かれることは知っているんですか?」

 

 せっかく旧都に来たというのに、すぐまた私を抱え上げた伊吹萃香に、私は訊ねた。この時の私は、きっと、旧都のどっかに五右衛門風呂みたいなものがあって、そこで茹でられていたのではないか、とそんな事を考えていた。出来れば、お汁粉みたいに餡子と一緒に茹でられたいな、なんて呑気なことすら考えてもいた。ぬめりとした餡子の感触が、案外泥風呂みたいでいいかもしれないんて、思うべきではなかった。

 

「ああ、火車もお前の姉妹も知ってるよ。昨日の宴会は、それの前夜祭だったからな」

「止めてくれなかったんですか?」

「多分、大丈夫だろうって笑ってたね」

 

 大丈夫な訳がないじゃないか。そう心の中で叫ぶ。あの子に聞こえてたらいいな、と思いながら、せめて、料理を持ち帰ってくれれば良かったのに、と呪詛を呟き続けた。だが、今思えば、この時の私もどこか大丈夫であろう、とそう高を括っていた。溶岩の上に立てられている地霊殿の主である私なら、熱々の大判焼きを一口で食べられる私なら、きっと少しのやけどで済むだなんて、幻想を抱いていた。だが、そんな淡い期待はすぐに打ち破られることとなる。

 

 結論からいえば、彼女たち鬼の四天王は、私を旧都のはるか遠く、辺境を通り越して、もはや秘境なのではないか、と思うところまで連れてきた。怨霊で溢れ、罪人の悲痛な呻き声が否応なしに聞こえてくる。これだけでも十分な罰になるんじゃないですか? と文句を言ったが、お前にとってはご褒美だろ、と星熊に軽くあしらわれた。ひどい。

 

「それで? こんなとこに来て、何がしたいんですか」

「おまえ、本当に地底の管理人なのか? ここにはあれがあるだろ」

「あれって、何ですか? 甘味屋ですか?」

 

 どうやら、私がつまらない冗談を言ったと思ったらしく、二人とも肩をすくめた。本気でいったとは、言い出せなくなってしまう。

 

 私は地底の管理人、嫌われ者のリーダーである。今では、お燐やお空が多少の仕事を手伝ってはくれているが、それでもほとんどの仕事は自分が行っている。そんな超多忙な私は、残念なことに地底の細かな場所の配置なんて、覚えていられなかった。せいぜい、旧都と、地霊殿と、地上との竪穴くらいだ。なぜ、そこは覚えているのか。そこで何かと問題を起こす連中が多いからだ。目の前の二人を筆頭に。

 

「なあ古明地。私はな、結構怒ってんだよ」

 いきなり、星熊はそう切り出した。怒っているといった割には、にんまりと笑みを浮かべている。

「キスメとヤマメを同士討ちさせたことも、それを黙っていたことも私は絶対に許さない」

「ええ、知ってますよ」

 そして、そう思っているのは地底のほぼ全員だということも知っている。これ以上嫌われないだろう、と思っていたが、下には下があるらしく、以前よりも地底を覆う嫌悪感は増していた。

 

「だがな」

 伊吹萃香から私を乱暴に取り上げ、肩に担いできた。彼女のごつごつとした腕は、恐ろしさよりも、どこか安心感を与えてくれる。それが、昨日私の命を奪おうとしたのに、だ。

「だが、私は酒が好きなんだ」

「はあ」

「だからよ」

 

 ずかずかと真っ暗な道を進むと、目の前が急に開けた。昔見た、琵琶湖を思い出した。水平線が視界を覆いつくし、思わず気の抜けた声が出てしまう。琵琶湖と違うところと言えば、その水平線をつくっているのは、水ではないということだ。

 

 呆気に取られている私を他所に、星熊はごほん、と咳をした。胸を張り、大きく息を吸っている。伊吹萃香の方をほんの一瞬気にしたのが、私には分かった。

 

「だから、今度酒を持ってきてくれよ。一緒に呑もう。そうしたら、許してやる」

 

 え、と声が零れた。誰の声か。私の声だ。心を読んでいた私が、彼女の言葉に驚いたのだ。彼女が何を言おうとしているのか、分からなかったわけではない。だが、まさか本当に口にするとは思わなかったのだ。

 

 まさか、あの星熊勇儀が、思ってもいないことを言うなんて、嘘をつくなんて、考えもしなかった。

 

 聞きたいことがあり過ぎて、口をもごもごとさせるしかなかった。そんな無様な私など歯牙にもかけず、いつも通りケラケラと笑った星熊は、「着いたぞ」と意気揚々と言った。

 

「まあ、煮て焼くとなると、ここしかないよな」なぜか自慢げに、伊吹萃香はうんうんと頷いていた。

「私だったら、三秒もあれば抜け出せるな。萃香はどうだ?」

「私はそもそも入るようなへまはしないよ」

「そりゃあそうだ」

 

 嫌味にこちらを見た伊吹萃香のことなど、私はもうどうでもよかった。いや、どうでもよくないが、頭の中が混乱していて、考える余裕もなかった。星熊が嘘をついたことに動揺したのもあるが、彼女たちが私をどうするか、分かってしまったのだ。いや、元々分かっていたのかもしれない。だが、実際にそれを目の当たりにして、急に恐怖に襲われたのだ。

 

「血の池地獄に落ちるような馬鹿は、古明地ぐらいさ」 

 

 伊吹萃香のその言葉は、私の微かな希望を打ち砕くのには、十分すぎた。

 

 

「本当に、血の池に落とすのですか?」

 

 返事は分かりきっていたのに、つい訊ねてしまう。星熊の腕から抜けだそうともがくが、当然抜け出せるはずもなかった。そんな私を見かねたのか、伊吹萃香は口を尖らせた。

 

「落とすさ。それくらいは我慢しな」

「それくらいって、だって、血の池ですよ?」

「いいじゃねえか。ぬめりとして泥風呂みたいかもしんねえだろ?」

「餡子と血とでは雲泥の差ですよ」

 

 何の話だ、と訝しんでいる星熊を無視し、目の前に広がる赤い水平線を見やる。赤黒く、そしてゆったりと動くそれは、溶岩によく似ていた。が、特有の生臭さが明らかに違う。ただの血の沼だったら、単純に気持ちが悪いだけだが、彼女たちが「煮るなり焼くなり」する目的で来たとすれば、高温である可能性が高い。もっとも、彼女たちの心を読んでも、血の池についての情報は全く出てこなかった。

 

「あの、お願いがあるんですけど」

「なんだ?」

「助けてくれたりはしませんか?」

「助けるのは無理だな。せめて、何かと等価交換じゃないと」

 

 そう意気揚々と笑った星熊は、勢いよく私を血の池に投げ込んだ。鬼の四天王ふたりの姿が、あっという間に小さくなっていく。心構えをする暇すらなかった。鉄の臭いを帯びた風が体を覆い、口から酸っぱいものが込み上げてくる。飛ぼうとかんばって身体を動かすも、包帯と痛みのせいで上手くいかない。惨めな私は、そのまま目を瞑り、どうか神様助けて下さい、と祈る事しかできなかった。

 

 

 だが、この日記を読んでいる人なら分かるだろうが、私は血の池に落ちることは無かった。落ちてしまえば、絶対に助からないだろうから、そもそもこの日記を書くことはできない。こうして日記を書くことができているという時点で、私は生き残ったという証明になるだろう。こうして書いている今も、当時の恐怖を思い出し、半泣きになりながら書いている。まさか日記で生存証明を行うことになるとは思わなかった。それに何より最悪なのが、血の沼地獄に落ちている私を救ったのが、あの八雲紫だったということである。

 

「感謝してほしいわね」

 

 目を開けると、そこには八雲紫がいた。最悪の目覚めだ。

 血の沼地獄に落ちたと思っていたが、いつの間に地霊殿の医務室にいた。八雲紫が、血の池に落ちる寸前にスキマを作り、助けてくれたと知ったのは、もうしばらくしてからだ。その時の私は、突然現れた八雲紫の顔に、死ぬ程驚いていた。まだ、目の前にくさやを吊るされていた方がましかもしれない。

 

「なら、次からはそうしとこうか?」

 八雲紫の後ろから、ひょいと覗き込むようにえへへと微笑んできた。少し混乱していたせいで、一瞬それが誰だか分からなかったが、口にしていない言葉が分かるようなのは、身内しかいない。そして、私の知る限り身内は一人しかいなかった。

 

「私がゆかりに伝えといてあげたの。血の池地獄に落ちたら、きっと死んじゃうって。だから助けてって」

「ありがとう。本当に。まじで」

「あら? 私にはお礼は言わないのかしら?」

「言わないです」

 

 うふふ、と相変わらずのムカツつく笑みで私を見下ろした彼女は、徐に私の包帯をほどき始めた。一体何をするのか、と抵抗するものの、敵うはずもなくすぐにはがされる。

 

「うわ、酷い怪我ね」

「私がどれくらいの怪我かなんて、分かってるでしょうに」

「実際に目にするまで、何が起きているかは分からないわ」

 

 そうだよ、とびしりと手を出してきた姉妹へと、そっと第三の目を向ける。彼女は私のことを随分と心配してくれているようだった。

 “私一人に地霊殿の仕事を任せるなんて、許さないから”と照れくさいのか、そんなことを言ってきた。

 “もしそうなったら、書いている日記を読みなおしてやるんだから”とも言っている。

 

 これは、絶対に死ぬわけにはいかなくなったな、と一人でうんうんと頷いていると、八雲紫が私の顔のすぐ近くまで寄ってきた。その顔には、仮面のような微笑が張り付いている。嫌な予感がした。

 

「私はあなたを助けたわ」

「ええ、どうも」

「でも、幻想郷の賢者である私は、ただで救済を行うほど安い女でもないの」

「そうだったんですか?」

「そうよ。それに、さっき勇儀も言っていたじゃない。何かと等価交換じゃないと助けられないって」

 

 そこで、彼女が何を言わんとするかを、ようやく理解した。つまりは、助けてやったから一ついうことを聞けと、そう言っているのだろう。なんて傲慢なんだ。本当に賢者とは思えないほどに厚かましい。というよりも、勘弁してほしかった。

 

「だからね、あなたには」

「頼み事があるんですね、早く言って下さい」

 

 そこで、きょとんと眼を丸くした八雲紫は、私の顔をまじまじと見つめてきた。いったいどうしたのだろうか。

 

「どうしたんですか?」

「いえ、単純に驚いたのよ」

「え? 何に」

「いえ、何でもないのよ」

 うふふ、と気色悪く笑った彼女は、わざとらしく辛そうな顔を作り、頼みごとを話し始めた。

 

「つい最近まで、地上で酷い寒さが続いていたのは知っているでしょう?」

「ええ、知ってますけど」

「実は、とある事情でその寒さがまだまだ続く予定でね」

「予定? どうして分かるんですか」

 

 いくら八雲紫だからといって、そんなことができるものなのだろうか。そう思い、質問を重ねたが、すべて無視され、何事もなかったかのように、彼女は言葉を続けた。

 

「そのせいで、食料生産に影響が出ていてね。まあすぐには影響は出ないと思うのだけれど、後々になって響いてきそうなのよね」

「そうなんですか。ご愁傷様です」

 

 もし、地上の食糧不足のせいで、地底にある貴重な甘味にまで影響が出たら嫌だな、とそう考えていると、包帯を巻いている腹を肘で小突かれた。

 “なに馬鹿なことを考えてるのさ”と三つの目を使い非難してくる。おいしい食べ物の重要性を理解していないのか、と私はそのことに驚いた。

 

「それでね、あなた達に頼みたいことっていうのは」

「いうのは?」

「地上に少し食料をわけて欲しいのよ」

 

 このとき、私は意地でも断るべきだったのだ。いや、実際に断ろうと「無理ですってそんなの!」と叫んだが、それが口から出る寸前で、八雲紫は姿を消してしまった。神出鬼没にもほどがある。

 

「どうする?」

 呑気にそう聞いてきた彼女は、心配そうにこちらを見上げてきた。

「どうするって言われましても」

 どうしようもないではないか。

 

「まあ、たぶん何とかなるでしょう」

 私は本心ではそう思ってなかったが、気楽にそう口にした。当然そのことはばれてしまっているが「そうだね」と同じように本心でもないことを彼女を口にしてくれる。

 

「まあ、最悪じぶんの身体を食べてくれ! ってあげればいいんじゃない?」

「なんてひどいことを言うんですか」

 

 楽しそうに冗談を言う彼女を見ていると、こちらも少し気が楽になる。地上に流すほどの食糧は残念なことに存在しないが、たぶんどうにかなるだろう。もしならなかったとしても、少なくともさとり妖怪は食べられない。

 

「どうしてさとり妖怪は食べられないの?」

 

 私の心を読んで、聞いてくる。私は八雲紫が捲っていった包帯を見せつけるように指さして、笑った。星熊に言われた言葉を思い出す。

「絶対にお腹を壊すからですよ」

 

 




地霊殿の仕事を押し付ける対価が日記を読まれることだなんて、むしろ釣り合いが取れていないと思います。


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第119季3月22日─一番大切なものは、もうないですね─

第119季3月22日

 

 この世で一番大切なものは何か。こう聞かれれば、普通はどう答えるだろうか。金。名誉。家族。力。酒。たくさんの答えがあると思う。そのどれもが正しくて、その人なりの性格が出るものだ。十人十色とはこのことで、多種多様な考えがあるだろう。だから、絶対にその考えを尊重しなくてはいけない。馬鹿にしてはいけない。それがどんなに下らなくても、指さして笑うなんてこと、してはいけないのだ。

 

「だから、そんなに笑わないで下さい」

「そんなこといったってね」

 

 ケラケラとだらしなく笑う我が愛しの姉妹は、その大きな黒い帽子を床に落としたのも気にせず、腹を抱えて体をくねらせていた。医務室の無機質な床がトントンと音を立てる。

 

「お菓子を抱え込んで、“これはこの世で一番大切な物なんです”なんて叫ばれたら、そりゃ笑うでしょ」

「酷くないですか?」

「少なくともその言葉よりは酷くないね」

 

 あまりにもずっと笑われるものだから、私も段々と腹が立ってきた。そこまで馬鹿にしなくてもいいのに。しかも、今回は状況が状況だったのだ。そのお菓子が。私の大事な大事なお菓子が差し出されそうになったのだから。

 

「たかが私のお菓子を渡したところで、八雲紫に食べられるだけですよ」

「そうかなあ。ちゃんと考えてるでしょ。妖怪の賢者なんだし」

「妖怪の賢者という言葉に、プラスの意味はありません。馬鹿にするときに使うんです。やーい、お前の顔は妖怪の賢者だー、ってね」

「どっちかといえば、地霊殿の主だー、って言った方が馬鹿にしてる感は出ると思うよ」

 

 悔しいが、言い返せなかった。確かにその通りだ。

 

 八雲紫が頼んできた食料調達の件は、正直に言えばまったくやる気がなかった。それこそ、暇つぶしに案を聞いたら、「隠し持っているお菓子を全部上げればいいじゃん」という適当な返事しか来ないような、そんな他愛もない会話の種にしかなっていなかった。

 

 だが、それはすぐに会話の種から芽が出て花が咲き、その花のとげが私たちに突き刺さることになる。

 

 そう。それはこの日記に挟まっていた。お菓子の隠し場が見つかり、姉妹同士で楽しく会話をしていた時に、何気なくベッドの上に置いていた日記を手に取ったのだ。昨日書いたままにしておいたそれを、そっと隠すようにしまおうとして、その時に、中から一枚の紙きれが出てきた。最初は栞かと思ったが、よくよく考えれば、私はそんな物を挟んだ覚えはない。ぎょっとし、すぐにそれを掴み上げる。すると、そこにはこう書かれていた。

 

“今月中に人間1000人分の食料を渡さなければ、鬼達に血の池地獄にすら入らず、逃げたと言いふらします”

 

ふざけるな。私は大声でそう叫んだ。その無茶苦茶な内容に憤ったのも確かだが、それよりなによりも、人の日記を勝手に読み、しかも置手紙を挟んでいくという悪趣味な仕打ちに憤慨したのだ。もし、八雲紫がいまこれを読んでいるのならば、すぐに止めた方がいい。いや、止めて下さい。

 

 それくらい、この置手紙は私にとっては嫌なものだった。

 

「それ、どうかしたの?」

「あ、これは」

 

 なんでもない、そう言い切る前に私の手から奪い取った彼女は、その小さな紙を読み、目を丸くした。へぇ、と嫌味な笑いを浮かべてもいた。

 

「やるじゃん。妖怪の賢者も」

「こら、悪口はいっちゃいけませんよ」

「私は地霊殿の主じゃないから、そんなことは言わないよ」

 

 心からあはは、と笑う彼女と対照的に、私は戦慄していた。せっかく生き延びたと思ったのに、ただ死ぬのが少し遅れただけだった。人間1000人分の食料がどれくらいかは分からなかったが、少なくとも今月中というのは無理な話だった。作物を育てようにも、間に合わない。芋でも食ってろ、と文句を言いたいが、きっと芋ですら足りなくなるのだろう。どっちにしろ、その負担を私に乗っけないでほしかった。

 

「いやあ、まさかこんな交換条件を突き付けてくるとはね」

 

 タハハ、と笑っている彼女の顔には、どこか不安げな影が浮かんでいた。私の不安を同じように感じ取ったのだ。

 

「八雲紫に頼むべきじゃ無かったかなあ」

「頼む?」

「血の池地獄から助けてくれって頼んだの。勇儀さんたちから聞いた時、絶対に死んじゃうなって思って」

 

 宴会の席で、私に任せなさい、と黒い帽子を揺すっている彼女の姿が見えた。私の命の危機を救ってくれたのは彼女だったのか。やっぱり、持つべきものは良き家族だ。いつだってそうだ。彼女は私の危機を人知れず助けてくれる。それに対し、私は何もしてやれてないが。

 

「本当にどうしましょうね」

「さあ。私たちにはなにも思いつかない」

「詰んでるじゃないですか」

「さとり妖怪が詰むって、おとぎ話の中の話だと思ったよ。将棋も囲碁も負けようが無いのに」

 

 私は普通にお燐に負けたことがあるということは黙っておこう。そう思ったが、思った時点で伝わってしまう。彼女は目を半開きにし、これだから、と実際に口にした。

 

「これだから駄目なんだよ。私がいないと本当に駄目なんだから」

 

いつもの口癖を言った彼女は、指をくねくねと曲げ、得意そうに胸を張った。

 

「私たちで分からなければ、誰かに聞けばいいんだよ」

「え」

「ほら、三人寄れば文殊の知恵って言うじゃん」

 

 三人中二人がすでに駄目だったら、きっと駄目なのではないか。そう言う私を引き摺るようにし、医務室から出ていった。行先は分かった。ペット達の所だ。

 

「ペットに頼る主人って、情けないね」

「そうですか?」

「まあ、地霊殿の主だからしょうがないか」

 

 本当に悪口として定着しそうで、怖かった。

 

 

 

 地霊殿は、いうまでもなく広い。それこそ、今でも一人で彷徨えば迷ってしまうほどに広い。この前も、自室からキッチンへと向かおうとして、誤ってお燐の部屋へと入ってしまい、死ぬ程驚いた。彼女は普段は可愛らしい猫の姿だが、れっきとした火車という妖怪なのだ。そして、その性質が、趣味が問題だった。八雲紫に負けないくらいに悪趣味なのだ。

 

 死体集め。それが彼女の趣味だった。

 

 人間の死体を好むが、たまに動物の死体も拾ってくる。どうやって腐らせずにいるか分からないが、それは所狭しと部屋に陳列されていた。まるでワインセラーのように、木の棚の上に気取った感じで置かれている死体の群れを前に、私は情けない悲鳴をあげ、全力で逃げ出した。それを八雲紫に目撃され、笑われたのも、今ではいい思い出、いや、今でも悪い思い出だ。

 

 それほどまでに広い地霊殿だったが、それでも空いている部屋はそれほど多くはない。というのも、贅沢なことにペットにそれぞれ一室ずつあてがっているからだ。私たちさとり妖怪に懐き、勝手に住み着くようになった動物たち。知能の高い奴から低い奴。屈強な奴から貧弱な奴。さまざまな動物たちがここにいるが、その数を私は把握していなかった。あまりにも増えすぎて、きっと一回もあってないような動物も少なくはないだろう。地底中はおろか、地上の動物の大半ですら住み着いているのではないかと、八雲紫が頬を引きつらせながら言っていた。

 

 

では、そんな動物たちの世話を誰がしているのか。そんな重労働を好んでやるような変わり者は誰か。それは、私を背中に抱えながら、ずんずんと廊下を進む少女だった。どうして姉妹なのに、ここまで違うのだろうか、と不思議に思う。

 

「ペット達にあげてる餌を八雲紫に渡せばいいんじゃないですか?」

「あの子たちは基本自分でとってきてるよ。お燐とかは私たちと同じご飯だけど、妖怪じゃない子は勝手に取ってくるの。そんなのも知らなかったの?」

「なんで知っていると思ったんですか」

 

 てっきり、私は毎食こちらで用意しているかと思っていた。が、よくよく考えれば、そんな余裕は私たちにはない。もしあれば、それこそ八雲紫のために食料を用意できる。

 

「やっぱり、ペットはいいものですね。癒しです」

「そうだね」

「ペットとの戯れと甘味が私の生きる目的ですよ」

「小さいなあ」

 

 クツクツと彼女が笑うたび、体が揺れる。笑ってはいるが、彼女も同意しているようで「ペットはいいよねえ」と伸びた声を出していた。その通り。ペットはいいものだ。

 

 ペットはいい、甘味もいい、と小唄を歌っていると、いつの間にか随分と奥まで来ていた。てっきり、一番手前の部屋から回っていくと思ったので、拍子抜けする。

 

「最初はどこに行くつもりですか?」

「まあ、やっぱりお燐とお空のとこかな」

「お空?」

「霊烏路空。長くて本人が覚えられない名前なんて、意味がないでしょ。だからそう呼んでいるの」

 

 地獄烏の彼女は、お燐と同様ひとの姿へと化けることができた。そのせいで、肋骨が折れそうになったのは記憶に新しい。

 

「そうそう。言い忘れてたけど、ペット達に講座を開くのは禁止します」

「え?」

「救命講座とか、助けの求め方講座とか。あれで酷い目に遭ったんですから」

「えー」

 

 どうして不満げなのか分からないが、彼女はしぶしぶといった様子で頷いた。だが、その心は、次は何の講座を開こうかな、と嬉々として考えている。もはや叱る気にもなれない。

 

 一歩一歩前へと進むたびに、体が揺れ、鈍い痛みが走る。それでも、昨日伊吹萃香に抱えられていた時よりかは遥かにマシだ。一応は気を使ってくれているらしく、あまり揺らさないようにと忍び足で歩いてくれているようだった。彼女の明け方の空のようにきれいな髪に顔をうずめる。帽子が引っかかったが、気にしない。

 

 そうしている内にたどり着いたのは、霊烏路空の部屋だった。お燐の部屋で無くて本当に良かった、と心から思う。

 

「お燐もお空もいるね。ちょうどいいや」

「どうして、その二人が部屋の中にいるって分かるんですか?」

「心を読めばわかるじゃん」

 

 つまらなそうにそう言った彼女は、大きな音を立てて扉を力いっぱい開いた。驚き、悲鳴をあげる二人の姿が、背中越しに見える。その、二匹のペットの姿が面白くて、つい笑ってしまう。壁を隔てた向こう側にいる人妖のこころを読むなんて芸当は私はできない、と困惑していたが、そのことも消し飛んでしまった。きっと、私も同じ年になればできるようになる、と勝手に納得する。

 

「どうしたんですか、さとり様。そんな急いで入ってきて」二本の尻尾を逆立てたまま、お燐が訊いてきた。

 

 それはね! と大声で叫んだ声を遮り、口を挟む。余計なことを口にされそうで、怖かったのだ。

 

「実は、とある事情で食料が大量に必要になりまして、何かいい案がないかと、模索しているんですよ」

「うちの家計って、そんなに厳しいの?」霊烏路空が、心配そうに眉を下げた。

 

“そりゃ、理由を説明しないと、そう思われるでしょ”

 

 呆れの感情が、これでもかというほど、流れ込んでくる。地霊殿の主としてのメンツが丸つぶれだ。そもそも、身動きが取れない状態で、背中に抱かれて入ってきている時点で、そんなものある訳もなかったが。これでは単純に姉に甘える妹のようではないか。そう思いなおすと、急に恥ずかしくなってきた。

 

「八雲紫に頼まれたんだよ。地上に恩を売るのも悪くないでしょ? ざっと人間1000人分。どう? 何かいい案ない?」

「そう言われてもなー」

 

 お空とお燐は互いに顔を見合わせ、首を傾げ合っていた。どうしたもんか、と私たちのために必死に頭を捻ってくれてはいるが、どうやら特に何も思いつかないようだった。

 

「無理しなくてもいいですよ。なにか思いついた時に教えて下さい」

「あの、ごめんなさい」

 

 お燐が申し訳なさそうに眉をハの字にして、恭しくお辞儀をした。

 

 あくまで頼んだのはこちら側であって、質問に答えられなかっただけで謝る必要はないし、そこまで厳しく躾けているわけではないので、最初はどうしてお燐が謝ったのか、理解できなかった。が、すぐに分かった。彼女のこころには、鮮明にその時のことが映っていたからだ。

 

“勝手に地上に干渉してごめんなさい!”

 

 お燐は、私が星熊に殺されそうになっているときに、八雲紫に助けを求めようとし、伊吹萃香を地上に連れ出した。どのようにしてそれを行ったかは分からないが、あの地底にいる鬼の四天王の一人である伊吹萃香が地上に出るとなると、それだけで大事だろう。そして、当然のように八雲紫は介入してきて、そのまま地底へとやって来た。

 

「地底と地上の関係は、複雑で歪です。些細な事でそれが壊れてしまってもおかしくないほどに」

「ごめんなさい」

「でも」

 

 私はお燐に優しく微笑みかける。“包帯が巻かれている顔で頬を緩めても、気持ち悪いだけだよ”とこころの声が聞こえたが、きっと気のせいだろう。

 

「でも、結果的にお燐のおかげで私は助かりました。だから怒ったりしませんよ」

「本当ですか?」

「もちろんです。言うじゃないですか、結果良ければすべてよしって」

 

 いい言葉だ。途中でどんなミスをしようと、最後までになんとかすれば、問題ない。そう思わせてくれる。最近なにかと失敗続きの私にとって、救いともいえる言葉だった。

 

 よかった、と強張っていた顔をほどいたお燐だったが、すぐにお燐は顔をもう一度固くした。それを見て、お空も同じような表情へと変わった。辛そうに顔を俯かせている。彼女たちの翼や尻尾も、くたりとへこたれていた。

 

「仲良くしていたポコ太が、死んじゃったんです」

 お燐が、しんみりとした顔で言った。

「まあ、老衰だったんで、幸せな死に様でしたよ。でも、やっぱり悲しいですね」

 

 せめて、死体はきちんと供養してあげないと、とお燐は思っているようだった。その供養というのが、私の知っている通りの供養なのか、それとも、火車のコレクションにすることなのかは分からなかったが、お燐に任せる方が、そのポン太なる動物も救われるのは確かだ。死体を下手に扱うと、怨霊が増えかねない。

 

「そっか、ポコ太死んじゃったんだ」

 小さな声で、そう呟いて、背負っている私を地面にゆっくりとおろした。

「残念だね」

 

 そう言った彼女は、私の隣にぺたんと座り込んだ。私は思わず、その顔をまじまじと見てしまう。彼女は、残念だね、と言った割には、大してそう思ってなかったからだ。自分の可愛がっているペットが死んだと聞かされた割には、平然としている。

 

“ペットが死ぬのなんて、もう珍しくもないよ。一日に十匹くらい死んじゃう時もあるから。だから、慣れちゃった”

 

 私の心を読んだ彼女は、そう私に伝えると、薄く笑った。その笑みは、はかなげで、私の胸を締め付ける。頼りになる方の古明地。と呼ばれている理由が、少しわかった気がした。

 

 やっぱり、私なんかより地霊殿の主に向いているはずだ。

 

「それ、もしかしなくても悪口だよね」

 

 心を読み、そう笑う彼女の前で私は愛想笑いを浮かべる事しかできない。

 

 

 

 

 

 ここに来て、食料調達に関する案が何も聞けなかったのは、かなりの痛手だった。ペット達の中で、知能が高いのはおそらくこの二匹だろう。彼女たちが何も思いつかないということは、他のどのペットに聞いても駄目だということだ。

 

「やっぱりペットに聞くのは止めて、自分達で考えようか」

 

 どうやらそう思ったのは私だけでは無いようで、黒い帽子をゆさゆさと揺らしながら、考えよう、と何度も呟いていた。やはり姉妹は考えることが同じなのだろうか。そう思うと、少しうれしくなった。

 

「でも、もう少しお燐たちと戯れてからにしますよ」

「え、どうして?」

 

 分かっているだろうに首を傾げた彼女の口は、意地悪く笑っていた。

 

 近くにいたお燐とお空に向かい、小さく手招きをする。すると、彼女たちは、人型から動物の姿、猫と烏へと変わり、私に向かい突っ込んできた。包帯のせいでうまく撫でてやることはできないが、それでも彼女たちは満足そうだ。

 

「私の生きる目的は、ペットとの戯れと甘味なんですよ。それに」

「それに?」

「もしかすると、こうして遊んでいる最中に、何かいい案が浮かぶかもしれません」

 

 かわいいペット達は、私の包帯へと器用に身体を擦り付け、気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。自然と頬が緩む。その視界の奥で、助走をつけて、こちらに抱きつこうとしている人影が見えた。黒い帽子は既に脱げ落ちている。

 

「結果良ければ全てよしってやつだね!」

 

 威勢のいい掛け声と共に、目の前に可愛らしい顔が、もう一つ現れた.

 

 




お菓子は結局まだ残っています


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第119季3月30日─一期一会は最悪ですね─

 第119季3月30日

 

 どんなものでもいつかは壊れる。それは自然の摂理で、避けられないものだ。どんなに丁寧に扱おうが、丈夫な物だろうが、必ず終わりが来る。それを、今日味わう羽目になった。というのも、この日記を書くために愛用していた万年筆が、ついに駄目になってしまったのだ。文字を書こうとするも、うまくインクを吸い込まない。とくに悲しくはなかった。ああ、ついにこれも駄目になってしまったんだな。今までお疲れ様でした。と、そうお礼を言うくらいで、感慨深いものは特になかった。

 

 だけど、それをペットの糞掃除に使われるのは、さすがに納得できなかった。

 

「流石に駄目ですよ、それは」

「駄目って何が?」

 

 きょとんと、首を傾げた彼女は、ぎょろりとした第三の目をこちらに向けた。心を読まれているので、彼女はこの複雑な私の感情を分かっているはずだったが、それでもなお不思議そうな顔をしている。納得していないのだ。私の感情を理解したものの、どうしてそう思ったかまでは理解していない。なんで分からないのか、と思わず声を荒げてしまう。

 

「その万年筆は私が愛用していた物なんです」

「知ってるよ」

「それこそ、肌身離さず持ってました」

 

 知ってるって、と淡々と言う彼女の顔に、少し困惑の表情が浮かんだ。どうして私がここまで意固地になって反対するのか分かっていないのだろう。

 

「その愛用していた万年筆を、ペットの糞掃除に使うのですか?」

「そうだけど」

「嫌ですよ」

「えー。でもさ」

 

 でもも糞もあるか、と文句を言いたかったが、心の中に押し込める。が、当然ながら心の中まで読まれるわけで、彼女は分かりやすいくらいに、むっとした。

 

「でも、これにとっても、有効に使ってあげる方がいいでしょ。そっちの方が幸せだって。この死んだ万年筆も」

「万年筆が幸せを感じるとは思いませんし、そもそも元々生きてないですよ」

「そうじゃなくてさあ」

 

 包帯も大分取れ、体も動かせるようになっていた私は、医務室から出て、いつも通り自室で生活するようになっていた。想像の何倍も治りが早い。もしかすると、八雲紫がなにかしたのかもしれないな、そう思っていると、ずいっと目の前に可愛らしい顔が現れた。短いくせっげが、私の頬を撫でる。

 

「このままじゃ、どうせゴミになるだけでしょ? 地面に埋めるか溶岩に落とすか飾っておくか知らないけどさ、どうせ使えないじゃん。だったら、有効活用した方がいいに決まってるよ」

「確かにそうですけど」

「でしょ?」

 

 だから、これ貰っていくね、と満足そうに頷いた彼女は、スキップしながら私の部屋から出ていった。開けっ放しになった扉を呆然と見つめる。彼女は気楽そうでいいな、とそう思ったわけではない。むしろ逆だ。彼女はああ見えて、色々なことを考えている。私なんかよりよっぽど、思慮深い。いつも明るく振舞っているのも、彼女なりの考えがあるのだ。私も本来であればああいう風にふるまうのが正解なのだろうが、上手くいかない。

 

 “地霊殿の主は、薄気味悪くて、陰湿で、丁寧口調なんだよ”

 

 そう、心の声が聞こえた。それが、実際にいま聞こえたものか、それとも私の記憶の中のものであるかは分からなかったが、以前言われた言葉だったことは確かだ。地霊殿の主という悪口に含まれる意味を聞いた時に返ってきた言葉だった。だが、今考えても、丁寧口調であることが悪口になる理由が分からない。

 

 ぼけっと、そのまま扉の方を見ていると、段々と眠気に襲われてきた。視界が徐々に暗くなっていき、ぼやけてくる。このまま眠ってしまってもいいかな、と思っていると、その扉から誰かが入ってくるのが見えた。寝ぼけていた頭が急に冴えていく。それは、来客に対応しなければ、といった義務感でも、親しい友人が来たことによる高揚感でも無かった。

 危機感だ。殺されるといった危機感に襲われた。

 

「あなたが地霊殿の主の古明地さんですか」

 そう呑気に笑った彼は、どういう訳かとても呑気だった。妖怪ですら地底に来たら困惑するというのに、どうして。

 

「すこし、用事があってきたんですけど。安心してください、ここに来るまで誰にも会ってないですよ。あんたなら話が通じるって言われたんで来たんです」

「誰に」

「橋姫様に」

「ばっちり会ってるじゃないですか」

 

 どうして、彼がここにいるのか。いや、それは心を読めば分かった。八雲紫が連れてきたのだ。どうしてそんなことをしたのかは分からないが、とにかく、彼がここに来てしまったのは事実だ。だが、肝心の八雲紫が姿を現さないのが妙だった。

 

「たぶん、初めてですよ」

「初めて? なにがです?」

 

 私はそれには答えなかった。だらけていた体を起こし、もう遅いかもしれないが、地霊殿の主のように振舞う。つまり、薄気味悪くて、陰湿で、丁寧口調になるように心掛けた。

 

「地霊殿に来るような、命知らずな“人間”はあなたが初めてだと、言っているんです」

 

 

 

 

 

 人間。私たちさとり妖怪を恐れ、そして逆に私たちは彼らを恐れている。絶対に相反する存在。それが今私の目の前に座っていた。若い男だ。短く切られた髪を後ろに撫で付けている。その体つきはがっしりとしたもので、おそらく腕力は私よりもあるだろう。居心地が悪いのか、しきりに周りをきょろきょろしているが、それでも落ち着いたものだった。

 

 そもそもだ。本来であれば地底に人間が来ることなんて、ありえないのだ。地上と地底を結ぶ唯一の通路である竪穴は、とても人間が通れるようなものではないし、優秀な監視役が二人もいる。だから、そもそも人間が来るなんて想定をしていなかった。それに、しばらく人間と遭遇していなかったからか、そもそも彼らがどういう存在か、思い出せなくなっていた。だが、彼らが私たちにした酷い仕打ちだけは忘れそうにない。

 

 

「どうして私がここに来たかと言いますと」

 しかし、目の前の男はそんな私の苦悩も知らずに、意気揚々と語りだした。それはそれで腹が立つ。

「あれですよね。地上の人里で自警団をしているときに、八雲紫に脅され、いえ、頼まれたんですよね」

「そ、そうです」

 

 露骨に彼の顔が歪んだ。やっと、私のさとり妖怪としての恐怖が脳にまで達したらしく、ガタガタと震え出した。こころを読まれることは、人妖問わず、悍ましく感じるのだろう。

 

 そんな男から目線を外し、小さく息を吐く。八雲紫が本当に何を考えているかが分からない。人間をひとり地底に置いて、いったいどうするつもりなのだろうか。もしかして、この人間は大層な悪人で、追放されたのだろうか。いや、それはない、と首を振る。八雲紫がわざわざ人間を地底に追放するとも思えなかったし、この人間が、そこまで悪事をするようにも見えない。彼の心を読む限りでは、かなりの善人のようだった。それこそ、こんな地底に自分の意思で来るほどに。

 

「にしても、よく引き受けましたね」

「え?」

「奥さんの出産が成功するように、なんて曖昧な約束を、よく信用しましたね、と言ってるんです」

「あ、ああ」

 

 照れくさそうに彼は頭を掻いた。その頬は僅かに赤くなっている。彼の心には、笑顔で目を輝かせている、一人の人間の女性が映っていた。きっと、彼女が彼のつがいなのだろう。そんなつがいを出しにした八雲紫に対し、私は怒りよりも懐かしさを感じていた。流石、妖怪の賢者だ。

 

「ま、まあ」

「まあ、いきなり現れた恐ろしい妖怪に反抗できなかったってのが一番の理由ですけど、妻の出産が後押ししたのも事実です、ねえ。随分と仲がいいんですね。羨ましくはないですけど」

「は、はあ」

 

 どう反応すればいいか分からなかったのか、彼は苦笑いをしていた。

 彼の頭には、いきなり現れた金髪の、恐ろしい妖怪の姿が浮かんでいる。間違いなく八雲紫だ。だが、彼の思い浮かべている彼女の姿は、私の知っている彼女より、妖艶で、恐ろしいほどに美しかった。きっと、恐怖と共に、神々しさも感じていたのだろう。だから、彼女の言うことを信じてしまったのだ。

 

 そんな哀れな人間は自分の薬指をさすっていた。よく見ると、そこには指輪がはまっている。それを、無意識に触っていた。さすがに私も考えていないことを読むことはできないが、その指輪がなんなのか、想像がついた。

 

「その指輪、もらったんですか?」

「あ、ああ」

「誕生日に妻から。へえ。私だったら食べ物のほうが嬉しいですけどね」

「実は自分もそう思ったんですが、絶対に言えませんでした」

 

 なんだ、結構分かる奴じゃないか。そう言おうとしたが、それよりも、彼の様子が少しおかしいことに気がついた。苦しそうに眉を下げ、胸をさすっている。ゴホゴホとせき込むその口からは、確かに血がでていた。

 

「病気なんです」

 聞いてもいないのに、男は語りだした。

「もう、いつ死んでもおかしくないそうです。ここに来たのも、そのせいかもしれません。どうせ死ぬなら、妻のためにってやつですかね」

「独善ですよ、それは」

「分かってます」

 

 そう言った男は、もう一度大きく身体を揺さぶった。青白くなった顔からは、確かに死相が浮かんでいる。もってあと三日といったところか。八雲紫は、それも分かって彼をここに連れてきたのだろうか。

 

「地上で死にたくなかったんですよ」

「行方不明だったら、まだ生きているかもしれない、と希望を持てるから、ですか」

「怖いなあ、地底の妖怪は。心を読まれるのは想像以上に怖い」

 

 彼は、もし自分が死んだことが妻に知れると、後を追いかねない。少なくとも出産に悪影響が出ると、そう思っているようだった。ただそれを回避するためだけに、こんな地底で死のうと決意したのだろう。実際は、八雲紫の脅しに屈しただけなのだろうが、そう邪推してしまう。だた、私には分かった。その奥さんは、確実に彼が死に際だと分かっているということを。そして、姿を消した理由すら知っているに違いないことを。何故か。彼の顔は既に、死人のそれだったからだ。

 

「もし、私のせいで妻に何かあったらと思うと、いてもたってもいられなくて。妻は体が弱い所があるんです」

「あなたよりもですか?」

「昔は強かったんですよ。なんていっても自警団をやってましたから」

 彼は、服をめくり、力こぶを作ってみせた。確かに私なんかより遥かに頑丈そうだ。

「とにかく、私はとも倒れになるのが嫌だったんです」

「反とも倒れ派ってことですね」

「いいですね。その言葉」

 

 反とも倒れ派、反とも倒れ派、と繰り返し呟く彼の顔は、穏やかだった。そんな彼の顔を、つい、ぼうっと見てしまう。

 

 その時ふと、自分が恐怖心をこの人間に抱いていないことに気がついた。むしろ、親しみを感じていることに。なぜだろうか。死にかけの人間だからと、見下しているのか。それとも、幸の薄そうな顔に親近感を覚えたのか。いや、違う。

 

 久しぶりに家族以外の存在で、私に嫌悪感を抱いていない奴に出会ったからだ。

 

「無事に生まれた子供には、なんて名づけたんですか?」

 

 あえて、もし、や予定という言葉をつけなかった。子供が生まれてくるころには、彼はすでに死んでいるはずだからだ。確認ができないのならば、無事生まれると信じておいた方がいい。ここまで自分が気遣いをしていることに、また驚く。妖怪の賢者は、これを狙ったのだろうか。

 

「そうですね。女の子だったらまゆみで、男だったら三郎にしようって、伝えてあります」

「三郎? 三男なんですか」

「いえ、長男です」

「なるほど。あなたの名前が次郎だからですか。安直なんですね」

「悪いですか?」

「いえ、いいんじゃないですか」

 

 どうでもいいんじゃないですか。と、言おうと思ったが、彼の心に満ちている暖かさに水を差すのは申し訳なく思い、止めた。気づけば、彼の私に対する恐怖心は、収まっているようだった。これも、初めての体験だ。ペット達ですら、私には恐れを抱くのに。きっと、これから死ぬのだから、どうでもいいのだろう。

 

「きっと、元気で頼もしい子になるはずです」

「なんで分かるんですか?」

「自分たちの子ですからね。妻を支えてくれるでしょう」

 

 信じられないことに、彼はそのことについて一寸の疑いも抱いていなかった。まだ産まれていないにもかかわらず、既に親バカを発症してしまっている。そんな彼が、少しだけ羨ましかった。

 

 私たちは、しばらくそこで話し合った。それは、好きな料理の話だったり、好きな甘味の話だったり、好きな飲み物の話だったりと、様々なことを話した。そのどれもがしょうもなく、下らないものだったが、それでも私はなぜか楽しかった。だが、どんなものにも必ず終わりは来る。

 

「そろそろ、行きますね」

 

 男は徐に腰を上げた。その足は、ふらふらと安定せず、すぐにひっくり返ってしまいそうだったが、それでも彼は一人で立ち、扉へと向かっていく。行く先はどうやら決めていないようだった。八雲紫は迎えにはこないらしい。つまり、ここから出て、彼は死ぬ気なのだ。

 

「一ついうならば、鬼や他の妖怪に会う前に死んだ方がいいですよ」

「どうしてですか?」

「まともな死に方をしません」

 

 なるほど、と頷いた彼は、そのまま扉を開け、出ていった。これから死にゆく人間の気持ちなんて分からない。だが、私の気持ちは晴れやかだった。少なくとも悲しみはない。なにか、春のそよ風に誘われて、たんぽぽの綿毛が飛んできたような、そんなちょっとした幸運にあったような気分だ。彼の、薬指につけてあった指輪を思い出す。その輝きは、なぜか脳裏にこびり付いていた。せめて、幸せに死んでくれればいいのに、と願わずにはいられない。

 

 どんなものでもいつかは壊れる。それは自然の摂理で、避けられないものだ。どんなに丁寧に扱おうが、丈夫な物だろうが、必ず終わりが来る。それを、今日再び味わう羽目になったのだった。 




随分と好印象だったんですね。日記にそれが現れる程に


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第119季4月7日─鬼というのは、本当によく分からないものです─

 第119季4月7日

 

 私の好きな言葉に、骨折り損のくたびれ儲け、という言葉がある。意味は、苦労するばかりで利益はさっぱりあがらず、疲れだけが残ること。何度聞いてもいい言葉だ。まるで、私の今まで生きてきた道のりを要約するかのような、切実さが含まれている。骨を折って、それでいて何の利益も得られなかったことなんて、珍しいことではなかった。肉を切らせて骨を断つ、というが、実際は肉も骨も私ばかりが切られ、それでいて何もなすことができない。それが私だった。

 

「だから、そうやって目の前で簡単に骨を折られると、少し悲しくなりますね」

 星熊は私の言葉に耳もかさず、もう一度骨をぽきりと折った。

 

 結局、八雲紫から課されたノルマを達成する目処は立たなかった。というより、そもそも本当に達成させようとしているのか怪しいくらいだ。それくらい、実現不可能だった。まだ、鬼達を説得する方が楽かもしれない。いや、それはないか。

 

 だが、面倒ごとというのはどうやら重なるようで、命をかけた食料調達に挑んでいる私に、追い打ちをかけるような事態が、地底を覆っていた。

 

「別に折ってもいいだろ。どこの馬の骨とも分からないんだし」

「それ、馬の骨なんですか?」

「そうだな。まったく、いったい地底に何が起きているんだ」

 

 星熊はいつもの快活さとは打って変わり、心底だるそうに息をついた。ちらりと私をみて、もう一度息を吐いている。失礼だったが、文句は言えない。

 

「地底中に骸骨が無数に現れるなんて、どういうことなんだよ」

「さあ」

 

 その面倒ごとというのは、地底のあらゆる場所に骸骨が現れた、というものだった。突然現れたそれは、誰にも見られること無く、いつの間にかそこにあったらしい。スケルトン、という西洋妖怪がいたような気がしたが、まさに、骸骨が現れ、ひとりでに動いたとしか思えなかった。

 

「まるで見当がつきませんね。どうしてこんなことに」

「そういうのはいいから、早く白状したらどうだ?」

 

 威圧するためか、手に持っていた馬の骨を握りつぶした。その砕けたものが頬に当たり、チクリとした痛みが走る。やっと全身の傷が治ったばかりだというのに、また新しく傷ができてしまった。

 

「どうせ、また古明地のせいなんだろ? どんな手品を使ったんだ」

「い、いえ」

「手品じゃないのか。いいから、説明してくれ」

「私は何も知らないですよ」

 

 そこで星熊は、ガハハといつものような笑いを見せた。辛気臭さを吹き飛ばすように、地底の中の空気を全て吹き飛ばすように、大きく笑った。

 

「おいおい古明地」

 心を読むまでもなく、彼女の次に口にする言葉は分かった。

「嘘はよくないぜ」

 

 今度は私がため息を吐く番だった。まあ、そう言われるだろうな、とは覚悟していた。前科があるからだ。ヤマメが全身に大けがを負った時、私は何も知らないと、そう言った。が、実際は、私が彼女らの心をいじって、怪我を負わせたのだ。つまりは、しらばっくれていた。知らないふりをしていた。嘘をついていた。少なくとも、星熊はそう思っている。

 

「今度は嘘じゃないですよ。私にここまで影響力はありません」

「よくいうぜ」

 なぜか星熊は楽しそうだった。

「血の池地獄に落ちた癖にピンピンしやがって。むしろ怪我も治ってんじゃねえか」

 

 私は、このとき、かなり焦っていた。背中には冷たい汗が滝のように流れ、顔から血の気が引いていく。その反応によってウソがばれないかと、余計に焦りが募っていた。本当は入っていないということがばれないかと。

 

「それはあれですよ」

「どれだよ」

「私は不死鳥なんですよ。燃やされたら復活するんです」

 

 私は何を言っているのだろうか。こんな馬鹿げた誤魔化し方があるか。まだ黙っていた方がよかった。様々な後悔が押し寄せてきた。八雲紫にばらされる前に、自分から白状してしまったようなものだ。これで、食料調達はしなくてすむかもしれないなあ、なんて現実逃避をしていると、星熊がまた大きな声で笑った。

 

「そうかそうか。お前はそうだったのか」

「え?」

「変だと思ったんだよ」

 うんうんと頷いた勇儀は、がしりと肩を掴んできた。どうしてそこまで嫌っているのに、殺したいほど嫌悪しているのに、こうして距離を近づけられるか、私には分からない。

 

「ただのさとり妖怪とは思っていなかったが、まさか不死鳥とはな」

「え、あの」

「驚いたが、まあ、納得もできる」

「勇儀さん?」

 

 星熊は驚いた、と言っていたが、それ以上に私の方が驚いていた。それもそうだろう。まさかこんな嘘を本心から信じるなんて、夢にも思っていなかったのだから。

 

「嘘ですよ。嘘。そんな訳ないじゃないですか」

「嘘って何がだ」

「私が不死鳥の訳ないじゃないですか。ただの、しがないさとり妖怪ですよ」

「しがないさとり妖怪ってなんだよ」

 

 また、豪快に笑った彼女は、足元に落ちていた骨を持ち上げた。さっき折った馬の骨とは別のものだ。地霊殿の周りにも散乱していたが、旧都はそれ以上に多かった。大して損害はないが、気になるものは気になる。

 

 “まあ不死鳥でもなんでもいいが、さとり妖怪って時点でだめだな”

 

 彼女は、自分でそう思い、また勝手に笑っていた。何が面白いのか分からないが、どこか居心地が悪くて、「この骨、勇義さんはどう思ってますか?」と話題を変えた。

 

「骸骨共が夜な夜な大名行列でも開いているのかもな」

「いえ、それはないでしょう」

「どうして断言できるんだ」

「夜に旧都を練り歩けば、酔っぱらった鬼に絡まれるからです」

 

 違いない、と叫ぶ星熊は、心底楽しそうだった。事実彼女はこの状況を楽しんでいる。だが、その楽しみの感情よりも、私に対する拒絶反応の方が大きい。その本能を振り切ってまで、私と共にいるのはなぜだろうか。もし私が逆の立場だったら、絶対に関わらない。

 

「なあ、古明地」

 大きな一本の角を大きく縦に振りながら、星熊は訊いてきた。

「やっぱり、お前がやったんだろ」

「だから違いますって」

「でも、お前ならできるだろ?」

「何をですか?」

「誰にも知られないように骨を地底中にばら撒くこと」

 

 確かにできないことはなかった。心を読める私であれば、誰もいないかどうかを確認し、そこに骨を捨てることなんて造作もない。だが、そうする時間も、動機もなかった。そして何より。

 

「そんな骨、どこから調達するんですか」

「そこが問題なんだよなあ」

「そもそも、私を犯人という前提を外してください」

 

 星熊はこの“スケルトン事件”を解くことを、一種の娯楽としているようだった。私が犯人でも、特に責められるようなことはないだろう、ということも分かっていた。むしろ、褒められるとも。確かに、地底中に骨をばら撒くことは、目立つことでもあるし、気味が悪いものだが、誰かが傷ついたりすることもない。それに、平然と妖怪の死体が転がっていたりする地底では、骨が落ちていようが、気にしないような豪胆な奴の方が多数派なのだ。

 

「なら、お前は誰が犯人だと思うんだよ」

「犯人ですか」

「まあ、犯人というよりは、悪戯っ子だな。お前と違って」

 

 笑えない冗談だ。だが、それでも星熊は笑う。しかも、質が悪いことに彼女はこれを冗談だとは思っていないようだった。私はまだ彼女たちの中では、犯人のままなのだ。

 

「まあ、私は単純にお燐かなって思いましたよ」

「へえ、なんでだよ」

「ほら、火車だからですよ。死体をいつも運んで、集めてるじゃないですか」

「死体と骸骨は違う」

「一緒ですよ」

「違う。焼酎と日本酒ぐらい違う」

 

 私は、酒についてはほとんど知識が無かったので、それがどういった違いを意味しているのかは分からなかったが、とにかく、彼女がそこまでいう程に骨と死体は違うのだということが分かった。

 

「あれですね。砂糖と抹茶ぐらい違いますね」

「はあ?」

「砂糖を舐めて苦いという人もいませんし、抹茶を飲んで甘いという人もいないじゃないですか。それと同じですよね」

「おまえ、例え下手だな」

「酷くないですか?」

 

 私はつい星熊を睨みつけてしまう。まるで仲がいい友人のような会話だ。もし私が心を読めなければ、本当にそのように思っていただろう。だが、鬼らしく単純な彼女の心は、私には一切開いていなかった。何重にも扉を作り、その全てに鍵を閉めている。私にはそんなもの意味ないと知っていながら、それを作っているのだ。心の壁といってもいい。

 

「それに、味が分かんねえ奴だったら、その二つは区別できないだろ」

「味が分からないような妖怪がいるんですか?」

「いるなあ。口がない奴もいるし。それに、心に負荷が加わり過ぎると、物の味が分からなくなるらしいぜ」

「だったら、少なくとも勇義さんは大丈夫そうですね」

 

 違いない、と朗らかに笑った彼女は、足元の骨をけった。両腕を頭に持ってきて、骨があってもなあ、と呟いている。

 

「骨があろうがなかろうが、地底には関係なし、か」

「そうですね」

「まあ、最近地底に骨のある奴が少なくなってきてたから、丁度良かったがな」

「どういうことですか?」

「喧嘩を吹っ掛けても、断ってくる輩が増えたんだ」

「骨があるってそういう」

 

 むしろ、あの鬼の四天王である星熊に会って、逃げ出さない奴がいたら、おかしいのではいか。

 

「自業自得ですよ」私は万感の思いを込めて、そう言った。

「暴れまくるからです」

「じごうじとくねぇ」

 

 彼女にしては、珍しく含みのある言い方をした。

 

「私はな、自業自得って言葉は嫌いなんだよ」

「そうなんですか?」

「あんなの、弱い人間の言い訳にしか使えないよ」

 

 弱い人間、と聞いて、私は以前地霊殿に来た一人の男性のことを思い出した。あの、八雲紫に連れてこられたという面白い人間だ。彼は、きっともう死んでいるだろう。残念なことに人間の死体の報告は来ていないから、溶岩に飛び込んだのかもしれない。

 

「いいか。自業自得だなんてのは、他者を貶める時に使う言葉なんだよ。ああ、可哀そうな目に遭ってるな。でも自業自得だから仕方がない。私は助けないぞって具合に、仲間を助けないための言い訳に使ってるんだ。罪悪感を消しているんだよ」

「いやに感情が籠ってますね」

「むかし、萃香がよく言ってたんだ」

 

 ああ、と私は納得してしまう。あの掴み所がない小さな、けれども強大な鬼がいかにも好みそうな言い回しだった。

 

 そこで、私はふと思いつくものがあった。あの伊吹萃香の瓢箪からは、水さえ入れれば酒が出てくると聞いたことがある。それを食料として地上に渡せばいいのではないか、そう思った。が、すぐにその考えを消し去る。酒だけで生きていけるような奴は、鬼だけだ。

 

「どうした? 私の顔をじろじろ見て」

 つい、星熊の顔を凝視したようで、彼女は顔を顰めた。

「何かついてるのか?」

「い、いえ」

 

 なぜか気恥ずかしくなった私は、「勇儀さんは、人間にたべものを送らなきゃいけないと言われたら、何を渡しますか?」と口走っていた。胸が跳ね、余計なことを言ってしまった、と後悔が押し寄せてくる。

 

 一瞬きょとんとした星熊だったが、すぐに口を緩め、また笑った。彼女は笑わなければ死んでしまうのではないか、と心配になる。

 

「いきなり何を言い出すかと思えば、いきなり何を言い出すんだよ!」

「ちょっと、思いついてしまったので」

 

 そうだなあ、とその長い金色の髪を撫でた彼女は、野太い声で言った。

「私だったら、岩でも食ってろつって、投げつけるなあ」

 さすがは鬼だな、という感想しかうかんでこない。

 

 私たちは、骨で溢れた旧都の道を進み、どこか手ごろな店を探していた。けれど、どの店も開いていない。今日は何か祭りでもあるのか、と思ったが、違った。その店の中には確かに店員がいて、たまには客もいた。けれど、閉店というのぼりが掲げられているのだ。その理由は単純だった。私に店に来てほしくないのだ。

 

 もはや、この程度ではへこみもしない。感覚が麻痺してしまったのだろうか。嫌われすぎて、嫌われても何とも思わなくなってきていた。ただ、甘味屋にもう入れないとなると、大声で泣き出したくなるほど悲しかったが、幸いなことに、行きつけの店は私に対してまだ寛容だった。嫌っていない訳ではないだろうが、金払いのいい客を逃したくはないのだろう。今は、その豪胆さがありがたかった。

 

「おいあれ、古明地。あそこ見てみろよ」

 

 店の看板を見ながら歩いていると、突然星熊が立ち止まった。いったいどうしたのだろうか。そう思っていると、顔を掴まれ、強制的にとある方を向けられる。首が痛んだが、視界に飛び込んできたそれを見て、それどころじゃなくなった。

 

 視線の先には我が愛しの姉妹がいた。

 

 それがどれほど異常なことか。彼女は私以上に出不精で、ひとりで出かけることなど、まずない。大抵出かける時も私かペットと一緒だ。そんな彼女が外を一人で歩いている姿など、私も初めて見たかもしれない。

 

「どうしたんでしょうか。悪い物でも食べたのでしょうか」

「私が知る訳ないだろ。ただ、悪いものを食べて外出するようになるんだったら、あいつには毎日食わせた方がいい」

「確かに」

 

 向こうはどうやら私たちに気がついていないようで、建物の陰で腰を落としていた。かなり遠くにいるので、何をやっているか分からないが、あの特徴的な帽子と似合わない髪色は見間違いようがない。

 見間違いようがない。

 

「手でも振ってみますか」

 

 星熊に聞く前に、手を精一杯に伸ばしてブンブンと振る。となりでドン引きされていたが、気にしてはいけない。あの古明地が、こんな子供の様な仕草をするなんて、酔っぱらっているのか、とか言われていても、気にしてはいけないのだ。

 

 はるか遠くにいるあの子は、どうやら気がついたようで、ばさりと立ち上がった。てっきり私は、恥ずかしいとでも文句を言いながら、ふてぶてしくも、こっちに来るものだと思ったが、違った。私たちに背を向け、全力で飛び去っていく。その姿はみるみる小さくなっていき、一瞬で見えなくなった。

 

「逃げてったな」

「そ、そうですね」

 

 まさかそこまでの勢いで逃げられるとは思わなかったので、動揺してしまう。

 

「あれですかね。何か悪いものでも食べて、家族を嫌いになったんでしょうか」

「いや」

 

 私の左肩を掴み、ぐいっと身体を近寄せてきた星熊は、満面の笑みを作った。その笑顔はみているこちらまでもが楽しくなるようなものだったが、私は楽しくない。彼女が何を言うか、分かってしまったからだ。

 

「自業自得だぞ」

 




今思えば、溶岩に捨てるべきでしたね


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第119季4月10日─私にとっても厄日でした─

 第119季4月10日

 

 もし乾燥わかめを水に入れておいて置いたらどうなるか分かりますか? 

 

 私の部屋に来たお燐はいきなりそんな事を言いだした。当然、私は困惑し、何も言うことができない。彼女の言いたいことは分かる。心を読んでいるのだから、分からないはずがない。それでも、彼女がどうしてそんな例えをするのかが分からなかった。

 

「水の中に乾燥わかめを入れたら、増えるんですよ。だから、地底に骨を放置したら、増えるに決まってるじゃないですか」

「決まってませんよ」

 

 八雲紫が食料調達を言い渡してきてからの間、結局私は碌な行動もとれずに過ごしてきてしまった。後悔が押し寄せてくる。今までの私は、どこか楽天的に考えていたのだ。きっとどうにかなるだろう。もしどうにかならなくても、流石の八雲紫も許してくれるだろう、と高をくくっていた。みすみす地霊殿の主である私を死に追いやるようなことはしないはずだ、とそう思っていたのだ。だが、よくよく考えれば、その“地霊殿の主を死に追いやるようなこと”を平気でやるのが八雲紫であり、それによる憐れな被害者を私は何人も見てきた。だから私は、宿題をためこんだ寺子屋の生徒よろしく、かなりの危機感を覚えていた。地底に溢れる骨の件については考えている余裕なんて、ない。

 

 それで私はお燐に言ったのだ。地底に溢れる骨の件については、あなたに一任する、と。

 

「そんなこと言われても、あたいにはわかりませんよ」

「でも、お燐は死体が好きなんでしょ。だったら、骨のことも」

「分かりませんよ!」

 

 フシャーっと威嚇をするように歯を剥き出しにした彼女は、びしりと指を立てた。その仕草は、あの子にそっくりだった。

 

「死体と骨は全然違うんですよ。死体は魅力に溢れていますが、骨はただの骨です」

「日本酒と焼酎ぐらい違いますか?」

「なんですかその例え。意味わかんないですよ」

 私も分からない。

 

「ご主人様にも分かるように言えば、あれですよ。死体が団子で、骨が串みたいなものです。大事なのは外身なんですよ」

「よく分かりませんが」

 彼女の死体についてのこだわりは、私の想像以上のようだった。

 

「とりあえず、もしお燐の死体が骨だけになったら、団子でもあげますよ」

「もしそうなったら、お願いします」

 

 苦笑いをしたお燐は、その場にすとんと座り込んだ。赤毛の二本の三つ編みを猫のようにぶんぶんと振り回し、大きな欠伸をしている。人型でそのような仕草をすると、だらしなくみえる、と注意しても、彼女は一向に治す気はなさそうだった。

 

「とういより、最初はお燐が骨をばら撒いているのかと思いましたよ」

「え? どうしてですか? あたいが犯人な訳ないじゃないですか」

「犯人じゃなくて、悪戯っ子ですよ」

 

 というよりも、私はお燐がその“悪戯っ子”であってほしかった。そうであったら、この面倒な問題から解放され、食料調達に集中できると思ったのだ。お燐には、ちょっとした、それこそ一週間トイレ掃除をさせるくらいで、いいだろうと思っていた。

 

「だけど。そもそも骨が増えて、何か困ることがあるんですか?」

 当然の疑問をお燐が言ってきた。

「私も特には無いとは思ってましたし、今も思ってますが」

「思ってますが?」

「ちょっと、まずくなってきました」

 

 やる気満々で骨をいじくる星熊の姿が脳裏に浮かぶ。

 

「どうやら一部の妖怪が反感を持っているらしいんですよ。“俺たちの領域で下らないことをしやがって”って」

「それ、本当ですか?」

「心を読んだので間違いないです」

 

 彼らはそこまで怒っているわけではない。それこそ、ヤマメが以前大けがを負った時のように、犯人を殺してやる、と意気込んでいるなんてことはないのだ。ただ、それでも不満がたまり始めている。

 

「だから、別に真相を暴く必要なんてないんですよ。あくまで、地霊殿は頑張って原因を探してますって、アピールできればいいんです」

「なら、ご主人様がやればいいじゃないですか」

「私は忙しいんで」

 

 なんで、そんな嘘をつくんですか、と彼女は心でそう思っていた。逆に、なんで嘘だと思われているのか、と文句を言いたくなる。仕事に明け暮れ、八雲紫の無理難題に応えている私が忙しくないはずがないのに。

 

「ほら、前言った食料調達があるじゃないですか。それが大変なんです」

「私だって忙しいんですよ。ペット達が脱走していて」

「脱走?」

 そんな話は聞いたこと無かった。

 

 お燐は、詳細を語らなかった。語るよりも心で伝えるのが早いと判断して、状況を思い出していた。

 それによると、最近ペットの数が減っているようだった。それ自体は別に珍しいことではないらしい。亡くなったり、ふらっといなくなったりしたりすることは今までも普通に起きていた。だが、最近は行方不明となるペットが増えているようだった。といっても、動物は自由気ままにいなくなるものであるし、ペットとはいっているものの、勝手に住み着いたものであるから、そこまで気にしていない、とのことだった。

 

 そこまで気にしていない。意図的に彼女は心でそう問いかけていたが、本心はそうでは無かった。心配のあまり、夜も眠れていない。いなくなった彼らは無事だろうか。もし無事じゃなかったとしても、せめて弔ってあげたいな、と心の底から心配していた。

 

「つまりは、あなたより私の方が、よっぽど忙しいってことじゃないですか」

 

 ペットの件について、特に対策をしていないなら暇じゃないですか、と喚き立てる。彼女の暗い気分を吹き飛ばすように、あえて明るく笑った。

 

「なら、ご主人様は食料をはどれくらい集めたんですか」

 

 それを彼女も分かってくれたのか、同じように軽口を返してきた。だが、私は言葉が詰まってしまう。どれくらい集まったか。全く集まっていない。正確に言えば、全くということはなかった。昨日の晩御飯の残りくらいならあるし、へそくりのお菓子もある。だが、そんなのはある内に入らないだろう。

 

「ねえ、お燐」

「はい」

「人間って、骨を食べられたりしないかしら」

「もし食卓に骨が出てきたら、号泣しますよ」

「奇遇ですね、私もです」

 

 思わず、ため息を吐いてしまう。これならいっそ、今からでも血の池に落ちた方が、まだマシなのではないか。鬼達に入ったと嘘をついたとばらされるよりは、自分からそうした方がいいのではないか、とそう思うほどに私は困っていた。八雲紫が恨めしくて仕方がない。きっと、彼女は遊び半分で言っているのだろうが、私にとっては死活問題だ。文字通り、死ぬか生きるかの問題なのだ。

 

「どうしたもんですかね」

「八雲紫に頼まれたんでしたっけ、食料」

 お燐が心配そうにこちらを見上げてくる。

「あれ、言いましたっけ」

「聞きました。でも、そんなの無視しちゃえばよくないですか?」

 

 彼女に恩がなければ、弱みが無ければ、私もきっと彼女のそんな面倒な命令など無視しただろう。だが、鬼に嘘をばらされるよりは、ましだ。もしばらされたら、どうなるだろうか。あらあら、古明地さんだめじゃないか。きちんともう一度血の池に入りましょう。そのように言われるだろうか。いや、絶対にない。キスメとヤマメを陥れた恨みは、全く晴れていない。彼らにとって、血の池に落とすのはかなりの妥協案、もしくは伊吹萃香の策略によって、しぶしぶ納得したものであって、本来ならば、殺したかったはずだ。

 

 だから、あの日の宴会の名前が、“古明地に一泡吹かせる会”だったのだ。つまり、彼女たちにとって、私を血の池に入れるのは、少しお灸をすえる程度のものとしか映っていなかったに違いない。それすら私が逃れたと知ったならば、彼らは何をするだろうか。恐ろしくて、考えたくもない。

 

「とはいうものの、食料を集めろだなんて、無理なんですけどね」

「そうですね」

 

 お燐は人の姿のまま、私に向かい飛び込んできた。喉をゴロゴロと鳴らしながら抱きついてくる。怪我が治ったばかりで、痛む体をなんとか動かし、彼女を支える。急にどうしたの、とは言わない。彼女が何も考えず、嬉々として抱きついてくるのは珍しいことじゃなかった。火車としての妖怪の本能なのか、猫としての本能なのかは分からない。が、可愛らしいから問題ない。

 

 お燐を膝に乗せたまま、天井を見上げる。彼女の喉を撫ででやるだけで、彼女は嬉しそうに身をよじった。やはりペットは癒しだ。お燐を撫でている今だけは、すべてを忘れることができる。八雲紫の理不尽な命令も、どこからか湧き出る無数の骨のことも、そしてこれから訪れるであろう苦難に関しても、考えなくてすむ。甘味と同じくらいに、私を癒してくれる。そのペットの大半を私は知らないというのが、皮肉なものだが。

 

「ねえ、ご主人様」

 膝の上のお燐が、甘ったるい声を出し、私を見上げてきた。その目はくりくりとしており、光の反射で輝いている。

「ちょっと、あたいの部屋に来ませんか?」

 そんな顔で言われれば、断ることなんて、できなかった。

 

 

 

 

 

 私の部屋を出たとき、廊下には誰もいなかった。珍しい。いつもであれば、あの子がペットの部屋をあちらこちらと行き渡ったり、もしくは書斎から自分の部屋へと大量の本を運んでいるのだが、今日はいない。また、八雲紫から貰った外の世界の本でも読んでいるのだろうか。頼むから、推理小説はもう読んで欲しくないが。

 

「そういえば、お燐は血の池地獄って知っているんですか?」

 

 ふと、そんなことを口に出していた。別に大して意味があったわけではない。単純に、疑問に思ったのだ。私がそこに落とされると知った彼女が、どういう反応をしたのか、知りたかった。

 

 ああ、知ってますよ。と淡々と言う彼女の心に動揺が無かった。それがどうしたんですか? と逆に眉をひそめているくらいだ。

 

「いえ、私がそこに落とされると知っていた割には、随分と落ち着いていたな、と思いまして」

「ああ。いえ、大丈夫だと分かっていたので」

 

 どうして大丈夫だと分かったか。彼女の心に浮かんだそれは、全く大丈夫という根拠になってなかったが、それでも彼女はそう思ったらしかった。やっぱり、信頼されているのだなあ、と私は思いを馳せた。

 

「さとり様なら、何とかしてくれると、そう思ったんです」

「なんとか、ですか」

 

 本当に何とかなるのか、と問い詰めたくなってしまう。が、彼女にそれを言うのはお門違いだ。これは自分が蒔いた種である。やっぱり自分で解決しなくてはいけない。だが、肝心の解決方法が分からなかった。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかお燐の部屋の前へとたどり着いていた。正直に言えば、入りたくない。多種多様な死体が陳列された部屋に好んで入りたがるような奴がいるのだろうか。もしいるならば、私と代わって欲しかった。だが今更、用事があると言って抜け出すことはできないだろう。というより、がっちりと手を掴まれ、離してくれる気はなさそうだった。彼女からしてみれば、自慢のコレクションを見せつけたいのだろうが、私からしてみれば迷惑なだけだ。ただ、わくわくと期待に胸を躍らせている彼女を前に、そんなことはできない。

 

 決死の思いを込めて、がちゃりとドアノブを回し、ゆっくりと扉を押す。薄暗い空間に光が差し込み、段々とその部屋の全貌が露わになっていった。

 

 その部屋に、大きな悲鳴が木霊した。耳をつんざくような、甲高い声だ。無数にある死体の異様さに驚いた私が、その恐怖に耐えかねて、つい声を上げてしまった、のではない。

 

 悲鳴をあげたのはお燐だった。

 

 固く握っていた私の手を振り払い、一目散に部屋のなかへと入っていく。そこで、慌ただしく、きれいに並べられた棚をいったりきたりし、そこに置かれているものを確認していた。彼女の心は焦りと、困惑と、そして悲しみに包まれていた。その理由は、部屋に入ってすぐに分かった。

 

「ど、どうしよう」

 

 尻尾をへたりと地面につけた彼女の声は震えていた。目には涙が浮かび、懇願するようにこちらを見上げている。カタカタと震えたその姿を見ると、こちらまで悲しくなってくる。彼女の頭を抱え、抱き寄せる。

 

「何があったんでしょうか」

「分からないわ」

 

 ヒックと涙を必死にこらえようとしているのか、辛そうにすすり上げた彼女を抱いたまま、私は部屋をぐるりと見渡した。そこには、前来た時と同じように、綺麗な木目の棚が所狭しと並んでおり、ワインセラーのようだった。だが、肝心のワインがない。ワインではなく、その外側のボトルだけになってしまっていた。

 

 つまりは、死体が全て骸骨へと変わっていた。

 

「せっかく……集めたのに。どうして」

「お燐?」

「そんな……なんでさぁ」

 

 おいおいと泣き続ける彼女を宥めながら、私は何が起こったのかを考えていた。どうして死体が骨に変わってしまったのか。腐ったのか。いや、お燐は今までずっとそのままの姿で死体を安置できていた。どうして。地霊殿に溢れる骨と何か関係があるのか。

 

 そこで、一つの考えが浮かんだ。それは、あまりにも突拍子もないもので、普通に考えるとあり得ないことだった。が、一度そう思ってしまったら、そうとしか思えなくなる。

 

 誰かが物を骨へと変えているのではないか。

 

 そんなことができる奴がいるかも分からないし、やる目的も分からない。だが、そうとしか思えなかった。もしそれが本当だとすれば、それはかなりまずい。だが、今はそれよりも、お燐を宥めなければならなかった。

 

「あたいの、死体が」

「まあ、落ち着いてください」

「でも!」

 

 ふるふると震える彼女の頭をゆっくり撫でる。彼女の悲しみは想像に難くなかった。私だって、大事にとっておいた団子を地面に落としたら悲しくなる。

 

 大丈夫、と声をかけながら懐を漁る。目当てのものがあることを確認し、ほっと息を吐いた。

「まあ、とりあえず」

 泣きはらした目でこちらを見てくるお燐に向かい、微笑みかけた。

「団子、いりますか?」

 いります、と小さく呟いたお燐は、しぶしぶとそれを口に放り込んだ。

 

 

 

 大泣きしたお燐だったが、しばらくすると、落ち着きを取り戻し、すみませんでしたと小さく頭を下げた。

 

 その時の私は、今日は大変だったな、と一日を振り返り、お燐と共に食卓へと向かっていった。ちょうど晩御飯時だったのもあるし、泣き叫ぶお燐を宥めるのに体力を使ったので、お腹が空いていた。お燐もどうやら私と同じようで、お腹ぺこぺこです、と精一杯の微笑みを浮かべていた。だが、この後に悲劇が起こるとは、まるで考えてもいなかった。

 

「あ、遅いじゃん。何があったの」

 部屋に入ると、お空がぼけっと座っていた。どうやら彼女は一人でご飯を待っていたようだ。いつもであれば、私たちのことなど差し置いて勝手に食べてしまうというのに、どうしたのだろうか。

 

「いつものように一人足りないですけど、先に食べちゃいましょうか」

 基本的に私たちは、お燐とお空と古明地姉妹の四人で食卓を囲んでいた。とはいうものの、古明地姉妹のしっかりしている方は、しっかりしているはずなのに、落ち着きがなく、なんだかんだいない時が多々あった。最近では、その頻度が多いように思える。今日の食事当番は彼女だったはずだが、きちんと用意しているのだろうか。

 

 そう思い、机の上に置かれた鍋の蓋を開ける。そこには、いつものような暖かいご飯ではなく、最近では見慣れてしまったものが置かれていた。どうして、と呟いてしまう。

 

「あー!」

 

 呆然としている私たちを他所に、廊下の外から声が聞こえてきた。例の、落ち着きのない彼女の声だ。ドアのすぐそこで叫んでいるのか、その声はよく響いた。

 

「ご飯がどういうわけか骨に変わっちゃったから、今日のご飯はないよー」

 

 ご飯が骨に変わるようなことがあるのか。どういうことなのか、さっぱり分からない。ただ、私の頭の中では、一つの疑惑が膨らみつつあった。

 本当に誰かが、何かが物を骨へと変えているのか。そう思わずにはいられない。

 

 急いで外に出て、扉を開く。廊下の遠くで、スキップをしている彼女の姿が見えた。本当に呑気なものだ。ただ、ほんの少しだけ聞こえた“あと少し”という彼女の心の声には、どこか緊迫感があり、違和感を覚えた。が、それもすぐに掻き消える。廊下の奥で、思いっきり尻餅をつく可愛らしい姿が見えたのだ。

 

「あと少しで、スキップしながら廊下を渡り終えたのにー」と叫ぶ声が、聞こえてくる。

 

 私は何も言わずに扉をしめた。呆然と椅子に座っている二匹のペットを見て、それから鍋に入った大量の骨を見る。まさか、本当に骨へと変わってしまったのか。もしそうだとしたら、大問題ではないか。地底崩壊の危機だ。だが、それよりも早く私たちの胃袋が崩壊しそうだった。

「お腹空いたよ~」

 私たちが今できることは、そう言いながら、わんわんと号泣することだけだった。




お燐がそこまで悲しんでいるなんて、思いませんでした。


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第119季4月11日─頑張ってはいました─

第119季4月11日

 

 誰かに感謝されることは嬉しいものである。どんな理由にしろ、ありがとうと言われるだけで胸が高鳴るし、やったあ、と叫びたくなる。お礼に甘味屋に連れてってくれれば最高だ。だが、それにも例外がある。ありがとうと感謝されてもうれしくない時もある。

 

 一つ目は、嫌いな奴に言われた時だ。お前に褒められてもうれしくないし、むしろ腹が立つ。こういうことを思った事のある人は、少なくないだろう。誰だってそうだ。嫌いな奴がいかに自分を褒めようが、持ち上げようが、全く嬉しくない。

 

 二つ目は、身に覚えの無いことで褒められた時である。あなた、あの魔王を倒してくれたのね、と言われても、倒してない本人からすれば、ただ困惑するだけだ。自分はやってないと、説明するのにもまた更なる手間がかかる。

 

 今日私は、このことを痛感することとなった。

 

「ありがとう。助かったわ」

 書斎で本を読んでいると、いきなりどこかからそんな声が聞こえた。驚いた私は。その場で飛び上がり、きょろきょろと辺りを見渡してしまう。が、どこにも姿が見当たらない。

 恐怖を感じた私は、急いで第三の目を部屋のあちらこちらに巡らせた。だが、何も反応はなかった。そこで、私はそれが誰の声か、やっと分かった。地霊殿の書斎に、私に気づかれずに入って来られるような奴は、ほとんどいない。そして何より、きょろきょろと無様に部屋を見渡している私を観察するのが好きな、悪趣味な奴を、私は一人知っていた。

 

「何の用ですか、八雲紫」

「あら? 随分と冷たいじゃない。また団子でも落としたのかしら」

 

 振り返ると、すぐ目の前に八雲紫の姿があった。そのことは分かっていた。彼女はいつもそうだ。私を驚かせようと、さまざまなことをやってくる。以前も、お菓子の中にわさびを入れ、残念わさびでしたと、わざわざ分かりきったことを書いた紙切れも入れるといった、子供の様な悪戯もしてきた。何のためにか。私を驚かすためだ。今回も、私のすぐ近くにきて、驚かすつもりだったのだろう。そんなことは分かっていた。予想できていた。

 

でも、予想できたからといって、驚かない訳ではない。

 

 うひゃあ、と声を上げた私は、そのまま地面に転がった。ぬめりとスキマから出ている八雲紫はくすくすと楽しそうに笑っている。腹が立ったが、何より私は怖かった。彼女の言った食料調達がまるで進んでいなかったからだ。きっと、催促しに来たに違いないと、恐怖を感じていた。だが、そんな私に対し、彼女は予想も出来ない言葉を口にした。

 

「まさか本当に達成してくれるとは思わなかったわ。見直した。やればできるじゃない」

「何の話ですか」

 

 頭をくしゃくしゃと撫でてくる八雲紫が、不気味で仕方がなかった。どうして彼女は私を褒めるのか、そこまで嬉しそうなのか、分からない。

 

「何の話って、頼んだじゃない」

「頼んだって」

「食料調達よ。日記に挟んであったでしょう?」

 

 扇子を開き、いつものように自分の口元を覆った彼女は、どさりと無断でソファに座った。これもいつもどおりだ。いつもどおりでないことといえば、彼女の機嫌があからさまにいいことだけだ。感情を中々顔に出さず、いつも仮面のような笑みを浮かべている彼女にしては珍しい。

 

「きっちり1000人分用意するなんて、やるじゃない」

「え」

「どうやったかは知らないけど、何か一つくらい言うことを聞いても良いわよ」

「私、知らないんですけど」

 

 きっと、その時の私の顔は、心底微妙な表情だっただろう。身に覚えの無い成果に対する恐怖と、鬼達に殺されずに済んだという安堵、そして、胸を覆いつくす奇妙な違和感。私は軽く眩暈を覚えた。

 

「食料調達なんて、諦めてましたよ」

「へえ?」

「私はあなたに何も渡してなんかいないです」

 

 八雲紫は私の言葉をどう捉えたのか分からないが、曖昧な返事をし、ソファに深く座り直した。私は何が起きたか分からず、混乱していた。だというのに、余裕綽々な彼女を見ていると、馬鹿にされているのではないか、と怒りたくなる。が、逆に彼女が私を馬鹿にしていない時なんて無かった。

 

「まあ、あなたがそう言うならそれでもいいけれど。それでも私は約束するわ。あなたが血の池地獄に実は入っていないなんて、誰にも言わないと」

「本当ですか?」

「あら? 疑っているのかしら」

「そうです」

 

 そうは口にしたものの、私は彼女を疑ってはいなかった。単純に、少しは反抗したかっただけだ。だが、私のささやかな抵抗は、まるで彼女には届いていないらしく、いつの間にか取り出した紅茶を飲んでいた。それは、間違いなく私のものだ。勝手に場所を覚えたのだろうか。

 

 いつの間にか、知らないところで、私が食糧調達をした、という事実が出来上がっていた。どういうことなのか、さっぱり分からない。これも八雲紫の悪戯だろうか、とも思ったが、いくら八雲紫といえど、そこまでするほど暇じゃないだろう。それに、もし悪戯だとすると、すでにネタ晴らしをし、驚かせようとするに違いない。

 

「今年の冬は長くなりそうなのよ」

 訝しんでいる私に向けて、八雲紫は片目を閉じた。今まで見たこともない仕草にたじろいでしまう。あなたはそこまで陽気で上機嫌になれたのかと、言いたかった。

「在庫が無くなって、食料不足に陥った時にこれを渡せば、あなたも嫌われ役から脱却できるんじゃないかしら?」

「そんなんで嫌われなくなったら苦労しませんよ」

「あら。そうかしら?」

 

 そうだ。私たちさとり妖怪は、たかが少し恩を売ったくらいでは好意を持たれない。むしろ、気味悪がられるだけだ。私はそれを痛いほど知っていた。だが、八雲紫はとてもそのことを理解しているとは思えない。きっと、地上の問題に頭を悩ませ、そこまで気が回っていないのだろう。ただ、それは私も同じだった。地上と同じく、地底も今、大変なことになりつつある。

 

「そんなことより、今は地底が大変なんですから」八雲紫を驚かせたくて、私は大袈裟に焦っているように、手を振った。

「大変?」

「そうです。全てのものが骨に変わるような異変かもしれません」

「はあ?」

 

 八雲紫の心は相変わらず読めない。だが、彼女が今どう思ったかは分かった。こいつは一体何を言っているのか。気でもおかしくなったんじゃないか。そう思ったのだろう。その証拠に、彼女は私の発言の後も、呑気に紅茶を飲んで、「それは大変そうね」と微笑んでいる。

 

「信じてませんね?」

「むしろ、どうして信じてもらえると思ったのよ」

「旧都に行けば、たくさん骨がありますよ」

「そうなの? 後で見てみるけど、絶対にそんな原因じゃないわよ」

 そう決めつけた彼女は、「あ、そうそう」と話題を変えた。よっぽど私の話に興味がなかったのか、それとも単純にその事について今思い出したかは分からないが、その声は、少し間延びしている。

 ごくり、と紅茶を飲み干した彼女は、また、扇子を広げた。カッコウツケにしては、あまりにも不格好だ。

 

「あなたに返さなければいけないものがあるのよ」

「何ですか? 平穏ですか?」

「そんなもの、もともと持ってなかったじゃない。渡してくれたお肉の中に入っていたの」

 

 これよ、と彼女はその扇子を閉じた。どれだよ、と文句を言いたかったが、それは叶わない。どうしてか。息を吐くことができなかったからだ。首を絞められたわけでも無いのに、胸が苦しくなり、喉が開かない。鯉のように口をパクパクとさせる事しかできなかった。

 

 震える手で、八雲紫が手に持ったものを受け取る。何も言わず、私はそれを握りしめた。八雲紫がそれを渡してきた瞬間、私はすべてを覚った。さとり妖怪らしく、ようやく覚ることができたのだ。何をか。真相をだ。

 頭が真っ白になる。なぜだか、無性に泣きたくなった。怒りと、悲しみと、そしてむなしさでだ。

 

「八雲紫。さっき、ひとつだけ言うことを聞いてくれると言ってましたよね」

「ええ、言ってましたね」

「だったら、早速一つ、お願いしてもいいでしょうか」

 

 私の言葉を聞いた彼女は、露骨に嫌そうな顔をした。どうしてそんな顔をするのか私には分からない。願いを聞いてくれると言ったのは、そっちの方だというのに。

 

「少し、席を外してもらえないでしょうか」

「え?」

「姉妹水入らずで話がしたいんです」

 

 その願いがよっぽど予想外だったのか、彼女は本当にいいのね、と繰り返し聞いてきた。

 

「骨に変わる異変とやらの件も、大丈夫なの?」

「ええ。それは解決しました」

 

どういうこと? と何度も聞いてくる彼女を全部無視した私は、扉へと近づいていく。振り返ると、八雲紫の姿はなかった。約束通り、席を外してくれたのだろう。珍しく感謝を言いたくなる。絶対に言わないが。

 

 扉をゆっくりと開き、前を見る。そこには誰もいなかった。が、大声で叫ぶまでもなく、廊下の端から一人の少女が駆け寄ってくる。私の心を読んだのだ。その少女の顔には、いつものような気楽さはなく、どこか悲しそうだった。その理由は安易に想像できる。

 

 私はいったい、どうしたらいいのだろうか。分からない。八雲紫から返された、彼のつけていた指輪を固く握りしめる。

 

 

 

 

「案外はやくバレちゃったね」

 悪びれることなく、彼女はそう笑った。

「忘れるまで、ずっと逃げておこうと思ったのに」

 

 私たち姉妹は、机を挟んで向かい合っていた。こうして面と向かいあって話すのは珍しい事でも無いのに、なぜか胸が苦しかった。その理由は分かる。彼女の心には、一切の悪意が無かったからだ。

 

「まずは、私の話を聞いてくれますか?」

「心が読めているのに?」

「読めているのに、です」

 

 ふうん、と気の抜けた声を出した彼女は、口元に手を当て、話さなくなった。手短に、と心で訴えかけてくる。だが、残念なことに手短に終わる予定はなかった。

 

「八雲紫に頼まれた食料調達。いつの間にか私の知らぬ間に達成されていたのですが、あれはあなたの仕業ですね」

「答えを知ってて聞くのはどうかと思うけど、とりあえずお礼を言ってもいいんじゃないの」

 

 確かにその通りだ。私のために奔走してくれた彼女には感謝こそすれど、文句を言う筋合いはないのは分かっている。それでも、私は口を挟まずにはいられない。胸に溜まった感情を言葉にしないと、そのままその言葉の重みで胸が押しつぶされてしまいそうだった。

 

「あなたはいつだって私を助けてくれる。今回もそうでした。八雲紫に私の救出を頼んだ責任もあったようですが、それよりも、不出来な私のために、頑張ってくれたのですね」

「そう、だね」

“私がいないと本当に駄目なんだから”

 また、いつもの彼女の口癖が聞こえた。が、今はそれもただ煩わしいだけだ。

 

「ですが、いきなり1000人分もの食べ物を集めることは困難に近かった。そりゃあ、そうですよね。地底の連中に協力を頼もうにも、私のために唾を吐く奴はいても、食べ物をくれる奴はいませんから。だから、自分達でどうにかするしかなかった」

 

 私たちの食べる量を減らしたところで、微々たるものにしかならない。集めようがない。なら、どうするか。そこで私と彼女の選択に差が出たのだ。私は諦めた。彼女は諦めなかった。こんな私のために、必死に案を絞り出した。そして、思い付き、実行したのだ。

 

 食料が無ければ、作り出せばいい。

 

「あなたは合理的です。きっと、今回のこともあなたが正しいのでしょう。妖怪としても、地霊殿の主としても、あなたの方が向いています」

「なんで私は罵倒されているの?」

「ですが、さとり妖怪のあなたなら分かっているでしょうが、心ってものは合理的じゃないんですよ。理解はできても、納得できないんです。正しいことだとは分かっても、感謝できないんです」

「納得できないって、なにに?」

 

「死体を食料として差し出したことに、納得できないんですよ」

 

 食糧を集められなかった彼女は考えた。考えて思い付いたのだ。地底で一番手に入りやすい食料の存在を。そして、効率よく膨大な量の肉を手に入れる方法を、思いついてしまった。

 

「あなたは、初めは地底に落ちている妖怪の死体を探しに行ったんですね。そして、見つけた死体を捌いた。地底に溢れた骨は、あなたの仕業だった。スケルトン事件。地底中に骨がばらまかれた事件は、あなたがやったのですね。あれは、物が骨に変わるような異変ではなく、あなたの仕業です。地底に骨が散乱していたのは、捌いた後の骨の捨て場所に困って、適当に捨てていたから」

 

 彼女は返事をしない。それでも私は話を続けた。

 

「悪気が無かったのも知っていますし、あったとしても別に怒りません。あれは悪戯の範疇に入るでしょう。」

 

 星熊と一緒に彼女を旧都で見かけた時、彼女は骨を捨ててきていたのだ。それを、私や星熊に見つかりたくなくて、全力で逃げた。

 

「昨日、夕食がなかったのは、食料調達のノルマに、それ差し出せば足りたからですよね。それで、お遊びで骨を入れた鍋を食卓に並べてきた」

 

 彼女は、部屋の外から私たちの様子を窺っていたのだ。部屋の外からでも彼女は心を読むことができるが、私はできない。それを利用して、私に会わないようにしていた。

 

「まさか。物が骨に変わるなんて突飛なことを考えているとは思わなかったよ。驚いた。だから、つい悪乗りしちゃった」

「悪乗りで済ませられませんよ。本当に」

 

 去り際に、あと少し、と彼女の心の声が聞こえたのは、あと少しでノルマを達成できると考えていたからだ。それを私に聞かれたと知った彼女は、わざとらしく転び、誤魔化しにかかった。今思えば、そんなんで騙されるような奴がいるのか、と思うくらいだが、少なくとも私はまんまと引っかかった。

 

「しかし、地底にある死体の中で、人間が食べられそうな死体を回収したのはいいですが、到底数が足りないことに気がついた」

「案外少なかったよ」

「それで、お燐の部屋にあるコレクションを捌いたんですよね」

 

 彼女は返事をしない。狼狽え、私の顔を心配そうに見上げるだけだ。お燐がどれほど苦労して集めたか、知っているはずなのに、彼女はそのことについては何も思っていないようだった。また、集めればいい、と考えている。間違っていない。私の命とペットの趣味を天秤にかけた彼女は、私を取ってくれた。頭を下げなければいけないのは、分かっている。それでも、私は。

 

「でも、それでも足りなかった。定期的に地底に死体を探しに行っても中々足りず、焦った」

「期限が近くなってたもん」

「だから、亡くなったペットの遺体を食料にしようと思ったのですね」

 

 そこで、初めて彼女は動揺を露わにした。心が混乱で蠢いている。彼女にも悲しみはあった。今まで世話したペットの死に直面したのであれば、それも当然だろう。だが、それでも罪悪感は無かった。彼女が今混乱しているのは、そのことについて私が絶望を抱いているからだ。

 

「お燐はペットのことをかなり心配していました」

 思った以上に低い声が出た。が、そんなことはもうどうでもよかった。

 

 ペットが行方不明になった理由は簡単だ。亡くなった彼らの死体が消えていた。ただそれだけのこと。世話役の彼女であれば、亡くなったペットを人知れず何処かへ運び、調理することなんて簡単だった。寝不足で目を充血させていたお燐の顔を思い出す。行方不明になった彼らのことを心配していた彼女に、こう伝えれば安心するだろうか。ペットは行方不明になってないですよ。亡くなったんです。死体はもうありませんが、特別な事情があったわけではありません、と。

 絶対に彼女は、いやペット達は怒るだろう。そして、それは私も同じだった。

 

「私たちを慕って、彼らはここに集まってきてくれたんですよ。世話だってみてたんでしょ? 可愛がってあげたのでしょう? そんな彼らの、腹を裂いたというのですか。四肢を切ったというのですか。頭をもいだというのですか!」

 

 私に彼女を叱りつける権利がないのは分かっていた。そもそもが自分のせいであるのに、それをまるで彼女のせいのようにしてしまっている。そんな自分が大嫌いだ。それでも、口から言葉は途絶えない。

 

「分かってますよ。理不尽なことを言っているのは。あなたは何も間違っていないことは分かっているんです。それでも、私は」

「違うよ」

 

 突然、彼女は口を挟んだ。いきなりのことだったので、呆然として、ただ彼女の顔を見つめる。目つきの悪い鋭い目には、哀れみが浮かんでいた。

 

「違うって、何がですか」

「今怒ってるのは、私がペットを食料として差し出したことだと思ってるでしょ? でも、本当はそうじゃないんじゃない?」

「何を言って」

「人間の男」

 

 彼女の言葉に、心臓が止まりそうになった。いつの間にか、自分の右手へと視線が移ってしまっている。理由は分からない。それでも私は悲しかった。

 

「私がその人間の男を地底で拾って、捌いたことを怒ってるんでしょ? 絆されたわけでも無いだろうに」

「少し、黙って下さい」

「たかが少しの時間会っただけで、そこまで感情移入したら駄目だよ」

「黙って下さい」

「でも、いいじゃん。死んでからも人里に貢献できたのなら、本望だったんじゃないかな」

「黙れ!」

 

 ガタンと音が響いた。一瞬、何の音か分からなかったが、机の上についた自分の手を見て、ようやく自分が手を叩きつけた音だと分かる。

 

 あの人間の死体が見つからないのは当然だった。他でもない目の前の少女が、彼の死体を処理してしまったのだ。弔うこともなく、祈ることもなく。あの献身的な彼の死体は、解体され、肉を剥がされ、内臓を処理され、ただの肉片へと変わり八雲紫に渡されたのだ。

 

「彼は。あの人間の男は、奥さんのために死にに来てたんです。こんな陰湿な地底にわざわざ降りて、自分を犠牲にして妻子の幸福を約束したんですよ。最期くらい、きちんと弔ってあげるべきだったんです。最期くらい報われるべきだったんです」

 

 そこで、どうして私があの人間に嫌悪感を抱かなかったのか、やっと分かった。私は彼に同情していたのだ。正直ものは報われなければならない。人のために行動したものは、救われなければならない。そう思ったのだ。

 

「だけど、そんな彼は結局死後も救われなかったんです。そんな彼を、あなたは捌いたというのですか!」

 

 私は、いつの間にか声を荒げていた。どうしてそこまで自分が感情的になっているか分からない。薄く微笑む彼の顔が脳裏にこびり付いて離れなかった。

 

「どうしてそんなことをしたんですか。あなたは何も思わなかったんですか!」

「そりゃ、悲しかったさ。でも」

 

 彼女は俯かせていた顔をばさりとあげた。その目には哀れみと悲しみが混じっている。虚ろで、儚い目だ。彼女のそんな目を、初めて見たかもしれない。あまりにも悍ましいその目に、私はぞっとした。

 

「このままじゃ、どうせゴミになるだけでしょ? 地面に埋めるか溶岩に落とすか飾っておくか知らないけどさ、どうせ使えないじゃん。だったら、有効活用した方がいいに決まってるよ」

 

 彼女の言葉を前に、私は何も言い返すことができなかった。ただ、その場で佇む事しかできない。彼女の言うことは正しい。これ以上なく正論だ。私のために頑張ってくれたたった一人の家族だ。なのに、どうしてだろうか。私は彼女のことが分からない。心を読んでいるのに、分からなくなってしまった。

 

「出て行ってください」

「え?」

「すこし、頭を冷やさせてください」

 

 私の声は、か細く、消え入りそうなものだった。だが、それでも聞こえたらしく、何も言わずに席を立ってくれる。

 扉の前まで来た彼女は、徐に振り返った。心配そうにこちらを見て、励ますように口を開く。

「でも、これで血の池地獄に落ちる必要もなくなったし、八雲紫に恩を売ることもできた。ハッピーエンドだよ。結果良ければ全てよしって言うじゃん」

「そうですね」

 

 廊下をとテトテと歩いていく姿を見ながら、確かにその通りだ、と一人で頷いていた。結果的には私は助かった。地底にある骨もすぐに土に還るだろう。何の問題もない。結果良ければすべてよし。なるほど、そうだったかもしれない。

 

「でも、それは誰にもバレなかったらの話ですよね」

 

 視界の端に、ぬるりとスキマが現れる。そこから出てきたのは八雲紫ではなかった。

 

「今の話、本当ですか?」

 

 声のする方へとふりかえる。そこには目を真っ赤に泣き腫らした、火焔猫燐の姿があった。




ごめんなさい


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第119季4月11日(2)─本当にごめんなさい─

「今の話は本当ですか?」

 

 お燐はもう一度、同じ言葉を繰り返した。

 てっきり私は、彼女が怒っているものだと思っていた。仲間たちの遺体を勝手に捌かれ、自慢のコレクションを台無しにされて、さぞ激昂しているのだろうと、そう思っていた。だが、実際は違った。彼女は怒ってもいなければ、悲しんでもいなかった。心を覆っている感情はただ一つだ。そして、その感情を、私はよく知っていた。

 彼女の心に浮かんでいるのは、嫌悪感。それだけだった。

 

「本当に、お二人が、みんなをバラバラにしちゃったのですか? 嘘ですよね。冗談ですよね。さすがに、笑えませんよ」

 縋るような声で、彼女はそう漏らした。だが、それが嘘だとは、冗談だとは彼女自身思っていないのは明らかだ。

 

「冗談だと、嘘だと言っても、もうあなたは信じないじゃないですか。まあ、嘘でも冗談でも無いですが」

「そんな、なんでそんなことを!」

「あれ? 聞いてませんでしたか?」

 

 お燐がどうして私たちの会話を盗み聞き出来ていたのか。それは八雲紫のせいのようだった。本当に彼女が何を企んでいるのか分からない。八雲紫は、私の部屋を追い出された後も聞き耳を立てていた。それだけだったらまだよかったが、どういう訳か、眠っていたお燐を起こし、自分の膝の上に置いて、一緒に聞いていたらしい。本当に余計なことをしてくれる。最初こそ、八雲紫に対する恐怖で震えていたお燐だったが、私たちの会話がペットの死体の話になってきた辺りで、そんな感情は何処かへ消えてしまったようだった。

 

「私が助かるために必要だったんです。さっき言ってたじゃないですか。食糧調達が必要だって」

「でも、だからといって!」

 

 彼女の気持ちは嫌という程理解できた。私も同じような感情を、ついさっきまで持っていたからだ。だが、冷静にならなければならない。私は地霊殿の主。地霊殿の主は、薄気味悪くて、陰湿で、丁寧口調でなくてはならない。いま、やらなければならないことは一つしかない。私の持っている才能を使うのだ。嫌われる才能を使わなければいけない。

 

「お燐、少し冷静になりなさい。こうして私が助かったのですから、いいじゃないですか」

「よくないですよ! これも、八雲紫が変な交換条件を付けたから」

「違いますよ」

 

 そう違う。怒りの矛先を、憎悪の矛先を間違えてはいけない。自分自身に言い聞かせるように、お燐に向けて小さくそう呟いた。地上との確執を持つようなことは、何としても避けなければならない。

 

「自業自得なんですよ」

「え?」

「今回は私が自分の尻ぬぐいをしただけで、八雲紫は関係ない」

「でも」

「でも? でも何だというのですか? あなたは彼女のせいでペットが葬り去られたと思っているのですか? 違うでしょう。内心ではそう思ってないじゃないですか。私を恨みたくなくて、嫌いたくなくて、無理矢理心を捻じ曲げようとしてるじゃないですか。でも、その発想に至っている時点で、手遅れなんですよ。あなたは無事、私のことを嫌いになったんです」

 

 お燐の顔は、髪色と同じくらい真っ赤だった。大粒の涙がボロボロと零れ、今にも大声で泣き出してしまいそうだ。行方不明になったペット達のことをずっと思い浮かべている。そうして、その直後に彼女の頭に浮かんだのは、あの子の姿だった。まずい、と頭の中で声がした。私の声だ。

 

「でも、さっきの話を聞いている限りだと、死体を集めたのは。みんなを解体したのはさ」

「お燐!」

 

 大きな声で、言葉を遮る。それ以上は言ってはいけない。あの子は何も悪くない。悪いのは私だ。私が食糧調達を諦めたから、こんなことになってしまったのだ。

 

「彼女は、私の命令に従っただけです。頼んだんですよ」

「でも、さっき喧嘩してたじゃないですか」

「あれは、彼女がお気に入りの私の死体を、人間の死体を捌いてしまったからですよ。お燐のコレクションは許可したけど、私のは駄目だと言ったのに」

 

 お燐の顔がみるみる引きつっていく。目を見開き、口を真一文字に結んだその表情は、もはや見飽きてしまう程に、経験したものだった。右手に握った指輪をもう一度強く握りしめる。その指輪が安心感を私にくれるようなことは、当然なかった。

 

「ペットは可愛いですけど、所詮その程度です。私の命の方がよっぽど大事です。私は地霊殿の主なんですよ? 誰もが羨むリーダーなんです。むしろ、その私の命を助けるために四肢をもがれ、内臓を取り出され、頭を砕かれた彼らは、感謝すべきですね」

「あたいは」

 お燐は、私から距離を取るように後ずさりし、いつの間にか扉へと手をかけていた。一刻も早くこの部屋から出たいのだろう。

 

「あたいは、そこまであなたの命が大切だとは思いません」

 

 彼女の声は小さく、そしてか細いものだった。語尾が震えて、最後の方など言葉にすらなっていなかった。だが、それは私の頭にしっかりとこびりついていた。今でも鮮明に思い出せる。彼女の目には私は映っていなかった。彼女はこれから、ペット達の所に行って、泣きつくのだろう。その中にはあの子の姿も入っている。だが、私の姿だけは、彼女の頭の中からきれいさっぱり消え去っていた。

 

「あなた、ね」

 

 初めてお燐に言われたその言葉は、思いのほか重かった。お燐の姿はもうない。いつの間にか飛び出していったようだった。そのことにすら気づかない自分に嫌気がさす。ソファにどさりと崩れ落ちた。胸の中に大きな穴が空いたような喪失感に襲われる。あの子は悪くない。八雲紫も悪くない。悪いのは私だ。そう何度も思い込む。

 

 

 

 

 どのくらいソファに座っていたのだろうか。いつの間にか眠ってしまったようだった。視界はぼやけ、頭は重い。目を開けているはずなのに、世界が暗くなったように感じた。まだ夢の世界にいるような、そんな感じがする。

 

 だから、目の前で涙を流している妖怪の賢者を見ても、私は驚かなかった。

 

 まだ夢の中にいたのかと、そう思ったのだ。あの八雲紫がこんな顔をする訳がない。彼女はいつも憎らしいまでの笑顔を浮かべ、こちらを見下しているのだ。そんな彼女が涙を流すことなど、無いに違いない。

 

「ごめんなさい」

 そして私に謝ることも、無いと思っていた。

「そんなつもりじゃなかったの」

 

 いつもは閉ざしている彼女の心から、悲しみが溢れていた。漏れ出ていると言ってもいい。あの八雲紫の感情を感じることなんて、それだけでも珍しいことであるし、その内容が負の内容であることなんて初めてだった。いつもであれば、馬鹿にし、笑っただろうが、なぜだろうか。もう、どうでもよかった。

 

「本当に私は、あなたが頑張って食料を集めてきたと思ったのよ。まるで出来の悪い子供が一人前になったように嬉しくてね。それで、あなたの偉大さを火車と一緒に見ようと思っただけなのよ。なのにこんな」

 

 彼女が早口で何かを捲し立てているのは分かった。私に謝っているということも分かった。だけど、肝心の内容は理解できない。ただ、煩わしかった。

 

「八雲紫」

「な、なにかしら」

「うるさい」

 

 ひゅっと息をのむ音が聞こえた。目を向けると八雲紫が、目を丸くし、こちらを見ている。どうしてそこまで驚いているか分からない。だが、とにかく私は気が立っていた。世界がぐるぐると回り、もう何が何なのか分からなくない。

 

「一つ、聞きたいことがあるのだけれど」

 いつもの自信満々な彼女の声とは打って変わり、蚊の鳴くような声で、彼女は訊いてきた。

「どうして、私やあの子のせいにしなかったの。別にあなたが一人でそんな辛い目に遭う必要なんてないじゃない」

「それ、本気で言ってますか?」

 

 私はあまりに間抜けな質問に、つい笑ってしまう。カラカラと、喉を掻き切るような音が部屋に木霊する。でも、どうして私が笑っているのか、自分自身でも分かっていなかった。

 

「お燐は、最初は私たち全員を恨んでたんですよ。嫌ってたんですよ。それこそ、修復不可能なくらいに。だったら、せめて一人だけに絞った方がましじゃないですか。嫌われるのは一人でいいんですよ。私はあれですから」

「あれって、何かしら」

「反とも倒れ派ですから」

 

 お燐から話を聞いたペット達は、どのような反応をするのだろうか。きっと、お燐と同様、私を嫌うのだろう。もしかしたら、あの子はその話を否定するのかもしれない。けど、私は知っていた。一度ついた負のイメージは、ちょっとやそっとで壊れない。私はペットに嫌われることになる。それは、もはや推論ではなく、事実だった。

 

 このままソファの上で溶けてしまいそうだった。溶けてしまいたかった。だが、どういう訳か、八雲紫が私を支えるように、隣に座っていた。赤ん坊をあやすように私の頭を撫でている。

 

「やっぱり、間違ってたんですよ」

 意識することもなく、勝手に言葉が零れていく。

「間違っていたって、何が?」

「私みたいな弱い妖怪がリーダーをするなんて、無理だったんです。強い妖怪と弱い妖怪は決して交わるべきじゃないんです」

「そんなこと言わないで頂戴」

 

 八雲紫の声色は、不気味なほどに優しかった。彼女にも、そう言った声が出せるのだな、と感心したが、ただそれだけだ。特に興味も湧かない。

 

「そ、そうだ」

 そんな私の反応を見て、少し焦ったかのような仕草を見せた八雲紫は、懐から何かを取り出した。今日は全然妖怪の賢者らしくない。大胆不敵で、常に相手の奥底を覗いているような彼女にしては珍しく、悲しんだり、焦ったりしている。だが、面白くもなんともなかった。

「大福、二個持ってきたのだけれど、一ついるかしら」

 

 ソファにだらしなくもたれかかったまま、彼女の手にある真っ白な大福を見つめる。これを食べれば、少しは気分も晴れるだろうか。まだマシになるだろうか。

 

「一つ、貰います」

 

 少しほっとした表情を見せた八雲紫の手から大福を受け取り、一口で放り込む。普通の大福だ。もちもちした独特の感覚が口の中に残る。

 

「どうかしら。少し砂糖が多かったかもしれないけれど」

「そうですね。少し甘いかもしれません」

 

 そう、と小さく呟いた彼女は、急に慌ただしく席を立った。その顔は青ざめている。何か急用があったのだろうか。

 

「どうかしたのですか?」

「い、いえ。ちょっと用事を思い出して。お暇させていただくわね」

「そうですか」

 

 スキマを開いた彼女は、こちらをじっと見ながら、ゆっくりとその中に入っていった。彼女の感情はもう読めない。ただ、その真剣な顔は、八雲紫らしくないことは確かだった。スキマが閉じる瞬間、その真剣な顔が歪み、また泣き出しそうな顔になったように見えたが、きっと気のせいだろう。

 

「まったく、なんだったんでしょうか」

 

 私の答えに反応してくれる人はいない。しんと静まり返ったこの部屋は、居心地が良かった。誰の悲鳴も聞こえてこないし、呪詛も聞こえてこない。

 

 口に残った大福を飲み込もうとすると、小さな違和感に気がついた。口の中に何か、四角くてザラザラしたものがある。とても飲み込めそうにない。餅から引き剥がし、それを取り出す。それは、小さな正方形の紙切れだった。見覚えがある。

 

 ハハハ、と声が響いた。誰の声か。私の声だ。いつの間にか笑っていた。全く気がつかなかったが、私は口を大きく上げ、全力で笑っていた。何も面白くないのに、何もかもがどうでもいいのに、それでも笑っていた。右手に持っていた彼の指輪はいつの間にか床へと落ちている。机の上に置かれたその紙きれをもう一度見た。

 

“激苦抹茶入り”と書かれていたそれを、くしゃくしゃと丸める。

 

 笑いは収まらなかった。まさか、本当に砂糖と抹茶の区別がつかなくなるとは。私の笑い声は地霊殿中に響き渡っていたはずなのに、誰もくる気配もなかった。そのことに、また笑いがこみあげてくる。

 ペットに嫌われ、甘味の味が分からなくなった。悲しいはずなのに、それでも笑いが止まらない。涙なんて、出てこなかった。

 

 生きている意味、無くなっちゃったなあ。




しかも、人間は人間や妖怪の死体を食べることができないらしいですね。つまり、骨折り損のくたびれ儲けだったわけです。


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第119期7月9日─変わっているのか、いないのか分かりませんね─

第119期 7月9日

 

 きっと、大丈夫。私がこの世で一番嫌いなセリフだ。無責任で、傲慢で、そして不躾な言葉。これほどまでに、私を苛つかせる言葉はない。

 

 何が大丈夫で、何が大丈夫じゃないかなんて、私にしか分からないじゃないか。それを、どうして知ったような口で、そんなことを言えるのか、理解に苦しむ。お前には私の気持ちを分かられてたまるか、とますます腹が立つだけだ。

 

 だが、一人だけ、その言葉を口にしていい例外がいた。

 

「きっと、大丈夫だよ」

 

 そう声をかけられた私は、普段であれば憤り、自棄を起こし、自室に閉じこもるか、地底中を駆け回るところだった。が、そうはしなかった。その理由は単純だ。声をかけてくれた相手は、唯一、私のことを知ったような口で、私の気持ちを分かったように言うことができる存在だったからだ。

 

「だから、元気を出してね」

 

 心配そうに薄く笑った彼女は、頭に被った帽子をソファに置き、私の肩へと頭を預けてきた。机の上に置いてあったカップが、振動でカタリと揺れる。かつての天真爛漫だった彼女とは思えないほどに、しおらしい。きっと、以前のことを気にしているのだろう。

 

 “本当にごめんね”

 

 心の中で、いつものようにそう呟いた彼女を前に、私は大きくため息をついた。その小さな音ですら、私の部屋には染み渡るように響いていく。

 

 あの日以来、私の部屋に来るペットはいなくなった。元々普通の妖怪たちは来ることもないので、実質的にはいつも私一人だ。広く感じていたこの部屋だったが、より一層大きく感じられる。だが、一人というのも悪くない。気が楽だ。そう思い込む。

 

「だから、いつも言ってるでしょ? 謝る必要はないんですよ」

 

 目を閉じ、肩を落としていた彼女は、ますます縮こまった。彼女の心に、罪悪感があふれる。そんなもの、感じる必要もないのに。

 

「私はあなたが頑張っているのを見るだけで、いいんですよ」

「まるで、お母さんみたいなこと言うなあ」

 ふわりと笑った彼女だったが、心の靄は消えていない。

 

 そんな私に会いに来てくれるのは、目の前で頬を擦り付けてくる彼女だけだった。もし私が一人っ子であったならば、きっと既にこの世にいないだろう。それほどまでに、彼女の存在は私にとって大きかった。

 

 未だ、食べ物の味は分からない。全身を覆う倦怠感のせいで、全てにおいてやる気が出ない。だが、彼女と話している間だけは、そのことを忘れることができた。彼女がここに来る理由の半分が、罪滅ぼしの感情だと分かっていても、それでも今の私には十分すぎる。

 

「ずっと部屋に引きこもってないでさ、たまには外に出てみたら?」

「外に出るのは、なかなか大変なんです」

「そうなの?」

「鬼が地上に出て行ったとき、八雲紫は死にそうな顔をしてましたよ」

 

 そう私が口にすると、どういうわけか、彼女は顔を歪ませた。心の中の陰がぐるぐると回り、何を考えているか分からない。だが、一瞬、驚きの感情が含まれたのは確かだった。

 

 地底の妖怪が地上に出ることはご法度だ。だから、わざわざ地底に”封印”するという言葉を使っている。なのに、最近それを破り、地上へと出て行った鬼がいた。もっとも、彼女は結構な頻度で出ていたけれど、今回は、無視できないほどの騒ぎを起こしたらしかった。詳しくは知らないが、鬼の四天王の彼女が起こしたならば、相当面倒なことになったのだろう。八雲紫が死にそうな顔になるのもうなずける。

 

 その鬼とはだれか。そう。伊吹萃香だ。

 

「鬼が地上に行くのは、きっと誰かに恩返しするときだけじゃないかな。鶴みたいに」

「いや、喧嘩しに行くに一票です」

「確かに」

 

 もし当たったら、団子をおごってあげるよ、と彼女は笑った。味のしない甘味なんて、ただ苦痛でしかなかったが、それでも私は笑みを作る。彼女がなぜそう言ったのかを読めてしまったからだ。

 

 “あの頃のように戻りたい”

 

 彼女はそう切望していた。あの頃、といってもそんなに遠い過去ではないはずなのに、遙か昔のように思える。下には下がある。そのことを痛感させられていた。

 

「とにかくさ、外に出てみようよ。気が晴れるかもしれないし」

「いいですよ、私は」

「なんでさ」

「自分の心に聞いて見てください」

 

 正直に言えば、家族水入らずで散歩をするのも、悪くないと思い始めていた。だが、それはあくまで散歩が目的だった場合だ。何を企んでいるか分からないが、彼女の目的がそれ以外にあることは、明らかだった。

 

「腐っても、私はさとり妖怪ですよ。あなたが何を考えているかなんて、分かるんですから」

「そんなこと、分かってるよ」

 

 “分かってて、聞いているんだよ”

 

 彼女は悪びれもせず、私の肩を大きく揺すった。視界ががくがくと揺れ、目が回る。つい最近であれば、心の中で悲鳴を上げ、実際に素っ頓狂な声をあげていたかもしれない。だが、もはやそんな元気は私にはなかった。ただ、面倒だな、と思うだけだ。

 

 まあ、どうせ部屋にいたところで、仕事をする気にもなれないから、いいか。そう思い始めていた時、ガシャリ、と嫌な音が響いた。あ、やばい、とつぶやく声が聞こえる。

 

 足元に冷たい何かが触れた。ゆっくりと視線を移す。そこには、無残に割れ、破片と化したカップがあった。紅茶が床にしみ、私の靴下を濡らしている。

 

「ご、ごめん」

 

 両手を合わせ、ペこりと頭を下げてくる。彼女の柔らかな髪の毛が地面に垂れていた。

 

「割れちゃったね」

「いいですよ。別に」

「で、でも」

「こんなもの、すぐに直せますよ」

「いや、私が新しいのを買うよ」

 

 心の中で、ごめんなさいと謝りながら、彼女はもう一度頭を下げた。

 

 

「壊れちゃったら、すぐには直らないでしょ」

「まあ、確かにそうですけど」

「よし! なら、任せて!」

「何を任せるのかしら?」

 

 突然、私たち姉妹以外の声が部屋に響いた。聞き覚えのある声だ。久しく聞いていなかったため、一瞬誰の声だか分らなかった。が、すぐに思い出す。そもそも、いきなり部屋に現れることができ、なおかつ心を読むことができない奴なんて、一人しか知らなかった。

 

「八雲紫」

「あら、驚かないのね」

「いや、驚きましたよ」

 

 そう。この時の私は確かに驚いていた。八雲紫が急に現れたから、ではない。そんなこと、もうどうでもよかった。なら、何に驚いたのか。もっと単純だ。八雲紫が私に会いに来たこと自体に、驚いたのだ。

 

「まさか、あなたが会いに来るとは思いませんでした」

 想像以上に、私の声には抑揚がなかった。

「てっきり、嫌われたのかと思っていましたよ」

 

 逆に、私のことを嫌っていない妖怪なんていないか。そう思うと、つい自嘲気味な笑みが浮かんでしまう。一度浮かんでしまった笑みはなかなか消えず、ケラケラと笑い声が零れた。いったい何が面白いのだろうか。きっと、何も面白くないのが面白いのだろう。

 

「それで、用件は何ですか」笑いながら、訊ねた。

「あなたは面倒ごとを寄越すときしか、来ないじゃないですか」

「あら、辛辣ね。そして重症」

 

 うふふ、と見慣れた笑みを浮かべた彼女は、いつものように口元で扇子を広げた。相も変わらず胡散臭い奴だ。早く帰ってよ。

 

「本当はここじゃなくて、血の池地獄で話そうと思ったのだけれどね」

「へえ」

「中々姿を現さないものだから、こちらから訊ねたってわけ」

 

 “私が連れていく予定だったんだけどね”

 

 カップを片付けながら、肩をすくめている彼女は、ぺろりと舌を出した。いつの間にか、八雲紫と接触していたのだろう。まったく気が付かなかった。

 

「それで、用件なのだけれど」何かを考えるように目を上にあげた八雲紫は、躊躇なく私の隣へと腰を下ろした。

「つい最近、伊吹萃香が地上で騒ぎを起こしたこと、当然知っているわよね」

 

 ああ、と声が零れる。なるほど。どうして彼女がここに来たのか。そんなの、考えるまでもなかった。鬼が地上で騒ぎを起こせば、それは地底の管理者である私の責任となる。八雲紫は、それを糾弾しにきたのだろう。心なしか、彼女の目にはクマが浮かんでいるようにも見える。

 

「知っているには知っていますが」

「知っているって、どのくらい?」

「そうですね。いつの間にか地上に脱出して、結果的に地底に帰ってきてないってことぐらいですかね」

「全然知らないじゃない」

 

 呆れか怒りか。はぁ、と心底大きなため息を吐いた八雲紫は、わざとらしく肩を落とした。こっちはこんなに苦労しているのに、と愚痴のようなものをすら零している。

 

「いい? 彼女はね、地上で自身の能力を使って、連日連夜飲み会を開いたのよ」

「え、そんだけですか」

「そんだけって」

「いや、伊吹萃香なら、もっとやらかしてそうだと思っただけです」

 

 なんとも平和的でいいではないか。私なんて、もはや飲み会に誘われることはなくなったというのに。まあ、誘われても行かないけど。

 

「それだけだったら、まだよかったのだけれど」

「けれど?」楽しそうな相槌が、隣から聞こえる。

「けれど、鬼が飲み会を連日連夜開くってことは、つまりは」

「つまりは?」

「連日連夜、伊吹萃香が喧嘩をするってことでもあるのよ」

 

 伊吹萃香が、毎日飲み会を開き、そのたびに喧嘩をする姿を思い浮かべる。地獄絵図。いや、そんな言葉ですら生温いだろう。よく地上が滅びなかったものだ。

 

「八雲紫」

「何かしら」

「実は私、最近いやなことばかりで、世の中に絶望していたのですが」

「え、ええ」

「大変そうなあなたを見ていると、私はまだマシかもしれないって思えてきました」

 

 どういたしまして、とぎこちなく笑った八雲紫を見ていると、いきなり後ろから肘でつつかれた。

 

 "思ってもいないことを”と三つの目を半開きにした彼女に対し、私は口の前で人差し指を立てた。慌てて話題を変える。

 

「やっぱり、私の言う通りだったじゃないですか」

 べつに嬉しくなかったが、さも喜んでいますといったように頬を上げた。

「鬼が地上に行くとしたら、喧嘩しに行く時だって」

「えー、恩返しという可能性もまだ」

「ないです」

 

 悲しそうに眉をひそめる彼女を見ると、どこか心が落ち着く。まだ私はここにいていいのだと、いなくてはいけないのだと、そう思わせてくれる。実際は、私なんていなくなっても、大して問題がないと知っているのに。

 

「恩返しとかなんとか知らないけれど、私はただ文句を言うためにわざわざ地底まで降りてきたわけではないわよ」

「いいですよ、それだけで」

「よくないわよ」

 

 八雲紫の声は、どこか弾んでいた。「思ったより元気そうね」とほほ笑んでいる。なぜ彼女が楽しそうなのか。理由は分からない。それでも、こんな私ですら、楽しそうだな、と思えるほどに上機嫌だ。橋姫が見たら、きっと嫉妬心を募らせるだろう。

 

「きちんと落とし前をつけてもらわないとね」

「落とし前?」

「そう」

「落とし物ならよくしますけど」

 

 がくっと肩を落とした彼女を前に、つい、首をかしげてしまう。私がつけられる落とし前だなんて、もはや無いに等しい。そんなこと、八雲紫も知っているはずだった。

 

「また、食料を集めろっていうんですか?」

「それは忘れなさい」

 

 急に真顔になった八雲紫は、早口でそう言った。誤魔化すように、大きく咳ばらいをし、「落とし前っていうのはね」と言葉を続ける。

 

「落とし前っていうのは、決闘してほしいのよ」

「決闘?」

「幻想郷のリーダーである私と、地底のリーダーであるあなたで決闘をするのよ」

「それは、遠まわしに死ねといっているのですか?」

「違うわよ」

 

 何が違うのか分からないが、八雲紫はもう一度、決闘よ、と言った。どうして二回口にしたのか、これも分からない。

 

「郷に入れば郷に従えって言うでしょ? だったら、ここは地底らしく、そして鬼らしく、決闘で落とし前をつけてあげようじゃない」

「決闘って、弾幕勝負とかですか?」

「違うわ。鬼みたいな、殴りあいよ」

 

 やっぱり、死ねと言ってるじゃないですか。そう反論するも、彼女は聞く耳なんて、持っていなかった。

 

「それに、その問題はもう完結したんじゃないんですか? 確かに伊吹萃香が地底を脱出したのは私の管理不足ですが、今は無事地上に受け入れられたんですよね。だったら、問題ないじゃないですか」

「そういうわけにはいかないわ」

 

 私の隣に座ったまま、八雲紫は扇子を振った。ちょうど私の目の前の空間が裂け、漆黒のスキマが現れる。無数の目が私をぎょろりと見つめていた。何度見ても気持ち悪い。どうして、こんな隙間に易々と入っていけるか、分からなかった。馬鹿みたい。

 

「あら、驚かないのね」

「何がですか?」

「いや、なんでもないのよ」

 

 どこか悲し気に眉をひそめた八雲紫だったが、すぐにいつもの微笑みへと戻った。

 

「何事もなければ、確かに落とし前はいらなかったけれど」

「何かあったんですか?」

「喧嘩の時にね、神社やらなんやら色々壊したのよ、萃香が。その落とし前をつけなきゃいけないでしょ?」

「いけなくないですよ」

 

 それなら、一週間後、楽しみにしているわね。そう一方的に言い残した八雲紫は、勢いよくスキマへと飛び込んでいった。

 

 嵐のように去っていった八雲紫がいた場所を、呆然と見つめる。神出鬼没。まさに彼女らしい。久しぶりに彼女の理不尽さを感じた気がした。だが、懐かしさはない。どうしてだろうか。

 

「落とし前って、大げさだね」

 

 そんな、感傷に浸りきれていない私の肩に、どすんと強い衝撃が走った。

 

 “昔、こうしてよく遊んだよね”と肩車のように、私の頭を足で挟み、楽しそうに鼻歌を歌っている。

 

「神社なんて直せばいいのに」

「分かってないですね」

 

 八雲紫の、不敵な笑みが頭に浮かんだ。分かっていないのは私の方だ。そんなことは分かっている。こうして日記を書いている今も、彼女が何を考えているかなんて、分からない。ただ、一つだけ、分かることがあった。

 

「壊れたものは、すぐには直らないんですよ」

 

 いま、博麗の巫女は壊れかけの神社でしばらく過ごさなければならない状況だということだ。

 




きっと、大丈夫


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第119期7月10日─考えすぎですよ─

第119期7月10日

 

 決闘。果し合い。喧嘩。そのどれもが物騒で、私とは縁遠いものだ。まあ、姉妹喧嘩をしたことが無い訳ではないが、精々、心の中で罵倒を飛ばしあうぐらいの、可愛いものぐらいだ。つまり、私は初心者といってもいい。なんのか。喧嘩だ。逆に、八雲紫はそれこそ、プロと呼んでもいいだろう。数多の妖怪を力をねじ伏せてきた彼女は、争いごとに関しても、遥か上の次元にいるはずだ。

 

 もし、今わたしと彼女が争えば、三秒も持たない間に負けてしまうに違いない。それこそ、喧嘩とは言えないほどに、決闘とは呼べないほどに呆気なく。なら、どうするか。鍛えるしかなかった。

 

「そこまで、頑張らなくてもいいんじゃないかな」

 

 昨日あれほど外に出た方がいいと言っていたにも関わらず、八雲紫の決闘に私を巻き込もうとしていたにも関わらず、第三の目を使い、彼女は訴えてきた。心からは、とめどなく不安感があふれ出ている。

 

「きっと、八雲紫も本気で戦ったりはしないって」

「いえ、それはどうでしょうか」

 

 どうして八雲紫が私に決闘を挑んできたか。昨日、眠れない中必死に考えた。こんなに頭を動かしたのは久しぶりだ。どこかぼんやりとして、働かない私の頭が出した結論は、やはり、落とし前、ということだった。

 

 八雲紫が伊吹萃香を、地底を許したところで、幻想郷が許したわけではない。地底の妖怪が協約を無視して騒ぎを起こしました。けれど、幻想郷の賢者と仲が良かったので、無罪放免です。なんて言われても、納得する方が難しい。

 

 私情で管理者が悪しき先例を作ってはいけない。なら、どうするか。責任を取らなければならないのだ。そして、責任を取ることが、リーダーの仕事でもある。その責任の取り方として、八雲紫は決闘という形をとったのだ。まだ、処刑でなかっただけありがたいというべきだろうか。

 

  八雲紫は、この条件を飲まなかったらどうするか、何も言い残さなかった。そんなの、言うまでもないからだ。リーダーが逃げればどうなるか。それはいつの時代だって同じだ。その配下は、滅ぼされる。流石に地底の連中がやすやすと八雲紫に負けるわけはないと思うが、少なくとも、地底と地上の間に大きな溝が生まれてしまうだろう。今の曲がりなりにも平和な地底は消え去り、それこそ旧地獄に相応しいような、そんな悲劇的な空間になってしまう。

 

「だから、逃げるわけにはいかないんですよ」

「まあ、確かにそうだろうけどさ」

 

 当然、しっかりした方の古明地と呼ばれている彼女は、そんなこと分かっていた。分かっていて、八雲紫が本気を出さないと思っているようだ。だが、その理由までは読み取れない。

 

「でも、どっちにしろ、私にはなんで頑張るのか分からないよ」

「どうしてですか?」

「だって」

 

 彼女が何を言うのか、分かっていた。だが、それでも私は訊ねずにはいられない。なぜなら。

 

「だって、地底なんてもうどうでもいいって、そう思ってるんでしょ。地底なんて滅んでしまえばいいって。なのに、どうして地底のために頑張るの?」

「さあ、ね」

 

 なぜなら、私自身本当の意味で頑張る意味を見いだせていないのだから。

 

 

 

 

「それで? いきなり話があるだなんて、何を企んでいるんだ」

 星熊勇儀は、いやな顔を隠そうともせず、呟いた。

「飯はおごらないぞ」

「分かってますよ」

 

 地霊殿を出て、私は真っ直ぐに旧都へと向かった。久しぶりの旧都だ。なかなかの距離があったはずだが、一匹の妖怪とも会わなかった。当然、ペットにもだ。だが、どこか物陰に潜んでいるようで、心の声は聞こえてきていた。その内容はここには書かない。書いてもよかったが、おそらく、書いていると、それだけでこの日記が埋まってしまうだろう。当然、呪詛の言葉で、だ。

 

 旧都につくと、すぐに目当ての鬼を見つけることができた。星熊だ。というより、それ以外の妖怪は部屋に閉じこもったり、どこかへ逃げ出したりして、姿が見えなかった。まあ、用があるのは彼女だったので、問題はない。

 

「あなたには、お願いがあって来たんです」

「断ってもいいか?」

「いいじゃないですか。私とあなたの仲ですし」

「それ、最悪ってことだからな」

 

 ガハハと楽しそうに笑う彼女の声に、愉悦の感情はなかった。そんな彼女をまねて、私もがははと笑ってみる。当然、楽しくなんてなかった。

 

「今なら、団子も付けますよ」

「お前が? 私に団子を?」

「どうかしたんですか?」

「いや、お前」

 

 鬼らしくもなく、彼女はうろたえながら、私の肩を掴んだ。掴んで、後悔している。無意識に私を心配してしまった自分の心を呪っていた。人がいいというべきか、鬼がいいというべきか。

 

「あれほど甘味に執着していたお前が、まさか私に団子をくれるなんて思わなくてな」

「団子なんて、いらないです」

「え?」

「要らないものをあげて、必要なものを得る。合理的じゃないですか」

「お前、団子は命より大事って」

「知ってますか? 団子は甘いからおいしいんです」

「私はしょっぱいみたらしも好きだぞ」

「あっはい」

 

 訝しげにこちらを見ていた彼女だったが、「それで? 頼み事ってなんだよ」と訊いてきた。私の頼みごとを、一応は聞いてくれるらしい。内心で、後々面倒になるよりはましか、と思っていたとしても、私にとっては好都合だった。

 

「勇儀さんって、喧嘩強いじゃないですか」

「当たり前だろ」

「だから、教えてほしいんですよ」

「教えてほしいって? 何を」

「喧嘩のやり方を」

 

 もう一度、星熊はガハハと大声で笑った。今度は、心から愉悦を爆発させている。

 

「おいおい冗談だろ? お前さんに喧嘩を教えられる奴なんてこの世にいねえよ」

「そうですか」

「当たり前だろ。どっちかといえば、私の方が、いや。やっぱ教えなくていい」

「そうですか」

 

 もし私が本当に強かったのならば、嫌われずに済んだだろうか。ふと、そんなことを考えた。恐怖され、嫌悪感を抱かれつつも、誰かには憧れられ、頼りにされたりしただろうか。いや、しない。私が嫌われているのは、さとり妖怪だからではない。私自身の問題だ。

 

「でも、いいんですよ。私は勇儀さんに教わりたいんです」

「嬉しくねえな」

「というより、あなた以外に話をしてくれる存在が、もはや家族しかいなくなりました」

「萃香は、ああ。あいつ外に行きやがったんだよな」

 

 羨望と嫉妬の感情が彼女の心に宿る。やはり、なんだかんだ言って彼女も地上へと行ってみたいのだろう。だが、それだけは何としても避けなければならない。それこそ、土下座をして、地面を舐めてでも。なぜ? ふと、そんなことが頭によぎった。なぜ。そんなの、分からない。

 

「彼女は、いったい何をしに地上に行ったんでしょうか?」

「そんなの決まってるだろ」どういうわけか、彼女はふふんと鼻を鳴らした。

「喧嘩だよ」

「ですよね」

 

 つい、大きく頷いてしまう。やっぱり、鬼が考えることなど一つしかなかった。

 

「恩返しという可能性はないですか?」

「恩返し?」

「そうです」

「あるわけないだろ」

 

 何言ってんだよ、と彼女は肩をすくめた。今度は笑いすらしない。それもそうだ。あの喧嘩することでしか鬱憤を晴らせないような不器用な彼女に、そんなことができるわけがない。いや、違う。彼女は不器用ではない。私の方がよっぽど不器用で馬鹿だ。彼女を批判する権利は私にはない。そんなことは分かっていた。

 

 それでもなぜか、この時の私は酷く苛立っていた。

 

「鬼は、喧嘩しかしないですもんね」

「酒も飲むぞ、もちろん」

「どうして酒を飲み、喧嘩しかしないあなたは皆に好かれるのでしょうか。力が強いから? だったら力が強いと思われている私が嫌われているのはなぜ? さとり妖怪だから? だったら、あの子はどうして私より人望があるの?」

 

 そんなの、私が悪いからに決まっている。自分でもわかってはいた。それでも、口にせずにはいられない。

 

「おい。どうした、古明地。らしくないぞ」

「らしい? 星熊に私の何が分かるっていうの? 地底中から慕われ、喧嘩と酒におぼれ、一丁前に萃香に嫉妬してるくせに、豪傑だといわれ続けているくせに、私のことが分かるっていうの? 地底中から嫌われたことはある? ペットに無視される日々を過ごしたことがある? 誰も私を本心から嫌悪していると知っていながら、逃げることすらできない私の気持ちを考えたことがあるの? ないでしょ。あるわけがないです。所詮は鬼。地上に行きたいと心の中で駄々をこねることしかできない惨めな生き物。それでも私は羨ましいですよ。嫌われているという事実を、常に突きつけられている今よりは、圧倒的にね」

「おい、大丈夫かよ」

「ああどうかと思わずにはいられませんよ。どうか嫌いな地底を……」

「落ち着けって!」

 

 がしりと肩を掴んだ彼女は、私を押し倒し、馬乗りになった。後頭部を強く打ち付け、痛みが走る。だが、それよりも。それよりも私は星熊の表情に驚いていた。なぜ、そんなにも辛そうな顔をしているのだろうか。

 

「落ち着けよ。落ち着いてくれよ、古明地。お前は確かに嫌われているし、私もお前のことが嫌いだ。だが、お前のことを慕っている奴もいるだろ。そんな風になるな。そんな、嫌ってもいない奴を、嫌いだなんて嘘を吐くなよ」

「例えば?」

「え?」

「私を慕っている奴もいるって、言いましたよね。そんな奇妙な奴の名前を、一人でもいいから挙げてみてくださいよ」

 

 我ながら、酷い質問だと思う。彼女はただ、私を励ましたかっただけだ。嫌いで関わりたくない奴だが、不幸になってほしいわけではない。星熊はそう思っていた。彼女が慕われる理由は、鬼だからでも力が強いからでもない。優しいからだ。頼りがいがあるからだ。救ってくれるからだ。それでも、私はその救いを拒否してしまった。なのに、後悔すら感じない。

 

「お前のことを慕っている妖怪は」

「妖怪は?」

「そうだな。すまん。思いつかない」

 

 心底辛そうに肩を落とした彼女は、力いっぱい自分の頭を殴っていた。ごん、と鈍い音が響く。ぽたりと、血が地面に垂れた。

 

「思いつかない、ですか」

 

 彼女は怒っていた。自分自身に。私を励まそうとするばかり、嘘をついてしまったことを、心から後悔していた。それもそうだ。私を慕っている奴なんて、誰もいないことはもう明白だ。そんな分かりやすい嘘を口にするなんて彼女らしくもない。

 

「古明地。どうした本当に。確かにお前は陰湿な奴だが、そこまで暴力的でもなかったじゃないか」

「暴力的ではないですよ。少なくともあなたよりは」

「いや、暴力的だよ」

 

 ふっと、彼女は鼻を鳴らした。どうやら、先ほど頭を殴ったことで気は済んだようで、いつものような、得意げな表情へと変わっている。やはり、鬼は単純だ。

 

「言葉の暴力だ」

「ただ、事実を言っただけです」

「人の心を読んで口にするだけで、それは十分暴力的だろ」

「確かに」

 

 そうだろ? と、先ほどのことなど気にもせず、気さくに話しかけてくる星熊に、感動しそうになった。なんて懐が深いのだろうか。なんて優しいのだろうか。なんて愚かなのだろうか。

 

「どうした? そんなに私をまじまじと見て」立ち止まり、呆然と突っ立ている私の肩を、ぽんと強く叩いてくる。

「顔に何かついているのか」

「いえ、結局喧嘩は教えてもらえるのかなって思いまして」

 

 おいおい、と彼女は苦笑した。“さっきボコボコに言ったくせに頼み事とは、豪胆だな”と心の中で笑っている。なぜか、感心してさえいた。

 

「まあ、別に教えてやってもいいが」

「助かります」

「でも、ただっていうわけにはいかないなぁ。何事にも対価が必要だ」

「もちろんです」

「団子は要らねえぞ」

 

 私が何か、彼女に与えられるものはあるか。考えるも、思いつかない。

 

「さあ。対価に何をくれる」

「あれをあげますよ」

「あれって?」

「地霊殿の主という地位、とかどうです?」

 

 ぽかんと、目を丸くした星熊は、すぐに口許を緩めた。腹に思い切り空気を入れて、大声で笑い始める。彼女が笑うたびに、振動で体がつぶれそうになった。痩せてくれ、と心の中で願う。

 

「おいおい。地底の管理者が言っていいのかよ、そんな台詞」

「いいんですよ。要らないものをあげて、必要なものを得る。合理的じゃないですか」

「お前は馬鹿だなあ」

 

 心底楽しそうに、心から彼女は笑っていた。素直な喜びの感情を感じたのは、本当に久しぶりだ。嬉しくもなければ達成感もない。だが、不思議と悪い気はしなかった。懐かしい感覚だ。

 

「そんなもん、私も要らねえよ」

「ですよね」

「ただ、まあ」

 

 気恥ずかしそうに頬をかきながら、彼女は言った。

 

「面白かったから、手伝ってやるよ」

「本当ですか」

「惚れちまうほど格好いいだろ?」

「もし惚れたといえば、どうします?」

「断るに決まってるだろ」

「いいじゃないですか。私とあなたの仲ですし」

「それ、最悪ってことだからな」

 

 ケラケラと笑う彼女の下で、私は先ほどの彼女の言葉を思い起こしていた。私を慕っている奴はいるか。自分自身にそう問いかける。やはり、何度考えても、その答えはゼロだ。私を慕っている奴なんて、目の前の鬼を含めて、この世に誰もいない。

 

 もちろん、あの子も、だ。

 




心というのは、いつまでたっても分かりませんね。自分の心も、です。


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第119期7月11日─八雲紫はお人好しですよ、びっくりするほど─

第119期7月11日

 

 私にとって彼女は、八雲紫とはどのような存在だろうか。地霊殿の主という立場を押し付けてきた張本人。面倒事を押し付けてくるトラブルメーカー。何を考えているか分からない薄気味悪い奴。圧倒的な力を持つ妖怪の賢者。

 

 尊敬をしているわけではなかった。もちろん好んでいるわけでもない。だが、今思えば、私は彼女にどこか惹かれていたのだと思う。リーダーという立場に相応しい力。相手を恐れさせる不気味な笑み、そして、すべてを見通すその明晰な頭脳に憧れていた。

 

 だが、それは当たり前のことではあるが、そんな彼女の頭脳でも、見通せないことがあるのだということを、今日痛感することとなった。

 

「本当に分かりませんよ」私はそんなことを思いながら、口を開いた。

「意味がわからないです」

「意味が分からないって、どういうこと?」

 

 不思議そうに私の部屋で紅茶を飲んでいる八雲紫は、わざとらしく肩を竦めた。

 

「あと五日で殴り合いをする相手の元で、呑気に紅茶を飲めるその度胸が分からないって言ってるんです」

 

 昨日、星熊と特訓の約束を取り付けた私は、集合場所である血の池地獄へと向かおうとしていた。ベッドに入ってもどうせ眠れないので、一晩中椅子に座り日記を読み返していたからか、酷く腰が痛む。

 

 なぜ日記を読み返していたのか。八雲紫のことについて、少しでも多く情報を集めたかったからだ。全てにおいて彼女に劣る私ができることと言えば、それくらいしかなかった。そうしているうちに約束の時間が迫り、部屋を出ようとしていると、いつの間にか八雲紫が先ほどまで私が座っていた椅子へと腰かけていたのだ。驚きを通り越し、呆れた。

 

「私の知っていた八雲紫は、そこまで厚くなかったですよ」

「何が厚いのかしら?」

「面の皮ですよ」

「あら。鬼の腹とどっちが厚いと思う?」

「知りませんよ。鬼の腹なんて触れば殺されてしまいます」

 

 そうかしら、と不敵にほほ笑んだ彼女は、でも、あなたも変わったわよ、と扇子を開いた。

 

「私の知っていたあなたは、そこまで冷めていなかったわ」

「冷める? 紅茶のことですか?」

「違うわよ。そういう馬鹿なところは変わっていないのだけれどね」

「なら、何が変わったというのですか」

「性格よ。以前だったら、勝手に紅茶を飲んで! って怒ったでしょ? 貴重な紅茶なのにって」

「そんなこと」

 

 そんなこと、あっただろうか。私が紅茶に対して目くじらを立てたようなこと、あっただろうか。もう、思い出せなくなっていた。

 

「それに、美味しくないわ。これ」

「流石ですね。舌が肥えすぎですよ」

「そうじゃないわ。匂いが酷くて」

 

 顔をしかめた彼女は、虫を振り払うように手を振った。匂いなど、特に感じない。私がいるだけで空気が悪くなる、と嫌味を言っているのだろうか。

 

「でも、どっちにしろ今は紅茶なんかじゃ怒らないですよ」

「あら。優しくなったのね」

「違いますよ。紅茶も水も私にとっては同じですから。色が違うだけで」

「色の違いってのも大事よ。コーヒーと泥水じゃ全然違うでしょ?」

「変わりませんよ」

「それなら」

 

 ふふっと、面白そうにほほ笑んだ彼女は私をじっと見つめ、何やら呟き始める。もしかして、泥水とコーヒーを用意しているのだろうか。だが、それでも私にはその二つの区別をつけることはできないだろう。そもそも、コーヒーなんて、味が分かる頃から飲んでいない。泥水ならばいやという程飲んだことはあったが、おいしくはなかった。

 

 目をふっと閉じ、苦い思い出を辿っていると、瞼の裏から明るい光が差し込んできた。いつもの薄暗い私の部屋なんかでは味わえないような感覚だ。味わいたくもないが。

 

 恐る恐る目を開くと、景色が一変していた。先ほどまで私の部屋にいたはずなのに、まったく違う場所にいる。そこはどこか懐かしく、そして恋焦がれていた場所だった。

 

「どう? 驚いたでしょ。あなたがかつて住んでいた地上の景色よ」

 

  したり顔の八雲紫をじっと見つめる。彼女が座っているのは、無駄に高級感ある椅子ではなく、ただの岩へと変わっていた。薄暗かったはずなのに、爛々と輝く太陽に照らされ、眩しいほどに明るい。青い空にはぽつぽつと白い雲が浮かび、緑の木々によく映えていた。

 

 私は美しい地上の景色を見て、唖然としていた。地上のことなんてもう忘れたと思っていた。文字通り遠く離れた世界で、地獄よりもさらに奥にある世界。勝手に地上に出た伊吹萃香に嫉妬することもできないほどに、無縁なものだと思っていた。それを思い出すことは、ただの現実逃避だと、誰からも嫌われている現状から逃げたいだけだと、そう諦めていた。

 

 だが、その地上が今ここにある。

 

「いいんですか?」

「え?」

「地底から伊吹萃香が出てきて騒ぎを起こしたばかりだというのに、私を地上へと連れてくるだなんて、そんなことしていいんですか?」

 

 一瞬ぽかんと口を開けていた八雲紫だったが、すぐにクスクスと笑い始めた。大人びた彼女が、悪戯に成功したような無邪気な表情を見せると、何とも言えない艶めかしさを感じる。けれど、そんな笑われ方をされる理由が分からなかった。

 

「どうして笑ってるんですか?」

「いえ。まさかここが本当の地上だなんて勘違いをするとは思わなくて」

「え?」

「あなたを、地霊殿の主を地上になんか連れていけるわけないでしょ。これは見せかけよ。幻影みたいなものね。ここは正真正銘あなたの部屋だけれど、周りの景色だけ地上に変えたのよ。ほら、色が変わると結構違うものでしょ?」

 

 得意げに話す八雲紫に背を向け、辺りをぐるりと見渡す。青い空も、流れる雲も、揺れる草も幻影とは思えないほどにリアルだ。だが確かに違和感は拭えない。まったく風が無いし、草むらの上に立っているにもかかわらず、感触は床と同じだ。

 

「昔を思い出すかしら?」

「ええ、そうですね」

「感謝してもいいわよ」

「するわけないでしょ。悪趣味だよ、本当に」

 

 彼女がいったい何のつもりでこんなことをしたのかは分からない。だが、心底不愉快だった。手に入りようもない幸せを見せるだけ見せるだなんて、生殺しではないか。そして何より、地上での生活を幸せと感じてしまっている自分がいることが、何よりも耐え難かった。地上で、人間たちに怯えながら暮らしていたときのほうが、誰からも嫌われている地底より、マシに思ってしまっている事実に絶望した。勝手に期待をし、勝手に傷ついた生娘のような自分に腹が立って仕方がない。

 

「八雲紫、あなたは何もかも知っていると思っていましたが、一つだけ私の方が詳しいものがあることを思い出しましたよ」

「何かしら」

「心ですよ。心については、私の方が詳しいです」

「それ、笑うところかしら」

 

 冗談でしょ、と八雲紫は、困ったような笑みを浮かべた。

 

「そんなに気に入らなかったの? これ」

「こんな見せかけのもの、何の意味もないですよ」

「そうかしら?」

「そうですよ。上辺だけどれだけ取り繕ったって、中身が伴わなきゃ意味がないんです。ほら、よく言うじゃないですか」

「言うって、なんて」

「人間は内側が一番大事だって」

 

 へえ、と首を傾げた八雲紫は、パチンと音を立てて扇子を閉じた。その瞬間、景色がぐねぐねとぼやけ始め、段々と私の部屋へと戻っていく。青い空と緑の草木が消え、殺風景でだだっ広い部屋へと戻っていった。

 

 驚いたのはその時だ。確かに部屋は戻ったはずなのに、まだ幻影が続いているのではないかとすら思った。それほどまでにこの状況は異常で、あり得ない。

 

 どうして目の前に星熊の姿があるのだろうか。

 

「おいおい、人の顔を見てそんなに驚くなよ」

「なんで」

「さっきから挙動不審だったが、今の方がよりおかしいぞ、古明地」

「なんで勇儀さんがこんなところにいるんですか」

 

 さっきからいただろうが、と不満げに鼻を鳴らした彼女は、八雲紫の姿を見てぎょっとしていた。振り返り、私も彼女の方を向く。ゲラゲラと彼女は品なく笑っていた。八雲紫らしくない。いったいどうしたというのだろうか。

 

「あなた、勇儀がそこにいたことに気づいていなかったのね」

「おかげさまで。あなたの悪劣な幻影のせいで、心も読めませんでしたよ」

「だとしても、感触で分かりそうなものなのに」

 

 感触? いったい彼女は何を言っているのか。そう思い、前を見ると彼女が何を言いたいのか、やっと分かった。慌ててその場から飛び上がり、後退りする。

 

「八雲紫、一つ言いたいことがあります」

「何かしら」

「鬼の腹は、地霊殿の壁と同じくらいに分厚いです」

 

 また笑いだした八雲紫を尻目に、自分の手を見つめる。先程まで触れていた星熊の腹のぬくもりが、まだ纏わり付いているような、そんな気がした。

 

 

 

「おいおい古明地。鬼との約束をすっぽ抜かすなんて、いい度胸をしてるじゃないか」

 八雲紫の対面にどかりと腰を下ろした星熊は、机の上に足を投げ出し、言った。

「浮気にしては堂々としすぎだな」

 

 二人も来客があるだなんて、いつ以来だろうか。嬉しくもないが、どこか懐かしかった。ヤマメが地霊殿にやってくると聞かされた日を思い出す。あの時はまだ、地底でも私の話を聞いてくれるぐらいの妖怪は少なくなかったかな。いや、そんなこともないか。

 

「にしても、酷い匂いだ」私を嫌そうに見た星熊は、先程の八雲紫と同じような仕草をした。

「部屋掃除したほうが良いぞ、古明地」

「そうですか? 匂いなんてしませんけど」

 

 てっきり冗談を言っていると思ったが、どうやら違うようで、本心から彼女は気味悪がっていた。気持ち悪いとすら思っている。

 

「それに、どうしてお前の部屋に八雲紫が来ているんだ、古明地」

 座っている二人をぼうっと見ていると、星熊が頭をかきながら訊いてきた。

「私を置いて八雲紫を呼ぶだなんて、随分と楽しそうじゃないか。まあ、絶対に妬きはしないがな」

「呼んでませんよ」たまらず否定する。

「勝手に来たんです。私が八雲紫なんて呼ぶわけないじゃないですか。ゴキブリみたいなものですよ。気がつけばどっかから湧いてくるんです」

「酷いわね、傷つくわ。せめてムカデならよかったのに」

「どう違うんですか」

 

 およよと袖で目を拭き始めた八雲紫は、すぐにその泣き真似を止め、がばりと顔を上げた。

 

「ゴキブリなんて、無駄に生命力が高いだけの害虫でしょ? 嫌われて当然よ。でも、ムカデは違う。確かに害をなすこともあるし、気持ち悪いけれど、それでも他の害虫を食べたりするんだから。どうせ嫌われるなら、役に立つほうがいいじゃない?」

 

 そう高らかに歌い上げるように言った彼女は、「まあ、私はムカデでもゴキブリでもなく、高貴な妖怪の賢者なのだけれど」と恥ずかしげもなく言い放った。やはり彼女の面の皮の厚さは凄まじい。

 

「そんな高貴な妖怪の賢者のあなたは、一体何しに地霊殿まで来たんですか?」

 言外に、早く帰ってくれと仄めかしながら、私は言った。

「遊びに来たわけでもないでしょうに」

「あら? 遊びに来たらいけないのかしら」

「私だったら、嫌いな奴の家にわざわざ遊びに行きませんよ」

「おいおい。それは私に向けても同じことが言えるのかよ」

 ガハハと笑いながら、星熊が背中を割と強めに叩いてくる。

「嫌いなやつの家にわざわざ来てやってんだ。感謝しろよな」

「ええ」

 

 “本当に、感謝してほしいもんだ”

 

 そう彼女は内心で毒づいていた。彼女自身、どうしてここに来たのか分かっていないのだろう。特訓をすると言ったくせに、中々姿を現さない私を呼びに来た。それは事実だ。鬼として約束を破られることに我慢ならなかった。それも事実だろう。だが、特訓をさぼった私なんて放っておいて、他の鬼と酒を飲もうと考えていたことも、また事実だった。それよりもこちらを優先した理由が、私にも彼女にも分かっていない。

 

 ただ、それよりも八雲紫がここに来た理由のほうがよっぽど理解不能だった。

 

「私がここに来たのはね、説明しようと思ったからよ」

 そんな私の疑問の糸を解きほぐすように、八雲紫はこちらをじっと見つめていた。

「あなたがもしかして決闘について勘違いをしているんじゃないか、って思ってね」

 

 決闘? と首を傾げている星熊を置いて、八雲紫は続ける。

 

「聞いたわよ。あなた、次の決闘から逃げれば、地底と地上の戦争が起きると、そう思っているようね」

「違うんですか?」

「違わないわよ。伊吹萃香が地上で暴れたという事実は重いわ。当然、それによる責任もね」

「なら、何を勘違いしているんですか」

「単純よ」

 

 あなたが単純と言った時に、単純だった例がないじゃないですか。そう言うも、彼女は聞く耳を持たなかった。

 

「あなたは、責任を取らなければ、決闘から逃げれば戦争が起きると思っているようだけれど」

「けれど?」

「それだけじゃないわ。決闘にあなたが負けたとしても、私は地底に攻め入るつもりよ」

「え?」

「当然でしょ。負けたら責任をとったことにはならないじゃない」

 

 そんなことはない。大事なのは落とし前がついたかどうか、地底の妖怪が地上に迷惑をかけた落とし前がついたかどうかで、勝ち負けなんて関係ないじゃないか。そう聞こうとする前に、星熊が口を挟んだ。

 

「ちょっと待て。いったい何の話だ。なんで萃香が暴れた責任を古明地がとらなきゃならない。そんなもの、萃香に取らせればいいだろ」

「管理者だからですよ、勇儀さん」

 

 ぎろりと鋭い目を向け、立ち上がった星熊に、噛み含めるように言った。

 

「私の仕事は地底の管理です。つまり、監獄の看守と同じようなものなんですよ。脱走者が出ないようにするのが私の仕事で、その仕事を全うできなかったら、責任が伴います」

「なんだよ。まるで私達が囚人みたいな言い草じゃないか」

「強ち間違っていないでしょう。違うところといえば、看守もその牢獄から抜け出せないくらいです」

 

 しかも刑期は永遠だ。流石に牢獄よりかは居心地いいだろうが、それでも閉じ込められているという事実に変わりはない。それを苦痛ととるか幸福ととるかは個人の感受性によるが、少なくとも私と星熊は幸福ではなかった。

 

 そんな幸福ではない私達に向かい、八雲紫はいかにも幸福そうな笑顔で微笑みかけてくる。

 

「牢獄とは言い得て妙ね。確かに地霊殿の主が責任を取る理由はそれだけで十分すぎるほどなのだけれど、他にも理由があるのよ」

「なんですか。面白そうとかだったらはっ倒しますよ」

「違うわよ、頼まれたの」

「誰に」

「伊吹萃香に。この責任は地霊殿の主が取ってくれるさってね」

「嘘でしょ」

 

 思わず、驚愕の声をあげてしまう。あの伊吹萃香がそんなことを言うだろうか。いや、普通ならば言わない。むしろ逆だ。彼女ならば、文句をいうやつはかかってこい、と自分で解決したがるはずだ。

 

「ねえ、憐れな子羊の話、知っているかしら」

 

 困惑している私を見て楽しそうに笑った八雲紫は、そんな事を言いだした。星熊がつまらなそうに鼻を鳴らしているが、彼女はお構いなしに話し始める。

 

「よく言うでしょ、スケープゴートって。あれってね、単なる生贄とかそういう話も多いのだけれど、もっといい話もあるのよ」

「ラム肉でも食べるんですか? 人里の食糧問題も解決できそうですね」

「違うわよ。ある日、一匹の狼が羊たちを襲うのだけれどね、その狼はこう言うのよ。“勇気ある羊が一匹現れれば、他の羊は助けてやる”ってね。それで、一匹の羊が狼の前に出て結局食べられてしまうの。けれど、他の羊は助かって、その羊のことを永遠に語り継いだって話。どう? 感動的でしょ」

「感動的なまでにつまらなかったですよ。なんですか、その陳腐な話は」

 

 八雲紫らしくもないほどに子供騙しの話だ。

 

「結局、皆を助けようとした羊は助かってないじゃないですか。誰かを助けようとした子が犠牲になる話は嫌いなんです。それに、実際なら羊は全滅してます。ただ狼が甘かっただけですよ。物語の都合で、狼は甘くされられていたんです。やるならば徹底的に。やらないならやらない。そうじゃなければ意味がありません。ただの物語でしかありえない仮初の感動なんて、薄ら寒いだけです」

「その通りね。そんな話、作り上げなければ実際には起きないわ。もし起きればそれこそ感動的なんでしょうけれど」

 

 うっとりと語る八雲紫は、その胡散臭い雰囲気と、人形のような非現実的な美貌も相まって、そこだけ別の世界があるように感じた。私ではたどり着くことができない遥か遠い世界。ああ、なんて羨ましくて、そして汚らわしいのだろうか。

 

「過去へと、そして違う環境へと身を置きたがる時は、現状に満足していない時、ということをよく耳にしますよね。勇儀さん」

「いきなり何だよ、古明地」

「いえ。あなたが地上に戻りたい、と考えているみたいだったので、つい。でも地上を望んだところで意味はないですよ。実際に地上に出れば、地底が恋しくなると思います」

「おいお前!」

 

 星熊が声を荒らげ、胸ぐらをつかんできた。が、すぐに顔を強張らせ、ゆっくりと降ろしてくる。悪かったな、とぼそっと呟いた彼女は、苛立ちをぶつけるように、その長い髪をがしがしと掻いている。

 

 “地底が恋しくなるだなんて、そんなこと思ってもいないくせに” 彼女は内心でそう呟いていた。まさしくその通りだ。地底が恋しいだなんて、世迷い言にすらならない。

 

 ため息を小さく吐く。部屋が静まり返っているからか、異様なほどに重苦しい息の音が耳に残った。頭が重いのは、決して眠気だけのせいではないだろう。それも全て、八雲紫のせいだと、信じたかった。

 

 頭が痛いのだって、私が嫌われるのだって、地底にいるのだって、全部八雲紫のせい。そう思い込めたら、どれだけ楽だっただろうか。もちろん、八雲紫は悪くない。確かに面倒事を持ち込んでくるのは事実だが、それだけだ。キスメとヤマメ、お燐を始めとするペット、そして地底の住民に嫌われたのは、自業自得以外の何物でもない。

 

「なら、伝えることも伝えたし、そろそろ帰るとするわね」扇子を広げ、隙間を作った彼女は、ひらひらと手を振った。

「それでは、また決闘の日まで」

「もう会わないことを願っておきますよ」

「つれないわね。そんなんじゃ、嫌われるわよ」

「誰からも愛されるさとり妖怪なんて、逆に恐ろしいですよ」

「それもそうね」

 

 それでは、と隙間の奥へと消えていった妖怪の賢者に背を向け、星熊の隣のソファへと腰を落とす。ただ立っていた星熊もぼすんと腰を落としてきた。彼女の重みでソファが軋み、クッションが悲鳴を上げている。

 

「相変わらずよく分かんないやつだな、八雲紫は」

「そうですね」

「本当にあいつと決闘すんのか?」

「そうですね」

「まあ、古明地だったら簡単には負けやしないだろ」

「そう、だといいですね」

 

 勝てるわけがなかった。どうして八雲紫があんなことを、負けても地底に攻め込むなんていったのか、未だに分からない。私が彼女に勝てないことなんて、分かっているはずだ。地底と地上の戦争なんて、彼女自身も望んでいないのに、どうして。

 

「お前の背中に地底の運命が背負っているって思うと癪だな。本当に癪だ。代わりに私が戦いたいものだね」

「そうしてくれると助かりますよ。八雲紫が許せば、ですけど」

「だな。くそ。なんで萃香はこんな奴に喧嘩を譲り渡したんだよ」

 

 喧嘩を譲り渡すだなんて、鬼しか使いそうにない言葉だ。そう思っていると、険しい顔をした星熊の腹から、ギュルルと小気味のいい音が響いた。眉間にシワを寄せ、恐ろしい顔をした彼女とその音の軽さがどこか滑稽で、間抜けだ。

 

「まったく、むしの居所が悪い」

「それ、腹の虫ですか?」

「馬鹿にすんなよ」

 

 口調こそ厳しかったが、彼女は笑っていた。少し気恥ずかしそうに鼻をこすってさえいる。

 

“朝からお前を待ってたから、何も食ってねえんだよ”

 

 誰に言い訳するでもなく、彼女はそう思っていた。ちらりと時計を見る。まだ十時にもなっていない。昼時とは到底呼べなかった。

 

 それでも、星熊は空腹に耐えきれなかったらしく、私の許可無く勝手に部屋をあさり始めた。何か食べるものがないかと色々ひっくり返している。咎める気はなかったが、さすがに日記を読まれるのは御免だったので、さりげなく回収しておいた。

 

「お、あったぞ」

 

 食器棚の下を覗いていた彼女は、意気揚々とこちらへ近づいてきた。そんなところに食べ物なんてなかったはずだが。

 

「一体何があったんですか? 皿ですか? 鬼が食べるのはかっぱの皿だけだと思ってましたよ」

「違う違う。やつがいたんだ」

「やつって、何ですか」

「八雲紫」

 

 嬉しそうにはにかんだ彼女は、後ろ手に隠したそれを、思い切りこちらに突きつけてきた。

 

「ムカデだよムカデ。さっき、あいつ言ってただろ。私はムカデだって」

「言ってませんよ。流石に八雲紫に怒られます」

「大丈夫だって。あいつは何だかんだ言って懐が広い。それこそ、幻想郷ぐらいにな」

「狭くないですか、それ」

「地底よかましだろ」

 

 もぞもぞと彼女の手の平で蠢く細長い虫を見る。くるりと体を丸めたその虫を潰せば、八雲紫に勝ったことにならないだろうか。そんな馬鹿げたことを考えていると、とあることに気がついた。

 

「勇儀さん、その虫なんですけど」

「このムカデがどうかしたか?」

「それ、多分ヤスデですよ」

「え?」

「ほら、ムカデより小さいし、色も薄いじゃないですか」

「なんだよ。こいつ八雲紫じゃないのかよ」

「ムカデも八雲紫じゃないですよ」

 

 いつの間にか、彼女の手からヤスデは逃げ出し、どこかへ消え去っていた。昔であれば、お空あたりが食べてくれたのだが、最近ペットが来ていないせいで、虫が増えているように思える。

 

「なあ、なんでもいいから食べ物をくれよ」空腹に耐えられないのか、星熊は身を捩らせていた。

「腹が減りすぎて死にそうだ」

「分かりましたよ。少し待ってください」

 

 鬼がこんなことで死ぬわけないじゃないか。そう思いつつも、ベッドの下から箱を取り出す。私がかつて貯めていた菓子類だ。あの日以来、私は手にしていないので、かなりの量が残っているはずだった。

 

「随分と優しいじゃないか。古明地らしくもない」

「八雲紫も言ってたじゃないですか。どうせ嫌われるのなら役に立ったほうが良いって。私もゴキブリよりもムカデが良いです」

「ゴキブリに失礼だぞ」

 

 苦笑しながら腹をなでている星熊の前に箱を置く。彼女はつとめて嬉しそうな顔をしようとしていた。心を読むまでもなく、私に気を使っていることが分かる。腹が減っているのは事実のようだが、私と一緒に食事をとることで、少しでも元気づけようとしてくれているようだった。どうして嫌いな相手にここまでするのか。心を読んでもわからない。

 

 安っぽい紙でできた箱をゆっくりと開く。開いて、驚いた。星熊も目をまんまるに見開いている。それもそうだ。その箱の中に入っていたのは、お菓子ではなかったからだ。

 

 誰が入れたのかはすぐに分かった。でも、まさかこんな所に隠してあるなんて思わなかったのだ。どうして捨てていなかったのか、どうして紙袋にしまったのか分からない。きっと、私が部屋から出なかったので、捨てるタイミングを逃してしまったのだろう。いずれにせよ、狂っている。

 

 もう一度、箱の中を見る。あの男の、八雲紫に誘われて地底に来た憐れな人間の内臓だ。今思えば、あの男も八雲紫が関わっているのだった。

 

「おいおい、なんでこんなものがあるんだよ」星熊は、驚いてこそいたが、私と違い、全く動揺していなかった。

「どうして人間の内臓なんかが、こんなところに」

「捌いたからですよ」

 

 その箱の蓋を拾い、閉じる。酷く腐敗しているそれには夥しい数のハエがたかっていた。

 

「臭かったのはそれのせいか。はやく捨てちまえよ、そんなの」

「いえ、せめて、地上で埋めてあげましょう」

 

 そうすれば、彼だって、次郎と名乗ったあの男だって報われるはずだ。だって。

 

「人間は内側がいちばん大切なんですから」

 




狂っていますよね、本当に。彼の内臓を紙箱にしまったのは他でも無いあなたですよ。


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第119期7月15日─流石にウジ虫はいいすぎですよ─

第119期7月15日

 

 よく、好きの反対は嫌いではなく、無関心であるという一説を耳にする。確かに間違ってはいない。好きと嫌いは紙一重という言葉からも分かるように、その存在に対する感情を記憶するだけでも、十分にその存在を意識しているといえるだろう。それが例え悪い印象だったとしても、些細な問題でしかないのだ。

 

 だが、嫌いと一言でいっても様々な種類があることを、忘れてはいけない。前述の嫌いは、あくまでも同立場であることが条件である。それは、部下と上司だとか、そういう意味での同立場ではない。例えば、人間同士であるとか、人間と鬼であるとか、種族的な意味での同立場だ。

 

 想像してみてもらいたい。もしも、あなたの部屋に蛆の大群が現れたとする。その時、あなたはどう思うだろうか。おそらく、強い嫌悪感を覚えるだろう。なぜなら、あなたは蛆が嫌いだから。でも、だからといって、あなたが蛆のことを好きになる可能性はない。紙一重では、決してない。だって、それは蛆なのだから。蛆という種族をあなたが嫌っているのだから。同立場では無いのだから。そして、その立場に私はいま、立たされているのだろう。

 

「でも、だからと言って、本当に蛆と同じ場所に立たせなくてもいいじゃないですか」

 

 私は鬼のような所業をする星熊に、大声で文句を言った。

 

 以前、流れてしまった星熊の訓練をしてもらうことになった私は、朝一番で血の池地獄へとやってきていた。本来特訓するはずだったあの日、八雲紫が来た日から暫く間が空いたことも相まって、もう特訓は行われないかと思っていたが、「前日くらい体を動かしたほうがいいだろ?」とわざわざ星熊の方から誘いに来た。

 

 遠出するのが面倒だった私は、できれば近場がいいと主張したものの、結局は血の池地獄に集合ということになった。星熊曰く「人がいる場所でやると迷惑になる」とのことだ。それは、喧嘩の訓練で迷惑をかけるという意味ではなく、私が来るということ自体が、大迷惑なのだ。確かにその通りではある。

 

 だから、血の池地獄で訓練を行うということに、もはや異存はなかった。だが、着いた瞬間に、いきなり蛆虫の輪の中へと担ぎ込まれるとは、想像もしていなかった。

 

 私を囲い込むように、白い、うねうねした芋虫が転がっている。体を伸縮させ、思い思いの方へと進んでいた。いつの間にか足にかけられていた縄を必死に引っ張る。ぴんと張ったそれは、完全に右足を固定していた。飛ぶことすらできない。

 

「なんだ。お前もウジ虫が嫌いなのか。意外だな」

 意気揚々と、星熊は笑った。

「嫌われ者も嫌うもんなのか」

「そんなことはいいですから、助けてくださいよ」

「お前が頼んだんじゃないか。訓練をしてくれって」

 

 訓練をするといわれ、まさか蛆虫の中に突っ込まれるなど、誰が思うのだろうか。

 

「いいか。今から私がお前に弾幕を放つ。それを避けろ」

「避けろって、右足動かせないじゃないですか」

「左足は自由だろ? それで十分だ」

 

 彼女には一度、十分という言葉の意味をきちんと調べてほしい。

 

「あと、避けるときにウジ虫、潰さないようにな」

「言われなくても、潰しませんよ」

「潰したら弾幕増やすからな」

「鬼ですか、あなたは」

「何を今更」

 

 地べたに座り、いくぞー、とのんびり叫んだ彼女の後ろに弾幕が現れる。その一つ一つが大きく、そして圧倒的な破壊力のものだった。私なんかが当たればひとたまりもないだろう。

 

 ただ、幸運なことにその弾幕のスピード自体は大したことなかった。ゆっくりと地面を撫でるように進んでくる。途中で曲げようとしているようだが、心を読めばそこまで脅威ではない。

 

 問題は、私の体がついてこられるかどうかだ。

 

 じりじりと近づいてくる弾幕は徐々にスペースを圧迫していった。星熊を見て、正しくは星熊の心を見てその弾の動きを予測し、体を寄せる。ロープを一杯に引っ張り、足元に注意しながら体を伸ばす。頭の中では完璧に避けられていたはずが、どうやら少しずれていたらしく髪の毛がじりりと嫌な音をたてた。

 

「おいおい、古明地らしくねえぞ。こんな準備運動でトチるなんて」

「私の知っている準備運動と違うんですけど」

「いいから次行くぞ」

 

 命がけの準備運動なんて考えたくもなかった。だが、自分から頼んだ以上そうも言っていられない。それに、八雲紫に勝つためには、このぐらいで音を上げては笑いものだ。

 

 次々くる弾幕の軌道を瞬時に読み取る。段々と視界を狭めてくる弾から身震いするほどの妖力が体を襲ってきた。それだけで気を失いそうだ。だが、その弾幕ばかりに気を取られていると足元の蛆を踏みそうになってしまう。こんな多数の虫の心を読むことなど不可能だ。サードアイだけ星熊に向け、顔は足元に向ける。なるほど。確かにこれは訓練になるかも知れない。そう思っていると、全身に強い衝撃が加わった。

 

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。体が痛みで震え、脳が焼ききれそうなほどに痛い。

 気がつけば、いつの間にか空へと舞い上がっていた。コマ送りの画面を見ているかのように、世界がゆっくりと流れる。足と地面をつないでいたはずのロープは、いとも簡単に引き千切られていた。

 星熊が驚いているのが分かった。彼女の手には酒が握られている。なるほど、意識が酒に逸れ、弾幕の制御が不安定になったのか。心だけを頼りにし、肉眼で見ていなかったツケが来た。

 やっぱり、心なんて当てにならないな。遠のいていく意識の中、頭に浮かんだのは何故か嬉しそうに微笑むあの子の姿だった。

 

 

 

 目が覚めると、眼下には真っ赤な血が流れていた。

 ぼやけた頭ではそれが何なのか理解できず、ああ。私の体にはこんなに大量の血が流れていたのね、と見当違いのことを口走っていた。

 

「何いってんの、あんた」

 

 足元から声が聞こえた。真っ赤な血の中からだ。見知らぬ女性だ。どうしてそんな所にいるのだろう。ぬめぬめして気持ち悪いだろうに。そもそも煮えたぎった血の中にいて熱くないのだろうか。そこまで考えて、ようやく今置かれている現状に察しがついた。星熊の弾幕に当たった私は、吹き飛ばされ、血の池に落ちそうになっているのだ。慌てて宙を蹴り、浮遊する。

 

「いきなり落ちてきたかと思ったら、そこの岩に引っかかるんだもん。驚いたさ。しかも、地霊殿の主が」

 

 足元の池に浸かった女性が言ってくる。セーラー服を着た、水兵のような女性だ。当然のことながら人間ではない。幽霊だ。黒い髪は短く、幽霊特有の肌の白さは血によって際立てられていた。

 

「地霊殿の主が落ちてくるのが最近の地底のブームなんですよ」

「全身傷だらけで?」

「傷?」

「何があったか知らないけど、そこそこひどい怪我をしてるじゃないか」

 

 思い出したかのように全身に鋭い痛みが走り、その場に蹲ってしまう。近くに飛び出していた足場に身体を寄せた。どうやら骨は折れていないようだが、火傷と痣で皮膚の色がおかしくなっている。だがそれでも、手加減しているとはいえ星熊の弾を食らった割には軽症といえた。

 

「それで、地霊殿の主が何の用だよ。もしかして、私達を解放してくれるのか?」

「いえ。私にはそんな権限はありませんよ」

 

 ぎゃんぎゃんと喚いていた女性は、私がそう言った途端に分かりやすく消沈した。肩をこれでもかと落とし、「違うってよー」と誰かに呼びかけている。

 

「なんだよ、折角脱出できると思ったのに」

「期待したのですか?」

「ああ、そうだよ」

「次から期待なんてしないほうがいいですよ。一番傷つくのは、期待が裏切られたときなんですから。よく言うでしょ、上げてから落とすって」

「いわないよ」

 

 ふん、と鼻を鳴らした彼女は、自己紹介をしようと口を開いた。それを遮るように言葉を挟む。

 

「船幽霊。村紗水蜜さんですね。随分と長くここにいるようですが、多分永遠に脱出はできないですよ」

「え」

 

 なんで名前を、といいかけて彼女は押し黙った。むっとした顔を隠そうともしていない。

 

 “そうか心を読んだのか”

 

 彼女は驚き、困惑し、納得し、そして嫌悪した。いつも通りの反応だ。今更悲しみすら感じない。やっぱりね、という諦めだけだ。心を読まれてもいいと寛大な態度を示すやつなんて、この世の中にいるわけがなかった。もしそんな変人がいたならば、それはそれで関わり合いになりたくない。

 

「なら、何しにこんな地底の奥底まで来たんだよ。まさか暇つぶしとか言わないよな」

「こんなとこ、来たくて来たわけじゃないですよ。というか、血の池地獄に好んで落ちていく奴なんていません」

「分かんないじゃん。もしかしたらいるかもよ」

「いませんよ。そんな変人、きっと頭がおかしいやつです」

 

 異常な妖怪の見本市となっている地底ですら、誰も血の池地獄に飛び込む輩はいないのだ。それほどまでに、ここは忌避されている。私と同じくらいに、だ。

 

「というより、私のことを知っているんですか?」

「そりゃ、まあ。有名だしね。地霊殿の主とだけは関わらない方がいいって。というより、心を読めば分かるんじゃないの?」

「まあ、そうですね」

 

 うげぇ、と吐くふりをした彼女は、「助けてよ、一輪」と手を振っていた。“こんな奴と二人っきりだなんて”と嘆いている。本当に申し訳ない。だが、残念なことに身体がまだ自由に動かなかった。

 

 私から逃げようと血の池地獄でもがいていた彼女のすぐ横に、突然二匹の妖怪が現れた。まったく気が付かなかったが、どうやら血の池に潜っていたらしく、口から飲み込んだ血を吐き出している。昔見たスプラッター映画ですらもう少しマシな状況だった。

 

 そのうちの一人、水色の髪を前で二つに分けた女性が水蜜に向かいニヒヒと笑いかけた。尼のような格好をしているが、血まみれのため神々しさは感じられない。

 

「どうしたのさ、村紗。いきなり助けを求めるなんて珍しいじゃないか。まさか、地獄に落ちたわけでもあるまいし」

「知ってる? 地獄に落ちるよりもつらい状況があるのよ」

「え、なにそれは」

「さとり妖怪と二人きりにされること、ですか。なるほど。確かにそれは辛いことですね」

 

 水蜜に近づいたその二人はぎょっとしていた。驚きを隠そうともせず、こちらをまじまじと見ている。さとり妖怪と小さく呟いた妖怪たちの心には、明らかに後悔が浮かんでいた。

 

 その二人のうちの一人。雲のようにもこもことした入道が池から飛び出し、私の前に仁王立ちした。いかつく、そして荒々しい顔をした男の入道。一輪と呼ばれた入道使いの、使い魔ならぬ使い入道のようだ。極悪非道な地底の管理人から主を守ろうと、必死に威嚇している。

 

 だが、残念なことにそんな極悪非道なさとり妖怪である私は、威厳もひったくれもなく、ただ岩にもたれかかっているだけだった。

 

「えっと、何とお呼びしたらいいか分かりませんが、入道のおじさん。私はあなた方に危害を加えるつもりはありませんよ。もちろん、あなたの主の雲居一輪さんにも、その友人の水蜜さんにも」

 

 “信じられる訳がない” 

 

 彼の心はこの言葉で溢れていた。いったいどんな過酷な状況で生きてきたのだろう。きっと、誰も彼もを信じられないような、そんな苦境な時代に生きていたのね。そう思ったが、違った。単にさとり妖怪である私を信じていないだけのようだ。

 

 説得を諦め、岩にもたれる体重を大きくする。じわじわと広がっていく鈍い痛みから逃れるように身体をくねらせるも、一向に収まらない。この調子だと、明日の決闘までに治り切るか微妙なところだろうか。

 

「ひどい怪我じゃないか。いったい何があったんだい?」

 

 心配したわけではないだろうが、一輪が訊いてきた。ごまかしても良かったが、別に隠す理由もない。それに、いずれにせよ信じてもらえないのであれば、まだ正直に言った方がマシに思えた。

 

「準備運動をしていたら、こんな怪我をしてしまったんです」

「私の知っている準備運動はそこまで危険ではないはずだけど」水蜜は言い、一輪を庇うように前へと出た。怯えのせいで軽く体が震えているが、それを必死にごまかそうと虚勢を張っていた。滑稽だ。

 

「鬼流の準備運動なんですって。四天王の星熊に喧嘩の訓練をしてもらっていたのですが、やっぱ無謀でした」

 

 そういえば、星熊の姿が見えないと、その時にようやく気がついた。弾にあたり、血の池の方に落ちていった私を追ってきていない。その時の私は、きっと面倒になったのだろうと、嫌いなやつが準備運動で弾き飛ばされ、愛想が尽きたのだろう、とその程度にしか考えていなかった。

 

「喧嘩って、地霊殿の主がどうして喧嘩の訓練なんぞしてるのさ」

 

 少し考え事をしていると、一輪が嫌味たらしく言ってきた。彼女自身もそんな捻くれた言い方になると思っていなかったらしく、口に手を当て首を傾げている。本能的に嫌っているからだ、と私は思った。本能が口調を荒くしている。

 

「私が喧嘩の訓練をしている理由は簡単ですよ。明日決闘をするんです。誰と、ですか。ご存知かどうか分かりませんが、幻想郷の賢者とですよ。八雲紫です。ああ、知っていましたか。やはり彼女も有名なのですね。私と違い悪名ではなく善名でということが癪ですが。戦争をするのか? いえ、するつもりはないですよ。しないために戦うんです。意味がわからない、ですか。私もわかりませんよ。詳しくは八雲紫に聞いてください。簡単に言えば、地底と地上の戦争を防ぎたければ、私に決闘で勝て、と八雲紫は言っているんです。ほんと、彼女はいつだって私を苦しめる」

 

 薄気味悪そうにこちらを見つめる三人に気づき、口を止める。つい話し込んでしまった。悪い癖だ。最近はどうも自分の口が悪い気がする。気のせいだと片付けたかったが、もやもやとした心残りが胸に漂い続けていた。

 

「その話が嘘か本当かわからないけど」

 恐る恐る水蜜は言った。本当、の部分だけ妙に早口だったことは気にしないことにする。

「もし八雲紫と決闘するんなら、血の池地獄でしたほうがいい」

「なんでですか?」

「流れ弾が来てもそこまで迷惑にはならないし、何かの拍子に私達が脱出できるかも知れない」

 

 それに、と続ける彼女の顔は、どこか楽しそうだった。一輪が怪訝そうに水蜜の顔を見ている。それは、私の目の前にいる入道のおじさん、そして私自身も例外ではなかった。心を読んでいるにもかかわらず、彼女が本当にそれを口にするのか、と疑ってすらいた。

 

「それに、ここで戦ってくれるなら、私達が何か手助けしてあげるよ」

 

 当然、それは善意によるものではなかった。地底と地上が戦争になれば、自分たちはひとたまりもない、という思いが根底にあるのは確かだ。だが、それでも。それでも私を手助けするだなんて口にするとは。信じられない。

 

「あなた、正気ですか?」声をだすだけで肺が押しつぶされるように痛かったが、それでも聞かずにはいられなかった。

「私と関わり合いにならないほうがいいって、さっき自分で言ってましたよね」

「言ったね。そして関わり合いにならないほうがいい理由もわかったよ。嫌というほどね」

「なら」

「でも、私はとある人の弟子なんだよ。とある聖人のね」

 

 せいじん。聞き慣れないその言葉に戸惑うも、そんな私を置き去りにして、彼女たちは話題に花を咲かせていった。

 

「いくら聖だからって、さとり妖怪は匿ったりしないさ」一輪が水蜜に向かい、肩をすくめている。その手下である入道のおじさんも同じような動きをしていた。だが、彼女たち自身も、その言葉とは裏腹に“聖ならやりかねない”と内心で苦笑していた。ふざけないでほしい。

 

「その聖という方がどんな人なのか分かりませんが、私に心を開くなんて不可能ですよ。ありえないです」

「そのありえないことをしでかしそうなんだよ、聖様なら」水蜜が眉を伸ばす。

「無理です。絶対に。それこそ、血の池地獄に飛び込むような輩がいないように、私を好む輩もいないんです」

「なんでそこまで言い切れるんだよ」

 

 なんでそこまで言い切れるのか。そんなの考えるまでもなかった。

 

「私を誰だと思っているんですか。誰からも疎まれ、嫌悪され、そして蔑まれる地霊殿の主ですよ。嫌われる才能があるんです。私を好いてくれる存在なんてないんです。皆無ですよ。何もしなくても、どんな善行をしたとしても私は嫌われるんです。報われないんですよ。相手のことをどんなに考えたところで、地底のために何をしたところで誰もが私を遠ざける。蛆虫と同じなんですよ。どんな蛆虫がどんなにいいことをしても、所詮は気持ち悪い芋虫に変わりないんです」

「ウジ虫がいいことをするとは思えないんだけど」

「私はあなた達が羨ましいですよ。たとえ何年地底の奥底に、血の池地獄に封印されたところで、そうして心から信用できる仲間がいることがどれだけ幸せなことか。私はそんなもの絶対手に入りませんからね。絶対にです。あれだけ私を頼っていたペットはもはや姿すら見せてはくれない。地底を歩けば耳を覆いたくなるような罵詈雑言が全身を包み込む。一見仲良く接してくれる星熊ですら節々に嫌悪感が溢れているんですよ。そんな私を易易と受け入れるだなんて、冗談にしても面白くない。ふざけるな。世の中は想像以上に私に冷たい。あなた方がどんなつらい思いをしたかは知らないよ。知りたくもない。けどね。一度でいいから馬糞を頭からぶちまけられてみるといい。私の気持ちが少しでも分かるから。少しだけだけどね。いったい私が何をしたのかな。地底のために尽くし、地上との均衡を保とうとしていただけなのに、どうしてそんな私がこんな目に合わなくちゃいけないのか。憎くて憎くて仕方がない。私の犠牲の上で成り立っているこの地底が憎い。私の努力をドブに捨てようとしている八雲紫が憎い。ケンカばかりしてのうのうと生きている鬼たちが憎い。何も知らずに仲良く竪穴の管理をしている土蜘蛛と釣瓶落としが憎い。そして」

 

 そこで私は息を止めた。これ以上口にしてしまえば、自分の大事な何かが壊れてしまうような気がした。今までの自分の努力を、守ってきたものを自分で潰そうとしている。だが、そう分かっているにもかかわらず、口は止まらない。

 

「そして、同じさとり妖怪でありながら、ペットからも、そして地底の連中からも好かれているあの子が」

 

 どぼん、と威勢のいい音がしたのは、その時だ。大きな魚が水面を大きく叩いたかのような音がし、跳ね上がった血が雨のように降り注ぐ。誰かが血の池地獄に飛び込んだ。そう分かったのは、目の前の三匹の妖怪の姿が消え去っていると気がついた時だった。いつからいなくなっていたのか。もしかして、最初からいなかったのではないか。今まで見ていたのは私の心が生み出した幻影か何かではないか。そう思うほどに、影も形も消えていた。

 

「おい古明地。せっかく特訓をしてやってるってのに、逃げ出すんじゃねえよ」

 

 唖然としていると、血の池から勢いよく星熊が飛び出してきた。私のすぐ側に降り立ち、犬のように身体を振るわせ、血を落としている。少なくない量の血の水滴が身体にかかっり、焼けるような痛みに襲われるが、大して気にならなかった。むしろ、それにより頭が冷えていく。先程まで、どうしてあんなに酷いことを口走ってしまったのか、と後悔するほどには冷静になれた。

 

「ありがとうございます。勇儀さん」

「なんだよ気持ち悪いな」

「後少しで、取り返しがつかなくなるところでした」

 

 首を傾げた星熊は、いててと顔をしかめ、血に浸かった肌を撫でていた。薄黒く変色したそれは、煙を立てじゅくじゅくと膿んでいる。鬼の肌ですらこうなるのだ。私が入ったらどうなるか。想像するだけでぞっとする。

 

「勇儀さん。さっき血の池に飛び込んでましたけど、もっと長時間血の池の中に入っていられますか?」

「長時間って、どんくらいだよ」

「さあ。何百年か、千何年か」

「年? おいおい冗談だろ?」

 

 彼女が笑う度にポタポタと血が垂れ、岩を溶かしている。血の池地獄の血はどうやら普通ではないようだ。

 

「こんなとこ、一時間も浸かってられねえよ」

「鬼の四天王の勇儀さんですら、ですか」

「まあ、我慢すればいけるかもしれんがな」

「あなたが我慢すれば、多分何でもできますよ」

 

 言いながら、私は戦慄していた。先ほど、確かに水蜜と一輪、そして入道のおじさんはこの池にいたはずだ。彼女たちはどうしてああも平気そうだったのだろうか。やはり、私の生み出した幻影なのか。水蜜の、「何か手助けしてあげるよ」という言葉が頭に響く。あれも、本当は言われなかったのではないか。

 

「いやあ、驚いたなあ」

 

 そんなことを考えていると、血の池からひょこりと誰かが顔を出した。勇儀が珍しく甲高い悲鳴を上げ、驚いている。

 

「水蜜。やっぱいたんですね。幻影かと思いましたよ」

「幻影じゃなくて幽霊だ」

 

 一輪と入道のおじさんは姿を見せなかった。まだ血の池に潜っているのか、それともどこかに行ってしまったのか。

 

「なあお前。なんで血の池に嵌ってへらへらできんだよ」

 

 星熊の声は荒々しかった。怒気を孕むというよりは、興奮を抑えられず、つい口に出てしまったようだ。

 

「さっき飛び込んだけど、この私ですら久しぶりに痛みを感じたんだ。そんなとこに平然といられるなんて、只者じゃねえな。な、そうだろ。なら喧嘩しようぜ」

「ええ。いきなり喧嘩はない。鬼って怖いな。それに、私はただの船幽霊だよ。大した力はない」

「なら、なんでそんなとこで涼しい顔をしてられるんだよ」

「慣れ、かな」

「慣れ?」

 

 私の肩を掴み、やや強引に立ち上がらせた星熊は、そのままゆっくりと浮遊し始めた。そんな私達に声を届かせるためか、水蜜が声を荒らげている。どうして話している途中にどこかにいくのか、と疑問に思っているようだが、それより、私がここからいなくなることに安堵しているようだった。

 

「人間二度やれば慣れるというけど、幽霊は百年くらいでこの池に慣れたよ。やっぱ、どんな辛いことでもいつかは慣れるんだ」

「血の池に慣れるなんて御免だな!」

 

 星熊の大声が耳を貫く。真っ赤な水面はもはや遠くになり、水蜜の姿は店のように小さくなっている。だが、それでもこの声の大きさであれば届いただろうと確信できるほどの大声だった。

 

「いや、まったく酷い目に遭ったな。それもこれも、お前が血の池に落ちそうになるからだ」

「すみません」

「まあ、責めはしないさ」

 

 まいったな、と星熊は右手で髪を撫で、左手で腰を掻いた。つまりは、私を支えていた手をいきなり離した。

 

 あまりに自然に、そして突然だったため、私はなすすべなく落ちていった。身体が風を切り裂き、くるくると回転しながら真っ逆さまに落ちていく。

 

「おっと、何落ちてんだよ。子供じゃあるまいし」

 

 がしりと背中から太い腕が回される。近づいていた血の池が止まり、腹に少なくない衝撃が走る。嗚咽が漏れ、胃液がこみ上げてきた。

 

「おい、大丈夫か?」

「大丈夫じゃないですよ。もっと優しく受け止めてください」

「まさか手を離したぐらいで落ちていくなんて思わないじゃないか。飛べよ」

 

 深呼吸をし、息を整える。気を抜けば意識を失ってしまいそうだ。

 

「勇儀さん、この世で一番残酷なことって、なんだか知っていますか?」

「さあな。心を読むことじゃないか?」

「上げて落とすことですよ」

 

 先程よりも速い速度で血の池が遠ざかっていく。火傷の傷に風が当たり痛むが、唇を噛みしめ、こらえる。

 

「考えてみてください。血の池に落ちそうになっている時に、やっと助けられたと思ったら、急に落とされたんですよ。酷くないですか」

「酷くない」

「上げれば上げるほど、落ちた時の衝撃が強くなるんです。だったら最初から落ちていたほうが良かったと思うほどに、辛いですよ」

「なら、飛び込むか?」

「すみません冗談です」

 

 ふっと、星熊の心が緩んだ。絞られていた眉がほどけ、温かい笑みが浮かぶ。本心からの笑みだ。どうして彼女がそんな笑みを見せたのか、分からなかった。

 

「古明地、さっき一瞬だけだけど」

「なんですか」一応疑問形で聞いたものの、彼女が何を口にしようとしているのかは読めていた。だが、理解はできていない。

「お前、昔みたいだったよ。最近なんだか変だけど、さっきだけは違った」

 

 “まあ、元々変だったけどな”

 

 気がつけば、先ほど特訓をしていた場所まで来ていた。頭の中で、星熊の言葉を繰り返す。私は変わったのだろうか。変わってしまったのだろうか。自分では心当たりがなかった。

 

 星熊の顔を見ようと振り返る。それより早く、ぼすん、と体が跳ねた。目の前が土煙で覆われ、身体に妙な感覚が走る。地面に投げつけられたということはわかったが、右足に引きつった感覚が走った。嫌な予感がする。

 

「お前が準備運動に手こずったせいで、特訓の時間が減っちまった」

「え」

「さあ、続きだぞ古明地」

 

 目の前を覆っていた薄黄色の煙が晴れていく。反射的に立ち上がっていた。すぐにその場を去ろうともがくも、いつの間にか右足が地面にくくりつけられていた。今度はロープではなく、鎖で繋がれている。

 ゆっくりと、白い、うねうねとした細い芋虫が近づいてきていた。ステップするようにして必死に躱す。なんで、と思わず嘆いていた。なんでさっきと同じように、蛆虫の中央で右足を固定されているのか。

 

「準備運動は終わりだ。今度は本番だぞ。私が殴りかかるから、避けてみろ」困惑している私を他所に、星熊は大声で言ってきた。

「え、ちょ。私はさっきので怪我をしてしまったんです。もう動けませんよ」

「かすり傷じゃねえか」

「星熊なら、骨折してもかすり傷とか言いそうですね」

「骨折はかすり傷だろ?」

 

 そんな訳無い、と反論する元気すらない。

 

「それより、やっぱ蛆虫に囲まれるのはきついですよ。別の特訓にしてください」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃないから言ってるんです」

「大丈夫だ」

 

 似合わないウインクをした星熊は、一直線にこちらに向かってきた。痛む身体を強引に動かし、避けようとする。本気になれば彼女は私を木っ端微塵にできたはずだが、流石に手加減しているのか、頭上を彼女の巨体が過ぎ去っていった。

 

「さっきの幽霊も言ってただろ」

「言ってたって、なんて」

「どんな辛いことでも、いつか慣れるってな」

 

 結局、この後、私は気を失うまで特訓をする羽目になった。明日の八雲紫との決闘に勝てるようになったとは思えないが、やることはやった。そう思っていないとやってられない。

 

 今、私は結局ひとりで日記を書いている。あの子の姿もない。孤独だ。真っ黒な孤独。ふと、水蜜の言葉を思い出した。私を匿う奴がいるかもしれない、という言葉だ。そんな奴はいない。だが、そんなこと分かっている今も、私は心の何処かで期待しているのかもしれない。星熊のような、血の池地獄に飛び込む輩がいるのなら、そんな変人がいてもおかしくないのではないか、とそう考えてしまっていた。馬鹿らしい。そんなこと、ある分けがないのに。期待をすればするほど、辛いのは自分だと知っているのに。

 

 ただ、一つ言えることとすれば、こうして孤独の時間を過ごしている時間は、どれだけ長いこと過ごしていても、決して慣れることはないということだけだ。

 

 館の何処かで聞こえる、ペットとあの子の楽しそうな声を邪魔しないように、私はひっそりと味のしない団子を頬張った。

 

 それでは、明日はいい日でありますように。なんてね。

 




慣れ、ですか。地霊殿の主に慣れることができる妖怪なんて、多分誰もいないですよ


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第119期7月16日─耳が痛いですね─

第119期7月16日

 

 ひとり孤独に日記を書く。いつものように、いつも通りに静まり返った自室で筆を進める。何もおかしいこともなければ、間違ったこともしていない。そもそも、日記というものは一人で書くものであるから、大勢の前で書いたりなんかはしない。

 

 そんなことは分かっていた。だが、どうして私は今こんな気持ちになっているのだろうか。きっと、分かっていなかったからだ。私も、八雲紫も、そしてあの子も分かっていなかったのだ。何を。心をだ。心を分かっていなかった。

 

 だが、それもこうして私が日記を書けている事実に比べれば、些細な問題だろう。今日は八雲紫との決闘の日だった。その決闘が終わったいまも、こうして日記を書けているということは、無事に生き残れたということだ。

 

 日記が生存証明になる。まさにこんなことを今日言われた。それは他でもない、八雲紫の言葉だった。

 

「日記っていうのは、生存証明になるのよ」

 

 例に漏れず、勝手に私の部屋に忍び込んだ八雲紫は、いつの間にか私の日記を机に広げていた。隠していたはずなのに、どうやって探し出したのだろうか。そもそも、人の日記を勝手に読むことは、幻想郷の賢者としてはどうなのか。言いたいことはたくさんあった。だが、とりあえず、言わなければならないことは、そんなことではない。

 

「八雲紫、どうしてあなたが私の部屋で寛いでいるんですか」

「どうしたの、急に。いつもそうじゃない」

「言い方を変えましょう。どうして今日殺し合いをする相手の本拠地で呑気に相手の日記を読んだりしているんですか」

 

 ばさり、と音がした。八雲紫が私に日記を投げてきた音だ。手をのばすことも億劫で、そのまま日記が足元に落ちていくのをただ呆然と見る。開いていたページが皺になり、折れ曲がっていた。

 

「日記っていうのは、生存証明になるのよ」

 

 もう一度、今度はゆっくり噛み含めるように言った八雲紫は、珍しく真剣な顔つきで私に目配せしてきた。何だかんだいいつつ、今日の決闘に感じるものがあるのかと思ったが、どうやら違うようで、私の足元の日記を見つめている。

 

「たとえ、誰かが死んでしまったとしても、残された日記を読めば、いつまで生きていたか分かるでしょ。いわば、隠された遺書みたいなものね。そこに残された言葉を糧に、その日記を読んだ人は故人の想いを汲み取ることができる」

「だから何ですか」

「つまり、日記を書いているうちは生きているってことをいいたいのよ。だから、あなたはまだ生きている。死んでいない」

「何を言っているのかさっぱりです」

 

 深く追求しようとも思ったが、八雲紫の言葉が分からないことはいつものことだったので、やめた。彼女もこれ以上話す気は無いようで、すぐにその硬い表情を、いつもの胡散臭いものに変えている。

 

「それより、はやく行きましょうよ」扇子を取り出し、ソファに深々と腰を落とした八雲紫が苛立しく、口調が強くなってしまう。

「早く、下らない決闘をしましょう」

 

 八雲紫は返事をしなかった。ただ面倒そうに目を細めているだけだ。これから殺し合いをするというのに、随分と呑気ではないか。きっと、私には負けることがないと高を括っているに違いない。だが、それは正しかった。私は八雲紫にどう足掻いても勝つことはできない。

 

 だが、地底を差し出すような気もさらさらなかった。

 

「戯言はいいですから、早く行きましょうよ。面倒なことは手早く終わらせたいんです」

「あなたの妖生が手早く終わってしまうのかも知れないのよ? もう少し落ち着きなさい」

「早く終わらせたいんです。場所は血の池地獄にしましょう。あそこなら、誰もいません」

 

 話を聞きなさいよ、とぶっきらぼうに笑った彼女は、すぱり、と扇子を振った。もはや見慣れてしまったスキマが開く。薄気味悪く、気持ちも悪いが、ただそれだけだ。

 

「さっきの日記に、血の池地獄に行けば船幽霊があなたを助けるって書いてあったのだけれど」

 

 ニヤニヤと笑いながら、彼女は私に顔を寄せてきた。吐息が肌にかかり、鬱陶しい。一対一の決闘に誰かを巻き込むことを非難しているのだろう。ただ、そこに何の問題もなかった。

 

「冷静に考えてください。私はさとり妖怪で、地霊殿の主なんですよ。そんな私を助けようだなんて、本気で言っているわけないじゃないですか」

「そんなことわからないじゃない」

「分かりますよ。私を救おうだなんて思ってる輩は、誰もいないんです」

「いるんじゃないかしら? 私はあなたを助けようと思っているのだけど」

「なら、決闘で私が負けたら地底を攻めるっていうあれ。取り消してください」

「いやよ」

 

 満面の笑みを見せた彼女は、い、や、よ、と耳元ではっきりと言い直してきた。意地が悪いというか、面倒くさいというか。

 

「だって、ああでも言わないとあなたが本気で戦わないかもしれないじゃない」

「私が本気を出したところで大差ないでしょう。亀は全力で走っても遅いんです」

「分かってないわね。頑張ることに意味があるのよ」

「あなたらしくもない綺麗事ですね。反吐が出る」

「少なくとも、頑張る姿は人を感動させるわ。分からないのかしら?」

「分かってないのはあなたですよ」

 

 そう。八雲紫は分かっていなかった。何もかも分かっていない。私がこの決闘に負けたら、八雲紫を始めとする地上の戦力が地底に攻め込む。たかがそんなことで、どうして私が本気を出すと思ったのか。こんな憎い地底のために、私を拒絶する薄暗い世界のために、私が頑張る理由なんて無い。そう思っていた。

 

 だが、今思えば、八雲紫が分かっていなかったのは、そんなことではなかった。もっと重大なことを彼女は勘違いしていたのだ。

 

「まあいいわ。そろそろ準備もできただろうしね」

 

 スキマに身体を半分入れた彼女の声は、少しくぐもっていた。彼女の後を追い、スキマへと近づく。

 

「準備って、なんのですか」

「さあ、心の準備じゃない? あなたの」

 

 そんなもの、とうの昔からできているに違いなかった。

 

 

 

 

 八雲紫のスキマを抜けた先には、もはや見慣れてしまった血の池地獄が広がっていた。錆びているからか、こげ茶色が強い岩盤が広がり、奥には大きな溝がある。その溝の底に例の血の池があった。昨日、私が落ちかけた池だ。星熊の弾幕による怪我はまだ完治していない。体を動かす度に鈍い痛みが走るが、まだ身体が動くだけマシといえた。

 

「なら、私がはじめ、と言ったら始めましょうか。本気の決闘を」

 

 その溝から少し離れた場所に立った八雲紫が、いやに響く声で言ってきた。

 

「西部劇の見すぎじゃないですか?」

「いいのよ。不意打ちで終わったらつまらないでしょ?」

 

 確かに、心を読めない八雲紫の不意打ちを避けることはできない。ありがたくその妙に演出がかったルールに則ることにした。昨日、星熊が置いていったものだろうか、地面に置かれている鎖へと近づく。私の右足を固定していたものだ。あれほど乱暴に扱ったのに、傷一つ無かった。蛆虫の姿はもうなくなっている。その鎖を持とうとしたものの、それより前に早口で八雲紫が口を挟んだ。

 

「さっそくだけど、決闘の勝利条件を伝えるわね」

「え?」

「ほら、そういうのがあったほうが面白いじゃない」

 

 いきなりそう言ってきた彼女を訝しんでいると、足元に一瞬、スキマが開いたのがわかった。先ほどまであった鎖がすっかりと消え去っている。そこを足で踏み潰すように強く蹴るも、ただ、ざらざらとした砂の感触があるだけだった。鎖なんて、影も形もなくなっている。見間違えたのだろうか。きっと、ストレスと極度の緊張のせいで、無いものが見えてしまったのだろう。

 

「そうねえ。こういうのはどう? 相手が死ぬか、降参といえば負け。うん。中々いいんじゃないかしら?」

「本当にそれでいいんですか?」

「もちろんよ」

 

 どうして彼女がそんな条件を出してくるのか、きっと何かしら考えがあるに違いない。

 

「なら、早速始めましょうか。準備はいい?」

「準備ならとっくに出来ていました」

 

 私の言葉が聞こえていないのか、仰々しく扇子を振った彼女は、きりりと眉を引きつらせた。

 

「これより八雲紫の名によって、地上と地底による決闘を始める」

「なんですか、そのかしこまった言い方は」

「これは地底の存在に関わる重大な決闘であり、運命を決する戦いである。いざ、静粛に代表同士での一騎打ちを。それでは」

 

 はじめ。

 

 彼女がそういうよりも早く、私はその場から大きく跳躍した。足元で爆音が鳴り響き、衝撃波で身体が揺さぶられ、平衡感覚を失いそうになる。

 

 宣言と共に、八雲紫がいきなり弾幕を放ってきた。予想してたとはいえ、本当にやってくるとは。どうやら手加減してくれる気はないらしい。

 

 不安定な体勢のまま、飛んでくる弾幕に目を向けず闇雲に体を動かす。身体のすれすれを凄まじい破壊力の光弾が音速で駆け抜けていった。近くの岩場に当たり、破片が身体を切り刻む。鋭い痛みに意識が奪われそうになるが、必死に体を動かし続けた。

 

 予想通りだ。やはり、彼女は追尾性の弾幕を放ってきた。これならば、袋小路にならないように、動き続ければなんとかなる。ただ、こんな馬鹿みたいな作戦はすぐに彼女にばれてしまうだろう。なら、相手は何をしてくるか。考えろ。考えなければ。心が読めない分、考えるんだ。

 

 弾幕の暴発により、大きめの岩が真上から降ってきた。急いで岩の裏に隠れ、それを盾にするように重力に従い落ちていく。その瞬間、顔のすぐ上で大きな爆発が起こった。爆風に身を煽られ、地面に叩きつけられる。バウンドしてさらに岩に顔面を強打した。

 

「あら。直撃しないとは予想外ね」

 

 目がまわり、視界が血で覆い尽くされる中、必死に私は立ち上がった。範囲攻撃。ちょろちょろと避ける私を潰すにはそれが手っ取り早い。現に彼女は、今もふらふらとよろめいている私に、同じ大規模な爆発する弾を放とうとしている。慌てて横に飛び込むも、逃げ切れず、右足が巻き込まれる。

 

 地面を転がり、そのまま血の池付近の溝近くまで身体が吹き飛ばされた。右足を見る。赤く、そしていびつな形になったそれからは、血と体液が吹き出していた。

 

「右足、骨が折れちゃってるんじゃない? もう降参したらどうかしら?」

「知ってますか。骨折はかすり傷なんですよ」

 

 何を言っているのかしら、と不敵な笑みを浮かべたまま、追撃の弾幕を放ってきた彼女を睨み、跳ぶように身体を投げ出す。右足を怪我した状態で避けられるはずもなく、身体に燃えるような痛みが広がった。思わず、声が漏れる。自分の声だと認識できないほどに悲痛な声だ。

 

 痛みで気を失いそうになり、遠のいていく意識が痛みで呼び起こされる。目の前がチカチカと点滅し、身体が言うことを聞かない。その場でごろごろと転がり、痙攣するように全身が細かく震える。血を吐いていたのか、口元は濡れていた。

 

「案外早く決着がつきそうね」

 

 こちらに近づいてくる八雲紫の足が見えた。右手をつき、身体を起こそうとするも、その肝心の右手が直角にネジ曲がっていて、支えにならない。裂けた肉の隙間から骨が覗いていた。

 

「流石にもう動くことはできないでしょ。後は降参するか、死ぬかのどちらかよ」

 

 右手が駄目なら左手をつけばいい。そう思ったが、左腕の感触がなかった。目をやると、血の気を失い真っ青になった腕がぷらぷらと揺れている。なら。足はどうか。目を下に向けると、足より早く、腹の異常に気がついた。あるはずだった皮膚がただれ落ち、肋が突き破っている。どうして生きているのか不思議なくらいだ。

 

「ほら、降参するなら早くいいなさい。じゃないと、殺すわよ」

 

 声を出そうと口を開くも、激痛が走り、こひゅと肺の隙間から空気が漏れる音しか出ない。耐えられない痛みが走り、またもや私はその場で痙攣した。涙と血で顔がぐしゃぐしゃになっている。

 

 やはり、八雲紫には勝てなかった。分かっていたことなのに、心に絶望が満ちていく。このまま私が負ければ、降参をすれば、地底と地上は闘いを始める。別にいいのではないか。むしろ、地底がむちゃくちゃになった方が、私の気も晴れるのではないか。

 

 

「わた、しは」

 

 恐怖と痛みで押しつぶされそうになった時、ようやく言葉が口から出た。小さく、そして血が泡立つせいでくぐもっていたが、それでも八雲紫に向かい言葉を続ける。

 

「わたしは、こうさん」

「あら。降参するのかしら?」

「こうさんなんて、しません」

 

 べっちょりと顔を覆う液体を服の袖で拭う。唇は震え、気を抜けば大声で泣き出しそうだった。折れた右足を強引に地面につけ、立ち上がる。たまらず悲鳴がこぼれた。だが、こんなもの。

 

「こんなもの、普段受けてる心の傷に比べたら大したことありませんよ」

 

 頭はぼやけていた。極度の恐怖と緊張で思考が定まらない。激しい痛みに身体がついてこないのか、その場で嘔吐してしまう。吐瀉物に混じり血が足元を濡らし、びしゃびしゃと嫌な音を立てた。

 

「八雲紫、一つお願いがあるんですが」

「お願い?」

「私を拷問するなり、晒し者なりにしていいので、地底を許してはくれないでしょうか」

 

 流石にこの状況から八雲紫に勝つことは難しい。不可能ではないかもしれないが、困難だろう。なら、私のすべきことは一つだ。

 

「そもそも、この決闘は地底の妖怪が地上で暴れた責任をとるためのものだったはずです。なら、地上の連中が満足すれば、納得すればそれでいい。そうですよね」

「まあ。そうだけれど」

「ただ私が死ぬだけでは、決闘に負けるだけで満足できないのなら、満足できるように殺してくれていい。手の先からみじん切りにしていっても、ミキサーにかけても、炎で焼いてもいい。それで地上の連中は納得するなら、地底と地上の戦争を防げるなら、それで手を打ちませんか?」

「あなたはいいのかしら?」

 

 一瞬、八雲紫の言っている意味がわからず、うろたえる。

 

「それだと、あなたの命は失われてしまうのよ。それでもいいの?」

「どうせ死にそうですしね。それに、私は合理的なんです」

「合理的?」

「要らないものをあげて、必要なものを得る。合理的でしょ?」

 

 そうだ。地底にとって、今の平和は何よりも大切なものなのだ。それに、地底にとって私の命なんて、要らないもの以外の何物でもなかった。

 

「たしかに理に叶っているわね」

「なら」

「でも、駄目よ」

 

 背中に燃えるような熱さが走った。呻き、悶えることしかできない。八雲紫が何かをしたということはわかったが、それだけだった。

 

「何回も言わせないで。地底を救う方法は、私に勝つこと、ただそれだけ」

 

 無意識に歯ぎしりをしていた。ぬめりとした血のせいで奥歯が滑る。力を振り絞り立ち上がる。膝は真っ二つに割れ、じゅくじゅくと黄色い液体が溢れ出ていた。だが、無視して強引に身体を起こした。そのまま八雲紫の前へと立ちはだかる。

 

「なら、こんなところで寝てるわけにはいきませんね」

「もう降参したらどう?」

「いや、まだです」

 

 闇雲に、力を振り絞り八雲紫に向かい殴りかかる。型もへったくれもなく、もつれる足を引きずるようにして八雲紫へと突進していく。

 

 殴られた。頬に鈍い痛みが走り、またもや地面に崩れ落ちる。歯で口の中を切ったからか、それとも元々の傷のせいか、口内に血が溜まっていった。吐き出すと、血とともに白い歯の欠片も飛び出す。

 

 それでも私は、折れた腕の骨を地面に突き刺すようにし、もう一度立ち上がった。

 

「どうして、あなたは」

 

 八雲紫が次に言う言葉が、私には分かった。彼女の心は相変わらず読めない。だけれども、流石にそこまで困惑した表情をされれば、嫌でも分かってしまう。

 

「どうしてあなたは、そこまでして地底を、誰も彼もがこの私を拒絶する地底を救いたがるのか、ですか」

 

 押し黙り、俯いた八雲紫がゆっくりと足を進めてきた。後ずさることすらできない。少しでも動けば、そのまま倒れて動けなくなりそうだった。

 

「確かに私は地底なんて大嫌いですよ。ええ。本当に。滅べばいいと最近はずっと考えていました。クソみたいな妖怪の掃き溜め、恩を仇で返すことしかできない奴ら。何度死ねばいいと願ったことか」

 

 ぽたり、と頬から何かが垂れた。手でそれを拭い、目の前に持っていく。てっきり血だと思っていたが、涙だった。

 

「あなたなら、私が何をしてきたか知っているじゃないですか。ヤマメとキスメの件だって、本当は私は悪くないのに。彼女たちの幸せを願ったばかりに、私は嫌われた。この前のもそうです。食料調達をするだけで、どうして私がペット達に嫌われなければならないんですか。ええ。分かってますよ。自業自得だってことくらい分かってます。私がそうなるよう望んだんですから。でも、少しくらい見返りがあってもいいじゃないですか。もう耐えられないんです。仕方がなかった。これで相手は幸せになったじゃないか。そう何度自分に言い聞かせたところで、当の本人たちの憎悪に耐えられるはずがないんです。想像してみろよ。必死に彼女たちを救うために奔走し、結果として助けることができたのに、その見返りは嫌悪だなんて、あんまりでしょ。私が何をしたというの。何をしなければいけなかったの。なんで私は嫌われなくちゃならないの。どうして私はこんな目に遭わなくちゃいけないの。どうして私は今まで救ってきた奴らに恨まれなければならないのか。そう思うよ」

 

 気がつけば、私は右手を空へと掲げていた。その手の中には私の身体から伸びた第三の目が握られている。いびつに曲がり、切れた筋肉がぷらぷらと揺れているが、痛みは感じなかった。

 

「毎日毎日、やってもいないことで内心で罵倒され、嫌悪され、馬鹿にされる。道を歩けば嘲笑され、何かを食べれば毒を混ぜられる。しかも、それが嫌がらせではないんだ。本気。本気で私を殺そうとしてくる。そんなこと、耐えられるはずがない。必死に身を粉にした代償が、殺意だなんてね。笑えるでしょ? 笑えよ」

 

 意識するより早く、言葉が溢れていく。今にも死にそうな怪我を負っているはずなのに、それでも口は動き続けた。

 

「何が地霊殿の主だ。ふざけるなよ。私はこんな思いをしたかった訳じゃない。ああそうだよ。こんな地底、私が助けてやる必要はない。むしろ清々する。地上と戦争になったら、いい気味じゃないか。私を拒絶する世界なんて、何をやっても報われないような愚鈍な世界なんて、滅べばいい。そんなのは分かってるんだ。分かってるんだよ。八雲紫。分かるか? けどね。けど、それでも私は。確かに地底はクズだ。この世からなくなったほうがいいと思うし、願ってもいる。全てが憎い。ここにいる連中は救いようもない奴らだと知っているんだ。知っているんだよ。けど。だけど!」

 

 頭の中から、懐かしい記憶が溢れてきた。いつの日か、ヤマメがやってきた時の宴会の記憶だ。あの頃から私は嫌われていた。それでも、どうしてだろうか。あの時、確かに嫌悪感を振りまきながらも、確かに私の周りには妖怪がいた。いたはずなのだ。そして、その時の私は、温かみを感じていた。

 

「だけど、だからこそ私は戦わなければならないんです。これでも私は、あんなしょうもない連中のリーダーなんですよ。すごい。格好いい。憧れる。頭を垂れて忠誠を示し、靴に頬ずりをして崇め奉りたくなる。そんなリーダーにはなれませんでしたが、薄気味悪くて、陰湿で、丁寧口調な地霊殿の主になることはできました。あんな下らない連中でも、いい所があると知ってしまっているんです。なら、諦める訳にはいかないじゃないですか。私は確かに嫌われています。いつだってそうです。きっと、これからもそうでしょう。でも、感情ってのは複雑なんです。嫌いと好きだけじゃ区別できないんですよ。だから、こんな嫌われている私にすら話しかけてくれるやつはいたんです。知ってしまったんですよ。橋姫の思いやりも、星熊の気遣いも、ペットの純粋さも、ヤマメの生真面目さも、キスメの愛情も、知ってしまったんですよ。それに、あなたも言ってましたよね」

「言ってたって、なんて」

「私はムカデになりたいんですよ。ゴキブリではなく。どうせ嫌われるなら、役に立つほうがいいじゃないですか」

 

 すとん、と身体が落ちた。下半身が急になくなったかのように力が入らず、そのまま地面に横たわる。ぼやけた視界は真っ黒な天井を映しているはずだった。けれど、どういう訳か目の前に八雲紫の姿がある。その手には扇子が握られ、まっすぐに私に向けられていた。

 

「私は嫌われ者です。きっと、これからもそうでしょう。だとすれば、私の命が無くなろうと、せめて地底だけは消えてほしくない。どうせ嫌われているのであれば、憎まれてしまうのであれば、役に立ちたいに決まってるじゃないですか」

 

 そうだ。未来永劫、地底の連中は私を受け入れないだろう。何をしたところで、どうしたところで、口すらきいてくれないに違いない。あの星熊ですら、会う度に嫌悪感を増しているのだ。しまいには彼女も私をいないように振る舞うのだろう。だが、それでいい。それでもいいのだ。私は決して良い妖怪でもない。そんなのは分かっていた。善意で地底のために尽くしているわけではない。

 

「私は、いいんだよ。いいんだ。死んでもいいんだよ。自己満足だ。どうせこんな最悪な地底にいても長生きできない。なんなら生きる意味を失った私は、もう死んでると言っても良い。だったら、せめて地底のために死にたい。そう思うことを、そんなふざけた妄想をしてしまう弱さを、お前なんかに分かられてたまるか!」

「あなたはまだ死んでいないわ」

 

 氷のような冷たい目で、八雲紫は私を見下ろしていた。本当に氷でできていたのか、溶けた水が目元に溜まっている。

 

「ねえ、羊の話、覚えているかしら?」

「え?」

「この前したでしょう?」

 

 てっきり、その扇子の先から弾幕が飛び出てくるものかと思ったが、どうやら違うようだ。突然の話に眉をひそめている私を見て、どこか得意げな表情で八雲紫は小さく息を吐いた。

 

「ある日、一匹の狼が羊たちを襲うのだけれど、勇気ある羊のおかげで、他の羊は助かって、その羊のことを永遠に語り継いだって話よ」

「ああ。あの、感動的なまでにつまらない話」

 

 きゅっと視界が狭まるのがわかった。怪我のせいで体力が尽きているのか、その羊の話に感じるものがあったのか、おそらく、両方だ。

 

「皆のために犠牲になっている羊の姿を見れば、普通は感動するものよ」

「前も言ったじゃないか。そんなの、ただの仮初めです。現実では起きっこないんですよ」

「そうね。そんな話、作り上げなければ実際には起きないわ」

 

 でもね、と彼女は胡散臭い笑みを浮かべた。視界がぐにょりと曲がり、世界がくるくると回転していく。彼女の背にある薄黒い血の池地獄の天井が、渦を巻くように歪んでいった。ああ、ついに意識が途切れる寸前なのだな。きっと、もう二度と目を覚ますことはないだろう。そう思ったが、違った。いきなり世界が変わり、騒がしくなっていく。血の池地獄だと思っていた景色が崩れ去り、旧都が現れた。何が起こったか分からず、私は驚いていた。どうして、と声が漏れる。

 

「作り上げなければ実際に起きない。つまり、逆を言えば、作り上げれば実際に起こせるということなのよ」

 

 痛む身体をひねるようにし、あたりを見渡す。そこは、酷く見慣れた場所だった。私と八雲紫を取り囲むように無数の妖怪がこちらを見ている。そこには、ヤマメやキスメ、星熊やペットたち、そしてあの子までもいた。

 

「地霊殿の主が地底を助けるために犠牲になっている。どう? 感動的でしょ?」

 

 もう一度ぐるりと見渡す。さっきまでの血の池は消え去り、旧都の中央に私達はいた。八雲紫が例の幻影で私を欺いていたのだろう。さっきまで聞こえてきていなかった周りの彼らの心の声が嫌というほど聞こえてくる。さっきまでの戦いや会話は、すべて知れ渡っているようだった。

 

 ほっとした表情で私を抱きかかえた八雲紫は、目を細めた。わざとらしく身体を揺さぶり、息を大きく吸った。

 

「降参よ」

「えっ」

「そこまでして地底を守ろうとするなんてね。あなたの熱意に負けたわ。今回は、あなた達地底の勝ちよ」

 

 八雲紫のその言葉をかき消すような、大きな歓声が旧都を覆った。

 

 




地底は、地底はそうじゃなくてはいけないんです。平和で、そして危険でなくてはいけない。大丈夫ですよ。大いなる犠牲には、いつだってそれ相応の対価があるものです。その調律はもう、大丈夫なんですよ。気にしなくてもいいんです。だから、ねえ。もうそろそろ


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第119期7月16日(2)─ああ、どうかお願いします─

 第119期7月16日

 

 久しぶりに参加した宴会は、想像以上に騒がしかった。それもそのはずだ。ほとんどの地底の妖怪が旧都に集まり、酒を飲んでいるのだから、むしろ騒がしくならないほうが異常である。

 

 だが、まさか私がその宴会に参加するなんて思いもしなかったし、むしろその主役となるだなんて、夢にも思わなかった。包帯とガーゼで全身をぐるぐる巻きにし、四肢を硬いギブスで守っているとはいえ、八雲紫によって半殺しにされた私が酒を飲めると、彼女たちは本当に思っていたのか。

 

 古明地が地底を守ったことを祝う会。なんてネーミングセンスのない宴会なのだろうか。「主賓のいない宴会なんて、アルコールが抜けた酒と同じだよ」そう私の肩を撫でた星熊の笑顔が頭によぎる。私の特訓のおかげだな、と鼻を鳴らしていた彼女は、今は他の鬼たちと一緒に酒を飲んでいた。飲ませている、と言ったほうが良いかも知れない。

 

 あの後、八雲紫が幻影を解き、降参した後、地底の妖怪たちは思い思いに称賛の声を投げかけてきた。どうやら、ぼろぼろになっても八雲紫に立ち向かうさまが、彼らの琴線に触れたらしかった。それは、星熊のような鬼も例外ではなく、やっぱ強いな、お前は。と訳のわからないことを言った後、当然のように宴会の準備を始めたのだ。まあ、鬼なので仕方がないと言えるだろう。ただ、一つ疑問に思うことがあるとすれば

 

「どうしてあなたが平然と宴会に参加しているんですか、八雲紫」

「あら、失礼ね。いいじゃないの」

 

 その、私と戦っていた八雲紫がすぐ隣で美味しそうに酒を飲んでいるということである。

 

「地底ってのは、お互いを殴ることで仲が深まるのでしょう? なら、なんの問題もないのよ」

「ありますよ、帰ってください」

「酷いわね」

 

 眉を下げ、大袈裟に肩をすくめた八雲紫は、椅子に座らされている私の肩に頭を置いた。

 

「誰のおかげでこうして宴会に参加できていると思っているのかしら?」

「そうだよ、びっくりしたでしょ」

 

 いきなり後ろから声をかけられ、ぎょっとした。咄嗟に逃げようとするも、身体に痛みが走るだけで、身じろぎ一つできない。

 

「ああ。怪我をしているから動かないで」

 

 その声の主は、とてとてと私の前へと歩み寄ってきた。大きな黒い帽子を揺らしながら、大丈夫? と心配そうに声をかけてくる。

 

 “思ったよりもひどい怪我だけど”

 

 彼女の第三の目が私を心配そうに見つめていた。そして、八雲紫に対し少しの憤りをぶつけている。

 

「ここまでやらなくてもよかったんじゃないかな。流石に酷すぎるよ」

「ごめんなさい。つい」

「ついで家族をぼこぼこにされた私の気持ちも考えてほしいね」

 

 それを言うのであれば、ついでボコボコにされた当の私の気持ちはどうなるのだ。そう考えていると、クスクスと二人は笑い始めた。

 

 “今から説明するよ”

 

 酒瓶を持ちながら、第三の目をくるくると回した彼女は、私を気遣うように正面で腰を落とした。悪戯っぽいその笑みは、彼女の短い髪も相まって、少年のように無邪気に見える。

 

「少年だなんて失礼しちゃうな。実の姉妹なのに」

「なら、その実の姉妹に説明してくださいよ。何が何だかさっぱり」

「分かってる分かってる」

 

 そう笑った彼女は、酒瓶を乱暴に口に入れ、ぐびぐびと飲み始めた。何かをやりきったかのような清々しい笑みだ。その心も、喜びと達成感に満ちていた。

 

「申し訳なかったんだよ」

 

 酒の勢いに任せ、呂律が怪しい口で彼女は言った。

 

「この前、お燐たちペットに嫌われたのは、私と八雲紫のせいでしょ? あれ以来元気がなくなっちゃって、見てられなかったんだよ。なんだか、死んじゃったみたいでさ」

「私は生きてますよ」

「いや、あれは死んでいるとの変わらなかったわ」

 

 八雲紫にとっても嫌な思い出なのか、眉を絞るように細めていた。

 

「私が何をやっても反応しないし、怖がらない。怒りもしなければ悲しみもしない。ただ、何かを呪い続けるだけ。そんなのを生きているだなんて言えないわよ」

 

 八雲紫の頬は少し上気していた。彼女の手にあった酒瓶は、すでに空になっている。あの妖怪の賢者がそこまで酒を飲む姿なんて、初めて見たかも知れない。だが、八雲紫よりも、はるかに酔いが回っているのか、馬鹿みたいに酒を飲んでいる妖怪がいた。他でもない私の家族だ。

 

「だから、私達は考えたの」そんな、馬鹿みたいに酔っぱらい、被っている帽子を私の頭に載せた彼女は、にぱっと笑った。

「どうすれば元気を出してくれるかって考えた」

「それで、どういう結論を出したんですか?」

「簡単だよ。みんなに嫌われておかしくなっちゃったなら、皆に好かれるようにすればいいって」

 

 彼女の言っている意味が分からず、首をかしげる。

 

「おかしいと思わなかったのかしら?」八雲紫の息は、すでに酒臭くなっていた。

「地底と地上の戦争なんて、妖怪の賢者が望むはず無いじゃない。あなたが負ければ地底に攻め込むなんて、あんなの嘘よ嘘」

「え」

「それに、確かに地霊殿の主は地底に関して責任を負うけれど、流石に伊吹萃香の件だけで決闘だなんて、大袈裟な段取りは組まないわよ」

 

 私は呆然としていた。八雲紫は、地底に攻め込む気がなかったということなのか。私に責任をとらせる気など、はじめから無かったというのだろうか。なら、いったい何のためにこんなことを。

 

 そこまで考えて、ようやく最初の言葉を思い出した。

 

「私のため、ですか」

「そうだよ」

 

 ふふん、と鼻を鳴らし、さとり妖怪らしく私の心を読んだ彼女は、得意げに胸を張った。

 “私がいないと、本当に駄目なんだから” 頼もしい心の声が、私の胸を貫いた。

 

「羊の話。面白いね。でも、その通り。皆のために犠牲になるための話は誰だって感動する。でも、実際にはそんなに上手くはいかないんだよ。そんな都合の良い展開なんて訪れない。だから、作ったの。地霊殿の主が自分の命を削ってでも地底を守る、という展開をね」

 

 八雲紫の、作り上げなければ実際に起きない、という言葉を思い出した。彼女がどうして妙に演出がかった言葉を述べたのか、変なルールをつけたのか、これで全て合点がいった。彼女は初めから、私に負ける気でいたのだ。私が地底を守ろうとしている様子を、他の地底の連中に見せつけるために、わざわざ幻影を使い旧都を血の池に偽装した。

 

「だから、あの鎖を消したのですね。血の池地獄の様子を再現したはいいものの、あくまで幻影でしかない鎖を触ろうとすれば、幻影だということがバレてしまいますから」

「あの時は焦ったわ。私らしくもなかったわね」

 

 いったいどこまでが幻影で、どこまでが現実だったか、私には分からない。ただ、どうしてそんな回りくどいことをしてまで私を助けようとしたか、それが一番分からなかった。

 

「あなたの真似をしたのよ。地霊殿の主の真似をね」

 

 八雲紫の声はとろんとし、らしくもなく目は潤んでいた。

 

「あなたはいつも悪役になるじゃない。ヤマメとキスメの時も、食料調達の時も。だから、今回は私が悪役になったのよ。地底に攻めようとする私に命がけであなたが立ち向かう。やっぱり感動的よね」

「それ、あなたが考えたんですか?」

 

 八雲紫はぶんぶんと子供のように首を振った。彼女じゃないとすれば、と思い首を横に向けるが、違うよ、と心で否定される。なら、いったい誰がこんな事を考えたのだろうか。

 

「これを考えたのは私だよ」

 

 どこからか、声が聞こえてきた。前でも後ろでも、もちろん左右からでもない。上からだ。体全体を後ろに反らすようにし、天井を見上げる。そこには誰の姿もなかった。心も読めない。だが、私にはそれが誰だかすぐにピンときた。聞き覚えのある声もそうだが、もやもやと薄く漂っている霧に、酷く懐かしさを感じたのだ。間違いない。地上に行ったはずの彼女だ。

 

「伊吹萃香。いつの間に地底に帰ってきていたのですか」

「今さっきだよ。勇儀たちに絡まれたら面倒だったからね」

 

 しゅるしゅると音を立てながら、霧が八雲紫と私の間に集まってくる。だんだんと人の形になっていき、あっという間に小鬼の姿が現れた。にししと笑い、八雲紫に手をひらひらと振った伊吹萃香は、らしくもなく私に向かい眉を下げた。

 

「前に、私に話しただろ、古明地」

「話したって」

「助けようとしたのに嫌われてしまうなんて、あまりにも残酷だって、そんな酷い話は認められないんだって、そう言ってただろ」

「そうでしたっけ」

「ああ、そうだ。そしてこうも言った。私は嫌われる運命にあるから仕方がないってな」

 

 思い出そうとするも、その部分だけ何か硬い箱で閉じられているかのように、記憶が封じられている。だが、伊吹萃香の心には、その時の状況がはっきりと刻み込まれていた。彼女がヤマメの胸を押しつぶした後、私の部屋へと来ている場面だ。私が、彼女の罪を被っていること、嘘をついたことの理由を説明しているところだった。

 

「私は借りを作りたくないんだ。だから、八雲紫に頼んだ」

 

 彼女のいう借りが、ヤマメの件だということは、心を読むまでもなく理解できた。

 

「私が地上に行った責任をとるためと言えば、古明地は決闘に乗ってくるはず。なんせ、あの古明地だからな。それで、一芝居打ってくれれば、古明地が命がけで八雲紫と戦っているさまを地底の連中に見せつけてくれればいい。そう私が頼んだんだ。そうすれば、今の現状を打破できるはずだってな」

 

 どうして、と私は呟いてしまう。どうして彼女がそんなことをする必要があるのか。全く理由が分からなかった。それではまるで、伊吹萃香が私のために地上に行ったみたいではないか。

 

「そうだよ」

 

 心を読んだのか、私の膝で酒を零している全くしっかりしていない、しっかりしている方の古明地が、にべもなく言い放ってきた。

 

「だから言ったじゃん」

「言ったって、なんて」

「鬼が地上に行くのは、きっと誰かに恩返しをするときだけだって」

 

 あなたを助けようとする奴もきちんといるのよ。そう八雲紫がのんびりとした声で言ってきた。私は何も言うことができず、ただ俯くだけだ。

 

 私を慕ってくれるやつはいるか。そんな奴はいないと思っていたし、今でもそう思っている。だけど、この時は。この時だけは、そういう奴がいると信じてもいいか、と思えた。

 

「なんだよ、辛気臭い顔して。地霊殿の主でも、流石に驚いたか」

 

 包帯で顔を巻かれているため、表情なんて見えないはずなのに、伊吹萃香はそう断言してきた。

 

「まあ、酒でも飲めば気も晴れるさ。ほれ、古明地も飲みなよ」

「飲んでるよー」

「そっちじゃない方の古明地だ」

 

 そう言うや否や、私の口元に酒瓶を突っ込もうとしてきた。口を閉じようとするも、強引に開かれ、口の中に酒が流れ込んでくる。そもそも度が強すぎるせいで、鋭い刺激が喉を襲った。ゴホゴホと咽せてしまう。

 

 星熊が他の鬼を引き連れてこちらに来たのはその時だった。一瞬、私を襲いに来たのかと思い、慌てて心をよむ。よんで、なるほどと納得してしまった。彼らの心にあったのは、恐れと、羨望、そして落胆だった。

 

「おお萃香、久しぶりじゃねえか」

 

 いつものように、気丈な大声で星熊は伊吹萃香の肩をたたいた。流石に鬼の四天王二人と一緒にいるのは、普通の鬼でも辛いらしく、おずおずと他の鬼たちは去っていく。物いいたげに私と八雲紫を見ていたが、気にしないことにした。

 

「お前、いきなり地上にいきやがって。羨ましいぞこの野郎」

「悪かったよ。でも、その件はもういいだろ。地霊殿の主が責任をとってくれたんだからね」

 

 ちらりと私を見た伊吹萃香は“嘘ではないでしょ”と心ではにかんでいた。

 

「いいなあ。私も地上に行きてえな。な、駄目か? 古明地」

「なんで私に聞くんですか。八雲紫がいるんだから、そっちに聞いてください」

「なあ、いいだろ八雲さんよお」

「だめに決まってるでしょ」

 

 星熊に酒瓶を投げ渡した八雲紫は、先程までのだらけた姿勢を直し、星熊にピシャリと言った。

 

「これ以上地底の連中が地上に来たら困るのよ。流石に鬼の四天王が立て続けに二人出てきたら混乱が起きるわ」

「なら、時間が経てばいいのか」

「駄目よ。何かが起きない限りね」

 

 何かってなんだよ、と不貞腐れたように口を尖らせた星熊は、おーい、といきなり大声を上げた。

 

「パルスィ! 来てくれ」

 

 彼女の声は、旧都中に響き渡り、ぐわんぐわんと木霊していた。それでも橋姫は中々姿を現さない。その間、暇だったのか、星熊は私を持ち上げ、ぐるぐると回っていた。いったい何をしているのだ。

 

「いや、やったな。古明地。流石だよ。ありがとうな」

「あなたに礼を言われるなんて、むず痒いですね」

「安心しろ。これは本心からだ」

 

 鬼の彼女が言うのであれば、間違いないだろう。そう思い彼女の心を読む。確かに彼女の心には感謝の念もあった。

 

 “どうして私はここまで古明地に関わっているんだろうな” 

 

 だが、同時にそんなことも考えていた。どうして私に関わるのか。それを彼女に伝えるのは、あまりに残酷すぎた。

 

 しばらく待っていると、パルスィがおずおずと妖怪の隙間をかい潜るようにして姿を現した。その顔は、羞恥からか真っ赤に染まっていて、綺麗な緑の瞳には、うっすらと涙の膜ができている。

 

「お、来たか。遅かったじゃないか」

「遅かったじゃないわよ。何も大声で叫ばなくてもいいのに。恥ずかしいったら」

 

 わるいわるいと眉をハの字にしている星熊を睨みつけていた橋姫は、どこか生き生きとしていた。比較的短い金色の髪は艶があり、全身に妖力が漲っている。

 

「久しぶりですね、パルスィさん」

 

 私が声をかけると、彼女は一瞬ぴくりと体を震わせた。様々な感情が彼女から溢れてくるが、結局、少しの嫉妬と自責の念に落ち着き始める。ぎぎぎとゆっくり顔をこちらに向けた彼女は、恨めしそうにこちらに目を向けた。

 

「ありがとう、というべきなのかしらね。地底の救世主さん。まったく、妬ましいわ」

「どういたしまして、というべきでしょうか。あなたに妬まれるなんて、光栄ですよ」

「なんて図太い精神、妬ましいわ」

 

 久しぶりに会った彼女は、全身ボロボロの私を見て、少し悔しそうに目を細めていた。だが、私が三つの目を向けていることに気がつくと、慌てて首を振り、こほんと咳払いをした。

 

「というか、どうして勇儀はー、パルスィを呼んだのー?」

 

 私の膝下でよだれを垂らし、第三の目を回して遊んでいた彼女は、さとり妖怪らしくもなく、本当に分かっていないといった様子で聞いた。きっと、泥酔しすぎて心を読めていないのだろう。

 

「どうしてって、そりゃ、嫉妬しちまったからに決まってるだろ」

「嫉妬?」

「おいおい。本人に言わせるのか? やっぱりさとり妖怪ってのは趣味が悪いな」

「いや、いいですよ、言わなくて」

 

 あの豪胆な星熊が自ら嫉妬していると自覚することなんて、一つしかなかった。きっと地底にいる全員が同じ感情を抱いているだろう。

 

 だから橋姫はやけに調子が良さそうなのだな。そう納得しかけたが、すんでのところで思いとどまる。いや。そんなことはない。それだけが原因ではなさそうだ。地底に第三の目をぐるりと向ける。全員とまでは言わないが、意識を集中させれば、多くの妖怪の心を読むことが出来た。そして、彼らの中に渦巻いている感情は、嫉妬ではない。

 

「パルスィさん。一つ、質問があります」

「なによ。私の心についての質問には答えないわよ」

「あなたって、嫉妬の心が周りで溢れていたら、力が強くなったりしますか?」

「まあ、そうね。そりゃ、ないよりはあったほうがいいけど」

 

 嫉妬。一言でいえば、単純に思える。だが、嫉妬と言っても、それはあくまで負の感情の一形態であり、明確にここからここまでが嫉妬だなんて、そんなことは私にすら判断ができない。ただ、あえて言うのであれば、嫉妬に一番近い感情は、悔しさと嫌悪だ。

 

 それから私達はしばらく酒を飲み続けた。私はみんなと酒を飲みながら、正しくは、酒を飲んでいる連中の様子を私はただ眺めていただけだったが、それでも楽しかった。そう。楽しかったのだ。こんな感情久しぶりだった。あの八雲紫が私に対し、申し訳ないという感情を抱いているとは思わなかったが、それでも素直に嬉しいと思えた。やり方は彼女らしく遠回りだったが、それでも良かった。

 

 はじめに気がついたのは私だった。私達をちらちらと気にしている存在がいた。お燐だ。お燐がこちらを気にしている。心こそ読めなかったが。なにか言いたいことがあるのは明らかだ。

 

「あれ、お燐が見てるね。全然気が付かなかった」

 

 私の心を読んだのか、それとも自分で気づいたのかは分からないが、彼女は八雲紫に目配せし、酒瓶を持ったまま立ち上がった。

 

「なら、私達はどこかに行っとくよ」

「え?」

「こういうのに、おじゃま虫はいらないでしょ?」

 

 そうね、と頷いた八雲紫は隙間を開き、一瞬で姿を消した。地上に帰ったのかと思ったが、少し遠くで他の連中と酒瓶ごと移動したようだった。突然移動させられたことで、鬼の二人と橋姫は嫌悪感を抱いているようだったが、私の知ったことではない。今は、そんなことを気にしている暇なんてなかった。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 

 何も考えていないつもりだったが、どうやら私は不安に思っていたらしく、それを読み取ったらしい彼女は温かい目を向けてきた。

 

「きっと、大丈夫」

 

 そう言い残した彼女はとてとてと千鳥足で宴会の中心から外れていった。どうやら地霊殿に帰るつもりらしい。あんなに酔ってひとりで帰れるかどうか怪しいところだ。現に、彼女の帽子はまだ私に被せられたままだ。あれほど大事にしている帽子を手放すなんて、彼女らしくもない。

 

「あの、あんたに少し話したいことがある。いや、あります」

 

 少しあの子に意識を移した瞬間に、お燐は私のすぐ前へとやってきていた。酷く緊張しているようで、その二本の尻尾は逆立ち、耳はしなびている。だが、緊張しているのは私も同じだった。

 

「その、あたい。その」

「落ち着いてください。私は見ての通り逃げも隠れもできませんよ」

 

 こほん、と咳払いをしたお燐は、腹を決めたのか目をきっと細めた。彼女の心の、緊張という靄が払われ、その下に隠されていた感情が露わになる。それは私を動揺させるには十分だった。

 

「あの、ごめんなさい!」

 

 深々と頭を下げたお燐は、しばらくその姿勢のまま固まっていた。私が何かを言ってやらねばならないことは明らかだ。だが、何も言うことはできなかった。動揺と驚愕で、何も考えることができない。

 

「あの、あんたは、ご主人様は悪いことをしていないのに、あたいはなんて酷いことを!」

「あの、大丈夫ですよ」

 

 ようやくその一言が出たのは、お燐の後ろにヤマメとキスメの姿を見つけた時だった。彼女たちもお燐と同じような感情を抱いている。

 

「落ち着いてください。お燐。何も心配しなくていいんです。本当に」

「でも」

「大丈夫ですよ。大丈夫。きっと大丈夫」

 

 大丈夫という言葉は、いったい誰に向けたものか。きっと私自身に向けたものだろう。どういうわけか、目に涙が浮かんでいた。心配そうにこちらを見つめるお燐に、もう一度大丈夫だから、あなた達は大丈夫、と言い聞かせる。

 

「大丈夫ですよ。あなたは絶対に悪くないです。悪いのは私です。だから、むしろ謝らないといけないのは、私なんですよ」

「いえ、そんな」

「だから、これでチャラにしましょう」

 

 一体何をチャラにするのか。私自身にも分かっていなかった。けれど、今はそんなことは何だっていいのだ。とにかく、お燐を安心させなければ。

 

「だから、大丈夫なんですよ。これからも、よろしくお願いします」

 

 吊り上がっていた目を緩ませ、頬を上げたお燐は、おずおずと引き下がっていった。どうして私の涙が溢れたのか。考えようとしたが、ぼやける視界の奥にキスメとヤマメの姿を見つけ、慌てて涙を拭う。きっと、彼女たちもお燐と同じように謝るのだろう。そして、その予想は的中することになる。彼女以外にも、何匹かの妖怪が私に謝りに来た。

 

 椅子に座り、自分に頭を下げる彼女たちの様子を見るのは、なんとも居心地が悪く、正直に言えば勘弁願いたかった。

 

「お詫びの品です。ぜひ、これを」

 

 私がかつて常連だった甘味屋の店主も、その謝ってくる妖怪のうちのひとりだった。差し出されたのは団子だ。受け取りたくはなかったが、そういう訳にもいかず、渋々受け取った。

 

 その後も、宴会は滞りなく進み、無事に終わることができた。八雲紫に酒を口に突っ込まれたり、星熊に抱きかかえられ旧都中をぐるぐると回されたりしたが、無事に終わることができた。

 

無事? 私の心以外はね、くそったれが

 

 

 そして今、私は一人で日記を書いている。

 

 私の部屋には私以外の誰の姿もない。お燐の姿も、お空を始めとする他のペットの姿も、もちろんヤマメもキスメの姿もない。まあ、それも当然か。

 

 

 痛む右手を強引に動かし、文字を書き続ける。血と涙で文字が滲んでしまっているが、それもしょうがないだろう。悔しくて、悲しくて仕方がない。

 

 結論から言えば、地底は相も変わらず私を恨んでいた。

 

 私に謝りに来たお燐たちの心に浮かんでいた感情はただ一つだった。あまりに純粋で、そして真っ直ぐなあの感情に、私は耐えられそうにない。

 

 それは恐怖だった。ただただ、私を怖れていた。ぼろぼろになっていたとは言え、あの八雲紫を結果的に降参させた私に対する恐怖、そんな私に喧嘩を一瞬でも売ってしまったという、漆黒なまでの恐怖。それが彼女たちを謝罪に持っていった。そこに、感動なんてものはない。ただの一つもなかった。

 

 八雲紫は分かっていなかったのだ。心というものを分かっていなかった。いくら外面上は仲良く接したところで、愛想よく振る舞ったところで、私にはその心が読めてしまう。見せかけだけじゃ意味がない。どんなに私を称賛するふりをしようが、どれだけ私に忠実になるふりをしようが、そんなもの、かえって悲しくなるだけだ。人は一番内面が大事なのに。

 

 あの子は、分からなかったのだろうか。確かに、私が八雲紫と戦ったことで、地底の連中が私を見直したことは事実だ。だが、感情というものはそこまで単純じゃない。いくら蛆虫がいいことをしたところで、好まれる可能性なんて無いのだ。これからも、行きつけの甘味屋は私を店に入れないし、鬼たちだって話すらしてくれないだろう。キスメやヤマメ、お燐たちペットに至っては、もはやここに記すことすら憚られる。

 

 私と彼女たちの関係は一度壊れてしまった。そして、壊れてしまったものはすぐには直らない。そんなことは分かっていたはずなのに、彼女たちともう一度仲良くなることなんて無理だと分かっていたはずなのに。私は期待してしまった。期待なんて持つべきではなかったのに。一番つらいのは、上げてから落とされることだと知っていたはずなのに。それでも私はまた、あの温かい空気の中に戻れると、そう思ってしまった。

 

 私を慕ってくれるやつはいるか。さっきの宴会の最中、私はいると、確かに存在するのだと思った。だが、やっぱりそんな奴はいなかったのだ。

 

 ああ、どうして。どうして私はここまで嫌われてしまったのだろうか。何を間違ってしまったのだろうか。私は悪いことをしたのだろうか。ねえ。どうして。いったい、いつの間に。私はここまで。やっぱり、私は死んだほうがいい。その方が地底のためになる。どうして私は生まれてきてしまったのだろうか。なんのために生きてきたのだろうか。もう、わからなくなっていた。

 

 あの子は酔っ払ってもう眠ってしまった。ペットたちはきっと、彼女のそばで震えて眠っているのだろう。私という脅威に怯えながら、眠れない夜を過ごしているのだ。そして、それはペットだけじゃなかった。

 

 あれだけ私に賞賛の言葉をかけた鬼でさえ、心のどこかでは、私が八雲紫に負けることを期待していた。あの橋姫ですら、落胆の感情をのぞかせていたのだ。つまりは、そう。はなから私を応援しているやつなんて、誰ひとりいなかった。地底の安定よりも、私の死の方を彼女たちは望んだのだ。八雲紫の勝利を誰もが切望していた。

 

 どうせ嫌われるのであれば、地底の役に立って死にたい。そんな願いですら、私は否定されてしまった。いや、まだできるか。だって、私が地底にいることこそが、彼女たちにとって一番の厄災なのだから。なら、私がいなくなれば、彼女たちを喜ばせることができる。

 

 つまりは、もう。私は何をしても手遅れということだ。死ぬことでしか、地底のためにならないと、そういうことなのだろう。

 

 今まで、私なりに地底のために頑張ってきたつもりだった。そのために、全てを犠牲にしたことすらあった。だというのに、私はこの自分自身が築き上げてきた地底に否定されるのか。無様だ。笑える。滑稽じゃないか。

 

 ああ。最高だ。きっと私の友達も笑ってくれるだろう。知らないの? 私に友達なんていない? わたしの友達はいいやつなんだ。きっと、いいやつだよ。知らないけど。

 

 もしかしたら、本にしたら売れるかもしれないね。表題は、そうだな。憐れな羊は内臓までドブと同じ味がするってどう? もちろん憐れな羊は私のことだよ。何が羊を称えるだ。バカバカしい。憐れな羊はそのままジンギスカンになることさえ叶わず、ただ腐っていくだけに決まっているのに。

 

 タチが悪いよ。本当に。どうして期待したのかな。八雲紫の自信満々な言い方にそそのかされたのかな。私なんかよりよっぽどしっかりしている方の古明地と呼ばれている彼女が言うのだから、間違いないと思っちゃったのかな。そんな訳ないのに。

 

 やっぱり、私の居場所なんてないんだ。お燐の感情を思い出す。そうだ。確かに彼女はずっと心の中でこう呟いていた。

 

 “お願いだから、私も殺さないで”ってね。

 

 おかしいよね。私もって。私は今までペットを殺したことなんて無いのに。でも、勘違いしちゃったんなら、仕方がないね。言葉がどれほど無意味かなんて、嫌というほど知っているから。

 

 もう二度と、彼女の背中を擦ってやることは出来ない。そんなの知ってたじゃないか。お空ですら、最近は姿すら見つけることが難しい。本能だ。本能的に私を避けている。もうそこまで来てしまったのだ。彼女たちの中では、私は明確な敵となってしまったの。敵の敵は味方というのに、ふしぎだね。

 

 ああ、懐かしいな。いつか、お燐の背中を撫でたり、こうして日記を書いている時に、邪魔されたりしたっけ。お空に心臓マッサージで殺されかけたこともあった。これも本に書いておこう。私の貴重な楽しい思い出だ。きっと、私の友達も笑ってくれる。

 

 でもね。そんなのは儚い夢だったんだよ。なかったことなんだ。考えても見てよ。わたしだよ。わたしがペットと普通に話して、サワれるわけ無いじゃん。だってわたしだもん。

 

 ああ。包帯が破れて右腕の骨がむき出しになっちゃった。でも、痛くないからいいか。

 

 夢から醒めないと。わたしは死んでいるんだ。死んでなきゃならないんだ。みんながわたしの死を望んでいる。わたしもわたしの死をのぞんでいる。素敵! みんなとわたしがはじめて同じことを考えたね! 

 

 甘味屋からもらった団子を見つめる。もちろん食べない。そのまま地面に落とし、踏みつぶした。だって、どくがはいってるんだもん。あのお姉さんも大変だよね。わたしが通っているって理由で、他の客が暫く来なかったんだもん。そのせいで、飢えて子供が病気がちになっちゃったんだもんね。まあ、もうその心配はないんだけど。だって、もうその子は死んじゃったんだから。わたしのせいだね。やった! きっと私の友達も笑ってくれる。誰だよ、それ。

 

 星熊だって、きっとわたしのことを憎んでいるんだ。だって、彼女がわたしにかまう理由を、わたしは知ってるんだもん。いったら怒られそうだけど、日記だからいいよね。

 

 彼女は外に出たいんだよ。伊吹萃香に嫉妬しているくらいに。だから私に恩を売っているのさ。それで外に出れるかどうかはわからない? そうだね。というか無理だね。だけど、そう言ったら彼女は絶望しちゃうから、だめだよ。上げて落とされたときがいちばんかなしいんだから。そうだっけ? そんなこともないか。きっと私の友達も笑ってくれる。

 

 八雲紫もお人好しだよね。わざわざわたしのためにこんな面倒な手順を踏むだなんて思い上がり過ぎだよ。わたしを救うことなんて、誰にもできるはずがないのに。わたしがだれかにすくわれることなんてあるわけがないのに。そりゃそうだよね。嫌われるさいのうがありあまってるのだから! ざいあくかんから逃げたいがために、こんなことをして満足するだなんて、うす汚れすぎだよね。だって、わたしはすくわれてないのに、まん足してかえっちゃったじゃん。

 

 あのこもそうだよ。心をよめるのに。地底のようかいたちが本当はわたしのことを好きになってないって、感動なんてしていないってわかったはずなのに。わたしですらわかったのに、どうしてわからなかったんだろう。馬鹿だね。わらってあげるよ、あっはっはってね。

 

 ああ、なかないで。あなたはつよいこよ。そうでしょ? 古明地っていいなまえだよね。わたしはすきだよ。さとり妖怪はきらいだけど。でも、ちれいでんの主は、さとり妖怪をすきにならなきゃならないの。なんでか? きまってんじゃん。そんなのもわからないの? そんなんじゃ、わたしのともだちにたべられちゃうよ。

 

 さとり妖怪がさとり妖怪をすきになってあげなきゃ、だれもさとり妖怪のことをすきになってくれないじゃん。そうでしょ? そうだよね。そうにちがいない。

 

 あ、だんごあるじゃん。おいしそうなだんご。大きくてひとつしかない、まんまるなだんご。誰がもってきてくれたんだっけ。わたしのともだち? ちがうの? じゃあだれだろ。わたしのともだちかな。いや、彼女はもっとしょっぱいものがすきか。猫だもんね。おりんって猫はなにがすきだったっけ。あんまりおぼえてないや。

 

 まあ、いいや。たべればぜんぶいっしょだって。いってたもんね。だれかが。だれだっけ。おねえちゃん? いや、わたしには家族はいない。いたかな。いないっけ。まあいいや。じゃあだれ? 

 

 まあ、いいや。たべればぜんぶいっしょだって。いってたもんね。だれかが。だれだっけ。まあ、いいや。だれでも。たべればぜんぶいっしょだって。いってたもんね。いただきます。

 

 んんー! からいね。あまいかも。そしてしょっぱい! だんごってこんなあじなんだね。びっくり! いままでたべたことがなかったから。

 

 あれ。口からなにかがこぼれてきた。なんだろう。赤いね。とまらないね。いたくないのにいたいね。なんだろ。めからみず? ち? ちだ! くちからちがとまらない! なんでだろ。はりねずみでもたべたかな。はりねずみってこんなあじなんだね。ああ。わかった。どくだ! どくがはりねずみにはいってたんだ。どうしてどくがこんなところにあるんだろ。でも、ちょうどいいか。これでねがいがかなえられるかもしれない。

 

 

 ねがいってなんだっけ? わたしは何をすればちていがよろこぶんだっけ。ああ。おもいだした! わたしがしねばいいんだ!

 

 

 




どうか、許して


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─八雲紫には、本当に辛いことをさせてしまいました─

─曜日くらい書いて下さい─

 

 さいきんは地底も暖かくなってきたんだ。いいよね、やっぱり。こんなに暖かいと、私の心まで暖かくなってきちゃう。え、それはない? なんでさ。私に心なんてないから? ひどい! わたしを心ない妖怪のように言うだなんて、しつれい過ぎる。わたしは心ある優しい妖怪なんだよ。知ってた? ねえ、なんか答えてよ。

 

 まあいいや。でも、こんな急に地底が暖かくなるなんて、びっくりだよね。もともと暑かったけど、勝手にお茶が沸くほどじゃなかったもん。やったね! 本当にへそで茶を沸かせるようになったよ。またこんどやってみよう。

 

 こんなに暖かいんだったら、すこしくらい地上に分けてあげてもいいかもね。譲り合いのせいしんは大切だよ。わたしだって、おいしいものを貰えたらうれしいもん。ま、味わかんないんだけどね。

 

 ああ。でももういいのか。むかしは地上、けっこう寒かったらしいけど、今はそうでもないんだっけ。たしか、八雲紫がそう言ってた。いや、言ってなかったっけ。あんまり覚えてないや。そうそう。そうだった。今日は八雲紫がきたんだった。そのせいで日記を書いているんだったよ。すっかり、忘れてた。

 

「あなた、どうしたの?」

 

 いきなりわたしの部屋に来るなり、こう言い出したんだよ。すごい顔してさ。なんか、恐ろしいものを見たような顔だったねあれは。ソファに座ろうとしていたのに、あまりに驚いたからか、びみょうな格好でかたまってたもん。

 

「言いたいことはいろいろあったのだけれど」

 いつものように急に現れたことを謝りもしなかったんだ。まあ、いいけど。

「あなたの変わりようが一番びっくりよ」

「変わってないよ。もともとこんなんだったでしょ、わたし」

 

 わたしがそう言うとね、八雲紫は納得したような、だけどふに落ちないような顔をしたんだ。あれだよあれ。おたふく? ちがう福笑いだ! 福笑いで、中途はんぱに上手くいったせいで気まずい空気になってしまうような、そんな顔をしてた。ださいね!

 

 それでわたしはね、「せっかく来たんだから、お願いしたいことがある」って彼女に言ったの。「八雲紫はてんさいだからできると思う」って

 

 どうしてフルネームなの、なぜ敬語じゃないの、とくびをこてんとさせてたけど、それでも八雲紫はすこし嬉しそうだった。やっぱ、どんな人でも褒められるとうれしいんだね。わたしも褒められてみたいな。もちろん無理だけど。悲しいな。涙が出ちゃう。出ないけど。

 

「あら、口が上手いのね。幻想きょうのけん者だもの。天才に決まっているわ」

「褒めてないよ。てんからの災害のほうの天災って言いたいの」

「ひどいわ」

 

 およよ、といつものように泣きまねをした八雲紫をまねて、わたしも同じように目に袖を当ててみる。まぶたを閉じずにしたせいで、布が角膜をこすって、本当に涙が出ちゃった。いたい。なるほど。女優もおどろきの涙の出し方だ。

 

「なにをしているのよ」

 

 いたいいたいと喚いていると、八雲紫がため息をぶつけてきた。しかえしに口の中に空気をため、思いっきりふー、と吐く。彼女のふりふりの服が少し揺れたけど、それだけだった。

 

「なにをしてるって、八雲紫のまねだよ。似てたでしょ?」

「似てないわよ。私はそんなに馬鹿っぽくないわ」

「鏡みたことないの?」

「あなたに言われたくないわ」

 

 失礼しちゃうよね。でも、たしかに最近かがみを見てない。ま、見た目なんてどうでもいいからね。大事なのは中身だよ。わたしには中身なんて、あるのか分かんないけどね。

 

「鏡くらい見るよ」

 

 だけど、ただそうだと認めるのはしゃくだったから、そんな嘘をついちゃった。べつに理由はないんだけどね。それでも、八雲紫をからかいたくなる。何でかな? あれ。そもそも八雲紫って、なんだっけ。ああ、そうそう。へんな妖怪の名前だ。

 

「それ、うそよね」

「え?」でもね、八雲紫はすぐに嘘を見抜いてきたの。まるで心をよんでるみたい。気持ち悪いよね。

「どうしてそんな嘘をつくのか分からないけど、馬鹿でもないかぎりそれが嘘だと分かるわよ」

「それ、わたしはばかっていいたいの?」

「あなたを馬鹿とよぶのは、馬としかにしつれいよ」

「なら、わたしはなんなの?」

「ちれいでんの主」

 

 たしか、彼女はそんなことを言ったんだよね。ちれいでんの主。ひどくない? そんな悪口をわたしに言うなんて。

 

「それに、あなたが鏡をみてないことなんて、すぐに分かるわよ」

「わたしのことは、わたしが一番知ってるよ」

「そう。でもね、帽子が傾いていることは分かってないみたいね」

 

 ぼうし? そうそう。そのときのわたしは帽子をかぶっていたんだ。今もだけどね。その帽子が傾いているって、八雲紫は笑ってきたの。性格がわるい。これだからみんなに嫌われるんだよ。

 

「その帽子、いったいどうしたの? それ、あなたのじゃないでしょ」

「そうだね、あの子の」

 

 あの子。どの子? 蛙の子。

 

「それ、あなたが被ってていいのかしら。けっこうきにいってたらしいじゃない」

「なんか、スペアがあるからだいじょうぶなんだって」

「スペアね」

「そうそうスペア。スペア、スペアブ、スペアリブ」

 

 美味しいよね。たべたことないけど。たべたくもないかな。

 

「スペアは大事だよ。うん。なくしても大丈夫だしね」

「そうね。でも、普通は新しい方をつかって、古い方をスペアにするのだけどね」

「なんで?」

「新しくて綺れいな方が使いやすいからよ。めがねとかもそうでしょ」

「サードアイ用のめがねってあるのかな?」

「世界でふたつしかうれないものなんて、あるわけないじゃない」

 

 八雲紫はね、そのあとやっと気がついたんだ。なにに? わたしのサードアイのいへんに。おそすぎだよね。おそすぎてカタツムリもびっくりだ! きっと、わたしの事務しょりよりおそいよ。

 

「それ、どうしたのよ」

「それってなにさ」もちろん彼女がなにをいいたいかなんて分かってたさ。でも、訊いた。

「きちんと言わなきゃわかんないんだよ。きちんと言っても伝わらないときの方が多いんだけどね。ああ! かなしすぎるよ!」

「あなた、そのサードアイ、どうしたのよ」

 

 このとき、久しぶりに感情がよめたね。ひさしぶりすぎて、むしろわたしが驚いたよ。しかもあの八雲紫から感情をよめたのだから、おどろきだよね。なんでおどろきなんだっけ。まあいいや。とにかくびっくりしたの。

 

「どうしたのって、みたらわかるじゃん」

「分からないから聞いているのよ」

「人にしつもんするときは、名を名のれって習わなかった?」

「初耳よ」

 

 もー。ほんとうに困るよね。れいぎってのは大事だよ。親しい仲にも礼儀ありって言うし。でも、八雲紫とわたしはべつに親しくなんかないか。なら、べつに無礼でもいいのかな。うーん。分かんないからいいや。

 

「このまえ、まちがえて噛んじゃったの」

「かんだ?」

「そうそう。よく覚えてないんだけどね。なんか噛んじゃったらしい」

「大丈夫なの?」

「だいじょうぶって、なにが」

「心、きちんとよめるの?」

 

 きちんと。どうだろうか。いちおうよめなくはない。さーどあいを目の前に持っていき、みてみる。目の表面はあかくなってた。角膜がはがれたからか、風が吹くだけでもすこしいたいね。血がめのなかにたまったからか、瞳孔がすこしあかくなってる。こころなしか、サードアイじたいもうっ血したみたいな色になってるし、だいじょうぶかっていわれたらだいじょうぶじゃないだろうね。ま、べつにいいけど。

 

「いいよ、そんなのは。それより、わたしのお願いをはやくきいてほしいんだけど」

「願い?」

「最初に言ったじゃん」

 

 やっぱ、八雲紫ももう年だよね。ついさっきのことを忘れるなんて。でも、ほんとにやばいと、忘れてしまうことさえ忘れちゃうらしいね。そこまでいったら、もう無意識とかわんないんじゃないかな。しらないけど。なにが?

 

「そうそう。最初にいったんだよ。お願いがあるって」

「あ、ああ。思い出したわ」

「しっかりしてよ。そんなんじゃ、わたしよりしっかりしてないって言われるよ」

「それはないわ」

 

 腹が立つように、ふふんって鼻を鳴らした八雲紫は、「それで、願いって何よ」とへいぜんと言ってきたの。精神がぶっといよね。

 

「ねがいってのはね」

「ええ、なにかしら」

「ねがいってのは、わたしを殺してほしいんだ」

 

 でも、そんなぶっとい八雲紫のせいしんも、わたしの言葉がかんたんにくだいちゃったみたい。もしかしたら、わたしは才能があるのかもしれない。あいての精神をぶっ壊す才能が。

 

「ほら。やっぱり、じさつって難しかったんだよ。だから、やってほしいの。そう思うと次郎って人間はすごいね。なかなかできることじゃないよ」

「なにをいって」

「でも、どうせなら楽に死にたいな。つらいのはつらいからね。こう、すぱっっていってよ。すぱってね」

「あなた、いったいなにを」

「なにって」

「どうしてそんなことを。だって、あなた。もう。もうそんなことする必要なんてないじゃない。あなたは地底を救ったのよ」

「だから?」

 

 鬼の目にも涙っていうけど、まさかさきに八雲紫の涙を見ることになるとはね。生きてると何が起きるか分からない。でも、もうおそいよ。おそい。おそいっての。

 

「でもね。死にたいの。しんでほしいの。それがいいの。そうきめたの。誰が? わたし? ちがうよ。地底が決めたのさ。ほら、たすう決だよたすう決。判決は死刑! いいことばだよね」

 

いい言葉だよね。

 

「どうしてよ」

「どうしてってなにが? わたし? そんなの決まってんじゃん。わたしだよ? わたしは死ななきゃいけないに決まってるじゃん。冗談きついよ、八雲紫。わらっちゃうね」

「嘘でしょ」

「うそなんてついたら鬼にころされちゃうよ。ああ、だったら嘘つけばいいんだ! あ、だめだ。うそついても、鬼が周りにいなきゃ意味がないね。うっかりうっかり」

「ねえ、嘘だって言ってよ。その変なしゃべり方も、冗談でしょ」

「じょうだん? なにが。わたしは生まれて一回も冗談なんて言ったことないよ。なんてね! 冗談だよ」

「本気なの。あなたは本気で死にたいと言っているの? 嘘よね。そんなこと、言わないでちょうだい。あなたが死んでも悲しむ奴はいるのよ。だから、おねがい。ねえ。目を覚まして」

 

 わたしの肩にてをおいて、体重をかけてきた八雲紫のめにはなみだが浮かんでいた。ああ、どうしてだろう。彼女の涙を思い出すと、頭に重苦しいなにかが戻ってくる気がした。気のせいだろう。わたしは私だ。そうなの? 八雲紫が涙声で、私に死んでほしくないていうなんて。

 

 そんなのありえないよね。

 

「それ、じょうだん? 八雲紫も冗談を言うんだね。びっくり。わたしの死を悲しむようなようかいなんて、いるわけないじゃん!」

 

 悲鳴が聞こえたの。どこで? みみもとで。まさか、八雲紫が悲鳴を上げるなんて。ゴキブリでもいたのかな? それか、さとり妖怪でも見つけてしまったに違いない。短く、するどいものだったそれは、きょうふというよりは、絶望にあふれていたね。あれ、なんで悲鳴の感情なんて分かったんだろう。ああ、そうか。サードアイで八雲紫の感情をよんだんだったね。もう、ほとんどだめになってるのに、それでもわかってしまうなんて。

 

 八雲紫は、わたしを心底ぶきみな目で見つめていた。いっぽにほとうしろにさがって、ぶるぶるとくびをふってたね。くびが据わってない赤ちゃんみたいだった。かわいくはなかったけど。

 

「冗談じゃないわよ、本当に」八雲紫は、それこそ本とうの赤ん坊のように顔が真っ赤に染まっていたよ。

 

「わたしは、ほん当にあなたのことが心配で。心をよめば分かるでしょ。わたしは、あなたを救いたいの。しんでほしくないのよ。おねがい。わかって」

「そんなこといわれても」わたしは困っていた。

「分かんないもんは仕方ないよね」

 

 ひぅ、と肺がくうきを拒絶する音がみょうに頭に残ってるね。どうしてだろう。その音をおもいだすと、すごく悲しくなるの。不思議だね。

 

 とびらが開いたのは、たしかちょうどそのときだったんだ。あの子が、わたしの部屋に飛び込んできたんだ。わたしの唯一の家族。ほんとうに? わたしに家族なんていたっけ。いたよ。いるじゃん。いないよ。

 

「あれ、ゆかりん。来てたの」

 

 涙をうかべていた八雲紫にたいし、優しげな口調で彼女は笑ってた。大人なたいおうだね。やっぱり、しっかりするほうのこめいじは違う。そのとき「失敗しちゃったんだ」と小さく口を動かしてたけど、どういう意味だろう。本当はわかってるけど、みとめたくないね。しらないよ。しりたくない。しらないってば。

 

「いや、ごめんね。こんなことになるなんて」

「い、いえ」

「ねえ、なんのはなし?」

 

 ふたりだけの世界に入られるのも癪だったから、おおごえでそれをさえぎったの。でも、ふたりはニコニコと無理に微笑んでた。どうして、そこまでして笑ってたのか、わたしには分からなかったけど。

 

「そうそう、プレゼントをもってきたんだ」

 

 じろじろと見過ぎたからか、ごまかすようにそういった彼女は、背中からなにかをとりだしたんだ。プレゼントだよ。わたしにくれたの。うれしいね。まさかこんなわたしにプレゼントをくれるような妖怪がまだいるなんてね。そんなやつ、きっと、頭がおかしいんだ。それこそ、ちれいでんの主くらいに。

 

「おどろかないでね」

「だって、八雲紫」

「どうして私に振るのよ」

 

 八雲紫はそのときにはもう泣き止んでたんだ。はやいよね。赤ん坊は泣き止むのも早いみたい。

 

「プレゼントは、これ!」

 

 そういって差しだしてきたものを受け取ったの。最初は何か分からなかった。だって、見たこともなかったんだから。おおきなひとつのレンズみたいなものが、ひもにくくりつけられてたの。その紐はふくに結べるようになってて、まるで大きなカメラのレンズと紐をざつにくっつけたみたいだった。それが、全部で二枚。

 

「なに、これ」こう言ったのは、たしか八雲紫だったとおもう。もしかしたら、わたしかもしれない。

「ガラクタ?」

「ちがうよ」

 

 ちっち、とどこか演技かかったような仕草で指を振ったかのじょは、おおごえでいった。

 

「サードアイ用のめがねだよ!」

 

 わたしはおどろいていた。まさか本当にあるなんて! どうやって作ったのか、まったく分からなかったけど、大して嬉しくもなかったけど、それでももらった。ないよりはあるほうがましだしね。命以外は。

 

「でも、なんで二枚あるの?」

 

 かちゃかちゃとおとをたてながら、二枚のめがねをいじった。わたしのサードアイはざんねんながら一つしかない。もうひとつあったら、それはもうフォースアイだよね。

 

「わたし、そんながんばれない」

「スペアだよ、スペア。壊れてもいいようにね」

 

 というか、絶対壊すと思う、って小さく言った彼女をむしして、じっさいにかけてみる。その途端、ほんとうにこころがよめるようになった。

 

“わたしがいないと、ほんとうにだめなんだから”

 

 そうきこえたの。あなたがいてもだめなのにね。

 

「よかったじゃない。これで、すこしは」

「すこしは?」途中でいいよどんだ八雲紫に訊ねるも、彼女は「なんでもないわよ」とごまかした。だったら、はじめからいわなければいいのにね。

 

 

 二枚のめがねを両手にもって、みくらべる。どっちをつけようかとまよっていたの。いまおもえば、どっちでもよかったんだけどね

 

「ねえ、ひとつだけききたいことがあるんだけど」

 

 八雲紫とともに何やらはなしあっていた彼女にこえをかけた。なに? とたのしそうにへんじをしてくる。

 

「このめがねって、どっちが古いの?」

「え?」

「ほら、古い方をすぐつかいたくて」

 

 悲しげな顔をしたあの子と、申し訳なさそうに顔をしかめていた八雲紫の顔が、いまでも頭にこびりついてはなれない。なんでだろうね。

 

 




まだ、溶岩に飛び込んでいないと言うことは、希望があったのでしょうか


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─火事には気づいていましたよ。だから、八雲紫が血相を変えて飛び出していったのです─

かーらーすー。なぜなくのー。からすのかってでしょー。

かーらーすー。なぜ泣くのー。からすのかってでしょー。

かーらーすー。なぜ焼くのー。からすのかってでしょー。

 

 今日はひどいことがあったんだ。ほんとに。こんな心が広いわたしが酷いって思うんだから、よっぽどだよね。広くない? いや、広いよ。ほら、宇宙は広いっていうでしょ? 私の心は宇宙なんだ! だって、何もないんだから。まあ、宇宙には星があるんだけど。わたしの心にあるとすれば、それはきっと、星じゃなくてブラックホールだね。面白くないな-。

 

 そうそう。酷い事っていうのはね、カラスがわたしたちのお家を燃やしちゃったの。カラスの、お空って子なんだけどね。ちれい殿にこう、バーって火を付けちゃったんだよ。放火だよほうか。生で見るのは初めてだったけど、すごかったね。迫力があったよ。思わず、火事だーって叫びながら火に突っ込んじゃったんだ。死ねるかと思って。ま、すぐに消されちゃったんだけどね。

 

「何をしているのよ。火遊びするにはまだ早すぎるわよ」

 

 そう。ひを消したのは八雲紫だったんだ。まただよ。また八雲紫が来たの。というか、最近は毎日来るの。暇なのかな? それとも、わたしに会いに来てたりして! なんてね。ありえないんだけど。

 

「遊んでたんじゃないよ。お空が火を付けたの!」

「お空? ああ。あの地獄烏ね」

「そうそう。焼き鳥になってたよ」

 

 ぼぅっと煙が部屋にのこってて、よく見えなかったけど、お空が部屋にいないのは分かったんだ。だって、誰の心もよめなかったから。あの子にもらった眼鏡はほんとうにすごいね。心がきちんとよめるの。ま、眼鏡なんて無くてもいやな感情だけはよめちゃうんだけどね。深くおぞましいくらいに強いから。

 

「なんかお空もびっくりしてたよ。まさか火が出るとは思わなかったみたい」

「だからといって、その火の中に飛び込まなくてもいいじゃない」

「なんで? 火あぶりの刑なのに?」

 

 わたしがそう言うとね、八雲紫はすごくこわい顔をしたんだ。さすがだね。わたしみたいな弱いよう怪なんて、あの顔を見たら死んじゃうよ。死ななかったけど。

 

「あなたはまだ死んじゃいけないわ」

 

 八雲紫はね、本当にやさしい声でそう言ったんだ。

 

「あなたは必要なの」

「必要って何に? いけにえ?」

「違うわよ。この地底に必要なの」

 

 チテイニヒツヨウナノ。へー。

 

「だって、あなたはちれい殿の主なんだから。この私がそう任命したのだから。私が許可するまでは、死んじゃ駄目なのよ」

「えー。もし許可する前に死んだらどうなるのさ」

「そうね。あなたの日記をみんなの前で音読するわ」

「死んだ後だったらどうでもいいじゃん!」

「そんなことないわ」

 

 ぱさりっていつものように扇子をだして、わたしを扇いできたの。何でか分からないけど、火傷が少し治ったんだ。すごいね。嬉しくない。

 

「名誉ってのは大事なのよ。たとえ本人が死んだ後も、それは守らなければならない。もしかすると、自分の命を省みず、友人の名誉のために命を張るような輩がいるかもしれないわよ」

 

 そう言った八雲紫はね、ぷすぷすって煙がまだ出てるソファに座ったの。だから、もう熱くないんだと思って隣に座ったんだけどね、びっくりしたよ! むちゃくちゃ熱かったんだ! 驚きすぎたわたしは八雲紫の膝にとび乗っちゃったの。わたしと同じくらい八雲紫は驚いていたね。

 

「どうしたのよ、鈍くさいわね」

「だって、あつくなさそうだったから」

「スキマの上に座ってるのよ。まったく、あなたは昔から」

 

 そう薄く笑った八雲紫は、わたしのぼうしを脱がせて、頭を撫でてきたの。どうしてそんなことをしてくるのか分からなかったけど、なぜか動く気りょくも湧かなかったんだよね。どうしてだろう。なんか、すごい懐かしかったんだ。前もこんなことあったような気がして。

 

「やっぱり、あなたは死んじゃ駄目よ」

 

 わたしの頭を撫でながら、八雲紫は言ってきたんだ。

 

「あなたが死んだら、ちれいでんの主がいなくなれば、やっぱり地底は収拾がつかなくなるわ」

「そう?」

「そうよ。地底にはちれいでんの主が必要なの」

「なるほど」

 

 八雲紫の指がわたしの髪をすくいあげてくる。まるで猫になったかのような気分だったね。ペットの猫のことを思い出すと、なんでか悲しくなるけど、その理由はもうおぼえてないや。いや、そうじゃないだろ。そうじゃないんだ。私は、憶えてなければ、忘れてはいけないことがあったはずだ。何か私には、絶対に守らなければならないものがあって、それを自分から壊してしまいそうになったはずだ。思い出せ。私がいないと本当に駄目なんだから。そんな言葉が頭に響く。そう。そうだ。私にとって一番大切な物は彼女だ。なら、私がするべき事は決まってるだろ。そうだった。一番大切な物を守らなければならない。いちばんたいせつなものは。いちばん? わたしはなにを。ああそうだった。八雲紫のはなしのつづきだ。

 

「ねえ、なにか飲み物はない?」たしか、いきなりそんなことを言われたんだった。

「ここ暑すぎるわよ。もう少しひやしてほしいわ」

「そんなこといわれてもねー」

「というか、こんなに暑いとまたあなた熱中症になるわよ」

「ねっちゅーしょー」

 

 八雲紫も、ずっとみずを飲まなかったら熱中症になるのかな? もしそうだったら面白いね。

 

 でも、わたしはやさしいから、席を立ってのみものを持ってきてあげたんだ。何がいいか分からなかったから、適当に。そしたらね、八雲紫はすっごく嫌そうな顔をしたの。

 

「なに、これ」

 

 そう言ってね、折角出してあげた物をみて、こう言ったのさ。

 

「これ、新手の嫌がらせかしら」

「ちがうよ。のみもの」

「わたしの知識では、焼け焦げた書類は飲み物といわないのだけど。えきたいですらないし」

「そうかな。でも、おいしいよ」

 

 もったいないから、わたしがたべたの。おいしかったよ。

 

 そしたらね、思いっきり息を吐いて八雲紫がいそいでスキマを開いたの。帰るのかと思ったら、そこに手を突っ込んでがさごそとやってたんだ。何やってんだろって思ったんだけどね。これがびっくり! そのスキマから水が入ったコップが出てきたの! 最初からやればいいのにね。

 

「ほら。あなたも飲みなさい」

 

 八雲紫からもらったみずを一気に飲み干す。これも、おいしかったな。

 

「いやー。みずだー。やっぱおいしいね」

「まあ、前が悪すぎるからね」

「どういうこと?」

「焼け焦げた書類なんて食べた後だもの。前があまりに酷いと、相対的に後のものがよく感じるのよ」

「そうなの? なら、前の物が酷ければ酷いほど後の物が良く感じる?」

「そうね。まあ、焼け焦げた書類より悪い物を探すのは大変だと思うけど」

「あれだね、相対主義って奴だね」

「違うわよ」

 

 そこで八雲紫はふふって微笑んだの。さっきみたいな笑みじゃなくて。もっと柔らかい感じだった。

 

「ねえ、あなた。今私の心がよめるかしら」

「え?」

「こころ、読んでみなさいよ」

 

 いきなりだよね。どうしてそんな事をって思ったけど、言われるまでもなくサードアイを向けていたんだ。眼鏡のね。八雲紫のこころなんてよめないと思ってたけど、ばっちしよめたの。

 

 そのこころにはいろいろな感情があった。後悔と自責。恐怖と安堵。そして生暖かい謎の感情。

 

“むかし、こんな風にのんびりしたこともあったわね。悪くない時間だったわ”

 そんなことを思っていたの。

 

 でも、それよりも、彼女が思い浮かべていることで、一番印象的だったのは、彼女の奥底の思いかな。

 

「“意図的にこころを開けば、あなたもこころを開いてくれるかしら”、だなんていわれてもなー。わたしのこころはいつも全開だよ」

「そ、そう」

「そうそう。“まさかそんなところまでよまれるなんて”、やっぱそう思うよねー。みんなそうだよ。八雲紫もこころよまれ慣れてないなー」

「こころよまれ慣れるってなによ」

「あ、“相変わらずよく分からないこ”って思ったでしょ。ひどいなー」

 

 八雲紫のこころに、少しだけ困惑が浮かんだんだけど、すぐにまた変な生暖かい物に戻った。なんだろうね、これは。

 

「それで、八雲紫はなにしにきたの?」

 

 なんだかこそばゆくて、わたしはそう聞いたんだ。

 

「わたしのあたまを撫でに来たわけではないでしょ?」

「あら。わたしがあなたの頭を撫でに来たら駄目なの?」

「だめだよ」

 

 わたしはペットじゃないんだから。

 

「でも、驚いたわね」

「なにに? おのれのむのうさ?」

「違うわ。ふつう、友人の家を訪ねたときに、炎上していたら驚くでしょ?」

「友達がいたことないからわからないよ」

 

 八雲紫の膝の上にもう一度座り込んで、ソファをかるくゆびでつっついてみる。あつかった。どうしてお空はわたしのへやにきて、わざわざ燃やしていっちゃったんだろう。他の動物も、あの子も火事に気づいていないってことは、たぶんこのへやだけなんだろうな。わたしに恨みでもあったのかな。ないわけないよね。

 

「それにしても、あの地獄烏の子、いきなり主の家を燃やすような子だったかしら。いつも灼熱地獄で働いてる子よね」

「そうだったっけ」

「そうよ」

 

 そんなの、おぼえてるわけがない。

 

「何か妙なことになってなきゃいいけど」

「みょうなことって?」

「さあね。それを調べるのはちれいでんの主のしごとよ」

「ちれいでんの主ってだれ?」

「あなたよ」

 

 そうだった。いやだな。面倒くさいな。でも、なんだかやらなきゃいけないようなきもしてくるからふしぎだね。

 

「まあ、いざとなったらわたしも、あの子も助けてくれるわよ。あなた一人で抱え込む必要は無いわ。これからはね」

「かかえこんでないよ」

「そうかしら?」

「かかえこんだのは、みんなの恨みだけだよ」

 

 八雲紫のてが、ピクッってふるえたの。てっきり、わたしの言葉に動揺したのかと思ったんだけど、違ったね。そのあと、すぐにわたしもぴくりって動く羽目になったから。

 

 どすんって、大きな音がしたんだ。最初は何の音か分からなかったんだけど、めがね越しにこころをよんで、やっと何があったか分かったよ。だれかが思いっきり扉をあけて入ってきたんだ。

 

 だれか。こころをよめばすぐ分かるけど、もう読まなくてもすぐにだれだか分かったね。わたしの部屋にくるのは、八雲紫とあの子だけしかいない。ほかの妖怪は、わたしを恐れて、嫌って、きょぜつしているからこないの。だけど、そんな嫌な心を押し殺してまで、わざわざちれい殿に来るような、そんな変わっている妖怪がひとりだけいたんだ。そんな強いせいしんをもっているのは、彼女だけだからね。

 

 まえにも、星熊がわたしをこんな風にむかえにきたきがしたけど、たぶん気のせいだね。

 

「星熊じゃん。なにしにきたの?」

 

 鬼のしてんのうは、わたしの言葉を聞いてかなりびっくりしてたけど、それでもこっちに歩いてきたんだ。そしたらね、八雲紫が上に乗っていたわたしを放り投げたんだよ。酷くない? そのまま地面に顔をぶつけちゃったの。痛かったな。

 

「妖怪の賢者さまには悪いけど、ちょっとこめいじに用があるんだ」

 

 星熊は地面で寝っ転がっているわたしに、「酔っているのか?」って聞いてきた。酔ってないのに。もちろん、わたしは「星熊とはちがって、よっぱらわないよ」と叫んだんだけど、うそはよくないって突っぱねられちゃったんだ。うそだとおもったなら、殺してくれればいいのに。

 

「すこし、お空のことではなしがあるんだ」いつもの星熊らしくもなく、どこかいいづらそうだった。

「こめいじ、少し付いてきてくれるか?」

 

 いいよ、っていうより早く、星熊はわたしの手を取って引っ張り上げた。あまりに強かったから、腕が外れるかと思ったよ。

 

「そいうわけで、ちょっとお出かけしてくるね」

 

 わたしがそう言うと、八雲紫は軽く手を振ってきた。行ってきてって事だったんだね。

 

「なんか悪いな。急に割り込んじゃって」

「いいんだよ。星熊はわたしにとっての水なんだから」

「はあ?」

「八雲紫が焼け焦げた書類ね」

 

 どういう意味だ、って首をかしげた星熊に、わたしは教えてあげたの。

 

「ほら、相対主義って奴だよ。前のが酷ければ、後がよくみえるってね」

「だから、どういう意味だって」

「八雲紫のあとに星熊が来たから、相対的によくみえたってことだよ」

 

 それ、どういう意味よ、と不満げにつぶやいた八雲紫のこえが、頭をぐるぐるとかけまわった。なんてね。

 




あなただって言ってたじゃないですか。感情というものは複雑なんです。1か0かで表せないんですよ。嫌悪と恐怖を感じていたとしても、確かに、紫さんは、勇儀さんはあなたのことを。


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─きっと勇儀も私と同じ気持ちだったのでしょう─

 

 いつだってそうだよね。ちれい殿にきてわたしをどこかに連れて行くのも、正ぎかんから、騒ぎを大きくしてめんどうなことにするのも、そしてじぶんの心に嘘をついてまでわたしにかかわろうとするのも、いつも星熊だった。

 

 それが星熊という鬼のせいかくってことはわかってるけど、それでもわたしは分からないの。かのじょの心がわからない。もちろん、傷だらけでボロボロなわたしの第三の目でも、彼女の心はよめるよ。でも、わからない。わたしをおそれ、嫌悪し、生けにえのひつじになったときですら、拒絶感という膜がこころにかぶっていたかのじょが、なんで“しんぱい”という感情をわたしにむけてくるのか、分からなかったの。

 

「なあ、古明地。おまえ、変だよ」

 

 ちれい殿からでて、ふよふよと心当たりのないばしょへとてをひっぱって、連れて行かれているときに、星熊がふとそう言ったの。

 

「どうしたんだよ。おかしいぞ、おまえ」

「わたしはいつだっておかしいじゃん」

「そうだけどな」

 

 じょうだんだったんだけど、星熊はあっさりそうみとめたんだ。

 

「そうだけど、いつも敬語をつかってただろ。それに、星熊だなんて呼んでなかったじゃねえか。やっぱり、酔ってんのか?」

 

“酔っていてくれ”

 

 かのじょはそうねがってたんだ。でも、ざんねん。

 

「よってないよ。シラフってやつだね。これがわたしの素だよ」

「素って、おまえ。変わりすぎだろ」

 

 なぜか星熊はいやそうな顔をしたんだ。つらそうなっていったほうがいいかも。おかしいよね。あれほどわたしのことを嫌っていたのに、なんでいざかわったらそんなはんのうをするんだろう。

 

「それに、お前のサードアイ、なんか変じゃないか」

「へん?」

「そうだ。血の気が引いているし、目ん玉だって真っ赤に腫れ上がってるじゃないか。いったい何があったんだよ」

「なにがって」

 

 そんなの、決まってるよね。

 

「わたしが食べちゃったみたいなんだ」

「食べた? それは何かの暗喩か?」

「ちがうよ。ふつうに、くちのなかに入れてかんだってことだよ。でも、ざんねんながら死ねなかったみたいだけどね」

「どういうことだよ。マムシにでもかまれたのか?」

「まむし?」

 

 いきなりへびのはなしをするなんてへんだよね。わたしよりへん! 

 

 そしたらね、「いや、マムシにかまれたら毒をすうだろ」てはなをならしてきたの。ごうまんだよね。しねばいいのに。

 

「私は大丈夫だけどな、人間とかだとかまれた箇所を切断したりするらしいぞ。たいへんだな」

「なんで?」

「そりゃ、死ぬよりかはましだからだろ」

 

 びっくりだよね。死んだほうがましにきまってるのに。

 

「常識的に考えろよ。腕一本なくなるのと死ぬのだったら腕の方がましだろ? ほら、まえ八雲紫もいってたんだけどよ」

「だれそれ」

「十ひく一は九。一を切って九が助かるのは合理的よ、って言ってたんだよ。つまりはそういうことだろ」

「わたしもごうりてきだったよ。それに、まむしにはかまれてない」

 

 ほら、とわたしのサードアイを近づけると、星熊はくちをおさえはじめたの。やっぱり、星熊もこの目を食べたくなったのかな。てのすきまからはよだれがあふれていて、うえっ、てえづいていた。なみだ目でね。らしくもなく、からだをちぢこめている。

 

「なんだよそれ、気持ち悪りぃ」

「わたしが気持ち悪いのはいつもでしょ?」

「そうじゃねえ、そのサードアイだよ!」

 

“なんでそんなに傷ついてるんだよ”

 

 星熊のこころはね、めまぐるしくぐるぐるしてたんだ。おどろきと、きょうふと、こんらんと、嫌悪感でいっぱいいっぱいになってた。

 

「遠目で見ただけならまだしも、近くで見ると大分エグいぞ、それ」

「えー。鬼って、いつももっとえぐいじゃん。ほかの妖怪を食べたり」

「それよりも酷い」

 

 あの星熊がまさかここまできょうふを顔に出すなんてね。びっくりだよ。わたしのそばにいるとき、いつも内心でおそれていたくせに、まったくかおにださなかったのにね。どうしてだろう。

 

「やっぱり、変だ。古明地。おまえどこか悪いのか? 知り合いに治療が上手い奴がいるから、もしそうなら紹介するぞ」

「えー、なんでさ」

「なんでって」

「星熊は、わたしなんて死ねばいいって思ってるんでしょ? なのに、どうしてそんなことをするの?」

「そんなこと」

 

 思ったことなんてない。そう口にしようとして、すぐに星熊はおしだまったんだ。そりゃそうだよね。鬼は嘘を吐かないんだから。そんなこと、言えないもんね。

 

「まあいいでしょ、わたしのことは。どうせきらわれてることにかわりはないんだし」

「……よくない」

「それより、いまどこにむかっているの?」

「よくないって言っただろ。私にとって、お前は!」

「うるさいなあ」

 

 どこからか声が聞こえて、そのせいで星熊はおしだまった。いったいだれだろうってきょろきょろしてもね、どこにもすがたがなかったんだ。そして、こころもよめなかったの。だから、また八雲紫かなって、うざいなって思ったんだけど、違ったんだ。

 

 それは、わたしのこえだったの。

 

「わたしなんて、もう死んじゃったほうがいいんでしょ? みんなそうおもってるじゃん。なのに、わたしをちりょうなんてしちゃったら、星熊もきらわれちゃうかもよ。ああ、それはないか。星熊はみんなにしたわれてるもんね。わたしとちがって」

「落ち着けよ、古明地」

「わたしはいつだってれいせいだよ。れいせいすぎて、からだが凍っちゃうくらいね。ちのいけじごくにおとされてもだいじょうぶなくらい! どうせしぬならまっとうに! かきごおりだって食べられやしないんだもん。もう羊にすらなれなかったんだけどね、わたしは。なら、あとはなにになれるかな。ねえ、星熊。わたしに何になってほしい? やっぱり、じわじわとなぶりごろしがいいのかな?」

「いい加減にしてくれよ!」

 

 いきなり星熊はそうさけんだんだ。こわいよね。いい加減ってなんのはなしだろうね。おふろかな?

 

「それにね、わたしと仲良くしてもいみないよ。地上にはあがれないのさ。わたしにはそんなけんげんはないの。だから、ちじょうにいきたくてわたしとお話ししても、ぜんぶみずのあわになっちゃうんだよ。あんなにくろうしたのに。ざんねんだったね。どうじょうするよ」

「違う」

「ちがう? おー。おにじゃなくなった。せかいがかわるんだね。おめでとう」

「違うんだよ。違う。私はな、私は!」

 

 おもいっきり星熊がさけんだせいで、ずばーってしょうげきが走った。わたしのひんじゃくな体じゃたえられなくて、ごろごろってじめんをころがちゃったの。いたかったなー。ボールの気持ちが分かったよ。これからはぼーるをもっとやさしくあつかおう。ま、それでもわたしのほうがぼーるよりひどいめにあうんだけどね。わたしはしっているんだ。

 

「いいか、古明地。私はな。確かにお前のことが嫌いだ。嫌悪しているし、癪だが恐怖感も抱いている。確かに死ねばいいと思ったことも、一度や二度じゃない。打算的な考えがあったのも事実だ。だがな! だが!」

 

 星熊は、鬼らしくまっすぐな言葉をなげつけてくる。きっと、鬼がつくるおにぎりは、ぼうみたいにまっすぐなんだね。

 

「だが、それだけじゃなかったんだよ。私はお前が嫌いだ。大嫌いだ。けどな、けど! 尊敬もしてるし、好んでもいるんだよ。おまえ、心が読めるんだろ? なら分かるんじゃないのかよ。私はな、お前に少し憧れていたんだ。そうじゃなきゃ、地霊殿の主なんて任せてねえよ。仮にも私たちのトップなんだぞ。そう認めてるって事なんだぞ。こんな糞みたいな地底に閉じ込められても、陰湿で嫌みなことしか言わないおまえだけどな、どこか楽しそうなお前に、私は憧れていたんだ。たとえ陰険で薄気味悪くて気持ち悪い奴でもな、関わってもいいかなってそう思うほどには見上げてたんだよ。分かるだろ。なあ。分かってくれよ!」

 

 星熊はおこっていた。 だれに? じぶんに。そのせいで、かのじょがしゃべるたびにしょうげきはでちていがゆさぶられる。そんなことにも、かのじょはきづいていなかったの。ばかだよね。おろかだよね。しねばいいのに。

 

「古明地。さっき、おまえ、何になってほしいか、って私に訊いたよな」

「そうだっけ」

 

 なんで覚えてないんだよ、と泣き笑いのようなかおになった星熊は、やさしくわたしのあたまをなでてきた。うざったいよね。さわらないでほしいよ。

 

「私はな、元のお前に戻って欲しいよ。あの、私の大嫌いな古明地に、戻って欲しいんだ。今のお前は見てられないんだよ。もし戻ってきたら、私の嫌悪感を思い切り拳でぶつけてやるから、頼むよ」

「それって」

 

 わたしは、星熊のむねにとびこんで、わらった。

 

「それって、死ねってこと?」

「え?」

「そうだよね。ちていはわたしにしんでほしいんだもんね。星熊になぐられたら、こっぱみじんになっちゃうもんね」

「違うって」

「でも、別にいいんだよ。らくにしねるのなら、なぐってよ。ほんのうだよほんのう!」

「止めてくれ、もういいだろ」

 

 やわらかくて、あたたかい彼女の体がわたしをつつみこむ。わたしがこんなに近くにいるのに、星熊はいやがるそぶりをみせなかった。ちがうか。かくしていたのか。

 

 なにをいまさら。どういうわけか、こんなことばがうかんだの。うすらさむいにもほどがある。星熊のきもちなんて、わかっていたよ。だってこころがよめるんだから。でもね。

 

 そんなことをいっても、けんおかんのほうがつよいんだもんね。

 

「ねえ、星熊」

 

 わたしがよびかけても、かのじょはへんじをしなかった。ひどいよね。むしだなんて、むしがよすぎるよね

 

「しっているかわかんないんだけど、いちどこわれたものはもとにはもどらないんだよ。もどらなかったんだ。かなしいよね。わらえるよね。しにたくなるよね」

 

 星熊の、わたしにまわすてのちからがつよくなる。あれだね。このままくびをへしおってくれればいいのにね。

 

「星熊がうそをつくなんてめずらしいよ。わたしをそんけいしていた? そんなわけないじゃん。じぶんのこころにうそついちゃだめだよ。だったら、なんで八雲紫にわたしがかったとき、がっかりしてたのさ。どうしてキスメがけがしたとき、わたしがはんにんだって、あんなでたらめなうそをうけいれたのかな。なぜぺっとにきらわれたときも、たすけてくれなかったの。ねえ、おしえてよ。あれ? 鬼ってなかまをたいせつにするんじゃなかったっけ? りふじんなことは許せないんじゃなかったっけ? ああ、そうだよね。なかまじゃないもんね」

「心を読めば分かるだろ」

「そういえば、おにってまめがきらいなんだっけ。じゃあわたしはまめだね。たべてもおいしくないけど。しってる? さとりようかいはたべてもおいしくないんだよ?」

「お、おい」

「あーあー。でも、おにをたおすのにたくさんまめがいるのか。もったいないね。たべたほうがぜったいいいよ。そうしないと、しょくりょうぶそくになっちゃうよ。そしたらきらわれるんだ。だれが? わたしが! ふしぎだね。おもしろいね。わらえるね」

「本当に。本当にどうしたんだよ古明地」

「星熊もそうおもうでしょ? こんなことになったのはだれのせい? わたしのせい? そうだよね。そうなのか。しらなかった、はつみみだ! はつみみってへんだよね。しんぞうかみみかどっちかわからないよう」

 

 さいあくなかんじだったよ。なにが? わかんないけど、たぶんぜんぶかな。

 

「むいしきだよむいしき。星熊はむいしきからわたしを、いや、星熊っていうのはかわいそうだね。ちていは、むいしきでわたしをきらっているの。それはもうしょうがないことなの。だから、わたしは。わたしはね。わたしなんだよ」

「意味が分からないって」

「きぐうだね。わたしも」

 

 わたしがそういうとね、かのじょはわたしをだいたまま、いきおいよくとんだんだ。びゅーーって。すごかったよ。こんなはやくとべるんだったら、いろんなことができるんだろうな。なのに、なんでやらないんだろう。こんなつよいなら、わたしをたすけることもできたのに。いや、むりか。だってわたしはわたしだから。ちれいでんの主だから。

 

 そうしているとね。上からみずがたれてきたの。ふしぎだよね。こんなにはやくとんでるのに。しかも、ちていなのに。あめがふらないちていなのに。どうしてだろう。

 

「なあ、古明地。色々いいたいことがあるが」

「あるが?」

「もう、そんなことは言わないでくれ」

 

 そんなことってどんなことだろう。わからなかったけど、とりあえずうなづいた。

 

「わかったよ」

「そうか」

「そのかわり、ころしてほしいな」

「だから、そういうことを言うなって言ってるんだ」

 

 ことばはつよかったけどね、星熊らしくもなく、なんかよわよわしい声だったの。なんでだろ。ふしぎだね。おどろくほどにきょうみもないけど。

 

「いいか、古明地。いくら鬼だってな、意味も無く殺したりしないんだよ。ちゃんといつも理由がある」

「またりゆう?」

「そう。理由だ」星熊はおおきくくびをたてにぶんってふった。

「お前だって知ってるだろ。わたしたち鬼は二対一で相手をいたぶったりとか、そういうことはまずしないんだ」

「そんなことなかったじゃん」

「普通はやらないんだよ。いくら鬼だからと言って、意味なく相手を殺したりしない。例えば、そいつが仲間を裏切っただとか、嘘を吐いたとか、そういうことをしないと殺さないよ。意味のある殺ししかしない」

「わたし、星熊がすきなんだ」

 

 そううそをいったのに、星熊はころしてくれなかった。星熊もうそつきだね。

 

「だから、わたしは古明地を殺すことはできねえんだよ」

「やっぱりしぬときはできしがいいのかな」 

「それに、言うだろ? 本当に嫌いな奴は殺しちゃいけないって」

「もえるのはつらいからいやだな。あのにんげんはどうやってしんだのかな」

 

 きけよって星熊はふるえるこえでいってきたの。きいてたのに。きいてないと、こうしてにっきにかけないもんね。ま、ほんとうにいってたかはおぼえてないんだけど。だいたいでいいよねだいたいで。どうせしぬし。

 

「だから、私はお前を殺さねえよ。殺すとしたら、敵になったときだけだ」

「わたしは星熊のてきだよ」

「敵だって言ったからといって敵になるわけじゃねえよ」

「じゃあどうしたらてきになるの?」

 

 そこで星熊はなぜかふんってはなをならしたんだ。

 

「そうだな。まあ殺意をむけてきたら敵だとみなすな」

「さつい?」

「殺してやるって気持ちだよ。『鬼め! その首をとってやるからな』ってやつだ」

「『まむしにかまれろこのゴミが』ってやつだね」

「なんでそれが殺意になるんだよ」

 

星熊はわらおうとしたおかくちをおおきくひらいたんだ。だけど、うまくいかなかったみたいですぐとじちゃったの。ばかみたいだね。

 

「なあ、古明地。お前がこんな風になっちゃったのって。あれが原因なのか?」

「こわれたのはもともとだよ。おいしいごはんはこわれやすいの」

「意味分かんねえよ」

 

 ほんとうにね。

 

「この前の、八雲紫との決闘が原因なのか?」

 

 八雲紫とのけっとう。おもいだそうとすると、むねがいたくなる。おもいださないといけないことを、おもいだしちゃいそうになる。いやだな。いやだ、おもいだしたくない。もういやなんだ。わたしはだめなんだ。もうおわったんだ。おわりたい。せかいはまわらない。もうおわりなんだよ。ほら。みて。にっきもわたしをきらっているんだ。なにもかもがわたしをきらっているんだ。わらいごえがきこえるの。だれの? わたしの。おもしろいね。

 

 ああ。星熊のはなしをかかなきゃ。

 

 えっと。「お前はなんでまだ死なないんだ?」っていったんだっけ。ちがう? ちがうな。これはもうちょっとあとだっけ。そもそもいわれてなかったっけ。あれ? わかんないや。

 

 おかしいな。きょうあったことなのにかけないや。なんでだろう。おもいだせない。もういいか。でも、にっきはかかなきゃだめだっていわれたもんね。

 

 どうしよう。あ、そうそう。おくうのはなしをしたんだった。えっと。そうそう。

 

「お前のペットの話なんだけど」って言ってきたんだ。そうだったそうだった。なぜか星熊はないてたけど、そのりゆうはおぼえてないや。

 

「なんか、最近ようすが変だったってことを言おうとしたんだけど」

「だけど?」

「お前の方が変だったよ」

 

 ひどくない? しつれいしちゃうよね。でも、なんでなみだながらにそれをいってくるのかはわからなかった。びっくりだよね。

 

「霊烏路空。灼熱地獄で働いているのはいいんだけどよ、物騒なこと言ってたんだ」

「ぶっそう? おにがそれをいうの?」

「なんか、力が溢れる! 地上も灼熱地獄にしてやるって」

 

 そう! ちじょうだよちじょう。あのお空がちじょうをもやそうとしてるんだって。びっくりだよね。どうせならわたしをもやしてくれればいいのに。

 

「本気かどうかは分からないけどさ、一応伝えといた方がいいかと思って」

「なんで? いっしょにもやしてくれるかもしれないから?」

「地底と地上の争いは避けたいって言ってたじゃねえか」

「しらないよ」

 

 ちていとちじょうがけんかしたらどうなるかな。たぶんみんなしんじゃうね。でも、それでもいいのかな。わたしがしねるのなら、それで。

 

 せっかくだし霊烏路空にあいに行こうかな。とくにいみはないけど。そうおもったんだけどね、すぐにそれがむりってことがわかったんだ。すごいいきおいでとんでいた星熊がきゅうにとまったの。

 

 どうしたのかなっておもってみあげたんだけど、すぐわかったよ。もくてきちについたんだね。さいあくだよ。なんでこんなとこに。

 

「ついたぞ。旧都だ」

 

 ついたぞっていわれてもこまるよね。きたくないばしょにごういんにつれてこられるだなんて。あ。でもそうか。そもそも、ここにいる奴らはちていにきたくないのに、むりやりつれてこられたやつらばっかだもんね。はきだめだよ。はきだめ。きたない。

 

「なんでこんなとこに? こんなくだらない場所に? こんな。どうして連れてきたの?」

「待ち合わせだよ」

「まちあわせ」

 

 まちあわせ。わたしをまってくれるようなやつなんているわけないのに。あ、そうか。星熊をまっているのか。だとしたらさいあくだね。わたしなんかつれてきちゃったら、ぜったいいやがられるよ。わたしもいやだもん。さとりようかいなんてきもちわるいやつがきたら。

 

 そうかんがえてたらね、奥からひとりの妖怪がでてきたんだ。ああっていっちゃたよ。おもわずね。

 

「橋姫じゃん! あいたくなかったよ」

「ええ、わたしもよ。というか、橋姫ってなに」

「さあ」

 

 しったこっちゃないよね。このときのわたしはびっくりしてたんだ。なんで? なんでだっけ。覚えてないや。

 

「ねえ、星熊。はなしが違うじゃん?」

「はなし?」

 

 私がそう言うとね、星熊はほんとうにわからないってかんじでくびをひねったの。まあ、ほんとうにわかってないことくらいわたしにもわかったんだけどね。

 

「ほら。さっきいってたじゃん」

「いってたって、なんて」

「にたいいちてあいてをいたぶったりしないって、いってたじゃん」

 

 別にいたぶらねえよって、わらった星熊は、ほんとうにかなしいかおをしたんだ。

 

 なんでだろうね。

 




勇儀も紫もパルスィも、底抜けに優しいんですよ。だからこそ、あなたはこんなことをしたのですね。


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破れたページ 第119季2月14日 ─丁寧に扱わないから破れるのです─

破れたページを見つけたので、挟んでおきます


第119季2月14日

 

 どうしてなのか。星熊も橋姫だって分かっていたはずだ。今の私を旧都に連れて行くことが、どういう意味を持つのか。こんな状態の私を無理矢理あんな騒がしい場所に連れて行くなんて、どうかしている。だが、よくよく考えてみれば、二人にしてみれば昨日のドンチャン騒ぎなど日常で、大量の焼酎も些細なことなのだろう。鬼と橋姫は随分と肝臓が丈夫なようだ。でも、だからといって。

 

「誰もが肝臓が丈夫だと思ったら大間違いですよ」

 

 そう小さな声で呟くも、二人は気にした様子もなかった。

 

 昨日、新たに地底の一員として加わったヤマメを歓迎するパーティーを終え、竪穴コンビ──ヤマメとキスメのことだ──が地霊殿を訪ねてくれたあと、私はなんとか日記を書き、そして晩ご飯すら食べずに眠ってしまった。

 

 ペットたち、特にお燐とお空は私が食卓に来なかったことに随分とがっかりしていたようだが、それも仕方がないだろう。お腹がいっぱいだったし、そして何より、酒が抜けきっていなかったのだ。

 

 “あのご主人様がご飯を食べないなんて”

 

 二匹は相当驚いていたようで、私が死んでしまうのではないかとはらはらしていたらしい。私はいったい彼女たちにどう思われているのだろうか。いや、心を読めば分かるのだが、それはしたくなかった。きっと、食いしん坊だと思われているに違いない。

 

 その証拠に、『はやく元気になってね』という書き置きと共に、彼女たちが貯めておいていたであろうお菓子が枕元に置いてあった。団子とまんじゅうだ。いつもであれば喜びのあまり、やった、と声を出していただろうが、今日は違った。

 

 普通、焼酎を滝のようにがぶ飲みしたらどうなるか。当然、二日酔いになる。

 

「だから、私はもう寝たいんですよ。分かりますか。頭が重いんです」

 

 だというのに、私はなぜか星熊と橋姫に旧都へと連れてこられていた。連行されたと言ってもいい。眠い眠いと駄々をこねている内に、ベッドから強引に引きずり出されたのだ。あと五分寝かせて欲しいという私の精一杯の抗議も、彼女たちは一切聞いてくれなかった。あまりに酷い仕打ちだ。私が一体何をしたというのか。

 

「ほら、あれだけ焼酎を飲まされたんですよ。二日酔いになります」

「ならねえよ」

 

 星熊は当然とばかりにそう言ってきた。

 

「焼酎なんて水と変わらねえよ。むしろ、飲めば飲むほど元気になる」

「それは鬼だけですって」

「そんなことない。なあパルスィ」

「私に振らないでよ」

 

 違いますよね、と縋るような目で橋姫を見つめるも、彼女はそんな私を見て、緑色の目を細めた。呆れているのか、はぁと深い溜め息を吐いている。

 

「まあ、勇儀は言い過ぎだとは思うけれど、古明地も大げさだとは思うわ」

「そんなことないですよ。頭も痛いし、気持ち悪くて死にそう。口からまんじゅうが飛び出そうです」

「きたねえな」

「まさか、団子を食べるのが辛いなんて思う日が来るとは思いませんでしたよ」

「団子って、いつ食べたの?」

 

 橋姫が、何かもの言いたげに眉をひそめてくる。その言いたいことは心を読むまでもなく分かった。うぅ、とうめき声を上げてしまう。

 

「まさか、今日だなんて言わないわよね」

「言わないですよ」

「なら、いつ」

「今朝です」

 

 馬鹿じゃないの、と声が聞こえた。それが心の声か、それとも実際に発せられたものかは分からなかったが、心底呆れているのは確かだ。

 

「二日酔いなのに、そんな甘いもの食べたら気持ち悪くなるに決まってるじゃない」

「私はならないぞ」

「勇儀は黙ってて」

 

 手厳しいな、と後ろ手にその長い金髪を撫でた星熊は、古明地のせいだぞ、と笑いながら肩を叩いてきた。あまりの強さに冗談抜きで口から団子が飛び出しそうになる。もし吐いてしまったら星熊のせいにしよう、と内心で決意した。

 

「まったく、地霊殿の主なんだからしっかりとしなさいよ」

「だって、しょうがないじゃないですか」

「しょうがない?」

「朝起きたら目の前に団子とまんじゅうが置いてあったんですよ? そんなの、食べるに決まってますよ」

「決まってないわよ」

 

 あまり早口に言い過ぎたからか、また吐き気が襲ってきて、私はその場に座り込んだ。おいおい大丈夫かよ、と星熊が背中をさすってくる。一瞬、私に触れることを躊躇していたが、それでもゆっくりとさすってきた。

 

「私にとって甘味を食べることは義務なんです」

 

 そんな状況にもかかわらず、私の口は自然に動いていた。

 

「ほらだって、想像してみてください。目の前に美味しそうなお菓子があったら、誰だって食べますよ」

「そんなことはないでしょ」

「きっと私はどんな状況でも目の前に団子があったら食べますよ。賭けてもいいです」

「賭けるって、なにを」

「地霊殿の主という立場、とか」

 

 要らない、と二人は顔を見合わせていた。本心からそう言っている。彼女たちの気持ちは痛いほど分かった。というより、私は誰よりも分かるだろう。地霊殿の主になったところで、ただ仕事が増えるだけで、いいことなんて一つもない。強いて言うならば、地霊殿に住めるということだろうか。だが、とてもそれだけで釣り合うとは思えなかった。八雲紫に報酬としてもっと甘味を要求しよう。いや、やっぱだめだ。馬鹿にされる。

 

「というより、何のために私をこんな所まで、旧都まで運んできたんですか」

 

 何やら話し合っている二人に、私は地面に座り込んだまま訊ねた。土が冷たくて気持ちがいい。そう思うと、自然と体が傾き、ばたりと倒れ込んだ。

 

「何やってんのよ」

 

 橋姫が冷たい目で見おろしてくる。

 

「なんで地面に寝転んでるのよ」

「気持ちいいですよ。頭が冷えますし」

「もしかして、まだ酔っているの?」

「二日酔いです」

 

 今思えば、たしかにこの時の私は酔っていたのかもしれない。さすがの私もいきなり地面に寝転ぶなんて、普通はしない。たぶん。

 

「というより、二人が私を強引に叩き起こすからですよ。二人のせいです。私は悪くない」

「いや、悪いだろ」星熊はまた、大声でケラケラと笑った。

「それに、私たちが古明地を連れてきた理由なんて、心を読めば分かるじゃねえか。聞くまでもないだろ」

「面倒くさいんです。面倒くさすぎて、頭も体も匂ってきます」

「は?」

「面、胴くさい。だじゃれですよ」

「やっぱ、酔ってるなお前」

 

 正直に言えば、彼女たちの心は読めていた。いくら酔っ払おうが、二日酔いになろうが、心は自然と読めてしまう。だが、読めていても信じたくなかったのだ。彼女たちがそんな恐ろしい理由で私をここに連れてきたのだと、認めたくなかった。

 

「古明地をここに連れてきた理由は簡単だ」

 

 星熊は渋々といった様子で、面倒そうに呟いた。

 

「昨日の宴会の後片付けをするんだよ」

 

 ああ、体が臭くなってきました。そう呟くも、彼女たちは肩をすくめるだけだった。

 

 

 

 重い体を引き摺り、なんとか起き上がった私は、痛む頭をさすりながら酒瓶が転がった旧都を歩いていた。

 

 地底で宴会が行われることは決して珍しいことではなかった。それどころか、逆に誰も宴会を開かない日のほうが稀である。だが、さすがに昨日のような、地底中の皆が集まるような宴会は珍しい。それこそ新たに地底に落ちた犠牲者を歓迎する時ぐらいだろう。

 

 当然そんな大規模な宴会を開けばゴミも大量に出るし、喧嘩した鬼のせいで建物も壊れる。それを片付け、修理し、綺麗にするのは星熊の仕事だった。

 

 仕事、だなんて大袈裟なものではない。単純に、リーダーシップ溢れる彼女が意外にも綺麗好きとあって、他の連中に呼びかけ、自発的に掃除をしているのだ。皆に慕われるのも頷ける。私も陰ながら、ありがたく思っていた。

 

 だが、その掃除に自分が巻き込まれるとなると話は別だ。

 

「おーい! そっちは片付いたか!」

 

 そこらに転がっている酒瓶を適当に拾っていると、星熊が大声でそう訊いてきた。まだ掃除を始めて一時間も経っていない。そんな短時間で片づけられませんよ、と声のした方を振り返ると、星熊のまわりは綺麗さっぱりチリ一つなくなっていた。そのあまりの早業に唖然とする。

 

「勇儀、すごいでしょ」

 

 ぽかんと口を開けていると、橋姫が大量の酒瓶をもって近づいてきた。なぜか自慢げに鼻を鳴らしている。

 

「さすがは鬼の四天王ね」

「なんで鬼の四天王があんなに掃除が得意なんですか」

「なんでって。鬼ってそういうもんでしょ? 邪魔なものを消すのが得意なのよ」

「その言い方は怖すぎですよ」

 

 私からすればあなたの方が怖いわよ、と橋姫は肩をすくめてきた。なんでですか、と声を荒らげるも無視される。

 

「でも、意外ですよね」

「意外?」

「勇儀さんが綺麗好きだってことですよ。ほら、なんか雑そうですし」

「まあ、言いたいことは分かるけれど」

 

 橋姫はいつも星熊の話をする時だけ、なぜだか浮ついたような表情になる。

 

「あなただって知っていると思うけど、ああ見えて気配りが出来るのよ」

「私はされたことないんですけど」

「そりゃ古明地だもん。よっぽどのことがないと気なんて配りたくないわ」

「鬼の目にも涙って奴ですか。鬼が泣くほど珍しい」

「たぶんだけど、その言葉はそういう意味ではないと思うわ」

 

 それに、星熊が泣いている所なんて見たところがないし、きっとこれからもないだろう。二人してそう言っていると、橋姫がちらりと星熊の方を見て、すぐに私に目を戻した。辺りを見渡して、はぁと息を吐いている。

 

「というよりも、あなたの周り、全然掃除できてないじゃない。まあ、別に急げとは言わないけど」

「それは」

 

 私の周りから妖怪が立ち去ってしまっているから。そう言おうとしたが、やめた。そんなこと、言わなくても分かってるからだ。

 

 これならむしろ私は地霊殿で寝ていた方が効率よく掃除ができたのではないだろうか。なぜ彼女たちは今回に限って私を連れてきたのだろうか。心を読んでも、そこまでは分からなかった。

 

「ま、しょうがないから手伝ってあげるわよ」

 

 ぼうっとしていると、橋姫がのんびりとした声でそう言ってきた。もしかすると彼女も何だかんだ言って、少しは酒が残っているのかもしれない。

 

「優しいんですね。私と同じくらいには優しいです」

「それ、暴言よ」

「どういう意味ですか」

 

 そんなの、心を読めば分かるでしょ。そう笑う彼女は手際よく酒瓶やらゴミやらを近くにあった袋に詰め込んでいった。手慣れている。彼女もよくこの珍妙な掃除会に参加しているのだろう。いくら星熊が主導しているとはいえ、基本的には自由奔放で、統率のとれない地底の連中の中では、彼女ぐらいしかまともな奴はいないのかもしれない。他の鬼は片付けている、というよりは飲み残しの酒をさらっているといった方が正しいくらいだった。

 

 彼女と同じような、いわゆる地底のまとも枠に、昨日入ってきたヤマメがなれたらいいな。

 

「それこそ、私と同じくらいまともに」

「それも暴言よ」

「なんでですか」

 

 独り言にいらぬ言葉を加えてきた橋姫を三つの目で睨んでいると「休憩にしようぜ」と星熊が猛烈な勢いでやってきた。なぜ他の鬼たちではなく、よりによって私なんかに言いに来たかと首を捻っていたが、すぐに分かる。そもそも彼らは勝手に休憩するし、いつの間にかいなくなる。星熊が何も言わなくとも、だ。

 

「休憩って言っても、こんなゴミまみれのとこでですか?」

 

 何かを手に持ってやってきた星熊は、ゴミの山の上によっこらせ、とおっさんくさいかけ声と共に腰を落とした。

 

「汚いですよ」 

「お前さっき、そのゴミまみれのとこで寝てたじゃねえか」

「覚えてません」

「嘘はよくねえぞ」

 

 まったく、と額に生えた大きな角をコツンと爪で弾いた星熊は、ほれ、と何かを橋姫に投げた。意表を突かれたのか、橋姫は一瞬戸惑っていたが、なんとかそれをつかみ直す。

 

「なによ、これ」

「なにって、見たら分かるだろ」

 

 星熊はふっと微笑みを浮かべた。

 

「団子だよ団子。さっき買ってきたんだ」

「いつの間に」

「鬼にかかれば余裕だっての」

 

 そんなところで鬼の実力を見せつけられるのも困る。

 

「にしても、珍しいわね。勇儀が団子を買ってくるだなんて」

「八雲紫からきいたんだよ。今日は地上だとバレンタインデーっつってチョコレートを渡しあう日らしいからな」

「でも、団子なんですね」

 

 そのチョコレートとやらを食べてみたいという気持ちもある。が、そもそも地底にはそんな得体のしれない食べ物はなかった。

 

「古明地も、ほら」

 

 さすがにゴミの上には座りたくなかったので、橋姫が持ってきたゴミ袋のすぐ横、綺麗な土に腰を落とす。と、星熊がこれ見よがしに団子をひらひらと振っているのがみえた。

 

「お前の分はみたらし団子だ」

「え、私にもくれるんですか?」

「いらないのか」

「いります!」

 

 半ば条件反射的に私は答えていた。そんなに好きなのか、と苦笑する星熊を横目に、少しの後悔に襲われる。だいぶ収まったとはいえ、二日酔いの気持ち悪さはまだ続いている。いま何かを口に入れてしまったら、それこそ地霊殿の主としては相応しくないような、えげつない醜態を見せてしまうかもしれない。だが、それでも団子という食べ物の魅力には逆らえなかった。

 

 そんなことを考えていたからだろうか。ほれ、と星熊が団子を投げたことに、すぐには気づかなかった。

 

 ゆっくりと弧を描きこちらに向かってくる団子に、慌てて手を伸ばす。が、それがいけなかった。運の悪いことに、ちょうど団子の串の先が指先にふれ、軌道が変わった。その時の光景は今でも覚えている。コマ送りのようにゆっくりと団子が左に逸れ、一直線に向かっていった。

 

 何にか。ゴミ袋にだ。

 

 動くことができなかった。無力な私はただ、団子がゴミまみれの袋にぼとりと落ちていく様を、じっと見つけることしかできない。

 

「あ」

 

 そう声を出したのは誰だろうか。私はすぐに落ちていった団子に、つまりはゴミ袋に手を伸ばした。串を掴み、拾い上げる。だが、みたらし団子だったのか災いし、その表面は土まみれになっていた。とても食べられそうにはない。

 

「こんなの、あんまりですよ」

 

 知らず知らずのうちにぽつりと呟いていた。悲しすぎて、大声で泣き叫びたい気分だった。だが、そんな私を見て、爆笑する奴がいた。星熊だ。人の気も知らないで。あなたは心を読めないんですか、と責問したくなる。まあ、読めないに決まっているのだが。

 

「あっはは。いや、ドンマイだな古明地。珍しく鈍くさいじゃねえか」

「笑わないでくださいよ。そもそも、みたらし団子を投げるのが間違ってるんですよ」

 

 私の口調はいつもよりも強くなっていた。八つ当たりだと自分でも分かる。

 

「まあでも、まだいけるだろ」星熊は、そんなこと百も承知とばかりに堂々としていた。

「まだ食えるよ」

「え、いや。無理ですよ。だって土もついてますし、何よりゴミ袋に落ちたんですよ?」

「でも、大丈夫でしょ」

 

 橋姫は、薄く笑いながら言ってきた。その心を読み、愕然とする。本気でそう思っているのだろうか。だとすれば、怖すぎる。私なんかよりよっぽどだ。

 

「さっき、古明地は言ってたでしょ。『私はどんな状況でも目の前に団子があったら食べますよ』って。だったら、土まみれでも食べれるでしょ?」

 

 満面の笑みでそう言ってくる橋姫に、私は負けないくらいの笑みを作った。

 

「パルスィさん」

「何かしら」

「地霊殿の主の就任、おめでとうございます」

「何の罰ゲームよ」

 

 そう毒づく彼女の心には、一切の嫉妬も浮かんでいなかった。むしろ、こんなことで嫉妬されても困る。

 

「まったく、しょうがない奴だな」

 

 笑みを浮かべてはいたものの、せっかく貰った団子を落としてしまい落ちこんだ私を見て、星熊は眉をハの字にした。今度はのそりのそりと近づいてきて、手を差し伸べてくる。

 

「ほら、やるよ」

「え?」

「私の食いかけだけどな」

 

 私は驚いていた。まさか、他人に団子をあげるような、そんな奴がいるだなんて思わなかったのだ。しかも、この私に、だ。

 

「これが鬼の目にも涙って奴ですか」

 

 何言ってんだよ、と首を傾げる星熊の脇で、橋姫が笑いをこらえているのが分かった。

 

 こうして、日記を書いている時もあの二人の楽しげな表情がありありと頭に浮かぶ。何だかんだ言いつつ、掃除に行って良かったな、と思っている自分に気づき、ひとり苦笑してしまう。もしかすると、八雲紫が「ハッピーバレンタイン」とチョコレートとやらをくれたので、上機嫌になっているせいかもしれない。

 

 だが、もしかしたらと、思ってしまうのだ。

 

 もしかしたら、星熊は最初からそのつもりだったのではないか。初めから、バレンタインというこの日に、私に団子を渡すつもりで連れ出したのではないか。

 

 そんなわけないか。

 だって、八雲紫いわくバレンタインデーというのは相手に好意を伝える日なのだから。




掃除していたら箪笥の底からこのページが出てきたのですが、まあ、とっておきましょう


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─ ─私も普通ではないですけどね、勘違いです─

 いみがわからなかった。なんでなのかな。どうして。いったいなにをかんがえているのかな。たぶんなにもかんがえてないんだろうね。しねばいいのに。ほんとうにはらがたつよ。まったくね。どうしてこんなこともわからないのかな。わたしが旧都にくれば、どうなるかなんてわかるじゃん。どうかしてるよ。あたまがおかしいよ。このわたしがいうのだからまちがいないね。

 

「ねえ星熊はやっぱあたまわるいよ」

 

 こんなようかいがいっぱいいるところにわたしをつれてきちゃったら、だめにきまってるじゃん。まして、きゅうとだなんて。

 

「おにってあたまわるいんだっけ」

「おいおい。いきなり悪口かよ」

 

 星熊はなぜか楽しそうにケラケラわらったんだ。なにもおもしろくないのに。

 

「それに、おまえよりはましだ」

「まし?」

「パルスィもそう思うだろ?」

「私にふらないでよ」

 

 なんで橋姫はこんなところにきたんだろうね。いくらなかがいい星熊によばれても、ふつうはわたしがくるっていわれたらこないのに。なぞだね。やっぱりあたまがおかしいのかな。

 

「というより、私は古明地についていろいろききたいんだけど」

「いろ? わたしにいろなんてあるの? しいていうならしろだけど」

「そうじゃなくてね」

「そうじゃない? ならなんなの」

「色々ってのは、たくさんっていみよ」

「たくさんのいろ? にじいろってこと?」

 

 ああ、もうって橋姫はいきなりこえをあげたんだ。こわいよね。いきなりおこるだなんて。びっくりだ。

 

「ねえ星熊。古明地どうしちゃったのよ。また酔ってるの? にしては前と違いすぎるけど」

「さあな。私にもさっぱり分からん」

「わかんないの? ほんとに?」

 

 おかしいよね。いったいだれのせいだと。ああ、ちがうか。わたしのせいか。そうだよね。そうだったよね。わすれてたよ。

 

「もうおわったんだよ」

「終わった? なにがだよ」

「ぜんぶ」

 

 そう。ぜんぶ。

 

「もうどうでもよくなっちゃったんだ。だってしょうがないじゃん。しったこっちゃないもん。ちていなんてほろべばいいんだ」

「地霊殿の主として、どうなのよ」

「橋姫だってそうおもうでしょ?」

「そうって、どうよ」

「信じるものはすくわれるんだよ! わたしはしんじなかったけどね。仏なんていなかったんだよ。かおはみっつもなかったのさ。ちれいでんのあるじなんて、どうしてなのかな。なにが? もうちれいでんにすらないじゃん。もうないんだよ。わかる? しっぱいしたんだよ。おそかったの」

「だから何がよ」

「しっぱいしたの」

「だから」

「いきるのにしっぱいしたの。だから、死ななきゃね」

 

 なにかをいおうとした橋姫をね、星熊がとめたんだ。ぶんぶんってくびをふってたの。どういういみだろうね。

 

「なあパルスィ。どう思う」星熊が、わたしをむしして橋姫にそうきいたの。ひどいよね。

「どうって」

「古明地。まだまにあうか」

「まにあうって、なにに? しめきり? ならまにあわないよ。もうおそかったんだ」

「そうね」

 

 橋姫は、いやそうにかおをしかめて、顔の前でてをぶんぶんって振ったの。ひどくない? わたしをはえだとおもったのかな。おしいね。どっちかっていたらうじむしだ。

 

「もう、おそかったかも」

「まじかよ」

「まじね。でも、どうしてなのかしら」

 

 橋姫はそこでわたしみたいなわらいかたをしたんだ。ふふって。やっぱへんなわらいかただよ。もういいかな。つかれたわ。ってかんじだった。というより、こころをよんだの。

 

「あんなに嫌ってたのに、いざ変わると戻ってほしいて思うだなんて、自分でも意外だわ」

「それは多分」

 

 星熊がらしくもなくにがわらいしていったの。

 

「今の方が酷いからだろ」

 

 ひどいよね。ひどいだなんて。わたしはひどいのかな。ひどいくらいきらわれているのかな。そんなの、かんがえなくてもわかるじゃん。わたしはきらわれてるんだ。ひつようじゃないんだ。いらないんだよね。なにに? このよに。

 

「ああそうだ」

 

 そこで星熊がね、おもいだしたかのようにおおごえをあげたの。くうきがびりびりってなって、かぜがふいてきたんだ。星熊がさけぶだけでいつもこうなる。まったくいやになるよね。

 

「この前の宴会の残りの菓子をもってきたんだ。立ち話もなんだから、食おうぜ」

「いきなりね」橋姫はあきれていたよ。わたしもだけど。

「私がいきなりなのは今に始まったことじゃないだろ」

 

 たしかにね。そしてわたしがきらわれているのもいまにはじまったことじゃない。

 

 星熊がもってきた菓子ってのはね、おだんごだったんだ。またかよっておもうよね。もうきらいになっちゃった。おだんごもぺっともきらいだよ。

 

「ほら、古明地も。おまえ、団子好きだっただろ」

「なんでわたしにもくれるの? まるでわたしのことをきらってないみたいじゃない」

「お前のことは嫌いだよ」

 

 星熊は当然とばかりに言ったんだ。

 

「嫌いだが、それだけじゃないんだ」

 

 いみがわからなかった。

 

 でも、せっかくもらったけど、おだんごはもうきらいになっちゃったんだよね。おだんごもぺっともどっちもきらいだよ。だから、いっきにみっつともたべたんだ。おいしくないし。あじもしないし。あまりにおいしくなかったから、くしをおもいっきりなげちゃったの。

 

「あ、古明地」

 

 そしたら星熊がね、たしなめてきたんだ。星熊のくせに。

 

「まだ串のところに少し残ってただろ。もったいないな」

「えー」

「勇儀、貧乏くさいわよ」

「甘いぞパルスィ。この団子くらい甘い」

 

 つまりまったくあまくない。

 

「一円を笑う者は一円に泣くっていうだろ。どんなものでも最後まで完璧に。それが私のモットーだ」

「語られる強力乱舞も随分と細かいのね」

「悪いことじゃねえだろ。前に、勝ったと思った相手が死んだふりをしててな、痛い目に遭ったんだ。あれ以来、どんな些細なことでも完全に処理するようにしてるんだよ。徹底的にしないと安心できないだろ」

「意外と小心者なのね」

 

 その橋姫のことばをきいたときにね、星熊はむっとしたんだ。まるで子供みたいだった。そして、子供らしくそのもやもやをこっちにむけてきたんだ。「そもそも、串を捨てるのはよくねえ」ってね。なんて大人げない!

 

「勇儀、なんだか童の母みたいよ」橋姫はあきらかにばかにしてた。

「きちんと最後までたべなさい。ちゃんと片付けをしなさいって」

「うるせえ」

「ま、確かに片付けは大事だけどね。立つ鳥跡を濁さず。そうしないと川が汚れちゃうわ」

「さんずのかわもよごれるんだね」

 

 わたしがわたるときにはきれいになってればいいな。

 

「ねえ橋姫」

「橋姫ってよばないで。本当に。気持ち悪いわ」

「わたしがきもちわるいのなんてあたりまえじゃん。さとうがあまいように、まっちゃがにがいように、星熊がたんさいぼうであるように、はしひめがはらがたつほどやさしいように。そしてちれいでんのあるじがわるぐちであるように」

「なにを言ってるのよ。あなた、ますますおかしいわ」

「わたしがおかしいのなんてあたりまえじゃん。さとうがあまい」

「もういい。ストップストップ」

 

 橋姫のかおは真っ青だったんだ。もともとあおじろいけどね、もっとあおくなってた。あおりんごくらい。あ。でもあおりんごはあおくないか。みどりだね。でも、橋姫のめもみどりだからおにあいかも。なるほど! 橋姫はあおりんごだったんだね! たべたらおいしいのかな。わたしのサードアイはおいしくなかったけど。

 

「なんでよ。この前の宴会の時は普通だったじゃない。ボロボロだったけど」

「ばかだなあ橋姫は。ふつうのさとりようかいなんているわけないじゃん。さとりようかいはみんなふつうじゃないよ」

「そんなことないわ。あなたの片割れはまともじゃない」

「ふーん」

 

 やっぱりしっかりしてるっておもわれてるんだね。ほんしんからだ。橋姫はほんしんからそういってる。やっぱり、そうなんだね。わたしはむいてなかったんだ。

 

「それで勇儀。いったい何のようなのよ。後で詳しく古明地についても聞くけど、とりあえず用を話しなさい」

 

 橋姫はなぜかすこしおこってたんだ。いらだっていたっていったほうがいいかも。だれに? じぶんじしんに。

 

「用はあれだよ。霊烏路空について聞きたかったんだ。聞く予定だったんだ」

「予定?」

「あいつが不穏なことを言ってたからな。調べたかったんだけど、ほら。古明地がこんなんだから」

「こんなんだよー」

 

 こんなんならやめておけばいいのに。むつかしいことはするべきじゃない。したらくるしむの。わたしが。そうだ。そうなんだよ。ふしぎだね。

 

「霊烏路空? お空のことよね。彼女がどうかしたの」

 

 橋姫はしんぱいしてたんだ。わたしのぺっとのことを。わたしのことなんてしんぱいしてくれたことなんてないのにね。

 

「何かやらかしたの?」

「分からない。だから調べようと思ってな」

「やめたほうがいいとおもうよ」

 

 おもわずそういっちゃったんだ。橋姫も星熊もびっくりしてたね。わたしがきゅうにおおごえをだしたから。でも、しょうがないじゃん。

 

「いいんだよ。しらべなくて」

「でも、何かあったら大変だろ?」

「しらべても、ろくなことにはならない。そうでしょ? そうなんだよ。ほんとうのことなんてしらないほうがいいんだ。しっちゃだめなんだよ。それでいったいだれがこまるとおもうの? だれがこまったとおもうの? そのもんだいをかいけつしなければならないのはだれだとおもってるの? かいけつできるとおもってるの? わたしはよわいんだよ。なにもできない。星熊だってそろそろわかれよ。わたしはよわいんだよ。それなのにかいけつできるわけないじゃん」

「でも、さすがに霊烏路空が地上に出たらまずいだろ。萃香みたいなことをやらかしたら、またお前八雲紫に」

「ちがうじゃん」

「ちがう?」

 

 そうちがう。いや、あってるけど。あってるけど、わたしはちがうっていったんだ。なんで? わかんないや。ああ。うそをいったら星熊がころしてくれるとおもったからかな。でも、まあ。ころしてくれなかったんだけどね。

 

「星熊はちじょうにでたいんでしょ? だからおくうに、あのばかなじごくからすがそとにでようとしているのをしって、しっとしたんでしょ。わたしもでたいのにって」

「違う。おい古明地。嘘をつくな」

「うそじゃないよ」うそだよ。

「わたしはこころがよめるんだよ? あさはかだよね。星熊は。ちていでのせいかつもまんきつしてるのに、なんでちじょうにいこうとするのかな。ならなんでちていにそもそもきたのかな。ああ! にんげんにきらわれたからか! わたしといっしょだね。おなじきらわれものだ。たぶんいっしょうにんげんとはなかよくできないよ。星熊は。ざんねんだったね。ごしゅうしょうさま」

「ちょっと古明地。おちつきなさい」

 

 橋姫がてをのばしてわたしと星熊のあいだにわってはいってきた。星熊はおこってたけど、なんでかひっしにそれをこらえてたんだ。

 

“いま私が怒れば古明地が完全に壊れる”ってね。もうこわれてるのに。いちどこわれたものはもうなおらないというのに。

 

「橋姫もそうだよ。もうおわりなんでしょ? しっとしんをあやつるだなんて、わたしとおなじあなのむじろのくせに、かんけいないふりしちゃってさ」

「関係ないもの」

「橋姫も星熊もさ、もういいんだよ。もういいの。あしたいっしょにいこうよ」

「どこに?」

「じごくに」

 

 もういるじゃない、ってぶっきらぼうにいった橋姫はわたしのかおをじっとみてきたんだ。なにをかんがえているかわからないかおだったよ。もちろん、こころをよんだからわかるんだけどね。

 

“やっぱり、古明地は陰湿ね”

 

 やっぱりって。やっぱりやっぱりなんだね。わたしはいつもこんなかんじだったんだね。おどろきだ。こんなこといったおぼえなかったのになー。あれ。もしかしていっていたのかな。いやいってない。なのに。ま、でもいいか。もうおそいんだ。わたしはきめたんだ。

 

「なあ古明地」

 

 それまでじっとだまりこくっていた星熊がやっとしゃべったんだ。こわかったよ。むちゃくちゃこえがひくかったんだ。あたまにはえたつのがすっごくおおきくみえたね。

 

「おまえ、私たちのことをどう思っているんだ」

「え?」

「私と橋姫のことを、地底のことをどう思っているのかって聞いているんだ」

「そんなの」

 

 きまってるよね。

 

「きらいにきまってるじゃん。きらわれてるあいてをすきになるほどわたしはおかしくないよ。おかしいけど。あまいね。だんごよりあまい。だんごはあまくないけど。いきていることがさいあくだよ。ほんとにね。しょせんちじょうにすらいられなかった愚鈍なようかいのなれのはてだよ。わたしもだけどね」

「言い過ぎだろ」

「いいんだよ。どうせ星熊はいっしょうそとにはでれないし」

「なんでわかるんだよ」

「なんでって」

 

 わたしはとくいげにむねをはったんだ。そんなの、わかるわけないのに。

 

「だってわたしはちれいでんのあるじなんだよ」

「まえ、そんな権限はないって」

「いってないよ。いじでも星熊はちじょうにださないよ。だしてやるものか。にんげんともにどとあえないね。かなしい? ざんねんだね。うらむならうらんでもいいよ。でもぜったいにちていからはださない。わたしはさんしょううおなんだ。やさしくないさんしょううお。ざまあみろ」

「なんでだよ」

「え?」

「なんでそこまで私を地底に押しとどめようとするんだよ!」

 

 橋姫はあたふたしてたけど、それでもわたしのことばをさえぎろうとはしなかった。わたしはふたりをおいて、とんだんだ。ふよふよってね。それでもだれもおいかけてこなかった。あたりまえだよね。さとりようかいをおいかけるときは、ころすときだけだもん。ま、こうしてうそをついているんだから、ころしてくれてもよかったんだけど。ころしてよ。

 

「なんで星熊をちていにおしとどめようとするか、ね」

 

 そんなことはしないし、できないにきまっていた。けど、星熊はしんじてた。わたしがほんとうにそれをしようとしていることを。

 

 かのじょもきたいをもっちゃったんだね。伊吹萃香という、れいがいがでちゃったから。いっかいきたいをもっちゃったら、それをなくすのはがまんできないほどにつらい。それはもうみにしみてわかってたんだ。

 

 だから、わたしはそのきたいをおとしてやるのさ。

 

「ねえ、星熊」

「なんだよ」

「たぶん、さいごになるけど、これだけはいっておくね」

「なにさ」

 

 わたしはおもいきりいきをすい、おおきくくちをひらいた。そして、さけぶ。

 

「まむしに噛まれろよ。このゴミが」

 

 星熊はうごかなかったんだ。だけど、たしかにそのこころはかわったんだよ。さっき、わたしのことを、きらってるけどそれだけじゃない、っていってたけど。

 

 たぶんその、『それだけ』のぶぶんがきっときえたんだね。よかったよかった。

 

 

 

 本当によかったと、そう思う。

 

 

 




あなたが勇儀を嫌いになっただなんて、それこそが嘘だったのではないでしょうか。本当はあなたは彼女のことを大切に。いえ、やめておきましょう。


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─単純な理由です。あなたが心配で目を離したくなかったんですよ─

 あさおきると、めのまえにあの子のすがたがあったの。

 

 どうかしたのかな、っておもってるとね、わたしのへやで八雲紫となにかをはなしてたんだ。

 

 そう! まただよ。なんだかさいきんいつも八雲紫がいるようなきがする。ああ。そういえばまえ、そうおもってきいたんだ。どうしていつもきちゃうのって。きいたっけ? もしかしたらきいてないかもしれないけど、こたえはおぼえてるよ。

 

「やらなきゃいけないことがある」

 

 ってね。なんだろうね。ころしてくれればいいのにね。どうせなら。

 

「あら、おきたの」

 

 わたしがおきたのにさきにきづいたのは八雲紫のほうだった。わたしからみて八雲紫はせなかをむけているのにね。なんできづいたんだろ。こわいね。しね。

 

「もう昼前よ。寝坊にしてはおそすぎるんじゃない?」

「しらないよ。どうせなにもたべないし」

 

 どっちかっていうと、かってにわたしのへやにはいってくる八雲紫の方がしつれいだよね。あの子とはなしたいならべつのへやでやればいいのに。まあ、どうでもいいけど。わらえるね。

 

 やっぱり、なんかいみてもわたしのへやはひろいよ。むかし、ほらあなでねているときとはちがう。ほらあな? そんなところでねてたっけ。だけど、いくらひろくてもさ、だからといって、かってにはいっていいわけじゃないじゃん。

 

「というより、なんのはなししてるのさ」

 

 べつにきょうみもなかったけど、そうきいたんだ。なんでだろうね。

 

「わざわざわたしのへやで」

「お空についてだよ」

 

 みっつのめをくるくるとまわしながら、しっかりしている、橋姫いわくふつうのほうの古明地がそうこたえたの。さすが! しっかりしてる。

 

「ほら、この前お空がこの部屋を燃やしたじゃん。だから、何があったのかなって」

「あー。みずでもかけときゃいいんじゃないの?」

「そんな可哀想なことはできないよ」

 

 めずらしくぼうしをかぶってなかったんだ。なんでかな。わたしがかぶってるからかな。これすぺあなのに。ふるいほうのすぺあ。

 

「ほら。お空もお燐も泳げないでしょ? だから、水なんてかけちゃだめよ」

「およげないの? ださいね」

「ださくはないよ」

 

 なのに、ひはつかえるんだね。どうしてだろう。わたしのしってる霊烏路空はひなんてはかなかったのに。ただのからすだったのに。しゃべったし、しんぞうまっさーじもしてきたけど。ま、ようかいだから、なにがあってもおかしくないか。

 

「何かトラブルにまきこまれてなければいいんだけどね」

「そうね」

 

 八雲紫がこくんってうなずいてた。

 

「でも、大抵嫌な予感というのは当たるものよ」

「「そういうこといっちゃだめだよ」」

 

 べつにこころをよんだわけでもないのにね、姉妹でこえがかぶったの。ぜんぜんうれしくないけど、八雲紫はなぜかくすくすわらってた。はらがたつね。

 

 あの子もあの子でなんでかわらってたんだ。たははって笑うすがたはぜんぜんしっかりしているようにはみえなかった。けど、そのこころをよめば、しっかりしているっていわれているりゆうがわかる。わかっちゃう。

 

“姉妹二人分まで、私が頑張らなきゃ”

 

 けなげだね。じゅんすいだね。どうしてさとりようかいなのに、こんなにまともなんだろう。こわいよね。いったいわたしはどこでまちがえたんだろう。

 

 たぶん、うまれるのにしっぱいしたんだね。

 

“私がいないと本当に駄目なんだから”

 

 そういつものこころのこえがきこえた。ついさいきんにきいたばかりなのに、なんでかこころがくるしくなったね。なんでだろう。ほんとうはわかってるけど、わかりたくない。もうおわり。そうなんだよ。もう、おわり。

 

「ま、今のところ実害はそこまでないから、霊烏路空についてはゆっくり様子をみましょうか」

「いいの? ゆかりん。何かあってからじゃ遅いんじゃない」

「かといって焦りは禁物でしょ。急がば回れって言うし。迷っているなら、まったほうがいいわ」

「八雲紫はばかだなあ」

 

 え、とこえがした。ふたりがこっちをみてくる。さいしょはね、わたしがこえをだしたことにきがつかなかったの。むいしきだったね。こわいこわい。

 

「そんなんだからだめなんだよ。まってばっかでじぶんはなにもしないからておくれになるんだ」

「手遅れ、ね」

「そうだよ。だからね。迷ったらやった方がいいよ。よくいうでしょ。迷ったらやれって」

「初耳よ」

 

 迷ったらやれ。そうだよね。まよったらやんないとだめだよね。だったらわたしもやらなきゃならないことがあるよね。じさつ? それもそうだね。だけど、そのまえにやらなきゃ。だれかがころしてくれるなららくでいいんだけどさ。

 

「でも、やれって言われてもねえ」

 

 八雲紫は、ほんとうにおばあちゃんみたいによわよわしいこえをだしたんだ。こころはよめないけどね。よめてもどうせいみないか。

 

「何をしようかしら

「一応お空にも話を聞いてみたけどさ」

「しっかりしてるわね」

 

 わたしはしっかりしてないもんね。

 

「いつからそんなふうに火を使えるようになったかって聞いても、覚えてないって。心をよんでも駄目だった。本当に忘れてるみたい」

「三歩以上あるいちゃったのね。さすが鳥頭」

「ペットの悪口はやめて」

 

 わたしのわるぐちはいいのに。

 

「まあでも、なんか火って感じじゃなかったよ。もっと強いエネルギーを感じた。恐ろしかったね。星熊よりも強いんじゃいかな、あれは」

「さすがに言い過ぎじゃない?」

「どうだろ。でも、もしお空が物騒なことを考えたら、ただではすまないかも」

「物騒なこと?」

 

 八雲紫はめんどうそうにくびをひねってた。

 

「まあ、鬼よりは物騒じゃないと思うわよ」

「でも、勇儀たちは最近そこまで物騒じゃないよ。喧嘩はするけど」

「分かってないわねえ」

 

 八雲紫はしんそこつらそうに、いきをはいたの。わたしもまねをして、わかってないわねえ、っていってみたんだけど、むしされた。ひどくない?

 

「以前、勇儀たちは妖怪の山って場所にいたんだけど、そこには鴉天狗がたくさん住んでいたのよ」

「知ってる知ってる。地上にいたときに見たことあるし」

 

 わたしはないけど。

 

「ある時ね、ひとりの鴉天狗が勇儀の杯を奪ったのよ。鬼の秘宝のあの杯を。まあ、命知らずというか馬鹿というか。当然勇儀たちは猛烈に怒って。その鴉天狗を退治しようとしたのだけれど」

「退治、ねえ」

「まあでも、怒った鬼がどうするかなんて、想像に難くないでしょ。だから、私は止めたのよ。妖怪の山で鬼が暴れるだなんて、それだけで幻想郷の危機なんだから」

 

 いやになるわね、と八雲紫はわらったんだ。なんでわらったんだろうね。わらえるね。

 

「そしたらね、勇儀は何て言ったと思う?」

「さあ。お灸を据えに行くとか?」

「焼き鳥をつくってるだけだ」

「え?」

「そう言ったのよ。ほら、物騒でしょ」

「それは怖いね」

「でしょ? あの呑気な霊烏路空がそこまで物騒なわけないじゃない。彼女が考えるぶっそうなことって、どんなことだと思ってるの?」

 

 八雲紫はのんびりそういったんだ。だから、わたしがおしえてあげたの。

 

「たとえばちじょうをせめるとかでしょ。もしそうだったらいいよね」

「良くないわよ」

 

 八雲紫のかおがきゅうにこわくなった。もともとか。

 

「萃香の件でもぎりぎりなのよ。これ以上地底と地上のいざこざは勘弁してほしいわね」「もし起きたらどうするの?」

「そんなことがあれば」

 

 そこで八雲紫はことばをつまらせた。めずらしいね。

 

「そんなことがあれば、霊夢にまた動いてもらわなきゃならないわね」

「博麗の巫女? なんで?」

「だって、地底と地上は本来妖怪は行き来してはいけないのよ。もし自由にするとしたら、その間に人間を使って、規則を曖昧にするしかないじゃない」

「でも、ゆかりんきてるじゃん」

「ばれなければいいのよ」

 

 ばれなければいい。なるほど! 

 

 そうおもったらね、こころをよんだあの子がくびをふってきたんだ。どういういみだろうね。わたしもこころをよもうとおもったけど、あわれみしかなかったからわからないや。

 

 そうそう。はくれいのみこっていう人間。にんげんなのにむちゃくちゃつよいんだって。もしきたとしたら、にかいめかな。にんげん。にんげん。星熊はよろこぶだろうな。もうどうでもいいけど。わたしはたぶんあえないけどね。

 

 とくにやることもなかったから。いや、ほんとうはあるんだけどね。しぬとか。まあ、でもまだはやかったから、わたしはこのにっきをかこうとしてたの。かけっていわれてるから。だれに? わたしのともだちに。そんなやついないんだけどね。

 

「その日記、まだかいていたのね」

 

 わたしがぱらぱらめくってると、八雲紫がすきまをつくってこっちにきたんだ。きもちわるいよね。こんなきょりあるいてくればいいのに。

 

「もう止めていると思ったわ」

「わたしもなんでかいてるのわからないけど」

「けど?」

「かかなきゃならないんだ。ともだちにそういわれたの」

 

 そう。ともだちに。いないけど。八雲紫はびみょうなかおをしたんだ。きんいろのかみをばさって、てでかきわけてた。

 

「ねえ、見せてもらってもいいかしら」

「いいわけないじゃん」

「なんでよ」

「「日記ってのは生存証明だから」」

 

 また、こえがかぶったんだ。ここまでくるとわざとらしいよね。だから、こころをよんでみたんだけど、むこうもびっくりしてた。こわいね。まさか、しまいだからとかあるのかな。さとりようかいだからにてるとか?

 

 ありえない。そんなの、みとめるわけにはいかない。

 

「もしかしたら、あなたたちは無意識的につながってるのかもね」

 

 八雲紫はわらいながらそういってきたの。なんだよむいしきてきって。

 

「人間も妖怪も、特に何も考えてなくても、深いところで何かを考えているのよ。根深い本性や意思によって、それが行動として出る。もしかしたら、そういう根っこがあなたたちは似ているのかも」

「そうかな。無意識とかよく分からないよ」

「心を読めるあなたたちには分からないかもね。妖怪の賢者である私は無意識的に幻想郷の安寧を目指すし、鬼である勇儀は無意識的に強者との戦いを望む。そして多分、地霊殿の主は地底の安寧を無意識的に望んでるんじゃないかしら」

 

 そしたらね、八雲紫が「考えても机上の空論ばかり。少し休憩しましょう」ていってきたの。

 

「煮詰めすぎてもよくないしね」

「なにを? じゃむ?」

「なんでジャムなのよ」

「さとりようかいのじゃむとかどう? あんがいおいしいかもよ」

「猟奇的すぎるわ」

 

 あ。そっか。さとりようかいはたべてもおいしくないもんね。わすれてたよ。たべたことないけど。

 

「せっかくだから、なんか飲もうよ。紅茶とコーヒーどっちがいい?」

 

 ソファからたちあがったあの子は、のんびりそういってきたの。ないしんは霊烏路空のことでいっぱいなのに、むりしてきどってた。しんぱいなんだね。それほどぺっとのことをかんがえてるんだね。

 

 まえのあのほねのことを、しんそこきにしているんだね。

 

「ねえ、どっちがいいの?」

「え?」

 

 そんなことをかんがえてたらね、そうきいてきたの。

 

「コーヒーか紅茶、どっちがいい?」

「そんなの、こころよめばわかるじゃん」

「駄目だって。私だっていつも心を読めるわけじゃないんだよ。返事がなかったら、生きてるかどうかすら分からないじゃん。『生きてたら返事をしてください』っていわれたときに困るでしょ。だからちゃんと返事をしてよ。『紅茶がいいなー』って」

「いみがわからない」いみわかんないよね。

「それだと、生きていたら『紅茶がいいなー』ていわなきゃならないじゃん」

 

 八雲紫が「紅茶もいい迷惑ね」とくすくすわらってたの。なにがおもしろいんだろうね。というより、こうちゃがほしいってわかってるならきかなくてもいいじゃん。ま、さとりようかいだもんね。くさっても、ふつうでも、そこはかわらないのかな。

 

 じゃあなんでわたしはもっときらわれたんだろう。

 

 まあでも、けっきょくコーヒーも紅茶あじが分からないから、いみないんだけどね。わたしの人生みたいに。いや、ようかいだからようせいか。

 

 あの子が「あ!」って叫び声を上げたのは、ちょうどわたしが八雲紫のひざにあたまをのっけようとしていたときだったんだ。

 

「どうしたのよ。そんな大声出して」

「ゆかりん、聞いてよ! 紅茶が一人分しかないの」

 

 しんそこどうでもいいよね。でも、あの子はこだわったんだ。

 

「ショックだなー。楽しみにしてたのに」

「やっぱ、姉妹って似るのね」

 

 八雲紫はくすくす笑ったんだ。にてるわけがないのに。似てたまるか。

 

「でも、あると思ってなかったらショックでしょ。私は好きな物が無くなるととても悲しむタイプなんだよ」

「多分、みんなそうよ」

「わたしはちがうよー」

 

 だって、すきなものなんてないからね!

 

「好きな物が無くなるととても悲しくなる私の代わりに、ゆかりんはコーヒーね」

 

 そうのんきなことをいって、机の上にカップをならべてくれたの。のんきだね。へいわだね。でも、へいわってのはくずれるためにあるんだよ。

 

 ほんとうだったら、このままてぃーたいむをするよていだったんだけどね、よていがいのことがおきたんだ。まあ、よそうはできたかもしれないけどね。でも、まさかおもわないじゃん。

 

 いくらあの子と八雲紫にようじがあるからといって、あの猫が、火焔猫燐が、わたしのへやにくるだなんて、かんがえもしなかったんだよ。

 

「さ、さとり様」

 

 わたしたちのほうをむいて、かのじょはおそるおそるそういったんだ。ああ。なるほどね。まあ、そうだよね。きたいはしてないよ。もちろん。

 

「お空のことで、はなしたいことがあるんですけど」

「いまちょうどそのことについてはなしてたところだよ」

 

 火焔猫燐のこころをよむ。だいぶよみづらかったんだ。なんでだろうね。めがねをしてるのに。まあいいや。

 

 かのじょのここころにはね、きょうふとぜつぼうと、そしてしんぱいがうかんでいたんだ。すごいよね。こんなにもわたしのことをおそれているのに、しんゆうのために、ゆうきをふりしぼったんだ。さすがだね。

 

「お空、最近なんだか様子がおかしいんです。いえ、もともと変でしたけど、最近ますますって感じで」

「具体的には?」

 

 八雲紫はかるいくちょうで、火焔猫燐にそうたずねたんだ。それでもね、火焔猫燐はしんそこおびえていたんだ。かわいそうにね。八雲紫もかのじょにとっては、おそろしいきょうふのたいしょうだもん。まあ、わたしにくらべればたいしたことはないみたいだけど。

 

 だから、からだをぷるぷるふるえさせた火焔猫燐は、あの子のうしろにかくれちゃったの。それでも、ふるえるこえで、霊烏路空のことについてくちにしたんだ。えらいね。

 

「お空、いつもみたいに灼熱地獄にいるのはいいんですけど、なんか手に筒みたいなのもってて、そこから凄い強い火を出してて」

「ええ」

「なんか、『力が溢れてくる!』て目をキラキラさせてて。怖かった。話してみるといつものお空なんだけど、それでも違和感があって」

 

 火焔猫燐のせなかをさすりながら、あの子がこっちをちらってみたんだ。なにがいいたいかはわかったよ。かのじょのこころをよんで、くのうしているんだね。

 

“この力があれば、地上も灼熱地獄にできる、っていってたけど、言わない方がいいね”

 

 火焔猫燐はそう思ってたんだ。もちろん、それがわたしたちにつたわることはしってたとおもうよ。だけど、八雲紫にはしられたくなかったんだろうね。

 

「わかったよ、お燐」

 

 そんな彼女をあんしんさせたかったのかな。すごいやさしいこえをあのこはだしたんだ。

 

「私たちが何とかするから、安心していいよ」

 

 なんとか! なんとかってどうするんだろうね。わかんないよ。だって、だれもわかってないんだから。でもね、ひとつだけわかることがるんだ。

 

「へんにこだわらずに、シンプルなほうがいいよ」

「え?」

 

 みんながこっちをみてきたんだ。びっくりしてたよ。しゃべった、ってね。

 

「八雲紫みたいに、へんにあたまをつかって、ふくざつなことをするとね、しっぱいするんだよ。たんじゅんなほうがいいんだって。そうじゃないと、しっぱいして、ぎゃくになっちゃうよ」

「逆になっちゃう?」あのこがこくびをかしげたんだ。じとめのまま、ふしぎそうにみあげてくるの。おさないね。おさなくないのに。

 

「そう。よくいうじゃん! てのこんだようかんはからい、って」

「初耳だよ」

「めんどうなてじゅんをふんで、とおまわしにすると、やろうとしたこととはぎゃくのけっかになっちゃうんだよ。たとえば!」

 

 そこでわたしはぴん、ってひとさしゆびをたてたの。むかし、あの子がやってたみたいに、その場でくるくるまわってね。

 

「たとえば、どこかのバカなようかいを、きらわれているようかいをだれからもすかれようとするために、せいぎのひーろーにしようとするとね」

「え?」

「ぎゃくに、みんなからきらわれてることが、もっとわかっちゃったりするんだ!」

 

 なんでだろうね。ふしぎだね。ばかだったんだね。ああ。ばかだったよ。わたしはだれからもきらわれていることなんて、わかってたのにね。おいしかったな。またおだんごをたべたいね。おいしくないけど。

 

 なんでだろう。せかいがまわってるんだ。にっきのもじがぐにゃぐにゃだよ。ふしぎだね。しっぱいしたときのことをおもうと、あたまがいたくなるんだ。ふしぎだね。おわるときのことをかんがえたら、つらくなるんだ。ふしぎだね。なんでわたしはこんなにきらわれたんだろうね。

 

 それはふしぎじゃないか。

 

 わたしがそういったあとね、なんでかみんなだまっちゃったんだ。ひどいよね。かってにひとのへやにきたのに、わたしがしゃべったらだまっちゃうだなんて。いじめかな。

 

「あの、ご主人様」

 

 そんななかね、さいしょにこえをはっしたのは火焔猫燐だったんだ。いがいだよね。びっくりしたよ。まさか、かのじょがそんなこえをだすだなんて。

 

 きらいで、けんおしてて、きょうふしてて、ぜつぼうしてるわたしにはなしかけるだなんてね。そんなこえで。なにをかんがえているんだろう。こころをよんでいるはずなのに、わからなかったの。わかりたくなかったの。わたしはもうおわるんだ。そうきめたの。しななきゃならないの。なんのために? ちていのため? みんなのため? まさか。ちていもちじょうもどうでもいいよ。じゃあ、なんのため?

 

「ご主人様、ひとつ、きいていいですか?」

 

 ねこらしい、ねこなでごえで、そうきいてきた。「だめだよ」っていったのに、かのじょはそれでもきいてきたんだ。

 

「ご主人様は、まえ、私たちペットを食糧にしたって言ってましたよね。死体をさばいて、かってに。でも」

 

 あの子と八雲紫のせすじがのびたんだ。

 

「でも、言われたんです。さとり様がやってないって言ってたんです。本当は。本当はそれをやったのは」

「なにいってんの」

 

 わたしはそこで、おもいきりさけんだんだ。なんでだろうね。じぶんでもわからないや。でもね、さけんじゃったんだ。なら、しかたないね。

 

「ペット? わたしはぺっとなんてしらないよ。ただわたしのいえにかってにすみついて、かってにしごとをして、かってにごはんをたべていくどうぶつでしょ? そのどうぶつがいえでかってにしんでたんだもん。そりゃ、すこしぐらいつかってもいいじゃん」

「でも」

「たぬきのにくはさばきにくかったね。ぶたのにくはつまみぐいしたけど、やっぱりおいしかったよ。はしびろこうはまずかったかな。からすはいがいにおいしかったし、そして」

「そして?」

「ねこのにくは、これいじょうなくおいしかったかな」

 

 ひめいがきこえたんだ。そして、火焔猫燐がいきおいよくとびだしていったの。あの子が、わたしのこえをさえぎって、ずっと火焔猫燐になにかいってたし、いまもおいかけながらなにかいってるけど、よくわからなかった。

 

 けっきょく、火焔猫燐はすごいはやさでどっかにいっちゃったみたいで、とぼとぼとあの子がかえってきたんだ。どこかつらそうだったね。なんでだろうね。

 

 それから、しばらくわたしたちは、もくもくとつくえのうえにおかれたこうちゃをのんでたの。てぃーたいむだね。でも、そのこうちゃはぜんぜんおいしくなかったけど。みずとかわらないよね。あかいみずだよあかいみず。みじめだね。

 

「ねえ、あなた達にききたいことがあるのだけれど」

 

 ずずずってこうちゃをのみながら、八雲紫がきいてきたの。てっきり、このままかえってくれるかとおもったのに。ざんねんだね。

 

 それにしても、わたしたちにききたいことがあるだなんて、ものずきだよね。けがらわしいよね。

 

「あなた達は、仲がいいのかしら。それを本人達にきくのは野暮だとは分かっているけれど、もしよければ教えてくれないかしら」

 

 わたしたちはかおをみあわせて、さーどあいをみつめあった。

 

 あの子とわたしはどうじにくちをひらいて、どうじにことばをはっしたの。

 

 こんどはこころをおたがいによみあったはずなのに。どうしてだろうね。

 

 べつべつのことをいったんだ。どちらもほんしんからなのに。どうしてかな。

 

 

 

 

 




待ってますよ、彼女はいつまでも


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─許してくれないですね─

 わたしはきょう、めずらしくでかけたんだ。ほんとうはおわるはずだったんだけど。こうしてにっきをかいているの。たぶん、いや、なんでもないや。

 

 どこにいったかというとね、あそこだよ。えっと血の池地獄! そこでまちあわせしてたの。

 

 そう。霊烏路空とまちあわせ。

 

 でもね、ふつうにかんがえれば、こんなわたしなんかにあいにくるやつがいるわけないよね。よんだところで、くるわけないし、わたしだっていかない。

 

 だからね、かんがえたんだ。どうしたらかのじょがくるのか。ま、かんたんだよね。

 

 わたしはぺっとにきらわれている。それはもうこれ以上なく。

 

 そして霊烏路空はつよくなりたがってる。そうしってたんだ。だから、霊烏路空のへやにてがみを置いてきたの。まちがって火焔猫燐のへやにはいりそうになったけど、なんとか置けたんだ。ほかのぺっとにばれずにおけた、とおもう。

 

 これをおもいついたのは昨日のよるだった。だから、いそいでじゅんびしたんだ。うまくいっていればいいけど。

 

 てがみにはみじかくこうかいたの。えっとね。たしか『お空へ、つよくなりたかったら血の池地獄にきて。来なかったらぺっとがたいへんになるよ。あるじより』てね。

 

 まあ、もしこなかったらこなかったでなんとかしよう。そうおもってたらね、ふつうにきたんだよ。霊烏路空が。びっくりだよね。しかもさらにびっくりなのは、このわたしにあいにくるのに、なぜかふつうだったの。そう。きょうふをかんじてなかったんだ。

 

「ご主人様。わざわざよびだすなんてめずらしいね」

「まあね」

 

 ごしゅじんさまだなんて、なつかしすぎて泣いちゃうね。でも、そのことばには、まったくこころがこもってなかったんだ。かるいよ。わたしのいのちくらいかるい。

 

「それで? どうやったら強くなれるんですか?」

 

 こまかい疑問なんてふっとばして、そうきいてきたんだ。さすがだよね。きっと毎日なにも考えずに生きているんだろうな。しあわせだよね。もちろんわかってるよ。かのじょが毎日いろいろかんがえて、そして苦悩してることなんて、こころをよんでるからしってるよ。でもね。でも。それなのに、こんな元気なかのじょをみていると、どうしてもつらくなる。

 

「そのまえに、ひとつききたいことがああるんだ」

 

 そのつらさをごまかそうと、八雲紫をまねしてそういったの。そのときも、あたまのなかがぐるぐるしてたんだ。いつだっけ。たしか心臓まっさーじで骨をおられたこともあったね。ほんと、まさにほねがおれるよ。

 

「ねえ空。ちじょうを灼熱地獄にするとかきいたんだけど、あれほんとうかな?」

「え?」

「ちじょうを攻めるってきいたんだけど」

 

 わたしがそういうとね、かのじょはその大きなからすの翼をばさってひろげたんだ。うでにはみたこともない筒みたいなのがあって、むねにはでっかいビーだまみたいなのをつけてたの。なぞだね。

 

 だけど、それがすごいちからをもっていることはわかったんだ。

 

「そうですよ、ご主人様。私は地上を攻めます」

 

 またびっくりしたよ。すごいまじめだったんだ。あの霊烏路空が、まじめだなんて、びっくりだよね。ほんと、さいあくだよ。

 

「なんで? ひまだから?」

「だって、ずるいじゃないですか」

「ずるい?」

「地底はこんなにたいへんなのに、ちじょうはなにもしらないんだよ! わたしだってまいにち灼熱地獄の管理で忙しいのに。それに、力がうずくんです」

「うずく」

「よくわかんないけど、私の中の誰かが言うんですよ。地上を攻めろって。だから、わたしはせめます!」

 

 かのじょのこころを、ぼろぼろのサードアイでみてみたらね、ほんとうだったんだ。なんか、へんなの。こころが。ま、わたしのほうがへんなんだけどね。

 

 わたしを恐れていないりゆうが、すこしわかったきがするね。なんか変なのが体とこころにすみついてるのかな。よくわかんないや。

 

 ただわかったのは、霊烏路空がほんきでちじょうをせめようとしていることと、説得がむりっぽいってことだけだった。

 

 まあ、どうでもいいんだけどね。

 

「それで、そろそろ強くなる方法を教えてください!」

 

 ぱたぱたって翼をはばたかせながら、かのじょはまた聞いてきたの。せっかちなのはかわってないんだね。

 

「わかったよ。なら着いてきて」

 

 わたしがそういうと、いきようようとついてきたんだ。ほんとうにびっくりだよね。なんでわたしがつよくなるほうほうをしっているとおもったのかな。こんなよわいわたしが、つよくなるほうほうなんてしってるはずないのに。

 

 わたしはね、ゆっくりと血の池地獄をすすんだんだ。ちょうど、このまえ星熊にくんれんされたばしょだね。そんなことあったっけ? あったじゃん。そう。あったの。そしてわたしは似たようなことをするんだ。さすがにうじむしはないけどね。

 

 

 

 霊烏路空はね、ほんとうに、なんのうたがいもなくわたしについてきたの。まえあったときは、ほんとうにきょうふしていたのにね。わたしをみただけで、ぜんりょくでにげていくほどに。いまでもきょうふはあるみたいだけど、やっぱどこかおかしいのかな。ぜんぜんにげないや。うれしくないな。

 

「とりあえず、ここおりようかな」

「ここ?」

「あしばがあるの」

 

 そういって、わたしはいっちょくせんにおりたんだ。血の池地獄に。ぼうしがとんでいきそうになったけど、なんとかぶじだったよ。

 

 とくにめじるしなんてないとおもってたけど、そのあしばはすぐにみつかったんだ。星熊とのまえのとっくんのせいか、がけがくずれて岩がたくさんころがっていたの。こわいね。でも、たすかったんだ。

 

 霊烏路空もわたしにつづいておりてきたの。いったいなにをするんだろうかってぎもんをいだいていたけど、それだけだった。無知はおそろしいよね。

 

 おりていったらね、まあ当たり前だけど、血の池があったの。いやー、やっぱすごかったよ。あの星熊ですら耐えられない血の池だもんね。わたしなんて落ちたらすぐしんじゃうよ。

 

 そういえば、まえここにいた舟幽霊たちはいなかった。というより、いないところをえらんだんだけど。こころをよんで。

 

 この池のなかに入るだなんて、かのじょたちはどうして耐えられるんだろうね。たぶんすごいせいしんりょくなんだ。ふつうはむりだよ。

 

 そう、ふつうは血の池にはいってもたえられないんだよ。

 

「こんなに血の池に近づいたのは初めてだ!」

 

 霊烏路空はきょうみしんしんだったの。こんなにおそろしいところなのに。

 

「灼熱地獄のほうがまだましだよ」

「そうなの?」

「だって火じゃん。火は熱いだけだけど、水は嫌いなんですよ。まあ、血だけど」

「そうだね」

 

 やっぱそうだよね。お空はみずがきらいなんだよね。あの子のいったとおりだ。

 

「そこだよ、おくう」

 

 わたしのこえはすこしうわずってたんだ。このごにおよんでだよ。ばかだよね。なにをいまさら。

 

「そこ?」

「じゃくてんをほうっておいたら、つよくなれないんだよ」

「なるほど」

「だから、こくふくしようか」

 

 そういって、わたしはゆびさしたんだ。なにを? なんだとおもう? そうだよ。

 

 ちのいけをゆびさしたんだ。

 

「ここにはいってみれば、つよくなれるよ」

「え?」霊烏路空はやっとそこでぎわくをいだいたんだ。おそいね。

「だから、このいけにはいるの。さあはやく」

 

 霊烏路空はこんわくしてたよ。そりゃそうだよ。わたしでもこんわくする。

 

「でも、ご主人様」

 

 そのとき、やっと霊烏路空にきょうふがうかんだの。どうぶつとしてのほんのうなのかな。でも、もうおそいね。

 

「私、およげない」

「だいじょうぶだって。すぐたすけてあげるから」

「でも」

 

 このとき、霊烏路空がしなきゃいけなかったのは、なんだとおもう? もちろん逃げることだよ。でも、かのじょはそうしなかったんだ。そうだよね。てがみにかいておいてよかったよ。

 

「だいじょうぶだって。わたしのいうとおりにしたらちゃんとつよくなるから。それに、わたしのいうことをきいといたほうがいいよ! なんで? なんでだっけ。そうそう。ほかのぺっとのためにも、ね」

 

 これじゃあまるで八雲紫だね。でも、しょうがないもんね。こうするしかないもん。

 

 そのとき、たまたまだけど、ぶくぶくって血の池地獄からおとがしたんだ。なんのおとかはわからないけど、霊烏路空はびびってたね。血の池地獄じゃなくて、わたしにびびってた。さっきまでびびってなかったのに。

 

「本当に入るんですか」

「あたりまえじゃん」

「入らなきゃいけないんですか?」

「だいじょうぶだって。星熊は入ってもぴんぴんしてたから。星熊にすらまけてたら、ちじょうでもかてないよ」

 

 じしんまんまんにそういったんだ。こんきょなんてないけど。そんなのいらないよね。しょうがないよね。

 

 霊烏路空のこころはすごいことになってたんだ。ただですら変だったのに、もっとへんになってた。きょうふとこうふんとにくしみであふれてたね。にくしみ? だれにたいするにくしみだっけ。ああ。かんがえるまでもないね。ここには書かないけど。

 

 でも、やっぱ霊烏路空はすごいよ。しばらくかんがえてたけど「なら、はいる!」っていったんだ。さすがわたしの、わたしたちのぺっとだね。ぺっとだったんだね。

 

「でも、助けてくださいね」

「わかってるわかってる」

「ほんとうですよね」

「だいじょうぶだって。わたしはうそをついたことなんてないよ」ほんとだよ?

 

 ぐつぐつっておとがして、血がこっちにむかってきたの。わたしのほうにむかってね。よけようとしたけど、できなかった。むちゃくちゃいたかったね。おもわず、ひめいをあげそうになったよ。あげなかったけど。もっと痛いめにあったことがあったからね。何回も。

 

 はいるっていったはいいけど、やっぱり霊烏路空は物怖じしているみたいだったんだ。ぶくぶくしてる血の池をみおろしては、そのつばさはぷるぷるふるわせてたの。むいしきなのかな。うでのつつからすこしほのおがでてたんだ。いつのまにからすはひをはくようになったんだろうね。

 

 でもね。わたしはやさしいから。そう。やさしいんだ。ちていのぜんいんからきらわれるくらいに、きらわれなければならないくらいにやさしいわたしはね、かのじょのせなかをおしてあげたんだ。

 

 だいじょうぶだよ。おくうならいけるよ。っていいながら、おもいきり、どんってね。

 

 いひょうをつかれたからかしらないけど、おくうはいきおいよくおちていったんだ。とちゅうでそらをとぼうとしてるのは、こころをよんでわかったけど、まにあわなかった。

 

 どぽんって重いおとがきこえてね。ばっさーんってなみをうったんだ。星熊のときとおなじだったよ。でも、星熊のときとちがうことがひとつだけあったんだ。それはね。おちた霊烏路空のはんのうだったの。

 

 どうしようかな。書こうかな。書いたほうがいいね。なににいいんだろうね。こんごのためかな。

 

 

 霊烏路空のつばさはね、ぬめぬめの血のせいでまっかになってたんだ。そのせいでぜんぜんうごいてなかった。かわいそうに。

 

 それがおもりになってたのかな。ばたばたってもがいてたけど、全く浮かべてなかったんだ。かおをあげようって、あっぷあっぷしてたよ。息をすおうとしてたんだね。

 

 でもね。ぜんぜんすえてなかったんだ。いきはね。じゃあなにをすってたのって? そんなの考えなくてもわかるじゃん。血だよ血! 血ばっかりすってたの。のみこんでたっていったほうがいいかもしれない。

 

 手を目一杯にのばしてね、ばたついてたんだ。目をみひらいて。いきができてないからかな。すごい血ばしってたよ。しかも血の池じごくだからね。肉がやけるようなにおいがしたんだ。すごいよね。

 

“助けて、死んじゃう!”

 

 霊烏路空はこころのなかでそう叫んでたんだ。からだがやけるように、ううん。そんなんじゃないね。もっとひどいや。ぜんしんの肌がただれてね、つばさはぼろぼろになってた。くろかったのに、もうまっかになってたよ。血の池のせいか、それとも霊烏路空の血かはもうわからないけどね。

 

 たすけてって、くちでもいおうとしているからかな。それとも、ただ息をすいたいだけかもしれないけど、くちをぱくぱくさせてたんだ。まるでこいみたいだね!

 

 かのじょのこころはきょうれつだったよ。さっきみたいな、へんなかんじはもうきえちゃってたんだ。なら、どんなふうだったかって? そんなのかんたんだよ。

 

 苦痛だよ! サードアイがじりじりけずれそうになるぐらい、みているこっちがつらくなるくらい苦しんでたね。はねがとけ、のどがやけ、かみがぬけ、はをじぶんでかみくだくほど、つらそうだったんだ。

 

 それならまだよかったんだけどね。よくないか。まあ、わたしにとってはよかったのかもしれないけど。ざいあくかん? そんなの、あるわけないじゃん。あるわけないんだよ。わたしにはそんなものは、もうないんだ。ないはずなんだよね。はずなんだ。

 

“助けてよ。助けて、さとり様!”

 

 なみだすらこぼすことができずに、そうさけんでたんだ。まあしってたけどね。やっぱそうだよね。ふつうはそうなるよね。ちれいでんのあるじってなんなんだろうね。わたしたちのぺっとじゃなかったんだね。わたしたちにわたしは入ってなかったんだね。

 

 ばたばたもがいているお空のちょうど真上にわたしは移動したんだ。あんまりちかづくと、わたしまでひきずられそうだったから、宙をとんでね。

 

 何をするためか? 霊烏路空をたすけるため? そんなわけないよね。ぎゃくだよぎゃく。

 

 わたしはね、あしばにころがっていた岩をもって、跳んだんだ。かのじょをみおろしていたの。なにをするためか。そんなの、もうわかってるよね。

 

 重い岩を、霊烏路空にむけていきおいよく落としたんだ! しっかりねらいをさだめて、おもいきりね。

 

 ごんってにぶいおとがしたんだ。でも、ざんねんなことに、不運なことに。あたまにはぶつからなかったんだ。もがいてたらからな。うでにあたったの。おしかったね! でも、それでちょうどよかったのかも。

 

 けっこうおおきいいわだったからかな。うでがへんなふうにまがってたんだ。ほねがおれちゃったみたい。まだ、つつにあたってたほうがましだったのにね。失敗した。

 

 でも、ふつうはこっせつだけだったらたいしたことじゃないんだよ。だって妖怪だから。ぺっとのようかいだから。

 

 だけど、血の池にいるとなると、はなしはべつだよね。

 

 腕のせいでばらんすをくずしたのか、頭までいっかいぜんぶつかっちゃったんだ。悲惨だったよ。目はまっかになっててさ。まっくろなかみも、もうまっかだったよ。つらいよ、いたいよ、ってこころがずっといってたんだ。たすけて、たすけてってね。だから、わたしはもういっかい。そう。もう一回いわをはこんで、かのじょのうえへともっていってあげたんだ。はやくたすけないと。

 

 さっきとおなじかんじでね。またうえからおとしたんだ。こんどはあたまにおちるようにね。

 

 ゆっくりおちていく岩をながめてたんだ。うえから。きっと、どんっておとがするんだろうな。これでうまくいくんだろうな。そうおもって、めをとじたの。みっつのめすべてをね。めがねをなげすてて。もういっかいたべようとしたの。なんで? おいしそうだったから。これでおしまい。そうおもったんだ。

 

 だけど、どんっておとはしなかったの。

 

 したのは、どぼんっておとだったんだ。岩が血の池に落ちる音だけだったの。

 

 だから、わたしはおそるおそるめをひらいた。まあ、だいたい何がおきているかはわかっていたけどね。よそうどおりだ。でも、やっぱりめをみひらいちゃったよ。ふたつのめを、ね。

 

「なにやってんの!」

 

 うしろからこえがきこえたんだ。こころのこえじゃないよ。ふつうのこえ。とてもなつかしくて、とても愛らしくて、とてもききおぼえがあって、とてもだいすきで、

 

 とても憎しみに満ちた声がきこえたんだ。

 

「なにって」

 

 わたしはそのこえをしたほうをふりかえったんだ。そこには、霊烏路空をかかえる一人の少女のすがたがあったの。わたしがだいすきだった、ゆいいつのかぞくの姿が。かぞくだった子のすがたが。

 

「みたらわかるでしょ?」

 

 わたしはね、ほんしんからわらって、いったんだ。

 

「焼き鳥を作ってるんだよ」

 

 

 




巡り巡って、私のせいでもあります


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─あなたは、一体どうしてこんなことまで─

 やっぱり、しっかりしてるほうの古明地とよばれているだけはあるね。霊烏路空のたすけをきいて、地霊殿からとびだしてきたのかな。よくもまあそんなとおくのこころのこえがきこえるね。

 

 そんなかのじょは、すぐにどっかにいっちゃったんだ。ま、どこにいったのかは、こころをよめなくてもわかったんだけどね。霊烏路空をいりょうしつにはこんでいったんだよ。

 

 すごいはやさだった。きっと、いむしつにいるぺっとたちはびっくりするだろうね。だけど、しょうがないかな。

 

 血の池地獄にひとりのこされたわたしはね、どうしようかなってかんがえてたんだ。でもね、かんがえているうちに、じかんがたってたみたいで、ねちゃったんだよ。それで、めがさめたら、いつのまにか、あの子がかえってきてたの。

 

「ねえ、どうして」

 

 なんでかな。あの子はないてたんだ。じめんによこたわるわたしをみて、なぜかないてたの。みっつのめからなみだがぼろぼろこぼれてたね。血の池地獄の血なんかより、わたしにはそっちの涙のほうがよっぽどきつかったよ。

 

「どうしてお空にあんなことをしてたの? ねえ、どうして」

「どうしてっていわれてもなー」

 

 わたしはね、ひょいってたちあがったんだ。げんきにね。ぜんぜんげんきじゃなかったけど、げんきにたちあがったの。てんしんらんまんに。まるでわたしがたのしんでいるかのように。

 

「霊烏路空をころすためにきまってるじゃん」

「だから、どうして」

「だって、ちじょうをせめるっていってたんだよ! せっとくもむりだったの。だったら、ころすしかないよね」

「なんで」

 

 かのじょはとてもかなしんでたの。なんでここまでかなしんでるだろうね。

 

「ねえ、10-1ってなんだとおもう?」

 

 わたしのこえは、なんでかしらないけど、すごいたのしそうだった。

 

「こたえてよ」

「え?」

「はやく」

 

 こんなかんたんなもんだいなのにね、こたえてくれなかったんだ。ただ、うつむいくだけで。ぜんぜんしっかりしてないじゃん。そんなんじゃ、しんぱいだよ。

 

「こたえは9! かんたんでしょ」

「ねえ、どうして」

「ああそうそう。にんげんって、マムシに噛まれたら死んじゃうんだって。だから、うでをかまれたらそれをきっちゃうんだよ。しぬよりましだからって」

「なんでこんなことを」

「霊烏路空がうでだったからだよ!」

 

 わたしはおおごえをだしたの。そんなつもりはなかったんだけどね。なぜかおおごえだったんだ。どうしてかな。ごまかしたかったのかな。なにを?

 

 さあ。なんだろうね。

 

「だって、霊烏路空はちじょうをせめるきだったんだよ。こわいね。おそろしいね。そんなことをしたら、せんそうになっちゃうかもしれないじゃん。あのおにたちが、だまってるはずないじゃん。八雲紫が、なにもしないわけないじゃん」

「ねえ、答えてよ」

「せんそうになったら、たくさんしんじゃうかもね。しなないかもしれないけど、それでもちていはたいへんだよ。ちじょうもね。だったら、しょうがないじゃん」

 

 そう。しょうがない。

 

「しぬよりはうでがなくなるほうがましなんだよ。ならさ、ちていがなくなるよりは、霊烏路空がいなくなったほうがいいでしょ?」

「そんな子じゃなかったじゃん。あなたは、もっと」

「10-1は9なんだよ! 1をきって9がたすかるのはごうりてきなんだって! ほら、これでいいじゃん。霊烏路空をころせば、みんなたすかるんだよ! だったらころすしかないんだよ」

 

 そもそも、ころさなくてもだれもしなないかもしれないでしょ。そういいたいのがね、わかったんだ。そんなの、わたしだってわかってるよ。けど。

 

「これはね、意味のある殺しなんだよ。なかまをうらぎったりきずつけたりするやつはころしてもいいんだって。だから、しょうがないんだよ」

「お空は、べつに裏切ってないじゃん。傷つけてないよ」

 

 なきながら、そううったえてきたの。みじかいかみを、ばさってゆらしながらね。血の池地獄にいるからか、そのかみの色がいつもより濃くなっているようなきがしたの。おこってるからかもしれないけどね。

 

「たしかにお空のようすは変だったよ。凄い力を持っているのもそうだった。だけど、何も殺そうとしなくても。まだ地上には指一本触れてないじゃん。強い力を、不穏な力を持っているだけで、あんな目に。あんな酷いことをするなんて」

「馬鹿だなあ」

「え?」

 

 かのじょはきょとんとしてたんだ。はじめてみたよ、そんなかお。どんなかお? ぜつぼうのかおさ!

 

「そんなんだからだめなんだよ。待ってばっかでじぶんはなにもしないから手遅れになるんだ」

「なにをいって」

「だからね。迷ったらやった方がいいよ。よくいうでしょ。迷ったらやれって」

 

 そうだよね。まよったらやらなきゃいけないの。

 

「それにね、ふくざつなのはだめなんだよ。てのこんだようかんはからくなっちゃうの。だからこうしたんだ」

「どういうこと?」

「え? だって、霊烏路空がちじょうをせめるかもしれないんだよ。ちていとちじょうのあらそいになるかもしれないんだよ? だったら、そのげんいんをころせばいいだけじゃん。かんたんでしょ? しんぷるでしょ? ただころすだけだもん」

 

 あの子は、しばらく、そのばにたって、ないてたんだけどね、いきなりかおをあげてこっちをみてきたんだ。すごいかおだったね。だけど、それでも、ゆっくりちかづいてきたんだ。そして、むかしみたいに、ぎゅってだきしめてきたの。ぼうしのうえからあたまをなでてくる。いみがわからなかった。どうしてそんなことをしてくるんだろう。なんでこのごにおよんで。よそうがいだ。

 

「ねえ、覚えている?」

 

 ぬけだそうともがくけどね、なぜかうまくいかなかったんだ。

 

「いつも、あなたはしっかりしてなくてさ。無茶苦茶で馬鹿でどんくさくて、放っておけないような子だったけど、それでもさ。優しい子だったじゃん。覚り妖怪とは思えないほどに」

「やさしいさとりようかいなんているわけないじゃん」

「だから、珍しかったんだよ」

 

 かのじょのなみだが、わたしのふくまでぬらしてきたんだ。つめたかったね。これいじょうなくつめたかった。いままででいちばん。なんでだろうね。

 

「あなたは優しすぎたの。だから、壊れてしまったのかもね」

「わたしがやさしい? じょうだんでしょ」

 

 じょうだんにしてもわらえないかな。

 

「やさしくなんかないよ。だって、やさしいひとは、みんなに好かれるでしょ? わたしはすかれないもん。きらわれるのさ。だから、わたしはやさしくないよ」

「大丈夫。きっと大丈夫。あなたは優しいよ」

 

 なにがだいじょうぶなんだろうね。きっと、なにもかもがておくれで、もうまにあわないんだ。なのに、だいじょうぶなわけがないのに。

 

「謝ろう」

 

 かのじょはそうやさしくいってきたの。ほんと、おかしくなっちゃいそうだった。ほんとうに。ほんとうになりそうだった。

 

「お空に謝ろう。私も一緒に謝るから、ね」

 

 ああ。なんてやさしいんだ! わたしなんかより、よっぽどやさしいよね。さすが、しっかりしてるだけある。

 

 きっとかのじょは、ほんとうにやさしいんだ。さとりようかいなのに、さとりようかいだからこそ、やさしいんだ。だから、わたしよりはきらわれてないんだね。

 

 ひとのこころを、ようかいのこころをよめる。なのに、ここまでじゅんすいで、ここまでしんせつで、きっとだれよりもやさしい。

 

 だからこそ、食糧不足のときに、わたしをたすけてくれたんだね。そして、それでわたしがきらわれちゃったことを、きにしてたんだね。そのあとのちゃばんもしっぱいしちゃったからかな。

 

 かぞく。これいじょうないほど、さいこうのかぞく。

 

 だからこそ、わたしは。

 

「あやまらないよ」

 

 はっきりそういったんだ。あたりまえだよね。

 

「なんであやまらなきゃいけないのさ」

「大丈夫。たぶん許してもらえないけど、それでも」

「ゆるしてもらえない?」

 

 そんなことはわかってたよ。こんなことしてゆるしてくれるやつなんているわけないよね。それに、わたしはしっているんだ。誰かがあくいをもって、それでなかまを不意打ちしたやつが、この地底でどんなめにあうか。みをもって、しっていたの。

 

「いったいだれがゆるすの? 霊烏路空? かのじょがゆるしても、もうおそいよ。ちていがゆるさないんだ」

「それでも、謝ろう」

「いやだよ」

「どうして?」

 

 どうしてって、そんなのきまってるよね。

 

「だって、べつにゆるしてもらわなくていいじゃん」

「え?」

「わたしはべつにわるいことなんてしてないんだよ。そうなんだ。そうなんだよね。わたしはわたしがしたいことをしただけなの。だからあやまらなくてもいいんだよ」

「何を言って」

「だって、かんがえてもみなよ。わたしはちていがきらいなんだよ。なのに、わざわざこうやってたすけてあげたのさ! かんしゃしてもらってもいいけど、あやまるひつようなんてないね。それに、おもしろかったし」

「おもしろ、かった」

 

 めがねがないからかな、ぜんぜんこころがよめなかったんだ。でも、ふしぎなことにね、なんでか、むこうもこころをよめていないみたいだったんだ。もしよめてたなら、きっと、いますぐにでもとめてくるもんね。でも、なんでこころがよめないんだろ。ふしぎだよね。なきすぎちゃったのかな。

 

「そう。おもしろかったの。霊烏路空。すごかったよ! たすけて、たすけてってずっといってた」

「やめて」

「およげないのにね、せいいっぱいてをのばして、もがいてたんだ。つらそうだったよ。みじめだったね。めをみひらいてさ」

「やめてって」

「つばさなんてもう、とけてたんだ。すごいいたみだったみたいだよ。いたすぎて、すぐに失神してたんだけどね、ほら。いしきをうしなっちゃったら、しずんじゃうじゃん。そしたら、血がかおにかかって、それがまたいたくて、いしきをとりもどしてたんだ。そのくりかえしだったよ。なるほど。じごくだね」

「やめてって言ってるじゃん!」

「あーあ。こころをおたがいよめていたら、あの時の霊烏路空の顔を見せてあげられたのになー。ざんねんだよ。しんそこざんねんだよ。がっかりだ。霊烏路空は、ずっとね、よんでたんだよ。さとりさま、さとりさまって」

 

 かのじょはわたしをだきしめていた手を離したの。ばってね。そして、すごい勢いでわたしからはなれていった。

 

 そのかおは、すごくあおざめていたんだ。まゆがハのじにさがって、くちをわなわなさせてたの。すごいみおぼえがあるかおだったね。

 

 そう! こころをよめなくてもわかるほどに! 

 

「ねえ。あなたはお空をあんなめにあわせて、なにもかんじないの」

 

 たぶん、かんじないはずはないって、そういいたいんだろうね。そりゃあそうだよ。かんじるにきまってるじゃん。

 

「かんじないよ」

「え?」

「そりゃそうでしょ。霊烏路空はわたしのことがきらいなんだよ。どうして、そんなやつのことを。むしろせいせいしたね。かってにわたしのいえにすみついた、ちれいでんにすみついたぺっとにふさわしいさいごだとおもったのにな。おしかったよ。よけいなことしちゃってさ」

「それ、ほんき?」

「こころをよめばいいじゃん! あ、よめないのか。わたしはほんきだよ。いつだってほんき。ぎゃくに、ほんきじゃなかったら、わざわざ霊烏路空をこんなところによびだしたりするわけないじゃん。ほんとうはわかってるんじゃないの? わたしがほんきだってことを。あきらめなよ」

 

 そう。あきらめなきゃだめだよ。なにを? わたしのいのちを。

 

「わたしはやさしくないよ。なにをいまさら。なんねんいっしょにいるとおもってるの。むりに、こんなわたしにやさしくしなくてもいいんだよ」

「無理なんかじゃない」

「どうせざいあくかんでしょ」

 

 わたしはおもってもいなことをくちにしたんだ。うそだね。でも、かのじょはそれにきづいてないみたいだった。

 

「かぞくだから。わたしのせいだから。そんなふうにおもってるんでしょ? それでやさしくしてるんでしょ。いいめいわくなんだよ。どうじょう? なんておぞましい! そんな下劣なかんじょうをわたしにむけているなんて! とても姉妹とはおもえないよ。だからわたしは」

 

 まえ、八雲紫にきかれた質問をおもいだしたんだ。あなたたちはなかがいいのかしら、という質問。あの子はもちろん、なかがいいと答えたんだ。だけど、わたしはそれをきょぜつする。ほんしんからね。

 

「わたしは、おまえのことがきらいなんだよ」

 

 おとがきえたんだ。こころがこわれるおとが。わたしたちはなにもいわずに、ただたっていたの。あの子のかおはまっさおになってたね。

 

 そのまっさおなかおのまま、くるってうしろを向いちゃったの。かおをみれなくなっちゃった。

 

「もう、むりかもね」

 

 そのまま、そう言ってきたんだ。なにがむりなんだろうね。そして、そのまま、わたしにせをむけてあるきはじめたんだ。

 

「ねえ。私はあなたと一緒で楽しかったよ。確かに、他のみんなに嫌われてたし、辛かったときもあったけどさ、それでも楽しかったんだ」

 

 わたしはなにもいわなかったの。いえなかったっていったほうがいいかな。

 

「だから、今でも後悔はないし、恨んでもいないよ。本当に、姉妹でいられてよかった。最高の家族だったよ」

 

 だった。かこけい。そういうこと。わかってたのにね。ああ、かなしくなんてないさ。

 

「だから、最後はね、お礼でお別れ。今まで」

 

 彼女はそこでなみだをぬぐったんだ。なんのなみだだろうね。

 

「今までありがとう。そして、さようなら。こいし」

 

 そういって、一目散にさっていったんだ。わたしをおいてね。

 

 さようなら。そう。さようなら。これでいいんだ。こうかいなんてしていない。していないよ。していないんだ。

 

 なんでだろうね。むしょうにわらえてきちゃって。おおごえでわらったんだ。あははってね。おもしろいね。ふしぎだね。

 

 めがねをしてなかったのにね、さいごのさいご。さよなら、って言われるしゅんかんだけ、かのじょのこころがみえたんだ。よめたんだよ。よめてしまった。

 

 なんだとおもう? かのじょのこころには、なにがうかんでたとおもう? しょっく? いかり? しつぼう? かなしみ? そんなんじゃないよ。そんなあまくないよ。けんかじゃないんだから。

 

 かのじょのこころにうかんでいたかんじょうはただひとつ! もっともわかりやすくて、もっともみおぼえのあるかんじょうだったんだ。

 

 そう。嫌悪だよ。

 

 やったね。うれしいね。わらえるね。わたしはかのじょのうじむしになれたんだ。なってしまったんだ。きらわれたんだ。これいじょうなく!

 

 血の池地獄にわたしのこえがひびいてたんだ。わらいごえが。さいこうだね! もういいんだ。おもいきり、あたまをたたいて。

 

 そして、わたしはさーどあいをなぐる。なにもかんじない。

 

 そうだよ! なにをいまさら! きらわれることなんて、いつものことじゃないか。わかってたよ。わかっていたんだよ。だから、どうして。どうしてこんなに悲しいんだろう。わかんないや。

 

 そして、わたしはさーどあいをなぐる。なにもかんじない。

 

 わらいがね、とまらないんだ。でも、ふしぎとめからなみだがでたの。なぜかね、おもいだしたんだ。ほらあなで、あのこといっしょにくらしていたときのことを。かのじょの夕闇色のかみが、なんでか懐かしかった。でも、もういいんだ。もう、いいんだよ。

 

 そして、わたしはさーどあいをなぐる。なにもかんじない。なぐる。なにもかんじない。なぐる。なにもかんじない。なぐる。なにもかんじない。なぐる。なにもかんじない。なぐる。なにもかんじない。なぐる。なにもかんじなくなった。

 

 

 




もしかしなくても、そういうことだったのですか。だったら、私は。


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あとがき

 こんにちは、古明地さとりです。残念ながら、現在はとある事情により地霊殿の主という面倒な役職につかされていますが、私はそんなに凄い妖怪ではありません。ただの、さとり妖怪です。私の妹の方がよっぽど優秀だったのですが、どうしてこうなってしまったのか、私には分かりません。

 

 私の妹、もと地霊殿の主である古明地こいしがいなくなってから、一週間が経ちました。彼女がどこに行ってしまったのか、いまも生きているのか死んでいるのかすら、まったく分かりません。ただ、結局のところ、不在となった地霊殿の主という役職は、私がつくことになりました。その理由は簡単です。紫が、そう決めたからです。

 

「それが彼女の願いだからよ」

 

 昨日、いきなり私の部屋に現れた彼女は、そう宣言して私を地霊殿の主に任命しました。驚きとともに、どこか胸に引っかかる悲しみがあり、自分でもそれに納得がいきません。いったい何が悲しいのでしょうか。きっと、私が地霊殿の主に任命されたことで、こいしが死んでしまったと、そう実感しているからでしょう。こいしを拒絶したのは他でもない私なのに、今更悲しむとは。

 

「それで? あの鴉の調子はどう?」

 

 ソファに座りもせず、きりりとした表情を崩さぬまま、彼女はそう言いました。こいしに見せていたような、隙のある姿は見せません。きっと、心を許していないのでしょう。心を読めないので分からないですけれど。

 

「あの鴉とは」

「霊烏路空よ。血の池地獄に落ちて、大けがをしてるじゃない」

「ああ、今はピンピンしてますよ。どうやら、あまりに痛みが強すぎて、何が起きたか、よく覚えていないみたいです」

「それは、単純にバカだからじゃない?」

「そうかもしれないですね」

 

 嘘だ。彼女は確かにピンピンしていましたが、あの時のことを忘れたわけではありません。ただ、記憶の奥底に封じ込められているだけです。彼女にとってあの経験はかなりショッキングだったのでしょう。それもそうですよね。だれだって、あれはトラウマになります。

 

 では、なぜあれほどまでにショックだったのでしょうか。血の池地獄に落ちたことがそこまで苦痛だったから。いや、たぶん違いますね。こいしにあそこまでいじめられたからです。あの、こいしに。

 

「霊烏路空が元気なのはいいけれど」

 

 紫は、考え込む私に鼻を鳴らしました。前の地霊殿の主と違って、考えすぎよ、と言ってきます。前の主も考えすぎだったことは当然知っているにもかかわらず。

 

「あの地獄鴉、少し元気すぎるわね。また地上に攻め込むとか言っているのでしょう」

「ええ」

「あれ、どうにかならないのかしら」

 

 なぜ彼女が地上に攻め込むと言っているのか。彼女は地上に行きたいのです。ただ、ほかの鬼たちとはその理由が違う。それを私はよく知っていました。

 

「まあ、大丈夫ですよ。きっと、大丈夫です」

「ならいいんだけど。というより、あなた変わったわね」

「そうですか?」

「そんなに落ち着いてもいなかったし、そもそも敬語じゃなかったでしょう」

「知ってますか?」

 

 私は手に持ったカップを置いて、紫の目を見つめました。彼女の目に私は映っていないだろうし、きっと私の目にも紫の姿は映っていないのでしょう。

 

「ほら、言ってたじゃないですか。地霊殿の主は、薄気味悪くて、陰湿で、丁寧口調でなくてはならないんですよ」

「なるほどね」

 

 それで納得したかどうかは分かりませんが、彼女はやっとソファに腰を落としました。それでも、伸ばした背筋はそのままです。

 

「なら、早速だけれど、そんな地霊殿の主さまに言わなきゃならないことがあるのよ」

「なんですか?」

「あなたのペットのあの火車。怨霊を地上に逃がしまくっているのだけれど、どういうこと? 勘弁してほしいんだけど」

「え、そうなんですか。知らなかったです」

 

 知っていました。ですが、私にそれを止める権利はありません。彼女の目的を知ってしまっているのですから。

 

 彼女は、おかしくなったお空を止めて貰うために、こんなことをしているのです。地上の、噂に聞く博麗の巫女を呼ぶために。

 

 私には頼まないのですね、と直接聞くことはできませんでした。もちろん、彼女は知っていますから。こいしがお空に一体何をしたのかを。そして、私がそれを防げなかったことも。

 

 ですが、不思議ですね。彼女自身も気づいていませんが、彼女が本当に呼びたいのは、博麗の巫女ではないのです。

 

「こいし、やっぱり見つかりませんか」

 

 私は、駄目だと分かっていながらも、そう聞いていました。何を今更。そんな言葉がどこかから聞こえた気がしましたが、きっと気のせいでしょう。

 

「地底ではもう、探すところがないくらいまでには探したのですが」

「地上にいるかもしれないってこと? さあ。どうでしょうね。いるかもしれないけれど」

「けれど?」

「さきに地底で死体を探したらどうかしら」

「探してますよ」

「あなた一人で探すのにも、限界があるじゃない」

「私ひとりじゃないです」

 

 そうなのです。私だって、最初から探そうと思ったわけではありません。あれ以来、彼女にどんな顔をして会えばいいのか分かりませんでしたし、会いたくありませんでした。ですが、それでもなぜか探してしまうのです。血の池地獄や、竪穴、彼女が行きそうな場所を、つい、探してしまう。どうやらそれは、私だけではないようで、勇儀やパルスィも同じようでした。会いたくないのに、どうして探してしまうのか。本当に分かりません。

 

「お空の話、聞いたぞ。許せねえよな」

 

 そう息巻いていたのは勇儀さんです。わざわざ地霊殿まで来て、その話について文句を言いに来たのですが、肝心の犯人であるこいしがいないとしると、ひどく驚いていました。

 

「いないってのはあれか? 出かけて帰ってこねえのか? そうだったら嬉しいんだが」と本心から言っていた彼女でしたが、行方不明だと知ると、途端に顔をしかめました。そして、顔をしかめた理由が自分でも分かっておらず、困惑していました。

 

「絶対に見つけ出して、私が殺してやるよ」

 

 七面相を終えた彼女は、そう腕まくりをし、真剣な顔つきで言ってきました。

 

「お空を騙して血の池地獄に落とすなんて、絶対に許せねえからな。まあ、もともと許す気はねえけど」

 

 あいつは敵だからな、となぜか笑っていた彼女に、おそらくもう死んでいる可能性が高いことを告げました。私は彼女ほど楽観的ではありません。いえ、彼女が生きていることは、地底にとって害なので、悲観的と言った方がいいのかもしれませんが、とにかく。私は勇儀さんに、彼女が死にたがっていたことを伝えました。

 

「あいつは死なねえよ」

 

 彼女は、やけに自信満々にそう言いました。

 

「あのくそ陰湿で腹が立つ地霊殿の主、まあ、もとだけど。あいつはな、嘘つきなんだよ。許せないことにな。だから、死にたがってたことも、たぶん嘘なんだよ」

 

 あまりに無茶苦茶な言葉に、頭を抱えてしまいます。勇儀さんの心は、相も変わらずこいしに対する嫌悪感で一杯でした。なのに、どうして彼女のことを探しているのでしょうか。恨みを晴らすためとも思えません。八雲紫の以前言っていた、無意識という言葉を思い出しました。彼女たちは心ではこいしのことを嫌っていても、無意識のうちに好いていたのではないか。心というのは複雑です。覚り妖怪である私たちですら分からないほどに。

 

 また、しばらく考え事をしていたからか、八雲紫が呆れの息を吐きました。

 

「怨霊、どうするのよ」と責問してきます。

 

「まあ、しばらく放っておいてください」

「え?」

「もしやばそうだったら、博麗の巫女を送ってきてください。歓迎しますよ」

「そんな易々と」

 

 博麗の巫女を送れない。彼女はそう言おうとしたのでしょう。ですが、口を止めました。彼女自身にも、思うところがあったのかもしれません。

 

 なぜ、お燐が怨霊を地上に放出し始めたのか。

 

 その理由は簡単です。私の言ったことを彼女は忠実に、心の底で守っているのです。『助けの求め方講座』で教わったことを。では、誰に助けを求めているのか。先述したように、博麗の巫女に助けを求めているのか。それもある一方では事実です。

 

 ですが、彼女が助けを求めているのは、本当の心の底で、もう一度だけでいいから、話をしたいと思っているのは、願っているのは、実際に一度、怨霊で呼び出された、あの地霊殿の主に他ならないのです。

 

 お空だってそうです。彼女が地上に行きたいと、攻めたいと頑なに主張する理由は、もちろん、内に巣くった得体の知れない力によるものが大きいでしょう。ですが、彼女も無意識のうちに、彼女に、こいしに会いたいと願っているのです。まあ、彼女の場合は、死ぬほど謝ってもらいたい、償いをしてもらいたい、と思っているようでしたが。でも、それでも。謝ってほしいということは、許してもいいと思っているということです。彼女は気づいていませんが。

 

 あの子も、こいしも、心の奥底まで読めていれば、こんなことにはならなかったのでしょうか。そう考え、すぐに首を振ります。たらればには意味はありませんし、私たちが彼女を追い詰め、壊し、とどめを刺し、そして今も嫌っていることは事実です。少なくとも、私は彼女を許す気はありません。

 

 ですが。

 

「ゆかりん。これ、読んだ?」

「口調、少し崩れてるわよ」

 

 内心で動揺していたからか、いつもの口調が出てしまいました。紫はそこで、やっとソファに背中を預け、私が机の上に差し出した一冊のノートに目を落とします。そして、深くため息をつきました。

 

「これ、例の日記?」

「ええ」

「あなた、読んだの?」

「読みました」

「どうでした」

「死にたくなりました」

 

 彼女は冗談だと捉えたのか、少し苦笑していました。ですが、冗談でも何でもありません。本気で私はそう言ったのです。彼女の苦悩を、心を読みながらも気づけなかった自分に嫌気が差します。これを読んでますます、彼女に会わなければ、という思いが強くなりました。罪滅ぼしでも、罪悪感でもないです。むしろ、この日記をよんで、彼女に対する嫌悪感は強くなりました。でも、なぜだか会いたいのです。

 

 八雲紫は、しばらくの間、パラパラとそのノートをめくっていました。律儀に日記をとり続けていた彼女に驚いたのか、それともあまりの内容に心を痛めたのか、口をぱくぱくとさせています。

 

「なるほどね」

「何がなるほどなんですか?」

「とりあえず、みんなの前で音読しましょうか」

 

 彼女がいったい何を言っているか分からなかったですが、この日記に書かれていることを思い出しました。たしか、死んだら音読すると、八雲紫が言っていたと書かれていたと思います。

 

「ですが、まだ死んだと決まったわけじゃありませんよね」

「まあ、そうね。でも多分彼女は、音読されることを望んでいると思うわよ」

「どうして」

 

 これ、言っていいのかしらね、と彼女は肩をすくめていましたが、ぽつぽつと言葉を零すように小さく言ってきました。

 

「あなたは、おかしいとは思わなかったのかしら?」

「おかしい?」

「どうして、あの子が霊烏路空に、あんな酷いことをしたのか。分かるかしら?」

 

 私は彼女に言われた言葉を思い出しました。

 

「たしか、お空が地上を攻めるつもりだったから、事前に倒したと、そんなことを言っていたと思います」

「なんのために」

「なんのためにって」

 

 紫が何を言いたいか分かりませんでした。この私が、相手の意を汲めないことなんて、滅多にありません。

 

「彼女は」

 

 それでも、紫が何かを悲しんでいることだけは確かでした。

 

「彼女は地底を、この期に及んでも守ろうとしたんじゃないかしら」

「でも、彼女は地底を嫌っていました」

 

 そうです。それこそ、心の底から。

 

「心を読めるあなたたちには分からないかもね。妖怪の賢者である私は無意識的に幻想郷の安寧を目指すし、鬼である勇儀は無意識的に強者との戦いをのぞむ。そして」

「そして?」

「そして、地霊殿の主は地底の安寧を無意識的に望んでる。そういうことでしょ。彼女は地底を嫌っていたわ。けどね、見捨てることが出来なかったのよ。哀れね。本当に、胸が痛いわ」

 

 彼女はやさしいのよ。紫はそう吐き捨てました。彼女らしくもなく、心底嫌そうに──それこそ感情が漏れ出るほどはっきりと、吐き捨てたのです。

 

「それに、今回は妙に彼女にしては短絡的だった。これもおかしなことの一つよ」

「どういう意味でしょうか」

「考えてもみなさいよ。今まで彼女が、悪さをしそうなペットは殺せばいいだなんて、言ったことがあったかしら。ないわ。それに、もし本当に霊烏路空を殺すつもりなら、もっと楽な方法もあったはずよ。でも、あんな残虐なことをした。なぜか。分かってるわよね」

 

 分かってあげなさいよね。そう聞こえた気がしましたが、私は素直に首を振りました。本当に分からなかったのです。あの時のこいしの心は、なぜだか私の第三の目でも、読むことができませんでした。それどころか、姿すらおぼろげだったような気がします。

 

「彼女はね、こう思っていたんじゃないかしら。嫌われすぎている彼女が地霊殿の主をし続けたら、いつか地底が瓦解してしまうと。だから、対策をとろうと考えた」

「対策って、なんですか」

「単純よ。地霊殿の主という立場を、あなたに譲ればいいと、そう思ったのよ。同じ覚り妖怪だけれど、まだマシな姉の方にって。ほら、言うでしょ」

「言うって」

「普通は新しい方をつかって、古い方をスペアにするって。彼女は、もうお役御免だとそう思って、スペアであるあなたに地霊殿の主を譲ったのよ」

 

 紫の話を、その時はうまく理解できませんでした。それとお空をあんな目に遭わせることの関係性が分かりません。どうして、地霊殿の主を譲るために、お空を酷い目に遭わせたのか。

 

「でも、こいしはただ変わるだけでは不安だった。しかも、霊烏路空が不穏な動きを見せている中、それを解決せずに押しつけるのは、あまりにも危険だと、そう考えた」

 

 その疑問を見透かしたのか、紫が悲しげに言ってきます。

 

「だから、同時に解決する方法を考えた。それが、霊烏路空を殺すこと、いえ。殺そうとすることだったのよ」

「どういうことですか」

「相対主義よ」

「え?」

 

 相対主義。どこかで訊いた気がしましたが、どこで訊いたかは分かりませんでした。それでも、ぽかんとしている私をよそに、紫は話し続けます。

 

「前があまりに酷いと、相対的に後のものがよく感じる。こいしは、あなたが、古明地さとりが同じ運命を辿らないかと、今はしっかり者だと言われている彼女も、自分と同じように誰からも嫌われることを恐れた。だから」

「だから」

「だから彼女は、嫌われようとした。違う? 勇儀にも、橋姫にも、あえてそのような態度をとって、そして肝心の古明地さとり、あなたにも、嫌われるために、ペットたちにもより恐怖を植え付けるために、霊烏路空をいたぶった」

「でも、こいしはそんなことする必要はないと思います。だって、もう十分嫌われているじゃないですか」

「一円を笑う者は一円に泣く」

「え?」

「どんなものでも最後まで完璧に。あなた、よっぽど心配されていたのよ」

 

 紫の口にした言葉が、どれほど本当なのかは分からない。全てが彼女の妄想とも、逆にどれもが真実だとも思えてきます。

 

「そして、死んだら私が日記を音読する、と言ったことを、覚えていた。日記に書くほどに」

 

 あんなにおかしくなっていたのに、ちゃんと日記を書いていたのね、と八雲紫は淡々と言いました。

 

「だから、彼女は多分考えたのよ。日記でみんなのことをボロボロに、それこそ死ねだの、嫌いだの、鬱陶しいだの書いておけば、私が音読した後に、もっと嫌われると思ったんじゃないかしら」

「さすがに考えすぎですし、買いかぶりすぎです」

「そうかしら」

「あの、鈍くさい彼女がそこまで考えていたと思います?」

「そう言われると」

 

 彼女はそこでふっと表情を緩めました。

 

「確かに、考えにくいわね」

 

 私はふと、こいしの言葉を思い出しました。もしかしたら、日記に書かれていた一文を思い出したのかもしれませんが、彼女の音声が頭の中で流れたのを考えると、実際に耳にした事による記憶なのかもしれません。

 

「手の込んだ羊羹は辛い」

「え?」

「面倒な手順を踏んで、複雑なことをやろうとすると、かえって逆のことになってしまう、でしたっけ」

「ああ。そんなことも言ってたわね」

 

 もしかして、今、地底の皆々が無意識ながらにこいしを探しているのは、彼女が嫌われようとして、複雑な手順を踏んでいたからなのでしょうか。そのせいで、逆に好かれて。

 

 そこまで考え、笑ってしまいました。別に彼女は、今も好かれていません。嫌われているまんまです。

 

 この日記を読むかどうかは、各々に任せよう。ただ、日記というものは、本来自己を省みるために存在するのであって、決して人に読ませるものではありません。ですが、もし親しい人物の日記が置いてあったら、当然読みますよね? しかし、書いた本人からすれば、日記とはいわば黒歴史の詰め合わせともいうべき存在なのです。

 

 その黒歴史を生み出した張本人は、今どこで何をしているのでしょうか。生きているのか、死んでいるのか。それすら分かりません。地底の、彼女に対する印象は、結局最初から最後まで変わりませんでした。誰からも好かれることなく、心を壊してしまった、私の可愛かった妹。

 

 もし、彼女が生きているのならば、私は意地でも探し出して、話をしたいです。

 

 もし生きているのなら、この日記にでも生きていると書いてください。なぜなら、日記というものは生存証明なんですから。

 

 私はかぶっている帽子をいじりながら、そう紫のまえで、こいしの日記、つまりはこの日記に書き足しました。

 

 あれ、いつの間に帽子をかぶっていたのでしょうか。

 

 まあ、いいでしょう。それでは。明日もいい一日でありますように。

 




紅茶がいいなー

【挿絵表示】



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