梅花、百鬼を魁る (色付きカルテ)
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荒廃した世界と異形の少女

 

 真っ暗な闇の中を進みながら、足元から感じられる死骸の不快な感触を紛らわす様に、大きすぎるヘルメットの位置を整える。

 長らく密封された空間だったのだろう。鼻に付く様々な匂いが混ざった異臭に、「その発生源は考えたくも無いな」と音を立てないように溜息を吐いた。

 

 肩にたすき掛けしている布は、吊るした重いその銃を間違って放り捨てないためのものであると理解しているのに、むせ返るような暑さの中では邪魔に思えて仕方ない。

 

 …まあ、それでも貴重な武器を放り出すほどのアホな行為をするつもりも無いが。

 

 サイズを調整してあるボロボロの迷彩服を少しだけ見下ろして自分の危機感を煽り、やる気を補充するとまたこの空間の探索に戻る。

 普通であれば一寸先も見えないような真っ暗な空間であるものの、幸い俺は夜目が効く。

 開かれたままの扉や他の通路と合流するような見えにくい場所は音や匂いに良く注意する。

 視界の確保と先手を打てなくても打たれないよう徹底するのは、割と最初の頃に学んだ生きるための術だ。

 これらを基本として生きるための資材を確保しに探索する。

 もう長い時間をその繰り返しで生活してきたのだ。

 

 

「……ん、行き止まりか。という事はこの場所は資材がまるでない、価値の無い建物か。荒らされた形跡が少なかったから期待はしてたんだけどな……」

 

 

 端の壁まで辿り着いため探索を諦める。

 壁を背にする様に体重を掛けて、背負ったリュックから手書きの地図を取り出した。

 色つきのマジックで数えきれない程書き加えられたその地図に新しくバツ印を書き加えてみれば、書かれた一帯がバツ印ばかりだと再認識させられた。

 

 

「これってやっぱり、ここら辺一帯を根城にしてる集団があるってことかな?」

 

 

 これまで生活して来てこういった事はいくらでもあったけれど、やっぱり気を張らなければならない事が多すぎて、身を固めている集団との接触をしようとは思えなかった。

 どうしても彼らと接触したくない理由というものが俺にはあるが、そもそも一人で好き勝手やる方が性に合っているし、何より地域一帯を根城に出来ている武装集団というのはその集団に属している者以外には酷く攻撃的な場合が多いのだ。

 

 なにせ水すらも貴重な時代だ。

 誰の手にも渡っていない資材など滅多にないし、今の時代は武装集団と武装集団のぶつかり合いだって珍しくは無い。

 まあ、敵か味方か分からない、初対面の人物相手に丁寧に接しろと言う方が馬鹿な話なのかもしれないのだけど。

 

 

「ああもうっ、あついなここっ……!!」

 

 

 今見てきた限りこの建物の中には危険は無い事は確認できた。

 ならばもう帰るべきかと気持ちを切り替える。

 この地区へ来ることはもうないだろうなと自分の無駄であった労力を自嘲するように笑って、背を預けていた壁から離れる前に携帯していた水筒をあおった。その瞬間。

 

 この建物の入り口付近から、誰かが走ってくるような音が聞こえてきた。

 

 

「……」

 

 

 水筒から口を離して静かに蓋をする。

 リュックに丁寧に仕舞い込んで、肩から布でぶら下げられている自動小銃を両手で握り込んで構えた。

 

 足音からして人だろう。だが、若干片足を庇うような足音だ。

 軽い変異体かもしれないと意識して、入り口から来た場合死角となる立ち位置に体を寄せて音の主を待つことにするが、足音とは別の異音を耳に入れてしまい舌打ちをしたい衝動に駆られた。

 

 追われている…なんてタイミングの悪い…。

 せめてもう数分待ってくれればこの場を後にしていたのにと考えて、直ぐに頭を振って噴き出した暗い感情を抑え付ける。

 こんな糞みたいな世界の中でもせめて自分の内心だけは人間でありたいと思うから、人道を反したようなそんな考えを振るい落とした。

 ゆとりを持って道徳を備える、それが自分の立てた指針の筈だ。

 

 

「……よし、助けますか」

 

 

 割れた床の隙間からそっと下層を覗けば、容易く音の発生源が確認出来る。

 血と涙でぐしゃぐしゃになって、暗闇で前が見えないのか壁や物に何度もぶつかりながら男が現れた。

 最下層で走り回っているその姿を視界で捉え―――さらにその後ろから顔が幾つもある百足のような形の醜悪な怪物が、男を追い立てているのを確認して、息を吸い込む。

 物資の補給もここの所まともに成功していない上に、無駄な戦闘をしてしまう今日はどうやら厄日のようだと思いながらも、壁に追い詰められて情けない悲鳴を上げている男性の姿を確認して、慌ててスコープから覗いた照準が数ミリのズレも無く怪物の頭を狙った。

 

 スコープを通して見る世界が止まる。

 いいや、じっと見詰めていればほんの数ミリずつ動いている程度の動きを視線の先の生き物はしていた。

 鈍くて、鈍くて、あくびが出てしまう。

 ゆったりと静かに指を掛けた引き金に力を入れた次の瞬間、乾いた発砲音と共に頭を撃ち砕かれた怪物は崩れ落ちた。

 

 腰を抜かしたまま唖然と崩れ落ちた怪物を眺める男性を一瞥し、音も無く窓から飛び降りて気づかれる前にこの場を去ることにする。

 挫いた様子の男性が片足を抑えているのが目に入り、一瞬コミュニティまで送っていくべきかと迷ったが、直ぐにそこまでする義理は無いと切り捨てた。

 だが、路上に着地して崩れた壁から未だに状況を理解できていない男性の背中を確認してしまえば、良心の呵責に耐えきれなくなった右手が迷いなく背負ったリュックに伸びてしまう。

 

 医療用の冷却スプレーを取り出して布きれに包んで男性の足元に放り投げ、大袈裟に驚いた様子の男性の後ろ姿を無視して走り出した。

 あるかどうか分からない見返りよりも、あるかどうか分からない危険を避ける方がずっと合理的だと、少なくとも自分は思う。

 

 さあもう寝床に帰ろう、そう思った。

 自分の運が無いと感じた日は、とっとと寝てしまうのが一番なのだ。

 

 

 

 

 

 

「ううむ……これでこの地区の探索は終わっちゃった訳なんだよな。不味いなぁ、まともな補給先が無い」

 

 

 この一年ずっと住処として使い続けてきた馴染み深い教会の一室。

 かび臭い秘密の地下空間のベッドに横たわりながら、手に持った安物の地図帳をぼんやりと眺めていた。

 別にサボっている訳では無い。何も考えずに無駄に体力を消費するよりも方針を考えて動けばおおよそ三割程度は効率が良いのだ……当然、自社調べとなるが。

 

 

「まあいいや、そんなに食べなくても俺はやっていけるし。溜めこんだ分で半年は持つでしょ。大人しくしていようっと」

 

 

 自分の悪い所はこういう、めんどくさい事を後回しにしてしまう所だと分かっているのに中々改善できない。

 昔の学校に通っていた時代、自分が何も考えていなかった男子中学生だった時代の時は、夏休みの宿題をつい最終日まで溜め込んで、最後の最後で幼馴染に宿題って何があったっけと聞くまでがお約束だったのをついこの間の事の様に思い出して、笑みがこぼれた。

 ガミガミと恐ろしい幼馴染だったが、今はもはやそんな心配をしなくても良いのだと思うと少しだけ安心するが、同時に寂しさもある。

 

 

「……水浴びしよう」

 

 

 勝手に落ち込んでいった気分を紛らわすため、簡素な空間であったこの部屋の隅に自作した仕切りも何もないシャワー室のような場所に向かう。

 そこに設置したつま先から頭の頂点まで写る程大きな姿見に背の小さい、ボロボロの迷彩服を纏った兵隊が嫌でも映り込む。

 中学生が着る様なものでないそれは、サバゲーの時に使うような偽物ではない。

 

――――殉職していた隊員から剥ぎ取った本物の自衛隊の装備一式だった。

 

 

 

 この国は、もはや国の形を成していない。

 数年前に起こった、南米から発生した感染症により、この国は容易く瓦解した。

 いいや、実際は容易く何て無かったのかもしれないけれど……。

 少なくとも学校のテスト一つで気分を浮き沈みさせる程度の自分にとっては、ある日突然、日常が終わりを迎えた様なものだった。

 

 その感染症は人を異形へと変えるもの。

 まるで兵器の様に合理的なまでに生き物を殺し尽くす感染症だった。

 最初は人を凶暴にすると言う情報が流れた、記憶にある最初の報道では各地で猟奇殺人事件が発生していると言うものだっただろうか。

 次にゾンビが発生したと言う報道だ、凶暴になった人間の手足をもいでも活動を続けた事からこんな報道が流れてしまった。

 そして、人が人の形では無くなると言う報道を最後に全てのテレビ局は放送を停止した。

 

 結局何の真相にも辿り着けないまま多くの国家や都市の機能が停止して、人々は身を寄せ合い最後を迎えて行っている。

 終末を待つしか選択肢が無い、いいや既に終末を迎えた後の世界がこの現状であるのだろうか。

 

 最後までこの感染症に抗ったのはどの国だっただろう。

 少なくともこの国では無い事は確かで、最後に海外の様子を伝えていたニュースで見たのはアメリカやイギリスと言った力を持った国が抵抗している光景だった。

 そこから先はニュースが流れる事も無かったので分からないが、恐らくこの世界の誰も正確なことは分からないのではないだろうか。

 国外を気にする余裕のある人や情報機関なんて、もうどこにも無い筈なのだから。

 

 

「うへえ、結構汚れてるな……。うん……臭いかも……?」

 

 

 脱いだ迷彩服を軽く匂いを嗅いだ後、近くのコートハンガーに掛けていく。

 脱ぐたびに固まった砂や血がボロボロと床に落ちるものだから、どうやって掃除をしたものかと頭を痛めるが、今はそんな事よりも数日ぶりの水浴びに気分を高揚させられる。

 ぱっぱと服を脱ぎ去って、最後に残った迷彩柄のヘルメットを脱ごうと力を籠めた。

 

 

「ぐぐぐっ……完全に突き刺さってるんだけどっ。ふんっ!!」

 

 

 突き刺さって固定されてしまっていた、自分の頭よりもはるかに大きなヘルメットを力任せに外し、ぼっこりと内側に空いてしまった大穴を悲しげに見つめてから、迷彩服と同じようにコートハンガーに掛けた。

 そうしてようやくシャワー室に立てばもう一度大きな姿見に写る、もう見慣れてしまった少女姿の自分自身が目に入った。

 

 

――――巨大な片角を側頭部から生やした、人間離れした美しさを放つ少女がそこに写っている。

 

 

 生存者と関わりたくない最も大きな理由がこれだった。

 

 

 自分はもう、人間ではないのだから。

 



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生存者との接触

 前提を言おう、自分は男だった。それは紛れも無い事実である。

 覚えている限り、自分は十五年もの間を男子児童として生活してきたし、同時に同い年の女子児童として生活してきた幼馴染を見ているから異性がどういうものかもきっちりと理解しているつもりだ。

 だから、自身の性別を勘違いしているという事は絶対にない。

 ついこの前の事の様に思い出せる、人間としての最後まで、自分はもっと違う形をしていたのよく覚えている。

 ……隠し立てなどしないで正直に言うが、自分は背の小さくて童顔のすばしっこいタイプの子供だった。

 幼馴染よりも背が小さくて、自分よりも数段高いその頭を恨めし気に眺めていた事は、毎日と言っても過言ではなかった。

 

 だから――――思い違いなどではなく。

 

花宮梅利(はなみやばいり)と言う男子生徒は、この世に居た筈なのだ。

 

 

 

 

 

 

 今日は近くのコンビニに足を運ぶことにした。

 食べられるものなんて碌に残っていない。普段なら候補から真っ先に外す場所であるものの、今日は食べるものではなく、ほんとにちょっとした物が欲しくなったのだ……そう、洗剤だ。

 予想以上に臭くなっていた自分の戦闘服を、水浴びした後の清潔になった俺はどうも受け付けなくなってしまった。

 どうしても着たくないと言う衝動に負け、今は替えの迷彩服を着て、汚れた戦闘服を洗う手段の確保に外出している訳である。

 

 近くのスーパーに行っても良いとは思うが、ああいう場所は異形どもがよく集まる場所であるし、コミュニティを築いた奴らが資材漁りに何度も通うような所でもある。

 どちらにも属せない自分は日陰者なので、当然、こそこそと誰も居ないところを攻めたくなるのだ。

 そう言った意味ではコンビニは自分の心強い味方と言えるだろう。

 アイラブコンビニである。

 昔は帰り道に買い食いしたくらいだし、本当に何から何までお世話になりっぱなしだ。

 

 

「お邪魔しまーす……」

 

 

 どこかの暴力的なコミュニティが動かない自動ドアを破壊したのだろう、砕け散ったガラスのドアを潜り抜けて薄暗いコンビニの中に入れば、予想通り、食料の類と飲料の類は根こそぎ持って行かれている。

 そんな事に今更意気消沈などする訳も無く、特に何も考えないまま日用雑貨の棚まで歩き、洗剤などのかさばる物がきっちりと残っているのを確認してとりあえずホッとした。

 

 安心して気を緩め、つい癖になっているヘルメットをぐりぐりと内側の角に擦り付ける行為をやってしまい、唖然とする。

 これでまた、ヘルメットの内側は大角に貫かれたことだろう。

 外側に角が飛び出ていないかぺちぺちと手で確認して、少しだけ内側から盛り上がってしまっているのを確かめて脱力した。

 俺は何個ヘルメットを駄目にすれば気が済むのだろう。

 

 とっとと必要な分を回収して帰ろうと思い、洗剤を幾つか懐に仕舞い込んでいると、異常なまでに発達した聴覚が囁く様な異音を聞き取る。

 

 それは複数の足音と話し声、どう考えてもどこかのコミュニティだった。

 

 

「……まじかっ、こっち来るっ……!」

 

 

 驚愕の事実に目を見開いて慌てて隠れる場所を探すも、荒らされ切ったこの場所では小さなこの体を隠すような箇所さえ見当たらない。

 

 きょろきょろと必死に周囲を見渡している間にもだんだんと音の発生源はこちらに近付いて来てくる。

 錯乱したように目を忙しなく動かして、泣きそうな顔で最後に固定されたのはコンビニに置いてあるATMだった。

 中身を押し退ければこの身体程度なら入る大きさである。

 もはや選り好みしている暇は無かった。

 

 

「ちっ……、ほらなっ、もう奪い合うしか食料なんて無いんだよっ!」

 

 

 ずかずかと数名の足音と共に、コンビニの中に響いたのは気性の荒そうな男の声。

 そしてそれに答えるのは落ち着いた男性の声だ。

 

 

「……ここは根こそぎ持って行ってしまっているな。危険な外出をして、成果がこれっぽちしかないなら割に合わないと言っても良いだろう」

「どうするよ、ウチのコミュニティの年寄りは、他のコミュニティとの助け合い助け合いうるせぇけど、向こうも最近はこっちの縄張りまで入ってきてキナ臭せぇ。先手を打っちまった方が良くねえか?」

「子供や老人も増えたからな、養う者が多すぎて不安が多い。……だが、だからこそ軽率な行動は控えるべきだ。どこも同じような状況だからこそ、お互い監視の目が厳しくなっている」

 

 

 商品が僅かも残っていない陳列棚を怒りに任せて叩いたのか、店内を大きく響き渡った金属音にATMの内側を抉じ開けて、潜り込み丸くなっていた俺はびくりと身を跳ねさせてしまう。

 機器の僅かな隙間からその声の主たちを確認すれば、大学生くらいの四人の男女の集団が鉄パイプを片手に店の至る所を見て回っているところだった。

 

 冷や汗を掻く。

 ATMの中に隠れたと言っても、小さいこの身を中に入れるためには大きな穴が必要となる、可能な限り入り口から死角となるように抉じ開けた訳だが……、草の根を分ける様に食料を探し回る彼らがこちらに来たら一瞬で気が付かれてしまうだろう。

 何とかしなくてはと気を急いてもどうすることも出来ず、四人、特に眼鏡を掛けた短髪の女性は棚の下や雑誌の隙間と言った細かいところまで確認していて非常に不味い状況であった。

 

 

(ど、どうするっ!? 物を外に投げて音で釣るかっ!? いやっ、この場所からじゃ難しすぎるってっ)

 

 

 ぷるぷると体を震わせながら彼らの様子を窺うが一向にこの場を去ってくれる様子は無く、気の短そうな発言をしていた目付きが鋭い長身の男が捜索に飽きたのか、あろうことかATMに背中を預けやがった。

 

 加えられた衝撃に反射的に後ろから頭を小突きたくなったが、そんな事をしようものなら大変なことになってしまう。

 今は我慢だと自分に言い聞かせて、そっと耳を澄ませた。

 

 

「実際お前らはどう思うんだよ」

「……何がですか。良いから食料の捜索を続けましょう、ここの他にも回りたい場所は幾つもあります」

「逃げてんじゃねえ、ウチのコミュニティのこれからだよ」

 

 

 シンと、捜索の手すら止めて無言となった彼らは重苦しい空気の中で、それ以上言うなと言いだしっぺを睨むがそれを意に介さずその男は続けた。

 

 

「先の無い、生産性の無いような弱者ばかりを保護して権利を主張する。そりゃあ立派さ、道徳的で倫理的で人道的なものだろうさ、褒められるような行為だと思うね。だけど、分かってんだろうが、それじゃあその先に待つのは全滅だってよ」

「兵藤君っ、そんな言い方っ……!」

「言い方も何もあるかよっ、俺らがこんだけ命を懸けて働いている間にあいつらが何してるってんだ、なあっ!? もう文明的な生活を送れていたあの頃とは違うだろうが、俺らにだって余裕なんてないんだよっ!」

「――――馬鹿っ、大声出すなっ……!」

 

 

 慌ててもう一人の男性の声が窘めるが、もうすでに遅い。

 発せられた声は店内だけでなく、静まり返った町の中へも響き渡る。

 

 うん、これはやってしまったな。恐らくものの数分でこの場に化け物どもが殺到するだろうと俺は予想したが、それは彼らも同様なようで直ぐに神経質そうに周囲を見渡していた眼鏡の男が苛立たしげに呟く。

 

 

「ああくそっ、早く拠点に戻るぞ」

「わ、悪い。熱くなった」

「謝罪は無事に帰れてからにしろ、雛美、笹原、帰るぞ」

「う、うん……」

「……仕方ないですね、命あっての物種です」

「よし、なら奴らが寄ってくる前に急ぐぞ」

 

 

 落ち着いた声の主が彼らのリーダーなのだろうか。

 彼の一声で彼らがすぐさま捜索していた手を止めて、この場を去るために動き出したのをそんな事を思いながら覗いていれば。

 

――――ガリリッと言う音が、帰ろうとしていた彼らの空気を凍らせた。

 

 緊張で身を固めた彼らが、なおもガリガリと壁を掻く様な音が鳴る方向を向くと同時に、俺もそっとその方向へ目をやる。

 彼らから俺が身を隠すATMを挟んだ先にある、トイレから響くその音は、少しずつされど確かに大きくなっていって、その音は質を変える。

 

 ドンッ、と扉を叩く音。

 連打され始めたその音は、次第に荒々しい絶え間ないものに変わり始め、ついには大きく扉を歪ませた。

 

 そしてその歪んだ扉の先から覗いたのは、白濁した双眸と生者とは到底思えない程に青く干からび腐り落ちた――――死者が居た。

 

 当然位置取り的に、ATMに隠れる俺はそのくりくりとした大きな目玉とばっちり目が合ってしまう。

 

 

「――――っ…!!」

「に、逃げろぉぉっ!!」

 

 

 我先にと逃げ出した彼らが走りだした音が背後から聞こえ、視線が合っている真っ白な目玉が大きな音を立てて逃げ出した彼らと身動き一つ取らない俺とを迷うように視線を行き来させる。

 だが、それもすぐに終わり、前者を選んだようだった。

 人外の怪力で吹き飛ばされた扉はくるくると宙を舞って、大きく開かれた口の中から意味を為さないうめき声を上げながら、逃げ出している彼らの後姿を追い掛けていく。

 早足程度の速さで動き出したその化け物は、幸いもう一瞥だって俺に視線を寄越さないで彼らの背中だけを見ている。

 

 

(……まあそうだよね、だって俺そっち側だし)

 

 

 ほんの少しの落胆に肩を落として自嘲するようにそう思い、去っていく彼らと化け物の背中を見送りながらそっとATMから身を出し、ぼんやりと彼らが話していたコミュニティについて思いを馳せる。

 どこも切羽詰まっているのが本当なら、そろそろ事件が起こるのも時間の問題だろう。

 意図せずして思わぬ収穫があったと嬉しくない情報に感謝しながら、逃げ出している彼らがこちらを確認できない場所まで行ったのを確認して――――床に落ちていた瓦礫を投げて、生存者達を追っていた死者の頭を打ち抜いた。

 

 

「……帰ろう」

 

 

 ぽつりと漏れた言葉は誰に届く訳でもなく宙に消える。

 崩れ落ちた死者の近くまで歩み寄ってもう動かない事を確認してから、無意識の内に吐いた溜息をすぐに打ち切る。

 懐の感触を確かめながら、自分でも分からない脱力感をどうすることも出来ず、このままふて寝コースに入るだろうと思いながら足を進めた。

 

 彼らは無事に危険地帯から逃げられただろうかなんて不安を覚えるが、そんな事を自分が気にしたところでどうしようもないのだと思い直し思考を打ち切った。

 ふらふらと幽鬼のような足取りで外に出る。

 愛しき我が家の朽ちた教会に帰ろうとした所で、四人組が去って行った方向から大地が抉れるような轟音と悲鳴、そして巨大な崩落音が響き渡った。

 

 

「はい?」

 

 

 呆然と後ろを振り返り、もうもうと立ち上っていく砂煙が目に入る。

 何があったのかは分からないが、先ほどの彼らが何かをしてしまったらしい。

 ありえないような大音量の目覚ましに、普段は日中に行動しないような化け物の声まで響き渡り始め、それが周囲からじりじりと近寄り始めているのを感じて唖然としてしまう。

 

 脳裏を撫でる沸騰するような熱い死の感触が、この場で誰かが死ぬ、そう言っているように思えて仕方なかったから。

 

 

 

 

 

 

――――それは偏に、運が悪かったのだ。

 

 逃げ行く先々を塞ごうとする死者達の群れ。

 もはや熱さえ感じさせない黒焦げの車両が道を埋め尽くして。

 隙間という隙間を潜り抜けながらどうにか危機を脱しようとしていた彼らに、老朽化したアスファルトが溢れ返った死者や彼らの踏み込む衝撃に耐えきれず、ガラガラと大きな音を立てて崩落した。

 主人のいない車両や死者達が突然出来上がった奈落の穴に引きずり込まれるのを目にして、彼らは悲鳴を上げながら足を動かした。

 連鎖的に崩れていく足場は、彼らの駆ける速度よりも早く。

 

 

――――だから、犠牲になった者が一人だけで済んで彼らは幸運だったのだ。

 

 

 最後尾を走っていた彼女の姿が地に消えたのを、彼らは気にすら止めず駆け抜けて行った。

 この秩序が崩壊した環境の中で身を寄せ合って過ごした仲間ではあったものの、誰かを思いやって自分の身を犠牲にするような者であれば、もはや今まで生き残る事なんて出来はしないのだから。

 ここまで生き残っている彼らが下すその判断は、この環境下にあっては当然の事であったのだ。

 

 

 奈落の底に広がるのは、以前は多くの人々で栄えていた地下街。

 多くのコミュニティが眠っている筈の食料を求め幾度も侵入を試みたものの、死者の巣窟となっているその地下街の闇に呑まれ、多くの犠牲を払い失敗を繰り返してきた、もはや地下に鎮座する巨大な墓所。

 深部に足を踏み入れれば生還率は0%と言われるその場所に、彼女は引きずり込まれてしまっていた。

 

 

「はぁっ…はぁっ…」

 

 

 乱れた呼吸の音を抑えようと必死に口元を腕で覆い、ただ走る。

 落下した時にまともに受け身を取れなかったから挫いた足は激痛を訴えてくるが、同時に背後から聞こえてくる、這いずるような音と昆虫が歯を打ち鳴らす様な異音に脳は逃げろと警鐘を飛ばしてくる。

 引き摺るように足を動かして、真っ暗な道の中を、正面から異形が現れない事を祈るように願いながら突き進んでいく。

 

 共に遠征をしていた三人の気配は既に無い。

 落下していく中で振り向く事すらせずに消えて行った彼らの背中に、薄情だとは思わなかったが…絶望を感じなかったと言えば嘘になる。

 

 

「にげっ…ないとっ…。あいつ等は、夜目が利くからっ…暗い場所は意味が無いっ…見えない場所にっ…!」

 

 

 どこに逃げると言うのだろう。

 自分でも分からないようなそんな言葉を発して自己の精神を安定させようとする彼女の表情は死人の様に白く、恐怖でカチカチと打ち鳴らされる歯は止まる様子が無い。

 その様子は、もう自分が生きてここから出られないことなど、理解しているかのようだった。

 

 キチキチッ

 

 そんな音が真横から聞こえた瞬間、反射的に前に飛び出して転がり、瓦礫で切れた肩口を気にすることも無くまた走り出す。

 落下した時に痛めた背中から痺れるような激痛を感じて、呻きながらも足を止めようとしない彼女は、フレームが曲がり割れてしまっていた眼鏡を後ろに放り投げて視界の端に飛び込んできた扉を目掛けて飛び着いた。

 

 

 紙一重、死者達の手先が扉に届く前に物置のような部屋に体を滑り込ませて閉めることが出来た。

 鍵を掛けて、ガンガンと外から狂ったように打ち鳴らされる音を少しでも軽減させようと、その場にあったロッカーや机で固定してギリギリまで出来る限り重そうな物を積み上げた。

 

 

「はっ…はっ…に、逃げ込めたっ…後は、た、助けを待って…ここで、助けを…」

 

 

 うわ言の様にそう呟いて、力尽きたように膝から座り込んだ。

 

 自分の口から洩れた願望をじっくりと咀嚼して、床に付いた血だらけの手の甲を見ながら何を言っているのだと呆然と吐き捨てる。

 

 

「……助けなんて……来る訳ない…」

 

 

 ポキリと、音を立てた様な気がした。

 

 未だに扉の外側からは、人の身では出せないような激しい音が何度も何度も繰り返されている。

 ジワリと湧いてきた額の汗を不快に感じる間もなく、どこを見ても一つしかない出入り口に諦観はより身を蝕んだ。

 膝を小さく折りたたんで、寒さを耐える様に抱き込んでも、ガタガタと震え出した体は少しだって収まりはしない。

 

 死がもう目の前まで来ているのだろう。

 これまで目の前で繰り返し見てきたあの光景が、今度は自分の身に降りかかるだけなのだと思っても、恐怖は体を縛り付けた。

 

 

「…わ、私は、ここで、死ぬの…?」

 

 

 その疑問に答える様に、天井から大きな音を立てて何かが落下した。

 ひっ、という喉がひり付いた様な悲鳴が漏れたが、その落下したものが異形ではなく、天井に設置されていたダクトを繋ぐ開口部が落ちてきたのだと気が付いて、一瞬だけほっと息を吐いて―――背筋が凍った。

 

 ダクトと言う細い道の開口部が、こんなタイミング良く落ちてくるのだろうか?

 

 答えは、誰に聞かなくても分かった。

 

 

「あ…ああ…、ああああっ…!!!」

 

 

 ずるりと、人でないものがダクトから身を捩じらせ這いだした。

 闇の中の筈なのにやけにはっきりと見えたその輪郭は蜘蛛に近く。

 少しも逸れる事の無い複眼は、全てこちらを見ている。

 

――――死が私を見ている。

 

 

「ひいっ…! 嫌だっ、死にたくないっ、死にたくない死にたくないっ……!!」

 

 

 必死に手足を使って後退りその恐怖から逃れようとするものの、この密封された空間では逃げ場なんてものは無く、唯一の出入り口は未だに激しく扉を打ち付ける音が続いている。

 

 スルスルと天井から降りてくるそれは、酷くゆったりとした動きをしていた。

 

 

「来ないでっ!! 嫌っ、嫌っ…!! お母さんっ、お父さんっ…!!!」

 

 

 人の形を僅かに残したそれが無様に叫ぶ私を見てフラフラ近付いてくる。

 死だ、死がある、目の前に死が居る。

 恐ろしい、恐ろしい恐ろしい恐ろしい。

 自分の終わりがこんなにも、恐ろしいと思った。

 

――――本当は、いずれこうなる事は分かっていた。

 

 ずっとずっと、ずうっと前から分かっていた。

 こうしてコミュニティの遠征に加わるようになる前から。

 両親が帰って来なくなる前から。

 多くの者が死に絶えたあの日。

 訳も解らず逃げたあの日から、本当はこうなるなんて事分かっていたのだ。

 

 

「あは…、あはは…、嫌だ、嫌だよ…」

 

 

 目の前に蜘蛛が立つ。

 

 複眼全てが私を見据える。

 

 肩口から生える幾つもの爪が、そっと優しく私の首元に伸びてきて。

 

 

「嫌だ…お母さん…お父さん、……お兄さん…置いて行かないでよ…」

 

 

 もうほとんど思い出せなかった小さな頃の光景が―――なぜだか今になって脳裏を過って。

 伸ばされた爪が首元に触れた。

 

 

 ボキリと音を立てて、その爪は折られた。

 横合いから伸ばされた小さな手によって、手折られた。

 

 

「――――大丈夫、君を助けに来た」

 

 

 鈴を転がす様な幼い声で、掛けられた言葉は根拠も何もないものなのに。

 知らない筈のその声に、何故だか無性に泣きたくなった。

 

 

 

 

 

 

「――――大丈夫、君を助けに来た」

 

 

 あっぶねえええええ!!!!

 

 そんな風に叫びそうになる口を必死に閉ざして、冷静を装って頼れる兄貴分を演じようと意識する。

 かっこつけた言葉を、壁を背にしてボロボロと涙を流す少女に掛けてから、彼女の目の前に迫っていた異形を冷静に蹴り飛ばしたが、俺の内心は見た目ほど落ち着いてはいない。

 

 結局、落下していく彼女を見捨てて走り去っていく他の三人に怒りを抱きながら、見知らぬ他人であろうとこのまま見捨てるのは気が引けた俺は、出来立てほやほやの大穴に飛び込んで少女の姿を探してしまった。

 死者や異形が一つの方向を目掛けて進行する姿を見て、恐らくこっちだろうと走ったが、ほんの数秒、いや、数瞬遅ければ少女の首は刎ねられていただろう。

 いやほんとに、扉の前で集まる死者達を片付けて扉を開けるべきか、異形がどこに繋がっているかも分からないダクトに入っていくのを追うべきか、一瞬の判断を強いられたあの時、自分の直感を信じて良かったと心底思う。

 

 

「あ、あ、なたはっ…?」

「いやなに、本当にただの通りすがりだ。…耳を塞いで口を閉じていろ」

 

 

 ガチャリと、肩に掛けている自動小銃を壁に叩き付けられた状態の異形に向ける。

 昆虫が出す不快な音のようなものを発する異形を照準に入れて、じっと構えたまま距離を詰めていく。

 

 一歩…、二歩…、三歩を踏み出したその瞬間。

 堪え切れなくなったのか、それとも必殺の間合いだと判断したのか、異形は跳躍するように一気に俺目掛けて飛び掛かってきて。

 俺はその跳躍をギリギリまで引き付けて、この自動小銃が最大威力を発揮できる距離に入ったと同時に、引き金を引いた。

 

 打ち出す弾丸は三つ、始めにそう決めた。

 銃口から火を噴くのを一つ一つ確認して、少しだけ銃口をずらす。

 一発目は頭に、二発目は振り上げられた爪の接合部に、三発目は一発目の着弾によって割れた頭の中身を打ち抜いて。

 頭が砕け、爪がまともに振れなくなった状態になったものの、慣性の法則に従ってこちらに飛んできた異形の死骸を回し蹴りで遠くへ吹き飛ばす。

 

 

「――――はっ…?」

 

 

 唖然とした声が背後から聞こえて、思わずにやりと口元が緩む。

 これはもしや、今俺めちゃくちゃカッコいいのではないのだろうか?

 

 我ながら人外染みた事をやっていると思うが、実際人外なのだ。

 これぐらい出来ないと、こんな世界で一人ぼっちでは生きていけない。

 人外となって生存者との接触をするのだ、これくらいの役得あったって良いよね?

 

――――いやいや、油断するな俺。やるなら最後までだ。

 

 砕け散った異形の姿を一瞥してから、緩んだ口元に力を入れる。

 そうして振り返って呆然とこちらを見詰める少女に手を差し伸べた。

 

 

「立てるか? ここは空気が悪いから、話すのは外でにしよう」

 

 

 差し出された手の平をまじまじと見つめていた少女がおずおずと手を重ねたのを優しく握り、軽く引っ張って立たせながら、自分のハードボイルドさ加減に興奮する。

 

 これはもう惚れられてしまったな!!!

 

 何の根拠も無いその確信に束の間の盛り上がりを見せていた俺の脳内は、ある事実に気が付いて愕然とする。

 

――――…あ、そう言えば今、俺も少女になってるんじゃん。

 

 どれだけ態度がかっこよくても、惚れられる訳が無いのである。

 



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想定外の再会

 

 

「とりあえず、ようこそ……と言えば良いか?」

 

 

 足を怪我していた少女を自分の拠点に連れれば、少女は多少の警戒を残しながらも教会の地下に入って驚いたように目を丸くして、周囲に積み上げられた物資の数々を見渡している。

 怪我の具合はパッと見る限りそこまで深刻なものは無いが、まあ万が一があると困るから医療品が意外と充実している自分の拠点に連れてきた訳なのだが、男の部屋に女性を連れ込むと言う、中々刺激的な事実に俺の心はざわめき立っていた…別に下心があった訳では無い、本当だ。

 ……いや、例えほんの少しだけあったとしても、どうこう出来る体ではないのだが。

 

 俺の言葉に反応を返さずに周囲を見渡しながら眼鏡を上げる動作をした彼女であったが、指が空を切り恥ずかしそうに俯いた。

 そう言えばコンビニで見かけた時は眼鏡をしていたなと思い出して、またそっちは別に取りに行かないとなんて考えながら、自分よりも背の高い彼女の姿をまじまじと観察する。

 外見的には大学生くらいだろうか、汚れた黒髪は邪魔にならない様に後ろで一つ結びに纏められ、前髪は斜めにヘアピンで留められている。

 背は高めだろうか、知的な雰囲気を醸し出していて、例え方が分からないが学校で見た様な子供の枠から外れていなかった同年代の少女達に比べてなんだか垢抜けている気がする。

 そんな雑誌モデルと言われても通用しそうな彼女の端正な容姿は、所詮モテない中坊でしかなかった自分にとって緊張させるには充分で、意識して作っていたキャラが崩壊しそうになる程の衝撃を与えてきた。

 

 

「……煩悩退散煩悩退散……落ち着け……まだ、あわわわ、慌てる様な時間じゃない…」

「……あの?」

 

 

 隠し立てするような事でもないからはっきりと言うが、俺は女性にモテたためしがない。

 いつもの見慣れているような奴ならまだしも、こんな女性らしい女性には目を合わせて話をした事なんて覚えが無かった。

 つまり、あの暗闇の危機感溢れる状況でならばまだ何とかなっていたが、こんな自分がいつも使っている一室に連れ込んだ今の現状は、正直キャパオーバーなのである。

 

 不審そうな目を向けてくる女性に対して安心させようと笑顔を向けるが、轢きつった笑みとなっているのか若干引き気味な態度を取られてしまう。

 ハードボイルドは難しい……。

 

 

「いや失礼、持病の喘息がね……。ああいや、名前も知らないまま連れ込んですまない。俺の名前は梅利と言う、宜しく御嬢さん」

「はぁ……、いえ、わざわざすいません。この度は…本当に助かりました」

「大きな崩落音がしていたからな、そしてたまたま俺が傍にいた。君が幸運だっただけだ、感謝の言葉も形も必要無い」

「……」

 

 

 嘘で場を濁したものの、本心からの言葉で気負う必要無いと伝えても、彼女から感じる視線にはさらに疑念が混ざった気がする。

 さらりと自分の名前を名乗ったのに彼女は名乗り返してくれず、負った精神的なダメージは中々に甚大だ。

 もうとっとと治療して引き籠りたいと思いながらも、久々に行う生存者との会話がこんなものでも喜びを感じてしまうのは人肌が恋しい時間を過ごし過ぎたせいだろうか。

 

 それにしても距離を取っている癖に、やけに彼女は俺の頭あたりをちらちらと見てくる。

 まさか角が飛び出していないかと不安になって、手で押さえる様に確認しても膨らみすらないヘルメットがあるだけで、少なくとも彼女から見た限りはただの人間にしか見え無い筈であった。

 

 

「あの、自衛隊の……方なんですか?」

「えっ!? あ、いや……なんでそう思った?」

「いえ、だって、あのそれっぽい迷彩服を着られているので……」

「……? あ、ああー……、いや、俺は、違う……自衛隊の一員じゃないんだ。たまたま、彼らの亡骸があってな、銃器と衣類を少々頂いたんだが……」

 

 

 最初は彼女に何を言われているのか分からず、小首を傾げてしまったが直ぐに自分の服装を思い出してそう答える。

 機能性的に不便を感じなかった上に、裁縫は得意だったため体のサイズに合わせて継ぎ接ぎしたカスタムメイドのこれは、正直愛着が沸いていて自分の服という意識しかなかった。

 そう自分一人が使う分には問題なかったのだ。

 

 が、いざこうやって他人に説明を始めて見ると、いかに自分が非人道的な事をやっていたのかと告白しているようで、だんだんと顔から血の気が引いていく気がする。

 だから、尻すぼみになっていく言葉を聞いていた女性の表情が理解の色を示したの見て驚いた。

 

 

「そうなんですか…鳴る程」

「……軽蔑したか?」

「え? いえ、今更死体に何をしようと道徳的にどうとか言っていられるものではないと言うのは分かっていますから。そんな事はどうも思いません」

「そ、そうか」

 

 

 肝が冷えていたんだけれどな…なんて思いながら、折りたたみ椅子を引っ張り出して彼女に座るよう勧めてから、自分は棚の上に腰掛ける。

 

 手元から銃器を手放さないのはせめてもの警戒を彼女に見せるためだ。

 怪力による制圧は簡単だが、流石にあまり人外染みた部分をアピールしたくない。

 ……彼女もこんな一室で一緒に居るのが異形の仲間であるとは考えたくも無いだろうから。

 

 

「教会にこんな地下があるなんて思ってもみなかったです。……貴方はお一人でここに?」

「ああ、コミュニティなどには属していない。気ままにここで過ごして、必要なものは適時取りに行くようにしている」

「お一人…、助けられた時も思いましたがお強いんですね…ですが、コミュニティに所属している私をここに連れてきて良かったのですか? もしかしたら、一人で教会に住んでいて、物資も豊富に所持している人がいると伝えるかもしれませんよ?」

「つまらない嘘だな。もしそのつもりならそんな事は言わないだろう? それに、そろそろこの場所も捨てようかと考えていてな。新天地に移動するなら、この場所などくれてやっても構わないとも思っている。勿論、物資については別だがな」

「そうですか……、いえ、変なことを聞いてすいません」

 

 

 構わないとキザに言いながら、やっぱりどこも誰とも知れないような者を拠点まで連れてくるのは失敗だったかなと後悔しつつ腰掛けている棚の上に置いてある救急鞄に手を伸ばした。

 救急鞄を漁りつつ椅子に座った彼女に指示をする。

 

 

「さて、では挫いた足を出せ。ついでに怪我した箇所も露出させろよ。治療用具は一応それなりに揃っているんだ、あまり怪我を放置させれば感染なんてこともなりかねない、それでは俺の努力は全くの徒労になるからな」

「えっ、あのっ、ここでですか……?」

「それ以外にどこがある、早くしろ」

 

 

 目当てのものが見つからず、鞄を覗き込むようにまさぐっていたから、何故だか恥ずかしげにそんな事を聞いてくる彼女の声に、ぶっきらぼうに返してしまう。

 少しの間があって布ずれの音が聞こえてきて、目当てのものを取り出した俺が視線を彼女に向けて見たものは、生傷が多いものの元々の素材が良いのか柔らかそうな肌を露出させた女性の姿だった。

 

 がちりと体が硬直する。

 

 恥ずかしげに顔を真っ赤に染めて俯いている彼女の様子を見て、大きく主張する胸部を見て、くびれのある腰元を見た。

 美しい柔皮が隠す様に掻き抱いている腕に触れて形を変えている。

 怪我をした肩の部分から赤い血が流れ、体を濡らしているのさえ蠱惑的な魅力を醸し出している。

 ぼうっと熱に浮かされた様な視線を向けていた俺が、恥ずかし気に身動ぎした彼女の動きで正気を取り戻し。

 

 瞬間、頭が沸騰した。

 

 

「は、はははっ、破廉恥ですうっっ!!!??」

「!!!??」

 

 

 両手で顔を抑えて、火が噴きだすかのように熱くなる体を小さく縮めれば、バランスを崩して棚から落下する。

 頭から地面に衝突した感覚があったが、そんなこと気にしている余裕はない。

 

 

「肌なんか晒さないで下さいいぃぃ!!!!」

「え、あの、いや、その反応は私がすべきなんじゃないかって思うんですが……じゃなくてっ、肩も怪我してるんですっ!! 私が露出して喜んでいるような反応をしないで下さいっ!!」

「じゃ、じゃあっ、せめて胸は隠してくださいっ! そこらへんにバスタオルある筈ですから、それを巻いて!!」

「げ、……解せない。なんでこんなに私が拒否られるのでしょう…?」

 

 

 露出狂が何かを言っているがそんな事は知ったことではない、恥じらいを持ってほしいものである。

 不満を口にしながらも、ごそごそとなにかを漁っていた女性が終わりましたと声を掛けてくるまでじっと落下した体勢のままでいたのだが、そのしばらくの間精神を落ち着かせようとしていたのに、それほど効果は出なかった。

 

 恨めし気に半目になって体を起こせば、何故私が…とぼやいている女性と目が合う。

 傷口を確認しながらペットボトルに入った500mlの天然水を傷口に濡らして、綺麗にしながら痛そうに呻いている彼女に話し掛ける。

 

 

「もうっ、反省してくださいね、全くっ!」

「……むう。貴方が脱ぐように言ったんじゃないですか、冷たく、傷口を見せる様にって」

「そんなの理由にならないっ。俺に一言言えたでしょう、上半身を、その、裸になるって……!」

「そんな生娘みたいな……生娘なんでしょうか? そ、それより、質問は許さないって言う雰囲気を出したのは貴方じゃないですかっ! 私だけが悪いみたいな言い方してっ!」

「ハードボイルドだもんっ!! かっこ良かったでしょうっ!!?」

「いえ、単に怪しいだけでした!」

「そんなー!!?」

 

 

 バッサリと切り捨てられて心は挫けそうになるが、なんとか手元が狂わないように注意して傷の治療を全て終わらせる。

 かさぶた代わりになると謳っている大きなバンドエイドを貼ってから軽く包帯で固定して治療を終えれば、彼女はまじまじと治療を終えた自分の肩と足と腹部を見て、頭を下げてきた。

 

 

「何から何までありがとうございます。……おかげで、生き長らえる事が出来ました」

「ふん、気にすることは無い。俺の気まぐれ…ただの気の迷いだ」

「……ふふ、改めて、ありがとうございます…何も言いませんから、もうそのキャラは止めませんか?」

「……嫌ですー、せめてカッコいい大人の男を演じたいんですー」

「なんですかそれ……、ふ、ふふ……」

 

 

 当初の疑うような雰囲気がもう微塵も感じられないくらい穏やかに微笑む女性に、こそばゆさを感じてそっぽを向く。

 

 

「すいません、私は笹原知子(ささはらちこ)と言います。宜しくお願いします、梅利さん」

「そうか……、では笹原さん。君の仲間も心配しているだろうからな、コミュニティの拠点近くまでおく…ろ…う? ……えっ、笹原知子? ち、知子ちゃん?」

「――――えっ?」

 

 

 朗らかに、やっと教えてくれた彼女の名前に胸を躍らせて。

 最後まで彼女を送って、久方ぶりの誰かとの会話を終わらせようとしていた気分が、驚愕により霧散する。

 自分の付け焼刃の仮面が剥がれたことも碌に気が付かないまま、俺は思わず昔呼んでいた呼び名で彼女の名前を呼んでしまっていた。

 

 

「……あの、私のことをなんて呼びましたか?」

「……い、いや……」

 

 

 笹原知子。

 その名は、昔よく関わっていた少女の名前で。

 家の近所で一人大きな本を抱えて座り込んでいた年端のいかない小さな少女。

 

 親が共働きで、帰ってくるのが遅くて、よく一人ぼっちで公園に居たから見ていられなかった。

ささくれ立った正義感に駆られて、無理して元気を振り撒いて出来るだけ一緒に遊ぶようにしていた少女。

 警戒心の強い猫の様で、中々心を許してくれなかった少女の笑顔を見ようとして、恥ずかしい事も一杯やった。

 お兄さんと呼ばれるようになって、ようやく心を許してくれるようになったそんな折に会えなくなってしまった、そんな少女が笹原知子だった。

 

 

「えっと……、すいません、私達会った事ありましたっけ…?」

「………ううん、無い…かな。ごめん、同じ名前の知り合いが居た事があって、反応しちゃったんだ」

「そう、ですか……」

 

 

 彼女には分かる筈がない。

 目の前にいる者が誰なのか、きっと思い出に重なることは無いのだと思う。

 

 小さな頃の記憶だから、ではない。

 長い年月が経ちすぎているからではない。

 彼女からしたら自分など大した存在ではなかった…などと言うのは考えたくないが…。

 ただ俺が、あの時の姿からはありえない、人間であればありえないような変異をしているから、彼女はきっと花宮梅利と気付けない。

 

 何か引っかかるような表情を残す知子ちゃんに、椅子から立ち上がらせるために手を差し出した。

 

 確かに面影がある。

 小さな頃から綺麗な顔立ちをしていて、気の強そうな目を威嚇するように人に向けるあの姿。

 気が付いた今となっては、どうして今まで気が付かなかったんだと思うくらいに、小さな頃の姿をそのまま大きくしたような形をしている。

 

 小さかったあの頃の少女は―――もう、立派な女性となっていた。

 

 

「あの……本当に、お会いした事ありませんか?」

「――――」

 

 

 不安げに、差し出した手越しにこちらを見上げる知子ちゃんは、何か掴みかけているようだった。

 もしも俺がここでもう一度名前を言えば、若しくは正直に会った事があると白状すれば、彼女は気が付くだろうか?

 

 そんな事を思いながらも、口から出る言葉は、そんな考えとは全く逆のものだった。

 

 

「……少なくとも、俺の記憶には無いな」

 

 

 少しだけ悲しそうに目を伏せた知子ちゃんが見ていられなくて、差し出していた手を気が付かない内に下ろしてしまっていた。

 




改稿しつつの投稿となります。
取り敢えず出来上がっているものが無くなるまでは毎日投稿出来ると思いますので、宜しくお願いします!!


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見猿、聞か猿、言わ猿

 

 

 何時からだろう、正確な年数を知ろうとしないようになったのは。

 多くの時が過ぎたのを自覚しながらも、その過ぎた時を数えようとしてこなかったのは何故だろう。

 ……それはきっと、怖かったからではないかと思う。

 

 自分の記憶が過去の物となっているのだと、明確に数字として実感することがどうしようもなく怖くて、知らない様に逃げていたのではないだろうかと思うのだ。

 その行為に意味は無い、現実を知ろうとしない無意味な逃避でしかなかったと思うけれど。

 全てを知った今となっても、どうしても、知りたくなかったと言う想いは捨てきることが出来なかった。

 

 記憶に無い、おおよそ十年の空白期間。

 その間自分は異形としてか、もしくは死者としてこの地域を徘徊していたことになる。

 自分がその時に何をしていたのかを知る術はないが、当然人間的な行動はしていなかった筈である。

 多くの人に不幸を振りまいた筈だ、迷惑を掛けた筈だ。

 それを仕方なかったと割り切るのは、少し難しすぎると思う。

 …でもまあ、自分が何をしてしまったか分からないのだから、償いなんて出来ないしあまり気にしていても仕方が無いと思うから、今ウダウダ考えるのは辞めにする。

 それはそれとして置いておくとして。

 

 

 知子ちゃんの治療も終わり、日が暮れ始めているが夜まではまだ時間があるのを確認した俺は、少し話し合い、彼女を日が跨ぐ前にコミュニティの拠点へと送ることにした。

 たまたま地下街から抜け出せて、たまたま異形や死骸が活発となる夜を生き抜き、日を跨いで拠点に帰ることが出来たよりも、まだその日の内に帰ることが出来たとなれば所属しているコミュニティの人達も納得できるだろうからだ。

 あまりに疑惑が重なれば感染者扱いだってあるかもしれないから、可能な限り自然に彼女にはコミュニティに合流してほしかった。

 

 そう決めて、彼女の所属するコミュニティ拠点の目前まで来たのだが。

 

 

「梅利さんっ……! そんなっ、受け取れません、こんなに……!」

「あー、気にしないで。俺って低燃費であんまり食事とか必要ないし自分の分を確保するだけなら、ほんと何とでもなるし」

「でもっ、こんなに食料をっ……」

 

 

 良いの良いのと言いながら、手提げ袋一杯に入った食料を知子ちゃんに押し付ける。

 申し訳なさそうに受けて取りを固辞していた彼女も、俺が譲る気が無いと分かったのか何度かの押し問答の末ようやくその手提げ袋を受け取り、困ったように頭を下げてきた。

 

 実際、余裕を確保したいと言う想いと寂しさを紛らわすために行動を続けてきた結果、有り余るばかりの食料があったのは事実であったので惜しいと言う気持ちは無かった。

 彼女との会話は寂しさを掻き消すばかりか、昔気にかけていた少女との再会を果たすもので、正直今の俺にとっては願っても無い幸運であり、それの対価として自身の財産全てを要求されたとしても、文句の一つも無く応えてしまう程の魔力を持っていたから。

 

 だから、持って行ってほしかった。

 

 

「ありがとうございます……こんなに親切にされたのは、本当に久しぶりです……」

「ううんなんてこと無いよ、君達のコミュニティは多くの人が居るみたいだから、少しでも足しになれたら嬉しい。俺はもう少しであの場所を離れて新しい住処を探すから、もう会う事は無いかもしれないけど…君がせめて幸せになれる事を願っているから」

「……っ。なんで、貴方は……」

 

 

 一人の女性として成長した彼女は、もう一人で泣いていた少女ではないのだろう。

 ここまで成長していく過程を見ることが出来なかったのは心残りだが、もう自分がでしゃばる必要なんてなく、彼女にとって花宮梅利と言う年上の男はもういらない筈だから、一人歩く彼女の背中を押すだけに留めようと思ったのだ。

 

 そして、自分の未練に決着を付けるための、せめてもの押し付け。

 送り出す時の餞ぐらい許してほしいと思った。

 

 涙ぐんで唇を噛んだ知子ちゃんに苦笑いを零して、懐から眼鏡ケースと少し前に警官の異形から頂いた小さな拳銃を彼女に渡す。

 

 

「それでこれは俺から君個人に宛てたプレゼント。割れてた眼鏡の代わりと、拳銃ね。弾は回転式のものだから5発しか入っていないけど、護身用に持っててもらえると嬉しい」

「……はいっ、すいませんっ、ありがとうございますっ……!」

「……会ったばかりの人に、そんな感謝なんてしなくて良いのに……」

「会ったばかりの癖に、親切ばっかりするからですっ……!」

 

 

 眉を八の字にして笑った知子ちゃんの表情に、肩を竦めて返してひらひらと手を振る。

 もう行きなと言う意味を込めて、彼女の背中が見えなくなるまで見送るからと言う意味を込めて、手を小さく振った。

 その意味を酌んだのだろう、少し顔を俯かせた彼女は背中を向けて歩き出し、少しだけ歩いた後足を止めた。

 こちらを見ることなく、彼女は問いかけてくる。

 

 

「あの、梅利さん。もし宜しければ、私達のコミュニティに所属しませんか? 口添えはします。悪いようにはさせません。だから……」

「……ごめんね」

「……そう、ですか。わかりました。色々ありがとうございました。お元気で……」

 

 

 分かっていたとでも言うように、微笑みを最後にこちらへ向けた彼女はまた歩き出した。

 今度こそ立ち止まることなく去っていく彼女の背中を見続けて、拠点のホームセンターの柵を手慣れた様子で乗り越えていく彼女の姿が安全域まで入って、中に居た人と合流したのを見て、俺はその場を後にする。

 

 親が子供を独り立ちさせる時はこんな気分なのだろうかともやもやした感情を抱えて、足早に風を切って歩く。

 ここまで来る時はあれだけ異形に出会わない様に慎重に行動していたのに、感情に流されて特に身を隠すことなく道のど真ん中を進んでいく。

 

 それでもすれ違う死者がこちらを見向きもしない事が、軽くなってしまった手持ちが、やけに空虚に感じられた。

 

 

 

 

 

 

 死者の住まう場所。

 地下の大空洞の巨大な墓所。

 光源一つないその場所を住処としている死者や異形の数は数百を下らないと言われており、僅かながら死滅したはずの虫や鼠と言ったものの異形すら徘徊しているとされている。

 人々がそれぞれのコミュニティを築く様になり、立て籠もり守るだけでは生きられなくなったそんな折に、徐々に食料や資材の調達圏を伸ばしていくなかでぶつかった問題がこの場所であった。

 

 基本的にどのコミュニティも死者や異形が活発な夜に行動することを避ける。

 それは強力な銃器を持っていた自衛隊さえも守っていた不文律、それは、闇の中に紛れる奴らに対して人はあまりに無力であるからだ。

 闇夜で目が利かず、数の利を覆せず、多種多様で独自の変異を遂げた奴らは固まり切った対応だけでは攻略を許すことは無い。

 それが地形の問題で常に夜と言う最悪の場所が、そうそうと攻略など出来る筈も無く、多くのコミュニティや自衛隊、警察が動いたが、結局最後は放置することとなった。

 

 結局大きく組織だって動いたものの、誰一人として攻略することが出来なかった難攻不落の死地―――そう思われているものの、しかし実情はそうではない。

 たった一人により、この場所の攻略は進められている。

 今なお、そして、そのほとんどを踏破しつつ住み着く死者達を刈り取っていた。

 

 

「いやあ、こうして歩くとやっぱり人間が生き残れるような環境じゃないって思い知らされるよな……」

 

 

 薄暗い地下街の道を継ぎ接ぎの迷彩服で身を包んだ少女が歩く。

 人ではありえないような輝きを伴う双眸が、隙無く周囲に視線を配り、その異常に発達した聴覚は僅かな空気の揺れ一つ逃さない。

 

 

「襲ってくるだけの奴は居ない……うん、結構倒したから当然か」

 

 

 そこまで言って、彼女はぴたりと足を止めた。

 手に持った銃の具合を確かめながら、その場で振り向いて足元の瓦礫を蹴り上げる。

 砲弾の様に打ち出された瓦礫は飛び掛かって来ていた巨体の下から突き刺さり、その身を天井に叩き付けた。

 

 

「……日課の続きをやりますか」

 

 

 少女はコツコツと小さく、確実に、誰も為し得てこなかった地下街の安全圏を確保していた。

 

 

 

 知子ちゃんを拠点まで送ってから二日。

 未だに引っ越しを終えることはできていない。

 …いや、待ってほしい、別に面倒だからと放置していたとかではないのだ。

 そもそも拠点を引っ越すと言ってもそんな大移動をするつもりは無かった。

 せいぜい一駅二駅程度の距離を動こうか程度のものを考えており、実はあらかじめ次の拠点は既に決めていて、下見だって済ませている。

 

 ある程度の重い荷物は事前に次の拠点に運び込んでいるし、俺としては意外なくらい順調に計画が進行していたのだ。

 けれど…そう、生活に必要な荷物を詰め込もうとした時に気がついたのだ、物を持ち運ぶための鞄が足りないという事に。

 だから良い感じの鞄が手に入るまでは適当にこの拠点で過ごそうと思ってふらふらしていただけで、計画をまともに進められない駄目な奴ではないのだ…多分…。

 

 閑話休題。

 ともかく、この大きな地下街は引っ越した後もまだ使用したいと考えていたから可能な限りここを根城にしている化け物どもの駆除をしておきたいと思っていたこと、そして目当ての物である大きな鞄を入手するためにこうして頑張っていたのだ。

 

 

「異形が3体。知子ちゃんを襲っていた異形が居たからまだ生き残りが居ると思っていたけど、結構いるものだなぁ……」

 

 

 ぼんやりと黒ずんだ空を見上げながら路地を歩きながら今日の駆除作業を思いだし、さらなる探索の必要性を身に沁みさせられていた。

 

 今回は無事、命の危険を感じる事は無かったが今後どうしようもない存在が現れたらと不安にはなる。

 逃げるだけならどんな存在からも成し遂げられる自信があるが、そもそもそんなものには会わないのが一番いいのだから、出来るなら早めにあの場所を確保して、自分の使用する出入り口以外を封鎖したいと言う想いがあった。

 そうなれば、気軽に食料の調達だって出来るし、なんなら地下街全てを拠点としたって良いと思う。

 

 そんな考えで皮算用していれば、ふと何かの気配を感じて遠くの建物の上に視線をやった。

 倒壊したものも含めれば三つ程度先にある、ビルの屋上あたり。

 

 

「異形……かな」

 

 

 建物の上を飛び移っている影を見掛けて呟く。

 

 

「あれ?」

 

 

 その影の姿をじっと観察していれば、ちらりとこちらに気が付いたその猿のような風貌をした異形はこちらを警戒するように大きく距離を取った後、建物から建物へ飛び移って逃げて行った。

 迷うそぶりすらないその逃げっぷりに、ぼうっと逃げた背中を見詰めていたが、襲い掛かって来ない奴らに対して態々攻撃を仕掛ける必要はないかと判断してこちらも視線を切った。

 

 

「変な……妙な異形だな」

 

 

 基本的に死者同士は共食いをしない。

 原因は知らないが、例え徘徊する最中にお互いがぶつかり合ったとしても攻撃する様子が見られないことから、それはきっと習性としての基本なのだろうと思う。

 そんな基本があるのだから、何時まで経っても奴らは減らないのだろうとも思うが…今はその話は良いだろう。

 俺にとっての問題は、それの例外に当たる存在が居る事だ。

 

 それが異形という存在である。

 死者は体の損傷度合いに関係なく人型を保っているのに対し、異形はもはや原型を成していない場合が多い。

 その姿は多種多様であり、特色も死者のそれとは異なる。

 動きが遅い、頭が悪い、どこにでもいるが特徴の死者に対して、異形はそれぞれが個性を持つ。

 例えばついこの間の蜘蛛のような異形であれば、足が速く、爪のような部位を持ち、天井などの立体行動を可能としていた。

 やっかいの度合いで言えば死者の比にならず、多くの者がこれの犠牲になったことは想像に難しくない。

 しかし、一見バラバラに見える彼らの習性だが、一貫している行動の中に異形同士での争いがある。

 縄張りを争うのか、それとも単純な力比べか、ともあれそんな行動を取る彼らは同様に、死者は行ってこない攻撃を俺に対して行ってくるのだ。

 地下街での安全確保はもっぱらそんな理由から。

 だから、異形を見掛けたら可能であれば隠れるか、身構えて攻撃に備える様にしているのだが…、どうやら例外も居たようである。

 

 路地を抜けた先の角を曲がり、墓地を周囲に構えた古びた教会に辿り着くと嫌な音を立てて開く扉を押して地下へと急いだ。

 コミュニティ間の不仲もそうであるが、先ほどの異形の行動も気になる。

 早めに態勢を整えなければと、部屋に入れば取って来た背負う形の大きなカバンを床に下ろしてあらかじめ纏めて置いた荷物を詰めて込んでいく。

 

 鞄に詰め込んでいく物のほとんどは衣類と武器ばかりで、我ながら物騒だと思ってしまう。

 

 

「……さて、これで詰め込みは終わりかな」

 

 

 最後に必要なものを取ってきたため、直ぐに荷造りも終わってしまう。

 考えてみれば初めての経験であるこんな作業も、物が少なければこんなにも楽なのだと実感しながら立ち上がった。

 

 

「夜の移動になっちゃうけど、まあ俺には関係ないよな」

 

 

 伸びをしてから荷物を片手に立ち上がった。

 詰め込んだばかりのリュックと以前から用意していた手提げ袋を持って古びた教会を後にしようとするが、外に出た途端に淡い寂寥感に襲われ振り返ってしまう。

 

 なんだかんだ長い事拠点とした場所であるからそれなりに愛着もあった。

 教会裏の墓地に埋葬した時からこの場所に住み始めたが、それもこれで終わりなのだと寂しく思う。

 

―――そんな風にもたもたしていればどうなるかなんて分かっていたにも関わらず、である。

 

 

「―――しまっ!!?」

 

 

 気が付いた瞬間、上空から飛来した電柱に押し潰された。

 

 かなりの高所から落されたのか、俺を挟む形で落下した電柱は先端を砕かせて瓦礫を周囲に撒き散らす。

 先程までは静寂しかなかった周囲から、ギギッと言う獣の嘲笑を含んだ鳴き声が一斉に鳴り響き始め、巧妙に隠していた重厚な獣臭が露わになる。

 

 群れだ。先ほど見掛けた猿のような風貌の異形が、群れを成して周りを取り囲んでいる。

 

 ギチギチギチギチ

 

 金切り声にも似た鳴き声を振り撒いて、周囲を飛び回る猿は木の洞のような目を砕けた電柱に向けており、小さな石を拾って投げつけてくる奴もいた。

 

 彼らの姿は、死者と似通っている。

 ボロボロの毛皮に、血が滲んだ口元と目元は長い間空気に触れていたのだろう、カラカラに乾き切っている。

 ぼんやりと、先ほど見かけた猿が仲間を呼んできたのかなんてどうでもいいような事を考え、電柱に押し潰された状態で彼らの姿を薄く開いた目で眺める。

 異形や死者が群れを作るなどありえない、そんな認識を覆す様な光景を見ても俺は何も口から発することが出来ない。

 

 そんな俺の姿を愉しむように周囲で近付きすぎることなく飛び回っていた猿どもであったが、その群れの中から、一際大きく口元がむき出しの禿げ猿が姿を現した。

 

 恐らくアレがこの電柱を落したのであろう、そしてこの群れを率いる存在である事を確信する。

 警戒一つすることなく、堂々とした姿で仕留めた獲物に近付いてくるそのボスは、飛び回っていた猿どもを引き連れて、何か鳴き声でコミュニケーションを取っていた。

 

 異形の枠組みに入っている自分でも、彼らが何を話しているかは分からない。

 猿の鳴き声など分かる筈がない。

 そしてきっと、知る必要など無いのだろう。

 

 どうせ彼らと話す試みなどする事も無く、命を落とすことになるだろうから。

 

 

「―――掴まえたぁ……!」

「ギッ、ギガギィッ!!??」

 

 

―――もちろん、命を落とすのはお前だがなっ……!

 

 目前まで迫ったボス猿の首元へと伸ばした片手で締め上げる。

 何も反応できず、ただ驚愕の声を上げる禿げ猿が綿菓子でも捻る様に締め上げられた自分の首を確認する前に、引き千切った。

 騒然とする周りの猿どもに口角を限界まで引き上げた笑みを向けて、物言わぬ骸となった手元の禿げ猿を放り捨てる。

 

 じっくりと黙っていたのはこのためだ。

 生きていると気が付かれない様に息を潜め、体を動かさない様に注意して、無警戒に近付いてきた頭を刈り取った。

 奇襲してきた奴らに対して有効な手の一つだ。

 俺も実は頑丈な体に物を言わせて結構多用している。

 

 

「1,2、3、4……16体ね。……逃げても良いよ? まあ、逃がすつもりは無い訳だけど」

 

 

 顔を引き攣らせた猿どもは、嫌に人間染みていた。

 

 



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熟した果実は地に落ちる

 

 

 背中に覆いかぶさっていた電柱を振り落して立ち上がり、襲い掛かって来た猿どもを排除するために、振ってきた電柱の被害が出ない様に懐に抱え込んだ荷物から愛銃を引き抜いて弾丸をばら撒いた。

 

 悲鳴と鮮血が宙を舞う。

 

 

(3体仕留めたかっ……!? いや、確認するよりも近付いて来る猿の対処が先だろうっ!)

 

 

 撃ち出した銃弾が猿の額を貫き頭を吹き飛ばすのを碌に見届けず、射程に入った猿を蹴りによる一撃で砕き散らした。

 壮絶な破壊音が鳴り響く。

 縄の様に太い毛や強靭な筋肉、頑強な骨を纏めて蹴りが貫いたのを一瞥して、砕け散った同胞の姿に泡を食った猿どもが時間を置いた隙に、適当に撒き散らした銃弾が仕留めた猿の数を瞬時に頭に入れた。

 並の死者に比べ、群れを成し連携する様を見せてくる、そして個々としてもはるかに上の身体能力を持ったこの猿どもはかなり危険だろう、だが。

 

 

(最初にボスを潰せたのは運が良かった……! これならさしたる消費も無く戦える!)

 

 

 慄き腰を引かせた奴から銃弾で撃ち抜き、無謀にも食って掛かって来た猿は蹴り技で寄せ付けない。

 最初は多く見えた猿どもの数も、あっという間に片手で数えられるものまで減ってしまっていた。

 

 もはや無策に飛び込んでくるものが居ないのを好機と見て、全滅を狙いに一体の猿との距離を縮めてアッパーの要領で顎から頭を破壊すれば、残った猿どもはようやく勝てないと判断したのか訳の分からない鳴き声を上げて一斉に散り散りへと逃げだしていく。

 

 ある程度予想をしていた俺は直ぐに持ち前の脚力で逃げ出した内の一体に追いつき、建物に叩き付けて磨り潰すと、比較的近くに居た猿を銃撃で蜂の巣にする。

 追撃出来たこの二体は何の抵抗も出来ないまま動かぬ骸となり、地に伏せた。

 

 が、出来たのはそこまでだった。

 

 

「あー……、2体に逃げられた…」

 

 

 慌てふためきながら屋根上を走り去っていく猿の異形を見送り、新しい弾倉を装填する。

 しばらく周囲の警戒を行うが、何も動く物が無い事を確認出来たため瓦礫に埋もれた鞄を引き摺り出して肩に背負った。

 予想外の異形の群れとの戦闘であったが、体に不調は感じられない。

 電柱が叩き付けられたが…まあ、あの程度ならばなんてことは無い。

 むしろ感情に流されて隙を作ってしまった自分の不甲斐なさに溜息が漏れた。

 

 無意識の内にグリグリとヘルメットを角に押し付ける。

 

 

「……まあ、落ち込んでてもしょうがない、か……と言うか、何だあの異形の群れ、ビックリした……!」

 

 

 両手でヘルメットの頭を抑えながらそう呟いて、小さくしゃがみ込んだ。

 自分の常識をこうも簡単に打ち破られてしまうと動揺するものだ、命を懸けたやり取りであったから何とかその間は冷静に目の前の事に対応できたが、落ち着いた今となっては頭の中でどう処理するべきか、ぐるぐると思考が巡ってしまう。

 

 

「異形の進化……? いや、というよりもあれだ、動物の死者化か? 人以外の死者は虫とかしか見たことなかったけど、あれがそうなのかもしれないな、うん」

 

 

 基本的に死者として動き出すのは人間だけである。

 それが何らかの要因で、通常の人間が異形に姿を変える事もあるが、蜘蛛のような形をした異形であるからと言って、蜘蛛が関係していることは無いのである。

 しかし、こっそり聞いた話によれば数年前は数こそ少ないながらも人間以外が死者化する事例もあったと言う。

 もちろん、人との交流を断っている俺がそれ以上詳しい情報を持ち帰ることなど出来ないから、見た事も無いその存在の話は眉唾物であったのだ。

 

 

「それがこうして目の前に現れるんだもんな、怖いなぁ……くそ……」

 

 

 人よりも動物などの慣れ親しんでいない生態が、凶器となって襲い掛かってくる事の恐ろしさを想像し体を震わせる。

 

 群れのボスを含めて15体ほど討伐したが、あの猿どもが後どれだけこの地域に居るのかと思うと、自分の身の心配もあるが、なにより知子ちゃんを心配する気持ちが強くなってくる。

 

 

「2体逃がした訳だし、この付近徘徊する可能性もあるのか」

 

 

 ぼんやりとそう呟いて、直ぐに予定を変更する。

 どうにも自分は久しぶりに会った生前の関係者が不幸になるのは耐えられないらしい。

 

 

「あの猿2体をしっかり処理するまでは引っ越しはお預け。さっさと終わらせるか……って、またかっ」

 

 

 背後から響いた小さな引きずるような足音を聞き分ける。

 

 瞬時に手元の銃を足音がした背後に向けて構え、未だに見えないその音の発生源を待ち受けるが、その正体の分からない足音にすすり泣きのような音が混ざっているのに気が付いた。

 鼻をすする音が近付いてくるのを、今度はどんな変な奴が来るんだと不安に思いながらじっと待ち構え、その姿が視界に飛び込んできた瞬間驚愕に目を見開いてしまう。

 何か言おうとした口は魚の様にぱくぱくと開閉し、構えていた愛銃はいつの間にか地に銃口を向けている。

 

 その相手は涙に濡れた顔をぐしゃぐしゃにして、俺に縋る様に足を引きずってくる。

 

 

「え……、知子ちゃん……?」

 

 

 ついこの前、ほんの二日前に送ったはずの彼女がそこにいる。

 変わり果てたその姿を晒している。

 

 幾つもの青い血管が大きく脈動しながら首元で隆起して、死人の様に青白い肌を涙で濡らして、虚ろな瞳には光なんてものは無くて。

 

 

――――感染状態の彼女が、死に掛けで目の前に佇んで居た。

 

 

 

 

 

 

 それは不思議な一時であった。

 

 死を覚悟して、自分の不幸を嘆き喚いた。

 碌な抵抗など試みもせず、全てを諦め投げ出した。

 そんな無様な姿を晒した筈なのに、突然現れたその人はそんな醜態に何を言うこともなく、私を闇から引き摺り上げた。

 

『――――君を助けに来た』

 

――――そんな言葉を掛けられたのは何時ぶりだろう。

 

 小さな背丈の英雄ヒーローは、小さな頃、隣にいてくれたお兄さん(ヒーロー)の姿に重なった。

 

 

 だが、美しい思い出に重ねたのはそこまでで、そこからは驚愕の感情に支配されることとなった。

 声も違う、背丈も違う、きっと性別だって違う彼女にあっと言う間に救い出されて、不可能だと思っていた現実を打ち破った彼女の圧倒的なまでの強さに愕然とした。

 武器を持った大人が事前に作戦を立てて複数人で対処に当たる異形と言う存在を、いともたやすく打ち砕いた小さな英雄を見て、思わず狂信者が圧倒的な力を持つ異形を神と呼ぶほど妄信する心理を理解してしまう。

 

 唖然としてお礼の言葉一つ伝えることが出来ない私に、彼女は不快感を表に出すことなく、それどころか怪我を慮って私を小さな背に乗せると彼女の拠点まで連れて行ってくれた。

 豊富な食料と武器を有する隠し部屋に連れられて、今は貴重な薬品を使い怪我を治療し緊張を隠せない私を変な口調で和ませようとまでしてくれた。

 

 人格者……なのだろう。

 少なくとも、人の本性が表に出てくるようなこんな環境となって、その善性を維持できる程度には。

 少なくとも、私が所属しているコミュニティが形だけで謳う、助け合いなどよりもずっと。

 

 強大な力、武装を持ち、一つの組織に属さない。

 あくまで自身の価値観のみで動く、ある意味では死者などよりも恐ろしい存在。

 それがコミュニティに属する者として見た彼女の評価であったが……私個人としては彼女を恐ろしいと感じることはなかった。

 むしろどこかのコミュニティで縛られていた方が恐ろしいのではとさえ思うほど、彼女の人格をいつの間にか信頼し心を開いていた。

 だから、拠点を教えて良かったのかと言う、助けてもらった人に対する発言では無いようなものをしてまで彼女の真意と危機感を探り、彼女を自分たちの問題に巻き込むのはやめようと判断した。

 

 感情に左右されないよう可能な限り損得勘定で判断しようとしたが、ほとんど感情論での判断になってしまったのかもしれない。

 たとえ錯覚だとしても、あの人の姿が重なる人が不幸になってほしくないと思ったから。

 そんな風に理由付けして彼女をコミュニティに取り込まないと決めれば、ほんの一時だけ何を気負うこともなく、遥か昔の幸せな日常に戻れた気分に浸っていられた。

 最近は夢ですら味わえなかったようなその感覚は、コミュニティでは鉄面皮と呼ばれる私の涙腺をやけに弱くして理性を揺さぶってくる。

 

――――出来ることなら、もう少しだけ

 

 そんな柄にもない事を思い描いてしまう程に。

 

 

 

 

「笹原さん? どうしたの、まだ怪我が痛むの?」

「……いえ。怪我といっても落下したときの小さなものだけなので気にもなりません。ただ…少し疲れただけです」

 

 

 覗き込むように顔色を伺ってきた、このコミュニティで最も年が近い同性である少女に返事を返す。

 周囲を見れば、女性の寝床であるこの一室で同じ様に雑魚寝している人たちが不安げにこちらを見つめている。

 

 やってしまった、そう思う。

 怪我して帰ったというだけである程度感染していないかと疑念を向けられるのに、おかしな行動をとって周りに不安を与えるようなことをするべきではなかった。

 少しあの不思議な人の事を考えすぎていたようで、周りから見た私は茫然自失としていたのかもしれない。

 柄にもない…、そう考えて頭を振り心配そうにこちらを見てくる彼女の視線から逃げるように薄い毛布を口元まで引き上げて横になった。

 

 

「……笹原さん、怒ってるよね?」

「別に、私が貴方の立場でもきっと同じようにしていましたよ」

 

 

 見捨てたことを気に病んでいるのだろうか?

 いや、彼女は割と強かだ、男を手の平で転がし、計算高く敵を作らないよう立ち回っている。

 きっと同じコミュニティ内で彼女を責め立てる大義名分を持った私に警戒しているのだろう。

 こうした心配する態度をとって周囲を味方に付ける環境を整えている、といったところだろうか。

 正直、そんな策略に付き合わされるのなんてごめんだ。

 

 話は終わりだと言わんばかりに、彼女の反対方向に顔を向ければ彼女も諦めたのか布団に潜り込むような音が聞こえてくる。

 ため息を吐きたいような気分になりながら、密封されて換気も出来ないこの部屋の空気の悪さに気持ち悪さを感じていた。

 

 二日前にコミュニティの拠点に戻ってから、ずっとこんな調子だった。

 

――――あの地下街に落ちた私が助かる訳がない。

 

 言外にそう言っていると分かる程の、疑心に満ちた表情を向けられた。

 部屋の余裕や人員の余裕もないから隔離されなかっただけで、少しでも不審な点があれば追い出される事だって十分あり得たと思う。

 きっと私には伝えていないが、近くで就寝する女性たちは警戒するように言われているだろうし、もしも変異する事があればすぐに殺処分するよう指示されているかもしれない。

 

 

(その癖、持ってきた食料だけは目の色変えて取り上げるんだから現金なものですよね……)

 

 

 あの人から頂いた食料を見せれば、出来れば迎え入れたくないという感情をありありと滲ませていたまとめ役達が態度を豹変させた。

 そんな彼らの様子に、このコミュニティの食糧事情を割と深くまで察してしまうが……まあ、もうかなり切羽詰まっているのだろう。

 一年程前に、この地域一帯を拠点としていた自衛隊の生き残り達が全滅してから、ここの食糧事情は困窮するばかりだった筈であるから仕方ない事ではあるのだが。

 

 

(……嫌な雰囲気。小隊を組んで外に出ても得られるものがほとんど無いばかりか、死傷者だって少ないとは言えない。……上は、口減らしのつもりでも、あるのかもしれないけど…)

 

 

 ずきりと痛んだ肩口を押さえて、瞼を閉ざす。

 暗雲しか見えないこのコミュニティの未来は、もうすぐ先にはあの奈落のような大穴が広がっているのではないかと思った。

 

 

(……ああもう、肩が痛い。地下街に落ちた時固い何かの上に落ちたと思ったけど、尖った瓦礫だったのかもしれない……)

 

 

 それにしても、本当に今日は空気が悪い気がする。

 息苦しさというか……閉塞感や圧迫感を肺を直接締め付けるかのような、そんな感覚が嫌に染みついてくる。

 

 妙な不安を感じて、胸元に潜めた拳銃を抱きしめた。

 微熱を持った拳銃の暖かさに少しだけ落ち着いた心に、じんわりと理解することがある。

 それは私が、あの小さな人をどう思っているのかという事。

 少しの間しか一緒に居なかったが、それでもあの人の役に立ちたいと思うほどの何かが、私のこの胸に巣喰っているのだ。

 

 

(……そう、ですね。明日ここを出て、あの人の所へと行ってみよう。一緒に居させてほしいって、役に立ちたいって言って、お願いしてみよう。どうせ何処に居ても結末は変わらないのなら……自分の最後に立つ場所くらいは……自分で決めたい)

 

 

 ひっそりと固い決意をする。

 いつまでもこんなコミュニティに居るよりも、少しでも好ましい人の近くに居たいと思うのは当然だろう?

 両親も、恋人もいない私にとってこの小さなコミュニティに居続ける理由は特にないのだ。

 

 ごろりと寝返りを打って、小さな寝息を立てている少女を見つめる。

 この子のことは好きではなかったけど、思えばこの場所へ避難してからよく遊んだものだ。

 別れの言葉くらいは必要だろうかと考えながら、彼女の日焼けした首元をぼんやりと眺める。

 

 

(……碌にお風呂にも入れてないのに、この子の肌は綺麗……。なんでだろう、日焼けして赤かったり黒かったり、それでモテるんだからきっと私の知らないところで努力しているんでしょう……)

 

 

 今までは大して気にもしていなかった様なことが、今はやけに頭を巡る。

 文字列のような思考が段々頭の中で加速して、熱を持ち始めたように感じる。

 

 穏やかに眠る少女の首元から視線が外せない。

 柔らかそうな肌を瞬きする事も無く見つめ続ける。

 

 

(明日になったら、まずはこの子に一言言って、それから上の人達に出て行くって言おう。引っ越すって言ってたけど、まだ大丈夫ですよね? それから……駄目だ、眠くて考えが纏まらない、もう寝よう……それにしても本当に綺麗で柔らかそう、――――ああ、そうだ、昔見たスーパーの豚肉みたいなんだ)

 

 

 自分の呼吸が浅く、早くなってくる。

 体が、頭が、カイロでも貼り付けたように熱を持ち始めたことに、疑問も抱けない。

 

 

(柔らかそう、綺麗で、手入れしているのかな? 飼育されていて、家畜がなるようで、幾ら位になるんだろう)

 

 

 熱を持っている筈なのに異様に寒い。

 先ほどまで痛かった肩口がもう何も感じない。

 先ほど食事した筈なのに――――やけにおなかがすいてしまった。

 

 

(お金は足りるかな? あ、でも、おやつは300円までだっけ。でも試食なら許してくれますよね。首元だけなら良いよね、だって申し訳なさそうにしてたから許してくれますよね)

 

 

 ふらりと身を起こす。

 隣で眠る少女へ手を伸ばす。

 開いた口から粘着質な音がして、この部屋に満ちる濃厚な、おいしそうな匂いに口元から涎が垂れた。

 

 おなかがすいて仕方が無かった。

 目の前の柔らかそうな肉を食べたくて仕方が無かった。

 

 もう少しで手が届くその瞬間、お守りのように懐に入れていた拳銃が床に落ちた。

 

 ぼんやりとその落ちた拳銃へと目を向ける。

 なんだか、それはいけないんだと言われているような気がして、身動きを止めてそれを見詰めてしまう。

 

 そして、拳銃が落ちた音に気がついたのは、当然他にもいた。

 

 

「……んっ、あれ? 笹原さんどうしたの?」

「――――え?」

 

 

 今自分は何を考えていた?

 少し前のそんなことさえ分からずに、口元から垂れる涎が毛布を濡らす。

 

 寝ぼけ眼でいた彼女が、ゆったりとした視線で落ちた涎を追う。

 それの出所が私の口元だというのを気がついたのだろう、只でさえ大きな目をさらに大きく見開いて。

 酷くゆっくりとした動きで、私の顔を見上げ、そして自分の首元へと伸ばされた腕を見た。

 

 一瞬で顔色が蒼白となる。

 

 

「――――い、いやあああああああああっ!!!!!!」

 

 

 悲鳴を上げた。

 甲高いその悲鳴はこの部屋どころか、コミュニティが確保している場所全てに響き渡ったであろう事は想像に難しくなかった。

 

 そしてその予想通り、近くで眠っていた女性達が何事かと飛び起きるとともに外からもバタバタと動き出す音が鳴り始める。

 一気に騒々しくなった場に、このままでは処分されるとぼんやりとした頭でなんとか認識して覚束ない足に鞭を打ち、立ち上がる。

 落ちた拳銃を拾い上げ、周りが状況を理解する前に部屋から飛び出した。

 

 ふらふらと駆ける私を通り過ぎ際のコミュニティの人達は驚いたように見るが、電気一つ付けていない状況が幸いして、誰も私の異常に気がつかなかったようだ。

 引き留められることも、攻撃されることもなく、あっさりと拠点から逃げ出して真っ暗な夜道を走り出す。

 

 

 皮膚が泡のように浮かび上がっているのを感じる。

 変色して青く脈動した血管が浮き上がっているのが目に入る。

 見たことがある症状で、その状態になった人が助かったのを今まで見たことがなかった。

 

――――ああ、そうか、私は感染しているのか……。

 

 それだけを理解して、ぐちゃぐちゃな頭のまま、ただその場から逃げ出した。

 何処に向かおうかなんて考えがあったわけではない。

 ただこの場から逃げ出さなければと足を動かしているだけだった。

 頭の中では、なんで、なんていう言葉や、どうして、なんて言う悲鳴ばかりが木霊してまともに思考なんて巡らせていない。

 だがそれでも、頭の中では目的地なんて考えていなくとも、体は勝手に行き先を決めていたようで。

 

 

 辿り着いたのは、つい先日訪れた廃れた教会。

 墓地が目立って、人が住んでいるなどそれまで考えもしなかった場所。

 なんでこの場所に来たのだろうと言う湧き出した疑問は、汚れた迷彩服を着て銃を構えているあの人に会って、すぐに氷解した。

 

――――最後にこの人に会いたかったのだと、悲鳴も、恐怖も、何一つ見せず躊躇することなく私を抱きしめたその人の温もりに、優しく教えられてしまったから。

 

 



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最初の言葉

 

 

 抱き留めた彼女の体は熱した金属のように熱い。

 隆起した血管は異常なほどに大きく脈動し、弱々しく震える彼女の体とは正反対だ。

 

 何一つ状況を理解しないで倒れ込みそうな彼女を思わず抱き留めたが、破れた服の隙間から除く肩の怪我を見て息を飲んだ。

 

 

「――――肩の怪我から感染してっ……!? そんなっ!!」

 

 

 破けた服から除く怪我を治療した肩口が、毒々しい紫色に化膿している。

 自分の治療に問題があったのかと自責するが、今はそんなことよりも対処方法を考えるのが先だと必死に自分に言い聞かせた。

 

 

「っ……! 知子ちゃんっ、意識をしっかり保って!」

 

 

 短く荒い呼吸を繰り返す彼女に必死に呼びかける。

 当然、こんな対応が正しいのかなんて分からない、感染状態の人間など、助けようとする方がどうかしているのだから。

 

 ふらふらと焦点の合わない瞳がこちらの顔の輪郭をなぞるように行き来して、自分を抱き締める俺の腕を弱々しく触れた。

 

 

「……ああ、梅利さん……。ごめんなさい……、こんな……迷惑、掛けて……」

「謝らないでっ……大丈夫っ、抗体薬はすこしだけど持っているんだっ……! これを使えば……!!」

 

 

 鞄から厳重に保管した筒状の薬品を取り出して、一瞬逡巡の後にそれを知子ちゃんの首元に注射する。

 青い液体が彼女の首元に注入されて、心無しか息遣いが落ち着いたような気がするが……こんなものではこの感染状態の人に効果が無いことは、十分理解していた。

 ほんの気休め、時間稼ぎにもならないような無駄な使い道でしかない。

 

 

「知子ちゃん、ごめんっ…!」

 

 

 一言言って、彼女の服を剥げば、わずかに見えていた肩口の化膿は上半身全体まで大きく広がっていて、死者と化す直前の状態なのだと一目で分かってしまう。

 愕然とした表情の俺を見ていたのだろう、彼女は自分の行く末を知って。

 

――――ゆっくりと納得したように、微笑みを見せた。

 

 

「……梅利さん、お願いです……私を殺してください」

「っ!? 嫌だっ、助かる道はある、諦めるなっ……!」

「……助からない、です。私の、事は……私が一番分かります……」

 

 

 そんなっ、なんて否定しようとした俺の言葉を遮って彼女は話し続ける。

 

 

「……迷惑だって、分かっていたのに……貴方の傍で最後を迎えたかった……。いつも置いて行かれるばかりだったから……誰かが最後に傍に居て欲しかった」

「迷惑なんて……」

「私……、貴方が別人だって、分かっているのに……大切な人に重ねて見ていたんです……最低ですよね……」

「――――……そんな、こと……」

 

 

 真っ青な顔色で、泡の様に膨れ上がった肌で、今にも意識を失いそうな状態で彼女は、懺悔でもするかのように語り続ける。

 

 

「だから……私の勝手な我が儘で、最後は貴方に傍に居て欲しかったんです……。どうか、どうかお願いです、私が私でなくなる前に……どうか貴方の手で私を終わらせてください……」

「……そんなの……無理だよ……」

「お願い、します……。私は、満足しているんです……本当はあの暗闇の中で、ひとりぼっちで終わるところだったから……。こうして、貴方の手の中で眠れるなら……私は本当に、幸せなんです……」

「……」

 

 

 腕の中で力無く笑う少女は、昔の寂しそうな頃と変わらない。

 

 

「あ、あはは……、あの暗闇で一人終わると思っていたらあんなに怖かったのに……私、今は怖くないんです……。貴方に重荷を背負わせると分かっているのに、私の心はやけにすっきりとしているんです……」

「知子ちゃん……俺は……」

「お兄さんと会えなくなって、お父さんとお母さんが戻らなくなって、また私はひとりぼっち……。死ぬのは怖くて、痛みも怖くて、……でもひとりぼっちはもっと怖かった……」

 

 

 何を勘違いしていたのだろう。

 立派に成長した彼女はもう一人で立てるから?

 ふざけたことを言うなよ、ならこの目の前でぐしゃぐしゃに表情を崩す少女の姿は、一体何なんだ。

 よく見ろよ俺、目を見開いて彼女の全てをよく見ろよ。

 

――――公園で一人座り込んでいた時と、何一つ変わっていないのだろう?

 

 

「だから、どうかお願いします。私の最後に、私の傍に居てください……私はもう、……ひとりは嫌なんです……」

 

 

 伸ばされた震える手を躊躇することなく掴み取れば、彼女は泣き腫らした顔を嬉しそうに微笑ませてお礼を口にする。

 ゆっくりと眠るように目を閉じてゆく。

 そして彼女は掴んだ手を離さないまま、安らかに小さく口を動かした。

 

 

「――――お兄さん……私は貴方が、……大好きでした……」

 

 

――――それっきり彼女は動かなくなった。

 

 

「……聞こえないよ。……そんな小さな声じゃ聞こえない」

 

 

 彼女の姿を見詰めたまま、止めていた息を大きく吐き出す。

 彼女の気持ちも、考えも、そしてこの終わり方に納得したのも充分に理解した。

 こんな悲しいだけの世界で、ある種納得した終わり方を迎えられるのは幸運なのだろうとも思う。

 

 

 ……だから、俺がこれからすることは勝手な我が儘に過ぎない。

 

 彼女の首元に手持ちにある最後の一本を注射する。

 

 

「君には生き続けてもらう。こんな願ったものさえ腐り落ちたような残酷な世界で、それでも君には生き続けてもらう。ねえ、知子ちゃん――――」

 

 

 いつも通り、頭にしっかりと固定されていたヘルメットを脱ぎ捨てる。

 

 風が肩まで伸びる黒曜石のような黒髪を薙いだ。

 

 

「――――そんな台詞を吐いたのが、君の運の尽きなのさ」

 

 

 側頭部から生える片角が外気に晒された。

 普段なら外でこれを晒すなどあり得ないけれど、今はそんなことよりもやるべき事がある。

 

 自分の口に手を突っ込んで、指先を少しだけ噛んで出た血を口に含む。

 舌で口中に血を付着させて、動かない彼女の体をじっと凝視する。

 そうして意識して目を凝らせば、動き回る『赤』があるのが確認出来る。

 化膿した肩口に滞留するそれが、彼女の全身に『赤』を行き渡らせる核であるのをしっかりと見届けて。

 

――――大きく開いた口で彼女の肩を噛み千切った。

 

 

 

 

 

 

 ある藪医者曰く、この感染菌は細胞の増殖を促進させるものらしい。

 

 なにかしら専門的な事を多く言っていた気もするが、こちらをビクビクと伺いながら説明するその医者にあまり多くの説明を求めるのも気が引けて、深く理解をしないまま続きを促したから、俺からあまり詳しい説明をすることは出来ない。

 だからおおよそ要約するならば、細胞の変異や増殖を、普段であればあり得ない方向性に持って行くのがこの菌の特性で、それに対する抗体を発見する前に爆発的な感染をしてしまったから、国家の崩壊までいってしまったのだと彼は言った。

 

 ようやく見つけた抗体も、発症前ならば効果を見込めても変異した細胞を戻すことは出来ない欠落品であり、それでも多くの人間を死に至らしめる小さな虫や鼠と言った感染源を死滅させることに成功した、この感染菌の真理に最も近付いている医者は、初めて見る人間としての意識を持つ異形を見て驚愕に体を震わせた。

 

『君の体は異形として、人間に近い形に進化した』

 

 動物であったり昆虫であったり、そんなどこかで見たことがある形へと変異するのが異形であるものの、これまで俺と同様の、全くの人型を保った異形は見たことがなかった。

 その理由がどうであれ、人間としての意識を保つ奇跡的な要因が自分にはあるのだと説明された。

 

 興味深くて、頭が痛くなるような説明を長々と続けていたその医者は、その中で一つの仮説を立てた。

 

『君の異形としての細胞は他に類を見ないほど強靱だ。だが、同時に今は人体に無害と言って良いほど安定している。あり得ないような状態だ。これまで死者や異形を研究してきて近いものすら見たことのない程に希有な奇跡。……だから確信を持って言えるわけではないが、感染している状態の人間に対し君の細胞を埋め込むことで、感染した細胞を従え、侵食する事無く安定する可能性も出てくるかもしれない……いや、流石にその実験はあれだし、……き、君に迷惑を掛けたくないしな……ははは……』

 

 

 最後の一言はいらない。

 つまり、この藪で、マッドで、どうしようもないダメダメ野郎が立てたこの仮説を、俺はこの土壇場で縋ることにしたのだ。

 それしか助けることの出来る方法が思いつかなかった、と言えるのだが……。

 

 だが、結果的にそれは全て――――望む方向へ転がった。

 

 

 

 

 

 

「……あ……れ? 私……生きて……?」

 

 

 目を覚ませばそこはあの教会の地下室。

 寂れた壁と天井が彼女を迎え、柔らかい布団が肩まで掛けられている。

 クラクラと揺れる頭を押さえて上半身を起こし、感染状態であったことを思い出して化膿していた肩に視線をやれば、ピンクと赤が混じり合った状態の、怪我が治った後のような肌がある。

 

 

「……え? 化膿して……腫れ上がって、いました……よね?」

 

 

 あやふやな記憶を辿ってそう呟いてみても、彼女の疑問に答える者は居ない。

 代わりにあるのは、足下から聞こえる静かな寝息だ。

 

 

「梅利さん?」

 

 

 身を起こして覗き込めば、いつも通り迷彩服を身にまとった小さな姿が目に入る。

 そんな少女の姿に安心してため息を吐けば、小さな寝言が聞こえてきた。

 

 

「……知子ちゃん……」

「……普通、私のことを初対面でそんな風に呼ぶわけ無いですよね」

 

 

 貴方は一体誰なんですかと囁いてみても、静かに寝入っている少女はなにも答えない。

 ふと視線を落とせば、床に転がった薬品と少女の手にある包帯が目に入る。

 自分がどうして生きているのか、そんな疑問がほどけたような気がした。

 

 

「貴方が、助けてくれたんですね……」

 

 

 どうして自分が生きているのかは分かっても、どうやって自分を生き残らせたのかは全く分からなかった。

 全身に痛みはなく、不調な箇所だって何処にもない程の全快具合、それどころか体がいつもよりも軽い気がする程だ。

 

 気になって寝入る少女へ近寄っていく。

 近付いてくる人陰に少しだけ身じろぎしたが、目も覚ます様子のない少女は隙だらけだ。

 室内でもずっとヘルメットを外さなかったせいで、碌に見れなかった少女の顔を下から覗き、息を飲む。

 

 完成された造形、作り物めいた美しさがそこにはあった。

 

 

「……今なら、ばれないですよね?」

 

 

 思わず、好奇心に引っ張られて、少女の被るヘルメットへと手を伸ばした。

 この子は自分の知っている誰かなんだろうか、どんな姿形をしているのだろうか、そんなことを思って、深く被るボロボロのヘルメットを取ろうとして。

 

 少女の涙に手を止めた。

 

 

「……ごめん……知子ちゃん……、俺……」

「……なんで貴方が謝るんですか」

 

 

 意識がない少女の秘密を暴こうとした自分自身に嫌気が差して、ごめんなさいと呟けば、眠っている彼女もまた、ごめんなさいと口を動かした。

 

 居たたまれなくなって、少女の隣に移動して並ぶように壁を背にすれば、体温を感じたのか小さく寄りかかってくる。

 襲ってきた微睡みに身を任せつつ、ふと肩に頭を乗せてきた少女を見て、彼女が起きたらまずなんて言おうかなんてことを考える。

 

 ありがとう、だろうか?

 ごめんなさい、だろうか?

 それとも、貴方は誰なんですか、なんて言う疑問だろうか?

 

 色々考えながら、息苦しさのないこの密封された部屋で、もう遠い昔にしか味わったことのなかった安らぎに包まれて、ゆったりと意識を闇に落としていく。

 

そして、少女に向ける言葉を最後の最後で決めて練習するように呟いた。

 

 

「――――どうか、一緒にいさせてください」

 

 

 我が儘なそんな台詞を口に出せば、目が覚めるのが少し楽しみになった。

 

 

 

 



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波乱の前兆

 

 少し前、より正確に言えば一年よりも前の事。

 この周辺の地域は瓦解した自衛隊の生き残りにより、それぞれのコミュニティに僅かながらの支援と安全を与えていた。

 町中に残存する食料や飲料だけではいずれ枯渇する事を理解し、拠点としている基地の内部や各コミュニティに野菜などで比較的育てやすい物を栽培して食料の確保を行えるよう努力を行い、残った銃器を使用して連携して異形や死者といった脅威を減らす活動を続けた。

 劇的に人口を減らしたこともあり、地域の食料を集めるだけで深刻な食料不足や水分不足に陥ること無く比較的安定して補給を続けることが出来たが、あくまで地域一帯のコミュニティが錯乱して暴徒に変化することなくやってこれたのはこの自衛隊の役割が大きかったのだ。

 

 だからこそ、精神的な支柱ともなっていた彼らの存在が突如無くなってしまったのは、反転、目に見えない大きな打撃をこの地域の生存者達に与える事となる。

 精神的に追い詰められ、食料や飲料確保の問題で切り詰められ、安全圏を確保できなくなった生存者達は次第にコミュニティ間での交流を閉ざしていく事となった訳だ。

 そして、そうやって生ませるのは認識の相違と貧富による疑念、つまりお互いを敵として認識することとなる。

 

 

「ふうん……武力衝突こそ無いけど、何度か集団同士で睨み合いをしているのは最近見るようになって、可笑しいなと思っていたら……そんな事情があったのか」

「はい、私の居たコミュニティは100人程度の集まりなんですが、年寄りが3割、子供が2割、女性が3割とで実働可能人数がとても限られているんです。女性の中でも動ける者を外回りの男性集団に組み込む程度には追い詰められるほどに。そして、その内部情報は交流があった頃に他のコミュニティに渡っているので……その、奪われる標的になるとしたら私達が狙われるだろうと言うのは、よく言われていた話だったんです」

「な、なるほどなあ……」

 

 

 知子ちゃんが語るその内容を、なるほどと顎に手を当てて考えている風を装う。

 

 少し情報の擦り合わせがしたいと言うと彼女は一息であまりに長いこんな説明を始めたのだが、当然そんな急に色々言われても俺が理解できる訳がない。

 最初の頃こそ、話について行こうと思い必死に聞き入っていたがそれも早々に放棄、今は彼女に情けない姿を見せたくないと言う理由で分かっている風を装い相槌を打つばかりだった。

 

 ……早く終わってくれっ……!

 自分で話を振った癖にそんな情けないことを考えている事は、目の前の彼女には絶対に悟らせないように、ただポーカーフェイスを心掛ける。

 

 

「――――と言った事情で私はコミュニティを纏めていた人達に意見具申をしていたのですが……、あの……聞いてますか?」

「ああううん、勿論。巨大怪獣をやっつければ良いんだよね?」

「1ミリもそんなことは言っていませんっ……!」

 

 

 どうやら間違った相槌をしてしまったようだ。

 赤ら顔で眉尻を上げた知子ちゃんがする、拗ねたような苦言に対して俺はただ平謝りをするしかない。

 

 

 知子ちゃんが俺の元へ来てから数日が経った。

 感染状態が安定するまで看病して昨日ようやく目を覚ました彼女の無事に喜び飛び跳ねていたのも束の間、真面目な顔で頭を下げてきた彼女の様子に慌て、碌に話も聞かずに頷いていたらいつの間にか同棲することとなってしまった。

 いや違うんです、確かに元男だって伝えてないし、俺が彼女にとってのお兄さんと呼ばれる存在である事を彼女に知らせていないけど、この幼気な少女の体を使って知子ちゃんにセクハラしようなんて気は一切無いんです、ごめんなさい!

 

 いやまあ、意識が戻った当初こそ自分の変わり果てた姿に愕然としたものの、性差程度でどうこう言っていられる状況じゃなかったし、元々背も小さくて体の調子もそんなに変わらなかったから、特に違和感を感じることなくいつの間にか受け入れてしまっていた。

 まあ、少女の体に違和感を感じないとか悔しすぎますけどねっ……。

 

 

「……いえ、私の説明も配慮が足りませんでした。結局自分が何を伝えるのか要点を纏め切れてなかったのは私のミスです。……とは言えっ、巨大怪獣なんて一切話題に触れて居ないんですけどねっ!」

「あはは……ごめんなさい……」

 

 

 怒りつつも何故だか知子ちゃんは口元を緩めるという変顔をしているのだが、彼女は気がついているのだろうか?

 

 

「とまあ、私からは以上なんですが……梅利さんからは何かありますか?」

「うん、ちょっと待ってね」

「……?」

 

 

 説明を切り上げた知子ちゃんに、自分もあれの共有をしなければと荷物を漁る。

 不思議そうにこちらを伺っていた彼女は、俺が荷物から取り出したものを見て口元を引きつらせた。

 

 俺が両手で持ち上げたのは、回収していた予備の銃器。

 いわゆるスナイパーライフルと言う奴だった。

 

 

「折角二人で行動することになるんだし、ちょっと銃器の扱いを練習しよっか!」

「ア、ハイ」

 

 

 なぜか片言で力無く頷いた彼女の姿に小首を傾げながら、俺は外出の準備をするために動き出した。

 

 

 

 

 

 

 市街地に残るビルの屋上から荒廃した町を見下ろして照準を合わせる。

 目測はおよそ700メートル。

 目標は徘徊する死者の頭部。

 風は南南西からの微風、支障は無し。

 呼吸をするかのような自然さの中で、いつの間にか引かれた引き金により撃ち出された鉛玉はその身を回転させながら、正確無比に死者の眉間を打ち抜いた。

 

 遠くで糸の切れた人形の様に崩れ落ちた死者を確認して、渾身のどや顔を作り隣を見れば、唖然とした表情で力尽きた死者を双眼鏡で確認する知子ちゃんが居る。

 

 

「……え、嘘でしょう? あんな正確に頭部を打ち抜けるものなんですか……?」

「ふふん! まあね、そうそう出来ることじゃないけど、いやあ俺って銃器の扱いに関しては天才的みたいでね! 勿論少し練習はしたんだけど――――」

「よしっ……! なら私もやってみますね……!」

「――――……自慢話を、聞いて欲しかったなぁ~……」

 

 

 張り切る知子ちゃんの頭に防護ゴーグルを被せて、彼女の腕前を見守ることにする。

 最初こそじっと静かに狙い澄まして撃ち出した弾丸は狙った死者の頬先を掠めたものの、それでも諦めずに何発か狙撃して、感覚を調整していた彼女はすぐさま上達していく。

 基本的に何であれ知子ちゃんは器用にこなすのを知ってはいたが、こうして目の前で才能を見せられると目尻に涙が溜まる思いを味わうこととなった。

 

 

(ああ、あんなに訓練した俺の技術が……。い、いや、これが仲間なら心強いだろっ……! 変なプライド持つな俺っ……! でも……良いところを見せたかったなぁ……)

 

 

 この体は涙もろくていけない。

 取り出したハンカチで顔を拭きながら、知子ちゃんがテンポ良く弾を込めては撃ち出している音を聞く。

 弾を込める速度もどんどん早くなっていくし、狙いのほとんどを外さなくなってきたのを確認して、額に汗を滲ませながら無機質な瞳で標準を覗いている知子ちゃんを窺う。

 

 

「あ、あの、知子ちゃん……? もしかして、コミュニティで銃を使ったりって……?」

「銃なんてほとんど入手できない物、下っ端が使わせてもらえるわけありません。今回が初めてです」

「そ、そうなんだー……。それにしては良く当たってるね……当たりすぎてるくらい」

「そうなんですか? ではきっと、梅利さんの教え方がお上手なんですね!」

「あははは……、ソウデスネー」

 

 

 含みを感じさせない彼女の回答に、ヤケクソ気味に頷いた。

 彼女は仲間なのだから、悔しくなんて無いのだ。

 

 そうやってしばらく、夢中になって銃の試し打ちにのめり込む知子ちゃんの後ろ姿を眺めてから、もう一つの目的のために周囲を見回した。

 今回こうして狙撃の練習をしに来たのは単に技術向上を目指した物ではなく、こうして高所から探したいものがあったからでもあった。

 

 数日前に逃がした猿二体、あれは人間ほどと言わなくても知性を感じさせる存在であった。

 禿猿を頭に据えて集団行動を取っていた猿の群れ、その中から逃げ出した二体がむざむざ放浪をするだろうか?

 俺という力を持った危機に対し獣なりに何か対策を取るのではないかと不安を覚えて、こうしてこの地域に変化がないかを見ておきたかったのだ。

 まあ対策をされたとしてもそうそう負けるような肉体でないのだが、それは人間としての意識を持つが故と納得したい。

 

 

「……ここから見える分には変化がないか。死者の数が割と少ない気もするけど、まあ日中だから何処かに潜んでいることだろうし……」

「っ……!!? すいません梅利さん!! 異形が一体こっちに来ますっ……!!」

「蓋を開けてみれば室内にうじゃうじゃなんて事もままあるし、ねっ!!」

 

 

 悲鳴の様な警告の声を聞いて、高速で壁を駆け上がってきた百足に似た異形が屋上に顔を出した瞬間、蹴り飛ばした。

 黒光りする鋏を砕いたその一撃が百足の体を宙に晒し、百足がそのまま何も出来ずに落下していくのを見届ける。

 後方へ飛んで銃を構えていた知子ちゃんが目を丸くしてこちらを見ているが、なぜそんな視線を向けるのだろう?

 地の利を生かすのは戦術の基本だと思うのだが。

 

 

「……分かっていましたけど、梅利さんって規格外ですよね……」

「えっ!? 俺そんな変なことしてないよね!?」

「普通っ、あんな堅そうな異形を物理で叩こうなんて思いませんからねっ!?」

 

 

 警告から異形が頭を出すまでの間、確認する時間なんて無かったと思うのだが……。

 そんな抗議の声を上げようとした時に、背後の階段から響く足音を耳にする。

 

 意思を感じさせる複数の足音。

 ほぼ確実に何処かの生存者達だ。

 

 

「……え? 何やってるんですか、梅利さん?」

「何って、知子ちゃん! 屋上に来る足音がしたからね! 隠れないと!!」

「……えっと、その……、室外機の中は無理だと思うんですけど……」

「いけるいけるっ! 前はコンビニのATMの中に入ったことあるし!」

「え、もしかして私が前にコンビニ行ったときじゃないですよね……?」

 

 

 さあっ、と室外機に作った空洞に知子ちゃんが入るように促すと、酷く苦々しい顔をした彼女は恐る恐る片足を入れて体を入れようとする。

 だが、俺よりも一回り以上大きい彼女の体では室外機に入る訳もなかった。

 

 

「盲点っ……!」

「いや、当然ですよね……?」

 

 

 なんなんだこの脳内花畑はなんて目で見てくる知子ちゃんを余所に、俺は慌てて周囲を見渡す。

 隠れられる場所が見当たらない、万事休すの予感がするっ……!

 溜息交じりに笑う知子ちゃんが、とりあえず会話を試してみましょうと言うのをガクガク動揺しながら頷いた。

 

 階段を駆け上がってきた複数の足音が勢いよく屋上のドアが開かれる。

 現れたのは俺にとっては見たことのない、しかし知子ちゃんからすれば顔見知りの五人。

 

 

「――――お久しぶりですね、明石さん。まさかこの地域で貴方達に会うことになるとは思いませんでした」

「ああ、久しぶりだね笹原知子さん。君は実働よりも頭脳派だと思っていたんだが、どうやらその限りではないようだね」

 

 

 銃器こそ持たないが、前に知子ちゃん達のグループが持っていた鉄パイプよりも上等そうな斧や鉈といった武器を持った彼らの中で、会話を交わしてきたのは一人飛び抜けて目立つ奴だ。

 アイドルグループにでも居そうな、光り輝いているような錯覚すら受けるイケメンがそこには居た。

 

 

(ちょっ、何だあれっ、何だあれーーー!? 長身、引き締まった筋肉、甘いマスクっ、ふざけんなばーか!!! 滅びろーー!!!)

 

 

 俺の心の叫びが空しく脳内を駆け巡る中で、知子ちゃんと彼らの会話は続く。

 

 

「“東城”コミュニティはここの管轄ではない筈では? 遠征も過ぎれば侵略になりますよ?」

「ははは、少し境界を越えただけだろう? そんなガチガチにやったってお互いに良いことはないよ、同じ生存者同士仲良くしようじゃないか、なあ?」

「不快だと言っているんですよ、明石さん。このあたりの資材でも狙ってきましたか? 組織だって動いている様を見れば、そちらのお姫様も了承しているんですよね」

「全く冷たい子だな。同世代同士だろう、そう牙を剝くな。だが、こちらとそちらで少し話し合いが必要だと思っていた所なんだ。君が一人なら話しやすい」

 

 

 不穏な空気になってきたのを感じて、知子ちゃんの背中に隠れていた俺は手に持った自動小銃を物々しく鳴らす。

 後ろ手に片手を差し出している知子ちゃんに拳銃を渡した後、少しだけ体を覗かせれば驚愕の表情を浮かべたイケメン達が目に入った。

 

 

「……驚い…た…そちらはそんな本格的な銃器を入手したのか」

「少々縁がありまして。さて――――話がしたいんでしたよね?」

「ははは…困ったものだ。そちらのお嬢さんのお名前をお聞きしたいんだが良いかい?」

 

 

 なんとか会話の糸口を掴もうとしてくるイケメンを無視しても良かったのだが、チラリとこちらを見てきた知子ちゃんが会話を続けたがっているようなので、不本意だが乗ることにした。

 

 

「……名前を聞くときは、まず自分の名前から…礼儀だろう?」

「ああ、すまない礼を欠いたね。俺は明石秀作(あかししゅうさく)という者だ、お見知りおきを」

「……むう」

 

 

 素直に引き下がったイケメンに頬を膨らませる。

 なんだかこれでは自分が子供みたいだ、返事くらいはするべきか。

 イケメンの後ろで待機する男達を睨み付けてから、ヘルメットを少しだけ上げて顔を見せ重々しい口を開く。

 

 

「……花宮梅利、宜しく」

「…………」

「……? 宜しく明石さん」

 

 

 口を魚の様に開いたまま、黙ってしまったイケメンに知子ちゃんと顔を見合わせる。

 折角自己紹介したのになんなんだと、疑問をぶつけるようにイケメンの背後に居る男どもに視線を送れば、彼らも予想外の反応なのか呆然として動かないイケメンに小さな声で呼びかけている。

 

 本当になんなんだと不満げにイケメンを見れば、ばちりと目が合った。

 当然だ、あいつはずっとこっちを凝視していたのだから。

 

 ひっ、と恐怖を感じて後ずさると、イケメンはぽつりと呟く。

 

 

「…………天使だ」

 

 

 上気した顔で、興奮した目で、俺を捉えて放さないその瞳は病的だった。

 

 

 



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提示された案内状

 明石秀作26歳。

 “東城”コミュニティに身を置き、実働担当のリーダー的ポジション。

 親が外国人で、俗に言うクォーターらしいため、両親の実家に遊びに行っていたから語学も堪能。

 将来の夢は生存者を纏め上げ、国家を再興し、自分がその中枢で活躍して行くこと。

 家庭は夫婦円満で子沢山な、幸せなものを築いてみせると固い決意を感じさせる宣言をしてきた。

 

 ……してきた……そう、俺にしてきたのだ。

 ……信じられるか……これ、全部こいつが勝手に語り出した内容なんだぜ?

 

 そして今は美辞麗句を少しも恥ずかしがることなく告げながら、知子ちゃんの後ろに隠れようとする俺を熱い視線が捉えて離さない。

 めっちゃ怖い、滅びろとか思ってたのを土下座して謝って良いから、何処か知らないところで幸せになって欲しい……。

 

 

「――――ああ、君は今まで見てきた誰よりも、どんな魅力的な女性よりも美しいっ……! どうか恥ずかしがらず、この矮小な俺にその麗しい姿を披露していただけないだろうか」

「ひぃぃっ……、ち、知子ちゃんっ、何あいつ、何なのあいつっ……!?」

「い、いえ、私もこんな状態の彼を見るのは初めてですっ……。一目惚れ……と言う奴ですか?」

 

 

 恋は盲目とか言う奴だろうか……非常に迷惑である、身の毛もよだつとはこのことだろう。

 じっと熱を持った視線を向けてくるイケメンに怯えていれば、彼の周りに居る男達も不味いと感じたのだろう、口々に諫めようとする。

 

 

「あ、明石さん何言ってるんですかっ!? よく見て下さいっ、彼女中学生程度ですよっ! 犯罪っ、犯罪ですっ!!」

「そうですよそうですっ!!! それによく見て下さい、あの見るからに野蛮そうな服装! きっとお淑やかの欠片もない、暴れ馬のような奴ですよっ!!」

「俺ら東城さんになんて言えば良いんですかっ!? そんな簡単に心を奪われないで下さいっ!!」

「こ、こいつら、好き勝手言いやがってっ……!」

 

 

 あまりに好き放題言う彼らに歯ぎしりして知子ちゃんの脇から顔を出すが、変わらず凝視していたイケメンと目が合い直ぐに顔を引っ込めた。

 なんだあいつ……、マジ怖い……。

 

 

「もう帰る……おうち帰る……」

「梅利さん……お気を確かに……」

 

 

 小さな声で励ましてくれる知子ちゃんに思わずしがみつきそうになる。

 そろそろ彼らから離れないと本格的に情けない姿を晒しそうな自分に渇を入れて、隠していた体を出した。

 

 

「うう……話は終わりだろう? こちらも暇ではないんだ、帰らせてもらう」

「いや、まだ話は終わっていないよ梅利さん」

「な、なななな、なにが終わってないんだっ、早く要件を済ませろっ……!」

 

 

 俺がそう言えば、酷く名残惜しそうに首を振ったイケメンがようやく知子ちゃんに顔を向ける。

 

 

「この近く、動物園があった場所を知っているだろう?」

「ええ、存じています。ですがそれは、以前確認した際は何の変哲も無い、動物の死骸が転がる場所だったと記憶していますが?」

「ああそうだ。つい最近までは俺も、何の興味も抱いていなかった場所だ」

 

 

 含みがある、嫌な言い方。

 勿体ぶった話し方をするイケメンに不審そうな目を向ければ、こちらに軽くウィンクしてきやがった。

 

 

「つい最近、外回りに出ていた者達が帰らない事があった。それも外に出るようになり始めたばかりの若者ではなく、幾多の苦難を乗り越えてきた壮年の男性達だ」

「……それで?」

「――――死体が見つかった。数多に貪られ、鋭い爪で幾重も切り裂かれ、バラバラにされた彼らの成れの果てが」

 

 

 重い沈黙が場を包む。

 口を挟めないような重々しい空気。

 嫌に真剣な目をしたイケメンが、唾を飲み込んだ知子ちゃんを見据える。

 

 

「俺らの仲間がやられた、これは許せることではないがさして感情的になることでもない。問題はこれをやった奴らだ」

「……はい」

「犠牲になった者達はそれほど離れていた場所で活動していたわけではない。叫べば届く、悲鳴を上げれば駆けつけられる場所でしか無かった。複数の戦える男達を、悲鳴すら上げさせず惨殺する…こんなものが可能な奴がこの近辺にいるって言うことだ」

「……まさか新しいあれが誕生したとでも?」

「分からない、だが言えることが二つある。東城さんはこれを最重要警戒するように俺らに指示した事、そして、先ほど言った動物園の中に放置されていた筈の動物達の死骸が跡形もなく無くなっていると言うことだ」

 

 

 ……動物園というとあれだろうか?

 小さな頃によく行っていた、割と大きな動物園。

 何が飼育されていたかは良く覚えていないが、確か有名どころは全て網羅していた様な気がする。

 

 と言うかだ、なんだか妙に身に覚えがある話のような気がするのだが……より正確に言えばほんの数日前に似たような集団に襲われた時のことに。

 

 

「特異な異形であればまだ良い、だがもしも動物園の中にあった死骸全てが動き出したのなら、それはそれぞれのコミュニティだけでは手に負えない、そうだろう?」

「そうですね、それは確かに頷けます。他のコミュニティにも既に?」

「いや、“泉北”は話にならないし“南部”は別の奴らが接触を図っている。“西郷”の君に接触できたのがおそらく初めてだろう、そちらの事情も察しているがこちらとしては協力体制を築きたい」

「なるほど……」

 

 

 悩むように顎に手を当てて視線を下げた知子ちゃんを守るように、俺はイケメン達を警戒する。

 だが、その話はどうやら奇襲の為の布石とやらではないようで、何をするわけでもなく男達は知子ちゃんが答えを出すのを待っているようだった。

 

 どうするか……と、知子ちゃんに視線を向けずに考える。

 コミュニティのしがらみなど俺にはほとんど分からないが、彼女は俺の所へ来るまでに感染状態をコミュニティの仲間に見られたと聞いた。

 普通であれば、感染し変貌を始めた者が助かる道理など無く、元のコミュニティで彼女は死亡扱いになっているであろうことはまず間違いない。

 つまり、今の彼女にはコミュニティとの繋がりなど無く、コミュニティの決定権など持ち合わせていないのだ。

 

 

「どうだろう、俺としても可能な限り戦力は整えておきたいんだ。食料にしても、武器にしても、情報にしても、ね」

「……そうですね……ですが私の勝手な一存でコミュニティの動向を決めることは出来ません、個人的には協力できればと思いますが持ち帰り検討させていただきたい」

「……ふう、まあそうだろうな」

 

 

 知子ちゃんの答えに仕方なさそうに溜息を吐いたイケメンを見ながら思う。

 

 当然、知子ちゃんとしてはこの場凌ぎをするしかないのが現状である。

 今はコミュニティに所属していないと言えば、相手から見た俺らは後ろ盾がなく豊富な武器を持った非力な少女二人でしか無い。

 外見上の戦力差を見れば、多少の危険は無視しても攻撃すると言うのも選択肢の一つには充分入るだろうと俺は思う。

 だからこそ、未だコミュニティの中枢の把握を匂わせながらも、協力体制の話を延期する必要があった。

 俺としてもベターな選択だと思う、うん、平和的な常道だろう。

 

 だが、常道だけではままならない場合も、時にはあるのだ。

 

 

「動くな、頭を砕かれたくなければな」

「――――っなぁ!?」

 

 

 男達の最後尾。

 何気なく死角に入るように、イケメン達の背後に回った男をすれ違いざまに地面に叩き付け、頭に銃口を押し当てる。

 

 懐に伸ばしていた手元を確認すれば、警察官が使うような拳銃がその手に握られている。

 なるほど、とっておきの飛び道具を使って俺たちを始末か無力化でもするつもりだったのだろう。

 中々悪辣なコミュニティのようである、勿論俺が気が付くことは見抜けなかったようであるが。

 

 俺の声に、何の反応も出来なかったイケメン達が慌てて背後を振り返った。

 取り上げた拳銃を見せびらかしながら笑いかける。

 

 

「良い物を持っているじゃないか、護身用か? 俺たちも武器は欲しいところなんだ、一つ貰うが構わんな?」

「ばっ、馬鹿なっ……!? どんな速度っ、どんな身のこなしだよ!! 目で追えなかったぞっ……!?」

「糞っ……!! いや、お仲間が射線上に居るんだっ、銃は使えねえやっちまうぞっ!!」

「悪く思うなよお嬢さんっ!!!」

「……」

 

 

 この拳銃をくれれば無かったことにしてやると言った意味合いでの発言だったが、どうやらそれは通じなかったようでイケメン以外の男達が手に持った武器をそれぞれ構えて襲いかかってくる。

 

 このまま相手しても良いんだけれどと思いながら、ちらりと棒立ちのイケメンを見る。

 最後尾に居た男が拳銃を持っていて、おそらくこいつらのコミュニティのトップに気に入られているであろうイケメンが持っていないとは考え辛い。

 ならここのタイミングで、単純に戦闘に入るのは間抜けだろう。

 

 唇を舌で嘗めて気合いを入れ、押さえ込んでいた男を後方に投げ飛ばす。

 

 

「動かないで知子ちゃん」

 

 

 そう言って、聞こえているかも確認せずに駆け出した。

 同時に取り上げた拳銃をイケメンの顔の直ぐ横を通るように発砲する。

 

 つんざくような発砲音が静寂を割る。

 

 鳴り響いた音で襲い掛かっていた男達の身を竦ませたのを横目に駆け抜ける。

 すぐ真横を走り抜ける俺の影を数瞬遅れて男達の目が追うが、目だけでそれなのだ。

 俺を止めることや捕まえること、ましてや攻撃することなんて彼らは出来はしない。

 

 次の瞬間には俺の目標であるイケメンがもう目の前にいる。

 イケメンがほとんど反射的に腕を立て作った守りの隙間を縫うように、鳩尾を突いた。

 たやすく崩れ落ちたイケメンにそれ以上の追撃はせず、事態の急変に目を丸くしていた知子ちゃんの傍に戻る。

 

 

「さて、やっちゃって良いかな?」

「――――ま、待って下さい梅利さん」

 

 

 自動小銃を構えて、いつでもイケメン達を蜂の巣に出来る態勢を作るも、知子ちゃんに慌てて制止される。

 まあそうだろう、俺も本当に撃つつもりはなかった。

 折角こうして圧倒的に有利な状況を作り上げたのだ、丸々肥えた果実は収穫しないと意味が無い。

 

 見れば男達は自分達の敗北を悟ったのだろう、先ほどまでの強硬的な態度を一転させ、武器を下ろして呆然としている。

 もう戦意はないようであった。

 そこまで確認して俺は、口の端を歪ませて彼らをせせら笑う。

 

 

 

 

 

 

 装備の譲渡、情報の提供。

 そのどちらも有無を言わせない形でイケメン達から奪い取り、頷かせることに成功した。

 知子ちゃんの手腕……と言うよりも、イケメンが直ぐに条件を言い出し、許しを請うてきたのだ。

 

 渡された拳銃二丁の弾を確認しつつも警戒を緩めはしなかったのだが、どうやらそれ以上の抵抗はするつもりがないのか、男達は俯き気味に顔を隠して身動きせず、ぼんやりとこちらを見上げるイケメンに覇気は無い。

 やり過ぎただろうかと考えて、直ぐにその思考を振り払う。

 あちらが何処までやるつもりだったかは分からないが、怪我をさせることも厭わなかったであろうし、最悪一人や二人処理するつもりだったのかもしれないからだ。

 

 

「ではこれで手打ちとさせていただきます。もしもこれ以上攻撃してくることがあれば、その時はお覚悟を」

 

 

 冷たく言い捨てた知子ちゃんが歩き出すのを、後ろに控えていた俺が追従する。

 交渉役を任せきりにして申し訳ない気もするが、まあ戦闘担当としてはそれなりの活躍を出来たのではないかと思うので、それで相殺だろう。

 

 勝手にそう納得しながら、屋上から去りつつイケメン達の方を見れば彼らは小さな声で何かを話し合っている。

 常人離れした聴覚が聞き取ったのは不穏な会話ではなく、これからどうするかと言ったもの。

 

 これならば問題ないかと安心して、イケメンに視線を向ける。

 なんだかかんだ気持ち悪いことをやっていたが、それもこれも俺らを油断させるための布石であったと思えば評価できるだろう。

 たとえそれが俺の気分を害するものだったとしても、それさえ彼の技術として見習うべきだ。

 そんな掌を返したような彼への印象に、自分も見習わなければと言う清々しい気持ちでのなんてことは無い仕草での延長戦でイケメンを見たのだが。

 

 そうして視界に入ってきた、恍惚とした表情をこちらに向けるイケメンの姿に清々しかった筈の気持ちは一息に地の底のドロドロとした所まで落とされた。

 

 

「……知子ちゃん。あいつの俺への態度って……演技だよね?」

「えっ、明石さんですよね? ……じゃないんですかね?」

 

 

 渋い顔を浮かべた俺に知子ちゃんは同情するような視線を投げてくる。

 

 どうやら考えなければならないことは山ほどあるみたいであった。

 

 



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舞台裏の準備

 様々な補強を施され昔の形は見る影もなくなった、元は市役所として使われていたその場所から、女性が一人空を見上げていた。

 まだ若い女性ではあるが、その達観したような雰囲気と全てを見通すような透き通った瞳は常人離れしている。

 黙っているだけでも彼女の周囲には目に見えない重圧があり、彼女が口を開けばおいそれと言葉を挟むことが出来ないような鋭さがある。

 誰も近付かせないような排他的なその空気はある種の神聖ささえ感じさせ、他を圧倒する超常的な何かを持っていた。

 

 彼女は憂うように見上げていた宙から視線を外し、そっと椅子に腰掛けた。

 

 

「濃厚な『赤』の香りがする」

 

 

 じんわりと机の上に置かれた報告書に視線を落とす。

 

 

「狂乱がこの土地に根を張り始めた」

 

 

 眉一つ動かさず、彼女は現状の保有する戦力と手に入れる事が可能な戦力最大まで甘く見積もって、諦観の言葉を吐き出した。

 

 

「無理ね、どうあがいても全滅しか有り得ない」

 

 

 絶望的なそんな言葉を吐いても彼女は臆した様子を微塵も見せず、拠点へ帰ってきた明石達の姿を視界に捉える。

 彼らには西のコミュニティとの連携を取るように指示したが、もはやほとんど力を持っていないあのコミュニティを招き入れたところで、現状を変えられるとは彼女は全く考えていなかった。

 彼らが直ぐに自分に報告に来るだろうと考えて、出迎えるために机の上の報告書を片していく。

 

 そこに書かれた動物達の異常な挙動については、今は思考から外して。

 

 

「――――泉北のように、神にでも祈るしかないのかしらね」

 

 

 窓の外では数日前までは全く見かけなかった鳥の群れが、遠くで狂ったように同じ場所をぐるぐると飛び続けている。

 

 

 

 

 

 

 イケメン達との思わぬ邂逅から得られた情報を辿り、俺と知子ちゃんは直ぐにその現場に向かうことにした。

 与えられた情報に踊らされていると言う言葉を否定は出来ないが、だからといって無視できるようなものでもなかった。

 情報の真偽と、状況の確認、あとは俺の異常な五感で何か判明できないものかと思い、寝床から歩いて三十分程度の距離にある動物園にわざわざ足を運んだのだ。

 

 昔やっていた刑事物でも何事も現場が重要だと言っていたし、知子ちゃんの意見も一度動物園を見てみないとなんとも言えないと言うことであったから、こうして直ぐに行動に移したのだが、結果は一目瞭然。

 

 動物の死骸など何処にも見当たらず、檻は完全にその機能を破壊されていた。

 

 

「見て知子ちゃん、やっぱりここも檻が内側から強い力で壊されてる」

 

 

 真っ青な顔をした知子ちゃんが、俺の言葉に小さく頷きつつ檻の破壊された跡を確認しているのを横目に、その中に足を踏み入れてみる。

 

 

(僅かだけど長い間死骸が放置されていた時と同じ匂いがする……、ほんの数日前まで死骸がここにあったというのは本当だろうな)

 

 

 自分の嗅覚を頼りに檻の中を見回して、その中を歩き回り始めた。

 慌てて付いてくる知子ちゃんの足音を聞きながら、部屋の隅に辿り着くと再び見つけた小さな穴を覗き込むようにしゃがみ込んだ。

 

 深い。

 底が見えないほどに深いその穴は、単純な崩落などには見えず、かといって力任せにどうにか出来るような形をしていない。

 半径20センチ程度の円状のその穴には、体の小さな自分でも入ることは出来ないだろうなと思い、持ってきた懐中電灯で中を照らしてみる。

 当然、何も見えなかった。

 

 

「ここにもありましたか。……なにも見えませんね」

「そうだね……石落としてみようか」

「なるほど」

 

 

 他の檻と同じように部屋の隅に出来ていたこの穴は、動物の死骸が喪失するこの事件に何らかの関係があると踏んではいるのだが、どんな関係性があるのか見えてこない。

 

 近くにあった石を穴に落とすと、石はあっという間に穴の奥に消えていき少しして堅い何かにぶつかるような音が帰ってくる。

 

 

「1.9秒…大体18メートルくらいはありそうですね」

「えっ、よ、よく分かったね? と言うかそんなに高さがある穴がこんな場所に出来るなんて…」

「まあ物理を囓っていればこれくらいは。それよりも早くここを出ませんか? 流石に…怖いです…」

「う、うんそうだね」

 

 

 やけに青い顔をしている知子ちゃんの様子に疑問を抱きながらも、彼女を連れて檻から出る。

 

 確かに、何もかもが分からないという状況には恐怖を覚えるだろうし、その中心地で音を立てたのだからそれなりの警戒をするのは当然の気もするが…。

 なんだか今の知子ちゃんは、もっと違うことに恐怖を抱いてるような気がする。

 こうして実際に動物園に足を運ぶことを進めてきたのは彼女であるし、なにかどうしようもなく受け付けないものがあるとは考えにくいのだが…。

 

 と、そんなことを考えたときに昔の事をふと思い出した。

 小さな彼女が号泣しながら野良犬に追われていた時の事を。

 

 

「あー……。……あれかー……」

「ひっ……、な、なんですか梅利さん」

「いや、ちょっとね。知子ちゃんって、動物苦手なの?」

「す、少しだけです。でも、そんなことで怯えているようじゃやっていけないなんて言うのも分かっているつもりです……。克服して見せますから私のことはお気になさらず」

「……すぐそうやって強がる。まあ、そういう頑張りは暖かく見守らないとか」

 

 

 うう……と呻きながら、鳥肌が立った腕を擦っている知子ちゃんに内心でエールを送る。

 

 青い顔をする彼女を心配しながらも、小さなボロボロのパンフレットを取り出す。

 この動物園の入り口で埃を被っていたパンフレットへ確認した場所の印を付ければ、残る未確認箇所はたった一つだけとなっていた。

 

 

(この動物園には数日前まであった死骸が綺麗さっぱり無くなっている。それらがどんな状態だったかは分からないけれど、10年くらい経っていると仮定した時、突如として死骸に菌が感染して動き出すなんて考え辛い)

 

 

 徘徊していた死者がぼんやりとした動きで知子ちゃんを捉え、不思議そうに固まったのを正面から瓦礫で頭を殴って処理する。

 

 

「……大人の死者がこうも簡単に……なんだか以前の私達が馬鹿みたい…」

(どの動物が居た場所にも共通しているのは、内側から強い力で檻を破壊した跡があること、そして地中深くから作られた穴があることの2つ……不味いな、嫌な想像をしちゃう。地下には何が居るって言うんだ……?)

 

 

 ぼそぼそと呟いていた知子ちゃんの言葉は碌に耳に届かず、俺は思考を巡らせる。

 

 あの穴から何かが這い出て、動物の死骸に何かをしたのだとするならば…、それは埒外な異形の存在を意味する。

 これまで地下街や山奥、完全に異形に占拠された町まで行ったことがあり、様々な変異を遂げた異形達を俺は見て、時に戦ってきた。

 多くの種類の異形達と闘ってきたと自負する俺だが、それでも他の異形と争うものや共生するものは居たとしても、一方的に死骸に影響を与えるような存在は、たとえ噂でも聞くことはなかったのだ。

 

――――だからこそ、この問題を小さく捉えてはいけないと結論付ける。

 

 情報社会を生きてきて、そして、この明確な正解を教えてくれることのない世界で生活してきて最も怖いと感じるのは、分からないことだ。

 事前の情報が何も無い、理解しがたい敵が最も恐ろしいというのは身に染みて理解している。

 油断一つ、情報一つ、何かの掛け違い一つで命を落とす人など幾らでも居る。

 

 そこまで思考を巡らせた時に、知子ちゃんとイケメンの会話が頭を過ぎる。

 そういえば疑問に思ったもののタイミングを逃して聞いていなかったけど…。

 

 

「知子ちゃん、あの、イケメンと話していたとき何だけど」

「……イケメン? ああ、明石さんですか」

「そうそう。その時、新しいあれが誕生したとかなんとか言ってたけど、あれって何のこと?」

 

 

 そう、彼らが会話の中で少しだけ話題に出していたその単語。

 明確な名称を言わず、それでも直ぐにお互いがその存在に思い当たるような常識的な何か。

 そんな常識に、俺は何の心当たりもなかったのだ。

 

 青い顔のまま、心底不思議そうにこちらを見てくる知子ちゃんは戸惑うように答える。

 

 

「何って……“主”の事です。あ、でもあれですね、“主”っていう名称はここら辺のコミュニティでの呼び方でしか無いので、自衛隊の人達が呼んでいた名称は、確か…特級危険個体とかそんな感じだったと思います」

「“主”? 特級危険個体?」

「えっと、本当にご存じ無いんですね。以前まではこの地域一帯は一体の“主”の縄張りだったんですよ」

「へえ、そうなんだ」

 

 

 知子ちゃんの説明に、俺は相槌を打つ。

 

 死者よりも異形が強い、それは彼らを遠目にでも見れば直ぐに分かる。

 そして異形の中でも強弱があると言うのも、異形を観察していれば割と直ぐに気が付くような事だと思う。

 どういった変異をしたものが強いだとかそういうのはよく分からないが、異形同士でもどうしようもない格差と言うものが存在するのだ。

 この地域を縄張りとしたと言うからにはかなり強い異形がそれに当たるのだろう。

 少なくとも俺はそんな化け物と相まみえることは無かったが。

 

 より詳しくその“主”とやらについて聞こうと、知子ちゃんに続きを促そうとした時、遠くに見覚えのある姿を見付けた。

 

 

「あ、あいつ」

「へっ? ええと、どこの事ですか?」

 

 

 ほらあそこと、檻の上で何やら飛び跳ねている人型を指さした。

 猿である、以前俺が逃がした二体の内の一体…かは分からないが、とりあえず所々禿げて血が滲み、目元はカラカラに干からびている点は同じであった。

 知子ちゃんがその姿を捉えると同時に、向こうもこちらに気が付いたのか木の洞のような目をこちらに向けてくる。

 知子ちゃんは恐怖により顔を青ざめ、猿は獲物を見付けたと言う様な不快な笑みを浮かべたが、次の瞬間俺と猿の視線が合った。

 

 数秒の硬直。

 どうやら向こうもこちらの事を覚えていたようだ。

 反応が何もないので軽く手を振ってみる。

 

 

「ぎゃぎゃぎゃぎゃっーーーーー!!!???」

「えっ、なになになにっ!?」

「ひえええええっ……!!」

「あ、知子ちゃんっ!?」

 

 

 脱兎のごとく逃げ出した猿がこちらを見向きもせず高速で走り去り、隣に居た知子ちゃんは突然叫びだした猿の姿に怯えて腰を抜かしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 ちらりと窓を補強する木の板を眺める。

 幾重にも重なり自分たちの拠点を守ってきたその木は、長い間雨風や外敵から自分たちを守ってきた証明をするかのようにボロボロだ。

 そろそろ新調しないとな、なんて考えながら、外の警戒当番だったその男は腰を下ろしていたパイプ椅子の立ち位置を変える。

 

 腹の音が鳴る。

 食糧不足により、朝と夜の食事しか支給されなくなってしまったために、次の食事の時間まではまだかなり時間があった。

 イライラとする感情に任せて壁を殴りつけたい衝動に襲われるが、なんとか僅かな理性でそれを制する。

 こんな外との接点で大きな音を出せば立ち所に異形の来襲があるであろう事は、頭の悪いこの男でも理解していた。

 死にたくない、その一心で様々なものを見捨ててきた男は、死が近付いてくる可能性には敏感なのだ。

 ある意味で有能なのだ、粗暴で横暴で人望がなくとも、兵隊としてならそれなり。

 だからこそこうして、こんなコミュニティでもそれなりの地位を築けていたのだが…。

 

 だが、もうこの男の欲望は我慢の限界に達し始めていた。

 

 

(糞っ! 最近は何も良いことがねえっ! 餓鬼どもはどうしろこうしろとうるせェし、妙な計画を立ててる気配もある。食事も娯楽も、確かな安全も無いとか…所属するコミュニティを間違えたなこりゃあ。あーあー……、息が詰まりそうだ……、こんなんじゃ死んでるのと変わりねェじゃんかよ!)

 

 

 親指の爪を噛みはじめ、血走った目でなんとか外を眺める男は、自分本位な思考を巡らせる。

 

 

(どうせこの先なんてないんなら…、最後は楽しいことをやって死にてェな。俺的に好みだったあの知的そうな女はこの前感染して死んじまったし…あれだな、雛美とか言う男に媚びまくっている奴…、あれを最後に好きにして…)

 

 

 もはや、どうせ死ぬのならと言う思いに駆られ始めたこの男を止めるものはない。

 元々、他人などどうでも良いと言う犯罪者めいた思考をしているこの男がむしろここまで耐えていた方が驚きなのだ。

 

 油で光る髪の隙間から血走った目が窓の外から、コミュニティの女性達が過ごして居るであろう部屋に向けられる。

 直ぐに動くつもりはない、できる限り夢のような時間を送るには時と場所を選ばなくてはならない、そう思って、男は計算立てていく。

 

 

(くひひっ……、まずは少人数の時を狙わないとな。数人程度なら始末しても問題は無いだろう、どうせ奴らは俺を信用しきっている、事を運ぶのは簡単だ……!! 駄目だ、我慢が出来ないっ、できるだけ早くっ……、早く計画を実行しよう……!! ああ、もう今からあの女のぐちゃぐちゃになる様が――――)

 

 

 ニタニタと笑みを浮かべていた男が思考を止める。

 ぬるりとした妙な感覚を感じて、まともに動かない首に気が付いて、呆然と眼球を動かして自分の首元に視線を落として。

 

――――毛むくじゃらな細い腕が自分の首を貫いているのを確認した。

 

 

「がっ、かひゅっ……!?」

 

 

 言葉は形にならない、まともな音を出せない。

 パイプ椅子から崩れ落ちそうになる男の体を、窓の外から伸ばした長い腕で支えて音を立てさせない。

 

 外への警戒を任されていたのに、それを放棄したツケが最悪の形で支払われる。

 

 外から窓に張り付いている猿の化け物は嬉しそうに笑みを作り、死に体となった男の体を窓の近くまで引っ張った。

 

 

「かひゅっ、がふっ……!! や、やがああ……!!」

 

 

 まともに音を出せないまま、近くに居る仲間に助けを求める事も出来ないまま。

 一人の生存者は、いたぶられるかの様に、少しずつ捕食される。

 



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狂乱からの救出戦

 情報にあった動物園の確認はその後、数体の死者や異形を片付けるだけで何事もなく終了した。

 途中までの調査で考えていたとおり、どうやらイケメンが言っていた事に間違いは無いらしく、どの動物の死骸も発見することは出来なかった。

 情報収集としてはそう悪くない結果なのだろうが、だからと言ってそこから次に繋げられるかというとそうではない、結局、異常が起きている事の確認しか出来なかったのだから次に予想される危険に対し備えることしか出来ないのだ。

 

 問題は他にもある。

 異形の分類である俺は、基本的に食事はそれほど必要としない。

 二日や三日程度であれば何も口にしなくとも飢えや渇きを感じることはなく、極めて良好な体調を維持できる。

 だが同居人の知子ちゃんは別だ。

 人間、それも成人に成り立て程度の彼女にはそれなりの栄養は必要であろうと思うし、無理してやつれるような事はあって欲しくない。

 コミュニティが所有していると噂に聞く、菜園のようなものを俺も所有していれば好きなものを育てることも出来るであろうが、俺にそういう知識はまるでないのだ。

 自給自足でも出来なければ、いずれ食料など無くなってしまうと思うから余裕が出来れば作っておきたいとは思うのだが……まあ、それはまた今度。

 

 ともかく食料の確保の必要性が浮上したのだ。

 自分もついて行く、役に立ちたいと言って引かない知子ちゃんを無理矢理教会の地下室に押し込んで、この近辺で確実に食料が残っていると確信できる地下街に帰って直ぐに繰り出した。

 

 

「ええと……缶詰20個に乾物が十数袋。これで足りるかな……昔どれくらい食べてればお腹一杯になったんだっけ?」

 

 

 荷物一杯に入った戦利品を数えて見るが、これでどの程度持つのだろうと直ぐに疑問が湧き出した。

 

 自分が人で無くなってから丸々一年、碌に食事を必要としないこの体では、この量の食料でも半年は優に持つのだから人の体は不便だったのだなと思う。

 まあ、だからと言ってこんな体になりたかったのかと聞かれれば、首を縦に振ることはないのだが…。

 

 地下街を歩けば空間を埋め尽くす死者の群れが自分に見向きもしないで徘徊している。

 自分を襲うことはないからと処理を適当に済ませていたために、地下街に住まう異形の数は減っても死者の数はまるで最初と変わりない。

 

 

「……知子ちゃん。さっき死者と遭遇した時、襲われなかったな……」

 

 

 ぼんやりと歩きながらそんなことを呟く。

 

 死者は基本的に同種を襲わない。

 彼女が死にかけ感染した状態で現れた時、俺は彼女に力任せの応急処置を行った。

 彼女の感染した肩、そこに異物として入っていたものを食いちぎり、同時に体中を侵食していた感染を抑えるために自分の血を使って感染を重ね掛けた。

 急速に再生していった肩の傷口に自分の考えの成功を喜ぶと同時に、どうしようもない罪悪感に襲われたのだ。

 この子はまず間違いなくこちら側の仲間入りしているのだろう、そう思って。

 

 

「そうしないと助けられなかったんだから仕方ないのに……」

 

 

 ぐりぐりとヘルメットを深く被りながら大きな鞄を持って出口へ向かう。

 目的は既に達成したのだ、早く帰って知子ちゃんにご飯でも食べて貰おうなんて思いながら暗くなった外界へ身を晒して――――幾重にも重なった鳥の鳴き声に身の毛がよだった。

 

 

「う、うるさっ……!? なんだこれっ……!?」

 

 

 鳥達の大合唱。

 いや、鳥だけではない、多くの獣の鳴き声や唸り声が幾つも重なり荒廃した町に響き渡っている。

 

 興奮を、熱狂を、狂喜を。

 感じさせるそれらの音は、直ぐにでも耳を塞いで蹲りたくなる程に不快であり鳴り止む気配が全くない。

 音の発生源を探そうと腹立たしげに周囲を見渡せば、上空で鳥が異常なまでに密集し飛び交わしているのを発見する。

 あの下で何が起こっているのかと考えるまでもなく、その場所に俺は心当たりがあった。

 

 

「あそこって……知子ちゃんが居たコミュニティの拠点だよな……?」

 

 

 少しだけ逡巡して、様子を見るために足を動かした。

 

 

 

 

 

 

 血に飢えた獣達が異常な凶暴さを見せて、ホームセンターの補強された外壁を乗り越えにかかっていた。

 それだけではない、巨大化した象の形をしたものは直接外壁を壊しにかかり、キリンに似たものは首の中程まで裂けた口を建物の窓に突っ込んで直接咀嚼して。

 ライオンや虎、フラミンゴ等の鳥の群れ、それからアライグマのような中型の動物の死骸は目に凶悪な赤い光を灯して、餌袋でも漁るように百人ほどが滞在する筈のホームセンターを食い荒らしている。

 

 それは一種の地獄のような光景。

 悲鳴を上げながら逃げ惑う、その場所に住まうコミュニティの人達が次々に命を落としていく様を狂った動物達が各々の重厚な獣の鳴き声を上げ愉しんでいる様は、嫌悪の情を禁じ得ない。

 

 

「なんだよこれっ……!!」

 

 

 どうするべきか、どうしたら彼らを少しでも多く救えるのかなんて事が瞬時に頭を過ぎり、たたらを踏む。

 助けなければなんて思うけれど、その助けた後どうするのかなんて葛藤が自分の体をその場に縫い付け歯噛みする。

 

 

(そもそもあいつらは知子ちゃんを見捨てるような奴らだろうっ……! 助けるような価値があるのか……!?)

 

 

 常識外の光景であるが、何もこの場所が異空間と化した訳でもない。

 自分ひとりのやれる量は何一つ変わっていないのだと自分に言い聞かせて、手元の銃を握る。

 

 

(……ゆとりを持って道徳を備える、そうだろう……やれることはやらないと後味が悪い。助ける価値が無くとも、助ける理由なんてそれだけで充分か……)

 

 

 この危機から救い出した後の事は自分にはどうしようも無い。

 生前の知人である知子ちゃんとの同居だけでも自分の隠し事を隠すので精一杯なのだ、これ以上同居者を増やすことは難しい。

 だが、そんなことは分かっている。

 そんなものは自分がこの場でやれる、彼らを救い出す作業をしない理由にはならない。

 

 

(何よりも……きっとこのまま見捨てたら、知子ちゃんは泣いちゃうんじゃないかな……)

 

 

 くしゃくしゃの顔で、きっと自分に見えないように、あの子は涙を流すのだろうとなんとなく思った。

 

 

「ああ糞っ……! 帰ったら知子ちゃんに褒めて貰いますかっ……!!!」

 

 

 心は決まった、迷いもない。

 ならば後は実行するだけだ、そう決心した。

 

 全力で踏み込む。

 踏み込んだ大地は砕け陥没し、周囲に蜘蛛の巣状の亀裂が走り――――俺の体は圧倒的な推進力によって空を舞った。

 

 数十メートルはあった距離を一回の跳躍で飛び越えた先には補強された窓ガラス。

 空中で身を丸め、砲弾のように突っ込む場所にあるものを確認する。

 左に虎、右にアライグマ三匹。

 

 窓を割りながら転がり込んだ俺は踏み出した力を使って壁へ垂直に立つと、反応できなかったアライグマを直ぐに弾幕で片付け、咄嗟に距離を取ろうとした虎に壁を足場にして追撃した。

 

 

「よしっ、生存者は何処だ!?」

 

 

 首を吹き飛ばした虎の姿を確認し、そのまま走り出す。

 今の音でこちらに少しでも注意が引ければ良いが…なんて願うが、そんな都合の良いことそうそう無いだろう。

 早く見付けなくては、そう思って全感覚を総動員させる。

 

 

「人の匂いは――――こっちか!」

 

 

 わざわざ扉や階段など使っていられないと、目的地へ壁や床を突き破っていく。

 ぎょっとした様にこちらに気が付いた動物達を処理し、最速で人の匂いが集まっている場所に飛び込めば、そこには血に塗れた巨大な熊が鋭い爪を振りかざしてる瞬間だった。

 

 

「――――っっ!!!」

 

 

 四の五の言っている時間は無いと、振りかざされている相手も見ないで全力で体当たりを敢行した。

 

 意識外から強烈な体当たりを食らったのが悪かったのか、俺に為す術もなく吹き飛ばされた熊の化け物は、口から血を吐き散らしながら暴れ覆い被さった俺をなんとか振り落とそうとしてくる。

 熊は銃弾が通りにくいと聞いたことがあるが、この至近距離ならばそんな心配は無いだろう。

 ガチリと首元に銃口を当てて、組み伏せた熊の顔を見下ろせばそいつは恐怖に怯えるように抵抗を止めて体を震わせ始める。

 結局何の抵抗もしないまま、そいつは体を穴だらけにして動かなくなった。

 

 後ろを振り向けば、いつか見たあの三人を含む集団がそこに居る。

 

 

「な、なにがっ……自衛隊の人……!?」

「黙って付いてこい、脱出するぞ!」

「まっ、待ってくれっ! まだそこに猿がっ……!!」

 

 

 有無を言わさず連れ出そうとするも、気の強そうな男……確か兵藤と呼ばれていた奴が部屋の隅を指差してそう言うので、直ぐに銃口をそちらに向ける。

 確かにそこには猿が居るのだが……命乞いをするように五体投地してこちらに頭を下げたまま動かない。

 

 こいつも、逃がした二体の内の一体の様だった。

 容赦なく打ち抜いてやろうかとも思ったが、直ぐ外から獣の怒り狂う咆哮が聞こえてそれも止める。

 襲ってくる気配がないなら、わざわざ弾薬を消費し音を出すこともないだろうと思ったからだ。

 

 

「攻撃してくることがないなら放置する、さっさとここから避難するぞ、付いてこい!」

「す、すまねえ……。おらっ皆行くぞっ……!」

 

 

 商品棚を縫うように襲い来る中型の獣たちを、得意の聴覚で場所を特定し一匹残らず一掃しながら生存者の集団を先導していく。

 戦闘の邪魔にならないように少し距離を取っている彼らに対して問い掛ける。

 

 

「外にバスがあったな、その鍵は持っているか?」

「あ、ああ、持ってる。あのバスは動くが……公道なんて車が散乱していてバスなんて通れたものじゃねえだろう……?」

「いや、ルートさえ間違えなければ何とでもなる。一番近いコミュニティに逃げ込むぞ、運転できる奴はいるだろうな?」

「俺が出来る、ここから一番近い場所となると市役所を拠点としている“東城”だが」

「なら、その方向で行くぞ」

 

 

 それだけ短く会話して、生き残って付いてきている者達を一瞥し、子供や年寄りが居ることを確認して歩く速度を緩める。

 

 

「小さな子供や動けない年寄りに背中や肩を貸してやれ、見捨てようなど考えるな、その場所までの露払いは俺がなんとかする」

 

 

 不安など微塵も感じさせない俺の声に、今にも死にそうな蒼白な顔色をした者達が顔を上げる。

 愕然とした顔を向けてくる若者達と視線を交わして、正面から飛び掛かってきた獣達に向き直りヘルメットを深く被った。

 

 

「生き残るぞ。足を動かせ」

 

 

 そう言って目前まで迫った獣を薙ぎ払い突き進む。

 

 

 

 ホームセンターの入り口を飛び出して、直ぐに目が入るのは様々な種類の動物が入り交じった群れの中でも巨大な存在感を醸し出す象とキリンだ。

 あれをどうにかしないと、バスに乗り込んでも横転させられるのは目に見えている。

 

 空から強襲してくる鳥の群れに弾幕をばら撒いて打ち落とし、駐車してあるバスの傍まで行って早く乗り込めと動作で生存者達に合図すれば、彼らも直ぐにそれを理解して乗り込んでいく。

 俺達の姿を確認したのだろう、象とキリンがその巨体で他の動物達を吹き飛ばしながらこちらに突っ込んでくる。

 あのデカさで突っ込まれたら全滅だろう、最後に乗り込もうとしていた兵藤に声を掛ける。

 

 

「あれをなんとかしてくる。バスの扉を閉めてエンジンを掛けておけ」

「お、オイっ……!!? 嘘だろっ、あんな奴らまともに相手になんてっ……!!」

 

 

 高所から飛び降りたときのために持っていた鉤付きロープを手に持って、駆け出す。

 

 通り過ぎ際に噛み付いてきたキリンの首に鉤を引っかけながらその首に乗り、振り落とされないように数回巻き付ける。

 俺のことを無視してバスに向かおうとする象にキリンの首を駆け上がり飛び移って、そのロープを象の首元に同じように数回巻き付けてから、暴れ狂う象を大人しくさせる為に腕を背中に突き刺した。

 痛みを感じているのかは分からないが象の速度は目に見えて遅れ、こちらに敵意を向けてくるキリンがもう一度噛み付いてきたタイミングでその頭を掴み、ロープでキリンと象と頭を巻き限界ギリギリまで密着させる。

 あとは懐から、虎の子のグレネードを二つ程惜しげも無く彼らにプレゼントするだけだ。

 

 

「これで……終わりだっ……!!」

 

 

 象の背から飛び降りつつ、二匹の顔の付近に浮いているグレネードに銃弾を撃ち込んだ。

 

 火炎を含んだ爆発が至近距離で巻き起こる。

 砕け散った二匹の頭が血を撒き散らし、俺の迷彩服を赤黒く汚していく。

 

 激しい爆風に身を晒されて、吹き飛んだ体が数回地面に叩き付けられるが、そんなものでこの体はかすり傷一つ負わないのだ。

 直ぐに起き上がって、バスに襲い掛かっていた鳥の群れへ銃を乱射して蹴散らすと、そのままエンジンの掛かったバスに発進するように手で合図すれば、即座に動き出した。

 

 

「さあっ、ミッションコンプリートってね!!」

 

 

 通り過ぎようとするバスの窓に飛びついて、凄まじい早さで小さくなっていく動物の群れを見届ける。

 なんとか出来る限りの人数を生き残らす事が出来ただろう。

 とりあえず窮地を脱したのだと言う安心感から溜息を吐いた。

 だが、まだ安心は出来ない。

 このバスが通れるルートを教えなければと気持ちを切り替えて、しがみついた窓枠からバスに飛び込めば、生存者達の視線が俺に釘付けとなる。

 

 

「す、すげぇ……、あんた救世主だ……!!」

「なんでっ……!!? 私生きてるのっ……!!?」

「なんなんだあんたっ!!? 自衛隊の生き残りなのかっ……!? すげえよ、どうなってんだマジでっ!!」

「た、たはは……」

 

 

 喜び湧き上がる生存者達に照れ笑いを浮かべてヘルメットを目深に被るも、一斉に周囲に集まり寄ってくる生存者達に次々に握手を求められ、肩や頭を叩かれる。

 泣いて縋り付いてくる者も居るが、そんな人達全てにまだ時間を使っている余裕なんて無いので、そんな人達は軽く叩いて安心させながら運転席に近付いた。

 

 

「災難だったな、とりあえずは第一段階クリアか。……あ、そこは右に行って」

「おお……! お前……、いや、ありがとう……。お前のおかげで俺らは助かった……」

「たまたま目に付いただけだ。感謝はいらん。……そこは左でお願い」

「そ、そうか。な、なあ一つ聞いて良いか、お前女か?」

「…………そうだ。そこは左」

「あ、すまない。気を悪くさせるつもりはなかったんだ。怒らないでくれ」

 

 

 今はそんな下らないことを話している時ではない。

 と、そんな事を言いたい気持ちを抑えて、行き先を指示していく。

 

 

「……しかし、何者なんだ? 武器が良いってのもあるんだろうが…お前ほどあいつらを倒し慣れてる感じの奴なんて見たことねえよ。もしかして、お前が噂に聞く“南部”のハンターとやらなのか?」

「いや知らん。そんな奴がいるのか?」

「ああ。だが、さっきのお前ほどすげぇ奴なんて居ねえよっ! ハンターよりもお前が確実に上だろうなっ!!」

「ははは……、……まあとうぜんだけどねー……」

「ん? 何か言ったか?」

「んんっ、何もないな」

 

 

 チラリと車内を見渡す。

 歓喜するような啜り泣きと、音を出さないように小さく笑い合うバスの車内は先ほどまで殺され掛けていた人達が乗っているとは思えないほど、柔らかな空気をしていて。

 これからどうしようなんて言う、考えなしの行動をした俺の悩みも一時的に吹き飛んで一緒になって笑ってしまう程、彼らはお互いの生存を喜び合っていた。

 

 考えなしで、今でも馬鹿な行動をしたと思うけれど。

 

 無駄ではなかったと、ようやくそこで確信できたのだった。

 

 

 

 



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合縁奇縁の巡り合わせ

 ショッピングモールの生存者を乗せたバスは廃れた町中を行く。

 基本的に足で町を探索していた俺の記憶によれば、市役所までの道を間違いなく選んでいけば、途中で道が塞がることもなく目的地に辿り着くことが出来るだろうと言う確信があった俺は気楽に構えていたが、他の者達はそうでないようでハラハラとした様子で道の先を窺っている。

 もしも途中で降車することになれば、さらなる犠牲が生まれることは火を見るより明らかだったからだ。

 

 

「……なあ、そろそろ自己紹介とかしないか、お前の名前を教えて欲しいんだが……」

「いや、名を名乗るほどの者でもなくそのつもりも無い。君たちを安全な場所に送り届けたら拠点に帰らせて貰うつもりだからな」

 

 

 なんとか距離を縮めようとしてくる彼らに拒絶の言葉で壁を作る。

 このまま仲間扱いなどされても正直困るからだ。

 

 彼らは人で、自分は異形。

 幾ら信頼関係を築けたところで、彼らは俺の正体を知れば拒絶するであろうし、俺も彼らにこの秘密を打ち明けるつもりなど無い。

 何せ生前の知人である知子ちゃんにもこの秘密を打ち明けるつもりはないのだ。

 それを、ただ自分の力を知って擦り寄ってくるような人間性も分からない相手になんて、選択肢にも入る筈もなかった。

 

 

(はあ……、いずれ知子ちゃんも信頼出来るコミュニティに保護して貰わないとな……。本当はあの藪医者がいる所が良いんだけど……あいつ今何処に居るんだ?)

 

 

 一度、完膚なきまでにボコボコにした相手の顔を思い出しながらぼんやりと進行方向に視線をやっていれば、ふらふらと徘徊していた死者がバスの下敷きになるのが見えた。

 

 雨で路面が滑る状態であれば、たとえこの大きさのバスでもスリップして事故を起こしてしまうのだろうかなんて疑問を持ちながらも、あの兵藤と言う粗暴な男を諫めていた運転席の男に指示を出す。

 

 

「次は左に」

「ああ分かった。……なあ、お前の名前は言わなくて良いが、せめて俺の名前は紹介させてくれ。檜山って言うんだ、さっきは本当に助かった……ありがとう」

「礼は要らない。やりたいようにやっただけだ、気にするな檜山」

「……はは、あんた性格良いのか悪いのか分かんないな」

「何を言ってる。俺ほど性格良い奴なんて居ない」

 

 

 後はまっすぐ行けば到着だと伝えて、運転席の横から離れた。

 所詮中坊の頭では、腹黒そうな奴との対話ではいずれボロが出ると踏んだため、檜山との会話を早々に打ち切りたかったのだ。

 

 車内を見渡せば、疲労が溜まっていたのか、ほんの30分程度の移動であると言うのに眠りに落ちている者が多い。

 会話しなくて済むのならばそれに越したことはないかと、近くにあった椅子の側面に寄りかかれば、その椅子に座る者から声を掛けられる。

 

 

「あの……」

「ん?」

 

 

 そちらに顔を向ければ、いつか見た女性の顔がこちらを窺っていた。

 確か、知子ちゃんの話にも出ていたなんとか雛美さん。

 姓が思い出せない、話に出ていたような…出ていなかったような。

 

 

「あ、すいません、私は神楽雛美(かぐらひなみ)と言います、この度はありがとうございました。」

「ああ」

「貴方は……何処かしらのコミュニティに所属されてるんですか?」

「さあどうだろうな」

「女性の方ですよね、その、なんでそんな格好をされているんですか?」

「この格好はこれが一番行動に支障が出ないからだ。女だろうが、男だろうが命がなによりだろう」

 

 

 そう冷たく突き放した言い方をすれば、彼女はそうですかと視線を落とした。

 

 ……気まずい。

 今後の事を考えるとあまり距離を詰めるような事はしたくないが、ここまであからさまに冷たくすると自分が悪い事をしている気分になってくる。

 

 落ち込んだように顔を俯ける神楽さんに何か言葉を掛けるべきか迷ったが、結局何も思いつかないまま目的地へと到着してしまった。

 眠っている者達を起こしつつ、いの一番にバスから飛び出し、近くに居た死者を軽く処理して安全を確保する。

 俺たちのバスが接近してくるのに気が付いていたのだろう、市役所から武器を構えた集団がこちらを警戒するように接近してくるのを見つつ、ふと見覚えがある姿を視界の端に捉えた。

 ……そういえば“東城”コミュニティって最近聞いた覚えがあるような気がする。

 

 

 

 

 

 

「ああっ、また会えたね俺の天使!! はるばる会いに来てくれたのか!? よし分かった結婚しよう!!!」

「ははは……気持ち悪い近寄るなぁ!!」

 

 

 警戒しながらじりじりと距離を詰めてきた市役所を拠点とする彼らに対して、銃から手を離して敵意がない事をアピールしていたのだが、俺の姿を見付けたこの馬鹿野郎はその集団から飛び出して俺の元まですっ飛んで来やがった。

 明石秀作、ついこの前俺と知子ちゃんが遭遇し、少しの間敵対した集団のトップである。

 訳の分からない事を口走る頭の可笑しいヤベー奴だが、頭は可笑しくとも優秀でありコミュニティ内で高い地位に居る無視できない存在でもある。

 芝居だと思っていた以前の言動をそのままに俺に接してくるものだから、イケメンこと明石さんの周囲に居た武装集団はその隊列を乱し動揺して、俺の後ろから向けられるホームセンターからの生存者達の視線も痛い。

 

 意味の分からない言動を素気なく拒絶するも、明石さんは以前と何ら変わりない、キラキラした笑みを貼り付けて俺の態度をさらりと受け流し苦言を浴びせてくる。

 

 

「それにしてもコミュニティの方々を大勢連れてくるとは、少しアポイントでも取っておいて欲しかったな」

「……俺だってこんな急にお邪魔したいとは思わない。やむにやまれぬ事情があったんだ」

「ほう、と言うと?」

「それは俺の口から言うべきものではないが……結論から言うと、保護して欲しいんだ」

「……なるほど? となるとそうか、少し長い話になるだろうな。場所を変えようか」

 

 

 ほんとにこいつ頭の回転が速いな。

 状況を今の短い会話だけで理解したのか、何の警戒もせずに背中を向けて、俺らを拠点の中へと案内しようとする明石さんに感嘆の溜息を吐く。

 だがたとえ明石さんが理解していたとしても、周りに居る同じコミュニティの者はその判断に納得できないようで慌てて彼を引き留めようとする。

 

 

「あ、明石さんっ、拠点にこんな人数入れちゃ不味いですよっ! せめて東城さんに許可を貰わないとっ!」

「こんな人数を外で待たせてみろ、それこそ死者や異形の撒き餌になりかねないだろう。東城さんには俺から事後承諾を頂くから問題ない、迷彩服の者と代表者2名以外は武装解除だけさせて玄関ホールで休ませておいてくれ」

「で、ですがっ!?」

「そもそも彼女が向こう側にいる時点でまともな戦闘にはならないだろう。俺は無駄な被害など出したくはない、指示に従え」

「……了解しました」

 

 

 明石さんが有無を言わせぬ口調でそう締めれば、渋々といった体を崩さずとも周囲でこちらを睨んでいた者達は手に持った武器を下ろした。

 

 

「では梅利さん以外の他の方々はその中から代表者を二名選出して付いてきてくれ。代表者以外は武装解除して玄関ホールで待機、反抗的な態度を取るようなら実力で黙らさせて貰う。これがこちらの可能な限りの譲歩だ。梅利さん、不満はあるかい?」

「勿論無い、ご配意感謝する」

「はは、惚れても良いからな?」

「寝言は寝て言え……」

 

 

 前を行く明石さんの軽口を適当に捌きながら背中を追う。

 肩に掛けた銃器を預けるのも不安だが、取り上げるつもりもないと特別扱いされれば、本当にそれでいいのかと不安にもなる。

 勝手に一人でモヤモヤしながら早足で拠点の中を歩いて行く明石さんを見ていれば、いつの間にか代表者として選ばれたのか兵藤さんと檜山さんが着いてきていた。

 

 そのまま四人で言葉を交わす事も無く、清潔感が残る廊下を歩いて行けば目的地である部屋へと辿り着く。

 元は応接室として扱われていた、比較的広い部屋だ。

 明石さんが扉を開いて中に入るように促してくるが、俺はこれ以上彼らの話に参加するつもりはなかった。

 

 

「いや、俺はここまでで良い。後はコミュニティ同士での話し合いを行ってくれ」

「何? 梅利さんは……ああそうか、これまで見かけたこともなかったからな、所属期間が短い訳か。なら悪いがこの部屋の外で待っていて貰って良いか?」

「ああ、この場所から動かないようにしているから、何かあったら声を出してくれ」

 

 

 そう言って、軽く頭を下げながら部屋へと入っていく三人を見送って、その扉の横に背中を置く。

 コミュニティ同士での遣り取りなど俺を交えて欲しくはないし、なんなら相談すらされたくない。

 ちらりと外の赤く燃え始めた空を見上げて、ヘルメットを深く被る。

 

 

(直ぐに帰るって知子ちゃんに言って来ちゃったのに流されてズルズルとこんな時間まで……怒ってるかな?)

 

 

 着いてこようとする彼女を部屋で待つように説得するのは時間が掛かった。

 少し納得の色を見せた瞬間に力業で押し込んだ形となるが、一応は了解してくれた形となるので、きっと外を徘徊しているというようなことはないだろう。

 多分……きっと。

 その代わり、めちゃ怒っている可能性は高いが。

 自分にこれから降りかかる小言の嵐を思い、気持ちが勝手に底なし沼に沈んでいく。

 

 可笑しい。完全に庇護の対象で俺の方が彼女よりも色んな面で優位に立っている筈なのに。

 出会って、同居するようになって、気が付けばあっという間に生前の時のような関係が築かれてしまっている。

 家主は俺で、色んな技術を教えながら彼女の怪我も治療したりしているのだから、もう少し、こう、敬って欲しい気もする。

 ……まあでも、嫌ではないのだけれど。

 自分を諫めて、待っていてくれる存在が居ると言うだけで、心は何故だか安らいでしまうのだから。

 ほら、現に今、気が付けば口元が上がっている。

 

 

 そんなことを考えていれば、ガチャリ、とここでは無い少し遠くの扉が開く音とともに男女の話し声が聞こえてくる。

 どうやら他にも誰かがここへ客として招かれていたようで、その男女の事務的な会話と世辞の応酬はお互いとの微妙な壁を感じさせた。

 誰だろうとは思うが、それを確認する前にこちらへ足音が近付いてきたのを感じて、ヘルメットを少しだけ上げて僅かに歩いてくる者の足下が見える様に調整する。

 綺麗で機能的な女性用の靴と、軍用ブーツのようなもの二つが視界に入り込んできて、会話のテンポが悪くなったのを理解しながら警戒されないように、肩から下げる銃器から手を離して腕を組んだ。

 

 

「―――……梅利?」

 

 

 だからその言葉は、その声は、完全に予想外だった。

 

 思わず漏れてしまったような、信じられないものを見るような、疑うような、そんな声。

 聞き覚えのあるその女性の声に、床に向けていた目を見開いて早鐘のように激しくなった鼓動が自分自身の動揺を伝えてくる。

 

 知っている。

 俺はこの声を知っている。

 ずっと、小さな頃から近くで聞いてきた、聞き慣れた彼女の声を。

 

 目が合う。

 光の無い、冷たい氷のような瞳が鏡のように俺を写す。

 乾いた血が付着した、軍服のようなものを着ている彼女の汚れた姿が目に入る。

 ボロボロの黒髪を纏め、俺よりも一回り大きな背と引き締まった肉体はアスリートのよう、そして見慣れた筈の端正な容姿は彫像のように固い――――生前最後に見た、幼馴染がそこに居た。

 

 

「――――」

 

 

 頭の中が真っ白になる。

 

 泣き叫ぶ幼馴染が、感染し泡立つように肌が膨れ上がった俺へと必死に手を伸ばす光景が明瞭に頭へ思い浮かぶ。

 

 笑って、手を振ることも出来ないで、力の入らない体を壁に預けて、無理矢理抱えられて逃げていく幼馴染の幸せを願ったあの瞬間を――――思い出す。

 

 

「……え、嘘でしょう? 貴方まさかっ……」

 

 

 呆然としていた幼馴染が何かを言う前に、彼らを先導していた女性が声を漏らす。

 有り得ないものを見るようにじっと見詰め合う形となった俺らを解いたのは、それもまた有り得ないものを見たような、そんな驚愕の言葉だった。

 

 幼馴染と共に歩いていた二十代程度にしか見えない、不思議な重圧を持つ女性が呼吸を忘れたかのように口を開閉させ、目を見開いて俺を見詰めている。

 金縛りから解放されたように、ぶわっと吹き出した背中の汗を感じつつ、内心でこの女性に感謝するが、この人の姿に見覚えはない。

 

 どこかで会ったことがあっただろうかと一瞬だけ考えるが、そんな思考は思わぬ再会に塗り潰されまともに考えることが出来ない。

 視線が勝手に幼馴染の元へと向かおうとするのを必死で抑えながら、腕組みを解いて頭を下げた。

 

 

「……すいません、明石さんとお話がありこの場にお邪魔させていただいております」

 

 

 出来る限り、女性的な声を出すように努める。

 どうして幼馴染に自分が自分であるとバレたくないのか分からないまま、膝を震わせる女性に敵意がないことを伝える。

 

 

「彩乃……梅利君は……」

「…………分かってるお父さん、つい口に出ただけ」

 

 

 言いにくそうにしながらも諫めるその言葉に、幼馴染、南部彩乃(なんべあやの)は俺に向けていた視線を逸らす。

 彩乃を諫めた男性を見ればその人も何度も見たことのある、俺を本当の息子のように可愛がってくれた人だ。

 懐かしさが胸にこみ上げて、熱くなった目元を隠すようにヘルメットを深く被った。

 

 様々な感情が入り交じってその場に妙な空気が漂い始めた直後、黒髪の女性が口を開いた。

 

 

「南部さん、すいません。それでは先ほどの話でご都合の方をお願いします」

「ええ分かりました。そこの迷彩服の人、済まなかったね。ほら彩乃帰るぞ」

「ええ……ごめんなさい、人違いでした」

「……いえ、お気を付けて」

 

 

 黒髪の女性に促されるまま、二人は帰路に着くために歩き出した。

 チラリと彩乃に向けられる視線に反応しないように床を見詰めて歯を食い縛る。

 油断していると再会の喜びに耐えきれなくなりそうで、必死に彼女を見ないように努力する。

 

 そしてそんな俺を見てか、黒髪の女性は重々しくこちらに向き直った。

 

 

「……少し話があるわ、私の部屋に来て貰って良いかしら?」

「……? はい、分かりました」

 

 

 ありがとうと少しだけ安心したように顔を綻ばせた女性が、明石さん達の居る部屋に入り何か言っているのを聞きながら彩乃の後ろ姿を見る。

 

 あれから十年。

 何をしていたにしても彼女が変わるのは当然だと思うが、あのやけに冷たい目と彫像のように固い表情は以前の彼女とはあまりに差があって違和感を禁じ得なかった。

 幸せにと願ったけれどそれは叶わなかったのだろうかと、焦燥にも似た悲壮感に駆られて、すっかり女性らしくなった幼馴染の背中をぼんやりと見送った。

 

 

「さて、ごめんなさい、ちょっと歩くわ」

「は、はいっ」

 

 

 意識を彩乃から外して、慌てるように早足で先導していく女性に着いていく。

 そういえば何でこの人はこんなにも動揺しているのだろうと、見た目にそぐわない女性の様子に疑問が沸いてくる。

 

 聞いてみたいが……まあ、この先の部屋で何かしら話すことになるだろう。

 そんな風に気楽に考えて彼女の早足に着いていけば、明らかにこのコミュニティの重役しか入れないのではないかと言う場所まで連れてこられる。

 

 すれ違う人が不審そうな目でこちらを窺い、黒髪の女性が近くまで行くと慌てて深々と彼女に頭を下げる様子を何度も経て、ようやく辿り着いたのは元々市長室であったと思われる大きな部屋だった。

 この待遇は何なのだろうと思いながらも、誘導された柔らかそうなソファに身を預け、女性が直々に注いでくれた飲み物をありがたく頂いた。

 

 女性が正面のソファに腰を下ろす。

 嫌に鋭い視線が恐怖を孕んでこちらに向けられ、震える指先を抑えるようにもう片方の手でそれを握っている。

 ……あれ? もしかして俺、めっちゃ怖がられてないこれ?

 

 飲み物を口に付けたまま、そんなことを思っていれば女性の真っ青な綺麗な唇が動き出す。

 

 

「……死んでいなかったのね、“死鬼”」

 

 

 切り出された話の内容はそんな言葉から始まる。

 ……身覚えのないそんな名前で呼ばれても正直困ってしまう。

 動揺を見せないようにして飲み物をゆったりとした動作で机に置けば、瞳を震わせながらも気丈にこちらを見続ける女性としっかり目が合う。

 

 綺麗な瞳の人だなーなんて現実逃避しながら柔らかく微笑みを浮かべてみれば、女性は嫌な予感が的中したとばかりに恐怖で顔を引き攣らせたのだった。

 

 



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潜伏する”主”

 

――――私は自分が何でも出来ると信じていた。

 

 私は間違いなく天才と言うもので。

 家柄も、才覚も、容姿も何もかもが優れ、他の者よりも圧倒的に勝っている自分を人という大きな括りの中でも、勝者である事を信じて疑わなかった。

 

 勝利がほとんどの人生、されど敗北が皆無と言う訳ではなく、数少ない敗北を狂おしい程に後悔し、見つめ直し、改善を徹底してきた。

 確かに敗北は得るものがあるだろうと理解している。

 けれど何であれ完璧を求める私にそんな誤魔化しが通用するわけもなく、そんな日の夜は涙に濡れて羞恥に震えるばかりであった。

 数少ない敗北で、数多くの得るものがあるように、こんな苦い経験は二度としたくないと。

 何度も何度も何度も、歯を食いしばり、血を噛み締めて、歩みを止めることはなかった。

 

 だからこそ、信頼する自身の才と裏打ちされた努力、そして歩んできた苦難の数を思えば、私は誰であろうと負けるつもりなど微塵もなく、どんな苦難も乗り越えてみせるという自信があったのだ。

 

 

 それはたとえ、この世が終末と化しても。

 人が死者に、権力者が自死し、これまでの根本が引っ繰り返ろうとも。

 町が、都市が、国が、形骸化したとしてもそれは変わることはなく。

 

 自分ならばどうにでも出来ると信じて疑っていなかった。

 

 

 国を再興させて、その国を運営し、世界を救うのだと年頃の少女の様に信じきっていたのだ……そう、あの化け物と出会うまでは。

 

 

――――その時初めて私は絶望と言うものを味わった。

 

 

 片手でビルを倒壊させ、綿菓子を丸めるように車両を潰し、四方八方から放たれる弾丸の嵐をその身に浴びてなお、笑っているような化け物の存在。

 

 黒き鬼。

 異形の王。

 または、死を運ぶ鬼“死鬼”。

 

 無垢な少女のような風貌で、側頭部から生える羊のような渦巻き状の双角は闇のような漆黒、陶器を連想させる白い肌と蛇の様に縦に裂けた瞳孔を持ち、そしてその真紅の双眸は暗闇の中でも爛々と輝く――――美しき鬼。

 

 それは、その方との邂逅は私を――――

 

 

 

 

 

 

「そんな知らない名前で呼ばれても困りますっ!!!」

 

 

 妄信的な、若しくは異常な色眼鏡を通すような目で俺を見て、詰め寄ってきた女性から弾かれたように距離を取った。

 反射的に銃器を構えなかったのは、単に相手がこちらに害意を一切持っていないと肌で感じていたからと、流石に生きた人間を傷付ける程の覚悟を俺が持っていなかったからだ。

 

 俺の言葉に女性は一瞬怯んだように身を竦ませたものの、それでも煌々と瞳を輝かせながら口を閉ざす様子はない。

 

 

「そんな筈無いわ。貴方の事はよく知っているもの。傲慢で尊大で、誰よりも残酷を愛していた貴方の事を」

「お、俺はそんな人でなしじゃないっ……!」

「人でないものに人としての常識など求めないわ。その陶器のような肌、漆のような色合いの髪、寒気を感じるほどに整った顔の造形、……間違いない、間違いなく貴方は異形の王。お戯れは程々にして欲しいものね」

「ち、違うっ……! 俺はっ……!」

「――――なら、その後生大事に被って離さない鉄帽を外して貰いたいわね。その下にはまず間違いなく、身の丈に合わぬ巨大な双角がある筈だわ」

 

 

 女性のその言葉にふらふらと伸びた手がヘルメットを上から触れた。

 当然、これを外すことなんて出来ない。

 これの下には自分が人外だと証明するものがあるから。

 動けなくなった俺の様子を見て、目を細めた女性に何も言えないままグシャグシャに混乱し始めた頭を抱え込む。

 

 なぜ、そんな言葉が頭を過ぎる。

 “死鬼”とは何だ、そう思う。

 俺は俺でしかなくて、別の自我など無い筈だと背筋が寒くなる。

 傲慢、尊大、残酷を愛していた?

 そんな事は有り得ないと声を大にして叫びたい。

 だって、だって俺は何でも無い、何処にでも居るような男でしか無くて。

 ただ……大切な人達の幸せを願っていただけの人間だったのに。

 

 

「さあ、こんな問答なんて意味ないわ。貴方が何を思ってこんな事をしているのか、口を出すつもりなんてない。けれど“死鬼”、私から少し相談が――――」

 

 

 窺うような色合いを含んだ聞き慣れない自分を指す単語に、一瞬で頭が冷めた。

 

 代わりに吹き出したのは、氷のように冷たい苛立ち。

 

 

「ひ、ひぃ……ぁ……!!?」

 

 

 我を忘れて前傾姿勢になっていた女性を睨み付ければ、彼女は蒼白だった顔色をさらに悪くして喉元が干上がった様な悲鳴を上げ、身を竦ませる。

 しまったと自分の行動を後悔するが、女性の姿を見て自分がやらかした事の大きさを再認識せざる得なくなる。

 

 最初に見えた恐怖の感情など微塵も晒すことなく俺を追い詰めていた筈の女性が、たった一瞥睨み付けただけにも関わらず、口を噤み体を小さくしてガタガタと震え始めたのを見て慌てた。

 

 

「ごっ、ごめんなさいっ!! い、今のは思わずと言うかっ、と、ともかく本心じゃないんですっ!!」

「お、怒らないで……、違うの、私は貴方様を怒らせるつもりは……」

「ああもうっ、こっち見て下さいっ!」

 

 

 俯いて震える女性の両肩を掴んで、無理矢理彼女と目を合わせる。

 恐慌状態の人間をどうすれば正常に戻せるかなんて知らないが、その前に自分たちはやるべき事がある筈である。

 俺と彼女は初対面の筈だ、少なくとも俺は彼女が言う“死鬼”とやらではないし、俺は彼女の名前を知りはしないのだ。

 ならばするべき事は簡単だ、お互いに自己紹介をしなければ話し合いなんてそもそも出来る訳がない。

 

 至近距離で目が合って、女性は恐怖で焦点がズレていた目を大きく見開いた。

 

 

「俺の名前はそんな変な名前じゃなくて、花宮梅利って言うれっきとした名前があるんですっ! 貴方の名前は何ですか!?」

「目が、黒い……? 私……、私は……東城皐月(とうじょうさつき)と言います」

 

 

 ようやく知ることの出来た女性の名前に顔を綻ばせれば、顔を真っ青にしていた女性の表情から少しだけ恐怖が薄まった。

 焦点の合った目で、まじまじとこちらの瞳を覗き込んでくる東城さんから顔を離した。

 その状態で数秒お互いの顔を見つめ合い、気が付いた事がある。

 ここって確か、“東城”コミュニティだった気がするのだが?

 

 

「東城……? え、あれ、東城って、このコミュニティのトップなんじゃ?」

「……ええ、その通りよ。このコミュニティを作り上げ、纏め、率いているのはこの私」

 

 

 肯定された俺の疑問に今度は俺の顔から血の気が引いた。

 顔を至近距離で突き合わせているだけでなく、肩を掴んで礼儀も何も成っていない今の自分の現状に、慌てて東城さんの肩から手を離した。

 

 

「ご、ごめっ! すいませんでしたー!! 失礼なことをしでかしましたー!!」

「あ……謝った? あの、あの方が私に……?」

 

 

 深々と頭を下げて許しを請う俺に、このコミュニティで最も力を持つであろう東城さんは目を白黒とさせる。

 動揺している東城さんを見て、俺はここぞとばかりに責め立てる。

 

 

「違うんです! 対人能力が俺には無いんです! 大人と同じ要領の良さを求めないで下さいっ! と、ともかく、すいませんでしたー!!」

「…………くっ……ふふ…あははははっ!」

 

 

 少しして吹き出すように笑い始めた東城さんは、何がツボに入ったのか、お腹を押さえてソファーに髪が着くのも構わず、それまでの雰囲気を放り捨てるかの様に笑い続けた。

 バンバンとソファーの角を叩いて、顔を真っ赤にしながら破顔する東城さんについて行けず呆然とその様子を眺めていたが、とりあえず彼女が落ち着くまで待つ事にする。

 ヒーヒーと息も絶え絶えになってようやく、東城さんは目尻に涙まで溜めた状態で俺に顔を向けた。

 

 

「分かった、分かったわっ……! 貴方は彼女ではないって事が、本当によく分かった……! あの傲慢を形にしたような鬼が、下等生物だと馬鹿にする人間に対して謝罪を口にする筈ないものねっ……!」

「え、ええと、そう、何ですか?」

「そうよっ! あいつ、本当に酷かったんだからっ! 性格の悪さをそのまま形にしたような奴で、他の異形とは違って悪戯に人を救ったりするから、より一層性質が悪かったものっ……! 色んな奴に希望を持たせたりして、本当に迷惑してっ……!!」

 

 

 なんだか一気にフレンドリーになったな、なんて思いながらも相槌を打つ。

 彼女からマシンガンのように繰り出される、その鬼への不満の発露は止まる様子が無い。

 それにしても何故だろう、自分とは関係ない人の事を話している筈なのにこんなにも胸元がムカムカとするのは。

 

 

「――――中でも最悪なのはあれよっ! 少女の形をしていて、知性があって、会話による意思疎通が一応は可能なのが本当に最悪だったんだから!! 前に話し合いが通じるんじゃないかって思った私が馬鹿だったわ!!」

「ま、まあまあまあ……。話を聞く限りその人の消息はもう掴めてないんですよね? ならあんまり居ない人の事を悪く言うのは……」

「……そ、そうね。思わず口が滑ってしまったわ」

 

 

 おほんと咳払いをして姿勢を整えた東城さんは、真剣な表情を作る。

 

 

「まあ、貴方がどんな存在かは棚に上げておくとして。まず悪い奴ではないって事が分かったから、それで良しとしておくわ。……あーあ、あの冷血な鬼が戻ってきたのならなんとかなるかもと思ったけど違ったか……、これは分の悪い賭けを続けないといけなそうね……」

「分の悪い賭けですか?」

「……んん、まあ良いか。貴方には無様な姿を晒しすぎたし、ここまで来たらお友達になりたい気持ちが強いし……。貴方、ここ最近動物たちが異常に暴れているのをご存じかしら?」

「そりゃあ……まあ、そうですね。知ってます」

 

 

 腰を下ろし直して、東城さんの質問にコクコクと頷けば、彼女は嬉しそうに口を付けていなかった飲み物で唇を濡らした。

 

 

「世界が終わったあの日から数年を経てようやく、人々の多くを死者へ追いやった空気感染若しくは蚊や小動物といったもの達からの感染を終息させる事が出来た。その時を境に、私たち生存者への感染経路は死者、異形からの受傷のみに限られるようになったの。ここまでは良いわね?」

「……はい」

 

 

 表情を変えず相槌を打つが、勿論初耳である。

 

 

「それの前であれば可能性は低いといっても、死骸が感染し動き出すことだって確かにあった。けれど今の状況ではそれは有り得ない。なら、今のこの状態の理由は? 結論を言えば、そう言う異形がいるって言うこと。感染を拡大させ、それらを従え、自分の糧にするような化け物がこの近くに」

「……俺もそれを薄々予想はしていました……けど、本当にそんな奴が?」

「居るわ、絶対に居る。その場所もおおよそ掴めている。だから、後は誘き寄せて討伐するだけなのだけど……恐らく戦力が足りない。姿形は掴めないけれど、それは恐らく南から北上してきた化け物よ、南にあった全てを食らい尽くして新しい餌場を探す、別の地域で“主”を司っていた異形」

 

 

 深刻そうな顔で重大機密の様なことを話されるが、こんなことを自分が聞いて良いのだろうかと心配になってくる。

 ここの“主”だったあの鬼が居れば、問答無用で縄張り争いが起こっていたんでしょうけど……、なんて憂鬱そうな顔で呟いた東城さんは溜息を吐いた。

 

 

「……とまあ、今の状況はこんなところね、時間が経てば経つほどその異形の戦力は大きくなっていくとは思うけれど、今はこちら側が整っていない。幸い“南部”との協力は築けた、あちらのハンターさんもわざわざ足を運んでこの近くの現場を見てくれるようだし、重火器の融通もしてくれる可能性が高いけど…何故だか私は勝てる想像が出来ないのよね……」

 

 

 話を聞く限りかなり切羽詰まった状況の様である。

 協力しても良いというよりも、するべきではないかと思うが…どうなのだろう?

 

 俺の力はごく一般的な視点から言って相当特異だと理解している。

 人知を越えた怪力など、普通の人が持っているわけはないのだから。

 だが、だからと言ってそれを人前でおいそれと晒せる訳ではない。

 余りに人知を越えた力を振るえば、俺が人間でないとバレてしまうからだ。

 

 だが、俺の所有している銃器を提供する等しても、戦力としての効果は薄いような気もする。

 以前知子ちゃんから聞いた話に寄れば、南部と言うコミュニティは崩壊を起こした自衛隊の生き残りの大半がそこに組み込まれたらしくかなりの武闘派。

 所有する銃器の類も一個人である俺に比べてかなり多いと予想出来るから、そこからの協力を取り付けたのであれば俺からの提供など無いようなものと思えるからだ。

 

 

(俺の持っている銃器で最大威力と言えば……あれか……)

 

 

 自分の所有する銃器を思い出して、一番ゴツくて危なそうなのを思い浮かべれば、それは引っ越し予定先に運んでしまっている事に気が付いた。

 一度取りに向かわないといけないのか……、と脳内に予定として追加して東城さんを見れば腕を組んで難しい顔のまま、まだ何かブツブツ愚痴を言っている。

 ……どうやら相当ストレスを溜めていたらしい。

 それも、初対面の俺に愚痴をぶつけてくる程にだ、……こんな人が組織のトップで大丈夫なんだろうか?

 

 

「まああの……出来ることならお手伝いしますよ。作戦の決行などはいつ頃を考えられてますか?」

「あっ、ごめんなさいね、愚痴に付き合わせちゃう形になって。そうね……はっきりとしたことは言えないけれど、一週間以内には動くと思うわ。少しでも人手があればそれに越した事は無いわ、どうか宜しくね」

「あ、はい! 宜しくお願いします!!」

 

 

 頭を下げて、どちらからとも無く腰を上げる。

 最初こそ行き違いがあったが、こうして和解出来たのは本当に何よりだと思う。

 これから取りかかるべき事を考えながら、部屋から出て行く東城さんの後を追う。

 ……まあ、何よりもいの一番に考えなくちゃいけないのは、知子ちゃんになんて言って謝るかなのだが。

 

 部屋から出ようとして本当に何気なく窓の外を見ると、遠くで旋回する鳥の群れがこちらを覗いているように見えた。

 

 

 



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狂乱の”主”

 

 

 

 服に付いた汚れを少しだけ払って、忘れ物がないかを確認する。

 やり残したことが無いかを短く考えて、出てきたのは幼馴染の事だけだったので、直ぐに解決出来る問題ではないかと自己完結させた。

 連れてきた生存者達に顔を合わせないように隠れるようにここまで出てきたが、どうやら見付からずにたどり着けたらしい。

 そうして出発前の最後の挨拶をしようと振り返れば、先ほど会ったばかりの東城さんと明石さんの二人が見送りに来てくれている。

 

 先ほどまでの感情的な姿がなりを潜め、東城さんは感情の起伏を表情にほんの少しも出していない。

 妙な重圧を振りまきながら立ち尽くすその姿は、ぼんやりと俺を透かして虚空を見ているような印象を与えられる。

 さっきのあれは何だったのだろう……これが上に立つものには必要な姿勢なのだろうか?

 そうだとしたら、やっぱり俺は人の上に立つ事は向いていない。

 そんな事を考えながら東城さんをまじまじと見詰めていれば、明石さんから声を掛けられた。

 

 

「……本当に帰るのか? 梅利さんの仲間も連れてきて、ウチのコミュニティに所属しても構わないと思うが……」

「あはは、ありがとうございます。でもそれも含めて待っていてくれてる仲間と話したいですし、取り敢えず一旦拠点に帰ろうと思います。東城さん、あの件についてはできる限り協力させて頂きますので、またここに訪ねると思います。その時はまた」

「ええ、楽しみにしているわ」

 

 

 ころりと微笑んだ東城さんと表情を曇らせる明石さんに少しだけ申し訳ない気持ちで頭を下げた。

 

 東城さんは別として、どうやら明石さんは俺もこのコミュニティに参加するものだと思って居たらしい。

 まさか俺が単独で拠点に帰っていくとは思って居なかったのだろう、東城さんと話をしながら帰る支度をしている俺を見て、話し合いが終わったであろう彼が慌てて声を掛けてきたのだ。

 

 別に自分という戦力を見せて都合の良いように彼らを動かそうとした訳ではないが、結果的にそのような形になってしまったのには変わりない。

 できる限り……彼らには協力したいと思う。

 それこそ、埃を被っている奥の手を彼らに譲渡しても良いと思う程度には、だ。

 

 

「今度良いものを持ってきますね、あ……食べ物とかじゃないんですけど」

「良いものって言って、直ぐに食べ物だと思うなんて何年前の常識よ……ふ、ふふっ……」

「ああ……ん? 東城さん、今笑いましたか?」

「気のせいよ」

 

 

 溢れた笑いを引っ込めて口を横一線に引き絞っている東城さんに、明石さんはツチノコでも見たような顔で硬直している。

 普段どんな態度で振る舞っているんだと気になるが、早く行けと目で訴えてくる彼女に背中を押される形でその場から離れた。

 

 考えてみれば結局、ここに住む人はこんな状況下に置かれているにも関わらずそこまで現実を悲観しているような印象を受けなかった。

 東城さんは良き指導者であるのだろうか……。

 彼女が俺に見せた無邪気な笑いを思い出して、無意識のうちに自分がコミュニティに所属できる方法を模索しているのに気が付いた。

 

 意識を取り戻して一年間、過剰に避けていた筈の生存者との関わりを。

 

 今の自分は少しだけ、考えを変え始めていた。

 

 

 

 

 

 

 つい先ほどとは違う、動物たちが跋扈する町中を駆けていく。

 最悪だっ……、そんな言葉が口から漏れ出した。

 

 襲われていたホームセンターに近付く程に見慣れた周囲の光景は変わっていき、気が付けば辺りは普段徘徊している死者や異形の姿が見当たらず、代わりにそこら中に居るのは動物の形がかろうじて残る化け物どもだ。

 どれもこれも敵意を示し、力の差を知らしめるために襲い掛かってきた数体を派手に砕いたが、それでも恐れなど知らぬかの様に次々と絶え間なく飛び掛かってくる。

 今までなかった異常な挙動が底知れぬ不気味さを感じさせ、意思の感じさせない赤い光を宿した目が、それを通して別のナニカに見られているかのような錯覚まで覚えさせてくる。

 

 

「くそっ……! まだあれから数時間だよなっ……!? 何でこんなに可笑しな状況になってるんだよっ!!」

 

 

 予想外の状況に言葉を吐き捨てて、これ以上の戦闘は弾薬の無駄になると判断して駆け抜けることを決めた。

 目の前に居た四足歩行の獣の頭を踏み台に大きく跳躍して、そこら中に転がる車の上を飛び移りながら進む。

 

 

「……あの教会ならそうそうこじ開けられる事が無いと思うけど……知子ちゃんは無事だよな?」

 

 

 口に出した途端に重くのし掛かってきた不安で口を閉ざす。

 

 嫌な想像ばかりが頭を過ぎる。

 楽観視していたつもりはないが、まさかここまでと言う想いがあったのは事実だ。

 焦りを抑えたまま、大型の動物たちの頭上を飛び越えて知子ちゃんが待つであろう場所へと向かう。

 

 

「――――不味い……」

 

 

 ようやく視界に入ってきた教会に周囲には、大量の動物たちが徘徊していた。

 

 この近くに生きている人間がいると気が付いているのかまるで離れる様子がなく、何かを探すように教会の近くを探し回り、時に教会の壁を破壊したりしている。

 地下にある秘密部屋とは言え、あれだけ荒らし回されていたら見付かる危険は高い。

 いや…既に見付かっていても可笑しくないのではないかとも思えるほどの危機的な光景。

 

 思わず息を飲み、即座に狂乱の場に飛び込んだ。

 

 

「離れろ!!!」

 

 

 着地と同時に足下に居た二体を踏み潰し、声を出し吠えることで化け物どもの視線をこちらに向けさせる。

 全方位から一気に襲い掛かってきた奴らからの攻撃を垂直に数メートル飛ぶことで回避して、真下に向けて銃弾を乱射した。

 比較的柔らかい外皮や筋肉を持つ奴らはそれで動かなくなるが、そうでない奴らは落下の力を使った踵落としで片づけた。

 

 どこから湧いたんだと思うほどに集まってきた化け物達を何とか処理しながら、教会の中へと視線をやれば物陰に隠れてこちらを窺う猿二匹を見付けた。

 なんだかんだ逃がしていた、あの猿二匹だ。

 

 

「お前っ……! お前らっ、その先の子に手を出したらどうなるか分かってるよなぁ!!?」

「キッ!? キキッ!!?」

「キャッ! キキ、キャキャ!!?」

「――――その時は逃がさない、今度は絶対に仕留めてやる」

「キキ!!!???」

「キャ……!!??」

 

 

 素手で化け物の頭蓋を砕きながらそう宣言すれば、猿達は慌てて教会の中へと駆け出していった。

 まさか知子ちゃんを人質にするつもりなんじゃなんて言う嫌な想像をして、その猿たちを追い掛けようとするが、周りに居る化け物達がそれを許さない。

 

 異常なまでの数で、異常なまでの執着で、俺を取り囲んで逃がさない。

 

 

(なんなんだコイツらっ!!? なにか変だ!!? まるで…まるで最初から俺が目的かのような……!?)

 

 

 不気味なまでに張り付いてくる化け物達に足止めされて、まともに進めずに足踏みしていた俺の隙を、ソイツは見逃さなかった。

 

 

 大地が揺れる。

 地が砕ける。

 局所的に大地震でも起こったかのような、視界が大きくぶれるほどの振動に、慌ててアスファルトに手を突き刺して耐える体制に入ったのは完全に俺のミスだった。

 

 

「――――えっ……?」

 

 

 周囲に居た化け物達ごと緑色の大きな壁に覆われた。

 棘のようなイボを無数に貼り付けたその壁は、それでも俺に襲い掛かってこようとする化け物達を押し潰しながら急速に目の前に迫り、俺も化け物達と同じように何の反応も出来ないまま体を挟まれる。

 

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 開閉を繰り返すその壁に、訳も分からず押し潰されていた俺はようやく理解する。

 

(これって、今俺、咀嚼されているのか……!?)

 

 痛みはない。

 怪我はない。

 この程度の圧力を何度喰らったところで、この体は傷一つ付かない。

 

 一緒に咀嚼されている化け物達がもはや見る影もなく細かく砕かれたのを横目に見ていれば、この口の持ち主も俺の異常な硬さに気が付いた様で、最後に一際強く噛み締めた後に俺を外に放り出した。

 何とか体制を立て直そうとした俺の体を細い縄のようなものが何重にも絡まってきて、踏ん張ろうとしても足下のアスファルトが割れてしまうような馬鹿力で引きずり回される。

 

 ビルに叩き付けられ、数十メートルの高さから地面に叩き付けられ、地面の中を引き摺り回される。

 大木のような縄の先端でハンマーのように叩かれて、針のように鋭い先端で傷を作ろうと突き刺してきて、幾重もの有刺鉄線のような縄で体を拘束される。

 それでも痛みも、傷一つさえ付かないこの体に、攻撃を仕掛けてきている何かも相当焦っているようで、その攻撃の種類も同じものの繰り返しのようになってきた。

 

 

 ……改めて思う、この体は相当にぶっ飛んでいる。

 普通の人間であれば即死するような攻撃の雨に晒されているにも関わらずこの有様だ。

 なんだか他人事かの様な気軽さで自分の現状を認識しながら、そんなことをぼんやりと考える。

 

 

(そろそろこいつの動きも精細さを欠いてくるだろうし……反撃するか)

 

 

 そう考えて体に力を入れようとするが、体に巻かれた縄のようなものを引き千切る事が出来ない。

 

 あれ……? なんて思う間もなく、体がやけに重いことに気が付いた。

 

 熱い、無性に体が熱い。

 病気で体が高熱になったかのような感覚。

 昔患ったインフルエンザの時に似た体の感覚に戸惑い身動きが取れないでいれば、何かに気が付いたのか、俺を攻撃しているソイツの行動が変化する。

 

 それまでとは違う、目的を持って俺を引き摺っていく。

 地中の深く、奥深くまで動けない俺を引き摺り込んでいくそれが、地下の大きな空洞にまで辿り着くと、ようやくこの縄のようなものの持ち主を視認する事が出来た。

 

 

――――それは大きな球根だった。

 

 第一印象を答えるとしたらこれだろうか。

 

 円錐状に膨らんだ球体から無数にも縄に似たものを出し、地上へ向けて這わせている。

 植物の出来損ないのような、腐った黒色に近い不快感を覚える色合いをしたその球体は、何を体にため込んでいるのか、大きくぶくぶくとこの地下空間を埋め尽くしている。

 大きなビル程度はありそうな程巨体で、舌なめずりをするようにこちらを窺う縄の先端は形状を変化できるのか大小様々で形もバラバラだ。

 

 

(か、怪獣と言っても過言ではないのでは……? 知子ちゃん……俺間違ってなかったよ……)

 

 

 現実逃避したそんな思考は次の一瞬で掻き消える。

 

 相変わらず力の入らない体を拘束したまま、その球根の化け物は一際ぶくぶくと肥大した膨らみをいくつか俺に近づけてきたのだ。

 近付いてくるその気持ちの悪い膨らみに顔を引きつらせるが、ソイツはそんなことはお構いなしに俺の顔の近くにそれを持ってくる。

 

 

「……一体何を――――」

 

 

 言い掛けた言葉を塞ぐかのように、視界を“赤”が埋め尽くした。

 

 膨れ上がっていた果実のようなそれから吹き出したのは、死者や異形の体を動かしている、感染菌の塊だった。

 

 

「――――あ゛あ゛あ゛!!!???」

 

 

 体が痙攣する様に跳ね上がる。

 

 痛みで思考が定まらない。

 

 酷い頭痛だ、割れるように痛い。

 その体を覆い隠すほどの“赤”の霧は、俺の体の自由を奪っていく。

 

 何とかその赤い霧から逃げようと暴れるが、もはや拘束など関係なく体は言うことを聞きやしない。

 ガンガンガンと、頭の内側から打ち付けるような痛みに歯を食いしばり、耳元で聞こえてくるブチブチという音に悲鳴を上げる。

 そんな死に体を晒しても、目の前の球根の化け物はそれを俺のそんな様を喜ぶかのようにさらに吹き掛ける”赤”を増やしていく。

 絶叫を繰り返し、あまりの痛みに涙を流す俺の意識は段々と削り落とされていく。

 

 そしてその終わりは感覚の喪失だった。

 最初に全身の感覚がなくなり、蝕んでいた激痛が突然消える。

 視界がぐらつき明滅し、耳が遠くなり、指先一つさえ動かず、力が無くなってがくりと落ちた顔が地面を見詰めて動かなくなって。

 そこまでして球根の化け物はようやく、噴出させていた赤い霧を止めた。

 

 

(……うご、かない……。力が……はいらな……)

 

 

 いつかの、感染した時のような体の感覚に、目の前に近付いてくる球根の化け物を見ることも出来ない。

 

 ガパリと何かが開く音がする。

 それが球根の化け物の体が捕食するために口を開けた音だとなんとなく理解しながら、眼球すらそちらに動かす余力は無い。

 頭が動かない、食べられると分かっているのに何も対策を考えることすら出来ない。

 ぼんやりと見詰めていた地面に大きな影が差して、化け物が目前まで迫っていることだけ理解する。

 

 ああ、ここで終わりか……、なんて言葉が頭を過ぎった。

 

 

『終わって良いのか――――本当に?』

 

 

 唐突に、その声が響いた。

 誰かの問いかけが頭に響く。

 聞き慣れた、この体の、自分の声。

 

 

『思い残すことはないのか? やり残したことはないのか? 残した者は無いのか?』

 

 

 やけに口達者に、小馬鹿にするかのように、興奮を抑えきれないかのように。

 言葉を連ねる誰かは、俺に問い掛けてくる。

 

 そんな問いに碌に考える余裕なんて無く、勝手に動いた俺の口が紡いだのは、「知子ちゃん……」なんて言う小さく言葉。

 けれどその問い掛けの主は、それだけで狂喜する様に頭の中で騒ぎ立てる。

 

 

『なあそうだろう、まだ何も果たせていないのだろう? ならほら示せ、私はまだ戦うと、突き進むと私に示せ!』

 

 

 その声で反射的に身体が動いた。

 最後の力を振り絞って、目前にあった球根の化け物の口を掴んで引き千切る。

 

 そこから大量の“赤”が噴出して、俺の体に降り注ぎ、絶叫する球根の化け物が俺を慌てて放り投げる。

 あまりに強いその力に、吹き飛んだ線上にあった障害物を何度も貫きながら地面に叩き付けられた。

 

 口から大量の黒い血が流れ出す。

 最後に貰った大量の“赤”がとどめになったようで、一時的に窮地を脱したと言っても、もう今度こそ体は言うことを聞きやしない。

 ボロボロと欠けていくような感覚と共に急速に消えていく自意識に。

 もう、恐怖も感じる余裕はなかった。

 

 奇声を撒き散らしながら、球根の化け物が地を埋め尽くすような動物たちと共にこちらに襲い掛かってくるのを最後に見て、俺の意識は消えていく。

 

 

『ああ……主様、私だけの主様。貴方のその意思は確かに見届けたぞ。あはっ、あははっ……あははははははははは!!!』

 

 

 喜び狂うように、熱狂するように、俺ではない誰かが俺の声でそう叫んだのを最後に、俺は何も感じなくなった。

 

 

 

――――だからそこに残ったのは、花宮梅利と言う少年ではない。

 

 

 動かなくなった少女の身体の指先がかすかに震える。

 光を失って虚空を見詰めていた瞳が、出血したかのように真紅に染まっていく。

 

 

「……アー、アアー……、んんっ、なんだか声の感覚が可笑しいな」

 

 

 幽鬼のように、目の前に迫る大群を前にして何でも無いことのように立ち上がった迷彩服の少女は、血のように真っ赤な目で自分が纏う服を見下ろした。

 

 

「……流石に主様のセンスが無いと思うのだが……いや、好んで着ている訳ではないのか?」

 

 

 口元を歪ませる少女が視界を遮るヘルメットに触れて、邪魔臭そうにそれを引き千切った。

 

 そこから現れたのは、渦巻き状の黒い双角。

 不揃いで歪なその双角の片側は、もう一つと比べると大きさが異なり、急ごしらえの、あるいは生え替わって間もないかの様な異様な様相を晒している。

 

 フラフラと視線を彷徨わせていた少女がようやく目の前に迫った大群に意識を向けた。

 

 真っ赤な瞳孔を蛇の様に縦に裂いて―――――嗤う。

 

 

「獣風情、意に介す様なものではないのだが……ああ、主様のため仕方なし。……それにしても貴様ら――――」

 

 

 その少女は花宮梅利ではない。

 その少女は人間ではない。

 その少女は。

 

 

「――――頭が高いぞ」

 

 

 この地を支配した“死鬼”と言う鬼だ。

 

 

 

 

 

 

 笹原知子は怯えていた。

 外から聞こえてくる獣達の鳴き声に、両手で耳を塞いで蹲り、一人震える。

 

 なぜ、と言う疑問が吹き出した。

 この場所で共に暮らしている梅利と言う少女に待っているように言われて、この部屋に置いて行かれた。

 直ぐ帰ると言っていた彼女は、数時間待ってみても帰ってこず、折角用意した食事は少しだけ乾いてしまっている。

 それでもあの人と一緒に食事をしたいと食べるのを我慢して待っていれば、不意に聞こえてきたのは動物達の不協和音な鳴き声。

 

 直ぐに異常事態だと気が付いて、只でさえ重い鉄の扉に様々なものを立て掛けて塞ぎ、入って来られない様にしたが、だんだんと増えてくる動物達の声は、少しだって離れて行きはしない。

 ここに誰かがいると分かっているかのように、増える一方の動物の声は気味が悪いほど何かに執着している様だった。

 

 

(なんなのっ……!? なんでこんなっ!? ば、梅利さんは無事なのっ!?)

 

 

 動かないように、音を立てないように。

 必死で小さく蹲り息を殺す少女が固く閉ざされた扉を見れば、その先で何かが暴れているのか、何度もその扉が揺れているのが分かった。

 

 ガタガタと震える手で手元の拳銃を抱き締める。

 梅利に貰ったその拳銃をもしもこの場に奴らが入ってきたら撃ち切ってやると心に決めて、じっと扉の先を睨む。

 建物を壊しているのか、何度も何かを破壊する音で溢れて、収まる様子はまるで見せない。

 もう外に飛び出した方が良いんだろうかと言う、何度目か分からない思考が過ぎって、直ぐにそれを打ち消す。

 あの少女ならまだしも、自分がそんなことをして生き残れる想像が出来ない。

 

 

(こ、このまま死ぬのは嫌っ……! 梅利さんの安否を……!!)

 

 

 ぐるぐると回る思考を定めて、ようやく一つ決心する。

 

 

(あの扉が破られ掛けた瞬間、銃弾を乱射して突破しよう……! 多分ここはバレているから……もうそれしかないっ……!!)

 

 

 じっと意識を集中させて扉を見詰めるが、そう決心すれば、パッタリと扉を叩く音がしなくなった。

 そのままの姿勢で待機して外の様子を窺うが、直ぐそこで暴れていたはずの獣の存在がまるで感じられない。

 

 それどころか、気が付けば外から聞こえていた筈の獣達の鳴き声は、何一つしなくなっていた。

 

 

(……え? 居なくなった……の? でも、急にそんなことが? 外に出るのは控えた方が良いよね……一日くらいは待った方が無難よね)

 

 

 考えを巡らせながら、取り敢えず音を聞こうと扉ににじり寄った少女はそっと耳を扉に当てようとして。

 

 ドンッ、と言う扉を大きく叩いたような音に驚き、背中から後ろに飛び跳ねた。

 

 

(な、なななな、何っ!? やっぱりまだそこに何か居るのっ!!??)

 

 

 拳銃を構えて動かなくなった彼女に、その扉の前に居る何者かが声を掛けてくる。

 

 

「知子、この辺りに居た奴らは残らず排除した」

「えっ!? ば、梅利さん、無事だったんですね!!?」

「騒ぐな馬鹿者、……そして少しの間ここを開けるな」

「え……貴方、梅利さん……ですよね?」

 

 

 姿が見えない誰かの声は、確かにいつも聞いている鈴を鳴らすようなあの人の声だ。

 

 それなのにその声を聞くだけで、身が竦んで凍り付くのは何故だろう?

 いつも感じていた筈の暖かみが、まるで感じられないのは何故だろう?

 

 

「……下らない問いかけをするな。私は少し寝る。明日の朝方にこの扉を開けよ」

「あ、待って下さいっ……、そこに居ては危険でっ、せめてこの中に……」

「くどいぞ」

 

 

 冷たいその言葉に何も言えなくなって、少女は口を閉ざした。

 

 しばらくそのまま待ってみるが、外からは先ほどまでの狂乱が嘘だったかのように何も聞こえてこない。

 梅利さん、そう呼び掛けてみても、もう扉の先の誰かは反応一つしてくれない。

 

 そのまま脱力して壁に背中を預けて、動くのを止める。

 あの誰かの言葉の意味は分からなかったが、それでも明日の朝まではそのままで居ることにした。

 外から動物の鳴き声が聞こえてきたら、直ぐにそこに居るであろう梅利を中に引っ張り込もう、そう決意して。

 

 彼女はそのまま眠らずに、じっとその体勢のままで扉の先を見続けた。

 

 

 



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巡る誰かの思想

 花が舞う、とある集合墓地。

 つい十年ほど前の平和な時代であれば考えられない程に簡素なその集合墓地は、とあるコミュニティが管理する、遺体さえ埋葬されていない形だけのものだ。

 それでも、一日の内にその墓地を訪れる者は少なくない、多い時はコミュニティに所属するほとんどの人がお参りに来る程に多くの人が足繁く通う。

 彼らにとっては替えの効かない大切な拠り所。

 

 そんな中に、小さな一つの墓石があった。

 両手で抱えられる程度の大きさの石から削り出された小さな墓石。

 傍目から見ても素人が作ったと分かるそれは、何時頃から立てられているものかは分からないが、手入れが行き届き、今なお苔一つ生やすことなく色取り取りの花々に囲まれてそこに鎮座する。

 

 ただ石が集積されているだけである、子供が作ったようなその墓の前に、一人の女性が立っていた。

 彼女は何の感情も窺えない能面の様な顔のままで、墓の手前に膝を着いて優しく花を添える。

 

 

「……梅利、今日は貴方に似た雰囲気を持っている人に会ったよ。……驚いちゃった、そんな筈無いって分かっているのに思わず貴方の名前を呼んじゃうくらい」

 

 

 耳元で囁くような声でそう言って、女性はそっと墓石に手を伸ばす。

 ただ冷たいだけの感触が帰ってくると分かっているのに、いつものように優しく撫でる。

 

 

「背丈も同じくらいでね、自衛隊の人から取った迷彩服を着ている女の子。……あは、女の子を梅利と間違えたなんて聞いたら貴方は怒るよね、背が小さいのを気にしていたもんね」

 

 

 そう言って思い出すのは小さな頃から一緒に居た少年の姿だ。

 

 からかうと直ぐに怒ってふて腐れる彼は、牛乳を毎日飲んで、いつかお前を抜かしてやると息巻いていた。

 運動をすれば天性の才能があった女性に一蹴され、目尻に涙を溜めて睨んできた。

 勉強だけは勝ってやるとせっせと努力して、かなり上位の成績を取って誇らしげにその答案を見せてきた。

 

 良く笑う少年だった。

 善良で、公園でひとりぼっちで居る少女を見過ごせなくて、罵詈雑言を吐いて警戒する相手の隣に居続ける馬鹿な少年だった。

 昔言った女性の言葉をいつまでも覚えていて、約束をなんとしても守ろうとするものだから、それはそれで困ってしまうこともあった。

 

―――だから、昔の約束を守って身を挺した彼は、異形の化け物の凶刃に倒れたのだ。

 

 

「いやだな、どうしても貴方の事を忘れられない……。なんであの時私を庇ったの? なんで私を一人にしたの? なんで……」

 

 

 最近はようやく収まっていたと思っていた発作のような嘆きの言葉は、堰を切ったように止まらない。

 

 

「酷いよ、こんな……残されて、こんな気持ちを抱えるくらいなら、私は最後まで梅利と一緒に居たかったのに……。……私は……ううん、違うよね、貴方は悪くないもんね。悪いのは全部あいつらだもんね」

 

 

 涙はもう涸れ果てて、女性に残ったのはほの暗い激情だけだから、他人がどんなに言葉を紡いでも彼女は過去の呪縛から解かれることはない。

 

 けれどそれでも良いと女性は思っていた。

 こんな生を長く続けるつもりなど、女性は毛頭に無かったからだ。

 

 機械のように無機質な目が、ゾッとするほどの冷たさを伴う。

 

 

「……異形は始末する、全部……全部だ」

 

 

 先ほどまでの優しげな様子は既に無い。

 憎悪に満ちたその目はもう、目の前の墓石を見ていない。

 

 

「貴方を死に至らしめたあの屑は始末した、けれどそんな物じゃもう収まりが付かない。あれらの存在が許せない、この空が続く何処かにあれらが居ると思うと気が狂いそうになる」

 

 

 地に着けていた膝に力を入れて立ち上がる。

 すらりと高いその女性が立てば、墓石は完全に彼女の陰に隠れてしまう。

 

 その何も入っていない墓石に対して最後に黙祷すると、直ぐに踵を返した。

 女性の――――南部彩乃の怒りは十年の時を経ても、微塵も衰えはしていない。

 

 

「私が血の海に伏せるその時まで、私はあいつらを殺し続ける…絶対に」

 

 

 ドロドロとした凶悪な感情を乗せたその言葉は宙に溶ける。

 

 

 

 

 

 

 海の中を漂うような感覚の中から急激に意識が引き上げられる。

 閉ざした瞼越しからも分かる明かりに、ゆっくりと目を開いていく。

 

 視界に入ってきたのは見慣れた教会の天井。

 柔らかな毛布が体を包んでいる感触に、ぼんやりとした頭のまま上半身を起こした。

 自分以外に動く物の存在が感じられないその部屋を見回しながら、口を開けてあくびする。

 こうして目が覚めて周囲を見渡しても、まだ夢の中に居るような心地だ。

 

 

(……あ、あれ、俺は……んん?)

 

 

 混乱しながらも、いつもの習慣で顔を洗いに水場へと向かう。

 バシャバシャと置き水を使って顔の汚れを取れば、ようやく記憶に残る最後を思い出した。

 

 

「……俺、ま、負けて……って、ならなんで何事もなくここに戻って来れてるんだ……?」

 

 

 感染菌のガスで体をやられ、激しい拒否反応に襲われた…のだと思う、多分。

 ともかく、無力化された俺の最後の抵抗も空しく、意識を失う前に見た光景は大量の獣と球根の化け物が今にも俺に襲い掛かろうとする姿だった筈だ。

 

 死んでいなければ可笑しい。

 食われてなければ可笑しい。

 奴らと同じように成っていなければ可笑しいのだ。

 あ、もうお仲間ではある訳だが。

 ……と、ともかく、無事では済まないような状況であった筈の俺が、なんでこの拠点で平穏に睡眠を貪っていたのかが分からない。

 

 

「知子ちゃんも居ないし、どうなってるんだ?」

 

 

 部屋の中を死者の様にふらふら徘徊して、変わったところがないかを探し回る。

 いくつかの食料が減り、またその分見掛けない食料が新たに増えている。

 また、見当たらない銃器や迷彩服の予備を除けば、他は変わったところがない。

 

 誰かがこの部屋を荒らしたのかと思ったが、どうやらそういう訳でも無いようだ。

 どういう経緯でこうなっているのかと、顎に手を添えて考え込んでいれば、壁に設置している姿見に見慣れない物が写っているのに気が付いた。

 

 黒髪の少女、これはいつも通り。

 ふんわりとゆとりを持った大きめの服装、これは昔一人で寝るときに着替えていた寝間着だ。

 側頭部から生える双角、……なんだこれ?

 

 

「あれ、あれあれ!? なんだこれっ、角が増えてる!!?」

 

 

 右から生えるのは見慣れた黒巻き角だ。

 だが、左から生える先端を握り潰したように砕けた角は全く見覚えがない。

 

 と言うか、この握り潰したような痕はヤバイ。

 何故って、今まで何とか壊そうとして傷一つ付かなかった右の角の強度を考えれば、これを握り潰した奴はマジでヤバイ。

 あれだけ攻撃して体に傷一つ付けられなかったあの球根の化け物なんて、比じゃない奴がこの近くに居ると言うことだ。

 

 

「……ひ、引っ越そう! 知子ちゃんは何処だっ……?」

 

 

 一人でわたわたと慌てて、手当たり次第持って行く物を集め始める。

 そうしてバタバタと忙しなく動いていたから、誰かがこの部屋に入ってきた事に気が付くことが出来なかった。

 

 

「……梅利さん?」

「あっ! 知子ちゃん、大変だ! 早くここから移動しないと、とんでもない奴がこの場所にっ……!?」

 

 

 掛けられた声に振り返れば、そこには俺の予備の迷彩服を身に纏い、愛用している自動小銃を肩から提げた知子ちゃんが、食料が詰まった袋を持ってこちらを見ている。

 取り敢えず彼女の無事を喜びつつ、事情を説明としようとして気が付いた。

 

 あれ、今俺って頭を隠していたっけ?

 

 

「……タンマー!!! ちょっと、ちょっと待って知子ちゃん!!! うおわあぁぁぁ!!?」

「ば、梅利さん、なにされてるんですか!!?」

 

 

 頭から布団に向かって突っ込み、ゴロゴロと床を転がる。

 予想外の俺の行動に悲鳴染みた叫びを上げて、顔ごと頭を布団で包んだ俺が知子ちゃんに誤魔化すような笑顔を向ければ、彼女は渋面を作った。

 

 ……正直、誤魔化せている気がしない。

 絶対にバレてると確信出来る。

 

 

「あの……あのだね。知子ちゃん、これはあの、君を騙そうとしたわけじゃなくて」

「……何言ってるんですか、ほら、ご飯を取ってきましたよ。食べましょうか」

「あ、はい」

 

 

 床の上に広げられていく食料の前に、彼女の指示に従って腰を下ろせば手に割り箸を握らされる。

 テキパキと整えられる食事の準備を呆然と眺めていれば、窘めるような目でこちらに視線を向けてきた。

 

 

「その顔を覆ってる布団を早く取って食べる準備をして下さい」

「い、いやあ、なんだか寒くってね、あはは……」

「今日、三十度は超えていると思いますよ。良いから……その角はもう何度も見ましたから」

「は、はは……ごめん……」

 

 

 自分の顔が引き攣っている事を自覚しながら、頭を覆っている布団をゆっくりと取る。

 視界の端に映る自分の黒い角に嫌気が差しながら、顔を俯けた。

 

 じっと正面から視線を感じる。

 こんな姿の自分を、本当は見て欲しくなかった。

 

 

「……わ、わーい! 凄いね知子ちゃん! こんなに食料を持ってくるなんて、もしかして地下街に潜ってたの!?」

「……」

「あの中の異形は大体倒していたと思うんだけど…でも死者は一杯残ってたと思うのに、凄いなあ!! あ、今度一緒にあそこに潜ろっか、通路とか隠れ場所とか色々知ってるんだよ!」

「……」

「あ、その銃使いやすかった? 俺好みに調整しちゃってたからもしかしたら合わないかなあって思うんだけど……いや、うん。ごめんなさい」

 

 

 じっと何を考えているか分からない仏頂面でこちらを見る知子ちゃんに、話を逸らそうとしていた惨めな努力を止める。

 

 この角を見て、俺がなんなのか彼女は理解している筈だ。

 人間ではない、……異形であると彼女は理解している筈だ。

 町を徘徊し、人を襲い、この国を崩壊させた奴らの仲間だと、分かっている筈だ。

 

 ならもう……ここで彼女との関係は終わりにするべきなのだろう。

 少なくとも彼女は、こんな個室で人でない化け物と一緒に生活などしたくは無いだろうから。

 

 

「真面目な話をしよう、俺は人間の時の記憶を持った異形だ」

 

 

 だから隠し事はせずに、話してしまおうと決める。

 

 

「やっぱり……そうなんですね」

「うん……俺も驚いたよ。気が付いたら辺り一面が崩落した建物で、押し潰されている筈なのに痛みを感じないこの体に、少女の風貌をした自分自身に……どうすれば良いか分からなかった」

「それは……はい……」

 

 

 死んだ筈の自分。

 幼馴染を庇って受けた傷から感染した俺は、ぶくぶくと泡立つ皮膚に浮き出る血管を見てもう助かることはないのだと分かっていた。

 だから、最後に幼馴染が父親に連れられて去って行くのを笑顔で見送ることが出来たし、未練も無く彼女の幸せを願うことが出来たのだ。

 

 だから逆に、続いてしまった自分の生にどう向き合うべきなのか。

 

 そんな事を考えている筈がなかったのだ。

 

 

「異形となった自分の体、性別も異なれば見た目も違う。周囲の状況は自分が知っている町の様子ではないし、向かってみた自分の家はもう何もなくなっていた。何も分からなかった、これからどうするべきかも、何も」

「……男の人だったんですね、でも……じゃあ、私が感染した状態で梅利さんに会ったときは」

「……俺の、活発に侵食する状態じゃなかった感染菌で、重なるように感染させた……ごめん、知子ちゃんは完全に治ったわけじゃないんだ」

「いえ、それは良いんです。……あの食べながら話しましょう」

 

 

 やけにあっさりとした彼女の反応に思わず顔を上げる。

 飲み物まで用意し始めた知子ちゃんに気圧されて、久しぶりに食べ物を口に含む。

 

 俺が食べ物を食べ始めたのを見届けてから、知子ちゃんは話し始める。

 

 

「梅利さんがこの場所に帰ってきてから1週間程経ちました。……その間、梅利さんはずっと眠っていたんです」

「へ? い、1週間?」

「私、言われた通り朝になってから扉を開いて……梅利さんの死んだように眠る姿を見付けて、後悔しました。なんで私は貴方の足ばかり引っ張っているんだろうって、私はそんな事のために貴方の傍に居たいわけじゃないのにって、思ったんです」

「そんなことっ、俺は知子ちゃんが居てくれるだけでっ!」

「ゆっくりと食べて下さい。ずっと寝てたから、液状にしたものを食べさせるようにしていましたけど、きっとさほど栄養取れてませんから」

 

 

 俺が知子ちゃんの言葉を否定しようとすると、彼女は被せるように食事を勧めるように促してくる。

 真意が読めずに動揺する俺だったが、黙ってしまった彼女の言葉の続きを聞くために食事を再開させる。

 

 

「私は誰かの足を引っ張るためでも、ただ保護して貰うためだけでもない。他ならない、こんな世界でも善良であり続ける貴方の傍に、居たいって思ったから、役に立ちたいって思ったからここに居るんです」

「……うん」

 

 

 ようやく彼女の真意が少しだけ見えてくる。

 だから俺は黙って食事を続け、彼女の言葉に相槌を打った。

 

 

「梅利さんは凄いです。大人が計画を立てて、複数人で倒すような異形を片手間で倒しちゃいますし、身体能力も機転も、行動力だって秀でています」

「うん……」

「私を信用できないのは分かってるつもりです。だって梅利さんに比べて武器の扱いも、身体能力も機転も、体の頑丈さも足りません。私から目を離したら、きっと梅利さんが予想もしなかった様な弱い異形にも負けて、帰らないかもしれないなんて不安に思うのは当然です」

 

 

 ポツリと視界の端に滴が落ちた。

 顔を上げれば、真剣な表情のままこちらを見詰める知子ちゃんの目から大粒の涙が溢れている。

 

 

「梅利さんが倒れて、看病して、勝手に武器や装備を借りて外に行きました。色んな異形が居て、襲い掛かってきて命からがら逃げたのは一度や二度ではありません。一つの食料を確保するだけでも決死の覚悟が必要でした。梅利さんがほんの僅かな時間で取ってくるようなものを、一日掛けて集めてきました。私は弱いって何度も何度も思い知らされました」

「……」

「私は弱いです。梅利さんの様に能力がある訳でもなければ、お兄さんの様に誰かの支えに成れる訳でもない。勉強ばかりして機転が利くとは言えないし、死の恐怖に対面して直ぐに対応できるほど精神が強いとも言えません。それでも――――」

 

 

 震える手を握って、歯を食いしばって、彼女は思うがままに吐き捨てる。

 そうかこれが…、そうしてようやく彼女が抱えていた想いを形として理解する。

 

 

「―――私も一緒に戦わせて下さい」

 

 

 彼女は違う。

 守らなくてはいけない、そんな弱い人間じゃない。

 立派に自分の意思で立とうとする、尊敬するべき一人の女性だ。

 

 

「もう誰かに置いて行かれたくないんです。背中を見送るだけなんて嫌なんです。無事を祈るだけなんて嫌なんです。だから……」

「……この食料、知子ちゃんが一人で集めたんだよね」

 

 

 彼女の言葉を遮って、そう口にする。

 意表を突かれたのだろう、ボロボロと涙を溢しながら目を丸くする知子ちゃんに視線を向けずに言葉を続ける。

 

 

「うん、本当に凄い。この体だから俺は無理できるけど、きっと臆病な俺は人間の時の体じゃ怖くて外にも出られないんじゃないかな」

「っ……!」

 

 

 彼女が持ち帰った多くの食料を見ながら、そう言葉にする。

 俺が意識を失っていた一週間、恐らく彼女は何度も何度も外へ出たのではないだろうか。

 恐怖に打ち勝ち、絶望に耐えて、俺との差に心を折られながらも、それでも彼女はこの一週間を必死に努力し続けたのだろう。

 

 だからこそ、この結果がある。

 だからこそ、彼女は俺に意思をぶつけることが出来る。

 それらの積み重ねを蔑ろにしてまで、俺は自分本位な考えが出来る訳じゃない。

 

 だから必要なのは、確認だけだ。

 

 

「……俺は人間じゃないんだよ?」

「変わりません、私は貴方の善良性に惹かれました」

「……勝手に君を人間からこちら側に引き摺り込んだんだよ?」

「問題ありません、今私が生きているのは、全部貴方のおかげです」

「……これからきっと、怖い想いも、痛い想いもするかもしれないよ?」

「怖くても、痛くても、喪失の寒さに比べれば」

 

 

 目が合う。

 意志の強い、あの頃と変わらない彼女の濡れた瞳が俺を写す。

 なんだか、彼女の瞳に映る俺の方が情けない顔をしている気がする。

 

 

「知子ちゃん……俺の、背中を守ってくれる?」

「いいえ、私は貴方の隣に立ちます」

 

 

 意表を突かれて目を見開けば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

 



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生存者による討伐作戦

「……結局、梅利さんは戻ってこなかったですね」

 

 積載されていた動物の死骸や死者や異形の残骸を、今はもう使われていない小学校の校庭に下ろしていくのを屋上から眺めながら、明石はそう口にする。

 だが、同意を求められた東城は特に何を返す訳でも無くぼんやりと上の空な様子で遠くを見たままだ。

 この底が掴めない女性は感情を中々表に出そうとしない。

 自分を後継者として育ててくれていると思うのだが、それでもある程度の隔たりを確保されているという自覚が明石にはあった。

 

 梅利に対して、何を持ってきてくれるのか、そして強力な戦力として期待していた明石は軽い失望に感じながらも、手元の準備と指示を進めていく。

 姿が見えぬ“主”の討伐作戦の為に。

 

 東城は運び込んでいる物の数と、人員、支給した武器の数を計算しながら口を開いた。

 

 

「あの日の……地震が起きているのかと錯覚するほど地響きが連続した時。もしかしたらあの子が“主”に襲われているんじゃないかと想像していたわ」

「……ですが、結果確認に行った者達はその痕を見付けることが出来ませんでしたが?」

「そうね、確認に行った人達が言う限りでは……ね」

 

 

 彼女が拠点に来たあの日から早一週間。

 南部からの支援と姿が見えぬ“主”を誘い出すための準備が滞りなく進み、早々にあの不思議な少女の支援の約束だけを待つ形と成ったのだが、結果残りの日数を待ってみても彼女からの音沙汰はなかった。

 元々他の“東城”コミュニティの生存者達は、信頼できるかも分からないような少女の支援など当てにはせず、迅速に作戦に移すべきだという意見が大多数を占めていた。

 一部の、それこそ明石のような梅利の異常な戦闘能力を知っている者以外全員がその意見だったのだが、最終決定権を持ち、これまで幾度となくコミュニティを危機から存続させてきた東城の一声によって一週間の猶予を持つこととなったのだ。

 

 だがそれもこの有様。

 動物の異形達を引き連れる姿の見えない“主”に悪戯に時間を与えるだけに終わってしまったこの猶予は、誰もが口には出さないものの少なからず東城の誤った判断だったとこの場に居る多くのものが思っていた。

 

 だが、そうは思って居ない者も居る。

 

 

「ここまで姿を見せていない事から考えて、恐らく地下の何処かを拠点としている事は想像に難しくないわ。要するに、地中に引き摺り込まれたのであれば、それを痕跡として見付けるのは難しい」

「……なぜそれを確認に行った者達に言い含めなかったのですか?」

「見付けにくいもの、そんな痕跡。いつまでもフラフラと確認していて餌にでもなられては困るわ」

 

 

 痛む頭を抱えた明石を無視して東城は目を細める。

 校庭の中央に山のように積み重ねられた死骸を見て、その発する腐臭を鼻にして、もう時間はあまり時間が無いと判断した。

 

 

「――――戦闘準備を始めなさい。爆薬、ガソリン、火の用意は?」

「ええ、全て準備が済んでいます。銃器を支給した者達も物陰に潜み、狙撃するものは校内の屋上や二階へ配置済みです」

「結構。南部の支援人員はどう?」

「既に、ハンターを含めて警戒態勢に入っています。彼らはもはや自衛隊の後継組織と言っても過言ではありません、俺らよりもよっぽど戦い慣れしてますよ」

「そう……なら、私の予想では後2分程度で来るわ。合図をお願い」

「了解」

 

 

 根拠も何も掲示しない東城の指示に、それでも明石は即座に行動に移す。

 こちらを窺っていた各連絡役へ手で合図して、できる限り音を立てない様に声も出さない。

 

 その明石の合図でピタリとその場に居る者の作業していた手が止まる。

 静寂が支配し、風が吹く音だけがやけに響く中、緊張したように誰かが唾を飲み込んだ。

 もう間もなく、“主”と言う天災が目の前に現れると分かっている。

 それだけで、その存在の出鱈目さを理解している者達は額に脂汗を掻く。

 

 その天災はただ過ぎ去るのを待つ事が出来ない、対処しなければ生き残ることは出来ない理不尽なものだ。

 ほんの一年前までここを縄張りにしていた“主”が争っていた人知を越えた生物を、“主”無き今はここに住む生存者が相手にしなければならないのだ。

 生き残れる保証なんて何処にもない、むしろここで全滅する方が可能性としては高い。

 それでもこれから先、生き残るためにはここで戦う以外に道はないのだ。

 

 三十秒、四十五秒、一分…、一分三十秒……、そして二分が経過した瞬間。

 じっと息を潜めていた者達が思わず息を止めた。

 

――――音も無く校庭の中央に現れた、いくつかの細い蔓が触覚の様に置かれた死骸の山を確かめている。

 

 

「…っっ!!」

 

 

 多くの者が上げそうになる悲鳴を飲み込んだ。

 目の前に現れた異常な生物に、当然ほとんどの者は表情を硬くする。

 

 だが、例外の二人は。

 東城は口角を僅かに上げてその蔓を見下ろし、より間近で見ているハンターと呼ばれる人物、南部彩乃は凶悪な笑みを浮かべた。

 

 そしてそれが、死骸の山という御馳走をしっかりと確認して、蔓では到底本体まで持って行くことが出来る量でないと判断すると、捕食するためにその体の全体を地上へ這い出してくる。

 

 巨大な球根。

 気持ち悪い色合いで、ぶくぶくと肥大した至る所が生物的な印象を抱かせ、操る幾つもの巨大な蔓はそれぞれが驚異となり得るほどの大きさだ。

 だが……見えたその巨躯に東城は眉を顰めた。

 強固そうな外殻は、そのほとんどが剥がされ中身が露出している。

 操る蔓も体の大きさに比べあまりに少なく、そして根元辺りから引き千切られているのが分かる部分さえもある。

 何よりその球根の化け物の動きは精細さを欠いていた。

 まるで、他の化け物と争い弱っているかのようにだ。

 

 そんな東城の疑問も、球根の化け物が動き出したことによって一先ず放置される。

 じっと好機を狙い澄まし、這い出た巨大な球根のような体を大きく裂いて御馳走を喰らおうとした時。

 

 合図を下す。

 

 

「撃てぇぇ!!!!!!」

 

 

 全方位から放たれた銃弾や火炎瓶、火矢は死骸に充分に染みこませた燃料に引火し、死骸の山に隠されていた爆薬へと燃え移り、巨大な大爆発を巻き起こす。

 

 球根の様な生物の甲高い黒板を爪で引っ掻いたような悲鳴が静寂だった空間を裂いた。

 だが、そんなものであの“死鬼”と同格の相手が倒れると、彼らは微塵も考えていない。

 

 

「攻撃の手を緩めるな!!! 反撃を許せば一気に持って行かれるぞっ!!! 続けろっ!!! 後の事など考えるなっ、用意した物全てを使い切るつもりでやれ!!!!!」

 

 

 狙撃している者達や火炎瓶の様な放り投げる物を担当する者達は攻撃の手を緩めず、接近しなければ効果が薄い物の担当はじっと機を窺う。

 

 そして、さらに追加で用意していた二台のトラックが動き出した。

 中に乗った者達はしっかりと火炎に包まれている異形の影へ突っ込ませながら、アクセルを固定してトラックから飛び降りる。

 そして、荷台一杯に積まれたさらなる追加の燃料が燃えさかり暴れ狂う球根の化け物に叩き付けられる。

 

 追加の爆発が無数に連続する。

 充分に距離を取っている者達でさえ、発生した爆風で体勢を崩し、吹き飛ぶ様な大爆発を至近距離で受けた球根の化け物への衝撃は想像を絶するだろう。

 軽く体を吹き飛ばされながらも、ほとんどの者はこれで動かれては堪らないと引き攣った表情で爆心地に視線を向けて。

 指示を飛ばしていた明石でさえ、屋上から校庭を見下ろしながらこれは仕留めたと確信していた。

 

――――だから、一人飛び出した彩乃の姿に驚愕する。

 

 

「なっ、アイツは何をっ!?」

「――――いえ、まだよ。第二段階に移行させなさい」

「はっ……、り、了解っ……! 第二段階に移行しろ!!!」

 

 

 明石からの号令に、機を窺い潜んでいた者達が駆け出す。

 そして、それよりも先に動き出していた彩乃はより至近距離から火炎に包まれる球根の化け物の姿を確認して、未だ致命傷を与えていない事を確信した。

 

 それを落胆する事無く…いや、むしろ自分が手を掛けられる事を喜ぶように口を裂いて、手に持ったグレネードをバラ撒いた。

 

 

「……地に還す」

 

 

 火炎にその身を包まれていた球根の化け物の本体を確実に爆破して、悲鳴を上げて反撃に移った蔓の攻撃を紙一重で避けさらに接近する。

 もはや燃え移っても可笑しくは無い距離で、散弾銃の銃口を押し当てた。

 

 蔓が根元から撃ち貫かれる。

 神経系への深刻な一撃を受けて動かなくなった蔓に化け物は悲鳴を上げるが、ハンターはそんな暇を良しとしない。

 連続する爆発したかのような発砲音で撃ち出された弾丸は、正確にむき出しの中身に撃ち込まれる。

 そして続くように球根の化け物の周囲を取り囲んだ銃器を所持した者達がさらに追撃を加えていく。

 

 針の隙間すらないような発砲音の嵐。

 弾薬の残量など気にもしないその連弾に、もはや訳も分からず暴れ回る以外球根の化け物にはする術が無かった。

 

 

「ハンターさんっ、ちょ、危ないんで下がって!!」

「彩乃ぉぉ!!! 突っ込むなって言ったろうが!!!」

「異形は殺す、絶対」

「こいつ只のバーサーカーじゃねえかっ!!! 誰だハンターなんて上品な名称付けた奴!!」

 

 

 戦況は悪くない。

 東城は眼下のその光景を見詰めながらそう思う。

 予定ではあの化け物が引き連れている動物の異形達が多数襲撃を仕掛けてくる筈だが、それの対処を任せてある、この場所周辺に配置した者達から報告に上がってくるのは予想していたよりもずっと少ない数だ。

 

 自分達と戦闘になる前に何かあったのか……?

 そんな言葉が東城の頭を過ぎり、同時にあの鬼の後ろ姿が思い浮かぶが、直ぐに打ち消した。

 何にせよこれで用意したほとんどの武器を、あの“主”の退治に注ぐ事が出来るのだ。

 今は確実にあの“主”を倒す方策を考えなくてはと、爪を噛む。

 想像よりも弱っている状態での登場であったが、予想よりも耐久力がありすぎる。

 これは……と言う焦りが東城の頭の中で湧き出し始めた。

 

 

「……“西郷”の拠点だったホームセンターから、外に配置した者達で燃料を取りに行って貰って頂戴。元“西郷”の者に道案内をさせてできる限り迅速に」

「り、了解!」

「それと、逃げようとするそぶりも見えるわ。絶対に地中に逃がさないで」

「伝達します!」

「後は……え?」

 

 

 南部を含む、第二段階の銃弾の嵐で、球根の化け物はその身に火炎を纏いながら地に崩れ落ちた。

 途切れた化け物の悲鳴と入れ違いに歓声が湧き上がる。

 ピクリとも動かなくなった球根の化け物の姿を眼下に捉え、東城は慌てて屋上の柵から身を乗り出して様子を窺う。

 

 

「か、勝った! 勝ったぞ!! 東城さん、やりましたね! “主”の討伐が成功しましたよ!!」

「…………」

 

 

 倒れ動かなくなった球根の化け物を見て、周りで喜び飛び跳ねる者達を東城は視線も返答もしない。

 鋭い視線をじっと動かない化け物へと向けて、呼吸すらも忘れたように観察する東城は未だに納得していない。

 

 

「東城さん! “死鬼”がどれほどだったにせよ、“主”だってこうやって作戦を立てれば敵じゃないんですよ! 所詮は異形の中でも多少強いだけの存在! 幾つもの銃器を使えばこの程度!!」

「――――万全の状態のこの国の防衛機構を全て叩き潰して、中枢都市を破壊した“主”と同格の存在がその程度だと? 少しは頭を回しなさい」

「はっ……?」

「死んだ振りよ、とは言え少し遅かったわ」

 

「――――離れろ!!! 大きいのが来る!!!」

 

 

 彩乃が吠える。

 化け物の周りを囲っていた者達が、響きわたったその言葉に反射的に倒れ伏すそれから距離を取った瞬間、真っ赤なガスが噴出した。

 

 広範囲に渡るそのガスの噴出に、比較的に近くに居た者がそのガスに飲まれる。

 吸い込まずともその赤いガスに触れた瞬間吐血し目や鼻からも流血すると、突然力が入らなくなったかのように地に伏せて痙攣した後、動かなくなる。

 そして数秒の間を置いて直ぐに動き出したその者は、町中を徘徊する死者として再び生を受けた。

 

 

「感染菌のガスっ!? こんな――――おい、彩乃突っ込むな!!」

 

 

 引き留める声にも耳を貸さず、怜悧な瞳は化け物から逸れることはない。

 危険なガスであることは百も承知だった。

 だが、見るからに時間稼ぎをするようなこんな行動を見逃すほど、異形との戦闘慣れした彩乃が見逃せる筈がなかったのだ。

 

 未だガスが立ち籠める空間にグレネードを投擲して爆破する。

 爆風で吹き飛んだその空間にその身を飛び込ませて、再び起き上がり蔓を振り回そうとしていた球根の化け物に肉薄し、銃弾をたたき込む。

 振り回そうとしていた蔓、外殻の剥がれた本体、そして時間を稼いだ隙に周囲に飛び散っている死骸の山を喰らおうと開かれた咽喉を徹底的に破壊しに掛かった。

 

 

「――――――――!!!!!!!!」

 

 

 悲鳴のような絶叫。

 痛みに身悶えして、吹き出した体液とはじけ飛んだ体の欠片がその威力を物語り、確実に弱点を打ち抜いたのは明らかであった。

 ともすればどれが致命傷でも可笑しくない程の威力を有した銃弾の雨に晒されて、それでも恐るべき体力で暴れ回る化け物に、もはや余裕は無い。

 

 

「死ね、直ぐ死ね、消えて無くなれ屑どもが」

 

 

 スルリと、懐に入り込んだ蚊のように挽き潰そうとしてくる蔓の波状攻撃をギリギリで避けながら合間を縫って発砲を繰り返す。

 人一人が吹き飛ばされそうな反動を持つ散弾銃を連射しても彩乃は体勢を僅かも崩すことなく、憎悪を持って化け物に肉薄し続ける。

 常人離れした体幹と瞬発力で、化け物の反撃をものともせず攻撃の手を止めようとしないその姿はまさしく、異形を狩る者として完成されている。

 

 弾薬を撃ち尽くした散弾銃を後方に放り捨て、得物をサバイバルナイフに持ち替えた彩乃が直接化け物を切り裂くも、吹き出した赤いガスに反応して大きく飛び退る。

 未だに宙に漂う薄い赤色の気体を警戒して中々飛び込んでいけない人から銃器を奪い取り、さらに懐に飛び込んでいく。

 

 もはや彩乃は化け物しか見えていない。

 的確に、冷徹に球根の化け物を破壊し続け、何をトリガーとしたかは分からないが。

 

 

「■■■■■――――!!!!!」

 

 

 ついにそれは逆鱗に触れた。

 

 

「――――離れなさい!!!!」

 

 

 いち早く反応したのは屋上から様子を見ていた東城だ。

 今までの様に周りに指示を任せるのではなく、吠えるような大声で自ら指示を飛ばした。

 

 それを異常な事態と察知した化け物を取り囲んでいた集団は、突っ込んでいた彩乃の襟首を掴んで逃げ出すように距離を取る。

 だが、それでも間に合わない。

 

 球根の巨躯に比例するように巨大なひび割れが幾つも走り、赤いガスを全身から漏れ出し始める。

 量としては大したものではない、それでも…。

 

 

「ま、ずいっ……!!」

「逃げろっ、距離を――――」

 

 

 振り抜かれた蔓が刃のように赤いガスを撃ち出し、その直線上に居た数人が感染菌の塊に呑まれた。

 抵抗は無意味、呑まれた者が即座に死者へと早変わりするそのあまりの濃度に息を飲む。

 

 

「■■■ォォォ!!!!!」

 

 

 自傷し、体液を吹き出しながら絶え間なく体から赤いガスを漏れ出させる化け物も只では済んでいないのだろう。

 あまりの痛みに悲鳴を上げるように咆哮を上げて、それでも球根の化け物は逆鱗に触れた彼らを全滅させようと暴れ狂う。

 巨大な蔓が校舎や校庭、そして用意されていた車両と言ったものまで無差別的に攻撃し、その全てを破壊していく。

 自分の体の存続よりも、もはや攻撃してきた者達への復讐しか頭に無いようだった。

 

 

「……終わりね、まさかこんな奥の手があるなんて……最悪……」

 

 

 東城が小声で諦観を口にして、頭を振る。

 

 近付くことは出来ない、漏れ出したガスが鎧のように体を覆っているから。

 攻撃することが出来ない、暇無く振るわれる数多の蔓が暴力的な力を持ってその行動を許さないから。

 逃げ出すことは出来ない、背を向けた瞬間がその者の終わりだからだ。

 

 

「あの様子ならアイツも長くは持たないだろうけど、このまま逃げ出してもどれほどの被害が出るか……。戦えない、逃げ出せない、……隠れるのも無理そうね。あはは……“主”になんて手を出すべきじゃなかったかしら」

「と、東城さん……」

「ここまで来たらアイツが倒れるまで耐えるか、若しくは被害を覚悟して逃走するか。どちらにせよ早く決めないと……」

「東城さん!」

「……悪いけど少し黙ってて、今どっちが被害を抑えられるか考えてるの」

「違います! 東城さん!!」

「――――ふ、ふふふ、……あはは!」

 

 

 東城は明石が指差す先を見て笑いを溢す。

 心底可笑しそうに、笑い声を上げる。

 

 

 

 

 

 

 じりじりと逃げ場が狭まっていく。

 

 蔓を使い、行く先を閉鎖して逃げ回る者達を纏めてなぎ払い、そこら中に落ちている餌を適時補給して自分の生存時間を増やす球根の化け物は計画的に襲撃してきた者を始末するように行動する。

 先ほどまで果敢に責め立てていた者達が、引き攣った表情でいかに危機を逃れるかと言う事だけを必死で考える。

 

 最初に攻め立てていた時よりも人数はかなりの数が減ってしまっている。

 暴れ狂っている癖に、背中を向けて逃げ出した者を残らず見逃さないのはあまりに厭らしいだろうと叫びたくなるが、化け物にそんなことを言っても意味が無いのは誰もが分かっていた。

 各々が手に持っていた銃弾を撃ち尽くして応戦したが、全ての弾丸が尽きても化け物の暴走が止まる様子は微塵もない。

 

 息を飲んで、じりじりと後ずさりするだけで精一杯であった。

 

 

「……彩乃、お前は逃げろ。お前が逃げると同時に俺が突っ込んで奴の気を逸らす、その間に……」

「嫌だ、私は最後まで戦う。この命尽きるまで異形なんかへ負けを認めて堪るか」

「巫山戯んなっ……、お前のお父さんになんて言やあ良い。俺はあの人に恩があるんだ。黙って逃げろ」

「お父さんは関係ない。そんな事情私には関係ない。むしろそっちが逃げればいい、その間の時間なら幾らでも稼いであげる」

「おいっ、我が儘をっ……!」

「来るぞっ!!!!」

 

 

 彩乃と“南部”から派遣された男が言い争いをしていれば、悲鳴のような警告が飛ぶ。

 

 振り払われようとしている蔓の大きさと数がこれまでとは比にならない量だというのを理解して、もはや回避が出来ないのを察知した者達の中から、一人、彩乃が飛び出して最後の反撃を敢行しようとして――――何かに気が付いて足を止める。

 

 絶望の色に染まった彼らの前に、着物姿の小さな人影が飛び込んできた。

 

 

「懲りないな、植物風情が。ここで仕留めてやろう」

 

 

 片手に持ったタンクローリーを振るわれようとしている数多もの蔓目掛け振り下ろす。

 

 新たな爆発が目の前で巻き起こり、後ろに居た者達は思わず両手で顔を隠した。

 そして、爆風が収まるのを感じて、ゆっくりと目の前に現れた乱入者を確認し、愕然とする。

 

 

「う、嘘だろ……。なんでお前が……」

 

 

 見間違える筈がない。

 雪のように白い肌、漆のように輝く髪に側頭部から生える双角、そして好んで着ていた着物姿と来れば、あの化け物しか該当しないのだから。

 

 

「――――“死鬼”っ……!!」

 

 

 憎悪に満ちた鋭い眼光で、彩乃が歯を食いしばりその名を呼ぶ。

 こちらに視線もやらないその化け物の後ろ姿は、あの頃の絶望と何一つ変わりはしなかった。

 

 



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騙る異形

―――ー少しだけ時間は遡る。

 

 

「なるほど、では新しく侵攻してきた“主”討伐に“東城”が動いている訳ですか」

 

 

 目が覚めてからの彼女との会話が終わり、自分が外に出ていてから意識を失うまでの説明を行った。

 俺の上手くはない説明にじっと耳を傾けていた知子ちゃんは、困ったように眉間にしわを寄せて難しい顔をする。

 

 

「タイミングが良いのか悪いのかは分かりませんが……今日外に出ていた時、やけに生存者の動きがあると思っていました。恐らくその作戦は今日、決行するのでしょう」

 

 

 それを聞いて、慌てて準備しようとする俺の手を掴んで引き留めた知子ちゃんは咎めるような目でこちらを見ている。

 

 

「忘れていませんか? 話を聞く限り、梅利さんに対してその“主”は有効な攻撃を持っています。もし、その攻撃を受けて、以前のように意識を失いでもしたら梅利さんだけで無く助けようとした生存者達にさえ被害が及ぶ可能性があります。それだけではありません」

 

 

 口を噤んだ俺は、知子ちゃんの話に頷き続きを促す。

 

 

「銃器を扱っていれば、常人離れした動きを多少してもそこまで気にとめる人は居ないでしょう。ですが、以前私の前でやったように異形を素手で叩き潰すような、若しくは本当に物理法則を無視したような身体能力を見せればその場にいる生存者も、流石に普通ではないと気が付くはずです」

 

 

 つまり、と知子ちゃんは話を繋ぐ。

 

 

「梅利さんを普通でないと思わせない。梅利さんが本気で戦える状況を作り上げる。それでいて生存者達が巻き込まれず安全を確保できるようにする。……ああ、もしもの時の言い訳に死んだ筈の私が生きている理由も欲しいですね。これらの条件を全て満たす策が必要となる訳です」

 

 

 どうすれば…、そう呟いて顔を俯けた俺に知子ちゃんははにかんだ。

 

 

「――――大丈夫です。私に考えがあります」

 

 

 

 

 

 

(ちょっとぉぉぉぉっ!!?? 後ろから刺すような視線が俺を捉えて離さないんですけどぉぉぉ!!! 彩乃、その殺気を止めろっ!! 怖い怖い怖いぃぃぃ!!!)

 

 

 背後から放たれる彩乃の刃物の様な視線を背中に受けて、いつ刺されても可笑しくない様な殺気に冷や汗を掻く。

 

 初めて着る着物の裾を踏まないように気を付けながら、目前で俺の姿を捉えたじろいだ球根の化け物から視線を外さないように意識する。

 だって、もし何かの拍子で後ろを見てしまったら腰が抜ける自信がある。

 以前向けられたことのある彩乃の怒りの感情なんて生優しいとすら思える程の激情がこちらに向けられていた。

 ……“死鬼”とやらは彩乃に何かしでかしたのだろうか?

 そんな不安を抱えながら、俺はただ前を見る。

 

 知子ちゃんが言った策と言うのは簡単だ。

 俺が異形とバレてはいけないなら、最初から異形として乱入すればいいのだ。

 この地域で暴れ狂った“死鬼”として登場して、後は思いっきり力を振るえば良いだけ。

 ね? 簡単でしょ?

 ちなみにそれのせいで、俺のメンタルは既にボロボロであるのだが。

 

 

「この前は良くもやってくれたな…ただでは終わらせん、存分に料理してやろう」

 

 

 知子ちゃんが言っていた“死鬼”という異形の特徴は、尊大な口調と全てを見下したような態度、そして好んで着ていたらしい着物だ。

 以前東城さんが言っていた双角や黒髪は合致しているし、赤目と言うのは相当至近距離でないと分からないだろうから気にしない。

 着物なんて今の環境では需要のないものの着付けを知子ちゃんにして貰い、思い付く限りの尊大な口調を維持する。

 こうして立派な、異形“死鬼”のまがい物が完成した訳だ。

 

 もうどうにでもなれと言わんばかりに考えつく限りの尊大な口調で話し掛けるが、当然何の反応もしない球根の化け物に、羞恥で頬が上気して今すぐ頭を抱えて蹲りたい衝動に襲われる。

 暴れ回る球根の化け物の姿を確認して一足先に飛び出してきたために、置いていってしまった知子ちゃんが早く来てくれるように内心で祈りながらも、ここまで来てしまった以上は頑張ろうと決意する。

先ほどまでの狂乱ぶりが嘘のように大人しくなっている化け物を睨み、簡単に作戦を考える。

 

 ガスの事を考えれば何も対策せずに近付くのは下策、けれど銃器を持っていない俺が出来るのは限られている……ならやるべきは。

 

 

「さあ――――これでどうだ?」

 

 

 爪先を地中に突き刺し岩石のような土屑を蹴り上げると、掌底の要領で砲弾の様に撃ち出す。

 砕け散った土屑が銃弾の様に化け物の体に突き刺さり、一時的にガスが漏れ出している体中の罅が塞がれたのを確認すると同時に、全力で助走を付けて拳を叩き込んだ。

 

 巨大な球根の体が地面から離れ吹き飛ぶ。

 さらに体中の罅が増えてガスが漏れ出すが、そんなことよりも吹き飛んだ先に居る生存者の姿を確認して焦る。

 このまま行けば押し潰されてしまう。

 

 

「やばっ……!!!」

 

 悲鳴を上げて逃げようとする彼らが間に合わないと判断して、直ぐさま駆け出す。

 

 柔らかいボールが蹴られて飛んだ時の形状で吹き飛ぶ球根を追い越して、押し潰されそうな生存者達の前に飛び込むと、今度は近くに立っていた電柱を引き千切り化け物を上空に打ち上げた。

 

 何とか危機を回避できて息を吐くが、このままでは土で罅を塞いでガス漏れを塞ぐ作戦が使えそうにないことに気が付いて、頭を悩ませながら落下してくる球根を見詰める。

 まあ、なるようになるしかないか、と言うか自分の怪力具合が向上している気がするのだが…。

 

 

「死鬼様!!」

 

 

 突然叫ばれた聞き慣れない名称に一瞬だけ遅れて反応すれば、様々な武器を抱えた知子ちゃんが走ってきていた。

 仲間の存在に周囲の生存者がどよめいたのが分かる。

 勿論、自分と知子ちゃんの関係を知っている明石さん達が居るのだから、判断が付かないように今は簡単な変装として、髪型を変えてカチューシャを付けさせて、眼鏡を外して貰っている。

 

 

「刀を寄越せ」

「はい!!」

 

 

 放り投げられた、以前見付けて埃を被らせていた日本刀を手に取って鞘から引き抜く。

 銘は知らない。

 何処かの有名な人が打ったものか、無名の人が打ったものかも知るよしはない。

 そもそも年数が経っているのだから劣化しているのだろうが、まあ……そんな些細な違いは素人の俺には分からない。

 

 要するに切れれば良いのだ。

 

 落下してきた化け物の抵抗するような蔓を掻い潜り、その巨体を真っ二つに切り裂いた。

 

 

「■■■■■――――!!?」

 

 

 走り込んできた自動小銃を片手に一つずつ持った知子ちゃんが、真っ二つになって地面に叩き付けられた化け物へ向けて銃弾の雨を降らせる。

 反動がない訳が無い筈だが、全く体勢を崩さず腕を持って行かれることもない彼女の立ち振る舞いは、この一週間足らずで何があったのかと言いたくなる程だ。

 二丁拳銃とか格好いいな…、彼女のその姿に心を動かされて、今度自分もやってみようと決意する。

 

 一斉に伸ばされる蔓が俺と知子ちゃんに襲い掛かってきたのを、手に持った日本刀で切り払い、発砲を続けている彼女が背中に背負っている筒状の武器に視線をやる。

 ここに来る前に取ってきたあれをどのタイミングで使うべきか。

 ……と言うか、いらない気もする。

 ガスさえ気を付ければ苦戦する要素がない。

 

 俺が前に出て知子ちゃんが後ろから援護する。

 以前練習した狙撃の技術も向上しているようで、球根の胴体だけでなく蔓の先を正確に打ち抜くなんて言う離れ業を行い始めた知子ちゃんに舌を巻く。

 俺が蔓を全く後ろに通さず切り落とし、隙を見付けて胴体を裂き、後ろから繰り出される銃弾の嵐は正確に化け物を打ち抜くのだから。

 その化け物に勝ちの目はなく、何一つ有効な反撃が出来ないまま、化け物は倒れ伏した。

 

 

「■…■■……」

「悪いな。本当はもう少しいたぶるつもりだったが想定外に弱すぎた」

 

 

 分割された身体からガスを吹き出しながらも、藻掻くような動作を見せる化け物にそう吐き捨てる。

 そして、刀身に付着した体液を振り払い鞘に収め、知子ちゃんが手に持った銃を連射させてとどめを刺すのを隣で眺めた。

 

 それなりの抵抗を予想していたのだが、どうやらかなり弱っていたようで本当に大した労力も無く始末することが出来てしまった。

 ちょっと前の俺の醜態が、ひとえに自分の油断に他ならなかったのだと突き付けられたようで少し気落ちしてしまう。

 

 それでも、なんとか目的は果たすことが出来たのだ。

 今はこれで納得しようと、球根の化け物が穴だらけになって動かなくなったのを見届けた。

 この前は散々だった相手にリベンジを果たすことが出来たのだ。

 

 

(ま、まあ取り敢えず、結果として彼らを助ける行為をした訳だし、異形の振りをしているといっても命を救ったんだから感謝こそされても邪険にされるなんて事は――――)

 

 

 そんな甘い思考をしながら生存者達の様子を見ようと振り返れば、直ぐ目の前に銃を構えた彩乃がこちらに飛び掛かって来ていた。

 

 

「へ……?」

「ばいっ、死鬼様っ!!?」

 

 

 幼馴染の飛び掛かってくる姿なんて久しぶりで、その姿を認めてしまったから無条件に脱力してしまい成されるがまま、ゴロゴロと土の上を二人で転がる事となる。

 

 ゴリリッ、と言う冷たい感触が額に押しつけられ、馬乗りになった彩乃がその押しつけた拳銃の引き金を引いた。

 それも一発どころじゃない、数発続けて撃ちやがったのだ。

 

 何度も何度も何度も何度も。

 身体を張って助け出した恩を全く感じていない様な恩知らずな彼女は、拳銃に装填された弾を撃ち尽くしてもなお、引き金を引き続ける。

 当然、傷一つ無い。

 

 

「……あー……満足したか?」

「っっ……!!」

 

 

 今度はサバイバルナイフを引き抜いて斬りかかってきた。

 ガンガンと鋼鉄でも叩いている様な音が鳴り響く中、知子ちゃんが銃器を彩乃に向けたのを見て、慌てて手で制す。

 何処かでカラーコンタクトでも見付けたのか、赤く光る知子ちゃんの目は今にも彩乃に向けて撃ち出しそうだったからだ。

 

 何度か俺を切り付けていた彼女は薄皮すら絶てていない事に気が付いて、ナイフの柄を握り突き刺すように振り下ろしてきたが、どう考えても刃先すら刺さらないし怪我をするだけなので、ナイフの刃を手刀で切り飛ばした。

 

 

「おい、どけ。私も我慢の限界があるぞ」

 

 

 流石にやられたままでは異形として疑われかねない。

 ちょっとだけ怖い声でそう言えば、一瞬怯んだ様子を見せるが、今度は拳を握って俺に振り下ろしてくる。

 ガンッ、と言う鈍い音がして、これだけ俺が固いと分かっているのに全力で振り下ろしてきやがった俺の幼馴染の脳筋具合に溜息が漏れる。

 慌てたように声を上げるのは、彩乃と一緒に行動していた者達だ。

 

 

「お、おい彩乃っ! は、離れろっ! 何やってんだ馬鹿っ!!」

「ソイツの気が変わらないうちに早くこっちに戻ってこい!! 聞いてんのか!?」

「………っ」

 

 

 そんな仲間達の恐怖の入り交じった声掛けにも応じず、血が滲む拳をひたすら俺に振り下ろしてくる。

 流石に痛々しすぎる幼馴染のそんな姿を放置することは出来ず、振り下ろしてきたその拳を掴んで止める。

 懲りずに殴りかかってきたもう片方の手も掴み取れば、彼女は頭突きを敢行してくる。

 ……いい加減にして欲しい。

 

 

「お、お前っ、なんなんだ!? 私はただあの球根に用があっただけだ!! お前らをどうこうするつもりなんて無い!! 邪魔だからそこをどけ!!」

「……ろし…さ…よっ…」

「何だと言うんだ!? もっと大きな声で――――」

「殺しなさいよっ!! 私をっ、殺せば良いでしょう!?」

「――――はぁ!?」

 

 

 思わず素で驚きの声を上げてしまう。

 こいつ今なんて言った?

 

 充血した目で俺を見下ろす彩乃の、初めて見る表情に声を失う。

 

 

「なんで反撃しない!! なんで振り落とさない!! なんで異形の貴方がっ、私を守るっ!!?」

「な、何を言って……?」

 

 

 叩き付けてくるような言葉に思わず黙る。

 困惑するような俺の表情に、もう一度頭突きをしてくる。

 

 

「戦えっ、悪意を見せろ! 私はお前らの敵だ!」

 

 

 吠え猛る幼馴染の手を離せば、その隙を逃さずに両手で首を絞めてくる。

 

 

「その目で見るなっ! お前は地の底のような暗い目をしていただろう!? 私を惑わすその目で見るな!!」

「……お前」

「お前らは私から奪ったんだろうっ、なら最後まで敵であり続けろっ!!!」

「い、いや、まて」

「私は貴方たちを絶対に許さないっ、許すことはないっ……!」

「違う、分かったっ、だから一旦離れろっ……」

「貴方が死なないなら、私が死ぬまで続けるだけだっ! 私は――――」

 

 

 もう一度振りかぶろうと頭を引いた彩乃の胸元から、ネックレスのように首から吊り下げられた何かが零れた。

 絶対に指のサイズに合わないであろう小さな指輪が、何かの衝撃でひもが切れたのか土の上を転がっていく。

 

 

「――――あ……」

 

 

 その指輪が転がっていくのを見て、あれだけ意固地に俺から離れなかった彩乃が咄嗟にそちらへと顔を向けた。

 そんなに大事なものだったのか、直ぐさま取りに行こうと動き出した彼女の手が伸びて、馬乗りになっていた彼女の身体が離れていく。

 

 ともすれば子供の癇癪の様ですらあった先ほどの彼女の姿に、複雑な感情を胸中に渦巻かせながら上半身を起こした。

 

 

「……死鬼様お怪我はありませんよね?」

「当然だ。だが……つ、疲れた」

 

 

 近付いてきた知子ちゃんに、上半身を起こしながら心配するなと手を振った。

 なんで球根の化け物との戦いよりも、幼馴染との遣り取りの方が疲れるんだと心底思う。

 

 対策を立てて戦っていたつもりであったが、どうやら多少のガスは吸い込んでしまっていたようで。

 ズキズキと痛む頭を抑えながら、化け物の死骸に視線を向けて。

 

――――残骸でしかない筈のそれが動き出したのを見て、考えるよりも先に駆け出した。

 

 

「……え?」

 

 

 襲い掛かった化け物の残骸が、指輪に気を取られている彩乃に届く直前。

 

 化け物と彩乃の間に身体を滑り込ませ。

 最後の抵抗のようなその一撃を、まともに受け止めることとなった。

 

 



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狂おしい過去の残骸

 

 

「――――いつか僕が君を守るから」

 

 

 記憶の奥の奥にあるそんな言葉。

 物心を付いていたのかも分からないくらい幼い頃の記憶にある断片的なその言葉を、私はいつも忘れたことがなかった。

 

 背が小さくて、運動神経も良くなくて、誰かと喧嘩するほど気も強くないから、同級生に意地悪されている所を助けるのは、いつも私の役割だった。

 何かを取り合えば私が負けることはなく、私が行く先を決めて彼が付いてくるのが当たり前だと思って居たから、そんなことを言われてもその時はほんの少しだって信用していなかった。

 今思えばあの時の彼の言葉は、誕生日を迎えた私へのプレゼントに添えたなんてこと無い口からの出任せに過ぎなかった筈なのに。

 

 私はそれが嬉しくて、守って欲しくて。

 あんなことを言ってしまったのだ。

 

 

「ねえ、梅利。梅にはね、花言葉って言うのがあるんだよ」

 

 

 自分で知っていた訳でないそれを、偉そうに教える感覚で彼に話しかける。

 

 

「その意味はね――――」

 

 

 口に出してしまったその言葉は鎖のように。

 

 

「――――約束を果たす」

 

 

 お互いを締め付けた。

 

 

 

 

 

 

 いつかの光景を焼き増ししたような目前の状況に息が詰まる。

 小さな背丈が目の前に飛び込んできて、自分目掛けて振るわれていた凶刃を受けるその光景はあの時の恐怖をそのまま連想させる。

 袈裟懸けに叩き付けられた一撃は着物を切り裂いて、僅かに前に出された腕が完全に化け物に呑まれている。

 

 上手く呼吸が出来ない。

 ぐらぐらと視界が揺れた。

 記憶を刺激するあの光景がそのまま目の前にある。

 

 凄惨な光景。

 また自分を守って。

 彼が隣から居なくなったあの光景がそのまま。

 目の前に居るのはただの異形だと分かっているのに、つい手を伸ばしてしまう。

 

 

「…………その、程度か?」

 

 

 だから、身を盾にした少女の声を聞いて思わず安心してしまった。

 

 

「何度も、何度も、……倒れるような無様を」

 

 

 鬼が動く。

 傷を負ったのかは分からないが、フラフラとして足取りで一歩を踏み込んで腕を振り抜く。

 

 

「晒して堪るかよっ……!」

 

 

 爆発した、一瞬だけそう錯覚する。

 覆うように被さっていた蔓を瞬時に引き千切り、ギラギラとした赤い光を灯す目が鋭く。

 化け物に向けた鬼が手に持っていた刀を構え攻撃に移ろうとする前に、制止する声が響いた。

 

 

「死鬼様! 後は私が片づけます!」

 

 

 有無を言わせぬ断言でそう言えば、従者のような銃器を持った女が蠢く植物の残骸へ肉薄していった。

 流石に死鬼の眷属らしく、襲い来る蔓を全て軽々躱していく圧倒的な身体能力は常人離れしている。

 

 化け物が周囲に飛び散っている死骸を喰らいながら、何とか受けたダメージを回復しようとしているのを見て不味いと思うが、その女が片手で自動小銃を連射しながら背中にある黒色の筒の準備を進めているのに気が付いて、どうやってとどめを刺す算段なのかを悟る。

 対戦車用ロケット擲弾発射機。

 あんなものがまだ残っているとは思わなかったが、あれならば弱ったあの化け物程度であればとどめとしては充分すぎるだろう。

 

 女が戦う様子をじっと見詰めていた死鬼も、ロケット擲弾を発射する準備が整ったのを見て疲れたように地面に腰を下ろした。

 それぐらいあの武器の威力を身に染みているのだろう。

 なにせ、一度直撃を受けた身の筈だからだ。

 

 

「――――撃ちますっ……!!」

 

 

 誰に向けた警告かは分からないが、その言葉の直後に発射されたタイミングは私の目から見ても完璧で。

 為す術もなく直撃した球根の化け物は炸裂した衝撃と業火に校庭の土ごと消し飛ばされて、爆音と土煙が消えた後には巨大なクレーター以外何も残っていなかった。

 あれだけ手負いの相手に苦戦を強いられてた私達を嘲笑うかのように、死鬼とそれに従う者は鮮やかな手腕で化け物を終始圧倒し、そして気が付けば跡形も無く消し飛ばしている。

 

 なんて冗談だ。

 特級危険個体の相手は、同格のものしか行えないとでも断言するかのような現実に圧倒される。

 

 

 先ほどの事もあるためか警戒を続けている女が服に付いた砂埃を払いつつも、化け物が居た場所の周辺を確認して遠巻きに自分たちを見ている生前者の様子を窺っていた。

 特に私に対しての視線は凍てつくように冷たく、鋭い。

 共通の敵がこれで倒された訳だから、お互いに相手の出方を窺うのは当然だろうし、私のしたことを思えば彼女から警戒されるのは当たり前だ。

 このまま距離を取ったまま、お互いに関わらないようにしておくのが最も私達にとっては良いのかもしれない。

 

 けれど、それを当然と思わない者も居る。

 

 

「……おい」

 

 

 座り込んでいた鬼が私に声を掛ける。

 警戒して身を強張らせた私へと手を伸ばし、掌の上に乗せた何かを見せてくる。

 

 小さな指輪がそこに乗っている。

 

 

「それっ……!?」

「植物がお前ごとこれを壊してしまいそうだったからな。一応回収しておいた」

 

 

 直ぐに奪い取るようにそれを受け取った私の様子に少しだけ目を丸くした鬼は、仕方が無いとでも言う様に口角を上げた。

 

 

「大切なものなのか? あ、いや、何でも無い忘れろ」

 

 

 やけに親しげに切り出された言葉に睨みを効かせれば、鬼は慌てたように視線を逸らす。

 

 やりにくい。

 こいつは昔こんな穏やかな気質ではなかったと思うのだが……。

 もやもやとした感情が胸中を渦巻いて、気持ち悪さに顔をしかめる。

 どうすれば良いか分からなくなって、胸に抱いた子供の頃の指輪に視線を落とし、何も考えないことにした。

 

 

「…………ありがとう」

「ああ」

「この指輪のことも、さっきの攻撃のことも。本当に助かった」

 

 

 何も考えないようにすれば、感謝の言葉が自然と口から出てきた。

 照れたように顔を背けた鬼に既視感を覚える。

 

 

「なんで、どうして優しくするの?」

「い、いや、気まぐれで」

 

 

 興味本位でそう聞いて身を乗り出す。

 顔を寄せれば、白い頬を紅潮させて距離を取ろうとした。

 まるで初心な男子のようだ。

 

 

「嘘。前と全然態度が違う。……ちょっと、こっちを見て」

「待て、それ以上近寄るな、止めろ」

「距離を取ろうとしないで。もう、攻撃するつもりはない…信じて」

「いやそんなことは疑っていない。それよりもある程度離れてくれ、頼むから」

「……」

「……」

 

 

 沈黙が漂う。

 勿論、納得や譲歩の沈黙ではない。

 絶対に視線を合わせようとしない鬼の様子に無性に腹が立つ。

 目の前の鬼の頬を一筋の汗が流れた。

 

 

「私は感謝しているの、これは嘘偽りのない気持ちよ。何度だってお礼を言うわ、ありがとう。じゃあこれに対して貴方は、せめて視線を合わせて受け取るべきじゃないかと思うのだけど?」

「いやいや、もう充分感謝は受け取った。そんな押しつけがましい態度で感謝されるとは思わなかったけどな」

「……はっ、優雅を信条にしていたんじゃなかったのかしら? わたわたと離れようとして、まるで童貞の男子みたいね?」

「ど、どどど、童貞じゃないしっ……! き、貴様っ……、言って良いことと悪いことがあるだろうっ……!? 破廉恥なっ! これだから脳筋は始末に負えないんだっ!!」

「のう、きん……ですってっ……!?」

 

 

 イラッとした。

 脳筋とかどの口が言うのかと。

 

 

「ふ、ふざけないで、私の何処が脳筋よ!? 貴方の馬鹿みたいな力尽くの解決策に比べれば私なんて知略に富んだ行動をしているじゃない!」

「どの口が言うかバーカ!! 考えるよりも先に行動しているような単細胞っぷりにウンザリしたわ!!」

「ああん!? 少し強くて少し恩を売れたからって随分な物言いじゃないっ!!」

「その少しの力とか恩にちょっとも対抗できていないのは何処のどちら様ですかねー? プークスクス」

 

 

 こ、こいつっ……!!!

 ギリギリとお互いを威嚇するように牙を剝いて、鼻が付きそうな程の距離で睨み合う。

 

 気炎を上げて、お互いに相手が一切引くつもりがないのを理解しているのだろうが、頭の固い二人はどちらも譲るという選択を彼方へと投げ捨てた。

 

 

「ドチビがっ!!! 背の小ささと器の大きさは比例するようね!!! ありがとうって言っているんだから、どういたしましてって言えば良いじゃない!! それだけでしょう!? あーごめんなさい! その角で頭の中は空っぽに近いんだったわね!? そんな高度な事は出来ないんだったわね!!」

「ウスノロでか女がっ!!! 周りが見えないのかお前はっ!? 感謝されることに対して返礼を期待するなんて、これだから常識のなっていない筋肉全振りの馬鹿は困る!! お前以外だーれも俺に対してそんな態度は取っていないぞ!! ぶくぶくぶくぶく筋肉ばかり増やしやがってっ、少しは淑女の勉強をしたらどうなんですかー!?」

「なによ貴方っ、ボコボコにしてやりましょうか!!?」

「上等だオラァ!! ギタギタにしてやる!!!」

 

「ストップッ!! ストップですっ!!!」

 

 

 慌てて間に入ってきた従者の女が引き攣った表情で鬼と私を引き離すが、向こうは中指を立てていて、私は親指を下に向けて挑発し合っている。

 呆れ顔の女が冷たい目で私と鬼を見るが、ヒートアップしている私達はその視線に気が付いても行動を止めようとしない。

 

 慌てて駆け寄ってきた所属するコミュニティの人達が私を羽交い締めにして引き摺っていくが、納得できない。

 あの調子に乗ったドチビの鼻をへし折らないと気が済まなかった。

 

 

「こ、このっ、離しっ、離しなさい!!! アイツのっ、アイツの気取った面を引っぱたかないと気が済まないっ……!」

「馬鹿かお前!? “死鬼”だぞっ!? あの“死鬼”だぞっ!!? 今お前が生きているのも奇跡みたいなもんだ馬鹿っ!!」

「こいつどうなってんだっ、二人掛かりで持って行かれそうだぞっ!! おいっ! もっと人数増やせっ!!」

 

 

 私を引き摺る人数が増えて本格的に反抗が出来なくなってきた。

 

 最後にギリリッと遠くなっていく鬼を睨み付ければ、向こうも私のその視線に気が付いたのだろう。

 同じように睨もうとして、妙な風に顔を歪ませて。

 鋭くしようとした目付きが崩れ、諦めたようにその異形は破顔した。

 

 驚愕に目を見開く。

 ふにゃりと笑ってしまっているその表情は、いつか見た誰かに重なった。

 

 ああ、そうだ……記憶にある、昔のアイツにやけにそっくりなんだ。

 悲しそうで、苦しそうで、それでいて少しだけ嬉しそうなその表情に唖然とした私は、思わず何かを叫ぼうとして、私を引き摺っていた人達がこれ以上の罵倒はさせないと慌てて口を塞いだから、何も言うことは出来なかった。

 

 必死に手を伸ばして、それすらも捕まれて。

 何も出来ないまま、視線の先で私を見送るその小さな背丈の誰かから。

 

 いつかの様に、引き離される。

 

 

 

 

 

 

 視界から去って行く彩乃の姿を見送り、溜息を吐く。

 やってしまったのだろう、それもかなり取り返しの付かないことを。

 

 思わず飛び出した化け物からの攻撃、彩乃が命を落とすところなど許せないからそれは良かったとしても、その後の対応は有り得ない。

 何故以前の調子で口喧嘩などしてしまったのだろう。

 一人称も、俺と言ってしまった気もするし、何より昔言い争っていた内容に似た事を言ってしまった。

 

 恐らく……多分……、彩乃は俺の事に気が付いただろうと思う。

 実際十年前の話であるからすっぱり忘れている可能性もあるが、その可能性は俺が傷付くので考えないことにする。

 まあ、あいつは馬鹿なので言い争いの内容から俺の正体を当てるなんてこと出来ないかもしれないが、悪い方を想像しておいた方が良いだろう。

 

 

「……死鬼様、私に何か言うことがあるのではないですか?」

「え、えっと? あ、いや……何のことだ? 用向きは済んだ、帰るとしよう」

 

 

 失敗したのを謝るべきか、心配させたのを謝るべきかと悩んだが、どちらもこの場でやるべきではないかと判断する。

 恐れの入り交じった視線を向けてくる生存者達から逃れるために、取り敢えずこの場を離れようと尊大な口調を維持して提案するが、知子ちゃんは何故だか不満そうに唇を尖らせ不満そうだ。

 

 

「……私、あの化け物倒しました。……褒めてください」

「……なんて?」

 

 

 想像だにしなかった知子ちゃんの言葉に思わず聞き返せば、彼女は頬を膨らませて俺の片手を掴んで自分の頭に押し当てる。

 ぐりぐりと掌に頭を擦り付け、上目遣いで睨んでくる知子ちゃんはそれでも不満げだ。

 ……どうやら聞き間違いではないらしい。

 

 

「あー……、うん、凄いぞー。流石は私の仲間だー。どれ、褒美をやろう、よーしよしよしよし!」

「えへ、えへへ……」

 

 

 数秒それを続けていれば、満足した知子ちゃんが顔を上げていつものキリリとした表情を作った。

 

 

「では帰りましょうか死鬼様。この場所に留まる必要性は薄いと愚考します」

「いや、切り替え早いな……?」

 

 

 下ろしていた武器を抱え直して、スタスタと前を歩いて行く知子ちゃんの背中を追って歩き出す。

 チラリと後ろを見れば、生存者のほとんどがこちらを見て俺達が居なくなるのを待っている。

 そしてそれは感謝の感情を込めた視線などではない。

 恐怖や憎しみ、果てには殺意と言った物々しい感情を孕んだ悪意のある視線だ。

 

 異形とバレないようにヘルメットを被って生活していたのは正しかった。

 異形という存在が生存者達にとってどれだけ憎悪すべき対象なのかが、彼らのあの目で、そして彩乃の態度で、よく分かってしまった。

 

 もしも……もしも彩乃が俺の正体に気が付いて追ってきたとしたらどうするべきなのだろう。

 もしも、彩乃が異形としての俺を始末しようと、本気で襲い掛かってきたらどうするべきなのだろう。

 きっと俺は彼女を攻撃する決意なんて絶対に出来ないし、どうするべきなのだと理解しても、行動に移すことは出来ない筈だ。

 

 ならきっと俺は、もう彼女に会うべきじゃないのではないか、そう思った。

 

 前を歩く知子ちゃんの背中を見る。

 彼女は仲間であり、背中を預けられる戦友であり、共に歩く友人だ。

 だから、少なくとも――――守りたいものがある今はきっと、そうなのだろう。

 

 振り向きたくなる衝動を抑えて、俺は前に歩いていく。

 

 

 

 



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進展する計画

 

 

 物静かな住宅街がある。

 パンデミックが発生する前は高級住宅街であったと思わせる整った街並みは、今はその面影を残したまま廃れさせてしまっている。

 警備的には侵入を防ぐ堀も、家の壁も厚くは無い大きな邸宅を今は誰も使う者が居ないのか、綺麗な状態を保ったまま生活臭を感じさせない。

 

 そんな住宅の中の一つ。

 その地の他の邸宅となんら変わりない建物の中に俺達は居た。

 

 

「よし、引っ越し完了だね、やっと終わった……」

「あ、待って梅利さん。まだこの部屋の配置が気に入りません。もう少し、もう少しだけ考えさせてください!」

「ち、知子ちゃんは真面目だなぁ」

 

 

 前々から計画していた引っ越しを、あの球根の化け物の討伐時に犯した失態を切っ掛けとして早めに終わらせることにしたのだ。

 既にある程度の準備を進めていた引っ越し作業で元々選んでいたこの場所は、俺の綿密な調査の上で選ばれた最高の拠点だ。

 

 広い庭に、多機能な居室の数々。

 一室丸ごと食料の保管が行える冷凍室まで完備され、なにより広い地下空間がある。

 ワインを保管する場所と核シェルターと思われる部屋まであったその地下空間は異形や死者から身を隠すのに最適だ。

 ここに初めて訪れた知子ちゃんが嬉しそうに色んな部屋の利便性を俺に説明しながら見て回ったのも頷けるレベルに、各機能が充実している。

 生存者がここを拠点として使用しなかった一番の要因と思われる、この付近を徘徊していた強めの異形は、ちょっと前に駆除しておいたからそっちの心配も無い。

 

 

「いやぁ、俺の失態で引っ越しを急がせちゃってごめんね」

「いえ。最初から拠点を移す予定と聞いていましたし、何よりここまで延期になっていたのには私の責任が多いですから。むしろ今回の事は良い切っ掛けだったと思います」

 

 

 身の丈以上の棚を軽々と持ち上げて移動させている知子ちゃんの後ろ姿を見て、あまりの頼もしさに苦笑いが零れた。

 俺が意識を失っていた一週間程度の間で、彼女は何枚皮が剥けたのか。

 ……と言うか、強くなりすぎている気がする。

 正直、あまり頼られなくなって少し寂しい。

 

 

「それにしても、この住宅地の異形を既に片付けているとは思いませんでした。“主”程とは行かなくとも、結構有名な異形でしたよアレ。強くなかったですか?」

「えーと、多分蟻みたいな奴だよね? 戦い辛かったけど本体は大したことなかったな。ほら、どの攻撃も効かなかったし」

「……その硬さはほんと卑怯ですよね」

 

 

 誰も勝てない訳だ、と一人納得している知子ちゃんを置いて俺は立ち上がる。

 

 

「知子ちゃんもう少し部屋の間取りを決めてるよね? 俺ちょっと周りの異形とか死者の数減らしてくるね、生存者に気が付かれないように銃は使わないけど」

「分かりました。でも、ちゃんと銃は持っては行ってくださいね。素手で異形を片付けているなんて、本当はあり得ませんから」

「はーい。あ、夜ご飯までには戻るから」

「お気を付けて下さい」

 

 

 新居となって初めての外出だ。

 自ずと上がり始めた気分に身を任せて、鼻歌交じりに玄関から外に出ると空には曇り空が広がっていた。

 

 

 

 

 

 

「これで12体目っと、んん、意外と少ないな」

 

 

 倒した数を計算して、伸びをしながら呟いた。

 

 以前住んでいた教会の周りは最初の内はかなり酷かった。

 少し歩くだけで百近い死者の群れと遭遇して毎回辟易としたものだが、比べてこの住宅地はそれが無い。

 不思議に感じたが、そう言えばここを根城にしていた蟻の異形は巣に多くの卵を拵えていた。

 あれが何から来たものかと考えれば、恐らくこの辺りに居た化け物どもが餌になったのかと思い当たる。

 

 多少の数やある程度強い異形相手ならなんとかする自信はあるが、あまり多数の相手は出来るならしたくない。

 立派に仕事を果たしてくれた蟻の化け物へ感謝を捧げてから、周りの探索をしていた折にたまたま見付けた治療用の品を持ち直して帰路につく。

 ちょっとした憧れのあった高級住宅街の街並みを眺め、出来るならこんな状態になる前にこの場所に住んでみたかったなと思う。

 まあ、こんな状態でも無ければ一生縁の無い場所であったとは分かっているのだが。

 

 

「そう言えば、この辺りは車両が散乱していないな。綺麗に片付いてる。……普通に車で通行できそうな道か、色々使えそうだな」

 

 

 大きめの道なりを優雅な気分で歩きながら、緩やかに続く坂の先を見上げて。

 

 おかしなものを見付けた。

 

 

「……あれ、人影?」

 

 

 道路の先からのっそりと突っ立っている人型の影を見て、一瞬どうやって見付からずに行こうかと頭を悩ませる。

 だが、以前より敏感になった嗅覚が、ザラつくような不快感と共に警告を伝えて来た。

 あれは人では無く、異形であると。

 

 思わず足を止める。

 

 

「待て……待てよ。人型? 俺と同じ、人型の異形? ……それって」

 

 

 人としての意識があるって言うことか?

 そう呟いた俺が立ち止まってその姿をじっと観察を始めた時、グルリと、ぼんやりと直立して動く様子の無かったその人型の首が曲がり、こちらに顔を向けた。

 

 意思を感じさせない白濁した目。

 死者と同じ、生気を感じさせない青黒くボロボロの肌。

 異常なまでに発達した筋肉が鎧のように全身を覆い、巨大な体躯をしたその大きさは見上げるほどに大きい。

 近付いて詳細に分かるその大きさは、およそ二メートルは余裕で超えている。

 人型という部分こそ似ているが、全く人としての意識を感じさせないれっきとした化け物。

 

 そんな初めて見る異形の形を、拳を振り上げて一足で飛び込んできたそいつを目前にしてようやく理解した。

 

 

「オオオォォオオォオォッッ!!!!!!!!!」

 

 

 咆哮と共に振り下ろされた拳がアスファルトを砕く。

 一歩下がって躱したものの、巻き上げられた瓦礫が身体を打ち付けてきたためあんまり躱した意味は無かった気がする。

 

 銃を使って耐久性を測ってみようかと一瞬悩むが、そろそろ弾薬も心もとない事を思い出して拳を握った。

 砕いたのがアスファルトだけだと言うことに気が付いたらしい黒の巨人が、顔を俺に向ける。

 

 

「怪力は俺の勝ちだね巨人さん」

 

 

 ちょうど良く下がっていたその顔面に、俺の小さな拳が突き刺さった。

 抵抗なく破裂した巨人の頭と共に、殺しきれなかった衝撃が黒の巨人の身体を吹き飛ばして、僅かな傾斜となっていた道を何度も跳ねていく。

 ようやく勢いが止まったのは、俺に気が付いて飛び掛かってくる前に突っ立っていた場所だ。

 

 

「動きの速さは結構あったし、力も死者としては強め。俺に気が付くのも早かったけど……うーん、今の知子ちゃんなら問題ないかな」

 

 

 死者よりも厄介な敵だなとは思うが、異形としての完成度はかなり低く感じる。

 正直、耐久性以外は大したことが無い。

 蟻の異形と戦えば、直ぐに負けてしまう程度の強さだと思う。

 

 

「でも珍しいよな。人型を保っている奴なんて」

 

 

 初めて見るタイプの異形だった。

 形からすれば死者に近いのに、俺の嗅覚はこいつが異形であると訴えている。

 

 動かない死骸となったソイツの元に近付いてマジマジと観察していれば、頭部を失ったその巨人は僅かではあるものの動きを見せている。

 とんでもない生命力だ。

 

 

「しかし……、なんでこんな好戦的な奴が蟻の化け物とやり合わなかったんだ?」

 

 

 この付近を散策してみた限り、死者どころかほとんどの異形が残っていなかった。

 それほどの支配力を持っていた筈の蟻が、こんな奴を放置しているとは考えず辛い。

 

 つまり、消去法で俺が駆除してからこの場所に来た異形と言うことが決まる訳だが、それも少し矛盾が生じるのだ。

 

 

「確か侵食し尽くした“主”でもない限り、異形が自分の住処を変えることはない筈じゃ……?」

 

 

 当然この程度の強さであの球根と同格などとは思えない。

 しばらく腕を組んで頭を悩ませたものの、解決の糸口すら掴めなかった俺は帰って知子ちゃんに相談することを決める。

 悲しい話だが、知識も頭の良さも、俺は彼女に勝てている気がしないのだ。

 

 

「まあ、確か知子ちゃんって良いところの家だもんね」

 

 

 彼女が小さい頃に話した内容を思い出しつつ、自分を納得させる。

 

 ようやく動かなくなった巨人を確認して腕組みを解いた俺は、妙な匂いに気が付いてそちらへ視線を向けた。

 重厚な獣臭と、なにより圧倒的な気配。

 思わず総毛立つような警告を俺の感覚が訴えてきた。

 以前の調査ではなんともなかった筈のこの場所で、不確定要素が続いていることに焦燥を抱きつつもじっと匂いのする邸宅を睨み付ける。

 生唾を飲み込み身構えていた俺であったが、巨人が佇んでいた場所の前にある邸宅、そこから出てきたの異形ではなく黒い毛皮のローブを身に纏った集団だった。

 

 身を隠す間もなく、直ぐにその集団も俺に気が付く。

 気が付くのが遅れたことを後悔しながらも、これからどうすれば彼らと良好に会話できるかと考えを巡らせ。

 向けられた視線に表情が強張った。

 

 いつも通りの迷彩服に銃器を携えた俺を見て、その集団は友好的でも恐れるような態度でも無く、ついこの前の彩乃と同じ、ドロドロとした憎悪を乗せた視線を向けてきたのだ。

 何の言葉も交わしてしていないのに一触即発の雰囲気がお互いの間に流れる。

 当然、思い当たる節は無い。

 寒くも無いのにこんな黒い毛皮のコートを着る集団に出会ったのは初めてなのだ。

 

 銃を握る手に力が籠もる。

 襲い掛かってくるのであれば応戦しなければならない。

 出来れば、生存者を手に掛ける事は避けたかった。

 

 

「ま、待て待て!! その人は、その姿はっ!?」

「……え?」

 

 

 その異様な集団の後ろから、一人の男性が慌てたように声を上げる。

 他の者達と同じように黒い毛皮のローブを着ているその男性が、仲間達を掻き分けてこちらに近付いてきた。

 

 

「……あっ!?」

 

 

 思い出す。

 見覚えのあるその男性。

 いつか探索していた建物の中で、百足のような醜悪な異形に追われていた男性が俺の前にひざまずいた。

 

 

「その背丈その格好!! 以前私を救って下さった方ですよね!?」

「あ、はは……。そんなこともありましたね」

 

 

 何となく見捨てられず追っていた異形を倒し、冷却スプレーを渡したあの男性がそこに居る。

 彼の後ろで隠すこと無く疑心を俺に向けていた集団が、男性の言葉を耳にして目を見開いた。

 ……どうやら予想外の部分から良好な会話の糸口が掴めたようである。

 

 

 

 

 

 

「なるほど。 いや、申し訳ありません勘違いをしていました。その服は落ちていたものを拾ったのですね? それどころか我々の同士を助けて頂いた方に疑心を向けるなど、本当に申し訳ない……」

「い、いや、そんな謝らないでいい。俺も思わず敵意を向けそうになったのだから変わらない。こんな現状で疑心暗鬼になるなと言う方が難しいだろうしな」

 

 

 先ほどとは打って変わり、ペコペコと頭を下げてくる黒ローブ集団の態度は誠実だ。

 

 あの時はバレずに男性を救出出来たと思っていたが、男性はどうやら走り去った背中に気が付いていたようでしっかりと俺のことを覚えていたらしい。

 あの後何事も無く拠点に戻り、コミュニティと合流することが出来たのだとか。

 そして、助けた俺のことをコミュニティ内で言い触らしていたらしい。

 ずっと何かお礼がしたいと言っていたとか。

 

 幸い彼らはどうも仲間思いであるようで、俺が以前男性を助けた者だと知ると態度を急変させ俺に礼を尽くしてくる。

 あの時は生存者と関わり合いになりたくないと思っていたため、適当に男性を助け出したのだが、それがこんなに感謝されるとは思っていなかった。

 むしろ感謝されすぎて気が引けてきた。

 

 

「すいません。この近辺で貴方達のコミュニティが活動しているとは知らずに探索していた。迷惑を掛けたくない。これからはあまり貴方達の活動範囲では探索しないようにするから、どの辺りまで活動されているか教えて貰っても良いか?」

「いえいえ、構いませんよ。こんな御時世でこそお互い助け合いです、我ら隣人を愛しましょう。それに貴方は見ず知らずの者では無く、同士を救った素晴らしいお方。好きなようにこの場を探索されてください」

 

 

 そんなつもりは一切無かったが、俺の下手に出た発言にその集団はとんでもないと言わんばかりに手を振った。

 

 予想外の好意的な回答に嬉しく思い、笑顔でお礼を言えば彼らも笑みを返してくれる。

 最初は不気味な集団だと思ったがこうやって接してみれば人の良い方達だ。

 俺の正体がバレない内は仲良くしていたいと思う程に。

 

 

 そうして話も纏まり、ぜひ自分達の拠点に招待すると言われるほど良好な関係を彼らと築くことが出来た。

 折角の誘いではあったが、待たせている人が居ると言ってやんわりと断れば残念そうにしながらも簡単に身を引いてくれる。

 

 また今度窺いますと言って、俺は踵を返しその場を去ろうとして――――

 

 

「……待ってください、これは?」

 

 

――――彼らの視線が頭の無くなった巨人に向けられた。

 

 別人のように冷たい声で発せられたその質問に、背筋に冷たいものが走った。

 何故だか嫌な予感がする。

 回答を間違えるべきでは無いと脳が警鐘を発する。

 

 でも、返答するべき言葉を選択するだけの時間はありはしなくて、結局口に出来たのは少しだけ嘘を混ぜた言葉だけだった。

 

 

「ああ、襲い掛かってきたから倒した。こんな死者は初めてで驚いたんだが……貴方達はこれが何かご存じか?」

「…………いいえ、知りませんが。最近似たような死者が出てきているようですよ。通常の死者に比べかなり強いのだとか。貴方もお気をつけて」

 

 

 少しだけ間があったものの、すぐににっこりと笑みを浮かべた彼らはそう言い切ってこちらを見送る態勢に入る。

 言外にそれ以上の質問を拒絶しているかのような彼らのその態度に、どうするべきか悩んでそのまま彼らに背を向けた。

 

 ねっとりと背中に巻き付いてくる視線に気が付きながらも、振り向かずに足を速めた。

 

 

 



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敬虔なる者達

 

 住宅街から少し離れた場所に、巨大な敷居面積を有した大聖堂があった。

 厚い壁やバリケードで囲われていないその建物は、普段であれば荘厳さを感じさせる神聖なものである。

 あるのはただ背の低い柵と、その全てに掛けられた黒い毛皮だ。

 当然そんな柵を乗り越えることなど、異形どころか生存者ですら容易いだろう。

 死者や異形が跋扈する今は時代に即しているとは到底言えず、まさかコミュニティが拠点にしているなど、事情が知らない者が聞けば正気を疑ってもおかしくは無い。

 

 だが、それはあくまで事情を知らぬ者が見た場合だ。

 訳を知っている、例えば東城であれば、一見何ら外敵から身を守る術を持たない建物の様に見えるそれを見て眉をしかめながらも、その場所はおいそれと異形に侵入されないと断言するだろう。

 そんな場所こそが、“泉北”コミュニティの拠点であった。

 

 その拠点の一角の礼拝堂に、一人の壮年の男性が居た。

 年齢にして六十代くらいだろうか、深いしわが刻み込まれたその顔は優しげで、祈りを捧げる姿は堂に入っており聖人を思わせる。

 信心深くじっと身動き一つしなかったその男性が長時間行っていた習慣をようやく終わらせて、酷く穏やかな表情で眠るような少女の像を見上げ拝礼した。

 

 

「泉北さん」

 

 

 深々と拝礼して礼拝堂に足を踏み入れた信徒の呼び掛けに、好々爺然とした壮年の男性が穏やかの表情のまま向き直る。

 

 

「お疲れ様です。礼拝堂でお声を掛け申し訳ありません、実は早急にお耳に挟みたいことが」

「おや、どうしましたか? そのような危急な要件の心当たりは少ないですが……まさかあれですか?」

「いえ、そちらは問題ありません、全くの順調ですが。あの、“破國(はこく)”が」

「……そう、ですか」

 

 

 先ほど祈りを捧げていた男性、泉北は訪れた者の報告を聞いて瞼を閉ざした。

 祈るような体勢に入った泉北を、報告に訪れた者は口を閉ざして見守る。

 

 

「我らをお救い下さいました我らが神よ。貴方のお導きを我らは示します。どうか僅かばかりのお力添えを……」

「……泉北さん、もう一つ」

 

 

 声を掛けられ、泉北は少しだけ驚いたように目を開いて信徒を見る。

 

 

「少し前にあった南からの“主”ですが、討伐された模様です。“東城”へ協力に行っていた“南部”の連中が大した消耗も無く拠点に戻るのを確認しました」

「なんと……所詮まがい物とは言え、一つの地域で“主”を誇ったものを倒すとは」

 

 

 心底忌々しいという表情をした信徒が吐き捨てた情報に、泉北も難しい表情を作った。

 考えるのは、忌々しくも生き残ったあの者どものことだ。

 

 目算ではそこそこ数を減らしてくれると思ったのだがなんて考えてから、泉北は思考を切り替える。

 

 

「彼らもまた、この地獄の様な生活を生き残ってきた生存者達と言ったところでしょう。ここは素直に賞賛しておきましょうか」

「所詮奴らは神の御心に背いた背信者どもですっ……!! あんな者どもがこの世に居るなど、おぞましいっ」

「……神は寛大です。背信行為をしたとは言え、我らの神は全てに責任を取らせようとするほどお怒りではありません。そんな些事よりも、我らはやるべき事があるでしょう?」

「おお、おおお! 仰る通りです!! 再臨をっ! 我らが神の再臨をっ!!!」

 

 

 煌々と輝く信徒の瞳を見て、泉北は満足げに頷いた。

 そうだ、我らがやるべきは種を存続させることでも、住みやすい環境作りでも、ましてや荒廃した世界を元に戻すことでも無い。

 時間もそう長くは無い。

 目的を達成しなければならない。

 

 泉北は深いしわが刻み込まれた顔を礼拝堂の外に向ける。

 開かれている扉の先に見えるのは老若男女、妊婦や幼子に至るまでが一言も口を開かずに粛々と拝礼する姿だ。

 整列する彼らの間を、ゆっくりとした足取りで歩いて行く。

 

 

「我らは弱い。力無く、誰の記憶に残ることも無くただ見捨てられる筈だった存在です。ですが、神は我らを生かした。我らに生きろと神は言ったのです」

 

「何の希望も与えぬ形の無い過去の神などとは違い、我らが神は救いの手を差し伸べた。それがどれだけ慈悲深いことか、実際に救われた貴方方はよく分かるでしょう」

 

「我らの希望、我らの光、我らの神の再臨は間もなくです。貴方方の努めに掛かっています、力を惜しみなく、智を惜しみなく振るいなさい。ですがその命を無碍にすることを神は許しません」

 

 

 瞼を閉ざしたまま涙を流す者達に、泉北は囁きかける。

 信徒達の拠り所はかの神。

 神が居ない今が、どれほど信徒達の精神を蝕んでいるか泉北はしっかりと理解している。

 

 

「――――果たしましょう、我らの義務を。大丈夫、我らには同士と神が付いています」

 

 

 

 

 

 

「それは間違いなく泉北(せんぼく)ですね。“泉北”コミュニティの構成員です」

 

 

 きっぱりと確信を持った口調で知子ちゃんはそう言い切った。

 小物の整理をしている彼女はその手を止める気配すら無い。

 質問した俺が言うのも何だが、話を聞いただけでそんな直ぐに言い切れるものなのだろうか?

 

 あの不気味な集団との接触から、流石に俺はまっすぐこの拠点に帰ることはしなかった。

 尾行などがあったら面倒だと思い、少しフラフラと動き回って住宅街の外にも行ったりしたが、どれだけ感覚を研ぎ澄ましても追ってきている様子は無かった。

 念には念を入れて、関係ない邸宅の中を数件探索し、この拠点に戻るときは裏口から音も無く。

 そこまでやってこうして帰ってきたのだが、彼らに感じた不思議な不安は拭えない。

 力で言えば恐らく俺が負けることは絶対に無い。

 それでも、あの不気味な集団が自分たちに影響を及ばさないとは、どうしても思えないのだ。

 

 

「申し訳ありませんが巨人については聞いたことも無いですね。泉北がそれについて関わりを持っているなんて今まで聞いたことがありませんし、あくまで頭がちょっとアレなだけで、不思議な力なんて無いはずですよ」

「そっか……。あの黒い毛皮のコートも変な感じがしたし、絶対悪い奴らだと思ったんだけどな」

「黒い毛皮のコートと言うのも聞いたことありませんね。ここ1年ほどは他のコミュニティとの関わりを断っていましたから、何かしら装備が整っているのかもしれませんが」

「心配しすぎたのかな……。まあ、少し神経質になりすぎてたのかもしれないな」

「……ですが、梅利さんがそこまで警戒するのであれば、注意して損は無いでしょう」

 

 

 知子ちゃんが眉間にしわを寄せた俺の顔を見て、彼女の中の警戒レベルを上げたのかそんなことを言う。

 

 

「“泉北”の基本的な構成としては、比較的若者が多いですね。コミュニティ内での交際を推奨していて、子供はコミュニティ全員で育てるような形を取っている、まあ皆で支え合いましょうと言うのを体現しているような所です」

「へえ、でも閉鎖的なコミュニティなんだよね?」

「そうですね。身内に甘く、他人に冷たい。完全な遮断状態とは行かなくとも、他に何かを提供することも支援を受けることも嫌がるような頭の固いコミュニティです。……まあ、ある条件さえクリアしてしまえば、そんなことは無いんですけど……」

「……? その例外って言うのは、どう言う?」

 

 

 困ったような顔で俺を見詰め返した知子ちゃんに、何か言いづらいことなのかと目を瞬かせる。

 

 

「ええとですね。その、簡単に言えば、“泉北”って言うのは宗教団体なんです」

「へ、へぇ……。俺はあまり詳しくないんだけど、その泉北って言うコミュニティは宗教を中心としたコミュニティなの?」

「ええと、ですね。それがはっきりと宗教組織とは言えなくて。信仰の対象が、その、少し変な方向に進んでしまった団体でして……」

「なんだか歯切れが悪いね? 俺そんなに宗教については詳しくないけど、ある程度メジャーどころは抑えてるよ? 神道と仏教の違いくらいは分かるよ?」

「そう言う宗教とはまた一線を画していまして。まあ、ともかく例外って言うのはその信者になることなんですけど、それは結構厳しい審査があるみたいなので取り敢えず置いておきますね。……それよりも、彼らが最初に梅利さんを見たとき悪感情を向けてきたというのは本当ですか?」

 

 

 微妙な反応を見せて口を濁す知子ちゃんを不思議に思いながらも、頷いて肯定する。

 

 始めに彼らと視線を交わした時のあの目を思い出す。

 言葉にされたわけでも行動に移されたわけでも無いが、彼らのあの目や纏った空気は、心底憎悪している相手にしか向けられない程に強烈であった。

 だからそれは俺の勘違いなどでは無く、俺の何かを見て憎悪するよう要素があったのだ。

 そしてその後直ぐに聞いてきた服装への質問からその要素は絞られる。

 

 俺の肯定を見て、そうですかと考え込んでしまった知子ちゃんに、思い当たったそれを告げる。

 

 

「多分……自衛隊の人達に悪感情を持っているんだと思う」

「――――なるほど、やっぱり。そういうことですか」

 

 

 納得の色を見せた知子ちゃんが、理解したはずなのに渋面を作ってこちらを見てくる。

 複雑な想いを巡らせていた彼女を特に急かすこともせず待っていれば、しばらくして諦めたように頭を振った。

 

 

「彼らが自衛隊へ悪感情を向ける理由は思い当たります。別に“泉北”が元々自衛隊を嫌っていたのでは無く、自衛隊が彼らにとって到底許せないことをしたんです」

「えっと、でも自衛隊って今はもう組織として残ってないんだよね? ちょっと前にこの地域に残っていた人達も壊滅したって」

「ええそうです。ですから、壊滅した原因と彼らが許せない事は同一。微妙なバランスの上で保たれていた均衡が、その一件で崩れ去ってしまったんです」

 

 

 遠回しに遠回しに、知子ちゃんは何かを恐れるように言葉を紡いでいる。

 

 自衛隊が関わってくる話と言う事は、もしかして彩乃が関係しているのだろうか?

 確かアイツのお父さんは自衛隊に所属していた筈だったと思うが……。

 

 

「……自衛隊が行ったのはこの地域の開放。とある異形に支配されたこの地域を開放するため、外から侵攻してきた“主”と戦いで疲弊していた、ある異形の討伐を行ったんです」

「……え、待ってそれって」

 

 

 嫌な予感がする。

 その、自衛隊が最後に行った行動が壊滅に繋がったのであれば、それは一年前の事となる。

 説明する知子ちゃんから目を逸らせない。言いにくそうに、それでも説明を続けてくれる彼女はゆっくりと俺の目の前に立って手を握ってきた。

 

 

「“泉北”は新興宗教です。荒廃した世となり死が蔓延する世界の中で必死に救いを求めた弱い者達です。救われぬ者に救いの手と、そう願い続け、そして……彼らが最後に見た神は絶対的な力を持ったある異形でした」

「――――」

 

 

 かつてこの地を支配した異形が居た。

 かの者は絶対的な力を振るい、逆らう者は殺し尽くした。

 酷く傲慢で、何よりも尊大で、そして誰よりも残酷を愛していたその異形は――――時に神と呼ばれた。

 

 

「自衛隊の方々が強行した作戦の討伐対象は、彼らが神と崇めた異形。この地域をその絶対的な力で支配し続けた異形の討伐を自衛隊は行ってしまったんです」

 

 

 その異形の討伐が原因で残っていたこの地域の自衛隊が壊滅したと言う事は、その異形が彼らを殺し尽くしたからなのだろう。

 つまり、その異形は“泉北”に神と敬われて、自衛隊に討伐すべき敵と見られていた。

 

 真っ白になった頭で、目の前に立つ知子ちゃんを見上げる。

 揺れる瞳が俺を見下ろす。

 その瞳に映った俺の顔は、いつも見ているあの不気味なほどに整った異形の少女だ。

 

 

「“死鬼”の討伐。それは“泉北”にとっては到底許すことの出来ない、最悪の作戦でした」

 

 

 彼女の瞳に映った異形が、こちらを見て微笑んだ気がした。

 

 

 



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連なる悪夢

 真っ赤な鮮血が視界を覆い尽くす。

 恐怖に引き攣った叫びが響き渡る。

 誰かの視線を通して見る目の前の地獄は、確かに俺が生み出したのだと理解する。

 最後の生き残りであり、絶望に支配された表情で俺を見上げるのはうつ伏せで倒れる何処か見覚えのある男性だ。

 

 己が作り上げた死屍累々の地を踏みしめて、その男性へと歩みを進める。

 今までしたことの無いような笑顔を作り、俺の意思に関係なく男性に近付いていく身体は言うことを聞かない。

 

 何だろう、この光景は。

 見覚えの無い凶悪なそんな場面に、俺の頭は事態を把握しきれずただその光景を誰かの視点を通して見詰めるしか無い。

 

 

「……ふざけたことをしてくれたな。今まで温情で見逃していたが、絶滅させるべきだったか。矮小で、脆弱で、愚かな人間ども」

 

 

 口が勝手に動き出し言葉を紡ぐ。

 頭にはこれ以上無いのではと言うほどの激情が込み上げ、目の前にいる男性を怒りのままに消し去ろうとしているのが分かる。

 沸騰するような熱が身体を満たす。

 視界に入る、身体から滴り落ちる黒い液体はこの身体の血液だろうか?

 

 そんなことをぼんやりと考えながら俺はただ身体が動いていくのを感じるしか無い。

 一歩一歩男性との距離を詰めて行き、俺の伸ばした傷だらけの手が男性に届くかというところで、目の前の男性が見知った人であることに気が付いた。

 

 少し年老いて、土で薄汚れた格好が見慣れないものであったから気が付かなかったが、目の前に居る男性は彩乃の父親だ。

 俺のことを本当の我が子のように接してくれた、大切な人だった。

 

 

「貴様で最後だ、己の愚を呪うが良い」

「……っ、お、お前が……」

「……遺言か、聞こう」

 

 

 一刻一刻と目の前の大切な人が息絶えるまでの時間が減っているのを理解しても、俺の身体はまるで思うように動かない。

 指先一つ動かすことの出来ない身体はまるで自分では無いかのように、望まない行動を続けていく。

 

 彩乃の父親の首を片手で掴んだ。

 ほんの少し、この身体はわたあめでも潰すように力を入れるだけで、手に感じる温もりが消えてしまうのを俺は知っている。

 

 

「お前の元となった人間が、誰であろうとっ……! お前の振る舞いはっ、最悪だと言うだろうな……!」

「ほう、ならば貴様らが正義だとでも? 笑わせるなよ人間」

 

 

 吹き上がる怒りが身を焼いているのかと錯覚するほどの熱を持つ。

 

 

「私の元となった者を貴様らと同列に語るなど不快だ。愚図な貴様らなどと、何故私の主様を同じと考える。貴様が異形と化したところで、塵芥と何ら変わりないものが生まれるのは自明の理だろう?」

「ぐおぉっ……!! ぎ、がぁぁっ!!」

「貴様が今を人として生きている。なるほど、生存能力が高いことは認めよう。だが、ここに来るまでに貴様は何人の者達を見捨ててきた? 貴様は何人を無駄だと切り捨てた? 大局のためと言って私に刃向かうような愚を犯した貴様らが、どれほどの数を必要だったと置いてきた? 犠牲の上にしか立つことの出来ない貴様と私、どちらが上かなど考えるまでも無い」

 

 

 男性を掴んだ手とは逆の手が後ろに引かれた。

 もう、この身体は終わらせる気だ。

 

 

「遺言かと思って無駄な時間を過ごしたな、もう消えろ」

「……あ、あや、の、――――っ……」

 

 

 娘と奥さんの名前を呼んだ男性の身体から力が抜け落ち、だらりと四肢が垂れた。

 虚ろな目で空を見るその姿は今にも死んでしまいそうで。

 必死に身体を止めようとする俺の意思も無意味に、引き絞られた彼女の手は振われる。

 

 

「……ば、いりくん……すまない……」

『――――止めろ!!!!!』

「――――っ!?」

 

 

 凄惨な光景を想像させる目の前の世界は、その瞬間掻き消えた。

 

 

 

 

 

「梅利さんっ!!!」

「お、わっ!? あ、あれっ……?」

 

 

 衝動のまま飛び起きた俺に、知子ちゃんが馬乗りになっている。

 真っ青な顔色で俺の顔を覗き込んでいる彼女の姿、目の前の状況が読み込めず硬直してしまう。

 不安げに知子ちゃんの瞳が俺の目を覗き込んでいる。

 やっぱり整った顔をしているなぁ、なんていう現実逃避した思考をしていれば彼女はようやく安心したように溜息を吐いて俺の上から退いた。

 

 

「梅利さん、うなされていましたよ。真っ青な顔で何度も呻いていたから……心配しました」

「あ、ああ、ごめん、ありがとう。夢、だったのか……」

 

 

 心底安心する。

 考えてみれば、それはそうだろう。

 以前、“東城”コミュニティの拠点に行ったときに彩乃の父親は見掛けていたのだ。

 だから、先ほどの凄惨な光景が現実では無いと、考えれば直ぐに分かったはずなのに。

 

 

「ちょっとだけ、嫌な夢を見てね。……うん、体調とかは問題ないよ。よし、今日も一日頑張ろう知子ちゃん!」

「……そうですか、良かった」

 

 

 先ほどまでの悪夢を忘れようと元気を出そうと無理に大きく声を出して、ベッドから飛び降りる。

 そのまま伸びをしようとするが予想外に覚束なかった足が、しっかりとバランスを取れず体勢を崩した。

 倒れそうになる俺を知子ちゃんは慌てて支えてくれる。

 

 

「は、はれ? お、おかしいな……なんで?」

「……アイツ、だからあんなに飲むなって言ったのに……」

「え、知子ちゃん何か言った?」

「いえ、何でもありません。立てますか? 肩を貸しますね」

「う、うん。ありがとう」

 

 

 ふらふらする足に力を入れるが、まともにバランスを取ることが出来ない。

 知子ちゃんの肩を借りて何とか寝室用の部屋から出て、地下から一階にある台所に向かう。

 ふとワイン保管室を通るときに、昨日見たときよりもワインの数が減っている気がして不思議に思うが、くらくらする頭ではろくに考えることも出来ずそのまま通り過ぎた。

 

 

「お、おかしいな。お酒でも飲んだ感じだよ。まあ、お酒なんて飲んだ事無いんだけどね、あはは」

「…………そ、そうですね」

 

 

 俺が肩を貸してくれている知子ちゃんに申し訳なく思い、なんとか場を持たせようと冗談を口にしてみるが慣れない俺の冗談など笑えないようで、彼女は俺から目線を逸らして気まずそうに同意してくる。

 

 ……なんだろう、この疎外感。

 そんなはず無いのに俺だけ仲間はずれにされてる感が半端ない。

 

 ようやく辿り着いたリビングに置いてあるソファに座り、知子ちゃんが持ってきてくれた水を飲めば、気持ち頭の霧が掛かったかのような不快な感覚が薄れる。

 体調を崩すことなどこの身体になってから一度も無かったのだが、どうして急にこんなことになったのだろう?

 

 やっぱり昨日聞いた衝撃の事実に、速攻でふて寝状態に入ったのが悪かったのだろうか?

 そう考えると、さっきの悪夢も納得がいく。

 昨日の自衛隊を壊滅させた異形の正体が俺だという衝撃は、ふて寝した程度では和らがなかったらしい。

 

 

「梅利さん、今日は休みましょう。無理に外出する必要も無いですし」

「……そうだね、なんだか訳が分からないけど身体の調子が悪いし。そう言えばあの球根の最後の一撃を受けちゃったから、そのガスのダメージも残ってるのかな?」

「そ、そうですよ、きっと!」

「じゃあ、今日はもう家でゆっくり――――」

 

 

 僅かに、外から誰かが言い争うような声が聞こえてきた。

 知子ちゃんの耳には届いていないのか、俺が黙ったのを見て不思議そうに小首を傾げた彼女に小さな声で伝える。

 

 

「……少し離れたところで、何人かが言い争いをしてるみたい」

 

 

 状況を理解した知子ちゃんは目を瞬いた。

 

 

 

 

 

 

 音を聞きつけて、慌てて迷彩服を身に纏い外に飛び出した。

 コソコソと物陰に身を隠しながら声のする方向に近付いていけば、徐々にその姿が確認できる。

 高級住宅街の道路を挟んで、四人ほどの集団同士が睨み合い何かを言い合っていた。

 片方は黒い毛皮のコートを身に纏う集団で、もう片方は以前から何度か見ている彼ら。

 

 

「あ、あの人達……!」

「……知子ちゃんがいた所の人達だよね? 確か、雛美さんとかそこら辺の」

 

 

 前に襲撃していた動物たちから助け出した彼らが“泉北”と睨み合い何かを言い合っている。

 と言うよりも、“泉北”の集団に一方的に絡まれているようにも見える。

 ……あれが異形の頃の俺を信仰しているとか、信じたくない光景だ。

 

 

「……へえ、彼女の事を知っているんですね。どうですか、綺麗な子でしょう?」

「んー、まあそうだね。でもまあ、身近に知子ちゃんがいるからそんな気にならなかったな」

「え?」

 

 

 じっと様子を窺いつつ、この後どう動くべきか考える。

 もしもこのままあの集団がぶつかり合ったら、折角周りに死者や異形が居ないのに音につられて来てしまう可能性もある。

 穏やかな新居生活が始まったばかりなのに、それは正直遠慮したい。

 

 

「もし彼らが武力衝突しそうになったら割って入るなんてどうだろう」

「――――え、ええ、あ、そうですね。あ、でも、あまり目を付けられたくないですし、何なら今私変装していないので、彼女達の前に出るのはちょっと、ですね」

「そっか……そうだね。まあじゃあ、衝突しないことを祈って」

「はい、そ、そうしましょう」

 

 

 言い淀む知子ちゃんの言葉に、自分自身の短慮を反省する。

 

 取捨選択を誤るなんてしてはいけない。

 思わず自分勝手に動きそうになったが、よくよく考えてみれば生存者同士で生死の掛かった争いが起こるとはよっぽどのことが無い限り考えにくい。

 ならばここは静観するのが最善だろう、……いや本当に調子が出ない。

 まだ頭がクラクラするし、何なら痛みもある。

 こんな調子では不測の事態に陥ったときに、機転を利かせることなんて出来ない気がする。

 

 

「――――止めはしません。ですが、貴方達にはいずれ神罰が下されるでしょう」

「何言ってやがるっ…! お前らが言うあの化け物はそんな高尚なもんじゃねぇ!!! いつまで妄想に縋り付いてやがるっ、あの化け物がお前らを一度でも救ったことがあるのかよ!?」

 

 

 罵倒にも似たそんな言葉が交わされているのを聞いて表情が強張る。

 聞き覚えのあるその声と、攻撃的な彼の言葉にただでさえクラクラしている頭が痛くなる。

 恐らく“泉北”が信仰する神、つまり“死鬼”を指して言って居るであろう兵藤の言葉に、黒い毛皮のコートを着た者達は見るからに剣呑な雰囲気を身に纏い始めた。

 

 

「……幾度となく。そして、貴方は今我らが神を侮辱しました。今すぐ頭を下げ許しを請わなければ、今すぐにでも神罰が下りますよ?」

「はっ、その神罰とやらを見ることが出来れば、少しは神を信じても良いんだがなっ! おい、もう帰ろうぜ。ここはどうやら頭のおかしい“泉北”さん達が根城にしてる場所みたいだ。俺はもう関わり合いになりたくなくて吐き気がしてるぜ」

「兵藤君、あんまりそういう事は」

「いや、ともかく俺らの目的は達成したんだ。もう帰って関わり合いにならない方が良いだろう」

「う、うん。あの、すいません失礼します」

 

 

 前に見たときのように、やっぱり兵藤と言う奴は誰に対しても攻撃的だ。

 俺はまあ、命の恩人的な立場であったからあんな対応は取られないが、普通に出会っていたら関わりになりたくない人種ナンバーワンであると思う。

 もっとも、もしかしたら話を円滑に進めるためにあのような役を演じているのかもしれないが……どちらにしろやり過ぎのような気もする。

 なんせ、彼らが背を向けた黒い毛皮のコートの連中は、今にも人を殺しそうな目でその背中を睨んでいるのだから。

 

 

「……汚らわしい背信者め、自分が受けていた慈悲を当然のものと考え感謝もしない愚図どもめ……」

 

 

 離れたこの場所にさえ歯軋りが聞こえてきそうな程、歯を食いしばりブツブツと何かを言っている。

 俺にはその考えが分からないが、隣に居る知子ちゃんは何か思うところがあるのか眉間にしわを寄せて彼らの姿を見詰めていた。

 

 ほの暗く輝く目が兵藤達を捉えたまま、何かを呟いていた彼が片手を持ち上げたのを見て警戒する。

 手には何も持たれていない。

 だが、その手はそれそのものが凶器であるように、去って行く兵藤目掛けて振り下ろしていく。

 

 その一種の合図のような動きで。

 

 

「そこまで言うならば良いだろう、お前達には」

 

 

 視界の端にある、邸宅の屋根の上から何かが飛んだ。

 

 

「厳罰が下る」

 

 

 着弾する。

 地面が砕け、土煙が巻き上がる。

 巨大な何かの影が、拳を地面に叩き付けている。

 

 直前に上空からの気配に気が付き、慌てて転がるように避けた彼らは生傷や打撲の痕こそあるものの大きな負傷は無いようで、呆然と自分たちが居た場所に現れた巨大な影を見上げていた。

 

 

「え、えっ、なにこれっ!?」

「巨人っ……!? いや、これはっ…!?」

「お、おいおいおい、逃げるぞ走れ!!! 挽肉にされるぞ!!」

 

 

 兵藤達目掛けて空から降ってきた何かがが土煙の中で咆哮を上げた。

 己の存在を叩き付けるかのような咆哮を吐き出し土煙から姿を現わした巨人は、走り出した兵藤達に視線を固定させる。

 

 

「ち、知子ちゃんアレっ…!?」

「嘘でしょう、死者を操ったっ!? そんなっ!?」

 

 

 それは背後で笑う“泉北”達には見向きもせずに、見えているのか分からない白目を逃げる兵藤達に固定させ追い始めた。

 以前の急に俺に襲い掛かってきたあの黒い巨人が、自重だけで大地に罅を入れながら歩いて行く。

 徐々に加速していく歩みは、次第に駆け足のように。

 そして、最後には陸上選手のような桁違いの走りへと変わっていく。

 

 あらかじめ逃げていて距離を大きく離していた筈の彼らは、瞬きの間に肉薄され、気が付けば手を伸ばせば届く距離に入っている。

 

 

「兵藤しゃがめっ!!」

「ぐおぉぉおおっ!!?」

 

 

 スライディングするように身体を屈めた表情の頭があった場所を、砲弾のような拳が通過する。

 拳に纏った風圧だけで、近くに居た三人の体勢が崩れるほどの衝撃。

 擦りでもすれば命が無いと、唾を飲み込んだ。

 

 

「っっ…!! あのままじゃっ。知子ちゃん、本当にあいつらを見捨てて良いの!? 本当に後悔しないのっ!?」

「……後悔しません」

 

 

 彼女の表情が歪む。

 一つ掛け違えれば命を落とす目の前の状況で、彼らが生き残る未来など無いように見えるからだろう。

 

 彼らに見捨てられたとき、彼女は思うところがあったはずだ。

 悔しさや悲しみがあってそれでも生き長らえてここに居て。

 じゃあ今度は同じように彼らを見捨てることが出来るかと言えば、きっと彼女は出来るのだろう。

 どれだけ本心では彼らを救いたいと思っても、口に出すこと無く見捨てることが出来る。

 

 彼女が助けたいと言わない理由は、きっと俺だ。

 力になれないことを悔やんで、ずっと力になりたいと言って、ただ傍に居させて欲しいと言った。

 だから、きっと彼女は我が儘なんて言うべきで無いと思っているのだろう。

 迷惑を掛けないように、そんな事を思って押し黙る。

 そうやって彼女は一人泣くから――――。

 

 

「――――ごめん知子ちゃん、俺は……」

「……梅利さん?」

「先のことを考えられない馬鹿みたいだ」

 

 

 ヘルメットを深く被り込む。

 一気に両足に力を入れて、呆然と俺を見る知子ちゃんの表情を横目に飛び出した。

 

 遠くの巨人が腕を振りかぶっているのが見える。

 以前対面した巨人とは、所々形は違うが性能としては、ほとんど同じのように見えるソイツ目掛けて飛び込みつつ考える。

 

 自分は今あまり体調が良くない、だから銃をこの距離で使えば正確に異形だけを狙えるかは微妙だ、その上で。

 

 あまり派手にやり過ぎない。

 犠牲を出さずに始末する。

 そして、時間を掛けすぎれば他の死者や異形を呼び寄せることになる。

 

 この辺りを注意して行動しなければならないだろう。

 ……なら、巨人が俺の存在に気が付かない事を祈って。

 

 散乱していた車を足場に、巨人の頭へ飛び付いた。

 何が起こったのか分からずに巨人は挙動を止めたため、ろくな抵抗もなく頭をロックすることが出来る。

 こちらを強張った表情で見上げていた兵藤達は、状況が読み込めないのか一言も発しない。

 

 基本的に異形や死者というのは頭部が弱点だ。

 他の場所を幾ら攻撃しても、中々倒れるものではない。

 強靱な生命力と再生力で、あっと言う間に元通りなんて事だってある。

 だが逆に、頭部さえ潰してしまえば……割と簡単に彼らは動かなくなる。

 

 身体全体を使って両足に挟んだ巨人の頭を回転させる。

 嫌な音が鳴り響き、力が抜けた巨人はそのままの体勢で顔から地面に倒れて行き、俺は慌ててそこから飛び降りた。

 目の前に倒れた巨人に、兵藤達は息を飲み茫然自失な様子で俺を見詰めてくる。

 なんと声を掛けるべきだろうか。

 

 

「……また会ったな。つくづく面倒事に巻き込まれる連中だ……ヒック……」

 

 

 ……何故だかしゃっくりが出てしまった。

 格好が付かないのは、もうそう言う星の下に生まれたと考えた方が良いのだろうか?

 

 誤魔化すように顔を背けて、倒れて動かない巨人の頭に銃口を押し当てて数発撃っておく。

 この前の完全に頭を吹っ飛ばした状態で、こいつに似た奴は僅かながら動いていたのだ、警戒するに越したことは無いだろう。

 

 

「貴方は、あの時の」

 

 

 そう言えば彼らに自分の名前を言っていなかったなと思いながら、その言葉に答えること無く“泉北”の者達へと向き直る。

 

 眉をひそめている彼らと視線を交わして、俺は口を引き締めた。

 さあ、この信者達をどうするべきか。

 俺はまた無意識のうちに、ヘルメットを深く被り直した。

 



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うたかたの夢

 

 時間にして数秒間。

 お互いの真意を覗き込もうとするような彼らとの対面は、ひんやりとした空気を伴った。

 じっと何も言わずに視線を逸らさない俺に対し、彼らの中でも巨人に指示をしていた者が俺の手元の銃を流し見て、自身の無害を示すように笑みを作る。

 

 

「……災難でしたね。まさか突然異形の化け物が襲い掛かってくるなど」

「下らない演技は止めろ、ヒック……俺はお前が手を振るって合図を出すのを見た。その直後のあの化け物の来襲だ、到底無関係とは思えない」

「さて、何のことでしょう」

 

 

 口調は慌てる様子が無い。

 だが、黒い毛皮のコートの奥で作られていた笑みが僅かに歪んだのを俺は見逃さなかった。

 

 こうして対話する距離に入り、目の前の彼らは以前会った事のある者達では無いと理解する。

 俺に恩を感じている者であれば多少はやりやすかったと思うのだが、そう良い方向へ転がるばかりでは無いのだろう。

 目の前に居る集団は、以前に比べ女性が多いようだった。

 

 

「あのような理性を感じさせない異形が人間の指示を聞くとでも思っておいでですか、それはいささか暴論では? たまたまそのような動作と異形の来襲が被ってしまっただけと考える方が自然ですよ」

 

 

 きっぱりと嘘を言い切る辺りに、この女性の面の皮の厚さがありありと見えてくる。

 恐らくこれからどれだけ言葉を交わしても、確定的な物的な証拠が出てこない限り彼女が俺の発言を認めるとは到底思えない。

 

 時間を掛けて証拠を集めていけば、彼らの口から事実を吐露して貰うことも可能かもしれないが、彼らの目的が分からない今、悪戯に時間を与える行為はしたくない。

 なにより事が事だ。

 迅速に状況を把握する必要があるだろう事は、今の俺でも確信できた。

 気は進まないが少々強引に行くことにする。

 

 

「残念ながらこちらはそんな水掛け論に高じるつもりはっ、ヒック……ない」

「……あの、真面目に話して下さりませんか?」

「……俺はいつだって真面目だ」

 

 

 ……本当に今日はどうなっているんだろう。

 歯を食いしばりこれ以上醜態を晒さないように意識する。

 俺と会話している“泉北”の女性は、生気の感じさせない青白い顔を疑心と困惑を混ぜ合わせたような表情で歪めた。

 正直、申し訳無い。

 

 

「ともかく、お前らがいくら否定したところで、俺が見た限りはまず間違いなく黒だった。それでもう充分だ」

「なんて暴力的な。……ならば仕方ありませんね、話し合いをしようともしない貴方にも厳罰が下ることでしょう」

 

 

 大仰にそんなことを言って両手を広げる女性を見て、何か奥の手があるのだろうかと思案する。

 とは言え巨人を操っていた事を隠したいようなので、これ以上露骨な巨人の襲撃は無いと思うが。

 ……まあ何にせよ、もう彼らの抵抗は無いようなものだ。

 

 女性の後ろで他の“泉北”の無力化を終えている知子ちゃんの姿を確認する。

 暗殺者染みた知子ちゃんの動きを、直ぐ近くに居る女性は全く気が付くことが出来ていない。

 大仰な動作が何かの合図だったのか、しばらくして何の反応も無い仲間達に女性はどうしたのかと振り返り。

 振り返った顔を知子ちゃんに片手で捕まれた女性は目を見開いた。

 戦闘状態となった知子ちゃんの真っ赤な目が、至近距離で女性を覗き込んでいる。

 

 

「――――あ……?」

「おやすみなさい」

 

 

 女性の顔が跳ね上がった。

 何も出来ないまま無力化された他の仲間達と同様に、膝から崩れ落ちる。

 足下に伏している“泉北”の姿を冷たく見下ろす知子ちゃんは、何の変装もしておらず。

 

 

「……え、な、何で……。さ、笹原さん?」

 

 

 俺の背後に居る者達が彼女を知っているのは当然だった。

 

 

 

 笹原知子が元々所属していた“西郷”はもう既に無い。

 この地域に侵攻してきた球根型の特級危険個体、“主”に壊滅させられたからだ。

 

 “西郷”を指揮していた者はその侵攻であっけなく命を落とし、その他の者も半数は餌となった。

 生き残った者達は命からがら拠点から逃げ出し、今は“東城”コミュニティに身を寄せている現状だが、その中でも兵藤達三人は特に笹原知子と関わり深い者達である。

 同年代で、パンデミックで社会が崩壊するまでは同じクラスとなることもあった彼らは親しい仲でこそ無かったが、声を掛け合う程度に顔見知りではあった。

 同じ学校に通い、同じ災禍に見舞われ、同じコミュニティに身を寄せた、価値観を分かち合う関係。

 であれば、少しの間見ることが無かったとは言え、何の変装もしていない笹原知子の姿を見て自分たちが知る彼女なのだと判別出来るのは当然であった。

 

 

 自身への呼びかけに、知子ちゃんは俺が今まで見たこと無いほど冷たい視線を眼鏡越しに彼らへ向ける。

 東城さんの纏う不思議な重圧とはまた別種の重さを感じさせる彼女の雰囲気に、向けられていない俺まで唾を飲み込んでしまう。

 引け目があるのだろう。兵藤達が誰も口火を切れない中で、黙ったままの知子ちゃんはじっと彼らの様子を窺っている。

 しばらくしておずおずと声を掛けたのは檜山という男性だ。

 

 

「さ、笹原、……お前、生きてたのか」

「ええ、お久しぶりですね皆さん。健やかなようで何よりです」

「俺らは……いや、すまない。雛美から聞いていた、その、感染状態であったと。どうやって助かったんだ?」

「それを私が貴方達に教える義理はありますか、私を見捨てた貴方達に?」

「っ……、笹原さんっ……」

 

 

 悲痛な彼らの声に、俺はどうしたものかと頭を悩ませる。

 知子ちゃんがこうして出てきたと言うことは、彼らとの決着を付ける意思が固まったと見て、まず間違いない。

 彼らとの会話で、何かしらの落としどころは考えている筈だ。

 だから、ここで問題なのは俺の立場だ。

 

 知子ちゃんとの関係は何か。

 どのように知り合って、俺が感染から救ったというならどのように行ったのか。

 その部分の説明をいかにして行うか、もしくはどの部分を隠すかが問題となる。

 知子ちゃんに何かしらの考えがあるならば、おいそれと不用意な発言は控えたい。

 ……特に今の俺は本調子では無いのだから。

 

 

「……お前、その目はどうした? その赤い目は、まるで」

「“死鬼”のよう、ですか? そうですね、その予想は間違いないですよ檜山さん」

 

 

 煌々と赤い目を輝かせ口元を裂いた知子ちゃんの姿は、いつもと違いすぎて別人では無いかと疑いたくなるほどだ。

 ……と言うか、あれ?

 それは暴露して良いことなのか?

 

 案の定背後で息を飲む音が聞こえてきて、慌ててそれにならい俺も息を飲んでみる。

 知子ちゃんの冷たい目にさらされた。

 一体どうすれば良かったと言うのだろう。

 

 

「笹原さんっ、今私達ね、東城さんのところに居るのっ! 笹原さんも行こうよ、また一緒に私達と生活しよう?」

「何故そんなことをしなければならないのですか? 嫌に決まってるじゃないですか」

 

 

 元同級生であり、長い間共に生活してきた雛美さんの縋り付くような言葉を、眉一つ動かさずバッサリと切り捨てる。

 

 

「勘違いしないで下さい、私は別に貴方達を恨んでいる訳ではありません。貴方達との生活よりも、満ち足りている今の生活を送る方が魅力的なだけです。今はこうして昔のよしみで助けてあげましたが、もののついでに貴方達への別れを言うためにでもあります。もう関わろうとはしないで下さい、それだけです」

「笹原っ……!!!」

「おい、俺を挟んで何を争っているか知らないが。まだ続くようなら俺は帰らせて貰うぞ」

 

 

 どうやら知子ちゃんの対応的に、俺は見ず知らずの奴として扱う様子なのでそれに乗ることにする。

 もう無理に隠すことでも無いような気がするが、知子ちゃんと“死鬼”の関係を匂わせたのを考えるとそうはいかないのかもしれない。

 もしも以前の球根退治に赴いた二人組のうち、一人が彼女である可能性が彼らの中で出てきたのなら、仲間のように振る舞う存在が居ればそれが死鬼だと疑うだろう。

 

 この姿の者が異形だとはあまりバレたくない。

 人間らしい振る舞いをしていて、以前この地域の恐怖の頂点であった死鬼が大人しくなったと知れば、恨みを持った者達が何をしてくるか分からないからだ。

 そもそも死鬼としての意識が無くなった原因が、自衛隊による討伐であったのなら相当な恨みを生存者に買っているはずなのだから。

 

 

「……そこの、迷彩服の方は新しい仲間ですか? 失礼しました、私は貴方に用がないのでお帰りになって良いですよ」

「ああそうかい、知り合いのようだし俺はお暇させて貰う。ああそれと、そこで倒れている奴を一人貰うぞ。聞きたいことがあるんでな」

「お好きにどうぞ」

 

 

 もはや完全に茶番。

 この場を支配しているのは俺と知子ちゃん。

 俺が何を言っても今の彼女は頷いてくれるだろう……いや、あんまり無理なことを言えば殴られそうだが。

 まあともかく、俺に助けられ、状況に圧倒されているだけの兵藤達に口を挟む余地はないのだ。

 何か言いたげに俺を見る兵藤達の視線に気が付かない振りをして、先ほどまで俺と喋っていた“泉北”の女性を背負い上げる。

 

 

「……ほどほどにね……」

「……はい、すいません。決着付けておきます……」

 

 

 知子ちゃんとすれ違うタイミングで囁けば、彼女は器用に口を動かさずに返答した。

 

 

 

 

 

 

 去って行く梅利さんの背中に心の中で感謝を送りながらも、昔の仲間達へと視線を向け続ける。

 本当はもっと前に清算するべきだった私の過去のしがらみが、今目の前にあるのだと実感して口元に力を入れた。

 

 本当は、先ほどの梅利さんの行動がなければこの場は実現せず、彼らは命を落とし、私は永遠にしがらみから解放される機会を得ることもなかっただろう。

 配慮したつもりが、逆に気を使わせてしまった。

 助けられてばかりだ、そう思う。

 

 だからせめて。

 そこまで考えて、違うところにあった意識を昔は仲間であった者達へと向けた。

 

 

「初めに言っておきます、私はある方に救われました。その方を裏切るつもりもなければ離れるつもりもありません。強制された訳ではなく、私の意思でそう願っているんです」

「……それは、“死鬼”か?」

「そこまでは言うつもりはありません。ですが、必死に私を救ってくれた優しい人です」

 

 

 複雑な感情に表情を歪ませた彼らに、私は伝えたいことを考える。

 

 

「その上で、私は貴方達と最後に少しだけ話したかったんです」

 

 

 後悔を残さないようにするべきだと思った。

 やりたいことを全てやって、引き摺っていたものを全て解消できたと笑顔で彼に報告しなければ、報いることなんて出来ないのだと思ったから。

 

 

「……“西郷”、拠点ごと襲撃を受けて潰されたらしいですね。貴方方が無事だったことは素直に嬉しいです」

「そうかよ。まあ、今の上はそんなに悪くねえ。流石はコミュニティの奴らが姫様姫様持ち上げるだけの事はある」

「うん……東城さん、逃げ込んできた私達に対しても優しいし、分け隔て無く接してくれるよ。何とかコミュニティの力になりたいって思うくらい、私も今居る場所が好きになったよ」

「そう、ですか。“東城”コミュニティとはぶつかり合ってばかりだったから不安でしたが、良くしてくれていますか……」

「ああ、“西郷”で上だった奴がそもそも、小娘が生意気に、なんて言う悪感情を持っていたからな。拠点の襲撃で真っ先に逃げ出したあいつらが残らず餌になったのは、ある意味良かったのかもな」

 

 

 なんてことの無い雑談を振れば、彼らも一瞬だけ悲しそうに笑って応えてくれる。

 ああ、下らないと思っていた昔の一コマにでも戻ったかのような気分だ。

 こんな意味の無いような会話を悪くないと思えるのは、私が変わったと言うことなんだろうか。

 

 

「食事はちゃんと食べられていますか? また神楽は野菜が食べられないと泣き言を言っていませんか?」

「はは、おい聞けよ笹原。雛美の奴、この前出されたグリンピースを子供の前だからって無理して食べて体調崩してたんだぜ」

「ちょっ、ちょっと!! 今それ言う必要ないよねっ!?」

「そうそう人は変わるもんじゃないだろう。雛美なんて小学生の時からこうだぞ、結局同じ場所で長い間生活してきたお前も、俺らに対しての敬語さえ止めなかったからな」

「ふふふ、まあそうですね。そんなものですよね」

 

 

 壁を作らずに仲良くなっていく彼らが、きっと昔の私は恨めしかった。

 一歩を踏み出せない私の弱さを、心にもない理由で肉付けして距離を取り続けた。

 本当はもっとこうして彼らと話してみたかったのだろう。

 

 

「そろそろどちらかと付き合わないんですか? いい加減、手のひらで男を遊ぶの止めたらどうですか?」

「な、なななな、何を言ってくれちゃってるのかな笹原さんっ!?」

「あー…、やっぱりこいつは悪女の部類だよな。いや知ってたけど」

「そうだろうな、うん。良いように動かされているとは思って居たが……そうか」

「笹原さーんっっ!!??」

 

 

 でももう私は違う所へ行くと決めたのだ。

 

 彼らが進む場所とは、また別の場所へ行く事を選んだのだ。

 

 もう帰る場所は違うのだから――――

 

 

「……そろそろ私は帰らないといけないので、ここで」

「ああ……そうか」

「身体に気を付けろよ、そろそろ寒くなってくるからな」

「そっか、うん。じゃあ、ここまでだよね」

 

 

 出来るだけ笑顔を作るようにする。

 こんなぐちゃぐちゃになった世界になってずっとしてこなかった、無邪気に明日が来ることを信じ切った平和ボケしたような笑顔を作る。

 

 

「檜山くん、兵藤くん、神楽さん。じゃあ私が帰るのはこっちだから……またね」

 

 

 まるで明日また会えるかのような気軽さで彼らに手を振れば、鉄面皮の檜山くんは眉を寄せ、以外と面倒見の良い兵藤くんは気遣う言葉を、泣き虫な神楽さんはボロボロと涙を溢して私に手を振ってくる。

 

 

 もしも彼らに会うことがあれば私は何を話すべきなのかずっと考えていた。

 何を話せば良い、なんと言って許せば良い。

 思い付くのは形式染みたそんなことばかりで、本当に私の伝えたいことなんて何一つ思いつきはしなかった。

 だからずっと、まだ会いたくないなんて理由を付けて逃げ続けてきたのに。

 こうして彼らを目前にすれば、頭の中に出てきた私が本当に伝えたいことなんて大したことではなかったのだと気が付いた。

 

 私は本当に何気ない日常の一コマを、彼らともう一度だけ過ごしてみたかった。

 行き先は違くて、帰る場所は別で。

 それでも私は今幸せなのだと彼らに伝えて、彼らとの日常が嫌いではなかったのだと伝えたかった。

 

 長いこと掛かってしまった私の小さな悩みは、そんな単純なことで掻き消えて。

 あれだけ憂鬱だった彼らとの再会が、今は私にとって掛け替えのない思い出となり、記憶の隅に大切に仕舞い込まれた。

 

 



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現れる真実

 

 

「さあ、色々吐いて貰うぞ、まずはお前の所属するコミュニティはどこだ?」

「や、やめ、止めて下さいっ! 後生っ、後生ですからそれだけはっ!!」

 

 

 目の前に居る、柱に括り付けられた女性が青白い顔をさらに青くして俺の行為を止めようと縋り付くような声を上げる。

 拘束されている腕をなんとか抜け出そうと暴れるが、しっかりと結んだ固い縄には効果が見られない。

 

 いっそ悲壮感を感じさせるほどの懇願ではあるが、俺はそんな言葉を期待していたわけじゃない。

 そんなものよりもきちんとした回答を求めていたのだ。

 

 

「俺は今質問をしているんだ! さあ早く答えろっ!! 所属するコミュニティはどこだっ!?」

「そ、そんなことをっ、敬虔な信徒である私が背信者の質問に答える訳には……!!」

 

 

 目尻に涙を浮かべる女性を睥睨して、仕方なく手に持っているそれを彼女によく見えるよう目前に差し出した。

 

 それはハンカチサイズの小さな布だ。

 薄い生地に丁寧な刺繍を施されている綺麗な布。

 

 

「ならば仕方ない。お前が素直に答えないならば、本当はやりたくはないが……ほうら、これがこうなってこうなるんだよっ!!」

「死鬼様ぁぁぁ!? 死鬼様があああああ!!」

 

 

 彼女が懐に仕舞い込んでいた角の生えた少女が刺繍で描かれているその布のような物を捻れば、目の前にいる女性は悲鳴を上げて暴れ狂う。

 女性の狂乱ぶりに、まるで俺が人道に反した極悪非道の行いをしているのかと錯覚しそうになるが実際に俺がやっているのはただ布を捻っているだけだ。

 

 手に持った捻られた布に描かれた、瞼を閉ざした少女の刺繍が視界の端に入り込む。

 その姿は精密に似通っている訳ではないが特徴的な部分をしっかりと捉えており、見る人が見れば何が描かれているか直ぐに分かる程の出来の良さだ。

 美しい造形の少女、角を生やした異形の少女。

 当然、その布に描かれた少女は今の俺の姿である、本当にありがとうございました。

 

 はっきり言って意味が分からない。

 実際に自分が信仰されているのだと言う証拠を目の当たりにしてしまうと、知子ちゃんに聞かされた時とは違い、しっかりと目の前に現実があることを思い知らされる。

 まあ、信仰が悪いこととは思わないが、普通に考えて限界まで目を見開き、唇の端を噛み締めすぎて血を滲ませる女性の姿は恐怖しか感じない。

 内心のどん引きを態度に出さないように気を引き締めながら、今にも殺しに掛かってきそうな目をした女性をにらみ返す。

 

 

「お前の信仰が本物ならこんなこと許せるものではないだろう? さあ、お前の態度一つで俺はこんなことをしなくて済むんだ、自分が何をすれば良いか分かるだろう?」

「ぎ、ギギッ……、おのれっ、おのれおのれおのれっ……!!」

「……あ、手が滑った」

「ぁあああっぁぁぁ!!?」

 

 

 ビリリという小さな嫌な音が布から聞こえ女性が絶叫する。

 慌てて、広げて確認してみれば少しだけ端が破れていた。

 絶望の声を上げて、崩れ落ちた女性がボロボロと涙を流し始めたのを見てやり過ぎたと少しだけ後悔する。

 

 

「あぁぁぁ……ああぁぁぁああぁぁ……」

「えっと、ご、ごめんなさい。これくらいなら俺が補修できますので……」

 

 

 血の涙を流しそうなほどに目を充血させる女性に、このまま質問を続けて良いものかと心配になる。

 こんなおかしな状況となってしまっているが、実は知子ちゃんと別れてからそれほど時間は経過していないのだ。

 

 

 あの後俺は、知子ちゃんを兵藤達と共に残して先に家に戻った。

 丁寧な運び方ではなかったと思うが、幸い背負った女性は目を覚ますことなく家まで辿り着くことが出来た。

 連れてきた女性の手足を縛って自由を奪うとそのまま柱に括り付け、尋問しやすい状況を整えたのだ。

 意識のない女性をこんな風に拘束するなんて正直背徳感を禁じ得なかったが、ちょっと彼女達は危険思考が過ぎる気がする。

 ここで情報を掴まなくてはいけないんだと心を鬼にして、意識のない女性を叩いて覚醒を促したのだった。

 

 何か一つを盲信する。

 普通であればそのようなことに陥るのは中々無い。

 縋る必要のない者が、あるかどうか分からないものに、若しくは何かを与えてくれるか分からないものを信じる意味が無いからだ。

 だから逆説的に、人は危機的な状況に陥ると何かに縋りたくなるものだ。

 それは歴史的に見ても間違いないもので、今のような死者や異形に支配され日に日に命の危険が身近にあるような状況は、盲信する土壌がこれ以上無く出来上がってしまっているのだと思う。

 

 異形としての俺が何をしでかしたのかは分からないが、信仰されるような事をするとは到底思えない。

 東城さんが言っていた内容を鵜呑みにするわけではないが、俺が死鬼を騙った時の彩乃の態度を見れば、善良とは真逆であったのだろうと思ってしまう。

 だから、何かの間違いで彼女達“泉北”は死鬼という異形を信仰しているか、若しくは彼女達の上に立つ者が死鬼の名を語り人々を騙しているかなのだと俺は予想しているのだ。

 

 盲信は正否が視野に入らなくなる。

 狭い視野の中で縋る相手のためだけに行動する彼らは酷く危うい。

 一つ間違えればこの地域一帯を破滅へと導きかねないほどだ。

 

 危険な技術、危険な思考。

 解明しておきたい点も幾つかある。

 放置することは出来ない理由もあるし……なにより死者、異形に対する彼らの認識に興味があった。

 

 何度か叩いたり揺らしたりしてとうやく意識を取り戻した女性に、彼女の懐から出てきた妙な布を脅しの材料にして俺は質問を始めたのだ。

 まあ、答えると言われたことだし、これ以上の布への攻撃は彼女を刺激するだけなので止めておく。

 

 

「……私は“泉北”に所属する者です。他に聞きたいことがあればどうぞ、ですからそれ以上死鬼様に対する攻撃はお止め下さい……」

「あ、はい……ごめんね? えっと、んんっ、質問を続けるぞ」

 

 

 少しして落ち着いたのか、彼女は泣き腫らした目を地面に向けながらぼそぼそと囁くような声量で俺に従順すると伝えてきた。

 なんだか悪いことをしてしまった気がする。

 

 

「答えやすい質問から行こうか。お前達が着ている毛皮のコート、アレは何なんだ? こんな暑い時期にわざわざ着るようなものでは無いと思うのだが」

「……ああ、あれですか。あれは“破國”の皮で作ったコートです。圧倒的な力を持つ異形に対し、死者や並の異形はその気配から避けていくその性質があるんです。それを利用して私達は、外に出る者達の安全を確保するためにこれを着用するようにしています」

「そうなんだ……。ちなみにその“破國”って言うのは……」

「……アレを知らないなんて冗談ですよね?」

 

 

 不思議そうにこちらを見上げた女性に表情には出さないものの、内心少しだけ慌てる。

 

 常識として周知されるほど有名な異形なのだろうか?

 もしそうであるのならば、この地域を支配していたのは死鬼だから、消去法でもっと大きな括りに置いて有名な奴としか考えられない。

 となれば俺が答えるべき言葉は……。

 

 

「勿論知っているぞ。あ、あの、強い奴だよな……。うん、俺が知る限り一番強い奴……」

「一番強いのは死鬼様だ!!!」

「ああもうっ、話にならないなっ!? なんなんだこいつ!?」

 

 

 変なところで逆鱗に触れたようで、勢い良く噛み付いてきた女性に思わず匙を投げてしまう。

 歯をむき出しにして俺に威嚇してくる彼女の姿に頭を痛めながら、これからどのように話を進めていけばいいものかと頭を悩ませる。

 この女性に配慮して答えやすい質問から順々にしていたが、もうそんな配慮はかなぐり捨てることにした。

 

 

「ああもういいっ!! だったら次だ! この一年以内に妙な医者の男がお前のコミュニティに加入したな!?」

「……? 医者、ですか? いえ、それは……私は把握していませんね」

「なんだと……?」

 

 

 心底虚を突かれたと言った表情をした女性の表情に、自分の予想が裏切られた事を知る。

 てっきりあの藪医者が“泉北”に身を寄せその技術を振るったことで、彼らが異形に対して指示を出すことが出来たのだと思ったが……どうやら違ったようだ。

 

 

「……じゃあ待て、どうやってお前らは異形を操っている」

「……さあ、どうでしょう」

 

 

 女性は不敵に口角を持ち上げる。

 やれるものならばやってみろと言わんばかりの挑発的な笑みを作り、俺を見詰めてくる。

 ……こんな口調にしてまで嘗められないよう努めたつもりだったが、どうやら既に彼女には甘く見られているらしい。

 どうせお前なんかに出来ないだろう、若しくはあまり残虐なことを行わないだろうという確信を、目の前の女性が抱いているような気がした。

 

 

「お前ふざけているのか? 自分の立場というものを……」

「立場? 私が捕らえられているこの状況を立場とでも?」

「そうだ。お前の殺生与奪は俺が握っていて、お前が好き勝手出来る立場ではない。お前が素直に従わないというならば……」

「ならば拷問でもしますか? 結構、私に対する如何なる暴虐にも耐えて見せましょう。さあ、やれば良い」

「……いや、拷問とかは趣味じゃないし。やっぱりこの布をもうちょっと破いてみるわ」

「あ、待って。ズルッ、ズルですっ!! もう攻撃しないでって言ったじゃないですか! そもそも死鬼様に対する不敬は貴方のためになりませんよっ! あの方は慈悲深く、我々弱者の窮地をもお救い下さるのですよって、もう問答無用で捻ってるし止めて止めて止めてッ!?」

 

 

 吐いた唾は戻らないのだ。

 ビリリッ、と言う空しい音と共に女性の絶叫が木霊した。

 

 

 

 

 

 

「……私が居ない間に一体何が……?」

 

 

 あの後直ぐに拠点への帰路へ着いたのだが、家に戻って見ればぐすぐす泣き続ける女性と頭を抱えてそれを見下ろす梅利さんの構図があり、唖然としてしまう。

 頭を抱えていた梅利さんが私に気が付いて、ほっとしたような表情を浮かべる。

彼女はどうやら女性の絶叫と泣き声でただでさえ悪かった体調を崩し、さらに頭痛に悩まされもうリタイア寸前のようであった。

 

 

「知子ちゃん、この人の尋問は明日にしよう……。ちょっと本格的に体調が悪いや……」

「あっ、大丈夫ですか梅利さん? 無理はなさらないで下さい、この人の拘束と食事は私がやっておきますので後はお任せを」

「ごめんね、ありがとう。ちょっと寝てくる」

 

 

 ふらふらとした足取りで歩き出した梅利さんは、私の隣で足を止めて白い顔で見上げてくる。

 

 

「……大丈夫? あの人達との決着は付けられたの?」

「……はい、もう心残りはありません。大人になれば道を違えることはあります。私と彼らの関係もそれと同じなんです」

「……そっか、納得してるなら良いんだけどね。でも、もし辛いようなら相談は何でも乗るし、多少危険なことでも手を貸すよ」

「ありがとうございます……」

 

 

 軽く肩を叩いて扉から寝室へと出て行った梅利さんを見送って、未だに泣き続ける女性を見る。

 昔はコミュニティ同士の話し合いで何度か“泉北”の人と顔を合わせていたが、この人がこんなに感情を表に出すのは死鬼について話すときだけだったと思うのだが……何があってこんなことに。

 確かこの人は明石さんと同じくらいの年齢だった筈……。

 

 

「いつまで泣いているんですか。いい大人がみっともないですよ水野さん」

「あんまりよぉぉ……少しはぐらかしてちょっとだけ挑発しただけじゃないぃ……。私のっ、私の聖骸布がぁぁ……」

「あー……あれで梅利さんに脅されてたんですね。どうりで水野さんが発狂している訳です」

 

 

 納得したような私の言葉にキッと睨み上げるように見てきた彼女は、私の姿を確認して直ぐに目を丸くした。

 

 

「笹原知子……? 貴方、こんなところで何を?」

「以前の場所とは意見が合わなかっただけ、今はここが私の居場所です。貴方は何も変わりないみたいですね水野さん」

「……ふん、あの子供がいっちょまえにデカくなって。あーあ、貴方がいるなら情報全部掻き出されると思った方が良いかしらね」

 

 

 一気に口が悪くなった女性、水野は赤くなった目を下に向けて溜息を吐く。

 

 別に彼女と特別仲が良かった等の経緯はない。

 顔を合わせても挨拶するような、なんてことは無い関係だ。

 だが、危険な相手としてお互いにお互いの性格や能力をある程度把握しているのは確かだった。

 どうやら私は彼女からはそれなりに買われているらしい。

 

 

「と言うか待ちなさいよ。私達の意識を刈り取ったのって……」

「私です。ああ、他の方達については心配いりませんよ。一応蹴って意識を取り戻させてから戻ってきましたから」

「……馬鹿じゃないの? どんだけ人間離れすれば気が済むのよ貴方」

「それと、あらかじめ言っておきますが舌をかみ切って死のうなどとは考えないで下さいね。こちらには医療用具がそれなりに残っていますので、死ぬに死ねない事態になりますから」

「さっそく脅し文句、嫌になるわ……全く」

 

 

 治療の心得をそれなりに持っている私だが、梅利さんと居るようになってから中々その技術を生かせていない。

 梅利さんはそもそも傷を負うことが無いし、私も身体能力が向上して怪我をすること事態が無くなったからだ。

 ようやく生かすことの出来る状況がやってきたのかと思い、もし自決なんてことを行っても無駄に終わるのだと釘を刺してみたが、どうも水野さんは元々そのつもりがなかったかのような態度をしている。

 あの狂信的な彼女が、コミュニティの足を引っ張ることを良しとするとは思えない。

 

 気になる点は幾つかあるが尋問は明日にしようと梅利さんも言っていたし、一緒に情報を聞き出した方が情報を共有化する手間が省けだろう。

 詳しく質問するのは少し時間を置こうと決心して、ふと何気なく寝室の方向を見る。

 今は何の物音もなく、梅利さんは既に睡眠に入ったのかと思えるほどだ。

 不機嫌そうにこちらを睨んでいた水野さんの食事などを早めに済ませると、口に布を咥えさせ取り敢えず一日放置することにした。

 

 あまり時間を掛けてアイツを不機嫌にさせるのは不味いだろう。

 そう思って、急いで身支度を整えて寝室へと向かう。

 その途中にあったワインの保管室から、また数本瓶がなくなっているのを横目に確認して表情を歪めた。

 無くなっているのはどれも度数が高めの物だった気がする。

 

 扉の前に辿り着いてそっと息を潜めて見ても、中から寝息などは聞こえてこない。

 ひんやりとした冷たい汗が頬を伝うのを感じながら息を整えた。

 

 

(大丈夫……少なくとも今は敵じゃない。……落ち着け私)

 

 

 意識せずに早まっていく自分の鼓動を感じて、何度も落ち着くよう自分に言い聞かせる。

 

 数回深呼吸して、ようやく意を決して扉に手を掛ければ、そこには装備を全て外した状態の梅利さんが双角すら晒してベッドの上に座っていた。

 いつも通りのように見える少女の姿をしたそれは、血のように真っ赤な目を細めてこちらを見ている。

 私が忌々しげに睨み付けても一切動じず、ワインの入ったグラスを近くの机に置いた彼女は嬉しそうに笑う。

 

 

「待っていたぞ、笹原知子」

 

 

 瞳孔を縦に裂いて、善良な空気を微塵も纏わないで。

 そこに居る化け物は私を歓迎する。

 

 

 

 



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侵食する赤

 

 花宮梅利と言う少年は十五歳と言う若さでこの世を去った。

 それは紛れもない事実であり、どうしたって変えようのない現実である。

 

 幼い頃から共に過ごしてきた幼馴染の少女を庇い異形の爪をその身に受け、感染による身体の膨張と受けた傷から溢れ出した多量の血液。

 そして、そもそも生存活動に必要な大切な器官を失ったことにより、即死と言っても良い最後をまだ年若い少年は迎えることとなったのだ。

 

 幼馴染の少女との約束も。

 ようやく心を開いてくれた少女との関係も。

 何よりも、大切な者達の幸せを願っていただけの善良な少年の明るかった筈の未来も全て、その時理不尽にも奪われてしまったのだ。

 それで終わり、それで終わるはずだった。

 

――――人を異形へと変える感染菌との、有り得ないほどに高い適合率さえ誇ることがなければ。

 

 

 少年の残骸から産まれたものがあった。

 

 生まれ落ちたそれはこれまでの脅威とは比べものにならないほど強大な化け物で。

 

 他の化け物と同様に、強烈な破壊衝動がその化け物の思考を支配して。

 

 胸に巣食う、大切な何かを無くしてしまったかのような喪失感を埋めるために、その化け物は動き出した。

 

 

 

 

 

 

 これは夢だ。

 全身を襲う倦怠感に身を任せ、意識はふわふわと闇を泳ぐ。

 

 

『――――私のものだ。やっと手に入れた、私だけのものだ』

 

 

 鈴を鳴らすような少女の声が耳元で囁かれる。

 抱き締められているのかと思うほどの距離感。

 そんな触れ合うような距離にその声は居る。

 

 この声、と言うよりも、この話し口調には覚えがあった。

 球根の化け物に捕食され掛けたときに聞いたあの声だ。

 

 

『ああ……狂おしい、口惜しい、愛おしい。私はなぜ……』

 

 

 尊大な筈の彼女の言葉が変化していく。

 思い悩む少女の様な声色が、尻すぼみになっていく。

 なぜ、そう思っても声は出なかった。

 

 嘆くかのような声で、縋るかのような口調で。

 彼女は誰かのことを呼ぶ。

 

 

『主様……、主様、主様主様主様……』

 

 

 

「――――主様」

 

 

 視界に光が差し込んだ。

 夢で見ていたあの子の言葉が、実際は俺の口から出ていたのを知る。

 

 カタリと近くで物音がして、そちらを向けば蒼白な顔をした知子ちゃんが俺を見ていた。

 俺の口から飛び出した言葉を聞いて、血の気が失せたかのように彼女は呆然としている。

 

 

「そんな……侵食が進んで、目が……」

「……目?」

 

 

 身体を起こして、泣きそうな顔をしている知子ちゃんをぼんやりと眺める。

 

 何があったのだろう?

 そんなことを思いながら知子ちゃんの目を見るが、彼女の様子からは驚愕と恐怖だけしか伝わってこない。

 少し彼女の言葉を待ってみても、知子ちゃんはこちらを凝視するばかりでそれ以上何かを言おうとしなかった。

 お互いが相手を窺うような嫌な沈黙が部屋を包む。

 そんな状況で、ふと彼女の変化に気が付いた。

 

 瞳が真紅に染まっている。

 

 元々彼女は俺によって感染したことにより、人の形を保ちながら異形としての力を僅かながら行使できるようになっていた。

 その力を振るうときに限って彼女の瞳の色は真紅に染まっていた筈が、平常時の今それが起こっている。

 

 侵食。

 彼女が言った言葉の内容が、ようやく寝ぼけた頭に入り込んできた。

 

 

「ち、知子ちゃん! その目!?」

「……え? 私ですか?」

 

 

 完全に甘く見ていた……これは俺の失態だろう。

 俺が保有する感染菌がどのような変異を遂げたのか分からないのに、外見上や人格面に大きな変化を及ぼさなかったから大丈夫だと判断していた。

 感染した彼女にどのような負荷が掛かるのか、どのような速度で彼女を変質させていくのか、考えようともしなかった。

 今振り返ってみれば、どうしようもないくらい見込みが甘い。

 

 

「くそ、やっぱり早くアイツを見つけ出して診察して貰うべきだったんだっ! 悠長にしすぎたっ、早くしないと……!」

「あ、いえ、私のこれは……え、診察できる人が居るんですか?」

「居るっ、今まで何処に居るかは分からなかったけど、この前ようやく心当たりが出来たんだ! 状況が変わった、あの女の人は少し利用させて貰う……!」

「っっ、はいっ! 早くその人を見つけ出しましょうっ!」

 

 

 俺の言葉に必死に知子ちゃんも同調してくれる。

 気ばかりが急いて、何の準備もせずに寝室から俺は飛び出すが、慌てて追ってきた知子ちゃんがヘルメットを叩き付けるように俺の頭に被せた。

 ……ありがたいが、扱いが雑な気もする。

 煮え切らない思いを抱えつつ、捕らえている女性の元へと足を速めた。

 

 

 女性を拘束しているリビングまで辿り着くと、昨日はあれだけうるさかった女性が涎を垂らして床で眠っている姿が目に入った。

 あまりにも気持ちよさそうに眠っているものだから、起こしてしまうのも可哀想かと躊躇してしまう程だ。

 だが、後ろにいた知子ちゃんはそんなこと関係ないようで、止める間もなく近寄ってすやすや眠る女性を挨拶と共に踏みつける。

 

 

「おはようございます水野さん」

「ふぐぉッッ!?」

「うわぁ……」

 

 

 人前で出してはいけないような声が聞こえた気がする。

 ゴホゴホと咳き込んでいる女性の姿に反応一つしない、知子ちゃんの冷徹さ加減にどん引きすした。

 容赦するべき相手ではないと分かっているが、それでも憎々しげにこちらを涙目で睨み上げて来る女性から目を逸らしたくなってしまう。

 

 

「あ、あのすいません。少し行くところが出来ました、同行をお願いします」

「ゴホゴホッ……昨日とはえらく言葉遣いが違うのですね、それが素ですか? それに状況が変わったようですが、詳細を教えて頂いても?」

「あ……いや、お前が気にすることじゃない。黙って従え」

「へえ、あくまでその態度を貫こうとするんですね? 私とっても貴方に興味が出てきました」

 

 

 ねっとりとした絡みつくような視線を浴びて一歩後ずさった。

 なんなのだろうこの人は明石さんにも似た態度を取られていたが、彼女に関しては蟲に這われているような気持ち悪さを感じる。

 

 

「うるさいです。とっとと行きますよ水野さん」

「痛いっ! ちょっと、ちーちゃんもっと丁寧に扱って欲しいのだけど」

「ちーちゃん!? 水野さんにそんな名前で呼ばれても嬉しくないんですよ! ほら立って下さい!」

「いた、痛たたっ……」

 

 

 いつの間にか付けていた犬用の首輪を引いて、知子ちゃんが女性を立たせる。

 引っ張られていく女性が助けを求めるような目でこちらを見詰めてくるが、そんな視線を無視して彼女達の後を追った。

 

 感染による侵食は確かな形と成って、知子ちゃんを蝕んでいる。

 ならば、原因である俺にはそれに対処する責任があるだろう。

 時間がどれだけ残されているかは分からない、だが外見上に変化が出るまで侵食が進行しているのは確かだ。

 時間が余り残されていない可能性は考えたくもないが、だからこそ少しでも時間を無駄にするべきではないと思った。

 

 これからするのは強攻策だ。

 本来ならばもう少しだけ時間を掛けて情報を取ってから行動したかったが、そうも言っていられなくなった。

 本当はこんなことはしたくないのだが……力技で活路を開くことにした。

 

 

「“泉北”の本拠地に行くぞ」

「――――……はっ?」

 

 

 唖然とする女性に有無を言わせず、そのまま自動小銃を抱えて先頭を駆けた。

 

 

 

 

 

 

 “泉北”の拠点は以前大聖堂として使われていた巨大な建物。

 敷居面積だけで言えば自衛隊駐屯地を拠点としている“南部”に次いで巨大で、白と銀を基調とした美しいその外観は圧巻の一言だ。

 だが、そんな美しい情景は周囲の背の低い柵に覆われた黒い毛皮、若しくは骨のような物で作られたトーテムポールの様なものによって、不気味なものへと変わってしまっている。

 

 嫌に鼻に付く毛皮のコートの匂いをより濃密にしたようなそれらは、理性ではなく本能的に避けたいという衝動を覚えさせてくる。

けれど、その衝動に任せてこのまま何もせずに帰る事は出来ない。

 それだけの理由が俺らにはあるのだから。

 

 けれど、それを納得していない者が一人いた。

 この“泉北”に所属している俺らの捕虜の女性だ。

 

 

「駄目よっ、絶対駄目! あそこに大した準備もなく入る!? 有り得ないわ!!」

 

 

 ここまで来て必死に言い募ってくる女性の形相は凄まじい。

 正直、ここまで拒絶反応を示すとは思っていなかった。

 そこまで自分の失態を晒したくないのだろうか、なんて思うがそうではないようで。

 

 

「私は貴方達のために言っているの! “泉北”と明確な敵対行動、若しくは目を付けられるようなことを絶対にするべきじゃないっ……!」

「とは言っても……別に取引がしたいと言う話をするだけだぞ? お前を返す代わりに少しだけお願いを聞いて貰うだけだ」

「そうですね、そこまで事を荒げるつもりはありません。あくまで交渉……その延長線上でしか行動を起こすつもりはありません」

「違うのよっ……、そうじゃなくてっ、あの場所に行くことそのものがっ……!!」

 

 

 知子ちゃんと顔を見合わせる。

 彼女が何を伝えたいのが、何となく分かってきた。

 

 

「貴方達は神を信じていないのでしょうっ、でも、少なくとも“南部”のような背信者ではないと私は思った! 貴方達は善良であると私は思っているっ! 生きるべきだと思っているのよ!」

「それは……いえ、買いかぶりすぎとは言いません。そのような評価をして頂いて嬉しい限りです。……ですが、私達にも引けない理由があるのです、被害を出そうとは思いません。可能な限り交戦も避けましょう。それでも駄目ですか?」

「駄目よっ、駄目に決まっているっ!」

 

 引き攣った表情で、何が恐ろしいのか周囲に視線を走らせている。

 異常なまでの焦り。

 何が彼女の気掛かりなのか、絶対に譲ろうとはしない。

 

 

「本当ならこんな場所に居る時点で駄目なのよっ、もう帰りましょう! 私も意固地にならず話せることは話すっ、だからっ……!」

「――――だから? だから何だと言うんですか、水野様?」

「っ……!?」

 

 

 突然掛けられた声に血の気が失せた。

 人間の接近に気がつけなかった。

 それはこの身体になった今までで、有り得なかった経験。

 黒い毛皮が発する重厚な異形の匂いで満たされたこの空間ではまともに感覚が働かないのか、匂いにも、音にさえ気がつくことが出来なかったのだ。

 

 女性の顔が強直する。

 知子ちゃんが弾かれたように武器を構え。

 それよりも早く発砲音が背後から響いて。

 その音よりも早く俺が動いた。

 

 

「――――……は?」

 

 

 飛来した弾丸を弾き飛ばした。

 弾丸を横から銃器で弾いたから、銃器自体も壊れていないだろう……多分。

 驚愕に目を見開いた男性、その後ろで武器を構えていた者達も息を呑んだ。

 

 いきなりやってくれると内心では思いながらも、知子ちゃんに女性を守るように手で指示してこちらを凝視する黒コートの集団に笑みを向ける。

 

 

「いきなり物騒ですね。交渉の余地無しですか?」

「じゅ、銃弾を弾いた? 馬鹿な……」

「……こちらの要求はある人物との面会。実はその人とは面識がありましてね、無論ただとは言いません。保護させて頂いたこちらの女性を引き渡します……一考して貰えれば――――」

「くそっ! おいっ、失敗作どもを使うぞっ! 今どれだけ残ってるっ!?」

「駄目です! 泉北さんが連れて行ってしまってほとんどっ……!」

「――――失敗作?」

 

 

 気になるワードが出てきたが、それはそうと話にならない。

 どうにも会話する意思自体が無いようにも思える。

 もう戦闘は避けられないかと、笑みを深めて戦闘態勢に入ろうとしたところで、向こう側から見たことのある男が間に入ってきた。

 

 

「まてっ、まってくれっ! この前言っただろう!? この方は俺の命を救ってくれた方だっ! 俺らを襲うつもりなら言葉など交わさず、手元の銃ですぐにでも虐殺されている! 彼らにも事情があるんだ、だから耳を傾けるだけでもっ……!」

 

 

 義理堅い男性だ。

 一度良心の呵責に耐え切れず救っただけなのに、自分の立場を悪くしてでも仲裁に入って恩に報いようとしている。

 

 そんな男性の姿に、戦闘態勢に入っていた俺もゆっくりと力を抜いて何とか交戦に入らない方向で進めようと考え始めると、今度は知子ちゃんのそばにいた女性が飛び出した。

 

 

「そうですっ! 彼らは私に非人道的な対応を取ることはありませんでした! どうかご容赦をっ、彼らが会いたい者へのお目通しをどうかっ……!」

 

 

 犬用の首輪を付けられた状態でそんなことを言っても説得力はないと思うが、それでも女性は何とか俺らへの敵意をなくそうと尽力してくれている。

 知子ちゃんのほうへ目を向ければ、彼女も目を丸くして割って入った二人を見つめている。

 こんな風に庇ってくれるなんて、思ってもいなかったのかもしれない。

 

 俺たちと相対している集団の者たちもそんな二人の仲間の様子に動揺を隠せず、しばらくひそひそと会話していたが、気が付けば手に持っていた武器を下してしまっている。

 

 

「……貴方達の言い分はわかりました。きっとそこまで言うのであれば、彼らは私達が憎む者どもとは違うのでしょう」

「おおっ、ではっ……!」

 

 

 俺が以前助けた男性の顔が綻んだ。

 だが……俺は彼らを率いているものの指先が少し動いたのを見逃さなかった。

 

 

「――――だからこそ悔やまれます。間が悪かった、と」

「え……?」

 

 

 呆然とした女性の足元から巨大な腕が生える。

 

 

「残念です」

(嘘だろ、こいつっ!?)

 

 

 開かれた巨大な手のひらが包み込むように女性を覆い、彼女は驚愕に目を見開く。

 それが単に彼女を捕獲するためか、それとも巨人を操る術を持っている彼女の脅威を消すためか。

 

 どちらにせよ、仲間を攻撃するという非道を彼らは許容した。

 攻撃の意思を彼らは示したのだ。

 

 握り潰そうとした巨大な手のひらが閉じ切る前に、横からその手を掴むと引き千切った。

 

 

「あ、貴方っ……」

「おい……ふざけたことをしてくれたな?」

 

 

 苛立ちが熱を持つ。

 目の前で起こった超常的な光景に動揺する集団を睨み据える。

 

 

「――――梅利さん駄目ですっ……!!」

 

 

 何かに気が付いたような、知子ちゃんの悲痛な叫びがやけに遠くに聞こえた。

 

 引き千切った腕の持ち主が地面から出てこようとするのを、上から踏みつけて叩き潰した。

 地面が大きくめくれ上がり、潰されたものの残骸が撒き散らされる。

 砕いた巨人の骨を引き抜き、集団の背後で控えていたもう一体の巨人を投槍の要領で撃ち抜いた。

 

 轟音と爆風が叩き付けられる。

 呆然と、それこそ目の前で起こった光景が信じられないかのように、彼らは大きく目を見開いていく。

 彼らはそれでも身動き一つ取ることが出来ない。

 

 

 

「――――不快だ」

 

 

 あり得ない様なものを見るような目で俺を見つめる。

 

 怒りで混濁する思考が収まらない。

 自分が何をしようとしているのか、それすら分からず、歯止めが効かない。

 痛いほどの激情が、内側から俺を激しく打ち据える。

 

 

「し……き、さま?」

 

 

 足元で腰を抜かした女性が呟くような声でそう言った。

 

 何を言っているのだろう。

 私は花宮梅利だ、昨日そう言わなかっただろうか?

 

 硬直した体は微塵も彼らの自由を許さず、目の前の者達は近づいていく俺をただ見つめている。

 

 

「さて、誰から消える? それともまだ紛い物を出して私の手を煩わせるか?」

 

 

 気分が良い。

 酷く晴れやかだ。

 昨日の体調とはえらい違いだ。

 

 誰も何も言えないまま、恐怖の感情を俺に向けてきている。

 心地良いとすら思えるその感情に、さらに頭に血が上っていくような感覚に襲われて。

 全能感、今なら何であれ上手くいくのではないかなんて根拠のない自信が溢れ出た。

 

 

「嫌だっ、梅利さん!! 駄目ですっ、止まって!!!」

 

 

 そんな誰も音を出せない状況で、雑音が静寂を裂く。

 

 うるさい、なんて言う苛立ちが生み出された。

 苛立ちに従って、睨み付ける様に雑音の発生源に視線を向ける。

 

――――泣いているあの子を見た。

 

 

「嫌っ、居なくならないでっ!! 消えちゃ駄目ですっ……置いていかないで……!!」

 

『お兄さん』

 

 

 幻聴が聞こえた。

 

 その場にへたり込む様に座り込む。

 吐き気が酷い。

 

 口元を手で覆って、地面に向かってえずいた。

 唖然とする周囲から誰かが駆け寄ってきて俺を抱きしめる。

 

 

「っっ……!! 同胞である私を始末しようなど何たる背信行為っ……! 貴様はもはや同士ではない!! そいつを捕らえろ!!」

「なんだと……そんな難癖がっ!?」

 

 

 女性の叫びに、俺を庇っていた男性が正面から指導者のような男目掛けてタックルした。

 地面に引き倒した男性の鬼気迫る雰囲気と女性の確信を持った断言に、指導者と共にいた集団は少しの迷いを見せたものの、女性の指示に従って抑え込みにかかる。

 なおも暴れようとする指導者の四肢を拘束して、身動き一つさせないようにして、女性が気遣うように俺を覗き込んでくる。

 

 

「梅利さん……、貴方は梅利さんなんです……」

 

 

 俺を抱きしめる誰かが耳元でそう囁き続ける。

 あれだけ酷かった吐き気が、少しだけ収まった気がした。

 

 

 



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望まれたもの或いはそうで無いもの

 

 

 俺があの医者に会ったのは、この身体になって感じていた違和感も無くなった頃の事だった。

 

 日課にであった町中の徘徊をしていた時、ふと見掛けたのが廃墟となった病院で。

 食料なんて無いんだろうと思いながらも、治療用で使えそうなものを探そうなんて安易な考えで、その病院内に足を踏み入れた俺は直ぐに失敗を悟った。

 外をうろつく奴らよりも数段厄介な異形達がそこら中に巣喰い、縄張りに入ってきた俺に対して襲い掛かってきたからだ。

 

 とは言っても、所詮は病院程度に身を隠していた異形でしかなくこの身体の敵では無い。

 一度身の安全を確保してしまえば、逆に外の奴らとは強さが違うその異形達への興味が沸いてきて、衝動に任せて原因を探ることにして。

 そして病院に巣喰っていた異形の処理が全て終わり、辿り着いた隠し部屋の様な場所にいたのがその医者だった。

 

 人の死体と感染菌を使い、死者と異形、能力の違いや抗体の作成などの非人道的な実験を繰り返していた男がそこにいたのだ。

 

 

 

 

 久しぶりに見たアイツの表情はあの頃と何一つ変わらない癖に、顔色は酷く痩せ細って血色の悪さが浮き彫りとなっていた。

 それでも人を小馬鹿にしたような笑みを崩さずに、何も気負う様子が無く俺に手を上げて挨拶してきたのは流石だと思う。

 

 

「久しぶりだね、我が友よ」

 

 

 演劇染みたそんな言葉に頭が痛くなる。

 妙なものを格好いいと思っている中学生の言動と変わりない事をしているのは、俺の倍は生きていそうなくたびれた男性だ。

 人の趣味嗜好に口を出す気は無いが……こいつ、俺以外の前でも同じ事をやっていないだろうな?

 

 

「探したぞ藪医者。……こんな所にいたんだな」

「はははは。まあ、流石に一人籠もって研究を続けるのには限界が来たからね。僕と利害が一致するコミュニティに身を寄せさせて貰っていた訳さ。……君の方は万全の体調とは行かないみたいだね」

「まあ、ね。最近はちょっと不味いかもしれない」

 

 

 妙な快活さで話しかけてくる医者に俺は溜息を吐いた。

 未だに吐き気は収まらないし、足下はふらふらと覚束ない。

 まともに立ってはいられなくて壁に体重を預ければ、彼は笑いを収めてじっと俺の様子を窺ってくる。

 

 つかみ所のない彼のようなタイプは、所詮俺程度が腹芸しても相手にすらならないのはもう分かっているし、何より彼は信用できる。

 だから、変な隠し事はなしにして、相談に乗って貰おうと決心する。

 

 

「無事で良かった、心配してたんだ」

「……本来ならば、医者の僕が君を心配するべきだったと思うけれどね」

 

 

 困ったように眉を下げた医者を見て、俺は気にするなと笑いかけた。

 妙なところで責任感があるのも変わらない。

 それがやけに嬉しくて、俺は付き纏う吐き気を気にもせず再会した友人との軽口を楽しむのだ。

 

 “泉北”の集団の指導者を捕らえた後、俺達が拘束していた女性、水野さんが彼らの拠点内へと案内してくれた。

 訳の分からない体調不良に襲われた状態の俺は知子ちゃんの肩を借りてようやく歩くことが出来ており、その惨めな姿を衆目に晒しつつ自分の不甲斐なさに泣きそうになった。

 なめられないようにと、口調や態度を気にしていたというのにこの様だ。

 自分達の元へと来た武装した人間がこんな様を晒していれば、敵対していなくとも足下を見ようとしてくるだろうと思っていたのだが……“泉北”の人達がそんな様子を見せることは微塵もなかった。

 

 どこか敬意さえ感じさせる態度で俺と知子ちゃんを先導した水野さんが連れていってくれたのは、荷物置き場でも改修したような小さな一室。

 そうして俺は久しぶりに再会することが出来た、色々とはた迷惑な医者との再会を喜んだのだった。

 

 

「それにしても随分と綺麗な女性を侍らしているじゃ無いか。前はその欠片もなかったのに、君も中々隅に置けないな」

「お前はもっと身綺麗にしろ。正直匂うぞ」

「……はは、は。いや、ほんとその話題は勘弁してくれ」

 

 

 気を使ってくれたのか、それとも彼女達だけで話したいことでもあったのか、再開を果たした俺達を残して知子ちゃんと水野さんはこの部屋から出て行っていた。

 残された形と成ったわけだが、別にこの医者が俺に対して害意を抱いているとは思えないし、何ならこいつは以前にも増して小汚いこの男の近くに知子ちゃんは居て欲しくない。

 

 あらかじめ言っておくと俺は別にこの医者が嫌いなわけでは無く、むしろ好ましいと思っている。

 だが、もはや妹のように思っている知子ちゃんを近付けさせるのには抵抗を覚える、そう言う類いなのだ。

 

 

「まあ、そんなことを話すのも楽しいんだけど。……今日はお願いがあってきたんだ」

「ああ、分かっているよ。君を見た瞬間にどんな用事で僕の元に来たのか直ぐに察したさ」

 

 

 俺が本題を切り出せば、医者は怏々とした様子で頷いてくれる。

 話が早くて助かる。

 

 

「君の異――」

「知子ちゃんの、ああいやさっき俺と一緒に居た女性についてなんだけど」

「――……何だって?」

 

 

 かなりデリケートな話題になるので、医者の耳元まで口を近付けてヒソヒソと事情を説明すれば、呆れた様な顔をしていた彼の顔が驚愕に染まっていく。

 

 

「……僕の単なる予測を試したのかい? 君って意外と……いや、意外でも何でも無く向こう見ずだったね」

「な、なんだとぉ!?」

 

 

 心底呆れたような物言いに思わず食い付くが、結局何の反論も出来ない。

 

 

「まあいい、僕は君の求めには何であろうが応じようと考えていたんだ。君がそう望むなら、僕は尽力するだけさ」

「ぐ、ぐぬぬっ……そ、そうさ、協力してくれるならありがたいっ! 解決策を教えるか、若しくは薬を下さい!!」

「診察してみないことにはなんとも言えない。だが、あの娘程度の感染度合いならまだどうにでもなるだろうね」

 

 

 部屋に設置されている数々の薬品を軽く触れながら、力強く断言してくれた医者に顔がほころぶのが分かる。

 この医者に相談しに来て本当に良かった。

 

 色々気になることはあるが、取り敢えず知子ちゃんに関することの確約は貰えたのでほっと安堵の息を吐けば、医者は半目で俺のことを見詰めていた。

 

 

「……他には無いのかい?」

「えーと、そう、“泉北”が使っている巨人について聞きたいんだけど」

「……ふむ。あれか」

 

 

 若干不満そうに腕を組んだ医者が思案するように視線を天井に向ける。

 それから、近くの引き出しを開いて取り出したのは黒い塊だった。

 取り出されただけで感じるその異様な忌避感は、何度も感じたあの黒コート、若しくはこの拠点を囲うものと同じだ。

 

 

「これがあの巨人の元となるものだ。これが何か分かるかい?」

「……“破國”の」

「そう、その怪物の肉片だ。“死鬼”と相打ち、痛み分けたあの化け物の身体の一部」

「“死鬼”と?」

 

 

 聞き覚えのある異形の名前に、俺は思わずその名を反芻してしまうが医者は一つ頷くだけだ。

 

 死鬼の件は脇に置いておくとしても……正直意味が分からない。

 “破國”と言うのはつまり異形だ。

 かなりの力を持った異形だというのは水野さんの話で予想が付く。

 

 だがどれだけ強力な異形であったとしても、それの肉片を使って何が出来るというのだろうか。

 

 

「良いかい。難しい話を君は理解しないだろうから省かせて貰うが、要約すると感染体が体内で作成した感染菌は劣性、異形の身体を構成している主要なものは優性という。普段は……いや、この話は飛ばそう。要するに優性に劣性が従うよう出来ていて、それを使って傀儡を増やす異形がいることを僕は発見したんだ。だから、これを利用して僕らの指示に従う異形を作れるのでは無いかと試行錯誤した結果があの巨人だ」

「……ちょっと待って、お前、説明していない部分が多すぎる。つまりなんだ、あの巨人の元にその“破國”の、ええっと……劣性の欠片を埋め込んで異形化した。優性の欠片をこちら側の人間に持たせて指示に従うようにして操る術を身につけた……って事で良いの?」

「ああ、その通りだよ」

 

 

 自分が何を言ったのかもよく分からなくなってきた。

 そもそも俺はそんな根本的なことまで理解しようとなんかしていないんだ。

 理解すれば良いのは、こいつが原因で“泉北”が異形を操る術を持っていて、それを悪用して他の生存者を襲うのも意に介していないと言う事だろうか?

 

 

「……なんだよそれ、試みがおぞましすぎるだろ。一体何のために……」

「さあ。僕はあくまで感染菌の研究の副産物として判明したこれを検証してみただけさ。ここのトップのおじいさんは、まあ、また別の目的があるみたいだけどね」

「別の……?」

「そりゃあ勿論神の復活だよ。“死鬼”の再臨を彼は望んでいる」

「でもそれは……それにしたっておかしい。だって……」

 

 

 死鬼は俺である筈だから。

もしも死鬼の復活を望んでいるのであれば、俺に対して何かしらの行動が無いのはおかしいとそう思ったけれど、自分の現状を認めてしまう最後の言葉は結局口に出来なくて、何も言えなくなった。

 だが、言葉に詰まった俺の言いたいことを医者は察しているのか、突き付けるように指を指してくる。

 

 

「それだよ。僕的にはその悩みを先に言って欲しかったんだ。君の体調の悪さ、不安、今後の対処。それらを解決する為に、僕に君を診察させて欲しい」

「え、ええと、構わないけど……」

 

 

 急に口調が早くなった医者に、どうやら彼にとっての本題がこれだったのかと納得する。

 

 そんな予想の通り、医者はありがとうと呟くと急くように足早で距離を詰めてきた。

 頭二つほど小さい俺に合わせるように屈んで目を覗き込んできた彼を、俺はじっと見詰め返す。

 

 覗き込んでいた彼の瞳が揺れるのが分かる。

 目から読み取れる彼の感情は、隠しきれない動揺だ。

 

 

「……なにか異常を感じるようになった切っ掛けとして思い当たるものは?」

「えと、赤いガス……多分、感染菌のガスを溜め込んだ球根の様な化け物と戦った」

「どれくらいそのガスを喰らった?」

「2回で、1回目は拘束されてかなりの量を。2回目は身体に走っていた罅から漏れ出していたものを受けただけ、かな」

「……そうかい」

 

 

 一瞬だけ顔を歪めた医者は、そう言って俺のヘルメットに触れる。

 

 

「角を見せて貰っても?」

「あ、あー……。ちょっと待ってね」

 

 

 普段見せないものを人に見せるとなると、何だか気恥ずかしさを感じる。

 おずおずとヘルメットを取ろうとするが、やっぱり角が突き刺さっていたのか、しばらくヘルメットを取るのに時間が掛かってしまった。

 晒された俺の双角を見ると、医者は無言でショックを受けたように目元を抑え込んだ。

 

 彼は俺を異形と知る数少ないものの一人である。

 知子ちゃんが知る以前で知っているのは彼だけだったから、実質俺の角の変化を一番把握しているのはこの医者という事になるだろう。

 だから、医者のそんな反応に不安を覚えてしまうのは仕方ないと思う。

 

 

「え……えっ!? 何その反応っ!? もしかしてもう一本角が生えてきたのってそんなにやばかったりするの!?」

「少し考えれば分かるだろう!? やっぱり馬鹿なんだな君はっ!?」

 

 

 両肩を捕まれる。

 初めて見る気がする彼の鬼気迫る表情に押されて唖然とする。

 こいつはこんな顔も出来るのかと、そんなことを思った。

 

 

「これはいつからだっ!? いつからもう一つの角が生えてきた!?」

「え……えとえと、10日くらい前かな?」

「そんなに……そんなに経っているのか……?」

 

 

 患者を不安にさせるなんて医者として失格。

 前にそんなことを言っていた筈のこの男が、顔から色を失うのを隠そうともしない。

 

 

「――――いいか、良く聞いてくれ。君は既に異形だ、人間じゃ無い。今君が人間としての意識を保てているのは本当に奇跡的なものなんだ。不足した感染菌を補うために眠り状態に入っている異形としての君はもういつ目覚めてもおかしくない。……梅利君、君の意識がいつまで持つのか、僕には分からない」

「――――…………え?」

 

 

 医者の手が伸びて俺の新しく生えてきた方の角に触れる。

 そっと撫でていくその仕草を見ていると、凹凸一つ無いものを撫でているかのような滑らかな動作で。

 

 それでようやく、自分の不揃いだった双角がいつの間にか左右対称のしっかりとした形となっているのに気が付いた。

 

 ふらついて、そのまま床に座り込んでしまう。

 つまり……何だろう?

 もう俺は長くないと言うことなんだろうか?

 

 

「……ああ、そっか。また消えるのか」

「いや、それを何とか防ぐよう努力は続けるつもりだ。だが現状対策はない、僕の研究次第となる訳だが……すまない」

「……いや、うん。どこかで覚悟はしていたんだと思う。そんなに衝撃は無いかな」

 

 

 笑みを浮かべてみれば、それを見た医者は表情を歪めた。

 

 まあ実際、幼馴染を助けたときに命を落とすのは覚悟していたんだ。

 それが何かの間違いでこうして意識があるだけ、余生のような、若しくはうたかたの夢の様なものだと思えば納得もいく。

 むしろ俺は幸運だったのだ。

 やり残したことを清算する機会を得ることが出来たのだから。

 

 

「……俺がもし本当に取り返しの付かない異形になって、多くの人を傷付けるようだったら……俺の命を終わらしてくれる?」

「それは……荷が重いな」

 

 

 この身体の強さを充分に理解しながらも、頼むよ、なんて軽く言いながら立ち上がった。

 

 もうあれだけ付き纏っていた吐き気は無い。

 それだけで俺がまだ人として有れるのだと安心する。

 

 

「と言うか藪医者っ……お前また非人道的な実験して! こんな世の中でそんなことをするななんて言うつもりは無いけど、お前また顔色悪いぞ。どうせ罪悪感に苛まれてるんだろ、俺がまたボコボコにしたほうが良いか?」

「止めろっ! 君にそれをされた後本当に大変だったんだぞっ!?」

 

 

 やけに暗い顔の医者を見れば、研究の進み具合から俺が助かる見込みが低いことは何となく察することが出来た。

 だから、もうそんな先の分からないことなど気にしないことにして、最後まで俺としているよう努めることにした。

 

 やり残したことを全て終わらせよう。

 過去のしがらみを全て清算しよう。

 こんな夢の様な機会に感謝して、花宮梅利という生を終わらせることが出来たなら、それはきっと幸せな人生として終えることが出来るはずだから。

 

 

「……言っておくが僕は諦めないぞ。だから、君も最後まで抗ってくれ」

「ははっ、そうだな。じゃあ頼りになる友達を信用して頑張ってみるさ」

 

 

 いつもの自分ならそう言うかな、なんて思いながら、こんなことを言ってみた。

 

 

 

 

 

 

 医者と言葉を交わして部屋から出れば、そこには知子ちゃんと水野さんの姿があった。

 先ほどまで脱ぎ捨てていたヘルメットが頭にあるかを、つい癖で確認しながら笑顔で彼女達に手を振れば、難しい顔をしていた知子ちゃんの顔も綻んだ。

 予想通り彼女達も話し合いをしていたようで、顔を明るくさせて寄ってきた知子ちゃんが、聞き出した情報を俺に教えてくれる。

 

 

 一つ、現在あの巨人を操れるのはここのトップである泉北さんを含めて三人しか居らず、先ほどの男性を捕らえた事から今この場で行使できるのは水野さんだけと言うこと。

 二つ、移植手術が必要なので、急に異形を使役出来る者が増えることはないこと

 三つ、このコミュニティは死鬼の再臨が悲願であるものの、彼らは俺の存在を知っているわけではないこと。

 

 

 やけに重要そうな情報まで教えてくれているな、なんて思いながら水野さんに疑問を込めて視線を投げれば、彼女は恭しく頭を下げて応じてくれる。

 ……これは、やっぱりアレなのかな。

 

 

「あの、水野さん。急にそんな態度になられると困るんですけれど……」

「申し訳ありません。ですが私達が貴方様に横柄な態度を取ることなどありえません。愚かながら、今頃になって貴方様の正体に気が付いた私に如何なる罰もお与えて下さい死鬼様」

「うおぉぉっ……!? む、むず痒いっ……!?」

 

 

 今までの生活では絶対に有り得ない、圧倒的な目上を扱うような態度。

 生まれて初めて見る、他人が自分を心底敬服してくる姿に背中にむずむずとした感覚が走り、数歩よろめいて後ろに下がった。

 自分は他人に敬服されるような器ではないのは十分理解しているから、なんとか止めて貰いたいという思いは勿論ある。

 ……でも同時に、ちょっとだけ嬉しく思ってる俺がいるのも否定は出来ない。

 

 

「梅利さん……あの……」

 

 

 知子ちゃんが不安げな視線を俺と医者の間を行き来させる。

 

 彼女が何を聞きたいのか、今となっては何となく分かる。

 今まで俺は彼女の身体が不味いことになっていると思っていたのだが、それは逆だった。

 俺がこれまで彼女へと抱えていた不安は、そのまま彼女が抱えていた不安でもあったはずだ。

 

 とてつもないほどに心配を掛けたのだろう。

 変わりゆく俺の様子を間近で見て、多くの不安を抱えた事だろう。

 だから、彼女に対して掛ける言葉を迷うことは無かった。

 

 

「――――大丈夫。何も問題はないってさ、知子ちゃん」

「……っ!! 本当ですかっ!?」

 

 

 嘘を吐いた。

 俺の状態のことではなく知子ちゃんの状態のことを、主語を省いて話す。

 

 それだけで、花が咲くように笑顔を浮かべた知子ちゃんが、目尻に涙を浮かべて抱きついてくる。

 良かった……、と何度も言って鼻を啜る知子ちゃんの頭を撫でる。

 

 彼女の後ろで俺たちの様子を見ていた水野さんは疑いの目を医者に向けて、医者は動揺一つせずこちらを見続けている。

 

 

「本当にっ……本当に心配したんですっ……」

「……うん、ごめんね」

「このままだと梅利さんが消えちゃうってアイツが言うから、私焦っちゃって……。でも、もう良いんですっ、梅利さんが無事なら良いんです」

 

 

 彼女の髪を梳くように撫でる。

 痛む胸を考えないようにして、ただ彼女を安心させるように振る舞った。

 

 俺にも意地がある。

 ただ心配を掛けるだけの言葉なんて言うつもりは無いし、このまま何も出来ずに終わるつもりも無い。

 だから今は言わないし、絶対に悟られないと決意したのだ。

 

 そんな俺達を前に、水野さんは医者に向けていた視線を切って膝を着いた低い姿勢を取った。

 

 

「……死鬼様。私達“泉北”は貴方様に救われた者達の集まりです。貴方様が再臨されたのであれば、貴方様だけのためにこの命を使いましょう。どうかご指示を。ここの者達も直ぐ外で貴方様をお待ちしております」

「……」

 

 

 俺へ向ける想いが重すぎて吐きそう。

 一定を越えた献身は受ける方がキツいと言うのを初めて理解した。

 

 慌てて離れた知子ちゃんが水野さんの様子を見て、どうするのかと俺に視線を向けてくるが、正直俺もどうすれば良いか分からない。

 無い頭を振り絞って辛うじて考えついたのは、東城さんに全部投げてしまおうと言う事と、そもそもここのトップである泉北さんと話さなくてはいけないと言う二点だけだった。

 

 頭を下げ続ける水野さんに声を掛けようとして、何か見過ごしているような感覚に襲われて口を噤んだ。

 そう言えばさっき“泉北”の集団が何かを言っていた。

 泉北さんが失敗作のほとんどを連れて行ってしまったといっていた。

 ……何処にだろうか?

 

 

「……水野さん。まずここのコミュニティのトップと話がしたいんだけど」

「はい、泉北さんとですか? 別に指導者としての立場を譲って欲しい等であれば何ら問題は無いと思いますよ。あの人は死鬼様しか考えていないような人ですし」

「いいから。その人は今どこにいる?」

「……泉北さんは――――」

 

 

 水野さんも言っていたでは無いか。

 『貴方達は背信者では無い。死ぬべきでは無い』そう言っていたでは無いか。

 それはつまり逆説的には……死んでいい人がいることに他ならないのではないか。

 

 そしてそれはきっと、彼らにとって到底許すことが出来ない相手である――――

 

 

「素体集めのために“南部”を潰しに行っていますね」

 

 

――――彩乃達がいるあの場所に他ならないのでは無いかと、そう思った。

 

 

 



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伸ばす救いの手

 

 

 水野さんの言葉に息を飲んだ。

 

 

「え……だって……」

 

 

 僅かに口から吐き出せたのは、形にすらなっていないそんなもの。

 水野さんがなんてことの無いように言った言葉を咀嚼して、何度も噛み締めて落ち着こうとしても返って焦りが強くなるばかりだった。

 

 けれど動揺しているのは俺だけで、俺の周りにいる三人は何一つ衝撃を受けていない。

 むしろ動揺を見せた俺に対して、不思議そうな反応さえ彼らはしている。

 

 

「梅利さん、南部に対する攻撃がそんなに意外なんですか? 以前彼らが恨みを持つ説明はしましたよね?」

「私達は別に復讐のつもりはありません。目的のための手段として、これが最上だと泉北さんが判断して下したものです。……勿論、死鬼様が既に再臨されていたとは知らない状態での最上ではありますが」

「まあ、彼らの死は悲しむべきものだとは思うがね。そこはそう、今度は彼らが切り捨てられる側に回っただけのこと。さして気に病む事では無いと思うよ」

 

 

 各々がその行為の正当性を主張している。

 彼らの目的がなんなのか、その手段として彩乃達を襲撃するのがどういった意味を持つのか理解できない。

 なんでここまで、彼らと俺の間では感じ方に差があるのだろうと顔が引き攣った。

 

 人が死ぬ。

 それはこんなにも軽いことでは無い筈だろう。

 

 

「せ、生存者同士が殺し合うなんて何を考えているんだよ。目的の為に手段を選ばないなんて聞こえは良いけどっ、これはただ限りある資源を消費して一時的な豊かさを得るだけの自殺行為だろ……」

 

 

 四面楚歌のような状況に、弱々しい反論をして見るも段々と尻すぼみになっていくのが分かる。

 

 自分はあくまで恵まれた境遇だ。

 人外染みた力を持ち、並大抵の敵には傷一つ負わない。

 およそ食料すら必要としない身体で、恵まれた銃器や装備を手にしている。

 

 そんな俺が上から目線でものを言っても、そんなものに説得力など無いとどこかで理解しているから。

 

 

「み、未来志向で行こうよ、将来的に人間としての文化的な生活を送れるようにするために必要なのは数だろ……? 今ここで生存者の数を減らすのは悪手でしか無くて、さ……。だから、その……そんなに簡単に、人間同士で争うなんて……駄目だ、と思う……」

 

 

 声が震えていない自信が無い。

 あの巨人達が彩乃や彼女のお父さんに襲い掛かっていると考えるだけで寒気がした。

 俺の物差しで考えればあの巨人は大した強さではないが、あの人間的な動きと体躯と対峙したとき、まともに対応できるのがどれほどいるのか不安だった。

 俺にだって、死んで欲しくない人はいるのだ。

 

 

「……梅利さん。貴方が嫌だって言うなら私は勿論従います……ですがこれは」

「ふむ、梅利くん。あの巨人について話していないことがあった、聞いてくれるかい?」

 

 

 難しい顔をした知子ちゃんが言葉を濁し、何かに気が付いた様子の医者が説明しようとこちらに向き直った。

 本当なら今すぐにでも飛び出して行きたいのを抑え、とにかく状況を理解しようと説明に耳を傾ける。

 

 

「あの巨人を作るには人の死体が必要なんだ。破国の感染菌を適切に移植して、丁寧に成熟させなくてはならないから新鮮であれば新鮮であるだけ良い」

「……つまり素体って言うのは……」

「その通りだ。そしてもう一つ、巨人は失敗作だと知っているだろう? 人型の異形、まあ、第二の死鬼を僕達は作ろうとしていたんだが、それには理由がある」

「……作ろうとしていた等とは語弊があります。破國という……死鬼様と同等程度の力を持つ異形の欠片を使い、人型を維持した死鬼様の身体を生み出そうとしたんです」

 

 

 気まずそうに視線を逸らす水野さんとは対照的に、医者は何処か誇らしげに胸を張っていた。

 

 

「死鬼が消えたことで、次の主による侵攻を防ぐ手立てが無かった。だからこそ僕は次の防衛機構が必要だと感じたし、死鬼に縋っていた泉北の者達も次の死鬼が必要だった。それだけの話さ」

「次の、と言うのはまた解釈が違います! 死鬼様の再臨には相応の肉体が必要だと考えていた、そう何度も説明したはずですがっ……!?」

「宗教的なそう言う考え方は僕には分からないよ、はははは」

「なんでこいつが“泉北”にいるのかしらっ……!?」

 

 

 ついには敬語を放り投げてそう吐き捨てた水野さんがはっとしたように微妙な顔をしている俺に気が付いて、気まずそうに顔を歪めた。

 

 

「も、申し訳ありませんっ……! 死鬼様を不快にさせるつもりは無かったんですっ!! ひとえに我々の不徳の為すところ、死鬼様の生存を信じ切れなかった我々の落ち度でございます……。矮小な我々には縋る存在がどうしても必要であったのです……どうか、どうかお許しをっ……」

「いや、俺は死鬼様じゃ……うん、まあいいや。ともかくそんな些細なことは気にしないけどさ……」

「なんとっ……、なんと慈悲深いっ……!!」

「そもそも水野さんには一度完全に騙されてるから……その大げさすぎる態度信じ切れないんだよね」

「なん、ですと……?」

 

 

 医者が加入していないと言ったあの嘘を俺は忘れたわけじゃ無い。

 この場所を案内して、なんの迷いも無く俺の会いたい者の元へと先導した水野さんが、この医者を知らないはずが無いのだ。

 

 俺の言葉に、目を見開いて膝を着いた水野さんを冷たい目で見た知子ちゃんが難しい顔をしていた俺に対して、良いですかと前置きする。

 力を込められた彼女の瞳は、なんとしても俺を説得しようという強い力を感じさせるもので、思わず半歩後退ってしまう。

 

 

「第二の死鬼と言う人の指示に従う力を人工的に作り出すことが出来れば、来る脅威に対しての対抗手段となります。それは私達生存者にとってこれから先の生命線となり得ます」

 

 

 淡々と、手元にある文章を読み上げるかのように、知子ちゃんがそんなことを言い始める。

 

 

「それだけでは無く、犠牲を出すこと無くこの地域の外に出てさらに生存圏を拡大することも可能になる筈です。それは私達の夢、この国の再興をも叶える飛躍的な一歩となります」

 

 

 眉一つ動かさず、一緒に生活していたあの表情豊かな彼女と同一人物とは思えない彫像の様な顔を俺に向けて、ひたすらに口を動かし続ける。

 

 

「私達が見ていた巨人、あれを複数量産し、思うがままに操れるとすればかなりの有用性を誇る筈です。取れる戦略も一気に広がります……ですから」

「……それを作る素材となる死体の回収が必要だと、その為ならある程度の……“南部”と言うコミュティの死は見過ごすべきだと、そう言うんだね知子ちゃん」

「……はい、その通りです」

 

 

 俺が先んじてそう言えば、知子ちゃんは苦虫を噛み潰したかのような表情を作った。

 ……冷徹な様子を見せていたのに、やっぱり引け目はあるみたいだ。

 

 冷静に広い視点を持ってこの話を判断した結果、知子ちゃんはこうして俺を説得しようとしているんだろう。

 それはきっと先の事を考えただけじゃ無くて、どうすれば俺を戦わせなくて済むかを考慮した結果なのだろうと思う。

 冷たく冷徹に、自分を悪者にしてでも何とか俺を戦いから遠ざけようと、現状を打破出来るおぞましい方策にも自分を納得させている。

 

 自分の知っている知子ちゃんが顔を覗かせたことでそうやって冷静に彼女の考えを分析すれば、焦りだけが先行していた感情が少しだけ収まっていく。

 彼女はなんとか俺の為になるようにと考えてくれているのだ。

 

 

「っ……! ともかくっ、梅利さんはこれ以上戦ってはいけませんっ! 感情に飲まれてはいけません! 食事をしてはいけません!! 落ち着いて、部屋で大人しく椅子に座ってっ、医師の処方に従って下さいっ!!」

「え、ええ……そんな、横暴な……」

 

 

 両手を掴んで顔を近付けながらそんなことを言う知子ちゃんに苦笑が漏れる。

 自分の異形化が進行していることは知っているが、そんなに色々拘束されても困ってしまう。

 絶対に離さないと目で語る彼女に、どうしたものかと頭を悩ませるが、俺がなんでここまで“南部”への侵攻を嫌がっているのか、そんなこと今更隠し立てするようなことでは無いのだと気が付いた。

 

 

「……うん、知子ちゃん俺はね。本当は、君が思っているほど善良なだけの人間じゃ無いんだよ。俺はきっと目の前で人が死ぬようでも無いと、赤の他人が死ぬのなんて放っておけてしまうような非道な人間なんだ」

「え……?」

 

 

 突然そんなことを言い出した俺に、知子ちゃんは話の流れが分からないと言う様に目を瞬く。

 そっと捕まれた手を握り返して、自虐するように笑った。

 

 

「俺の知らないところで知らない人が襲われてようが何の感傷も抱かないし、進んで助けようと行動なんてしない。そんな人よりも、俺はもっと守りたい人がいる。そこには勿論知子ちゃんも含まれていて……他にもそう言う人はいるんだ」

「……はい」

「……前に言ったと思うんだけど、俺には生前の記憶があって、この辺りで生活をしていた思い出があるんだよ。家族がいて、幼馴染がいて、大切な人だっていた。こんな姿で言っても笑っちゃうかもしれないけど、人として譲れないものだってあったんだ……それでね、絶対に死んで欲しくない人があそこにはいるんだよ」

 

 

 知子ちゃんの瞳が揺れる。

 そんなに驚くような所があったのだろうかと思うが、ともかくまずは今の状況を伝える為に口を動かすことにする。

 

 

「死んで欲しくない人がいる。馬鹿で、向こう見ずで……まあ可愛げのない奴だけど、一緒に育ってきて、悪い奴じゃ無いから……せめて幸せになって欲しいんだ」

「――――……それは、もしかして、南部彩乃さんの事ですか?」

「うん……」

 

 

 まさか個人名すら当てられるとは思って居なかったから少しだけ驚いた。

 けれど、じっと俺を見続ける知子ちゃんに促されて、自分がどうしようも無く我が儘なことを言っている自覚を持ちながらも、俺は最後まで願望を打ち明けた。

 

 

「俺はあいつが死ななきゃいけないなんて認めない。あいつの居場所を奪うことは許さない。例えこの先それが必要なのだと言われても、納得なんて絶対に出来ない。……失望するかもしれないけど、俺はそう言う奴なんだ」

「――――……そうですか」

 

 

 彼らの言い分が正しいなんて分かっている。

 誰かを犠牲にしてでも、多くの者の利になる行動であれば取るべきだ。

 それが人々の生存に大きく関わるような事であればなおさらだろう。

 これから先の事を考えれば、きっと俺の行動なんて愚の骨頂だろうし、私情に流された子供の癇癪でしか無い。

 

――――それでも俺は人間で、その選択をする人生を歩んできたのだから、きっと俺にとっての答えはこれだけなのだ。

 

 瞼を閉ざした知子ちゃんから、気まずい思いを抱きながら手を離す。

 

 悠長に話している時間はそう無いはずだ。

 泉北さんと言う方がどれだけ前に出発したのか知らないが、すでに“南部”の拠点に到着していてもおかしくは無いだろう。

 ここから拠点まで全力で走ったとしても数分は掛かる距離の筈だ。

 

 だから、もう自分のやりたいことを決めているなら、誰に制止されようがそろそろ行かなければ間に合わない、そうなればきっと後悔することになる、そう思った。

 

 

「俺は行きます。別に俺を勝手に崇めるのは良いですけど、それでどうしようとは思いませんからそのつもりでお願いします」

「え、死鬼様っ……ま、まって――――つぐぇっ!?」

 

 

 引き留めようとした水野さんがカエルの潰れたような声を出す。

 水野さんの首を腕で絞めて拘束した知子ちゃんが優しげな微笑みを浮かべている。

 

 俺の背中を押すような、優しげな笑みを浮かべている。

 

 

「――――行って下さい梅利さん、貴方は貴方の思うように。ただし、無理はしないで絶対に帰って来て下さい……約束です」

「――――うん必ず、俺が……ただいまって言うよ」

 

 

 それだけ言って、俺はいつものようにヘルメットを押さえつけながら駆け出した。

 

 

 

 

 

 

「……梅利さんは本当に治るんですか? 本当に異形の進行を止める手立てはあるんですか?」

 

 

 迷彩服の少女を見送って完全に見えなくなってから、物憂い気な表情をした知子はそう問い掛けた。

 向けられた問いに対して肩をすくめながらも、くたびれた白衣の男はこの場にはいない友人の肩を持つことにする。

 

 

「当然だ、僕を誰だと思ってるんだい? この10年間、ずっとこの感染菌だけを研究してきた僕がいるんだ。恩ある彼の病気くらい治療できなくて何が医者か」

「……よかった。本当に……良かった」

 

 

 唇を噛み締めてそう呟く知子は、締められたままの水野が腕をタップしているのにも気が付かず、涙ぐんだ目で迷彩服の少女が去って行った先を見詰める。

 

 そんな彼女の様子を眺めながら、医者は一つ疑問を抱いていた。

 

 

「僕からも一つ聞かせてくれ、なぜ君は感染菌の増殖方法・活性化方法を知っている」

「……」

 

 

 問い掛けに口を閉ざした彼女を見て、医者は目付きを鋭くする。

 

 

「食べない、感情を動かさない。その2点を正確に見抜いているのを僕は僕以外に知らない。当然だ、感染した者の事など生きる上では必要ないし、自分が感染して経験したか、感染している者の話を聞きさえしなければそんな事を考えもしないだろう……誰からそれを聞いた」

 

 

 それによっては……。

 そう続きそうな剣呑な医者の雰囲気に対しても微動だにせず、彼女はぼんやりと床を眺める。

 

 反応を返さない。

 段々と目つきを鋭くしていく医者に対して俯いたままの知子は口を噤む。

 それは何かを考えているかのようで、誰かを思い出しているかのようで、何かを天秤に掛けているような、そんな表情だ。

 

 

「もしも君が何か邪な事を考えているなら、僕にも考えが――――」

「死鬼です」

「――――……なに?」

 

 

 ゆっくりと顔を上げていく知子は、有り得ない名を聞いたかのような表情の医者にしっかりと目を合わす。

 その目は嘘を含んでいない。

 

 

「死鬼が私に、梅利さんをこれ以上異形化させないようにと言って来たんです」

「……馬鹿な……」

 

 

 考えもしなかったその名を聞いて、医者はこれ以上無いくらい目を見開いた。

 

 



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不気味な静寂

 

 

 荒廃した町中を走る。

 風を切り、空を駆ける。

 瞬く間に周りの景色が切り替わる光景は未だに慣れることがない。

 一歩で倒壊した建物数棟分は飛び越えてしまうから、空中の滞空時間があまりに長くて、まるで自分が無重力空間にでもいるのでは無いかという錯覚すら覚えてしまう程だ。

 

 考えてみれば、この身体になって人目を気にせず全力で走るのは初めてだろうか。

 以前、今まで乗ったことのある乗り物ですら経験したことの無いほどの、圧倒的な速度が出てしまい、それが怖くて走るのを控えていたから自分の最高速度を試して見たことが無かった。

 まだ身体に慣れていない頃に力加減を間違えて空を舞うことになって、加減にはとても気を張っていたからそこまでうっかりをやらかすことは無く、だからこそ、今自分の足が叩き出す化け物染みた速度に身体が竦みそうになる。

 ……というか、これまでよりも感染状態が深刻になったからか身体能力の向上具合が目に見えている気がする。

 

 

(こ、これ、ジェットコースターくらいは出てない!? 俺、そう言うアトラクションほんと無理なんだけど……!!)

 

 

 悲鳴を上げそうになるのを抑えて、脇目も振らずに南部の拠点に向けて駆け抜けていく。

 今は、ほんの少しの時間も惜しい。

 

 南部の拠点は昔自衛隊駐屯地として使用されていた場所だ。

 そこまでの地理には自信があるものの、今は建物の倒壊などが進んでしまっている。

 どれだけ自分の知っている地理が当てはまるのか少しだけ心配だったが、どうやらそれも杞憂であったようで、特に迷うことも無くあっと言う間に目的地に辿り着いた。

 

 

「よ、よし着いた……あれ?」

 

 

 拠点を囲う柵に飛び乗って、そのままの姿勢で南部の広大な土地を眺めるが、視線の先には人の気配がない。

 周りを見渡して見るも、煙なども立ち上っておらず平穏そのもの。

 銃声もしなければ人の怒声さえもない、ある意味異様な光景に俺は唾を飲み込んだ。

 

 

「……いや、いるな。強力なやつがいる……」

 

 

 自分の方が泉北さんよりも早く着いてしまったのかと思って少しだけ気を緩めそうになったが、巨人のものに酷似した匂いを嗅ぎ取り、確信を持ってそう呟いた。

 どこだろうとその場でもう一度周りを見渡すが、この場所は知っていても中の構造は全然知らないのだ。

 適当なあたりを付けることも出来ず、柵から飛び降りて内部を走り回ってみることにする。

 

 この広い土地に存在する建物は、小さなものを除いて五つほど。

 人が集まっている場所が目的地だと思えば、小さな建物は無いだろうし、少なくとも会話はあるものだと仮定出来る。

 ならば、それほど多くない候補であれば一つ一つ虱潰しに音を聞き分けてしまえば良い。

 幸いこの身体は耳も良い。

 建物の壁に耳を押し当てれば、接している部屋の音くらいは聞き分けられる。

 一つ目の建物を四方から耳を押し当て終え、その建物内からは物音一つしないことを確認すると次の建物の聞き分けに移る。

 

 まだ日は高い。

 だからまだ人が活動を控えるには早すぎるのだ。

 未だに全くの無音を貫いているこの場所に嫌な予感を抱きつつ、もしかすると場所を間違えていないかと不安にもなってくる。

 

 

(南部の人と交流があったわけじゃ無いし、この場所も軽く遠目に見ていただけだから彼らの内部事情は知らないけど……もしかしたら引っ越ししてる可能性もあるのかな……)

 

 

 そうなると手詰まりになるなぁ……、と今更自分の向こう見ずさを後悔する。

 もっと知子ちゃんや医者、若しくは水野さんに場所を詳しく聞いてから飛び出してくれば良かったのだ。

 そんなことを後悔しながら溜息を吐いて何の警戒も無く次の建物の角を曲がれば、突然目の前に黒い巨人の足が現れた。

 

 

「うわああっ!!?」

 

 

 ただ突っ立っていただけのその巨人に驚いて思いっきり拳を振るう。

 背中を向けていたため最後まで俺に気が付かず、微動だにしなかったその巨人が爆発四散する。

 飛び散った体液が全身に降り注ぎ、一瞬で洗ったばかりの迷彩服が汚れ切った。

 身体から滴り落ちる液体を見て、猛烈な自己嫌悪に襲われる。

 

 

(びっ、びび、びっくりしたぁ……!! 角を曲がるときは警戒するようにってあれだけ気にしてたのに……これは反省しないと……と、ともかく! この建物の周りで警戒していたって事はっ!)

 

 

 慌てて巨人がいた壁に耳を押し当てれば、これまで無かった音が壁を通して聞こえてくる。

 

 

「3階の中央の部屋っ、じゃあ窓からお邪魔してっ!」

 

 

 恐らく先ほど驚いて声を上げてしまったから、この場所で何かがあったというのは気が付かれている。

 外の気配に気が付いて、建物の中に居る彼らが守りを固めるとすれば、当然階段や建物の通路を優先する筈だが、俺はその対策の上を行ける。

 

 窓枠に足を掛けて壁を駆け上がった。

 重力を無視した動きなんて今まで試そうともしたことが無かったが、やってみれば意外と簡単なものだった。

 音のした三階にある部屋の窓まで辿り着き、木などで補強された窓ガラス目掛け、間を置かず飛び込んだ。

 

 

「――――なっ!?」

 

 

 飛び散るガラス片が宙を舞う中で目を凝らす。

 ボロボロな怪我人達が集まっている場所、黒い毛皮のコートを着た集団が集まっている場所、それらを取り囲むように佇む巨人達の群れ。

 生きている者達は俺の襲撃を予想だにしなかったものを見るような目で見詰め、巨人の反応もわずかばかり遅れた。

 倒すべき敵は見えた、ならばもうこの奇襲を生かすだけだ。

 

 瞬時に近くにいた巨人二体を蹴り砕く。

 この場にいる生存者達が反応一つ出来ないほどの早さではあったが、そうでは無いもの達がこの場にはいる。

 砕いた二体が力を失い地に伏せる前にこの部屋にいた巨人達全て、計七体の巨人が飛び掛かって来たのだ。

 連携や時間差などをまるで考えない、ただ倒すべき敵に対して盲目的に突撃してくる様はいっそ操り人形にすら見えてくる。

 肉薄してくる速度は獣のごとく、振るわれる拳は暴風を纏う砲弾のような恐ろしい攻撃だが。

 

 はっきり言って敵では無い。

 

 

「――――木偶の坊どもめ」

 

 

 宙を舞っていたガラス片が全て地に落ちて動かなくなる頃には、全ての巨人の半身は消し飛んでいた。

 

 

「ばっ、馬鹿な……ありえない」

 

 

 守る化け物がいなくなった黒コートの者達に銃口を向ければ、彼らは南部に向けていた勝利を確信した笑みを崩した。

 

 視線が交差する。

 怯えを含んだ彼らの視線を目で受け止めながら、彼らが俺に気圧されたのを確認して命令した。

 

 

「武器を捨てて、地面に伏せろ。でなければこの巨人どものようにお前らも砕く」

 

 

 彼らの最大の武器である筈の巨人達が一掃されたのだ。

 もはや勝てないと理解したのだろう、俺の高圧的な言葉に何の反抗もすることなく、彼らは言われたとおり拳銃やナイフと言ったものを床に置いて身体を伏せていく。

 

 足下に置いた武器を遠くへ蹴り飛ばしながら、伏せている彼らの合間を通って歩く。

 取り敢えず一番上と話さなくてはどうにもならない、そう思って泉北さんを探すのだが、どうにもそれらしい人物が見当たらない。

 

 

「おい、泉北と言う奴はどいつだ?」

「……今は南部のトップと話をしている、積もる話があるそうだ」

「知り合いなのか?」

「……そうだ。だが、お前は一体何なんだ……こんなことが出来る奴など、聞いたことが無いぞっ……」

「答える義理は無い。お前らの処遇は俺が決める、黙っていろ」

 

 

 苦々しそうな声で疑問をぶつけてきた男の言葉をそう切り捨てて、傷だらけで身を固める“南部”の者達に視線をやった。

 

 “南部”と言えば、かなりの武闘派の筈だ。

 自衛隊の残存した武器や人員のほとんどを引き継いだ彼らは、この付近に存在した4つのコミュニティの中でもまず間違いなく最高戦力を誇っていた筈なのだ。

 それがなんだ、巨人という未知に戦力があったとは言え、ここまで手も足も出せずに追い込まれてしまうほどの差があったのかと困惑する。

 ただ身を寄せ合って俺を見上げる彼らからは、もはや戦意など感じ取ることは出来ない。

 ……まるで勝てないと打ちのめされたかのような、勝機を考えることすら出来ていないのが今の彼らの姿だった。

 

 

「……南部彩乃は何処に居る?」

「……彩乃を知っているのか?」

 

 

 見渡してみても、あの背の高い幼馴染の姿が見付からない。

 と言うかアイツのあの性格で、目の前のこの人達みたいに諦めきったような顔をすることは絶対しないと思う。

 もしアイツがそんな顔をしていたら思わず爆笑してしまう自信がある。

 

 

「……あの子はここには居ない」

「なんだと? ……それは」

 

 

 土気色の顔でそんなことを言うものだから、嫌な想像が思考の端を過ぎった。

 

 南部のトップと言えば彩乃の父親だ。

 襲撃を受けて命を落としていない限りは、人質にしろ、交渉にしろ利用価値はある。

 つまり、ぞんざいに扱うなどは考えにくいのだ。

 

――――となれば、何処かに監禁されていると考えるのが妥当だろうか?

 

 自動小銃を持ち替えて、未だに地に伏せさせている泉北の者達に近付けば、彼らが浮かべる狂気に満ちた笑みが嫌でも視界に入ってくる。

 

 

「……えらく従順じゃないか。予想では命がけで抵抗してくると思って居たんだがな」

「は……ははは……ははははははっ」

 

 

 ついには声まで上げ始めた一人の男に銃口を押しつけた。

 気味が悪い。

 目の前の俺を見ていないその男は、虚空を見ながら叫ぶように笑い続ける。

 

 

「うるさいぞ、お前。自分の状況が分かっているのか?」

「はははは!!! いるんだよな、こういう力を持った奴がたまに!! そうやって力を誇って、自分勝手に振る舞ってっ! そうして最後はさぁ、現実に絶望して死んでいくだけなんだからさぁ!!」

「……それで?」

「屋上に行け、そこにお前が求めている人達がいる――――そしてお前の死が、待ってるからさぁ!!」

 

 

 そこまで言い終えると彼はただ狂った様に笑い続ける。

 男の背後にいる者達を見ても、全員が悲壮な表情など浮かべておらず、ただ俺という生き物を嘲笑っている。

 

 敵が求めている人達の場所を伝えるなどどんな意図があるのだろうと、少し考え込んだ俺が横目に南部の者達へ視線を向ければ、彼らが真っ青な顔をして身体を震わせているのが確認できた。

 ……なるほど、彼らの心を折るような何かが上にいると考えるべきなのだろう。

 そして、泉北の者達が微塵もその存在が敗北することを考えない、そんなレベルの何かなのだろう。

 巨人に対してあれだけ圧倒的な力の差を見せつけたにも関わらずだ。

 

 手加減したつもりは無い。

 全力で攻撃して半身を消し飛ばした。

 銃の効果が薄い巨人に囲まれたからこそ、おかしいと思われるのを承知で全力で殴ったのだ。

 それでもなお、この者達のその死への信頼は強固であり続けている。

 

 

「……死とは何のことだ?」

「死鬼様だ。ひひっ、死鬼様がお前を殺す」

 

 

 完全に目がイってしまっている。

 恐らく第二の死鬼とやらの完成形がいるのだろうと当たりを付けて、取り敢えず、笑い続ける不快な男の頭を軽く殴って意識を奪っておいた。

 

 彩乃も、彼女のお父さんも屋上にいるのだろうか。

 ともかく彼らのトップである泉北さんと話をしないと始まらないかと判断して、泉北の者達が床に落とした武器を拾い上げて、生気の無い南部の者達に手渡す。

 

 

「俺は泉北に会ってくる。巨人は取り敢えず倒したが、報復に彼らを惨殺するのは許さない。大人しくこの場で待っていろ、いいな?」

「……無理だ、止めておけ。アレに刃向かうな……アレは……」

「言っておくが」

 

 

 うわごとのようにブツブツと呟く南部の者の言葉を遮る。

 

 

「死鬼はお前らが思っているよりも……まあ、可愛い奴かもしれないぞ」

 

 

 あっけに取られたような顔をしてこちらを見上げた男性に、何故だか沸いてきた羞恥心を誤魔化すように軽く笑みを作った。

 

 

 

 

 

 

 こそりと屋上の端から顔を覗かせる。

 先ほどの部屋から屋上に向かったものの、愚直に階段を駆け上がって唯一の出入り口から乗り込むのは作戦としてどうなのだろうと考え、再びこうして壁伝いに駆け上がることにしたのだ。

 実際、こっちの方が早かった気もするので……まあ、間違った選択肢では無いだろう。

 

 覗いた屋上の光景は、見覚えのある男性の姿と初老の男性が向かい合っていた。

 険しい顔をしているのは見覚えのある男性、彩乃の父親で、見覚えの無い初老の男性は酷く穏やかに微笑みを携えて何かを語っている。

 俺が来る前から会話していることを考えれば相当長い時間話をしていたはずである。

 未だに続いている話の内容が気にならないと言えば嘘になるが、この場に突入する予定の俺としてはもっと気にするべきものがあった。

 

 

(彩乃は見当たらない……それで、あれが第二の死鬼か……? う、ううん……、巨人よりは小さいけどどう見ても死鬼に似通ってないんだよな……)

 

 

 初老の男性の背後に控える大きな人型。

 二メートル程度の大きさを誇る筋骨隆々の大男であるが、その頭から生える幾つもの捻れ曲がった角はもはや顔を覆い尽くしており、大男の顔の造形を窺うことが出来ないほどだ。

 

 もはや角の化け物とでも言うべきか。

 いや、確かに強そうではあるのだが、死鬼と言われると正直違和感しか覚えない。

 死鬼が聞いたら普通に激怒案件な気もする。

 

 

(あんな筋肉達磨とこの私を一緒にするな……なんて)

 

 

 まあ取り敢えず、接触してみないことには始まらない。

 この場所に来る前に聞いていた、素体集めのためだけに南部を襲ったと言うには泉北さんの行動が一貫していない。

 普通死体が欲しいだけなら問答無用で襲い掛かるのが当然の筈だが、そうはせずに、彼は長時間の話し合いを行っている……これは平和的な解決も可能なのではないか。

 

 そんなことを考えて、奇襲を中止して普通に声を掛ける方針に切り替えるが、一応は話し合いの形になっていた二人の男性の様子が変わってきた。

 

 

(なんだ? おじさんが激昂しているように見える)

 

 

 穏やかな気質の彩乃のお父さんが初老の男性に詰め寄っている。

 耳に意識を向けて内容を聞き取るべきかと一瞬悩んだが、初老の男性の後ろに控えていた角の化け物が動いたのを見て思考を放り投げた。

 

 詰め寄った彩乃のお父さんの襟元を強引に掴み持ち上げた。

 自分の状況を理解できず、しばらく呆然としていたものの、解放するどころかさらに締め上げ始めた角の化け物の圧倒的な膂力に苦しそうに呻いている。

 そしてさらに追撃を加えるように、空いていたもう片方の手を彩乃のお父さんの首に伸ばした化け物の姿に、俺は我慢が出来なくなった。

 

 

「――――おい、楽しそうな事をやってるじゃ無いか」

「――――」

 

 

 伸ばし掛けていた腕を掴み取る。

 一瞬だけ反応が遅れた角の化け物の横腹に蹴りを叩き込めばいとも簡単に宙に吹き飛ばされ、何の抵抗もないまま屋上から落下していった。

 

 ……え、これで終わり?

 

 あまりの呆気なさにしばらく呆然と角の化け物の落下していく姿を見送っていた俺だったが、拘束から解放された彩乃のお父さんが咳き込み始めたのを見て慌てて背中をさすった。

 

 

「ごほっ、き、君は、まさか……!」

 

 

 彩乃のお父さんが、自分が咳き込むのも意に介さず、縋り付くように俺の肩を掴んでくる。

 予想だにしていなかった彼の反応に目を白黒させていた俺だったが、ふとまた別の場所から呆然とした声が掛けられた。

 

 

「……死鬼様?」

 

 

 初老の男性、泉北さんが俺の姿をしっかりと捉えて、震える声でそう呼んだ。

 

 



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死が人を分かつなら

 

 

「何故……死鬼様が……、無事でおられたのですね……」

 

 

 確信を持ってそう俺に呼びかけてくるお爺さんに、慌てて頭のヘルメットに触れて角が晒されていないことを確認する。

 大丈夫、手のひらの先にはしっかりと固定された大きなヘルメットの感触がある。

 

 出会った初めての人に死鬼と呼ばれるのはこれで二回目だ。

 なぜ、なんて言う気持ちよりも、どうやって、と言うものの方が大きくなる。

 背丈は同じくらいであっても服装は違うであろうし、一目見ただけで判別出来るなんておかしな話だと、そう思うからだ。

 

 それはそれとして、お爺さんの言葉に何かしら返さなくては彩乃のお父さんに敵認定されかねない。

 死鬼と呼ばれた事に対して、どう否定するべきかと頭を悩ませるが、俺が答えを出すよりも早く、肩を掴んでいた彩乃のお父さんは掴んだ手に力を込めてきた。

 

 

「……死鬼、そうかお前が死鬼なんだな」

 

 

 腑に落ちたとでも言う声色でそんな言葉を掛けられた。

 

 

「えっ、あ、ちが……!」

「死鬼、聞きたいことがある。一つだけ答えてくれ」

 

 

 なんで助けた俺が追い詰められる状況になっているのだろう。

 良く見知った男性に詰め寄られ、俺は口の端が引き攣るのを自覚する。

 けれど、俺のそんな動揺など気にもせず、真面目な顔をした彩乃のお父さんは俺では無い誰かに問い掛けてきた。

 

 

「お前は――――」

「……南部、汚らわしい手で死鬼様に触るでない」

 

 

 だがそれは、重ねられたお爺さんの声に潰される。

 次いで鳴り響いたのは、爆音と間違えるほどの轟音だった。

 

 彩乃のお父さんの肩越しに、俺が蹴り落とした角の化け物が傷一つ無い姿で飛び上がってきたのが見えた。

 屋上を囲む柵を片手で破壊して、恐ろしい早さで接近してくる顔の無い人型の化け物はあまりにおぞましい。

 

 

「――――舌を噛まないようにっ!!」

「ぐぉっ……!!?」

 

 

 草でも刈り取るように肥大化した腕を振るってきた角の化け物の頭上を、彩乃のお父さんを抱えて飛び越え、化け物の後頭部に蹴りを叩き込む。

 攻撃した事により勢いを得た俺は、化け物から大きく距離を取って着地することが出来たが、どうやら攻撃の効果は無いようで角の化け物はゆったりとした動作でこちらに向き直った。

 

 

「……第二の死鬼ね。あんまり強敵と戦いたくないんだけど、やるしか無いか」

「お、お前はっ……!」

「黙って俺の後ろにいて下さい。」

 

 

 抱えていた腕を解いて前に出る。

 肩に掛けていた銃器を地面に置いて動きやすさに重点を置いた。

 どうせ他の巨人の時点で銃器の効果が薄かったのだ、その強化版のような奴に対してどれほど効果が見込めるのかなんて考えるだけ無駄だろう。

 

 

「っっ……!? 死鬼様っ、なぜその様な者を庇うのですかっ!? ソイツは死鬼様の慈悲を無下にして、噛み付きさえした愚物です!! 貴方様を認めようとしないそのような者を守る必要などっ!!」

「……知らないな、そんなこと。俺は見過ごせないと思ったから行動しているだけだ」

「何をっ……!? ならば貴方様は何を望まれているのですかっ!? 何でも構いませんっ、貴方様の御心のままに御命令下さいっ! かつてのようにっ、この私に御命令をっ!」

「……だったら一度引け。こんな無意味なこと、俺は許さない」

「――――……そう、ですか。なるほど、貴方は……死鬼様では無いのですね」

 

 

 にわかには信じられませんが……、そう言ってお爺さんは見開いていた目を細め真っ白な顎髭を撫でた。

 答え方を間違えたのだろうか、彼の目から敬うような色が消えて、茶褐色の瞳が俺を推し量るように歪んだ。

 

 

「死鬼様である事は間違いないはずですが、どうやら貴方は死鬼様自身では無い様子。であれば、少しばかり……」

 

 

 やれ。

 そう口にした瞬間、相対していた角の化け物の足下が爆発した。

 次の瞬間には目前に迫る巨躯が視界全てを覆い尽くすが、焦りは微塵も沸いてくることは無かった。

 

 

「ま、待て、何故お前が俺を助けるっ!? やはりお前はっ!?」

 

 

 騒ぐ彩乃のお父さんを思考の端に追いやって拳を握る。

 こちらに来る前に戦闘は避けるべきだと知子ちゃんに言われ、それが自分の感染状態を悪化させるからだと言うことも理解している。

 今までの戦闘である程度調子を確かめてみたが、今のところは侵食の兆候が見えることは無かった。

 だから、多少の無理はまだ大丈夫。

 

 

「力比べには付き合わない、直ぐに終わらせてやる」

 

 

 鼻先まで迫った拳を下から殴り上げる。

 動かすことが出来ない部分がくの字に折れ曲がり、それでも勢いを失わなかった一撃が髪先を掠めた。

 

 一歩踏み込んだ。

 横から迫っていたもう一方の腕の振りを懐に入ることで躱して、身体を回転させる。

 軸足を中心とした回し蹴りが無防備な脇腹に突き刺さり、鉛が落ちたような鈍い音と共に角の化け物の身体が宙に浮いた。

 足から伝わる感触で分かった。

 こいつはまだ動く。

 ならば攻撃の手を止めるべきでは無い。

 

 俺から吹き飛ばされる形で離れていく化け物へ一気に肉薄し、角だらけの顔を掴んで地に叩き付けた。

 地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、痙攣した様に化け物の下半身が跳ね上がる。

 化け物の顔を覆い隠していた角が俺の握力で砕け散り、中から現われたのはこれまで戦ってきた巨人と同じような青白い顔だ。

 叩き付けられた、角の無くなった化け物は動く様子が無い。

 

 

「……他愛ないな。これで終わりなら拍子抜けだぞ」

 

 

 動かなくなった化け物を見下ろしてそう言えば、お爺さんの忍び笑いが響いた。

 

 

「で、ありますな。安心されて下さい、期待外れにはさせません。ところで――――」

 

 

 掛けられた声に釣られてそちらを見れば、懐かしむかのような微笑みを浮かべた老人がいる。

 

 

「――――流石に手を抜きすぎですよ死鬼様の姿をした方。それでは虫も殺せません」

 

 

 衝撃が横顔に叩き付けられた。

 体がいとも容易く吹き飛ばされる。

 ろくに備えをしていなかったというのもあるが、それだけでは無い。

 体勢を整えて着地して、衝撃を受けた頬に触れれば僅かだが痕がある。

 

――――これまで様々な化け物と戦ってきて傷一つ付かなかったこの身体に、僅かばかりとは言え傷を付けられた。

 

 今まで戦った中で、物理的な威力だけで言えば最強なのだろう。

 

 

「ほお、流石は死鬼様。あの一撃を受けても即死しないどころか、まさか血すら流さないとは……ですが効いたのではないですかな? それの豪腕は岩すら容易く破壊しますよ」

「……この程度では虫も殺せないさ」

「く、くふふ。流石でございます、それでは遠慮など必要ありませんね」

 

 

 嬉しそうに笑みを溢して、化け物に指示を出した。

 角が砕け散った今、この化け物を角の化け物と呼ぶべきかなんて分からないが、再び接近してきた化け物にそんなことを考えている暇は無い。

 

 

(い、痛みはない。初めて物理的に傷付けてくる相手だけど、怖くてどうしようも無いなんてことも無い……問題は……)

 

 

 左手。

 自分の意思で無いのに、力が入って爪を立てている。

 血管が浮き出るほどに怒りが込められたそれは、俺の怒りなどでは無い。

 俺の怒りなどと言えるほど、生優しいものでは無かった。

 

 

「ちっ……!」

 

 

 舌打ちが漏れる。

 連続する化け物の攻撃を躱しながら、自分の左手の感覚を取り戻そうと意識するが、まるで成果が見られない。

 恐ろしいほどに込められた力が、この手を振るえと言わんばかりに自身を誇示して離れようとしない。

 

 振るえばきっと目の前にいる化け物程度一撃で葬り去ることが出来るのだろうという確信はある。

 だが、これに頼ってしまったらもう自分は戻れないのでは無いか。

 そんな恐怖が俺を苛んでこの手を振るうことを躊躇させる。

 

 

「……死鬼様にしてはあまりに弱い。やはり別人か……」

「聞こえているぞ馬鹿っ、覚えてろっ……!!」

「ほほほ、これは失礼しました」

 

 

 楽しそうにこちらを眺めるお爺さんを睨むが、俺へと迫る風切り音に慌てて身体をそらして回避に勤しむ事となる。

 

 俺もただ化け物から逃げるだけでなく、なんとか隙を見付けて反撃しているものの大してダメージが入っている様子が見られない。

 サマーソルトの要領で顎を打ち上げたものが一番効果が見られたものの、それも多少ふらついただけで決定打にはなりはしなかった。

 

 

(どうするっ、千日手だろうこれはっ! いや、俺には侵食っていうもう一つの敗北条件があるんだから、このままじゃ追い詰められていくだけだ……何とかしないと……)

 

 

 顔が歪む。

 緊張の糸を張り続けるのがキツくなってきた。

 長々続けるだけでは俺が不利になる一方だとしたら、もう賭けに出るしか無い。

 幸いこの場所は下までかなりの高さがある。

 蹴り落としただけでは駄目だったが、この高さからアイツを掴んで屋上から地面へと叩き付ければかなりの威力が出るはずだ。

 物理については分からないが、多分俺がこのまま攻撃するよりも強いものが出来る。

 

 そう決意して頭の中で段取りを立てるが、そんな俺の背中に彩乃のお父さんが叫ぶ。

 

 

「もういいっ!! お前なら一人で逃げられるだろうっ!? もう止めてくれっ、俺を、君が守るのは止めてくれっ……!」

「……」

 

 

 歯噛みする。

 俺が知る彼はこんな弱気な事を言う様な人では無かった。

 だからきっと、俺の戦いがそれほどまでに不安を覚えさせるものだったのかと思って、悔しくて口元に力がこもる。

 

 ……けれど、そう言う事では無いのだ。

 

 

「君は見捨てた俺を、恨むべきじゃないか……」

「……っ!?」

 

 

 話の整合性が掴めずに、俺は思考を混乱させる。

 彩乃のお父さんは何を言っている?

 いや……誰に向かってこれを言っている?

 

 動揺は明確な隙となる。

 意思のない化け物はともかく、じっと観察していたお爺さんがそれを見逃す事は無かった。

 

 

「――――さて、もうそろそろ良いでしょう。遊びはここまでです。死鬼様の形をした方」

 

 

 地面から生えた巨大な腕が俺の足を掴んだ。

 目を見開いた俺に対して、好々爺然とした笑みを深めたお爺さんがこんなことを言った。

 

 

「別にこの個体が一体だと、私は言っていませんよ」

 

 

 割れた足下から覗く巨人の顔は、渦巻いた角に覆い尽くされている。

 拘束された俺目掛けて、無慈悲に拳が振り下ろされた。

 

 後頭部から地面に叩き付けられ上半身が跳ねる。

 頭に付けていたヘルメットの紐が千切れ地面を転がっていく。

 それでも足を掴むもう一体の化け物はその手を離すこと無く、跳ね上がった俺の身体目掛けて俺と対峙していた化け物はさらに拳を振り下ろす。

 何度も何度も何度も何度も、振り下ろされた衝撃は確かに俺の身体を打ち付け、傷を残し、抑えていた理性に罅を入れていく。

 

 痛みは耐えられないほどでは無い。

 せいぜい砂利がぶつけられる程度だ。

 だが、この身体は度重なる衝撃を受けて、自己防衛のために目覚め始めた。

 

 

(ま、ずい。このままじゃ、意識がっ、駄目、だ。呑まれ――――)

 

 

 今まで抑えられていた左腕が意識とは関係なく振り抜かれた。

 

 風を切った音だけで轟音。

 次いで紙のように引き裂かれた巨人の音は、風船を割ったかの様なあっけないもので。

 目の前で俺に向かって拳を振り下ろしていた化け物の残骸は、静観していたお爺さんの真横を通って吹き飛んでいった。

 お爺さんが細めていた目を限界まで見開いたが、彼が唖然として俺を見る様子を俺は気にとめることも出来ない。

 

 明確に、意識が侵食される感覚は初めてだった。

 

 

「お゛ああ゛、がっ、■■■っっ!?」

 

 

 濁流のように流れ込んできた大きな意識に押し潰される。

 チカチカと視界がフラついていく。

 頭が痛い、割れるようだった。

 

 

『……限界か』

 

 

 いつか聞いた誰かの声が頭に響いた。

 気持ち悪さで座り込んだ俺を、足を掴んでいたもう一体の化け物が持ち上げて、地面に振り下ろす。

 何の抵抗もしない俺が転がるのを、化け物は追って何度も攻撃を加えてくる。

 

 痛かった。

 息苦しかった。

 蹲って、頭を抱え込んで、消え始めた自分の意識が音も無く崩壊していくのを感じた。

 

 幾度となく攻撃を続けていた化け物の手が止まり、両手を組んで金槌の様に振り上げたのが見える。

 ああ、アレを喰らってしまえば、きっと今までで一番大きな傷を負うはずだ、そう思った。

 そうなれば、この身体は完全に戦闘態勢に入ることだろう。

 俺という意識は無くなって、異形としての俺が出てくるのだろう。

 けれど今無理に身体を動かせば、綱の上にあるようなぎりぎりのバランスで保てている自意識が呑まれてしまう事も何となく分かる。

 

 だからもう、どうしようもない。

 どうしたって俺は消えるしか無い。

 一度死んだ身だ、ここまで何かやれていたのが幸運なのだろう。

 

 後悔や心残りが無いと言えば嘘になる。

 残してきた知子ちゃんに俺として帰ると言ってしまった訳だし、医者には言いたいことがまだ一杯あった。

 東城さん達には色々迷惑を掛けて心配も掛けているわけだから、いつか会って話をしたいと思っていたし、明石さんの冗談か分からない告白を、しっかりと断って違う人と一緒になるように伝えなくちゃいけなかった。

 それに……それに彩乃に対して、結局何もしてあげることが出来なかった。

 馬鹿な幼馴染がまだ俺のことを引き摺っているのを知って、何にもしてあげることが出来なかった。

 それだけは本当に、どうしようもないくらい心残りだ。

 

 振り下ろされていく化け物の拳を見て、せめて、と自分の心の中に懇願する。

 誰かを傷付けるだけじゃ無くて、誰かの救いになるような生き方をして欲しい。

 

 異形としての自分に、そう願った。

 

 

「――――え?」

 

 

 けれどその拳が俺に叩き付けられることは無かった。

 拳が叩き付けられる直前に、横合いからすくい上げられたのだ。

 身体を包む誰かの体温が俺を救ってくれたのだと教えてくれて、ぼんやりと滲む視界をその誰かに向ければ、よく見知った彩乃のお父さんの顔が直ぐそこにあって。

 

 腹部の半分を失ったお父さんが脂汗を滲ませ、俺を抱き締めているのが分かった。

 

 

「ごほっ……」

 

 

 俺を抱きかかえる、おじさんの口から血が溢れた。

 抱き締める腕の力が抜けていく。

 二人して転がった場所から少し離れた所にいる、化け物が破壊した地面には大きな穴と大量の血痕が付着している。

 

 おじさんの血液だ。

 俺はこの人に救われたのだ。

 

 

「――――おじさんっ!」

 

 

 色んなものを投げ捨てて、咄嗟に出たのは昔と変わらないそんな呼び名だった。

 

 痛みでのたうち回る事もしないのは、その体力すら無いからだろうか。

 裂けた腹部から溢れる血を止めようと必死に両手で押さえるが、傷口が大きすぎて俺の手の大きさ程度では塞ぐことなんて出来なかった。

 

 

「血がっ……血が止まらないっ……。 おじさんっ、なんでっ……!」

 

 

 ズキズキと痛む頭を無視して、目の前の大切な人に縋り付く。

 生きていた時の俺を、自分の娘と一緒に遊ぶ俺を、本当の息子のように可愛がってくれた大切な人。

 生きていた時に関わっていた人達の中で、今を生きていてくれている掛け替えのない人だ。

 それが今、俺の目の前で冷たくなり始めている。

 目の前で命を失っていっている。

 

 

「くそっ、くそっ! 止まれっ、止まれっ……!」

「……は、はは……。なるほど、な……守る側と言うのは、こんな気分なのか……」

 

 

 震える手の隙間から、溢れた血が地面を濡らしていく。

 必死に、いっそ懇願するように傷口を押さえる俺とは裏腹に、憑き物が落ちたかのように笑ったおじさんは、露出する双角なんて気にもせず、血に染まった手を俺の頭の上に乗せた。

 くしゃりと、子供の頭を掻き回すように、爪を立てないようにゆっくりと頭を掻き乱される――――優しく頭を撫でられる。

 

 

「ごめんなぁ……。痛かったよな……苦しかったよな……、一人で死んでいくのは寒かったよなぁ……ごめんなぁ」

 

 

 気が付いたら、俺を見るおじさんは泣いていた。

 いつも眉間に寄せていた皺も、娘そっくりの鋭い目も、今は何処にもありはしなかった。

 

 

「おじ、さん……」

「一人にしてごめんなぁ……守ってやれなくてごめんなぁ……。気が付いてやれなくて、ひとりぼっちにさせて……俺は、駄目な大人だったなぁ」

 

 

 いつも厳しい人だった。

 娘に厳しく、他人の子である俺にも厳しかった。

 道理に合わないことは強く叱られて、彩乃に引っ張られて危険な事をすれば拳骨を落とすような、そんな厳しい人。

 他人の子だからと壁を作らず、娘と同じように何事も厳しく、そして時には誰よりも優しく接してくれた。

 それがどんなに嬉しかったか、結局俺は何も伝えることが出来なかった。

 

 

「――――梅利」

 

 

 守れたことが嬉しかった。

 あの時、彩乃を庇って動けない俺を強張った顔で見て、最後に優しく頭を撫でてくれた事が救いだった。

 ありがとうなんて囁くような泣きそうな声で呟かれて、それだけで俺は二人が一緒にいられるんだって喜んだ。

 

 だって、俺は本当に。

 

 

「――――お前は俺の自慢だよ」

 

 

 二人の事が大好きだったから。

 

 

「――――…………」

 

 

 頭の上から力の無くなった手が滑り落ちた。

 傷口を押さえる手のひらから感じられていた鼓動が消えていった。

 俺を見ていた優しげな目が光を失って、頬を濡らしていた滴はそのまま地面に落ちていった。

 

 

「――――……おじさん?」

 

 

 その声に応える者はもう居ない。

 きっとこれからもずっと、応えてくれる者は居ないのだろう。

 それだけで、やけに冷たくその言葉は響いた。

 

 手の中の冷たさを未だに認めることが出来ない。

 見知った人がもう動かないなんて、認めることが出来なかった。

 硬直したまま、呆然とおじさんを見詰める俺に声が掛けられる。

 

 

「……ようやく死んだようですね。最後まで無駄ばかりの男でした」

「……」

 

 

 挑発するような声色のそんな言葉さえ、俺の頭は理解しようとしない。

 怒りに震えるべき言葉の筈なのに、なぜ今俺はなにも感情を抱くことが出来ていないのだろう。

 フラフラと顔を上げてお爺さんへと視線を向ければ、目を細めてゴミでも見るような目で、動かなくなったおじさんを見詰めている。

 

 

「……そんな目で、おじさんを見るな……」

「……貴方はご存じないのかもしれませんが、それは多くの過ちを犯し、多くの犠牲を許容してきました。捨てられた者達がそれに怒りを向けるのは、ある種当然の権利なのですよ」

「だとしても……俺はそれを許さない」

「……そうですか、貴方様にそれほど慕われていたなら……確かに全てが無駄な生では無かったと言うことなのでしょう」

 

 

 あっさりと引き下がったお爺さんは、視線を今は動かない化け物に向ける。

 

 

「私の目的はほとんど達成することが出来ました。あとは貴方様を連れ帰らせて頂きます。抵抗しなければこれ以上痛めつけることもありません、どうかこれ以上戦おうなどと思わないで下さい」

「……そうだな」

 

 

 未だに頭痛は続いている。

 身体を無理に動かせば、体内にある感染菌がさらに範囲を拡大して俺の意識を奪っていくのだろう。

 

 もう守るべき者が後ろにいない。

 ここで戦いを続けるなんて無意味で、無価値なのかもしれない。

 

 けれど、ここで下を向いて全てを諦めるのは、どうしても嫌だった。

 

 

「……悪いけどさ。やっぱり俺は最後まで抵抗してお爺さんと戦うよ。自分が今どうしたいのか分からないくらい、心の中はぐちゃぐちゃだけど。やっぱりお爺さんのやってることは間違いだと思うから」

「……」

 

 

 目元を拭って、ゆっくりと目を開けたまま動かなくなったおじさんの瞼を下ろした。

 穏やかとは言い難い、苦痛と悲痛に満ちた表情がそこにはある。

 

 

「生きている人が、同じ人を殺すなんて間違っている。仕方ない時があったとしても、それは今じゃ無い筈だ」

 

 

 身体が重い。

 息が苦しい。

 頭は痛いし、自分がどうしたいのか分からない。

 きっと先ほどまでの様には戦えない。

 あっけなくやられて動けなくなって、そうしてお爺さんに連れて行かれるか、もしくは異形として目覚めるか。

 そんな未来しかもう有り得ないのかもしれないけれど。

 

 俺を誇ってくれる人がいるから。

 俺は最後まで自分の意思を貫いたのだと伝えなくちゃいけない。

 

 

「……俺はおじさんの自慢だから。恥ずかしい姿は……見せられない」

「そうですか、では仕方ありません。もう少し痛めつけさせて頂きます」

 

 

 角の化け物が動く。

 俺に向けて振り上げられた拳がこれまでと同様に、砲弾のように叩き付けられるだろう。

 

 手に力を込めた。

 そのままやられるつもりは無い、全力で抵抗して逆に倒してやろうと振り下ろされるそれを睨み上げる。

 

 

――――けれど、振り上げられた拳は俺に向けて振り下ろされることは無かった。

 

 横から受けた衝撃で化け物が吹き飛ばされた。

 直前に鳴り響いた二つの発砲音がゆっくりと空気に溶けて、目の前に現れた人物の纏めた長い黒髪が風になびいている。

 呆然と目の前の状況を理解できずに呼吸を忘れて見詰めていれば、少しだけ息を乱した彼女が両手で持った二丁の散弾銃を肩に乗せてこちらを見る。

 

 いつも一緒にいた。

 大好きな人だった。

 幸せになって欲しいと、最後まで願っていた人だった。

 本当はもう一度会いたいと願っていた人だった。

 そんな彼女は彫像の様な無表情を崩して笑う。

 

 

「今度は私が守るわ。梅利……そこにいてね」

 

 

 幼馴染が、そこにいた。

 泣きそうな顔のまま、子供の頃の様に笑う彩乃がそこにいた。

 

 




ここまでお読み下さりありがとうございます。
書き終えている部分まで追い付いてしまいましたので、更新が少し遅くなります。
どうか完結まで宜しくお願いします。



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生は人を繋ぐから

 あの球根の怪物“狂乱”の主との戦闘で出会った、死鬼に似た異形を私はずっと探し続けていた。

 コミュニティの居場所を捨てて、食料や武器と言ったものを全て投げ出して、唯一の肉親である父親と袂を分かってでも私は一つの希望に縋り付いた。

 

 

 死鬼に対して好意的な感情を抱いているわけでは無い。

 異形なんて全部同じで、全て滅ぼすべき対象としか考えていなかった私がアイツに特別な感情を抱く事なんて有り得なかった。

 

 自分達が身を寄せるこの地域において最強を誇る死鬼はさながら目の上のたんこぶで、武器を持ちそれなりに安定した暮らしが出来るようになった者達は何とか討伐しようと試みていた。

 私もその例に漏れず、失敗を繰り返した一人だ。

 アイツ単体を討伐しようと行動したことは無かったが、出会う度に襲い掛かり、その度に返り討ちに遭っていた。

 少女の様な姿をしたアイツに私は何度も苦汁を舐めさせられた。

 呆れたような顔で倒れ伏す私を足蹴にしてきたことを私は絶対に忘れないが、所詮はその程度。

 ……だから一年前に死鬼と破國が争い、初めて重傷と言える負傷をした死鬼に追撃したお父さん達を“泉北”の狂信者達や“東城”の姫様が声を上げて批判したとしても、私は特に思うところは無かったのだ。

 

 どれだけその異形が人を救おうが、どれだけその異形が人の為になっていようが、私は異形に対して特別な思いなど絶対に抱かない。

 私の大切な人を奪ったあいつらを、私は絶対に許すつもりなんて無い。

 これから先、どれだけ時を経ようともそれを変えるつもりなどなくて。

 私がこの命を終えるその瞬間まで、変わることが無いのだと確信していた。

 けれど、あの時……私へ襲い掛かる攻撃から身を挺して守った、死鬼に似たなにかに対してだけは違った。

 

 何もかもが違うはずの異形の姿が、もう居ないはずの幼馴染の姿に重なった。

 それだけで、私が自分の全てを賭けるのに迷いなんてなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

「――――っっ……!!」

 

 

 振り抜かれた砲弾を銃器の側面を押し当てて受け流したが、衝撃を殺しきれなかったのか痛みを耐えるような息遣いが彩乃から漏れた。

 完璧に近い力の移動による回避でなお、脆弱な人の身では大きな負荷となる化け物の攻撃は、止まる事無く連続する。

 

 紙一重。

 その起こされる攻撃動作全てを、生死に関わらず身体機能に障害が残らない的確な回避を繰り返し、彩乃は何とか生存の糸にしがみつき続ける。

 

 だが、それもいつまで持つか。

 

 

 生物としての格が違う。

 誰の目から見てもそう言わざる得ないほどに、彩乃と角の化け物の身体能力の差は歴然であった。

 平均的な成人男性に比べても南部彩乃という鍛え上げられた女性の身体能力は遜色ない。

 それどころか、同年代の同性と比べてしまえば、トップアスリートとして名を上げてもおかしくないほどに高い彼女の能力を思えば、根本的に角の化け物が人間単体で戦える相手でないというのは明らかなのだ。

 

 生物としての作りが異なる。

 戦えるようになんて出来ていない。

 それは、鼠が猫に勝てないように、虫が鳥に勝てないように、捕食される側が捕食する側に勝てないように、生き物の生まれついた形として存在している格差。

 そんなものすら目の前の光景は抱かせた。

 

 人は異形に勝つことが出来ない。

 いつか自ら命を絶った権力者の、最後に吐いた言葉が嫌に明瞭に思い出された。

 

 

「……彩乃を、助けないとっ……!」

 

 

 人が異形に勝てないのなら、俺がやるしかないではないか。

 もはや自分の意思では立つこともままならず、力を込めても身体は検討違いの方向に転がるばかり。

 足で立ち上がるのを早々に諦めて、腕を使って地を這いずる。

 目指した先はあの化け物を操るお爺さんの元だった。

 

 

「お願いだっ、あの角の化け物を止めてっ……! 俺はもうどうなっても良いからっ、彩乃だけはっ……!!」

「……と言いましても。あの女性の目は虎視眈々と私を狙い澄ましておりますよ。私が一瞬でもアレを止めれば、それこそ私の命を取りに来るほどに」

「彩乃は……俺が説得するから……。だから、お願いだ……」

「ふむ……貴方様がそう言うなら、それはやぶさかでは無いのですが――――」

 

 

 銃声がお爺さんの言葉を遮った。

 

 虚を突かれたようにお爺さんと共に音の発生源へと視線を向ければ、彩乃の持つ銃口から煙が上がり、攻撃していた化け物は衝撃で宙に浮かび上がっている。

 吹き飛んだ角の化け物に、さらに地を走るかのような動きで肉薄した彩乃は至近距離で手に持つ散弾銃を続けて発砲した。

 角の化け物の肩口を銃弾は正確に射貫き、化け物の片腕が千切れ飛ぶ。

 

 絶対的な優位を保っていた筈の角の化け物は地を転がり、劣勢だった彩乃はそれを見下ろしている。

 殺しきれなかった攻撃の余波で受けた傷口が幾つもあり、ろくな手当もせず血を流しながらも彼女は二本の足で立ち続けている。

 

 

「……固いゴミにも柔らかい部分はあって、間接の付け根なんて言うのはその代表的なものの一つ」

 

 

 ほの暗い輝きを持った双眸が、片腕を失った角の化け物を睥睨する。

 

 

「速くて固くて一撃を貰えば生死に関わる、そう言うゴミどもを私は何体も倒してきた。私よりも能力が高いなんて当然よ。私は人間で、コイツらは異形――――それでも私は今まで勝ち続けてきたわ」

 

 

 誰に向けたか分からない言葉を、攻撃の手を緩めず、油断の一つもせず、無慈悲に倒れ伏す化け物を処理しながら、つぶやき続ける。

 銃弾の装填を素早く行う。

 あまりに早く、あまりに滑らかなその動作は化け物の攻撃する隙となり得ない。

 再び銃弾で化け物が立ち上がれないように、動きを射止め続ける作業が始まる。

 

 

「南部のハンターが貴様かっ……! 聞いているぞっ、不敬にも死鬼様に何度も食って掛かった女がいると!!」

 

 

 跳ね上がってきたもう片方の腕をさらに接近する事で躱して、彩乃は化け物の足の付け根に銃口を押し当てる。

 

 今度は片足が吹き飛んだ。

 立ち上がろうとしていた化け物のバランスが崩れ、それの残った片手を掴むと彩乃は一本背負いの要領で自分の倍はある化け物を投げ飛ばした。

 まるで赤子の手を捻るかのように、化け物の行動を一つ一つ丁寧に潰していた。

 

 戦慄する。

 彩乃が一転して化け物を圧倒し始めたことに息を呑んで、彼女のあまりに冷たい目付きに背筋が凍った。

 

 不意に彩乃がこちらに視線を向けた。

 

 

「――――それも織り込み済みよ泉北の爺」

 

 

 懐から引き抜いた小さな拳銃をお爺さんが発砲する前に、彩乃が俺の落とした自動小銃を蹴り上げて銃器を持ち替える。

 

 お爺さんの持った拳銃よりも早く、自動小銃の発砲音が連続する。

 手にしていた小さな拳銃を弾き飛ばし、幾つもの銃弾がお爺さんに突き刺さった。

 片膝を着いたお爺さんを見詰めて、彩乃は鼻で笑う。

 

 

「そうでしょうね。それらを操れる貴方が普通の人間のままな訳がないものね」

「……小娘が、やるでは無いか」

 

 

 血液が流れていない。

 突き刺さったはずの、銃弾による傷跡が何処にも見当たらない。

 黒い毛皮のコートによって見えなかった腕が盾のように広げられ、彼の身を守ったからだ。

 

 その腕は人間のものではない。

 身の丈に合わぬ、これまで戦ってきた巨人のものに似た巨大な腕がそこにある。

 

 

「その代償は大きそうね。貴方はいつまで貴方でいられるの?」

「……」

「まあ、どうでも良いのだけど」

 

 

 押し黙ったお爺さんから視線を切って、今度は俺を見た。

 責めるような視線が俺をつつく。

 

 

「……梅利」

「は、はいっ!!」

「私を信用してそこに居なさい」

「了解しました……!!」

 

 

 俺がそう言えば彩乃は、背後から飛び掛かってきた角の化け物の攻撃をしゃがんで回避する。

 

 異形に人は勝てない。

 人の形を保つ死者とは違い、その個体の最適な形に変質した肉体は、生きている人間に比べて圧倒的な性能を誇るからだ。

 その肉体はあまりに固く、人間とは比べものにならない速さを持つ。

 さらには、夜目や昆虫のような機能、怪力と言ったものまで持つ異形に対して、人間は大きく差があるからだ。

 銃器を使い、科学兵器を使い、それでもなお敗北するほどの差が、そこには存在しているのだ。

 目の前もこの戦いも、条件は何も変わりない。

 

 その筈であるのに彩乃はまた化け物を圧倒する。

 

――――でもそれは、当然なのかもしれない。

 

 長年、彼女は戦い続けてきた。

 憎しみを糧に、傷付くのもいとわず、命を掛けて戦い続けた。

 多くの死線を越え続けて、痛みや恐怖を乗り越え続けて、異形との戦闘を経験し続けた。

 彼女が積み重ね続けたそれらは決して軽んじられるものでは無く、備わった戦闘技術はその才能もあいまって超人的なものへと至らしめられたことだろう。

 異形を刈り取る者、いつしかハンターと呼ばれ恐れられるまでに磨き上げられた戦闘技術に、所詮まがい物でしかない角の化け物が叶う筈が無いのだ。

 

 自分の身を削るようで、それでいて合理的なまでに無駄を切り詰められた回避行動。

 正確無比なカウンターは的確に相手の行動の選択を奪い。

 決して自滅するような無理をしない戦闘を継続できる判断力は、確実に化け物を追い詰める。

 

 

「馬鹿な……、馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿なっ!!?」

 

 

 四肢を捥がれた化け物が倒れ伏し、その頭を踏みつけた彩乃の姿を見てお爺さんが吠えた。

 鬼気迫る表情だった、信じられないものを見るような表情だった、だが何よりも信じたくない言う方が正しいような表情だった。

 

 冷たい目が吠えたお爺さんを射貫く。

 

 

「私の勝ちよ。私は、屑どもが息づくのを許さないわ」

 

 

 化け物の首元に押し当てられた銃口は、何の慈悲も無く最後の一撃を撃ち出した。

 

 化け物の動きが完全に停止する。

 もう、唸り声一つ上げない骸となる。

 それを泉北のお爺さんは呆然とした表情で見詰めていた。

 

 彩乃が服の裾を引き千切り自分の血が溢れている傷口に巻き付けながら、こちらに向かってくる。

 泥だらけの服を払い落としもしないその姿は、微塵もお洒落に興味を抱くことの無かった以前の彩乃らしくて、安心感のままに笑ってしまう。

 彼女の視線が俺に向けられた。

 

 

「……彩乃、お前……」

「随分可愛い姿ね梅利、嫉妬しちゃうわ」

「はっ……お前はなんにも変わってないな、もう少し――――」

 

 

 それより先を言う前に、目の前まで辿り着いた彩乃に抱き締められた。

 

 

「……彩乃?」

「…………」

 

 

 背中に回された手が震えている。

 力加減が出来ていないのか妙に圧迫感を感じる。

 文句の一つでも言おうかと思ったが耳元にある彼女の鼻から啜るような音が聞こえて何も言えなくなってしまった。

 少しだけ逡巡して、代わりに重い腕を動かし彼女の背中に回せば、ピクリと何かに怖がるかのように彼女の肩が震えた。

 それでも、最後は擦り寄るように頬を寄せてきた彼女の体温を感じる。

 

 

「もう……会えないって思ってた……」

 

 

 ポツリと、色んな感情が込められたそんな言葉を呟いて、さらに力を込めて俺を抱き締めた彩乃はようやく体を離す。

 

 彩乃の潤んだ目と視線が交わる。

 ボロボロになった幼馴染の姿が目の前にある。

 以前と変わりない頭二つ分高い身長は見上げなければ顔すら見ることは出来ず、彼女の身体の何処に視線をやっても怪我をしていない場所を見付けるのは難しくて、どれだけ彩乃が無理をしていたのか分かって歯噛みする。

 

 彩乃は少しだけ赤くなった鋭い目元を隠すように、未だに動揺から抜け出せていないお爺さんへ視線を向けると手に持った銃器を構えた。

 

 

「泉北、私は人であろうと異形であろうと敵であれば躊躇無く引き金を引く。ここまでやった以上貴方は私の敵でしか無い。私と貴方は敵対するしか道は残されていないわ」

「……馬鹿な……馬鹿な、人の身で異形を倒す……? そんな事は、有り得ない……。いやそれよりも、角持ちを2体も失ってしまった……これでは……戦力が……」

「……話し合いの余地は無い、この場で消えろ」

 

 

 俯いてブツブツと何かを呟いているお爺さん目掛けて引き金を引く。

 連射された自動小銃は寸分違わず俯いたままのお爺さんの頭部に吸い込まれていき、まともに銃弾を受けたお爺さんは為す術もなく後方に転がっていった。

 何の抵抗も無く銃弾を身に浴びたお爺さんに、眉をひそめた彩乃は警戒しつつも倒れて動かないお爺さんの元へと歩いて行く。

 

 なんとか動けるまでに回復したのか、やっと立ち上がることが出来た俺が彩乃の後を追おうと武器を探すが、俺が落とした銃は彩乃が持ってしまっていて使えない。

 無いよりはマシかと化け物の砕いた角の先端を短刀代わりにでもしようと拾い上げて、お爺さんに近付いていく彩乃を追い掛ける。

 

 ある程度の距離を開けて、銃を仰向けに倒れるお爺さんに向け続ける彩乃が声を掛けた。

 

 

「まだ息があるでしょう? 異形なんて操るような貴方があの距離での銃弾を数発受けた程度で素直にくたばる……そんな訳ないものね」

「……」

「下手な芝居は止めなさい、私は気が長いわけじゃ無いの」

「……」

 

 

 何の反応も示さないお爺さんへと、彩乃はまた数発発砲した。

 命中したお爺さんの身体は衝撃で跳ね上がる。

 けれど、抵抗する素振りすら倒れ伏すお爺さんは見せなかった。

 それでも銃を下ろそうとしない彩乃の姿に不安を覚える。

 

 

「……彩乃、これ本当に生きてるのかな?」

「恐らく生きてるわ、この爺は狡猾だから隙を見せたら駄目。一気に食らい付いて来る毒蛇みたいな奴なの」

「随分……無抵抗のようなんだけど……あ、でも俺も死んだふりは良くやってたから、そう考えると警戒しないとか」

「へえ、死んだふりをよくやってたの。あとで話を聞かせて欲しいわね」

 

 

 銃を一つ貸してと言うと、彩乃は散弾銃の方を渡してくれた。

 散弾銃なんて使ったことが無かったから、どう使えば良いのかと俺が色々いじっていれば彩乃はさらにお爺さんに追撃を加えていく。

 躊躇は無い、絶対に奇襲を許さないと何度も攻撃を加える彩乃は冷たくお爺さんを見下ろしている。

 けれど何度弾丸を撃ち込んでも反応一つしないお爺さんに、ついに痺れを切らした彩乃がさらに距離を詰めようと歩を進めて。

 

 

――――異常に気がついた俺が彩乃の襟首を掴んで後方に飛んだ。

 

 

 屋上の地面が全て砕け散る。

 巨人の腕が何本も下から地面を貫いて突き出された。

 視界に入ってきただけで数十にも上る巨人の群れが、真っ白な目を俺達に向けて飛び掛かってくる。

 

 

「彩乃っ!!」

「まだこんなに居たのっ!!? 場所が悪すぎるっ、一旦ここから離れてっ……!?」

「――――随分痛めつけてくれましたね。年寄りは丁寧に扱うものですよ」

 

 

 巨人の群れの中心に居るお爺さんがゆっくりと立ち上がる。

 お爺さんが血の流れていない顔を俺たちに向ければ、貫通していなかった銃弾が力を失って地に落ちていく。

 傷一つ無い、好々爺然とした笑みを浮かべるお爺さんの顔が俺達に向けられている。

 

 

「ええ仕方ありません、全てを得るのは諦めましょう。総力を持って、貴方達を潰させて頂きます」

 

 

 そう宣言したお爺さんの背後から、角を持った巨人がさらに二体飛び出してきた。

 逃げ場のほとんどを潰された俺達目掛けて、一直線にその豪腕を振り抜いてくる。

 

 

「っっ!! 梅利っ、飛ぶわ!!」

「飛ぶって……!?」

 

 

 何の逡巡も無く、彩乃は俺の手を取って屋上の縁から外に飛び出した。

 

 身体が宙に投げ出される。

 下を見れば、地面までは建物5階分の高さで下には特にクッションになりそうなものは無い。

 俺は大丈夫でも、彩乃は絶対に無事ではいられない。

 

 

「ばっ、ここからどうするのさ彩乃!!?」

「衝撃を流すように、転がるように地面に着地すれば何とか……!」

「もうっ、この脳筋がっ!!」

 

 

 鉤付きロープを取り出して、建物の窓に投げつける。

 綺麗とは言えないものの、何とか窓枠に引っかかった鉤で一瞬だけ落下が止まるものの、それは上から俺達を追って落下してきた巨人達に引き千切られて無意味に終わる。

 屋上を見上げれば数十にも渡る巨人達の群れが滝から流れ落ちるかのように、視界全てを覆い尽くす。

 

 万策尽きた。

 もう本当に俺が持っているものは銃と、先ほど短刀代わりにと拾った巨人の角の先端しか無い。

 彩乃の言うとおり転がるように衝撃を殺すしかないかと、引き攣った表情で近付いていく地面を見詰めれば、手を繋いでいる彩乃が俺の方を見た。

 

 くしゃりと、柔らかい笑顔を浮かべてそっと口を動かした。

 

 

「……梅利、大好きよ」

 

 

 諦めたようにそんなことを言った彩乃に俺は息が止まる。

 

 判断は一瞬。

 天秤が傾くのもまた、一瞬だった。

 

 

「……俺も彩乃が大好きだよ」

 

 

――――俺は今、どんな風に笑えているのだろう。

 

 瞳が揺らいだ彩乃の顔を見て、そんなことを思う。

 

 

 何の迷いも無く、手に持った巨人の角の欠片をかみ砕いた。

 目を見開いて俺の名前を叫ぶ彩乃を視界に留めながら、急速に暗くなっていく意識の中で俺はただ一心に願う。

 

 祈るように、切望するように、懇願するように言い聞かせる。

 彩乃を救って欲しいと、彼女に願う。

 

 

「――――あはっ、あはははははははっ!!! 任せるが良い、主様ぁ!!」

 

 

 鬼が狂喜に吠えた。

 

 



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死を運ぶ鬼

 

 

 この地域においての恐怖の象徴は、十年も前から一体の異形であった。

 時に人を殺し、同種を殺し、同格を殺し続けた特異な化け物。

 少女の形をした死を振りまく化け物は、その想像を絶する力を持ってこの地域に君臨し続けた。

 

 ある時は大地を喰らう蛇を。

 ある時は空を征する鳥を。

 ある時は国を崩壊させた巨獣を。

 

 人の身では到底太刀打ちできない化け物達を破壊し続けながら、底の見えない圧倒的な力で終わることの無い絶望を生存者達に振りまいた。

 根付いた絶望は消えること無く、ある日を境に化け物が一切姿を見せなくなってもなお、生存者達の恐怖の頂点であり続けたのだ。

 

 

 

 

 

 

「――――あはっ、あはははははははっ!!! 任せるが良い、主様ぁ!!」

 

 

 ようやく会えた幼馴染の様子が豹変した。

 繋ぐ手の先の暖かさが、氷のように冷たさを伴った凶器へと。

 黒髪の少女の形をしたそれが凶悪なまでに口元を裂き、興奮した口調で狂喜を吐き出す。

 つい先ほどまで重なっていた幼馴染の姿が掻き消えて、そこに現れたのはこの地を支配した異形“死鬼”に他ならない。

 

 

「梅利っ……!?」

「くく、備えろよ無鉄砲娘」

 

 

 こらえきれないとでも言う様に笑みを漏らし、私の身体を引き寄せ横抱きにする。

 小さな少女の身体に横抱きにされるなど想像すらしたことが無かったが、それに動揺する時間なんて無い。

 何かを削り取る様な音を聞き取って、それが私を抱える異形が足の先で建物の壁を削って落下する速度を調整している音だというのが直ぐに分かった。

 

 直後、高層からの二人分の落下衝撃が地面に叩き付けられる。

 

 

「っっ!!?」

「怖かったか? 次は頭を抱えてしゃがんでいろ」

 

 

 だが、覚悟した強烈な衝撃なんて微塵もなく、腕の中で抱えた私への衝撃は羽毛が落下したのかと思う程のもの。

 幼馴染の姿をした異形は誇る様子も無く身体を強張らせていた私を嘲笑い、そっと地面に下ろすと視線を上に向ける。

 

 

「あれらは下らない紛い物どもだが、脆弱なお前達を殺すには充分な強さだろうよ」

 

 

 その言葉に弾かれたように上空を見上げれば、そこには視界全てを覆い尽くす巨人達の群れがある。

 一直線にこちらを目掛けて落下してくる化け物どもの双眸は生気を全く感じさせない癖に、まっすぐ私達を見据えて離さない。

 彼らの攻撃一つ一つが必殺の意味を持つ私にとって、もはや目の前の光景は絶望でしかないのだろう。

 

 数は力だ。

 単体だけでは出来ないことが、数が増えただけ可能な範囲が広がっていく。

 人が異形を狩るときに必要とする人数が五人以上だとするなら、異形が“主”を狩るのに必要な数はどれだけなのだろう。

 少なくとも目の前の数は、必要と言われるだけの量を揃えているように思えた。

 

 

「主様は力の使い方がなっていない。あの程度、一々拳を振るうだけ無駄というものだ」

 

 

 そんな圧倒的な数の利を取られてもなお、隣にいる異形はつまらなそうにそう呟いた。

 

 

「――――これでは足場がせいぜいだろう」

 

 

 飛翔。

 そう感じるほどの圧倒的な風量が隣から巻き起こった。

 直後に起こったのは上空から鳴り響いた風船が割れるような音の連続に、慌てて上を見上げれば、既に落下していた筈の巨人の半数以上が、身体を欠損させ大量の体液を噴き出している。

 

 

「巨人どもを踏んで飛び回っているの……!?」

 

 

 踏んで足場にするだけで巨人の身体を砕き尽くす。

 延々と空中に作られている巨人と言う足場を飛び回るだけで、あの化け物どもを破壊しているのだ。

 

 もはや飛び回っている姿は目で追うことが出来ない。

 ほぼ同時にさえ思えるタイミングで数体の巨人が爆発したように破裂している。

 巨人は敵でも、ましてや脅威などにはなり得ていない。

 あの異形にとっては路傍に生える雑草程度、きっとそんな感覚なのだろう。

 

 つい先ほどまでは、昔の姿と重なって見えるほどに変わらない幼馴染であったはずが、今はもう姿は微塵も存在しない。

 最初からいたのは死鬼という異形だったのではないかと錯覚するほどに、その姿はあまりに凄惨だった。

 

 

「……死鬼。本当に……梅利が、死鬼なんだね……」

 

 

 圧倒的、目の前の光景はそれだけしか言わせない。

 結局ろくな抵抗もないまま、ただの足場に成り下がった化け物達はたった一人の暴虐の嵐に呑まれ。

 数えるのすら放棄するほどにいた筈の私達を追ってきていた巨人達は、ほんの数秒で全滅した。

 備えた豪腕を一度として振るうこと無く、屋上から地面に辿り着くこと無く、その化け物どもは活動を終えたのだ。

 

 

「確か人間どもがいたのは三階だったな。ならばこれで問題は無い筈だ」

 

 

 最後の一体を足場にして、死鬼は泉北が屋上にいるであろう建物の壁を蹴りつける。

 轟音と共に建物が僅かにくの字に曲がり、さらにその場で身体を回転させて空中で回し蹴りを放つ。

 小さな体躯の少女から放たれたその蹴りは、最初の一撃で曲がった場所よりも上、つまり四階よりも上を達磨落としでもしたかのように丸ごと吹き飛ばした。

 

 水平に吹き飛ばされた建物の上部分が叩き付けられ、隣接していた建物が倒壊していく。

 爆発でも起こしたかのような土埃が舞い上がり、一緒に吹き飛ばされたであろう屋上にいた泉北の爺がどうなったのかは窺い知ることは出来ない。

 様子が分からない、そうであれば死鬼は容赦しない。

 想像通り、真っ赤な目を倒壊した建物に向け、攻撃の手を一切緩めるつもりの無い死鬼が凶悪に口元を裂きながら音も無く私の隣に着地する。

 そのまま吹き飛んだ建物を追おうと身構えたが、死鬼は何かに気が付いた様にこちらを向いて、迷う素振りを見せた。

 

 

「あー……主様はこいつを守れと言ったしここを離れるのは……。んん……おい彩乃、あの老人に追撃するぞ、着いてこい」

「…………異形の言うことなんて聞きたくないわ」

「おい、人間風情が私に逆らうな……とは言え、素直に言うことを聞く様な奴ではないか」

 

 

 溜息を吐いた死鬼が私を米俵でも担ぐように抱える。

 自分がどんな状態になったか少しの間理解できなかったが、すぐにせり上がってきた羞恥に暴れた。

 

 

「はっ、離してっ……!! 人を米でも担ぐように扱わないで……!!」

「ははは、似合っているぞ。ところで、この建物の中にいた奴らはとっとと避難させるべきだと思うが」

「屋上に向かう途中で外に出るように言っておいた! 良いから離してっ!!」

「……ふん、私の取り越し苦労か」

 

 

 顔を叩く私を鬱陶しそうに抱え直した死鬼が、散歩でもするかのような気軽さで歩き始める。

 

 やっぱりこいつは嫌いだ。

 なんてことの無いように暴虐を振りまいて、私を子供でもあしらうかのように意にも介さない。

 死鬼の元が梅利だと理解した今となっても、この感情は薄れようとはしないのだ。

 

 そんなことが頭を過ぎったが、直ぐにどうでもいいと思考を切り替える。

 危機的な状況を超えた今、気になるのは梅利の安否だった。

 

 

「死鬼っ、梅利は!? 梅利はどうなったの!?」

「主様は心配するな。ともかく今は目の前の愚図をどうにかするのが先だ」

「……信用して良いのね?」

「お前ごときに信用などされたく無いが、私がみすみす主様を手放す筈が無いだろう」

 

 

 返ってきた言葉に一先ず安心する。

 梅利が何かを飲み込んだと同時に豹変し死鬼としての活動を始めたが、まるで状況が掴めない。

 

 死鬼が梅利だと言うのは理解した。

 異形としての意識に持って行かれて、これまで梅利としての自我が表に出てこなかったのも理解した。

 ならばなぜ先ほどまでは梅利として受け答え出来たのか、なぜ急に死鬼の意識が出てきたのか。

 そんないくつかの気になる点は残ったが、それでも死鬼の言っていることは正しいし、こいつの言葉を一先ず信用するべきだと無理矢理納得することにした。

 

 私の言葉を一笑し、のんびりと歩を進める死鬼が空いている片手の調子を確かめる様に何度か握り直している。

 

 

「……さっき降ってきていた巨人は大したことない、銃弾はそれなりに通るから貴方なら指先一つでどうにでもなる。問題は角の生えた奴よ。あれは密着でもしないと銃弾すら通らない。鉄塊でも食べているのかと思う程の硬さと獣のような速さを持つ化け物よ。それには注意が……」

「忠告してくれるのはありがたいが、私には必要ない」

「そう言う油断が敗北に繋がるのよ……! その身体は梅利のものっ、貴方はどうでも良くてもその身体を傷付けるのは許さない……!」

「……油断? 油断というのは――――」

 

 

 土煙の中から角の異形が飛び込んでくる。

 音も無く、気配も無く、ただ最速で目前まで辿り着いた角の化け物が拳という砲弾を振り下ろす様子を見ても何の反応も出来ない。

 

 

「――――こういうことを言うのだろう?」

 

 

 拳を振り上げていた角の化け物が二つに裂けた。

 何の抵抗もなく、何の前兆も素振りも無く、バラバラになった化け物が直ぐ横を転がっていく。

 

 私があれだけ時間を掛けて戦った相手が、裏拳でもするような爪の一振りで刃物で切り裂かれたかのように分割された。

 一秒にも満たない時間であの化け物が処理されたのだ。

 自分との圧倒的な性能差をマジマジと目の前で見せつけられる。

 

 

「つまらん、煙を盾に突っ込んでくれば一撃加えられるとでも思ったか?」

 

 

 収まらぬ土煙の中に、何の躊躇も無く足を踏み入れる。

 

 

「知恵を巡らせ、策略を駆使し、対策を立てて、意表を突く。そこまでしないでなぜ私とやり合えると思った」

 

 

 土煙の中を悠然と歩く鬼に抱えられているのに。

 守られている側であるはずなのに、何故こんなにも背筋が凍るのだろう。

 

 

「聞こえているのだろう爺。私の事をよく知っている貴様に聞いているのだ」

 

 

 角の巨人が強襲する。

 音も気配も無かったはずのその攻撃を、振り下ろしてきた鉄屑を死鬼は片手で掴み取り圧倒的な膂力で動作を押さえ込んだ。

 

 鬼は嘲笑う。

 

 

「忘れたのならば、仕方ない」

 

 

 嫌に冷たい声色で、蔑むように言葉を紡ぐ。

 

 

「絶望を刻もう」

 

 

 力負けした角の化け物が鉄屑ごと握り潰された。

 

 力無く膝を着いて崩れ落ちていった角の化け物を一瞥すらすることなく、死鬼が平手で土煙を煽れば、生み出された風であっと言う間に視界が晴れる。

 泉北は私達のほんの少し先で、額に一筋の傷を負い、血を滴り落としながらこちらを見ていた。

 動揺を隠そうともせず、震える腕を必死に押さえつけようと色が白くなるほど握りしめている。

 ただ信仰している対象に会うにしては違和感を覚えるほどの取り乱し方を、泉北はしていた。

 

 

「し、死鬼様……本当に、死鬼様なのですか……?」

 

 

 震える声でそう問い掛けた泉北に死鬼は何も答えず、ただじっと冷めた視線を向ける。

 それから死鬼は少しだけ辺りを見渡して口を開いた。

 

 

「桐江はどうした、あの婆の姿を見掛けなかったが」

「……妻は、先に逝きました。老衰で数ヶ月前に……最後まで幸せそうな笑顔を浮かべておりました。ただ死鬼様のことだけを、悔いていて……」

「口うるさい婆だったが……そうか、幸せそうだったか」

 

 

 そこまで言って死鬼は、息をゆっくりと吐いて目を閉じた。

 泉北がそんな黙祷するような死鬼の姿に口元を手で覆う。

 

 

「っ……、死鬼様に救われて妻はずっと貴方様を慕っておりました。貴方様の事を口にしない日は一日たりともありませんでしたっ……」

「ふん、光栄な事だな。……何度も言うが私は貴様ら人間を救う気など無い、ただ私にとって不快な奴らを潰して回っているだけだ。貴様らが私を慕おうが、私がそれに応えることは無い。それで……」

 

 

 そっと瞼を開いて泉北を見る。

 

 

「それは桐江を失ったせいとでも言うつもりか?」

 

 

 いつも飄々と本心を見せなかった泉北が息を呑んだ。

 血の気の失せた顔色で、何も言えずに黙り込む。

 

 

「弁明はあるか?」

「……何もございません。私は私の悲願を果たすのみです」

「よく言った、貴様は私の敵だ。せめてもの情けに私の手で屠ってやる」

 

 

 抱えていた私を後ろに放り、死鬼は再び止めていた足を動かし始める。

 

 死鬼と泉北の関係など知らなかったが、話している内容からそれなりの関係があったことが窺えた。

 神と人。

 異形と生者。

 そんな形だけの関係ではなく、少なからず築かれた積み重ねがあるように思える。

 ぎりぎりで受け身を取った私は、文句の一つも言えずに目の前で対峙する二人を見る。

 

 

「死鬼様……出来ることなら貴方様には手を上げたくはありません」

「御託は良い、跪け」

「でありますか……ではせめて抗わせて頂きます」

「思い上がったものだ、愚かしいほどに」

「ええ、私の悲願は。例え貴方様だとしても邪魔などさせはしません」

 

 

 泉北の背後から最後の角の巨人が現れる。

 

 風貌がこれまでとは異なる。

 四本となった腕は大木を思わせるほどの豪腕で、その体躯はこれまで戦ってきた巨人達の中でも最大。

 身体の至る所から角に似た突起物を隆起させる化け物は、何もすること無く超然とその場に佇んでいる。

 これまで戦ってきた中でもより強靱で、より凶悪な化け物だと一目見ただけで分かってしまうほどに、その存在感は圧倒的だ。

 

 “主”クラスの脅威であると、肌を刺すような空気で分かってしまう。

 

 

「これが私達の作り上げた最高傑作っ、対破國としての最終兵器です!」

 

 

 自分が向かい合っているわけで無いのに銃を持つ手のひらが汗で湿り、緊張で固くなるほどの圧倒的な存在感に私はいつの間にかいかに直接的な戦闘を避けるかに思考を裂いていた。

 それほどまでの恐ろしさが、アレに詰め込まれている。

 

 泉北が血を吐くように叫んだ言葉に死鬼は僅かに眉を歪める。

 小さな声で言った、下がっていろと言う言葉は私に向けたものだろうか。

 何を気負うことも無く向かっていった死鬼の後ろ姿に、私はどうするべきかと視線を彷徨わせた。

 

 

「全盛期の死鬼様ならともかく、今の死鬼様にこれは容易い相手ではないでしょうっ! 貴方様がこれと戦っている間に私は後ろにいる守るべき者達を蹂躙させて頂きます!! 貴方様が手を出さないのであれば――――」

「これは貴様程度が扱いきれるものでは無いな」

「――――……なにを……?」

 

 

 泉北の後ろにいる化け物の、小刻みに震える腕が徐々に大きくなっている。

 全身が鎖の様なものを巻き付けられているが、それでも抑えきれ無いほどに隆起した筋肉に、鎖は罅が入り始めその機能を崩壊させていく。

 角の間から覗く真っ赤な目が私や死鬼では無く、泉北の後ろ姿を捉えて離そうとしない。

 

 異形に対する理解なんて無い私でも分かる。

 あれを泉北は御し切れていない。

 

 

「おいデカブツ、掛かってこい」

「――――」

「……し、死鬼様?」

「暴れ回りたいのだろう? 残虐の限りを尽くしたいのだろう? 破壊を振りまきたいのだろう? 全てを私が終わらせてやる、痛みも無くだ」

「――――■……■■……」

「し、死鬼っ……! 放っておけばあれはっ……!」

 

「それとも私が怖いか、生まれたての木偶の坊」

 

 

 咆哮が衝撃波のように放たれた。

 泉北が何も指示しないままに動き出したそれが、視線で捉えていた泉北の横を素通りして死鬼目掛けて猛進してくる。

 地を破壊して進み、空気を破壊して進み、進む先にあるもの全てを破壊しようとする破壊の化身は瞬きの間に死鬼の目前まで迫る。

 四本の手に持った巨大な斧のようなものを鼠一匹も通れないほどに隙間無く振り回し、叩き潰すように振り下ろされたそれらが死鬼に直撃する前に、死鬼が動いた。

 

 

「主様、攻撃とはこうするのだ」

 

 

 一瞬、腕が赤く染まった。

 踏み込まれた左足が深く地面に食い込むのが見えた瞬間、地震と紛うほどの衝撃が生まれ、離れた場所にいた私の身体が跳ね上がる。

 地面に走った巨大な罅が踏み込まれた恐ろしいほどの力を示し、その力の直ぐ傍にいた巨人の足も同様に罅が入るのが僅かに見えた。

 襲い掛かっていた化け物の足が潰され、動きがほんの一瞬停止する。

 

 次の瞬間には四本腕の巨人が消し飛んだ。

 

 巨人だったものの欠片があたりに散らばり、巨人を貫いた衝撃が射線にいた泉北にも突き刺さって吹き飛ばしている。

 圧倒的な存在感を放っていたあの化け物が、今は何処にも存在していなかった。

 

 

「そ……そんな馬鹿なっ……!!? あれは、アレはっ、破國を倒すための、唯一の……」

 

 

 死鬼が振るった腕を握り直して調子を確かめている。

 突き刺さった足を引き抜いて、散らばった四本腕の巨人の残骸を踏み締めて、泉北へと歩み寄っていく。

 

 

「爺、これで心置きなく桐江の後を追えるな?」

「ま、まだ……まだですっ! まだ私は死ぬわけにはいきません!! やり遂げなければいけないことが残っています!!」

「もう戦力は無いだろう、どうするつもりだ」

「……私が、やらなければっ……いけないんですっ……!」

 

 

 溜息を吐いた死鬼が目の前に座り込んだ泉北を蹴り飛ばし、私に向かって走り出した。

 動揺する私を余所に、私の後ろから襲い掛かってきていた身体を欠損させた巨人を吹き飛ばして、つまらなそうに声を掛けてくる。

 

 

「あの爺、生き残った巨人どもを暴れさせ始めた。一旦あいつを取り逃がすぞ」

「え? 貴方さっき目の前にいたんだから、息の根を止めようと思えば止められたんじゃ……?」

「あいつの人としての生はもう長くない、せいぜい一週間も持たないだろう。最後は私が手を下す。……だが清算くらいはさせたい、私の我が儘だ……父親を殺されたお前には悪いが、恨むなら私を恨むが良い」

「……別に、私の力で追い詰めた訳でもないのにそこまで文句を言うことなんて出来ないわ」

 

 

 後ろを見れば土煙の中に居たであろう角の無い巨人達が暴れ回っており、コミュニティに所属していた生存者達に襲い掛かっている様子が見える。

 角を持つ奴が居ないため手に持った武装で何とか戦えているが、それもいつまで持つか。

 

 死鬼と共になんて言う考えたことも無かったような不思議な状況で、生存者達を助けると言う共通の目的を持って私達は走り出した。

 

 



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集い始める者達

 

 

 それは寒い日の夕暮れのこと。

 家に帰ってもひとりぼっちなのがただ寂しくて、その日も喧噪を聞くためだけに近くの公園へ足を伸ばした。

 

 少しだけ広い公園には小さな子供を連れた母親達の姿や、同年代くらいの友人でボール遊びをする子供達。

 うるさいそれらの声を普段は邪魔に思うだけの癖に、少しでも誰かと一緒にいると言う感覚が欲しかったその時の私にとっては何より欲しかったもので。

 私はただぼんやりとベンチに座って、持ってきた何かの図鑑を読むわけでも無く眺めていた。

 

 かじかんだ指先に、口から漏れる白い吐息。

 冬の寒さが本格的となり、時折吹く冷たい風が確実に体温を奪っていく。

 井戸端会議をしている親達が、私を見て何か言っているのも聞こえてくるが気にしていない風を装って、私はただそこにいた。

 

 段々と暗さを増していく周囲。

 釣られるように去って行く子供達。

 まばらになっていく公園には家と同じ寂しさが包み始めたが、どうせ家に帰っても誰もいないのだと諦めて、私はその場を動かないでいた。

 

 

『――――もう暗くなってきたから家に帰った方が良いと思うよ』

 

 

 そんな私に対して声を掛けてきた人がいた。

 

 最後まで名前も聞くことが出来なかった人。

 優しさと気遣いに溢れ、温かさを持っていた人。

 その時の私は何一つ、この人から素直に受け取ることが出来なくて。

 それでも優しげに笑うこの人の顔が日だまりのようだったのを、ついこの前のことのように思い出す。

 

 

 

 

 ずっと前のことを思い出していた私は、診察結果をまとめた紙が目の前に差し出されてようやく意識を今に戻す。

 長い沈黙の時間に油断して、最近はあまり思い出さなくなっていたお兄さんのことを思い出していた。

 油断するべき時では無いだろうと気を引き締め直して、受け取った診察結果に視線を落とした。

 

 

「想像通り君の感染状態は深刻では無い。今後は激しい運動を控えて、処方する薬品の定期的な摂取を心掛けるんだ」

「……なんだか病気の診断をされているみたいですね」

「一種の病気さ、間違いでは無いよ。どれだけ超常的な現象で有り得ないような変化をしたとしても、これはあくまで生物が発症する不調であることは変わらない。原因があり、過程があり、結果がある。であれば、そこに手を加えて方向性を固めるのが僕達医者のやることだ」

 

 

 診断結果を書いた紙を私に渡すと梅利さんが医者と呼んでいた人はもうこちらには視線もやらず、分厚いファイルを付箋を頼りに開いて何かを書き込んでいる。

 医者と呼ばれていたこの方は、どうにも梅利さん以外には優しくするつもりは無いらしく冷淡な態度を隠そうともしない。

 水野さんが言っていた通り、無愛想で取っ付きにくい感じの雰囲気をまとった人だ。

 

 

「貴方以外にそんなことを言う医者に会ったことがありませんが……」

「諦めの早い奴らばかりだったか、若しくは何かをする前に命を落としたのだろうね。僕は優秀だが、特別秀でているなんてことは思っていない。……ここまで来るのに10年も経ってしまったのだからね」

「いえ……立派だと、思います。少なくとも、私はそう言ってくれる医師がいてくれて安心します」

「そうかい。そう言って貰えると嬉しいね」

 

 

 欠片もそんな態度を見せること無くそう言った医者に、どうしたものかと頭を痛める。

 私としては梅利さんを通じて知り合った人なのでそれなりの友好を築きたいのだが、この人はどうも私と必要以上にコミュニケーションを取るのが嫌なようなのだ。

 不満そうな視線を向けていてもそれに気付いた様子すら見せようとしなかった医者は、手に取っていたファイルを閉じてまだいたのかとでも言う様な目を私に向けてくる。

 ……本当にこの人とは仲良くなれそうに無い。

 

 梅利さんがここを出て行った後、この人に身体の診察を行うと言われ、私は血液や眼球の検査を受けることとなった。

 大型の機材を扱わない簡略的なものであると思うのだが、全ての診察が終わったころにはもう日が暮れてしまっている。

 そろそろ梅利さんが帰ってくる頃合いだろうかと、席を立つと同時に何かを思い出したように医者が声を掛けてきた。

 

 

「そうだ、先ほどの話だが……死鬼が梅利君に執着していると言う話は確かなんだね?」

「……はい、アイツはかなり強く執着しています。私に対して面と向かって言った初めての言葉が梅利さんに手を出すなでしたから」

「それはどんな状況での言葉だい? 君が梅利君を襲おうとしていると言う風に聞こえるのだが」

「ち、ちがっ、ただ私は一緒に寝ようとしただけでっ……!」

「……はあ。梅利君はモテモテで羨ましいよ。言っておくけど彼の精神はまだ未成年だからね」

「だから違います!!!」

 

 

 私の否定を溜息交じりの言葉で済まそうとする目の前の医者は絶対に勘違いを正そうとしていない。

 実際に同じ部屋で眠ろうとしていただけの話で、梅利さんだって寝ることは了承していたから何の問題もありはしないのに。

 

 

「ちょっとちゃんとこっちを見て下さい! その誤解は凄く不満です!!」

「分かった分かった、それより聞きたいことがあってね。僕の知っている梅利くんならば、南部の拠点へと連れて行った泉北さんの戦力に負けることは無いと思うのだが、戦闘に際して不調などはあったのかい?」

「本当ですかね……梅利さんの戦闘に関しての影響は正直分かりません。でも、普通の巨人程度であれば無理なく倒せる程度だと思いますけど」

「……いやまさか梅利くんが負けることはないだろう。だが、いざとなったら死鬼が出て来る可能性もあるのか……?」

 

 

 そう呟くと、医者は机上の隅に大切そうに置かれた試験管に手を伸ばして、中の具合を確かめる様に覗き込む。

 薄く白色に濁ったその中の液体が見たことの無い薬品で、私は怪訝な顔をしていたのだろう、私の表情に気が付いた医者が初めて笑った。

 

 

「薬に興味があるのかい、それとも医学に進むつもりだった?」

「いえ、どんな道に行くかなんて考える歳では無かったですし、こんな状態になってからは職業に就こうなんて考えはありませんでしたから」

「なるほどね」

 

 

 液体の入った試験管を厳重そうなケースに入れて懐にしまう医者の姿を見ていれば、彼は扉の方向を一瞥する。

 

 

「そろそろ帰ってくる頃合いかもしれない。愛しの梅利くんをお迎えに行った方が良いんじゃ無いか?」

「……私は結構根に持つタイプですからね。今さら後悔したって遅いですからね!」

 

 

 捨て台詞のようだと理解しながらもそう口にして、この部屋から飛び出して行く。

 あの強さを誇る梅利さんならば、まず間違いなく無事であるだろうと分かっていても、今は何故だか少しでも早く顔が見たかった。

 

 ふと笑うお兄さんの顔を思い出しながら、そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

「……視線が不快だ。何とかならないのか?」

「我慢しなさい。貴方だって注目されることくらいは予想できたでしょう」

「ふん、不躾な奴らだな、礼儀も弁えん愚か者どもめ……まあ、今日は機嫌が良い、これくらいならば見逃してやろう」

「はいはい、御寛大なお言葉ありがとう」

 

 

 死鬼が生き残った者達を見て、苛立ちを隠そうともせず眉間に皺を寄せる。

 彼らの怯える様は死鬼が最も嫌いそうな状態だと、この異形とそれなりに関わってきた私は何となく分かった。

 ぶすくれる死鬼を取り敢えずは落ち着けようと反応を返してみるが、それもいつまで持つか。

 以前のこいつなら不快だと判断した瞬間なぎ払い始めるのだから、今はまだ大丈夫なのだろう……多分。

 

 あの拠点での戦いで、見境無く暴れ始めた巨人達を難なく鎮圧した頃には、死鬼に蹴り飛ばされた泉北の姿は無く、残ったのは共に襲いに来ていた“泉北”コミュニティの者と“南部”の生き残りの者だけだった。

 もはや拠点としての体を為さないほどに崩壊してしまったこの場所にいつまでも留まるのは危険だという結論に落ち着き、生きている者達を連れての大移動を開始することになったのだ。

 

 向かう先は“東城”……では無く、“泉北”の拠点。

 これは死鬼の提案であり、逃げた泉北の爺が拠点に戻る事は無いと言う確信を持っての案らしい。

 ……よく分からない、こう言う思考の読み合いは昔から苦手だった。

 ジャンケンでさえ勝とうと思ったときは、出される手の予想をするのではなく動きを見ながら対応していた私では、こういった盤上を見た動きを取るのは不可能なのだ。

 一時的とは言え今は味方側である死鬼が裏切るとは思えず諾々と従っているが、少しでも不審な動きを見せたら対応できるようにしなくてはと思っている。

 

 

(……もっとも勝てる可能性はほんの少しだって無いのだけどね)

 

 

 妙な気分だった。

 隣を歩く頭二つ分ほど小さな少女は、私が今まで嫌ってきた異形であり、ずっと求めていた幼馴染でもある。

 背反するこの感情を整理することなんて出来ないが、悪くないと思ってしまっている自分は間違っているのだろうか。

 

 まあ、ともあれ死鬼が味方にいる以上安全は保証されているようなものだ、生き残った者達がこれ以上命を落とすことは無いだろう。

 そこは心配していない、問題があるとすれば私個人的なものだ。

 

 

「しかしアレだな。やっぱりこの格好は無いと思わないか? もう少し優美な服装がしたいのだが……主様は幼い頃から服装には頓着していなかったのか?」

「……梅利はそうね、お洒落にはこだわってなかったわね。せいぜい寝癖を直す程度で他は特に」

「そうか! 服装には頓着しないと……なるほどなぁ」

 

 

 この人間嫌いの筈の異形が、何故か私について回って、梅利について聞き出そうとしてくることだ。

 私の回答を聞いて満足そうに頷いていた死鬼が、ペースを上げた私の歩幅に慌てて着いてくる。

 懐かれたみたいで悪くない気分になってしまう、本当に私はどうしてしまったのだろう。

 

 

「か、顔写真とかはないのか? もっと言えば全身像が写っているようなものが良いな」

「無いわね。異形の奴らに襲われたときに、全部捨てることになったから」

「……おのれ、異形め……」

「貴方も異形だからね?」

 

 

 歯軋りをしている死鬼にそう言えば、彼女は数回瞬いた後に不機嫌そうな顔で見上げてきた。

 

 

「あんな奴らと同列に語られるのは不快だぞ。能力でも知能でも在り方さえも、私はあいつらとは一線を画す。最初こそ言葉も話せなかったが、今の私はこうして貴様らと会話できるほどになった。これは私の努力が実った結果だ」

「え? 言葉を勉強したの?」

「ああ、貴様らに興味がわいて、あんな脆い奴らが普段何を話しているのか聞きたくなった」

 

 

 下らないとでも言う様にそう言い捨てる死鬼に対して、私は何となく納得がいった。

 今のこいつならともかく、昔のこいつが何の見返りも無く人を救うとは考えづらかった。

 “泉北”の者達が言う、死鬼に救われたと言う言葉が彼らにとって真実ならば、少なくともそれなりに人と接する機会があるはずなのだ。

 そしてそんな者達をまとめる泉北の爺との会話からも、それは窺えた。

 

 

「……分かってきたわ。それで貴方に言葉を教える役になったのが泉北の爺なのね」

「まあ、そうだな。手頃な奴を救えばこちらの要求を呑んでくれると思ったからな。だからアイツは二人目の私の従僕だった」

「……二人目?」

「そんなことはどうでも良い。それよりも主様についてもう少し詳しく」

「待ちなさい、泉北の爺がその一人目に頼る可能性もあるのだから、今はそっちを」

「アイツは頼られても決別のために自分の手で爺を処断するだろうよ。そんなのはどうでも良いんだ。いいから、主様についての情報を寄越せ」

「……聞き分けの無い子供を相手にしている気分になってきたわ」

 

 

 不満の声を上げている死鬼を置いておいて、後ろの様子を見る。

 

 “泉北”の者達は縛り上げられているにも関わらず、死鬼の姿を見て感激したように打ち震えている。

 “南部”で生き残った者達は自分たちをまとめていた私の父親の死を悼み、多くの者が涙を流して俯いている。

 勝者と敗者が逆にさえ思える現状にモヤモヤとしたものを感じると同時に、何故自分は実の肉親が亡くなったのに悲しく思わないのだろうと不安を覚えた。

 

 これまでの長い期間異形を殺すためだけに戦い続けてきた。

 それだけしか求めてこなかったから、戦いの技術は上がり続けたのだろう。

 だがそれと同時に私は、人として大切なものを無くしてしまったのではないかと、そんなことを思うのだ。

 

 

「感情が追い付いていないだけだ」

「――――え?」

 

 

 だから、隣から掛けられた思いもしなかった言葉に動揺した。

 

 

「長い間会えなかった大切な者とようやく会えた嬉しさ、感情を表に出すよりも先に現実の対処をしなければならないという義務感。そんなものに押しやられて、今はなにも感じる暇が無いだけだ。その内こらえきれなくなるだろうよ」

 

 

 死鬼が視線を前に向けたままそんなことを口にする。

 思わぬ者から伝えられる言葉に声を失う。

 何故こいつがそんなことを言うのだろう。

 それを嬉しく思ってしまう私はなんなのだろう。

 

 

「貴様は人だ、間違いなくな。それを疑う必要は無い」

「死鬼、貴方……」

「下らない事で悩むな。そんなに色んなものを抱えられるほど、貴様らは強くなんてないだろう」

 

 

 力強く、自信に満ちたそんな言葉はやけに胸に響いた。

 私が顔を俯ければ、死鬼は片方の口角だけを上げて笑い楽しそうにしている。

 

 ……駄目だ、こいつのことが嫌いでは無くなってしまいそうだ。

 

 

「さあ悩みは無いな? ならば主様について――――」

 

 

 気が付いたら頭を撫でてしまっていた。

 柔らかな髪質を指先に感じ、ふんわりとした香りが鼻腔をくすぐる。

 

 だがそんな心安らぐ感覚は一瞬で、次の瞬間空気が凍った。

 後ろから感じる唖然とした気配と、泉北の者達であろう怒号のような声。

 呆然とこちらを見上げる死鬼が視線を、頭の上にのせられた手と私とで往復させていたがそれも直ぐに終わり、私に固定された死鬼の顔が徐々に歪み始めたのを見て、背中に冷や汗を掻き始めた。

 

 

「ご、ごめんなさい。なんだか妹みたいに感じて」

「ほぉう? 私が妹と、随分舐めてくれたじゃ無いか」

 

 

 怒っている。

 まず間違いなく、気に入らないと思っている。

 死鬼の足下に罅が入り、遠くから異形と思わしき何かの恐怖の悲鳴が聞こえてきた。

 これは不味いと何とか口を回そうとして出てくるのは、自分でもよく分かっていない感情の説明ばかり。

 

 

「ば、梅利に妹がいたらこんな感じかなって、思って」

「む……」

 

 

 自分の口から出た言葉に終わったと思ったものの、それを聞いた死鬼は予想を裏切り威圧感を引っ込めた。

 

 煌々と光っていた赤い目の力が弱まる。

 少しだけ落ち着いた彼女の様子に追い打ちを掛けるべく、同じワードで攻めることにした。

 

 

「どこか小さい頃の梅利に似てて思わず手が出たの。不快にさせたらごめん」

「……むふふ、そうかそうか! まあそういう時もあるかもしれんな、次は気を付けるがいい!」

 

 

 チョロい。

 機嫌がジェットコースターのような勢いで飛び上がっていったのを確認して、思わずそう確信してしまう。

 梅利というワードを使うだけで、どうやらこいつは機嫌が良くなるらしい。

 歪んでいた表情を戻し……いや、先ほどよりも機嫌よさげな笑みを振りまいて隣を並んで歩いてくる。

 梅利は何をしたんだろう、こいつ貴方にベタ惚れじゃない。

 

 猛獣使いを見るような視線が背中に突き刺さるのを感じつつ上機嫌な死鬼を眺めていれば、死鬼は鼻歌でも歌い出しそうな様子で口を開いた。

 

 

「さて、そろそろ日も暮れる。拠点まであと少しだ」

 

 

 死鬼は何気なく数歩前に歩み出て、地中から出てきた異形を踏み潰すとこちらに振り返って笑みを浮かべる。

 

 

「早く帰るぞ、知子の奴がいらぬ心配をしているだろうからな」

 

 

 昔よく見た梅利の笑顔に重なって、私は困ったような笑みしか返すことが出来なかった。

 

 



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消えぬ確執

「梅利さん!!」

 

 

 建物から顔を覗かせていた私よりも少し下くらいの女性が死鬼の姿を見付けるなり、笑顔で駆け寄ってくる。

 どうやら梅利の知り合い……いや、前に梅利が死鬼の振りをしていた時の一緒にいた女性か。

 隣にいる私や死鬼の頭から生える双角が完全に外気に晒されているのを見て、その女性は目を見開くものの、それでも梅利の無事を何一つ疑う様子がない。

 まるで親を見付けた子供のようだ、どちらかと言えば人では無く犬系統だが。

 

 少しからかってやろう、そんな悪戯心が鎌首をもたげたのだろう、死鬼の目が一瞬好奇に光った。

 死鬼が梅利に似せた優しげな笑みを作り、駆け寄ってきた女性を迎えるように両手を広げる。

 何の疑いも無く死鬼を抱き締めた女性が嬉しそうに破顔して、死鬼はそっと耳元に口を近づけた。

 

 

「ただいま……――――とでも言えば良いか知子?」

「……え? あ、貴方っ……!?」

 

 

 意地悪げな笑みを浮かべそう言えば、それだけで女性は状況を理解したのか、呆けた顔を絶望で歪める。

 一方で、死鬼は心底楽しいとでも言う様に声を上げて笑い始め、女性に言葉を突き付ける。

 

 

「くはは、残念だったな、主様では無くこの私。大嫌いな私の胸の中に、貴様は無防備にも自ら飛び込んできたのだ!」

「し、死鬼……? なんでっ……!?」

 

 

 抱き締めると言う、ある意味拘束とでも言える状態から逃げだそうと女性が暴れるが、人間のそんな抵抗など死鬼にとってはあってないようなものだ。

 ガッチリと両腕で拘束された女性は為す術もなく蹂躙される。

 死鬼からは逃げられない、割と昔からの常識である。

 

 しばらく女性をくすぐり弄んだ死鬼が、さらに子供でも持ち上げるように高く掲げ始めたので流石に不憫に思って声を掛けることにした。

 

 

「意地悪は止めなさいよ。まったく……早く後ろの人達を休ませたいんだから」

「ふん、少し遊ぶくらい良いじゃ無いか。余裕を持たないから脳筋だと言われるんだ」

 

 

 もはや泣きそうになっていた女性を下ろして、死鬼は何とか言うことを聞いてくれる。

 頬を最後に引っ張った死鬼が離れると同時に膝から崩れ落ちてしまった女性に慌てて肩を貸すが、彼女は心ここにあらずで、どうしよう……なんてブツブツと呟いている。

 恐らく梅利と親しい関係だったのだろう、確かにあの梅利が急にこんな奴に変貌したら誰だって動揺だろう。

 

人の気配に気が付いて前方を確認すれば、女性の他に接近してきていた者達が愕然とした面持ちで死鬼を見て動きを止めている。

 感激に震え崩れ落ちる者、涙を流して口元を抑える者と様々だが死鬼はそれらを面倒臭そうに眺めていた。

 何も言葉を掛けること無く、彼らの横を通り過ぎて拠点の中に足を踏み入れていく。

 それでも、祈るようにしている泉北の者達は動く様子が無かった。

 

 敷地を歩き、前を歩く死鬼を追い掛ける。

 広い場所を使っているのだと感心するが、こうして目的地が遠いと歩くのは面倒に思えてしまう。

 大聖堂という場所なのだろう、進む先にあるその建物を見て私は先を行く死鬼に質問する。

 

 

「あそこに何の用があるの? ここのトップは泉北の爺でしょう?」

「だが代理がいるだろう、そいつの協力を得て情報を取る。……爺が焦っていた理由と近付いてくる嫌な気配、何となく察しは付くが確証を得たい」

「し、死鬼。梅利さんは……?」

「知子、少し黙っていろ。主様はまだ大丈夫だ」

 

 

 扉を開け放つ。

 中に居た百を超える人の視線が一気に私達に向けられて、思わず銃を持った手に力がこもるがその視線の多くに子供が含まれていることに気が付き、銃を扱うのは止めることにした。

 

 攻撃されたときの為に中に居た集団に注意を向けていたが、圧倒的な存在感を示すものに気が付いてしまい、無警戒にもそちらを見てしまう。

 部屋の中央で鎮座する死鬼の姿をかたどった像が、聖母のような微笑みを携えて私達を迎えている。

 

 

「……何だアレ、馬鹿なのか?」

「死鬼……普段の態度が崩れてるわよ。ほら、もう少し頑張りなさい」

「い、いや、分かっているさ」

 

 

 言葉を詰まらせる死鬼にちょっとだけ同情する。

 自分が知らないうちに、あんな像が建てられていたら恐怖を覚えるのは当然だろう。

 と言うか、精巧過ぎて気持ち悪いレベルな作りなのも相まっている。

 

 

「し、死鬼様?」

「本当に、死鬼様なの……?」

 

 

 死鬼の姿を確認してこの場に者達がざわめき立つ。

 彼らの中から、過去にあったコミュニティ同士での会合で見たことのある水野という女性が慌てて向かってきた。

 

 確か、泉北の爺と同様狡猾な女だった。

 腹芸を得意としていて、死鬼に心酔する度合いで言えばトップクラス。

 とある異形が餌をまとめて集めていた場所に連れ去られたのを、死鬼に救出されたのだと耳にタコが出来るほど聞かされたものだ。

 

 

「死鬼様!? その後ろの者達はどうされたのですか!?」

「色々経緯があった。幾つか聞きたいことがあるのと、確認したいことがある」

「それは――――」

 

 

 水野の表情に疑問に満ちる前に、死鬼の二本の白く細い指先が彼女の胸元に突き付けられる。

 ちょうど心臓部、鎖骨の下辺り。

 人の生命活動に必要な臓器が存在する場所に銃口のような指先が突き付けられている。

 

――――死鬼がほんの少しでも力を込めれば、水野は為す術もなく貫かれるだろう。

 

 水野の額から冷や汗が吹き出した。

 

 

「よくもまあここまで腐ったものだ。私はいつだって言ったはずだ、不快であれば破壊してやると」

「し、しき……さま」

「爺一人に何をやらせている。貴様らはここに籠もって何をしている。生きるつもりが無いならばここで死に絶えろ」

「わ、たしは……も、もうしわけ、ありません……」

 

 

 見えない圧力に圧迫されたかのように意識を朦朧とさせ始めた水野から指先を離し、うずくまって咳き込み始めた彼女を置いて死鬼は震えている者達の元へと足を進めた。

 

 先ほどまで私の隣をついて回っていた少女とは同一人物に思えないほどの怒気をバラ撒いて、纏まって震える集団を睨み付けている。

 そこには大人もいる、老人もいる、男よりも女が多い。

 だがそれよりも子供の姿が目について、この集団の余裕のなさがよく分かる。

 死鬼がその集まりの元へと辿り着けば、小さな子供達は恐ろしさのあまり泣き出して、近くにいた大人はそれを守るように抱き締めて。

 

 そして彼らは祈るように頭を下げた。

 逃げるわけでも無く、懇願するわけでも無く、頭を垂れて死鬼の裁定を待つ。

 命を投げ出すような彼らの姿に、慌てたのは私だった。

 

 

「っ……、死鬼止めなさい! 子供がいる、その人達に手を出さないで!」

「ほう? 彩乃貴様、自分の知り合いが多く殺されて、実の父親が命を落としたというのにそんなことを言えるのか?」

「それはっ……また別の話でしょう……!」

「別では無いさ、私はコイツらの行動が気にくわない、お前も同じだろう。そも、ここから先に話を進めるためには決着を付ける必要があるだろう」

 

 

 決着。

 それは、私達のコミュニティを襲い死者や負傷者を出し、私達のトップである父親を殺めたということに対する代償。

 危害を受け失ったものがある私達の激情を、納める場所を決める必要がある。

 

 

「憎らしくは無いのか? 恨めしくは無いのか? この場でコイツらに手を下しても構わないぞ。私が見ていてやる、好きにするが良い」

 

 

 死鬼の言葉に血が上る。

 気が付けば私は銃口を死鬼の後頭部に突き付けていた。

 そんな私の行動にも、彼女は興味深そうに私を見るだけだ。

 

 

「何のつもりだ」

「――――ふざけないで。それ以上は言うな」

「くく、引き金を引かないのか? 以前は躊躇一つしなかったのに?」

「……今の貴方を敵だと割り切れてない。少なくとも、私は好感を持っている。……それに、貴方の発言を間違っていると言い切れない。だから、今は引くことはしない」

「……そうか」

 

 

 腕を組んで一つ頷くと、死鬼は一歩横に動いて道を作る。

 

 そこまで言うならお前が決着を付けろ、まるでそう言う様なこいつの視線。

 退いた先にいる恐怖を帯びた子供達の視線。

 背中に刺さるようなお父さんを慕っていた者達の視線。

 

 ずしりと、両肩に重い何かがのし掛かった。

 

 

「わ、私は……」

 

 

 狼狽した声が漏れた。

 思わず振り返ってしまった先に、背負われている動かなくなったお父さんの冷たい顔がある。

 喧嘩ばかりだったあの人との関係だったが、今思えばそれらも嫌いでは無かったのだ。

 ほの暗い感情が芽生え始めたのを自覚する。

 

 握りしめた手のひらが汗を掻く。

 どうするべきなのか、どうしたいのか。

 混乱する頭の中が、いつまで経っても纏まることは無かった。

 

 

「お前が決められないなら私がやろう。私は、どちらでも構わない」

 

 

 痺れを切らしたのか、押し黙っていた私に対して死鬼はそんな提案をしてくる。

 睨むように死鬼へと顔を向ければ、推し量るように私を見続けていた筈の彼女は、いつの間にか眉尻を下げて微笑んでいる。

 

 いつも隣で脳筋だと馬鹿にするくせに、ずっと信じて一緒に歩いてくれるアイツと、一緒の表情をしているのだ。

 

 

「……けれどなんだろうな。なんとなくだが……お前が何を選ぶのか、分かってしまうな」

 

 

 諦めたように、仕方無いものを見るように。

 アイツはそう言って、いつだって背中を押してくれた。

 

 

「――――仕方ない、私はいつも通りお前に付いていくさ。お前一人は不安だものな」

 

 

 混ざり合ったようなそんな言葉で、迷いが消えた。

 私が選ぶべきだったのは、元々一つしか無かったのだ。

 きっとこうやって背中を押して貰えるだけで、私は先に進めるんだろう。

 

 

「……聞いて、ください」

 

 

 呼吸を整える。

 これからすることが正しいのかなんて分からない。

 不安ばかりが頭を過ぎるくせに、手先だって震えるくせに、それでもやらなければならないと思う。

 

 

「私の名前は南部彩乃。父であり、“南部”における総責任者であった南部玄治の娘。そして今この場所に置いては、総責任者代理として立っています」

 

 

 辺りをゆっくりと見渡した。

 この場に居る者達全てが顔を上げて私を見ている。

 

 

「“南部”と“泉北”には埋められぬほどの溝が存在していることは承知しています。“泉北”が命を救われ、慕っていた“死鬼”への自衛隊による攻撃が、貴方達に多くの苦悩や犠牲を出したことを充分私は知っていて、自衛隊という組織が崩壊して“南部”というコミュニティになってもその怒りが収まるはずが無いことも理解しています。そして、貴方達のその感情を知りつつも、何の対処もしようとしなかったのも確かに私達なんです」

 

 

 死鬼の討伐。

 この地域に住まう者にとっての悲願、いや一部の者達を除いた、死鬼に恐怖しか抱いていなかった者達にとってのその悲願は結果として多くの者に不幸を撒き散らし、死を呼び込んだ。

 あれは間違いであった、なんてことは、多くの犠牲を出して成し遂げたものが言えるはずも無く、ずっと反対を表明していた“泉北”の者達に対して謝罪することも出来なかった。

 

 

「認められないでしょう。神とさえ言って慕っていた者に対する攻撃を敢行し、あまつさえこの地域に攻め込んだ“破國”を撃退したばかりの“死鬼”に対して行った非道な行いを。彼女に多くを救われた貴方達は認めることが出来ないでしょう。そうして重ねていった憎悪が生んだのが、先ほどの襲撃だった」

 

 

 重なり続けた憎悪が、行き場を無くして牙を剝いた。

 結局、まとめてしまえばそれだけだったのだ。

 

 

「私達は貴方達に攻め込まれました。理不尽にも思える強襲で、多くの人が命を落とし掛け替えのない人達を失うこととなったのです。事情があったのかなんて知りません。喧嘩ばかりだったけれど決して嫌いでは無かった父親が動かなくなり、恨みが無いとも言えません。手放しに貴方達の行為を全て許せるほど、私達は聖人ではありません」

 

 

 “南部”で生き残った者達が頷くのが分かる。

 復讐の対象が目の前にいるのだと、怒りに震えているのが分かる。

 復讐させろと多くの者が視線で訴えてくる、その怒りをぶつけさせろと言外に示してくる。

 

 でもそれを私は許さない。

 

 

「許すことは出来ない。この先も貴方達を許すことが出来る日は永遠に来ないかもしれない。命を奪った今の貴方達は仇であり、恨むべき相手でしかない……けれど、私達はこのまま殺し合うべきでは無い。そう思うのです」

 

 

 憎らしげに睨み付けられるような感覚があらゆる方向から向けられている。

 お互いに矛など収められるはずが無いだろうと思っていても、こうしなければならないと、私は何処かで確信しているのだ。

 だから、口を動かすのを止めることなんて出来ない。

 

 

「過去を水に流すこと何てお互いに出来ないでしょう、私もそれをすると言い切ることは出来ません」

 

 

 崩れ落ちていた水野という女性が立ち上がりこちらに歩いてくるのを見て、そちらに身体を向けた。

 相対して、ゾッとするほどの憎悪を身に浴びて、それでもこの場に居る者達全てに聞こえるように言葉を続ける。

 

 

「――――それでも私達は協力するべきで、手を取り合うべきです。悔恨を残したままではまた同じようにすれ違います、清算させ切ることは出来なくとも歩み寄ることは必要なんです。私達は過去を生きている訳ではなく、今を生きて未来に進んでいるのだから」

「……私達が貴方達のことをどんな風に考えていようとも変わらないと?」

「ええ、それでも」

「貴方以外の“南部”の者達が納得していなかったらどうすると言うの?」

「総責任者であった父はもういません、代理として私が発言するのは間違いではなく、その反感は全て私が甘んじて受けましょう」

「……貴方は……」

 

 

 じっと視線を合わせていた水野が、少ししてようやく顔を俯けて自嘲するように笑った。

 

 

「貴方は……強い人なのね……。若い貴方がそう願うなら、私がとやかく言えるものでは無い、か……」

「これから先、コミュニティは不要です。“南部”も“泉北”も“東城”も、バラバラでは生きていけません。私達は一つの意思となって歩むべきです」

「……つまらない意地の張り合い、そんなものをしてきたせいでバラバラになった私達は見る方向を間違ったのね」

「ええ、だからこれからは同じ方向を……全く同じとは行かないでしょうけど」

 

 

 手を差し出す。

 水野はぼんやりと差し出した私の手を眺めていたが、少ししてから迷うようにゆっくりとその手を取った。

 “泉北”と“南部”、二つのコミュニティによる長い確執を納めていくためのはじめの一歩を踏み出した。

 

 

「ここを転機としましょう、ここから私達は始めるべきです」

 

 

 未だに迷いを滲ませていた水野の視線が彷徨って、隣でこちらを窺っていた死鬼に辿り着いた。

 心底楽しそうに二人を見詰める死鬼の姿をその目で捉えて、ようやく迷いを打ち切った彼女は繋いだ手を力強く握りしめてきたのだった。

 

 

 

 

 

 

 あれから“泉北”が得ている情報を聞き出し、この場所を休憩場所として借りることが出来た。

 “泉北”の攻撃により命を落としてしまった者達の亡骸を感染しないように処理をして弔うことも出来た。

 こうして拠点を失った私達からすれば亡骸を弔え、休む場所も提供して貰えたのはこれ以上無いほどの好条件であるのだが、失う原因となったのが“泉北”と考えると素直に感謝をしにくい状況なのだろう。

 “南部”の生き残った者達がそれぞれの傷を癒やしつつも、何か言いたげな眼差しで私を遠目に見詰めている。

 

 既に考えは彼らに伝えた。

 これから先お父さんを失った私達が進むべきだと思う道をしっかりと彼らに話した。

 恨みに恨みを重ねて行けるほど、私達に余裕があるわけでは無く、この機会を逃すことは出来ないのだとしっかりと言葉にして伝えたのだ。

 それでも彼らが納得できないと言うならばもはやそれは私の範疇では処理できない、好きにして貰うしかない。

 

 今なお、これで良かったのだろうか、なんて不安が頭を過ぎる。

 もっと上手くやる方法があったのでは無いか、このまま進んでも争いは無くならないんじゃ無いか、そんなことばかり考えてしまう。

 じっと一人大聖堂の長椅子に座り顔を俯けて自問自答を繰り返していれば、“泉北”の子供達に囲まれ話し掛けられていた死鬼が小さな子達を振り切って寄ってきた。

 ……やけに嬉しそうな気配を滲ませている。

 

 

「彩乃、立派だったぞ。疲れたなら横になって休め、私が見ておいてやる」

 

 

 労いの言葉を掛けてきた死鬼に対して手を振って必要ないと答えれば、死鬼はそうかと呟いて隣に腰掛けてきた。

 

 “泉北”と“南部”。

 交わることが無いとさえ思っていた二つのコミュニティが、死鬼という両方の根幹に深く関わる異形の立ち会いの下協力することとなった。

 想像さえしていなかった事態だ、話が通じるなどどちらも考えてすらいなかった。

 

 機会も切掛けも、舞台さえ作ってくれたのも隣にいる死鬼だった。

 こいつが隣にいなければ、恐らく水野という女性も私の手を取ることはなかったのだろうと思う。

 

 

「……ありがとう。貴方が隣にいてくれて本当に良かった」

「お前が私に感謝するなんてな。……気にするな、人間は嫌いだがお前らが何とか力を合わせて生きようとする姿勢は好ましいと思っている。先ほどの貴様の口上は……ああ、私を楽しませる良いものだった」

 

 

 なおも寄ってきた泉北の小さな子達を手であっち行けと追い払いながら、死鬼は感慨深げにそう言って口元を緩めた。

 ……喜んで貰えるのは良いが、なんだかそれだけの為にやったと思われるのも癪だ。

 きちんとそれについても言及して置こうかとして、梅利のことを思い出す。

 なんだかこいつが梅利に似通っていて、梅利自身と話している感覚が拭えなかったから頭から抜け落ちていた。

 

 

「貴方を楽しませるためにああ言ったんじゃ無いけど……まあ、良いわ。それより梅利はどう言う状態なの?」

「ん、そうか。そろそろ不味いかもしれないな」

「……は? 不味いってどういうこと?」

「まあ待て」

 

 

 そう言うと死鬼は遠くでこちらを窺っていた眼鏡を掛けた女性を手招きして呼び寄せる。

 警戒するような空気をまとったままゆっくりと近付いてきた女性だったが、まどろっこしいと手首を掴んで引き寄せた死鬼が悲鳴を上げる彼女の頬をいじくり回し始めた。

 梅利と彼女の関係は知らないが、死鬼と彼女の関係は、気になる子に意地悪してしまう男子小学生とその相手のようなものだと理解しておくことにした。

 

 

「では私が今やらなければならないことは大体終わったからな。そろそろ主様に戻ることにしよう」

「え、切り替えってそんなに簡単に出来るものなの? 私貴方のその状態についてよく分からないのだけど」

「っっ……死鬼っ! どれくらいの猶予があるのっ!?」

「そうポンポンと切り替えられるものでは無い。猶予は……そうだな、一日持てば良い方かもしれない。それに段々強固になっているんだ、壊すのも一苦労なんだぞ」

 

 

 涙目で頬をいじられていた女性が弾かれたように質問し、死鬼はそれに答えた。

 その内容を今の私は理解することが出来なかったが、何となく嫌な回答であるのだろうと、歪んだ女性の顔を見て思う。

 

 二人の会話についてより詳しい説明を求めるために死鬼に言い募ろうと視線を向けるが、彼女はいつの間にか自身の片角を両手で握り、息を整えていた。

 何をするつもりなのか、そんな疑問を口が言葉にする前に、視線を私達に向けた死鬼が眠る前の挨拶でもするかのように口を開いた。

 

 

「――――では、主様を頼むぞ。私は少し、眠るとしよう」

 

 

 恐ろしいほどの力を込められ、握り締められた角が砕け散る。

 ゆったりと眠るように脱力した死鬼の身体は私にもたれ掛かり動かなくなった。



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理解されることのないもの

 昔のことだ。

 夢から覚めるよりもさらに前。

 

 その時の私は受けた傷が思っていたよりも深く、軽い休息を取ろうとしていたのだが。

 警戒もおろそかに、ただ傷を再生するためにじっと身を潜めて痛みと付き合っていれば突如として襲い掛かってきた武装した人間どもに攻撃され、直ぐには治らないほどの大きな傷を負うこととなったのだ。

 ぼんやりと霞む意識の中で、攻撃してきた人間どもの最後の生き残りを始末しようとした時に頭の中に響いたのは、私に向かって指図するような誰かの叫びだった。

 

 

『―――――止めろ!!!!!』

 

 

 聞き覚えの無い声が響いたことで、生き残りを貫き掛けた手を止めて周りを見渡した。

 声を出すような者は何処にも見当たらない。

 

 

「……主様?」

 

 

 頭の中に呼びかけてみるが、返事は返ってこない。

 もはや掴み上げていた生き残りの男には興味の一つも沸かず放り捨てて、自分の顔を何度も触る。

 

 確かに聞こえた。

 確かに声が届いたのだ。

 私という存在が奪ってしまった、誰かの声が聞こえたのだ。

 

 

「主様……主様……? もう一度……もう一度声を聞かせてくれ」

 

 

 そう願いを口に出してみても、もうあの声は聞こえてこない。

 どうして……、そんな疑問に対する答えが何も思い付かず、その場に座り込み髪を掻き回す。

 怒りが胸を満たしていく、憎悪に近い感情が己に向けられて始めたのを自覚する。

 

 そんな時に、大きな罅の入った角に手が触れた。

 一度だって傷付くことの無かった双角の片方に大きな亀裂が入っている。

 

 

「――――ああ、そうか……そういうことか」

 

 

 視線を彷徨わせて、近くにあった巨大な建物を見付けあれで良いかと心に決める。

 

 ふらふらとした足取りでその建物に歩み寄って、一息にその柱を破壊すれば自重に耐えきれなくなった建物がバランスを崩し、私目掛けて倒れ込んでくる。

 降り注ぎだした瓦礫の山を見詰めながら、私は亀裂の入った大きな角を掴んで力を込めていく。

 

 自傷なんて馬鹿な事を行うなんて、普段の私からすれば有り得ないような行為だ。

 けれどその行為に躊躇は無い。

 砕け散った片角と共に急激な眠気に襲われて、巨大な瓦礫を布団にしながら意識が闇に落ちていく。

 

 

『あ、れ……? おれ、は……?』

 

 

 切望したあの人の声が最後に響いて、無意識のうちに自分の口元が緩んだのが分かった。

 

 こんな顔が自分も出来たのか。

 そんなことを今更気が付いて、私は深い眠りについたのだ。

 

 

 

 

 目を覚ましたのは、変異した女の肩を食いちぎった時だった。

 心地よい微睡みから叩き起こされて機嫌を悪くしていたものの、そんなものは直ぐに消えて無くなった。

 

 自分の意思で身体が動かせない、私の身体が誰かに動かされて勝手に動いている。

 そんな二つの自身の異状にどうなっているのかと困惑するが、口に含んだ血肉を吐き出して咳き込んだ私の身体によってなんとなく理解する。

 私の身体を動かしているのは人間であった頃の私の意識、私の身体の主なのだろうと。

 

 

『……主様! 主様、聞こえているだろう!?』

 

 

 重そうな足取りで傷付いた女性の肩を止血すると、私の声など聞こえないのか女性を抱えて歩き始めてしまう。

 

 

『主様っ、主様なのだろう!? 私の言葉を聞いてくれっ! 私は貴方に伝えたいことがっ……!!』

 

 

 何も伝わらず、何も届くことは無く。

 ただ足を速めてしまう主様の姿に、私の言葉は尻すぼみになっていって。

 最後は思わず漏れてしまったかのような囁きとなってしまった。

 

 

『私は……貴方と話がしたいだけなんだ……』

 

 

 そんな呟きは形にさえなること無く、誰に聞かれることも無く消えていった。

 今のぼんやりとした私の意識では、身体を動かしている主様に触れることも、声を届けることも出来ないのだ。

 

 はじめの内は、何度も声を届かせようと必死になった。

 それこそ就寝時や起床時は問わず、食事の時や戦闘時だって試して見たが何の進展も無い。

 もどかしさのあまり、このまま見ていることしか出来ないのかと沈んだ気持ちでいたものだが、そんな考えも割と直ぐにどうでも良くなっていった。

 いやどうでも良いわけでは無いが、優先度はかなり下がっていったのだ。

 なぜならこの現状は、主様と私は一心同体……いいや、二心同体という希有な状態なのだと気が付いたからだ。

 

 肌が触れれない?

 元々一つの身体だから常に密着しているようなものだ。

 声が伝えられない?

 主様の行動を間近で観察できるチャンスでは無いか。

 反応が無くて寂しくないか?

 寂しさはあるが今が幸せなので特に気にならない。

 結論、充実した主様観察生活を送れて私は非常にご満悦なのである。

 

 

『おお、主様は銃が使えるのか! いやなに、有象無象どもが生き残る為の道具だとしか考えていなかったが、こうしてみると格好いいものでは無いか! ……だがまあ、服装はあまりセンスが良いとは思えんが……』

『……は? 今主様に告白したかこの男……』

『素晴らしい体捌きだ! ああ、主様……この気持ちを伝えられないことがここまでもどかしいとは……』

『主様は人を救うのか……そうか、流石は主様だ! 善良で、潔白で、高潔で、可憐で……ふ、ふふふ、主様ぁ』

 

 

 こんな感じの幸せな日常を送っていた私は、もはや身体の自由を私が取り戻すなんて考えもせずにただ毎日を謳歌していた。

 

 興奮する。

 いや間違えた、破壊ばかりだった私の心が癒やされる。

 気に入らないものは全て壊せば良いなんて考えていたのが遙か昔のことのように思え、今はなんであんなに余裕が無かったのだろうと疑問に思う程だ。

 主様の行動全てが輝いて見える。

 独り言とかもっと呟いて欲しかった。

 もはやずっとこの状態であればなんて想像すらしていた私に、望んでも無い転機が訪れてしまったのはそう遠くない日のことである。

 

 球根の化け物。

 “狂乱”の主。

 感染菌を増幅させ体内に大量に溜め込み、他に与えることで死者や異形を従える力を持ったデカブツの侵攻があった。

 私が見てきた“主”クラスの中でも地力は最弱に近く、どちらかと言えば感染菌を使った搦め手で獲物を捕らえるような異形。

 

 その汚らしい手に掛かり拘束された主様は、大量の感染菌に飲み込まれて意識を保つのがやっとの状態となっていた。

 千切れ掛けた意識を手繰り、帰るべき場所へと帰ろうとするその意思を見て、思わず私の口は動いていた。

 

 

『思い残す事はないのか? やり残したことはないのか? 残した者はないのか』

『なあそうだろう、まだ何も果たせていないのだろう? ならほら示せ、私はまだ戦うと、突き進むと私に示せ!』

『ああ……主様、私だけの主様。貴方のその意思は確かに見届けたぞ。あはっ、あははっ……あははははははははは!!!』

 

 

 その時初めて意識が私に切り替わった。

 それが感染菌の増加によるものだとか、危機に陥ったことに寄るものだとかなんてどうでも良い。

 ただ怒りのままに襲い来る獣どもに力を振るった。

 これまで反撃出来なかった主様に、どこか見下したような雰囲気さえあった球根の異形を地に引き摺り下ろし、率いていた獣どもを残らず引き裂いた。

 この程度の奴らなど私の敵では無く、数分の内に獣たちを全滅させ、死にかけの状態となった球根の異形に座った私は今後どうするべきか頭を悩ませることとなった。

 

 

「……このままでは元に戻ってしまう。主様がまた眠りについて、私が行動するだけの日々が続くこととなってしまう……それは、困る」

 

 

 この球根の異形を生かしておいたのは、溜め込んだ感染菌を活用できないかと考えたのと、感染菌を吸い取る様な機能が無いのかと思ってのことだった。

 だがそれも無駄な行為だったようで、球根の異形は大人しくしており許しを請うように身動き一つしようとしない。

 

 足に少し力を入れただけでブルブルと身体を震わせる球根を嘲笑い、使えないなら踏み潰してしまおうかと思ったところであることを思い付いた。

 

 

「……ああそうか! 以前のように角を破壊すればいいのか!」

 

 

 天恵を得たとばかりに立ち上がり、生えたばかりの角と無事で在り続けた角を触れてみれば明らかに強度が違うことが分かる。

 新しく生えた方の角の方が柔らかい、いや、古い角の方があまりに固いのだ。

 一度砕けた角が生え替わり強くなるのでは無く、二度同じ傷を負わぬように身体が強化されている。

 生え替わった角がまだ馴染みきっていないための柔らかさだと考えると、これ以上時間を与えれば最悪破壊することが出来なくなってしまう可能性すらある。

 

 

「だとしても、この場で角を破壊するのはな……」

 

 

 もはや気色の悪い悲鳴を上げて一心不乱に逃げていく球根など興味も沸かなかった。

 地下の空洞から地上に戻り、主様が気に掛けていた女が籠もっているであろう教会の地下室へと向かう。

 ここにもまだ獣たちが残っていたようでかなりの数が刃向かってきたが、そんな奴らが相手になるわけが無い。

 

 全てを排除して扉の前に辿り着くと、背中から寄りかかり中にいるであろう女に……確か笹原知子だとか言っていた奴に声を掛ける。

 できる限り主様の普段通りの声色を心掛けたがどうにも上手くいかず、最後は無理矢理黙らせる形となってしまった。

 私はしっかりと眠れる体勢に入ってから罅の入った片角を両手で掴み、握り潰すことで以前と同じように眠りについたのだ。

 

 

 

 

 次に目を覚ましたのは以前瀕死にさせた球根の異形の攻撃をその身に受けている時だった。

 

 

『!!?!!???』

 

 

 寝起きで視界いっぱいを覆い尽くしていた大量の蔓に狼狽する。

 雑魚で相手にならないと切り捨てていた筈の異形との再戦に、どんな状況なのか理解できず動揺するが、主様が一息で襲い掛かってきていた球根を吹き飛ばし、後ろにいた女の安否を気にしているのを見てようやく状況を把握する。

 

 知り合いか何かは知らないが、誰かを庇って攻撃を受けたのだ。

 変装している笹原知子が弱った球根を片付けるのを確認して、庇っていた女と主様が会話するのをぼんやりと眺める。

 何故主様があの球根を倒したのだろう。

 別に主様がどうこうするべき相手ではなかった様に思える。

 そしてそのまま特に見返りを求める事も無く、主様と笹原知子はこの場を去って行くのだ。

 

 

『……分からんな、なぜ主様はこうも見返りも求めず人を救う?』

 

 

 着飾った主様の姿に覚える感動も、傍にいる笹原知子を甘やかすことに対する嫉妬も、それらを勝るほどの疑問に押し潰されてしまった。

 

 

『……分からないな……私には』

 

 

 

 

 

 

 ある日の夜。

 主様が睡眠のために意識を落とした直後、身体の主導権が私に渡った。

 

 本来私達の様な存在は睡眠を取ることは無い、身体の回復力が高いため睡眠の必要が無いからだ。

 だが主様は人間であったときの名残なのか、夜は幸せそうに睡眠に落ちる、これは別に良い。

 問題はこれまで何度もあったその睡眠時間中に、今回初めて私に主導権が回ったことだ。

 これが意味することはつまり、この身体が主様では無く回復した私へと切り替わり始めていると言うこと。

 あの感染菌を撒き散らしていた球根との闘いの影響がこうして出てきてしまっているのだ。

 そこまで思い至り、私は苦虫を噛み潰したような想いを抱く。

 

 現状を共有するべきかと考えて、さっそく顔を赤くしながら隣に横になった笹原知子へと話し掛けてみた。

 笹原知子の真っ赤な顔が驚愕へと、そして血の気が失せた真っ青なものへとコロコロ変わった挙げ句、泣き出しそうな顔で主様の名前を呼ぶものだから焦ってしまった。

 ……少々早まったかもしれない。

 話もままならない精神の弱さに参ったが、何とか現状を説明し思い当たる原因をこの娘に伝えたが、本当に理解したのかは疑問だ。

 

 

「まあ安心しろとは言えないが、主様の意識が消えたわけでも、ましてや私が主様を害そうなどと言う考えはほんの少しだってないと理解しろ」

「じゃ、じゃあ……貴方はどんな目的で?」

「決まっている、主様をこのまま見ていたい。現状維持だ」

「……どういうことなの……?」

 

 

 それからこいつ、知子と話し合って、いかに私の精神を表に出さないようにするか意見を出し合った。

 感染菌を撒き散らすような敵、強敵並びに戦いが長引きそうな奴との戦闘を回避すること。

 感情の揺れ幅が大きいと私ではなく、異形的な思考に侵食され主様の精神自体が肉体に引き摺られ異形と化していく可能性があること。

 明らかに主様に好意を抱いている知子にとって、私が言うそれらの情報はあまりに大きな衝撃だったのか力無く項垂れてしまった。

 

 喜怒哀楽が豊かな奴だ、そう思う。

 ふと昔のことが頭を過ぎった。

 過去に言葉を私に教えていた奴も泣き虫な奴だった。

 高い展望ばかり持っていて、理想ばかり語る馬鹿な奴だった。

 何とか私を人々の味方となるよう説得してきたアイツに聞く耳一つ持たなかったのはもったいないことをしたものだと、今更になって少しだけ後悔する。

 話を聞き、矛盾点を突いて、遊んでやるのも一興だったろうに……惜しいことをしたものだ。

 

 反応の無い知子の姿に飽きて、この家の中を色々物色してみることにする。

 良い建物、最高級の家具が使われているこの場所での生活は確かに快適かもしれないな、なんて思いながら保管されていたワインに気がついて思わず手を取った。

 ……酒とはどんな味がするのだろう?

 好奇心に負けた私は二、三本ワイン瓶を抱えて、知子のいる寝室へと戻った。

 

 

 

 

 

 

「梅利さんが二日酔いの影響で苦しんでいました。反省して下さい」

「う……結構おいしかったのだが……やっぱり駄目だろうか?」

「嫌われる覚悟があるなら、どうぞお好きに」

「そんな言い方をされてしまったら飲めないでは無いかぁ……、主様ぁ……」

 

 

 次の日の夜、開口一番に知子が私に対して苦言を呈してきた。

 私との対話に慣れ始めたのか切り替わったばかりの私に対して、知子はしっかりと言いたいことを突き付けてくる。

 昔の私であれば怒りを覚えていたかもしれないが、今の私としてはむしろこっちの方がやりやすい。

 何事も、迅速に意思伝達することが出来ると言うのは重要だからな。

 

 

「……今日は止めておくか……。それよりも貴様、この家に他の女を連れ込んだな? 私は別に構わないがアレは長居させておくべきでは無いと思うぞ。早々に追い出すのが吉だ」

「どういうこと? 水野さんについて私はよく知らないけれど、貴方は何か事情を知っているの?」

「いや、アイツからは異形どもの匂いがする。感染とは違う、無理矢理埋め込んだようなちぐはぐで、遠くからでも分かるような鼻につくような匂いだ。このまま置いておけば少なくとも奴の仲間にこの場所がバレてしまうだろうからな」

「異形の匂い? ……原理は分からないけど、そういうこと……」

 

 

 考え込んだ知子を放って、手に持っていたワイン瓶を置く。

 主様に迷惑が掛かってしまうならこれは止めておくべきだろう。

 

 

「それとだ、主様の状態が悪化している。本格的に手を打たないと不味い気がする」

「……悪化?」

「球根の攻撃を庇ったのが不味かった。あれの感染菌を受けたことで徐々に侵食が進んでいるようだ、私が動かそうとすれば片腕は動かせそうな気配がある」

「う、嘘ですよね?」

「本当だ、何なら昼間に貴様のことを抱き寄せてやろうか?」

 

 

 顔を青くしたり赤くしたりと忙しない知子をせせら笑う。

 こいつをからかうのは面白い、もう少し時間に余裕があればしっかりと可愛がりたいくらいだ。

 

 とは言え、冗談など言っていられるほど余裕があるわけでは無い。

 角の破壊さえ行えれば主様に戻ることも可能だが、この身体は二度に渡る自傷行為に対して耐性をつけ始めている。

 より強靱に、より強固に、私の頭から生える双角は強く禍々しくなり始めた。

 次はどれだけ強くなるのかは分からないが、次の自傷が最後となる可能性もあると私は踏んでいる。

 打開策が無ければ昔の状態に後戻り、そうなる前に何かしらの手がかりが欲しい。

 

 

(まあ、手がかりさえ掴めてしまえば私に戻った後にでもゆっくりと解決すれば良い。それが何年後、何十年後になろうと私には関係ないことだからな)

 

 

 頭を悩ませ始めた知子を眺めながらそんなことを思う私は、主様に対して不誠実なのだろうか。

 

 私の原点、私を形作る根幹、私の唯一の存在証明。

 そんな存在である主様の幸福には少しでも寄与したいとは思うが、このまま主様が知子らと共に生活する先にあるのがただ幸福であると断言は出来ないのだ。

 

 再び別れがあるだろう、人と人で無いものの隔たりがあるだろう。

 そしていつか、主様がこのまま先に進むとするのなら、その先に待つのは迫害しか有り得ないのだから。

 人を切り捨てることが出来ない主様にはきっと苦悩の日々しか待ち受けない筈なのだ。

 もっとも主様の真意をくみ取ることは私には出来ない、ならば私は私の価値観で行動するべきだろう。

 人とは異なる、私の価値観で。

 

 

「……もしも主様が私に対して願ってくれるのならば、その限りではないのだがな」

「え、何か言いました?」

「いいや何でも無い。ただの戯れ言だ」

 

 

 私達は何の為に生まれたのだろう。

 何の為でも無いなら何故私にはこうして知性が芽生えたのだろう。

 こうして人と会話が出来るようになっても何一つとして解決しなかったその疑問がまた胸に渦巻いて、打開策が思い付かなかった知子が困った顔で私を見詰めてきたのをただ眺める。

 

 結局私はどこまでも自分本位で、脆弱な人間どもとは相容れない化け物でしか無いのだ。

 

 

 

 

 

 

「っっ……」

 

 

 夢から覚めた。

 ぐちゃぐちゃに混ざり合った思考が頭を掻き回す。

 記憶の前後が分からずに今の状態が把握することができない。

 俺は誰だ、花宮梅利? それとも彼女か?

 

 ガンガンと鳴り響くような頭痛の中で、先ほどまで流れ込んできた彼女の記憶がありありと思い浮かぶ。

自分の記憶と先ほどまでの夢をゆっくりと頭の中を整理して、何とか認識を普段通りに戻す。

 

 

「あ……彩乃と屋上から落下して……? それで俺、どうなって……」

 

 

 思い出すのは記憶が途切れる直前の状況。

 落下してゆく自分と幼馴染、二人が助かる道をと縋ったのが彼女だった。

 そこから先の記憶は無く、どんな方向へ物事が転がったのかがわからない。

 

 痛む頭を抑えて辺りを見渡して、その場所が医者の使っていた一室だと言うことに気が付いた。

 過程は分からないが、どうやら自分は泉北の拠点へと戻ってきたらしい。

 

 辺りに人の気配は無い、身体に繋がれたような点滴も無く治療をした跡は見当たらない。

 身体を包む衣服だけがゆったりとした入院患者が着るようなものに変わっており、身体に着いていた筈の汚れも落とされている。

 

 

「え、ええっと……誰かがこの場所へ連れてきてくれたのかな?」

 

 

 身体を起こして、ベッドから降りて裸足のままその場を離れる。

 訳の分からない薬品が並べられた部屋の中を歩き、ぐちゃぐちゃに外国語の様なもので書き殴られたメモ紙がこれでもかと言わんばかりに壁に貼り付けられているのを眺め、薬品の中でも最も厳重に保管された白い薬品に興味が引かれて覗き込んだ。

 

 何一つ俺には理解できそうに無いものばかりだ。

 こういうのを見ると、本当にあの医者の頭脳が俺の想像の遙か上にあることを思い知らされる。

 

 

「……医者はあの巨人達は副産物と言っていたけど、と言うことは、作ろうとした目的のものって言うのはやっぱり……」

 

 

 白い薬品が揺らめくのを見終えて、そっとその場を離れる。

 何かを理解しようとしたわけでは無いが、結局何も分からなかった。

 ただ感じたのはどうしようもない忌避感。

 きっとあれは俺に毒なのだろう、だとすればこれ以上の無用な好奇心は自分を傷付けるだけだ。

 

 

「……なんで人がいないんだろう」

 

 

 部屋から顔を覗かせて外を見て、誰もいないことを確認してからそっと外に出る。

 

 自分の今の立ち位置が分からない。

 ならばあまり派手な行動は控えるべきだろう。

 ソロソロと無意識の内になった忍び足で通路を歩き人の気配を読もうと注意するが、どこからも人の気配が感じられない。

 

 

「あ、いや、寝静まった人の気配はある……もう夜遅いのか」

 

 

 引き摺りそうな衣服の裾を軽く持ち上げて、徘徊するように当てもなく歩き続ける。

 

 この拠点を治めていたお爺さんと敵対した形と成った俺であるが、彼らが信奉する異形と非常に似通ったこの容姿のおかげで、形はどれだけ敵対しようとも完全な敵意を向けられることは無かった。

 ……いいや、もう誤魔化すのは止めよう。

 死鬼である彼女から意識を取り戻した俺は、彼らにとって心の拠り所であった力ある異形であり、何かしらの期待を受けている存在なのだ。

 それが幸いしてか、あのお爺さんから俺を本気で害そうとする意思を感じることは無かった。

 せいぜいがこの場所へ連れ帰る程度だろうか。

 

 俺はそれで済む、問題は彩乃だ。

 唯一の肉親をあのお爺さんに手を掛けられた彩乃が彼を許すとは到底思えず、また同様にお爺さんも彩乃を生かす道理はない。

 俺が祈るように彼女へ願ったことを、異形の彼女が素直に従ったとは限らない。

 最悪を想定すると、彩乃の安否は絶望的なものだろう。

 今はただ、彩乃の無事を確認したかった。

 

 

「さっきの夢は……あの子の本心、なのかな」

 

 

 先ほどの見たことも無い光景と心情が、自分の勝手な妄想が生み出した夢で無いことを願いつつ、そっと頭部の角を触れてみれば片方が以前と同じように歪な形に砕けている。

 それが何を意味するのか、先ほど見た光景の中にあったものを考えれば自ずと導き出される。

 

 

「……でもきっと、あの子は彩乃を助けてくれたんだろうな」

 

 

 ありがとうと小さく呟けば、少しだけ胸が温かくなった。

 俺もいつか彼女と向かい合って話してみたいと思う。

 そうなればと期待に胸を膨らませる。

 

 曲がり角を曲がって、遠くの部屋からかすかに人の気配を感じて理由も無く息を潜める。

 僅かに聞こえる誰かの話し声の中に、彩乃のものと知子ちゃんのものがあるのを聞き取った。

 

 

「良かった……二人とも無事みたい」

 

 

 一先ず胸をなで下ろして、ふと疑問に思う。

 多くの者が寝静まっているこの時間に何故彼らは隠れるように会話をしているのだろうか。

 声を掛けるのは後回しにして、耳を澄ましてこっそりとその部屋の扉に近づいていく。

 

 

「――――ならもう、打つ手は無いと言うことなのね」

 

 

 最初に彩乃の声が聞こえてきた。

 何処か疲れたようなその声に少しだけ不安を覚えた俺は足を止める。

 

 

「で、でもっ、ならなんでこの一年間は問題なかったんですか? こんな急に悪化して、それでなお打つ手が無いなんて有り得ないじゃ無いですかっ……」

 

 

 続けられるのは知子ちゃんの声だ。

 最近は震える声ばかりを聞いている気がする、そんなことを考えながらぼんやりとその場で耳を傾ける。

 

 話の前後は分からないが、不穏な会話なのだろうと言うのは分かる。

 それも俺に関係するであろうことも、同様に。

 

 扉の隙間から漏れる光が弱々しく俺の影を形作った。

 

 

「これまでの一年間、彼が彼で在り続けられたのは経験が無かったからだ、自身の強固な身体を傷付けられることがね。そしてあの身体は学習する。僕達とは比べものにならない速度で環境に最適化していく異形の中でも、彼のアレは別格だ。傷付けられた経験を元に、より強く適応しているだろう。だから恐らく次が最後だ」

「……あの子、私としても嫌いでは無かったのだけどね。知子ちゃん、信じたくないのは分かるけどこのくたびれた医者はそうそう嘘なんて吐かないわ。研究以外碌に興味を示さない男だもの、人からの評価なんて気にもしないんだから」

「失礼な評価だ、僕だって嫌われたくない人はいる。君がそうで無いと言うだけさ」

「……ほんと腹立つ男ね貴方」

 

 

 軽口を叩く医者の声としばらく捕虜として扱った水野さんの苛立ったような声。

 彼らが話すのは恐らく俺についてなのだろうと理解する。

 

 

「現状打つ手は無い……でもそれがこのままって言う訳でもないのでしょう? 貴方が持っていたあの薬品はそう言うものである筈よね?」

「いやあれは……まだ使う段階のものでは無い、未完成品だ」

「何でも良いけれど時間が無いのは確かでしょうね。“破國”の件もある、ともかく早急にこの場所は捨てないと……泉北さんの向かった先も気になるわ」

「それなら恐らく“東城”に向かったんだと思います。彩乃さんの話を聞く限り、戦力の大部分を削ったと言う事ですし彼自身にこれ以上の隠し球は無いでしょう。なら次は現状最大コミュニティの“東城”に助力を求めるのは当然です。……それが可能かどうかはまた別ですが」

「確か死鬼討伐作戦が話題に上がったとき、反対していたのは“泉北”と“東城”だったわね。単なる偶然で、東城が泉北の爺と繋がりがあるとは思えないけれど、あの女は何を考えているか読めない」

「……私は泉北さんの交友関係をおおよそ把握していますが、あの方と繋がりがあったとは思えません。会話の一つもしているのを見たことありませんでしたから」

 

「難しい話はいらないだろう。結局、次にどうするかを決めようじゃ無いか」

 

 

 沈黙が一瞬だけ辺りを包んだ。

 熱くなり始めていた筈の会話を医者が一言で断ち切った。

 

 

「これから僕達が直ぐにするべきなのは、この場所を捨て東城に向かいこれ以上場を掻き回させないために泉北のお爺さんを捕まえること、これだろう?」

 

 

 黙り込む他の者に追撃を掛けるように、医者は文章でも読み上げるような淡々とした口調で言葉を続ける。

 

 

「“破國”の再侵攻に猶予は無い。都市ごと挽き潰す奴らはもう目の前にいる、それの対処をしなければ僕達はそろって全滅するだろう。そして泉北が貯蓄してきた異形の戦力はもう大部分を失った、対抗することは出来ないだろうね。あんな奴に単体で勝てるのは死鬼だけだ」

 

「――――それで君たちはどうしたいんだ。この場所の現状を知って、梅利君をどうしたいんだ。君たちに必要なのは梅利君か、それとも死鬼なのか?」

 

 

 返答は無かった。

 



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進む先を選ぶ時

 平凡な人生だった。

 普通の家庭に生まれ、特徴の無い暮らしをして、それで満足するだけの人生だった。

 

 年老いた妻がいた。

 大人になった息子と娘がいた。

 二人が連れてきた結婚相手と、生まれた小さな命に囲まれて、慎ましくも幸せな生活を持つことが出来ていた。

 これ以上望むものがあるだろうか。

 それなりの会社に勤め、それなりの結果を残し、それなりの地位を築いた私は定年後に過ごす妻との生活を心待ちにするだけで充分だった。

 酒は嗜む程度、賭け事はせず、積み立てていた充分な貯蓄によって残り少ない人生を不自由なく過ごせることを何一つ疑いはしていなかったのだ。

 

 

 そんな平穏の崩壊は突然だった。

 

 地獄が生まれ落ちた。世界が赤に包まれたのだ。

 その赤は火であり、血であり、絶望の色。

 抵抗など意味をなさず多くの人が死に絶えた。

 同僚が、後輩が、部下が死に、子供達からの連絡が途絶えた。

 一緒に逃げた妻が歪な化け物に襲われて血溜まりで動けなくなったまま笑う。

 愛していると抱き締めた妻が耳元で囁いて、歪な化け物達が私達を取り囲んで、その中で私はひたすら妻を抱き締めることしか出来なかったのだ。

 

 必死に助けを叫んだ。

 救いを求めて懇願した。

 形の無いものに、姿を見たことも無いものに、縋る言葉をただ吐きだした。

 年を取った者とは思えないほど無様に泣き叫び、自分達を救って欲しいと願ったのだ。

 救われる筈が無い、そんな確信を抱きながらも私にはもうそれしか出来なかった。

 

 だから、目の前が新しい真紅で染まった時何が起こったのか理解できなかった。

 

 

「■■……あ、ああ゛……、ごれで、はなせてるが?」

 

 

 異音混ざりの片言の言葉。

 私達を見下ろすのは小さな少女。

 真っ赤な目が光を放ち、弧を描く口からは尖った八重歯が見える、恐ろしく美しい少女。

 ただ一つ人と違うのは、頭から巨大な巻角が生えていること。

 

 

「おまえ゛ら、わたしをよんだな」

 

 

 人は私達を救わなかった。

 国は私達を救わなかった。

 神は私達を救わなかった。

 私達を救ったのは、少女の形をした化け物と言われるもの。

 

 

「にんげん……まだおわるひつようない」

 

 

 ……いいや、いいや違う。

 救うものこそが神なのだ。

 誰かの救いを求める声に、応えるものこそが神なのだと、私はその時理解した。

 

 神は目の前に現れたのだ。

 

 

 

 

 

 

「東城ォォォぉ!!!!」

 

 

 “東城”コミュニティが拠点とする建物の前で辛うじて人と分かる形の何かが吠える。

 人のものとは思えぬ大音量が周囲に響き渡り、眠っていた者やそれの接近に気が付かなかった者達が慌てて窓からそれを確認し、凄惨な姿に顔をしかめた。

 何事かと様子を窺う者達が戦闘準備を始めても、叫ぶその人型は構わず一人の名を叫び続ける。

 

 

「東城ォ、出てコいっ!! いつまで下らないお山の大将を気取っているっ!?」

 

 

 抉れた腹部、流血する体液。

 顔が変貌し原型が分からないほど腫れ上がっており、ぶら下がった両腕は地を引き摺るほど巨大化している。

 自身の身体が変貌していく過程など想像するだけで恐ろしさを感じるのに、その人型はそれを微塵も気にもせず吠え猛っている。

 

 

「貴様も私と同じ境遇ダろう!! 恩を返す時だろうっ!! 見殺しにした行いを悔いるなら、貴様は今立つべきだ!! 聞こえているだろう東城ォ!!!」

 

 

 何を言っているんだこいつは。

 おぞましい見た目のそれが叫ぶ内容に、明石を含んだ東城に近しい者達さえも訳が分からず口を噤む。

 言っている内容は分からない、だが少なくともあれは好意的な存在では無いのだろう。そう判断して彼らは銃器を取り出し建物の窓から荒れ狂う人型を狙った。

 

 

「人の責をアの方に押し付けるナ!!! 人が人を救えないのならば、もはや終ワりを受け入れるべきだ!! そうだろう東城ォ、答えろ!!!」

 

 

 錯乱しているかのような状態の人型の言葉など誰も耳を貸さない。

 誰一人としてその叫びに反応しようとせず、それを狙い澄ます者が添えた指先に力を入れていく。

 

 小さな発砲音が周囲に響いた。

 

 ほんの少しのズレも無く額に叩き込まれた銃弾が吠えていた人型を吹き飛ばした。

 ゴロゴロと地面を転がったそいつは大声に釣られて集まってきていた死者の集団に突っ込んでいったが、その死者達は足元に転がるそれに見向きもせずにフラフラとその場を徘徊している。

 やはり化け物の一種だったかと思っていれば、死者の群れの中から再びそれが立ち上がって足を引きずりながら近付いてくる。

 

 狙撃された額からは体液は全く流れておらず、傷一つない。

 妄執に取りつかれたようなほの暗い目が発砲した者を見詰め、その視線を向けられた者は冷たい汗が噴き出した。

 

 

「――――なんだあれは?」

「あ……明石さん……」

 

 

 隣に立った明石に声を掛けられて、彼は硬直から解放される。

 補強された窓枠から少しだけ身を乗り出して人型を眺めた明石が、眉を潜めながらも後ろに居た者達に手だけで戦闘準備をするよう指示を出した。

 

 

「そうか……貴様は取り合おウともしないのか……。命を救い、脅威を排除してくださった死鬼様に、何一つ報いる事無くあの方ノ元を去った貴様は……ドこまで行っても屑でしかなかっタのかっ……。こんなことであれば南部よリも先に東城を壊してしまうべきだった……」

 

 

 呟いた言葉は明石達には届かない。

 だが、泉北の方向性はもう固まった。

 

 

「……いいダろう、ならば害でしか無い貴様らは排除しよう」

 

 

 武力行使であの女を引きずり出す、それを行動に起こそうとして視界に見知った女の姿が映り込んだのに気が付いた。

 

 長い黒髪に、何処か浮世離れした雰囲気を持つ女。

 散り散りであった生存者達を纏め上げ、この地域における最大勢力を誇るコミュニティを維持し続けている、東城皐月という才媛が護衛も無く目の前に現れた。

 

 

「――――久しぶりね泉北」

「東城っ……!!」

 

 

 何処に向けているかも分からないぼんやりとした視線を泉北に向け、それを受ける人として半壊した泉北は口元をつり上げる。

 互いにこうなることを望んでいたわけでは無かったが、こうして正面から向かい合ったのは本当に久しぶりだった。

 

 彼女を追って慌てて飛び出してきた者達を東城が軽く手を上げて制止させ。

 周りで徘徊していた死者達が、建物から単身現れた東城に気が付いて動き出そうとするが、先に泉北が肥大化させた腕でそれらを引き裂く。

 お互いがお互いから視線を逸らすことは無い、その価値が他にないからだ。

 

 

「折角の貴方との会話だけれども、場所を移すのは難しそうね」

「ナに、以前は廃墟で共に過ごしていタ私達にとっては上等だロう」

「それもそうね、ところで貴方は随分体調が悪そうだけど?」

「問題は無イ。自ら選んだこトだ」

 

 

 何気ない世間話でもするかのように始まったその会話は、この場において彼ら以外には到底知り得ていない内容だ。

 

 

「その傷は死鬼にやられたのでしょう?」

「アあ、死鬼様の不興を買ってしまっタ。……それと様を付けロと何度も言っている」

「あの方は別に良いと言っていたもの、今更変えるつもりは無いわ」

「……まあ良イ、それよりも話があル」

 

 

 何処か早口でそう言って本題に入ろうとする泉北に、東城は口を噤んだ。

 

 

「“破國”が再びこコに向かってイる。戦力を整えて迎エ撃つ必要が出てきた」

「――――“破國”も死んでいなかったの? ……どこからそんな情報を」

「貴様らとは違い、私はあの化け物の動向を追っていたのだ。死鬼様から受けた傷はかなり深かったが、傷を癒やしているアレを見付けたからな」

「それで貴方は焦っている訳ね……ああ、繋がってきたわ。それで死鬼に責を押しつけるなと言うこと」

 

 

 かつてこの地域に“破國”という異形が侵攻してきた。

 かの異形は、この国の首都を陥落させたことから“破國”と名付けられた怪物である。

 もはや防衛機構が碌に機能しておらず、日々生き繋ぐので精一杯であった彼らではそんな存在に太刀打ちなど出来るはずも無く、何の抵抗もすることが出来ないまま怪物の侵攻を受けることとなったのだ。

 

 結果、まともにその化け物とやり合えたのは死鬼だけだった。

 それだけの話だ。

 

 

「死鬼が倒れ、“破國”が撃退されたのは結果論よ。あの方が私達を救おうなどと考えての行動では無い。どこにでもある、力を持った異形同士が争っただけのこと。人が何かを死鬼に押しつけた訳では無いわ」

「……本当にソう思っているのか?」

「……いいえ、違うわ」

 

 

 苛立ったような泉北の確認に東城は首を横に振った。

 

 

「一つの結果だけであれば偶然もあった。たまたま“破國”と争う形となっただけであれば、運が良かったで終わらせることも出来たのでしょう。けれど、それまであの方が積み上げてきた事実がそれを否定する」

「死鬼様が支配していルこの地域は多くの者が生き残ってイる。ここから離れた場所は比べもノにならないほど異形どもに破壊サれ、もはや生きている者がいるカどうか分からないほどだ」

「ええ、なら考えられる答えはまた違ったものになってくる」

「――――死鬼様は私達を生かそウとしてくレていたのだ」

 

 

 そして裏切ったのもまた人だった。

 

 口には出さないそんな言葉を二人は飲み込んで、睨む合うかのように対峙する。

 

 

「私達は同罪ダ。結果、自衛隊の動きを止めることが出来なかった。傷付いた死鬼様よりも破國を攻撃するだロうと言う根拠の無い自信があったことを否定できない。……私が悪い、最悪を考えラれなかったことも、死鬼様ならば無事であられルだろウと思考を停止させてイたのだ」

「……ええ、そうね」

「私は同じ轍を踏まナいっ……、私達は私達で未来を切り開くべきであり、これ以上死鬼様に頼り切るような間違いは犯すべきデは無い……! 死鬼様は拠り所であっても、道具などでは無いのだからっ……!!」

 

 

 泉北はさらに集まってきた死者達を一振りで引き千切ると、崩れた顔のまま叫び始める。

 

 

「死鬼様を討チ、自分たちの要求を無理矢理通した奴らは結局この一年なニもしなかったではなイかっ!! なにもしないならば何故あの時死鬼様を討った!? 自分たちが死鬼様に生かされていると知りなガら何故奴らはあのような愚を犯したのだ!? 過去に縋り続ける奴らはこれから先生きて行くには邪魔にしかならん! 死鬼様にとっても、人にとっても!!」

「――――……まさか貴方……」

「……東城、私ハやったぞ、“南部”を潰しタ。もはや貴様に残された道は私と手を結ぶことだけだ。手札はある、勝機はアる。残り少ない私のこノ命、思う存分利用するが良い」

「本当に南部の者達に……手にかけたの?」

「当然だろう!! 奴らは死鬼様を手にかけたのだ!! 何度あの方が人々を救ってきた!! あいつらが救わなかった命を何度すくい上げてきた!!? 救われた身である私達がっ……あいつらを許せるはずが無いだろう……!?」

 

 

 激昂していた泉北が変異した片腕を東城に差し出した。

 早く手を取れと言わんばかりの泉北に、東城は視線を迷わせる。

 

 南部が既に滅んだのであれば、この地域に残されたコミュニティは自分たちと“泉北”だけだ。

 ならばここはこの老人と協力し、迎撃態勢を構築するのがどれほど大切か理解できる。

 

 ――――だが、非人道的な行為に手を染めたこの老人と手を組むことが、どれほどの不信を買うことになるのかと東城を逡巡させる。

 

 ここは分岐点だろう、自分の今後を左右する大きな分かれ道。

 幸い後継は育てることは出来た、自分の目指すものを同じように目指してくれる者達がいる。

 自分がここで目先の利益・周囲からの自分の信頼を取り、泉北の協力を断ったからと言って、侵攻してくる“破國”の対策が出来なければこのコミュニティの全滅は逃れられない。

 泉北が用意している手札が何か分からないが、球根の“主”程度で苦戦を強いられた自分たちが、単独で“主”の中でも最強クラスであろう“破國”に太刀打ちできるとは到底思えなかった。

 だから、自分の立場が悪くなったとしても、この場で選ぶべきなのは――――

 

 

(……私がやりたいのは、私自身が生き残ることじゃなくて……)

 

 

 選ぶべき選択を決めて、泉北の手を取ろうと腕が動き掛けた。

 

 ふと、脳裏に昔の会話が蘇る。

 

 

『私はっ、人の世界を取り戻したいんですっ……! こんな希望もなにも無い現実を変える為にっ!!』

 

 

 伸びかけていた手が止まった。

 

 必死にひねり出した私の言葉を彼女が大声で笑ったのを、ついこの前のことの様に思い出す。

 馬鹿にされたと思った。

 下らないと笑われたのだと思った。

 私の夢は叶わないのだと嘲られたのだと後悔した。

 でも、それらは違ったのだ。

 

 知らず知らずのうちに緩んでしまった口元に気が付いて、東城は慌ててそれを片手で覆い隠した。

 眉を顰めた泉北に、ごめんなさいと言葉を掛ける。

 

 

「少し昔のことを思い出してしまったの。うん……そうね、私達は私達の力で立つべきよね。人の世界を再び取り戻そうというなら、それは当然よね……」

 

 

 異形である彼女に頼り続けていた自分たちが、人の世を取り戻すことなど出来るはずが無い。

 東城が思い描いていた夢は、到底叶うはずが無かったのだ。

 だから、これからは。

 

 

「そうダ!! だから貴様は――――」

「――――そう、だから私は貴方の手を取ることは無いわ」

 

 

 カチリと、懐から出した拳銃の照準を泉北の頭部に合わせた。

 目を見開いた泉北が何か行動をする前に、東城は引き金を引いた。

 

 再び銃弾を額に受けて、転がった泉北が憎悪に満ちた目を向ける。

 

 

「東城ォ、貴様ァ!!」

「馬鹿な人ね、南部を攻撃する前に私に声を掛けていればまた違った結果があったでしょうに。それをしなかったのは心の奥底では私を信用していなかったのでしょう? 選択肢を狭め無ければ、死鬼を裏切ったような私と再び手を組むことなど出来ないと」

「ッッ……! 聞け東城! 私達はある医者をコミュニティに招き入レた! 人を殺すこの感染菌に対スる特効薬を作り上げるこトが出来る者だ!! これがあれば破國に対する切り札となり得ル! 南部を攻め落としタことデ、不完全な特効薬をこの地域一帯に散布したアレを手中に収めることも出来た! 時間を稼ぐために戦力こそ失っテしまったが、まだ勝機はあるのだ!!」

「ええ、流石の手柄ね泉北。けれど罪の無い人の血で手を染めた貴方と組むことは出来ないわ」

 

 

薬物を拡散させるアレは確保した。

特効薬も開発させた。

時間を稼ぐための戦力こそ失ってしまったが手札はまだある。

 だからこそ、ここで東城の力を借りることが出来ればまだ戦えると判断したものの、それは目の前のこの女の予想だにしない回答によって覆された。

 愕然とした表情を浮かべる泉北に東城はさらに銃口を向けた。

 

 

「確かに私達人類はこれ以上無いくらい追い詰められているわ。食料も武器や資源にも限りがあって、碌に水だって飲めやしない。死者なんて言う化け物は町中にいて、私達よりもずっと強靱な異形なんてものは我が物顔で跋扈しているわ」

 

 

 動揺を隠さない泉北に対してさらに数発発砲を繰り返すが、変異した彼の身体にはまともなダメージが入っている様子は無い。

 それでも、東城はじっと彼から目を逸らさず、距離も取らず、諭すように語りかけ続ける。

 

 

「けれどね泉北、だからといってあらゆる無法が許されて、あらゆる道徳を捨ててしまったら、それはきっと人として終わってしまうから……私達はその一線だけは越えてはいけないのよ。人を導く立場にいる私達は……こんな世界だからこそ、それだけは守らなければならないの」

「死鬼様をっ……殺そうとしたような、あんな奴らをっ……だとっ……!?」

「ええ、そうよ。それが人の上に立っている私達の責任。自分の感情を抑え込んででも、私達は利を取らなければいけないの」

 

 

 すっと目を細めて、弾丸が無くなった銃を放り捨てる。

 相も変わらず傷の無い泉北が立ち上がり、近付いてくるのを見ても東城は一歩も後退りすることなくその場に立ち続ける。

 

 

「私は死鬼を裏切ったわ、そのことに弁明なんて在りはしない。私は人の世を取り戻すと言う夢だけを見続ける」

「……東城」

「けれど私は私の責任は果たすつもりよ。私が裏切ったことによって、貴方を追い詰めこんな結末を招いてしまったのならば。私が手をこまねいたせいで、こんなことになってしまったのならば――――」

 

 

 虚を突いて泉北の懐に飛び込んだ東城が、トスリと彼の首元に短刀を押し込んだ。

 

 

「――――私がせめて貴方の罪を背負います」

「カッ……!?」

 

 

 予想外の一撃に反応出来なかった泉北が、衝撃を殺しきれずに後ろにフラついた。

 赤黒い返り血で染まった両腕に見向きもせず東城は再度短刀を突き刺そうとして、明石の警告にその場を飛び退った。

 

 いつの間にか整然と整列していた銃器を持った者達が、辛うじて人型を保っている泉北目掛けて発砲した。

 銃弾の嵐があらゆる方向から放たれる。

 

 身を固くして銃弾を受けていた泉北であったが、流石にこれだけ多くの衝撃には耐えられなかったのか、強固であった身体が徐々に削り取られていく。

 削られた岩石のような皮膚が僅かに再生しようとする動きを見せるが、先にさらなる衝撃が傷口を深く抉りそれを許さない。

 ついには耐えることが出来なくなった泉北がその場に膝を着いたのを見て、東城は隣に駆けつけた明石から新しい銃を受け取りそっと変異した老人に向けた。

 

 

「とう……じょぉ……!」

「ごめんなさい。貴方の献身を私は羨ましく思う時もあったわ、けれど私は私の道を行きます……地獄でまた会いましょう」

 

 

 盲目に、狂信的に、ただひたすらに恩義に報いようとし続けた一人の老人目掛けて、東城は何の迷いも無く最後の引き金を引いた。

 

 

 乾いた発砲音が鳴り響いた。

 

 

 連続し続けていた銃撃の音がそれを境に止まる。

 削りきられた身体から流血する自身の血液に染まった泉北が目を見開いて動きを止めた。

 全ての者が呆然と言葉を失っていた。

 

 誰もなにも言えない中で、最初に口を開いたのは東城だった。

 

 

「……なんで……しきさま……?」

 

 

 そこには死鬼がいた。

 泉北が後生大事に仕舞い込んでいた、彼女が好んで着用していた着物をいつかのように身にまとった死鬼がいる。

 

 

「――――悪いが介入させて貰うぞ」

 

 

 銃弾と泉北の間に飛び込んできたその小さな人影が、飛来していた銃弾全てを吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 銃口をこちらに向けたまま、呆けたような顔をする女性を見る。

 

 東城皐月。

 何処か掴み所の無い、いつも虚空を眺めているような人が、今は色んな感情を抑えきれなかったかのような表情でこちらを見ている。

 驚きと、戸惑いと、恐怖と、それから隠しきれない喜びを含んだ顔で、何か言いたげに口を動かすがそれが言葉になることは無い。

 隣にいる明石はそんな彼女に気が付かないのか、警戒するようにこちらを睨み、直ぐにでも東城を避難させられるよう備えていた。

 

 

「しきさま……なぜ……?」

「……私の許し無く命を捨てるなど許さん」

 

 

 息も絶え絶えな泉北のお爺さんからの問い掛けにそう返すと、彼は顔をくしゃくしゃにして俯いてしまう。

 これが正しい答えだったのかは分からなかったが、どうやら彼にとっては納得できるものであったようである。

 

 正直、ほっとした。

 自分には明確な理由があってこの場に飛び込んだのでは無くて、何となく飛び込まなくてはいけないと思っただけだったから。

 

 

「死鬼、これはどう言うつもりだ!? 以前の助力は感謝するが、その行為は俺達との敵対を意味するぞ!」

「あら、なら貴方のその行為は私達との敵対の意思ということになるのだけど?」

「っっ!?」

 

 

 問い掛けに答えた女性へと弾かれたように向き直った明石が、水野の姿を捉え、その隣に立つ彩乃を見付けて息を呑んだ。

 

 

「明石秀作、コミュニティの者達に銃口を下ろさせなさい。私達は争いに来たわけじゃ無いわ」

「水野紗菜と南部彩乃だと……!? お前はこいつから攻撃を受けたのではないのか!?」

「……ええ、そうよ。死者はあまりいなかったけれど、負傷者は多かった。拠点が使い物にならなくなったから、南部というコミュニティは無くなったと捉えて貰って構わないわ」

「同時に私達は彩乃さん達を支援することにしました。私と死鬼様、そして元“泉北”の者達です」

 

 

 重たげな彩乃の返答に言葉を添えた知子が彼女達の先頭に歩み出る。

 後ろには多くの生存者達が、各々の荷物を持って彼らに追従していた。

 

 

「今ここに居るのは“南部”でも“泉北“でもありません。同じ共通の目的を持った、生きることを選択した者達の集まりです、明石さん」

「笹原知子……何なんだ。なんなんだお前達の集団はっ……?」

「決まっているだろう?」

 

 

 横から口を挟んだ俺を東城は周囲に見向きもせず、ずっと見詰め続けていた。

 探るような明石の視線を向けられて、それでも俺は余裕を崩さないように笑いを携える。

 

 

「――――対“破國”共同討伐戦線だ」

 

 

 見詰め返した彼女の黒曜石のような瞳が揺れた。

 



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それが誰かの優しさだとしても

 この地域一帯の生存者達が一同に集結した異常な光景。

 生者と見れば見境無く襲い掛かる死者も、強靱な身体能力を駆使して強襲する異形も、もう見ることが出来ないほど多くの生存者が密集したこの場所に気が付いても、一匹たりとも襲い掛かることが出来ないでいた。

 

 それは生物が持つ生存本能とでも言うべき直感が、生きている状態なのかも分からない化け物達にあの集団に襲い掛かることを躊躇させているからだ。

 知能が無く、理性が微塵も残っていなくとも、絶対に勝つことが出来ないと分かる怪物があの中に居ると言う事だけは、抜け殻のような化け物達にも理解できていた。

 

 

「対“破國”共同討伐戦線……?」

 

 

 俺が言った言葉を明石さんが信じられないとでも言う様に小さく繰り返した。

 当然、周りから自分たちの状況を窺う化け物達がそんな状態なのだとは想像もしていない彼らは、お互いがお互いに相対している生存者だけに注意を向けている。

 明石が呆然とした様子でその言葉を噛み締めて、もう一度絶対に交わることが無いと思っていた集団を確認するように視線を向ける。

 

 

「……信じられん。よりにもよって“南部”と“泉北”が……?」

「頭が固いのね、本当にそれで次の“東城”のトップに立つつもりだったの?」

「見るべきものは未来だと、私達はこれ以上同じ生存者と距離を取り続けるのは不可能だと判断しただけよ。……もっとも全員が心から賛同してくれているとは思っていないけれどね」

「ええそうね。けれど少なくとも、私と彼女が上に立つ内はこれを違えることは無いわ」

 

 

 彩乃と水野さんがお互いに交わした条件を思い返しながら、動揺する明石さんに言い捨てる。

 東城さん側に立つ者達のほとんどが、目の前のことに理解が追い付かず混乱する中で、“南部”と“泉北”のことなど気にもせずじっと俺を見詰めていた東城さんが口を開いた。

 

 

「貴方達の目的や状況は理解したわ。けれどそれで? 泉北の処遇はどうするつもり? 言っておくけれど被害は出ていないと言っても、自身を感染させ半異形と化しているその人を私は見逃すつもりは無い。それに人を殺めたであろう泉北を、何の罰も無いまま野放しになんてするつもりはないわ」

 

 

 俺を見据えたその言葉に、彩乃と水野さんは複雑な感情で表情を歪めた。

 俺の視線に少しだけ居心地が悪そうに視線を彷徨わせる東城さんであったが、今言ったことだけは譲るつもりは無いようである。

 

 罪には罰を。

 罪を憎んで人を憎まずなんて言う言葉を、きっと彼女は信用していないのだろう。

 今の俺の立場からは都合良くは無い筈なのに、彼女のような者が上に立ってくれればという好ましさを思わず感じてしまう。

 人が文化的に生活できない今だからこそ、絶対に許してはいけないことがあるのは俺も分かっているつもりだった。

 

 とは言え彼女達の立場ではこの件は平行線になり得てしまう。

 人と人の価値観では解決できない泥は俺が被るべきだろう……結果的に一緒に泥を被ることになってしまうあの子には申し訳ないが……。

 言葉に詰まった彩乃と水野さんが何か言う前に、俺は口を挟むことにした。

 

 

「これの始末を貴様らに譲るつもりは無い。この爺は私に牙を剝いたのだから、私が片を付ける。今更なにを言おうとも貴様の出る幕は無いぞ」

「っ……人と人の関わりに貴方が口を出すの?」

「はっ、それこそ貴様に口を出される筋合いは無い。……つまらない時間稼ぎはもう充分か?」

「いいえまだよっ……! この地域の生存に関わることであれば幾らでも私は食い下がるわ。その爺は――――」

 

 

 勘弁して欲しい。

 こっちも色々ギリギリなので、早く準備を整えて破國とか言う化け物の対処が先の筈だろうに……。

 ズキズキと痛み始めた頭に、理不尽なことを考えていると理解しながらも噛み付いてくる東城さんへの苛立ちを感じていた。

 

 そんな時に、背後にいるお爺さんが咳き込んだ。

 

 軽い咳のようなもので、よく聞くことのあるもの。

 それが吐血と共にあふれ出たのだ。

 

 

「――――泉北さん!?」

 

 

 血相を変えて水野さんがお爺さんに駆け寄った。

 突然の挙動に驚いたのか東城さん側の誰かが撃った弾丸を掴み取るが、東城さんにとっても発砲は予想外だったのか、険しい表情をした彼女が後ろに居る者達に叱咤している。

 ともあれお爺さんの容態が悪化するであろうことは織り込み済みなのだ、これはその方面の専門家に任せることにする。

 

 

「……ふむ、水野くん少し離れてくれ。状態の確認をしたい」

「え、ええ。お願いしますっ……!」

 

 

 追うように駆けつけた医者の姿を確認して俺は前を向き続けることにする。

 東城さんを信用していないわけでは無いが、彼らが敵対行動を取らないとは盲信出来ない。

 俺の担当は戦闘で、体調管理は医者だ。

 自分が出来ない部分は任せるしかない。

 

 そう思って後ろの確認を疎かにしたのが悪かったのだろう。

 お爺さんに駆け寄った二人が、俺目掛けて吹き飛ばされて来るのに気が付くのが遅れてしまった。

 ぶつかる直前に気が付いて、慌てて二人を抱き留める。

 

 

「なっ、なにがっ……」

「――――本当に使えナい奴らめっ!! 私がどレだけ貴様らのたメに手を尽くしたと思っているっ!!」

 

 

 先ほどの吐血がまるで演技であったかのような声量で吠え、水野さんと医者の二人を罵倒する。

 腕の中の茫然自失とする水野さんと困惑した表情を浮かべる医者の二人が傷一つ無いのを確認して、彼がなにをしようとしているのか理解した。

 

 

「この異形ノ力を手に入れて、この地を支配しよウとした私の計画が貴様達無能のせいで台無シだ!! 結局貴様らはただの操り人形にモ劣った出来損ないだった!!」

「せ、せんぼくさん……? なにを言って?」

「まだ分からんのか愚か者どモが!! お前らガやってきた行為は全て私ノ思うままであり、お前らの無能のせいでその計画も台無しニなったと言っているのだ!!」

 

 

 ぼんやりと、そう言えばこういう奴だったと思い出す。

 

 自分よりも人の為に。

 助けを求める者に救いの手を。

 異形の“私”にさえ、幸せになって欲しいとずっと言っていた。

 

 こいつは、そう言う奴だった。

 

 

「……つまり貴方は、貴方の独断でコミュニティを洗脳し、私利私欲に駆られ生存者を攻撃したとでも言うつもり?」

「――――ああそうだ……それ以外に何がある」

 

 

 馬鹿者が……、思わず小さく呟いてしまった言葉はきっとあの子のものなのだろう。

 少しだけ悲しくなって、目を閉じた。

 

 肥大化した腕を東城に向けて、全ての黒幕が浮かべるような似合わない笑みを貼り付け、お爺さんは叫び続ける。

 

 

「東城ォ!! 貴様のせいデ全てが水の泡だ!! せめて貴様は同じ地獄に連レて行かせて貰ウぞ!!」

「と、東城さん下がってっ!」

「チッ! 構えを解くな、あの異形一体程度どうにでもなる! 弾薬を無駄にするなよ!」

 

 

 取り戻しつつあった静寂が、あっと言う間に掻き消されていく。

 殺意を漲らせたお爺さんが肥大化した腕を構えて東城さんを睨み、東城さん側の者達はその殺意を感じて彼女を下がらせようと慌てている。

 一直線に走り出したお爺さんが、目を閉じている俺の横を何一つ気にせず走り抜けようとする。

 腕の中に居る二人を、軽く退くように押して、ゆっくりと拳を握って――――俺はお爺さんの腹部に巨大な風穴を開けた。

 

 

 ゴポリッ、とお爺さんの口から真っ黒な液体が溢れ出した。

 数歩ふらつき、膝を着いたお爺さんが地に伏す前に抱き締める。

 ガサガサの髪に、ボロボロの肌。

 人で無くなってしまったお爺さんの傷だらけの身体はやけに重かった。

 

 慌ただしかった東城の人達が、死にかけているお爺さんとそれを抱き締めている俺を見て黙り込む。

 隣で呆然と俺達を見ていた水野さんと医者が、ようやく状況を理解して表情を歪めていった。

 彼らに向けられるはずの矛先を、全部自分で背負ってしまった老人の決意に気が付いたのだろう。

 

 震える腕を俺の背中に回して、お爺さんは息も絶え絶えに呟き続ける。

 

 

「しき……さま……。ワタシが、わるいのです。ワタシが、やったのです……。あのモノタチは、ただ生きたかっただけなのです……」

「……ああ、分かってる」

「しきさま……しきさま……、妻はシアワセそうにネむりました……、アナタが救って下さったおかげです……貴方様がワタシタチを生かしてくれたのです。貴方様はなにも、ワルくないのです……」

「……ああ、分かっているとも」

 

 

 もうほとんど何も見えていないのだろう、光が無くなってしまった目を必死に俺の顔へと向けて、ボロボロと大粒の涙を流す老人を座らせる。

 もう、彼を立たせていたく無かった。

 

 

「……もう眠れ爺。お前はもういい……もう良いんだ」

「ワタシは……南部のモノタチを、アヤめました……。カレラに、殺される……べきでしょう。どうかカレラの元に、ワタシを……」

「お前は私の手によって死ぬ……お前は人ではなく異形に殺される。……よくあるそんな話で終わるんだ……」

「……貴方様は……優しすぎる……」

 

 

 細くなっていく老人の目を見詰めたまま、彼の頭を膝の上にのせて地面に寝かせる。

 いつの間にか握られていた手にこもる力は、もう人としても弱かった。

 

 

「貴方様は……もうヒトをスクわないで下さい……。自分だけの為に生きて下さいっ……、貴方様がいくらヒトをスクおうと、ヒトは貴方様を救わない……」

「……ああ、そうかもしれないな。だが、だからこそ私は私のやりたいようにやるだけだ。これまでも、これからも。だからそれは……お前の杞憂だよ」

「……ああ……そうでしたか。それならば……良かった……」

 

 

 頬を優しく撫でられる。

 消えていく命の灯火はもう微かだった。

 

 

「……サイゴに心残りがあるとすれば……貴方様のナマエが知れなかったことでしょうか……? “死鬼”と言う忌名ではなく……貴方様の本当の名前は……。……ああでもやはり――――」

 

 

 ほんの微かに目に光が戻って、お爺さんは俺の顔をじっと見詰める。

 くしゃりと崩れるように、お爺さんは笑った。

 

 

「――――やはり貴方様は美しい」

 

 

 それっきり老人は動かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 ぼんやりと膝の上で眠る老人の亡骸を眺め続ける。

 

 彼が話していたのは最後まで、俺では無く死鬼に向けてのものだった。

 死鬼では無く俺だと気が付かなかったのか、それとも気づいていながら死鬼に向けて話していたのか、若しくは俺とあの子の境界はもう無いようなものなのかは分からない。

 ただ、俺の都合でお爺さんをこんな形で看取ることになってしまって、良かったのかと言う不安が鎌首をもたげるのだ。

 

 

「……死鬼」

「東城、この爺がしたことは許されることではないだろう。だがこれより先、これ以上爺が残した生存者達を罰するのは私が許さん。……全ての原因はこの爺で、原因が息を引き取ったのだから矛先は納めてくれ」

「……それは……あんな芝居では……」

「……頼む」

「――――ええ、分かりました。ではそのように」

 

 

 隣にいる水野さんが目を真っ赤にして俯いて鼻をすすり、医者は苦虫を噛み潰したような表情でお爺さんを見下ろしている。

 後ろで成り行きを見守っていた生存者達の元へ明石さんを引き連れた東城さんが歩み寄り、拠点の中へと入るよう促しているのを避けて知子ちゃんが近づいてきた。

 

 耳元に口を近づけて、内緒話をする様に俺以外の誰にも聞き取れないように囁いてくる。

 

「あの……死鬼、貴方は何処まで付き合うつもりなんですか? 正直生存者同士纏まることには成功しましたが、異形の貴方の居場所はありませんよ?」

「……だろうな」

「ま、まあ、私は梅利さんが意識を取り戻すまでは絶対に着いていきますので、貴方がどんな選択をしようとも追い掛けますからね」

「……着いてくるのか?」

「当然です……! 貴方が自身満々に角を壊して、梅利さんの意識が戻らなかったときはどうしてくれようかと思いましたが、よくよく考えてみればこれで諦めるのは早すぎますからね……!」

「ふん……ご苦労なことだな」

 

 

 知子ちゃんがあの子に向けて話すのを、それっぽい受け答えで返答する。

 どうやらそれだけで俺とあの子は見分けが付かないようで、すっかり知子ちゃんはこの演技に騙されてしまっていた。

 

 

「……ところで、なんでこれまでと違って梅利さんの意識が戻らなかったんでしょうか? 目は赤いですけど角は片角ですし……」

「分からんが……感染度合いが段々と強くなっている可能性が高い。なにか別の方法を見付けなくてはまずいな」

「別の方法……難しいですね。やっぱり薬が第一候補ですよね……」

 

 

 あのとき、彼女達はこれから先の状況で、あの子と俺のどちらが必要になるのかと言う質問に答えることが出来なかった。

 それが意味するのは、感情論では人としての俺に戻るべきだろうが、現実を見ればより強く泉北のお爺さんを止めやすいあの子の方が良いと言うことに他ならない。

 

 ならばもう、所詮少しの間しか意識が保てないというならば。

 人としての弱音も、恐怖も、彼女達との関わりも、見せない方が良いのだろうと思ったのだ。

 

 所詮俺は死んだ身で、何かの間違いでこうして意識があるだけに過ぎなくて――――

 

 

 

「――――では、明石、彼らを休ませてあげて」

「分かりました。南部彩乃さん、俺の後に付いてきて下さい」

 

 

 通り過ぎる彩乃が、俺に一瞥もせず“南部”の人達を連れて明石さんの後を着いていった。

 今を生きる彼女は、苦しい立場で必死に先を見据えている。

 

 そんな彼女に、これ以上俺のことで負担を掛ける訳にはいかないのだ。

 

 

――――死者である俺が生者である彼女の足を引っ張りたくなどなかった。

 



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想いはすれ違う

 あれから、東城さん達に着いていった生存者達が拠点に入っていくのを見送って、俺は適当に近くを回ることにした。

 正直言えば、彼らと一緒に中に入ってこれからの方針などの話を聞きたいと思っていたが、あの子として振る舞う俺がこれ以上ボロを出さないとも考えらないし。

 なによりも、異形である俺を恐れる人達が大多数なのだから無理に彼らに恐怖感を与えるべきではないと思って、着いていくことはしなかった。

 だから、俺を気にして何度もこちらを振り返っていた一部の人達のことは気にしないようにして、この近くを徘徊している死者や異形を片付けておくことにしたのだ。

 

 何が何でも着いてこようとする知子ちゃんに情報を取ってくるように言い聞かせ、彼らの中に放り込んでから数時間が経っただろうか。

 あの騒音で集まってきていた化け物達をあらかた片付け終わって、彼らの拠点の入り口に門番にでもなったような気分で座り込み、暮れてしまった空を見上げてみる。

 

 中に入った者達の話し合いはまだ終わらない。

 暗くなった空は生前に見た光景と変わらずにそこにあり、雲の隙間を縫って降り注ぐ月の光が町を照らしていた。

 

 

(……意識が消えていく感じって怖いんだよな……なんだか底の無い水の中に沈んでいくような……)

 

 

 医者が話していた内容によれば、もう俺の意識は長くは持たないらしい。

 それがどこまで正しいのかなんて俺には分からないし、この先解決策があるのかも面と向かって話したわけでは無いから知るよしは無い。

 

 怖くないと言えば嘘になる、けれどそれに気を取られてウダウダ考えると、俺は面倒臭いこじらせ方をするのだ。

 

 

「……あーもう、悩むのはやめやめ。どうせなるようにしかならないし、そんなことよりもこの動き辛い服をなんとかしたいし」

 

 

 愛用していた迷彩服がボロ絹と化していたため、“泉北”の人達がどこからともなく持ってきた整えられた華美な着物を着ることになったのだが……足下がヒラヒラして本当に動きにくい。

 どう考えても激しい運動には向いていない類の衣服なのに、あの子は本当に好んでこれを着ていたのだろうか。

 周りにいた動きの遅い奴らを倒していた最中も何度か裾を踏んでしまったのだから、より激しい動きをすれば転がり回ってしまうだろう。

 

 そんなことを考えながらぼんやりと空を見上げていたから、声を掛けられるまで近づいてくる人影に気が付くことが出来なかった。

 

 

「死鬼?」

「ん……ああ、東城か。話し合いは終わったのか?」

 

 

 そっと窺うように声を掛けてきたのは、ここのコミュニティを統治する東城さんだ。

 後ろに付き添う明石の姿を視界の端に納めて、俺の隣へと歩み寄った彼女へと視線を向ける。

 

 

「ええ、今後の方針が決まったわ。“南部”“泉北”の生存者はこちらで吸収、統合する。一つのコミュニティがかなり大人数で膨れ上がってしまったけれど致し方ないわ。別側面から見れば悪いことばかりでは無いしそこは問題なし。もう一つの、こちらへと向かってきている“破國”への対処をどうするかと言う点では、一応この地を捨てると言う提案もあったけれど、ここで迎え撃つべきと言う主張が大多数を占めた結果となったわ」

「まあ当然だろうな、今更この地を離れて何処へ行こうと同じ事だ」

「そう……その通りね」

 

 

 この場所の他にどれだけの人が生き残っているのか分からない。

 どんな異形が支配している場所があるのか、状況や環境の変化に対応できるのか。

 そんなことすらも分からない、不確定要素があまりに多いこの地を離れるという選択はどうしたって取りたくは無いだろう。

 

 

「だが勝つ算段はあるのか?」

「……正直、無いに等しいとは思っているの。あれは文字通り国を破壊した異形。この国の最高戦力が整っていた筈の首都防衛さえ打ち破った化け物なのだから」

「……だろうな」

 

 

 重々しく言い切った東城さんに頷く。

 苦虫を噛み潰したように渋い顔をする明石も、状況の悪さが分かっているのだろう。

 東城さんの言葉に何の反論もせず黙り込んでいる。

 

 話し合いにおいて、少数ながらも逃走なんて言う不確定要素が多い道を選んでしまう者がいるほどに“破國”という異形は桁が違う。

 “主”と言う枠組みの中でもさらに別格。

 “泉北”が使っていた毛皮や肉片だけで、他の異形が拠点に寄りつかなかった事を思えば、それだけでどれほど次元が違うのか分かるだろう。

 

 

「アレと正面切って闘えるのは死鬼、貴方だけ。それを私は確信を持って言いましょう」

「ふん、また私にあれと闘えと?」

「いいえ、勿論私達としては貴方がアレと闘ってくれるのであればそれに勝ることは無いけれど、そんなこと期待していないわ。そうではなくて……ちょっと説得を手伝って欲しいの」

「……説得? 私の言葉で後押しになるような奴など一部の奴らしか思い付かないが……あっ」

 

 

 予想だにしていなかった頼みに一瞬呆気にとられたが、東城さんが視線を向けた先を見て、すんなりとした納得と共に頭が痛み始める。

 

 頑として口を開くものかと口元を引き締めて目を閉ざしている医者が、知子ちゃんに連れられてそこにいた。

 困ったような表情で俺を見る知子ちゃんの表情が、話し合いで大体何があったのか俺に教えてくれる。

 ……これはかなり手強くなりそうだ、そんな役に立たない直感がこんな時ばかり働いた。

 

 

 

 

 

 

 医者と俺が初めて顔を会わせたのは、俺がこの身体で目覚めてから一月ほど経ってから。

 廃病院でひたすら感染菌の研究を一人で続けていた彼は、罠などを駆使して捕らえた死者すら材料とした非人道的な研究をしていた。

 勿論それは元が人で在る以上褒められた行為でないとは思うが、こんな状況だ。

 この状況の解決策を何かしら得るためならばある程度は仕方ない部分はあると思うし、実際俺もその光景を目の前にして医者に対して軽蔑を持つことは無かった。

 それは俺が命を落とした者達から衣類や武器を剥ぎ取っていたと聞いても、知子ちゃんが動揺一つしなかったことを思えば当たり前の考え方なのかも知れない。

 

 ……けれど、それはあくまで第三者視点で物を言う場合だ。

 もしも自分が知っている人が死者と化していて、それを捕らえて研究材料にされていると知ればどうなるだろう。

 家族、若しくは恋人がその様なものにされていると知ればどう思うのだろう。

 人を救うために医術を学んでいた者が、その先に人を救うことが出来るのか分からないままで人であったものをいじくり回すのはどんな気分なのだろう。

 

 

――――そんなもの、俺には到底想像も出来なくて、ただただ苦しいのだろうなんて事しか分からなかった。

 

 

 俺が医者と初めて会った時、医者は正気を失っていた。

 

 見えないものに怯え、ただ狂った様に研究をする。

 彼の姿はもはや骨と皮しか無く、初めて見たときは死者と見間違えてしまったほどに痩せ細り衰えて。

 俺の姿を視界に捉えても、まるで路傍の石でも見るような光のない目は変わることがなかった。

 

 元々医者になるような人だ、人を救うことを何よりとしていた彼には研究者の真似事など負担にしかならなかったのだと今だから思えるが、その時は正気を失った人間だと思って色々やってしまった。

 ……結果的に彼は正気を取り戻し、俺を恩人と、友人だと言ってくれる様になったが、俺のやった事なんて褒められたことじゃない。

 ただ単に彼を取り囲んだ変異した異形を倒し、彼に縁があったであろう死者を倒し埋葬して、彼自身をぶん殴っただけ。

 それだけなのだ。

 

 俺と彼の関係は軽口を言い合える関係ではあっても、一人で何年も研究を続けるような頑固者の説得など出来るような間柄ではない。

 そう、俺は思っていた。

 

 

「――――悪いが僕は特効薬をこれ以上作るつもりも、使用することを許可はすることも出来ない。あれは不完全で危険が多い、到底実践に使用できるようなものとは言えないからだ」

「嘘ね、泉北の爺は貴方の薬を切り札と見ていた。作り出した従う巨人は時間稼ぎにかなら無いと割り切っていた。となればその薬の効果は、“破國”すら倒し得るものだとアイツは分かっていた筈よ」

「いいや、僕は何度でも言おう。僕の薬は不完全で到底使用なんて出来ないものだ。使用することも、これ以上量産することも許さない」

「……頭が痛いわ」

「お前っ、状況が分かっているのか!? 俺達が生きるか死ぬかの瀬戸際なんだぞ!?」

「……明石、止まりなさい。恫喝したってなんの進展にもならないわ」

 

 

 頑として首を縦に振らない医者に、東城さんはこめかみを押さえ、明石さんは医者に詰め寄る。

 医者に付き添っていた知子ちゃんが慌てて間に割って入り、目の前の空気はもはや最悪に近い状態になっていた。

 

 

「ちょっ……こんな時に何を争っているんだ!? 馬鹿なのか貴様らはっ、馬鹿なんだろう!?」

「うるさいぞ死鬼とやら。僕は彼のことは友人だと思っていてもお前のことはどうだって良いんだ、異形程度が人の会話に入ってくるな」

「ちょっと貴方、死鬼に対して攻撃的なのは見過ごせないのだけど?」

「え、東城さんっ!?」

「わわっ、貴方も口を慎んでっ、東城さんと明石さんも落ち着いて下さい! 死鬼っ、ちょっと東城さんを抑えるのを手伝って!」

「……なんぞこれぇ……」

 

 

 さらに混沌と化した場に、取り敢えず知子ちゃんに言われるままに氷点下のような目で医者を睨んでいた東城さんの背中を落ち着かせるように撫でて、明石の袖を掴んでおく。

 明石さんは困ったように袖を掴んだ俺の手を見て止まり、憎悪すら浮かべて医者を見ていた東城さんは頬を染めて口をモゴモゴさせ停止する。

 

 一先ずは二人を抑えることは出来たが、医者が心底忌々しそうな目で知子ちゃん越しに俺を見ている。

 感謝こそされても、そんな目で見られる覚えはないんだけど……。

 

 

「……別に効果がある無しなんてやってみれば分かることだろう。使用くらいはしても良いんじゃないのか?」

「はっ、これだから頭が異形な奴は困る。こんな世界中に蔓延している感染菌に作用する薬の使用が、試しにやってみよう程度で出来るようなものな訳がないだろう」

「あ、頭が異形っ……!?」

「薬なんて聞こえは良いかもしれないが、別側面から見れば毒なんだ。その効果がどうであれ、思いもしなかったような副作用が働く可能性だって否定は出来ない。……それこそ、今以上の地獄が生まれる可能性だってあるんだから」

「頭が……異形……」

 

 

 グサリときた言葉を思わず繰り返して愕然とする。

 百足のような奴や蜘蛛のような奴、果てには球根の様な奴もいたが、どいつも言葉も発せ無いようなアホばかりだった。

 あの子のような口調で話してはいるけれど、話した内容は俺の考えであったのに、アレらと同じ……。

 

 医者が何かを説明しているが、真っ白になった頭には何一つ話が入ってこない。

 

 

「お、お前、流石に言い過ぎだろう。もう少し優しく……」

「……この見るに堪えない不衛生男。舌を引き千切って吊してやりましょうか……」

「ふん、やれるものならばやってみるが良い。僕も頭の悪い奴らに手を貸したくなど無いからね」

「し、死鬼ーー! ショックを受けてないでその二人っ、特に東城さんの方をしっかり止めておいて下さいーー!」

 

 

 知子ちゃんの悲鳴のような叫びに現実に引き戻された俺は、もはや瞳から光を失った東城さんを慌てて羽交い締めにする。

 頭二つくらい高い東城さんを羽交い締めにするのは大変だったが、幸い身体を密着させただけで東城さんは脱力してしまったため力は特にいらなかった。

 東城さんを見て顔を引き攣らせている明石さんに、後は任せろと視線で訴えて建物の中に戻るよう顎で示した。

 

 

「あー……明石、お前は東城を連れて戻っていろ。私の方からこの医者に話してみる」

「お前――――そ、それは構わないんだが……いや、分かった。頼む」

 

 

 借りてきた猫のように大人しくなっている東城さんを明石さんに引き渡し、暗い感情を乗せて俺を見続けている医者に歩み寄った。

 東城さん達が話し声の聞こえない場所まで行ったのを横目に確認して、手を出すんじゃないかと警戒している知子ちゃんの肩を軽く叩く。

 

 

「安心しろ、力でどうこうするつもりはない。少し二人で話させてくれ」

「……私、貴方を気が長いとは思っていないんですけど」

「私だって成長するさ。それにこの医者とは話しておきたいこともある」

 

 

 そこまで言えば知子ちゃんは疑わしそうな視線を俺に向けつつも、暴れないで下さいねと一言声を掛けた後に東城さん達の後を追って拠点の中へと戻っていってくれる。

 一人残された医者は胡散臭そうに俺を眺めながら、刺々しい態度を崩すことがない。

 

 

「……さて、これで二人きりになった訳だが僕から君に用は無い。薬を使うつもりもなければ、この件で彼らに協力しようと意思もない」

「……」

「この場所や生存者達に愛着なんて無くてね、そろそろ僕はここから離れようと思うんだ。“破國”なんて言う化け物は一介の医者でしかない僕の手に負えない」

「…………」

 

 

 医者が知子ちゃん達を見送り続けている俺に向けて何かを言っているが、そんなことはもうどうでもいい。もうやるべき事は決まっていた。

 あまり状況が分からないであろう、遠目の位置まで彼らは離れたのを確認して、未だに一人で話し続けている医者へと向け直る。

 

 驚いた様に少しだけ目を見開いた医者に近寄り、彼にだけ聞こえるような声でそっと話し掛けた。

 

 

「僕の力なんて微々たるもので、作成した薬も大した効果を期待できない。何なら一つ渡そうか? それを使って確かめてみ――――」

「……さて初めに言うが、力でどうこうするつもりは無いと言ったが、あれは嘘だ」

「――――……は?」

「存分に手加減するから歯を食いしばれ」

「ばっ、馬鹿止めっ……!?」

 

 

 パーンと、デコピンされた医者が地面を転がった。

 物も倒せない程度に調整した筈だったが、それでも額を抑えてゴロゴロと転がる医者を見ると相当な威力だったのだろう。

 目を白黒とさせ、目尻に涙を浮かべている医者に俺は近付いた。

 

 

「おい藪医者、嘘ばっかり付いてんな」

「!!? ??!!」

 

 

 訳が分からないと言いたげな表情の医者はまだ状況が掴めていない。

 でも俺は、こいつに対してはろくに状況を説明する必要が無いことを知っている。

 俺と医者の頭の回転速度は天と地ほどに差があるのだ。

 だから、俺は彼の状態を無視して自分の言いたいことをひたすら突き付ける。

 

 

「お前が作った薬がまだ未完成なんて事はないだろ。前に試作品だと言っていた物でも充分効果があったもんな」

「な……き、君は……」

「救えなかったのを後悔して、ずっと研究を続けていたんだろ? その成果を出せるときなのに何を怖がっているんだよ藪医者」

「――――……梅利君」

 

 

 俺の名前を呼んで、医者は力が抜けたように俯いた。

 ほっとしたような、どうすれば良いか分からなくなってしまったような、そんな顔が最後に見え俺は頭を悩ませた。

 

 ……らしくない。

 本当にこいつらしくない。

 殊勝な態度を取る奴じゃなかったはずなのに、目の前のこいつの態度は姿形がそっくりな別人だと言った方が納得できてしまうほどに違和感を覚える。

 こいつはなんて言うか、もっと変人で、もっと自己中心的な奴だったのに、今の医者はそれが見る影もない。

 

 

「まーた何か悩んでるんでしょ? 知ってるよ、前もそんな感じだったもんな」

 

 

 隣に座る。

 何の反応もしない医者の横で、ついさっきまで見ていた空を見上げた。

 そうして何気なく彼に話し掛けるのだ。

 

 

「“破國”ってやつが怖いの? それともこうして生存者達が集まった事が気に入らない? 泉北のお爺さんが死んでしまったことが許せない?」

「……いいや、そうじゃない。そういうことじゃないんだよ梅利君……」

「じゃあ……どういうことなの?」

 

 

 ポツリとしたそんな返答があって少しだけ口を噤んで彼の言葉の続きを待ってみたけれど、彼は続ける言葉は出そうとしなかった。

 

 

「……俺ね、実は昨日の夜に目が覚めててさ。皆が話しているのをこっそり聞いちゃったんだ」

「……それは……」

「この世界で俺が必要なのか、それともあの子が必要なのかの問い。理由は分からないけど、協力してくれるあの子は凄い強いみたいだし、これから襲ってくるって言う“破國”を思えば戦力がある方を取った方が良いのは確かでしょ? ……だから、その問い掛けで皆が何も言えなくなっているのを見て、当然だと思うと同時に怖くなったんだ。見知ったあの子達に俺がいらないって言われるのが怖かったから」

「……ああ」

「……だから、こうしてあの子の振りをして、俺の意識が続く最後の期間を無かったことにしようとしてる。ね、情けなくて恥ずかしいでしょ?」

 

 

 医者が顔を上げて、赤くなっている額が見えた。

 何か言いたげに歪んだ顔は、彼の言いたがっていない話の内容と関係があるのだろうか。

 

 それでもやっぱり医者は、俺がこんな弱音を吐いても想像通り俺を責めようとする素振りなんて一切見せず、弱々しく微笑みを浮かべて言い聞かせるように話し掛けてくる。

 

 

「君のその感情は当然だ、恥じる必要は無い。君は優しいものな、そんな風に悩んでしまうだろう」

「お前、俺の事になるとなんか優しくなるのな……」

 

 

 ようやく開き始めた医者の口を止めないよう、話を続けていく。

 

 

「これが俺の恥ずかしい秘密なんだ。正直誰にも言わないまま消えてしまおうかとも思って居たから、こうしてお前に話している事に自分でも本当に驚いている」

「それは……信頼されていると喜ぶべきなのかな?」

「あー、うん。そうだね、お前の事は信頼してるよ。人間性も、才能も努力もね」

 

 

 だから、と繋ぐ。

 

 

「俺と会ったときから経った時間を、お前が無意味に過ごしたとはどうしても思えないんだよ。お前が作った特効薬って言うのがどんな物か欠片も理解できないけど、でも何の効果も見込めない何て思えないんだ」

「……また君は変なことを言う」

「教えて欲しいんだ、何を嫌がっているのか。お前の言っている未完成な薬じゃ何が足りないのか、教えて欲しい。ほら、このまま東城さん達のコミュニティにお世話になるならあまり悪感情をもたれない方が良いだろうし、俺もできる限り協力するしさ、材料集めとかなら任せてよ」

「……」

 

 

 ここまで言っても彼は口を重く閉ざして俯いてしまう。

 

 どんなことを抱えているのだろう。

 口にしてもらえないと何が問題なのか分からない。

 けれど俯いた医者の表情は沈痛で。

 悲しんでいるような、怒っているような、若しくは自分の力の無さを悔いているような、そんなもの。

 

 どうしたものかと頭を悩ませていれば医者は頭を振って、ようやくポツポツと口を動かし始めた。

 

 

「……特効薬は以前も作られていてね。その研究チームには一応僕も参加していたんだ」

「え、そうなの?」

「そうなんだ、君が意識を取り戻すよりも前、国がギリギリのところで何とか機能を維持していた頃の話だ。あの頃は空気感染や虫や小動物からの感染があって、今よりもずっと感染経路が広く本当にどうしようもなかった」

 

 

 これがその時完成した対抗薬だ、そう言って薬品を一つ懐から取り出して地面に置いた。

 

 

「研究チームが組まれ、実用の範囲に入ったと思われた試作品を国が主導で散布した。……本当に限界だったからね、あらゆる面から効果を確認したとは言い難かったけれどマウスやモルモットで試した時は問題なく作用していたから、何かしらの働きはあると期待していたんだ。結果だけ言えばご覧の通り、空気中の感染菌や小動物、虫と言った対象が小さいものは滅菌する事が出来たんだが完全な排除には至らなかった」

「あっ、それは聞いたな。それから首都が陥落して研究も無くなっちゃったの?」

「ああ、そうだね。しかもこの対抗薬の散布であったのは良いことだけじゃなくて、巨大な昆虫の形をした異形はこの頃から出てくるようになったんだ。様々な特性を持った異形の発生に対応しきれなかった防衛していた者達は、これに潰されたと言っても過言では無いかな。ああそう言えば、これは秘密だった」

「え、ええ……それ俺に言っちゃうのか……」

「ふふ、君だから口が滑ってしまったのさ。……それで、この対抗薬を主導して作ったのは、僕の一つ上の先輩でね。間接的にこの国を完全な崩壊へと導いてしまった先輩は何とか自分の犯したこのミスを取り返そうとして、結局何も出来ないまま命を落としてしまった。だから僕がひたすら研究に勤しんでいたのは、単にあの先輩の研究を無駄にしたくなかっただけなんだ。僕は君が思っているような善人なんかじゃなくて、身近な人が助かればそれでいいと思っているような自分本位な人間なんだよ」

「ん? んん、それは割と知ってるけど……何が言いたいんだ?」

 

 

 俺がそんな風に軽く返せば、医者は引き攣ったような笑みを浮かべて、そっともう一つ薬品を取り出した。

 医者の部屋で見たあの薬品。

 触りたくないと直感した、白い液体の入ったガラス管がそこにある。

 それを取り出した医者は誇る様子は微塵もなく、むしろ苦々しげにそれを睨み付けていた。

 

 

「これは、僕が辿り着いた完全な感染菌に対する特効薬。間違いなく感染菌を殺し尽くす薬だ」

「――――す、凄いじゃんか!? なに!? 何だよ、なんで出し惜しみなんてっ!?」

「これの作成が終わったのはおよそ一ヶ月前だ。その間、僕と泉北のお爺さんで話し合って、これは使わないと言う方向で話が纏まっていた」

「……え?」

「……もう一度言う、僕は身近な人が助かればそれでいい。家族は死んだ、慕っていた先輩も死んだ、関わりがあった者達は皆もういないんだ。僕にはもう、大切と言えるのは君しかいないんだよ梅利君」

 

 

 薬品に向けていた視線を上げれば、医者はじっと俺を見詰めている。

 くたびれた顔だ、お父さんよりも年を取って見えるその顔は幾つもの皺が刻み込まれ、優しげに下がった目尻は母親の様な慈しみを思い出すそんな顔。

 

 彼はそっとその薬品を手に取って、何でも無いかのように大きく振りかぶった。

 

 

「――――君を殺すこんなもの。僕はいらないんだ」

 

 

 振るわれた腕はあっけなく。

 

 手に持っていた生存者達を救う、たった一つの希望は宙を舞った。

 



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見詰める先にあるものを

 数秒、宙を舞うガラス管と座ったままの医者を視界に捉えたまま呆ける。

 理解が追い付いたのはガラス管が弧を描いた後で、硬直から解放された瞬間俺は飛び出した。

 

 

「何やってんだ馬鹿っ!!」

 

 

 ヒラヒラとした裾が舞い動きを阻害するし、出遅れた事でガラス管は既に落下を始めている。

 けれど、成人男性がろくな助走も付けずに投げた程度の距離なんて、この身体にとっては無いようなもので、次の瞬間には落下していたガラス管は無事に手の中に収まった。

 

 手の中にある傷一つ無い薬品を確かめてほっと息を吐く。

 そうしてから医者を文句の一つでも言ってやろうと睨むように見れば、彼は今にも泣きそうな顔をして座り込んでいた。

 

 

「そうか、君は少しも躊躇することなく飛び出してしまうのか……そうか……」

「え、あ、い、いや。そういう訳じゃないけど……特効薬って言われた物が捨てられそうになったら思わず飛び出しちゃうでしょ?」

 

 

 医者の呟きに慌てて弁明してみるが、彼は耳を貸さずに俺の持っている薬品へと指を向ける。

 

 

「……それは君の好きにしてくれ、東城とやらに渡せば使い方は分かるだろう。過去の薬品散布にも関わっているからね。けれど、“主”のような化け物が死に絶えるのにどれほどの時間が掛かるのかは正直分からない」

「え、ええと、結局これはどんな効果を持っているの……?」

「……感染菌の完全な滅菌を行う。以前のものを改良し、既に体内で繁殖している菌にも作用する特効薬。例えば君がそれを体内に取り込んだ場合、身体を構成している菌が停止して身体が徐々に崩壊していくことになるだろう……」

「うわぁ……」

 

 

 ぞっと鳥肌が立つ。

 手に持っている薬品が今の自分には猛毒であると理解する。

 以前感じていたあの嫌な予感を思い出し、俺の感覚が間違っていなかったのだと理解する。

 

 

「……ああ、並大抵の衝撃じゃ壊れないけれど、君が握りしめたら間違いなく割れるから気を付けてくれ」

「ええっ!?」

 

 

 驚いて取り落としそうになった薬品を慌てて持ち直し、そういうのは早く言ってくれと医者に視線を送る。

 

 一刻も早く自分の手元から何処かにやりたいが、どうするべきなのだろう。

 そもそも俺なんかが蔓延する感染菌への特効薬を持っていてもろくに使えるとは思えないが、東城さんに渡すのもどうかと迷ってしまう。

 

 東城さんがどれだけの技術を持っているかは知らないが、医者が持つ高度な専門知識についてなら俺は僅かながらも把握している。

 その知識量と裏付けされた効果を、俺は見てきたからだ。

 医者の優秀さを知っているからこそ、俺は彼が作り上げたかなり高度であろう薬品を東城さんが迷い無く使えると信用しきることは出来なかった。

 と言うかこんなもの、絶対に専門的な知識を持たない人の手には余るだろう。

 

 となると、そもそも選択肢なんて無いようなものだったのだろう。

 

 

「あ、ああー……あのさ、俺はこの薬品を使う資格なんて無いと思うんだ」

 

 

 本当は資格というか自信が無い。

 訝しげな表情を浮かべた医者の元へ行き、座っている彼と視線を合わせる。

 

 

「ほ、ほら、お前やお前の関わりがあった人達が作り上げた結晶を、何の知識も努力もしていない俺が使うなんて筋が通ってないと思うんだ。思わず反応して取っちゃった訳だけど、お前がいらないって言うならそれに従うし、もうこれ以上使用したり製造するよう説得なんてしない」

「……でも君はここにいる知り合いを救いたいのだろう?」

「それは勿論なんだけど、なんて言うか、だからと言ってお前の譲れないものを踏みにじりたくはないって言うか。そもそも使いこなす自信も無いし、自分が死ぬかも知れないそれを使う勇気はちょっと持てないし……ともかくこれは返すよ」

 

 

 早く自分の手から何処かにやりたくて、医者の手のひらに薬を押しつける。

 彼が作ったものなのだし、どうしても使いたくないというなら強制は出来ないと思う。

 それが俺の為と言われてしまえば、俺からなんとしてでも使えと言う気にはなれなかった。

 

 薬品を手に握りしめた医者は一層追い詰められたような表情を浮かべ、縋り付くように叫んでくる。

 

 

「僕は、君が思うほど出来た人間じゃないっ……、君がこれを使わないなら、僕はこれを廃棄するのに躊躇いなんて持ちやしないんだっ……!」

 

 

 手渡した薬を医者は両手で握りしめて、震える唇から干からびたような声を出す。

 

 

「君には死んで欲しくないっ、君だけは生きるべきなんだっ……!! 頼むから僕に……君を殺させないでくれ……」

 

 

 止めてくれ、そう叫んでいるかのような医者の言葉に俺は困ってしまう。

 

 当然俺は死にたくなんて無い、けれどそれは彼も同じ筈じゃ無いのか。

 作り上げた薬を使わなければ、いつか彼が死ぬ事になるのは間違いないだろうし、悪ければここに向かってきているらしい“破國”との戦闘でそれは起こってしまう可能性は高い。

 自分一人だけでなく、他に生存者達も救えると言う大義名分があるのだから、俺の事など無視して薬を散布しても、誰からも責められることは無いのだろうに。

 

 医者はそれでも俺をひたすら優先しようとする。

 

 

(……俺の意識が消えた後、あの子がどうするかは分からないけれど、多分この地を離れる選択をするんだろう。その後の生存者達の切り札としてこの薬は取っておいて欲しいし、破棄するなんて言う選択は有り得ない。“破國”とやらの力がどの程度かは分からないけど、薬品だけで倒すことが出来るなら俺はとっととこの地を離れるべきなんだろう……そう説明すれば……)

 

「あの、さ。俺がこの場所を離れたらその薬を散布しても問題ないんだよね? なんなら俺は遠くに避難しておくし、それなら――――」

「……この薬品を散布すれば猛威を振るっているこの菌は存在すらしなくなるだろう。君の生きれる範囲は徐々に狭まっていき、そうして僕達は自分達の生存圏を広げ、いずれは君と対立することになる。その時君と僕達の生存争いが起こって、結局はどちらかが命を落とす。……君は、あの娘達の事を異形の君自身が手に掛けることを許せないだろう?」

「あー……、と、取り敢えず、薬を使用するのをここの地域だけで止めて貰えれば」

「もしも薬が正常に効果を発揮した場合、ここで生き残っている人達は果たしてその薬をこれ以上使わないと言われて納得すると思うかい?」

「て、手詰まりっ……」

「そうだ、結局はここで選んでしまうのが一番なんだ」

 

 

 あの子を、自分を選ぶのか、若しくは生存者達を選ぶのか。

 

 本当は俺の事なんて気にせず皆を救ってあげてと言うのが正解なのだろう。

 彼が医者として、過去の清算として薬を使用させてあげられて、多くの者達を救って、人類の希望を作り出すことが出来る。

 それはきっと医者にとっても、彩乃を含んだ生存者達にとっても何よりのことだろう。

 だから、俺がここでするべきなのは医者の背中を押して俺の死を受け入れる事の筈なのに。

 

 その選択を思い描いて、俺は言葉に詰まってしまった。

 俺が死ぬと言うことは、同時にあの子も死んでしまうと言うことだ。

 なんだかんだあの子には助けられているし、裏切るようなことをしたくは無いというのも勿論ある。

 けれど正直に言えば、意識が無くなると分かっているのに俺は俺が死ぬことにどうしようもなく拒否感を抱いていた。

 

――――道路の端で一人死んでいく、あの時の感覚が嫌にありありと蘇った。

 

 

「っっ……!!」

 

 

 冷や汗が吹き出し鳥肌が立つ。

 否応なしに口を噤んだ。

 何も医者に返答する事が出来ない。

 

 幼馴染一人を助けるために命を掛ける事が出来たのに、今の俺は幼馴染を含んだ多くの人を救うためにも関わらず、命を捨てる決断を出来ないのだ。

 その事実に愕然とする。

 

 

「ここは瀬戸際なんだ梅利君、君は人間なんて信用しちゃいけない。君は自分自身のために行動するべきだ」

「――――……」

「もうあまり時間は無い。よく考えて、決断してくれ」

 

 

 何も言わなくなった俺に、医者は手に持った薬を握りしめて立ち上がる。

 

 

「君の意見を尊重するが、何の返答も無ければ僕はこれを廃棄する。……全ての責任は僕が負う、それでいいんだよ」

 

 

 それだけ言って背を向けた彼の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、医者が忘れていったもう一つの薬品を見下ろした。

 医者とその周りの人達が作り上げたその失敗作は、何も出来ずに倒れていた。

 

 

 

 

 

 

「死鬼様ァァ!! うううぉぉっっお、お許し下さいぃぃ!! 私はっ、貴方様になんと言うことをぉっ……!!!」

「……うわ、うるさっ……」

 

 

 医者との会話の後、一晩を拠点の外で過ごそうとしていた俺の元にやってきた水野さんに連れられて建物の中の一角へと案内された。

 当然そこには元“泉北”の方々が居た訳で、彼らは当然かのように俺を諸手を挙げて大歓迎したのだが……。

 その中にいた、俺が知子ちゃん達を連れて拠点に行った際に対立することとなった男性が、号泣しながら俺の前で床に額を擦り付けている。

 

 こちらに来る直前まで、泉北のお爺さんの邪魔になると判断して水野さんを処分しようとした罪で個室に監禁されていた彼である。

 流石に置いてくるのは不味いだろうと、襲われた水野さんが許す形で一緒に連れてきたのだが、この男性はどうにもかなりあの子に対する盲信が激しいらしく俺に刃向かう形になってしまったことを自分で許すことが出来ないらしい。

 

 俺は正直、代表的で大衆に受け入れられてるような宗教ならともかく、マイナーな新興宗教と言うと良い感情を持っていない、と言うか絶対怪しいと思っていた。

 今もその感情は消えていないし、夢にも思わなかったその新興宗教の神輿にまさか俺が担がれるなんて予想もしていなかった。

 ……いや、性別が変わると言うものの方が夢にも思わなかったかも知れないが……。

 

 ともかく、宗教と関わる事も無かった俺は宗教に詳しくなんてないし、そんな神様みたいな扱いをされても望まれている反応を返すことは出来ないのだ。

 結局あの子を装って適当に流すしかない。

 

 

「良い、興味も無い。貴様らの内々で解決したならもう私が口を出すつもりはない」

「し、死鬼様ぁぁ、なんと慈悲深いぃぃ……。この身、貴方様の為に使いますっ……!! いかようにもお使い下さいぃぃ!!」

「ああもう鬱陶しいっ。どうでも良いから離れていろっ……! と言うかガキどもっ、近付いてくるなっ! くっついてくるんじゃない私はもう寝るんだ!!」

 

 

 しきさまー! しきさまー! と寄ってくるちびっ子達を手で払いつつ、近くにあった毛布をチビ達に放り投げ寝るように促せば、水野さんと号泣していた男性が子供達を諭して少し離れた場所へと運んでいってくれた。

 心底ありがたい、なにせチビ達は俺が思っているよりも脆い、この身体で力加減を間違えれば命に関わる可能性だってあるだろうからだ。

 

 

(知子ちゃんの小さい頃を思い出すなぁ……いや、知子ちゃんはもっと刺々しかったからあの子達とは似つかないんだけど……)

 

 

 子供は好きなんだけどな、なんて思いながら名残惜しそうにこちらを見詰めてくるチビ達を観察していれば、運び漏れたのだろう大人しそうなちびっ子が俺の直ぐ脇にいるのに気が付いた。

 長めの前髪から覗く、くりくりとした大きな二つの目が僅かな恐怖と、それに勝る好奇心で満たされているのに気が付いて小さく溜息を吐く。

 大人しそうなこんな子まで俺に興味津々とか、なんだか珍獣にでもなった気分だ。

 

 

「ほら、どうしたチビ。早くお友達のところに行け」

 

 

 早く追い払おうとあっち行けと手を払いながらそう言えば、その子は不思議そうに小首を傾げた。

 

 

「……わたしとしきさま、そんなにかわらないよ?」

「は? 何のことだ?」

「しんちょう」

 

 

 思考が一瞬停止した。

 

 

「……え? いや、ないないない。何を寝ぼけたことを言ってるんだお前は、倍以上はあるだろうっ…! 確かに私は背が高いわけではないが、お前と変わらないなんて事はっ……!」

「だいじょうぶ! わたし、みんなのなかではおおきいほうなの!」

「慰めるんじゃないっっ!!」

 

 

 思わず大きな声を出してしまい周りの人達が驚いた様にこちらの様子を窺ってくるが、目の前のちびっ子は怯みもせず、逆に笑顔になって距離を詰めてきやがった。

 こいつはいずれ大物になりそうだな……なんて思いながら、慌てて戻ってきた水野さんが俺に謝りながらその子を運んでいくのをぼんやりと見送った。

 

 

「なんなんだ全く……ああもう、悩んでることが馬鹿らしく思えてきた……」

 

 

 壁に背を預け、ふかふかの着物の中で丸くなるように身を縮こませて目を閉じる。

 眠気なんて無いけれど、こうして眠る体勢を取ることに意味があるのではないかなんて思う。

 それに俺が起きていたら、多分この人達は眠らないんじゃないかとも思うから、眠れなくともせめて眠ったふりだけでもするべきだと思ったのだ。

 

 そうやって、眠っているから近寄るなオーラを出して目を閉ざしていれば、囁くように話していた周りの者達も次第に眠りに落ちていったのだろうか、だんだんと声が聞こえなくなっていく。

 そうしてしばらく黙って動かないでいれば、見張りの人以外は寝静まったようで人一人動く気配もなくなった。

 

 

 数時間程度そのままで何も考えないで丸まっていれば、誰かが忍び足で近付いてくるのが分かった。

 東城さん達といた知子ちゃんが戻ってきたのだろうかなんて思って、隣に腰を下ろしたその人を薄目で確認しようとして、驚いた。

 そっと身を寄せてきたのは知子ちゃんではなく、ここに来てから関わろうとしてこなかった幼馴染の彩乃であったからだ。

 

 

「……疲れているのか?」

 

 

 小さく溜息を吐いている彩乃に対して、囁くようにそう問い掛けると彼女は驚いた様に身を竦ませて、やがて俺の言葉だと気が付くと安心したように脱力した。

 

 

「……ええまあね。まだコミュニティ内の人から反発があったりして、結構言い争いがあったの。でも、もうこうするしかないってその人達も内心分かっているから、多分……大丈夫」

「そうか、お疲れ様だな。特別に肩を貸してやろう」

「……それはありがたいわね」

 

 

 そう言って素直にコツンと頭を乗せてきた彩乃に、冗談抜きで疲れているのだと理解する。

 ……そりゃあそうだろう。父親が亡くなって、それを巡って意見のぶつかり合いがあって、それでも彩乃はここで一人でも多くの者が血を流すような道を選ぶことは出来ない。

 感情に任せることも、衝動のままに動くことも、若しくは全てを放り出すことも彼女は出来ない。

 

 亡き父親が残したものだから。

 これまで関わってきた大切なものだから。

 彼女にはもうそれしかないのだから。

 

 

「ははっ、あの底なしの体力お化けが本当に疲れ切っているのだな。遠慮することはない、私の隣でしっかりと休むが良い」

「……」

 

 

 無言でさらに擦り寄ってきた彩乃の頭を抱き締めながら撫でて、懐かしさに緩み始めた口元が彼女に見えないよう隠す。

 

 

「この着物は中々良い生地で出来ていてな。ふかふかで心地良いのだ、お前ももっと被さるようにだな――――」

「――――ねえ、梅利。何でそんな風に壁を作るの?」

「――――……」

 

 

 思わず息が詰まる。

 なぜ、なんて気持ちが一瞬だけ湧き出たが、相手が彩乃なのだからそれも当然かと直ぐに納得してしまった。

 

 生まれてからずっと傍にいた彼女が、俺の猿芝居など分からない筈がないのだ。

 

 

「梅利が何でそんな風に死鬼のフリをしているのかは分からない。でも、それは私と貴方しかいない時も守らなければならないものなの……?」

「ち、違う、私は……え、ええとね……」

「梅利の死鬼のフリは下手くそよ。死鬼はもっと自分を持っていて、気に入らなければ全てを蹴散らすわ。今の貴方の言動全て、いつもの梅利を思わせる」

「……完全にバレてるのか。は、恥ずかしい……ちょ、ちょっと外に行こうか」

 

 

 思わず髪を梳く動作で顔を隠し、足早に出口へと向かった。

 見張りの人が訝しげに視線を寄越したが、出て行こうとしているのが俺であるのを確認すると仕方が無いように口を閉ざした。

 もう既に形成され始めている問題児扱い……いやまあ仕方ないんだけど。

 

 何事もなく外に出て、しっかりとついてきている彩乃を確かめる。

 無意識のうちに伸びた手が頭の上に無いヘルメットを掴もうとして空を切った。

 すっかり癖になってしまっているその動作を不審そうに見詰めてきた彩乃に、誤魔化すように話題を振った。

 

 

「ちなみにいつ気が付いたの?」

「割と最初、目を覚ました梅利が自分は死鬼だと名乗った時」

「ほ、本当にすぐなんだね」

「……むしろ私を誤魔化せると思ったの?」

「いや、10年も経ってるなら行けるかなって」

 

 

 呆れられている気がしなくもないが、でもそんな筈はないので気のせいだろう。

 建物の外、ある程度距離を取ったところで彩乃と向かい合う。

 

 以前のあの時は状況が状況でろくに話なんて出来なかったから、俺が死んでから彼女としっかりと話すのはこれが初めてだろう。

 積もる話は山ほどあって優先順位なんて付けれないから一つ一つ消化していくしかないかと、成長して大人びた幼馴染の姿を正面に捉えた。

 

 

「えっと、色々話したいことはあるんだけどどれからするべきか……うんそうだね、取り敢えず、俺がいなくなってから今まで生きててくれてありがとう。これだけはずっと言いたかったんだよ」

「……っっ」

 

 

 始めに言うべきことはやっぱりこれだろうか、と思って口にしたが、彩乃は唇を噛み締めるだけで何も返答しようとしない。

 

 

「あの時の事は気にしないで、なんて言っても、彩乃の立場だとそうはいかないよね。ほら、身を呈したって聞こえは良いけど、いつも通り、考える前に身体が動いちゃっただけだから。馬鹿だなぁって笑ってくれれば気が楽かな」

「……うん」

 

 

 実際恩を売りたくて身体を張ったわけではない。

 化け物に追われていたあの時彩乃を庇ってしまったのは、これと言った理由なんて一つも無く、それこそ勝手に身体が動いてしまっただけなのだ。

 

 ふと気になって、あのとき傷を受けた左の肩口を触ってみるがそこには当然傷なんて一つも無く、白い肌があるだけだった。

 

 

「あとは……ごめんね。俺が遅かったばっかりに彩乃のお父さんを死なせてしまった。俺が迷わなければもっと別の道はあった筈なのに、そうすることが出来なかった。仇も討たせることが出来なかったし、お父さんを手に掛けた“泉北”の人達とも和解しなくちゃいけない状況に追い込んだ。……全部俺のせいだね、本当にごめん」

「それは……それは違う。私もちょうどあの場を離れていた、お父さんと意見が食い違って別行動をしていたの。もっと万全の態勢で彼らを迎え撃てればまた違った結果があった筈だから私にだって責任はある。そもそもわだかまりを解消しようとしなかった私達に原因があるのだから、勝手に責任を感じるなんてことしないで」

「あー、また意固地な悪い癖が出てるよ彩乃。言葉が足りなくて攻撃的、良いじゃん俺が謝ってるんだから俺のせいにしておけば」

「馬鹿言わないで、何でもかんでも幼馴染に押しつけれるほど私は人間出来ていないわ」

「えー……、じゃあまたいつもみたいに半分で」

「……ええそうね、半分ずつ」

 

 

 意地でも言っていることを曲げないのはよく知っていたから、いつもしていたように折衷案を提案すれば、すんなりと彩乃は引き下がってくれる。

 

 

「それに、謝らなければいけないのがあるのは私もなの。……梅利のお父さんとお母さんは最初私達と同じところへ避難していたんだけど、その、事故で命を落としてしまって……」

「……そっか。家がなくなってたから予想はしてたけど、やっぱりそうだったんだね……」

「本当にごめんなさい、どうすることも出来なかった……」

「彩乃が出来なかったんなら俺もどうしようもなかったと思うよ? 大丈夫、少しショックだけど覚悟はしてたから」

「……ごめんなさい」

 

 

 彩乃が語った内容は凄くショックで信じたくない事ではあったけど、他ならない彩乃が言うことなのだと思うと信じることが出来た。

 不思議と涙は湧いてこなくて、ただ虚無感だけが重くのし掛かる。

 

 

「……そう言えばさ彩乃。昔はこうやって――――」

 

 

 けれどこんなことで彩乃との会話を切り上げるようなことはしたくなくて、思い付く限りの話の種を彼女に振った。

 

 俺に意識が無かったあの子としての期間で多くの事があった筈だ、だからその期間にどんなことがあったのか聞きたいと思うし、彩乃に思い出話を語るのも良いだろう。

 恋人は出来たのかとか、何か新しい趣味でも作ったのかだとか、そんな取り留めの無いことを話してみて、反対に彩乃は女の身体になって不便は無かったのか、知子ちゃんとの関係は何なのかなんて事を聞いてきた。

 まるで昔にでも戻ったかのような、現状からは考えられない程にゆったりとした時間を過ごして、鉄面皮のようだった彩乃の表情が緩み始めたのを見て嬉しくなった。

 

 長い時間をそうやって他愛のない話に費やしてようやく積もりきった話の一部を消化した頃には、彩乃は眠気に襲われ始めたようだったので俺はこれからの話をすることにした。

 

 

「――――うん、それでなんで俺があの子のフリをしているかなんだけど」

「はいはい、どんなに奥深い事情が出てくるのか興味深いわね」

「なんとっ、彩乃も知子ちゃんも、医者とか水野さん達に何かを言われたわけじゃ無くて、ちょっと皆と尊大に接してみたいと言う欲望に従った結果でした!」

「なるほどね。それで本当は?」

「……ばっさり切り捨てられちゃうんだぁ……いや、勿論嘘なんだけどさ」

 

 

 冗談を適当に流すいつもの彩乃に安心して、俺は少しだけ恥ずかしげに視線を逸らす。

 

 

「ほら、俺の意識はもう長くないって聞いてるよね? これから先意識が戻るか分からないし、下手に顔を合わせて、言葉を交えて、心残りが出来ちゃったら嫌だなーって思って……」

「うん、すっごい自分本位な考えね。一発ぶってもいい?」

「ぶたれても逆に彩乃にダメージが行くと思うんだけど……あ、ほんとにビンタしやがった」

 

 

 俺をぶって逆に赤くなった手を痛そうに擦っている彩乃の姿に笑みが溢れた。

 そっと彼女の赤くなった手を握りしめる。

 驚いた様に息を呑んだ彩乃が、それでも抵抗する素振りを見せずに大人しくなった。

 

 

「球根の異形の時も散々ぶったり、殴ったり、ナイフで刺そうとしたり、銃で撃ったりしやがって。お前の方が痛々しくて逆に見てられなかったよ」

「あ、あれは……考えてみると恥ずかしいわね。死鬼は不倶戴天の敵だと思っていて、ごめんね痛くなかった?」

「ううんちっとも。……まあ、俺も自分本位な考えをしてるって分かっているんだけど、どうしてもね」

 

 

 黙って頷いてくれる彩乃に、俺はつい要らないことまで口にしてしまう。

 

 

「死ぬのは怖い、消えるのも怖い。本当は化け物となんて闘いたくない、銃だって撃ちたくない。俺の中に異形のあの子がいることも未だに呑み込み切れてないし、自分が彩乃とは違う化け物だなんて思いたくなかった。結局は現実から目を逸らしていたかった、花宮梅利としての重圧を感じていたくなかった」

「梅利……」

「医者が作った特効薬を使えば感染菌を滅菌することも可能だって言ってた。でもそうしたら俺がどうなってしまうのかなんて考えて、その引き金を俺自身で引く決断が出来なくてそこでも俺は逃げ出した。おかしいよね、彩乃一人を守るために身体を張れるのに、大勢を守るためになんて考えて、直ぐに自分の身を犠牲にすることを選ぶ事が出来なかった……おかしいよね」

 

 

 消えるのは怖い。

 置いて行かれるのは怖い。

 自分の身を犠牲にして何かを為そうとするほど、俺は強くなんて無い。

 

 生前の最後、彩乃達が死にかけた俺を置いて逃げていったのを見送ったあの時、彼女達が見えなくなった後俺は我慢できずに泣き出した。

 痛くて、寒くて、一人になるのが怖くて一人ぼっちで泣き出した。

 水に沈んでいくような感覚と冷たくなっていく手先に、嗚咽を漏らしながらゆっくりと自分が死んでいくのを自覚した。

 

 トラウマになっているのだろうか。

 寒気を覚えるほど明瞭に思い出せるその時の事が脳裏に蘇る。

 

 あれだけは、もう二度と味わいたくなかった。

 

 そんな風に思う俺は、どれだけ強い力を持ったとしても人を導くような誰かになれはしないのだろう。

 きっと多くの人達を導く事が出来るのは俺なんかじゃ無くて……。

 

 そこまで考えた俺の思考に割って入るように、彩乃が声を上げた。

 

 

「違うわ、梅利は前提を間違えてる」

 

 

 はっきりと断言する彩乃の声に、思わず顔を上げて彼女を見る。

 

 

「私はもう耐えられない。私を生かすためにどうするかを考えるなら、梅利は自分自身がなんとしても生き残る道を考えなくちゃいけないわ」

「は……? な、何を言ってるの?」

「次、貴方が消えるなら、私は後を追う。私を命がけで守りでもしたら、私は私自身で命を捨てるわ」

 

 

 確定されたような俺という意識の喪失を彼女も知っている筈なのに、自分も後を追うと言い切った彩乃に混乱する。

 思わず聞き返しても彼女はその答えを変えることはない。

 

 ただいつものように、真面目な顔で彩乃は言葉を続けるのだ。

 

 

「梅利が命を賭けるなら私の命も一緒に賭けて。自分一人がいなくなるだけで済むとでも思っているならその勘違いを正して。幼馴染の命一つ賭ける事の出来ない選択なんて私は許さないわ」

「……また彩乃の謎理論が始まった」

「なら知っているでしょう? 私は頑固なの、譲歩なんてしてやらない」

 

 

 だから、と彩乃は言う。

 

 

「自分を大切にすることが情けないなんて思わないで。自分を犠牲にすることを美徳だなんて思わないで。残されるばかりの私にその考え方は残酷よ」

「うん……ごめん」

「……ねえ、なんでこんな風になったんだろうね。どうしてそんな風に考えなくちゃいけないようになったのかな。昔はずっと一緒にいられると思ったのに、どうしてこんな世界になったんだろうね」

 

 

 隣で座っていた彩乃がそこまで言って肩に頭を乗せてきた。

 閉ざされ始めた瞼を見て、少しでも彩乃を安心させられるように頭を撫でれば、彼女はゆっくりと瞼を閉ざした。

 

 彩乃に弱音を吐いて、彼女がこんな風に言ってくれた。

 怖がっているだけの俺を悪い訳がないと言って励ましてくれた。

 単純な俺は幼馴染がそう言ってくれるだけで心が安らいでしまう。

 

 

「少し……疲れちゃった。ごめんね、少しだけ眠らせて……」

「うん分かった。起きるまで傍にいるからゆっくり休んで」

 

 

 深い微睡みに誘われて完全に目を閉ざした彼女は小さく呟く。

 

 

「もう……いなくならないでね」

 

 

 そう言って小さな寝息を立て始めた幼馴染を見届けて、言っていたとおり彼女が目を覚ますまでその場に留まることにした。

 

 

 



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最悪の結末は

 廃墟と化した町があった。

 人の気配など無い、生き物が息づいている気配も無い。

 鉄とゴムが地面にこびり付き、電柱は倒れ土を被り、枯れ木が葉も付けず立ち尽くす。

 その空虚な光景は、崩れ落ちた建物の残骸だけがかつてはその場所に人が住んでいたのだと思わせ、日中である筈なのにどこか寂しげな印象さえ抱かせる――――誰もいなくなってしまったそんな場所。

 

 だが、生き物が息づく様子のないその場所に蠢く影があった。

 それは人などではなく群れる野生生物でもなく、生き物ですらない。

 自然生物では有り得ないような変貌を遂げた死者の成れの果てが、何かを中心としてその周りを飛び回り、餌となるものを探すおぞましい光景がそこにはあった。

 死者の行進、あるいは物語に出てくる百鬼夜行さえ連想させる、地を覆い尽くす異形どもの姿は、人の身では抗うことすら出来ない大災厄と称しても過言では無いだろう。

 

 数体いるだけで町に大きな被害をもたらすであろう異形達が周りを取り囲む中で、中央を陣取る歪な異形は緩やかな足取りを崩すことは無い。

 当然だ、周りで飛び交っている化け物達はあくまで中央にいる歪な異形が作るであろう残骸を狙っているだけなのだから。

 それらが束になったところで、歪な異形に傷一つ付けることは出来ないだろう。

 

 

「■■■■ォォ……」

 

 

 歪な異形が僅かに唸り、近くで動き回っていた一体の異形を踏み潰した。

 再生力に秀で、強固な外殻を持つ筈の潰された異形は、それでも歪な異形の一撃で何一つ抵抗出来ず、物言わぬ骸へと変わり果てた。

 偶発的なものだ、歪な異形は僅かな興味も潰れた残骸に対して持ち合わせていなかった。

 足を下ろした場所にそれが居た、それだけなのだ。

 

――――眼球の無い、大木の洞のような暗い窪みがある方角に向けられる。

 

 絶対強者である歪な化け物を持って、興味を引かせた何かがそちらにはあった。

 かつて、自身と渡り合ったもう一体の化け物を歪な異形は記憶していたのだ。

 

 ズキリ、と再生しきった筈の古傷が痛む。

 

 苛立ちを隠そうともせず歩幅を大きくした化け物に追従して、百を下らない異形が群れを為す。

 

 言葉を持たない化け物どもの波は巨大な波紋のように、残る全てを飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 東城さん達の拠点に最低限の戦力を残し、武装を整えた生存者達は“南部”が使っていた拠点へ移動した。

 生きていくために必要なものを取り揃えている拠点を守り切れず壊されるのは避けたかったと言うのと、到底戦闘では足手まといにしかならないだろう老人や小さな子供を隔離するのが目的であり。

 破國を迎え撃つ最終防衛ラインをその場所へとすることを決めたのだ。

 

 命を捨てる覚悟で防衛へと向かった東城さん達だが、同時に残された者達も命の危険が無いとはいえない。

 なぜなら残っている武器はもう銃器なんて一つも無く、満足に闘える人だって一人も残っていないからだ。

 何処に居ても安全な場所なんてない、これは全戦力を防衛へと注ぎ込んだ彼らの決死の作戦だった。

 

 そんな緊迫した状況の中で、俺はと言うと……。

 

 

「しきさま、これおいしいよ! あげるー!」

「しきさま! つみき、つみきしよ!」

「しきさま、おしっこいきたい……」

「くそっ……一度に喋るんじゃ無い! 私が分かるように一つ一つ物を言え!」

 

 

 状況をまるで理解していない小さい子達に包囲されていた。

 

 前にもあったこの状況。

 あの子が泉北の人達に盲目的に信仰された結果、どうやら彼らの子供まで洗脳のように無条件であの子を好いているらしい。

 基本的に子供が好きな俺としては悪いことでは無い筈なのだが、やっぱり洗脳された結果好かれるというのは遠慮したいし、何より無遠慮にひっついてくる子供達を止める大人がいない現状、この子達の暴走を止める人は誰もいないことになる。

 “破國”と言う異形の侵攻を止めに行った彼らが帰ってくるまでこのままの可能性もあると言うことだ。

 それはつまり……その、非常に困る。

 

 “東城”や“南部”の老人達に遠巻きから冷たい視線を向けられているが……まあ、ちびっ子達はそんなことを気が付いてもいない。

 そして老人達には俺の現状を助ける気配も、彼らに子供達が興味を向ける気配も無い。

 八方塞がりの様な現状で、俺は必死に子供達の相手を強いられる事となっていた。

 どうしてこんな事になったのだろう、なんて思わず考えてしまうが、もちろん、こうなった理由は俺だって分かっている。

 

 

 特効薬……医者曰く“ヒプノス”と言うそうなのだが。

 それを使用しようとした場合、襲撃してくる異形と同様に効果を受けてしまう俺の存在は逆に邪魔になり得るし、俺の知り合いはともかく他の人達は俺のような異形を信用することは出来ないだろう。

 それならば、手薄となるこの場所の防衛として残すのは悪い選択では無いし、俺が残っていればこの場所の安全性はかなり高くなる。

 

 けれどそんなものはあくまで生存者達の事情だけを考慮したもの。

 当然、俺としては彩乃達に着いていきたかったのだが、それを進言しても東城さんが頑なに拒否して聞く耳を持たなかった。

 生存者達の実質的なリーダーである彼女が否と言えば、他の人達も内心がどうであれ従うこととなる。

 彩乃としても特効薬を使用する場に俺を連れて行くことはしたくなかったのか、俺は最終的に彼女にさえも説得されてしまう始末だった。

 

 分かっている、俺としても事故で命なんて落としたくないし安全策を採るべきなのは十分理解している。

 俺というどうなるか分からない戦力を活用するよりも、大きな効果を期待できる薬という切り札を信用するのは当然だろう。

 だから現状は何一つ間違っていない、間違っているのはむしろ不安に思っている俺の方なのだ。

 

 

「……いくら特効薬が強力とは言っても、心配は心配だよなぁ……」

「死鬼、出入り口のバリケード強化は完了しました。東城さんに言われた“破國”襲来予定時刻の5分ほど前になったら、ここの人達を一カ所にまとめて守りやすくします。他にやった方が良いことなどはありますか?」

「あ……ああ、知子、ご苦労だったな。いや、私から言うことは特にない。お前の思うとおり進めてくれ」

 

 

 バリケードの強化を行っていた知子ちゃんが、当然のように身の丈ほどもある木材を片手で抱えて戻ってきた。

 その女性とは思えない膂力に本当は感染が進行しているのでは無いかと不安さえ覚えるが、医者の診断ではもう感染菌の進行は完全に抑えられ異形化する事はないとのことだった。

 医者が言うには、特効薬“ヒプノス”の効果を受ける俺とは違い、知子ちゃんは特効薬の効果すら受けない程に普通の人間に近いらしい。

 

 そして同時に、人でありながら超人のような身体能力を持ち、“ヒプノス”の効果を受けない彼女は誰の目から見ても有用である。

 当然、今回の“破國”討伐への編成を東城さんらに熱望されていたのだが……知子ちゃんは頑として首を縦に振らなかった。

 

『――――私はここの人達を守るために動くつもりはありません』

 

 向かい合った東城さん達から、そして以前一緒に生活をしていた元“西郷”の人達からも、一切目を逸らさずに断言した知子ちゃんは絶対に俺の傍を離れようとはしなかった。

 

 うぬぼれで無ければその行動の理由は分かっている。

 嬉しくは思う。

 俺への恩を返すために何よりも俺を優先してくれた事は思わず口元が緩んでしまうほどに。

 けれど……。

 

 

「――――ほら、あまり死鬼を困らせないの。死鬼は貴方達が思っているよりも力が強いんだから、軽く抵抗されただけで大怪我することになるわよ」

「ぶー」

「ぶー、じゃないの。離れて離れて」

「……んん」

 

 

 優しい顔で子供達を抱き上げる知子ちゃんのような子が、同じ生存者達に嫌われていく事はなんとかやめさせたかった。

 彼女が編成を断ったときの周りから向けられていた視線を思い出して、もやもやとしたそんな想いが生まれる。

 

 どうしたものかと頭を悩ませていても何も良い方法が思い付かず、無性に外で風に当たりたくなってくる。

 外の状況を確認するためにもと考えて、子供達が離れたことを確認してから腰を上げた。

 

 

「……はあ、少し歩いてくる」

「あ、待って下さい私も行きます」

 

 

 俺がこの場を去ろうとすると、知子ちゃんは近くに居た人に子供を見ておくようお願いして着いてきた。

 安全面から言えば俺か知子ちゃんのどちらかが残った方が良いんだろうが……まあ、まだ喧騒の気配も無いし良いだろう。

 

 東城さん達が出て行ってかなりの時間が経った。

 罠やバリケードの設置をすると言っていたが、俺は具体的なものについて知らされていない。

 まあ、それに関して、今までずっとやってきた東城さん達が行うのだから俺が口を挟む要素はほんの少しも無いだろうから不満は持っていない。

 どんな風に彼らが対策を取るのか気にならないと言えば嘘になるが、それよりも今気になっているのは“破國”とやらが連れる戦力だ。

 

 と言うのも、“破國”は恐るべき身体能力を持った最強の異形だ。

 単体で向かい合った場合“破國”に勝つことが出来る異形は居ないと考えられていたし、知能が無いはずの異形どもが本能的に戦いを避ける程の規格外なのだが。

 “破國”の来襲でもっとも恐ろしいのは、本体の食への薄い執着から来るハイエナのような異形の群れの発生。

 

 通常異形は群れること無く、個々の縄張りを侵される事を嫌い異形同士で争い合う。

 高い能力を持ち妙な特性を持つ異形という変異種が、群れることが無いというのは生存者にとってはかなり好都合であり、単体の異形ならば、罠や道具、人数さえ揃えられれば討伐は至難ではない。

 積極的に生存者を目の敵にしているわけでは無い異形という存在は、ある意味盲目的に生者を襲う死者よりも危険性で言えば低かった。

 

 それが大前提、例外が“破國”だ。

 

 “破國”という強大すぎる異形が残す残飯はあまりに多く、敵対する異形を容易くひねり潰すそれは兵器としても非常に優秀だ。

 敵対さえしなければ餌以外に攻撃しない“破國”の傍にいれば楽に生活できる事を覚えた異形の群れは、通常の異形よりも力の弱いものこそ多いが、その数、その力は生存者にとっては悪夢に等しい。

 だからこそ今まで、この国における最強の異形が野放しになっていてもどうすることも出来なかったのだと言う。

 

 そして、破國が連れる異形の群れを一目見ようと最上階から外を見下ろした俺達は、それを視界に捉え息を呑んだ。

 

 

「……見えるか知子、あの山を越えてきている黒い粒」

「う、嘘でしょう!? なんなんですかあれ……あの数っ、私達全部を足しても足りないんじゃっ……」

「はは。これでは私が“破國”だけを止めたところで生存者達の被害は甚大だろう、私という戦力を使わずに特効薬を選んだのは正解か」

「わ、笑ってないで下さい!! あんな奴ら相手にしたら、東城さん達、絶対に約束守らず特効薬バラ撒くに決まっているじゃ無いですか!?」

「ははは、かも知れないな」

「だから、『ははは』じゃ無いですよ!!?」

 

 

 遠くに見える山が黒く染まって蠢いている。

 今は山頂一面を黒く染めているが、次第にこちらに溢れ出して波紋を町に広げていくだろう。

 もはやここからではどれほどの数の異形が群れを為しているのか分からない。

 以前の球根の異形が連れた動物が可愛く見えるほど、この数は圧倒的だ。

 

 血相変えた知子ちゃんはどうしようと頭を抱えていたが、俺はある程度安心していた。

 作った特効薬を医者は完全に異形を殺しきれると断言した、ならその効果について心配する必要は何一つ無いのだ。

 であるなら、後は思い切りだけ。

 どれだけの数がいようとも、異形全てを片付けることが出来る特効薬の存在はそれだけ埒外であり、医者の躊躇が切り捨てられるほどどうしようも無い状況に追い込まれれば、彼らは特効薬を使うしか無くなるのだ。

 

 

「なんで特効薬の使用を許可したんですかっ、こうなることは分かっていた筈ですよね!?」

「だから、“破國”に直接打ち込むのであれば良いと条件を出しただろう」

「本当に彼らがその条件を守るとでも思っているんですか!? 東城さんは貴方が思っているよりもずっと冷徹になれる人間ですよ!?」

「その時はその時さ……そもそももう、この場所に残る意味も無くなってしまったからな」

「えっ? ……今後半なんて言いましたか?」

 

 

 呟いた言葉を聞き取れなかった知子ちゃんがそう聞き返してきたが、俺は少しだけ考えて違う言葉を彼女に返した。

 

 

「――――私がここを離れると言ったら、お前は着いて来てくれるんだろう?」

「……むうっ、別に死鬼の為じゃ無くて、私は梅利さんのためで……まあ良いです、地獄の果てでも付き合ってあげますよ」

 

 

 迷い無くそう断言してくれる知子ちゃんに思わず笑って、そんな未来も良いかもしれないとうっすら思い描いた。

 

 ああでも、その道は有り得ない。

 もう行く先は決めているのだから。

 

 

 医者との対話で特効薬を使用するかどうかを考えてくれと言われ、それから俺なりにこれからのことを必死に考えた。

 ずっとずっと考えて、自分のこれからと捨てるべきもの、掬い上げるべきものを選び続けた。

 彩乃に釘を刺されて、安易に自分を犠牲にする様な選択をするなと制約を課されて、選ぶ余地がほとんど無くなってしまってはいたけれど色んな事を考えた。

 

 そうやって柄にもなく深く考えて、最後に俺が出した結論は“ヒプノス”の使用をさせることだった。

 

 死ぬつもりは無い、だからと言って他の犠牲を許容するつもりも無い。

 今を必死に生きている人達に対して俺の安全の為に死ねなんて、俺は言うことは出来なかった。

 彩乃へ宛てた置き手紙はもう書いた、薬の使用を見届けたら俺はこの地を去ってどこか遠くに行こうと思う。

 意識が続く限り、この世界の何処かで助けを求めている人を救って回る旅に出よう。

 そうしている内にきっと俺はあの子になってもう戻れなくなるだろう、そうなったら、あの子には何処か遠くで放浪して貰おう。

 それでいい、きっと俺が選べる終わり方ではそれが正解なのだろう。そう思った。

 

 

「……なんて顔してるんですか……」

「――――え? あ、ああ、変な顔してたか?」

「……ええ、まあ、少しだけ」

「いやっ、少し感傷に浸ってな。そ、それよりそろそろ東城達が動き出す頃合いだろう。“ヒプノス”とやらの効果を見せて貰おうか」

「……」

 

 

 自分でも気が付かないうちに変な顔になっていたかと、頬をグニグニ揉む。

 それでも意味深に見詰め続けてくる知子ちゃんの視線から逃れるように、顔を異形の群れへと逸らした時と、山頂に一際巨大な黒い影が現れたのは同時だった。

 

 

「――――あ……」

 

 

 遠目に一目見ただけで、それが“破國”なのだと理解する。

 

 その一体だけ、放つ空気があまりに異質。

 全身を覆う浮き出した骨格は鎧のようで、頭部から生えた刃の様な角は圧倒的な重厚感を感じさせ、眼球が見えない暗闇の底のような目は深淵を連想させた。

 隆起した血管と筋肉が脈動し、巨大な四本足に踏みしめられた地面は悲鳴を上げるかのように陥没していく。

 今まで出会ってきた異形が可愛く見えるほどの規格外の化け物が、山頂からこの地を見下ろしていた。

 

 

「相変わらずふざけた化け物ですね……本当にあれに特効薬とやらが通用するんですか?」

「……さあな。だが、現状他に縋るものもないのも事実だろう」

「それは、そうなんですが……っっ!!?」

 

 

 轟音が世界を揺らす。

 “破國”が上げたと思われる咆哮が周囲に響き渡り、それを契機として群れが動き出した。

 

 ズルリと、液体が容器から滴り落ちるように、山頂を陣取っていた黒い影が町に向かって広がり落ちていく。

 まるで溶岩のようだ、なんて事を考えたがあの中身はそんな生優しいものでは無いかと思い直す。

 本当であれば太刀打ちなど有り得ないような化け物どもの群れなのだ。意思を持たない自然の奔流などではない、生き物を殺すことだけを目的とした残酷な集団。

 

 地獄が降ってくるかのような光景を目にして、知子ちゃんが小さな悲鳴を漏らした。

 震え始めた知子ちゃんを見て、少しでも安心させられるようにそっとその手を握りしめる。

 

 

「……どれほどの効果があるのか見せて貰おうか藪医者」

 

 

 雪崩のように押し寄せていく異形も群れが、町中に侵攻していくのを眺めながらそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 “泉北”というコミュニティが採用していた身を守る方法に、“破國”の一部を使用したものがある。

 

 医者の研究に使われた肉塊であったり、コート状に加工した毛皮であったり、それらに利用できなかった残骸を拠点の周りに置くことで異形除けとしたり。

 いずれもあの子が“破國”を撃退する際に負わせた傷で、規格外の異形である“破國”の一部だからこそ為せた原始的な技術でもある。

 日常を送る上でそれらの技術は当然かなり有用ではある。

 特に異形除けとして使う方法は安全を確保する上で、若しくは異形を罠に誘導する上でかなり効果的ではある。

 

 しかし、普段であれば異形の行く先をある程度制限できるこの技術は今回あまり役立つことは無い。

 なぜなら、“破國”そのものは勿論、普段から“破國”の周囲を群れている異形はその脅威や匂いに慣れているからだ。

 設置された匂いをものともせず突き進むであろう彼らの行く先は、生存者達が予想する事は難しい。

 

 

――――だからこそ、そんな予想を立てていながら“破國”の匂いを設置したのは理由があった。

 

 

「……さて、やるわよ」

 

 

 “破國”を中心とした異形の群れが街中の辛うじて建物が残っている箇所に入った段階で水野達が動き出した。

 普通であれば匂いで気づかれてしまうような距離で動き出した水野達であったが、異形どもは嗅覚を奪われたかのように彼女達に気が付くことが出来なかった。

 

 人の匂いには敏感でも、同類の匂いには鈍かった。

 つまり黒い毛皮のコートを目深に被った水野達は、人としての匂いを消し去っていたのだ。

 

 

 至近距離での奇襲を成功させた水野達は、妨害を受けること無く“破國”を中心とした群れの両端に巨人達で車の残骸などを利用した壁を作り上げた。

 

 その壁はあらかじめ仕込まれたもの。

 車や建物を利用して、どれだけ放射状に群れが広がったとしても少し手が加わるだけで群れを囲えるよう整えられていたバリケードのような脆弱な壁。

 “破國”がとは言わず、他の異形が壁を破壊しようとしても崩れてしまうような脆いものではあるが、そんなことはどうでもいい。

 

 一時的に障害物が出来た。

 囲いの中に群れがある。

 それだけで十分なのだ。

 

 

「退避するわ、身を低くしてっ!」

 

 

 水野達が脇目も振らず退避を開始する中で、我が物顔で侵入してきていた異形達は唐突な周りの変化に対応できず一瞬動きを止めた。

 

――――次の瞬間、空中から爆撃の嵐が降り注ぐ。

 

 爆炎と異形どもの絶叫が響く中で、衝撃に備えて身を屈めていた水野は冷や汗を掻きながらも口角を歪めて視線を建物の上層に向ける。

 

 

「一発くらいの誤射は覚悟してたのだけれどねっ……! あの娘が義理堅くて助かったわ、本当にっ……!」

 

 

 虫を見るかのような冷たい目を地上に向ける南部彩乃を一瞥してから、水野は頭の中で算段を立てていく。

 奇襲による爆撃、ここから始まる狙撃と建物の上からの投擲で削れるのは甘く見ても3割程度、“破國”を特効薬で確実に潰せたとしても残りの異形の群れは到底手に負えるとは思えない。

 こちらの武器にも限りがある、ならば自分達が使役している巨人で残りの7割をどれほど処理出来るかはかなり重要な点となってくるだろう。

 となれば、武器に余裕がある今、そして“破國”を倒していない今、巨人を一体でも無駄に使うのはあまりに愚行。

 

 

「一度私達は戦線を離れ後方から支援を行うわ! 中継ぎは頼むわよ!」

「……頼まれなくても私達はそうする。さっさと離れていなさい」

 

 

 大声を上げて意思を伝えた水野とは裏腹に、彩乃は特に何も伝えるつもりは無いのか普段通りの声量でそう呟いて、手に持ったグレネードを幾つか異形の群れへと投擲して大型の銃器の照準を群れへと合わせた。

 

 バラ撒かれた鉛の雨が異形どもの全身を引き裂いていく。

 ここで使われているのは、南部の拠点にあった銃火器の全て。

 可能な限り製造され、来る決戦に備えて蓄えられ続けてきた多くの武器や、戦闘機等で使う筈だった弾薬や爆薬を、何一つ惜しむことなく最強の異形と言われる“破國”へぶつける。

 

 もうこの戦いの後に、弾薬や爆薬を残すつもりは無かった。

 そんな安全策を採っていても絶対に“主”、ましてや“破國”などには勝てないと身に染みて理解している。

 

 弾丸や爆薬の嵐で絶叫を上げる異形どもとは違い、一際巨大な体躯の“破國”は傷一つ負うこと無く、ゆったりとした歩みをほんの少しも変えていない。

 全てを出し切るつもりでのこの火力を持ってしても、この化け物に危機感すら抱かせることは出来ていなかった。

 

 

「……とは言っても、銃撃が“破國”に通らないことは想定済み。このまま続けてもアイツへのダメージにはならないでしょう……早くしなさいよ東城、長くは持たないわよ」

 

 

 彩乃は溜息そう言いつつも、建物を這い上がってきた虫に近い異形を冷静に撃ち落とし攻撃の手を緩めない。

 他の仲間達に襲い掛かろうと忍び寄っていた異形も軽く撃ち抜いて、今まで自分たちが使っていた拠点に軽く視線を向ける。

 

 

(長期戦になったらジリ貧になる。私達の全戦力を注いでも、戦況が優勢になるのはこの瞬間だけ。つまり、私達の手で決着を付けられるとしたら――――)

 

 

 拠点から伸びる巨大な砲口が、異形の群れの中で悠然と歩を進める“破國”へと向けられている。

 

 あの中に装填されているものこそ、生き延びた生存者達にとっての最後の希望である感染体への特効薬。

 以前使用したときとは異なり、薬を希釈して拡散するのでは無く、“破國”単体に対してのみ効果を発揮するよう改造して一発の弾丸と化した、あの化け物を打倒しうる唯一の手札。

 

 

「それであっけなく終わらせなさいよっ……!」

 

 

 銃口から筒状の弾が発射される。

 撃ち出された弾丸は的確に彩乃達の攻撃をそよ風でも受けたかのように気にも留めていなかった“破國”の喉元に突き刺さり、その効果を発揮する。

 

 いかに巨大、いかに強靱といえど、身体を構成する感染菌を体内から死滅させることが出来れば“破國”といえど無事では済まない。

 特効薬を撒くよりも狭いが、確実な効果を期待できるこの選択は決して間違いでは無いと確信していた。

 だからこそ、正確に“破國”の喉元に銃弾が突き刺さった一瞬、彩乃は思わず安心してしまったし、異形の絶叫が響き渡ったことに肩の力を抜いてしまったのだ。

 

 

 特効薬が示した効果は絶大だった。

 数多の異形が悲鳴を上げて、その身を急速に老朽化させるかのようにボロボロと崩れさせてゆく。

 標的となった“破國”も、これまでどれだけ攻撃しても一切意に介してもいなかったのが嘘のように、片膝を着いて苦しんでいる。

 あの医者の言っていたことは真実で、使用された薬は人類の希望になり得るものであったのは間違いなかった。

 

――――けれども。

 

 

「……体内に薬が撃ち込めていない……」

 

 

 いつまで経っても期待していた効果が“破國”に顕れない。

 むしろ周囲にいた他の異形が泡を吹いて地面をのたうち回っている事実に血の気が引いた。

 

 

「は、“破國”が倒れない……まさか……」

 

 

 底の無い穴のような双眸が、不快だと言うように細められる。

 ゆっくりと沈めた足に恐ろしい程の力が込められる。

 

――――直後、あまりの爆音と激震が世界を揺らした。

 

 目前で爆撃でもされたのかと錯覚するほどの衝撃に耐えきれず、建物の上から地上の異形どもを蹂躙していた者達はその場で転げ回る。

 

 

「――――なに、がっ!!?」

 

 

 足場が崩壊したのかと錯覚するほどのその衝撃の中では、いかに体幹の優れた彩乃といえど立ったままではいられず、咄嗟に床に手を着く。

 

 

「あっ、彩乃無事かっ!?」

「……こ、こっちは大丈夫よ! 一体どうなったの!?」

「駄目だっ、作戦は失敗だっ! “破國”が動き出した!!」

 

 

 一瞬で作り出された阿鼻叫喚の様相に歯噛みして、せめて攻撃を続けて異形の群れは抑えなくてはと体勢を立て直した彩乃が“破國”の姿を確認して愕然とする。

 

 “ヒプノス”を撃ち出した装置があった拠点が崩壊していた。

 いいや、正確に言うならば、先ほどまで“破國”がいた場所から、“ヒプノス”の場所までにあった数棟の建物や足下にいた異形、障害物が軒並み吹き飛び更地と化している。

 彩乃達が数日前まで使っていた建物全てが、動き出した“破國”のただ一度の突進でなぎ払われたのだ。

 

 

「……こ、これは……もう……」

 

 

 ズキリと痛んだ頭を抑えれば、瓦礫にでもぶつかっていたのか、額から血が流れ出している。

 ドロリとした感触が額から胸元に滴り落ちるのを感じながら、胸に生まれた絶望がカビのように広がっていくのを少しでも抑えられるようにと胸元を手で押さえた。

 

 ほんの少し、ほんの少し倒すべき異形が動いただけだ。

 それだけで、あれだけ話し合って、多くの代償を払って作り上げた戦況が、たった一度の攻勢でひっくり返された。

 これを絶望と言わずして何と言うのだろう。

 分かっていた筈だ、どれほどこの世界が不公平で、少しも自分たちに対して優しくないかなんて、とうの昔に思い知らされていた筈だ。

 

 

「く、そっ……まだよっ、まだ“破國”の全身に薬が回りきっていないだけよ! ここで攻撃の手を止めてしまったらそれこそ全滅することになるわ! 全員、眼下の異形の群れに対する攻撃を休めないで!」

 

 

 自分でも信じ切れていないそんな言葉を吐き出して、彩乃は手に持っていた銃を握り直した。

 

 彼女のここで決めきれなかったと言う焦燥は、自身の命の危機に対するものでは無く。

 彼女がよく知っているアイツが、この状況で何もせず傍観してくれる事は無いのだろうと分かっていたからだ。

 

 

「ここで勝つ! 負け続けた私達が、コイツらに勝ってようやく一歩進めるのよ! 守るべきものを、今度こそ私達はっ……!!」

 

 

 血に沈んだ幼馴染の姿を幻視する。

 力が及ばず失ってしまった大切なものを思い出した。

 何度も悔いたあの日々は、つい昨日のことのようで、戻ってきたその人をもう一度失うことなど絶対に認める訳にはいかなかった。

 

 残骸と化したかつての拠点の上で、煩わしそうに彼女へと視線を向けた“破國”と目が合った。

 

 

「泣くのはもう沢山なのよっ……! ここで死ね化け物がっ!!」

 

 

 彼女はもう、諦めることだけはしたくなかった。

 



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悪夢の始まり

 生存者達の存亡を掛けた戦いの行方は見るも無惨なものだった。

 優勢に進んだのは最初だけで、後は崩れ落ちる一方。

 町に侵入されてから、異形の群れが纏まっている内に大部分を焼き払うという作戦は途中までは正しく機能していたし、それなりの効果は見えていたように思う。

 万全でこそなかったが、土台としては十分。

 作戦としての体を為す程度には要点を抑えていたはずだった。

 

 それでも結果が着いてこなかったのは要因として挙げるなら、最大級の警戒を払ってなお“破國”と言う化け物を過小評価しすぎていたことだろう。

 

 

 

 

 “破國”と言うのは、一言に言えば牛だ。

 異常なまでに太い四本足を持ち、小山程度はあるだろう巨大な体躯は隆起した赤熱の筋肉がほとんどで、常に身体からは湯気を立ち上らせている。

 全身の骨が鎧のように剥き出しで、頭蓋から生え揃った複数の強靱な角が幾つも渦巻いている。

 

 この化け物は全身が堅牢だ。

 そんなことは分かっている。だからこそ、今回“ヒプノス”を撃ち込む場所に選ばれたのは骨の鎧を的確に外した生物として柔らかいであろう首元の隙間であったし、弾丸に改造した薬品の外装は通常の銃弾に比べてもなんら遜色は無いほど強固であった。

 確実に体内に撃ち込めるよう、そして熱で溶け出した弾丸の外装の隙間から“ヒプノス”が漏れ出せばもはや取り出すことは不可能。

 過去の“破國”との戦闘資料から、銃弾が辛うじて通る場所を算出した。

 必要な強度も、威力も、角度さえも考察して放たれた必勝の筈の弾丸は、それでもその化け物の肉体を貫くことは出来なかった。

 

 “破國”の硬度は彼らの想像の遙か上を行っていた。

 

 過去の例など参考にはならない。

 なぜなら、生物が進化する過程を異形は数段飛ばしで順応し環境に適応する。

 彼らは常に環境に適応する形で進化を続け、適応に成功した存在が異形となってきた。

 生死を彷徨うような環境に置かれれば、異形はより強固な外殻、高度な再生能力を有するようになり、身体能力の向上だって見られるのだから。

 だが、“破國”程の能力を有して、危険な状態に陥られるようなことはそうあるわけでは無い。

 過去にあった、たった一度の危険な経験を経て、“破國”はさらに化け物染みた能力を向上させたのだ。

 

 だからこそ、もはやこの場にいる生存者達の戦力で“破國”と言う化け物を倒すことは、“ヒプノス”と言う切り札を使用したところで至難と言うほか無かった。

 

 少なくとも、相手の戦力を見誤った状態で倒しきれるほど甘い相手ではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

「戦線が完全に崩壊していますっ……! 残った異形の群れが町に広がって――――こっちにも複数体向かってきています!」

「っ……、私が向かってきている異形どもは処理する! 知子は現状に合わせた避難を建物の中にいる奴らにさせろ!」

「分かりました、くれぐれも怪我をすることのないように!」

 

 

 そう言うが早いか、俺は建物の屋上から飛び降りる。

 少し前は4階の高さなんて地上をマジマジと見ることすら難しかったのに、いつの間にか飛び降りることすら躊躇しなくなってしまった。

 

 高所からの落下で重さが乗った拳をそのまま地面に叩き付ければ、地盤が砕け散り脆くなっていた道路がはじけ飛んだ。

 浮かび上がったアスファルトの瓦礫の中から大きめのものを幾つか掴み取り、その場で身体を回転させて全力で投擲した。

 戦闘態勢すら整っていなかった異形が数体はじけ飛ぶのを最後まで確認せず、異形の群れの中に一足で飛び込んでいく。

 

 一度腕を振るえば薄紙を裂く感覚と共に数体の異形が千切れ、集中した今の俺の視点からは反撃してくる化け物達の攻撃は止まって見える。

 もう自分と意識は消えてしまうものだと割り切ってしまえば、通常の異形など敵では無い。

 文字通り鎧袖一触ではあるが、この町に侵攻してきている異形の数はあまりに多すぎてこの程度では焼け石に水程度の駆除しか出来ていない気がする。

 

 

「くそっ、俺は余裕があるけど、このままだらだらやってたら他の場所の被害が尋常じゃ無いよなぁっ……! 彩乃の方も行かないと不味そうなのにっ……!」

 

 

 そんな風にぼやいてみても異形どもは攻撃の手を緩めず、次々に死骸へと変わり果てていく。

 

 俺が数十程度の死骸を作り上げた段階で、流石に知性の薄い異形でも危険に気が付いたのかがむしゃらに襲い掛かってくるのを辞めて距離を取り始めた。

 ちょうど俺を中心とした空間が円状に出来上がり、取り敢えず小休憩かと一息入れ、以前よりも圧倒的な向上を見せている身体能力を馴染ませるよう何度か手を開閉させる。

 

 

「……さて、どうしようか。このまま時間稼ぎするのは難しくないし、なんなら時間さえあれば群れを全部倒すことは出来るだろう。ボスのあの牛は勝てるか分からないし、なんなら“ヒプノス”が入っている状態だろうからあまり近寄りたくない……でも、あれを放置するのは危険だよな……」

 

 

 近付いて見て、さらにその建物よりも巨大な体躯を持った異形の規格外さを理解する。

 視界外から飛び掛かってきた首の長い異形を裏拳で砕き、どうしたものかと少しだけ頭を悩ませたが、結局深く考えるのは辞めることにした。

 

 

「……まあ、結局これが一番だよね」

 

 

 やることを決めて、最も近くにいた固そうな見た目をしている異形の頭を掴み取る。

 それから、生存者の攻撃を受けながらどこか気だるげにそれらを蹴散らして、建物や防壁の破壊を行っている“破國”の姿を確認する。

 “破國”の身体が大きすぎて距離感が狂うが、数キロ先にある“破國”の横腹目掛けて、手に持った異形を全力で投擲した。

 

 破裂音と共に投擲した異形が砕け散る。

 無事に着弾し、“破國”の身体に固そうな異形が叩き付けることに成功したが、叩き付けられた衝撃に驚いた様子を見せたものの大したダメージは無いようで、“破國”は直ぐに俺の姿を捕捉してきた。

 じっと洞のような双眸を俺へと向け、マジマジと珍しいものを観察するかのように生存者達への攻撃の手を止めた。

 

 

「かかってこい! この私が相手してやろう!」

 

 

 意気揚々と宣言して“破國”を見詰め返せば、その歪な異形もじっと俺の事を見詰め続ける。

 生存者達の攻撃は今なお続いているにも関わらず、そんなことは気にも留めず、不気味にさえ感じるほど身動き一つ見せることは無い。

 その事に少しだけ拍子抜けしながら、これはこれで時間が稼げているから良いかと思い直した。

 

 あの場で戦っている人達はただでさえかなりの異形の群れに囲まれている筈だ。

 そんな中で、同時に最強の異形とも言われる“破國”の相手は不可能だろう、だから体勢を整えるまでの間、俺が“破國”をあの場から離し、知子ちゃん達の元へと向かおうとしている群れ共々抑えれば何の問題も無い。

 可能かどうかが悩みどころだったが……まあ、多分なんとかなるだろう。

 なんだかんだ今までだってやってみれば案外どうにかなってきたのだから、なんて楽観的に考えながらも、どうせ選択肢はなかったのだと自分に言い聞かせる。

 

 かなりの距離があるにも関わらずヒシヒシと背筋を凍らすような恐ろしい重圧感が襲ってくるが、もう後には引けない。

 気を引き締め直そうとしたところで――――ようやく“破國”に変化があった。

 

 

 じっと、その場で止まって俺の事を凝視していた“破國”が僅かに身体を動かした。

 

 生存者達の攻撃が今なお続いている中でそれらに意を介さず、微動だにせず俺を見ていた化け物が少しだけその顔を動かして。

 

――――宝物を見付けたかのように、凶悪な笑みを作った。

 

 

「――――……え?」

 

 

 次の瞬間、視界に広がっていた筈の異形の群れが巨大なナニカに叩き潰された。

 

 それがひづめにも似た何かの足なのだと思い付いたときには、身の丈ほどもある杭のような突起が俺の腹部に突き刺さり。

 

 次の瞬間には強烈な浮遊感と共に視界が高速で回転して、さらに追い打ちを掛けるように横から叩き付けられた衝撃で為す術無く吹き飛ばされた。

 

 

「ご、こほっ……血が……なに、が……?」

 

 

 数回地面を跳ね、ゴロゴロと地面を転がった俺は状況が分からず、迫り上がってきた血液を口から吐き出し四つん這いになるが、暇もなく大きな影が俺ごと地面を覆い尽くす。

 確認するために顔を上げようとして、それよりも先に降ってきたひづめのような足に叩き潰された。

 大理石のような冷たさを持った通常の生物では有り得ないような。

 “破國”の巨大な足だ。

 

 訳が分からない。

 俺と“破國”までは数キロの距離があった筈だ。

 俺が自分に注意を引いて、アイツは動きを止めていた筈だ。

 それで、ようやく動き出したと思ったら皮の無い顔で不気味な笑みを浮かべただけで。

 次の瞬間には俺が宙を舞っていた。

 

 何が起こったのかが分からない。だが少なくとも分かることは、俺が今“破國”の足で腐った果実かのように潰されようとしていることだ。

 

 

「お、おああっ……! くっ、この……離れっ!」

 

 

 背中に掛かる重圧を押し返そうと両手で地面を支えにするが、まるでびくともしない。

 むしろ、さらに込められた重量に耐えきれず、顔から地面に叩き付けられ地面深くまでめり込んだ。

 

 ミシミシと身体から嫌な音が鳴り始める。

 痛い、それは久方ぶりの感覚だった。

 この身体となってから、球根の化け物の菌による攻撃のようなもの以外はまともに痛みを感じたことはなく、痛みから無縁の生活を送ってきた。

 そう言えば、あの巨人も“破國”の細胞を使って作り上げられていた。

 だからあの巨人の攻撃も僅かとは言え俺に通っていたのかと納得しつつ、角が突き刺さった腹部の痛みに呻く。

 

 

(こ、このままじゃ潰されるだけだ、上に行けないならっ……!)

 

 

 踏みつけられながら、今度は地面を掘りさらに下へと進むことにする。

 確かこの場所は地下街の上だ、どの場所に行くかは何度も何度も地下街を探索していたから何となく分かる。

 

 なんとか地下街へと突き抜けて直ぐにその場を離れ、別の場所から地上に飛び出して“破國”の背後を取る。

 大きすぎてどう攻撃すれば良いか全く分からないが、ともかくこのチャンスを生かそうと後ろの左足を全力で殴り付けた。

 浮き出た骨の鎧の上からの攻撃だったが、ぐらつかせる程度の衝撃は与えられたらしく“破國”の重心が揺れ、動きが一瞬止まる。

 その一瞬を逃がすまいと、“破國”の身体を足場に一気に胴体部分まで駆け上がった。

 

 

 “破國”の攻撃は異常だ、まともに正面から受けたら頑丈なこの身体でもかなりのダメージを負うことになる。

 巨大な体躯から繰り出される攻撃なのだからそれは仕方ない、だが先ほどの速さは何だ。

 まともに受けてはいけない攻撃を繰り出してくるにしては少し……動きが速すぎやしないだろうか。

 俺がこいつに向けて投げた異形よりも速く、俺の目を持ってしても捉えることが出来ないほどの速度、一瞬であの距離を詰めることが出来る脚力は流石に有り得ないと思う。

 この身体の硬さに救われたが、普通であれば一撃で消し飛ぶような攻撃を上手い具合に受け反撃に移る事が出来たこのタイミング、最大限有効に使わなくてはいけない。

 

 攻撃の重さよりも速さが問題なのならば、足を潰すのが先決だろう。

 だが、地上で足ばかり攻撃していても直ぐに反撃されることは目に見えている。

 まずは頭にダメージを入れ、動きを止めて、後ろの左足を狙い潰す。

 

 

「これでっ……!!」

 

 

 背中から頭部へと飛び付き、拳を叩き込む。

 角の隙間を縫うような一撃は、破國の巨大な頭蓋を地面に叩き付け、周囲にいた異形どもを纏めて潰す。

 おまけにもう一撃打ち込んでから、暴れ始めた“破國”の頭から離れ作戦通り後ろの左足の近くに着地して、回し蹴りを加える。

 足払いを掛けられたかのように、バランスを崩した“破國”の体躯を上空目掛けて殴り上げた。

 

 “破國”の巨体が僅かながら宙に浮く。

 どれほどの重量があるのか分からないが、殴った腕がしびれるほどの大重量なのだろう。

 巨体が転がっていく様を確認しながら、腹部を抑えようやく一呼吸置く。

 

 

(重いし、堅いし、痛いしっ……! でも、泣き言言ってる暇も無い……こいつ本当に今まで戦った奴らの中でも桁違いだ)

 

 

 口端から流れる血を拭い、砂煙の中でゆっくりと身を起こす“破國”の一挙手一投足を警戒しつつ出方を窺う。

 光の無い洞のようであった双眸が今は赤い光を灯し、戦う前までのゆったりとした動きが嘘のように激しい攻撃色に染まっている。

 

 

「ああそうか、お前にも因縁があるんだな」

 

 

 溶岩が上げるような湯気を体中から立ち上げ、鼻息を荒げる“破國”から少しだけ視線を逸らし自分の腹部を見れば、受けていた傷はもう再生したようで破れた衣から見える肌には傷一つ無い。

 傷を受けてからの経過を見るのは初めてだが……確かについさっきまでは抉られた痕が腹にあった筈だが、どうやらこの身体は再生力も高いらしい。

 

 自身の化け物さ加減に溜息を溢しそうになるが、現状それは好都合だ。

 思う存分怪力を使い、無尽蔵の体力で眼前の異形を振り回してやろう。

 

 

「さて、俺はお前に勝つことは難しいだろうけど……まあ、いくらでもやりようはある。しばらくの間付き合って貰おうか」

 

 

 少しだけ腰を落としてすぐに動ける体勢を作り、次の攻撃、若しくは“破國”の攻撃に備える。

 

 この戦いの余波だけで大分群れ立っていた異形の数を減らすことが出来た。

 もちろんまだまだ数はいるが、この調子で“破國”を誘導して他の異形を巻き添えにしつつ時間を稼げば、かなり生存者達の戦いは有利になる筈だ。

 なにせこの巨体、まともに敵味方の判断もしていないようで周囲にいた群れの巻き添えなど微塵も気にしている素振りを見せない。

 こいつ単体としての危険性はかなり高いが、まともな知性が無いと言うだけでかなりやりやすい。

 だからこの町に入り込んだ異形どもの排除を最優先として、問題であるこいつ自身を存分に利用させて貰おう。

 

 案外何とかなりそうだと思いながら、“ヒプノス”が打ち込まれたであろう首元に視線を向ける。

 時間を稼いでいる内にこいつが倒れればそれはそれで俺の勝ちだ、状況は思っていたよりも悪くないらしい。

 

 そう思い、少しだけ勝ち筋が見えたのも束の間。

 

 “破國”の動きに変化があった。

 

 

「■■■■ーーーーッッ!!!!!」

 

 

 近くにあった崩れかけた建物が倒壊する程の咆哮を上げて、ねじ曲がった双角を俺に向けて前傾姿勢を取る。

 “破國”の足下を中心に地割れのような罅が地面を走り、こいつがどれだけ力を溜めているのか背筋にうすら寒いものを感じて、回避に移ろうと足に力を込めた。

 先ほどの目で追うことが出来なかった突進の予備動作に似た動きではあるが、明らかに異なる部分が幾つか存在する。

 

 力を溜めるのに時間など使っていなかった。

 深い前傾姿勢を取っていなかった。

 ねじ曲がった双角をこちらに向けていなかった。

 こいつの目は、赤い光を灯していなかった。

 

 瞬間、頭の中に大音量の警鐘が鳴り響く。

 背筋が凍り、身が竦む。

 

 

「――――まずっ、避けないとっ……!!?」

 

 

 言葉と共に動けたのはほんの一歩だけ。

 爆発が起こったかのような爆音と同時に、“破國”の黒い巨大な体躯が飛び出した。

 

 速すぎる。

 目で捉えきれないあまりの速度にその動きを認識するのを早々に諦め、俺は全力で横へと転がった。

 ほんの数ミリ、すんでの所で避けきったその一撃は、それでも巻き起こった爆風で転がされ、砕けた瓦礫が撒き散らされる。

 こんなものまともに受けていたらひとたまりも無かったのではないかと安堵する間もなく、通り過ぎた“破國”がいる方向からもう一度爆音が鳴り響いた。

 

 

「――――……あ」

 

 

 避けた筈の“破國”がもう一度俺に向かってきている。

 大地を抉り飛ばす鏖殺の一撃がまだ俺を狙い続けている。

 急激な方向転換など出来るはずが無いあの突進を、それでも成し遂げてしまう最悪の化け物に恐怖した。

 目前まで迫った全てを壊す巨大な破壊鎚に、もう為す術が無いのだと理解した。

 

 

――――自分の身体の砕ける音が聞こえ、俺はボロ絹のように叩き潰された。

 

 

 

 

 

 

 “破國”に破壊された戦線は未だ立ち直ってはいなかった。

 作戦の根幹である特効薬を撃ち出す装置は既に壊れ、設置されていた建物も完全に倒壊してしまっている。

 今は、武器を持った動ける者達が襲い来る異形の群れと交戦しているが、それもいつまで持つか。

 

 地力が違う。

 勝てるように出来ていない。

 かつて人々の英知が結集した科学の力を用いてなお、勝つことの出来なかった異形と言う化け物達に対して、当時に比べてしまえば粗末としか言いようがない今の武装では話になる訳がないのだ。

 

 そして、そんな事を彩乃は充分理解していた。

 だからこそ、最初に決定打を与える事に失敗した彩乃達は無理に戦闘を継続する訳では無く、早々に戦法を変える事にしたのだ。

 ある意味で生存率が高く、“南部”が良く使用していた少ない戦力で相手をかく乱する、ゲリラ戦法の運用だ。

 

 陽動、かく乱、潜伏、奇襲。

 あらゆる訓練を行い、被害を最も出さない戦術を作り上げてきた“南部”という戦闘集団だからこそ、突然の作戦の瓦解にも柔軟に対応し、戦局の変化に即座に順応することが出来た。

 

 

「――――チッ、地の利はもう完全に失われてる……! 勝機なんて言っている状況じゃないっ、撤退状況はっ!?」

「建物からの撤退はほとんど完了しています! 拠点までの撤退路は確保しました、問題は“破國”の動静だけです!」

「よしっ、なんとか活路は残っているわね。それで、肝心のアイツはどこに移動したの?」

「遠すぎて判明は難しいです、ただ……かなり暴れている様子があるので、“死鬼”と交戦中なのではと……」

「――――……“死鬼”と交戦中?」

 

 

 彼女にとって他の者とはまた違った意味を持つその言葉に、いつの間にか見えなくなっていた“破國”の姿を思わず探す。

 そして、遠くで荒れ狂う巨大な化け物を見付けて表情を消した。

 

 

「……少し出てくるわ」

「ちょっ、何言ってるんですか!? 撤退を完了しても、ゲリラ戦は継続するんですよ!? 彩乃さんが居なかったら誰が指揮を執るんですか!」

「指揮なんて私よりも上手い人はいるでしょう。貴方とか凄く上手いし、何の問題も無い」

「そ、そんな事言わないで下さいぃぃ! “死鬼”が戦うんなら負ける訳ないじゃないですか! 放っておいても大丈夫ですよぉ!」

 

 

 アイツの規格外っぷりは彩乃さんも知っているでしょうぅ……、なんていう悲鳴にも似た泣き言を聞き流して、彩乃は自身にしがみ付く腕を引き剥がしに掛かる。

 

 彩乃という戦力は、今の生存者の中において非常に貴重だ。

 銃器の扱い、潜り抜けた死線、経験の数、戦闘センスは他の追随を許さない。

 そして同年代の同性に比べ、圧倒的なまでの身体能力を持つ彩乃は単純な戦闘員としても破格なのだ。

 彩乃が抜けてしまえば、その替えなど利かない。

 だからこそ幼馴染の安否を気にして飛び出そうとする彩乃を行かせる訳にはいかないのだ。

 

 

「ちょっと、なにやってるのよ」

 

 

 そんなグダグダとした彼女達の隙を突いて襲い掛かっていた異形を、巨人の腕が叩き潰した。

 

 突然の出来事に、反射的に銃を構えていた綾乃と縋り付いていた者は目を白黒させながら、その声の主である水野を見付けて複雑そうな表情を浮かべる。

 巨人の肩に座る水野が呆れたような目で彩乃達を見下ろし、引き連れた巨人らに市役所までの撤退を支援させ始めた。

 

 

「素早い作戦の変更は感心するけど、意見の対立は隙を生むわ。強権的なリーダーでもなかった貴方では、複雑な命令を咄嗟に行うのは難しいと考えた方が無難ね」

「……御忠告感謝するわ」

 

 

 忌々しげな視線を向けようとしていた仲間の視線を体で遮って、彩乃はため息交じりに返答する。

 複雑な感情を押し込み、大人しく水野の指示に従っている巨人達を眺めながら、改めてその有用性を再認識した。

 

 保有していたほとんどが“死鬼”に潰されたと言う巨人だが、こうして組織だって扱えばかなりの効果を発揮している。

 確かに非人道的なものであろうが、人知を超えた力というのはそれだけで全ての戦局を変えうる可能性さえ秘めているのだろう。

 人の力ではなく、自分達を追い詰めている感染菌を利用した力だという事に歯痒さは感じるが、利用できるものは利用しなければいけないことくらい彩乃にだって分かっていた。

 

 たとえそれが親を、幼馴染を、身近な人々を殺したものだったとしても。

 

 

「……で、東城さん達はどうなったの? “破國”に特効薬の散布機ごと潰されていたけど、あの人達は再起可能なの?」

「さあ? まあでも、東城は東城で何とかするでしょう。非力な民でもあるまいし、一々私達が手助けに入る必要なんてないわ」

「ええ……そうね。こちらはこちらで手が一杯ではあるし、特効薬が使えないならあの場所に拘る必要はないわね」

「そう言う事。さ、早く拠点に戻って迎撃態勢を作りましょう。ゲリラは貴方達に任せて良いのよね? かく乱からの奇襲は私達に任せておきなさい」

「……ずいぶん余裕があるのね。もしかしてこうなることを見越していたの?」

「あの医者の作った特効薬の効果に疑いを持っていた訳じゃないけど。それ以上に“破國”を相手取って、あの薬一本で勝てると思うほど楽観視をしていなかっただけよ。全くっ、東城は何を焦っていたんだか」

 

 

 撤退する彩乃達の周囲に巨人達の盾を作り上げ、並行して走らせる。

 敵ではないと頭で理解していても、巨大な人型は隣にいるだけでこれでもかとばかりに圧迫感を与えてくるものだ。

 とはいえ、向かってくる異形を薙ぎ払う巨人の姿は頼もしい事この上ない。

 仕方ないかと諦めた彩乃が視線だけを暴れ狂う“破國”へと向けた。

 

 

「それで“死鬼”だけど、アイツだけに戦わせていて貴方は良いの?」

「“死鬼”様に手助けなんておこがましいことしないわよ。むしろ邪魔にならない様にするくらいしか私達にはすることが無いわ」

「……へえ、随分と」

「当然よ。むしろ背中から貴方達“南部”が襲い掛からないよう見張っておくほうが数段重要だと思っているくらいね」

「皮肉なことに同意見ね。私も貴方が妙な行動を起こさないか見張る方が大切に思えるわ」

 

 

 余裕ぶった様子で巨人の肩の上から見下ろしてくる水野を軽く睨み、やっぱり自分は誰かの上に立つのは似合わないのだと再認識する。

 こんな下らない挑発で揺さぶられるようでは、リーダーとしての資質などたかが知れるというものだろう。

 

 

「まあ何だっていいわ。ともかくここから離れ、体勢を整えて、こっちのやりやすいやり方に持っていくのが何よりよ」

「全く持ってそのとおりね。拠点に戻れば知子ちゃんがいるでしょうし、大分やりやすくなる筈よ……“死鬼”様の眷属の、ね。……うふ、うふふ」

「……ねえ、邪念を感じるんだけど。変なことするそぶりを見せたらどうなるか、分かってるんでしょうね?」

「ああ怖い、暴力的なんだから。もう少し落ち着きを持てばお淑やかな美女になれるのにもったいないわ」

「そんなものなりたくもない」

「そうやって意地張って。想い人が出来た時に苦労するのは彩乃ちゃんなのよ?」

「やかましい、それ以上言うならはっ倒すわよ」

 

 

 それでも水野は軽口を止めようとしない。

 あまりのしつこさに親譲りの猛禽類のような彩乃の鋭い目が剣呑な光を灯し始めが、それに怯んだ様子が微塵もない水野の胆力に、彩乃の周りにいる者達が顔を引き攣らせる。

 

 そんな時だった。

 

 もう少しで拠点に辿り着くそんなタイミングで、世界全てが揺れたのではないかと思う程の振動が町全体を揺らした。

 その場で走っていた彩乃達、巨人に乗っていた水野達全員が例外なくバランスを崩して、何事かと慌てて臨戦態勢を取るも近くに異状は見つからない。

 自分達を狙っていた異形の群れも、何が起きたのか分からないと言わんばかりに周囲を見渡して動揺を隠せていなかった。

 

 

「な、何が……“破國”?」

「――――っっ!?」

 

 

 その言葉に反応した彩乃が近くにいた異形を始末しつつ踏み台として、高所へ駆け上がり“破國”の姿を探す。

 あの巨体だ、そう時間もかからず見付ける事が出来るだろうと思ってはいたが、彩乃の予想以上に目的の怪物は直ぐ近くにいた。

 

 巨大な体躯、骨の鎧、そして真っ赤な幽鬼のような眼光。

 砂煙を巻き起こし、全身から巨大な湯気を天に向け立ち昇らせる怪物の姿と、その怪物の射線上に出来たあまりに長い破壊痕を見付けてしまう。

 

 破れた着物が空を舞う。

 見覚えのある布きれと黒い血痕は、嫌な予感をさせるには十分すぎた。

 

 

 



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誰かが歩んだ道のりを

「東城さんっ……! 目を覚ましてください!」

「――――ぐ……明石? な、にが、起こった……の?」

 

 

 倒壊した建物で頭から血を流し倒れていた東城を肩で支えながら、明石は岩陰に身を潜める。

 呼び掛けに応えて目を覚ました東城に、明石は安心したように顔を綻ばせる。

 けれど、今の状況はまるで好転していないのだと気を引き締め直し、頭を抑えている東城に現状の説明を行った。

 

 

「“破國”が攻撃を仕掛けてきました……撃ちこんだ“ヒプノス”は効果を発揮せず……」

「……ああ、思い出してきたわ。特効薬を体内に撃ちこめなかったのね」

「散布機ごと建物を倒壊させられ、そこに異形の群れが押し寄せています。……今は見付かっていませんが、それもどうなるか……」

「状況は把握したわ、ありがとう。手を離して明石」

 

 

 慌てる明石を制して、東城はふらつく足に力を込めて動ける体勢を作っていく。

 大丈夫だ、まだ足は動く。

 脇腹に感じる鈍い痛みに頭と肩からの出血と怪我は少なくないが、それでもまだやるべきことが残っていると、東城は挫けそうになる自分自身の心に鞭を打った。

 

 

「な、これからどうするつもりなんですか? もう作戦の要である散布機は破壊されましたっ、これ以上戦線を維持しても勝利は見込めません! 水野と南部の娘も撤退していますっ、我々もこの場から下がるべきです……!」

「そうね、なら明石。貴方はこの場にいる生き残った者達を連れて撤退しなさい。私は私のやるべきことをやるわ、後の指揮は貴方に任せる」

「なぜっ、何を言っているんです東城さん!? この作戦の失敗は貴方のミスではありませんっ、俺達には貴方が必要なんです!」

「……別に私は、作戦が失敗して自棄を起こしているとかじゃないのよ」

 

 

 徘徊する異形の姿を物陰から確認して、東城は砕かれた散布機の欠片を手に取って機械の残骸をそっと集め始める。

 彼女が何をしようとしているのか分からない。

 何がしたいのか、どんな未来を見ているのか。

 長年後ろから彼女を見てきたが、明石は結局ここまで来ても分からずじまいだった。

 

 その事実がどうしても、明石にとって見過ごすことが出来なかったのだ。

 

 

「……ここでやれることなんてもうないじゃないですか。だったら、他の者達と一緒に拠点まで下がって作戦を立て直した方が良いに決まってる。東城さん……自棄じゃないなら何だっていうんですか……?」

「そう言う考えが出来るならもう私は貴方に教えることは無いわ。きっと貴方は良いリーダーになる」

「っ……なんで何も言ってくれないんですか!? 何でしっかりと話してくれ無いんですか!? 東城さんにとって俺らは一体何なんですか!?」

「……声を潜めなさい明石。ここで奴らに見付かって良いことは……」

 

 

 東城の肩に掴み掛かり言葉を荒げる明石だったが、それも大した興味も無いように素気なく流されて声を抑えるように諫められてしまう。

 そのことが逆に、明石の感情を逆撫でした。

 

 

「俺らは東城さんにとって仲間じゃないんですか!? 俺らはただ生かすだけの相手なんですか!? 俺らは……」

「明石……聞き分けなさい」

「“死鬼”のこともそうですっ! なんで東城さんは――――」

「――――そんなことは簡単だろう。全てを預けるには彼女の背負うものは多すぎて、目指す先は遠かっただけだ」

「……貴方、無事だったのね」

 

 

 明石のそんな言葉は背後から顕れたボロボロの白衣をまとった医者により遮られてしまう。

 最後まで薬品の調整をしていた彼が“破國”の標的となった散布機の直近にいたのを知っていた東城は想像していた最悪の末路が外れた事に安堵するが、言葉を遮られた明石は医者に鋭い視線を向ける。

 だが、元来周囲の評価など気にもしないこの医者には明石の不快感などどうでも良いようで、つまらなそうに肩をすくめ出血している肩口をもう片方の腕で押さえた。

 

 

「なんとか生きてはいるさ。いや何、まさか自身の薬の効果を確かめようと足を運んだにも関わらず、まともにあのデカブツに対して“ヒプノス”を投与することが出来ないとは思わなかったけどね」

「……ええ、それは私のミスね。ごめんなさい」

「いや謝ることじゃない。僕もまさか“破國”があそこまで進化を遂げているとは思いもしなかった。前に相当やられたのが効いていたのだろう、恐ろしいまでの適合だ。不慮の事故と言うべきだね」

「っ……それで何の用だ。俺の言葉に割って入り、言うことに欠いて知ったような口を」

「何の用かなんて簡単だ。僕は弱いから、安全な場所まで護送して貰おうと思って君たちに声を掛けただけさ。それと、僕は思ったままを口に出しているだけだ、彼女のことについては隣にいる本人に聞くべきだろう?」

 

 

 熱くなっていた頭に冷や水でも浴びせられたような顔をした明石は窺うように東城に視線を向けるが、彼女はそんなものに意を介さず、答える素振りも見せることは無い。

 

 

「ともかく、私達が今すべきなのはこんな押し問答などでは無い筈よ。私は考えが合ってこの場に残る、明石は生存している者達を連れて拠点に戻る、これを実行しなさい。コミュニティのトップに立つ者としての命令よ」

「……東城さん」

 

 

 もはや視線すらも合わせなくなった東城に明石は項垂れる。

 

 今まで生存者達に絶望的な窮地を幾度となく越えさせてきた、絶対的な指導者である東城。

 その背中をひたすら追い続けてきた明石は結局彼女の思考の一片にも触れることは出来ず、彼女を欠片も理解できないままあまりに重いバトンを渡された。

 

 干上がる喉元に、震える指先。

 不安は形と成って身体に顕われるが、それでも今現在異形や死者に襲われて命の危機に瀕している者達を思えば足を止める暇なんて無く、明石は直ぐに踵を返し倒壊した建物の中で生存者がいるのを探しに走って行った。

 

 

「……」

「ずいぶん手厳しい先輩だ、ものを教えるときは言葉や形にしないと伝わらないものだよ。それに、苛立ちや悲嘆を他人にぶつけるのは良くないと僕は思うけどね」

「早く明石の後を追わないと貴方を保護する人がいなくなるわよ」

「ああそうだね、それじゃあ僕はもう行くよ――――今度は後悔の無いようにすると良い」

 

 

 それだけを言い捨てて、ボロボロの白衣を翻し明石の後を追っていった医者に東城は顔を歪ませる。

 しばらく自分の元を去って行った二人の背中を見届けて、色んな感情を飲み込んだ彼女はゆっくりと散布機の残骸を集める作業に戻る。

 

 そこにあるのは荒廃した世界で人々を纏め上げる傑物としての姿は無く。

 ただ、行き場を無くしてしまった誰かがいるだけだった。

 

 

 東城がやろうとしていることは壊れた散布機の修繕だ。

 作戦の主要であった“南部”の拠点に設置されていたこれは、“破國”打倒には欠かせない物だと東城は思っていた。

 数年前の作戦の失敗や割ける人員の現象から、唯一の打開策であった特効薬開発が打ち切られると共に長らく埃を被ることとなったものの、人類の存続を掛けて設計されたこれは今なお機能としては最上である。

 直接“ヒプノス”を打ち込むことにこそ失敗したが、まだこの地域では多くの者が生きている。

 ならばまだ、彼女は敗北などしていない。

 

 幸い薬品を散布する専用の機械は数年前に作成され、自衛隊が進めていた計画は当時の有力だった者達に対して説明を行われた。

 元々多方面への知識を豊富に持っていた東城には、そんな簡単な説明だけでも散布機の構造のおおよそを掴むのは容易であり、多少破壊された程度であれば修復するのにそう時間は掛からない。

 

 壊れた機械を直してもう一度“ヒプノス”を使うのは現実的な策でないとは言えない。

 一定以上の効果を見込め、確かに現状の逆転となりえる手でもある。

 だが、それは決して簡単な事では無く、“破國”が壊したものを喰い漁る異形の群れを思えば安全などとは到底言えず、そして必ずしも実行できるという確実性がある物でも無かった。

 だからこそ、いずれ生存者達を率いて貰いたいと思っていた明石がこの場に残ることは許さず、危険であっても一人きりで作業するべきだと東城は判断したのだ。

 

 ……そして、彼女が一人になりたかった理由はそれだけではない。

 

 

「…………死鬼様、私は……」

 

 

 手の中にある最後の“ヒプノス”が入った筒を握りしめながら、東城はぼんやりと呟いた。

 

 一度は奪うことを決意した恩人の命を。

 失ってしまった筈の大切だったものを。

 もう一度切り捨てると……彼女は決断しきることが出来なかったのだ。

 

 化け物よりも人を。

 近しい怪物よりも関わりの無い同種を。

 救うものと切り捨てるものを決めた筈だった東城は、今更になって選び切ることが出来なくなっていた。

 

 一度は自分で捨ててしまった、彼女との生活がどれほど自分にとって大切だったのか、彼女が消息を絶ってから、嫌と言うほど思い知らされた。

 

 

「泉北……貴方のように生きられるだけ、私も素直になれたら良かったのにね」

 

 

 最後にそう呟く頃には、もう周囲には異形や死者の物音しかなくなっている。

 ゾッとするほど近くにある化け物の息づく音を聞いて、東城はそっと瞼を閉ざした。

 そうして思い出すのは見飽きていた筈の光景だ。

 

 角を生やした少女が東城を見て笑う。

 文字や言葉を知るために、少女はまるで普通の子供のように必死に東城の教えを受ける。

 異音を口から漏らしつつも、勤勉な姿勢を崩さなかった少女の姿に、彼女に接する度に感じていた緊張が少しだけ緩んだのを思い出す。

 

 悪夢だと思っていた筈のそんな記憶が、何故だか今は大切だったのだと感じるのだ。

 自嘲するように東城は笑って言葉を吐き捨てる。

 

 

「失わないと分からないなんてことあるはず無いと思っていたのに……。こんな後悔ばかりすることになるなんて……本当に馬鹿」

 

 

 少しだけ、泉北を羨ましく思った。

 最後まで彼女を想い、彼女の腕の中で息を引き取ったあの爺を。

 

 

「……ああでも……ずっと思い描いていた夢を、指先で掠ることくらいは出来た筈ね。ならもう……それで良いか」

 

 

 それだけ言って。

 自分を納得させるように言葉を紡いで、襲い来るであろう痛みを待つが、そんな時はいつまで経っても訪れない。

 むしろ固い何かが勢い良く飛ばされてきたのか、それが僅かに残っていた障害物を破壊して直ぐ近くを転げ回る音が発生して、思わずもう開けることは無いだろうと思っていた瞼を開いてしまう。

 

 

「――――……一体なにが飛んできたの?」

 

 

 東城の背後から忍び寄っていた異形に着弾した、真っ赤な何かに恐る恐る近付いた彼女はその正体に気が付いて目を見開いた。

 

 見慣れた着物が無残に裂けている。

 小さな体躯に大きな角。

 腹部に膨大な圧力を受けたのだろう、大きく抉れた傷とそこから漏れ出す黒い液体。

 それらが示すものの正体は、東城が知る限り一つしか無かった。

 

 

「……嘘でしょう?」

 

 

 何もかも投げ出そうとしていたことさえ忘れて、東城は動かない少女へと駆け寄った。

 

 

 

 

 

 

 昔、一人の無力な少女がいた。

 変わり果てた世界では、持っていた知力も、学歴も、才能も何一つ役に立たず、死者や異形に住む地を追いやられ、暴徒と化した心無い生存者に怯える生活を送るしか無かった少女がいた。

 

 水を奪われた。

 食料を奪われた。

 住む地を奪われ、仲間を奪われた。

 それでも力が無いが故に何も反抗なんてする事が出来なかった少女はただ震えるだけの自分自身を嫌悪しながらも、ひたすらに生に縋り続けた。

 いつかきっと昔のように戻れると信じて、ずっとずっと地獄のような日々を生き延び続けた。

 悪夢。そうとしか思えない現実に目覚めるときが来ることを願い、止まない雨は無いのだと自分に言い聞かせた。

 

 苦しくて。ひもじくて。寒くて。怖かった。

 救ってくれる誰かを心の何処かで願い、先の見えない暗闇を手探りで歩くような生活を送り、それでもついには最後に残っていた命すらも奪われる。

 地獄というものはきっとこういうものなのだろう。

 それでもいつか自分たちは力を合わせて世界を変えることが出来ると、自分の培ってきたものが役立つ日が来ると信じていた。

 ……本当はもう、この世界が昔の様に戻ることは無いのだろうと、心の何処かで理解していても、そうして言い聞かせ続けた。

 

 辛うじて生き続けた少女の生活が変わったのはそんなときだった。

 

 

――――ある時、化け物が少女に手を差し伸べた。

 

 皮肉にも、飢えて他者から奪うようになった者達から少女を救ったのは、化け物だった。

 

 人とは違う漆黒の双角を持ち、人外のような美しさを持ち、血に染まったような真っ赤な瞳を持った化け物。

 異形が出す異音、抑揚だけの怨嗟の音で、少女に対して確かに何かを語り掛ける目の前の化け物の姿はあまりに恐ろしく。

 それ以上に、異形という名の自分たちの命を奪うだけの存在が暴徒と化した生存者に襲われていた自身を救い、待ち望んでいた存在として目の前に現われたことがあまりに衝撃だった。

 

 

 無力だった少女の生活が一変した。

 貧困を受け入れ生を繋ぐだけだった生活が、他人に物事を教え、飢えを覚えることの無い生活へと変化した。

 

 少女を引き摺り上げた化け物は、欲しいものを言えばある程度は誠実に叶えてくれた。

 『言葉を教えて欲しい』だなんて、異形がそんなことを伝えてくるなんて考えもしなかったものの対価として、身の安全と不足の無い飲食、そしてある程度の我が儘さえも聞き届けてくれる。

 住処である廃墟の一室から引っ張り出してきた子供向けの絵本を抱えて来た化け物の確かな知性に驚いたのも束の間、その化け物のあまりの強さに末恐ろしさを覚えた。

 

 人と遜色の無い知性に人智を越えた身体能力。

 これまでの、ただ徘徊し獲物を見付けて襲い掛かるだけの死者や、人外の身体能力と僅かな知性を持った獣のような異形などとは比べものにならないほどの性能差を誇る、少女の形をした鬼は、人の世を取り戻す敵としてはあまりに強大で、それを身近で見ていた少女が絶望を覚えるのは当然と言えた。

 それほどまでに、その鬼は強大な力を持ち冷酷に襲い掛かる全てをなぎ払う。

 無慈悲に、己以外は無価値だと言わんばかりに、等しく暴虐を振りまいた。

 だからこその“死鬼”。全ての生命に死を運ぶ鬼がこの地に君臨することとなった。

 

 多くの者が恐れ震え上がったのは当然だ。

 それだけのことをした、それだけの非道を“死鬼”は行ってきたのだから。

 ……けれど同時に、鬼は言葉を覚えるごとに少女に対して優しさを見せていた。

 冷酷無比に襲い掛かってきた生存者を始末するくせに、住処で帰りを待っていた少女を見て面白そうに笑うようになった。

 片手でビル群を倒壊させ、侵攻してきた人の力の及ばないような化け物さえ打倒するくせに、少女が布団に包まって寒さに震えていれば直ぐに毛布を調達して放り投げてきた。

 

 優しかったのだ。

 もしもこの鬼が人の味方をしてくれればなんて夢を見てしまうほどに、化け物であるはずの鬼は少女に対して壊れ物を扱うかのように優しく触れた。

 人とよく似た見た目をしているその鬼に、わかり合えない化け物だと理解していても、多少の情を抱いてしまうのは仕方ない筈だ。

 言葉を覚えていくごとに、お互いの価値観を理解するごとに、柔らかくなっていく鬼の態度は少女が抱いていた大望さえ揺らがせて、このままこんな荒廃した生活を送ることさえ悪くは無いのでは無いかと思わせた。

 

 鬼は少女の同種である人が命を落としそうな場面で、利が無い筈なのに人を救うようになった。

 住まう場所を作り上げ、同じ生存者にさえ見捨てられるような無力な者達の居場所を築き上げた。

 この地域に侵攻してくる“主”と言う怪物を屠り続け、人の手には負えない化け物を幾度となく破壊し続けた。

 弱者達を、見捨てられるような者達を、救い上げ続けた鬼は彼らにとっての唯一の光だった。

 

 それを誰が責められよう。

 仕方が無いと切り捨てられた者達が、例えその相手が化け物だったとしても、自身を救ってくれた者に対して石を投げられるほど恩知らずではないのだから。

 敬意を、尊敬を、畏敬を、持つようになったとしても不思議では無い。

 信頼を、親愛を、敬愛を、抱いたとしても当然だ。

 だから自身に生まれたこの感情は決して間違いなどでは無い、そう願っていた。

 

 

 そうして悲劇で満ちているはずの世界で安穏とした暮らしを甘受するようになった少女であったが、胸の内に燻っていた何かが焦燥へと変わるのにそう時間は掛からなかった。

 自分のいるこの場所はきっと何処までも平和な楽園の様な場所で、けれど自分の知らぬ場所では今も誰かが死んでいるのだろう。

 建物の外に出れば怪物がそこら中を徘徊していて、餌となる人間を探しているに違いない。

 色んな人々が助けを求めている中で、自分だけが安全な場所で穏やかな生活を送っているのだという誰に対するものでも無い罪悪感が募っていく。

 思い詰め始めてしまえば、後は崖から転げ落ちていくかのように、悪い方向へとばかり思考は進んでいった。

 

 そして、きっかけとなったのはほんの些細なもの。

 目の前で人が“死鬼”によって殺された。

 自分よりも弱い者達から食料を奪おうとした無法者達を、見付けて何の躊躇もなく命を奪った怪物の姿を目の当たりにして、少女はストンと理解してしまったのだ。

 

 鬼はあくまで化け物で、人とは違うのだと。

 どれだけ好ましいと思っていても、鬼からすれば人間など等しく塵芥なのだと。

 彼女の気紛れ一つで、私達はみんな命を落とすことになるのだと……思ってしまった。

 

 思ってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 知らない筈の懐かしい夢を見た。

 泣きそうな顔の少女が「ごめんなさい」と口にする。

 嫌に現実的なその光景は、くっきりとした形となって目の前にあった。

 何処かで見たことのある女の人だと思って、直ぐにその人が今よりも少しだけ若い東城さんなのだと気が付いて驚いた。

 余裕を崩さなかったあの人がこんな表情を浮かべるなんて考えもしなかったから、どうして彼女が俺に向かって謝るのか分からなかった。

 

 けれど、東城さんとあの子には関わりがあったのだと思い出す。

 あの子に言葉を教えたのが東城さんだった。

 俺が迷彩服とヘルメットで姿を隠していても、泉北のお爺さんと同様に一目であの子の姿をしていることに気が付いた、たった二人の内の一人。

 

 俺の知らないあの子との関係。

 初めて会ったときから何処か極度に俺を恐れて、何処か距離感を掴みかねて、吹っ切れたように笑ったあの人が、きっと誰にも言わなかった関係。

 あの子と彼女以外ではもう誰も知るよしもない二人だけの関係性は、糸と糸が絡み合うように複雑に入り組んで、解くことが出来なくなってしまっているのだろうか。

 俺が知るよしも無かったあの子と東城さんの関係が、今は自分自身のことのように理解できる。

 そうか、これが……。

 

 

 

 揺さぶられる……いいや、忙しない上下運動に揺さぶられて、俺は意識を取り戻す。

 直ぐ近くから感じるふんわりとした特徴的な優しい香りは、嗅いだことの無い筈なのに不思議と安心して、目前にある誰かの後ろ髪が風で頬に触れても少しだって不快な気分にならなかった。

 

――――……ああいや、違う。俺は知っている。

 

 俺を背負った女性が啜り泣きながら壊れた町の中を歩いている。

 ごめんなさい、そう譫言のように呟きながら壊れた建物の暗い影を歩く女性は少なくない怪我を負っているようで、それでも動けなかった俺を背負い、この場所まで連れてきてくれている。

 

 遠くで“破國”の怒りに染まった咆哮が聞こえてきた。

 吹き飛ばした俺を探しているのだろうか。

 建物を破壊している音がこの場所まで聞こえてきた。

 

 俺を背負っていればいずれあの化け物の標的となることは分かっている筈なのに、その女性はそんなことを考える素振りすら見せず、ひたすら歩みを進めている。

 

――――馬鹿な奴だ……昔からこいつは変わらない。

 

 

「……もういい。下ろせ、東城」

 

 

 俺を背負っていた女性の足が止まる。

 だがそれもほんの数秒で、直ぐに彼女はまた歩き出した。

 

 

「私はまだ闘える、あんな奴に好きにさせるつもりは無い。不意を打たれただけだ、もう不覚を取るつもりはない」

 

 

 不意を打たれただけというのは本当だ。

 緩急の差がありすぎて目で追うことが出来なかったが、一度あの速度を体感したのであれば対処することが出来ないと言うことはない。

 もう一度万全の状態で向かい合えば、ここまで一方的にやられると言うことは無いと言い切ることが出来る。

 未だに力が入らずピクリとも腕が動かないのを自覚しながら、俺はそう口にした。

 それでも東城は何も言わず、この町から出ようとする足を止めることは無かった。

 

 

「東城……」

「もう、いいんです。私達はもう……いいんです」

 

 

 しゃくり上げるように言葉を発した東城は振り向くこともしなかった。

 

 

「人の足掻きも、知を振り絞った策も、全部あの脅威に歯が立たなくて。今回も、前回も、ずっと死鬼様に頼り切り……貴方の下では果たせないと言って飛び出した、人の世の復興なんて馬鹿げた夢物語はまた貴方に犠牲を強いさせようとしている。対価を払うべきなのは私で……人ではない貴方では無い筈なのに」

「……それは……」

「だから、もう手を出さないで下さい。私は彼らを最後まで見捨てることは出来ません。けれど貴方は違うはずです。力があって、人間と言う種族の鎖に囚われない貴方ならばどうにでも生きられる筈です」

 

 

 東城さんが言っていることが理解できなかった。

 あの子へ向けてどんな感情を持っているか理解できなくて、彼女の言っていることが分からないことが多かった。

 けれど今、分からないことばかりの彼女の言葉を俺はようやく理解することが出来始めていた。

 

 

「貴方が人を救おうと人は貴方を救わない……そう言った泉北の言葉に私の心が揺さぶられた時点で、本当は何処か自覚している部分はあった筈なんです……だから――――」

 

 

 だからこそ腹立たしい。

 お前はそうではないだろうと叩きたくなるほどに。

 

 

「――――お前はそうやってウダウダ考えているのがすっかり板に付いているな、お似合いだと言っても良いほどに。下らない生を続けるくらいならば私がこの手で引導を渡してやっても良いんだぞ」

「――――……本当に貴方は、いつまで経っても私に厳しいんですね」

「お前がいつまで経っても独り立ちしないからだ。そろそろ手の掛からないような成長をしてほしいものなんだがな」

 

 

 口が勝手に動いたわけでは無い。

 俺の本心がこうだと思って、口が動いた。

 あの子のフリをしようとしたわけでは無い。

 俺の記憶からこう言うべきだと判断して声が出た。

 “混ざり合う”、“侵食”、そんなワードを使って俺の状態を表してた意味がようやく身に染みて分かってきた。

 

 あの子と俺は二つで一つ。

 一つの身体に二つの精神なんて普通は収まらないのだ。

 そしてこの身体は俺であった頃の人間の身体では無く、感染菌に適応した異形としての身体である。だったらもう、後は火を見るよりも明らかだろう。

 それにもう、あの子と俺を分けて考える必要なんて無いのだ。

 

 

「お前は水に映った月では無く、空に向かって手を伸ばすと私に言っただろう。私はそれになんと言った。お前らのような力無い奴が不相応な夢を目指すのを、私が一言でも否定したことがあったか?」

 

 

 足を止めた東城の背中から下りる。

 損傷の激しい右手は今なおまともに動かないが、再生が終わった左手はもう傷一つない。

 ボロボロとなり僅かに残っていた着物の裾の部分を引き千切り、真っ赤に染まったその布を千切って捨てれば、それは梅の花のように風で宙を舞った。

 

 

「お前らの滑稽な、しがみつくように生きる様を見ることは私が過ごしてきた何かを壊すだけの日々よりもずっと充実していた。お前らが力を合わせて生活する様を見るのは悪いものでは無かった。お前がこんな世界になっても夢を追い掛けていると知った時、私は嬉しさを隠すことが出来なかった」

 

 

 なあ。

 そう言って東城を見れば、いつからか見ることが無かった彼女の懐かしい泣き顔が目に入る。

 くしゃくしゃで不細工なその泣き顔はいっそ笑えるほど滑稽で、そんな顔を崩したくて彼女の額を指で押せば、彼女は怒られた子供のように目をつぶった。

 

 

「――――嬉しかったんだよ、お前らが生きたいと言ってくれることが。お前らが負けたくないと言ってくれることが堪らなく嬉しかったんだ。こんな命を奪うだけの世界なんかよりも、お前らが生きていく世界の方が絶対に楽しいんだろうと思えることが幸せだったんだ」

 

 

 黙って私の前から去った彼女は、最後の最後になって私を切り捨てることを躊躇した。

 それはきっと嬉しく思うことなのだろう、彼女との間に出来た絆を誇るべきことなのだろう。

 本当は、異形である私と同類である生存者達の選択など秤に掛けるまでも無い筈なのだから。

 

 大切な一人とそれ以外の大勢を選ぶなんて言う選択は、古今東西の物語で使い古されたような手垢の付いたテーマの一つだ。

 選ぶべきなのはその他大勢で、自分以外の誰に聞いたってその答えはきっと変わることは無い。

 けれど、そんな選択を選ばされた人物が大切な一人がいない世界が残ったとして、そこで何事も無く生活していけるのだろうか。

 

 そんなことは無いだろう。

 きっと、そんなことは出来ないのだろう。

 人はそんな風に強くなんて出来ていないし、強くあろうなんて思えない。

 後悔ばかりするだろう。実際、東城は私の前から去り、生存していた自衛隊の者達が私を討伐したと聞いたときは自責の念にも駆られたのだろう。

 

 残す者よりも残される者の方が苦しいに決まっている。だってずっと続くのだ。

 手の届かない所へ行ってしまった者が何を思っていたのか分からないまま、苦悩を抱えたまま生き続けなくてはいけないのだ。

 そんな単純なこと分かっていた筈だった、分かったつもりになっていた。

 いずれいなくなるであろう異形の自分が彼女に本心を何も伝えず、わだかまりを解決しようともしなかった。

 彼女が苦しみ抜いたであろう一年間、これはどうしようもないほど私に責任がある。

 やるべきだと分かっていた事をやらなかった、だからこそ色んなものが絡まりこんな風に彼女は泣くこととなってしまった。

 これは紛れもない私の責任なのだ。

 

 言葉にはしてやらない、けれど悪いことをしてしまったと思っている。

 誠意を行動にはしない、それでも尻拭いはしなくてはいけないと分かっている。

 責任は果たすべきだと思う、だから今度は同じ間違いを犯すつもりは無かった。

 残す者は、残される者に果たす責任がある筈なのだから。

 

 彼女の懐に感じていた嫌な気配に手を伸ばし、目の前に取り出せば医者が手にしていた“ヒプノス”がそこにある。

 まだ何も潰えていない、ここから変える事はまだまだ容易いはずだ。

 

 

「行け皐月、お前の夢を私に見せてくれ。お前が教えてくれたこの言葉は……ああ、私にとってかけがえの無いほど美しいものだった。だから今度はお前が生きたいと願う、美しい世界をどうか私に見せてくれ」

「っ……死鬼様ぁっ……」

「泣くな馬鹿。何度も言っているだろう、お前の泣き顔は不細工なんだと」

 

 

 “ヒプノス”を手渡して優しく背中を押せば、東城はようやくフラフラと頼りない足取りで歩き出した。



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死への抵抗者達

 “死鬼”の姿を探し回る“破國”。

 あんなものでは致命打になり得ないと理解している化け物は、もう何処にも存在しないかつての古傷の疼きに苛立つように咆哮を上げる。

 奴を屠らねばこの疼きが収まることは無いと盲信しているかのように、散らばった瓦礫すら跳ね飛ばし、草の根を掻き分けるかのようなまでに入念に、あの忌々しい怨敵の姿を“破國”は探し回っていた。

 

 皮を剥がされた。

 肉を削げ落とし、角を切り裂き、頭蓋を砕かれた。

 身体のあらゆる筋と内臓はぐちゃぐちゃに混ぜ合わされ、自身よりも遙かに小さな異形の存在に叩きのめされ、敗北を知らなかった怪物はその日初めて地に伏し、死を目前とすることになった。

 

 だが、一方的な敗北では無かったのだろう。

 傍から見た状況では五分であったと感じる者も居るであろうし、あの怨敵は自分の敗北だとも言うかもしれないそんな結果ではあった。

 怪物に存在する僅かばかりの知性が、今までの経験から負けることなど有り得ないのだと慢心し油断していなかったとは言い切れない。

 

 理由を上げればキリなんてないし、もしもを考えればどうとでもなる。

 だがそれでも、怪物が感じた痛みは怪物だけのものであるし、感じた敗北感は怪物だけのものである。

 怪物が負けたと感じていれば、それは怪物にとってまぎれもない敗北なのだ。

 

 満身創痍の這々の体で脇目も誇りも無く逃げ出した怪物が、自身には目もくれず矮小な二足歩行の生物が束となって怨敵のいるであろう場所へと突入するのを目の当たりにして。

 死にかけである怪物など、あの怨敵に比べれば取るに足らないのだと言う様に見向きもしない猿どもを前にして。

 そこまで虚仮にされてなお、逃げるしか無かったなど“國を破壊した最強の異形”にはあってはならなかった。

 

ゆえにこそ怪物は執着する。

 この地へ、かつての傷へ、あの怨敵へ。

 その身に抱えた憎悪に狂い、暴れ回る。

 

 

 何処だ、何処に居る。

 あの程度ではダメージの内にも入らないだろう、と。

 そう言わんばかりの咆哮を上げて、奴が吹き飛んでいった筈の場所を虱潰す。

 あの好戦的な怨敵であれば直ぐにでも飛び出してくるだろうと言う予測はいつまで経っても姿を現わすことの無い鬼への怒りへと変換され、さらなる暴威の燃料となる。

 

 視界が真っ赤に染まるほどの怒りが怪物を満たして、さらなる興奮状態へと移行した身体からは生物からは到底発する筈が無いほどの高熱が巻き起こる。

 爆発にも似た湯気が天高く立ち昇り、周囲にいた異形の群れを焼き殺した。

 そうして、血走ったほの暗い双眸で周囲を見渡していた怪物の目に、矮小な二足歩行の生物が集まっている場所が映った。

 

 普段であれば餌としか考えないそれらの姿に一度は興味を失うものの、過去に奴がしていた行動を思い出して、怪物は見境無しに暴れ回るのを止めた。

 そう言えば奴はあの猿に似た奴らを庇うような立ち回りをしていた事を思い出し、あれらが危機に瀕していれば飛び出してくる、そんな訳の分からない奴だったと口元を上げる。

 

 狙いを定め、大地を踏みしめ、筋肉が収縮し――――そうして解放された爆発的な速度の突進が最後の生存者達の拠り所である市役所へと向けられた、その瞬間。

 

 的確に骨の鎧の間を縫う軌道をした一発の弾丸が踏み込んだ前足を貫いた。

 完全に虚を突かれた正確無比な一撃に、ただただ攻勢に転じようとしていた怪物はバランスを崩し、その場で大きく転倒する。

 幾つもの建物をなぎ倒しながら転げ回った超重量の怪物は未だに何が起きたのか理解できずに天を仰いだままの状態で硬直し、冷徹な弾丸はその隙を逃さない。

 

 まず足の付け根を連続で数発貫き、間髪入れず比較的柔らかい腹部へ抉るような弾丸が叩き込まれる。

 最初の数発は固い部分にぶつかって皮膚すら貫通しなかったものの、五発目以降は確実に柔らかい部分を狙い撃ち、十発以降は息も吐かせないような連射速度で怪物の身体を削り取り始めた。

 

 意表こそ突かれたが、怪物は微塵も焦ることは無い。

 過去に幾度となく受けた硬質な欠片を使用した長距離からの攻撃と同類のこれは、例え的確に身体の脆弱な部分を狙い撃とうとも深刻な傷にならないのを怪物は知っていた。

 削り取られる量よりも再生する速度の方が早い。

 重心こそ崩れたが、それも意識外の攻撃であったからだ。

 今もなお攻撃の手を緩めようとしない狙撃手がいるであろう市役所の上層を捕捉して、アスファルトを抉りながら立ち上がった怪物は突進の為に四本足に力を込める。

 

 

「■■■■■――――!!!」

 

 

 突進を阻止しようとした狙撃手が、溜めを作っていた足を幾度となく撃ち抜いたものの、もはや怪物はその程度ではバランス一つ崩さない。

 恐るべき速さで飛びだした巨体に、狙撃していた眼鏡の女性、笹原知子は焦燥を表情に浮かべると同時に舌打ちをする。

 

 生存者達の最後の砦であるこの場所へ迫っていた異形の群れに対処すると言って飛び出して行った“死鬼”の手助けをしようと外を確認した知子だったが、視界に入ってきたのは暴れ回る“破國”の姿だけ。

 こちらに標的を定めた怪物に危機感を感じ、自身の唯一の銃器であるライフルで応戦こそしたが、それもこの有様だ。

 積み上げた障害物も全てなぎ払いながら一直線に突き進んでくる怪物の姿に、知子は覚悟を決めて外へと飛び出す準備をするが――――その前に動く影があった。

 

 

「――――おのれデカブツの腐れ牛がっ!! よくも死鬼様に手を上げてくれたな!!」

 

 

 障害物を吹き飛ばすほんの少しの間。

 僅かに動きが鈍った怪物の横合いから飛び出したのは巨人の群れを操る水野だ。

 巨人の群れが一つの意思を持つかのように黒い濁流となって“破國”の横腹を殴り付け、その巨体を僅かに浮かび上がらせ、突進を中断させる。

 

 

「水野さんっ!? どうしてここに……いえ、このチャンスはっ……!」

 

 

 戦線は崩れた。異形の群れは未だ底知れず、主である“破國”は今なお健在だ。

 異形の対処へと向かった筈の“死鬼”の姿が今は見えず行方は不明。

 状況は悪く切り札も無い、守るものがあまりに多く自分達に残されたチャンスはあまりに少ない。

 だからこそ、この時を逃すべきでは無いと知子は判断した。

 

 

 ライフル銃を小脇に抱え直し屋上から何の迷いも無く飛び出した知子は、攻撃の手を一切緩めず“破國”に追撃を加える水野の下へと向かう。

 屋根から屋根へと飛び回る彼女の動きはもはや常人の動きでは無い。

 “死鬼”から感染した菌はあまりに強靱で、医者から処方された薬物を使用しても知子の身体能力は超人の域に達する。

 人型としてかなりの安定性を見せている“死鬼”からの感染であるからこそ、死者や異形へと変異すること無く人間としての形を保てているが、異形と人の境界周辺にいるのは間違いなかった。

 危険な状態だ。

だがだからこそ、人間から“死鬼”に近付いた彼女の攻撃は“主”クラスの怪物にさえ通用する。

 

 

「ここで少しでも損傷を与えられればっ……!」

 

 

 屋根から“破國”の首下に向け跳躍し、身体を空中で回転させながら刃物の様な踵落としを叩き付けた。

 

 骨が砕けるような音と共に、衝撃を受けた怪物の後頭部に小さいながらも亀裂が入る。

 予想もしなかった支援に目を丸くしている水野へと視線を送り、知子が攻撃を続けるよう合図を送れば、水野も然る者。

 目線での合図だけで即座に反応した彼女は、引き連れているありったけの巨人に指示を出し、想定外の攻撃に怯む“破國”を一息に攻め立て始めた。

 

 泉北が用意していた巨人はおよそ三十程であり、角持ちは十にも満たず、さらに強力な“主”クラスの個体に至っては一体のみだ。

 対“破國”を想定して用意されていたそれらのほとんどが梅利によって潰された今、巨人の数は当初と比べると全くと言って良いほど残っていない。

 唯一“破國”に対抗出来るのではと期待されていた“主”クラスの怪物もいとも容易く屠られてしまっている。

 もっとも、強力な個体を操るにはそれなりの時間や材料が必要であり、強力なあの個体を操れるだけの力を持っていたのは泉北の爺だけだった今、あんなものが残っていれば暴走する事は目に見えているのだが……。

 ともあれ、通常の異形に比べれば弱いと梅利は断じていたものの、人を遙かに超える膂力を持った巨人が束になり水野という司令塔を持てば、角持ちでは無いとは言え恐るべき戦力となり得る。

 だからこそ、止めどない濁流のような巨人の攻撃は“破國”と言う怪物に対する有効打となり得たし、虚を突かれた化け物が行おうとしていた生存者への攻撃を抑える楔となった。

 

――――だが当然、そんなものは一時的なものにしかならない。

 

 

「な、ぐっ!!?」

「――――チッ……!」

 

 

 身体に纏わり付く虫を払うかのように、“破國”は勢い良く地面を転がった。

 “破國”からすれば何ら特別でも無い、動物で言う泥遊びに似たそんな動作は、小山程度もある巨大な体躯の怪物が行うと言う条件を加えただけで知子達にとっては恐ろしい脅威となる。

 

 近くにいた数体の巨人が為す術もなく潰された。

 浮き上がっている骨の鎧がまるでスパイクのようにアスファルトや建物を纏めて耕し、ほんの一瞬でその場が更地となる。

 辛うじてその攻撃を回避した知子と彼女に抱えられた水野は、想像を絶する目の前の光景に息を呑んだ。

 

 ズンッ、と超重量の巨体が体勢を立て直す。

 知子達の目前に落ち窪んだ深淵のような双眸が現われ、そこから漏れ出す真っ赤な攻撃色が絶望を彼女達にいとも容易く塗り込んだ。

 ガチガチと震え始めた水野の身体を抱きかかえ、引き攣った顔も戻すことが出来なかった知子の精神状態では、真横を駆け抜けた人影に反応出来なかったのは仕方ないことだろう。

 

 この場には、どれだけ圧倒的な性能の差を見せつけられても動揺一つしないもう一人の怪物が存在している。

 

 

「――――その面、よく私の前に出せたわね。ええ、正直言えば嬉しいわ、ぶつける相手のいない激情なんて空しいだけだもの」

 

 

 長身の人影が疾駆する。

 ひずめを踏み、凸凹とした骨の鎧を駆け上がり、ものの数秒で目標である“破國”の顔面まで辿り着くと、その女性は怪物の洞のような窪みに銃口を押し込んで狙いも付けずに即座に発砲する。

 

 獣の絶叫が町中に響いた。

 黒い液体が怪物の穿たれた片目から噴水のように噴き出して、巨大な化け物はあまりの痛みに悶え思考を放棄して暴れ回る。

 女性は既に怪物の眼前になどいない。

 サバイバルナイフで怪物の背をなぞるように切り裂きながら、縦横無尽に“破國”の全身に傷を付け、身体の至るところから出血を促していく。

 だが、骨の鎧は刃物を通さず、下に隠れる皮膚ですらあまりに強固である“破國”には手にしたナイフが耐え切れず、手元の部分から砕け壊れてしまう。

 だが、それを下らなそうに一瞥だけした女性は怪物の背中に複数のグレネードをバラ撒いて、数階分の高さはあるその場から一切の躊躇無く地面目掛けて飛び降りた。

 

 “破國”の背で巻き起こる爆炎と落下していく女性の姿に目を剝いたのは、それを傍で見ていた水野達だ。

 慌てて巨人に指示を飛ばして救出に向かおうとするが、いつの間にやら“破國”の骨に括り付けていたロープを支えに空中機動へ移行した彼女を見て、そんなもの必要ないのだと思い知らされる。

 

 誰よりも異形を狩り続けた者。

 誰よりも戦闘を望んだ者。

 自身の生存よりも異形の破壊を優先させ続けた彼女の技術は、こと人の範疇に置いて、ある種の限界まで研ぎ澄まされている。

 

 一年目は足を引っ張った。

 二年目は肩を並べ、時には貢献さえ出来るように。

 三年経てば作戦においての失態など犯さなくなり、四年経てば単体で異形を倒しきるまでになった。

 そうして十年のあまりに長い時間を、死線を潜り抜けることに力を注ぎ続けた彼女は、いつの間にか“南部”と言う戦闘に特化しているコミュニティにおいてさえ、並ぶ者は居ないと言われるほどに怖れられるようになったのだ。

 天性の才覚か、弛まぬ努力によるものか、若しくはギリギリの場所で生き残る幸運によるものなのかは分からないが、恐らくそのどれか一つの要素でも欠落していれば今の彼女は有り得ないのだろう。

 そしてその技術に果てなど無い。

 彼女の目的はあくまで異形全ての排除であり、それが終わるまで何一つ止まることは無いからだ。

 

 いくら種としての能力に差があろうとも、それを補える部分は無限にある。

 圧倒的な逆境を、知略や能力、機転で乗り切ってきたのは今まで沢山あった。

 培われてきた戦闘技術は、“死鬼”に言わせれば力無い者の足掻きでしか無いのだろうが。

けれど、後悔の上に折り重なった彼女という集大成は……もう誰かを救うには十分すぎるものとなっていた。

 

 

「■■ォ……!!?」

「お前との戦い方は昔からずっと考えていたわ。どうすれば規格外なお前達に勝つことが出来るのか私は延々と考えてきて、それをこなすだけの準備を怠る事は無かった。私が優位を取れる場所なんてそれしか無いもの……残念なことにね。けど、だからこそ私はお前を絶対にここで仕留める」

 

 

 決意を言葉にして、南部彩乃は片手の力だけで“破國”の身体にしがみつき化け物の全身を駆け巡る。

 

 張り付き距離を取らせない、徹底した動きで的確に“破國”の攻撃を躱す、そして移動と同時にナイフや銃を活用して怪物の身体を抉ると言う動作を、彩乃はひたすらに繰り返す。

 洗練された無駄の無い動きは、“破國”が繰り出す攻撃はおろか、発せられている高熱や他の異形による妨害すら寄せ付けない。

 ましてや怒りにまかせて暴れ狂うだけの怪物の攻撃など、限界まで研ぎ澄まされた彩乃に直撃などするわけがない。

 

 目の前で行われるたった一人の人間の戦闘に、知子と水野は目を剝いた。

 あれだけ規格外だと考えていた“破國”と言う怪物が手玉に取られている状況に。

 そしてそれを為しているのが自分たちと変わらないただの人間だという事実に、二人は戦慄を覚えるしかなかった。

 

 

「あ、彩乃ちゃんって……頭おかしいのね……」

「……なんなんですかあの戦い方。必死に覚えた私の動きよりもずっと……」

 

 

 標的が他の生存者から周囲を飛び回る彩乃へ完全に切り替わる。

 怨敵を引き摺り出すための餌よりも、障害となっている周りを飛び回る女を片付けるよう意識を切り替え、咆哮を上げ周囲の建物をなぎ払いながら攻撃を振り回し始めるが、それでも駆け回る彼女にはまるで当たらない。

 周囲を飛び回る小さな虫のように怪物の視界に幾度となく身を晒しながらも、制御された緩急の動きで怪物に捉えさせずにいる。

 

 目の前の状況を理解することは到底出来ないが、確実に時間を稼ぐことが出来ている。

 それは、紛れもない好機だった。

 

 

「彩乃さんが時間を稼いでくれているこの時間に何とか有効な攻撃の準備をしないと……」

「……薬品の投与は失敗に終わったものね。なら、作戦を次の段階に切り替えないと……か」

 

 

 「仕方ないわね」と吐き捨てて、水野はチラリと戦えない者達がいる背後の建物に視線をやり、他の者達が異形の群れと交戦している音が周囲一帯で続いているのを確認した。

 それから頭まですっぽりと覆った毛皮のコートを彼女は放り投げ、黒く罅の入った左手を眼前に構えて深呼吸をする。

 

 気持ちを整える、なんて生やさしいものでは無い。

 これはもっと禍々しく、もっと非道的な行為だ。

 異様な彼女の雰囲気に気が付いた知子が何かを口にする前に、光彩が消えた漆黒の双眸をゆっくりと開いた水野が“破國”へ向けて歩き出した。

 

 

「一体、何をするつもりなんですかっ!?」

「騒がないでちーちゃん、単に少し侵食を進めただけよ。予備の戦力を扱える様にするためにね」

「予備……?」

「そう、予備よ。出来れば使いたくなかった予備戦力」

 

 

 そう、最後の時まで隠すと密かに決められていた、いるはずの無い巨人の集団。

 それが、放棄した筈の“泉北”の拠点だった場所を破壊して飛び出した。

 

 

「――――秘密兵器、素敵でしょう?」

 

 

 数にすればほんの数体。

 だが、その戦力は全てが角持ちだ。

 

 水野がいる場所までの距離を、あらゆる障害物を破壊しながら一直線に突き進む巨人達の動きはさながら暴走特急だ。

 通常の巨人ですらかなりの膂力を持っていたのだ。それが角持ちとなれば、もはや人と比べる事など出来はしない。

 異形の群れ、建物、車やバリケードさえ吹き飛ばして、即座に水野の下へと駆け付けた角持ちの巨人達を従えて、彼女は未だ一人きりで“破國”と戦う彩乃に視線を投げる。

 

 

「ちーちゃんは下がっていなさい。荒っぽいことになるわよ」

「み、見くびらないで下さいっ……! 私だって戦えます! アイツだって戻ってきてないし……この場を死守するのは私の責務です!!」

「……まあ、貴方はもう大人だし、危機管理は自分でやって頂戴ね。それに――――始めに言っておくと、これは私の気性も荒くなるから」

 

 

 犬歯を剥き出しにして笑った水野が、罅の入った腕を振るえば爆発でもしたかのような轟音と共に角持ちの巨人全てが暴れ狂う“破國”目掛けて突撃を開始した。

 

 “破國”を翻弄し、休むこと無く駆け回っていた彩乃は、突然足場にしていた怪物の身体が急に浮かび上がり、側面から加わった強大な力で地面に転がされた事に目を剝いた。

 即座に反応し“破國”から離脱したため怪我は無かったものの、咆哮を上げて狂ったように怪物をサンドバックにする巨人の集団に眉を顰めた。

 

 忌々しい異形の存在に手助けされた。

 “死鬼”の件があったとは言え、そんな事実はまだ慣れなかった。

 

 

「趣味が悪くて、到底味方の支援とは思えないわ。……まあ、でも確かに心強くはあるけれどね」

「うふふ、わざわざ危険を冒してでも手に入れた力だもの。出来ることなら使いたくは無いけど、いつまでも出し渋るような事はしないわ」

「良いの? それ、どうせあの爺と同じでその身を喰らうものだろうから、寿命を削っているようなものなんでしょう?」

「そんなの、あの医者の最終確認に同意した時から覚悟を決めていたものよ。ほんの些細なことだわ」

「……そこまでして貴方が守りたいのは、後ろにいたあの子供達?」

「ああ……なんだったかしらね。忘れてしまったわ、そんなもの」

 

 

 彩乃が皮肉げに言葉をぶつけてみても、水野は遠い目をして視線一つ彼女に寄越す事は無い。

 妄執に囚われた狂信者のように、肉親の仇でも呪うかのように、複数の角持ちによって攻撃を加えられている“破國”をただ凝視し続けていた。

 

 

「……ふん。私は私で好きにやらせて貰うわよ」

「ええ、どうぞそのように」

「笹原知子、そのライフルで援護する方が危険は少なくて済むわ。撃ち方を心得ているなら、無理に私に付いてこないでこの女の護衛と援護射撃をお願い」

「――――はっ、はははっ! ふざけたこと言わないで下さい! 私の方が頑丈なんですっ、なら私が前に出るべきでしょうっ!」

「あらあら血の気が多いこと。まあ、そもそも私は後方で待機なんてしないわよ彩乃ちゃん。私だって多少は手段があるのだもの、手心一つ加えるつもりは無いわ」

「……扱いにくい奴らね。死んでも恨み言は聞かないし、墓も作ってやらないわよ」

「それはこっちの台詞です……! ああもうっ、先に行かさせて貰いますから!」

「あっ、ちょっとちーちゃん!?」

 

 

 ヤイヤイと言い争っていた彼女達が、知子が走り出したことを引き金に一斉に動き出した。

 

 碌に狙いも付けずに知子が発砲した銃弾が、“破國”の残っていたもう片方の目玉を正確に撃ち抜いた。

 纏わり付いていた巨人達を押し潰そうとしていた怪物は、突然襲い掛かった激痛に悲鳴のような咆哮を上げるが、それを黙らせるように“破國”は顔面を地面に叩き付けられる。

 後頭部を掴んで地面に叩き付けた巨人に続くように、即座に距離を詰めた知子が他よりも弱いであろう間接部を狙って打撃を仕掛け、それを追うようにさらに大きくひび割れた左腕を水野が鞭のように打ち込んだ。

 煙を上げて破損した箇所を再生した“破國”が反撃しようとするのを、まるで先読みしたかのように、肉薄した彩乃が両手に持った散弾銃を押しつけて怪物の喉元を吹き飛ばす。

 それでもなおも続けられる攻撃の数々は並の異形ならばひとたまりも無いほどの威力を持つものばかりであったが、怪物は碌な抵抗をすることが出来なかった。

 

 不協和音の様で、不思議とお互いがお互いを補っている。

 隙を埋め合い、思考の時間も、行動の自由も、状況の理解も、彼女達は許さない。

 もはや数の暴力。様々なダメージが蓄積していた今の“破國”には為す術など無い。

 

 異常な光景だった。

 人間が異形の王を圧倒する、言葉にすれば夢物語と笑われるような超常的な事態。

 数年前には考えられなかった、そんな有り得ないような事態がこの場所で起こっている。

 攻撃は当然碌に通らない。

 厚い皮膚に分厚いゴムのような筋肉、生え揃った剛毛は鋼糸のように堅く、皮膚を剥がされズタズタに引き裂かれた事によって生まれた骨の鎧は爆撃程度では傷一つ負わないだろう。

 そして、例え攻撃が通ったとしても、傷付いた端から再生する怪物の回復力に追い付くことは決してない。

 

 だがそれでも“破國”と言う怪物を、被害を出さずこの場に留め切っている。

 野放しにすることで起こりうる被害を抑え込んでいる事に変わりは無いのだ。

 

 

「押し留めこそ出来ていますがっ、これは……!」

「この状態こそ最良のものよちーちゃん! 欲張ったことを考えず目の前に集中して!」

「今は雌伏の時。いずれ糸口は見付かるわ、焦る必要なんて無い」

「なんで二人はそう余裕なんですか!? もうっ、分かっていますよ!!」

 

 

 攻撃の効果が見えないことに焦り、動揺を口にした知子を即座に諫めた二人の態度は対照的だ。

 水野はこの現状を維持しようと努め、彩乃は虎視眈々と活路を探っている。

 当然だ。なぜならこの二人の目的は違うのだ。

 

 水野は怪物を野放しにすることで出る犠牲を抑えるためであり、彩乃はあくまで倒しきる事を目的としている。

 抑えられている現状を継続することが水野にとっては何よりで、彩乃にとっては我慢するべき時なのだから。

 

 

「この国を落とした怪物、“破國”も攻撃手段や戦力があって、無理に討伐しようとさえしなければ十分戦える! このまま次の策か弱点を見付けられれば――――」

 

 

 

 

 

「――――そう、彼女達は思っているのかもしれないね」

「……何が言いたいんだお前は。一々言葉が足りなくて分かりにくいぞ」

 

 

 “破國”との戦闘を繰り広げる場所から少しだけ離れた場所で、撤退してきた明石達が荒れ狂うその戦闘を眺めていた。

 五分どころか、優勢を保っている知子達の様子に目を剝き、少しだけ沸き立っていた中で発せられた医者の言葉に、明石は怪訝そうに眉を顰めながら、説明を求め視線を送る。

 だが、そんな明石の視線に意を介さず、すまし顔の医者は寄ってきた異形達から攻撃の届かない安全な場所へと移動し、他の者達に処理を押しつけている。

 

 

「確かに、過去の事を考えれば、攻撃手段をあれしか持たない彼女達が“破國”に完全なトドメをさせるとは思わない。思わないが……戦えていると言う事実は変わりないだろう? この戦況を継続させることが出来れば、状況を好転させる切っ掛けを見付ける可能性が全くないとは言えない筈だ」

「うん? ああ、なるほどそういうことか。君達とは認識に違いがあると思っていたが、そんな根本的な事を理解していないとは思わなかった」

「……なんだと? 一々人の神経を逆撫でする様なことを言わないと気が済まないのかお前は?」

「おいおい、止めてくれ。僕にそんなつもりは無いのはよく知っているだろう。お姫様に無下にされた苛立ちを僕にぶつけないでくれるかい?」

「俺はっ、そんなつもりは無い……!」

 

 

 良いからさっさと答えろ、と言いながら、明石は襲い来る異形を接近させない様に弾丸をバラ撒き安全を確保する。

 苛立つ明石の様子を楽しむように医者はクツクツと喉を鳴らすように笑い、汚れた指先をくるくると回し始めた。

 

 

「死者は出来損ない、異形は適応した。この二つの境界はこう説明する事になる」

「どういうこと……いや、それがどうした?」

「感染に適合することが出来なかった者がその身を崩壊させたのが死者だ。元々あった細胞が拒絶反応を起こし、形を保てなくなることで生命活動を停止することとなる。だが、その身を巣喰う菌は体内で繁殖し、何とか崩壊を食い止めようと他の生物を補食させようとするんだ」

「……」

「それに対し異形は、菌に適合し、適合に会わせてその感染者の身体に適した最も優秀な形へと変化させたものを言う。個人の資質や感染させた対象、若しくはその時の状況によって左右されるが、いずれもそれぞれ特徴的な強みを持つことがあり、こちらは死者ほど捕食しようとする事は無い。まあ、つまり死者と異形の違いは別に強さでは無く、蔓延する菌に対しての適合性の高さの違いと言う事になるわけだ」

 

 

 どう言う意図の説明なのかと、思考を始めしばらく無言になっていた明石だったが、周囲を警戒していた者達から襲い掛かってきていた異形達の排除完了の報告が上がり、直ぐに遠回りに拠点に向け動くよう指示を飛ばしそれまでの思考を打ち切ってしまう。

 そんな横柄な態度の明石に対しても、医者は大して気にした様子も無く肩を竦めた

それから彼は、巨大な怪物があらゆる猛襲を受けながらも、憎悪に染まった赤い光を発する双眸からは欠片も力を失っていない事を確認した。

 

 

「……“主”とは、その地域を支配している異形を指すのであって、死者や異形との区別を付ける用語では無い。単純な強さで勝ち残った変異体でしかないそんな名称を持ったものに意味など無いが……その中でも例外は存在する。死者、異形の定義の中で、もしもさらに上があるのならば」

 

 

 波状攻撃に対応できずに歯噛みしていた状態だった視線の先の怪物が、悍ましい変貌を始めたのを、目を細めてじっと見詰めて医者は言葉を続ける。

 

 それはきっとああ言う奴らが該当するのだろう、そんなことを呟いた。

 

 

 

 

 

 最初に変化に気が付いたのは知子だった。

 “破國”の身体から発せられていた高熱の蒸気がさらに高温になり、異様な匂いが噴き出し始めた事に眉をしかめた。

 

 

「熱くなってる? ううん、それにこの異臭は……?」

 

 

 柄にも無く頭に血が上っているのか、猛撃を行う事に集中しきっている水野や集中攻撃を受けている彩乃は未だ気が付いていない。

 数字にすれば大きな変化であるかもしれないが、この場においてはさして気に留める程では無いであろうその差異に、どうするべきか知子は迷った。

 

 

「硫黄のような腐臭のような……死にかけているなら、良いのだけど」

 

 

 邪魔になりそうな位置にいる異形を正確にライフルで撃ち抜き、的にならないよう立ち回り場所を変える。

 つぶさに“破國”の全身を観察し、他に何か異常が無いかと探すが、何処にも大きな変化は見当たらない。

 

 どうしたものかと悩み始めた段階で、ズルリと“破國”に生えた尾が伸び、根元から新たに複数の骨の尾が姿を現わした。

 変化はそれだけに留まらない。牛の体躯に似た状態であった怪物の背が大きく盛り上がり、刃の様な赤く脈動した骨が剣山のように幾つも外に突き出した。

 ブチブチと、口のあった部分がさらに大きく横に引き裂かれ、鋭利な歯が外気に晒される。

 

 

「なっ、これは一体!?」

「一旦離――――!!?」

 

 

 近くにいた巨人の一体が、突然首が伸び喰らい掛かった“破國”に対応できず食い千切られた。

 足りない機動性を補うために、急激に膨張し伸縮した足がこれまでとは比べものにならないほど長いものへと変わり、さらに全身を覆っていた骨の鎧に幾重もの棘が生え広がっていく。

 

――――一際大きな蒸気の爆発が巻き起こった。

 

 直ぐ目の前が見えないほどに、高熱の蒸気で視界が真っ白へと染まりきった。

 咄嗟に危険性を察知した彩乃が、極限まで音を消した動きで水野を掴み、全力で距離を取りに走る。

 

――――直後に巻き起こった爆発は、純粋な暴力によるものだった。

 

 その場で回転した“破國”によって破壊された無数の巨人達が残骸となって撒き散らされる。

 アスファルトや建物の瓦礫が吹き飛び、“破國”自身の身体に張り付いていた脆くなっていた部分が砕け散る。

 それが、距離を取っていた知子達に散弾銃の弾のように突き刺さり、いとも容易く彼女達の身体を吹き飛ばした。

 

 

「ぐっ……っっ……! 痛っつ……!」

「あ、彩乃ちゃん!?」

「ふ、ざけ、すぎです……。なん、なんですか……これ」

 

 

 額に瓦礫が擦り出血する者、吹き飛ばされた先にあった壁に叩き付けられた者、熱風に全身を焼かれた者と様々だが、いずれも共通するのは満身創痍と言うことだけだ。

 ボロボロの身体となりながらも、爆心地から目を離してはいけないと必死に顔だけは背けない彼女達の前に――――それは姿を現わした。

 

 

牛と蜘蛛を歪に掛け合わせたような怪物だ。

 腹部から新たに生えた長い足を合わせると、8本にもなった怪物の足は強靱な筋肉と骨が混ざりあっている。

 蜘蛛のような腹部の膨らみは無いものの、尾骨の部分から生えた鞭のように長くしなやかな尻尾は3本へと変わり、そのどれもがそれぞれに意識を持つかのように動き回る。

 胴体部分は剣山のような棘が至るところから突き出して、その身を守る鎧となっている。

 そして、その頭部に至っては4つの巨大な角がその頭部を覆い、顔の下半分は蜘蛛のように横に裂けた巨大な口へと変貌している。

 

 まごう事なき怪物が、その場に現れた。

 

 

「きっ……機動性を、補うために……進化したとでも言うんですか……?」

 

 

 血の気が失せた顔で、巨大な複眼で自分たちを見下ろす化け物を見上げ、知子は愕然と呟く。

 返答の代わりにあったのは、横殴りに襲い掛かった巨大な尾だった。

 

 

「……あっ……――――」

 

 

 豪速で襲い掛かった尾を躱すことなど出来ず、建物ごとなぎ払われる事となった知子は悲鳴すら上げることは出来なかった。

 辛うじて銃を盾にしたが、それでどれだけ衝撃を抑えられただろう。

 

 

「ちーちゃん!?」

「馬鹿、落ち着きなさい! 次はこっちに来る!」

 

 

 即座にその場からの離脱を選択した彩乃に引き摺られる形で、水野もその場を離れたが、視線は吹き飛ばされた知子の姿を探し続けている。

 彩乃の予想通り、作り出された幾つもの眼球が彼女達を捉えて追い続けており、これまでに無かった複数の足による大跳躍は彼女達が必死に取った距離を一瞬で潰す。

 

 次の瞬間には目前に現われた巨大な化け物の姿に、彩乃達は息を呑み絶句した。

 桁違いの変貌。状況に対応した転化。これまでのただの天災のような暴威とは異なる、人が怪物を攻略しようとする事に対した対策を、進化という手札でやって見せたのだ。

 

 

「こ、これ……特効薬が撃ち込めても、無理だったんじゃ……」

 

 

 ポツリと呟いたそんな言葉は、姿を変貌させた“破國”の不気味な口から漏れ出る唸り声に掻き消される。

 硬直した水野とは対照的に、歯軋り一つした彩乃は即座に懐から複数のグレネードを放つ。

 

 

「まともじゃ無いっ……! こんなふざけた化け物をまともに相手取るなんて自殺志願するようなものだもの! 今はともかく逃げないと……!」

 

 

 生み出した幾つもの爆風を背に、水野の手を取り走り出した彩乃だったが、グレネードの爆発などものともしなかった“破國”にとってその背中はただの的でしか無かった。

 

 地面のアスファルトに巨大な足を突き刺して、岩盤ごと彩乃達を上空に放り投げた。

 突然空高く飛び上がった状況を理解できず、呆けた顔のまま目を剝いた彩乃達目掛け、鞭の様にしなった複数の尾が振り下ろされる。

 

 

「――――攻撃しなさい!!」

 

 

 死を直感した水野が咄嗟に吠えた。

 片腕に埋め込まれた細胞が、その声に反応してさらに活動を激しくし、身体への侵食を大きくする。

 黒いひび割れにも見える血管の隆起が、顔まで届き、痛みに耐えるように歯を食いしばった水野であったが、対価として払ったその痛みと引き換えに、水野の声に呼応するように動き出すものがあった。

 

 幾つもの巨人の影が“破國”に襲い掛かる。

 その叫びとほぼ同時に、角持ちや通常の巨人達の動けるモノ達全てが攻撃を繰り出そうとしていた“破國”に殺到し、彩乃達への追撃を阻止しようとしたのだ。

 角を持った巨人は一体一体が強力な力を持った化け物であり、致命打にならなくとも妨害程度は可能だと判断した水野の判断は決して悪いものでは無く――――それでも現実は、変貌した“破國”には何の意味ももたらさない。

 

 嵐が巻き起こった。

 少なくとも水野にはそうとしか思えなかった。

 飛び掛かっていたはずの切り札達の姿が巻き起こった爆風の後には跡形も無く、目前にはただ赤く光る巨大な怪物の双眼だけがある。

 

 

「――――あ、ああぁぁああああァァ!!!!!」

 

 

 咄嗟だった。

 腕の中に自身を抱え込もうとしていた彩乃を押し退けて、変異していた片腕を盾のように突き出したのは、打算があった訳ではなかった。

 

 だから惨めに砕けた片腕も、潰れた肩口から噴き出す流血も。

 自分自身のものである筈なのに何処か他人事のような感覚で。

 水野は不思議なものを見るような気分のまま、人形が子供に投げられたかのように宙を舞った。

 

 

「このっ、馬鹿女っ!!」

 

 

 彩乃は自身を守って吹き飛ばされた水野をしがみつくように抱き留める。 

上空に地面ごと吹き飛ばされて崩壊寸前のビルの屋上を転がり、落下寸前で何とか勢いを止める事に成功するが、同じビルの屋上に巨大な瓦礫となったアスファルトが降り注ぎ、ビルの崩壊が始まってしまう。

 

 生命線だった足場が砕け、バランスを崩した彩乃は立っていられずその場に倒れ、その拍子に掴んでいた水野を一瞬だけ離してしまった。

 

 

「――――っっ!!」

 

 

 身動き一つしなかった水野はその一瞬でビルの屋上に出来た巨大な亀裂から落下し始め、慌てて手を伸ばした彩乃は何とか彼女の片手を掴んだ。

 ビルの屋上で、全身を投げ出した状態の水野を片手で掴む彩乃の額に汗が滲む。

 引き上げようにも、揺れ続け手すりも無いこの場で下手に重心を移動させれば、彩乃もろとも落下してしまうのは目に見えている。

 

 今も瓦礫の雨は続いている。

 直ぐ傍で砕けた瓦礫の砂が彩乃の顔を打ち、切れた皮膚から血が流れる。

 グラグラと揺れるビルは、直ぐ倒壊が始まっても何一つ不思議では無い。

 

 

「くそっ! 意識をしっかり持ちなさい水野葵!! タイミングを見て引き上げる!! それまで耐えて!!」

「……は、はは。彩乃ちゃんはほんと……お人好しなんだから……」

「黙っていて! 私の身代わりなんてっ、ふざけた事をして! 意地でも引き上げてやるわ!」

 

 

 必死の形相で汗を滴らせる彩乃は、色を失いつつある水野の顔を睨むように見詰める。

 潰れた肩口から流れる血液はあまりに多い、直ぐにでも治療をしなければ命を落としかねないと素人の彩乃すら思うほどに重傷である。

 

 血の匂いに反応したのか、鳥の羽ばたくような音が上空から集まってきているのを耳にして、彩乃が周囲を見回せば羽の所々が禿げた化け物染みた鳥の群れが周囲を徘徊しているのを確認した。

 じっと彩乃達が弱るのを待っているのか、それとも瓦礫の雨が終わるのを待っているのか分からない。

 だが、奴らが襲ってくるのにそう時間を置くことは無いだろうと彩乃は直感した。

 

 

「“破國”に群れる雑魚異形どもめっ……!」

「……私を囮に」

「却下よ」

「あはは……頑固者め」

 

 

 近くで爆発が起こる。

 追撃を行うために追ってきた“破國”が、近くの建物の屋上からこちらを見詰めている。

 あれだけの巨体で、虫のように壁に張り付いている姿はもはや先ほどまでの生体とは一線を画しているようだ。

 幾つもの眼球で様子を窺う怪物の姿に、逃れることは出来ないのだと言われているような錯覚さえ覚える。

 

 何をとっても絶望的な状況、それを悟った水野は諦めたように軽く口元を緩めた。

 

 

「……ああ、全く……本当に頭の固い。貴方達のそういう所、本当に嫌いだったわ」

「……」

「私達がいくら言っても、死鬼様への敵意を無くそうとしない貴方達となんて永遠に理解し合うことなんて出来ない……そう思っていたのに、不思議ね。まさかそんな貴方と死に場所を同じにするなんて」

 

 

 何も答えない彩乃を気にした風も無く、水野はポツリポツリと話し始める。

 

 

「不思議ね……あれだけ憎かった筈の貴方達が、少しの間こうして接していただけでこんなにも、どうして私は貴方に生きて欲しいと思えてしまうのかしら……」

「……良く回る口ね、少し黙ってたらどうなの?」

「――――……ああ、思い出した……私は、誰かに生きて欲しいと思ったんだ。こんな皆が死に絶えるような世界で、私も死鬼様のように、誰かの命をつなぎ止められるような人に……」

 

 

 瓦礫の雨が止む。

 取り戻した筈の静寂は、逆に命のリミットを告げる最後の音色のようにゾッとするほどの冷たさを持っている。

 ビルの倒壊が進み、周りを旋回していた鳥の異形達が急降下し、狙い澄ましていた“破國”が圧倒的な脚力で襲い来る。

 そんなどうしようも無い状況の中で、諦めきったように微笑みを浮かべている水野の手を決して離さず――――それどころか彩乃はその手をさらに強く握りしめた。

 

 

「――――貴方と一緒の死に場所なんて、死んでもごめんだわ」

 

 

 そう言い捨てて、彩乃はその場から地面に向けて飛び降りる。

 

 

「な、にを」

「異形に殺されるくらいなら自ら死を選ぶ、当然でしょう?」

 

 

 彩乃のネジの外れた言葉に二の句が継げず、落下していく先にある地面に視線をやった水野は、その場に小さな影が現われたことに気が付いた。

 

 

「……まあもっとも、今回そのつもりはないけどね――――貴方達の神とやらを信じてみたらどうかしら、あの変にお節介な小さな神様に」

「し、きさっ……」

 

 

 ふわりと、落下してきた女性二人を軽く抱き留め、羽毛のように地面に着地した真っ赤な目を持つ異形はつまらなそうに溜息を吐く。

 諦めきっていた筈の水野は泣き出しそうな顔に、自分を抱く異形を見る彩乃は呆れたような顔をする。

 

 

「肝を冷やしたぞ脳筋女。お前のその決断力は長所であるんだろうが、見てるこっちはハラハラして仕方ない。もう少しものを考えてだな」

「うるさい黙れ、もっと早く来い頭でっかち。お前が吹っ飛んでいくのを見たときはこっちこそ血の気が引いたのだけど」

「あっ、あわわわ、し、ししししきさま、柔らかかかか」

「あ、頭でっかち!? お前助けた者に対して言う台詞がそれか!? 貴方は命の恩人です、感謝しています、くらい言ったらどうだ!」

「その言葉はお前には絶対に言うつもり無いから。もしそれが望みなら私以外を助けた方が良いわよ。……それこそ、ここにいるもう一人みたいに頭がキマってるような奴をね」

「葵は、葵は幸せですぅ死鬼様ぁ……ああ、鼻血が……」

「…………遠慮しておこうか」

 

 

 ぺっ、と二人を放り捨てた死鬼は、倒れてくるビルの残骸を払い落とし、急降下し強襲してきた鳥達を蹴り上げた散弾のような砂利で軽く全滅させる。

 そして、建物の屋根からこれまで見せなかった最大限の警戒を見せる“破國”を見上げると、値踏みするように変貌した怪物の全身を眺めた。

 お互いがお互いを観察する不気味な沈黙は少しだけ続く。

 

 落ちてくる鳥たちの残骸に一瞬目を見開いた彩乃であったが、死鬼の身体能力なら当然かと思い直し、すぐに片腕を失っている水野の応急処置を始めた。

 

 

「ばい……死鬼。アイツはあの姿になって尻尾での攻撃を多用するようになったわ。動きも速いし、空中も建物を使って動き回るようになった。後は……笹原知子は攻撃を受けて吹き飛んでしまったから安否は分からない」

「……ふん、まあそうだろうな。ああそうだ、応急措置にこの包帯を使え。あのデカブツの相手は私に任せて市役所の守りに入れ」

「何を言ってるの。私は確かに直接的な力にはなれないかもしれないけど、隙を見付けて援護くらいなら出来るわ。そこは信用してちょうだい」

「……信用はしてるさ。だが今回は言うことを聞いてくれ彩乃」

「なにを――――」

 

 

 言い募ろうとする彩乃の頭がくしゃりと後ろ手に撫でられる。

 ずっと昔にそうされたように、全くおんなじ感触の撫で方の筈なのに、何故だか彩乃はどうしようもない焦燥感に襲われた。

 

 

「言い方を変えようか、あの程度ならば私一人で十分だと言っているんだ。これ以上下らない犠牲を払うことが無いよう、お前は全力を注げ彩乃」

「……梅、利?」

「――――それに私も少々本気を出したいと思っていた所なんだ。そうなると周囲の被害を考えるのが億劫だからな、被害が出せない場所は一つに絞って欲しい」

 

 

 横顔から見える死鬼の瞳孔が縦に裂けていく。

 纏った空気が、よく知っている幼馴染の優しげなものから、悪鬼羅刹染みた恐ろしい重圧へと変わっていく。

 淡い色の絵に、黒い墨を落としたかのように切り替わっていく幼馴染の姿に、彩乃は縋るようにその手を掴んだ。

 

 

「梅利……梅利なんだよね? 貴方は死鬼じゃなくてっ、梅利なんだよね!?」

「……私は私だ。生まれたときから私は一つ。お前の期待には添えないかもしれないが、な」

 

 

 ヘナヘナと腰を落とした彩乃に一瞥もくれず、死鬼はようやく歩を進めた。

 一切の温もりの無い冷徹な眼光が“破國”の姿を射貫き、その全てを破壊するために死鬼は進む。

 

 

「残念なことに、ここがお前の死地だウスノロ。醜いその面はもう見飽きた」

 

 

 そうやって少しだけ笑ってやれば、“破國”は怒りに任せ襲い掛かってきた。

 

 



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望みが叶う時に

 あの巨大な怪物に吹き飛ばされ、身体がバラバラになったのでは無いかと思う程の衝撃で意識を飛ばした時、身体の自由が離れ目の前が真っ暗になった。

 あれだけ煩かった異形の群れの鳴き声も次第に聞こえなくなっていき、まさかこのまま死んでしまうのでは無いかなんて思ったのは仕方ないと思う。

 

 なにせあれだけの衝撃、あれだけの距離を吹き飛ばされたのだ。

 いくらこの身体が頑丈だからと言っても限度があると思うし、消え掛かった意識が闇に落ちていくのを気絶するだけだと安心なんて出来ないのは普通だと思う。

 ……ともあれ、訳の分からない暗闇の中に意識を落とし、現状を把握できていなかった俺に対してアクションを起こしたのはあの子だった。

 

 

『…………え、主様?』

「…え?」

 

 

 暗闇の中で声のする方を向けば、自分と同程度の背丈の黒い影がそこにあった。

 暗すぎて姿がよく見えず、その子がどんな容姿をしているのか分からなかったが、聞き覚えのあるその声の主が誰なのか、何となく想像がついた。

 

 呆然とお互いを見やっていた俺達だったが、フラフラと近づいてきたその影が信じられないと言う様に声を震わせながら俺の傍にやって来ると、すんすんと匂いを嗅ぎ始める。

 それでも信じ切れないのか、小さな手でペタペタと触ってきたかと思えば、終いには口元を近付け舌まで当ててくる。

 

 

『ま、間違いないっ……! これは主様で間違いない!』

「そ、そこまでする必要あったのかな!?」

 

 

 その子、彩乃達が“死鬼”と呼ぶ少女の頭の悪い行動に思わずそう叫び、飛び跳ねるように距離を取った。

 思い掛けないその子の行動に反射的にそんな動作をしたのだが、それをその子は許さない。

 

 

『あ、ああああ、主様ぁ!! お目に掛かりたく御座いましたァ!!』

「ぐふぅぅぅっ!!?」

 

 

 取ったはずの距離を一瞬で潰した黒い小さな影は、俺の腹部に頭から飛び込むと猫のように顔を擦り付けてくる。

 あくまで意識内の事であるのだから身体は無い筈なのだが、勢いよく突撃されたという思い込みからか反射的に情けないうめき声を上げてしまった。

 

 何となく、本当に何となくだが、“死鬼”と呼ばれるこの子から好かれているような気はしていたのだが、俺はこの時まで気のせいだろうで済ませていたのだ。

 だって、同じ身体の違う自分。

 異形として生きてきて、強さや美しさ、果てには俺が持っていない誇りなんてものまで持っていたらしい“死鬼”と言う存在は、どうあっても人間である俺を好きになる筈が無いだろうと思っていたのだ。

 だから会うときはきっと殺し合う事になる。

 そんなことを勝手に思い込むようになっていた俺の想像は、目の前のこの状況にいとも容易く崩されることとなった。

 

 

『主様ぁ主様ぁ! これは夢では無いだろうな? 夢では無いだろうな!? ……クフ、クフフフ、クヒヒヒヒ……!』

「いやっ、怖い怖い怖いから! 少しだけっ、少しだけ離れてお願い!!」

 

 

 ひたすらムニムニと抱き締めてくるこの子を、なんとか落ち着かせようと肩を叩いてそう言うがあまり効果は見られない。

 暗くてよく見えないがそれでも分かる。

 この子は今ものすごい笑顔で俺に抱きついている。

 

 しばらくこんな調子を続けていた彼女であったが、突然思い出したように顔を上げ俺を見上げてきた。

 

 

『わ、私としたことが自己紹介すらしていないではないかっ! これは失礼した主様、私は、御存知ではあるのだろうが貴方様の異形……ああ、分かりやすく言えば人間どもが“死鬼”と呼んでいる存在で間違いない』

「あー……えっと、じゃあ俺は君のこと“死鬼”と呼べば良いの?」

『む、むむっ。いや、それは少し嫌だな……そんな美しさの欠片もない、ゴミのようなセンスで付けられた蔑称など思い入れなど微塵もないからな……出来ることなら主様が命名して下さると嬉しいのだが』

「えっと、やっぱり“死鬼”って名前嫌なんだ?」

『嫌では無い。嫌では無いのだが……名称があれば便利程度と捉えて使っていたその名を、いざ正式に名前にするかと聞かれると抵抗があってな。いや、主様が名を考えるのが面倒だと感じるのであればそのままでも構わないのだが……』

「あはは、そんな気を使わなくて良いよ。そっか、ちょっと考えてみるね」

『本当か!? 流石は主様だ!」

 

 

 尻尾があれば千切れてしまう程振っていそうに上機嫌なその子。

 暗闇に目が慣れ始めたのかようやくその子の顔が見え始め、それがここ最近ようやく見慣れた自分自身の顔であったことに少しだけ驚いてしまう。

 いや、それが当然だろう。

 だってあの身体は異形としての自分のもので、この子のものに他ならないのだから。

 姿形があの身体だなんて、考えなくても分かることだったはずだ。

 

 とろとろに破顔してスリスリと身を寄せてくるその子の頭を撫でながら、俺は異様な現状の把握に努めようと、唯一この状況を理解していそうな彼女に問い掛けることにする。

 

 

「と、取り敢えず、ここってどこなの? 俺、確か“破國”と戦っていた筈なんだけど」

『“破國”ぅ? あのウスノロそんなイケてる名称を付けられているのか? ……不服だ、全く』

「あはは、俺は“死鬼”って言うのもそこそこ格好いいと思うけどね」

『…………実は私もそこそこ格好いいのではと思っていたぞ? 本当だぞ主様?』

 

 

 絶対嘘だろう。

 だが、俺の頭を両手で押さえ込み、視線から逃れられないようにした上での堂々とした彼女の虚偽申告は、こんな嘘の付き方もあるのかと思わず感心してしまう程だった。

 まさかこの子、堂々としてれば大概なんとかなると思っている子なのだろうか?

 

 

 

『そうだっ! それはともかく、ともかくだ主様!』

「あ、はい」

『先ほどの主様の疑問に答えさせて貰うと、この場所は私達の深層心理のような場所だと私は思っている。主様が身体を動かしているとき、私は大体この場所でそれを眺めている形になるからな』

 

 

 そう言って彼女は俺から離れると、両手を広げて周囲を見るように促してくる。

 それに従って周囲を見渡せばここには本当に何も無い事に気が付く、ただ真っ暗な闇だけが広がっているのだ。

 主様の意識があるときはまた少し違うのだぞ、なんて笑っているが、ずっとこの場所にいることでどんな気持ちになるのか、今の俺には想像も出来ない。

 

 

『実際、詳しくは私も分からないが……まあ、私達の状況は特殊だから仕方ないだろうし、大体そんな形なのだと認識をしていてもらえれば不便は無い筈だ』

「なるほど……えっと、じゃあ今俺の身体の方は意識が無い状態ってことなんだよね? 二人ともこの場所にいる訳だし」

『そういうことになるな。とてつもなく心外な話だが、あのウスノロに手酷くやられた結果、な』

 

 

 そこで言葉を切ると、彼女は半目になって恨めしそうな顔を向けてくる。

 

 

『……まったくっ、主様は本当にまったくっ! 何回危険な状態になれば気が済むんだ! しっかりと学習して、得た経験を最大限に活用さえすれば、戦況をもっと上手く進められるように出来ただろうに! もっと手札を増やしておけば、あんなっ、あんなウスノロなどに遅れを取ることなどぉ……! わ、私は悔しいっ……!』

「あ、ご、ごめん! 俺が悪かった、俺が悪かっただけだから泣かないで!」

『泣いてなどいない! 主様のど阿呆!!』

 

 

 先ほどまでめそめそとしていた筈なのに、そうやって謝罪すればそれさえも不服なのか瞬間湯沸かし器のように激高して食い掛かってくる。

 感情の揺れ幅が酷い。

 小さい頃の彩乃だってもう少し落ち着いていた。

 俺の小さい頃は……いや、流石にもっと落ち着いていた筈だ、多分……。

 

 

『うぅ……まあ、なってしまったものは仕方ない……。少し強い人間程度の力しか振るえないだろうというのは予想の範疇だ……うん』

(本当にこの子、態度と言ってることが一致してないんだよなぁ……)

『起きてしまった過去をどうこう話す時間はそう無いな。それよりも私達が話さなければならないのはこれからの事についてか』

「それは……俺も話したいと思ってた。でもその前に、聞きたいことが一つあるんだ。俺の意識が侵食されていく感覚……泉北のお爺さん達の拠点へ行った時、自分の意識とは関係なく動いたあの時、俺は完全に君に切り替わっていた訳じゃ無かった。あれは……」

『――――あれは私が動かしたわけでは無い。主様の精神が、肉体の適合に近付いた為に起きたバグのようなものだ』

「――――…………」

 

 

 驚きは無かった。

 やっぱり、なんて言う疑問が氷解するかのような納得だけが胸に残る。

 あの凶暴性は、あの殺意は、紛れもなく自分自身のものだと確信することが出来た。

 

 

『主様。貴方は非力で、脆弱で、道徳的で、模範的な人間だ。だが私は違う、この身体は違うんだ』

 

 

 いっそ突き放すかの物言いで、そう言い捨てる。

 

 

『精神は肉体に寄る。強者は強者としての精神を、弱者は弱者としての精神を持つものだ。怪物もまたそれに然り。……だからこそ、主様が命を落とした時に私が生まれたのだからな』

 

 

 いずれ貴方は私のようになるよ。

 僅かに笑ってそう言った彼女は少しだけ視線を何処か余所へとやって、困ったように眉を寄せた。

 

 

『――――さて、もう時間もないだろうな。これから先の話をしよう、私の愛しい主様』

 

 

 その言葉を皮切りに空気が切り替わった。

 突然視界が罅割れた、そんな錯覚を覚える程に少女の雰囲気が一変する。

 遙か深海の底のような重圧が目の前の少女の痩躯から漏れ出した。

 

 

「ぁ、えっ……?」

 

 

 あまりに重い重圧に、何かを思う間もなく尻餅を着いた。

 視線は自然と彼女を見上げる形に、彼女はどこまでも冷たい紅い目で俺を見下ろしている。

 

 

『私と主様。どちらが生きるか、そう言う話だ――――簡単だろう?』

 

 

 これまでの数多の怪物達と対面してきて、埒外の存在に出会ったことは幾つもあった。

 

 だがこれは、それらが可愛く思えるほどに――――別格。

 対面して分かる、死鬼と言う異形の恐怖が目の前に顕現した。

 

 

『主様はこのまま生きたいのだろう? この先自我を保ったまま、彩乃や知子らと過ごしていきたいのだろう? ならば私と主様は争わなければならない、残念ながらな』

「……君は……」

『さあ、構えろ主様。愉しく命のやり取りをしようではないか』

 

 

 構えなど取らない。

 体勢が取れていない俺に襲い掛かるような事もしない。

 気楽に、力など何処にも入れていないように、脱力したままの体勢で、彼女は俺の動きを待っている。

 それが彼女の誇りによるものか、それとも俺などに負けるはずがないと言う自信の表れなのかは今の俺には分からない。

 

 先ほどまでとは打って変わった突然の敵対行動に動揺を隠し切れなかった俺はしばらくそのままの体勢で彼女を見上げていたが、それでも変わらなかった彼女の態度に、本気なのだと理解する。

 なぜ突然そんなことを言い出したのか、なにか怒らせるようなことをしてしまったのか。

 そんなことを考えるがどれも思い当たるような事はない。

 手のひらを返すような彼女の態度はまるで、あらかじめ決めていたかのような不自然ささえ合った。

 やはり彼女は俺が嫌いで、本当は自分自身を取り戻す為に俺を消そうと思っていたのだろうか?

 

――――いいや、それはきっと違うだろう。

 

 その場で座り込んで、ぼんやりと小さな彼女を見上げていた俺は、頭に過ぎったそんなことを自分自身で否定して、震える足に力を込めた。

 

 もし彼女が俺を疎ましく思っているなら、そんな遠回りなことを彼女はしない。

 現に、俺が立ち上がって見詰め返せば、少しだけ腰が引けたような態度を見せる彼女が、望んでこんなことをしているとは考えづらかった。

 ……だとするなら、考えられるのは一つだけ。

 

 

「――――……ああ、ごめん。気を使って貰っちゃったね」

『む? ああいや、意表を突かれている相手を襲うような卑怯なことなど、有象無象はともかく、主様相手にするわけにはいかないからな。そんなことを気に病む必要は無い』

「ううん、そっちじゃなくてね。そうやって演技をしてまで俺を助けようとしてくれてってこと」

『…………』

「そうだよね。君は、俺の事を何度も救ってくれたもんね。君は俺が助けを求めたときに、彩乃をしっかりと守ってくれたもんね……君は、そういう子だもんね」

 

 

 俺の言葉を聞いて、彼女は細めていた目を大きく見開いた。

 

 思い出せば、彼女はいつも俺を助けてくれていた。

 球根の化け物にやられた時も、屋上から彩乃を連れて飛び降りた時も、彼女はいつだって俺の願いを汲んで、そして救ってくれた。

 俺が知らないだけで、他にも彼女には助けられたことが沢山あったのだろう。

 いつだって誠実だった。いつだって俺に尽くしてくれていた。

 

 だからこれはいつものように、強がりな彼女がする俺への優しさなのだろう。

 

 

『……なにを言っているんだ主様。貴方は何かを勘違いしていないか? 私は貴方とは違う。人では無い、全てを壊す理性無き怪物だ。もちろんそこら中にいる有象無象などとは格が違うが、それでもその本質は変わることは無い。自身の生存のためならば、あらゆるものを犠牲にする浅ましい化け物でしか無い』

「そんなの俺だって同じだよ。なんとしても生きたいと思うし、きっと俺は君なんかよりもずっと浅ましいと思う」

『そんな訳があるか! 主様がそんな訳っ……!!』

「……なんかやけに俺を美化してるみたいだけど」

 

 

 目を剝いて、黙り込んでしまった彼女に近付いた。

 彼女の小さな腕を手に取って、そっと指を絡ませる。

 

 

「俺はね、普通にダラダラとしたり、眠っていたり、仲の良い人と喋っていたりするのが好きな奴なんだよ。勤勉に勉強するのは苦手だし、自分を犠牲にしてでも誰かを助けたいと思う程献身的でも無い。背が小さいのがコンプレックスで、運動で彩乃に全然叶わないのを悔しがったり、怒られたら一日は立ち直れないくらい落ち込んだりするような、メンタルも特別強いわけじゃ無い奴」

『……でも、だって貴方は私を……』

「俺は君だよ、君と俺は変わらない。それに……うん、俺はどうやらもう、君のことを信じ切ってるみたい。君が俺の敵になるわけが無いんだって信じ切っている」

 

 

 だから、そう言葉を繋いで彼女の目を見る。

 

 

「例え君が俺を裏切ったとしても、俺は君を裏切らないよ。俺は絶対に君の敵にはならない」

『――――い、生きたいのだろう!? このままでは、私の自我が主様を飲み込んでしまうのは時間の問題だ! 主様の精神の異形化は、私に引き摺られている部分も多くある筈だ! 私がいなくなれば、主様はある程度時間を稼ぐことが出来る!! それはきっと、主様が望んでいた、大切な者達との宝物のような時間になる筈だろう!?』

 

 

 それでも。

 

 

『私は主様から命を奪って生まれてきた! 多くの時間を浪費して、貴方に痛みを与えてきた筈だ! なんて醜いっ、なんて悍ましいっ、貴方のような優しい人を犠牲に生まれた私という存在は、貴方様に許されて良いはずが無いだろう!?』

 

 

 そうだったとしても。

 

 

「俺は君を傷付けるようなことはしたくない――――他の誰が君を化け物だと言おうとも、俺は君を優しい子だと言い続けるよ」

『馬鹿者……主様は本当に、馬鹿者だ……』

 

 

 呆然と、両手で顔を覆ってしまった彼女の表情を窺うことは出来ないが、先ほどまで充満していた濃密な死の空気が霧散している。

 木漏れ日のような明かりが頭上から溢れだしたのを見て、もうすぐ意識が覚醒するのだと理解する。

 

 まだまだ一杯彼女には聞きたいことがあった。

 どうしてそんなに俺の事を慕ってくれるのかなんてことや、これから先俺がどうなっていくのか、若しくは彼女がどうなっていくのかなんてことも話し合いたかった。

 出来ることならばもっと彼女と話をしたかった……けれどそれはもう叶わないのだろう。

 どう言う原理で起きたのか分からないこの対面はもうすぐ終わりを迎え、そして俺の精神は消えていくのだろうから。

 

 

『……主様。貴方の精神は絶対に変質させない。貴方は私の一部となる……主様、貴方は私と一つになることになる。本当にそれで良いのだな?』

「君は俺でしょう? じゃあ、もう任せるよ。もしかすると俺の意識が僅かだって残る可能性もあるだろうからね」

『……ああ、そうだな。私と主様、何の因果か二つに分かれていたものが一つになるだけだ。そういうこともあるだろう』

 

 

 ようやく顔を上げて俺を見てくれた彼女の顔は、最後まで崩れることの無い何処までも透き通るような凛とした美しさを持っている。

 少しだけ潤んだ真っ赤な瞳が俺を映して、俺は随分と久しぶりに昔の自分自身の姿を見ることが出来た。

 少女の姿になった時、どこの誰に変わってしまったものかと慌てたが、ああ何だ、こうして見ると、彼女と俺の顔つきはとてもよく似ているものだ。

 

 両親が話していたことをふと思い出す。

 もしも弟や妹が出来たらどんな名前にしようなんて話していた。

 もし弟が出来たら、梅斗。

 もし妹が出来たなら――――。

 

 

「――――梅花」

『……え?』

「君の名前は、梅花だ。もしも、俺に妹が出来たらそう言う名前を付けようって話をしていたんだ……ああ、良かった凄く綺麗な名前を付けられて、君にこの名前を付けられて……本当に良かった……」

『梅花……私の名前は、梅花』

 

 

 妹のようだという親愛を込めて、それが君の名前だと言う様に何よりも力を込めて、俺は彼女の名前を呼ぶ。

 

 

「梅花、君に会えて良かった」

『……私も貴方様と話すことが出来て幸せでした……主様、お慕い申し上げております』

 

 

 そうやって彼女は俺をゆっくりと抱き締める。

 彼女の抱擁は暖かくて、交わっていく彼女との感覚は酷く優しく寂しかった。

 

 

 



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明けない冬を終わらせるもの

 乱れた髪を掻き上げる。

 空を覆い尽くす厚い雲が作る影にある、巨大な怪物の姿から視線を外さない。

 近くで爆発と銃撃の音がする。

 まだこの場所にいる生存者達も諦めること無く戦い続けているようだ。

 耳を澄ませば聞こえてくる死者や異形の咆哮と生存者達の怒声に、早めに終わらせなくてはいけないなと自分自身に言い聞かせた。

 

 

「し、死鬼様っ! 私も傷口を塞ぎ次第直ぐに加勢させていただきます!」

「要らん。怪我が悪化しないように大人しくしていろ」

「はっ……え?」

「この程度のウスノロ一匹、私一人で充分だ。彩乃を連れて離れていろ」

 

 

 膝から崩れ落ちてしまった彩乃を一瞥してから、水野に彼女の事を頼んでおく。

 いつもの彩乃が纏っている堂々とした雰囲気が今は無く、深い喪失感に晒された弱い女がそこにいる。

 ともすれば、今すぐにでも銃口を自身の額に押しつけて撃ってしまうのでは無いかとさえ感じる彩乃の様子に不安を覚えるが、彼女に裂いている時間は作れない。

 水野を信じておくしか、今の私には選択しようがないのだ。

 

 “破國”はただ建物の上からこちらを警戒していただけでは無い。

 蜘蛛の様に進化し得た能力なのか、肉眼では確認することすら難しい無数の糸を作り出し、そこら中に張り巡らしている。

 現に足の一本を既に張り巡らせていた糸に乗せているが、あのデカブツの自重を支えられるだけの強靱なものであるらしく、その糸は張り詰めてこそいるものの切れる様子は無い。

 足場にもなり、武器にもなり得るだろうあの糸は、確かに警戒するだけの脅威を秘めているが、逆に言えばこちらの足場にも使えそうだ。

 

 

「さて、悪いが手心一つ加える心の余裕が今の私には無い。全力でお前を殺すぞ」

「■■■■――――――――!!!」

 

 

 引き絞られた糸から、矢のように撃ち出された巨体が一直線に突っ込んでくる。

 大型のトラック数台分はあるのでは無いかと思えるその巨体が、恐るべき速度で墜落してくる光景は、それだけで人が死を直感させるには充分すぎる。

 実際、私の後ろにいる水野の息を呑むような悲鳴が小さく聞こえたのも仕方が無いと思えるくらいに悍ましい光景だ。

 

 腕に力を込める。

 人間でいう力の込め方とは違う、自身の筋組織を破壊するように意識した自傷行為にも似たやり方だ。

 そうすると私の腕は、おとぎ話の中で語られる鬼の腕のような真っ赤なものへと変化を遂げる。

 

 

「――――だからお前はウスノロだと言うんだ」

「ゴッ…オォオオオォォ■■!!!???」

 

 

 カウンター。

 馬鹿正直に飛び込んできた巨体に合わせて、拳を顔面に叩き込んだ。

 乗っていた重量全てが私と“破國”の衝突に注がれる。

 その反動で私は足を膝まで地面に埋め、デカブツは叩き飛ばされた羽虫のようにビル数棟を巻き添えにしながら吹き飛んでいく。

 

 かなり深く埋まってしまった足を地面から引き抜きながら、アイツにぶつけた腕の調子を見るが損傷等はない。

 どうやら身体の調子はかなり良いようだ、あの巨体をあれだけ吹き飛ばしても痛み一つ無い。

 同化により二つの記憶や経験を得ただけでなく、この身体の完成度が高まっている気がする。

 今までは別々の意識が混在していた弊害で、この身体の完全な力を出し切れていなかったのかもしれない。

 今はそれが無い、十全な力を振るえているという感覚がある。

 

 

「……だが、楽観視はするべきではないな。じっくりと万全を期して、奴を追い詰めていくとしよう」

 

 

 そう言いながら腕以外に視線を向ければ、そこには予想通り、強化していなかった肩から足の至る箇所からは大きな亀裂が走り、血液に似た体液が流れ出している。

 再生が容易とは言え少し無理をした、もっと慎重にやらなければならないだろう。

 

 

「あ……あの、“破國”が一撃……――――流石死鬼様ですぅ!!」

「うるさい、良いから彩乃を連れて離れていろ」

「了解いたしました!! 誠に申し訳御座いませんでしたぁ!!」

「……やかましいわ!! 自分が怪我をしている事を自覚して、もう少し小さな声で返事しろこのボケナス!!」

「……申し訳ありませんでしたぁ……」

 

 

 キマり始めた水野に思わず大声を返してしまったが、それを契機として彼女はしずしずと自分の止血を進めたので良しとする。

 思わず怒鳴ってしまったことに対して、ガリガリと角を掻いて自戒して、そこでようやく自身の頭に禍々しく並んだ双角が生え揃った事にようやく気が付いた。

 何時頃から完全に生え揃ったのか分からないが、試しに叩いてみてもあまりの硬度に傷一つ付きそうにない。もう自分自身の手で壊すことも難しそうだ。

 

 

「まったく……ほら、傷口を見せろ。私も手伝ってやる」

「はわわっ、だ、大丈夫ですっ! そんなお手数をお掛けするなんてっ……」

「お前らだけに任せていたら進まないからだ。とっとと処置して私の迷惑にならない場所まで行っていろ……それにまあ、彩乃のことを守ってくれたみたいだからな。それについては感謝している」

 

 

 吹き飛んでいった“破國”が未だ復帰できていないのを確認してから、しょんぼりと止血をしていた水野の治療を手伝う。

 “破國”の細胞を僅かとは言え取り込んでいるためか、水野の潰れた肩口は既に再生を始めており、命に関わるまで悪化する様には見えないことが不幸中の幸いだろう。

 彩乃を救ってくれたことを感謝するものの、言い淀んだ水野に、この二人の間にも複雑なものがあるのだろうと納得する。

 気にはなるが、それをどうにかする程の時間は私には無いだろう。

 

 

「彩乃、立てるな?」

「……梅利、私は……」

「私はもはや梅利とは言えないだろう、己の異形と同化して、主導権はほとんどそちらに奪われた。私にお前との記憶や経験もあるが、それを私が実際に経験したかと言えば首を傾げることとなるだろう。……昔交わした約束のほとんどを、どうやら私は守る事は出来ないみたいだが……だがな彩乃、それでも私はこの命が尽きるまで、お前を守る約束だけは違えない」

 

 

 水野の処置を終わらせて、座り込んでいる彩乃の手を掴み無理矢理立ち上がらせながら、彼女の目前まで顔を近付ける。

 初めて見る、力の無い彩乃の目を至近距離から見詰めて、彼女の背中を蹴り飛ばすようなことを言う。

 

 

「ならばお前はどうだ。私がお前に尽くすだけか? 花宮梅利が死してなお守ろうとした人間が、挫け下を向き続けるようで本当に良いと思っているのか? 私はどちらでも良いが……どうでも……? ……いや、やっぱりそれは嫌だな。ほら直ぐ立て、馬鹿者らしく諦めず歩き出せ」

「……え? え?」

「お前が諦めたような顔をしている事が、この上なく腹立たしく感じるんだ。良いからもう早く復帰しろ馬鹿彩乃」

「――――……本当、いつだって……貴方は私に優しくしてくれないんだから」

 

 

 そう言って、足に力を入れて一人で立つのを見届けてから彩乃の手を離す。

 未だに精神的な支柱を取り戻したわけでは無いが、それでも立ち上がった彩乃はもう、次にどうするべきかを考えているようだった。

 

 

「私達は拠点に戻る、“破國”は貴方に任せる」

「任せておけ、もう少し歯応えが欲しいくらいだ」

「そう。……あと、私達からの支援は期待しないで頂戴、こちらも他の異形の処理で恐らく手が一杯になってしまうから」

「お前らの支援など邪魔なだけだ。要らん気は回すな、自分達が生き残る事だけを考えていろ」

「……それから、出来るなら無事に帰ってきなさい。貴方が梅利で無くなったとしていても、貴方だけでも、帰ってきなさい」

「私が無事で済まないと? 戯れ言を吐くのはほどほどにしろ。ああ、あと帰り道に知子の奴を見付けたら回収していってくれ。アイツも一発食らった程度で死ぬほど柔ではないからな。どうせそこらに転がっているだろう」

「……うん。少し、安心した……」

 

 

 少しだけ顔を綻ばせた彩乃が踵を返して拠点へ向けて動き出したのを目で追い、ふとある事を思い出す。

 

 

「彩乃!」

 

 

 足を止めて間の抜けた顔を向けて来た彩乃に、懐から取り出した指輪を放る。

 慌てて受け取ったそれに向けて、不思議そうに視線を落としている彩乃に笑い、彼女が付けている小さな指輪の首飾りを指さした。

 

 

「お前に昔渡したそれはもう合わなくなっているものな。昔私はアルバイトしていただろう? 実はあれ、お前の誕生日にそれを渡そうと思って頑張っていたんだ。本当はもう少し早くお前に渡したかったんだが、大分遅くなってしまったな。……錆とかは無い、取っておいてくれ」

「――――」

「……彩乃、約束守れなくてごめん」

 

 

 音も無く、高速で飛来した“破國”の顎を一瞥もせずに蹴り上げる。

 グルリと宙で一回転した“破國”の身体に指をめり込ませ、骨を掴んだ私は、その巨大な重量を振り回し、建物や異形どもに叩き付けながら走り出した。

 

 

「梅利!!」

 

 

 彩乃の悲鳴にも似た呼び声には耳を貸さず、一際異形どもが密集している地まで“破國”を引き摺り回すと、トドメとばかりにその場所に化け物を叩き付ける。

 私の膂力と“破國”の重量が加わり、叩き潰された異形は跡形も無くなり、その場所は隕石が落ちたかのような巨大なクレーターが形作られた。

 地面で藻掻く“破國”の頑丈さに感嘆の溜息を一息吐いて、さらに力を込めて押しつければ、クレーターはさらに広がり、巨大な蜘蛛の巣状の罅が地割れとなって周囲に生まれていった。

 

 “破國”を抑え込む左手をそのままに、異形化させた右腕を振り上げる。

 振り下ろした右腕が“破國”の眉間に突き刺さり、顔を潰し、鼻を折り曲げ、角を砕いた。

 ビクリと一際大きく痙攣した“破國”に、片足を乗せ突き刺さった腕を引き抜くと、さらに拳を振り下ろし完全に息の根を止めに掛かる。

 まともに突き刺さる。

 だが、今度の反応は先ほどとは違った。

 ゾグリと、“破國”の身体中が膨れ上がり、無数の鋭利な骨が蛇の様な動きで私目掛けて襲い掛かってきた。

 

 進化した。

 そんな言葉が脳裏を過ぎり、攻撃直後の体勢を襲われた私は骨の槍の攻撃をまともに身体に受けることとなった。

 

 

「――――チッ、ウスノロ貴様。そろそろ身体の形を定めたらどうなんだ」

 

 

 骨が私の皮膚を突き抜けることは無い。

 急な変貌で作り上げた骨の武器などでは傷一つ付くことは無い私の身体だが、全方位から押し潰すようにぶつけられた骨の数々に身動きを取れないよう縫い止められ、行動を阻害されることとなった。

 そしてそのまま、最適な肉体へと“破國”は進化していく。

 押さえつけていた頭をそのままに、私が足場にしていた場所に大きな切れ込みが入り巨大な口へと変わっていく。

 体中を無数の骨で押さえつけられた私を包み込むように開いた口に飲み込むと、身体を押さえていた骨ごと咀嚼を行ってくる。

 

 

「……ああまったく、既にボロボロだったとは言え私の着物が……。ベタベタするし、臭いし……おい、いい加減にしろ」

 

 

 砕け散った周囲の骨の上から、噛み潰そうとしてくる硬質な牙の感覚に既視感を感じつつも、迫ってきた牙の壁に蹴りを叩き込み風穴を開ける。

 開いた穴から外に飛び出し、手頃にいた異形を一体掴み建物を駆け上がって周囲を見回す。

 

 

「ふん、まだまだ“破國”の周りに異形がうじゃうじゃしているな。それに、共食い……なるほど、身体の急な進化に燃料が追い付かず、補うために異形どもを餌にしているということか」

 

 

いつぞやの球根の様な異形と似た状態だ。

 複数の口を作り上げ、周囲にいる異形どもを必死に取り込んでいる姿は滑稽だが、餌がある限り回復と変貌し続けるアレは確かに有効だろう。

 ……まあ、間違っても私はあんなことはしないが。

 

 

「となれば、纏めて焼き払うか」

 

 

 手の中でバタバタ暴れる異形に視線をやって、握力だけでそれを押し潰すと漏れだした体液を握り込む。

 そして、もう片方の手で自分の手を切り、体液を混ぜ合わせて、それらを握力で限界まで圧縮する。

 そしてそのまま“破國”目掛けて飛び降りて、圧縮したそれを異形どもに向けて投下した。

 

――――黒い爆炎が連なる。

 

 遠目に見れば、液体が降り注ぐようにも見える業火の柱は、実際液体に似た性質を持っており、粘度が高く、付着した異形があまりの熱さにどれだけ暴れて、地面に身体を擦り付けようが、決して取れること無くその身を燃やし続ける。

 異形の悲鳴が、暴走が、まるで焦熱地獄を体現したかのような光景が眼下で舞い踊る。

 高熱に全身を焼け爛れるのに、死者も異形も“破國”も関係ない。

 全てが地獄。絶叫を上げ、救いを叫ぶかのような異形に私は笑う。

 

 

「あはははははは!! なんだ、そんな滑稽な様相も見せられるのか! そら、もう一撃加えてやろう! ナパーム弾のようだろう!? あははっはははっははははははっ!!!! ――――…………いや、あんまりこういう笑いをすると奴らに引かれてしまうな。自重せねば……」

 

 

 やけに高揚する気分に任せて笑ってみるが、あまりに凶悪な姿を自分が晒している事に気が付いて、直ぐに笑いを引っ込める。

 昔はこうやって哄笑することもあったのだが、やはり人間としての感性が出来たのか、こういう笑いをするのに抵抗が生まれてきていた。

 

 転げ回る異形どもの間に着地して、観光名所の散歩でもするように周りを見渡しながら歩いていく。

 目的の“破國”の下まで辿り着けば、流石に燃え盛る異形を餌として食べることは出来ないのか、自分が纏っている業火に焼かれ、“破國”はただ悶えていた。

 

 

「さて、触れるのも嫌だしどう処理するか。このまま放置してもキリが無さそうな再生力をして……まったく面倒な。取り敢えずもう少し燃料を投下してやろう。ほら、新しい餌だぞー」

 

 

 手に付着して残っていた体液を飛ばし、さらに“破國”が纏っている業火の火力を上げれば、さらに絶叫を響かせた“破國”が私を潰そうと体当たりしてくる。

 だが、そんな破れかぶれの体当たりなど当たるはずも無く、難なくそれを避けてさらに燃料を飛ばせば、業火はさらに巨大になり、“破國”の身体を炎の舌で舐める。

 もはや“破國”の全身は焼き焦げ、内部からは熱さに耐えかねたのか体液が吹き出し始めている。

 体内は何処まで火が通ったのだろう。

 

 このまま焼き続ければ、流石にこいつも力尽きるかと考え始めた頃、突然暴れ回るのを止めた“破國”が憎悪の籠もった眼孔で私を睨み、バキバキと大きく口を開き始めた。

 

 

「最後の力を振り絞るか? 有終の美を飾るには悪くないな、このまま雑魚と同じように燃やされるのは貴様にとっても耐えがたいものだろう。良いだろう、私も全力で相手してやろう」

「グゥッ、ゴオオオッ……!」

「貴様から来なくとも私は待たんぞ。無様に死に様を晒せ」

 

 

 深く腰を落とし、全力で踏み込む。

 真っ赤に染まった腕や足で“破國”との距離を一瞬で潰すと、開いていた大口を閉じさせるかのように上から拳を叩き込んだ。

 

 しっかりとした溜めをして、力を込めた一撃は、弱った“破國”が耐えられるようなもので無く、巨大な体躯の半分以上を消し飛ばす致命打を“破國”に与える。

 反動で吹き飛んだ異形どもに視線もやらず、吹き飛ばした部分が塵になっていく“破國”の様子を油断なく見詰めていた。

 

 だが、動きがあったのは視界の外だ。

 

 

「……なんだと?」

 

 

 襲い掛かってくる訳ではない。

 隙を突いてなんて動作では無い。

 幾つか出来ていた口の一つが、空に向けて大きく口を開いているだけだ。

 脅威も何も無い筈のその行為を止めようと、直ぐに駆け出すも、残った力を振り絞ったのか他の口が襲い掛かってきて、即座に破壊することが出来なかった一瞬。

 

 

 咆哮が轟いた。

 

 

「■負■■■殺■■許■■■■■■!!!!!!!!!!!!」

「やかましいっ……!! くそ、一手遅れたぞ馬鹿め!!」

 

 

 焼け爛れ、藻掻き苦しんでいた異形どもがピタリとその動きを止め、“破國”の咆哮に連なるように次々に雄叫びを上げていく。

 その咆哮は瞬く間にこの地域全体に広がっていき、最後にはこの地域の外からさえ幾つもの異形らしき咆哮が返ってくる。

 響き続ける大合唱に、何とかそれらを止めようと、最初に咆哮を上げた“破國”の口を消し飛ばす。

 

 そうすれば、最初に咆哮を上げだした時と同様に、ピタリと鳴り響いていた咆哮が鳴り止んだ。

 一瞬の静寂に、一瞬の停止。

 時が止まったのでは無いかと思う程の、異形どもの静止に動揺するのも束の間。

 そのどれもが一斉に燃えるような真っ赤な目をして私を睨み、その後、じわりと彩乃達が向かっているであろう拠点へと視線を変える。

 

 

「……おい、待て。ふざけるなよ」

 

 

 焦りが確信に変わる前に、異形どもはただ視線の先だけを見て走り出した。

 

 

「止まれ! 私と戦え!!」

 

 

 張り上げた筈の私の声は異形どもの足音に掻き消えた。

 

 

 

 

 

 

 この地域に散らばっていた異形達が一カ所を目掛けて走り出す。

 それだけでは無い、この地域だけでは無く、“破國”に付き従っていなかった外の異形までもが、この地の一つの建物目掛けて走り出したのだ。

 大地を揺らし、障害をなぎ倒し、一つの意思を持つ生き物のようになった異形の群れは津波のように押し寄せる。

 鼠一匹通さぬような異形達の濁流は、壁となり、檻となって、この地域に生き残った生存者達の最後の拠点を攻め滅ぼしに動き出した。

 

 だが、それを理解しているのは一部の者達のみ。

 建物の中で震えているだけの者達には、つい先ほどの咆哮が何のものかも分からなければ、自分達に危険が迫っているなど想像もしていない。

 戦闘を行うために外に出ている者達だけが、周囲の異形達の異変に気が付き、その目的が拠点なのだと理解している。

 自分に迫っていた危険は消えた、だが、守ろうとしたものが標的となっていることに気が付き、安心できるような者はこの地にいなかった。

 

 

「どうなっている!? おい、医者!! お前の知識にこの状況を説明できる何かはあるのか!?」

「……いや、これは……分からない。命令? 共鳴? 何を持って目的を一つに統一している? 僕は、これを説明できない」

「だろうな!! 俺もこんなものを見たのは初めてだ!」

「一つだけ言えるのは、今の僕達に危険は無いという事だ。それで、どうするつもりだい明石君」

「そんなもの聞くまでも無いだろう! 拠点に戻り、中の人達を救出する! どれだけの非戦闘員がっ、どれだけの子供達あの場所にいると思っている!!」

「ふっ、まあそうだね。仕方ない、力にはなれないだろうが僕も付いていこう。異形の特性や弱点は、もしかすると説明出来るかもしれないからね」

「……お前が死ぬと、俺らにとって想像も出来ないくらいの損失となる。くれぐれも俺の傍から離れるなよ」

 

 

 武器を持った明石達が異形達を追うために走り出す。

 人よりも異形の方が圧倒的に早い。

 拠点に辿り着くのは多くの犠牲が出てからになるだろう、と言う事を明石は頭に留めるだけにして、部下達に指示を飛ばす。

 

 状況だけで絶望は充分だ。

 精神を守るためにも不都合は時に隠す必要がある筈だ、そんな風に明石は自分に言い聞かせる。

 もはやこの場は負け戦だ、ならば可能な限り犠牲を少なくしなくては、本当の意味で自分たちは壊滅してしまう。

 そんな状況だった。

 

 

 そんな時だった。

 明石達は視界の端で、異形達を追う影を見付けたのは。

 

 

「――――明石さん! アイツが!」

「死鬼!? アイツやられたんじゃ!?」

「……梅利君がそうやすやすとやられるわけが無いだろう……だがそうか、向こうでも同じ現象が起きているのか」

「アイツも俺らの拠点を攻撃しようとしてやがるのか……?」

 

 

 ざわつく部下達の指さす先を見詰め、状況を確認した明石は彼らの疑問に答えるように首を横に振る。

 

 

「……いや、アイツは誰かに指図されて動くような奴じゃ無いだろう。恐らく俺らにとっては、この最悪な事態を好転させてくれる唯一の事柄かもしれないな」

「明石さんはあの怪物を信用するって言うんですか!?」

「馬鹿が。言葉を交わせ、意思を伝えてきている時点で、そこらの異形よりも信用に足る奴だとは判断するべきだろうが。良いから俺らも戻るぞ、俺らのやるべき事は何一つ変わりない」

 

 

 それだけ言うと、明石は先陣を切って走り出し、慌ててそれに追従した者達はそれ以上の会話をすることが出来なかった。

 悪夢の様な現状に、じわりと浮かぶ汗を拭うことも出来ず、明石達は拠点に向けて動き出す。

 

 

 

 

 

 

「――――……っぅ。こ、ここは……?」

 

 

 崩れた瓦礫の中で、知子は目を覚ました。

 額から流れる血液と全身を襲う鈍い痛みに、ぼやけていた意識が覚醒を始め、意識を失う直前の光景をありありと思い出した。

 

 

「私、“破國”にやられて……」

 

 

 痛みはこれまで感じたことの無いほどに激しく、全身の筋肉が断裂でもしているのでは無いか、なんて考えてしまうほどに身体の自由が利かない。

 フラフラと、軋む腕を動かして、懐に感じる異物を取り出せば、以前梅利に貰った小さな拳銃が、砕け散った状態でそこにあった。

 “破國”の一撃を受けたとき、知子は辛うじてライフル銃を盾にしたが、同時にこの小さな拳銃も盾となって自分の命を救ったのだと彼女は気が付いた。

 

 ライフル銃はどうなったのかと見渡せば、完全に真っ二つに裂けている黒く長い銃身が地面に落ちており、これも梅利さんに借りたものだったのになんて考えて、知子の目には悔しさで涙が浮かぶ。

 

 救われてばかりだ。

 どうしてこんなにも上手く出来ないのだろう。

 この身体も、豊富な武器や食料も、全部救われた結果自分はここに生きている。

 恵まれた環境にいることはこれ以上無いくらい自覚している筈なのに、自分は何一つ変われていない。

 

 

「っっ……駄目だ私、泣いている暇なんて無い」

 

 

 悲鳴を上げる身体を無理矢理動かして、状況を確認しようとのし掛かっていた瓦礫の山をどかす。

 壊れたライフル銃を捨てて、小さな拳銃は少しだけ躊躇して懐に戻す。

 顔を拭い、片足を引きずり、何とか周りの状況が分かる場所まで辿り着けば、異形達の異常な行動が眼下に写り込んでくる。

 

 

「これは――――東城さん達の拠点へ、怪物達が……」

 

 

 どれほど意識を失っていたか分からないが、そう時間は経っていないはずだ。

 だと言うのに、目の前のこの光景は何事だろう。

 混乱する頭に手を当てて少しだけ熱を取り、自分がこの後どう動くべきかと考える。

 

 あの、あまりに多くの異形が群れを為している場に駆け付けて一人でも多くの者を救助するのが先決か、若しくは――――。

 

 

「……東城さん?」

 

 

 ボロボロの東城が工具を片手に、壊れた散布機に手を加えている姿を目にする。

 近くに護衛をしている者は見当たらない。

 脇目も振らずに拠点へと攻め込んでいる異形達を思えば、普段よりも危険は少ないのかもしれないが、それでも一つのコミュニティを率いている者が冒すような危険では無い筈だ。

 何かに取り憑かれたように手元の作業に没頭する東城さんの行動を観察していれば、彼女の背後に近寄る人影を見付けた。

 

 

「なるほど。異形はあの場所に向かっても、変異していない死者はそこらを徘徊しているんですね」

「――――笹原さん?」

 

 

 パキリと、忍び寄っていた死者の首をへし折って東城に声を掛ければ、そこでようやく自分の背後にいた存在に気が付いた様で彼女は目を少しだけ見開いた。

 

 

「武器も無い、護衛も無い。貴方の立場を考えれば有り得ない状況ですが、何をしようとしているんですか?」

「……私は」

「……ああ、頭が痛い。私も怪我が中々酷いですし、あまり荒事を行いたくは無いのですが……貴方、それを直してどうするつもりなんですか?」

 

 

 薬品を散布する機械を、もう一度直す理由。

 そんなものは一つしかなくて、一度は失敗に終わっている薬の散布をもう一度行うならば、そのやり方は確実である方を選ぶはずだ。

 例えそれが交わした約束を破ることになっても、東城という女ならばその選択をすることを知子は知っていた。

 だからこそ、自身にとって最も守りたい者を脅かそうとしている東城を、知子は許そうとは思わない。

 

 

「……私は私がやるべきことをやる。私は死鬼と言う一体の異形の命よりも、自分の同種である生存者達が生きる道を選ぶ」

「それでは……その手に持っている最後の特効薬を、死鬼を含めたあの場所へ散布すると言うんですね?」

「ええ、そうでもしなければどれだけの人が命を落とすか。この地の、人類の生死を掛けたこの戦いで、必ず“破國”は討ち取る必要がある。だからこそ私はもう、手段は選ばない」

「よくもそれを私の前で言えましたね。ええ、覚悟は出来ているんですね?」

「そうよ。貴方が死鬼を第一に考えるなら、しっかりと私の息の根を止めなさい。僅かでも身体が動くのなら、私は目の前のこれを成し遂げてみせる」

「――――そうですか」

 

 

 死鬼の血液を身体に摂取し、適合させた知子の身体は容易く人を殺し得る。

 彼女が持つ武器のほとんどが壊れていようが、銃を持つ一人の人間程度であれば赤子の手を捻るようにねじ伏せることが出来るだろう。

 だから、出来る、出来ないは問題にならない。

 殺めると言う覚悟が出来ていないと言う事も無い。

 だが、東城に伸ばしかけた知子に迷いが生じたのは、あの人だったら、ここで東城に手を掛けることが正しいというのだろうかと言う想いがあったからだ。

 

 誰かの悲鳴が遠くから聞こえてくる。

 梅利と出会い前、あの地下の暗闇の中で震えていた自分自身を思い出す。

 誰かに救いを求めていた自分に手を伸ばしたあの人は、どうしたいと言うのだろう。

 

 そんなこと、考えるまでも無い筈だった。

 

 

「…………貴方が特効薬を使用したら、私は直ぐに死鬼を連れてこの街を離れます。ここにどれだけの異形が残っていようが関係ありません。誰であろうと見捨てます、誰であろうと見捨てさせます。それで良いですね?」

「貴方の……その判断に、感謝するわ」

 

 

 結局知子が選んだのは、単なる妥協案。

 薬の効果が出てしまう前に、死鬼を連れてこの町を離れる事だった。

 

 あの医者の話であれば、死者や程度の低い異形ならば、気化した特効薬を浴びるだけで身体が溶け出すと言うが、主クラスである“死鬼”や“破國”と言った強力な個体に対し、同様の効果が望めるかは分からないと言うことであった。

 つまり、多少なりとも薬品の効果に抵抗できるであろうと見越した上での、見通しとしては甘いと言わざる終えないものだ。

 東城の選んだこの選択が、生存者達の最後の切り札になり得ると理解しているからこそ、知子はそれの邪魔をすると選びきることが出来なかった。

 

 

(……梅利さん、いや、死鬼の身にどれだけの負担が掛かるか分からない。出来るなら、アイツが薬を吸い込む前に連れ出したいところではあるんだけど……)

 

 

 知子の選択に、何処か顔を暗くした東城が修繕作業に戻るのを視界の片隅に収めつつ、異形の群れが砂地獄の中心に集っていくように拠点に向かっていくのを確認する。

 

 あの場所に死鬼はいる。

 遠目からでも分かる程に、ここからでは黒い墨のようにも見える異形の群れを、修正液でも流し込むかのように瞬く間に消し飛ばしていく光景を眺め、彼女の場所をしっかりと把握する。

 

 

「特効薬の残りはもう無いんですよね? なら、それの修繕が終わるまで私が貴方の護衛を受け持ちます。周囲は気にせず、直すことだけに集中して下さい」

「ええ、ありがとう。……ただ、私は技師では無いから少し時間が掛かると思う。可能な限り急ぐわ、その間はお願い」

 

 

 戦力を考えれば、死鬼が有象無象の異形に負けるなど考えられない。

 “破國”との戦闘がどうなったのか分からないが、同じ轍を踏むような失態を繰り返さないのがあの怪物だ。

 全てを同時に相手取っても、互角以上に戦えるだろうことを知子は疑っていない。

 だが、もしもがあるとするならば……。

 

 

(この異形達の異常行動、この場所だけのものなのか、それとも……もしもこの場所以外……他の地域を支配している“主”クラスの怪物が来るとするのなら)

 

 

 未だに収まる様子の無い、拠点に向けた異形達の進撃を眺め、脳裏を過ぎった嫌な想像を少しでも掻き消せるように、懐に仕舞った壊れた拳銃を握りしめた。

 

 

 

 

 

 

「コイツら……なんだ、知能が消えたのか? いや、知性が無いのは元々だろうが、なんでこんなにも碌な反応をしない……」

 

 

 “破國”の咆哮を皮切りに拠点に一直線に向かいだした異形どもを潰しながら、コイツらに対する疑問を口に出す。

 脅威である筈の私に背を向け動き出した奴らを追い掛け、幾ら息の根を止めようと、コイツらは一向に私に注意を向けようとしない。

 まるで操り人形だ。

 そう思ってしまうほどに、今のコイツらに自分の意思というものが存在していない。

 将棋の駒にでもなってしまったようなコイツらはもう、生存に対する危機も、恐怖も感じていないのだ。

 

 

「……こうなってしまえば、もはや全て壊してしまう以外に方法は無いか」

 

 

 分析し、判断を下した。ならばもう即座に次の行動へと移る。

 右手側にあったビルを全力で蹴り上げ、拠点を挟んだ反対側へと巨大な瓦礫の山を撃ち出した。

 流星群のように降り注ぐ瓦礫の山が、自分とは逆側の異形どもの侵攻を止めたのを確認して、今度は私がいる側の異形どもの侵攻を止めるために地面を殴った。

 大地が割れる。

 巨大な亀裂が異形の群れを呑み込む。

 地下街という、この地における最も危険な場所へ纏めて異形の群れを送り、その末路を見届けること無く、今の攻撃で漏れた化け物どもの始末に走る。

 

 相手にならない、それはそうだろう。

 この群れの主である“破國”を圧倒できたのだ、その他の有象無象など問題にならないことは理解していた。

 問題があるのはあくまで弱小な人間どもの生存だ。

 出来れば無駄に奴らが命を落とすようなことは避けたいし、自分が“破國”の始末を誤った事に起因するこの事態が許せない。

 だからこそこんな、雑魚の露払いなどやっているし、何とか生存者どもの拠点が壊されないように尽力している。

 あくまで自身の脅威などでは無く、プライドの問題でこうして動いていた。

 少なくとも、自分ではそう思っていた。

 

 

「……そのはずだったんだがな。全く、やはり人の価値観というものは分からないな」

 

 

 自分に生まれた感情が分からない。

 平時であれば、この感情を解明しようと色々自問自答を繰り返すのだが、残念ながら今そんな余裕は無い。

 もしもこれが終わったときに話す機会があるのなら、彩乃や東城、知子に聞いてみるのも悪くないのかもしれない。

 一つ気になることが出来たなと、笑いを溢し、ようやく辺り一面を更地に変えた時に、奇妙なものが視界に入った。

 

 異形なのかは即断出来なかった。

 生き物なのかも断定出来なかった。

 ただ、それが自分にとって倒すべきものだと言う事だけは、即座に理解した。

 

 黒い、液体のような人型が毛細血管のように広がった腕を使い、上空からこちらに接近してくる。

 生存者がいる拠点ではなく、私目掛けてまっすぐに。

 

 

「……見掛けない奴だな。別の街の異形か?」

 

 

 顔の無い、のっぺらぼうのようなソイツは、私から少しだけ離れたところに音も無く着地して、液体のように身体の形を変えながら歩み寄ってくる。

 着地の時の衝撃をバネのようにしならせた足で吸収し、これから行う戦闘に適したものへと大柄な成人男性程度の身体に変化した。

 自由自在に身体を変化させることの出来る怪物。

 少なくとも私達どちらも知り得ていないこの奇妙な怪物は、他の有象無象とは一線を画していると理解した。

 

 一瞬だけ、もしかすると“破國”が次はこの姿に変化したのかとも考えたが、どうもそうでも無いらしい。

 その化け物のたたずまいに、気味の悪い不気味なものを感じながら、もう間もなく接触できるだけ近寄ってくるそれの為に戦闘準備を整えた。

 

――――通告する。

 

 

「お前があのウスノロの何に釣られてここまで来たのか知らんが、他の雑魚どもとは違って自分の意思が残っているようだな? ならば私の前に立つな、元いた場所に戻れば見逃してやる。即決しろ、それ以外ならば排除する」

「愚レツ堕Na? 悲Si-喪ァ」

「……貴様。随分とまあ、薄汚い話し方をするものだ。目障りだ消えろ」

 

 

 私の言葉に従う様子を見せないことを確認して、警戒から攻撃へと意識を切り替える。

 苛立ち混じりに高速で肉薄し、微動だにしなかった不気味な黒い人型を蹴り抜けば、何の抵抗もせずに身体を吹き飛ばし建物を突き破っていった。

 

 時間が無い、ならば様子見などする必要は無いだろう。

 吹き飛んだソイツを即座に追い掛け、錐揉みになりながら吹き飛んでいる黒い人型に追い付き、地面に平行に飛んでいたソイツを下から掬い上げるように蹴り上げる。

 ソイツの蹴り心地は到底生き物を蹴り飛ばした感覚とはほど遠く、ゲル状の何かを触れている感覚と言う方がずっと近いだろう。

 衝撃の多くを、その特殊な身体に吸収されたような感覚があったが、同時に、複数の風船を潰したときのような何かを破裂させた様な感覚も足の先から感じられ、何も損傷がない訳ではないのかと安心することが出来る。

 為す術もなく上空に吹き飛ぼうとしたソイツの首下を掴み、地面に叩き付ければ、黒い人型はその身体を海老反りにして、悲鳴を上げるかのように地面を転げ回った。

 

 身体能力は私に到底及ばない、それは確信できた。

 ならばこいつの脅威は別の所にある。

 特にこういった不気味に感じる奴は大概知性が高く、卑劣な事が多いのだ。

 

 

「――――ああ、読めていたぞそれは」

 

 

 攻撃の意思を見せず、のたうち回っていた黒い人型の身体が突如膨れ上がり、風船のように破裂した。

 身体の中から飛び出したのは、毒々しい紫色の煙と刺突のように飛び出した幾本もの黒い液体の槍。

 そしてそれらが目前の私に届く前に、生まれた黒い爆炎が全てを焼き尽くした。

 熱した鉄骨に数滴の水を落とした時のような、蒸発する音と醜い絶叫が周囲に鳴り響く。

 

 基本的に異形や死者と言った化け物どもは火に弱い。

 程度に差こそあれ、私だって超高熱に晒され続ければ力尽きるだろう。

 当然自分のそんな弱点など誰にも言ったことは無いが、その手を私が使わない筈が無い。

 特にこんな気味の悪い液状の奴などと、仲良くじゃれ合う趣味は無いのだから。

 

 

「愚リa亜ァ悪吾――――!!!???」

「ふふふ、隙だらけだとでも思ったか? さて、次は――――」

 

 

 そしてトドメを誘うとした私に邪魔が入る。

 一つは再生を終えた“破國”が乱入してきたこと、もう一つは複数の首を持つ狼のような怪物が拠点を強襲したことだ。

 

 

「――――どいつもこいつも、目障りだ」

 

 

 突進してきた“破國”の角を掴み取り、地面を大きく削りながら巨体を受け止める。

 さらに隙間を縫うようにして液状の槍が襲い掛かってきたのを、肌に触れる箇所を直前で硬めて防ぎ、強力な個体であろう狼に襲われている拠点の状況を視認する。

 やはり、通常の異形よりも強力な個体が一体いるだけで、あの拠点の守りは崩壊する様だった。

 

 

「面倒だっ、纏めて捻ろうか!!」

 

 

 絡み付いた状態の“破國”と黒い人型を振り回し、拠点を襲う狼目掛けて飛ぶ。

 “破國”の巨体、何とか逃れようとする黒い人型、暴れ回ると言う難点はあるものの、そのどちらも武器としては申し分ない。

 

 メシャリ、なんて言う冗談みたいな音が潰れた狼から漏れる。

 砕けた地面の欠片が舞い上がり、どの異形の絶叫なのか、どの異形の体液なのか分からない、凄惨な光景を作り上げた。

 潰れた狼が痙攣して動かない状態となっており、それを踏み潰すことで狼はトドメとするが、武器としていた“破國”どもは損傷こそあれど未だ健在である。

 

 そして、拠点を背にする形になって初めて分かってしまう。

 果ての見えない異形の数々が、この場所の終わりを告げている事を。

 視界を埋め尽くす蠢く漆黒が、どうあってもこの場所の生存者どもを全滅すると告げている事を理解する。

 

 

「……これは……」

 

 

 あの中には、どれだけの数の強力な異形が含まれているのだろう。

 この場所にいる生存者どもでは太刀打ちできない異形が、どれだけの数控えているのだろう。

 少なくとも、目の前にいる二体で終わるなんて考えられなかった。

 

 ふと背後にある拠点へと目を向ける。

 先ほどの狼に壊されたであろう拠点の壁から、隅で震えて竦んでいるだけの戦えない者達が見える。

 顔も言葉も、碌に交わしたことの無い彼らの命など、人と異形の二つの価値観が混ぜ合わさった今になっても、さほど気にするようなものでは無い。

 本当はここで、彩乃や知子だけを連れ去って、残りの奴らは見捨ててしまえばこれほど楽なものは無いだろうと言うことも本当は分かっている。

 

 だってそうだろう。

 私に対して、恐怖を含んだ視線しか送らないような奴らの為に決めなければならない覚悟など無い筈だ。

 私に対して、負傷した隙を狙って命を取りに来た、奴らのような為に使う労力など無い筈だ。

 守らなければならないものは他にある。

 彼らのような者を無理に守るなんて、本当は馬鹿げている。

 そう思った。

 

 

「し、死鬼様ぁ!!」

 

 

 そんな私の葛藤に気が付いたのか、泉北にいた一人の男が声を上げた。

 引き留めるような、命乞いをするような、そんなことを言われるのだろうという私の予想は裏切られる。

 

 

「私達のことなど見捨てて下さい! 遠くへ、何処か遠くへ、きっと貴方様が幸せになれる場所が何処かにある筈です! 私達は貴方様に充分救われました! どれだけ返そうとも返しきれない恩を頂きました! 私達は何一つ貴方様に返すことが出来ませんでしたが、この恩はこの身に刻んでいるんです! 貴方様はもうこれ以上……頑張らなくて良いんです……」

 

 

 何を言っているんだ、叫んだ男の近くにいた者にはそう言って掴み掛かる者もいた。

 死にたくないと叫び、なんとか私を留まらせようと絶叫する者もいた。

 それでもその場所にいる大半の者は、叫んだ男に追従する。

 

 

「死鬼様ぁ! 今までありがとうございました! 迷惑ばかり掛けて、本当に申し訳御座いませんでした! 来世はきっと貴方様のお役に立たせていただきます!」

「しきさまー! しきさまー!」

「死鬼!! 前は悪かったなぁ! お前をただの異形だとずっと言ってて悪かった! もう良いから、お前は良くやったから、お前が必死になる必要なんて何処にも無いんだから!」

「――――……なんだ、貴様ら。馬鹿なのか……?」

 

 

 顔に皺の刻まれた老人が、私の半分以下の背丈しか無いような幼子が、片足を失った中年の男性が、腹の膨れた妙齢の女性が、私に対して必死に叫ぶ。

 その内容は酷く聞き慣れないものだ。

 自分の命だけが大切なはずのコイツらが、なぜ私を助けようとするのか分からない。

 

 

「死鬼様ぁ!!」

「――――梅利!!」

 

 

 ようやく戻ってきたのか、彩乃と水野の二人が拠点の影から現われた。

 ボロボロの、悲痛なような表情をした彼女達の顔を見て、そんな二人にも心配されるような声を上げられた私は、自分がいったいどんな表情をしているのかと自分の顔をつまんでみた。

 触ってみたその肌は濡れていて、それが汗なのか返り血なのか分からないまま拭い取る。

 

 この戦いはあまりに不毛で、私にとってはあまりに意味の無いものだと理解している。

 きっとこのまま戦わず、自分の楽な方へ走ったとしても、その先にはきっと正しいと思えるものがあるのだと理解している。

 だからこれは、理論的でも、感情的でも無い。

 ただ彼女達の前で、これ以上格好の悪いところは見せたく無くないなんて、下らない虚栄心でしかなかった。

 

 

「――――無様な声を上げるな馬鹿どもめ」

 

 

 カチリと頭の中で何かがはまり込んだ。

 身体が燃えているのでは無いかと思う程に熱を持ち、頭は氷でも詰め込んだように冷え切っている。

 

 

「私が命を捨てるだと、私がこの場から逃げるだと。的外れで筋違いで聞くに堪えん、貴様らなど、ただその場で震えていれば良いんだ」

 

 

 目前には地平線の彼方にまで続く異形の群れと、強力な個体である黒い人型に“破國”がいる。

 全てを私一人で処理するのはどう考えても無理であり、きっと昔の私ではどうしようも無かっただろう。

 それは分かる。これまで戦ってきて得た経験や直感がそう言っている。

 

 だが、それは昔の話だ。今の私は昔とは違う。

少なくとも下らないプライドなど、放り捨てることが出来るくらいには。

 

 

「ああ“破國”、貴様は確かに巧かったよ。この状況は私にとって敗北も同義、貴様の策は正しく機能しており、愚かな私はそれを許した。この場においてお前に勝ちは譲ってやろう。――――だがな、ここからは私が勝つぞ。我が因縁の異形よ」

 

 

 そっと手のひらを地面に付ける。

 じっくりと膨大な力で、この大地を砕くことに意識して、あとはゆったりと目を閉じる。

 

 この地域に侵入する異形どもの存在は、何も私一人の問題では無い。

 この地域の怪物どもは、この侵攻を不快に思っており、特にある人物よって生存圏を極端に狭められていたある化け物どもにとっては邪魔なことこの上なかったのだ。

 

 だがそれでも、この地の“主”が一人で迎え撃っていた。

 いつものように、“主”が一人で目の前の物全てを破壊していた。

 だから、なんとか矛を収めていた。

 

 

「――――ゆくぞ貴様ら、私に手を貸せ。この地が誰の者か思い知らせ、我が物顔でのさばるものどもに鉄槌を下せ!」

 

 

 地が砕ける。

 アスファルトがまくれ、蓋が開く。

 その下にあるのは巨大な空洞。巨大な地下街。

 そして、この地における最大の異形の住処。

 パキリと、先ほど下に落ちた、外から侵攻してきた異形どもが肉塊になった状態で見えた。

 

――――最初に出たのは二体の猿だった。

 

 すばしっこい動きで近くにいた異形の足を掴むと、地下街の中へと引き摺り込んだ。

 絶叫と幾度も重なる咀嚼音が響いて、底から覗く幾重もの真っ赤な眼光が外から来た異形どもを捉えた。

 

――――流出する。

 

 様々な形をした怪物達がその姿を現わし、外から来た異形どもに食らい付く。

 私が壊した部分だけで無い、私の声を号令として、様々な場所から巨大な異形から姿を現わし、我が物顔でのさばっていた異形の群れを磨り潰しに掛かる。

 慌てて応戦する外の異形どもだが、その力の差は歴然で、迫っていた異形の群れが鎧袖一触の様相で押し返され始めた。

 

 ドンッ、と私の足下が崩れ、そこから這い出た怪物、“破國”すら越える巨大な白蛇が私を頭に乗せて、天高く舞い上がる。

 巨大な白蛇、“島喰”は眼下に広がる異形の群れを見下ろした。

 

 

「――――私は梅花。この地における王であり、この地における裁定を下すもの」

 

 

 地上から私を見上げる“破國”と視線を交わせる。

 今度こそ、真の総力戦だ。

 

 

「去ね、潰えろ、絶望を刻め。私が貴様らに終焉を与えよう」

 

 



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梅花、百鬼を魁る

 異形と異形の縄張り争い。

 小さな小競り合いや、一対一のような縄張り争いはそれほど珍しくない。

 なにせ多少なりとも知性があるのが異形だ。

 獣のように、自分の縄張りには強い執着を持っているものであるし、それを侵そうとするものは人も同種も関係なく敵となり得る。

 だからこそ、縄張り争い自体は珍しいものでは無い。

 

――――だが今回の、“主”クラスが複数体混じった異形数百規模の縄張り争いなんてものは、滅多なことでは起こりえない。

 

 

「■■■■――――!!!!」

「ゴォォォオオオォオォ!!!!」

「ギャォアアアア!!!!」

 

 

 “島喰”が複数の異形を巨大な胴体で締め上げ、口から漏れ出す大量の毒液を振りまけば、周囲一帯が毒沼へと変わる。

 “破國”が糸を張り巡らせ、高速で周囲の異形をなぎ払えば、黒い人型は液状に拡散させた身体を雨のように降り注ぎ槍の雨を浴びせ辺りを不毛の大地へと誘う。

 特殊な怪物どもがそれぞれの機能を破壊へと傾け暴れ回っている。

 

 様々な適合を遂げた怪物達の戦争に、もはや生者が入り込むような余地が残っていない。

 人間は異形に勝つことが出来ない。

 その言葉を明確に光景とするならば、今のこの光景こそまさにその通りだろう。

 

 

「さあ、ゆくぞ“破國”!」

「■■■■ッ……!」

 

 

 “島喰”が恐ろしい速度で“破國”に肉薄し、その頭上に乗っていた私が接近した“破國”の頭蓋を上からぶん殴る。

 丈夫な頭蓋の骨がねじ曲がり、地面に叩き付けられ、さらに跳ね上がった所を巨大な“島喰”の尾に叩き潰される。

 それでも恐るべき再生力で、直ぐさま全身の傷を再生していく“破國”の姿を眺める。

 このままではキリが無い、そう思った私は再生の暇を与えない攻勢に移ろうと身構えたものの、“島喰”がそれを静止するかのように動き出そうとしていた“破國”をその巨大なアギトで食らい付いた。

 強酸で全身が溶けているのだろう、咥えられた“破國”からは大量の蒸気と“島喰”特有の猛毒液が溢れだしている。

 王水よりも強力な溶解液らしいこの蛇の毒を、私だってまともに受けたくは無い。

 内心“破國”に同情しつつ、“島喰”にこいつの相手を任せることにして、私は他の厄介な奴らを片付けることにする。

 

 ぶくぶくと肥大化した肉塊の異形が、不気味な気体を撒き散らしながら拠点へと向かっているのを視認し、“島喰”の頭上から飛び降り、空中で身体を何度も回転させたギロチンのような踵落としで不気味な異形を二つに裂いた。

 さらに襲ってくる奴らがいるかと思えば、どうやらこちら側の異形どもの勢力が優勢なのか、地下街から飛び出してきた異形に押され、外の異形どもはまともに拠点に向けて突破することが出来ていない。

 

 押し勝っている状況ではあるが、私はもはや油断せず、危険な特性を持つであろうと異形を選別し、優先的に強襲する。

 例えば、先ほどまでの黒い人型や、カマキリを巨大化させ鎌を複数持たせたような怪物、或いは空を飛んできた巨大な蠅と言った、放置すれば戦況が変わってしまうような強力な個体を見繕い、引き千切って蹴散らした。

 

 

「人間どもっ、お前らは建物の中から絶対に出てくるなよ!」

 

 

 この地にいた異形の一体が、建物の中に居る人間に気が付き襲い掛かろうとしたのを、首下を掴んで敵の群れの中へと放り込み阻止する。

 この建物には手を出すなと、手を振ると、それを理解したのかこの地にいた異形どもはそれ以降拠点に向けて攻撃するものはいなくなった。

 

 想像以上にこいつらは私に従順だ。

 この地の異形の中でも、私を除けば最強であろう“島喰”でさえ、過去に半殺しにした私に対して敵意を見せる事は無く、その巨体で外の異形どもだけを潰しており。

 前に必死に命乞いをしてきた巫山戯た猿どもも、なんとか私に良い印象を持たせようとしているのか精力的に働いている。

 少しだけコイツらを使うことに不安もあったが、どうやらなんとかなったようだ。

 

 

「物資を調達するだけのつもりだった地下街の攻略が、まさかこんな形で活用されるなんてな……結果、運が良かったと言う事だが、我ながら下手な博打をしたものだ」

 

 

 梅利としての意識があったあの一年。

 ひたすら食料を集めるために地下街に潜り、襲ってくる異形や死者を返り討ちにし続けた事により、過去の私を知らない異形すらも地下街の“主”として認めるまでになっていた。

 これだけの量の異形がいたにも関わらず、私が襲われることはほとんど無くなるまでに。

 

 幸運だったのは、一時的に不在となったこの地の“主”であったが、それでもここにいた昔ながらの異形どもは変わらず私を“主”と見ていた事だ。

 昔から生き残っている異形は総じて強力な個体が多いが、その中でも特筆するべきは巨大な白蛇の異形“島喰”だ。

 この地へ侵攻した“主”の異形として対峙し、私が勝利した訳だが、奴の美しい白い姿にもったいなさを感じた私は、住処としていた地下街へと奴を引き摺り延命させた。

 忠誠などは無い筈だが、それからは私に対して刃向かうことも無く、地中で大人しく過ごしていた。

 今回のこの地の防衛で協力してくれるとは考えていなかったが、この蛇も少なからずこの地への愛着を抱いていたと考えて良いのだろうか。

 

 幸運だった。

 コイツらが私の望み通りに動くか未知数だったから。

 異形としての攻撃性を、人間どもに向ける事無く、外からの侵略者を迎え撃つ事に尽力してくれる形となってくれて本当に幸運だったのだろう。

 

 

「――――その幸運を活かす為にも、まず貴様はここで殺す」

 

 

 周辺は既に焦土と化している。

 拠点の近くにに集まっていた奴らは大方片付けた。

 目に付いた厄介そうな個体の始末もあらかた終わらせた。

 “破國”の奴はあの蛇に任せるとして、私は後回しにしていた奴の始末を付ける。

 この目の前に現われた、悪臭を放つ不気味な黒い人型を。

 

 

「ヲre我フ滅堕! ki詐マn唖ド!!」

「何の信念も、何の誇りも持たぬ貴様など目障りなだけだ」

 

 

 有無を言わさず、肉薄し頭部を吹き飛ばす。

 だが、その人型も再生など生温い事をせず、頭の無い状態で全身を変形させ襲い掛かってきた。

 腕が数多の鋭い触手となり、千手観音のような圧倒的な手数を作り上げ、囲い込むように切り裂きに来る。

 避けるのは面倒。守りに入るのは愚か。私の場合は正面突破だ。

 

 襲い掛かる手数を正面から突き破る。

 自然界には存在するとは思えない、非常に重い液体の槍の数々を拳と身体で弾き飛ばし、必死になってさらに攻撃を繰り出す黒い人型の眼前に迫る。

 攻撃の効かぬ私に物怖じし後退ったソイツに対し、私は一切の遠慮も無しに掌底を打ち込んだ。

 ボンッ、と腹から背中に掛けて巨大な空洞が出来たソイツの身体に、私の手にあった黒い残火をそっと優しく埋め込んでいく。

 

 

「死悪アアaa亜Ⅰア悪ア――――!!!!????」

「火には弱い、そうだろう? 私のそれは特に熱くて消えないんだ。内側から燃えさかれば、お前という燃料が消えない限り火勢は増すばかり。お前は燃えやすそうだからな、最後は私の役に立って貰おうか」

 

 

 最後にその言葉を贈って、内部から燃え始めた黒い人型をさらに向かってきている異形の群れに放り込んだ。

 しばらく響いていたソイツの絶叫も、最後に起きた巨大な爆発と共に途切れ、もう二度と聞こえることは無なる。

 どれくらい外の異形を巻き添えにしてくれただろうと考えながらも、そろそろ変化があるであろう“破國”と“島喰”の戦いへと向きを変える。

 

 視線を向けたその先の光景に、私は思わず息を止めてしまう。

 巨体同士の戦いには、背丈が大きいとは言えない私では為し得ない派手さがある。

 自己評価が高いと自認している私ですら、思わずそう思ってしまう程に、災害のように周囲を巻き込んだ圧巻の戦いがそこにはあった。

 巨大なだけで、脅威足り得るのだと実感させられる。

 

 大地が砕ける。

 天が裂ける。

 縦横無尽に空を駆ける“破國”とそれを追うだけで周囲に壊滅的な被害をもたらす“島喰”。

 周囲を駆け巡り、生み出した糸で“島喰”を巻き取ろうとした“破國”に対し、レーザーのように毒液を噴射した“島喰”がその全てを溶かしつくす。

 千日手かと思えば、今度は“島喰”が頬を膨らまし毒液を霧のように噴射して、“破國”が飛び回る上空を猛毒の死地へと変化させた。

 “破國”が咄嗟に上空から地面へと避難すれば、それを待ち構えていた白き大蛇が大口を開けて喰らい付く。

 

 これ以上無いほどの激闘だ。

 私は自分が戦うばかりで、こうして他の異形同士が戦っている姿を見ることは無かった。

 だから、これほどまでに拮抗し、これほどまでに他の異形の乱入を許さない戦いを見て、私はある種の感動を覚えてしまう。

 今なお生存のために進化を続ける“破國”に、白磁のような美しい白蛇の“島喰”。

 このまま彼らの戦いを、終わるまで見届けても見たかったがそういう訳にもいかないだろう。

 

 

「良くやった蛇! ここからは私がソイツの相手を貰おうか!!」

 

 

 口に咥えて、戦利品を誇示するように振り回していた“島喰”から“破國”を奪い取る。

 “破國”を振り回し、建物を倒壊させ異形を轢き潰し、そして最後に投げた飛ばした後、自分の腕を裂いて、体液を使った火炎を発生させ辺り一帯を焼き尽くす。

 ミキサーで細切れにしたような、ぐちゃぐちゃになった身体で、それでもなお起き上がった“破國”の耐久性に思わず溜息が漏れるが、半分ほどに減った異形の群れの光景に、そちらは終わりが見えてきたと一安心する。

 

 何か言いたげな目でこちらを見てくる“島喰”の頭を、乱暴にガシガシと撫でる。

 東城の有能さを思えば、もう数分で特効薬が飛んでくる筈だ。

 それがどれだけの効果を誇るのか知らないが、あの藪医者が作ったものが柔なものとは考え辛い。

 “破國”の体力に終わりが見えず、どれだけ奴を叩き潰せば良いのかと困ってしまっているが、特効薬があればアレを倒すことだって難しく無い筈なのだ。

 

 

(……しかし同時に、特効薬が散布された時点で私達もどうなるか。いや、私が命を落とした時点でコイツらが人間どもを襲うのは間違いないのだから、私が命を落とすのならコイツらも確実に息の根を止めて貰わなくてはならないだろう……慕ってくれているコイツらには悪いがな……)

 

 

 どれが正解なのかは分からない。

 無限に進化する“破國”は早急に殺しきる必要があるし、けれど可能ならば特効薬の散布は止めさせたい。

 私が特効薬を直接“破國”に打ち込む事も考えたが、どう考えたって私にも被害が出てしまうだろう。

 もしも、最悪私と“破國”が共倒れになれば、この場にいる異形が人間を襲わない理由が無くなってしまう。

 そうなれば、今は大人しく従っているこいつらがこの場を餌場として、人間どもにとっての地獄が始まるのは目に見えていた。

 

 別に今更この命を捨てることに躊躇など無い。

 人としての部分は強い恐怖を持っているが、異形としての部分が強い今の私に生に対する執着はそれほど無い。

 やりたいことをやれるだけやってきたのだ、まあ、そんなものだろう。

 

 

(目下達成するべきなのは、東城が修繕を完成させるまでの時間稼ぎか。それならばこのまま私は――――……いや、何を考えている。それはつまり私が脆弱な人間を頼ると言っているようなものではないか……)

 

 

 いつの間にか腑抜けた事を考えていた自分自身に思わず笑いが溢れてしまう。

 他の異形を使う事は諦めても、自分よりも圧倒的な下位の存在に、ましてや一度は私に武器を向けた奴らを頼ろうなどと言う自分自身の考えに、心底驚いた。

 だが、そこまで悪い気はしない。

 そう言う心境の変化もありなのだろう。

 

 ズキリとした痛みを感じて視線を向けた腕には、先ほど自分で裂いた傷が再生しきらずに残っている。

 原因は分かっているが、ここまで再生が遅くなっているとは予想していなかった。

 

 

「……ああくそ、腹が減った」

 

 

 悪態を吐き、再生しない腕を無理矢理握り込む。

 私のそんな様子に気が付いたのか、全身が潰れた状態の“破國”は私の腕をじっと観察している。

 この怪我はまだ大丈夫だ、再生が遅いだけでまだ治る。

 だが、次以降はどの程度再生が可能か分からない。少なくともこれ以上の自傷行為は止めた方が賢明だろう。

 

 

「蛇、お前には雑魚を任せる。恐らく私より殲滅力はお前が上な筈だ」

 

 

 相手が理解しているかの確認もせず、それだけ言って私は走り出す。

 ボロボロの“破國”は直ぐさま私を迎え撃つが、傷付いた今のこいつなら素早さでは私が数段上だ。

 ならば私はそれらの攻撃を一撃だって貰いもしない。一方的に“破國”を痛めつける。

 

 私の攻撃がどれもまともに身体に入り、“破國”は牙や角、分厚い毛皮を剥がし、内臓を溢れさせるほどの損傷をまともに負っていく。

 腕がこいつの身体を貫き、上半身と下半身を分断し、攻撃に使っている腕を全てへし折ってなお。

 それでも、“破國”は倒れない。

 

 身体の損傷を再生させ、二つに裂けた身体は同時に動き出し、何の影響も受けていないように再び襲い掛かってくる。

 もはや形を為さない不気味な肉塊として襲い来るそれらの攻撃を全て避け、ひたすら叩き潰し続けた。

 数十、数百、いや、もしかするとさらに多い手数で、地面にこびり付いた汚れのようになるまで“破國”を破壊し尽くした。

 それでも、“破國”は倒れない。

 

 何処までも生存力が高く、そして果てしなく進化を続ける怪物。

 それが“破國”と言う、国を挙げても討伐することの出来なかった化け物だ。

 

 

「ふふ、何時になったら死ぬんだ。潔く消えると言う選択肢がお前には無いのか」

 

 

 あまりのしつこさに笑ってしまう。

 こいつの生命力の高さは理解しているつもりだったが、どうにも認識が甘かったらしい。

 足下で蠢いている“破國”の残骸を踏み潰し、少しだけ乱れた息を整えた。

 一方的に私が嬲っただけの作業だったはずが、結果だけを見れば体力的に追い詰められているような気がしないでも無い。

 

 周囲の様子を見れば、私の言葉を忠実に守った“島喰”が徹底的に異形の群れを叩き潰しており、もはや敵の数は当初よりもずっと少なくなっている。

 だが同時に、私が地下街から出した異形の数も、最初に比べれば随分減ってしまっていた。

 勝利と言っても良いのだろうが、出してしまった犠牲の数もかなり多い。

 人間の命とどちらが上かなんて私は考えたことも無かったが、もう少しやりようがあったのではないかと言う後悔すら、今の私はしているのだ。

 

 

「……だが、それも終わりか」

 

 

 遠くで、何かが打ち上がったのが見える。

 崩れたビルの上から高くへと、私達異形が密集し争っている場所の上空へと飛来したその何かをぼんやりと見上げる。

 それはきっと、人にとっての希望であり私達にとっての終焉。

 狂った荒れ地のような私達の世界の終わりだ。

 でも、それで良いと私は思った。

 

 視野が高い位置にある“島喰”が他の異形よりも早く上空の異変に気付き、その様子を一変させる。

 足の下でグシャグシャになっている“破國”が蠢こうとするのを、踏み潰して阻止する。

 他の異形どもはお互いを喰らい合い争い続ける。

 怪物が怪物を喰らい合う地獄絵図の中で、“ヒプノス”は私達の頭上へと到達した。

 

――――弾けて、混ざる。

 

 一瞬の閃光に目を細める。

 一気に膨れ上がった何かは、そのまま空気に混ざり霧散し広がった。

 その光景は一瞬だけだ。

 だから、上空のその光景に気が付いた異形はきっとほとんどいなかった。

 

 最初に遠くの虫に似た異形が全身から体液を撒き散らして動かなくなった。

 それを皮切りに次々と、体液を撒き散らし、身体を崩れさせ、そして悲鳴すら上げる間もなく消え去っていく。

 ありとあらゆる適応を遂げた異形どもが平等に身体を崩壊させていく。

 全てが灰になる。目の前に現われたのはそんな光景だった。

 

 パキリと頭から、何かが割れるような音がした。

 

 

 こんな状況になってふと思い出すのは、これまで私が生きてきたこと。

 生きてきたこれまでの記憶はどちらも平等である筈なのに、今の私が思い出すのは梅花としての記憶ばかりだった。

 原因の分からない怒りにまかせて暴れ回ったつまらない日々も。

 東城と出会ってから得た知識と人間とふれあった温もりも。

 言葉を介して理解し合おうとして、結局解り合えなかったあの失敗も。

 そっと手を握ってくれた梅利としての自分自身と、最後に向かい合って話すことが出来た事も。

 

 それら全て、自分自身が歩んできた、確かに私を形作ったものだった。

 

 

「――――悪くない、悪くないものだった……。ふ、ふはは……ははは……ああ皐月、私は……少し、眠い」

 

 

 ゴポリと、口から液体が逆流した。

 力が抜けてしまった私はそのまま膝を着いて、でも倒れきることはしたくなくて、近くにある壁に背を預けた。

 そうしてそっと目を閉ざして、眠気に身を任せることにする。

 

――――ああ、そう言えば、花宮梅利が死ぬときも、こんな風に座って死んだんだっけ。

 

 そんなことばかり、私は最後に思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 砕け散った意識の僅かな欠片が一つの音を聞き取った。

 誰かの必死の叫び声を。

 

 もう眠い、もう疲れた。

 そんなことを思っても、その音は耳から離れずやけに頭の中に響き渡る。

 誰かの泣き声が聞こえた。

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 誰かが私を……いいや、誰かが俺の名前を呼んだ。

 その声を聞いて、どうしてもこのまま眠ることは出来なくなって、俺は鉛のように重い瞼を動かしていく。

 

 うっすらと開けた視界の先には、滅びきった異形の群れの中心で、今なお息づく一体の異形。

 その一体の異形、“破國”は、必死に辺りで息絶えている異形の死体に喰らい付き、何とか滅び行く身体を維持させようと自身を進化させ続けている。

 そしてそれに対して、攻撃を加え何とか再生を止めようとするのは残り少なくなった戦える生存者達。

 何とか生き残ろうとする“破國”を止めようと必死になっているが、傍目に見てもアイツの再生速度にまるで追い付いていなかった。

 

 意識がはっきりしない。

 霞んだ視界の中で俺を呼んだ誰かを探す。

 誰が俺を呼んだのか、空白となった思考の中で辺りを見渡せば、見知ったあの子が直ぐ近くにいるのが見えた。

 

 

「死鬼、しっかりして下さい! 今この場は“ヒプノス”が散布されました、異形が生きられる様な空間ではありません! 私の肩に掴まってください、直ぐに薬の届いていない場所へ移動します!」

「……ち、こ……ちゃん……」

「――――!? ば、梅利さんですか!? 意識が戻ったんですか!? いえ、喜んでいる時間はありません。今も“ヒプノス”は貴方の身体を蝕んでいるんです、早くこの場を離れましょう!」

「……おれは……どう、なって」

 

 

 知子ちゃんが青白い顔に焦りを浮かべ俺を抱き上げるが、全く動かない俺の腕がダラリと地面へと垂れ下がり、そのままボロボロと砂のように崩れ落ちた。

 顔を引き攣らせた知子ちゃんが、俺の無くなった腕を見詰め、俺の身体がこれ以上崩れないよう掻き抱く。

 

「な、なんで、“破國”はまだ再生能力が拮抗しているのにっ……!?」

「いたく……ないから、だいじょうぶだよ……?」

「そんなのっ……! 大丈夫、大丈夫ですっ……! 私が貴方だけは必ず助けて見せます……絶対に死なせたりなんかしません……! 私に全部任せて下さい。貴方に救われた恩を、ここでしっかりと返して見せますからっ」

「あはは……ちこちゃんは……がんこだからね」

 

 

 どうするっ、そう言って知子ちゃんは必死に周囲を見回している。

 使えるものは無いか、何が崩れゆく俺と生き残っている“破國”との差なのだと考えを巡らせている。

 

 

「ちこちゃん……アイツはなんでいきてるの……?」

「分かりませんっ! アイツだけは崩れきった身体に直接“ヒプノス”が入ったはずなのに、他の異形をああして喰らって生き長らえているんです! 攻撃を加えていますが、恐らくアイツの再生能力の方が早いっ……いいえっ、そんなことはどうでも良いんです! 今は梅利さんの身体を治すことを考えないとっ」

「……ううん。もう……むりだよ。おれはもう、いきられない……かくご、してたんだよ」

「なっ、なんでそんなことを言うんですか!? ふざけないでっ、ふざけないで下さい!!」

 

 

 怒られて、そのことがおかしくて少し笑う。

 大きくなった知子ちゃんは、俺に怒ることなんて滅多に無かったから、こうして噛み付くように怒る姿は、小さな時に頃にそっくりだった。

 何を笑っているんですか、なんて言ってさらに怒りを高める妙なループ。

 昔よく見たその光景に、妙な懐かしさを感じてしまう。

 

 

「……うそ、うそだよ」

「まったくっ、梅利さんは本当にまったくっ! こんな時にそんなおかしな事を言うんですから! ふざけるのは場合を選んで下さい!! もうっ、本当に梅利さんはお兄さんにそっくり――――いえ、そんなことを言っている場合じゃ……!」

「ふ、ふふ……ちこちゃんは、ほんとうに」

 

 

 アウアウと混乱し始めた知子ちゃんを笑いながら見守る。

 頭が良い子だから少し考えれば正解に辿り着くはずなのに、直ぐに精神的に動揺して目を回してしまう。

 前からそうだった、あの公園で話していたときもこんな感じの子だった。

 

 しばらくそうして考えていたけれど、やっぱり知子ちゃんは頭の良い子みたいで、これだけの材料がそろっていれば、答えに辿り着くのはさほど難しく無いようだった。

 しばらくウンウンと唸っていた知子ちゃんが、天恵を得たように目を見開いて顔を上げる。

 

 

「――――そうか死鬼は、異形として万全の状態じゃ無かったんだ……! だって、私とずっと一緒にいたのに、アイツらと違って何もっ、ううん、食べるべきものを食べてないっ……! だから……!」

「……ちこちゃん……?」

 

 

 何かを理解したのか一瞬迷うように視線が動き、知子ちゃんは逡巡する。

 彼女がどんな思考に辿り着いたのかを俺が考える前に、状況が動いた。

 

 爆音が響き渡る。

 ようやく再生を終えて身体を作り直した“破國”が、攻撃を加えていた生存者達への反撃を始めた音だ。

 彩乃達の安否が気になって、必死の力で身をよじりそちらを見ようとしても、抱え込んだ知子ちゃんの力には僅かにも対抗する事が出来ない。

 

 

「ち、ちこちゃん。いま、どうなって……?」

「――――梅利さん、私だけを見て下さい」

 

 

 俺の言葉を遮って、知子ちゃんが服の襟を引き肌を露出させた。

 土の汚れこそ所々にあるものの、きめ細かで美しい白い肌が俺の目の前に押しつけられる。

 目の前の状況を理解できず、目を見開いて動揺する。

 普段なら羞恥で逃げ出すような状況だが、碌な力も出せない今の俺では意味の分からない行動を取る彼女を引き剥がすことも出来はしない。

 

 

「な、にを」

「梅利さん。私を食べて下さい」

 

 

 聞き間違う要素が無いくらいはっきりと、知子ちゃんは言葉を発した。

 驚きで息が詰まり、限界まで見開いた目には知子ちゃんの肌しか映らない。

 彼女の顔は見ることが出来ない、彼女が掻き抱くように俺を抱き締めているからだ。

 それでも、彼女の発言が本気なのだと分かるくらい、俺を抱き締める力はあまりに強い。

 

 

「や、めてっ……なにをいっているか、わからないっ……」

 

 

 必死に抵抗する俺を逃がさないように抱き締めたまま、彼女は微塵も言葉を詰まらせることなく紡いでいく。

 

 

「いいえ、分かるはずです。“破國”と“死鬼”に差なんて無い。あったとしても、“死鬼”が下と言う事は有り得ないんです」

 

 

 知子ちゃんの言葉には動揺がない。

 

 

「私は梅利さんと出会ってから、梅利さんがまともに食事をしているのを見たことが無い。私よりも食が細く、食べているものも人間と変わりなかった。最初は普通だと思っていました、だって私達はよく似ていて、梅利さんの言葉は何一つ、異形を思わせることが無かったからです」

 

 

 もう既に何かを受け入れてしまっているかのような、諦めたようでも無い、むしろ願いが叶うかのような口調で続ける言葉は理路整然としていて、つけいる隙が無かった。

 

 

「――――でも、梅利さんの身体が“死鬼”であり、“死鬼”が過去に異形や人間を喰らっていたことを考えれば、そんな状況はどう考えてもおかしいんです。だから、きっと本当は……梅利さんが人としての精神を持っていたとしても、貴方の身体を維持するためには人や異形を喰らう必要があったんです」

 

 

 だから、そう言い切られてしまった俺は、どうしようもない現実が目の前にあることを理解してしまう。

 

 反論することは出来ない。

 彼女の言葉は確かに的を射ていて、なによりも今の俺は、押しつけられた目の前の彼女の肌がこれ以上無いくらい美しく、柔らかく、そして、美味そうに見えてしまっているのだから。

 

 

「感染菌は確かに人を殺します。けれどそれは、きっと異形にとって感染菌は命を繋ぐ要素であって、それを繁殖させるには何かしらの感染体が必要なんです。そして……“死鬼”の感染菌を増やすのに、これ以上無いくらいの素体があるとするなら。それは僅かながら感染し、人としての要素を多分に残している――――」

 

 

――――誰よりも、何よりも、私が適正なんです。

 

 そう言って彼女は嬉しそうに自らの命を差し出すのだ。

 

 

「――――きっと残さず全部食べて下さい。貴方の命にして下さい」

「いや、だ。ぜったいに、そんなのは、いやだ……!」

「私だって梅利さんが命を失うのを、指を加えて見ていることは出来ません。梅利さんが嫌だというのなら、ナイフで自分の首を切って後に引かせなくすることだってする覚悟です」

「ち、ちこちゃん……?」

「はい、梅利さんに命を救われた、笹原知子です。優しい貴方ばかりが傷付いていくのを間近で見続けた私は、こうしてでも貴方の役に立ちたいと願っているんですよ」

 

 

 やっと俺を離して知子ちゃんは顔を向き合わせる、やっと正面から見ることの出来た彼女の顔は、見たことが無いくらい優しげに緩んでいた。

 引き剥がしきることも、彼女が手に取ったナイフも抑えることが出来ず、中途半端にフラフラとする俺は、きっと何処までも情けない。

 そんな情けないような俺の姿を見ても、知子ちゃんは馬鹿にすることもせず、ゆっくりと語り掛けてくる。

 

 

「私、小さい頃に一人だったんです。家にも、学校にも、何処にも居場所がなくて、一人泣いていた小さな頃に、一緒にいてくれた男の人がいたんです」

「――――それは……」

「気難しくて、気を許そうとしなくて、その癖不満ばかり一人前で、自分で考えても手の掛かる嫌な子供だったんですけど……その人は懲りもせず、公園のベンチに座る私の傍にずっといてくれました」

「……」

「結局勇気の一つ出すことが出来なくて、その人の名前も聞けず仕舞いで、それでもあの一人ぼっちだった時間、ただ隣に居続けてくれたお兄さんは私にとって掛け替えのない人で。今でもあのお兄さんは私の心の支えであり、目標なんです。人は一人きりでなんて、誰もいない場所でなんて生きていけない、だから誰か一人で良い、誰か一人を救えるような人にならないとって」

 

 

 大人が嫌いでした。

 人ととの関わり合いが嫌いでした。

 誰かと馴れ合うのが嫌いでした。

 そしてそれらを強要しようとする周囲全てが嫌いでした。

 凝り固まったそんな私の思考を、否定すること無くほぐしてくれたお兄さんは私の原点なんです。

 

 そう言って、知子ちゃんは懐かしむように目を細めた。

 

 

「梅利さん、私はそのお兄さんを梅利さんに重ねて見ていました。あの不器用で世話焼きでお節介なお兄さんにそっくりな梅利さんを、最初から他人として見ることが出来ていませんでした……最低ですよね」

「……ちこちゃん、おれは……」

 

 

 でも。

 知子ちゃんはそう言葉を紡ぐ。

 

 

「……梅利さんにお兄さんの影を見ていた私は段々と梅利さん自身を見つめれるようになっていった。馬鹿みたいに優しくて、私達が無くしてしまった甘さを抱えていて、それに悩んで、間違いを犯して、それでも足を止めないような梅利さんが、まぶしいくらい掛け替えのない人だと思うようになりました。……梅利さんとの生活は、私に絶望的な日常を、抱えていた悲劇を、重ねて見ていたお兄さんを、忘れてしまうくらい楽しいものでした……」

 

 

 小さな果物ナイフを手にした知子ちゃんはそっと自身の首に添える。

 

 

「悲しいことしかないようなこんな世界で、それでも私は誰か一人を救えるなら……ううん、誰か一人だけしか救えないなら、私は貴方が……梅利さんが良いんです」

 

 

 知子ちゃんは自分の首下に突き付けたナイフを両手で掴んだ。

 絶対に外さない様に、絶対に息絶えるように、彼女はしっかりとナイフを掴む手に力を込めている。

 小さな頃の彼女には無かった決意に満ちたようなそんな姿は、こんな状況にも関わらず俺に思わず美しさを感じさせてしまうほど綺麗だった。

 

 

「一人ぼっちだった私をあの闇の中から救い出してくれた貴方は、私にとっては本当に神様のようでした。……うん……まだ話し足りないけど……もう、良いかな……どうか、生き延びて下さい――――さようなら、梅利さん」

 

 

 彼女は笑った。

 諦めたようになどでは無い、悲しむかのようにでも無い。

 あの地下街へ落ちたときと同じ結末を辿る筈の彼女は、なぜだか幸せそうに笑うのだ。

 

――――幸せそうなその顔は、前に見た彼女の表情にそっくりだった。

 

 ふと思い出す。

 

 

『――――ねえ知子ちゃん、君は俺に、自分なんか何処にも帰る場所が無いと言ったよね? でもさ、通りすがりの俺なんかがこうして君を心配して話し掛けるくらい、誰かを想う人って何処にでもいるんだよ。今はそう思えなくても、君の居場所はいつだってあるし、これから幾らでも作っていけるものなんだ』

『……信じられない。そんな夢ばかり騙って、やっぱりお兄さんは不審者犯罪者です』

『違うよ!? 俺はほらっ、ちょっと目に付いたさみしそうな人が気になっちゃう、心優しく格好いいお兄さんなんだよ!?』

『だからって知らない小さな女の子に話し掛けますか。いきなり隣に座って馴れ馴れしく話し掛けて。私、最初はヤバイ人だなって思っちゃいましたもん』

『知子ちゃん……手厳しすぎてお兄さんは心が持たないよ』

 

 

 毛を逆立てて威嚇する子猫のような女の子に苦慮して、それでも一人でいるこの公園から離れようとしない彼女を置いて何処かに行く事なんて出来なくて、そんな風に話をしていた時。

 俺は彼女に対して言ったことがあった。

 居場所はある、気が付いていないだけできっと直ぐ傍にあって、これから先幾らでも作っていけるものなんだと。

 そんな俺の言葉を小さな知子ちゃんはちっとも納得してくれなくて、俺は自分の口下手さを責めつつも、なんとか彼女を一人でいる場所から連れ出そうと言葉を続けた。

 

 

『まあ、知子ちゃんには俺の格好いいところを少しも見せられて無いもんね……うん、でも期待しててよ! いつか俺が知子ちゃんに、ビックリするくらい格好いいところを見せてあげるからさ!』

『なんですかそれ。急に全然期待できない宣言をされて、今凄くビックリしちゃったんですけど』

『絶対に見せてあげるって! ちゃんと期待してないと、何であのとき信じられなかったんだ、って恥ずかしくなっちゃうよ?』

『……馬鹿なんですか? ……ふふっ、本当にお兄さんはっ……あははっ、馬鹿なんですから……』

 

 

 そうやって、何とか彼女を笑わせようと、慣れない軽口を叩いてふざけて。

 それでようやく見ることの出来た知子ちゃんの小さな笑いは、成長した今になっても面影を残して変わっていなかった。

 

 俺が笑って欲しいと願った少女は、変わっていなかったのだ。

 

 

 

「……きみは、生きるべきだ」

 

 

 パキリと鮮血が舞った。

 知子ちゃんが持っているナイフの先端が、俺の手のひらを貫いて抉った。

 目を見開いた知子ちゃんが目前のそれを理解する前に、俺は知子ちゃんの肩口に喰らい付く。

 以前異形の感染源が体内に入り込み重症になっていた肩口を、今度は治療目的では無く、捕食のために噛み付いた。

 

 

「――――俺は君にかっこ悪いところを見せてばかりだね」

 

 

 一口大に噛み切られた肩口の痛みに顔を歪め、知子ちゃんは自身に突き刺そうとしていたナイフが俺の片手を貫通しているのを確認する。

 何が起きたのか分からなかったのか、動揺しあまりの痛みに涙が目尻に溜まった瞳で俺を見詰める知子ちゃんから、ナイフを奪い取って俺は血塗れの手で彼女を掴んだ。

 

 

「大人らしい所も、男らしい所も見せられない。確かにこれじゃあ、不審者犯罪者の称号は返上出来ないかな」

「梅利、さん?」

 

 

 眼鏡の奥の大きな瞳が揺れる。

 混乱したままの彼女を抱き寄せて、俺が噛み切ってしまった知子ちゃんの肩口を破いた着物の裾で抑える。

 

 ピキピキと、全身に罅が入っていく感覚。

 身体が内側から圧倒的な速度で再生されていくのを感じながら、同時に空気中を支配している“ヒノプス”が俺の身体を削り取っていくのを理解する。

 冗談みたいな痛みだ。手を貫いたナイフの痛みが生温いと感じるほどに、全身が激痛に支配されている。

 でも、彼女の前ではそんな泣き言なんて絶対に言いたくなかった。

 

 ダラリと噛み切られた方の腕を地面に向けて下ろし、知子ちゃんはその場で硬直している。

 

 

「公園で一人ぼっちで座る君を見掛けたとき、俺は君が迷子になってしまったのかと思って声を掛けたんだ。迷子の君を、俺は君の居場所に送り届けたかった。でも、あの時はただ道案内をすればすむような迷子じゃ無くて、それをどうにかするだけの力が俺にはなかった」

「――――……なんで、それは、まるで……」

「結局居るべき場所が見付けられなかった君を、安心できる居場所へ送り届けられなかった俺は、ずっと気掛かりで、ずっと後悔していたんだ。もう少し勇気を出して踏み込んでいれば、もう少し勇気を出して君の家まで押しかけていれば、そんなことを思うくらいに」

「あ、ああっ……嘘、ですよね。それじゃあ、梅利さんは……貴方はっ……」

 

 

 理解をした。

 気が付いた。

 それでも、信じ切れないほどの衝撃を知子ちゃんは受けて、肩の痛みを忘れるほどに声を震わせる。

 

 本当は、過去に会っていたことなんて言うつもりはなかったけれど。

 彼女が過去の俺をそれほどまでに大切に思っていてくれたのならば、明かすべきだろう、彼女に言うべきことがあるだろう、そう思った。

 

 

「――――大きくなったね知子ちゃん……うん、一人でベンチに座っていたあの頃とは見違えるほど大きくなった。君は格好いい大人になれたんだね」

「…………おに、ぃ……さん……?」

 

 

 疑うような、信じられないような声色でそう呟いた知子ちゃんは呆然と俺を見る。

 ボロボロと大粒の涙を流し始めた知子ちゃんの頭を撫でて、俺は彼女を抱き締めた。

 なんで、どうして、そう呟きながら俺の背中に手を回した知子ちゃんが身を寄せてくる。

 

 

「なんでお兄さんが……なんで、ずっと私を……守っていてくれてっ……」

「……ううん違うよ、君は本当に強かった。俺が君を守っていたわけじゃ無い。君が生き足掻いた結果だよ」

「わた、私はっ……必死に頑張ったんですっ……! 必死に生きて、藻掻くように生きて、色んなものを捨ててっ……でも、それでも私はお兄さんに誇れるような人間になれなかったっ……」

 

 

 ボロボロと涙を流す知子ちゃんの頬を撫でる。

 自分の方が小さくなってしまった背丈が、こうして抱き寄せ合うとありありと理解できて、彼女の成長を感じられることが嬉しくて、成長できていない自分自身に悲しくなる。

 それでも、嬉しさが上回るのだから、俺が彼女に抱いている感情が決して小さなもので無いのだと再認識することが出来た。

 

 

「ううん違うよ、俺にとって知子ちゃんは立派に生きる強い人だよ。知子ちゃんがどれだけ頑張っていたのかなんて、一緒にいた期間の短い俺でも分かるくらいだもの。知子ちゃんは良く頑張ったよ、本当に凄いなぁ」

「お兄さんはいつも私を甘やかしてっ……あうう……こんなに姿が変わってしまっていても、お兄さんは私の傍に居てくれていたんですね……」

「……それは当然って言いたいけどね。偶然俺の手が知子ちゃんに届いただけで、何か一つ掛け違いがあれば救うことは出来なかったから、知子ちゃんは俺に感謝は必要ないかな」

「それでも、私を救ってくれたのは梅利さんですっ……梅利さんだけなんです」

 

 

 離さないとでも言う様に掴む力を強めた知子ちゃんにどうすることも出来なくなった俺は、困ったように笑って、ありがとうとだけ言葉を返す。

 

 轟音が響いた。

 再生をある程度終わらせた“破國”が、自身を攻撃してきた者達を片付けようと暴れ回っている音だ。

 武器や対策が無くなった今の生存者達が“破國”に対抗できるはずも無く、数分も必要とせず全滅することは考えなくても分かる。

 行かなくちゃ、そう言った俺に知子ちゃんは抱きつく力をさらに強めた。

 

 

「行かなくて良いんですっ……逃げましょうっ、お兄さん!! お兄さんはもう充分頑張りました! まだこの場の空気中には“ヒプノス”が大量に残っているんです! 私を少し囓っただけのお兄さんの身体では、きっと数分と持たない筈です!」

「うん、そうだろうね。ここにいるだけで身体が痛いし、今にも砕けるんじゃないかと思うくらい身体が脆くなってる。本当に俺は、この場にはいられないんだろうね」

「そうですっ! だからっ、だから……」

 

 

 くしゃくしゃな顔で、縋るような顔で、俺を掴む知子ちゃんは悲痛に叫ぶ。

 

 

「――――……私と一緒に生きて下さい。私の隣にいて下さい……大好きなんです、お兄さん」

 

 

 その言葉は酷く重く、酷く切実な、囁くような言葉。

 濡らした頬は返り血や自身の出血で真っ赤に染まり、土汚ればかりの手足はどれだけ彼女が俺の為に走ったのかよく分かる。

 ここまで誠実に俺の為に尽くしてくれた彼女の懇願を、俺は本当なら叶えるべきだと思うし、叶えたいとも思う。

 

 でも、それはどうしても出来なかった。

 

 

「……ごめん知子ちゃん。そのお願いは聞けない」

「っ、お兄さんっ……」

「俺は、あそこにいる人達を見捨てることが出来ない。あそこにいるこの地の最後の生存者達を切り捨てて、幼馴染の彩乃を見捨ててまで、俺は生きようとなんて思うことは出来ない」

「……お兄さんは、また私を一人にするんですね……」

「そうだね、結果的にそうなっちゃうかな」

 

 

 色を失い、表情を沈ませた知子ちゃんの身体を、力の入るようになった俺はゆっくりと引き剥がしていく。

 膝を着いて俯いてしまった知子ちゃんに、俺は何も言わないまま背を向けて、暴れ狂う“破國”を見据える。

 “ヒプノス”による作用で崩壊が進んでいるものの、多くの異形を取り込んで、さらに強力な生態に進化しているのは簡単に見て取れた。

 今は蜘蛛のような形では無く、牛のような形でも無い。

 既存の生き物に例えることは難しいが、あえて言うならば一番近いのはタコだろうか。

 複数の触手をまとい、巨大な口と牙を持つ捕食に特化した形態へと変わり果てていた。

 先ほどまでの形態で追い詰められていた俺の力を思えば、俺が進化した“破國”に通用するか分からないどころか、生死を彷徨うことになるのは目に見えている。

 

 きっともう、戦いを始めたら後戻りは出来ないだろう。

 でも、後悔するつもりは無かった。

 

 

「知子ちゃん、俺はね。公園に一人ぼっちでいた君を、君の居場所に送り届けたかったんだ」

 

 

 項垂れてしまった知子ちゃんに声を掛ける。

 

 

「あの時は何も出来なかったけれど、今度は君を必ず、君が笑っていられる場所へと送り届けてみせる」

 

 

 約束を果たそう。

 この命に掛けて、全ての約束を。

 

 

「――――目を離さないで、最後まで見届けて。俺の格好良いところをしっかりと見ていて」

 

 

 崩壊した身体は、直ぐに再生を繰り返す。

 皮が剥がれ落ちるかのように、全身から粉末のような真っ赤な粒子が溢れ出す。

 激痛はさらに強く、激しくなっていくが、それでも、俺の背中を見詰めているあの子がいることを思えば、立ち止まる事なんて出来なかった。

 

 片足を踏み込み、腕を振るう。

 大地が砕かれ、辺り一面がまとめて吹き飛んだ。

 その音に気が付いた“破國”が、生存者達へと向けていた攻撃の手を止めてこちらを向いた。

 洞のような真っ暗な奴の目に灯っていた紅い光が、俺を捉えて驚いたように小さくなった。

 

 

「――――待たせたな、さっきの借りは返すぞ怪物」

 

 

 異形達が崩れ、灰となった道を駆ける。

 灰が巻き上がり、火花を散らすように紅い粒子が舞い踊る。

 

 

「■、■■■■――――!!??」

 

 

 吠えて、迎撃しようとした“破國”の首を刈り上げる。

 真っ二つに引き裂いた身体を二つとも掴むと、数メートル引き摺り放り投げた。

 巨大な体躯は重量も、重力も無いかのごとく宙に浮き、幾つもの障害物を丸ごと薙ぎ払う。

 

 直ぐに分かる、異常なまでの自分の力に。

 死に直面していることで、身体がリミッターを外しているのか、それとも知子ちゃんの一部を貰ったことで一時的に身体が強化されているのか、若しくはその両方か。

 どれが理由かは分からないが、どれでも良いかと思考を切り替えた。

 

 

「梅利っ!?」

 

 

 彩乃の声が聞こえた。

 それに返答はせず、片手を軽く振って応えると、俺は体勢を整えようとした“破國”へ肉薄し、再生が完了した腕を振り上げる。

 絵本の中で見るような、真っ赤で骨張った鬼の腕が自分の肩から生えているのに少しだけ驚いたが、それよりも、腕を振り下ろした“破國”、そしてその周囲一帯に巨大なクレーターを作り上げたことに驚愕する。

 

 あまりの威力だ。

 人知を越えている。

 

 

「――――ああ、分かってきた。俺は力の使い方を根本から間違えていたんだ」

 

 

 俺はもう人では無い。

 何度も言っていた言葉だったけど、俺自身その意味を本当に理解していた訳ではなかったのだ。

 何処かこれぐらいしか力が出せないだろうという考えがあった。

 これくらいだろうと言う勝手な解釈が、自分自身の力を無意識に抑え込み、吐き出せなくしていた。

 そんな勝手な制約が、死に直面したこの状況で外されている。

 

 

「……俺はもう人じゃ無い、人間だった俺はとっくの昔に死んだんだ」

 

 

 言い聞かせるように、刻み込むように呟いて、俺は腕を引き絞る。

 

 

「――――だから、俺は命を捨てるんじゃ無い。俺はこの場所に、命を置いていく」

 

 

 “破國”が何処か嬉しそうに好戦的な笑みを浮かべ、大量の触手状の腕を刺突させてくる。

 俺がそれを一つ一つ丁寧に弾き、破壊しながら一息に距離を詰めて腕を振るえば、身の周りに漂っていた紅い粒子に引火して爆発が巻き起こる。

 黒い爆炎と黒い噴煙に呑まれた“破國”が何か行動を起こす前に、その場から引き摺り出し上空へと放った。

 だが、それは悪手だったようで、“破國”は無数に張り巡らされていた自身の糸を足場にして体勢を整えると、その場で変貌させた頭部の角を俺へと向けて狙い澄ます。

 

 アレが来るな。

 まともに受けてしまったあの突進を思い出して、身を沈ませる。

 恐れたのでは無い、逆だ。

 アレを躱してしまうと、後ろにある拠点が跡形も無く消し飛ばされると言う確信があったからだ。

 

 力負けしないように両手を地面に付ける。

 四足歩行の体勢を取り、じっと“破國”を見据えて備え、爆音の様な大音量を残し一気に突っ込んできた怪物の巨体に合わせ、俺の頭から生える双角で迎え撃った。

 

 音が消えた。そう錯覚するほどの衝撃が頭を襲い、視界が揺れ、頭部が吹っ飛ばされたのでは無いかと疑うほどの激痛が首に走る。

 それでも必死に意識を保ち、付けていた手足が恐るべき速度で地面を削り、俺の身体を後ろに押し出していくのを、何とか押しとどめようと力を込めた。

 

 ドロリと、頭から大量の血液が噴き出した。

 チカチカと視界は点滅し、まともに口は動かず歯がカチカチと打ち鳴らされる。

 吹き飛びそうな意識の中で、それでもギリギリで彩乃達がいる拠点まで届かせず“破國”の巨体を押しとどめたのを理解する。

 

 

「……温いぞ、“破國”っ……!」

 

 

 最後の意地で口元を押し上げる。

 目を見開いた怪物を、そのまま双角で押し上げて弾き飛ばし、今度は俺が両手両足を使い地面を蹴り出して、無防備な“破國”の身体に突進を叩き込んだ。

 頭突きが怪物の巨体を突き破り、紅い粒子が高熱の残滓で身体を焼く、だがそれでもコイツが生き絶える事が無いと確信して、飛び出した先にあった糸を足場にさらに“破國”へ向けて飛び掛かった。

 

 赤く鋭い爪が“破國”を引き裂く。

 幾度となく、幾千もの赤い線は巨大な怪物の身体を無数に引き裂いて、それでも細切れになっていく“破國”は再生を止めようとはしない。

 いや、空中にある“ヒプノス”は確かに“破國”を蝕んでいるのだろう。

 先ほどに比べればその再生はあまりに遅く、あまりに稚拙で、このまま攻撃を続ければ殺しきる事も不可能では無いのだろうが、再生能力を削りきる頃には、先に俺の身体が崩壊するのが先となってしまうだろう。

 

 だとすると別の攻め手が必要になってくる。

 そして、俺は既にそれを持っていた。

 

 

「藪医者っ、見ておけよっ……!」

 

 

 あの医者が欠陥品と言って置いていった薬品を握る。

 無駄だったと、何も出来なかったと後悔して死んだ、医者の先輩が残した最後の薬品だ。

 

 

「俺はお前がどんだけ優秀が知っているし、お前が何の効果も無い薬を作るなんて事は無いと知っている!」

 

 

 数年前に使われて、期待した効果が得られなかった欠落品は、この場において、この国の中枢を破壊した異形を殺す一手となり得る。

 俺はそう確信しているのだ。

 

 再生の中核となっている“破國”の頭部に薬品を持った腕ごと突き刺し、その場で薬品を握り潰す。

 溢れ出した薬品がどれだけの効果を及ぼすのか、再生を繰り返す“破國”の能力にどれだけの悪影響を及ぼしてくれるのか分からない。

 だが、絶叫し、埋め込んだ頭部から膨大な蒸気を上げた“破國”の姿を見れば、俺の考えは間違いでは無かったのだと確信した。

 

 

「そうだ!! お前達の歩みは何一つ間違っていない!!」

 

 

 薬品を握り潰した腕が落とした陶器のように砕けた。

 再生能力が失われていくことに気が付いたのか、“破國”は必死になって暴れ出し、“全身から触手の槍を突き出して俺の身体に叩きつけてきた。

 先ほどまでならば、肌を貫くことも無いだろうそんな破れかぶれの攻撃が、今の俺の身体には、人の身に受けるナイフの鋭さのように突き刺さり、身体を食い破る。

 

 

「夢も未来も、希望も無いこの世界で! それでもお前らは無様に足掻いて生き続けろ! 生きて、夢を作り、未来を作り、希望をお前らの手で作り上げて見せろ!!」

 

 

 それでも俺は身体を貫いた無数の触手をそのままに、暴れ回る“破國”を掴んだ。

 動きを抑え、他の異形の亡骸を喰らわせないように押し留め、さらに突き刺してきた“破國”の攻撃を受けながら、そのまま上空へと放り投げる。

 

 

「……俺はお前らが作るその世界が、きっと何より美しいのだと信じてるよ」

 

 

 誰に届くかも分からないそんな言葉を最後に残す。

 

 今度は先ほどのような失敗はしない。

 即座に上空へ舞った“破國”を追い、下から押し上げるような蹴りを叩き込んだ。

 何度も何度も何度も何度も。

 建物を足場に、張り巡らされた糸を足場に、時には発火する自分の血液を推進力として、天高くまで“破國”を蹴り上げ、空に押し上げた。

 そして、街全てが見渡せるほど上空まで押し上げた“破國”を追い越し、さらに上空まで飛んだ俺は、眼下にある怪物を睨み、身体を回転させていく。

 

 地上では出来ない、身体の力全てを使った一撃。

 足場も必要としない、考えるべき被害も無い、ただ破壊力だけを重視した一撃を。

 眼下に写る宿敵を討ち滅ぼす為だけに、作り上げていく。

 

 欠落した腕ではまともに拳を振るえない。

 砕けていく身体では幾つも攻撃を続けることは出来ない。

 

――――だから、この一撃で終わらせると決めた。

 

 それはまるで、真っ赤な流れ星のように。

 天に咲いた花のように、咲き乱れる。

 

 

「■■■■ォォォ――――!!!!!」

 

 

 “破國”が先に俺を潰そうと、宙で身体をちりぢりにしながらも進化させ、幾多もの刃を作り上げ、俺に向けてぶつけてくる。

 幾百もの刃が俺を襲い、幾百もの刃を突破された時のために身体の傍に控えさせる。

 一つ一つでは致命傷にはなり得ずとも、あの量であれば致死に至ると一目で理解できるほどの物量を前に、俺は決死の覚悟を固めた。

 

 強化した足を断頭台の刃の様に振り下ろしながら“破國”目掛けて一気に降下する。

 “破國”まで攻撃を届かせるにはあまりに刃が多すぎる。

 崩壊し、脆弱となった今の俺の身体ではこの一撃一つ奴に届かせることが出来るかどうか。

 

 そんな不安が頭の隅を掠めると同時に、一発の弾丸が“破國”を貫いた。

 体勢が万全な地面ならともかく、不安定な上空で行われた一撃に、攻撃態勢を整えていた“破國”が崩れ、迎撃態勢を作っていた奴の刃が一瞬だけ無防備を晒すことになる。

 

 

「……知子ちゃん、君は本当に……」

 

 

 遙か眼下に見える地上。

 小さくしか見えないであろう地面に、こちらへ向けてライフル銃を構えた知子ちゃんの姿が見えた。

 

 

「――――ッアア!!!」

 

 

 身体をコマのように回転させる。

 刃の様に研ぎ澄ます。

 崩壊する身体から漏れ出す赤い粒子すら破壊力として、空を二つに引き裂いた。

 そしてそれは一筋の流星となって、怪物を貫く。

 

 体勢を立て直すことが出来なかった“破國”は二つに裂ける。

 脳天から尾まで残らず引き裂かれ、赤い粒子が引火し黒い業火に包まれて。

 内側から広がる名前もない欠陥品の薬物と、周囲から蝕む“ヒプノス”に死へと誘われて。

 

――――――――不死の怪物“破國”の息の根は完全に停止する。

 

 

「――――……ふ、ふふふははは……やったっ、やったぞっ、くそ……」

 

 

 振り下ろした足が砕け、そのまま地面に叩き付けられ、転げ回った俺は笑う。

 やってやった、成し遂げて見せた。

 そう思って笑うも、出てくるのは下手くそな笑いばかりで、困ってしまった俺は悪態を吐いて口を噤んだ。

 

 つい先ほどまでは、数え切れないほどの異形に呑まれていたこの地域に、今は静寂が支配する。

 建物のほとんどが壊れ、更地となり、地盤が崩れてしまっている箇所が多くあるが、それでもこの地に蔓延っていた怪物の脅威は消え去っていた。

 束の間の平和を、この地は取り戻すことが出来たのだ。

 

 遠くで、ざわつくような声が聞こえ始める。

 それが、あの拠点にいた生存者達の声なのだと直ぐに気が付く。

 本当にあの“破國”が倒れたのか疑問に思っていたのだろう、だがそれも徐々に大きくなる歓声に掻き消され、次の瞬間には爆発するような喜びの声に染まりきる。

 笑い声が聞こえる。泣き声が聞こえる。興奮したように話す声が聞こえてくる。

 どれもが激情に染まり、今生きていられていることに対する感激に身を震わせているであろうことが直ぐに分かる。

 人々が喜んでいる、自分たちの命が繋がった奇跡のような現実に信じられないと言う様に歓喜の声を上げている。

 

 ……だがそれは、その喜びの喧騒は倒れ伏す今の俺とは関係の無い、遠い何処かで起きているものだ。

 

 

 何とかその騒がしい場所まで行きたくて、どうしたものかと少しだけ考える。

 どうにか身体を起こそうと試みるが、もう一人で立つだけの力すら残っていないのか、ピクリとも身体は動かなかった。

 もう、自分の命の灯火は掻き消える寸前なのだと理解する。

 

 

「……俺は、どこに落ちた……? 彩乃は……知子ちゃんはどこに……?」

 

 

 パリンッ、ともう片方の腕が壊れた。

 砂のようになった自分の腕に驚き、無くなってしまった腕のあった場所からは、前に嫌と言うほど味わった死の冷たさが伝わってくる事に恐怖した。

 

 一人きりで、徐々に死んでいくあの時を思い出す。

 ゆっくりと冷たくなっていく感触に絶望したあの時と、全く一緒の感覚がそこにはあった。

 

 

「……身体が、壊れていく……。だれかっ……、誰かいないの……?」

 

 

 近くにいる誰かに助けを求めてみても、遠くから聞こえる歓声に掻き消されて、俺の声はまともに響くことは無い。

 それが怖くなって、なんとかこの場所から動こうと、残った片足で身体を引き摺ろうとしてみたが、最後に残っていたその足すら砕けて砂に変わっていった。

 

 手足はもう無い。

 動く手段はもう無い。

 俺の声は誰にも届かないのだ。

 

 

「……やだ、やだよ……誰か、彩乃っ、知子ちゃん……誰か俺の傍に……傍にいて……」

 

 

 命を捨てる、いいや、命を置いていく覚悟はしたはずだった。

 この場所の、彩乃や知子ちゃん達が住まうこの地域を守るために、この身を散らす覚悟は決めた筈だった。

 覚悟を決めたはずだと、自分はもう死んでいる存在だと、頭では分かっていてもどうすることも出来ない。

 こうして死を目前にすると、そんな覚悟は最初から無かったかのように、どうしようも無い恐怖に俺は勝つことが出来なかった。

 

 

「寒い、寒い……さむいよ……」

 

 

 パリパリと、肌が剥がれ落ち始めた。

 再生能力はもう無い、知子ちゃんの肩の一部を食べたことで復帰していた再生力は、もう使い切っていた。

 

 視界が徐々に暗くなっていく。

 眼球が壊れ始めたのか、なんて想像して、カチカチと打ち鳴らし始めた歯を止めることは出来なくなった。

 ……自分がこんな風に一人で死んでいくのだろうと言うことを、俺は理解していたはずなのだ。

 

 

「……いや、これ以上を望むのは我が儘か」

 

 

 あの時。

 彩乃を庇って身体の半分ほどを喪失した俺は、彼女の生存だけを望んでいた。

 父親に背負われて去って行く彼女の姿を見送って、どうか幸せになって欲しいと願い続けていた。

 

 見ることが出来ない筈だった、彼女の生き抜いた先の姿。

 

 成長して、大人になった姿を見ることが出来た。

 

 少しだけでも話し、力を貸すことが出来た。

 

 そして、迷子のあの子の手を少しでも引くことが出来たなら、それで充分である筈だろう。

 

 だから、そうであるべきだ。

 

 

「馬鹿が……泣くなよ俺……」

 

 

 もう目はほとんど機能していない。

 俺の目が色を映すことは無い。

 形を認識することは無い。

 それでも最後に残った機能である涙腺だけが、俺の意思に反して涙を流すのだ。

 

 

「……もう、良いか。俺は、幸運だった……」

 

 

 最後にそう言った俺の身体が、急速に崩れ始めた。

 ボロボロと削れていく肌と命の感覚が、何も見えなくなった俺にありありと刻み込んでくる。

 諦めたからだろうか、どこか納得してしまったからだろうか。

 もう再生する兆しも見せない俺の身体が、そのまま他の異形のように灰に変わり初めて。

 

――――そんなとき、誰かが何かを叫びながら走ってくる音が微かに聞こえた。

 

 その誰かは、もう四肢も無い俺の下に辿り着き、震える手で優しく俺に触れた。

 

 そっと抱き寄せて、何かを小さく語り掛けて、壊れていく俺の傍にいてくれる。

 

 そんな温もりだけで……それだけで俺は、もう寒くなくなってしまうのだ。

 

 

「――――……ありがとう」

 

 

 言葉が形になったのかは分からなかった。

 ただ、その人は抱き締める力を少しだけ強くした。




次で最終話です
1時間後くらいに上げたいと思います


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彩り豊かな花束を君に

 人類は大きな一歩を踏み出した。

 絶滅しか道の無いと思われていた行く末に、僅かな光が差し込んだのだ。

 それは対抗策の無かった死者や異形の存在に対して、圧倒的に優位に立てる術を手に入れたことによるものだ。

 

 特効薬“ヒプノス”。

 その効果は、初実践で想定外があったとは言え、最強とさえ言われていた“破國”という怪物を屠るほどのものであり、他の名すら無いような異形や死者程度では即座に灰と化すほどの威力を持った薬。

 劇薬でありながら感染菌以外には影響は無く、そこに人間がいたとしても纏めて散布することが可能なあまりに対抗策としてはできすぎているそれを、隠れ潜み生き続けていた人類は手にすることが出来たのだ。

 

 全ての怪物を屠り、かつての人間の世を取り戻す。

 そんな、東城という少女が言い続けていたそんな夢物語が、誰にも嘲笑される事無くなるまでに現実味を帯びることとなった。

 かつては現実を見ていない少女の戯言だと見向きもしていなかったものも、手に入れることとなった特効薬、そして散らばっていたコミュニティの統一によって得た戦力や装備の数々に手のひらを返すこととなった。

 

 希望が見え、先行きのない絶望に顔を俯かせていた者達を勇気付かせるには充分な彼らの状況。

 結果だけを見れば手放しに喜ぶ以外有り得ないようなものである筈なのに。

 それでも、全ての人が手放しに喜んでる訳ではない。

 そんなこと、出来る筈がなかった。

 

――――希望を得るまでに出た犠牲の数はあまりに多すぎた。

 

 “ヒプノス”を手に入れるまでも、手に入れて初めて実践に投入したあの戦いでも、彼らはあまりに犠牲を出し過ぎた。

 

 

「――――また、ここにいたんですね」

 

 

 日が暮れてきたというのに、墓石がならぶ閑静な集合墓地には未だにいくつかの人影があった。

 南部の拠点として使われていた場所の一角にその墓地はある。

 遺体さえ残らないもの、形にさえ残せるものがないもの。

 それでもそこにいて、確かに自分たちと共に生きていた誰かの証を、忘れないように残しておくそんな場所。

 そこには何時だって誰かが祈りを捧げて、冥福を祈り続けている誰かがいる。

 

 ずっと両手を組んで、何も言わず静かに黙祷を捧げていた南部彩乃に声を掛けたのは、笹原知子だ。

 数少ない生存者である彼女達はよくこの場所に足を進めていた。

 特に彩乃はほぼ毎日足繁く通い、ひたすら祈りを捧げる生活を送っている。

 そして、あの地獄のような戦闘からずっと生気が抜けたような顔をしている彩乃は、声を掛けた知子の声にもろくな反応もせず、ぼんやりと墓石を眺め続ける。

 

 

「明石さんが探していましたよ。隣町への生存圏拡大作戦に関する意見が聞きたいって」

「……ああ、そう。そうね、後で会いにいくわ、ありがとう」

「……まったく、休む暇もないですよね。つい一ヶ月前にこの場所を守る大きな戦闘があったって言うのに、“ヒプノス”の効果が証明されたからって、すぐに異形に占拠されている場所を取り返しに行くなんて」

「別に、考えなくてすむなら何でも良いわ。ようやく一つのコミュニティを担う責任からも外れられたし、私は……」

 

 

 あれから影を帯びるようになった彩乃の空気に耐えきれず、不満を口実に話を続けようとするが、それすら上手くいかない。

 呆れるほど生気を感じさせない、夜道に出会ったら死者と勘違いしてしまいそうな雰囲気の彩乃に、どう元気付けるべきかと知子は頭を悩ませる。

 そんな時、彩乃が手にしている小さな封筒が目に入った。

 

 

「あれ、その手に持っている手紙って」

「……これね。馬鹿な私の幼馴染が残した私宛の手紙よ」

 

 

 小さく息を吐いて、そう言った彩乃の言葉に驚いて、知子は彼女が持つ手紙を凝視する。

 チラリと見えた封筒に書かれていた文字は、形が整った綺麗な文字だった。

 見覚えのある、誰かの文字だった。

 

 

「……え? え、ええ? ば、梅利さんからの手紙ですかっ!? う、うらやま……んんっ」

「…………貴方って、ストーカー気質があると思うわ」

「失礼ですねっ、そんな訳がないでしょう!?」

 

 

 慌てた態度のまま、彩乃が持つ手紙から視線をそらせないでいると、知子の興味に気が付いた彩乃はそれを懐に仕舞い込んだ。

 

 

「見せないわよ」

「は、はぁ!? 別に他人に宛てた手紙を見ようとするほど落ちぶれていませんし! で、でも…………梅利さんからの……ラブレター、ですか?」

「ふふ、違うわ」

「……へぇ……ふーん……そうですか」

 

 

 面白そうに笑う彩乃とは裏腹に、いつのまにか知子の目から光が消えている。

 無表情で、殺意を高めている知子に気が付かないまま、彩乃は言い訳するかのように話し始める。

 

 

「以前私が梅利に言った、貴方が命を落としたら私も後を追うって言う言葉を止めるために、遺書を残していってたのよ。それの内容が、馬鹿みたいに小っ恥ずかしいことを書くものだから、あんまり人には見せられなくて」

「……ほう。梅利さんが、最後に残した手紙……。それを彩乃さんに、彩乃さんだけに、ですか」

「アイツね……人が秘密にしてって言ったことをこれでもかとばかり書き込んでるのよ。ふざけてるでしょ? あの馬鹿は次会った時、思いっきりぶん殴ってやるわ」

 

 

何処か遠くを見詰めて口元を緩めそう言った彩乃に、知子は冷徹な眼差しを向けながら溜息を吐く。

 人の気を知らないで、この幼馴染二人組は何処までも自分を振り回すのだと頭を痛める。

 

 まだ彼女は夢を見ているのだと、亡骸が見付からないからまだ生きている可能性があると盲目に信じきっている。

 

 

「……あれからもう一ヶ月も経つんですよ彩乃さん。梅利さんがどうなったのか、あれだけ必死に探し回ったじゃないですか」

 

 

 恐る恐る、探るような口調でそう切り出した知子に彩乃はフラフラとした視線を向ける。

 

 

「……分かってるわ。梅利はもういない、もう帰ってくることはないって分かってる」

「分かってないです、分かっているなら。病的なまでにこの場所へ通い詰めることはない筈です」

「……私は父親も、幼馴染も同時に亡くしたのよ。少しくらい引き摺ったって良いでしょう?」

「ええ、それは勿論です。でも、足を止られる時間がそう長くないのを、自覚は無くとも少し間違えれば彩乃さんの精神状態は壊れてしまいそうなことを、しっかり理解して欲しいんです」

 

 

 眉間に皺を寄せて、掛けられた言葉をゆっくりとかみ砕いていた彩乃であったが、知子はそれに畳み掛ける。

 

 

「死んだ人達は何もすることは出来ません。今を生きる私達に、道を示すことも、想いを伝えることも出来ないんです。だから、これからは私達で支え合って生きるしか無いんです。間違っても、死んだ人の後を追ってしまいそうな人をそのまま見過ごしになんて、してはいけないんです」

「……私は……」

「……一ヶ月ですよ。あの怪物の侵攻が終わって、それだけの間ずっと梅利さんを探し続けました。それだけ探しても見付かるのは異形の残骸である灰ばかり。そんなものばかりだったら、もう、割り切るしかないじゃないですか。割り切って、祈りを捧げて、墓という形を残して……後はもう、進むしか無いじゃ無いですか」

「……分かってる、分かってるわ。ごめんなさい、ありがとう……」

 

 

 どう進めば良いかなんて分からない。

 手段があって、目的があって、希望だってある。

 やるべき事は分かっている筈なのに、まるで支えにしていた何かが崩れたような、足場にしていた大切な何かが壊れてしまったような感覚が消えて無くならない。

 どうやって歩けば良いか分からなくなってしまった。

 自分がこんな場所でどんな風に立っていたのか、自分がどうやってここまで歩いてきたのか分からなくなってしまった。

 だからこそ、くしゃくしゃになっても前に進もうとする年下の知子の姿が彩乃にはまぶしく見えるのだ。

 

 

「……ねえ、彩乃さん。私、頑張って生きていこうと思います。梅利さんを失って、凄く苦しくて、悲しくて、本当に嫌になってしまうけど……それでも、やっぱりこのまま私は腐っていたくない」

「……うん」

「きっと私よりもずっと、彩乃さんは失うものが大きかったから、直ぐには立ち直れはしないと思います。……それでもいつか前を向けたら、一緒に歩きましょう。私、待っていますから」

 

 

 そう言って、墓石の前で立ち止まったままでいる彩乃を置いて知子は歩き出した。

 彩乃はそれでも、じっとその背中を見送ることしか出来ない。

 自分よりも小さいはずの彼女が歩いて行く姿を目の当たりにして、どれだけ励まされても、どれだけ叱咤されても、波紋一つ響かなかった彩乃の心が少しだけ揺れる。

 

 彼女だってきっと辛かったはずだ。

 あれだけ懐いていた梅利が命を落として、何度も救われていた彼女が梅利を救うことが出来なくて、どうしようも無い後悔が彼女の胸を苛んでいるはずだ。

 けれど、それでも彼女は前を見て歩き出している。

 胸を張れるようにと、顔を上げて歩き出している。

 それがどれだけ凄いことか、同じような思いを抱える彩乃だからこそ理解できた。

 

 知子の小さな頃を、彩乃も見たことがあった。

 心配な子がいると梅利に言われて、そっと二人の様子を見に行ったことがあったのだ。

 あんな一人で座り込んでいた子供が、ここまで大きくなった。

 そこまで彼女を導いたであろう幼馴染を誇らしく思うと同時に、自分に対する無力感に苛まれる。

 

――――それでも。

 血の海に沈んだ父親も、怪物の群れに飲み込まれた仲間達も。

 最後に散っていったあの赤い流れ星も、全てが脳裏に焼き付いて離れない。

 進んで進んで進み続けた先の今、彩乃の周りにはもう誰も残っていないのだから。

 

 

「……どうするのが良いのか、もう分からないよ。梅利……こんなに傷付いても、まだ歩かないといけないの?」

 

 

 くしゃりと、力が入ってしまった手の中にあった、幼馴染が残した手紙が潰れる。

 でも、もうそれに何も感じない。

 天を仰いで、じっと目を閉じた。

 

 異形を殺して殺して殺し尽くした。

 呪詛を振りまいて、憎悪のままに暴れ狂い、辿り着いた今。

 もうこの地にはあれだけ憎かった異形はいないはずなのに、そしてこれから先、多くの異形を屠っていける手段を手に入れたはずなのに、ほんの少しも嬉しくなんて無かった。

 

 

「……こんなっ……こんな所になんて来たくなかったっ……! 私はただ、あの頃に戻りたいだけだったのにっ……なんでっ……!」

 

 

 一人きりになって、ようやく口から出た弱音に、誰よりも彩乃自身が驚いた。

 

 ぽろぽろと流れ出した涙が頬を伝う。

 幼馴染が残してくれた指輪だけが、彩乃の手の中に残る。

 血を吐くような嘆きの言葉は、ただ空に消え、誰もそれを聞き届ける人はいなかった。

 

 

「嫌だよぉ……辛いよぉ……。もう、見たくないよ……」

 

 

 しゃがみ込んで、口を押さえた。

 立っていることも、もう出来なかった。

 

 

「嘘つき……嘘つき嘘つき嘘つき……うそつき……」

 

 

 うずくまった彩乃は、うわ言を呟くようにそんな言葉を繰り返す。

 いつだって隣にいた幼馴染はもういない。

 いつだって助け合った幼馴染はもういない。

 また会えたと思った大切な幼馴染は、もういないのだ。

 

 

「約束を守ってよ……それ以外いらないから、いらないから……梅利……お願いよ……梅利……」

 

 

 何を言ったって変わらない。

 何を願ったって変わらない。

 だから、自分の嘆きが何の意味も無いような無駄なものだなんて、誰よりも彩乃自身が理解している。

 それでも、命を掛けて、自分たちの未来を切り開いたあの背の小さい幼馴染にこれ以上願うのは求めすぎていると分かっていても、彩乃は願わずにはいられなかった。

 

 

「……わたしを、置いていかないでよ……いっしょにいようよ……」

 

 

 最後に漏れ出した言葉は、十年前のあの時、血塗れで倒れた幼馴染に掛けた最後の言葉。

 

 置いていきたくなんて無かった。

 一緒に逃げて、一緒に戦って、一緒に生き延びようと約束した彼を、一人で死なせるなんて絶対にしたくなかった。

 父親が彼女の手を取って引き摺るように逃げなければ、彩乃は絶対に幼馴染の下を離れなかっただろう。

 

 だって、ずっと一緒に生きてきた。

 生まれたときから隣にいて、おんなじ経験をして成長した。

 一緒に勉強して、一緒に遊びに行って、一緒に笑い合った。

 手を繋いで歩いた事なんて沢山ある、隣り合って眠りについた事なんて沢山ある。

 同級生にからかわれて、それでも少しも離れなかった。

 片方が喧嘩をしたら、もう片方も嬉々として首を突っ込みに行った。

 悪い事がバレて、厳しい彩乃の父親に怒られるときは、並んで正座をしたりした。

 何処までも一緒で、それでいいと、それが良いと思っていた。

 

 きっとこれから先もずっと一緒だと、言葉にしなくてもお互いに思っていて。

 きっと、自分たちは死ぬときも一緒なのだと思っていたから。

 片方が欠けるなんて、想像すらしてなくて。

 その苦しみの覚悟なんて、少しだってしてはいなかった。

 

 墓石の前で彩乃は泣き崩れる。

 膝を着き、もう力なんて入らないかのように崩れ落ちた彼女には、もう何も残っていなかった。

 

 だからもう、立ち上がることは出来ない。

 彩乃はもう、一人で立つ事なんて出来はしないのだ。

 

 

「―――――彩乃!!」

 

 

――――だから、彼女は耳を疑った。

 

 聞き慣れない、けれど間違いあの声を聞いて息が止まる。

 有り得ないはずの声が聞こえた。

 聞き間違えるはずの無い幼馴染の声が聞こえた。

 少女のように高く、綺麗な声色は泣き崩れていた彩乃の心を跳ねさせて、涙一つ拭かないくしゃくしゃの顔で振り向かせる。

 

 

「彩乃っ!」

 

 

――――そこには見る影も無いほどに朽ちた少女がいた。

 

 色を失った白い髪に、頭から生えていた角は跡形も無い。

 片目に何か障害が残ったのか、覆うように包帯が巻かれ、顔のほとんどが隠れている。

 歩くことも辛いのだろう、両手に持った松葉杖で地面を付いて、必死にこちらに駆け寄ってくる彼女の肌はひび割れ、今にも砕けてしまいそうに見えた。

 ボロボロで、錆び付いて、壊れてしまいそうな見たことの無い筈の風貌の小さな少女は、それでも彩乃にはそれが誰なのか理解できた。

 

 

「……ばいり……?」

「そうだよ馬鹿! あ、お前、今の俺の見た目の感想はいらないからな! 弱ってるんだから! 仕方ないんだからな!」

 

 

 直ぐ傍まで駆け寄ってきた幼馴染が何かを思い出したのか勝手に怒り出す。

 信じられないものを見るように目を見開いた彩乃のことなどお構いなしだ。

 それが、いつもの彼と全く変わりなくて、涙がにじむ。

 

 

「なん、で……なんで梅利が……」

「はぁ? なんでここに来たのかって? そんなのお前に会いに来たからに決まってるだろ、一目散にお前の所に来たんだぞ! ……って、え、彩乃泣いてるの?」

 

 

 ようやく彩乃の様子に気が付いたのか、とぼけたことを言いながら心配げに顔を覗き込んできた幼馴染に、彩乃は涙を止めることが出来なくなる。

 

 

「――――馬鹿っ、馬鹿馬鹿馬鹿っ……ばかぁっ……!」

「え、うそっ! やめっ、彩乃落ち着けぇっ!?」

 

 

 彼女は堪えきれなくなり、しがみつくように抱きついた。

 彩乃の重量に耐えきれなかった梅利は松葉杖でバランスも取れず、悲鳴を上げて二人して地面を転がっていく。

 背中を強打した梅利が「死ぬ、今度こそ死ぬ……」なんて言うのに耳も貸さず、彩乃は自分よりも小さい彼の身体を強く掻き抱く。

 

 

「死んじゃったって、もういなくなっちゃったと思ったっ……! また、皆で私を置いていったんだって思ってっ……私は……わたしは……」

「え、俺が死んだって、なんで。あは、あはははは……いや、彩乃は馬鹿だなぁ……」

 

 

 少しだけ虚を突かれたような顔をした後に、呆れたように笑った白い少女はしがみついてくる幼馴染の頭を抱き締めた。

 

 

「いつだって俺はお前を置いてくことなんてしないよ。例え俺が死んでしまっても、絶対に忘れないし、彩乃が笑っていることを願うから。だから……彩乃が一人になることなんてないんだよ」

「そんなっ、そんなの、そんなの分かんないよっ……」

「まあ、今は何とか生き延びられたからね……うん、まだ一緒にいようか彩乃」

「うんっ、一緒にいようっ……もう、何処にも行かないで」

「……まったく、彩乃はまだ目が離せないからなぁ……ほんとに、仕方ない」

 

 

 そんな風に、自分よりも大きくて、自分よりも力強い彼女の頭をあやすように撫でて、白い少女は微笑んだ。

 

 

「ねえ彩乃――――ただいま」

「……おかえりなさい……」

 

 

 遠い昔に引き裂かれた二人は、こうしてまた再会する。

 

 姿形は変われども、その心は変わらないし、彼らの思い出は何一つだって変わることは無い。

 だからもうこれから先、少女が中身の無い墓石の前で泣き崩れることも、大切なものを喪ったことで絶望することも、きっと無いだろう。

 

 希望は生きていて、道筋は作り上げた。

 先行きが見えない絶望の袋小路から、彼女達は抜け出すことが出来たのだ。

 彼女達がこれから行く先は、きっと幸せが待っている。

 少なくとも、今の彼女達は信じているだろう。

 生き残っている人達が幸せになっていける、春の時代がやってきたことを。

 ようやく凍えるように寒い冬の時代が終わって暖かい春を始められたのだと。

 

 もう、梅の花が魁る必要は無い。

 これからの先のこの世界には、きっと色取り取りの彩りが満ちあふれていくのだから。

 




これにて完結となります。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
皆様の応援があってこそ、なんとか完結まで続けることが出来ました。
名残惜しくはありますが、皆様とまた何処かで会えることを心から楽しみにしています。
繰り返しになりますが、ここまで本当にありがとうございました。


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