ワンダリングワンダーランド クランベリーダイアリー (きゃら める)
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第一章 クジラと虎とフィルムカメラ 1 空髭クジラ

第一章 クジラと虎とフィルムカメラ

 

 

       * 1 *

 

 

 空をクジラが泳ぐようになったのは、二一世紀に入ってすぐの頃だったらしい。

 

 あたしが生まれた頃には当たり前のように泳いでいたから知らないけど、当時はけっこう騒ぎになったんだと聞いたことがある。

 他の魚たちも空を泳ぎ始めるんじゃないかとみんな話していたらしいけど、海の生き物で空に進出したのはクジラだけで、トビウオはやっぱり海から跳ぶだけだったし、ペンギンも空に潜ることはなかった。

 

 ――でもそんな話、誰に聞いたんだっけ?

 

 春の終わりを感じさせる青く澄んだ空には空髭クジラが四頭、雲と戯れるように泳いでいた。

 たぶん親子なんだろう。大きい二頭が急ぐでもなくゆったりと浮かんでる間を、小さい二頭がじゃれるように泳ぎ回ってる。

 

 生まれてからずっと見てきた風景のひとつのはずなのに、何だか初めて見るような気もしてる。奇妙な感じがしてる。

 ずいぶん昔にしたからだと思うけど、空を泳ぐクジラの話をしたのも誰と、いつだったかも憶えてなくて、あたしは遠い空を泳いでいる空髭クジラの親子のことを見ながら、小さく首を傾げていた。

 目を戻して教室内を見てみると、ついさっきまで騒がしかった場所は静けさに包まれていて、先生が点呼を取る声だけが響いてる。

 

 五月六日。連休明けの初日。

 

 夏にはまだまだ早いけど、ゴールデンウィークが終わった今日は春というには少し暑くて、前を向いてたり手元に目を落としたり、隣の子とひそひそ話をしていたりするクラスメイトの中には、上着を脱いでる人が何人かいるのが、後ろの方にあるあたしの席からは見えた。

 四月の間は学校指定のブレザーの上からコートを羽織ったりする日が多かったのに、春が急速に通り過ぎていくのを感じていた。

 

「ふぅ」

 

 小さく吐いた息に軽くこじらせた五月病の空気を吐き出して、あたしは窓とは反対の右側に目を向ける。

 すぐ右にあるのは、空席。

 教室の中に並んでる三一の席の中で、そこだけが唯一誰も座っていない席だった。

 

 ――誰だっけ、ここ。

 

 空髭クジラを眺めていたときと同じような違和感。

 人の顔と名前を憶えるのが苦手なのは自分でもわかってる。でも高校二年になってからだからひと月弱、四月の間はすぐ隣にいたはずなのに、その人のことをちっとも思い出せないことにはあたし自身も驚いていた。

 眉根にシワが寄って不細工な顔になってるだろうけど、名前や顔どころか性別すら思い出せない隣の子のことを、空いた席を眺めながら考えずにはいられない。

 

『笑ってるときが一番可愛いよ』

 

 そんなことを言ってくれたのは誰だったっけ。

 何だったか悩み事があるときに言われたと思う言葉。

 胸の中から沸いてきた言葉はつい最近言われた気がするのに、誰に言われたのかも思い出せない。

 さらにシワが深くなるのを感じてるとき、呼ばれてる気がした。

 

「――アイリスっ。立花アイリス! いないのか?!」

「はっ、はいっ」

 

 思わず腰を浮かせながら、司馬遷の点呼に応える。

 去年もあたしがいたクラスの担任だった司馬遷こと柴田先生は、去年よりもさらに寂しくなった気がする白髪混じりの頭を軽くなでながら、あたしのことを睨みつけてきていた。

 クラスメイトの視線があたしに集まってるのを感じる。

 年齢の割に老けて見える司馬遷の非難するような視線から目を逸らして、あたしはうつむいた。

 

 机の上にはちゃんと出席してるのがわかるよう、携帯端末を置いてある。

 出席なら生徒手帳か、その機能をインストールした携帯端末を机の上に出しておけば教卓の端末で一発でわかるはずなのに、定年まであと数年を残すばかりとなった司馬遷は、点呼を取ることにこだわってる。

 

 ちょっと厳しいところがあるけど、世界史を担当していて、中国史はもちろん三国志や水滸伝が大好きで、その方面の話になると脱線をしてしまう悪い癖がある司馬遷は、でもあたしの知る限りけっこう好かれてる先生のひとりだ。司馬遷ってあだ名もそれっぽい外見をしていたり、柴田先生の略というだけでなく、中国史好き三国志好きのところからもじったものだったし、生徒からそう呼ばれていることは司馬遷もまんざらではないらしい。

 

「全員出席」

 ――え?

 

 司馬遷の宣言に、あたしは思わず隣の席を見てしまう。

 明らかに空席があるのに、なんでそのことを指摘しないんだろう。

 二年になってまだひと月足らず。その間に誰かが転校していったという話はないし、転入生がいるなんて噂もとくにない。

 連絡事項を話し始めた司馬遷が空席のことを気にしてない様子に、あたしは首を傾げるしかなかった。

 

 ――本当に、誰だったっけ?

 

 憶えてるような気がした。

 忘れるはずがないような気がした。

 二年になってからのまだ短い間だけど、毎日隣にいる人のことは、さすがにあたしでも忘れるはずがない、と思う……。

 少なくとも四月の間に、右隣の席に誰も座ってなかったなんて記憶はなかった。

 

 ――ヘンな感じがする……。

 

 実際あたしの隣には誰も座ってないというのに、あたしはいつもそこにいた人と話していたような、そんな気がしていた。

 それはもしかしたら一年のときの記憶なのかもしれない、とも思う。

 

 ――うぅん。違う。……違う、はず。

 

 何年も使われて古びた感じのある机を眺めながら、あたしは戸惑っていた。

 いまそこにいない人がいるような、そんな不思議な感覚。

 足下がふわふわと浮き上がっているような、奇妙な感触。

 忘れるはずのない人を忘れてしまっているような、そんなはずがないような、胸の中に硬いシコリがあるような感触が、あたしの中に生まれていた。

 

『僕を探して』

 

 声が聞こえた気がした。

 思い出したんじゃなくて、耳元でなのか、胸の中のシコリからなのか、そんな声が聞こえた気がした。

 

「うん、探すよ」

 

 それに応えて、あたしは小さく呟きを漏らす。

 でも次の瞬間「誰を?」と思う。

 見たことも、憶えてもいない人のことを、どうやって、なんで探さないといけないのか、自分の中に湧き上がった想いに、あたしは頭の中がぐちゃぐちゃになりそうな気分を味わっていた。

 

「きりーつ、礼」

 

 日直の人の声が響いて、反射的に立ち上がる。

 いつのまにかひとつも聞いてなかった連絡事項は終わって、司馬遷は礼のあと教室を出て行った。

 一時間目の授業が始まるまでのわずかな時間、着席しなかったほとんどのクラスメイトは、いくつかのグループに集まってゴールデンウィーク中の想い出に花を咲かせ始めた。

 

 そんな中であたしはまだ空席のことをじっと見つめていて、身体を傾けて机の中も覗いてみるけど、空っぽの中身からは誰が座っていた席なのかわかることはなかった。

 

 ――あれ?

 

 机から目を上げると、ちょうど空席のひとつ隣に座って、じっと見つめてくる女の子の視線とぶつかった。

 名前は確か――、曽我フィオナ。

 一年のときは別のクラスだったから、彼女のことはあんまり知らない。

 

 背が平均よりもちょっと低くて、染めてもいない黒い髪をショートにしているからってのもあって、服装次第ではたまに小学生の男の子に間違われることもあるあたしと違って、地毛の薄めのブラウンの髪をセミロングに伸ばして、女子としては背も高めの彼女は、ちょっと大人びた雰囲気のある落ち着いた女の子だ。

 確かクォーターだったか日本人以外の血が入っていると誰かから聞いたことがある曽我さんは、人形みたいな綺麗さがあって、でも小学生の頃まで海外に住んでたらしく、あまり友達をつくるのが上手くないらしい。無口さも手伝って、別に嫌われてるわけじゃなかったけど、クラスに馴染んでると言うところまでにはなってなかった。

 

 そんな曽我さんが、あたしのことを見つめてきてる。というより、睨んできてる。

 その目はさっきまで泣いてたみたいに赤くなってて、まぶたも少し腫れていた。

 彼女に何があったのかは知らない。でもいままでほとんど話したことがなくって、連休中も会うことがなかったから、睨まれる理由はわからない。

 

 ――何か恨まれるようなことでも、したっけ?

 

 もしかしたら無意識のうちに何かしちゃったんじゃないかと思うけど、やっぱりよくわからない。

 

 ――何かあった気が、する……。

 

 恨みとも、悲しみともわからない曽我さんの視線を受け止めながら、あたしは自分の記憶を探る。

 何かあった気がするのに、わからなかった。

 胸の中で引っかかりを覚えてるのに、曽我さんに睨まれる理由を、あたしは思い出すことができなかった。

 

「あの――」

「よぉし、席につけ! 休み明けで惚けてちゃいかんぞ」

 

 そう大きな声を出して教室に入ってきた現国の先生に、曽我さんはあたしから視線を逸らした。

 あたしも声をかけることができなくなって、鞄から教科書データを入れたスレート端末を取り出す。

 鞄に手を突っ込みながら、やっぱり誰も座ってない空席のことが、どうしても気になって仕方がなかった。

 

 

 



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第一章 クジラと虎とフィルムカメラ 2 お聞く虎

 

       * 2 *

 

 

 辺りは夜みたいに真っ暗に見えた。

 

 本当は太陽の光がいっぱい降り注いでるのに、あたしに見えているものはみんな薄暗くて、はっきり見ることができなかった。

 あたしは地面の上に座り込んでる。

 

 水溜まりの上に座り込んでるみたいに、お尻が濡れて気持ち悪かった。

 膝の上に乗せてるものがすごく重くて、その上熱くて、でもどんどん失われていく熱さを、あたしはどうすることもできない。

 

 喉が痛かった。

 

 あたしはずっと何かを叫んでいて、でも何を叫んでいるのか自分でもわからなくて、よく見えない膝の上に向かって叫んでるのはわかってるのに、何に向かって叫んでるのかもよくわからなかった。

 

 ――嫌だ。

 

 その思いだけが、あたしの中にあった。

 

 ――嘘だ。

 

 目の前で起きてることを、あたしは信じたくなかった。

 右腕で抱き寄せたものから熱いものがどんどん流れ出していって、左手を握り返してくれる力が、少しずつ小さくなっていくのを感じていた。

 

「やだ」

 

 あたしはただ、それを拒絶する。

 

 どうしてこんなことになったのか、わからなかった。

 どうしてこんなことにならなくちゃいけないのか、ぜんぜんわからなかった。

 どうしてもこんなことを、認めたくなかった。

 

 だからあたしはあふれ出してくるのを止めることができない涙を流しながら、それを否定することしかできなかった。

 

「――」

 

 腕の中で、音が聞こえる。

 聞こえているのに、よく聞こえない。よく聞こうと耳を近づけるのに、あたしの耳から入った音は、半分も頭の中に残ってくれない。

 

「僕はもう……。嘘、だ。シにたくない。イーリス――、シね……。僕はもっと、――生きたかった……」

 

 もう一度ちゃんと聞きたい。

 そう思うのに、彼の口から声が出てくることはなかった。

 あたしは、彼の言った言葉の意味を、理解することができなかった。

 

 ――こんなの全部嘘だ。

 

 そうとしか思えなくて、あたしはいま目の前にあるものを否定する。

 

「こんなこと、いらない」

 

 なくなってしまえばいいと思った。

 彼の身体が冷たくなっていくのと一緒に、あたしは寒さを感じるようになっていた。

 震え出しそうになるのを必死に堪えて、できるだけの力で彼の手を握る。

 

 ふと、暖かさを感じた。

 

 震えそうになる身体を背中から誰かが抱きしめてくれるみたいに、あたしは暖かさに包まれる。

 その暖かさは、あたしに力をくれてる、そんな気がした。

 だからあたしは、いまの想いを強くする。

 

 ――こんなこと、なくなってしまえばいい。

 

 こんなことが世界からなくなってしまえば、こんな気持ちになることはもうないと、あたしは思った。

 だからあたしは、それを世界から無くす。

 何かがくれている力に、あたしはあたしの想いを託す。

 

 ――全部全部、嘘。こんなもの、世界からなくなってしまえ!

 

 そうあたしが心の中で叫んだ瞬間、左手を握ってくれていた力が、くたりと失われた。

 

 

         *

 

 

「――?」

「――?!」

 

 耳に大きな声が聞こえてきて、あたしははっと目を開ける。

 夢を見ていた気がする。

 何か、とても大切な夢。

 でも目を開けた瞬間、あたしはそれをすっかり忘れてしまった。

 目を開ける一瞬前まで憶えていたはずのことが、煙のように霧散してしまった。

 頬杖を着いた手から頭を上げて周りを見てみると、いつの間にか授業が終わってたのか、クラスのみんなは帰り支度を進めていた。

 

「盛大に寝てたなぁ」

「うん。先生には気づかれなかったみたいだけど」

 

 机の前であたしに声をかけてきているのは、九重沙倉と篠崎マリエちゃん。

 

 陸上部の期待のホープで、ベリーショートの髪をしている沙倉とは一年のときから同じクラス。活発で裏表のない彼女とは一年のときにすぐに友達になって、いまでも仲の良い友達だった。

 

 背の高い沙倉とあたしはずいぶん身長差があるんだけど、それよりもさらにもう少し低いマリエちゃんは、この四月に同じクラスになった子で、背の高さに反して身体の成長は著しい。

 あたしがうらやましく感じるところは彼女にとってコンプレックスなのか、少し引っ込み思案なところはあるけど、結構明るくて、何だか中学の頃からの友達とおもしろそうなクラブをつくってる楽しい女の子だった。

 

 他にもクラスには友達はいるけど、ふたりとはとくに仲が良くて、休みの日に一緒にお出かけしたりしていた。

 確か六時間目の授業が始まったときまでは意識があったのに、いつの間に寝ていたんだろう。先生に気づかれなかったのは幸いだけど、苦手な数学を丸一時間聞いてなかったのは問題だ。後で復習しておかないと、授業に追いつけなくなる。

 

「……後で授業の内容、メールで送って」

「んー。アタシも数学苦手だから、参考になるかなぁ……」

「同じく……」

 

 ――頼りにならない友達だっ。

 

 なんて自分のことを棚に上げつつ思って、あたしはふたりの向こうにある席を見てみる。

 やっぱりそこには人は座ってないし、椅子の位置も変わってる様子はない。今日一日空席だったにも関わらず、先生もクラスのみんなも気にしてる様子はなかった。

 

「そうだそうだ、アイ。ちょっとマリエからおもしろい話を聞いたんだけどさ」

「うん。近くにある喫茶店に、占い師? みたいなことをしてる人がいるって聞いたの。何だかすごい人らしいんだけど、アイリスも行ってみる?」

「んー」

 

 机の上に広げてたスレート端末なんかを鞄に仕舞いつつ、あたしは返答に困る。

 あたしのことをアイとアイリスと、それぞれの呼び方で呼ぶふたりの期待の籠もった顔に、あたしは迷っていた。

 

「どうしようかなぁ」

 

 占いに興味がないわけじゃない。そんなに信じてるわけじゃないけど、マリエちゃんの言う「みたいなこと」っていうのがちょっと気になってたりしていた。それもなんで喫茶店にいるんだろう、と言うのも不思議でおもしろそうだった。

 

「おもしろそうだね」

「だろう?」

 

 まるで自分のことのように満面の笑みを浮かべる沙倉。

 お店の名前とか場所を聞いてるときに、がたんっ、と椅子が大きな音を立てた。

 放課後とは言えあたしたちがうるさくしていたからか、帰り支度を終えて立ち上がった曽我さんが、あたしのことを朝と同じように睨みつけてきていた。

 朝もそうだったけど、曽我さんがあたしを睨んでくる理由がわからない。

 

 何かを言うより先に、あたしの視線に気づいた沙倉とマリエちゃんが曽我さんに振り返る。

 三人分の視線を受けたからか、曽我さんは何も言わないまま鞄を肩に担いで教室を出て行ってしまった。

 

「なんだよ、アイツ」

「どうしたんだろうね? 泣いた後みたいな感じだったけど」

「わからないんだよね……」

 

 曽我さんのことがよくわからないまま、あたしは三人で教室を出て、昇降口に向かう。

 下校する生徒がひと段落して空き始めた昇降口で、下駄箱に携帯端末を近づけて小さな扉を開け靴を取り出して履き替える。

 

「それでどうする? アタシたちはこのままそのお店に行くつもりだけど」

「んー。今日はやめとく。また今度一緒に行こ」

「んじゃ、明日にでも報告するな」

「またね、アイリス」

「うん、また明日」

 

 校門を出て左に曲がっていったふたりに手を振って、あたしは家に帰るために右を見る。

 ふたりの誘いを断ったのは、今日は早めに帰りたかったから。占い師っぽい人には興味があったけど、また今度行くことにした。

 

 ――今日は早く帰って、それから……。

 右を見たあたしは、何でか首を傾げた。

「あれ? 何だったっけ?」

 

 すぐ右にあるものに手を伸ばそうとしていたことに気がついて、あたしの手は止まる。

 三人で出てきたんだし、鞄は左肩に担いでる。だからあたしの右には何もないことなんてわかってるのに、理由もわからずあたしは、右に手を伸ばしていた。

 思ってみれば今日早く帰りたかった理由もよくわからない。別に用事があったわけじゃないのに、なんで今度行こうなんて思ったのか、あたし自身わかってなかった。

 

 ――あの誰も座ってない席も、右側だったな。

 

 教室の空席も、あたしの右側にあった。

 たぶんたまたまなんだと思う。

 でも何でか、あたしの右側にはいつも何かがあったような気がしてる。

 ……誰かが、いたような気がしてる。

 思っていても、何かがあるわけじゃない。誰かがいるわけじゃない。

 不思議な感覚にとらわれながらも、もう沙倉もマリエちゃんも姿は見えない。仕方なくあたしは家に帰ろうと歩き始めた。

 

 

 

 

「んー」

 

 交通量の多い国道沿いを避けて、少し遠回りした川沿いの道。河川敷があるほど広くなく、鴨がゆったりと浮かんでいたり、鯉が群れを為して泳いでいたりする川沿いの土手の上を歩きながら、あたしはうなり声を上げていた。

 

 ――なんでだろう。

 

 どうしても右の空間が気になって仕方がない。

 何かがあった気がするのに、何かがあった記憶がない。

 あった記憶がないものがあるような気がする奇妙な感覚が、忘れようとしても忘れることができなくて、あたしは口を尖らせながら考え込んでいた。

 

 ――あたしは何を探そうとしてたんだろう。

 

 あの空席を見たときに思わずつぶやいちゃった言葉。

 あたしは何かを探さないといけない気がしたのに、その想いは一瞬胸の中が焼けついちゃうくらい強かった気がするのに、でもそれがいったい何なのか、はっきりしなかった。

 胸の中にわだかまっているのは、固く閉ざされた箱。

 実際にそんなものがあるわけじゃない。でも固く閉じて開けることができない箱が胸の中にあるような気がして、そんなもの捨ててしまいたいと思うのに、とても大切なものが入っているような予感もあった。

 

 眉根にシワが寄って不細工な顔になってるのはわかってるけど、あたしはうなり声を上げながら思い出そうと当てもない記憶を掘り返そうとしていた。

 

「何か悩み事かい?」

 

 川に近い右側から声がして、あたしは思わずそっちの方を見る。

 でも誰もいない。

 ランニングの人とか犬の散歩の人に声をかけられたのかと思ったけど、そうじゃなかったらしい。

 

 下に目を向けてみると、見事な毛並みをした虎が、あたしと並んで歩いていた。

 なんでこんなところに虎がいるんだろう、って思う。

 不思議と怖くはなくって、つやつやとした毛並みを撫でてみたくなるような、そんな親近感があった。

 いつも近くで見ていたもののような、親しみさえ感じる虎に、あたしは返事をする。

 

「うん、ちょっとね」

「ほう」

 

 ネコ科特有の瞳を縦に細めながら、雄らしい大きな身体の虎は、あたしに言う。

 

「悩みがあるなら聞いてあげよう。何でも話すといい」

「んー」

 

 虎に話したところで、どうにかなるようなことでもない気がする。

 あたし自身、右の空白に感じてる違和感が、どうして感じてるものなのかわからないんだから。

 と、そこまで考えたところで、疑問が浮かんできた。

 

 ――虎ってしゃべるんだっけ?

 

 犬がするようにお座りの格好で立ち止まった虎。

 意外と可愛らしく思える瞳をじっと見つめて、あたしはそれを訊いてみた。

 

「あなたってしゃべれるんだっけ?」

「何をおかしなことを言っている。こうしていま話しているだろう」

 

 言われて確かにその通りだと思う。

 ちゃんといまあたしと虎は意思疎通ができてるんだから、しゃべれるかどうかなんて疑問に思う必要がなかった。

 そう思うんだけど、なんだかもやもやとして気持ちが定まらない。

 事実が目の前にあるんだから疑問に思う必要なんてないのに、何となくすっきりしない気持ちがわだかまる。

 

「遠慮することはない。話したところで減るものではないだろう?」

「悩みだったら減ってくれた方が助かるんだけどね」

 

 すっかり聞く体勢で待ってる虎にあたしは話し始める。

 

「なんて言ったらいいのかわからないんだけど、教室の右側に空いた席があったのね。それからあたしの右側に、いつも誰かがいたような気がするんだけど、それが誰だったのかわかんなくって、先生は空席があるのに全員出席って言うし、そんな気がしてるだけで、あたしの右側に誰かがいた記憶はないんだよね」

「ふむふむ」

 

 話の先を促すように、虎は大きく頷く。

 目を閉じて、あたしは今日あったことを思い返す。

 誰にも気にされない右側の空席に感じる違和感。

 記憶にない右側にいたはずの誰かに対する不思議な感覚。

 そのふたつはたぶん同じもので、曽我さんに睨まれていたのも、それが原因のような気がしていた。

 

 ――はっきりしたことは思い出せないんだけどね。

 

 ちょっとため息を吐いて、それでも固く閉ざされた箱が胸の中にあるような感覚がなくなってくれなくて、あたしは目を開ける。

 

「何だかすごく不思議な感じがするし、それが何なのかはっきりさせたいと思うんだけど、手がかりがぜんぜんないし、あたしはどうしたらいんだろう? って思って」

「なるほどな」

 

 あたしの話を聞き終えた虎がもう一度大きく頷く。

 でもあたしのことを見つめてくるばかりで、何かを言ってくれる気配がない。

 

「どうしたらいいと、思う?」

「さぁ?」

「え?」

 

 首を傾げてる虎に、あたしも首を傾げるしかなかった。

 

「悩みを聞いてくれるって、言ったよね?」

「あぁ。だから悩みは聞いた。でも悩みの相談に乗るとはひと言も言ってないぞ」

「いや、それはそうだけど……」

 

 何おかしなことを言ってるのか、といった感じの澄ました顔の――と言っても虎の表情なんてわからないんだけど――虎に、あたしは話したことを後悔した。

 

「もっと悩んでみるといい」

 

 そう言った虎は腰を上げて行ってしまう。

 

「もっと悩んで、それでも答えが出なかったら、また悩みを聞いてあげよう。聞くだけだがな」

 

 言うだけ言って、虎は土手を走って行ってしまった。

 

「はぁ……」

 

 何だかすごく疲れを感じて、あたしは家に向かってとぼとぼと歩き始めた。

 話してみて、やっぱり不思議な感覚がはっきりあるのを感じた。

 胸の中に重苦しいものがしまい込まれてるみたいになってて、それをどうにかしたいと思うのに、どうすることもできない自分に気がついた。

 右側に手を伸ばして、そこにはない何かをつかんでみようとしてみる。

 もちろん何もないんだからつかめるわけはないんだけど、そうしたらそこにあるものに、触れられるような気がした。

 握った手のひらに感じたのは、まだ少し冷たさの残る空気だけだった。

 

 



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第一章 クジラと虎とフィルムカメラ 3 フィルムカメラ

 

       * 3 *

 

 

 鍵の機能をインストールしてある携帯端末で玄関のロックを解除して家に入る。

 バラバラに脱ぎ捨てると後でお母さんに怒られるから、脱いだ靴はちゃんと揃えてからすぐそこの扉を開けてLDKに顔を突っ込んだ。

 

「ただいまー」

「お帰りなさい、アイリス。後でおソース買ってきてもらえる? 切らしてしまって」

 

 まだ早い時間だけど、お母さんはキッチンで夕食の下ごしらえを始めてるらしい。

 少しクセの強い栗色の髪を揺らしながらキッチンから出てきたお母さんが、海外映画の女優さんみたいな綺麗な顔に笑みを浮かべた。

 どこの国の出身だったかあんまり詳しく聞いてないけど、お母さんは日本人じゃない。あたしと同じで背はあんまり高くないけど、大人の女性らしいプロポーションと、似てるってよく言われる日本人とは違う綺麗な顔は、あたしにとっても自慢だった。

 

 曽我さんがクォーターなのに、ハーフのあたしの黒髪とか身体つきとかが凄く日本人っぽいのは、まだ成長が始まってないからだと信じたい。

 あたしの顔を見て優しく笑むお母さんのお使いの頼みに、少し不満を感じながらも従わないわけにはいかない。

 

「トンカツソース?」

「えぇ。今日のコロッケ用なの」

「夕方でいい?」

「夜ご飯までには買ってきてくださいね」

 

 元気よく「うん」と返事をしたあたしは、階段を上がって自分の部屋に入る。

 鞄を机の横に引っかけてクローゼットを開ける。

 提げられてる服をしばらく眺めて考えて、長袖のワンピースと丈の短いデニムのジャケットを引っ張り出して、制服から着替えた。

 

 鏡の前に立っていまの格好を確認してみる。

 沙倉やマリエちゃんと一緒に買いに行った薄ピンク色のワンピースは、前のボタンの辺りの造りが凝ってて、裾に刺繍なんかもあってけっこう可愛くてお気に入りだった。

 丈の短い青いデニムのジャケットと合わせるとちょっと活発な感じがして、お出かけするときにはちょうどよい組み合わせ。

 胸元の膨らみが足りなくて少し寂しい気がするけど、ベルトで締めた腰の細さでカバーってことで気にしないことにする。

 

 試着もしたのに実際に着てみると思っていた以上に裾が短くて、太ももが寒いからいまの時期だとまだストッキングでも穿きたくなるけど、このワンピースに似合いそうなものは鋭意捜索中。今日はそんなには寒くないから、我慢するしかなかった。

 

 帰ってくる間に少し乱れちゃった髪もブラシで整えてから、あたしは制服のポケットに入れておいた携帯端末を取り出して、タッチパネルを操作する。

 立ち上げたメーラーのメニューから新規メールのボタンをタッチして、あたしは手を止めた。

 

「誰にメールするつもりだったんだっけ?」

 

 当たり前のようにそこまで操作したのに、自分が誰にメールするつもりだったのかわからなくなっていた。

 家に帰ったらいつもそんな風にしていた気がするのに、いつも誰にメールしていたのか思い出せない。

 右側に感じてる違和感と同じで、当たり前のようにあったものがなくなってる感じがあって、あたしはその後どうすればいいのかわからなくなっていた。

 

 とりあえずメールの履歴を呼び出してみるけど、学校の友達とお母さんとお父さんの他に、メールを出してる人は見当たらない。

 頻繁にメールを出してる人がいたような気がするのに、お母さんと友達を除けば、毎日メールをやりとりしてるような人は、履歴の中にはいなかった。

 

「むむぅ」

 

 うなり声を上げながら、あたしは思う。

 

 ――やっぱりヘンだ。

 

 いつからだったのかわからないけど、いつもやってるはずのことに違和感を感じてる。

 今日は早く帰ろうと思った理由も、出かける服に着替えた理由も、誰とどこに行くつもりだったのかも思い出せない。

 あの空席を見てからだったのかも知れないし、そのずっと前からだったのかも知れない。とにかくあたしは、いまの自分の隣にあるはずだったものがないことを、不思議に思っていた。

 ブラシで整えた髪をくしゃくしゃにかき回してからはっと気づいて、でもこの後は買い物に行くだけだったらどうでもいいか、と思い直す。

 

 ――何だったんだっけ。

 

 思い出そうとしても、思い出せない。

 隣にいたのが誰だったのか、わからない。

 胸の中にあるように思える固く閉じた箱を開けることができないような感覚に、あたしはちょっと泣きそうになって、胸を両手で押さえていた。

 

「あれ? こんなものあったっけ?」

 

 胸の痛みと気持ちが少し収まって顔を上げてみると、ヌイグルミとか小物とかを入れてある小さな棚の上に、カメラが鎮座してるのが目についた。

 ずいぶん古いもののようで、でも使い込まれてるらしい質感のカメラは、何でか黒い液体か何かをぶちまけちゃったみたいに、右半分くらいに汚れがこびりついてしまっていた。

 見た憶えはあるような、ないような。

 

 写真は携帯端末で撮ってるからデジタルカメラなんて持ってないし、そのカメラは詳しいことはぜんぜんわからないけど、フィルムを入れて使うタイプのようだった。何しろ液晶画面がないし、ボタンとかレバーとかダイヤルとか用途がよくわからない部品がいっぱいある。

 レンズまで黒いシミみたいなもので汚れてしまっているカメラが、どうしてあたしの部屋にあるのかは、よくわからなかった。

 

 誰かにもらった物なのかも知れなかったけど、インテリアとして置くにしても、こんな汚れたものを選ぶ理由がない。

 汚れてない部分を手にとってじっくり眺めてみても、やぱりこのフィルムカメラのことを思い出すことはできなかった。

 

「名前、かな? これ」

 

 底の方にざらざらした感触があったからひっくり返してみると、文字が彫ってあるのを見つけた。

 

「禄蔵(ろくぞう)、かな?」

 

 あんまり大きな文字ではなかったし、ずいぶん昔に彫ったものらしく判別が難しかったけど、その文字は「禄蔵」と彫ってあるように見えた。

 

 その名前には記憶がある。

 確か隣の佐々木さんの家のお爺ちゃんだ。

 ご高齢でずいぶん前に病院に入院されてからは、すっかり会ってない気がする。いまどうされているのかはわからないし、その禄蔵お爺ちゃんのカメラがなんであたしの部屋にあるのかも憶えてない。

 

「本当に今日は、わからないことずくめだなぁ」

 

 右側の空席、右側の違和感に、睨んでくる曽我さん。それから、禄蔵お爺ちゃんのフィルムカメラ。

 何なのかわからないことばっかりで、頭がパンクしちゃいそうだった。

 

「もうひとつ、何か彫ってある?」

 

 よく見てみると、禄蔵という文字の隣に二文字、文字が彫ってあるように見えた。

 それは汚れの中に沈んでしまっていて読めないけど、微かな窪みの具合から二文字であることはわかる。

 禄蔵お爺ちゃんの苗字は佐々木だから、苗字だとしたらおかしい。何の汚れかわからないから擦ってみるのもためらってるとき、一階のお母さんに呼ばれた。

 

「すぐ行くー」

 

 と部屋から大きな声を出して、あたしはフィルムカメラをもとの場所に戻す。

 すごく気になるような、すごくどうでもいいことのような気がした。

 でもお母さんに呼ばれたなら最優先はそっちの方。

 時計を見てみると、いつの間にか本格的に夕食の準備を始める時間になってきていた。

 

「今日はコロッケかぁ」

 

 お母さんのつくる料理はどれもすごくおいしいけど、とくにポテトコロッケは洋食屋さんで食べるのよりおいしいくらいだった。

 口の中にコロッケを入れたときのほくほくした感じを思い出して少し幸せな気分になりながら、あたしはクローゼットから薄手のコートを取り出す。

 部屋を出るとき、棚の上のカメラに彫られた読めない文字のことがちょっと気になったけど、ひとつ息を吐き出してあきらめて、あたしは一階へと降りていった。

 

 

 



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第一章 クジラと虎とフィルムカメラ 4 曽我フィオ

 

       * 4 *

 

 

 照明ひとつ灯っていない教室内には、月明かりだけが差し込んできていた。

 壁に掛けられた時計の針は二時を過ぎ、校舎の中は物音ひとつなく静まり返っている。

 

 整然と並ぶ机の数は、三一。

 

 廊下から二列目だけがひとつ後ろに飛び出す形で七席、他の列は六席になっていた。

 月影に照らされている教室には人の姿はなく、翌朝生徒がやってくるまではそのままの状態にあるはずだった。

 どこからともなく、廊下から二列目、後ろから三番目の席に触れる手が現れた。

 

 そこは昼間、空席となっていた場所。

 

 机を撫でるように触れた手の先にあったのは、学校指定のブレザーを身につけた男子生徒。

 背は高校生としては高くも低くもなく、ブレザー越しの体型は痩せても太ってもいなかった。

 表情に感情の色はなく、机をひと撫でした彼は、小さくつぶやく。

 

「こんな風に歪みが現れるとはね」

 

 そう彼が言った途端、その机は椅子ごと消えてなくなった。

 前触れもなく、痕跡も残さず、空席は一瞬にして何もない空間となった。

 小さく息を吐いた後、彼は廊下に向かって踵を返す。

 教室の扉を開けた彼が振り向いたとき、何もない空間となっていたはずの場所に、机と椅子が現れていた。

 

 教室内の席は三〇。

 ひとつだけ飛び出していた席が、誰かが動かしたわけでもなく、前に移動していた。

 

「でも何故、ここはこんなに歪んでいるんだろう?」

 

 ため息のような言葉を漏らし、男子生徒は教室の扉を閉めた。

 

 

         *

 

 

「あれ?」

 

 いつも通り教室に入って自分の席に向かおうとした瞬間、ものすごい違和感に見舞われた。

 教室内を見回してみると、席の数は三〇。

 その数に間違いはないはず。

 このクラスを含めて二年生はひとクラス三〇人で、人数の違うクラスはなかったはず、だった。

 なのに席の並びがいつもと違う気がして、あたしは自分の席に向かう足が止まってしまっていた。

 

「おっはよー、アイ。どうしたの? そんなとこに突っ立って」

 

 あたしの後ろから教室に入ってきた沙倉が、いつもの元気な声で挨拶してくるけど、あたしはそれに応えることができない。

 

「貧血? 顔色悪いように見えるけど。大丈夫?」

「何でもない、と、思うんだけど……」

 

 呆然としてるあたしの脇をすり抜けて、不思議そうに首を傾げた沙倉が自分の席に向かっていく。

 あたしもいつまでも扉の前に立ってたら邪魔だと思って、少しよろけそうになりながら自分の席に向かった。

 鞄を机のフックに吊り下げて、右隣を見てみる。

 後ろの席の男子と他愛のない話をしているクラスメイトの男子は、まだ二年になって席替えをしてないから、四月からずっとそこにいたはずなのに、そうじゃないような気がしてならなかった。

 

 ――何があったんだろう?

 

 昨日も何か変な感じがしていた気がするのに、それが何だったのか思い出すことができない。

 すごく不思議に感じてて、堪えられないくらい違和感があったはずなのに、寝て起きたらそれが何だったのか思い出すことができなくなっていた。

 

「おはよう、アイリス。どうしたの? 朝からヘンな顔になってるよ」

 

 そう言ってやってきたのは、マリエちゃん。

 あたしの顔を覗き込んで不思議そうな顔をしている彼女だけど、たぶんあたしはそれ以上に不思議そうな顔をしてるんだと思う。

 何しろ何があったのかぜんぜんわからないのに、違和感ばっかりがものすごくあって、その原因自体ちっともわからないんだから。

 

 騒がしかった男子が何か用事でもできたのか席を立つと、その向こうに座ってる曽我さんと目が合った。

 やっぱりあたしのことを睨んでる彼女。

 うぅん。昨日よりもさらに目が赤くて、まぶたの腫れも昨日以上になっていた。

 まるでひと晩中泣いてたみたいに。

 

「あの、曽我さん?」

 

 思い切って声をかけてみると、彼女は勢いよく立ち上がった。

 何かをあたしに言おうとするように大きく息を吸い込んで、口を開いた彼女。

 でもその口からは何も言葉が出てこなくて、口を閉じては開いて、開いては閉じて、一所懸命何かを言おうとしてるのはわかるのに、でも結局、彼女はあたしに何も言うことはなかった。

 

「どうしたの? ふたりとも」

 

 まだそこにいたマリエちゃんが、あたしと曽我さんのことを交互に見て戸惑っていた。

 

「曽我さん……」

 

 もう一度彼女に声をかけてみるけど、なんて言葉を続けたらいいのかわからない。

 お互い言葉を失って、あたしと曽我さんは見つめ合う。

 少しわかる気がした。

 曽我さんがどんなことを言いたいのか、何となくあたしはわかってる気がする。でも、どんなことなのかと思っても、それが頭の中ではっきりすることがない。

 

 近づこうと席を立ち上がると、いまにも泣きそうで、でも涙は出てなくて、あたしのことを睨んでいるようで、それとは何か違うような表情を浮かべた曽我さんは、あたしから目を逸らして教室から出て行ってしまった。

 

「どこ行くのー?」

 

 マリエちゃんが扉のところまで追っていくけど、曽我さんが戻ってくることはなかった。

 彼女があたしに言いたいことがあるのは、昨日からわかっていた。

 でもそれが何なのか、わかる気がするけど、はっきり聞くことができなかった。

 司馬遷が入ってきて、立っていた人たちが自分の席に戻って、騒がしかった教室が静かになる。

 朝のホームルームが終わって、一時間目の授業が始まっても、曽我さんが教室に戻ってくることはなかった。

 

 

 

 

 ――戻ってこない。

 

 昼休みになって、それでも戻ってこない曽我さんのことが気になっていた。

 携帯端末も鞄も机に置きっ放しだから家には帰ってないと思うし、保健室にでも行ってるのかと思うけど、彼女が最後に見せた表情が頭の中から離れてくれなかった。

 いつもは友達と食べるお母さんにつくってもらったお弁当を急いで食べて、教室を出る。

 急いだと言っても食べるのはそんなに早くないから、もう昼休みは三分の一が過ぎてしまっていた。

 

 とりあえずあたしは、はしゃいでる生徒の間を縫い廊下を通り抜けて、昇降口に向かった。

 自分のクラスの下駄箱の中で、曽我さんのところを見てみる。

 生徒手帳か携帯端末で認証しないと下駄箱の扉は開けることはできないけど、隙間から中を見ることはできる。覗いてみて中に入っていたのは、よく見えなかったけど上履きじゃなくて、外履きのように見えた。

 

 ――じゃあまだ学校にはいるんだ。

 

 去り際泣きそうな顔をしてたから、上履きのまま外に出て行った可能性もある。でもそれだったらそれで、もういまさら追いかけることなんてできない。

 曽我さんがまだ学校から出ていない可能性を考えて、あたしは彼女の姿を探して校内を歩き回ってみた。

 保健室にも、図書室にも彼女はいなかった。

 美化委員だったはずだから、美化委員が用具を仕舞うのに使ってる空き教室にも行ってみたけど、誰もいなかった。

 

 クラスの人とか、彼女が一年のとき同じクラスだった子に聞いてみても、曽我さんを見た人はいなかった。

 もう探すところが思いつかなくて、あたしは階段に腰掛けて歩き回って疲れた脚を休める。

 

「家に帰っちゃったのかなぁ」

 

 携帯端末も鞄もそのままだから可能性は薄いと思ってたけど、見つからないことから考えると帰ったと考えた方がいいのかも知れない。

 それだったら明日会ったときに訊いてみればいいか、とも思うけども、彼女の残した泣きそうな顔が脳裏に浮かんできて、残り少なくなった昼休みの間くらいは探してみようと立ち上がる。

 

 ふと、風を感じた。

 

 座っていた階段の上の方から、冷たい風が流れ込んできているような気がした。

 

「この上は屋上だよね?」

 

 屋上は普段鍵がかけられていて、出られないようになってる。

 屋上に出る階段室には不要な物が置いてあるくらいで、鍵がかかった扉の他は換気用の小さい窓が高いところにあるだけ。授業で使うとき以外には屋上に出たことはなかった。

 換気用の窓を誰かが開けっ放しにしちゃってるんだろう、と思った。

 この上に誰かがいるなんてことはないと思う。

 諦めて教室に戻ろうと階段を下りようとする。

 

『上だよ』

 

 誰かが、ささやいた気がした。

 それは少し前にも聞いたことがある声。

 探してほしいとあたしに訴えてきた声。

 懐かしいような、いつも聞いていたような、耳に馴染むような気がするその声は、耳元とかではなくて、あたしの中からしたような気がした。

 

 もう一度吹いてきた緩い風に外の空気の匂いを感じて、あたしは屋上に続く階段を上がっていく。

 階段室には使っていないのとか古びて壊れた机や椅子が雑然と押し込められていて、灯りも点けられていないから、校舎の中で一番空に近い場所にあるのに、薄暗くて少しじめじめしていた。

 階段を上がりきってすぐ右を見てみると、扉が開いてて微かに隙間があるのがわかった。

 

 ――誰か外に出たのかな?

 

 先生でもいたらどうしようと思いつつ、あたしはそっと扉の向こうを窺う。

 すぐ近くに人の気配はなくて、身体が通り抜けられるくらい扉を開いてあたしは外に滑り出た。

 薄暗くて決して広いとはいえない階段室から屋上に出ると、青空が広がっていた。

 

 校庭より狭いにしても、空に近い広々とした空間の屋上で、あたしは大きく息を吸って開放感を味わう。

 見回してみても、人の姿はない。

 転落とかしないように、屋上にはあたしの背丈の二倍くらいある金網のフェンスが張り巡らせてあって、返しもあるから登るのも難しいくらい。それでも他の学校で物を投げ落としたりする人が出たために、近くの学校では必要なとき以外、屋上は原則使用禁止になっていた。

 そんなフェンスの向こう側にも、もちろん人が立っていたりすることはない。

 誰かが開けたときに閉め忘れただけだろうかと思いながら、あたしは階段室の裏側にも回ってみることにした。

 

「なに?」

 

 階段室の反対側は狭い空間があるだけで、見回す必要もなく誰もいないのはすぐわかった。

 でも何か小さな物を蹴飛ばしたような感触があって、あたしは足下に目を向ける。

 

「鍵?」

 

 蹴飛ばしちゃって少し遠くに転がっていたのは、電子認証じゃない鍵穴に差し込んで使う鍵だった。

 たぶん屋上の鍵だと思うけど、何でこんなところに落ちてるんだろうと拾い上げて不思議に思ってると、微かに誰かの息づかいが聞こえてきていることに気がついた。

 

 ――上?

 

 すぐ側にある、階段室の上に登るためのハシゴ。

 半端な高さで途切れてるそれは、あたしじゃ台の上に乗るか飛びつかないと登れない。

 そのハシゴを登ったところから、誰かの息づかいが聞こえてくるみたいだった。

 狭い空間をフェンスぎりぎりまで下がってみると、人が立っているのが見えた。

 

 ――曽我さん?!

 

 何でそんなところにいるんだろうと考えて思い出す。

 美化委員は週に一回屋上の掃除もしてるから、曽我さんなら屋上の鍵を手に入れる方法があっても不思議じゃない。

 でもなんで彼女がそんなところに登ってるのかは、ちっとも理由が思いつかない。

 声をかけようと思って、ためらう。

 赤いままの目で、何かを決めたような表情の曽我さん。

 階段室の屋根の高さはフェンスよりも少し高いくらいで、次の瞬間曽我さんが何をするのか、予想をするまでもなくわかる。

 

 ――やっぱり、声をかけよう。

 

 そう思い直して口を開いたとき、曽我さんは泣きそうな顔で強く目を閉じて、走り始めた。

 

「あ――」

 

 かろうじて言葉が声になったとき、フェンス越しに曽我さんと目が合った。

 彼女はあたしのことを責めるような、でもそれとは違う、自分を責めてるような、悲しそうな目をしていた。

 それが見えていたのも一瞬の出来事。

 すぐに曽我さんの姿は見えなくなった。

 膝に力が入らなくなって、ぺたんとその場に座り込む。

 頭の中が真っ白になっていた。

 曽我さんが、階段室の上から校舎の下に飛び降りた。

 そのことだけはわかってる。

 わかってるのに、あたしは座り込んだまま動くことができなかった。

 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴っても、あたしは立ち上がることができないままだった。

 

 

 



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第二章 日記とイーリスと未来予報士 1 司馬遷ライオン

 

 

第二章 日記とイーリスと未来予報士

 

 

       * 1 *

 

 

 震える膝を奮い立たせて、あたしはどうにか立ち上がる。

 曽我さんが飛び降りた。

 そのことだけはわかってるんだから、とにかくそのことを誰かに伝えて、どうにかしなくちゃいけない。

 フェンスをつかんで、曽我さんが落ちた方に捕まり歩きで移動して下を見てみようとするけど、落ちていった辺りまでは見ることができなかった。

 

 身体が震えてる。

 

 いろんなことが思い浮かんでは消えていく。

 想像することはやめて、でも考えることはやめないで、大きく何度か深呼吸をしたあたしは、やっと膝の力を取り戻す。

 手につかんだままだった鍵をスカートのポケットに押し込んで、階段室の扉から校舎に入って階段を下りていく。

 

 ――あんなところから落ちたら、無事で済むはずがない。

 

 校舎は三階建て。

 階段室の上からだから、四階くらいの高さから落ちたことになる。

 膝が笑っていて一歩一歩踏みしめるように階段を下り始めたのに、気がついたら早足になっていた。

 

 ――普通なら。

 

 止まりそうになる頭を動かし続けるために、あたしは考えることをやめない。

 高いところから落ちたら怪我をする。

 あの高さから落ちたなら、どんなに軽くても大怪我をする。

 二階から一階に下りるときには、あたしは走っていた。

 

 ――大怪我で済まなかったら?

 

 そう自分に問いかけて、あたしはまた頭の中が真っ白になっていた。

 いつの間にか本鈴も鳴ってたらしく、廊下には人影はなかった。

 しんと静まり返った校舎で、あたしは階段の手すりに体重をかけてかろうじて立ちながら、残り数段を必死になって踏みしめる。

 大怪我で済まなかったときのことが、どうしても考えられない。考えたくない。

 最悪の事態も考えなくちゃいけないのに、あたしは曽我さんが落ちた場所に向かいながら、思考停止に陥っていた。

 

 苦しくなるほど心臓が脈打ってる。

 昇降口に向かう脚が鉛のように重い。

 気が遠くなるような気持ちになりながら、あたしは歩くよりも遅い足取りで、その場所に向かった。

 

「ここ、だよね?」

 

 ポーチのようなコンクリートが剥き出しになってる場所に、曽我さんは落ちてきているはずだった。

 でも、そこには何もない。

 周りを見回してみても、曽我さんの姿はなかった。

 近くに引っかかるような木もないし、校舎を見上げてもどこかに引っかかってるなんてこともなく、コンクリートの上にも、人が落ちてきたような跡は残ってなかった。

 曽我さんは、消えてしまっていた。

 

「確かに落ちたよね?」

 

 口に出して確認してみるけど、誰かが応えることはない。

 曽我さんが落ちたことに気づいて集まってる人も、ひとりもいなかった。

 もしかしたら誰かが助けたのかも知れないと思って保健室に走っていく。

 授業中だけど気にしてられなくて開けた扉の向こうには、誰もいなかった。カーテンが開けられていて見えてるベッドにも、寝ている人はいなかった。

 

「嘘……」

 

 いまの状況をどう考えていいのかわからなくて、ただつぶやく。

 何が起こったのか、本当にわからなかった。

 あたしは確かに曽我さんが落ちていくのを見たはずなのに、その痕跡はなくて、誰かがそのことに気づいた様子もない。

 授業に入った校内は静まり返っていて、あたしだけが取り残されたみたいに保健室の前で突っ立っていた。

 

「何が起こったの?」

 

 ちっとも状況を理解することができなくて、あたしはもう考えることができなくなっていた。

 

 

 

 

 教室の後ろの扉を開ける。

 クラスメイトの視線があたしに集まる。

 教壇に立っているのは、いつも通りきっちりしたスーツ姿のライオン。

 見事な毛並みをしてるのに、頭頂部だけがバリカンで刈り取ったみたいに薄くなってるたてがみ。逆モヒカンみたいになってる司馬遷ライオンが、肉球のある手で器用に教科書表示用のスレート端末を持って、教壇からあたしのことを捕食対象でも見るみたいな目で睨みつけてきていた。

 

「どこ行ってたんだ、立花」

 

 あたしの頭くらいぺろりと食べてしまいそうな大きな口で問われて、あたしは泣きそうになる。

 

「あの、曽我さんが……。曽我さんが……」

 

 身体の力が抜けそうになって、あたしは教室の扉をつかんでどうにか立っていた。

 

「曽我?」

 

 獲物に狙いを付けるように目を細めて、司馬遷ライオンはあたしのことを睨み続けている。

 

「曽我さんが屋上から飛び降りて、その――」

「ちょっと待て」

 

 威嚇するような鋭い声に止められて、あたしは口をつぐむ。

 

「そもそも曽我ってのは誰なんだ」

「え?」

 

 問われて驚く。

 

「曽我さんです。曽我フィオナです、先生」

「だからそれは誰なんだ。二年に曽我って名前の生徒はいないぞ」

 

 嘘を吐いているようには見えない司馬遷ライオンの言葉に、あたしは教室を見回す。

 机の数は二九。

 ひとつ、減っていた。

 

 ――違う。

 

 あたしの中で、あたしが否定する。

 胸の中の箱が、激しく震えて否定する。

 ひとつ、と思った瞬間に感じたのは、強烈な違和感。

 吐き気がするほど感じるそれに、あたしはなくなった机がひとつじゃないことを意識する。

 

 ――昨日、あたしは何に違和感を感じてた? 今日の朝、何で違和感を感じたの?

 

 自分の席を見て、その右隣を見てみる。

 他のみんなと一緒にあたしのことを見つめてきている男の子。彼の顔が、そこに見えていることに、あたしは違和感を覚えてる。

 

 ――減った席の数は、ふたつだ。

 

 昨日のことをあたしは思い出した。

 なぜ忘れていたのかわからない。あれだけ不思議に思ってたのに、いまのいままで思い出せなかったことが信じられない。

 昨日あたしが不思議に思っていた空席。

 その空席があったとき、教室の中にあった机は三一だったはずだ。

 曽我さんの席も、昨日誰も気にしていなかった空席も、いまは跡形もなくなってしまっている。

 どうしてそんなことが起こってるのか、あたしには少しも理解できなかった。

 

「とにかく自分の席に座りなさい」

 

 沙倉とマリエちゃんがあたしに心配そうな目を向けてきていたけど、それはあたしに対する心配であって、いなくなってしまった、席さえなくなってしまった曽我さんへの心配じゃない気がした。

 倒れそうになる足取りで机の間を縫って、自分の席に座る。

 本当に何が起こったのか理解できなかった。

 何をどうしていいのかわからなかった。

 あたしにはこの教室が、この世界が、歪んでるようにしか見えなかった。

 

 

 



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第二章 日記とイーリスと未来予報士 2 未来予報士

 

 

       * 2 *

 

 

 五時間目と六時間目の授業は少しも頭の中に入ってこなかった。

 いつの間にか授業が終わっていて、下校の時間になってて、沙倉とマリエちゃんが心配してくれてた気がするのに、なんて返事したのかも憶えてなかった。

 そんな呆然としてるあたしのことを心配してくれる人は、たぶん何人かいた。

 

 でも曽我さんのことや、昨日まであったあたしの隣の空席のことを気にしてる様子のある人は、ひとりもいなかったと思う。

 世界が歪んでるように思えたけど、本当はあたしがおかしくなっただけなんじゃないかと思っていたりもした。

 学校を出てどこをどう歩いたんだろう。

 いつの間にか学校に一番近い駅の商店街まで来ていた。

 そろそろ夕食の材料の買い出しの時間なんだろう。商店街にはたくさんの人が行き交っている。

 買い物かごをくちばしに咥えたまま器用に井戸端会議を繰り広げる主婦ダチョウの群れを避けて、道を縦横無尽に走り回ってる長靴を履いた子猫たちにぶつからないように気をつけながら、あたしは目的もなく商店街を歩いていく。

 

 家から遠ざかっているのはわかっていた。

 行きたいお店があるわけでもなかった。

 ただ、立ち止まっているのはイヤだった。

 

 立ち止まってしまうと、曽我さんのことを、あのとき彼女が見せた目を思い出してしまいそうで、怖くて仕方がなかった。

 

「ここって?」

 

 ふと立ち止まってしまった商店街の外れの行き止まり。

 T字路になってるそこにあったのは、一軒の喫茶店。

 何も考えずに歩いてきたと思ったのに、あたしは何でかここに来なくちゃいけないような気がしていた。

 聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、あたしは誘導されてきたような気がした。

 木をふんだんに使った古風な造りの店構えをして、少しかすれた文字で「喫茶ジャンクション」と看板が掲げられたそのお店は、確か昨日沙倉とマリエちゃんが話していた占い師っぽい人がいるというところだったはずだ。

 

 昨日の話を聞いてる限りおもしろそうだと思ったし、今日はふたりの報告を聞いてる余裕はなかったけど、来てみたいと思っていたお店だった。

 チェーン店のような気軽さじゃなくて、落ち着いた雰囲気があって、ひとりで入るのはちょっとためらっちゃうような喫茶店。

 でも近づいてガラス張りのところから中を覗くと、優しそうな女の人が微笑んであたしに手招きしてることに気がついて、思い切って扉に手をかけた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 よく通る澄んだ声は元気も良かったけど、それよりも優しさを感じる声で、頭も身体も疲れていたあたしは、微笑む女性に手で勧められるままにテーブル席のひとつに着いた。

 照明は暗めで、しっかり使い込まれたテーブルや椅子は、古びているようにも見えるのに、汚れているわけじゃなく時間を経た重厚な質感の壁や床と一緒に、ここにあるべき物として馴染んで見えた。

 お店の中を見回してみると、あたしの他にお客さんはいないようだった。

 

 微かにクラシックらしい音楽が流れている店内は、外から見たときよりも広くて、一番奥はわずかにテーブルと椅子があるのがわかるくらいに暗くなってる。

 カウンターの方を見ると、奥手の棚に並んだ食器たちは使い込まれてるみたいなのに、みんなぴかぴかに輝いているようだった。

 それから、カウンターの内側に男の人がいることに気がつく。

 白が混じる口ひげの男の人は、手元で忙しく作業をしてるというのに、まるでインテリアかお店の一部みたいに存在感が薄かった。

 二脚ずつの椅子がある四人用のテーブル席に座るあたしは、肩から提げていた通学用の鞄を隣の席に下ろして、ほっと息を吐く。

 あたしがいるのは場違いなような気がするのに、何故かこのお店は落ち着くことができた。

 

 外から切り離されたような静寂の空間。

 時間が止まってるような穏やかな世界。

 不思議なことが一度にありすぎて、昨日から混乱しっ放しだったあたしは、いまやっと本当に落ち着くことができたような気がしていた。

 

「どうぞ」

 

 制服なんだろう、ふくよかな胸までを覆う白いエプロンと、黒に近い深い緑色のワンピースを身につけた二〇歳かそれくらいの女性は、背の半ばまでの長さがある、お店の照明の光を吸い込んでるような黒髪を揺らしながら、水の入ったコップを持ってきてくれた。

 少し丸顔の彼女が優しい笑みとともにメニューを差し出してくれる。

 微かにレモンの香りがついた水に口をつけて、もう一度息を吐く。

 開いてみたメニューは流れるような筆記体の英語で書かれていて、それぞれの商品には小さめのカタカナで読みが書かれてあった。

 値段は普通の喫茶店並み。

 高いわけじゃないけど、チェーン店のメニューみたいに安いわけじゃないから、アルバイトもしていないあたしの懐には決して安い値段じゃなかった。

 

「可愛い制服ですね」

 

 注文を待っているのかテーブルの隣に立ってる女性が、あたしの制服を見て柔らかく笑む。

 学校の近くに住んでるデザイナーの人がデザインしたといううちの高校の制服は、チェックのスカートと凝ったデザインのジャケットが特徴的で、ほとんどそのままのデザインでアニメとかに使われることもあるくらい有名だった。

 あたしは家の近くだからということで受験したのもあるけど、制服目当てに遠くから受験する人もいると聞いたことがあるくらいで、あたしも気に入っていた。

 

「昨日もいらっしゃってましたね、貴女と同じ制服の方が」

「あ、たぶん友達だと思います。昨日行くって言ってましたから」

「そうだったんですね」

 

 結局ふたりは占い師みたいな人には会えたんだろうか。

 見てみた限り、マスターとこの女の人の他に人はいなくて、占い師っぽい人は見あたらない。

 いつもいるわけじゃないんだとしたら、今日はいない日なのかも知れなかった。

 

 ――そもそも、その人に会ってどうにかなることじゃないかも。

 

 別に今日は占い師っぽい人に会いに来たわけじゃない。たまたまこのお店の前を通りがかって、興味があったから入ってみたってだけ。

 話をしたくてお店に立ち寄ったわけじゃない、はずだった。

 そうは思うけど、せっかくだと思って、あたしは女性に訊いてみることにした。

 

「あの、ここにはその、占い師みたいな人がいるって聞いたので来てみたんですけど……」

「そうなんですね。それでしたらまずはご注文をどうぞ。疲れたときにはココアがお勧めですよ。マスターお手製のココアは、疲れた身体と頭に染みてきます」

 

 柔らかい笑みはそのままに、女性はメニューをめくって一番最初のページを見せてくれる。

 

「今日は特別価格でご提供中です」

 

 趣のあるメニューと違って、そこだけ丸っこい手書きの文字で書かれた紙が挟んであるページには、ココアが三分の二の価格だとなっていた。

 

「それからクランベリーの焼きケーキはいかがですか? 少し酸味を強めにしてありますので、ココアにはぴったりです」

 

 女性が手で示してくれたお店の入り口に近い場所の木製の台の上には、いくつものホールケーキ用のお皿がガラスのカバーを掛けられて置かれていた。切り分けて出しているらしいケーキはどれもあとひと切れかふた切れしかなかったけど、ひとつだけ半分ほど残ってるケーキがあった。

 

「実は今日はお客さんの入りがこんななので、ケーキはサービス、無料でおつけします」

 

 確かにいまはお客さんはあたしの他にいないけど、夕方くらいになったらそんなこともないんじゃないかなと思う。

 でも無料でケーキがつくと聞いたら、頼まない理由は見つからない。

 

「それじゃあココアとクランベリーの焼きケーキをお願いします」

「はいっ」

 

 にっこりと笑んだ女性は、手書きの伝票に鉛筆で注文を書きつける。

 もう一度あたしの方を見た彼女は、言った。

 

「それから、貴女の探してるのは、たぶんわたしです。わたしは未来予報士。お店のウェイトレスもしていますが、貴女がここに会いに来たのは、未来予報士のみのり、わたしのことだと思います」

 

 ただのウェイトレスにしか見えなそのい女性、みのりさんは、そう言ってちょっといたずらな笑みを浮かべた。

 

 

 

 

「おいしい……」

 

 甘みが強めのココアはただ甘いだけじゃなくって、喉を通るときの微かな苦みと合わさって嫌な味を残すことはなかった。

 言ってたとおり酸味のあるクランベリーの焼きケーキは、単品だと添えられた生クリームと一緒に食べてちょうどくらいの感じ。でも生クリームをつけずに食べて、口の中に酸っぱさを残した状態でココアを飲むと、それぞれ別に食べるのとは違うすっきりとした味わいを楽しむことができた。

 マグカップと呼ぶにもあまりに大きいカップと、夕食に響きそうなサイズのクランベリーの焼きケーキは、安心するだけでは回復しなかったあたしの元気を、充分に取り戻してくれた。

 

「それで、わたしにご用ということでしたね」

 

 わずかにでも残すのが惜しくて、ケーキの小さな欠片まで食べ終えた頃、未来予報士だと言ったみのりさんが、マスターにひとつ目配せをしてからあたしの正面の席に座った。

 

「えぇっと、占いをしている、んですか?」

「いいえ。占いはどうもダメで……。タロットカードとかホロスコープとか、細かいことを憶えるのは苦手なんですよー」

 

 マリエちゃんが「占い師っぽい人」って言ってた意味がわかった気がした。

 でもじゃあ「未来予報士」っていったい何なんだろう? と疑問が湧く。

 目の前でにこにこと笑ってる女性の正体に、あたしは頭の中にぎっしりと疑問符が浮かんできていた。

 

「それではまず、ここに貴女のお名前を書いていただけますか? えぇっと、たぶんいまは、アルファベットで書いていただいた方がいいのかな? うん、たぶんそうだと思います」

 

 誰に話しかけているのか、ひとりで何かを納得しながら、みのりさんが裏にした伝票と鉛筆を差し出してくる。

 スタイラスペンだったらよく使うけど、ボールペンでも最近はそんなによくは使わない。鉛筆を持つのは小学生以来だっけ、と思いながら、言われた通り「アイリス立花」をアルファベットで伝票の裏に書いた。

 

「イーリスさん、でよいですか?」

「え? あたしの名前は、アイリス、で……」

 

 アルファベットにするとあたしの名前は「Iris Tachibana」。

 確かにイーリスとも読めるけど、お母さんがつけてくれた名前はアイリスで、アイと略して呼ばれることはあっても、イーリスと呼ぶ人はいままでいなかった。

 

 ――そのはず、だよね?

 

 みのりさんにイーリスと呼ばれてから、何かヘンな感じがした。

 ただ読み方が違っただけのことのはずなのに、胸を締めつけられたみたいな痛みを感じた。

 なんで痛みを感じてるのかもよくわからないのに、痛みだけはすごく激しくて、胸の中に仕舞い込まれて取り出すことができない箱が微かに開いたような気がして、さらにそこからこみ上げてくる気持ちを抑えきれなくなっていた。

 目を細めて柔らかく笑むみのりさんの姿が揺らめいたと思ったら、あっという間にテーブルの上に組んだ手の上に滴が零れ落ちてきた。

 抑えられない気持ちが涙となって、次々とこぼれ落ちていく。

 

 胸が痛くて、締めつけられるようで、緩んだ涙腺を締め直すことができない。

 悲しいのか、つらいのか、苦しいのかすらわからない涙は、でも次々とあふれ出してきて、テーブルに突っ伏したあたしはしばらくそれを止めることができなかった。

 

「とても大切なものをなくしてしまったのですね」

 

 刺繍のついた薄ピンク色のハンカチで涙を拭ってくれたみのりさんは、微笑んでいたりはしないのに、その瞳に浮かんだ優しい色が、あたしのことを包み込んでくれた。

 

「あたしまだ、何にも言ってないのに……」

 

 やっと涙が収まってきたのに、まだ少し喉が詰まって、ちゃんとしゃべることができない。

 

「そんな感じがしたんです。アイリスさんはもう何日も、その大切なものをなくしてしまってからずっと、探し続けてるような、そんな感じが」

 

 黒い髪よりもさらに深い黒さを持った瞳の中に、小さくあたしの姿が映っていた。

 みのりさんの深いところに、どこまでもどこまでも吸い込まれてしまっているような、そんな錯覚を覚える。

 

「でも、その探しものを見つけることは、この世界ではできません」

 

 少し悲しそうにわずかに目を伏せるみのりさん。

 

「どうしてですか?」

「アイリスさんが探しているひとつ目のものも、ふたつ目のものも、もうこの世界には存在していないからです」

 

 意味がわからなかった。

 あたしが見つけたいと思ってるもののひとつは、もうなくなってしまった右隣の空席の主。右側にいてくれたはずの誰か。

 それからもうひとつは、曽我フィオナ。

 少なくとも曽我さんは、今日のお昼まで確かにいたんだから、世界には存在していないという言葉の意味を、理解することができなかった。

 

「ここはとても強い、ひとつの願いによって生まれた世界です。本来世界には相容れることのない、たったひとつの願いだけを実現したがために、歪んでしまっています。歪みのある世界は、歪みがいつか何らかの形で定着して安定するか、歪みが広がって崩壊に至るかのどちらかの道を辿ります。アイリスさんの探しているものは、歪みの向こう側にある、この世界の根幹である願いの向こう側にあるものです。ですからいまこの世界で見つけ出すことは、不可能です」

 

 やっぱりみのりさんの言ってることがよくわからない。

 世界の歪みとか、願いで生まれたとか言われても、わかるわけがない。

 でも、あたしをじっと見つめてくる彼女の瞳には、少しも揺らぎはなかった。

 嘘を吐いてるとか、冗談を言ってるとかじゃなくて、みのりさんにとって見えてる世界は、そういうものなのかも知れない、と思えた。

 

「じゃああたしは、どうすればいいんですか?」

「逆にお訊きしますが、なぜ探しているんですか?」

 

 問われて「別に探してない」と答えようとして、その言葉が口から出てこなかった。

 真っ直ぐな視線であたしのことを見つめているみのりさんの瞳に、飲み込まれてしまう。

 探したい、という気持ちがないわけじゃなかった。

 でも、とくに探しているというほど、何かをしてるつもりもなかった。

 違和感があって、不思議な感じがして、消えてしまった曽我さんのことは気になってるけど、具体的に何かをしたいわけじゃない、と思っていた。

 改めて問われて、あたしは自分がその違和感を、不思議な感覚の正体を、知りたいと思ってることに気がついた。

 

 ――うぅん。それどころじゃないんだ。

 

 見つけたいと思ってる。

 知りたいと、願ってる。

 

 あのときあたしはあたしの中から聞こえた気がした声に、「探すよ」と応えた。

 それは「探して」と言われたからそう応えたんじゃない。あたしが、あたし自身が探したいと思ってるからそう応えたんだって、いまになって気がついた。

 胸の中にあるような気がしてる固く口を閉ざした箱。それに触れてはいけないような気がしてるのに、もう放っておくことはできないんだと気がついた。

 

「どうしても見つけたいんです。どうしても探したいんです。それが何なのかも、わからないんですけど……」

 

 泣きそうだった。

 さっきみのりさんにイーリスと呼ばれたときも不思議だったけど、あたしには泣く理由も、泣くための想いもない。自分でわかってない。

 それなのに右側にある空白が、そこにいつもあったはずの何かが、あたしの胸を締めつける。

 あたしの中のあたしが、探してくれと訴えてくるように、まだまだ固く閉じているままの胸の中の箱を、強く意識させる。

 我慢することができなかった。

 ついさっき泣きやんだばかりなのに、あたしの目に熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。

 そんなあたしを見て柔らかく笑むみのりさんは言う。

 

「だったら、探してみてください。この世界にいる限り、探しているものそのものを見つけることはできません。でも、痕跡はあります。それを見つけることができれば、アイリスさんは歪みの向こう側にあるものを、この世界の外にあるものを、知ることができます。それが世界にどんな影響を及ぼすことになるのか、この世界を生み出すことに至った存在にどんな影響を与えるのかはわかりません。それでも、探すしかないのであれば、探してください」

 

 真っ直ぐな視線を向けてきてくれているみのりさんに、あたしは問う。

 

「どうやって探したらいいんですか? その痕跡って、いったいどんなものなんですか? どうやって何を探したらいいかなんて、あたし、わかんないですよ――」

 

 あふれてきた涙は、もう止めることができなかった。

 胸の中にある箱が、暴れてちくちくと心を責め立てる。

 痛くて、苦しくて、でも、やっぱりあたしは諦めることができそうにない。

 気づいてしまった自分のやるべきことを、放っておくことはもうできない。

 

「信じて、ください。必ず見つけると、必ず見つかると、信じてください。それから想ってください。願いによって生まれ、歪みをはらんだこの世界は、強い想いがすべてに勝ります。わかることをわかる限り想って、そしてたとえ同じ場所でも、何度も探してみてください」

「そんなことで――」

「大丈夫です」

 

 あたしが言いかけた言葉を遮って、みのりさんはあたしの右手をつかんで両手で包み込む。

 少しひんやりしていて、気持ちよかった。

 胸の中にある痛みが、ほんの少しだけ和らいだような気がした。

 

「信じてください、自分自身を。だってアイリスさんはいま、こんなにも強く想ってるじゃないですか」

「はい……」

 

 そう言って優しく笑むみのりさんの前で、あたしはしばらく泣き続けていた。

 

 

 



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第二章 日記とイーリスと未来予報士 3 イーリス

 

 

       * 3 *

 

 

 どれくらいお店にいたんだろう。外は薄暗くなり始めていた。

 

「すみません。今日は本当にありがとうございました」

「いえいえ。わたしにできることはたいしたことではありません。わたしは、わたしが見えている世界の有り様から、アイリスさんの望む方向を示すことしかできません。実際に何かをするのはアイリスさん自身です」

 

 そう言って笑むみのりさんのことがやっぱりよくわからない。

 未来予報士というのがいったいどんな人なのか、あたしはうまく理解することができなかった。

 それでもほんの少しだけ、わかった気がした。

 みのりさんの見ている世界が、みのりさんに見えてる世界のことが。

 

 ――確かにすごい人だね。

 

 未来予報士というくらいだから、未来を予報する人だとは思うんだけど、それをしてもらったのかどうかはわからない。

 ただみのりさんが、あたしや、普通の人が見ているものよりもすごく広いものを見てるんだろう、ってことだけは、今日話してわかることができた。

 鞄のサイドポケットからハンカチを取り出して涙の跡を拭いたあたしは、鞄を肩に担いで席を立つ。

 

「あぁ、うちではそれ、使えないんですよ」

 

 飲んだココアの分を支払おうと携帯端末を取り出すと、そう言われてしまった。

 確かに古い造りのお店だけど、まさか電子決済ができないなんて思わなかった。現金なんていつもは持ってない。

 

「ど、どうしたらいいんでしょう……」

「んー」

 

 唇に人差し指を当てて少し考えるみのりさん。

 

「それでしたら、すべてが落ち着いた後、またお店に寄ってください」

 初めて来た人を信用するのもどうかと思ったけど、優しく笑むみのりさんに「必ず」と答える。

「それと、できたら今日お話を聞いていただいたお礼も、何かできたらと思うんですけど」

 

 今日、あたしはみのりさんの言葉でずいぶん気持ちを落ち着けることができた。

 それが未来予報なのかどうかはわからなかったけど、渡された伝票にはココアの料金しか書かれていなかった。話を聞いてもらって、言葉をもらった分は、別の形でお礼がしたいと思っていた。

 

「別にわたしは気にしないんですけど、そうですね――」

 

 首をこてんと傾けながら考えて、ちらりとマスターの方に視線を走らせたみのりさん。

 

「駅前に新しいケーキ屋さんができたのは、ご存じですか?」

「えぇっと、はい」

 

 まだ行ったことはなかったけど、沙倉が話していた分には、どこか海外で修行して日本に帰ってきたパティシエの人が始めたというお店だったと思う。お母さんも知ってて、かなりおいしいという評判は聞いていた。

 

「でしたらそこのケーキをお願いできますか?」

「まだ行ったことはないんですけど、どんなのがいいんでしょう?」

 

 もう一度マスターに目配せをしたみのりさん。

 今度はマスターもみのりさんに視線を返して、言葉はないのにふたりは意志が伝わったかのように頷きあう。

 視線だけでどんなやりとりがあったのかはわからないけど、すごくおいしかったクランベリーのケーキをマスターが焼いてるのだとしたら、マスターも甘いものが好きなのかも知れない。

 

「詳しくはお任せします。ただ確か、あそこはタルトケーキが一番だと聞いたことがありますので、行ったときに残っていたらタルトケーキをふたり分、お願いします」

「わかりました。近いうちに、必ず持ってきます」

「はいっ。お願いします」

 

 みのりさんの笑顔に送られて、あたしは喫茶ジャンクションを出た。

 お店に入る前とはぜんぜん身体の軽さが違う。

 走るくらいの速度で歩いて、夕暮れに沈む家への道を急いだ。

 

「ただいまー」

「お帰りなさい。遅かったんですね」

「うんっ」

 

 お母さんへの挨拶も早々に、あたしは自分の部屋へと飛び込む。

 みのりさんに「探してみてください」と言われて、あたしはとにかく手近なところから、自分の部屋から探すことにした。

 部屋にあるのはクローゼットと勉強机、小物とか少ない本を詰め込んである大きいのと小さいのの棚、それから鏡台とベッドくらいで、あんまり広い部屋じゃないから、物も多くない。

 みのりさんの言っていた痕跡というのがどんなものかもよくわからないけど、とりあえず部屋着に着替えたあたしは、部屋の中の捜索を始める。ここで見つからなければ、あんまり使わない物を置いてある屋根裏部屋の捜索になる。

 毎日いる部屋だからどこにどんな物が置いてあるかなんてよくわかってるし、その中から何かおかしいものがないかなんて思っても、早々見つかるもんじゃない。

 

 部屋をひっくり返すみたいに全部のものを引っ張り出してみる。

 どんなものがその痕跡なのかわからないから、あたしは部屋にあるひとつひとつの物を取り出してきてはヘンなところがないか見てみた。

 結局、自分の部屋の中じゃそれらしいものを見つけることができなくて、屋根裏部屋の自分の物が置いてある場所も探してみたけど、これだと思うものは見つからなかった。

 

「アイリスー。そろそろご飯ですよー」

「はーい」

 

 屋根裏部屋から下りてきたところでお母さんに呼ばれて、あたしはできるだけ急いで夕ご飯を済ませる。

 戻ってからしっちゃかめっちゃかにしちゃった部屋の中をいったん片付けて、その頃にはずいぶん遅い時間になってしまっていた。

 

「見つからないなぁ……」

 

 まだまだ捜索は始めたばっかりだって言うのに、ちょっとめげそうになっていた。

 一階の部屋とか学校とか、探すところはたくさんあるのはわかってるのに、見つかる気配さえ感じないことに、少し気持ちが疲れてきてしまっている。

 お風呂が沸いたって言うお母さんの声が聞こえてきて、部屋を片付け終えたあたしはパジャマと換えの下着を取り出す。

 

「探すの、明日にしようかな……」

 

 胸に溜まってきた諦めの気持ちを吐き出すために息を吐いて、あたしはお風呂に入るために部屋を出た。

 

 

 

 

 シャツを汚れ物のカゴに放り込んで、少し埃っぽくなってるスカートをクリーニングに出そうかどうか悩んで、とりあえず畳んでおくことにする。

 お父さんと言えど下着を見られるのはいくら何でも恥ずかしいから、脱いだのは下着用のネットにさっさと入れて、浴室に入った。

 伸ばした方が大人っぽくなるかなぁ、なんて考えながら、高校に入るときにショートにした髪について悩みながら洗って、いつになったらお母さんみたいに女性らしく成長するんだろうと思いつつ身体を流す。

 

 お父さんもお母さんもお風呂好きだから、家の中で一番気合いを入れて選んだんじゃないかと思うくらいの広い湯船に身体を浸した。

 深さはそれほどじゃないけど、背があんまり高くないあたしじゃ相当余裕がある浴槽の中で、足をしっかり伸ばして疲れを吹き飛ばすために伸びをした。

 自分の部屋と屋根裏はひと通り探してみたけど、みのりさんが言っていた痕跡のようなものは、とくに見つからなかった。

 思えばあのフィルムカメラは謎ではあるんだけど、それであるような気がするのに、何となくピンと来ないのは、あれがあたしの探してる痕跡じゃないからかも知れない。

 

 湯船から右腕を出して、真っ直ぐに伸ばす。

 信じてください、とみのりさんは言っていた。

 

 何を信じていいのか、何を見つければいいのか、あたしは知らない。

 それでも確かに、あたしの胸の中には、何かが仕舞い込まれた開かない箱のようなものがあると感じてる。

 目を閉じて、あたしはここ数日のことを思い返す。

 

 右側の空席。

 右側の空白。

 

 手を伸ばせば触れられそうなのに、いまは触れることができないもの。

 暖かかったような気がした。

 暖かくて、幸せなもののような気がしていた。

 朧気ながらも、あたしはそれがなんなのかつかもうとする。

 

『イーリス』

 

 キュッと握りしめた右手で、何かがつかめたわけじゃない。胸の中の固く閉じた箱が開いてくれたわけじゃない。

 それでも、何となくだけど、何かに触れることができたような気がした。

 目を開けて立ち上がって、あたしはもう一度部屋を探してみるためにお風呂を出る。

 身体を拭いて髪をドライヤーで乾かして、パジャマを身につけたあたしは部屋へと急いだ。

 一度探したところをもう一度探す。

 つかめたような気がするもの。触れたような気がするもの。

 さっきは見つけることができなかったものが、いまは見つかるような気がしていた。

 

「これ、なんだったっけ」

 

 いまじゃ教科書もノートも端末を使って見たり書いたりするものだし、本も電子書籍が当たり前だから、棚には紙の本はあんまりない。

 少ない本の間に挟まっていた薄い本を見つけて、あたしはそれを引っ張り出してみた。

 

「アルバム、だよね」

 

 厚紙を二つに折って表紙にしたようなその本は、開いてみると写真が挟まってるアルバムだった。

 写真なんて端末かデジタルカメラで撮ることばっかりだから、メールか直接ファイルでやりとりするくらいで、シールにしたり印刷したものはあげたりもらったりもするけど、写真データはほとんど端末の中に入ってる。

 アルバムだってデータで持ってるのは多いけど、印刷したものをこんな風に本のアルバムにしてもらった憶えは、あたしにはなかった。

 

「これ、いつ撮ったんだろ」

 

 アルバムのページは十六ページと少なくって、一ページに二枚ずつ、最後のページには挟まってないから写真は全部で三十枚。場所はたぶん家から自転車で行ける距離の遊園地で、コートを着てるから冬か春に行ったときのだと思う。

 不思議なのは、写真にはほとんどあたししか写ってないこと。

 自分で撮った感じじゃないから、誰かと行ったんだとは思うけど、他の友達は写真の端っこにも写ってないから、たぶん誰かふたりで行ったんじゃないかと思う。

 

 でも、あたしは憶えてない。

 

 いつ誰と、この遊園地に行ったのか、ぜんぜん憶えてなかった。

 写真の端ににじんだ感じで読みにくく写り込んだ日付に気づいて、よく見てみる。その日付に間違いがないなら、今年の四月三日に行ったことになるけど、その日自分が何をしていたのか、あたしは記憶してなかった。

 

「そうだ。日記に何か書いてたかも」

 

 つぶやきながら、あたしは勉強机の椅子に座る。

 机のソフトとか音楽データのパッケージが立ててあるところから、一冊の本を取り出す。

 たぶんフェイクだと思う、焦げ茶色の落ち着いた革風の装丁がしてある鍵付きの本は、日記帳。

 日頃あったことはネットの自分のスペースに書いてアップしてるし、友達なんかと共有してたりもするけど、自分だけに仕舞っておきたいこととかは、手書きの日記帳に書くことにしていた。

 

 記念の日のことだったらネットにもアップするし、日記帳にも書いてることが多い。それぞれの内容は少しずつ違うことが多いけど、ふたりきりで誰かと出かけたんだとしたら、ネットよりも日記帳に書いてる可能性の方が高い。

 携帯端末のストラップにつけてある鍵で日記を開いて、その日付のページを見てみる。

 

「なんで、書いてないの?」

 

 遊園地に行ったはずの四月三日の欄は、何も書いてなかった。

 机の上の据置端末の電源を入れてネットの方も確認してみるけど、そっちにも何も書いてはいない。

 遊園地に行くとかそういうイベントがあった日には絶対書いてたはずなのに、あたしはその日のことを何も書いてなかった。

 日付が違うのかと思ってページをめくって他の日も確認してみる。

 

「こんなのあり得ない……」

 

 遊園地に行ったことを書いてないだけじゃない。

 ゴールデンウィーク中のことも書いてなければ、冬休み中は元旦に家族で初詣に行って、二日におばあちゃんのところに年始の挨拶に行ったことしか書いてない。

 日記は三年分書けるようなもので、高校に入るときに買ったもの。主に記念日のような日にしか書いてない日記だから空白が多いわけだけど、どんどん過去のページをめくっていくと、バレンタインデーの日も、クリスマスイヴの日も、何かがあって何かを書いたような気がするのに、確認してみると何も書いてなかった。

 

「そんなはずない」

 

 嫌な違和感を覚える。

 昨日メールをしようとしたときと同じ感じの、でもそれよりも強い違和感。

 普段やっていたはずのことが、わからなくなってる。記憶からも、記録からも消えてしまっている。

 

「そんなはずない……」

 

 もう一度同じ言葉をつぶやいて、あたしはアルバムを見返す。

 アルバムの中で、あたしは笑っていた。

 すごく、すごく幸せそうな笑顔だった。

 たぶん大切な人と出かけたからこんなに笑ってるんだと思うのに、あたしは少しもそのときのことを思い出すことができない。

 

「そんなはず、ないのに……」

 

 また泣きそうになってくる。

 たぶんこれがみのりさんの言っていた痕跡なのに、あたしはこれがどんな意味を持つものなのか、わからなかった。

 

「そうだ、カメラ」

 

 写真をよく見ると、プリンタで印刷したものじゃない。デジタルカメラとかで撮ったものじゃなくて、たぶんフィルムカメラで撮ったものをお店でプリントしたみたいだった。

 だったら昨日見つけたカメラに、何かヒントがあるかも知れなかった。

 昨日も眺めてみても、何か手がかりになりそうな部分はない。

 

 ――そうだ。

 

 昨日見つけた汚れの中にあった何だかわからなかった刻印。あたしは指で擦ってそれを見えるようにする。

 指だけじゃうまく汚れを落とせなくて、あたしは鏡台の上にあったヘアピンを取ってきて、先っぽで汚れを擦り落とす。

 

「禄朗(ろくろう)?」

 

 汚れが取れて読めるようになった文字。

 禄蔵お爺ちゃんの名前の隣に彫られていたのは、「禄朗」という名前だった。

 禄という文字が共通してるから、佐々木さんの家の人かと思うけど、会社勤めの佐々木さんのおじさんの名前は確か誠司さんだ。

 禄朗なんて人の名前をあたしは知らない、と思っていたとき、机の上の開きっぱなしのアルバムに、水滴が落ちていることに気づいた。

 

 いつの間にか、あたしは泣いていた。

 

 自分でも泣いてる理由がわからない。それなのに、あたしの目からこぼれてくる涙は止まらない。

 

「禄朗……」

 

 彫られた文字をもう一度口にしてみる。

 胸が、痛くなった。

 胸の中の閉じた箱が、いまにも開きそうな気がした。

 

 ――知ってるんだ、あたし。

 

 誰なのかはまだわからない。でもあたしは禄朗という人のことを知ってる。そう思える。

 だからあたしは、いま涙を流してる。

 涙で霞む目で、アルバムを見る。

 

 ――たぶんこの写真を撮ったのは、禄朗なんだ。

 

 彼はどんな顔であたしのことを撮っていたんだろう。

 あたしはどんな気持ちで、彼にこんな幸せな笑顔を見せていたんだろう。

 最後のページを開く。

 

「これって……。そっか。そうなんだ」

 

 さっきは何も挟まっていなかったページに、写真が現れていた。

 たぶん手を伸ばして撮ったんだと思う。

 ピントも適当で、構図もあたしの顔が切れちゃいそうなほどズレてて、でもふたり並んで肩を寄せ合ってる写真が、そこにあった。

 髪が短くて、痩せているのに顔が少しふっくらとしている男の子と、頬がくっつきそうなほど彼に接近してるあたし。

 ふたりとも笑っているのに少し緊張してるみたいでどこかぎこちないし、頬どころか顔全体が赤くなってるように見える。

 

 そんなあたしと彼は幸せそうで、本当に幸せそうに見えて、何だか輝いてすら見えて、そのとき感じてた気持ちが、ふと湧き上がる。

 胸の中の箱が開いた。

 固く閉じていたそれは、びっくり箱のようにいままで思い出せなかった記憶を、すべて噴出させた。

 

「禄朗!」

 

 思い出した。

 

 ――そうだ、あたしが禄朗のことを忘れるはずがない。

 

 いままで忘れていたことが信じられない。

 だってあたしと禄朗はずっと一緒にいたんだから。

 同じ日に生まれて、産婦人科医院の隣のベッドに寝かされて、隣同士の家でずっと一緒に過ごしてきたんだから。

 

 ――この世界には、禄朗がいないんだ。

 

 箱の中に小さく仕舞われていて、思い出すことができなかったものを、思い出していた。

 あたしの右側にあった空白にあるべきものがなんだったのか、いまはもうはっきりわかっていた。

 禄朗が撮ってくれた写真を挟んだアルバムと一緒に、あたしは彼との記憶を、彼への想いを、しっかりと抱きしめていた。

 

 

         *

 

 

「遊園地に行こう」

 

 禄朗がそう言ったのは、春休みも残り少なくなった四月三日のことだった。

 その日はもう四月に入ったというのに雪が降りそうな寒くてどんより曇った日だったけど、禄朗からお出かけに誘ってくれたことが嬉しくて、一も二もなく頷いた。

 子供の頃から親とか友達とよく来てた遊園地だけど、禄朗とふたりきりで来るのは初めてだったかも知れない。

 もらったという二枚のフリーパスが本当にもらったものなのかどうかは、あたしが禄朗に訊くことはなかった。

 寒さが冬みたいに厳しいからか、長期休暇中なのに遊園地の人出は思っていたよりも少なくて、あたしは禄朗と一緒にいろんなアトラクションを回って、時々写真を撮って過ごした。

 

 でも途中から雪が降り出して、それがけっこう激しくて、あたしと禄朗はだんだんと天候不順で止まっていくアトラクションの間を縫って、まだ動いてるとこを探して走り回ることになった。

 楽しくて、すごく楽しくて、お気に入りのコートを着てても寒いくらいの気温なのに、いつもは静かに笑ってることが多い禄朗が、幼い頃に戻ったみたいに笑っているのを、あたしは幸せで、暖かい気持ちで見ていた。

 

「今日は楽しかったね」

 

 雪が積もっちゃってほとんどのアトラクションが止まってて、帰る前に乗ったのは最後まで動いてた観覧車だった。

 向かい合う席に座って、あたしは禄朗の言葉に「うん」と応える。

 けっこう走り回ったから本当に疲れていた。でも楽しくて、楽しすぎて、疲れていてもぜんぜん気にならなかった。

 上昇を始めた観覧車から見下ろした街は、まだ夕方には早いのに、明かりを灯しながら白く塗りつぶされつつあった。

 

「すごく楽しかったよ」

 

 言ってあたしは禄朗に笑いかける。

 生まれてからずっと一緒に過ごしてきた禄朗。

 幼稚園も、小学校も、中学も高校だって同じところに進んで、ずっと変わらぬ幼馴染みの関係が続いていた。

 でもいつまでもこんな風に一緒にいられないことに、そろそろ気づき始めていた。いつまでも一緒の道を歩み続けられるわけではないと、もうあたしは知っていた。

 

「一緒に、写真を撮ろう」

 

 予想以上にゆっくりとした動きの観覧車の中で、禄朗は少しうわずった声で言った。

 緊張でもしてるのかと思いながら彼の様子に少し笑って、「いいよ」と応えたあたしは彼の隣に座る。

 

「もっと近寄って」

 

 肩が触れるほどの距離。

 手を伸ばしてカメラを構える禄朗とこんなに近づくのは、いつ以来だろう。

 高校に入ったいまでも少しじゃれ合うことくらいはあるけど、改めてこうして近くに禄朗がいるのを意識すると、あたしも緊張してくる。

 

「と、撮るよ」

 

 言って禄朗は、左腕をあたしの肩に回してきた。

 

「う、うん」

 

 身体も表情も固まるのを感じながら、あたしは思ったよりも強い腕の力に、身体を預けていた。

 カシャリとシャッターの音がして、緊張に堪えきれなくなったあたしは元の席に戻ろうと腰を浮かせる。

 できなかった。

 肩に回された禄朗の腕が、まだあたしのことを抱き寄せて、戻ることを許してくれなかった。

 

 禄朗の顔を覗き込んでみると、真っ赤になっていた。

 たぶんあたしの顔も、同じように真っ赤になってる。

 混乱、してる。

 突然どうしたのかと思ってる。

 でも嬉しかった。

 

 やっとこの時が来たんだと思っていた。

 あたしが禄朗のことをどんな風に見ているかは、いつも隠してるつもりだった。

 ずっと幼馴染みとして過ごしてきて、あまりに近くて、いつも一緒にいすぎてて、いつの頃から彼を男の子として見るようになったのかは憶えてなくって、どう伝えていいのかわからなかったから。

 それに幼い頃から物静かな感じのあった禄朗が、どんな風にあたしのことを見ているかは、よくわからなかったから。

 

 訊くのが、怖かったから。

 

 カメラを首から提げて右手を空けた彼が、両手を使ってあたしを自分に向かせる。

 いままで見たことないくらい緊張してて、生唾を何度も飲み込んで、耳まで真っ赤になった禄朗が、それでもあたしの瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。

 

「好きだよ、イーリス」

 

 親とか友達とかからはいつもアイとかアイリスって呼ばれてるあたしだけど、禄朗はイーリスと呼ぶ。

 それは禄朗が幼い頃舌っ足らずで、アイリスと呼べなかったのの名残だけど、いまでは彼だけがあたしのことをイーリスと呼んでいた。

 人前で名前を呼んでくれることは少ない。恥ずかしいからなんだと思う。

 でもふたりっきりのときは、あたしのことだけを見てくれるときには、禄朗はためらうことなくイーリスと呼んでくれる。

 

 たぶん、何日も前から今日のことを考えてたんだと思う。

 好きと言ってくれた禄朗はもう、頭から湯気でも出てそうなほど顔が赤くて、思わず吹き出しちゃいそうになる。笑い声をぐっと飲み込んだ後、代わりにあたしの胸の奥から幸せな気持ちがあふれてきて、身体中を満たした。

 あたしはあたしのことを真っ直ぐに見つめてきてくれる禄朗のことを、しっかり見つめ返して言う。

 

「うん。あたしも禄朗のことが、好きだよ」

 

 言いたくて、言えなかった言葉。

 胸の中に仕舞い込んでいた間は苦しくて、吐き出してしまいたかったくらいなのに、言った後は、あたしは火が出そうなど顔が熱くなるのを感じていた。

 でも、それをはっきり言うことができて、あたしの胸は幸せでいっぱいになる。禄朗から言ってくれたことで、あたしは他の誰よりも、禄朗のことが好きなんだと意識する。

 

「恋人になってくれ、イーリス。……一生、一緒にいてほしいんだ」

「うん。禄朗以外、あたしも考えられないから」

 

 あたしの言葉に緊張が少し解けたみたいに、ふっと笑ってくれた禄朗。

 

 ――本当に、本当に好きだよ、禄朗。ずっとずっと、一緒だよ。

 

 心の中で何度も繰り返して、あたしは近づいてくる彼の顔に目をつむる。

 すぐ側まで迫ってきた息づかいに、また緊張を覚える。でも彼の腕に、あたしは身体を預けたままにする。

 重ねられた唇は、クランベリーのような少し酸っぱい味がした。

 そしてあたしと禄朗はその日、幼馴染みという関係を卒業した。

 

 

         *

 

 

 ――なんで、忘れてたんだろう。

 

 一緒に生まれて、一緒に生きてきて、つい一ヶ月前に幼馴染みという関係を卒業した禄朗のことを、何であたしが忘れていたのかわからない。

 日記をもう一度見てみると、遊園地に行った日のことがちゃんと書かれていた。

 バレンタインデーに禄朗にチョコをあげたことも、ホワイトデーにお返しをもらったことも、クリスマスイヴに買い物に行ったことも、いまは書いてあった。

 

 彼への、想いと一緒に。

 

「何が起こってるの?」

 

 何でなのか少しもわからない。

 さっきまでなかった写真が、日記の内容が、いまはちゃんとここにあった。

 

 ――世界が歪んでるって、みのりさんは言ってた。

 

 そのことが本当なのかも知れない。

 何しろ禄朗はいま、この世界にいない。

 隣にあった空席は今日はなくなってて、その上それを不思議に思う人は誰もいなかった。

 確かにいまここに禄朗がいた痕跡はあるのに、彼がいまどうしてどこにいるのかは、わからなかった。

 

「探さないと」

 

 右側の空白に気づいたときに思ったことが、いまははっきりしていた。

 彼がいたことを思い出すことはできた。

 でも彼の居所はわからない。

 それなら、探すしかない。

 

 禄朗がいない世界なんて、信じられない。そんな世界にいたくない。

 どこかにいるんだったら、見つけないといけない。

 みのりさんは、探しものは見つからないと言っていた。

 それでもあたしは禄朗のことを探さなくちゃいけない。探して見つけ出して、もう一度彼に会わないといけない。

 

「絶対に見つけ出す」

 

 あたしはそう誓っていた。

 

 

 



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第三章 入道グモとワニと禄朗 1 入道グモ

 

 

第三章 入道グモとワニと禄朗

 

 

       * 1 *

 

 

 少し早めに起きたから、今日は登校までまだ時間があった。

 

「ねぇお母さん。禄朗のこと、憶えてる?」

「禄朗?」

 

 出勤してもういないお父さんの分の食器を洗ってたお母さんが、キッチンからやってくる。

 

「うん。佐々木禄朗」

「お隣の佐々木さん? 誰でしたでしょうね。お爺さんは禄蔵さんでしたよね。あそこのお父さんは誠司さんですし……。親戚の方か誰かでしたか?」

 

 不思議そうな顔をしてるお母さんが嘘を吐いてる様子はない。お母さんは嘘を隠せないタイプの人だから、たぶん本当に憶えてないんだと思う。

 

「……なんでもない」

 

 ちょっと泣きそうな気持ちになりながら、朝食を食べ終えたあたしは席を立つ。

 

「行ってきます」

「はい。行ってらっしゃい。気をつけてね」

 

 禄朗のことを訊かれたことすら憶えてないみたいなお母さんの声に送られて、あたしは家を出た。

 家を出て遠くに霞む山を見てみると、その上に入道グモが出ていた。

 まだ本格的な時期じゃないからあんまり大きくないけど、連なる山の上を悠然と、八本の脚をあくびが出るほどの速度で動かして移動していく真っ白な入道グモは、春がもうそんなに遠くなく終わることを教えてくれていた。

 いつもと何も変わらない道を通って学校に着いて、教室に入るとクラスの何人かがあたしに目を向けてきた。

 

「お、おはよう」

 

 挨拶の返事を聞きながら自分の席に座ると、早速やってきたのは沙倉とマリエちゃん。

 

「なぁ、昨日メールで来てた禄朗って、誰だ?」

「うん。それと曽我フィオナさんだったっけ? 別のクラスの子?」

 

 昨日、夜のうちに学校の友達の何人かに禄朗のこと、それから曽我さんのことを知ってるか訊いてみていた。

 いくつか返ってきたメールは、全員知らないというもの。

 返事がなかった沙倉とマリエちゃんも、その顔から見ても知ってる様子はなかった。

 

「うぅん。何でもないの。ゴメンね」

 

 できるだけの笑顔でそう言うけど、ふたりはあたしのことを心配そうな目で見つめてきていた。

 

 ――もしかしたら、曽我さんは憶えてたのかも知れない。

 

 あたしのことを睨みつけてきていた彼女。

 彼女とあたしの間に、もしくは彼女と禄朗の間に、何かがあった記憶はとくにない。でも接点自体がほとんどない彼女と何かあったのだとしたら、いまはいない禄朗のことしか思いつかない。

 禄朗と曽我さんは、一年のときは同じクラスだったから。

 

 ――でもその曽我さんも、いまはいない。

 

 教室の机の数は二九。

 禄朗と、曽我さんの机は、相変わらず消えてしまったままだった。

 

「ちょっとゴメンね」

「もうすぐ先生くるぞー?」

「うん、わかってる」

 

 そろそろ司馬遷が来る時間だと思って、沙倉の注意を聞きつつあたしは席を立つ。

 ちょうど教室に向かってきていた司馬遷を見つけて、あたしは声をかけた。

 

「あの、先生。佐々木禄朗って、わかります?」

「がう?」

 

 頭頂部の薄さが昨日よりもさらに進んだように思えるたてがみを揺らして、二本脚で立ってスーツを着込んだ司馬遷ライオンは首を傾げる。

 

「うちのクラスの、佐々木禄朗です」

 

 さらに首を傾げた司馬遷ライオンが、黒い表紙の出席簿を開いて見せてくれる。

 あいうえお順に並んだ名前の中に、佐々木禄朗という名前はなかった。

 もちろん、曽我フィオナの名前も。

 

「ぐるる」

 

 朝のホームルーム開始の鐘が鳴って、司馬遷ライオンが教室に促すようにうなり声を上げる。

 

 ――やっぱり、禄朗がいない。

 

 そのことに泣きそうになりながら、あたしは促されるまま教室に入った。

 

 

 



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第三章 入道グモとワニと禄朗 2 天使ワニ

 

 

       * 2 *

 

 

 ――見つからない。

 

 教室の中はもちろん、廊下のロッカーにも、下駄箱にも禄朗が使っていた痕跡はなくって、他の人が使ってる場所になっていた。

 図書室にある古いマテリアルブックの写真集を彼が借りていたような記憶があって、いまじゃあんまり使われない貸出カードに記入があったと思うのに、そこにも禄朗の名前はなかった。

 結局学校の中で、禄朗の痕跡を見つけることはできなかった。

 今日はもう一度家の中を探すために早く帰りたくって、裏道になってる細い道を歩きながら、あたしは深くため息を吐く。

 

 鞄の中に手を突っ込んで触れたのは、厚紙のと革の感触。確かに鞄の中に入ってることを確認してから、あたしは厚紙の方を取り出す。

 禄朗の痕跡はいまはアルバムと日記帳とフィルムカメラにしかなくって、持ち歩けるアルバムと日記帳を鞄の中に入れていた。

 

「どこにいるの? 禄朗」

 

 取り出したアルバムを開いて、あたしは彼とあたしの写真を眺める。

 ここに確かに禄朗がいた痕跡はあるのに、禄朗はいま世界のどこにもいる様子がなかった。

 

 ――もう一度、もう一度ちゃんと探してみよう。

 

 早く家に帰って、他にも禄朗がいた痕跡を、いま禄朗がどうしているかの手がかりを探そうと、アルバムを鞄に仕舞って歩き出す。

 歩き出したところで、ふと立ち止まる。

 すぐそこにあったのは、雑木林。

 ここからじゃ向こう側は見えないけど、ほんの数十メートル程度の、家と家の区画に挟まれた場所。時々禄朗と一緒に歩いたことがある場所で、道路を歩くよりもほんの少しだけど近道になる。

 昼間でも薄暗いし、じめじめとしてて歩きにくいのはわかってるのに、あたしはそこに足を踏み入れる。

 

 呼ばれてる気がした。

 誰かがあたしのことを、呼んでる気がした。

 

 それが禄朗なのか、そうでないのかもわからない。

 でも誰かがあたしの右手を取って、導いてくれる感触があった。

 だからあたしは振り向かずに、雑木林の奥へと足を進める。

 

 等間隔に並ぶ木々たち。

 

 木々の間に見え隠れしているのは、にやにやと笑っているのに姿のない猫だったり、ひそひそとうわさ話をしては笑いあってる蝶の羽根を生やした妖精だったり、もう二度と木の枝に登ることができなくなった卵の男爵だったりした。

 夜になると起きあがって踊り明かすんだろう、埋葬されることのない罪人の骸骨たちを踏まないように少し回り道をしたとき、あたしはどっちから来て、どっちに行けばいいのかわからなくなっていた。

 数十メートルしかないはずの雑木林は、いまは入り口も出口もなくなってしまっている。

 

 どこまでもどこまでも無限に続く同じ形をした木が整列されたかのように立っていて、どっちを見回しても同じ風景にしか見えなかった。

 たぶんこっちだと思う方向に歩きながら、あたしは心細くなってきていた。

 

「どこにいるの、禄朗……」

 

 思い出すことはできたけど、彼を見つけることができない。

 違和感や不思議な感覚はなくなったけど、今度はあたしの中に悲しい気持ちがあふれてきていた。

 

「下ばかり向いているとぶつかってしまうよ、お嬢さん」

 

 いつの間にか気持ちと一緒に視線が沈んでしまっていて、かけられた声に顔を上げてみると、ワニがいた。

 小さな広場のようになっているそこには、なんて種類なのかわからないけど、人よりもおっきい身体の真っ白いワニが、その身体よりもさらに大きなキノコの上に寝そべっていて、短い腕で器用に頬杖を突いていた。

 そして彼の頭の上には、天使にあるような光る輪っかがひとつ、浮かんでいた。

 触るだけでも何かありそうな毒々しい赤と白の模様をしたキノコの上で、ワニは言う。

 

「何かつらいことでもあったのかね?」

 

 つぶらな瞳をてらてらと光らせて、真っ白で綺麗なワニは問うてきた。

 

「……人を、探しているんです。どこにいるのかわからなくて、どうやって探したらいいのかもわからないんです。どうしても探さなくちゃいけなくて、でも、あたしの他に誰も彼のことを憶えてないんです」

「ふむむ。それは大変なことだね」

 

 ゆっくりとした口調で言って、あたしのことなんて身体ごと丸呑みにできそうなおっきな口をしたワニがじっと見つめてくる。

 

「どうしても探さないといけないのかね?」

「はい。どうしても探したいんです」

「でも見つからないのかね?」

「……はい。どこにもいないんです」

「ふむむ」

 

 考え込むように喉の奥からうなり声を出してるワニ。

 少しの間黙って思いに耽っていたらしい彼は、おもむろに頬杖を突いていない左手で自分が寝ているキノコを毟った。

 

「そういうときはこれを食べるといい」

 

 差し出されたキノコの欠片に、あたしは後退りしてしまいそうになる。中まで毒々しい模様があるなんて、いったい何て名前のキノコなんだろう。

 

「た、食べるとどうなるんですか?」

「さぁ? たぶん全部うまくいくんじゃないかな?」

 

 曖昧なことを言ってさらに突き出してくるキノコの欠片。

 毒キノコはたいてい毒々しい色をしていると聞いたことがある。例外はあるんだろうけど、生のままこんな色をしたキノコを食べたらどうなるのか、わかったもんじゃない。

 

「あ、あの、すみません。ちょっと、いらないです」

「そうか。もったいない」

 

 あたしの拒絶の言葉をとくに気にした様子もなく――本当は気にしてるのかも知れないけど――、ワニは手にしたキノコの欠片を自分の口の中に放り込んだ。

 むしゃむしゃと何度か噛んで、喉を鳴らして飲み込む。

 しばらくあたしのことを見つめてきていたワニに、とくにこれと言って変化はなかった。

 

「うっ――」

 

 でもやっぱり、少ししたら苦しみ始めた。

 

「大丈夫ですか?!」

 

 声をかけることはできるけど、あの鋭い牙が並んだ口の中に手を突っ込んでキノコを取り出そうという気にはなれない。

 うつぶせになって喉を掻きむしって苦しんでるワニのことを、あたしは見ていることしかできなかった。

 

「う!」

 

 最期に大きな声を出して、ワニは動かなくなった。

 

 ――どうなっちゃうんだろう。

 

 毒キノコを食べて、毒が身体に回ったら苦しむのは当たり前のことだった。

 

 ――苦しんで苦しんで、その後……。

 

 そこまで考えて、あたしの思考は止まってしまう。

 ぴくりとも動かないワニがいまどうなっているのかわかっているはずなのに、わからなかった。

 いまのことを表す言葉が、思い浮かばなかった。

 

「そういうことなんだ」

 

 なんとなく、わかった気がした。

 この世界が歪んでる理由。

 この世界からなくなってしまったもの。

 それがいま、わからないけど、わかったような気がしていた。

 

「あれ?」

 

 動かなくなっていたワニの身体が、白から黒にどんどん変化していっていた。

 アッという間に全身が真っ黒になって、綺麗だった身体が見る影もなくなってしまう。

 

「え?」

 

 次に現れた変化に、あたしは声を上げてしまっていた。

 背中にヒビが入ったかと思うと、見る間に身体を縦に貫く割れ目になった。

 その次の瞬間、真っ白なワニが割れ目から姿を見せた。

 

「ふぅ……。どうしたのかね、お嬢さん。そんな驚いた顔をして」

 

 脱皮を終えたワニは、真っ黒な抜け殻を押しのけてキノコの上から捨てると、小さく首を傾げた。

 その頭の上には、最初からあったものに加えてもうひとつ、少し小振りな二つめの天使の輪っかが浮かんでいた。

 

「何かつらいことでもあったのかね? そういうときはこれを――」

「いりませんっ」

 

 キノコに手を伸ばそうとするワニに拒絶の言葉を放って、あたしはがむしゃらに林の中を走り出す。

 

「おっと」

「わっ、すみませんっ」

 

 前も見ずに走り出したから、雑木林を抜けたところに人がいるなんてこと、気づかなかった。

 道に出たところで誰かにぶつかって、尻餅をついたあたしに手を伸ばしてくれたのは、あたしの学校の制服を着た男の子。

 スカートがめくれ上がってないか確認してから彼の手を取って、立たせてもらう。すぐ近くで彼のことを見てみるけど、その顔に見覚えはなかったから、別のクラスか、別の学年なのか。

 背は高くもなく低くもなく、太ってるわけでも痩せてるわけでもない彼から一歩距離を取りながら、でも何でかその人の顔が見えているのによくわからない。

 

 ――そんなことない。

 

 年上の三年生なのか、どこか落ち着いていて大人びた感じの顔立ちと、男の子にしては長いさらさらとして髪は、どこか禄朗に似ているような気がした。

 

「ふぅん」

 

 何に納得したのか、自分の身体を見回してそんな声を上げてる彼。

 

「探しものは見つかりそうかい?」

「え?」

 

 顔を上げた彼に問われて、あたしはその顔を見つめ返していた。

 

 

 

 

「貴方は、誰?」

 

 たぶん初めて会う人だと思う。

 それなのになんであたしが探しものをしてるってことを知ってるんだろう?

 

「さぁ、誰なんだろう。自分でもよくわからないね。あまり考えたこともないし」

「えぇっと?」

 

 自分のことがわからないって言われても、こっちだってわかるはずもない。

 みのりさん以上にわけのわからない人のような気がするけど、でも何となく、彼には会ったことがあるような気がしていた。

 

「貴方は、何を知ってるの?」

「たぶん君が知りたいことのすべてを。でも話すことはできないよ。この世界にそれは存在していないから、それを表す言葉も存在していない」

「どういうこと?」

 

 ナゾナゾのような言葉の意味を、あたしは理解することができない。

 たぶんみのりさんと同じか、それに近い人のような気がするけど、彼のことはみのりさん以上に理解するのが難しそうだった。

 

「もうだいたい君は気づいているんじゃないか? 探すだけ無駄なことに」

「それは……」

 

 今日探していて、あたしは禄朗のことを見つけることができなかった。手がかりすらなかった。

 だからって、探すのをやめるわけにはいかない。

 あたしの半身と言ってもいい禄朗のことを、見つけないではいられない。

 

「君の探しているものは見つからないよ。この世界には存在していないんだからね。そのことを受け入れて、生きていくのが賢明だと思うよ」

「それでも、それでもあたしは見つけなくちゃいけないの!」

 

 思わずあたしは叫んでいた。

 彼の言う言葉の意味は、何となくだけどわかっていた。

 たぶん禄朗は見つけることができない。

 みのりさんも言っていたけど、たぶん禄朗はこの世界に存在していない。でもだからって、探さないわけにはいかない。探すのをやめるなんてできない。

 

「……そう。それじゃあ、探すしかないね」

 

 少し寂しそうな顔で、彼はあたしに背を向ける。

 結局何が言いたかったのかよくわからなかった。

 彼がいったい誰なのか、理解できなかった。

 

「あの! 名前を教えて。あたしはアイリス。立花アイリス」

「さぁ? 名前はないんだよ。いくつも名前はあったけど、僕自身の名前というのはなかったからね」

 

 それだけ言って、彼は行ってしまった。

 

 ――それでも、あたしは探すしかない。

 

 去っていく彼の背中を見つめながら、あたしは彼の言葉を思い出して、決意を新たにしていた。

 

 

 



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第三章 入道グモとワニと禄朗 3 禄朗

 

       * 3 *

 

 

「おはよう……」

「おはよ。どうしたんだ? 今日は」

「おはよう。ひどい顔してるね」

「大丈夫だよ」

 

 改めて自分の部屋も、屋根裏部屋も探してみたけど、新しく禄朗の痕跡を見つけることはできなかった。

 隣の佐々木さんの家にも、理由をつけて行ってみた。出てきたおばさんは、禄朗のことを憶えてる様子はなかった。

 この世界にはいま、禄朗の痕跡はアルバムと日記帳とフィルムカメラしかない。

 それだけはなくしちゃいけないと思って、あたしは今日も鞄の中にアルバムと日記帳を入れてきていた。

 沙倉とマリエちゃんの声に返事をして、気分転換にと思って朝にシャワーも浴びてきたのに、ちっとも晴れない気持ちを胸にずっしりと感じながら、あたしはうつむいたまま自分の席に向かった。

 椅子に座って鞄を机のフックに引っかける。

 

「おはよう」

「うん、おはよう……」

 

 隣の席からかけられた声に反射的に応えて、顔を上げる。

 違和感があった。

 不思議な感じがあった。

 ゆっくりと右側の席に顔を向けると、不思議そうな顔をした男の子があたしのことを見ていた。

 男の子にしてはちょっと低めなのを気にしてる背丈。太ると絶対大福みたいになるだろうけど、痩せているから柔らかい感じがする顔。おかっぱみたいにしてた髪を短くしたのは高校に入ってからで、それだけですごく男っぽくなったような気がしたのを、よく憶えてる。

 優しい目と笑顔であたしのことを見つめてきていたのは、禄朗。

 禄朗がいま、あたしの隣の席に座っていた。

 

「どうしたんだよ、アイ。朝から熱いなぁ」

「ダメだよ、沙倉。あんまりそんなこと言っちゃ」

 

 見つめ合うあたしと禄朗のことを沙倉が茶化して、マリエちゃんがそれをたしなめるけど、あたしの耳にはあんまり入ってきていなかった。

 

「朝遅かったみたいだから、今日は先に学校に来ちゃったよ」

 

 いつも禄朗と学校に登校してたし、下校するときも用事がなければ一緒だった。何かあって一緒に登校できないときは、こうやって会って最初にそのことを言ってくれていた。

 

 ――あぁ、禄朗だ。

 

 あたしの中にある記憶と少しも変わらない禄朗が、いまそこにいる。

 どこに行ってたのか訊きたくもあったけど、どうでもいいことだった。

 優しく微笑む彼がいまここにいること。それだけが重要で、大切で、それ以外のことはどうでもいいことだった。

 手を伸ばして、禄朗の頬に触れてみる。

 柔らかいその感触は、確かにあたしの知ってる禄朗の頬だった。

 泣きそうになって、胸が詰まって、あたしは思わず禄朗の肩に顔を押しつける。

 いつもと変わらない禄朗の匂いが、あたしに安心をくれた。

 

「おいおい。教室だってわかってるか?」

「そろそろ先生も来るよ」

 

 呆れたような沙倉とマリエちゃんの声に、あたしは恥ずかしくなって急いで身体を自分の席に戻した。

 それからもう一度、禄朗のことを見て、ふたりで少し笑い合う。

 ライオンがやってきて、三〇回の吠え声を上げて点呼を取る間も、あたしはずっと禄朗のことを見ていた。

 あたしの視線に気づいて不思議そうに首を傾げる禄朗だったけど、それでも笑ってくれる。

 

 いっぱい訊きたいことがあった。

 でももう、禄朗がここにいる。

 だからそれは全部、どうでもいいことのような気がしていた。

 

 

 

 

「じゃあまた明日な、アイ」

「またね、アイリス」

「うん。また明日」

 

 校門の前で沙倉とマリエちゃんに別れの挨拶をして、あたしは右側にいる禄朗を見る。

 

「帰ろう」

「うん」

 

 彼の言葉に頷いて、あたしは家に向かって歩き始める。

 右手を少し彼の方に差し出すと、何も言わないまま向こうから手を伸ばしてくれた。

 

 ――いつから手をつなぐようになったんだっけ。

 

 二年になる直前の春休みに恋人同士になった禄朗とあたしだけど、学校帰りやふたりで出かけるときだけとはいえ、禄朗に告白された遊園地の帰りのときだって手をつなぐこともできなかった。

 そんなふたりだったのに手をつなぐようになったのは、確か始業式が終わって二年生になって、四月も半ばが過ぎた頃。

 

 ――そうだ。確かあのとき……。

 

 一年のときにはあたしと禄朗は別のクラスで、曽我さんは禄朗と同じクラスだった。

 そのときに何かあったのかも知れないし、まだ何もなかったのかも知れない。

 とにかくあたしは、曽我さんが禄朗のことを見ていることに気がついて、自分から手を伸ばしたのを憶えてる。

 

 それからある意味決定的だったのが、ゴールデンウィークに入る前の日のこと。

 待っててと禄朗が言うから校門の前で待ってたら、泣きそうな顔をした曽我さんが学校から出てきたことがあった。

 遅れて出てきた禄朗は普段と変わらない様子だったけど、タイミングから考えて禄朗と曽我さんの間に何かあったんだろうとは思っていた。

 

 ――あれ? 何かヘンだ。

 

 ふと胸の中にある箱が、ちくりと暴れて痛みを生んだ。

 何かを忘れてる気がした。

 胸の中にあるような気がしていた箱が開いたことで、あたしは禄朗とのことを全部思い出した。

 いまはもうその箱は開きっ放しで、出てくるものなんてないはずなのに、まだ何か、箱の中に残っているものがあるような気がした。

 それがなんだったのかわからなくて、不安がこみ上げてくる。

 思い出さなくちゃいけないような気がしてるのに、どうしても思い出すことができない。箱の中からは何も出てきてはくれない。

 

「どうしたの? 考え事?」

 

 優しい声で問われて、あたしは禄朗の顔を見る。

 微かに笑むその表情が、あたしの不安を消してくれる。

 

 ――もう、考える必要なんてないんだ。

 

 だって禄朗はここにいるんだから。

 もうどこにも行ったりはしないんだから。

 

「うぅん。何でもないよ」

 

 笑顔で彼の言葉に答えて、あたしはいつもよりもほんの少しゆっくりした足取りで歩く。

 通りがかった駅のロータリーでは、客待ちをする絡繰人形の人力車が列をなしていた。

 ちょうど到着した電車から降りてきた色とりどりの不定型なスライムの群れたちが次々と人力車に乗り込んで行くけど、いくらも進まないうちに絡繰人形と車体を栄養に変えてしまって、通りに出る手前で行き詰まっている。

 国道に出ると、いつになく交通量が多かった。

 二頭立ての戦車がスゴイ勢いで通り過ぎたかと思うと、中身をくりぬいた巨大なカボチャの馬車がそれを追いかけるようにスピードを上げていく。のろのろとした牛車が気まぐれに道をふさいで、アッという間に道路は大渋滞となってしまう。

 乱闘が始まりそうな雰囲気の国道を避けて、あたしは禄朗と一緒に、少し遠回りになる川沿いの土手に足を向けた。

 

 そんなに禄朗とは話していない。

 

 交わす言葉も少なく一緒に歩くだけなのに、つないだ手から幸せがあふれてきていた。

 手をつないでるだけで、うぅん、手をつないでなくても、こうして禄朗と一緒に歩くだけで、あたしにとっては充分だった。

 いつまでもいつまでもこんな時間が続いてほしいと、あたしは願っていた。

 

 ――そう、なるよね。

 

 あたしは禄朗と約束したんだから。

 ずっと同じ道を歩いて行くことはなくても、あたしと禄朗は一緒にいる。死ぬまで一緒にいるって、あのとき約束したんだから。

 そう思うのに、ふつふつと胸の中にわき上がってくる不安。

 なんでそんな不安を感じてるのかわからない。

 でもいまは禄朗がいる。

 不安に思う必要なんてひとつもない。

 つないでる手が暖かくて、大きくて、わたしは彼の手を少し強くつかむ。

 それに気づいて笑顔を向けてきてくれる禄朗に、わたしも笑顔を返す。

 

 一緒にいることは、幸せ。

 こうやっていま禄朗と一緒にいることは、あたしにとってなによりの幸せ。

 だから、不安を感じる必要なんて、ひとつもなかった。

 

「後で僕の部屋まで来てくれる?」

「え?」

 

 幸せを噛みしめてる間に家に着いちゃって、少し寂しく感じてるときにそう言われた。

 何か用事があるのかどうかはわからないけど、あたしの気持ちを察してくれたのかも知れない。

 

「うん、わかった。すぐ行くね」

 

 つないでいた手を離して、急いで家の中に入る。

 お母さんにただいまの言葉を放り投げて自分の部屋に駆け込んで、お気に入りの、でもあんまり着飾らない感じのブラウスとプリーツスカートを選んで制服から着替える。

 もう少し考えたかったけど、早く禄朗のとこに行きたくて、髪を軽く整えたあたしは階段を駆け下りて家を出た。

 

「お邪魔します」

 

 と呼び鈴も鳴らさずに禄朗の家の玄関を開けて中に入る。

 おばさんがいるかと思ったけど、一階には人の気配はなかった。

 脱いだ靴を揃えてから、あたしは禄朗の部屋に向かうため、駆け足で階段を上がった。

 

「早かったね」

 

 部屋の扉をノックすると、そう言って制服のままの禄朗が扉を開けてくれた。

 

「適当に座って」

 

 言われて部屋を見回すけど、客用の椅子があるわけでも、絨毯の上に座布団が用意されてるわけでもない。

 

 ――最後に禄朗の部屋に入ったのって、いつだったっけ。

 

 小学校の頃はよく遊びに来てたけど、中学になってからはあんまり禄朗の部屋には行かなくなっていた。

 特別理由があったわけじゃない。何となく恥ずかしくなっていて、その頃から彼のことを異性として意識し始めたんだと思う。

 禄朗にバレないように、ちらちらと部屋の中を見回してみる。

 あたしの部屋とそんなに変わらない、クローゼットと机と棚がある程度の部屋。

 物はすごく少なくて、男の子の部屋だからもっといろんな物があるような気がするのに、まるで空き部屋みたいに密度が低いように思えた。

 

 ――あれ?

 

 部屋を見ていてちょっと疑問を感じた。

 不思議な気持ちになっていた。

 

 ――あれが、ない?

 

 見つけられなかったのは、古びた感じの木の箱。

 いつも机の片隅に置いてあって、中身を見せてくれたことはなかったけど、大切にしているものらしかった。

 禄朗が開けてるときにちょっと見えちゃったことがあって、その中には写真や小物なんかの、彼にとっての宝物が仕舞ってあるみたいだった。

 最後に見たのは中学のときの話だし、本当に大切にしてたみたいだけど、もうずいぶん経ってるんだ、どこかに仕舞い込んじゃったか、捨てちゃっただけかも知れない。

 結局見回してみても座る場所が見つけられなくて、仕方なくベッドの上に座って、でもその後どうしていいのかわからなくなった。

 話したいことがあるような気がするのに、話す言葉が見つからない。禄朗と一緒にいるだけで幸せで、それ以上のことはいらなくて、だからとりあえず思いついたことを口にしてみる。

 

「おばさんは?」

「今日は出かけて夜まで帰ってこないんだよ」

 

 言って禄朗はあたしの隣に腰掛ける。

 緊張で、心臓が強く、激しく脈打ち始めた。

 自分でもぎこちなくなってるのがわかる首を動かして禄朗の方を見ると、彼も緊張してるのか、どこか笑顔が固まっているようだった。

 

「今日は少しヘンだったけど、どうかしたの?」

「うぅん、何でもないよ」

 

 ――だってもう、禄朗はここにいるんだから。

 

 禄朗の膝の上に手を伸ばして、彼の手に触れる。

 握り返してくれた手は暖かくて、いま彼がここにいることを、確かに実感することができた。

 

「ん、よかった」

 

 禄朗が見せてくれた笑顔に、あたしも自分の顔に笑顔が浮かぶのを感じてる。

 

 ――あぁ、そう言えば。

 

 あたしの部屋にあるフィルムカメラを、持ってくればよかったと思う。

 あれは禄朗のものだった。

 なんであたしの部屋にあったのかはわからないけど、早く禄朗に返さないといけない。

 

 ――でもあれは、なんでだろう?

 

 カメラにこびりついた汚れのことが、何となく気になった。

 禄朗が大切に使ってたカメラに、何であんな汚れがこびりついているのか、不思議に感じていた。

 胸の中の開きっぱなしの箱が騒ぎ出す。

 それは思い出さなくちゃいけないことで、でも思い出しちゃいけないことのような気もした。

 

「ねぇ」

「うん?」

 

 呼びかけられて禄朗を見てみると、彼の顔には笑みがなくって、真剣な目であたしのことを見つめてきていた。

 彼の真剣な顔が近づいてきて、突然であたしはそれを拒むことも忘れてしまっていた。

 覆い被さるようにあたしの身体をベッドの上に横たえさせた禄朗。

 ちょっとだけ強引で、少し勢いが良すぎて、一気に高まる緊張と恥ずかしさで、あたしはいま考えていたことも忘れて、口から飛び出してきちゃいうそうなほど激しい心臓の鼓動を意識する。

 スカートがめくれ上がって、太ももがほとんど丸見えになっちゃってる。

 ブラウスもずり上がっちゃって、ヘソの辺りに少し冷たい空気が触れてるのがわかった。

 

 突然のことで驚いてて、恥ずかしくて顔から火が出そうで、隠したかったけど、両方の手首をつかまれてるから、それもできない。

 それに、真剣というより緊張した表情の禄朗を、あたしは拒絶したりできない。

 いつかこうなるんだろうって、予想していた。

 告白されたあの日から、覚悟は決めていたつもりだった。

 だって禄朗も男の子ってことくらい、ずいぶん前から気づいていたから。

 あたしも禄朗とこうなることを、ぜんぜん考えてなかったわけじゃない。

 

 女の子だって少しくらい、期待してるんだから。

 

 前触れも何もなくて、心構えも充分にできてるわけじゃないけど、あたしは禄朗のことを受け入れる。

 近づいてくる彼の顔に、目をつむった。

 あたしの左手から離された禄朗の右手が、丸見えになっちゃってるあたしの腰に触れる。

 ブラウスをさらにめくり上げながら、背中に回されていく手。

 滑るように背中を、あたしの肌を、禄朗の手が触れていく。

 くすぐったくて恥ずかしい。でも何か、ぞくぞくとする感覚がして、あたしは思わず吐息を漏らしてしまう。

 だんだんと強くなっていく心地よい禄朗の匂いに、あたしの緊張はさらに高まっていく。

 

 春のあの日から、まだ数えるくらいしかキスもしたことはない。

 でもいままでずっと一緒に生きてきた禄朗だから、怖がる必要なんてない。拒絶する理由なんてない。

 すぐ近くにある少し荒い息づかいに鼓動が早まる。

 

「好きだよ。愛してるよ、アイリス」

 

 触れそうなほど近づいた唇からささやかれた言葉。

 その瞬間、あたしは禄朗のことを突き飛ばしていた。

 

「どうしたの? アイリス」

 

 驚いた顔の禄朗が手を伸ばしてくるけど、あたしはベッドの端まで逃げてしまう。

 いままで疑うことなく禄朗と思っていた人が、もう禄朗には見えなくなっていた。

 顔も、声も、匂いも禄朗なのに、いまあたしのことを見つめてくる彼の瞳が、禄朗には見えなかった。

 

 ――禄朗が、あたしのことをイーリスって呼んでくれない。

 

 そんなこと、嘘だと思った。

 信じたくなかった。

 禄朗はいつもあたしのことをイーリスと呼んでくれた。

 あたしのことを、あたしとして見てくれるときは絶対に、あたしをイーリスと呼んでくれていた。

 あたしが彼にだけ許してる、彼があたしをあたしとして見てくれる、絆だった。

 あたしのことを見てくれていたはずなのに、あたしのことをイーリスと呼んでくれない禄朗なんて、禄朗だなんて思えなかった。

 

「貴方は、誰?」

 問われて少し顔を伏せた彼。

 顔を上げたとき、表情をなくした顔で彼は言う。

 

「ダメだよ、アイリス。僕が禄朗だ。君がそう認識しなければ、世界は壊れてしまうよ。君が望んで生まれた世界が、崩れてしまうよ」

 

 意味がわからなかった。

 禄朗の姿をしながら、禄朗でない彼の言葉は、あたしの耳には聞こえなかった。

 胸の中の箱が、激しく暴れていた。

 胸が痛くて、つらくて、やっと会えた禄朗が禄朗でなかったことが悲しくて、あたしはもう我慢することなんてできなかった。

 

「あたしが探していたのは、貴方じゃない」

「……そう」

 

 少し悲しそうな顔になる、禄朗ではない彼。

 

「貴方のことなんて知らないっ。貴方は、禄朗なんかじゃない!!」

 そう叫んで、あたしは禄朗の部屋を走り出た。

 

 

 



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第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション 1 トランプ

 

 

第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション

 

 

       * 1 *

 

 

 目が覚めると、昨日の服のまま寝ていたことに気がついた。

 布団も被らずに膝を抱えた格好で、カーテンが引かれた暗い中、部屋の隅に置いてあるベッドの端っこでうずくまっていた。

 何となくこんなことが少し前にもあった気がした。

 

 ――いつのことだったっけ。

 

 家に帰ってきてからはいっぱい泣いて、泣きすぎて、ボォッとする頭を膝から持ち上げて机の時計を見てみる。

 もう登校の時間まであんまり余裕がなかった。

 

「はぁ……」

 

 ため息をひとつ漏らして、あたしはベッドから下りる。

 遮光カーテンを開けて、でも爽やかな朝日に伸びをする気にもなれなくって、シャワーを浴びてる時間もなかったから、疲れた身体を引きずって制服に着替えた。

 鏡台の前に座ってブラシを手に取ると、鏡の中にひどい顔をしてる自分が映ってる。

 何時に寝たのか憶えてないくらい泣いてて、目は真っ赤になっちゃってて、まぶたも腫れて、すごい不細工な顔になってた。

 

 ――曽我さんもそうだったな……。

 

 消えてしまう前の曽我さんもこんな顔になってたことを思い出す。

 もう一度ため息を漏らしたあたしは、昨日のことを振り返る。

 

 ――もしかしたら勘違いだったのかも知れない。

 

 禄朗があたしのことをイーリスじゃなくって、アイリスと呼んだのは、何か彼の中でそう呼ぶ理由があったのかも知れない。

 高校に入って、恋人同士になって、あたしたちはもう子供じゃないってことだったのかも知れない。

 

 ――禄朗と会って、訊いてみよう。

 

 胸の中の箱が小さく震えるのを感じながら、髪を整え終えたあたしは一階へと下りていく。

 

「あれ? お母さん?」

 

 一階には人の気配がしなくって、探してみたけどお母さんの姿はなかった。

 朝からどこかに出かけたのかも知れないと思ったけど、そういうときはいつもLDKのテーブルに書き置きがあるか、携帯にメールが来てるはずなのに今日はなかった。

 突然朝から出かけないといけないことは前にもあったけど、そんなときでも朝ご飯の準備くらいはしてくれてたのに、それもなかった。

 家の中は、まるで誰も住んでない空き家のように、しんとしていた。

 

「どうしたんだろう?」

 

 何か大変なことでもあったんじゃないかと不安になりながらも、どちらにせよ朝ご飯をゆっくり食べてる時間もなかったから、歯磨きと洗顔だけ済ませてあたしは家を出た。

 家を出たすぐ隣は禄朗の家。

 もう登校しちゃってるかも知れないけど、ひと声かけてから行こうかと思うのに、ためらう。

 

 ――昨日の禄朗は、禄朗に見えなかったな。

 

 少しもあたしの記憶の中の彼と違わないはずなのに、どうしても昨日の彼は、あたしの知ってる禄朗には見えなかった。

 どうしてなのかわからないけど、そんなことないはずだけど、あれは禄朗じゃないようにしか、あのときには思えなかった。

 

「たぶん気のせいだよね、禄朗」

 

 口に出してまた泣きそうになった気持ちを飲み込んで、あたしは学校へと急いだ。

 

 

 

 

「あれ?」

 

 昇降口に入っていつも通り携帯端末を使って下駄箱を開けようとしたけど、開かなかった。

 何度やってもエラーの音がするばっかりで、認証が通らない。

 

「壊れちゃったのかな?」

 

 校舎はあたしが入学する前の年に建て直したものだから新しかったけど、下駄箱は前の校舎から移したもので、たまに調子が悪くなって開かなくなることがあった。

 修理してもらうまでは開けることができないから、仕方なくあたしは昇降口の隅の下駄箱から来客用のスリッパを取り出して履いて、教室に向かう。

 

 朝のホームルーム前の廊下には、元気な生徒がたくさんいた。

 天井も床もなくふざけ回ってる猿たちの攻撃にも近い動きに注意しながら廊下を抜けて、言い争いをしているドレス姿の小母さんたちの呼び声に耳を貸さずに階段を一気に駆け上がる。

 謎かけをしてくるスフィンクスの声を聞こえない振りして乗り越えたどり着いた教室の扉を、一瞬迷ってから思い切って大きく開けた。

 その瞬間、言葉にできない違和感を感じた。

 

 一斉にあたしのことを見る頭と手足を生やした、トランプのクラスメイトたち。

 注目されてることに少し居心地の悪さを感じながら、吐き気がするほどの違和感を和らげたくって、教室の中を見回して禄朗の姿を探す。

 

 ――どうしたんだろう。

 

 まだ来ていないのか、禄朗の姿を見つけられなくて、自分の席に向かおうとそっちの方を見ると、そこにはすでにハートのクイーンが座って、ダイヤの三と話し込んでいた。

 

「あの、ここはあたしの席で……」

 

 近づいてそう声をかけてみるけど、ハートのクイーンは首を傾げるばかりで、席を空けてはくれない。

 どうしたのかと集まってくるクラスメイトのことを見回してみると、二年生になってから一緒のクラスで過ごしてきた彼らの顔に、ひとつも見覚えがなかった。誰ひとり名前を思い出すことができなかった。

 机の数を数えてみると、二八。

 机の数に間違いはない。A組の生徒は二八人で……。

 

 ――違うっ。違う!

 

 感じていた違和感が爆発するようにはじけて、あたしの中であたしが否定する。

 A組の生徒は三一人だったはずだ。

 三つも席が減ってる。

 減ったのは禄朗と曽我さんと、それからあたしの席。

 

「そこは本当はあたしの席の、はずで……」

 

 胸の奥からこみ上げてくるものに言葉が出なくなりそうになりながら、それでもあたしはそう主張する。

 クラブの五がスペードのエースにひそひそと話しかけ、ダイヤの八がハートの一四と一緒に身体をゆがめながら肩をすくめる。

 顔も名前もわからないクラスメイトたちは、あたしのことを場違いな存在であるかのような顔で迫ってきて、身体を寄せ合い隙間のない円陣で追い立ててくる。後退るしかないあたしは、教室の中にいることができなくって、外に追い出されてしまう。

 

 ――絶対おかしいよっ。

 

 教室の中が歪んでる。

 世界が歪んでしまっている。

 何がどうなってるのかぜんぜんわからないけど、この教室にあたしの居場所がなくなってしまっていることだけは確かだった。

 出席簿を咥えて四つ足で歩いてくるライオンに気がついて、あたしは側に駆け寄る。

 

「がおーーーっ」

 

 耳が痛くなるほどの叫び声で威嚇してくるけど、そのとき口から落ちた出席簿を手に取って、あたしはそれを開く。

 佐々木禄朗という名前も、曽我フィオナという名前も、それから立花アイリスという名前も、そこにはなかった。

 

「がーおーうっ」

 

 逆モヒカンのように頭頂部だけが薄いたてがみをしたライオンにもう一度威嚇されて、出席簿を取り落としたあたしは後退る。

 

 ――何が起こったの?

 

 ぜんぜんわからなかった。

 教室から出てきたトランプのクラスメイトたちが、異物を見るような目を向けてきていた。

 その中には沙倉も、マリエちゃんもいるんじゃないかと思うのに、あたしはふたりのことを見つけることもできなかった。

 わからなかったけど、あたしはもうここにはいられない。

 夜の間ずっと泣いてた気がするのに、また涙があふれてきて、ここにいられなくなったあたしは廊下を走って逃げ出した。

 

 

         *

 

 

 ピアノの鍵盤になってる階段を三段抜かしで駆け下りて、昇降口で靴に履き替えたあたしは、学校から飛び出す。

 アメ細工のカラフルなブロックがはめ込まれた道路を通り、綿菓子でできた雲をおいしそうに食べてる空髭クジラのつくる影の下を駆け抜ける。

 子泣き爺のおんぶを求める声を聞こえないことにして、砂かけ婆の投げつけてくる砂を鞄で防ぎながら、見下ろし入道の股の下をパスして、あたしはこぼれてくる涙を拭いながら走り続けた。

 

 首長竜とローレライが巣くう小川の脇を通って、勇者と魔王がコサックダンスで競ってるところを飛び越えて自分の家に急ぐ。

 目に見えてるもののすべてが、現実に存在しているものなのか、世界の歪みから生まれた物なのか、もうよくわからない。判別することがいまのあたしにはできない。

 線路のない道路の上を暴走する幽霊電車にぶつかりそうになりながらも家の門の前にたどり着いて、あたしはやっとひと息つくことができた。

 

 布団に潜り込んで、とにかく眠りたかった。

 起きたらお母さんに相談して、わかってもらえないかも知れないけど、いま思ってることを全部、いま起こってることを全部、話してしまいたかった。

 門を開けて玄関に近づく。

 玄関の脇にある認証パネルに携帯端末を近づけて鍵を開けようとする。

 

『ピーッ。認証された鍵ではありません』

 

 無機質な声が、そう言った。

 もう一度近づけてみるけど、返答は同じ。

 携帯端末を操作して何か間違いがあるんじゃないかと思って確認してみるけど、ネットにリンクすることもできなくなってて、確認するどころの状態じゃなくなってしまっていた。

 

「何が、起こったの?」

 

 玄関の前で、あたしはただ呆然と立ちつくす。

 今朝、あたしはこの家から出て学校に行った。

 少なくとも昨日禄朗の家から戻ったときは、携帯端末を使って鍵を開けて家に入った。

 それなのに、なんで鍵が開かないのか、理由がぜんぜんわからなかった。

 壊れてしまったのかもと思うけど、思い出してみれば、学校の下駄箱も開けることができなかった。

 それに今時、ネットにリンクできなくなるなんてこと、あり得ない。そんなことになった端末は、スタンドアローン用の設定を充実させてでもいない限り、役にも立たないんだから。

 

「どちら様?」

 

 どうすることもできずに立ちつくしていると、玄関が開いた。

 顔を出したのは、お出かけから帰ってきたのか、あたしのお母さん。

 

「あの……」

 

 すがるように一歩近づいて、いつも見ている顔に泣きそうになりながら、でもあたしは玄関から姿を見せたお母さんにできるだけ笑顔を見せる。

 

「ただい――」

「貴女はだぁれ? 可愛い制服を着てるけど、近くの子?」

 

 お母さんの笑みは、あたしへの笑みじゃなくって、知らない子に見せる笑みだった。

 

 ――あぁ、そういうことなんだ。

 

 もう、あたしは理解していた。

 昨日禄朗の姿をしていた何かが、世界が壊れてしまうと言っていた。

 つまりはこういうことなんだ。

 世界から、あたしが存在しなくなっていた。

 世界にとって歪みとなったあたしは、この世界の人々の記憶から消えてしまった。

 禄朗と同じように、曽我さんと同じように。

 あたしはもう、この世界の住人ではなくなってしまった。

 

「大丈夫ですか? 貴女。何か飲み物でも持ってきましょうか?」

 

 あくまで優しいお母さんは、目に涙を溜めているあたしのことを見てそう言ってくれる。

 でももう、あたしはここにいられなかった。いたくなかった。あたしの居場所は、なくなってしまった。

 

「ありがとう、ございます」

 

 あふれてこぼれてきた涙を隠そうとしてうつむき、あたしは踵を返す。

 

「あの、本当に大丈夫ですか?」

 

 背中を追ってきた心配する声に応じず、あたしはあたしの家だった場所から逃げ出した。

 

 

 



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第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション 2 空椿

 

 

       * 2 *

 

 

 家から逃げ出した後、あたしはどこをどう歩いたのか、憶えてなかった。

 ネットが使えないから携帯端末で決済することもできず、ジュース一本買うことができなくなっていた。

 ただいろんなところを歩き回って、自分と、禄朗の痕跡を探していたような気がする。

 春にしては暑いくらいになった今日、脚が棒になるくらい歩き回って、下着の感触が気持ち悪くなるくらい汗をかいて、それから、涸れるほどたくさん泣いたことだけは、朧気ながら憶えてる。

 

 気がつくとあたしは、いつも禄朗と歩いた川沿いの土手に座っていることに気がついた。

 もう立ち上がることもできなくて、あたしは夕暮れが迫った川の煌めきを眺めながら、ただ座っていた。

 

 川原には一面に赤い花が咲き乱れていた。

 

 なんて名前の花だったのか、思い出すことができない。

 本当に現実に存在してる花なのか、この世界の歪みが生み出した花なのか、それもわからなかった。

 

「こんなに、つらいものなんだ」

 

 あたしはこの世界から、すっかり存在をなくしていた。

 学校の先生もクラスメイトも、お母さんも、あたしのことを憶えてなかった。街の中にあったあたしの微かな痕跡も、すべて消えてしまっていた。

 あたしはここにいながら、もうこの世界に存在しない人になっていた。

 

「禄朗も、そうだったのかな?」

 

 気がついたときにはいなくなっていた禄朗。

 もしかしたら禄朗も、あたしと同じように、あたしが彼のことを思い出せない間にどこかに消えてしまったのかも知れない。

 

 ――うぅん。たぶん違う。

 

 何となくだけど、禄朗は違ってるような気がした。

 曽我さんが消えてしまったように、禄朗もこの世界から消えてしまった存在だったような気がした。

 いまだに胸の中にあるような気がする開きっぱなしの箱が、違うと言うみたいに震えてる気がした。

 

「これから、どうすればいいんだろう」

 

 あたしには夜眠るベッドだってない。

 誰にも憶えてもらうことができないんだとしたら、このまま消えてしまう以外、どうすることもできない。

 

 風の音がした。

 

 見てみると、遠くの川の上で、半透明の身体をした風の乙女たちがダンスをしていた。

 風の乙女たちのダンスは優しく、でも荒々しくて、川面に大きな波を立てながら、すごい早さであたしの方に迫ってくる。

 ダンスが巻き起こす風に煽られて、川原の花が激しく揺れた。

 

「さぁ行きましょう」

 

 そんな乙女たちの響き渡る声と同時に、赤い花は四枚の花弁に風を受けて、次々と空へと舞い上がった。

 視界が真っ赤に染まる。

 風が立てるごぅごぅという音と、乙女たちの笑い声に、ぱたぱたと微かな羽ばたきの音が無数に混じる。

 一瞬前までただの花でしかなかったそれは、蝶となって空に飛び立っていった。

 

「あぁ、そっか。あれは宙椿(そらつばき)だ」

 

 名前を思い出して、あたしは空を仰ぐ。

 花弁を羽ばたかせる宙椿は、乙女たちとともに赤い塊となってアッという間に空高くに羽ばたいていってしまった。

 いつか蓄えた力を失った宙椿たちは、運良く水辺にたどり着いたものだけが根付いて、また一年かけて花を咲かせる。そして受粉を終え、種をつくる準備を終えた頃、強い風に乗ってまたどこかに飛び立っていくんだ。

 そう思えば聞いたことがある気がする。

 風の王様に愛された宙椿の一部は宇宙にまで飛び出して行ってて、いまでは金星や火星にも自生しているんだという。

 そしてちょうどいまの時期に花を咲かせている金星や火星の宙椿も、そのいくつかが宇宙へと飛び出し、長い時間をかけて太陽系の中に広がっていきつつあるんだ、って。

 漂う小さな星の中には、宙椿の花畑になっている星もあるんだとか。

 

「あんな風に、あたしも空を飛んでいけたらいいのにな」

 

 できたら禄朗のいる場所に。

 この世界ではない、あたしの居場所がある世界に。

 もう赤い点のようにしか見えなくなってしまった宙椿の群れを、あたしは目を細めながら見ているだけだった。

 

「人は、空を飛ぶことはできませんよ」

 

 そんな言葉を背中からかけられて、あたしはビクリと肩を震わせる。

 聞いたことがある声だった。

 優しくて、包み込むような雰囲気のある女性の声だった。

 でもたぶん、彼女もあたしのことを憶えてない。

 この世界にとって歪みとなってしまったあたしのことは、誰ひとり憶えてはいない。

 

「ずいぶんひどい格好になってしまっていますね」

 

 言われてあたしは振り向かないまま、自分の姿を見下ろす。

 時折お母さんにアイロンを当ててもらったり、クリーニングに出してもらっていたりする制服は、今日一日で着古したみたいにくたびれてしまっていた。

 何度か転けたりしたのか、汚れたところもいくつかあって、もう洗わないと学校に着ていけそうにはなかった。

 

 ――でもそんなこと、どうでもいいんだ。

 

 もうどうせ、あたしは学校に行くことなんてない。制服を綺麗にしておく必要なんて、もうない。

 

「少し前にお会いしたばかりなのに、大冒険をしてきたみたいですね、アイリスさん」

「え?」

 

 名前を呼ばれてみのりさんに振り向く。

 柔らかい笑顔を浮かべている白いエプロンがついた深緑のワンピースを身につけたみのりさんは、確かにあたしのことを見ていた。

 

「あの、あたしのこと……」

「えぇ。憶えていますよ。何しろわたしは世界に横幅を持って存在する、未来予報士ですから」

 

 自慢げに胸を張るみのりさんの姿に、あたしはまた泣きそうになっていた。

 もうあたしの居場所なんてどこにもないと思っていた。

 消えていくしかないと思っていた。

 それがたったひとり、憶えてくれている人がいるだけで、こんなにも胸の中が暖かくなるなんて思わなかった。

 

「お店にいらしてください。歓迎しますよ」

「でもあたしは……」

 

 世界で存在を失ってしまっているあたしは、お金だって持ってない。現金を引き出すことだってできない。

 まだこの前のお返しもできてないのに、みのりさんのお世話になるのはためらわれた。

 

「いいんですよ、アイリスさん。気になさらなくて。それにちょっと、お手伝いしてほしいこともありますしね」

 

 そう言って笑むみのりさんが差し出した手に、あたしはもうためらうことなく自分の手を伸ばしていた。

 

 

 



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第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション 3 喫茶ジャンクション

 

 

       * 3 *

 

 

「暖かい……」

 

 時間をかけて、あたしは身体を洗い流す。

 湯船こそなかったけど、シャワーから出てくる暖かいお湯が、あたしの疲れをすっかり洗い流してくれる。

 お風呂は元々好きだったけど、こんなに気持ちいいなんて思ったのは初めてだった。

 ごわごわになってしまった髪を、いつもとは違う銘柄の、いつもとは違う香りのシャンプーとコンディショナーで綺麗にする。

 泡でいっぱいにしたスポンジを身体の隅々までこすりつけると、さっきまで重りをつけてたみたいに怠かった身体が、生まれ変わったみたいに軽くなっていった。

 最後にあたしの汚れも、暗い気持ちも吸い取った泡をしっかりとお湯で洗い流した。

 

「ふぅー」

 

 シャワーのお湯を止めた後、あたしはここ数日で一番幸せなため息を漏らしていた。

 決して広くないシャワー室。

 喫茶ジャンクションの店舗は家を改造したような造りになっていて、みのりさんに案内してもらった店の奥には、小さなキッチンも仮眠に使えそうな四畳半の畳の部屋まであった。

 表のお店ほど雰囲気が統一されてるわけじゃないけど、真新しい洗濯乾燥機が妙に不釣り合いに感じる脱衣所に、シャワーを浴び終えたあたしは人の気配を気にしながら出て行く。

 洗面所兼用の脱衣所にはあたしが脱いだ制服はなくって、ビニールに包まれたままの真新しい下着と、みのりさんが着ていたのと同じ深緑のお店の制服、それからタオルなんかがカゴに入って置かれていた。

 稼働している洗濯乾燥機の中を覗いてみると、制服が回っているのが見えた。

 

 洗濯完了までの時間はまだかなりある。

 制服は丸洗い大丈夫な奴だったから、アイロンを当てるのは諦めるとしても、しばらくすれば洗い終わりそうだった。

 バスタオルで身体と髪を拭いて、たぶん用意してくれてたんだろうドライヤーで髪を充分に乾かしてから、好意に甘えて下着とお店の制服を身につける。

 事務所スペースに出てみると、テーブルの上にはまさにいまそこに置いたみたいに湯気を立てる巨大と言えそうなサイズのカップがあって、それからお皿の上にはピザトースト、さらにおいしい匂いを漂わせるコーンスープがあった。

 

 カチューシャじゃなくて、制服と同じ深緑のヘアバンドの位置を直しながらお店の方を覗いてみる。ちょうどそこを通りがかったみのりさんが、あたしが訊こうとしていることがわかってるかのように、大きく頷いてくれた。

 焦げ茶色の木製の椅子に座ると、お腹が大きな音を立てた。

 思えば昨日のお昼ご飯以来何も食べてなくて、いまのいままで気がつかなかったけど、お腹が空いてどうしようもないくらいだった。

 

 お店で飲んだときよりさらに大きなカップの中には、なみなみとココアが注がれていた。

 ひと口飲んで喉と胃に染み渡る優しい甘さに、ホッと息が漏れる。

 分厚いパンにソースが塗られ、トマトとピーマンとベーコンやサラミなんかの具材と、それらをしっかりチーズが覆っている熱々のピザトーストは、ひと口食べてみるといろんな味が口に広がって、少し辛いソースとチーズの微かな甘みがおいしくて、涙が出てきそうだった。

 添えられたスプーンでスープを掬って飲んでみる。家で飲むのより少しとろみの強いコーンスープは、すごく深みのある味で、いままで飲んだどんなスープよりもおいしかった。

 

 ピザトーストとコーンスープを交互に口に運んで、両方ともけっこう量が多かったはずなのに、瞬く間に食べ終わってしまった。

 お腹が満たされた後、まだ温かいココアは、お腹だけじゃなくて、頭にも染みこんでくるみたいに、ひと口飲むごとに思考もすっきりしていった。

 お腹が空いてたからかも知れないけど、いままで食べてきたどんな料理よりも、このピザトーストとコーンスープとココアはおいしく感じた。

 

「ふぅ……」

 

 大きく息を吐いて、元気を取り戻したあたしは椅子から立ち上がる。

 このまま眠ってしまいたい気持ちもあったけど、そういうわけにもいかない。

 あたしはいまの歪んでしまっている状況を、どうにかしなくちゃいけない。

 禄朗がいまどうしているかを、知るために。どんなことになっていたとしても、禄朗ともう一度会うために。

 その方法はたぶん、あたしのことを憶えてくれていたみのりさんが何か知っているんじゃないかと思った。

 短い廊下を抜けてお店の方に顔を覗かせると、あたしはびっくりした。

 

 ついこの前はひとりもお客さんがいなかったのに、今日は満席どころじゃない騒ぎになっていた。

 テーブルを挟んで向かい合って座るグリフィンとイグアナが、クリームソーダの飲み方について激しい言い合いをしていた。

 お店の片隅で巨大なジョッキに刺さったストローをすすっている痩せたドラゴンは、ひと口飲むごとに人生に疲れ切ったみたいなため息を漏らしている。

 人だと思うけど、全身金属の鎧で覆っている騎士みたいな人は、スープをスプーンで掬って兜を被った口元まで持っていって、そこで固まっていた。

 

 他にも動物や妖怪や妖精や、いろんなお客さんがいて、椅子が足りないどころか歩く隙間を探すのすら難しいくらい、お店は盛況だった。

 そんな間を優雅な動きですり抜けているみのりさんは、注文を伝票に書きつけたり、できあがった料理や飲み物をお客さんのところに持っていったりと、忙しそうに立ち回っている。

 

「すみません、アイリスさん。今日は見ての通りお客さんがいっぱいになってまして」

 

 注文を書き付けた伝票をマスターに差し出したみのりさんは、あたしに気づいて側までやってきた。

 

「どうしたんですか? この前はあんなだったのに」

「今日はちょっと特別なんですよー」

 

 言ってみのりさんは笑む。

 

「えぇっと、その、色々お世話になってしまって……。食事までいただいてしまって……」

「いいんですよ。でもちょっと、落ち着くまで時間がなさそうなんですよー。少し待っていていただけますか? お店が落ち着く頃には洗濯も終わっていると思いますし」

「それはいいんですけど……」

 

 どうせなら、とちょっと思った。

 せっかくいまお店の制服を着ているんだし、お手伝い程度だけど飲食店のアルバイトは少ししたことがある。この盛況さをどうにかできるかどうかはわからないけど、手伝いくらいはできそうだと思った。

 あたしの考えを読んだみたいに、笑みを浮かべたみのりさんが言う。

 

「お店が落ち着くまで、お手伝いをお願いしてよろしいですか? アイリスさん」

「――はい」

 

 そう言ってもらえたことが嬉しくて、あたしは渡された伝票を手に、早速手を挙げてるお客さんのところに駆けつける。

 お店は本当に、お客さんが入れ替わり立ち替わりやってきて、かなり長い時間すごいことになっていた。

 

 

         *

 

 

「お疲れさまです」

 

 言ってみのりさんが差し出してくれたのは、ブラックのコーヒーだった。

 いつもなら砂糖とミルクを入れるコーヒーを、今日はそのままでひと口飲んでみる。

 甘いココアもすごくおいしかったけど、酸味と渋みがあって、でもほんの微かに甘みを感じるコーヒーは何も入れないままでもおいしかった。

 最後のお客さんが帰ったのは、ついさっきのこと。

 お手伝いを始めた頃はまだ少し明るかった外は、クローズの札をみのりさんが掛ける頃には、すっかり暗くなってしまっていた。

 次々と洗い物を進めるマスターは、やっぱり存在感が薄くて、カウンターの席に座ってるあたしのことをちらりと見るけど、何も言うこともなく、表情を変えることもなく、忙しく手元を動かしていた。

 あたしの隣に座るみのりさんも、さすがに少し疲れたような笑みを浮かべている。

 

「いつもはこんな感じなんですか?」

「いえいえ。常連のお客さんもいますし、いろんなお客さんも来て忙しいときもありますが、今日みたいなのは特別ですよ」

「何かあったんですか?」

 

 両手でコーヒーのカップを包むようにして口元に運ぶみのりさんは、「んー」と少し考えるように声を上げる。

 

「アイリスさんには話しておいた方がいいですね。この世界は、歪みが大きくなりすぎたので、もうすぐなくなってしまうんです」

「え?」

 

 ――世界がなくなってしまうって、どういうことだろう?

 

 よくわからなかった。

 地球が滅亡してしまうとか、宇宙が消えてなくなってしまうとか、そういう感じではないような気がした。

 でも同時に、何となくわかるような気がした。

 

「このお店は喫茶ジャンクション。人と人が出会う交差点。そして人とモノが、時としてはモノとモノが出会う場所なんです。歪みの大きいこの世界では、普段では行き交うことのできない存在同士が出入りすることもできます。もうすぐなくなってしまうこの世界だから、今日はいつもと少し違う、特別な日だったんです」

 

 やっぱりみのりさんの言うことがわからないような、わかるような気がした。

 

「世界がなくなってしまったら、このお店はどうなるんですか?」

「それはお気になさらなくても大丈夫です。わたしは未来予報士。世界に対して横幅を持って存在しています。そしてこのお店も、必要に応じて必要な世界に存在しています。だから、世界がどうなろうとあまり気にする必要はないんです」

 

 微笑むみのりさんの言葉に、あたしは首を傾げることしかできない。

 

「でも、アイリスさんはそういうわけにはいきません」

 

 少し真面目な顔をするみのりさん。

 

「アイリスさんは、この世界がなくなるときに、巻き込まれて消えてしまうと思います。それでも特別問題があるわけではありません。ここはひとつの強い願いによって生まれた分岐世界。この世界の分岐元となった世界はそのままですし、いまここにいるアイリスさんが消えるだけです。その場合、完全に分離を終えていない元の世界にはなんら影響がない、ということになります。元の世界は、元の通り、いまのこの世界の影響を受けずに存在し続けます。それでアイリスさんが問題ないのであれば、ですが」

 

 ――あたしが、消える?

 

 どういうことなのかよくわからなかったけど、何となく、それでもいい気がした。

 もうどうせあたしはこの世界で存在をなくしてしまっていた。

 みのりさんが憶えてる他は、誰もあたしのことを憶えてなかった。

 このお店も、みのりさんも消えてなくなってしまうというなら、あたしもそれと一緒に消えてしまってもいい。そう思えていた。

 

 ――でも本当に、消えてもいいのかな?

 

 ほんの数日の間に、いろんなことがあった。

 禄朗のことを忘れていたなんて、いまから考えれば信じられない。

 自分が、この世界のほとんどの人たちから忘れられてしまったなんて、つらくて堪えられなかった。

 忘れることも、忘れられることも、こんなにつらいことなんだと、あたしは初めて知った。そのことを感じることができた。

 この世界で禄朗を見つけることはできてないけど、いまこうして感じてることは、失いたくないと思った。

 

「……戻りたいです。元の、世界に」

「本当に戻りたいですか? この世界であったことは、つらいことばかりだったんじゃないかと思います。それでもその記憶を、その想いを、失いたくないと思いますか?」

「はい」

 

 カップに落としていた顔を上げて、しっかりとみのりさんを見つめる。

 

「元の世界に戻ったとして、どういうことになっているのかは、たぶんもういまのアイリスさんならわかっているんじゃないですか?」

「それでも、あたしは戻りたいんです」

 

 あたしのことをじっと見つめてくるみのりさんの視線を、しっかりと見つめ返す。

 忘れることも、忘れられることも、嫌だった。

 たぶん禄朗にどんなことがあって、この世界にいないのか、この世界に何がなくなってしまっているのか、それはもうだいたいわかっていた。

 この世界を生み出した願いの正体に、気づき始めていた。

 それでも、あたしは自分のいるべき世界に戻って、いまの想いを抱き続けていたかった。

 

「それならもう、アイリスさんには自分のやるべきことがわかっていると思います」

 

 言ってみのりさんは、エプロンのポケットから何かを取り出す。

 それは鍵。

 制服のポケットに入れっぱなしにしてあった、学校の屋上の鍵だった。

 

「制服はもう洗い終わって、アイロンもかけておきました」

「ありがとうございます」

 

 あんなにお店が忙しかったのに、いつの間にそんなことをしていたんだろうとちょっと思って、顔がほころんでしまう。

 みのりさんから受け取った鍵を少しの間眺めて、握りしめる。

 もう一度彼女のことをしっかり見て、それから言った。

 

「本当にありがとうございました。いつか必ず、約束のケーキを買ってここに来ます」

「えぇ。大丈夫ですよ。すぐにまた、会うことができますから」

 

 微笑むみのりさんに、あたしも笑みを返す。

 

「行ってきます。また」

「はい。また。行ってらっしゃいませ」

 

 みのりさんの言葉を背に受けて、あたしは制服に着替えるためにお店の奥へと走った。

 

 

 



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第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション 4 空の箱

 

 

       * 4 *

 

 

 学校に着く頃には、すっかり街も人も寝静まる時間になっていた。

 学校の前の道路にも行き交うものはなくって、あたしは少し苦労しながら校門を乗り越えて中に入った。

 前に一度、忘れ物を取りに禄朗と忍び込んだことがあって、どこから聞いてきたのかわからないけど、監視カメラの盲点とかを教えてもらっていた。

 警備会社の人が時折巡回してるはずだけど、いまの時間だったら大丈夫なはず。それに鍵が壊れて忍び込める場所も、あのときと変わっていないはずだった。

 

 修理されてなかった窓を開けて、あたしの背丈じゃ校門以上の難関をどうにかクリアして校舎の中に入り込む。

 街よりもさらに静まり返っている校舎の中は、少し怖い気がしたけど、でも何となく楽しくもあった。

 靴のまま、一応足音を忍ばせて階段を上がっていく。

 

 目指すは屋上。

 

 いつどこから誰かが飛び出してこないかとちょっとびくびくしながらも、あたしは無事階段室にたどり着いた。

 消えてしまった曽我さんが落としていった鍵で、屋上へと出る。

 広々とした星空にはやせ細った月が昇っていて、あたしのことを見下ろして嫌らしい笑みを浮かべていた。

 使い終わった鍵を、一瞬どうしようかと思って、またポケットの中に仕舞い込む。

 階段室から椅子をひとつ持ってきたあたしは、それに乗ってハシゴに手を伸ばし、階段室の上へと登った。

 

 空がとても広かった。

 

 夜に沈む街も、どこまでも見通すことができた。

 景色は学校内のどこよりも良かったけど、ほんのわずかに吹く風でも、手がかりのないこの場所に立っているのは怖かった。

 

 ――でも、曽我さんはこの場所から飛び降りたんだ。

 

 どんな想いで、どんなことを考えて飛び降りたのかわからなかった。

 もし訊くことができるなら、彼女に訊いてみたかった。

 飛び降りた曽我さんは、世界から消えてしまった。

 この方法が正解なのかどうなのかは、よくわからない。

 でもこの世界からなくなってしまっているものがあたしの思ってる通りのものなら、たぶんこれが正解の方法。

 

「ふぅーっ」

 

 ひとつ息を吐き出して、あたしは階段室の端まで下がる。

 スタートを切る構えを取って、もう考えるのはやめる。

 ちらりと横目で月を見てみると、嫌らしい笑みを浮かべていたはずなのに、いまは悲しげなような、困ったような顔になっていた。

 何か言いたげに口をぱくぱくさせてるけど、結局何も言ってこずに、諦めたように暗い顔になってそのまま空の闇に同化して消えていってしまった。

 

「さよなら」

 

 消えてしまった月に向かってそう言って、あたしはスタートを切った。

 

 

         *

 

 

 ――怖い。

 

 自分で決めて飛び降りたのに、あたしは怖くて仕方なかった。

 ぎゅっ、と目を閉じて、たぶんもうすぐ来るだろう痛みをできるだけ想像しないようにしながら、そのときを待つ。

 

 待つ。

 待つ……。

 待ち続ける。

 ――あれ?

 

 待って、待って、待ち続けて、でもずっと落下していくような感じはあるのに、いつまで待ってもそれが訪れることはなかった。

 うっすらと、怖々と、目を開けてみる。

 見えたのは、ピンク色をした、不思議な空。

 この世界ではいろんな不思議なものを見てきた気がするのに、いままで見た中でも一番不思議な場所だった。

 最初のとき感じたどんどん早くなっていく落下感はなくなって、浮いているような、ふんわりと落ちているような感触があって、上がどっちで下がどこなのかもよくわからなくなってくる。

 空には近くにも遠くにもたくさんのものが浮いていた。あたしと一緒に落ちていた。

 

 四畳半くらいの小さな島には、緑に萌える草が一面を覆っていて、真ん中に大きな泉があって、泉のほとりには一本の木が生えていた。

 それから、緑と青に染め上げられた島を、いくつかの赤いリボンのようなものが飾り立てている。

 

「空椿だ。ここにたどり着けたんだ」

 

 もう飛ぶ力を失っているんだろう空椿の花は、また来年この泉のほとりで花を咲かせ、そして新しい場所に飛び立っていくのかも知れない。

 漂うように浮かんでいた島は、見ている間に遠ざかっていって、たぶん上と思われる方向に消えていった。

 それから下から浮かび上がってきたのは、綺麗な毛並みをした虎。

 たぶんあのときあたしの悩みを聞いてくれて、でも相談には乗ってくれなかった虎は、大きなあくびをひとつ漏らし、前足の間に頭を埋めて、あたしに気づくことなくどこかに漂って行ってしまった。

 

 ばたばたと羽ばたきの音が聞こえてきて、鳥でもいるのかと思って辺りを見回す。

 遠くから見えてきたのは、両腕を一生懸命羽ばたかせてる、ワニ。

 頭の上に大きなのと小さいののふたつの輪っかを浮かべてる真っ白な身体をしたワニは、まるで天使であるかのようにあたしの周りを飛び回り、たぶん笑ったんだろう、大きな口の端をつり上げた後、またどこかに飛び去っていった。

 

 ずいぶん遠くに、古風な木造の建物が浮かんでいるのが見えた。

 見覚えのあるその建物の入り口から出てきてポーチに立った女性。

 白いエプロンがついた深緑の服を着たその女性は、この距離じゃ顔も見えないような気がするのに、何故か笑顔を浮かべてるのがわかった。

 深くお辞儀をしたその女性に、あたしもふわふわと浮かび上がって安定しない身体でどうにかお辞儀を返す。

 にっこりと笑んだ彼女の笑顔も、アッという間に上空へと消えていってしまった。

 

 他にもたくさんの、この世界で見た不思議なものとか、おかしなものが浮かんできては消えて、消えては浮かび上がってきていた。

 

 それから、あたしの前にどこからともなく浮かび上がってきたのは、箱。

 木でできてて、片手には余るくらいのサイズで、ずいぶん古びていて、……その中身を、いつも見たいと思っていた箱。

 禄朗の部屋にあったはずの箱が、そしてこの世界にいるときに、ずっとあたしの中にあった気がする箱が、いまあたしの前に浮かんできていた。

 

 蓋が開いてしまっている箱の中には、もう何も入ってない。

 禄朗がとてもとても大切なものを仕舞っておいたんだろう箱は、空っぽになってしまっていた。

 

 ――そっか。そうだったんだ。

 

 何となくあたしは気づいていた。

 この箱が、何だったのかを。

 この箱が、あたしの中にあってずっと導いてくれてたことを。

 少しためらって、でもあたしはその箱に手を伸ばす。

 指が触れるか触れないかのところで、箱は光の粒へと変わった。

 蛍の群れのようにたくさんの光の粒となった箱が、あたしの周りをくるくると回る。

 

「ずっと、ずっといてくれたんだ。あたしと一緒に、いてくれたんだ」

 

 禄朗なんだ、これは。

 そう思えた。そう感じられた。箱の形をしていても、これは禄朗。禄朗の、一部。

 消えてしまった禄朗。

 でも彼はずっと、あたしの中にいた。

 あたしの中にいて、あたしが行くべき道を示し続けていてくれた。

 だからあたしはたくさんのものに出会えた。

 一度は忘れてしまった禄朗のことを、思い出すことができた。

 自分のやるべきことを、やらなければならないことを、見つけ出すことができた。

 

「ゴメンね、禄朗。あたし、あたし……」

 

 あふれてきた涙が、次々と上空へと飛んでいく。

 手を伸ばしても触れることができない光の粒たちを見ながら、あたしはたくさんの涙を空へと羽ばたかせていった。

 

「こんなものが君の中にいたのか。それは世界が歪むはずだよ」

 

 どこからともなく、声がした。

 周りを見回しても誰もいないのに、すぐ近くに存在感だけがあった。

 その声の主は、たぶんあのときの男の子。名前を教えてくれなかったあの人。

 

「人の願いを邪魔して、歪みまで生み出してしまうなんて。人の想いとは、本当に強いものだね。でももうここまでだ。わかっているだろう? 君も」

 

 あたしにではない、たぶん禄朗に話しかけている、彼。

 その言葉に応えてか、光の粒たちはあたしの前に集まり、そして、どうしてそうしてると思えるのかわからないけど、あたしに手を振った。

 

「やだ」

 

 さよならの挨拶を拒絶して、あたしは光の粒たちに手を伸ばす。

 でも、触れない。

 触っているはずなのに、感触も残らない。

 つかんだと思った手のひらを開いても、ひと粒の光もつかむことができていない。

 

「無駄だよ。君もわかっているだろう? あれは残り香だ。もう実体は失われている。君の中に残っていた、強い想いの結晶だ。だから想いを遂げれば消える。そういうものだ」

 

 ささやくような男の声に、あたしはさらに涙をあふれさせる。

 わかっていた。

 もう手が届かないものなんだと。

 もう二度とつかむことができないものなんだと。

 

 でも、イヤだった。

 離したくなかった。

 離れたくなかった。

 

 それでもこれは禄朗が望んだこと。この世界を壊したのは、あたしと、そして禄朗なんだ。

 だから禄朗の想いの結晶は、あたしを導いてくれた箱は、消える。

 次々と上空へと消えていく光の粒に、それでもあたしは手を伸ばす。

 つかめない想いをつかもうと、必死で光の粒を追いかけようとする。

 

 追いつけなかった。

 追いつくことなんてできなかった。

 遠くに行ってしまった光の粒たちが、強い光を放つ。

 

「行っちゃった……」

 

 どうしようもない気持ちを抱えて、あたしは目をつむる。

 叫びたいのか、泣きじゃくりたいのかもわからないまま、だんだんと強くなっていく落下感に身をゆだねていた。

 

 

 



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第五章 アイリスと禄朗と幸夢 1 メモリー

 

 

第五章 アイリスと禄朗と幸夢

 

 

       * 1 *

 

 

 いつも通り一緒に教室を出ようとしたら、禄朗が少し待っててというから、仕方なくあたしは校門のところで彼が出てくるのを待っていた。

 十分が経ち、十五分が経ち、それでも禄朗は出てこない。

 クラブのない生徒の下校がだいたい終わって、校門を出ていく人がいなくなった頃、校舎から出てきたのは、女の子だった。

 近づいてきてそれが同じクラスの曽我さんであることに気づく。

 あたしの前まで来て、何でか睨んでくる曽我さん。

 彼女の目は赤く充血していて、たぶんいまさっきまで泣いてたんだと思う。

 

「あの……」

 

 どうしたのかと思って声をかけようとしたけど、曽我さんはあたしが何か言い始める前に視線を逸らして、早足に学校を出て行ってしまった。

 

「お待たせ」

 

 遠ざかっていく曽我さんの背中を見ているときに、そう言って禄朗が声をかけてきた。

 振り向いて見てみると、いつもと変わらぬ笑みを浮かべてるはずの禄朗が、でも何となくいつもと違うような気がした。

 どこが違うのかはっきりとはわからないけど、歩き始めた彼の手に、あたしは手を伸ばす。

 何となく、本当に何となくだけど、不安になっていたから。

 そしてたぶん、禄朗も何か不安に感じることがあったように思えたから。

 

 握り返してくれる手が暖かくて、でも少し恥ずかしい。

 いつもは学校からある程度離れてからか、ふたりでいるときにしかつながない手。

 こんなに学校の近くで手をつなぐのは初めてだったから、もう学校の人が近くにいないのはわかってるけど、ちょっと頬に熱を持つのを感じていた。

 いつもと変わらない他愛のない話をしながら、家へと向かって歩く。

 それだけのことで幸せで、それだけのことであたしはいま満たされていて、でもこんな時間がもうあんまり長く続かないことはわかっていた。

 

 二年になって早速出された進路希望のアンケート。

 それにあたしはまだ何も書き込むことができないでいた。

 でもたぶん、禄朗はすでに書いて提出も終わってる。

 禄朗は何かやりたいことがあって、それに向かって勉強を始めてるらしいことに、あたしは気づいていたから。

 それでもいまはいまを楽しもう。いまの幸せを噛みしめよう。

 

 明日からゴールデンウィーク。

 春休みの終わりに幼馴染みを卒業して、恋人同士になったあたしたちにとって、初めての長いお休み。

 いろんなところに行こうと相談していて、でもまだ決まってなくって、今日この後は禄朗の家に行って、明日行く場所を決める予定だった。

 学校にほど近い駅前のロータリーを通って、交通量の多い道路に面した商店街を手をつないだまま歩いて行く。

 注目されてることなんてないけど、ちょっと恥ずかしい。でもちょっとうれしい。

 人通りの邪魔にならないように気をつけながら、充分余裕のある歩道を禄朗と肩を並べて歩くだけで、あたしは幸せを感じていた。

 

「イーリス!」

 

 突然鋭く禄朗が叫んで、つないだままの手を強く引っ張った。

 振り回すように引っ張られて、そのまま離される。勢いが良すぎて、あたしは禄朗から少し離れたところで尻餅をついてしまう。

 

「何よっ、禄朗!」

 

 文句を言ってお尻をさすりながら立ち上がろうとする。腰を浮かせつつ禄朗の方を見ると、あたしを振り回したときに転けてしまった彼は、何故か悲しそうに笑っていた。

 

「あ――」

 

 次の声をかけようとした瞬間、あたしの視界から禄朗が消えた。

 その代わりに何かがすごい勢いで通り過ぎていって、遅れて風があたしの頬を叩いた。

 

 ブレーキの音。

 ガラスが割れる音。

 おっきなものが何かにぶつかる音。

 

 何が起こったのかわからなくて、あたしはまたぺたんと座り込んでしまう。

 

「禄朗?」

 

 声をかけながら辺りを見回すと、ずいぶん離れたところに禄朗が倒れていた。

 脚にも腰にも力が入らなくて、あたしは這いずって彼のところに近づいていく。

 起き上がる様子のない禄朗の頭を、アスファルトに座り込んで膝の上に乗せる。

 どこからなのかわかんなかったけど、身体の下に回した右手を濡らしてるのが禄朗の血であることはわかった。

 左手で彼の手を握りしめるけど、弱々しくしか握り返してくれなかった。

 

「禄朗?」

 

 声をかけると、目だけを動かして、彼があたしのことを見た。

 その視線はでも、もうあたしのことをちゃんと見ているようには見えなかった。

 

「ねぇ禄朗。嘘だよね。こんなの本当じゃないよね」

 そんな風に声をかけてみても、禄朗には聞こえてないみたいだった。

「やめてよ! こんな冗談大嫌いっ! ねぇ禄朗、大丈夫だって言ってよ!! 起き上がってよ! あたしのことを見てよ!!」

 

 大声を出して禄朗に声をかけるけど、どんどん流れ出してくる血が、彼の身体から力を失わせる。熱を奪い去っていく。

 

「やだよ、禄朗! これからはずっと一緒だって約束したじゃないっ! 死ぬまで一緒にいるって約束したじゃない! こんなの全部嘘だって言ってよ!!」

 

 信じたくなかった。

 禄朗から流れ出す血とともに、彼が急速に死んでいく。

 もう辺りは血の海みたいになってて、お尻まで彼の血で濡れて気持ち悪かった。

 

 ――こんなの、嘘だ。

 

 禄朗が死ぬなんてこと、嘘じゃないとおかしかった。

 

 ――こんなこと、なくなってしまえばいい。

 

 禄朗が死ぬなんてこと、なくなってしまえばよかった。

 

「ねぇ禄朗!!」

 

 そう呼びかけたとき、禄朗の口が微かに動いた。

 

「ゴメン、僕はもうダメだ。さよなら、イーリス。――あぁ、嘘だ。こんなのイヤだ。死にたくない。イーリスを残して死ねないよ。僕はもっと、もっとイーリスと一緒に生きていたかったよ」

 ほんの微かな、耳にかろうじて聞こえるくらいの言葉。

 

 ――でもこれ違う。

 

 あのとき、あたしは禄朗の言葉を聞き取れなかった。

 聞こえていたはずなのに、頭に残ってくれなかった。

 でもいまは彼の言葉が、小さい声だったのに、はっきり聞くことができた。

 

 くたりと、禄朗の手の力がなくなる。

 禄朗が、あたしの側からいなくなってしまった。

 禄朗は、死んでしまった。

 あたしのことを、ひとりにして。

 

 

 



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第五章 アイリスと禄朗と幸夢 2 幸夢

 

 

       * 2 *

 

 

 どこまでもどこまでも落ちていった気がしていたのに、地面にたどり着くことはなかったような気がする。

 目を開けてみると、自分が突っ伏していることに気がついた。

 身体を起こして辺りを見回してみる。見慣れた風景のそこは教室の中で、あたしが突っ伏しているのは自分の机だった。

 でもいまが朝なのか昼なのか、それとも夜なのかよくわからなかった。

 窓の外では太陽と月が地面から跳ね上がっては消えて、消えては跳ね上がっていた。

 空には空髭クジラがたくさん泳いでいて、どこかへ逃げるようにすごい速度を出していた。

 

 教室の机の数を数えてみると、三一。

 あたしの席も、禄朗の席も、曽我さんの席もあった。

 そして禄朗の机の上には、菊の花が生けられた花瓶が、ひっそりと置かれていた。

 

「そっか」

 

 これがいつの時間のことなのか、わからない。

 でもここはたぶん、これからあたしが見ることになる教室の風景。

 いまはまだ存在していない風景。

 どれくらい泣いただろう。

 どれくらい禄朗の死を嘘だと思っただろう。

 死なんて、なくなってしまえばいいと、あたしはベッドの上でずっと思っていたことを、思い出す。

 

 あたしはもう、すべてを思い出していた。

 胸の中にあった箱は、消えてしまっていた。

 人の気配がして、あたしは振り返る。

 開けっ放しの教室の扉から姿を見せたのは、ついこの前会ったような、もっと前から知っているような、そんな不思議な感じのある男の子。

 

「まさか君が望んで生み出した世界を、君自身が壊してしまうとは思わなかったよ」

 

 近づいてきて、そう彼は言った。

 

「貴方がこの世界をつくったんじゃないの?」

「少し違うかな。僕には世界を分岐させる力がある。でも方向性は持たない。僕は人の強い願いを受け取って、世界を分岐させるだけなんだよ」

 

 やっぱりみのりさん以上に、彼の言葉はわからなかった。

 でもいまなら、前よりもほんの少しだけ、わかる気がした。

 

「あのとき、禄朗の姿をして来てくれたのは、貴方?」

 

 椅子から立ち上がって、あたしは彼の側に立つ。

 

「うん。君よって生み出された世界が、君によって壊されようとしていたからね。望みを受け取って生まれた世界を、壊してはいけないと思ったんだ」

「禄朗の最期の言葉を、もう一度聞かせてくれたのも?」

「あの声は君にはちゃんと聞こえていたんだ。でも、君はちゃんと聞き取ることができなかった。だから君の記憶に残る言葉を、もう一度聞かせただけだけどね」

「そっか」

 

 彼の側にもう一歩近づいて、あたしは深く頭を下げる。

 

「ありがとう」

「なぜ?」

 

 不思議そうに顔をしかめる彼に、あたしは言う。

 

「だって、もう一度禄朗に会えたから。確かにあのときの禄朗は本物じゃなかったけど、でも、会うことができたから。それに、ちゃんと聞くことができなかった禄朗の最期の言葉を、聞かせてくれたから」

 

 納得はしていないかのように、彼が表情を変えることはなかった。

 

「でもなんで、あのときあたしのことをアイリスって呼んだの? 正直、あのときイーリスって呼ばれてたら、たぶんあたしは貴方のことを本当の禄朗だと思ってたと思う」

「あのときにはもう、君の名前を聞いていたから。僕にとって君は、もうイーリスではなくて、アイリスだったから」

「……そっか」

 

 彼の手を取って、あたしは自分の胸元に持ってきて、両手で握りしめる。祈るように彼の手に額をつけて、あたしはもう一度言う。

 

「それでも、ありがとう。あたしは全部嘘にしたかった。禄朗が死んだなんて、信じたくなかった。死なんて、なくなってしまえばいいと思った」

 

 顔を上げて、彼の感情がないように見える瞳を見つめる。

 

「でもあたしは禄朗が死んだことを知ってるから、世界から死をなくしたら、禄朗まで消しちゃうことになったんだね。禄朗が消えてなくなっていても、やっぱりあたしは全部を忘れることはできなかったんだね」

「そうだったみたいだね」

「それに――」

 

 彼の手を包む手に、少し力を込めてしまう。

 

「禄朗も、残ってた。ほんの少しだったかも知れないけど、あたしの中に残ってた」

 

 禄朗は、寂しがり屋だ。

 喧嘩をして口をきかなくなっても、折れるのはいつも禄朗。

 あたしと話せなくて寂しくて、あっちから謝ってくる。それがいつものこと。

 寂しがり屋の禄朗は、たぶんひとりじゃ寂しくて、あたしの中に入ってきたんだと思う。

 本当は違うかも知れないけど、あたしはそういうことだったんだと思うことにした。

 

「たぶん禄朗があたしを導いてくれなくても、あたしはいつか、この世界を壊してしまったんだと思う。あたしが禄朗のことを忘れることなんて絶対できないから、あたしは禄朗と一緒に生きていきたいから、いつかはあたしは、世界を壊してたと思う」

 

 手を離して、あたしは彼に宣言する。

 

「だからあたしはもうこの世界はいらない。この世界にはいられない。禄朗のことを忘れられていれば幸せだったかも知れないけど、もういまは思い出しちゃったから、この世界に居続けることはできないの」

「それで大丈夫なの?」

 

 少し心配そうな色が浮かんでるように思える瞳で、彼が言う。

 問われても、わからなかった。

 禄朗が死んだなんて、いまでも嘘にしたいと思ってる。

 信じたくなんてないと思ってる。

 でもそのことをはっきりと思い出したいまは、そのことを受け止めるしかない。もっとたくさん泣くことになるかも知れないけど、禄朗との想い出を抱きしめて、生きていくしかない。

 もう二度と、彼を忘れるなんてこと、したくない。

 

「うん、たぶん。しばらくは大丈夫じゃないかも知れないけど、もうどうすることもできないから」

 

 精一杯の笑顔を彼に見せて、でもあたしは泣いた。

 どれだけ涙を流しても、涙は涸れないものなんだと、あたしはそのとき知った。

 そして泣いてばかりいられないことも、もうあたしは知っていた。

 

「そろそろこの世界は消えてなくなる。こんなこと初めてだから、君がどうなるかは僕にもわからない」

「うん。たぶん、大丈夫なんだよ」

 

 そう思えた。

 みのりさんがまた会えると言っていたから。

 だからあたしはたぶん、この世界の記憶を持って、元の世界に行けるんじゃないかと思う。

 とくに根拠はなかったけど、いまはそう思えた。

 

 ――そうだ、日記を書こう。

 

 この世界であったことを、この世界で出会った人たちのことを、全部日記に書いておこう。

 日記の一日分の小さなスペースじゃ書き切れないくらいのことがあったけど、その全部を、禄朗との想い出がいっぱい詰まってる日記に書いておこうと思う。

 それから、悲しくて、つらくて、でも幸せだった記憶。禄朗への甘くて、それから酸っぱい想い出を、全部。

 あふれてきていた涙を指で拭って、あたしは笑う。

 笑って、彼のことをちゃんと見る。

 

「貴方は、いったい何なの?」

「さぁ? それは僕にもわからない。インキュバスとかサッキュバスとか、夢魔とかバクとか呼ばれていることはあるけど、それは僕のような存在につけられた名前で、僕自身のことじゃない。僕には世界を分岐する力があって、どういう理由で誰を選ぶのかもよくわからないけど、強い望みに反応して目覚めて、世界を分岐させるということしか、僕にはわかってない」

「名前はないんだ?」

「ないよ。僕のいまのこの姿だって、君が僕のことを見てくれたからあるだけで、僕自身には姿形すら、本来はないんだ」

「そうなんだ」

 

 やっぱりあんまり表情のない彼の顔をじっくり見つめて、あたしはしばらく考える。

 

「じゃあ、名前をつけて上げる」

「僕に、名前を? なぜ?」

 

 本当に驚いたのか、彼は目を丸くする。

 それが少し可愛く見えて、涙の跡を拭ったあたしは笑う。

 

「お礼、かな? この世界をつくってくれたお礼。だってこの世界がなかったら、あたしはいまみたいな気持ちになれなかったから。もっと長い間、禄朗のことを受け止めることができなかったから」

「よくわからないけどね」

 

 言って彼はあたしから目を逸らす。

 もしかしたら恥ずかしがってるのかも知れない。

 みのりさんの真似をして、人差し指を唇に軽く当てながら、あたしは考える。

 彼にぴったりの名前が見つかるような気がした。

 あたしにとって彼はある意味でかけがえのない存在で、彼を表す言葉があたしの中にあるような気がしていた。

 

「貴方の名前は、幸夢」

「コウム?」

「うん」

 

 首を傾げる彼に、幸夢に、あたしはにっこりと笑う。

 

「だってあたしはこの世界で、幸せだったから。禄朗のことを忘れていたときはつらかったし、思い出してもやっぱりつらかったけど、でもこの世界はあたしを不幸にするために生まれた世界なんかじゃない。悪夢なんかじゃなかったから」

 

 逃げられないように、あたしは幸夢に近づいて、彼の顔を下から覗き込む。

 

「悪夢でなくて、この世界にあるはずだったのがあたしの幸せだったんなら、ここは幸せの夢の世界。悪夢の反対の言葉はたぶんないけど、でももしあるなら、それは幸夢。幸せな夢。だから貴方の名前は、幸夢」

「僕は、幸夢」

「うん」

 

 迫られてたじろいでる風の幸夢に、あたしは少し笑ってしまう。

 でもやめてあげない。

 だってあたしは、つらくて、悲しくて、でも幸せだと感じることができていたから。

 

「ありがとう、幸夢。あたしに、幸せな夢を見させてくれて」

 

 お礼の言葉を言って、幸夢に笑顔を向けながら、でもやっぱり、あたしは泣いた。

 辺りが真っ白になっていく。真っ黒になっていく。

 世界が消えていく。

 

 消えていく世界の最後に見たのは、幸夢の笑顔だったのかも知れない。

 

 

 



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第五章 アイリスと禄朗と幸夢 3 リアル

 

 

       * 3 *

 

 

 重い頭を持ち上げてみると、ベッドの隅っこでうずくまってる自分を発見した。

 ゴールデンウィークの間、あたしは泣いて過ごした。

 何度か警察に呼ばれて出かけたのは憶えてるけど、それ以外の時間は、ほとんど自分の部屋のベッドの上で、もういない禄朗のことを想って泣いていた。

 

 時計を見てみると、五月六日。

 今日から学校が始まる。

 怠くて重い身体を動かして、あたしはベッドから下りる。

 違和感を覚えて自分の身体を見下ろしてみると、制服を着ていることに気がついた。

 綺麗ではあったけどずいぶんシワができてしまっていたから、あたしはクローゼットから予備の制服を取り出して着替える。

 

 ポケットの中に何か忘れ物がないかと手を突っ込んでみると、スカートの中から鍵が出てきた。

 その鍵を握りしめて、あたしは新しいスカートのポケットにそれを突っ込んだ。

 

 腫れぼったいまぶたはもうどうにもならないと思いながらブラシで髪を整えて、ふと横を見てみる。

 小さい棚の上に鎮座しているのは、禄朗のフィルムカメラ。

 あの日も鞄の中に入れて持ち歩いていたカメラは、鞄に染み込んだ血がこびりついてしまっていた。

 元々は禄蔵お爺ちゃんが大切に使っていたカメラを、入院を機に禄朗が譲り受けた。譲り受けたそのすぐ後に形見となったカメラをとても大切に、いつも持ち歩いて使っていた。

 そのカメラはいま、あたしの部屋にある。

 禄朗が一番大切にしていたものを、彼のおばさんが形見として譲ってくれたのだった。

 

「使えるようになるかどうかわからないけど、今度綺麗にしてあげるね」

 

 カメラそのものは禄朗じゃない。でも、そこに禄朗が宿っているような気がして、あたしはカメラに向かって話しかける。

 こびりついてしまった血の跡を一度撫でてから、一階へと降りていく。

 

「おはよう、アイリス」

「うん、おはよう」

 

 LDKに入るとすぐにお母さんが声をかけてきた。

 ひどい顔になってるのはわかってるけど、それでもできるだけの笑顔を見せる。

 

「朝ご飯は食べますか?」

「うん、食べる」

「それじゃあ、顔を洗ってらっしゃい」

「はい」

 

 お母さんの言葉に従って洗面所に行って、顔を洗う。

 鏡に映っているのは、やっぱりひどい顔をしているあたし。

 まぶたはかなり腫れ上がっていて、目も赤いままで、涙の跡だけは洗い流したけど、ちゃんと食事もしていなかったから、整えた髪も荒れてる感じがあった。

 

 ――でも、泣いてばっかりはいられない。

 

 禄朗に会うことができないのは、もうわかってる。

 泣いててももうどうすることもできなくて、だからあたしは、そのことを受け入れて、生きていくしかない。

 いまできる精一杯の笑顔を、鏡の中のあたしに向けて、あたしは見せていた。

 

 

         *

 

 

「おはよう」

 

 挨拶をしながら入ると、騒がしかった教室が静まり返った。

 沙倉もマリエちゃんも教室の中にはいたけど、遠巻きにしていてあたしの側にやってこない。

 自分の机に行く途中、禄朗の机を見てみる。

 禄朗の机の上には菊の花が生けられた、花瓶が置かれていた。

 教室の中を見回してみると、クラスメイトの何人かは、あたしと同じように目を赤くしていた。

 

 釣られて泣きそうになるけど、ぐっと飲み込む。

 自分の席に座って、花瓶越しに曽我さんのことを窺う。

 涙こそ流していなかったけど、曽我さんはやっぱり、目を赤く充血させて、まぶたを腫れさせて、あたしのことを睨んできてるような、でも自分のことを責めてるような、そんな視線をあたしに向けてきていた。

 

 ――いまなら、何となくわかる。

 

 曽我さんが、何を言いたかったのかが。

 あの世界の曽我さんと同じ想いを抱いているのか、そうじゃないのかは、わからない。

 

 ――でもいまは、あたしにはやることがある。

 

 ポケットの中の鍵を握りしめて、あたしは自分がやるべきことを想っていた。

 

 

 

 

 屋上へと続く階段を上る。

 今日は五月七日。

 曽我さんは、一時間目の前にあたしのことを睨みつけた後、教室から出て行って帰ってこなかった。

 昼休みになって、あたしは彼女がいる場所に向かって歩く。

 階段を上りきると、しきりにポケットの中を探っている曽我さんを見つけた。

 

「……どうして?」

 

 あたしが取り出した鍵を示すと、曽我さんは目を丸くした。

 

「なんででしょうね?」

 

 そう言ってごまかして、あたしは曽我さんを脇に追いやって鍵を開ける。

 息が詰まるような狭い階段室から屋上に出ると、晴れ渡った空が気持ちよかった。

 空には雲が浮かんでるだけで、空髭クジラは泳いでない。まだ早い夏を感じさせる澄み切った空が、ただ広がっているだけだった。

 あたしは後ろに着いて出てきた曽我さんに振り返る。

 

「訊いてみたかったんだ。曽我さんが、あたしに言いたかったこと」

 

 泣きすぎたあたしの目は、まだ今日も赤いままだった。

 曽我さんの目は、昨日よりもさらに赤くなって、まぶたも見る影もないくらい腫れ上がっていた。

 そんな彼女に、あたしは微笑みかける。

 まだあたしだってつらいし、悲しいけど、たぶん曽我さんは、あたしよりも重い何かを抱えて、ここまで来たんだと思う。

 

「それは、その……」

 

 言い淀む曽我さんに、あたしはずばりと言う。

 

「禄朗に告白したんだ? あの日」

 

 ゴールデンウィークの前日のあの日、禄朗が車にはねられて死んでしまったあの日、たぶん彼女は告白したんだと思う。

 禄朗にいつもと少し違う感じがあったのは、たぶんそういうことだったんだと思う。

 

「……あの日、ワタシが佐々木君のことを呼び出さなければ、あんなことにはならなかったかも知れない」

 

 曽我さんは、そう言って目を伏せる。

 確かに、あと十秒、五秒でもズレていれば、禄朗は車に轢かれずに済んだかも知れないと思う。

 そんなことを思っても、禄朗はもういない。

 死んでしまった。

 そのことを覆すことも、なかったことにすることもできない。

 曽我さんがあたしに何を言いたくて、どんなことで自分を責めていたのか、やっとあたしは聞くことができた。

 

「そうかも知れない。でも、ダメだよ。禄朗のために死ぬなんてこと、あたしが許さない」

「だってワタシは!」

「絶対ダメ。どんな理由でも、どんなに自分を責めても、それだけは絶対ダメ」

 

 一歩彼女に近づいて、少し背の高い彼女の顔を覗き込むようにして見る。

 

「だって禄朗は、あたしの禄朗だもん。あたしの禄朗のために曽我さんが死ぬなんて、許してあげない」

 

 ずいぶん自分勝手な理由のような気がした。

 でもそう思う。思わずにはいられない。

 痛みに耐えるように顔を歪ませた曽我さんが大きな声を上げる。

 

「ワタシだって佐々木君のことが好きだったんだからっ。一年のときからずっと好きだったんだから!」

「一年くらいじゃ足りないよ。あたしは禄朗と一緒に生まれて、一緒に過ごしてきて、死ぬまで一緒にいるって誓ったんだから」

「ワタシだって――」

 

 言い返そうとした曽我さんの頭に手を伸ばして、胸元に抱き寄せた。

 

「でももう禄朗は死んじゃったよ。いないんだよ。会うことはできないんだよ。でも、でもね? あいつのこと、忘れないでいてあげよう? だって好きだったんだもん。いまでも好きなんだもん。もしこの先、他の誰かを好きになることがあったとしても、あいつのことを好きだったことを、忘れないでいよう?」

 

 死ぬほど自分を責めて、それくらい禄朗のことを想っていた曽我さん。

 あたしの身体に手を回してきた彼女は、あたしの胸の中で肩を震わせ始めた。

 あたしもまた、涙が出てきて止まらなくなっていた。

 

「この涙が涸れて、もう泣けなくなっても、ずっとずっと、禄朗のことを忘れないでいてあげよう?」

「うん……」

 

 あたしの胸の中で頷く曽我さんに、あたしは空を仰いでいた。

 

 

 



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第五章 アイリスと禄朗と幸夢 4 さようなら

 

 

       * 4 *

 

 

 寝転がって空を見ていると、このまま飛んでいけそうな気がした。

 もちろんそんなことはできないんだけど、屋上でずっと寝転がっていると、そんなことくらいできそうな気がしていた。

 曽我さんはたぶん、六時間目の授業を受けることができたと思う。

 後で一緒に行きたい場所があると言って別れてから、ずいぶん時間が経っていた。

 あたしは教室に戻る気になれなくって、六時間目もサボって、こうして決して綺麗とはいえない屋上に寝転がって、少しずつ色を変えていく空を眺め続けていた。

 

 ――あぁ、駅前のケーキを買っていかないと。

 

 それが約束だったから、行くときにはちゃんと買っていかないといけない。

 現金も下ろさないと、あのときの支払いもすることができない。

 

「ねぇ幸夢。貴方も一緒に行く?」

 

 おもむろにどこでもない方向に話しかけてみる。

 

「どこに行くつもりだい?」

「喫茶店。不思議なお店、だと思う。こっちだと普通かも知れないけど」

「遠慮しておくよ。あまりおかしなところには足を踏み入れたくはない。どんな影響があるのかわからないからね」

「というか、やっぱりいたんだ」

 

 近づいてきた幸夢を、寝転がったまま見上げる。

 何となく、そんな気はしていた。

 あの世界とこの世界はつながっていて、幸夢もこっちにいるんじゃないかと、漠然と感じていた。

 

「君の思いを受けて僕は目覚めたからね。君に名前と姿を与えられて、相変わらず曖昧なところはあるけれど、この世界にも存在できるだけの格好は整っているよ」

「ふぅん」

 

 身体を起こして、幸夢に向き直る。

 

「ひとつ訊きたいんだけどさ」

「何かな?」

 

 あたしのことを見下ろしてくる幸夢には、やっぱり表情があるのかどうかよくわからない。

 

「あの世界で、曽我さんが禄朗のことを知ってそうな感じがあったけど、あれはどうしてなの?」

「あの世界は君の望みで生まれた世界だ。でも彼女にも強い想いがあった。たぶんだが、彼女もまた僕を目覚めさせる要因になったんだと思う」

「そうなんだ」

 

 立ち上がって、スカートについた埃を払い落とす。

 幸夢に背を向けて、あたしは空を仰いだ。

 

「もうひとつ、訊いてもいい?」

「あまり、良い答えにはならないと思うよ」

「うん……」

 

 目をつむって、さやさやと微かにそよぐ風を感じる。

 通り過ぎていく春。

 逝ってしまった人。

 壊れてしまった世界。

 あたしはたぶん、諦めの悪い性格をしてるんだと思う。

 受け止めたなんて自分に言い聞かせながら、あたしの中にはまだ、想いが残り続けてる。

 

「もし、もしもだよ? もう一度、あたしが強く幸夢に願ったら、もう一度世界を生み出すことは、できるのかな?」

「不可能とは言わない。それだけの強い想いがいまもあるならば、おそらく可能だ」

 

 胸の前で右手を左手で握り込むようにして、願うように言葉を解き放つ。

 

「禄朗が死んでいなかった世界を生み出すことは、できるのかな?」

「可能だ」

「可能、なんだ」

 

 振り向いて幸夢の顔を見る。

 表情のない彼が嘘を言ってるのか、本当のことを言ってるのかは、わからない。

 でも彼のそんな在り方が、空気に消えてしまいそうな彼の存在が、言葉の意味を教えてくれる。

 

「けれどできないことがある」

「それは何?」

「一度結ばれた要素をほどくこと。過去を改変すること。時間軸上の過去方向への分岐は可能だ。しかしアイリスはすでに彼の死を知ってしまっている。分岐世界の発生はいまの君を起点とする。忘れることくらいはできても、過去を変更することは、なかったことにすることはできない。すでに結ばれた要素をほどいて、過去を改変することは不可能だ。忘れたことにしても、なかったつもりになっても、君の得た時間は確実に世界の歪みとなり、崩壊の道を辿る。それに彼という要素は死という結末によって世界に拡散してしまっている。新たな世界にいる彼は、君の記憶にある彼であって、彼そのものではなくなってしまう」

「……そっか」

 

 そんな気はしていた。

 あの世界で最初、あたしは禄朗の存在そのものを忘れていた。

 それでも残っていた。

 禄朗への想いが。禄朗の死が。

 そして禄朗の、あたしへの想いが。

 

 たくさんの想いがあの世界を歪ませ、崩壊へと導いた。

 もし新たに禄朗のいる世界ができたとしても、また世界を歪ませる結果になるんじゃないかと。

 例えもう消えてしまった禄朗の想いがなくても、長い時間がかかるとしても、あたしはいつか世界の歪みをつくってしまうのかも知れない、と。

 

「そっかぁ」

 

 あふれてきそうになる涙を、空を仰いでやり過ごす。

 六時間目の授業の終わりを告げる鐘が鳴った。

 今日の授業は終わり。

 あたしは今日、禄朗と帰ることはなく、約束をした曽我さんと帰ることになる。

 

 ――さようなら、禄朗。

 

 ひとつも納得なんてできてないけど、そのことはどうやっても覆ることはない。

 たぶんまだまだ泣いちゃうことがあるんだと思うけど、あたしはあたしの心の中で、禄朗に別れを告げる。

 

 生まれてからずっと一緒に過ごしてきた禄朗。

 あたしにとって半身と言ってもいいくらいの彼。

 誰よりもあたしのことを好きだと言ってくれて、あたしが誰よりも好きだった人。

 

 それが禄朗。佐々木禄朗という、あたしの愛した人。

 

 ――さようなら、禄朗。さようなら……。

 

 強く目を閉じて、漏れてきそうになる嗚咽を飲み込む。

 しばらくは飲み込みきれなかった気持ちを、それでも胸の中まで抑え込んで、あたしはいまできる精一杯の笑顔をつくる。

 

「ねぇ幸夢」

「なんだい?」

 

 やっと目を開けられるようになって幸夢のことを見てみると、少し目を細めてあたしのことを見つめてきていた。

 

「この後、幸夢はどうなるの?」

「さぁ? 誰かの強い想いに惹かれれば、たぶんそこに行ってしまうと思う」

「そっか」

「でもいまは、いましばらくは、君の側にいることになるんだと思う」

 表情から考えてることが読み取れない幸夢がどんな想いでその言葉を口にしているのかは、わからない。

「どれくらいの間なの?」

「それもわからない。でも人の命は長くない。もしかしたら君が死ぬまでは、ずっと一緒にいることになるかも知れない」

「そうなんだ」

 

 どれくらいの間、幸夢は存在し続けていたんだろう。どれくらいの人の想いを受け止めて、世界を生み出してきたんだろう。

 わからない。

 だから聞いてみたかった。

 

「じゃあ、しばらくはよろしくね」

 

 右手を差し出すと、幸夢は少し考え込むようにその手を見つめていた。

 でも同じように右手を伸ばして、握り返してくれた。

 幸夢の手は暖かくて、優しくて、あたしは禄朗の手を少し思い出していた。

 

 

 

          「ワンダリングワンダーランド クランベリーダイアリー」 了



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