やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 (てにもつ)
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こうして、比企谷八幡は新しい場所で春を迎える。
1


 学校には中学生の頃から変わらず自転車で向かう。

 たまに小町を後ろに乗せて行くが、生憎と今日は小町がいないから一人。昨日学校への行き方は調べたから特に問題はない。万が一のためにと思って早くに家を出たけれど、もしかしたら少し早すぎただろうか。

 高校に入って変わってしまったものはこの景色、景観と慣れない制服。宇治川沿いを走るのは、どこか気持ちが良くて好きだ。

 

 俺、比企谷八幡は中学卒業と共に、愛すべき永遠の故郷である千葉を去り、京都の宇治市の高校に通うことになった。理由はありがちだが、会社都合のための父親の転勤。

 子どもの頃から育ってきた千葉を離れるのは心苦しかった。特に別れを惜しむ友人なんてものはいなく、自分の家、さらに言えば何年も使っていた自分の部屋くらいしかもうこれで最後か、と悲しい気持ちになるものはなかったけれどそれでも十分。

 だから、きっと友達が多い小町なんかは俺よりずっと辛かろう。それも、俺は中学卒業で苦い青春の黒歴史と共にこっちに来たから良いものの、小町なんて中学一年生が終わってからの転校なんだからなあ。まあ小町ならコミュニケーション能力高いから、二年生からの入学であっても友達とかの心配はしていないが、それでも父さんは単身赴任でも良かったんじゃないですかね。まあ、父さんと母さんが決めたことだから黙ってついて行くしかないけれど。

 

 今日は俺がこれから三年間通う、北宇治高校の入学式だ。

 この高校を選んだ理由は俺でも入学できそうなそこそこの学力だったから。そして一番の理由は新しい家から近かったからだ。通学時間はできるだけ短く、家にいる時間を少しでも長くしたい。俺ほど家庭を愛している千葉県民、いや、今はもう京都府民なのか。京都府民はいないんじゃなかろうか。

 あまりこっちの方の学校の事情はよく知らないが、北宇治高校は何でも制服が可愛い、かっこいいと評判が良いらしい。あまりそういうことを気にするタイプの人間でもないが、確かに悪くはないと思う。小町も朝、俺の制服を見て、『うわー、お兄ちゃんの制服かっこいい! 制服!』と言っていた。いや、なんで制服って部分をそんな強調するんですかね…。

 

 学校が近付くにつれて、そのかわいいと噂の制服を着た学生が増えてきた。大体の生徒が友達と一緒になにやら楽しそうに歩いているが、その中でも少しわくわくしたような緊張しているような表情で歩いているのがきっと新入生だろう。こうしてみると新入生は非常にわかりやすい。

 その点、俺は他の奴らとは違う。わくわくなんて決してしていない。考えてもみろ。学校とは、強制的に集団行動を強いられる監獄のようなものだ。逆らってはいけないと決められた教師に、将来使う事なんて基本ない知識を教え込まれ、人は一人では何もできないから社会において必要なものは集団で行動する能力と、それに伴うコミュニケーション能力が大切だと刷り込まされる。常に誰かと行動を共にし、バカ騒ぎをすることが青春だとか、まるでそれが輝いていて、必ず正しいかのように言われるのだ。人と違うことをしないと成功しないとか、人と違ってみんな良いとか唱われることだってあるのに、学生生活においては何となく雰囲気で決められた、暗黙の了解とも言える普通が徹底的に求められる。それにそぐわないものは集団から排除され、一人になった者は居場所を失う。

 

 そんな場所に向かうのに、なぜ楽しみでいられるのだろう。期待なんて持てるのだろう。だから、俺は朝から新環境での入学式だからー、なんて言っていつもより気合いを入れて髪を整えたりだとか、制服を皺一つないようにアイロンを三回かけたりだとかなんてしていない。ほ、本当にしてないんだからね!……まあ、髪は整えて家出ても、どうせチャリこいだら崩れちゃうんだが。

 

 

 

 北宇治高等学校と書かれた校門をくぐると見慣れたものが目に入った。まだ来たばかりの土地だ。知っている人なんて当然いない。

 だが、その金色の輝きは嫌でも目に入る。なんせ小学生の時から見てきたものだ。太陽の光が反射して、悠然と輝く金管楽器。チューバ、トロンボーン、ホルンにユーフォニアム。そしてトランペット。当然、その横にはクラリネットやフルート、サックス、でかいから目につくパーカッションも並ぶ。

 どうやらまだ準備しているようで、演奏はまだまだ始まらないようだった。

 

 「おいおい、もう結構新入生来てるぞー…」

 

 何人もの生徒が通り過ぎていく中、一人呟いた。俺は吹奏楽部に入部することを決めているけれど、まだこれからの青春を謳歌すべくどの部活動に入部するのかを悩んでる人は、それを決めるきっかけになるだろうに。現に離れたところでは運動部を中心に早速勧誘をしている生徒がチラホラ見える。

 少しこの高校の吹奏楽の実力を知りたかったから演奏を聞きたかったが、まあいいだろう。俺はトランペットが吹ければ、学校の実力なんてどうでも良い訳だし。学校の吹奏楽部の実力は事前に調べていたが、以前まではそこそこの強豪校だったものの、近年は銅賞の常連校。関西大会だって出られることはまずない。

 おそらくこの辺りの実力者は、大体立華高校に行くのではないだろうか。あの学校のマーチングは千葉にいたときから知っていたほど有名だ。それこそ千葉の超有名なテーマパーク、ディスティニーランドに来るほどだし。

 通り過ぎがてらちらりと見ると、トランペットの奏者は偉い美人。良かった。もう絶対入部する。八幡決めた。

 

 やがて体育館に向かう途中、後ろから吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。

 素直に、ダメだこれは。そう思ってしまう演奏。俺の期待はある意味で裏切られなかったのだった。

 



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2

 平和に満ちている日本のような国の生活は、生活の水準や求めるニーズが高まり続けている。あの動物は食用として人気がないからあちらの動物を多く食用にしようだとか、より質の高い商品を提供するための必要な品種改良だとか。古来より神が万物平等に命を分け与えたという提唱とは裏腹に、等しく与えられたはずの命を人間という生き物は自らのエゴイズムともいえる感性によって排斥しているのである。平等性なんて一切感じさせない。正に悠然的な支配者とも言える。

 勘違いしてはいけないのは、食べること自体は弱肉強食の世界において何らおかしな事ではないことだ。生きるに当たってエネルギーを摂取する必要があり、そのためには他の動物を殺して食べなくてはいけない。そのルールは誰しもが知るように、人間のみに当てはまった話ではない。

 獅子だって群がるヌーを見れば狩るし、カマキリだって目の前を優雅に飛ぶ蝶がいれば仕留める。生きるためにはそうせざるを得ない。価値ある命を刈らなくてはいけないのである。

 よって、生きていることは罪である、というあの厨二病的な言葉もあながち間違えではなく、逆説的に死んだように眠ることは無罪である。

 食べられる弱者にだって等しく生きる価値があるからこそ、少しでもエネルギーを節約しよう、そして他の命を刈り取ることを減らそう、という考え方はまちがっていないはず。

 そう。俺がこうして教室のがやがやとした休み時間という短い時間でも、寝たふりを続けているのは公明正大な説に基づいていると言える。むしろ、エコ精神の塊。地球に優しい、俺。

 

 それにしても、今現在学校に来て一番良かったことはこの席かも知れない。端の席ではないが、一番後ろの列。教室の後ろから入ってくるやつの目には止まってしまうが、それでも比較的目立ちにくい席だろう。この席なら必殺の『あ、寝てるんで話しかけないでもらえますかね?オーラを放った寝たふり』がしやすい。良きかな良きかな。

 冷たい机に頭をつけて、目を閉じる。頭をよぎるのは今朝、歩いていると聞こえてきた吹奏楽部の演奏だ。

 あれは酷かった。いや、酷いなんてもんじゃない。出だしはばらばらだし、楽器間は勿論、各パートで練習を碌にしていないからだろう。同じ楽器同士でも音が合っていなかった。明らかに楽譜を覚えていないことによる吹き間違えをしている部分さえ。

 吹奏楽とは個人でなく複数人、今朝の北宇治の吹奏楽部の場合は大体50人ほどだったか。人数が多いからといって、音を外せば意外と分かるものだ。特に主旋律を奏でる楽器なら尚のこと。

 期待はしていなかったが、それでもあれはいくら何でもあんまりだ。

 

 

 

 「高坂麗奈です。北中出身で、吹奏楽部に所属していました。高校でも吹奏楽部に入部します。よろしくお願いします」

 

 透き通った声ではっきりと、非常に簡潔に述べられた自己紹介だったが、その子が教卓を降りて、教卓のほぼ正面という位置にある自分の席に着くとその日一番の響めきが起きた。主に男子中心で。

 

 「何、あの子?めっちゃ可愛くね?」

 「すっげえスタイル良いじゃん」

 「俺、同じ中学だったんだよね。北宇治に来てるとか知らなかった。ラッキー!」

 「中学の時から有名人だったよな。高校生になったわけだし、あれじゃん?大人の魅力的なの出てきたじゃん?後で話しかけてみようかな?」

 「おいおい辞めとけって。お前じゃ無理だよ」

 

 確かにクラスメイト達の言っている通り、容姿端麗という言葉がしっくりくる。整った顔立ちはまだ少し幼さを残しているが、それでも高校一年とは思えないほど大人びていた。

 長くて綺麗な黒髪は彼女の清楚な雰囲気とスタイルの良さを際立たせ、一種の色気さえも感じる。

 高坂麗奈。彼女の存在感は、どこか特別だ。

 それにしても吹奏楽部に入る予定だ、と言っていた。もしかしたら以前も吹奏楽をやっていたのだろうか。

 気にはなるが、俺はそれだけで決して話しかけたりすることはない。そもそも吹奏楽部において部活全員と仲が良い、などと言ったことは少ない。

 理由としては基本的に比較的大所帯のため、全員が揃っての練習は合奏の練習くらいだ。他は各パートに別れての練習を行うため、連むとしたら同じパートのやつか話が合う他のパートのやつくらいのものだろう。それ以外のやつは思っているよりずっと接点がなく、顔は知ってるけど名前が出てこないパターンのやつが多いというのが吹奏楽部の実情である。

 まあ俺レベルになると顧問にさえ、『比企谷?あ、あー、あいつね…。…えっと…パーカスの子だっけ?』までなるが、これも吹奏楽部だから仕方がないことなのだ。パーカスのやつの名前は平野で、『ひ』しか合っていなかったが、それでも仕方ない。うん。

 

 「おし、次は比企谷」

 

 「あ、はい」

 

 担任に呼ばれて、教壇に上がる。やだ。すっごい見られてる。緊張しちゃうからあんま見ないで。

 改めて教室を見渡しても見知った顔の生徒なんて一人だっていない。当たり前だ。ここは千葉じゃない。京都なんだから。

 だから誰も俺のことを知っている人はいない。俺の中学生のときの数ある黒歴史を知っている人は誰も。新しいスタート、だなんてよくあるお決まりのフレーズを言うつもりはないけれど、誰も俺を知らない場所というのは何だか悪くないものだ。

 

 「えっと、比企谷八幡です。今年の春に千葉から引っ越してきました。よろしくお願いします」

 

 よし。完璧な自己紹介だ。無難に終わらせたはず。教壇を降りるときに、後ろから担任が『それだけで終わりか』と言ってきたが、軽く頭を下げて自分の席に戻る。

 こういう自己紹介というのは凄く苦手なのだ。あの一言でウケを取らなくてはいけないみたいな風潮、何なの?

 大体、俺に他に何を紹介しろって言うんですか?小学生の時、俺だけゆうた君の誕生日会に呼ばれなかった話?それとも中学生の時に下駄箱に入ってたラブレターを見て、放課後に校舎裏に行ったら、三時間待っても誰も来なかった話?何回もやられたお陰で、偽ラブレターの見分けをつけるのはプロになったけどその見分け方とかか?



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3

 自己紹介の日から数日後。入部届を持って訪れた放課後の音楽室。久しぶりの音楽室という空間は、違う学校の音楽室であるはずなのにどこか懐かしかった。

 部活の見学に行くことはなかった。吹奏楽がやりたいというよりは、他に入りたい部活がなかったという理由も大きい。専業主夫希望の俺としては帰宅部も捨て難いものの、帰宅部はダメだって小町がうるさいから。もしかしたら嫁に頭が上がらない夫ってこういうことなのかな。

 

 吹奏楽部の入部者は思ったよりも多い。20人近く、下手したらもう少しいるかもしれない。やっぱり女子が多いなあ。ハーレムハーレムなんて浮かれられるのは吹奏楽部以外の人間だ。実際は吹奏楽部の男子に人権なんてない。男子はまさによそ者のような扱いを受ける。女子が着替えるときは何も言わずに粛々と教室から去り、コンサートの際にはチューバや打楽器、コンバスのような重たい楽器を率先して運ぶ。これのどこがハーレムだというのだろう。女尊男卑だったと言われてる、江戸時代の武家屋敷じゃないんだぞ。

 新入生達はどこか居心地が悪そうに、そわそわしながら上級生の前に立っていた。

 何人かの新入生は元から同じ中学校だったのであろう、先輩に挨拶をしているやつもいる。だが、基本的に新入生が変に緊張しないための配慮だからだろうか。あまり先輩達が新入生に話しかける様子はない。

 そんな中周りを見渡してみると、高坂麗奈がいることに気がついた。おー、自己紹介での宣言通り、吹奏楽部に入部を決めたようで。一人で先輩達の指示を待っている姿は自己紹介をしていたときから何も変わらず、真っ直ぐ芯が通っているようだ。

 まだ出会って間もないが、高嶺の花というか取っつきにくそうな印象を受ける。俺と同じで。もしかしたら高坂も、『放課後みんなで遊ぼうぜー!え、比企谷?いいよいいよ!あいついるとほら、なんかしらけるじゃん!』を経験した人間かもしれない。

 俺が勝手に高坂にイメージを押しつけていると、教室のドアが開き、目つきが鋭く厳しそうな女性が入ってきた。

 

 「静かに。私は吹奏楽部の副顧問の松本美知恵だ。音楽の授業を担当している」

 

 ほー。この人が副顧問なんですねえ。なんか顧問って言うよりも、軍曹みたいな印象を受けたけれども。年齢は40を超えているのではないだろうか。そう言えば一年のどこかのクラスの担任だった気がする。あんまり他のクラスとか興味ないから曖昧なのだが。

 部活についての簡単な説明や、高校生としての責任だとか、高校生からしてみればどうでも良いような話を真面目に部員が聞いているのは、先生の雰囲気というか威圧感によるものだろう。先ほどまで所々から聞こえていた話し声もぴしゃりと止まっている。

 

 「新しい顧問になる滝先生が明日からいらっしゃるので、詳しいことはその時に聞くように。以上だ」

 

 そう言って背筋を伸ばして教室を去って行く。それと同時に緊張の糸が解け、部員達からは一つ、歎声があがった。

 なんだか嵐のような人。最後まで毅然とした態度だった。少しでもなめた態度とか、捻くれた態度なんて取ったらお説教。みっちーなんて呼んだ暁には、拳骨でも入るんじゃなかろうか。あれ、もしかして俺の天敵か…。

 

 「はーい。それでは、楽器の振り分けに入ります」

 

 松本先生が先ほどまでいた場所に立ったのは物腰が柔らかそうな女性だった。髪をサイドで結んでいて、落ち着いているイメージを受ける。

 

 「部長の小笠原晴香です。担当はバリトンサックスなので、サックスパートの人は関わることも多いと思います」

 

 「はい。はーい!低音やりたい人!」

 

 部長の小笠原先輩が話を進めていると、隣にいた女の先輩が割って入った。

 おそらく低音パートのリーダーと思われるその人はクールな先輩だ。黒く艶やかな髪は高坂と似ているが、完全に幼さが抜けきっていて大人のような雰囲気であるところが大きく異なる。よく似合った細身の赤い眼鏡が大人びた雰囲気を助長させていた。

 『はいはい、楽器紹介はまだ後』という部長とのやり取りに、新入生を含めて、部員達の間からは小さな笑いが起こった。

 

 「じゃあ初心者もいると思うので、まずは楽器の紹介から。その後各自、希望の楽器の所へ集まって下さい。ただし希望の多い楽器は選抜テストとなります」

 

 きたきた。吹奏楽部恒例の楽器決め。

 新入部員に襲いかかる最初の試練であるこの一大イベントは笑いあり、悔しさあり、喜びあり、涙あり、涙あり、涙あり、涙あり、涙涙涙のイベントである。こればっかりは実際に経験した人間にしかわからないだろうが、華々しいというイメージとは裏腹に、思っているよりずっと悲惨なイベントであることは、経験したことがない人にもし伝えることがあれば伝えたい。

 毎年、第一希望に決まらなくてテンションを落とす子や泣いて訴える子、下手したら辞めてしまう子さえいる。とは言え、野球で言えばマンガ読んで、『ピッチャーってかっけえなあ、俺もこうなりてえ』と思った矢先で外野になるようなものだ。中学校の時もいたなー、フルート希望からチューバになって絶望していた子。一週間ずっと泣いてたらしいから先生も困っていた。

 俺自身も中学の時は一番人気と言っても過言ではないトランペットに決まったからか、呪いの手紙が下駄箱に入っていたし。ラブレターかと思ってドキドキしちゃった一瞬の期待を返して!

 それに吹奏楽部は女子が多い。女子が多いと言うことはそれだけ水面下での争いは増える。楽器決めの時点で醜い争いは始まっているのだ。三人で同じ楽器を希望して、一人あぶれた人。同学年の二人しか同じパートにいないのに、嫌いなやつとなってしまった人。ここまで楽器決めで人間関係がこじれたり、問題が絶えないのは女子が圧倒的に多いから、というのは間違いなく理由として挙げられるだろう。

 だからもし、にっこにっこにーでこのイベントを終えることができた人は相当運が良かったと思っていい。スピリチュアルなお姉さんから、ラッキービームが注入されてたんじゃないですかね。はーい、ぷしゅ。

 意外と希望していなかった楽器であっても、現実を受け入れて練習すればその楽器が楽しくなって、それから先ずっと付き合っていく運命の楽器になることも良くあるという。トロンボーンが人気だからやれなくて他の金管やることになった人とかは、トロンボーンは吹き方が独特だから戻れなくて、決まった楽器で長く続ける人も多いと聞くし。人生何事も諦めと妥協。素晴らしい教訓ですね。



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4

 とは言え、俺も楽器決めだけは負けられない。くじ引きとかではなく、実力を見るみたいだから、負けたなら仕方なく他の楽器に素直に移るけれど負けたくはない。

 なんせトランペットは人気だ。おそらく選ばれるのは三人、多くて四人だろうか。枠の数以上に応募者がいるのは確定である。あー、少しでも応募者が減る何か一事件起きないだろうか。

 

 「まずはトランペット」

 

 おう、早速トランペットからか。

 トランペットを両手で持ち部員達の前に立った先輩は、入学式の日に見ためちゃくちゃ美人な先輩だった。

 

 「トランペットパートリーダーの中世古香織です」

 

 男女問わず、新入生から惜しみない拍手が起こる。

 どこかお嬢様然とした声。ショートカットに切りそろえられた髪に、整った顔立ち。そして一番の特徴と言える目の下の泣き黒子が庇護欲を引き立てる。優しそうな印象とどこか儚ささえ感じる美しさに、俺含め心を打たれた男子は多いだろうが、告白することさえ憚られる。

 吹奏楽部を始めとした女子が多い世界でも、意外と美人だからと邪魔者扱いされることは少ない。特別扱いされることの方が多いという印象を受ける。

 どこの世界でも美男美女は得をする。はっきりと決まった世界のルール。思い返してみれば、俺も特別扱いされることが多かった。パート練習の合奏は俺がトイレに行っている間に始まっていたし、みんなが椅子をくっつけている中、俺だけは机四つ分くらい離れた場所に座らされた。もしかして俺もイケメンだと言うことにみんな気がついていたのか。違うな。

 

 「はぁーん。香織先輩、今日もマジ美人…」

 

 うっとりとした声は教室の端の方から聞こえてきた。

 美人だと褒められた当の本人は少し恥ずかしそうに、けれど慣れた様子で説明を続ける。

 

 「トランペットは正に金管の花形です。ソロやメロディーが多いし、きっと楽しいと思います。今このパートは五人いて、仲も良いので、是非皆さんこのパートを希望して下さいね」

 

 トランペットは花形だとか毎回こういう機会では聞く定型文みたいなことしか言ってないのに、応募者が増えちまいそうだ。パートの仲が良いとか100%嘘だと思ってるし、疑って掛かるはずなのに中世古先輩が言うと信じちゃう。

 

 それからトロンボーン、クラリネット、フルート、パーカスと説明が続いた。

 俺からすればトランペット一択だが、他の新入生達は話を聞くにつれ迷っていそうな人も多い。実際、経験者はどのくらいいるのだろうか。経験者だからといってこれまでやっていた楽器を続けるとは限らないが、経験していたことはかなりのアドバンテージになるに違いない。

 パーカッション、ストレス発散になるとかいってたけどもう少し説明あるだろう。演出の繋ぎとして使われる事が多いとか、ずっと立っているのが疲れるとか、ずっと同じリズムを繰り返しているからどこをやっているのかわからなくなるとか。あれ、これ全部マイナスか。

 次に説明するのは、先ほどの低音パートリーダーと思われる先輩。手には銀色のユーフォニアムが握られていた。

 

 「低音パートリーダー兼副部長の田中あすかです。楽器はユーフォニアムです。ユーフォニアムとは……」

 

 長すぎるユーフォの説明を何となく聞き流す。

 

 『いい?楽器ってね、凄いんだよ?まずね、どうしてこんなに高い音から低い音まで、いろんな音が出るんだと思う?』

 

 『じゃあ今日はトランペットについて教えてあげよう』

 

 「すとーっぷ。その話、どのくらい続くの?」

 

 小笠原先輩の制止の声に意識を戻す。田中先輩の手には、何枚もの原稿が握られていた。

 懐かしいことを思い出していた。きっと田中先輩が楽しそうに、楽器の説明を長々としていたからだろう。

 あの人と並んで座りながらトランペットに触れたり、金管について話している時間が俺は好きだった。

 

 「はい、次。チューバ」

 

 小笠原先輩と田中先輩のやり取りで音楽室に笑いが転がる中、出てきた先輩は後藤先輩という身体が大きく寡黙そうなイメージの先輩だった。チューバはメロディーが少なくて、重たい。真実を伝えただけなのに新入生からのイメージは悪い。やっぱり真実は人に嫌われる。嘘が人に好かれるんだな。

 

 「続いてコントラバスなのですが、今は人がいない状況です。この中にコントラバスの経験者は…」

 

 そもそもコンバスとはどんな楽器なのか。初心者はそんな疑問に駆られているであろう中で、すっと手が上がる。

 

 「おー、もしかしてコンバス経験者?」

 

 「はい。聖女でやってました」

 

 「聖女ってあの?」

 

 先輩達が驚いているが、如何せん俺はこっちの学校に詳しくないため知らない。だが、雰囲気を察するにどうやら強豪校だったようだ。

 手を上げたのは髪がゆるふわで、それはもうふわふわとしたイメージの小さな女の子だった。真っ直ぐに高く手を伸ばしている様子は、小動物のようで可愛らしい。絶対甘いもの好きだろう。そうじゃなかったら、俺の見る目疑っちゃう。まあ腐ってるんですけどね。てへ。

 上がった手を掴んだのは、先ほどユーフォニアムを持っていた低音パートの田中先輩だ。

 

 「やってくれるかな、べいべー?」

 

 「その言葉を待ってました…!」

 

 「気に入ったよ!…って言うことでこの子はあたしが貰ったからー」

 

 「本当は希望者を集めてからだけど、まあいいかな」

 

 「よっしゃ!」

 

 「それじゃあみんなー、希望する楽器のところに並んでください」

 

 田中先輩とゆるふわりんがーるのよくわからないやり取りを余所に、部長の一声で楽器選びが始まった。周りが動いているのを見てから俺も動き始める。こういうときに真っ先に動くと悪目立ちしちゃうからね。

 



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5

 思ったよりも高校から吹奏楽を始める生徒は多いようで、フルートやサックスの吹き方を教わっている人もいる。そんな中トランペットは、予想通り経験者が多く集まっているようだった。

 楽器をやった事があるかは持ち方で意外と分かるものだ。あ、ほら。あのいかにも運動部系だった感じのトランペットの持ち方全然違うし。

 

 「あなたもトランペットパート希望なの?」

 

 「あ、はい。一応」

 

 急に話しかけられて目線を向ける。返ってきている視線はじとっとした目線だった。

 なんとなく活発そうなイメージを余所に、まず真っ先に目につくのは頭に巻かれたうさ耳のような大きなリボンだ。亜麻色のロングヘアーに黄色のリボンは、彼女の可愛らしい容姿とマッチしている。あぁー、心がぴょんぴょんするんじゃぁー。

 

 「ふーん…」

 

 それよりちょっと何なんですかね、この反応。いい女は間で語るって言うけど、間で『低音っぽい目してて、全然トランペットパートっぽくないんですけど。っていうか、この目で香織先輩に近付かないで』って語っちゃってるんだけど。いや、それは低音に失礼。

 つか、この声結構特徴的だから思い出したわ。さっき中瀬古先輩のこと可愛いって言ってた人だ。

 

 「私、吉川優子。トランペットパートの二年」

 

 「はあ」

 

 「いや、はあじゃないでしょ。私から名乗ったんだからあなたの名前も教えなさいよ。そもそもこういうのは後輩からやるもんでしょ?」

 

 うわー、出たー。日本の負の文化。どこの世界にも後輩から積極的に自己紹介しろという風潮があるが、俺はそういうことこそ立場が上の人間から行うべきではないだろうか。ある種、立場が高い人間が、自分は知らないやつからも挨拶されるくらい偉いんだぞっていう、欲求を満たすための行為だと思ってるまである。だって会社勤めしてて、何人もいる新卒に挨拶されたって、お偉いさん達は絶対覚えるつもりないでしょ。

 そもそもビジネスマナーとかだと、立場の低い人間が開けた部屋に入ったり、車に乗ったりするのは立場が高い人間が先なのに、どうして挨拶の時は偉い人間が後になっちゃうんですかね。恥ずかしいの?それもある意味日本人らしいけど。

 

 「比企谷八幡でしゅ」

 

 ほら。恥ずかしいから噛んじゃったし。恥ずかし。死ぬ。吉川先輩は少しだけ笑って続けた。

 

 「これまで吹奏楽の経験は?」

 

 「小学生の時から吹いてました」

 

 「へえ。長いね。じゃあ、マイ楽器とか持ってるの?」

 

 「今日はマウスピースしか持ってきてないですけど、家にありますよ」

 

 「なるほどね。まあ、うちの吹奏楽は今楽器余ってるから、もし吹奏楽部に入ったら持ってきても持ってこなくてもどっちでも良いよ。それじゃあ早速吹いて貰おうかしら」

 

 手渡されたトランペット。俺のトランペットよりも少し軽いな。

 演奏が下手だったから楽器の管理とか適当だろうなと思っていたが、きちんと綺麗なトランペットだ。もしかしたら新入生が来るから綺麗にしただけかも知れないが。

 

 「何か吹く曲とかありますか?音出しだけすれば良い?」

 

 「うん。音出しで良いよ」

 

 マウスピースを指して、フィンガーフックに指をかける。真っ直ぐ正面に向けたベルの先には吉川先輩がいた。

 普段は曲がっている姿勢を真っ直ぐに。脇は締めないでリラックス。何度も吹いている体勢に、無意識でなっている。

 よし。

 

 唇が振動し、トランペット特有の鋭いアタック音が響いた。

 少し離れたところにいる、他のトランペットパートの先輩達が俺を見ている。普段は注目なんてされたくないが、トランペットを吹いているときは仕方ない。この音を空まで響かせるように。そう教えてくれたのはやっぱりあの人だった。

 久しぶりに吹いたが、全然問題なく吹けて良かった。心配なんてほとんどしていなかったけど。調整こそしたいものの、ある程度吹くだけなら慣れてしまえば久しぶりだろうと関係なく吹けるものだ。

 

 「ふーん。目は腐ってるけど、演奏は本物みたいね」

 

 おい、ちょっとー。余計な一言入ってますよー。

 だが俺は引き笑いをしてしまっていた。く、悔しい。でもしょうがないよね!

 俺が吹いたのを聞いて、何人かの先輩が脚を向けていた。中には中世古先輩もいる。やべ、なんか緊張して来ちゃった。

 

 だが。先輩達が俺の元に来ることはなかった。

 簡単なフレーズ。所狭しと教室中に響き渡るそのトランペットの音色は、きっとその場所にいた誰もを魅了していたのだと思う。

 経験者だからこそわかる。自信に満ちあふれた、華やかな音。この域に達するのにどれ程の練習を積み重ねてきたのだろう。

 教室を支配した一瞬の沈黙の後、また当たり前に時が動き出したかのように楽器選びはパート毎に再開される。

 そんな中でトランペットパートだけが、変わらず高坂麗奈ただ一人に視線を向けていた。隣にいる吉川先輩の目線は俺の時とは違って鋭く、どこか敵意さえ孕んでいる。

 

 「これでいいですか?」

 

 「あ、うん。上手だね」

 

 「…褒めて頂いてありがとうございます。嬉しいです」

 

 驚いた様子で口を開けていた中世古先輩も、口元に取って付けたように笑顔を貼り付けて高坂のもとに向かっていく。褒められたんだから、もう少し嬉しそうにしたら良いのに。

 そんなことを考えていると、変わらず高坂に目を向けたまま吉川先輩が呟いた。

 

 「あらら。これ、比企谷、完全に忘れられたわね」

 

 うるせー、デカリボン。誰が通常運転で空気扱いだ。

 なんてやっぱり言えるわけもなく。俺はまた、色んな意味で引き笑いをするしかなかった。



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6

 とりあえず第一希望のトランペットパートから去って、マウスピースを洗いに水道へ向かおうとする。教室のドアに手をかけようとした瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。

 何だ、この纏わり付く湿った空気は…!

 

 「低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない」

 

 「うおっ!」

 

 急に肩を掴まれ、呪いのようなフレーズを囁かれる。見れば、もうおそらく新入生は覚えたであろう、やたらインパクトが強い田中先輩だった。

 

 「な、なんすか?」

 

 「低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない」

 

 「でも俺、もうトランペットに希望出してきましたし…」

 

 「低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない低音まだ二人しかいない」

 

 「ちっとも聞いてねえんだよなあ…」

 

 ダメだ。低音に人が集まらなさすぎて、ショックのあまり気がおかしくなってしまったのだ。

 低音に人が集まらない光景というのは珍しいものではない。むしろ第一希望で低音を希望する人はほぼ必ずと言って通るだろう。演奏ではあまり目立たず、地味というイメージが強い。演奏時も同じフレーズを演奏することが多い。

 だが、俺が低音の金管楽器を好まない理由は一つ。重いのだ。楽器の運搬をやる際に、運ぶのがいつも憂鬱になる。楽器だけで十キロくらい、ケース込みだと十六キロ近いとか聞いたことがある。こういうのは非力で、専業主夫志望の俺には似合わない。

 

 「ほら、先輩。困ってますよ」

 

 助け船を出してくれたのは一番始めに楽器が決まった、コンバスのゆるふわがーるだった。隣にはさっきまでトランペットパートにいた運動部っぽいやつもいて、手にはチューバのマウスピースが大事そうに握られていた。

 この二人が低音志望なのか。コンバスなんて本当にでっかいからな。見たところ百五十センチもなさそうなゆるふわりんがコンバスを演奏するのは、どうもしっくりこない。

 

 「えー、でもー。この子絶対低音向きだと思うんだよねー」

 

 「いや、なんでですか?」

 

 「だってこの目!ドロドロしてて腐った魚みたいな目というか、世の中の酸いを全部見てきた目というか」

 

 「ひ、酷すぎますよ!」

 

 「……まあ確かに小学生の時、遠足の動物園によくあるふれあいコーナーでひよこに糞された挙げ句、クラスメイトはおろか先生にさえ避けられて置いてかれましたけどね」

 

 「聞いてるこっちが辛くなるよおー」

 

 「あはは君、やっぱり面白いね!」

 

 「むむ昔のことだからぜぜぜ全然気にしてないですけどね…!」

 

 「声がすごい震えてるから!もう辞めましょう。あすか先輩」

 

 チューバの大男の隣の少しだけふくよかな女の先輩が田中先輩を止めた。ごめんねー、と優しくフォローしてくれるアフターケア付きで。

 

 「吹奏楽の経験はあるのか?」

 

 チューバの紹介をしていた先輩からの質問に先ほどと同じように、はいはい、と真っ直ぐに手を上げて答えたのはゆるふわりんだった。

 

 「それならみどり知ってますよー!さっきトランペット吹いてるの聞いてましたから!」

 

 おう。さっき吹いてたのを聞いていた人がいたとは。全部高坂に持ってかれて、誰の記憶にも残ってないと思っていたのに。

 

 「私、川島みどりって言います。えっと…」

 

 「…比企谷八幡です」

 

 「うん、よろしく!」

 

 今度は俺に向かって真っ直ぐ伸ばされる手。これは握手で間違いないよな。お手じゃないよな。

 そのまま少しビクビクしながら手を伸ばすと、良かった。ちゃんと握手だった。嬉しそうに掴んだ手をぶんぶんと振っている。

 身長差もあって見上げられている感じだったり、まるで子どものようにフレンドリーで嘘偽りがなく、屈託のない笑顔だったり。危ねえ。中学生までの俺だったら、ここまでのやり取りで間違いなく告白して振られてた。

 

 「正確には川島みどりじゃなくて、サファイア川島だけどねー」

 

 「ちょっとー、あすか先輩ー!」

 

 「あー、ごめんごめん、間違えちゃった。川島緑輝(さふぁいあ)ね!」

 

 「もう!みどりはみどりです!」

 

 「え、何。帰国子女?」

 

 あんまりの驚きに声に出てしまった。帰国子女にしたって、サファイアって随分とキラキラネームだな。まあでも最近、宝石の名前にするの流行ってるって言うし。学校の廃校を阻止するために、九人の少女達が頑張る大好きな某スクールアイドルアニメでもダイヤとルビィがいるし。

 

 「違うよ。ちゃんとれっきとした日本人ですー。恥ずかしいからみどりって呼んでね?」

 

 「あ、うん。でもすごい夢のある名前というか、何というか似合ってると思うぞ。……くくっ」

 

 「比企谷君、今笑ったでしょ!ひどーい!」

 

 恥ずかしくて赤くなったほっぺたを膨らませて怒る。あー和むわー。これがみどりん効果かー。あぁー、心がぴょんぴょ…、あ、これさっきもうデカリボン先輩のとこでやった。

 

 「あ、私はね、みどりと同じクラスの加藤葉月って言うの!」

 

 川島のみどりんオーラに和んでいると、隣にいた体育会系の女の子が話しかけてきた。髪留めの付いたショートカットや、日に焼けた肌はボーイッシュな雰囲気を感じる。空手か陸上辺りをやっていたのではないだろうか。

 

 「あ、どうもよろしく」

 

 「うん、よろしくねー」

 

 人怖じしない性格のようで、ニコニコと人懐っこく挨拶をしてきた。今日は同学年の女子二人と話しているが、これはもしかかして自分でも意図せず高校デビューに成功しているんではなかろうか。クラスでは誰とも話さないけど。この二人が特別なだけか?何はともあれ、帰ったら小町に報告しよ。

 

 「私もさっきトランペット頑張って吹こうとしてたとき、比企谷が吹いてるの聞いてたよ」

 

 「あ、葉月ちゃんも聞いてたんですね。高坂さんにもビックリしましたけど、比企谷君もすっごく上手かったんですよ。みどり、ビックリしました」

 

 「なんだー、トランペット経験者なのかー。でもでも!高校から楽器変える人も結構いるっていうし」

 

 「いや、でも…」

 

 なんて断れば良いんだ。そんなことを考えていると、どこかから『小学校の時からユーフォだもんね、久美子ちゃん』、という声が聞こえてきた。

 

 「ほっほーう」

 

 きらん、と赤淵の細い眼鏡のレンズが光る。田中先輩は怪しい笑みのまま、颯爽と声の聞こえた方へ去って行った。

 

 「な、なんだったんだ」

 

 まるで嵐のような人だった。さっきまでは美人というイメージが強かっただけに、今となってはよく分からん。

 

 「あー久美子、捕まっちゃったねえ」

 

 加藤の声はため息交じりであったものの、表情はどこか嬉しそうだった。

 



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7

 部活前の机の運び出しは一年生の仕事である。

 こういった決まり事が多いのも、吹奏楽部の特色ではないだろうか。この点も女子が多いからこそという感じはする。

 今日はまだ新入生として入部したばかりで真面目に机の運び出しをしているが、時間が経つにつれて徐々に慣れてきて女子はこの仕事中のおしゃべりが比例的に増えてくる。しかし男子はずっと黙々と身体を動かし続けなくてはいけない。サボってたのを見られた暁には、女子からのバッシングの嵐である。その日の放課後には部活中にサボってたという話が広まっていることだろう。

 

 「あー、疲れた」

 

 とは言うものの、一年全員で運び出すのであまり大した運動ではないのだが。

 しかし今日は楽器を吹くわけではないだろうになぜ机の運び出しをする必要性があるのだろうか。机のない音楽室で部員は新しい顧問が来るのを待っていた。

 

 結局昨日の楽器決めでは無事、トランペットに決まった。

 俺含め三人がトランペットパートに加わり、現在のトランペットのメンバーは八人。内男子は二人、女子が六人だ。四分の一が男子というのは、吹奏楽部内においてはかなり男子率が高い方である。パーカスなどの打楽器は男子が多い傾向にあるが、金管は女子率百%なんてザラだからな。

 新入生として加わった三人の内、一人は当然のように高坂だった。あれだけ上手ければ下手したら二年三年合わせても一番上手いのではないだろうか。

 もう一人の新入生は吉沢という女子だ。経験者ではあるそうだが始めてあまり長くはないらしい。どこか物静かなイメージ。

 運んでいる机を手にしたまま、一つ息を吐いて窓の外を見る。流れている雲はいつもよりずっと早く流れている気がした。

 

 

 

 

 

 「初めまして、顧問の滝です」

 

 しばらくしてやってきた新しい顧問の滝先生は、一つ頭を下げて微笑んだ。それと共に女子からざわざわと声が上がる。

 なるほど、イケメンか。死ね。

 これからの顧問に対して口が悪いと思うかも知れないが、吹奏楽部の男の顧問というのは女子が多い特有の大変な事もある反面、羨ましすぎることもたくさんある。いや、俺たち男子部員が基本的に人権がないからかもしれないが、本当に羨ましいのだ。例えばバレンタインなど。それがイケメンなら尚更だ。

 

 「今年の新入部員は二十二人ですか。これで空いていた楽器も埋まりますね」

 

 滝先生のイメージは穏やかで優しそう。眼鏡をかけていることもあって、聡明なイメージさえ持ち合わせている。仕草の一つ一つは爽やかだ。これはもう女子から黄色い歓声が上がるのも納得。俺だってふわふわで放課後のティータイムをしてる軽音楽部の顧問みたいな人が来たら、毎日楽しみに学校来てたもんな。

 だがあの先生ならば、穏やかな放課後の部活ライフは過ごせそうな気がする。何事もなく、ただトランペットが吹ければそれでいい。大会に出るか出ないかなんて関係ない。

 

 「では、部活を始めるに当たって、まず私から最初に話があります」

 

 滝先生が黒板の前に移動し、白いチョークで文字を書く。丁寧にはっきりと書かれた言葉は全国大会出場。目標として掲げるだけなら『ちょうど良い』目標である。

 ただし、本気で目標にするなら話は別だ。その言葉の重みは決して『ちょうど良い』だなんて簡単な言葉では済まされない。その苦労を俺は知らないけれど、『果てしなく遠い』目標なのだと思う。

 

 「頑張ってはいるんだけどねー」

 

 どこからかそんな声が聞こえてきた。

 対してその目標として書かれた全国大会出場の文字を見て、何人かの生徒の表情が曇ったのが見える。

 目標とは、そんな二面性を持つ言葉なのだ。

 

 「私は生徒の自主性を重んじることをモットーにしています。ですので、今年一年指導をするに当たって、まず皆さんに今年の目標を決めて欲しいのです」

 

 「あの、先生。それは目標というかスローガンのようなもので…」

 

 小笠原先輩の言葉に滝先生はなるほどと軽く返事をして、その文字に大きく罰をつけた。

 

 「では、決めて下さい。私はそれに従います」

 

 「決めるって言うのは…」

 

 「そのままの意味ですよ。皆さんが全国を目指すというのなら、練習も厳しくなります。反対に楽しい思い出を作りたいというのなら、ハードな練習は必要ありません。私自身はどちらでも良いと思っていますので、自分たちの意思で決めて下さい」

 

 「私たちで決めるんですか?」

 

 小笠原先輩が困ったように隣にいた田中先輩を見た。

 

 「…わかった。私、書記やるから多数決で決めよう」

 

 「多数決?」

 

 「こんだけ人数いて、他に決めようないじゃない?良いですよね、先生?」

 

 滝がどうぞ、というような仕草で許可をした。これでもう多数決に決定だ。

 だが、小笠原先輩の言いたいこともわかる。多数決では本当の意味で部員全員の意思は決められないだろう。なぜなら多数決とは民主主義が生み出した、数の暴力でマイノリティを排除する一つのメソッドである。集団には敵わない。高校はおろか、小学生の時から誰しもが経験したことのある生きていく上で最も重要な考え方である。

 ただ、決して俺は多数決に反対ではない。俺は空気を読めないが、観察することはできる。多数決の目的は素早く数で強制的に意見を纏め上げる事だが、参加者のメリットは素早い意思決定による時間の無駄がないことと、周りの意見に流されれば良いことに尽きる。長いものに巻かれていれば仮に問題が発生したとしても、結果的にその責任を負うのは反対した者を含めた全員であるから、大して責任能力なんかを持ち合わせずに手を上げる必要もない。

 だから後は悪目立ちをしないように数が多い方を選び、手を上げるだけ。

 今回の多数決の結果なんて周りを見ていれば大体分かる。迷っている人もいるが、とりあえず去年と同じで良い。近くの人と話してそう決めた人ばかりである。



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8

 「えっと、まず、全国大会出場を今年の目標にしたい人」

 

 パラパラと上がった手は次第に増えていき、俺も手を上げた。明らかに部員の半数を超えて、意味がないと分かったのだろう。田中先輩は途中で数えることを辞めて次を促した。

 

 「では、次に全国まで目指さなくても良いと思う人」

 

 一人だけ手が上がった。注目が集まっている。

 この先輩は一体誰だっただろうか。確か楽器紹介をしていた気もするが覚えていない。

 さて、解説の八幡さん。今ここで手を上げた。この挙手には一体どういった意図が込められているのでしょうか?

 ええ。これは玄人のテクニックですねー。例を挙げると、もし問題が起きた際、多数決をしたためにいくらリスクが分散されると言っても、一応責任を取る代表者はいなくてはいけません。そのとき、『いやいや、何言っちゃってんの?私は最初から反対してたじゃん』という逃げ道を作ることができます。つまり、これだけの数が片方に寄った場合にのみ使える逃げ道を用意するテクニックであると言えますね。

 私もかつて、この技を使ったことがあります。クラス単位で行われた文化祭の打ち上げの場所決めで、黒板に書かれたカラオケやボウリングなどの候補にクラスメイト達が手を上げる中、最後に書かれていたやらなくても良いと思う人、という選択肢で唯一手を上げた。結果として、断ることはおろか誘われさえもせず、打ち上げに行かないという目的を達成し、相乗効果で誘われなかった言い訳まで得たわけですねー。

 あの先輩は素晴らしい。ナイスプレイです!

 

 「…はい。多数決の結果、全国大会を目標に活動していくことになります」

 

 「ご苦労様。反対の人もいましたが、今決めた目標は皆さん自身が決めたことです。私はその目標に向かって尽力しますが、努力するのは皆さん自身。そのことを忘れないで下さい。分かりましたか?」

 

 はい、と声を上げた生徒が恥ずかしそうに俯いた。ほらな。数に流されろって言うのはこういう所でも。

 

 「何をぼうっとしてるのです。返事は?」

 

 はい。今度は先ほどよりも反応が増えた。

 だが、教室には手を叩く音が響いた。目の前の滝先生が手を叩いた音だ。

 

 「もう一度言います。皆さん分かりましたか?」

 

 「「「はい!」」」

 

 教室には今日一番の部員の返事が広がった。

 滝先生はとりあえずはそれで良いと思ったのか、それ以上の言及はしなかった。部員達は滝先生の反応に驚いている人が多い。

 もしかしたら、あの先生。あんな甘い顔して変なところにこだわるタイプか?目標なんて決めたものの、厳しくはなさそうだが。やめてよね、そういう面倒くさいのは。

 

 「さて、それでは今日の練習は皆さんにお任せします。合奏できるクオリティになったらいつでも呼んで下さい」

 

 教室にざわめきが起きた。その声を代弁するように小笠原先輩が滝先生に質問をした。

 

 「あの、曲とかは?」

 

 「なんでもいいですよ。皆さんが得意なもので」

 

 また決定権は俺たちに委ねるのか。

 決定権を与えるということは、責任を俺たちに取らせると言うことでもある。では今回は何の責任か?

 きっと言い訳をさせないためではないだろうか。もし俺たちの演奏が下手だったときに練習する時間が短かったからです、という言い訳を。先生は測りたいのではないだろうか。俺たちの正確な実力を。

 

 「そうですね…。では海兵隊でどうでしょう?」

 

 何を演奏するか決まらず、痺れを切らした先生が曲を指定した。

 だが、ほう。海兵隊か。言っちゃ何だが楽だ。

 

 「海兵隊?」

 

 部員達は納得のいかない様子を見せている。どこからかボソッと、『それなら、サンフェスで吹く曲にすれば良いのにね』という声が聞こえてきた。

 果たしてサンフェスとは何だろう。サンクスなら分かるんだけど。ファミマと合併したやつでしょ?

 

 「ええ。海兵隊です。それでは、皆さんの合奏を楽しみにしています」

 

 

 

 

 先生が教室を出た後に練習はなかったので、今日も帰りが早い。うきうき気分で自転車を漕ぐ。流れていく風景の中には、母親と手をつないで歩く子どもの姿もチラホラ。保育園か幼稚園が近くにあるのだろう。全く微笑ましい。

 いやー、他の部活のやつらが学校で練習してる中、先に帰れる放課後は最高だなー。もちろん、帰宅部に所属するのが最も早く帰れる手段ではあるのだがそうではないのだ。仕事をしている人だってたまに早く帰れる時は最高の気分だろ?あの光っているオフィスの中にいる誰とも知らない奴らはまだ働いてるのに、俺はもう改札すぐそこですけど、みたいな。

 

 それにしても海兵隊か。

 吹奏楽をやる上では基礎中の基礎として初心者が吹く曲として有名だ。単純なトーンの繰り返しだし、吹くだけであるなら初心者でも一週間もあればマスターできるのではないか。

 だからこそ滝先生が教室を出て行った後、教室の至る所からどうしてという戸惑い三十%、何でだよという不満七十%の声が上がったのはまあ納得である。今をときめく金管やってますけど、スマホがお友達でーす系JKからしたら簡単すぎて吹きながらインスタできちゃうまである。いやそれは無理。

 ただ、簡単というのはあくまで吹くだけならの話であって、音が動き回らない簡単で吹きやすいメロディと伴奏。裏を返せば、基礎練習にはぴったりの曲だったりする。吹きっぱなしだから、休みを数えるところもない。呼吸の練習に、音を合わせる練習。こういった基礎練習は上達するための必要条件だ。

 北宇治吹奏楽部の演奏を思い出す。……うん。基礎練習なんてしている訳ないな。

 それでも俺は構わないのだ。吹奏楽部が下手だろうが上手かろうが、トランペットが吹ければそれでいい。もし部活動が合わない、つまり青春ごっこ(笑)が合わないのなら、学校のではない吹奏楽の団体に入ったっていい。

 頭をちらつくのは、中学の演奏会。周りには涙を流す吹奏楽部の面々。

 気がつけばハンドルを握る手はじんわりと汗をかいていた。




作者のてにもつです。
まず始めに、読んで下さってありがとうございます。思った以上の反響で嬉しい限りです。響け!が大好きな僕ですが、気がつけば書き始めてしまっていました、完全に自己満足なSSですがお付合いください。

とある質問が多かったので、答えさせて頂きます。
ヒロインは誰か、という質問ですが、今はまだ秘密です笑 答えると面白くないと思うので。これからの展開に期待して待っていて下さい!
ただ、個人的にハーレムっていう展開はあまり好きではないので、きちんとヒロインはいます。そこはご安心を。

もう一点、更新の頻度についてですが、完全に不定期更新です。
この点は申し訳ありません。

拙い文章ですが、完結まで読んで頂けたら嬉しいです。まだまだ始まったばかり。引き続きよろしくお願いします。


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9

 突然だが、俺は『いっせーのっせゲーム』というものが大嫌いである。

 そもそも、正確なこのゲームの名称はこれで合っているのだろうか。シンプルに『いっせーの』とか、どこからこの名前が来たのか『指スマ』とか、『チッチッチッチッバルチッチッ』など、地域によって呼び方が異なると聞いた事がある。最後のバルチッチッって何?ポケモンの名前?

 ともかく複数人で拳を付き合わせ、『いっせーのーで』というかけ声と共に、親指が何本上がるのかを当てるゲーム。俺はこのゲームが大嫌いなのだ。

 だって、鏡と一緒にやっても相手が何出すか分かっちゃうし。飼い猫のかまくらと一緒にやってもけだるそうな目で俺を見て、手なんて上げもしないし。なんなら、俺の方見ないで寝るくらいである。

 

 「いっせーのーで四!」

 

 そんなかけ声が近くのどこかの教室から聞こえてきて、俺はまた一つため息を吐いた。

 勘違いして欲しくないのは、別に練習をしていないことが嫌でため息を吐いているのではない。純粋にこのゲームが嫌いなのだ。『いっせーの』というかけ声を聞くと、鳥肌が立つ。

 思い返してみれば、この言葉に碌な思い出がない。あれは小学校低学年の頃だっただろうか。

 『いっせーの』のかけ声と共に、走って行くクラスメイト達。何がいっせーのなのか何も分からず、クラスメイトの小さくなっていく背中を見つめながら、ただ呆然と立ち尽くす俺。い、いや、違う!あれは見守っていたのだ!子ども達が元気にはしゃぎ回る姿を、まるで母親のような寛大な心で!

 

 「それでこないだも、放課後塾に行く前にー」

 

 そんな話し声が聞こえてくるのはこの教室からだ。トランペットパートの練習に当てられている教室。トランペットの高い音はほとんどの時間、俺の元からしか鳴らずに、雑談する声ばかりが教室を支配する。

 海兵隊を合奏することになってから数日後。練習をする者は部活動全体を見てもほとんどいない。

 滝先生が来た翌日は、一年生全体で長く息を吐く練習を先輩の指導付きで行った後に楽器を決めた。とは言え、俺は自分のトランペットを持っているし、それは高坂も同じだ。そのため、今年のトランペットパートの中で楽器を選んだのは吉沢だけ。楽器選びはすぐに終わり、さあパート毎に練習と言うことだったが、全員が経験者のため教えられることもほとんどなく、後は自由にどうぞという運びになった。

 

 「あー、わかります。私もその雑誌読みますよ」

 

 その吉沢は静かな印象だが、話さないというわけではないようだ。トランペットパート唯一の男性の先輩である滝野先輩を含めて、先輩達とのコミュニケーションを深めていた。

 そのグループとは少し離れたところでは、中世古先輩と吉川先輩が二人で談笑している。

 

 「でもでも、香織先輩!私は納得いかないですよー」

 

 「えー。でもダメだよ、優子ちゃん。そういうことは思ってても言わないようにしないと」

 

 「だって面倒くさいんですもん。それにそいつ、私のことなんかキモい目で見てくるし。ほんとサイアクです」

 

 訂正。談笑してるというよりか、吉川先輩のストレスを中世古先輩がマドンナスマイルで受け止めている。ここで、俺が『あー、それわかりますー。人の悪口言うのって、本当に面白いですよねー』なんて入れば、もう少し雑談に花が咲くだろうか。むしろ枯れそうだ。

 基礎練習を終えて、窓際の席に座る。会話こそしていないが、俺もここ数日は海兵隊の練習は行っていない。単調なメロディーに飽きてしまって、個人的に吹きたいものを吹いていた。

 

 休憩しながら、ぼうっと自分のトランペットを見つめる。金メッキに映る俺の腐りきった目は、心なしかいつもよりずっと濁っているように見えて、視線を窓の外に移した。

 窓に映る景色のどこを探しても、高坂はいなかった。しかし、どこかで練習はしているのだろう。運動部のかけ声の中に混ざるトランペットの音色。この音は間違いなく高坂が奏でている。

 高坂のトランペットは、金色のジャズモデルで有名なトランペットだった。とは言え、吹奏楽やオーケストラでも使用できるオールマイティな使用。そのトランペットと高坂の姿を俺はここ数日、この教室で見ていない。

 

 『失礼します』

 

 その一言から感情を読めなかった。非常に無機質だったと思う。

 初めての練習の日、自由に練習という指示を与えて間もなく、先輩達の雑談が始まった教室から一言だけを残して出て行った。ほとんどの先輩達は気にしていない様子だったが、中世古先輩だけが不安そうな顔をして追いかけようとしていた。結局、他の先輩に止められていたため、高坂の元に向かうことはなかったが。

 俺も探して話すようなことはない。クラスが同じでも、話したことないし。そもそも話すことも別にない。

 一人で吹きたいなら吹けば良い。それは俺が一番よく分かっていることだ。

 

 

 

 

 しばらく吹いて、休憩がてら水道へマウスピースを洗いに行くと、そこには川島がいた。

 

 「あー、比企谷君」

 

 周りに誰かいるから気がつかないかも。なんてわけでもないのに、なぜか大きく手を振りながらとてとてと近付いてくる川島。なんだろう、癒やされる。

 

 「おう、何してたんだ?」

 

 「んー、みどりはね、偵察に行ってたの。ついでにお水飲みに来た」

 

 久美子ちゃんと葉月ちゃんに置いて行かれちゃったから、と付け加えて少し怒ったような表情をしている。

 何があったのかはよく分からないが、どうやら何かに置いて行かれたらしい。そして置いていった内、一人は加藤だったと。

 部活が始まって以来、川島とはちょくちょく話している。俺から話しかけているわけではないけど。



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10

 「偵察って、何の?」

 

 「他のパートの練習です。どこのパートもあんまりちゃんと練習していなくて」

 

 「あー。うちのパートも話してばかりだ」

 

 「低音パートは比較的真面目に練習してますよ。来ない先輩もいますけど…」

 

 「そうなのか」

 

 「それにトランペットパートだけじゃないですよ。パーカスなんて、スティックをマイクの変わりにして歌ってました。ちょっと楽しそうでした」

 

 楽しそうだったのかよ。

 どこのパートも練習をしていないことなんて何一つ責任があるわけではないのに、川島は困ったような顔をしていたが、すぐにころりと明るい顔になった。

 

 「でもでも!比企谷君は一人で真面目に練習してて、みどり、偉いなって思いました!」

 

 「見てたのかよ…」

 

 「はい!それに高坂さんも一人で練習していました!凄く集中していたので、話しかけられなかったです。トランペットパートの一年生は真面目なんですね」

 

 「いや、真面目ではないんだが…」

 

 周りと距離を置いたのか、もしくは置かれたのか。その結果が今なんだけど。

 川島の目が純粋すぎて、そう伝えるのが憚られる。だって、ほら。なんかお目々キラキラしてて、眩しい…。そのキラキラ、俺の目にも分けて。

 

 「でも、休憩してるときくらいは他の人と話した方が良いですよ。さっきだって、近くに中世古先輩と吉川先輩いたじゃないですか」

 

 「すげえ見てるじゃん。何、俺の母ちゃんなの?」

 

 「みどりはみどりです。ママじゃありません。でも今日中に、中世古先輩と吉川先輩と話すこと。約束です」

 

 「え、マジ?強制的に契約するのは約束って言わないんじゃ…」

 

 中世古先輩はともかく、吉川先輩は楽器選びの時から何となく話しかけにくい。

 ここ数日間見ていて分かったが、あの人、良くも悪くも素直すぎる。初対面の俺に目が腐ってるって言ってきたし。これまでの人生で、初対面で腐った目が引かれたことはあっても、素直に言われたことはなかったかもしれん。

 

 「いいえ、約束です。これからコンクールに向けて付き合っていく仲間なんですから」

 

 「お、おう。わ、わかった」

 

 「それでは、みどりはお先にパート練習戻りますねー」

 

 川島って結構強引というか、頑固っぽいと言うか、そういう一面があるよな。そしてなぜか逆らえない。これは俺が弱いからなのか。

 

 「あ、川島」

 

 「はい、何ですか?」

 

 「高坂ってどこで練習してんの?」

 

 「高坂さんならこの階段登って、外に出る扉の先にいますよ。行ってあげるんですか?」

 

 「いや、そう言うんじゃないけど。ただ、音が聞こえてくるのがどこからなのかと思って」

 

 「そうなんですね。でも、高坂さんと比企谷君って同じクラスですよね?」

 

 「何で俺のクラスまで知ってるんだよ。何、俺のこと好きなの?」

 

 ………ってちょっと待て、俺!

 何恥ずかしいことサラッと聞いてんだ!何自分から黒歴史増やしてんだ!そんなの絶対に引かれるに決まってんだろうが!

 クラスメイトにさえ把握されない俺のステータスを、川島が知っていることにあんまりにも驚きすぎて、とんでもなく恥ずかしいことを言ってしまった。俺のこと好きなの、とか嫌われてる芸能人ランキング一位の井上さんじゃないと言えないよ。

 

 「え?みどりは吹奏楽部のみんなのことが好きですよ?」

 

 だが、一人悶々としている俺を余所に、何がおかしいのかと言いたげな様子で首をかしげながら川島は何のためらいもなく言った。

 

 「………。あ、そうね…」

 

 「それより、それならさっきの今日話す人リストの中に高坂さんも追加します。一年生でそれも同じパートで同じクラス。絶対仲良くしないとダメです!」

 

 「あ、はい…」

 

 「それじゃ、今度こそみどり戻りますから」

 

 去って行く川島に心ここにあらずの状態で手を振る。

 休憩のはずなのに、何だか疲れてしまった。

 

 「……だが、黒歴史が増えなくて良かった。川島以外の人だったら、多分明日は俺の名前が学校中に知れ渡るぞ」

 

 「それで、私に何か用?」

 

 「ふぇ!」

 

 教室に足を向けていたが、急いで振り返る。そこには先ほどまで話していたばかりの高坂がいた。

 

 「驚きすぎじゃない?」

 

 「い、いや。あの、いつからそこに?」

 

 「合奏練に向かおうと思って階段降りてたら、私の話をしてたみたいだったから聞いてたの」

 

 「えっと、つまり…」

 

 「残念だったね。脈なしみたいで」

 

 高坂は何事もないように淡々と告げた。確かに高坂からしたら何事もない話だけども、俺にとっては大事なのだ。

 黙っていて貰うためには、もう土下座しかないか。しかし、今度は土下座した噂が広まるかも知れない。最も酷いのは好きなのか聞いて天然で躱された挙げ句、土下座をしたという今水道の前で起きたことの全てが広まっていることだ。つまりここは何もしないのが最良の選択…!

 高坂は眉一つ動かさず俺のことを見ていたが、これ以上俺が何も言わないと判断したのか小さな口から言葉を発した。

 

 「そんなことよりさ、この部活、どう思う?」

 

 「いや、そんなことじゃ済まないんだが…」

 

 「……」

 

 高坂の無言は怖い。真顔で感情が読み取れないから尚怖い。

 

 「…はあ。まあある意味期待は裏切られなかったな」

 

 「どういうこと?」

 

 「俺は中学まで千葉にいたから、こっちの高校の噂とか何も知らなかったんだよ。だから、入学するまで吹奏楽部の実力を判断する基準は学校の実績しかなかったわけだ。この学校のここ最近の吹奏楽部の実績はせいぜい、京都府大会銀賞。そりゃこの練習なら、納得ってわけ」

 

 「そう。私も同じ」

 

 正直、興味がないと言えば嘘になる。

 まだほとんど聞いたことはないけれど、高坂のトランペットの実力が高いのは間違いない。にも関わらず、高坂はなぜこの学校を選んだのだろうか。吹奏楽はあくまで趣味で、学校から家が近いから。あるいは制服。もしくは学校の進学実績。そんな理由しか思い浮かばない。



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11

 「でも、比企谷は知らないだろうけど、この学校の吹奏楽部、十年くらい前までは強豪校だったんだよ。凄く優秀な顧問の先生が指導してて」

 

 「へえ」

 

 「全国大会の常連校だった。金賞も取ったことある」

 

 吹奏楽部にとって、顧問は最重要であると言える。音楽に秀でた良い顧問がいれば途端に強豪校になるというのは、吹奏楽だけでなく運動部などでも言えることだろう。

 しっかりと音を聴ける。何人もが一斉に音を出す中で各楽器の、さらに言うなら個人の音を正確に。

 それができる顧問でなければ、そもそも指導が指導にならない。ただ闇雲にもっと音を大きく、なんて曖昧な指導では吹奏楽は成り立たない。綺麗な音や、豊かな音。フレームによっては控えめに。曲の中に込められた意味や感情によって、楽器毎に演奏を変えなくてはいけないのだ。

 

 「私はその頃の吹奏楽部みたいな実績を残したい」

 

 「…それは難しいと思うけど」

 

 「わかってる。生半可な努力じゃ叶わないって」

 

 「いや、そうじゃなくて。高坂だってもうわかってるだろ。この部活の空気。こういうのには巻かれといた方が良いぞ。そっちの方が面倒くさくないから」

 

 「それもわかってる。今の部活じゃ絶対に無理」

 

 高坂の目は真っ直ぐだった。嘘偽りのない、素直な言葉。高坂は本気で全国を目指しているのだ。この部活の練習風景を見ても、それでも目指してる。

 二つ疑問が残った。

 

 「どうしてそこまで?」

 

 「私、特別になりたいの」

 

 「特別?」

 

 「そう。だから、私は全国大会で金賞を取りたい」

 

 「いやいや。話が飛びすぎててよくわかんねえんだけど」

 

 「別に分からなくていいけど。私がそう思ってるだけだから」

 

 果たして、全国大会で金賞を取れば特別になれるのか。むしろ、俺なんかは特別だから全国大会に行けて結果を残せるのだと思えてしまう。世の中には才能というものは間違いなくあるわけだし。

 ただ、確かに才能があるから全国に行くにしろ、高坂の言うとおり全国で金賞を取ったから特別になるにしろ、結局どちらもその栄光ある実績を残さなくてはいけないと言うことは同じだ。だから高坂の言っていることも、決して間違っていることではない。

 高坂の瞳はいつの間にか、俺から窓の外の景色を映していた。外はまだ明るい。グラウンドには野球をしている部員達が列を作って走っていた。

 

 「たまにさ、無性に普段と違う、普通じゃないことしたくなるときってない?」

 

 「何だ、藪から棒に?」

 

 「あそこ。グラウンドの奥のちょっと高いところ。あそこで吹いたら気持ちよさそう」

 

 高坂の指さす場所は、確かに開けていて周りには草木以外何もない。あの場所からなら学校が一望できるだろう。

 それにしても高坂と面と向かって話したのは今が初めてだが、中々変わってるな。

 それを言おうか言うまいか悩んだが、俺は気になっていたもう一つの疑問を優先することにした。

 

 「高坂、一ついいか?どうしてお前、俺にそんなこと話したんだ?」

 

 「別に大した理由なんてないけど。ただ、一人であの教室でトランペット吹いてたから」

 

 それは果たして理由になっているのだろうか。

 

 「いつからトランペット始めたの?」

 

 「一応、小学生の時から」

 

 「そう。通りで上手いんだね」

 

 「嫌みか?お前の方がよっぽど上手いだろ」

 

 楽器選びの時のことを思い出す。あの時は高坂に圧倒されて、ぐうの音も出なかったが、今思えば俺、中々惨めだったんじゃ…。

 

 「まあね。私は物心ついたときから、トランペット吹いてたし」

 

 「少しも否定しないのな」

 

 「だって、本当のことでしょ?トランペットには自信あるから」

 

 ほんの少し口角を上げて、勝ち誇ったような顔。無表情な高坂ばかり見ていたから、その表情は少しだけ意外だ。

 正直、可愛い。美人というイメージが強かったが、年相応のこの表情。

 

 「だけど、本当はちょっと負けたくないって気持ちもあったの」

 

 「え、何に?」

 

 「比企谷」

 

 「え、俺?」

 

 「そう。吹いたとき、トランペットパートの先輩達、みんな注目してたから。私も負けてられないなって」

 

 「…あ、そう。ま、まあ何。その、あ、ありがとう……。…まあ、結果的には惨敗だったけど」

 

 「ふふ。そうね」

 

 「比企谷君。あ、高坂さんも。ちょうど良かった。全体で合奏するから、音楽室行こう」

 

 振り返ると中世古先輩が呼んでいた。だが、なぜだか少し困った顔をしている。長く整った眉は下を向いていた。

 その隣には吉川先輩もいて、こちらは不機嫌そうだ。

 

 「すいません。トランペット教室に置いたままなんで、先行って下さい」

 

 「私もトランペット取ってきてから向かいます」

 

 「うん。わかったよ」

 

 

 

 

 音楽室に入って、この間何となく決まった自分の席に着く。パート毎にまとまっていて、前方は木管、後方に金管。そしてその背後に打楽器と大きく分かれている。誰かに除け者にされることなく、ちゃんとトランペットパートの集まりの中に存在している自分の席は高坂の隣だが、高坂はトランペットを握って正面を見つめていた。まるでさっきまでの会話はなかったかのようだ。

 それにしても。俺は目線だけを動かして周りを見た。

 さっき俺を呼びに来た時に吉川先輩の機嫌が悪そうだったが、なぜだか全体的にこのパート全体の雰囲気が悪い。ぼっちは空気に敏感なのだ。いや、このレベルなら俺じゃなくてもわかるだろう。

 てっきり、吉川先輩は頭に巻いているデカリボンが重くいから疲れてしまったのではないかと思っていたのだが、俺が教室を出るまで普通に雑談をして和気藹々としていたあの教室で一体何があったのだろう。

 俺が来て、トランペットパートの全員が揃ったのを確認して、中世古先輩は壇上にいる部長の小笠原先輩の元に向かって行った。

 

 「晴香。トランペットパートもみんな揃ったよ」

 

 「うん。わかった。それじゃそろそろ始めようか」

 

 「あ、待って。あのね、トランペットパートのみんなが、毎日海兵隊の練習をしててもしょうがないって。サンフェスもコンクールもあるんだし…」

 

 「え、でも…」

 

 なるほど、それで中世古先輩は困った顔をしていたのね。そして吉川先輩はむすっとしてるわけか。

 トランペットパートは今年の一年の全員が経験者。海兵隊を吹けないと言うことはないが、一度も音を合わせていない。果たしてそれで大丈夫なのだろうか。大丈夫なわけがない。俺、仲良く息合わせるのとか超苦手だし。



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12

 部員の押しに負けて、滝先生を呼んで帰ってきた小笠原先輩はやはり困った顔をしていた。

 

 「思ったよりも早かったですね」

 

 そんな部長の隣で、滝先生は爽やかな笑顔で暢気なことを言っている。

 二人の反応は対照的だが、それぞれの席に座る部員達の反応も二極化している。方や何の不安もなさそうで、方やその逆。前半は二年生以上に多く、後半は一年生が多いという印象。流石、先輩方。さぞや乗り越えてきた場数が多い故の自信なんでしょうなあ。

 

 「それじゃあチューニングをします」

 

 小笠原先輩がチューナーを持って周波数を測る。合図を区切りに、教室に管楽器のB♭の音が響いた。

 高校から吹奏楽を始めた初心者は、今回の合奏に加わらず聞いているだけだ。楽器に触れてから間もなく、吹くことすらままならないので仕方がない。初めて見る合奏前のチューニングに興味を持って、キョロキョロとしている一年生達の様子が見ていて初々しいからか、緊張していた小笠原先輩が少しだけ微笑んだ。

 

 「いい?先生、よろしくお願いします」

 

 「では、皆さん。今日が初めての合奏になりますね。よろしくお願いします。では、最初から一度通してやってみましょうか」

 

 小笠原先輩と入れ替わって、壇上に上がった先生の手が上がる。それと同時に俺は軽く息を吸い、マウスピースに唇をつけた。いよいよだ。

 

 「…3、4」

 

 演奏が始まる。

 明るい雰囲気の楽曲。耳に馴染むメロディーを紡ぐために、それぞれが音を出す。

 だが、それは決して合奏と言える代物ではない。指揮と全く合っていない。ミスやズレ。

 

 「はい、そこまで」

 

 演奏が止まったときに安心してしまったのは、開放感からだったかも知れない。多くの一年生が俯いているのが見えた。

 

 「何ですか、これ?」

 

 滝の言葉は冷たかった。

 笑顔が怖い。普段笑っている人が怒ると怖いと言うが、そういうのとはまた違う気がする。

 

 「部長。私、言いましたよね?合奏できるクオリティになったら呼んで下さいって」

 

 「すみません…」

 

 「皆さん、合奏って何だと思います?」

 

 その質問に答える生徒は誰もいない。

 

 「では塚本君」

 

 「ああ、はい。ええと…」

 

 当てられた塚本という生徒はトロンボーンのひょろっとした男子だった。急に当てられたこともあって困惑しているが、気持ちは凄く分かる。

 あぶねえ、良かった。こんなところで絶対当たりたくねえ。

 とは言え、俺はステルスヒッキーの異名を持つ。まるでレーダーに感知されないミサイルのように、誰にも気が付かれないのは得意だ。

 

 「みんなで音を合わせて演奏すること、ですか?」

 

 「そうですね。しかし、各パートあまりに欠陥が多くて、これでは合奏になりません。あなたたちは今日まで一体何をしていたんですか?」

 

 「ちゃんと練習やってました!毎日みんなで音合わせて」

 

 「っていうか、どこがダメだか具体的に言ってくれないと分かりません」

 

 塚本を庇うように声の上がったトロンボーンパートからの反撃に、滝先生は変わらず笑顔のままだった。まるで張り付いているかのような笑顔が、どこか仮面のようにも見える。

 

 「そうですか。わかりました。トロンボーンの皆さんは、このメトロノームに合わせて最初から吹いて下さい」

 

 カチカチ、と響くメトロノームの音。それに合わせて吹き始めるトロンボーンパート。

 多くの部員達の前で緊張してることもあるのかもしれない。だが、何よりやはり練習不足なのだ。呼吸のタイミングや音を切るタイミングが全く合っていない。

 やたら大きく聞こえるメトロノームの音が何かを宣告するカウントダウンに思えた。

 

 「はい、そこまで。皆さん、この演奏を聞いて良いと思った人?」

 

 こんなの上げられる分けねえだろ。あらかじめ答えが出ているような質問だ。

 

 「良くないと思った人?」

 

 部員達の手が上がる。ぱらぱらと上がったその手は、まるで多数決の時のように最後は全員の手が上がっていた。

 

 「私はトロンボーンだけでなく、他のパートも同じだと思いました。聞くに堪えないものだと。でもそれでは困るのです。あなたたちは全国に行くと決めたんですから。最低基準の演奏はパート練習の時にクリアして頂かないと。これでは指導以前の問題です。私の時間を無駄にしないで頂きたい」

 

 誰かの息を呑む音が聞こえた。それだけの迫力が滝先生にはある。

 隣に座り、俯いている高坂はトランペットを強く握っていた。

 

 「今日はこれまでにして、来週の水曜日にもう一度合奏の時間を取りましょう。以上です」

 

 「あ、あの!」

 

 教室を出て行こうとする先生を止めたのは、中世古先輩だった。

 

 「サンライズフェスティバルの曲は…?」

 

 「あなたたちはそういうことを気にするレベルにありません。来週、まともなレベルになっていなかったら、参加しなくて良いと私は思っています」

 

 失礼。その一言を残して、今度こそ滝先生は教室を出て行った。

 

 「何なの、あいつ」

 

 「今年から来たくせに。毎年、恒例のサンフェスに出なくて良いとか言ってさあ」

 

 「部長、絶対言った方が良いよ」

 

 「はいはいはーい!とりあえず、各パートで一回話し合おう。それからパートリーダー会議で話し合う形じゃないと、意見がまとまらないよ」

 

 ね、という言葉とアイコンタクト。あすか先輩のフォローに、小笠原先輩が頷いた。

 初めての合奏練習。こんな形で終わると予想していた人はきっと誰もいないだろう。



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13

 帰宅部も顔負けである程、学校をすぐに出ることに定評がある俺だが、忘れ物に気付いて取りに戻ったせいで少しだけ帰るのが遅くなってしまった。

 別に俺個人が滝先生に怒られたというわけではないが、なんとなくモヤモヤとした気分のまま自転車を走らせていると、目の前に見慣れたベージュのリボンが目に入った。比較的小柄な身長もあって、後ろ姿のシルエットがウサギっぽく見えなくもない。当然、あの大きなリボンは耳。

 そういえば今日の合奏に気を取られてすっかり忘れていたが、川島に水道でトランペットパートの三人と話すという約束を強制的に結ばれたのだった。

 高坂とは川島が去った後すぐに話したし、中世古先輩が合奏だからと呼んでくれたのも会話の内に入るだろう。意識してなかったのに、目的の三分の二を果たしているとは。流石、八幡。やればできる子。

 ということは、川島との課題で残すのは目の前の先輩だけという訳だ。

 歩く度に揺れているクリーム色の長い髪が、赤い太陽の光を反射してキラキラと輝いている。しっかりとケアされているのだろう。男と女で比べるのはおかしな話だが、俺のゴアゴアな髪とは大違いだ。

 女性の美への、特に髪への洒落にならんからな。去年、小町の誕生日に『お兄ちゃん、小町の誕生日プレゼントはシャンプーとリンスのセットでいいから』と言われ、大した値段しないだろう、と思って二つ返事で許可したところ、後から値段を見て六千円超えてて腰抜かしちゃったもん。俺の使ってるシャンプーより容量少ないのに。俺の使っているものなら八本は買えた。

 小さな背中に声をかけようか悩んだ結果、俺は声をかけないことにした。

 三人のうち一人と話している時点で三十三%。つまり、赤点は回避している。ましてや二人なら約七割。七割って言ったら、ほら、あれだから。地球の中の海が占める割合だから。オッケーオッケー。……自分で言ってて、よくわからん。

 

 「あ、ちょっと待ちなさいよ」

 

 通り過ぎようと思った俺に、独特の高い声で声をかけたのは、当然吉川先輩だ。

 だが、本当に俺に声をかけたのか。比企谷って呼ばれてないし。振り向いて、何ですかと話しかければ、吉川先輩のお友達がいて、『いや、あんたじゃない』と笑われるオチが待っているかもしれない。

 

 「何無視してくれちゃってんの?」

 

 だが、吉川先輩が声かけたのは紛れもなく俺だったようだ。少し先にいた俺の元に、怒ってますよというアピールなのか、少し頬を膨らませて近付いてきて並んだ。

 不覚にも、かわいい。このちょっと怒ってますアピール。

 

 「あんた、後ろから来たんだから私のこと気付いてたでしょ?挨拶くらいしなさいよ」

 

 「はあ。すいませんでした」

 

 「全く、後輩なんだから。ちょっとは後輩らしい可愛いところ見せなさい」

 

 吉川先輩が俺の自転車のカゴに置いていたスクールバッグの隣に、自分が持っていたスクールバッグを並べて置いた。付いているキーホルダーはトランペットのキーホルダー。運動部の奴らが自分のやっているスポーツのキーホルダーをつけるのと同じで、吹奏楽部員も楽器関連のキーホルダーをつける人は多い。

 

 「おっけー?」

 

 「いや、確認する前にもう置いてるじゃないですか?」

 

 「ほんと?ありがとう!」

 

 「許可してないんだよなあ…」

 

 遠慮ないな。まあいいんだけど。

 吉川先輩の少し後ろを歩く形で帰路を辿る。吉川先輩からは女子らしい良い香りがした。そう言えば、京都に来てから小町と帰り一緒に帰ることはなかったから、こうして誰かと帰るのは初めてか。

 

 「それにしても、滝先生よね。あんな爽やかな顔して、なにあの嫌な感じ!」

 

 「そうですね」

 

 「こっちだってやってきたやり方とか、文化とか風潮とか色々あるのに、急に来て何よ。あの態度」

 

 「そうですね」

 

 「大体、あんな言い方じゃ逆にやる気なくなっちゃうじゃない。言い方よ言い方!」

 

 「そうですね」

 

 もう終わってしまった平日お昼の生放送番組に映る観客ばりに、『そうですね』を繰り返す。こういうときは自分の意見は極力抑えて、聞き手に回るに限る。

 

 「比企谷って確か高校からこっち来たのよね?」

 

 「はい。そうです。千葉県にいました」

 

 「京都と比べてどうなの?千葉って。なんか東京が近いからかあんまイメージがないんだけど」

 

 「まあ控えめに言っても、千葉の方が最高でしたね。千葉県と比べたら日本のどこの都道府県も、いや、世界中のどこも劣ってるように思えちゃいますもん。何より、こっちにはマックスコーヒーがない!」

 

 「全然控えめじゃないわね!」

 

 そうか?これでも抑えたつもりだったのだが。

 そもそも東京と同じ土俵で比べて欲しくない。京都だって大阪が隣だが、比べられるのは何というか違うだろう。千葉にいたときは大阪のがつがつしてて、どないやねんどないやねんを繰り返してるヒョウ柄のおばちゃん達のイメージ強すぎたが、京都には京都の良いところがあると理解していた。長い歴史と伝統のある建築物など。

 それと同じで、東京という日本の経済の中心に対して、隣接する千葉にはまた東京とは違う良いところがたくさんあるのだ。落花生の生産量全国一位だし、九十九里海岸から見る星が綺麗だったりして自然豊かだし、幕張新都心のイオンモールは日本で二番目にでかいイオンモールで何でも揃ってるし。

 

 「何よ、そのマックスコーヒーって…」

 

 「千葉県民のソウルドリンクですよ。あれがないと千葉県民は三分しか活動できないんです」

 

 「なんかウルトラマンみたいね…。ていうかぜっっったい嘘でしょ。千葉県民って話の規模が大きすぎるのよ」

 

 頭がくらっとするほどの甘さ。あれを飲まないと脳が活性化されない。

 一日の始めにマックスコーヒー。あー、思い出したら千葉に帰りたくなってきた。



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14

 「中学の時の吹奏楽部はどうだったの?比企谷、トランペットうまいじゃない。学校も強豪校だったり?」

 

 「いえ。俺がいた中学校はあんま強くなかったですよ。というか弱小でしたね。関東大会とか出たこととかなかったし」

 

 「ふーん。じゃあ滝先生みたいな指導は受けたことないのね」

 

 「そうですね」

 

 「はあ。これから二年間。あの先生に指導されるのかあ」

 

 「…吉川先輩って今日、パートのメンバーと海兵隊の練習は嫌だって中世古先輩に言ったんですよね?教室いなかったんで、よく知らないんですけど」

 

 「う…。それは、まさか滝先生にあんなに言われると思ってなかったから。それにトランペットパートの私たちが香織先輩に部長に言うべきだってお願いしちゃったけど、他のパートもみんな思ってたわよ。去年までなら、今日の海兵隊のクオリティでも怒られたりしなかったし」

 

 吉川先輩は大きくため息を吐いた。

 それは何に対するため息なのだろう。中世古先輩に文句を言いに行った一当事者として、藪蛇をしたことに対してなのか、それともただ単純に滝先生の嫌みにこれからついて行かなくてはならない不安なのか。

 

 「……ほんと、どうしたものか…」

 

 「…真面目にやってみるしかないと思いますけどね。それで先生と合わなかったらその時に考えて。最低、辞めたっていいんですし」

 

 「辞めるのは嫌。天使の香織先輩に会える時間が減っちゃうと思うと、生きていけない」

 

 「め、目が怖い…。それならやっぱ、やるしかないじゃないですか」

 

 「そんなことわかってるわよ。みんな軽い気持ちではあったけど、全国目指すって決めちゃった以上、やるしかないってことは。でも…」

 

 「……なんですか?」

 

 「……なんでもないわよ。あーあ。部活、これまでと同じで良かったんだけどなあ」

 

 結局、吉川先輩はそれ以上、この話題に触れなかった。しばらくお互い無言で歩く。

 先輩の家は知らないが、このまま別れるまで話さないでいても良いのだろうか。俺は別に構わないのだが、女の子は常に何か話していないと死んでしまう生き物だ、とは何の雑誌に書いてあったのだっけ。こうやって気を遣わなくてはいけないから、やはりぼっちが一番だ。一人最高。

 

 「…そう言えば、あんたって私のこと、吉川先輩って呼ぶわよね?」

 

 「ええ」

 

 「普通に下の名前で優子先輩で良いわよ。同じパートなんだし」

 

 沈黙を破った吉川先輩の提案。

 きゅ、急にそんなこと言われてもこまるんですけど。妹の小町以外に下の名前で呼んだことある女子なんて、片手で数えられるほどしかいないし。数えるって言っても、指一本も上がらないけど。

 

 「い、いや、別に今のままで良くないですか?」

 

 「良くない。私が良いって言ってるんだからそう呼びなさいよ」

 

 「でも」

 

 「ほら比企谷」

 

 唾を一つ飲む。まさか女の子を下の名前で呼ぶことがこんなにも緊張することだったとは。世の中のリア充達はこの緊張と常に向き合っている。そう考えると、ただウェイウェイしてるだけで青春(笑)を謳歌してるつもりになってる彼ら彼女らを冷めた目で見ていたが、尊敬する部分もあったのかもしれない。

 さあ、八幡。勇気を出して。どこからか、俺にとって日曜朝の顔とも言える、プリティでキュアキュアな女の子からの応援が聞こえた気がした。というか、完全に幻聴だ。だけど、八幡、頑張る!

 

 「……ゆ、ゆ。ゆ、優子先輩」

 

 「ふふ。そう。よろしい」

 

 優子先輩がへらりと笑う。

 

 「ん?どうかした?」

 

 「い、いや、なんでもないです」

 

 ぼっちは女の子に笑顔を向けられることが少ないので、こういう自分に向けられた何気ない笑顔を垣間見たときや、フレンドリーに話しかけられた時は少し驚いてしまうものなのだ。

 それが美人なら尚更。きっと今俺の顔、おかしいわ。いつも?やかましい。

 

 「さて、それじゃ私こっちだから。それじゃね比企谷」

 

 「はい。…あれ?」

 

 「ん?なに?」

 

 先輩は変わらず、呼び方が比企谷のままなんですね。

 聞こうと思ったが、果たして八幡なんて女子に呼ばれたら俺は正気を保てるのだろうか。俺は何でもないです、と首を横に振った。

 

 

 

 

 

 昨日優子先輩と帰っているときに、滝先生の言い方じゃ逆に部員のやる気がなくなってしまうと言っていたが、優子先輩の予想は正しかったみたいだ。

 

 「部員の何人かが、先生の方針に対してどうするか決めてからじゃないと練習しないって…。だから、パートリーダー会議が終わるまでは練習は休みにするって事になったの。ごめんね。本当にごめん」

 

 「いや、別に良いです。自主練でどっかで適当に吹くのは構わないんですよね?」

 

 「うん。それは勿論だよ」

 

 ひたすら申し訳なさそうな顔で謝る小笠原先輩に、俺は何も言えなかった。一年生の俺は為す術なんてあるはずもなく、黙って従うしかない。

 だが、俺としては本当に部活が休みで構わない。むしろウェルカムまである。

 自分で好きなときに吹いて、疲れたら帰る。自由とは誰しもが手にすることが出来る権利ではない。それを行使しなくては勿体ないだろう。

 ただ、文句があるとしたら一つ。

 返して!今日部活で、優子先輩に間違えなく会うだろうと思って、下の名前で呼ぶ練習をしてた俺の時間を返して!

 小笠原先輩の隣にいる中世古先輩は黙って俯いている。昨日、トランペットパートのメンバーが原因で小笠原先輩に相談し、滝先生を呼びに行かせる要因になった。トランペットパートは滝先生の方針に賛成していない生徒も多いようだから、もしかしたら今日の部活に反対した生徒の中には、トランペットパートの先輩達もいるのかも知れない。

 

 「あ、それなら、いつものトランペットパートの教室使って」

 

 「いいんですか?」

 

 良かった。こういうとき、俺みたいな根暗は『教室使って良いですか』と言いにくいから、あらかじめ使える教室があるというのは非常に助かる。

 

 「うん。むしろ部活ないのに、ちゃんと練習するなんて偉いね」

 

 「いえ、別に。ありがとうございます」

 

 「あ、後で私も行くから待っててね!」

 

 「え?」

 

 練習する教室に向かおうと、取っ手に手をかけたところで思わぬ声が掛かった。振り返ると、中世古先輩はこちらに向かって微笑んでいる。

 おかしいな。てっきり一人で練習するもんだとばかり思ってたんだけどな。

 

 「え?何かおかしなこと言った?まだ来てない子がいるからさ。練習がなくなったことを謝って、それから練習しようと思ってたんだけど」

 

 「いや、そうじゃないんですけど…」

 

 「あ、もしかして。私が練習するのが意外だったとか?私はこれでもトランペットパートのリーダーなんだから、パートの子が練習してるのに帰ったりなんてしないよー」

 

 いや、先輩はトランペット上手いから、練習してないなんて疑ってないですけど。

 にこにこと何故だか楽しそうな中世古先輩に、俺はもう何も言えなかった。

 



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15

 だが、冷静に考えれば吹奏楽部のマドンナこと、中世古先輩と二人で練習できるというのは役得なのではないか。

 俺みたいな、他称(断じて自称ではない)捻くれぼっちがあんなに美人な先輩の御相伴に与る機会なんて早々ない。照橋さんと体育祭で二人三脚したモブキャラの男だって、学校生活で一番の、いや、これから先の人生において一番の思い出だって言って二人三脚やってたし。俺ももしかしたら、今日の練習は神様が無糖の珈琲のような苦い人生を歩む俺へのプレゼントなのかも知れない。

 うきうき気分で教室のドアを開けば、そこにはトランペットを持った少女がいた。

 

 「あ、香織せんぱーい!おつかれさ……って比企谷か」

 

 それはこっちの台詞なんですけど。俺のこれから起こるはずだった中世古先輩と二人きりという神シチュは…。

 扉を開けたのが俺だと確認した優子先輩は明らかに肩を落とした。

 

 「ゆ、優子先輩。お疲れ様です」

 

 「あ、うーん。おつかれー」

 

 ちょっとー。今結構勇気振り絞って名前で呼んだんですけどー。そこは名前で呼ばれたことにちょっと照れて、『比企谷…。う、うん。お、お疲れ』って顔赤くしながら言ってくれる場面じゃないんですかねー?

 

 「部活休みになったのに。真面目ね」

 

 「先輩こそ練習ですよね?」

 

 「そりゃそうよ。トランペット持ってるの見れば分かるでしょ?」

 

 正直、昨日の帰り話した内容を振り返ると、優子先輩こそ部活を休みにしようと言う声を上げた一人だと思っていた。だから、ここにいるのが意外だ。

 

 「昨日だって香織先輩に迷惑かけたんだから。今日まで迷惑かけられないでしょ?それにね。香織先輩ってすっごく真面目で努力家だから!絶対に部活なくても練習するの!だから付き合いたいなって。トランペット吹いてるときの香織先輩、美しいの…」

 

 「あ。さいで…」

 

 この人、中世古先輩大好きすぎるんだよなあ。確かに美人だけど。俺だって大和撫子と書いて中世古香織と読むのではないかとか思っちゃってるし、さっきまで二人きり期待しちゃってたけど。

 

 「はあー。折角香織先輩と二人きりだと思ってたのにいー」

 

 大きなくりくりした目が、俺をじとっと映す。

 

 「別に俺がいたって気にしなくて大丈夫ですから。俺の影の薄さは、正にアンリマユレベル。真っ黒でむしろ影そのもの。存在感皆無。おまけに出現確率も低いから、もはやいないも同然」

 

 「は?アンリまゆ毛……?何それ?」

 

 通じなかったか。アンリまゆ毛は俺も分からん。どんなまゆ毛?

 まあ優子先輩には通じないだろうなとは思ってたけど、吹奏楽部はアニメ好きな女子が多いイメージがある。そもそもの母数が多いからかも知れないが。

 

 「要はいない子扱いされることに関してはプロと言っても過言ではないってことです。いつも通り教室の端で黙って吹いてるんでほっといて下さい」

 

 「吹いてるのか黙ってるのかどっちなのよ…」

 

 「ごめんね、遅くなって。お待たせー」

 

 まだ教室に入っていなかった俺の後ろには中世古先輩がいた。急いで来たのか、少しだけ息が上がっている。

 

 「中世古先輩、早かったですね」

 

 「うん。晴香が後輩が待ってるから早く行ってあげてって」

 

 「香織先輩、聞いて下さいよー。比企谷、私が今日練習してるの見て、意外って言ってきたんですよー。失礼しちゃいます」

 

 「いや、言ってないです」

 

 思ってはいたけど!心の声読むのやめて!

 

 「比企谷君。優子ちゃんって、凄く真面目なんだよ」

 

 俺に向けて話す中世古先輩は優しい目をしていた。

 確かに他の先輩達が帰ってしまった中で、こうして練習をしているのは偉い。練習に来ている理由は中世古先輩に会うためと、不純と言えば不純なんだが。それでもだ。

 

 「でも、ちょっと意外だよね?」

 

 「もう!香織先輩までー」

 

 「あはは、ごめんね。優子ちゃん」

 

 いいですねー。美少女二人のいちゃつく姿。ごちそうさまです。

 

 「比企谷君もホントに真面目だね」

 

 「比企谷は絶対、下心で練習するって言ってますよ。気をつけて下さいね」

 

 「いやいや、それは優子先輩じゃないですか?」

 

 「そんな腐った目で言われても説得力ないですぅー」

 

 「ちょっと待って。目は関係ないでしょう?」

 

 ぐぎぎ、とお互いにいがみ合う。この先輩、完全に自分のこと棚に上げてやがる。

 その横で中世古先輩は、少し意外そうな顔をしていた。

 

 「あれ、二人ってあんまり話してるイメージなかったけど。仲良いんだね?」

 

 「別にそんなことないですよ。ただ帰り道が同じ方みたいで、昨日の帰り一緒でした」

 

 「ああ、そうなんだ。それなら比企谷君。私も途中まで帰り道一緒だ」

 

 「え、まじすか?」

 

 この話の流れ、今度一緒に帰ってくれるって事で良いんだよな?俺の勘違いじゃないんだよな?

 そんな話をしていたときだった。

 

 どこからか、トランペットの甲高い音が聞こえてきた。

 ドヴォルザークの『新世界より』。

 この綺麗な音は、きっと。今日もこの教室からその姿は見えない。けれど、きっと彼女はあそこにいるのだろう。いつも吹いている場所とは違う、彼女が昨日指さしたあの開けた場所に。

 特別になりたいと願った少女は、この何も去年から変わらずにいる部活の何かを変えたいと、変えようと力強く伝えている。そんな思いはこの教室にいる俺たち三人にも、この学校にいる全ての人に伝わったはずだ。彼女のメッセージは言の葉ではなく、その奏でるメロディーに乗せて。

 

 「……」

 

 俺たち三人は、黙ってその音を聞いていた。まだついこの間のことなのに、これではまるで、楽器決めの時に高坂が初めて音を出したときのようだ。また、この学校中に響いているこの音に魅了されて俺たちの時間は止められている。

 そして、やはり今回も窓の先のどこかを見つめる吉川先輩はどこか敵意を孕んでいて、中世古先輩は作ったような笑顔を貼り付けているように俺には見えた。




作者のてにもつです。
今回後書きを残したのは、皆さんに謝罪があるためです。

最近、何度か誤って、数話先の話を投稿してしまい、申し訳ございませんでした。みっともないですが、言い訳をさせて頂くと、投稿日時設定を、2019年に変えずに2018年で投稿してしまっていたため、先の話が投稿されてしまいました。
今日は会社の仕事納めかつ忘年会でべろべろに酔っていますが、帰宅してすぐに、様々な方からご指摘を頂いていることを確認し、修正させて頂きました。謹んでお詫び申し上げます。本当に申し訳ございません。


折角普段は残さない後書きを、謝罪の言葉だけで終わらせるのもあれなので、ついでに一言残しておきます。わっかりやすいステマです。
いよいよ、響けの原作2章の映画の公開日が決定されましたね。僕は響けの原作を全て読んで展開を知っていますが、今から映画が楽しみで仕方ありません。
奏ちゃん。久美子と秀一の関係。そして、部長の優子。
特に優子はアニメ一期の時はなんだこいつと思いましたが、二期、そして原作2章と進むにつれて、どんどん好きになっていくと思います。味のあるキャラクターです。
どの立場から言ってるんだって感じですが、原作ファンは勿論、アニメを見ていた人も、必ず楽しめるので、是非見て下さい。


最後になりますが、今回はメッセージや感想など、僕のミスを指摘して頂いてありがとうございました。また普段、誤字訂正をしてくれる方、また何より、この拙い文章を評価してくれる方、本当にいつもいつもありがとうございます。執筆活動の励みになっています。本当に。
それでは!


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16

 「つまりだ。こうして弥生時代から戦争が起きたわけだが、百余国あった国が三十国に統合された。日本で起きた戦争は外戦ではなくて、内戦から始まったというわけだ」

 

 人数が多い組織において、組織に属する人間の意思や方向性を固めることは非常に重大で、最も難儀な問題である。

 部活というのも、日本史の教師が話しているこの国の考え方に近しいものがあると俺は考える。

 自国がまとまらなければ、外の国と戦うことはできない。自国の全員で戦う意思を決めて共有していないと、ある者は戦って怪我をした。それにも関わらず、ある者は戦いもせず、利益だけを得る。そんな構図になりかねないからだ。

 部活も同じである。顧問の意思に従うのか、それとも逆らって自分たちのこれまでの練習や風習を貫くのか。結局、今回の問題の本質は『本気で全国を目指すのか』。その一点に尽きる。そこさえ決まれば後はどう流れるかなんて馬鹿でも分かるが、果たしてその問題にまで行き着くのだろうか。だが、結果はどうなるであれ、方向性は決めておかなければいけない。特にこの女子が多い社会においては、小さな亀裂が大きな問題になることなんて良くある話だ。

 それでは六十人を越える我が部活の意思決定は誰がどうやって行われるのであろうか。

 それはパート毎に決められたリーダー、通称パトリに部長を加えたメンバーで行われる会議によって決められる。北宇治高校吹奏楽部では、この会議をパーリー会議と呼ぶらしい。なんかパリピっぽい響きで凄い苦手な響きだ。

 俺が通ってた中学校では、この会議はパーミー会議だった。パートミーティングの略。俺としてはこっちの方が親しみやすいし、呼びやすいと思う。パーリーより可愛いし。地域や学校によって呼び方は様々だ。

 日本史の板書を取ろうと、視線を黒板に移すと、視界には高坂の黒くて長い髪が映る。

 今日は待ちに待った、そのパーリー会議らしい。さて、吹奏楽部の運命や如何に。

 

 

 

 「…ということで来週の合奏までは練習して、それでもしサンフェスに出られないというのであれば、きちんと抗議しようということに決まりました。何か意見がある人いますか?」

 

 パトリたちが前で列になり、真ん中の部長が会議での決定を伝えた。

 まさに日本人らしい、『決定』。ハーフオンハーフの意見だ。結局、滝先生の指導に従うのか、先日全員で決めた全国を目指す目標はなかったことにして、滝先生の指示に従うことなく例年通りサンフェスの練習をするのか『決断』できていない。

 本質の問題は解決できていないが、とりあえず解消はしている。誰がこの意見を出したのかは分からないが、中々纏め方が上手い。

 部員から意見は上がらなかった。だが、何も問題がなく終わることもなく。

 

 「おや、皆さん。合奏の練習はどうしたんですか?」

 

 トロンボーンの先輩が嫌そうな顔をした。滝先生のお出ましだ。

 

 「今はパートリーダー会議をしていて…」

 

 「そんなことは別で時間を取ってやればいいでしょう。折角、今週は三者面談で時間が長く取れるというのに。言っておきますが、サンフェスの件、私は本気ですよ?」

 

 さ、練習をしましょう。

 滝先生の有無を言わせぬ言葉に、俺たちは従うしかなかった。

 

 

 

 一、グラウンドに集合。二、楽器を持ってくる。三、体操着に着替える。

 あれれー、おかしいぞー。吹奏楽部のはずなのに、練習がマーチングバンド部みたいになってるー。滝先生のあまりに突然の指示には、コナン君もビックリだ。

 

 「さて、皆さん揃いましたね?」

 

 滝の確認に部員達の様子は人それぞれだった。嫌そうなやつもいれば、わくわくしてる様子のやつも。

 それにしても、中世古先輩は体操服にジャージを着てる姿がよく似合っている。運動部のマネージャーっぽい。あれなら北宇治高校の全ての運動部から、マネージャーの勧誘を受けていてもおかしくない。良かったー。ジャージ着てる中世古先輩の魅力が世間に知れ渡っていなくって。

 

 「それでは、全速力で校庭を一周してきて下さい」

 

 「ええ!走るんですか!?」

 

 質問したのは小笠原先輩。流石、部長。部員全員の声を代弁しての質問だ。

 

 「はい。タイムは90秒。それ以上掛かった人はもう一周追加で」

 

 あ、あれれー。おかしいぞー。八幡君は、吹奏楽ってずっと座ってられるか――。

 

「はい、よーい、スタート」

 

 あっ!もうカウント始めやがった!

 誰かが走り始めたのを皮切りに、全員が校庭を走り出す。

 

 「はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 自転車通学で良かった。ほんのわずかな運動だが、あれがなければ多分校庭一周なんて走れなかった。全速力で走るのは意外にも疲れる。

 走っている俺の横に、誰かが並ぶ。

 

 「ぜっ、ぜっ、こう、さか、はや…」

 

 こっちは息切らしまくってんのに、全然平気な顔して俺を追い抜かして行きやがった。あいつ、コーナーすげえ早い。ハチロクか。

 

 「ふあぁぁ……みぃ……ごおぉ……」

 

 それと引き替え、後ろからはもはや何て言ってるのか分からない、ふわふわとした声が聞こえてくる。

 声で何となく分かっていたが、振り返るとやっぱり川島だった。走るのが明らかに苦手なようで、泣きながら走っている。あれ、身体が軽くなった。まさか、これが噂のみどりん効果…!癒やされる!

 

 「はいはい。走って走って。ゴールしたらすぐ吹く」

 

 滝先生の言葉が前方から聞こえてきて、再び俺の足が重くなった。

 おかしい、ゴールしても地獄じゃないか。だが、足は止まらず、ゴールしてしまった。

 

 「ほら、何のために持ってきたと思ってるんですか?ほら、早く」

 

 トランペットを吹く。腹から音が出せず、当然いつも通りに吹くことはできない。

 

 「はー。疲れたー。むりー。しぬー」

 

 ところで、俺の後ろで走り終わって地面に手をついている打楽器勢。こっちは全力で走った後に必死に楽器吹いて、文句言ってる余裕さえないんだぞ?うるせえから、もう一周走ってこい。



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17

 「はい。口の前に手をかざして」

 

 トランペットパートだけで行う基礎練習。俺たちは滝先生の指導の下、横一列に並んで先生の指示通りに手を前にかざした。

 目の前に見えるのは、自分の手と青空。空の下には、練習をしている部活棟とは渡り廊下を挟んで離れている校舎の一部が見える。

 

 「自分の息を感じるようにして。窓の外にある、あの遠い雲を動かすように息を吐いて下さい」

 

 お。あの教室。女子が机に脚組みながら座ってる。しかも結構可愛いぞ。

 俺の手のひらはいつの間にかほんの少しだけ下を向き、誰とも知らない女子のスカートを捉えていた。

 

 「ただ強く吹くのではなく、遠く。あの雲の奥にある地平線にまで、一本の強くて長い息を」

 

 ふー、と全員が息を吹く。

 おし、いいぞ。あと少しだ。ふー。ふー。

 

 「それじゃあ届きませんよ。もう一度」

 

 ふー。ふー!

 …ちょっと動いたよな?もう少しで見えそうだ…。頼む、届いてくれ。

 

 「まだまだ強く」

 

 ふー!ふー!

 頑張れ頑張れ、俺の息!今こそ風になれ!

 

 「いいです。その調子。後はそれを長く。雲を動かすイメージを持って」

 

 おい、ふざけんな!なんで見えないの、パンツ?

 もう物理的に見えてもおかしくないはずなのに…。何があってもパンツは見せない、京アニか!

 

 結局、俺の息はあの地平線の向こう、スカートの中に届くことはなかった。

 

 

 

 

 海兵隊の始まりのフレーズ。このフレーズだけを今日一日で何回吹いただろうか。

 

 「はい。では、もう一度」

 

 こう何度も同じフレーズを吹き続けていれば、流石に飽きてくる。

 パート全員の意見を感じ取ってか、中世古先輩が控えめに聞いた。

 

 「あの、先生。これいつまでやるんですか?」

 

 「最初に言ったでしょう?十回連続で全員の息がピッタリ合えば、次の練習に移ります」

 

 また同じフレーズを吹き始める。一回、二回、三回。

 

 「比企谷君。少しだけ早いです。もう一度やり直し」

 

 「………」

 

 「…すみません」

 

 やめて!そんな『おいお前何ミスってんだ。出てけ』みたいな目で見ないで!

 仕方ないじゃない。人と息合わせるの大の苦手なんだから。みんなが修学旅行で夜遅くまで気になる女子のこと話してる中、一人で寝たふりしてるくらい息合わせるの苦手なんだから。

 実際、修学旅行の夜に好きな女子のことを話してる男子。あれほど無意味な時間ねえからな。お前らが話してる女子、お前らのこと一切気にかけてねえから。むしろその時、女子は一つの部屋に集まって、お前らの悪口言ってから!いや、知らんけど。

 

 

 

 

 左から順番に、一拍置いてから音を出す。これは音の高さを合わせる練習だ。一人ずつ音を出すため、誰が高いもしくは低い音を出したか瞭然なこの練習。

 

 「ちょっと高いです。よく前の人の音を聞いて下さい」

 

 「すみません…」

 

 謝ったのは二年生の加部先輩だ。話したことはほとんどないが、明るく表情豊かな先輩というイメージ。同じパートの同学年と言うこともあってか優子先輩とは仲が良い。

 だが、このときばかりは持ち前の明るさもなりを潜めている。加部先輩のところでやり直しになるのはこれで何回目だろう。ふふふ。この前の練習の俺の気持ちが分かったか?

 

 「ドンマイ、友恵。がんばろ」

 

 「うん、ありがと…」

 

 「そんな落ち込むことないって。友恵は高校から始めたんだしさ!」

 

 いや、何か俺の時と加部先輩のときで周りの反応全然違くない?

 

 

 

 

 とにかく滝先生が来てから、部活の練習が大きく変わった。

 何でも他のパートの演習では、滝先生に厳しいことを言われて泣いている生徒もいたという。

 先生が海兵隊を合奏すると言った日は、あっという間にもう明日に迫っていた。だから今日の練習は試験前のような、どこかピリピリとした雰囲気があったからなのかもしれない。

 

 「加部さん。この注意、もう何回目ですか?そろそろできるようになって貰わないと困ります」

 

 「……はい。すみません」

 

 トランペットパートの指導では加部先輩が集中砲火を食らうことが多かった。確かに加部先輩は一人だけ音を外すことがあり、指導されるのは仕方がない。

 

 「いつまでもこんな基礎に時間を取られているのは勿体ないですよ。できないのなら個人で時間を取って練習して貰わないと」

 

 「……」

 

 「分かっているとは思いますが、私が指定した期限は明日です」

 

 加部先輩は俯いている。目がうるうるとしていて、涙が零れ落ちそうだ。

 そんな先輩を見かねて優子先輩が声を上げた。

 

 「友恵はちゃんと練習しています!滝先生が他のパートに行っているときもずっと。そんな言い方しないで下さい!」

 

 「本当にちゃんと練習をしてるのですか?はっきり言って、今行っていることなんて、本来であれば吹奏楽を初めて一年も経っていれば、簡単にできることですよ?」

 

 「だからこれまでの分を取り返そうと、今必死にやってるんじゃないですか!」

 

 「ではこれ以上の努力はできないと?今やっている練習は時間もクオリティも、最高のものであると言えますか?」

 

 優子先輩はむっとしたまま黙っている。その質問に代わりに答えたのは高坂だった。

 

 「練習量で言えば、中学の時の半分くらいです」

 

 『は?』と誰かが怒りを孕んで声に出した。優子先輩ではなかったと思う。だが優子先輩もキッ、と高坂のことを睨んでいる。

 

 「高坂さんはこう言っていますが、他の皆さんはどうですか?」

 

 「……」

 

 「はあ。黙っていたら分かりません。沈黙は肯定と捉えてよろしいのですね?」

 

 「…すいません。練習が足りませんでした…」

 

 加部先輩が頭を下げて謝ると、滝先生は再び練習に戻った。



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18

 音楽室に向かうと、高坂がちょうど反対から歩いてきた。

 昨日の部活を思い出す。結局滝先生にみっちり絞られた後、いつも通り高坂は一人でどこかに練習をしに行ったが、あの後の空気の悪さと言ったら酷いものだった。

 ……冷静に考えてみたら、トランペットパート雰囲気悪くなってばっかりじゃない?いや、吹奏楽部ってそういうもんだけど。富士急ハイランドの鉄骨番長くらい回りまくるし、上がったり下がったりするけど。あのアトラクション、安全バーが固定されなくてめちゃくちゃ怖いんだよね。

 

 「お疲れ」

 

 「…おう。お疲れさん」

 

 正直、昨日の一件で高坂は完全に孤立したようなものだ。高坂がパート毎に宛がわれた教室の外で練習するのは、彼女が真面目だからとか、一人が好きだからとかではなくて、群れから追放された結果。パート内外のイメージはそう変わっていく。

 だが高坂は何も気にしてないように、いつも通りの様子で俺に声をかけてきた。きっと、本当に気にしてないのだろう。人間関係なんてどうでもいい。うまくなれるのなら。そして、特別になれるのなら。

 それが高坂の価値観。

 

 「あ」

 

 「ん?どうした?」

 

 高坂は楽器室に入っていく、栗色のセミロングで癖っ毛の女子生徒を目で追っていた。楽器決めの時に見た気がするが、あまりきちんと覚えていない。一年生だったってのは間違いないはずだが。

 

 「私、あの子に用があるから先音楽室行ってて」

 

 「そうなのか」

 

 「うん。昨日のことで謝らないと」

 

 「何か悪いことでもしたのか?」

 

 「悪いと言えば悪いこと。別に間違ったことをしたつもりはない」

 

 高坂はそのまま急ぎ足で楽器室に向かっていった。

 何となく言わんとしてることは分かるが、やっぱりよく分からない。曖昧にしてはぐらかされたような気もする。

 

 「ひーきがや」

 

 「うわ!びっくりした」

 

 してやったり。曲がり角から突然出てきた優子先輩はそんな顔をしていた。

 

 「なんすか、急に?」

 

 「べつにー。ちょっと驚かしちゃおうかなって」

 

 「……くだらないことしないで下さい」

 

 「これもコミュニケーションの一環よ」

 

 「そんなコミュニケーションはいらない…」

 

 優子先輩が音楽室に向かう。俺は数歩分間を開けて付いていった。

 

 「あんまり緊張してないのね。友恵なんて、さっき見たら酷い顔してたわよ」

 

 「そりゃ今日の海兵隊だって、ただの練習ですからね。緊張なんて別にすることないですよ」

 

 「いや、ただの練習って、今日海兵隊が認められなかったらサンフェスに出られないのよ?わかってる?」

 

 「それはわかってますけど。でもそのサンフェスっての、よく知らないんですよね」

 

 「あ、そっか。比企谷、サンフェス知らないのか。今日が無事終わったら教えてあげるわよ」

 

 まあ、絶対ぎゃふんと言わせてやるけどね。優子先輩が前で拳を握った。先輩もこの調子だと、あまり緊張はしていなそうだ。

 もしかしたら急に驚かしてきたのは後輩の緊張を解くためだったりするのだろうか。

 ここ一週間は加部先輩の練習に付きっきりで教えてたり、何だかんだ面倒見が良いみたいだからな、この人。

 

 「そう言えば」

 

 「ん?何?」

 

 「この間、俺の中学校の話聞いてきましたけど、先輩の中学校って吹奏楽どうだったんですか?」

 

 「私の中学校?この辺の学校よ。南宇治中学校って学校なんだけど、吹奏楽はまあそこそこの強豪校って感じかしら」

 

 「へえ」

 

 「近いからって理由で、高校は北宇治選ぶ人も多いわね。今の吹奏楽部にも何人か中学から吹奏楽やってて、今もうちの吹奏楽部にいる人いるわよ。例えば、ほら。オーボエで廊下で一人で練習してる子。後は高校から吹奏楽部に入ったんだけど、ユーフォのポニーテールのうっざいやつ!あいつも中学は一緒だった」

 

 「すいません、わかんないです」

 

 入部してからまだあまり経っていないため、他のパートの先輩はほとんど分からん。まして、うっざいやつなんて言われても見当も付かない。ただ妙に、そのユーフォの先輩の時に優子先輩の言葉に力が入っているのが気になる。

 優子先輩のトランペットの技術はかなりのものだ。中世古先輩と高坂には劣るかもしれないが、間違いなく標準以上ではあるだろう。だからきっと、中学校は強い学校だったのだろうと思っていた。

 しかし、それならもう少しこの北宇治の吹奏楽部もどうにかならなかったものなのか。真面目な先輩達もどんどんぬるま湯に慣れてしまうものなのか、それとも北宇治の演奏のレベルに見切りをつけて入部しないのか。

 

 「……それより私もさっきから気になってるんだけど、なんで比企谷そんな離れてるの?」

 

 「え?このくらい普通じゃないですか?」

 

 「いや。いやいやいや。全然普通じゃない。普通に横並びなさいよ」

 

 「よく考えてみて下さい。学校ってのは社会に出るための教育の場なんです。上司のやや後ろについて歩くことは、社会人が徹底するべきビジネスマナーとしては当たり前。それを高校で実践して今から行うことこそ、普通であるべきじゃないですかね。そう考えると俺は極めて模範的な生徒」

 

 「うわー、あんた面倒くさ」

 

 げんなりとした様子で、肩を落とす優子先輩。心なしか、頭の上のリボンもしょぼんと垂れている気がする。

 

 「なんか前から思ってたんだけど、比企谷って捻くれてるわね」

 

 「いや、だからそんなことないですって。そもそも当たり前っていう定義を作って画一化を図ろうとする、この社会こそ…」

 

 「もう!いいから横並ぶ!」

 

 「うおっ!」

 

 突然、優子先輩に腕を引かれてよろっとなった。隣には当然、優子先輩がいる。

 

 「いい?これからは一々面倒くさいこと言わないで、ちゃんと隣に並んで会話すること。先輩後輩以前に、同じ部活の部員なんだから。わかった?」

 

 「…はい」

 

 正に有無も言わせぬ勢い。黙って隣を歩いて部室に向かうのは、何だかこそばゆかった。



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19

 「約束の日になりました。この一週間の練習の成果が楽しみです」

 

 にこり、その言葉がぴったりな笑顔で笑う滝先生に、もう黄色い歓声が上がることはない。

 

 「絶対文句言わせない」

 「これでなんか言われたら、マッピ投げるし」

 「っていうか、なんであの先生、指揮棒使わないの?見にくいんだけど」

 

 むしろそんな声が所々から聞こえる。

 滝先生への不満は部の結束を強め、結果として全体が真面目に練習するに至った。

 憎しみは力に変わる。何これ、凄い厨二っぽい。やめよ。

 隣には高坂。そしてその隣には優子先輩。二人ともすでにマウスピースを口につけて、滝先生の方を真っ直ぐに見つめていた。

 

 「さて、チューニングは良いですね?それでは行きますよ。…3、4」

 

 滝先生の手が振られる。それと同時に演奏が始まった。

 何度も練習した出だしの音。どこのパートもぴったりと合っている。

 それからの演奏も、一週間前とは比べものにならないほど完成度が上がっていた。あの時は早く演奏が終わらないかと思う程ぐちゃぐちゃだった音でも、ここまで変わるものなのか。

 今吹いている海兵隊は、まるで軍隊のように行進したくなる。続けば続くほど高揚していく気分。演奏は本当にあっという間に終わった。

 

 

 

 滝先生が教室をぐるりと見渡し、一つ微笑んだ。

 

 「いいでしょう。細かい点をあげればまだまだですが、何よりも皆さん、合奏をしていましたよ」

 

 部員達から喜びの声が漏れた。今回は吹かなかった初心者の一年生達も、一緒になって祝福の声を上げている。滝先生から認められたことも、初めて褒められたことも嬉しかった。

 トランペットパートの反応も人それぞれだ。高坂はいつも通り無反応。優子先輩は少し泣きそうになっている加部先輩を見て笑っていて、中世古先輩は驚いた様に目を丸くしている。

 

 「小笠原さん、これをみんなに配ってくれますか?サンフェスまでの練習メニューです」

 

 だが、喜んでいたのもつかの間。回ってきたプリントを見て目を丸くした。

 え、平日。こんなに練習メニューあるの?終わるの何時?土曜日は学校が午前で終わるから、放課後は遊べるから好きって誰か言ってたよね?練習の時間書いてあるんだけど…。あれ、もっとおかしいところ見つけちゃった。日曜日って休みじゃなかったっけ?

 練習ばかりだった一週間が終われば、それからはもっと練習付けの日々が待っている。その事実に心の中で涙が流れた。

 

 「譜面は明日渡します。さて、残された時間は長くはありません。しかし皆さんが若さにかまけて、どぶに捨ててる時間をかき集めればこのくらいの練習量は余裕でしょう」

 

 相変わらず、言い方が悪すぎるんだよなあ…。ほんと、あの爽やかな笑顔からよくあんな言葉が出てくるよ。

 滝先生が来たばかりの時は、滝先生のイケメンパワーであの顔が見たいから、なんて言って練習に来ちゃう女子部員がいるかもなって思ってたんだけどなー。今はもうあの顔に騙されているやつはいないだろうなー。まさかね。

 

 「サンフェスは楽しいお祭りですが、この辺りの学校が一堂に集まる貴重な機会です。この機会を利用して今年の北宇治はひと味違うと思い知らせるのです」

 

 「でも、今からじゃ…」

 

 小笠原先輩が自信なさげな声。同じように下を向く部員がチラホラいる。

 

 「できないと思いますか?」

 

 だが、そんな部員達を前に滝先生は全体を見渡して宣言した。

 

 「私はできると思っていますよ。なぜなら私たちは、全国を目指しているのですから」

 

 解けなかった問題。勝てなかったボス。

 如何なる事でもできなかったことができるようになるのは嬉しい。同時にできたときの達成感は、次へのモチベーションに繋がる。

 そのために俺たちがまだまだ下手くそだと言うことと、できないことができるようになることの喜びの二つを理解させたのだ。全国に行くためには演奏者である俺たちがもっと上手くなりたいと、そう思わないことには上達しないから。

 だが、同時に狡いなと思った。

 ここ数日間滝先生を見ていてずっと思っていた。全国に行くと決めたのは誰か?確かに全国に行くと決めたのは俺たちだ。だが、大多数が納得して決めた答えであっても、それが全ての答えにはならなくても良いはずなのだ。

 練習をサボることは勿論、練習してできるようにならなければ怒られる。なぜなら俺たちが全国を目指しているから。これからの練習がハードだが耐えなくてはいけない。なぜなら俺たちが全国を目指しているから。

 言っていることは正しいのだろう。高い目標を達成するために自分たちの限界を。いや、もしかしたらそれ以上の努力が求められている。

 

 だが、社会人が自分の守る生活のために、あるいは貢献と活躍を約束した会社のために、ボロボロになったプライドを何とか必死に食い繋いで頭を下げたり、必死に時間外だろうが休みだろうが関係なしに働く姿は本当に正しいのだろうか。

 失っている物があるはずなのだ。必死の努力と引き替えに、大切な何か。それは人それぞれで、例えば家族との時間だったり、子どもの成長を見守る価値だったり。

 それと同じで俺たちにだって犠牲にする物がある。滝先生はそれを『若さにかまけてどぶに捨てている時間』と言ったが、その中に。それが何かを俺たち部員は誰も知らない。後になって振り返って、初めて気が付くもののはずだから。

 それなのに全国を目指すことが全てで、他の結果や練習以外の時間に価値はないと思い込ませる、純粋で屈託のない滝先生の笑顔を俺は教壇から何席か離れた席で冷めた目で見ていた。



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少しずつ、北宇治高校吹奏楽部は変わっている。
1


 荷物の準備は良し。鞄の中には、今日使う体操着が入っている。制服に着替えて歯を磨いていると、休日を休日らしく謳歌して、学校がある平日よりも大分遅い起床をしたパジャマ姿の妹の小町が話しかけてきた。

 

 「……ふあぁ。おはよー。おにーちゃん、早いねー」

 

 「おはよ。一応、小町の分の目玉焼き焼いといたぞ」

 

 「うん。ありが……え?お兄ちゃん何やってるの?」

 

 寝ぼけ眼でリビングに来た妹は、俺の姿を見て一気に目が覚めたようだ。俺の腐りきったとよく言われる目と違い、ぱっちりくりりとした大きな瞳を大きく見開いた。

 

 「見てわからんか?学校に行くんだよ」

 

 「いやいや、だって今日は日曜日だよ。間違えちゃったの?」

 

 「俺も間違いだと思いたかったなあ…」

 

 「あー、はいはい。そういうことね。お兄ちゃん、いくら捻くれてるからってダメだよ。宿題くらいちゃんとやらなくちゃ。結局出さないと自分の手間になるんだから」

 

 「やらなかった宿題の提出に行く訳じゃないから。ちゃんと家でやってかないと後が面倒くさいなんて、そんなこと俺が一番よく分かってる。ペナルティで別の課題あるかもしれんし。仮に提出が午後とかで、ラッキーって思いながら自分で休み時間の合間を縫って問題解いても、あいつ友達いないから誰にも答え写させてもらえないんだよかわいそー、なんて冷やかされる事があるかもしれないし」

 

 「うぅ…。朝からお兄ちゃんの過去の話聞かされるのは辛い…」

 

 「ばっか。かもしれないって言っただろ。誰も実際にあったなんて…ぐすっ」

 

 いいんだよ。見せてもらっていなければ、『宿題やってきてねえやー、てへぺろ』って言ってるやつがいたって、恩返しで見せなくても良いし。きちんと自分で解いてる分、学力が上がるからメリットの方が多いもん。

 

 「でも、じゃあ何で学校行くの?」

 

 「部活だよ。部活」

 

 「え、えええええぇぇぇ!お、お兄ちゃんが、日曜日にぶかつぅぅ!?」

 

 「うお、うるさ!お前、ご近所さんに迷惑だろうが」

 

 それに部屋でまだ寝てる両親が起きちゃうかもしれないだろ。そしたら怒られるぞ、俺が。父ちゃん、絶対小町に怒らねえからなあ…。

 

 「だ、だってあのお兄ちゃんがだよ。休日は朝からプリキュア見て、部屋でゴロゴロしてると思ったら、次は気持ち悪い顔でニヤニヤしながらゲームして、夜は死にそうな顔で『ああ明日から学校行きたくない。学校潰れないかな、物理的に』なんて言ってるあのお兄ちゃんが!」

 

 「…こうして聞くと俺の休日、なんか悲惨だな……」

 

 でも、どんなに怠惰でも良いんだよ。だって、日曜日だもん!

 

 「それに楽な部活って言ってたじゃん」

 

 「こないだ顧問変わったって言っただろ?そしたら思ったよりも練習が厳しくなってな。日曜も練習なんだとよ。それにほら、俺最近帰ってくるの遅かったじゃん?」

 

 「あー、確かに。千葉にいた頃と比べると言われてみれば。吹奏楽部が休みの日はお兄ちゃん帰ってくるの凄い早かったし、部活あっても終わったらすぐ教室出てたからねー。全然興味なかったから、気がつかなかったや」

 

 「ぐっ。お前…」

 

 てへっ、と舌を出す小町。妹がやると何とも憎たらしいものだ。だが小町の場合、憎々しさ余って可愛さ100倍。

 それにしてももうちょっと、お兄ちゃんのこと気にして。寂しい。俺は学校でもずっと小町のこと考えてるのに。むしろ部活終わった後、すぐに帰るのは小町に会いたいからまである。

 

 「そう言えばさ、京都来てから、一緒に帰ってないね」

 

 「そうだな」

 

 中学三年生の時は小町も吹奏楽部だったこともあって、よく一緒に帰った。小町はユーフォニアムを吹いていたため、学校帰りにメンテナンスをするからと持ち帰っていたときはありがたく持たさせていただいたし。あの楽器、ホント重いんだよなあ。

 学校に行くときは自転車の後ろに小町を乗せて、学校の少し前で降ろしてから別々に行く。そんな生活が当たり前だったのに。小町と中学が一緒だったのはたった一年だけなのに、その一年が嫌に懐かしい。

 

 「部活の後は誰かと一緒に帰るの?」

 

 「いや、基本的には一人だな。たまたまエンカウントしちゃって、部活の先輩と帰ったことは数回あるけど」

 

 「お、いいねえ。お兄ちゃん。なんか青春って感じがするよね?」

 

 「いや、全然しないけど」

 

 だって優子先輩と帰っても、割と一方的に話聞かされてるだけだし。流石に入部当初に抱いてた、ガツガツしてる感じの苦手意識はなくなったけど。

 

 「そなのー?でもでもー、小町もたまには一緒に帰りたいなー、なんて?」

 

 「おー、俺もたまには小町と帰りたいぞ。今度、途中で待ち合わせるか?」

 

 「いいね!折角、京都来たばっかだしさ、寄り道して帰ろうよ?友達から色んなおすすめのお店、教えて貰ったんだ!」

 

 小町には持ち前のコミュ力があるからあまり不安には思っていなかったが、それでも京都は京都の生活で、しっかりと友達がいて満喫しているようで嬉しい。こればっかりは割と冗談抜きで。

 

 「わかった。じゃあ、俺そろそろいくわ。母ちゃんに帰り遅くなるって言っといてくれ」

 

 「りょーかいであります!あ、お兄ちゃんお兄ちゃん」

 

 家を出ようとリビングの扉に手をかけると、小町に呼ばれた。

 

 「ん?なんだ?」

 

 「部活頑張ってるお兄ちゃん。小町的にポイント超高いよ!」



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2

 「あー、あっついんだよなあ」

 

 小町が見送ってくれたお陰で、家を出たときまでは確かにあったはずのやる気は、学校のグラウンドに着く頃にはすっかりどこかに落としてきてしまったようだ。

 

 『日曜日は他の部活がグラウンドを使わないから、今日は一日中、外でサンフェスの練習ができますね』

 

 先日の滝先生の言葉を聞いて、嫌な顔をしていたのはきっと俺だけじゃないはず。

 サンフェスとは、サンライズフェスティバルの略称である。府内各校が集まってマーチングを行う、音楽の祭典だそうだ。俺は今年から京都に来ているため当然見たことがないが、中々人気があるイベントだそうで、大勢の観客達で盛り上がるという。

 マーチング形式とは普段席に座るか、その場で立って演奏する形式とは違い、行進しながらだったり、フォーメーションを組んで移動しながら演奏をする形式を指す。高校マーチングにおいて、下手したら吹奏楽に携わったことのない人でも知ってるほどの全国的な有名校である立華高校。その立華も、京都府の高校であるためサンフェスに参加する。

 立華の十八番である『sing sing sing』も、もしかしたら披露するのかも知れない。動画サイトでは見たことがあるが、もし生で見られるのならかなり楽しみだ。来場客も立華目当てで来る人が多いはず。

 それだけが唯一の楽しみで、このイベントがマーチング形式というのは最悪の一言に尽きる。

 そもそも俺が吹奏楽で好きなところ、室内で座っていられるところなのに。しかも座りながら吹いてたって疲れるのに、動きながら吹くとか辛すぎ。はちまン、ぃみゎかんない。。。もぅマヂ無理。。。

 

 「はーい。練習始めるよー!まずは準備体操から!」

 

 あまりにマーチングが嫌すぎて、心の中ではメンヘラJKになっていたが、先輩の声で現実に引き戻された。

 今回のマーチングの練習に当たって全体に指示を出しているのは部長の小笠原先輩ではなく、低音パートのリーダーの田中先輩だ。

 田中先輩はサンフェスのドラムメジャーを担当する。ドラムメジャーとは、隊列の先頭を歩く指揮者の代わり。バトンを上下させて曲のリズムを示したり、演奏者の隊列に対して方向転換の合図を出す。

 また、ドラムメジャーの役割はそれだけではない。先頭を歩くと言うことは、その学校の顔であるとも言える。空中にバトンを飛ばしてキャッチする技をやったりすることで、よりマーチングの隊列を華やかに見せて会場を盛りあげるのだ。

 やったことないからわかんないけど、バトン使う技難しそうだよな。くるくる回すのさえ俺はできなさそうだし。去年もやっていたのか知らないが、田中先輩はこないだの練習からすでに完璧にこなしていた。

 

 「それじゃあ、まずは全体で行進。こないだやったことをしっかり思い出して。行進の練習が終わり次第、演奏とステップの役割毎に別れて練習します」

 

 サンフェスは楽器を吹ける経験者は演奏と行進、今年から始めた初心者や、使う楽器が大きいコンバスや打楽器を使う奏者は、チアリーデングで使うようなボンボンを持って独特のステップを踏みながら歩く。このステップもまた中々難しいようで、初心者を悩ませていた。

 女子は練習前にばっちり日焼け止めを塗っていたが、それでもやはり日焼けは怖いようで、多くの女子が長袖のジャージを着ている。

 それとは引き替えに、男子は半袖が多い。行進の練習はこの間の練習でやったのだが、タダの行進とは言え中々ハードで動いていればすぐに汗をかく。その時の教訓だ。

 

 「1、2。1、2」

 

 田中先輩のかけ声に合わせて進み、止まる。

 行進は一歩62.5センチで左足から始まるのだが、この62.5センチが合っていれば田中先輩の指示で止まったときに、ピッタリと横前と綺麗に揃う。しかも行進と同時に演奏をしているため、下は向かずにずっと前を見ながら。このマーチングの行進は基礎でありながらも、普段マーチングの練習をしていない人からすると一番と言ってもいい難所だ。

 今年入部した一年生達はほとんどの人が初めてで、行進のやり方を実践しながら教えて貰ったのだが、この間の練習は行進だけで終わってしまった。そのくらい、62.5センチという歩幅を身体で覚えることは難しい。

 

 「ダメ、ライン揃ってない。この前も言ったけど、ステップが揃ってないのは演奏のミスより目立つから。もう一回」

 

 「「「はい!」」」

 

 もう一度行進。それにしても、俺たちが楽器を持ったふりして行進する姿は、端から見ればファイティングポーズのように見えて、あしたのジョーごっこでもしているようにも見えるかも知れない。燃えたよ…まっ白に…燃えつきた…。だから家帰らせて。

 

 「比企谷くん。身体ブレてるよー」

 

 くだらないことを考えてたら、田中先輩の横で行進の指導をしている小笠原先輩に注意された。それにしても、小笠原先輩に『比企谷君』って言われるのって、不思議と凄くしっくりくるんだよなあ。もうちょっと、まるで寒さを孕むような冷たい声で呼ばれたら、尚そう感じそう。

 

 「ほら、比企谷君。前見て、前!」

 

 今度は田中先輩に注意された。田中先輩に比企谷君って呼ばれても何も感じない。むしろ怒られて怖いだけ。



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3

 自販機で飲み物を買って、木の下の影に身を降ろす。

 やっとの休憩。けれど、たったの5分だけ。普段の授業だって、五十分の授業で十分休み時間があるのに、いつもの授業より時間的にも内容的にもずっとハードだ。

 マーチングは辛いだろうとは思っていたが、予想を超えて難しかった。それでも何とか行進自体はほとんど形になり、今からパート毎に別れて演奏する曲の練習になる。

 ほとんどの人が休憩をしている中、川島がフラッグを持って練習しているのが見えた。

 川島は普段コンバスの奏者だが、あの楽器は大きすぎて歩きながら演奏なんてできる訳がない。そのためカラーガードに選ばれたようである。フラッグを使用して演技を行い、視覚的に来場者を楽しませる。

 小さくて可愛らしいルックスはカラーガードにぴったりだが、こうして見ているとフラッグの大きさと不釣り合いな気がしてしまう。フラッグはそんなに重くはないが長いため、くるくると回すとバランスを崩すときがある。

 

 「うお、あぶねえ」

 

 川島が倒れるんじゃないかと、ゴールキーパーのイギータくらい見ていてひやひやする。あ、知らない?ゴールキーパーなのにハーフラインくらいまでドリブルしたり、ペナルティエリア内なのに手を使わない人。チームメイトのディフェンダーは、九十分の試合の間、ずっと心臓がバクバクだったことだろう。見ているファンでさえ気が気じゃなかったんだから。

 あ、ほらポールで頭を打った。

 指導してる先輩には見られなかったようだが、恥ずかしそうにキョロキョロと周りを見渡している川島と目が合った。恥ずかしそうにへにゃりと笑っている。可愛い。抱きしめたい。

 

 「はーい!集合集合しゅーごーう!」

 

 田中先輩の号令に従い、木陰から出る。さて。川島に癒されたことだし、パート練やりますか。

 

 

 

 

 「それじゃ、上級生はパートリーダーが中心になってしっかり指導するように」

 

 「「「はい」」」

 

 「トランペットはこっちでやろうか?」

 

 中世古先輩に付いていき、俺たちはグラウンドの一角にトランペットを持って集まった。

 トランペットパートは全員が演奏を行うため、計八人。中世古先輩を囲む形で俺たちは譜面をのぞき込む。

 今回演奏する曲は『ライディーン』。イエローマジックオーケストラの曲で、日本テクノポップを象徴する曲の一つだ。この曲は元々、『雷電』というタイトルだったが、ちょうど勇者ライディーンが海外でも受けていたのと、名前の通りが良いので『ライディーン』とタイトルを変えたそうだ。

 一度聞けば中々耳を離れないこの曲は、滝先生が言っていた、今年の北宇治はいつもと違う。それを思い知らせるのにぴったりな選曲ではないだろうか。

 それにしても今回のサンフェスの衣装は先日すでに配られたのだが、衣装が白と赤と青と黄色のカラフルな衣装で、勇者ライディーンっぽい色合いの様に見える。実際、曲を決めてから衣装を寄せていったのか、衣装を決めて勇者ライディーンっぽいから演奏曲もそれでいいやとなったのか、はたまた偶然なのか。実際の所は謎に包まれている。つか普通に俺の勘違いかもしれない。

 

 当然、勇者ライディーンと似ているのは色合いだけで、衣装自体は可愛い感じに仕上がっている。それぞれに配られた衣装を、サイズの確認を兼ねて試着をした日には、音楽室は女子が試着で使うため、居場所がなくなった弱者の男子は適当に近くの教室で着替える事になった。

 そそくさと部屋を追い出され、そそくさと試着を終え、一言二言感想を言ってまた着替え直す。悲しいかな、これが男子吹奏楽部員の実情。あの衣装の感想は、男子には可愛すぎて中々恥ずかしい。そんな声が多く上がっていた。

 それとは対照的に大盛り上がりなのが女子。近くの教室にいた俺らにまで、きゃっきゃ楽しそうな声が聞こえてきた。特に優子先輩の。

 

 『きゃーーー!せんぱい、可愛いマジエンジェル!!後で写真撮って貰っても良いですか?』

 

 吹奏楽部のマドンナの通称は顔だけで付いているわけではない。穏やかな性格に、スタイルも良い。すらっとしているのに、ばっちり出ているところは出ている。

 ふむ。中世古先輩の衣装姿。一体いかがな物か。私、気になります。

 

 「よし、それじゃあ横一列に並んで。あんまり時間がないから、一回吹いてみよう」

 

 横一列に並んで、リズムに合わせて脚を交互に高く上げる。パート毎に練習の内容は異なるが、トランペットパートでは通常の演奏とは違い、マーチングの練習も兼ねて常にステップしながら練習するようにしていた。

 トランペットは軽いからまだ助かる。低音パートのチューバなんて、ただ持って歩くだけでも大変だろう。チューバの先輩達にはまだ入部してすぐの時に、田中先輩に捕まっていたところを助けて貰った思い出がある。割と寡黙な印象を受けた男の先輩は大きいので何とか持ちながら演奏できそうだが、女の先輩の方は本当にご愁傷様です。

 吹き終わる頃には全員、息が上がっていた。

 

 「やっぱりすっごい疲れるね。本番は何分間くらいマーチングするんだっけ?」

 

 「確か、公園一周するから二十分くらいだったと思うよ」

 

 「うへえ、きっつ。最後の方、絶対吹けないよ」

 

 ところどころで今の演奏の反省や会話が行われているが、高坂は誰とも話さず一人で汗を拭っている。海兵隊の練習以降、無視されたりいじめられたりということはないが、以前よりもさらにパートメンバーと距離が離れ浮いている。練習中、ほとんど話さないのは俺も同じだから言えた義理じゃないが。

 それからの休み時間も、高坂が誰かと話すことはなかった。



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4

 「みんな、今日はお疲れ。ラスト一回の感覚忘れないで」

 

 滝先生が各パート回って、技術的な指導。その後、全体で本番さながらで行進をしながら吹いて今日の練習は終了となった。

 田中先輩の声に喜ぶ人もいれば、他の部活が使うため今日以降はグラウンドが使えないことに不安そうな顔をしている人もいて反応は様々だ。

 当然、俺は嬉しい。だって滝先生ったら酷いんだよ。脚動かして吹いてるから、いつも以上に疲れるのにちっとも休ませてくれないし、演奏の妥協とか全くしてくれないんだもん。むしろ、『トランペットは音が目立つので、音を外すとすぐ分かってしまいます。なので少しでも動きながらの演奏に慣れるのと、体力をつけるために、明日からの練習に少なくとも一時間はステップを踏みながら吹く練習を入れて下さい』なんて指示出してきたもん。ほんと意地悪よねー。中世古先輩も笑顔引きつってたし。

 

 「あの、ちょっといいかな。もうちょっと合わせて置いた方が良いと思うんだけど」

 

 え、本気?もう今日八時間くらい練習したよ?確かに本番までに不安があるのは確かだが、別に明日以降で良くないか?脚が痛すぎるんだけど。

 部員からの意見に、滝先生は少しだけ躊躇して許可を出した。

 

 「わかりました。では、残れる人だけ残って後三十分だけ練習します。保護者の方に連絡が必要な方は携帯を使って良いので連絡して下さい」

 

 出たな。残れる人だけ残って。

 この言葉の主な生息地は、文化祭や合唱祭でやせいのポッポやコラッタばりに頻繁に現れる。人に流されやすい日本人には効果が抜群。相手に意思を問いかけるようで、残らざるを得ないという解答を突きつけるというエスパータイプ。また仮に帰った場合でも、残った奴らで『あいつ、帰るとかあり得なくない?』、『ほんと、ひどいよねー。友達だと思ってたのに』とかいう、共通の話題を作ることもできるというあくタイプでもある。

 エスパー、あくとか強そう。ときはなたれしフーパと同じタイプだし。あいつめっちゃ伝説のポケモンと戦うもん。そんなんできひんやん、普通。

 

 

 

 

 やっと部活が終わり駐輪場を出ると、優子先輩がちょうど学校を出るところだった。

 

 「あら、お疲れ」

 

 「うす。お疲れ様です。中世古先輩と一緒じゃないんですね?」

 

 「なんか部長と残って、明日からの練習の話し合いするんだって」

 

 優子先輩と中世古先輩は途中まで帰りが一緒で、よく一緒に帰っている。とは言え、俺と優子先輩の方が途中まで同じである時間は長く、優子先輩の帰り道からすると中世古先輩と別れる場所は学校から家まで三分の一辺りなのだが、それでも優子先輩は中世古先輩と帰る時間が大切なようで、いつも部活が終わる頃になると今日一緒に帰れますかと声をかけていた。

 どんだけ中世古先輩のこと好きなんだよ。流石、中世古香織の親衛隊の隊長だけはある。

 

 「比企谷、鞄入れさせてー」

 

 「いや、だからもう入れてるんだよなー」

 

 二人で歩く帰り道。優子先輩の横に並んで歩いていると、歩幅が全く一緒だということに気がついた。

 

 「ふふ。62.5センチ、ちゃんとできてるじゃない」

 

 「そりゃ、あんだけ行進してたら嫌でも身体に染みつきますね」

 

 「ちゃんと練習してたってことよ。偉いわね、後輩」

 

 ふざけて先輩風を吹かせた様子でドヤ顔をしている優子先輩。香織先輩と話しているときは目をキラキラさせているし、さっきのパート練の時は汗をかきながら必死に吹いていたし、ころころと変わる表情は見ていて面白い。

 

 「それにしても今日の部活は、本当に疲れたわね。もうグラウンド何周したんだって感じよ」

 

 「滝先生に加えて、田中先輩も厳しいから休憩時間が足りなかったです。あと五時間くらい」

 

 「それじゃ今日の練習の半分以上休憩じゃない!でも平日は毎日練習して、今日は休日に部活じゃない?もし部活でサラリーマンみたいに給料出たら、結構な額もらえそうよね。今日なんて、休みの日に延長して練習したんだし。そう言えばこないだテレビで、休みの日は給料が増えるとか、八時間以上働くと給料が増えるとかって言って……」

 

 「はっ」

 

 「後輩に鼻で笑われた!?な、何よ!?」

 

 「世のサラリーマン達は法で定められた休日には、法で定められた労働時間って概念が存在しないから、法定の休日に働いても深夜まで働かなければ、どんなに残業しても時間外労働の割り増しの賃金は発生しないんですよ。あくまで休日労働の割増賃金のみです。そもそも、時間外労働で残業代が出るとも限らない。最近流行ってるらしいですよ、みなし管理職。労働時間、休日、休憩に関する法律の規定が適用されないから――」

 

 「ちょ、ちょっと待って!もういい、頭痛い!」

 

 優子先輩がこめかみを押さえながら俺を制止した。その後ろで通り過ぎていったサラリーマンが悲しそうな顔をしたのを俺は見逃していない。休日労働の帰りか。今日も一日お疲れ様でした。

 

 「あんた、なんでそんなに詳しく知ってるのよ?」

 

 「あれ、言ってませんでしたっけ?俺、将来は専業主夫志望なんですよ」

 

 「は?」

 

 「専業主夫たるもの、社会についての基礎知識と芸能界の浮気については抑えてないと近所の奥様方と接することができないじゃないですか。それに世のサラリーマンの働き方知ってると、余計に働きたくなくなるんですよね。それによって専業主夫になって立派なヒモになるっていう意思が固くなるから、まさに一石二鳥」

 

 「うわー。目だけじゃなくて、考え方も腐ってるわね」

 

 「だから働きたくないのは、俺が悪いんじゃない。社会が悪い」

 

 「未来、真っ暗…。でもそこが比企谷らしいか」

 

 「いや、さり気なく酷いこと言ってますから。でも部活も社会と似たようなところありますよね。色々」

 

 「そう?それなら比企谷の話聞いた後でも、私は少しだけ社会人に期待もてるかも。だって、今結構楽しいじゃない。休みの日とか残って練習とか、嫌なことも多いけどなんか部活してるなって」

 

 「ははっ」

 

 「また鼻で笑われた!?ちょっと何よ、あんた!」



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5

 それからも、くだらない話をしながら帰る下校道。サンフェスの話から、中世古先輩の衣装がとにかく可愛すぎて生きているのが辛いとか。それを割とコアなジャニオタ顔負けなレベルの中世古先輩のファンである優子先輩に思わず聞いてしまったのは、きっと俺の間違いだった。

 

 「あの、前から疑問に思ってたんですけど、どうして優子先輩ってそんなに中世古先輩のこと好きなんですか?確かにめちゃくちゃ美人ですけど、なんか先輩のそれは域を超えてるって言うか」

 

 「……比企谷」

 

 「は、はい。何でしょうか?」

 

 優子先輩から今まで感じたことがないプレッシャーを感じる。何これ、怖い。俺なんか変なこと言った?軽々しく美人とか言ったのが間違いだったのか。でも事実だし。

 

 「良く聞いてくれたわね!」

 

 「…は、はあ」

 

 「話すと長くなるわ!あそこの公園のベンチにでも座って話しましょう!」

 

 「えぇ!?い、いや、それはちょっと。俺、早く帰らないと、色々やることが…」

 

 「色々って?」

 

 「それはほら。マンガ読んだり、本読んだり、ゲームしたり…」

 

 「そんなのいつでもいいじゃん」

 

 「あと何より……妹の小町!そう、小町が待ってるから!」

 

 そう言えば今朝小町と会ったが、今日は練習が長かったからそのことがまるで遠い昔のように感じる。正に、小町レス。すぐに会いたい。

 

 「買い物とか頼まれてるわけじゃないんでしょう?家でソファーとかで横になりながら、ぐだぐだ話すだけじゃないの?」

 

 「ええ。まあ」

 

 「じゃあ家で妹と話すのも、私とここで話すのも一緒よね」

 

 「その理論はおかしい」

 

 なんとか反抗し真っ直ぐ家に帰ろうと思ったものの、ずるずると自転車を引っ張られ公園まで来てしまった。この公園は帰り道の途中だけど、寄り道に変わりはない。

 遊具がブランコと鉄棒しかない小さな公園は休日だというのに閑散としている。むしろ、休日だからこそなのか。俺たち以外に人はいなかった。

 

 「さて、比企谷。話をする前に疲れたから甘い物が飲みたいわ。あそこの自販機で午後の紅茶買ってきて」

 

 勿論ミルクティーね、とベンチにドサリと座った優子先輩に命令された。手には250円。

 くそ、このアマ。引っ張ってきたくせに飲み物買いに行かせるのかよ。でも俺の分のお金をくれているところは先輩らしくて優しい。

 

 「…はいはい。了解です」

 

 優子先輩からお金を受け取って自販機に向かう。先輩は全く気にしてなさそうだったけど、結構ああやってお金渡されたりするときに一瞬触れちゃう手とかに反応しちゃうんだよな。この気持ち、世の男子なら分かるはず…!

 それにしても疲れたから飲み物買ってきてって言われたけど、疲れてるなら帰ろうっていう選択肢が一番なんじゃ…。なんで公園に話しに来ちゃうわけ?

 自販機で缶ジュースを三本買って、先輩の元に戻る。砂糖入りの珈琲一本と午後ティー二本。優子先輩は午後ティーを受け取ると満足げに頷いた。

 

 「さんきゅー、比企谷」

 

 「いいえ。あとこれ」

 

 優子先輩の前に二百五十円を出す。いくら先輩でも飲み物を奢って貰うのは申し訳ない。それに先輩はじょ、じょじょ女子だし。

 あれ、思えば俺、こうして放課後女子と二人でどこかに寄ってくのって初めてだ。やべ、何か緊張してきた…!

 

 「いや、良いわよ。受け取って?」

 

 「…ほんと大丈夫なんで」

 

 「じゃあせめて私の分だけは受け取りなさい」

 

 優子先輩が俺の手から百円だけ取った。それでも残った百五十円ではお釣りがあるが、まあそのくらいは別に良いだろう。

 

 「ところで、どうして三本買ってきたの?」

 

 「これは妹の分です。基本的にうちはお茶と、せいぜい珈琲とか紅茶くらいであんまジュース置いてないんで。たまに買ってってやると喜ぶんですよ。あ、あと牛乳もあるか」

 

 「ふーん。ちゃんとお兄ちゃんしてるんだ。優しいのね」

 

 「そりゃ、千葉の兄妹はみんなそうですよ。最愛の妹を喜ばせるために生きてます」

 

 「いや、絶対千葉の兄妹普通そんなじゃないから。何か、優しいんだろうけど…度が過ぎてて、完全にシスコンの域ね」

 

 「でも、先輩の中世古先輩愛だって、同じようなもんでしょ?」

 

 「甘いわね。比企谷よりもっと大きいわ!」

 

 香織親衛隊の隊長の愛は家族愛さえも上回るのか。

 そんなはずないでしょう。俺の小町への愛をなめないで下さい、とは言わなかった。面倒くさくなりそうだから。

 

 「この部活の二年って、三年と今年入部してきた一年と比べて少ないと思わない?」

 

 「ああ。まあ言われてみれば確かに」

 

 「私たちの代が一年の時にね、やる気あった一年のほとんどが辞めてったのよ。滝先生が来る前の私たちの状態知ってるでしょ?去年までいた三年はカスばっかりだったから、練習しましょうって言ったら無視されるようになった。パートによってはいじめられた人もいるの。コンクールも練習なんてしてないのに、先輩達が思い出作りで出場してたし。思い出すと本当に胸くそ悪いわね」

 

 なるほど、これまでの違和感に色々と納得がいった。

 先輩の出身中学校は吹奏楽がそこそこ強い。そして、北宇治に多く入学したにも関わらず実力もやる気もなさ過ぎた。それを俺は入部前から見限って入らなかったのだと思っていたが、それは違ったのだ。

 

 「去年のトランペットのソロだって一番上手いのは香織先輩だったのに、三年生の先輩が吹いたし…ってこの話はもう良くて。私もね、中学の時一緒に頑張ってた友達が辞めようとしてて悩んでた時期があったの」

 

 「へえ」

 

 こないだは滝先生に合わないなら部活を辞めれば良い、といったら香織先輩に会えなくなるから絶対に辞めないと言っていたのに。優子先輩でもそう思ってた時があったのか。

 

 「でもね、たまたま香織先輩が一年生を無視するのを辞めて下さいって何回も、ずーっと三年に頭を下げてくれてるのを見ちゃってね。それどころか辞めようとしてる一年を引き留めるために、一人分でも出場枠を譲ろうと自分が辞退した。ずーっとみんなが練習しないでいる中でも一人だけ練習してたのに。私はそれが正しい事だったとは思わないけど。凄いでしょ、香織先輩」



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6

 優子先輩の目が遠いあの日を見るように細められる。

 俺が知らないいつかの日に記憶を馳せる先輩の横顔は綺麗で、俺は黙って見つめてしまっていた。

 

 「だから私は先輩が超絶世界一可愛いから大好きって訳じゃない!性格も含めて大好きなんだから!」

 

 「…そうなんですね。今の話聞いてて、ちょっと勘違いしてた事が解決しました」

 

 「え、何それ?」

 

 「初めて優子先輩と帰った日。先輩、滝先生が来て練習厳しくなったけど、去年のままで良かったって言ってたじゃないですか?あれって、部活がキツいの嫌だからとかじゃなかったんだなって」

 

 「…そうね。そういう訳ではない。今更ちゃんと練習するなんて部活を辞めてった友達に…。何だろう、合わせる顔がないって言うか」

 

 「……」

 

 「ねえ。比企谷だったらどうした?トランペット好きなんでしょ?きっと辞めなかったわよね?」

 

 「ええ。周りが練習しないからとかで辞めることはなかったですね、絶対に。でも、虐めとか無視はしらばっくれましたね」

 

 「…うん。私も同じ。トランペットが好きだし、香織先輩のお陰で残った。けど、ずっと辞めていく友達を見てみないふりをした」

 

 優子先輩が俯いた。長い髪でその表情は見えない。

 俺には答えられない。友達の定義は分からないが、これまで友達だと思った人はいないから。

 

 「なんかしんみりしちゃったね。ごめん」

 

 「いや、そんな」

 

 「それより今日は香織先輩の話よね?香織先輩の良いところ、他にもあるの」

 

 「え、まだあんの?俺もう帰りたい…」

 

 

 

 

 

 『ねえ、知ってる?』

 

 何、豆しば?

 ………じゃない!?

 

 『ねえ、知ってますぅ?』

 

 豆しばじゃなくて、小さい川島?いや。川島は元から小さいんだけど、そうじゃなくって、えぇっと…。

 

 『早起きは三文の徳って言いますけど、三文って今で言うと百円くらいの価値なんですよぉ』

 

 あ、ああ。豆しばらしいどうでもいい豆知識だ。

 確かに、三文役者って言葉があるもんな。あと三文小説とか。つまらないとか、下手くそって意味だから、要は三文とは微々たる価値のものってことだ。

 だけど、早起きが三文の価値しかなくたって、一年は365日あるんだぞ。塵も積もれば山となる。毎日こつこつ早起きを続けることが大切だ。わかったか?

 

 『そうですねー。みどり、反省しましたぁ』

 

 よし、良い子だ。じゃあもう一眠りしようか。お休み。サファイヤ。

 

 『違いますぅ、みどりですぅ。ふあぁ。お休みなさ……すぅ。すぅ…』

 

 子どもか!

 あぁ可愛いなぁ。すぐに寝ちゃったもん。さふぁしばと一緒なら、俺も良い夢が見れそうだ…。

 

 

 

 「じゃねえよ、ばかばか」

 

 危うく夢に出てきた豆しばの川島バージョン、通称さふぁしばに癒やされて眠ってしまうところだったが、今日はそんな悠長なことを言ってる場合じゃない。

 吹奏楽部のイベントや大会の当日の朝は早い。そして、吹奏楽男子にとって間違いなく一番の活躍の場である、楽器運搬という大仕事がある。

 楽器運搬とは名前の通りだが、会場に楽器を運ぶために、音楽室から楽器を持っていってトラックに積み込む仕事である。小さい楽器は自分で持って行けば良いが、大きい楽器はそうはいかない。大きい楽器は当然重いため、この作業をする度に俺はトランペットが好きになるのである。軽くて持ち運びが楽って大事。

 奴隷のようにこれ持ってー、あれ持ってーと言われても文句は言わない。吹奏楽部の男子は優しいからね。ペルソナシリーズだったら、優しさのパラメーターカンストしてる。

 

 「次、受け取れるか?」

 

 「はいよー」

 

 それにしてもまさか個人的に一番嫌な、トラックに乗って下から受け取った楽器を奥から詰めていく場所を担当することになるとは。このポジションはトラックの運転手がやってくれることがあったり、やってくれない場合でも、高校生はあまりトラックに乗る機会なんてないためこっそり人気のポジションである。

 だが、楽器を渡されるときに『ありがとう!…えーと、……あはは』みたいな反応をされるのが辛い。さっきいた確かオーボエ担当だった気がする、青みがかった長髪の二年生の先輩なんて、楽器渡して無表情のまま首かしげて行っちまったぞ。ああ言う、純粋かつ素朴な対応が一番傷つくと思うの。

 

 「ほい、次重いから気をつけろ」

 

 「はーい」

 

 楽器の運搬が落ち着いて、トラックの下から楽器を持ち上げるポジションを担っていた男子が振り向いた。茶色っぽい瞳は決して鋭くなく、優しそうな印象を受ける。身長が高く、細長い体つき。何となくトロンボーンっぽいイメージ。

 

 「お疲れ」

 

 「おう。お疲れさん」

 

 優しそうなのはいいが、あんまり馴れ馴れしく話しかけないで欲しい。友達だって勘違いしちゃうだろ。

 

 「ごめん。同じ一年だと思うんだけど、名前覚えてなくて。聞いて良いかな?」

 

 「……比企谷八幡」

 

 「比企谷か。変わってる名前だな。楽器は確か、トランペットだっけ?」

 

 「おう」

 

 「そっか。トランペットパートは女子のレベル高いからな。羨ましい。中世古先輩は勿論だけど、吉川先輩も高坂も人気だよな。二人とも、怖いけど…」

 

 人懐っこい笑顔はまだ高校生になったばかりで、どこか中学生らしさが抜けていない。

 それにしても、この二人を怖いと言い切った時に垣間見えた下っ端根性。何だろう。通ずるところがある気がする。

 

 「俺は塚本秀一って言うんだ。よろしくな」

 

 「…おう。よろしく」

 

 「楽器はトロンボーンやってる」

 

 「何となく似合ってる気がする」

 

 「え、そう?初めて言われた」

 

 嬉しそう。こいつ、もしかして普段からあんま褒められたりしないタイプか?そんな気がする。尚のことシンパシーを感じた。

 

 「中学の時まではホルン吹いてたんだよな。本当はトロンボーンが良かったんだけど、じゃんけんで負けてさ」

 

 「まあ、トロンボーンは人気だからな」

 

 「そうそう。比企谷は?」

 

 「俺はずっとトランペット一筋」

 

 「おお。あの人気楽器を勝ち取り続けてるのか。すごいな」

 

 「たまたまな」

 

 「いつ頃から吹いてんの?」

 

 「小学生の時から」

 

 「え!長いなー」

 

 そんな話をしていると、正面に重たそうにサクソフォンを持った、というか担いでいる少女が現れた。川島と仲が良い加藤だな。楽器決めの時に自己紹介されたからばっちり覚えてる。ぼっちは覚える容量が少ない分、キャパシティが有り余ってるから、基本一度名前を聞けば忘れない。ぼっちの良いところだ。

 

 「おい、大丈夫か?」

 

 塚本が加藤の元に駆けて行き、チューバを軽々しく持ち上げる。

 

 「…あ、ありがとう」

 

 あれれ。何だかあの子、恋が始まった瞬間みたいな顔をしているよ?恋愛経験皆無の僕の勘違いかな?

 塚本がチューバを持ってこちらに戻ってくる。その背中をぽーっと眺める加藤を見て思った。

 塚本とは仲良くなれない。死ね。



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7

 サンフェスの会場について、男女に分かれて着替えを済ませた男子一同は、着替えに時間が掛かる女子が来るのを待っていた。

 あー、やっぱりこの服、割と可愛目だから男子が着てると違和感あるんだよなー。塚本とかそわそわし過ぎだし。でもその様子になるのもよく分かる。なんか他校の生徒達に見られている気がして落ち着かない。

 会場には徐々に参加校が集まってきていた。その中から滝先生を探すがいない。おかしいな、さっきまでいたはずなんだけど。

 

 「ごめんね。お待たせ!」

 

 小笠原先輩の声が聞こえた方を見ると、赤黄青のカラフルな衣装に身を包まれた北宇治高校女性陣が集まってこちらに向かっていた。

 待ちに待った中世古先輩の衣装姿。うん。間違いない、優勝。その後ろには優子先輩がいる。

 

 「ん?何よ、じろじろ見て?」

 

 「あ、いや。なんでもないです」

 

 普段チャームポイントとも言えるリボンをつけている先輩が、髪を下ろしているところを見るのは初めてだ。優子先輩も可愛らしい容姿に衣装が似合っていて、そして何よりも髪を下ろしているという普段とは違うギャップに何か心打たれる物がある。

 今朝塚本が言っていたが、確かにトランペットパートはレベルが高い。中世古先輩に優子先輩。そして、高坂。三人とも、唇が薄いんだよな。それに歯並びが良い。

 トランペットは、唇が薄い方がマウスピースに息を吹き込みやすく、演奏しやすいと言うことが科学的にも認められている。歯並びも同様。とはいえ、俺はあまり信じていない。練習すれば解決できる問題のはず。

 少し待ち、やってきた松本先生の精神論を聞いていると、大慌てでこちらに滝先生が向かってくるのが見えた。

 

 「すいません。ちょっと、迷っちゃいました」

 

 息が上がっている。何だろう。普段、厳しい練習を受けているせいか、こうして疲れている様子の滝先生を見るのは、あまりないことで中々良い気分。

 

 「ええっと、私からは特に言うことはありません。皆さんの演奏、楽しみにしています」

 

 うーん、あんまりシャキッとしない挨拶。いつもこのくらいでいいんだけど。

 出発前の集合場所に移動し整列する。ついにサンフェスは始まり、一番最初の団体がグラウンドを出てマーチングを始めた。

 隣を見れば、白のブレザーに身を包み、黒のシャツに男子は赤のネクタイ、女子は赤のリボンとスタイリッシュに仕上がっている洛秋。吹奏楽も強豪校の全国的に有名な学校。

 『も』と言ったのは、他のスポーツも強いからである。バスケなんて全国大会の常連で、あの俺も大好きな大人気厨二病バスケマンガでは、ラスボスとして出てきた学校のモチーフであったりする。厨二病っぽいのに、キセキの世代、全員たまらないかっこよさなんだよなあ。全国の中学生高校生はみんなあのマンガに憧れて、『俺のシュートレンジはそんなに前ではないのだよ』とか言いながら、ハーフラインより後ろからのスリーポイント狙ったと思うのだよ。

 そしてもう片方には。

 

 「うおお。すげえ立華だ」

 

 何だか感心してしまう。画面越しに見ていた高校マーチング界のスター集団が今、俺の隣にいる。

 こうして並んでみると、水色の悪魔と呼ばれるような恐ろしさは感じない。やっぱり自分たちと同じ高校生なんだなと感じた。だが競技が始まった瞬間に、笑顔のまま独創的な振り付けで動き回るというのだからやはり恐ろしい。マーチングをしっかり練習してそれがどれだけ凄いことなのかがわかった。今日、この会場において彼ら以上のマーチングを披露する学校はないだろう。

 

 「いてっ」

 

 「ちょっと。何感心してんのよ」

 

 後ろにいた優子先輩に小突かれた。優子先輩の方を向くと同時に、立華高校がスタートラインに移動し始める。ああ、行かないで。もっと見ていたい。

 

 『次、立華高校だって。それで一個挟んで洛秋でしょ?』

 『挟まれたとこ、可愛そうだよなあ』

 『逆に目立っていいんじゃね?』

 

 どこからかそんな声が聞こえてきた。

 あー、わかるわー。ほんと可愛そうだよなあ。北宇治って高校らしいけど。マジでどこって感じだし、きっと洛秋と立華ってやっぱ違うよなとか言われて比べられるんだろうなー。

 でも俺はそんなこと気にしない。可愛そうな子扱いされるのも、期待なんてされないのも慣れている。

 ただ、後ろにいる先輩は違うみたいだった。手にはぎゅっとトランペットが握られ、緊張からかいつもより表情が固い。

 

 「ん?どうかした?」

 

 「緊張してるんですか?」

 

 『続きまして、立華高校吹奏楽部です』

 

 アナウンスがかかった瞬間に会場が今までにない歓声に包まれた。歓声の中、高らかにラッパの音が響き渡る。立華の圧倒的な人気と技術の前に俺たちは完全に雰囲気に飲まれてしまっている。

 

 『何これ、凄すぎでしょ』

 『全く外さない…』

 『何か自信がなくなってきた!』

 

 「……はあ。そんな不安そうにしなくても大丈夫じゃないですか?」

 

 「え?」

 

 「あの粘着悪魔に自分達がちゃんとやってるんだって見せつけてやるって言ってたじゃないですか?そんなんじゃ、思うような演奏できませんよ?」

 

 「う、うるさい!そんなことわかってるし!」

 

 「そうだよ、優子ちゃん。深呼吸して」

 

 「あ!は、はい香織先輩!」

 

 俯いている優子先輩の負けず嫌いな性格に火をつけようとしたが、それでも未だ緊張は拭えないようだ。中世古先輩は案外肝が据わっているからか平気そうで、優子先輩含め、トランペットパートのフォローをしていた。

 俺たちはいつも通りでいい。変に肩を張るのは疲れてしまうから。そして、いつも通りの演奏で十分と言えるような練習を、少なくとも今年に入ってからはしてきたはずだ。

 おどおどとする部長。ざわざわとする部員達。

 だけど、もう三度目か。やっぱりこんな時でさえ、彼女の音が俺たちを動かした。

 響き渡るトランペットの音。全員が見つめる先にいるのは高坂だ。

 

 「あ。バカ、高坂何音出してるのよ?ここ来たら音出し禁止って言われたでしょう?」

 

 「……すみません」

 

 一応は謝罪したものの、全く反省していない様子。だが、ナイスだと思う。部員達の表情に笑顔が戻った。



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8

 『続きまして、北宇治高校吹奏楽部です』

 

 アナウンスと共に、俺たちの前で靴紐を結んでいた滝先生がゆっくりと立ち上がった。

 

 「本来、音楽とはライバルに己の実力を見せつけるためにあるものではありません。ですが今ここにいる多くの他校の生徒や観客は、未だ北宇治の実力を知りません。ですから今日はそれを知って貰う良い機会だと、先生は思います」

 

 俺たちに向かって微笑む滝先生。その手がスタート地点へと向けられる。

 

 「さあ。北宇治の実力見せつけてきなさい!」

 

 「「「……はい!」」」

 

 相変わらず、乗せるのが上手い。

 だが、その通りだ。洛秋と立華に挟まれていることなんて関係ない。俺達の演奏を伝え、実力を見せつける。緊張なんてしなくていい。ただそれだけでいいのだ。

 田中先輩がホイッスルを吹き、シンバルを叩く。

 行進は左足から。歩幅は大丈夫。もう何度も練習してきた!

 マーチングが始まった瞬間に、スタート付近にいた観客が俺たちに視線を向けたことに気がついた。立華に奪われていた視線と興味をこちらに向けさせる。そして、後に続く洛秋の演奏の後でも忘れないような印象づけられるマーチングを。

 

 『あれ、かっこいいね』

 『結構上手いじゃん』

 『どこだっけ、ここ?』

 

 観客の驚愕の声はモチべーションになった。立華や後に続く洛秋が浴びるような歓声ではないけれど、今の俺たちが求めている物は彼らと同じではない。

 笑顔で手を振る田中先輩が見える。それと引き替えに演奏には疲れが見えていた。きっと表情には疲れが垣間見えているだろう。

 それでも全力で吹く。この脚と演奏は止まらないし、妥協もしない。

 

 『へえ、やるなあ』

 『おい、みたかドラムメジャー すごい美人じゃね?』

 

 半分に差し掛かったかというところまで来ても、俺たちへの驚きの声は続いていた。

 

 『知ってるこの高校?』

 『知らない。調べてみよ……。嘘、北宇治?』

 『こんなにうまかったっけ』

 『へえ北宇治ねえ』

 

 今年の北宇治は違うという印象は十分に与えられただろうか。本番と言うこともあり、最初から飛ばしすぎたせいか割と限界に近い。もうきついかも。

 

 「お兄ちゃーん、頑張れー!」

 

 そんな時、聞き慣れた高い声が聞こえてきた。

 ちらりと見れば、そこには飼い猫のかまくらを抱えた小町がいる。

 こら。外はウイルスとか感染症になる危険があるから、あんま外出しちゃダメって言ってるでしょ。それにかまくらは家大好きだから、外出たがらないし。

 でも楽しそうに俺に向かって手を振る小町と、その小町の腕の中で相変わらず気怠そうに目を細めているかまくらを見て少し元気が出た。

 ゴールまでは残りわずか。らしくないけど、最愛の妹が応援してくれてるのなら仕方ないから頑張ろう。

 

 

 

 

 

 「お。お疲れさん」

 

 「……ああ。お疲れ」

 

 帰りのバス。一人で窓際の席に座っていると、隣に腰をかけたのは今朝の楽器運搬で話した塚本だった。

 周りにはすでに目を閉じて寝ている人もいる。みんな今日まで気を張っていたし、身体的にも疲れたのだろう。

 

 「俺たちの演奏、どうだったんだろうな?ちゃんと周りの学校ぎゃふんと言わせるような演奏できたのかな?」

 

 「さあな。でも見てた観客は驚いていた人が多かったんじゃないの。今年の北宇治はいつもと違うって聞こえてきたし」

 

 「そっか。吹くのに必死で、あんま周りの声を聞いてる余裕がなかった」

 

 なら練習した甲斐もあったのかな、なんて口角を緩める塚本。こういうへにゃりとした表情は異性からは好感が持たれるとは良くテレビで見るが、俺は何だか毒気が抜かれた。

 

 「それに、俺の妹も北宇治凄いって感心してた」

 

 「へえ。妹見に来てくれてたんだな。似てるの?」

 

 「いや全然全くこれっぽっちも」

 

 「そんなに否定するほど似てないのか……」

 

 「特に、目はな……」

 

 「ああ……。それは妹さん、よかったな」

 

 そんな話をしているとバスが出発した。俺たちはこれから北宇治に帰り、また練習付けの日々が待っている。

 次に控えるのはいよいよコンクールだ。

 

 「きっとコンクールも、一筋縄では行かないんだろうな」

 

 「そりゃそうだろ。お前だって、中学校から吹奏楽部だったなら知ってるだろ?大体、コンクール前のメンバー選考はどろどろするもん。そうでなくっちゃ吹奏楽部じゃないまである」

 

 「ああ、わかる。嫌だなー……」

 

 塚本の顔が急に老けたように見える。どこの中学高校であれ、コンクール前のメンバー選考の陰湿な雰囲気はまるで、夏を飛ばして秋になるかのよう。そしてその次には秋を飛ばして冬のような冷たい人間関係が構築される。大分早くて長い冬の訪れである。

 

 「でもさ、もっと上手くなって……全国、行きたいよな」

 

 全国に行きたい。

 高坂がいつか言っていた言葉。特別になりたいと願う彼女が口にしたそれを、また一人口にした者がいる。

 部内が変わり始めている。近い立場にいるからか、そんな事にも気がついていなかった。俺は一体、どうだろう?目を瞑ると頭をよぎる中学生の頃の記憶。それを忘れたくて、返事もせずに俺は眠ることにした。



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9

サンフェスの余韻に浸る間もなく、俺たちを待ち受けていたのは中間試験だった。高校の最初の中間試験なんて、中学生でやったことの振り返りが多くて簡単だろう。そんな幻想は淡く崩れ去ったテスト期間中。なんで高校に入った瞬間からこんな難しくなっちゃうの?

だが結果はと言うと、国語の成績……学年一位。しかも、ほとんど勉強してないのに。

誰に言うわけでもなく、一人ガッツポーズをする。

何かが特筆してできるというのはいいことだ。サッカー選手はサッカーができれば、頭が悪くてもサッカーで活躍すればいい。運動ができなくても、何かを研究することが好きならば、研究者になればいい。長所があることには価値はあり、長所を伸ばすことには意味があるのだ。

だから数学の成績が赤点ギリ回避ってくらい悪くったっていい。国語があれば、それでいいんだ!

そして、中間試験が終われば、いよいよ吹奏楽部はコンクールに向けての練習が待っていた。

 

 

 

「さて、それではこれからコンクールに向けてのスケジュールを配ります。部長」

 

「はい。前から後ろに回していって」

 

コンクールとは、吹奏楽部における最も大きな大会であり、野球における甲子園のようなものだ。

俺たちが目標にしている全国大会出場の目標。北宇治高校は府大会、関西大会とそれぞれのステージで代表に選ばれれば、全国大会まで進出することができる。

代表に選ばれるためには良い成績から順に、金賞、銀賞、銅賞と分けられる中で金賞に選ばれる必要がある。しかしコンクールで金賞を受賞すれば代表になれる訳ではない。代表は各地域毎に枠の数が決められていて、金賞の中でも代表になれないとダメ金と呼ばれる。京都は金賞の中から三校が関西大会に勧めるらしい。

しかし、ここ十年の結果はというと、府大会敗退。しかも銅賞という、最も輝かしい記録の全国大会金賞とは真逆のトップオブルーザー。全国大会には最も遠い立ち位置である。

そんな負け犬の練習量とはかけ離れているような濃密なスケジュール。

 

「さて、ここからが重要な話なのですが、今年の出場メンバーはオーディションをして決めたいと思います」

 

ざわざわと、音楽室が動揺に包まれた。

後になって思えば、滝先生のこの言葉に、間違いなく一番影響を受けたのはトランペットパートだと宣言する。

だが、そんなことはつゆ知らず、俺の心臓がドキリと鳴った。

それは期待からか、それとも不満からか。

 

『私たち、頑張ったのにね』

『うん。高校行っても一緒にやってさ。次こそは千葉突破しよ…!』

『あーあ。やっぱりダメだったかあ』

『でもま、しょうがないべ』

 

……いや、きっと怖いからだったのだと思う。

涙を流す同じ中学の奴ら。仕方なかったと笑い合う同じ中学の奴ら。

反応はそれぞれだった。こいつら全員、このコンクールに向けて、必死にやってきてた訳じゃない。それなのに。

端の席に一人座ってそれを見ていた俺は、一体どんな顔をしていただろうか。

 

『…うっ……三年間、頑張っていて良かった。だけど、悔しいなあ……負けるのって、悔しい…』

 

『……』

 

「……比企谷?」

 

隣を見ると、手に京都府大会についての詳細が書かれた紙を持って高坂が呼んでいた。

 

「……悪い、ぼーっとしてたか?」

 

「うん。早く取って」

 

上手ければ、コンクールに出られる。それは魅力的なようにも思えたが、同時に怖くもあって、怖さの方が増していた。

 

「ん?どうしたの?」

 

「…いや、何でもない」

 

「何かあったの?なんか変じゃない?」

 

きっと、高坂はそんなことこれぽっちも思ってないだろうな。こいつ、自分の演奏にすげえ自信持ってるし。何より、その自信に見合うだけの技術を持っている。

 

「先生、オーディションって…」

 

「私が一人一人、皆さんの演奏を聴いて、ソロパートも含め、大会に出るメンバーと編成を決めるということです」

 

A部門として大会に出場する人数は最大で55人。それ以外のメンバーはA部門には出場せず、府大会で終わるB部門に出場することになる。

例え一人しかいない楽器でも、先生が求めるレベルでなければ落とすし、人数が多くても、当然曲や他の楽器との編成のバランスであまり使ってもらえないかも知れない。

トランペットが選ばれるのはおそらく五人か六人くらいだろうか。

 

「待って下さい。北宇治では例年、上級生が優先して出場しているんですよ?」

 

「そんなに、難しく考えなくても大丈夫ですよ。三年生が一年生よりも上手ければ良いと言うだけのことです。もっとも、皆さんの中に、一年生よりも下手だけど、大会には出たいという上級生がいるのなら話は別ですが」

 

粘着イケメン悪魔、というあだ名にふさわしい意地悪な解答。

ここまで滝先生が来てからずっとそうだった。結果を出すために何に対しても妥協しない。練習がそうであったように、メンバーを選ぶのだって、妥協できるわけがない。誰も反論できる人なんているわけでもなく、俺たちは練習を始めることになった。



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10

「ねえ、前も聞いたけど比企谷ってさ、中学生の時はコンクール出てなかったんだよね?」

 

基礎練習の一環としてトランペットパートで音を合わせ、さて今から個別に練習しようとなった時に、優子先輩に声をかけられた。

後ろにはちらちらと、俺を見ている二年生と三年生。練習中は優子先輩と中世古先輩とはたまに話すが、他の上級生と話すことは事務的な内容以外ほとんどない。だから、俺と話す事が多い優子先輩が他の上級生達に聞いて欲しいとねだられた、といったところだろうと予想する。

 

「そうですね。一回も出たことなかったです」

 

「なんで?」

 

「いや、何でって…」

 

「だって、やっぱあんた上手いじゃない?そんなに上手いのに、大会に出てなかったっておかしいと思う」

 

「いや、そんなことないですよ」

 

「そんなことあるわよ。しかも弱い学校だったって言ってたわよね?それなら尚納得いかない」

 

「そうやって褒めて煽てて、どんどん高みに持ち上げることで足下を掬いやすくして、高所から叩き落とすつもりでしょ?あいつ、ちょっと上手いからって調子乗ってないって?人はそれを褒め殺しと言う」

 

「は?」

 

教室を支配する、何言ってんだこいつ、という空気感。優子先輩が俺をじとっと睨み付ける。その横では中世古先輩が少しだけ引いていた。やめてー。そんな目で見ないでー。

そんな中で高坂だけがくすくすと、面白そうに笑っている。よかった。笑ってくれる人がいて。この視線に晒されて、沈黙にまで支配されたら逃げ出した過ぎて、この教室の窓から飛び出るところだった。

 

「あのね、私真面目に聞いてるんだけど?」

 

「だから俺も真面目に答えてます。大体、そんなこと聞くことなくないですか?俺が前いた中学校で認められなかったから、コンクールメンバーに選ばれなかった。それだけです」

 

「でも…」

 

「わかりました。正直に言います。俺がいた中学は去年までの北宇治と同じで、先輩が優先的に出場して、一年生や初心者は基本出ませんでしたし、学年が上がっていっても、周りの方が上手かったから評価されなくて、出れなかったんです。これでいいですよね?それじゃ、俺、練習行きますね」

 

「あ、ちょっと待ってよ」

 

普段は興味をもたれないどころか、教室にいるのか認識されているのかも怪しい俺が、こんな目に遭ったのも理由は明確だ。オーディションの話があったから、敵の情報が一つでも多く欲しいのだ。

コンクールのメンバー選びにおいて、同じ楽器を選んだライバルの情報は非常に重要だ。相手のことを知り、自分よりも劣っているところがあれば、自信に繋がることがある。反対に、経験の長さなど、叶わないと諦めてしまえば、メンバーに入れなかったときに自分を納得させるための言い訳にもなる。もしくは、それでも気が弱そうなやつだと思えば、私はあなたより上級生だからどうしても出たいのだと、脅迫にも使えることがあるかもしれない。

そう。すでにメンバーを選ぶためのオーディションの前に戦いは始まっているのだ。選ばれるのは、演奏が上手いやつではない。強いやつである。これ、割と吹奏楽部あるあるです。

優子先輩の声を背中に、教室を出る。誰しもがやったことのある、かの有名なポケットにモンスターを入れるゲームだって、敵と対峙したときの選択肢は四つ。『たたかう』、『どうぐ』、『ポケモン』、『にげる』。八幡は逃げ出した。

 

 

 

「ねえ。待ってよ」

 

教室を出ると、すぐに凜とした声に呼び止められた。見なくてもわかる。この声は高坂だ。

 

「何?まだなんかあんの?」

 

「いや別に、私も外で練習するから、折角だし一緒に行こうかなって」

 

「……俺と?」

 

「比企谷以外、誰がいるの?」

 

お、おおお、おい。高校入ってから初めて練習に誘われたぞ。そりゃ、パート練とか合奏練で声かけられたことはあったけど、個人的な練習で。しかも、あの高坂に。

そんなことはないと信じたいが、何か裏があるのかもしれない。女子に誘われたときはドッキリに警戒。どんなに嬉しくて心が叫びたがってても、油断はしない。そうだ、八幡。ここは努めて冷静に対応する場面だ。

 

「え?別に一緒に練習する必要なくね?……いや、したいならね。うん。全然構わないっていうか、うん。あれだけど」

 

「うん。別に一緒に練習しよう何て言ってないでしょ?ただ、途中まで一緒に行こうとしただけ」

 

いや、その誘い方は狡いじゃん。絶対男騙そうとしたじゃん。

 

「私、誘うときはちゃんと誘うから。ハッキリしないのって良くないと思う」

 

「……だよなー」

 

高坂に付いていく形でどこかに向かっていく。これじゃあ、どちらが一緒に行こうと言った立場かわからない。肩を下げて歩いている俺の姿を端から見れば、練習を二人でしようと言ったが断られて、せめてもと付いて行っているしょぼんとした男にしか見えないだろう。

そもそも外に出たはいいが、俺は普段教室で練習しているので、どこで練習しようなんて思っていたわけではない。行き先は本当に高坂に任せてしまおう。人がいない場所を知っているだろうし、そこで高坂と少し離れた場所で練習すれば構わない。

 



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11

 「それにしても良かったね。滝先生で」

 

 「は?何のことだ?」

 

 生憎だが、滝先生には『あぁ、もうだめぇ!それ以上されたら、八幡死んじゃうのおぉー!』と、思わず声に出してしまいそうな練習をやらされてばかりで、良かったと思ったことなんて思ったことほとんどないんだが。しかもイケメンだし。美形滅ぶべし。

 

 「オーディション。実力で決めてくれるって」

 

 「ああ。そのことか」

 

 「そう。今年は出られるでしょ、コンクール」

 

 高坂が立ち止まって後ろを歩いていた俺を見つめた。

 毎日同じ教室で授業を受けているが、こうして目を合わせて会話することはないし、部活でもせいぜい挨拶くらいしかしないので何だか新鮮だ。

 

 「いや、分からんだろ」

 

 「そう?普段練習してれば、ある程度の上手さはわかるじゃん」

 

 確かに、高坂が言っていることは分からなくはない。

 一番上手いのは高坂。これは間違いない。

 そして次は中世古先輩、優子先輩の順だろう。優子先輩は強豪校だった中学から来ただけの実力を持っているが、中世古先輩の方が安定して高音を出せるし、力強い優子先輩の演奏と比べて音が綺麗だと思う。

 俺はこの三人には技術的に敵わないと思っている。だが、他のメンバーとはやはり経験の差がある。かれこれ小学生の頃から吹いているのだ。触れてきた時間はやはりものを言う。

 だけれど。

 

 「オーディションでちゃんと吹けるかわからないだろう?誰もが自分の演奏に自信を持ってる訳じゃない。自信がないからその分、他の奴らより多く練習して。そういうやつほど案外、オーディションだろうがコンクールだろうが、本番って言えるような場面で力んで思ったように演奏できないもんだ」

 

 「それでも、比企谷はあんま緊張するようなタイプじゃないでしょ?サンフェスの時だって優子先輩は結構緊張してたのに、比企谷は平気そうだった」

 

 「そんなことねえよ。買い被りすぎだ」

 

 つうか、意外と高坂も周りを見てるんだな。自分の演奏が全てで、部員達の事なんて我関せずだと思っていた。

 

 「そう。私は良かったけどな。滝先生が来てくれて。だって嫌じゃない?」

 

 「……」

 

 「自分の方が上手いのに、練習もしていない先輩達にコンクールの出場権取られるなんて。おかし……」

 

 「勘違いしているみたいだからはっきり言っておくが」

 

 高坂の言葉を強引に遮る。中庭にいる俺たち二人。俺より数段上にいる高坂は日向にいるのに、俺がいるところは日陰。その明暗の違いは境界線のようだ。同じ所にいるのに違うところにいるような感覚にさせられる。

 

 「俺は先輩達が優先的に出ることに反対じゃねえよ。日本に蔓延る考え方の年功序列。長く勤続すれば、勤続したことが評価される。技術がなくたって最低限の評価がされ、そのために嫌でも長く続けようと帰属意識が産まれる」

 

 「急だね。何でそんな話するの?」

 

 「部活だって同じようなもんだから。その帰属意識は連帯感を産む。ノルマ制にした方が企業は競争意識が明確になって、より利益をあげることに繋がるかも知れない。そうせずに年齢という枠でその差を最小限に留めるのは、辞めさせようとしないためであったり、年齢という基準を設けて評価をしやすくすることで人間関係の亀裂を抑えるためだったりする。この部活だって吹奏楽部にいた年数を評価して、先輩達が優先して出場させることで、人間関係的な面だったり色んなバランスを保ってきた」

 

 「だけど全国に行くためには、そんなことよりも演奏が最重要。そんなことどうでもいい」

 

 「どうでもいいなんて事はないんだよ。お前のそれは理想論だ。実際は実力だけじゃなくて、他にも見なくてはいけない部分がある。そうじゃなくちゃ成り立たない。どこかで綻んで、いずれは大きな穴になる」

 

 「……ふーん。じゃあ、あんたはコンクール出たくないんだ」

 

 「………」

 

 真っ直ぐに見つめられる。ただ見られているだけのはずなのに、どこか睨まれているようにも感じてしまう。

 俺は……。答えようとした瞬間に、声がかけられた。

 

 「ごめん、高坂さん。ちょっといいかな?」

 

 「……うん。何?」

 

 「チューバのソフトケースってあるかな?葉月ちゃんが家でも練習したいみたいで、楽器管理係なら知ってるかなーって…」

 

 「ちょっと待って。調べてみる」

 

 栗色の髪をした割と地味な一年。練習の時に川島と加藤と一緒にいることが多いイメージ。くそっ。いつもいつも川島と一緒にいられるとか超羨ましい。

 何だか話の腰を折られてしまったようだが、これで良かったのかもしれない。無意識のうちに少し熱くなっていたからか、余計なことを言いそうになった。男は寡黙であった方がかっこいい。

 

 「一つだけあった」

 

 「ホント?」

 

 「持ち帰るなら、今書いておくね」

 

 「うん。ありがとう。二人で個人練してるの?」

 

 待っている間、黄色の大きな目で俺の方をちらちらと見ている。こういう時のなんとも言えない気まずさは、もはや言葉を作った方が良いレベル。互いの共通の知り合いは一人だけでそいつを経由しないと会話できない見たいな。しかも今回の場合、互いに挟まれているのが高坂というのがまた何とも……うん。



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12

 「ううん。そういう訳じゃない。ただ、トランペットはソロもあるから一人で練習しようかなって」

 

 「え、ソロやるつもりなの?」

 

 意外だけど、意外じゃない。高坂は絶対にソロをやるつもりだと何となく分かっていた。

 だが、他の奴らからすれば当然意外であろう。なぜならうちのパートには中世古先輩がいる。例年、上級生がやっているからとかではなく、実力的に見ても中世古先輩がソロを吹くと考えている部員が大半のはずだ。

 

 「わからないけど、滝先生。ソロもオーディションで決めるって言ってたでしょ?」

 

 「……そっか」

 

 話していると、渡り廊下からトランペットのソロの音色が聞こえてきた。そちらを見れば、中世古先輩が一人で練習をしている。

 コンクールで吹く曲は課題曲、自由曲の二種類である。課題曲は指定されている五曲の中から一曲、自由曲は名前の通りそれぞれの学校で自由に決めることができる。

 今回、俺たちが吹く自由曲は『三日月の舞』。

 一度聞いてみたが、どの楽器を見ても高校生レベルから見たら難しいように思える。

 トランペットは音域の幅が大きく、変則的なリズムも多い。木管も忙しく、低音は部分的にメロディが多くアクセントをつける箇所が多い印象だ。

 だが、何と言っても最大の見せ場はトランペットソロ。難易度がべらぼうに高く、綺麗に聞かせるのはそれ相応の技術が必要なこのソロは曲全体の七分の一を占め、ここの出来次第で曲の完成度は大きく変わってくると言っても過言ではない。

 だがこうして聞いていると、中世古先輩は吹くことさえ難しいソロ部分をすでにほとんど吹けてしまっているようだ。

 

 「上手だねえ」

 

 「先輩の中ではね。ハイトーンも綺麗に出せるし」

 

 おいおい。すげえ、上から目線だな。

 高坂を見つめる瞳が驚いた様に開かれていたが、高坂の一言を聞いて、茶髪のくせっ毛は少しだけ微笑んだ

 

 「高坂さんらしいね」

 

 「……仕返し?」

 

 「うーん……。そうかも。ケースありがとう」

 

 走って校舎に戻っていく少女を見ている高坂の頬は少し恥ずかしそうに赤くなっていて、その背中に声をかけたそうに少しだけもごもごと動かしていた。

 何というか、甘酸っぱい。いいですね、女の子同士の青春って。ごちそうさまです。

 

 「お前、あいつと仲良いの?確か、前も追いかけてた事あったよな?」

 

 どの位前だったかはもう覚えていないが、楽器室で見かけて高坂は話があるんだと言って追いかけていた女子。思い返せば、確かあの子だった気がする。

 

 「いや、そんな特別仲が良いって訳じゃ……ない。ただ同じ中学だっただけ」

 

 「……ふーん。そう」

 

 全然、そんなことなさそうな反応してないんだよなあ。絶対なんかある。だって、目がうるうるしてるもん。

 高坂はこれで話はおしまいとばかりにトランペットを構えた。

 もう俺の方には目もくれない。こういうところも高坂さんらしいよね。

 俺も離れて練習をしよう。高坂のソロパートを吹く音は離れていても聞こえてきた。

 

 

 

 

 「あ、やっと来た」

 

 自転車を引いて校門まで行くと、優子先輩に声をかけられた。

 

 「お疲れ様です」

 

 「うん。お疲れ。結構待ったんですけど?」

 

 「いや、待っててなんて言ってないんですけど」

 

 「先輩を待たせるのは感心しないから。はい、罰ゲーム」

 

 優子先輩が自転車の籠を指さした。それを見て俺は鞄を動かして、もう一つ鞄を置けるスペースを作る。いつも帰る時は罰とかにしなくても、鞄入れてくるくせに。

 

 「今日の練習はどこでやってたの?」

 

 「中庭でやってました」

 

 「高坂と一緒に?」

 

 「いや、高坂とは別で。近いと邪魔かなと思ったんで、少し離れたところで吹いてました」

 

 「ふーん。そうなんだ」

 

 全然興味なさそうなんだよなあ。今の質問、必要あった?

 

 「オーディションまだまだ先だけど、うちのパートからは誰が選ばれるかしらね?」

 

 「さあ。そんなの滝先生のみぞ知るって話でしょ?」

 

 「今年の課題曲、トランペットパート難しいからなあ。ソロは聞いた瞬間、誰が吹けるのよって思ったくらいだけど、他の演奏部分もまあハードルが高いわ」

 

 「そうですね。トランペット以外も大変そうですね。オーボエとユーフォのソロとかも目立つし」

 

 「それに木管も、体力勝負ってくらいずっと吹いてるみたい。譜面見せて貰って、ビックリしちゃった」

 

 「音が揃わないと全体的にふわっとしそうですし、曲選びが滝先生らしいですよね」

 

 「あはは。そうだね。意地悪」

 

 あの先生は全国にまで行くためには、このレベルが吹けないと行けないことを知っている。だって、そうじゃなくちゃこんなに難易度が高い曲を吹かせようとするはずがない。はっきり言って、今この曲は俺たちの実力には到底見合った曲ではないことが明白だ。

そいや、さっき高坂と似たような話をしたな。

 

 「優子先輩はオーディションで選ばれる自信ありますか?」

 

 「うーん。自信があるかと言われるとなんとも言えないわね」

 

 「へえ。なんかもっとここはバッサリ、絶対選ばれるみたいに言うと思ってました」

 

 「そんな自信あるわけじゃないわよ。トランペットパートは経験者が多くて、競争も激しいだろうし。だけど、絶対に出たい」

 

 ああ。自信家ではないけれど、勝ち気なところがとても優子先輩らしい。

 勿論、勝ち気な性格だけでなくて、トランペットの技術的に見てもだが、優子先輩は必ずコンクールメンバーに選ばれる。その予想はきっと間違ってないはずだ。

 

 「でもね、比企谷。私はあんたにも出て欲しいなって。上手いのに勿体ないじゃない」

 

 「そんなことないですから。それにさっき高坂にも話したんですけど、俺は先輩が優先して出場するべきって考え方ですよ。それで部活の雰囲気が悪くなるくらいならね」

 

 「うわ。そんな他人を気遣うことできたのね」

 

 「失礼な。むしろ俺より気遣って生活してるやつ早々いないですから。教室でも話すことはおろか、いるだけで『あ、待って。ほら、そこに座ってるそいつ。聞いてるかも知れないからあっちで話そう』って事がないように極力教室にいないようにしてます」

 

 「なにそれ。悲しいんだけど」

 

 「気遣いって嫌ですよね。気遣いして見返りは求めないのに、気遣いしないと仕返しは返って来るとか、ほんと理不尽」

 

 「……ねえ。さっきもさ、そうやって訳わかんないこと言ってはぐらかしたけど、中学の時の話、ちゃんと教えてよ」

 

 「いや、だからさっき言ったとおりですって」

 

 「私、どうしても納得いかないの。なんか上手く説明できないんだけど、初めて聞いた時からあんたの演奏って……」

 

 「おーい!二人とも待って!」



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13

 何か意を決したように話そうとしていた優子先輩の話を遮ったのは、いつの間にか後ろにいた中世古先輩だ。

 

 「あ……、香織先輩」

 

 「……お疲れ様です」

 

 「うん、お疲れー。学校出たら二人が歩いてるの見えて追いかけて来ちゃった。一緒に帰ろうよ?」

 

 優子先輩は普段なら『え、えぇー!香織先輩から追いかけてきてくれるとか優しすぎます。マジエンジェル!はあぁーん……。また、香織先輩の優しさに惚れ直しちゃいました……。こんなやつ置いて二人で帰りましょう!』くらい言いそうなものなのに、話そうとしていた話が話だったからか、気まずそうな様子をしている。

 そんな優子先輩の何とも言えない表情に気がついた中世古先輩は首をかしげた。

 

 「あれ、もしかして迷惑だったかな?」

 

 「いえ、そんなことはないんですけど……」

 

 「大した話してなかったんで、一緒に帰りましょう」

 

 「う、うん」

 

 並んで歩いていた俺の隣に中世古先輩が来る。両手に花。何話せば良いかわかんないんだけど。このままじゃ折角の花が枯れちゃうわ。

 部活で一緒にいることの多い二人が話しやすいように一歩下がる。ほら。俺って気を使える後輩でしょ?

 

 「比企谷君と一緒に帰るのって、初めてだね」

 

 「はい」

 

 「私ね、前に途中まで帰り道が同じって聞いてたから一緒に帰りたいなって思ってたんだ。比企谷君、パート練の教室だとあんまり話さないし、落ち着いて話せれば良いなって」

 

 「ふ、ふーん。そそそそうだったんですね」

 

 「あんた、すごい気持ち悪い顔してるわよ?」

 

 「ぐっ……」

 

 こんなの男子なら誰でも言われたら、裸とか盗んだバイクとかで走り出しちゃうくらい嬉しいに決まってる。

 

 「ま、気持ちはわかるけどね。男子なら誰でもこんなこと言われたら、裸とか盗んだバイクとかで走り出しちゃうくらい嬉しいに決まってる、とか考えてるんでしょ?」

 

 「何でそんなに詳細に分かっちゃうの?エスパー?」

 

 「何でもは分からないわよ。香織先輩のことだけ」

 

 何それ、怖い。超怖い。

 何でも知ってる某学級委員長みたいな感じで言ってるけど、中世古先輩、そんなちょっと照れながら『もう。何言ってるの優子ちゃん』なんて可愛らしく言ってる場合じゃないから。もっと全力で引いても良いくらいだから!

 

 「あ、私チョコレート鞄に入ってるんだった。はい、一個ずつ」

 

 「良いんですか。ありがとございます香織先輩」

 

 「気にしないで。比企谷君は甘いの平気?」

 

 「は、はい。むしろ好物です」

 

 「そうなんだ。男の子って甘いのあんま好きじゃない人もいるけど」

 

 「いえ、むしろこれにこってり甘い珈琲が欲しいくらいです」

 

 「そこは苦めの珈琲じゃないんだね?」

 

 「なんか比企谷曰くマックスコーヒーっていう甘い飲み物が千葉にはあったんですって。千葉の……うん?千葉県民の……あれ、何だっけ?」

 

 「千葉県民のソウルドリンクです。千葉の子ども達はお母さんの母乳の次に口にするのはマックスコーヒーとまで言われています」

 

 「あはは。絶対嘘でしょー。でも、私も甘いの大好きだから今度飲んでみたいな」

 

 意外と、でもないが中世古先輩は話を合わせてくれて話しやすい。技術面だけでなくてこういう所もパトリに選ばれた理由なのだと思う。

 男でイケメンで誰とも分け隔てなく接せるコミュ力があって優しくて、挙げ句の果てにスポーツまでできるなんてやつがいたら、なんで生きてるのか疑いたくなっちゃうレベルだけど、逆にそれが美少女であれば産まれてきてくれてありがとうとまで思えるのだから全くもって不思議である。

 

 「先輩達はなんか好きな食べ物とかあるんすか?」

 

 「私は香織先輩が好きなものなら何でも好きよ」

 

 「いや、優子先輩が好きなのは食べ物の方じゃなくて中世古先輩でしょ?」

 

 むしろ優子先輩が食べちゃいたいのは中世古先輩でしょ?そんな、不埒なことを考えてしまうのも男だから仕方ないネ!

 

 「私はね、焼き芋が大好き」

 

 「焼き芋ですか?なんかイメージと違う」

 

 吹奏楽部のマドンナに焼き芋。そこはケーキとかだと思っていた。中世古先輩がケーキとかパフェ好きって言うなら、そこら辺に溢れかえっている流行に敏感SNS大好き女子学生芸人みたいな、スウィーツ(笑)みたいなイメージにはならないのに。

 

 「よく言われるけど、みんなが勝手な偏見持ってるからだよー」

 

 「優子先輩もですか?」

 

 「え、あー………。うん。美味しいわよね。……でもお腹に貯まるし太るのよね、お芋って」

 

 めちゃめちゃ間が空いてたし、後半の方小声で言っても聞こえてるから。この人全然好きじゃないだろ焼き芋。やっぱり好きなのは中世古先輩だけだろ。

 

 「でも牛乳飲みながら食べるとホントに美味しいよ。比企谷君は分かるよね?」

 

 「ええ。芋は野菜だし、牛乳は骨になるから実質カロリーゼロってとこも良いですよね」

 

 「そんな訳ないじゃない!むしろ牛乳の分、カロリープラスよ!お芋はカロリー高いからダイエットしないと」

 

 「ダイエットダイエットって言いますけどね、優子先輩。夏の日の淡い思い出。初めて誰かから貰った誕生日プレゼント。失って幸せなものなんて、世の中にほとんどないんですよ」

 

 「くっ。そんなわけないのに妙に説得力を持たせてくる……!」

 

 「流石、比企谷君の言うとおりだよ。優子ちゃんはもう十分細いんだからダイエットなんて考えなくて良いの」

 

 「あん、ちょっと先輩!お腹触らないで下さい!」

 

 美少女二人の絡み、眼福眼福。ちょっと後ろ歩いてて良かったー。




皆さん、お世話様です。作者のてにもつです。
いつも読んで下さってありがとうございます。評価も感想もメッセージも、執筆の励みになっております。本当に嬉しいです。
今回後書きを残したのは、何点かご質問を頂いたからです。今回はそれに答える形にしたいと思います。

① この作品は響けの原作準拠なの?
メッセージで頂いた質問です。答えは秘密です笑
コンクールの結果とか、ネタバレしちゃったらつまらないと思うので。ただある程度、響けの原作に沿った展開にしています。原作は久美子を一人称視点とした、部全体や低音パートそして家族や友情がストーリーの根幹ですが、本作品はそれを八幡視点にしたトランペットパートの生活と恋愛を主軸に置いていきます。

② どこまで書くつもりですか?
実はこれは私が以前執筆活動をしていた際に、たまたまツイッターで私が作者だと見つけてくれて、それ以来飲みにいったりと仲良くしている友人から頂いた質問です。
とりあえず響けのアニメ分、三年生の引退までは書きます。ただ原作ファンとしては原作を読んでいる人なら絶対見たい『とある冬の日』。あの話を八幡がどう過ごしたのかを書かなくては、という使命感はあります笑あの話は絶対書きたい。
また、私的には八幡が二年生になってからの展開も考えていて、むしろ二年生になってからの方が盛り上がる展開にできる自信もあります。優子が三年ですし、奏と八幡はいいコンビになりそうだし。
なんで当面の目標は八幡二年のコンサートですかね。すごく長くなりそう。お付合い頂けたら嬉しいです。

③ 感想、ちゃんと読んでるの?返信したら?
メッセージで頂きました。前作はコメントに返信していましたが、今作は感想に答えていなかったので。
きちんと読んでます。本当に励みになっていますし、指摘を頂いた際には修正もしています!笑誤字修正は勿論、指摘も本当にありがたいんです。句読点、確かに多くて読みにくかったと思います。そこは随時修正していきます。
前作は感想欄に本編の質問が多かったのが、返信をしていた理由でした、しかし今作は素直に作品に対する感想が多く、ほっこりしながら読んでいました。
ですが、せっかく頂いた感想ですので、今後は感想に返信していきます。仕事やプライベートもあるので、遅くなったらごめんなさい笑


さて、今回の後書きはこの辺で終わりにしたいと思います。
実は現在の執筆状況は県祭りまで進んでいて、次はいよいよオーディションです。
八幡の活躍に期待下さい。  それでは!


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14

 「さて、それじゃ私の家はこっちだから。今日は比企谷君も一緒に帰れて楽しかった!また一緒に帰ろう?」

 

 「あ……待って下さい、香織先輩」

 

 「ん?どうしたの優子ちゃん?」

 

 「……あの、私やっぱりずっと気になってて……」

 

 「……比企谷君の事でしょ?」

 

 「……」

 

 「あのね、比企谷君。比企谷君が個人練で教室出た後、優子ちゃんずっと気にしてたの。やっぱり中学生の時コンクール出てなかったって言うのが気になるって。納得いかないって」

 

 「え!そんな、ずっとなんて気にしてないです!」

 

 「そう?追いかけて謝ろうとしてたじゃない。みんなに言われて、昔コンクールに出てたのかだけ聞けば良かったのに、余計なことまで聞いちゃったって」

 

 かあ、と優子先輩の頬が夕焼けに負けない程に赤くなった。

 

 「吹奏楽部ってやっぱり人間関係とか色々面倒くさいこともあるからさ。今もオーディションとか、これからも何かごたごたもあるかもしれない。それに、もしかしたら比企谷君にも何か中学生のときに言いたくないようなことがあったのかもしれない。でもね、もし比企谷君が話してもいいって思ったらでいいの。そう思ったら、優子ちゃんには教えてあげて欲しいな。これからも二年間一緒に同じパートでやっていく仲間だからさ」

 

 「……はい」

 

 「それじゃあ私は帰るね。お疲れ様」

 

 老子曰く、他者を知ることは知恵。自分を知ることは悟りであると言う。

 しかし俺はそうは思わない。なぜなら自己と他者の間には明確な区切りがあって、決して表裏一体な関係ではないからだ。心の奥底にしまい込んだ過去の感情を知っているのは自分だけ。誰かが話した過去を知った気になって、その人の判断で付けた感情は他者を悟った気になっているだけに他ならない。自分以外の誰かの過去を知ることの本質は知恵などではなく、自分の興味を満たしたいという欲求。それだけだ。

 

 「って言っても、本当にさっき話した通りの話なんですけどね」

 

 それでも、優子先輩に話しても良いと思ってしまったのは、中世古先輩が心配してくれたのかもしれないなどと勘違いも甚だしいことを感じてしまって、何より優子先輩の真っ直ぐな目線に負けてしまったからだろう。

 

 「歩きながらで良いですか?」

 

 「勿論!」

 

 優子先輩は立ち止まって、俺が隣に並ぶのを待った。

 

 

 

 「俺の周りがたまたまそうだったのかわかんないんですけど、小学校の時から吹奏楽やってる人ってそんなに多くないじゃないですか?吹奏楽を小学生からやってた生徒って、俺の中学の部内には片手で数えるほどしかいなかったんですよね。だからトランペットパートにおいて、正直俺は三年間誰よりも上手かったと思っています」

 

 「言い切るわね」

 

 「はい。前も言いましたけど、俺の通っていた中学は弱かったんで。練習もほとんどやっていないような奴らばっかりでした」

 

 だけど呼ばれなかったのだ。

 三年間ただの一度だって、俺の名は呼ばれなかった。

 俺の中学のコンクールメンバーの選定は、パトリが決めて、その決定されたメンバーを顧問が確認し許可して提出するというやり方だった。顧問が確認とは言うが、実際は部員が決めたメンバーに、顧問は一切口出ししない。強くなるとか全国とか目標があるわけでもなければ、楽しむとかそういう訳でもなく、ただ押しつつ蹴られたような形で顧問をやっている。それがうちの顧問だった。

 

 『井上。折本。伊達。富沢。馬場。以上が、今年のトランペットパートのメンバーよ』

 

 今年は一年だから先輩に出場枠を譲って欲しい、と部長に言われた。吹奏楽とは音を合わせて楽しむ部活だと、そういう説明も受けた。

 だけど、同じ一年で今年からメンバーに選ばれていたやつがいたのは知っている。

 

 『秋山。石田。一色。折本。富沢。以上が今年のトランペットパートのメンバー』

 

 二年目も同じ説明を受けた。

 一年なのに、メンバーに入っているやつがいた。顧問には来年こそは頑張ればきっと出場できる、そんなことを言われた。

 

 『秋山。石田。一色。折本。山本。以上が今年のメンバー』

 

 三年目は理由さえ言われることはなかった。

 だけど別段ショックを受けることはない。半ばメンバー入りはしないだろうと思っていたから。俺はパートのメンバーが一時間も練習をせずに、早く練習を切り上げて遊びに行くのにも参加せずに部室に残ってトランペットを吹いていたし、イベント後にやたら理由を付けてやりたがる打ち上げには呼ばれさえしなかった。

 

 「今の北宇治ではコンクールメンバーにはシンプルに実力が求められてますけど、俺の中学は違った。部員との協調性とかそういうことの方が求められていたから、俺は選ばれなかった。去年は理由言われなかったからわかんないけど、そんなとこだと思ってます」

 

 「協調性って……。ちゃんと比企谷が練習してるとこ、みんな見ていたんじゃないの?」

 

 「そんなの関係ないですよ。社会もそうじゃないですか。基本的に評価されるのは仕事ができるかどうか。けれど例えば、風通しの良い企業とか笑顔で働きやすい企業とかそういう理念を謳っていれば、そこに新しく人間性や協調性という判断基準も出てくる。そういった判断は仕事と違って数字で測れるものでないから、人事とか上司の判断で決めざるを得ない」

 

 風通しが良いとか、冬とか超寒いから。風超冷たいから。無理して上とも下とも同期とも仲良しごっこして風通し良くしても、今度は寒さを我慢しなくちゃいけないとか何なの。

 

 「何よそれ!ムカつく!」

 

 「でも去年までの北宇治だって同じでしょう?実力よりも、先輩とか他に優先されるものがあって。先輩だってそういう環境でやってきたでしょ?」

 

 「だからムカつくの!私、去年までの北宇治のやり方に納得してた訳じゃないもん!どうしてあんたはそんなに平気そうにしてるの?」

 

 「そりゃ、俺は納得してますから」

 

 「はあ?なんで?努力してたのにコンクールさえ出られないとか悔しいじゃない」

 

 「いや。だから仕方ないんですって。求められている能力がなかった。ただそれだけです」

 

 「………そっか。やっと分かった」

 

 「……何がですか?」

 

 「……香織先輩の演奏ってね、私にとっては特別なの。前も話したけど、部活辞めようとしてたときに香織先輩が止めてくれた。香織先輩は私たち一年を少しでも引き留めるためにコンクールの出場を辞退したけど、ずっと一人で練習してて、その時の音と顔が忘れられない」

 

 「急にどうしたんですか?」

 

 「最初からずっと思ってたんだけど、比企谷の演奏、香織先輩に似てる」

 

 それは勘違いじゃないですか。

 その言葉は喉で突っかかって出てこない。言葉と一緒に向けた視線は行き場をなくして、何となく二つの鞄が入った籠を見つめるしかなかった。

 隣を歩く優子先輩を俺を見る目が少し潤んでいる。だけど、それはきっと勘違いだ。



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15

 あの日の帰りの優子先輩の視線が忘れられない。

 あの瞳を見ると、どうしても思い出してしまうのだ。

 

 『私たち、頑張ったのにね』

 『うん。高校行っても一緒にやってさ。次こそは千葉突破しよ…!』

 『あーあ。やっぱりダメだったかあ』

 『でもま、しょうがないべ』

 

 笑っている奴。諦めていた奴。

 誰かの譜面が床に落ちた。バサリという音と共に開いたページ。

 

 『突破したら、また告白しようネ!』

 『終わったらいーっぱい遊ぼ』

 

 余白に余すことなく書かれているメッセージ。演奏についてのことはどこにも書いていない。

 中学生三年生の最後のコンクール。あんなに練習にやる気がなかった同級生達。客観的に考えて、初めから無理だって分かってた。

 それなのに。

 

 『……うっ……三年間、頑張っていて良かった。だけど、悔しいなあ……負けるのって、悔しい……』

 

 そんな中で泣いている奴がいた。悔しいと、頑張っていたのだと。

 それならば。

 

 『……』

 

 ……いや、その考えはもう捨てたのだ。俺はちゃんと納得している。コンクールに出なくたって、合奏をしなくたって、俺はトランペットが吹けるだけで良い。

 そのはずなのに俺は今でも涙を流していたり、泣きそうになっている女子を見ると思い出してしまうのはこの光景ばかりだ。

 

 「お兄ちゃん。学校遅れちゃうよー」

 

 「……おーう」

 

 そんな何かもやもやしたものを抱えたまま、今日もコンクールに向けた練習をするために学校に行く土曜日。明日は試験前と言うこともあり、久しぶりの日曜日休みだ。

 

 

 

 「頼む。比企谷」

 

 「絶対に嫌だ。断る」

 

 目の前には頭を下げる塚本。

 

 「今回の成績が悪いと母さんに塾通わされるんだ」

 

 「知らん。折角の日曜日休みを妹以外の誰かと過ごすなんて考えられん。明日は小町と二人でお家デートする」

 

 「くっ、シスコン。じゃあ比企谷の家で勉強するってのは……」

 

 「お前ぶっ殺すぞ。なんでオンリーワンかつナンバーワンの小町をどこの馬の骨かもわかんねえ男に会わせなくちゃいけねえんだよ。挙げ句の果てに、小町が作ってくれる昼飯までご馳走される気だと?身の程をわきまえろ」

 

 「そこまで言ってないんだけど……」

 

 くそぉ、無理かぁ。弱々しく呟いて、塚本は肩を落とした。

 事の発端は休憩中にマウスピースを洗っていると、塚本が隣に来たのが原因だったのだろうか。試験が近い話をしていて、進学コースだからあんま不安なんてないだろうななんて言われて、中間試験の国語の成績が学年トップだった話をしてしまって。

 やはり自分の成績なんて自慢するものじゃない。まあそもそも聞かれたから答えただけで、自慢したつもりなんてほとんどなかったんだけど。俺が自慢できるのは千葉県民だったことと、妹に小町がいることだけだ。

 

 「とにかく絶対に嫌だからな」

 

 「あれ、比企谷君と塚本君。何の話をしてるんですか?」

 

 「お、川島」

 

 塚本と話していると、手を洗いに来た川島とエンカウントした。よく見たら川島の手は絆創膏が貼ってある。オーディションが近付いてきたため、練習に身が入っているのだろうか。それにしても塚本は川島と知り合いだったのか。

 

 「明日部活休みだろ?期末テストの勉強誘ったんだよ」

 

 「いいですね。なんか高校生って感じです!」

 

 「でも比企谷に断られちゃってさ。比企谷、国語の成績学年一位なんだってよ。知ってた?」

 

 「えぇー!そうなんですか!?」

 

 「……まあうん」

 

 川島からのきらきらした視線が痛い!じょ、浄化される!いや、霊じゃねえし!

 

 「川島は確か聖女だったよな?じゃあ結構成績良いよなあ」

 

 「いえ、そんなことないですよ。比企谷君とか高坂さんみたいに進学クラスじゃないですし。でも真ん中よりは上ですね」

 

 「そっかあ……」

 

 「みどりは英語なら教えられます。一緒に勉強しますか?」

 

 「え、いいの?」

 

 「はい!三人で次の試験は上位に入りましょう!」

 

 ぐっと腕を上げて宣言する川島。腕を伸ばしても身長が高い塚本の頭の辺りまでしかないのが非常にキュート。

 ……ん?三人で?

 

 「まじか。恩に着る」

 

 「いやちょっと待て、俺は……」

 

 「あ、でもでも、葉月ちゃんと久美子ちゃんにも声かけて良いですか?こういうのは大人数でやった方が楽しいです」

 

 「久美子誘うのか。来るかな?」

 

 「とりあえず声かけてみますね」

 

 「あの、話聞いてくれない?昔のこと思い出しちゃうから……」

 

 久美子って誰だよ?元おニャン子クラブの山本スーザン久美子? セーラー服脱がせちゃうの?川島の。

 つうか、塚本こっち見てニヤニヤしてんじゃねえよ。なんか川島に流されて行かなくちゃいけないみたいになったの気付いてるんだろ。

 だけど、ここで断ってしまって川島の悲しむ顔は見たくない。それに、頭をちらつくのは小町。

 

 『え、お兄ちゃん出かけるの?いってらっしゃーい。あと帰りアイス買ってきて。パピコ』

 

 ダメだ。俺がいなくて悲しむ小町を想像できない…。

 

 「場所はどうするか?」

 

 「あ、みどりの家でみんな勉強します?ママがおやつ作ってくれますよ?」

 

 「いや、家はちょっと……」

 

 顔を赤くして照れている塚本。多分俺も同じような顔をしているだろう。

 全くもって不思議なのだが、世の男子はインテリアには一切興味なんてないのに、『女子の部屋』と言われると途端に頭の回転が藤井四段に引けを取らないくらい早くなり、妄想が止まらなくなる生き物なのである。正に理想と現実の狭間。それが『女子の部屋』なのだ。

 ナチュラル系のインテリアで仕上がってて、ちょっとアロマが香ってたりとか。あ、でもそれじゃちょっと大学生みたいだな。川島っぽいって言うと、ピンクのカーテンとかピンクの枕みたいな、女子の可愛いを詰め込んだ部屋っぽいよなあ。それかもしくはちょっと机の上とかがごちゃごちゃしてたり、食べかけのクッキーとか猫のマグカップとか何となくジブリ感が合ったりするのもいいかも。

 でもだからこそ、男は妄想の世界である女子の部屋を裏切られたくないのである。大学生になって男子大学生が女子大生の部屋に行くよりも、女子大生が男子大学生の家に行くことが多いのはきっとそれが原因。



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16

 「あ、比企谷。こっちこっち!」

 

 手を大きく振って俺を呼んでいるのは加藤だ。その隣には加藤ほどではないが、笑顔で手を振っている川島がいる。

 

 「……うす」

 

 「おう、比企谷。何か食べてきた?」

 

 「いや、何も食ってねえよ」

 

 「そっか。じゃあ好きなもの頼んでくれ。今日は俺奢るから」

 

 マジか。めっちゃ良い奴じゃん、塚本。

 塚本の隣に座るとメニューを渡された。ミラノ風ドリア、たらこソースシシリー風にマルゲリータピザ。良かった。こっちに来て色んなものが変わってしまったが、サイゼリアは京都でも変わらない。千葉にいた頃から大好きだったのがもっと好きになった。

 

 「よっしゃ。それじゃ全員揃ったし、早速やりますか。勉強!」

 

 加藤の一言におー、と元気よく声を上げる川島。俺と塚本は正面の席に座る二人を見ているだけでこのテンションにはついていけない。

 つか勉強って一人でやるものでしょ?俺のこと待ってる必要性あった?

 まあそれ言ったらそもそも俺今日なんで来たのって話なんだけど。

 

 「ところで今日は結局、久美子は来ないのか?」

 

 「うん。久美子、今日は家の用事があるんだって言ってたよ」

 

 あぶねー。勉強会なるものに呼ばれたのも初めてで、それだけで一杯一杯なのに、全く話したことない奴まで来るとか緊張し過ぎてトイレ籠もってたわ。ずっと同じトイレに籠もってると怒られるから場所変えて、サイゼが入ってるこの施設のトイレを制覇してたまである。

 ところで、パワーポイントで次のテストの傾向の予測と対策とか作ってきてないけど大丈夫だよね?社会人の会議の発表は準備のパワポで八割決まるらしいけど……。

 

 「俺は国語がやばいんだけど、他のみんなは何か苦手科目とかあるのか?」

 

 「うーん。みどりは苦手科目とか特にないですね。英語がちょっと他の科目より良いくらいで、万遍ないって感じです」

 

 「私は万遍なく全部苦手かなー」

 

 「いや、それダメじゃん。比企谷は?」

 

 「俺は数学が前回の中間試験で赤点だった」

 

 「おぉ。私と一緒だ」

 

 「でも比企谷君は国語の成績は学年トップなんですよ」

 

 「うそ!すご!……でも国語の成績が良くても数学の成績が悪かったら結果的にはあんまり良くないんじゃ……」

 

 「いいんだよ。テレビに良く出てる今でしょの先生だって、個性を伸ばせって言ってたし。それに少しくらい欠点がある方が人間らしいだろうが」

 

 どれだけ死んだ魚みたいな目をしてると言われようが、ゾンビみたいな顔だとか、比企谷菌とか言われても俺は完璧じゃない。そのことが俺は人間であると証明している!

 

 「うーん。まあいいや!比企谷君に国語教えて貰ったら私も次は赤点回避できるよね!」

 

 「それは葉月ちゃん次第ですよぉ。葉月ちゃんはやればできる子なんですから、ちゃんと勉強しましょうね」

 

 「うぅー。わかったよ。でもさ、折角久しぶりに部活がないと思ったら勉強なんて勿体ないよね」

 

 「もう。言った側から……。みどりは中学生の頃から基本的に学校が休みの日も練習がありましたから、たまにある休みを遊びたいって気持ちは分かりますけど」

 

 「でしょでしょ?定期試験が近いから勉強なんてあんまりだー」

 

 「でも滝先生が顧問になってから本当に忙しいからな。きっと試験終わった後に配られる夏休みの予定も練習ばっかりだろ」

 

 「考えたくないよぉー」

 

 「みどりは練習できるの嬉しいですよ?」

 

 「それはみどりだからだよ。部員の皆でぱーっとボーリング大会とかやりたいなあ」

 

 「送別会とか学校で部活動の一環としてならともかく、吹奏楽部って人数多いからどうせ集まらないし、あんまりみんなで遊ぼうっていうのはないけどな」

 

 「え?そうなの?」

 

 「そうそう。それに人数が多いからそもそも把握されてないって事もあったりな。ソースは俺。『この後の打ち上げに参加する人は、黒板に貼ってある名簿の自分の名前の横に丸書いてー』って言うからたまにはカラオケでも何でも行ってやろうかと思ったら名前がなかったし、挙げ句の果てに悲しさと勇気振り絞って名前ないですって言ったら、軽く謝られて『卑忌谷』って間違った漢字書かれた」

 

 「いや、そんなことはめったにないと思うけど……」

 

 「なんかあいつの名前、見た目通り呪われてるみたいだよねウケる。って誰かが言ってるの聞いて心折れたんだよなあ…」

 

 「辛いー…」

 

 あれ何この空気。何かしんみりしちゃってるんだけど。

 渾身の自虐ネタを出してこの空気になるとすげえ辛いんだな。心が痛む。優子先輩なら結構笑ってくれるから、この場でもいけると思った俺が間違っていた。

 

 「と、とにかく吹奏楽部は人間関係にはドライって事だ」

 

 「まあ確かにそうと言えばそうだけど……」

 

 「なんか比企谷君のは少し違います……」

 

 「べ、勉強始めようか……」

 

 

 

 

 勉強を始めてから一時間程が経過した。ちょくちょく話しながら、それぞれ苦手な科目を勉強している。

 勉強会は思ったよりも良いものだ。何が良いって、勉強の効率自体は一人でやっている方がいいに決まっているのだが、好きな飲み物を好きなタイミングで飲めるという点は最高。

 机の上には教科書と筆箱、ドリンク用のカップに空になったガムシロップの残骸が複数。結論としては一人でサイゼリアで勉強するのが理想か。

 

 「うーん。ダメだぁ。物語はまだできるんだけど、論文はさっぱりだよ。何かいてあるのか意味がわかんない」

 

 「あー。俺もそれは凄い分かる。言い回しが面倒で読むのも疲れるしなあ」

 

 机にぐでーっと身体を倒した加藤に塚本が賛同する。

 

 「高校に入ってからどんどん内容が難しくなってくし。今回の問題の何だっけ……カインズホームの忘却曲線だっけ?」

 

 「エビングハウスな」

 

 ホームセンターが何忘れちゃうんだよ。スタックボックスキャリコのCM?元から知らないとか言うな。意外と休日にカインズ行くの楽しいんだぞ。

 

 「そうそれそれ。何言ってるのか全然わかんないよ。比企谷教えてよ」

 

 「………」

 

 「うわ、本当に面倒臭そう」

 

 「ここまで勉強教えてって頼まれて、露骨に嫌そうな顔できる人初めて見ました」

 

 自分が伝えたいことはしっかりと顔に出した方が良い。頼まれ事を口に出して断れば反感を買うし、嫌そうにしていればそもそも頼まれることもない。オーラで断る。ぼっちの必須スキルだったりする。

 

 「えーいいじゃーん。ドリンクバー持ってくるからー」

 

 「俺もこの論文の問題で、一つわかんないとこあるんだけど」

 

 「……黙々と勉強を始める比企谷」

 

 「何、そのバラエティのテロップみたいなの?いいじゃんいいじゃーん!こういう時は協力が大事でしょー!」



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17

「はあ。ったく、しょうがねえな。そもそもさっき物語は解きやすいって言ってたけど、なんで物語は得意なんだよ?」

 

「それはほら。何か感情移入できるし」

 

「そうか?走れメロスとか主人公最低だろ?」

 

「なんで?友達のために走った良い奴じゃん」

 

「違うんだよな。あれは自分の妹の結婚式を見たいっていう個人的な欲のために、友人を担保に掛けたから走っただけなんだよ」

 

「視点がひどくね?」

 

「いや。教科書に載ってる文豪って変人多いんだぞ。メロスを書いた太宰治だって、この話を書いた背景には借金の担保に友人を置いていって、自分はその間別の友達と将棋して遊んでたって話があるんだから。メロスはそれを美化した話」

 

「え!そうなの!?」

 

「そう考えると意外と物語って感情移入できないだろ?むしろ論文の方がよっぽど自分のこと当てはめて考えやすい」

 

「うーん。例えば今回のエビングハウスの忘却曲線なら、自分がどうやったら英単語を効率的に覚えられるか、それを試してみるみたいなことですか?」

 

「いやちげえ。どうして俺は毎日会ってるクラスメイトに忘れられるのか考える」

 

「え、えぇ…?」

 

「エビングハウスの忘却曲線は人間が学んだことの定着する割合と時間の関係をグラフ化することができるって話だ。人の海馬は新しい情報を入れるために、必要ないと判断した記憶は忘れるようになっているが、必要なタイミングで復習することでどんどん忘れるスピードを緩やかにすることが出来る。要約すると、この論文の内容はこうだ」

 

「なるほど」

 

「じゃあ俺はなぜ、中学生の頃クラスメイトに認識されてなかったのか。俺のことを必要ないと判断してのことだったのか、それとも復習していなかった、つまり存在が認識されていなかったからなのか」

 

「きゅ、急にわからなくなった…」

 

「もう、比企谷君!ダメです!」

 

川島が俺の手をぎゅぎゅーっと掴む。思わず川島の方を見ると、川島は少し怒ったように真っ直ぐ俺のことを見ていた。

 

「お、おおう。な、何?」

 

「そうやって自分のことを卑下したらダメです」

 

「でも事実だし…」

 

「ネガティブなことばっか考えてると、マイナスなことばっかり起こっちゃうってママが言ってました。誰かに忘れられたり、嫌なことがあっても明るく過ごしましょう。笑う門には福が来るのです!」

 

「うわでた。そういう……」

 

「比企谷君!」

 

「……わ、わかった。わかったから、この手を離して!」

 

恥ずかしいから!こういうの恥ずかしいから!

ぱっと手を離せば、川島は両手をぐっと自分の顔の前で組んでいる。頑張れのサイン。可愛い、天使か。

 

「川島って意外と熱血系なのか?」

 

「うん。塚本はあんま絡んだことなくて知らなかったかもしれないけど、中学生の頃から厳しい部活いたからなのかな。可愛い見た目してこんななんだよ」

 

「ふーん。あ、加藤この問題間違えてるぞ」

 

「え?あ、本当だ。……あ」

 

「!わ、悪い!」

 

「う、ううん!私の方こそごめん!」

 

「…なんかあれですね。よく少女マンガで見ますよね。こういうシチュエーション!」

 

「ちょ、ちょっとみどり!やめてよー!」

 

「あはは。葉月ちゃんも塚本君も顔真っ赤ですよ?」

 

「もう!」

 

加藤が机の上の消しゴムを取ろうとしたところに、気を遣って消しゴムを取ってあげようとしていたらしい塚本の手が重なった。

なんだこいつら。何、俺が川島に見惚れている間にいちゃいちゃイベント起こしてんだ。リア充爆発しろ。いっそ俺が爆発したいまである。

 

「ちっ」

 

「いや、さっき比企谷も川島と手握ってたから」

 

「そ、そう言えば!三人とも中学生の時から吹奏楽部だったんだよね。さっき勉強始める前に、吹奏楽部はみんなで何かしようって機会が少ないって話してたけど他にもあるの?吹奏楽部あるあるみたいなの」

 

加藤がニヤニヤしてる川島と目線を合わせないようにしながら話を逸らした。

隣で塚本が安心したように息を吐く。そういや楽器運搬のとき加藤が塚本に荷物運んで貰って、ぽーっと見てたことあったよな。塚本は気がついてなさそうだったけど、これから先もしかして本当に何かあるかもしれない。くそ。某アイドルグループみたいに部活も恋愛禁止にしたい。

 

「そうだな。また人間関係だけど、女子が多いからもめ事が多いってイメージはあるかな」

 

「あー、それは何かわかるかも。塚本の中学校でもやっぱりそういうのあったって久美子からもちょっと聞いたよ」

 

「そうそう。内輪モメとか超多いよな。まあ俺は内輪にいないから関係な…いや、これはセーフ。自虐じゃない」

 

「いーえアウトです。比企谷君…」

 

「…す、すみません。……こういうの優子先輩は結構笑うんだけどな」

 

「…それはそれで酷いけどな…。でも比企谷って結構優子先輩と仲良いよな。合奏の時とか、正面にいるトランペットパート見てるとちょくちょく話してるの見る」

 

「ほうほう。みどり、気になります」

 

「いや、それキャラ違うから。……何言ってるかわかんないですよね、すいません。帰りが同じ方向だから、たまに帰り一緒なんだよ。でも笑ってるって話だと高坂もクスクス笑ってるぞ。しかもあれは他人の不幸を喜んでる笑い方だ」

 

「うーん。私はそんなことないと思うけど。塚本って高坂さんと同じ中学だったんだよね?高坂さんってそんな人?」

 

「あんま話したことないんだよなあ。だからわからないけど、加藤の言う通りあんまそうやって笑う奴じゃなさそうだよな。そう言えばさ、高坂大丈夫なの?」

 

「大丈夫って何が?」

 

「オーディションでソロ狙ってるの、先輩達からあまり良く思われてなくて浮いてるって聞いたけど」

 

塚本の情報に正面に座る加藤と川島が驚いた。塚本が意外と部内の情報を知っているのはなぜなんだろう。トロンボーンパートには文春の記者でもいるのだろうか。



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18

「まあ前から一人で練習してたから、行動自体は実際のところほとんど変わってないけどな」

 

「それって今は、先輩達に輪に加えてもらえなくなっちゃったって事?」

 

「…いや、そんなことねえよ。中世古先輩がパートの皆に、いじめるのとか無視とかは辞めるように言ってたからな」

 

「そ、そっか。やっぱり中世古先輩は優しいね」

 

「……その中世古先輩が言ったのが問題なんだけどな」

 

「え?どういうこと?」

 

「何でもねえよ」

 

おとぎ話によく出てくる、民衆に愛される王様。国と民のためにその命までもを尽くし、幸福を求め続ける。民衆はそんな優しい王に王であり続けていて欲しいと願う。それはきっと当然だ。故に民衆の中にそう思わないものがいたとしたら、その者に対しては排他的になる。なぜ王をその座から降ろそうとするのかと、それもまた民衆が当然に抱く疑問なのだろう。

しかし王の失落を狙う民衆がいたとしても構わない。人はそれぞれ違う考えを持っているから仕方のないことだと認めて、排他的にするのは辞めようと王が言ったとして、果たして民衆はわかりました、と素直に納得できるだろうか。

 

「…なんとなくみどりは分かります。中学生の頃、似たようなことありました」

 

「まあ、こんなこと考えても仕方ねえよ。どうなるのかなんてわからないしな」

 

「そうだな。俺たちはまず自分たちのオーディションに集中しないと。トロンボーンも争い激しいだろうし。みんなでオーディション、受かったら良いな」

 

どこかお気楽にも聞こえる塚本の言葉に、俺は素直に頷くことはできなかった。

中世古先輩はトランペットパートだけに収まらず、その美貌と優しさから部内全体に影響が強い。以前優子先輩が言っていたが、中世古先輩の一つ上の先輩との件があったから二年生には特に。

そしてあと二人。トランペットパートには部内全体に影響力がある人がいる。

純粋に実力があり、どこか一目置かれている高坂麗奈。そして、見た目のかわいらしさもあるだろうが、それ以上に圧倒的な存在感の強さ。どこか人を寄せ付けるカリスマ性がある優子先輩だ。

実際の所本人はどう思っているのかは分からないが、中世古先輩は後輩がソロを吹こうとしていることを良しとしている。優子先輩はそうは思っていない。しかし中世古先輩にはこれを理由に何かをするのは辞めて欲しいと言われている。高坂は中世古先輩よりオーディションで上回ってソロを勝ち取りたい。

影響力のある三人の三つ巴。どこか不安要素を抱えたまま、俺たちはオーディションに少しずつ近付いていく。

テストが終われば、オーディションはすぐだ。

 

 

 

 

「「「ありがとうございました!」」」

 

合奏練習を終えて、教室から出て行く部員達。それにしても今日の練習の終わりの方で、滝先生にズボンのファスナーが開いていると注意された田邊先輩は面白かった。

すげえ開けたままにしちゃうのはわかるんだよな。むしろ無意識すぎて、ファスナーが勝手に開いたんじゃないかって思うまである。女子には絶対に分からない、男の子だけの秘密の話。……何これ、きもい。

譜面を見ながら滝先生に指摘された部分を確認していると、隣にいる高坂がソロパート部分を吹き始めた。多分、俺と同じで、滝先生に言われたことで気になったことがあったのだろう。だが、部員が少しずつ教室から出て行っているとは言え、あまり大勢の前でソロパートの練習をするのはイメージが良くない。そういうことを気にしないのが高坂らしいけど。

 

「高坂さーん」

 

ほら、言わんこっちゃない。いや言ってないんだけど。思ってただけなんだけど。

教室の出口付近から優子先輩が高坂を呼ぶ。その声音と視線は、やはり他の人と話すときとは違って冷たい。

 

「はい」

 

「練習終わりよ。片付けて」

 

「わかりました」

 

今のパート内の雰囲気、胃がキリキリしてくるんだよな。ここはキリキリキビキビ撤退すべし。

高坂が片付けているのを横目に立ち上がる。出口に向かうと、むすっとした優子先輩とそれを見て微笑んでいる中世古先輩の話し声が聞こえてきた。

 

「ほら。高坂さん、素直じゃない」

 

「……そうですね」

 

「あっ」

 

「?どうしたんですか、香織先輩?」

 

「ごめん、やっぱり先に帰ってて!」

 

「え、えぇー!う、うぅぅ…」

 

小笠原先輩の後を急いで追いかけていく中世古先輩。何かあったのだろうか。とりあえず明らかに頬を膨らませて、やるせない怒りと悲しみを抱えているこのデカリボン先輩を置いていくのは辞めて欲しい。

そして出来れば、目が合いたくなかった。どうして普段教室では、クラスメイトと目が合わないどころか見ようとさえされないのに、こういうときに限ってこうなるんですかね…。

 

「比企谷…。気持ち悪いわね…」

 

「おい、喧嘩売ってんのか」

 

「ああ、ごめんごめん。違くって。雨が降りそうになって窓も開けてなかったから、湿気ているじゃない。それにこの曇り空。はぁーあー、陰鬱ね」

 

「そっちですか。次から開口一番でそういうこと言うのはやめて下さいね。危うく自殺するところだった」

 

「普段ならあんたのメンタルは豆腐かって言うところだけど、今は気持ちが分かるわ。この世界って残酷ね…」

 

「ただ先輩と帰れなかっただけなのに大げさなんだよなあ…」

 

その台詞は巨人と戦う104期生最強のアッカーマンさんが言うからかっこいいんだよ。ただ、今優子先輩から俺に向けられているジト目は、大好きなイェーガーと作中1の美女である天使がいちゃいちゃ談笑してるときに、アッカーマンが向ける人を殺すレベルの冷たい目線と同じ。シンプルに謝ろう。ごめんなさいしよう。

 



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19

「まあいいけど。今日はもう帰るの?一緒に帰りましょうよ?」

 

「いや確認したいとこがあるんで残って練習します」

 

しょぼんと落ち込む優子先輩に、なんとなく心苦しさを覚えてさらに言い訳のように言葉を続けた。

 

「それにほら。俺だと中世古先輩の代わりにはなれないですし」

 

「そんなの当たり前じゃない。天使とヒキガエル比べるもんじゃないでしょ?」

 

「ねえ?なんで俺の小学生の時のあだ名知ってるのねえ?」

 

つかさっきだって、絶対俺のこと気持ち悪いって言っただろ。誤魔化したけど絶対そう。

 

「それじゃ練習頑張りなさいね。また明日……ちっ」

 

今度は舌打ちをしたが、俺に対してではない。教室の出入り口を見てである。

そこには低音パートの面々がいた。ユーフォを持っている二年生のポニーテールの先輩に、確か久美子と呼ばれる女子。それに加藤と川島。…っておい、まさか今、川島に舌打ちしたんじゃねえだろうな!加藤はまだ良い、許せる。でも川島はダメだ。

ズケズケと近付いていく優子先輩。いつになく不運なことが重なって、不機嫌の頂点にまで至った先輩にこれ以上触発しないで欲しいというのは、俺の勝手すぎる願いだが。

 

「そこ、邪魔なんですけど?」

 

「避けていけば良いでしょう?」

 

きっと優子先輩がポニーテールの先輩を睨む。あのポニーテールの先輩は、確かいつか優子先輩が言っていた。同じ中学校の同級生だったはずだ。

 

「御免遊ばせ!ふん!」

 

「わっ!おい、何すんの!」

 

うわー、嫌な先輩だなー…。思いっきりわざとぶつかってったぞ。これからも中世古先輩と帰れなかった日の優子先輩には近付かないようにしよ。

優子先輩を追いかけていったポニーテールの先輩を目線で追うと、廊下を歩きながらまだガミガミやり合っている。

 

「露骨に仲悪いんだな…」

 

「あの二人、前からあんななの」

 

「うおっ!」

 

「あ、ごめんね。ビックリした?」

 

全く申し訳なさそうに謝ってきたのは、さっき優子先輩が中世古先輩に一緒に帰ろうと声を掛けていたときに、優子先輩の隣にいた黄色いハート型のヘアクリップがトレードマーク加部先輩だ。

優子先輩と良く一緒にいて仲の良い先輩が言うのなら間違いないのだろう。だけど俺が驚いたのは、急に話しかけられたからじゃない。普段同じパートでもほとんど話さない先輩に話しかけられたからだ。

落ち着いて八幡。毎日顔合わせてはいるんだから、普通に話すだけで良いの。

 

「あ、ちなみにあのポニーテールの子はユーフォの二年ね。中川夏紀って言うの」

 

「へえ。前ちょっと中川先輩のこと、優子先輩に話聞いたことあるんですけど、…あの二人って何かあったんですか?」

 

「何かって?」

 

「なんであんな仲悪いのかなって」

 

「あー。最初のきっかけはどうでも良いことだったらしいよ。学食でコロッケパン買おうとして譲ってもらえなかったからとかなんとか」

 

「え、えぇー……。くだらねぇー…」

 

「でも喧嘩みたいにしてるけど、実際はそこそこ仲良いんだけどね。犬猿の仲だけどホントは違う、みたいな?」

 

それなら犬猿の仲とは言わない気がするんですけど。

加部先輩はそんなことよりさ、と言葉を続けた。

 

「比企谷って優子と仲良いじゃん?」

 

「……いや、そんなことないですけど。先輩達の方が仲良くないですか?」

 

「うーん。まあどうだろう。きっとそうだろうけど」

 

そうなのかよ。心の中で突っ込む。

 

「それでも優子に気に入られてるのは間違いないでしょ?帰りもよく一緒って話聞くしさ」

 

「はあ」

 

「うん。まあ比企谷がどう思ってるのかはこの際置いといて、本題はね。優子のことよろしくねって話」

 

「は?」

 

正直、意味が分からなかった。

優子先輩が何かしたのだろうか。それに俺によろしくって任されるような覚えもない。

 

「あ、違う違う。別に優子がね、なんかしたって訳じゃないんだよ。ただほら。今の見ててもわかったでしょ?優子って自分の感情に素直で一直線って感じだからさ」

 

「まあ何となく言いたいことはわかります」

 

「うん。それでね、これからオーディションもあるし、その後はいよいよコンクールが控えてて、香織先輩が最後の一年だから優子もいろいろあると思うんだ。そんな時は少しで良いの。無理とかしないで、自分優先でいいから優子のこと支えてあげて」

 

「わかりました…けど。…先輩でいいじゃないですか?何で俺にそんなことお願いしたんですか?」

 

「それはさ…きっとすぐ側には、私はいられないから」

 

「え…?」

 

「…勿論、出来るだけ頑張るけどね。比企谷は頭が良いって優子が言ってたよ。だから今のでわかるでしょ?」

 

それじゃあね。少しだけイタズラな笑顔で、しかしその裏には確実に悲しみを孕んで、加部先輩は教室を出て行った。

すぐ側にはいられない、か。きっと加部先輩は冷静に、客観的に、鳥瞰的に精査し討究したのだ。自分はオーディションには受からないことを。だから近くにはいられない、なんて言葉を置いていった。

オーディションがどうなるのかなんて、俺だって分からないのに。その言葉はまるで俺が受かると決めつけられているようで、どこか痛々しささえ感じてしまった。



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20

加部先輩と話した後、すぐには練習する気になれなくて気晴らしついでに外に出ていたら、ぱらぱらと雨が降ってきたため急いでパート練の教室に戻った。

神様ってば残酷。少しくらい休憩させてくれたっていいじゃない。雨なんて降るならさっさと帰ってしまえば良かった。

 

「あら、比企谷君。お疲れ様」

 

教室の扉を開くと、中世古先輩が一人でソロパートの練習をしていた。だが俺が入ってきたせいで、その演奏を止めてしまう。

きっと中世古先輩も高坂がソロパートの練習することに対して思うところがあるのだろう。だから誰かにソロパートを練習している自分の姿をあまり見せようとしないことに俺は気がついていた。だから今もその優しさに甘んじて、先輩がソロパートの練習をしていたことからは目をそらす。

 

「お疲れ様です」

 

「偉いね。合奏練終わったのにまだ残って練習なんてさ」

 

「今日の合奏で指摘されたことを軽く確認しとこうかなって」

 

「そっか。真面目だ。私はただなんとなく吹きたくなっちゃってさ」

 

なんとなく吹きたいと言ったが、それとは反対に中世古先輩はトランペットを置いてしまった。どこか悲しそうというか、悩んでいるような顔に庇護欲が掻き立てられる。守ってあげたいと、話を聞いてあげたいと。だから俺もいつも一人で練習をする窓際の席には行かずに、少しだけ窓際から離れた席に腰掛けた。

 

「ねえ。比企谷君はさ、今日途中で帰っちゃった葵と話した事ってある?テナーサックスの」

 

葵先輩は部長や中世古先輩とよく話していることを見かける、長い黒髪を三つ編みのおさげに仕立て上げた先輩だ。真面目そうに見える先輩だが、最近は予備校があるからと途中で練習を切り上げることも多い。そんな先輩に対して俺は三年になると受験近くて大変なんだなーとか、将来のこととか考えたくねえわーとか、でも塾は嫌だけど早く帰れて良いな羨ましいくらいにしか思ったことはなかった。

 

「話したことはないですね。何となく中世古先輩と仲よさそうくらいにしか知らないです」

 

「うん。仲良いんだ。去年までは葵と晴香と三人で遊んでた。あすかも来て、四人で遊んだこともあったっけ」

 

「へえ。なんか田中先輩とあの先輩が仲良いってイメージはなんとなくないですけど」

 

「そんなことないよ。一年生の時から吹部だったし、二人は進学クラスでも同じだしね」

 

パラパラと窓を叩く雨の音が一段と大きくなった。他の場所でも自主練習をしている部員はいるはずなのに、まるでこの空間は隔離されているかのように雨音以外の音は聞こえてこない。

本当はそんなことはないはずだ。けれどもそう思ってしまうほど、中世古先輩の少し俯きながら思い詰めているような様子に意識が持っていかれた。

思えば中世古先輩とはパートで一緒だが、いつもリーダーとして明るく振る舞っているところばかりを見てきた。

 

「でももしかしたら、その葵が辞めちゃうかも知れないんだ」

 

「……そうなんですか。やっぱり受験勉強ですか?」

 

「そういうことになってるけど…。比企谷君はさ、去年の私たちの一つ上の先輩達の話は知ってる?」

 

「まあ何となく優子先輩には聞いてます」

 

練習をしなかった去年の三年生達と、辞めていったやる気のあった一年生達。まだ彼ら彼女たちがこの部活を去ってから一年も経っていないだろうに、今年の吹奏楽部は練習しない日の方が圧倒的に少ないし、年功序列のように選ばれていたメンバーはオーディションで決まる。

 

「そっか。葵はね、去年のこともあって後輩たちに凄い慕われてるの。サックスパートでは特にね。無視とか虐めたりとかしないで、三年生と一年生の間を取り持とうと頑張ってた。……だからなんだろうなあ」

 

「急に真面目に練習とかするようになって、練習真面目にやりたいって言って辞めていった後輩達に顔向けできないってことですか」

 

「…うん。そうだと思う。凄いね、比企谷君は」

 

「…前に優子先輩が似たようなこと言ってましたから」

 

先輩と後輩達に挟まれていたのは中世古先輩も同じだ。優子先輩も今年から真面目にやることには悩まされていたが、中世古先輩にこそわかる葵先輩の苦悩というのは大きいはずだ。

挟まれて、バランスを取るというのが一番辛いと俺は思う。左右から腕を引っ張られたとき一番簡単なのは、片方の掴む腕を放してしまってどちらかに引っ張られてしまうことだ。それをどちらの手も離すまいと引っ張られたままで居続けることはとても難しくて、それはきっとできない。

何となく話すことが憚られて外を見ると、雨の中部活に打ち込んでいた野球部の連中が教室に戻っていく。きっと当初の終了予定よりも早く練習を切り上げることが出来たからだろう。その表情は嬉しそうで、隣のやつらと笑い合っている。

 

「そういえば、私今日傘持ってきてないや」

 

「あー、確かに雨予報じゃなかったですからね」

 

「こういう日に限って折りたたみ傘置いて来ちゃうんだよね。今日、いつもより持ってくる教科書が多くて」

 

「中世古先輩はあんまり教科書とか学校置いていかなそうですよね」

 

「そんなことないよー。去年までは私もロッカーに教科書入れてた。でも、今年はほら。少しは勉強しないとだからさ」

 

「そういうもんですか」

 

「そういうもんだ」

 

ふふ、と花が咲いたように笑った中世古先輩を見て少しだけ心が落ち着いた。無理して笑っていて欲しいなんて思わない。それでも、悲しい顔をして欲しいとは思わない。それが何だかんだでこんな俺のことまで面倒見てくれて、この部室でも普段からちょくちょく話しかけてくれるパートリーダーへの恩返しになれば良い。

 

「この雨だと、今日は自転車置いていくかなー」

 

「私もこれ以上は今日吹けなさそうだし、一緒に帰ろう?」

 

「……マジですか?」

 

「優子ちゃんとはよく一緒に帰ってるじゃない」

 

「あの人の場合、半ば強制みたいなとこあるし。帰ろうよって聞かれてるはずなのに、帰りなさいって命令になってるみたいな」

 

「強引なところあるからねー。あ、じゃあ私もパトリ命令って事で」

 

「えー」

 

イタズラな笑顔とはこういうことを言うのだろうか。一緒に帰ったなんて、親衛隊にばれたら異端審問会に掛けられそうだ。判決は死刑。そこまでは予測できる。

 

「それにさ、優子ちゃんと一緒で私も下の名前で呼んでよ?他の子達もみんな香織香織って呼ぶし」

 

「いや、それは本当に勘弁して下さい」

 

「うーん。しょうがないなあ。それじゃあそれは次の機会ってことにしておこうかな?」

 

「お、恩にきます…」

 

「その代わりにさ、さっきも言ったけど傘忘れて来ちゃったから一緒に入れて貰って良いかな?……なーんてね。冗談じょうだ…え!?比企谷君!口から泡吹いてるよ!ねえ!」

 



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吉川優子は、如何にしてもその結果を認めない。
1


中世古先輩と二人で相合い傘。学園のマドンナ、その名にふさわしい誰もが振り返るほどの美人と二人で同じ傘の下なんて、全校生徒誰もが憧れる夢のようなシチュエーション。傘から出てしまう肩が雨に打たれてしまうことなんてちっとも気にならない。

それじゃ雨で濡れちゃうよ、なんて良いながら中世古先輩が俺の腕を引く。触れ合う肩と肩。ちょっと窮屈だねと微笑み合った。

恋をすると世界は輝いて見えると言うが、きっとそれは嘘だと思う。だって空は雨空。太陽は出ていなく、いつもなら黄昏に染まるはずの帰宅路は雨に打たれて冷たく、俺たち以外誰もいない様子は寂寥感まで感じてしまう。

それでも心はぽかぽかと温かいなんて言うのはつくづく俺らしくない。触れている肩と引かれたままの腕が熱い。中世古先輩は掴んだ手を下ろしていき、見つけた俺の手を……。

 

「ああぁぁぁ……。バカかぁぁ俺はぁ……」

 

リビングのソファに顔を押しつけてうめき声のような声を出す。

最近は部活が終わると疲れて、リビングで横になると少し寝てしまうことがあるが、まさか夢で中世古先輩と帰る夢を見るなんて。しかも謎に恋人チックでポエマー路線。くっそ恥ずかしい…。

結局、あの後ショートした俺とあわあわとしている中世古先輩の元に、小笠原先輩がやってきて中世古先輩を傘に入れて帰って行った。だからさっき眠りながら夢で見た光景は完全な俺の妄想。

夢は人の深層心理を写すとも言うから、もしかして俺の心の奥には中世古先輩と付き合いたいという、そんな想いがあるのだろうか……。いや、ないないないない。いくら腐った目以外、顔も悪くないし頭も悪くないし基本的にハイスペックと言われる俺でも、女神レベルの優しさにアイドル顔負けのルックスの中世古先輩にはもはや全く釣り合わないし、

全校生徒の夢を奪って変に目立ちたくないし。

ただもしも夢が写したのが深層心理だというのなら、見た夢の内容が相合い傘なんて甘い物で、中世古先輩を犯すなんて夢じゃなくて良かった。社会的に終わっちゃう。うん。

 

「お、お兄ちゃん…。頭おかしくなった?目だけじゃなくて」

 

「…小町ちゃん。一言多いわよ」

 

押しつけていた頭を上げて小町の方を見ると、下着姿で濡れた頭をわしゃわしゃとしている小町が俺を完全にドン引いていた。いや、俺の方もドン引きだよ。女の子としてのデリカシーしっかり持って。家族だから興奮するとかは一切しないけど。

とは言え、こんなんじゃ誰の嫁にもやれんな。しょうがない。しょうがない。いえすっ!まだまだ小町と二人で生活する未来は明るい!

 

「お兄ちゃん、部活終わって疲れてたのは分かるんだけどさ、雨降ってたんだから濡れたまま寝てたら風邪引いちゃうよー」

 

「お前が風呂入ってたから入れなかったんだろうが」

 

「……お兄ちゃんさ、なんで今日片方の肩だけそんな濡れてるの?……も、もしかして……」

 

「待て。そんな期待したような目で見ても期待しているようなものはなにも出ないぞ。俺の新しい黒歴史だけは出てくるけど」

 

「えー、小町の期待返してー。絶対相合い傘だと思ったのに…」

 

「………」

 

言えるわけないんだよなあ。中世古先輩の相合い傘の話のこと思い出しながらぼーっと帰ってたら、いつの間にかエアー相合い傘やってたなんて。後ろからいぶかしげに見てた女子高生の視線忘れられねえわ。

エアー相合い傘までやらせるわ、夢にまで出てくるわ、中世古先輩は魔性の女なのか。でもあんなこと言われたら全校生徒絶対俺と同じ事やって、同じように黒歴史増やしてたはず。

 

「あ、そうだ。ねえねえお兄ちゃん。見てみて」

 

机の上に置かれていた紙を持って小町が俺の隣に座った。『県祭りに伴う協力のお願い』。交通規制についてや、夜間の騒音の予想などでご迷惑をお掛けするというような旨が書かれた紙を俺の前にじゃーんと掲げてみせる。とりあえず、服をきなさい。風邪引くよ?

 

「学校で聞いたんだけどね、県祭りっていうすごいおっきーいお祭りがあるんだって」

 

「ほーん。なんか聞いたことあるような気がするな」

 

携帯を使って調べてみる。

県祭りは7時頃から10時頃までは子ども連れの家族も多く、露天などを楽しみ比較的地元に住む人で賑わうようだ。

別名はくらやみ祭りと言うそうで、23時頃から25時くらいにかけて神輿を担ぐらしい。でもそれは見られなさそうだな。小町を夜遊ばせるわけにはいかないし。

 

「でねでね。お兄ちゃんは兄として、妹を楽しませる義務があると思うのです。つまりー、どういうことかっていうとー?」

 

「なるほど。妹が友達と楽しんでるときに、俺に会ったら『え、こんな奴が兄なの?ないわー』って気まずくなるから行かないようにってことか。わかった」

 

「もう、捻くれてるなー。違うよー。もしそんなシチュエーションがあったら小町、無視するし」

 

「それはそれでめちゃくちゃ酷いよね…」

 

「そうじゃなくて、一緒に行こうよ!」

 

「えー。俺人混み嫌いなの知ってるでしょー。嫌よーいやいやー」

 

「こういう時くらい、遊びに行かないと。お兄ちゃん、引きこもりになっちゃうよ?言い方が悪かったかな。お兄ちゃん、デートしようデート」

 

「甘いんだよな。世の男がデートという言葉に騙されて、ドキドキしちゃっても俺だけは騙されない。冷静に考えて金多く払って、気まで遣わなくちゃいけないとか地獄だろ」

 

「このお兄ちゃん、本気で攻略難しいな…」

 

小町が如何に俺を行かせようか考えているが、残念だが小町に重たーい俺の腰を上げさせることは出来ないだろう。如何せん、小町はアホの子だから。そのくせして人付き合いに関しては、友達とかと遊ぶくせに実は家も好きっていう次世代型のハイブリッドぼっちだからやはり人とは一長一短である。

 

「大体、なんで俺と行きたいんだよ?」

 

「それは今月お小遣いがピンチで財布…じゃなかった、たまには兄妹仲良く親睦でもどうかなって」

 

「言っとくけどお前、今全然本心隠せてなかったからな。ほぼ100%言っちゃってたから。それなら父ちゃんと一緒に行けば良いだろ?」

 

「えー、嫌だよー。面白くないし」

 

「お前、それ絶対父ちゃんの前では言うなよ。仕事辞めて明日から家族全員、家がなくなるぞ…」

 

「でもさ、折角京都に来たんだし、京都の良いところたくさん知りたいじゃん。せっかくすぐ近くで有名なお祭りやってるんだし、行かないと本当に勿体ないなって思うよ?それに小町は来年きっと受験があるからいけないだろうし…」

 

そう言えば前に小町と一緒に学校帰りに京都の美味しいお店とやらに行く約束をしていたが、結局いけていないんだったっけ。

少し離れた場所からまるで興味はないけど、うるさいから早く話しつけろみたいな目で見てる一匹もいることだし、仕方ない。

 

「はあ。分かったよ。行くか、県祭り」

 

「え、ホント!?わーい!」

 

「おい、あんま飛び跳ねんな。揺れる揺れる」

 

下着姿のまま飛び跳ねても、全く揺れることのない胸を見ると少しだけ悲しくなってくる。通読してる中学生向けのオシャレ雑誌みたいなやつにのってた、バストアップの記事にこれでもかというくらいマーカー引いてたのに一切効果出てないじゃないか。



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2

小町と一緒に行く約束をした県祭り。宇治の古風で、どこかゆったりとした雰囲気の町並みの中にも、規則的に吊り下げられた提灯や法被を着た男達が祭りの準備をしている姿などは、じっとりとした夏の暑さと共に少しずつ祭りの日が近付いているんだなと実感させた。

普段はリア充共がわきゃわきゃするだけのクソイベなんて、ただ家に帰っていつも通り部屋に籠もってゴロゴロしながら本読んで、ゴロゴロしながらゲームして、ゴロゴロするだけの一日だが今回は小町がいる。行くことを渋ってはいたものの、行くと決めたら中々楽しみなものだ。小町とのデートが。

県祭りは小町の話していた通り、宇治に住む地元の人にとっては日常から離れる一時として愛されているイベントのようで、どこか浮ついた雰囲気が端々から感じられる。

例えばこんな会話。

 

「香織先輩!あの、もし良かったら県祭り…」

 

「ごめん。あすかと晴香と一緒に行こうって言ってて」

 

「ええぇぇぇ!」

 

優子先輩、玉砕。なんだか最近、優子先輩が断られるところばかり見ている気がして、少しいたたまれない。

悲しそうにしている優子先輩の後ろを素知らぬ顔で歩いていた中川先輩が一言。

 

「邪魔だってさー」

 

「っ!うっさい!」

 

そのまま教室を出て行った中川先輩にぶつけるべき怒りはやり場を失い、泣きそうな顔でむーっと怒った表情をしている。きっと目尻を上げた視線の先には……え、俺?これは俺にありがちな見られてると思って挨拶しようとしたら、後ろの奴見てて笑われる的な勘違いか?いや、でも明らかに目があってるし…。本当に、俺が何をしたって言うんだ…。

とりあえず優子先輩の謎の視線を回避し、手に持ったトランペットを意味もなく見つめる。

 

「へー、みどりちゃん、妹さんと行くんだ」

 

「はい。毎年そうなんですー」

 

「へー。仲良いんだねー」

 

まじかよ。川島に妹いるとか知らなかったんだけど。自己紹介のときに一番自慢できるステータス持ってるとか、俺と一緒じゃん。運命感じちゃう。川島を祭りに誘って、ダブルデートしろっていう神様からのお告げなのか。いや、川島の場合は姉妹だから男女のセットで考えると、俺がハーレムのトリプルデート…。何この甘美な響き。

川島の妹の話をしている低音パートの一年組をじっと見つめているのは隣にいる高坂だ。

そう言えば高坂は誰かと一緒に県祭りに行くのだろうか。祭りとか特に興味なさそうだけど、こうして祭りの話をしている同級生達をどこか羨ましそうに見つめているのは誘いたい誰かがいたり、誘われたいという思いが少なからずあるのだろうか。

県祭りが近付いていることによるそわそわとした部内の様子は、ついこの間の一件を少しずつ風化させていこうとするようにも感じられた。

数日前、中世古先輩の予想していた通り、斎藤先輩は部活を辞めた。あまりにも突然に、しかし水面下では確かに辞める方向性へと傾いていた斎藤先輩の退部からは日が浅い。

 

『斎藤さん。ここのフレーズ、いつまでに吹けるようになりますか?』

 

滝先生の矛先がサックスパートに向いて一人ずつ演奏することになったとき、斎藤先輩は演奏せずに俯くだけだった。

それを吹けないのだと判断した滝先生の質問に変わらずに答えることなく長いこと俯いたままの斎藤先輩に、どうしたのだろうと部内がざわざわ喧噪に包ませる。その姿を見て、少しでも事情を知っている人は察したはずだ。

だから、やがて顔を上げた斎藤先輩の表情と発した言葉はあながち予想外ではなかった。

 

『…先生、部活辞めます』

 

表面上の理由は受験勉強が忙しいからという理由だが、きっとそれだけではない。

俺は関わったことがない先輩だったが、中世古先輩が放課後に話していた通り後輩達からの信頼があり尊敬もされていたようで、泣きながら辞めないでと懇願する後輩や止めている同級生がいた。

だが、結局辞めてしまった。その事実はちょうど斎藤先輩が部活を辞めた日の雨空のような陰鬱な空気を残し、ここ数日間は何となく集中が切れて悲壮感が蔓延した部活動だったと言えるだろう。祭りの訪れはそんな空気もどこかに吹き飛ばしていく。

 

「ねえ比企谷」

 

「ん?どした?」

 

他のパートのメンバーはたまたま誰もいないところを狙ったのだろうか。何となく聞きにくそうな雰囲気で高坂が話しかけてきた。

 

「塚本とたまに話してるよね?」

 

「ああ、うん。まあ」

 

「…塚本って、黄前さんと付き合ってるの?」

 

「え、何急に」

 

「同じ中学だったし、今も二人でアイコンタクトして教室出て行ったから」

 

ま、まさか。

高坂は、塚本の事が好きなのだろうか……。この時期にそんなこと気にするなんて、県祭りに誘おうとしてるとしか思えない。

そう言えばこの間勉強会したときも、加藤ちょくちょく塚本の方見ては顔赤くしてたし…。

こんな美少女にまで好かれるあいつの魅力は一体何なんだ。許せん。殺るしかないか。

 

「…あの、一応聞きたいんですけど。高坂って塚本の事…」

 

「勘違いしないで。別に塚本には興味ない」

 

いつもと変わらない無表情のまま、あまりに素っ気なく答える高坂。

 

「本当に興味ないから。この間滝先生のこと悪く言ってたし。むしろ中学生の時から思ってたけどなよなよしいというかハッキリしないというか、ああいうのって良くないと思う。男として」

 

「あ、そう」

 

そういえば以前同じ中学だと言っていた。あんまりにもズケズケ言うものだから、これは確かに違うと見切りをつけて良いだろう。ざまあみろ、塚本。

二人でマウスピースを持って水道へと向かう。

 

「じゃあなんで塚本の事?」

 

「………。ライバルだから?」

 

「何の?二人の共通点が思いつかねえんだけど」

 

「別に共通点なんてないからね。でも聞いてるのは敵の研究みたいな感じ」

 

「…相変わらずお前の言うことはよくわかんねえ」

 

「まあそんなこといいから教えてよ」

 

「うーん。黄前ってやつと話したことないし、二人の関係とかはよく分からん。ただ確かに仲良さそうだよな」

 

以前勉強会をしようと言ったときに塚本は久美子と下の名前で呼び捨てにしていたし、たまに話しているのも見かける。ただ思い返してみれば、塚本は加藤のことも川島のことも名字で呼んでいた。正直、あいつの恋愛事情なんてあんま興味ないけど一度疑問を持つと気になってくる。

高坂が扉を開いて廊下に出ると、なぜか急に立ち止まった。



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3

「うおっ」

 

思わずぶつかりそうになって、何だよと声をかけようとしたが言葉には出さなかった。声が出る前に、高坂の異常なまでに白くて細い腕が誰かに捕まれていることに気がついたからだ。

 

「ごめん、私!この子と行くことにしてて!」

 

高坂の手を掴んだのは、ちょうど今話していた黄前だった。その黄前と向き合っているのも同じように噂していた塚本で、高坂の方を見て目を丸くしている。

 

「え、高坂と?」

 

「え…?……はっ!」

 

黄前が隣にいた高坂を見てのけぞった。何でそんな驚いているのだろう。まるで『たまたま引いたガチャで強キャラ出たんだけど、使い方に困るどうしよう』みたいな表情だけど。

 

「塚本」

 

固まっていた俺の後ろには加藤が立っていた。まるで俺のことは眼中にないように塚本のことを見ている。なんか存在を認識されないこの感じ、久しぶり…。

加藤の後ろには目をきらきらとさせた川島がなにやら応援をしている。

目の前には困った様子の塚本と黄前。そしてさっきまで話していた高坂。後ろには何か神妙な表情の加藤に、興奮している川島。

真ん中に挟まれて居場所に困っている俺を余所に、話は進んでいく。

 

「ちょっと話があるんだけどいい?」

 

「え。今、久美子と話してるんだけど」

 

「行ってきなよ!行ってきなよ、秀一」

 

「……行って良いのかよ?」

 

「……うん」

 

「……あっそ」

 

ぎゅっと高坂の腕を掴む黄前の手に力が入る。それに気がついたのは捕まれている高坂とどこに視線を向ければ良いかわからないけど、なんとなく自分は空気だと思ってそれに徹する方が良いことを察した俺だけだろう。

塚本は廊下の奥へと歩いて行った。加藤も走って付いていく。

黄前の手を見ながら冷静に考える。何これ。どういうこと。全く状況が読めない。

 

「高坂。これ、どういうことなんすかね…」

 

結局、高坂に聞いてみることにした。アリスにでもなった気分だよ。高坂に誘われるがままに付いていったら、全く意味が分からない不思議の世界の中に連れて行かれた。

 

「比企谷。さっきの質問、やっぱりもういいや」

 

「は、はあ…。あっそ…」

 

だが、俺にヒントをくれるはずの神出鬼没のチェシャ猫はどこにもいない。白ウサギは謎の世界に連れて行って、謎だけを残したまま何も語らない。

結局俺は最後まで何も意味が分からないまま、相変わらず無表情なのにどこか嬉しそうにも見える高坂の隣で呆然とするしかなかった。

 

 

 

 

「では、本日の練習はこれまでにします」

 

「「「ありがとうございました」」」

 

夕暮れと共に今日の部活が終わると、せかせかと音楽室を出て行く部員に負けじと俺も慌てて教室を出た。いつも帰宅までの準備が早い俺だが、今日はいつもよりずっと早く。こういうとき挨拶をする人が少ないというのはメリットだ。

自転車を引いて校門を出て、自転車に乗って坂を下っていく。町の方はすでに祭りが始まっているようですれ違う人の中には浴衣を着て歩く人も珍しくない。

大急ぎで家に帰ると小町がすでに準備を終えて玄関で待っていた。

 

「お帰り、お兄ちゃん。ご飯にする?お風呂にする?それとも……お・ま・つ・り?」

 

「それ、もし俺がご飯って答えたらどうなんの?」

 

「それはいーっぱい出てる屋台の中から選んで食べるよ?」

 

「なるほど。じゃあ、お風呂は?」

 

「お風呂なら宇治川でスキュバってもらうしかないね。大丈夫!今日はお祭りだから、ちょっとくらい変なことしても見逃してもらえるよ!」

 

「結局三択のどれを選んでも祭りに行くのね。しかも、スキュバってもお風呂ってじゃねえし」

 

スキューバダイビングする、略してスキュバる。もう、小町ちゃん。また変な英単語作って!

 

「もう、そんなこと良いから、早く着替えてきて!小町、お腹空いたー」

 

「はいはい。わかったわかった。何食うか考えて待ってろ」

 

正直、腹を空かしているのは俺も同じだ。自転車を漕ぎながら何食べようか考えていて、絶対焼きそば食べるって決めた。

部屋に入り、すぐに制服を脱ぎ捨てて適当な私服に着替える。持ち物は財布だけでいいか。

 

「カー君はお土産何食べたいー?んー?」

 

廊下からは小町が暇潰しでかまくらにダル絡みをしている声が聞こえてきた。かまくらはきっと今頃、ぶすっと面倒くさそうな顔をしていることだろう。

 

「じゃがバタ?あんず飴?あ、もしかしてサイダーかな?」

 

食えない食えない。かまくらそれ食えないから。それ全部お前が食べたいもんだろ。かまくらの気持ちだけじゃなくて、ちょっとは俺の財布の気持ち考えてあげて。

かまくらの『なぁ…』という鳴き声は、『こいつ、頭大丈夫か…』という意味を孕んでいるようにも思えるが…。いや、それはないか。あいつも俺と父ちゃんと同じで小町に甘々だしな。

 

「シュワシュワの泡シュワシュ」

 

「え、何その曲。聞いたことないんだけど」

 

一分経ったかなくらいの時間で廊下に出ると、小町が謎にテンションの高い曲を歌っていた。

 

「サイダーの歌ー。小町が今カー君のために考えた」

 

「すげえなお前。なんか異常に小町にしっくりくるわ」

 

「え?どゆこと?」

 

「いや深い意味はねえんだけどさ。ともかく待たせたな。いこーぜ」

 

「はや。もう終わり?ちゃんと準備したの?お財布持った?折角のお祭りだし、ちょっとはオシャレに気を遣った?目、濁ってない?」

 

「おう、ばっち………いや目はいつも通りなんだけど。アンパンマンみたいに変えられるもんじゃないんだけど」

 

「まあいいや。それじゃいこいこ!れっつらー、ごー!」



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4

「たーこやきー♪わーたあめー♪じゃがバタといーかーやーきっ♪ついでにたーこやきー♪」

 

「ねえ、小町ちゃん。それ今から買おうとしてるリストじゃないよね?先に言っとくけど俺の財布の中、樋口さん一人と漱石三人くらいしかいないよ。しかもついでで入ってきて、たこ焼き二回いたし」

 

「なんだ、そんなにあるならまだまだいけそうだね!流石、お兄ちゃん。甲斐性あるぅ。あーあーあんず飴―♪さつまスティックー♪べービーカステラ、かき氷―♪」

 

「もうやめたげてよぉ。ライフとっくにゼロどころか、マイナスになっちゃってるよぉ」

 

ご機嫌な様子で歩く小町とは対照的に、俺の方はげんなり。お兄ちゃんの財布の限界を見極めて使い倒そうだなんて小町ちゃん、恐ろしい子!まあ実際のところ、働いている両親と俺に代わって家事洗濯やってくれているだけあって、金銭感覚というかお金使いにはかなりしっかりしている子だ。

むしろ電気代等の節約には手厳しくて、リビングで電気つけたまま寝たら、次の日の朝めちゃくちゃ怒られて口聞いてもらえない。どこの旦那尻に敷く奥さんだよ。どこにもやらんけどな!

夏らしいパステルカラーのシャツに身を掴んだ小町がノリノリで歩くと、ちっちゃなおへそがちらちらと見えている。妹のへそなんて家にいるときにいくらでも見ているため俺は何とも思わないが、周りを歩くモテない男子諸君はそうでもない。特に集団で来ている男子中学生。『お、あの子かわいくね?』なんてノリで小町見たら、そいつらはっ倒す。

屋台がある通りに近付くと、人がどっと増えてきた。浴衣を着ている女性だけでなく、制服で来ている人も多い。

 

「結構賑わってるんだねー」

 

「そうだな。はぐれないように気をつけろよ」

 

「りょーかいであります!あ、ねえねえお参りしに行こうよ、お参り」

 

「あー、県神社な。別にいいけど、何かお祈りすることあんの?」

 

「秘密ー。お祈りすることって、言っちゃうと叶わないんだって」

 

「確かにそれはよく聞くよな。俺の見てたアニメでも言ってたぞ、詐欺師が」

 

「…小町よくわかんないけど、詐欺師が言ってたら逆に信憑性なくなっちゃわない?」

 

また変なアニメ見てー、なんて言ってるが全然変なアニメではない。むしろアニメとかあんまり見ない人でも知ってるくらい有名なアニメだから。めっちゃかっこいんだぞ、詐欺師。憧れちゃいけないのに憧れちゃう。

 

「お兄ちゃんは?何かお願いしたいことあるの?」

 

「おお、あるぞ。俺も言わないけどな」

 

「えー。教えてよー。でも言っちゃうと叶わないなら仕方ないか。どうせ大したことじゃないだろうし」

 

「一言多いし酷いし」

 

めっちゃ大したことある願いだから。小町の健康と学力向上。できれば北宇治に来て、もう一回一年間同じ学校の生徒として生活送りたい。そのためだったら、お賽銭箱に五百円までなら入れられる。…いや、やっぱ百円までかな。

あとついでに祈るなら、専業主夫の夢が叶いますように!

 

「そう言えばさ、千葉にいた頃も二人でお祭り行ったこと覚えてる?お兄ちゃんは中学生になったばっかりで、小町なんてまだ小学生の時だったかなー」

 

「あーあれな。小町がぐずって仕方なく行ったっけ」

 

「む。そりゃクラスメイトのお友達がお母さんと一緒に行くから後でお祭りで会おうね、なんて話してるの聞いたら行きたくなるでしょうよ?」

 

「ならん。どうして敵が密集してる中に自ら行かなくちゃいけねえんだよ」

 

「うわー。クラスメイト敵なのかー…」

 

「そう思われてるだけならいいんだけどな。クラスメイトのやつら、お母さんの袖引っ張りながら言うんだぜ。『あいつ、めっちゃ暗くって何考えてんのかわかんないんだ。だから誰も話したことないレアキャラ』って」

 

「それ、お兄ちゃんの想像の話でしょ?そんなこと言わないよ」

 

「……」

 

「…ノンフィクションなの。妹ながら兄の人生に脱帽しちゃう」

 

クラスメイトのお母さんが俺に聞こえてるのに気がついて、凄い申し訳なさそうに、でも決して声を掛けることなく目をそらすんだ。それが一番キツかった。

 

「あ、ほら。お兄ちゃん。今あんまり並んでないみたいだよ。お腹空いたからなにか食べてからが良かったけど、先に並んでお祈りしちゃおっか!」

 

小町に手を引かれて列に並ぶ。大きな神社でもないし、あくまで来ている人は祭りを楽しむことがメインなので、十人も並んでいない。あっという間に俺たちの番が来て賽銭箱の前に立った。

 

「お、ラッキー。俺ちょうど五円玉あるわ」

 

財布の中にはご縁がある五円玉が入っていた。さっきまで百円入れるとか言ってたけど、こういう時って運良く五円があると優先して使いたくなっちゃうんだよな。母ちゃんなんて結構、お参り好きで、何なら趣味は御朱印巡りと温泉ってよく言ってるだけあって五円玉を集めている。

 

「うわー小町、十円玉しかないや。どうしよう?」

 

「別に良いだろ。こんなの気持ちの問題だって。俺の五円と交換しても良いぞ?」

 

「うーん。やっぱりいいや。冷静にお兄ちゃんの二倍の額をお賽銭箱に入れたらお兄ちゃんよりお願いが叶いそうかなって」

 

「比べるもんじゃねえよ」

 

ま、いいけど。妹の踏み台になるのって兄としてはご褒美だもんな。

ぱんぱん、と手を叩いて頭を下げる。さっき考えていた通り、今年も四人プラス一匹の愛する家族に健康を。

共働きをしている父ちゃんと母ちゃんには、しっかり働いて家族の生活を守って貰わなくちゃいけないし、小町には将来専業主夫として養って貰えなかった場合に俺の面倒を見て貰わなくちゃいかん。かまくらは我が家の癒やし。

 

「お兄ちゃんに友達が出来ますように。お兄ちゃんに友達が出来ますように。欲を言えばお兄ちゃんのお嫁さん候補が現れますように」

 

小町、言っちゃってる。お願い事は言ったら叶わないってさっき言ってたばっかりじゃん。だから俺に友達できないんじゃないの?顔だって目以外はそんなに悪くねえのに彼女出来ないし。小町の優しさと現実のギャップに涙が出てくる、ぐすん。

 

「小町。そろそろ行くぞ?」

 

「うん。ばっちりお願いした!今度こそ、色々食べて回ろっか」

 

「焼きそば食いてえ」

 

「えー家でも簡単に食べられるよ。お兄ちゃん、カップ焼きそばよく食べてるし」

 

「ばっか、お前。カップ焼きそばと家で作る焼きそば。屋台の焼きそばに海の家で食べる焼きそば。これ全部全然違う食いもんだから」

 

「言いたいことはよくわかるの。でも冷静に考えるとなー」



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5

「お祭りのたこ焼きも良いけど、折角大阪近いんだし、道頓堀で本場のたこ焼き食べてみたいかも」

 

「やっぱイカ焼きうめえなあ」

 

「あ、小町にも一口ちょーだーい」

 

「いいけど、今食べてる焼き鳥の飲み込んでからな」

 

「飲み込んだー。はい、あーん」

 

「ほいよ」

 

普通なら男の理想とも言えるあーんも、相手が妹だと全く何とも思わない。いや思わないって言うのは嘘だ。『ありがとっ。うっま』と、嬉しそうにしているのを見るとこっちも嬉しいし、イカ焼きを頬張りながら『うっま』、とかどこの仕事帰りのおっさんだよみたいな反応されると何か色々とそれなりに心配にはなる。

そんな感じで小町と食べ歩きながら少しベンチで休んでいると、遠くから声を掛けられた。

 

「おーい。比企谷くーん!」

 

「お?この声…まさか…!」

 

くぅ、お祭り来て良かった。ラッキーハッピーエンカウント最高!

呼ばれた方を見れば、俺の目に狂いはなかった!こっちに向かって走っている川島が二人。ん?俺の目に狂いは…なか………った?

 

「あれ小町。俺もしかしたら本当に目がおかしくなったのかな?」

 

「本当に目がおかしいのは昔からだよ。それより誰々?」

 

「あー吹部の同級生の川島ってやつなんだけど…あれー?」

 

「お待たせしました。比企谷くん」

 

「…おまたせ」

 

いつも通り敬語で話してくる川島と、どこかまだたどたどしいながらも可愛らしく話しかけてきた川島。

落ち着け、冷静になれ。まずベーシック川島は通常通り俺の目の前にいるじゃーん。そのベーシックと手を繋いでいるのは…いや、どう見ても川島だよな。まさに小さい川島。いつか夢に出てきたさふぁしば?でも夢の中のさふぁしばはもっと小さかったというか妖精みたいなやつだった。さふぁしばは幻想種だから違う。じゃあ、この可愛すぎる子は一体…。

 

「えーと。とりあえずお疲れ?」

 

「はい。お疲れ様です、比企谷君。ところでお隣の方はー…もしかしてもしかして!比企谷君の彼女ですか!?」

 

「違います違います。いつも兄がお世話になってます。妹の比企谷小町です」

 

「えー。比企谷君の妹さんなんですか!?あんまり似てないから、みどりびっくりしちゃいましたー。初めまして。私、川島みどりって言います。比企谷君と同じ吹奏楽部です」

 

「ご丁寧にどうもー。いやー、まさかお兄ちゃんに部活で友達がいるなんて。小町ちょっと感動しちゃいましたー。それも女の子なんて」

 

「そんな大げさですよ。あんまり話すタイプではないですから一人でいることもありますけど、すっごく頭も良くて面白いし、人一倍練習してる頑張り屋さんですよ」

 

「うう、優しい…。まさかこんなことを聞ける日が来るなんて、小町今日が命日でも良いかも。あの、ところでそちらの手を繋いでいるお顔がそっくりな方は…?」

 

「あ、すみません。この子は妹の琥珀です。ほら、琥珀。比企谷君と小町ちゃんに挨拶は?」

 

「…こんにちは」

 

「うっひゃあ。可愛いなあ!なんか川島さんをそのままミニチュアにしたって言うか、そっくりですね」

 

「はいー。よく言われます。ほら、琥珀。比企谷君にも」

 

「…ぞんび」

 

「あ、こら琥珀!そういうこと言ったらダメですよ!」

 

「うわー。お兄ちゃん見て川島さんの後ろに隠れるのもまたかーわいいなー。ね、お兄ちゃん?」

 

「……」

 

「…お兄ちゃん?」

 

「あの、比企谷君?…おーい」

 

「ダメだ。こうなるとお兄ちゃんの机の一番上の引き出しの奥に入ってる……」

 

「うぉい!止めろ!俺の黒歴史を掘り起こそうとするな!つーか何で知ってるの本当に?」

 

「そりゃ小町はお兄ちゃんのことなら何でも知ってるもん。あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「…?お兄ちゃんって俺のことか?」

 

「は?どしたの?頭まで腐っちゃった?」

 

「そりゃ腐ってるよ。当たり前だろ。俺ゾンビだし」

 

「……ぞんび」

 

「もう。琥珀!」

 

「ほら、琥珀ちゃんが言ってるなら間違いないだろ。ぐへへへへ」

 

「…みどりちゃん、こわい」

 

「お、おおおお兄ちゃんが琥珀ちゃんの可愛さでおかしくなっちゃった!」

 

 

 

 

「ふぅ。取り乱してすいませんでした」

 

「いえいえ。何とか元に戻ってよかったです」

 

「うん。さっきまでのお兄ちゃん、目だけじゃなくて本当に腐ってたもん。腐敗臭した。お父さんみたいに」

 

「そこまで?本当に?」

 

父ちゃんのは腐敗臭じゃなくて加齢臭だし。小町、父ちゃんに最近辛辣すぎない?中学生だしちょうど今が反抗期なの?

 

「それにしても再現度高いよなあ…」

 

天使のような川島と、全く同じ顔でロリになったみたいな琥珀ちゃん。

そりゃ天使の妹は天使だろうとは思ってたけど、まさかここまで天使だとは思わなかった。兄妹で遺伝子引き継がなかった典型例みたいなのがちょうどここにいるから、琥珀ちゃんは姉妹できちんと引き継いでいてくれてありがとう。産まれてきてくれてありがとう。

 

「ええ!小町ちゃんは中学生の時からずっとユーフォやってるんですね」

 

「そうなんですよー。本当はお兄ちゃんがトランペットやってたから小町もトランペットが良かったんですけど、余ってた楽器がユーフォで。でもでも、今はユーフォで良かったって思ってますけどね!」

 

「楽器とは見えない運命の糸で結ばれていますから。そう思えるならきっと小町ちゃんのユーフォも幸せですね」

 

「ですかね、なんか照れる!いやー川島さんみたいな先輩がいるなら、小町も北宇治行きたいなー!」

 

「そしたら低音パートで一緒に練習できますね。楽しみです!小町ちゃん。みどりも小町ちゃんって呼んでるから、みどりでいいですよ?」

 

「本当ですか?じゃあみどりさんって呼んでもいいですか?」

 

「はい。もちろんです」

 

「うぅ。みどりさーん。これからも愚兄のことよろしくお願いしますね…!」

 

がしりと手を握り合う二人。天使同士お互いシンパシーを感じているようで、二人が打ち解け合うのは早かった。

川島の紺色の浴衣には白い音符と真っ赤なハートが踊っている。今の川島のテンションと小町への好感度も、同じようにハートや音符で溢れかえっている。

さて。仲良しな二人を余所に、俺もありったけのコミュ力を振り絞って話しかけてみよう。

「琥珀ちゃん、美味しいものは一杯食べれた?」

 

「…なにも」

 

「そっか。今から買おうとしてたのかな?何か食べたいものはある?」

 

「…りんごのやつ」

 

「ああ。リンゴ飴ね。あとで見つけたら買おうか」

 

「…ほんと?」

 

「うん。お兄ちゃんはね。嘘吐かないよ」

 

「…ありがとう。おにーちゃん」

 

「ふぁぁあぁん!」

 

何この可愛い生き物。抱きしめたい抱きしめた抱きしめたいーー!

 

「そうだ。お腹空いてる?小町がたこ焼き持ってるけど?」

 

「…くうくうおなかがなりました」

 

「……う、うん?」

 

「…くうくうおなかがなりました」

 

「…琥珀ちゃん。その言葉はどこで覚えたのかな?」

 

「…わかんない」

 

「そっか。琥珀ちゃん。その言葉は言っちゃダメだよ。お兄ちゃんぶるぶる震え止まらないから。ちょっと怖くて泣いちゃいそうだから」

 

「…はーい」



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6

「…みどりちゃん。ねむい」

 

「比企谷君と小町ちゃんと張り切って遊んでたから疲れちゃったのかな?」

 

「そろそろ解散にしましょうか。小町達も大分色々回れて疲れちゃったし」

 

本当に疲れた。もうしばらく夏祭りは行かなくて良い。

何と言っても今日のハイライトは、ボールすくいをやってラメの入ったキラキラのボールを取ってあげたときの琥珀ちゃんだろう。名前の通り、キラキラしたものに目を輝かせている様子はやっぱりまだ幼い子ども。子どもと触れ合ったの久しぶりすぎて、当たり前のことに感動してしまった。

琥珀ちゃん、一週間に一回くらい部活遊びに来てくれないかな。そしたら俺今の十倍は頑張れる。

 

「そうですね。みどり、ちょっと気になってることもありますし」

 

「え、何?まだどっか寄ってくの?」

 

「いえ、寄っていくとかではないんですけど。女の子同士のお楽しみというか」

 

「あーなるほどなるほど。何と言っても今日はお祭りですしねー。やっぱりそういうのってあるに決まってますよねー」

 

「全然わかんないんだけど。なんでそんなに主語ないのに話通じてんの?エスパー?」

 

「お兄ちゃんには一生縁がない話だよ」

 

うっ、うるせえよ。こちとら縁がある話より、ない話の方が圧倒的に多いから選択肢多すぎてわかんねえんだけど。

 

「あはは。そういう訳で、みどりたちは帰りますね」

 

「みどりさん、是非また遊んで下さい!琥珀ちゃんもね!」

 

「勿論です。比企谷君はまた明日」

 

「おう。お疲れさん。琥珀ちゃんお休み」

 

「…おやすみ」

 

川島の腕の中で目を擦りながらも、俺たちに頑張って手を振ってくれている琥珀ちゃん。きっと今の俺、めちゃくちゃニヤニヤしてるな。小町もニヤニヤしてるし。

 

「さて。んじゃ大分おそくなったし、俺たちも帰りますか」

 

「そうだね」

 

二人で歩いて帰る帰路。財布は少しだけ軽くなったが、まあ許容範囲内。むしろそれ以上のものを得られた。

 

「いやー。小町すっごいリフレッシュできちゃったよ」

 

「俺もだ」

 

「ね?たまには外に出て遊ぶのも悪くないでしょ?」

 

「ああ。川島姉妹と外で遊ぶのは悪くねえな。今度行くときは、小町も浴衣着れば?」

 

「なんで?みどりさんの浴衣可愛かったから?」

 

「可愛かったなあ。マジエンジェル」

 

「そういうの直接言ってあげれば良いのに。きっと喜ぶよ?」

 

「そうかあ?」

 

「そうだよ。でも小町は嫌だな。何かカップルみたいじゃん」

 

「……それもそうか。おっしゃる通りで」

 

小町と歩いていると、どうも千葉にいた頃のことを思い出してしまう。永遠の故郷、千葉。あの頃は当たり前だった海から来る風はここに吹いてくることはない。京都の暗くて静閑な夜、山々の隙間から見えるこの幾千の星が降るような空は千葉で見れただろうか。まだ千葉から出てきて数ヶ月なのに、あの頃の記憶は思っているよりも遠くに置いてしまった。

それはきっと、やっぱり今の部活の影響が大きいのだろう。毎日が忙しく、何かに追われるように練習をする日々は間違いなく千葉にいた頃よりも早く流れている。

 

「みどりさんと琥珀ちゃん見てたらさ、やっぱりなんかお兄ちゃんと千葉にいた頃に行ったお祭りのこと思い出しちゃったんだよね。さっきちょっと話したやつのこと」

 

「なんで?」

 

「んー。何となくだけど」

 

「言っとくけどお前。あの時全然俺と手繋いだりとかしてなかったぞ。すぐ友達のとこ行くし、迷子にならないか心配だった」

 

「そりゃそうだよ。恥ずいし。……でも、そう考えると今日はちょっと寂しいこともあったかも」

 

「…さっき会った、お前の中学の友達と一緒に祭り回らなかったこととか?別に良かったぞ。あの頃とは違って、もう子どもじゃないんだから。そしたら俺だって一人で帰ったし」

 

「違うよー。そうじゃなくって」

 

「じゃあ何よ」

 

小町はそこで少し間を置いた。俺たちが歩く音だけが響いている。

視界の先には帰り道に通る公園があって、なんとなく今日は寄っていきたい気分になった。

 

「京都に来て初めて二人で出かけたけど、お兄ちゃんの知り合いが一杯いてさ」

 

「いや、話したの川島くらいだったろ?すれ違って挨拶するくらいで、世間話の一つもしてねえぞ」

 

「でも千葉にいた頃とは大違いだよ。知り合い見つけたら、わざと顔逸らしてたじゃん」

 

「今もそうしてる。余計なコミュニケーションは取らない」

 

「なのに挨拶とかだけでも話しかけてもらえるようになったのは、偉大な一歩だと小町は思います。…まあでも名前覚えられてなかったのはお兄ちゃんらしいけどね」

 

「……あいつらなー。まあ吹奏楽部あるあるだろ。俺もあいつら知らねえし」

 

多分、ホルンパートの奴らだったんだと思うんだけど曖昧。わかんねえんだったら無理に挨拶しなくて良いのに。

そう言えば、その後に低音のチューバの二年生の二人はきちんと挨拶してくれたけど、もしかして付き合ってるんだろうか。仲良さげだったし、結構お似合いな気がする。いつもならリア充許せんと思うが、今日に限っては名前覚えていてくれたから許しちゃう。

 

「なんかお兄ちゃんが離れて行っちゃうみたいで、ちょーっと寂しいけど、小町的にはすっごいポイント高いよ。最近のお兄ちゃん」

 

「…いや離れてくつもりとかないから。むしろ一生ついて回るから」

 

「うへー。それはなんか気持ち悪くて嫌だなー」

 

小町の先にはいつもの公園。月明かりの先にあるいつものベンチを視界が捉える。

 

「…あ」

 

「ん?どしたん?」

 

ベンチに座っている人影には覚えがある。というかあんなにわかりやすい人はいない。ポケモンだーれだのシルエットだけでポケモン当てるやつでも、あの人ならばわかるだろう。

その特徴的なリボンは今日も健在だった。



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7

「もしかして、また吹部の人?」

 

「まあ。同じパートの先輩」

 

「え、じゃあ挨拶してきなよ。小町待ってるし、先に帰ってもいいし」

 

「いや、それじゃ小町が危ねえだろ。いいよ。どうせ明日会うんだし」

 

「いいからいいから」

 

「よくねえって。ほら帰ろうぜ」

 

「あれ、比企谷?」

 

小町との言い争いで気がついたのだろう。優子先輩は俺たちの方を見ていた。

隣で小町がぼそっと、『うわっ、可愛い』と言ったのが聞こえてきて、間違いなく距離的に優子先輩には聞こえていないだろうに何故だか俺が少し照れくさい。

 

「あー。どうもです」

 

「うん。お疲れー…」

 

近付いてみると、優子先輩の手には赤い金魚が入った袋が握られていた。浴衣ではなく、いつも通りの普段着だが袋の中を所狭しと泳ぎ回っている金魚はミスマッチではない。俺たちと同じように祭りを楽しんできたのは明瞭だ。

 

「……もしかして、彼女?」

 

「違います。妹です」

 

「いや、流石に無理あるから。全然似てないもん。まさか、あんた……誘拐?」

 

「やってないやってない」

 

何で誘拐疑われるの?そんなに怪しい俺?怪しいか。主に目が。

 

「あはは。初めまして。いつも兄がお世話になってます。妹の比企谷小町です」

 

「う、嘘!比企谷の妹!?全然似ていないんですけど!?特に目が!」

 

まるで幽霊でも見たかのように俺たちを凝視している。いささか失礼だが、もうこの人は思ったことははっきりと言ってしまう性格なのがわかっているので仕方ない。

 

「あ。私は比企谷と同じ部活で一つ学年が上の吉川優子です。比企谷とは同じトランペットパートでいつもお世話に…なってるかしら?」

 

「そこはとりあえず妹の前だし、なってるってことにしといて欲しかった…」

 

「まあ確かに、帰りよく自転車に荷物入れさせて貰ってるしね」

 

「それじゃただの荷物持ちじゃねえか」

 

「え、もしかして前にお兄ちゃんが一緒に帰る先輩がいるって言ってたの…」

 

「たまにですけどね」

 

「マジですか!?これはこれはいつも捻くれ者のお兄ちゃんと仲良くしてくれて、しかも一緒に帰ってくれてどうもどうもですー。あの、小町の方が年下なんで全然ため口でいいですからー」

 

「あ、うん。じゃあそうさせてもらうわ。私も優子でいいから」

 

これが比企谷の妹…?どこで教育間違えたら、こんなにコミュ力に差が出るの…?

ぼそぼそ言ってるの、全部聞こえてるんだよなー。

なにやら思案している優子先輩を余所に、小町が俺の裾を引いた。

 

「お兄ちゃんお兄ちゃん。優子さんの家この辺りなんでしょ?」

 

「ん?そうだな。家の場所までちゃんとは知らないけど、割とここから近いらしいぞ」

 

「お兄ちゃん、これはチャンスだよ!」

 

「は?何がだよ」

 

「もう夜も遅いし、家まで送っていってあげて好感度爆上がりのチャンスに決まってるでしょ?いつかじゃない。今なんだよ」

 

「何、その無駄にかっこいい台詞。ちょ、小町背中叩かないで!いたいいたい」

 

「わ。ちょっとお兄ちゃん。頭ぐしゃぐしゃしないでよ!うー」

 

「仕返しだよ。仕返し」

 

「……」

 

「ん?どうしたんですか?そんなぽかんと口開けて」

 

「な、なんか妹さんの前だといつもと違うわよね。元気っていうか」

 

「そうですか?自分じゃよくわかんないですけど、俺いつもこんなもんでしょ?まあ確かに妹のことは愛してますけどね」

 

「ちょっとお兄ちゃん。二人の時はいいけど、そういうの外で言うの止めてよ」

 

「もしかして、あんたシスコン?」

 

「いや千葉の兄妹はみんなこんなもんですから」

 

「でた。千葉県民もらい事故」

 

「あー優子さん。お兄ちゃんたまに…、いや。結構意味わかんないこと言いますから、そういうときは構わず訳わかんないこと言ってんじゃねえって言ってやって下さい」

 

「うん、わかった。訳わかんないこと言ってんじゃないわよ。気持ち悪!」

 

「さりげなくパワーアップさせるの止めてもらっていいですか……」

 

二人の笑い声が俺たち以外には誰もいない公園に響く。県祭りの実施場所から離れてしまえば、さっきまでの喧噪はまるで幻だったように静かで、街灯の光しかなく真っ暗。だからこそ、何となくこうして公園のベンチに集まって話しているのがいつもの部活終わりの帰宅時にここに寄って帰る時以上に特別な気分にさせた。

 

「さて、それじゃあ小町は先に帰りますね!」

 

「うん。それじゃあね。二人とも」

 

「うす。お疲れさ……」

 

「お兄ちゃん。送ってってあげなかったら、小町家に入れないからね」

 

亭主関白にも程がありますよ。初めて言われたけど、思ったよりも心に刺さるんだなこの言葉。世の中のサラリーマン、仕事帰りに奥さんにこんなこと言われたらそりゃ社会人になってお父さんになっても泣くわ。

ぺちぺちと未だに叩かれている背中は行けのサイン。やれやれ。

 

「……優子先輩。あの、俺送っていきますよ」

 

「へ?どうして?」

 

「それはほら。あれがこうでこうだから…」

 

「ああなるほど、…ってならないわよ!いいわよ。別にこっから近いし」

 

「優子さん。お兄ちゃんは暗いし遅いから心配なんですって。だから送られてあげて下さい。これでも犯罪者に襲われたとき盾くらいにはなってくれますよ?」

 

「盾になるのは嫌ですけど、本当に送ります」

 

このまま引き下がると、後で小町に殺されそうだから。心なしか最初と比べて、小町背中を叩く力が強くなってきている。

 

「いいやでも、その理論だと小町ちゃんも…」

 

「おぉっと、しまったー!小町、門限七時なのすーっかり忘れてたー!そういうわけで小町は先に帰りますから!」

 

「お前の門限、数時間以上前なんだが」

 

「ちっちゃいことは気にしない。それわかちこわかちこー。さて、優子さん。今後とも兄をよろしくお願いしますね。それでは」

 

「あ、うん。ばいばい」

 

小町のあまりに突然の帰宅に、呆気にとられている俺たち。走って帰る妹の帰宅姿はこころなしかスキップするかのように軽い足取りだ。

それにしても、小町のネタが古すぎるんだよなー。



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8

スマホが振動して画面を見ると、メッセージが一つ。

 

『やっほー。お兄ちゃん(^^)無事帰宅したから、安心して帰ってこなくていいからね!』

 

「帰るのはっやいな。あいつ」

 

安心して帰ってこなくていいって何だよ。何も安心できないよ。むしろ帰ってこなかったら、俺の心配をしてよ。

 

「もう家ついたって?」

 

「はい」

 

「比企谷家ってここから本当に近いんだね」

 

「そうですね。歩いても五分はかからないんで」

 

「じゃあ、学校にも私より近いわけだ。私の家、この公園から五分以上かかるもん」

 

優子先輩はベンチからゆっくりと立ち上がった。薄い水色のロングスカートも一緒にふわりと舞い上がる。

 

「さて、そろそろ私たちも帰りましょうか。……で、どうするの?」

 

「っていうと…」

 

「そりゃ送っていってくれるのかってことに決まってるじゃない。私は別にどっちでもいいけど」

 

「そうですか。それじゃあ…」

 

ぶーぶー。普段は鳴らない携帯が振動する。開いて確認すると、また小町の名前。

メッセージは確認しなかった。何となく俺を早く送り届けるように催促するような気がするから。

 

「……」

 

「何でそんな急にキョロキョロしてるのよ?」

 

「いや。小町、帰ったって言ってまだどっかからか見てるんじゃないかなって」

 

「流石にそんなことないんじゃない?」

 

「まあいいや。それじゃ、あの。…えっと…。お、おおお送っていきましゅ」

 

「ぷぷっ」

 

「…」

 

死にたい。でも家まで送りますってかなり緊張するから。東京の狼たちは平気な顔してこんなこととか、逆に『この後家来る?』なんて言えるのかよ。あいつらからしたら、もはや俺うさぎだわ。

 

「ふふっ。あ、ありが……ぷっ」

 

「いや笑いすぎですから。やっぱり俺もう帰る」

 

「ごめんごめん。でも顔が真っ赤だし。ははっ」

 

「くっ。穴があったら潜り込みたい。そんで一生出てきたくない…」

 

「それ死んじゃうから。ふー。やっと収まった。さて、それじゃあ帰りましょうか?」

 

「……」

 

「そんなむすっとしないで」

 

「別にしてないですよ」

 

「してるから。…言っとくけど、私だって結構緊張してるのよ?」

 

「え?」

 

「男の子に家まで送って貰うのなんて初めてだもん。なんか思っていたより照れるわね。こういうの」

 

いつも通り横に並んで歩く。いつもと違うのは、日が落ちようとしている夕方ではないことと、自転車がないこと。そして隣で俺を見上げる優子先輩の頬が少し赤く染まっていることだけだ。

それに気がついて、すぐに横を向いた。きっと勘違い。暗くてよく見えなかっただけ。だから早く、俺の心臓の鼓動収まれ!

こういうときはそうだ。最近はしずかちゃんの入浴シーンは規制の影響かあんまり見られなくなってきたから、のび太の入浴シーンを変わりに想像しよう。……無理だ!

 

「…ちょっと。何か話しなさいよ?」

 

「え、急にそんなこと言われても。えっと、そう言えば最近はしずかちゃんの入浴シーン、しずかちゃんが水着つけてることがあったんですって」

 

「は?」

 

「あ、しずかちゃんってドラえもんのね。ほら、しずかちゃんと言えばお風呂のイメージがつよ…」

 

「いや。そういう意味で聞き返したんじゃないから。知ってるから、そんなこと。……はぁ。あんたに話振ってなんて期待した私がバカだったわよ」

 

さっきまでドラえもんのことを考えていたせいで、咄嗟に出た話もドラえもんのことだった。ドラえもんの話ダメだったら、何の話しろって言うんだよ。ドラえもん、何とかしてよお!

 

「そう言えば、優子先輩って今日の祭り誰と行ったんですか?」

 

「友恵と……猿女」

 

「猿女?変態の駿河さん?」

 

「いや、誰よその人。違う違う。きーきー五月蠅いから猿女」

 

「あー、もしかして」

 

「そうよ。夏紀よ夏紀」

 

犬猿の仲と評される、優子先輩とユーフォの中川先輩。でも一緒に祭りに来るってことは加部先輩の言っていた通り、本当に仲が悪いわけではないのだろう。

 

「あいつ、射的で私が狙ってた景品落として勝ち誇った顔して…。しかもそういうときってその景品狙ってた私にくれてもいいじゃない。それなのにポケットにしまって『これ前から欲しかったような、欲しくなかったような』とか言って、本当は興味ないくせにくれないのよ?ひどくない?」

 

「あーまあうん」

 

「あー!思い出しただけでも腹が立ってきた!」

 

二人って、本当に仲良いんだよな?

 

「そう言えば、途中滝先生と美知恵先生に会ったわよ。二人で県祭りの見回りしてて」

 

「いたんですね、先生達。部活終わったのに、まだ残業とか大変だ」

 

「そうね。あんまり羽目外して遅くなりすぎないようにって言われた。でも滝先生は、折角のお祭りだから楽しんでいきなさいって。比企谷は誰かに会った?」

 

「川島と川島の妹と一緒に祭り回ってたんですよ」

 

「そうだったんだ。川島って確か、コンバスの子よね?ちっちゃくて可愛い」

 

「そうです。あの天使みたいな」

 

「いや、そこまでは言ってないんだけど……。比企谷のくせに女の子に囲まれてお祭り回るとか生意気よ」

 

「いやなんすかそれ?」

 

少しだけ頬を膨らませて、軽く腕を小突かれた。何これ、可愛い。川島にやられたら体力回復しそう。

 

「あとホルンパートの奴らにも会いましたよ。ほら、あのジト目の先輩とか黄色のリボンでツインテールにしてる奴とかいる」

 

「海松とララちゃんでしょ?先輩は別に良いけど一年生の名前くらい覚えなさいよ」

 

「いや、でも俺も名前覚えられてなかったし」

 

「へえ。なんかララちゃんって一年生の中ではかなりの情報通って聞いたけど。あの子にちゃんと覚えられてないとか流石じゃん」

 

「べ、別に良いし。大体……」

 

「きゃっ!」

 

「っ!」

 

たまたま優子先輩に物申そうと思って見ていたのがラッキーだった。何かに躓いて前に倒れていく優子先輩。危ないと思うと同時に、視覚の時間精度が狂ったその瞬間はやたらとスローモーションに映った。

パシ、っという乾いた音が響く。

 

「……あ」

 

「あぶねー。大丈夫ですか?」

 

「うん」

 

振り向いた優子先輩の顔が目の前にある。その差は十五センチくらい?それとももっと近いだろうか。先輩の顔が近いことにだけ意識が向かって距離感覚なんて全く判断できないが、徐々に赤くなっていく優子先輩の顔と同じように俺の顔も熱を帯びていくことだけが分かった。

 

「あ、あああああの」

 

「す、すんません」

 

恥ずかしくなって、腕を放してぱっと二歩分くらい距離を取った。

つーか、咄嗟のことだったから全然気にしてる余裕なんてなかったけど、掴んでる先輩の腕ほっそ!しかも柔らかかったし…。強く掴みすぎて赤くなっているのが申し訳ない。

 

「いやいや。謝らないで。き、金魚も落とさなくて良かったし」

 

ゆらゆらと揺れている金魚が入った袋を手で押さえて止めた。

 

「ほら、何事もなく済んで良かったわね?比企谷にありがとうは?」

 

「……金魚の記憶時間って三秒らしいですよ。あ、もう助けられたこと忘れましたね」

 

「…何でそういうこと言うのよ……。でも、本当にありがと……」

 

ぽすっとさっきと同じように腕を叩かれる。髪に隠れて表情までは見えないが、耳が赤く染まっていて何となくそわそわと落ち着かない。

 

「……」

 

「……」

 

「…そ、そう言えばさっき話したしずかちゃんの入浴なんですけど、最近はバスパウダーが出てるんですって。何でもしずかちゃんだけじゃなくて、ドラえもんにのび太君、さらに何とジャイ子バージョンもあるとか!」

 

「……無言で気まずくなると、ドラえもんの入浴に関わる話するの確定なの?なんで?」



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9

「県祭りがあるからさ、すっかりお祭り気分で考えないようにしてたけど、もうオーディションすぐね」

 

等間隔で並んでいる街灯を見ながらぼーっと歩いていると優子先輩が話を振ってきた。俺とは対照的に目線を下げて、自身が持っている袋の中を泳いでいる金魚を見つめている優子先輩。

夏の暑さには似合わない優子先輩の寂しげな表情と、真っ赤な金魚を包むゆらゆらと暗い夜を映し出している水。何気なく過ぎ去って行く夜の夏のワンカット。俺は上の空で空返事をした。

 

「葵先輩が辞めちゃって、私少し考えたの」

 

「何をですか?」

 

「改めてオーディションでメンバー選んじゃっていいのかなって」

 

「滝先生がそう決めたんだから、従うしかないじゃないですか?」

 

「それはそうだけど、納得してオーディションをするのかしないのかは違うじゃない?」

 

「まあそうだとして、結論は?」

 

「うん。結論は出なかった」

 

「……」

 

「葵先輩ってさ、私の代のみんなに慕われてたんだよね。香織先輩と同じで、去年私たちと先輩の間を取り持とうとしてくれてて。だから葵先輩が辞めた理由が受験勉強だけが理由じゃないってわかってる。今年から真面目にやろうなんて虫が良すぎるんじゃないかって。私もそう思ってたのよね。だけどさ、最近の皆は必死に練習してるじゃない?全国目指すってなあなあで決めちゃって、さっき比企谷が言ってた通り滝先生に言われるが儘に練習してただけなんだけど、それでも皆を見てると大切なのはきっと今なんだって。真面目に練習しようとしてた子達が辞めるのを止められなかったのは事実。だけど、こうして残った今はきちんと練習して本当に上手くなってコンクールで良い成績残そうって。それならより良い成績を残すためにオーディションでメンバーを選ぶのは仕方ないし、きっと正しいの。それでも…」

 

「オーディション形式になるなんて夢にも思わなかった先輩達がコンクールに出られないのは、みたいな?」

 

「…うん」

 

金魚は泳ぎ回る。同じ場所をぐるぐると。きっと今の優子先輩も同じなのだろう。同じ事を考え続けて結論は出せずにいる。

 

「比企谷はやっぱり今でも先輩達優先で出るべきだって思う?」

 

「…俺は……」

 

『先輩、私今年のコンクール出たいです』

 

『えー。でもあんたまだ一年でしょ?うちの部活、基本的に上級生優先で出場するんだけど』

 

『だって、コンクールでないんじゃモチべーション上がんないですよー。私、今年出れないんだったらもう部活辞めますから。部の友達に一緒にバンドやろうって誘われてるんです』

 

『そんなこと言われても…』

 

パートリーダーがちらりと俺を見る視線を感じた。ここで俺が出場したいと言えば、何かが変わったのかもしれない。

ただそれは結果論だ。俺は何も言わなかったし、このときに戻っても何も言うことなんてなかった。

実力よりも優先されるものがある。中学生の頃の俺はそのことを理解していた。納得したつもりでいた。

けれど。

 

『優子のこと支えてあげて』

 

『みんなでオーディション、受かったら良いな』

 

『私はあんたにも出て欲しいなって。上手いのに勿体ないじゃない』

 

加部先輩の言葉。塚本の言葉。優子先輩の言葉。

 

「俺は…」

 

「…わかんないわよね。でもね、私はちゃんと決めていることもある」

 

「なんですか?」

 

「確かに結論はでなくても、オーディションは絶対に受かりたいって。私、努力しているのに報われないのってやっぱり嫌だからさ。中学のとき結構頑張ってたのに、ダメだったの今でも悔しいし、今だってみんなそうだけど毎日毎日やる気出して練習してるのに、コンクールでダメだったっていう結果以前にオーディションにさえ受からないなんて悔しい」

 

「…さっきまで色々考えてたのに、急に感情的ですね」

 

「悪い?」

 

「いや、優子先輩らしいと思います」

 

「でも、比企谷もそれでいいと思う」

 

「え?」

 

「あんた、頭良いからきっと色々考えてると思う。だからさっきの質問の答えだって出ないのかもしれない。それでも一番大切なのは比企谷がどうしたいのかだよ。勿論、実力で落ちちゃうかも知れないけど、少なくともコンクールに出たいのに周りの誰かを気にする必要なんてない。だって比企谷もトランペットパートの一人で頑張ってる一人なんだから」

 

「……」

 

「いい?わかった?」

 

「はい」

 

「よろしい。はい、到着っと。ここ私の家」

 

「おー。……普通の一軒家」

 

「でしょ?普通に普通でしょ」

 

「はは。そうですね」

 

「ふふ。わざわざ送ってくれてありがとう。楽しかったわ」

 

「いえ。あの…」

 

「……私ももっとよく考えてちゃんと答え出すからさ、比企谷の結論もいつか聞かせてね」

 

「…はい」

 

「それじゃあ。また明日、部活で」

 

手を振りながら玄関に向かっていく。片手を上げることでそれに答えたが、優子先輩は玄関の扉に手をかけると振り返った。

 

「オーディション、絶対受かりましょ?」

 

「はい」

 

今度こそまたね、と別れの挨拶と共に家に入っていく優子先輩。

夏の夜がまだ少し風が吹いていて涼しくて良かった。色々と思うところについて考えようとしていた頭が少しだけクリアになる。思い返してみれば今日はボリュームが詰まった日だった。

 

「つっかれたなあ。色々」

 

突くように出た言葉とは裏腹に、俺の口角は少し上がっていた。

 



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10

「今注意した点を重点的に、パート練習を進めてください」

 

「「「はい」」」

 

「先生、クラなんですけど」

 

「はい。この後来て下さい」

 

「フルートもお願いします」

 

「はい」

 

県祭りが終わりオーディションが近付くと共に明らかに各パート、そして個人個人の練習に熱が入っていた。他のパートの足を引っ張らないようにと、パート練ではリーダーを中心に合わせた後には反省点が上がることが増えたし、個人練では何かに追われるかのように楽譜を前に楽器を吹く時間が長くなっていく。

そんな中、トランペットパートでも全員がすぐに気が付くほどの変化が起きていた。

 

「すいません。私、個人練いきます」

 

「あ、うん。頑張って」

 

「はい。ありがとうございます」

 

全員の視線が高坂に向いている。高坂が個人練に行くのなんて、別に珍しいことでもないのにこうして見つめているのにはやはり理由がある。お嬢様を使用人が送り出しているわけでもない。

高坂が教室の扉を閉めたのを確認してから、優子先輩が口を開いた。

 

「…ねえ、比企谷。やっぱりどう考えても、高坂変わったわよね……?」

 

「優子先輩。もうそれ、今日六回目……」

 

どんだけ気になるんだよ。確かに明らかに変わったし、パートの全員気が付いて目を丸くしていたけど。俺もその一人。

 

「なんで?急にあんな上達するなんて…」

 

オーディションの直前にして、高坂麗奈の謎の上達。急に演奏に色が出た。

元から俺たちの中でも技術面は圧倒的にレベルが高く、今回の課題曲自由曲にしろハイクオリティで吹いてはいた。しかし、そこにこれまでの演奏にはなかった表情が加わった。その理由が何なのか。気になっていない人間はいないだろう。

そのせいもあってか、逆に他のメンバーの演奏はいまいち光らない。優子先輩は今もそうだがどこか焦っている感じがするし、中世古先輩は穏やかに笑ってはいるが、その美しい笑顔の下に何か隠しているようでその表情はいつか見た表情と同じだ。

 

「もしかして、恋とか…!」

 

加部先輩がぽっとつぶやいた言葉に、今度は全員の視線が加部先輩に集まった。

 

「いや。いやいや。いやいやいやいや」

 

「で、でもでも。恋すると人は変わるっていうし、演奏だって!中世古先輩もそう思いません!?」

 

「え、私?うーん。私は誰かと付き合ったこととかないからわかんないよー」

 

「うー。気になるなー。他にどんな可能性あるかな?」

 

「あ、お祭りでイケメンにナンパされたところを助けられたとかは?」

 

「いや先輩、それなんの少女マンガですか?」

 

急に恋愛が絡むときゃっきゃと盛り上がるところはやっぱり女子らしい。特に高坂みたいにミステリアスな一面があるやつは可能性の塊。おまけに美人なものだから、そういった想像は膨らむものだ。

それにしても、恋か。

かの有名な音楽家のシューマンはピアノの天才の名を欲しいがままにしていたクララとの結婚式の前の日の晩、その表紙に『わが愛する花嫁に』と書いた楽譜を手渡した。これが後のシューマンの有名な歌曲集である『ミルテの花』。

そういえば、いつか高坂がドヴォルザークの『新世界より』を吹いていたが、その彼も素直に告白できない自身の想いをこめて十八曲からなる歌曲集である『糸杉』という甘美なメロディーを残したんだっけ。

愛と死は音楽にとって永遠のテーマ。だが、それにしたって。

 

「ふっ」

 

「うぇ。キモ」

 

「酷すぎるんだよなあ…」

 

「だって急ににやって笑うんだもん。キモいでしょ」

 

「キモいキモい言わないで。昔のこと思い出して、肝が冷えるから。キモいだけに」

 

「は?」

 

「あ、すいません」

 

優子先輩の直球過ぎる罵倒や冷たい目線は、夏服に変わったのにまだ堪える夏の暑さにはちょうど良い。いや、ちょっとキツすぎるか。

 

「それで何で急に笑ってたのよ?」

 

「いや、高坂がそんな恋愛脳だとは思えなくて。ほら、あいつ恋愛とか目もくれずにトランペット吹いてそうだから。恋人はトランペットみたいな。大体、女ってのはなんかが変わるとすぐ恋愛と結びつけたがる」

 

「そうー?私はそんなことないと思うけど。っていうか比企谷何か知らないの?同じクラスだし」

 

「いや何も知らないですけど」

 

「むー。香織先輩香織先輩!」

 

「ん?どうしたの優子ちゃん?」

 

「このままだと気になって練習できないし、聞きに行きましょうよ!」

 

「いや、でも高坂さんだって真面目に練習してるんだよ?水を差すようで悪いよー」

 

「えぇー。ちなみに香織先輩は何でだと思います?」

 

「うーん。勿論、誰かを好きになったとか、お祭りで誰かと一緒に出かけたって言うのは可能性としてはあるかなって思うけど…。でも、意外と些細なことで好きになっちゃうもんだよね。駅のホームで毎日会ってたり、職員室まで重い荷物を運ぶときに持ってくれたり、後は……そうだ。この時期だとお祭りで転びそうになってるところを助けてもらったりとか!」

 

「「っ!」」

 

「?どうしたの二人とも?」

 

「な、何でもないです!」

 

「……ごほっ。中世古先輩。それ何の経験ですか?」

 

「全部少女マンガだよ。晴香の家でよく読むんだ。かっこよくて憧れちゃうよ」

 

「そういうのはマンガで見るから良いんですよ」

 

「そういうもんなのかなー。まあいいや。それよりほら、私たちも練習しよう」

 

「はい。俺も個人練行きますね」

 

「あ、うん。わかったよ。頑張ってね」

 

「ありがとうございます」

 

そそくさと教室を出てきたが、怪しまれてはいないだろうか。

県祭りの夜を思い出して顔に熱が上がってくるのを感じてしまった。念のために鏡で自分の顔を見てみると…もう大丈夫か。いつも通り血色が悪い。良かった。

さて、気を取り直して練習だ。練習。出てきたばかりのパート練の教室からは、まだトランペットの音は聞こえてこなかった。

 

 

 

 

さっきまで高坂が急に上手くなったなんて話で持ちきりだったが、中世古先輩だって凄く上手くなった。初めて中世古先輩がトランペットのソロの部分を吹いているのを聞いたのは、高坂と一緒に教室を出たときだったが、あの時と比べて努力したことは明白で音はスムーズで綺麗に出せている。

中世古先輩は普段パートリーダーとして、練習メニューを組むことや纏めることは勿論、困っている部員に対しての指導も行わなくてはいけない。パート内の誰しもが何らかの形で頼ってしまっている。朝練にも参加していて、放課後は大体、パートメンバーの誰よりも帰るのが遅い。部長の小笠原先輩と仲が良く、部長に付き合って残っているというのもあるのだろう。しかし、それでもこうしてきちんと時間を作ってソロパートの練習をしていた。

個人練を終えて帰ろうとしていたところで、一人で練習をしていた中世古先輩が渡り廊下で練習するのを見つけたので隠れてこっそりと聞いてしまったが、なんだか無性にまた吹きたくなってきた。

 

「おー。凄い。高いところの音、安定してる。難しいんでしょ?」

 

ちょうど俺がいた校舎と反対側から出てきたのは小笠原先輩だった。

盗み聞きは良くないと思いつつ、思わず練習してた場所に戻ろうとする足をその場に止める。

 

「あすかにこの前言われたからかな。神頼みしても意味ないって」

 

「そっかあ」

 

「…私ね、去年のことがあったから揉め事とかないようにって、それだけちゃんと出来れば良いって思ってた。でも、私、三年生なんだよね。これで最後なんだよね…!」

 

「…うん」

 

「三年間やってきたんだもん。最後は吹きたい。自分の吹きたいところを、思いっきり」

 

「じゃあ、ダメだったときはお芋買ってあげる」

 

「夏だよ?」

 

「だから私が探し回らないようにして」

 

「ふふ。変な励まし方」

 

思えばいつも、パートの練習では笑って話を聞いている所ばかりを見てきた。勿論、本当に楽しいと思って笑っていることの方が多いはずだ。でもパート内の空気を少しでも穏便にするために笑わなくてはいけないときだってあった。

それはほとんど話さず、教室の端で吹いている俺に話しかけてくれたこと、そしてソロパートの練習をしている高坂の姿や、それを良く思わない周りの部員を止めるとき。

中世古先輩は小笠原先輩の前だからこそ話せた本音。いつだって人間関係で揉め事だけは起こさないように、もう誰も辞めさせることなんてないようにと振り向いてきた優しさ。当然の物であるといつの間にか甘受してしまっていたその行動の中には、ちゃんと願いと強さがあった。

 

「あ、降ってきた」

 

「流石、部長」

 

雨が急にざあざあと降ってきて、二人が反対側の校舎へと走って行く。

 

「…よし」

 

三年間かけてきた人間には、その三年間の努力と部への貢献を評して労いを。どうか先輩の願いに幸があらんことを。

先輩がソロパートを吹くべきだ。素直にそう思う。中世古先輩はそれ相応の人間だし、多くの部員がそれを望んでいる。それは中学生の頃の自分の肯定でもあり、県祭りの夜の優子先輩の質問への解答だ。



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11

「ではこれより、オーディションを始めます」

 

「私たちが参加するA編成でのコンクールは一チームにつき最大五十五までしか参加することができません。つまり、ここにいる何名かは必ず落選してしまうことになります。皆さん、緊張していますか?」

 

「してまぁす……」

 

涙声の素直な意見に教室の張り詰めた空気が少し緩まった。滝先生も目を細めて笑っている。

 

「ですよね。ですがここにいる全員、コンクールに出るのに恥じない努力をしてきたと私は思っています。胸を張って、皆さんの今までの努力を見せて下さい。…では、始めます」

 

「「「よろしくお願いします!」」」

 

まず始めに行うのはホルンから。音楽室の外には椅子が並べられていて、先生に呼ばれた人がオーディションをしている間近い順番の人は座って待っていることとなる。

パート毎にいつもの練習する教室に集まれば、少しでも緊張を解そうと話しているパートもあれば、練習をしているパートもある。トランペットは完全に後者だった。

その理由はいつも会話の中心にいる中世古先輩が真面目に練習していることがあるだろう。それもあって全員が少し離れて自分が不安な部分を練習しているが、どこか殺伐とした空気とも言える。だが、そんな空気が気まずくはない。それだけみんな真剣なのだ。

そうして待っている時間は意外と短かった。

 

「すいません。今チューバの先輩達がやってるんですけど、次トランペットです」

 

がらがらと教室が開くと、立っていたのは加藤だった。加藤が俺に気がついて片手を上げる。軽く頭を下げてそれに応えた。

あんまり不安そうな顔をしていない。上手くいったのだろうか?

 

「一年生から順番で、まずは一年生の三人。その後に最初の人が終わったら、二年生を呼ぶようにとのことです」

 

「うん。わかった」

 

「それじゃ、行きますね」

 

吉沢の一言で俺と高坂も立ち上がる。高坂はフックに掛けていた指を一度話すと、トランペットを力強く見つめてそれから持ち上げた。

 

「あ。待って。三人とも」

 

「?なんですか?」

 

「うん。皆に言っておこうと思って。あのね、トランペットパートから選ばれるのが何人かわからないけど、全員が選ばれることは絶対にないと思うんだ。だけど私たちはライバルじゃなくて、同じ部活で同じパートになった仲間だよ。一年生の三人は入部してから不真面目な部活だと思って入部したら急に真面目に練習するようになって、大変だったけど今日まで付いてきてくれた。二年生は去年いろいろあったけどこうして残ってくれていて、三年生はこれが最後のコンクール。この中に誰一人として四月から真面目にやってこなかった人なんていない。私は全員が頑張ってきたこと、ちゃんと知ってるし分かってる。それは皆も同じでしょ?だから誰が選ばれても、言いあいっこなしで素直に応援してあげよう」

 

「香織先輩…」

 

「それとあと、もう一つ。皆、今日は全力で頑張ろうね!」

 

「「「はい」」」

 

優子先輩が中世古先輩に『香織せんぱぁい。好きですぅ』と良いながら抱きついた。それを見て皆が笑って、やっといつものトランペットパートらしくなった。

 

「おー、トランペットパート、なんかかっこいいかも…」

 

「かっこいいのは、パートじゃなくて中世古先輩だけどな」

 

「お、比企谷」

 

「どうだった?あんま不安そうな顔はしてないけど」

 

「うん。なんか緊張してあっという間だったよ。でも、自分の全力は出し切ってきたかなって」

 

「そっか。そりゃ何よりだ」

 

「うん。比企谷も頑張りなよ」

 

「ああ。まあぼちぼちな」

 

「はっきりしないなあ。そう言えば、オーディション終わったらまたこの前勉強会したメンバーで打ち上げしようよ」

 

「えー…」

 

「嫌そうだなー」

 

「……だってどうせ塚本目当てだろ?それなら俺いらなくね?あいついれば良くね?」

 

「……うわ。忘れよとしてるのに嫌なやつ……」

 

「え、なんて?良く聞こえなかったんだけど?」

 

「なんでもないよーだ、バーカ!」

 

「急に罵倒された…」

 

べーっと舌を出して走りながら、低音パートの教室に向かっていく加藤。だが、笑顔で最後に振り向いて。

 

「塚本も言ってたでしょ?皆でコンクール出れたらいいなって。私もそう思ってるから!頑張って!」

 

あいよ。その言葉を掛ける前に加藤は走り去ってしまった。

 

「ほら、比企谷。早く行かないと」

 

「ああ。行くか」

 

一年三人で歩いて音楽室に向かっているとふと思った。

そう言えば、俺たちが三人でいるの珍しい。もはや初めてじゃなかろうか。

低音パートの一年組なんてしょっちゅう一緒にいるのに、この差はなんだろう。俺は寡黙でクール。高坂はミステリアスで粛々としてる。吉沢は静かめだし、割とマイペース。それに対して低音は天使と運動部テンションのやつがいるからなこの差だな。今も音楽室に行くまで会話一切ねえし。

ただこうして冷静に考えると、俺たちって上級生達からしたらかなり絡みにくいんじゃなかろうか。別に構ってちゃんではないから、相手にされないならされないで別に良いんだけど。

 

「ねえ。楽器毎に学年は一年から順番って決まってるけど、学年が同じなら誰からでも良いって言ってたじゃん?どうする?」

 

「俺は別に何番でも」

 

「私も」

 

「じゃあさ、私最初でいい?」

 

「おう。じゃあ俺二番でいいや」

 

「良かったあ。私二人の後は嫌だったんだよね」

 

「別に何番に吹いたって変わんないでしょ?」

 

「変わるよー。待ってるときに聞こえる演奏でショック受けそうだもん」

 

トランペットパートに宛がわれた教室から音楽室まではそう遠くはない。あっという間に付いてしまえば、教室で中世古先輩の話を聞いたり、加藤と話していたからかもうチューバの最後の一人が終わったところだった。

 

「お疲れ様です」

 

「…うん。お疲れ」

 

県祭りでたまたま会ったときも思ったが、この先輩相変わらず大きいな。チューバだってかなり大きく重たいが軽々しく持っているようにさえ見える。

 

「…頑張れよ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

俺たち三人に一言だけ残して、先輩は教室に戻っていった。

 

「それじゃ行ってきまーす」

 

「うん。頑張って」

 

「ありがと。…失礼します」

 

ちらりと中を見ればどうぞ、と笑っている滝先生と相変わらず眉間に皺を寄せている松本先生が見えた。



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12

ドアが閉まれば、残ったのは俺と高坂の二人だけだ。

 

「…さっきから力入ってるぞ?緊張してんのか?」

 

「さっきからって?」

 

「教室いて練習してるときから」

 

「そう?あんまり自覚なかった」

 

「あんま緊張することねえだろ」

 

「うん。別に緊張してるわけじゃないの。ただ気合い入ってるだけ」

 

高坂の真っ直ぐな瞳が俺を射貫く。しばらくお互い無言だったが、やがて高坂はふっと笑った。

 

「頑張るって約束したから」

 

「頑張るって誰と?」

 

……まさか、最近噂になってた……。

 

「か、彼氏?」

 

「………そんなようなもんかな」

 

「いや、そんなようなもんって」

 

「女の子だから、その子」

 

「……もしかしてお前って、その…百本くらいお花咲いてる的な?吹奏楽部に多いって聞くし」

 

「よくわかんないけど、多分比企谷が思ってるのとは違う。私好きな人いるし。あ、男性ね」

 

「え、まままマジで?めめめめっちゃ気になるんだけど」

 

「それはダメ。秘密」

 

いたずらに笑う高坂は確かに全く緊張してなさそうだ。気になる気になる。気になってオーディションなんてどうでも良くなってきた。いやそれは良くない。

 

「比企谷の方は?緊張してない?」

 

「おう。まあな」

 

「…もしかして、手を抜いて吹くつもり?」

 

「いや、怒ってんの?別にそんなつもりないけど」

 

「……それならいいけど。前に先輩優先で出た方が良いとか言ってたし。全国目指すって言ってるのに、まだそんなこと言って弱気だそうとしてるのかと思った」

 

「……」

 

「何、その無言」

 

「しょ、正直に言うとそう思わないって訳じゃないんですよね。今でもそう思ってる。むしろ高校になってその気持ちちょっと強くなった」

 

「ほら、やっぱり」

 

「それに全国目指すって言ってるけど、未だに全国に出れるとは思えない」

 

「……」

 

渡り廊下でソロの練習をしていた中世古先輩。三年生にとっては最後のコンクールでかける想いは俺なんかよりずっと強い。

中世古先輩が言っていたが、ちゃんと知っている。部員が練習する様子を見てきた。中学生の頃なんて見たこともないくらい真剣に俺たちは練習を重ねてきた。

それなら出場枠は譲るべきなのかも知れない。それに俺は吹けるならそれでいいと思っていたはず。

 

「…だけどまあ」

 

『オーディション、絶対受かりましょ』。そう言って振り返った優子先輩。

 

「…出たいからな、俺が」

 

「……それは誰かとの約束?」

 

「まあ、そんなようなもんかも」

 

「じゃあ受からないと。約束破るような男は最低だから」

 

「男のハードルたけえぞ。先生とか上司に怒られてるときなんて嘘吐いて、責任誰かになすりつけまくってっから」

 

「ふふ。前から言おうと思ってたんだけど、私、比企谷の捻くれてたり妙にリアリストっぽいこと言うの嫌いじゃない」

 

「そ、それはどうも」

 

音楽室の扉が開く。トランペットを持った吉沢の表情は入る前と全く変わらない。

あぶねえ。ちょうど俺の番が来て良かった。ドキッとしたわ。普通に。

 

「んじゃ、行くわ」

 

「頑張って」

 

「頑張れ。それじゃ私は二年生呼んでくるね」

 

「おう。失礼します」

 

「どうぞ」

 

手元にある紙にまだ何かを書いている滝先生と、やっぱり怖い松本先生の前にぽつんと置かれたいつもの椅子。座れば少しは緊張するかと思っていたが、全くそんなことなくて少し驚いた。

 

「さて、それでは比企谷君のオーディションを始めます」

 

 

 

「失礼しました」

 

オーディションは割と早く終わった。最初にいつから始めたのかなどの質問を受け、演奏は決められていた部分と、滝先生の指示で吹いた部分が二カ所で合計三カ所のみ。こういうのって早く終わるとすぐに見限られて終わった感あるんだけど、どうなのだろう。

 

「お疲れ様」

 

「おつかれー」

 

「お疲れ」

 

「それじゃ私行きますね。失礼します」

 

俺と入れ違いで入っていく高坂はいつも通り背筋が真っ直ぐ伸びて不安なんて一切感じられない。誰からも応援の言葉がなかったのは掛ける必要性がないと判断したからだろう。

俺たちが待っていた席には二年生がすでに待機していた。優子先輩と加部先輩と滝野先輩。入る順番に座っているのなら、次は優子先輩だ。

 

「お疲れ。良かったじゃない」

 

「そうですかね?すぐに終わりましたけど」

 

「まあ後は結果待つだけね」

 

「緊張してますか?」

 

「ちょっとだけ」

 

「……頑張ってください」

 

「うん。ありがと」

 

「……あ、あと加部先輩と滝野先輩も…」

 

「え、うん。ありがとう!」

 

「…おう。さんきゅー」

 

普段あまり絡まない後輩からの激励に、二人は驚いていたが素直に受け取ってくれた。

 

「なんか比企谷から言われると思ってなかったからビックリしちゃったよ」

 

「社交辞令で。一応」

 

「お前、それめっちゃ余計な一言…」

 

「あはは。ホントだよ」

 

「社交辞令とか言いつつ、照れすぎだしね」

 

ぱしっと足を叩かれる。

 

「ちょ、なんすか優子先輩?」

 

「せっかく応援するなら、ちゃんと目を合わせて言ったらもっと良かったんだけどね。でも二年生、頑張るから」

 

優子先輩の言葉に加部先輩が優子先輩の肩を組んで、滝野先輩はぐっと親指を上げた。

音楽室から聞こえてくる高坂の音は、相変わらず綺麗でこんな狭い場所に収まっていられるか、という様な感じさえする程力強い。

それでもここにいる先輩達が自信をなくさないで吹いて欲しい。

 

「んじゃ俺、教室戻りますから」

 

「うん。また後で」

 

さて、オーディションの結果はどうなるのだろう。教室に戻る足取りは決して軽い物ではない。それでも重くはなくて、何となくトランペットパートは中世古先輩の言っていた通り、誰が選ばれても上手くいくはず。少なくともこのときまではそう感じていた。

だが、ここは吹奏楽部。オーディションのメンバーで問題なんて起きないはずがないのに、楽観視して甘い考えに浸ってしまっていた。

結果発表。その瞬間から束の間の安寧は、崩壊へと動き出す。



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13

オーディションから数日後。いつもとは異なり、一年生は机の運び入れがなかった。練習を始める前に、五十五人のA編成のコンクールメンバーの発表が行われるためである。

俺は一人、教室の端に佇む。部員達を見渡してみれば、何かを紛らわすかのように必死に話している部員達が多かった。そう見えるのは各々が実際にそう考えているからなのだろうか、それとも俺自身が何か感じているところがあってそう感じてしまっているのだろうか。

オーディションで受かりたいという感情も受け入れてしまえば、案外素直に受け入れられるもので、やっぱりそこそこ真面目に練習していただけあって、結果が付いてくるのかという不安はあることにはある。自販機で買ったばかりのお茶は、気がつけば半分くらいなくなった。

だが松本先生が教室に入ってくると共に、あーだこーだと話していた部員達は少しずつ静かになっていった。完全に無音が支配して松本先生は口を開いた。

 

「それでは合格者を読み上げる」

 

松本先生のぴしゃりとした言葉と共に、音楽室にはオーディションの緊張がよみがえる。ぎゅっと手を握り合わせる者。ただ真っ直ぐに松本先生を見つめる者。不安そうに瞳が揺れている者。

 

「呼ばれた者は返事をするように」

 

「「「はい」」」

 

ただ、ほぼ全員考えていることは同じだろう。どうか早く終わって欲しい。そして名前を呼んで欲しい。

 

「まずパーカッション。田邊名来」

 

「はいっ!」

 

順番に呼ばれていく部員達の名前。呼ばれなかった部員は落選。涙を流す部員がほとんどだ。特に三年生は今回を逃せば、もう次はない。

すすり泣く声が聞こえてくる。教室の端を陣取ったことを後悔した。ここからは部員達の様子がよく見えてしまう。

泣いている部員、それを励ます部員、ただじっと前を見つめているだけの部員、選ばれたことを申し訳なさそうにしている一年生。こんな場で声を大にして喜べる部員なんて誰もいなかった。

メンバー選考がここまで重たいものだったなんて。中学生の頃からコンクールの度にメンバーの選定は行われてきたが、それでもここまで緊迫感が漂っていなかった。

早く。トランペットパートはまだか。俺たちのパートはまだ呼ばれない。

 

「チューバ。後藤卓也」

 

「…はい」

 

「長瀬梨子」

 

「はい…!」

 

「続いてコンバス」

 

思わずぐっと息を呑む。本人を見ることはできず、咄嗟に目線を下げた。

加藤の名前が呼ばれることはなかった。コンクールに出たいと努力していても選ばれない。

 

「川島緑輝」

 

「はい」

 

加藤が呼ばれなかったこともあって、絶対に呼ばれるだろうとわかっていても緊張してしまっていた。それでも川島が呼ばれたのは素直に嬉しい。

目線を上げて、川島の方を見ると今まで見たこともないくらい真面目な表情で松本先生を見つめていたが、俺の視線に気がつくとぐっとガッツポーズを送ってくれた。

 

「塚本秀一」

 

「はいっ!」

 

高校からトロンボーンを始めた塚本は自分が選ばれるのが難しいと言っていた。それでもこうして選ばれるのは本当に凄い。やるなと褒めてあげよう。口には出さないけれど、その気持ちは目線に込める。

だが塚本が俺の視線に気が付くことはない。ぐっと強く握り、誰かと喜びを共有しようとした塚本の腕は相手が見つからずそっと静かに降ろされた。

さて、他に楽器はない。おそらく次だ。やっと。

 

「では、最後にトランペット。中世古香織」

 

「はい」

 

「笠野沙菜」

 

「はい」

 

良かった。トランペットパートはとりあえず三年の二人は呼ばれた。

 

「滝野純一」

 

「はい」

 

「吉川優子」

 

「はい」

 

「高坂麗奈」

 

「はい」

 

「比企谷八幡」

 

「…はい」

 

呼ばれた。かっと胸が熱くなる。

俺はコンクールに出る。出るのだ。

 

「……優子、頑張って」

 

「……当たり前じゃない」

 

ぼそぼそという声が聞こえてきた。視線は正面に向けながらも、優子先輩の手を握っているのは加部先輩。

トランペットパートの二年生で唯一落選してしまった。その表情は俺からは見えない。以前話していたが、きっと自分でも薄々落ちてしまうのではないかと思っていたのだろう。優子先輩に掛ける声は弱々しいものでも、掠れているわけでもない。

一年で落ちてしまった吉沢は相変わらず表情からは何を考えているのかわからない。だけど、その手が強く握られているのが見えてしまった。

 

「以上六名。ソロパートは高坂麗奈に担当してもらう」

 

「はいっ」

 

「えっ」

 

そんなことはつゆ知らず。教室の前にいた優子先輩が、まるで悲鳴のような驚きの声を上げた。

教室にざわざわと衝撃が走り、全員の視線が高坂に集まる。多くの部員達は中世古先輩がソロにならないわけがないと思っていた。例え、今回のコンクールは実力で選ばれると言われていても、どこか中世古先輩がやるはずであると。

 

「それではコンクールメンバーの発表は以上である。今回選ばれた者はコンクールに向けて全力で練習に勤しめ。また、落選した者もB編成としてコンクールが控えている。私はコンクールが終わるまでB編成の指導を務めるが、今回落ちたからと言って努力を怠ることは許さん。A編成に優る心意気で練習に励むように。以上だ」

 

「…はい」

 

「どうした?声が小さいぞ。もう一度」

 

「「「はい!」」」

 

「よろしい。それでは部長、この後は任せる」

 

「は、はい」

 

どこか部員達が上の空なのは当然メンバー選考の結果のこともあるだろうが、中世古先輩がソロでなかったことも大きい。実力で選ぶとは、そういうことだ。ソロも実力で選ぶと滝先生は言っていたのに。

 

『三年間やってきたんだもん。最後は吹きたい。自分の吹きたいところを、思いっきり』

 

中世古先輩の願いが叶うことはなかった。

 

「はい。じゃあ練習するから一年生は椅子を運んで」

 

小笠原先輩はいつも通り指示を出す。中世古先輩を応援していた小笠原先輩。今回の結果に少なからずショックを受けたはずだが、いつも通り部長を全うしようとしている小笠原先輩。何だかんだでやるときはやる先輩なのだ。

一年生がいつもより準備に時間を掛けて椅子を運び込んだが、それでもその後の練習がコンクールメンバーの発表で浮つくことなくいつも通りに、もしくはメンバーに選ばれた責任と自覚からいつも以上に引き締まった練習になったのはきっと部長の力なのだろう。



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14

「課題曲は今のペースが良いでしょう。コンクールは自由曲と課題曲を合わせて各校十二分。勿論、その時間をオーバーしてはいけませんが、焦って曲を台無しにしてしまうのはもっといけません。今のペースを忘れずにいきましょう。十分、時間内に収まります」

 

「「「はい!」」」

 

「では、本日はこれまでにします」

 

「「「ありがとうございました!」」」

 

メンバーが決まった翌日以降の練習は思っていたよりもずっと、練習に身が入っていた。並べる椅子が五十五席と少なくなって、ほんの少しだけ広くなった。その変化が俺たちが学校を代表して全国を目指すのだという実感を与えたのだろう。先生からの指摘は些細なことでも譜面にメモをし、上達するために何をするべきかを明確にしている。

人間はほんの少しのきっかけで変われるのだ。最近は暑いからと、風呂上がりにバラエティーパックのピノを一粒食べることが一日の中で一番の幸せだと言っている小町も、『がーーーん!夏なのに太っちゃった!毎日ピノ食べてるからかな!?それとも、昨日はピノ我慢できなくて三粒食べちゃったからかなー…』と自身の体重の増加に割とガチで泣いていた。

ピノの一粒二粒で体重かわらんだろ。それより妹の幸せが小さ過ぎて、何だか泣けてくる。

 

「あの、先生。リストに書いてある毛布って?」

 

「毛布です。皆さん、家にある使ってない毛布を貸して欲しいんです」

 

「でも、毛布って何に使うんですか?」

 

「それは当日のお楽しみです」

 

そんな滝先生の爽やかーな憎たらしい笑顔。俺のすぐ側ではトランペットパートの三年コンビである、中世古先輩と笠井先輩が譜面を見て話している。

 

「ここの音が上手くいかないんだよねー」

 

「テンポが急に変わるところだからね。後で重点的に練習しようよ」

 

「うん。ありがとう香織」

 

何だかんだでモチベーションが上がっている部員達。

それらを余所にオーディションの結果が発表された日からまるで感情をなくしてしまったかのように落ち込んでいる先輩がいる。

 

「お疲れ様でした」

 

「…あ、うん。おつかれ……」

 

高坂の挨拶に答えた優子先輩は何とも気まずそうだった。

 

「……お疲れっす」

 

「……ん」

 

俺には挨拶すらねえのかよ…。

優子先輩がこうなった理由は明白だ。中世古先輩がソロになることがなかったから。

 

「……ねえ」

 

「…なんすか?」

 

「比企谷は…やっぱ香織先輩よりも高坂の方が上手いと思う?」

 

「オーディションで滝先生の前でどんな演奏をしたのか知らないから分からないですけど、いつも通りの実力を余さずに高坂が出せたって言うんなら、まあ納得は出来ますね」

 

「そう…よね」

 

優子先輩はそっと俯いてまた黙り込んだ。

本当は優子先輩だって分かっていた。俺たち一年が入部して、楽器を選ぶときに軽く吹いた時点で高坂はトランペットパートで誰よりも上手い事なんて。香織先輩よりも上手いからこそ時折敵意を孕んだ視線を送り、高坂がソロの練習をしていることを良しとしなかった。

 

「ねえ、比企谷。私……いや、やっぱり何でもない」

 

「いや、その気になる感じで終わらせるのやめて下さいよ」

 

「こんな音楽室でみんながいるところで話すようなことじゃないかなって。そのうち帰りにでも話すから」

 

「えー。帰りは小町が待ってるし早く帰りたいから、今の方が都合いいんですけど。人目なんて気にしなくて良くないですか?どうせ誰も聞いてないし」

 

「それ、あんたが言う?私と話してると注目されるからって、今だってわざと私から結構離れて話してるくせに」

 

「うっ。それはほら。俺のこと気になってる誰かに見られて変に噂とかされたくないし、目立ちたくないからっていうか」

 

「まあ別にいいけど」

 

それに俺なんかと訳わかんない噂になって迷惑掛かるのは先輩の方だろう。

そんな俺の様子は気にすることなく、優子先輩が何となく中世古先輩の譜面をぱらりと開いた。

 

「…香織先輩……」

 

そこには赤い文字で大きく、『ソロオーディション 絶対吹く!』と書かれている。

見てはいけないものを見てしまった気分になった。中世古先輩の最後のチャンスで本当に叶えたい、いや叶えたかった心の底からの真っ直ぐな願い。一枚めくれば開ける譜面が、パンドラの箱のようにさえ感じられた。

 

「高坂ってラッパの?」

 

「はい。ララ、聞いちゃいました」

 

優子先輩がそっと小さな手で譜面を閉じると、ホルンのメンバーの話し声が聞こえてきた。高坂、という言葉に俺も優子先輩も目線を送る。

確かあの自分をララと言っていたやつは情報通なんだっけか。県祭りで会ったときに俺の名前は覚えていなかったけど。別に根に持ってる訳じゃない。本当に。それにしても変わった名前だ。

 

「へー。知らなかった」

 

「あっ…」

 

そのツインテールララが俺たちに見られているのに気がついて顔を逸らした。怪しい。絶対なんか隠してる。

 

「…比企谷。同じ一年じゃない。聞いてきてよ」

 

「嫌ですよ。なんで俺が」

 

「困ったらフォローしてあげるから。こういうときにコミュニケーション取っとかないと。共通の話題を持つことは基本よ」

 

「別に必要以上に話す必要とか…」

 

「いいから早く行く!」

 

「うおっ!」

 

優子先輩に思い切りホルンパートの奴らの方に向かって背中を押された。まだ話してもないのに、ツインテールララはめちゃくちゃ気まずそうな顔をしている。

コミュニケーション取っとかないとなんて言うが、もうあの評定されちゃってる時点で、話しかけないで欲しいって言うコミュニケ-ジョンが成立しちゃってるんだよなあ…。かなりばっちり意思疎通ができている。

 

「あ、え、えーと…」

 

ララがやっぱり気まずそうに俺に反応すると、そこで初めて他の面々は俺の存在に気がついたらしい。流石俺。存在感の無さはピカイチ。

 

「す、すまん。なんか高坂の話が聞こえてきて」

 

「別にあんたには関係なくない?」

 

「つーか誰?部員?ララ、知ってる?」

 

「高坂さんと同じ、トランペットパートの一年生ですよ。名前はヒキタニ君」

 

「ヒキタニ?そんな奴いたっけ?」

 

そんな奴はいない。比企谷だ。ひーきーがーやー。

だが、相手は五人でこちらは一人。数の力ってすげえや。こういう時、もうヒキタニでいいやって思っちゃうんだもん。

 

「知らないけど、とにかくあんたには関係ないから」

 

「そ、そうです。ララは何も話すことなんてありません」

 

「大体、私たちの話を盗み聞きしてるとかキモいんだけど」

 

「それは悪かったと思ってるんですけど……」

 

「じゃあどっか行ってよ。ってかトランペットパートの一年、吉沢ちゃん以外なんか…」

 

これはもうダメだ。そもそも本当に何で俺が聞きに行かされたんだよ。この一分にも満たない時間で部活辞めたくなったわ。

だが、撤収しようと思っていた俺が優子先輩の元に戻ることはなかった。

 

「あのさ、そういうのいいから何話してたか教えてくんない?」

 

なぜなら隣には優子先輩がいた。優子先輩の登場でホルンパートの一同はうっ、と声を出す。

別に優子先輩が何かをこの人達にしたという訳ではないはずだが、それでもやはり優子先輩は部内でかなり目立った存在なのだろう。

 

「いえ、別に大した話は…」

 

「だからその大した話じゃない話を聞いてるんですけど」

 

怖い。フォローが怖すぎる。中世古先輩の件で色々と溜まっていたからか、なんだか少し怒った様子の優子先輩はいつになく強気だ。

 

「……」

 

「え、えーと……」

 

ララが黙って真っ直ぐに大きな瞳で見つめる優子先輩から思わず目をそらして他の奴らを見ても、みんな我関せずとそっぽを向いている。

今の優子先輩には、先輩としての威厳しかない。この雰囲気に負けて、折れて話してしまっても誰も責められないだろう。

 

「…わ、分かりましたあ。実は高坂さん――」



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15

「なあ。俺の家、逆方面なんだけど」

 

優子先輩とホルンパートの面々に詰め寄って、半ば強制的に話を聞き出せば、『今日は何があっても香織先輩と帰りに話をしたい』と優子先輩は走って音楽室を後にした。優子先輩が中世古先輩を探しに行ったお陰で、解放された時のララらんの疲れ切った表情を見て申し訳なさを感じると共に、一人残されてなんとも言えない嫌な空気になったため逃げるようにそそくさと音楽室を出ると今度は塚本に捕まった。

 

「まあたまにはいいだろ。お互いコンクールのメンバーに選ばれたんだしさ。ぱーっとやろうぜ」

 

「ぱーっとやるって、ここコンビニだぞ。なあ?」

 

「別にいいだろ。学校から一番近くてなんか買える場所がここなんだから」

 

「まあいいけどよ」

 

「そういう訳でほら」

 

塚本がいつもは一つまでしか買い食いはしないそうだが、今日は受かった自分へのご褒美だと言って特別に炭酸と唐揚げ棒を買った袋の中から炭酸飲料を取り出して俺の前に出した。

 

「え、何?くれるの?」

 

「ちげえよ。買ったピザまんだして」

 

「お、おう」

 

「ほれ、オーディションお疲れさん。コンクールも頑張ろうぜ」

 

コツンと俺のピザまんと、塚本の炭酸がぶつかる。通常の乾杯のようにガラスとガラスがぶつかって鳴るカシャンという音は聞こえないが雰囲気だけ。

 

「うわ、お前ピザまんに水滴付いちゃっただろ」

 

「ちょっとくらい気にすんなって。それにしてもピザまんは邪道だと思うんだよな」

 

「中華まんに王道を求めるな。肉まん、あんまん、カレーまん。なんなら角煮まんやキャラクターコラボの中華まんまで、そのときに一番食べたいって思った中華まんが自分にとって最高の選択でいいんだよ。それを肉まんこそ王道とか言って、他の選択肢を邪道だという。特に言われがちなのはあんまんな。その風潮を認めん」

 

「言いたいことはわかるぞ。ミスドとかな。あんなに種類あるんだから、とりあえずポン・デ・リングは絶対みたいなのなんか嫌だ」

 

「いやミスドはオールドファッションこそ王道だろ」

 

「おい」

 

それにしても久しぶりに中華まん食ったな。安くなってたからコロッケと迷った挙げ句ピザまんを買ったが、こういうのってたまに食べると美味しいよね。

 

「オーディション本当に良かったな、お互い」

 

「ん」

 

「俺、今回はちょっとトロンボーンでメンバーに選ばれるのは厳しいかもって思ってたからマジで嬉しかった。メンバーに選ばれるのが目標じゃないけど、選ばれた以上すげえ頑張ってもっと上手くなってやる」

 

「まあいんじゃねえの」

 

「何だよ。選ばれたのに冷めてんの?」

 

「元からこんなんだよ」

 

「そんなこと言って、メンバー選考のとき名前呼ばれて嬉しそうにしてたくせに」

 

「そうか?」

 

「気が付いてなかったのか?嬉しそうに口元緩んでたぞ」

 

おかしいな。結構ポーカーフェイスに定評あるはずなんだけどなあ。

何となく恥ずかしくてコンビニに置いてあるガチャガチャを見てみると、楽器をモチーフにしたキャラクターのシリーズがあった。このシリーズ、小町好きなんだよな。でもユーフォがないって怒ってた。

 

「げっ」

 

「…どした?」

 

「…いやなんでもない」

 

「お。塚本と比企谷じゃん」

 

俺たちに気が付いて手を振っているのは加藤だ。その隣には川島がいる。

塚本が明らかに気まずそうな声を出したが一体なぜ。もしかしてオーディション前の県祭りの件で何かあったのだろうか。

 

「二人とも、こんにちゅばー」

 

「は?」

 

「こんにちゅばー!……どうかな?」

 

「いや、どうかなってその訳分からん挨拶のこと?くっそ寒いし、謎にドヤ顔でどうかなって聞かれてもウザいとしか思えないけど」

 

「き、厳しすぎる!もう、折角吹部っぽい挨拶考えたのに全然ダメじゃんみどりー」

 

「私は可愛いと思いますよ?こんにちはとチューバを足してみた挨拶。比企谷君、塚本君。こんにちゅばーです」

 

「こ、こんにちゅばー」

 

何これ可愛い。俺も今度から使おう。

 

「比企谷、相変わらずみどりに甘い……。いや私に厳しいのか?ところで二人で買い食い?比企谷いるの珍しいよね?」

 

「確か比企谷君の家ってこっち方面じゃなかったですよね?」

 

「そうそう。こいつに付き合わされた」

 

「オーディションが終わったから軽く打ち上げだな」

 

「えー、打ち上げコンビニでするの?しかも唐揚げ棒とピザまんって」

 

それは俺も全くの同意である。そもそも放課後に打ち上げをする必要があるのかという点から説明していただきたい。

だが塚本は違うようで、二人が来たときからどことなく居場所に迷うように困った表情をしていたがはっと息を吐いて答えた。

 

「男はこんなもんでいいんだよ。加藤たちは?」

 

「私たちはこの後甘い物でも食べに行こうって話してて」

 

「はい。塚本君達と同じで、オーディションが終わったので」

 

「そこでみどりがオーディションで落ちちゃった私のこと慰めてくれるって言うから仕方なくね」

 

「ちょ、ちょっと葉月ちゃん!みどりは別にそんなつもりじゃないですよ!」

 

「いいのいいの。わかってるって。ありがとね、みどり。あ、二人もオーディションおめでと」

 

「…おう、サンキュー」

 

「ふふ。比企谷君が選ばれてみどりも嬉しいです」

 

「おおお俺も川島が選ばれて、その、ううう嬉しかったぞ」

 

「ありがとうございます。コンクール頑張りましょうね」

 

「…塚本もね、おめでと」

 

「……ああ。さんきゅな。その…、加藤は今年は残念だったな」

 

「うん。でもしょうがないよ。私初めてまだ数ヶ月だし。来年こそは絶対選ばれるんだ。だから今年はさ、来年私が出たいなって思えるくらいの演奏してよ。塚本も比企谷も、みどりもね」

 

「…はい。任せて下さい。今回落ちちゃったみんなの分も頑張って絶対に全国行きますから」

 

「さっすがサファイア」

 

「だからみどりですー」

 

二人の様子は加藤が落ちてもいつもと変わらなかった。加藤の持ち前の明るさか、それとも川島の優しさと強さか、あるいは両方なのか。何はともあれそのことに安心感を覚える。それはもしかしたら何となく上手くいっていないトランペットパートの様子が頭をよぎったからかもしれない。

 

「それじゃ私たちは行こうか?」

 

「はい。二人とも、また明日!」

 

手をふりふりと振って去って行く二人に、塚本は声をかけた。その様子になぜか違和感を覚える。変に力が入っているというか、なんとなくいつもと違う様子を上手く説明できない。

 

「……あ、あのさ!来年こそ四人で打ち上げ行こう。みんなでオーディション受かって」

 

塚本の言葉はよくある励ましの言葉であったと思う。だが、加藤はなぜかかなり驚いた様に目を丸くして、それから本当に嬉しそうに笑った。

 

「……うん!絶対!約束だからね!」



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16

「だから、きっとそのせいなんじゃないかって。絶対そうです!」

 

「…そうかな?そんなことないよ」

 

塚本と別れて帰路につくと、いつもの公園にはさっき別れたばかりの先輩の背中とリボンが見えた。対面には香織先輩がいて、優子先輩はこれまでに見たことがないくらい真剣な声音で詰め寄っている。

そんな光景を見てしまったものだから咄嗟に身を隠して様子を見た。自分の行動にぎょっとする。こんなもの、見ても聞いても良いことないだろうに。見ざる言わざる聞かざる。かの偉人が書物としてではなく三猿という彫刻として後世に残させたのは、きっと国の将来を生きる者が見てしまう、言ってしまう、聞いてしまう三つの罪による墓穴を掘らないようにするためだ。掘るのは彫刻だけでいい。

 

「でも…」

 

「私はもう納得してるから」

 

「でも!」

 

「先生が私より高坂さんをソロにふさわしいと判断した。それがオーディションでしょ?」

 

優子先輩が何を中世古先輩に話したのか、俺は知っている。

数時間前の音楽室。ホルンパートの面々に詰め寄って聞いた話は高坂が以前から親同士の繋がりで、滝先生と交流を持っていたという事実だった。

入学した当初、京都に来たばかりの俺は高坂程の実力者が立華のような吹奏楽の強豪に入学しなかったことを疑問に思っていたが、もしかしたら滝先生の影響もあったのかもしれない。高坂が、今年から滝先生が北宇治に赴任するという事実を知っていたらという前提はあるが。

ともかく優子先輩はその事実から、今回のオーディション結果の不正を疑っている。……いや、不正があったと信じている。

 

「だからそのオーディションが…!」

 

「優子ちゃんもコンクール出るのよ。これからはみんなで金賞目指して頑張る。違う?」

 

「……」

 

「その話は口外しないでって他の子にも言っておいて。じゃあね」

 

「っ!香織先輩、諦めないで下さい!最後のコンクールなんですよ。諦めないで…」

 

優子先輩の泣きそうなまでに必死な言葉に、公園を出ようとしていた中世古先輩が足を止めた。

最後のコンクール。どれ程強い思いでオーディションに望んだのかは本人にしか分からない。それでもその一部分は知っている。

最後だから吹きたいところを思いっきり吹きたいと願い、それでも部活のバランスはしっかりと保とうという責任は全うしていた。だからソロの練習は一人でいるときにこっそりとやってきて実力は確かに目を見張る程伸びていたはずなのに。

 

「香織先輩の…、香織先輩の夢は絶対に叶うべきなんです!」

 

それでも、中世古先輩は優子先輩の心からの願いに首を縦に振ることはしなかった。中世古先輩はゆっくりと振り向いて。

 

「ありがとう」

 

その言葉だけを残してまた歩き出した。

『ありがとう』という言葉に込められた感情を深追いしてしまう。考える必要なんてない。上辺だけの感謝の意をそのまま受け入れればいいだけなのに。

 

「やべ。しまった」

 

そのせいで逃げることを考えていなかった。中世古先輩にそこから出て来られると見つかってしまう。

何か、何かないか。段ボールでもスモールライトでも。今年公開されたばかりのスクールアイドルの映画で作中の堕天使が隠れるのに使った大きな人形でも…!

 

「え、比企谷君。……もしかして聞いてた?」

 

だが無情にも見つかってしまった。目線を逸らして小さく頷く。

冷静に考えると、映画で隠れるのに使った人形は結果として隠れていたのがばれてしまったのだったっけ。

中世古先輩は一度、公園の方をちらりと振り返り、固まったままの優子先輩を見た。

 

「ここじゃあれだから。歩きながら話そうか。いいよね?」

 

 

 

 

「そうなんだ。比企谷君、優子ちゃんと一緒にホルンパートの子から聞いたんだね」

 

「正確には聞きに行かされた挙げ句、返り討ちにされかけたところで真打ちの優子先輩が聞き出したみたいな感じです。要約すると優子先輩が仮面ライダーで、ライダーキックしたみたいな」

 

「あはは。それじゃあ比企谷君は守られるヒロイン役だ。でもさ、その噂話が本当かどうかはわからないんだよね?」

 

「そうです。誰かの親が言ってたのを聞いたらしいですけど」

 

「じゃあやっぱりこれ以上広めるのは辞めて貰わないと」

 

中世古先輩と少しだけ遠回りをして帰りながら今日の音楽室での出来事を伝えると、中世古先輩は力強い目で言い切った。

 

「コンクールまで時間があるわけじゃないし、そういう噂で集中力が切れていい時期じゃない」

 

「…そうですね。でも中世古先輩。多分この噂は広まりますよ」

 

「そうかな?」

 

「ソロは中世古先輩に吹いて欲しかったっていう声も多かったと思いますし、何より一番の理由は吹奏楽部ですから。女子の主食は噂話でおかずは他人の不幸話じゃないですか?」

 

「そ、そんなことないよー」

 

中世古先輩は否定したが、間違いなくそんなことある。

忘れもしない中学一年の夏。隣の女の子が優しくしてくれた。休み時間の度に話しかけてくれたし、ある時には授業で寝ていた俺にノートを貸してくれたこともある。だけど向こうからすれば、俺は女子達が話のネタにふさわしいただの道具の一人でしかなかった。告白したら次の日には同じトランペットパートの一年にその噂が広まっていて、さらにその次の日には吹部中に。インフルエンザよりも感染力強いから。女子の噂話は本当に恐ろしい。

 

「あ、ねえ比企谷君。ここのスーパーちょっと見ていっていい?」

 

「全然構わないですけど。買い食いですか?」

 

「違う違う。比企谷君は何か食べたいものあったら買って食べても良いけど、私はこの時間に何か食べちゃうと、夜ご飯が食べられなくなっちゃうから」

 

「いや、俺もさっきまで間食してたんで。じゃあ探し物とかですか?」

 

「うん。実はさ、焼き芋売ってるお店探してるんだ。まだ時期的には早いけどどっかに置いてないかなって」

 

その言葉でオーディション前にたまたま聞いてしまった中世古先輩と小笠原先輩のやり取りが途端にフラッシュバックした。もし中世古先輩がソロを吹くことが出来なかったら、まだどこも売っていないはずの焼き芋を買ってきてあげると言っていた。きっと今頃小笠原先輩が探しているはずだから、目星を付けておいてあげようとしている、なんてのは俺の深読みなのだろうか。

だが中世古先輩は俺がその話を聞いていたことは知らない。だから深くは掘り下げずに話を逸らすことにした。

 

「……そう言えば、先輩の好物でしたもんね。それじゃあどこかで見つけないとだ」

 

「…うん。そうなの。でもこの辺のとこ色々見たんだけど見つからなくてさ。探す範囲広げなくちゃダメなのかなあ」

 

「……」

 

「……」

 

「…そんな見られても困るんですけど、俺の自転車」

 

「今日、大分帰るの遅いけど、比企谷君この後まだ時間ある?」

 

「あると言えばあるんですけど、ないと言えばないですね。正確に言うと内容次第というかなんというか」

 

「私とさ、宝探しに行こうよって言ったらちょっとワンピースっぽいかな?」

 

「ぽいですけど。って言うか中世古先輩、ワンピース読むんですか?」

 

「ううん。お父さんが好きで話聞くけど読みはしないかな。まあそれはともかく」

 

「話逸らしたのに…」

 

「実は目星付けてるところがあるの。だからそこまで二人で自転車で行こう?」

 

「…前もこんなことありましたよね。傘の時。今回もどうせ冗談でしょ?」

 

「ううん。今回は本気だよ」

 

まさか相合い傘の次は同じくらいのハードルはあると思われる自転車の二人乗りに誘われるとは…。普通に警察に見つかったら怒られるけどいいの?まあ中学の頃、小町乗せてた俺が言うのもおかしいけど。

それにしても中世古先輩の笑顔が相合い傘の日と変わらないイタズラをしているような笑顔だから本気なのか冗談なのかがいまいち分からない。ただ、それでも最近ずっと見ている気がするどこか無理しているような笑顔を見るよりかはずっと今の方が良いと思ったから。

 

「はあ。じゃあ今回だけですからね」

 

「本当?冗談だったのに……」

 

「……」



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17

「よいしょっ。きゃ!」

 

「ど、どうしました?」

 

「ごめんね。思ったよりこの荷台の鉄が冷たくって」

 

しっかりと中世古先輩がスカートを巻き込んで座った。まさか小町以外の女を乗せることになる日が来るとは。そしてそれがまさかの中世古先輩だとは…。小町を乗せるときとは大違いの緊張感がある。今日だけは絶対事故起こさないようにしよ。

人生何が起こるかわからないが、良いこともあれば嫌なこともあるというのなら俺は今日死んでもおかしくないと思う。

 

「さて、それじゃ道案内お願いしますよ」

 

「うん。任せて」

 

「これでも妹乗せてよく学校行ってたんで平気だとは思うんですけど、一応危ないんでどっか掴んどいて下さい」

 

「どこ掴めば良いの?」

 

「えっと…」

 

小町は俺に抱きつくような形で乗ることが多いが、そんなこと中世古先輩にされたら事故らないようにしようと言った手前壁にツッコむまである。それこそ次世代型の新しい壁ドン。

 

「とりあえず荷台を持っていればオッケーです」

 

「わかった」

 

「じゃあ漕ぎますから」

 

「れっつごー!」

 

ゆっくりと進む自転車。最近は朝出発する時間が違うこともあって、小町を乗せて学校に通う日も少ない。懐かしい人を乗せている重みだ。

それにしても中世古先輩はやっぱ軽いな。

 

「おー。結構揺れてなんかちょっとどきどきする。私、二人乗りなんて初めてだよ」

 

「……」

 

「ん?比企谷君?」

 

「す、すんません。大丈夫ですよ。生きてます」

 

「別に生死疑ってないよ!?」

 

全く。どきどきするとか初めてとか、男が言われたら弱い言葉使わないでよね!しかも天然で!勘違いしちゃうから!

…あー。今の俺顔赤いなあ……。

 

「次の信号のところ左だよ」

 

「はい。わかりました」

 

「比企谷君。本当に二人乗り上手だね」

 

「そうですかね。あ、信号なんで止まりますね」

 

キュッと鳴る自転車は事前にブレーキを少しずつかけて速度を緩めていたこともあってスムーズに止まった。目的地まではどのくらいなのだろう。オレンジに暮れていた町並みは少しずつ赤みが差していき、あと少しで太陽は沈む。

後ろに中世古先輩が乗っていると考えると未だにいつもより早く心臓は、どれだけ『鎮まれ、鎮まりたまえー』とアシタカっぽく繰り返しても一向に収まらない。なぜそのように荒ぶるのか。中世古先輩のせいですね。はい。

 

「中世古先輩。あとどのくらい…ぶっ!」

 

確認しようと思って、ちょうど信号に掛かったので振り向いたら中世古先輩に途中で顔を止められた。痛くないけど、変な声が出てしまう。

 

「比企谷君。危ないから後ろ見るの禁止。わかった?」

 

「いや、今止まってますけど……」

 

「い、いいからダメ」

 

「は、はい」

 

振り向いたときに見えたのは勘違いだろうか。中世古先輩、なんか顔真っ赤だった気がする。

 

「……」

 

「……」

 

また動き始めた後もどこか気まずい沈黙が俺たちの間に流れる。

こういう時はドラえもんの入浴シーンの話を…。いや。これは優子先輩にやめた方が良いとこの間言われたのだった。じゃあ何の話しろって言うのよ!

 

 

 

 

「うー。結局ここもなかったよー」

 

「残念でしたね。やっぱり季節的に中々ないんですよ」

 

先輩が目星を付けていたお店はあまり遠い店ではなかったものの、帰路に付く頃には周りにはチラホラとサラリーマンがいた。

 

「そもそもあんま暑い中食べるものでもないですしね」

 

「うん。やっぱり寒い日に食べるホクホクの焼き芋が一番美味しいよ。だけど意外と冷蔵庫で冷やした焼き芋も美味しいの」

 

「へえ。冷やして食べたことないですね」

 

中世古先輩の焼き芋談義はスイーツ談義にまで広がっていく。やはり甘いものが好きなのだろう。エンジェルアイがキラキラと輝いていて、その話は止まる様子はない。

 

「冷静に考えたら、これ優子先輩に知られたら殴られるじゃすまないだろうなあ」

 

「そうかなあ」

 

「はい。中世古香織親衛隊、ちゃっかり活動してますからね」

 

「え、名前だけで活動してないと思ってた」

 

「甘いですね。むしろ一年の入隊者増えて活性化したってこないだ言ってました」

 

「優子ちゃんが?もう、なんか恥ずかしいなあ」

 

「優子先輩。中世古先輩のこと好き好きウーマンですからね。今の俺と代わったら、あの人死ぬんじゃないかな」

 

少なくとも漕ぎながら泣いてそう。挙げ句の果てに感無量すぎて漕げなくて結果的に中世古先輩に涙拭いて貰う。自称、香織先輩の付き人が果たしてそれでいいのだろうか。何だか考えると面白い。

 

「優子ちゃんもさ、可愛いから後輩から人気ありそう。それこそファンクラブとかできたりして」

 

「うーん。あの人色々パワフルだからなあ」

 

「ふふ。でも名前の通り優しくて良い子だよね。やるって言ったらとことんやるし好きなものに真っ直ぐで、そういうところ素直に凄いなって思う。私はハッキリしないところがあるからさ」

 

「そうですか?」

 

「うん。気をつけるようにはしてるんだけどね。私がうじうじどうしようって困ってたら、優子ちゃんがびしっと決めてくれたり言ってくれることもあるんだよ」

 

「…さっきまで優子先輩と公園で話してたじゃないですか?優子先輩が中世古先輩に吹いて欲しいと思って、今日みたいに後輩達から話聞き出したりするのって実際の所どう思ってるんですか?」

 

「きゅ、急だね。なんか」

 

「一応聞いておこうかなって」

 

「嬉しいよ。後輩に先輩に吹いて欲しいって言ってもらえることも、そう思ってくれている後輩がいてくれることも。それも去年からずっと一緒にいてくれた優子ちゃんで、私は本当に凄く嬉しい」

 

「……」

 

心のどこかですっともやもやが落ち着いた。

少しだけ心配していたのは優子先輩の願いは中世古先輩に取って迷惑になっているんじゃないかということだった。一方的な想いと行動は相容れなくて、結果として傷つけることもある。

 

「だけどさっき優子ちゃんに言った通り、コンクールまでもう時間ないし。それに…。うまく言えないんだけど…」

 

「……納得」

 

「…え?」

 

後輩達に枠を取られコンクールに出られなかった中学生の時の俺と、今回ソロを後輩である高坂に取られてしまった中世古先輩。決して境遇が似ているわけでは無い。だけど同じく他の誰かに限られた枠を取られたと言う点では全く別のものでもない。

もしもそうだというのなら吹けなくて可愛そう。そんな同情まがいの感情を向けられたくなんてない。

だって本当は諦観したいのだから。頭の中では結果をわかっていても、心の中では結果が付いてきていない。けれど、もうチャンスはない。ならば実力とか運とか誰かとの関係性とか、そういう色んなものによって決められたその結果を諦めないと次に進むことができないのに。未来は明るいと言うのならば、反対に過去は暗い。黒歴史はあれど、決して白歴史はない。

誰しもが、諦められずに過去を振り返り続けることは辛いのだ。

 

「納得したいんじゃないですか?」

 

「……」

 

「俺は先輩がソロでも良いと思います」

 

「だけど、もうどうすることもできないよ。結果は出てるんだし」

 

「ええ。それに先輩の言う通り、コンクールは待ってくれないですしね。だから諦めるななんて言いません。むしろ諦めることが出来るように、どこかで折り合い付けて納得できたらいいですね」

 

「……うん。そうなのかも。なんかしっくりきちゃった。私は…納得、したいんだ」

 

この気持ちはきっと、駄目だった人間にしか、選ばれなかった人間にしかわからない。

俺たちを囲む景色。太陽が落ちて紺に包まれる。まだ少しだけ明るいが、これから少しずつ黒に染まってくだろう。

だが、不思議と寂しくはない。周りの風景に影が落ちれば、すれ違う人はいれど俺たちを乗せて生暖かい風を切る自転車はまるで隔離されているようで、今の時間だけはきっと俺たちは敗者で同じ何かを共有している同士だった。



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18

音楽室の部屋一面に貼り付けられた毛布。

夏の夜は当然暑いため、毛布を使う家庭が少ないからか、思っていたよりもずっと多くの毛布が集まっていた。俺も一枚は持ってきたが、とにかく自転車の荷台に括り付けて運んでくるのはキツかった。数日前に乗せた中世古先輩の方がずっと軽かった。主に精神的な部分で。

 

「なんだ。みんなで泊まり込むんだと思ってた」

 

「したければしてもらっても構いませんよ。私は帰りますけどね」

 

滝先生の冗談と笑顔に近くにいた女子がはにかむ。それから、部員全員に向かって滝先生は話し始めた。

 

「これでこの部屋の音は毛布に吸収されより響かなくなります。響かせるためにはより大きな音を、正確に吹く必要があります。実際の会場はこの音楽室よりも何十倍も大きい。会場一杯に響かせるために普段から意識しておかなくてはいけません」

 

「「「はい」」」

 

これまでの音楽室は狭く、反響してくる音で自分達の音がわかりにくくなってしまっていた。そこで、毛布による吸音性とコンクリートの壁による遮音性によってできた簡易版、防音性付き音楽室にバージョンアップ。本来であれば防音性のある音楽室であればこんなことをする必要も無いのだが、予算だとか設備への投資だとかそこら辺は大人の事情があるから文句は言えない。

デメリットは二つ。一年の準備と片付けに椅子の運び込みに加えて毛布を畳む作業が加わることと、部屋が暑いこと。特に後者は致命的。布団大好きな俺が布団見たくないと思うレベル。

 

「では皆さん、練習を始めましょう」

 

「「「はい!」」」

 

これからきっと『駄目です。もっと自身の演奏に自信を持って。こんなではホールで演奏したときに演奏が全く聞こえませんよ』とか言って怒られるであろうに、布団によってどれ程音が吸収されて聞こえなくなるのか楽しみな様子の部員達。やっぱりね、こういう普段とは少し違うことするのって楽しいよね。

いつもより元気に返事をして練習に入ろうと思っていたが優子先輩が質問をした。

 

「先生。一つ質問があるんですけどいいですか?」

 

「何でしょう?」

 

「……。…滝先生は高坂麗奈さんと以前から知り合いだったって本当ですか?」

 

「!優子ちゃん、ちょっと…」

 

隣にいた中世古先輩が真っ先に反応した。だが優子先輩はそのまま滝先生の正面に真っ直ぐ歩いて行く。

 

「…それを尋ねてどうするんですか?」

 

「噂になってるんです。オーディションのとき、先生が贔屓したんじゃないかって!答えて下さい、先生!」

 

「贔屓したことや、誰かに特別な計らいをしたことは一切ありません。全員公平に審査しました」

 

「高坂さんと知り合いだったというのは?」

 

「……事実です」

 

教室が驚きに包まれた。ここ数日間は中世古先輩や小笠原先輩が何とか手を回し噂を広めないようにしていたもののそれでもどこからか情報は広まり、その噂を知らない人は少なかったようだ。だがそれが事実であることは結局の所今まで誰も知らなかった。

それがこんな状況で知られることになるなんて、滝先生も高坂も決して思わなかっただろう。

 

「父親同士が知り合いだった関係で中学時代から彼女を知っています」

 

「なぜ黙っていたんですか?」

 

「言う必要を感じませんでした。それによって、指導が変わることはありません」

 

「だったら…」

 

「だったら何だって言うの」

 

それまで何も言葉を発していなかった高坂が優子先輩を睨む。一触即発の空気に誰もがただ見ていることしか出来ずにいた。

 

「先生を侮辱するのはやめてください。なぜ私が選ばれたのか、そんなの分かっているでしょう?私の方が香織先輩よりも上手いからです!」

 

「っ!あんたねえ!自惚れるのもいい加減にしなさいよ!」

 

「優子ちゃん、やめて!」

 

「香織先輩があんたにどれだけ気を遣ってたと思ってるのよ!それを…」

 

「やめなよ」

 

「うるさい!」

 

中川先輩の制止にも優子先輩は止まらない。

こうなったら、止めることが出来る人なんて一人しかいなかったのだと思う。

 

「やめてぇっ!」

 

中世古先輩の悲痛としか言いようがない叫び。

これまでこんなに声を張り上げてる所なんて見たことがなかった俺たちはただ驚いて、優子先輩はそれでやっと冷静になれた。

 

「……ぁ」

 

「やめて……」

 

肩を震わせながら優子先輩の制服を掴む中世古先輩は何を思っているのだろう。あまりにも弱々しく、あまりにも悲壮で。

 

「…ケチ付けるなら私より上手くなってからにしてください」

 

怒りを孕みながら一言だけ言葉を残し、教室を後にする高坂の前に向けられている中世古先輩への部員達の視線は、もはや同情以外の何物でもない。

違うのに。中世古先輩は誰にも、そんな視線を向けて欲しくなんてないのに。

教室を出て行った高坂と、高坂の名前を呼びながら誰かが追いかけていたが、滝先生は少しだけ二人の出た扉を見つめただけですぐに俺たちに向かって話し始めた。

 

「準備の手を止めないで下さい。練習を始めましょう」

 

滝先生の言葉があっても未だに震えたままの中世古先輩と、それを見つめている優子先輩。

一番大好きな先輩のために、一番嫌な役を買って出て、一番させたくない顔をさせてしまった。

中世古先輩の手を掴もうとした優子先輩の腕がそのまま力なく落ちる。

 

「…すみませんでした……」

 

優子先輩の小さな声は誰に向けての謝罪だったのだろうか。

中世古先輩か、強く当たってしまった滝先生か、驚かせてしまった部員達か、あるいは全員か。

それはきっと本人も分からなかった。



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19

こんなに一切話さずに無言で帰る帰路は初めてだ。

今日は高坂と言い合って、合奏練習には参加しなかった優子先輩は仲の良い、それこそ加部先輩や犬猿の仲に見えて実際は…、と評判の中川先輩。他にも優子先輩の自称なのだが、同じ中学出身で物静かなところが優子先輩とは良く合うらしいオーボエの鎧塚先輩とでも帰るものだと思っていたのに。自転車を取って校門を出れば優子先輩がいたから『お疲れ様です、さようなら』のつもりで会釈をしたら、そのまま黙って付いてきた。

表情からは怒っているのか悲しんでいるのかわかりにくい。まゆ毛が下がっていたら悲しんでいる。頬が膨らんでいたら怒っている。言葉にすると単純で、感情だって簡単に分かりそうなものなのに、実際には人の感情は複雑で同じように表情からはわからないもんである。

自転車の籠には俺の鞄だけ。隣を歩く優子先輩は自分で鞄を握りしめて離さない。籠にぽっかりと空いた鞄一つ分のスペースは、違和感があって何だか気持ちが悪い。

 

「……」

 

「……」

 

「…鞄、今日は入れないんですね」

 

「……入れる。重いし」

 

もう。女の子はなんでもすぐ重くするからー。

こんなに使わねえだろっていうくらい種類が多い化粧品ポーチが入った鞄の中身から始まり、自分のことは重い女だと言って縛ろうとしてくるし、スイーツは食べ過ぎるし。それと比べると優子先輩の鞄は今日もいつも通りそんな重くなんてない。むしろ軽かった。

 

「…正直、今日やっちゃったなって思ったの。反省してる」

 

「それは何に対してですか?高坂?滝先生?それとも部活自体?」

 

「全部外れ。香織先輩。…あんな顔させたくなかったから、私何とかしたいって思ったのになあ……」

 

優子先輩が転がっていた石を蹴った。軽くころころと転がって、坂道を下って行ったまま止まることはない。

 

「勝手だし、何よりズルいことを言ってることはわかってる。比企谷だってそう思ったでしょ?」

 

「はい」

 

「……普段は捻くれたことばっかり言ってくるくせに、今日に限って素直なのね」

 

「俺はいつだってナチュラルに正々堂々素直に卑屈ですよ。だから通常通り」

 

「何それ。無駄に語呂良いんだけど」

 

くすくすと優子先輩が小さく笑った。

 

「でもズルいのは高坂もよ。今年から入学したくせに先輩達含めて誰よりも上手くって、ソロかっさらってくなんて。その才能がズルい。香織先輩は今年が最後なのに…。だから納得なんてできないの。私だって同じようにコンクールのメンバーに実力で選ばれたはずなのにね。人の実力は素直に認められないなんて、自分が嫌になるわ」

 

「まあそんなもんなんじゃないですか?人間誰しも、自分のことは棚に上げてばっかだし。それに小町が女の子はみんなズルい生き物だから注意しなくちゃ駄目だよって言ってました。あ、小町はそんなことないらしいですけどね」

 

「確かに小町ちゃんも自分のことすごい棚に上げてる…」

 

「いいんです。小町はそこんじょそこらの女とは違うんで。次世代型ボッチですからね。コミュ力高いくせに一人でも全然平気で、むしろ家に一人でいる時間の方が好きっていうハイブリッドさ。比企谷家のぼっちDNAは小町の存在によって一人でもやっていけることを肯定されて、完成されたと言っても過言ではない。それにね、小町は何と言っても……」

 

「小町ちゃんの話になると止まらない……。そう言えばこの間学校帰りに小町ちゃんに会ったわよ」

 

「え、そうなんですか?全然聞いてないんですけど」

 

「そうだったの?連絡先交換して貰った。ちょっと話してたら盛り上がっちゃって、今度遊びに行こうって誘ってくれて確かに誰かさんの何倍もコミュ力高いなって思った」

 

「それは間違ってますよ。ゼロにいくつかけてもゼロですから。何倍も高いんじゃなくて比べる土俵が違うんじゃないですかね」

 

「自分にコミュ力がないのは否定しないのね。……別にそんなこともないと思うけど」

 

ぼそっと呟いた優子先輩の後半の言葉は聞こえなかった。

だが話しているうちに少しずついつもの調子を取り戻してきた気がする。中世古先輩と高坂のことで頭が一杯の優子先輩は、その後も二人の話を続けていた。

 

「勿論、高坂が努力してきたのなんてわかってる。高坂からしたら嫌な先輩だなって思うし。……後輩に詰め寄って高坂と滝先生のこと吐かせたけど、きっと滝先生は本当は実力で選んだことだって、わかってるのに……」

 

「じゃあ謝った方が良いんじゃないですか?高坂に」

 

「謝った方が良いと思う?」

 

「謝る理由は揃ってるんじゃないですか。さっき優子先輩も言ってたこともありますし、最近のトランペットパート、優子先輩が高坂にイライラしてるように見えて雰囲気最悪ですし」

 

「……普段のことは置いといて、さっきのはでも高坂の言い方すっごいムカついたし」

 

「確かに高坂の言い方は悪かったですけど、優子先輩だって…」

 

「んんーーー!もう!私が悪かったわよ!これでいいんでしょ!?バカ!」

 

「…最後に俺が罵られた…。なぜ…?」

 

しかも全然これで良くない。高坂に言ってくれ。

ふんっ、とさっきの音楽室のときのような怒りではないものの、それはもうまさに機嫌を悪くしたお嬢様。頭に付いているリボンも逆上がっていて、優子先輩の感情とリンクしている。何これ、すごい。

 

「でも謝るのは香織先輩がソロに決まったらね!そうじゃなきゃ、絶対に謝らない」

 

「もうちょっと投げやりになってません?」

 

「去年、三年生がいて練習真面目にやっていなかったときに香織先輩が一人で教室で練習してたの。正確で綺麗な音で素直に伝えた。『上手ですね』って。そしたらね、香織先輩は『上手じゃなくて、好きだから吹くの』って。その言葉が今でも忘れられない。そんな憧れの先輩だから最後のコンクールくらい香織先輩にソロを吹いて欲しい」

 

「……それならきっとそれが答えなんですよ」

 

何があっても香織先輩にソロを吹いて欲しい。何度も優子先輩から耳にしたその言葉は強く中世古先輩を慕う優子先輩の気持ちの表れで、十分どころか十二分、二十分くらいに伝わっている。

だけど中世古先輩の考えも知っている。優子先輩の敬慕はどうしても同情の一面も併せ持つ。同情なんてされたくない。負けた自分をより惨めに感じてしまうから。

それでもそんなこと思わないであげて欲しいなんて言うことは出来る訳がなかった。それが正しいか正しくないかは関係ない。だって中世古先輩がトランペットと部活と部員達が好きな気持ちと同じで、優子先輩も中世古先輩を好きでいてその気持ちに偽りはない。

 

「…え?」

 

「何でもないです。多分、なるようになりますよ」

 

「なるようになるってどういうこと?」

 

「……」

 

「…比企谷?」

 

「…例えばもし、ゲームのように一つだけ前のセーブデータに戻って選択肢を選び直せたとしても人生はきっと変わらない。それは選択肢を持っている人間だけが取りうるルートだから。でも例え結果が変わらなくても、やり直すことに意味はあると思います」

 

「ど、どういうこと?」

 

「先輩は中世古先輩の決意を見守って欲しいって話です。俺、ここ左です」

 

「あ、うん。鞄ありがとう…」

 

「はい。それじゃ」

 

「ね、ねえ!」

 

「なんですか?」

 

「……ごめん。何でもない」

 

振り返った優子先輩の不安そうな顔。

中世古先輩の気持ちの折り合い付けることを解決する方法を俺は知っている。しかし、それは同時に優子先輩の願いだけはどうしても叶えることはきっと出来ない。

 



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20

『やっぱりさあ。贔屓するつもりなくても知ってる知らないじゃ違うと思うんだよねえ』

 

『結局、高坂さんをソロにするためのオーディションだったって話もあるし』

 

『高坂さんのお父さんって結構有名なトランペット奏者なんでしょ?』

 

『じゃあ先生。嫌とは言えないね』

 

『香織先輩、やっぱり可愛そうだよね。去年からずっと頑張ってきたのにさ。親に権力がある後輩が入ってきて』

 

部活中、何度も何度もオーディションや高坂の話を耳にする。

渦中のトランペットパートはというと、先日の騒動や高坂の噂については驚くほど静かに、ただただ各々が練習する日々が続いた。これ以上、オーディションの疑惑を増幅させないためでもあり、中世古先輩への配慮でもあるのだと思う。相変わらず高坂は一人で練習に行き、優子先輩は辛そうな顔で譜面と睨めっこ。中世古先輩もパート練習を終えると、一人でどこかへ吹きに行く事が増えた。

滝先生も同じようにそのことについて触れることなく当事者の全員が何も発言しない。あとはただ噂がなくなるのを待つだけ、という姿勢は逆に問題に蓋をしているようにさえ見えるのだろう。不安は募り、膨れ上がっていく不満は明らかに部内の空気を悪くしていた。ちょうどここ一週間は二者面談期間中で部活の時間が長く取れる。しかし雑談は増え、オーディション前の不安に駆られて必死に吹くという我武者羅さはなりを潜めている。

 

「おい、比企谷。聞いているのか?」

 

「あ、はい。聞いてます」

 

あんまりにも担任の話が長くて、ついついぼーっと部活のことに意識を持っていかれていた。俺は進学クラスということもあり、さっきからずっと成績の話ばかりをされているのだがどうしてこう、人間というのは欠点を補おうとさせてくるのだろう。脳構造は楽しいことよりも嫌だったことの方が覚えているものなんだから、成績の分析くらい良いことに目を向けて欲しい。

二者面談は三者面談とは違い、親の目がないからよく言えば気が楽だ。この機会に先生に相談事をすることも出来るのだろうが、そんなことを一つも持ち合わせていない俺はただ先生の質問に答えるだけ。短い時間とは言え、そんなつまらない問答に集中することが出来る方がおかしい。

はー。この時間で録画したけもフレ2見てえなあ。監督交代の騒動から始まり、賛否両論わかれたが俺は中々楽しませていただいている。かばんちゃんの復活に『かかかかかかかかかばんちゃん』と声が震えていたのは私です。ええ。

 

「せっかく国語の成績が学年一位でも、数学が足を引っ張っているようじゃ勿体ないぞ。まだ文系にするか理系にするかは決めていないんだろう?」

 

「はあ。まあ」

 

「なら数学という選択肢を消すな。今は一年の夏前。これからいくらでも挽回できるから」

 

「わかりました」

 

「本当に分かっているんだろうな。まあいい。部活の方はどうだ?最近の吹部はかなり練習をしているようだが?」

 

「まあそれなりに」

 

「そうか。部活と生活や学習面の両立は出来ているのか?」

 

「はい」

 

「なるほど。それなら頑張れよ」

 

担任、部活動に興味なさすぎじゃ…。そりゃ進学クラスは勉強や学力に注視されるのもわかるけど。

北宇治高校はこれまで実績がある部活動なんてなかった。吹奏楽部が全国を目指して活動をしてるなんて夢にも思っていないのだろう。部員の俺だって現実味がなさすぎて全国に行けるなんて到底思えない。

 

「さて、それでは二者面談はこれで終わりだ。最後に、比企谷はあれだな。教室でもう少しクラスメイトと話したらどうだ?趣味の合う友人を見つければもっと学校生活楽しくなるんじゃないか?」

 

「いや、別に今のままでも十分楽しいですし」

 

「それならいいんだが。まあ本読むのが好きな奴も多いからな。五月蠅いことはあまり言わないが、不登校とかにならなければいい。何かあったら先生に相談しなさい」

 

「はい。失礼します」

 

心の中で余計なお世話ですよ、と呟いて教室を出る。余計なお世話をして、生徒に余計な問題を起こさせないようにするのも教師の仕事の一環だ。だから小言一つ言われることに特別何か思うことはない。

さて、面談が終われば今日も部活動のお時間。いつになく重たい身体を動かして音楽室に行くと、滝先生が扉を開けて教室の中を見ていた。

 

「どうして片付けてるんですか?」

 

あまりの迫力に思わず足が止まる。こんなに冷たい声音を聞いたのは、まだ滝先生が吹部の顧問に就任して間もない頃、海兵隊の練習をせずに合奏をしたとき以来だろうか。

 

「いえ。片付けてるんじゃなくて、皆が暑いって言うので練習が始まるまで…」

 

「私は取っていいなんて一言も言ってませんよ!戻して下さい!」

 

だがその声音はすぐに怒りに変わった。

滝先生がこんなに声を荒げて怒っているなんて、普段の爽やかな先生から想像が出来ない。それは音楽室のいる部員達も同じようだったようで目先にある音楽室からは物音一つ聞こえてこなかった。

 

「戻しなさい。今すぐ!」

 

「……はい」

 

滝先生の背中越しから少しだけ見える音楽室の中で、滝先生の二度目の戻せという命令にやっと何人かが俯きながら布団を戻そうと動き始める。

音楽室の中に歩いて入った滝先生の後ろを一定の距離を取って歩いて付いていく。だが、少しずつ見えてきた音楽室の中、まるで泣いているかのように教室の端で俯きながら座り込む優子先輩を見て音楽室から去ることに決めた。

おそらく、今日の合奏練は中止だろう。それもここ数日では何度かあった。パトリ会議でも滝先生の信用が問題となり、小笠原先輩や中世古先輩の説得は空しくまとまらない状態。特にホルンとクラの集中が切れてる。トランペットパートもパート練習はあまり行われず個人練ばかりだ。今やパート練習をきちんと行っているパートの方が少ないだろう。

それはまるで入部したばかりの頃に戻ったように感じられた。

 

「……」

 

だがそれでは待っているのは去年と同じ結果だ。京都府予選銅賞。

それではオーディションをした意味も、サンフェスの頃から休日や家で過ごしているはずだった時間を捨ててまでここまできた意味がなくなってしまう。

このままではまずい。滝先生の不信をなんとかしなくてはいけない。それは明白だ。




いつも読んで下さってありがとうございます。作者のてにもつです。

この作品は感想や頂いているメッセージがかなり多く、非常に嬉しい限りです。評価も赤色!自身の作品では赤色は初めて見ました!それこそ最初見たときはあまりの驚きと嬉しさで小躍りしそうになったレベルです。あながち嘘ではなく笑

前作を書いていた時にクロスオーバー作品自体が低評価が付きやすい。その中でも特にソードアートオンラインや俺ガイル、というかキリトや八幡が主人公のクロスオーバーは作品数が多く、競合の作品が多いこともあるのかもしれませんが、特に低評価が付くのが顕著ということを知りました。
それでもこの作品を書き始めようと思ったのは、やっぱり俺ガイルも響けも大好きだったからです。そして書き続けられているのは他でもないみなさんのお陰だと断言します。
音楽が聞いてくれる人がいなければ生きてないのと同じであるように、本や二次創作だって読んでくれる誰かがいなければ生きていないのと同じであると思います。ちなみにこの言葉は僕が大好きなアーティストのAAAの日高君の受け売りです笑

なのでこれからも本作の方をよろしくお願いします!
(先日の一件でメッセージをくださった方々ありがとうございました。この場を借りてお礼を申し上げます。)

さて。後一月ほどで映画がついに公開されますね!
頂いた感想などの返信ではよく書いているのですが、吉川優子の活躍は必見です!一期と二期で放送されたアニメだけでは伝わりきらない、優子の素晴らしい一面が見られると思います。
そして何と言っても秀久美の二人……。原作はアニメよりも二人の関係、というか久美子の感情がストレートで、『秀一のこと、やっぱり特別に思ってるじゃんか、このこのー!』みたいになりますが、映画ではどのように描かれるのか…。付き合ってくれ、頼む!
とにかく楽しみで仕方がないです!
何回か見に行きたいとさえ思っていますが、さて誰と見に行こかなー。
それでは、今回の後書きはここまでにします。ありがとうございました!


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21

音楽室の前から移動してどこに向かうでもなく歩きながら考える。

まず、吹部の解決するべき問題は何か整理しよう。問題に内在している感情は一切考慮せずに、ただ問題だけを。

一つはソロパートを高坂と中世古先輩のどちらが吹くかということだ。

滝先生は今回のオーディションを実力という観点から高坂を選んだが、多くの上級生は去年まで部活を支えて貢献してきて、実力だって確かにあるはずの中世古先輩に吹いて欲しいと思っている。部内の半数以上は間違いなく中世古先輩派だろう。

だが高坂が実力で選ばれたのだから、ソロを高坂に任せることに異論はないやつもいる。特に一年に多い。

ここでもう一つおまけに出てきた情報。高坂は以前から滝先生と知り合っていたという事実。あくまで噂に過ぎなかったその情報は、先日の優子先輩の滝先生への質問で事実に変わった。

二つ目の問題はそれが火種になった。そしてこちらの問題は、はっきり言ってソロをどちらが吹くかよりも重要な問題だと言える。部員の顧問への信頼がコンクール前の大事な時期にも拘わらず低下し、それが目に見える形で現れてしまっていることである。モチベーションなんて目に見えるレベルで落ちているし、このままでは去年と同じように部が崩壊してもおかしくない状況とさえ言える。

この二つはそれぞれ問題が違うため、解決方法は異なる。どちらも一緒に解決することはできない。滝先生の不安がなくなったところでソロは変わらないし、ソロが変わったとしても今度は高坂を擁護していた部員から疑問の声が上がり、滝先生への不安がさらに募る結果になりかねない。

 

「……解決する必要はないんだよな」

 

誰にでもなくぼそっと呟いた声は甲高く、美しい音にかき消された。校舎が遮っていて見えないが、音はすぐそこの角を曲がった先から聞こえてくる。何度も見てきた譜面に聞いたフレーズ。

渦中のソロパートを吹いているこの音は紛れもなく中世古先輩の吹く音だ。

 

「……」

 

邪魔するのが申し訳ないから、とは頭をよぎった汚い考えだ。本当は何を話せば良いのか分からないだけ。

今も尚本番を迎えることがないソロパートの練習をし続けている。駄々を捏ねてまでソロを吹きたいなんて思っていない。ただ納得するために。負けたことを認めたいが為に。

だけどそれは叶わない。どこか寂しくさえ感じられるような音から逃げるように踵を返した。

 

 

今日は向かった先から逃げてばかりいる。見たくないものばかりで、また俺は行く先もわからいまま歩く。

そもそもなぜこんなに問題をどうにかしようとしているのだろう。こんなこと気にせず、ただ知らばっくれて練習していればいいだけのはずなのに。

そうだ。だって入部した時なんて吹ければそれで良いとまで思っていたはず。こんなことに巻き込まれたくないから距離を置いていた。煩わしい。そんなのは御免だ。

今回の問題も協力しろとか話し合えば分かるなんて、そんなものは理想論で誰かが犠牲になって何かを押しつけられる。

だけどもう、きっと知りすぎてしまったのだ。

ソロを絶対に吹くと大きく力強く書かれた譜面を見た。小笠原先輩に吹きたいところを吹くと語っている姿を見た。中世古先輩の最後のコンクールへの気持ちを俺は知っている。

 

そしてそこに涙を流すように俯く優子先輩が重なった。

 

『香織先輩、諦めないで下さい!最後のコンクールなんですよ。諦めないで…』

 

『香織先輩の…、香織先輩の夢は絶対に叶うべきなんです!』

 

「……」

 

…もしも次があるのならば、その時こそきちんと中学生の頃のように部員達とは距離を置こう。もうこんなことに巻き込まれないように。

だから。だから今回が最後だ。こんなことをするために俺は吹部に入ったわけでも、吹いてきたわけでもない。

間違いなくこれからやろうとしていることは犠牲だと思う。二つの問題を同時に解決することはできない。しかし別々に解消することができる諸刃の剣。

だけどこの犠牲は、きっと大好きで尊敬している先輩の最後の晴れ舞台を護ってやろうとしている優しい少女が背負って良いはずがない。

大丈夫。誰かのためにじゃない。この犠牲は自己犠牲だ。自分が出場するはずだったコンクールで結果を残すため、パート内の空気を少しでも改善するため、そしてこれ以上先輩が悲しむ姿を見ないため。

 

 

そして、気が付いたらそこにいた。トランペットも持たずふらふらと、まるでただ音に導かれるようにその場所へ。

美しくて目を奪われた。紫で可憐な藤の花が頭上から垂れていて、素朴などこにでもある木の椅子に花びらを落としている。そんな空間に異質であるのは川のように流れる綺麗な黒髪と、手にしている金色。そして高々と響く三日月の舞のソロパートの三つだけ。

自然と足はベンチの元に向かっていた。これ以上、何かから目を逸らして逃げるかのようにどこかへ行くのが疲れたからか、それともその音を聞いていたいと思ったのかはわからない。

演奏をしていた高坂は俺がいることに気が付いていないと思っていたが、吹き終えると視線を俺に向けてきた。眉間には皺が寄っている。

 

「……」

 

「…何?なんか怒ってる?」

 

「うん。今日も合奏練中止だって」

 

「あー。そうなの」

 

「知らなかったの?」

 

「ああ。そうかなとは思ってたけど」

 

「本当何なの?コンクール前の大事な時期なのに、もう決まったソロのこと今更掘り返して。挙げ句の果てに大して吹けないくせに練習中止?ムカつく」

 

「怒られても俺のせいじゃねえし」

 

「そんなことわかってる」

 

高坂は俺の隣に腰を降ろすと、ぐいっと水筒を飲んだ。真っ白な喉が水を飲み込むのと重なって上下に動く。

 

「どう思う?私の演奏」

 

「いいんじゃないか」

 

「曖昧。それに、そうじゃなくて香織先輩と比べて」

 

「そりゃお前の方が上手いよ」

 

「…意外」

 

「何が?」

 

「てっきり香織先輩の方が上手いって言うと思ってた。比企谷、優子先輩と香織先輩とはよく話してるから肩持つかなって」

 

「んなことねえよ。同じパートだし、普段から聞いてりゃ何となくわかる。大体、もし中世古先輩の方が上手いって言ったらどうするつもりだったんだよ?」

 

「うーん。教室でにやにや小説読んでる比企谷の椅子、通る度に足で軽く蹴ろうと思ってた」

 

「椅子ががたっ、ってなるから地味にどきっとするやつ。陰湿かつ、ぼっちがやられると嫌な攻撃をよく理解している…」

 

褒められた高坂は驚いた表情をしていたが、やはり褒められれば嬉しいようで少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 

「……高坂、一ついいか?」

 

「うん」

 

「お前に一つ謝らなくちゃいけないことがある。面倒事に巻き込むことになる。いや、でも、…ある意味お前の手助けにもなるのか?」

 

「え?何それ?」

 

「お前、いつか特別になりたいって言ってただろ?覚えてるか?」

 

「うん。言ったよ。そう思ってる」

 

「良かった。まさか高坂がそんな恥ずかしいこと言うなんてちょっと夢じゃないかと思ってた」

 

「もしかして喧嘩売ってる?」

 

「ところで知ってるか?正義の味方ってな、倒すべき悪があって初めて正義の味方になれるんだぜ」

 

「何となく言いたいことは分かるけど。つまり敵がいないと戦う相手がいなくて、正義を証明できないってことだよね?」

 

流石、進学クラスの中でもトップの成績なだけあるな。

『意味わかんないんですけど』とか、『理解不能乙』とか言われがちな中二病的なセリフの意味を的確に理解している。

 

「そうだ。それと同じで特別になるためには比較する誰かが必要だ。戦って、その相手を倒す。その相手が強ければ、かつそれが圧倒的ならば特別だって誰もが思う」

 

「……うん」

 

「いいか、高坂。俺がその勝負を作ってやる。だから一つ頼みを聞いてくれ」



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22

「こりゃ一人でやるしかねえぞ、晴香…」

 

探していた相手がやっと見つかった。

ぺしっ、っと自分の頬を叩いて、神妙な様子で一人呟く小笠原先輩。高坂と話した後すぐに音楽室に行ったが、いると思っていた小笠原先輩はいなかった。誰も行き先を知らないというから歩いていたら、階段の踊り場から外を見ている。その先にはトランペットを持った中世古先輩と低音パートの田中先輩がいた。中世古先輩は俺が高坂と話していた間もずっとソロパートを吹いていたのだろうか。

まあ、そんなことより、今は小笠原先輩だ。

 

「あの、部長」

 

「わ!ビックリしたあ…。ごめん。ちょっと考え事してて気が付かなかった」

 

「いや、別に良いですけど。何か困ってます?」

 

「あ、うん。でもそれは、ほら。何となく分かるでしょ?」

 

「まあ」

 

「今日も合奏練出来なかったし、部長の私がもっとしっかりしないとだから頑張らないと」

 

ふんす、と気合いを入れている小笠原先輩。

ドラマとかではこうやって責任を一人で抱え込んでしまうのを責める役が多いが、俺は偉いことだと思うし非常に良いと思う。気苦労が多そうな人だから、あんまり抱え込んで学校休んでもらったら困るけど。

 

「比企谷君もトランペットパートだから最近は色々大変だよね?香織もやっぱり今は自分のことで一杯だし」

 

「そんなことないですよ。それよりちょっといいですか?」

 

「あ、うん。どうしたの?」

 

「その先輩が気にかけてる今の空気、俺何とかできるんですけど。正直、先輩も手を焼いてるじゃないですか?練習はまともに出来なくなって。でもそれで困ってるのは先輩だけじゃない。俺も困ってます。このままじゃコンクールまずいなって」

 

「そ、それはそうだけど。どうやって?」

 

「一言二言話をするだけです。まあ何を話すかは置いといて、先輩には今から合奏練として部員を集めて欲しいんですよ。いくらやる気なくなっても、流石に帰った部員はいないですよね?」

 

「…まだ時間も早いし、流石にいないと思うけど」

 

「じゃあ今から集めて貰って良いですか?できるだけ早く各パトリに声をかけて、全員集めて下さい」

 

「ま、待ってよ!本当に比企谷君の方法でどうにかなるの?」

 

「はい。なります」

 

どこか不安な様子を隠せていない小笠原先輩は何を懸念しているのだろうか。折角集まっても最近の練習もサボり気味で合奏にならず無駄な時間であったら、今度こそ次以降の合奏練に来なくなるパートがあるみたいなところか。

だけど、今日ばかりは少し無理してでも集めてもらいたい。

 

「大丈夫ですよ。先輩はただいつも通りに皆を集めるだけでいいんですから」

 

 

 

 

「えーと、それでは合奏練を始めます」

 

「それでね、私思ったの」

 

「あー。確かに…」

 

「ちょっと静かにして。真面目にやろう」

 

合奏練をするというのに話をしている部員がいて、それを話している部員達のパトリがたしなめている。こんな光景はオーディション前の俺たちからは考えられない。

『おい、どうするんだ』。小笠原先輩から目線を感じた。『少し待って下さい』。そう気持ちを込めて小笠原先輩を見つめ返す。

気まずそうに目を逸らされた。やばい。今から頑張ろうと思ってたのに心折れそう。

しかしそんな俺の考えなんて関係なしに音楽室のドアが開き、最後の一人がやってきた。

 

「え!?た、滝先生!?」

 

教室がざわつく。今日の合奏練は滝先生が来ることになっていなかった。

 

「おや?合奏練があるから今から来て欲しいと言われたのですが…?」

 

「え、えっと今日は…。……!」

 

はっと小笠原先輩が俺を見る。大正解。呼んだのは俺だ。

 

さて、始めよう。

床に置かれたトランペットが立ち上がる俺を映している。顔は映っていないが、今俺はどんな顔をしているのだろうか。自分ではよくわからない。

がたりと敢えて音を立てて立ち上がる。急に立ち上がった俺に、さらに教室が驚きに包まれた。

 

「滝先生。高坂さんと以前から面識があってオーディションの結果に不正があったと考えている生徒が多くいます。そのせいで練習も集中力が切れているのは分かりますよね?」

 

「…ええ。しかし以前にも伝えましたが、私はオーディションの審査は公平に行いました」

 

「でも、高坂さんのお父さんって有名なトランペット奏者だと聞いてます。なのでそういう大人の力が働いたんじゃないかって部員が考えてもおかしくない」

 

「ですから私は言った通りです。公平に……」

 

「とは言え、先生の言いたいこともよくわかりますよ。普段から同じパートで練習してた訳ですし」

 

『は?』どこからか聞こえてきた。ざわついていた教室が静まりかえる。

 

「先生は今年顧問になってからずっと全国を目指すと言っていた。それならオーディションは実力で選ぶのは当然だ。ましてや今回の自由曲のトランペットソロは長くて目立つ。ミスなんて絶対に許されないし、ここの部分の出来で評価も大きく変わるかもしれない」

 

三百六十度視線を感じる。これまで陰湿なイタズラをされて影で笑われることはあっても、ここまで怒りや敵意を直接向けられる事なんてなかった。

震えだしそうな足を誤魔化すために、俺ははっきりと告げた。

 

「それなら明らかに上手な高坂さんがソロを吹くのは当然に決まってる」

 

「っ!比企谷、あんたねえ!」

 

優子先輩が立ち上がって俺に近づこうとした。

しかし、中世古先輩は優子先輩の裾を掴んでそれを止めた。

 

「先輩…!」

 

「……いいの」

 

震える声で優子先輩に告げる。

……何も考えるな。決めたことだけを伝えろ。

 

「……吉川先輩だって、本当は分かってるでしょ?」

 

きっ、と睨み付けられる。最低だ。上級生になんてこと言うんだ。

部内の至る所から俺を中傷する声が聞こえてきた。中傷というのは少し違うか。俺は今、非難されて当然なことを言っているのだから。

大嘘つきの言葉で、過去の自分がザクザクと傷ついていく。

きっとこれを言えば、中学生のときの自分は報われないことはわかっていた。

コンクールに出られることはなくとも一人こつこつと吹いていた自分は周りよりも上手かったはずなのに、それでもいつだったのかはっきりとなんて覚えていないけれど折り合いを付けて出られないことを納得させた。

実力ではないのだ、もっと大切なことがある。

だからこそ、『上手い人が吹くべきだ』。本当はそんな過去の自分を否定するようなこと思っていないのに。中世古先輩は最後で、この部のために三年間尽くしてきて努力もしてきた。中世古先輩が吹いても良いはずなのに。

 

『……私ももっとよく考えてちゃんと答え出すからさ、比企谷の結論もいつか聞かせてね』

 

県祭りの日の夜に優子先輩と話した。先輩優先か実力優先か。

あの日の夜は確かに隣に並んでいたはずなのに、にらみ合うように見つめ合う俺たちは今こうしてすれ違っている。優子先輩は先輩のために立ち上がり、俺は実力で選ぶべきだと主張する。

心が痛い。その気持ちを勘違いだと振り払おうと俺は滝先生の方を向いた。

 

「先生。見ての通りですよ。上手い奴が吹く。俺は間違ったこと、言ってないでしょう?それなのにこんなに睨まれてるって事は二人の実力差も知らない、もしくは知っている上で尚、中世古先輩にソロを吹いて欲しいと思っている部員がこんなにいるんです」

 

「……」

 

「それなら、もう公開処刑で決めるしかない」



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23

「……。……何、…言ってるの?」

 

未だに立ち上がったまま、呆然と固まった優子先輩が声を絞り出した。

 

「それはどういうことですか?」

 

「こないだ貰ったスケジュールだと来週、ホールを借りての練習がありますよね?そこで二人が全員の前で吹いて、拍手が多かった方がソロを吹く」

 

「でも高坂さんは実力で選ばれたんでしょ?それをまたやるって、不公平だし高坂さんがかわいそうだよ」

 

誰かが声を上げた。その意見に続いてどんどんと声が上がる。

 

「そうだよ。私たちだって実力で選ばれたじゃん」

 

「でもさ、あんた達は一年だから知らないかもしれないけど、香織は三年間部のために一生懸命尽くしてきたんだよ」

 

「そうよ。それにこないだの高坂の態度。はっきり言って私は高坂にソロを任せたくない。先輩の気持ち、少しは考えなよ」

 

溜まっていた不満の声は次第に大きくなっていき、収集が付かなくなっていった。あちらこちらから声が上がっている。

それを滝先生が手を叩くことで制した。

 

「皆さん。落ち着いて下さい」

 

「ね。もう仕方ないでしょう?滝先生の決断に不満がある人もこれだけいて、けれど擁護する人だって当然いる。それなら他に誰が決める?俺たちが全員で決めるしかない。最初全国を目指すと決めたときだってそうだった」

 

「なるほど。それ自体は良い案だと思います。ですが、それのどこが公開処刑なのですか?」

 

「そりゃみんなの前で下手な方がさらされるわけだから、あながち公開処刑という言い方も間違ってない」

 

「その比企谷君の言い方には賛同しかねますが、皆さん。次のホールでの練習の際に今の案を行うことに異議がある人はいますか?」

 

先生が見渡しながらしばらく間を置いた後、今度は俺たちトランペットパートを見つめる。

 

「それでは反対の意見もないようなので、次のホールの練習でトランペットパートのソロの再オーディションを行うことにします」

 

途端にふわっと力が抜ける。ここまで来れば、もはや俺が何か話すことはない。後は成り行きに任せるだけで良い。

静かに椅子に座れば背中が気持ち悪い。嫌な汗をかいていた。

吹部が抱えていた問題。ソロの選定と滝先生への信用。

ソロの選定は俺たちが行うことによって誰も文句を言えない。全国を目指すと決めたときと同じだ。他の誰でもない俺たちが決める。

滝先生への不信を拭払することは俺にはできない。だが、そもそも拭払する必要なんてないのだ。

この手の問題が起きたときに非難する奴や、怒りを向ける奴らに必要なのはそれをするための理由ではない。共通の叩くことが出来る相手は必要なのだ。

それならば滝先生に向いている不信や非難、不満や怒りを全て他の方向に向けさせてしまえば良い。部員達にとって優しくて、守るべきであり尊敬される中世古先輩を酷評した俺の元に。

こうして全員の前で中世古先輩を貶したのだ。部員達のイメージは普段ほとんど部員と話さずに、コミュニケーションをろくに取らない問題児。それを気にかけてパトリとしての責任もあって世話を焼いてくれていたはずの中世古先輩が大勢の前で陥れられた。飼い犬に手を噛まれたなんてもんじゃない。

おそらく中世古先輩を擁護していた部員達は勿論、そうでなかった部員も流石になんだこいつは、と思ったはずである。だが、それでいい。

 

「ですがホールを使える時間は限られています。貴重な時間を使うことは理解していただきたい。トランペットソロを吹きたいと思う人は、今ここで挙手して下さい」

 

「私はソロを譲るつもりはありません」

 

高坂は滝先生の質問にすぐに声を上げて答えた。いつも通りしゅっと真っ直ぐな背筋は何があっても揺るがない自信を醸し出している。ソロの席を争うために全員の前で吹くことになっても、一切容赦なんて絶対にせずにいつもと変わらない圧倒させるような演奏をするのだろう。

 

「香織先輩…」

 

高坂とは違って中世古先輩はすぐにソロをやりたいとは言わなかった。制服を掴んでいた手が離された優子先輩は黙って俯いている。

優子先輩だけではない。トランペットパートのメンバーの視線はいつからか中世古先輩を見ていなかった。直視できずに俯く人が多いのは、きっと結果が何となく分かっているからだろう。

本来、もうなかったはずの機会。だけどその勝負は負け相撲。

それを知っているのはパートメンバーだけではない。中世古先輩だって同様にわかっている。

それでも、中世古先輩が手を上げないことは絶対にない。そういう確信があった。

 

「……先生。私もソロが吹きたいです」

 

ビシッと手を挙げ敢然と立ち向かう姿にはかっこよかった。こうなってしまえば負けだと初めから気づいていて、納得したいという自分のエゴと戦うために手を挙げたのだと思う。

それでも高坂に負けないように滝先生をまっすぐと見つめるその瞳に弱気な心なんてない。

隣で優子先輩が泣きそうになっている。音楽室の一部からは中世古先輩のソロ奪還の可能性にすすり泣く声が聞こえてきた。

どういう形であれ、これが中世古先輩にとって最後のチャンスだと言うことに変わりはないのだ。

 

「わかりました。それでは来週のホールの練習の始めに二人はソロ部分を演奏をして、それを皆さんで評価していただきたいと思います」

 

「はい」

 

「…はい」

 

高坂は一瞬納得いかない表情をしていたが、すぐに滝先生に返事をした。

 

「さて、それでは合奏練習を始めます」

 

「「「はい」」」

 

「それともう一つ。比企谷君。放課後、職員室に来てください」

 

「……はい」

 

笑っていない滝先生の顔は少し寒気がするくらいに怖かった。







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24

「比企谷君。こちらに座って下さい」

 

「…はい」

 

部活が終わり滝先生と一緒に教室を出て、そのまま職員室に直行した。教員が仕事をするデスクの先にある応接間のようなスペースで先生に促されて座る。俺たちが普段使っている木製の椅子とは違う、ふかふかの椅子は座り心地が悪かった。

滝先生と音楽室を出たときの視線が忘れられない。今、音楽室では俺のバッシングのオンパレードになってるんじゃないだろうか。やってないからよく知らないが、ツイッターでは話題のトレンドに『比企谷八幡』とか『比企谷八幡 死ね』とか『比企谷八幡 誰』とか出ていてもおかしくない。いや、おかしいな。ほんと誰って感じだわ。

滝先生はゆっくりと椅子を引いて座ると一つ息を吐いた。

 

「さて、それでは聞きましょうか」

 

「…というと?」

 

「先ほどの話です」

 

「えっと、今日さっき担任と二者面談で話した数学の成績が悪いって話ですかね?」

 

「比企谷君」

 

ずっとにこりともしなかった滝先生が、初めて口角を上げた。それが逆に怖い。

 

「私は真面目な話をしているのですよ?」

 

「…すいません」

 

「比企谷君の部員の前でソロパートを吹くというのは悪くない意見だと思います。私が聞きたいのはどうして全員の前であんな公開処刑なんて言い方をしたのか、ということです」

 

「………」

 

眼鏡の奥の瞳は俺を射貫くように見つめている。

思えば、滝先生が赴任されて初めて部活に先生が来たときからかもしれない。その瞳が俺は嫌いだった。大人の余裕とか子どもとしか見られてなさそうとかではなくて、考えていることを見透かされている気がして。

滝先生への不満が爆発寸前だったので、その矛先を自分に向けたかった。それもあって練習ができていない現状があった。

それを滝先生に話すことが出来なかった。それこそ話さなくても見抜かれている気がするが。

 

「……」

 

「…だんまりですか。それでは先に私から比企谷君に謝らなくてはいけないことがあります」

 

「え?」

 

「ここ最近の部活動について、高坂さんとの一件以降全員の集中力が切れていたことには気が付いていました。しかし私は何もしなかった。ここまでの事態になると思っていなかったですし、何もせずに時間が経てばほとぼりが冷めるのを待つべきだと思っていたからです。…いや、違いますね。何をしたらいいのか…わからなかったというのが正しいのですかね」

 

すっと細められた瞳。滝先生のこんな表情を見たのは初めてだった。

だがすぐにいつも通りの滝先生に戻る。にこりと微笑んだ。

 

「如何せん高校生の部活動の顧問というのが初めてでして。やはり中々難しいものですね。演奏の指導以外にも、見ていなくてはいけない部分や考えなくてはいけないことがたくさんある。部員達の前ではできるだけこういった姿は見せないようにしていますが、松本先生に支えられてばかりなのです」

 

「……」

 

「ですから顧問としては未熟者の私から比企谷君に謝らなくてはいけないことは、部員の前であんなことを言わせてしまったことです。ソロをどちらにするかという問題も解決方法がわかりましたし、これで少しは集中して練習出来るようになるでしょう。どうしてあんな言い方をしたのかも何となく分かっています。だが、今度は比企谷君に不満の矢が集中する結果になってしまった。本当に申し訳ありません」

 

「なっ!頭下げなくて良いです!謝られることじゃないです!俺が勝手に…!」

 

頭を下げる滝先生に慌てて頭を上げてもらう。誠実に綺麗に頭を下げた滝先生とは対照的にあわあわとしている自分はなんと子どもらしいだろう。

途端に自分がしたことが情けなく感じた。それしか方法はない。そう決めつけていたが、滝先生はきちんと分かっていたしどうにかしようとしていたのに。

 

「…俺の方こそすみませんでした」

 

「それは何についてですか?」

 

「えっと、嘘を吐いて呼び出したこととか先生の前であんなこと言ったこととか…今日のこと全部」

 

「……」

 

「…コンクールのメンバーから外して貰って構いません」

 

部員達は俺がコンクールメンバーであることに納得しないだろう。どうしてこんな奴が。その声が後を絶たないのは想像に容易い。

 

「…かつてシンディー・ローパーというアーティストが歌った曲で『True Colors』という曲がありました。その歌詞に『I see your true colors shining through, I see your true colors and that's why I love you.』というフレーズがあります」

 

「は、はあ」

 

「直訳すると、あなたの本当の輝きが見える。あなたの本来の色が私は好きだ、となります。本当の色を隠さないで、それが素晴らしいんだからというメッセージソングですね。私もそう思います。音楽は一人一人異なり、それが良い。合奏の第一はそれを知り、認めることだと思います」

 

滝先生は机に置いてある譜面をなぞるようにして触れた。

 

「私は貴方をコンクールのメンバーから外すつもりはありませんよ」

 

「……顧問として甘いと思います。なんなら退部でもいいレベルの発言でした。俺をメンバーから外さないことがまた滝先生への不満に繋がる可能性だって少なくない」

 

さっきの滝先生の言葉を借りるなら未熟な顧問の軽すぎる判断だ。膿はいつまでも残していてはいけない。余計な問題は排除して、リスクは少しでもなくす。それが顧問としての務めではないだろうか。

目を瞑って何かを考えている様子の滝先生に、俺は再度念を押す。

 

「全国を目指すなら、俺は外すべきだ。はっきり言って不必要です」

 

「私はそうは思いません。全国を目指すからこそ、貴方は必要だと先生は思います」



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25

「な……」

 

はっきり言って言葉が出なかった。何を言っているんだ、この人は。

そうしたら不信から部員の集中力がなくなった、さっきまでの雰囲気の二の舞になりかねない。それでは何のために今ここでこうして先生に呼ばれたのかわからない。

それに俺はコンクールのメンバーから外れることは覚悟していた。だから外されることに後悔はないのに。

 

「これでも産まれてからずっと音楽に携わってきました。今は指導者としてですが、音楽学校に通って一演奏者としても」

 

「それがどうしたんですか?」

 

「音楽に触れてきて、今までたくさんの音を聞いてきました。私はこの耳にだけは少し自信があります。比企谷君はまだあまり分からないかも知れませんが、良い音楽とは嘘を吐かない」

 

高坂の音や中世古先輩の音を思い出す。

自分は特別になるのだと、その音は主張する。それが他のどんな理屈や言葉を並べるより何よりの証明だと宣言するように。

たくさんの努力を重ねてきたのだと、その音は主張する。何より音楽が好きだからここまでやってきたことのだと告げるように。

言葉で隠したって演奏から伝わってくるものがある。会話をろくにしてこなかった俺だからこそ滝先生の言っていることはわかる。

休み時間の寝たふりとか、頼まれ事をしたときの嫌そうな表情とか。演奏だってそうだ。言葉にしなくたって伝える方法はたくさんあるのだ。

高坂の演奏からわかる才能。

 

「比企谷君。先日オーディションを行って貴方の演奏を聴いたとき、貴方の音からもしっかりと伝わりましたよ。確か、小学生の時から吹いてきたと言っていましたね。ちゃんとこれまでこつこつと吹いてきたのだと。貴方のこれまで重ねてきた努力やひしひしと感じられる悔しさ、しっかりと私は理解した上でコンクールのメンバーに選んだのです」

 

そんなこと言われたのが初めてで、涙が出そうになった。だがこらえる。この人の前で泣きたくはない。

それがなぜなのか、自分でもよく分からない。余裕そうに見える、というか見せているこの顧問にどこかで負けたくないからか。それともここで泣いたら俺たちの扱いが上手いこの人にまた上手くやられたように思えるからか。やっぱり見透かしているようで気にくわないからか。

だからそれを誤魔化す手段として、話を逸らすこともできずに、ただ否定をするしかなかった。

 

「そんなことないですよ」

 

「いいえ。きっと普段から同じ教室で練習をしているパートのメンバーも感じてるのではないですか?比企谷八幡という人間を理解している人はきっといますよ」

 

『最初からずっと思ってたんだけど、比企谷の演奏、香織先輩に似てる』

 

そう言えば、昔優子先輩が俺に言った言葉をふと思い出した。

確かオーディション形式にすると滝先生が発表したばかりの頃だった。放課後に歩きながら話した先輩は俺の音があの人にとって特別な中世古先輩に似ていると言っていた。

今でもそんなことはないと思う。

中世古先輩のように後輩が辞めるのを止めるために先輩に頭下げるとか部に貢献することなんて絶対にできないし、そんな部が崩壊していた最中でも、先輩が練習しなかった中でもずっと練習を欠かさずにいたからこそのあの中世古先輩の音が俺に出せるだなんて烏滸がましいとさえ思ってしまう。

 

「なので、もう一度言います。私は比企谷君をコンクールのメンバーから外すつもりはありません」

 

「そっちの方が辛いかも知れないなあ…」

 

このままメンバーに残れば部員の誰から何を言われるかわからない。明日からどんな顔して部活に行けば良いというのだろう。

 

「それは理解して発言したのでしょう?」

 

「…まあ」

 

「それなら然るべき覚悟をして、練習に励んで下さい。勿論、度を超して比企谷君に接している部員がいたときは何とかしますけどね」

 

片目を閉じてへラっと笑う滝先生はもういつも通りだった。教師らしいことを言ったと思ったら、あんまりにもあっけらかんといつもの滝先生に戻って、俺の頬は無意識に緩んでいた。

 

「おや。なぜ笑っているのです?」

 

「いや滝先生はそういう人だなって分かってたつもりでしたけど、茨の道を進ませるなあって。呆れる通り越して驚きました」

 

「それならさっきの仕返しですかね。練習だと思って音楽室に行ったら急に立ち上がった比企谷君に、高坂さんとの関係について改めて聞かれて驚きましたから」

 

「先生って、意地悪いって言われません?」

 

「言われたことはあまりないですけど、大学の友人からはたまに」

 

これで話は終わりだとばかりに、滝先生は譜面を持って立ち上がった。

滝先生の友人ってどんな人なのだろうか。この皮肉屋と付き合って行けるのは相当な変わり者であると思う。

 

「さてそれでは面談はこれまでにしましょうか。一日に二度の面談は疲れたでしょう?」

 

「わかってたなら後日とかにしてくれても良かったんじゃないですかね?」

 

「いえ。そもそも面談なんてしないことを第一に考えて下さい。コンクールに向けて練習も増えることですし、私も面談なんかに使う時間勿体ないですから」

 

「練習練習練習練習、どんどん増えていきますよね。しずえインフィニティか」

 

「何ですか、それ」

 

「…すんません。なんでもないです」

 

滝先生に「何ですか、これ」とか、「何ですか、それ」とか言われると心臓をぎゅっと捕まれたようになるのはなぜだろう。サンフェスの前に滝先生に海兵隊の合奏が下手くそで怒られた時のことがトラウマになっているのだろうか。



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それでも、中世古香織だって特別だ。
1


建国記念日とは実は誤りであり、正確には『建国記念の日』である。

『いや、大差ないやーん』と隣の大阪のおばちゃんからツッコまれそうな程細かい違いだが、歴史的には超重要な点。そもそも建国記念の日とは建国をしのび、国を愛する心を養う日として存在する二月十一日の大変大変ありがたい休みの日。バレンタインとか言うクソイベントまであと三日か…、と本来であれば憂鬱になるはずの時期に唐突に訪れる休みは世の中の男にとってバレンタインよりずっと甘くて心温まる大切な一日なのである。

明治時代に紀元節と呼ばれる建国を祝う祝日があったのだが、その紀元節は第二次世界大戦後、紀元節を認めることは天皇を中心として日本人の団結力が高まるのではないか、というGHQの懸念により廃止されることになった。

だが、実はそもそも日本がいつ建国されたのか、というのは明確ではない。現在の歴史学では初代天皇とされている神武天皇の存在に確証はないからだ。そのため、正確な起源が分かっていないのに建国記念日など定められない、とする学者からの意見が多くあったらしい。

最終的には日本が建国された日とは関係なく、建国されたという事実をお祝いするという考えのもとで『記念日』ではなく『記念の日』となったそうだ。

つまり建国された事実自体が大切なのではない。建国されたことを祝おうという気持ちが大切なのである。

それならば夏は暑いという事実が大切なのではなく、今年の夏も暑いことを祝って休みにしようとかあっても良いのではないか。もしあるなら、それは今日であると思う。だって、おかしいんだよ。もう夏じゃん。それなのに教室冷房付かないの。夏にクーラーの付いた部屋で暑さをしみじみと感じるのも夏っぽいが、夏のくっそ暑い教室はがつんと夏らしさ、というかもはや夏を感じる。

 

「理論は組み立てられている。にも関わらず休みにはならない…。これは自らが休みにするしかないのか…」

 

ソファに寝そべりながら二月のスケジュールを何となく見ながらぼやいていると、小町がリビングにやってきた。

 

「何ぶつぶつ言ってるの?」

 

「小町…。今日休みじゃないっけ?」

 

「いや見てよ。小町達、二人とも制服着てるじゃん。暑すぎて、頭おかしくなった?いとをかし?」

 

「学校行きたくねー。……それより小町、もしかして古文の勉強したのか?」

 

「うん。なんか響きがいいからこの言葉好きー。いとをかし。いとをかし」

 

「意味は分かってるよな?」

 

「ふっふっふ。小町を舐めて貰っちゃ困るよ、お兄ちゃん。いとって大変とか、大層って意味なんでしょ?だから大変おかしいですねって意味なんだよね!」

 

「ちげえぞ。をかしって言葉の意味はおかしいじゃない。面白いとか風情があるって意味だ」

 

「え。そなの?間違えちゃってたかな?てへぺろー」

 

「お前、可愛いけどもうちょっと勉強しろ?可愛いけど」

 

「む。うるさいなあ」

 

「ぐへぇ」

 

小町にクッションを投げつけられた。全く、折角勉強教えてあげたのに。恩を仇で返された。まあ妹からもらえるもんなら何だって嬉しいけどね!

 

「それでどしたの?急に学校行きたくないなんて」

 

「いや、前からそうだろ?常に学校行きたくねえよ」

 

「ううん。中学生の頃と比べたら最近はめっきり言わなくなってたじゃん」

 

「そう?」

 

「うん。お兄ちゃんが更正してるんだなって感心してたもん。部活のお陰かなって思ってた」

 

「更正って…。いや、むしろ部活のせいで中学の頃と比べて辛くなったことの方が多かったんだけど」

 

家に帰るのが遅くなったのもそうだし、疲れてすぐ寝ちゃうせいでアニメもゲームもできていない。夜更かしできないし、夢でまで滝先生に怒られる。

あれ。こう考えると、本当に部活やっててろくな事ねえな。

 

「違うよ。お兄ちゃん。嫌なことがあるから楽しいなって思えることがあるの。忙しい部活動がお兄ちゃんを充実させてくれてるんだよ。お、小町良いこと言ってる?」

 

「言ってる言ってる」

 

「うわー。適当だー」

 

「はあ。嫌だなあ…」

 

「まあお兄ちゃんが言いたくないならいいけどさ。別に」

 

小町は何かを取ったかと思えば、ソファに寝そべる俺の前に掲げた。

 

「久しぶりに途中まで送ってってよ!」

 

キーホルダーの一つも付いていないシンプルな自転車の鍵。妹と二人で学校に行けると思うと、不思議と家を出ようと思える。

その鍵を無言でとって、てくてくと後ろを付いてきている妹と共に学校へと向かった。

 

 

 

 

「うわ。よく部活来れるよね…」

 

「あいつ、中学の時までコンクールでたことなかったんだって。だから今回選ばれたから調子乗ってるんだよ」

 

「よく香織のこと、あんなに言えるなー。大して上手くないんでしょ。あいつ」

 

まるで中学生の時に戻ったようだ。

人生はリセットできないが、人間関係はリセットできるという持論はあながち間違いでもない。人生とは命をかけた一つの証明である、という言葉をどこかで聞いたことがあるが、俺はこうしてまた、自身の経験を持って一つの説を証明してしまった。

音楽室の所々から聞こえてくる俺への陰口は、もはや陰口ではなくしっかり俺の耳にまで聞こえていた。

そうして周りが中学の頃のようになったのなら、俺も意識してあの頃に戻らないといけない。誰からの悪口でも暴言でも、言われて傷つかないなんて事はない。ただ言われ慣れて折り合いの付け方がうまくなるだけ。その折り合いの付け方は京都に来てから、ほとんど意識して行っていなかったから思い出さないと。

 

「ねえねえ。この後まだ練習するよね?」

 

「勿論。コンクール近いしね」

 

とはいえ練習への意識は集中を取り戻したようである。特に問題だと噂で聞いていたホルンやクラも、通りかかったところを見た限りだときちんと練習をしていたようで、昨日の合奏練習では来週のホールでの練習を意識して音を正確に出すことが出来ていたと思う。

俺に向けられる視線と言葉を背中に、マウスピースを水道に洗いに行く。流れる水が冷たくて心地良い。



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2

「お疲れ様」

 

隣の蛇口が捻られる。

 

「おう。お疲れさん」

 

顔を向けずに返事をした。先ほどの朝の練習に参加していた高坂だ。

朝練は登校してくる生徒達の邪魔になるため、普段パートに宛がわれている教室を使うことは出来ない。そのため、練習する場所は自ずと音楽室か外のどこかで練習することになるが、この時期は外は暑いから音楽室に人が少ないのならばできるだけ室内で練習したいというのは皆が思っている。

お互いに一言ずつ言葉を交わせば、後は水が流れる音だけが響いた。水道には俺たち以外に誰もいない。そんな光景が今の吹奏楽部を如実に表現しているかのようで思わず苦笑いをしてしまった。

トランペットパート、さらに言うなら部活に居辛い二人。まるで周囲から隔離されているかのようだ。

 

俺も大概だが、高坂に纏わり付く非難も大概のものだ。高坂本人に直接言うことはないが、高坂が通り過ぎた場所には必ずと言っていいほど先輩が集まり、矢継早に不愉快で陰湿な陰口が飛び回る。

だが、こういうのに慣れている俺は置いといて、高坂はやっぱりいつも通りに見える。今回のトランペットパートのソロの問題でへこたれて、ちょっとメンタルがヘラりやすい女の子であれば、『人生をhappyにリセット!あなたを変えるたった三つの質問』みたいなサイトに載ってるセミナーとかに手を出してしまってもおかしくないであろうに。

ああいうサイトの記事って、信憑性ないし大して興味もないのについつい開いちゃうのはなぜなんだろうな。『嫌いな人が嫌いじゃなくなる』とか『周りの人は味方しかいない』とか。

 

「ねえ、一ついい?」

 

「ん?どした?」

 

「ありがとう」

 

「は?」

 

急に感謝されたから驚いて、思わずマウスピースを落としそうになる。

だが、もっと驚くべき事に高坂の顔が少し赤い。あまり感情を表に出さずに、冷静というか淡泊な高坂のこんな表情を見るとは。

それにしても、高坂に感謝されることなんて何もない。俺が最近高坂にしたことなんて、再オーディションを設けたことくらいだが、それこそ感謝されることなんかではない。高坂にとっては一度は決まっていたソロの枠を争うなんて面倒なことでしかないだろう。

 

「比企谷がこの間音楽室で皆の前であんな言い方して再オーディションをすることになったお陰で、皆が練習に集中するようになったから」

 

「いや、俺が勝手にやったことだし、感謝なんてされる筋合いねえよ」

 

「うん。言っとくけど、同情なんてしないよ。音楽室の真ん中で滝先生に話してる比企谷、ほんと最低だったから。公開処刑って何?普通に皆の前で公開オーディションとかで良かったじゃん。もっと他に言い方いくらでもあったでしょ」

 

「…言い方に関してはお前にだけは言われたかねえよ」

 

そもそも言いたいことをもっときちんと伝えることが出来ていたら、俺たちはきっと今頃こうして一人になんかなっていない。もし高坂本人が忘れたとしても、優子先輩と音楽室で大喧嘩したときの高坂は酷いもんだった。むしろあれに比べたら俺なんて可愛いもん。

 

「私の場合は生意気言ったことは認めるけど、あっちが吹っかけてきたことだし…」

 

「認めてるじゃねえか」

 

「うるさい。あんな言われ方したら誰だってカッとなるでしょ。音楽室から出て行った後も全然収まらなかったもん。すごいムカついたし、うざいーって思った」

 

「まあ本人もそれは気にしてたぞ」

 

「じゃあ謝って欲しい。それまで許さないから」

 

同じクラスになって、初めて見たときは高嶺の花で高潔でどことなく遠い人というイメージが合ったが、部活で同じパートとして関わるうちに、変わり者な負けず嫌いというイメージに少しずつ変わっていった。

高坂のこういう素直な物言いを聞くと、やっぱり高坂も同じような年齢の少女なのだと再認識する。普通ではないけれど、全然遠くなんてない。

 

「まあ、中世古先輩がお前に気を遣い続けているのは本当だけどな」

 

「それはわかってる。さっきも練習の前に香織先輩に呼ばれたもん。ソロをまた争うことになったけど、それでも同じ学校で一緒に出場する仲間だからお互い頑張っていい演奏しようって」

 

「…へえ。中世古先輩らしいな。ま、こないだ話したけどちょうど良いんじゃねえの。そう言ってくれたなら来週のホールではお前も容赦なく吹けて」

 

「まあね。ねじ伏せる」

 

「ねじ伏せちゃうのかよ…」

 

「だって、そのくらいできなくちゃ特別になんてなれないでしょう?それに誰かさんにお願いされたしね。香織先輩の前で圧倒的な演奏して欲しいって」

 

「……」

 

「香織先輩と比べられるシチュエーションを用意するからとか言われて、まさかこんな展開になるとは思ってなかったけど。それでも一度わかったって言ったからには、ちゃんとやらないと」

 

「…それこそ誰かさんにはオーディションの前に、約束破る男は最低とか言われたからな。見本見せて貰わないと」

 

「そういえば、そんなことも言ったっけね」

 

高坂が自信に満ちあふれた笑顔を携えながら水道を止めた。どうやら話は終わりということらしい。

二人で戻ればまた何を言われるか分からない。だから俺はまだ水を止めずにマウスピースを流し続けている。

 

「それじゃ私戻って練習するから」

 

「おう。お互い居場所がなくて一人同士頑張ろうぜ」

 

「言っとくけど、別に私は一人じゃないから」

 

「え、そうなの?」

 

ひしひしと感じていたシンパシーは勘違いだったというのか。この裏切り者めっ!

 

「私友達いるから。こないだ優子先輩と言い合ったときだって、私間違ってないって言ってくれたし」

 

歩いて音楽室の方に戻っていく高坂の背中を見て、俺はぼんやりと呟いた。

 

「……なんか。トランペットパートって面倒くさい奴らばっかだよなあ」

 

だがそれも高坂なら、普通であるよりはそっちの方がずっといいと笑うだろうか。優子先輩なら…。

そこで考えることはやめた。優子先輩と以前のように関わることはないだろう。だからあの人なら、とかそんなくだらないことを考えるのは無駄だ。

終わった関係にいつまでも未練を残してはいけない。

今日はもう練習はいいや。教室に戻って帰ろう。

 

「確かにみどりもそう思います。負けず嫌いな人が多いんだなって。でも負けたくないとか、もっといい演奏が出来るようにとか一生懸命にやっているのはきっと音楽が好きだからなんでしょうね」

 



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3

はい、ひょっこりはん!そんな感じで角から顔を出してニコニコとしていたのは川島だった。

 

「聞いてたのか?」

 

「はい。手を洗おうと思って水道に来たら比企谷君と高坂さんの話し声が聞こえてきて。さっきそこで高坂さんとすれ違いました」

 

「ふーん。そうか」

 

努めて冷静にその場を去ろうとする。川島と話すことなんて何もない。顔だけ出して笑顔でいる川島は可愛いけど。可愛いけど。

曲がり角の壁を掴んでいる川島の指はテーピングでぐるぐると巻かれていて痛々しい。笑顔に隠れて中々見せることはないが、その指は川島のひたむきな努力をしっかりと物語っている。

 

「比企谷君。一緒に教室まで行きましょう」

 

「…嫌だ。俺らクラスちげえし」

 

「むぅ……」

 

「……」

 

「ぷぅぅ………」

 

「………い、嫌だ」

 

「もう。じゃあ良いです。みどりが勝手に付いていきます」

 

「……寄ってくとこあるから。ちょっと遠回りしていくぞ」

 

「わかりました」

 

本当は寄ってく所なんてないが、教室の方に行って吹部のやつらに見られて俺と一緒にいたのが噂になれば迷惑被るのは川島だ。少しでも見られる確率を減らすために遠回りすることにした。

とりあえず川島を待たせて、洗ったマウスピースをしまって音楽室から出る。何があってもこれだけは傷つけられたくないから、南京錠をかけた自前のトランペットを楽器室に置いて川島と距離を取って歩き始める。

 

「ふんふんふーん」

 

何か話すわけでもなく、俺たちがコンクールで演奏する三日月の舞のソロパートを口ずさんでいる川島は本当に特に意味もなく一緒に教室まで行こうと思っただけなのだろうか。一人だと教室戻りたくない的な。

それはそうと、意味もなく一緒に行くと言えば男子の連れション。いくら赤ちゃんプレイがちょっとマニアックな男の子にとってノーマルでも、流石に子どもじゃないんだからトイレくらい一人で行ってくれ。

教室移動とか、昼休みの飯とか一人で何かするのが悪いわけなんてないのに、それを一人でしていれば寂しい奴だと言われ笑われる。それすらも納得いかないが、本来であれば一人であっても許される癒やしの個室、心も尿意も便意もすっきり解決すべきはずのトイレさえ誰かを誘って複数人で行うべきものとして、連れションなんて言葉の前で正当化されてしまえば、一体他に何が一人でも許されるというのだろうか。やはり連れションは悪い文明!粉砕する!

 

「あ。優子先輩です」

 

どうでもいいことを考えながら二人で歩いていると、川島が校門のところに一人で歩く優子先輩を見つけた。相変わらず頭のリボンのお陰でどこからでもわかりやすい。なにやら悩ましげに俯きながら歩いている。

 

「……」

 

「比企谷君はこないだから優子先輩とは話してないんですか?」

 

「…別に元から話すことなんて特にねえから。あの人だけじゃなくてトランペットパートの人たち全員、話すことなんて何もない」

 

「でも……」

 

「川島」

 

それ以上は話さないでくれ。

そんな意味を込めて名前を呼べば、『…すみません』と一つ謝って川島は優子先輩についてはもうそれ以上は何も触れなかった。

耳を澄ませばどこからか楽器の音が聞こえてくる。音楽室からではなさそう。

 

「オーボエですね」

 

「そうだな」

 

「誰でしょう?上手ですね」

 

「正確な音だよな。なんか音源をそのまま聞いているみたい」

 

「わかります。オーボエは去年も比較的しっかり練習していたって先輩から聞きました」

 

おそらくオーボエは去年から人数が少なく纏めやすかったということもあるのだろう。同じパートとして括られているファゴットと合わせても今年も人数はそう多くない。

 

「みどりも負けてられません」

 

「いや負けてないだろう。見る度に巻かれるテーピングが増えてくぞ」

 

「あはは。でも中学生の頃もコンクールに向けて少しずつ増えていって、逆にコンクールが終わると治って少しずつ減っていくんです。当たり前ですけど、そんな変化が嬉しいんですよね。頑張った証拠なんだなって」

 

「トランペットにはよくわかんねえ悩みだな。あんまり吹きすぎると腫れたり、口周りの筋肉が疲れてバテることはあるけど」

 

「他にも演奏者は顎関節症になる怖さがありますからね。その点みどりは安心です」

 

特にトランペットは高音を出すため他の金管楽器よりマウスピースを押しつけすぎることが多かったり、アンブシェアの位置を見直さなくてはいけない、つまりマウスピースを唇に当てる時に上唇と下唇を揃えることを心がける必要がある。歯並びや口の大きさなどもあり、人それぞれで個人差があるため、それをしっかりと見つけて唇を守らないと、最低医者にお世話になることもある。

 

「そう言えば五日後ですね。いよいよホールでの練習。久しぶりのホールだから、みどり、今からすっごく楽しみ」

 

「そうかー?」

 

「はい!広い場所で演奏するのは気持ちが良いです」

 

「バスで行くの面倒だし、楽器運搬重いし」

 

「でもでもみんなでバス乗るの楽しいし、楽器もきっと普段と違うところで演奏できると思ってきっと楽しみにしてます。京都府予選では次のホール練習よりももっと広い会場で演奏できて、全国まで行けばさらにもっともっと大きな会場で。そう考えるとわくわくが止まりません!私たちの冒険はまだまだこれからです!」

 

海賊王か。名前も緑輝と書いてサファイヤで宝石らしい名前だし。

 

「本当に好きなんだなー」

 

「はい。大好きでは表現できません!もっと大きいです!」

 

大好きより大きいとかアガペーなの?ちょうど十六歳だし。

窓の先には授業が近付くに従って、徐々に登校する生徒達が増えてくる。いつまでも見ていても仕方がないと窓から目線を外して廊下の先を見れば、見知った顔がこちらに向かって歩いてきていた。

 

「あ……。…おはよう」

 

「香織先輩。おはようございます」

 

「……」

 

明らかに顔を逸らした中世古先輩。合わせる顔がないとは正にこういうことを言うのだろう。

横を通り過ぎていく中世古先輩に俺は挨拶すらかけることはない。先輩が角を曲がって見えなくなるまで無言でいるしかなかった。

 

「高坂さんは別に悪い事なんて何もしていませんし、上手なのは間違いないと思います。それでもみどりは香織先輩にソロを譲っても良いと思っていました」

 

「え?」

 

「中学生の頃からそういう人間関係の問題は何度も見てきましたから。音楽は楽しいものであるはずなのに、誰が上手いかとかで比べるのって仕方のないことだけどどうなんだろうって。ましてや最近はそのせいで練習に熱がなくなってさえいましたから、尚ソロは香織先輩に譲るのも仕方がないと」

 

川島は真っ直ぐに俺を見て話している。その瞳から不思議と目を離すことができず、俺は黙って川島の話を聞いていた。

 

「今の部活は比企谷君が皆の注意を滝先生から自分に向けたことで滝先生の信頼は少しだけ回復して練習には熱が入るようになりました。みどりはきっと比企谷君はわかっててわざとあんな風に皆の前で言ったんだと思ってますけど。…というよりそう信じます。

あすか先輩も結果的には比企谷君に助けられた形なんじゃないかって言っていました。なので、みどりとか低音パートの人はそう考えています。だけどね、比企谷君。自分を傷つけて誰かを助けるやり方はきっと大切な誰かを傷つけます」

 

優しい声音はまるで母親が子どもを優しくあやすときのようだとさえ思った。俺は今、責められているのだ。間違っているのだと、そう言われている。

けれども俺より一回り小さいその体躯の少女の言葉を素直に聞き入れていられるのは心のどこかでそれが正しい事だと認めているからなどでは決してない。だって俺はその方法しか知らなかったのだから。いつだって自分が我慢することで解決しようと思ってやってきた。

それが違うというのなら、何故俺はその言葉を受け入れようとしているのだろう。それは川島緑輝という少女が俺より強い人間であると認めているからこそなのだと、素直で真っ直ぐな瞳を見て思った。

 

「さっき比企谷君は止めましたけど優子先輩も、今すれ違った香織先輩だってきっと何とか叶えたかったことがあったんだと思います。音楽に真摯に向き合うからこその願いが。だけどそれは比企谷君が傷ついてまで叶えたかったことなのかなって。ここ数日の先輩達を見てるとみどりは思います」

 

「まだ出会って数ヶ月だぞ。俺のことも、先輩のことも分かった気になるなよ。別のパートのくせに」

 

「出会ってからの期間はそんなに長くありませんけど、重ねてきた努力とその時間は十分すぎるほどに大きいです。比企谷君の言う通り、違うパートのみどりでさえ大切な友達に傷ついて欲しくなかったし、これからもみんなに勘違いされ続けているのなんて辛いです。もっと自分の価値を知ってください。比企谷君は北宇治高校吹奏楽部の部員で、大切な仲間です」

 

いつも通りににこにこと笑っている川島の手には一粒の飴が握られている。

 

「これは?」

 

「頑張った比企谷君へのご褒美ですよ」

 

「…安いご褒美だなあ」

 

それでもしっかりと受け取ってポケットの中にしまうと、川島は満足そうに頷いてまた太陽のような笑顔でにこにこと笑っていた。

 

「安くなんてありません。女の子の困ったことは大体甘いもので解決します」

 

「女の子じゃないんだよなあ。ハチ子ちゃんなの?」

 

自分の名前を女の子っぽくするときに八幡の後に『子』を付けるといかがわしくなるんだけど、それに気が付いた思春期真っ盛りだった中学生の時の俺は一人でニヤニヤと笑い、小町にガチで引かれて三日間口をきいてもらえなかった。

 

「でもほら。比企谷君甘いもの好きですよね?それに頭もよく使いますし」

 

「まあもらうけど。……さんきゅーな」



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4

「うわー。広いねー」

 

「本番はここよりもっと大きなホールです。これで驚いていたら呑まれてしまいますよ」

 

光の速さと同じくらい、とは流石に言いすぎかもしれないがホールでの練習まではあっという間だった。パート練習の時間以外は流れるように時間が過ぎていく感覚はある意味恐ろしい。余所のパートはゆるゆりとまったり練習をしていたのかもしれないが、俺たちのパートは空気清浄機を使ったってどうにもならないような尋常じゃない濁った空気。パートのメンバーの誰もが何かと気を遣って、以前よりも会話がずっと減って行われていた。

今回借りているホールは学校からすぐの市民会館にある。普段の音楽室とは違い、開放感のあるこの空間は川島ではないが確かに少しだけ音を出すのを楽しみにさせた。

だが、今日は合奏をする前にまず行われることがある。

 

「楽器来ましたー。手の空いている人は手伝って下さーい」

 

「はい。では皆さん、準備を始めましょう。中世古さんと高坂さん。二人は準備はいいのでオーディションの用意を」

 

「「はい」」

 

それはトランペットソロの再オーディションだ。

改めてオーディションを行う二人は滝先生の指示に従ってトランペットを入れたケースを持って外に向かっていった。二人ともそれぞれどこか別のところで音出しをするのだろう。

 

「………」

 

「…優子ちゃん優子ちゃん」

 

「あ、笠野先輩。すみません。ボーっとしちゃって」

 

「ううん。それより香織も不安かもしれないから行ってきてあげな」

 

「え?いいんですか?」

 

「うん。準備なんてこんだけ人いればすぐだからさ」

 

「ありがとうございます」

 

中世古先輩の向かった方に歩いて行く優子先輩を横目に、楽器運搬を使命とする男子である俺は外に向かった。

トラックの元にはすでに男子部員が何人かいて、手前の荷物から順に出している。これは降ろした荷物をホールに運ぶ係になるな。面倒くさ。

 

「比企谷」

 

「?」

 

小声で俺に話しかけてくる塚本。

塚本は今年からトロンボーンを始めたため、合奏練では名指しでいつまでに吹けるようになるかと滝先生から指摘という名の注意を受けていたことが幾度かあった。トランペットパートとトロンボーンパートは合奏練のときの席が近い。そのため、指摘を受けたときに『くそ…』と、悔しそうに呟く声を聞いたこともある。

放課後に大きくて荷物になるトロンボーンを持ち帰っている姿も見ていたが、果たして今日のホールでの練習に間に合ったのかどうかはわからない。ただ、そんな姿を知っていたから、人のことを気にしている余裕なんてきっとないと思っていた。

 

「…何だよ?」

 

話すのが久しぶりで思わず身構える。もしかしたら二人でコンビニに寄って帰ったときぶりかもしれない。

挨拶くらいはたまにしていたが、それでも俺と部活で話すのは周りから良く思われない。俺からももちろん距離を置いていたし、向こうも同じだったと思う。

 

「お前、行けよ」

 

「いや、どこにだよ?嫌われ者はどっかに行けってことか?ひでえな」

 

「半分正解だな」

 

「半分って何?」

 

「嫌われ者ってのはまあ正解だよな」

 

「改めて言わなくて良いから。分かってるから」

 

ははは、といつも通りの柔らかな笑顔で笑った塚本を見ていると変に身構えたことが馬鹿らしくなってくる。

 

「避けられてるんじゃない。一目置かれてる。そう考えると意外とやっていけないこともない。むしろ見下してる感あっていい」

 

「なにその謎にポジティブ。いや、ポジティブなのか?…まあそんなことはどうでも良くて。別に嫌われてるとかが理由じゃなくて、比企谷も今回の再オーディションの当事者なんだから準備なんてしなくて良いから行くべきなんじゃないかって」

 

「いやどう考えても当事者じゃねえだろ」

 

「最近、毎日合奏練の後に個人錬までして帰ろうとすると、トランペットパートのソロが聞こえてきてたんだ。校舎の裏で中世古先輩が毎日練習してた音だよ。高坂も朝練、すげえ早い時間から来て練習してるって滝先生から聞いた。中世古先輩にとって今回の再オーディションは本来なかったはずの最後のチャンスで、高坂だって負けられないし負けたくない。二人とも頑張ってる。そのきっかけを作ったのは比企谷だろ?立派な当事者だ」

 

「だからこそ今どっちかの方に行って肩入れなんて出来ないだろ」

 

「そうかもしれないな」

 

「ならどこに行くんだよ?」

 

「気が付いてて知らばっくれてたのか、それとも本当に気が付いてなかったのかわからないけど、後ろから見てると合奏練の最中も吉川先輩じっと比企谷の方見て複雑そうな表情してたぞ」

 

「……」

 

それが真実なのか、俺は正直わからなかった。

ただたまらず塚本の方を見ていられなくなって目を逸らす。

 

「…それでも別に話すこと特にないし」

 

「なら他に話す理由があればいいのか?」

 

「そういう訳じゃ――」

 

「……こないだ吉川先輩が朝、他に誰もいない教室で高坂に頭を下げてお願いしてたぞ」

 

「え?」

 

「俺もたまたま通りかかったんだけどな。あんなに真剣な顔で頭下げてる先輩の姿って中学の時から振り返っても初めてだったから驚いた」

 

塚本は肝心なことに触れずにいる。優子先輩は一体何に頭を下げたのか。

いつか音楽室で声を荒げて喧嘩したことを謝ると言っていたが、きっとそのことではないはずだ。ソロの問題が解決したらと言っていたけれどまだ何も解決していない。

もしかしたら。嫌な予感が頭をよぎる。

優子先輩は中世古先輩よりも高坂の方が上手いことをわかっている。けれどもそれを知った上で中世古先輩が吹くべきだと考えている。であれば自ずと頭を下げた理由は一つしかないだろう。

 

「…その理由は?」

 

「さあ」

 

「真面目に聞いてるんだけど」

 

「本当に知らないんだ。聞いちゃいけない話かなって思ってすぐに離れたから」

 

もし塚本が言っていることが本当なら、こいつ真面目すぎるにも程がある。こういう話って大体好奇心に負けてついつい聞いちゃうもんじゃないの?

 

「だから比企谷が聞いてこいよ」

 

「…だけどそれを聞いたところでどうすることもできないし」

 

「もっと単純に考えたって良いんじゃないか?気になったから聞く。俺はほら…吉川先輩結構怖いから聞きにくいけど…」

 

優子先輩が怖いという部分だけ、周りをキョロキョロ見ながら誰かに聞こえてないか確認して小声になっていった。どんだけ怖いんだよ、こいつ。わかるけど。あの人、他のパートからしたら超怖いけど。

 

「まあとにかく行けって。今から演奏する二人のとこでも、吉川先輩のところでも」

 

背中を押されて一歩二歩と前に出る。全く、余計なお節介しやがって。塚本には聞こえないように一言呟いて俺はホールの外に出た。



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5

 どこに行けばいいかわからず、歩き始めて真っ先に会ったのは意外な人だった。

 

 「あ、おつかれー」

 

 どこか気怠そうな挨拶に、俺は頭を下げることで返事をする。返事というのかは分からないけれど。手をひらひらとするのに合わせて、特徴的な茶髪のポニーテールが揺れているのは優子先輩と犬猿の仲と言われる中川先輩だった。

 そのまま横を抜けよう。そう思った矢先、あのさ、と呼び止められる。

 

 「何ですか?」

 

 「何してんのかなって。もしかしてサボり?私も私も」

 

 ニヤニヤと笑ってサボりを主張する中川先輩から確かに感じとった。この人、間違いなく俺と同じタイプの人間だ。どっからどう見ても不良っぽい雰囲気なところ以外は。

 実は以前から目を付けていたのだ。吊り目でヤンキーっぽい見た目やクールな雰囲気。一人でも『私、全然平気ですけど』みたいな感じがぷんぷんする。おまけに低音パートの中川先輩は俺たちが入部して間もない頃は一人で窓際に顔を寄せて音楽を聞いて寝ていたと川島と加藤から聞いた。わかるわー。気持ちいいんだよな。窓際で太陽の光を浴びながら音楽聞くの。それを堂々とやってのけるとか、ザ・エリートボッチ。人を寄せ付けることなく孤高。憧れの先輩はこの人だ。

 どことなく漂うアンニュイな雰囲気は俺も同じ。……同じかな?ともかくこの先輩にシンパシーを感じる。

 

 「いやあ。まあ」

 

 「それとも誰かを探してるとか?」

 

 ぎくりとした。正解と言えば正解なのだが、こういうの恥ずかしいじゃん。

 いや。恥ずかしいだけならまだ良い。これが後日、音楽室で『ねえ、聞いたー。こないだ音楽室で香織のこと悪く言ってたひ、ひき……ひきがえる?みたいな名前のやつ。あいつこないだのホール練の時、香織に謝りに行こうとしてたんだって。じゃあ最初から言うなよって感じ』、『私は優子ちゃんに呼び出されてドヤされてたって聞いたけど。男のくせに女に虐められるとかマジダサい』なんて噂された暁には死にたくなる。

 

 「べ、べべべ別にそそそういう訳じゃ……」

 

 「うわー、隠すの下手くそか。……割とどうでもいいことは」

 

 『割とどうでもいいことは』。小さく呟いた中川先輩の言葉は確かに俺の耳に届いた。

 

 「あー。まあこんなこと言う必要ないだろうけど…………うん。やっぱいいや。やめた」

 

 「え、なんすか。そういう気になるところで終わらせないで下さいよ」

 

 「ううん。今話すようなことじゃなかった。今度落ち着いてるときに、気が向いたら話すから。それより急いでるんでしょ?早くしないと準備終わっちゃって、ソロのオーディション始まっちゃうよ」

 

 「……」

 

 「……そう言えばさっき、私の背中に突撃してきた鬱陶しいやついたなー。なんか急にツッコんできたから何だと思ったらしばらく私の背中にくっついて、そのままどっかに走って行ったっけ。多分、あっちの方のベンチにでも座ってるんじゃないのかなー」

 

 「鬱陶しいやつ?」

 

 「そうそう。生意気でわーきゃーわーきゃーうっさいの」

 

 どっからどう見ても鬱陶しいでしょ。そう俺に一言残して中川先輩は俺の隣を通り過ぎていった。

 

 「それじゃあ。比企谷君」

 

 手をひらひらとさせながらどこかに歩いて行く先輩の背中を見つめながらふと思う。

 そう言えば、俺あの人に名前言ってたっけ?

 

 

 

 

 

 中川先輩の言われた方に歩いて行けば、肘を太ももに付けて目を手のひらで隠しながら座っている優子先輩がいた。

 泣いているようにもみえるが、すすり泣くような声は聞こえないし肩も震えていないから落ち込んでいるのだろうか。小さい身体はいつもよりずっと小さく見えた。

 困ったな。塚本に背中を押されて、中川先輩に場所を教えられたのはいいんだけどやっぱりこうして来ると何を話せば良いのやら。

 最近話していなかったけど、何から話せば良いんだろう。冷静に考えると、あまり俺から話しかけることはなかった。放課後帰る時も大体向こうから話を振ってくれていたし、むしろ俺から話を振った事なんてあったかな。

 やべー、本当にどうしよう。ぽりぽり右手で頭をかきながら、左手をポケットの中に入れる。かさりと左手が何かに触れた。川島の言葉が頭をよぎる。

 

 『女の子の困ったことは大体甘いもので解決します』

 

 「……これ。もし良かったらどうぞ」

 

 顔を上げた優子先輩の目元は少しだけ赤かった。

 俺の掌に乗った飴を見てから、俺の顔を見つめる。そのまま手を伸ばして川島から貰った飴を手に取った際にほんの少しだけ触れた優子先輩の指は温かい。

 

 「……ありがと」

 

 いつもの公園。そう呼べるくらいに何回も帰りに寄っていく公園のベンチのように座るのが何故か憚られて、俺はベンチの隣に立つことにした。顔を合わせることはなく、お互い大きなガラスの外に目を向ける。

 風に吹かれて木が揺れている。晴天の下の土から萌えるあの植物は、一体何の花を咲かすのだろう。棗かな?俺の風情とはほど遠い人生経験と知識からじゃ判断できない。

 

 「……甘い」

 

 「そりゃ飴ですからね」

 

 「この包装紙のデザイン可愛いわね。こんなの比企谷が持ってるって何か意外」

 

 「本当にたまたま持ってました」

 

 ぽつぽつと交わされる会話はまるで互いの距離感を測っているかのようだった。

 ずけずけと無遠慮でひたすら明るいように見せて、目には見えない空気を繊細に感じ取る。吉川優子はそういう女子らしい狡さを併せ持っていて、それが同時に強かな所でもある。

 だからこそ、もしかしたらホールの準備が始まる前に中世古先輩の所に向かって何かを感じたのかもしれない。

 それからしばらく会話と呼べるのかも分からない応答を続けて、また無言になった。



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6

やっとのことで口を開いた優子先輩は覚悟を決めたように真っ直ぐな瞳で俺を見つめてきた。

 

「……さっきまで香織先輩のとこに行ってたの」

 

「どうでした?」

 

「準備終わらせた後、最後の確認でソロ吹いてたけど完璧よ。それ以外の言葉はない」

 

「そうですか」

 

「うん。でも私、そこでやっとわかった」

 

「何がですか?」

 

「香織先輩はもう…きっとソロを吹くことはないんだなって」

 

「……あの日も言いましたけど、高坂とこうして比べられることになった時点で優子先輩は分かっていたんじゃないですか?」

 

「そうじゃないの。実力差の話じゃなくて、香織先輩は今ソロに選ばれたくて今から吹くんじゃない。自分のかけてきた三年間に区切りを付けるために吹きに行くんだって。比企谷はそれをわかってたんでしょ?香織先輩はもう勝てないし、それを分かった上で吹きに行く。だから私に見守って欲しいなんて言ったの」

 

「……」

 

優子先輩が言っているのは、二人で帰った放課後のことだ。あの頃から俺は再びオーディションを行うことが中世古先輩が自分を納得させる唯一の手段なのだと考えていた。

 

「香織先輩のことは確かにあんたの方がよくわかってた。だけど私のことはわかった気にならないで」

 

優子先輩の瞳に明確な敵意が宿る。高坂に向けていた怒りよりも冷ややかで、思わずぞっとするような冷たさだった。

 

「私は去年から香織先輩を見ていたの。去年のコンクールだって先輩は府大会を勝ち進むこともなければ、三年と一年のごたごたのせいで最後には出ることさえ出来なかったけどそれでもずっと香織先輩は努力してきていた。そんな順風満帆だなんて言えなかった高校に入ってからの吹部での全てを賭けて今日のソロを吹く。

ただ見守っているなんてできる訳ないじゃない。大好きな先輩が吹部のためにたっくさん頑張る姿を見てきて、私はその姿を追って吹奏楽を続けたんだから。そんな先輩が頑張ってるんだから支えてあげたいって思うのは当たり前じゃない」

 

蓋を開いてみればいつも通りだった。

ただ真っ直ぐに大好きな中世古先輩を思う気持ち。先輩のこの気持ちに、偽らずにいて欲しい。

そう言えばすっかりと忘れてしまっていた。俺はその自分の想いを守りたくて何とかしたいと思い、そして結果的に音楽室で滝先生に公開処刑にしようと告げたのだった。

 

「香織先輩が吹けないなんて可愛そうとかそんな同情はもうしない。それでも高坂の方がどんなに上手くたって、私は最後まで香織先輩に吹いて欲しい。それは絶対に同情なんかじゃない、トランペットが好きだって笑った先輩に吹いて欲しいっていう私の願いだから。だから私は何があっても最後まで香織先輩の味方で居続ける。ただ見守るだけなんかじゃない。意地でも傍で支えてみせる」

 

「……はは」

 

「…何で笑ってんのよ?」

 

「いや先輩らしいなって」

 

「……」

 

「そう言えば中世古先輩言ってましたよ。去年からずっと一緒にいた優子先輩が中世古先輩のこと、ずっと応援してくれて本当に良かったって」

 

「え?」

 

「確かに優子先輩の言う通り、俺は結果さえ良ければ他はどうでもいいと思うタイプなんで、問題を解決するために誰かの気持ちとかそういうの考えません。だからきっと今日も二人の演奏を聴いて冷静に評価を下すことになる。だけど中世古先輩の味方に最後までなる。その資格は他でもない、去年からずっと中世古先輩を傍で見ていた優子先輩にこそあるべきものだと思いますよ」

 

「ぁ……」

 

優子先輩がぽーっと俺を見つめている。

 

「な、なんすか?」

 

「あ、いや。比企谷そんな笑い方できたんだって」

 

「はあ?」

 

「ごめん」

 

徐々に顔が赤くなっていく先輩に俺は思わず顔を逸らした。そ、そろそろホールの準備も終わっただろうしホール戻ろうかな。うん。それがいい。

だがこの場から逃げ出すという俺の目的は叶わなかった。

 

「……今更だけど、私前に言ったわよね?」

 

「な、なんのことですか?」

 

「話すときはちゃんとしっかり隣に並んで話す事って。ほら、隣座んなさいよ」

 

「え、えー。でもそろそろホールの準備も終わってるだろうし、それに俺あんま座るの好きじゃないって言うか」

 

「外で練習するときいっつも俺は座れる部活を選んだはずなのに、ってぶつぶつ言ってる癖に何言っちゃってるのよ。何よりそうやってこっちが座ってるのに、立ったまま話されると見下されてる感あってムカつく!」

 

そんくらいで怒るとか器ちっちゃいなあ。日本酒飲むとき用のおちょこか。

そんなことは当然言えず、失礼しまーす…と遅れてしまったときに会議室にこっそり入るような動きでしゅっと座る。

隣に並んで座るのはいつまで経っても慣れることはない。それは隣で自分の髪をくるくると弄っている先輩も同じだろうか。きっとそんなことはない。いつまでもどきどきとしているのは俺だけ。

むぅ。無性に悔しい。

 

「ねえ、比企谷。音楽室であんな言い方したの、私怒ってるから」

 

「え」

 

「そりゃそうでしょ?どんな理由であれ香織先輩を悪く言ったの冒涜よ」

 

「冒涜…」

 

「うん。冒涜。それに、あんた頭良いから色んな事考えてあんな言い方したんだろうけどさ、もっと周りのこと考えてよ」

 

だけどね。そう言って優子先輩は窓の外から俺に目線を合わせた。

 

「ありがとう」

 

それは一体何に対しての感謝なのだろう。よくわからない。

むしろ俺は謝らなくちゃいけないことがあるのに。優子先輩の中世古先輩にソロを吹いて欲しいという願いはきっと叶わない。その一端をきっと俺が担ってしまったから。

 

「すいません」

 

「なんか変ね。片方は謝って片方は感謝するって。食い違い?」

 

「…多分、食い違ってるわけじゃないんですかね?」

 

「それにしても比企谷って謝ってばっかじゃない?反射的に謝るスピードとか比企谷が嫌いなサラリーマンばりよね」

 

「一番なりたくないものに近付いているのか…。でもそういうの良くあるって言うし、好きなことを仕事にしちゃいけないって良く聞くけど、逆に嫌いなことが仕事になるんですかね?」

 

「知らないわよ。それよりそういうことなら感謝される方が驚いたかなー。比企谷は捻くれてるし、感謝されること少ない気がするわね、何となく」

 

「言っときますけど俺は感謝できない子ではないんですよ。ただこれまでの人生において感謝する機会がなかっただけで」

 

「あはは。おかしい」

 

そう言えば優子先輩が高坂に頭を下げた理由を聞いてないのだった。

……でも、まあいいか。それはそのうち聞けば。

それよりも唐突に謝ったのは、きちんと謝りたいことがあったからでもあったのに。生意気いってませんでした。それから中世古先輩に吹いて欲しいと言った優子先輩の願いだけは叶えられなくてすみません。

だけどそれを言う前に話は打ち止めになった。

 

「練習始めまーす!」

 

俺たち以外にもホールから出ていた人がいたのだろう。廊下は声が響きやすい。誰かが廊下に向けて大声で叫べば大体の人には聞こえる。

ぎゅっと拳を作る優子先輩。さて、再オーディションの時間だ。

 

「……行きますか」

 

「……うん」



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7

席と楽器の準備を終えた壇上に二人の生徒が並んでいる。

 

「では、これよりトランペットソロパートのオーディションを始めます」

 

他の部員はステージから離れてホールの中央に集まって座っている。俺たちだけではこのホールの十分の一にも満たないだろうか。

ホールからステージは思っていたよりもしっかりとよく見える。綺麗に並べられた楽器達がまるで俺たちが演奏するのを待っているかのように、照明の光を反射して無邪気に輝いていた。

 

「両者が吹き終わった後、全員の拍手で決めましょう。いいですね、中世古さん?」

 

「はい」

 

「高坂さん」

 

「はい」

 

二人に笑顔はなかった。ただただ真剣な眼差し。

公開処刑という表現という言い方はやはり間違っていた。真剣勝負の一騎打ち。それを控える二人とも処刑を待つような表情などでは決してない。

思えば吹奏楽において、こうして一対一で吹いて競うなんて機会は滅多にない。サンフェスの時に先生が言っていたが、そもそも音楽とは本来競い合うものではないからだ。

 

「ではまず、中世古さん。お願いします」

 

「はい」

 

滝先生の言葉に、中世古先輩がトランペットを構えた。

遠くからではわかりにくいが、もしかしたら震えていたようにも見える。それでもここに立った以上吹かなくてはいけないし、その覚悟はきっとすでに出来ているはず。

中世古先輩は一つ息を吸って吹き出した。

 

中世古先輩の演奏は格段に上手くなっていた。中世古先輩のソロの音を何度も聞いていたからこそ、それがよくわかる。音楽や演奏に正解はないが、失敗や欠点が見当たらない中世古先輩の演奏は優子先輩がさっき言っていた通り正に完璧だった。

中世古先輩の真面目で努力家な一面がその演奏から伝わってくる。きっと再オーディションが決まってからは血が滲むような努力をしてきたのだろう。

 

「ありがとうございました」

 

中世古先輩の演奏が終わると自然と拍手が起こった。すごかったね、と賞賛の声が聞こえてくる。

そんな中でステージの上にいる高坂は相変わらず表情を表に出さずにいた。

 

「では次に、高坂さん。お願いします」

 

「はい」

 

一瞬、高坂と目が合った気がした。

不思議と高坂はその期待を裏切らない、そんな確証がある。中世古先輩の演奏がその程度のものだったなんてことはない。むしろ今聞いた中世古先輩のソロは上手くなりすぎていて驚かされた。それでも。

高坂はいつも通り、すっと真っ直ぐに背筋を伸ばしてトランペットを構えた。

 

高坂のトランペットから音が飛び出た瞬間、衝撃が走った。高坂の音に思わず声が出なくなるほど驚かされる。この経験は吹部に入ってから何度目だろうか。そしてやはり、高坂は俺の期待を裏切ることはなかったのだ。

圧倒的な力強さがあるのに滑らかで、美しいのにガツンと突き刺さる。その音色はまるで歌うようにホールの中で響き渡っている。

中世古先輩だって上手いのに、高坂が特別すぎる。それ程までにその実力差は明確だった。同じフレーズを吹いているはずなのに、どうしてここまで演奏に差は生まれてしまったのだろう。

 

「ありがとうございました」

 

高坂の痺れるような演奏にただ圧倒されて見つめていただけだったオーディエンスである部員達が、徐々にざわざわと話し出した。

どうしよう。どこからかそんな声が聞こえた。そのどうしようの意味は、もはや二人の演奏の前に明白だ。

だが多くの部員の結論は出ないまま、滝先生は俺たちに投げかけた。

 

「ではこれより、ソロを決定したいと思います。中世古さんが良いと思う人」

 

隣の席が、がたりと動いた。

立ち上がってパチパチと手を叩く。優子先輩は俺に話していた通り何があっても最後まで中世古先輩の味方で居続けた。

たった一人だけの乾いた拍手の音。それでもこのホールに響く寂しくも力強い拍手に、ステージに立っている中世古先輩の瞳が少しだけ潤んで。

それから嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。

「っ……」

 

勝者は中世古先輩ではないし、同情は絶対にしないと決めた。

それでもトランペットを愛して、部活と部員に尽くしてきた誰よりも優しかった彼女にどうか最後のチャンスを叶えて吹いて欲しい。

そう思う気持ちに蓋をする。そのために中世古先輩を視界に入れないようにと目を閉じて、何かがこぼれ落ちそうになるのを俺はなんとか耐えた。

 

優子先輩の拍手に続いて小笠原先輩も拍手を送った。

部長であるしその責任と立場だってあるが、中世古先輩と親しく、一緒に部活を乗り越えてきた三年生でもある。中世古先輩の努力や想いを一番知って理解しているのは小笠原先輩なのかもしれない。だからこそ中世古先輩に吹いて欲しいという気持ちに素直に向き合って、中世古先輩に拍手を送っている。間違いなく中世古先輩の喜びになっただろう。

 

「はい。では、高坂さんが良いと思う人」

 

真っ先に立ち上がって拍手を送ったのは、低音パートの黄前という女子だった。あまり目立つタイプでもないはずだが、それでも周りが誰も拍手をしない中でしっかりと決意して立ち上がった。

その黄前からの拍手に、高坂は安心したように微笑んだ。ここまでずっと表情を変えなかった高坂が年相応の表情を浮かべたことで、少しは高坂も不安だったのかなんて思う。

 

黄前の姿を見てから手を叩く加藤。それに続いて、俺も手を叩いた。

隣にいる優子先輩は俺の方を見ることはしなかった。俺も見ることはしない。

俺と中世古先輩じゃ、誰かに譲った理由も違えば状況だって違うけれど。中学生の俺はただ人間関係で実力なんて何の関係もなくコンクールに選ばれることはなかった。中世古先輩は実力で今回選ばれない。

それでも求めているものは一緒なはずだから。二人で自転車に乗った夜に抱いた感情はきっと正しいと信じて手を叩く。

中世古先輩を負けさせるために。繰り返し叩いている掌がじんじんと痛かった。

これで数は三体二。高坂が一人多い。よってソロは高坂に決まった。

誰もがそう思った中で、滝先生は最後に一つ質問をした。

 

「中世古さん。あなたがソロを吹きますか?」

 

「えっ」

 

誰かの声が聞こえた。けれどそれは皆が思ったことでもある。

こんなに意地悪な質問は他にない。抗議の意味を込めて優子先輩が滝先生を睨み付ける。高坂さえ、酷く傷ついた顔をしていた。

けれど、滝先生の瞳は優しい。

今このホールにいる中で顧問の二人だけが前回のオーディションの時の演奏を聞いていて、今回との正確な比較をすることが出来る。だからこそ今日、この瞬間のために中世古先輩の果たした成長とその裏にある努力を本当の意味で理解することが出来たのも、きっと二人だけなのだと思う。

滝先生の質問は中世古先輩が自分で負けを宣言するための質問だ。だけどそれは、中世古先輩を追い詰めるためのものではない。

そこに立つことを決めたときから上手さで争うことを決め、負けることなんてわかっていた。それでも諦めることはできなかったから、だからこそ負けたかった。死に物狂いで練習をして、それでも圧倒的な壁の前を破ることなんてできずにその実力差を痛感したかった。

拍手という他者の評価ではなくて、最後に自分の言葉と意思で負けを認める。そうしてやっと納得できて、諦められる。

 

「吹かないです」

 

滝先生の瞳と微笑みに中世古先輩は応えた。

 

「吹けないです」

 

悔しさも後悔もきっとある。それでも真っ直ぐに前を向いてはっきりと。

 

「ソロは高坂さんが吹くべきだと思います」

 

本心でありながら本心とは程遠い結論に向き合って、中世古先輩は最後に高坂に笑いかけてみせた。

 

「高坂さん。貴方がソロです。中世古さんではなく、貴方がソロを吹く。良いですか?」

 

その力強い中世古先輩の姿に高坂は思わずたじろいだが、滝先生の言葉にはっとしてすぐに背筋を伸ばした。表情には強い覚悟と自信がある。

 

「はい!」

 

「……さて。それでは仕切り直して練習を始めましょうか」



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8

初めてのホール練習を終えて、バスで学校に戻った俺は、解散となった後も校舎の外で居残り練習をすることにした。ひっそりとした校舎の裏なら、きっと誰にも気付かれることなく練習できる。

 

「くそ…」

 

幾度となく頭をよぎるのは高坂のソロパート。

狡いと思った。俺だって同学年なのにこの差は何なんだ。どれだけ吹いても高坂の演奏と俺の演奏には超えられないとさえ思えるような壁がある。普段から同じパートで練習していて何となくは理解していたが、今日一人でステージに立って吹いた音色を聞いてそれが尚理解できてしまった。高坂の演奏に魅入られて、追い抜く事なんて出来るはずもないのにそれでも吹いた。

もっと。もっと上手くなりたい。

 

「あれ」

 

それだけを考えて吹いていたら、いつの間にか校舎から差し込む照明の光がなければ譜面が見えないくらいに暗くなっていた。

流石に今日はそろそろ帰る頃合いか。

 

「…お疲れ様。比企谷君」

 

その柔らかで馴染みのある声に、俺は咄嗟に声の方を向いた。

 

「お、お疲れ様…です」

 

真っ白な肌の色が薄暗いこの空間の中で異質にさえ感じられた。微笑む中世古先輩は少しだけ目元が赤い。

こうしてしっかりと面と向かって話すことはないと思っていた。ましてや数時間前に再オーディションは終わったばかり。俺から話せることなんてあるはずがない。

 

「ホール練が終わった後まで練習するなんて偉いね」

 

「いや、別に」

 

「高坂さんの演奏にあてられちゃったとか?」

 

「……」

 

「ふふ。そっか。実はね、私もそうなの。さっき並んでステージに立ってたときは何とか表情に出さないようにしてたけど」

 

「え?」

 

「あ、違うよ!練習してたのはソロの部分じゃなくてね!」

 

笑っている中世古先輩の言葉に心がきしりと痛む。

少しずつ俺の方に寄ってくる中世古先輩からどこかに逃げたいと思いつつ、足はその場に留まっていた。

俺たちの間を夏らしい、生ぬるい風が吹き抜けた。

 

「私負けちゃったね。高坂さんに」

 

「……」

 

「私自身、高坂さんの方が上手いなって思ったし、拍手した人数も高坂さんの方が多かった。これじゃあ、もう完敗だ」

 

「…謝れってことですか?」

 

再オーディションを行うことにしたのも俺だし、高坂の方で拍手したのも俺。結果的に拍手の人数は一人の差で高坂の方が多かった。俺が拍手しなければ拍手した人数では中世古先輩は負けることはなかった。

 

「違うよ。むしろね、今日のオーディションが終わったら比企谷君にちゃんと言おうと思ってたんだ」

 

「!」

 

中世古先輩の上げた手が、俺の頭の上で無造作に動いた。無造作だけど、繊細で優しく。

俺は今、中世古先輩に頭を撫でられている。

 

「せ、先輩!?」

 

「比企谷君、ありがとう」

 

思わず身をよじった。驚きで足が震えている。

頭を撫でられるのなんて何年ぶりだろう。小町の頭を撫でることは記憶にあっても、母さんにさえ撫でられたのさえもう記憶にない。

俺のごわついた髪はたまに中世古先輩の指に引っかかる。それがたまに痛むが、それでも無理にでも辞めて欲しいと言えずにいるのは、素直になると落ち着く。そして嬉しいからだ。

そう思うのは本能的な部分で子どもの時の記憶や感覚がリンクしているからなのだろうか。子どもの頃は良いことをしたら褒めて頭を撫でられる。けれど大きくなれば、褒められもしないし頭を撫でられることなんてありえない。

普段じゃありえない時間だからこそ、俺はそのまま動かずに中世古先輩の母性とさえ言える優しさに見栄も強がりも捨てて素直に甘えてしまっていた。

 

「それからごめんね。たくさん無理させて。でも私、そのお陰でやっと納得できた」

 

「ぁ…。俺も…すいませんでした…」

 

「なんで比企谷君が謝るの?」

 

「色々謝らなくちゃいけないこと、あるでしょ?俺は先輩を傷つけたことに変わりない。部員が俺を責めるのは当然です。それだけのことを言ったし、先輩を結果として敗者にした。…最後、だったのに……」

 

いつもより素直に言葉がぽろぽろと零れる。本当は言わなくてもいいはずのことを俺は話していて、中世古先輩はそれでも笑顔を崩さずに受け止めた。

 

「うーん。それじゃあ私は今、こうして比企谷君に謝罪を込めてなでなでしてるから、比企谷君からもなんか返して貰おうかなあ」

 

「あ、これそういうことだったんですね」

 

「本当は最近の比企谷君を見てて、ずっとこうしたいなって思ってたからなんだけどね」

 

「くっ…」

 

改めて近くで見ると中世古先輩って本当に美人だな。俺の頭を撫でていない空いている手を口元に当ててくすくすと笑っている中世古先輩。

この人に俺なんかが何か返せるものはあるのか。何か頼まれていたこととかして欲しいとか言ってたこと。言ってたこと……。

………あ。一つだけ、頭をよぎった。

 

「? どうかした?」

 

「い、いや。なんでもないです。か、香織、先輩……」

 

「……え?今、比企谷君、私のこと…」

 

「ほ、ほら!前、優子先輩みたいに先輩の事も名前で呼んでって言ってたから!一回だけですよ、一回だけ」

 

「……」

 

「……」

 

も、もう殺してくれ。沈黙が辛いよお。沈黙は金なんかじゃない。むしろ今この場は沈黙が禁であって欲しい。中世古先輩、キモいとかもうそういう罵倒でも何でも良いからなんか話して!

 

「……」

 

「うわ。ちょっとさっきよりも強く撫でるのは辞めて下さい!」

 

「ふふ!比企谷君は可愛いなあ!」

 

「わわわわ」

 

「ちょっと問題児だけど」

 

「一言余計すぎる」

 

「あはは。本当にありがとうね、比企谷君」

 

人生はリセットできないが、人間関係はリセットできる。ついこの間、証明したと思っていた持論はきっと間違ってはいないと思う。

人間関係なんて終わらせてしまえば、後は曖昧に。時間の流れによって風化していくはずだった。朽ち果ててなくなって初めから何もなかった、と。

それでもなくならずに今こうして何とかつなぎ止められたのは、叩き潰れることがなかったからだ。俺はそうしたつもりだったけれど、この俺の頭を撫でる温かい手のひらは、叩き潰れないようにしっかりと包んで守ってくれていた。

 

「俺の方こそ…ありがとうございます。香織先輩」



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9

「いよいよコンクールまであと十日です。各自、課題にしっかり取り組んで練習に臨んで下さい」

 

「「「はい」」」

 

夏休みに入り、長くなったはずの練習時間が一瞬にして過ぎるように感じた。そう感じているのは多分俺だけではないと思う。朝から日が暮れるまで練習をしてそれでも時間が足りないと、二十四時間しかない時間という概念に恨みを向ける。どんだけ練習をしても翌日にすぐに練習が待っているのに演奏や吹奏楽について考えて帰宅する毎日。そんな日々を過ごしていると、社会に疲れたゲーマー達が人生を考え直したいから、『CLANNAD』や『Air』を持って精神と時の部屋に入りたいと話す気持ちがわかる。プライベートの時間とかコンクールについて以外のことを考えていられる時間なんてどこにもない。

 

そして、最近もう一つ知った事実がある。忙しいと人に構っている余裕なんてなくなって虐めや悪口は比較的穏やかに収まるケースもあるということだ。

忙しい。忙しいから他のことに手が回らない。会社ではある意味処世術としても用いられるこの忙しいという言葉。あんまりにも使いすぎると、忙しいなら他の時間を使うか何とかしろという抽象的すぎるお説教が待っていると父さんは泣きながら言っていたが…。確かに共働きである両親が家で珍しく一緒にいるときに、母さんにあれやれこれやれと言われて、今忙しいを繰り返して雷が落ちている姿を何度見たことか。そして不思議とその逆はない。

しかし今の部活において忙しいというのは事実である。渡されたスケジュールにはぎっしりとその日に行うメニューが書かれていて、不安があればその後も居残り練習。その上、吹部は思いの外、パートが違うと関わることも多くない。そんな環境もあってのことなのだろう。

これまでの中学頃の俺の経験上、問題を起こせばすぐに広まり、それは陰口から始まり悪口に変わり徐々に直接的になっていった。指定された待ち合わせ場所で何時間待っても、誰も来ないラブレター。スパムメール当てのメールアドレスが書かれた机の奥に入った手紙。延々と変わることのない掃除の係。

虐めは蓄積されていき、最終的にその重みに耐えられなくなったものが親しいと思っている誰かに相談なんてとんでもない。それをまた他の誰かに言いふらされたら、さらに酷い仕打ちをうけるかもしれないという悪循環。リスク管理の問題だ。そうして辞めていったやつもいた。

 

ただ今回のケースはもう一つの可能性を提唱することも可能。部内において明らかにパワーのあるこの二人の影響という可能性もなくはない。

中世古香織と吉川優子。二人は可愛らしい布に包まれたお弁当箱を持って、俺の元に近付いてきた。

 

「比企谷君。一緒にお昼ご飯食べよう?」

 

明らかに嫌そうな顔で返すが、二人には全く通じていない様子。小首をかしげている。

あまり他に人がいるところで話しかけて欲しくない。

 

「いや。俺最近ベストプレイス見つけたんで、そこで食べます」

 

ベストプレイスを見つけたのは事実である。俺たちが部活を行うのは音楽室や教室がある北校舎だが、渡り廊下を歩いて反対にある南校舎。南校舎の四階には今は廃部して使われていないいくつかの部室、というか空き教室がある。鍵も掛かっていないし、少しだけ埃っぽい点さえ除けば滅多に人が来ないから最高のボッチスポットなのだ。

 

「一人で?」

 

「まあ」

 

「それじゃあそこに私と優子ちゃんも付いていくよ」

 

むぅ。香織先輩は何だかんだで頑なで引かない。最近になってそれがよく分かるようになってきた。

それなら問題ないでしょ、みたいに笑っているが問題は解決していない。昼飯くらい一人で食べさせてくれ。ただでさえ例年の夏休みと違って、一人で自分のベッドの上でごろごろと安らぐ時間がめっきりとなくなってしまったのだから。せめてお昼くらい、一人で飯を食べながら飛んでくる虫を見たり、窓から照りつける太陽を鬱陶しく思う。そんな夏の一時を謳歌させて欲しい。

 

「比企谷。諦めなさい。こうなった香織先輩は意外と頑固だし、そもそも香織先輩からの誘いを断るなんて恐れ多いわ」

 

この人は香織先輩を神だとでも思っているのだろうか。思っているんですね。ええ。

 

「頼まれたらパンでも飲み物でも買いに行く。暑いと言えばクーラーを付けるように職員室に交渉しに行く。そこまですることを決めて、やっと香織先輩とお昼を食べることを許可するわ」

 

「優子先輩は部長と昼飯を食べる前の上司なんですか?」

 

俺たち三人の関係は端から見れば不思議なものだと思う。優子先輩と香織先輩はまだしも、俺と優子先輩は再オーディションを行うことを巡って部員達の前で喧嘩をしているし、香織先輩なんて俺に面子を潰されたように見えるに違いない。部員達の前で負けを晒される、その発端となった人物。だから三人集まれば、俺は異端として悪目立ちしていることだろうと思う。

だが悪目立ちであっても、目立っていて注目されていることに変わりない。だから最近は噂で『仲が悪くなるはずなのに、香織先輩の優しさがパート内で除け者にならないようにしてあげている』とか、『オーディションが終わった後に比企谷が優子先輩に土下座して謝ってた所を香織先輩が許してあげてってお願いした』とか、『あいつはクズだけど、香織が神』とか、『うちの中世古香織の為ならば、俺はもしかしたら比企谷八幡も殺せるかもしれない』とか言われていても何もおかしくはない。

何があっても北宇治高校吹奏楽部の中で香織先輩は正義なんだな。

とは言え、そんな人が俺を許したという事実。それは確かに俺の立ち位置に影響を与えたという可能性はやっぱりあると思う。

 

「それじゃ比企谷君のおすすめ場所行こうか?」

 

「…いや、やっぱりどこか空いている教室でいいです」

 

香織先輩と優子先輩からはもう逃げられずどうせ一人でいられないなら、できるだけ動かずにいたいし、先輩達にわざわざ歩いて空き教室に連れて行くのも申し訳ない。

 

「そっか。それじゃあここでいっか」

 

こうして三つの机がくっついた。まるで『凸』の字のように並べられた机。

これからの昼休みも夏休みはこうして過ごすことになるのだろうか。いや。今日は他のパートメンバーはいないが、普段はこの二人は他のパートメンバーと昼食を取っていることも多い。そう考えると他のメンバーもいることもあるかもしれない。

 

「……はぁ」

 

俺は一つため息を吐いた。



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10

二人が弁当箱を開けるのを余所に俺は鞄の中からビニール袋を取り出した。どこにでもあるコンビニサンドウィッチ三個入り。三個入りが隣に置いてあると、何となく二個入りは損した気になるんだよな。

損得で考えると、サンドウィッチには永遠の課題があると思う。具材が多いと当然得なんだけど、多ければ多いほどサンドウィッチの一番のメリットとも言える食べやすいというポイントがなくなってしまう。ここさえ何とかなれば片手で食べられてオシャレ、しかも野菜も付いている。最強の食べ物であると、拙者、断言いたしまする。

 

「比企谷君のお弁当、コンビニのサンドウィッチだけなの?」

 

「はい。今は夏休みで学校の購買がやってないんでコンビニで買ってきました」

 

「でも普段は小町ちゃんが作ってくれてるんでしょ?」

 

「小町ちゃん?」

 

「香織先輩聞いたことなかったでしたっけ?比企谷の妹です。比企谷に似てなくて、すっごく可愛いんですよ」

 

「否定はしないですね。同じ親から生まれたとは思えないくらい可愛くて良く出来た妹です」

 

「否定しないんだね…。比企谷君、妹いるんだ。それにお弁当作ってくれるなんて羨ましい!私もそんな妹が欲しかったなあ」

 

「そうなんですよ。そんな訳で学校卒業後の将来は俺が家を守って、小町に身の回りの世話をお願いするつもりです」

 

「それじゃあお金が稼げないんじゃない?」

 

「両親の脛囓って養って貰いながら生活すれば良いかなって」

 

「あんた、最っ低な息子ね!」

 

ほっとけ。家守るのだって立派な仕事じゃい。急な雨が降ったら洗濯物も入れられるし、宅配の荷物もいつだって受け取れる。万が一泥棒が来たら本当に自宅を警備できるし。

 

「先輩達の弁当はお母さんが作ってくれてるんですか?」

 

「うん。私のお弁当はお母さんが作ってくれたの」

 

「私もよ。でも少し自分で作ったりもしてるかな。お母さんと一緒に夜ご飯作って、次の日のお弁当に入れたりとか」

 

「え、そうなの?優子ちゃん凄いね」

 

「そ、そんなことないですよ。ほんと大したもの作れないし」

 

「いやいや、私なんてお母さん全部頼りだから。お母さんいなかったらきっと私もコンビニで買うし。だから本当に凄いと思う!」

 

「…あ、ありがとうございますううぅぅ!」

 

ぱああぁぁぁ。そんな効果音が付きそうなくらい恍惚な表情を浮かべている優子先輩。思わず嬉しさで今褒められたばかりの弁当を落としそうになっている。危ない危ない。

 

「比企谷君、それだけでお昼足りるの?」

 

「そうですね。腹一杯にはならなくて、帰る頃にはぺこぺこですけどね」

 

「うーん。ちょっと不安になっちゃうよ。主食しかないし、私のお弁当のおかず食べても良いよ?」

 

「いや、それは申し訳ないですし大丈夫です。それに万が一、そんな話が部内の誰かに知られた暁には殺されかねない」

 

「そ、そうですよ!香織先輩のお弁当食べるなんて羨ま…比企谷には勿体ないです!」

 

「今、明らかに羨ましいって……」

 

「でも優子ちゃんも比企谷君のお弁当少ないと思わない?」

 

「それはまあ、午後も練習あるのにそれだけで足りるのかって感じですけど…。でも香織先輩のお弁当はダメです!食べるなら私のおかず食べなさい!」

 

目の前に出された優子先輩のお弁当。そもそも俺、おかずいるなんて言ってないのに…。

でも優子先輩のお弁当は確かに美味しそうだ。まさに典型的なお弁当。ふりかけのかかったご飯に、卵焼きとちょこっとサラダ。そして、これは見たことがある。おそらく冷凍の自然解凍のやつであろう、パステルカラーの容器に入ったナポリタン。

もう一品、やたら目に入るのはエリンギの肉巻き。これ、すげえ美味そうなんだけど。

 

「…本当に良いんですか?」

 

「別に良いわよ」

 

「じゃあこの肉巻きで良いですか?」

 

「え!?」

 

優子先輩の目が大きく開いた。そんなに驚くことあっただろうか。

 

「ダメでした?」

 

「あ、ううん。別にいいの。ただこういう時って、普通卵焼きとかかなって思ったから。た、食べて?」

 

「は、はい」

 

なんか優子先輩が明らかに凄い緊張してるから食べにくいんだけど。

一口でぱくりと食べる。エリンギの食感。肉の味付け。ふむふむ。

 

「…ど、どう?き、昨日の夜はあったかくて美味しかったんだけど、今日はお弁当で冷たいから、その……」

 

「うん。すっごい美味いです」

 

「!そ、そう…」

 

「あ。もしかして今のおかずって優子ちゃんが――」

 

「か、香織先輩!」

 

優子先輩が顔を真っ赤にしながら香織先輩を止めた。なんで優子先輩がこんなに照れたように赤くなっているのか、俺にはよく分からないんだけど。

たじたじになっている優子先輩が面白いのか、ごめんごめんと言いながらも笑いが止まらない香織先輩。ふむ。実に百合百合しい。これだけでお腹いっぱいです。

恥ずかしがっていた優子先輩はこふんと咳こんだ。わかりやすい。明らかに話を逸らしたいやつだ。

 

「そう言えば男子はみんなで中庭でお昼ご飯食べてるそうね」

 

「あ。聞いた聞いた。三年生も野口君とか行ってるって」

 

「はい。それで練習再開まで鬼ごっこしてるらしいですよ。男子って本当、そういうとこあれですよね」

 

「ふふ。元気なんだよ」

 

優子先輩の視線は俺に向いている。

その目は明らかに俺に質問を投げかけている。『お前は呼ばれないのか』、と。

 

「でもほら。低音の…あの大きい二年生はいないらしいですし。俺だけじゃないですよ」

 

「違うわよ。後藤は梨子と二人でお昼食べてるの。付き合ってるから」

 

「あの二人、仲良いよねー」

 

「そうですね。なんかこのまま結婚してもおかしくない気がします。比企谷が仲良くしてるトロンボーンの塚本だっけ?あの子もお昼は中庭組でしょ?行ってくれば良いじゃない?」

 

「……これは俺の友達の友達の話なんですけど、そいつは小学生の時にとある日の放課後、鬼ごっこに誘われたらしいんですよ。普段誘われる事なんてないからそいつはさぞ喜んだらしいです。あんまりにも嬉しすぎて、小耳に挟んだ遊ぶときはお菓子を持って行くって情報を鵜呑みにして菓子折をもっていこうとした程度にはね」

 

「ちょっと待って。それ比企谷の話?」

 

「ちちちちち違います!」

 

「……うわぁ…」

 

「おほん!とにかく続きを話します。校庭に着いたとき、おれ…じゃなかった。そいつがクラスメイトの輪に向かっていくと一斉に皆が楽しそうに逃げ出しました。『比企谷が来たぞー』って。ちょっとおかしいなと思いつつ、自分が鬼なんだと思ってクラスメイト達を追いかけました。足が遅くない彼はすぐにタッチした。すると近くにいた他のクラスメイトが言ったんです。『う、うわああぁぁ!こいつ、比企谷に触られたぞ!』。触られたクラスメイトはまるで主演男優賞に負けない演技で触られた部分を慌てて擦りながら必死に逃げていく。そこで彼はわかったんです。そのゲームに鬼なんていないんだ。敵役はただ彼一人だけ。次の日、教室で言われてたらしいですよ。『昨日の比企谷ごっこ、楽しかったな!』ってね…」

 

「比企谷の話じゃない!」

 

「それはちょっと悲惨だね…」

 

「ぐすっ……。だから鬼ごっこなんて絶対にやりたくないし、昼飯だけでも男子皆でどうって塚本に言われて、誘われたときには踊り出しそうになるくらい嬉しかったけど、俺が行って盛り上がるどころか盛り下がるのが予想に難しくないから行かない……」

 

「い、一応誘われてはいたのね…」



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11

小鳥か、とツッコミをいれたくなるくらい一口一口が小さい女子と違い俺は男。その上に飯の量がそんなに多くないため、二人よりも先に昼食を食べ終えた。

サンドウィッチの包装を袋に入れたまま、口を閉めてゴミ箱に入れる。夏休みで部活をしていない生徒は学校に来る機会なんてほとんどない。部活をしている生徒でも教室を使うことはない部活もある。空っぽで何も入っていないゴミ箱というのが少し新鮮だった。

 

「他にもおかずいる?」

 

「いやもういいです。ありがとうございます」

 

「ん。こ、これからも小町ちゃんがお弁当作らなくて、一緒にお昼食べるときはおかず食べて良いから」

 

優子先輩の勧めはそれはもうとんでもなく嬉しいが、今は夏休み。小町もぐーたらモードに入っているし、ましてや小町自身の分の弁当もないのにお弁当を作ってくれることなんて流石にない。だから一緒に昼を取る度に貰うことになるだろうが、それでは流石に申し訳ない。

一つ頭を下げて、感謝してるとも遠慮してるとも取れる反応を返す。話を有耶無耶にして終わらせることにした。

 

「優子ちゃん優子ちゃん」

 

「なんですか?」

 

「今度は私も食べさせて欲しいな。あんまり優子ちゃんがあげることになって、優子ちゃんのお弁当が少なくなったら元も子もないから比企谷君の妹ちゃんが比企谷君にお弁当作ってきてくれたときだけでいいからさ」

 

「そ、そんな。香織先輩に食べて貰うなんて逆に申し訳ないです」

 

「でも優子先輩のおかず、本当に美味しかったですけどね」

 

「ありがと!だけどそうじゃなくて!」

 

そんな会話をしていると閉めていた教室の扉がガラガラと開いた。振り返ると立っていたのは弁当を持った高坂だった。

 

「あ、高坂さん。お疲れ様」

 

「…はい。お疲れ様です」

 

「お疲れさん」

 

「うん。お疲れ」

 

何となく空気が重くなった。優子先輩が気まずそうに顔を逸らしている。

再オーディションが終わった後からずっとこの三人はこんな感じだ。優子先輩は高坂に対して気まずそうな様子で、高坂は優子先輩に関わろうとしない。香織先輩は高坂との距離を未だに測りかねていて、高坂は気まずそうにしている。

周りのパートメンバー達も俺と高坂には接しにくそうにするが、香織先輩に許されたように見えているであろう俺と違って、未だにいざこざがある高坂の方が俺よりずっと難しそうだった。

そんなこともあってか、高坂はここ最近ずっと一人で練習をしている。高坂の一人で練習に向かう姿や、パートメンバーの高坂との距離感を見て可哀想とかよりも、不思議と懐かしさを感じてしまう。それはまるでカレンダー上では数ヶ月しか経っていないのに、振り返れば大分前のことに思える入部したばかりの頃に戻ったようだった。

 

「高坂さんはもうお昼ご飯は食べた?」

 

「はい。一年の友達と一緒に食べました」

 

「そっか。もしかして、黄前さん?」

 

「はい。あと、加藤さんと川島さんも」

 

何だと!川島と一緒だったのか!高坂め…、中々隅に置けん…。

 

「なるほど。低音パートの一年生達だね。あすかからよく話聞くよ。みんな優しくて良い子だってね」

 

「はい」

 

「……」

 

「……」

 

「…あ、あの……」

 

普段から何でもスパっと言ってのける高坂が珍しく何かを言いよどんでいる。

だが数秒の間を置いても、高坂がその続きを言うことはなかった。

 

「…すみません。なんでもないです」

 

「…うん」

 

「香織先輩。私、今日も個人練習、外でやりますね」

 

「え、でも…」

 

高坂はこれを伝えるために香織先輩を探していたのだろうか。それとも言いよどんだことを伝えたかったからだったのか、それはわからない。

二人の間には確かに見えない壁があって、言えないことを言えずにいる。

高坂と同じように香織先輩も言葉が続かず、一つ頭を下げて去って行く高坂の背中にかける言葉を見つけられなかったからもどかしげに俯いた香織先輩を見て、俺はぼそりと呟いていた。

 

「…そう言えば」

 

「え?」

 

「そう言えばさっきの練習で、滝先生に出だしの音が合ってないって注意された部分がありましたよね?」

 

「! そうだよ。だから高坂さんも一緒に練習しよう!」

 

香織先輩が立ち上がって、高坂の腕を掴んだ。

 

「あ。ごめんね」

 

「い、いえ。急で驚きました」

 

高坂の腕をぎゅっと掴んで離さない香織先輩を見て、改めて俺は気付かされる。

三年間の努力は実ることなく、ソロは高坂に譲ることになった。オーディションでは改めて高坂の特別な圧倒的演奏にあてられて、誰もがあの場で香織先輩の負けを認めてしまっただろう。

それでも、中世古香織だって特別だ。

 

「…高坂さん。付き合わせちゃってごめんなさい」

 

「…それは今からのパート練習のことですか?」

 

「ううん。それもだし、オーディションのこともだし、色々」

 

だって、勝者が敗者に手を差し伸べるのではない。敗れても尚倒れずに、勝者にさえ手を差し伸べてみせた。香織先輩には誰よりも部活を愛し、愛されて、ただ守られるだけではなくて、戦って大切な何かを守りきる強さもある。

北宇治高校吹奏楽部の誰も彼女の代わりになんてなれやしない。

俺たちのパートリーダーの香織先輩はちゃんと、特別なのだ。

 

「ふふ。なんか抽象的ですね」

 

「あはは。そうだよね」

 

「わかりました。今日はパート練に参加させて下さい」

 

香織先輩が、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。

未だに掴んだままの手を、香織先輩は離さない。真っ直ぐに高坂を見つめ、高坂も香織先輩を見つめ返している。

 

「それから香織先輩。さっき言おうと思ったことなんですけど」

 

「あ、うん。何かな?」

 

「オーディションの時、生意気言ってごめんなさい」

 

頭を下げた高坂は次に優子先輩を見る。

 

「優子先輩も、すみません」

 

「うえ…え、えっと。私も、ごめん。かなりキツい言い方してたなって思うし、迷惑かけたと思う」

 

「……そうですね。冷静に思い返してみると、優子先輩には中々酷いこと言われた気がします」

 

「ちょっ!だから今謝ったじゃない!」

 

「高坂、あんま言ってやるな。これでも優子先輩、音楽室で高坂と口論になったこと結構気にしてたんだから。ほとぼりが収まったら謝ろうって言ってたし」

 

「比企谷!余計な事言わないで!」

 

もう、と憤慨を隠そうともせずに頬を膨らませている優子先輩に三人で笑う。

夏の熱い日差しの下で暑苦しい声を上げる野球部員。その中に混ざって昼食の時間であるはずなのに聞こえてくる楽器の音色。

 

「あはは。それじゃ、午後の練習も皆で頑張ろう」



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12

目覚ましの音で目を覚ます。

今日も夢にさふぁしばが出てくることを期待したが、残念ながらサンフェスの日以来、夢の中で普段よりも一回り小さく、可愛らしいドヤ顔で謎の豆知識を披露するさふぁしばが出てきたことはない。

だけどいつかまたあのさふぁしばが夢の中で出てくる。そんなどうでもいい確信がある。

 

「…よし」

 

床に落としたあった楽譜を手に取る。

普段は眠くなるまで小説かマンガを読むことが多いが、昨日は楽譜を眺めていた。規則正しく引かれている五本の線と、その上で踊る黒丸。同じようなものを数えていると退屈だからか不思議と眠くなってくるという、正に羊を数えるのと同じような要領で寝っ転がりながら眺めていると、指が無意識に動き出して、滝先生に注意されて書き込んである文字にばかり目が行ってしまってむしろ昨晩は冴えてしまっていたように思える。

それでも練習の疲れか、それとも今日は寝坊できないという緊張かいつの間にか眠り、目覚ましの音でぱっと目を覚ますことができた。

京都府予選、当日。絶対に忘れられない楽譜を鞄に詰めて、俺はリビングへと向かった。

 

 

 

 

「おはよ。お兄ちゃん」

 

リビングに行くと、夏休みにしては珍しく早く小町がすでに起きていた。

 

「おう。早いな」

 

「うん。今日くらいはお兄ちゃんのこと、見送りしてあげようかと思ってさ。ポイント高いでしょ?」

 

何この良くできすぎた妹。同じ遺伝子引き継いでるのか疑う。

 

「ああ。すっげえ高い。カンストしたまである」

 

「やったね。ついでに今日はお父さんとお母さんもお見送りしたんだ。お父さん、スキップしながら家出てって馬鹿そうだなって思った」

 

「……」

 

確かに馬鹿そうだけど、俺たちが夏休みの間も俺たちのために頑張って働いてくれてるのになんて酷い…。

 

「しかもしかも!じゃーん!朝ご飯も用意しておきましたー。ぱちぱちぱち」

 

「お、おぉ…。お兄ちゃん……感動…!」

 

「うわ。本当に泣いてるし」

 

しょうがないだろう!父親が娘に急に全く似てない似顔絵を貰ったときと同じ気分がわかっちゃったから。ちょっと違う気もするけど…。

いつまでも泣いている時間の余裕もないので、椅子に座って並べられている料理の数々を見る。味噌汁とご飯、それに鮭と卵焼き。いかにも朝食らしい朝食で珍しい。共働きで働いている我が家では食パンとか、前日の残り物とかザラだから。

……ん?

 

「…な、なあ小町」

 

「何かな、お兄ちゃん?」

 

「いや、この鮭の乗った皿にラップしてあるじゃん?」

 

「うん。ちゃんと温めたよ」

 

「おう。それでこの付いてる付箋……」

 

その付箋には母さんの字で『八幡の分』と書かれていた。

 

「あっ!しまった剥がし忘れたあ!」

 

「え、えー。用意したって」

 

「冷蔵庫から出したもん!温めたもん!」

 

「果たしてそれを用意したと言って良いのか?」

 

勿論、こうして温めて並べてくれていただけでも有難いんだけど、カンストした小町へのポイントが大幅ダウン。百十に下がってしまった。十点満点中。結局カンストしていることに変わりないんかい。

 

「…ん?」

 

付箋の裏に何か書いてあることに気が付いた。

『応援してます。頑張って』。

 

「……」

 

付箋はゴミ箱に捨てずにポケットにしまった。もしかしたら小町も母さんが残したこのメモに気が付いて捨てなかったのかもしれない。だって普通忘れないもんな。目の前で『やっちったやっちった』と、舌をぺろっと出しているアホそうな、というか事実アホな妹でも流石に。

 

「小町」

 

「ん?どったの?」

 

「ありがとな」

 

「うん。頑張ってきなさい」

 

「おう」

 

「小町見に行くからね」

 

「え。本当に来るの?」

 

「うん。中学の吹部の友達と一緒に行くって約束したんだ」

 

「そうか」

 

「最近のお兄ちゃん、ずっと頑張ってたからさ。妹としては兄の成長と成果を見に行く義務があるのです」

 

そんな義務聞いたことないけど、小町が来るのか。

朝飯を口に運んでいると、ぽすりと俺の上に感じ慣れた暖かさが乗った。

 

「おう、かまくら。お前ももしかしてお見送りか?」

 

珍しいな。かまくらが俺の方に寄ってくるなんて。

だがそんな俺の言葉はあっさりと無視して、かまくらは欠伸を一つ。そしてそのまま丸くなって眠った。

 

「あはは。かーくんはお見送りじゃないってさ」

 

「こいつ……。いつもより早起きした俺への当てつけか…」

 

気持ちよさそうに眠るかまくらを見ていると、今日ばっかりは羨ましさよりも先に何だか安心感を覚える。

 

しっかりと朝飯を食べ終え、かまくらを隣の空いていた椅子の上に移してから立ち上がる。

 

「よし、行きますか」

 

 

 

 

 

家を出てしばらく歩いていると後ろから声をかけられた。

 

「比企谷ー」

 

聞き慣れた特徴的な高い声。すぐに優子先輩だとわかった。振り返るとやはり優子先輩で、立ち止まって待つことにする。

 

「おはよ」

 

「おはようございます」

 

今日の優子先輩はいつもの黄色のリボンではなく、落ち着いた茶色のリボンを付けていた。

コンクールは基本、正装で参加する。そのため今日ステージに立つ五十五人のメンバーは正装である冬服で来るようにと先日貰った注意事項には記載されていた。

とは言え男子は上着を羽織るだけで良い。それに対して女子の冬服はそういう訳にはいかず暑そうだ。他にも髪が長い人は髪を肩の位置くらいまでに結ぶことや、スカートは短いのが厳禁で膝の位置に、など女子は面倒な事が多い。優子先輩もスカートがいつもより長く、少しだけ新鮮だ。

 

「今日は絶対金賞取らなくちゃ!全国への第一歩よ!」

 

「また突然…。大体金賞取るだけじゃ、関西の出場権取れるとは限らないじゃないですか。金賞を取って、かつ京都の出場枠の三校に選ばれてやっと関西大会までいけるんですから」

 

「確かにそうだけど、まずは金賞取らなくちゃ出場枠の可能性ゼロじゃん。一つ一つ順番に達成していけば良いのよ」

 

学校まで昨日は中々寝付けなかったとか、今朝の占いの話とか些細な話をしながら向かう。学校が近づいてくると、楽器を吹く音が聞こえてきた。

 

「はっや。もう音出ししてるのね」

 

「俺たちもそんな来るの遅くないはずですけど」

 

「うん。みんなそれだけ今日が不安ってことね」

 

「優子先輩は今日はあんま緊張してないんですか?」

 

「今日はって何よ?」

 

「いや、サンフェスの時は結構緊張してたから」

 

「あー、そういうことね。本番直前までは緊張しないんだけどなー。本番が近付くにつれて高まっていくのよね」

 

「まあでも、本番が近付くにつれて落ち着く奴って聞いたことないですよね。普通なんじゃないですか?」

 

「それもそうね。そんな訳でもしかしたら緊張しててこんなこと言ってる余裕ないかもしれないから先言っとこ。ねえ比企谷。今日、頑張ろう」

 

優子先輩が拳を一つ突きだした。

え、何?ルフィの真似?

 

「ん」

 

「いや、そんな早くしろみたいにされても。これどういうサインなんですか?」

 

「え、知らないの?大会前とかよくやるじゃない?」

 

「いや、少なくとも俺が千葉にいたときにこんな文化はなかったです。コンクール出てなかったから知らないだけかもしれないけど」

 

「えー。全国共通だと思ってたんだけど。こういうときは拳と拳を付き合わせるの。ハイタッチ的なあれよ」

 

「俺が嫌いなタイプのやつですね」

 

「いいから。ほら。手出して」

 

優子先輩に腕を引っ張られて、肩の高さより少し低めに上げられる。

本当にこの人は…。こういう軽い感じのボディタッチ禁止。法律で規制するべきまである。

この手のトラップに、今までどれだけの男が引っかかってきたと思ってるんですかね。俺はこんな軽い攻撃なんかで落ちないぞ…。中学生の頃痛いほど引っかかってきたんだ…!マリオじゃないんだから、そんな簡単に何度も落ちていいわけない!

 

「はい。手を握ると。ん!」

 

優子先輩と俺の拳がこつりとぶつかる。ちょっと痛い。

優子先輩はそのまま拳を胸の前に持って行き、『よし。関西行くわよ』と呟いている。頑張るぞー、のポーズのようでなにやら気合いを入れまくっているようだ。

 

「……」

 

ぶつかった拳を見つめる。この右手がコンクール会場でピストンを押すまで、残りあと数時間。

震える右手にぎゅっと力を込めて、何とかそれを誤魔化した。

 



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13

「はーい。みんな聞いてー。聞いて下さーい。各パートリーダー、自分のパートが揃っているか確認して下さい。トランペット?」

 

「います」

 

「パーカス、問題なーし」

 

「フルート全員います」

 

「クラ揃ってます」

 

「ファゴット、オーボエ大丈夫でーす」

 

「トロンボーン、揃ってまーす」

 

「ホルンいます」

 

「低音、オールオッケー!」

 

「サックスも大丈夫っと。はい。わかりました」

 

部長の点呼にパートリーダーが順に答えていった。その間もどこか落ち着かず、今日の演奏の確認をする。

今朝話していた通り、優子先輩は本当に緊張していないようだ。高坂は一つ大きく息を吐いた。緊張している、という訳ではなさそうだけど。

香織先輩の表情は今から真剣そのもので緊張なんて感じさせない。このパートの中で緊張してるのは俺だけなのか。思い返してみれば、トランペットパートは経験者の集まりで、基本的に皆コンクールに出たことがあるはずだ。

緊張するときはどうすれば良いんだろう…。困ったときは、そうだ。川島だ!

川島のふわふわオーラに助けて貰おうと、川島の定位置である窓際を見る。

 

「…まじか」

 

当の川島はやる気に満ちた表情で、テーピングで巻かれた指を触って感触を確かめていた。おそらく、あれが川島なりの緊張との向き合い方なのだろう。

テニスはポイントが終わった後に、次のポイントのファーストサーブを打つまでわずか二十秒間の猶予しかない。その間に例えば、ラケットのガットを弄るなどといった決められた動きを行うことで、メンタルを落ち着けるという。

川島の中学はかなりの強豪校で、幾度となくコンクールを乗り越えてきた。だからきっと川島の指を弄るのも同じようなものなのではないかと思う。

 

「えーっと、七時過ぎにトラックが来るので、十分前になったら積み込みの準備を始めます。楽器運搬係の指示に従って、速やかに楽器を移動して下さい」

 

「「「はい」」」

 

「楽譜係」

 

「はい。今から譜面隠しを配ります。各パートリーダーは取りに来て下さい」

 

「受け取ったら各自なくさないようにねー」

 

「楽器運搬の人はこっちに集まってくださーい」

 

周りのパートメンバーや川島を見て、逆に焦りが生まれてしまった。

やばい。そう言えば、あの注意されてた部分大丈夫かな。

 

「はい。比企谷君」

 

「……」

 

「比企谷君?」

 

「あっ。すいません」

 

「…ううん。譜面隠しだよ」

 

「ありがとうございます」

 

「比企谷君は男子だから、この後楽器運搬手伝ってあげてね」

 

「はい。わかってます」

 

「うん。でもその前に」

 

「な、なんですか?」

 

「緊張してるんでしょ?」

 

「……正直に言うと」

 

「素直なのはいいことだ。私はね、いつも大切な人とか、聞いて欲しい人に向けて吹くようにしてるんだ。その人が実際にそこにいるかとかが大事じゃないんだけど、誰かに届けって気持ちで吹くといつの間にか全力で吹くことだけに集中できるよ」

 

「また随分抽象的というか精神論ですね」

 

「ふふ。うん。でもね、そうやって吹くと緊張なんて忘れちゃうから。一つの解決方法だと思って聞いておいて」

 

「なんか香織先輩らしくないです。そういう精神論的な方法」

 

「もう。そうやって私のこと決めつけるー。意外と熱血派だよ、私」

 

 

 

 

 

 

「お前ら気持ちで負けたら承知しないからな!わかったか?」

 

「「「はい」」」

 

「はぁ…。はぁ…。すみません。お待たせしました」

 

楽器運搬も終わりバスの前で外で集まって松本先生に渇を入れられていると、滝先生は走りながらやってきた。相変わらずうちの顧問二人の温度差は冬の自販機のコーンスープとマイナス四度のビールくらい違う。

 

「みんな揃ってますか?」

 

「ええ」

 

「そうですか」

 

滝先生の少なくとも見た目だけは爽やかな笑顔と特別な装いに、吹部女子から久しぶりに黄色い声が上がり出す。

 

「タキシードだ…!」

 

「タキシード!やばいねー」

 

滝先生の拷問のような練習をしている俺たちは、いつからか悪魔などと呼んでもはや忘れがちなのだが、なんだかんだで滝先生はやっぱりイケメンである。あんまりにも滝先生の落ち着いた雰囲気とすらっとした見た目が白と黒のコントラストの礼服にあまりにもマッチするものであるから、その格好に滝シード、つまりタキシードと名前が付いたとさえ言われている。勿論嘘だ。

 

「先生、ちょっといいですか?」

 

小笠原先輩が手を上げた。

 

「どうぞ」

 

「森田さん、中川さん」

 

「えー、私たちチームもなかがみなさんへのお守りを作りました。今から配りますので受け取って下さい」

 

「イニシャル入りです」

 

おぉ、っと冬服に身を包まれたメンバーから歓声と惜しみない拍手。

チームもなかとはBチームが自分たちに付けた名前だ。その由来はよくわからないが三人いる二年生の頭文字を取ったものだと、優子先輩に聞いた気がする。

Bチームのメンバーはオーディションに落ちたメンバーだが、それでも練習は俺たちと変わらない。今は府大会止まりのB部門で金賞を取るべく、日々練習を重ねていた。その中で俺たちA部門のサポートや、こうしてお守りを作ってくれたりしている。

次々に配られているお守りを見て、先ほどまで感じていた不安とはまた違う緊張感がよぎる。多分、今緊張してるのは俺だけではないだろうか。

……俺の分、忘れられてないよな?いや、別に忘れられてもいいんだけどね!お守りとか、俺信じてねえし!

 

「沙菜先輩。これ」

 

「うわー。ありがとう!」

 

加部先輩が笠野先輩に『S.K』と書かれたお守りを渡す。

 

「なーんか私のだけおっきいんですけどー!」

 

「愛だよー。嫌がらせという名の愛」

 

「おっきすぎて邪魔なんですけど!」

 

「態度がでかいんだからちょうどいいんじゃない?」

 

「くぅー!ムカつくー!」

 

中川先輩は優子先輩に『Y.Y』と書かれたお守りを渡していた。確かに他の人よりもそのお守りは一回り大きい。

 

「ひーきがや。はい!」

 

「うお!」

 

「ビックリしすぎじゃない?」

 

「そりゃ急に目の前にお守りが出てきたら誰だってビビるだろ…」

 

へらへらと笑っている加藤。良かった。そう言えば加藤がいたんだった。

『H.H』と書かれたお守りは基調となる色が紫で、緑の水玉があしらわれているせいで毒々しい色合いをしている。もしこれがお守りだと事前に聞いていなければ、『H.H』という誰かを呪うアイテムに見えたことだろう。

 

「私が作った分、くじで決めたら比企谷はこの色になっちゃったんだよね」

 

「いや、加藤。全然いいんだ。俺今日お前がいて初めて良かったと思った」

 

「初めて!?もっと前からなかったの!?」

 

「えー。みんな、行き渡りましたかー?」

 

「あ。やば。まだ塚本に渡してないや!おーい、塚本ー!」

 

小笠原先輩の言葉に加藤は急いで塚本のところに向かって行った。

今度ちゃんとお礼しよ。

 

「まず毎日遅くまで練習する中、全員分用意するのは本当に大変だったと思います。ありがとう。拍手」

 

ぱちぱちぱち、と炎天下の下で乾いた音が鳴る。

B部門のチームもなかの面々は恥ずかしそうに笑い合った。

 

「では、そろそろ出発します」

 

「小笠原さん」

 

「はい?」

 

「部長から皆さんへ。何か一言」

 

「えっ!私ですか!?」

 

少し顔を赤くした部長に、副部長の田中先輩が茶化す。

 

「よっ。待ってました、部長様」

 

「茶化さないの!代わりに話させるよー」

 

「こほん。ではユーフォの歴史について」

 

「それはいいから」

 

部員達が二人の漫才のようなやり取りに笑い声をあげた。顧問の二人も笑っていて、何だか保護者のようだ。

 

「えっと、今日の本番を迎えるまで色んな事がありました。でも今日は、今日できることは今までの頑張りを、想いを、全て演奏にぶつけることだけです。それでは皆さん、ご唱和下さい。北宇治ファイトぉ…」

 

「「「おー!」」」

 

約七十の腕が一斉に高く突き上げられる。

 

「はしゃぎすぎだ!」

 

松本先生のお叱りを受けて、そろそろと下がっていく腕の中には滝先生の腕もあった。



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14

移動するバスの中は静かだった。緊張しているのもあるだろうが、バス酔いして気持ち悪そうにしている人もチラホラ。『薬、あるよ?飲む?』と隣に座る人が声をかけているのも、どこからか聞こえてくる。

俺の隣に座っている塚本は小さくトロンボーンを動かす動作をしながら本番に備えているようだ。

 

「あ。見て見て。四つ葉のクローバーのタクシー!これで今日の演奏はばっちりに違いありません!」

 

そんなバスの雰囲気にそぐわない元気な声はすぐ後ろの席から聞こえてきた。

 

「みどりは元気だなあ。四つ葉のクローバーのタクシーってそんなに珍しい?」

 

「違います、葉月ちゃん。四つ葉のクローバーのタクシー自体が珍しいかどうかは関係ありません。今あの四つ葉のクローバーを見れたことに意味があるんです」

 

「どういうこと?」

 

「四つ葉のクローバーは幸せを意味しています。つまり今それを見れたと言うことは、今日の結果はきっとハッピーに違いありません!あー、早く演奏したいなあー!あ、あのお店美味しそー…。今度行ってみよう!」

 

「うわー、みどりテンション高…」

 

本当、どんなメンタルしているんだ。さっきまで音楽室で真剣な表情をしていると思ったら、コンクール会場が近付いてきた今はにこにこしていつもより明るくて、隣にいる加藤さえ手を付けられない。サイコパスなのか。

 

「川島はやっぱりすごいな」

 

塚本が急に話を振ってきた。

 

「ああ。もう同じ心臓を持った人間とは思えない」

 

「俺なんて昨日の夜から緊張してるし、なんか浮ついてた。でも朝早い時間の電車に乗って学校来てそんでみんなの顔見て、やっといよいよ今日なんだなって実感したわ」

 

塚本が貰ったばかりのお守りを手にとって眺めている。

俺のお守りとは色が違い、紺に黄色の水玉があしらわれた柄のお守りはどこか夏祭り、少し前の県祭りを連想させた。

 

「中学の時のコンクールより緊張して昂ぶってくるのは、やっぱそれだけ今回のコンクールに掛かけてきたものが多かったからなのかな」

 

きっとそうなのだと思う。適当にやっていたらこれほどまでに緊張することもなかった。全国に行くことを目標としてやってきたからこそ、もしもの可能性がちらついて怖い。

 

「でもきっと大丈夫だって。あんなに練習したんだからさ。入学したばっかりの頃は先輩達すごい不真面目で、こんな部活やってられるかって文句ばっかり言ってた。でも滝先生が顧問になって少しずつみんな変わっていって、きっと今日争う他の学校の吹部より俺たちの方がずっと、全国目指してそれ相応の練習をしてた……はず」

 

「そこは自信持てよ」

 

「冷静にサンフェスの時の立華と洛秋のこと思い出したら不安になってきた…」

 

「…やめろ。思い出させんな」

 

「あの二校は特に、なんかいるだけで明らかに強そうだったもんなあ…」

 

ああ。塚本が余計な事言うから意識しちまった。そう言えば今日はライバルで立華と洛秋も来るのか。

サンフェスの時はある意味吹部の憧れとも言える立華を生で見て、憧れに近い感動を覚えていたが今はもうそんなこと言ってられない。同じ京都というスタート地点から全国へ行くためのネクストステージ、関西のわずか三つの椅子を争うライバルなのだ。

 

「……」

 

「…まあ、それでもこんなところで終わるとは本当に思ってない。そんな死にそうな顔すんなって」

 

「え?俺今そんな顔してんの?」

 

「結構酷い顔してる」

 

「まあ死んだような目をしてるとはよく言われるから、逆にいつも通りだろ。つーかそういうお前だって、さっきから大丈夫とか心配ないみたいなこと言いながら結構情けない顔してるぞ?」

 

「まじで?」

 

「まじまじ」

 

不安そうな顔の男二人が見つめ合うというのは何ともシュールなものだろう。その後ろでは今もまだ『葉月ちゃん。見て下さい。横に止まってる車可愛いです…!』なんて話してる川島の声を聞いていると、よく聞く男より女の方が強いというのはあながち間違いではないのかもしれない。

 

「みんなー。聞いて下さーい」

 

前の方から小笠原先輩の声が聞こえてきた。すでに割と静かだったバスは、部長のかけ声で数人が話すのを辞めるとすぐに静かになった。

 

「あ。隣の人が寝ていたら起こして下さい」

 

『ナックル先輩、起きてー』という控えめな声と、その周りからくすくすと笑い声が聞こえてきた。

 

「そろそろコンクール会場に着くそうなので、もう降りる準備をしておいてください。すぐに楽器の荷下ろしの場所に移動するからそのつもりで」

 

「あ、見て!見えてきたよ!」

 

窓の外には大きなホール。吹部であろう他校の制服を着た生徒達がチラホラとすでに待機している。

ガラス越しに見えるその光景の中にうっすらと映る俺と塚本の顔はもはや少し泣きそうにさえ見えた。

 

 

 

 

 

「では、この扉を閉じたら音出しして構いません」

 

滝先生はコンクールのスタッフの学生に頷いて、俺たちは扉が閉じるのを待った。

コンクールはすでに始まっているので音を出せる場所は、この音出し用の控え室のみである。限りある時間の中で俺たちは最終調整をしなくちゃいけない。

扉が閉まったのを確認するとチューナーを手に持ち、各自でチューニングを始める。ホルンはパートでチューニングを行っているし、チューバのカップルは二人で交互に音を合わせていた。夫婦か。

その後に全体で音を合わせて本当に言葉通りの意味で演奏前の最終確認。滝先生の手がクラを指すと、クラリネットから一斉に音が飛び出た。一定の間隔を置いて、他の楽器も音を出す。やがて五十五人の音が重なると滝先生は目を閉じてじっと音を聞いていたが、しばらくして目を開けてにこりと微笑んだ。

 

「よろしいですか?」

 

「「「はい」」」

 

「えっと、実はここで何か話そうと思って色々と考えてきたのですが、あまり私から話すことはありません。春にあなたたちは全国大会を目指すと決めました。向上心を持ち、音楽を奏でてきたのは全て皆さんです。誇って下さい。私たちは北宇治高校吹奏楽部です」

 

相変わらずこの人は、生徒のモチベーションをコントロールするのがうまいな。

サンフェスの時も全く同じことを思ったのだった。いつもは爽やかな笑顔とは対照的にうじうじと憎たらしくすらある嫌みしか言わないくせに、こんな時だけは俺たちを持ち上げる。

 

「そろそろ本番です。皆さん、会場をあっと言わせる準備は出来ましたか?」

 

その言葉に俺たちは気を引き締めた。

だが、明らかに表情が引き締まった俺たちを見て滝先生はふっと笑う。

 

「始めに戻ってしまいましたか?私は聞いているんですよ?会場をあっと言わせる準備は出来ましたか?」

 

どうやら、そう固くなるなということだそうだ。いつも通りのどこか憎たらしい物言いもこんなときだけは励みになる。

俺はあの頃からこの顧問の全国に行く、という夢物語を未だに叶えられるだなんて思っていない。ほとんどの人が憧れて挫折をして、夢半ばで終わる。そんなものだろう。こうして本番を控えた今でさえ、心のどこか冷めた部分ではそう思っている。

それでも最初の頃のただトランペットを吹ければ良い。そう思って入部した頃とはもう違っていた。これだけ練習してきたのだから、本気で全国に行きたいと願う部員がいるのだから俺だって今日は笑って帰りたい。

 

「「「はい!」」」

 

「では皆さん、行きましょう。全国に」



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15

舞台袖に行くと、もう緊張で頭がどうにかなりそうだった。どきどきわくわくちょっぴり緊張?そんなもんじゃない。ばくばくぶるぶるちょっぴり今朝の朝食吐きそうレベル。ダメだ。自分でも何考えてるかわかんない。

ちょうど今、俺たちの一つ前の学校が照明の下で演奏しているが全く耳に入ってこない。すでに自由曲に入っているということは流石にわかるが、それはつまりもう俺たちの番がすぐに来るということを意味している。

 

「どう?大丈夫?」

 

優子先輩は同じ中学だと言ってたオーボエの鎧塚先輩に笑顔で話しかけていた。

本番が近付くにつれて緊張するとか今朝言ってたのに全然平気そうだ。一周回ったのか、それともさっきの滝先生の言葉に乗せられたのか。

香織先輩も優子先輩と同じであまり緊張は見えない。不安そうな笠野先輩に話しかけている。

塚本はよくあいつがちらちらと見ている黄前のところに向かって話しかけていた。そのまま眺めていると、何か気に障ったことでも言ったのか足を踏まれている。ざまあないな。

 

「比企谷」

 

自分でも分かるくらいそわそわしながら、周りを見ていると急に名前を呼ばれて背中をそっと叩かれた。演奏に混ざって聞こえてきた高坂の声は凜と透き通っているものの、やはり聞き取りづらい。

 

「顔が酷いことになってるけど大丈夫?」

 

「ほっとけ。いつも通りだ」

 

「いつも目は酷いけど、今は全体的に酷い」

 

そんなこと言うお前が一番酷いよ。

真顔でこんなことを言われるとこっちとしては調子が狂ってしまう。ただでさえ気が狂いそうなのに。

 

「悪いけど、今お前に構ってる余裕ないから」

 

「うん。見てわかる」

 

俺なんかとは違い、高坂はソロパートだってある。それなのにどうやって平常心を保っているのだろう。

 

「高坂は緊張してねえの?」

 

「うん。今日この会場にいる中で私よりトランペット上手い人なんて誰もいないから」

 

「……さいで」

 

自分よりも上手い人が誰もいないと言い切ってしまうところが高坂の凄いところだ。いないと思うとか、きっといないじゃなくて、いない。ダメだ。この方法は俺には真似できない。

 

「北宇治が金賞とって関西行くために、私が誰にも負けない演奏をしないと。でも本当は自分の実力は疑わないけど、北宇治が関西に行けるかはわからない。それを考えると不安になるし緊張するから、結果のことは考えないようにしてる。そのことは終わった後で考えればいい」

 

「考えないようにするって、それができたら今こんなになってねえよ」

 

思わず手を見つめると誰が見てもわかるくらい震えていた。

 

「俺、こんな緊張するんだな」

 

弱い気持ちになってはいけないと分かっていても、こんな自分を見てしまえばそう思わざるを得ない。

逃げ出したい。あの照明の下に、舞台に上がりたくない。

 

「仕方ないよ。比企谷はこれが初めてのコンクールだしね」

 

「…やばい。吹き方忘れた」

 

「落ち着いて。さっき香織先輩が言ってたやり方は?」

 

「何だっけ、それ?」

 

「音楽室で話してた。大切な人とか、聞いて欲しいって思う人に向けて吹くようにするってやつ」

 

「ああ。言ってたなそんなこと」

 

「誰かいないの?」

 

俺の演奏を聞いて欲しい人。

 

『また明日もさ、二人で吹こっか。約束ね』

 

…千葉にいた頃のもう古い思い出。

その言葉で別れては、次の日もまた約束を交わした。記憶の中に映る笑顔の少女の手には、夕日のオレンジを反射して輝くユーフォニアム。

小学生の俺は彼女と二人で合奏をするために、毎日毎日練習を重ねた。基本を教わった後は、貰った譜面の曲を練習して。吹けるようになればまた新しい曲へ。

 

『そしたらさ、また聞かせてよ?きっとその頃には……』

 

千葉にいた頃は忘れた事なんてなかったのに、あの楽しかったと認めざるを得ない二人だけの誰もいない演奏会をこっちに来てからすっかりと忘れてしまっていた。

俺はあの人に会えると思ったから中学生の時だって部活に入ったのに。もう一度会って、もう一度あの人と吹きたい。上達したトランペットを聞いて欲しい。驚かせたい。

だけどここは京都だ。その願いはもう絶対に叶わない。この会場にいるだなんてご都合主義があるわけがない。

 

「ダメだ。いない」

 

「それじゃあ、誰か見に来てないの?そしたらその相手を思って吹けば良いんじゃない?」

 

「…あ」

 

そうだ。どうして失念していたんだろう。失念していた理由は明白だ。緊張に呑まれていたから。

今日は小町が来ているんだった。

横浜に住んでいた人が神奈川出身とは言わないみたいな些細すぎる見栄を張るのが兄という生き物だろう。少なくとも千葉の血が流れている兄ならば間違いない。どれだけ情けない姿を日常的に晒していようが、それでも妹の前でくらいかっこ悪い姿を見せたくない。そう思うものだ。

手の震えが止まった。俺に合わせてかたかたと揺れていたトランペットも一緒に止まる。

緊張していないと言えば嘘になる。それでも大分ましになった。

 

「誰か来てるんだ?」

 

「ああ。妹が来てるんだ」

 

ぱちぱちと大きな拍手の音が聞こえる。前の学校の演奏が終わった。

いよいよだ。はけていく生徒達を見て俺たちは、薄暗いステージを歩き自分の位置へと移動する。真っ暗な会場にはたくさんのオーディエンスがいて、この中のどこかに小町がいるはずだ。

 

「比企谷」

 

「どうした?」

 

「頑張ろう」

 

隣に立っている高坂に俺は一つ頷いた。

『助かった。ありがとう』。

本当は伝えたかったが、その言葉は演奏後に持ち越しだ。ステージに照明が点いて、静かな会場内にアナウンスが響き渡る。

 

「プログラム五番。北宇治高校吹奏楽部。課題曲四番に続きまして、自由曲『三日月の舞』。指揮は滝昇です」

 

この場所に立って初めてわかったことがある。眩しくて、滝先生以外何も目に入らない。観客はただの黒で、演奏が始まればそこには音しか残らないのだろう。

拍手と共に頭を下げる滝先生。それからゆっくりと指揮台に上がり、滝先生が腕を上げた。

トランペットを構える。

横に並んだトランペット。その奥にはトロンボーンがいて、目の前にはフルートやホルンが楽器を構えて座っている。これから始まる十二分間のために俺たちはここまでやってきた。

 

滝先生の上げていた腕が振り下ろされて、俺はラッパに息を吹き込んだ。



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16

京都府吹奏楽コンクール。

そうシンプルに大きく書かれた看板を会場にいる全ての人間が真っ直ぐに見ている。それは俺も同じで睨み付けるように並べられた文字を見つめた。はやる気持ちを抑えるために、シートをぎゅっと握りしめる。

隣に座る優子先輩は今にも泣き出しそうな顔をしていた。優子先輩の隣で祈るように手を組んでいる香織先輩。そのもう一つ隣には不安さを隠せていない部長。態度や表情は皆違っていても、抱えている願いはみんな同じだ。

 

「お願い……」

 

優子先輩がぎゅっと目を閉じて呟いた。

 

中学の時はコンクールの結果発表を輪の外から冷めた目で見ていた。

どうせ無理だったと笑いながら諦めているやつや、記念受験の様な感覚で出場していたやつ。

結果発表の瞬間だけではない。話して終わるだけの練習では、共通の敵を見つけては友達とか仲間とか、そんな目に見えない輪から外すことで誰かの犠牲の上に成り立つ関係。全国を目指すという言葉だけをなんとなく掲げて、切磋琢磨した気になっている。

 

俺はトランペットさえ吹ければそれでいいんだ。

あの頃に抱えていた気持ちはただ自分を納得させるための言葉ではなかった。決して納得するためにそう思い込んでいたのではない。本心からの言葉だ。

それでも忘れられなかったのは大した練習もしていなかったし、実力でメンバーの選考もせずに求めていた成績なんて残せるはずもないのに泣いていた奴のことだ。

 

『…うっ……三年間、頑張っていて良かった。だけど、悔しいなあ……負けるのって、悔しい…』

 

「きっと、俺…コンクール出たかったんだな…」

 

こんな時だからなのだろうか。ぽろっと本心の裏側の心が漏れた。

トランペットが吹ければ良い。本当だ。だからコンクールに出れなくたっていい。これは嘘だ。

出たかった。あいつらと同じ感情を味わいたかったわけじゃない。青春ごっこに付き合いたかったわけではない。苦労したフリして悔しがったり、結果見てどうせ無理だってわかってたって笑い合ったり。そんなことがしたかったんじゃなくて。

知りたかったのだ。頑張って涙を流す。その感情の一端だけでも、それほど熱い何かを俺は知りたかった。

今なら少しは気持ちが分かる。あくまで主観的にであったとしても、努力したと思って負けたならきっと悔しい。絶対にこんなところで終わりたくない。今ここで関西への出場権が取れなかったのなら、悔しくて悔しくて泣きそうだ。

 

「きたっ!」

 

中学の時を思い出していたが、誰かの声に意識を看板に戻した。審査員が看板の後ろに、結果の書かれた大きな紙を抱えて前に進み出てくる。

その紙が今、バサリと垂れ落ちた。

並べられた高校名と、金銀銅の結果。

北宇治はどこだ。どこだ。どこだ。

 

『北宇治高等学校――』

 

「き…」

 

金だ。

そう呟いた俺の声は、悲鳴のようにも聞こえる歓声に包み込まれた。

隣に座っている優子先輩が両手で顔を押さえて良かったと言いながら泣いている。

香織先輩の目に涙が浮かんでいる。

高坂が前の席で泣きながら驚きで前を見つめたままの黄前の腰にしがみつく。

川島が加藤に飛びつくように抱きつく。

その結果が夢のようで、目に映る全てがスローモーションに見えた。

だが、まだだ。まだ結果発表は終わっていない。金賞の中から選ばれる三校が、関西への出場権を手にする。

 

「えー、この中より関西大会に出場する学校は――」

 

祈るように手を組んで、もう目を開けていることは出来なかった。

怖い。そんな想いと裏腹に期待。二つの感情が混ざり合っている。

 

『私たちは全国を目指しているのですから』

 

今朝小笠原先輩が全員に言っていたが、今日まで本当に色々なことがあった。

滝先生が来て、こんな練習やってられるかと反発することもあった。退部する部員もいた。ソロを巡る争いもあった。

でもどんなことだって、その言葉を目標にここまでやってきた。

頼む…!

 

「五番。北宇治高校吹奏楽部」

 

さっきよりもずっと大きな歓声が上がった。

呼ばれた。呼ばれた。呼ばれた!

 

「比企谷!」

 

優子先輩が泣きながら俺の腕を揺らした。

 

「関西よ!私たち、関西いけるの!」

 

結果に感情が付いていかないとはこういう感覚なんだ。

嬉しいのに声が出ない。この喜びを身体で表したいのに足のつま先から指まで力が入らない。

そんなとき、俺を引っ張ってくれたのはいつも通り優子先輩だった。

 

「嬉しい!嬉しくて死にそう!」

 

涙を頬にへばりつかせたまま、俺のぶら下がった手を掴んでぐいっと上に上げる。優子先輩の落ちる涙と、上がった右手。

やっと感情が追いついて、それを見つめる視界がぼやけた。

俺たちは関西大会に出場する。

自分でもはっきりとわかるくらい、何とか絞り出した声は嬉しさのあまり震えていた。

 

「よか…った……」




次のページに後書きを残しています。
長くなってしまいましたが、大事なご報告もありますのでお時間あるときにでも一読して下さると嬉しいです。


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中間報告 1

ここまで読んでくださってありがとうございます。作者のてにもつです。

本当は後書きに残そうかと思っていたのですが、大分長くなったので中間報告として分けて残すことに致しました。

 

今回こうしてメッセージを残したのは『響け』のアニメか小説を見ていらっしゃる方はお判りいただけると思いますが、アニメ一期分、原作小説一巻分が終了でキリが良かったから、そして報告があるからです。

 

 

正直に言います。ここまで書くの、大変だったあああぁぁぁ!笑

勿論最初からずっと大変でしたが、特にオーディションが終わった後の再オーディション辺りからコンクール当日までのシリアスな場面までがとにかく。シリアスを書くのが苦手なんだなと痛感しました。ここからはしばらくさくさくかけるかな…。良かった…。

達成感がありすぎて、キリのいいとこまで書けたし、いっそここで終わっても良いんじゃないかとさえ思っています笑

大体の小説やマンガの一巻は売れなかったときのことを考えて、その巻で完結しても良いように、若干の伏線は残しつつきちんと話はその一巻で一段落付ける、という話をとある漫画家さんのトークライブで聞いたことがあります。そこで売れれば、シリーズ化してそこからは一巻毎の完結云々は関係なくどんどん話を膨らませていくそうです。

実は本作もそこは意識していて、ユーフォ原作のキャラと比企谷一家しか出ていないガイルのキャラに関しては、書いている中で登場させたいキャラは他に何人もいますが、出し過ぎることでキャラクターの収集が付かなくなり、結果としてキャラの魅力をほとんど出せずに終わらないことを意識していたり、話も伏線は残しつつあくまで主要キャラクターの多くの深掘りはしない、また、アニメ一期分は北宇治高校吹奏楽部に大きくスポットを置くことでキャラと言うよりも部全体としての変化や成長といった部分に注目して欲しいと思っていました。

 

ただこんなことを書いておいて何ですが、二週間先の分くらいまでは書き上げているのでご安心を笑皆さんからのメッセージや感想、評価やお気に入りを付けて頂けるのが嬉しすぎて、本当に終わらせてもいいという気持ちは隅にありつつ続きを書き始めていました。

評価も今までで最も高くなり、着々と目標の8.8に近付いています…!しかもUA数は三十万突破!本当に嬉しいですし、やっぱりモチベーションになりますね。

ただ、多くの方が期待して下さってるんだなと嬉しく思う反面、それを裏切らないようにしなくてはと少しばかりプレッシャーです。

いつも後書きを残す際には書いていますが、読者の皆さんには本当に助けられています。拙い文章を読んで下さって、そして楽しいと言って下さってありがとうございます!

 

 

 

さて続いて報告の方なのですが、実は以前からこのような声を頂戴しています。

「香織がヒロインの話が欲しい」

「本当に優子がヒロインなの?香織でしょ」

「優子より香織の方が可愛い」

「香織」「香織」「香織」

香織ばっか!笑確かに香織は可愛いけど!

優子だって可愛いんですよ。近日公開の映画見れば絶対わかる…はず!

 

メッセージも頂きました。エンディング分岐でもいいから香織や麗奈をヒロインに据え置いた話を作ってほしい、という意見です。

それに対して共通の返答をしているのですが、僕は今作のヒロインは優子一人に決めています。

本作を書き始める前に全体の構想を練っていた段階から僕は優子が好きだということもあり、ずっとヒロインは優子だと決めていたので、ここから先の展開は優子がヒロインだからこそ栄える展開を書きたいと思っています。また、そもそもこの作品は誰かと付き合うというところがメインではなく、あくまでキャラクターの成長と全国を目指して努力を続けるという青春がメインのストーリーなので、誰かと付き合って幸せにエンドというギャルゲーのような形で終わらせるつもりもありません。

なのでこれからも本作のヒロインを変えるつもりはないのです。

 

ですが、皆さんから頂いた他のキャラとの絡みをもっとみたいという意見を頂いたのは事実です。

そこで具体的な内容は決めていないのですが、if形式(香織ヒロインは書きます)だったり、この作品では書ききれなかった小話を入れた小短編形式の別の作品を書こうと思います。(メッセージをくださった方はもちろん、相談に乗ってくれた方々ありがとうございました)

イメージとしては響けシリーズ小説の、『ホントの話』のような番外篇みたいな感じですね。

ただ凄く率直に以前から香織をヒロインとして書かなかったもう一つの理由を書かせて頂くと、同じハーメルンの他者様の作品のことなのであまり詳しくは書きませんが、書き始める前からとある(と言っても評価も高く、内容もしっかりしているので探せばすぐにわかってしまうのですけれど…)香織ヒロインの響け原作のSSを読んで、非常に面白くて良い作品だなと思っていました。それを読んだ際に、あまり多くはない響けのSSの一つにこれだけ完成された香織ヒロインのSSがあるのなら、自分の作品は差別化ではないですけど別のキャラをヒロインとした作品にしたいと思ったからです。

 

本作の方を優先するため、時間に余裕があるときに少しずつ書くことになるとは思います。更新のペースも不定期です。

いつそちらの短編を投稿するかは未定ですが、実は少し書いてみました。完全にショートストーリーです。(と言っても字数は6000字超えました笑)意外や意外。最初の話はトランペットパートの二年生、滝野君視点笑以前から書きたかった、あまりこの作品の中では出てこない北宇治トランペットパートの面々から見た比企谷八幡の話になります。

ということで、そちらの作品の方も投稿されたらぜひ見てください。投稿する際には告知をするのでよろしくお願いいたします。

 

 

あともう一点、こちらは報告というか解答があります。ちょくちょく現況報告用にtwitterアカウントを作らないのかと聞かれるのですが作りません!

理由は投稿も定期的に行っているのでほとんど報告することもないですし、何か報告するような事があればこれまで通り後書きに残せば良いかなと。

以前解答させて頂きましたが、この作品の投稿は火木土日の朝八時くらいです。

つまらない現況報告ですが、この作品の舞台の京都に旅行に行くことになりました!インスピレーション得てきます笑まだ何も決まってないので、おすすめの食べ物や場所があったらメッセージでもいいので是非教えて欲しいです。

今月は部長の晴香のcvである早見さんのライブにも行くし、映画も公開されるし、なんかモチベーションがぐぐぐっと上がる月ですね。

 

 

さて、話は本作の方に戻りまして、ここからはアニメ二期。原作だと二巻以降の部分になります。

僕は構成を練る際に、内容を区分してテーマを決めています。ここまでのテーマは『北宇治高校吹奏楽部の紹介と去年からの変化と成長』。次の関西大会から三年生の卒業までのテーマは、『一体誰のために、何の為に吹いているのか』。

八幡がなぜトランペットを吹くことにしたのか。八幡の過去を振り返りつつ、まずは希美とみぞれの問題とも向き合うところからです。

関西大会編では原作通り、二年のカルテットが話の中心になります。お楽しみにしていただけたら嬉しいです!

 

長くなってしまいましたが、改めて最後に!これからも是非よろしくお願いいたします!

次回から新章ということで間を少し開けて、投稿は一週間後です。それでは。

 

 

てにもつ



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傘木希美の襲来も相まって、彼ら彼女らの夏は意外と忙しい。
1


京都府吹奏楽コンクールが終わり学校に戻った俺たちは音楽室に集合した。

今日はコンクールに出場したがまだ時間もあまり遅くないので、さっき行ったばかりの本番の反省点を踏まえて合奏練を行う。滝先生曰く、見つけた粗はすぐに直さなくてはいけないらしいが、その前に関西大会に出場が決まったためそれに合わせたスケジュールの確認も行う。本当に忙しい一日だ。

関西大会出場。

黒板に大きく書かれたその文字を見ていると蘇る発表の瞬間の緊張感。数時間前までバクバクと鼓動が伝わってきた心臓は本当に同じ人のものとは思えない。

 

「さて、こういうのは初めてなので何と言ったらいいのかわかりませんが皆さん、おめでとうございます」

 

「そんな!感謝するのは私たちの方です。みんな…せーの」

 

「「「ありがとうございました!」」」

 

「あ、はい。ありがとうございます」

 

相変わらずあっさりしてんなあ。

『あ、はい』が口癖の人は受け身な性格の人が多いって聞いたことあるぞ。『あ』で注目してもらい、『はい』で言葉を足すことで注目してもらい、話すタイミングを自分で作らなくちゃいけない小心者で臆病な性格って……。いや。でも滝先生全然そんなことねえわ。むしろ小心者どころか、たぶんこの人音楽のことになると大分剛の者寄りだわ。

 

「私たちは今日から代表です。それに恥じないようにさらに演奏に磨きをかけていかなければなりません。今この場から、その覚悟を持ってください」

 

「「「はい」」」

 

俺たちの返事を聞いた滝先生が並んで前に立つ小笠原先輩に一つ頷いた。

 

「それじゃあ、さっそく今後の夏休みの予定を配ります」

 

横に横にと回されてきたスケジュールを見てみると、余白が目立った。白はいい。目に優しい。よってお肌が真っ白な香織先輩もいい。目の保養。

だが、俺たちが貰った余白の多いスケジュールは、何も書いていなくても練習するという意図が込められている。つまり白であればあるほど、これまでの夏休みのように部屋から出ずにクーラーのきいた涼しい部屋で麦茶を飲みながらゲームをする。残りの夏もそんな夏休みとは程遠いことを意味していた。

 

「行き渡りましたか?スケジュールに書いてある通りですが、八月十七、十八、十九の三日間、近くの施設を借りて合宿を行います。今日帰ったらご家族の方に、きちんと話しておいてください」

 

「そのまえの十五と十六が休みっていうのは?」

 

「そのままの意味ですよ」

 

「休むんですか!?」

 

「うぐっ…!」

 

えぇ、っと音楽室に走る衝撃に逆に衝撃を受けて思わず変な声が出た。

た、確か夏休み前日にちゃんと夏休みの日数数えてみたら三十七日間だったじゃん。それで完全にオフの日が二日間じゃん。もしかして夏休み増えたとか?そうじゃなけりゃ、これで休みが二日ってとんでもないぞ。

週休二日じゃなくて月休二日って逆に新しい。労基法違反だわ。

 

「練習したいのは山々なのですが、その期間は必ず休まなくてはいけないと学校で決まっているらしくて」

 

「自主練もダメなんですか?」

 

「学校を閉めるらしいですよ」

 

『外でやろ』とどこかからぼそっと聞こえてきた。横に並ぶトランペットパートの面々も、特に驚く様子もなく真顔でその事実を受け入れている。

きっとみんな、黒板に書かれた関西大会出場という事実で感覚がおかしくなってしまったんだ。さよなら、俺のサマーバケーション。お前の事、本当に大好きだったぜ。

 

「とにかく残された時間は限られています。三年生はもちろん、二年生と一年生も来年もあるなどとは思わず、このチャンスを必ずものにしましょう」

 

「「「はい」」」

 

「では、練習に移りますが、その前に……」

 

ガラガラと音楽室の扉が開かれる。楽器を持った集団はB編成、チームもなかだ。

 

「えぇっと、皆さん。関西大会出場おめでとうございます」

 

「私たちチームもなかは関西大会に向けて、これまで同様みんなを支え、一緒にこの部を盛り上げていきたいと思っています」

 

「おめでとうの気持ちを込めて演奏するので聞いてください!」

 

誰も知らない人なんていない。聞きなれたフレーズが音楽室に響く。

演奏曲は学園天国。思わず口ずさみそうになるイントロを手拍子することで抑えた。

演奏する加部先輩と吉沢の演奏を聴いているとぐっと込み上げてくるものがある。普段から同じパートで練習を重ねているからこそ上達がよくわかる。遊んでいるわけではない。チームもなかはもなかで、日々向上心と目標を持って練習に励んでいる。

あの頃は、こんなに綺麗で正確な音を出せていなかったのに。

 

『いい八幡?トランペットってね誰でも吹けるんだよ?唇を二本指で引っ張りながら息を吐く。後はこれと同じことをマウスピースに付けてやるだけ!』

 

『八幡。次は一緒にこの曲やってみよっか?』

 

『八幡』

 

「コングラチュレーション!」

 

ぱちぱちと響く音と祝福の言葉で、昔のことを思い出すのはやめた。きっと今日のコンクールの本番前に思い出したからなのだろう。蓋をしたはずのグラスから零るように記憶が溢れてくる。

 

「…うえぇーん……ぐすっ…」

 

「部長。何泣いてるの?」

 

「ごめんごめん。ありがとうございました。みんなも、忙しいのに……ふえぇー……」

 

「もう。こういうときは景気のいいこと言ってしめなきゃダメでしょう?」

 

泣き止まない部長に代わって副部長のあすか先輩が立ち上がった。

 

「はい、いくよー。北宇治ファイトー」

 

「「「おー!」」」

 

「あ、それあたしの……」

 

ここから、北宇治高校吹奏学部は関西大会への第一歩を踏み出した。

……。関西大会への第一歩…。なんかかっこいい!




作者のてにもつです。
本作もここから第二章が始まります。これからも是非よろしくお願い致します。

さて。
映画、凄く良かったですね。これから見る方も多いでしょうし、敢えて多くは語りませんが感動しました…。やっぱり優子なんだよなあ。成長したなあ。
かなり展開が早いので、原作読んでいた方がより楽しめるんじゃないかなと思います!もし読んでいられない方は原作小説を是非!

そして、その原作小説の最新刊の発売。後輩云々よりも、ユーフォの三人が不穏笑
部長という立場を経験していない僕には分からない責任の重圧から、少し変わってしまったようにさえ思える久美子が怖い。
でもやっぱり面白かったですし、これまで読んできて久美子達が一年の頃から知っている僕ら読者ににとっては、あの子がやっと報われて今回のオーディションの結果は涙を流さずにはいられないですね。ページをめくる手が震えました。本当に笑

ps これが投稿された今、きっと京都行ってきています。皆さんがおすすめして下さったスポット回ります!深夜の伏見稲荷神社や平等院鳳凰堂。抹茶館は残念ながら混みすぎて入れなさそうですが…。
そして、何と言っても響けの聖地巡り!映画もあってたまたまですが、最高のタイミングですね。色々と紹介して下さった皆さん、ありがとうございました!


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2

「お疲れ様です」

 

「うん。おつかれー」

 

校門まで自転車を引いて歩いていくと、優子先輩が立っていた。香織先輩を含め他の誰かと帰るときは教室から一緒に出てくるから、ここで誰かを待つように立っているときは荷物持ちを待っているときである。

入学したばかりの頃から躾けられてきた俺は自転車の籠に入れた鞄を動かして、一つ分のスペースを作った。いやいや待て待て。自分で躾けられたとかいうなし。飼い犬じゃないんだから。

 

「ありがと」

 

「いいえ」

 

もう陽は大分落ちている。これから毎日朝からこの時間まで練習をすると思うと、吹奏楽漬けの毎日というのは実に過酷だ。トランペットを吹くのはやっぱり楽しいけど。

カラカラと回る自転車の前輪を見つめながら歩いていたがチラリと隣を盗み見ると、優子先輩は手を見つめながら少し顔を赤らめていた。

 

『関西よ!私たち、関西にいけるの!』

 

……お、落ち着け。きっと違う。勘違いして自滅パターンはボッチたるもの、まず第一に気を付けるべきことだ。

きっと優子先輩は自分の手を見て興奮しているだけだ。そういうレアでエキゾチックでファンキーな性癖を持っている人だってきっといる。いやいてくれ。

だからまさかさっき、喜びのあまり握った手を思い出して顔を赤らめているなんてこと絶対にない。

 

「お、俺たちって今大会のダークホースですよね」

 

俺が咄嗟に振った話題に優子先輩ははっとしてから答えた。

 

「そうね。今日選ばれたのは立華と洛秋と北宇治の三校だったけど、うち以外はどっちも毎年関西には行ってるいつもの顔ぶれだから」

 

「あの、俺ずっと千葉だったしあんまり詳しく知らないんですけど、各都道府県で関西大会から全国に行くのもまた金賞に選ばれて、そこから代表として三校が選ばれるんですよね?」

 

「うん。そう。でも、関西大会への出増枠の数は県によって違うわよ。うちら京都は出場枠三校だったけど、大阪なんて出場校が九校もあるんだから。合計で二十三校が関西に向けて今練習してるわけ」

 

「うへえ。大阪は三倍も多いんですね」

 

「大阪は府大会の前に地区予選があるくらいだから学校数自体多いのよね。関西大会へは出場枠六枠に加えて、去年優秀な成績を残したいわゆるシード校が三校あるから合計で今年の大阪府代表は九校ってわけ。次に多いのは兵庫かな。確か五校だったと思う」

 

「なるほど」

 

勉強になります。

頭を下げると優子先生のお勉強の時間はまだまだ続いた。

 

「でもやっぱり大阪が圧倒的に強いわね。京都や兵庫とはレベルが違うわよ」

 

「え?立華だって十分うまいのに」

 

「立華はマーチングが本命だから。そっちに集中するのもあって、吹奏楽コンクールの方は例年関西大会では正直、ぱっとした成績は残してないかな」

 

「確かにマーチングじゃ超強豪だし、動画見てるとそれだけの演奏しますもんね。マーチングに時間かけてるのもわかります」

 

「どのくらい大阪が強いかっていうと、大阪だけで関西大会の金賞持ってっちゃうくらいよ。特に俗にいう、関西大会の三強は全国でも金取るくらい強いの。言うなれば超強豪校ってところ」

 

「三強?」

 

「明静工科、大阪東照、秀塔大付属。この三校、雑誌とかで見たことない?」

 

「うーん」

 

あまりぴんと来ない。だがはっと気づく。

問題はこの学校を知っているかどうかじゃない。

 

「待ってください優子先輩。三校ってことは……」

 

「そ。私たちが全国に行くためには、この三校のうちどこかに勝つ必要があるってわけ」

 

「……それは……」

 

中々現実味のない話ですね。

野球やサッカーだって全国に駒を進める強豪校は決まっている。それにその三強だけではない。つい昨日は同じホールで競い合ったライバルの立華と洛秋の二校に加え、兵庫などだっているのだ。

勝つことがどれだけ難しい話かは明白だ。

 

「でもね、ホルンの誰かが話してたんだっけな。聞いたんだけど、明静工科は顧問代わったらしいわよ」

 

「そうなんですか」

 

吹部の弱体化は顧問が代わるという理由が一番多い。北宇治も昔はそれで弱体化したらしいし、今はその逆で顧問が代わって強くなった。

 

「それはすこーしだけポジティブな話……ですかね?」

 

「少しじゃなくて、めっちゃポジティブでしょ」

 

優子先輩は俺の目を真っ直ぐに見つめて断言した。

 

「だって私たち、全国行くんだよ?」

 

この人は、三強しか見ていないのか。他の学校より下手かもとか、そんなことは考えていない。

 

「ま、今はとにかく練習して少しでも上手くなるしかないですね」

 

「そうよ。というわけで比企谷。明日はあんたもいつもより早く学校来て練習しましょう」

 

「あ、朝練……」

 

「うわー。嫌そうねー」

 

そりゃ朝はゆっくりしたいですもん。一秒でも小町と長く家にいたい。忙しくなってくると、プライベートの時間が少なくなって愛する人と一緒にいられないとはこういうことである。

 

「ほら、でもなんだかんだでたまに一時間くらい早く行くことはありますよ。特にコンクール前なんてずっとそうでしたもん」

 

「でももっと早く来てる人だっているじゃない。高坂なんて、私と香織先輩が朝練で二時間近く早く行っても先に来てるわよ。……悔しいことに」

 

こないだ高坂と優子先輩は仲直りしたと思っていたのに、以前二人の間にはわだかまりがあるようである。女の子同士って、やっぱり大変。

 

「滝先生もコンクールまで時間ないって言ってたし、今やらないと後で後悔すると思うのよ」

 

「でも、ほら、家にいる時間も大切にしないと……そう、宿題!宿題もあるじゃないですか?」

 

「しゅ、宿題……。比企谷。そういうこと言うのホントやめて」

 

「そんな付き合ったばっかりの彼氏が、前に付き合ってた彼女の話ばっかりしてるときに彼女にやめてって言われるときくらいの圧で言われても」

 

「うわー。宿題どうしようなー」

 

本気で困った様子で呻いている優子先輩を見て、なんだか安心感を覚えた。さっき全国を目指してるって言った時の優子先輩はなんだか自分よりもずっと先にいるような気がしてしまったから。

 

「比企谷はもう結構終わってるの?」

 

「いや。まだ一割くらいです」

 

「全然じゃない!どうせ宿題もやらないなら朝練来て一緒に練習しようよ!」

 

「そもそもトランペット、というかどの楽器も一緒に練習って別に吹かないじゃないですか?」

 

「近くにいて吹いてれば一緒に練習するって言うでしょ?」

 

「いや言わないです」

 

「言うもん」

 

それから言う言わないの押し問答。

結局言うということで譲った俺は翌朝の朝練にも行くことになった。



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3

「ふあぁあ……」

 

ねみい。

普段も吹きたいなと思った時は練習が始まる一時間くらい早く来ることはあるが、流石にここまで早く来ることはないだろうと思っていた。ただ昨日の演奏で個人的に浮き彫りになった不安な部分もあったし、何より昨日の帰りに優子先輩に朝練来るように言われたし。

なんだかんだで先輩に言われると断れないものである。やっぱり社畜にはなりたくない。だって、金曜日の夜とか次の日休みだから一番早く帰りたいのに飲み会誘われたら行かなくちゃいけないんでしょ?

だが、登校中にたまたま会って一緒に来た当の優子先輩はというと……。

 

「香織先輩。今日もまじ可愛いです!朝から拝めてよかった!」

 

参拝するな。朝練をしてください。

下駄箱の前でちょうど靴を履き替えたばかりの香織先輩は優子先輩同様、昨日の冬服よりずっと薄手の夏服にまた戻っていた。

優子先輩の香織先輩への熱烈なラブコールは聞いているだけで勢いが凄すぎてモーニングコールよりも眠気が吹っ飛ぶ。モーニングコールなんてされたことないけど。

 

「もう。なあにそれ?」

 

「私、今日は、いや今日も一秒でも長く香織先輩をこの目に焼き付けるために朝練に来ました!」

 

おかしいな。関西まで時間がないから朝練しようって言ってたのにな……。

 

「それじゃ、比企谷。私と香織先輩は滝先生のところにちょっと用事があるから、先に音楽室に行ってて」

 

「いや、用事があるのは私だけなんだけど……。ごめんね、比企谷君。すぐに音楽室行くから待っててね」

 

「うす」

 

「ちゃんと練習して待ってるのよ?」

 

「俺の母さんですか?」

 

大体どの口がそれを言うんだ。今まさに歌舞伎町のキャッチでもそこまでぴたりとくっ付かないぞってくらいの位置で歩きながら幸せそうに笑ってる先輩に言われたくないですぅー。

一人で音楽室に向かって歩いていると本当に誰もいない。

夏休みに入ったばかりの頃は、吹部とよその部員だけしかいない学校というのが新鮮だったが、今日は時間が早く尚特別な感じがする。でも、同じ特別な学校という枠で括れるはずなのに、早朝の学校と違って夜の薄暗い学校はどうして怪談やあらゆる作品のネタでよく使われるのだろうか。やはり、人は夜が好きなんだ。俺も夜の方が好き。深夜アニメとか超好き。

 

音楽室に近づくと楽器の音が聞こえてきた。それはつまり、もっと早くから練習に来ている先客がいることを意味する。

知らなかった。こんな早い時間からもう練習してる生徒もいるのか。

近づいて中を覗くと一人しかいない。とりあえず、音楽室から椅子を取ってさっさと外で吹こう。話したことない先輩と二人で音楽室にいる気まずすぎるし、後で誰かが来た時に、『さっきまであいつと二人きりだったんだけど、何でもっと早く来てくれなかったの?』なんて言われたら死にたくなる。

音楽室の扉を開けて音楽室に入る。落ちたら二度と戻ってこれないような感情が灯っていない瞳が俺を捉えた。

 

「……」

 

……正確な音だ。まるで録音した音源をそのまま聞いているかのようなオーボエの音。

北宇治高校吹奏楽部にはオーボエ奏者は一人しかいない。その上、この先輩は優子先輩と同じ中学出身で仲が良いらしく話を聞くことがあった。なので、あまり印象に残らないというより儚げともいえる彼女の存在は、話したことはないけれど以前から知っている。

鎧塚みぞれ先輩。青みがかった髪の下の淡白な顔は、オーボエを吹いていても楽しそうでも辛そうでもなくて、本当に感情がないんじゃないかと思ってしまう。

それにしても鎧塚って苗字かっこいいよな。珍しい。インパクトではさすがにサファイアには勝てないけど。

 

「……はやいね」

 

「え?」

 

聞き取れなかったわけではない。話しかけられたことに驚いた。

 

「今日は何かあるの?」

 

「えっと、特にそんなことはないんですけど。優子先輩に来いって言われて」

 

「そう。今日は普段、この時間から来ない一年生二人目だったから」

 

質問されたが、興味があったわけではないのだろう。鎧塚先輩は淡々と答えて、無表情のままリードを咥えた。

沈黙が支配したが、それをオーボエの音が覆す前に俺は話しかけた。

 

「あの、先輩っていつもこんな早くから来ているんですか?」

 

「うん」

 

「すごいですね」

 

「別に。優子もいつも六時過ぎには来てるし」

 

「し、知らなかった。優子先輩も毎日朝練来てるんですか?」

 

「優子は努力家」

 

俺の方をチラリとも見ずに鎧塚先輩は答えて、今度こそ鎧塚先輩はオーボエを吹き始めた。俺も練習しよう。

椅子を持って音楽室を出ようとしたところで、音楽室の扉が開いた。

 

「おはよう。みぞれ」

 

「おはよう」

 

「鎧塚さん。今日も早いね」

 

「おはようございます」

 

「みぞれー聞いてよー」

 

音楽室に入ってきた優子先輩は鎧塚先輩の元に向かって行き話しかける。鎧塚先輩は変わらず無表情のままだが、優子先輩の話に淡々と受け答えをしていた。

 

「……」

 

「どうしたの比企谷君?」

 

「いや、優子先輩に前から結構鎧塚先輩と仲良いって聞いてたんですけど、本当なんだなあって。なんか二人の性格全然違うから少し意外というか」

 

「中学生の時から仲良かったみたいだけどね。あの二人は同じ中学校出身で、去年の二年生が一斉に辞めた一悶着があった後も残ったっていうのも強いんだと思う。去年辞めちゃった二年生は優子ちゃん達の中学校だった子が多かったから……」

 

香織先輩が悲しそうに俯いた。

しまった。香織先輩に去年の話は良くない。俺から振ったわけではないけど、この話はここまで。

 

「優子先輩は毎日六時過ぎに来てるって聞いたんですけど香織先輩も同じくらいに来てるんですか?」

 

「うん。登校途中によく優子ちゃんに会うから同じくらいだね。トランペットだと高坂さんは私たちよりもっと早いね。六時に学校来てるって言ってた」

 

はっや。じゃあ今もどっかで練習してるのか。

 

「そう。高坂さんといえば、さっき渡り廊下で会ったよ。今日は黄前さんもいたの」

 

「へー。黄前は普段朝練にいないんですか」

 

「うん。この時間から来てるのは珍しいね」

 

なるほど。さっき鎧塚先輩が言っていた普段いない一年とは黄前のことだったんだろう。



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4

「おはよー」

 

「おはよう」

 

七時を超えると、音楽室にはちらほらと部員が集まりだした。初めは優子先輩と香織先輩と並んで練習していたが、人が徐々に増え始めて俺は二人から離れた壁の付近でラッパを吹く。

それにしても、改めてトランペットパートの面々の意識の高さ。全員が七時前から来ていて、これまで俺は来るのが遅かったことを知った。他のどのパートも全員が揃っているパートはない。

この朝練の参加率の高さは高坂のソロを聞いてなのだろうか。当の高坂は音楽室にいないが、最近のパート内ではどこか標的の様なイメージだった高坂は目標になっている。負けず嫌いの集まりなのだ。俺たちのパートは。

 

「みぞれみぞれー」

 

優子先輩は休憩ついでに、水を飲んでいた鎧塚先輩の元に向かって行った。

 

「みぞれは夏休みの宿題終わった?」

 

「半分くらい」

 

「いいなー。私全然だよ。……ねえ、お盆休み暇?一緒にやらなーい?」

 

「いいけど」

 

「やったあ!」

 

おそらく昨日した宿題の話が頭に残っていたのか、優子先輩は俺の方をちらりと見て勝ち誇ったかのような顔をした。こういうときばかりは羨ましい。

だがいい。こうして答えを写すことによって後で苦労するのは自分自身。自らの力で解いて、学力に結びつけることで模試云々ではなくて、授業で先生に急に当てられたときなど誰かに聞くことなくそつなくこなせるのである。先を見据えて行動してこそ、プロボッチ。

あ、そう言えば。

 

「こういうことは思い出したときにやっとかないとな……」

 

宿題で使う教科書の一つを学校に置いたままにしておいたのだった。

忘れたわけではなくて、夏休み中も部活がどうせあるのだから夏休みの直前に重たい荷物を持って帰らないようにしようと思っただけ。本当にどうしても夏休みとか長期休みの最終日は荷物が多くなるから困るよね。

トランペットを置いて、音楽室を出ると音楽室の外からも楽器の音は聞こえてきた。色々なトランペットを始め、比較的持ち運びが楽な楽器は外で練習する人も多い。グラウンドや中庭、空き教室。どこでも自由にござれ。

教室に入ると、当たり前だが誰もいなかった。手乗りタイガーもいなければ、誰もいないからと誰かの机を舐めることもしない。真っ直ぐに自分のロッカーに入った教科書を取って、俺は再び教室を出る。

 

「お、比企谷じゃん」

 

話し掛けられたのは、教室を出てからすぐのことだった。二年生の教室が並ぶ一つ上の階に向かう階段の途中でばったりと出くわしたのは中川先輩だ。

 

「おはようございます」

 

「うん。おはよ。朝練?精が出るねー」

 

「中川先輩は朝練じゃないんですか?」

 

「私は、うーん。ちょっとね」

 

へらへらと笑って誤魔化した中川先輩に俺はそうですか、と適当に相槌を打つ。隠そうとしていることを敢えて知る必要はない。

『うーん、のぞみを待たせてるんだけどなー。ま、少しくらいならいいか』と一人呟いた後、夏紀先輩は階段の手すりに腰をかけた。

のぞみ?新幹線?

 

「ねえ、今ちょっと時間ある?」

 

「え?まああると言えばありますけど」

 

「そっか。別に大した話じゃないんだけどさ、こないだコンクールの前に話そうと思ってたこと、折角だから伝えとくよ」

 

「……あぁ」

 

思い出した。

優子先輩を見つける前に中川先輩に会って、話はまた今度と先延ばしにした話題があったんだったな。あの日はとにかく一日大変なことが多すぎてすっかり忘れていた。高坂と香織先輩の再オーディションは勿論、放課後学校で香織先輩に頭撫でられたこととか。恥ずかしかったなぁ。誰かに見られてたら今でも宇治川にスプラッシュできる。

 

「聞きたいことがあるんだけど、比企谷が再オーディションの前に音楽室で香織先輩のこと悪く言ったことあったじゃん?ほら、公開処刑事件」

 

「公開処刑事件って……」

 

「でもみんなそう言ってるよ」

 

話題が話題なので、俺としては本当に困る。肯定したわけではないのに、中川先輩は口元に笑みを携えたまま話を続けた。

 

「あのときさ、比企谷ってもしかしてわざと汚れ役被ったの?」

 

「……。そんなんじゃないです。事実あれは公開処刑だったじゃないですか。部員の前で高坂との差が歴然になった香織先輩は部員の前で敗者として認定された」

 

「結果はね。だけど、明らかにみんなの集中力切れてて、滝先生の言うこと聞きたくないって思ってた部員を、まあある意味はけ口を比企谷に変えることでまとめたのも事実じゃん。私も最初はなんでみんなの前であんなこと言ったんだろうって思ってた。クズだし、

馬鹿だなーって。でも低音パートで話してたときにさ、川島と加藤が比企谷のことそんな人じゃないって庇ってたり、何よりあすか先輩がさ」

 

「あすか先輩?」

 

「そそ。副部長のね」

 

「それは知ってます」

 

香織先輩に引けをとらない美人で、低音パートのパトリだが、低音と言わず部をうまくまとめ上げる。部長より部長らしいなんて言われたりもして部員達から明らかに一目置かれているが、俺は関わったことはない。ただ香織先輩がとても仲が良く、二人でいるところや部長の小笠原先輩を交えて三人でいるところはしょっちゅう目撃する。放課後に一緒に帰る香織先輩が話の切り出しで、あすかがね、と入ることが多いのも俺にとって印象が強い要因の一つなのかもしれない。

だが、正直に言うと、俺はあの人のことがあまり好きではない。好きではない、というのは語弊がある。苦手なのだ。

部長の後ろで部を纏める様を見て、一歩引いたところから俺たち部員のことを手のひらの上で転がしている様な気がするし、赤い知的なイメージを与えている眼鏡の奥の瞳は何を見ているのか分からない。

 

「あの人がさ、『もしかしたらあの騒動の本意は別の所にあったのかもしれないね。ワトソン君!』なんて思わせぶりなこと言うから気になっちゃって」

 

「そんな。俺あの人とほとんど話したことないですよ」

 

「でもあすか先輩は私たちとは見ているものが違うからさ。あすか先輩がそう言うならそうなのかもしれないって思っちゃう訳よ」

 

「あんまり知らないですけど、すごいんですね」

 

「うん。比企谷も話してみればわかるよ。あの人は特別。それが良いとか嫌いとかは置いといてね」

 

「え?」

 

「まあ、それはいいんだ。そういうことがあったから自分でもちょっと考えてみたんだよね。それで最初に戻る。比企谷が汚れ役を買って出たのかもなって。まあ、それに対する答えはいいや。どうせ否定するし。でもあのお陰でオーディションに落ちたチームもなかのメンバーは報われたから、代表して感謝しとくね。ありがとう」

 

「!いやいや!それに関しては何も感謝されることなんて」

 

「報われた、とは違うかな。でもさ、私たちだってオーディションに向けて頑張ってたのに受かったメンバーはやる気なくなってさ。あの時の部の状態はなんか去年見てるみたいだったけど、このままの状態でコンクールに挑むことになって負けてたら、じゃあ何で私たちは頑張って競い合って悔しい思いして落ちたんだよって感じだったから」

 

「だけど……」

 

「まあ、とにかくありがとう。受け取るか受け取らないかは自由だけど伝えたからね」

 

少し耳を染めて照れている中川先輩は、これで話は終わりとばかりに腰を手すりから上げた

俺も何となく恥ずかしい気持ちになって頬をかいた。



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5

「さてそれじゃ私――」

 

「比企谷、戻ってこないと思ったらこんなところに……って」

 

「はろー」

 

「…ちょっと何であんたがここにいるのよ」

 

階段を降りてきた優子先輩と中川先輩がバッティング。目が合ったポケモントレーナー同士がポケモンバトルを始めるときはきっとこんな感じなのだろう。ずけずけと近付いていき、鼻と鼻がぶつかるくらいの位置でバトルを始める二人。

 

「私がどこにいようが誰と話してたって関係ないでしょ?」

 

「別に気にしてないんですけどー。勘違いしないでくんない?」

 

「は?今聞いてきたじゃん。三秒前に自分が言ったこともわからないとか鳥頭じゃないの?」

 

「鳥みたいに、いちいちうっさく鳴いてるのはあんたでしょ?こないだも着てたじゃん。『I can fly in the same sky.』って書かれたくっそダサいシャツ」

 

「あの服の良さが分からないとか、あんたセンスなさ過ぎ」

 

がみがみがみがみと続く小学生でもしないような口論。よくこんな互いの悪口がポンポン出てくるな。フリースタイルか。

中川先輩が俺をちらりと見て口角を上げた。あ、嫌な予感がする。

 

「比企谷も迷惑でしょ。こんな奴が同じパートにいて挙げ句の果てに帰りも付きまとわれてるって聞いたよ」

 

「いや、別に迷惑とは……」

 

「すっごい恩着せがましいし、図々しいし、隣でうっさいし。もし何か面倒くさいことあったらぶん殴って良いから」

 

「良いわけないでしょ!余計なこと言わないでくれるー!?」

 

「今度はこんなやつ抜きで、一緒に帰ろうよ。さっきの話の続きしよう」

 

「はあ?駄目に決まってんでしょ」

 

「あんたに聞いてないのわかる?私は比企谷と話してるの」

 

「ぐっ……」

 

勝ち誇った顔の中川先輩の隣で、俺をじとりと睨み付けている優子先輩。一体俺にどうしろと…。

 

「で、でもほら俺、他のパートの先輩と二人とか気まずいっていうか」

 

「そっか。じゃあ香織先輩と比企谷よく話してるし、三人で帰ろう」

 

「ちょっと!香織先輩みたいなスーパーリアルエンジェルにあんたみたいな奴が近付かないでくれない!?」

 

「あれあれ、またすぐ忘れちゃったのかな?さっき私がどこで誰と何してようが関係ないって言ったよね?あー。ちょうど、他のパートと親睦を深めることが大切だと思ってたんだよねー。比企谷は来年も部活で一緒なわけだしねー。友情は奇跡を起こす」

 

「……思ってもないことを……」

 

ゆ、優子先輩が瞳をうるうるさせながら中川先輩を見つめた。ウィナー中川。うわ、嬉しそう。というか、満足げ。

仕方ない。助けてやるか。

 

「はぁ。中川先輩、何かさっき急いでる感じでしたけどいいんですか?」

 

「えっ?うわ、やばっ。行かなくちゃ!ナイス比企谷」

 

忙しそうに向かう先はどこなのだろうか。中川先輩は優子先輩の隣を通り過ぎて、階段を上っていく。

だが、数段上ってまた振り向いた。

 

「あ、そうだ。比企谷、私のこと中川先輩じゃなくて夏紀でいいよ」

 

ぱたぱたと階段を駆け上がって行く先輩。それをぽーっと見守る俺。なぜかまたぷるぷると震えだした優子先輩。

 

「比企谷」

 

「は、はいいぃぃ!?」

 

「私の前であいつのこと夏紀とか呼んだら許さないから」

 

お、横暴だ。

 

「比企谷は私の味方でしょ?そんであいつは私の敵。おわかり?」

 

「出た……。女あるあるすぐに仲間作るやつ……」

 

「もうそれでもいい。とにかく駄目よ」

 

「……自分は昔、下の名前で呼ばせた癖に」

 

「でもでもでもー!駄目なの!」

 

ぷくぅ、と膨らんだ頬は怒っていますよアピールなのだろうか。だがさっきの口論もあって、怒っているというよりか駄々を捏ねているようにしか見えない。

 

「わかりました。多分向こうも優子先輩の前だから、からかっただけですよ」

 

「おのれ、夏紀ぃ。次こそぼこぼこにしてやる…」

 

「何か優子先輩、中川先輩と話すと幼児化しますね」

 

「そんなことないもん!ところでさっきまで何話してたの、あいつと?」

 

「うぇ。え、えっと……」

 

流石にこないだの再オーディションの前に音楽室であったことを話してたとか話せないよなー。

 

「……まあ、い、色々」

 

「……」

 

「……そ、そんな目で見ても言えないもんは言えないです」

 

「うぅー!もう比企谷なんて知らない!」

 

「ま、待って下さいよ、先輩」

 

全く手が掛かることこの上ない。だけどこんな先輩の様子を見ることが普段なかったので、面白い。というか可愛い。

 

「そう言えば昨日小町が――」

 

「興味ない」

 

「あ、うちの猫――」

 

「興味ない」

 

ぐっ。やりづらい。

 

「中川先輩。なんで急いでたんですかね?」

 

「知らない」

 

「なんかのぞみを待たせてるって言ってましたけど」

 

「……え?」

 

急にぱしっと腕を捕まれて、真剣な表情で見つめられる。

 

「比企谷、それ本当?」

 

「は、はい。……多分。きっと。……言ってたよな?」

 

「自分に聞かないでよ。でも比企谷が希美を知ってるはずないし、多分言ってたんだね」

 

「あの、何かまずいことでもあるんですか」

 

「うん、ちょっとね……」

 

顔の前で手を組んでいる優子先輩は、思い詰めたような顔をしていた。

 

「のぞみって、誰なんですか?」

 

「ん?希美はね、去年辞めていった二年生の一人で、南中で私たちの代の部長をしていたの」



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6

「では早速、今日の練習を始めますが、その前に一人紹介したい人がいます」

 

「あ、まさか婚約者?」

 

ぼそりと呟いた誰かの予想は外れだった。聞こえてきたのは男の声。

 

「失礼しまーす」

 

「彼はこの学校のOBでパーカッションのプロです。夏休みの間、指導して貰うことになりました」

 

「橋本真博と言います。どうぞよろしく!」

 

「パーカッションのプロー!?」

 

「マジで!?」

 

明るく朗らかな印象を受ける。それは声音や穏やかな顔からだけでなく、橋本先生の着ている南国できるような派手な柄のシャツからもそう思わせた。

婚約者という期待こそ外れたものの、パーカスの部員達は嬉しそうだ。

 

「あだ名ははしもっちゃん。こう見えて滝君とは大学の同期です。滝君の事で知りたいことがあったら、どんどん聞きに来てー!」

 

橋本先生のテンションについていけずに、部員達はぽかんとしている。

 

「あれ、反応薄いなあ」

 

「余計な事は言わなくて良いですよ」

 

「滝君モテるでしょー?女子にきゃあきゃあ言われてるんじゃないの?」

 

「…はい。吹奏楽部員以外の女子には」

 

音楽室が笑いに包まれた。

だが、俺はそんなこと頭に入ってこない。パーカスのプロなら俺と関わることは少ないはず。だから話半分で聞いてりゃいい。

それよりさっきの優子先輩の話だ。中川先輩の呟いていた希美、という少女について去年部活を辞めたということと、優子先輩は中学の時部長だったという情報。そして名前が傘木希美ということ以外には何も話さなかった。

何もないなんてありえない。あんなに困った顔をしていたのだから。

 

「あっはっはっは!吹部女子には人気ないかぁー。ごめんなぁー。滝君が口が悪いのは昔っからで、いったっ!」

 

「余計な事は言わなくてもいいと言いましたよ」

 

滝先生がかかとで橋本先生の足を踏んでいる。そういうことをするのか、滝先生も。

それにしても、俺の予想は当たっていた。滝先生、絶対昔っから口悪くて嫌なやつだったと思ってたんだよなー。

理由?そんなもの、特に根拠はない。だけどほら、イケメンで性格も良いとか、なんで生きてるのって感じでしょ?

 

 

 

 

 

「今日から指導してくれる橋本先生、いい人そうだな」

 

「ん?おーそうだなー」

 

橋本先生という新しい指導者を加えた合奏練が終わった後、パート練を行うということで練習する教室に向かっていると塚本が追いかけて話し掛けてきた。

早速今日の合奏で橋本先生はパーカスの改善点を見つけ、『早速、パーカスは僕の所に集まってー!ビシビシ行くからね。今日は帰れないと思って!わっはっは!』と気合いを入れていた。

 

「何だよ。その上の空な返事」

 

「実際、俺たち金管は変わらず滝先生の指導で変わんないだろ」

 

「そりゃそうだけど…。久美子もさっき橋本先生の自己紹介の時にぼっとして橋本先生にからかわれてたし、そんな興味ないもんかね」

 

黄前が注意されていた?気付いていなかった。

それだけ今朝の希美と言うワードを口にした後の優子先輩の表情が頭をよぎっている。

 

「でもプロなら俺たちの演奏のクオリティーもどんどん上げてくれそうで、これからの練習が楽しみだよ」

 

「まだわかんねえだろ。プロって肩書きがあるからな。それっぽいこと言われて、訳わかんない指摘されるの一番困るだろ。雑誌とかテレビにもよく出てるだろ。原宿発ファッションデザイナーとか言って、『そうね。この色を差し色にしたらいいんじゃない?』とか言って俺たちには理解できない奇妙なファッションに仕立てるやつ。ぶってる指摘から生まれるオシャレもどきをファッションモンスターって言うんだって思ってる」

 

「あー…。なんか言いたいことわからなくはないけど…。そこは滝先生が呼んだ先生だし、信頼できるんじゃないかな?」

 

「それより俺としては滝先生の昔の話の方がずっと気になるし、楽しそうだけどな。昔からの付き合いなら色々知ってるだろ」

 

「昔の話って、どんな?」

 

「そりゃ滝先生の失敗談だよ。女でも勉強面でも何だって構わない。女に金だまし取られたとかあったら最高だよな」

 

「ひでぇやつだな、相変わらず……。…まあ面白そうだけど」

 

「他人の黒歴史を掘り返すことほど面白いもんはねえからな」

 

やられる側は最悪だけどな。

中学生の時たまたま、『比企谷はほんと無理。まじ無理』って言われてるとき教室に入っちゃったときに、『あ、無理って良い意味でだからね!』ってフォローされたときのこととか高校のやつらに知られて笑われたら、俺がこれ以上生きることが無理になってしまう。

何をどう捉えたら、無理なのが良い意味になるのだろう?論理的に結果にコミットした説明を求める。

割とありとあらゆることに『良い意味で』を付ければポジティブになるみたいに思ってるやつ多いけど、実際そんなことねえから。『良い意味で』って取って付けたって悪いもんは悪いから。

 

「そう言えばさ、話変わるんだけど比企谷は十二日どうすんの?」

 

「十二日ってなんかあったっけ?」

 

「最近みんなよく話してるじゃん。宇治川の花火大会だよ。暇なら一緒に行かね?」

 

小町が言ってたな。

宇治川の花火大会は七千もの花火が上がる、県祭りに並ぶ宇治の夏の恒例行事だそうだ。京都の特に観光地周辺は木造の建築物が多いことや、花火を上げるのに適した場所がないことからあまり花火が上がることはないらしい。なので数少ない花火が上がる機会として、そこそこ金の掛かったイベントで、高くて大きい花火であれば我が家からも見れるかもしれないね、と喜んでいた。

この話をしてきたときは『誘われる…。お兄ちゃんお財布にお金あんまりないから貯めとかなくちゃ』と思っていたが、今回は中学の同級生と行くらしい。残念。

 

「いや。俺は県祭り行ったし花火大会は別に良いかな。祭りみたいなのあんまり好きじゃないんだよな。人多いから」

 

「県祭りなんて、もう大分前だろ。練習の気晴らしに行こう」

 

「大分前ってまだ二ヶ月も経ってないぞ」

 

「いやいや。二ヶ月って結構だから」

 

「いやいや。地球の誕生、四十六億年前だから」

 

「比較対象おかしいだろ!」

 

「とにかく行くつもりはない」

 

俺の断固否定に塚本は諦めたかのように思えたが、そこで塚本ははっと何かに気がついたように視線を上げた。

 

「川島が一緒に行くって言っても?」

 

「はっ。馬鹿だなあ」

 

「やっぱり駄目か」

 

「そんなの行くに決まってんだろうが」

 

「ま、まじか」

 

川島が行くならブラジルまで行くぞ、俺。サンバ踊ってる川島みたい。サンフェスの時、北宇治名物の謎ステップを練習してる加藤を見様見真似でやろうとしてた川島なら、きっとできるはず!

 



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7

「うお」

 

『じゃあ聞きに行くか』と塚本の言葉に付いていったが、少し前を歩く塚本が低音のパート練の教室を目にして立ち止まった。

 

「何?どしたん?」

 

「いや、何かあれ」

 

塚本の指さした先では扉の前に立って、誰かに頭を下げている女子生徒が二人。一人の先輩は俺が知っている。

 

「左の人、確か中川先輩だよな。ユーフォの。その隣の先輩は…誰だろう?吹部ではないけど。比企谷知ってるか?」

 

「いや。知らない」

 

黒い髪を結わいてポニーテールにしている人物。あまり部員を把握していない俺だけでは見た事がないと言ってもあまり当てにはならないが、塚本が言うのなら間違いなく部員ではないはずだ。

教室の中から話し声などは特に聞こえず、雰囲気もどこか緊迫していて思わず二人で壁に身を隠した。男二人の密着。全く需要がない。

 

「私、部活に戻りたいんです!」

 

「希美を部活に復帰させてやって下さい!」

 

希美。

ああ。この人が例の希美先輩なのか。ここから見える後ろ姿からは顔は見ることは出来ない。部活に戻りたい、と言った声とポニーテールは何となく溌剌そうな印象を受けたが、それよりも気になるのは部活に戻りたいと言った真意だ。なぜ低音パートの教室でそれを言う必要性があるのだろうか。普通は滝先生か部長に話すべき内容のはずである。それならばまず行くべきは職員室か、サックスパートの練習している教室ではないか。

考えられるパターンは希美先輩が元低音パートの一員で何か問題を起こした、とか?

 

「誰に頭下げてるんだろうな?」

 

「多分、田中先輩じゃないか?」

 

「田中先輩?どうして?」

 

「俺も詳しくは知らないんだけど、去年辞めた二年生達が多かったって話あるだろ。あすか先輩も中立の立場としてそこそこ関わってたってトロンボーンの先輩が言ってた」

 

「ふーん。どう関わってたんだ?」

 

「去年の話みんな話したくなさそうだし、聞きにくいからさ。そこまでは知らない」

 

「そこが大事なところなのに」

 

仕方ないだろ、塚本に小突かれた。だが、塚本の読みは正しかったようで聞こえてきたのは田中先輩の声だった。

 

「いやいやいや。私に言ってもしょうがないでしょー?私は副部長だよー?しがない中間管理職」

 

「お願いします。あすか先輩の許可が欲しいんです!」

 

「どうして?」

 

「決めてるんです。あすか先輩の許可を貰うまで戻らないって」

 

「迷惑なんだけどなー。そんなこと言われても」

 

「お願いします!」

 

「希美、本気なんです」

 

「ごめんね。悪いけど今、練習中なの。悪いけど帰ってくれる?」

 

短い会話の最中、田中先輩の声は異常なまでに冷たかった。普段見ている、明るくてムードメーカーさながら部も纏めてみせている田中先輩のイメージとのギャップ。直接顔を見ている訳でもないのに、その拒絶の言葉に俺と塚本は顔を見合わせた。

しばらく無言が続いた。その沈黙を打破したのは、太い声。後藤先輩だろう。

 

「一年生は先に帰って欲しい。ちょっと話し合いたい」

 

「え?」

 

「でも…」

 

低音の一年、黄前と川島と加藤の三人だ。三人が躊躇う声が聞こえたが、やがて分かりましたという言葉と共に椅子をがたりと動かす音が聞こえてきた。

 

「おい、比企谷。久美子達、出てくるみたいだぞ。どうする?」

 

「一回撤退しようぜ。花火大会まではどうせ期間あるわけだし、また今度聞けば良いんじゃねえの?」

 

「りょ、了解」

 

そそくさと低音の教室を後にする俺たち。何だかとんでもないものを見てしまった気がする。

優子先輩の困り顔に、中川先輩と傘木先輩が頭を下げている後ろ姿。何だか面倒なことになりそうな気がする。そんな直感が当たらないことを祈って、俺はパート練の教室へと向かった。

 

 

 

 

 

多くの部員が待ち望んでいたのであろう十二日。いよいよ花火大会の開催日である。

結局川島は家族で行くそうで、ついでに一緒にいた加藤も同じで家族と行くのだそう。なので俺が花火大会に行くことはなくなった。部活が終わればオフである。

塚本はサックスパートの一年のた、瀧……たき…あれ?たき、たき、瀧山?と一緒に行くことにしたらしい。

 

「よっ」

 

「おう。おはようさん。早いんだな、今日は」

 

登校して、まだ鞄を持ったままの塚本に話し掛けられて譜面から顔を上げる。汗をかいたときのために首に巻かれているタオルをとって俺の隣に腰掛けた。

 

「放課後は花火大会があるからさ。今日は朝早く来て放課後出来ない分練習しとこうかなーって」

 

ここ最近は何だかんだ早く練習に来ているが、今日はすでに来た時にはいつもより音楽室は人が多かったもんなあ。塚本と同じ考えで放課後に花火大会に行くから、と早く来たやつは多そうだ。

 

「比企谷は今日本当に花火大会行かないのか?瀧川に言って三人で行っても」

 

そうだ。瀧川だ。少しすっきりした。

 

「行かない。俺そいつ知らないし」

 

「だよなー。それじゃあ代わりに十五日遊ぼうぜ?」

 

「は?嫌だよ。一人で遊んでろ」

 

「一人で遊ぶって…」

 

「お前、一人で遊ぶの馬鹿にするなよな。楽しいんだぞ。クーラーガンガンの部屋でゴロゴロしながらマンガ読むのも、コップを滴る水滴をぼんやりと眺めてからぐいっと飲む麦茶も、ベランダに出て、日が暮れても蒸し暑いなんて思いながら一人で眺める夕日も全部夏の思い出だ」

 

「でもさ、折角の二日しかない休みの一日なんだぜ。一日は比企谷の言う通り、一人で過ごす夏を満喫して、もう一日くらい遊んだって良いじゃん?」

 

「一日じゃ足りないし、そもそも休みだからこそ家でゴロゴロして翌日からの練習の英気を養うべきだろうが。俺は一歩も家から出ない。誰に何と言われようとな」

 

「はあ。わかったよ。お前の気が変わることを祈ってる」

 

そもそも塚本は俺なんかじゃなくても遊ぶ奴なんて他にいるだろう。なんで俺なんだ。

 

「あ。そうだ。それはともかく、こないだの事なんだけどさ」

 

「こないだって……」

 

頭をよぎったのは頭を下げる二人の先輩の姿。塚本とこないだあったことで思い当たることはそれしかない。

 

「ああ。低音の?」

 

「そうそう。あれから何か分かったか?」

 

「いや、何も。気になるっちゃ気になるけど、別に関係ないからな」

 

「確かにそうだけどさ。あれから毎日低音パートの教室で毎日練習終わるの待って頭下げてるらしい。あの二人」

 

うえ。すげーな。毎日行ってるってことは断られたってことだろ。それでも行くってどこの営業マンだよ。一回断られてからが本番なの?

 

「あのポニーテールの先輩。傘木希美って先輩らしくてさ、去年辞めた二年生の一人なんだって」

 

「ああ。それは知ってる」

 

「知ってたのかよ。まあ比企谷は吉川先輩とよく話してるからな。同じ南中だったらしいし聞いてのか」

 

「まあ。一応」

 

「トロンボーンの先輩達も知ってたし、部長とか中世古先輩も知ってるらしいんだけど、一年にはできるだけ広まらないようにしてるんだってさ。ほんと、そういうとこオープンにしてくれないと、こっちも気になって練習にならないよなー」

 

「うーん…。なあ。あの先輩って何の楽器やってたんだ?」

 

「フルートらしいぜ」

 

「フルートか。じゃあなんで田中先輩なんだろうな。部長か顧問に言いに行くならわかるけど、副部長に頭下げるっておかしくないか?」

 

「ああ。それは俺も思ってた。こないだ二人で見たときに話した通り、田中先輩、去年の一悶着に関わってたらしいし、それに関係すんのかもな」

 

「まあ仮にそうだったとして、もっと分からないのは何で部活の復帰を認めないんだってことだ」

 

「それは、俺たちが今大事な時期だからって訳じゃないか」

 

「確かにコンクールを控えてはいるけど、今から次のメンバーに選ばれることは流石にない。それなら準備とかの人手が増えるっていうのはメリットじゃないのか?」

 

「うーん。確かに」

 

「塚本。ちょっといい?」

 

隣で話していた塚本が呼ばれて、びくりと震えた。この特徴的な声は間違えるわけがない。塚本も同じで、振り返らずとも誰か分かったようだ。

 

「は、はい!なんですか、吉川先輩?」

 

「大したことじゃないんだけど、ちょっと」

 

優子先輩がくいくいと手を折り曲げて塚本を教室の端に呼んでいる。俺、なんかやっちゃったかな、ぼそぼそと呟きながら不安そうな顔で優子先輩の元に向かっていく塚本はいつもより背中が小さく見える。

それにしても、優子先輩が塚本を呼ぶとは何事だ。二人はほとんど絡みがないはずだけれど。

 

「あのさ……」

 

優子先輩が小さい声で何かを塚本に話している。塚本はなぜか驚いた顔で俺を見た。

………え、なんで?俺?

 

「……むぅ」

 

誰かのむすっとした声が聞こえた。低音の黄前だ。

横目で塚本を見る目が怒っているような気がするのは勘違いだろうか。確か塚本と黄前は幼なじみ。もしかして幼なじみが女子と話してるのがムカつくとか。何それ、かわいいかわいいかわいーいー!……そんな訳ないか。そういう幼なじみはゲームかラノベにしかいません。

それにしても希美先輩のことよりも、今は二人が小声で会話している内容の方が気になる。心なしか優子先輩顔赤いぞ。

 

「そっか。ありがとう」

 

「あ、はい…」

 

結局、二人は少しだけ言葉を交わして会話を終えた。何かを考える素振りをしている塚本を残して香織先輩の元に向かっていく優子先輩。

ま、いっか。俺も練習に戻ろう。




いつも読んで下さってありがとうございます。作者のてにもつです。
メッセージで送って下さって気が付いたのですが、最近、本作がハーメルンの日間ランキングに乗っていることがあるみたいですね!具体的には何番なのかとかはよく知りませんが、僕が確認したときは87番でした笑それでも嬉しいです!まさか自分の書いた作品があそこに乗ることがあるだなんて…。
これもいつも読んで下さっている皆さんが、評価や感想を下さることでしたり、楽しんで読んで下さっているからなのかなと思います。ありがとうございます!

さて、今回後書きを残したのは以前の後書きに書いた短編集を明日公開することに決めたからです。長い長いGWと月の初め、さらに映画も公開中という流れに乗っかりました笑
とはいえ、明日の公開では話は一つのみです。短編集については徐々に話を増やしますね。
番外篇とは言え、本作の裏話というか関わりが大きい話ですので是非読んでみて下さい。

それでは。皆さん、楽しい十連休(とはいえもう始まっているのですが)をお過ごし下さい!
てにもつ


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8

「それでは、本日の練習は終わりにしましょう。皆さん、お疲れ様でした」

 

「「「ありがとうございました!」」」

 

「ねえ、早く行こう!」

 

「そんなに急がなくても、私穴場知ってるよ」

 

今日の放課後はいつもより皆が浮かれている。ぱたぱたと片付ける音があちこちから聞こえた。

きっと滝先生も今日が花火大会だとわかっているからいつもより少しだけ早く練習を終わりにしたのだろう。こんな日は電車も混雑するし、居残り練習するにしても早く帰るようにと言っていた。

隣にいる高坂も他の部員と同様で、合奏終わりはいつも指摘されたところを吹きながら確認しているが今日はすでに片付けの準備を進めていた。

 

「今日は残って練習しないのな」

 

視線は譜面に落としたまま高坂に聞いた。高坂の片付けの手は止まらず、忙しなく動いている。

 

「うん。今日の花火大会行くから」

 

「だろうな。花火上がるのってまだまだなんだよな?」

 

「そう。でも着物着るから早く帰らないと間に合わない」

 

「え、わざわざ着物着るの?」

 

「うん。帯締めたときにキツくならないように、お昼もあんまり食べなかったの。だから早く屋台でなんか食べたいってのもある」

 

「ああ。昼あんま食わなかったから今日の演奏、なんかいつもと違ったのか。滝先生、高坂のソロ気にしてた感じだったしな」

 

「……。…う、嘘……」

 

ばさり、と鳴る音は高坂が力なく譜面を落とした音だった。顔面蒼白とはこのことだろう。思ってた以上の高坂の反応に、慌てて言葉を紡いだ。

 

「う、嘘だよ。そんな人生終わったみたいな顔しなくても…」

 

「……最低。絶対許さないから」

 

「す、スマン」

 

「……」

 

「ごめんなさい」

 

「ふん」

 

まさかそんな怒ると思わなかったもん。ちょっとしたアメリカンジョークじゃん。そんなに滝先生に怒られるの嫌なのかよ…。

マウスピースを洗いに行く高坂の背中を見て、やっぱり高坂に冗談は吐かないようにしようと学んだ。

さて俺は時間があるわけだし、残って少しだけ吹いて帰ろう。市営の図書館や中学の時に通っていた塾もそうだったが、いつもは人がいるはずの場所に人があまりいないで使えるのは何となく気分を高揚させる。

しばらく練習して、人がいなくなるのを見計らって俺は音楽室を出た。少しだけ赤みが差した校舎に、聞こえてくるフルートの音はどこか夏らしい寂寥感を思わせる。

 

「……フルート?」

 

その音に導かれるままに渡り廊下の方へと向かっていく。別にフルートの練習をしていること自体は珍しいことではない。俺と同じように今日の花火大会に行かない誰かが練習をしているという可能性の方がずっと高いはずだ。

だが、今朝の塚本との話で希美先輩もフルート奏者だったという話を聞いた。最近部に復帰したいという彼女は放課後いつも低音の教室で頭を下げるために残っている。

点と点が繋がるようなインスピレーション。この直感は正しいだろうか。

 

「……」

 

上手い。キラキラとした音色を聞いて素直にそう思った。

北宇治の吹部のフルート奏者の誰よりも技術的な面でも上回っているし、何より演奏の表現力の高さ。楽しくて、美しい。茜色の寂しいステージで歌うように吹かれているフルートの演奏を止めないように、俺は物陰に隠れることも忘れ、ただ息を殺して聴いていた。

やがて吹き終わると、その視線がゆっくりと俺に向く。

 

「…あ」

 

「あ、あはは。どうもー。えーっと、吹部だよね?」

 

「そ、そうです」

 

き、気まずい。とりあえず気になることを聞いてみよう。

 

「そのフルート、先輩のマイ楽器ですか?」

 

「うん。そうそう」

 

「音楽室でそのフルート見たことなかったんで」

 

銀色に輝くフルートを持つ先輩が自慢げに笑った。

 

「去年まで吹部でさ。今は地元の楽団に入ってるの」

 

「へえ。だから上手いんですね」

 

「ありがと!ところで、君は何の楽器吹いてるの?」

 

「トランペットです」

 

「そっか。それじゃあ優子と一緒だね。私は二年の傘木希美って言うんだ。君は?」

 

「比企谷です」

 

「比企谷君……。うーん…」

 

「何ですか?」

 

「いや、妙に親近感がある名前というか。ごめん。自分でも何言ってるのか良くわかんないや」

 

へらへらと白くて歯並びの良い歯を見せながら笑う傘木先輩はやっぱり活発な印象を受けた。

だが、間違いなく初対面。親近感は全く感じないが、そう言われると…うーん。

 

「傘木先輩」

 

「ん?」

 

「俺もよくわかんないんですけど、犬と散歩するときはリードを離したらだめですよ」

 

「いや、私犬飼ってないけど…」

 

「あ、そうなんですね。すいません」

 

そうだ。折角だし先輩が低音の教室で田中先輩に部活の復帰をさせて欲しいとお願いしていることを知らない体で、どうして吹部に所属していないのか聞いてみよう。

 

「あの、先輩」

 

「あ」

 

聞こうとしたところで、先輩が俺の後ろを見つめた。振り返ると立っていたのは優子先輩だ。

…ん?真っ直ぐに傘木先輩を見つめる優子先輩はその瞳の奥で何を考えているのかわからないが、少しだけ怒っている、というか苛ついているように見えるのは俺の勘違いだろうか。

 

「優子先輩」

 

「優子ー。なんか久しぶりだね。元気にしてた?」

 

「うん。久しぶり、希美。そりゃまあ元気だよ」

 

「そっか。部活は大変?」

 

「まあね。毎日毎日吹いてるから大変と言えば大変なのかな」

 

「大分遅い時間まで練習してるしね」

 

優子先輩が傘木先輩のフルートを指さした。

 

「それ」

 

「あ、これは違うよ。ただ吹きたくて吹いてただけだから」

 

「……そっか。久しぶりに聞いたよ。希美のフルート」

 

「優子も聞いてたの?照れるな。比企谷君は褒めてくれたよ?」

 

「言っとくけど、私は何も言わないから。同い年の演奏褒めるのとか何か照れるし」

 

フルートを吹いていた理由を誤魔化したのなんて明らかだったのに、優子先輩は希美先輩が楽器を持っていることを深く掘り下げることはしなかった。本当は話すべき事が別にあるはずだ。

同じ中学で三年間一緒に吹いて来たはずの二人。十数歩分の距離は縮まらない。どちらも歩み寄ることを決してしないから。

 

「…それじゃ。私は比企谷に用があって来たから」

 

「俺?」

 

「うん。行こ?」

 

「いや、行こって…」

 

「えー。私はもうちょっと比企谷君と話したかったんだけどな」

 

「悪いけど、またの機会にして」

 

「いや、俺に自分で選ぶ権利は……」

 

渡り廊下から見える真っ直ぐに伸びた木が、後ろから見守る夕日の色に染まった校舎に影を落としている。

俺としてはいつもよりまだ早いし、もう少し残って傘木先輩と話をしたい。聞きたいことがまだある。

 

「時間もあんまりないから。お願い」

 

「時間って何のですか?」

 

「そ、それは……あ、後で言うから!」

 

「えー。ろくな事じゃなさそう」

 

「はは。優子全然信用されてないじゃん!」

 

「う、うっさい!」

 

はあ。優子先輩に付いていくか。傘木先輩の手前、あんまり優子先輩に恥をかかせると後で何か酷い目に遭う気がすると、俺の超優秀と評判の防衛本能が反応している。

 

「そんじゃ、行きますね」

 

「うん。またね、比企谷君」

 

また、か。本当に『また』はあるのだろうか。そんなことを思いつつ、俺は顔には出さず頭を下げた。

 

「……優子」

 

「ん?何?」

 

「…部活、変わったよね。比企谷君、一年生だけどAのメンバーに選ばれてるの?」

 

「うん」

 

「三年生も二年生もメンバー?」

 

「ううん。うちのパートは二年と一年が一人ずつメンバーに選ばれなかった」

 

「そっか。二年生がBで一年生がAってさ、どうなの?」

 

どこか責める口調にも聞こえたその言葉に、ぎゅっと心臓を捕まれたような気がした。ただ、冷静に考えれば俺を責めるのは理解できる。だってこの先輩を含めた南中の去年の一年生は上手くても出られなかったメンバー達なのだから。向けるべき矛先はきっと別にいたとしても、それが俺たちに向くのはわからないことではない。去年辞めた先輩からしたら、特にメンバーに選ばれた一年なんて『狡い』の一言に尽きるだろう。

ただその質問は優子先輩に聞かないで欲しかった。残った南中の一人として今年から変わってしまう事は良かったのか、と葛藤していた夜を思い出して、俺は優子先輩を咄嗟に見た。

だけど、きっと優子先輩はもうとっくにそんなこと乗り越えていた。オーディションで自分の考えを誰よりも真っ直ぐに貫いて、何よりも京都府予選を抜けたことで。

傘木先輩に向けた笑顔は今日一番の穏やかな笑顔だった。

 

「上手いからメンバーに選ばれたんだよ?いいに決まってるじゃない」

 

「でもさ、去年まではそんなのあり得なかったよ」

 

「うん。だって去年とは違うもん。私たちは全国に行くんだから、オーディションやってメンバーに上手い人が選ばれるのは当然よ」

 

ハッキリとそう言い切った優子先輩から傘木先輩が目を逸らした。

 

「……うん。私もそう思うよ。…それじゃあね、優子」

 

傘木先輩の笑った顔は初めて会った俺でもわかるくらい取って付けたような笑顔だ。そんな顔で笑うなら、いっそ泣いた方が見ているこっちは清々する。

その泣いたような笑顔から目を逸らして、俺は優子先輩について校舎に戻る。振り向くことはしなかった。



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9

「それで、俺に用って何ですか?」

 

優子先輩と向かう先はとりあえず音楽室だった。だけど花火大会で帰った部員達が多くて、もう音楽室から音は聞こえてこない。もしかしたら、俺がいない間に滝先生か松本先生からそろそろ帰るようにと指示があったのかもしれない。

 

「え?」

 

「いや、『え?』じゃないですよ。もしかして特に用はなかったとかじゃないですよね?」

 

「ううん。ちゃんと用はあるし、時間がないって言ったのも本当!……なんだけど…」

 

珍しくハッキリしない優子先輩に俺はどうしたらいいのかわからず頬をかいた。

誰かと二人になったとき会話の切り口が分からないときのシチュエーションは、風呂の鏡に映ったもう一人の僕、『七幡』と一緒に練習しただろう。それを思い出せ!

ちなみに名前は適当である。ヒナイチゴとか何だって良かったもん!WUGちゃん、最高!

立ち止まった優子先輩に合わせて俺も立ち止まる。

 

「あのさ、今から家帰った後待ち合わせして、花火大会、一緒に行かない?」

 

「はい?」

 

「だから!花火大会、一緒に行こうって!」

 

聞き取れなかったから聞き返したわけじゃない。まさか花火大会に行こうと言われるなんて思わなかった。

 

「いや、俺ちょっと予定があって…」

 

「嘘でしょ。今朝塚本から聞いたもん。誘ったけど、行くつもりないからって断られたって言ってた」

 

「くっ」

 

あいつ。余計な事言いやがって。今朝二人が話してたのはこのことだったのか。

 

「家のお留守番を…。今日飯作らなくちゃいけないから」

 

「それだって嘘でしょ。小町ちゃんに連絡して聞いた。今日は小町ちゃんも花火大会行くから、ご飯は自分の分買って帰るって家出る前に比企谷が言ってたって」

 

そ、外堀が埋まっている…。塚本のみならず小町まで利用するなんて。

 

「行きたいなら他の人で良いじゃないですか?加部先輩とか」

 

「友恵は友達と行ったし、お盆休みにプール一緒に行くからいいの」

 

「お盆休みに遊ぶからって、花火大会だってそれに付いていくので良くないですか?あれでしょ?女の子は寂しいと死んじゃうから、ずーっと一緒にいないといけないもんなんでしょ?」

 

「うざ」

 

「そんなに冷たい声で、真っ向からシンプルに言われると傷つくんですけど…。大体何で俺なの?」

 

「それはほら。親睦を深める的な?」

 

「俺と親睦を深めたいなら、やっぱり即帰宅で花火大会に行かず家出ないのが一番ですね。この選択肢が一番八幡の好感度上がるって情報のリークがありました」

 

「もう。相変わらず難しい…。逆にどうしてそんな行きたくないのよ?初めての宇治川の花火大会じゃん。結構人気なんだよ?」

 

「そりゃ、万が一友達に会ったら気まずいじゃないですか」

 

「…友達少ないくせに」

 

おっしゃる通り。だけど、俺よりも優子先輩の方が気まずいだろう。

 

『あー。優子ー!久しぶりー』

 

花火大会という淑女達にとっての社交場。挨拶はあくまで社交辞令で、所詮前座でしかない。ありふれた言葉のキャッチボールの後ろに隠れる本題。中高生という若く青く野原に生えるつくしの様に背伸びしたい彼ら彼女らにとって大切なのは。

 

『でさ、優子は今日誰と来てるの?』

 

そう。誰と来ているか、という点に尽きる。

男女問わず、祭りに連れて来ている誰かはステータスであり、偶然会った他者からクラスの地位や個人のレベルを判断される基準になる。もし、クラスの人気者や学校一のイケメンを連れていれば、一緒にいるそいつも一瞬にしてスクールカーストのトップに君臨。

それに加えて浴衣なんて着て行ってリア充臭をぷんぷん醸し出すことが出来れば、尚ステータスとしての効果は上がる。あの歩きにくい上に対して涼しくもない格好をするのはその為だ。

 

『同じ吹部でトランペットの比企谷』

 

当然俺の場合、プラスのステータスになることはありえない。

もし仮に会った相手が優子先輩のクラスメイトであれば、『うわ、こんな奴かよ。ぷーくすくす』と鼻で笑われ、吹部の部員であれば『よ、よよよよりによってこいつかよっ』とぎょっとしてみられるか、もしくは忘れられているか最初から知られていないか。

脳内シチュエーションで結果が見えた。未来予知完了。

 

「とにかく行きません」

 

「だから行きたくない理由を知りたいの」

 

「それがちゃんとあれば、もう誘わないで家帰らせてくれます?」

 

「そしたら少しは考慮して……あげない」

 

「あげないのかよ!」

 

「行こうってばー」

 

「そもそも俺、なんで花火大会行かないといけないの?」

 

「だから親睦を深めるの。それに…ちょっと話したいこともあるし」

 

「話したいこと?」

 

「…うん。みぞれのことなんだけど」

 

優子先輩の表情が曇る。

 

「鎧塚先輩?俺ほとんど話したことないですけど」

 

「ちょっとさっき比企谷が話してた希美に関わる話でもあるんだけど」

 

「……」

 

『知らない方が良いことがある』とよく言うが、逆説的に言うと『知ることは悪』である。

知ってしまえば面倒毎が増えるし、考えなくてはいけない事象が増える。それはエネルギーを消費する。だから知ることは悪いというのは、きっと間違っていないと思う。

 

「…じゃあもし花火大会行ったら、どうしてさっき優子先輩が傘木先輩と顔を合わせたとき怒ってるような表情してたか教えてくれますか?」

 

「え?私、そんな顔してた?」

 

「…多分」

 

「してないよ……って言うのはきっと嘘だなあ」

 

それでもここ最近の中川先輩や傘木先輩の事態は気になることが増えすぎた。首を突っ込むことは良くない事なんて理解しているのに、日に日に気になることが増えていく現状に、俺は我慢できずにいる。答えを探し出す探偵ではないし、一連の噂や見たことは謎なんて大層なものでもないけれど。

 

「その話もするから、一緒に花火大会行ってくれる?」

 

「…は、はい」

 

「やったあ!じゃあ、早く帰ろう!」

 

この顔を見るために行くと決めたわけじゃないから!先輩達の話を聞くために行くだけだから!

俺の腕を引っ張りながら、嬉しそうに音楽室に駆けていく先輩を見て顔に熱を感じた。



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10

未だ日の落ちきらない夏の夕方。どこからか聞こえてくるセミの声が、残る暑さと人混みの間を縫って響き渡る。

 

「当たり前ですけど、人が多いですね」

 

「うん。なんか年々人が増えてる気がするもん」

 

宇治川沿いの道はとにかく人が多い。花火が上がるまではまだ時間があるようだが、すでにシートを敷いて座っている人で溢れているから花火が見えやすい場所は一杯だ。俺たちは立ちながら適当な場所から見ることになるだろう。

中には浴衣を着ている人も多いが、優子先輩は普通の私服だ。中川先輩を英文にやたら派手なロゴが入ったくそダサいTシャツを着ていると馬鹿にしていたが、今日はシンプルにピンクのワンピースを着ていて、幼さが残る優子先輩によく似合っている。

 

「ねえねえ何食べる?私はチュロス食べたい!」

 

「チュロスって。映画館じゃないんだから」

 

「は?何言ってるの?チュロスはお祭りの定番だから」

 

「そんな定番聞いたことないんだよなあ」

 

「あ、後やっぱり綿飴も食べたいかも。でも綿飴って、どうしても原価のこと考えちゃうと買う気がなくなっちゃうのよね」

 

「原価の事なんて考え出したら屋台の食べ物なんも買えなくなっちゃいますよ。それに俺、屋台で売ってる綿飴の値段設定に文句ないですし」

 

「ええ。だってほら。あそこで売ってる綿飴五百円だけど、砂糖なんて十円しない位なんじゃない?」

 

「いや違います。屋台の綿飴は砂糖が十円だったとして、綿飴を入れたキャラクターの袋を選ぶ楽しさに二百円。結果的にプリキュアの袋を選んでその袋を見て楽しむのに三百円。さらに言うなら、よく祭りにあるような歴代シリーズのプリキュアの柄であれば、『あー、キュアホワイトの変身シーン大好きで家で練習してたっけなあ。でもキュアサンシャインの大変身も捨てがたい』ってあの頃のプリキュアに想いを馳せる楽しさは、もはやプライスレスです」

 

「それは比企谷だけよ…」

 

肩を落とした優子先輩を横に、俺は屋台に大きく書かれた文字を流し見る。きやこた、りおごきか、らてすか。あまり変わった屋台がなくて面白くないなあ。

 

「あ、チュロスのお店みっけ。私買ってくるね。比企谷も食べる?」

 

「いや、俺はオム焼きそば探してきます。見つけたらもうそこに並んで買うんで、優子先輩は買ったらこの通り真っ直ぐ歩いてきて下さい」

 

「いやいやおかしいでしょ。なんで一緒に来てるのに別行動するのよ?一人で並んでるの、寂しいし」

 

「え?だって並んでる間に俺が屋台探して並んでるところに合流する方が効率良いし…」

 

「効率とか求めなくていいんだってば」

 

ずるずると引っ張られることが今日は多い気がする。腕を掴まれながら連れられる俺の姿は周りからどう見えているのだろうか。

 

「ねえ見て。バナナ味のチュロスだって。珍しくない?」

 

「本当だ。その隣のブルーベリー味も気になるけど。こういう時はシンプルにプレーンが一番美味しくて後悔しないと思います」

 

「だけど気になるのよねえ。珍しい味があると…。どうしよっかなー」

 

「お次お待ちの方どうぞー」

 

屋台のおっちゃんに呼ばれたが、優子先輩はまだ決めかねていて思案顔だ。

 

「えっと、じゃあチョコ一つ」

 

「……まあ無難ですね」

 

「うん。シンプルイズベストでしょ」

 

お兄ちゃんはいらないのー、という店主の声に適当に相槌を返してまた人混みに流される。

チョコレート味のチュロスを両手で持ちながら歩く優子先輩は嬉しそうで、見ていて微笑ましいですね。実に。

こうしてぱくぱくと食べているのを見ていると、美味しそう。俺も買えば良かった。

 

「ん?食べたいの?」

 

そんな俺の視線に気付いた優子先輩が俺に問いかけた。

 

「あ、すいません。あんまりにも美味しそうに食べてるんで、俺も買っても良かったかなって」

 

「え、そうかな?なんかはずいんだけど…」

 

「いや別に恥ずかしがることないじゃないですか。褒めてますよ?」

 

「ならいいけど…。…食べる?」

 

「いやいや、食べられないですから!」

 

「そ、そうだよね」

 

こっちの方が恥ずかしいわ。少し頬を染めて、食べかけのチュロス向けられたとき、恥ずかしすぎて宇治川にスプラッシュするところだった。

気恥ずかしさを誤魔化すために、キョロキョロと辺りを見渡してみる。何か話を探さないと、この気まずくはないけど気恥ずかしい無言の空気はどうにもならん。

歩いている家族やカップル。中学生の男だけの集団は肩を組んで、おちゃらけながらガヤガヤと歩いている。女子の集団もチラホラ。四人くらいの集団は皆でリンゴ飴を持って和気藹々と話していて、目の前には仲良さげに話して歩く浴衣姿の二人組。……ん?

 

「あ」

 

しまった。痛恨のミスだ!声に出したせいで目の前の二人が振り返った。

 

「え。優子先輩と、えーと……」

 

「比企谷。私と同じトランペットパート」

 

「あ、そうだ。よく名前は聞くんだけど、難しい名前だし何となく覚えにくいんだよねー」

 

「久美子、声に出てる」

 

「はっ」

 

咄嗟に手で口を押さえるが、果たしてそれに効果はあるのだろうか。

言っとくけど、別に名前覚えられてなくてもショックなんかじゃないからな!俺だってこいつの事なんて知らねえし!川島と加藤とよく一緒にいて、塚本の幼なじみで、最近は何だかんだでよく高坂といることも多い。そんな彼女の名前が黄前久美子ってことくらいしか知らないんだから!

 

「お疲れ様です」

 

「うん。お疲れー。来てたんだ?」

 

「はい」

 

優子先輩と高坂が言葉を交わすが、この二人は再オーディションの時から変わらずどことなく距離感がある。咄嗟に今朝の朝練に行ったときの事がフラッシュバックする。

 

 

 

『……』

 

時刻はまだ六時過ぎ。今日も音楽室に向かう最中、オーボエの音が俺以外に誰もいない廊下に寂しく聞こえていた。だが音楽室に近付くとぱたりと、その音が止まる。きっと休憩でもしているのだろう。そう考えて、音楽室の扉に手をかけたとき、鎧塚先輩の静かな声が聞こえてきた。

 

『優子』

 

『ん?』

 

『仲悪いの?その二人と』

 

『うぇ!』

 

お、おいいいぃぃ!何てこと聞いてるんだよ!

咄嗟に扉から手を離した。音楽室を覗き込むと鎧塚先輩の後ろで鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしている優子先輩。そしていつも通りの無表情だが、どこか気まずそうにしている高坂と、固まった黄前の二人。

四人の間を沈黙が吹き抜ける。

 

『え、えーと…』

 

『ふ。そうなんですか、先輩?』

 

『ふ。さあ?どうなんだろうねえ、後輩』

 

『ふふふふふ』

 

『あはははは』

 

こっわ!女の子同士こっわ!どうしたらこんな乾いた笑い声出せるの!?ふえぇ。お願いだから、仲良くしてよおぉ…。

あれだけ色々あったのに、鎧塚先輩、部内の人間関係に疎すぎる。とりあえず、胃がキリキリ痛いからトイレに行こう。うん。俺は何も見なかった。そうしよう。

 

 

 

「う、また胃が痛む…」

 

「え?急にどうしたの?大丈夫?」

 

忘れようとしてたのに。いや。今日も色々あったから、本当に忘れてたのに…。



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11

「比企谷、今日の花火大会は行かないと思ってた」

 

「俺もそのつもりだったんだけどなあ」

 

高坂からの質問に答えながら流し目で優子先輩を見れば、何よと小突いてくる。それを見てくつくつと笑った高坂の一つに纏められた長い髪が揺れた。

髪を結い上げている綺麗な石で装飾された簪が、提灯の光を反射して妖しげに光ると、高校一年生なんかには到底思えない高坂の色気が増して見える。長い眉毛や普段はここまで見せることはない、蠱惑的な鎖骨。暑さから滴っている汗が祭りの光が照らして滴っているのさえ、彼女の儚げで強かな美しさを助長させているようにさえ思える。

今日の花火大会に来てから、最も浴衣が似合っている。とんでもない美人なんだなと、改めて思わされた。

 

「私は高坂こそ、こういうの来ないと思ってたんだけど」

 

「この浴衣、去年買ってからほとんど着る機会がなかったので、折角だから着たいなと思って」

 

高坂の浴衣は紺色と言うよりかは夏の夜を思わせるような濃い青色で、大きな白いツバメが夜空を踊るように飛んでいる。黄色い帯は浴衣の色と合わないように思えるが、意外にも明るい色彩がよく映えていた。

隣に並ぶ黄前に関しては、高坂よりも身長が高いことに初めて気が付いた。しかし、淡い黄色の布地の上に咲いている白や薄い青の花や、同じく黄色の頭に指さる大ぶりの花の飾り物のお陰で高坂よりも幼そう、というか元気な印象を受けた。

二人とも美しいシルエットというと綺麗な言い方だが、普段見せることのない下駄の上の素足や足下。袖から覗く腕。こういったところから目を離せないのは、男として仕方のないことだ。

 

「……」

 

「……何?」

 

「何か言うことないの?」

 

高坂の視線がぐさりと刺さる。

 

「ま、まあ。良いと思いますよ、多分?」

 

「男らしくハッキリと」

 

「似合っています」

 

「具体的に言うと?」

 

「ちょっとダークな感じが大人っぽいし、ポニーテールが夏らしいです」

 

「うん。知ってる」

 

知ってるなら聞くな。俺が褒めて、照れている姿のどこに需要があると言うんだ。

だがそれを聞いた高坂は艶やかな口端をついと上げて、なにやら勝ち気な表情で優子先輩を見た。その視線に反応するように、優子先輩は高坂を睨み付ける。今、ここで男の俺が与り知らぬ何らかのバトルが繰り広げられているッ!……のか?

 

「……麗奈、もしかして今朝のことまだ根に持ってるの?」

 

「……」

 

「負けず嫌いだねえ」

 

「…うるさい」

 

それにしても、こうして高坂が黄前と仲良くしてるのを見ると他の人と話すときと明らかに何か違うな。崩れているというか。上手く説明できないのだが。

 

「あの、優子先輩達は二人で来てるんですよね?」

 

「うん。そうだよ」

 

「もしかして二人って…」

 

「別にお前が思ってるような間柄じゃないから」

 

「でも、二人で花火大会って」

 

「これは親睦会的なあれなんだって」

 

黄前の懸念と期待に満ちた瞳で見られるのが嫌すぎる。そんな目で見たって何も出ないし、高坂の浴衣の裾、そんなに引っ張ったら破れちゃうよ。

さて、なんて言って誤魔化そうか。いや、そもそも誤魔化すも何も嘘は一つも言ってないんだけど。

優子先輩は何やら高坂に意味ありげな目線を送っている。じーっと見つめる視線に、一つ息を吐いて俺たちに助け船を出した。

 

「優子先輩。私もパートの親睦を深めるために花火大会に誘ってもらったのに行けなくてすみませんでした」

 

「え?麗奈、誘われてたの?」

 

「うん。先に久美子と行くことにしてたから今回は断ったけど」

 

「……そうだよ。パートの一年の他の奴が誰も行かなかったから、俺が一年一人で行くことになっちゃったからな。しかも香織先輩と笠野先輩は予備校だって言って急に来れなくなっちゃうし。次は一緒に行こうぜ」

 

「え、次?はは」

 

「…何笑ってるんだよ?」

 

「いや、その言い方だとまた今度遊ぶみたいな言い方だけど、比企谷いつも休みの日は家から出ないんじゃないの?」

 

「ちげえから。これは社交辞令みたいなもんだから」

 

「はいはい。変なところに突っ込んでごめんね」

 

ひらひらと手を振って全く心なしで謝った高坂は、『行こう、久美子』と黄前の手を取った。まだ俺たちのことが気になっている様子の黄前を引いて歩いて行く。

 

「貸し一つですから」

 

「高坂。誤魔化してくれて助かった」

 

「うん。でもどっちかって言うと優子先輩に貸しを作ったつもりなんですけどね」

 

「う。あ、ありがとう………ございます」

 

「いいえ。日頃の感謝です」

 

「くっ。生意気……」

 

「ふふっ。それじゃあ、また明日」

 

「ちょ、麗奈。引っ張らないで」

 

去って行く青色と黄色の二人。やっぱり高坂は表情こそいつもとそんなに変わらないが、かなりテンションが高い。冷たい瞳は温かさを帯びて黄前を見つめ、掴んでいる腕を絶対に離さないというようにぎゅっと掴んでいるし、優子先輩をからかっていく辺り、間違いない。

 

「ふー。何とか一難去ったか」

 

「……」

 

「…優子先輩?」

 

「…浴衣、私も着て来れば良かったなあ」

 

「え?なんて?」

 

「何でもないわよ。ばか」



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12

「おー。花火だ」

 

「わー!きれー!」

 

俺と優子先輩の感想は軒並み『(小並感)』と付きそうな程陳腐だが、久しぶりに見た花火は本当に美しい。

鳴り響く音と共に、打ち上がる何発もの花火。花を咲かせた火種は、金色の光となって空からパラパラと線を引くように落ちていく。夏らしいな。誰かと花火を見に行くのなんて、千葉にいた頃にはなかった。

しばらく二人で石垣に腰を落として黙って見ていたが、しばらくして先に口を開いたのは優子先輩だった。

 

「そう言えば、中学生の時さ、宇治川の花火大会に吹部の皆と一緒に行ったなあ」

 

「何人くらいですか?」

 

「それが学年の皆で行ったから、二十人くらいいたんだよね。結局人が多すぎて、行きたい屋台とかで別れて行動したわけだけど、花火終わった後また皆で待ち合わせしてだらだら話してたら、可笑しなテンションになって最後は公園で鬼ごっこして帰った」

 

「何か鬼ごっこして帰る辺りが中学生らしいですね」

 

「すっごい楽しかったんだけど今思うとね。あの時はみぞれと希美もいたっけ」

 

「傘木先輩はわかりますけど、鎧塚先輩はあんまりそういうの行かなそう。よく知らないけど」

 

「そんなことないよ。みぞれは静かだけど、意外と付き合い良いから。でも私がっつり仲良くなったの中学の頃じゃなくて去年からなんだけどね」

 

朝、学校に行って一人吹いている鎧塚先輩からはあまり想像が出来ない。深窓の令嬢のようで誰かと遊ぶとか一切興味なさそうだもん。

 

「あの、花火見ながらするような話じゃないかもしれないんですけどいいですか?」

 

「うん。私もそろそろしようかなって思ってた話があるの」

 

「鎧塚先輩の話ですか?」

 

「うん。みぞれのこと」

 

「それなら俺も都合が良かったです。傘木先輩の演奏、今日初めて聞いたんですけど上手くて驚きました。今からコンクールのメンバーを変更する訳にはいかないでしょうけど、来年もしもうちの吹部に帰ってきたら間違いなく戦力ですよね?」

 

「そうだね。私たちがいた南中の顧問は特にフルートの指導が上手でね。コンクールの自由曲って基本的には顧問が決めるから、曲に顧問の好き嫌いじゃないけどなんか嗜好みたいなのって意外に顕著に出るじゃん?だからうちは例年、フルートのソロが長い曲が自由曲になることが多かったのもあって、周りの学校は南中と言えばフルートってくらいだった。

希美は最後の年は部長だったし、フルートが好きで練習も真面目にやってたから顧問も気に入ってたし、私たちにとっては変な言い方だけどエースみたいな存在で皆の輪の中心にいたな」

 

「エースってあんまり吹部じゃ聞かないワードですけどね」

 

「だよね。でも私は今でもその言葉がぴったりだと思ってる。だって去年私の学年が多く辞めたのだって、吹部が思っていたよりずっと酷かったから軽音部に行かないか、って言い始めた子がきっかけで何人か抜けたけど、それ以上に希美が辞めたからそれについていく形で辞めたって子も多かったくらいだし」

 

「え。どこの革命軍だよ」

 

「凄いでしょ?」

 

優子先輩は確かに笑っている。

てっきり優子先輩は傘木先輩のことがあまり好きではないのかと思っていたが、どうやらそんなこともないらしい。さっき渡り廊下で傘木先輩を見ていたときに見せた怒っているような表情とは打って変わって、誇らしげな表情をしている。傘木先輩の事はよく知れないが、あの明るい表情と朗らかな態度。カリスマ性のある良い部長だったのかもしれない。

 

「前も言ったけど、私たちの代は中学最後のコンクールの結果が最悪だったんだよね。例年金は取れるのに、その年は銀賞で。でもね、ずっとダメ金でどっかパッとしない吹部だったから、私たちの代で変えてやるんだって!それ目標にして練習はちゃんとやってたから、前の年よりずっといい演奏できてたよ。それは顧問からもお墨付きで言われてたし、自分の耳でも素直にそう思った」

 

「まあ、それが吹奏楽のコンクールの本当に難しい所ですよね。どんなに自分たちが良いと思ってても、結局評価するのは審査員だから審査員の気持ち一つで結果が変わっちゃうし、それだけじゃなくて自由曲にしろ課題曲にしろ、その曲を選んだ段階で難易度とか演奏するためのスキルとかあって、吹く前から評価が決まる部分もある」

 

「そそ。結局今はこうして吹部まだ続けてるわけだけど、流石にあの時は悔しすぎてもう辞めてやるー、って思ってたわね。希美は違ったみたいだけど」

 

「え?」

 

「希美は中学卒業するときに高校行ったら今度こそ皆で金取ろうって豪語してた。それに付いてきた吹部の子も多かったわけ。結果はさっき言った通りだけど、それもあったから多分希美は誰よりも部活に落胆した部分が大きかったんだよ。

正直言うと私もね、辞めるときに希美に声かけられて。もうちょっと様子見るなんて言って残ったけど、もし香織先輩に続けようって声かけられる前だったら希美と一緒に辞めてたかもしれないな」

 

一瞬、優子先輩がいなかったトランペットパートを想像してすぐに止めた。

もし優子先輩が初めからいなければ、きっと高校生活一度だって関わることはなく、吉川優子という存在を知らなかったはずだからいないことを悲しんだりすることはなかっただろう。だけどその自分を今の自分が見れば酷く悲しく思うのではないか。

その想像に目を瞑る。こんなのは決して俺らしくない。誰かがいなくて寂しいとか、そんなのは帰宅して、小町が友達と遊んでくるからといなかったときだけのはずだ。

 

「でもそれなら……」

 

「だけど、私は少なくともコンクールが終わるまでは希美の復帰を認めるべきじゃないと思う」

 

「どうして?一回辞めていった人間だからですか?」

 

「そこは関係ないの。…比企谷はさ、みぞれのオーボエどう思う?」

 

「鎧塚先輩の……オーボエですか?」

 

「うん。最近朝早くから来て練習してるから聞いてるでしょ?」

 

そりゃ数日前から朝に聞いてはいるけれど…。急に鎧塚先輩の話に変わったが、傘木先輩の話から繋がるところがあるのだろうか。

訝しげな表情をしている俺に、優子先輩は顎をくいとあげた。言ってみて、ということらしい。

 

「凄いなって思います。音はしっとりとしていて綺麗ですし、ピッチも安定している。特に基礎練習を他の人よりずっと長く練習していますけど、基礎練習の中の速いパッセージとか何回吹いても一切変わらないんです。音も指の動きも。だから…」

 

言うのを止めて、優子先輩の顔色をうかがう。初めて鎧塚先輩の吹くオーボエを聞いたときの率直な感想を伝えることは、批判しているように聞こえてしまうかも知れない。

だが優子先輩は頷くことで先を促した。

 

「機械みたいというか、CDの音源を聞いているみたいというか。勿論、さっき言った通り本当に上手いし連符も軽々吹けて凄いんですけど、どこか…生気みたいな物が感じられない気がします」

 

「生気を感じない目で言われても説得力ないけど、言いたいことはわかるわ」

 

「ちょっとぉ。その前置き必要あった?」

 

「でもね、中学の頃はもっと感情あったのよ?今と変わらず物静かなところもあったけど、もっと今よりずっと笑ってたし、何より演奏の表現力がずっと豊かだったの。聞いてるこっちが楽しくなるような演奏して」

 

「ここ数日間、というか入部してからの鎧塚先輩からは想像できないですけど」

 

「オーボエってさ、一番吹きにくい木管楽器って言われてるじゃない?知ってる?」

 

「まあ、一応。金管なんであくまで情報でしか分かってないですけど、息を吹き込む穴は狭いのにベルに向かって太くなっていく円錐型だから息が少ししか入らないんですよね」

 

「そうそう。息を少しずつ使うって言うのはつまり息を止めているのに近い状態を続けているっていうことよ。慣れるとちょっとの息で吹けるようになるみたいだけど」

 

「こないだ関西大会の話聞いたときも思ったんですけど、優子先輩って吹奏楽関係のことに詳しいですよね」

 

「そりゃ中学からトランペット吹いてるし、やっぱり好きだし」

 

おかしいな。俺もっと昔から吹いているはずなのにそんなに大した知識がないぞ。これが愛の差なのか。

 

「まあそれだけ難しいって言われているわけだけど、あのレベルの技術で吹いてるの。相当努力家よ、みぞれって。それにきっと楽しくなかったら、今ほどは上手くならなかったと思う」



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13

「で。その鎧塚先輩が傘木先輩にどう関わるんですか?」

 

「みぞれにとって、希美は…特別なの」

 

「特別?」

 

特別、と言った優子先輩の表情が何故か一瞬曇った気がした。多分勘違いではない。汚くて、女子らしいというか人間なら誰しもが持つ一面。けれど、それを思議することは周囲の一段と大きい歓声と花火の音がかき消した。

花火の打ち上がる感覚が速くなっていき、その分だけ頭上の真っ黒のキャンパスにカラフルな花が所狭しと咲いては消えていく。花火大会は徐々にフィナーレに迫っている。

 

「うん。私もみぞれからあんまり詳しくは聞いてないんだけど、みぞれが中学生のときに吹部に入ったきっかけになったのが希美だったらしいの。でも希美は友達も多いし、付いてきてくれた子も多かったから、きっとみぞれはそのうちの一人だったんだよね」

 

「何となく分かりました。つまりベクトルの大きさの違いですね。こういうのがあるから人間関係は構築しないに限る」

 

「そこまでは言ってないんだけど…。私から見ても二人の温度差みたいなのは中学生の時から大きいなって明らかだった。みぞれはいつも希美と一緒にいたがってるんだけど、希美の周りにはいつも誰かがいて、みぞれも見ての通り寡黙な子だからそうなると中々近づけない。

特にみぞれがその差を感じちゃうきっかけになったのは、退部のとき。私とか他の人には希美が辞めるときに声かけられたって言ったけど、みぞれには何も言わないで辞めていった。

それをみぞれは気にしていて……、今じゃ希美に会えないどころかフルートの音を聞くだけで吐き気がするって」

 

「……そんなにダメなんですか?」

 

「うん。前にも似たようなことあって、希美のフルートの音を聞いた時、かなり取り乱してた。その時は保健室で横になって落ち着いたけど、額に汗をかきながら足から崩れ落ちて…」

 

トラウマのスイッチになった理由を『その程度のこと』であると、本人以外の価値観で決めつけてはいけない。

社会的身分や宗教、年齢や性別によって各々が培ってきた考え方や感性。当然不可視のものであり、本人にしかわからないどころか、本人でさえわからないものさえあり、それは深層心理などと呼ばれる。それを他者の物差しで判断したつもりになって、『これは許されることである』と定義づけることは横暴である。

だから鎧塚先輩が傘木先輩の態度で傷付いて、それがどれほど深い傷になっていたとしても、それは他者が『そんな些細なことで』と決めつけてしまうのはもっての他だ。特に学校という狭いコミュニティの中での誰かとの関係は、思っているよりもずっと他者の与り知らぬところで影響を与えているなんてことはよくある。

 

「だから比企谷が今日希美に会った時に私が怒っているように見えたんなら、みぞれが理由になるのかしらね。辞めるときに、一言でもいいから声を掛けてあげて欲しかったっていう私の勝手な怒り、みたいな。言っとくけど本当に好きだったんだよ。今でも嫌いなんかじゃないの」

 

傘木先輩から見た鎧塚先輩は友人くらいの間柄でも、鎧塚先輩にとっての傘木先輩は特別なんていう言葉では枠に収まりきらず、神聖でさえあるような関係にさえ見えていたのかもしれないし、そんな相手が最後に声を掛けられずに去って行った。

つまるところ優子先輩が話す限り、希美先輩の復帰を望まないのは鎧塚先輩のことを思ってということである。

 

「そう考えると傘木先輩が去年辞めたことの影響って絶大だったんですね。他の今の二年生の半分近くが辞める原因の一端にもなっていて、鎧塚先輩にもトラウマを植え付けていったっていう」

 

「でも悪いことばっかりに目が行くけど、結果的に去年のクズな三年との喧嘩をしてた一年の間を持ってくれてた香織先輩とか晴香先輩、あとは府大会前に辞めちゃったけど葵先輩とかが先輩に頭を下げたりすることがなくなって、部内が落ち着いたのは希美たちが抜けたからっていうのもあるから」

 

「まあ練習しないで、思い出作りをするって方向性で落ち着いたんですよね。どんなダメな上司にも部下は逆らえない。耐えるしかないっていうのが教訓ですね」

 

「いやーな教訓ね」

 

「でもそうなると、尚のこと傘木先輩の復帰は妥当な面もありますよね?」

 

「……そうなんだよね」

 

鎧塚先輩という個人的な問題を放置すれば、傘木先輩が辞めるきっかけになった先輩たちはもういない。そして今の部活は、滝先生という去年までは予期することができなかったイレギュラーの存在によって、辞めていった先輩たちが求めていた姿になっているという状態だ。

部活に復帰すれば今年のコンクールのメンバーになることはなくとも、来年の戦力にはなるだろう。早い復帰はこれからの練習によって上達にもつながる。更に言えば、チームもなかのように今年のメンバーのサポートもしてくれるメリット付き。

 

「言っとくけど、みぞれが希美のフルートの音聞くとダメとか、他の一年に言うのは厳禁だからね。これは一部の上級生しか知らないことだから」

 

「じゃあなんで俺に言っちゃったんですか…。……まあ言わないけど」

 

「そりゃ比企谷はそんな話しないだろうし」

 

「どっちだろう…。口が堅いと信頼されているのか、それとも話す相手がいないと遠回しに馬鹿にされているのか…」

 

「さぁ。どっちでしょうねぇ」

 

くっ。ニヤニヤしてる。これ絶対後者だろ。

 

「それに……保険みたいなものなのかな」

 

「保険?何の?」

 

「それは……もし、なんかあったら助けて欲しいなっていう保険?」

 

「いや、首傾げられながら聞かれても、俺にはちっともわかんないですよ」

 

わかるのはただ一つ。首をかしげる優子先輩可愛い。絶対言わないけど。

 

「ほら、あんたならわかってると思うけど私たまに暴走するとこあるから。自覚してるのよ、一応ね」

 

「それは部員みんなわかってるんじゃないですかね…」

 

「む、うるさいな。とにかく、もしこれからみぞれのことで部内に揉め事があったときに私がまたそうなったらよろしくって」

 

「それ、俺が何とかして止まるんですか?」

 

「時と状況による」

 

「俺は未だかつて、その言い方で止まった人を見たことがない」

 

香織先輩と高坂の再オーディション。

実力で選ぶべきであると認めつつ、それでも香織先輩が吹くべくだと最後まではっきりと自己主張を続け、優子先輩は最後まで味方であり続けた。

その過程で高坂と喧嘩したことも、滝先生に詰め寄ったこともあったけれど、自らが守ると決めたものをしっかりと貫いて守るために突き進み続ける。

それが吉川優子だ。俺はそれを近くで見てきたからこそ知っている。

 

「部活辞めたのって、決して悪いことじゃないですよね?二つ上の先輩たちから無視されて、逃げるように辞めたのが悪いっていうのなら、その二つ上の先輩が辞めるまで残って耐えるのが正解だったのか。俺は逃げるのって悪いことだと思わないから、傘木先輩の選択は間違っていなかったと思うんです。

だから一応聞いておきますけど、確かに優子先輩の立場から鎧塚先輩の件を考えれば、傘木先輩の復帰は望ましいものではないかもしれないですけど、傘木先輩の立場からしてみれば部活の復帰を認められないのは酷い話だってことはわかってますよね?」

 

「…うん。それでもみぞれが辛そうにしてるのは見たくないから」

 

花火は終わり、頭上に残ったのは一面の黒。花火の後の夜空に輝くのはいくつかの星だけだ。歩いて帰る人込みを見て、それでもまだ俺たちは立ち上がらない。

俯いている優子先輩は心中複雑だ。

傘木先輩の事は嫌いじゃない。鎧塚先輩の事は好きだ。傘木先輩の部活に復帰したい気持ちも知っているし、理解できる。鎧塚先輩が傘木先輩を避けなくてはならなくなった背景も知っている。その上で鎧塚先輩の味方に付くことに決めた。

 

……こうして顔を下げている先輩を見ていると思い出す。二人で帰る放課後の風景や、再オーディションの前にベンチで座っていた姿。どうしても俺のやり方では優子先輩の願いを叶えることはできず、涙を流させた。

 

だから優子先輩に協力したいと思うのは、きっと自分自身が残した未練みたいなものなのだ。



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14

「さて、それでは今日の練習はここまでにしましょうか。お疲れ様です」

 

「「「ありがとうございました」」」

 

花火大会の翌日は昨日の浮かれた空気の余韻はなく、またいつも通りの練習に戻っていた。相変わらず滝先生は細々と指摘が多いし、部室は床と壁に敷かれた毛布のせいで熱いし、北宇治の他の部活よりも練習は早くから始まり遅くに終わる。

ただ、昨日はいつもなら帰宅して休んでいたはずなのに花火大会に行くために出かけて、その上に朝練にはいつも通りに来た。そんなの疲れたに決まっている。

だから今日は早く帰ろう。GHQ、GHQ。決して社会の授業で習ったことの確認ではない。Go Home Quicklyの略。

 

「あ、比企谷君。少しよろしいですか?」

 

教室を出ようとしたところで、個別に指導をしていた滝先生に呼び止められた。部長の小笠原先輩やパトリであれば呼ばれるところはよく見るが、逆にこうして個人が呼び止められることは滅多にない。それもあって集まる視線。この視線に『また何かやらかしたのか、こいつ…』という意味が込められている気がするのは自意識過剰だろうか。

だって、僕本当に何もしてないもん!だから小笠原先輩、そんな余計な仕事増やさないでと懇願するみたいな目で祈らないで!

 

「ま、まあ」

 

「指導なんですけれど、少し待っていてください。すぐに戻ります。それではこちらへ」

 

滝先生はそんな視線は気にせず、指導を止めて俺を廊下へと連れ出した。

 

「…すいません、俺なんかしましたかね?」

 

「ああ。呼び出したからといって、別に怒るわけではありません」

 

じゃあ一体何だというのだろう。誰もいない廊下を真っ直ぐと進んでいき、階段の踊り場に来たところで滝先生は立ち止った。

 

「音楽室で話しても良かったのですが、十五日の予定を聞くのに部員の前で聞いたら、逆にあらぬ誤解を生みそうだったので」

 

「は?十五日の予定って…確か十五日と十六日って部活休みでしたよね?」

 

「ええ。そうなのですが、どうしても吹奏楽部員に協力していただきたいことがありまして、それで比企谷君に声を掛けました」

 

「協力…?」

 

ニコニコといつも通り、爽のクリームソーダ味にも負けないくらいの爽やかな笑顔。相変わらず、その笑顔の奥の真意がくみ取れない。部長とかでなく、俺にこれを頼む意図をできるだけ考える。

まず第一に、俺が吹部ではマイノリティの男子であるということ。そして今年入学したばかりの一年であること。そして、さらに言うなれば断れない性格っぽい陰鬱な見た目。…いや、最後のは素直に認められない。

 

「なるほど。肉体労働をさせようってことですか」

 

「いえ、違います」

 

違うんかい。探偵ごっこは俺にはできないか。

だが何はともあれ面倒事は避けるに限る。俺が呼ばれた理由を聞く前に断ってしまうのがいい。ここは何か、言い訳を考えて断るべきだ。

……そうだ。ちょうど俺は使えるカードを持っている。

 

「まあ何にせよ、すみませんがその日は用事があります」

 

「そうですか。それは残念ですね」

 

「残念って別に遊びに誘ってるわけじゃないんですから。塚本君に十五日遊ぼうと誘われているので」

 

ナイス、塚本。声を掛けてくれていてありがとう。事実十五日に誘われていてるから嘘はついていない。後はここで滝先生の元を逃げ出した後に十五日の予定を行けないと返事をすればよい。

もしかしたら俺はにたりと、ほくそ笑んでしまっていたのかもしれない。嘘をつくことはなく、それでも上手い言い訳があったときというのは実に気持ちがいい。

だが滝先生の眼鏡が怪しく光った。あ、この眼鏡キランみたいなやつ知ってる。アニメとかでよく見るやつ。コナン君が事件解決の度に一回はやってるやつ。

 

「塚本君ですか?それでは塚本君にもご一緒に付き合っていただけないか聞いてみましょう」

 

「は、はい?」

 

「ですから、塚本君にも付き合っていただけないか聞いてみましょう」

 

し、しまった。自ら墓穴を掘ってしまった。

あまりに都合のいい理由が目の前にぶら下がっていたから塚本に誘われたことを出してしまったが、逆に塚本を引きずり込まれてしまったら断りにくくなってしまう。そんなこと少し考えればわかったのに。これは完全に俺の失策だ。

 

「あ、しまった。塚本じゃなくて、クラスメイトの山本に誘われてたんだったけなあ。あれ、鈴木だったっけ…」

 

「比企谷君」

 

名前を読んでにこりと微笑んだ後の無言の圧力は滝先生の専売特許。一体どこで笑顔に圧力を込める練習をしたんだろうか。普通に怖い。

俺は諦めて、一つ息を吐いた。素直に相手が塚本であることを伝える。

階段に少しだけ目立つ黒ずみのように、俺の心とスケジュールも黒く染まる。何もしなくて良くて、何でもできる。そんな理想と安寧の休日が一日は滝先生と塚本のお陰でなくなった。せめて十六日は死守しよう。

 

「わかりました」

 

「そんな嫌そうにしないで下さい。折角貴重な部活の休みの日に、疲れるようなことはさせません。多分、悪い話ではないですよ。何も一日ではなく、お昼ごろに少し宇治駅近くの喫茶店でお話を聞くだけです。お昼もご馳走しますよ」

 

「甘い蜜には毒があるっていうし」

 

「それを言うなら赤いバラには棘があるではなくてですか?」

 

そんな都合のいい話逆に怪しすぎるんだよなあ。

例えばなぜか誘われた中学二年生の時の女子会。甘い言葉に惑わされて行ってみたら、いたのは女子五人じゃなくて髪が真っ金のヤンキーが七人いたなんてこともあった。あの時は危なかった。瞬時に究極のボッチスキル、『映画とかでよく見るエキストラ感丸出しの歩行者』を使わなかったら、声かけられて金をむしり取られていたかもしれない。

 

「ちなみに話ってのは何ですか?」

 

「ええ。当日まで部員たちに伝えるつもりはないのですが、合宿で新しく橋本先生とは別に外部から講師をお呼びします」

 

「え、また?」

 

「はい。木管楽器のプロの方です。ですがその方に来ていただく代わりに、向こうに協力してほしいことがあると頼まれていて」

 

「木管のプロ…」

 

滝先生は金管の指導が得意なのだと思う。自身が以前、音楽学校に通っていたころに吹いていたのも金管だったとどこかで聞いた。

夏休みから指導をしてくれている橋本先生は打楽器。そして今度は木管のプロ。

 

「その方は今、入学希望者を増やすことを目的に音楽大学の紹介を大学側から頼まれていて、その紹介を有望な生徒たちに高校の生徒たちに向けて行っています。それを比企谷君と塚本君には聞いていただきたいのです。とはいえ、二人ともまだ高校生なのでパンフレットを見て、難しく考えずに将来への選択肢の一つだと思ってくれればそれで良いのですが」

 

それなら一年ではなくて進路の選択が近い三年の方がいいのではないかと思うが、まあ確かに悪い話ではないか。先生にはちょっと申し訳ないが昼飯も浮くし、この際どうせ潰れる休日のおまけであれば。

 

「わかりました。十五日の昼ですね」

 

「はい。良かった。比企谷君が引き受けてくれて。塚本君には十五日のことを伝えておいてもらってもよろしいですか?」

 

「わかりました」

 

「それではよろしくお願いしますね」

 

三日月を描く滝先生の目。それに対する俺の目はさぞ濁っていることだろう。

塚本は巻き添えという形ではあるが、別にいいだろう。俺だってあいつのせいで行かされるようなものだし。ちょっと違うけど。



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15

「あ。問題児の比企谷君」

 

「ちょっとー。呼び出されたからって怒られたって決めつけないで下さいよー」

 

「えー、絶対なんか怒られたんだと思っちゃった」

 

音楽室に入る扉の前で声をかけてきたのは香織先輩だ。その隣には小笠原先輩。くすくすと笑う香織先輩が楽しそうで何よりだが、小笠原先輩の方は本気で胸を撫でおろしている。二人の差が凄い。

滝先生はすでに指導の方に戻っていて、何人か並んでいる。指導を受けている生徒は真剣そのもので、並んでいる部員達もピストンを押したりと練習をしていた。やっぱり改めて昨日まで花火大会だったとは思えない。

 

「私は本当に不安だったよ。自分が呼ばれるよりも怖かった」

 

「あはは。晴香、いつも滝先生に呼ばれると怖そうな顔してるけど、確かにさっきまではコンクール前日と同じ顔してたもん」

 

「いやいや。俺、基本的には社会から逸脱した行動しないですから。もし、俺がおかしいような行動してたんなら、その時に間違ってるのは社会です。社会不適合なのは俺じゃなくて、社会が俺不適合なんです」

 

「それ、面白いね。社会不適合じゃなくて比企谷君不適合。…ふふ」

 

「嘘だよ。本当に問題ない人は急に部長に部員全員集めさせて、皆の前でわざと先輩の事悪く言ったりしないよ。それに香織、すっごい笑ってるけど今のそんなに面白くないよ」

 

ちくりと小笠原先輩の視線が刺さる。普段は穏やかな先輩らしからぬ目つき。コンクール前の一件以降、俺への当たりは厳しい。

 

「えー。面白いよ?ね、比企谷君?」

 

「ダメだよ。同じパートの後輩だからって甘やかしたら。一人で悩んでた私の弱い心につけ込んで、真っ直ぐな瞳で『先輩はいつも通り、皆を部室に集めるだけです』なんて言うから、頼りにしたらあの様だよ。本当に酷いことになったよ。詐欺師の手法だよ」

 

「いや、でも結果丸く収まったし」

 

「ぜんっぜん丸く収まってなかった!あの後、比企谷君と高坂さんを何とかしないと私たちの気が済まないからどうにかしてくれ、って皆に何回言われたと思ってるの!?それで私が何回『でも、二人ともすっごく練習頑張ってるんだよ』って言ったと思ってるの!?」

 

「あー。何かそっちの方は気にしてなくてすいませんでした」

 

「いいよ!確かに比企谷君のお陰で収まった部分もあったから!そこはありがとう!」

 

怒っている様子ではあるものの、感謝もされているし気を遣わせてたり、庇っていてもらったこともあったみたいだ。

 

「それで、比企谷君は何で滝先生に呼ばれてたの?怒られてはないって言ってたけど、まさかまた面倒事じゃないよね?」

 

「ま、まあ。面倒事…ではあるんですけど、先輩達には関係ない話です」

 

「え、何それ?」

 

「……ほら。やっぱり比企谷君は疫病神だよ。比企谷菌だよ……」

 

「ひ、ひでえ言いようだ…。いや本当に個人的な話で、部活自体には何の関係もない話でした」

 

それにしても、比企谷菌か…。昔のトラウマを的確に突いているはずなのに、小笠原先輩に言われるとしっくりくるのは何故だろう。以前も思ったが、俺は小笠原先輩に罵られるのが好きなのか?なんでー?

 

「あ、そう言えば俺も香織先輩にちょっと聞きたいことがあったんですよ」

 

「え、何々?」

 

「田中先輩の事で聞きたいことがあるんですけど」

 

「あすか?」

 

「はい。あの…」

 

いや、この質問を小笠原先輩の前でするべきではない。塚本がこないだ言っていたが、小笠原先輩や香織先輩は最近、傘木先輩が復帰したい旨を知っていて、その問題でどうしたものかと悩んでいるだろう。

だからここで俺が知っていて何か気にしている様子を見せるのは、またいらぬ心配というか、面倒をかけることになる。この人、明らかに俺が入部した時よりも顔疲れてる気がするもん。ここ数ヶ月で三年分くらいの苦労を背負ったみたいな顔してる。

 

「すいません。やっぱ、後でいいです」

 

「ダメだよ。少年。そういう思わせぶりなのはー!逆に気になっちゃうでしょーが!」

 

「え?」

 

「あ。あすか」

 

後ろを振り返ると、赤眼鏡をかけて知的な印象を受ける香織先輩とは違うベクトルの美女。手には銀色に輝くユーフォニアム。そこそこ大きな楽器だが、身長の高い田中先輩には不釣り合いという感じは一切しない。むしろぴったりで、この人にはこの楽器が一番なんじゃないかとさえ思える。

この人にはユーフォが似合う。そう思うのは俺の人生の中で二人目だ。

 

「はーい。比企谷君。ボンジュール。お元気ー?」

 

「はは…」

 

急なフランス語の挨拶に何と返事をしたらいいのかわからずに曖昧に笑うことしか出来ない。その反応に田中先輩は少し不満そうだ。

リア充とチャラ男は挨拶とか返事には外国語を使うもんなのか?よく週刊誌に撮られるイケメンアイドルも、よく世界の果てまで行ってオーケーオーケー言いまくってるし。ウェルカムウェルカムはいオーケー。

 

「もう。そこはオラー、でしょ?」

 

「いや何でスペイン語?」

 

「おー。流石。すぐにスペイン語って出てきたね!頭いい!」

 

「うわ!ちょっと何!?」

 

「あ!ちょっとあすか。比企谷君の頭撫でていいのは、同じトランペットの三年生だけなんだよ!」

 

「いやいやいや。そんなルールもないですから!」

 

急に頭をがしがしとされて、俺は咄嗟に離れた。もう。何なんだこの人は!勘違いじゃなければ、俺田中先輩とは楽器決めの時以来話したことなかったはずなんだけど。距離の詰め方がおかしくない?

 

「ごめんごめん香織」

 

「もう。やめてよね」

 

「いや、そこは俺に謝って欲しいんですけど…」

 

「二人とも、比企谷君が困ってるよ」

 

「それでそれで。私に聞きたい事って何かな、比企谷君?」

 

田中先輩が眼鏡をくいっと上げると、レンズ越しの瞳は狐の様に細められている。

駄目だ。この人のこういう物事を先に捉えている様な瞳に俺はどうも恐ろしさを覚える。ただ傘木先輩の復帰を拒むことについて聞くのなら、香織先輩経由よりも本人に直接聞く方がいいのは明白。ここは腹を括るしかないか。

 

「あの…」

 

「あ、ちょっとタイム。晴香の前でしたくない話なんでしょ?実は私も比企谷君とはちょーっとお話ししたいなって思ってたから、向こうで話そうか?」

 

「え、いや別に…」

 

「別にじゃないでしょう?だって香織に聞いて、それを途中で止めたってことは晴香に聞かれたくなかったことだからじゃないの?」

 

「比企谷君……」

 

小笠原先輩の空気がどんよりとし始めた。

 

「小笠原先輩、待って下さい。別に――」

 

「いいよいいよ。やっぱり私なんかじゃ部長として頼りないから、こうやって一年生も………」

 

「ああ。晴香が面倒臭いモードに入っちゃった」

 

「いやいや、小笠原先輩がこうなった原因、田中先輩ですよね?」

 

「うーん。二割私で八割比企谷君だよ」

 

「えー」

 

「って言うわけで香織。晴香のこと、お願いね」

 

「ちょっとあすか!」

 

行こうか比企谷君。そう言って歩き始めた田中先輩を見て、どうしようかと香織先輩と目を合わせる。

 

「もう。自分勝手だなあ」

 

少しだけ困った顔をしながらそれでも行ってあげて、と言う香織先輩。

嫌だよー。俺とあの人を二人きりにしないでよー。香織先輩も一緒に付いてきてよー。



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16

急いで追いついて田中先輩の少し後ろを付いていく。どうやら向かっている先は校舎裏みたいだ。

校舎裏というと、殴り合いの喧嘩や喝上げをイメージする人はきっと多いのだろう。しかし吹部の俺らからすると練習場所の一つというイメージの方が強く、当然そういったマンガやゲームのような出来事はお目に掛かったことはない。

 

「良かったよ。比企谷君が付いてきてくれて」

 

田中先輩は振り返らずに俺に言った。だから俺も、ほとんど同じくらいの身長の背中に言葉を返す。

 

「はあ」

 

「曖昧な返事だね。私が比企谷君と話したかったって言うのは本当だよ?」

 

そんなことを言われてもどうにも思い当たる節がないんだが。この人との接点が。

 

「さて、ここら辺でいいかな」

 

校舎の外に出た田中先輩は壁により掛かった。

ああ、そうだ。奇しくもここは再オーディションの日の放課後に、香織先輩と話をした場所。あの時はホール練の後で外は暗かったが、今はまだ陽は落ちていない。

 

「それで俺に話って何ですか?」

 

「うん?別に聞きたいこととかがある訳じゃないよ。言葉通りの意味でお話したかっただけでーす」

 

「そんな興味を持たれるような人間だとは思いませんけど。殺意はよく持たれますけど」

 

「あと恨みとか苦手意識とかもね」

 

「タイムスリップでもして俺の過去を見てきたように言いますね?」

 

「そんなことしなくたって、比企谷君の行動見ていれば分かるよー」

 

ニヤニヤと笑う仕草も、身長が高くスタイルのいい田中先輩がするとドラマのワンシーンのように様になっている。かっこいい。悔しいけど、多分吹部の男子部員の誰よりもかっこいいんじゃなかろうか。

事実、吹部で圧倒的に人気があるカップリングは田中先輩×香織先輩だ。吹部は女子が多い環境であるが男子はモテず、かっこいい女子に黄色い悲鳴が上がる。吹部あるあるというよりかは女子が多い環境あるあるなんだろうけど。宝塚のような厳しい環境下でもそういったかっこいい女子が大人気って事が多いらしいし。

そんな吹部だがうちの吹部も当然例外ではなく、田中先輩と香織先輩はよく一緒にいることが多い二人が触れ合ったりしているのを見て、『きたー!あすかおきたー!』と一部の女子が騒ぐ声が聞こえてくるものなのだ。

 

「私は評価してるよ。コンクール前に比企谷君が音楽室でやったこと。上手いことやったなって」

 

「……上手いことなんてやってないですよ。さっき知ったばかりですけど、小笠原先輩にも迷惑かけていたみたいですし」

 

「ううん。あそこで滝先生以外に矛先が向かなかったら、晴香はもっと迷惑被ってたんじゃない?少なくとも私はそう思うけど」

 

「それに香織先輩だって結果的にソロ吹けませんでしたし」

 

「ふふ。とぼけるねえ」

 

「……」

 

「それこそわかっててやったんでしょ?香織は別にソロが吹きたかったんじゃないんだよ。あの子が望まなくたってみんな香織の味方をするけど当の本人は同情だってされたくないし、ただ負けたっていう事実を納得したかっただけ。

香織はさ、大体のことは可愛いし優しいから誰かが解決してくれるけど、本当は面倒事が好きなんだよ。再オーディションだって、もし行われてなかったら誰かが高坂さんに突っかかって結局香織になってたかもしれない。それ以外にも香織をソロにするためのボイコットとか。ボイコットされてたら滝先生だって流石に香織をソロにしたんじゃない?」

 

「面倒事が好きって、そんなことないでしょ?理解に苦しみます」

 

「それは普通の人だからだよ。大体のことが上手くいかない人は面倒事ばかり降りかかるから面倒事を避けるけど、逆に大体のことが上手くいく人は達成が難しいこととかものを求める。経営者とかそうじゃない?それを達成して大物になるの。

まあそんなことは置いて、香織が面倒事が好きっていう理由はちゃんとあるよ」

 

「…何ですか?」

 

「面倒事を背負い込む晴香の傍にいてあげてたり、超面倒な後輩で問題児って言われてる君のことがお気に入りだったり」

 

「小笠原先輩の方はともかく、俺の方は納得いきません」

 

「むしろ逆でしょ?でも私も頭が切れる後輩は好きだよ?」

 

「それは自分が何でも上手く出来る人間って事ですか?」

 

「うん」

 

「ぐっ」

 

言い切った。何を当たり前のことをとでも言うように首を傾げている。

確かに普段の部を纏める姿やサンフェスのドラムメジャー、それに去年までの先輩の話を聞いていると確かに要領の良さ、頭の良さはピカイチで間違いないけれど。

 

「いやー、楽器選びの時にうちに取っておけばよかったよ。あと少しで低音に捕まえられてた気もするし」

 

「覚えてたんですね?」

 

「楽器選びのとき声かけたこと?それは覚えてるよ。あ、勿論あのとき言った濁った目が低音っぽいなって思ったのは本当」

 

「そのフォローは本当にいらないです」

 

「あはは。それにうちのユーフォの一年とも妙に合いそうだし」

 

「黄前でしたっけ?」

 

「うん。あの子、たまに比企谷君みたいに腐った目で達観してるときあるからなー。そのくせ普段は人畜無害って感じのくせに鋭いところもあるし。でも比企谷君が北宇治の吹部の中でうまく部員としてやっていけたのは、うちかトランペットくらいだったんじゃない?他だと、多分普通すぎてダメだったと思うんだよね」

 

「なんですか、その普通には合わないみたいなの。

 それに低音でも合わなかったですよ。多分トランペットだけじゃないですか?」

 

「うちは何と言ってもサファイア川島がいるよ?」

 

「……確かに低音も捨てがたい」

 

それこそ入部した頃は、どうしてトランペットパートに川島がいないのかと家で悶々としていた。考えないようにしていた入部して以来最大の後悔。川島と同じパートになりたかった!



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17

 「さて、それじゃ場が暖まってきたところでそろそろ比企谷君がしたかったって話を聞こうかな?何々ー?恋の相談かな?あ、比企谷君のことを思って言っとくと、香織はやめた方がいいよ。二人が良くても周りがね」

 

 「違います」

 

 「じゃあ晴香?晴香は無理だよ。比企谷君に苦手意識あるから」

 

 「恋愛についてじゃないんですって。俺が聞きたいのは傘木先輩についてです」

 

 「……へー。比企谷君、知ってたんだね」

 

 風がざわざわと吹いて、俺と田中先輩の間を吹き抜けていく。

 

 「まあ。傘木先輩と中川先輩が低音の教室で田中先輩に部活の復帰をさせてもらえないかって尋ねているところを偶然目撃して」

 

 「それでどうして私が入部を拒否するのかが知りたいと。多分知ったら後悔すると思うけどなー。言っとくけど、一回辞めたからとかで意地悪してるわけじゃないんだよ?」

 

 「いいえ。残念ですけど、それも違います」

 

 一瞬、田中先輩の目が驚いた様に見開かれた。だが、すぐにその瞳はくいっと細められる。

 

 「ふーん。やっぱり面白いよ、比企谷君」

 

 「そりゃどうも。理由を聞く必要はないです。何となくは分かっていますし。それよりも聞きたいのはこの状態は少なくとも今年のコンクールが終わるまでは停滞するのかってことです」

 

 そう。優子先輩の話を聞く限り、田中先輩が傘木先輩の復帰を認めないのは鎧塚先輩の問題を知ってのことだろう。だが、別にその理由が違くたって俺には関係ない。大切なのはこの現状についてのみである。

 

 「停滞、ね」

 

 「ええ。停滞です」

 

 「するよ」

 

 「信じますよ?」

 

 「うん。ただし!イレギュラーがなければだけどね?」

 

 「イレギュラー……」

 

 「それはそうと、ただ見たからって訳じゃなさそうだね。妙にこっちの事情を知ってそうなところをみると誰かに聞いたなー?いけないんだぞー。希美ちゃんのことは厳重に他言禁止にしてたんだから。うーん。香織ではないだろうから……優子ちゃんかな?」

 

 優子先輩は花火大会の日に俺が誰にも話さないから傘木先輩の話をすると言ったが、ごめんなさい。話をする前にばれました。

 ただ相手は事情を知っている田中先輩だ。だから仕方ない。セーフセーフ。

 

 「きっかけは本当にさっき言った通りなんですけど、たまたま傘木先輩と会って話す機会があったりして。最終的に優子先輩から聞くことにはなりましたけど、もし優子先輩が言わなくても最終的には誰かに探りを入れて聞き出していましたかね」

 

 「そうかなあ。君ならこういう面倒な話には自分から首突っ込まなかった気がするけど」

 

 「いいえ。本当にそう思うなら高く買いすぎですよ。人並みの好奇心くらいあります」

 

 「好奇心は猫も殺すって言うからね」

 

 「それなら逆に安心ですね。家の飼い猫は俺に似て、いっつも好奇心なんて示さないで寝てばかりですから」

 

 田中先輩はくつくつと笑って、壁から身体を離した。話はおしまいか。ああ。何だか酷く疲れた。

 

 「――それにしてもさ、優子ちゃんも狡いね?」

 

 「……え?」

 

 田中先輩の呟きは、まさに気を抜いた瞬間に放たれたものだった。あまりにも感情のない声に閉じていた瞳をはっと向ける。

 そこで俺はやっと気が付いた。ほとんど関わった事なんてない田中先輩のことがなぜ苦手なのか。

 

 この人を見ていると思い出すから。

 人当たりも良く明るくて綺麗な仮面。誰しもが憧れるそのマスクの下に潜む、どこか恐ろしい本性が。完璧に何もかもをこなしてしまう誰しもの理想で有り続けるところが。

 何よりも赤い眼鏡の下の瞳が。俺なんかよりもずっと遠いどこかを映しているからこそ。たくさんのことがわかっているからこそ。だからこそ、何もかもを察して、何か大切なものを諦めたようなその瞳が。

 田中先輩はきっと、あの人によく似ているんだろう。もう今は思い出の中にしかいない、あの人に。

 

 「だってさ、本当は比企谷君だって、ちょっとはわかってるんじゃない?優子ちゃんがみぞれちゃんを守ろうとしてる理由。ただの友達だからって訳じゃないよ。それに比企谷君が使えるってわかった上で、万が一の……おっと、残念だけど話はここまでかな?」

 

 「……すいません。お話中に」

 

 「本当だよ。せっかく後輩と楽しい話してたのにさ」

 

 田中先輩はまた、とすんと壁に寄りかかる。

 視線の先にいるのは傘木先輩と中川先輩の二人だった。中川先輩は眉を曲げて、俺に手を合わせて謝る。

 

 「比企谷も何か話してたみたいなのに、ごめんね」

 

 「いえ。ちょっとした話だったので」

 

 練習が終わるのを待って先輩に復帰を求める傘木先輩と、一緒にお願いをする中川先輩。今日が例外ということはなかった。遅くなりすぎると田中先輩が帰ってしまうと思ったためか、おそらく探し回っていたからだろう。二人とも少しだけ息が上がっている。

 とりあえず俺がいたら話をしにくいだろう。生憎、今来たばかりの二年生は俺が傘木先輩が部に復帰しようとしていることを知っていることを知らないし、田中先輩との話も一段落付いた。

 

 「あ、比企谷君。最後にもう一つだけ話させて」

 

 ちょいちょいと手を曲げて田中先輩に呼ばれて、近付くと田中先輩が顔を近づけてきた。

 うお。なんか良い臭い。香織先輩や優子先輩。どうして可愛い先輩ってみんないい臭いがするんだろう。俺も来年には身体からいい臭いするようになるの?今はまだナゾノクサだけど、来年にはキレイハナみたいな。進化ミスってラフレシアにならないことを祈る。

 

 「何ですか?」

 

 「いい?さっきも言った通り停滞するのはイレギュラーがなければだから。釘は刺したからね、頭のいい比企谷君?」

 

 「……善処します」

 

 田中先輩の方は見ないで答える。傘木先輩と中川先輩の方も見ない。ただ校舎の窓に映る真っ黒な木を何となく見つめた。

 

 「ふふ。君のその善処とやらには期待してるからね。それからもう一つ。本当は比企谷君はトランペットパートで良かったと思ってるよ?」

 

 「は?」

 

 「ストロングなメンバーをまとめておくれよー。特に優子ちゃんの手綱は離さないように。あの子はいい子だしカリスマ性があるけど、それ故に部活クラッシャーだからね。いや、むしろ比企谷君が掴まれているのかな?」

 

 「いやいやいや。俺そんなタイプじゃないですし。しかも手綱って…」

 

 「あの、あすか先輩」

 

 「はいはい。わかってるわかってる。そんな急かさないでよ。どれだけ言われても私は認めないんだからさー」

 

 田中先輩に向き合う傘木先輩を横目に校舎裏を立ち去る。

 

 「比企谷」

 

 「なんすか?」

 

 「今ここで見たこと、皆には言わないでね?」

 

 「はあ。わかりました。黙っときます」

 

 中川先輩は誰にも言わないようになんて言ったが、おそらく俺が誰かに言うことなんてなくたって二人の行動はある程度すぐに広まるはずだ。なぜなら今こうして少し歩いてまだ聞こえてくる傘木先輩の声は大きいし、普段話し合いとやらをしている低音パートの教室は目にも耳にも入る。現に俺と塚本だってそうだった。

 それでも知らない体を貫いて白々しく頷く。真剣な表情をしている中川先輩はすぐに傘木先輩の隣に向かっていって、その反対の方向に俺は歩き始めた。



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18

「ああ…俺の夏休みが…」

 

ぶつぶつと文句を言いながら身支度をしていく。特別持って行くものなんてないから、服を着替えて携帯と財布を持っていくだけ。それなのに、その行為さえも面倒くさいと思うのはきっと今日が夏休みだからだろう。貴重な二日のうちの一日目。どうして、二日は四十八時間しかないのだろうか。秋葉原とか栄とかで絶賛大活躍の48グループだって、四十八と言いつつ四十八人よりもっとたくさんいるのに。

今日の予定はと言うと、滝先生と新しく教えに来るという先生と駅で待ち合わせをした後に昼ご飯をご馳走になって、塚本とどこかに行こうということになっている。出発まではまだまだ時間がある。休日だからもっとゆっくり寝ていようと思ったのに早く起きてしまったのは、きっと最近朝練で毎日もっと早い時間に起きていたからだと思う。

リビングでソファに横になりながら、最近はこんな時間もめっきりなかったな、なんて思いながら適当にチャンネルを回して面白くもない番組をぽーっと眺ていると、とたとたと小さくもない足音と共にリビングの扉が力強く開かれた。

 

「ジャジャーン!」

 

「小町ちゃん。どうしたのかしら?」

 

「ジャジャジャジャーン!こっちを見てご覧なさい?」

 

「えー。めんどー」

 

視界が暗くなる。ブランケットをかけられたのだとすぐに気が付いた。

 

「はい。お兄ちゃん。取って良いよ?」

 

「ったく。何よ?」

 

目の前には白い水着に身を包む妹。うん知ってた。だって何日も前から今日友達とプールに行くって話してたもん。

 

「今年初水着であります!」

 

「去年と同じだろ?」

 

「そりゃ水着は変わんないけどさ。ほら小町の身体、大人になってなーい?」

 

「いやそれも去年と変わんないんだけど」

 

「むー。ひどい!小町的に、ポイント低すぎっ!」

 

だって本当に何も変わってないもん。お母さんに嘘を吐いたらダメだって、小さい頃から言われていたし素直に答えました。

ただ俺の返答を聞いた小町はぷりぷりと怒っている。

 

「去年と変わらずめっちゃ可愛い」

 

「今更フォローしたって遅いんだからね」

 

「いや本当にそう思ってるから。とにかく可愛いから知らない男に声かけられても、絶対に着いて行ったらダメだからな」

 

「そんなの分かってるよ」

 

とりあえず褒めてはみたものの、機嫌が良くなることはなかった。水着姿の妹は俺の前から移動してテーブルの椅子に腰掛ける。水着の妹と木製の椅子が絶妙にミスマッチ。『空』とか墨で書かれてる額縁が飾ってあるような畳の部屋で坊主の男が食べる、マンゴーソースとメープルシロップのたっぷりかかったふわふわのパンケーキくらいミスマッチ。

 

「そういうの良くないよ。女の子はとりあえずなんだって褒めて貰いたいもんなんだからね?優子さんとかにも、そんな態度取ってないよね?」

 

「は?優子先輩は関係ないだろ?」

 

「またまたー。仲良いでしょー?お兄ちゃん。こないだの花火大会、誰と行ったんだっけ?」

 

「……お前、どうして…」

 

「あー、ごめんごめん。間違えた。前日までは『俺、行かねえ。面倒くせえし、家で花火の音聞こえてくるし、外暑いし、人多いし。ほら、こんなに行かない理由がある』とか言ってたくせに」

 

「小町ちゃん。それもしかして俺の真似じゃないでしょうね?」

 

「当日小町が花火大会から帰って来たら家にいなくて、しばらく帰ってこなくて花火大会行ってたのって聞いたらすっとぼけてクラスメイトと行ってたとか言って、すぐに部屋に行っちゃったお兄ちゃん?」

 

「何で嘘だってばれた…?」

 

「そりゃ分かるよ。お兄ちゃん、クラスに友達いないじゃん」

 

「……」

 

ひどい。けど否定できない!

何で俺あの日そんなすぐに分かるようないい訳をしてしまったんだろう。小町の言う通り、すぐに部屋に行ってベッドで横になりながら花火大会のこと思い出してたら秒で寝てたってくらい疲れてたのもあるけれど、あの日の俺は優子先輩と花火大会行って、何となく浮ついていたのかもしれない。

 

「…それは確かに俺のミスだった。でもどうして小町が俺が誰と行ったのか知ってるんだ?」

 

「そりゃ、ちょくちょく連絡してるし」

 

「……まじかよ…」

 

「本当はあの日の朝、お兄ちゃん部活終わった後暇してるのかー、みたいなこと聞かれたから何となく分かってたけどね。そういうの、ちゃんと言ってもらわないと小町面白くないよー」

 

「お前を楽しませようと思って生きてるわけじゃないから。小町の為の道化師じゃねえから」

 

最近家か学校でしか過ごしていないことを考えると、小町と優子先輩が繋がっていると俺の生活赤裸々にばれちゃうんだけど。八幡、怖いー。

 

「最近、もしかして優子先輩と良い感じだったりするの!?きゃー!お兄ちゃんもやっと十年以上の冬を越えて、春が来てるのかなー!?小町、参っちゃう。こまちまいっちんぐだよー」

 

「何その頭悪そうなフレーズと、頭こつんってするポーズ。可愛いけど。八幡の小町への好感度、うなぎらいじんぐだけど」

 

「うなぎらいじんぐ?」

 

「やめろ。小町っぽくうなぎ上りの言い方変えてみたんだよ。こうやって解説するとスベったみたいになっちゃうから」

 

それからしばらく花火大会の日のことをひたすら聞かれ続ける苦行のような時間が続いたが、意外とすぐに小町の出発の時間になったようで慌てて部屋に荷物を取りに行った。

やれやれ。出かける前から疲れた。

 

「お兄ちゃん。それじゃ行ってくるね?」

 

「おう」

 

「あ。どうせプール行ったら着替えるんだし、この上にシャツ着て行っちゃおう」

 

「え?それは今を煌めくぴちぴち女子中学生としてお兄ちゃんどうかと思うんだけど…」

 

「そうかな?」

 

「えー。着替えんのめんどくさー。お兄ちゃんになんか見せなきゃ良かった」

 

「誰も着て欲しいなんて言ってないんですけど?」



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19

 「あっちいなあ」

 

 「本当だよなあ」

 

 さっきから、この生産性のない会話を何度繰り返しているだろう。

 のっぽと二人、集合場所の宇治駅で滝先生が来るのを待つ。首に汗をかく男二人。ただここにいるだけで汗をかくのなら、やっぱり家から出たくなんてなかった。

 

 「小町、プールいいなあ」

 

 ただでさえ人混みが嫌いな上に、プールでイチャイチャしてるカップルや、やたらウェイウェイ騒がしい大学生グループ、イキリ倒してる割にはどこか幼さが抜けきっていないからすげえかっこわるい中坊。そんな絶滅して欲しいような奴らに溢れてる夏のプールが、俺は大嫌いだ。

 隣の女の肩を組んで歩いている男とか、ほんと何?腕骨折してるの?じゃあプール来んなよ!

 だから家にいるときはプールに行きたいだなんて全く思わなかったが、さすがにこの太陽の下だと、俺の氷のように冷たくてカッチカチなその考えもこの暑さで溶けてしまった。

 

 「あー!小町って妹だっけ?プール行ってるの?」

 

 「おう」

 

 「夏休み、謳歌してるな。そういや、うちの吹部も休みだからってプール行ってる人多いらしいぞ」

 

 「じゃあ行かなくていいや」

 

 「なんで?誰かがいるならむしろ行きたくね?」

 

 「考えてみ。一人でいるときに顔見知り程度の集団に遭遇したときの、『あ、もしかして一人?』って聞かれるときの気まずさ。あれ、そろそろ名前を付けて広辞苑に載せるべきだと思うんだよな。あと派生のとこに、それを言いながらニヤニヤ笑ってるやつも名詞作って載せていい」

 

 「一人で行くのが前提なのかよ……」

 

 一人焼き肉、一人カラオケ。最近では一人キャンプなんてのも流行っていて、ぼっち遊びが世の中で囁かれているらしいのに、一人プールを聞いたことがないのはきっとまだパイオニアがいないからだ。誰かやってくれ。大丈夫。同じ水系統のサーフィンは一人でも普通だし!波に乗るのも、波の出るプールで流されるのも一緒でしょ。

 

 「今日プール行くからって張り切ってた久美子に聞いたんだけど、川島と加藤だけじゃなくて高坂も一緒に行くんだってさ」

 

「マジで?高坂プールとか行くんだな」

 

「俺も思った。なんか友達とプールって言うより、よく金持ちが使ってる一人でビーチの横になれるやつで寝てそう」

 

「ビーチチェアーな」

 

「それそれ。なんかテレビとかでよく見るけど、夏じゃなくてサマーって感じするよな?」

 

「同意求められてもよくわからんけど」

 

「俺さ、まだ入部したばっかりの時、滝先生の指導どうなんだろうって話してたら高坂にマジで怒られたことあるんだよな。『滝先生のこと悪く言ったら許さないから』って」

 

突然の塚本のカミングアウトに俺も思い出した。

 

「俺もこの間、ふざけて高坂に今日のソロ、滝先生がいつもと違うって気にしてたって言ったら本気にしちゃってさ。嘘だって言ったらめちゃくちゃ怒られたわ」

 

「そんなことがあったのか。高坂、怒ると尚怖いよな。元々怖いのに」

 

「わかる。……わかる」

 

大事なことだから二回言った。超納得。

それにしてもこうして考えると高坂は滝先生のことを神様だとでも思っているのではないだろうか。

 

「高坂だけじゃなくてさ、今日のプールは二、三年生も行く人多いってパートの先輩が言ってた」

 

「ふーん。……げっ」

 

「ん?どうした?」

 

「いや、優子先輩もしかして行ってるのかな?」

 

「さあ。知らないけど」

 

「小町と優子先輩が会ってなきゃ良いけど…」

 

「へえ。妹と優子先輩知り合いなんだ」

 

「たまたま会ったことがあって」

 

別に何が良くないということもないのだが、何となく嫌だ。あの二人が絡み出すと、俺にとって穏やかではないことが起こる。そんな言葉に出来ない謎の身の危険を感じるのだ。

しばらくお互いに適当に言葉を返しながら目の前の人混みを眺める。肌色を晒している中学生くらいの女子や、それとは対照的に黒のスーツに身を包み、必死にハンカチで汗を拭っているおじさん。飛んでいる鳥も、飛んでも暑すぎて疲れるからと、力なく飛んでは木の枝に戻ることを繰り返しているような気がする。

 

「なあ、聞こうと思ってたことがあるんだけどさ、比企谷って吉川先輩と良い感じなの?」

 

突拍子もない塚本の言葉に飲もうと手に取ったペットボトルを落としそうになった。

 

「あーなんか、宇治川の花火大会の日の朝にさ、吉川先輩から比企谷と花火大会一緒に行くのかーとか、今日誰かに誘われてたかーとかなんか色々聞かれたから」

 

思い返してみれば、音楽室で塚本が珍しく優子先輩に話し掛けられているのを見た。だが、今朝も小町に訳の分からないことを言われて今も塚本からこんなことを言われて。ここで勘違いをしてはいけない。俺は自分を強く制する。

俺のこれまでの経験上、男は皆、心の奥底でロマンチストである。意外と付き合うときや引いては結婚において現実的になる女性とは対称的に、恋愛に夢を見がち。もう少し二十歳を超えた男性諸君は、社会情勢とかITとかは置いといて、『えー。私ぃ少女漫画みたいにロマンチックな出会いしてみたいなぁ』とか『顔が良くてぇ筋肉質でぇ……消防士とか超憧れちゃーう』とか言ってた女が、『年収は?一千万ある?』と特別冴えている訳でもない男に真顔で聞いているところを見て、その強いリアリストたる考え方を勉強するべきであると思う。

それに、思えばきゅんとした出会いや、ふとした拍子に恋に落ちる漫画やドラマ。あれら女性が好きなシチュエーションをふんだんに盛り合わせた作品も八割方男性が手がけたものだ。

詰まるところ蜘蛛の糸のような寄る辺のない出会いに、夢とか理想とかを押しつけて『もしかして…あいつ、俺のこと…』なんて思うのはあくまで男だけであって、実際に当の女子達は『あいつ、本気にしちゃってんの。ウケるー』とか言われてるから。それでもう二度と痛い目を見ない。

 

「んなわけねえだろ」

 

「でもその後の練習でもさ、俺トロンボーンだから合奏練の席で後ろからトランペット見てると、妙に優子先輩が比企谷のこと気にしていたし」

 

「勘違いだっての」

 

「いや比企谷は高坂が間に挟まってるから気が付かないだけで」

 

「大体、そういうお前こそどうなんだよ?」

 

「え?」

 

「よく低音のくるくると話してるじゃんかよ」

 

「くるくるって…久美子のことだよな?」

 

「そうそう」

 

「生まれつきだけどあの髪のこと、結構気にしてるから本人の前では絶対言うなよ」

 

「久美子久美子って馴れ馴れしいし、俺なんかよりそっちの方が絶対なんかあんだろ」

 

「ちがっ!別に久美子は…ただの幼馴染だから!」

 

「はっ。どうだか。それにそういや加藤はどうなんだよ?」

 

「か、加藤?」

 

「県祭り、音楽室の前で何かよく分からんやり取りしてたみたいだったけど」

 

「加藤とは、特に、その…ただ県祭り一緒に行っただけというか……」

 

「ほとんどの男が憧れつつ、物心ついた頃にはもうどうしたって手に入らないものだから、結果的にそれをエロゲとかギャルゲに押しつけざるを得ない。そんな伝説の幼馴染がいるってのに同じ部活の女子誑かしてるとか、お前本当なんで生きてんの?死ねよ?」

 

「ふざけてならまだしも、こんなに本気で死ねって言われたの初めてなんだけど…。そういうお前は結局花火大会、誰と行ったんだよ?」

 

「……クラスメイト」

 

「絶対嘘だな!」

 

「しまった…。この間の小町の時と同じ失態を…!」

 

「ほら本当の事言ってみろって」

 

「すみません二人とも。お待たせしました。おや、何だか楽しそうですね?」

 

滝先生に声をかけられて、慌てて挨拶をする。それと同時に俺も塚本も言葉を失った。

滝先生はどうしましたか、と首を傾げているが別に滝先生はいつもとほとんど変わらない。悪魔が潜んでいるのを隠し通すためのニコニコとした表情。ほとんどと言ったのは、着ている服が私服と言う点だ。

明るいブルーのジーパンに真っ白なシャツ。夏らしいその格好は、普段よりも固い印象を受けず、顔つきのシャープさもあってまだ社会人二年目で押し通せそうだ。

でも、そんなことはどうでもいい。それよりも滝先生の左。

 

「初めまして。今度、北宇治高校吹奏楽部の指導をさせてもらうことになっている新山聡美です」

 

隣には温和な印象を受けるめちゃくちゃ美人が立っていた。



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20

「二人とも好きなものを頼んで下さいね?」

 

「は、はい」

 

クラシックな雰囲気のオシャレなカフェで四人掛けの席に腰掛ける。メニューに書かれているのはカタカナばかり。パスタは訳がわからない呪文が並べられていて、馴染みがあるのはカルボナーラとペペロンチーノくらいのものである。

こういう店、最近の女子達はスマホで投稿したがるんだろうな。インスタ映えとかいって。何のために飾られてるのか分からない蛙の置物とか、レトロな雰囲気も相まって普通なら間抜けに見えるはずなのに超オシャレだし。その横に飾るように置かれてる絵本とか、そんな置き方してたら子どもも手に取れないだろって思うけど、夢のような空間の演出に一役買っている気がしてくるから不思議。

目の前に座る美男美女の二人はもうメニューを決めたのか、俺たちを見て微笑んでいた。それがどうにも落ち着かず、すでに席について店員さんが持ってきた水は半分くらいなくなっている。塚本も何とも居づらそうにそわそわとしていた。

 

「二人ともやっぱり外は暑かったですよね?」

 

「いえ、俺たちもそんなに長くいたわけじゃないので」

 

「偉いわね。待たせちゃったのに、そう言ってくれて」

 

ふふ、と頬を綻ばせる新山先生はやっぱりどれだけ見ても優しげな印象を受ける。可愛らしく淑やかな容姿の美人だ。

緩くウェーブがかかったブラウンのロングヘアーと、清潔感のあるメイク。CM出演をした暁には、きっとキラキラキラという音を入れて爽やかな青空の下で微笑んでいそうだ。洗剤とか水の飲料とかの宣伝に合いそう。

もし全国のインスタグラマーがこのカフェをインスタに投稿するときは、是非この二人も並べて載せた方が良い。多分ハートの数が倍以上になると思う。その後自撮りしたらあまりのルックスの差にどこで間違えたんだろうか、と死にたくなりそうだけど。

 

「滝先生達も時間に遅れたわけではないですし、本当に俺たちそんな早くに着いてたわけじゃないですから」

 

「わかりました。そろそろ二人とも何を頼むか決まりましたか?」

 

「はい」

 

「それでは店員さんを呼びましょうか。すみません」

 

こういう店は店員の態度も落ち着いている。大きくはない声で控えめに手を上げた滝先生に気が付くと、一礼をしてポケットから伝票をすっと取り出しながら近付いてくる。かっけえ。俺も部活引退したら、カフェでアルバイトしてこれやりたい。

 

「ご注文をどうぞ」

 

「はい。私はペスカトーレのセットで。ドリンクはアイスコーヒーでお願いします」

 

「はい。かしこまりました」

 

ペスカトーレ。……名前がかっこいいけどいまいちなんなのかよくわからん。ペスカを取るの?ペスカ?

そんなことを考えていると、滝先生がどうぞと言って俺に促した。

 

「えっと、ランチセットのハンバーグでお願いします」

 

「あ、すいません。俺も同じので」

 

滝先生のペスカトーレを前にハンバーグを頼む俺と塚本。これが大人との差なのかと思うと、頼みながら肩を落とす。

 

「ドリンクは?」

 

「コーラ一つ」

 

「俺はメロン……アイスコーヒーお願いします」

 

あ、こいつ今絶対強がった。今絶対メロンソーダ頼もうとしたもん。なぜここで俺と差をつけようとするんだ。この裏切り者ッ!

 

「私は――」

 

新山先生も滝先生みたいによくわからないパスタとかくるくるオシャレに巻いて食べそうだな。すっごいしっくりくるもん。

 

「こだわり卵とたっぷり苺のフレンチトーストでお願いします。あと、トッピングでアイスもつけて下さい」

 

何だろう。年上の人に思う感情じゃないかも知れないけど…。

塚本と目が合う。多分、考えていることはきっと同じだ。

 

可愛い。

 

 

 

 

 

「へえ。じゃあ滝先生と新山先生は音大の時に知り合ったんですね」

 

「うん。そうなの。滝先輩、久しぶりに会ったら昔とちっとも変わってなくてビックリしちゃった」

 

「新山さん。恥ずかしいので、あまり昔の話をしないで下さい。あと、呼び方が以前に戻っていますよ?」

 

「あら。ごめんなさい。今は滝先生でしたね」

 

初めは緊張していた俺たちだったが、新山先生は優しくてわかりやすく話題を振ってくれた。そのお陰もあって、こうして話すことができている。

香織先輩然り、新山先生然り。美人でありつつ優しい。この人達の前では心が洗い流されて、俺の腐った目でさえも浄化していく気がする。

 

「あの、俺気になってることあるんですけど。滝先生も新山先生も凄く仲良いじゃないですか?もしかして昔…」

 

「ううん。塚本君が言ってるようなことはなーんにもなかったわ」

 

「あ、そうなんですか」

 

塚本。がっかりしつつも心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。

 

「塚本君。言っておきますけど、新山先生は既婚者ですよ」

 

「そ、そうなんですね!」

 

そりゃ新山先生みたいな美人、ほっとかれねえよな。ちくしょう!

ふと思ったのだが、そう言えば滝先生って結婚してるのかな?滝先生は常日頃から指輪とかしてないし、こういう事って何となく個人的なことだから聞きにくいんだよな。

 

「それよりも私は二人のそういう話の方が気になるわ。高校生でしかも吹部で男女揃ってるんだから、やっぱり二人ともそういう話はあるでしょう?」

 

「いや…」

 

「俺たちは特に…」

 

「それは私も気になります」

 

意外だ。滝先生はこういう話には興味がないとばかり思っていた。

そう思っていたことが俺の顔に出ていたからか、滝先生が補足を加えた。

 

「私だって普段から皆さんの事を指導していますが、何も音楽のことだけを考えて生きている訳ではありませんよ。特に先ほど、外で二人が待っているときに面白そうな話がちらっと聞こえてきたとあっては尚更です」

 

あのやり取り、聞いていたのか。一体どこから聞いていたのだろう…。

滝先生の隣で新山先生が口元に手を当てながら微笑んだ。なんだろう。大人達の掌の上で、上手く話を誘導された気がする。気になった滝先生の結婚の事とか、新山先生の結婚相手の事とか聞けなかったし。なんか悔しい。

 

「…盗み聞きは良くないですよ?」

 

「比企谷君。あれは盗み聞きとは言いません。白昼堂々と聞こえるような声で話していた二人が悪いんですよ」

 

「くっ。仕方ない。ここは塚本の加藤の話で切り抜けるしかないか…」

 

「おいおいおい!おま!何、人のこと売ろうとしてるんだ!?」

 

「加藤さん。なるほど……」

 

「滝先生もなるほどじゃないですから!こういう比企谷だって、最近吉川先輩となんか色々あるらしいんですよ!本人、隠してるみたいですけど放課後よく二人で帰ってるって噂もあります!」

 

「な、なんで!酷いぞ、塚本!」

 

「言っとくけどお前が先だからな。情報を売ったの」

 

「吉川さんですか。それは意外ですけど、同じトランペットパートですしね。そういうこともあるのでしょう」

 

「やっぱり比企谷君も塚本君も色々あるのね。楽しそうで、何だか羨ましい」



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21

「おや。すみません。電話がかかってきました。少し外します」

 

滝先生と新山先生の追求を二人で免れてしばらくして、滝先生が席を立った。カフェの入り口のガラスからは携帯を耳に当てる滝先生の姿が見える。

 

「比企谷君、問題なく部活で過ごせているのね。あ、勿論塚本君もね?」

 

「は、はあ?」

 

新山先生の唐突な言葉に首を傾げる。今日初対面の俺にかける心配なんてないはずなのだが。同じように塚本も訝しげな顔をしているが、そんな俺たちを余所に新山先生は変わらずにこりと笑っていた。

 

「これなら私が今日来た意味も、比企谷君の事呼んだ意味もあんまりなかったかしら?塚本君もとってもいい子だしね」

 

「あの、どういうことなんですか?」

 

「滝先生に言われていたの。きっともう指導をしている橋本先生も同じ事を言われたと思うんだけど、音楽の指導は勿論、できれば生徒達の話を聞いたり相談に乗ってあげたりして欲しいって」

 

「え?」

 

塚本は目を見開いて驚いた。確かにイケメン悪魔だとかイケメン鬼畜だとか言われて、演奏においてはかなりスパルタ指導だが、それ故に音楽面意外の指導は松本先生が請け負って滝先生はほとんど気にしていないのではないか。そう思う部員も多かったと思う。

俺はたまたま以前、滝先生に職員室に呼ばれ話をしてまだ顧問としての経験があまりなく、どう接してたらいいのか距離感を測りあぐねていたり、どこまで手を出したら良いのかわからないと悩み、気にしていることを知っていた。

 

「ほら。滝先生、音楽の指導は凄腕で的確だけど、人間関係とかの方はハッキリなんでも言っちゃう人だから難しい部分もたくさんあるでしょう?そのことをね、本人も意外と気にしているのよ。やっぱり歳の離れた生徒達は難しい、どうしても上手くいかないってね。わかるかしら」

 

「そ、それは…」

 

「はは。正直そうですね」

 

「塚本君は素直ね。いいのよ。滝先生には内緒にしておくから」

 

「でも部員達から信頼されていますけどね。現に今年は関西に行けたわけですし」

 

「そう。それは良かった」

 

口元に人差し指を当てて内緒話を続けた。

 

「あまり詳しくは聞いてないけど、比企谷君の事を本当に気にしていたわ。もしかしたら自分が指導者として至らなかったことも原因で、これからうまく部活をやっていけなかったら、ってね」

 

「……」

 

思い当たる節はやはり、再オーディションの時のこと。別にそんなこと気にしなくてもいいのに。先生は音楽の指導に集中するべきである。本当にそう思う。

だが、思い返してみて背筋がひやっとした。

もし、香織先輩が俺を許してくれなかったら。もし、川島や塚本、加藤が俺を信じてくれていなかったら。もし優子先輩が俺を理解してくれていなければ。

吹ければそれでいいと思っていただけの頃は、府大会を通じて変わった。コンクールに出場して結果も残したいと。けれど、今の自分はもはやそれだけでもないのかもしれない。

それは少しだけ、いやかなり怖かった。

 

「気にしてたって、府大会前のソロのことですよね?比企谷含めてトランペットは色々大変そうでしたけど、滝先生は本当にあまり気にしていないと思ってました…」

 

「さっきも言ったけど、だからこそ私たちが呼ばれたって面もあったのよ。直接何かすることが出来るかは置いておいて、話だけは比企谷君に聞いてみたいと思っていたわ。結構難しい子って聞いてたしね。でも全然問題なさそうで安心した」

 

「む、難しい子……?」

 

「それは否定できない……」

 

「頭が切れるって褒めていたけどね」

 

「あぶねえ。滝先生のこと嫌いになるところでした」

 

「ふふっ。人のこと言えないわよね、滝先生。私も音大時代は色々あって滝先生のこと認めていなかったんだから。言ったらダメよ?」

 

「そ、そうなんですか。なんか、今の二人のことを見てるとそうは思えないです」

 

「本当はどこかで認めていたのかもしれないけれどね。でも今は違うわ。滝先生が音楽に触れていて、それも顧問として生徒達の指導をしていることが堪らなく嬉しいの」

 

俺たちは滝先生のことを知らなすぎる。あまり自分のことを話したがらないというのもあるのだろうし、そんなことよりも自分たちの演奏のことで精一杯ということもあるのだろうけど。

 

「音楽に真摯だからこそ難しい人だとは思うけど、滝先生のことどうかよろしくね」

 

だからこそ何と答えたら良いのか分からなくて、塚本も俺も頷くことしかできなかった。

 

「すいません。お待たせしました」

 

戻ってきた滝先生は外が暑かったからだろう。額に汗をかいていた。

 

「いえいえ。もっとゆっくりで良かったのに」

 

「別に急いだつもりはありません。何の話をしていたのですか?」

 

「音大の紹介をしていました」

 

おお。新山先生、さらっと嘘ついたな。

今日は元々音大の紹介を受けるということで来ていたのだが、全く音大の紹介をされずに終わってしまっても良いのだろうか。だが、滝先生は新山先生が指導してくれるお礼に音大の紹介を部員にするのが条件と言っていたが、さっきの新山先生の話を聞く限り純粋に滝先生に協力したいと思っていて、音大の紹介は適当な理由だったのかもしれない。

 

「そういう訳で二人とも。もし木管で、この子すっごい上手って思った部員がいたら紹介して欲しいの。勿論私も、明後日からの合宿に行くからその時に話したいし」

 

新山先生のウインクの意味は、滝先生にそれとなく音大の話をしていたことを匂わせようというサインだ。新山先生の話題に合わせて俺は口を開いた。

 

「わかりました。俺なんかより、先生の耳が一番信用できるとは思いますけど、最近朝練に行ったときに練習を聞いて凄いなって思うのはやっぱり鎧塚先輩ですね」

 

「ああ。あの静かな先輩か。確かに上手いよな」

 

「鎧塚さん、ね」

 

「私は顧問なのであまりそう言った話はできませんが、確かに鎧塚さんの技術は強豪校にも劣らないと思います」

 

あ、そうだ。鎧塚先輩の話をして、この間の田中先輩との放課後を思い出す。

後で滝先生に聞くべき事があったんだった。



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22

 「さて。私達はこの後別の方とお会いすることになっているので、そろそろお店の方は出ましょうか」

 

 滝先生の言葉に新山先生が頷いて、鞄の中から財布を取り出した。だがすぐに滝先生が掌を見せてそれを制した。

 

 「すいません。お店出る前に俺トイレ行ってきていいですか?」

 

 待たせると悪いからと塚本は急いでトイレに向かって行った。

 聞くには、中々良いタイミングかもしれない。

 

 「滝先生。一つ部活のことで聞きたいことがあるんですけどいいですか?」

 

 「はい?何でしょう?」

 

 「滝先生は今の二年生の大半が、今はいない卒業した先輩達と折り合いが付かなくてやめていった話って知っていますよね?」

 

 「はい。その件に関しては小笠原さんから耳にしました」

 

 「辞めていった生徒は南中というこの辺りの中学では吹部のレベルが高い学校だったらしいんですけど、もし去年辞めた部員がまた部に復帰したいと願い出たら、先生は許可しますか?」

 

 滝先生は心底わからないという顔をした。

 

 「ええ。吹奏楽をやりたいという意思があるのなら、私は演奏の技術の有無に関わらず、部への復帰は認めます。勿論、今からAのメンバーとしてではなく、Bのメンバーと一緒にコンクールに向けてのサポートをする形にはなりますが。部員が増えるというのなら歓迎です」

 

 「そうですよね」

 

 これはきっと顧問として正しい選択をしている。

 部活動とは教育課程外の活動で入部するかどうかは個人の自由。過去の事情や経緯がどうであれ、途中入部を認めないことは生徒の自由の否定であり、教育的な配慮に欠けてると捉えることさえ出来る。

 

 『いい?さっきも言った通り停滞するのはイレギュラーがなければだから』

 

 田中先輩の言葉を思い出す。……やはり、俺がどうにかするべきはきっとここなのだろう。

 

 「そうかしら?」

 

 だが、意外にも滝先生に反論したのは新山先生だった。

 

 「私なら様子、というか部員の反応を見ますね」

 

 「ですが一度辞めた部に戻ってきて頂ける程の意欲があるのなら、来年のコンクールまではまだ技術を磨く時間もあります。今年は去年とは部の雰囲気も違うと多くの部員が言っていますし、去年までは馴染めなかった中学の時に強豪校にいた生徒が今の部の空気に馴染めるのなら何も問題はないと思います」

 

 「勿論、来年のコンクールの戦力という点では強豪校の出身というのは強いと思います。今の北宇治は全国を目指しているわけですから、新入部員が今の部員よりも上手くて来年のコンクールのメンバーに選ばれたとしても何もおかしくはありません。でもより良い演奏にする上で、確かに本人の熱意とそれに伴う個の力は欠かすことの出来ないものだけど、それ以上に大切なものがあります」

 

 「何ですか?それは?」

 

 「今いるメンバーのクオリティが落ちないことです。特に今は関西大会を控えている訳ですし。去年辞めていった部員達が本当に今はいない上級生に我慢できず辞めていったとして、他に辞める原因となった理由はなかったのか。もしくはその入部しようとしている生徒に、部員へ影響を及ぼすような何らかの落ち度はないのか。今はとにかく慎重に入部の許可を出すべきだと思うの」

 

 鋭い。女性ならではの勘なのか。はたまた吹部としてやってきた経験からなのか。

 まだ北宇治へ来てもいないのに滝先生も知らない現状を言い当てて見せた。そのことに素直に感心してしまう。

 

 「吹きたいのに吹けないというのは可哀想です。今の吹奏楽部員のことが一番大切だと言うことは分かりますが」

 

 「ええ。それはわかります。入部を認めずに、後々保護者問題にまで発展したら目も当てられないし。だからせめて入部を認めるのはコンクール後にしてもいいんじゃないかしら?

 でも、比企谷君がどうして今滝先生にそんなことを聞いたのかはよく分からないし、私はまだ北宇治の吹奏楽部を見ていない上に、入部を希望している生徒のことも当然知らない。だからこんなことを言う資格はないのかもしれないけど……」

 

 「全然構いません。続けて欲しいです」

 

 「そう。じゃあ言うわね。私は顧問としては入部を遅らせるべきだと思うけれど、一人の吹奏楽に携わってきた時間が長い先輩として言うのなら、そういう辞めていった部員達とのしこりの解消や拗れちゃった人間関係の解決、それに新しい出会いは奏者として色んな意味で一番成長をさせると思うの。プロからの技術的な指導とか、何時間も重ねる努力だって当たり前のように大切だけど、名曲が作られてきた背景に熱い感情とか考えられないような人生の試練、出会いと別れがあるのときっと同じ。

 もし部に復帰したい子がいて、それが理由で何かを耐えられない部員がいるのなら、その部員のためにも向き合うことを考えて見るべきかなって」

 

 「……俺にはよくわからないです。向き合わなくたって逃げれば、大体のことは時間が解決してくれる」

 

 「そうね。私も比企谷君くらいの時にはそんなこと、全然分からなかったわ。今だからこそ思える事なのよね。でもきっと高校生の皆が思っている以上に向き合うために一歩踏み出すっていう行為は大切だと思う」

 

 新山先輩は意味ありげに滝先生に微笑んだ。その視線に向き合うことなく、滝先生は少し視線を落とす。

 

 「私は……まだ分かりません。今がきっとその途中です」

 

 「……そう」

 

 優子先輩は鎧塚先輩が拒絶反応を起こすからと、傘木先輩の復帰を認める訳にはいかないという。優子先輩だけではなく、それは田中先輩を含めた三年生の部長や事情を知る部員達の総意でもあるはずだ。なぜなら田中先輩は宣言した。停滞すると。

 停滞とは強く田中先輩に復帰の許可を求める傘木先輩に、田中先輩がNoを出し続けている状態を指す。だがこの状態は新山先生の言う、向き合うことから逃げていることに違いないのかもしれない。周りが鎧塚先輩を守らなくてはと勝手に決めて、鎧塚先輩と傘木先輩の接触を避けている。まだ二人が出会えばどうなるのかなんて、誰もわからないはずなのに。

 

 「…いや、これは俺らしくない」

 

 良い言い方をすればリスク管理。悪く言えばネガティブシンキング。けれど、それでいいのだ。ネガティブとはつまり、最悪な状態にならないための防衛本能。

 新山先生の言う通りに結果として鎧塚先輩が傘木先輩に会っても特に何もなく終わる。さらに言えば、傘木先輩の復帰に関して去年辞めたのにという理由で誰も折りが悪くならない。それが理想である。

 一番まずいのは田中先輩達が想定している構図と変わらない。鎧塚先輩が傘木先輩を拒絶し、吹けなくなる、もしくは吹かなくなることに違いない。リスクがある以上、何もしない方が良いはずだ。

 

 「すいません。お待たせしました」

 

 塚本がトイレから帰ってきて、俺たちはレストランを出るために席を立つ。

 ああ。またこのくそ暑い中に戻らなくてはいけないのか。外に出てもいないのに、もやもやとした感情が胸の中で渦巻いている。少しだけ残っているコップの水を飲んでから、俺は三人の後ろを付いて店を出た。



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だからこそ、吉川優子は特別になりたい。
1


足りない。足りなーい。お盆休み、二ヶ月足りないー。

なんて言いつつ、ここはすでに合宿場に向かうバスの中。塚本と遊んだ翌日。たった一日しかない休日では休みが圧倒的に足りない俺は、せめて最後の休みを満喫しなくてはと、バスの中で読みかけの小説に手をかけていたが、もうバスは到着するらしい。俺の夏休み、終わっちゃった。

宇治と比べると自然豊かで和かなこの土地で、二泊三日の合宿が行われる。小町からは『お土産はお菓子はいらないから。観光地のお土産って普通のお菓子なのにボッタクリ価格だからダメ!あとキーホルダーもどうせいらなくなって捨てちゃうし、うーん…漬け物とか?』と何とも女子中学生には思えないおねだりをされたが、そもそもお土産を買う暇はあるのだろうか。

 

「バスを降りたら誰の荷物でも良いからとりあえず運んで下さい。運ぶ場所は合宿係の指示に従ってね」

 

はい、といつもの返事はなかった。北宇治高校を出発するとき二台にわかれることになったが、このバスは一年生しか乗っていない。三年と二年、それに松本先生はもう一方のバスのためどこか気が楽で良い。

 

「次に楽器を運びますので、荷物を置いたらすぐにまたバスに戻ってきて下さい。男子は重たいの運んで下さい」

 

目線は変わらず小説に向けたままだが、話を聞いていないわけではない。もはや吹部男子と言えば荷物運び。荷物運びと言えば男子。今更それに異を唱える奴はいない。そんなことをすれば、社会的制裁ならぬ、吹部的制裁が待ったなし。是非もないヨネ!

 

 

 

 

いつもよりも数倍広い部屋で席に着く俺たち。並べられた椅子も、当然隣との間隔があって居心地が悪い。

合宿に来るまでは制服だったが、一度各部屋に荷物を置いた後は各々の吹きやすい格好に着替えた。体操着が六割程で、それ以外は持ってきたシャツや文化祭かクラス単位で行われる球技大会のシャツを着ている。

文化祭も球技大会も体育祭も北宇治高校の一大イベントで盛り上がると言うが、どれも非常に楽しみだ。誰もが自分のことやチームのことで必死に楽しもうとする中で、俺は一人誰もいない教室でダラダラとしていられる。万が一先生が教室に見回りが来ても、適当に体調が悪いとか言っておけばいい。

トランペットをいじりながら、ぼーっとそんなことを考えていると、ラフなシャツに身を包んだ滝先生が指揮台に上がった。広い空間に滝先生の澄んだ声は良く響く。

 

「さて。まず練習を始める前に皆さんに紹介したい人がいます。どうぞ」

 

扉が開いた。誰が入ってくるか知っている俺も、周りに流されて扉に注目する。

 

「「「うわあ」」」

 

皆が感心したような声を上げるのも分かる。

俺たちが履いたら大人っぽ過ぎるようなベージュの靴を履きこなし、同じ色のカーディガンは夏らしく彼女の周りだけは涼やかに見える。

気持ち、この間よりも気合いを入れて化粧をしている気がするが、それがさらにこの間よりも大人な女性であることを俺たちに知らしめているようだ。スタイルも良くて、顔も良い。全てで負けた気分になるが、それでも良い。このレベルになら人生単位で負けても仕方ないで許されそう。

 

「今日から、木管楽器を指導して下さる新山聡美先生です」

 

「新山聡美と言います。よろしく」

 

頭を下げて、にこりと笑ったその一連の仕草を見て、部員達は口々に思ったことを言い出す。

 

「木管…!」

「やった!」

「超美人じゃん…」

「流石、滝先生」

「え?そうなの?」

「おっふ」

 

さり気なく周囲の声に混ざって、一人ハートを射貫かれたやつがいるぞ。気持ちは分からなくもないけど、男子は少し興奮で顔が赤くなっている。

そんな中新山先生は俺たち部員をゆっくりと見回していた。目が合って、少しだけ目が細められる。あかん。可愛い。既婚者だけど、それがいいのだ。

 

「午後は木管は第二ホール。パーカッションと金管はこちらで練習します。新山先生は若いですが優秀です。指示にはきちんと従うように」

 

「もう。優秀だなんて。褒めても何も出ませんよ?」

 

「いえいえ。本当の事を言っているだけです」

 

「あら。滝先生にそう言って頂けると、嬉しいです」

 

「なになに!?」

「マジなやつ?これマジなやつ?」

「ちっ」

 

おい、今誰か舌打ちしただろ。周囲の様子は二人の関係が何なのかと、興味でいっぱいのようだ。

後ろにいる首からタオルを下げた塚本をちらりと見ると、目が合って気恥ずかしそうに笑った。こうやって周りの反応を見ていると、俺と塚本もついこの間二人と最初にあったときはこんな感じだったのかと何となく恥ずかしくなってくる。

 

「うわっ!」

 

優子先輩が声を上げた。何かと視線を慌てて移す。

 

「うおっ」

 

そこには死んだ魚のような目をしている高坂がいた。

 

「お、おーい」

 

「……」

 

「高坂。高坂ー?」

 

「……」

 

優子先輩と俺で何とか意識を戻そうとするも、完全にシャットダウンしている。

 

「高坂ー。目が比企谷みたいになってるわよー?」

 

「遠回しに俺の目が死んでるって言ってません?」

 

「うん」

 

「素直に言えば何でも許されるって訳じゃないですからね?」

 

「……」

 

くだらないやり取りにも一切反応せず、ただぽーっと滝先生と新山先生が見つめ合っているのを見ている。一体、どうしてしまったのん?

 

「さて、それじゃあ練習を始めましょうか?新山先生。始めに一言ありますか?」

 

「はい。皆さん。二泊三日という限られた時間の中で、それぞれが何かを掴んで終えることを心懸けましょうね。頑張ろう」

 

「「「はい!」」」

 

普段は女子にかき消されるはずの男子のむさ苦しい返事が、大きく教室に響き渡る。それを聞いて、しらっとした目でみてくる女子の視線は痛かった。



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2

「わー。みどり、カレー大好きー!」

 

わー。八幡も、川島大好きー!

心の中で隣に陣取っている低音メンバーの中に混じる川島に反応する。合宿中の飯は、各パートで食べることが義務づけられていた。何でも親睦を深めるためだとかでパトリ会議で決まったのだとか。

しかし、それを決めたはずのパトリは食事を一緒にとることはなく、今もトランペットパートの集まる輪の中には香織先輩の姿はない。この時間を使って今日の練習の反省と明日以降の練習の確認を行うそうだ。お勤めご苦労様です。

 

「初日から練習ハードだったねえ」

 

香織先輩がいないとき、トランペットパートのまとめ役はもう一人の三年生である笠野先輩になる。部長と副部長と仲が良いこともあり、練習の打ち合わせなどでパート練習に遅れてくることも少なくない香織先輩だが、そんな時はそつなく笠野先輩が練習を先導して行ってれるし、休憩中は皆に話し掛けている。香織先輩の影に隠れがちではあるが、うまくパートを纏める縁の下の力持ちだ。

 

「本当ですよね。滝先生、『ここには遊びに来ているわけではありません。皆さんのお父様とお母様がお金を払ってくれて参加していることに感謝して、一秒でも無駄にしてはいけません』っていつもより厳しいし。あーあー。私も新山先生に教わりたかったなー」

 

加部先輩は相当疲れているみたいで、あまりカレーを食すスプーンが進んでいなかった。

 

「でも新山先生もかなりスパルタらしいけどね」

 

「え?あんな優しそうなのに?」

 

「うん。厳しいこと言ったりはしないんだけど、合格の基準がめちゃくちゃ高くて、何回も同じフレーズ吹いてるんだって」

 

「それはそれで辛そうねえ」

 

「でも、半日の指導で凄い上達した気がするって、木管の皆言ってたけどね。滝先生は金管担当だったから、木管のことはあまり深く聞けなかったけど、その部分が新山先生なら聞けるし、教え方も上手だからって」

 

「確かに!でもどこのパートも大変なのは同じだねー。あはは」

 

「……どうせ同じなら新山先生の方が良かったけどな。……おっぱい大きいし」

 

女子が会話しながら楽しそうに笑っている中で、隣に座る滝野先輩が小声で恨みがましそうにぼそりと呟いた。

 

「……わかります」

 

「え?」

 

「どうして男のおっぱいは洗濯ばさみで挟んで引っ張るくらいしか需要ないのに、女の人のおっぱいってあんなに見てるだけで幸せな気持ちになれるんですかね……」

 

「…比企谷!」

 

「え!?二人とも急に何やってるの!?」

 

滝野先輩と手をぐっと握りあう。普段からろくに話しもしない先輩とも通じ合える…。やっぱりおっぱいの力は無限大だ!

 

「な、なんか今日のトランペットパートはおかしいよね?」

 

笠野先輩の視線は俺と滝野先輩から高坂に向けられた。一番端の席に座っているのは、何も虐められているからとかではない。自らその席に座ったのだ。

 

「あのー。高坂さーん」

 

スプーンでカレーを掬っては、どぼどぼとカレーを口に入れることなく皿の上に落としている。減らないカレーを掬っては落として、掬っては落として。

これは触らぬ神に祟りなしだろう。うん。

 

「あ。ねえ。秀一」

 

「ん?どうした?」

 

そんな高坂を見ていた時だった。隣の低音パートの輪の中にいる黄前が塚本を呼び止めた。

 

「新山先生とさ、知り合いだったの?」

 

「は、はあ!?」

 

「はあ、って……。秀一。もしかして、何か隠してる?」

 

「いや、隠してることなんてあるわけないだろ!」

 

「……」

 

「…お、俺行っていいかな?」

 

逃げようとした塚本の腕を、黄前はしっかりと掴んだ。

 

「く、久美子!?」

 

「じゃあさ、さっき新山先生と話してたとき、こないだはありがとうございましたって言ってたのは何なの?」

 

「き、聞いてたのかよ…」

 

おい、お前。こっち見るな。そんなどうしたら良いかなみたいな目でこっち見るなって!

 

「あ、あのー。俺食べ終わったし、ちょっとあれがこれなんで先行きますね?」

 

すっと席を立ってその場を立ち去ろうとした。だが、時すでに遅し。

 

「……そう言えば、比企谷も何か最初に新山先生が挨拶したとき、明らかに目が合ってアイコンタクト取ってたわよね?」

 

「ゆ、優子先輩?た、たたただ目が合っちゃっただけですよ?」

 

「ふーん。新山先生が意味深な感じで笑ってたし、誰かさんは鼻の下伸ばしてた気がしたんだけどなー。そっかあ。私の勘違いかあ。

まあ、でも。比企谷君は私に嘘なんて吐かないもんね?比企谷君、捻くれてるけど何だかんだで正直者だし、優しいもんね?」

 

こわいこわいこわい!俺のことを君付けで呼んでるのが怖い!

お陰様で寒気と汗が止まらない。だが、そんな時だった。

 

「お、おい。俺の大事な後輩の比企谷を責めるのはやめろよ。知らないって言ってるだろ?」

 

「た、滝野先輩……」

 

この状態の優子先輩と俺の間に入ってくれるなんて、滝野先輩…。最高の先輩だ!ナイスおっぱい!

 

「後輩を信じてやるって、そういう先輩としてのせ――」

 

「は?あんたと話してないんだけど?どっか行ってくんない?」

 

「ひっ…!」

 

た、滝野先輩、頑張って!優子先輩に負けちゃダメだ!

 

「だ、だから――」

 

「滝野先輩」

 

「えっ?あっ……」

 

滝野先輩の顔が一瞬で青ざめた。

 

「ちょっと比企谷に聞きたいことがあるんで、黙って貰って良いですか?」

 

「はい。すいません」

 

「謝った…。後輩に謝ったぞ、敬語で…」

 

滝野先輩は後に語った。

卒業するまで吹部で過ごした三年間。宿題を忘れて先生に怒られたこともあれば、無理して巨乳の女の子をナンパしたら、実はいたらしい怖い系の彼氏にド突かれて財布を出しそうになったこともあった。

それでも今日、この時の高坂が一番怖かった、と。

 

「ねえ、比企谷。話してくれるよね?」

 

「……おい、こうさ――」

 

「……話してくれるよね?」

 

「…はい、高坂さん。僕は何から話せばいいですか?」



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3

「不幸だ…」

 

この右手のせいなのか…。いやそんなわけあるかい。

高坂と、何故か一緒になって怒ったような表情の優子先輩の二人に滝先生と新山先生のことを問い詰められる地獄の様な時間は、結局香織先輩がパトリ会議を終えて助けてくれるまで続いた。

塚本と二人で遊んでいるときにたまたま入った店で偶然出くわしたという部分のみ嘘を吐いてしまったが、そう言ったのも滝先生から呼ばれていったと言う方が高坂を怒らせるような気がしたからである。

もうね、高坂が怖すぎた。あいつなんで目だけで人殺せるの?ゴルゴーンなの?

何もしてないのに一緒になって正座させられた滝野先輩なんて、途中から泣きそうになりながら『どうして、俺まで…』って言ってたのに、一通り責められ終わったら高坂に『滝野先輩、いたんですか?』って言われてたからな。

お前が滝野先輩に正座しろって言ったんだろ!…滝野先輩、本当にすみませんでした。

 

それにしても身体は疲れているはずなのに眠れない。何となく一人になりたくて、外に出ると意外と同じような理由からなのか、まだ起きている部員も少なくないようだ。外の椅子では鎧塚先輩がスマホゲームをしながら一年の黄前と話していたし、部屋が並ぶ廊下を歩いているとどこからか小声で話す声も聞こえてきた。

 

「何か飲むかー」

 

さっき見たときは確か、自販機のとこにも椅子があったはずだ。誰もいないと良いけれど。

 

「お、比企谷じゃん。ぼっちろー」

 

しかし俺の願いは、空しくも散った。先客がいる。スマホを弄りながら、パイナップルジュースを飲んでいたのは中川先輩だった。

 

「ぼ、ぼっちろー?」

 

「あー。これはね、ボッチの人との挨拶ね」

 

「……」

 

「ごめんごめん。そんな目で見ないで。比企谷って何かからかいたくなっちゃうんだよー」

 

くつくつと笑う中川先輩。喉の上下と一緒に、ゴムで結われたポニーテールが揺れる。

子どものように揺れるものを目で追っていると、もう一つポンポンと規則的に動くものが増えた。

 

「ほら。座った座った」

 

「……子どもの頃から、夜は二十三時までに寝ないと次の日起きられないからダメって母さんに言われてるんで寝ます」

 

「うわっ。うっわー。後輩と仲良くなりたいのに後輩の方から距離置かれちゃったよ。悲しいなあー」

 

止まらずにポンポンと中川先輩は隣を叩いている。口では悲しいとか言いつつもニヤニヤしているから本当は全く悲しいことはないのだろう。

 

「…はあ」

 

「お。来たね来たね。偉いぞ」

 

「すぐ寝ますからね?」

 

「明日も練習あるからねー。話し相手になってくれるお礼にジュースを奢ってあげましょう」

 

「別にいらないです。施しは受けても、奢られはしないって決めているんで」

 

「その差がよくわかんない。ほら。どういう系がいい?」

 

「…じゃあコーラで」

 

「はいよー」

 

中川先輩から受け取ったコーラは当たり前だが冷たい。少し水滴が付いている缶は、少しだけ夏の夜の蒸し暑さを忘れさせた。

ぷしゅっという景気の良い音と共に、缶の口からは泡が吹きこぼれる。

 

「はい。かんぱーい。初日お疲れさん」

 

「お疲れ様です」

 

何だか上司と飲んでいる気分だ。実際のところ、一学年上の先輩と乾杯しているわけだから、上司と飲んでいるというのもあながち間違いではないのだけれど。

ちなみに俺の独断と偏見で決めた、スーツが似合う部員ランキングにおいて、中川先輩は堂々の二位である。このポニーテールと少し身長が低いのをヒールで高く見せそうなところが、入社二年目の先輩っぽい。新入社員からは、サバサバした性格と一見話しにくそうだけど、話してみると意外とフラットに気兼ねなく話せて一定層の人気を誇ってそう。

ちなみに、一位は田中先輩。あの人にもはや解説は必要ないだろう。三位は小笠原先輩。おどおどとした感じが本当にいそう。

 

「そう言えばこないだはごめんね?」

 

「え?何かありましたっけ?」

 

「ほら。あすか先輩と話してるとき邪魔しちゃったじゃん?」

 

「ああ。あのことですか。本当に話も終わってたんで、別に構わなかったですよ」

 

「そっか。あの後、希美から聞いたんだけどさ、比企谷って希美と知り合いだったんだ?」

 

「はい。放課後たまたま会いました」

 

「フルート褒めてもらえて嬉しかったって言ってたよ」

 

「…そうですね。とても上手いと思います」

 

夕日の下で、一人フルートを吹く記憶の中の傘木先輩は、やっぱり少しだけ寂しい。綺麗な音色を聞いていたあの時は聞くことに集中していてそんなことは思わなかったが、今は付加された情報もあってそう考えてしまう。

 

「だよね!私もさ、中学生のとき、初めて聞いた時は感動したんだ」

 

「中川先輩は中学から吹部ではなかったんでしたよね?」

 

「うん。北宇治に入学してから始めた。実はさ、私が高校から吹部に入部しようと思ったのも、たまに廊下で吹いてた希美のフルートのことが忘れられなかったっていうのもあって。まあ結局、本当はフルートやりたかったけど、余りもののユーフォに落ち着いたんだけどね」

 

「……じゃあ中川先輩が傘木先輩に今、部活に戻れるように協力しているのは憧れってこと何ですかね?」

 

「え!比企谷、知ってたんだ?」

 

「少しだけですけど」

 

「もしかして、この間あすか先輩と話してたのって、希美の復帰のことだったりするの?」

 

「さあ。どうですかね」

 

「うわ。性格悪。優子の後輩なんてやってるからうつったんじゃない?」

 

もしこれを優子先輩が聞いたら喧嘩案件だな。いなくて良かったー。

 

「でもね、憧れたからとか入部のきっかけだったからとかじゃないよ。協力してるのは」

 

「じゃあ何でですか?」

 

「さあ。何でだろうねー?」

 

……確かに、これやられると意外とムカつくな。八幡、激おこなう。ってくらいムカつく。

 

「優子先輩とやること一緒じゃないですか」

 

「は?じゃあ言うよ」

 

「………」

 

中川先輩、どんだけ負けず嫌いなんだよ。やっぱりこういう所が優子先輩に似ている。

 

「私が協力してるのは、罪滅ぼしだよ」

 

「罪滅ぼし、ですか?」

 

「うん。希美は面倒事が嫌いな私とは真逆で馬鹿正直だから、去年までいた先輩と衝突しちゃったんだよね。希美は先輩達に頭下げて、それを偶然通りかかってみた私さ、先輩達に『言っても仕方ないよ。そいつら性格ブスだから』って言っちゃってさ」

 

「うわ。最悪ですね」

 

「でしょ?先輩達もそれで意地でも練習しないってなって、結果的に希美を退部に追い詰めた一つの要因になっちゃったんだ」

 

「だから罪滅ぼしなんですね」

 

「うん」

 

中川先輩の缶はもう空になっているようだ。その表面を爪ではじいてはコツンという音が寂しく二人しかいない空間を木霊している。

 

「希美、退部したときに最後に止めてくれたってあすか先輩にどうしても復帰の許可をして欲しいんだって。だから何回もあすか先輩の所に通ってるの。でもさー。あの人も性格悪いって言うか難しい人だから、きっと何か考えて復帰の許可を出してくれなくてさー。せめて理由が聞きたいんだけど。それを聞かないと、どうしたらいいのかわかんないじゃん」

 

中川先輩は鎧塚先輩の事については何も知らないのか。当然、傘木先輩本人も知らないだろう。

 

「いつまでも今のままじゃ仕方がない。だからね、合宿から帰ったら滝先生に復帰を認めてくれないかお願いしてみようと思うんだよね。さっき希美とも電話でそう決めたんだ」

 

「……でしょうね」

 

「え?でしょうねってどういうこと?」

 

それはそうだろう。本当はあくまで田中先輩の許可は傘木先輩が部に復帰するための十分条件でしかない。決して必要条件ではないのだ。

しかし、傘木先輩に取って田中先輩の許可は十分条件ではなく必要条件だと認識している。だからこそこの問題は『停滞』することが出来ていたのだ。

部への復帰という解答にたどり着くために一番合理的で簡単な方法は、その条件を崩壊させて正しい形に構築し直すことである。田中先輩の許可を必要条件ではなく十分条件に。そして真の必要条件は他の誰でもなく、顧問の滝先生の許可。ただ一つ。

 

俺は先日滝先生に確認もしている。滝先生は部への復帰は認める方針。つまりこれだけ拗れている現在の問題も、解決を図ろうとすれば実にシンプルな問題なのだ。

そして、逆に言えば。『停滞』を望むのであれば、二人を滝先生の元に行かせてはいけない。それはこっち側からするとゲームオーバーの要件。

田中先輩が想定しているイレギュラー。それは頑なに田中先輩の許可を求める傘木先輩の舵を切り替えて、滝先生という誰も異を唱えることをできなくなる存在に近づけるように持って行ける人物。『中川夏紀』。イレギュラーな存在とは彼女に他ならない。

 

「…ねえ、比企谷。もしかしてあすか先輩が許可を出さない理由知ってるんじゃない?」

 

だからこそ。

考える。改めて俺は傘木先輩の復帰を邪魔するような真似をしてもいいのか。

考える。滝先生は部への復帰を認めない事はしないと言った。

考える。新山先生だって本人達のためにも向き合ってみてもいいのではと話した。

考える。田中先輩は俺に『イレギュラー』を止めるように釘を刺した。それに答える義理はどこにあるのだろうか。

だけど思い出す。香織先輩がソロに選ばれず、涙を流す優子先輩を。

…答えは、やっぱり変わらない。俺は俺の罪滅ぼしをするために、同じように罪滅ぼしをする中川先輩と対立せざるを得ないのだ。

だから、最後に考える。きっとただ吹部に戻って吹きたいという気持ちに蓋をするような真似は間違っていると気が付きながら、それでもどうすれば止めることが出来るだろうかと。

 

「…さあ。どうですかね」

 

「…言っとくけど、私本気で聞いてるんだよ。もし知ってるならお願いだから協力して欲しい」

 

「それはできません。先に言っておきます」

 

「え?」

 

「中川先輩に協力することは出来ないんです。ごめんなさい」

 

「どうして…?」

 

「それを踏まえて、先輩に話したいことがあります。明日の夜、もう一度話をしましょう。場所は外のテラスにでもしましょうか」

 

ただし、中川先輩が話をする相手は俺ではないのだけれど。



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4

「じゃあ呼吸から。息をしっかり吸って真っ直ぐ遠くまで伸ばすように」

 

小笠原先輩の声に合わせて、手を前に伸ばしすーっと息を吹きかける。

合宿の朝は呼吸練習と発声練習から行われる。それからパート練習。午後からはひたすら合奏練習だ。

問題はこの合奏練習の中にある。意識しないようにしていたが、その練習が初めてではない俺からすると、近付くにつれて憂鬱な気持ちになってくるのだ。

それに加えて、昨日の夜の事もある。今日は疲れた身体を引きずって中川先輩と話す場を設けることもあると思うと、過酷すぎてやっぱり夏休みは足りなかった。

だが、俺の下り坂どころか急転直下の心なんて関係なく、時間は無情にも過ぎていくもので。

 

「では、十回通しに移ります」

 

「「「はい」」」

 

説明しよう。十回通しというのは、課題曲と自由曲合わせて十二分の曲を続けて十回、一回毎にたった二分の休憩を挟んで吹き続けるというものである。名前の通りでわかりやすい練習だが、その苦しさと言ったら表現する言葉が見つからない。合計百六十分以上、ほとんど休みなしで吹いたらどうなるか。

 

七回目の演奏を終えた。

 

「はぁ…はぁ…」

 

俺含め、すでにほとんどの部員が満身創痍である。

タオルを頭から掛けていたり、汗が止まらずにぽたぽたとその水滴が床に垂れていたり。ホルンには何かに取りつかれたようにぶつぶつ呟いてるやつさえいる。

冷たい水を下さい。できたら愛さなくていいから、アイスティー下さい。

 

「比企谷君。お疲れ様」

 

「お疲れ、様です…」

 

声をかけてきた香織先輩は汗こそかいているものの、まだ余裕がありそうだ。

 

「疲れたよね?」

 

「もう帰りたいです」

 

「後三回で終わりだよ。頑張ろう」

 

残り三回もあるんだよなー。

 

「ねえねえ。比企谷君のそのシャツ、可愛いね」

 

「そ、そうですかね?」

 

「うん。この赤くてベロをペロってしてる犬がキュートだよ」

 

「本当ですか?ありがとうございます。こいつ、チーバくんって言うんですよ。千葉県民はこの生き物を探して日々生きてます。チーバ君を探せって言って」

 

千葉県民として慣れ親しんだこのキャラクターを褒められたのが、自分の事のように嬉しい。正直、あまり可愛いとは思っていなかったんだけど、香織先輩に言われてから何だか可愛く見えてきた。

 

「ふーん。千葉県のマスコットキャラクターなんだね」

 

「はい。香織先輩、こいつをよーく見て下さい。何かに見えませんか?」

 

「んー。何々?全然わかんないよ?」

 

「ヒントは都道府県です」

 

「んー……あっ!凄い!千葉県の形してる!」

 

「正解です!流石香織先輩!」

 

「世紀の大発明だ、このキャラクター!」

 

「そ、そうですよね!」

 

香織先輩に合わせて妙にテンションが上がったが、冷静に考えてそこまでの大発明ではない。ニコラテスラが開発した電気や、ライト兄弟が開発した飛行機にチーバくんが並んでも良いはずがあるか。

だけどそんなことは目の前でとんでもなく嬉しそうにぴょんぴょんと飛びながら喜ぶ香織先輩に言えるわけもなかった。やっぱり、香織先輩は少し変わっている。

 

「香織先輩のそのシャツは、目がちかちかしますね?真っ黄色」

 

「うん。去年の私のクラスの文化祭のTシャツだよ。合宿とか夏の暑い日のパジャマとしてじゃないと着ないけど、たまに着ると楽しかったこと思い出せて結構好きなんだ」

 

「あー。香織先輩は満喫してそうですしね。俺は中学生の頃のTシャツは全部捨てました。親に見られる前に」

 

「え?どうして?もったいないじゃん」

 

「なんかこういうクラス事のTシャツってクラスメイトのあだ名とかを背中に入れる風潮あるじゃないですか?クラスメイト達が『名前どうしよっかー?』なんて盛り上がってる中、『あ、こいつ名前どうしよっか…』って気まずそうにTシャツを作る担当してる人が悩んでるのを見たときはちょっと泣きそうになりましたし、最後まで聞かれないで前日に貰って初めて見てみたら、『No Name』って書かれてたときは泣きました」

 

「つ、辛いね。今年はそんなことないよ、きっと!」

 

「香織先輩のクラスは名前とか入れてないんですか?」

 

「へ!?せ、背中に入ってはいるけど…」

 

「あ、もしかしてあだ名なんですか?わかります。なんか誰かに無理してつけられたあだ名とか恥ずかしいですよね」

 

「う、うん。そうなの。だからご、ごめん!見せない!」

 

これだけ頑なに見せようとしないでいると逆に気になってしまう。

 

「じゃあ、後でこっそり見ますね?」

 

「そ、それなら今見られた方が良いよ!み、見ないでよー」

 

いや、これ気になってるんじゃない。俺、興奮してるんだ。あだ名の入っている背中を隠すのに、なぜか自分の身体をぎゅっと抱きながら顔を赤くして照れている香織先輩に。

 

「うー。じゃあ、見ても変な風に思わないでね?」

 

「は、はい」

 

背中を向けた香織先輩。

 

「…な、なるほど。流石ですね……」

 

「自分で考えたんじゃないからね!本当だよ!」

 

『マドンナ香織』。サバン〇高橋みたいなあだ名だけど、なるほど。確かにこれは恥ずかしいな。決して間違っちゃいないけど。

 

 

 

 

地獄の十回通しが終わって、先生達の指導が入る。

二日目の途中からはパーカスの指導担当の橋本先生も来てくれていた。金管の滝先生に、木管の新山先生。そしてパーカスの橋本先生。もはや盤石の構えであるが、今更ながら滝先生の人脈は凄いな。

 

「今の合奏で良いですが、この曲は単純なB♭メジャーが随所にある曲です。そこを綺麗に合わせるよう意識しましょう。」

 

「「「はい」」」

 

「あとスネアがちょっと後ろに感じるよー。もっと前に」

 

「はい!」

 

「それとティンパニ。今のところ、ワンテンポ早かったろ?今そんなことやっててどうすんのー?罰金ものだよ」

 

「…はい!」

 

「チューバ。テンポを早めたらこの有様ですか?指は間に合っていますが、口が追いついていません」

 

滝先生も橋本先生も凄く指導に気合いが入っていた。げんなりするほど厳しい指摘に、指導を受けるのは悪いことではないとは分かりつつ、自分たちには指摘がなければ良いと祈る。

二人とは対象的に新山先生は変わらず、微笑みが絶えることはなかった。指導をするときも優しく、そして回数も多くはない。ただ、木管のやつがぼそっと『後でさっきの部分、何回吹くことになるんだろう…』と、遠い目をしながら呟くのが聞こえてきて、あっちはあっちで大変そうだと思った。

 

「…なあ、滝君?」

 

そんな中で橋本先生のその核心を突くような発言は、他の指摘とは明らかに毛色が違った。

 

「オーボエのソロ、あれでいいの?」

 

オーボエのソロ。奏者は鎧塚先輩だ。当の本人は指摘に表情を変えることはなかった。その指摘に表情を少しだけ変えたのは、滝先生と新山先生。

二人は困ったように目を合わせた。四月からずっと、俺たちの指導をしてきた滝先生。そして木管のプロとして昨日から、一人一人の演奏をしっかりと耳にした新山先生。

鎧塚先輩の演奏がどういう演奏なのかなんて、橋本先生が言わなくたってとっくにわかっていて、見逃すことにしていたのだ。

 

「いやー。音も綺麗だし、ピッチも安定している。けどねえ。一言でいうと、ぶっちゃけつまらん。ロボットが吹いてるみたいなんだよ」

 

「…ろぼっと?」

 

それは俺も初めて聞いた時に思った感想だ。だけど、優子先輩には昔はもっと感情のある演奏をしていたと聞いた。思うところがあるのだろう。優子先輩の鎧塚先輩を見る視線は不安げだ。

 

「楽譜通りに吹くだけだったら機械でいい。鎧塚さん?」

 

「はい?」

 

「君はこのソロをどう吹きたいと思っている?何を感じながら演奏している?」

 

「……三日月?」

 

「じゃあもっと三日月感出さないとー」

 

「善処します」

 

「善処って言い方してる時点でダメなんじゃなーい?もっと感情出せないー?」

 

「…すみません」

 

「謝ることじゃないよ。クールな女の子って魅力的だと思うし。でも、このソロはクールでは困る!『世界で一番綺麗な私の音を聞いてっ!』くらいじゃないと!」

 

わざとオーバーな動きをしながら熱さを伝えようとする橋本先生が指したのは高坂だった。

 

「ほら。トランペットのソロの子みたいに!」

 

「え?」

 

高坂が注目されて照れた。なんか珍しい。

 

「正直、君たちの演奏はどんどん上手くなってる。強豪校にも引けを取らないくらいにねー。でも表現力が足りない。それが彼らとの決定的な差だ。

北宇治はどんな音楽を作りたいか。この合宿ではそこに取り組んでほしい!」

 

「「「はい」」」

 

「橋本先生もたまには良いこと言いますね?」

 

「いや。たまにはは余計だろう?僕は歩く名言集だよ?」

 

「はい。では今のところをもう一度!」




昨日からメッセージや感想で頂いておりますが、ユーフォのアニメ続編が決定しましたね!原作小説も今月発売が決まっているので、ここのところかぐや様に傾きまくっていた熱がユーフォに一気に舞い戻ってきました笑

はぁ。早く久美子三年編が見たい!もう今から楽しみで仕方がありません!


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5

「うわー。みどり、麻婆豆腐も大好きですよー!」

 

うわー。八幡も、川島大好きですよー!

この心の中の呟き、ここで飯を食べる度にしているけど、川島って好きじゃないものが何もないんじゃなかろうか。

 

「花火、楽しみだねー」

 

昨日の夜と違って、今日は香織先輩がいる。香織先輩に合わせてみんなで楽しく団欒の時間。しかしいつもなら香織先輩に食いつくはずの優子先輩がこの場にはいない。

本来であれば、パート毎に飯を食べるというルールだが、優子先輩は練習で集中砲火を受けた鎧塚先輩の元にいた。もちろん、香織先輩の許可を取っているので何も悪いことはない。むしろ難しすぎる指摘を受けて、俯きながら明らかに落ち込んでいた鎧塚先輩のフォローに回るべきである。

だが困った。優子先輩には話そうと思っていたことがあったのに。

 

「あ。ねえねえ皆、聞いて。今日比企谷君にとんでもない秘密を聞いちゃったんだ!」

 

「え?何それ?気になる」

 

パートの全員の視線が集まるが、俺は困惑を隠せない。香織先輩が何のことを言いたいのかはわかる。おそらく、千葉県のキャラクターの秘密のことだろう。今も着ているシャツの胸元にバッチリ付いているが、『このことだよ、比企谷君!』というように自分の胸元を指さして伝えようとしているから間違いない。

 

「それがね、本当にすごいんだよ?私、今年一番ビックリしたもん!」

 

困惑を隠せないのは、そんなに大した話でもないのに自信満々にハードルを上げまくる香織先輩に対してに他ならない。

 

「そこまででなんですか。早く教えて。比企谷ー」

 

「そうだよ。もったいぶらないで」

 

笠野先輩と加部先輩にも急かされた。ここは今にも崩れそうな崖だ。もはや逃げ場なんてどこにもない。

これは言わなくちゃいけないやつだ。そして、『は?お前、そんなくだらないことかよ…。やっぱり比企谷は比企谷だわ』みたいな反応されるやつだ。流石にこの時ばかりは香織先輩を恨んだ。

 

「あ、えーっと…大した話じゃないんですよ?」

 

「そんなことないよ!めっちゃ大した話だよ!」

 

「……」

 

わかった。香織先輩、本当は俺のこと嫌いなんだ。

 

「あ、あの…。このキャラクター知ってます?」

 

「うーん。なんかテレビで見たことある気がする…」

 

「知ってる。チーバくんでしょ?ふなっしーと何かの企画で戦ってた」

 

答えたのは意外にも高坂だった。

 

「そうそう。千葉県の有名なキャラクターなんですけど、皆さん、このキャラクター見て何かに気が付きません?」

 

「うーん…」

 

パートの皆が俺の胸元を見つめるという奇妙な構図。ドキドキしてるのは見られているからか、それとも失望へのカウントダウンか。正解は後者です。

 

「ダメだ。わかんねえ」

 

「実は真っ赤なのが、この犬の血とか?」

 

「そんな物騒な話じゃないですから」

 

「あはは。だよねー」

 

加部先輩の珍解答で場が少し温まった気がする。今だ。今しかない。

 

「じゃあ言いますね。この犬の輪郭です」

 

「…あ。千葉県の形してる」

 

「え、本当だ…」

 

「ほー。すげー…」

 

「……」

 

え、終わりかよ!

責めるようなその瞳を受けて、俺は心の中で謝った。悪くないけど。俺、何も悪くないけど!

 

「どう?すごいでしょ!?」

 

「あ、あはは。確かにー。香織先輩の言う通りすごーい」

 

こんな力ないすごーいを聞いたことがない。苦笑をしている笠野先輩と二年生の二人。無表情の高坂。

 

「………ごい」

 

「え?」

 

「本当だ!すっごい!」

 

「……まじかよ」

 

しかし、そんな中で同じ一年の吉沢だけが香織先輩と似たような反応をした。その反応に、逆に呆気に取られるメンバー達。

 

「だよねー!秋子ちゃんならわかってくれると思ってた!」

 

「ええ!これ世紀の大発見じゃないですか!?エジソンに並びます!」

 

「いや、並ばない。絶対に並ばないから……」

 

 

 

 

 

「葉月ちゃん!比企谷君!わーい、花火花火ー」

 

あー。癒される。花火を両手に持って楽しそうにしている川島。きっとこれが今年一番の夏の思い出だ。

 

「見て見てー。綺麗ですねー!」

 

川島はそのまま、花火を持ったままくるくると回りだした。綺麗というよりかはかわい…って!

 

「あっつ!あつっ!」

 

「うわっ!比企谷に火花が!こら。危ないでしょ、みどり!」

 

「あ。ごめんなさい。比企谷君…」

 

「だ、大丈夫だけど、振り回しちゃだめだからな」

 

「はーい…。でもこんなに綺麗なのにー…」

 

「だからみどり、回っちゃダメだってば!」

 

夏の思い出が十秒も経たないうちに花火がかかったことに更新された。

保護者の加藤と、被害者の俺。天真爛漫な川島の三人で花火を楽しむ。何でも新山先生が俺たちの思い出にと差し入れてくれたらしい。結構お金も掛かるだろうに。やっぱり優しい。

 

「ふう。…俺はやっぱり落ち着いて線香花火だなー」

 

「比企谷。はい」

 

「お、さんきゅー」

 

加藤がチャッカマンで俺の線香花火に火をつけてくれた。

 

「どういたしまして。私も線香花火やろう」

 

「みどりもみどりもー!三人の中で誰が最後まで、火を残していられるか勝負です!」

 

「お、いいねー。負けたらジュースくらいかける?」

 

「おいおいいいのかよ。言われるまで動かないことと、働かないこと。それから存在を認識されないことに関しては俺が最強だぜ?」

 

「どれも最低なことばっかりだよ。そんな最強ならいらない!」

 

線香花火を囲みながらパチパチと弾ける火花を見つめる。

 

「綺麗ですね」

 

「うん。夏って感じだよねー」

 

「合宿も明日で終わりか」

 

「何?比企谷は終わって欲しくないの?」

 

「まさか。同じ部屋に誰かいると落ち着かないし」

 

「みどりは楽しいですよ?みんなでトランプしたり、色んな話してお泊り会みたいです」

 

「私はどっちの言いたいこともわかるなー。男子の部屋は昨日寝る前とか何かしたりしてたの?」

 

「多分一緒だな。トランプしたりしてたみたいだった」

 

「してたみたいだったって。比企谷君。そういう時は一緒に遊んでコミュニケーションをとらないとダメです。次は絶対に混ぜてもらうこと!」

 

「はいはい。次があればな?」

 

「ありますよ。来年も、再来年も。その度にまた、こうして三人で一緒に花火するんです!」

 

「うん。そうだね!」

 

「……あぁ」

 

一人で心穏やかに見つめる花火も捨てたもんじゃないが、生まれて初めて家族以外の誰かと眺める花火も同じようでどこか異なる寂寥感を感じさせるものなんだなと知った。目から何かが零れ落ちそうなのをぐっと堪える。

もう並んでいる三つの線香花火は、丸いオレンジの火種に変わっていた。このオレンジが何とも趣深い。ああ、今ならここで一句読めるまである。

『並ぶ赤 線香はな――』。

 

「あ、部長が例の物真似大会始めるって!」

 

「まじか行かなくちゃじゃん!」

 

線香花火のことを忘れたように駆け出した川島と加藤。残された線香花火は俺が持っている一つだけ。隣には落ちて黒くなっていく火種が二つ。

ほら。俺が勝者だ。こうしてまた一人、今年もいつもの夏である。

 

「ほら。何してんの?一緒に行くよ比企谷!」

 

「え?うおっ!」

 

加藤に腕を掴まれて走り出す。最後に残った俺の線香花火もそっと消えた。



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6

進行役の小笠原先輩はノリノリだ。

パチンと地面を転がる鼠花火が開催の音を告げると、部長は指揮台に立つ時とは比べ物にならないくらい大きな声で、高らかに開催を宣言した。

 

「では、物真似対決を始めます!」

 

わー、という歓声と拍手が上がる。観客数三十名くらい。

隣にいる加藤と川島も大きく手を上げて楽しそうにしている。

 

「なあ。俺身内ネタとか一番嫌いなんだけど」

 

「え?なんで面白いじゃん?」

 

「どこがだよ。こういうの寒くね?」

 

「比企谷ー。こういうのは見てから言ってくれないと!ささ、座った座った」

 

「えー……」

 

半ば強制的に加藤に並んで座る。

 

「ではまずは三年生!クラリネットの大口弓菜です!」

 

「はい。中学二年生の時の数学の山下先生の真似しまーす。……ええか、大口。大口に今必要なのはー、応用力じゃなくて計算力!」

 

知らねーよ。誰だよ、山下。

 

「いいねー。じゃあ次は一年生。ホルンの森本さん!」

 

「うー。恥ずかしい…。えっと美術の田中先生の真似です。……パレットに色が出てなぁい…」

 

「あはは。似てます似てます」

 

え?似てるの?パレットに色がないってどういう状況?

進学クラスの俺は美術を取っていないからその先生のことを知らないのだが、川島の反応を見て気になってしまった。

 

「さて次は大本命!トロンボーンパートリーダーの野口君!」

 

大本命、いかがなものか。野口先輩はポケットからすっと眼鏡を取り出した。

 

「何ですか、これ?」

 

「…くく」

 

「あ、比企谷今笑ってた!」

 

「笑ってない」

 

「いや笑ったでしょ?」

 

「だから笑ってない。面白かったし似ていたけど、笑ってないぞ」

 

滝先生の真似には今日一番の笑いが起こっていた。クオリティの高さ然り、選んだネタ然り。流石、野口先輩。野口ヒデリという本名のせいで、『千円先輩』なんてユニークなあだ名を付けられているだけある。

 

「あはははは。これはもう優勝は野口君かなー。あはは」

 

「いやいや。まだ終わらないでしょ?」

 

「え?」

 

「我らが部長!ラスト一発お願いします!」

 

「えー。そんな、急にそんなこと言われても困るよー」

 

困ったと言っている小笠原先輩を見て、加藤が笑った。

 

「うわー。小笠原先輩、この後にやらされて可哀想だなー」

 

「いや、違うな」

 

「え?」

 

「あれは絶対振られると思って練習していたパターンだ。

この手のやつで本当にヤバいと思ったら、もっと真剣な顔をして『いや私本当に無理だから。やめて』ってなる。今の小笠原先輩みたいに、困ったと言いながら笑っているのは余裕の表れなんだよ」

 

「ほ、ほんと?」

 

「ああ。周りの目は誤魔化せても、俺の目は誤魔化せないぞ。

さあ、見せて貰おうか。その練習の成果を!」

 

「……比企谷、めっちゃ楽しそうじゃん…」

 

「おほん。急に言われたからあんまり似てないかもだけどやるね?」

 

「よっ。部長!」

 

「待ってました!」

 

「いきます。某鑑定番組の値段を計るときの真似。……では、鑑定お願いします。…トゥルトゥル、イチ、ジュウ、ヒャク、セン、マン、ジュウマン、ヒャクマン。ててれてーん」

 

「…お、おう。似てる、のかな?」

 

「あ、あはは流石部長…」

 

周りの微妙な反応と同じように加藤も呟いた。

 

「なんて言うか、地味だね…」

 

「う…。みんな酷いよ…。そうだよ。どうせ私はみんなを盛り上げようとしても、楽しんでもらおうとしても。そんなこともできない部長だよ…。…ぐすん。もう部長辞める……」

 

「え?ちょ、ちょっと小笠原先輩!?」

 

心が折れた小笠原先輩に、サックスパートの後輩たちが慌てて駆け寄ってフォローする。

めちゃくちゃ似てたけどな。俺感動しちゃったもん。

 

 

 

 

「比企谷君」

 

物真似大会を終えて、花火をバケツに捨てに行くと新山先生に声を掛けられた。

 

「お疲れ様です」

 

「ううん。比企谷君こそお疲れ。楽しそうにしてたわね?」

 

そんなことないですとか、周りに合わせただけですと強がるのは違う気がした。

 

「新山先生が花火持ってきてくれたお陰です」

 

「そう。それなら良かったわ」

 

にこりと微笑んだ新山先生から目を離す。両親の前でもここまで素直になれない。むしろ両親だからなのかもしれないけれど。素直な自分というのは、話していてどこか居心地が悪い。

視線をそらした先では高坂と滝先生が話していた。高坂が嬉しそうにしているのがよく見える。

あいつ、本当に滝先生のこと好きだよな。主人公の女が別の男と表向きは付き合ってるけど、本当は担任の先生が好き、みたいなすげえドロドロした内容のアニメ見たことあるけど、まさか滝先生のこと好きなんてことないよな?なんか声がその主人公と高坂似てる気もするし……。いや、そんな訳ないか!先生のこと好きなんて、アニメの世界か女子高だけだよね!

 

「みんなが楽しんでいるのを見ると、自分が学生だった頃のことを思い出しちゃうわね」

 

「新山先生が学生だった頃か。何となく想像できます」

 

とにかくモテてそう。モテまくってそう。そんで笑顔で軽くあしらっていそう。

 

「うーん。比企谷君がどんな私をイメージしてるのかはわからないけど、きっと違うかな。私、比企谷君くらいの時はいつもスカートの下にジャージ着てたのよ?」

 

「え、本当ですか?」

 

新山先生のお淑やかな格好を見れば、ジャージ姿なんて想像できない。

 

「ふふ。意外でしょ?これでも音大に通ってた頃までは、Tシャツにジーンズとかばっかりでいつもラフな格好をしてたわ。綺麗に見せたいと思うような相手だったら気合いを入れるし、それ以外の人間にはどう思われようと気にならなかったの」

 

「じゃ、じゃあ変わろうと思ったきっかけとか何だったんですか?もしかして、結婚?」

 

「私の旦那との出会いとか結婚はあんまり関係ないわね。私ね、この人のためだったら何でもできるって思える女性がいたの。憧れてやまなかったわ。その人に少しでも近づきたかったとか、認められたかったのが理由なのかしら」

 

「そうなんですか。その人はやっぱり今も音楽の世界に?」

 

新山先生の寂しそうな笑顔を見た瞬間に、その質問をしたことを後悔した。けれど、止めることはできず、新山先生は言葉を紡いだ。

 

「いいえ。もう亡くなったわ」

 

「そう…なんですね。すみません」

 

「いいの。それに、きっと今の光景を見たら幸せだと思う。比企谷君たちのお陰でもあるのよ?」

 

「え?」

 

「とにかく私は、何かのきっかけを与えてくれるような存在の人ってどういう形であれ、特別で替えなんて絶対にきかない存在だと思うの。どうかしら?」

 

「……さあ」

 

「ふふ。年増のお節介だと思って頭の片隅に入れておいてね」

 

年増なんて年齢じゃないでしょう。本当の年増がかわいそうです。



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7

「そんで」

 

「なんで」

 

「「あんたがここにいんのよ!」」

 

花火大会が終わって、静けさが支配する時計の針がゼロを指そうかという時間。椅子とテーブルが並べられた月の下のテラスには元気な二人の声が響き渡った。

 

「まあまあ、先輩たち落ち着いてください。夜も遅いですから」

 

「落ち着けるわけないでしょ!こいつの顔見たら、『ああ。普段は家だとスマホいじっちゃって寝るの遅いからまだまだ眠れないけど、合宿は流石に疲れるな。もうそろそろ寝れそう…』ってくらいの一番気持ちいい眠気も三十キロくらい先まで飛んでくわよ!」

 

「私は落ち着けるけどね。あんたがここにいなければ!」

 

「二人とも互いがいなければって言いますけど、同じ部屋じゃありませんでしたっけ?」

 

俺の声は睨み合う二人の耳には届かなかった。思わず呆れてため息が出たが、ここは目的達成のためだ。とりあえず落ち着いてもらわないと話が進まない。

 

「俺が呼んだんです。二人とも」

 

「えぇ…。昨日の夜の話の続きすんのに、こいつ呼んだ意味がわかんないんだけど」

 

「は?何よ。昨日の話って?」

 

「昨日の夜たまたま比企谷に会って話してただけ」

 

「はーん。部屋にいないと思ったら…」

 

「別に夜私が何しようが関係ないでしょ?」

 

「そりゃそうだけどさ。……私も……」

 

「ん?何?」

 

「何でもないですー。それで?」

 

「昨日は傘木先輩の話をしてました」

 

「…帰る」

 

「待ってください」

 

振り返って帰ろうとする優子先輩の腕を掴んだ。

今の優子先輩はリボンをつけてはいないが、その代わりにヘアバンドを巻いて髪を上げている。それがふわふわのかわいらしいパジャマとよく合っていて、俺を見つめるジトっとした視線はそこまで怖くはない。

でも、割と本気で怒っているというのは伝わってきた。

 

「なんでよ?私は花火大会の日に言った通り、希美の復帰に賛成できない。……もしかしてみぞれのこと言ってないでしょうね?もし言ったなら、私、本当にあんたでも絶交するわ」

 

「言ってないです。まだ何も」

 

「まだってどういうこと?」

 

「…俺は中川先輩には今からこの間の話をすべきだと思います」

 

「そんな簡単に話せる内容じゃないでしょ。…それに……」

 

そしたら夏紀はどうしたらいいのか分からなくなるじゃない。

その言葉はあまりにも小さな呟きで、夏の夜空に溶けていった。俺の耳には届いたが、さりげない優しさは中川先輩には届いていないだろう。

 

「確かに簡単に話せる内容ではありません。だから中川先輩から話を聞いた後、その判断を優子先輩にしてもらう為に来て貰いました」

 

「私に判断を求めるの?それなら嫌だ。言わないし、そもそも夏紀の話を聞くつもりもない」

 

「けれどそれが、鎧塚先輩のためであればどうします?」

 

「みぞれの、ため?本当に意味わかんないんですけど」

 

「だからとりあえず一回戻って下さい。それで中川先輩の話を聞くべきです」

 

「…わかったわよ」

 

優子先輩は月明かりに照らされた椅子に戻った。それに合わせて俺も隣に座る。

反対の椅子に座っている中川先輩はいつも通り髪をポニーテールに結わいていて、パジャマも練習着となんら変わらない。吊り目気味な視線は睨んでいるように見えることもあり、つまるところ一見話しにくい雰囲気をしている。

そんな中川先輩は俺たちの方は見ずに、顎に手を当てて考えるような仕草をしていた。数秒置いて、何やら答えが出たようだ。

 

「……なるほどね。なんとなくわかったよ。どうして昨日別れる前に、協力できないって言ってきたのか。要は優子に先に取られてたってことだね」

 

「…取られてるって言い方は違いますよ。だってそれだとまるで俺がモノみたいじゃないですか」

 

「先に取る?」

 

「昨日、比企谷に希美が部に復帰できるように、何か知ってることあるなら協力して欲しいって言ったらあっさり断られたの」

 

「え?」

 

「優子が声かけてたんでしょ?協力するように。しまったな。比企谷には先に話しといても良かった。機会は何回かあった訳だし」

 

「別に先に声かけられたから優子先輩側に回ろうとしたわけではないです」

 

「どうだか。じゃあ協力するように言ったのが優子だったからってわけ?」

 

「……」

 

「……比企谷…?」

 

優子先輩は何やら期待しているような目で見ているが、それは勘違いだろう。ただ俺を見てるだけ。

 

「いえいえ。ただ客観的に判断したまでですから」

 

「はあ。まあ希美の入部を認めないスタンスってなら、理由なんてどうでも良いんだけどさ。あんまそいつの言うこと聞かない方が良いよ?一応言っとくけど、そいつマジで性格悪いから」

 

「そういうのやめてくんない?そういうこと言うやつの方が性格悪いから」

 

「……まあ、性格悪いことくらい知ってますけどね」

 

「え、えええぇぇ!そこはフォローするところでしょ!?私の味方してくれてるんだって思って喜んじゃってたのがバカみたいじゃない!」

 

「いやだって、本当はちゃんと色々考えて空気とか読んでる癖に、いざ自分が納得いかなくなって限界超えた瞬間、言い方なんて気にせず思ったこと全部言ってりゃ、言われた相手もそれを見てる周りも性格悪いって思うのも仕方ないんじゃないっすか?」

 

「はは。ほら比企谷だって言ってるじゃん」

 

「仕方ないでしょ?こういう性格なんだから…」

 

でも本当は、性格が悪いっていう言い方は間違いだ。

自分がどうしても我慢できないものや守りたいものが明確で、それが叶わないとなれば自分が我慢できずに思ったことを全部言ってしまう人ではある。周りのことも言い方も後先も気にしない。

ただ逆に言えば相手に言うことができる、意思表示ができるということは裏表がない。つまり、ある意味真っ直ぐな女の子である。

その猪突猛進な性格は俺は勿論、多くの部員が真似できないことで、美徳であると思う。だからこそ、再オーディションの時は周りが周囲に流されて高坂か、香織先輩かどちらが吹くか手を上げられない中でも手を上げたし、香織先輩がソロに選ばれることはなくても、香織先輩の信頼を勝ち取ってみせた。

誉め言葉はふて腐れている先輩には言わないけれど。

そして、だからこそ俺は今ここに呼んだのだ。

 

「はぁ。本当に邪魔するやつばっかりでやんなっちゃうわー」

 

オーバーなリアクションで天を仰ぐ中川先輩は皮肉気に笑った。

 

「それでまずは優子に比企谷に昨日話したことを言えばいいわけ?」



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8

「…ふーん。だから希美はあすか先輩にお願いしに行ってるのね」

 

「そ。知っての通り、あすか先輩からは許可が出ない訳だけどね」

 

先が見えない暗闇の先や、ざわざわと木々を揺らす風。更けきった夜はテラスの周りの空間をおどろおどろしく演出している。座っている椅子は夏だというのに少し冷たくさえ感じた。

中川先輩の話を聞いている間、優子先輩は何かを考えたように俯いたままでいる。

 

「……」

 

「ここまで話してだんまりは酷くない?理由を教えてよ。希美は今からコンクールのメンバーに入れろって言っている訳じゃない。止めようとしてくれたあすか先輩の最後のコンクールをすぐ傍で応援したいだけ」

 

優子先輩が何も言わずにいることで、中川先輩は少しずつ声のボリュームが大きくなっていった。

 

「それに…中学生の時、私は吹部じゃなかったから、優子の方がよく知ってるはずでしょ?中学のコンクールの結果」

 

「…それは勿論わかってる。希が部活に復帰したい気持ちなんて…」

 

「じゃあなんで!希美は中学の時は関西大会目指してすっごい練習してたのに、結果はむしろ例年より悪い結果に終わって、悔しかったから高校に入ったら今度こそ全国目指すんだって言ってた。それなのに入ってみたら、あんな部活で。それが滝先生が顧問になって変わったから、また帰って来ようとしてるのに今度は一度辞めたから入れられないって。そんな酷い話ないじゃん」

 

「…けど……」

 

「私たち二年生以上の誰も、今みたいに部活が変わることなんて予想してなかったし、希美は去年の先輩達に虐められて辞めたんだよ?あいつらの仕打ち見てたでしょ?それでやる気あった同学年の生徒が辞めて、やる気のない今の二年が残った。

その二年が流れに任せてやる気出しててさ、勿論残ったんだし変わったこの環境で頑張ること自体は否定しない。だけどあんまりにも虫が良すぎるってあんたは思わなかったの?私は思うよ。辞めてった人たちに申し訳ないって」

 

「…思ったに決まってるじゃない」

 

「それなら…!」

 

「だけど!希美が帰ってきたらみぞれが…!」

 

「…みぞれ?」

 

はっとしたように優子先輩は口を閉じた。だけどもう遅い。

そして、それは俺が期待していた結果でもある。

 

「どういうこと…?」

 

「ねえ優子!」

 

「中川先輩、あんまり大声で話してると誰かが来ちゃいます」

 

「くっ…」

 

中川先輩がぐっと優子先輩に詰め寄ったが、落ち着かせるために一度引き離した。

中川先輩からしたら、探して探してやっと見つけた解決への切り口なのだ。ここで手放すわけにはいかない。だからこそ見つめる視線は力強く、それに優子先輩が根負けしたように力なく息を吐くのも時間の問題だった。

 

「…この事は一部の三年と私たちくらいしか知らない話だから口外しないでね?」

 

「わかった」

 

「みぞれは希美がダメなの」

 

「ダメって?」

 

「近くにいるとかだけじゃなくて、希美のフルートの音とか聞いてるだけで吐き気がしたり、体調が悪くなって保健室で横にならないと落ち着けない」

 

「…は?待ってよ。だって希美とみぞれは同じ中学でずっと一緒に吹いてたんでしょ!?それに希美はみぞれとは仲良――」

 

「だからそのことを希美が知らないのが問題なの」

 

「……」

 

「みぞれは希美が部活を辞めたときに声をかけてもらえなかったことを引きずっているんだよ。なんでみぞれに声かけなかったのかは知らないけどね」

 

「そんな…」

 

「あんたが希美のためを思って部に復帰をさせたいのはわかってる。希美が部活に復帰したい気持ちだってちゃんとわかるし、一回辞めたからとかそんなこと関係ないし復帰出来ない理由なんかになるわけない。

それでも、希美は部活を辞めて、みぞれは部に残ってる。勿論希美は大事な友達だし、大切な中学からの部員だったけど今は違う。だからこそ私はみぞれを優先したいし、守るべきだと思うわ」

 

鎧塚先輩が現在吹部の部員であるから、傘木先輩よりも鎧塚先輩の側に立つべきだと言う優子先輩が真っ直ぐに見つめるのに対して、話を聞いた中川先輩は俯いている。ついさっきまでとは真逆の構図になった。

沈黙が支配して時間は刻一刻と過ぎていく。何となく横を見てみれば、優子先輩と目が合った。冷たい瞳で責めるように見つめるのに謝ることはしない。

 

「……それでも私は希美を入れてあげたい」

 

「だから…」

 

「みぞれのことはわかった。だけど、希美は私にとって……吹部に入るきっかけになった人だから……」

 

特別なんだ。

まだ迷ったように視線を上げることはせず、中川先輩は呟いた。

先生のところに行くことを防ぐためには、ここで中川先輩に止まってもらう必要がある。出口を見つけることの出来ない逡巡の迷宮に中川先輩を閉じ込めなければ。まだ押しが弱い。

 

「…っ!」

 

優子先輩、と呼ぼうとしたがそれは憚られた。悔しそうに口元を歪ませて、目を閉じている。

花火大会の夜、優子先輩に対してもしかしたらと思ったこと。きっとこの表情はあの時の疑念の答えなのだろう。

 

「…中川先輩」

 

「何?」

 

しかし、今は優子先輩の事を考えるよりも中川先輩だ。

 

「伝えていた通り、俺も傘木先輩の復帰には反対です。もし優子先輩が言ったように鎧塚先輩が吹けなくなるとしたら困るのは部員全員です。なぜならうちの吹部にはオーボエの奏者は一人しかいない」

 

「……」

 

「それに対して、今年のコンクールメンバーに選ばれることはない傘木先輩は入部したところで、夏が明けてすぐのコンクールの戦力になるわけではない。つまり鎧塚先輩が吹けなくなることを考慮すれば、傘木先輩の入部は部にとってマイナスでしかないと思いませんか?」

 

何よりも替えの演奏者がいないことは致命的だが、今のままでも鎧塚先輩のオーボエの技術力が確かなものであることも忘れてはならない。現に曲の中に一部分、オーボエのソロがあるのも滝先生が鎧塚先輩の実力を信用しているが故であろう。

中川先輩は何も答えることはなかった。話し合い自体は結論こそ出さずとも、出来ることはしたし後は結果を待つのみである。

 

「中川先輩。これが俺たちが部に復帰を反対している理由です。少し落ち着いて考えて下さい。

でも、この話をしたのは脅そうとしたとかではないですから、先輩が最終的にそれでも傘木先輩のために何かをしたいというのなら、俺はどうすることもしませんし構わないと思います」

 

「…私は、それでもやっぱり……」

 

 

 

 

 

「残念だったわね。みぞれのことを話したのに、夏紀が協力してくれることはなくて」

 

三人でいたテラスに今は二人だけ。中川先輩がいたときまでは隣に座っていた優子先輩は向かい合うように座っている。正面に座って話していると、改めて西洋人形のように整った顔の上に付いているリボンがないことが新鮮というか違和感を覚える。

今もヘアバンドをしているこの人は、髪を自然に下ろしているとどんな雰囲気になるんだろうか。

 

「何も残念なんてことないですよ」

 

「なんで?目的は夏紀を丸め込もうとしてたんじゃないの?」

 

「いえ。違います。中川先輩を引き込みたかったわけではありません」

 

「へ?じゃあどうして?」

 

首を傾げた優子先輩に俺は質問を投げかけた。

 

「部活へ復帰をするために田中先輩から許可を取ることに当たって、傘木先輩の一番の失敗ってなんだと思います?」

 

「うーん…。相談相手があいつだったこととか?」

 

「お。正解です」

 

「え!?ふざけていったのに」

 

そもそも前提の田中先輩の許可がでるまで復帰せず、滝先生に部に復帰の許可を求めるのが後回しというのもおかしいが、それは本人がそうしたいというのであればミスではない。あくまでただの遠回りである。

その遠回りに当たって、中川先輩という存在は俺たちに取っては傘木先輩の行動の選択肢を広げ得る『イレギュラー』という危険な存在であり、同時に傘木先輩にとっては足枷になり得る。

 

「傘木先輩は本当に部に復帰をしたいのであれば、中川先輩を仲介するべきではなかった。

いや。実際には最初のコンタクトの段階では田中先輩と話すために同じパートの後輩である中川先輩の存在が必要だったのかもしれないですけど、そこから先は自分一人で行動するべきでした」

 

「なんで?一人だと寂しいじゃない?それに誰かと一緒の方がそういうとき勇気が出るし」

 

「これだからリア充は」

 

「うざ…。じゃあ…人数が少ない方が行動しやすいからとか?」

 

「先輩の言う通り、人数が増えれば増えるほど行動するのに時間が掛かるって言うのはありますよね。週刊少年誌で大人気だった忍者の漫画でも、機動力と組織的に戦うことを考慮して一番ちょうど良い人数は四人だって言ってましたし」

 

「面白いらしいわよね。よくクラスの男子の話聞こえてくるもん」

 

「父さんが買ってるんで今度貸しましょうか?」

 

「うーん。私でも楽しめるかな?」

 

「なんか女の子でも好きな人多いって聞きますけどね。もっとも、共通の趣味があるって体で飯でも奢らせてあわよくばそれからも都合のいい男でいさせようっていう魂胆か、もしくは腐っているかって可能性もありますけど」

 

「人間不信すぎるでしょ…」



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9

「忍者の話はともかく、一人ではなくて誰かが一緒にいるからこそ行動しにくくなるっていうのは間違いなくあります」

 

「でもさ、二人だよ?クラス単位で回る修学旅行とかじゃないんだし、そんなに行動しにくくなるもんでもないんじゃない?」

 

「いいえ。二人でも行動しにくくなりますよ。むしろ二人だからこそどちらかが足枷になれば、動きにくくなる。少数であればあるほど、一人に何かがあったときの問題を分けることができないからです。

例えば、二人三脚で片方が倒れれば、一緒になってもう片方も倒れるけれど、三人四脚なら一人倒れても二人であれば倒れずに立っていやすい。

現に中川先輩が傘木先輩の足枷となる可能性を少しでも上げるために、さっきまでここで話しました」

 

「足枷って何かを止めるってことよね?じゃあ目的はあすか先輩の所にもう二人がお願いしに行かないようにすること?」

 

「いえ」

 

「また違うの!?」

 

「はい。理由はきちんと聞いていないんですけど、田中先輩はおそらく鎧塚先輩の事があるからだと思いますが、とにかく傘木先輩の復帰は認めないと言いました。であれば田中先輩の元に復帰をお願いに行く二人の行動は報われることがない、いわば現状の停滞です。

危惧していたことは滝先生に復帰を相談に行くことです。昨日、中川先輩から聞いたんですが、二人はこのままで埒があかないので合宿が空けたら滝先生の所に復帰のお願いに行くつもりだったと聞きました」

 

「滝先生のところにか。…確かに滝先生は反対しないでしょうね」

 

「問題は問題にしなければ問題にならない。つまり滝先生の所にさえ行かせなければ許可がおりることのない状況を維持し続けることで、問題にしないって訳ですね。ただ逆に言えば、滝先生の所に行けばダメだと言われることは必ずない。それ故に優子先輩の言う鎧塚先輩の問題が発生する。

だからこそ、それを止めることが目的でした」

 

「……そのためにあいつに事情を伝えて、滝先生の所に行くのを止めるって訳か…」

 

「後は滝先生の所に行かないことを信じるしかないですね」

 

優子先輩は少し不機嫌そうにそっぽを向いた。

 

「…優子先輩?」

 

「何?」

 

「なんか怒ってます?やぱり中川先輩に話すことになったことですか?」

 

「別に怒ってなんかいないわよ。この話をしたらあいつはどうしていいかわからなくなる。だからきっと滝先生のところに行くことはないと思うから。勿論、そのやり方が必ずしも正しいとは思わないけどね」

 

「やり方って……」

 

「だってあんた本当に頭良いじゃん。だから人の気持ちとかそういうのだって本当はちゃんと分かってる癖にわからないフリして。こんなこと言ったら夏紀が傷つくのなんてわかってたでしょ?

とは言え他にどうしたらよかったかーとか私にはわかんないから、それを責める資格ないし、本当に怒ってないの」

 

「……じゃあなんでそんな不安そうな顔してるんですか?」

 

「…ねえ。比企谷はさ、なんでトランペット始めたの?」

 

優子先輩の突然の質問に、俺はすぐに答えることは出来なかった。

記憶は時間が立てば色褪せると言うけれど。きっといつかは忘れてしまうものなのだろうけど。

それでもこうして思い出す。並んだトランペットとユーフォニアムはいつだって、記憶の中で輝いてる。

 

「……俺なんかに付き合って、トランペットを教えてくれた人がいました。その人がいたから、今トランペットを吹いています」

 

「そうなんだ。その人は、今でも特別な人なの?」

 

特別。英語で言えばスペシャル。

その言葉を誰かに当てはめることはあまり好きではない。会社勤めをするサラリーマンが自分が欠けたら仕事が回らないなんて言えば、それはシステムの欠陥だし、ましてやそれで休みが取れないなら今すぐ休む権利を主張するべきだ。『私には貴方しかいないの!』なんていう女は大体前にも同じ台詞を言っている気がするし、その誰かに捨てられた後は案外次の男で寂しさの穴を簡単に埋めていると思う。

だから特別というもの自体が嫌いである。だけど。

 

「…まあ。そうですね……。その人がいなかったら今自分がトランペットを吹いてたり、ましてや部活なんかには絶対に入ってなかったと思うと」

 

「……そっか」

 

「何か気になることでもあるんですか?」

 

「ううん。ただ私はトランペット始めたの、特に理由とかなかったからさ。何となく中学の時に吹部に入っただけで……」

 

『何かのきっかけを与えてくれるような存在の人ってどういう形であれ、特別で替えなんて絶対にきかない存在だと思うの』

 

ふと、ついさっき新山先生が言っていた言葉を思い出して、何故か嫌な汗が流れた。その考えを振り払うように、自分の口から急かされるように言葉が飛び出す。

 

「でもそんなの、今吹奏楽やってるから思い出すだけで、吹奏楽辞めてしばらくしたら忘れますよ」

 

「…ふふ。そんなことないよ。きっと」

 

寂しそうに笑う優子先輩に俺はかける言葉はなかった。その表情の意味をなんとなく察して、それでも俺は深入りすることはしない。

けれどその時の優子先輩の表情は、切なげでありながら可愛くて、しばらく後までずっと忘れることはできずに、思い出してはむずむずと変な気持ちになる要因になるのであった。

 

「そろそろ部屋に戻りましょ?明日も練習だしね?」

 

「……はい」

 

ゆっくりと部屋の方へと身体を向けて大きく伸びをした優子先輩だったが、そのままじっと壁の方を見つめているとやがてもう一度俺の方に顔を向けた。

 

「私やっぱりまだ寝ないわ」

 

「え?なんで?」

 

「ん」

 

そこそこ、と指を向けるのはじーっと見つめていた壁。

あー。なるほど。誰かが盗み聞いてたって事か。

 

「誰ですか?」

 

「一年の黄前」

 

「黄前か。先輩、仲良かったでしたっけ?」

 

「ううん。多分嫌われてる」

 

「正直ですね…」

 

「まあこんな時くらいしか話す機会ないしね?ついでにどこまで盗み聞きしてたのか聞いてくる」

 

「まあほどほどに。んじゃ俺は部屋戻りますね。何か変に勘ぐられてもあれ…ですし…」

 

自分で言ってて思ったが、時計の針が十二を回った時間に男女が二人。これは勘違いされても仕方ないような光景なのではないだろうか…。いや、それはないな。

いくら自分では目さえ隠せば、ルックスそこそこだと自負しているとは言え、優子先輩とは流石に釣り合わない。

 

「うん。それじゃあ、また明日ね。お休み」

 

「あ。優子先輩」

 

「どうしたの?」

 

「……何でもないです。お休みなさい」

 

「?変なの?」

 

優子先輩の可愛らしいパジャマの後ろ姿をしばらく目で追って、俺は踵を返して部屋に向かう。背後からは優子先輩に捕まった黄前の『うへぁ』という、なんとも力ない声が聞こえてきて少しだけ笑ってしまった。



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10

 『何かのきっかけを与えてくれるような存在の人ってどういう形であれ、特別で替えなんて絶対にきかない存在だと思うの』

 

 新山先生の言葉。

 

 『みぞれのことはわかった。だけど、希美は私にとって……吹部に入るきっかけになった人だから……』

 

 中川先輩の言葉。

 

 『私はね、いつも大切な人とか、聞いて欲しい人に向けて吹くようにしてるんだ。その人が実際にそこにいるかとかが大事じゃないんだけど、誰かに届けって気持ちで吹くといつの間にか全力で吹くことだけに集中できるよ』

 

 香織先輩の言葉。

 色んな言葉を思い出すのは、眠る前に夜風に当たりながら優子先輩と話していたことが原因だろう。

 

 『…ねえ。比企谷はさ、なんでトランペット始めたの?』

 

 ――ああ。これはまた、懐かしい夢だ。

 

 

 

 

 

 石を蹴りながら一人で歩く帰宅路の途中で、甲高い音が聞こえた。…気がした。

 

 「……」

 

 ……ぷー…。

 勘違いかと思ったが、また聞こえた。だけどどうやら、ここからは遠いどこかで吹いているみたいだ。海から吹く潮風が運んでいる音の大きさは、聞こえるか聞こえないかくらいだからそう思った。

 

 「……」

 

 石を蹴るのを辞めて、耳を澄ます。ころころと石が地面を転がる音の後、やっぱりまた音が聞こえてきた。

 ……家に帰っても、お母さんもお父さんも仕事に行っている。妹の小町は保育園だから、どうせ家に帰っても誰もいない。

 ……ぷー…。

 

 「……はぁ」

 

 何も変わらない日常。

 平日は朝起きて、朝ご飯を食べながらおっはーをして、その後の三十分は歯磨きと今日の学校の準備をしながらアニメを見てから出発する。

 学校に行けば、クラスの友達と一緒に遊ぼうとする。遊ぼうとするって言うのは中々上手くいかないからだ。学校に入ったばかりの時は、友達百人出来るかなって歌ってたしきっと出来ると思ってたけど、現実は厳しい。

 放課後も同じだった。友達が遊ぶ約束をする中、家に帰る日々。誰もいない家で、猫のかまくらと一緒にテレビを見るか、図書館で借りた本を読むか。

 そんな平日が終わるとたった二日間だけのお休みだ。お父さんは黄色くてシュワシュワの子どもが飲んだらいけないものを飲んでいるときだけが生きがいだと言ってたけど、俺の生きがいと言えば、日曜日の朝八時半。プリキュア!あれだけは全くもって最高だぜ!

とは言え一週間の楽しみが三十分だけじゃあんまりにも短すぎる。だからこそ代わり映えのない退屈な毎日に、このときの俺は嫌気がさしていたのだ。

 気が付けば足は石を蹴ることをやめ、その音を目指して進んでいた。

 

 ぷー。…ぷー……。

 近付けば近付く程大きくなってくるその音は、川の方から聞こえてくることがわかった。さっき歩いていた道よりは思ったよりも遠くて足が疲れた。それならば近付こうだなんてよせば良いのに、足が勝手に動く。

 ぷー。ぷー。

 どうやら、何度も何度も同じ音を出し続けているらしい。飽きないのだろうか。でも俺もよく、ぶらんぶらん揺れてる、引っ張って部屋の照明を付けたり消したりするためのヒモで一人ボクシングをやるとなんとなく面白くてずっとやっちゃうからそれと同じなのかな?

 ぷー!ぷー!

 近付いてみて、単調に吹かれているその音がただ大きいだけの音じゃないことに気がついた。力強いのに、優しい。大きいのに柔らかい。

 自分でも矛盾したことを考えているのは分かっているけれど、他に上手い表現が見つからない。

 やがて、川沿いのランニングコースに抜けた。視界一面に川が広がっている。音がしているのは左からだ。遊具なんて何もない寂しい公園の屋根の下にポツンとあるベンチ。

 そこに彼女はいた。

 

 このとき俺は、彼女とラッパを見つめながら何を思ったのだろう。しばらくじっと見つめていたことだけは覚えている。

 もしかしたら、セミロングの綺麗な髪を風で揺らしながら音を奏でる姿を美しいと思ったのかもしれないし、一人で吹く姿を見て珍しいものを見たとでも思ったのだろうか。あるいは、たった一人でベンチに座りながら吹いている姿にどこか自分を重ねた可能性もある。

 

 

 

 「ん?君は?」

 

 やがて大きくて真っ直ぐな瞳が俺を捉えた。

 

 ――その目は、何もかも見透かしているはずなのに、全てを諦めている。

 

 

 「あ……えっと、俺は……」

 

 声を掛けられて慌てている俺に、彼女は人懐っこく微笑む。

 

 ――その眩しい笑顔は、誰しもを魅了するのに、決して誰も寄せ付けない。

 

 

 「ふふ。そんな怖がらないで。君も小学生でしょ?私もまだ小学六年生だしさ」

 

 その話し方は俺が小学生であることと、彼女の方が年上であることを確信していた。身長が俺よりも高いし、きっと正しい推測だろう。

 

 ――俺よりたった三つしか離れていない子どものはずなのに、ずっと歳の離れている大人のようで。

 

 

 「…遠くから、音が聞こえてきて……」

 

 「そうなんだ。聞こえてたかー、これ。恥ずかしいな!」

 

 テレビとかで見たことのある金色の楽器を指しながら、言葉とは裏腹に全く恥ずかしくなんてなさそうに屈託なく笑った。

 

 ――誰よりずっと楽しんで生きているように見えるのに、本当は自分を殺してばかりで。

 

 

 「あ。まだ名前言ってなかったね。私の名前は……」

 

 彼女は立ち上がって、何故か一歩も動くことのできない俺の前にゆっくりと寄って来た。

 

 ――だからこそ、優しさと完璧さを兼ね備えた仮面の下には、冷酷で残忍な本心が潜んでいることに俺は気が付いていた。

 

 

 「雪ノ下陽乃。よろしくね」

 

 

 ――彼女によく似合う名前。綺麗なのに寂しい。春のように温かくて、冬のように冷たい。陽の光は誰しもの心を照らして、けれど彼女自身は雪が溶けるようにすっと消えていなくなる。

 

 

 「それで、君の名前は?」

 

 「比企谷、八幡」

 

 ――けれど消えてしまった彼女に会うことがもう決してなくても俺は、この一年をこうしてまた何度だって思い出すのだろう。

 

 

 「もしよかったら、やってみる?これ」

 

 そして、このときから始まった。

 永遠に続けば良いとさえ思った二人だけの演奏会。

 

 ――だって、俺が吹く理由が叶うことなんてない。

 それはもう、永遠に訪れることはなく、終わりを告げたたった一年間だけの演奏会。



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11

 「はい」

 

 「いやいや。はい、ってこれ……」

 

 「あげる」

 

 また明日ね、と毎日約束する公園のベンチ。初めての放課後のお約束のときはドキドキしながら向かったこの場所も、数日経てば慣れてしまった。

 そんなある日のことだった。いつも急に突拍子もない提案をしてくる陽乃ちゃんだけど、この日は突然黒いケースを渡された。中身は陽乃ちゃんが吹いているトランペットが入っている。

 いくら子どもでも、これは簡単に人にあげられるようなものではないことは分かった。金色に輝くトランペットの価値を俺は知らないけれど、きっとお父さんにかなり無理言って買って貰ったゲームボーイアドバンスよりもはるかに高いものだと思う。

 

 「だってー、初めて会った日に教えてあげるって言ったけど、毎回毎回持ってくるの面倒くさいじゃん?それに八幡、練習投げ出さないで頑張ってるし。楽しそうだし」

 

 「面倒くさいであげたら、お母さんに怒られちゃうんじゃない?」

 

 「怒られないよ。私の家、お金持ちだもん」

 

 そういうものじゃないと思うんだけど……。

 陽乃ちゃんは、いつも思うけどやっぱりなんか変わってる。

 

 初対面の日の翌日にお互い自己紹介して分かったことは、陽乃ちゃんは別の小学校に通う三つ上の先輩だということと、以前から習っていたトランペットという楽器を気晴らしでここで吹いていることだった。

 けれど、それはあくまで公開された情報で人となりは自分で判断しなくてはいけない。陽乃ちゃんは優しくて、話しやすくて面白い。きっと頭も良いんだと思う。それに可愛い。まさに完璧な人だ。ほとんど話さないけれど、少なくとも話し掛けるきっかけになればいいなって考えて観察してるクラスメイトの中にはこんな理想的な人はいない。

 だけど、俺はそれが何となく怖かった。俺の目を見て、拒絶反応を起こさない様子で話し掛けてくれたからだろうか?

 そんな俺の様子を気にせず、陽乃ちゃんは重たそうに持っている黒いケースの中からもう一つ楽器を取りだした。

 

 「それにね、じゃーん!」

 

 「何これ?」

 

 「持ってみて持ってみて!」

 

 「う、うん。……うわ、重い!」

 

 「あはは」

 

 座った陽乃ちゃんに金色の重たい楽器を返して、俺も隣に腰掛ける。

 

 「これはね、ユーフォニアムって楽器なんだよ」

 

 「ゆーふぉーにあむ…?変な名前」

 

 「惜しい。ユーフォニアムだよ。ユーフォ」

 

 俺が渡されたトランペットよりもずっと重くて大きくてくるくるしてる楽器は、立ちながらでも持てないことはないものの座って太ももの上に置かないと疲れてしまう。きっと、大きい音が鳴るんだろうな。おっきいし。

 

 「私さ、本当はユーフォやりたかったんだよね」

 

 「え、じゃあなんでトランペット吹いてたの?」

 

 「お母さんに吹奏楽の花形のトランペットにしなさいって言われたから」

 

 当たり前のように言い切った陽乃ちゃんは、嘘のように真っ直ぐな目をしていた。

 

 「私、他にも色んな習い事してるからさ、どうせ広く浅くやるからとりあえず王道っていうか、一番無難なようにやればいいって」

 

 「そうなんだ」

 

 「うん。まあお母さんが言ってることも分かるんだけどね。だから別に文句はないんだけど、折角八幡がトランペットやるなら、いっそのこと前から吹きたかったユーフォやってみようかなって」

 

 別に文句はない、か。俺だったら絶対に嫌だけど。お母さんにサファイアの方が売れてるみたいだからそっちの方が良いんじゃないって言われても、グラードンの方がかっこいいからルビーにするし、クラスメイトがジュカインが一番かっこいいとか、バシャーモが一番強いんだぜって話してても可愛いからミズゴロウ選ぶもん。可愛いから。ヌマクローになって気持ち悪くなって、ラグラージになったときは絶望したけど。

 

 「吹いてみてよ。すっごい大きい音鳴るんでしょ?」

 

 「お。聞いたら驚くよー。指の動かし方は八幡が持ってるトランペットと変わんないんだ。吹いてみるね?」

 

 ブォー。

 甲高くはない、むしろ丸みがある音はトランペットよりもずっと小さい音だった。小さいというのは違うのかもしれないけど。トランペットが突き刺さるような音だとしたら、ユーフォニアムは振動させる、みたいな。

 

 「……どう?」

 

 「なんか大きいから全然違う音だと思ってたけど、こんな音が鳴るんだね」

 

 「渋くてかっこいいでしょ?大きいし」

 

 「うーん。かっこいいけど、俺はトランペットの方が好きかな」

 

 「なんで?音が大きいし派手だから?」

 

 むしろ目立つのはあまり好きじゃないけど。ただ何となく、最初に聞いたのが昨日の陽乃ちゃんが吹いてたトランペットの音だったから気に入っちゃって。

 ただ俺にはユーフォニアムの方が合っている気がするし、逆にトランペットは陽乃ちゃんにこそ似合っている気がする。音が地味なところとか、すごい俺っぽい。

 

 「ううん。昨日の陽乃ちゃんみたいに吹けたらなって」

 

 「お。嬉しいこと言ってくれるねえ」

 

 「それに、これが吹けるようになったら友達出来るかなって」

 

 「うーん。それは……どうだろうね。でも、そういうことならトランペットは難しいからちゃんと毎日練習しないとダメだよ?ってことでそのトランペットは君に預けよう」

 

 「頑張る。でもトランペットは本当に……」

 

 「まあまあ。そんなにやる気があるなら、持ってた方が良いって。それよりこのユーフォとか他にもホルン系の楽器の多くはね、確かにそれだけだと地味だし目立たないけど、八幡がいつか吹けるようになるであろうトランペットの音にずっと厚みが出すんだよ……って言ってもよくわかんないよね?」

 

 「うん」

 

 「いいのいいの。そういうのも少しずつ勉強しよう」

 

 笑ってユーフォニアムを吹いている陽乃ちゃんは、本当に嬉しそうに吹いていた。やっぱり、そんなに吹いてみたかったんならお母さんに言われてもそっちを吹けば良かったのに。

 続けざまに陽乃ちゃんは『かえるの合唱』を演奏した。

 

 「どうどう?」

 

 「すごいね」

 

 「他には?」

 

 「かっこいい」

 

 「もっともっと」

 

 「すごいね」

 

 「それさっき言ったじゃん!もっと褒め方を勉強して」

 

 明るく振る舞っていた陽乃ちゃんだったが、またしばらく吹いてから急にシュッとした。

 

 「…私には似合わないかな?」

 

 「似合わないって、その楽器が?」

 

 「うん。ユーフォはソロで吹くことも主旋律を吹くことも少ないし、ほとんど目立たない縁の下の力持ちみたいなポジションで、やっぱり地味な楽器だからさ。お母さんも含めて、教えてくれる先生とかにもおすすめはされなかったんだ。でも私は初めて見たときからかっこいいと思ってたんだけどね」

 

 ソロ?しゅせんりつ?えんのしたの何とか?

 前半の話に全然ついて行けなかったんだけど、後半の内容は何となく分かった。

 

 「最初の方は難しくて何言ってるのかよく分からないんだけど、でも陽乃ちゃんがトランペット吹いてたときより楽しそうに吹いてるから良いんじゃない?」

 

 「え。私そんなに楽しそうに吹いてた?」

 

 「うん。それにさっきから前から吹きたかったって言ってたじゃん。だからじゃない?トランペットは凄い上手だったけど、なんか楽しくはなさそうだったよ」

 

 「……そっかあ。じゃあ私はやっぱり吹いてみようかな。ユーフォ」

 

 「それがいいよ」

 

 しばらくユーフォニアムを見つめて、何かを決心したかのように顔を上げた陽乃ちゃんはやっぱり楽しそうに笑っている。さっきまでのシュンとした顔はどこにいったのだろう。

 

 「よし。じゃあ今日の練習しよう!ささ。楽器は置いて。まずはこのマウスピースから音を出せるようにするの」

 

 「楽器なしで?」

 

 「そうそう。見ててね」



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12

 ユーフォニアムの音が聞こえてきた。

 懐かしい音だ。陽乃ちゃんのユーフォの音。楽しそうなのにどこか寂しくて、辛そうなのに伸び伸びと。それはあの人の性格を連想させた。表と裏。黒と白。どこか正反対の二面性を持つ演奏は、俺が初めて陽乃ちゃんを見たときにこそ憧れたものだったけれど、今になっても尚、彼女のように演奏出来ることはない。

 そんな音が聞こえてくるんだから、きっとこれはまだ夢の中なんだろう。

 夢だと思わせるのは音が聞こえてくるのが、ここよりずっと遠い所からだというのもある。この遠い所から聞こえてくる感じも、ユーフォニアムの音も、初めて彼女をいつもの公園で見つけたときにどこか似ていた。

 音に神経を集中させながら、まだ重たくて開くことのない瞼。

 

 『ねえ、知ってる?』

 

 何、豆しば?

 ………じゃない!?こ、この展開はまさか…!?

 

 『ねえ、知ってますぅ?』

 

 さふぁしばだ!さふぁしばが帰ってきた!

 知らない知らない。俺、何にも知りません!

 

 『こんにゃくの九十五%は水で出来ていて、固めるためには石灰が使われているんですよぉー』

 

 あ、ああ…。相変わらず使い所が全く分からないどうでもいい豆知識だ。

 つまり俺たち、石灰を食べてるって事だよな?身体に悪そうだけど。でも野球少年がヘッドスライディングしたときとか白線の粉が舞うけど、あの粉も石灰だもんな。それを吸収しても別にそんなに害があるわけではないだろうから、多少なら大丈夫って事か。

 目の前のさふぁしばはニコニコと笑っている。試しにさふぁしばをタッチしようとしたが、ひょいと躱された。

 

 『ダメですよぉ。お触り厳禁ですぅ』

 

 諦めずほいほいとさふぁしばに手を伸ばすものの、意外とさふぁしばは素早い。

 

 『ふふ。捕まえてご覧ですぅ』

 

 ニコニコと俺の手を躱し続けるさふぁしばは楽しそうだ。この笑顔、国宝級。俺氏、一生この夢の中で生きていきたいでござる。

 まてまてー。

 

 『あははですぅ。うふふですぅ』

 

 鳴り止まないユーフォニアムの演奏の中、俺とさふぁしばの戯れは続く――。

 

 

 

 

 

 「…って続く訳ねえだろうが」

 

 俺の眠りが浅いときに出現する傾向があるのだろうか、さふぁしばは。久しぶりの登場に危うく心を幸せな夢の中に置いてきてしまい、そのまま夢の世界の住人になりかけたが、一瞬冷静になったところで目を開いた。見慣れない天井には黒染が点々と存在する。それに部屋は蒸し暑い。

 視線を横にずらせば、口を開けて眠る塚本。腹を出して眠るやつ。パンツ一枚しか着ていないやつ。多分、パンツの上に履いてたパジャマは二つ隣のやつの顔に掛かっている。どういうシチュエーションなんだ……。何はともあれ、汚い世界だ。さっきの綺麗な夢の世界とは大違い。これだからリアルは。

 窓の外から差し込む光はもう明るいが、しかし目覚まし時計が鳴った様子もないし、まだみんな寝ている。もし起床時間を過ぎていて、これだけ男子が寝ていたなら女子達から防空壕の中に直接爆弾を投げ込まれるくらいの集中砲火を食らうことになるだろうが、スマホに写る時計の時刻はまだ五時を指していた。

 

 「……んぅ」

 

 目を再び閉じて眠る気にもならず、俺はずずーっと身体を起こす。昨日は日をまたぐまで優子先輩と話していたし、全然寝られていないから身体は疲れている気がする。そう言えば優子先輩は、あの後黄前と話すと言っていたけれど何時頃まで話していたのだろう。流石に一時間くらいだと思うが。

 

 「……え?」

 

 まだ完全に意識は冷めていない中、夢の中で響いていた音が聞こえてきた。ユーフォニアムだ。

 まさか、陽乃ちゃんがいるわけがない。俺たちが出会ったのは千葉で、ここは関西だぞ。

 そんなこと頭の中では理解しているのに、身体は忙しなく動いた。静かに部屋を出て、慌てて靴の置いてあるフロントへと向かう。

 

 「はぁ…はぁ……」

 

 気が付けば走り出していた。陽の光は眩しく、けれど風は冷たい。栄える緑に視線を向ける余裕はなく、ひたすらにコンクリートの坂を走る。吹部の練習の一環として校庭を走っているし、そんなに大した運動ではないはずなのに息はいつもより上がっている。

 もし、陽乃ちゃんがいたならば、言いたいことがある。

 『どうして、もう練習に来れないことを教えてくれなかったのか』とか、『吹奏楽を続けて、部活とかをしていたら絶対に見つけてくれるって言ってたのに、いつまで待っていれば良いのか』とか、『やりたいことをやれって言ったのに、そういう自分はやりたいことやってるのか』とか。言い出したら切りがない。でも、伝えたい。

 

 そして、坂を登り切った先に彼女はいた。

 開けた公園の真ん中で一人、銀色の楽器を持って佇む。朝日を浴びて輝く黒髪。響くユーフォニアムの音も相まって、ここは神聖な場所にさえ思えた。

 そんな場所で色んな感情が込められているような演奏に魅入られて、聞き惚れて。動けずにいる俺は初めて陽乃ちゃんを見た時と何も変わらないまま。

 

 「…田中先輩……」

 

 あぁ。俺はあの人が苦手だ。

 勝手に期待して、勝手に裏切られて。陽乃ちゃんと田中先輩の面影を重ねた。わかっている。苦手意識を持っているのは極めて個人的な理由で、田中先輩は何も悪くない。

 けれど、俺の直感が正しければ。あの人が本当に陽乃ちゃんと同じであるならば。

 きっと彼女はいつか、大切なことは何も言わずにいなくなる。俺たちの誰よりもずっと頭も良くて、色んなものが見えていて、それでも全てを諦めて。

 ただでさえ、今の部活の運営体制は田中先輩に頼りすぎている節もある。その信頼が自らの意思で背負った責任でないにしても、いなくなってしまったとしたらそれは北宇治高校吹奏楽部を見捨てることに他ならない。

 だからこそ、そんな日が来ないことを祈る。色んな感情を捨てるように静かに息を吐き出して、俺はその場を後にした。




読み易いかと思い、文の始めに空白を空けるようにしました。
この話以降、空白を空けていきます。


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13

 ほとんどの時間をトランペットと過ごした夏休みが終わって、数日が経過した。

 『今年の夏休みはどうだったー』とか、そんな余韻に浸る間もなく夏休みが明ければ関西大会はすぐそこに迫っている。具体的には残すところ十日。『全国大会出場』。数ヶ月前に決めた目標に届くかどうか決まるまでは、もうたったそれだけの時間しかない。

 

 「はい。それでは文化祭の後に控えている球技大会の種目別のメンバーを決めます」

 

 各クラスに男女一人ずつ決められている球技大会の実行委員が進行を始めた。思わずため息が出てしまう。

 球技大会ははっきり言って、クソイベントだ。

 何が良くないって、行われる種目の部活の部員のドヤ顔を見るだけの時間だと言うこと。何故あいつらが目立つためだけの引き立て役としてその他大勢が犠牲にならなくてはならないのか。その癖、体育の授業の単位に組み込まれているため、欠席をすると後から放課後の時間を使って補講を受けなくてはいけない。つまり半ば強制と言うことである。

 球技大会は文化祭の翌週の平日に全学年共通で行われる。例年、文化祭が開催されて球技大会までの日が近すぎるとかで生徒達から苦情が多いのだと、パート練の時に先輩達が吉沢に話しているのを盗み聞きした。

 クラス単位でチームに別れて行われるこのイベントは、男女共にバスケとサッカー、バレーの三種目を行う。一人必ず一種目は出場しなければならず、また試合ごとに一度はチームの全員が出場しなくてはいけない。当然、やる気のある奴とか、この機会に運動神経良いことアピールしてやろうかみたいな妙に気合い入れてるキモい奴は、人数の調整が上手くいけば三種目のメンバーに選ばれることも出来るが、如何せん俺のいるクラスは進学クラスのため、他のクラスと比べるとイベント事にお熱な奴が少ないと思う。

 

 「じゃあまず、男子から。サッカーに参加したい人」

 

 球技大会で行われるサッカーはスターティングメンバーが八人と通常のルールの十一人よりも少ない。それでも他の種目と比べて、最低人数が八人で最も多いサッカーは自然と人が集まりやすい。クラスの中でも大所帯のグループが手を上げて、メンバーはすぐに決まった。

 

 「俺、ゴールパフォーマンスでグリーズマンのあれやるから」

 「こないだのメッシのフリーキック練習しとくわ」

 「俺たちのチームが目指すはアヤックスだよなー。大躍進したし」

 「我こそはアザールでゴザール」

 

 このメンバー決めにおいて、クラスに全く居場所のない俺が考えるべき事は如何にやる気のないクラスメイトが集まる競技に参加するのかである。故に、無駄に『海外サッカーの知識をひけらかしてる俺、かっこいいし博識』みたいな感じを揃いも揃って全員が出しているこの競技には、まず参加する訳にはいかない。

 大体、たかだか球技大会なんかで世界で戦っている選手とかチームのサッカーが出来る分けねえだろ。気取ってんじゃねえぞ、おら。

 そんな考えを俺はアトレティコ張りの忍耐力で言わないようにぐっとこらえた。

 

 「じゃあ次ー。バレーボールー」

 

 「バレーボールはうちのクラス、部活やってる奴多いから一番期待できるよな?」

 

 誰かの情報が入ってきて、俺は心の中でガッツポーズをする。ナイス。それなら、バレーはなしだ。

 バレーもささっと決まって残されたのはバスケのみ。

 

 「じゃあ最後はバスケットボールだけど…。まだ何の競技にも決まってない人はどのくらいいるかな?その人達はバスケは参加確定で、人数少なかったらサッカーかバレーやる人の中から決めますね」

 

 お、これは良い決まり方だ。これならバスケをやるにもちょうど良い言い訳にもなるし、比較的意識が低い奴もいることだろう。

 手を上げたのは俺を含めて四人。バスケ部員は二人らしい。これでは最低人数の五人にも満たないので、クラスメイト達はバスケに出場するかどうかを話し合っている。

 ま、ここまで決まれば何でもいいわ。やる気も興味もない。コートに足入れてすぐ交代。それで出場したことにすれば良いっしょ。

 俺は机に顔を伏せた。今日はこの後に球技大会のメンバーなんかよりもずっと大事な発表がある。

 関西大会の演奏の順番だ。

 

 

 

 

 

 「北宇治高校は十六番目の演奏になる」

 

 松本先生の発表に部員達からは安堵の声が漏れた。

 コンクールの演奏において順番は非常に大切だ。審査員次第ではあるものの、最初の方の演奏は後に続く演奏で印象が忘れられ易く、最後の方の演奏は特に決まった数曲の中から一曲を選択して演奏するため、他校との演奏がどうしたって被る課題曲の演奏に聞き飽きて疲れているのであまり良くない、と言われることが多い。

 だから真ん中の方の二十三校中十六番という順番はまずは良し。悪くない。

 

 「あの…他の高校は?」

 

 松本先生が少しだけ答えにくそうにした。質問した部員も、何となく聞いたことを後悔したように見えるが、誰しもが他校の順番を気にしている。

 質問に答えたのは滝先生だった。

 

 「主な強豪校ですが、大阪東照は前半の三番目。秀塔大付属は十二番目。そして明静工科は私たちの前、十五番目になります」

 

 「「「えぇー!」」」

 

 おいおいマジかよ…。

 関西大会への出場が決まった日の帰り道で優子先輩から聞いた圧倒的な実力を持つ大阪の三校。そのうちの一校が俺たちの前に演奏するというのは最悪である。圧倒的な演奏の前に存在感をアピールできないのではないか。この不安はサンフェスの時にも立華の後に吹かなくてはいけないという状況と同じだ。

 隣を見てみれば、高坂は順番なんて全く気にしていなさそうだ。いや、気にしてなさそうっていうか、してないんだろうな。

 

 「明静の次なんて……」

 

 「何ー?強豪校の次だからってビビってんのー?」

 

 「そりゃあ…まあ…」

 

 「関係ない関係ない。関西大会なんてどこを見たって強豪校ばかりなんだからー」

 

 「橋本先生の言う通りです。気にする必要なんてありません。私たちはただ、いつもと同じように演奏するだけです」

 

 「「「はい」」」

 

 返事こそきっちりとしたものの、未だ不安そうな部員達。それに引き替え、滝先生も橋本先生も新山先生も余裕綽々としていて、流石だななんて他人事のように感じた。



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14

 「香織せんぱぁーい、今日授業で先生に怒られたんですよぉー」

 

 「え?どうして?」

 

 「なんか授業中うとうとしてたら寝るなって。寝てないんですよ。酷いですよね?」

 

 これまでの俺のクラスメイトの観察記録によると、『寝てないよ!寝てないから!』と言う奴は十中八九寝てる。特に机に腕で顔を覆うようにして伏しているやつ。あれで寝ていなかったとかよく言えるな。

 香織先輩と優子先輩が前を歩いている中、それに続く形で音楽室に向かう。合奏練習が終わりパート練習になったが、いつも練習をしている教室が文化祭の話し合いが長引いているようで使えなかった為、音楽室で練習を行うことになった。

 音楽室はいい。夏休みの間、音楽室だけは冷房が効いていて、パート練習を行う各教室は暑さをどうにかする手段が扇風機くらいしかなかった。今は学校が始まったためどこの教室でも冷房が効いているが、夏休みが空けて変わったことと言えば授業があるかないかくらいの差で、部活が生活の中心なのは変わらない。それもあってか夏休みが終わった後も音楽室は天国。そのイメージが拭えずにいる。

 

 「あはは。酷いね。朝練行ってるから眠くなっちゃうのは仕方ないしさ、コンクールが終わるまでは見逃してって感じ」

 

 「ですです。やっぱり香織先輩はわかってくれるんですね!エンジェル!」

 

 前の二人の会話を聞いていると、隣を歩いていた高坂に話し掛けられた。

 

 「比企谷さ、そう言えば球技大会さっき何に出場することになったの?」

 

 「俺はバスケ。高坂は?」

 

 「私はバレーに決まった」

 

 「ふーん」

 

 高坂のバレーか。男子からの注目が凄そう。主におっぱい的な意味で。おっぱいバレーって一時期流行ってたもんなあー。映画自体ってよりかは、その呼称が。

 

 「文化祭とか、球技大会とか纏めてあると面倒くさいね。授業なくていいって思ってたけど、関西抜けたら全国に向けての練習もあるし」

 

 「まあ文化祭も球技大会も、実行委員とかにならなけりゃ適当に過ごしてれば終わるんだから別に良いだろ?」

 

 「でも文化祭もどうせやるならクオリティ高いのやりたいし、球技大会だって勝ちたくない?」

 

 「いや別に全く全然これっぽっちもそんなこと思わない」

 

 「同じクラスなんだし、もう少しはやる気出してよ。私はやるからには最高の結果を出したい」

 

 「意識高すぎ高杉君かよ。結果残したって何かあるわけじゃねえだろ?」

 

 「ん?ストップストップ。なんか大事そうな話してる」

 

 前を歩いていた香織先輩が音楽室の中を見て、扉を開けずに俺たちに止まるように指示を出した。中を見ると、新山先生と鎧塚先輩が二人で話している。

 二人の会話が厚くはない扉越しに聞こえてきた。

 

 「私、鎧塚さんにちゃんと謝っておこうと思って」

 

 「謝る?」

 

 優子先輩が首を傾げた。確かに新山先生が鎧塚先輩に謝る事なんて一体何があるのだろう。

 

 「正直に言うとね、私も貴方のソロを聴いたとき物足りないと感じたの。なのに高校生だからこれで十分って」

 

 「あの…」

 

 「私はあなたの可能性の上限を決めつけていた。ごめんなさい、失礼なことをしてしまったなって。貴方の技術は素晴らしいわ。でも、聴いていると苦しくなる」

 

 新山先生の話を聞く鎧塚先輩はぽかんとしていたが、機械仕掛けの人形の様に顔を動かして、教室に入らずにいる俺たちを視界に捉えた。夜の海のように深い瞳の奥にある感情は、きっと困惑だと思う。それも鎧塚先輩の表情からは正確にはわからないけれど、助けを求めているようにも思えた。

 こないだの合宿中に橋本先生から指摘を受けたときもそうだったが、技術的には何一つ文句はなく、むしろ優れている。感情が演奏に乗っていないことを指摘されるのは、本人からしても指導者からしても難しいのだろう。技術的な面とは違って、感情的な面は指の動かし方とか、息の仕方とかそういう指導でどうにかなるものでは当然ない。

 

 「もっと楽しんでもいいのよ?」

 

 「……はい」

 

 やっぱり鎧塚先輩の表情は変わることはなかった。

 音楽室で話す二人を見ながら、消え入りそうな声でぽしょりと呟いたのは優子先輩だった。

 

 「みぞれは…変わらなくちゃいけないのかな?」

 

 「少なくとも、滝先生とか指導してくれている先生達がより北宇治の演奏をよくするために変わらなくちゃいけないって言うなら、変えなくちゃいけないと思います」

 

 「高坂」

 

 「……でも私は、鎧塚先輩の演奏は綺麗だし上手いと思いますけど」

 

 「え?」

 

 高坂のフォローに優子先輩が驚いた。変わらず無表情で鎧塚先輩を褒めた高坂を見て、そんなフォロー出来たのかなんて思っているのかもしれないが、高坂は良くも悪くも思ったことをハッキリと口にする。特にそれが、北宇治の実力アップの為のことであれば。

 そう考えると、高坂と優子先輩って似てるとこあるよな。他にもやたら負けず嫌いなとことか。

 

 「……とりあえず私たちも音楽室入りましょう。いつまでもこうしていたって仕方ないですし」

 

 「うん。そうだね」

 

 香織先輩が新山先生に頭を下げながら音楽室に入ると、無表情な鎧塚先輩の隣にいる新山先生は笑顔で俺たちを教室に招き入れた。

 

 「それじゃあ、みんな練習頑張って。私はフルートの子の指導に行ってくるわ」

 

 「あ、はい」

 

 新山先生の優しいのに厳しいと評判の指導は合宿後も変わらず続いており、イケメン粘着悪魔ではなくて、爽やか系イケメンと言われてた吹奏楽部の顧問に就任した頃の滝先生と同じように、ただただ美人な先生だとは思われていない。おそらく今から新山先生が向かった木管では何度も同じフレーズの音が聞こえ続けるのだろう。

 

 「私、もう少しここで練習してからパート練習に参加してもいいですか?」

 

 「ええ。勿論構わないわ。それじゃ鎧塚さん。また後でね」

 

 新山先生が音楽室の扉から出て行く。あ、手を振られた。可愛い。落ち着け、可愛いって、普通は年上の人に思う感情じゃない。

 

 「みぞれ、大丈夫?」

 

 「大丈夫だけど、よくわかんない。優子、感情込めて吹くってどうしたら良いの?」

 

 「え?とりあえず吹いてみてよ」

 

 「うん」

 

 鎧塚先輩が吹くオーボエの音はやっぱり変わらない。優子先輩も難しそうな顔をして演奏を聴いていた。

 

 「ここの辺り、もっとたっぷり目で吹いてみたら?」

 

 「それが感情ってこと?」

 

 「んー。わかんない。だけど、あんまり考えすぎることはないよ。思ったように吹いてみよう?」

 

 「うん……」

 

 聴いていて苦しい。俺はそうは思わないけれど、確かに寂しい演奏ではあるなと思うし、想像が出来ない。優子先輩が言っていた、感情豊かな演奏。それを俺たちが耳にする日は果たしてあるのだろうか。もし、あるとしたらそれは一体、何によって吹けるようになるというのか。

 

 『でもきっと高校生の皆が思っている以上に向き合うために一歩踏み出すっていう行為は大切だと思う』

 

 『何かのきっかけを与えてくれるような存在の人ってどういう形であれ、特別で替えなんて絶対にきかない存在だと思うの』

 

 その答えは喉元まで出かかっている。確かに幾重にもリスクは孕んでいるし、俺がその答えを自らの目的のために遠ざけた。だから、俺にその答えを言う資格なんてどこにもない。他者の成功も苦しみも俺は考えず、自分の目的を優先した。

 けれども求めていたはずの『停滞』は、翌日にあっさりと崩壊した。



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15

 「本当に良いの?」

 

 「うん。だから、今日で最後。後は大会終わるまで来ないようにする」

 

 「そっか。それが…良いかもね」

 

 傘木先輩と中川先輩が階段の踊り場で話している声が聞こえてきて俺は足を止めた。

 合宿が終わって、中川先輩は滝先生の所に直談判に行くつもりだと話していたが、三人で話した夜のこともあって傘木先輩が滝先生の元へ入部を希望する旨を伝えに行くことはなかった。あの夜の話と、二人が滝先生の所に行かなかったという事実は、傘木先輩に取っても、そして中川先輩に取っても酷いことだったのだと思う。そんな罪の意識もあってか、思わず階段を下って遠回りしていこうと決めた。

 

 「お、比企谷ー。どこ行くの?」

 

 「……お、お疲れ様です」

 

 何故だ。何故見つかった…。

 中川先輩に声をかけられてその場で足を止める。傘木先輩は俺と中川先輩に手をひらひらと振って、そのまま一人で階段を上がっていった。

 

 「音楽室行くんじゃないの?」

 

 「いや、まあそうなんですけど…」

 

 「あ。もしかして私と顔合わせるの気まずかったりした?」

 

 「それはまあ、違くはないと言いますか。でも思えば俺、基本的には誰とでも会えば気まずいと言うか…」

 

 「結局どっちなのかよくわかんないけど、あんま気にしなくて良いよ。こないだの合宿の時のことは。むしろ、あそこで聞けてて良かったなって、私思ってるから」

 

 「…そうなんすか?」

 

 「うん。だって私、あすか先輩とは同じパートだけどさ、何回もお願いに行ってずっと理由教えてくれなくて、流石に何かあるのは分かってたけど正直不信感は募ってた。でも言わないでいた理由が私も納得できる理由だったから、仕方なかったのかなって。

 最後まで理由も教えてもらえないで、二年間同じ楽器を一緒にやってきた先輩と大喧嘩にならなくて良かったよ。わかんなかったことがわかってすっきりもしたしね」

 

 「…そうですか。ちなみに、そのことを傘木先輩は…?」

 

 「…言ってない。考えたんだけど、伝えるべきか伝えずにいるべきか自分ではわかんなくて、結局言い出せなかった」

 

 「そうですか…」

 

 「今の話聞いてたなら分かる思うけど、コンクールが終わったらまた復帰のお願い行こうと思ってるからさ。そしたらその時は流石に希美にも伝えるけどね」

 

 やっぱりきっと中川先輩は困っていた。俯いている中川先輩に何か声をかけるべきか悩んでいるところで、その声は音楽室のある上の階から聞こえてきた。

 

 「みぞれ!?待って!みぞれ!」

 

 ガシャンと何かが倒れる音と、叫ぶ傘木先輩の声。

 もしかしたら今、最悪の展開になったかもしれない。背中に冷たい汗が流れた。

 

 「今の声、希美だよね!?行こう!」

 

 中川先輩と急いで、階段を駆け上る。登っていく度に、上履きが床を擦る音と部員達のざわざわと騒ぐ声が大きくなっていった。

 右にある音楽室の反対側。階段を上って左の廊下の奥には、走ってどこかに向かう鎧塚先輩がいた。白い足が上下するのに合わせて、スカートも波のように大きく揺れている。 そして、その先輩を追いかけようとした傘木先輩の手を掴んでいたのは優子先輩だった。

 予感が的中した。鎧塚先輩と傘木先輩が会ってしまったのか!

 

 「…やめて…!」

 

 「…優子?」

 

 「とにかく早く探さなくちゃ…」

 

 キョロキョロと周りを見て、優子先輩は一人の女子部員を呼んだ。

 

 「黄前さん」

 

 「は、はい?」

 

 「あの子の事情知ってるよね?あの子のこと、探してくれない?あの子今、慣れていない子と会うのヤバいから…!」

 

 黄前と優子先輩は合宿の日の夜に二人で話していた。もしかしたら、その時に優子先輩が話したか、あるいは黄前は低音でしかもユーフォニアムの奏者である。田中先輩と同じパートのため事情を一通り聞いていたのかもしれない。

 それにそうだ。合宿の一日目の夜に、黄前と鎧塚先輩が二人で話しているのも見かけた。

 

 「お願い…」

 

 「は、はい…」

 

 何が起こっているのか分からなそうにしている黄前に優子先輩は指示を出していく。

 

 「私は一階と二階を探すから、黄前さんは三階と四階をお願い!」

 

 「ま、待ってよ…。どういうこと!?」

 

 「希美」

 

 困惑している傘木先輩に声をかけたのは中川先輩だった。

 落ち着いて聞いて欲しいんだけど、そう切り出した中川先輩を見て俺は事情の説明は中川先輩に任せることにする。

 状況の整理をしよう。鎧塚先輩の行き先を考える。

 鎧塚先輩は走ってどこかへと向かって行った。それもかなりのパニック状態で。きっとできるだけ人がいない場所で落ち着きたいと思ったに違いない。そして、優子先輩の話を聞く限りだと、慣れていない人と会うのは良くないらしい。であれば、鎧塚先輩が無意識に向かう先は、人がいない場所であるということ。

 

 もし行き先が人のいない場所であるというのなら。イコール、それは俺の専門分野だ。

 数ある学校のボッチスポット。誰もいない、ゆとりある空間は北宇治高校においていくつか存在するが、その中から今の鎧塚先輩が最も行きそうな場所を考える。

 

 「…優子先輩。待って下さい」

 

 「何よ!?今急いでるんだけど!」

 

 「一階と二階の捜索は必要ありません。多分反対の校舎の三階か四階にいます」

 

 「え?」

 

 「人がいない場所を通って、かつ人がいない場所。とりあえず四階の廃部になった部活の空き教室辺りに行って下さい。あ、あと女子トイレも確認した方が良いです。隠れるのには最適ですから」

 

 「ど、どうして…」

 

 「外には下校の生徒と運動部がいる。教室が集まるこの校舎にも今は文化祭の準備で残る生徒も多いと考えると、可能性は自ずと反対の部室棟の可能性が高いと思います。走って行った方も渡り廊下の方ですし。

 反対の校舎は一二階は部室として今も使われている教室が多いですが、三階と四階は使われていない空き教室が多いです。

 何かから逃げるようにして走っていましたから、できるだけ遠くまで進んだ可能性が高い。そうなると四階かなって」

 

 「……」

 

 「優子先輩。念のために俺が一階と二階は見て回りますから。優子先輩は可能性ができるだけ高そうな方に行って、鎧塚先輩の所に行ってフォローしてあげるべきです」

 

 「…うん。わかった。ありがとう!」

 

 走って行く優子先輩を見て、俺も急いで階段を下っていく。すぐに香織先輩と小笠原先輩にすれ違った。

 

 「あれ、比企谷君?」

 

 「香織先輩!」

 

 「え!?そんなに慌ててどうしたの!?」

 

 「今、階段登ってくる途中に鎧塚先輩を見ませんでしたか?」

 

 「いや、見てないけど…」

 

 香織先輩は小笠原先輩と顔を見合わせたが、小笠原先輩も首を横に振った。

 であるならば良かった。やっぱり鎧塚先輩は階段を降りていない可能性が高い。

 

 「分かりました。ありがとうございます!」

 

 「あ。待ってよ!」

 

 香織先輩の制止を聞かずに走る。可能性の虱潰しは自分の推論への保険でもある。もし黄前と優子先輩が探しに行った先で見つからずに、一階や校庭にいたら大目玉なんてものではない。

 一階や二階は生徒が多いから、必死こいて走っている姿を生徒達に見られるのが恥ずかしくて本当は嫌なんだけどなあ。

 けれど、今の俺は普段なら絶対に考えるそんな思考は一切なかった。むしろ、いつもより早く、誰の目も気にせずに。



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16

 「はぁ……はぁ……」

 

 「はぁ…お疲れ……。助かった。ありがと」

 

 「…お疲れ…様です……。教室、入らないんですか…?」

 

 「…うん。あの子、結構聞き上手だから、任せようかなって」

 

 息がまだ少しだけ上がっている優子先輩は、教室には入っていなかった。教室の外で静かに話を聞いている。

 俺が予想していた四階の教室には鎧塚先輩がいた。教室の隅で、いつもは鉄仮面のように無表情な先輩は泣いて途切れ途切れになりながらも言葉を紡いでいて、それを黙って聞いているのが黄前だ。

 その姿を見て始めに思ったことは、全然感情がないなんてことはないんだ、なんて当たり前のことだった。瞳には確かに悲しみが宿っているし、涙と一緒にあふれ出る言葉は細い身体と同じタイミングで震えている。

 俺が聞いて良い話ではない。そう思って戻ろうとしたら、優子先輩に制服を掴まれて止められた。

 

 「いいんじゃない。あんただって、今回の事に関して部外者じゃないし」

 

 「でも…」

 

 「しっ。みぞれが話してる」

 

 「私、人が苦手。性格暗いし、友達も出来なくてずっと一人だった。希美はそんな私と仲良くしてくれた。希美が誘ってくれたから吹奏楽部に入った。

 嬉しかった。毎日が楽しくって。

 でも希美にとって私は友達の一人。たくさんいる中の一人だった」

 

 「……なんか」

 

 「…ん?」

 

 『普通に下の名前で優子先輩で良いわよ。同じパートなんだし』

 

 優子先輩と初めて話して帰った日の事を思い出す。

 

 「……いや、何でもないです。勘違いかもしれないですけど、少し、というかかなり鎧塚先輩の話、分かる気がします」

 

 鎧塚先輩の境遇と自分を重ねているわけではないけれど、普段人と関わらない人間からすると、普通に接してくれる人。それだけでもはや、特別な人間なのだ。話し掛けられたら嬉しいし、気安く名前を呼びかけられた日にはあまりの緊張で声が上擦る。

 気が付けば教室の前から去る気はなく、鎧塚先輩の独白に耳を傾けていた。

 黄前は何を話したら良いのかわからない。何とか絞り出した言葉は否定だったが、それでもその声は弱々しくて、重みはなかった。

 

 「そんなこと…」

 

 「だから…!部活辞めるのだって知らなかった!私だけ……知らなかった…!」

 

 部活をやめる時に傘木先輩が鎧塚先輩にだけ何も言わなかったことは、以前優子先輩から聞いている。だが、それを知らない教室にいる黄前は息を呑んだ。

 

 「相談一つないんだって…私はそんな存在なんだって知るのが怖かった。

 わからない…。どうして吹奏楽部にいるのか…。…わからない……」

 

 「…じゃあ、どうして吹奏楽続けてるんですか?」

 

 「楽器だけが…楽器だけが、私と希美を繋ぐものだから……」

 

 ああ。俺はきっとまちがえた。

 

 『また明日もさ、二人で吹こっか。約束ね』

 

 知っていた。初めて始めたきっかけになった人がどれだけ大切なのかなんて。俺は誰よりも知っていた。

 そして、その人との繋がりのために楽器を続けることが、どれだけ心が荒ぶものかだって。会いたいのに会えない。聞きたいのに聞けない。伝えたくても伝えられない。

それを軽んじた俺はまるで本当に刺されたかのように、心が痛かった。これはきっと本当は気が付いていて、それでも鎧塚先輩と傘木先輩を近付かせまいとした俺への罰なのだ。

 

 『高校生の皆が思っている以上に向き合うために一歩踏み出すっていう行為は大切だと思う』

 

 でもだからこそ、新山先生の言っていた通りやっぱり向き合うべきだと思う。鎧塚みぞれは傘木希美と話すべきだ。

 だって距離的な意味で、もう絶対に会えない俺とは違うから。傘木先輩はいつだって会えるし、話し合える。

 

 「優子先輩」

 

 「……うん。言わなくても良いよ。私もきっと同じ事思ってる」

 

 はぁ、と優子先輩は大きく息を吸ってそれを吐き出す。目を開けた優子先輩は少しだけ泣きそうな顔をしていた。

 

 「…ねえ、比企谷」

 

 「…なんですか?」

 

 「…私ね、狡い人間なの。本当はみぞれに希美と会って欲しくない」

 

 「……」

 

 「だけどさ、やっぱりみぞれのこと大好きだし、大事な友達だから…行かなくちゃ」

 

 扉に手をかけている優子先輩の手は震えていた。

 狡い人間だと、俺は思わないけれど。独占欲だって、嫉妬だって、それは誰しもが当然に持つ感情だ。

 

 「……」

 

 「……まあ、あれですよ。花火大会の日に、先輩が暴走したら助けるみたいな事言いましたからね」

 

 「え?」

 

 「だからその、鎧塚先輩だけじゃなくて優子先輩も、はっきり言ってきて良いんじゃないですか?思ってること。そっちの方が先輩らしい気もするし…」

 

 「……じゃあ今日の放課後は公園で傷心会しよ?決定ね?」

 

 傷つくことが前提なのか。まあ、実際鎧塚先輩と一年間接してきてのは優子先輩だから、わかるものなのかもしれないけれど。

 ガラガラという横開きの扉を開けて教室に入っていく優子先輩は少しだけ笑ってくれたけど、やっぱり泣きそうだった。

 

 「みぞれ。心配かけて…」

 

 近付いていき、優子先輩は鎧塚先輩の背中にそっと触れて上下に動かす。その間も、黄前は鎧塚先輩の傘木先輩への執着とさえ言えるような想いに声が出ないようで立ち尽くしていた。

 きっと傍で見ている黄前は二人の姿を見て、すぐにわかっただろう。鎧塚先輩に手を差し伸べる優子先輩は何をしたって、傘木先輩にはなれやしない。

 

 「まだ、希美と話すの怖い?」

 

 「うん。だって私には、希美しかいないから。…拒絶されたら……」

 

 「なんでそんなこと言うの?」

 

 「…え?」

 

 「そしたら何!?みぞれにとって私は何なの!?」

 

 「っ!……優子は私が可哀想だから、優しくしてくれた…。同情してくれた…」

 

 優子先輩の瞳が大きく開いて涙が溜まった。

 

 「ばかっ!」

 

 ぱちん。

 乾いた音と共に、優子先輩は両手で鎧塚先輩の頬を挟んだ。柔らかな頬に指が食い込んで、真っ直ぐに二人は見つめ合う。

 

 「あんた、マジでバカじゃないのっ!」

 

 「ゆーこ…」

 

 「いい加減怒るよ!誰が好き好んで嫌いな奴と行動するのよ!?私が好き好んでそんな器用なこと出来るわけないでしょう!?」

 

 「…ひたい…」

 

 「みぞれは私のこと友達だと思ってなかったわけ!?」

 

 優子先輩の感情の爆発は止まらない。

ほっぺたを摘ままれている鎧塚先輩はそのまま、優子先輩に押し倒された。

 

 「吹奏楽だってそう。本当に希美のためだけに続けてきたの!?あんだけ練習して、コンクール目指して何もなかった!?」

 

 「…っ!」

 

 「府大会で関西行きが決まって、嬉しくなかった!?

 私は嬉しかった!頑張ってきて良かった!努力は無駄じゃなかった!中学から引きずってたものから、やっと解放された気がした!

 みぞれは違う!?何も思わなかった!?ねえ!?」

 

 「……嬉しかった……!でも、それと同じくらい辞めていった子達に申し訳なかった!喜んで良いのかなって…!」

 

 「良いに決まってる!良いに決まってるじゃん」

 

 鎧塚先輩の噛み締めた歯の間からくぐもった声が零れて、鎧塚先輩の頬をぽろぽろと涙が伝った。それは優子先輩からあふれ出た涙と、鎧塚先輩の止まらない感情が混じり合っている。

 

 「だから、ほら……笑って?」

 

 

 

 

 廊下にまで鎧塚先輩が泣きじゃくる声は聞こえていた。優子先輩がこじ開けた鎧塚先輩の閉じ込められていた感情は、崩壊したダムからあふれ出る水のように溢れ出てきて留まることを知らない。

 

 「比企谷」

 

 「あ、中川先輩。それに傘木先輩と…」

 

 「比企谷君。色々お疲れ様」

 

 田中先輩がこの二人と一緒にいると言うことは、おそらく傘木先輩にはもう、鎧塚先輩は傘木先輩がトラウマになっているという事情を伝えたのだろう。響き渡る鎧塚先輩の泣く声を聞きながら困った様子の二人に対して、田中先輩だけは冷静だ。

 

 「音楽室の方は?」

 

 「うん。急なことだったから皆何があったんだって騒いでたけど、一応落ち着けてきたよ」

 

 「そうですか」

 

 「それで、みぞれちゃんは?」

 

 「…とりあえず優子先輩が」

 

 「すごい泣いてるけど、大丈夫?優子ちゃん、何か言い過ぎちゃったとかじゃないよね?」

 

 「色々言っていましたけど、鎧塚先輩も思うところがあったみたいで。優子先輩がキツく言って泣かせたとかではないですよ」

 

 「まあ優子ちゃんはみぞれちゃんには優しいみたいだからね。詳しいことは後で聞くとして、希美ちゃんと話せそう?希美ちゃんはみぞれちゃんと話したいみたいなんだけど」

 

 「……それはわかんないです。

でもちゃんと話した方が良いと思います。鎧塚先輩はどう思っているかはわかりませんが、少なくとも俺と優子先輩は鎧塚先輩の話を聞いていてそう思いました」

 

 「だってさ。希美ちゃん」

 

 「…はい」

 

 傘木先輩はぽつぽつと話し始めた。誰かに話しているというよりも、今から伝えるべき言葉を探しているように、ゆっくりと。

 

 「…私、みぞれの演奏に感情がこもってないって先生に言われてるって聞いておかしいなって思って。だって、私が知ってるみぞれの演奏はいつも情熱的で、凄い楽しそうだったのに」

 

 「……」

 

 「…中学の頃から、みぞれの演奏好きだったんだ。ずっと聞いていたかったし、私が部活辞めるときもみぞれには辞めて欲しくないって思って」

 

 「……ふーん」

 

 冷たい言葉に、射貫くような瞳。俯きながら話している傘木先輩の裏側を田中先輩は探って、心の奥に隠した見られたくない何かを見つけ出す。

 

 「でも私、バカだからみぞれに何しちゃったかわかんない。なんでみぞれが……」

 

 「もうこうなっちゃったんだったら、それを本人に聞いてみたら?ほら、これ」

 

 「……みぞれのオーボエ」

 

 「渡してきなよ。それで話してきなさい」

 

 「でも……」

 

 「良いから。はい」

 

 「希美。私も一緒に行くよ。だからちゃんと話そう」

 

 「夏紀…。ありがと…」

 

 傘木先輩は鎧塚先輩のオーボエを大切そうに両手で持った。

 

 「じゃあ、比企谷君は事情聴取ね」

 

 「マジですか?」

 

 「うん。副部長として、事情を知っておく義務があるからねー」

 

 「まあ、いいですけど」

 

 「それじゃあ。行こうか、少年。……夏紀」

 

 「?はい?」

 

 「今日までごめんね。最後まで、見守ってあげて」

 

 「…はい」



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17

 「ふーん。そんな感じだったんだ」

 

 階段を降りて三階の廊下で、俺たちは話していた。太陽はゆっくりと落ちていって、空は少しずつ茜色に近付いていく。身体を預けている中庭に面した窓ガラスは、太陽を反射して眩しかった。

 

 「比企谷君。やっぱり影でコソコソ動いてくれてたんだね?私も釘を刺した甲斐があったってもんよー」

 

 「まあ結局、展開はご覧の通りでしたけどね」

 

 「私の判断ミスでもあったから。このことに関しては私からは何も言わないよ。

それに、結果はまだわからない。仲直りして部に戻ってくるかはオーボエを持たせた希美ちゃん次第だよ」

 

 にやりと笑っている田中先輩は、話を聞き終えたときは安堵した様子だったのに、今はもうこの状況を楽しんでいるかのようだ。

 判断ミスだとか、誰かを動かしたりだとか、この人は社長か。実際は副部長だから副社長だけど、実質やっていることは社長みたいなことしてるしなあ。

 

 「それにしてもさ、みぞれちゃんも上手いことやるよねー?」

 

 「…そうですかね?」

 

 「今だって優子ちゃんがいなかったら、多分希美ちゃんと面と向かって話せてないでしょ?あの子はさ、一人でいるのが怖いんだよ。だから希美ちゃんに固執して、希美ちゃんがいなくなった後は優子ちゃんをずっと保険にしていた。

 無意識かもしれないけど、打算的だよ」

 

 「保険、ね…。また大分穿った見方をしますね?」

 

 「えー。比企谷君も私と同じでしょ?」

 

 「まさか」

 

 「ふーん。ま、いいけどねー。私は比企谷君が好きなタイプって再認識出来たし!」

 

 「…は?」

 

 「あ、違うよ。恋愛的な意味じゃなくてね。私、好きなタイプは使える子だからさ」

 

 そんなフォロー、いらないんですけど…。

 俺の濁りきった視線でその意図をくみ取ったのか、相変わらず本気なのかよくわからない笑顔でケタケタと笑っている。

 

 「はぁ。打算的なのは先輩だけじゃないですか?」

 

 「私だけじゃないよ。人は皆、誰しもがそう。

 今回の一件だって、さっきはみぞれちゃんが優子ちゃんを保険にしてたって言ったけど、優子ちゃんだってただの友達だから助けたって訳じゃなかった。あの子は嫉妬、と言うよりかは独占欲が強い子だからね。

 今回のことだけじゃなくて香織の一件も。あの子が守りたいものを明確にして、その味方であり続けるのは固執するため。優子ちゃんの事は比企谷君だってよく分かってるでしょ?それを分かった上で、比企谷君は優子ちゃんの味方として行動してたんだろうしね」

 

 「……」

 

 「さらに言うなら希美ちゃんもだよ?」

 

 「辞めたときに鎧塚先輩に声をかけなかったことについてですか?」

 

 「お、さっすがー」

 

 「違います。傘木先輩が話していたのを聞いて思ったんじゃなくて、さっき田中先輩が傘木先輩が話しているのを見ていたときの視線でそう感じたんです」

 

 「いやーん。比企谷君、私のことそんなに見てるのー?恥ずかしいー」

 

 性格は置いといて、見た目は美人だからそういう反応されるの嫌なんだよな。

 傘木先輩の事を俺はよく知らないから、他に理由があったかどうかなんて知らないし、ましてや興味だってない。ただ、田中先輩のあの冷め切った目線には見覚えがあった。

 

 「私は去年から希美ちゃんを知ってるし、一つ下の退部騒動の時には話もしていたからね。みぞれちゃんに吹いていて欲しかったとか、オーボエの音が好きとか。それだって立派な理由だろうけど、あの子は嫉妬してたんじゃない?」

 

 「嫉妬ですか?」

 

 「そ。みぞれちゃんは希美ちゃんに誘われて吹奏楽始めたって言ってたけど、希美ちゃんからしたら、自分が誘った相手が自分よりもどんどん上手くなっていくのを認めるのが辛かった。

 希美ちゃんは今でも復帰したいって言うくらいフルートが好きだし、折り紙付きの実力の通り、それに見合う練習はしてる。それなのにみぞれちゃんとの差が広がっていく。それは紛れもない才能の差だよ。

 しかも、奇しくもみぞれちゃんは希美ちゃんにべったりで、希美ちゃんのために上手くなろうとしてる。それに少しでも気が付いちゃったならさ、離れたくなるのは当たり前じゃない?」

 

 「……なるほど」

 

 確かに並べられた情報を綺麗に整理していけば、その結論にはたどり着く。話を聞いてそれは違うと俺は言うことが出来ない。

 

 「ちなみに私が希美ちゃんに部に復帰して欲しくなかったのもみぞれちゃんのことだけじゃないよ?」

 

 「え?」

 

 「これはオフレコね?」

 

 「嫌いなんですか?」

 

 「まさか。私の個人的な感情はどうでも良いんだよ。そんなことじゃなくて、来年の部活のこと。

 あの子の復帰が原因で起こりえる事態って、たくさんあるからさ。まずフルートの人間関係は拗れるの確定だよね。一度辞めたのに部に戻ってきた人間が一番上手いってさ、ずっとやっていた来年の三年生は気まずいだろうし、今の北宇治はコンクールのメンバーを実力で選ぶからねー」

 

 田中先輩は外を見つめながら、これから起こりうる事を淡々と並べていく。

 

 「それに南中の時は部長をしてたから。あの子が部長になることは流石にないけど、それが北宇治の良い面になることもあれば悪くなることだってあるはずだよ。あの子の性格的にね」

 

 「あの、なんでそれを俺に?」

 

 「そりゃ今年の様子を見てると、比企谷君は来年の部の問題からは避けられなさそうだからきちんと教えてあげとこうって優しさだよ?」

 

 そんな話をしていると上の階から小さくガラガラと、教室の扉を開く音が聞こえた。可能性的には残っていた二年生の先輩達と黄前の可能性が高い。

 階段をぱたぱたと降りてくる音に、オーボエの音が加わった。

 

 「凄い、綺麗な音ですね…」

 

 「上の階から聞こえてくるね。みぞれちゃんだよ」

 

 優子先輩から聞いていた感情があった頃の鎧塚先輩のオーボエ。それを一度耳にすれば、つい今朝方までとは違うことは素人でもわかるだろう。行き場がなく、感情を閉じ込めたから機械のようにさえ思えていた音はしっとりと甘い調べに変わって、静まりかえる学校に響き渡る。

 誰かの為に吹く。それがこんなに演奏を変えるというのか。

 

 「上手くいったみたいだね」

 

 「あ。あすか先輩」

 

 階段を降りてきたのは黄前と中川先輩と優子先輩の三人だった。

 つまり上の階には傘木先輩と鎧塚先輩が残っている。それで色々と察したのは多分、田中先輩もだろう。

 

 「久美子ちゃん、お疲れ様ー。よしよしー。お姉さんが頭なでなでしてあげるー」

 

 「いや、いいです」

 

 「いいと言われてもやるもんね!くしゃくしゃの髪をもっとくしゃくしゃにしてやるぜ」

 

 「ちょっとやめて下さい」

 

 黄前にダル絡みしている田中先輩。さっきまで先輩がいた場所には中川先輩がやってきた。窓から腕を投げ出すようにブラリと外に出す。

 気が付けば、もう夕方だ。

 

 「綺麗だねー」

 

 「そうですね」

 

 「みぞれ、こんな風に吹けるんだ」

 

 中川先輩の隣には優子先輩が並んだ。三人でしばらくの間、伸びやかな馴染みのあるメロディーに耳を傾けた。

 

 「結局みぞれの演奏はずっと希美の為にあったんだね」

 

 「まあね」

 

 「希美には勝てないんだなあ。一年も一緒にいたのに」

 

 「そんなの当然でしょ?希美はあんたの百倍はいい子だし」

 

 「そうねー。あんたの五百倍はいい子よ」

 

 「でもさ。みぞれにはあんたがいて良かったと思うよ?もしあんたがいなかったら、きっともっと早くみぞれは潰れてた」

 

 少しだけ頬を紅潮させた優子先輩は一瞬呆気にとられたように目を丸くしたが、すぐに意地の悪い顔になった。

 

 「もしかして…慰めてくれてる!」

 

 「はあ!?」

 

 「はいはい、照れない照れない」

 

 「何それ!?」

 

 「きゃー!夏紀が優しくしてくるよー!」

 

 「気持ち悪いこと言うなー!」



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18

 「なんか帰りにこの公園に寄って帰るの久しぶりじゃない?」

 

 「そうっすね」

 

 公園で駄弁るだけの時間がなかったのは、関西大会を意識していたからかもしれない。特に夏休みの間は長い練習時間に加えて、朝早くの朝練にも参加して疲れていたし、こうして学校が始まっても、放課後という限られた時間は常に何かざわざわとした焦燥に追われている。

 優子先輩は俺の自転車の籠に鞄を置いたまま、ピンクの派手な財布だけ取り出して自販機へ向かって行った。俺もそれについていく。

 

 「何飲む?奢ってあげよう。私はファンタにしよーっと」

 

 じゃらじゃらと小銭をかき回しているのは十円を探しているからだろう。俺、お会計をするときとか小銭出せるだけ出したい派なんだよな。だから小銭入れに千円以上小銭が入ってることは絶対にない。重たいし、こういう時探すのめんどいし。

 

 「じゃあ俺はおしるこでいいです」

 

 「この時期におしるこなんてないわよ!ほら!」

 

 指ささなくてもないことなんてわかってますよ。

 自分の財布から小銭を取り出して、自販機に投入していく。味はオレンジ味しかないから、これでいいんだよな?

 

 「はい、どうぞ」

 

 「えー。いいのに」

 

 「一応これって先輩を慰める会なんでしょう?」

 

 「うー……。ありがと」

 

 自分の分は無難にコーラでいいか。赤い缶の下のボタンを押して、ボトンと落ちてきた冷たい缶を取り出す。

 普段はベンチに座ることが多いけれど、今日の優子先輩はブランコへ向かって行った。誰も座らずにゆらゆらと風に押されるブランコの影は、太陽でぐーっと伸びている。

 

 「ブランコやろうよ?」

 

 「え、ブランコやるって何ですか?」

 

 「靴飛ばしとかしなかった?あと立ちこぎとか。

小学生の頃は立ちこぎして勢いつけて誰が一番高いところまで揺らせるのか競うの好きだったけど、流石に今はスカートだから出来ないか」

 

 幼い頃の優子先輩がブランコで遊ぶ姿は容易に想像できた。今と変わらずリボンを頭につけて砂場遊びしたり、かくれんぼしたり。外で元気に飛び回ってそうだけど、意外と家でお絵かきとか人形遊びをしてるのも頭の中では様になっている。

 

 「俺は靴飛ばしならめちゃくちゃ上手いですよ。オーソドックスな一人遊びは大体熟練です」

 

 「ふーん。やってみなさいよ?」

 

 「でも制服着ながらブランコで遊ぶとか、なんかあれじゃないですか?」

 

 「いいじゃんいいじゃん。たまにはさ」

 

 「まあいいですけど…」

 

 まだ空けていない買ったばかりの冷たいコーラをブランコの脇に置いて、ブランコをこぎ始める。おお。この風を切る感じ、気持ちいい。

 

 「嫌がってたくせに、すっごい楽しそうじゃん」

 

 「なんか、いくつになっても久しぶりだからか意外と楽しいかも…」

 

 優子先輩の視線を感じながら、ある程度勢いが付いてきたところで靴を放り飛ばす。跳べっ!

 空を舞って、地面に落ちた俺の靴は白い砂埃を立たせて落ちた。大分遠くまで跳んだことの達成感と、帰ったら母さんに見つからないうちに綺麗にしないといけないという事実がせめぎ合っているがもう遅い。

 

 「うわ!うっま!めっちゃ跳んだじゃない!?」

 

 「靴を飛ばすタイミングと、そこで飛ばすために足をいつから動かしているか。どれだけ飛ばせるかは、その二つで大きく変わります。小学生が遊びでやるには中々奥が深くて、マスターするのには苦労しましたよ」

 

 「ちょっと舐めてたわ。凄いね」

 

 「そりゃ学校が終わった後とか、一人で外で遊んでて下手くそだったら目も当てられないくらい惨めですからね。他にも鉄棒とかだって、誰もいないときを見計らって練習してましたよ」

 

 「…理由は相変わらずあれだけど……。あ、待ってよ」

 

 ブランコの揺れが落ち着くのを待って、取りに行こうとすると優子先輩に止められた。俺のコーラと同じように空けていない缶を俺に渡して、優子先輩はスカートの生地をしっかりブランコと自分で挟み込んで座った。

 

 「おし。負けた方が靴取り行く係ね!」

 

 「え、優子先輩やるんですか?」

 

 「だって楽しそうだし」

 

 それにしたって、立ちこぎがスカートだから出来ないって言ってたけど勢いつけて漕いだら同じようにパンツ見えちゃうんじゃないだろうか…。

 

 「あは。やっぱり久しぶりだと楽しい!ヤバいね、この風受ける感じ!」

 

 ヤバいですね。優子先輩の伸ばしたり曲げたりする足が。

 しかもさらにヤバいのが、絶対に見えそうで何故か見えないパンツだよな。正面からなら見えるのかもしれないけど横からだと、ちょうどスカートひらりした瞬間に足が動いてちょうど見えない。

 晒されている真っ白な太ももと、不可侵領域のエッチさがたまらんとです。あざとい!

 優子先輩は俺が目で追っているのはブランコとか、風に吹かれる金色のカーテンみたいになってるふわふわの髪じゃなくて、あなたの綺麗な足だって事に気が付いているんですかね?顔に熱が集まるのがわかった。

 

 「よし、行くよ!えい!」

 

 ひょろひょろと跳んでいく靴は俺の靴より大分手前に落ちた。

 

 「…全然跳びませんでしたね」

 

 「く、悔しい…!」

 

 よろよろと段々止まるブランコ。一体俺は何を見させられていたのだ。靴飛ばしなのか

それとも太ももか。太ももだな。

 未だに足から目を離せずにいる俺を余所に、優子先輩は負けたものはしょうがないとか言いながらブランコを靴を飛ばしていない左足で止めた。

 

 「すぐに取ってくるから、もう一回勝負よ!」

 

 「え、まだやるんですか?」

 

 「そりゃ負けたまま終わるの悔しいじゃない。とりあえず取ってくる!」

 

 靴下を汚さないようにと、片足でぴょんぴょんと跳んでいく優子先輩。一緒にふわりふわり上下するスカートの下に白い何かが見えて、俺は咄嗟に目を逸らした。

 ……ダメだ。やっぱりこれ以上は靴飛ばしは禁止。厳禁。

 

 

 

 

 

 「今日のみぞれのオーボエ、凄かったね」

 

 外はもう暗くなっていた。住宅街をたまに通り過ぎる車のヘッドライトはすでに付いてるし、俺たちのいる公園も人工の光が照らしている。

 ブランコに座って炭酸を飲みながら、腹減ったななんて思っていたときに優子先輩は唐突に鎧塚先輩の話を始めた。

 

 「みぞれの世界には、常に希美しかいなくって、誰もその代わりになんてなれなかった。そのことを今日思い知ったよ」

 

 「…確かに鎧塚先輩の演奏があそこまで変わるとは思っていなかったです」

 

 「あれが私たちが知ってたみぞれの演奏だよ。まあ、今日はあの頃よりも絶好調って感じだったけど」

 

 小さくゆらゆらとブランコを動かして、優子先輩は空を見上げていた。夜空には星が二つだけ並んでいる。

 

 「……」

 

 「…優子先輩?」

 

 「あのさ、嫌な話してもいい?」

 

 「へ?」

 

 「嫌いにならないで欲しいの」

 

 「なんすかその前置き。内容にもよりますよ」

 

 「じゃ、じゃあこの話はなかったことに…」

 

 下から見上げるように俺を見ていた優子先輩だったが、ブランコと一緒にぴたっと動きを止めてしまった。無言の時間を埋めるように風が吹く。

 

 「……はぁ。嘘です。

 これまでの人生で関わってきた大半の人間は嫌ってきたから、並大抵のことじゃ嫌いになんてなりません」

 

 「………」

 

 辞めて。そんな本気の同情の視線を向けないで。

 

 「別に良いでしょう。それでなんですか?嫌な話って」

 

 「私はさ、ずっと羨ましかったんだ。希美のこと」

 

 「羨ましい?」

 

 「うん。前も言ったけど、私はトランペットを始めた理由、誰かがきっかけとかそういうの何もないし、高校に入ったときも中学の時から何となく続けてたからだから。勿論、香織先輩が去年残ろうって言ってくれたのは嬉しかったんだけどね。

 だからみぞれとか、それに夏紀も比企谷も。みんな誰か吹奏楽を始めたきっかけになった人がいて、今もその人のために吹いてるとか行動するって言うのがよくわかんない」

 

 「でも、優子先輩には香織先輩がいるでしょう?香織先輩のために頑張ってたじゃないですか?」

 

 「香織先輩のことは大好きだよ。マジエンジェルだし。

 でも私が香織先輩に吹いて欲しいのは香織先輩の為じゃなくて、自分の為なの。それは比企谷だって知ってるでしょ?それに香織先輩にはほら、あすか先輩がいるし…。

 それにみぞれとか見てると私の香織先輩への感情とは違う気がする。少なくとも、希美が去年部活を辞めた後に、初めてみぞれに希美との話を聞いたときはそう思ったよ。希美は私にとって特別なんだって。

 それをみぞれが珍しく、はっきりとそう言ったから思ったのかもな。私も誰かの特別になりたい。それで認められたいって凄く強く思ったの」

 

 特別になりたい。その言葉は数ヶ月前に高坂の口から聞いた言葉と全く同じだ。全く同じだけど、全く異なる。

 

 「だから私は決めたんだ。私がみぞれにとっての希美になってみせるって。

 勿論、みぞれは友達だし大好きなんだけどね。でも、狡いこともいっぱいどこかで考えてた」

 

 「狡いなんて…」

 

 「ううん。狡いの。

 みぞれと希美がまた会って欲しくなかったのも、みぞれがトラウマだからってだけじゃなくて私は何をしたって希美にはなれないし、勝てないんだって知るのが怖かったから。

 さっきも本当はみぞれの本心を聞きたくなかった。きっと、みぞれにとって私との一年間よりも、今日の希美との三分間の方が大事だし価値あるものだったんだなって思ったし、認めちゃったもん。

 一瞬でみぞれを取られたみたいで、悔しかった。希美には敵わないんだなって、悔しかった……」

 

 「……」

 

 「あーあ。やっぱり、希美は凄いんだよ。

 みぞれだけじゃなくて、夏紀が北宇治の吹部に入部したきっかけにもなっていて。それだけじゃない。私と同じ南中の子達が入部したのは、希美がやるからって人が多かったって話は前もしたでしょう?

 ……私は、誰の特別にもなれないのに……希美は」

 

 泣きそうになりながら話している先輩に、そんなことないですよ、なんて言葉は出てこなかった。

 この人は、勘違いしてる。

 

 「先輩は傘木先輩にはなれないんですよ」

 

 「…うん」

 

 「確かに、俺も今日の鎧塚先輩を見て、改めてきっかけになった人って特別なんだなって思いました」

 

 「……」

 

 「だけど、羨むことは何もない。劣等感なんて筋違いです。先輩は間違えてます」

 

 誰かの特別になるのに、優子先輩は傘木先輩になる必要なんてなかった。そもそも全く同じ人間になるなんて出来るわけがない。

 優子先輩の顔を見て、自分らしくないことを考えては、それが次から次へと言葉になって出てきた。止めようとしても止まらない。

 

 「傘木先輩がいなくなった後の一年間、鎧塚先輩の傍にいたのは優子先輩です。

打算があったのかもしれないですし、人間的な狡さや汚い考えがあったのかもしれないですけど、それでも誰かが憂いているときに、傍でずっと寄り添って支えていた。

 それを優しさと言うはずです。けっして狡いとか、打算的なんて言葉だけで片付かない。

 そしてそれは傘木先輩が出来なかったことです。優子先輩にしか出来なかった。してこなかった」

 

 『あの子は嫉妬してたんじゃない?』

 

 俺は傘木先輩という人間のことをよく知らない。だからどうして鎧塚先輩に声をかけずに辞めていったのか、その理由が嫉妬だったのかはわからないけれど。

 

 『希美ちゃんがいなくなった後は優子ちゃんをずっと保険にしていた』

 

 結果的に傷ついた鎧塚先輩の傍にいたのは優子先輩だ。だから、その関係が保険という言葉で捉えられるものだったとしても。

 

 「きっと鎧塚先輩にとって優子先輩はただの友人じゃなくて、特別だったと思います。

……鎧塚先輩の一年間に、ちゃんと優子先輩はいたはずです」

 

 「…ふふ」

 

 優子先輩は寂しく笑った。それを見て、熱くなっていた自分に気が付いて、はっと冷静になる。顔が熱い。

 

 「……でも結局、私は希美には敵わない。もしみぞれにとって私が特別だって、一番は結局希美でしょ?」

 

 「それは、そうかもしれないですけど…」

 

 独占欲。負けず嫌い。承認欲求。㷀然。

 寂しさの裏に隠れる、垣間見える感情はそのどれしもがぴたりとは合わない気がした。

 

 「ありがとう。慰めてくれて」

 

 「……優子先輩は、一番になりたいんですか?」

 

 「…うん。誰かにとっての特別の中の特別になりたい」

 

 やっぱり同じのかもしれない。

誰よりもトランペットが上手くなりたい高坂と、誰よりも誰かに認められたい優子先輩。 二人が目指す特別は同じだ。スペシャルではなくて、オンリーワン。そしてやっぱりそれは、きっと難しい。

 俺たちを照らすのは人工の白くて安っぽい照明。月と星は、ただ見守っているだけだった。



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19

 「ホルン。Lの全音符、もう少し下さい」

 

 「「はい」」

 

 「トロンボーン。バッキングの縦、注意して下さい」

 

 「「はい」」

 

 「ユーフォ。前も言ったように、Fの音は高めにとって下さい」

 

 「「はい」」

 

 「では、今の点に注意して本番のつもりで最初からやります。もう一度言います。本番です」

 

 トランペットを構える。もう今日だけで、何度目かわからない最初から最後までの演奏。

 府大会を終えた瞬間から始まった関西大会までの練習に、朝も放課後も長かったはずの夏休みも全て注ぎ込んできた。いよいよ明日がその本番である。

 本番前日の練習は妙な緊張感を孕んでいた。たった十二分間の演奏を前にした今、本当に冷静なやつなんて誰一人としていないのだろう。

 

 「いいですか、皆さん。明日の本番をあまり難しく考えすぎないでください。

 我々が明日やるのは、これまで練習でやってきたことをそのまま出す。それだけです」

 

 「「「はい!」」」

 

 滝先生は一つ咳き込むと、微笑んだ。

 

 「それから、夏休みの間コーチをお願いしてた橋本先生と新山先生は本日が最後になります」

 

 「「「えー!」」」

 

 はい、と返事をしたときよりも大きな声が音楽室に木霊した。だが、思えばそりゃそうだよな。俺たちの目標は全国に進出することだった。つまるところ二人は明日の結果のために俺たちの指導をしてくれていたわけだ。

 その目標が達成するかしないかは、明日で決まる。滝先生が何と言おうと、やっぱりそれは恐ろしいことのように思えた。

 

 「最後に一言、お願いします」

 

 最初に話し始めたのは新山先生だった。頭の中には、金八先生で有名な『贈る言葉』が流れている。

 悲しい。主に滝先生にぼろくそ言われた後に、ちらりと見ると微笑んでいる。そんな目の保養的な救いがなくなる。これから俺たちは何を盾にして滝先生の粘着べたべた口撃をしのげばいいんだ。

 

 「約三週間。短い間でしたが、確実に皆さんの演奏は良くなったと思います。その真面目な姿勢は私自身、見習うべきものがたくさんありました。

 明日の関西大会、胸を張って楽しんできて下さい」

 

 泣き出した女子がいる。新山先生が指導していたフルートのパートリーダーだ。

 それに続いて次に話し始めたのは勿論、橋本先生。新山先生よりも先に俺たちの指導をしていた橋本先生は部員達のムードメーカー的な役割も担っていた。

 

 「えぇっと、僕はこんな性格なので正直に言います。今の北宇治の演奏は関西のどの高校にも劣っていません。自信を持っていい。

 この三週間で表現がとても豊かになりました。特に、鎧塚さん!」

 

 「…はい」

 

 「見違えるほど良くなった。何かいいことでもあったのー?」

 

 「……はい!」

 

 「おー、いいねー!今の彼女のように明日は素直に自分たちの演奏、やりきって下さい。

 期待してるよー!」

 

 「うぅ…。はしもっちゃ……」

 

 「何泣いてんのよ?」

 

 橋本先生の相変わらずやけに動きが大きくてオーバーな演説も今日で見納めだ。今度泣き出したのはパーカスのナックル先輩。あまりの男泣きに、周りの女子が思わず苦笑い。女子にはわからない、男同士の熱い友情とか約束とか想いとかそういうのがあったんだろう。知らんけど。

 小笠原先輩が、起立と声をかける。それで俺たちはすっと立ち上がった。

 二人とも、俺は直接の指導を受けたわけではないけれど、特に新山先生にはそれ以外のことで関わる機会があったのは紛れもなく事実である。

 それじゃあ、心を込めて粛々と。

 

「ありがとうございました」

 

「「「ありがとうござました!」」」

 

 

 

 

 「比企谷君」

 

 練習が終わって話し掛けてきたのは、新山先生だった。いや、もう指導を受けるのは終わったから今は新山さん?うーん、やっぱり先生の方がしっくりくるな。

 

 「お疲れ様です」

 

 「うん。お疲れ様」

 

 お淑やかな笑顔を浮かべて見つめられるとどきどきする。ドメスティックなラブが始まるのか。いやいや、相手は人妻だ。

 

 「明日は頑張ってね」

 

 「はい。勿論。なんか色々とありがとございました」

 

 「うふふ。こちらこそ。比企谷君と塚本君とは、まだ私が北宇治の指導に来る前から会ってたからかな。木管の皆の指導が最後になっちゃうのと同じくらい残念」

 

 「…まあ全国行ったらまた指導に来て下さいよ。あと来年も」

 

 「うん。そういうところも皆を見て見習わないとって思った」

 

 「え?」

 

 「全国行くのを前提に捉えられるところ。自信があるわけではないのに、前向きに考えられるところかな。

 本当に全国、行ってね。約束だよ」

 

 新山先生は口に手を当てて、そうだと呟いた。

 

 「お盆休みにカフェに行ったときに、気にしてたことあったみたいだけど解決はしたの?」

 

 「ああ。そのことですか。

 一応、解決しましたね」

 

 「一応ってところが何か意味ありげね?」

 

 傘木先輩は無事、部に復帰することができて、鎧塚先輩はトラウマを克服して橋本先生に褒められるくらい演奏が上達した。

 だが、それと引き替えに傷ついた人もいる。ブランコに座って、誰かの特別になりたいと言った先輩。そして、それ故に俺もだ。傷ついたわけではないが、結果的に俺が傘木先輩達の復帰を反対したその目的は果たされていない。

 ……それにしても、なんか終わってみれば全てが新山先生が言っていた通りになった気がする。面と向かって話した方がいいとか、きっかけをくれた人は大切だとか。初めて会った日に傘木先輩の入部は様子を見た方がいいというのも、その通りだった気もするし。この人はあれなのか、やっぱりエスパーなのか。

 

 「でも、そういうことで悩めるのも今だけよ?」

 

 「悩んでると家で母さんに言われるんですよ。『八幡、あんたもしかしてまた虐められてるの』って。だから悩みはない方がいいです」

 

 「じゃあ最後にお悩みを聞かせてご覧なさい。私がアドバイスをしてあげましょう。

 あ、でも恋の悩みはなしの方向で。私その手の話には疎くって。疎いというか、とりあえずガツガツ行っとけくらいしか思えないの」

 

 えー。新山先生に恋愛の指南を受けなければ、他に誰に受けろというのだろう。滝先生はあしらわれそうだし、橋本先生は大したアドバイスしなそうだし。まあ、そんな相談をすることはないんだけどな。

 

 「…うーん。新山先生は吹くきっかけをくれた人って大切って言ってたじゃないですか?」

 

 「うん」

 

 「新山先生にもそういう人がいたって言ってましたけど、その人のこと時間が経てば忘れられるもんなんですかね?」

 

 「ううん。全然」

 

 「……それって辛くないですか?会えない人のために吹く演奏って」

 

 「その人のことを考えて吹くときは辛いこともある。でも、その人だけが私が吹いている理由の全てではないから」

 

 『吹奏楽だってそう。本当に希美のためだけに続けてきたの!?あんだけ練習して、コンクール目指して何もなかった!?』

 

 優子先輩が鎧塚先輩に問いかける言葉。そうだ。優子先輩も同じことを言っていた。

 

 「比企谷君もそうよ」

 

 「え?」

 

 「誰かのお陰で吹奏楽を初めても、今は違うでしょ?あなたは今、北宇治高校吹奏楽部の一員として吹いているの。

 そうやって誰かによって比企谷君が吹く理由ができて、比企谷君によって誰かが吹く理由になって。そうやって少しずつ貴方の奏でる音楽は変わっていくわ」

 

 ……なんか新山先生が言うと、フラグみたいですね。

 新山先生の大人の笑みを見て、改めてそう思った。誰かが俺の吹く理由になって、俺が誰かの吹く理由になる。

 不思議と陽が落ちきった公園と、揺れるブランコが頭をよぎった。



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20

 『立華が、銀賞…?』

 

 関西大会、当日。

 午後の部の俺たちは控え室で楽器を取り出していた時に、その午前の部の結果は耳に入ってきた。

 同じ京都府予選を勝ち上がったライバル。少なくともサンフェスの時までは格上で、どうやったって敵わないと思っていた相手が、この関西大会では銀賞で終わった。

 築き上げてきた練習や努力が粉々に打ち砕かれた気分になってくる。まじかー。あの立華で銀なのかー。これはもう、俺たち銅かもしれないなー…。

 その影響が少なからず演奏に出ている気がする。滝先生はおもむろに手を叩いた。

 

 「はい。止めて。では、一回だけ深呼吸しましょうか?大きく息を吸って……」

 

 すぅと、コンクールメンバーが大きく息を吸う。肺の中に入ってくる空気の中に、モヤモヤとした何かが混ざっている気がして気分が悪い。

 

 「吐いて…、吐いて、吐いて…。気持ちを楽にして、笑顔で!」

 

 はは。

 浮かべた自分の笑顔を鏡で見れば、蘭ねーちゃんが『もう、新一のやつー!』と目の前で怒っているときのコナン君の引きつった笑みみたいになっていることだろう。

 だが、皆の笑顔は自然じゃない理由は不安や心配も勿論あるのだろうけど、この笑顔にさせ方が下手くそってのも間違いなくある。

 

 「私からは以上です」

 

 「ですよねー…」

 

 「部長。何かありますか?」

 

 「へ?私ですか?」

 

 困り切った小笠原先輩は何かを言おうとしたが、その言葉は遮られた。

 

 「先生。部長の前に少しだけ」

 

 「はい。田中さん、どうぞ」

 

 「…去年の今頃、私たちが今日この場所にいることを想像できた人は一人もいないと思う。二年と三年は色々あったから特にね。

 それが半年足らずでここまで来ることが出来た。それは紛れもなく滝先生の指導のお陰です。その先生への感謝の気持ちも込めて、今日の演奏は精一杯全員で楽しもう」

 

 「「「はい」」」

 

 「…それから、今の私の気持ちを正直に言うと、私はここで負けたくない。関西に来られて良かった、で終わりにしたくない。ここまで来た以上、何としてでも次へ進んで北宇治の音を全国に響かせたい!」

 

 …これは本音、なのか?

 勝ちたい、という田中先輩の言葉と瞳に紛れもなく強い思いが込められていると思う。仮面を被って吐かれる虚言と、仮面の下の本音。その区別が付きにくいけれど、少なくとも今は後者である気がする。

 

 「だから皆、今日はこれまでの練習の成果を全部出し切って!」

 

 「「「はい!」」」

 

 「それじゃあ部長、例のやつを」

 

 「え、あ、はい」

 

 「では、皆さん。ご唱和下さい。北宇治、ふぁいとぉ……」

 

 「「「おー!!」」」

 

 

 

 

 

 舞台袖にいれば、聞きたくなくても聞こえてくる明静の演奏は圧倒的なまでに上手かった。

 

 「優子先輩。顧問変わって下手になった説、嘘でしたね」

 

 「うん。これ、去年よりも上手くなってるわ」

 

 府大会が終わった日の帰りに、全国に行くためには顧問が代わった明静が弱体化することにかけるしかないと豪語していた優子先輩は、あっさりとその希望を打ち砕いてみせた。

 流石。かっけえっす。マジリスペクト。

 

 「比企谷、府大会の時みたいに緊張してないのね?」

 

 「いや、緊張はしてます。でも、もはやここまで来たらやれるだけやればいいやって。玉砕粉砕大喝采みたいな?」

 

 「ごめん。何言ってるのか全然わかんないんだけど」

 

 「要は一周回ったってことです」

 

 「じゃあ最初からそう言いなさいよ…」

 

 「いて。ちょ、肩叩かないで」

 

 トランペットパートの面々は、高坂以外は固まって集まっている。高坂は黄前の隣にいた。何やらやたら近い距離で話をして、くすくすと笑っていて楽しそう。

 

 「…なんか二人見てたら落ち着いて来ちゃったよ」

 

 「え、沙菜先輩、それどういうことですか?」

 

 「その、なんかいつも通りだから…」

 

 俺たちのやり取りを見てぼそっと呟いた笠野先輩の言葉の意味が良くわからなくて、優子先輩として二人して首を傾げていると、隣にいる滝野先輩が口を開いた。

 

 「だから、笠野先輩はいつも通り比企谷が意味わかんねえって言ってるんだよ」

 

 「ち、違う違う。……七割くらい違う」

 

 そ、それじゃ三割はいつも俺のこと意味わかんないって……。合宿以降辺りから、パート練の時も少しは話してたし、笠野先輩にはそんな風に思われていないと思っていただけあって死にたくなってくる。笠野先輩に比企谷君と名前を呼ばれて、舞い上がっちゃってたのがばれていたのか?

 他人を信じたらダメ。ボッチとしての基本三権を忘れてた。もう、信じない。

 

 「そうじゃなくって優子ちゃんと比企谷君がそうやって話してるのがなんかね、そのー…」

 

 「あ、私沙菜の言いたいことわかるよ。なんか距離が近いよね?物理的な距離じゃなくて、なんか――」

 

 「か、香織先輩!?何言ってるんですか!」

 

 咄嗟に香織先輩が訳がわからないことを言い出したので、とりあえず優子先輩から距離を取る。あまりの衝撃的な言葉に、トランペットを落とすところだった。あぶねえあぶねえ。……いや、それは本当にあぶねえよ。 

 

 「……チッ…」

 

 思いっきり俺を睨みながら、滝野先輩が舌打ちをした。え?何?

 ぱたぱたと手を動かしながら、顔を真っ赤にして香織先輩と笠野先輩にマシンガンみたいに何かを言っている優子先輩は中川先輩と喧嘩をしてる時を彷彿とさせる。いつもと違うのは流石に余所の学校が演奏中だから、と声のボリュームを落としていることだけだ。

 …あ、なるほど。これが今先輩達が言ってた、いつも通りを彷彿とさせて落ち着くというやつなのか。

 落ち着いて見てみれば、香織先輩は穏やかに笑っていた。穏やかに、と言えば聞こえはいいけれど、どこか達観しているようにさえ見える。その先輩は優子先輩が落ち着くのを待って、口を開いた。

 

 「……優子ちゃん」

 

 「はぁ…はぁ…何ですか?香織先輩」

 

 「これからも、部のことよろしくね?」

 

 「へ?」

 

 それは最後の言葉のようだった。いや。香織先輩は間違いなく最後の言葉のつもりで言った。それくらい、俺にだってわかる。

 だから今ここで話している同じパートでこれまでやってきた全員、それを察したはずだ。

 

 「皆も、今までこんな私に付いてきて――」

 

 「香織先輩。違います」

 

 「え?」

 

 「ここで終わりじゃありません。私たちが目指しているのは全国です。

 私たちは香織先輩と一緒に、全国に行くんです!」

 

 優子先輩が指を上げる。それに続けて、笠野先輩と滝野先輩も指を上げた。

 

 「…お前も」

 

 「……」

 

 滝野先輩に言われて、俺もすっと指を上げた。何を指さしているのかわからない。何かをさしているのではなく、一を表現したいのかもしれないけれど、今度はそれが何の一なのかわからない。

 けれど、気が付けば周りも指を上げていた。高坂も、そして黄前も。川島も低音パートの面々も。部長も副部長も、ここにいる香織先輩以外の北宇治の代表全員が。

 

 「ほら、香織」

 

 笠野先輩が香織先輩の腕を取った。

 最後に指を上げるのは俺たちのパートリーダーだ。

 

 「……うん。行きましょう。皆で全国へ!」




作者のてにもつです。いつも読んでくださってありがとうございます。
ここの部分を書いたら、あとがきに書きたいと思っていたことがあります。

今回の話の分の関西大会前の本番直前の舞台袖で、優子が香織に『全国に一緒に行く』というシーン。僕が響けのアニメの中で一番好きなシーンです。
優子が本番直前にこのように宣言するシーンは実は原作小説にはないんですよね。つまりアニメのオリジナルなのですが、色んな意味で優子らしさがこれでもかと良く出たシーンだと思うんです。
諦めた香織を励ましているのは一期から優子が香織を支え続けていたことの延長線でもある。それに、一年二年三年関係なく優子に引っ張られる様に指を上げるそのカリスマ性は、優子が翌年度の部長になることの決め手の一つだったと思います。
また、アニメ二期の前半部分、ここまでの関西大会前はみぞれと希美が話の中心ですが、小説ではあすかが一連の騒動のMVPは優子であると評すシーンがあります。良くも悪くもみんなを引っ張るだけじゃなくて、支えることもできることを証明するシーンでもあるのかな。

もはやこのシーンが好きすぎて、ここのために書いてきたと言っても過言ではないくらい(それは流石に過言か笑)好きです。優子らしさの詰まった大切で価値のある描写だと思います。
これだけは書きたかったのであとがきに残しました。
他にも伝えたいことがあるのですが、次回の話で関西大会編は終了。前回の府大会終了時と同様、またあとがきを残すので、そちらに書き残させていただきますね。
それでは!


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21

 「プログラム十四番。奈良県代表、花咲女子高等学校。銀賞」

 

 演奏をしている十二分間もあっという間だったが、結果発表までの時間も同じようにあっという間だった。俺たちの順番が後の方だったから、時間的に短かったというのもあるけれど、それを踏まえても早い。

 滝先生は昨日、俺たちがいつも練習でやってる演奏をすればいいと言っていた。しかし、関西大会の俺たちの演奏はいつも以上の演奏が出来ていたと思う。

 ホルン、クラ、トランペット、フルート。どの楽器も息がぴたりと合っていて、誰一人としてミスはない。指摘されて何回も吹いていた部分は頭からビリビリと電流が流れて指にこうやって動くんだと命じているようにスムーズにできたし、五十五人によって奏でられていた『三日月の舞』は華々しく、キラキラと輝いていた。高坂の痺れるようなソロは会場を圧倒させたし、それだけではない。鎧塚先輩のオーボエのソロや、ユーフォのソロも入りの部分や低音から高音への急な移動が完璧だった。

 こんな演奏、もう一度やれと言われてもできない。だからこそ、これでもし金賞が取れていなかったら、俺たちの実力が純粋に足りなかっただけだ。そう声高く宣言して、胸を張って帰っていい。

 素直にそう思えるくらいの演奏だったと俺は思った。

 

 「プログラム十五番。大阪府代表、明静工科高等学校。ゴールド金賞」

 

 だよな。明らかに上手かったもんな。あれで金賞じゃなかったら、明静に恨みを持つどこかの学校が審査員の買収をしたんじゃないかと疑うまである。

 流石超強豪校と言えるのか、金賞と言うだけではあまり喜んでいる様子はなかった。金賞であるのは、あくまで通過点。彼らにとっては当たり前なんだろう。

 

 「次だよ?」

 

 「はい」

 

 近くに座っている誰かの声が聞こえてきた。発表が怖くって、思わず目を閉じる。

 

 「続きまして、プログラム十六番。京都府代表、北宇治高等学校。ゴールド金賞」

 

 「っ!……はー」

 

 「やったな!」

 

 「…ああ」

 

 隣に座っている塚本と手を合わせる。ぴしゃんと乾いた音が鳴った。

 良かった。本当に良かった。

 俺たちの前に発表された明静と違い、俺たちは金賞をもらえた時点で素直に大喜びだ。

 そりゃまあ、俺たち、去年まで弱小だったんだから。綽々としている余裕もなければ、覚悟だってずっとなかった。強豪校が始めから全国の舞台に標準を定めて、それ故にある程度の覚悟を持って練習してきたのに対して、俺たちは何回も先の見えない目標に挫けかけて、今やっとその目標に手が届きそうなのだ。

 北宇治の喜びの声に続いて、発表は進行された。泣いている声や喜ぶ声。最初から諦めていたかのようにため息を吐く音。当たり前だが、反応は様々だ。

 でも、俺に他校の生徒を気にかけている暇はない。

 

 「続きまして、全国大会に進む関西代表三校を発表します」

 

 大丈夫。大丈夫だから。全国に行くんだ。

 そう祈りながら手を合わせる。けれども心臓が痛い。頭もふらふらとしている気がする。本当は大丈夫な訳なくて、不安でいっぱいだ。

 

 「プログラム三番。大阪府代表、大阪東照高等学校」

 

 「プログラム十五番。大阪府代表、明静工科高等学校」

 

 次だ。次に呼ばれなければ、俺たちは全国には進むことは出来ない。

 大阪最強の二校が発する割れんばかりの歓声を聞きながら、俺は自分の制服の袖を掴んだ。今にもここから逃げ出したい。

 塚本の震える足。頭を下げて、目をぎゅっと瞑る部員達。ああ、頼む。

 

 「最後に。プログラム十六番。京都府代表、北宇治高等学校」

 

 「う、うおおおおぉぉぉ!!」

 

 今の絶叫は自分の声なのか。それとも塚本か。他の誰かなのか。

 そんなこともわからないくらいの嬉しい叫び声が、このホールの一角から響き渡った。

 

 「信じらんねえ!」

 

 「本当にすげえよ!なあ!?」

 

 塚本に腕を絞めるくらいに強く肩に回されて、思わず倒れた。前の席の背もたれにもたれかかる。

 ステージに上がって賞を受け取っている部長と副部長が誇らしい。周りの飛び跳ねる部員達の中に、香織先輩が目を押さえてうずくまる姿が見える。

 

 「っ…」

 

 それを見て、目頭が熱くなった。

 こみ上げてきた涙を拭うために、目を擦る。ぼやぼやとしている視界は、現実じゃないみたいだ。

 

 「やったぜ!」

 

 「おい!痛いって!おい!」

 

 何回も揺られる肩に、前のやつの身体が何回もぶつかる。ちゃんと痛い。初めてこの痛みに感謝した。良かった。紛れもない現実なんだ!

 ステージでは進行していた畏まった格好をしている審査員が何かを言っているが、そんなことを聞いている余裕はない。まだ喜びを発散しきれなくて、俺は歓声に混じって叫んだ。

 

 全国が待っている!



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中間報告 2

いつも読んで下さってありがとうございます。作者のてにもつです。

前回の府大会後のあとがきと同様で、長くなったので中間報告として分けて残しておきます。

 

原作だと二巻目、アニメだと二期の前半部分を書き終えました。アニメを基準にすると、わずか5話分なので、前回の中間報告をしてからこの作品のページ数的にはそんなに進んでいませんね。43ページ分。うん。結構書いていました笑通りで達成感があるわけです。

今回は報告という報告はないのですが、本当にあとがきっぽく話の解説のような小話と、更新についてのご報告がございます。

 

前回の中間報告に書きましたがこの府大会後から関西大会部分。そして、ここから先の全国大会までを一つの章として僕は考えています。要はアニメ二期部分です。テーマは『一体誰のために、何の為に吹いているのか』。

ここまで意識していらっしゃる方はいないだろうなと思っていたのですが、ありがたいことに意外と気が付いていてくださった方が多くいたので驚きました。実はこのテーマ、特にこの関西大会までの部分は読者の皆さんをミスリードできると考えていました。

と言うのも、『一体誰のために、何の為に吹いているのか』。これを聞いて、響けのアニメを見た読者様、もしくは原作小説を読んだ読者様であれば真っ先に思い浮かぶのは、みぞれだと思います。希美のためにオーボエを吹く。みぞれのそれだけのためにオーボエを吹いていたという独白のシーンでは、久美子がそんな理由で吹奏楽をやっている人がいるなんて思いもしなかった、と言うようにみぞれと希美の関係ってかなりインパクトが強いと思うんです。『リズと青い鳥』では物語の中心の二人っていうのも強いかもしれません。

 

ですが、この作品においてはここまでの部分で『一体誰のために、何の為に吹いているのか』を書きたかったのは、みぞれではなくて優子です。

優子は誰のために吹きたいか、もしくは何のために吹いているのかが実にシンプルです。北宇治として勝つため、言うなれば自分のためです。府大会前は香織をソロにするべく、麗奈ともめることもありましたが、最終学年である香織に吹いて欲しかったのも、自分の我儘であることを理解している。そして、みぞれや八幡、夏紀と違って吹奏楽を始めたきっかけになった誰かがいて、今でも強くインパクトとして残っているものがありません。

それを気にしたことも理由の大きな要因となって誰かの特別になりたいと思った。今回のみぞれの一件もあって、尚希美への憧れは強くなって、それと同時に誰かにとってのオンリーワンになりたいという思いを抑えきれない。それがここまでの全国大会前の話です。

 

感想で(メッセージだったかも)頂いた中に、八幡と優子はみぞれと希美を蚊帳の外にして行動しすぎと書かれていましたが、ごもっともです。原作では主人公の久美子が夏休みにプールで希美と話して去年の吹部について知ったり、夏合宿でみぞれと深夜に話したりと、二人の問題に近い距離から直接関わっていったのに対して、この作品の八幡は二人とまともに絡んだのって初対面の時だけなんですよね。二人の問題に対して、あくまでずっと間接的に関わっていただけ。

それは勿論八幡らしい行動というのを意識していたことでもありますが、ここまで書いたように、あくまで主軸をみぞれと希美ではなく優子に当てるために敢えて二人は蚊帳の外に話を進めたという方が理由としては大きいです。

 

でも実際の所、吹奏楽を始めた理由なんてただ何となく始めた人の方が圧倒的に多いですよね笑最初、始めるきっかけになった人がいたとしてもそこまで強く印象に残っていることもあまりないと思います。葉月もたまたま吹部やってみようかなって感覚だったり。

なので、優子がオーソドックスなのかなと。たまたま優子の周りには八幡やみぞれをはじめ、そういった吹いている理由がしっかりと強く残っている、ある意味特別な人たちが多く集まって結果的に優子が気にする要因になったけれども、優子は普通。

それを含めて、府大会前の時のように強かな面もあれば、優しいところも可愛いところもたくさんあるけれど、弱いところだって、狡いところだってたくさんある。

そんな普通に人間らしい当たり前な女の子である優子の一面をこの章では書きたかったから、主に優子を主軸に起きました。

 

 

ちなみに軽いネタバレです。前述した通り、現在の部分は『一体誰のために、何の為に吹いているのか』がテーマですが、ここからは八幡の過去について掘り下げていくことになります。

軽く触れましたが、満を持して登場する比企谷家以外のガイルキャラは雪ノ下陽乃です。大好きな陽乃です!笑

 

 

 

さらにちなみになのですが、頂いた質問についてです。いくつか頂いているのですが、一つだけここに書いておきます。

ユーフォキャラで好きなキャラは誰ですか?(ただし優子は除いて)

そう言えばガイルの方は答えてたけどユーフォの方は答えていなかったですよね。

 

ガイルと同様で好きなキャラばかりで決め難いのですが、ぱっと思い浮かぶのは久美子、秀一、みどり、希美、晴香、奏あたりになりますかねー。勿論、優子が頭一つ抜けます笑

自分でここまでの話を見返してみると、希美のことはあんまり好きじゃなさそうな立ち位置になっていますがそんなことはなく、むしろ優子に次いで好きなキャラくらい大好きです!笑ユーフォのキャラの中でもかなりリアリティの高いキャラクターで、誰よりも人間らしいところが好きですね。

ただ今作では(というか比較的原作でもそうだと思いますが)、みぞれ側にいる優子からすると、希美は敵ポジションになってしまいました。とは言え、以前頂いた感想で一期の優子が最悪だったという声を頂いたり、アニメの中の人からさえ優子は一期は酷い奴だとからかわれていましたが、それでも二期映画と続くうちに視聴者好感度が爆上がりした優子という前例があります。この作品の希美もいつかそうなるはず。

 

 

 

続いて更新の件で一つ報告がございます。

 

実は僕は兼ねてより、仕事をしながら資格の勉強をしておりました。年に一度のみの試験なのですが、その試験が近付いております。と言うことで誠に私事ではございますが、その試験が終わるまでは更新の頻度を落とさせて頂きます。

ただそれを踏まえて先の分はすでに書いていて、むしろここからの展開はこれからも読んで下されば分かると思いますが、色んな意味で皆さんにとって嬉しい展開だと思います。当然、僕としても読んで頂きたいので、更新自体は止めません。あくまで頻度を落とすのみですし、試験が終わり次第、これまでのペースで更新を続ける予定です!

 

 

 

さて最後になりますが、いつも書いていることですが本当に皆さんからの感想やメッセージ、評価が励みになっております。特に評価は目指していた8.88を超えました!う、嬉しい!まさか本当に超えるとは…。評価の9は緑色。自分の作品ながらすげえ…。

新しい目標はお気に入り数ですかね。八幡だけに8888を目指します。80000は高すぎるので断念笑

本当に本作を書いていて皆さんがコメントをくださったり、評価が付いたりするのが嬉しいし楽しくて、仕事に集中ができなくなってきました笑良くない。仕事の方も頑張らないとですね。これからも皆さんのお声はどんなものでも頂戴したいです。自分ではわからないことも多いので!

 

 

次回更新は一週間空けさせていただきます。次回以降は番外編の方に書くか最後まで悩んで、本編に入れることにした文化祭です。

ですが、今思えばこの文化祭を番外篇に書くのはおかしかったかな、と。皆さん、ただ文化祭だけで終わるとは思わないで下さい!笑詳しくは書きませんが、色々とお楽しみに笑

 

そして、番外篇をこの一週間の間のどこかで投稿致します。気が早いのは重々承知で、読んで下されば分かる通り、本作の後日談みたいな話です。この手の話は際限なく書けてしまうので、どこで終わらせるか非常に迷ってしまいました笑別作品の方に投稿しますので、そちらの作品もよろしくお願い致します。

 

それでは!

てにもつ



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比企谷小町にとって北高祭とは、兄のお嫁さん候補を探す社交場に他ならない。
1


 暗闇の中、体育館で行われたオープニングセレモニーは別にシークレットで誰かが踊り出すとか、準備期間中の風景をスクリーンに映し出すとかは一切なく、ただただシンプルに北宇治高校の文化祭、通称北高祭の実行委員長が開催の宣言をしただけだった。それでも『これより北高祭を開催します!』というたった一言で、それはもう大いに盛り上がるのは文化祭というイベントが持つ、DKとJKにのみ特化した魔法のようなものなのだろう。

 クラス単位で集まっていた中、端の方に座り、呼吸すらしない勢いでひっそりとその様子を見守っていたが、よくあんなのでこいつらこのテンションになれるな?コスプレをしている生徒や『フォーー!』と急に奇声を上げている生徒。何、お前。HGなの?

 文化祭とはつくづくボッチには退屈なイベントであるなんて遠い目をしていたが、それでも関西大会が終わってまだ一週間も経っていない。そうした中で訪れた北高祭は、全国大会進出というホットすぎる事実のほとぼりを冷ます良い機会かもしれないな。

 

 そんなことを考えていたときもあったはずなのに。

 

 「ちくしょう。何だよ、この菓子のゴミは…」

 

 ところで全国一億人のロリかっけえ皆さんに質問だ。あなたは文化祭と言ったら何を思い浮かべますか?

 例えば俺は異世界に転生したらスライムだったりとか、出会いだけは運命的だったものの、普通の女の子だったから『オラ、ちょっとメインヒロインに育ててあげっべ!』的なノリで冴えないヒロイン教育しちゃったりとかライトな小説を読むことで常日頃から独学しているのだが、そういった小説の中で文化祭というものは大変良く出てくる。特に学園を舞台にしたシリーズなら、イベントの発生確率は百%と豪語したって構わない。

 文化祭とは世の学生に取って、一年間でクリスマスやバレンタインに並ぶ一大イベントの一つとしてカウントされている風潮にあるからだ。その位置付け的なものは今はとりあえず、どっすんこと横に置いておくとして。

 比企谷八幡の考える文化祭像。……うーん。例えば部員の一人が売り物の本を多く発注しすぎて、それを売り切るために事件に巻き込まれたり料理大会に出たり。

 もしくは、そうだな…。嫌々、文化祭実行委員会をやらされることになって、記録係をやりながら色んな面倒な仕事に追われたりだとか、クラスメイトのぐ腐腐と笑う女の子が手がけたボーイズでラブが止まらない劇をクラスでやることになって、受けの役が自分に回ってきそうになったりだとか。散々文化祭で働いたご褒美に、自分に向けてステージから歌ってくれている人がいたりなんてしたら、きっとその光景は一生忘れない。

 中学生の頃はきっと、空いている教室を点々とする一日なんだろうなあなんて思っていたイベントも、いざ近付いてくると少しばかりはそんな期待もしてしまう。

 

 「うわ…。汚ねえ。なんで濡れてるんだよ…」

 

 現に俺の一年六組は『こわぁいお化け屋敷』という、怖いって書いてある割に全く怖くなさそうな企画を行っているのだ。いくら部活が忙しくて、北高祭の当日まで一切準備を手伝えなかったって言っても、当日は『比企谷君、悪いんだけど人手が足りないから、お化け役やって貰っていいかな?』みたいなのがあると思うじゃん?

 今思うと浮かれていたんだろう。各クラスで出し物をするうちの文化祭だが、どきどきしながらおそらく文化祭の準備を率先してやっていたと思われるクラスメイトから配られた、今日のシフト表と仕事の割り振りを見る。

 見慣れた比企谷の名前を探すと、まるで俺の期待を煽るようにその名前は一番下に書かれていた。

 

 『ゴミ分別 比企谷八幡(ゴミ分別が終わり次第、フリー)』

 

 

 こうして俺の初めての『分』化祭は始まった。

 

 

 

 

 

 「うわ!」

 

 「きゃっ!ビックリしたー!」

 

 驚かす声と、驚かされる声を交互に聞きながら、俺は一人、ベランダに存在するゴミの山で黙々と仕事を行う。

 クラスの文化祭の準備を仕切っていた奴の話を整理するとこうだ。

 昨日まで行っていた準備は、大がかりな仕掛けの作成やドッキリポイントの追加によって、お化け屋敷の制作をするので気が付けば時間は夜の九時。文化祭前日の帰宅時間のぎりぎりであった。そこで出てしまったゴミは全て一度ベランダに出してしまって、後々処分しようという話になったらしい。何でもうちの実行委員会の連中、引いてはゴミ回収業者はゴミの分別にはやけに五月蠅いらしく、例えば。

 

 「このガムテープ、最初からくっついてるやつだろ…」

 

 段ボールに付いているテープ類は全て剥がす。他にもペットボトルのキャップとラベルは取らないといけない。そんなルールがいくつか存在する。

 とは言え、俺も準備には一切関われていなかったし、やれと言われれば文句は言わずにやるしかない。俺と同じ境遇のはずの高坂はちゃっかりお化け、しかもメイクとか大分凝った役なのはどういうことなんだと思わなくもないが、まあそこは大人の事情ってやつなんだろう。

 ちなみに、どこのクラスもこんな感じらしい。絶対嘘だ。俺と同じ惨めな文化祭、もといゴミを分別する『分』化祭を過ごすやつが何人もいたら、ボイコットが起こる。時代錯誤の学生運動。言葉の響きだけかっこいいな。

 

 「おい。今の子可愛くなかったか?」

 「くー。あの子もう一回こねえかな?」

 

 ただ、しばらく作業を進めてみると、この作業も存外悪くないと思い始めていた。最初こそゴミ処理という言葉で嫌悪したものの、こうして始めてしまえばクラスメイトのくだらない話をBGMに、誰の迷惑になるわけでもないどころか必要とされながらベランダでまったりとした時間を過ごすことが出来る。実にボッチらしい楽な仕事じゃないか。

 変に普段話さない奴らと関わる必要もないし、誰からも存在を認識されないからサボって手を止めてても怒られない。こうしてまた一つ、ゴミが製造されるんですね。

 

 「はー。いい天気だなあ」

 

 本当にこんなにいい天気なのに、夜には台風が来るのだろうか。お天気お姉さんもたまに予想を外すけど、それは今日だとしか思えない。

 ベランダで日向ぼっこをしながら、何となく外を眺めてみるとまだ北高祭が始まってそう時間は経っていないがそこそこの来場者が来ているようだ。うちは特に文化祭を含めて行事にあまり力を入れる学校ではないから、大盛況万歳、と言うほどではないのだが楽しそうにしている中学生っぽい来場者を見ていると、来年は是非うちの高校へ、と言いたくなる。

 言わないけどな。俺が言ったら逆に北宇治に来なくなりそうだし。

 あ、中学生見てて思い出した。

 

 「小町、何時頃来るんだろうな」

 

 スマホを確認すると、まだ連絡は来ていない。誰か友達と来るのかと聞くと、今日はお兄ちゃんに会うから一人で行くよ、と言っていた。言葉を深読みしなければつくづく可愛い妹だ。

 うーん、仕事自体は楽でいいんだけども…。スマホを弄る自分の腕をじっと見つめる。つい作業の手を止める。じっと手を見つめてみる。作業の手は止まっている。この負のスパイラル。

 最も来場者が多いのはお昼らしいが、その時間を使って全国大会進出という実績を残した吹奏楽部は体育館で演奏会を行うことになっている。小町もその演奏会には来るだろうし、そこまでには一段落させないとな。

 そんなことを思いながら、俺はベランダの手すりにぐだーっと身体を預けた。



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2

 「さて、そろそろ行きますかね」

 

 嵩張る段ボールは教室側の一角に一纏め。ビニールもプラも同じ袋で閉じている。これならば分別できていないからと跳ね返されるようなこともないはずだ。流石、八幡。やれば出来る子。自分で自分を褒めちぎってやらないと心がぽっきり折れそうだったので、修造張りに何度も自分に熱い言葉をかけてやった。

 昼も近付いてきたので、演奏会に向かおうと教室に入った。

 俺たちの一年六組の『こわぁいお化け屋敷』はイベントに消極的なはずの進学クラスにしては、中々レベルが高い。

 入り口から入ってすぐの誰かが通ると手が一斉に出てくる通路は、人的資産を使い込んでいるだけあってインパクトは強いし、後半のカーテンが開くとメイクを決め込んだ幽霊が飛び出てくるところなんかは客の悲鳴が絶えない。受付では手持ちライトを渡して暗闇の中を客に進ませるのだが、そのライトが床のスイッチを踏むと消える仕組みになっているのはもはやどういうトリックが仕掛けてあるのか俺には全く分からん。

 八幡的には、そんだけ頭いいドッキリができるならもう少し前日の準備の段取りもしっかりと決めておいて、ゴミを片付けてから帰って欲しかったなあ。

 

 それにしても、日光が明るかったベランダから真っ暗な教室に入ると視界がおかしい。こういう物が見えにくい状態から、徐々に見えるようになっていくのを暗順応と言うのだったか。何かにぶつかって、思わずうめき声を上げた。

 

 「う、うおぉぉ…」

 

 「ひっ……!」

 

 どうやら間違えて客用の通路に入ってしまっていたらしい。目の前にいる制服を着た女の子から悲鳴が上がった。

 

 「い、い…、いやあああああぁぁぁ!ゾンビいいぃぃ!」

 

 へ!?ぞ、ゾンビ!?

 あまりの大声に咄嗟に耳を閉じた。今日一番のビビり声に裏方のクラスメイト達からも『な、何だ!?』と慌てた声が聞こえてくる。

 ジェットコースターに乗ったときくらい大声を出して泣いている女の子を前に、頭の中で黄色信号が点灯する。逃げないと。咄嗟にそう思った。

 

 「どうしてこんな目に遭うのおおぉぉ……!」

 

 それはこっちの台詞だよおおぉぉ…。そっちはお化け屋敷に入ってビビりに来たんだから文句言えないけど、こっちはただのゴミ処理係なんだよおおぉぉ…。

 

 

 

 

 

 北高吹奏楽コンサートは体育館にある席が全て埋まって、立っている人がいるくらいに観客が来てくれていた。大人や生徒も多いが、中学生も一定数いて、自分よりも年下の彼らからキラキラした目で見られていると、これも全国に行ったことで知名度が上がった効果なのだなと実感。

 コンクールメンバーの五十五人だけでなく、Bチームのメンバーも加えて演奏をすると、当たり前だが迫力も厚みもある。Bチームのメンバーだって、俺たちと同じように毎日練習をしている。府大会の前とはレベルが段違いだ。

 そんな当たり前なことを考えながら演奏していたが、観客の中に小町がいることに気が付いて、一時間足らずのコンサートが終われば大急ぎでトランペットを片付けた。

 

 「すまん。待たせたな」

 

 「ううん。楽器の片付けしてたんでしょう?仕方ないよ」

 

 小町と待ち合わせていた場所に向かうまでは悪い男にナンパとかされていないか心配だったが、流石俺の妹。話し掛けるなオーラをばっちり出しながら、パンフレットを眺めてふんふんと一人で頷いている。

 それにしても小町はニコニコと楽しそうだ。何かいいことでもあったのかい?

 

 「お兄ちゃん、時間はあるの?」

 

 「おう。ばっちりあるぞ。仕事は全部終わらせてきた」

 

 「仕事終わるの早くない?確か、お化け屋敷だっけ?」

 

 「そうそう。クオリティが中々高くてだな」

 

 「ふーん。そっかー。

 お、タピオカの出店もあるんだ!タピッちゃおっかな?」

 

 「タピるって、また…。俺のクラスにはビックリするくらい興味なさそうだな?」

 

 「うん。だって行かないし」

 

 「え?行かないの?」

 

 「だって嫌だもん。小町がお兄ちゃんと回ってるのが恥ずかしいとかじゃなくてさ、自分のクラスに遊びに行ったのに、お兄ちゃんがクラスメイトから『誰?』みたいな感じで認識されてないのを見るのがね。

 大体わかってるよー。家で話聞いてると、いっつも吹部の話ばっかりだもんね。クラスの話、聞いたことないからさー」

 

 「さいで……」

 

 本当に良く出来た妹だよ。こいつ。

 あまりに感心しすぎてため息が出てきちゃったよ。

 

 「じゃあどこ行くか?」

 

 「ちょっとお兄ちゃん。デートプランを考えてくれてないのは、小町的にポイント低いよ?」

 

 「だってデートじゃねえしな」

 

 「男の子と女の子が二人で遊んだらデートだよ?」

 

 「いやそれが兄妹だったら、家族サービスになるから。接待だから」

 

 「家族サービスはまだわかるけど、接待は違うんじゃない?」

 

 妹が不機嫌にならないように気を遣い続けるんだから接待と大して差はないだろう。とは言え、あんまりにも接待、接待だと言って小町の気を悪くさせたらそれこそ元も子もない。話を変えよう。

 

 「もはや俺パンフレットなんか見てもいないぞ」

 

 「えー…。小町が来て一緒に回らなかったら、どんな一日を過ごそうとしてたの…?」

 

 「…い、行き当たりばったり的な?」

 

 小町の視線は痛い。行き当たりばったりのデートプランは女の子に嫌われるという記事を見たことがあるが、そもそも女の子に行き当たることがなければ嫌われることはない。よって俺は嫌われないはずなのだ!

 小町が来なければ強制参加のコンクール以外の時間は何もしていなかっただろうなぁ。それこそ、文化祭の記憶はベランダだったまである。

 

 「もういいよ。小町がいくつか行きたいとこピックアップしたから、お兄ちゃんはお財布だけ用意しといて」

 

 「お、おう」

 

 「うーん…。あ!じゃあ、まずはみどりさんの教室に行こう!」

 

 「お、川島の所か。いいな」

 

 「でしょ!」

 

 「うん。ところで川島のクラスって何やってるんだ?」

 

 「え?知らないの?」

 

 「逆に何で知ってるの?」

 

 「…まあパンフレット見てないって言ってたもんね……。

 メイド喫茶だってさ、みどりさんのクラス」



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3

 「遅いぞ、小町。文化祭の時間はあと五時間くらいしかないんだから早くしろ」

 

 「…急にテンション上がりすぎだよ、お兄ちゃん。……キモいからやめて。キモいから」

 

 「そういうのはへこむからやめ……はっ…」

 

 手に持っていた小町が受付で貰ったパンフレットを、思わず床に落とす。

 目の前の光景は何とも奇妙の一言に尽きる。夢の国をコンセプトにした水色の可愛いメイド服に身を包んだ三人が、お淑やかであるはずのメイドには似合わない組み体操紛いの何かをして客を集めている。加藤が『ダメかな?アグレッシブメイド喫茶』なんて言っている声が聞こえてきた。

 だが、その中に天使……。天使がおる……。

 

 「何やってるの、あれ?」

 

 「分からん。分からんけど、いいよな」

 

 「そ、そうかなー?」

 

 「そうだろ。何がいいって川島のメイド服だよな」

 

 「言うと思ったー…。みどりさん、可愛いけど絶対あれは変だよ…」

 

 「信じられないかもしれないけどな、あの三人。川島以外の二人も吹部なんだぜ」

 

 「え」

 

 「しかも全員低音だ」

 

 小町とそんな話をしていると、諦めたようにため息を吐いた三人の元に見慣れた黒髪が視界に入ってきた。

 

 「お茶がしたいので珈琲を頂けるかしら、ウェイトレスさん?」

 

 「麗奈!」

 

 げ…。高坂。

 何となく小町といるところで会いたくなかった。

 

 「うわ。あの人めっちゃ美人だね!すっごい顔小さいよ!」

 

 「……まあな」

 

 「モデルさんみたーい!あれ、あの人…見たことある…?」

 

 「あいつも吹部だからじゃね?」

 

 「あ、そうだ!トランペットのソロの人だよね!?」

 

 「……比企谷?」

 

 教室に入ろうとしている高坂が、興奮して大きな声で話していた小町に気付いて俺を見た。高坂が振り返ったことで、低音パートの三人も俺と小町に気が付く。

 

 「あ、小町ちゃん!」

 

 川島が嬉しそうに手を振って、俺たちは夢の国にご招待された。

 

 

 

 

 

一年三組の『Café in Wonderland』はガラガラだ。

おかしい。こんなに最高な夢の国に、なぜ人が集まらないのか。こんなの絶対おかしいよ!

だってメイド服着てるJKだぞ。しかも川島までいる。これが秋葉原のメイド喫茶だったら、夢の国に入るためのエレベーターで千円プラス、ケーキセットで千二百円は持ってかれますわ。

 文化祭後には表彰式がメインの閉会式が行われるが、教師陣が審査して決定する特別賞。体育館のステージで行われる企画で最も観客が多くて盛り上がった企画に行われるパフォーマンス賞。来場者や生徒達の投票も踏まえて決まる優秀賞。なんなら俺が個人的に決める八幡賞も合わせて、一年三組には四冠あげたいまである。

 

 「何でお祈りするみたいに手を組んでるの?」

 

 「いや。この企画考えた人に感謝が溢れ出てきて、身体が勝手に動くんだ…」

 

 「は、はあ…」

 

 おかしいと言えば、もう一つある。この席である。

 俺と小町と高坂。何とも異質な三人。小町にじろじろと見つめられている高坂は珍しく居辛そうにしていた。

 

 「それにしても、比企谷の妹ちゃん。全然似てないね」

 

 「うん。私もそう思った。本当に兄妹なのかな?」

 

 「本当ですよ。みどりも最初は驚きましたけど、とっても仲良し兄妹なんです」

 

 声、聞こえてるんだよなー。

 小町と二人でいるときに、兄妹を疑われるのはもう慣れた。多分小町の方も同じだろう。

 低音組の三人は俺たちが注文したケーキセットを持って来ると、そのまま俺たちの隣の席に腰掛けた。

 

 「また外でお客さん、呼び込まなくていいの?」

 

 「いいよー。皆見てるだけで入ってくれないしさー。麗奈達が来てくれたのが奇跡なくらいだもん」

 

 「そう」

 

 いやいや。そう、じゃないよ。ちゃんと働けよ。俺が言うのもおかしいけどさ。

 

 「お久しぶりですね。小町ちゃん」

 

 「はい!ご無沙汰ですー。関西大会は見に行けなかったんですけど、今日の演奏聞いたら府大会よりのときよりさらに上手くなってて、小町感動しました!」

 

 「でしょでしょー。みんな頑張ってるからね。勿論、比企谷君も」

 

 「うっ……ぐすっ……」

 

 「うえー!比企谷、何で泣いてるの!?」

 

 「川島に褒められた…!人生って素敵!生きてて良かった…!」

 

 「いい子いい子です」

 

 「…本当に比企谷の謎のみどり好きはぶれないなあ」

 

 「こんな兄といつも仲良くして下さってありがとうございます」

 

 「あ、いえいえこちらこそ、何だかんだお世話になってます。えっと、小町ちゃんでいいのかな?」

 

 「はい。小町でも、比企谷妹でも何でもいいですよ!」

 

 小町と加藤が仲良くなるのは早かった。二人ともコミュ力の高さには定評がある。川島も加えてぺしゃくしゃぺしゃくしゃと続くおしゃべりは終わり所が見当たらない。横やりを刺して場が白けでもしたら取り返しが付かないので、黙って出てきたケーキを食べる。 うん。スーパーで売られているようなただ甘ったるいだけの安っぽい味だ。嫌いじゃない。

 

 「じー……」

 

 「何ですか?葉月さん?」

 

 「いや…。目が腐ってないし、小町ちゃんって本当に比企谷の妹なんだよね?琥珀ちゃんはサファイアそっくりだからどうもしっくりこないんだよねぇ」

 

 「ちょっと葉月ちゃん!みどりですぅー」

 

 「あはは。別に兄妹、姉妹だからって似るわけじゃないんだよ。うちだって似てないもん」

 

 「そっか久美子のところもお姉ちゃんがいるんだもんね?」

 

 「逆に似てるところあげろって言われても、うちは髪色くらい?」

 

 「比企谷君のところは吹奏楽って共通点がありますよね?」

 

 「そうなんだ!小町ちゃんは何の楽器やってるの?」

 

 「小町は中学からユーフォやってます!」

 

 「嘘!?私もユーフォだよ!?」

 

 「そうなんですね!同じ楽器の先輩だ!えっと…」

 

 「あ、私は黄前久美子って言うんだ」

 

 「いつも兄がお世話になってますー」

 

 「へ?あー、えっとぉ……。う、うん…こちらこそ……あはは…」

 

 気まずそうに顔を逸らした上に、最後の方は声が小さすぎて何も聞こえなかった。そりゃそうなるわ。お世話になってるどころか碌に話したことがないんだから。友達の友達は全く友達ではない。

 そのことに小町が気が付かないわけがなかった。

 

 「本当困ったお兄ちゃんなんで、これからも皆さんに迷惑たくさんかけると思うんですけど、見捨てないでやって下さい。小町は妹としてそれだけが、それだけが心配なのです。よよよ」

 

 「今時よよよ、とか言って泣く奴いねえよ。どこの平安時代の貴族様だ」

 

 一瞬で黄前が気まずそうにしてるのを察して笑いに持って行くところは、流石の一言に尽きる。

 人間観察とそれ故に空気を敏感に察することに関しては前前前世くらいから継承されてきた比企谷家の固有スキルだが、小町はただそれを感じるだけ感じ取って後は大体悪い方向に持ってくことしか出来ない歴代比企谷家の面々とは違い、周囲との協調をきちんと図ることが出来る。下の子特有の要領の良さに加えて、俺という孤高のスペシャリストを見て育ってきたからなのだろう。

 

 「小町ちゃんは今中学生なんだよね?」

 

 「はい。二年です」

 

 「そっか。北宇治志望してるの?」

 

 「進路のことはまだあんまりちゃんとは決めてないんですけど、お兄ちゃんの吹部の話聞いたりしていいなって思ってます」

 

 「そっか!小町ちゃんが高校でもユーフォやってくれたら、私たちとは一年間一緒にやれるんだね!」

 

 「低音はあんまり人気がないからねー。再来年、小町ちゃんが入ってきてくれたら私たち本当に嬉しいな」

 

 高校生の低音のお姉様方にちやほやされてホクホクしてる小町を見ているのは、微笑ましくていいものだが、兄としてここは一つお灸を据えておかなくてはいけない。

 

 「でもお前、このままだと北宇治の入学試験受かるかわかんねえだろ?」

 

 「む。いいの。まだ一年以上あるんだよ?」

 

 「その余裕がだな…」

 

 「そういうお父さんみたいなのやめてよね!嫌いになるよ?」

 

 「その理論だと、父さんのこと嫌いみたいに聞こえるんだけど…」

 

 「大体お兄ちゃんだって、いつもは夏休みの宿題とか早く終わらせてるのに今年は『大丈夫だ…。まだ余裕あるから、へへ』とか言ってた癖に前日まで終わってなくてお母さんに怒られてたじゃん」

 

 「ばか。同級生の前でその話はやめろ」

 

 「…比企谷兄妹、仲良しだねえ」

 

 呟いた加藤と、意外そうにしている高坂と黄前。川島だけがニコニコと笑っていた。



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4

 「すいませーん」

 

 「あ、いらっしゃいませー」

 

 しばらくすると、徐々にお客さんがやってきて教室の半分くらいの席が埋まりだした。キッチンが準備したケーキや珈琲を運ぶのに、ウェイトレスの加藤や川島はぱたぱた忙しくも笑顔は絶やさず働いている。そのサービス精神に敬礼。

 

 「あの、高坂さん」

 

 「どうしたの?」

 

 「お兄ちゃんと高坂さんって同じクラスなんですよね?」

 

 「うん」

 

 「それで部活も一緒で、しかも同じパート」

 

 「そうだけど、それがどうかした?」

 

 「これはもしかしてもしかするんじゃないですかね…。いや、でも流石に高坂さんは敷居が高すぎるか……」

 

 急に何かを考え出す小町。アホ面で頻りに首を振っている姿を見ていると、うちの妹はやっぱり頭が悪そうだ。いや、違うよ。それもいいところだなんだよ?

 

 「ちなみにまさかとは思うんですけど、お兄ちゃんと遊びに出かけたことがあったりとか…?」

 

 「?ないけど、どうして?」

 

 「あー、そうですよねー。………やっぱり優子さんの方が一歩リードしてるのか。よし」

 

 ぼそぼそと何かを呟いた小町は、身振り手振りをつけて捲し立てるように話し出した。

 

 「いやほら。あれです。あれ。小町的には兄の数少ない休日を一緒に過ごしたいわけでー。もし、お兄ちゃんと遊んでることとかあったら小町も一緒に遊びたかったなー、思い出作りたかったなー。みたいな?

 …ん?なんか言い訳がましかったけど、もしかして今の小町的に結構ポイント高かった?」

 

 「全然高くねえよ。なんでお前が付いて来ちゃうんだよ。高坂と出かける事実なんてないけど、いくら兄でもそれはちょっと引いちゃうよ。

 で、高坂はこの後、どっか回るのか?」

 

 「うん。クラスの手伝いもあるから、急ぎ足にはなっちゃうけど久美子と回るつもり」

 

 「加藤と川島は?」

 

 「二人はクラスの手伝いがまだあるんだって。なんでも欠員が出たらしい」

 

 「へえ。欠員ねえ」

 

 文化祭を休むのは中々度胸がいる選択だ。普段の授業と違って、休めばシフトに影響が出て学校に登校したときに周りからのバッシングがひどい。

 

 「うちのクラスは欠員は誰もいないよね?」

 

 「ああ。みたいだな」

 

 「みたいだなって、そんな他人事みたいに」

 

 「いや実際他人事みたいなもんだろ。俺たち、大会終わった後は今日のコンサートの練習もあったからクラスの手伝いなんて何もしてなかったし?」

 

 「それはそうだけど。なんかさっき教室の前通ったときは凄い盛況だったみたいよ?」

 

 「ふーん」

 

 盛況だって言ったって、俺ゴミ処理担当だしな。手伝う事なんて、ゴミ捨てること以外ねえし。…もしかして盛況だからって、またベランダにゴミ増えてねえだろうな?

 さっきまで分別してたのは昨日の準備で使ったものの残骸ばかりだったけど、今日は今日で補強だ修理だ昼飯のゴミだなんて言ってゴミが増えてたら最悪だ。ゴミ処理比企谷八幡の隣に、終わり次第フリーって書いてあった文言が嘘ってことで契約違反を訴える。

 

 「なんか比企谷らしいね」

 

 「俺らしいって何だよ?」

 

 「なんか一歩引いてて冷めてるところ。嫌いじゃないけど」

 

 「ああ。俺も自分のこういうところ、大好きだぞ」

 

 自分が自分を認めてやらないで他に誰が認めてやるというのだ。自分最高!自分、自分もっとこっち向いてー!

 そんな面白い話をしている訳でもないのにくすくす笑っている高坂を見て、小町が『おう…』とか言う謎の声を上げた。

 

 「あのあの!高坂さんはいつからトランペット吹いてるんですか?」

 

 「私は子どもの時からずっと吹いてる。お父さんがプロの奏者だから」

 

 「ほえー。凄いですねー。

 府大会の時、自由曲のソロ聞いてすっごい感動しました。なんか情熱的って言うか、上手く説明できないんですけど…」

 

 「そう?ありがとう」

 

 「く、クール…。何だか大人って感じがする。……小町も高校生になったらこういう感じで行こうかな?」

 

 「無理だから辞めとけ。背伸びしないで自然体でいるのが一番だ」

 

 「でもやっぱりあんな演奏聞いたら、吹奏楽やってる中学生みんな高坂さんに憧れちゃうよ」

 

 「嫌だぞ。俺家で小町が、『小町、特別になりたい!』なんて厨二病みたいなこと言ってたら」

 

 「何?もしかして比企谷今、私に喧嘩売ってる?」

 

 「はは。嫌だなー。そんなわけないじゃないですかー?」

 

 高坂が机の下で軽く蹴ってきたが、大して痛くはない。こんなもの、高坂と同じ席でお茶をしていることで向けられている周囲の男達からの視線に比べれば可愛いもんだ。

 高坂は黄前をまだ待つみたいだし、そろそろ小町と別の所へ行こうか。そう言いかけたところで、タライが落ちたような大きな音が教室に木霊した。

 

 「あ!ご、ごめんなさい!」

 

 手に持っていたお盆を落として、すぐに川島が恥ずかしそうにそれを拾う。何かを乗せていたわけではないようで、皿が割れた様子はなく無傷ではあるが、恥ずかしそうに顔を赤くしながらぺこぺこと頭を下げている。

 

 「くぅ…!たまんねえぜ…」

 

 「お兄ちゃん。みどりさんのミスを喜ばないで」

 

 「わかんねえか?あれはある意味、メイドさんの義務なんだぞ?その証明にほら。ここにいる客の誰も、責めないどころか顔がほわほわとして癒やされているじゃんか」

 

 「一ピクセルもわからないよ」

 

 「でも、確かに比企谷の言う通り、周りの客達みんな幸せそう…」

 

 「高坂さん。あんまり見ない方がいいですよ。闇みたいなもんですからね」

 

 メイド服にプラスどじっ子。どこまでもメイドのテンプレを突っ走っているが、王道で良いんだよ。それが川島なら尚良い。

 そんなことを思っていたときだった。

 

 「すいません」

 

 「ん?実行委員会の方ですよね?」

 

 「はい。本部の人間で、文化祭の見回りをしています。そこのあなた」

 

 「え?俺ですか?」

 

 文化祭実行委員会の腕章をつけた生徒が俺を指さした。あんまりにも突然のことに小町も高坂も目を丸くしている。でも、一番ビックリなの俺だから。

 

 「只今、校内で何人かの女子生徒から盗撮されたという苦情が入っています」

 

 「は、はあ」

 

 「犯人は貴方ですね?」

 

 「……え、ええ!?」

 

 ちっ、バレたか。確かにやりそうな目をして……っていやいや待って。違うから。

 あんまりにもドヤ顔で宣言されたものだから、一瞬本当に俺なんじゃないかなんて思っちゃったわ。

 

 「廊下に何かが落ちた大きな音が聞こえて来てみたら、目つきの怪しい男がいました」

 

 「目つきって…」

 

 「その目は犯罪者の目です!それに被害に遭った女性から、犯人と思われる人物が厭らしい目をしていたとの情報も入っていますので。白状しなさい」

 

 「独断と偏見過ぎる!

 違いますって。俺にはアリバイがあります」

 

 「そんなものは聞きません」

 

 「聞いてくれないの!?」

 

 何でこいつを犯人捜しの第一線に置いちゃったんだよ。一番探偵に向かねえだろ。

 

 「それにそこの可愛いメイドの方をみる目つきも酷かったですが、息がはぁはぁと荒いのも犯罪臭がします」

 

 「……否定できない」

 

 「おい。高坂否定してくれ……!クラスメイトが冤罪で人生の終わりを告げようとしてるんだぞ……」

 

 「とにかくです。話は職員室で聞きましょう」

 

 「話は署で聞くみたいな言い方しないで下さい。そこ行ったら、もうゲームオーバーですから」

 

 「うっさい、変態!女の敵!いいから付いてきなさい」

 

 違う違わないの押し問答。このやり取りは、高坂と小町がフォローしてくれるまで続いたのだった。

 

 

 

 

 

 「まさか兄の学校の文化祭に行って、兄が犯罪者として捕まりかけているのを見るのは世界広しといえども小町だけだろうね」

 

 「本当だよ。心臓止まるかと思ったよ」

 

 「小町もお兄ちゃんが最初にあなたが犯人ですねって言われたときは、ついに何かやらかしたのかーって思って諦めちゃってた。……ごめんね」

 

 「おい。本気で謝るなよ。泣きたくなっちゃうだろ」

 

 さっきの見回りの文化祭実行委員会から逃げるように二つ上の階へと逃げてきた。目つきだけで言ったら他にも怪しいやついるだろ。あいつ俺のこと職員室に連れて行こうとしてたの、嘘じゃなかったぞ。

 

 「ま、まあ気を取り直していこうか。うん」

 

 「気ぃ、取り直せるか?俺もう帰りたいんだけど……」

 

 「お兄ちゃんは生徒だから帰れないでしょうが。頑張って」

 

 小町が鞄からパンフレットを取り出す。加藤達からもいくつかおすすめを聞いておいた。目星の所には星のマークが付けられたパンフレットを広げて、小町は現在地から近くの企画を指さした。

 猫カフェねー…。色んな意味で裏切られそうな気がするけど。だってうちの文化祭、動物禁止だし。

 

 「ほら。次はここに行こう。ここに」

 

 くいくいと俺の腕を引っ張って、上目使いで見つめてくる妹。あざとい小町の腕を引っぺがすと、やっぱりあざとく『あうぅー』なんて声を上げた。

 だが、こうやって甘えられれば、まあ俺も少しは頑張ってやろうという気持ちも湧いてくる。それが千葉出身のお兄ちゃんの性だ。仕方がない。

 

 「分かったよ。行くか。……ぐうぇっ!」

 

 「え、ええぇぇー!お、お兄ちゃんが!タタ、タックルされた!?」

 

 背中に中々強い衝撃を受けて思わず転びかける。幾分かの怒りも込めて振り返ればそこにいたのは黄色いウサギの着ぐるみだった。

 

 「えーっとぉー、これは一体どういう状況かな?小町、頭良くないからわかんないんだけど」

 

 「全くわからん。わからん……」

 

 何も話さないまま手を振っている人形。『三の二おいでやす』と書かれた紙が肩から下げられているが、このウサギでは一体何をしているクラスなのか、微塵も想像できない。

 文化祭が始まってすぐにベランダで一人ゴミ処理をやらされた挙げ句、教室に入ればゾンビだとビビられる。小町と合流したり、川島に癒やされたりしたと思えば文実に犯罪者扱いされ、今度はウサギに背中から突っ込まれる。

 この文化祭、いくら何でも災難過ぎるだろう。俺ってもしかしなくても嫌われてるんじゃなかろうか?

 

 「ど、どちら様ですか…?」

 

 もぞもぞと動かしにくそうな手を動かして、ウサギは頭をすぽんと取った。

 

 「…ばあ!ビックリした?」

 

 「か、香織先輩!?」



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5

 「いやー。驚きましたしたね。まさかウサギが突っ込んでくるとは」

 

 「私も比企谷君だって思ったら、知らない女の子と一緒にいたからビックリだったんだよ?私服の女の子だったし、もしかして彼女さんかなって思ったらどう声かけていいかわかんなくなっちゃった」

 

 「小町もビックリしましたよ…。まさかウサギの中からとんでもないべっぴんさんが出てくるんですもん。川から流れてきた桃を割ってみたら可愛い赤ん坊が出てきた時のおばあさんの気持ちも、きっとこんな感じだったんだろうなあ…」

 

 三人で驚いたビックリしたを繰り返す三人組。全員驚いた理由が違うのも不思議だし、そのうちの一人が顔はとんでもない美人なのに身体が黄色いウサギだというのが尚、奇妙な空間を演出している。アニメだったらきっと、俺たちの周りには『!』と『?』が溢れかえっているだろう。

 

 「比企谷君の妹さんだったんだね。初めまして、三年の中世古香織です。名前は小町ちゃん?」

 

 「は、はい。妹のこここ小町です。いつも兄がお世話になっておりますです」

 

 「さっきからどうした?なんかおかしいぞ」

 

 「だだだって、不細工なウサギの中からエンジェルが現れたんだよ。狩○英孝がゲストで来るって聞いてたのに、手○佑也が出てきたようなもんだよ」

 

 「伝わんねえだろ…」

 

 「不細工?可愛いよー」

 

 「かわ……あれ…。中世古さんが言うと可愛く見えてきた……?おかしいな…」

 

 「不思議だよなぁ。身体だけ見ると可愛くないのに、顔も含めて見ると可愛く見えるんだぜ」

 

 「二人とも褒めてくれてるの?」

 

 困ったような顔をしている香織先輩もマジキュート!やべ、優子先輩みたいになっちゃった。

 

 「うーん。お世話になってますかー」

 

 「え?なんすか?」

 

 「むしろ私の方がお世話になってる気がするなあ」

 

 「いやいや。そんなことないですよ。先輩、うちのパトリだし」

 

 「でも色々迷惑かけちゃったこともあったし、帰りとか一緒に帰ってくれると楽しいし」

 

 「えー!」

 

 「うおっ!本当にさっきから小町どうした?」

 

 「思えばおかしいよ。あのお兄ちゃんが香織先輩って下の名前で呼んでるし!名前呼びの人、優子さんだけじゃないの!?」

 

 「そりゃまあそう呼んでって言われたし…」

 

 「お兄ちゃんが顔染めてそっぽ向いても気持ち悪いだけだよ。

 お兄ちゃん普通なら『下の名前で呼ぶとか、どこのアメリカ人だよ?

 大体、海外だったらどうだーとかあの風潮が気に食わん。異文化コミュニケーションだとかグローバル人材がどうとか本当何なの?海外に合わせて横文字使ってる自分達かっこいいって気取ってるだけにしか見えねえ。

 日本人らしくイエスノーはっきりさせないで飄々と流されながら残業してりゃ、文化的次元を理解しなくたってマネジメントできるから。大体のことはな、時間と誰かの我慢で解決するんだよ。

 それを証明して武器にするお国柄で何が悪い。まあ、俺は働かねーけど』とか言うじゃん」

 

 「すごーい!流石は妹ちゃん。比企谷君の真似上手ー!」

 

 「え、今の小町の似てました?」

 

 「それはあんま嬉しくないかもなあ…。

 まあそんなこと置いといて、下の名前で呼んでるしトランペットパートの先輩で何か仲良さげ。これは高坂さんよりもさらに何かありそうな予感が、びんびんに感じられちゃいますねえ!」

 

 「何もねえ。何もねえから。ところで香織先輩のクラスは何してるんすか?」

 

 小町に自転車二人乗りした話とか間違ってもばれないようにしないと。割と思いっきり話を逸らしたが、香織先輩は気にせずに答えた。

 

 「私のクラス、ダンスパフォーマンスしてるんだ。私は宣伝隊長してるの」

 

 「それでその着ぐるみなんですね?」

 

 「そうそう」

 

 三年二組のクラスメイトの誰もが、香織先輩に宣伝をしてもらうことになったときに『よし、集客はばっちりだ』と思ったことだろう。

 そして香織先輩が突然、このウサギの着ぐるみを着て『それじゃあ、頑張ってお客さん集めてくるから』と言い出したときに、『それ着ちゃうのかよ……』と思ったが張り切ったこの顔を見て、そんな指摘できなかったことも想像に容易い。

 

 「小町ちゃんは来年受験なの?」

 

 「いえ。小町は今二年なんで、再来年受験です」

 

 「そうなんだ。じゃあもし、北宇治に来たら比企谷君と一年間は一緒に高校生活送れるんだね」

 

 「はい。別にお兄ちゃんはどうでもいいんですけど、吹部には高坂さんみたいな美人もいるし、みどりさんとか葉月さんみたいに話しやすい先輩達もいるし、まだちゃんとは決めてないですけど北宇治と吹部いいなーって思ってます!」

 

 「おお。私も小町ちゃんが吹部入ってくれたら、学校生活一緒に過ごせるわけじゃないけど嬉しいな」

 

 お兄ちゃんどうでもいいってとこはあれだよな、恥ずかしさの裏返しみたいなやつでいいんだよな?

 

 「うぅ。今日の文化祭に来て一番の収穫はお兄ちゃんの周りの人が、やたら美人でいい人ばっかり集まってることだよ。

 優子さんに前会ったとき、可愛いし仲良さそうにしてたからこれは優子さんに小町は賭けるしかないって思ってたら、優子さんだけじゃなくて同じ一年に高坂さんいること知って、まさか高坂さん以上の女の人はいないと思ってたら中世古さんいたし。

 お兄ちゃんのパート、本当どうなってるの?」

 

 確かに北宇治のトランペットパートのレベルが高いって言うのは塚本も言っていた。

 だけど、ただ可愛いだけじゃないんだな。ストロングなメンバーと評したのは、確か田中先輩だった。今年のトランペットパートはこれまで部の中心になってきた。特にここまでの揉め事では。

 トランペットは吹奏楽の花形って言うけど、こういう目立つ人が集まるのだろうか。だったら俺、目立たないから逆にパート内でめちゃくちゃレアキャラだわ。

 

 「そうだ。比企谷君達さえ良かったらさ、今から休憩に入るから一緒にあすかのクラス行かない?結構面白いらしいよ?」

 

 「田中先輩のクラスかあ…。ちなみに何やってるんですか?」

 

 「占いだって」

 

 「面白そうですね!その田中先輩って人も三年生の先輩?」

 

 「ん?ほら、今日のコンサートで司会やってた」

 

 「ああ。あのハキハキしてる人」

 

 「そうそう。三人で行こうよ?」

 

 「小町は賛成だよ」

 

 「俺も別にいいぞ」

 

 「それじゃ、行こっか。あ、その前に……」

 

 香織先輩は手に持っていたウサギの頭を被った。これを被ると話せないらしくて、ジェスチャーで行こう行こうと伝えてくる。

 

 「……やっぱり、それ付けない方がお客さん集まるんじゃないかな?」

 

 「……やめろ。香織先輩はこっちの方がいいと思ってやってるんだから」



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6

 「うぇるかーむ。迷える子羊たちよー」

 

 「わー。あすか似合ってる。可愛いよ!」

 

 「でしょー?ふふん」

 

 占い師の格好をした田中先輩は、真っ赤な敷物の広げられた机に手を置いて座っていた。何と言っても目に付くのは大きな水晶玉だ。他にもかぼちゃや月、タロットカードなどが貼り付けられている机や教室の壁は完璧に出し物として占いをしていることをアピールできている。

 知的な赤い眼鏡や真っ黒くて長い髪、そして何と言っても大人びた妖しげなボディ。いつもと違うところと言えば、指に塗られた赤いマニキュアくらいだろう。

 香織先輩の言う通り、田中先輩の格好は似合っていた。どこからどう見てもおとぎ話に出てくる、『あの悪い魔女の仕業よ!』って最初に言われる悪い魔女にしか見えない。

 一人で教室の前にいる辺り、受付担当なのだろうか?

 

 「他の人は何をしてるの?」

 

 「全員占い師だよ?」

 

 「多すぎないかな?」

 

 「これでも意外と繁盛してて足りてないくらいだからー。それよりそれよりー!気になるのは香織と比企谷君が連れてきたその子だよ!」

 

 「こ、小町ですか?」

 

 「小町ちゃんって言うんだね?上の名前は?」

 

 「比企谷です」

 

 「嘘!?比企谷君の妹ちゃんなの!?」

 

 「はい。兄がいつもお世話になっています」

 

 「ううん。私の方こそ、比企谷君には色々と頑張って貰ってるよ。色々と、ね」

 

 意味深に笑う田中先輩。怖い。魔女っぽい格好してるから尚のこと怖い。

 

 「あ、比企谷君。今、この水晶玉に占い結果出たよ」

 

 「え、俺何も言ってないじゃないですか?」

 

 「何々ー…。比企谷君の過去は…。お。見えてきたよー!」

 

 「な、何ですか…?」

 

 「ここに写し出されているのは、南国…うーんペルー辺りかな。拾われてくる子ども…。この目、もしかして比企谷君?じゃあ、この拾ってる人は…お母さんってことに?

 そうか。比企谷君と小町ちゃんは全く似ていない。それはつまり、比企谷君が実の子じゃなかったって事なのか!」

 

 「おい。何言ってるんだあんた。こんなインチキ臭い場所……」

 

 「なーんてね。冗談冗談

 それより、本当に水晶に見えたのはねえ、……比企谷君の部屋?本棚?中学生の時の、歴史の教科書のカバーがして――」

 

 「!!そ、そんなことより、田中先輩!ひゃやく案内して下さい!」

 

 「お、お兄ちゃん?」

 

 「なな何でもない。何でもないから忘れてくれ。忘れろください」

 

 どうなってるんだ!あの人の水晶玉!なんで俺が中学生の時話し掛けられてちょっと軽く好きになっちゃった同級生と似てる女の子が表紙にのってたから、変装までして本屋で買ったえっちな本の隠し場所分かっちゃうんだよ!?

 俺の動揺に、ホクホクした表情の悪女は満足したのか、最初に小町を呼んだ。

 

 「それじゃあまずは、お嬢さん。君はまだ北宇治高校の受験を考えている、もしくは受験に不安を抱えているね?」

 

 「嘘!どうして……。もしかして、また水晶に!」

 

 そりゃ、北高祭に来てる中学生なら大体そうだろう。こんなのに騙されてたら、お兄ちゃんちょっと心配だよ。

 

 「そう。今、この水晶玉に写っているよ。心優しい女の子には、その不安を取り除いてから運命を占わせてもらうよ。教室の中に入って、すぐ左の一番の部屋にお入り。きっと君を導いてくれるはずさ」

 

 「わ、わかりました。お兄ちゃん、中世古さん。先行きますね」

 

 「うん。行ってらっしゃい」

 

 「おーう。先に終わったら、この教室の前で待ってろよ」

 

 ちらりと見た教室の中は黒を基調としており、キラキラと赤や黄色の照明や宝石の玩具が施されていて、中々占いの館っぽい雰囲気を醸し出している。きっと番号の書かれたカーテンで区切られているスペース事に占い師がいるのだろう。教室を空けて感嘆の声を上げた小町は、そのまま神妙な足取りで左に進んでいった。

 

 「面白いですね。受験生のカウンセリングって言うか、相談みたいなのも兼ねて占いをするみたいな感じですか?」

 

 「うん。そうそう。中学生には個別で進路の相談をして、まだどこ受験するか迷ってるーって子には北宇治に来るといいことがありますよって話したり、受験大丈夫かなって思ってる子には、この参考書がいいよって教えてあげてるの。でもそれも普通にやったんじゃ面白くないから、あくまで占いをしている体で。

 文化祭は貴重な学校の宣伝の場だからね。入学生を増やすために有効活用しないと。

 あ、でも勿論恋の占いとかもするけどねー!」

 

 「おー。頭いいね。流石、三年の進学クラスの出し物だ」

 

 「ちなみに吹部のことも超アピールしてるから。高校に入学したら変わりたい、とか挑戦したいって言ってる子は吹部に来ないと呪われるって」

 

 「良いことあるよ、とかじゃないんですね…」

 

 「あはは。さて、それじゃ二人も占っていこうかー。比企谷君はもう決まってるよ。入って四番の部屋」

 

 「え、何でですか?」

 

 「入ればわかるよ。吹奏楽部員は基本的にその部屋にご案内してるんだ」

 

 「い、嫌な予感がする」

 

 「香織はどうしようかなー」

 

 「私も吹部だけど、比企谷君と同じ部屋じゃないの?」

 

 「うん。香織にはあんまりその部屋に入る必要がないって言うかね。

 その代わり、特別に私が占おうかな?」

 

 「え?本当に?嬉しい!」

 

 香織先輩が今日一番の笑顔を咲かせた。この人、本当に田中先輩のこと好きなんだよなー。

 

 「それじゃあ私は他の子にしばらく受付変わるようにお願いしてくるから、香織はちょっと待っててね。比企谷君は中にどうぞー」

 

 小町の時よりも俺の方がかなり適当な感じなのは、この企画が中学生の受験相談とターゲットを明確にしているからだろうな。まあ、別に良いんですけどね。

 二人に手を振られながら、俺は四番の部屋に入った。

 

 

 

 

 

 「来たわね、迷える子羊。…いえ、問題児!」

 

 「ど、どうも……」

 

 四番のカーテンの奥には、田中先輩と同じ占い師の格好をした小笠原先輩がいた。俺の姿を見て、明らかに眉間に皺を寄せる小笠原先輩。俺はお客として来たのに、この仕打ちはなんたることか。

 

 「に、似合ってますね?」

 

 「ホント?ありが……ごほ、ごほっ。そんなお世辞はいりません」

 

 「別にお世辞じゃないですけどね」

 

 「さて、ここでは普段あなたが『吹奏楽部』に対して思っている不安や悩みを私が聞いて、あなたの行く先を占ってあげましょう。ただし、あなたのこれからを占うに際して、これからの運気を高めるために私からもいくつか指摘させてもらうから、その点はこれからの行動に反映していくように。いいですね?」

 

 「……はは。なるほどねー……」

 

 思わず笑いが零れた。つくづく上手いことやるな。

 中学生の相談に乗る名目で北宇治の宣伝をしたりと打算的だが、吹部も同じように占いという口実に隠された蜘蛛の糸があるみたいだ。

 そもそもこのクラス、多くの吹奏楽部員に人気があるというか行きたいと思わせられる要素は目の前にいる小笠原先輩と、受付をしていた田中先輩である。もし仮に、吹部の誰かと北高祭を回るとなれば、部長と副部長が揃っているというのはそれだけでこの占いに行く動機になるし、なんならコスプレまでしてるというのだから尚のことだ。

 

 では、吹部が多く来る見込みがあるこのクラスをどのように上手いこと利用しているか。一つは部員からの不安を聞くこと。個別のブースであることや、暗めの照明、それにあくまで文化祭の一企画の占いという名目であるため肩に力が入らないという状況が、普段あまり部長と話すことのない後輩であっても不満や不安を話しやすくしている一因になるのだろう。

 全国を控えているということもあって、もやもやしていることを部長に話すことが出来た。その事実だけでも、少しはその解消に役立つのかもしれないし、部の運営をやりやすくすることにもつながるはずだ。

 そしてもう一つはその逆である。つまり部長と副部長という部の運営をする側からの改善して欲しい点を伝える機会。こちらも同じように一対一のため話しやすいし、また普段は聞きにくい情報なんかを仕入れることができる。特に三年と二つ学年の離れた一年については、パトリ会議で三年から話を聞いているのとは別の側面からの貴重なご意見になる。

 

 香織先輩は普段から二人といる時間が多いし、むしろ部の運営の中心的な存在だから小笠原先輩と話すこの部屋に案内する必要がなかったという訳だ。

 誰が考えたんだ、こんなこと。うん。田中先輩だろうな。



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7

 「それで俺からの部への不安ですか?」

 

 「うん。ないならないでいいよ。私から比企谷君に言いたいことは山ほどあるから、その時間を多く取れるし」

 

 にこにこと笑顔を浮かべている小笠原先輩。その顔が作り笑顔であるのは誰が見ても分かる。とりあえず何とか質問で引き延ばして、小笠原先輩から俺に話をさせないように時間を稼ごう。

 

 「ど、どうしたら部長と仲良く出来ますかねー、みたいな……。はは……」

 

 「そうだね。まずはその腐った目」

 

 「最初からどうすることも出来ないやつだったー」

 

 「後は香織を誑かすのもやめて欲しい」

 

 「それは待って下さい。俺、誑かしてなんていないですもん」

 

 「それから、もっと部員ともコミュニケーションを取るべきだな。最近はペットの皆とは上手くやってるって聞いてるけど、他のパートとも話して。吹部の闇ってあだ名、定着しちゃうよ?」

 

 「だって話す必要ないで……え、俺そんなあだ名で呼ばれてるんすか?もうちょっと詳しく」

 

 「それから何より余計な問題に首突っ込まないで。あすかから聞いたもん。希美ちゃんの復帰の問題にも一役買ってたって。何やってるの?ねえ?」

 

 「むしろ田中先輩に関わるように仕向けられたんですが、それは…」

 

 つーか結局、小笠原先輩から俺への改善事項みたいになっちゃってるんだけど。まだ話したそうに次から次へと俺への改善事項を口から発する小笠原先輩は少し楽しそう。俺の勘違いでなければ、後輩へのアフターケアが目的だと思っていたのに、むしろ小笠原先輩のストレス発散の時間になっている気がする。

 

 「あと何と言っても、私に迷惑をかけないことかな。私、部活引退したら絶対に病院行って、胃に穴が開いてないか診断して貰おうと思ってるんだ」

 

 「胃に穴が開くとただの腹痛とかだけじゃなくて、発熱とか呼吸困難、血圧低下の症状があるって聞いたことありますけど、そんな症状あるんですか?」

 

 「ううん。ないけど、絶対開いてるもん!」

 

 「そうやって思い込んでいると本当に開くからやめた方が良いですよ。緊急手術とかで切開とかもあるって聞きますし」

 

 「え、そ、そうなの……。じゃ、じゃあ胃に穴開いてない……」

 

 「はぁ。苦労人ですよね。先輩」

 

 「うん。特に今年は本当にね。滝先生に続いて、高坂さん、比企谷君に希美ちゃん。次から次へと立て続けに問題が…。休む暇がないよ」

 

 「合宿の時も物真似やらされてましたしね」

 

 「あーあれなー……」

 

 「めちゃくちゃ上手かったですけどね」

 

 「え?」

 

 「俺、ちょっと感動しましたもん。あのクオリティで鑑定団の結果発表できる人は、小笠原先輩しかいないなって。実はすごい練習してたんだなって伝わってきました」

 

 「ひ、比企谷君……」

 

 ぶわっと、小笠原先輩の目に涙が貯まる。え、ちょ、ちょっと…。

 

 「そうなの。実はね、絶対物真似やるように振られるなって思って私、あの為に一ヶ月前から練習してたの。それなのに誰も笑ってくれなくて、後輩とかも気まずそうにコメントしてて……。

 一番酷いのがホルンの二年と三年でね、合宿前にこっそり学校で練習してるの見つかっちゃったから見て貰ったら、絶対面白いから合宿でも自信持ってやりなよって言ってくれてたのに、いざ合宿の物真似大会になったら周りの皆が笑わないからって、その子達も気まずそうにキョロキョロ周り見て俯いちゃってさ。私関係ないですよー、みたいな。裏切りだよ…」

 

 「そ、そうなんすか……」

 

 矢継早に愚痴をこぼす小笠原先輩に、何とか相槌を返す。あんまりにも早すぎてどのタイイングで、『はい』とか『そうなんですね』と入れれば良いかわからない。久しぶりに誰かと会話する難しさを教えられている気分だ。

 時間にして五分くらい。話しすぎて疲れたからか、机の下から出した水を飲むと小笠原先輩は一つ頷いた。

 

 「……私、比企谷君の好感度上がったよ」

 

 「はあ。良かったです」

 

 「うん。君は最高の理解者だ!」

 

 「ちなみにどのくらい上がりましたか?」

 

 「平均五十で、これまでの比企谷君が十だったとしたら今六十くらい」

 

 「上がりすぎだろ」

 

 チョロすぎじゃないですかね、いくら何でも。来年、大学行ったら悪い男に騙されてそう。誰かが見ててあげないと。

 

 「もうね、比企谷君に話したいことは何もないよ。香織のことも本当は助けて貰ってたって、少しは思ってたから。もしまた部活で何かあったら、その時はよろしくね?」

 

 「は、はい…」

 

 「でも、何か行動するときは一言私に相談してからね?」

 

 俺の首をコクコクと振って理解をしましたアピールに、小笠原先輩は満足そうに頷いた。

 

 「あ。そうだ。話は終わりにしようかと思ってたんだけど、あすかから聞くように言われてることがあるんだった」

 

 「え?話し終わりにするってまだ占い、何一つしてないですよ?」

 

 「やってもいいけど私の占い、結構適当だよ?」

 

 「いやいや。やってる側が言わないで下さいよ」

 

 「しょうがないよ。吹部の皆そうだと思うけど、準備の時間なかったからさ。占いって意外と色々覚えなくちゃいけないことあるし。まあ、やってみたいならやってみてもいいけど…」

 

 よくそれで占い師やろうと思ったな。そう言おうかと思ったけど、俺だってゴミ処理係だから人のことは言えない。

 小笠原先輩が赤い敷物で覆われた机に広げたのはタロットカードだった。タロットの知識はゲームでしか知らない。こうして実物を見たのは初めてだ。コミュ全Maxにするの、『P3』も『P4』も『P5』も大変だったなあ。

 

 「じゃあこの裏返しのカードの中から一枚選んで?」

 

 「これで」

 

 「これね。えい!」

 

 占い師らしからぬ掛け声とともに、めくられたカード。そこに描かれているのは。

 

 「確かこれ『塔』ですよね?」

 

 「そうなんだ?あ、でも下に『the tower』って書いてあるからきっとそうだよ」

 

 「で、占い結果は…」

 

 「え、えぇーっと…。あ、見て。この絵、雷が落ちてる。そう言えば、今日って夜台風らしいよ?」

 

 「天気予報で言ってましたよね。でも外、晴れてるから信じられないですけど」

 

 「だよね。風もそんなだし。じゃあ比企谷君の占い結果は、この塔が雷で折られてるみたいに今日の台風で人生が変わるような何かが起こります、です」

 

 「うわ、本当に適当ですね。なんかタロットって、上と下どっち向きだったかとかも結果に関わるらしいです」

 

 「う。ちょっとは勉強しておきます…」

 

 しょんぼりと肩を落としているが、大丈夫。この人の扱いはもはや心得ているっ!

 

 「…まあ、小笠原先輩は部長ですし忙しいから仕方ないですよね」

 

 「ひ、比企谷君!もはや好感度カンストしたよ!」

 

 ……わーい。激チョロだーい。こんなんでうちの部長は大丈夫なのか。

 

 「さて、そんじゃ俺そろそろ行きますね。さっきの田中先輩のあれなんですか?」

 

 「あ、うん。実はもう今からちょっとだけ来年の吹部の運営のこと考えてるんだ」

 

 「吹部の運営って、要は部長とかですか?」

 

 「うん。後は副部長とか現一年生の学年代表とか、指導係とか。あとパトリもか。

 その辺の部の中心になる係は先に候補くらい考えといておいても良いんじゃないかってあすかと話してて。候補だけでも決めといた方がいざ選ぶときに、今から全国までの間に判断する決め手が見つかるかもしれないしね」

 

 「まあ、そうですね」

 

 「それでさ、来年の部長の候補をあくまで一意見として聞いとけばってあすかが。私が言うのもあれだけど、部長を誰にするのかって一番大切だからさ。その子次第で部がどうなるか大きく変わってくるもん」

 

 「え、それは分かりますけど、何故に俺?」

 

 「三年生の話し合いだけで選ぶんじゃなくて一年生の意見もいくつか聞いときたいのは事実だし、その中でも聞くなら比企谷君みたいに部を俯瞰的に見てくれる子がいいよって」

 

 「あの人に評価されてるの、嬉しいって言うか怖いんだよな」

 

 「あー、ちょっとそれは分かるかもな。私的にはね、ホルンの岸部海松ちゃんか、クラの島りえちゃんがいいと思うんだよね。二人とも優しいし、吹奏楽の経験も中学からやってたから長い。特にりえちゃんは人数が多いクラのパートで上手くやってきてたから吹部みたいな大所帯を纏めるのも上手そうかなって思うの」

 

 「なるほど。俺は先輩達の意見と決定に反対することはまずないですけど」

 

 「じゃあ、この二人に賛成?それが比企谷君の意見?正直にこの人がいいんじゃないって人がいたら言って良いんだよ?」

 

 「……個人的には来年の部長の候補、一人だけだと思うんですよね」

 

 「誰?」

 

 「それは――」

 

 

 

 

 

 「あ、お兄ちゃん。遅かったね」

 

 教室の外に出ると、香織先輩と田中先輩もすでにいた。三人で楽しそうに話しているが、小町と二人の年の差四つあるんだよな?すげえな。何の話すんの?

 

 「どう?楽しかった?」

 

 「……まあ、そこそこですね」

 

 「そっか。それじゃあ良かったよ」

 

 ニコニコと笑っている田中先輩に香織先輩は首を傾げているが、俺が話していたのが小笠原先輩だったことは知らないみたいだ。

 

 「で、質問の答えにはなんて答えたの?」

 

 「『あすかと一緒で驚いた』って言われました」

 

 「相思相愛?」

 

 「違いますね」

 

 「ぶー。冷たーい。でも同じ考えの人がいて良かったよ」

 

 「小笠原先輩は凄い反対みたいですけどね?さて、そんじゃ俺と小町は他のクラス見て回りますね?」

 

 「あ、うん。私もそろそろクラスの手伝いに戻らないとだ」

 

 「そっか。それじゃあ、小町ちゃんだけは学校で会わないからさようならだね?」

 

 「はい。あすかさんも、香織さんもありがとうございました」

 

 「うん。全国大会、見に来てね?ね、あすか?」

 

 「……」

 

 「…あすか?」

 

 「ん?うん。勿論だよ!きてきてー。私たちの晴れ舞台にかもーん!」

 

 「はい。小町、絶対に見に行きます!頑張って下さいね!」

 

 田中先輩の無言と、不安そうな顔をした香織先輩。それがなぜかしばらく頭を離れなかった。



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8

 「あー!!」

 

 次はどこに行こうかとパンフレットを広げて悩んでいると、顔を上げた小町が何かに気が付いて走り出した。ぴゅーっと駆けていく小町の先にいるのは二人の女子生徒。

 っていうか小町ちゃん。廊下は走っちゃ行けません!そして俺を置いていかないで。廊下の真ん中で一人パンフレットを広げてると、場所が場所だけに凄い寂しい奴みたいになっちゃうから。現実再認識しちゃうから。八幡的にポイント低いから。

 

 「でも優子。比企谷君の事――」

 

 「だから、違うんだって!…確かに比企谷には私、色々と――」

 

 「おーい!ゆーうっこさーん!」

 

 「きゃっ!」

 

 何やら並んで話していた優子先輩と鎧塚先輩。少しだけ顔を赤くしている優子先輩の背中に、小町が飛びついた。

 

 「お久しぶりですー!」

 

 「小町ちゃん!北高祭に遊びに来てたんだね」

 

 「はい。優子さんに会いに来ましたー」

 

 え、そうなの?俺に会いに来たんじゃなかったの?

 とりあえず嬉しそうに小町に抱きつかれたままの優子先輩と、相変わらず無表情ながら戸惑っているような気がする鎧塚先輩の元に急いで向かった。

 

 「げっ。比企谷」

 

 「えっ。げってなんですか」

 

 「いや、あの…。ちょうど今色々あって……」

 

 「…優子」

 

 「何、みぞれ?」

 

 「私、いない方が良い?」

 

 「だから違うんだってば!」

 

 さっきからいまいちこの二人が何の話をしているのかわからないけれど、焦っている優子先輩を見るに、何かからかわれているって事なのか。

 

 「わかった。ところでこの子は?」

 

 「小町ちゃん。比企谷の妹よ」

 

 「あ、小町ちゃん。この子はみぞれ。私と同じ二年の吹部」

 

 「いつも兄がお世話になっております。妹の比企谷小町です」

 

 「……」

 

 無言でぺこりと頭を下げた鎧塚先輩は首を傾げた。

 もう今日一連の反応でわかる。本当に俺の妹?マジかよ、みたいなあれだろ。

 鎧塚先輩はメイド服を着ていた。川島達のクラスのメイド服と比べると王道のメイド服という感じがする。鎧塚先輩が身に纏うメイド服と比べて、一年三組の場合はテーマが夢の国だったから、色合いは水色が基調だったり、デザインも可愛らしさを重視していた。

 きゃりー系メイド服か、王道のメイド服か。どっちも捨てがたいな。とりあえず川島にはこっちも着てみて欲しい。

 

 「優子さん。前にたまたま会って連絡先交換したときに、今度遊び行こうって話したじゃないですか?でも優子さん、部活が忙しすぎて中々遊びに行く機会なかったんで小町、今日一緒に北高祭回れたらなって」

 

 「嬉しい!ちょうど今、みぞれがシフトに入るのに合わせてみぞれのクラスのメイドカフェに行こうとしてたの。一緒に行こうよ?」

 

 「はい。行きます!」

 

 「え、さっき行ったじゃん。川島のメイドカフェ」

 

 「ばっか。うるさいよーお兄ちゃん。どこに行くかじゃない。誰と行くかが大事なの」

 

 「妹がかっこいい…」

 

 「比企谷は分かってないわねー。はぁーあ。本当にこのコミュ力の五十分の一でも比企谷にあれば良かったのに」

 

 「俺そんな責められること言ったかなあ…」

 

 少しへこんでいると、くいくいと袖を引かれた。鎧塚先輩だ。

 

 「私のところのメイドカフェの方が凄い。希美もいるし、提供するデザートも本格的だし、希美もいる。だから来て」

 

 「お、おう…」

 

 傘木先輩がいるかどうかは正直あんまり関係ないんだけど。鎧塚先輩に取っては超大事だから二回言ったんだろうな。多分。

 

 「まあ。鎧塚先輩がそう言うなら俺も行かないことはないですかね」

 

 「うん。すぐそこだから。行こう」

 

 鎧塚先輩に付いていく。廊下は歩くのが難しい程ではないが、人は多い。北高祭が終わるまで二時間くらいだというのもあって、むしろ生徒達は自分たちの企画に呼び込むのに必死みたいで多くの来場者に声をかけていた。

 

 「小町ちゃんは比企谷と一緒に回ってたの?」

 

 「はい。北高祭は活気が凄いですね。中学は文化祭とかないんで早く高校生になりたいなって思いました」

 

 「わかるかも。私も中学の時、北高祭来て楽しそうだなって思った記憶あるもん」

 

 「あと、吹部の方達もたくさん会って、みんないい人ばかりでした」

 

 「そっかー。誰に会ったの?」

 

 「えっと、みどりさんとか高坂さんとか。後は三年生の香織さんとあすかさんにも会いましたね」

 

 「嘘!?香織先輩に会ったの?私、今日まだ一回もエンジェルに会えてないんだけど!?」

 

 「え、エンジェル?」

 

 優子先輩の急なテンションの爆上がりに、小町は優子先輩に気が付かれないようにさっと距離を取った。後ろから見てる俺じゃなかったら見逃しちゃうぜ…。

 

 「どこどこ、どこにいたの?香織先輩、朝から霊圧が消えてるの…!」

 

 「霊圧ってどこの死神代行ですか…。

 宣伝隊長とか行って着ぐるみの中に入ってましたよ。ウサギです」

 

 「ああ。あのちょくちょく見かける着ぐるみね。

 深読みしすぎたわ…。宣伝だから公演には出ないとは聞いてたけど、宣伝するならあのスーパーエンジェルスマイルを振りまきながら紙とか配ってるんだと思ってた。まさかあの中に入ってるとは…。流石、香織先輩。裏をかいていた…!

 お陰で香織先輩のクラスのコスプレパフォーマンス、毎公演行っちゃったもん」

 

 「もはや、やってることがストーカーと大差ないんだよなぁ」

 

 「…なんか急に小町が知ってる優子先輩じゃなくなった?」

 

 「着いたよ」

 

 俺たちが話している間も、黙々と歩いていた鎧塚先輩が立ち止まって指さした。

 『二年二組&三組合同 ストロベリーホイップ』と書かれた看板には、クレープやケーキが描かれている。ピンクや黄色を基調にした教室は、二年と言うこともあってだろう。確かに一年よりも装飾のクオリティーも高いし、教室の中は賑わっている。

 それにしても合同の出店もありだったのか。合同だなんて言葉を聞くと、ノリで一緒にやることにしたけど、人数も多い分意見が割れるし、仕事や担当の割り振りで揉めるしで思ったよりも大変で、どちらかのクラスの企画担当が仕事押しつけられている想像ばかり膨らむのは私だけでしょうか。

 

 「おぉ。みぞれの着てるメイド服とマッチして、クラスの雰囲気も可愛いね」

 

 「それにお客さんが食べてるクレープとかパフェも本格的です」

 

 「うん。私は何もしてないけど。

 あ、えーっと。どうぞ、ここ」

 

 鎧塚先輩は拙い動きで俺たちが座る席を指定した。笑顔の片鱗もないし、俺と同じで全く接客業には向いていない。

 けれど、ここはメイド喫茶である。『いらっしゃいませー、ご主人様ー!すぐにお席にご案内するから、もうちょっとだけ待ってて欲しいニャン!』って言うところだろう。でもやっぱり、流石にそんなこと鎧塚先輩がノリノリでやってたらビックリだから無しだな。

 

 「ご注文は?」

 

 「えっと、みぞれ。メニューは?」

 

 「あ。ごめん。はい」

 

 「なんかおすすめとかあります?」

 

 「ない」

 

 「えー…。じゃあ俺、珈琲だけで良いです。あんま食べると、小町が作る夜ご飯食べられなくなっちゃうし」

 

 「別に良いよ。その分今日少なめにするし」

 

 「いや、いいんだ。小町が作る飯が、一番美味いから。いつもいつもありがとな」

 

 「うぅ、お兄ちゃん……。こういうちっちゃな感謝でも言ってもらえると、小町も嬉しい…」

 

 「あんた達の会話、兄妹の会話じゃないわよ。なんか結婚前の夫婦みたい。私はいちごクレープにしようかな」

 

 「あ。小町も優子さんと同じので」

 

 「わかった。すぐ作るから待ってて」



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9

 「はい。お待たせしました。いちごクレープ一つと珈琲になります」

 

 「あ。希美」

 

 「うん。いらっしゃい」

 

 俺たちの席にオーダーを持ってきたのはメイド服を着た傘木先輩だった。黒髪のポニーテールにメイドさんならではのホワイトブリム。真っ直ぐに伸びる肉付きのちょうど良い美脚を覆う黒いニーハイ。

 俺達が知り合いでも恥ずかしがる様子はなく、いつもと同じように溌剌としている傘木先輩ははっきり言って最強だ。今日見た誰よりもメイドさんが似合ってる。ことメイドに関しては、川島さえも上回った。俺の川島贔屓を上回るって相当だぞ。もはや似合いすぎて、断られるの覚悟で写真のお願いしたい。

 

 「いて!」

 

 足を蹴ったのは正面に座る優子先輩だ。つーんとそっぽを向いている。

 何で蹴られたのかわかんないんだけど…。それを察してか、隣に座る小町が俺の耳に近付いてきて教えてくれた。

 

 「お兄ちゃん、鼻の下伸ばしすぎだよ…」

 

 「え?そんな?」

 

 「めっちゃこの先輩のことジロジロ見てるし、顔赤くなってるし、今のお兄ちゃん小町的にポイント低いどころか零点だから」

 

 マジか。でも如何にこのボッチ四天王の一角と呼ばれる比企谷八幡であっても、メイド服を含めクオリティの高いコスプレには敵わない。素直に負けを認めよう。完敗です。

 

 「んっ、んんっ。ところで希美。あともう一つクレープ頼んでたんだけど」

 

 「ああ。それは今――」

 

 「すいませーん。お待たせ致しましたー。こちらがいちごクレープになりまーす」

 

 「夏紀!っていうか何よこれ!?どう見ても嫌がらせなんですけどー!」

 

 優子先輩の目の前にあるのはもはやクレープではなかった。とにかく溢れんばかりの白。生クリームだ。

 クレープ生地の上に生クリームといちご。その上にクレープ生地。その上に生クリームとブドウ。その上にクレープ生地。その上に生クリームと蜜柑。その上に……以下繰り返し。何層あるのか数えられない生クリームとクレープは優子先輩の顔より高くて、大きい。

 こんなの食べられる量じゃないだろう。小町もあんまりのボリュームと破壊力に、眉間がぴくぴくと動いている。

 

 「やだなー。違いますよー」

 

 「私、ピサの斜塔なんて頼みましたっけ?」

 

 「これが当店のスペシャリティいちごクレープですよ、お客様」

 

 中川先輩がその物体の一番上にいちごを置くと、その生クリームの山は倒れかけた。その動きに合わせて、優子先輩の身体も動いている。猫か。

 

 「だって小町ちゃんのいちごクレープは普通じゃない!」

 

 「私の愛の形です。受け止めてくれますよねー?」

 

 「くっ。ムカつく」

 

 「もしかして、食べられないんですかー?折角作ったのになー?」

 

 「…わかったわよ。受けて立とうじゃない」

 

 きらりと光る優子先輩のスプーン。

 

 「マジですか優子さん。流石に無理ですって。女の子の胃袋がブラックホールって言うのは迷信なんですよ」

 

 「そんなことわかってる。でも見てて。高校生の底力、小町ちゃんに見せてあげるから…!」

 

 「いや、小町。別にそんなの見たくない……」

 

 こうして乙女のスイーツ&カロリーとの戦いが始まった。

 ガツガツと食べ進める優子先輩の頬にはすでに生クリームが付いている。これで目の前にでかすぎるクレープと言う名の何かと、動きが全く止まらないスプーンがなければ可愛かった。

 

 「優子。水、置いておく。あと二人も」

 

 「ありがとう、みぞれ」

 

 「どうもっす」

 

 いつの間にかこの席には吹部の二年生が四人集まっている。机を囲む三人がメイドってのが異質だ。

 

 「本当に夏紀と優子は仲良いねー」

 

 「そうっすかね?」

 

 「…希美もあれ、食べたい?」

 

 「へ?私は気持ちだけで十分だよー」

 

 「さっき夏紀が、あれを愛の証明って言ってた」

 

 「真に受けちゃダメだよ、みぞれ」

 

 傘木先輩と鎧塚先輩だって仲が良いのは大概ですけどね。

 仲良さげな二人と、がっつく優子先輩。そしてそれをニヤニヤと笑いながら見ている中川先輩。

 こうして四人を冷静に見ると、こないだの一件も何とか形だけでも丸くは収まったのかななんて思ってしまう。傘木先輩の復帰と、鎧塚先輩のトラウマの克服は解決したものの、優子先輩は何も解決していないのだけれど。少なくとも端から見てる小町には、この四人で一悶着あったなんて思うことはないはずだ。

 

 「ところで、比企谷。その隣に座ってる子誰?」

 

 「妹です」

 

 「え、マジ?似てな!」

 

 「確かに。優子と比企谷君と一緒にいるから誰なんだろうとは思ってたけど、まさか比企谷君の妹さんだとは思ってなかった」

 

 「……あれ。思えば小町、今日は年上の女の人に囲まれてばっかりな気がするぞ…。

 初めまして。兄がいつもお世話になってますー。比企谷小町です」

 

 「さっきから会う人会う人にお世話になってますって。お前はサラリーマンかよ」

 

 「しょうがないでしょ。本当にお世話になってるんだろうから」

 

 「こ、こちらこそ?私たち、そんな比企谷と話さないからなー。パート違うし」

 

 「そうだね。私に至っては部活に復帰してまだそんなに経ってないし」

 

 「ほら。お前が思ってる以上に俺は人のお世話になってないんだよ。勿論お世話もしていないぞ。だから社交辞令でも、そんなに言わなくていい」

 

 先輩のお世話になってるは何も厭らしくないのに、先輩のお世話をしてるって方は厭らしい響きな気がする。その逆で後輩のお世話をしてるは厭らしくないのに、後輩にお世話をしてもらってるは厭らしい。うお。これ世紀の発見なんじゃね?

 

 「それに、俺が小町の友達に会っても頭下げるだけだし」

 

 「そこはちゃんと言ってよ。小町がいつも迷惑かけてるな、みたいなこと。

 ねえ、お兄ちゃん。このクレープ食べてよ。すっごい美味しいの」

 

 「ん?じゃあ一口もらうわ」

 

 小町がクレープを俺の目の前に差し出してくる。こういうの、妹以外の誰かだときゅんきゅんするのに、妹だと一切しない。むしろ、どちらかと言えば何となく介護されているような気分になる。一生一人で、小町に養って貰う将来が一番現実的な俺としてはなんとも言えない心境だ。

 

 「ん。確かに上手いな」

 

 「ね!」

 

 「このいちごクレープ、ちゃんとクレープ生地焼いて作ってるんだよ。結構手が込んでて凄くない?」

 

 「私たちはあんまり手伝えなかったけどさ、やっぱり二年になると文化祭も気合い入るんだよ。来年は三年だから、進路のこと意識しながらの文化祭になるだろうしね。本気で受験勉強やる気だと、文化祭来ない人もいるんだって」

 

 「まあ、そういう人もいるでしょうね。球技大会と違って、文化祭は休んでも補講とかないですし」

 

 「それにしても今のとか見てると、確かに比企谷って家族とは仲良いんだね」

 

 「中川先輩の言い方だと、家族以外とは仲良くないみたいに聞こえちゃいますからね。気をつけて下さい。特に妹の前では」

 

 「あはは。ごめんごめん。それじゃ、私たちは仕事に戻ろっか」

 

 「うん。そうだね」

 

 「優子ー。残さないで食べてねー」

 

 「き、きつ…」

 

 手を振りながら去って行く三人。と言っても、接客をしているため中川先輩は客の対応をしながらも優子先輩を見て笑っているんだろう。

 優子先輩はすでに半分くらい平らげていた。これでも十分すごいと思う。ただ、敵は生クリーム。甘ったるいからそんなに食べられるもんじゃない。

 

 「優子さん。本当に無理しないで下さいね。小町、さっきから見てるだけで胸焼けしちゃいます」

 

 「美味しいんだけど、こんだけ量があると流石にね…。

 話変わるんだけどさ、ここも結構お客さん多いけど、一年生のクラスもどこか一クラス、大人気のクラスがあるって聞いたよ。行った?」

 

 「いや、小町達は一年生の出し物はみどりさん達のメイド喫茶しか行ってないですけど、あそこはそんなに混んでなかったから違うと思います」

 

 「一年の教室がある階は三組行ってから通ってないんで今どうかは分からないんですけど、少なくとも俺たちがいたときまではそんな混んでるって感じのクラスはなかったですよ?」

 

 「そうなんだ。何やってるクラスか聞いておけば良かったな」

 

 「優子先輩のクラスは何やってるんですか?」

 

 「うちは合唱やってる」

 

 「合唱…うっ…頭が…!」

 

 「はいはい。今度はどんなトラウマが出てくるの?」

 

 「凄い。優子さんのお兄ちゃんの扱い手慣れてる感が凄い」

 

 「どうして合唱祭の度に決まって泣き出す女子がいるんですかね。しかも決まって男子は声だしてないって決めつけられるし、挙げ句の果てに声出したら『え、お前そんな声だったの?』みたいな顔されるし」

 

 「確かにうちのクラスにもいたらしいなあ。泣いちゃった子。

 ちなみに私は演奏だから、歌わないよ」

 

 「え、トランペット吹くんですか?」

 

 「いや、教室でトランペット吹くのは周りのクラスの迷惑になるから禁止なんだって。 ギターやってるの」

 

 「優子さん、ギターも出来るんですね。かっこいい!」

 

 「お父さんにちょっとだけ教えて貰ってね。だから本当にちょっとしかできないんだけど」

 

 知らなかった。優子先輩、トランペット以外も楽器出来たんだ。小町に褒められた優子先輩は恥ずかしそうに顔を赤らめている。誤魔化そうとしているのか、大分進むのが遅くなっていたスプーンの動きが少しだけ速くなった。

 

 「お腹いっぱい……」

 

 だがすぐにスプーンが止まる。はぁ、仕方ない。

 机に置いてあるまだ使っていないスプーンを取って、優子先輩が手を付けていない辺りのクレープを掬い取った。まずそもそもクレープを掬い取って食べてる時点でおかしいんだよな。

 

 「これ。ちょっと貰いますね」

 

 「うそ。手伝ってくれるの?」

 

 「……甘いもの嫌いじゃないですし」

 

 「ありがとー!」

 

 うん。甘い。生クリーム甘い。

 まだまだ残っているクリームの先にいる優子先輩が嬉しそうに笑った。それと同時に亜麻色の髪と頭のリボンがふわりと揺れ動く。

 

 「………」

 

 同じ皿の食べ物を突いて食べるのも、この人が目の前にいるのも何故だか恥ずかしい。

 

 「優子先輩、頬に生クリーム付いてますよ?」

 

 「え、どこ?」

 

 あ、惜しい。くっ、もうちょい下。優子先輩は頬を触って 生クリームを取ろうとしているが、中々生クリームが拭えない。

 

 「取れた?」

 

 「いや取れてないです」

 

 仕方ない。お兄ちゃんスキルを見せつけるときが来たか。相手は一つ上の先輩なんだけど。

 優子先輩の頬に手を伸ばす。うわ、ほっぺた柔らけぇ。ぷにぷにすべすべ。マシュマロみたいで俺の頬と全然違う。

 そうか。俺の場合は人と会話することが少ないから表情筋が固まってて、頬も柔らかくないのか、なるほど。って、おい!なんてこと言わせるんだ!悲しくなっちゃうだろ…。

 

 「本当だ。なんで取れなかったんだろうね?」

 

 「まあこういう時、なんか取れないことありますよ」

 

 「そうよね。でもほっぺに生クリームがついてたなんて、ちょっと恥ずかしい。まあいいや。食べるの再開っと。

 あ、小町ちゃんも食べたかったら食べて?」

 

 「あ、小町いたの忘れられてるのかと思ってました…。

 小町はいいです。もうお腹いっぱいですし、二人の邪魔するのもあれですし。むしろ、こうして二人がちょっと良い感じになりながらクレープ食べてるの見てると、小町一体何を見させられてるんだろうって…」



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10

 「それじゃあ小町はそろそろ帰りますね?」

 

 「そうか。まあ大分回ったもんな」

 

 「うん。満喫満喫!ありがとうお兄ちゃん。楽しかったよ」

 

 「そうか。俺も小町が来てくれて良かったぞ。危うくこの北高祭をベランダだけで終えるところだった」

 

 「?どういうこと?……まあいいや。優子さんもありがとうございました。家も近いことですし、今度是非、我が家に遊び来て下さい」

 

 「え?比企谷の家に?そ、それはちょっとなんて言うか…」

 

 「ああ。大丈夫ですよ。うち基本的に両親は家にいないんで。小町とお兄ちゃんと家主のかまくらって名前の猫が歓迎します」

 

 「そういう問題じゃないんだけど…。まあいっか。ありがとうね」

 

 「はい。それじゃあ、また!」

 

 ぶんぶんと手を振りながら去って行く小町が小さくなっていく。二人でそれを見送った後、俺たちは踵を返した。北高祭も残すところ、あと一時間もない。

 

 「私、この後最後の公演あるんだけど、比企谷はどうするの?」

 

 「俺は小町も帰ったことですし、教室でゆっくりしようかなって。何だかんだでずっと回ってたんで」

 

 「そっか。流石に今日の放課後は練習なくて良かったよね。比企谷の言う通り、やっぱり文化祭って疲れるし」

 

 「本当ですよ。なんなら閉会式とか、人気クラスの発表もなしで帰りたいです」

 

 「でも比企谷、北高祭今年初めてじゃない。意外と閉会式は盛り上がって楽しいよ?」

 

 「嫌ですよ。どうせ盛り上がって、ノリで打ち上げとか言い出すんでしょ?」

 

 「そりゃそうなんじゃない?あ、それじゃ私教室こっちだから」

 

 「はい。頑張って下さい」

 

 優子先輩は階段を登っていく。ひらりひらりと揺れるスカート。すらっと伸びる足は細すぎるくらいで、さっきまで食べていた生クリームも少しくらい足でも腰でも付いた方が良いんじゃないかなんて思ってしまう。

 ……いけない。この間の靴飛ばしを思い出してはダメだ。

 煩悩を振り払うようにぱっと廊下の奥を見た。

 

 「…ん?」

 

 あれは…。滝野先輩と笠野先輩と……。

 

 「トランペットパート大集合じゃねえか」

 

 高坂と香織先輩、そして今別れたばかりの優子先輩以外の面々が揃っている。

 珍しい光景だ。普段のパート練では一緒にいるが、逆にその時間以外は一緒にいることなんてない。学年も違えばクラスも違う。

 

 「あ、比企谷君」

 

 そんなことを考えていると吉沢が俺のことに気が付いた。その声で、他のパートメンバーも俺を見る。

 

 「お疲れ様です」

 

 「うん。お疲れ」

 

 「おー比企谷。どうだー?文化祭楽しんでるかー?」

 

 「え?なんすか?」

 

 いつになく馴れ馴れしく肩を組んでくる滝野先輩は明らかに様子が変だ。その滝野先輩に刺さる三人の視線が妙に冷たいのも気になる。何をしたんだ、この人。

 

 「さて、比企谷。一緒に――」

 

 「滝野君」

 

 笠野先輩の一言で滝野先輩がぴたりと止まる。近くで見れば汗をかいていた。これが所謂、冷や汗というやつか。初めて見た。

 

 「比企谷。滝野に何か聞いたりしてないよね?」

 

 「何をですか?」

 

 「待て、加部。本当に違うんだって。言わないでくれ」

 

 「滝野が女子を盗撮してたって噂があるの」

 

 「え?それって…」

 

 「だから言うなってば…」

 

 『只今、校内で何人かの女子生徒から盗撮されたという苦情が入っています』

 

 頭に浮かぶ、一年三組で文実から聞かされた事件。一時は犯人にされかけたが、その犯人がまさか…。

 

 「おい。比企谷信じてないよな?」

 

 「いや俺そんな滝野先輩のこと知らないっていうか、大して仲良くないんで」

 

 「冷静に事実並べるのやめろよ……」

 

 とりあえず、すっと距離をとって吉沢の隣へ。これで滝野陣営には本人一人しかいない。あっち側にいたら、いつ飛び火が来るかわかったもんじゃない。

 

 「最初、私が同じ二年の友達に滝野が怪しい動きしてたって聞いたから問い詰めてたら、笠野先輩と秋子ちゃんも滝野を探してて」

 

 「三年のクラスメイトが滝野君がカメラを鞄に隠してたって言ってるの」

 

 「私も一つ上の先輩に急に写真撮られたって聞いたんだ」

 

 「……」

 

 流石に三つも証言があるならもう犯人で確定なんじゃ…。滝野先輩、ずっと黙ったままだし。

 ひくわー。比企谷だけに。ひっきーだわー。

 

 「滝野先輩。いえ、滝野メンバー。撮った写真を出して下さい」

 

 「そうよ。秋子ちゃんの言う通り。出しなさい」

 

 「もう…ダメなのか……」

 

 滝野先輩が諦めかけたその時だった。

 

 「見つけました!犯人はあなたですね!」

 

 さっき聞いたばかりのフレーズに、ぞわりと総毛立った。この声、さっき三組にいて俺を犯人にしかけた文化祭実行委員会の奴だ!

 

 「え、なんのことですか?」

 

 「とぼけないで!あなたのその面、間違えありません。貴方です」

 

 「だ、だから何の事って……」

 

 聞こえてくる誰かと文実のやり取りに、滝野先輩が控えめに呟く。

 

 「…も、もしかしてあいつが犯人なんじゃねえか」

 

 「でも…」

 

 「一応見てこいって。な?」

 

 「それじゃあ私たち見てくるから、比企谷君、滝野君の見張りお願いしてもいい?」

 

 「ま、まあいいですけど…」

 

 「よろしくね!すぐ戻るから絶対逃がしちゃダメだよ!」

 

 文実の声が大きいから、なんだなんだと人が徐々に集まってくる。すぐに三人の姿は人混みに呑まれて見えなくなった。

 

 「ふぅ…。あぶねえあぶねえ」

 

 「暗に自分が犯人だって言ってるような気がするんですけど、間違いじゃないですよね?」

 

 「ああ。でもここまで来れば勝ちだから。後は撮った秘蔵の写真を比企谷に渡して、見逃して貰うって寸法だ。忖度!賄賂!」

 

 「クズだなぁ……。まさか。更衣室とかで盗撮とかしてないですよね?」

 

 「流石にそこまでするわけないだろ。俺のこと、何だと思ってるんだ?」

 

 「普通にしてそうなんですよね」

 

 「コスプレしてる女子とかくらいだよ。こういう時くらいしかないだろう。コスプレの女子とかを写真撮る機会って。東京とかだと、一年に何日かでっかいイベントが開催されるらしいよな。行ってみたいよ」

 

 「ああ。有明でやってるやつ?」

 

 「そうそうそれそれ……ってそんな話してる場合じゃなかった。とりあえずこの場を離れないと、笠野先輩達が戻って来ちまうぜ」

 

 滝野先輩はおもむろにカメラを取り出して、データを開いた。うわ。すげえ。この人、朝から何枚撮ってるんだ。中には、話したことはないが顔は知っている吹部の面々もいる。というか、吹部が多い気がする。

 

 「そうだなー。こんなのどうだ?」

 

 「か、川島!結構ノリノリでポーズ決めながら写ってる……」

 

 「そうそう。このクラスのメイド喫茶は行ったか?一年には適当に、吹奏楽部員の文化祭の記録を残してるからって嘘吐いて写真撮らせて貰ったんだわ。

 特におすすめはこれだな。いわゆる『はい、あーん』を恥ずかしがってる感じでやって下さいってお願いした一枚だ!」

 

 「ガッツリ一年に騙してますけど、確かにこの写真は……いい!」

 

 「だろー。あ、メイドと言えば、二年もやってるんだよ。これ、良くないか?」

 

 「中川先輩、恥ずかしがってますねー」

 

 「ああ。メイド服を着て接客をし始めてからすぐに撮った写真。意外と着てみたらスカートの丈が短かったみたいで照れてる中川」

 

 「普段、クールっぽい感じの人だからこそ、味のある一枚。す、素晴らしい…」

 

 「お、そうだ。俺たちはトランペットパートだから、欠かせないのはやっぱりこの人だろ」

 

 「香織先輩ですか?でも、あの人はウサギの中だからそんないいカットを撮れないんじゃ」

 

 「そう。流石だ、比企谷。でも、まだ甘い。

 逆に考えるんだ。そんな時だからこそ、撮れる一枚ってものをな…」

 

 「こ、これは…!」

 

 「ずっと着ぐるみの中に入ってた後にクラスシャツに着替えた香織先輩だ。わかるか?」

 

 「はい。汗で髪がおでこに張り付いちゃってたり、シャツがちょっと汗で染みちゃって透けてるところが」

 

 「エロいよなー。たまらんわ」

 

 この人、意外と写真を撮るセンスあるぞ。なんて言うか、素材の味をきちんと活かしてる。それに一枚一枚の写真全てに誇りを感じるし、もしかしたらカメラマンとしてのセンスがあるのかもしれない。やってることが基本的に盗撮なのがとにかく痛いが。

 

 「そろそろお前も懐柔されてきたんじゃないか?なあ、欲しいだろ?見逃してくれよー」

 

 「くっ。抗えない…」

 

 「そうだ。こんな写真もあるぜ」

 

 「ゆ、優子先輩?これ、なんですか?」

 

 撮影場所は中庭の、比較的人目に付きにくい場所だ。風が吹いてきたようで何気なくスカートを抑えているだけの写真だが、舞い上がる亜麻色の髪や、風で晒された日焼けという言葉とはほど遠い白い足。流石美少女。こんな日常の一コマも絵になる。

 

 「あいつさ、今日の午前中、この場所に呼び出されて告られてたんだよ」

 

 「え?」

 

 「相手は多分、同じ二年だと思うけど。ほらよく言うじゃん、文化祭マジックって。ノリで前から気になってるやつにアタックして、いけたらラッキー。ダメでも文化祭の熱で書き換えちゃおうみたいな。

 はは。ま、俺から言わせればそんなもん、ある訳ないけどな」

 

 「それで、優子先輩は?」

 

 「さあ。わからん。でも相手落ち込んでた感じだったし、振ったんじゃねえの。それかお友達から始めましょう、みたいな感じとか?」

 

 「……」

 

 俺は一体、何に安心しているんだろうか。どくんどくんと自分の心臓の鼓動が聞こえる。

 

 「あいつ、顔は良いからなー。香織先輩への愛が止まらなかったり、ずけずけ何でも言って中川と良く喧嘩してるけど、そういうの踏まえても人気があるって言うんだからすげーよ。

 まあでも、こうして写真で見ると分からなくもないか。髪も綺麗だし、顔は幼い感じだけど整ってるし、スタイルも悪くないし、脚綺麗だし。

 あの性格さえ何とかなればなあ。はーあ。残念だよなー」

 

 「……」

 

 「比企谷?どうしたんだよ、そんなムッとして」

 

 「せんぱーい。笠野せんぱーい。犯人ここにいまーす」

 

 「え?本当!?」

 

 「お、おいいいぃぃ!比企谷、てめええぇぇぇ!」

 

 勘違いしないで欲しい。俺は一度も見逃してやるなんて言ってない。甘い言葉に惑わされかけたけど。

 むしろ、てめええぇぇ、と叫びたいのはこっちだ。お陰で妹の前で犯人にされかけて、恥をさらしたんだぞ。何もしてないのに。してないのに!

 涙を流しながら、笠野先輩と加部先輩と吉沢に詰め寄られる滝野先輩。俺はこの場をそっと後にした。



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11

 閉会式が長かったような短かったようなイベントの終わりを告げ、教室に戻る。どこのクラスも努力と汗の結晶はそのままの形で残されたままだ。明日は授業がなく、原状復帰の日として設定されているため、今日は片付ける必要がないためである。

 一年六組も他のクラスと同じように、お化け屋敷のために制作した物を解体することなく、真ん中にスペースを作って集まった。ざわざわと騒々しく、笑顔は絶えない。俺は今日のクラスの手伝いもほとんどしていないので、達成感みたいな物が一切ないんだが。

 クラスメイト達の喜ぶ声で溢れかえる教室は、どこかコンクールで次の大会に行けることが決まった後のようでさえある。その理由は、黒板に大きく書かれた文字と、クラス代表が手に持っているたった一枚の表彰状が理由に他ならない。

 

 『優秀賞 一年六組 こわぁいお化け屋敷』

 

 来場者や生徒達の投票も踏まえて決まる優秀賞。通常なら例年、文化祭に気合いを入れている三年の団体か、どこかの部活動が持って行く賞を俺たちが受賞した。

 一年の受賞は歴史ある北高祭の中で初めてのことらしい。受賞したからと言って、残念ながら特に賞金とかがあったりするわけではない。オブジェクトとして、表彰状がもらえるだけ。

 

 

 

 

 滝野先輩が囲まれたのを見送って、教室に帰ってきたときは本当にあまりの大盛況に驚かされた。隣のクラスにまで伸びる人の列。

 まさか、今日ちょくちょく噂に聞いていた一年で人気のクラスが俺のクラスだったなんて。しかも、ここまで人気になっているとは。

 

 『あ、ねえ!手伝って!』

 

 『え?お、おう?何すればいいの?』

 

 『受付…はちょっとあれだから…。とりあえず、列整理でいいや』

 

 『いや、あれって……。まあいいけど。了解』

 

 あんまりにも忙しかったため、猫の手も借りたかったのだろう。俺も手伝わされる始末であった。

 列整理をしながら、並んでいる人たちの声に耳を傾ける。聞いている感じだと、学生を中心に人気が広まって、長蛇の列を見て来場者が人気そうだし、遊びに入って見ようか、という感じだったらしい。

 

 『なあなあ。俺たちの時には出るのかな、ゾンビ?』

 

 『いや、どうだろうな。でも百人に一人のペースでは出るらしいし。ほら。今も並んでると、たまにめっちゃでっかい悲鳴聞こえてくるじゃん。それが絶対ゾンビだよ』

 

 ん?うちらの企画、ゾンビの演出なんてあったか?

 もしかしたら、よりインパクトを強めるために驚かすポイントを増やしたのかもしれない。某遊園地の人気お化け屋敷みたいにお化けが追いかける演出が増えてたりして。

 

 『最初にゾンビを見たって言ってた、放送委員の二年の女の子、軽い気持ちで入ったらゾンビがいたんですーって放送中に思い出して、途中泣き出してたもんな』

 

 『その子がお化け屋敷から出てくるところ見てた俺の友達も、あれはマジな反応だったって言ってた。顔青ざめながら、呪われるってわんわん泣いて話してたってさ』

 

 『やべえ。どんどん楽しみになってきたな!』

 

 ゾンビ。泣き出す女子。

 

 『い、い…、いやあああああぁぁぁ!ゾンビいいぃぃ!』

 

 忘れられない悲鳴が頭の中で何度もリフレインする。

 ……え。もしかして…。いや、もしかしないだろ。間違いなく、それ俺……。

 

 

 

 

 「おし、そんじゃ今日は盛大に打ち上げしようやー!」

 「お、賛成賛成!」

 「いいねー」

 

 浮ついているクラスメイトの声を聞いて、受賞したことの影の立役者である俺は、一人クールに口角を上げた。

 とは言え、ここまで人気になったのは俺の全く意図していなかったゾンビ効果だけではない。ゾンビ出現情報から本物のゾンビが出ると噂が広まり、それを聞いて入った来客が今度はクオリティの高いお化け屋敷だったと評判をどんどん広げていった。その成果が、この優秀賞である。

 だからこそ、クラスメイト達がこうして喜ぶのはもっともだ。当日の貴重な文化祭の時間を忙しさに追われて、ほとんど回ることも出来ずにクラスの手伝いをしていただけでなく、今日の北高祭のために、以前から大がかりなセットや大量の制作物を作り上げてきた。素直に、お疲れさんと心の中で最大の賛辞を送る。

 離れたところから喜ぶクラスメイトの輪を眺めていると、隣に高坂がやってきた。

 

 「お疲れ」

 

 「うん。お疲れ」

 

 「なんか嬉しそうだな。お前も」

 

 「こないだ部活の時も言ったけど、私はやるからには良い成績残したいから」

 

 「まさか、こんなに人気がでるとは思わなかったんだけどなー」

 

 「本当にね」

 

 白い装束をまだ来ているのは、閉会式が始まる直前までお客さんが残っていたため、着替える時間がなかったからだろう。長い黒髪に白い肌。幽霊役には申し分ない。高坂以上の適任はいないと言っても過言ではないナイスキャスティングだ。

 

 「皆、ちゅうもーく!この後、打ち上げ行ける人は前にある紙に丸付けてねー」

 

 「比企谷は打ち上げ行く?」

 

 「まさか。今だってこうして、輪に入ってない時点でわかんだろ。あいつらと一緒に盛り上がれない時点で、行ったところで余計な気をつかわせるだけだ。

 こういうのはちゃんと準備も当日も頑張ってきた奴らで行けばいい。俺は準備からずっとほとんど手伝ってねえからな」

 

 「それにクラスの皆とは普段から、かくれんぼして遊んで貰ってるようなもんだしね?」

 

 「それは仲間に入れてとか何も言ってないのに、勝手にいない子扱いされてるだけなんだけどな」

 

 「ふふ」

 

 「お前は?行くのか?」

 

 「ううん。誘ってはくれたけど、比企谷と同じで準備とかやってたわけじゃないから断った」

 

 「なんだよ。それじゃ、俺のとこに来たのは誘われてないことの当てつけ?折角誘われたならいきゃ良いんじゃねえの?」

 

 「違うよ。ただの確認」

 

 高坂は少しだけむすっとして立ち上がった。

 真面目に高坂が行けば喜ぶと思う。主に男子が。トランペットパートにいると忘れがちだが、高坂は間違いなく美人でクラスの高嶺の花に違いない。

 

 「今日、滝先生と一緒に橋本先生と新山先生来てたの。会った?」

 

 「いや、知らなかったわ。会ってない」

 

 「先生達に今日は台風が来るからあんまり遅くならないように気をつけなさいって言われた。それもちょっと理由にある」

 

 「真面目ちゃんかよ」

 

 「別に真面目なんかじゃない。でも滝先生がそう言うなら」

 

 「はいはい」

 

 「あ、最後に皆で写真撮ろう!教室の外の装飾の前で撮るからすぐに教室出てー!」

 

 クラス代表の言葉で、ぞろぞろとクラスメイト達が廊下に向かいだした。

 改めて教室を見返せば、何とも奇妙な空間である。怖がらせるための演出で使っていたこけしや、天井からぶら下がっている赤の絵の具を付けたお札は、真っ暗だとどうしようもないくらい怖いはずなのに、明かりが付いていると恐怖ではなく、気持ち悪さが優る。

 

 「行こう」

 

 「いや、俺はいいわ。どうせいなくても気付かれないし」

 

 「別に認識されてなくたって大丈夫」

 

 「それ何も大丈夫じゃない」

 

 「でもクラスに何も貢献してないわけじゃないでしょ、ゾンビ役ん?」

 

 「ゾンビ役んって…お前、わかってたのかよ?」

 

 しかも比企谷君とゾンビ役組み合わせたのかもしれないけど、全然うまくねえし。

 

 「そりゃ、ゾンビの演出なんてなかったからね。じゃあ一番ゾンビに近いの誰だろうって考えたら比企谷だった」

 

 「そんな特定のされ方嫌なんですけど……」

 

 「こういうのって誰か一人でも気が付いてくれる人がいた方がいいでしょ。自分の事を見ていてくれるって嬉しくない?だから私はソロを吹きたかったの」

 

 「お前みたいに自信があるわけでもないからな。誰にも見られてたくなんてねえよ。それに急に吹奏楽の話持ち出すなって。また明日から練習だろ?オフの日くらい吹奏楽から離れたい」

 

 「それもそうね。ほら。私たちも早くしないと」

 

 「…はぁ」

 

 高坂について、教室を出る。

 ゴミ分別から始まって、気が付けばクラスが優秀賞を取るための引き立て役になっている。盗撮の犯人扱いされたり、ウサギに突っ込まれたり。占いの館では、まさかのお説教が待っていた。

 けれど、まあ。誰かから見れば、散々な様に見えるこんな文化祭でも、終わってみれば悪くはない。

 

 そんな初めての北高祭は、こうして幕を閉じて。

 決して忘れることのできない、嵐の夜が訪れる。



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12

 「うわ。雨降ってきてるじゃんか」

 

 クラスが優秀賞を取って浮かれていたこともあって、余所のクラスよりも解散が遅かった一年六組。外に出れば、すでに夕暮れだった。

 今日は台風が来る。

 朝からテレビで聞いていた言葉も、中庭から見えた青い空やどこか浮ついた空気だった北高祭の魔法で信じなくなっていたが、自転車をこぎ始めてから、まるで帰るなというように時折吹いてくる異様に強い向かい風で、『これはワンチャン台風来ますわー』に変わり、ぽつぽつと雨粒が当たる今は、それが確信になった。

 折り畳み傘は持ってはいない。小町に持って行っといた方がいいよとの有難いお言葉を上の空で返事していたら、鞄に入れるのを忘れた。故に我、急いで帰らなくてはとペダルを漕ぐ早さを上げる。今日打ち上げ行ったやつらはご愁傷様だな。

 

 『じゃあ比企谷君の占い結果は、この塔が雷で折られてるみたいに、今日の台風で人生が変わるような何かが起こります、です』

 

 そいや、小笠原先輩のとこの占いで言われたっけなー。『塔』のデザインに雷が書いてあるからこの結果ってだけで、実質オカルト的なものは一切ない。

 でも外れるなら外れるで構わない。何も起こらず、穏便に終わるのが一番だ。だから事故には気をつけて帰るんだ。信号を渡るときは手を上げて渡ります。

 嘘である。

 この男、信号を渡るときは一切速度は落とさずに平気で自転車すーって漕ぐし、何なら先生に『横断歩道を渡るときは、皆で手を上げてわったりまっしょー』と言われてた小学生の頃の集団下校時でさえ、ポケットに手を入れて歩き、手なんて上げていなかった。しかもそのせいで、『あいつ、かっこつけてポケットに手を突っ込んでて、一人だけ手上げないでいたから先生に怒られてやんの。だっせーっ!きゃはは!』なんてクラスメイトのネタになっていた始末である。

 

 お?

 目の前に見慣れた後ろ姿を見つけた。亜麻色の伸びる髪は今日も学校で見たし、何なら毎日部活で見ている。言って違ったら恥ずかしいし、合っていたら合っていたらで変態っぽいから言わないけど、シャンプー変えたかどうか分かるまである。変態っぽいじゃないな。これもう変態だ。

 いつもと違うことは一つしかない。背負っている大きなギターである。クラスの合唱の演奏で使うと言っていた。似合わねえなあ、なんか。

 

 「優子先輩。立ち止まって何してるんですか?」

 

 「あ。比企谷。あんたのクラス、優秀賞だったじゃん。すごいね」

 

 「たまたまですよ。なんか本物のゾンビが出るって噂が広まったらしくて」

 

 「え、何それ?どゆこと?」

 

 後ろからだとギターもあって見えなかったが、優子先輩は鞄の中を何やら探していた。がさごそがさごそ。そんな擬音は付かない。むしろ、教科書が入っていないからすっからかんという方がぴったりだ。

 

 「傘探してるんですか?」

 

 「ううん。違う。家の鍵を学校に忘れてきちゃったぽくてさ。いつもなら家にお母さんがいるんだけど、こういう時に限っていないから最悪よー」

 

 「雨も降ってきましたしね」

 

 「うん。ギターが重い分、鞄の中身はできるだけ減らしてこうって思ったのが悪かったわね。天気予報見てたのに傘も置いて来ちゃったし。踏んだり蹴ったりってこういうこというのかなー」

 

 紛うことなく自業自得だけど、踏んだり蹴ったりとは……まあ一応言うか。俺の中で踏んだり蹴ったりって言うと、マリカで誰かのバナナ踏んだ後に続けて赤甲羅跳んできて、挙げ句の果てに硬直終わったと思ったらスターにぶつかられる、みたいに誰かの行為によって嫌な目に遭うイメージが強い。

 ぽつぽつと降る雨粒は優子先輩の制服を丸く染めている。鍵を探して鞄を弄るのにも、背中のギターが邪魔そうか。

 

 「それ、預かってますよ」

 

 「ギター?いいよ。重いし」

 

 「重いなら鍵とか探すのに邪魔じゃないですか。それに俺、ギターちょっと持ってみたいんですよ」

 

 「……じゃあ」

 

 「はい。……って、うお」

 

 思ったより重いわ、これ。世のギタリストは路上ライブするとき、こんな重い物持ってそこまで行かなくちゃいけないのか。そりゃ、ケースにお金入れて下さいって言いたくなるわ。

 

 「ね?重いでしょ?」

 

 「重いですね」

 

 「男子なのに、全く強がらないんだね」

 

 「男はいつか大人になったら一日八時間、その上残業までしてくたくたで帰ったら、尻に敷かれる生活を我慢しなくちゃいけませんからね。こんなことで強がったり、我慢なんてしなくていいんですよ」

 

 呆れた様に笑っている優子先輩はしばらくの間、鞄の中を探していたがやがて諦めたように大きく肩を落とした。

 

 「あー。やっぱり置いて来ちゃったんだ…。ロッカーの中だなー。学校戻るしかないかー」

 

 「でも雨、少しずつ強くなってませんか?」

 

 「うわ!急に強くなったんだけど!私お天道様に嫌われてるの!?」

 

 「確かに今優子先輩が、学校に戻ろうかって言った直後でしたしね」

 

 「と、とりあえずそこで雨宿りしよう」

 

 ぱたぱたと走って木の下へと向かう。もしかして優子先輩って雨女なんだろうか。

 恨めしそうに、雨が強くなった空を見上げている優子先輩を見ていると、何故かふと滝野先輩の言葉を思い出した。

 

 『吉川さ、今日の午前中、呼び出されて告られてたんだよ』

 

 ……。なんでこんな気になってるんだ。俺。

 

 「あ、あの、優子先輩…」

 

 「何?」

 

 「えっと……」

 

 首を傾げる優子先輩。おかしい。ただ聞くだけのことが出来ないなんて。

 とりあえず、訝しげな顔をしている。早く聞かなくては。何かを言わなくては。

 

 「…ど、どんどん雨強くなるんじゃないですか?いつまでこうしてます?」

 

 「わかんないわよ、そんなの。本当にどうしよう」

 

 「この雨じゃ、傘もないから学校に戻るだけでびっしょりでしょうし、学校から家に帰れなくなるかもしれません。だから、その……」

 

 「な、なに…?」

 

 「……う、うち来ますか?」

 

 「へ?」

 

 耳まで赤くなった優子先輩を見て、慌てて言い訳をする。

 

 「違いますよ。ほら、小町もうちに来て下さいって言ってたし、ただの雨宿りです。うちに来たら傘もあるし、お母さんが帰ってきたら家までも近いですし、雨が弱まるまで……」

 

 「ひ、比企谷の家……」

 

 し、死にたい。なんで、俺がこんなことを言ってんだ。

 無言のまま雨音を聞くだけの時間が数十秒。少しだけ制服を濡らした優子先輩は、俯いたままこくんと頷いた。

 

 「……そういうことなら、ちょっとだけお邪魔しようかな?」

 

 「……ひゃ、分かりました」

 

 おおおおお落ち着け。さっき自分で言っただろうが。これはただの雨宿りだ。A・MA・YA・DO・RI。

 

 「あ、もうギター持たなくて大丈夫。ありがとう」

 

 「いや、いいです。自転車ひきながらギター背負ってるとか、超夢追ってそうじゃないですか。人生色々と諦めてるんで、こんな時くらい夢見させて下さい」

 

 「あはは。何それ。ありがとう。それじゃ、お願いね」

 

 「はい。急いで行きましょうか」

 

 「うん」

 



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13

 「あ、玄関のネームプレートに比企谷って書いてある。ここが比企谷家…」

 

 「はい。借家ですけど」

 

 「なんか予想通りのお家だな」

 

 「外見と同じで、中も何も面白みのない普通の家ですよ。それにしても結構降ってきましたね。やっぱり学校戻んなくて良かったんじゃないですか?」

 

 「本当だよ。危なかった」

 

 二人で走って五分くらい。びしょびしょになりながらも何とか我が家に着いた。

 徐々に強くなっていく雨脚は、本格的な台風の到来を感じさせる。さっさと自転車を玄関脇のスペースにおいて、鍵を開けるべく玄関の前に立った。

 

 「うぇ!?」

 

 咄嗟に目を逸らした。とんでもないことになってる…。

 

 「どうしたの?」

 

 「いえ、何でもないです。ちょっと軽く肩を脱臼しましたみたいな。あはは」

 

 「それ、全然笑い事じゃないでしょ!?」

 

 やばい。やばいやばいやばいやばい!

 北宇治の制服は白い。だから濡れれば、下が透けて見えるわけで、そりゃもうばっちりピンクが見えてしまっている。

 バカ!八幡!そんなことよりも見るのはびっしょりと水気を孕んで、いつもより重さが増している髪や、頬を伝っている雨だろう。風邪をひかないように早く乾かしてもらわないと。

 意識を鍵のひんやりとした冷たさに向けることで、煩悩をできるだけなくす。ガチャリと言う音と共に、すぐに玄関を空けた。

 

 「ただいま」

 

 小町の『おかえりー』という声と共に、出迎えにやってきたのはかまくらだった。ふすっと機嫌が悪そうに見えるのは雨が降っているからか、それとも俺のご帰宅なんぞのためにわざわざ玄関に来るのが面倒くさかったからか。

 

 「やーん!ちょーかわいー!」

 

 女子の可愛いは大体信用できないが、優子先輩の可愛いは本物だと思う。語尾にハートが付いてそう。

 

 「おいでおいでー」

 

 「ダメですよ。俺たち濡れてるんで、多分嫌がって来ないです」

 

 「そっか。確かに雨で……!」

 

 バッと身体を、主にピンクの何かを隠すようにぎゅっと抱きしめた。濡れているという言葉で、自分の今の姿を見た優子先輩が透けていることに気が付いたからだ。

 

 「ちょ、ちょっとこっち見ないで!」

 

 「は、はい!すいません!」

 

 いや、俺なんで謝ったんだ。気付いたときからできるだけ見ないように意識してたのに。家に入ってからも見ないようにしてたのに!これじゃまるで、俺がちらちら気になって見ちゃってたみたいだ。

 ……見ちゃってたけど!煩悩なんて鍵に意識集中したくらいじゃ全くなくならなかったけど!

 

 「お兄ちゃん、タオル持って……って、えええぇぇ!優子さん!?」

 

 「急に来てごめんね、小町ちゃん。お邪魔します」

 

 「どうしたんですか……って言うかそれよりも二人ともびっしょり!このタオル、優子さん使って下さい!今、お兄ちゃんのタオルもう一つ持ってくるから待ってて」

 

 「おう。すまん」

 

 ぱたぱたと急いで洗面所に向かっていく小町と、それに付いていくかまくら。戻ってくるまでは、十秒足らずだった。

 

 「ほい。お兄ちゃん」

 

 「うい。サンキュー」

 

 「それで、どうして優子さんが?小町、今度来てくださいなんて言ったけど、まさか今日来るなんて微塵も思ってなかったから、二人っきりにす……い、色んな準備をしてなかったです」

 

 「おい、今何言いかけた?」

 

 「何でもないよ!それより、本当にどうしたの?」

 

 「あのね、私が家の鍵を学校において来ちゃって、困ってた所にたまたま比企谷に会って雨宿りさせて貰うことになったの」

 

 「ほほう。優子さんの家、この辺ですもんね。だから帰り途中の兄に会ったって感じなんですね。なるほどなるほどー。

 そういうことなら、もう何時間でもいちゃって下さい!台風の中、家に帰るのも危ないのでごゆっくり!」

 

 「本当にごめん」

 

 「何言ってるんですか!困ったときはお互い様ですし、小町も今日ももっとゆっくりお話したいなって思ってましたから!」

 

 「小町ちゃん…」

 

 「それより、お兄ちゃん。小町言ったでしょ?雨降り始めるの遅いらしいけど、一応傘持ってきなって。ちゃんと持って行っとけば、優子さんこんなに濡れなかったのに」

 

 「色々バタバタしてて忘れちゃったんだよ。つか、それだと俺は濡れていいみたいになってるんですけど」

 

 「これだからゴミいちゃんは……ところで、その背負ってるギターって優子さんの?」

 

 「そうそう。私の。比企谷が持ってくれたの」

 

 「そうなんですね!やるじゃん!これは小町の言うこと聞かないで傘持ってかなかったマイナス分をプラスにするだけの成果かな。小町的にポイント高いかな」

 

 「いや、ただ持って帰ってきただけだろ」

 

 頭をわしわしとタオルで拭きながら、靴を脱ぐ。このべちゃついた靴って、大っ嫌いなんだよなー…。早く乾かさねえと。

 

 「まずは二人とも、制服と靴を乾かさないとですね。ストーブ付けてこないとだ」

 

 「そ、そこまで気を遣わなくて大丈夫だよ?」

 

 「いえいえ。兄のを乾かすついでですから気にしないで下さい」

 

 「本当に良く出来た子…」

 

 「そんなそんなー。褒めてもなーんにも出ませんよー。あと、シャワーですね。お兄ちゃん、優子さんが先でいいよね?」

 

 「ああ。別にいいぞ」

 

 「ふぇ!?シャワー!?」

 

 「そりゃそうですよ!このままじゃ風邪引いちゃいますから!ほら、ある程度ふけました?そしたらすぐにお風呂場直行です!」

 

 「いや、本当に待って!なんか、心の準備みたいなのが…、ちょちょちょ押さないでってば!ねええぇぇ!」

 

 すげえな小町。颯爽と先輩のこと風呂連れてったぞ。

 まあ小町は外見通りの今をときめくJC(笑)。一切触れなかったけど、男の前で服が透けてんの気遣ったんだろうなあ。

 

 

 

 

 

 小町と二人で優子先輩が風呂から出てくるのを待つ。つーか小町に連れていかれてすぐに気が付いたけど、あれだよな。俺が次シャワー浴びるときって、優子先輩が入ってた後ってことなんだよな。

 並んで干してある俺と優子先輩の制服。自分の家なのに全く落ち着かない。こういう時はかまくらを撫でて……ってあいつ、もう寝てるし。この子、一日何時間寝てるのん?

 

 「いやー。まさか、お兄ちゃんが家に誰かを連れてくる日が来るなんてなー。しかも女の人を。小町、兄の成長に涙が出てきちゃうよ」

 

 「さっき話した通りだよ。急な雨だったんだから仕方なくだって」

 

 「理由はなんでもいいんだよ。むしろ、それで家に連れて来てあげたって所も含めて、今回のお兄ちゃんは本当にポイント高すぎ!ナイスプレーだよ!」

 

 ぐっと親指を上げている。それと一緒にアホ毛がピコピコと動いているが、きっと対象的に俺のアホ下はげんなりと倒れている気がする。

 

 「でもこれから台風強くなるっていうし困ったね」

 

 「ああ。父さん達帰ってこれるのか?」

 

 「もしかしたらどっかに泊まってくるかもしれないね」

 

 小町はしばらくスマホを弄っていたが、しばらくすると飲み物を持って俺の隣に腰を落ち着けた。

 

 「ねえねえ知ってる?」

 

 「何?豆柴?」

 

 「さっき優子さんのことお風呂に連れてったじゃん。お肌真っ白だった」

 

 「知らねえよ」

 

 未だかつて、ここまでパーソナルでセクシャルな情報を提供してくる豆柴を俺は知らない。

 

 「しかもね、着やせするタイプだった」

 

 「それ逆に、俺が知ってたら妹的に嫌だろ…」

 

 「スタイル良かった」

 

 「さっきからお前、それ俺に話してどうしたいの?」

 

 「それでね、あの素晴らしいルックスのことは置いといて大事な話があります」

 

 「いや、そもそも優子先輩がどうだったって勝手に話を持ち出したの小町なんだけど…」

 

 妙に真剣な顔して何を言い出すかと思えば、急に優子先輩の話をし始めた小町。あんまりにも突拍子もないことに俺の頭は完全に置いてきぼりだった。

 

 「今日北高祭に行って、お兄ちゃんが帰ってきたら絶対話そうって思ってたんだどね、優子さんのことはちゃんと大切にしなくちゃだめだよ。それが恋愛的にであっても、部活動の先輩後輩の関係であっても。

 勿論、今日会った他の人たちみんな、優しい人だしお兄ちゃんと仲良くしてくれてて嬉しい。小町が一年だけ見てた中学生の頃はあんな人達、一人もいなかったじゃん。本当に今日は北高祭に行って良かったって思った!」

 

 「……」

 

 「だけど、その中でも優子さんはさ、小町達が京都に来て最初の頃からずっと、お兄ちゃんとこうして普通に接してくれたり、お兄ちゃんのこと色んな意味で気にかけてくれていたりしてくれた人なんでしょ?

 きっと中学の人たちとは違う。小町が知ってるお兄ちゃんのことを、それに今は北宇治の吹奏楽部の一員として頑張ってる、小町が知らない比企谷八幡のこともちゃんと見てくれる。

 だから絶対にちゃんと向き合って?小町からの一生のお願い」

 

 「…急にそんな話をしだして、なんかあったのか?一生のお願いとか言われると、これから小町と別れるみたいに感じるんだけど」

 

 「いやー。もしかしたら小町も兄離れしないと行けないのかもなーってさ」

 

 「はあ?しなくていいから。俺だって妹離れしないし。一生小町に身の回りのお世話して貰うって決めてるんだから」

 

 「…そうかなー」

 

 小町の少しだけ寂しそうな顔。まさかこんな表情を、今日見ることになるなんて思ってもいなかった。

 

 「本当にどうした?真面目に心配なんだが?」

 

 「…ちょっと前に花火大会のことで小町を頼ってくれたり、今日もお兄ちゃんと一緒にいて照れてたりする可愛い優子さんへのほんのちょっとだけのお手伝いだよ」

 

 「え?何?そうやってクッションに顔を埋めながら言われても、何言ってるかよくわかんないんだけど?」

 

 「小町はお兄ちゃんの幸せを祈ってる!ただそれだけ!

 別に頭おかしくなったりしてないし、小町は家出て行ってこれから会えなくなるとかで言ったわけじゃないからね!

 それじゃ、小町は優子さんの着替えを用意しないといけないから。あ、お兄ちゃんのシャツ、適当に借りるねー」

 

 「あ、ああ……え?」

 

 優子先輩、俺のシャツ着るの?小町のはサイズ的に小さくて着れなくても、母さんのとかの方がいいんじゃないか?

 そう伝えようとしたが、小町はもうすでにリビングにはいない。ここにいるのは、おかしかった小町のせいで惚けている俺と、眠っているかまくらだけだった。



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14

 「お兄ちゃん。優子さん出たよー」

 

 リビングに戻ってきた小町は、後ろに優子先輩を連れてきた。マジだ。優子先輩、俺のシャツ着てるじゃん。

 

 「あの、これ。借りてます」

 

 「…ど、どうぞ?」

 

 「うん。ありがとう」

 

 優子先輩は身長が百六十もないから、俺のシャツを着れば当然にダボダボになる。スカートとまではいかないが、シャツの長すぎる丈は小町の貸した半袖のパンツのほとんどを覆っていた。

 シャワーを浴びたばかりだからか、少しだけ火照っている頬に、まだ髪はほんの少しだけ水気を孕んでいる。何だろう、ちょっとエロい。

 

 「ねえねえ知ってる?」

 

 「またかよ…。今度は何?」

 

 「優子さんの髪ね、ドライヤーしてたらさらさらだった。しかもめっちゃ綺麗なの。目に優しい」

 

 「……まあそれは見ればわかるけど」

 

 「え?それはって何?二人とも、私がシャワー借りてる間何の話してたわけ?」

 

 「優子さんには秘密です」

 

 くふふと謎めいて笑う小町に、詰め寄っている優子先輩。二人を見ていると似てはいないが、姉妹に見えなくもない。

 正確には秘密と言うよりも言えない話だけどな。気になって仕方ないみたいな顔をしている優子先輩には申し訳ないけど。

 

 「ほら、お兄ちゃん。入ってきなよ?」

 

 「別に良くね?髪は乾かしたし、もうここにいて身体も温まってるし」

 

 「ダメだよ!もしお兄ちゃんが風邪引いたら面倒見るのは小町なんだからね。一応入ってきて」

 

 「はぁ。へいへい」

 

 「あ、後さ。夜ご飯どうしよっか?お腹空いてる?」

 

 「いや。北高祭で変な時間に食べたからそんなに。夜に腹空かないくらいの少量でいいわ」

 

 「小町もー。でもなー、折角優子さん来てくれてるし、ここは気合いを入れて作りたいところなんだよなー」

 

 「そんな。本当に気を遣わなくていいってば。私もお腹空いてないし」

 

 「確かに優子先輩はあのクレープ完食したんですもんね…」

 

 「う。思い出しただけで胸焼けしそう…」

 

 「じゃあ、今日の夜ご飯は軽い物にしよっか。お父さんとお母さんには冷凍してあるおかずも一緒に出してあげればいいでしょ」

 

 「小町ちゃん、本当に家事全般なんでもしてるよね」

 

 「家にどうしようもないダメ人間がいるんで、勝手に身につきました」

 

 「失礼な。俺だってやろうと思えばできるんだぞ?」

 

 「やんなくちゃ意味ないのよ」

 

 「そうだよ。たまには小町、お兄ちゃんのご飯食べたいもん」

 

 「え?比企谷って料理できるの?」

 

 「こう見えて、小町が小さい頃はよく作ってくれてたんですよ。うちはずっと両親が共働きなので、まだ小学生の小町が火を使うのは危ないからってお母さんに言われて嫌々やってたなー。懐かしい」

 

 料理だけではない。日用品の買い出しに、家の掃除もやっていた。

 子どもの頃にやっていたことや、憧れた物は将来自分が仕事を探すときに影響を受けやすいというのは、データとして立証されているというのを何かの本で見たことがあるが、俺が専業主夫を目指すのもこの頃の影響が強いということだな。

 家事関連は今でも、やれと言われれば嫌々やっているけれど、如何せん中学の頃とは違って部活に取られる時間が多いため、家事に費やす時間はめっきり減ったのは事実だ。その分を小町がしてくれていると思うと頭が上がらない。

 偉いぞー。後で優子先輩が帰ったら、小町の頭を撫でてやるからな。

 

 「小学五年からは火とか包丁を使ってもいいって許可が母さんから下りたけど、今思うと小五からでもかなり危なかったよな」

 

 「まあお母さん達も心配だから、子どもが怪我をしにくい包丁とか買ってくれてたしね。できるだけお兄ちゃんが料理することがないように、お休みの日にご飯を多めに作ったりもしてたし」

 

 「そうだったんだ」

 

 「って言っても俺が作るのなんて炒めた肉を丼にしたりで、小町みたいに凝った料理は作れないですけどね。味付けも焼き肉のタレばっか使ってましたし」

 

 しょうがないんだよ。エバラさん家の焼き肉のタレが万能過ぎるんだもん。

 あと、何と言ってもメーカー名の通り、味の素になるコンソメ。あれでスープ作れば、入れすぎてしょっぱくし過ぎない限りは、具材に何を入れても美味くなる。

 ここ二つはどこの家庭でも必ず常備していなくてはいけない必需品であると、近所の主婦の方々に教えて回りたいくらい助けられていた。

 

 「それでも凄いよ。料理できるの」

 

 「でも今お兄ちゃんの料理食べるのは一ヶ月に一回が限界だな。お兄ちゃんの料理は『味は濃きゃ良し、カロリーなんて概念もなし!男料理です!』って感じだから。ちなみに優子さんは料理できるんですか?」

 

 「私はたまにお母さんの料理手伝うくらいだよ。……最近はちょっと作ること増えたけど」

 

ちらりと視線を感じる。え、何その意味ありげなの。『小町ちゃんに負けないわよ!』みたいな?

 

 「そうなんですか。………あ!小町いいこと思いついちゃいました!」

 

 「え?何?」

 

 「小町、久しぶりにお兄ちゃんの料理食べたいし、優子さんの料理も食べてみたいし。二人だって、お互いの料理食べたいでしょ?だから、今日は三人で一品ずつ作りましょうよ!」

 

 「えー」

 

 「いいじゃん?我ながらいいアイデアだと思ったんだけど」

 

 「だって、俺と優子先輩は今日、北高祭だったから疲れてるし」

 

 「私は別に良いけど」

 

 うっ。優子先輩が意外と乗り気。

 

 「それにさっきお腹空いてないって話したろ?三人で作ったら結構な量になっちゃうし?」

 

 「そんなの、作りすぎないように調整すればいいんだよ。使いかけの食材だっていっぱいあるんだからオッケー」

 

 「えー」

 

 「じゃあいいよ。小町と優子さんが二人でやるから、不参加のお兄ちゃんは夜ご飯抜きだからね」

 

 「…はぁ。仕方ねえなあ」

 

 「うっわ。めっちゃ上から目線じゃん。

 よく考えて見なよ。優子さんの手料理食べられるんだよ?小町以外の女の子の料理!これはお兄ちゃんにとって一生に一度のチャンスでしょうが」

 

 「そ、そういうこと言うのやめろよ!」

 

 「それに中学生の時に真顔でさ。

 『なあ小町…。俺がなんかするとな、いつもクラスメイト達に何十倍かにされて返されるんだよ。一人に聞かれた独り言は、クラスメイト全員にネタにされたり、一人に渡したはずの愛のポエムは、学校中の皆がコピーを持ってたり。

 だから俺もやられたことは何倍にもして返してやるって決めてるんだ。それなのにさ……誰もチョコくれないんだけど!やっぱ手作りがいいけど、この際市販のでも良かった!義理でも良かった!何億倍にしてでも返したのに!それなのに…、どうしてっ!?』って小町の部屋で、バレンタインの日の夜に何時間も嘆いてたじゃん」

 

 「そういうこと言うのやめろよぉ……」

 

 優子先輩のマジで引きつってる顔が見ていられない。俺の中学の時のネタ、今日一日で使いすぎだから。これでも結構傷ついてるんだぞ。

 はちまんはここからいなくなってしまいたい。……あー。シャワー浴びてこよ。



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15

 「さて、それでは皆さん。お手々を合わせて。せーの」

 

 「「「いただきます」」」

 

 机の上に並べられた三つの大皿。俺が作った肉多めの野菜炒め。小町が作ったチーズ入りの卵焼き。そして優子先輩が作った揚げ出し豆腐。

 みんなで調整して少なめにしようと言っていたが、やっぱりそんなことできなかった。とんでもなく多いわけではないが、いつも通りの夕食だ。

 基本的には小町と二人で食べることの多いこのテーブルに、三人いるというのは何とも新鮮に感じた。

 

 「小町、ビックリです。揚げ出し豆腐ってフライパンだけで、しかも揚げなくても作れるんですね」

 

 「うん。お母さんとお料理のサイトで調べてるときに見つけたんだ。揚げると片付けるのが手間だけど、これなら簡単だしすぐにできるから結構よく作ってる」

 

 「ほへー。勉強になりました。さっき作り方も見てたし、小町も今度やってみよう」

 

 そう言いながら、小町の箸は早速揚げ出し豆腐に向かっている。俺も頂こう。

 

 「ふ、二人とも。どうかな?」

 

 「すっごい美味しいです!ね?」

 

 「うん。美味い」

 

 「ほ、ほんと?」

 

 「勿論ですよ!」

 

 「よ、良かったぁ…」

 

 優子先輩は不安そうに俺たちの様子を見つめていたが、俺たちの言葉を聞いて安心したように息を吐いた。いや、本当に美味しい。

 

 「味もいいですけど、揚げ出し豆腐っていうもの自体が家庭的でいいですよね!この優子さんのチョイスの段階でポイント超高いです」

 

 「ポイントって、いつもの小町的にーってやつのことか?」

 

 「うーん。近いけど違う。まあ、ポイントのことは置いといて、お兄ちゃんも美味い以外になんかないの?」

 

 「いや、俺グルメレポーターじゃないから味の説明のボキャブラリーそんなないんだけど。でも、あれですね。優子先輩がお母さんが作ってくれるって言ってたお弁当の味に似てる気がしますね」

 

 「え、待って待って。小町、初耳なんだけど。お兄ちゃん、優子さんにお弁当貰ってたの?」

 

 「ああ。夏休みの間、小町特製弁当がなくてコンビニで買ったときは、優子先輩がおかずくれてたんだよ」

 

 「比企谷のお昼ご飯が少ないからね」

 

 「ほう。それでその味が、優子さんの作ったこの揚げ出し豆腐と味の付け方が似ていると…。ふーんなるほど、ほほうほほう、ほっほっほー」

 

 「何、そのサンタさんみたいなやつ?」

 

 「そのお弁当ってもしかして優子さんがつ――」

 

 「小町ちゃん」

 

 ぴしゃりと優子さんが小町の名前を呼んだ。ニヤニヤしたまま黙りこくる小町。

 今このテーブルを挟んで、努力家の目つきが悪い生徒会長と、策略家の天才お嬢様副会長ばりの心理戦が二人の間で繰り広げられている気がする。

 やがて話し出したのは小町だった。

 

 「小町、休みの日のお弁当は作らない方がいいですか?」

 

 「いやいや。そんなことないに決まってるでしょ。比企谷、小町ちゃんのお弁当食べるとき、本当に嬉しそうにしてるし」

 

 「そうだよ。何言ってるんだ小町」

 

 「小町的には嬉しいけど、お兄ちゃん今めちゃくちゃ勿体ないことしてるって分かるから、どう反応したらいいか困っちゃうよ」

 

 小町はしばらくうんうんと額に手を当てて悩んでいたが、しばらくして考えがまとまったからか、再び箸を手に取った。

 

 「あ、小町の卵焼きも食べて下さい。大したものではないですけど」

 

 「うん。ありがと!卵焼きって意外と奥が深いよね。作り方はシンプルだけど美味しく作ろうと思うと、いつ火から離すかとか綺麗に丸くしたりとか難しいし」

 

 「ちゃんと作ろうと思うとそうですよね。お弁当の何かはどうせ冷めちゃうし、巻いとけばオッケーみたいな感じですけど」

 

 小町の作る卵焼きは、何かの料理に使うには少なすぎる、余りものの食材が加えられることが多い。我が家の家計をやりくりしている小町らしい節約術の一環。刻んだネギや魚の白身、余った部分を細かくしたニンジンなど。仕事で疲れたお父様が小町の作る夕食の中で一番好きな物が卵焼きだというのは、きっとこのアレンジの多さ故なのだろう。

 今日の卵焼きの中身はチーズ。これは半端に残っているシュレッドチーズの残りだな。

 

 「うん。いつも通りだな」

 

 「違うでしょ?いつも通り小町の愛がたっぷり詰まってて最高に美味しい、でしょ?」

 

 「はっ」

 

 「うわー。鼻で笑われたー…」

 

 「隠し味は愛だとか、一番の調味料は愛だとか。バカ言うな。一番の調味料は塩に決まってんだろうが。塩を奪い合うために、かつては戦争が起こってたくらいだぞ?」

 

 「あーはいはい。そうだねー」

 

 「大丈夫。小町ちゃんの作った卵焼き、すっごい美味しい」

 

 「優子さぁーん…」

 

 「さて、それじゃ比企谷の野菜炒め食べてみよっと。お肉多いね」

 

 「本当は生姜焼きとかにしようと思ってたんですけど、さっき男料理どうのこうの言われたんで野菜も使うことにしました」

 

 「ふんふん。なるほどね」

 

 「今回はキャベツ使ってますけど、全部もやしときのこと肉にしたら大学生の一人暮らしにはお財布に優しい、かつ健康的ですよね」

 

 「なんかお兄ちゃんは、もし一人暮らししたら毎日もやし食べてそうだよね」

 

 それが本当のもやしっ子。…っておい。どういうことだ、それは。

 

 「あー、やっぱお兄ちゃん味って感じがする!」

 

 「そうだろうそうだろう。焼き肉のタレ味だ」

 

 「うん。小町が作る野菜炒めは塩と胡椒で味付けることが多いから新鮮だよ」

 

 「本当だ。美味しい!」

 

 「良かったです」

 

 「このキャベツの切り方とか、結構ざっくり大きめなカットにしてあって、本当に男料理って感じ。私、普段こういうの食べないからまた今度、他の料理も食べたいな」

 

 これはあれなのか。遠回しにまた今度、うちに来て料理作ろうっていう誘いみたいなものなのか。

 でもまあ、ただ野菜切って肉と一緒に炒めただけなのに、こんなに喜んでもらえた。悪い気はしない。

 

 「やっぱり小町の『比企谷家プレゼンツ!わくわくみんなでお料理大会』は大成功だったね!」

 

 やだこの企画、そんなださい名前だったのかよ。

 

 

 

 

 

 「あー。やっぱりお父さん達、まだまだ帰って来れそうにないって。電車も止まってるし、そのせいでタクシー待ちの列も凄いことになってるからどっかに泊まれそうだったら泊まって来ちゃうってさ」

 

 「まあこの雨だもんなあ」

 

 台風は俺たちが帰ってきたときよりもさらに強くなっていた。斜め降りの雨が窓を叩き、風の甲高い音が鳴っている。

 

 「打ち上げ行かなくて良かったね」

 

 「…そ、そそそうですね」

 

 「…優子さん。小町的には今日ずっと小町に付き合ってくれていたからポイント高かったし嬉しかったんですけど、兄は昼からずっと一緒にいられたんです。その訳を察してやって下さい」

 

 「あ……。あの、ごめん…。本当にそんなつもりじゃなかったの…」

 

 「一応、言っときますけど、行くかどうかは聞かれましたからね?」

 

 「嘘…、そうだったの?小町、逆にびっくりだよ?」

 

 嘘は吐いてない。高坂に聞かれたもんね。

 

 「あ、今友恵から連絡来たんだけど、明日学校休校なんだって…」

 

 「ま、まじですか」

 

 「うん……」

 

 「え、二人とももっと喜ばないんですか?お兄ちゃん、中学の頃まで『今日は徹ゲーだ』とか言って台風で休校になったら飛び跳ねながら喜んでたじゃん?」

 

 「あー、いや。そりゃ嬉しいよ。嬉しいんだけど…」

 

 「うん。今日も練習出来なかったしね」

 

 しまったな。トランペット、持って帰ってくればよかった。

 

 でも小町に言われてみると、確かに中学の頃からは大分考え方が変わった。まさか俺が休校で素直に喜べない日が来るなんて、中学の頃の俺は勿論、少なくとも府大会前の自分じゃ考えられないだろう。

 ここまで来たのなら、全国の舞台でより良い結果を残したい。

 関西大会で代表に選ばれたからと言って、全国でも同じように努力が報われるとは限らないけれど、それでも練習をしたい。金賞なら言うことはないが、例え銅賞か銀賞であっても努力は自分の慰めになるし、本番まで消えることのない心を蝕む不安の唯一の緩和剤だ。

 

 「……すごいな」

 

 「すごいって何が?」

 

 「二人の熱量っていうか、気持ちの入り方がです。優子さんはともかく、お兄ちゃんは昔からじゃ本当に考えられない」

 

 「…ま、全国まで行くことになったしな」

 

 「そうだよね。全国目標にやってきたけど、いざ全国に行くことが決まったら、毎日吹かないと練習しないと何か怖い。府大会とか関西大会とは違って、もう次はないのにね」

 

 「小町にはその感情がよく分からないけど、優子さんもお兄ちゃんも頑張っててかっこいいなって思います」

 

 「そ、そうかな?」

 

 「はい。今日の北高祭でも思いましたけど、やっぱり小町も北宇治の吹部に入りたいです」

 

 「大変だよ?来年から今年よりももっと大変になると思う。それで小町ちゃんが入学してくる再来年はもっとキツくなってるよ?」

 

 「それでも…。小町も、高校生活の三年間を吹奏楽に捧げたい。二人のこと見てると大変そうなのに、かっこいいから」

 

 妹に真面目にこんなことを言われると、何だかむずかゆい。それでも小町がこうして北宇治に来て俺の最後の一年を小町と過ごせたのなら。

 そうだ。これは俺が入学したばかりの頃から願っていたことだ。嬉しいに決まってる。

 だから小町が少しでももっと来たいと思ってくれるように。

 『全国で成果を残す』。これがすでに目的が果たされた北宇治の、たった一つの新しい目標だ。



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16

 「ねえ待って。可愛い可愛い本当に可愛いんですけどー!」

 

 かまくらのメロメロこうげき。吉川優子は何も出来ない!

 

 『流石に無理してでも帰るよ』

 

 『でも危ないから、外に出ない方がいいって警戒も出てますし…』

 

 『色々泊まるための用意もしてないし、お母さんには帰らないと心配かけるだろうし』

 

 『じゃあ迎えに来て貰うってのは?』

 

 『大丈夫だよ。私の家、ここからならかなり近いから。あ、傘は借りてもいい?』

 

 『そりゃ、勿論いいですけど』

 

 『ありがと。今度ギター回収するついでに、今借りてる服と傘を返しにくるから』

 

 そんな感じで帰るつもり満々だったはずなのに、自分の太ももの上で丸くなっているかまくらに頬を緩めまくっている優子先輩は、一歩たりとも動く気配を見せなかった。

 さっきまでの宣言は何だったのか。制服もほとんど空っぽの鞄の中にしまっていたのに。台風の中帰らせるのは、俺も小町も流石に気が引けるから全然構わないのだが。

 

 「カー君、優子さんに懐いてますね」

 

 「比企谷家以外の人があんま来ることねえからなあ。もしかしたら嬉しいのかもしれないな」

 

 「でもカー君って人見知りじゃん?」

 

 「え、そなの?」

 

 「うん。たまに外に連れ出すと野良猫とかぷいって見ないし、犬からは逃げるし」

 

 「じゃあ犬見知り、猫見知りなんだな」

 

 「それに『かわいい猫ちゃんねえ』ってお隣のおばさんとかに触られると嫌そうにしてる」

 

 家族以外の他の動物を毛嫌いしている。流石、比企谷家の飼い猫。孤高の魂の持ち主。

 でも優子先輩にすりすりしたり、毛並みを確かめられたりしてるのを見る限りでは全くそうは見えない。

 

 「それなのに私には懐いてくれてるって!もうほんと超好き!」

 

 「ふす…」

 

 鳴き声も満更ではなさそうだし。

 かまくら、いいなあ。寝て起きて飯食ってちやほやされて、寝て起きて飯食って散歩して、寝て起きて食ってゴロゴロして。俺もこんな生活送ってみてえよ。

 きっとなあ。毎日働きに出てる父さん達とか、嫌々学校いってる俺たちのこと笑ってるんだろうなあ。『人間とは実に愚か。自分の生きたいように生きる。それをできる我が輩は猫である』って。

 

 「ああ。私も将来絶対、猫かウサギ飼おっと」

 

 「結婚前にペット飼うと、一生結婚できないって言いますよ」

 

 「え、そうなの?」

 

 「ペットが一人暮らしの寂しさを埋めるかららしいです」

 

 「そうなんだ。はぁー。でも、今はその気持ち分かるかも。帰らないといけないのに、この温かさが手放せない」

 

 もふもふとしている優子先輩が動き出したのは、それからしばらくしてのことだった。

 時間は十時を過ぎている。少しだけ雨と風が弱まっているのがラッキーかもしれない。すぐに強くなるだろうけど、優子先輩が家に着くまではこのまま落ち着いたままであることを祈るばかりだ。

 

 「よし、それじゃ帰るね。名残惜しいけど…」

 

 「あはは。優子さん、本当に顔が勿体ないって顔してます」

 

 かまくらが優子先輩の動きを敏感に感じ取ってさっと動いてリビングを出た。どこに行くのやら。

 

 「ぅぅー…」

 

 「また今度来て下さい。カー君も待ってますし!」

 

 「ありがとう。今度本当に来るからね」

 

 「ええ。ぜひぜひ!小町もお話しできて楽しかったです!」

 

 「うん。私も二人の料理食べられたりして楽しかったな」

 

 三人で玄関に向かう。そこには、すでに見送りの準備をしている猫がいた。

 

 「なぁー」

 

 「かまくらぁー!」

 

 こいつ、人間の会話分かってんのかな…。かまくらに頬をすりすりしているのは、さっきまでかまくらが優子先輩にしていたのと逆の構図だが、今度はかまくら、少し嫌そうにしてる。

 

 「いい子…いい子ね…。ごめんね。連れて行ってあげられなくて…」

 

 「うちのカー君が、いつの間にか優子さんのみたいに…」

 

 「まあ、ちょっとくらい夢見させてやろうぜ…。小町、タオル用意しといてくれ」

 

 「うん。りょーかいであります!お兄ちゃん、優しいじゃん。小町的にポイント高いじゃん」

 

 「ああ。家まで送っていかないと比企谷家の門はくぐらせないとか、前に誰かさんに言われたからな」

 

 「もう。素直に優子さんが心配だからって言えば良いのに」

 

 かまくらとの別れを終えるのにはまだ時間が掛かりそうだ。先に靴を履いて待ってるか。

 玄関にはすでに小町が応急処置で乾かした優子先輩の革靴が置いてある。俺は靴箱の中からスニーカーを取りだした。すまない、スニーカー。お前にはこれから、地獄を見て貰うことになる。

 

 「え、比企谷。もしかして私のこと送って行ってくれようとしてるの?いいよ。こんなに雨降ってるし」

 

 「いや、ちょっと他に買っておきたいものがあるんで」

 

 「またそんな…」

 

 傘を二つ手に取る。母さんが急な雨が降ると、傘を買っちゃう人だから、四人家族にしては明らかに多い傘の中から適当に選ぶ。安っぽいビニール傘はやめておこう。風でぶっ壊れるかもしれない。

 

 「お兄ちゃん、一応カッパも被ってけば?」

 

 「いい。蒸れる感じ嫌いだし。傘で十分だろ」

 

 「わかった。二人とも、気をつけてね」

 

 「おう」

 

 「う…。本当に送ってくれなくっても…」

 

 「優子さん。こんな大雨の中で女の子が夜道一人は危ないですから。兄の厚意に甘えて下さい。こんな中で優子さんが一人で帰ったら、小町もお兄ちゃんも安心して眠れません」

 

 「……じゃあ。ありがとう、比企谷」

 

 「いや、だから別に送ってくのが目的じゃないんですってば。ほら、今なら少しだけ雨も弱いですし行きましょう」

 

 玄関を開けば、暴れるように強い風が吹き込んで、かまくらは明かりの点いたリビングへと戻っていった。

 

 

 

 

 

 石を叩く音や、川に打ち当たる音。雨は打つものによって異なる音を奏でるというけれど、どれも一緒だ。ざあざあと吹き荒れる雨。その中で違う音が聞こえるとすれば、傘を叩く音だけである。

 まだ申し訳なさそうな顔をしている優子先輩。この雨の中で無言のまま歩いていると、流石にどうしようもなく気分が沈みそうになる。

 

 『そう言えば、今日告白されたらしいですね?』

 

 だからこそ何か話をしなくてはと思ったが、振ろうとした話で黙りこくる事になった。この質問をする意味はないはずだ。

 

 「なんかさ、さっきまで北高祭だったって信じられないよね。この台風と一緒に、どっかに飛ばされてかれちゃったって気分じゃない?」

 

 「…まあ、言いたいこと分からなくはないです」

 

 「二年のクラス合同のメイド喫茶、出てきたクレープは最悪だったけどみぞれのメイド姿は可愛かったなあ。夏紀のメイド姿は全然似合ってなかったけどね。ぷぷ。思い出しただけで笑っちゃった。今度馬鹿にしてやろ」

 

 「やめた方がいいですよ。中川先輩と優子先輩のどうしようもないやり取りを見てる感じ、多分返り討ちにされます」

 

 「どういうことよ!?それにどうしようもないやり取りとか、ちょっと酷くない?」

 

 後半に関しては多分、部員の全員の満場一致で同意だと思う。

 

 「比企谷は?一番の思い出は何?」

 

 「川島ですね」

 

 「だろうなとは思ってた…」

 

 「でも純粋にメイドとしてのクオリティで見るなら、傘木先輩が一番だなって思いました。二年のメイド喫茶の方が、正統派のメイド服でしたし」

 

 「希美ねえ。確かにあんたデレデレしてたもんね。でも希美はシュッとしてるし、何着させても似合うんじゃない?」

 

 「多分、俺メイドに関しては傘木先輩は香織先輩さえも上回ると思うんですよね。勿論、川島のメイド姿も最高だったんですよ。最高にキュートでした。でもメイドって求められる物は可愛さだけではないじゃないですか。分かりますかね?考えて見て下さい。メイドのテンプレの台詞と言えば『萌え萌えきゅん!』ですけど、あれをただ元気に可愛くやっても、それはそれでいいんですけど、足りないなって。その足りない物こそがアンサー。それは恥じらいです。普段は活発で元気でも、メイド服着たりとかご主人様とか言うのは照れてしまう。でも給仕のために仕方なくやらないといけない。そこで生まれる恥ずかしさっていうのを傘木先輩が一番上手く表現できたと思うんですよね。見た目に関しても、メイドと言えば黒髪と絶対領域。でも、同じ黒髪でも高坂だったらああはいきませんよ。高坂の場合は冷たすぎますね。俺たちが求めるメイドはああじゃない。やっぱり傘木先輩みたいな、って痛い痛い痛い!腕つままないで!」

 

 「………むぅ」

 

 いや、冷静に考えて俺キモかったよ。それは否定しない。でも聞いたの優子先輩じゃん!

 明らかにむすぅっとしている優子先輩がぱっと距離を取った。それから怒濤の口撃を仕掛けてくる。

 

 「キモすぎ…」

 

 「……す…」

 

 「流石にひくんですけど…」

 

 「……すみま…」

 

 「ってか前から思ってたんだけど、比企谷の周りって女子多すぎじゃない?」

 

 「吹部ですし。それにそんなこと言ったら優子先輩だって、今日男子にこく…あっ」



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17

 しまった。余計な事を言ってしまった。

 

 「……知ってたの?」

 

 「…まあ、ちょっと小耳に挟んで」

 

 「誰から?」

 

 「滝野先輩です」

 

 「ああ。あの変態か。余計な事か犯罪行為しかしないのね。あいつ」

 

 滝野先輩、ごめんなさい。フォローできないです。そして、流石吹奏楽部。もうクズ行為が広まっていた。滝野先輩の脳内メモリー以外のデータは全て消されたはずだ。

 

 「やっぱり本当だったんですね?」

 

 「本当だけど多分、友達とノリで告白することになっただけだよ。文化祭だし、浮かれてたんじゃない?」

 

 「……優子先輩は、その、振ったんですか?」

 

 「…ま、まぁ話したこともあんまりなかったし、普通に断ったよ。勘違いされたくないし、ちゃんと、断った」

 

 告白されたことを照れているのか、優子先輩は頬を染めながら髪の先を弄っている。雨を受けるための傘はぎゅっと握られていて、何か言いたいことを堪えているようにも見えた。

 優子先輩はちょくちょく告白されるくらい人気がある。塚本からその話を聞いたのはいつだっただろうか。あの時はここまでは引っかかることはなかったのに、今日は嫌に頭に引っかかる。

 何が引っかかるって俺がこの人と一緒にいてもいいのか、ということだ。男子からも人気があるだけでなく、俺なんかと距離をぐいっと詰めてきたような人である。だから当然ながら友人だって多い。

 そんな人が俺と一緒にいて、評判を落とす。誰かに影で何かを言われる。それは酷く堪えることだと今更ながらに思った。

 俺たちの間の静謐を打ち壊すように、突風が木々を揺らしている。その音で聞こえないくらいの小さな声で、優子先輩はぽしょりと呟いた。

 

 「……あ、あのさ、どうしてそんなこと聞くの?」

 

 「どうしてって……」

 

 どうしてなんだろう。その答えはわかっているのにわからない。喉が渇いて、唾を飲み込んだ。

 開いた口から言葉が出ることはなく、それを隠すために意味もなく傘を深く被る。そうして俺が戸惑ってる様子をじっと見て、優子先輩は一つ息を吐いた。

 

 「……ま、別にいいんだけどね。やっぱりそういうのって、気になるもんだし」

 

 「…はい」

 

 違う。そんな恋愛事のピンクな噂話に気を引かれたからなんて、そんな理由ではない。

 だけど、俺は優子先輩の作った逃げ道に甘えた。

 目を瞑る。ああ、冷たい風が熱を冷ましていく。冷静にさせてくれる。雨が降っていてよかった。

 

 「あーあ。今日は楽しかったなあ」

 

 「急ですね。北高祭ですか?」

 

 「北高祭もだけど、比企谷の家もさっきお邪魔させて貰ってるときに言った通り、本当に比企谷の家が面白かったの。皆で料理作ったのもだけど、かまくらめっちゃ可愛いし、小町ちゃんいい子だし。そ、それに…あんたのこともまたちょっと知れた気がするし」

 

 「それ、楽しかった理由になるんですか?」

 

 「なるよ。なるなる。こんなことしてるんだとか、こういう部屋で暮らしてるんだとかそういうの知れるのって楽しいよ」

 

 「なんか…ストーカーっぽくないですか?こわっ」

 

 「ちょっと引かないでよ!」

 

 まあわからなくはない。

 今やアイドルなんて私生活や交際関係どころか、何の服着てるかとか、どの交通機関使ってるかとかまで特定される時代だからな。他人のプライベートはやっぱり秘密だから面白いのものだ。

 

 「ねえねえ。千葉にいた頃はどんな生活送ってたの?」

 

 「千葉にいた頃って…………はぁ…」

 

 「いや、そのトラウマだらけの頃じゃなくて!ほら、前言ってたじゃん。トランペット教えてくれた人がいたって。その人とさ、どんな話とかしてたの?」

 

 「どんな話、か……。基本的にはトランペットの練習をしていましたね。でも、頭のいい人だったから――」

 

 

 

 

 

 「今日も雨だね。梅雨に入ってから雨ばっかり」

 

 「そうですね」

 

 「ここは一応、屋根がついてるから吹けることは吹けるけど、なんか憂鬱な気分で吹く気がなくなっちゃうよー」

 

 憂鬱。当時の俺は『流石は俺より四つ上の小学生。難しい言葉も、あと四年後には勉強するのか』なんて思っていたけれど、その言葉を小学生で学ぶことはなく、実際はただ陽乃ちゃんが頭が良かっただけだった。普通の小学生が使う言葉ではない。

 俺ら世代の一般人は中学生の頃、オタクになるための登竜門。世間を震撼させた人気SFアニメである某ハルヒさんの題名を通して、その言葉を知る人が多いのだと思っている。

 

 「八幡はさ、雨の日がよく似合うね」

 

 「なんで?」

 

 「ほら、よくここで私より早く来てるとき本、読んでるじゃん。それも小学二年生が読むようなレベルじゃないやつ。

 結構、それがしっくりくるっていうかさ。誰かと外で遊んだりしてるよりも一人でいる方が似合うんだよね。だから雨なら皆が外で遊べないから、一人で本を読んでる理由に少しはなるでしょ?」

 

 「でも俺、雨の日に傘さして帰るの嫌いなんだけど。それに友達欲しいよ。友達がいないから本を読んでるんだよ?」

 

 「あのねー、八幡。前も言ったけど、別に友達なんていなくたっていいんだよ?」

 

 「でも陽乃ちゃんは友達多いでしょ?よく友達に捕まってたって遅れてくるじゃん」

 

 「違う違う。好きで付き合ってるんじゃないし、付き合わなくてもやっていける。でもうまくやるために、楽にやっていくために付き合ってあげてるの」

 

 「…凄い上から目線だね。でも俺もいつかそんなこと言ってみたいよ」

 

 ここでふと冷静に考える。

 いや、これ俺も陽乃ちゃんに学校で同じように言われてるんじゃないの?『別の学校の二年生でクラスメイトに嫌われてる目が腐ったやつが、どうしてもトランペット教えてって五月蠅いから付き合ってあげてるの。だから今日は一緒に遊べないんだー。ごめんねー』みたいな。

 だとしたらちょっと寂しい。けど陽乃ちゃんは、いつも通り見透かしたように俺の先手を打ってみせた。

 

 「ふふ。大丈夫。八幡と一緒にいるのは面白いよ。それは本当。八幡は特別だからね。

腐った目をしてるから周りに誰もいないせいで、ちょっと考え方が変わってるというか、将来的に穿った考え方してるひねくれ者になりそうな感じはするけど、小学二年生とは思えないくらいよく物事考えられるし、周りのことよく見ているみたいだし」

 

 褒められているのに褒められている気がしない。でも、こんな言葉でも褒められることが絶望的なまでにない俺は少しだけ嬉しかった。

 そんな俺の反応を機敏に感じ取って、今度は少し叱責するように言葉を続けた。

 

 「でも、八幡。あと数年経って中学に上がったときとか、妙にそんな自分が特別なんじゃないかとか自信が出てきたり、周りがどうだとか多感的になって焦るかもしれないけど、あんまり変に意識し過ぎないこと。多分中学でやらかすと、高校になっても引きずるよ。私が知ってる限り、大人になっても引きずるからね。

 お姉さんからの忠告です」

 

 「そんな先の話されても…。それに陽乃ちゃんだってまだ六年生のくせに」

 

 「あー。その言い方、嫌なかんじー」

 

 「やめてよ、陽乃ちゃん!抱きついてこないで!」

 

 「うーん。嫌がる八幡は可愛いねぇー。アホ毛がぴこぴこなってるのも小動物的でキュート!お姉ちゃん、そういう生意気なところも嫌いじゃないぞ!」

 

 「俺はこうやって絡んでくる陽乃ちゃん、好きじゃない」

 

 「あはは。八幡と同い年の私の妹くらい可愛い!」

 

 「女の子と比べられてもなぁ」

 

 きっと陽乃ちゃんの妹も、こんな感じで明るくて友達多くて可愛くて人気者なんだろ。絶対似てないよ、俺とその子。

 

 「それで、さっきの話ってなんか根拠あるの?陽乃ちゃんの勘?」

 

 「違う違う。なんかのレポートに書いてあったの。

 将来、犯罪をする人の傾向って中学生時代の影響を受けた人が一番多いんだって。あと、子どもの頃に人格形成って完成するらしいけど、その人格形成も小学校高学年から中学生くらいまでの間でほとんど決まるらしいよ」

 

 「はぁ。難しそうなもの読んでるんだね」

 

 「たまたまね。どうやったら人が自分の思ってる通りに行動してくれるか、考えてたらそれにたどり着いたの」

 

 「何それ怖い」

 

 「でも八幡が面白いのは、そこなんだけどね。初対面の時もさ、次会ったときも他のみーんなだったらあんな感じで笑ったり、話振ったら警戒解いてくれるのに、八幡はむしろ警戒してたからさ」

 

 「違うよ。俺の場合は、その…」

 

 逆に普通に接してきたから警戒しただけなんだけど。何か裏があるんじゃないかって。

 実際、このときばかりは自分の疑い深い性格も信じられないもんじゃないって思った。だって陽乃ちゃん、結構裏あって怖いし。クラスメイト達のこと、明らかに見下してるし、なんか達観してるし。

 

 「ねえ、そろそろ練習しようよ?」

 

 「真面目なのはいいことだ。いいよ。昨日の続きから吹こっか?」

 

 「ううん。昨日のとこは家で出来るようになった」

 

 「え、結構難しい所なのに凄いね!じゃあお姉さんがなでなでして……」

 

 「それはもうさっきしたでしょ」

 

 「むー撫でたい…。まあいいや。じゃあ二人で合わせて吹いてみる?」

 

 「うん!」

 



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18

 「すごい頭いい人だったんだ」

 

 「そうですね。頭はいいし、色々やり方が賢い人だなって子どもながらに思ってました。滝先生の基礎練習でも皆で歌うやつあるじゃないですか。恥ずかしがらないでいいんですよ、とか先生が言ってるあれ。俺、あの練習を小学生の時から陽乃ちゃんにやらされてたんですよ。マウスピースだけで吹いてみた次の日から」

 

 やれ音楽のイメージをつかむやら、演奏するときの体の使い方がどうだとか、自分の音を調整したり、息の使い方を掴むだとか。長ったらしく重要性を説明されても嫌なものは嫌だったが、上手くなるためには欠かせないとか言って公園で歌わされた。

 まあ今となってはかなり効果的な練習方法であることはわかる。現に滝先生も基礎練習に組み込んでいるし。

 ただあの時の陽乃ちゃんは、明らかにからかってる感じで笑ってたんだよなあ。ニコニコじゃなくて、ニヤニヤしてた。

 

 「ふーん。教え方がしっかりしてるね。小学生なのに」

 

 「はい。それにやり方が上手いって言うのは他にもあって、よく優しい顔した仲良し老夫婦が歌ってると近付いてきたんですよ。そうするとそれまではただ笑いながら俺が歌ってるの聞いてただけなのに、急に陽乃ちゃんも歌い出して。なんでだと思います?」

 

 「もしかして、お菓子?」

 

 「そうです。ああいうおじいちゃんとかおばあちゃんって子ども大好きだから、赤の他人でもなにかしてあげたくなっちゃうんですよね。その老齢の優しい心をうまく利用して、お菓子とか飲み物とかもらって。

 金持ちなくせに、そういうところちゃっかりしてたんです。おじいちゃん達と話しながらもらったお菓子食べて。俺は内向的で、たまに振られたら答えるくらいだったんで、陽乃ちゃんが学校の話をたくさん話してたな」

 

 「あはは。でも人間離れしてたみたいな話してたけど、小学生らしいところもあったってことじゃん」

 

 「まあそうですね。子どもっぽい一面もありました。俺が初めて合奏したのも陽乃ちゃんでした。自分が吹けるようになるのも楽しかったですけど、それよりも誰かと吹くと音に重みが増して、曲になって。それがわかってからもっと吹くのが楽しくなって」

 

 今思えば、俺はあの人に懐柔されていた。他に話す人がいなかったから、陽乃ちゃんと一緒に話す時間が楽しくて、自分から向かって行ったところも大きいため、自分から懐柔されたようなものでもあるのだが。こうして振り返れば、今の自分の考え方でさえあの人に種を蒔かれたものが多いし。

 しかも、中学時代なんて思い返して見ればあの人の言った通りになったな。あの時の忠告なんて、その時はすっかり忘れていた。

 もう、八幡のお間抜けさん。そのお間抜けのせいで、貴方、中学時代は地獄を見たわよ?

 

 「……やっぱりいいね。そうやって始めるきっかけになったみたいな人がいるの」

 

 「あ、すいません」

 

 優子先輩は鎧塚先輩と傘木先輩のこともあって、このこと気にしてるからあまり話さないようにしようと思っていたのに。話し始めると止まらなかった。

 だが、先輩は首を横に振って申し訳なさそうに微笑んだ。

 

 「ううん。私から聞いたんだし」

 

 「でも…」

 

 「ところでさ、その人は今、何してるの?比企谷の話だと大学生?」

 

 「……さあ。知りません」

 

 「いや、知らないって。ああ。今はもう比企谷が千葉にいないからってこと?」

 

 「いや、そうじゃなくって。急に来なくなったんですよ。練習に」

 

 「…え?」

 

 出会ってから一年間。

 何度も会って、話して吹いて約束をしてを繰り返した公園のベンチ。そこに彼女は何の前触れもなくいなくなった。

 

 「いつも通りまたねって別れて、それで次の日から来ないって。それなら約束なんてするなって感じですよ」

 

 「それは……ちょっと寂しいね」

 

 「……いや、今となっては過去の話ですから、もうどうでもいいです。あんなこと」

 

 「……じゃあそんな顔しないでよ」

 

 「え?」

 

 「昔あったこととかその陽乃ちゃんって人の話をしてるときは楽しそうにしてたのに、今は悲しそうにしてるじゃん。気がついてなかったの?」

 

 「……」

 

 俺、まだ昔のこと引きずってるのか?自分の顔に手を添えても、やっぱりそれはわからなかった。

 

 「…あのさ、私は比企谷が後輩でうちの部に、トランペットパートに来てくれて良かったって思ってるから。たくさん迷惑かけたけど、いつも助けてくれたし。めちゃくちゃ不器用だけど、なんだかんだでめちゃくちゃ優しいし」

 

 「なな、なんですか急に?慰め?」

 

 「勿論、三年生になって卒業するまでいなくなったりなんてしないよ。ちゃんと比企谷のこと見てる!」

 

 「本当にやめてくださいよ!さっきから急に俺の昔のこと聞いてきたり、風邪ですか!?風邪ですね!?」

 

 気が付けば俺も、隣を歩いていた優子先輩も足が止まっていた。

 

 「違うの。こないだのみぞれと希美を見てたら、ちゃんと思ってること言わなくちゃいけないんだって思ったんだけど…、なんかこういうの恥ずかしいじゃん。だけど、さっきの比企谷の話聞いたらやっぱこれじゃダメだって……。

 …あのね、本当にすっごい感謝してる。あ、ありがとう……」

 

 真っ直ぐに見つめられる。出会ったときからいつもこの人は、今と同じようにずっと俺の目を見て話してくれた。

 

 『そうやって誰かによって比企谷君が吹く理由ができて、比企谷君によって誰かが吹く理由になって。そうやって少しずつ貴方の奏でる音楽は変わっていくわ』

 

 新山先生の言葉が頭をよぎって、やっぱり次に思い浮かんだ光景は目の前の先輩がブランコに座りながら特別になりたいと呟いたこと。

 

 「…違うんです。俺の方が先輩がいてよかったんだと思います」

 

 「え?」

 

 「名前で呼んでって言ってくれたり、一緒に帰ってくれたり。そういう優子先輩にとっては当たり前かもしれないことが、俺にとっては特別で嬉しかったから。

 だから俺の方がきっと感謝しなくちゃいけないです。その…ありがとうございます」

 

 俺を写す綺麗な瞳が大きく見開かれて、優子先輩の顔が暗くても赤くなっていくのがわかった。きっと俺も優子先輩に言われたときは同じ感じだったのだろう。

 

 『その答えはわかっているのにわからない』

 

 違う。わからないなんて誤魔化すな。本当は。

 

 『そんな恋愛事のピンクな噂話に気を引かれたからなんて、そんな理由ではない』

 

 そう。そんな理由ではない。その理由を、俺はもう見つけてしまっている。先輩が知らない誰かに告白されてもやもやとしたことや、無性に心臓の鼓動が早まること。答えはいつだって自分の中に確かにあって。

 次々と俺らしくない考えが浮かんで、脳内はそれで溢れかえった。

 最初はただ嬉しかった。俺の目を見て普通に話してくれたり、さりげなく周りに誰もいない俺を気遣ってくれて。

 きっと、優子先輩にはわからないだろう。それが俺にとってどれだけ特別で、俺の価値観を変えたものだったのか。俺がこれまで触れることのなかった当たり前な優しさを、心の底から温かいと思った。

 

 それから少しずつ、吉川優子という人の内面を知っていった。

 自分が味方をすると決めた人を何があっても最後まで味方する。だからこそ、納得できないことや譲れないものにはとことん戦って、誰よりも真っ直ぐである続ける姿は強かだ。

 そのくせして、案外打たれて弱いから人並みには傷つく。それに、ちゃんと女子らしいところもたくさんあって、吹奏楽部でうまくやっていくために空気も読むし、自分の好きな誰かを取られれば嫉妬もするし。

 あーあ。黙っていれば美人なんだから、もっと楽な生き方ができるのに。なんて思いながらも、そんな困った性格がどうしようもなく俺は―――なのだ。

 

 「あ、あの……、俺……」

 

 このままではいけない。最後に残された理性は自分自身に訴えかける。

 今を逃せばきっと伝えることはないから。いつもの時間に戻れば、この人の特別になりたいとか傍にいたいとか、そんな本心から目を逸らして、言い訳を並べて現状維持することを選べるはずだから。

 

 ダメだ。考えろ。俺なんかがいて、困るのはきっと優子先輩だ。だからこそ一定の距離を保とうとしていたのに。もし余計な事をして、優子先輩が俺と築き上げてきてくれた関係性が壊れたらどうするんだ。だから今だって俺は、怖くて震えているだろう。

 ダメだ。身の程をわきまえろ。俺なんかに関わってくれた人だからこそ、俺なんかが手を伸ばしていいはずがない。俺に優しくしてくれたこの人は、誰にだって優しい人だから、勘違いして勝手に舞い上がって痛い目を見るのは中学の時でもう懲りた。だから今だって俺は、喉が張り付いて開かないだろう。

 

 言ったらダメだ。ダメだ。ダメだ。

 

 『だから絶対にちゃんと向き合って?小町からの一生のお願い』

 

 だけど、やっぱり。もしこの人が俺を認めてくれているのなら、それは―――。

 

 

 

 

 

 「……優子先輩の事が、好きです」




奇しくも今日は八月八日。
優子への告白をしたこの話が、八幡の誕生日ですね。




【挿絵表示】


梵尻さんが書いて下さいました。この話と次の話の部分にかけての挿絵になります。
まさか挿絵を頂けるとは思っていなかったのでとっても嬉しかったですし、あまりにもお上手ですので、僕だけでなく皆さんにも見て頂きたく思い後書きに挿入させて頂きました。
(当然ですが、公開の許可は頂いています。)
梵尻さん、改めてありがとうございます!


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19

 「……え?」

 

 「……」

 

 消えてしまうくらい小さな声だが、確かに聞こえてきた疑問の言葉。でも、もう一度好きだと伝えることは出来なかった。

 ばさばさと家や木々を叩いているはずの雨の音さえ聞こえない。聞こえるのは、いつもより何倍も大きくて早い自分の心臓の音だけ。見慣れた景色の中にいるはずの自分は、今どこにいるのかさえもわからない。優子先輩だけをまっすぐ見つめていた。

 

 時間の感覚もなくなって、言葉にしてからどのくらいの時間が経ったのだろう。ただ俺を苛んだのは、好きだという自覚とか、言えて良かったという安心なんかではなくて、どうしてこんなことを言ってしまったんだという後悔だった。

 中学の頃までは、今考えれば本当に好きだったなんて事はない相手にちょっとのことで勘違いして、失敗すれば黒歴史が一つ増えたと傷つくだけだった。でも多分、この人相手にそうはいかないのだと思う。もしフラれてしまえば、築き上げてきた関係性は崩壊して、俺は黒歴史なんて言葉ではすまないくらい長く残る心残りができる。それは予感ではなくて確信だ。

 でも、どうせならばっさり捨てて欲しい。俺なんかでは無理だったと、そう言って欲しい。

 優子先輩はしどろもどろになりながら口を開いた。

 

 「あ、あのさ。その、今のって…そういうこと、なんだよね?」

 

 「……」

 

 「な、なんか言ってよ…」

 

 「…さ、さっきのは…その…」

 

 コンクールのときよりも逃げ出したい。このまま家に帰って、布団に顔を埋めてもがきたい。

 それが出来ないのは、優子先輩が俺の腕を掴んだからだった。

 

 「……」

 

 「…そういうことです」

 

 「…そう」

 

 ふいと顔を逸らす。もうこれ以上は見ていられない。恥ずかしそうに頬を真っ赤にしているのも、何故か目がうるうるとしているのも今の俺には十分すぎる刺激だった。

 

 「…あの、嬉しいよ」

 

 「え?」

 

 「っ!だ、だから嬉しかったって言ったの!……私もいつからとかはちゃんとわかんないけど気になってたって言うか、好きだったから…」

 

 半ば投げやりで叫ぶような嬉しかったという響きは、雨の音にかき消されることなく、俺の耳に十分すぎるほどしっかりと届いた。隣にいるんだから当たり前なのに、それがどうも上手く受け止めきれない。

 だからその受け皿を探すために、後半になるほど小さくなっていった言葉を一言も逃さないようにとじっと聞いた。

 

 「でも、私結構重たいと思う。誰か女子と仲良くしてたら嫉妬しちゃうし、最初に付き合った人とはずっと付き合いたいって思ってるし、甘えたいし甘やかしちゃうだろうし、たくさん会いたいしできるだけ一緒にいたいし…それでも、面倒くさくならない?」

 

 …なんか今、とんでもなく可愛いものを見た気がする。弱々しくなっていく俺を掴む手を離してはいけないと思った。

 

 「まあ、そういう一面も多少は知っています。それを踏まえて、俺は、その…好きだなって思ったんです」

 

 「…うん」

 

 「それに面倒くささなら俺だって負けてないですし」

 

 「確かに」

 

 「そこだけハッキリと……」

 

 否定して欲しかったわけではないけど、ちょっとくらい否定して欲しかった。

 

 「でも、私だってそれは知ってるし、そういうところも嫌いじゃない。面倒くさいなってなることもあるけど、可愛いなって思うこともある。

 だ、だからその……」

 

 だからその。もうここまで言ってくれたのなら、その先を言わなくてはいけないのはきっと俺だ。

 

 「…俺と、付き合ってくれますか?」

 

 「…はい」

 

 

 

 

 

 「じゃあこれから毎朝連絡してね?それで時間合わせて学校も一緒に行こう」

 

 「え?」

 

 「いやいや。『え?』って、付き合ったんだからその位いいでしょう?」

 

 人二人分。明らかに普段よりも遠い優子先輩は、傘の下から俺を見つめている。

 身長差もあって自然と上目使いになるのは今に始まったことでもないのに、慣れたはずの行動の一つ一つに数分前からドギマギしてしまう。乙女か。

 でもしょうがないよね。彼女が出来たの初めてだからテンパっちゃうよね。

 

 「まあ連絡するくらいなら構わないですけど……」

 

 「やった!あと、帰りも一緒に帰ろ。今まで通り校門で待ち合わせてさ。それからそれから」

 

 「ま、まだあるんですか?」

 

 「うん。夜も電話するでしょー?それにお昼も一緒に食べたいな?」

 

 多いな。何、この拘束。

 これに吹部の活動の時間合わせたら、俺の一日のほとんどの時間、優子先輩と一緒になっちゃうんだけど。俺のプライベート…。

 

 「……帰り待ち合わせ校門にして一緒に帰るとかはいいですけど、昼一緒に食べるのは嫌です」

 

 「がーん。なんでー?」

 

 「付き合ってるの、ばれないようにしたいじゃないですか?だから学校行くときも帰る時もせいぜい校門までにしましょう?」

 

 「そりゃ、皆に変に気を遣って欲しくないから、できるだけ学校の皆に自分からは言わないようにするけどさ」

 

 「自分たちから言わないのは勿論です。それどころか、付き合ってることがばれそうになったら誤魔化します。というか嘘吐いて、付き合ってないって言います」

 

 「…何よ。もしかして私と付き合ってるって言うのが皆に知られるの、嫌?」

 

 「いや、そうじゃなくて」

 

 むしろ迷惑被るのはこっちよりも優子先輩の方に違いない。

 顔面偏差値的に考えても、吹奏楽部内のカースト的に考えてもそれは明白だ。一番嫌なのは香織先輩を貶めたこともあって、部内で嫌われ者の地位を未だに確立している俺と付き合ってることで優子先輩が蔑視されること。それだけは何としても避けたい。

 

 「ほら。さっき優子先輩も言いましたけど、皆知ったら気を遣うから」

 

 「でも、ばれたならばれたでいいでしょう?悪いことしてるわけじゃないんだし」

 

 「悪いことしてなくても悪いことされるんですって。禁止です。絶対禁止」

 

 「むぅー」

 

 「だ、ダメですよ。そんな目で見ても、それだけは俺、絶対に徹底したいっす」

 

 「んぅー、意気地無しぃー!」

 

 頬を膨らませて、少しだけ目をうるうるとさせている。どれだけ可愛くったって、これだけは耐える!頑張れ、俺!

 

 「あ。もしかして、私のことをなんか心配してくれてるの?」

 

 「ま、まあ俺なんかと付き合ってるって周りに知られたら、色々……」

 

 「…そんなこと気にしなくていいのに。私は…普通に恋人したい、な?」

 

 「…ごふっ」

 

 「ねえ……は、…は…八幡」

 

 「……」

 

 「八幡……八幡……。あはは。なんか、恥ずかしいね?」

 

 か。か。かか。かわええええぇぇぇぇーーー!!

 もう何でも言うこと聞いちゃう!朝昼晩、三食一緒にご飯食べるし、朝起きて授業して練習して家帰って、その間ずっと電話する!ちょっと拘束されすぎかなって思ってたけど、もうなんでもする!

 

 「わかりました」

 

 「え?」

 

 「お昼も一緒に食べましょう。学校にも一緒に行きます」

 

 「え?う、嬉しいけど急すぎて怖い」

 

 「でも優子先輩、下の名前で呼ぶのだけは学校ではやめてください。学校では。学校では」

 

 「めちゃくちゃ学校では強調してる…。うん。分かったよ、は、八幡。……八幡」

 

 「………」

 

 何だか嬉しそうにはにかんで俺の名前を連呼している姿に思わず見惚れてしまっていた。赤く染まった頬に手を当てて、どこかふわふわしてる表情。

 恥ずかしそうに自分の名前を呼ばれるのって、こんなにドキドキするものなの?この感じ、もはやコンクールの時超えてるわ。

 だが、そんな自分の様子を俺に見られていることに気が付いた優子先輩はより一層顔を赤くして、それを傘で隠した。

 

 「きょ、今日はもうここまででいいから」

 

 「え?で、でも」

 

 「本当にここまで大丈夫!送ってくれてありがとう!そ、その…明日からもよろしく」

 

 「は、はい。よ、よろしくお願いします」

 

 「それじゃあ、また明日ね!」

 

 ああ。あれじゃあまた帰る頃にはびっしょりだ。大雨の中走って帰る優子先輩の後ろ姿は少しずつ遠くなっていく。その背中を見えなくなるまで見送って。

 

 「うううおおおおおぉぉぉ!」

 

 叫んだ。

 もうさっきからずっと叫びたかった。嬉しさと恥ずかしさと感動とこれからへの不安ととにかく色んな感情が混ざっている。気持ちが溢れ出て止まらないとはこういうことを言うのだろう。

 

 「うううああああぁぁぁ!」

 

 そして走った。走っていると、風で傘が全く差せていないが、どれだけびっしょりになっても関係ない。明日風邪を引いたっていいからとにかく叫びながら走りたかった。

 文化祭の熱に浮かされた訳ではないはずだけど、この台風の夜から、俺と吉川優子の交際は始まった。




作者のてにもつです。
ラブコメあるある。文化祭の予言は、何故か大体当たる。晴香の占い。

さて、今回の後書きでは更新について改めて書かせて頂きます。(今回の後書きは更新が通常に戻ったら消させて頂きます)
以前の中間報告で伝えていた通り、プライベートの方が試験が終わるまで忙しいので更新頻度を落とそうと思っていましたが、どうしても八幡の誕生日に合わせて一昨日の話を投稿したかったため、更新の頻度を落とすことはありませんでした笑
一昨日の話が八月八日だったのは、そこに合わせて更新のペース配分をしていたとかではなくて、たまたま気が付いてだったのですが、結果的に中々粋な投稿になったかなと。

そういう訳で本作の方なのですが、更新頻度を落とさなかった分のツケで、しばらくの間更新のペースを大きく落とさせて頂きます。
また、次話から新しい章なのですが、実は当初の予定だと次は球技大会編を挟もうと思っていました。しかし、今回の文化祭に続いてまたコメディーテイストな話を続けるのはどうかと言うことで、現在次章を大幅に書き換えている最中だと言うことも投稿しない理由としてあります。
ただ、折角書いた球技大会編ですので、この話はいつか番外篇に投稿しようかな。八幡と麗奈の絡みが中心の話ですね。

そしてそれとは別に、投稿したくてウズウズしていた番外篇を投稿します!二人が付き合ったからこそやっと投稿できる話です!
如何にこれを書き上げた当時(というか今も尚ですが)、僕がその作品にハマっていたかが題名の時点で分かるはず笑
少し長いのですが(後半はまだ書いている最中なので、近いうちに書き上げます)、是非読んで下さい!よろしくお願い致します。



最後に、いつも書き残していることですが、コメントを下さる方、評価を付けて下さっている方、お気に入り登録をして下さっている方。皆様にお礼を申し上げます。
先日、久しぶりにスマホで撮った写真を見ていたら、この作品を投稿し始めた当初のこの作品の評価を見ました。まだ作品を投稿して二週間くらいのだったかな。
今でこそ、この作品はありがたいことに評価は9を超えていて、またUA数もとんでもない数字だし、3000を超える人がお気に入りしてくれています。そんな本作ですが、投稿当初は評価も7切るか切らないか位でしたし、お気に入りも500いかずに伸び悩んでいた時期もありました。
僕は感想や送って下さったメッセージに返信をしているので、敢えてここで名前を出すことはしませんが、更新の度に感想を下さる方とか、まだ書き始めたばかりの頃から読んで下さっている方、僕の不手際で誤字脱字、文法表現の違和感を報告してくれる方、意外ときちんと把握してるんです。
勿論読んで下さっているだけで有難いですが、言葉や形にして本作を盛り上げて下さっている皆様に重ね重ねお礼を申し上げます。ありがとうございます。

てにもつ


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あの時、雪ノ下陽乃に伸ばせなかった手を。
1


 「ごめん。お待たせ」

 

 「いいえ。そんな待ってないです。って言うか、別にもっとゆっくりで良かったですよ?さっきまで傘木先輩と話してたみたいだし」

 

 「ううん。今日の宿題の話で、そんな長くするような話しでもなかったから。待たせてるから急いだ訳じゃないの」

 

 「そうですか」

 

 優子先輩の鞄を受け取って、自転車の籠に入れる。

 

 「ふふ。ありがと」

 

 「……いーえ」

 

 ぷいと顔を背けると、優子先輩は何が楽しいのかまたくすくすと笑った。この感じがなんかもどかしくて、けれども嫌ではない。

 付き合ってから五日が経過した。

 流石に付き合って早すぎるというのもあって、誰にもばれてはいないはずではあるものの、やっぱりこれは時間の問題かもしれないと思うような日々が続く。どこか浮ついてしまっている感が否めない。付き合った日の事を思い出せば、ベッドだろうがソファーだろうが思い出してゴロゴロと悶えるし、教室で告白を振り返れば机に頭を打ち付ける。

 そのせいでクラスメイトのイメージ的には影が薄いだけだったはずの俺が、急に机に頭をぶつけまくる変な奴に変わっているという話を、ついこの間高坂から聞いた。

 ただ数日経てば、少しばかりは浮き足立っているのも落ち着いてきて、付き合って初めて会った日はそれはもう練習で目が合えばお互い真っ赤になったり、並んで歩けばご主人様と従者みたいな距離であったりとしたものの、今はきちんと隣を歩けるようになるまでは復活している。

 

 「そう言えばさ、八幡は球技大会、バスケに出るって言ってたよね?」

 

 「そうですね。一応そういうことになってます。全くやる気ないですけど」

 

 「うわー…。でも、知ってるだろうけど、最低でも一試合に一度は出場しなくちゃいけないんだよ?」

 

 「知ってます。今の予定では、コートに足入れて即座に交代する予定です」

 

 「それズルくない?」

 

 「ズルくないです。ルールの穴を突いたと言って下さい」

 

 「そんなんじゃ、今日配られた球技大会の予定を見てないんだろうけど、うちのクラス、八幡のクラスと男子バスケの予選当たるんだって」

 

 「へー。そうだったんですか?」

 

 「うん。見たかったなー。八幡の大活躍、見たかったなー」

 

 この明らかに期待と煽りを混在させた言い方。しかも揶揄うみたいにニヤニヤしてるし。こんな何気ない仕草さえも可愛く見えてしまうんだから、小町が買ってきてリビングで読んでる、『夏!恋!しゅわっとハジけて気分爽快!』って見出し文句が書かれた雑誌に連載されてたアホそうなコラムに書いてある『いつも通りの彼の姿にきゅんとしちゃう。きっと、この恋は成長期』とかいう訳わからん貰い文句も、三パーセントくらいなら理解できる。

 それにしても、大活躍って。俺バスケの経験ゼロだし。バスケの知識は漫画しかない。

 

 「それは無理な相談ですね。クラスでも存在感ないのはまだいいです。一クラス、三十人以上もいるので。でもバスケはコートの中に十人。一チーム五人です。その中でさえパス回ってこなくて、存在感なかったら流石に死にたくなってきます」

 

 「えー。私のクラスとの試合だけでいいからさ。そんなこと言わず、ちょっとくらい出てよ?私は見てるから」

 

 「…それって……」

 

 「っ!違うから!告白された日のこと、意識して言ったわけじゃないから!」

 

 慣れたけど、やっぱりどこか初心なまま。そんな俺たちの頬と同じように、進む帰路には茜が差している。少しだけ陽が落ちるのが早くなった気がする。生暖かい風は俺たちの間を抜けて、道草をそっと揺らした。吹き抜ける風に気恥ずかしさを乗せて、俺は別の話題を振る。

 

 「そんなことより、駅ビルコンサートですよ」

 

 駅ビルコンサートは京都駅で行われる吹奏楽のイベントだ。京都の玄関である宇治駅の駅ビルは、それはもうとんでもなく広いし大きくて、引っ越しにあたって新幹線を下車して初めて訪れた時には驚かされた。あながち冗談ではなく、修学旅行の時に一人でぶらぶらしていた名古屋の駅ビルなんかよりかでかいんじゃないかと思ったくらいであったが、このコンサートはその京都駅の吹き抜けで開催される。

 コンクールはオーディションで決められたAメンバーの五十五人で吹くのに対して、駅ビルコンサートは人数の上限が特に決められていないため、文化祭の時と同様、全員で吹くことになる。

 

 「私たち、全国も控えてるから参加しなくてもいいのにね?パトリの先輩たちも反対してたらしいんだけど、滝先生が演奏できる機会は大切にしなさいって」

 

 「まあそれもありますけど、そんなことより清良ですよ、清良!」

 

 清良女子高等学校と言えば、もはや語るのも烏滸がましい吹奏楽の名門である。

 もちろん、俺たちと同じく全国への出場が決まっている、福岡の強豪校の清良は全国大会金賞の常連であることもさながら、マーチングに至ってはもはや世界レベルでも活躍している、我らが吹奏楽部の星だ。CDやブルーレイの販売もしていて、地元のコンサートでは人気が高すぎて席が足りないこともざらにあるらしい。同じ京都の強豪である立華と共に吹奏楽、マーチング共々全国に名を響かせる学校の演奏を間近で聞くことができる。しかも、ライバルではあるものの、全国コンクールのようにより良い賞を取るべく争うわけではないから純粋に楽しめる機会。

 俺からしたら、出場しない訳がない機会です。滝先生、ありがとうございます。

 

 「うわ、テンション高……。目がキラキラしてる。ちょっとだけ腐りがましになってる…」

 

 「そりゃ高くもなりますって!」

 

 「そういえば、あんたサンフェスで立華見た時もそんな感じだったっけね」

 

 むしろ俺から言わせればなんでみんなこんなに落ち着いていられるのかわからない。もっと熱くなれよ!……そうしてくれないと、なんか浮いちゃうでしょ…。

 

 「確かに憧れるし凄いなって思うし、楽しみだよ?でも八幡ほどじゃないかなー」

 

 「やっぱりこの楽しみは川島としか共有できないかー」

 

 「む」

 

 「ほら、川島が貸してくれたんですよ。清良のCDと、コンクールまでの道のりっていう特番の録画。

 川島は吹奏楽オタクですからね!関西大会でも何枚もCD買ってましたし、愛と熱量が他の部員とは違います。『みどり以外にも、強豪校好きがいて良かったですー』って話してくれましたけど、あの時は天に昇るんじゃないかと思いましたね」

 

「……へー。……はぁ。この川島さん好きは追々なんとかしないとなー」

 

 優子先輩がぼそっと呟いたが、ばっちり聞こえている。でもこればっかりは多分、どうしようもならない。優子先輩にとっての香織先輩と同じ。俺にとっては川島がエンジェル。

 正確には香織先輩もエンジェルだけど、ちょっと方向性が違う。どっちかっていうと、香織先輩は女神とか地母神に近い存在である。

 そんなこんなで話している間に、互いの家の分かれ道に着いた。

 だが、今日はここで別れることはない。優子先輩が俺の家に置いたままにしているギターを取りに来るためである。

 家にいるのは今日も小町だけ。勿論、小町にはお付き合いをさせて頂いていることは報告している訳だが、交際してから初めて会う小町に優子先輩はどこか緊張していた。




作者のてにもつです。

お待たせ致しました!試験が終わり(色んな意味で…笑)、プライベートが落ち着いたので投稿を以前のペースで再開します。
敢えてこのタイミングで書くことではないかもしれませんが、一年生編の本編完結はあと二章を予定しております。最後までお付合いよろしくお願い致します!

また、一つ重要なお知らせがございます。この作品の読者様の梵尻さんが、ファンアートを書いて下さいました!この話の直前の二話部分(つまり告白シーンです)の挿絵でして、二つ前の話である143話の後書きに貼らせて頂いております。
まさか挿絵を頂けるとは思っていなかったのでとっても嬉しかったですし、あまりにもお上手ですので、僕だけでなく皆さんにも見て頂きたく思います。
(当然ですが、公開の許可は頂いています。)
梵尻さん、改めてありがとうございます!


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2

 「すー…はー…。すー…はー…」

 

 「優子先輩、緊張しすぎじゃないですか?」

 

 「う、うっさい!」

 

 「小町しかいないんで、そんな何か覚悟して入らなくても大丈夫ですよ?」

 

 「それでも彼氏の家族に会うのって緊張するもんだから…。八幡だって、私の家に来ることになってお母さんいたらこうなるでしょ?」

 

 「……にににに逃げ帰りますね……」

 

 「そこは逃げられたら困るんだけど。めっちゃ足震えてるし…」

 

 でも、小町みたいに妹に会うのと付き合ってる相手の両親に会うのは比較対象違うじゃん。両親はヤバいじゃん。特に父親の方はなんか色々ヤバいじゃん。

 

 「なんか男らしくない八幡見てたら落ち着いてきちゃった」

 

 「いや、むしろ俺の男らしさで優子先輩を落ち着かせてみせたんじゃないですか?」

 

 「それ鏡の前で言える?想像なのに、すっごい汗かいてるよ?もし本当に会うことになったらどうなっちゃうの?」

 

 多分、ビビって優子先輩の家に行ってもずっとトイレにいたいんだろうなあ…。

 

 「よし、じゃあ開けますね?」

 

 「うん」

 

 京都に引っ越してきてからの数か月間で、もはや見慣れた扉を開く。何も言わずともぱたぱたという音が聞こえてきた。かまくらが来る音だ。

 

 「ただいまー」

 

 「お、お邪魔します」

 

 「あ、お帰りなさーい!」

 

 小町のいつもの何倍か元気な声が聞こえてきて、まず最初にかまくらが玄関に姿を見せた。そのまま靴を脱いだ俺の足の匂いをいつも通りすんかすんか嗅いで、すぐに優子先輩の足元にすり寄った。

 こいつ、俺のことよりも優子先輩の方が可愛がってくれることを知ってるな?当の優子先輩は顔を綻ばせて抱き上げる。

 

 「優子さーん!いえ、優子お義姉ちゃん!」

 

 「おねっ…!」

 

 「おい、小町!そういうのやめ……」

 

 「小町、優子さんみたいな人がお兄ちゃんをもらってくれて嬉しいです!」

 

 小町は俺の話は聞かずに、優子先輩に駆け寄った。抱きついた優子先輩の腕に頬をスリスリしている姿は、かまくらと変わりない。

 

 「小町ちゃん、色々恥ずかしいよ…。お、お義姉ちゃんって…」

 

 「あはは。お義姉ちゃんは気が早いですよね?いやー、小町先走っちゃいました!てへっ」

 

 「もう。まだ比企谷家のお母さんとお父さんにもご挨拶してないし、そもそも八幡まだ高一で結婚できる年齢じゃないんだし…」

 

 「おお…。意外と結婚まで考えてくれてるっぽい…。小町、お兄ちゃんのことを本当に貰ってくれる人がいることに感動で涙が出てきたよ…」

 

 俺もビックリだよ。頬を染めて、なんか結婚ちょっと匂わせてるけど、話が膨らみすぎている。勿論、別れるつもりは決してないけど。

 

 「小町はずっと、お兄ちゃんと付き合ってくれるとしたら優子さんしかいないと思ってました!」

 

 「そ、そう?」

 

 「こないだの北高祭でたくさん、お兄ちゃんの周りの人に会いましたけど、やっぱり優子さんだなって」

 

 「そっか。あの、比企谷八幡君とお付き合いさせて頂くことになりました吉川優子です。小町ちゃん、改めてよろしくね?」

 

 「はい!こちらこそこれからもよろしくお願いします!

 あと、捻くれてて面倒くさいところもいっぱいある兄ちゃんですが、優しくて良いところもたくさんあるので、面倒見てあげてください!」

 

 「照れるって。何、小町。お前母さんなの?」

 

 「お兄ちゃん。そんな照れてないで、これからは優子さんの前ではピシッとしないと。さっき優子さんがお付き合いさせて頂いてますって改めて挨拶してくれた時も顔真っ赤にしてたけど、男なんだからそこら辺もうちょっと考えて」

 

 「いやだって流石にこんな畏まって挨拶すると思ってなかったし。そりゃ、おいおいって思うでしょ?」

 

 俺の言葉に優子先輩は少しだけむっとした。

 

 「本当のことなんだし別におかしくないでしょ?」

 

 「本当のことですけど、いくら身内だって言ったってああやってはっきり言われるとなんか……」

 

 「私だって恥ずかしいけど、こういうことははっきり言いたいもん!それに、さっき玄関でも少し話してたけど、八幡だって私のお母さんとお父さんに会ったらこうやって挨拶するんだからね」

 

 「いや、俺は……。……でもそうですね。まあもし本当にその時が来たらちゃんと言いますよ」

 

 「ふふ。ちゃんと聞いたから。約束よ?」

 

 「うわー。小町、なんか砂糖をジョリジョリ食べてるみたい。二人の言葉数自体は多くないんだけど、この…何だろう、雰囲気的に胃がムカムカしてきちゃう…」

 

 

 

 

 

 部活が終わってから来たため時間も遅いし、家ではお母さんが料理を作って待ってくれていると言う。だから今日は荷物だけを取ったらうちでは遊んでいかずにすぐに帰ると言っていたが、小町の『ちょっとだけ。ちょっとだけだから』という、エロアニメとかエロゲで言ってそうなワードにつられて、優子先輩はうちに寄ってくことになった。

 

 「かーくん、本当に優子さん大好きですね。ずーっと膝の上にいますもん」

 

 「もうほんっと、今日この子持って帰らせて欲しい。ダメ?」

 

 「ダメですよー。持って帰るならお兄ちゃんにしてください」

 

 「おい」

 

 「嫌。私は八幡じゃなくて、かまくらがいいの」

 

 「……」

 

 「うわー…。お兄ちゃんがかーくんに負けて、灰みたいに真っ白になってる……」

 

 ちくしょう!飼い猫に手を噛まれるとはこういうことか!さっきから優子先輩の膝の上でなんか得意げな顔してるのも腹立たしいというのに…!

 でもかまくらは気分屋だから膝の上が熱いなって思ったら、どうぜ冷たい床に移るだろう。その時になって、俺の方を連れて帰りたいって言ったって、もう絶対に行かないんだから!ご両親もいるだろうし!

 

 「さて、それでですねー優子さん。小町ー、どうしてーも聞きたいことがあるんですよー?」

 

 「うん?」

 

 「あのですね、兄が何回聞いても教えてくれないんです。どうやって告白したのか」

 

 「小町。パンドラの箱って言葉を知ってるか。世の中には知らない方がいいこと、知ってほしくないことに溢れてるんだぞ?」

 

 「あれでしょ?こないだテレビでやってた食パンの種類」

 

 「それはパンドミ」

 

 パンドミの方が知名度低いわ。ホームベーカリーでも買うつもりなのか。

 

 「やっぱり、小町的には兄の一世一代の瞬間がどうだったのかが気になって夜も眠れないわけなんですよ。勿論二人が付き合ったっていう結果が一番大事ですけど、その過程も気になっちゃうみたいな。

 いつ!どこで!誰が!どうやったのか!」

 

 「『誰が』はもう明白だろ…」

 

 「えー。告白の時はねー」

 

 「話しちゃうのかよ」

 

 「しかも優子さん。話したかったのか、ちょっと嬉しそうだし」

 

 俺と小町の呟きに耳を傾けず、優子先輩はかまくらを撫でる手を少しだけ早めた。

 

 「知ってると思うけど、台風が凄くってさ。雨の音が凄かったから、最初は聞き間違いなんじゃないかって思ったんだけど」

 

 「ほうほう。あの雨の中、どこか落ち着いた場所とかではなくて急だったと。嵐の中の恋。いいですね。なんかアイドルの曲のタイトルになりそう!女神の名前をしたグループの!九人組のスクールアイドルの!」

 

 「よくわかんないけど、なんか妙にピンポイント…。そう。でも告白自体はすごいシンプルにしてくれたよ。好きですって」

 

 「かー!あのお兄ちゃんが!」

 

 「うん。今みたいに顔真っ赤にしながら」

 

 「くー!この顔で!」

 

 「もう人生終わりにしてくれ…。恥ずかしぬ」

 

 「何言ってるの、お兄ちゃん!小町的にちょーポイント高いから!ほら、見てくださいこれ!」

 

 小町が手にした雑誌を俺と優子先輩の間に広げる。

 

 「見てください。ここの『告白されるならどんなシチュエーションで、なんて言われたい?』のとこ。一番は二人の時にシンプルに好きって言われたいが圧倒的に一番ですよ」

 

 「俺的には九位の『好きだ。気がおかしくなるほど惚れてる。俺が欲しいのはおまえだけだ。みたいなこと言われながら、強引に抱きしめられる』ってやつが気になる」

 

 超有名な少女漫画で見たことあるシチュエーションなんですけど。それで女の子の方は『あたしがあんたを幸せにしてあげてもいいよ!』って言うんでしょ?かー、やだやだ。今の中高生はこんなシチュエーションに憧れんのかよ。

 他にも『デートの予算は?』とか、『食べたいご飯は?』みたいな質問と、回答のランキングがぎっしりと並べられている。優子先輩が一つの質問を指さした。

 

 「『これが浮気の兆候!あなた彼氏は大丈夫?』の一位。隣を歩いてても目が合わないだって」

 

 「いや、違いますよ。俺の場合は習性みたいなもんですから」

 

 「あー、お兄ちゃんならその心配はないですよ。お兄ちゃん、変なところでしっかりしてるし、浮気させる方が逆に難しいかなって思います」

 

 「まあ別に疑ってないけど」

 

 「それにそもそも、お兄ちゃんに二人と付き合うなんて甲斐性も度胸もないですしね」

 

 「…否定はしない。こう、やっぱりリスクってやつを考えるとだな…」

 

 「はいはい。お兄ちゃん」

 

 「そういう長いのはいいから」

 

 うわー。小町ちゃんと優子先輩の息がぴったりだ。

 素直にお口チャックして、口元を緩める二人を見やる。仲良さげに雑誌を見てあーだこーだと言い合う様子はどこか姉妹の様でさえある。

 これからも末永く仲良くしてくれたら、俺としても嬉しい限りである。

 優子先輩の膝の上のかまくらが、なぁと鳴いた。



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3

 「嘘!?あすかが!?」

 

 トランペットパートにその噂が流れたときに、一番に驚いたのはやっぱり香織先輩だった。

 

 「うん。滝先生、今日わたしたちの練習に来るの遅かったじゃん?部活が始まる前に職員室であすかのお母さんが、滝先生と副校長先生と揉めてるところ見た子がいたんだって」

 

 さっきまで行われていた合奏練が始まる前に、滝先生が田中先輩の休みを部員たちに知らせた。

 休むこと自体は特におかしいことなんて何もない。全国を控えているときに休む部員はほとんどいないが、それでも風邪で学校を休んでいたりとか、受験との両立をしっかりしようとしている三年生はどうしても受けなくてはならない試験があるからということもこれまでにはあった。

 だが、俺たちが疑問に感じたのは他の部員たちに連絡を何も残さなかったこと。そしてそれを滝先生の口から告げられたからである。

 普通なら休む時はパトリに。そのパトリである田中先輩ならクラスメイトでもある小笠原先輩にでも告げるはず。だが滝先生が言ったため何か深刻な事態があったのではないかという懸念を加速させた。

 それに、やっぱりそれが田中先輩だから、というのも理由としては大きいのだろう。だからこそ、部員全員がどうしたのかと不安に駆られていた。

 噂を聞いてきた笠野先輩にパートの視線が集まっている。普段なら気にもしないはずの高坂さえも手を止めて話を聞いていた。

 

 「あすかがお母さんのこと連れて帰ったらしいけど…」

 

 「どうして揉めてたんだろうね。あすかは成績もいいし、部活と勉強の両立とかならできてるはずなのに…」

 

 「ごめん。そこまではわかんない」

 

 「香織先輩。あすか先輩のお母さんってどんな人なんですか?」

 

 「よく知らないんだ。あすか、あんまりそういうプライベートの話はしたがらないから」

 

 加部先輩の質問に、香織先輩は視線を下げた。

 香織先輩と小笠原先輩、それに田中先輩の三人は仲がいい。部長と副部長と会計という重要な役職についている三人が、役職ではなくプライベートでも親交が深いというのは、部内では割と周知の事実だと思う。

 その香織先輩でも、田中先輩のプライベートな部分はあまり知らないのだという事実に俺はあまり驚きはなかった。

 

 「香織先輩、私二年のみんなに詳しく知ってる子がいないか聞いてみましょうか?」

 

 「ううん。優子ちゃん、大丈夫。それより私たちは練習しないと」

 

 「でも…」

 

 「あの」

 

 二人の会話を遮ったのは高坂だった。

 

 「そういえばさっき久美子が職員室にプリント持っていくときに、あすか先輩たちが揉めてるところ見たって聞きました」

 

 「ほんと!?」

 

 「はい。あすか先輩のお母さんがかなり怒ってたって聞いてます」

 

 「私、ちょっと晴香と黄前さんのところに行って話聞いてくるね!」

 

 

 

 

 

 高坂の言う通り目撃者だった黄前の告げた一連の出来事は、その日の練習が終わるころには広まっていた。

 

 田中先輩のお母さんは学校に来て、田中先輩の受験の妨げになるから退部届を受け取るように滝先生と副校長に詰め寄った。それを滝先生は田中先輩の退部は本人の意思によるところではないため、絶対に受け取らないと断言して突っぱねたらしい。

 副校長も吹奏楽部は頑張っていて実績も残しているからと田中先輩のお母さんに話したらしいが、それでもどうしても退部してほしい田中先輩のお母さんは、その場で部活を辞めると言いなさいと、矛先を娘に切り替えた。だが、それを聞き入れなかった田中先輩がお母さんに引っ叩かれて、それによって罪悪感から取り乱したお母さんを連れて帰ったと。

 それが俺の聞いた噂であったが、塚本の聞いた話と合わせてみてもどうやら大方間違ってはいないようだ。

 

 「この話を聞く限りだとあすか先輩の母さん、ちょっと怖いよな」

 

 コンビニで買ったコーラを飲みながら話す。塚本は店のガラスに寄りかかって、俺は自転車に腰を下ろしているが、こうして二人でコンビニに寄って帰るのも久しぶりだ。

 優子先輩は学校に残って、香織先輩や他の二年生とあすか先輩のことを話してから帰ると言っていたので、これはその時間つぶしだ。

 

 「でも母親ってやっぱ心配なんだろうなあ。俺も成績あんま良くないから塾通わされてるし」

 

 「塚本のとは、また少し事情が違う気がするけど。だってお前の親、学校で塚本のこと思いっきり叩いたりはしないだろう?」

 

 「そりゃそこまで過保護じゃないけど」

 

 「それに塚本の話だと成績もだけど、田中先輩のお母さんはそもそも田中先輩が吹奏楽をやってること自体が嫌って話していたみたいだし」

 

 比企谷家は当然、部活をやっているからと怒られることはまずない。それに、そもそもかなりの放任主義のため、たまに母さんから塾に通った方がいいんじゃないか、と小言は言われることもあるがそれでも強制的に通わされるということはないだろう。

 

 「でもさ、俺らはまだ一年だから進路のこととか何も考えてねえじゃん?三年生になると進路とか、受験とかそういうこと絶対に考えなくちゃいけなくて、その時に自分だけでやりたいようにやることなんてできないと思うんだよ」

 

 塚本の言っていることはごもっともである。

 自分の進む道を、完全に自分の意思だけで決められる人間なんてきっといない。少なからず誰かの、何かの影響を受けて左右されながら、選択肢の中からその道を選ぶのだろう。

 その影響の中でも、親というファクターはかなりのウェイトを占める。それは育ててもらった恩義だったり、一緒に暮らしてきて得てきた信頼だったり、将来を決められているが故に敷かれたレールだったり理由は様々あれど。

 

 「今日の噂聞いてて、あんなに飄々として何でもできる感じの人でも、やっぱ色々抱えてるんだなって思ったよ。

 そんでさ、俺やっぱ改めて認識した」

 

 「何を?」

 

 「絶対に言うなよ?」

 

 「それ、フリ?」

 

 「ちげえよ!いいか。吉川先輩にもだぞ?」

 

 「なんでそこで優子先輩が出てくるんですかね?」

 

 「だって仲良さげじゃん?最近特に」

 

 「……そう見える?」

 

 「まあな。合奏の時に二人の真ん中に挟まれてるのが高坂じゃなかったら、間違いなく気まずいだろうなってくらいにはチラチラ見てるしな。お互い」

 

 「……」

 

 付き合ってからというもの、どうしても気になっちゃうんだよな。それに優子先輩が真面目な顔で練習してるの普段帰るときとは違う表情で、それもまた……。今度からは気を付けよ。

 付き合ってることをばらしたくはない。それでさっきの話は、と塚本の話を促して話を逸らす。

 

 「……俺さ、田中先輩のこと苦手なんだ。どっから本気でどっから嘘かわからないって言うか…。あ、でも嫌いじゃないんだけどな」

 

 「そんなことか。安心しろよ、俺もだから」

 

 「え?マジで?」

 

 「ああ。むしろお前がそう感じてたのに俺が驚いたくらいだけど。お前も言ってたけど、八方美人だから。でも、その八方美人を演じてる感じが昔の知り合いを思い出す」

 

 「その昔の知り合いってのはよくわかんねえけど。本当にすごい人だと思う。それに家庭の事情にしろ色々隠してるのって人間誰しも同じだってのもわかってる。

だけどあの人の場合はこう、なんだろう…底が知れないって言うか…。自分でも今回の一件で、なんでそう感じたのかってわからないけど…」

 

 自分の伝えたいことを言葉に出来ず、もどかし気にうーんうーんと唸っている塚本。俺は何となくその後ろのガラスを見つめていた。

 嘘で塗り固められた仮面を付けたまま去って行く。頭を過る。目の前のガラスに描かれていくのは、あの日の陽乃ちゃんの背中だった。



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4

 もしかしたら、田中先輩は部活を辞めてしまうのではないか。

 そんな部員たちの杞憂を余所に、翌日、田中先輩はあっさりと部活に戻ってきた。

 

 「いやー。このサファイア川島の髪のきゅるんっていう部分がいいよね。たまんないわぁ」

 

 「もー。だからみどりですぅ」

 

 低音パートの輪の中でまるで昨日のことなんてなかったかのように話している田中先輩を見て、誰かがぼそりと呟く声が耳に入ってくる。

 

 「なんか、私たちが心配しすぎてただけだったのかな?」

 

 多くの部員が今の田中先輩を見て、同じことを思っている。そう思っていない人の方が圧倒的に少ないほどに、田中先輩はいつもと何も変わらない。

 

 「わかんないよー。もしかしたら退部することを伝えに来てたりしてー」

 

 「冗談でもそんなこと言わないでよね」

 

 昨日とは打って変わって、安心から弛緩している音楽室。だからこそ、その中にいる香織先輩のパッとしない表情が目についてしまった。

 物憂げな表情の香織先輩は、そんな音楽室に耐えられなくなったのか音楽室を出ていく。

 

 「ねえ、比企谷」

 

 学校で上の名前で呼ばれることには、まだあまり違和感を覚えない。こう呼ばれる時間の方が圧倒的に長かったからだ。

 俺を呼んだ優子先輩の表情は、どこか気まずそうにぱちりとした目を細めていた。

 

 「なんですか?」

 

 「さっき香織先輩に聞いたんだけど、今日もあすか先輩のお母さんから学校に電話かかってきてたんだって」

 

 「まあ香織先輩のあんな不安そうな表情見てたら、解決はしてないんじゃないかって思いました」

 

 「うん。大丈夫かな?」

 

 「田中先輩ですか?」

 

 「あすか先輩はきっと大丈夫なんじゃないかなって思うけど」

 

 「どうですかね。むしろあの人が一番わからない気もしますけど」

 

 「え?」

 

 「田中先輩じゃないなら、じゃあ香織先輩ですか?それとも部活?」

 

 「うーん。どっちかって言うと部活。香織先輩はこんなときだからこそ、私が何とかしたい!」

 

 「おー、すごい熱意ですね。部活に関しては大丈夫ではないと思います。

 今だってこうしてあの人がいるかいないかで部員たちが一喜一憂するくらいにはモチベーション的にも影響が強い人ですし、副部長という役職もあります。これまでの練習の進行や運営を見ていても、今から全国までわずかと言えども田中先輩なしでこれまで通りそつなくそれができるかと言えば、そうは思えません」

 

 けれど、なんとなくこんな日が来るとは思っていた。いつか抱いた、彼女が何も言わずにいなくなるんじゃないかと言う確信が、徐々に真実味を帯びてきている。

 だが、鎧塚先輩の時とは違うことは、幸いにもユーフォには中川先輩がいることだ。仮に田中先輩が全国に出られなかった場合、実力的には劣っているとは言え代わりがいる。

そんなことを考えてはっとした。俺、性格悪。優子先輩には言わないようにしよう。

 

 「結局、その運営面に関しては、部長の小笠原先輩が頑張るしかないですよね」

 

 「うっわ。すっごい他人事……」

 

 「小笠原先輩から言われてるんでね。余計なことはするなって」

 

 何かするとしても小笠原先輩の許可を取ってから。忠犬精神で、北高祭のときに言われたことはきちんと守るつもりだ。

 

 「優子」

 

 「うん?どうしたの、みぞれ?」

 

 そっと近づいてきて、静かに話しかけてきた鎧塚先輩に優子先輩の口元がほころんだ。

前からずっと思っていたが、優子先輩は加部先輩とも話が合って仲良さそうにしているし、何なら中川先輩も本人達は認めないだろうが、一周回ってめちゃくちゃ仲良く見えるが、目の前にいる寡黙な先輩に話しかけられたときが一番嬉しそうに見える。基本的に世話焼きな人だから、少し手がかかる友人の方が一緒に居やすいのかもしれない。

 ちなみに俺は手がかかる子ではない。基本的に誰とも一緒にいなくて、一人で何でもできるから、手がかからないどころか存在認識されないまである。もはや最強の手が掛からない子だと自負していいでしょ、これは。

 

 「同じ選択授業の宿題、今日の放課後に一緒にやろう?」

 

 「え、いいけど…。あの授業、希美も一緒にとってるじゃん。希美と一緒じゃなくていいの?」

 

 鎧塚先輩は何を言ってるんだと言うようにきょとんと、首を傾げた。

 

 「希美にはこんなことで迷惑かけられない」

 

 「…それだとまるで私には、どれだけ迷惑かけてもいいみたいになっちゃうんだけど…」

 

 鎧塚先輩のあんまりな物言いに苦笑いした優子先輩と同じように、俺も思わず苦笑してしまった。

 

 「はあ。まあいいけど」

 

 「良かった。…比企谷君も一緒に行く?」

 

 「いやいや。行かないです」

 

 「そっか」

 

 「別に私は来てくれてもいいよ。どうせなら一緒に――」

 

 「どうせなら私も一緒に行こうかなー?いやー、ちょうど困ってたんだよね。今回の宿題、ちょっとめんどいじゃん?」

 

 「…なんであんたが出てくんのよ?」

 

 「言った通りだよ。私もみぞれと優子と一緒に勉強したいなーって」

 

 「白々しいわね。私、あんたのことは絶対誘わないから」

 

 優子先輩の鋭い視線の先、当然ながらその対象は中川先輩。周りにいた部員が、いつものあれが始まるぞと距離をとる。

 

 「はー。そうやって仲間外れにして、名前の通り優しい子じゃないんだなー」

 

 「勘違いしないでくんない?あんた以外には優しいですー」

 

 「しかも恩義も忘れるって言うね。去年の冬休みは英語の宿題見せてあげたはずなのに」

 

 「はっ。そっちこそ忘れたなんて言わせないから。その代わりに数学の宿題を見せたでしょ?」

 

 「もうわかったよ。やっぱあんたに行った私が馬鹿だった。みぞれは優子と二人よりも人数多い方がいいよね?」

 

 「私?どっちでもいい」

 

 「ほらいた方がいいって」

 

 「あんた、耳ついてんの?いない方がいいって言ったのよ」

 

 「私はどっちでもいいって……」

 

 ぐるるるる、と睨み合う二人を見かねて俺は廊下に出た。触らぬ神に祟りなし。去り際のチラリと俺を見た鎧塚先輩の目が悲しそうだったが勘違いだ。

 どうしてあの二人は会うたびにああなるのん?アスラとインドラか。アニメであったら、メラメラと互いの背後に炎が出ているだろうが、音楽室は修羅場じゃねえんだぞ。

 まあ二人のことは忘れて、とりあえず練習しますか。そう考えて、トランペットパートの教室に向かっている途中で田中先輩の声が渡り廊下から聞こえてきた。

 

 「もう…みんないちいちうるさーい」

 

 見れば香織先輩と小笠原先輩もいる。空いたままの扉越しに見える二人の背中。先輩たちの正面にいる田中先輩は手すりから中庭を眺めて、ぐーっと伸びをしていた。夏服からチラリと見える、無駄な肉が全くない腹部が艶めかしい。

 

 「そんな大事じゃないってー」

 

 「嘘。今日もあすかのお母さんから学校に電話あったって滝先生と教頭先生が話してた」

 

 「……そっかぁ」

 

 小笠原先輩の言葉を聞いたあすか先輩が少しだけ驚いた。あすか先輩本人は、母親の電話については知らなかったからか、あるいはそれを二人が知っていたことか、どちらに驚いたのかわからない。

 

 「実際どうなの?」

 

 「もし相談に乗れることがあったら――」

 

 「大丈夫」

 

 香織先輩の言葉を、田中先輩はぴしゃりと遮った。完璧な線引き。あんまりにもはっきりと拒絶されて、香織先輩の俯く背中が見えた。

 けれど田中先輩はそんな香織先輩は意に介さずに、こちらに向かって歩いてくる。

 

 「みんなに迷惑は掛けないから。それで十分でしょう?大事なのは演奏がどうなのか。それだけなんだし」

 

 「それだけって…」

 

 「それだけだよ。部活なんて。だから、これ以上ごちゃごちゃ言わないで」

 

 二人の間を通り過ぎて、田中先輩は振り返ることはもうしない。

 

 「ぷりーず、びー、くわいえっと」

 

 「…あすか……」

 

 小笠原先輩の心配そうな声。けれどその声も。

 扉を閉めた田中先輩の耳に届くことは、多分ないのだろう。

 

 「…あの……」

 

 「ああ。比企谷君いたんだ。気が付かなかったよ」

 

 『また明日…八幡』

 

 ああ。思い出すだけで胸に突き刺さる行き場のない感情。

 この人は残される側の気持ちがきっとわかっている。わかっていてもそんな他人の気持ちなんて無視して、行き場を失った誰かの想いを自分にぶつけることは決してしない。

 それが無性に悔しかった。触らぬ神に祟りなし。さっきそう思ったばかりだったって言うのに、どうしても我慢ならない。

 

 「今そこで言ってた、迷惑は掛けないってやつ。聞こえはいいですよね。でも疑ってるあの二人とかからすると、余計に懸念を増やすだけのようにしか聞こえないと思うのは俺だけですか?」

 

 「……」

 

 「あの二人の疑念を解こうとさえしなかった。都合のいい言葉で、肯定も否定もしない。その中途半端なやり方って十分答えになってますよ。嘘をついている人間が、嘘をついてないか聞かれて答えないのは、その行為自体が嘘をついているようなものですから」

 

 「…ごめん。だから何?」

 

 「いえ、先輩があんまりにも余裕がなさそうに見えたもんで、らしくないなって。確かにユーフォには代わりがいて、残り僅かの運営においての立場も副部長っていう部長に業務を押し付けられると言えば押し付けられる仕事です。

 だけど、後悔しますよ?」

 

 「はぁ?私、後悔なんてしな――」

 

 「あなたがじゃなくて、あの二人がですよ」

 

 「……」

 

 田中先輩の深い深い瞳が俺を突き刺した。

 この瞳は俺が言ったことだって、わかっているに違いないのに。

 

 「……比企谷君。君は、何回も言わなくちゃわからないような子じゃないでしょ?」

 

 口元に指を当てる田中先輩の口元は、ちっとも笑ってなんかいなかった。

 隣を通りすぎて、去っていく田中先輩。今も扉の先に立ち尽くしている二人の先輩の声さえ届かなかったのであれば、俺なんかの声が届くことはない。

 

 そして、その翌日から田中先輩は部活に顔を出すことはなくなった。



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5

 「何?ストーカー?」

 

 俺の少しだけ先を歩いていた高坂が振り返ってそんなことを言ってくるものだから、思わずため息が出てしまう。高坂が本気で言っていないのなんて、口角をつり上げている様子を見ればわかる。けれども、ガヤガヤと放課後の時間を楽しまんと談笑をしている顔も知らない生徒達は、『え、あいつストーカーなの?』みたいな顔で見てくるのだ。

 それは高坂がストーカーされそうなルックスを持っている、正に一年生の高嶺の花だからなのか、それとも俺が『こいつならやりそう!』みたいな顔をしているからなのか。

 

 「んな訳ねえだろ。ホームルームが終わって同じ場所目指してりゃ、後ろ付いて行くことくらいある。優等生の癖に、くだらないこといいなさんな」

 

 「それなら教室出るときに声掛けて、一緒に行けばいいじゃん?そうやって黙って付いてこられると、ストーカーだって勘違いしちゃってもおかしくないでしょう?優等生でも」

 

 優等生を否定しないどころか、ドヤ顔のおまけ付き。高坂のドヤ顔というサービスに、視界の端に写る何人かの男子が顔を赤らめた。

 そのピュアな心が俺への逆恨みにならないように、高坂の隣を歩くような真似はしない。立ち止まっていた高坂の横を通り過ぎて、そのまま音楽室に向かう。

 

 「……」

 

 「……」

 

 「…何?ストーカー?」

 

 「違う。それに真似しないで」

 

 「お前が俺と同じ行動してるからだろ?黙って後ろ付いてこられたら、俺みたいな優等生でもストーカーだって勘違いしちゃうんだよ」

 

 「比企谷は別に優等生じゃないじゃん」

 

 「国語は高坂よりいいだろう?」

 

 「国語だけはね。総合成績は私の方が全然いい」

 

 「負けず嫌いさんめ」

 

 「ただ事実を並べただけ」

 

 「全科目万遍なく出来る方がいいとは限らないんだぞ。日本はゼネラリストが求められても、海外ではスペシャリスト思考の方が根強いんだからな?」

 

 「はぁ。また屁理屈」

 

 学年一位の高坂さんは、短く言葉を返してきながらも隣に並ぶ。もしかしたらこいつ、意外と国語の成績だけでも俺に負けてるの根に持ってるんじゃないだろうな。

 

 「あ。田中先輩」

 

 高坂が指さした窓の向こう側に、田中先輩が一人で校門に向かって歩いていた。田中先輩の周りには、あの人と同じように鞄を持って下校する生徒達がチラホラ。少しずつ校舎から離れていく姿は、まるで初めから部活なんてやっていなかったかのようにさえ見えた。

 

 「ねえ、あすか先輩ってコンクールに出られるのかな?」

 

 「……さあ。どうなんだろうな」

 

 高坂は鞄の中に入れていた水筒を手にとって、飲み口に唇を付けた。部活でいつも見ている花があしらわれた黒い水筒は、光沢で眩しい。

 田中先輩が校門を通り過ぎるのを見て、俺たちは音楽室へとまた歩き出した。

 

 「最近の噂を聞く限りだと家庭の事情なんだろうけど、実際それさえどうなのかわからないからな。来ない理由を田中先輩が口にした訳ではないし」

 

 「でも、もし家庭の事情だとしたら、折角目標だった全国出場が決まったんだし、あと少しで終わるんだから無理言ってでも出るべきじゃない?それも私たちは来年も全国に出られるチャンスがあるけど、あすか先輩は三年生だし」

 

 「家庭の問題は俺たちにはわかんねえよ」

 

 「わかんないことないでしょ。私、怪我だったらまだ納得出来る。万全の状態で演奏出来なくなっちゃうし、私のいつもより低い実力のせいで皆の足を引っ張っちゃうと思うと、どうしても怪我を治せないって言うなら辞退できる。それでもきっと、悔しくて悔しくて死にそうになりながらだけど、まだ何とかね。

 だけど、家庭の事情なんかで吹けないなんて事になったら私なら家を出ることになったとしたって全国で吹く道を選ぶ。絶対納得なんてしないし、全国に出ることを諦めない」

 

 「高坂は吹奏楽にかける想いが人一倍重いからな」

 

 「そもそも進路だってやりたいことだって、親に決められることなんかじゃなくて自分で決めるものじゃん」

 

 「いいや。違うな」

 

 「なんで?」

 

 「高坂はそれでやれてきてたのかもしんねえけど、少なくとも俺はそんな風には出来なかったし、これからもできねえぞ。

 誰も同じ班になってくれる人がいなくて、死ぬほど行きたくなかった中学の時の修学旅行だって、普通に行くことが決まってたから嫌でも参加したし、千葉大好きだから本当は向こうに残っていたかったけど、親の転勤でこうして今こっち来てる。

 子どもはどうしたって親が決めたことの影響受けるもんだ。自由だなんて、限られた世界の中だけの話であって、あくまで決められた選択肢の中から選べるだけって言うだけ。お前の言うそれは、正論だけど正しくはねえんだよ」

 

 「じゃあさ、それならあすか先輩ってどうして部活続けてたんだろうね?」

 

 高坂の疑問に俺は首を振って答えた。

 

 「部活、好きそうには見えなかったし、どちらかと言えば自分が吹ければいいって感じに見えてた。いつか今回みたいに親の影響で部活を続けられなくなるかもしれない可能性があったなら、最初から部活に入る必要なんてなかったのに」

 

 「部に関して無関心って訳じゃなさそうだったけど、それさえもわかんねえな」

 

 「こないだ部活に来たときに迷惑はかけないって言ってたけど、皆影響されてるじゃん。香織先輩とかも」

 

 田中先輩が部活に来なくなってから一週間が経ち、香織先輩は明らかに元気がなくなっていた。部活中も優子先輩や笠野先輩が話し掛けてもどこか上の空。パート練習が全体的に暗い雰囲気で進行しているのも、リーダーの影響がかなり大きい。

 高坂の言った通り、トランペットパートに限った話ではない。特に二年生含めた上級生は、去年のやる気のなかった三年生達との間で上手くやってくれていた田中先輩への想いはかなり強い。だからこそ、どこのパートも田中先輩が抜けたことに意識が向いてしまっていて、全国の本番は待ってはくれないからと何とかやることをこなすような感じになっている。その結果、明らかに全国への集中を切らしているのが現状だ。

 

 「今のままじゃ私たち、全国で金賞は取れないと思う」

 

 「まあ初めから、全国で金賞を取るのは目標じゃねえけど。それに銀賞だって銅賞だって悪いもんじゃねえよ。銀は金より良いって書いて銀だし、銅は金と同じって書いて銅」

 

 「銀は良いじゃなくて艮だし」

 

 「細かいこと言うなよ。大体、今の部の状態の解決方法は何かあるのか、優等生?」

 

 「あすか先輩が戻ってくる」

 

 「どうやって連れ戻す?」

 

 「知らないよ。あすか先輩のこと自体、よく知らないんだから」

 

 「それならまずは情報収集だな。話す相手が俺じゃ得られる情報もねえだろ?聞いて回ってみたらいいんじゃね?」

 

 「いや、私はあすか先輩が戻ってくるって言ったの。連れ戻すなんて気はさらさらない。重要な役職を持って部活をここまで続けていた責任があるんだから、家庭の事情は勝手に解決するべきでしょう?」

 

 「俺好みの返答だけどな。本当に」

 

 高坂の部活動と吹奏楽を第一とする考え方であるならば、田中先輩の家の事情なんかに俺たちが手を出すというのは、ある意味マイナスになった労力を取り戻すためにさらに労力を費やす行為とも言える。

 五人の企画発表を行うグループがあったとして、期限まで残り少ないのに一人が熱を出した。その熱を治すために、残りの四人が看病をしに行く。そんなようなもんだろう。だから決して間違っている訳ではないのだ。

 ちゃんと正しい。高坂麗奈はいつだって正しくて、強い。けれどだからこそ、気がつかないのだろう。その正しさは誰しもに突きつけることができるものではないということを。

 俺たちは七十人以上の人間で吹奏楽をしている。それはつまり、七十以上のの異なる考え方があるということで、その中には高坂のように正しさを追求する人もいれば、間違いであっても構わない人さえもいる。

 それでも自分の正しさを貫きたいのであれば、それを振りかざして叩き付けることは不正解だ。説得、懐柔、裏工作、排他、贔屓。そして犠牲。正しくないとされることだって、間違いなく必要なのである。

 

 そんなことを考えていたときだった。

 

 「ねえ聞いた?」

 「うん。さっき職員室で――」



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6

 「何ですか、これ」

 

 パンパンと二度手を叩いて演奏を止めた滝先生の言葉に、どこか懐かしさを覚える。

 この言葉はまだ入部したばかりの頃、女子部員たちの黄色い悲鳴が滝先生の爽やかな顔からは想像のつかない厳しい性格の片鱗が見えて、本当の悲鳴に変わった瞬間の言葉だ。きっとあの瞬間は、部員の誰しもの記憶の中で、滝先生の粘着悪魔のあだ名にふさわしくねっとりとへばりついたままだろう。

 

 「皆さん、ちゃんと集中してます?」

 

 気の抜けた演奏をしていたのは事実で、滝先生の指摘は間違ってはいない。その証拠に何人かの生徒が目線を下に落とした。すべての原因はついさっき広まったばかりの噂が原因なのは日の目を見るより明らかだ。

 隣の席からはぁ、とため息が聞こえてくる。声の主の高坂は真っ直ぐに視線を滝先生に向けているが、少しばかり部員たちに呆れているように見えた。

 こうしてこいつが部員たちをどこか冷めた様子でいるのを見ると、尚のこと入部当初のことをよく思い出す。今の部活は全国に行くと気合の入っていたときよりも明らかに演奏以外の部分で後退していて、まるで入部当初のようだとさえ思えた。

 

 「あの…」

 

 躊躇いがちな声で、手を上げたのは優子先輩。自ずと期待の視線が優子先輩に集まる。

 

 「何ですか?」

 

 「あすか先輩の退部届、教頭先生が代理で受け取ったって話は本当なんですか?」

 

 「……そのような事実はありません」

 

 滝先生は否定した。それでも多くの部員が俯いたままなのは、田中先輩はもう合奏練に一週間参加していないという事実に、きっと副校長が退部届を受け取ったのを見たという噂の方が、滝先生の言葉よりも信憑性が高いと判断しているからだ。

 そんな部員達を指揮台の上から見渡して、滝先生は言葉を続けた。

 

 「皆さんはこれからも、そんな噂話が一つ出る度に集中力を切らして、このような気の抜けた演奏をするつもりですか?

 今日は終わりにして残りはパート練にしましょう」

 

 「先生…!」

 

 小笠原先輩の制止も空しく、音楽室の扉を閉める音は無常にも鳴り響いた。

 以前、再オーディションを提言して、滝先生に職員室に呼ばれて話したときに、滝先生は部をどうまとめればいいのかわからないと零した。技術的な面で俺たちを鍛えていくことには優れている指揮者であることは、無名校だった北宇治が全国まで駒を進めたことからも明らかだが、指導者としてはまだ経験が少ない。

 今回の田中先輩の一件もどうすべきかわからずに困っているのは滝先生も同じなのかもしれない。

 誰もが無言でいる中、しばらくして小笠原先輩はユーフォのぽつんと置かれただけの椅子を見つめてゆっくりと話し始めた。

 

 「みんな、少しだけ時間をくれる?」

 

 「晴香…」

 

 香織先輩が声を漏らす。バリトンサックスを置いて、小笠原先輩は指揮台に向かって歩いた。

 

 「あすかがいなくて、みんな不安になるのは当然だと思う。でも、このままあすかに頼っていたらダメだと思う。あすかがいないだけで不安になって、演奏もダメになって……部活ってそうじゃない」

 

 「そんなのわかってるよ」

 

 「だけど…」

 

 パーカスとトロンボーンのパトリが小笠原先輩の言葉に反論した。

 パトリは頻繁に会議で、部の方向性や練習について話し合う。弱小校の北宇治でただ適当にこなしていればいいはずだったパトリの仕事は、滝先生が強豪に変えたことによって、すっかり仕事も責任が重くリーダーとしてしっかりとパートをまとめていく必要性が出てきた。

 それもあって、会議での話し合いやパート練習など、特にパトリ達は田中先輩に頼っていた部分も多かったはずだ。一番頼っていたのは彼らなのかもしれない。

 

 「私は自分よりもあすかの方が優秀だと思ってる。だからあすかが部長をやればいいってずっと思ってた。私だけじゃない。あすかが何でもできるから、みんな頼ってた。あすかは特別だからそれでいいんだって」

 

 部員全員がまるで滝先生が壇上で話しているときの様に、真っ直ぐに小笠原先輩を見つめて話を聞いている。入部したばかりの頃は、集まる視線に困ったように俯くこともあった部長の夏服から伸びている細くて白い腕は、今はもう全く震えていない。

 

 「でもあすかは特別なんかじゃなかった。私たちが勝手にあの子を特別にしていた。副部長にパートリーダーにドラムメジャーとか。仕事を完璧にこなすのが当たり前で、あの子が弱みを見せないから平気なんだろうって思ってた」

 

 田中先輩は何でも上手くこなしていた。同じ人間ってよりも超人みたいに思われ続けて、部内の揉め事とか面倒な運営だって、自分には簡単みたいな顔をして解決をしてきた。

 でも、実際は違う。普通に親と揉める。揉め事なんて物事を上手く解決できない愚か者しかしない。そんな大風呂敷を敷いているように見えただけで、それは俺たちが見ていた偶像でしかなかった。

 平凡な人間と同じように自分にはどうしようもない問題を抱えて生きていた。

 

 やっぱり思い出す。自分を吹奏楽の世界へと引っ張ってくれた恩人が、いつも二人で並んで座ったベンチの前に佇む姿。俺からすれば常人とは違う特別な人間だったはずの陽乃ちゃんでさえ、『親が決めた』という檻を壊すことはできなかった。きっと誰よりも頭も良くて色んなものを見ていた彼女は、それ故にそれを壊すことが如何に無茶で愚かなことかを氷解していたから。

 もう今となってはわからない。田中先輩と同じように、親の言うことには従わなければならない。そんな子どものたった一つのルールに従って音楽を辞めてしまった少女の笑顔は、いつも本当の笑顔だったのだろうか。

 

 「今度は私たちがあすかを支える番だと思う。あの子がいつ帰ってきてもいいように。勿論、去年のことがあったからムカついている人もいると思う。あすか以外は頼りない先輩ばっかりだって感じている子もいるかもしれない。でも、それでも付いてきて欲しい。……お願い、します」

 

 おぉ。頭を下げている。部下に頭を下げられる上司。ご立派です。俺なら何歳になっても自分より下の奴らに頭なんて下げたくない。

 ただ、『いつ帰ってきてもいいように』という言い方が気になった。まるで田中先輩が戻ってくるのが前提のように聞こえるんだけど。滝先生が田中先輩の退部届を受け取っていないというのが事実だということは本当なのか?

 今回の一件で部員たちが求めているものは、ただ一つ。田中先輩が戻ってくることである。そうなるように多くの部員たちが祈っている状態だが、変に期待してしまえば裏切られたときのダメージが今よりさらに大きいのは間違いないだろう。

 うーん。あの人、戻ってきそうもなかったように思えたんだけど。ダメだ。そもそも、今回の件に関してはとにかく情報源の正確性が低い。これには田中先輩のプライベートには誰も近寄らせるまいという思惑が働いている部分も大きいのかもしれないが。

 

 「あんまり舐めないでください。そんなこと言われなくても、みんな付いていくつもりです!本気なんですよ、みんな?」

 

 優子先輩が頭を下げる小笠原先輩に声を掛けると、香織先輩が微笑んだ。二年生の優子先輩の言葉に、同学年の部員達もうんうんと頷いている。

 

 「ま、あんたの場合、好きな先輩に対して私情を持ち込みすぎだけどねー」

 

 「うっさい!」

 

 優子先輩と中川先輩のいつも通りのやり取りに、思わず部員たちが笑い出した。

 最近は部活中にこうやって笑っていることも少ない気がする。田中先輩の件に気を取られているのも一番の理由だが、駅ビルコンサートだって刻一刻と近づいている。そして、最後のコンクールも。

 

 「だーいたい、あんたねぇ。こういうときは――」

 

 「あーはいはい。これだからいい子ちゃんは」

 

 「なにぃー!」



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7

 滝先生の指示通りにパート練を行って、その後に居残り練習をこなす。居残りや居眠り、居座り。居るというワードが付くと、どれもマイナスな意味に捉えられてしまうのは俺だけだろうか。居るとは存在することを意味するが、存在することが罪というオタクにはダメージがでかい言葉もあるし。俺も昔はよく言われたなあ。しみじみ。

 どうでもいいことを考えながら、チラリと伺ってみる。優子先輩も帰る準備を進めていた。多分優子先輩はいつも通り加部先輩と話してもう少し時間がかかるだろうから、先に校門に行って待っていよう。

 

 「すいませーん。ちょっといいですかー?」

 

 「げ」

 

 一つに束ねられている髪の色は明るく、どこかやる気のなさそうな声も相まって不良に見えなくもない。

 ガラガラと教室の扉が開けられて顔を出したのは中川先輩だった。トランペットパートに顔を出すなんて珍しい。そして、嫌そうな声を上げたのは優子先輩。こっちは何も珍しくない。

 

 「何の用?私たち練習してるんだけど?」

 

 「別にあんたに会いに来たわけじゃない。邪魔だからどいてくんない?」

 

 「うーっわ。こないだ美術の宿題協力してやったのに、何その態度」

 

 「はぁ。協力してくれたのはみぞれでしょ。あんたはただぎゃーぎゃー騒いでただけじゃん」

 

 「二人とも、落ち着いて。ね?」

 

 香織先輩の一言で止められても、まだぐるぐると威嚇し合っている二人に加部先輩や笠野先輩が呆れたように笑った。

 どうして優子先輩も中川先輩も互いに、あんなに突っかかるのだろう。ラブライバーとプロデューサーなの?俺はワグナーだけど。

 

 「それでどうしたの?」

 

 「あ、そうそう。比企谷。ちょっといい?」

 

 「え、俺ですか?」

 

 付いていくなと、本能が訴えかける。申し訳なさそうに手招きしている中川先輩の隣にいる優子先輩が原因だろう。

 

 「あの、要件は?」

 

 「ここだとちょっと話しにくいから、どっかで」

 

 「えー、そのー」

 

 「飲み物くらいなら奢るからさ」

 

 「俺ほら、人から施しは受けないって決めてて…」

 

 「合宿の時も奢ったじゃん。いいから来てよ」

 

 確認の意味も兼ねて優子先輩を見た。

 

 「そう。行っちゃうんだ?へえ。ふーん。そう。ふーん」

 

 こっわ!こわこわこわこわこっわ!

 優子先輩は怒っていた。俺まだ行くとも何とも返事してないのに!

 

 「別にいいじゃん。比企谷、あんたの物じゃないでしょ?」

 

 「っ!そ、そうだけど…」

 

 「そうだよ、優子ちゃん。それじゃ比企谷君が可哀想だよ」

 

 「か、香織先輩まで…。だからぁ…、だってぇ…!」

 

 顔を赤くして、何か言いたいのを我慢するように口をもごもごと動かしている優子先輩を見て、近くにいた加部先輩がどこか不審そうな顔をした。

 

 「……ねぇ比企谷」

 

 「な、なんすか加部先輩?」

 

 「優子と付き合ってんの?」

 

 「はは。まかさ」

 

 「まかさ?」

 

 「ち、違います。マッカーサーって言ったんです。とにかくそんな訳ないじゃないですか」

 

 「……ふーん」

 

 「…何ニヤニヤしてるんですか?」

 

 「べっつにー。比企谷が付き合ってないって言うならそうなんだろうなーって」

 

 これ、終わったやつ?ばれた?咄嗟に顔を加部先輩から逸らす。

 

 「でも隠すつもりならもっとうまくやった方がいいよ?あ、疑ってるわけじゃないよ?ほんとほんと」

 

 確実にばれていた。…いや。鎌をかけている可能性がある。とにかく、こういう時はっ!

 

 「中川先輩」

 

 「ん?どうし…って!わっ!」

 

 「え、ちょ。待ちなさいよ、比企谷!」

 

 逃げるに限る!

 

 

 

 

 

 低音パートにあてがわれた三年生の教室に、すでに川島や加藤など低音のメンバーはいなかった。窓際の席に腰かける。

 だが、そんなことよりも加部先輩に困った。どうしよう。とりあえず付き合っていることは、黙っておいて欲しいってことは伝えた方がいいのか。でもまだばれたって限らないし…。いや、あれは明らかにばれただろ。めっちゃニヤニヤしてたもん。

 

 「比企谷、めっちゃ急いで教室出て行ったけど何かあったの?」

 

 「いや。かくかくしかじかで」

 

 「なるほど。ってわかるか」

 

 「いてっ」

 

 軽く立ち上がったままだった中川先輩に軽く頭を叩かれた。暴力反対。暴力の果てには必ず敗北がある。ガンジーの名言。だが待って欲しい。俺はアンパンマンが負けているところを見たことがない。アンパンチでばいきんまんがいつも吹っ飛ばされる。

 

 「それで話を済ませようとするやつ、初めて見たよ」

 

 座っていなかった中川先輩は俺の前の机に座る。ちょっと脚を開きすぎではないだろうか。そういうところ、もっと女の子意識して!って言うか普通に椅子に座って!

 

 「んで、話ってなんですか?」

 

 「ああ、うん。実は聞きたいことというか、ちょっと相談があって。あのさ」

 

 「待ってください」

 

 「何?」

 

 「その前にどうして俺なんですか?」

 

 「そりゃ、あすか先輩が一目置いてたくらいには優秀な人材は早いところ取っとかないと。合宿の時の優子の時みたいになりかねないし」

 

 合宿の時。傘木先輩の復帰を止めたことを持ち出してくるとは。

 

 「いや。あん時も言いましたけど、別に早い者勝ちとかじゃないんですってば。先に言われたから優子先輩側に付いてた訳じゃないんです。それより、その言い方だと誰かと何かを争ってるんですか?」

 

 「ううん。今回はそういう訳じゃない」

 

 中川先輩は相変わらず口角を上げたままだ。釣り目がちな目は俺を少しだけ高い位置から見下ろしていて、けれど意外と高圧的だとは感じない。どこかやる気のなさそうな話し方や声のお陰かもしれない。

 

 「さっき部長が言ってたじゃん。あすか先輩が戻ってきたときのためにちゃんとしようって」

 

 「はい」

 

 「でもね、あすか先輩、もう戻ってこないのかもしれないんだ。ちょうど一週間前くらいにあすか先輩が部活に来なくなったじゃん。その時にパトリの仕事の引継ぎされた」

 

 「……そうなんですか。まあそうかもとは思ってましたけど」

 

 香織先輩と小笠原先輩を拒絶した田中先輩の姿。あの姿は今でも俺の中で、小学生の陽乃ちゃんと重なっている。

 

 「……そっか」

 

 「一週間前に部長と香織先輩と田中先輩が三人で話してるところをたまたま聞いて。さっきの小笠原先輩の言葉はかなり前向きだったというか、田中先輩が戻ってくるの前提みたいな言い方だったんで、ある程度戻ってくる目星がついてるのかと思ってました」

 

 「希望的観測みたいな感じだと思う。一応、部長にそれも聞いてみるけど、一昨日の合奏練の前に滝先生があすか先輩が全国で吹けない可能性があるからそのつもりで練習しておいて欲しいって言われたし」

 

 それはもう思っているよりも戻ってこない方向性で固まっているじゃないか。

 ただ、いつまでも本番にでれるか分からない人をメンバーとしてカウントするのはリスキーだ。このまま田中先輩が本番に出ることがなかったらユーフォは黄前一人になるわけだし、あのパートにはソロもある。

 

 「……もしそうだとしたら、やっぱり今日の副校長が退部届を代理で受け取ったってのは本当みたいですね?」

 

 「多分。私たちに余計な心配かけたくないからそんな事実はないなんて言ったんだと思う。今、あすか先輩が辞めますなんて言ったら全国大会どころじゃなくなっちゃうから。さっき部長も言ってたけど、特に二年生以上はね」



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8

 「田中先輩が辞めそうだという事実はわかりました。それで聞きたいことってなんですか?」

 

 「うん。まあここまでの流れで何となくはわかってると思うけど、あすか先輩を連れ戻す方法なんかないかなーって?」

 

 「ないですね」

 

 「即答かー」

 

 「ドラえもんじゃないんですから。何でもはできないですよ。むしろ、特技は降参で好きなことは怠惰ですからね」

 

 「私もダラダラするのは好きだけど、諦めたらそこで試合終了だぞ。もっと熱くなれよー」

 

 「だって無理なものは無理ですもん。しかもそう言ってる中川先輩が全く熱くないじゃないですか」

 

 「これでも結構真面目に相談してんだけど」

 

 「それじゃあ真面目に返答しますけど、今回のことって家庭の問題みたいじゃないですか?余所の家の家庭問題にまで首突っ込むのって良くないでしょ?」

 

 「でもあすか先輩は――」

 

 「その田中先輩だって余計な詮索はしないで欲しいって言ってましたよ。それに大丈夫、みんなに迷惑かけないって言ってたわけじゃないですか。だから大丈夫ですよ。信用はできないですけど」

 

 「信用できないんじゃん…」

 

 俺にしては珍しくはっきりと明確に伝える。浅く唇を噛んだ中川先輩には申し訳ないが、俺だって中川先輩が今できることは何かないかを探して、それでも何も思い浮かばない。同じだ。

 何となく外を見れば、いつもと何も変わらない校庭が見える。もうかなり遅い時間だ。今年の吹奏楽部はかなり例外的で、余所の部活の成績はパッとしない北宇治はどの部活ももっと早い時間に練習を切り上げているため、校庭には下校中の生徒がぽつぽつと見えるだけだった

 その中でただ、校門だけが何となく特別に見えるのは、練習前に見た田中先輩があそこを通っている姿が何となく印象に残っているからかもしれない。

 

 「はぁ。そもそもどうして、そんなに田中先輩に復帰して欲しいんですか?部活のため?」

 

 「はは。まあそうだね。ここまで来たんだから上手い人が吹くべきで、私じゃあすか先輩にはどうやったって及ばない。後は、やっぱり今の部の落ち込んだ状態は結局あすか先輩が帰ってこないと解決しないでしょ?」

 

 中川先輩は目を閉じた。長い眉や釣り上がっている目のせいで大人っぽくも、少しだけ怖くも見える先輩だが、こうして目を瞑ると意外と幼い顔つきをしている。

 

 「それにさ、私、あすか先輩好きだから。最後のコンクール、吹いてほしいんだ」

 

 「……」

 

 「だから、かな」

 

 「……わかってるんですよね?」

 

 「何を?」

 

 「……中川先輩、普通に勿体ないことしていますよ?だって、もし田中先輩が帰ってこれなかったら、先輩が出られるのに。それじゃ練習したって――」

 

 「いいんだよ」

 

 その言葉には、確かに未練があった。コンクールへの執着も。言葉の端々から伝わっていた。乾いた笑いと、上がった口角。寂寥感が漂う、閉じられた瞳。この人はきっと賢い人だ。だからこそ、本心に蓋をすることにしたのだ。

 きっぱりとその気持ちを拒絶するように、中川先輩は言い切った。その声の力強さは、俺に反論の余地を与えない。

 

 「私は来年、ちゃんと実力でAメンバーに入るから」

 

 「もし来年、めっちゃ上手い後輩が来たらどうするんですか?」

 

 「その時はその時。その子よりも黄前ちゃんよりも上手くなるために練習するしかないでしょ?」

 

 思わず息がこぼれたが、これは呆れた訳ではない。けれどそれを勘違いしたのか、中川先輩はむすっとして机から下げていた脚で俺のことを軽く蹴った。白いハイソックスと少しだけ日焼けした脚に一瞬目を奪われる。

 

 「何か変なこと言った?言っとくけど、Bメンバーだって毎日ちゃんと練習してるんだからね?皆、オーディションの頃なんかよりずっと上達してるから」

 

 「知ってますよ。そんなの」

 

 「じゃあなんで今呆れたの?」

 

 「別に。ただ……」

 

 『たまたま香織先輩が一年生を無視するのを辞めて下さいって何回も、ずーっと三年に頭を下げてくれてるのを見ちゃってね。それどころか辞めようとしてる一年を引き留めるために、一人分でも出場枠を譲ろうと自分が辞退した』

 

 去年の香織先輩のことを優子先輩に聞いたことがある。

 中学生の時の俺は、他者にコンクールへの出場を断念させられた。でも中川先輩や、去年の香織先輩は違う。自分で他者のためにコンクールに出場しない道を選ぼうとしている。

 勿論、自信はないかもしれない。言っている通り、本人がどれだけ努力をしていると言っても、田中先輩よりも実力が劣っているのは事実なのだから。

努力は裏切ることだってある。結果に繋がらないことばかりで、努力が裏切らないなんて言うのは成功者が勝利の余韻に浸っているだけ。

 だから努力とはきっと、自分が出来なかったときに納得するための保険みたいなものなのだと思う。けれど、中川先輩はその努力が報われるチャンスに手を伸ばさない。努力は裏切らないのではなくて、努力を裏切ろうとしている。

 

 「……考えてはおきます」

 

 「え?」

 

 「田中先輩の復帰、さっきも言った通り俺、と言うか俺たちにできることなんてないって考えは変わりませんけど。まあ何か手伝えることがあったら協力もします」

 

 「…ん。さんきゅ」

 

 中川先輩が立ち上がって、自分の鞄に手をかけた。スクールバッグの中の荷物は相当少ないのだろう。ぺっちゃりとへこんでいて、教科書を持って帰っていないことは明らかだ。

 家に帰って復習しない。ダメですねー。学生の本分は勉学。そんなんじゃ来年控えている受験戦争に勝てませんぞ。

 

 「遅くなっちゃったね。帰ろっか」

 

 「そうっすね」

 

 「あ。後さ、もう一つ聞きたいんだけど。今度はあすか先輩じゃなくて優子のことで」

 

 「優子先輩?なんですか?」

 

 「うん。二人ってさ、付き合ってんの?」

 

 「……」

 

 手に取ったばかりのスクールバッグを思わず落とす。軽い音が鳴った。教科書を持ち帰らないのは、俺も同じだ。

 

 「ど、どど」

 

 開いた口がふさがらない。今ならローマの真実の口の気持ちがわかった。口って空いたまま閉まらなくなるもんなんだな。

 加部先輩も、中川先輩もなんでこんなに言い当ててくるの?

 

 「お。その反応は当たりっぽいね」

 

 「…どうして?」

 

 「どうしてわかったのかってこと?こないだ優子と希美とみぞれで部活終わった後に宿題やってたときにさ、優子がちょくちょくラインしてて。内容までは見えなかったけど、ちらっと見たら相手のアイコンがアニメだったから珍しいなって思ったのがきっかけかな」

 

 「そ、それだけで?」

 

 「それだけって言うけど、アニメのアイコンの女子ってあんまりいないから普通にわかるよ。そんで決め手になったのは、優子に誰って聞いたらめっちゃ動揺してたことだね。

 普段なら『あんたに関係ないでしょ?見ないでくんない?キモいんですけど』くらい言いそうなのに、ただ慌ててただけだったからさ」

 

 「ゆ、優子先輩…。だけど俺だって根拠は…!」

 

 「いやー。比企谷ならアイコンをアニメキャラにしててもおかしくないなーって。変えた方がいいんじゃない?」

 

 「そんな特定のされ方かよ!」

 

 なんかすげえ嫌なバレ方だった。

 だって仕方ないでしょ?猫の画像とか論外じゃん。女子受けみたいな感じでキモいから。かといって、自分の自撮りとかアイコンにするのはプライバシー的な意味でも、目に悪い的な意味でも良くない。いや、俺の場合は顔は悪くないんだ。目に毒というよりかは目が毒。

 でもアイコンを変えた方がいいと言うのなら、やむを得まい。全ての問題を解決するために至る結論。目を隠した自分の画像にするのがベスト!でも、それじゃいかがわしいサイトのトップみたいでなんだかなあ。

 

 「はは。嘘だよ。そんな真に受けた顔しないで」

 

 「え?」

 

 「アイコンなんて、自分の好きなやつで良いんじゃない?優子の相手が比企谷だと思ったのは、ただ優子がよく話してる相手が比企谷くらいしかいなかったから」

 

 「……」

 

 「そんな目で見ないでよ。冗談だってば。比企谷は面白いなぁ」

 

 なんか悔しい。少しいつもからかわれてはぷりぷりと怒っている優子先輩の気持ちがわかった。

 

 「言わないで下さいね」

 

 「隠してるんだ」

 

 「知ってるでしょ?幸いにも、俺は部内での評判があまり良くない」

 

 「それは何も幸いじゃないけどね。ま、隠してるなら言わないよ」

 

 「…ありがとうございます」

 

 「どうせすぐに、バレると思うんだけどなー」

 

 確かに、ここは吹部ですからね。

 ニヤニヤ笑いながら、『優子弄ってやろう』と言っている中川先輩。どうか口を滑らせないでいてくれることを祈る。ただ、確かにどうせいずれはバレるのであれば、せめてできるだけ良いバレ方をして欲しい。文春砲の様な形でバレるのは最悪だ。

 あー。加部先輩、どうすっかなー。

 

 「でも優子が比企谷かー」

 

 「なんか泣きそう…」

 

 「もう高校一年生なのに」

 

 「帰ったら絶対小町の胸の中でわんわん泣いて慰めて貰おう」

 

 「しかもシスコン!?そこは優子に慰めて貰うんじゃ…」

 

 「…っ!いってぇっ!」

 

 「あっはは!動揺し過ぎ!」



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9

 「あー。疲れたわー」

 

 「うん。お疲れぇ、おにぃーちゃーん」

 

 「おう。小町もな。んで、お前は何してんの?」

 

 「お兄ちゃんの臭い嗅いでるー」

 

 帰宅して、いつもならリビングから聞こえるはずのただいまの声が二階から聞こえてきたときは、自分の部屋で宿題でもやってるのかなと思っていたのに。小町は俺のベッドに寝そべって、布団を飼い猫のかまくらを思いっきり可愛がるときのよう抱きしめていた。

 うん。小町だってまだ中学生だ。両親が共働きであることに加えて、お家が大好きなひねくれ者の兄の面倒まで見なくてはならないお陰で変なところで大人びているけれど、こうやって甘えたくなるときだってあるだろう。それに加えて、千葉の妹とはいくつになっても兄に甘えてもいいものなのだから。

 俺は鞄を置いて、両手を大きく広げた。

 

 「ほら。俺が恋しいなら布団なんかじゃなくて、俺の胸に来い。いつでも抱きしめてやるから」

 

 「あ、そういうのはいいから。着てる服洗濯したいから、早くお風呂入っちゃってよ」

 

 「……」

 

 わからん。わからないから、ただ俺は心の中で泣いた。

 

 「風呂より先に飯でもいいか?腹減った」

 

 「ん。いいよ。小町もお腹空いたし」

 

 「じゃあリビング行こうぜ」

 

 「あー、後三十秒待ってー」

 

 「何で?」

 

 「お兄ちゃんパワーを吸収してるのであります!あ、今の小町的にポイント高いかも」

 

 「そんなことねえよ。妹が自分のベッドで寝てて嬉しいのは、エロゲの世界だけだ」

 

 最も、俺の胸に飛び込んできてたらポイント高かったけどな、ちくしょう!

 学校にいたときは、中川先輩と話して小町に抱きしめてもらうんだなんて話してたのに、帰宅して早々立場が逆転しかけて、挙げ句の果てに叶わなかった。世の中は上手くいかないことばかり。人生楽なきゃ、苦しかない。

 どこかほっこりした顔で、俺のベッドから立ち上がった小町は一つ背伸びをした。

 

 「よし。じゃあご飯食べよっか!」

 

 「うす。んで、結局何で俺の部屋にいたわけ?」

 

 「あー、それはね、お兄ちゃん。小町は一つ、物申したいことがあるよ」

 

 びしっと人差し指を顔の前で立てた小町は、その指先を部屋の一角に移した。

 

 「あれ」

 

 「えーっと、教科書とプリントの山だな」

 

 「それからあれとあれ」

 

 「え、読み終わった小説、貸して欲しいの?」

 

 「違う。片付けて」

 

 「片付けてって…。お前は俺の母ちゃんかよ。なんでそんなことまで小町に言われなくちゃなんねえんだよ」

 

 「いい、お兄ちゃん?お兄ちゃんは優子さんと付き合ったんだよね?」

 

 「ああ。そうだけど」

 

 「でも二人とも部活が遅くまであるから、あんまりどこかに遊びに行けるわけじゃないでしょ?なら遠出が出来ない分、これからも優子さんがこのお家に遊びに来ることだって少なからずあると思います」

 

 「まあ、そうかもしれないな」

 

 「だったらお部屋は綺麗にしとかなくちゃダメでしょうよー」

 

 「待て待て。そんなの、いつもみたいにリビングでいいじゃねえか。どうして俺の部屋で遊ぶの前提なんだよ?それに、小町だって優子先輩のこと嫌いな訳じゃないだろ?」

 

 「あーあ。これだから女心がわかんないごみいちゃんは…」

 

 「おま、ゴミって…」

 

 「女の子はね、彼氏とできるだけ二人っきりでいたいもんなんだよ?そりゃ、小町だって優子さんとはもっとお話したいし、これからも仲良くしたいけど、付き合ってる二人を邪魔する様な野暮なことはしないぜ、旦那?」

 

 「その妙なキャラは何なんだ?小町に一番似合わないキャラだぞ。それに、あのなあ小町。俺だって男なんだ。部屋で二人っきりなんてなったらどうなるかわからない」

 

 「それは大丈夫だよ。お兄ちゃん、ヘタレだし」

 

 ぐっ。この生意気な妹め…。

 小町は『とにかく片付けること、わかった?』とだけ残して部屋を出て行った。おそらくゴミを纏めるために袋か何かを持ってくるのだろう。

 まさか帰ってきて早々説教されるとは。あいつ、妹属性のみならず、着々とおかん属性まで身につけてやがる。

 母さんが普段からあまり家にいないことは、困ることよりも楽なことの方が多い。ここ最近働き始めて、小町と二人で生活をしなくてはいけなくなったというのならまだしも、この生活を始めてから何年も経っているのだから尚更だ。それ故に、小町のお節介はまあ正直な所ウザったいとしか言えない。

 お節介、厄介、正に俺にとってはそれ障害!なんかラップっぽい。うぇびー。

 

 「はぁ。めんどくせえなあ」

 

 とりあえずプリントは捨てるとして、問題は教科書だ。棚に一々仕舞うよりも、今のように床に適当に置いておく方が楽なんだけど。

 本来、教科書を仕舞うために作られていた本棚のスペースは今も健在だ。ただ入学から二週間も経たずに使わなくなったため、埃が少しだけ溜まっていた。

 

 「あれ、これ…」

 

 こんな所に置いてあったのか。てっきり机に仕舞ってあると思っていたのに。

 本棚の空いたスペースに倒れている、黒がベースの薄いメモ帳。白いトランペットが点々とデザインされているそれは、俺にとっては数少ない思い出の品と言えるものだ。

なぜならそれは、生まれて始めて家族以外の誰かから貰った誕生日プレゼントだったのだから。

 

 「…懐かしいな」

 

 手に埃が付くことを気にせずに、表面を撫でるように触れる。汚いとは感じなかった。

ページを開けば綺麗な文字でおめでとうと、祝いの言葉とこれをくれた人の名前が端的に書かれている。けれど、それを見ることはしなかった。見たって何も意味なんてない。その言葉は何年も前に俺が貰ったものだ。

 

 「おにーちゃーん」

 

 小町がリビングから俺を呼んでいる。メモ帳をスクールバッグの中に放り込んで、俺は部屋から出た。



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10

 「当日は八時から合奏練を始めます。また、いつも通りの時間に学校は開けてくれるそうなので、各自合奏練までは練習していても構いません。

 私たちの演奏は二時からになりますが、清良と立華の演奏は私たちより先にあります。特に全国常連の清良の演奏は聞いて、自分たちの演奏の足りない部分を明確にして下さいと滝先生も仰っていたので、演奏までは大分早いですが、学校を出発するのは十一時。それまでに各自準備は済ませておいて下さい」

 

 「「「はい!」」」

 

 「それでは連絡事項は以上になります。これから各教室でパート練習を行って下さい」

 

 小笠原先輩の指示で、すぐに何人かの生徒が立ち上がった喧噪に包まれた音楽室で、俺は連絡事項を一応メモしておくことにする。

 普段は細かくメモなどは取らないが、昨日見つけたメモ帳を何となく使いたかった。持っているのに、使わないというのは勿体ない気がしただけだ。

 

 「あれ?比企谷君のメモ帳、トランペットの柄なんだね?」

 

 こういう小物に目敏いのが女子というものなのか。席は離れているのに、香織先輩が気付いて声をかけてきた。他のパートのメンバーも俺のメモ帳を見て、少しだけ驚いていた。まあ俺のイメージっぽくはないわなあ。貰ったもんだし。

 

 「はい。ちょっと女物っぽすぎますよね」

 

 「ううん。そんなことないよ。なんか大人っぽいデザインで可愛い!」

 

 大人っぽい?これが?香織先輩、ちょっと変わってるしなぁ。

 だが、このメモ帳が女心にストライクなのはどうやら事実らしい。

 

 「確かに。トランペットが小ぶりで、目立ちすぎないのがいいね」

 

 「うん。センスある」

 

 隣に座っている高坂と、香織先輩の隣にいる笠野先輩も同意した。吉沢と加部先輩もうんうんと首を縦に振っている中で、訝しげに眉を寄せているのは滝野先輩だけだ。

 こうなると、自分で選んだ物ではないが、存外に気分が良い。そっかあ。似合っちゃうかぁ。可愛くて、大人っぽくて、センスあるものが俺には似合っちゃうのね、はは。

 

 「そんなの比企谷、持ってたっけ?私も欲しいかも」

 

 何とか溢れ出てきてしまいそうなドヤ顔を心の中で抑えていると、優子先輩が問いかけてきた。

 

 「いや多分探しても見つからないと思います」

 

 「なんで?」

 

「実は千葉にいた頃のもらい物なんですよね。しかも大分前に貰ったやつで、昨日部屋を掃除してたまたま見つけたから使って見ようかなって」

 

 「へえ。どのくらい前なの?」

 

 「それこそ十年近く前っすかね」

 

 「「「十年!」」」

 

 『化石じゃん!』と加部先輩が付け加えた。そんな値打ち物ではない。ただ、より興味を引くのには十分だったようで、パートのメンバーはずいずいと身体を寄せてきた。

 

 「よくそんなに前の物見つけたね。誰がくれたの?」

 

 「いや、当時仲良かった友達が」

 

 「友達……」

 

 「お前がそんなに目を丸くして驚くところ、始めて見たかもしれない」

 

 「だって普段教室だと全然人と話さないし…」

 

 「でで!その友達ってどんな人だったの?詳しく教えて!」

 

 「そ、そんな面白い話じゃ絶対ないですよ…」

 

 加部先輩に答えて、ふと思い出す。そう言えばこのパターンと非常によく似たことが、夏合宿のときにあった。あの時もこうしてパートのメンバーに囲まれた。

 だが、前回俺を陥れた(と今でも思っている)香織先輩は、興味ありげに両手を前で組んで話を聞こうとしている。大丈夫、ただ世間話に巻き込まれただけ。またスベったらどうしようなんて、震えることはない!

 

 「比企谷君が千葉にいたときの話ってあんまり聞いたことないし。それに十年前のプレゼントを大事に取っといたって、相当思い入れがあるものなんでしょ?気になるよ」

 

 「うんうん!」

 

 「えっと、その人は俺にトランペットを教えてくれた人だったんですけど」

 

 優子先輩の瞳が大きく揺れた。ただ、それに気がつけるのは前から見ている俺しかいない。矢継早に質問は飛んできた。

 

 「女の子?」

 

 「まあ、そうですね」

 

 「じゃじゃじゃ、もしかして好きな人だったとか!?」

 

 「待って下さい。恋愛に結びつけないで下さい」

 

 「だって女の子から貰ったものを何年も大切に取っておくってさー。もうこれ絶対キュンバナ、キュンバナ!」

 

 「まあまあ沙菜先輩。とりあえず聞きましょう!」

 

 こうなった以上、逃げる場所はない。俺は口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 「えぇ!八幡の誕生日って八月だったの!?」

 

 「うん」

 

 「なんで言わなかったのー?もう二ヶ月も前じゃん」

 

 可愛らしく頬を膨らませた陽乃ちゃん。明らかに怒っていますよアピールには、もう慣れた物だ。こうすれば可愛いとわかってやっているその仕草に、どきどきはしていない。ちょっとだけしか。

 

 「聞かれてなかったじゃん?」

 

 「聞かなくたって、近付いたら教えてよ?」

 

 「なんか祝ってって自分で言うみたいで恥ずかしくない?」

 

 「ちなみに私の誕生日は?」

 

 「覚えてるよ。七月七日」

 

 「あ、ちゃんと覚えたんだ。偉い!………避けないで!」

 

 「嫌だよ。撫でられるの」

 

 「まあいいや。でも私だってちゃんと言ったじゃん。あの時の私、恥ずかしかったって言うの?」

 

 「うん」

 

 「ひどいよ!お姉ちゃん、泣いちゃうよ!?」

 

 「だって当日に誕生日だからって、あれしてこれしてって。なんだっけ、お姫様ごっこだっけ?」

 

 「う。そのネーミングは恥ずかしい」

 

 「やってたことも恥ずかしかったよ。少なくとも、俺は」

 

 「だって恥ずかしがってる八幡が面白かったから羽目外しちゃった…。と、とにかく!生まれてきたことは祝われるべきことなんだから、何も恥ずかしくないし、ちゃんとアピールしないとダメ!」

 

 おお。なんかかっこいいこと言ってる。ただ、どこか陽乃ちゃんっぽくない言葉だなと思う。

口には出さないけど、少しだけ笑ってしまった。

 

 「むー、何よー?」

 

 「別に何でもないよ」

 

 「それに、こういうのは祝った者勝ちなの。先に祝われちゃったら、嫌でもお返ししなくちゃいえない感じになるし、貰ったものと同等かそれ以上。少なくともそれ以下のものはあげられないでしょう?」

 

 うわ。お返しが目当てなのかな。たち悪い。

 陽乃ちゃんは置いていたユーフォニアムを手にとって片付けを始めた。

 

 「今日はもう帰る」

 

 「え?いつもよりちょっと早くない?」

 

 「最近、日が暮れるのもちょっとだけ早くなってきたしいいでしょ?それとも、八幡はこの後も一人で練習してく?」

 

 「ううん。陽乃ちゃんが帰るなら帰るよ」

 

 トランペットをしまいながら、一人もっと吹いていたかったとごねる。ただ一人で練習するのも寂しいし、『こういうとき』の陽乃ちゃんの気持ちを変える難しさを、俺は良く理解している

 では、その『こういうとき』と言うのはどんなときか。

 

 「ねえ、八幡。明日も絶対に来てね」

 

 こんな風に何か面白いものを見つけて、ニコニコとしているときだ。

 



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11

 「はっぴぃばーすでーとぅーゆー」

 

 「……」

 

 「はっぴぃばーすでーとぅーゆー」

 

 「……」

 

 「はっぴぃばーすでーでぃーあ、はーちまーん」

 

 「……」

 

 「はっぴぃばーすでーとぅーゆー!」

 

 「……」

 

 「はい拍手ー!」

 

 陽乃ちゃんは俺の手を掴んで、ぱんぱんと掌を何度も打ち付ける。公園のベンチで響くハッピーバースデーの祝音に心がほっこりすることはない。それに強く合わせすぎて痛い。自分の手で拍手して。

 

 「あのー。陽乃ちゃん?」

 

 「ん?どうしたの?」

 

 「昨日も言ったんだけどね、俺の誕生日は二ヶ月も前なんだけど…」

 

 勘違いして欲しくないのは、面倒くさいとかそんなことはない。嬉しいよ。俺のために歌われたバースデーソング。すっごい嬉しい。

 でも誕生日が二ヶ月前のお陰で、なんで祝われてるんだろう感の方が強い。

 

 「でも八幡。どうせ誕生日、家族にしか祝われてないでしょ?」

 

 「どうせとか辞めて。傷つく。俺が誕生日を祝われないのは夏休み真っ只中のせいだもん」

 

 「むしろ八幡のお母さんには感謝しないとでしょ?夏休みに誕生日があるお陰で、誰にも祝われなくたって何とか理由付けができるんだから」

 

 「ずけずけくる…」

 

 思わずむっとした俺のほっぺたを、陽乃ちゃんはうりうりーと引っ張ってくる。なんなんだ、この人。本当に俺の誕生日をおめでたいと思っているのか?

 俺が徐々に不機嫌になっていく様子に、ごめんごめんとは謝ってはいるが、言葉とは裏腹に本当に楽しそうに笑っている。しばらくして俺から離れた陽乃ちゃんの白い腕は、自分の鞄の中に向かった。

 

 「今日は八幡にあげるものがあります。はい。これ」

 

 「…これって」

 

 「誕生日プレゼントだよ。改めて、お誕生日おめでとう。八幡」

 

 「……」

 

 陽乃ちゃんが持っている小さめな紙袋。目の前に突き出されたそれを、ただじっと見つめることしか出来ずにいた。

 

 「どうしたの?別に怪しいものじゃないよ?」

 

 「俺に、誕生日プレゼント……」

 

 「そうだよ?」

 

 「実は中に入ってるのがカエルの死体だったりとかはしないよね?」

 

 「そんなわけないでしょう。ほら、早く開けてみて」

 

 ぐいぐいと押しつけられて、やっと紙袋を受け取った。思っていたよりもずっと中身は軽い。

 誕生日なんてものはただ年を取るだけの日。お父さんとお母さんにプレゼントをもらえるし、流石にそこまでは思っていないけれど、大体は他の夏休みと何ら変わらない一日ではあると思っていた。

 むしろ変わらないどころか、嫌な一日かもしれない。ほんの少しだけ楽しみにしていた夕食の誕生日ケーキは、肝心の俺の名前が間違っていたことがあった。それに、何ともないとは言うけれど、本当はやっぱり家族以外の誰からも祝われないことがほんの少しだけ寂しい。

 ああ。確かに陽乃ちゃんが昨日、俺に話した通りなのかもしれない。ちゃんと八月八日は、自分の誕生日なんだと伝えておけば良かった。そしたらきっと俺は誕生日の一日が好きになれたから。思っていた以上に誰かに祝われるというのは嬉しい。

 久しく味わうことがなかった心の奥からどきどきとする高揚感に包まれながら、ゆっくりと紙袋の中に入っているものを取り出す。

 

 「これって…」

 

 「手帳だよ。昨日別れた後に探したんだー。八幡のトランペットがたっくさんあって可愛いでしょ?」

 

 「…うん。俺が使うにはちょっと可愛すぎないかなってくらい」

 

 「そんなことないよ。お姉ちゃんの目を信じなさい?」

 

 ふふんと胸を張っている陽乃ちゃんに素直に信じてありがとうと伝えると、陽乃ちゃんはまたにっこりと笑った。たまに見せる作ったような表情ではないその笑顔に、なぜだか心臓がキュッとなるような錯覚を覚えて、俺は慌てて話を続ける。

 

 「どうして手帳をくれたの?あ、違うよ。別に嫌とかじゃなくって」

 

 「分かってるよ。うーん、デザイン的にトランペットやってる八幡にはこれしかない!って思ったのもあるんだけどね。後は八幡がもう何ヶ月もちゃんと練習してるから、その時に気になったこととか簡単に書いておけるものがあっても良いかもなーって思ったから」

 

 「じゃあちゃんと使わないとだ」

 

 「そうだぞ。もう一回教えたことは教えてあげないんだからね?」

 

 「えー。意地悪だなー」

 

 「本当は八幡、私よりも早く来てここで座って待ってるときによく本読んでるから、ブッグカバーも悪くないかなって思ったんだけどね。でも一冊読んでまた付け替えてって繰り返すのは、八幡は面倒くさがりそうだなって」

 

 流石、よく分かっていらっしゃる。

 こう見えても本が読むのが好きで意外と大事に取っておきたい俺は、じめじめとした日にページをめくると皺になるのを気にしちゃっているくらいである。帰宅してその皺をなくそうと重石を乗せていたところをお母さんに見られたときは、小学生とは思えないとなぜかしみじみと言われた。

 だから鞄とかに入れても汚れないようにブッグカバーはあってもいいとは思うけど、陽乃ちゃんの言う通り面倒だ。綺麗さを取るか、面倒を取るか。面倒を取ってしまう。

 

 「ブッグカバーの方が良かったかな?」

 

 「ううん。そんなことない。あの…ありがとう。本当に嬉しい」

 

 「…ふふ。どういたしまして。お返しも楽しみにしてるね?」

 

 昨日聞いたばかりの陽乃ちゃんの誕生日。あ、そうだ。

 鞄の中から鉛筆を出して、早速手帳の最初のページを開く。

 

 「これ…」

 

 「うん。書いといた。今日のこと忘れないように」

 

 「俺も絶対に忘れないようにちゃんと書いとかなくちゃ」

 

 お誕生日おめでとう、八幡。

 俺なんかよりもずっと見やすくて、習っているかのように綺麗な字で書かれている文字。その下に七月七日と文字を書き連ねた。

 顔を見合わせて笑い合う。この手帳よりも、もっと良いものを陽乃ちゃんにあげたい。何が欲しいんだろう。陽乃ちゃんはお金持ちみたいだし、俺なんかがあげられるもので嬉しいものなんてあるんだろうか。

 ただ、目の前で微笑む少女をもっと喜ばせて上げたい。素直にそう思えて、俺は来年の陽乃ちゃんの誕生日に胸を膨らませた。



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12

 「はぁ。どうせ一緒に帰るなら校門で待ってないで、パートの教室から二人で出てくれば良かったのに。もう友恵にバレちゃったんでしょ?あと夏紀にも」

 

 優子先輩が校門から出てきて、俺は寄りかかっていた背中を離した。

 そうは言うものの、こうして優子先輩が微笑むのを見ると、待つのが嫌いでも好きでもないはずの俺も待つのが好きになっちゃいそう。だからこうしてここで待っているのはあながち嫌いでもない。

 

 「逆に言えばまだ二人にしかバレてないじゃないですか」

 

 「昨日、自分で電話しながら話してたじゃん?時間の問題なのかもしれませんねって」

 

 「だからって自分からバレに行くような真似はすることないでしょ?しかも人は自分で答えを見つけ出すのが好きなもんですからね。俺たちが二人で毎日、音楽室から帰るところを目撃されて、噂が広まってバレるみたいなのは避けたいです」

 

 「でもさ、こうやってここで待ち合わせて帰るのだって、私たちと同じ方面の部員だっているんだからさー」

 

 まあいいんだけどね、と優子先輩は少しだけ恨めし気な目線を寄越してから歩き出した。スクールバッグを肩にかけ直して、優子先輩の隣に並んで歩く。

 いつもなら引いて帰る自転車はない。最近はもう、自転車で通学するのをやめようかと思っている。

 登下校を基本的に優子先輩と一緒にしていると、自転車は邪魔なのだ。それでも優子先輩と帰らない日もあるわけで、そんな時にいち早く帰宅するためにと言うのと、中学の時から通学で使っている愛車を少し手放すのが寂しい気持ちで学校に持っていってはいても、ほとんどの日にはただの荷物置きみたいな扱いになっている。

 

 「駅ビルコンサートまであと少しですね」

 

 「うん」

 

 「今日滝先生が練習で、小笠原先輩のソロがあるって言ってたじゃないですか。どうなるんですかね?」

 

 「何それ?どういうこと?」

 

 「バリサクってどうも、トランペットとかアルトサックスほどソロに向かないイメージがあるんですよね。俺が通ってた中学でもバリサクやってたやつは、重いしでかいのに地味だし、リードの値段が高いって文句ばっか言ってました」

 

 「そんなことないわよ。派手ではないけど、伴奏も主旋律もできる楽器で演奏を豊かにする楽器よ。でも、確かにバリサクは、アルトサックスほどは目立たない楽器だけど。駅ビルで私たちが吹く『宝島』のソロも本当はアルトサックスだしね」

 

 「知らなかったです」

 

 「実は私もこないだ調べて知ったんだけど」

 

 「あ、そうだ。さっき滝野先輩に聞いたんですけど、写真係は駅ビルの当日も皆の写真撮って回らなくちゃいけないみたいで忙しいらしいっすよ。来年から学校のホームページでも吹部をピックアップしてくれるみたいですけど、アップするための写真が必要だから撮る写真や構図も指示されてるんですって」

 

 「へえ」

 

 「カメラも良いやつを学校から借りてるけど、そのせいで普通に写真撮るのが下手だと松本先生に怒られるからって気合い入れてやらなくちゃいけなくて大変だって話してました」

 

 「写真係に限ったことじゃないでしょ?合宿係も去年と比べて、時間分けとか綿密だったりやること多すぎて大変そうだったし」

 

 「俺は来年、絶対に賞状係希望するって決めてます」

 

 「賞状係とか、来年なくなると思う。今年も係決めの時は楽だからって人気あったけど、そんなに仕事ないから他の係に変わるんじゃない?それに男子はどうせ楽器運搬よ」

 

 「来年なんか、忙しそうに聞こえるけど楽な係が誕生しないかなー。楽器運搬指示とか超楽そう。というか楽」

 

 「うーん。雑務とか?」

 

 「雑務って不思議で、字面は仕事なさそうで甘美なのに、実際は雑用がひたすら回ってくる一番大変な仕事じゃありません?やったことないですけど」

 

 「私だってやったことないから知らないわよ」

 

 今日は中々会話が広がらない。

 そもそも、いつもなら基本的に話し始めたり話題を振って広げるのは優子先輩なのに、練習しているときからどこか上の空だった。俺から話し掛けても心ここにあらずと言った感じで、俺としては振る話が悪かったのかと心中穏やかではない。

 一体何に引っかかっているのだろう。今日の優子先輩を順に振り返っていく。

 朝は普通だった。次に会ったのは放課後だけれど、練習が始まるまでも全然普通だったともうんだよな。加部先輩といつも通り話してたし。

 もうダメ。わからんもんはわからん。何も原因を探ること、聞き出すことだけが解決の糸口ではない。世の大人達が上司に何故怒られてるのか分からない時どうするか。

 低姿勢、敬意を持っているフリ、ご機嫌取り。これぞ、社会人のTKG!ちなみにTKGにはバター。異論は認めん。

 

 「はい」

 

 優子先輩に手を差し出す。今日は自転車がないから、いつもは当たり前のように俺の自転車の籠に入れている鞄を自分で持っている。だからその鞄を持たせて頂くことでご機嫌を取りたいで候。

 侮るなかれ。俺はそこんじょそこらの一般ピーポーじゃないぜ。出来るお兄ちゃんだ。

小町と二人で夕飯の買い物に行ったときに、『女の子が荷物を持っていたら、どんなに軽い荷物でも持ってあげなくちゃダメだよ』と、容赦なくディナーの食材に加えて、1.5リットルの飲み物が数本入った買い物袋を持たされても文句は言わないくらいには鍛え上げられている。

 

 「ほら」

 

 「え、えええぇぇぇ!?は、早くない!?私たち、付き合ってまだ二週間経ってない位なのに…」

 

 「え?」

 

 どういうこと?荷物持つのに、付き合った日数とか関係なくね?いつもしてることを、俺の自転車の籠に入れるか、俺が持つかだけの差でしょ?

 脳内キャパシティーを疑問符が占拠しているお陰で、固まって動けない俺とは対照的だに、優子先輩はほんの数秒前の雰囲気とは打って変わって、顔を真っ赤にしながら自分の手と俺の手を交互に見てはあわあわと慌てていた。

 

 「え、えっと、はい!」

 

 「……お手?」

 

 「わんっ!……じゃないわよ、ばかっ!」

 

 おぉ。キレッキレのノリツッコミ。ころころと変わる表情に、にやけそうになるが我慢する。……我慢できてる?

 

 「何やってるんですか?鞄ですよ」

 

 「あ、ああ。手を出したのってそういうことだったの。ちゃんと言ってよ」

 

 「いつも俺の自転車の籠に入れてるから持った方が良いかなって」

 

 「そんなの気にしなくていいから」

 

 「そっすか。分かりました」

 

 「うん」

 

 ……会話終了。だが、おかしい。

 

 「あの、優子先輩?」

 

 「な、なあに?」

 

 「手…」

 

 「……」

 

 「…離さないのかよ……」

 

 何なんだこいつら。部活が終わった後に男女で帰るだけに飽き足らず、初々しく手を繋いでやがって。これだからリア充は……爆発しろっ!……って俺なの!?

 こんな時だからなのか、男の俺とは違う優子先輩の真っ白い掌の柔らかさと温かさがまるで他人事の様に感じる。繋がった手だけでなく、上目使いでちらちらと俺を見る視線もたまに交差するのも同じように。ただ、身体の中が痒くなるような感覚と、どうすることもできずにベタベタと張り付くような手汗でこれが自分の事じゃないと認識した。

 まさか俺にこんな日が来るなんて。こういうことしてる奴らに恨みを向けてばかりいたが、いざそれを自分がしていると思うと…、過去の自分が見たら『爆ぜろリアル!』と叫びながら殺しに来るんじゃないか。

 茹で蛸のように、とは頬に赤みが差すことを例える際にしばしば使われるが、今の優子先輩はまさにその言葉がピッタリだった。明らかに照れていて、そこにはもうついさっきまでの茫然とした様子はない。手汗をかいていることなんて気にせずに、俺の手を優しく、けれど離すまいと絡めた指を引いて歩き出した。



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13

 「……」

 

 「……」

 

 「……恥ずかしいね?」

 

 「……じゃあ離します?」

 

 「……ううん。離さない」

 

 ほっそりとした手を重ねたまま、会話らしい会話もないままいつもよりゆっくりと歩いている。優子先輩の綺麗に短く切りそろえられている爪が、太陽を反射して輝いていた。

 手を繋ぐという行為に慣れるまで、どの位の時間が掛かるのだろう。緊張で手汗をかいているのが恥ずかしいけれど、不思議な幸福感には慣れたくない。いつまでも浸れるものなら浸っていたいものだ。

 

 「そう言えば、昨日夏紀と何話してたの?」

 

 「田中先輩の事で色々。復帰が難しいかもって」

 

 「やっぱりね。滝先生はああ言ってたけど、本当は戻ってこないんでしょ?」

 

 「…まだ退部が決まった訳ではないですけどね」

 

 「別に滝先生が言ったことを信用してない訳じゃなかったし、部長がいつでもあすか先輩が戻って来れるように頑張ろうって言ったときも、しっかり切り替えて頑張らないとって思ったの。でも最近、夏紀が希美とコソコソ練習しているみたいだったから」

 

 「中川先輩のこと、よく見てるんですね?」

 

 「違うし。別に探してたとかじゃなくて、たまたま見ちゃっただけ!」

 

 少しだけからかいを込めた言葉に、優子先輩が頬を膨らませた。けれどすぐに視線を落として、憂い顔に変わる。

 

 「だって低音パートを纏めてたあすか先輩がいなくなったのに、そこで夏紀までパート練習から抜けてたら後輩達が不安じゃない?元から七人で人数が多いパートでもないんだし」

 

 「ユーフォ、黄前一人になりますしね。でも低音パートはうちと同じで、パート練で使ってる教室じゃない場所で練習してることも多いって加藤と川島が言ってましたよ。加藤も椅子を廊下に出して練習してることあるし、黄前もたまに外で見るし」

 

 逆にホルンパートや塚本のいるトロンボーンは基本的にパートメンバーは割り振られた教室で一緒に練習しているらしい。トランペットパートは去年はどうだったのかわからないが、今年は北宇治最強の遊撃手で名の知れた高坂がいる。高坂が入部当初から一人で外に吹きに行くのを誰も止めなかったのもあって、パートで合わせて吹く時以外は個人で場所を変えて練習するのが認められている。

 

 「そうなんだけど…。低音の二年は夏紀と後藤と梨子の三人。後藤は静かで仕事人って感じだけど纏めるって柄じゃないし、梨子も良妻って感じで支えるって同じ。だから夏紀があすか先輩の代わりに調整するのかなって思ってたんだよね」

 

 「ま、そこら辺は中川先輩もわかってちゃんとやってるんじゃないですか?それに低音は今年初めの全体的にサボり気味だった頃から真面目に練習してたらしいですから、ただ練習をするだけなら、敢えて纏めるリーダーがいなくても皆でやりそうだし」

 

 「どうなんだろう。香織先輩から聞いたんだけど、ここ最近のパトリ会議にはあすか先輩の代わりに夏紀が行ってるみたい。それであんたは夏紀に協力してあげるの?」

 

 「もしかして昨日覗いてました?」

 

 「わざわざ余所のパートの後輩を呼び出して、そんな事情だけ話す訳ないもん。あすか先輩が部活に戻るために協力してくれー、みたいな?」

 

 「まあそうですね。ただ具体的にどうするかってところもわかっていなくて、何か出来ることがあればなんて都合の良い返事しましたけどね」

 

 「そうなんだ」

 

 気恥ずかしさもあったが、話し始めれば意外とスルスルと会話は続いた。自分自身、悩んでいた事だったと言うのもあるのかもしれない。未だ一つに重なったままの影を踏むように歩きながら、言葉を並べていく。

 

 「協力とかしない方が良かったですか?」

 

 「なんでよ?私だってあすか先輩に帰ってきて欲しい」

 

 「優子先輩もやっぱそうなんですね」

 

 「そりゃ後輩としてお世話になったし、何より香織先輩がね」

 

 さいで。この人はそりゃそうよなぁー。

 香織先輩に最も良い形で演奏をしてもらいたい。それを考えて、いつも行動を起こし続けていた人だ。落ち込んでいる香織先輩を放っておけるはずがない。

 

 「あんたがこうやって考えて行動するの見てきたし、今回の件でも助けてあげられるんじゃない?」

 

 「でも、俺、本当にどうすればいいのかわからないんです。いなくなってしまう人に何をすれば……」

 

 「……それは前に陽乃ちゃんって子のときに止める事ができなかったから?」

 

 「……俺の過去見てきたの?禁則事項ですなの?女の子怖い…」

 

 「禁則事項ですって何?分かるよ。さっき音楽室で手帳の話をしてるときもそうだったけど、ムカつく顔してるから」

 

 「いやいや昔の話してたときだって、俺いつも通りにしてたつもりなんですけど。通常運転で苛つかせるとか、俺の顔やばすぎひん?」

 

 「話し方おかしくなってるし。文化祭の日の夜に、比企谷家出た後に話してたときだってそうだったよ。いっつも陽乃ちゃんの話をするときは寂しそうにしてる。楽しい思い出話であってもね」

 

 「そうなんですかね?」

 

 「うん。私、あの顔すっごい嫌」

 

 嫌だと、ど真ん中直球ストレートで伝えてきて、俺の心が折れかかる。なんでばっちりキャッチャーミットにストライクなはずなのに、デッドボールをくらった気分になるのだろう。

 

 「じゃあ昔の事なんて聞かないで下さいよ。今日のことはまあパートの皆に囲まれたから仕方ないとしたって、少なくとも文化祭の日は優子先輩から聞いたんですよ?」

 

 「それも嫌」

 

 「我儘!」

 

 「だって私、あんたのこと、もっとちゃんと知りたいもん」

 

 「……照れてる…」

 

 「うっさいなぁ!でも大事なことでしょ?

 何が好きで何が嫌いで、何をするのが苦手で何をしてあげたら喜んでくれて、昔どうやって過ごして、これからどうしたくて。勿論、同じくらい私のことも知って欲しい」

 

 「……言葉にしたって伝わらないことばかりでしょう。話さなくてもわかるなんてものはもはや幻想で、話せばわかるなんてのも傲慢だ。だから相手を理解することなんてどうしたってできないと思います」

 

 俺の言葉を聞いて、優子先輩は目を丸くした。もしかしたら冷たく当たってしまったかもしれない。

 だがしばらくして、優子先輩はくすくすと笑い出した。

 

 「何で笑ってるんですか?結構本気で言ってるんですけど?」

 

 「ああ、ごめんごめん。つくづく人付き合いが苦手なんだなぁって」

 

 「何を今更」

 

 「言葉にしたって伝わらないことが多いのなんて当たり前じゃん。絶対にどんなに長く一緒にいたって、お互いのことが何もかも理解できるなんてことある訳ない。でも、それを少しでもなくす為に言葉や時間を重ねてくんだよ?

 だから今だって、ほら。ちゃんと教えて。どうしてそんなに、あすか先輩の件はダメだって思うの?」

 

 「……」

 

 ちょっとだけなぜか寂しそうな目元とか、けれど穏やかに微笑んでいる優し気な表情とか。だけど一番の理由はきっと、繋がれた手を今一度握りなおすと同じようにぎゅっと返ってきたこと。

 本当は話したくなかった、繰り返すうちにもう忘れようと決めた後悔や、子どもだったが故に気が付けずに後になって何度も懺悔した改悛。凍っているはずのそれは、目に見えやしない温もりで少しずつ言葉になって零れ出る。

 

 「…最初の頃からずっと、端緒はあったんです。だけど、それが目に見えるような形で現れだしたのは一月も終わる頃だったと思います」

 



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14

 震えるような寒さに包まれた公園は、雪が降ったわけではなくてもどこか白んで見えた。一面白銀の世界ではないが、座りながら見えるだけの世界は疲れているように寂静。それでも草木は雨にも負けず、風にも負けず、夏にも、そして冬の寒さにも負けずに今はただ、静かに春を待つ。

 最近は決まって俺が先にいつもの場所で待っている。陽乃ちゃんに教えて貰った、やり慣れたチューニングを終わらせた頃、視界の端にふわふわとした高価そうなコートに包まれた陽乃ちゃんが走って来た。

 

 「ごめんね、八幡。昨日も急に来れなくなっちゃって。昨日も寒かったでしょ?」

 

 「ううん。別に良いんだけど」

 

 「良くない!ちゃんと温かい格好してここにいたんでしょうねえ?風邪引いたら、お姉ちゃん怒るよ?」

 

 「してたしてた!お母さんに言われたもん。遊び行くならいっぱい服着て行きなさいって」

 

 それに一人でここにいるのを見かねたのか、昨日はたまに話しかけてくるおばあちゃんがカイロをくれた。しかも貼るタイプの。

 うちにはなぜか持つタイプのカイロしかないけど、絶対貼るタイプの方が良いと思う。持ってるの面倒だもん。

 

 「それなら……良くはないか。あの、本当にごめんなさい」

 

 「謝らなくていいって。最近忙しいから、急に来れなくなっちゃうことあるかもって言ってたし」

 

 年も明けて冬休みは終わったが、陽乃ちゃんが来れなくなる日は年を越す前よりも増えていた。

 そんな時は一人でこのベンチで練習をすることになる。寒くないかと言われれば勿論寒いし、寂しいかと言われれば寂しい。こうして思うと、なんだか俺、捨て犬のようではないか。飼い主が来なければしょぼんと座りながら大人しく練習していて、飼い主がやってくれば尻尾を振って足下へ。

やだ。我ながら、それってどうなの。

 陽乃ちゃんは重たそうに持っていたユーフォニアムを置いて、隣に腰掛けた。走って来たせいで、まだ呼吸が落ち着いていない。陽乃ちゃんがふぅーと息を吐けば、白い空気がまるで魔法のように大気をぽわぽわと曇り空へと上がっていく。

 

 「こないだ教えて貰った曲、吹けるようになったよ」

 

 「いいねー。今回渡した譜面は簡単過ぎちゃった?最近は簡単な曲だと特に教えることもなく、すぐ出来るようになっちゃうね」

 

 「でも簡単な曲でも、一音一音の出し方が大切なんでしょ?」

 

 「そうだよ。綺麗な演奏をするためには、まず一つ一つの音を丁寧に吹くことから。それじゃ、後で一緒に吹いてみよっか。でもちょっと休憩させて」

 

 「うん」

 

 「帰りに次の課題曲も渡すから、忘れてたら教えてね」

 

 陽乃ちゃんは話しながら、首に巻かれた赤色のマフラーを外して鞄にしまう。このマフラーはこないだ一度だけ俺が借りたものだ。

 雪が積もっていたから、寒くて手が悴むし今日は練習をしないで遊ぼうと言って、二人で雪だるまやかまくらを作った日。突然木の上から降ってきた雪の塊が俺に直撃したとき、陽乃ちゃんは爆笑していたものの、何だかんだと心配はしてくれて風邪引かないようにと貸してくれたのだ。

 もう、この公園で作った雪だるまもかまくらも溶けてなくなってしまった。折角作った努力の塊が、じりじりとなくなってしまうこの季節が嫌いだ。

 早く春になればいいな。

 

 「はい」

 

 「何、これ?」

 

 「今日小学校の授業で白玉作ったんだ。それに砂糖混ぜたきな粉付けて持ってきたの」

 

 「……何か変なもの入れてないよね?」

 

 「あのねえ……。私のこと何だと思ってるの?」

 

 「陽乃ちゃん、すぐ悪戯するからさ」

 

 「それは八幡が可愛いし、面白いから仕方ないの。最近さー、家でも大好きな妹に避けられるんだよねー」

 

 「そうなの?」

 

 「うん。逃げようとするからぎゅーってして捕まえると、『姉さん、暑いし邪魔だから放してくれないかしら』って」

 

 「それをしてるからじゃないかな」

 

 「とにかくほら。はい、あーん」

 

 ……うん。

 

 「どう?美味しいでしょ?」

 

 「美味しい」

 

 「なんか餌付けをしてる気分。この団子を食べたから、八幡は私の子分ね」

 

 「桃太郎?」

 

 「そそ。うーん、どんなお願いを聞いて貰おうかなー。もう一個ね。あーん」

 

 「ん…」

 

 やっぱりこの人が作るものは完成度が高い。普通に美味いもん。前にもらった、家で作ったクッキーやパンも美味しかった。

 だから、何を命令されるのかちょっとだけ怖くはあるも、口に運ばれていくきな粉が付いた団子を断ることは出来ない。

 

 「俺も授業で美味しいもの作りたいな」

 

 「そっか。まだないんだもんね。班の皆で作るんだよ。火の担当とか、団子を捏ねたりの担当とかに別れてさ」

 

 「……」

 

 「そんな絶望した顔しないの」

 

 「だって…。どうせまた、比企谷菌とか、あいつが食べ物触ったら腐るとか言われたりするんだもん。一人で作りたいよ」

 

 「それはひどいな…。まあ私も一人で作りたいんだけどね」

 

 「どうして?楽しくないの?」

 

 「楽しいかと言われれば、面倒を見てるって感じの方が強いかな。要領も悪いし。後、これどうするのとか聞かれると、こんな簡単なことも分からないのって思う。八幡はこれまでも人と一緒に何かすることが少なかったらしいから、大体のことは見たら出来るんじゃない?それが出来ない子達ばっかだから」

 

 おー。出てくる出てくる。見下した顔してんもん。

 ただここではこう言いつつも、学校ではきっと笑顔を崩すことなく、うまくやっているのは間違いない。楽器の練習も良いけど、世渡りの仕方も教えて欲しい。

 

 「だから陽乃ちゃんは、学校帰りにクラスの友達と遊ばないの?」

 

 「ん?まあ、そうだね。特別、遊びたいとは思わないかな」

 

 「ふーん」

 

 「……でもね、遊べないっていうのもあるよ」

 

 「…え?」

 

 「…私の家は……」

 

 続く言葉はなかった。けれど、何となく想像が出来る。

 

 「それなら……」

 

 それなら、ここにいる時間はどうしているの?もしかしたら、かなり無理をしているんじゃ。

 陽乃ちゃんと同じように、俺の言葉は最後まで続かなかったけれど、陽乃ちゃんはにこりと笑った。



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15

 数日後、陽乃ちゃんのきびだんごを貰った犬は、お供としての役割を全うすることになった。

 

 「うわー!すごかった!」

 

 「ありがとうございます。雪ノ下さんのご息女に褒めて頂いて嬉しいです」

 

 「……」

 

 「かっこいいですね!どのくらい練習したんですか?」

 

 「平日も週二日は夜から練習して、日曜日は朝から日が暮れるまで。私も仕事を終えてから子ども達に指導をしなくてはいけないので。それはもう大変でした」

 

 「……」

 

 「感動しました。闇雲に練習するだけではここまで上手な演奏できませんよ。これも先生のご指導がお上手だからですよ!」

 

 「はは。光栄です」

 

 「……」

 

 地域で行われている和太鼓の教室。その発表会に、俺と陽乃ちゃんは二人でいた。

……いや。本当、なんで俺ここにいるの?一番前の席に座る俺が振り返れば、観客席にいるのはちょうど今演奏を終えた子ども達の親ばかりだ。俺と同じくらいの子ども達が演奏した感想を楽しそうに、カメラを片手に持っているお母さん達と話している中で、俺と言ったら陽乃ちゃんが知らないおじさんと話しているのを黙って聞いているだけなんだけど。このー、ただここにいるだけの感じ、妙に身に覚えがあるな……。……あ、わかった。いつもの学校にいるときの俺だ。

 公園で練習をしていたら急に、行かなくちゃいけないところがあるから付き合ってと言われたときは何かと思ったけど、こんな惨めな思いをさせるなんて。恨みを込めて濁りきった瞳で陽乃ちゃんを睨んでみても、陽乃ちゃんは顔つきこそ幼くも子どもらしくない、作り込まれた笑顔をお父さんよりも年上のおじさんに向けていた。

 そのメイドイン陽乃スマイルから次々と繰り出される賛辞に、ずっと年上の大人は気をよくしている。少しだけ魔法のようだとさえ思えた。そう言えばいつか、この魔法のことを公園で話した陽乃ちゃんが掌の上で転がすのだと言っていた。こえぇなあ。

 

 「雪ノ下さんもどうですか?」

 

 「私もやってみたいのは山々なのですが、他の習い事もありますし」

 

 「一つの何かを極めるのも良いことですが、色々なことに触れてみた方が将来のためになりますよ。特に音楽であれば尚更です。太鼓ほどリズム、音感を養える楽器はありません」

 

 「そうなんですか。分かりました、両親に話してみます」

 

 「ええ。是非、お父様とお母様に!」

 

 陽乃ちゃんの両親というワードに力強く頷いて、どことなく満足げな様子。陽乃ちゃんはぴくりとも眉を動かさない。

 

 「ところで失礼。先ほどから気になっていたのですが、彼は?陽乃さんよりも幼く見えますが」

 

 「彼は私の友人です」

 

 「ほほう。陽乃さんのご友人でしたか。雪ノ下家と何か関わりのある会社のご子息なのですか?」

 

 「いいえ。私だって、いつも雪ノ下の家と付き合いのある方と一緒にいる訳ではありません。音楽に興味がある、学校の友人の一人です」

 

 「ほう。なるほどなるほど」

 

 さっきから妙に陽乃ちゃんにへりくだっている筋肉質で大きな巨漢に一瞥される。陽乃ちゃんに向けていた三日月の形に作られていた目元とは打って変わり、まるで見定めるかのように鋭い。自分よりも何倍も大きな体躯に加えて、睨み付けるように見つめられてさっと目を逸らした。

 すごく、居心地が悪い。

 

 「……君、歳はいくつなんだい?」

 

 「は、八歳です」

 

 「ふむ。ということは小学……」

 

 「二年です」

 

 「そうか。では葉山さんの息子さんと同じ学年だね」

 

 葉山?誰だろう、そいつは。

 だが、その名前を聞いた瞬間に陽乃ちゃんの視線はすっと冷たくなった気がする。普段ならおくびにも出さない陽乃ちゃんにしては珍しい。

 おじさんは興味もなさそうに俺から目を逸らすと、また陽乃ちゃんに視線を戻した。

 

 「確か、彼の名前は隼人君だったかな?」

 

 「はい。そうです。彼も誘ってみたのですが、今日どうしても都合が合わず来れなくて。音楽にも多少の嗜みがあって、興味もあるみたいなので行けなくて残念だと言っておりました」

 

 「ご友人を呼んでくるのであれば、葉山さんの息子さんとご一緒に来て頂きたかったですね。彼は小学校低学年とは思えない程しっかりしていて、頭の良い子だ。小学生ながら、きっと葉山家の将来は安泰だと思わせる。私ももっと関係を深めていきたいのでね。

今度是非、どうだろう?私の家と、雪ノ下さんと葉山さんのお父様方と会食の場でも用意させていただきたい。お父様に伝えておいてくれるかな?」

 

 その言い方だと、まるで俺はしっかりしていないように聞こえるんだが。心の中でだけむっと顔をしかめる。

 まあ、あながち間違ってはいない。いつも公園に来るときも素人目に見ても高価で、清楚な格好をしていることが多いが、今日は尚のこと余所行きなのがわかる白のロングワンピースを身に纏い、その上に主張しすぎないながらも小洒落たジャケットを羽織っている陽乃ちゃん。その隣に並ぶ俺は適当に親が見繕ったジーパンにシャツといった格好。とてもじゃないがしっかりしているように見えるはずがない。

 

 「勿論です。楽しみにしていますね!」

 

 陽乃ちゃんの言葉にまた満足げに頷いた男は、手を叩いて発表を終えた生徒達を集めた。この後もまだ発表が続くのだろうか。さっき陽乃ちゃんは、俺を音楽に興味のある学校の友人だと言っていたが、俺は音楽に興味があるというよりただトランペットが好きで強いて言うなら金管楽器に興味がある程度であるし、陽乃ちゃんとは学校だって違う。

 

 「はぁ……」

 

 「そんな溜め息吐かないで。こういう所では楽しそうに笑顔でいるだけでいいんだから」

 

 「それが俺にはしんどいよ……」

 

 「もう。そんなんじゃずーっと私と一緒にいられないよ?」

 

 「いつからずっと一緒にいることになったの?」

 

 「昨日。私が作ったお団子食べたじゃん。そのあと毎日作って欲しいって言ってたじゃん」

 

 「違う。また食べたいとは言ったけど、毎日作ってとは言ってない」

 

 味噌汁感覚で手作りのお団子が並ぶ家庭って、和菓子屋さんでもないのに。

 

 「とにかく、無理してでもつまんなそうにしないで笑ってて。もうしばらくしたら帰れるから」

 

 「なんで陽乃ちゃん、俺のこと連れてきたの?」

 

 「うん?一人でこんなところに来てご機嫌取りもつまらないし。それに最近八幡と練習出来ないことも多かったから、一緒にいたかったの」

 

 ぐっ。本気なのかは分からないけど、普通に可愛いし嬉しい。

 照れているのが分かっているのだろう、陽乃ちゃんはニヤニヤと笑っていた。せめて話を逸らそうと、何か話題を探してみる。

 

 「ねえ、葉山って誰なの?」

 

 「八幡は知らなくていい人」

 

 「何それ?内緒なの?」

 

 「別に内緒って訳じゃないけど……別にどうでもいいんだよね。隼人は」

 

 「陽乃ちゃん、その人のこと嫌いなの?」

 

 「好きか嫌いかで言えば、どちらでもないよ。ただ隼人はつまんないなーって」

 

 「そ、そこまで言うんだ」

 

 「幼馴染で親同士も付き合いがあるから、よく遊んでただけよ。それに妹の雪乃ちゃんとも同い年だから、面倒を見るって意味でも。だから隼人のことは色々見てきたし知ってるの。色々ね」

 

 色々。そこを強調することに深い意味があるのは間違いないのだろう。ただ、俺はあえてこれ以上に追求することはしない。この人の機嫌を悪くすれば、後で散々に弄り倒されることはまだ一年足らずの付き合いだが重々身に染みている。

 黙って椅子に座った俺を見て、陽乃ちゃんも腰を降ろした。太鼓のバチを手にした生徒達がパラパラと壇上に集まって、ステージに上がって隣に並ぶ生徒同士で笑い合ったり、ふざけ合ったりしている。

楽しそうだ。ステージを見上げる俺は素直にそう思う。俺もこうやって和気藹々とやってみたい……とは思えないけれど、羨ましいという気持ちをただ否定することは出来なかった。

俺も陽乃ちゃんも黙ったまま、ステージを見上げている。数歩先のその明るいステージをなぜか遠く思えた。

 

 「……」

 

 「……」

 

 「……ねえ、八幡。これ終わったら、いつもの公園で練習しようか」

 

 しばらく無言の時間が続いていたが、ふと陽乃ちゃんが呟いた。その声音が優しくて、なぜか俺はどこかむず痒い。

 

 「でも、今日はこの発表会が終わった後は家の用事があるから帰らないとって言ってたじゃん」

 

 「……そう、だったね。あはは」

 

 陽乃ちゃんがぺろっと舌を出して笑った。しかし、何か面白いことがあったのだろうか。ステージの上の生徒達がどっと笑ったその声で、陽乃ちゃんの乾いた笑い声はもう聞こえなくなる。

 

 「あーあ。どうして私の居場所はあそこじゃないんだろう……」

 

 俺にその答えはわからない。

 視線をステージに戻した陽乃ちゃんがそっと呟いた言葉も、誰かの笑い声にかき消されてしまったことにして、俺はそれを聞いていないふりをした。




皆さん、お久しぶりです。作者のてにもつです。

最近は本当に仕事も忙しく、そんな中で空いた時間はペルソナ5Rに全て注ぎ込んでいたのですが、その甲斐あってゲームの方は無事トロコンまで終えました。そうしてさて、続きを書こうかとハーメルンにログインをしてみれば、たくさんの応援コメントを頂いていてすごく嬉しかった反面、謎に感想欄が運営対処(言い方合っているんですかね?笑)みたいなので溢れていて、何があったんだと正直驚きが優った次第です笑

書き始めて早々、シリアスな場面からのスタートで、なんでここで止めていたんだという感じですね。とは言え、この作品は読んで下さって感想を下さる方や評価して下さっている方が信じられないくらいたくさんいるので本当に中途半端で終わらせるつもりはないです。弱気なことを言うのは程々に頑張って続きを書いていこうと思います。長く待たせて勝手だとは存じますが、引き続き応援の程よろしくお願い致します。感想や評価、お気に入り、メッセージ、何でもお待ちしております!

さて、近況報告はここまでにして、今回は今後の更新についてと、兼ねてよりやったらどうかと言われていたツイッターを開設したご報告をさせて頂きます。
そもそもツイッターをこれまでやらなかったのは更新を定期的にしているのに、呟くことって何かあるだろうかと思っていたからなのですが、これからの更新についてはプライベートとの兼ね合いもあって、以前よりものんびりとやっていくことになると思います。
そこで更新については不定期になることを見越してツイッターを使います。ハーメルンでも活動報告なるものがあるそうですが、如何せん使ったことがなくていまいちよく分からないし、ツイッターの方が僕の作品を追ってくださっている方には情報が伝わりやすいかなと思ったからです。
ツイッターの方はわかりやすく作者名と同じ、『てにもつ』という名前でやっています。アイコンまで見れば絶対すぐ分かると思うのでよろしくお願い致します。

それでは!


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16

 少し風が冷たくて、けれど優子先輩と繋がっている手だけが温かい。

 俺のつまらない昔話を優子先輩は時々相槌を打ちながら聞いてくれていた。すっかり暗い夜道に歩くスピードは次第に遅くなっていく。帰るのが遅くなって、お母さんが心配しないかと言えば、ふるふると首を振って頭のリボンが揺れた。

 優子先輩の家庭は割と放任主義であるという。そう言えば、つい先日も鎧塚先輩達と放課後は宿題を一緒にやったと話していたし。

 

 「八幡、振り回されてばっかじゃん」

 

 「我儘な人でしたからねー。はは」

 

 「なんでそんな爽やかに笑ったの?でも忙しいのに、八幡に演奏を教えに来てくれたり、妹さんもいるからか面倒見が良くて優しい人って感じ。なんかザお姉さんって感じかな」

 

 うーん。どうだろう。妙に子どもらしい一面があったし、逆に怖すぎる一面もあった。確かに優子先輩の言う通り面倒見が良いってのは事実だが、昔話を聞いてた限りでは妹には過保護なくらいだったし。

 ザお姉さんと言うには普通ではなさ過ぎる。

 

 「それで、それからどうなったの?」

 

 「どんどん一緒に吹ける日が少なくなっちゃいました。陽乃ちゃんが公園に来るのは一週間に一回くらい。それも時間的には長くはいられなくて、ユーフォも吹くことはありませんでした。当時も俺に陽乃ちゃんは言わなかったし、こうして振り返れば何となくそうだったのかなって推測でしかないですけど、きっと陽乃ちゃんが家の付き合いとしてあの発表会に俺を連れて行ったのは失策だったんだと思います。あの日からしばらくして、公園にも黒塗りの車が来て陽乃ちゃんを送り迎えがつくようになったから」

 

 「黒塗りの車で送迎って……。ベンツとか?すっごいなあ」

 

 「ほんとほんと。もしそんな家の子に生まれてきていたら、俺は本当に一生仕事しないでいられたんだろうなぁ」

 

 「それはどうかと思うけど、私も欲しい洋服とか鞄とか買えるのかなって思うと羨ましくなっちゃう」

 

 「でも陽乃ちゃんはそれだけ凄い家の子どもで……家の名前に縛られて生きていた」

 

 俺たちがこうして羨ましいと話している、正に理想的な裕福で豊かな生活を送れているのは他でもない雪ノ下という家のお陰。それを賢い陽乃ちゃんは子どもながら理解していたはずだ。

 ただ、家にやりたいことを縛られていて、本当にやりたいことが出来ずにいたのだって間違いなく事実なのだ。

 トランペットを吹いていたのだって、親や指導してくれた先生に言われたからだと話していた。それを何でもなく、当然のように。本当に吹きたかったユーフォニアムは諦めていて、けれどだからこそ俺の前で初めてユーフォを吹いたときは心の底から嬉しかったのだろう。

 過去の記憶に意識を集中していると、ぼすんと背中を叩かれた。

 

 「ほら、また一人で抱え込んでる。話して」

 

 「……忘れられない日があって。三月になってしばらくしたその日も、陽乃ちゃんはユーフォは持って来れなくて公園のベンチに座ってただ話していたんですけれど、運転手が陽乃ちゃんを呼んだんです。その時に陽乃ちゃんがぼそっと『この時間がずっと続けば良かったのに』って」

 

 きっと、人間が魚たちと暮らす美しい海の底の幻の世界に憧れているように、人魚姫は二本の足を動かしながら誰かとゆっくりと話しながら歩く。そんな人間の世界に憧れる。なぜかふと、人魚姫の話を思い出したのは、陽乃ちゃんが紡ぐ言葉の一つ一つがあんまりにも寂しそうだったからだったのかもしれない。

 今でもあの時の言葉を言葉を一言一句思い出せる。

 

 『ここは和かだよね。よくお菓子くれるおじいちゃんとおばあちゃんは優しいし、八幡と話してるのも楽しいし』

 

 そうだろうか。何でもなさ過ぎるこの時間は陽乃ちゃんには似合わない。

 けれど、そんなことは諦めたように目を閉じた陽乃ちゃんを見て消散した。そこには、普段見せていた笑顔の仮面はなくて、ただただ涙を耐える様にぎゅっと瞼を閉じていたから。

 

 『だけど……私はその分きっと幸せなんだ。恵まれているんだ』

 

 そんな顔で恵まれているだなんて言われても説得力がない。あんまりにもいつもとは違う陽乃ちゃんの表情。

 何かを言わなくちゃ。俺にトランペットを教えてくれたこの人に。俺のたった一人の、友人と呼んでもいいようなそんな存在である彼女に。言わなくちゃ。

 

 

 

 『自分がやりたいようにやればいいんじゃない?』

 

 

 

 その言葉を告げたとき、子どもながらに後悔したことを良く覚えている。

 

 

 「それってなんだか……」

 

 「ええ。きっと、想像通りです。その日以降、陽乃ちゃんは俺が知る限り二度とその公園にやってくることはありませんでした」

 

 「……」

 

 「もしかしたら明日は、明日こそって。結局来なくて勝手に裏切られた気分になるのに、また勝手に期待して。こういう時、友達がいないといいもんで、誰かに都合を押しつけられたりすることもないから毎日公園で待っていられて。しかもトランペットの練習になるから一石二鳥。でも一年経っても陽乃ちゃんは来なかった。そこでやっと、もう来ないんだって諦めちゃいました」

 

 「一年間も一人で練習って。私じゃ絶対にできないよ」

 

 「そんなこともないと思いますよ?元々俺には陽乃ちゃんしか一緒にやる相手がいなかったんだから、その相手がいなくなったら一人でやるしかないでしょう?」

 

 「そうじゃない。寂しいじゃん?来るかも分からない相手を待って、期待して…」

 

 優子先輩がふっと俯いた。そんな顔をして欲しくはない。同情なんてされたくない。される筋合いだってない。

 

 「いや、違うんです。俺も悪かった」

 

 「え?何が」

 

 「俺ね、最後に陽乃ちゃんに言っちゃったんです。陽乃ちゃんがあんまりにも辛そうで寂しそうにしていたから、何か言わなくちゃって焦燥感に駆られて」

 

 「何て言ったの?」

 

 「自分がやりたいようにやれば良いんじゃないって」

 

 「ま、待って待って。それの何が悪いのよ?」

 

 「悪いですよ。あんまりにも無責任です。きっと、他のどの言葉よりも陽乃ちゃんにとっては酷な言葉だったと思います」

 

 俺なんかよりもずっと色んなものが見えていた。周囲からの期待や、雪ノ下という名家の宿命だって。子どもとしての在り方だって。そして、自分のやりたいことだって。

 

 『――うん。私もそうできたら良かったのになぁ』

 

 俺の言葉に、彼女は力なく笑った。

 俺は手を伸ばそうとする。待って欲しい。もし、この手で陽乃ちゃんの手を掴めたとしても、陽乃ちゃんを困らせるだけかもしれない。

 しかし、俺の手は宙を掴むだけだった。陽乃ちゃんがすっと立ち上がる。

 

 『八幡はさ、音楽続けてね?そうすればきっと会えるから』

 

 最後に振り返って『またね』と言うその表情は、もう見慣れた仮面だった。

 

 「やりたいことをやれば良いっていうのは、確かに本質的なことかもしれない。ですけど、どんなにそつなく何でもできる神様のような人間だって、当然ですが神様なんかじゃない。神様ではなくて人間であるならば、周りの何かに影響されたり純粋に才能が足りなかったり、出来ないことなんて幾らでもある。ましてや自分のやりたいことをどうしたって捨てなくてはいけないから捨てようとしている人間に、それを捨ててはいけないだなんて。覚悟を無に帰すようなその言葉は、あんまりにも酷としか言えないでしょう?」



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17

 「私は全然、その言葉が酷いだなんて思えないけど。自分のせいだって思いすぎなんじゃない?」

 

 「そんなことないですよ。俺だって他に掛ける言葉は見つからなかったし、もしあの時、別の言葉をかけていたら陽乃ちゃんとの関係が今とは変わっていた。そんな買い被りはしていません。でも、せめて陽乃ちゃんの手を掴むべきだった。それで……」

 

 ……話していて、整理してみれば俺の後悔は一つだけだ。

 陽乃ちゃんと過ごした時間は俺にとって大切な一年間だったけど、その時間はもし俺が陽乃ちゃんの手を掴んでいたとしても、あれ以上続けることができただなんて思えない。陽乃ちゃんですらどうすることもできないと諦めていた家庭の柵を、余所者で捻くれているだけの俺なんかの言葉一つでどうこうできるはずもないのだから。高校生になった今だって、あの時かけるべきだった言葉の答えはわからないし、何を言ったってゲームオーバーだとさえ思っている。きっと答えなんてそもそもないのだ。だから優子先輩が言うように、こうやって自分の陽乃ちゃんとの関係の幕切れを自分のせいにするのは間違っているのかもしれない。

 ただ、それでもあの時、小学生だった俺が陽乃ちゃんの手を掴もうとした理由は――。

 

 「……まあ陽乃ちゃんっていう子のことを、八幡がどう思っているのか少し分かった」

 

 「こんな話、小町にもしたことないですよ」

 

 「それ、本当?だったら嬉しいかも」

 

 白い歯を覗かせて微笑んだ優子先輩に、思わず目を奪われた。小町が知らない俺のことを知れたという事実に喜んでいるのに、少しだけ子どもっぽいなんて思ってしまう。

でもまあ、誰も知らないクラスメイトの秘密とか知ったら誰だって嬉しいものか。その秘密を黙っていても謎の背徳感で心が躍るものだし、誰かに言ったら言ったらで共通の話題を影で馬鹿に出来る。俺自身、中学の時は普段は人の通らない階段に腰掛けて昼食を取っていたら、妙にいきっているクラスメイトが電話で親をママと呼んでいるのを聞いたときは心の中で死ぬほど馬鹿にしてやったもんなあ。

 と、そんな冗談で誤魔化してないと、優子先輩がそんなことで喜んでくれていると言うことが妙に恥ずかしかった。こんな可愛くていい人が、本当に何で俺なんかとつつつつ付き合ってくれているのん?

 顔に出ているかはわからないが、少なくとも心の中で照れていると、優子先輩は何か決意した様子で言葉を続けた。

 

 「八幡は昔、陽乃ちゃんにかけてあげる言葉を間違えちゃったこととか、寂しい別れ方をしちゃったことを後悔してるんだよね。でもさ、それならやっぱり、八幡はあすか先輩が戻ってくるのに尚更協力してあげて欲しい」

 

 「だからさっきも話しましたけど、俺に出来ることなんて」

 

 「きっとあると思う。それにもし戻って来られなかったとしても、八幡のせいでは絶対にないんだし」

 

 「そもそも俺が協力する理由がないですよ」

 

 「まあ確かになー」

 

 優子先輩は繋いでいない手を力なく、へろーっと下ろした。

 

 「八幡はあすか先輩とそんなに関わりがあったわけでもないしね。私たち二年以上、というか特に三年生はあの人にたくさん助けてもらったからどうにかしたい気持ちが強いけど、特に一年でしかも他のパートの先輩だから」

 

 それどころか、なんなら俺、どっちかって言うとあの人のこと苦手なまである。どことなく陽乃ちゃんを思わせる完璧超人のような態度や、眼鏡の下の何もかも見透かしたような瞳に俺は幾度となく心を揺さぶられた。

 

 「去年までいた三年生との架け橋にもなってくれてたし。あの人がいなかったら、今の二年は希美についていく形で辞めていった人がもっと多かったと思う」

 

 「さっきも話してましたけど、優子先輩はやっぱり香織先輩や中川先輩が心配なんですか?」

 

 「だから夏紀はどうでも良いんだってば!それに香織先輩が心配って言うのも間違いなくあるんだけど……うーん、言わない」

 

 「なぜに?さっきまで散々俺に話したくなかったこと言わせたくせに、ここで自分は言わないなんて」

 

 「うっ」

 

 「汚い先輩だなぁ」

 

 じーっと優子先輩を流し見る。それが見つめるような形になったからか、優子先輩は『み、見ないで』とぽしょりと呟いた後にきょろきょろと視線を彷徨わせ、けれど最終的には俺の目を少しだけ照れながら見つめた。

 

 「……汚い……」

 

 「え、な、何が……?」

 

 「あ、違うから!さっき私のこと汚い先輩とか言ってたけど、八幡のジト目の方が汚いなって思っただけで」

 

 「全くフォローになってないですからね。辛いよ?じっと見られてる恥ずかしさに耐えかねてキョロキョロしてるのかと思ってたのに、それが俺の視線がぞわっとする程汚くて逃げるためだったとか超辛いよ?」

 

 「目を逸らしちゃったのは恥ずかしかったからだけど。ま、まあとにかくちゃんと話す。今の私の一番の理由は八幡」

 

 「は?俺?」

 

 「うん。八幡。でも、私の勝手な我儘でもあるんだけどね」

 

 「どういうことですか?」

 

 「いつまでも昔の女に振り回されていないで欲しいなって」

 

 「またメンヘラみたいなことを」

 

 「メンヘラなんかじゃないし」

 

 「どういうことですか?陽乃ちゃんと田中先輩、全然関係ないでしょう?」

 

 「さっきも言ったけど、私、あんたが陽乃ちゃんの事を思い出してるときの顔嫌いなの。あんまり頭良くないから、上手く言葉では説明できないんだけど、とにかくすっごい未練たらたらって感じの顔。寂しそうだし、辛そうだし……なんか見てらんない。あんまり自覚ないかもだけどさ」

 

 校門で合流してから少しずつゆっくりになっていった俺たちだったが、気が付けばお互いの家へと向かう分かれ道にまで来ていた。歩き慣れた道の途中で、どちらともなく立ち止まる。

 京都の雰囲気は、やっぱり何処か千葉とは違う。京都に来てすぐに北宇治に入学したときに感じたそれを、こうして立ち止まってふと思い出した。もし千葉に残っていたとしたら、こうやって亜麻色の髪の少女を前にして話すことなどあったのだろうか。

 

 「陽乃ちゃんの事、そんな簡単に吹っ切れることができる思い出だなんて思わないけど、もう終わっちゃったことはどうしようもないじゃない?」

 

 「待って下さい。答えになってないですよ。だからってなんで俺が」

 

 「八幡は変わった。昔のままなんかじゃないんだって。またいなくなっちゃおうとしてるあすか先輩を止める事で、少しでもあんたがそう思えたらなって」

 

 優子先輩は陽乃ちゃんではないものの、どこかその面影を感じさせる田中先輩を部活に残すことで俺が変わったと証明しろという。その証明は俺を救うから、と。

 だが、それを証明したとして俺が救われる事なんてないのだろう。なぜなら、俺は誰かに手を伸ばせなかったことを後悔しているのではない。陽乃ちゃんに手を伸ばせなかったことを後悔しているのだ。他の誰かじゃ意味なんてない。誰かを救うことに快感を覚えるヒーローではないし、どっちかと言えば他人の不幸が面白い。そんな人間だ。

 そして、それ以上に根本的な話、俺はあの時から何一つ変わっていない。だからこそ俺は、今回田中先輩を部活に留めるために何をしたらいいのかがわからず、昨日中川先輩からの申出に素直に協力すると言えなかったのだ。

 『無理ですよ』。その短い言葉が、自分でも驚くくらいすんなりと出て来ることはなかった。香織先輩の落ち込む姿が頭をよぎったからか、中川先輩が自分がコンクールに出られなくたって田中先輩に部活に戻ってきて欲しいと言った決意に答えられない自分が申し訳ないからか。

 

 「大丈夫」

 

 もしかしたら、今も俺を真っ直ぐに見つめて話し掛けてくれる。この人の期待に応えて見せたい。そう思ったからかもしれない。

 

 「どうしたら良いのか分からなかったら、話くらいは聞いてあげる。失敗しちゃったって傍にいて慰める。頑張りすぎてて『あー、やばそうだなー』って思ったら、今みたいに手を引いて止める。だからやれるだけやってみたらいいじゃん?」

 

 この人はいつだって、俺を引っ張ってくれる。この学校に来て、付き合う前からずっとそうだった。

 真っ直ぐな言葉があんまりにも優子先輩らしくって少しだけ笑ってしまった。

 

 「なんで笑ったのよ?」

 

 「いや。止められるときは手を引かれるとかじゃなくて、鎧塚先輩の時みたいに頬を引っ叩かれるんじゃないかって」

 

 「別にそれがいいならそれでもいいけど。このドMっ」

 

 優子先輩が鎧塚先輩を勢いで倒したときはそれどころではなかったが、すげえ事やったからな、この人。間違いなく緊迫した場面だったのに、ポカンとした顔の鎧塚先輩と、それとは対象的に必死な表情をしていた優子先輩がアンマッチで、思い返して見ると妙におかしい。

 『そういうことは早く忘れなさいよ』。怒ったように頬を膨らませた優子先輩だったが、俺が笑っているのを見て、困ったように笑い出した。しばらく二人で笑い合って、優子先輩は思い出したように口を開いた。

 

 「そうそう。最後に一つだけ」

 

 「何ですか?」

 

 「協力するにしたって、前みたいに自分が嫌われるみたいなやり方は辞めてよね?」



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ただ祈りを込めて、中世古香織は彼女の靴紐を結ぶ。
1


 駅ビルコンサートの当日は快晴だった。

 サンフェス、合宿、夏祭り。いずれも晴れていた。つい先日の北高祭に至っては、終わった後の夜から台風がやってきたお陰で、北高祭自体には何の影響もないだけでなく翌日の学校は休校。休校前日の夜こそ、全国が決まった焦燥感から学校に行って練習出来ないことが気がかりだったものの、優子先輩と付き合ったという事実で布団の中で悶え続けたせいで、いつもよりずっと遅い時間に起きた翌日は素直に休日は素晴らしいと思えたものだ。普通に練習があったら、睡眠不足と優子先輩に練習で顔を合わせることに対する妙な照れでぶっ倒れてたんじゃないかとさえ思う。台風、お前は良くやってくれた。消滅してしまったのが残念だぜ。

 閑話休題。とにもかくにもどうやら俺たちは、天候には恵まれているらしい。一面ガラス張りの京都駅が日光を反射して輝いている。曲線や幾何学的な模様。巨人でも歩くことが出来そうな程に高い、吹き抜けの空間。そんな空間の中は数え切れない程のショップで溢れ返っていて、現代アート作品のような構造の駅を歩いていると、楽器を運びながらもついつい目移りしてしまう。

 

 「あー!緊張するー!」

 

 「うお。びっくりした」

 

 俺たちの前を歩いていた加藤が突然叫び声を上げたことに、塚本が大して驚いてもなさそうに反応する。加藤の隣の川島はずっと聞かされているようで、困ったように笑っていた。

 加藤を始め、Aメンバーとしてコンクールに出場しない部員達にとっては、公の場で演奏するのがかなり久しぶりである。それに全国に向けての曲をメインで練習している俺たちよりも、Bメンバーは今日の駅ビルコンサートで演奏する『宝島』を練習する時間は長かった。不思議なもので、練習を重ねれば重ねるほど自信がついて、考えなくても指が勝手に動くだとか言われることもあるが、練習した時間が多いほど自信はありつつも失敗したらどうしようと、努力に裏切られるかもしれない恐怖で上手く演奏が出来なくなることもある。

 そこら辺は性格次第なのだろうか。少なくとも俺は紛れもなく後者だろう。加藤の気持ちはわかる。超わかる。わかりすぎて、演奏が始まる前に景気付けで飲んだストロングゼロで酔っ払って、肝心の演奏が一人先走っちゃってるくらいノリノリのバンドマンくらい首を振るまである。

 加藤と同じように多くのBメンバーは緊張しているようで、隣を歩いている部員の裾を掴んでいたり、まだ演奏はずっと先なのに顔の色が悪いやつがいる。そうでない人と言えば、何人か前を歩いている鎧塚先輩の隣の傘木先輩とか。

あの人のフルート、マジで上手いからなぁ。傘木先輩もかなり朝練に早く来て吹いているけど、たまに聞き入っちゃう。

 

 「あ、ごめん」

 

 「別にいいだけどさ」

 

 「あんまり大声とか出したりとか変なことしてると、先輩に怒られるぞ」

 

 「はい……って言うけど、みどりも塚本も比企谷も十分おかしいよ!というか怪しいよ!」

 

 「は?何がだよ?」

 

 「何でさっきから三人ともすっごいキョロキョロしてるの?」

 

 加藤に指摘されて、自分が周りを見まくっていることに気が付いた。いや、塚本と川島は周り見すぎだと思ってたけどね。自分の事って分からないもんでしょ?二人も無自覚だったようで、苦笑いをしている。

 

 「俺はちょっと人捜しというか」

 

 「はいはい。久美子ね」

 

 「まあ。なんかバス降りてからずっと見当たらなかったから」

 

 こいつ、視界の中に黄前がいないと不安になっちゃうの?おかんか。

 俺には幼馴染ってのがいないからわかんないんだけど、普通はこんなもんなのだろうか。

 

 「久美子ちゃん、別の学校の友達が来てるから会いに行くって話してましたよ」

 

 「え、そうなの?」

 

 「はい。立華の子だって言ってました」

 

 「ああ。佐々木か。立華も来てるんだもんな、今日」

 

 塚本は三人から向けられる視線が恥ずかくなったようで、視線を逸らしながら『同じ中学だったから知ってるんだよ。そいつ』と言い訳するかのように吐き捨てた。

 呆れた様に笑った加藤が俺と川島に問いかける。

 

 「それで二人は……」

 

 「そりゃあ、なぁ?」

 

 「はい。決まってますよね?」

 

 「「清良!」」

 

 今日の駅ビルコンサートが自分でも珍しいなと思うくらい楽しみで仕方なかったのは、女子校らしくお淑やかな純白に身を包んだ彼女たちをこの目に焼き付けるのが四割。しかし、演奏が始まれば別の顔。その清楚さを良い意味で裏切ってくる堂々とした演奏。全国金賞を確固たるものとしている圧倒的なまでの演奏を全身で感じるのが六割だ。

 俺が北宇治として演奏するのは残った部分。……あれ、残ってる部分ないんだけど。でも俺、聞いたら今日もう満足しちゃうわ。本当に。

 

 「みどり、清良が楽しみ過ぎて昨日からわくわくでしたー!」

 

 「俺も俺も。福岡の清良の演奏を京都で聴けるなんて、人生って何が起こるかわかんねえよなぁ。神様っているんだな……」

 

 「清良の演奏は全国常連どころか、世界レベルですからね。世界で活躍している演奏家だって、清良出身の方は一人二人じゃありません」

 

 「それな。俺たちは今日、ダイヤの原石。世界の音楽業界を担う卵を見て聞いて感じるんだ」

 

 「そうです!一秒だって無駄に何てできません!」

 

 「ああ!あ、やべ。まだ聴いてもないのに涙が……」

 

 「さっきから比企谷もみどりも熱がすごすぎる……」

 

 加藤だってそうは言ってるけど、もし来年再来年と吹奏楽部で過ごしているうちにどんどん吹奏楽の世界にのめり込んでいったら、今日清良をもっと意識してなかったこと絶対に後悔するぞ。絶対。

 

 「なあなあ。折角京都駅まで来たんだしさ、終わった後どっか寄ってこうぜ?」

 

 「お、いいねえ。滝先生のお陰で学校に戻らなくて良いんだしね!」

 

 通常ならコンクール含めて学校外で演奏を終えた後は、学校に戻り楽器を搬入してから解散となる。滝先生が赴任してからは、学校に戻って練習するのが普通だった。

 しかし、今日は俺たちの順番は前の方だ。後には吹奏楽では全国には行けなかったものの、マーチングでは圧倒的強豪として例年と変わらずに全国金賞の筆頭である立華、そして楽しみで仕方がない清良の演奏もある。

 滝先生も演奏を聴いて行く方がいいという判断に加えて、どうやら駅ビルコンサートの主催者側からも、博多から来ている清良などとは違い京都駅の近場である北宇治には、観客として残ってコンクールを盛り上げて欲しいという声が掛かったようだ。それもあって、今日の楽器の搬入は業者に委託することになり、駅ビルコンサートが終わった後は京都駅で解散という形で決まっている。

 

 「みどりはいいですよ。比企谷君は?」

 

 川島が行くなら俺もー。普段なら間違いなくそう言うはずだが、今日はそれができない。すでに先約がある。

 

 「わりぃ。俺、今日は終わった後用事あるんだわ」

 

 「そうなんですか……。残念です」

 

 「ぐっ……。やっぱり……」

 

 いや、ダメだ。流石に先輩に川島と遊びたいから今日はなしでとは言い出せない。

 

 「別に遊ぶのは今日じゃなくてもいいからな。用事があるなら仕方ないだろ。比企谷が来れないなら、俺は瀧川と遊んで帰るわ」

 

 「そうだね。じゃあ私とみどりは久美子と高坂さんに声掛けようか?」

 

 「そうですね。みどり、前から行きたかったカフェがあるんです!」

 

 俺も一緒にそのカフェに行きたかった。川島と二人で。



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2

 「おーい。比企谷ー」

 

 いよいよ、北宇治高校の出番が近付いている。そんなときにどこか気の抜けたような声で話し掛けてきたのは中川先輩だった。

 

 「あのさ、今日の駅ビルコンサートの後のことなんだけど」

 

 先日、優子先輩と二人で帰った日の翌日。俺は改めて中川先輩に田中先輩の事を協力すると言う旨を伝えた。

 とは言え、具体的に田中先輩を復帰させるために何をするか方向性が決まったわけではない。中川先輩も実際はかなり突然、自分がいなくなるかもしれない、と田中先輩に伝えられパートを任されたというだけで、先輩の現状についてあまり深く知っている訳ではなかった。家庭の事情が関わっている上に、田中先輩がこうして部活に来れなくなるほど切羽詰まった状態の中で、余計な気を遣わせたくなかったらしい。だから二つ返事でパートの引き継ぎは受けたし、細かな事情までは聞くことをしなかったそうだ。

 だからまずは何とかして情報を集めるところから。それが俺たちの出した結論だった。

 だが、田中先輩の騒動がありながらも、今日の駅ビルコンサートは刻一刻と近付いていく。コンサートが近付けば当然のように休日は返上し、放課後だって遅い時間まで練習がある。そんな中で幸いにも今日のコンサート後の時間が空くと言うことで、その時間は打ち合わせをしようとアポイントメントを取っていた。

 

 「あ、はい。なんか先輩は余裕そうですね?」

 

 「余裕って今からの演奏が?」

 

 「はい」

 

 周りの部員達は笑っている人もいる中で、かなり緊張した様子の部員も多い。AのメンバーもBメンバーと比べれば大勢の前での演奏をした回数こそ多いものの、今回の駅ビルコンサートは立華と清良がいる。その二校と比べられるということに緊張している人が多いというのを、誰かが話している声が聞こえて来て知った。

 

 「そんなことないよ。こう見えて結構緊張してる」

 

 散っている前髪の隙間から覗く吊り目がちの瞳はどこか弱々しかった。確かに嘘ではないらしい。

 

 「ただあれほどではないけどね」

 

 そう言って中川先輩は、自身の後ろにいるパートの後輩を指さした。集合場所に来るまで話していた加藤は本番を前にさっきよりもずっと緊張した様子で、そんな加藤の肩を掴んで川島が励ましていた。いや、励ましてるのか……?なんか今、加藤、川島にチョップされてたぞ?いいな。体力回復しそう。

 その後ろには高坂もいる。加藤と川島をじっと見つめていて、けれどその表情はいつもの無表情とは違って思いの外柔らかい。

 

 「それでさっきの続きなんだけどさ、今日終わった後二人も来ることになったから」

 

 「二人?誰ですか?」

 

 「部長と香織先輩」

 

 えぇーっ、と驚きの声を出す前に、小笠原先輩と香織先輩が俺たちの元にちょうどやってきた。手を振りながら近付いてきた二人に、つい頭を下げてしまう。

 いや、確かに田中先輩についての情報を集めるためにはこの二人から話を聞くのが一番なのは間違いないと思うけれど。何がビックリってこの二人と放課後過ごすかもしれないという事実だ。

 俗に言うハーレムを楽しめるのはリア充だけだ。よく、『女子校の中に男子は、俺だけー!』みたいな謳い文句のハーレム作品をネット中心に見る機会があるが、吹奏楽部に所属していた俺から言わせれば、そんなの攻撃対象になるために敵の領地に入っていくようなもんだし、それ故に女子しかいない空間に放り込まれれば、普通に吐きそうになる。

 それが毎日いる音楽室で女子が多いために肩身が狭いというくらいであれば、慣れ親しんだ場所と言うこともあるし、最悪トランペット片手に『俺は真面目にやってるんだから誰も話し掛けないでよねっ!』という空気感バリバリ出してまだどうとでもなる。しかしそれ以外の場所で女子に囲まれていればスーパー地蔵タイム間違いなし。変に気を遣われた暁には脇汗どころか口からナイアガラである。それが俺の求める吹奏楽部男子のあるべき理想像。

 

 「比企谷君。今日の放課後はよろしくね?」

 

 「は、はぁ」

 

 香織先輩によろしくとは言われたものの、一体何をしろと。この三人の中では一番後輩だし、どっか予約しとけとか?俺だって、つい今知ったばかり何ですけど?

 改めて、まさかこんな話しになっているなんて。恨みを込めて中川先輩を見やる。俺の視線にすぐに気が付いた中川先輩は口角をにやりと上げた。

 

 「あれー?比企谷には合宿の時に同じ事やられたと思うんだけどなー?」

 

 「ぐっ」

 

 ニヤニヤと笑っている中川先輩の顔を見て、無理して上げた口角がひくつく。合宿の夜に中川先輩には何も言わずに、優子先輩を呼んで傘木先輩の事について話した。この人、意外と根に持つタイプなのか。

 溜め息を一つ。溜め息を吐くと幸せが逃げていくと言うが、何なら北宇治吹奏楽部のマドンナである香織先輩と放課後遊ぶ約束をしたとか、本当はもはや幸せめちゃくちゃやってきてるんだけどな。

 

 「それに、別に私は比企谷と二人ってのもいいけど、流石にあいつに悪いしね」

 

 「……」

 

 あいつとは、まず間違いなく優子先輩の事だろう。そう言われてしまえば、俺はもう何も言えない。

 

 「私と香織は駅ビルコンサートが終わった後、ちょっと雑務で残ることになってるから二人にはちょっと待ってて貰うことになっちゃう。ごめんね」

 

 「いえ。何か私と比企谷に手伝えることがあったら言って下さい」

 

 「うん。ありがとうね、夏紀ちゃん」

 

 「そんなに遅くはならないと思う。とりあえず連絡は入れるから」

 

 「わかりました」

 

 この人、なんだかんだで気が利くんだよな。ヤンキーみたいな見た目なのに。

優子先輩が田中先輩がいなくなったとしたら、低音パートを纏めるのは中川先輩になると話していたが、確かにこうしていると適任だという見立ては間違いないのかもしれない。

 しばらく俺以外の三人は話していたが、ふと香織先輩が気が付いた。

 

 「清良女子……」

 

 それに反応して、ばっと見やる。ずっと探していた、憧れの吹奏楽部。中学の時、彼女達の演奏を一体何度聞いていたものか。

余計な雑談やよそ見など一切せず、ただ前をみて歩く姿はもはや天使の行進かとさえ思える。

 

 「うっ……うぅ……」

 

 「うわっ!泣いてる……」

 

 「アーメン……」

 

 「比企谷君、大丈夫!?」

 

 今なら大好きなジャニーズが目の前を横切っただけで感動して泣いてしまうジャニオタや、見られてもないのに見つめられたことにして勝手に感動してるドルオタの気持ちがわかる。

 あんまりにも腐りきった目から涙を流している俺が見苦しいからか、中川先輩がどこかから取り出したハンカチで俺の涙を拭ってくれた。優しい……。中学生の時どころか、優子先輩と付き合う前の俺なら百パーセントに好きになってた。

 

 「流石全国常連だけあって堂々としてるね」

 

 「もう、比企谷君も香織も。私たちも全国出場だよ?」

 

 「……そうだね」

 

 小笠原先輩の言葉にはっとする。

 そうだ。俺たちはもう、彼女たちを画面越しに見ているだけではない。同じ舞台の上で競い合うことになるライバルなのだ。でも、感動するものはしちゃうよね。溢れんばかりの涙でナイアガラの滝みたいになっちゃうのも致し方ないと思うの。

 

 「そのとーり」

 

 えっ?その声に流れたいた涙はぴしゃりと止まり、顔を上げる。

 俺と同じように部員達は皆、あまりの衝撃に口を開けながらその声の主を見つめていた。低音パートのメンバーを中心に続々と駆け寄ってくる。

 

 「あすかっ!」

 

 「何よー?お化けを見るような顔して」

 

 「来れたんだね」

 

 「言ったでしょう?迷惑はかけないって」

 

 もう十分にかけてるんだよなぁ。田中先輩だって、わかってるんだろうけど。

 ただ、一番迷惑をかけられているはずだし、心配だってしている小笠原先輩と香織先輩がそれを言わなかった。低音パートのメンバーが向かってきているのに巻き込まれると、トランペットパートの俺は浮いている感じになるので、再開に浸る三年生の元をすっと離れる。

 

 「あすか先輩っ!」

 「先輩、心配したんですよー」

 

 すぐにパートの後輩達に囲まれた田中先輩は、部活に来ることが出来なくなったときとは何も変わらずに後輩と話していた。それを見て、何も解決なんてしていないのに、パートの違う部員達もどこか安心している様に思える。

 結局の所、田中先輩が部活に与える影響というものは計り知れないのだ。今も尚、精神的支柱の一人。

 

 「あすか」

 

 それでも、少しずつその影響は変わっていくはずだ。

 小笠原先輩がこないだ俺たちの前で話した通り、北宇治高校吹奏楽部の中に田中あすかという人間がいるのだ。決して俺たちは、この人がいなくては演奏が出来ないままでなんていられない。

 

 「私、ソロ吹くことになったから」

 

 だから、これは小笠原先輩の宣言。

 もう以前のように何もかもを頼りっきりにはしない。勝手に特別な人間だと持ち上げて、重たいものは全て持たせっきりだった。彼女なら大丈夫、大丈夫と。

 でもこれからはそうじゃない。頼った分頼られたい。今まで前に立たせて引っ張ってきて貰った分、今度は自分たちが変わりに前に立って引っ張ってみせる。

 小笠原先輩の手にしていた田中先輩の譜面は、部長から副部長へと渡された。

 

 「今度は私の演奏を、しっかり支えてね?」

 

 「……勿論!」

 



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3

 駅ビルコンサートのステージは、京都駅の大階段の途中にある広場に設けられていた。

 とは言っても北宇治高校の部員数は総勢八十二名。全員はステージの上に乗ることが出来ず、見栄えの良いトランペットやトロンボーン、それから打楽器は後方のステージ上。それ以外の楽器は指揮者である滝先生を中心に、ステージ前方に扇形に椅子を並んでいる。

 スタンバイをしていると、階段を客席代わりにしている観客の顔がよく見えた。全国に行く事が決まった北宇治高校に加えて、立華や清良とかなり豪華な顔ぶれだ。流石に観客の数はびっしりと階段が埋まるくらいには多く、その中には中学生の団体もいる。その中に見慣れた小町の顔を探すが、残念ながら見当たらない。常識的に考えて妹は兄がいないと生きていけない生き物であるはずなのに、今日は来てくれてないのかなぁ。

 逆説的に妹がいないと兄も生きていけない。はーあ。小町がいないんじゃ、今日の演奏は程々に頑張るか。いや、普通に全力で吹くけどな。

 小町を探しながら、視界の中に入ったバリサクを持つ小笠原先輩は緊張している様で落ち着きがない。もじもじと身じろぎをしている姿をステージの上から見ていると、何だか小動物のようで可愛らしいが、それ以上にこちらが不安になってしまう。

 

 「大丈夫なのかねぇ」

 

 「小笠原先輩?」

 

 「ああ。大分緊張しているみたいだけど」

 

 隣に並ぶ高坂と話していると、それに気が付いた香織先輩が声をかけてきた。

 

 「大丈夫だよ。ああ見えて、私たちの部長なんだから」

 

 うーん。まあ香織先輩がそこまで言うのなら大丈夫なんだろう。視線を目の前の楽譜に向ける。

 滝先生が観客に一礼をすると、会場は徐々に静かになっていった。室内でもないし、たくさんの人で溢れる京都駅は当然、俺たちの演奏を聞きに来ている人以外にも存在する。それなのに、滝先生が指揮棒を振り上げるのと同時に楽器を構えた瞬間、関西大会本番の日の事を思い出した。

 

 今回俺たちが演奏する最初の曲は『宝島』。

 吹奏楽の経験者であれば誰しも、宝島と聞けばまず最初に丁寧丁寧丁寧の新しい宝島ではなく、今回演奏するT-SQUAREによる楽曲が元ネタの宝島が思い浮かぶはずだ。もはや吹奏楽のど定番の曲でもあり、名曲中の名曲とも言える。軽快で耳当たりの良いこの宝島は、聞いているだけで陽気な気分になってくる。物語シリーズ初期の頃の阿良々木君含めて誰とも話すことのなかった忍ちゃんだって、きっとこの曲を聴いたらたちまち、視聴者も見慣れた『寡黙?そんな時期あったっけ?』と言わんばかりの最近の物語シリーズの忍ちゃんのテンションに一変して踊り出すだろう。

 まさに宝島というシンプルな題名にふさわしい、わくわくさせるこの曲を俺たちは今日に向けて仕上げてきた。一番の聞き所は何と言ってもバリサクのソロに他ならない。今回、北宇治のバリサクソロを任されているのが我らが部長の小笠原先輩である。ただ滝先生よりも前、誰よりも観客席に近いところで一人で吹くだけではなく、金管楽器の合いの手も入りつつ、個性全開と言わんばかりに吹かなくてはならないこのソロを緊張してしまうのも無理はない。ただでさえ人前に立つのが好きではない小笠原先輩なら尚更だろう。

 パーカスのアンサンブルから始まった宝島は、滝先生の振るう指揮棒に合わせて奏でる軽快でポップなメロディーが進んでいく。客席の方からもリズムは合っていないが手拍子が入っている辺り、盛り上がりは完璧だと言える。通りすがりの人も、演奏に引き込まれてやってきている為、目の前の階段には演奏が始まる前よりも観客が明らかに増えていた。

 

 「うわ、すごい演奏……」

 「ねえ聞いていってみようよ」

 

 そんな声と共に曲は流れていき、トランペットパートにとっては休む部分がなくかなり苦しいサビが終わった。俺たちはとりあえずここから最後のサビまで一段落だ。

 いよいよバリサクのソロパート。

 

 うわ、かっけえ。

 そこにはもう、頼りない小笠原晴香の背中は見えなかった。リズム、スタッカート、抑揚、タメ。小笠原先輩が息を吸ってマウスピースに息を吹き込んだ瞬間から、一音一音全てが完璧。あれ、本当に小笠原先輩?まじでかっこいい。

 あの人はこんな演奏が出来るのか。少なくともこれまでの練習やコンクールでは聴いたことがない。音が輝いている。

 小笠原先輩は部長として部員を引っ張るタイプでは決してない。現にさっき田中先輩が突如として現れたときに多くの部員が安堵したように、やっぱり今の三年は田中先輩が精神的にも実務的にも引っ張っていたのは誰も否定することは出来ないはずだ。

 部長ではあるけれど目立つことが好きではないし、後ろで支えるどころか余計な気まで配って抱え込んでしまう。だけど、そんな小笠原先輩が部長として毎日毎日、練習の時には俺たちの前に立っていた。その逃げない姿勢と、勇気を全員がこの半年以上の間ずっと見続けている。

 ノリノリでアレンジを織り交ぜながら演奏する姿を見て、これまでのイメージが少しだけ変わった。小笠原先輩はただ謙虚だとか、根が真面目だとか。勿論それも小笠原先輩の性格の一部なのだろうけど、きっとあの人は意外と芯が強い。ただ優しさだとか押しに弱いからだとかで部長になったわけではないのだと思う。

 そうだ。だからあの人は優子先輩とたった二人、高坂と香織先輩の再オーディションの時だってほとんどの部員がどちらを選ぶことができない中で、香織先輩を支持していた。

 かなり長いはずのバリサクのソロがあっという間に終われば、会場は今日一番の拍手に包まれた。



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4

 「夏紀ちゃん、比企谷君。お待たせー」

 

 ぱたぱたと走ってくる香織先輩と小笠原先輩を見て、俺と中川先輩は腰を上げた。待った時間は実に十五分ほど。思っていたよりかは全然早かった。

 

 「ふー。急いで来ちゃったよ」

 

 「あはは。そんな急がなくたってよかったのに」

 

 「二人とも何してたの?」

 

 「あー、普通にここで比企谷とくっちゃべってました」

 

 ニヤニヤと笑う中川先輩からふいっと顔を逸らす。くっちゃべってたなんてとんでもない。二人が来てくれたことに心の底から感謝する。

 中川先輩と合流してからと言うものずっと、『はは、照れてやんのー』と優子先輩の事でからかわれ続けていた。女の子と二人というシチュエーションにも関わらず、香織先輩達を待っている間はもはや地獄のような時間であった。

 挙げ句の果てに『もう勘弁して下さい』と言えば、『じゃあ言うこと聞いてくれる?』と悪魔のようなことを言われ、渋々頷けば『面白いし、こき使ってやろっと』と謎の宣告を受けた。死にてえ。

 あー、俺もう『that』くらい使われちゃうのかな。あいつも大変だよなー。同格、接続詞、関係代名詞、指示語、まだまだあるもん。過労死するわ。過労死しなくても、世の中の受験生にいつか恨まれて殺されると思う。

 最後の『冗談だよー』が全く信用できない。この人、わっるい顔してるもの!次の標的は優子先輩のようで、今度二人の時にからかってやろうとそれはもう楽しそうに言っていた。

 

 「こないだも夏紀ちゃんが練習してる時に比企谷君の所に来てたよね?私ちょっと意外かも。二人って仲良いよね」

 

 「そうなんだ。ビックリしたもん。夏紀ちゃんに駅ビルコンサートの後に集まろうって言われて、そこに比企谷君もいるって聞いた時」

 

 「うん。二人ってパートも違うのに何で仲良いの?」

 

 「そう言えばなんでだっけ?」

 

 「ファーストコンタクトは、確か初めてのホール練の時でしたよね?」

 

 「んーそうだっけ?」

 

 「そうですよ。ほら、なんか二人ともサボってるーみたいな話したじゃないですか」

 

 「そんなことあったようなーなかったようなー」

 

 まじかよ。この人、全然覚えてねえ。

 真面目な話、この人と俺が意外と接点があるのは共通点の多さだろうか。優子先輩経由で友達の友達みたいな。後はたまたま巻き込まれた傘木先輩の事とかでも、同じような形ではなかったけれど話す機会は多かったように思う。

 それにほら、ちょっと性格的な部分でも似てるじゃん?人を寄せ付けない雰囲気とか、孤独を愛している感じとか、アンニュイなオーラとか超かっこいいでしょ。俺だってあるでしょ、そういうの?あったらいいな。小林製薬。

 

 「二人とも部長の前でサボってた話とかしないで。怒るよ?」

 

 「あの時はサボってたわけじゃないんですよ。野暮用があっただけで。とにかくほら、どっか行きましょうよ」

 

 「はぁ。もう仕方ないなあ」

 

 「どこに行こうか?落ち着いて話せるところの方が良い?」

 

 「そうですね。私、ちょっとお腹空いてます」

 

 「じゃあカラオケとかじゃなくって、何か食べられるところにしよう」

 

 香織先輩の提案に頷いた。あぶねー。落ち着いて話せるところの選択肢にカラオケがあったとか聞いてねえよ。

 カラオケは騒ぐ場所ではあるが、心安らぐ空間だと言うのは否定しない。ただし、お一人様の場合に限る。さらにリラックスするコツを伝授すると、トレーなどで飲み物は多めに持ってきておいて、できる限りドリンクバーに行かない方がいい。あいつさっきもあの部屋から出てきてたけど、もしかして一人?という疑惑を隣の団体客に思わせないためだ。そこまでしても、歌ってる途中に急にドアを間違えて開けて入ってきて、謝りながらもニヤニヤしながら出て行く奴。絶対に許さない。

 

 「どっか行きたいところある?」

 

 「私はどこでもいいですよ?比企谷は?」

 

 「俺も先輩達に合わせます」

 

 「晴香は?」

 

 「私もお腹空いたからなー。あ、そうだ!」

 

 小笠原先輩はポケットからスマホを取り出すと、そそくさと弄り始めた。一体何が出てくるのだろう?ビスケット?パンケーキ?大して待つことも期待することもなく、小笠原先輩が画面を俺たちに見せる。

 こ……これはっ……!

 

 「ラーメンですか?」

 

 「そうそう!美味しそうじゃない?私の好きなラーメンブロガーさんが紹介してたの。ちょうど京都駅から少し歩いたところにあってね!」

 

 「晴香先輩ってラーメン好きなんですか?」

 

 「大好き!」

 

 「へー。そんなイメージ、全然なかったです」

 

 「ガツンとくる味が好きなの!だからあっさりしたラーメンよりもこってりしてる方が好きなんだけど、京都はこってりしたお店の方が多いんだ。それが一番、ここの好きなところだよ。夏紀ちゃんは?」

 

 「私は好きでも嫌いでもないかな」

 

 「そっか。残念。折角ラーメン好きの友達が見つかると思ったのに。あーあ。香織がラーメンもっと好きになってくれたらなー」

 

 「何それ。比企谷君は?やっぱり男の子だしラーメンは好きなの?」

 

 「そりゃ大好きですよ」

 

 「え、嘘!?本当に?」

 

 「冬の寒い日に食べるラーメンはスープと麺を一緒にすすったときに、身体も心も温まるんです。その時にあ、俺生きてて良かったなって。その感覚は他のどんな食事でも味わえません。夏バテしている時だって他の飯は何も食べる気が起きなくても、ラーメンだけはつるっと潮風のように喉をすり抜けていく。秋には秋の味覚を組み合わせた、そこでしか食べられないスペシャルでオリジナリティ溢れるラーメンを食べて、春には出会いと別れのラーメン。俺は一年間、春夏秋冬をラーメンと共に生きています」

 

 そう。俺は言わずと知れたラーメン大好きマンである。というか世の男子でラーメン嫌いな奴なんてまずいない。あのカロリーを考えない、ただ幸福だけを詰め込んだ料理が嫌いだなんて言う男子には、太宰治もきっと人間失格だと言うだろう。

 ただ逆に言えば女子で好きな人というのは存外いない気がする。というか隠してるだけだと思うのだが。ラーメンは男の食べ物というイメージだとか息が臭くなる、カロリーがとにかく心配とか。余計な事を考えて好きではないと言う女性が多いかもしれないが、そんなラーメン好きな女性が我々男子は大好きです。嫁を連れて、二人でラーメンを食べに行く。そんな些細な夢を持って日々生きております。

 

 「わかるー!」

 

 「ぜ、ぜんっぜんわかんないんだけど!?出会いと別れのラーメンって何?」

 

 小笠原先輩が興奮のあまり顔を紅潮させながら、俺にぐいっと近付いてくる。普段ならそれで頬を染めるシャイな俺も、今ばかりはすっこんでいる。ラーメンを前に人間は男女とか人種とか、そんなものは存在しないのさ。

 俺たちの妙なテンションに香織先輩が苦笑いを浮かべているのも気にせず、小笠原先輩はおさげをひょこひょこと揺らしている。やれやれ。香織先輩にそんな顔をさせるなんては流石に酷すぎませんかね?とは言え、小笠原先輩はハイテンションになっているし、仕方ない。俺が謝っておこう。

 めんめんめめめんめんめめーん。めんめんめめめんめんめめーん。めんめんめめめんめんめめーん。まじごメーン。

 

 「一日三食ラーメンでもいいよね?」

 

 「そ、そうですかね?キツくないですか?」

 

 「そんなことないよ。あ、もしかして健康面に気を遣ってるとか?」

 

 「まあそれもありますけど……」

 

 「ふっ」

 

 「うわ。ムカつく」

 

 「中川先輩。ラーメンと言えば外食だとか思っていませんか?朝はカップラーメン。昼はコンビニのおにぎりの棚の下に並んでるチンするラーメン。夜は本場のお店のラーメン。そうすれば解決でしょう?」

 

 「そうそう!同じラーメンって名前だけど全然違うものなんだよ?」

 

 「さすが小笠原先輩、分かってらっしゃる。よっ、部長!」

 

 「えへへぇ。なんならシメにスーパーで売ってる即席のラーメンを食べて完成だよね!」

 

 「あれも全然違いますからね。トッピングの種類は31軽く超えますから飽きないし」

 

 「私、なんか二人が怖くなってきた……!健康面、何も解決されてないし!」

 

 そ、そんなことねえし!同じラーメンって名前で括られているだけで、あれは全部別の何かだから関係ないし!

 

 「はぁ。二人とも、ラーメン屋じゃゆっくりお話出来ないでしょう?私たちはあすかを連れ戻すために今日、集まったんだから!」



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5

 幸せに溢れた家族の金曜日のご褒美だったり、主婦と呼ぶには若すぎる少し歳のいったお母様方のお昼の集会場としてだったり。今や多くの国民に愛されているファミレスではあるが、どれだけ集客が多いと言えども、限られた全体の収益の中でどれだけのシェアを得られるか。

 そのためにこの業界のお偉いさん方は今日も必死に、他のファミレスに負けない自社だけの強みを探したり、メニューやレイアウトなど、どこで個性を出していくか研究を重ねている。そう。何と言っても、この厳しい業界を勝ち抜く上で重要なのは自分たちらしさが世間に認められるかである。

 では、今俺たちが来ているサイゼリヤと言えば?比企谷八幡のアンサー一つ目。ミラノ風ドリア。異論は認める。マルゲリータや辛味チキンと言った魅力的なメニューの数々が他にもあるからね。けれど、比企谷八幡のアンサー二つ目。難易度が異常に高い間違い探しに関しては異論は認めない。絵柄だけはファンシーな子ども泣かせの並んでいる二つの絵は、他のどのファミレスにもないサイゼだけの特色に他ならない。

 うんうんと唸る俺の隣で、中川先輩はスマホを弄りながら頬をついている。少しは協力して欲しい。残り二つが見つからなくて、間違いが十あるというのがまず間違いなのではないかと疑っているのだ。

 

 「あすか、今日のコンサート来れてよかった」

 

 「もう、本当に急なんだから。来れるなら来れるって言っといてくれないと。一応あすかの譜面、持って行っといてあげて良かったよ」

 

 「流石晴香。用意周到で偉いね」

 

 間違い探しと睨めっこしながら頭の片隅で考える。まさか、今日の本番に来るとは思わなかった。

 トランペットとユーフォは演奏時の席位置が遠かったけれど、演奏全体に悪い影響を与えるようなことはなく、田中先輩はそつなく最後まで吹いてみせた。普段の練習は来ないのに、こうして本番で合わせられるとか流石すぎる。家で練習でもしてるのか?でも家庭の問題で練習に来られないと言うことだったのに、部活には来ないで家でやるとかわざわざ敵地で拭いてるようなもんではないのか。

 俺と同じ疑問を持っていたのか、中川先輩があすか先輩の事を目の前の三年生二人に聞いた。

 

 「あすか先輩、今日を契機に部活に戻ってくるって事はなさそうなんですかね?そしたら私たち、今日なんで集まってるのかわからないですけど」

 

 「晴香、何か聞いてる?」

 

 「ううん。ほとんど話す時間なかった。あすか、私たちの演奏終わったら、用事があるからって先に帰っちゃったじゃない」

 

 「あっという間でした。私も話そうと思ってたのに、その時にはもういなくなってましたもん」

 

 あははと苦笑している中川先輩に対して、香織先輩は寂しそうで小笠原先輩はぷりぷりと怒っている。三者三様の反応は雨の日のアパートの一室のような湿った空気を運んできた。

 多くの部員も今日の本番前に田中先輩が来たときには安堵していたものの、三人と同じように明日からもう部活に戻ってこれるのかと不安に思い、疑念に駆られているだろう。疑念に駆られる……そう疑念に駆られることは大切だ。サイゼリヤの地中海風ピラフだってパエリアだしね!

 サイゼリヤのことが大好きだから、ここにいるとサイゼリヤのことばっかり考えてしまう。集中しなくては。

 俺は手に持っていた未だ正解の見つからないままの間違い探しをメニュー立てに戻して、三人に向き合った。すぐに小笠原先輩が俺に話題を振ってくれる。

 

 「滝先生が夏紀ちゃんにコンクールの出場、あすかの代わりにお願いしたって話は聞いてる?」

 

 「こないだ中川先輩から聞きました。それに放課後、傘木先輩と空き教室で自由曲の練習してるのも見るし」

 

 「希美と練習してるの知ってたんだ?」

 

 「私も知ってるよ。夏紀ちゃん、すっごい上手になった」

 

 「香織先輩に褒められると照れますね。ありがとうございます」

 

 「そのことなんだけどさ、私この間練習メニューを持って行ったときに美知恵先生に聞いたんだけど、滝先生が夏紀ちゃんにお願いしたのはあすか本人からの申し出があったみたい。このままメンバーに含まれていても迷惑が掛かるからって。滝先生はあすかのお母さんが職員室に乗り込んできたこともあって、本人の意思で決めた訳じゃないって認めるつもりはなかったみたいだけど」

 

 「そう、なんだ」

 

 「……私、あすか先輩と二年間同じパートでやってきましたけど、あんまり普段の話とかしたくなさそうでした。だからプライベートの話ってほとんどしたことなかったんです。あすか先輩のお母さんってどんな人なんですか?あすか先輩、勉強も出来るから部活と勉強の両立も出来てるのに、なんで部活辞めさせたがるんだろうって」

 

 「……私たちにもあすかが家の話をすることはほとんどなかったよ。あすかがお母さんと二人で暮らしてるって事くらいしか知らない」

 

 「あすかのお母さんが職員室で滝先生と揉めてたって聞いてすぐにね、私と晴香はあすかと話したの。でも、大丈夫だから家のことには関わらないでって」

 

 「まあ、家庭の問題ってのは誰だって余所に口出されたくないもんじゃないですか?ただ田中先輩が部活に来られない原因が田中先輩のお母さんにあるのだとして、部活に来られる時間が限られているのだとしたら一つ根本的な問題がありますよね」

 

 「演奏の技術が落ちてくこと?」

 

 「いや、そうじゃなくて。何ならコンクールで演奏する二曲よりもずっと練習した時間が少なかったはずの宝島をそつなく吹いてて、流石だなって思いました。とは言え、三日月の舞と比べれば難易度が低かったから比較対象になるかはわからないですし、欠席が重なっていている以上、中川先輩が言った通り本番の日に以前の高いパフォーマンスで演奏出来るかどうかも怪しいですけど」

 

 「じゃあ何?」

 

 「今日の駅ビルコンサートでさえ時間はギリギリで、演奏直前に来て直後に帰ったんです。全国の舞台は名古屋ですよ?前泊含めて二日間は家を空けることになる全国には来れるんですかね?もし今日も親に内緒で来ていたとかだったなら、全国はどうやったって隠しきれるわけがない」

 

 「そりゃそっかー」

 

 「だけど、あすかならきっと……」

 

 香織先輩が長い眉を下げて、祈るように呟いた。

 仕方がないのかもしれない。圧倒的な存在がいなくなった後に残るのは圧倒的な誰かがいなくなったという心の空白。圧倒的な存在感しか残らないのだから。

 染みついた社風はそう簡単に変わることはない。小笠原先輩は以前、音楽室の壇上から部員全員に向かって、田中先輩がいつ帰ってきてもいいようにあの人無しでも部活を守っていこうと言った。今度は私たちが支えようと。しかし、現状としてまだ本番までには帰ってこれるはずだという思考が、どこもかしこも抜けきらずにいる。だから、田中先輩が帰って来ない可能性から目を逸らしてばかり。

 本当に考えるべき事は違う。話している通り、家庭の事情なんて余所者でどうこうできる話な訳がない。そして、帰ってこれる保証どころか、帰って来れそうな気配さえない。故に考えるべき事は、田中あすかがいなくなった後処理。

 そもそも、田中先輩が部活に来なくても許されているのは、これまでの貢献度が高く、部員達から慕われているのが最大の理由だ。演奏面に関しても、滝先生は評価しているだろうが、何にせよ他の誰かなら同じ事をして許されることは絶対にないと言い切れる。

フルメンバーで練習出来ないことは演奏全体の完成度を下げることにもなるわけだし、部員達の士気を下げている。なあなあな状態だ。

 その状態をどう解決していくか。部員達の意識を全国に向けさせて、田中先輩がいなくても滞りなく進む運営体制を再構築する。

 きっといつもの俺ならなんとかして、その田中先輩が復帰してこない道を選んだ。田中先輩を連れ戻すという、ほとんど不可能に近い選択よりはずっと、実現可能性も掛かる負担も少ない選択肢だから。



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6

 「香織、それはもうなしでしょ?」

 

 二人の間には、僅かな隙間があった。テーブル席に腰掛けて、くっつかなくてはいけないほどソファー席は狭くははないのだから、その隙間は当然に存在する。ただ俺は、何となく考え事をしながらその隙間から覗くパステルカラーをじっと見つめていた。

 小笠原先輩が香織先輩の名前を呼んだのはそんなときだった。飾り気のない彼女はしゅんと背中を丸めることもなく、しっかりと彼女の隣に並ぶ双の目を見つめて言葉を続けていく。

 

 「頼り切りにしないって決めたじゃん」

 

 「……うん」

 

 「あすかが勝手に戻ってくるって言うのは、もう諦めよう。私たちでやらなくちゃ」

 

 「……そうだけど!私はあすかと一緒に吹きたいの!」

 

 「流石、あすか派」

 

 「っ!もしかして晴香、怒ってる?」

 

 「ううん。そんなことない」

 

 「……じゃあ」

 

 「違うよ。私たちで連れ戻すの」

 

 「え?」

 

 小笠原先輩の瞳に俺と中川先輩が写った。澄んだ綺麗な瞳をしている。

優子先輩に見つめられているときのようだ。それだけで俺は、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

 

 「こうして後輩達も助けてくれてる。そうだよね?」

 

 「香織先輩、私たちだってあすか先輩に戻ってきて欲しいってのは同じです。去年、余計な事言って部活に居辛くなった私を、あの人が取り持ってくれました。去年までの部活はテキトーだったし、あすか先輩への恩はあっても部活なんて辞めても良いと思っていたけど、滝先生が来てからは部活に残ってて良かったなって思います」

 

 「……正直、俺はあの人にそんな恩はないですけど」

 

 「そう言えば、比企谷君はどうしてあすかを部活に戻すのに協力してくれるの?もしかして優子ちゃん?それとも川島さん?」

 

 「いや、二人は関係なくて。……本当に個人的な理由です」

 

 「理由はともかく、比企谷はやるときはやるやつなんで」

 

 「正確にはやれと言われれば心の中で文句を言いながらも、黙々と作業を行います」

 

 「はいはい。面倒くさい」

 

 「とにかく、ね、香織。私たちでやってみよう?」

 

 「……晴香、最近なんかちょっと変わったよね」

 

 「な、何急に?」

 

 「何かね、今日のコンサートでソロ吹いてるときに、後ろから晴香を見てて思ったんだ。あすかが部長やれば良かったのにって悩んでた晴香が、もう頼りなさげなんかじゃ全然なくなった」

 

 香織先輩の言葉に小笠原先輩は頷かず、少しだけ寂しそうに目を細めた。

 

 「ううん。そんなことない。本当は私も、あすかには特別でいて欲しいって思ってる。今だって駅ビルを自分たちだけでやりきったら後は、あすか、どうにかしてくれるんじゃないかって。自分で何とかしちゃって帰ってきてくれるんじゃないかって期待してる。そんな甘えた私もいるよ」

 

 「……」

 

 部長の告白で、俺の耳には四方八方から聞こえてくるサイゼの喧噪しか届かなくなった。

 中川先輩が机の下で、ソファーから伸びる脚をぶつけてきた。何だと疑問と濁りを込めた目で中川先輩を見やれば、『おい、何とかしろ』と告げている。と、思う。違ったら恥ずい。きっと二人に置いてけぼりの状態に耐えかねているようだ。

 ただなー。この人だっておわかりの通り、俺にはこうなったときの選択肢は逃げるかエスケープか逃避行以外の選択肢がねえからなあ。つうか誰だってそうだろ。特に四人でいるときに自分以外の二人が気まずくなった時の女子。大体、一人は電話来たとかトイレ行くとか言ってお前らそんなに早く動けるなら、放課後も教室でだらだらしてないでもっと早く帰れよってくらい速攻でグループから消える。そして取り残された一人は、逃げることができずに生け贄としてそこに残らざるを得ないという。

 あれ?そう考えたら、俺この場をすぐにでも去って、全てのこの卓の気まずいを中川先輩になすりつけるべきなんじゃ……。そうこうくだらないことを考えている内にも、中川先輩の攻撃は徐々にバージョンアップしていく。最初は軽くハムストリングをぶつけてくるだけだったのに、今はつま先で定期的にぽーんぽーんと。除夜の鐘か。百八回俺の脚を突くの?ちなみに俺の煩悩は、百八なんて軽く上回る。

 

 「……不思議だなあ」

 

 俺と中川先輩が香織先輩と小笠原先輩から見えない机の下でわちゃわちゃしているうちに、香織先輩がぽつりと話し始めた。それに、ここだとばかりに中川先輩が食いつく。

 

 「何がですか?」

 

 「うん。なんか晴香がこうやって不安そうにしてると、私も何とかしなくちゃって思えてくるの」

 

 「ちょっとそれどういう意味?」

 

 「そのまんまの意味だよ」

 

 悪戯をしている子どものように笑う香織先輩に、小笠原先輩は少しだけ頬を膨らませた。

 

 「ひどいよ。私だって頑張ろうって思ってるのに、それを見て頑張ってない方がいいってさー」

 

 「あーでも、なんかちょっと香織先輩が言いたいこと分かる気がします」

 

 「夏紀ちゃんもー?」

 

 「あはは。だよね。何でだろうね?」

 

 「でも困り顔って男には人気ありますよ?困り顔、アヒル口、上目使い。この三つはモテる女子の三大変顔です。ソースは俺」

 

 「知らないよ。しかも三大変顔って……」

 

 ちなみにこの三つを使いこなす女は危ない。ソースは俺。中学の時、これにやられて踏んだ轍は数知れず。

 

 「はぁ。本当にみんな、私の覚悟をそうやって……。もういいや。とにかく私は頼りないから、あすかを連れ戻すのは皆で頑張ろう」

 

 小笠原先輩は呆れた様にふにゃりと笑った。香織先輩だけでなく後輩達にまでからかわれて、少し力が抜けたのかも知れない。

 

 「そうですね。それじゃあ考えましょうか。私たちで……うーん。なんか良い作戦名前ないですかね……」

 

 「あすか連れ戻すぞ大作戦!」

 

 「あはは。シンプルですね、香織先輩」

 

 「わかりやすくて良いでしょう?」

 

 「で、ですね」

 

 「じゃあ改めて『あすか先輩連れ戻すぞ大作戦』!頑張ろう。香織、夏紀ちゃん、比企谷君!」

 



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7

 「比企谷八幡君。私は今、怒っています」

 

 「えー……」

 

 「えーじゃない!私が言いたいわよ!」

 

 スマホ越しのノイズが俺の耳に届いたとき、向こうはご立腹だった。本人を前にしているわけではないので、体勢を変えずに布団に横になったまま声を聞く。今頃、カチューシャを髪につけて、もこもこのパジャマを着た優子先輩が頬を膨らませている。そう考えると少しだけおかしくて笑ってしまった。

 付き合ってからはこうして、夜に電話をすることが多い。スマホに向かって話すことなんて、基本的にアプリをやりながら『ちくしょう』だの、『またドブ……』だの、そういうのばっかりだったのに。関係ないけれど俺含め、スマホゲームで遊んでるプレイヤーの『もう二度とやんねえ』、『アンインストールするわ』は九割九分嘘だと思ってる。

 優子先輩は大体、風呂に入った後髪の手入れをしているときや、勉強中、寝る前あたりに電話をかけてくる。いずれも手が空いている時間らしく、話し相手が欲しいらしい。勉強中ってのはどうなのかと思うけれど、それこそ俺だって教科書開きながらゲームしてるし、人のこと言えませんね。

 

 「さっき夏紀から聞いたんだけど、なんで香織先輩と遊んでんの!?夏紀と放課後、話すとは聞いてたけど、香織先輩がいるなら私も呼んでよ!」

 

 「俺だって香織先輩と小笠原先輩が急に来ることになったって聞いたときは驚きました」

 

 「いつから知ってたの?」

 

 「駅ビルで北宇治が呼ばれる前には」

 

 「じゃあ私に教える時間めっちゃあったじゃん」

 

 「優子先輩、鎧塚先輩と遊び行くって言ってたじゃないですか」

 

 「みぞれとは遊んだよ。後、友恵と希美も一緒。皆でケンタ行ったの。でも私は香織先輩とも遊びたかった」

 

 「んな横暴な」

 

 俺たちもサイゼ。優子先輩達もケンタ。折角、普段は行かない京都駅まで行ったのに、どこにでもあるチェーン店をチョイスしているが、高校生の懐事情なんてもんはこんなもんだ。実際、お洒落なカフェだなんてそう行くもんじゃない。

 食べたチキンの話や、二年女子界隈の最新トークを聞きながら相槌を入れて、時計の針が半分を回る頃にはすっかり眠くなっていた。普段の練習終わりもくたくただが、今日みたいにいつもと全く違うことをするというのもまた別の意味で疲れる。普段人と話さない人が話そうとすると、妙に神経使って結果的には誰の記憶にも無理して話してた人の事なんてほとんど残っていないのに、その本人は満足して達成感と疲労がすごいみたいな。

 

 「もう眠いの?珍しいね。まだ結構早いのに」

 

 「はい。なんか今日は疲れが。さっき小町にも飯食いながら寝そうって、ちょっと怒られました」

 

 「どんだけ疲れてんのよ。しかもサイゼリヤでご飯食べてきたんじゃないの?」

 

 「サイゼはおやつみたいなもんです」

 

 「凄いな。流石男の子。じゃあ八幡が今日、三人とどんな話したのかは、明日朝練行く前に学校行きながら教えてよ?」

 

 「わかりました。とは言ってもそんな話すことというか、決まった事なんてないですけどね」

 

 「ふーん。そうなんだ。あ、最近風邪が流行ってるからちゃんと暖かい格好して寝ないとダメだよ?」

 

 「へーい」

 

 「後さ、明日からしばらくの間、練習で使う教室が変わるかもって話聞いてる?」

 

 「全く知らなかったですけど」

 

 「三年生の模試直前の補講みたいなのがあるらしくて。それでパートによっては普段練習してる教室が使えないからってことで、どっかのパートと合同とか廊下使ったりするみたい。噂だと、時間をパート練の時間を半分にして、残りの半分の時間を外で走ったりして調整するなんて話もあるけど」

 

 「全国前のこの時期に外周ですか?」

 

 「あくまで噂だけどねー。滝先生がそう言ったとか、出所とかは全くわかんないけど、ただそういう連絡が滞っちゃってるよね」

 

 そもそも連絡というか、決定自体が出来ていない可能性がある。基本的に普段練習で使っている教室が三年生の補講で使われるかどうかというのは、部長が顧問か副顧問に聞くなり、楽器毎に使う予定の教室の担任に、パトリが代表として確認するのだろう。そして次の段階で使えない教室があれば、その教室を使う予定だった楽器の練習をどうするか、パトリ会議で話し合う。

 

 「まあ、今はちょっと仕方ないかもしれないけどさ」

 

 

 

 

 

 「さて、まずは昨日の話を整理するところからだね」

 

 昼休み。学生にとっての労働から離れる貴重なその一時は、他のどの時間よりも和かな空気が流れている。不思議なもので楽しい時間と和かな時間はあっちゅう間に過ぎてしまうのだが、そんなかけがえのない時間を俺たちは作戦会議とやらに使っていた。偶然会って、ここまで一緒に来ていた中川先輩に話を聞いたところ、パトリや部長などの役職持ちは昼休みに会議をすることが多く、詰まるところ部長の小笠原先輩や田中先輩、それに香織先輩は大体の昼休みをこの会議室に宛がわれた空き教室で過ごしていたそうだ。

 俺も三年生になったら、そんな日が来るのだろうか。

少なくともついさっき教室に俺が入ってきたときはニコニコと、適当な椅子に腰掛けて俺に手を振っていた部長と会計。香織先輩は会計ってよりか、パトリって方が印象的だが。ともかくあんな風に笑顔で対応なんてことはできなくて、嫌々駆り出されて泣く泣くタスクをこなしているんだろうなぁ。大人になんてなりたくないやい。毎日が日曜日で学校が遊園地でやな宿題はぜーんぶゴミ箱に捨てちゃう、どきどきわくわくが年中無休なままでいたい。どっかーん!

 

 「とりあえずやることは大きく分けて二つっていうことだったけど、まず始めにあすかを連れ戻すために出来ることを考えようって方から。その方法を各自家で考えてきて貰うって話だったけど、何か良い作戦浮かんだ人いる?」

 

 小笠原先輩の言葉に手を上げる人は誰もいない。数秒待ってみて、だよねーと肩を落とした小笠原先輩はシャーペンを口元に運んで唇に付けた。悩んでいますよアピール。

 いるんだよなぁ、こうするのが可愛いと思ってる奴。いや、小笠原先輩がそう思ってやっているとは言わないけど。そんでもってまたいるんだよ。その仕草が妙にぐっときて、可愛いな、何とかしてあげたいなって思っちゃう勘違い系男子。

 うーんと、唸っているだけの時間が続いていたが、香織先輩が手を上に伸ばした。少し恥ずかいようで、控えめに上げている姿が控え目に言って可愛い。



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8

 「やっぱりあすかのお母さんにお願いするしかないと思うんだ」

 

 「それで肝心の方法は……」

 

 「実はね、耳寄りな情報があるの」

 

 耳寄りな情報。果たしてそれは一体。香織先輩はスマホを操作して、俺たちに見せてくれたのは、黄金色と焦げ茶色で塗られたようなの丸い物体。

 

 「これなんだけど、知ってるよね?」

 

 え、知らない。饅頭だよな。饅頭怖い。カロリー高いし、美味しいからついつい食べ過ぎちゃうけど、単価高いし。

 俺とは裏腹に、小笠原先輩と中川先輩はああうんふむふむと頷いている。

 

 「駅前の幸富堂の栗饅頭ですよね?」

 

 「おいしいよね、あそこの和菓子」

 

 「そうだよ。私もあそこの和菓子大好きなんだ」

 

 流石女子。甘いものと恋愛には目敏い。饅頭なんて外見に差がないはずなのに、言い当てる辺り細木○子さんでも驚く。古いかぁ。好きだったんだよなぁ。

 

 「あすかのお母さんも好きなんだって。これを買って持って行けば、許したりしてくれるなんてことは……」

 

 言葉尻が弱くなっていく香織先輩に俺たちは苦笑いで返す。物で懐柔する作戦は政治家さんやらお偉いさん達の基本だが、いくら何でもお菓子なんかで田中先輩の家族の問題が解決するはずがない。

 それに、そもそも純粋に田中先輩の母親に会いたくない。この中で誰も直接、その現場を見た人はいないが、大分職員室で滝先生と副校長と口論になったときはヒステリックだったという噂を聞いたし。

 ああいうのは余計に刺激してはいけないのだ。結構マジで、逆に田中先輩の立場を悪くすることになるかもしれない。

 

 「ダメかな?」

 

 「うーん。ちょっと難しいかもですね。でも秘密兵器って事で」

 

 「次、私もいいかな。昨日考えてみたんだけどさ、まずはあすかと話さないことには始まらないと思うの。私と香織、何回か話そうとしていつもはぐらかされちゃってるんだけど」

 

 「俺もそれに同感です。俺たちが持ってる情報が少なすぎて、何をするべきかが一向に出てこないですし」

 

 「うん。最低つかまえてでも……まあそれさえもうまく逃れちゃいそうなんだけどね、あすか。それにあの子は話せば楽になるとか、そんなタイプじゃないし」

 

 だが、話さないからと言って抱え込んでいる物がないなんてことはない。

 鎧塚先輩だってそうだった。寡黙な人でロボットのようだとさえ思ったこともあったけれど、傘木先輩に向ける溢れんばかりの感情が確かにあったのだ。

 

 「田中先輩が家庭の事情を解決する方法は置いといて、そもそも部活を続けたいという意思さえこの中に聞いた人はいないんですよね?それが分からずじまいだと、もしもう辞める決意が固いなら、俺たちがやろうとしてることは余計なお節介もいいところです。それにそもそも、退部届なんてもんは形上のものでしかなくて、部を続けるか否かは本人の意思次第。受理されようがされまいが、部活に来なければ受け取っているのと何も変わらない」

 

 「でもあすか先輩、お母さんが来たときに部活を続けたいから退部届を出さなかったんじゃないの?」

 

 「数週間前の話ですよ。受験勉強って言う自分の将来に関わる事情な訳ですし、家に帰った後話し合った可能性は十分にあります」

 

 「駅ビルにも来てたんだから辞めたいって事はないんじゃない?」

 

 「いや、それだって俺たちはサイゼで母に内緒で来たからすぐ帰ったって決めてましたけど、相談した結果、当日の自分たちの出番や平日の練習の決められた時間は参加できると談合してることだって考えられると思います」

 

 「うーん、可能性は低そうに思えるけど」

 

 「とにかく話は聞いてみるべきです。ネガティブなことばっかり並べましたけど、逆に話し合って上手くいってるなら本番は出られて、それに間に合うように部活以外の時間で練習をしている可能性だってあるんですから」

 

 「まあ、私も比企谷と部長が言うように、話をしてみるってのには賛成だな」

 

 「そうだね。……でも、さっきも言ったけどあすかは今回の退部騒動については頑なに話したがらないし、最近は私たち、ちょっと避けられてるように思うの」

 

 「じゃあ、一つ目の問題に関しては会って話すための場を作るって方向性で行こう。とりあえず私と香織はもう一回、ちゃんと話そうって声掛けてみようかな。二人はどうしよっか?」

 

 「私も低音パートのことで話があるって感じで、あすか先輩の教室をあたってみます」

 

 「俺はパスで。あの人とはほら……あれです。あれですから」

 

 「使えないなー。あすか先輩、逆に比企谷なら話してくれるかもしれないじゃん。こんなときまでコミュ障発揮しないでよ」

 

 「逆にってなんですか。そんな訳ないです。それにね、中川先輩。俺だってたまには普段あんまり話さない人と会話することだってあうんですよ?ペッパー君とかsiriさんとか」

 

 「どっちも人じゃなくてAIだし」

 

 中川先輩がこめかみに手を当てて溜め息を吐いた。苦笑いしている小笠原先輩の隣では、香織先輩がクスクスと笑っている。

 三者三様の反応。思えば、俺にしては本当に珍しく女子三人に囲まれた異質とも言える状況だが、そこまで居心地は悪くない。何とも不思議なメンバーが集まったものだ。

 

 「じゃあ比企谷君にはもう片方のやらなくちゃいけない方を頑張って貰おうかな」

 

 『早急!解決しないとリスト part1!』。

 ピンクの蛍光ペンで可愛らしく書かれているのは、一番上に書かれた題名だけで、その下の余白はびっしりと文字で埋まっている。実は話し合いを始めたときから気になっていたんですよね、これ。小笠原先輩は目の前に置かれていたノートの切れ端を持ち上げて、俺に見えるように掲げた。

 びっしりと綴られている解決しなければならないものというのは、もしかして俺への苦情?残念、違います。田中先輩がいなくなったことで部内に生じた様々な問題です。多すぎるんだよなあ。こうして見ると、如何に部の運営面であの人が貢献していたのかがわかってしまう。

 

 「このリストを片っ端から片付けてくの、手伝って?」

 

 「えー……」

 

 「えーって、協力してくれるんじゃないの?」

 

 「やろうとは思ってたんですけど、こうしてリストとかってのを見ると、どうも仕事感があって身体が受け付けないんですよね」

 

 「知らないよ。それに文化祭の時、もしまた部活で何かあったらその時はよろしくって言ったの、私まだちゃんと覚えてるよ?」

 

 しゅんと俯いている小笠原先輩を見ていると、先輩であるのに支えて上げたくなる。だが、余計な事には首を突っ込むな。あの時、俺にそう言ったのも小笠原先輩だった。

 とは言え、さっきまで話し合っていた田中先輩を連れ戻す案件と違い、こっちの現在発生している問題を解決するというのは、田中先輩が復帰を解決できなかったときのリスク管理でもあり、復帰できた場合に、余計な問題に手を煩わすことなく田中先輩が復帰するためのサポートでもある。今の俺たちが絶対に必要でやらなくてはいけない問題だ。

 小笠原先輩としても、田中先輩がいつでも戻ってこられるように頑張ろうと部員達を前に言った手前、このリストの解決は最重要課題とも言える。

 それにしても、こなすことが多すぎて……。

 

 「うーん……」

 

 「うぅ……。だからそんな嫌そうにしないでよぉ。お願いしてるのが私だからいけないの?」

 

 「ほら。比企谷のせいでまた晴香先輩落ち込んじゃったじゃん。ちょっとくらい大人の対応しなよ」

 

 「はっ。上司からの仕事を嫌な顔せず黙って受ける。もし、そんな社畜の精神を受け入れていくことを大人になるというのなら、俺は一生大人になんかならなくていいです」

 

 「すごい子どもみたいな事言うし。晴香先輩、言い方じゃないですか?先輩は部長で、比企谷は一年なんですし、もっとびしっと言ってやって方がいいのかもしれないですよ?」

 

 「そうなのかな?」

 

 「絶対そうですって。ちょっとやってみましょう!」

 

 面白そうだし、見てみたいかも。めっちゃ怖い晴香先輩。小声で呟いた中川先輩の言葉を俺は聞き逃さなかった。この人、先輩の普段見ない姿を見て楽しもうって遊びだしたぞ。しかも、部長に怒られる被害者俺だし!

 

 「やっぱり比企谷君と夏紀ちゃんって仲がいいよねえ」

 

 未だ落ち込む小笠原先輩の隣で、香織先輩がぼんやりと呟いた。

 



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9

 「そこ、まだちょっと早くないか?」

 

 「すみません」

 

 塚本がトロンボーンの三年生の千円先輩に注意されている。怒られているわけではないから、注意と言えば聞こえが悪いかもしれない。あそこ二人はトロンボーンの男子コンビで、仲も良いらしいし。

 

 「久美子ちゃんは?」

 

 「あー、さっき今日は学校休みますって連絡きました。ね?」

 

 「うん」

 

 「やっぱり風邪だったんだねぇ」

 

 「ですねー」

 

 朝から川島の声が聞けて、ちょっと嬉しい。

 低音パートの女子組、川島と加藤と二年生の先輩は黄前が風邪で休みだという会話をしていた。一昨日の夜に優子先輩が言っていた、風邪が流行っているというのはどうやら本当みたいだ。

 音楽室の入り口には、まだ朝練が始まったばかりだというのに、すでに上履きがたくさんある。楽器の音と話し声を流し聞きしながら、俺はトランペットを置いて小笠原先輩が作成したリストに目を通した。

 ……結局、与えられたタスクをやることになりました!どうも、社畜です!

 昨日の放課後にリストのコピーとかではなく、蛍光ペンで書かれた文字が怪しく光るこの原本を渡された。一応、昨日の夜に家で軽く目を通して来てはいるが、とにかく仕事量が多い。しかもどう考えても俺向きの仕事ではないものも多く混ざっている。

 例えば、この先日行われた駅ビルコンサートの活動記録をまとめる作業。吹奏楽部の部活報告でも使われるため、字数指定に加えて期限まできっちり決まっているのだが、担当の係などは存在しないため誰かが纏めないと行けない。ただ、こんなのは俺がやると言うことで全然構わない。でっち上げて提出するのなんかは得意中の得意分野だ。来場者が盛り上がってたという旨を入れてしまえば残りの内容はどうあれ、とりあえず最後に『来年は今年度の反省を活かす』という一言を入れる。

 嫌なのは、余所の部活との校庭の使用に関する調整。自己完結で終わる作業であればいいのに、こればっかりはそうはいかない。それから、こんなことまでやらなくちゃいけないのかと思ってしまう、部員個人からのクレーム案件。いや、自己解決して。他人に救いを求めないで。そもそも『早急!解決しないとリスト part1!』って書いてあるけど、こんな個人間の話は早急でもないし。もっと他に考えなくちゃいけないことたくさんあるから……。

 

 「はぁ」

 

 「溜め息ばっかり。何か手伝おうか?」

 

 「ああ。すいません。別に大丈夫ですよ。はぁーあ」

 

 「全然大丈夫そうじゃないけど」

 

 一昔前に日本女子テニス界の偉人が試合中に観客に向かって言い放ったことで流行った言葉と同じことを言いながら、隣でトランペットを手に持っている優子先輩が少しだけ笑う。面倒見が良い人だと分かっているから、思わず頼りたくなってしまう。それにこの中のいくつかは俺なんかより、人付き合いの上手い優子先輩の方が適任だ。

 実は、と切り出そうとしたところで思わぬ声が掛かる。

 

 「いいよ。私が手伝うから」

 

 「中川先輩」

 

 「はぁー?あんたと話してないんですけど?私は今、比企谷と話してんの」

 

 「聞こえて来ちゃったからさ、あんたがお手伝いとか言ってお節介しようとしてんのが」

 

 「あんただってさっき、私が手伝うって言ってたじゃない。そっちこそお節介でしょうが」

 

 「違う違う。私は関係者だから。なんなら、私たちのどっちが比企谷の役に立てるか、勝負してみる?」

 

 「笑わせないでよね。私とはち……比企谷はパートだって一緒だし、ぽっと出のあんたなんかに負けるわけないでしょう?」

 

 やめてー!朝からこんなところで喧嘩しないでー!

 近くで真面目に練習していた滝野先輩がすっと距離を取る。わかる。それが正しい反応だ。俺だって本当なら、今すぐにいなくなってしまいたい。

だが、この二人、何を思ったか俺を挟んで喧嘩している。端から見たら、立ち上がって口論している様こそ日常茶飯事であっても、その間に座っている俺はさぞ小さく見えている事だろう。

 二人のせいで注目が集まってるのが嫌すぎて、原因となった中川先輩を見やる。俺の目線に気が付いた中川先輩はごめんと手を顔の前で合わせて、けれども顔はしてやったりと申し訳なくなさそうにへらへらと謝った。

 

 「ほら、比企谷が昨日受け取ったリスト、結構多くて大変そうだったからさ。素直に手伝おうかなって思ってきたんだけど」

 

 「だからって優子先輩を焚き付ける必要なかったじゃないですか」

 

 「癖みたいなもんなんだ。ごめん」

 

 「本当にごめんですから。それに別に中川先輩は俺の手伝いとかしなくて良いですよ」

 

 「えー」

 

 「ほらー!あんた、八幡に断られてるじゃない!」

 

 優子先輩、出てる出てる。呼び方が出ちゃってる。

 俺が見ている限りではある、というか多分そうなんだけど、この二人のやり取りの勝者は大体中川先輩だ。だからなのか、やけに嬉しそうにきゃいきゃいと笑う優子先輩。

 

 「なんでよ?優子と二人でやりたいの?うわー、私情じゃん」

 

 「違いますよ。中川先輩はもしかしたら田中先輩の代わりにコンクールに出るかもしれないんですから、他の誰よりも練習しないと」

 

 当たり前だが、最初からAメンバーでやってきた他の五十四人と違って、中川先輩はBメンバーの練習に参加していたためコンクールで行う課題曲と自由曲の練習時間が極端に短い。昨日、このリストを小笠原先輩が中川先輩に振らずに俺だけに任せたのは、そこを踏まえてのことだったはずだ。

 昨日集まっていた四人の中で、中川先輩はひたすら練習を積み重ねて、小笠原先輩と香織先輩は部長と会計の最低限のタスクをこなす。そして三人はそれ以外の残った時間を、細かな問題や田中先輩が帰ってこなかったときの地盤を固めておくことは俺に全部ぶん投げて、出来るだけ田中先輩を復帰させるために尽力する。

 それで構わない。三人の手を空けることが、俺の在り方。

 田中先輩に似た陽乃ちゃん。そして、そんな彼女に手を伸ばせなかった俺だからこそ、たった一つだけ確かにわかることがある。

 この間、田中先輩に言ったことだが、このままではきっと三人は後悔する。何も行動できずにいたことをいつまでも。けれど俺とは違って、このまま田中先輩が部に戻ってこないのではないかと不安に駆られる三人は、まだ手が届く場所にいるのだから。

 

 「こっちのことは適当に何とかしときますから。気持ちだけは本当に有難く受け取ってきます」

 

 「でも……」

 

 「ほら、断られたんだからさっさとどっか行きなさいよ。あんたの協力なんて、さっき自分が言ってた通り、ただのお節介だって言ってるんですー。お・せっ・か・い。……それにあすか先輩の代わりはあんたにしかできないんだから」

 

 「へぇ。優子、知ってたんだ」

 

 「別に誰かに聞いたわけじゃない。けど、希美とあんなに遅くまでコンクールで演奏する曲の練習をしてたら、誰だってもしかしてって思うでしょ。それなのにあんた、もっと無理しようとしてどうすんの?大体ねぇ、そういうときは……」

 

 「……」

 

 「……な、なによ?」

 

 「もしかして心配してくれてんのー?」

 

 「はあぁー!そんな訳ないでしょ!希美が言ってたの!希美が!」

 

 「照れるな照れるな」

 

 「うっざ!うっざ!」

 

 中川先輩が優子先輩の肩に手を回す。『何くっついてんの!』と、解こうとする優子先輩にケタケタと笑う中川先輩。

 また始まった。誰かの声が聞こえて、俺は心の中でだけ頷いた。

 



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10

 「失礼しましたー」

 

 職員室を出て、すぐに仕舞っていたリストにチェックを入れる。こうしてまた一つ、タスクを終えた。

 次のリストを確認すれば、そのタスクの残数にまた溜め息が出た。

 

 「うぇ、キモ……」

 

 「本当だ。こっわ。あの目、どうなってんの……」

 

 「……」

 

 いや、泣いてない。八幡、泣いてないよ。

そんなに酷いもんかと窓に映る自分を見てみれば、自分でもわかるくらい目が腐っている。見慣れたはずの自分が自分ではないようだ。改めて、やっぱり俺ってつくづく仕事ってもんが向かない。昨日、優子先輩が俺のタスクを幾分か持って行ってくれなかったら、今頃俺の目、腐って溶けてたんじゃないの?

 げんなーりとしつつも、こんなことを考えている時間も勿体ない。そう考えて、次のタスクに目を落とす。

 

 『依頼、写真係。パソコンの使い方がよくわかりません。撮った写真は保存できてるのかな?』

 

 知らんわ。

 

 『SDカードとかUSBとか……。何処に指したら良いんでしょう?』

 

 はぁ?こいつ馬鹿なの?今時、パソコンを使って画像が保存できてるのかもチェックできない奴がいてたまるか。ぜってえ、仕事押しつけたいだけだろ。ふざけやがって。こっちはそんなのに構っている余裕なんてないってんだよ。大体、なんでそんなこともできない癖に写真係になったわけ?最初の係決めの時にちゃんと説明されただろうが。写真係はカメラを使っての撮影だけじゃなくて、撮った写真の中からの選定とか編集の作業もあるからパソコンを使いますって。あーあ。誰だよ、このクズ。こういう奴、マジで嫌いなんだよなー。

 

 『同じ係の皆にも聞いたんですけど、カタカナばっかりで何言ってるのかわからないし、だけど何回も聞いてると申し訳ないので……。同じ楽器の人に聞こうにも、コンバスには一人しかいないから……。申し訳ないんですけど、教えてくれませんか?』

 

 「よーし!頑張るぞーっ!!」

 

 

 

 

 

 

 「比企谷君、わざわざありがとうございます」

 

 「いや、別にこのくらい大したことないというか。また何か困ったら、いつでも俺だけを頼って欲しいというか」

 

 一通り、写真係のタスクをこなすのに必要と思われるパソコンの指南を終えれば、川島は何度も何度も頭を下げてくれている。その度にふわふわりんと靡いているベージュ色の猫っ毛がキラキラと輝いていた。

 やっぱり、パソコンって使い方難しいからね。普段から使わないと物置くための箱にしか見えないし。うん。むしろパソコン使えない女子って可愛くね?違うな。パソコン使えない川島って可愛い。今だって、一つ画像見るためにクリックするまで消えちゃわないかなって手がぷるぷるしてるの。川島はいい子だし天使だから、係決めの時だってちゃんと説明聞いた上で写真撮るのが好きだから、パソコン使えなくても写真係になったんだろうな。パソコンも出来るようになろうとしたのかもしれないと思うと、その向上心にぐっと涙がこみ上げてくる。

 エモエモのエモ……。あー、最近部活が忙しいからアニメを追っている時間の余裕がないせいで、オタクは卒業したと思っていたのに。推しのアイドルが新曲を出したり、目の前で歌っているどころか口を開くだけで勝手に簡単にエモくなる。そんな彼ら彼女ら巷で言うオタクと、川島を前にした俺は何も変わらない。比企谷八幡はずばり、オタクである。

 さて、用事は済んだし次だ次。呪いの書を見て、川島からの依頼にチェックを付けた。不思議と職員室を出てから終えた事は一つしかないのに、気が楽になった気がする。ベホマかな。

 ただ実際はそんなことではなくて、川島からの依頼が純粋に長かっただけでした。川島からの依頼の記載は、依頼したと思われるその時の会話をそのまんま書かれていた様な感じだったから。部長、紙に依頼を纏めるときは要点だけを簡潔に纏めるようにして下さい。

 

 「俺は行くわ」

 

 「もうですか?もうちょっとゆっくり」

 

 「ゆっくりって言ったって」

 

 少しだけ笑いながら再度、教室を見やる。黒板やロッカーの位置や机の並び方。この教室に関わらず、どのクラスの部屋も自分の教室と似たような作りになっているはずなのに、全く違う場所のように感じられて不思議だ。

 今日の低音パートに宛てられた教室には川島を含めて、四人しかいない。楽器に至っては、コンバスとチューバの二種類。川島に使い方を教えているときからそうだったが、コンバスの音が聞こえない以上、耳に入ってくるのはチューバの、重く単調と言えば単調なメロディーのみが空いているスペースが目立つ、どこか寂しい景色の中を駆け巡っていた。

 

 「夏紀先輩なら、別のところで練習していますよ?」

 

 「ああ。別に中川先輩を探していたわけじゃない」

 

 「そうですか。誰かを探しているみたいでしたので。今日の合奏練習はあすか先輩だけじゃなくって久美子ちゃんも風邪でお休みだから、夏紀先輩がユーフォに入るんです。昼休みに部長から言われたそうで、すぐに個人練に向かいました」

 

 そうだったのか。それなら朝の時点では優子先輩と喧嘩しながらも、俺が小笠原先輩から貰ったリストを手伝おうかなどと言ってくれていたが、もし頼んでいたとしても今日は練習に追われて無理だったかもしれない。余計な負担をかけることがなくて良かった。

 

 「夏紀先輩も難しいですよね。急にAメンバーとして加わって下さいなんて」

 

 「そうだなー。低音、こないだ橋本先生が来たときの練習、集中砲火されてたし」

 

 「やっぱり、その……」

 

 「ああ、うん」

 

 田中先輩がいないことを確認するかのように、俺たちのすぐ近くの誰も座っていない椅子を見つめた川島を見て、しまったと後悔した。

 特に低音の中でも黄前一人のユーフォは、本当に吹いていたのかなんて言われていた程だった。田中先輩の不在を意識させるようなトークを選んだ挙げ句、返す言葉も見つからない俺は、反省も兼ねて教室を出ることにする。

 

 「とにかくそんな訳で、もう行くから。低音は何かとごたついてるから、川島も俺なんかと話してないで練習した方がいいだろうし」

 

 「むぅー、比企谷君だって自分の練習あるのに、部長達のお手伝いしてるじゃないですか。なんならみどりも手伝いますよ?」

 

 「いや、これは気にすんな。一人でやってる訳じゃないし」

 

 「そうなんです?」

 

 「優子先輩が手伝ってくれてる」

 



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11

 からり。話ながらも教室の扉に手をかけて、少しだけ開いたところで制服の裾を掴まれた。

 

 「くんくん……」

 

 え、突然どうしたの?わんちゃんごっこ?川島がペットになるってことはつまり、俺が今日からご主人様。返事はわん。ご褒美にあんなことやこんなこと。そんなワンダフルなわんちゃんプレイをワンチャン狙っちゃっても……げふんげふん。

 

 「……比企谷君」

 

 「は、はい……」

 

 「ねえねえ、知ってますぅ?」

 

 何?豆し……、さふぁしば!夢の中のさふぁしばと同じ台詞が、今目の前で!

 いやー、いつか夢でまた出てこないかなんて思っていたら、まさか現実の方に出てくるなんて。2.5次元の人気の風潮はこんなところにまでやってきていたのか。

 心の中で興奮しながらも、くだらないことを考えていた俺に、川島が妙に得意顔で豆知識を披露する。

 

 「恋って匂いがするんですよ?」

 

 「は、はい?」

 

 思っていたよりもずっと突拍子もないことで、夢の中のさふぁしばよりもずっとくだらない事だった。

 

 「だから、恋って匂いがするんです。これは科学的にも立証されていて、えーっと潜在的なふぇろ……あれ、何だったかな?」

 

 フェロモンの事だと思う。ただ、フェロモンは今川島が言おうとしていた通り潜在的なものだから、こうやってくんくん犬さんみたいにしたところで、香ってくるのは小町が安いからと詰め替え用で買ってきている某メーカーの洗剤の匂いだけである。

 

 「とにかく、間違いありません!」

 

 「そんなこ――」

 

 「恋!?」

 

 「うおぉ!」

 

 目をキラキラさせた川島の後ろで、真面目に練習に取り組んでいた加藤ががばっと振り返った。

 真面目に練習してたから、教室に入ってきたときに挨拶をそこそこに、話し掛けたりとかしないようにしていたのに。

 意外なことに、加藤がチューバを置いたのを見て、加藤の正面に座っていた女の先輩も興味ありげに寄ってきた。確か、この先輩は……長瀬先輩と言った気がする。よく、目の前の二人から梨子先輩という名前を聞くが、上の名前はこれであっていただろうか。

 クリック一つですぐ簡単、そう、アマ○ンドットコムならね。と言わんばかりの勢いで、川島の言葉をきっかけに詰め寄られた。どうしてこんなときばっかり、この人達こんな早いの?

 

 「そのような事実はこちらは把握しておりませんが」

 

 「何でそんな口調なの? あ、さては誤魔化してるなー?」

 

 こいつ、こういう時だけ……。

 

 「あるっしょ?あるっしょ?」

 

 「うざい。早く練習しろ」

 

 「辛辣!?なんで私にだけ!みどりにはあんなにデレデレしてるのに!」

 

 「比企谷君、相手は誰ですか?」

 

 「いや相手って、だからね。そもそ――」

 

 「それは優子ちゃんだよね。噂、二年生の間でちょっと広まってるもん」

 

 「梨子先輩!なんですかそれ?」

 

 「うん。文化祭の時、二人で回ってたって」

 

 「う、うおおぉぉおぉ!」

 

 小町と一緒だったから二人でなんか回ってない。少なくともあの日の夜までは優子先輩と二人だったのなんて、小町を送った後の一瞬だったはずなのに。

 

 「それに滝野君が盗撮してたのを、比企谷君が守ってあげたんだって。滝野君は最後、比企谷君に向かって叫びながら実行委員に連行されていくところが目撃されていたそうです」

 

 「うあああぁぁぁぁああああ!」

 

 「でも、本当に最近、比企谷君達の距離が昔より近くなった気がします。みどりは合奏練の時、端の方じゃないですか。なので皆のことがよく見えるんですけど」

 

 「やっぱそうだよねー」

 

 「はい。オレンジ一個分って感じです」

 

 それは話に尾ひれが付きまくっている。そして、加藤がさっきから五月蠅い。

 うーん、困った。当事者である俺のことはさて置いて、三人のトークはどんどん加速していく。女子らしいきゃぴきゃぴというか、たぴたぴしている雰囲気に俺のメンタルはへし折れ掛かっていた。

 誰か助けてー。少し離れたところで、まだチューバを構えたままの数少ない男子部員に視線を向ける。穏やかで無愛想な顔。正直な所地味な人だし、入部してからだって話したことはほとんどないが、大きな楽器と大きな身体は嫌でも目立つ。後藤先輩だ。

 

 「ほら、加藤。今日は早く練習終わらせて、試験勉強するんだろ?」

 

 「うっ……。そうだった。次は赤点取らないように、梨子先輩と後藤先輩に教えて貰わないと……」

 

 びしっと親指を上げた後藤先輩が輝いて見える。ろくに話したこともない俺に助け船を出してくれるなんて。よく、吹奏楽部の男子部員は謎の結束力があるなんて聞く度に、迷信であると鼻で笑ってきた。迷信だと言う証明をこれまで自らの存在で立証し続けていましたが、今日でその俗説は真実だと学びました。

 あの人は後藤先輩じゃない。ゴッドう先輩だ!

 

 「あ、みどりも一緒に勉強したいです!」

 

 「うん。勿論だよ。いいよね、葉月ちゃん?」

 

 「はい。久美子も近いうちにあすか先輩の家で勉強会するって言ってたし、次の試験、私たち悪い成績は取れないですねー」

 

 「いや、加藤以外の二人は成績、そんな悪くないだろう」

 

 笑い合っている低音パートメンバー。

 

 「あのさ、川島」

 

 「はい、なんですか?」

 

 「黄前、田中先輩の家行くのか?」

 

 「ええ。あすか先輩に誘われたんだって聞きました」

 



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12

 今度こそ低音パートの教室を出て、音楽室に向かっていると、窓の外を眺める見慣れた人がいた。

 夕日に照らされた艶美な黒髪の下の切なそうな表情は、ちんけな言葉だけれども、本当に絵の中で悲しみを抱え続ける令嬢のようだとさえ思える。何度も今日と同じ放課後の時間に見てきたその姿を見る度に、俺の心臓は高鳴った。それはきっと誰にも最後まで話すことはないだろうけれど、優子先輩と付き合ってからも変わらない。

 

 「何見てるんですか?」

 

 「あ、比企谷君」

 

 香織先輩は俺に話し掛けられて少しだけ驚いた。制服がひらりと揺れる。

 

 「さっきまで校門に向かってね、あすかが歩いてたんだ」

 

 「……」

 

 「探してたんだけど見つからなくってさ。もう諦めようと思って、廊下を歩いてたら偶然窓の外にあすかがいたから、せめて見送ろうって」

 

 香織先輩と同じように見つめた窓の先には、もう誰もいない。夕日に照らされたグラウンドの土が赤く燃えているだけなのに、香織先輩は口角は上げたまま、ただずっと見つめていた。それがまるで何かに縋るように見えて、香織先輩と同じように何処かに目を逸らして、俺は堪らず口を開く。

 

 「思わぬ収穫がありました」

 

 「うん?」

 

 「田中先輩が、テスト勉強で一年の黄前を家に呼ぶそうです」

 

 「……」

 

 「……」

 

 「……そうなんだ。良かった。でも、ちょっと意外かな」

 

 「俺もです」

 

 田中先輩と如何にしてコンタクトを取るか。黄前という意外な収穫は確かに喜ばしいことだ。けれど今、俺の中に残っているのは、なぜ黄前なのだろうという単純な疑問だった。

 この間、香織先輩や小笠原先輩が話していた事だが、田中先輩は部員達とプライベートで深く関わろうとしてこなかった人間だ。そんな彼女がよりによってこのタイミングで、黄前を家に呼ぶと言うことがただ、テスト勉強だけのためだなんて、事情を少しでも知っている人間なら誰も思わないだろう。

 自分よりも部内の職位が上で、部活のことを考えればまず真っ先に全てを告げるべき相手である小笠原先輩。一年以上の間、同じ楽器の後輩として世話を焼いてきたはずの中川先輩。そして、端から見たらもはや愚直とさえ言えるくらい田中先輩の傍にいることを望んでいる香織先輩。その三人の誰でもなく黄前を選んだのだ。

 黄前という人間と俺は深く関わったことはないけれど、幼馴染の塚本やよく一緒にいる高坂。同じパートの川島と加藤と、何かと関わる奴らの中から頻繁に聞く名前ではある。けれど、至って平凡というかあまり特筆するようなこともない人柄のはずで、少なくとも部内における責任も、田中先輩と部活の時間において関わっていた時間も、本人への想いも他の三人の方がそれぞれ上なのではないか。

 勿論、人間関係なんて立場とか時間とか思慮とか、そんなもんだけじゃ片付かない。どれだけそれがあったって、恨むこともあれば嫌うこともある。それが煩わしいから、人と関わりたくないと距離を置いて、独りという殻の中からその痛々しさを見てきた俺が言うのだから間違いない。

 

 「それ、間違いないの?」

 

 「低音パートのやつらが言ってたんで間違いないですね」

 

 「じゃあ、どうして夏紀ちゃんは知らなかったんだろう?」

 

 「あの人、最近低音パートのメンバーと一緒に練習してないからだと思います。傘木先輩と空いている教室で吹いてるから、いない時間がどんどん増えてきたって聞きました」

 

 「そっかあ」

 

 「かもしくは、中川先輩がただただ除け者にされてるって可能性も……」

 

 「ふふっ。そんなこと、あるわけないでしょ」

 

 先輩はくるりと振り返って、両手を背中で組んだ。安心したような、けれども何かに傷ついているようにも見える細められた目元を見ていると、やりきれない感情がふつふつと湧いてきた。顔が見えなくなったことに、少しだけ安堵してしまう。

 だから、この人には一番伝えたくなかった。これを聞いた香織先輩が、こういう表情をすることはわかっていたから。

 

 「香織先輩って本当に――」

 

 田中先輩の事が好きですよね。

 しかし、俺が続けようとした言葉は、香織先輩に遮られた。

 

 「好きだよ。大好き」

 

 これは、愛の告白だ。

 堂々と大胆で、あまりに真っ直ぐな言葉は、自分に向けられたものではないと知りながら、それでも胸の奥がきゅっと締め付けられた。静かに俺に顔だけを向き直した香織先輩は、冬の日の夜空の様に澄み切った表情で、それを見た瞬間に俺は目頭に何かがこみ上げてくる。

 同情するな。香織先輩の感情は、香織先輩だけの物なんだから。田中先輩への想いを勝手に品隲することも、これだけの慈愛を抱きながらも、選ばれたのが黄前だったことに臍を噛むことも俺がするのはまちがっている。

 だから誤魔化すように、慌てて言葉を紡いだ。

 

 「……どうして?どうして、香織先輩はあの人にそこまで……」

 

 突いて出たのは、今聞くにはあまりにも残酷な言葉だった。自分でもそれはわかっていて、けれどこんな時にすみませんと謝ることはせずに、香織先輩の答えを聞くために続ける。

 

 「今になって聞くことではないです。俺はこれに関してもう、先輩達に協力することを決めたのに、なんでこんなこと言うんだろうって思われても仕方ありません。だけど、そう言えば聞いたことなかったなって」

 

 「……」

 

 「正直なところ、前に小笠原先輩が言っていたように、部活って誰かに頼り切るものじゃない。でも、視点を変えてみれば、誰か一人を部活に戻すために躍起になってるのだって同じように部活ってそうじゃないって言えませんか?とは言え、あの人を部活に戻すのにはきちんと理由がある。部員のモチベーションと運営の崩潰を止めるためです。ただそれだって、冷静に考えれば、最後のコンクールが近付いている以上、どうしたって各々でモチベーションは上がったはずです。同じように運営だって、滞りこそすれど止まることは決してない。今だってそうじゃないですか。脚を引きずって歩いて、何とかやれています。あの人は確かに良く出来る人で、部活に欠かせない人ではありましたけど、ここまでの労力を払ってまで復帰させるべき人なのか」

 

 「ううん。ダメ」

 

 はっきりと首を振って、香織先輩は俺の言葉を否定した。

 

 「他の皆は、もしかしたら比企谷君の言う通り、あすかがいなくても前を向けたのかもしれないけど、私はあすかがいて欲しい。最後まで一緒に吹きたいの」

 

 「……」

 

 「こないだ皆で、あすかは特別なんかじゃないから皆で助けようって話したけど、私はやっぱり、あすかは特別だと思うの。実はね、私が初めて仲良くなりたいって思えたのはあすかだったんだ。初めて会ったときから他の誰とも違くって。あすかってさ、何でも見透かしてそうじゃない?」

 

 「はい。本当に……そう思います。何度も感じました」

 

 「でしょ?だからこそ、あすかを驚かせたい。あすかの考える私の、一歩先に私がいたい」

 

 「……そうですか。難しそうですね」

 

 「だよね。だけど、なんでだろうね。そう思っちゃったんだ。だから早く戻ってきてもらって、私のことちゃんと見てて貰わないと」

 

 場所も時間も違うのに、ふと、再オーディションを終えたときに香織先輩と二人で話したことを思い出した。

 思えば、香織先輩から初めて貰ったものは多かった。シーズンでない焼き芋を探すのを遊びというのかはいまいちだが、それでも放課後に誰かとどこかへ行ったのも、頭を撫でてくれたのも。

 もう八幡の初めてを貰ったんだから責任取ってよね!なんて冗談を思いつつ、当たり前だがこの人だっていつまでも俺の傍にはいてくれない。結果がどうあれ、全国が終われば三年は部活を引退し、半年ほどで卒業してしまう。

 目の前でその最後のコンクールに向けて大切な人を連れ戻すという先輩を見て、まだ考えることも出来ない来年度のことが不安になって、けれどそれ以上に、やっぱりいつかと同じようにこの人の望みを叶えたいと願う。

 

 「やっぱり黄前さんがあすかの家に行くなら、幸富堂の栗饅頭かなって思うんだけどどうかな?」

 

 「秘密兵器ってことでしたからね。いいんじゃないですか?」

 

 「だよね!後は何か私たちにもできることはないかな?」



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13

 「あ、いた!香織!比企谷君!」

 

 香織先輩と二人で小笠原先輩と中川先輩を探して歩き回っていたが、当の部長に呼ばれて振り返る。登り途中だった階段の数段下には中川先輩もいた。

 大方、練習で使われていそうな場所は回ったのに、どちらも見つからなかったこと疑問を感じていたが、向こうも二人セットで俺たちのことを探していたみたいだから、入れ違いになっていたのかも。両手はポケットに突っ込んだまま、香織先輩の少し後ろを歩いて、二人の元に向かった。

 

 「良かった。晴香と夏紀ちゃんのこと探してたんだ。二人は一緒にいたの?」

 

 「はい。職員室に呼ばれてて」

 

 「そっか。それじゃ見つからなかったね」

 

 流石に職員室に二人でいるだなんて思わない。完全にノーマークだった。見つからなくても仕方なかった、とそんなような意味を込めて笑いかけてきた香織先輩に、俺は曖昧に頷いてみる。

 

 「比企谷君が良い報告を持ってきてくれたの。二人にも伝えようと思って」

 

 「良い報告ですか?」

 

 「うん。あのね」

 

 「あー待って待って、香織!」

 

 小笠原先輩はぱたぱたと手を振りながら香織先輩の言葉を止めた。

 

 「実は私たちからも二人に報告があって……」

 

 「……悪い報告ですか?」

 

 「えっと、まあ……」

 

 「うん。良くないこと」

 

 言い淀んでいた小笠原先輩に代わって、中川先輩はマイナスであると言い切った。

 

 「さっき職員室で、滝先生に言われたんだけど――」

 

 

 

 

 

 「田中さんが今週末までに部活を続けていく確証を得られなかった場合、全国大会の本番は中川さんに出て貰うことにします」

 

 翌日の練習の終わりに滝先生が告げた言葉に、部員達はざわざわと声を出すことはしなかった。

 誰もが分かっていた。その可能性を予測していなかった訳ではない。だから、それを受け入れなくてはいけないことはわかっているのだ。

 どこか呆然としながら、教壇から降りて音楽室を出て行く滝先生を、部員達はただ見つめている。俺も昨日、小笠原先輩と中川先輩から聞いていなければ、同じ反応をしていたかもしれない。

 

 「皆、あすかのことでビックリしたかもしれないけど、今は私たちが出来ることをするしかないよ。明日の連絡をして、今日の部活を終わりにします」

 

 代わって教壇に立った小笠原先輩が話をしても、どこか上の空な雰囲気。ちらりと隣を見てみれば、優子先輩はじっと中川先輩を見つめていた。

 滝先生の宣告は田中先輩を連れ戻すのに時間がない。そしてそれはつまるところ、田中先輩に呼ばれた黄前が、実質俺たちにとってのラストチャンスであることを意味している。

 黄前が田中先輩を説得する、もしくは何らかの情報を得て解決策を見つける。それが出来なければ、少なくとも俺たちがこれ以上に何かをすることはできない。あの人が家庭の事情を自らで解決しなければ、もう戻ってくることはないのだろう。

 分の悪いベットをして、後はただ祈るだけ。崖っぷちの時こそ賭けの目?違う。賭けざるを得ないだけだ。黄前が成すために、俺たちは何かをする訳ではない。昨日の放課後に四人で集まって話してみても、黄前をフォローする具体的な案はもう出てくることはなかった。

 

 「さっき滝先生が言ってた、あすか先輩の来週までの期限。本人も了承してるらしいよ」

 

 「……ほう。別に聞いてないんですけどね」

 

 「興味なかったら聞き流して構わないけど、気にしてそうだったから」

 

 「なにお前、もしかして俺のこと心配してくれてるの?」

 

 急に話し掛けてきて。意外といいやつだもんな、こいつ。

 

 「別に。ただ腐った目で久美子のこと見てたから。やめて。久美子が呪われる」

 

 訂正。なんだ、こいつ。

 普段は無表情なくせに、少しだけ口角を上げている高坂さん。誰もが認める美少女が楽しそうで何よりです。けっ。

 

 「黄前なんて見てねえ。中川先輩見てたんだよ」

 

 「中川先輩の楽譜見た?あすか先輩から凄いアドバイス受けてたみたい」

 

 「見てねえし、さっきからなんでお前そんな詳しいわけ?」

 

 「楽器管理係の仕事してたときに、一年生のホルンの子があすか先輩のこと色々教えてくれた」

 

 「ああ。あの、聞いちゃいましたのやつ?」

 

 「わかんないけど、多分その子」

 

 今となっては懐かしい思い出がフラッシュバックする。高坂が滝先生と以前から親交があったらしいと言う噂をしていた彼女を、優子先輩が半ば強制的に話をさせたんだっけ。あの人、怖かったなあ。

 

 「ねえ、比企谷」

 

 「あん、なんだよ?」

 

 「私は滝先生の判断、正しいと思う。不確定要素を抱えたままコンクールに臨むべきじゃない」

 

 「そうだな」

 

 「それでも戻ってこれたらいいけど。前も話したよね」

 

 「ああ。そういやそんな事もあったわ。勝手に解決して戻ってくりゃ良いってやつだっけ?」

 

 あの時はまだ、田中先輩が練習に顔を出さなくなってすぐだった。駅ビルコンサートに参加したことや、あの人自身の心配はかけないという言葉もあって、ここまで大事になるなんて思っていた部員はそう多くなかったのではないだろうか。

 小笠原先輩の連絡事項が終わり、今日の練習はとりあえず終わった。とりあえず。

 合奏練が終わった後も、個人練習を残ってするため帰宅する部員はいない。強いて言えば、三年生は受験が控えているためにどうしても塾に行かなくてはいけない人もいるかもしれないけれど、今、楽器を持って音楽室を冴えない表情で出て行った部員達もどこかで練習をしているのだろう。

 普段は少なくともパートのメンバーでは一番に立ち上がって、音楽室を出て行く高坂はトランペットを持ったまま動こうとする気配はない。まだ俺との会話を続けるつもりみたいなので、仕方なく付き合ってやることにする。

 

 「久美子、最近色々と悩んでるみたいだから。その一つがあすか先輩の事。同じパートだし、コンクールだってあすか先輩が戻ってくるかどうかで、夏紀先輩とどっちが隣に座るか変わってくる訳だから気になるのは当たり前だけど」

 

 「さっきから久美子久美子って……。お前さっきからそればっかだな。あいつ、お前にとっての何なの?」

 

 「ふふっ」

 

 ……意味深。

 まるであいつのことなら何でも知ってるぜ、みたいな勝ち気な表情で笑っている高坂は、どこか挑発的にも見えた。いいぜ。それならその勝負、乗ってやろうじゃねえか!

 

 「なあ、黄前ってどんな奴なんだ?」

 

 「塚本の幼馴染」

 

 「その俺でも知ってる情報じゃなくって」

 

 「性格悪い」

 

 「へ?お前、急に俺の悪口言うの辞めろよな。軽い気持ちの一言で、帰り道に車道に飛び出すことになる」

 

 『比企谷……死んだ方が良いんじゃない?』。

 これでもかという位、見下されて放たれた言葉。死ねとか言うな。ミミズだってオケラだってアメンボだってみんな生きてるんだぞ。声に出すことはなくても、せめて内心でふざけていないと、切れ味抜群のナイフに涙しそうになった。

 中学の時のことを思い出して心の中で涙を流す俺に構わず、高坂は黄前の話を続ける。

 

 「中学生の時だけど、私がコンクールの結果発表が終わって落ち込んでたら、本気で全国行けると思ってたのって。一番痛いときにぽろっと言葉になって出てくる」

 

 「ほー」

 

 「それに普通のフリして、どっか見透かされてる。気付いてなさそうで気付いてる。久美子ってそういう人。だから私はいつか、その皮を剥がしてあげたいの」

 

 「あのさ、俺が言うのも変な話なんだけど、その友情関係歪みきってない?ねえ?」

 

 「普通よりはいいでしょ?」

 

 「どうだか。それにしたって、お前から入ってきた情報が比較的マイナスな話しかないんだけど。本当、なんでそんな奴と付き合ってんの?」

 

 「ううん。久美子はいい子だよ。本性が悪いだけで。それに自分のことMだとは思わないけど、痛いのは嫌いじゃないし」

 

 やめてぇ。急に謎のDV気質見せつけてこないでぇ。どう反応して良いかわかんないから。

 口をもごもごと動かしている俺の隣で、高坂の瞳が静かに俺を捉えた。しばらくじっと見つめられて、無言の後に高坂が口を開く。

 

 「思えば久美子って、比企谷とは真逆みたいな人かもしれないね」

 

 自分の言葉にしっくりきているのか、高坂にしてはかなり珍しく何度か首を縦に振っている。

 

 「黄前、いいやつなんだろ?それじゃ俺は悪いやつじゃねえか」

 

 「真逆な部分もあるって話。性格というか、内面の部分でね。多分、比企谷は久美子と仲良くはなれない気がする」



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14

 「あ、比企谷君。お疲れ様」

 

 高坂と話し終えて、音楽室を出る頃にはすでに俺と高坂以外の部員は各々の練習をし始めていた。パーカス中心のメンバーが音楽室に残り、金管はそれぞれの教室。あるいは個人で練習するのであれば廊下や室外へ。高坂も例外ではなく、『それじゃ、私は外で吹くから』と水道でマウスピースを洗った後に別れた。

 高坂を見送った後に、俺も中学の時はよく、一人校舎裏で吹いていたなと感慨にふけってみたり。北宇治に来てからは高坂とは違い、ペットの教室で吹いているのは、メンバーの皆がきちんと練習をしているのが大きい。勿論女子が多い以上、休憩ついでに雑談をしてはいるものの、ここはオンオフがしっかりとしている。ただずっと、吹奏楽と関係のない話をし続けて盛り上がる中で、一人吹いている気まずい中学の時とは違うから、群れているのは俺らしくないなと思いつつ、気が付けば音楽室からはそう遠くないペットの教室へと向かうのだ。

 小笠原先輩から渡されたタスクに余裕があるから、久しぶりに自分の練習に集中しよう。そう考えていた矢先、目の前に見慣れたコンビを見つけた。

 

 「あ、比企谷君。やっはろー」

 

 「……なんすか。そのアホそうな挨拶」

 

 「うわー。先輩に向かってその言い方はちょっと酷いんじゃなーい?」

 

 屈託ない笑顔と共に、ふわりふわりと結われた黒い髪が揺れる。先輩らしい高圧的な雰囲気なんて全くない、警戒という柵をかいくぐるような朗らかな態度に、俺は餌に釣られた肉食獣の様に傘木先輩の元に近寄ってしまう。

 

 「もしかして、二年の間でそういう訳わかんない挨拶が流行ってるんですか?」

 

 「ん?どういうこと?」

 

 「こないだ中川先輩も、ぼっちろーとか言う変な挨拶してきたから」

 

 「ぼっちろー?……あはは」

 

 俺の方、チラチラみて笑うの辞めてくれませんかね?

 いつもより濁りきっているであろう瞳で傘木先輩を見つめてみれば、すぐにその意図に気付いた傘木先輩は、掌を立ててごめんごめんと謝ってきた。ともかく、二年で変な挨拶が流行っているとかではないみたいだ。

 でもそれなら、何を思ったかさっき発してたやっはろーとか言う小っ恥ずかしい挨拶はやめた方が良い。世界一可愛くてアホっぽい小町がやってたとしても、思わずはぁと溜め息が突いて出そうになる。

 

 「……やっはろー」

 

 「……どもっす」

 

 「……やっはろー」

 

 「……」

 

 「……やっはろー?」

 

 「……や、やっはろー」

 

 ちくしょう。絶対に俺だけはやるまいと思ったのに。

 傘木先輩のすぐ隣にいる鎧塚先輩は、俺がやっはろーしたことに満足したのかしてないのか、相変わらずの無表情。俺は一つ咳払いをして、立ち止まって何をしているのかと二人に聞いてみた。

 

 「これこれ」

 

 傘木先輩が指さした教室の中には、つい先程まで話題に上がっていた黄前と中川先輩がいた。中川先輩は背もたれに腕を置いて、黄前と対面している。

 中川先輩が黄前に田中先輩の家に行った時に連れ戻すように交渉してきて欲しいと言う旨を伝えるつもりなのだろう。『あすか先輩を連れ戻すぞ大作戦』のメンバーで昨日話し合いをした結果、黄前に作戦を伝えるのは同じ楽器の中川先輩ということに決まっていた。

 三人揃って、絶対にバレないように教室の扉の隙間から覗くのではなく聞き耳を立てる。そう言えば優子先輩と二人で、黄前と鎧塚先輩が傘木先輩について話すのにこうして教室の外から聞き耳を立てたこともあった。あの時のことがなければ、今こうしてここにいる傘木先輩が部活に復帰することはなかったのかもしれない。

 

 「黄前ちゃん。やっぱ、私だと不安?」

 

 「え、いや、そんなこと……」

 

 わっかりやす!語尾に近付くにつれて、声のボリュームが落ちていくせいでめちゃくちゃ不安そう!

 高坂の話では性格が悪いやつ、という印象ばかり植え付けられたが、それもこれも悪い意味で素直というかわかりやすいところも大きな要因なのではないだろうか。

 

 「私は不安」

 

 「夏紀……」

 

 中川先輩の言葉に、傘木先輩が視線を落とした。二人はここ最近、ずっと練習を二人でしていた。中川先輩の練習を見てきた傘木先輩だからこそ、思うところはあるのだろう。

 

 「……いつから知ってたんですか?」

 

 「あすか先輩のお母さんが、学校に来てすぐだったかな。あすか先輩に言われて」

 

 「そうだったんですね」

 

 「うん。その後すぐに滝先生からもコンクールの曲を練習しとくように指示された。だから最近は希美と練習したり、駅ビルコンサートの前のあすか先輩がまだ来てくれてた頃は色々教えて貰ってたんだよ。でもさ、あすか先輩の代わりなんて私に務まるはずがないじゃん?」

 

 「……」

 

 「だからね、黄前ちゃん。私からお願いがあるんだけど」

 

 「お願い?なんですか?」

 

 「これ」

 

 「え?あすか先輩を連れ戻すぞ大作戦……?」

 

 教室の中の様子を見てはいなくても、その光景が易々と浮かび上がってくる。奇矯な名称の作戦に困惑して、間抜けな表情をしているだろう。

 

 「そう」

 

 「何ですか、その作戦?」

 

 「あ、言っとくけど作戦名を決めたのは香織先輩だから」

 

 「す、素敵な作戦名ですねー……」

 

 「素敵……?」

 

 鎧塚先輩がぼそっと呟いて、傘木先輩と苦笑してしまった。北宇治の吹奏楽部員、引いては北宇治の生徒である以上、香織先輩が考えたと言って異を唱えられる人なんていない。むしろ、最初こそ間抜けな作戦に聞こえるかもしれないが、自然と愛くるしくてキャッチーな名前に聞こえなくも……ないかー。

 

 「でさ、黄前ちゃん来週あすか先輩の家に勉強教わりに行くんでしょー?」

 

 「無理です」

 

 「まだ何も言ってないけど」

 

 「そこでお母さん説得してこいって言うんですよね?」

 

 「ま、ああねー」

 

 「無理ですよー。無茶言わないで下さい」

 

 がらがらと床を椅子が掻いた。黄前が立ち上がった音だ。

だが、ここで諦められない。思わずちらりと中を覗き込んでみれば、逃がさないぞという様に、中川先輩が力強く肩に手を置いていた。

 

 「大丈夫。香織先輩から良い物もらってるから」

 

 ポケットから出てきたものはフェミニンなデザインのメモ用紙。その紙にトランペットパートのメンバーは見覚えがあるだろう。香織先輩が小笠原先輩の手伝いなどでパート練習に遅れてくるときなど、あのメモ書きを笠野先輩に渡してから行くことが多い。

 

 「駅前、幸富堂の栗饅頭が一番おすすめだよ?」

 

 「いえす」

 

 「何ですか、これ?」

 

 「あすか先輩のお母さんの好物なんだって。これさえ持ってけば、全部おっけー!」

 

 「私の目を見て言って下さい」

 

 「おっけー……」

 

 「はぁ……」

 

 「けど、本当に今まで上手くやってきたよ。高坂さんの時も、みぞれの時も」

 

 「私は何も」

 

 「そんなことない。あすか先輩がどうして黄前ちゃんを呼んだと思う?」

 

「わかりません」

 

 「私は黄前ちゃんなら何とかしてくれるって期待してるからだと思う」

 

 そんなこと言われても、困るだろうに。

 少なからず黄前に同情してしまう。とは言え、俺だって今は期待こそしている訳ではないものの、黄前に賭けている一人だ。そんな風に思う資格はないのだろうけれど。

 しばらく前のことだから記憶も不確かだが、職員室に田中先輩の母親が大嵐のようにやってきたとき、黄前が直接見たのではなかっただろうか。高坂経由でそう聞いたような……。多分、直接見たからこそ本当に無理だと確信を持っているのか、さっきから否定に力があった。

 その否定を中川先輩は少しずつ弱い物にしていく。黄前を立てる言葉の数々は煽てているのではなくて、本心であるように感じた。規則正しい動きでもたれ掛かっている椅子を揺らしながら中川先輩がすらすらと紡いでいる言葉は、教室の外で聞いている俺も心地が良い。地元では成績も悪くなく、地元では真面目と評判な北宇治の中では、短めなスカートやきつそうな吊り目。一見するとアウトローなようだが、その声音は誰よりも落ち着きがあって情に満ちている。

 あの人は、きっとどうしようもなく善人だ。

 

 「そんなことないです。それに、それでもしあすか先輩が戻ってきたら……夏紀先輩、吹けなくなります」

 

 「私はいいの。来年もあるし」

 

 傘木先輩の喉が、くつりと鳴った。鏡に映る中川先輩は俺たちのところからははっきりと見えないけれど、穏やかな表情をしている。

 

 「今この部にとって一番良いのは、あすか先輩が戻ってくることなんだから」

 

 「それは、夏紀先輩の本心ですか?」

 

 「黄前ちゃんらしいね。うん、本心だよ」

 

 「うぇ、みぞれ!」

 

 よ、鎧塚先輩!

 俺は咄嗟に身を隠す。いや、なんで隠したの、俺?

鎧塚先輩が教室のドアを急に開けたのに対して、俺の身体は人間に見つけられた黒光りするGの様にササっと重なった横開きのドアの後ろに動いた。我ながら最悪な例えだ。『HIKIGAYA』の『G』は、そのGじゃないぞ!

 教室の中を真っ直ぐと見つめている鎧塚先輩の隣で、傘木先輩は一度きょろきょろと視線を動かしたが、すぐに愛想笑いで誤魔化すことにしたようだ。

 

 「な、夏紀ー。終わった?」

 

 「希美。私から行くって言ってたのに」

 

 「希美先輩。鎧塚先輩」

 

 黄前が二人の名前を呼んだ。それを合図に、二人は並んで教室に入っていく。

 

 「伝えて欲しい、あすか先輩に。待ってますって」

 

 「……」

 

 鎧塚先輩の言葉に、黄前はまた言葉を詰まらせていた。



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15

 『伝えて欲しい、あすか先輩に。待ってますって』。

 はっきり言って、鎧塚先輩は傘木先輩だけいればいい。関西大会前の夏休み明けの教室で、あの人の涙ながらの独白を聞いてから、そして普段のあの人を見て、俺は本気でそう思っていた。

 昔、個人的に田中先輩に助けられたことがあったのか、もしくは最終的には傘木先輩の復帰を田中先輩が許可してくれたことに感謝している部分があったとか。あの人の場合、俺目線では高坂とはまた違う意味で周りのことは気にしない人だと思っているから、少なくとも他の部員たちのことを思ってではないはず。理由はどうであれ、鎧塚先輩にさえ帰ってきて欲しいと言われる田中先輩と、何とかしてくれると頼りにされている黄前。ここ数日、それにばかり気を取られている。

 この言い方じゃまるで、気になって気になって仕方ないみたいじゃない……!絶対に、好きなんかじゃないんだから!……いや、本当にそんな訳ねえけど。

 逆もまた然りで、『コイツ、俺の事絶対気になってるだろ?』と、常に思い込むように男は本能レベルで脳が出来ているけれど、絶対にそんな訳はない。女の子は、何でも願いを一つ叶えるために魔法少女になると痛い目を見るけれど、男の子も自分の事を好いていてくれる子がいると思って『俺と付き合う?』をやると痛い目を見る。人間は自分を戒めながら生きていかなくてはいけないのです。そりゃ滝行体験も流行るってもんよ。

 

 「ねえ、最近さ、高坂なんかおかしくない?」

 

 優子先輩の言葉に、加部先輩は手に持っていたトランペットを置いてから頷いた。

 

 「私も思ってた。ちょっと元気ないっていうか。何かあったのかな?」

 

 「どうしてだろうね」

 

 優子先輩と加部先輩の言葉に思い当たる節は……全くないな、うん。

 二人の会話。それに混じる滝野先輩と笠野先輩のトランペットの音。いつも通り、トランペットパートの教室に高坂はいない。自主練に向かったが、果たして今日はどこで吹いているのやら。

 そんな中で俺はと言えば、『早急!解決しないとリスト part2!』という紙を片手に睨めっこをしている。

『早急!解決しないとリスト part2!』。重要なポイントは一番お尻の部分、part2という部分です。

 なんで?part1終わらせたじゃん。一つこなしたと思ったらまた一つ増えるとか、ほんと何が起こっているのかわからない。羽生マジックなの?

 ヘロヘロになりながら与えられたタスクをこなした矢先、また最新版のリストを渡されたら、俺でなくても心の中でめそめそ泣きながら小笠原先輩を呪うはずだ。上司に対して何も考えないで、『出来ます!』と勢いで言ってしまうと、後になって未来が灰色になるが、『出来ません』と答えるのも大概だ。こんなこともできないのかと怒られた挙げ句、結局押しつけられるのなら素直に受け取った方が上司との関係性はキープできる。故に、俺は出来ますとも出来ませんとも答えずに、ただただ嫌そうな顔をしたのに、あの人普通に渡してきたからな。いくら部長が板に付いてきたんだとしても、もあと少しでその役目も終わるんだから今更だし、こんなことでなんてあんまりだい……。

 そんな感じで絶望していたときに、何だかんだで今回のリストも、一部分は優子先輩が持ってくれたから、ちょっともう本当に優子先輩には頭が上がらない。マジリスペクト。何処までもついて行くし、なんなら一生一緒にいて欲しいまであ……いや、流石にそれを言えるようになるにはまだ早い。

 

 「比企谷君、何か思い当たる節ないの?」

 

 「え、俺ですか?」

 

 全く振られると思ってなかったので、加部先輩に呼ばれてびくっと震えてしまった。それを見て、優子先輩と加部先輩が少しだけ笑っている。恥ずかしい。

 

 「うん。だって同じクラスじゃん」

 

 そんなこと言われても、ないですしおすし。

 そう答えるのは簡単だし、事実なのだが、ここでうーんとうねりながら若干の間を開ける。男の誘いを断るときは若干の間を開けるだけで本気で悩んでると錯覚させられるから、世のビッチな女の子にはおすすめだと、ユーチューブで元大人のビデオに出演していた方が言っていたので参考にさせて頂いています。男だけど。

 

 「いや、特には。俺、教室で高坂とほとんど話さないですし」

 

 「そっかー」

 

 「そもそもあいつ、俺そんな最近おかしいなんて思ってないんですけど」

 

 「おかしいでしょ。そんくらい、私にだってわかるわよ」

 

 優子先輩も近くの椅子に腰掛けて、会話に入ってきた。

 

 「具体的には?」

 

 「ぐ、具体的にって言われても難しいけどさ」

 

 「それじゃわかんないですよ。あいつがおかしいのは、デフォルトじゃないですか?ほら。高坂は煩ってるでしょ、厨二病。……あ、今の五七五だ」

 

 「あんたは俳句詠まなくていいから、もうちょっと女心を読めるようになって」

 

 優子先輩は小気味よく会話をしながらも、加部先輩が同意して高坂がおかしいという確信を得たのもあってか心配そうな顔をしている。確かに、加部先輩は意外と周りをよく見ている人だと思う。そして気配りが多い。

 俺は去年の北宇治を見ていないから実際の所はわからないが、何かとエンジンが掛かりやすい優子先輩にブレーキをかけていたのは、きっと同じパートであるが故に近くにいて仲も良い加部先輩か、中川先輩だったのかなと時々思う。考えて見ればそれぞれ、加部先輩は陽気でコミュ力が高い反面、勢いに任せて会話をしているように見える。最近何かと行動することがある中川先輩はどこか近寄りがたいしつっけんどんと言えばそんな所もある。けれど、二人とも言葉の中に真意を織り交ぜて、フォローをしてくれる。

 だからこそ、高坂がおかしい。その言葉には妙な説得力があった。

 

 「最近は比企谷君も部長から渡されたその紙の問題やってたり、色々考え事もしてるからさ、高坂さん気にしてなかっただけだよ」

 

 「そっすかね?」

 

 「香織先輩もあすか先輩の方で、最近は私たちに気を遣ってる余裕ないし」

 

 「香織先輩はそれでいいの。あすか先輩のことを最優先に考えてくれれば」

 

 「お、流石親衛隊隊長」

 

 「ふふん。でしょー」

 

 ドヤ顔。

 

 「ただ最近は優子、あんまり香織先輩に相手にしてもらえてないよね」

 

 「そうなのよ。放課後遅くまで残ってるから一緒に帰れないしさ。もう無理。ほんと死ぬ」

 

 からのメンヘラ。

目を細めて、私泣きそうよアピールしている今の優子先輩も、さっきのドヤ顔も可愛く見えるのは、付き合っているからという色眼鏡なしで見ても、元が良いからだ。この顔をしっかり脳内補完しておいて、今晩寝るときに思い出して、ベッドで悶えよう。

 まあそれはさておき、高坂ねー。片隅には入れておこう。……と、一応は思うが、加部先輩が俺に言った通り、やはり今も手にしている、重さなんてないはずのたった一枚の紙が気になってしまう。そんなことをしている場合ではないだろう。そう投げかけてくるようにひらひらと揺れる紙の隣、毎日顔を合わせているトランペットの光沢も目に痛い。わかってる。練習の方だって欠かせない。

 そもそも、高坂なら勝手になんとかしそうなんだからなー。あいつ、さっきは俺も厨二病とか言って本人がいたら軽く蹴られそうなこと言ったけど、認めたくないだけで基本的には超ハイスペックだし。

 

 「……ま、高坂のことはこっちで何とかするから、あんたは気にしなくていいよ。正直、今だってここまで忙しくさせちゃったの私だし」

 

 「優子先輩のせいじゃないでしょ?」

 

 「でも私が手伝ってあげて欲しいって言ったから」

 

 「違いますよ。最終的に決めたのは俺です。それに、これだって優子先輩にすごい助けられてます」

 

 「嘘ばっか。私にそんな手伝わせないようにしてるじゃん。自分一人で抱え込まないようになったのはまだ良しとして、もっと人に任せたっていいと思うんだけど」

 

 「このくらいが丁度いいと思ってるんです。……無理するとこあるし」

 

 「あんたにだけは言われたくないんですけどー。もしそうだとしたら、お互い様ですー」

 

 やめてやめて見てられないと言いながら、加部先輩がぱたぱたと手を動かしているが、いったい何をやめろと言うのか。何が見てられないと言うのか。

 



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16

 一階の廊下は帰宅する生徒で、いつもより人が多い。廊下が広いのもあってごちゃごちゃとしている訳ではないが、至る所からテストや受験というワードが聞こえてくるし、入り口の掲示板には主に三年生と受験意識の高い二年生辺りに向けた予備校や模試の告示がしてあって頭がぐちゃぐちゃしてくる様な気がする。

 こんな時間に帰るのは久しぶりだ。部活が休みだというのに、テスト期間に入るからと勉強をしなくてはならないのは、全くもって納得いかない。成績悪いと松本先生に怒られちゃうとか、本当北宇治の吹奏楽部ってスパルタ過ぎないだろうか。

 心の中で不満をたらたらと並べて、自転車置き場から自分のチャリを取る。優子先輩は吹部の何人かで、学年屈指のヤバい先生であると評判らしい数学の藤先生のテスト勉強をするのだと言って学校に残っている。この先生の変態については一年の耳にも入ってきていて、関西の名門大学の問題を期末試験で出したりするのだとか。そういうのってもはや、何を準備していけば良いのかわからない。俺なら赤点取る準備していく。数学苦手だし。

 そんな訳で一人歩く帰り道というのも、また久しぶりな訳で。ふと吹いた風が冷たくて、もう冬が近いてきているのだと気が付かされながら俺は校門をくぐろうとした。

 

 「あ」

 

 少し離れた校庭を、見慣れた先輩が走っている。身体が上下するのに合わせてスクールバックと紙袋をばたばたと振りながら、けれどもそんなことは気にするようなことではないと必死な表情が物語っている。

 そうか。今日だった。

 正直、やれることは全部やれた、なんてことはない。人事を尽くさずに天命を待つだけの状態に、どうなるのかと途端に不安になる。

 気が付けば、華奢な背中を追っていた。

 

 「あすかーー!!」

 

 校門を出て坂をしばらく下るとすぐに、手を大きく振っている香織先輩と、足を止めて振り返った二人の姿を捉えた。

 香織先輩の息はすっかり上がっていた。規則正しくふくらんではしぼんでを繰り返して、呼吸を整えている。その背中を道路の向かい側から見つめていると、何となく道路の幅がいつもより広がっていて、自分はずっと遠くにいる気がした。

 だからか、追いかける香織先輩の背中と立ち止まる田中先輩の姿に、子どもの頃の俺と陽乃ちゃんを重ね合わさって。いやいや、あの超絶美人と、まだ辛うじて可愛かったけど、同じ親から産まれたはずの小町と比べると天使とカミキリムシ位の差がある幼少期の俺は、どうやったって同一視できねえだろ。

 ただ少なくとも、どうか、香織先輩はその手を掴めることを祈る。

 

 「香織。どしたの?」

 

 「後ろ姿が……見えたから……。黄前さん。一緒に帰ってもいいかな?」

 

 「も、勿論です」

 

 「ありがとう」

 

 歩き始めた三人は、下り坂の途中の階段を下る。田中先輩と香織先輩の間には、階段の終わりまで続いている真っ白な手すり。世間話をして歩いている二人に挟まれている黄前は、いつもより縮こまっている様に見えた。

 こうなると俺は坂を漕いで、階段を下りきったところまで回っていくしかない。階段を自転車を押して下るのは、いかにも三人に付いて行っているのがあからさまだし、何よりそれで俺に気付かれて香織先輩があの人と一緒にいる時間を邪魔するのは嫌だ。

 自転車を少しだけ飛ばす。車輪の回る音が好きだったのに、今はその音がどこか虚しい。カーブミラーに映った自分を見て、自分はなぜこんなにもペダルに力を入れているのだろう。付いて行く必要なんてないはずなのに。そんな当たり前な疑問がぱっと出たが、それを風でどこかに吹き飛ばすように、もっとスピードを上げる。

 

 「じゃあ私、寄っていくところあるから」

 

 同じ制服を着る人たちを追い抜かして、俺が三人に追いついたときには、香織先輩が二人と別れるところだった。

 

 「黄前さん。はい、これ」

 

 「あっ」

 

 「勉強会には、お茶菓子がいるでしょ?」

 

 黄前の手に渡された紙袋には、達筆なデザインで『幸福堂栗饅頭』と書かれている。中川先輩と放課後話した手前、それを渡された真意を読み解くことは容易いはずだ。

 

 「もらっていいの?」

 

 「うん!じゃあ、あすかのことよろしくね!」

 

 「やー、面倒見るのは私だけどねー?」

 

 田中先輩なら、香織先輩が何によろしくと言ったのかわかっていそうな気がする。それを曖昧に誤魔化して、結論には近付かない。いつもと変わらないはずの三年生の二人の間には、絶対に以前とは違う何かがある。

 香織先輩と小笠原先輩が言ってた避けられてるってのは、こういう感じなんですかねー。

 そんなことを考えていると、不意に、香織先輩が膝を折って田中先輩の靴紐に手を伸ばした。

 

 「あ、あすか靴紐解けてる」

 

 田中先輩の一番近くで見ている黄前には、香織先輩はどのように写るのだろう。依存していると捉えるのか、献身的だと捉えるのか、惨めだと捉えるのか。

 俺には、祈っているように見えた。神の前で跪くように、重心を前に傾けて。

 

 「……まだ馴染んでないんだね。ほら。こうやって結ぶと解けにくいんだよ?」

 

 香織先輩を覆う田中先輩の影は、ぴくりとも動かなかった。肩から胸元まで流れる艶やかな黒いベールも、何かを塗りつぶすように揺れることはない。

 先に動いたのは髪の方。彼女の隠した表情をさらけ出す為だけに、吹いた冷たい秋の風は俺の横を吹き抜けて。

 

 「……っ!」

 

 それを俺は、見たくなかった。

 すぐに隠れた田中先輩の顔。その前でまだ、靴紐を結ぶ香織先輩を見ていると、無性に涙が出てきそうになった。

 



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