もう一度、あのひと時を (ろっくLWK)
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プロローグ
〈secondavolta.〉


 

 開け放たれた窓の向こうから一片(ひとひら)、舞い込んだのは桜の花びらだった。

 

「どうしたの?」

 ふつりと会話が途切れたのを不自然に思ったのか、(れい)()が訝しげな顔つきでこちらを見据える。

「ん。何でもない」

 ()()()は首を振ってみせ、麗奈へと視線を戻した。

「もう、一年が終わっちゃったんだなあって」

 ほう、と吐いた息はもう、白くはならない。ついこの間まで陰鬱な灰一色の空模様だったのが嘘のように、お日さまはぽかぽかと穏やかな陽気を湛えている。生命の息吹を取り戻した草木は青々と繁り、それらに照り返される学び舎の廊下もまたキラキラと眩い光に満ち満ちていた。

 この一年で、すっかり見慣れた光景。なのに胸の内には、見たことも無い世界に飛び込んだ時のような、不安と期待をない交ぜにした瑞々しさが溢れている。この気持ちを言葉にするのが何だか勿体なくて、そうっと一人で頬張るように、久美子は口元を緩ませた。

「今年はどんな年になるのかな」

「今年こそ絶対、全国で金賞獲る。去年、(ゆう)()先輩ともそう約束したし」

 答える麗奈の瞳には決意の灯が揺らめいていた。昨年、コンクール全国大会の舞台で味わったその悔しさを、麗奈は勿論のこと久美子も未だ忘れてはいない。三年生が仮引退し新体制が発足してからもずっと、北宇治吹奏楽部の一同は厳しい練習に明け暮れ、自分たちの音楽を磨くことに費やして来た。今年こそ。その悲願を果たすために。その場所へと至るために。

 そして今日はまさしくその門出となる日だ。年度が替わり、新たな一年の始まる日。これからは自分たちは後輩を導いていく立場となる。昂揚と同時に抱く緊張。その責任を、自分は果たすことが出来るだろうか。そんな考えが頭の隅をよぎった途端、久美子の身体はぶるりと震えた。

「頑張ろう」

 麗奈に頷きを返し、久美子は音楽室へと続く廊下に歩を刻む。思い返してみるとこの一年、様々な事があった。泣いたり笑ったり、何気ない日常の繰り返しの中で肝を潰すほどの衝撃に見舞われたり。そんな中でも最も印象深かったのはやはり、()(なか)あすかの事だ。

 あすかとの思い出は今も鮮烈に胸の内に灼きついている。彼女が残してくれた、あの温かくて優しい音色も一緒に。

 けれどそれはもう、北宇治には無い。この三月をもって彼女は卒業してしまい、そして久美子は進級し、また今日もこうして音楽室の戸を開けようとしている。

 去年のコンクールが終わってから、久美子はずっと部室の中に、パート練習の光景の中に、あすかの姿を探していた。もしかしたら彼女がひょっこり姿を現すのではないか。そんな思いに駆られ、楽器室の棚に収められたあすかの楽器ケースをこっそり見に行ったことも二度三度ではない。

 けれども卒業を前に彼女のユーフォニアムは姿を消し、卒業の日もとうに過ぎ去り、そしてどこを探してもあすかの存在しない日常を受け入れざるを得ない日が、こうして来てしまった。

 正直今でも、とてつもなく寂しい。またあの日のようにすぐ隣であすかの演奏を聴きたい。そう思えど、あの日々はもう戻って来ない。そんな現実を噛み締め、飲み下して前を向くのに十分なだけの時間を、自分は過ごして来た筈だ。

 今日からは気持ちを新たに。そう自分に言い聞かせながら手を伸ばし、久美子は音楽室の戸を開けた。

 

 

「おっはよー(おう)(まえ)ちゃん。さあ今日も練習がんばるよん」

 

 

 目の前に立つ人物がそう告げるなり、久美子は今さっき開けたばかりの戸を勢い良く閉めた。

 

 

 

 



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1.始まりのスケルツァンド
〈1〉四月一日


「ビックリした。どうして急に閉めたりするの」

 くぐりかけた戸を突然閉められ、麗奈はすっかり面食らっていた。久美子はそれにぎこちなく振り向くことでしか答えられない。自分はさっき、何を見たのか。それを思い出すことを脳が拒絶している。 

「いや、その、中に」

「中に?」

「音楽室の中に、その、亡霊が――」

 刹那、バーン、と戸からけたたましい音がした。その拍子に久美子は押さえていた戸の引き手を離してしまう。恐らくは()()が内側から戸を叩いたのだろう。ガラガラと目の前の戸が開き、そこに立っている人物を見て、今度は麗奈が度肝を抜かれる番だった。

「あ、あすか先輩?」

「まーったく、酷くない? 先輩を前にして、挨拶も無しにいきなり閉めるなんてさ。おまけに何か悪いものでも見たようなリアクションしてくれちゃって。先輩はそれはもう深ーく傷付いちゃったにゃあ?」

 我が目を疑う、というのは実に、こういう時のためにあるような言葉だろう。人を食ったその態度。ふざけた物言い。からかうような笑み。けれど内に混じる鋭利な怒気。その容貌も、良く見慣れた北宇治の制服姿も、隅々まで綺麗に磨かれた銀色のユーフォを腕に抱くそのさまも、目に映るものは全て間違いなく、久美子の良く知る彼女そのものだった。

 田中あすか。この春に北宇治を卒業した、久美子にとって直属の先輩。

 もちろんあすかの姿を見間違える筈など無い。けれど、本来ならばここに居る筈も無い人物なのだ。そんな彼女がここにこうして在学中と全く変わらぬ姿のままで立っている。驚くなと言われたってそりゃあ無理な話、というものだろう。

「ホントにあすか先輩なんですか?」

「そうだよん」

 久美子の狼狽ぶりを面白がるように、あすかの口角はさらに吊り上がる。

「っていうか、私が『あすか先輩』じゃないなら何だって言うわけ?」

「いや、だってもう四月ですし。先輩、卒業したんじゃ、」

「んー。まあ春休み中だし、どうせ家に居てもやる事無くて暇だったから楽器吹きに来たー、みたいな?」

 絶対嘘だ。理屈抜きに、久美子の直感がそう告げていた。

「まあまあ、細かいことはいいじゃない。どれ折角だし、黄前ちゃんには久々に個人レッスンをつけてあげるとしよう。さっきの落とし前も兼ねてたーっぷりとね」

 くひひ、とたっぷり邪気の籠った笑い声を上げながら、あすかが両手をカマキリのように構える。

「さ、まずは音出し音出し。ってワケだから高坂さん、後で黄前ちゃん借りるね」

「え、あの、はい」

 あの麗奈でさえもこの流れに巻き込まれてすっかりペースを崩している。これだからあすかは恐ろしい。彼女の勢いに背中を押されるようにして、二人は瞬く間に楽器室へと追いやられてしまった。

 

 

 

 

 音出しを終えた久美子がパート練習の場である三年三組に向かうと、そこにはやはりと言うべきか、ユーフォを抱いたあすかが待ち構えていた。

「さー、じゃあまずはコレでも吹いてみようか。今日は黄前ちゃんの弱点、徹底的に炙り出してあげるからね」

「お手柔らかにお願いします」

 何故か妙にやる気満々のあすかに、久美子も精一杯の抵抗としてジト目を返す。そもそも卒業生が新年度の学校に、しかも制服姿で居ることについて、何か本人から一言くらい説明は無いのか? そんな風に辟易としつつも口には出さず、あすかと一緒に簡単なエチュードを吹いていく。

「うん、まあまあ良い感じだね。ちょーっとハイトーンの入りが探り気味なのと、動きの複雑なとこで弱気になるのは相変わらずだけど」

「はあ。ありがとうございます」

「ちょっとー、言葉に実感籠ってないよ」

「いや。っていうかその前にですね……」

「あすか先輩!?」

 二人のやり取りを遮るように素っ頓狂な声を響き渡らせたのは、低音パートの一員でありチューバ担当の三年生、(なが)()()()だった。

「おはよー梨子。なに朝っぱらから騒いでんのよ」

 ひょうひょうと片手を挙げて梨子に挨拶したあすかを、久美子は横目で睨む。梨子の心情が今の久美子には手に取るように良く分かる。こんな物理法則を全開で無視した状況を目の当たりにして驚かずにいられる人が居るとしたら、そっちこそどうかしているのだ。それこそ絶叫ぐらいしたところで、ここにあすかが居るという異常事態に比べれば何の不可思議も無い。

「先輩こそ、こんなトコで何やってんですか。入学の準備とか、しなくていいんですか」

 遅れて()(とう)(たく)()がのそりと声を挙げた。同じくチューバ担当の三年生である彼は現在、パートリーダーの職を務めている。傍目にはいつも通りに見えるが内心では動揺しているらしく、その声は普段よりもずっと上ずっていた。

「ええー? 来て下さったんですか先輩! (みどり)、とっても嬉しいです!」

 続けて教室にやって来た緑輝(サファイア)が目をらんらんと輝かせながら、無邪気にもあすかに飛びつく。そんな彼女の興奮ぶりにあすかも満更ではない様子で、緑輝の緩い猫っ毛をグシャグシャと撫で回していた。

 きっと、いいや間違いなく、この後にやって来るであろう()(づき)も彼女たちと同じような反応を示すに違いない。まるで映画の同じシーンを、何度も繰り返し流すみたいに。容易に想像できてしまう未来予想図に目眩を覚え、久美子はいつの間にか皺のたかる眉間を指で押さえたのだった。

 

 

「……で、今に至る、と」

「はい……」

 これまでの状況を一通り報告し終えると、やはり度し難いと思ったのか、(なか)(がわ)(なつ)()もまた額に手を当て唸った。

 チラリと彼女が目を遣ったその先では案の定と言うべきか、葉月もやいのやいのと騒ぐ輪の中に加わりあすかの来訪を喜んでいる真っ最中である。そんな状況に疲れ果ててしまった久美子は、遅れて登場した夏紀が眼前の光景に何かを言い掛ける前に口を塞いで教室の外へと連れ出し、階段のたもとで彼女に事の次第を説明していたのである。

「あすか先輩、何考えてんだろ」

「私に分かるわけないですよ」

「だよね」

 苦渋の表情を浮かべた夏紀がバリバリと頭を掻く。その仕草は彼女の身に面倒事や厄介な事態が降りかかった時に良く見られるものだった。伸びた髪を後ろに束ねている夏紀の明るい癖毛が、更に方々へと跳ね広がる。

「下手にあすか先輩をつついたってどうせ何も出てこないだろうし。午後からは合奏だから、それまであすか先輩のペースに合わせておこう」

 夏紀の考えに「ですね」と久美子も同意を示す。あのモードのあすかに構うのは、彼女に都合よくエサを与える行為に等しいと言えそうだ。

「じゃあひとまず優子とスケジュールの打ち合わせしてくるから、久美子ちゃんは先に教室戻ってて」

 また後で、と手を挙げて夏紀は階段を下りていった。それを見送ってから久美子はぼんやりと、あすかの行動について考える。

 暇だから。本当にそんなしょうもない理由でわざわざ学校にまで来たのだろうか? あのあすかの事だ。どうせいつかの時のように、肝心なことを隠したままにしておいて、自分たちにドッキリでも仕掛けようとしているに違いない。

 ドッキリ。そう呟いた途端、久美子の頭上から一つの閃きが舞い降りてきた。そう言えば今日は何月何日だっけ? そう、四月一日だ。いわゆるエイプリルフール。その日一日だけはどんな嘘をついても良いという、平均的日本人の観点からすればありがたくも何ともない日なのである。

 ひょっとしたらあすかは今日この日に突然現れることを、以前から計画していたのではないか?

 彼女の性格ならば有り得なくもない。でもそんな下らないことを本気でするものだろうか、という疑念もまた拭えない。在学中ならばともかく、あすかは厳密に言えばもう北宇治高校とは何ら関わりの無い人間なのだ。制服姿で学校に侵入するなんて、それなりにリスクのある行為だと言える。でもだからこそ、あすかならいざやる時はそこまで完璧にやりそうだという、そんな気もしてしまう。当人にしてみればそれは、ちょっとしたコスプレ程度の感覚なのだろう。

 何にせよ久美子にとって、今日がエイプリルフールであることを思い出せたのは僥倖と言うべきだった。一連の奇行について当人の思惑が何であるにせよ、久美子自身は今日がエイプリルフールなのだから、と割り切って過ごす事が出来る。そのうちにあすかから種明かしがあって、『なーんだ』と一同が納得して終わる、そういう筋書きなのかも知れない。

 今は深く考えたって仕方ない。かぶりを振って、久美子は教室へと戻っていった。

 

 

 

 

「それからあすか先輩はどうだったの?」

「分かんない。気づいたら居なくなってた」

「何それ。忍者じゃあるまいし」

「それがホントに久美子の言った通りなんだよ。午後の合奏終わって帰ってきたら、楽器ケースごと煙みたいに消えちゃっててさ」

 帰りの電車が来るのを待つ間、久美子たちはホームのベンチに腰を下ろしながら、朝からすっかり蚊帳の外状態だった麗奈に一通りの報告をしていた。

 あすかについてはさっき話した通りの顛末だ。いつの間に帰ったかも分からず、誰に聞いてもあすかの姿を見た者はいない。使っていた椅子や机も綺麗に整頓されていて、痕跡一つ残すことなく、あすかはまさしく風のごとく去っていたのだった。

「ホント訳分かんない。あすか先輩の場合、頭良いから余計に何考えてるんだかサッパリだよ」

「純粋に、久美子たちのこと心配して来てくれたんじゃないの?」

「あのあすか先輩が? まさか」

 久美子は自信たっぷりに手を振って断言した。あすかに限ってそれは有り得ない話だ。あの人はそこまで後輩煩悩な性格をしていない。それに仮にそうだとしても制服まで着て学校に来るだなんて、いくら何でもやり過ぎの範疇だろう。

「そう言えばあすか先輩って成績も学年トップだって聞いてたのに、卒業式の答辞はしなかったよね。アレって何でだったんだろ?」

「さあ、知らない。去年色々あって休んでたりしたから、それで他の人が選ばれたとかじゃない?」

 ふと思いついたような葉月の疑問に麗奈が見解を述べる。それは久美子も卒業式の当日に思った事だった。

 あすかの成績がいかに優秀であったかは、あすかと同学年であり久美子の幼なじみでもある(さい)(とう)(あおい)などからそれとなく聞かされたことがあった。だからこそ、首席卒業者が務めるという答辞の役目もてっきりあすかがするものだとばかり思っていた。それなのに壇上に上がったのは見知らぬ上級生で、そのことに少々意表を突かれたのは未だ記憶に新しいところである。まさか本人に直接尋ねるわけにもいかず、結局は久美子も、今しがたの麗奈と同じように結論付けるより他は無かったのだった。

「まあ、先輩の場合は首席とか何とかなんて関係ないか。第一志望の大学にもアッサリ一発合格しちゃったって言うし。偏差値ちょー高いトコなのに、凄いよね」

「まあ、あすか先輩だからね」

 苦笑しつつ、久美子はしみじみとその事実を噛み締める。そう、やはりあすかは流石の傑物と言うべきだ。地頭の良さは勿論のこと、彼女自身が本当にやりたかった事をやるために弛まず努力し続けていた、という意味においても。

「けどあすか先輩が来てくれたお陰で、今日はすごく良い練習が出来ました! 緑、とーっても嬉しかったです」

「私も、今日はあすか先輩に直々に教えてもらっちゃった。『加トちゃん、随分上手くなったね』って褒められたし」

「あすか先輩が?」

「うん!」

 溌溂として頷いた葉月の短髪が爽やかに跳ねる。それに対して、麗奈はあいまいに困惑の表情を浮かべていた。無理もない。直属の先輩でなかったとは言え、麗奈も昨年のあすかの事を知らないわけではないし、あすかに関して度々言及もしていたのだから。さらにはあすかがコンクール組ではない者の、つまりは葉月や夏紀らの指導にはさほど乗り気でなかったことも、久美子は麗奈に教えてあった。あすかのそういう姿があくまで彼女の一側面にしか過ぎないことは、久美子にとっては既知のものではあるのだけれど。

「明日も先輩来てくれないかなー。そしたら私、バリバリ練習がんばれる気がする」

「どうかな。大学の入学準備だってあるだろうし、流石に明日からはもう来れないんじゃない? あすか先輩の大学、いつ入学式なのか知らないけど」

「またそんな事言うー」

 久美子の冷めた物言いを咎めるように、葉月は唇を尖らせた。

「だってあすか先輩、もう卒業してるんだよ? 普通に考えてさ、本当は居るはずない人じゃん」

「なにさー。私は明日も来てくれたら嬉しい、って思ってるよ?」

「そりゃああすか先輩が居てくれた方が、練習もはかどるような気はするけど」

「久美子ちゃんはあすか先輩が来てくれて、嬉しくなかったですか?」

 ストレートな緑輝の問い掛け。答えようとした久美子の喉に、がつりと言葉がつっかえる。

「私は、」

 嬉しくなかった、わけがない。けれどそれ以上に、朝から意味不明な行動に付き合わされてクタクタだ、という気持ちもある。その二つはぐるぐると渦を描いて久美子の中で切り分けられなくなっていた。でもそんな事よりももっとおかしい事があるというか、どこか引っかかるものがあるというか。

「何か、ヘンな感じがする」

 そう呟いてはみたものの、それ以上うまく考えをまとめることが出来ない。突然現れたあすかの突飛な行動。不遜な態度。赤縁の眼鏡。学校指定の制服。紺色のスカーフ。色の濃いタイツ。それらの内側に丹念に織り隠された、ほんの僅かな違和感。か細い糸のようなその感触を指先で手繰ろうとしても、糸はするすると踊るように逃げ、闇の中に埋もれてしまう。

 何かおかしい。けれどそのおかしさの正体に、辿り着けない。

 俯く久美子にどう声をかけていいものかと迷ったのか、葉月たちも押し黙ってしまった。そのうちに下り電車の近付くアナウンスが聞こえて来て、ひとまず今日はここで解散という事になった。

 

 

「ただいまー」

 のそりと這うような声で帰宅を告げると、キッチンでは母が既に夕食の支度を始めていた。

「お帰り。どうだった?」

「んー、普通」

「そう」

 いつも通りのやり取りを交わし、久美子は冷蔵庫からパック牛乳を取り出す。中身を空のグラスに注ぐと、透明なグラスはあっという間に白い液体で満たされていった。底面にどんな像を映し出していたのか、それを見ることはもう叶わない。

「お母さんさあ、卒業した学校の部活に顔出したことってある?」

「急に何の話?」

「だから、お母さんが学生の時。卒業した後で、部活の後輩に会いに行ったりとか」

 そうねえ、と頬に手を当てた母親が昔を思い出しているうちに、久美子は手に持ったグラスをぐいと傾けた。きんきんに冷えた牛乳が体の中を一気に下っていき、胃の中で存在感を主張している。この勢いで飲み干したらお腹を壊してしまいそうだ。そう思いつつ口に含んだ液体を、今度は少し噛むように味わってから嚥下する。

「あんまり思い出無いけど、後輩の大会の時ぐらいは、応援に行ったこともあったような」

「例えば卒業した年の四月一日に、いきなり後輩のところに行ったりとかは?」

「流石にそんな事しないわよ」

「だよねえ」

 当たり前の答えが返ってきたことに、久美子はこっそり安堵する。これで『行ったけどどうして?』なんて言われたら、逆にこっちが母親の常識を疑うところだった。かく言う自分とて、高校入学の直前に中学の吹部へ顔出しをした覚えなんて無い。その時期はたいてい入学の準備で何かと慌ただしかったりもするし、そもそもいかに母校と言えども年度を跨げば部外者となってしまう身の上だ。そういうのは遅くとも三月のうちまでに済ませておくのが卒業生としての正常な振る舞い、というものである。

「急にそんなこと言い出したりして、どうかしたの?」

「なんでもない。ちょっとご飯まで部屋行ってる」

「すぐだから早く来なさいよ」

 んー、と生返事をしながら空になったグラスを流しへ置き、久美子は自室へと向かった。

 扉を開けると嗅ぎ慣れた匂いが自分を出迎えてくれて、心が少し安らぐ。この現象に何か名前がついていたりはするのだろうか? などと考えつつベッドの脇に鞄を置いて制服を脱ぎ、それから鏡に写った自分の身体をまじまじと眺める。恨めしいことに、どこを取っても去年からさほど変化があるようには見られない。いや、身体測定の日まではまだ分からない。麗奈だって一年ごとにどんどんサイズを更新しているのだ。高校生活はあと二年もある。自分だって、もしかしたら。

 そんな妄想をしていたところに、ピリリ、と携帯電話の着信音が鳴り響いた。鞄から携帯電話を取り出し、画面のロックを解除する。(つか)(もと)(しゅう)(いち)。液晶画面に表示されたその名前を確認しつつ、さっそく応答の操作をして久美子は携帯を耳にあてがう。

「もしもし」

『もしもし、ああ俺だけど。今日トロンボーンパートでも噂になってたぞ』

「ああ、あすか先輩のこと?」

『おう。何で田中先輩が制服姿でって、ちょっとした騒ぎだった。一体何があったんだ?』

「知らないよ。むしろこっちが聞きたいぐらい」

 電話口に向けて本心を吐きつつ、久美子はベッドの縁へと腰を下ろす。ぼふり、と肌を包む感触に、少し火照った体の熱が吸われていく。

『あの田中先輩だからな、ワケ分かんなくて当然か。それで先輩、合奏の後も居たのか?』

「ううん、いつの間にか帰ってたみたい。帰るとこ誰も見てないって。秀一も?」

『少なくとも俺は見てないな。まあ合奏中に帰ったんなら、俺ら吹部の連中は見てなくて当然だろうけど』

 やはりそうか、と久美子は喉を鳴らす。最後にあすかを見たのは午後の練習が始まる直前。親指を立てるあすかに『私はここで吹いていくから皆はいってらっしゃい。グッドラック!』と威勢よく見送られたのが最後だ。まだ午後も早い時間だったし、恐らくはそのままお昼でも食べるついでにどこかへ行ったに違いない。

「実は私、あすか先輩がエイプリルフールのために学校来たんじゃないか、って疑ってて」

『エイプリルフール?』

「うん。今日四月一日だったし、もしかしたらあすか先輩流のジョークだったんじゃないかな」

『有り得るのかそんな事? いやでも、あの人なら有り得るのか。やっぱ良く分かんねえ人だな』

 だよねえ、と嘆息交じりに返しつつ、久美子は空いていた手で自分の肩をさする。四月になったとは言え、日が落ちればぐっと冷え込みが帰ってくる。暖房もつけていない室内の気温はまだまだ肌寒かった。

「ところで私、着替え中だったんだけど」

『あん? それももしかしてエイプリルフール?』

「ばか。早く着替えないと風邪引きそう」

 げ、と電話口から秀一の呻き声が聞こえてくる。

『そりゃ悪かった。また今度電話するわ、じゃな』

 最後は足早にそう告げて、秀一は通話を切った。画面を閉じて携帯をベッドの上へ放り出し、おもむろに立ち上がる。収納棚を開けて着替えを取り出す久美子の脳裏には今も、あすかに対する疑念がべっとりとへばりついたままだ。

 誰に聞いてもあすかの意図は判然としない。エイプリルフールのつもりだったと言うのなら、種明かしもなく帰ってしまったのもそれはそれで気になる。そして誰の口からも出る言葉は『あすかだから』。そう、結局あすかの考えていることは、久美子にはサッパリ分からないのだった。

 分からない事をいつまでも考えるから、余計に頭がこんがらがる。もしかしたら種明かしは四月一日の終わった明日、改めてやるつもりなのかも知れない。いや、そう思わせておいて種明かしをしない、という可能性すらあるだろう。であればあすかの動機を考えるこの時間も丸々無駄になってしまいかねず、それこそが彼女の思うツボであるのかも知れない。果たしてどちらが正解なのか、この時の久美子には判断することが出来なかった。

『あすか先輩が来てくれて、嬉しくなかったですか?』

 先程の緑輝の言葉が再び脳裏に響く。――潔く認めよう。内心嬉しかったのは事実だ。またあすかと会えて、あすかの声が聞けて、あすかの音と一緒に過ごすことが出来たのだ。嬉しくない筈が無かった。けれどこうして彼女の訳の分からない行動に振り回され続けるのも、それはそれで癪だ。

 もうやめにしよう。そう考え直したところでちょうど「ご飯出来てるわよ!」とドアの向こうから母の大きな声がした。今行くー、と気だるく返事をして、久美子は自室のドアを開けた。

 

 

 

 翌日。いつも通り麗奈と二人で登校し、いつも通り職員室へ寄る。いつも通り顧問の(たき)に挨拶をして、部室の鍵の在処を訊ねる。

 早朝はいつも一学年先輩のみぞれと(のぞ)()が先に来て鍵を開けていてくれる。ならば久美子たちがわざわざ職員室に向かう必要も無いわけなのだが、そうする事は久美子はともかく、滝を『ラブの方で』慕っている麗奈にとってはとても重要な日課なのだ。そんな麗奈の恋する乙女ぶりは実にいじらしい。彼女の日課に久美子がわざわざ同行するのは、麗奈の可愛いところをつぶさに観察しておきたい、という一抹の嗜虐心を含んだ密やかな喜びの為でもあった。

 そして日課を済ませた後、二人はこれまたいつも通り部室へと向かう。

「はよございます」

 音楽室の戸を開け、久美子は挨拶をした。ぴたりと動きを止めたかのような空気の中で、美しく伸びやかなオーボエの音色だけが坦々と響いている。これも日常通りみぞれが基礎練習を行っている、その音だ。

 音楽において基礎は大事、とは口酸っぱく言われる事なのだが、それにしたってみぞれはいつも膨大な量の基礎練習を事も無げにこなしている。少しは飽きるという気持ちを抱かないものなのだろうか、と内心思うこともあるのだけれど、当のみぞれにそんな気配は微塵も無い。まるで全自動の機械が定刻通りにそうするかのように、彼女は全く同じ練習を日々重ね続けていた。その蓄積こそがみぞれの有する高い演奏技術へと繋がっていることは言うまでもない。

「おはよう」

 こちらに気付いたみぞれが演奏の手を止め挨拶をしてきた。初対面の時と比べて、近頃の彼女の対人コミュニケーション力はかなり高まったものだ、と久美子は思っている。もっともそれを感じられるのは部内でも、自分を含めたごく少数だけなのかも知れないけれど。

「おはようございます」

 麗奈はみぞれに丁寧に挨拶を返し、それから自分の席へと向かった。久美子はその場に立ったまま室内をぐるりと眺める。当然というべきか何というべきか、あすかの姿はどこにも見当たらない。

「あすか先輩なら、今日はいない」

 さえずるようにみぞれは呟く。よくよく考えれば、昨日あすかと部室前でやんやと騒いでいた時、きっとみぞれもいつも通りここに居た筈だ。久美子の視線から誰を探しているのか、流石の彼女にも解ったのだろう。

「そうですか」

 噛み締めるようにそう言い、久美子は鞄を自分の席に置く。みぞれも自分の練習に戻り、オーボエの調べが再び部室を染め上げていった。それを背に受けながら楽器室へと向かい、おもむろに低音パートの棚へ目を遣る。自分のユーフォが収められた黒いケース。その隣にぽっかりと空いたケース一つ分の空間。その光景は何故だか、今の自分の胸中に似ている気がした。

 ひょっとしたら今日もこの戸を開けた時、そこにあすかが居るのではないかと、知らず知らずのうちに期待していたのかも知れない。それが裏切られたことに、自分は密かに落胆したのだろうか。昨日まではあんなに心を搔き乱された筈なのに、今はその相手が居ないことを認めるだけで、寂しい。それは初めて経験する感覚で、けれどもそれをどう捉えていいのか分からない、という不気味な戸惑いを同時に孕んでいた。

 あすかの事が分からない。

 いつぞや呟いたあの頃の心境が、もう一度この身に舞い戻ってくるような気がした。そうこうしているうちに何処からかひょっこりとあすかが姿を現して、何もかも一日限りのドッキリだったと明かして、『なーんだ』と胸を撫で下ろすことになる。そうあって欲しいという淡い期待を、久美子は未だ捨てきれずにも居た。

 

 

 

 結局その日、あすかが学校に姿を現すことは、無かった。

 

 

 

 



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〈2〉繰り返す一年

「黄前久美子」

「はい」

 明瞭に返事をすると、松本(まつもと)美知恵(みちえ)はそれに頷きをもって確認の意図を示した。

()(とう)葉月」

「はいっ」

(かわ)(しま)緑輝」

「はい」

 点呼は淀みなく続けられ、クラスメイト達が順々に返事をしていく。一人ひとりに行われていくその通過儀礼を、久美子はただぼんやりと目で追っていた。

 教室に揃った顔ぶれの大半は去年のそれとは違う、見知らぬものだ。これから一年間を共にする仲間たち。けれど正直を言えば、彼らについてそれほど興味があるわけではない。

「浜田省子」

「はい!」

(ひい)(らぎ)(せり)()

「はい」

 クラスの中にはどうやら同じ中学出身の子もいるみたいだったけれど、顔を見てなんとなくそうかなと思う程度で、美知恵に呼ばれるまで彼女の名前を思い出すことも出来なかった。恐らくは彼女から見た自分もその程度の存在なのではないだろうか。仮に同じ中学出身だったとして、これを機に彼女と親しくなりたいという感情が沸き立つことも、別段ありはしなかった。

 多分、ほとんどの同級生たちも似たようなものだろう。たまたま同じクラスになれた仲良し同士を除けば、同級生というものにさしたる感慨や思い入れを持つことも無い。そうやって集団の輪の中で自分の立ち位置を確保して、極力波風を立てぬよう穏便に一年を過ごせれば良いと思っている、その筈だ。

 自分だってそう。そんな風に過ごせたら、それで良い。この時の久美子の内にあったものは、強いて言えばそのぐらいの想いだけだった。

「――以上で二年三組、全員の出席確認を終了する。今日は午前中で終了となるが、初日からだらけずしっかりと授業を受けること。いいな!」

「はい!」

 威圧的な美知恵の声に、久美子たちは半ば脊髄反射で大きな返事をする。その光景に「さすが吹部」とばかり、周囲からはクスクスと笑いが起こった。

 

 

 

「それにしてもさ。今年も三人おんなじクラスで、ホント良かったね」

 葉月が上機嫌でプラスチックの串をミートボールに突き刺す。だねぇ、と相槌を打ちながら、久美子も母お手製の玉子焼きを箸でつまんだ。新学期最初のホームルームも終わり、同級生は三々五々、教室を後にしていく。久美子たちはと言えば午後からの部活に備え、こうして教室に残って昼食を取っている最中だった。

 新しいクラスでも再び担任となった美知恵の計らいなのか、はたまた数奇な縁というものなのか、今年も葉月と緑輝は自分と一緒のクラスになった。学校生活を送る上で気心の知れた友人が近くにいてくれるのは、普段の授業のみならず文化祭や修学旅行の準備といった各種行事においても何かと助かるものである。うっかり教科書を忘れてしまった時などに彼女たちから借りることが出来ないのは、難点と言えば難点ではあるけれど。

 ともかく、午前中は特段の問題も無く穏便に過ごすことが出来た。ただし午後からの部活はそうは行かない。新年度の始業式と同時に入学式も行われる北宇治では、今日から新一年生も一緒に学校生活に加わることになる。そして新入部員を一人でも多く獲得することは、今の吹部にとって喫緊かつ必須の課題なのだ。

 願わくば、朝の歓迎演奏を聴いた一年生が入部の意志を高めていてくれたらいいな。そんなことを考えながら少しパサついたチキンライスを口に運ぶ。じっくり炒めたであろう紅色のライスからは、ほんのりと甘いバターの風味が漂った。

「午後からは部活だけどさ、もう新入生とか見学に来るかな?」

「んーどうだろ、去年全国行ったからそこそこは来るかもだけど。それにしたって当分は仮入部期間だし、部活紹介だってまだでしょ? 初日から来るのはけっこう気合い入ってる子ぐらいじゃないかな」

「去年の麗奈ちゃんみたいにですか?」

「そうそう、麗奈みたいに」

「そんなこと言ったらウチらだって、去年は初日から見学しに行ってたじゃん」

「あれ、そうだっけ?」

 たった一年前の出来事だというのに随分と記憶がおぼろげになっている。そうと言われてみても、あれは入学から何日か後のことだったような気しかせず、とんと実感が湧かない。それもこれも去年があまりにも濃密な一年だったからに違いない。

 そんな旨を告げると、葉月は「まあ久美子らしいわ」と半ば呆れつつおかずのエビチリにぱくついた。彼女のお弁当はボリュームたっぷりで、唐揚げやらシュウマイやら精のつきそうな肉類がところ狭しと並べられているのだが、その中に緑色の要素は一切見当たらない。

 かく言う自分の弁当はと言えば、こちらはミニオムライスに玉子焼き、ほうれん草と玉子のバター炒めにミニハンバーグと好みの品でガッチリ固められている。きっと葉月のそれも自分と似たようなものなのだろう。そんなやくたいもない推量を巡らせつつ、おかずを一通り食べ終えた久美子はお茶の入った水筒をぐびりと仰ぐ。

「ところで、朝のアレって何だったんでしょう?」

 唐突な緑の質問に、はて、と久美子は小首を傾げた。

「アレ?」

「今朝の話です。クラス替え発表の張り出しを見てた時、廊下で」

「あー」

 緑輝のお弁当箱は彼女の体格に合わせてなのか、久美子たちのものよりもさらに一回り小ぢんまりしていた。その中身は主食が桜でんぶと炒り玉子でカラフルに彩られたご飯、おかずにはくりんくりんのタコさんウインナーが二つ、一口分のナポリタンで作られた座布団の上に鎮座ますプチトマト、そしてウサギの形にカットされた小ぶりなリンゴと、これぞ弁当・オブ・弁当とでも言わんばかりの組み合わせ。いかにもという可愛らしい並べ方と言い、もしかしてこのお弁当、緑輝が自分で作ったのではなかろうか? ぷりぷりとしたタコさんが一匹、彼女の小さな口へと運ばれていくのを眺めながら、久美子はエプロン姿でるんるんとキッチンに立つ緑輝の姿を思い描く。

「あれ三年の方だったよね。なんかうぎゃーとかどえーとか、そんな声してたけど」

「クラス替えの時って賑やかなものですけど、ちょっと違うっていうか、だいぶ張り詰めてる感じでしたよね」

「だねぇ。周りの人たちもかなりビックリしてたみたいだし。まあ、よっぽどイヤな人と同じクラスになっちゃったーとか、そんなのだろうけど」

 緑輝と葉月の語らいを聞いているうち、次第に朝の光景が呼び起こされてゆく。件の騒動は久美子ももちろん目撃していた。クラス替えを確認する生徒の波でごった返していたせいもあり、叫び声の主を実際に確認するまでには至らなかったのだが、けれど何となく久美子の中には一つ引っかかるものもあった。

「アレさ、あの叫び声なんだけど」

「うん?」

 ためらいがちに喋り出した久美子に、葉月と緑輝の注目が集まる。

「ホント何となくっていうか、もしかしたらただの勘違いかも知れないんだけど」

「なにか気になることがあったんですか?」

「あの声、なーんか、夏紀先輩に似てたような気がする、かなーって」

 言ってはみたもののいまいち自信が持てず、久美子は唇をきゅっと噛み締める。気がする、程度の事だったらいっそ言わずに居た方が良かったかも知れない。そう思い掛けた久美子の手が突然、ギュウと強く握られた。

「ひゃあ!」

「久美子ちゃんも? 実は緑も何となく、そんな気がしてました!」

 ずい、と久美子の眼前に近づいてきた緑輝の表情は、まさに迫真のそれだった。

「ちょちょちょ、痛い、痛いってば緑ちゃん」

「すいません。緑、ちょっとコーフンしちゃいました」

 パッと緑輝がその手を離す。ビックリしたー、とぼやきながら、久美子は己が手をさすった。

 緑、とは自身の『サファイア』という本名に相当なコンプレックスのある彼女が自らの呼び名として用いているものであり、友人たちにもそう呼ばせている――という説明も、高校生活二年目ともなればすっかり周知のものだろう。事実、教師やあすか、それと久美子らがささやかなイタズラ心でイジる時を除けば、平素から彼女を本名で呼ぶ者はもはや誰もいなかった。

「でも緑、見たんです! 悲鳴が上がってすぐ、(ゆう)()先輩が誰かとすごい剣幕で喋ってたの」

「優子先輩が? 誰かって、誰?」

「それが、緑からだと相手が誰なのかまでは見えませんでした。でも優子先輩があんな風に喋る相手って、考えてみたら夏紀先輩ぐらいじゃないかなぁ、としか思えなくって」

「なるほど」

 緑輝の推察には大いに信憑性がありそうだ。頬杖をつきながら、久美子も考えを巡らせてみる。

 トランペット担当の三年生、(よし)(かわ)優子は現在吹奏楽部の部長を務めている。基本的に彼女は直情的でまま突っ走りがちではあるものの、攻撃的な態度を他人に取ることはほとんど無い。あるとしても、それはよほどの事情がある場合に限られる。普段の彼女は竹を割ったようにさっぱりとした人当たりで、決断力もありながら周囲への気配りも上手にこなせる人物だ。先代部長である()(がさ)(わら)(はる)()らによって吹部全体のリードオフマンたる部長職に選ばれたのも、そういった彼女の長所を見込まれての事なのだろう。

 ただ一つの例外は、以前から彼女と犬猿の仲である副部長の夏紀である。彼女と優子は馬が合わないのか、あるいは逆に喧嘩するほどナントヤラの典型なのか、とにかくお互い顔を合わせれば何かしらの応酬をせずにはいられないらしい。今回の件にしたって、優子がそれほどまでに牙を剥く相手が誰かと問われれば、真っ先に思い浮かぶのはやはり夏紀だ。ならば緑輝の推察通り、その時優子の傍に居たのはやはり夏紀だったと考えるのが極めて妥当だと言えよう。そして二人が小競り合いをしていたのも、群衆の只中で突然夏紀が叫び声を上げたから……と仮定すれば、一通りの説明も付きそうではある。

 しかし仮にそうだとして、どうして夏紀は突然叫んだりしたのだろう? そこが久美子にはどうにも解せなかった。夏紀の性格からして余程のことでも無い限り、そんな奇矯な振る舞いをする筈は無い。それなのに、だったら何故。一つまとまりかけたところに別の謎が沸いて来て、それまでの思考がわた菓子みたいに散っていくような感じがする。

「ここまでの話をまとめると、久美子はあの悲鳴を夏紀先輩の声っぽいと思って、緑が見たっていう優子先輩と言い争ってた相手もやっぱり夏紀先輩っぽいってことだから……うむ、謎は全て解けた!」

 それまで顎に指を掛けながらぶつぶつ呟いていた葉月が、突如くわっと目を見開いた。

「つまり今回のクラス替えで優子先輩と夏紀先輩が同じクラスになっちゃって、それを知った夏紀先輩がふざけてうぎゃーって悲鳴上げて、うるっさいとか怒鳴った優子先輩とケンカになってたんだよ! どおー久美子? 私のこの冴え渡る推理」

「いや、無い無い」

 したり顔の葉月に、残念だけど、と久美子はにべもなく手を振った。

「夏紀先輩は進学クラスで優子先輩は普通クラスだし。麗奈もそうだけど、進学クラスって基本的に三年間ずっと一つのクラスだもん。進級の時に進学クラスに移るっていうのも聞いた事ないよ」

「ええー。でもでも、無いとは言い切れないじゃん?」

「だから無いって。そもそも優子先輩が進学クラスに移るっていうんだったら、去年のうちに少しぐらいはそんな噂話でも聞こえてくるもんじゃない? 他の先輩たちとか、それこそ同じトランペットの麗奈あたりから」

「それはそうかもだけどー。あっ、今度こそ分かった! 逆にさぁ、夏紀先輩の方が優子先輩のいる普通クラスに編入したとか」

「もっと無いよ」

 夏紀の成績をじかに聞いた事などもちろん無いが、彼女が部活後に予備校へ通っているという話は以前本人から直接聞いている。副部長に就任後、優子と共に吹部のあれこれを取り仕切らなければいけないせいで、勉強に割ける時間も多少減っていたりはするかも知れない。けれど要領の良い夏紀のことだ。進学クラスから落ちこぼれるほど成績を下げるような事態になど、流石に陥ってはいないだろう。

「ぐぬー。結構自信あったんだけどなぁ、推理」

 持論を完璧に論破された葉月が大仰にうな垂れてみせる。とは言え純粋に推理を当てようとしていたわけではなく、恐らく半分ぐらいは会話を膨らませる為でもあったのだろう。次に顔を上げた彼女の表情は大して悔しげでも無く、冗談っぽい微笑みを湛えていた。

 と、そこでスピーカーからチャイムの音が鳴り響く。

「げっ、もうこんな時間。部活始まっちゃう!」

「急ぎましょう」

 ついつい話に夢中になり過ぎてしまったようだ。慌てて弁当の殻を鞄にしまい込み、三人は急ぎ足で教室を後にした。

 

 

「……以上がこれからの大まかな活動内容になります。特に今日から十日間は新入生の入部勧誘期間になるんで、練習の合間にリクルートもガンガン行って下さい。今の部員数は二、三年合わせて四十六人ですが、前三年生の引退に伴って穴の開いたパートの人員補充もしなくちゃならないので、とにかく経験者も含めてたくさん勧誘していきましょう」

「はい」

「目標は三十五人、出来れば四十人越えが理想です。それに向けて、中学で面識のあった後輩の引き抜きとか校内でのチラシ配りとか、各自よろしくお願いします」

 壇上に立つ優子の声はくっきりと、部室後方まで良く通る。こうして演説するさまが板について来た頃にはもう、優子はその性格も相まって実に部長向きな人物だ、と久美子も思えるようになっていた。当初は彼女の激情的な面を心配する声も無いではなかったのだが、実際に彼女が率先してテキパキと動き指示を出す姿を見るうちに、そんな声を上げる者はいつしか誰もいなくなっていた。

 つらつらと続く部長談話の隙間を縫って、チラリと盗み見るように久美子は隣を窺う。そこに座っている夏紀の表情はいつになく不機嫌なようにも見える。それもさっき会った時からずっとだ。挨拶ついでに朝の件を尋ねてみるつもりだったのだが、彼女の放つ重々しい雰囲気に阻まれてしまい、久美子は夏紀にもう一声を掛けることが出来ずにいたのだった。

 もしあの場に優子と一緒に居たのが夏紀だったとして、優子と何やら言い争ったのがこの不機嫌さの原因なのだとすれば、下手に触れるのはやぶへびかも知れない。今日のところはこのまま黙っておくとしよう。久美子がそう結論付けた頃には、優子の業務連絡もおおかた区切りがついたようだった。

「何か質問のある人は……居ないみたいね。じゃあパート練習に移ります。解散」

 ぱん、と鳴らされた柏手を合図に、部員たちは各々の次なる活動に向けて席を立とうとした。とその時、ガラリと入口の戸が開く。

「皆さん揃ってますね。ちょうど良かった」

 音楽室に入って来たのは高身長で痩せ型のイケメン、言わずと知れた吹奏楽部顧問の滝(のぼる)だ。彼がこうして練習開始のミーティングに姿を現すのも珍しい。大会が近い時を除き、普段の練習における連絡事項などはほとんどが部長を通じて部員に伝えられるようになっている。それに今日は合奏の予定も無かった。となればいよいよ、滝がこの時間帯にここへ来る必要は無い筈なのだが。

「皆さんに少々お話がありますので、申し訳ありませんがもうしばらく座っていて下さい」

 予定外な滝の登場と行動に、部員たちはどよめきつつも元の席に着座する。そのタイミングで隣の夏紀が「ハア」と小さく溜め息を漏らした。よくよく見れば、トランペットの席に戻った優子の表情にもどことなく翳りがあるように見える。もしかして部にとって、何か悪い知らせでもあるのだろうか。

「よろしいですか? では、どうぞ入って下さい」

 指揮台の椅子に座った滝が戸の向こう側へと声を掛ける。全員が自然とそちらに注目し、ひと呼吸を置いた後、その戸はもう一度緩やかに開けられた。そしてそこに立つ人物を見て、皆が一斉に驚きと困惑の声を上げ始めた。

「ええっ!」

「ちょ、どういう事ですか!」

「なになに、あたし夢でも見てんの?」

「何やってんだ、この人……!」

 息が、出来ない。

 肺の入り口に栓をされたみたいに、空気を吸う事も吐くことも適わず、音を捉え損ねた唇はがくがくと情けなく震えるばかり。何が起こっているのか。一体どうなっているのか。まるで理解できない状況に対し、脳が完全にフリーズしてしまっていた。周りの雑音も何も耳に入らず、開いた口も塞がらぬまま、部員達の横を通り抜けて滝のいる壇上の隣まで優雅に歩んでいくその人物に、久美子の双眸は釘で打たれたように固定され続けた。

 見間違いではない。その黒く長い髪も、美しく整った面立ちも、その上に飾られる赤縁の眼鏡も、身に付けた北宇治の制服の着こなしも、そこに浮かぶ完成されたボディラインも、颯爽とした足取りも、スローモーションで眼球に刻み付けられるそれらは何もかも全て、良く見慣れた彼女のそれに相違なかった。

 だが、それが既におかしい。それ自体がもう間違っている。だって彼女はここに居る筈が無いのだから。いや、ここに居てはいけない人物なのだから。

「静かに」

 滝が円を描くように動かした手のひらを握り、場を制す。ざわめきはそれでスウっと収まったが、しかし場の空気は未だ微かに動揺を続けていた。

「これについては本人から直接皆さんに話したいという事でしたので、皆さん気持ちを落ち着けて彼女の話を良く聞いて下さい」

 滝が手を前に出し、どうぞ、と促す。それに頷きを返して、彼女は口を開いた。

「えー、皆ももう知ってるだろうし、今さら自己紹介の必要も無いと思うけど、一応ね」

 そこで軽くはにかんで、そして彼女は、いつもの調子で喋り出した。

「田中あすかです。諸々の事情で、もう一度この北宇治高校で三年生をやることになりました。これから卒業まで、改めて吹奏楽部のいち部員として活動していきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします」

 そこまでを言い切って、あすかは深々と一礼した。あまりにも流暢すぎるその所作に、部室のどこからも拍手はおろか突っ込みの声すら起こらない。先ほどまでのどよめきも収まり、今はただただ誰もが呆然とするばかりだった。

 あすかの事が分からない。つい先日、そんな考えを抱いていたことすら生温いとでも言わんばかりに、この衝撃は久美子の脳を最大震度で揺さぶっていた。分からないどころの話じゃない。これはどんな状況だ。こんなことが本当に、あり得るのだろうか? 動揺を抑えきれない久美子の視線はひとりでにあすかの胸元へと突き刺さる。それを見て、ようやく気付いた。

 エイプリルフールに突如として闖入してきた彼女に抱いた、ほんの僅かな違和感。

 こんなにもあからさまなのに、目の前にあった大きな異常のせいでうっかり見落としていた異変。

 あの時感じたそれらの正体。

 北宇治の制服、襟に巻かれたスカーフはそれぞれの学年を色で示している。久美子の学年なら赤。夏紀の学年なら紺。そしてあすかの胸元のそれは、彼女が去年までつけていた緑色、ではなかった。

 

 

 ――四月一日。あの時から既に、あすかのスカーフは()()だった。

 

 

 『何故、卒業式の答辞をしたのが、あすかでは無かったのか』

 

 その疑問に答えが出たのとほぼ同時に、あすかと久美子はパチリと目が合う。あるいは彼女の方から視線を合わせて来たのかも知れない。あすかはあからさまにこちらに向けて、愉悦に塗られた表情の端から白い歯を光らせた。それはまるでいたずら小僧が見事に悪巧みを成功させた時のような、そんな顔だった。

 

 

 

 



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〈3〉あの人ともう一度

「何考えてるんですか、あすか先輩!」

「く、久美子ちゃん落ち着いて」

 どうにか場を執り成そうとする梨子にも構わず、つい声を荒げてしまう。練習前のミーティングが終わって三年三組へと場所を移すなり、久美子は早速あすかに詰め寄っていた。 

「だーかーらぁー、そんな大袈裟な話じゃないって」

 肩に掛かる艶やかな黒髪を指で梳きつつ、あすかは呆れたように溜め息を吐く。都合が悪そうにしているというわけでもなく、口の端を歪めた軽薄な態度はむしろ、こちらの狼狽ぶりをあざ笑っているみたいですらあった。

「いい加減説明して下さい。どういうことですか、留年って」

「留年は留年。それ以外どうもこうもないでしょ」

「だって先輩、成績も優秀ですし。それなのに留年なんてするわけ、」

「そうですよ。私たちだってこんなの、未だに信じられないですし……」

 久美子に続けてそうこぼした梨子の言は、彼女のみならず低音パート、いや部員全員の心の声でもあるだろう。事実、この場に居る誰もが困惑と懐疑の眼差しをあすかに向けていた。今ここで平然としていられるのは、それを一身に浴びるあすか本人だけだ。

「ちゃんと説明して下さい」

 卓也に促され、んー、とあすかは面倒くさそうにぽりぽりと唇を掻く。

「まーアレよ。去年後半、色々とうちの親が介入してきたせいで学校休んだりしてたでしょ? そのせいで出席不足になっちゃって」

「先輩、去年そんなに学校休んでましたっけ」

「私もそんなつもりは無かったんだけどさぁ。うちの学校の三年生、二月から受験対策とかで自由登校になるでしょ? あれでビミョーに足りなくなったんだって」

「担任から事前に連絡とか通知とか、そういうの無かったんですか?」

「どうだろうね。何にしてもホント間抜けな話だよね。まあこうなっちゃったのは事実だし、仕方ないでしょ」

 こうして傍であすかたちのやり取りを聞いていると、どうにも胃の腑あたりにむず痒さを感じる。あすかは一貫して、それこそまるで他人事みたいな口ぶりで、己の身に起きた不祥事を語っていた。だが仮にあすかの言っている通りだとして、そんな状況が誰からも見逃されたままになるだなんて本当にあり得るのだろうか? 全然納得のいかない久美子の脳裏に、ふと昨秋の事件が蘇ってくる。

「先輩のお母さんは、その、大丈夫だったんですか」

「ああ、母親ね」

 久美子の質問に、ふ、と乾いた笑いのあとで、事も無げにあすかは宣った。

「もちろん言ってやったわよ。去年色々あってこうなっちゃったから、今年こそきっちり卒業して志望の大学にもちゃんと入る。その代わり、今年一年は私のやる事に構わないでそっとしといて、って」

「そんなんで納得したんですか、先輩のお母さん」

「したっていうか、させたの」

 幼子に言って聞かせた、とでもいうような口ぶりで答えるあすか。それを聞いてなお、久美子の胸中には疑念がコールタールのようにこびりついていた。

 あすかが退部の危機にあった一連の出来事。その全ての発端となった職員室での事件、一部始終を目撃したのは他でもない自分だった。あすかの母親がどんな人物であるのかも、あすか自身の生い立ちも、この面々の中で全てを知っているのは自分だけだと言っても過言では無いだろう。そして件の母親を直に見た事のある久美子だからこそ、こんな状況をあの母親が看過する筈が無い、と確信をもって断言することさえ出来る。

 その前提も踏まえ、あすかの態度はどうにも不自然だ。ウソを言っているとまでは断じない。けれどどこかに濁りのようなものがあって、本当の事は巧妙に包み隠している、そんな気配がする。

「でも私、心配です。先輩がまた去年みたいなことになっちゃったらって」

 梨子はそのつぶらな瞳の端にうっすらと涙を滲ませている。心優しい彼女はただひたすら純粋に、あすかの身の上を心配しているようだ。

「ヘーキヘーキ、全然へっちゃらだよ。入試はどうとでもなるって分かったし、あとは今年きちんと卒業すればいいんだもん。楽勝よ」

 それはきっとそうなのだろう。高校を卒業するのも難関の大学に受かるのも、あすかにかかればいとも容易いことだと思える。そう思わされるだけの才能が彼女にはあるのだ。常人の考える多少の不利など、この傑物にとっては恐らくハンデにすらなり得ない。

「けど、それならそれで、何でもっと早く言ってくれなかったんですか」

 梨子に代わって今度は卓也があすかを問い質した。こちらは困惑というよりも、ほのかに苛立たしげな空気を言葉の端に浮かばせている。彼の現在の心境は多分、久美子のそれと似たようなものであるに違いない。

「だって恥ずかしいじゃない? 出席不足で留年しましたー、なんてみんなに知られるのはさ」

「そんなのどっちみち今日になったらバレる事なんですし。それならいっそこないだ来た時、俺たちにぐらい言っといてくれても、」

 そうだ。どのみち今日を迎えたら、留年していた事実は否が応にもみんなにバレる。それならば何故あすかはあの日、四月一日にわざわざ学校へ来たというのか? それも制服姿に紺色のスカーフを巻いてまで。もしあの時点で誰かがそのことに気付いたならドッキリはそこで終了、あとは種明かしの時間となってしまっただろう。遅かれ早かれ部員たちが動揺することには変わり無いのかも知れないが、その代わりに今日がこんな騒ぎになる事も無かった筈だ。

「だからこそよ。それならいっそ、当日まで隠しておいた方が面白いでしょ」

 にべもないあすかの返答。果たしてそれは彼女の本心なのか? 理屈で考えていた訳ではなかった。ただ、肺の奥底から息を吐く時のように、その発想はぼろりと溢れ出していた。

「こないだ来た時、本当は言おうと思ってたけど、言えなかったんじゃないんですか」

 口走ってから、久美子は慌てて己の口を手で塞ぐ。また自分の悪い癖が出てしまった。あすかはそれにほんの一瞬瞠目した。が、すぐにへらりと破顔し、長い睫毛の隙間から妖しく光る瞳をこちらへと向ける。

「やっぱり黄前ちゃんは、黄前ちゃんだねぇ」

 その視線に射貫かれた途端、久美子の背筋はぞわりと震え上がった。

 これだ。この感じ。

 作り物のように出来過ぎた仮面の奥に潜む、恐ろしく獰猛な蛇にも準えられそうな眼光。それに睨まれた自分はまさしく蛙のように身動き一つ取ることが出来ない。そんな感覚が、目の前の人物が本当に『田中あすか』であるという実感が、久美子を無数の針で貫いていく。と、何を面白がったか、やにわにあすかが噴き出した。

「どうしたの。変な顔して」

「え、」

「あんまりマヌケ面してるもんだから、思わず笑っちゃったじゃん」

 どんな顔ですか。そう言いつつ、久美子は緊張のうちに下ろされていた手をもう一度口元へと運んでみた。己の唇をなぞったその手の動きは、緩やかだけれども確かに下向きの弧を描いている。あすかの言った通りだ。どうして自分はこんなにやけたような表情を浮かべているのだろう? あすかに睨まれ身動きも適わず息を詰まらせていた、その筈なのに。

「ホントなんですか先輩? いま久美子ちゃんが言ったのって」

 緑輝がずずいと身を乗り出す。事の真相を知りたいのはもちろん久美子や彼女だけではない。他の一同もまた、あすかを取り囲むようにぞろぞろ近寄ってきた。

「どうだろうねー。まあみんなにウソつきたいと思ってたわけじゃないし、バレたらバレたで作戦失敗! って考えてたってぐらいかな」

 皆の圧をいなすように、あすかが片手をひらひらと振ってみせる。

「せめて私にはもっと早く教えてもらえてたら、嬉しかったんですけど」

 そんなあすかの態度に不服を覚えてか、机の上に頬杖をついていた夏紀が心底呆れ顔で一人ごちる。

「夏紀先輩は、いつ知ったんですか?」

「今朝。クラス替えの張り出しのとこにあすか先輩の名前見つけて、それ見て思わず叫んじゃってさ。あー、今思い出しても赤っ恥だわ。自分でもあんな声どっから出て来たのか全然分かんない」

 夏紀のそぶりからはそれと分かるほどこの事態に辟易としているのが見て取れた。つまるところ、さっき緑輝たちと交わしていた推理通り、あの時あの場で叫んでいたのは夏紀だったのだ。そしてその動機もこれならば致し方なし、といったところだろう。謎が一つ暴かれたことに久美子は小さく吐息をこぼす。

「最初は全然意味分かんなかったし、隣に優子もいたけどアイツも混乱しちゃって、二人してその場で色々言い合ってたわ。同姓同名の転校生じゃないかとか、名簿のつけ間違えじゃないかってさ。そんで朝のホームルームになったら、いきなりうちの教室にあすか先輩が入って来て」

 そこで夏紀は唐突に言葉を切り肩をすくめる。あとはご覧の通り、という意味のジェスチャーだろう。

「というわけで夏紀、これから一年間よろしくー。クラスメイトとして」

 『クラスメイト』という単語を一字ずつ強調するように発音して、あすかは元気よく手を前にかざした。それを受ける夏紀は眉間に皺を寄せ、それはそれは大きな溜め息を吐く。

 なるほど。どうも昼から夏紀の機嫌が悪いと思っていたら、それはこういう事情からだったのか。これは流石に気の毒と言わざるを得ない。あのあすかと一年間、クラスメイトとして共に過ごす。そんな立場に置かれることとなった夏紀の心境は察するに余りある。同じく進学クラスである(よろい)(づか)みぞれならばひょっとして、大して動じもせずにこの状況を受け入れられたのかも知れないけれど。

「さあさあ、この件はもういいでしょ。以上で閉廷! さっきからユーフォ吹きたくて、もうウズウズしてんだから」

「はい」

「あ、後藤。パート練はアンタが仕切んなさいよ」

「俺がですか? あすか先輩いるのに」

「あのね。私はもうアンタと同学年のヒラ部員。で、アンタはパートリーダー。職務はキッチリ果たす。以上、文句ある?」

「……無いです」

 正論極まりない物言いを展開され、卓也はすっかり言葉を無くしたようだった。彼の立場も夏紀とはまた別の意味でいたたまれないものがある。一年遅い入学で本当に良かった。久美子はひっそりと、己の立場の幸福を噛み締めていた。

「それと今言った通り、夏紀たちと私は同学年なんだし、これからは『先輩』って付けるのも禁止だからね」

「それは、勘弁して下さいよぅ」

 心底イヤそうな顔をした三年生一同の様子に、それ以外の面々から微かな笑いが起こる。こうしているとまるで去年の低音パートの空気感が地続きになっているみたい。そう感じた瞬間、久美子は思わず苦笑にも似た溜め息を洩らしてしまったのであった。

 

 

 一日の練習が終わり、家へと向かう電車に揺られながら、久美子はぼんやりと生徒手帳を眺めていた。ビニール革の表紙をめくるとそこには北宇治高校の校訓、校歌、学則全般、清く正しい学生生活のありかた……といったことがつらつらと綴られている。この手帳を開く機会は日頃滅多に無く、従ってろくに読んですらいなかったのだが、しかし今日ほどこれの存在価値を強く認識した日も無かった。恐らくは卒業の日を迎えるまでの間にも無いことだろう。

 パラパラとページをめくってゆき、やがて目的の項を見つけたところで手を止める。

『留年』

 それほど芳しい成績とは言えない久美子だが、そんな彼女ですらこの単語に縁のない無難な一年間を送ることが出来ていたおかげで、詳しい規定などはこれまで殆ど知らぬままでいた。一言一句を取りこぼさぬよう、紙の上に印字されたその文面にじっと目を凝らす。

「……単位不足により留年となる場合は、以下の通りである」

 

 

一.年度末時点の考課全科目に対し赤点が四つ以上の場合

二.年間欠席日数が全出席日数の四分の一以上を占める場合

三.各授業の欠課時数が規定数以上に達する場合

 

 これらに該当する生徒を留年措置とする

 

 

 手帳を閉じ、久美子は天を仰いだ。普段からあまり活字に慣れ親しんでいないせいか、堅苦しい文言の羅列に軽く眩暈がする。

 本人の言と併せ、したためられていた内容通りの解釈をするならば、彼女が留年する原因となったのは恐らくこの『四分の一以上の欠席日数』という要素だと思われる。次に携帯を取り出し電卓アプリを開く。年間の出席日数など正確に数えたことは無いが、大体の休日数から逆算して学校のある日はおよそ二百日ほどだろうか。これを四で割ると、出てくる数字は五十。この概算に基づけば、年間五十日以上休めば留年の危険性が出てくることになる。要するに、よほど規格外に学校を休みでもしない限り、留年などという事態にはまず至らないということだ。そしてあすかの欠席日数はいつの間にか、この『よほど規格外』というレベルにまで達してしまっていたのだろう。

 あるいは、遅刻や早退などで受けられなかった授業を意味する『欠課時数』の要素も無いとは言えない。母親と揉めていた当時、あすかは欠席に加えて早退もしていたのだろう。となればそこで単位を取りこぼした教科があったという線も充分に考えられる。

「でも、あのお母さんに留年するかもって話が届いてなかったなんて、本当にありえるのかな」

 そこがどうしても、久美子には理解しがたい点だった。留年なんて、生徒にとっては人生に関わる事態だ。ある意味では浪人するよりもその後に響く、という話も聞いたことがある。であれば当然そうならないよう学校側も手を尽くすだろうし、その伝達には細心の注意を払うものじゃないのだろうか。

 しかも相手はあの母親である。わざわざ職員室に乗り込んできた以上、あすかの去年の担任や学年主任の先生だってその人となりを十二分に把握できていたのは間違いない。そんな人物に、娘の留年という一大事が、実際そうなるまで伝えられぬままでいた――などということは到底起こり得るものではない。もしも自分が担任の立場だったとしたら、そういう連絡をこそ最優先にする。

 それに学校も学校だ。仮に留年確定で卒業出来ないという生徒が居たとしても、少しぐらいの救済措置は図るもんじゃないのか? ましてあすかほど優秀な生徒であれば、春休みに特別講習を組むとか追試を受けさせるとか、何か特例でもって単位を取らせて卒業させても良いような気はする。せっかく良い大学に受かったのにも関わらず、卒業が認められず合格まで取り消される、というのではあまりにも悲惨ではないか。

 いやいや、流石に幾らなんでもそれは贔屓し過ぎというものか? そんな抜け道で進級や卒業ができるのなら、そもそも毎日休まず登校して真面目にテストを受ける生徒が馬鹿を見るというものだ。そこはやっぱり一生徒として学校に通う身分である以上、きちんと必要分はこなさなければならないと思うべきなのだろう。

 ……などと、あれこれ考え始めたらどんどん思考が脱線してきた。生徒手帳を胸ポケットにしまい込み、久美子は一旦深呼吸をする。もはやこの数日で何度同じことを思ったかも分からないが、何にせよあのあすかの事だ。『不測の事態で留年』など彼女に限って万に一つも有り得ない。きっとこれはあすかにとって人生を懸けた母親への反抗、いや、復讐なのだろう。

 実に馬鹿げてはいるが、そんな馬鹿げた真似を平然とやってみせるだけの悪魔の頭脳があすかにはある。父親との件はさて置いて、それで満足して終わりとはせず母親にも相応のお灸を据えることで、彼女が言うところの『枷』を外そうとした。そのぐらいはあすかの動機として充分考えられる、気がする。

 とは言え当人が何も語らない以上、こうして考えを巡らせてみたところで真相はいつまでも闇の中。今分かっているのは、あすかがこの一年をまた北宇治で、吹奏楽部で過ごすということ、そして久美子にとってはもう一年だけあすかと一緒に過ごせるということ、それだけだった。

「そうだよ、たったそれだけなんだよ」

 ぎゅう、と久美子の指が鞄の把手に食い込む。申し訳ないけれど、あすかの留年はあすか本人の問題でしかないのだ。周囲がいくら気を揉んだところで仕方ないし、留年という事実を今さら取り消せるわけでもない。

 それにあすかがあれだけ豪語している以上、今年こそ本当に彼女は北宇治を卒業していくことだろう。放っておいてもやがてはそうなる。そうしてあすかはあすか自身の実力で、彼女が本来あるべき潮流の中へと戻っていく筈だ。ならば今、人生のロスタイムとでも言えそうなこのひと時の中で、自分はあすかにどう接するべきなのか? 答えは、もう決まっていた。

『あんまりマヌケ面してるもんだから、思わず笑っちゃったじゃん』

 ふと、久美子は反対側の窓へと視線を向ける。そしてなるほどと思った。夕闇に染まる街の影に彩られたガラスの奥で、ちょっとだけ嬉しそうにしている間の抜けた顔が一つ、そこには映り込んでいた。

 

 

 

 

「はよございます」

「おはようございます」

 翌朝。今日も麗奈と揃って音楽室へと入る。それに最初に反応を示したのは(かさ)()希美だった。その手にはギラリと鋭い光沢を放つ銀色のフルート。いつも隅々まで丁寧に手入れがなされている、彼女のマイ楽器である。

「おはよー高坂さん、久美子ちゃん」

 挨拶をしながら希美が近付いてくる。その後頭部でポンポンと跳ねるポニーテールは、前向きで活発な彼女に相応しいトレードマークだ。

「先輩、今日も早いですね」

「まあ早起きは習慣みたいなもんなんだけどさ、かと言って他にやる事も無いしね。それだったら部室来て練習してた方が良いし」

 あはは、と快活な笑顔を浮かべる希美に、久美子も曖昧に微笑んでみせる。彼女の練習への入れ込みようを常日頃から見ていれば、そんな軽い気持ちでしている訳でないことぐらいはとうに解っている。しかし希美はそういったものをおくびにも出そうとはしない。それはきっと、『自分はこんなにも毎日頑張って練習してます』という姿を周囲に見せびらかすような行為を、彼女自身が嫌っているから。そう久美子は解釈していた。

「おはよう」

 ぼそりと霞むその声と共に、立ち並ぶ譜面台の隙間からみぞれが視線を寄越してきた。

「はよざいます、みぞれ先輩」

「さっきまで希美と合わせてた」

「そうだったんですか。すみません、お邪魔しちゃって」

「いい」

 ふるふる、とみぞれは小さく首を振る。

「合わせてたって言っても、適当にいろんな曲のフレーズさらいながらって感じだったんだけどね」

 希美は自分の席へ向かい、そこにフルートを置くと譜面台から数枚の楽譜を掴み取って戻り、「ほら」と久美子の眼前にそれらをかざした。目の前に広げられた楽譜の中には、久美子も知っている有名なアニメ作品のメドレー曲などもあるようだった。

「でもなーんか物足りないね、って二人で話してたとこ。あー、今年のコンクールの自由曲、何か良い曲になるといいんだけどなぁ」

「それは滝先生じゃないと、ちょっと分かんないですね」

「ホントお願いしますよーって感じ。去年の『三日月の舞』も良かったけど、もっとこう、フルートとオーボエが主役になるようなのがいいな。いっそソリとか」

「滝先生の選曲だったら、私はどんな曲でも良いと思いますけど」

 そこで滝の名が挙がったからか、不機嫌そうに表情を歪める麗奈が首を突っ込んできた。まずい、と感じた久美子が場を取り繕おうとするよりも先に、「いやいや」と希美が片手を振る。

「私も、滝先生が選ぶならどんな曲でも良いって思ってるよ、もちろん。ただ私らは今年が最後のチャンスだしさ。せっかくなら思いっ切りコンクールの舞台で吹きたいなーって、そういう意味で言っただけ。あんまり気にしないで」

 そう言ってニッコリと、希美は相手をなだめすかすような笑顔を向ける。麗奈は微かに狼狽したように眉尻を下げ、やがて「分かりました」とだけ言い残して練習の準備に戻っていった。一部始終を眺めていた久美子もホッと安堵の息を吐く。希美の上手な執りなしぶりはさすが(みなみ)中吹部の元部長、といったところだろうか。

「ところでさ、久美子ちゃんもビックリしたでしょ。あすか先輩のこと」

「え? はい、まぁ」

 虚を突かれ、久美子は慌てて希美に向き直る。

「あすか先輩も人が悪いよねー。先に言っといてくれれば良かったのに。まあでも、私は今年もまた先輩といっしょに吹奏楽やれて、嬉しいかな」

 薄くはにかむ希美のことばに、久美子も去年のことを思い出す。一度は吹奏楽部を退部した彼女が再び部に戻りたい、とあすかに嘆願していたあの頃、『自分を引き留めてくれたあすかの役に立ちたい』と希美は言っていた。それが果たされたかどうかは久美子の与り知るところではないが、今年もあすかと過ごせるのを喜ばしく思う気持ちがあるというその言も、希美の立場からすれば至極当然のものと言えるだろう。

「とにかく、今年も皆で頑張って、今度こそ全国金賞獲ろうね」

「……はい」

 希美の檄に、久美子は素直に頷く。と、

「がんばる」

 がたりと椅子の動く音。そこに立ち上がったみぞれは本人なりの決意の表れか、彼女は片方の手をグーの形にして小さく前に突き出している。

「そうだね。頑張ろ、みぞれ」

 みぞれの元に近付いた希美もまた拳を握り、こつん、と彼女の拳にぶつける。その時ちょうど、戸の外から何やらギャアギャアと言い争うような声が聞こえてきた。

「さあて、部長さんたちもお出ましみたいだし、私はそろそろ個人練に行こうかな。それじゃみぞれも久美子ちゃんたちも、また後でね」

 こくり、と小さく首を動かしたみぞれに手を振り、フルートと譜面台を手にした希美が軽やかな足取りで部室から去ってゆく。そんな彼女の背をじっと見送るみぞれの姿は、今にも朝霧の中に消え行ってしまいそうなほどに、儚げだった。

 

 

 

 



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〈4〉期待の新入部員たち

 それからの十日間は、瞬く間に過ぎ去っていった。

 新入生の勧誘合戦。各種演奏会に向けての練習。指導係としての準備。さらに難度の増した授業への対応。バタバタと駆け回る毎日に追われ続けた久美子たちだったが、果たしてその甲斐はあったと言えるだろう。

 音楽室の中にはたくさんの新入生がごった返していた。正確な人数は分からないが、上級生と比較しても遜色無いほどの人数だ。彼らはこれからこの北宇治吹奏楽部の一員として、あるいは仲間として、一緒に大きな目標に向け頑張っていく事となる。新入生たちもまたそんな未来を頭の中に描いているのか、皆一様にその瞳を期待と不安で輝かせているようだった。

 可愛い雛鳥とも言えるこの子たちは、これからの吹部での活動を楽しいと思えるだろうか。はたまたそのキツさに音を上げるのが先か。それを思うと少し怖くなってしまう。無垢な雛鳥たちは、いつの日か無限の彼方まで羽ばたきたいと願う理想の陰に、その心許ない翼をたやすくへし折られかねない現実があることをまだ知らない。

「それじゃ、希望の楽器のところへ移動して下さい」

 ひとしきり楽器紹介が終わり、優子の指示に従って新入生がぞろぞろと移動を開始する。新一年生にとってはここからが勝負の時間だ。各々が希望する楽器へとすんなり配属されれば良いのだが、必ずしもそうなるという訳ではない。あまりにも希望人数が多かったり学校備品の楽器が足りなかったりするパートなどでは、採用する人員を絞るために即席のオーディションが行われる場合もある。これに漏れてしまった子は残念ながら、他の楽器へと希望を移さなければならなくなってしまう。まこと吹部とは競争ずくめの世界なのである。

「……なーんて、うちら低音パートにはほぼ縁のない話だね」

 諦観に満ちた表情で葉月が肩をすくめる。それに呼応して久美子も、だねぇ、と小さく呟いた。

 希望者が長蛇の列を成すフルートやトランペットなどと比べて、低音パートのスペースは実に閑散としたものだ。今日という日のためにぴかぴかに磨かれたユーフォニアムやチューバはまだ誰の手垢もつかぬまま、寄せ集めた机の上で虚しく輝きを放っていた。

 この中にも低音楽器の経験者が居ないわけではないのだろうが、経験があっても元々希望していた楽器ではなかった、ということだってある。そういう子が進学を機に好きな楽器へ鞍替えをする、といったケースは珍しくもなんともない話だろう。ホルンからトロンボーンに転向した秀一は言わずもがな、去年の自分だって、当初はトロンボーンを希望しようとしていたのだから。

 けれど、そうならなくて良かった。

 もしも他の楽器に移っていたら、今こんなにもユーフォが好きであるようにその楽器のことを好きになれたか、自信は無い。それにユーフォでなかったらきっと、麗奈と肩を並べて共に高みを目指そうと考えることも、ユーフォを通じてあすかと深く交わることも出来なかっただろう。その意味でもユーフォを担当することになって本当に良かったと、久美子は心からそう思っている。

「おらおら、ボーっと突っ立ってたって新入生は来ないでしょ。全員さっさと動いて、手ごろなのをとっ捕まえて来る!」

 そのあすかは低音楽器を並べた机の前に腰を下ろし、さながら現場監督の如く後輩に檄を飛ばしていた。この光景も一年前のそれとまるで変わらない。あのとき葉月が一本釣りされたように、今年もあすかに転がされるいたいけな子が現れるのだろうか。こうしてあすかに尻を叩かれ、手当たり次第とばかりその辺の一年生に声掛けを始める葉月の姿が、どうにも久美子の目には憐れに映ってしまう。

「先輩は、勧誘しに行かないんですか?」

 久美子は一応、あすかに水を向けてみる。答えはおおよそ分かり切っているのだけれど。

「去年はそうしたけど、今年はもう黄前ちゃんたちの時代だから。老兵は死なず、去りゆくのみ、ってね」

「ですよねー」

 あの衝撃の再入部宣言から十日あまり、あすかはずっとこのスタンスを貫いていた。自分は留年生だから。現役じゃないから。それは役務を面倒くさがったあすかの方便、というわけでは無いだろう。パート指導の件も然り、あすかがこまごまと口を出してしまえば事は『あすか主導での活動』になってしまう。そしてそれは昨年既に行われたことだ。その点を鑑みてなのだろう、パート単位で活動をする時、あすかはその内容を卓也ら現役三年生たちの自主性にすっかり委ねる姿勢を貫いていた。

「けど楽器選びが始まってから十分くらい経ちますけど、まだ誰も来ないのはヤバいですね」

 憂慮の色を隠さぬ梨子が頬に手を当てぼやく。仮にこのまま放っておいても他パートからあぶれた人員が回って来るので、最終的には人数不足に陥る心配は無い。しかしそれはそれとして、本人のやる気という問題もある。全員は無理だとしても、能動的にやりたいと思って低音パートに来る子が、出来れば一人くらいは居て欲しいものだ。そう、例えば去年の緑輝のように。

「久美子ちゃん、中学の後輩とか心当たりはいない?」 

「え、いや、居るような気もするっていうか。でも他の楽器を希望してるみたいな感じかなぁって」

 梨子の問いに久美子はしどろもどろになってしまう。正直な話、この大人数の中から見知った後輩を探し出すのはとても難しいことだった。というより、中学時代の後輩の顔など今やほとんど覚えていない。向こうから声を掛けてきてくれれば、もしかしたら思い出せるかも知れないが。

「梨子先輩の方こそ、めぼしい後輩とかは来てないんですか?」

「私、中学の時は料理部だったから」

「じゃ、じゃあ後藤先輩。ここは一つパートリーダーとして、ビシッとお願いします」

「……こういうのは、あんまり得意じゃない」

「あぁ……」

 何故か堂々とした卓也の回答に、久美子はガックリと肩を落とす。あくまで主観上の話ではあるが、低音パートは自分から主張するのが苦手なタイプの人が多い、というのが久美子の率直な印象だ。卓也や梨子などはその典型で、縁の下の力持ち系と言えば聞こえは良いが、こういう場面では不利に働くことも多い。あすかのような人種は例外中の例外であり、ほとんどは穏やかな性格の子か、もしくはやたら個性的か、いずれにしてもバリバリの肉食獣タイプはそれほど多くないという感がある。

 部室内に散ってしまった葉月や緑輝も未だ帰ってくる気配が無い。夏紀は副部長の職務を優先してなのか、今は別パートのオーディションを捌く役に回っている。状況的に見て、今動けるのはどうやら自分しかいないらしい。腹を括った久美子が物珍しそうな目でチューバを眺める新入生に声掛けをしようとした、その時だった。

「すみません」

 背後から突然声を掛けられ、久美子の心臓はその一瞬でギュウと絞り切れんばかりに収縮してしまった。

「ユーフォニアム希望なのですが、低音パートはこちらで宜しかったでしょうか?」

「はっ、ヒャイ!」

 あまりの動揺に思わず声が裏返ってしまう。みっともなさを堪えながら振り返ると、白雪のような可憐さを湛える一人の女子生徒がクツクツと喉を震わせていた。

「失礼しました。先輩を笑うつもりは無かったのですが、お返事があまりに突飛でしたもので、つい」

「あ、ううん。こっちこそヘンな声出しちゃって、ごめん」

 ばくばくと暴れる心臓を手で必死に押さえつけながら、久美子は改めて件の新入生をしげしげと眺める。

 ユーフォニアム希望、と述べたその女子生徒は見るからに可愛らしい容姿をしていた。目の高さに切り揃えられたショートボブの黒髪、その左こめかみ辺りには真っ赤なリボンが結わえられている。身長は久美子よりも一回り小さく、彼女の愛くるしい顔立ちにはちょうど相応しい体格であるように思えた。ふわりと浮かべた人懐っこい笑顔は、向けた相手をもれなく味方につけてしまいそうな、蠱惑的な匂いをほのかに漂わせている。

(ひさ)(いし)(かなで)です。よろしくお願いします」

「よろしくね。私は黄前久美子、私もユーフォ担当だよ」

「黄前先輩、ですね。それとも『久美子先輩』とお呼びした方がよろしいでしょうか?」

「どっちでも良いよ。呼ばれ方には特にこだわり無いし、久石さんの呼びやすい方で」

「それでは不躾ながら、親しみを込めて『久美子先輩』と呼ばせていただきますね。私の事もどうぞ『奏』と、下の名でお呼び下さい」

 自己紹介を終え、奏は深々と一礼をした。可憐な見かけの割にはずいぶんと丁寧な言葉遣いを用いる子だ。久美子もまた親愛の情から、彼女を「奏ちゃん」と呼ぶことにした。

「先輩、去年の全国大会に出てらっしゃいましたよね? 赤い眼鏡の先輩と一緒に」

「あぁ、うん。その人、そこにいるけど」

「そうなのですか? 私あの日、ちゃんと名古屋の会場まで演奏を聴きに行ったんですよ。絶対に先輩方と一緒にユーフォを吹きたいと思っていたので、夢が叶って良かったです」

「そう言われると照れるなぁ。でもそういうことなら、何よりだね」

「そうですね。本当に果報者だと、自分でも思います」

 きゅっと目を細め、そして奏はつかつかと、椅子に座り込んでいるあすかの元へ歩み寄っていく。

「初めまして、久石奏です。ユーフォニアムを希望しています」

「おっ、今年の一人目は黄前ちゃんがフィッシュかな? 流石だねぇ」

「そんな、新入生をサカナみたいに言わないで下さい」

 卓也の窘めも意に介さず、あすかは悠然と会話を続ける。

「久石ちゃん、ね。キミはユーフォ経験者なのかな?」

「はい、中学の頃からずっとユーフォひと筋です。その、ええと、先輩の、」

「ああ、私は田中あすか。気軽に『あすか先輩』って呼んでくれていいよん」

「ではお言葉に甘えさせていただきますね。私、昨年のあすか先輩と久美子先輩の演奏を全国大会でお見掛けしまして。とてもお上手な先輩方に憧れて、北宇治で吹奏楽をしようと思って来ました」

「ほほう、そりゃまた光栄だねぇ」

 珍しくあすかが謙遜してみせる。初対面の新入生を怯えさせぬよう猫を被っている、というのも半分くらいはあるのだろうが。

「あんな素晴らしい演奏をなさる先輩方にご指導いただけるなんて、本当に夢みたいです。昨年の自由曲のソロもとてもお上手でしたし、てっきりあすか先輩は三年生なのかと思っていましたが、あの時はまだ二年生でいらっしゃったんですね」

「ああ奏ちゃん、そのへんの話は今度ゆっくり、ね?」

 堪らず久美子は間に割って入った。その話をここで始められたらややこしい事態を招いてしまう事が容易に想像出来る。しばし怪訝そうにしていた奏だったが、どうやら空気を読むに敏な人物であるらしい。そうですか、と話題をすぐに別のものへと差し替えてくれた。

「それにしても、あすか先輩はずいぶん長いキャリアをお持ちとお見受けしたのですが、いつ頃からユーフォを吹いていらっしゃるのですか?」

 奏のその質問に、あすかは得意げにフフンと鼻を鳴らす。

「聞いて驚くがいい。実は小一の頃からなのだよ」

 奏は両手を広げ、わあ、と驚く仕草をしてみせた。

「それは凄いですね。普通なら金管バンドにも所属していない年頃ですし、ひょっとしてご両親の手解きがあったりしたのでしょうか?」

「奏ちゃん!」

 すかさず久美子は奏の両肩を後ろから引っ張った。これには奏も流石に面食らったらしく「先ほどからどうしたんですか?」と久美子に瞠目をくれる。駄目だ。これ以上好き勝手に会話をさせたら、この無邪気な新入生はそのうちあっさりと地雷を踏み抜いてしまう。

 そっと様子を窺う限り、あすかは特に気分を害した風でもなく、むしろニマニマと面白がるような表情で奏のことを眺めていた。ひとまずはセーフといったところだろうが、このままにしておくのは色々な意味で危ない。何よりこっちの身が持たない。どうにかしなければ。久美子が考えを巡らせていたちょうどその時、人いきれの中から「奏ー?」と女子の声が聞こえてきた。

「奏ぇ、どこ行ったのー? ダブリーんとこ、一緒に来てくれるって言ったじゃーん」

「あ、ホラ奏ちゃん? お友達が呼んでるみたいだよ」

「ああ、そう言えば」

 しまった、といった様子で奏が口元に手を当てる。

「友人が希望しているダブルリードパートに、付き添いで一緒に来て欲しいと頼まれていたのをすっかり忘れていました。別に一人で行けばいいのに、何だか勇気が出ないらしいんです。おかしな話ですよね」

「ハハ、そうだね」

 可愛らしく小首を傾げる奏に、久美子は愛想笑いを返す。確かに普通であれば何も遠慮する必要など無いのだが、奏の友人が向かおうとしているその先では恐らくみぞれが一人で座っている筈だ。何しろダブルリードパートには今、三年生のみぞれ一人しかいない。元々がウェルカム気質ではない上に彼女の不愛想ぶりも相まって、周辺には他を寄せつけない異様な空間が広がっていることだろう。とりわけみぞれのことなど知らない新一年の子であれば、彼女の傍には相当近寄りがたいと感じているに違いなかった。

「すみませんが少々席を外します。あ、私のユーフォ入りは決まりでよろしいのですよね?」

「もちろん大歓迎だよ。まだ他に誰もいないし、奏ちゃんが希望者第一号ってことで」

「ありがとうございます。それではまた後ほど」

 うやうやしくお辞儀をすると、奏は満開の笑顔を残してその場を去っていった。久美子はホッと胸を撫で下ろす。ちょっと危ない場面もあったが、何はともあれ人柄の良さそうな後輩で良かった。あすかの人となりについては奏もおいおい知っていく事になるだろう。そうなれば今みたいに、あすかの危うい領域にうっかり踏み込むことも無くなる筈だ。

 それに自らユーフォニアムを希望してくれているというのは、これはかなり前途有望である。聞けば経験者だと言うし、きっと即戦力たり得るに違いない。そういう意味でも良い人材を早くに確保できたことに、久美子は大きな達成感を覚えていた。

「良かったねぇ、黄前ちゃん」

 そうですね、と久美子は振り向く。あすかはにやついた笑みを湛えたまま、人の輪の中に埋もれゆく奏の背をじっと見つめていた。

「面白そうな後輩で」

 その一言に、久美子の胸の中で何かが小さくざわめく。あれ? なんだろう、この感じ。

「ただいま戻りましたー。加藤葉月、新入部員ダブルゲットだぜぇ!」

 久美子ははたと我に返った。歓喜の声を上げた葉月はその両手に、高身長の女子と奏ぐらいに小柄な女子とをそれぞれ引き連れていた。そのまま得意げに彼女たちの紹介を始める葉月の声を聞き流しつつ、久美子はそっと自分の胸に手を当てる。

 さっき感じたものが何だったのか、良く判らない。けれど何となく、いやどちらかと言えば、悪い予感と呼べるものに少しだけ似ている気がする。そう思えば思うほど、この感覚は黒さの比重を増していくようですらあった。

 ううん、きっと気のせいだ。別にあすかは後輩の迂闊な言動に怒っているとかじゃない。そのぐらいは判る。それに奏はあの通りとても良い子だし、すぐに低音パートに溶け込んで、そのうちにあすかの事もちゃんと理解してくれるだろう。

 大丈夫、問題なんて何も無い。そう自分に言い聞かせ、ようやっと落ち着きを取り戻せた頃に、緑輝が一人の男子生徒を率いてこちらに帰ってくるのが見えた。

 

 

『全国大会金賞』

 昨年度の実績を踏まえた今年の目標が決まり、担当楽器の決まった新入生も加わったことで、総勢九十名となった新生北宇治吹奏楽部がいよいよ始動する事となった。

「それでは最後に私から皆さんに一つ、お話したい事があります」

 それまで成り行きを見守っていた滝が再び前へ出たのに合わせ、一年生の塊からキャアッと小さい歓声が上がる。上級生にしてみれば、滝の容姿だけを見てそんな声を上げられるのも今のうちとばかり、失笑すら浮かぶところだ。やがて知るであろう彼の本性を目の当たりにして、それでもなお滝に胸をときめかせられるとしたら、それは麗奈と同じくらいタガの外れた、もとい、稀有な人物だと言っていい。

「田中さん、こちらへ」

「はい」

 裏で予定されていたのか、あすかはスムーズに返事をして滝と共に壇上へ立った。先日と似たような流れではあるのだが、あの時のように騒ぎが起こったりはせず一同はあすかの登壇をじっと静観している。それは今現在、上級生にとっても何も知らぬ新入生にとっても、あすかがここに居るのが至極当然のものとして受け入れられているからこそだ。

「こちらの田中あすかさんは、吹奏楽部所属の三年生です。実は田中さんは家庭の事情により、昨年留年することになりました。ですので、他の三年生よりも年齢は一つ年上になります」

 ええっ、というざわつきが、一年生の間から漏れ聞こえる。

「さて、ここからが本題です。田中さんは奏者としてユーフォニアムを担当していますが、演奏技術に加えて音楽的な知識や造詣も非常に深く、とても優秀な方です。これは上級生ならば誰もが認めるところでしょう。その田中さん本人の希望もあり、また私自身もそれが良いと判断した上で、これから三年生が引退するまでの一年間、田中さんにはコーチとして活動してもらうことになりました」

 これは久美子にとってあまりに予想外の流れだった。あすかがコーチに? コーチって何なんだ? 動揺したのは他の上級生も同じだったらしい。驚愕の波に翻弄された空気がそこかしこでさざめき、その音はじわりと大きさを増し始める。その時パシンと一発、手を叩く大きな音が部室に響いた。

「静かに!」

 優子の一喝で、部員たちは水を打ったように静まり返る。こういう時にすかさず場を律することが出来るのはさすが部長、といった手際だ。ざわつきの収束を確認するようにぐるりと視線を巡らせた滝が、続きを語り出す。

「もちろん田中さんが吹奏楽部の一員であるという事には変わりありません。田中さんには普段の練習時間の合間を見つつ、皆さんのパート練習のチェックと指導を行ってもらいます。つまりコーチとは顧問である私の役割を補佐する立場、ということです。それでは田中さんからも、皆さんに一言どうぞ」

 はい、と返事をして、あすかが喋り始める。

「コーチ役を務めることになりました、田中あすかです。って言ってもさっき滝先生が言ってた通り、そんな大した役じゃないけど。練習してて疑問に感じることがあったらどんどん私に聞いて下さい。それと私が言ってることで何かおかしいと思ったら、それも遠慮なく突っ込んできて下さい。目的はあくまで良い音楽を作ることなんで、そのためにみんなの方から私を役立てて欲しいと思っています。以上、よろしくお願いします」

 深々と頭を下げるあすかに、今回はきちんと部員たちの拍手が送られた。あすかのコーチ就任に関して優子や夏紀にも是非は無いらしく、あるいは彼女たちも取り決めに一枚噛んでいたのか、皆の拍手を促すかのように率先して手を鳴らしていた。

「それともう一つ、大事なお知らせがあります」

 滝は立ち上がり、黒板の前に立つと白いチョークを手に取った。その様子を見て木管の女子たちが何かを警戒するように少しだけ身じろぎしたのが、久美子の視界に入る。

「上級生には以前にも伝えてありますが、来月にはサンフェス以外に宇治地区合同の定期発表会もあります。ちょうどサンフェスの一週間後です。二年に一度行われる演奏会なのですが、地区内の小学校から高校までの音楽クラブを中心とした団体が出場し、それぞれの演奏を披露することになります。もちろん私たち北宇治も、この発表会に参加する予定です」

 滝はそれぞれの日程を黒板に書き出していく。五月初頭、サンフェス。その一週間後、地区定期発表会。カツカツ、と音を立てて並べられていくその文字はいつも通り、印刷物のフォントを見ているかのような整いぶりだ。

「中間テスト直前の時期ということで日程的には少し厳しい部分もありますが、せっかく大勢の前で全員での演奏を披露できる機会です。これを実力アップのための貴重な実践の場と捉え、大いに活用するつもりで参加しましょう。また、この演奏会にはマーチングコンテストの全国常連校として知られる(りっ)()高校も出場します。立華の演奏力には多いに学ぶ点がありますし、出番も離れていますので、当日余裕のある人は立華の演奏を聴くのも良い勉強になるでしょう」

 立華。その名を聞いた久美子の脳裏に、(あずさ)の顔が思い浮かんだ。

 佐々木(ささき)梓は久美子と同じ中学出身の友人であり、共に吹奏楽部に所属していた間柄でもある。先述の立華高校に進学した彼女はレギュラー争いの厳しい立華で一年生にしてファーストトロンボーン、しかもソロの座まで勝ち取るほどの驚異的な技術やパフォーマンスを身に付けていた。もちろん同じ府内の高校である以上、目下コンクールでは強力なライバルであることは間違いない。

 それに個人的な意味でも、梓には負けていられない、という気持ちが久美子の中には芽生えつつある。今の梓はあの麗奈にさえもその実力を認められる立場にあるのだ。麗奈と同じく『特別』を目指す久美子にとって、梓の存在は決して無視できないものとなっていた。

「以上、今年はサンフェス、地区発表会と立て続けの出演になりますが、どちらにおいても良い演奏が出来るよう、これからの行程を予め見据えた上で練習に取り組んで下さい。そのぐらいの意気込みでなければ、今しがたの全国金賞という目標も単に痛々しい子供じみた夢物語でしかありません。口にしたことは実現出来るよう行動に移す。そして実現するもしないも、全ては皆さん次第です。良いですね?」

「はい!」

 部室内に全員の返事がこだまする。昨年よりも大幅に人数の増えた北宇治吹奏楽部の新しい一年が、こうして始まった。

 

 

 

 

 穏やかだった日差しは徐々にその熱を高めていき、気が付けばあんなに咲き誇っていた桜も、とうの昔に散ってしまっていた。新入生指導係として彼らの練習メニューを組み指導を行いつつ自身の練習もこなす久美子だったが、事前の予想に反してさほど忙しいという訳でもない。

「それも、あすか先輩のお陰かな」

「そうなの?」

「多分。新入生が集まって合奏した後、みんな各パートに行って練習するでしょ? そこであすか先輩に指導されるからなのか、前の日に出した課題も次の日には全員ちゃんと吹けるようになっててさ」

 なるほど、と麗奈は相槌を打つ。今日はサンフェスに向けての全体練習があり、練習を終えた久美子は久しぶりに麗奈と肩を並べて下校していた。ちなみに葉月と緑輝は一緒ではない。葉月はこのほど参入したチューバの新しい後輩、(すず)()さつきと共に居残り特訓中であり、緑輝はそんな二人に付き合って指導役を買って出ていた。余談ながら葉月が勧誘に成功したチューバの後輩二人『(ダブル)鈴木』のうち、さつきは小柄な女子の方である。彼女と葉月は出身が同じ(ひがし)中ということもあり、入部初日からすっかり意気投合する間柄となっていた。

「あすか先輩、トランペットパートも見に行ってるんだよね。様子はどう?」

「様子、って言われても良く判んないけど。でもあすか先輩の指導で、みんな音は良くなっていってる。特に()()先輩とか、吉沢さんとか」

「そっか。そう言えば、加部ちゃん先輩もトランペットだったっけ」

「加部ちゃん先輩?」

「あ。ほら、先輩って、私と同じ新入生指導係じゃない? それで顔合わせのとき先輩に言われたの。『もっと特別感のある呼び方にして』って」

「それで、加部ちゃん先輩なの?」

「うん。まぁ」

 久美子の背中をイヤな汗が滑り落ちていく。その呼び名の発案者は他でもない自分自身なのだが、こうして改めて他人から突っ込まれると妙に間抜けな響きだな、と我ながら思う。言われて咄嗟に考えた呼び方とは言え、何となく気恥ずかしい。せめて『(とも)()』という下の名から取って『ともちゃん先輩』とか、もっと違うニックネームにすれば良かった。

「まあ、久美子らしいけど」

 くふ、と小さな含みを編み込みつつ、麗奈は柔和な笑みを浮かべた。

「吉沢さん、去年からずっと練習頑張ってるし、今年はレギュラーに入るかもね」

「加部ちゃん先輩は?」

「あの人はまあ、それなりかな」

 麗奈のその一言にずきりと胸が痛む。あの人。今の物言いには麗奈と友恵の間を分かつ距離感がぼんやり滲んでいるような、そんな気配がした。空気が冷めてしまう前に、久美子は会話を次へと繋ぐ。

「他のパートも結構良い音出すようになってると思うけど、そのへん麗奈はどう思ってる?」

「かなり良いんじゃない? 今年のコンクールは、去年より良い演奏が出来ると思う」

 麗奈がこれほどに手放しで他者の音を褒めるのも珍しい。それだけ麗奈も、北宇治全体の音楽が良い方向に伸びているという手応えがあるのだろう。

「あすか先輩、コーチになってからほぼ毎日各パート回って指導してるもんね。低音パートにいる時は相変わらず自分の楽器ばっか弄ってるけど」

「低音のことは心配してないんでしょ。去年も実質あすか先輩がコーチしてたようなものだし、元から上手な人多いし。それに確か、今年入った子だって全員経験者だったよね」

「うん、それはそうなんだけどね」

「何か気になることでもあるの?」

「んー。気になるっていうか、気がかりっていうか」

 久美子はそこで言葉を濁した。確かに今しがた麗奈の言った通り、新しい後輩達は全員が経験者ということもあり演奏面については各々それなりの技量を持っている。それはそれとして、今年の新入生はなかなかどうして曲者揃い、という印象が久美子の中には湧いてきていた。

 まずはチューバのもう一人の新入生である(すず)()()(れい)(みなみ)中出身の彼女は同じくチューバのさつきと旧知の間柄にある女子だ。高身長でクールな印象の美玲は見た目通りだいぶ気難しい性格らしく、さつきを避けているようなきらいがある上に低音パートの一同ともあまり打ち解けていない。次に、コントラバス担当の(つき)(なが)(もとむ)は男子であることを疑うほど中世的な外見の子なのだが相当にぶっきらぼうで、こちらも美玲とは別の意味で難儀な性格をしていた。

 そして、久石奏。人懐っこく礼儀正しい子、という彼女に対する久美子の当初の認識は、その後たった一日で呆気なく崩壊してしまっていた。何故か苗字で呼ばれるのを嫌がる求に対し、緑輝に窘められるまで執拗に『月永君』と呼び続けた奏。もしかするとあの子が新入生の中では一番厄介かも知れない。慇懃でお上品な薄皮の内にたっぷりと秘められた、毒々しいまでの邪気と悪意。表裏に見え隠れする強烈な二面性という意味では、奏の振る舞いはあすかのそれにも似ているところがある。

「そのあすか先輩とは今のところ何もトラブってはないけど、なーんか心配」

「久美子、さっきから声に出てる」

「うおっと」

「私は別に、心配しなくてもいいと思うけど」

「そう、かな」

「特別問題が起こってるわけでもないし。それより大事なのはこのメンバーで良い音楽が出来るかどうか、じゃない?」

 麗奈の力強さが胸に刺さる。音楽的なことだけでなく、こういう時の即断ぶりを見ても、麗奈は自分とは違う。そしてそれを純粋に凄いと思う。彼女の眩しい部分を見るたび目をすがめつつも、どこかで胸を疼かせる自分がいることを、このごろ久美子は認識し始めていた。

「麗奈はさ、あすか先輩が今年も部にいることって、どう思ってる?」

「急に何?」

「麗奈の意見、聞いてみたくって」

 麗奈は顎に手を当て少し考えてから、ぽつぽつと答えを紡ぎ始めた。

「……悪いことは無いと思う。あすか先輩の指摘って私から見ても的確で、音楽的にもちゃんと合ってるし。それに去年の低音パートだってレベル高かったから」

「そう言われると、なんか照れる」

「事実を言ったまでだけどね。パート練習って基本、部員同士で教え合ったり指摘し合ったりするでしょ。大抵はパートリーダーが指導する役をやるけど、指導する人の力量とか人柄に左右される部分もあって、必ずしも適切に指導出来るとは限らないじゃない?」

「まあ、確かに」

 それは久美子にも覚えのある話だった。和を重んじるあまりナアナアになってしまったり、誤った知識に基づいてトンチンカンな指導に終始したり。そういう人がパートリーダーに選ばれてしまうことも吹奏楽部ではままあるものだ。彼らのいい加減な指導が、やがて全体の音楽を決定的に破綻させてしまう例も少なくない。

「滝先生がいちいち全部のパート指導に回れるわけじゃないし、特に今年の三年はどのパートも人数少ないから、下手したら指導のやり方が良く解らないままリーダーになってる先輩もいるかもでしょ? その点、あすか先輩が各パートをチェックして練習の質を一定の水準まで上げてくれるのは良いと思う。いつまでもあすか先輩に頼り切りじゃ、それは良くないけど」

「そのへんはあすか先輩だからなぁ、ちゃんと考えていそうではあるかな」

「かもね。とにかく私はあすか先輩のコーチ役は申し分ないと思ってる。何より、滝先生がそうした方が良いって判断してるんだし」

「麗奈がそこまで言うなら、大丈夫なのかな」

 そう。きっと大丈夫。全ては上手く行っている。何も問題なんて無い筈だ。胸の中にうっすらと漂う何かを無理矢理飲み下すように、久美子は歯を食いしばる。

「それよりも、まずはサンフェスと定期発表会。ここで最高の演奏しよう」

「だね」

 麗奈に発破を掛けられて、久美子も前へと向き直った。確かに余計な心配をしているいとまは無い。夏のコンクール本番まで時間はあるようで無いのだから。北宇治が掲げる『全国大会金賞』という目標、そして悲願を果たす為に、一つひとつの事を全力でこなしていかなくてはならない。

 今はとにかく集中しよう。そう考える一方で、言葉に表すことの出来ないトゲがどこかに突き刺さっていて、それが何かを訴えるようにチクチク蠢くのを、久美子は確かに感じ取っていた。

 

 

 

 



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〈幕間1〉加部友恵のヒミツ

「じゃ、これからはそれでよろしく」

 バシン、と後輩の背中を強く叩いて、友恵は満足の意思を示す。

 目の前の後輩、黄前久美子は、新入生指導係としてこれから共に活動をすることになる子だ。彼女自身はとても良い子ではあるのだがどうにも折り目正し過ぎて、一言で言えばクソ真面目すぎる。現に初顔合わせのこの場でも、大した雑談もせずいきなり業務連絡から入ろうとしていたぐらいだった。そんな彼女と事務的なやり取りばかりで過ごすのはどうにも息苦しい。それにこの子としても、そんなお堅い空気の中で活動していくのは大変な思いもあるだろう。そう考えた友恵はあえて、自分をもっとくだけた呼び方で呼ぶようにと要望したのだった。

 そこから久美子が捻り出した『加部ちゃん先輩』というあだ名はいかにもマヌケで脱力しそうなものだったが、多分、このぐらいがちょうど良い。そう呼ばれることで彼女と打ち解けた関係を築けるのなら、私は気にしない。友恵はそういう考えの持ち主だった。

「そろそろ行こっか」

 指差したその先には音楽室の扉がある。その中にはこれから吹部の一員に加わることになる新一年生がひしめいていることだろう。自分の担当区分は主に、楽器初心者の子。それは同じパートの仲間であり吹部の部長でもある優子から、直々に指名された役割だった。

「友恵は右も左も分からない子の面倒を見るのが得意なタイプだから。音楽的に難しいことは黄前に任せることにして、アンタは新入生の『人』を見てあげて」

 その依頼を、友恵は喜んで引き受けた。自分は音楽的な能力に関してお世辞にも他の子より秀でてはいない。久美子は自分にとって後輩ではあるけれど、彼女の楽器キャリアは高校からトランペットを始めた自分よりもずっと長いし、音楽全般の知識や造詣も数段上のレベルにある。それは友恵自身にもとっくに解っていることだった。

 そして何より、友恵は自身の苦手な分野に力を尽くそうと考える性質の人間ではなかった。自分には自分の得意なことがある。それは誰かの面倒を見ること。とりわけ吹奏楽自体がまったくの初心者という子の気持ちは、痛いほど良くわかる。何がわからないのかがわからない、という状況に振り回されて、せっかく入った吹奏楽部で楽しい思いが出来ないのは勿体ない。百人近い集団の中で、どうしても取りこぼされてしまう人は出てくるものだ。そんな子たちに一人ずつスポットライトを当てることこそ、自分にできること。そういう自分の特性を優子がきちんと分かってくれているのが感じられて、友恵にはそれが嬉しかった。

 

 

 

「――それじゃあ早速、音を出してみましょう。まず最初はB♭(ベー)の音から」

 三、四、と手を振って、友恵は自分のトランペットを鳴らす。それに乗っかって新入生たちも音を鳴らし、教室内にそれぞれの楽器の音が混じり合って響いた。

 最初はこんなものかな。八拍のロングトーンを終えて友恵は楽器を下ろす。音量も音程もまだまだ安定しているとは言いがたい。でもそれも仕方のないことだ。目の前にいるこの七人の新入生は、今日初めて本格的に楽器に触れたような子ばかり。基本的な楽器の構え方や扱い方はそれぞれのパートで教わってきたようだが、まだまだ覚束ないところもあるらしく不安さが音にも表れている。そんな後輩の一人ひとりに、友恵は楽器の構え方や音の鳴らし方を手取り足取り指導していった。もちろん間違ったことを教えるわけにはいかないので、あらかじめ持ち込んであった各楽器の教本を片手にしながら。

「すみません先輩、なんか音がうまく出なくて」

「うん? あー、ホルンはマウスピース小っちゃいもんね。じゃあまずはマッピを口から離して、もっかいバズィングからやってみよっか」

「はい」

 指を(ブイ)の形にして唇にあてがう。ブー、と友恵が唇を震わせるのに合わせて、ホルンの後輩も同じ恰好でバズィングをした。だいぶ力みがあるようで、その振動はかなりぎこちなく、途切れ途切れになっている。

「難しいー」

「ねぇ、難しいよねバズィングって。私も最初のうちはぜんぜん出来なかったし」

「そうなんですか?」

「今でもヘタクソだけどね、慣れないうちは特にキツかったよ。やってるうちに頭クラクラしてくるし、次の日とか唇痛くなるし。でも毎日練習してると少しずつ鳴らせるようになってくるから」

「あー、いいなぁ。私も早くそんな風になりたいです」

 目の前の後輩はキラキラと目を輝かせている。希望に満ちたその瞳を、友恵はとても愛おしいと思った。まだまっさらな彼女の楽器歴にいま必要なのは、正しい奏法をいち早く身に付けさせることでも無ければ、高度な練習法をこなすよう指示することでも無い。音楽に大事なのは楽器を触って音を鳴らして、それを楽しむこと。そうやって出した音が次第に形を、音色を変え、やがて簡単でも良い、一つの曲を奏でられるまでになる。その過程を楽しいとさえ思うことが出来れば、上手くなるための方法はあとからきっとついてくる。それはかつてあの先輩から教わった友恵自身の経験則に基づくものであり、信条とさえ呼べるものだった。

「大丈夫、すぐに出来るって! 一緒に頑張ってこうね、(つち)()さん」

「はっ、はい! え、先輩、私の名前、」

「皆の名前はもう覚えちゃったよ。ああそうそう、私のことも『友恵先輩』とか呼んでくれちゃっていいから。みんなも何か分かんないことあったら、ドンドン聞きに来て」

「はい!」

 友恵の笑顔といかにも先輩らしい態度に、場の緊張感は少し薄らいだ。この子たちにとっては見るもの聴くもの、何もかもが初めてなのだ。不安に感じることもたくさんあるに違いない。かく言う自分だって音楽について、楽器について、知らないことは山ほどある。けれどその不安や迷いをチラリとでも覗かせたら後輩たちだって誰を頼れば良いか分からなくなり、ますます不安を募らせてしまうだろう。だからこそせめて自分との関わりでは、一切の不安なく頼ってきて欲しい。そんな思いが、このときの友恵を突き動かしていた。

「他に聞きたい事ある人はいる?」

 その問いに、今度はフルートの後輩がおずおずと手を挙げた。

「私もちょっと、うまく音が安定しなくて」

「そっかぁ。じゃあ(ひら)(いし)さん、私と一緒にB♭(ベー)吹いてみよっか」

「はい!」

 元気の良い返事ににっこりと笑顔を返して、友恵は楽器を構える。

「それじゃ行くよ。三、四、」

 カウントをして息を吸い、そして吹き込もうとした、その瞬間。

 ずきり。

 強烈な違和感を覚え、咄嗟に楽器を唇から離す。じとり、と滲み出る嫌な汗。そのただならぬ様子に、音を出しかけたフルートの後輩もどうしたのかと不安そうな目で友恵を見やる。

「……あーごめんごめん。吹こうとした拍子にハナ水出そうになっちゃってさ。何でもないから気にしないで」

 ヘラリと破顔してみせた友恵に、後輩たちはクスクスと笑みをこぼした。そう、何でもない。一瞬痺れるような痛みを頬に感じたけれど、今はもう何ともない。特に気にするようなことじゃない、筈だ。自らへ言い聞かせるようにそう心の中で呟き、もう一度、マウスピースを唇に当てる。僅かに早まった脈動が首筋をコツコツと叩く感覚が、妙に不快だった。緊張する体をなだめるように深く息を吐く。それからもう一度、自分自身を探るように、友恵はトランペットへそろりと息を吹き込んだ。

 

 

 その後の練習でも特におかしなことはなくて、あれはきっと筋を違えたか何かだったのだろう、と友恵は考えていた。

 己の身に忍び寄っていたものが何だったのか。友恵には知る由も、あるはずが無かった。

 

 

 

 



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2.飛躍するアレグリッシモ
〈5〉小さな発端


「それでは始めますね」

 いつもの三年三組の教室、その教壇の上には緑輝が立っていた。彼女のあどけない顔立ちには何故か、全く似合っていない赤縁の伊達眼鏡が掛けられている。

「まずはサンフェス用の曲からですけど、今回演奏するのはこの『アイ・ウォント・ユー・バック』です。日本のテレビやラジオ、CMでもおなじみですね。日本語で『帰って欲しいの』という意味のこの曲は、一九六九年にジャクソン(ファイブ)っていうアメリカのグループがリリースしたものですが、当初の題名は『アイ・ワナ・ビー・フリー』、つまり『自由になりたい』だったとも言われています。当時全米を席巻した大ヒット曲で、あのグラミーの殿堂入りも果たしています」

 つらつらと述べられる緑輝の説明に頷きながら譜面をめくり、示されている音符を頭の中で音に換えていく。過去に吹いたことがあるわけではなかったが、そのメロディは確かに聴き覚えのあるものだった。

「次に定期発表会用の曲ですが、こちらは二曲あります。まずは一曲目、『スルー・ジ・アイズ・オブ・ラブ』から」

 差し替えた譜面の題名には大きく『アイス・キャッスル・テーマ』と書かれていた。あれ、と疑問を呈すように、夏紀がそこで口を開く。

「このアイス・キャッスルってさ、スケート選手の映画かなんかだよね」

 その通りです! と緑輝は元気の良い答えを返す。

「アイス・キャッスルは一九七八年に公開された映画で、いま夏紀先輩が仰った通りフィギュアスケートを題材に描かれた物語です。主演女優にも当時プロスケート選手だったリン=ホリー・ジョンソンを抜擢していたりと、かなり気合いの入った作品だったみたいですね」

「私らが生まれるよりもずっと前の映画じゃん。そんなの良く知ってますね、夏紀先輩」

 感心しきりといった様子の葉月に、夏紀は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

「まあ、家でちょっと観たことあって。洋楽の曲が主題歌だったりするもんで、勉強の合間に時々専門チャンネル流してるんだけどさ。昔の映画ってけっこう面白いの多いんだよね」

「へえ」

 久美子もこれには少しばかり感心していた。好きこそものの上手なれとは言うが、別に何かの役に立てるつもりでもなく見聞きしていたものが、こうして意外なところで日の目を見ることもある。それを思えば誰かが言っていた『この世に無駄なものなんて何一つ無い』という言葉も、もしかしたら真理と言えるのかも知れない。例えそれがどんなに些細なことであっても。

「それで、肝心の曲はどのようなものなんですか?」

 無表情の奏が緑輝に続きを促す。

「『スルー・ジ・アイズ・オブ・ラブ』は映画の中に登場する劇中曲で、作曲したのはメリサ=マンチェスターという人です。アメリカのシンガーソングライターなので知らないという人も多いかもですが、日本で山下達郎さんとデュエット曲を発表したこともあるそうですよ」

「おおー、山下達郎は知ってる! あれだよね、雨は夜更けすぎーにー♪ ってやつ」

 覚えのある名にテンションが上がったのか、葉月はフフフンと鼻歌でそのクリスマスソングの冒頭をなぞった。

「曲名は『愛情の眼差しを通して』というような意味合いでして、『アイス・キャッスル』のクライマックスで流れる感動的なバラードです。その歌詞もスケート事故により失明してしまった主人公が恋人へと向ける心情を描いています。この曲の最大の見どころと言えば、何と言っても冒頭にあるユーフォのソロですね」

 その一言に、ぴくり、と久美子のこめかみが疼く。

「終盤にもオーボエのソロがありますけど、この冒頭のユーフォソロこそが曲自体の情感を豊かに盛り上げると言っても過言ではないです! この曲の吹奏楽版を編曲なさったのは作曲家であり指揮者でもある金山徹さんでして、今回吹くのはこれになりますね」

 ユーフォのソロか。ちろりと舌なめずりをしながら、久美子は譜面をもう一度見渡す。どうやらこれを吹くのはそれなりに責任重大と言えそうだ。もっともコンクールでも何でもない演奏会の場合、それを吹くことになるのが必ずしもパート内で一番上手い人であるとは限らない。実際には滝から指名が出る筈だが、少なくとも今の時点で自分が吹くと決まった話でもないのだし、それほど意識する必要は無いだろう。そんな風に考えつつ、久美子は隣に座るあすかへチラリと目を向ける。彼女は頬杖をついて時折ウンウンと唸りながら、緑輝の解説を無言で見守っていた。

「それともう一曲、『天国の島』ですね。イメージの元となったのは、作曲者である佐藤博昭さんが音楽教師として勤務していた北海道の()(うり)(とう)という小さな島なのだそうです。その美しい風土や朝夕の光景からきっと、この曲の着想を得たんでしょうね。二〇一一年度のコンクール課題曲だった『天国の島』ですが、テレビの人気番組の冒頭にこの曲が流れたりするので知ってる人も多いと思います」

「あー、私その番組知ってます。人気タレントが無人島に行って、建物とか水道とかいろいろ作ったりするやつですよね」

「そうそう! さつきちゃんも見てましたか」

「私も観てますよ。無人島の企画よりも、廃棄食材を集めて料理する方が好きですけど」

 さつきに奏までもが加わりワイワイと盛り上がり始める。久美子はそれを、物言わず横目に眺めていた。自分とてその番組は一応知ってはいるのだけれど、練習後には演奏会の準備だの指導係の打ち合わせだのがあるせいで、ここのところはじっくり観る時間が取れずにいた。いずれこの子たちもそうなる……と思うと、腹の底で黒い炎が小躍りするのを感じずにはおれない。

「皆さんも知っての通り、この曲の主役を張るのはトランペットによるメロディです。けどそれ以外にも低音や打楽器にも活躍の場面が多いので、きっと滝先生も今年の北宇治の実力を計るのに、ちょうど良い曲だと考えたんだと思います」

 トランペットのメロディ、と言われれば、真っ先に浮かぶのはやはり麗奈の姿だった。あの勇壮なフレーズを麗奈が力強く吹きこなすさまは、なかなかどうして絵になりそうだ。

「それと『天国の島』の方も冒頭に、オーボエのソロがありますね」

「へー。あっちもこっちもソロばっかで、鎧塚先輩も大変そうだね」

「大丈夫じゃない? みぞれ先輩、めちゃくちゃ上手いし」

 眉根を寄せる葉月に、久美子はサラリと見解を述べてみせる。実際みぞれならば、難度の高いソロですら平然と吹きこなしてしまうことだろう。彼女の実力は部内でも指折り数本の内には確実に入る。特別製のあすかを抜きにするならば、あの水準にいるのは麗奈、緑輝、そして希美ぐらいのものだ。全国の並居る超高校級奏者を前にしたとしても、みぞれの演奏は決して見劣りしない。それはほぼ確信と呼べるほどの強度だ。

「というわけで、これから練習することになる三曲の解説でした」

「お疲れ様ー。思ってたより上手じゃない、サファイア川島!」

 あすかのねぎらいに合わせて一同もぱちぱちと手を叩く。緑ですぅ、と顔をしかめながら、緑輝が伊達眼鏡を外して壇上から降りてきた。

「素晴らしかったです! 流石、緑先輩!!」

 拍手の音量がひと際高かったのは、緑輝の直属の後輩である月永求だ。それまで全くと言っていいほど他人に心を開かなかった求は、ある日の練習を境に緑輝の演奏力にすっかり魅了されてしまったようで、今や完璧に緑輝の信奉者となってしまっている。何かとあればすぐに緑輝を褒めそやす彼の姿は夏紀曰く『一年前のどっかの誰かさんを思い出す』ほどに熱烈で、常軌を逸する尊崇ぶりだった。

「今回はどれだけ出来るか黙って見守ってたけど、これだったら私の後継者として申し分無いわね。まあ、ちょいちょい補足したいところもあるっちゃあるけど、それは次回の課題ってことで」

「はい! 緑、これからも頑張ります」

 ぐっと握り締めた拳を天に突き出し、緑輝は両の瞳に燃える情熱を灯らせる。そこは頑張る必要あるのかな、と久美子は苦笑いを禁じ得ない。

「じゃあこの後は、パートリーダー主導で練習ってことで。後藤、いつも通り頼むね」

「はい」

 朴訥とした卓也の返事を合図にして、久美子たちは各々楽器を準備し練習の体勢に移った。本番の日まで、それほど時間に猶予は無い。しかも今年はこの時期立て続けに二つの演奏会がある。従って、配られた楽譜を速やかに吹きこなすことは部員全員にとって急務の課題なのだ。譜面を追う久美子の目に連動して、ピストンを押す指は的確に、出すべき音の形に沿って動いていった。

 

 

「疲れたー」

 一日の練習が終わり、片付けを終えた久美子は音楽室を後にした。空はすっかり薄暗くなっている。他の部員は皆一足先に撤収したようで、久美子が楽器を片付ける頃には既に殆どの楽器ケースが綺麗に棚へと収まっていた。

 今日も定時上がりしたらしい美玲とは対照的に、葉月と緑輝は部室に戻った形跡すら無い。彼女らは恐らく今日もさつきと共に校庭の隅っこで猛特訓中なのだろう。熱血一辺倒なのは良いとも悪いとも言えないが、肝心の本番当日にバテてしまうんじゃないか? というぐらい、このところの葉月は練習に熱が入っていた。

 彼女にしてみれば今年のサンフェスには初めて奏者として参加するわけであり、また上級生という立場も相まって、きちんとパフォーマンス出来るようになりたいという思いがあるのだろう。ここ数日は卓也や梨子も彼女らに付き添って集中指導をしているようで、それも美談ではあるのだけれど、ならば自分も付き合うかと言えばそれはまた別の話である。

 サンフェス用の練習はパレード行進の動作も含まれるため、普段の練習と比べて大幅にカロリーを消費する。体力も気力も尽きそうなところで練習を重ねても上達にはほど遠い。今日は早いところ家に帰ってご飯にありつこう。そう考えていた時、廊下の奥から漏れてきた誰かの声を、久美子の耳はいやに鋭敏に感じ取る。

「今の、あすか先輩?」

 その声は確かにあすかのものだった。ぼそぼそ響く喋り声は、下の階へと向かう階段の踊り場から聞こえてくる。気配を殺してそろりと廊下を進み、階段手前の角にへばりついた久美子は、息を潜めてそうっと踊り場の様子を窺った。

「……ハッキリ言うよ。今のアンタの実力は、低音パートの中で一番低い」

 それは久方聞かなかった、相手を一太刀で切り裂くあすかの冷徹な声色だった。一抹の慈悲すら感じられないその言の葉の鋭さに、久美子の背筋は凍り付いてしまう。

「それは、解ってます」

 あすかの対面で蚊の鳴くように返事をしたのは、夏紀だ。何がどうしてこんな状況になっているのか。あまりにも予想外の事態を前に、久美子の脳はまるで回転が追いつかない。場に割って入るべきか。このまま様子を見るべきか。逡巡する己の足はぴたりとその場にくっついて離れようとしなかった。

「このままだと部にとってもパートにとっても、アンタは足枷になる。今はまだ全員参加のサンフェスだから目立たないけど、それが終わってコンクールの時期になったら、特に」

「はい」

「そこまで分かってて、私に相談って、何?」

 あすかの口ぶりから察するに、どうやら先に声を掛けたのは夏紀からだったらしい。ということは、今しがたの手厳しい宣告もあすかから一方的に放たれたわけではなく、夏紀の方から引き出したものということになる。だが何故そんなことを? と考えるよりも早く、夏紀の返答が久美子の耳元に届いた。

「先輩に、私の個人レッスン、お願いしたいんです」

 束の間の静寂。二人の間に緊張が降り注いだのが解る。はあ、と大げさにこぼれた溜息の音は、あすかが発したもののようだ。

「そんな事してどうしたいの? 今さら後輩を見返してやりたいとか?」

「そうじゃないです」

 夏紀はそこで少しだけ間を置いた。

「私、副部長だってのに楽器は一番ヘタで。それはずっと前から分かってました。他の子が上手いのは事実だし、それもしょうがないって。あの子らはずっと前からユーフォやってるし、それに比べたら私は高校からで、ろくに練習もしてなかったんだからって。でも今年はそれじゃダメだって思ってて」

 食いしばるような彼女の声に、久美子は一つの記憶を思い起こす。およそ一年前。オーディションでコンクールメンバーに選ばれた久美子と、落ちた夏紀。あの日、夏紀は気に病む自分を笑い飛ばしてくれた。私には来年もある、と。けれど今度はそうは行かない。夏紀にとっては今年こそが正真正銘、最後のコンクールなのだから。

「希美にアドバイス貰ったりしながら自分なりにやれるだけやってみたんですけど、それじゃ間に合わないんです。実際、もし先輩が今年居なかったら誰にも相談しなかったと思います。先輩ならきっと私をみっちりしごいてくれると思うから。だから、あすか先輩にお願いしたいんです」

「私が教えたからって、オーディションまでにアンタが上手くなれる保証なんてどこにも無いでしょ。私に目一杯いじめられて、それでも落ちたらどうするつもり?」

「どうもしないです。オーディションに落ちたらそこでキチンと諦めつけて、最後まで皆のサポート頑張ります」

 そこからしばらく、二人の間に無言が続く。じりじりと焦れる空気に堪えかねて胃の中のものが込み上げそうになってしまうほど、それはとても長い沈黙だった。

「どうしてもあの子らに迷惑掛けたくないんです。お願いします」

 駄目押しで頼み込む夏紀の声は、微かに震えていた。足元の踊り場では今頃、夏紀があすかに向かって頭を下げているに違いない。そんな光景を久美子は容易に想像することが出来た。

 ああ、この人は本当に、肝心な時に限って不器用な人だ。スカートの裾を掴む自分の手が震えているのが滲んだ視界に映る。可能ならば今すぐにでも夏紀の元へ飛び込みたい。けれど本当にそれをやってしまったら、きっと夏紀を傷付けることとなる。そういう寸でのところでのせめぎ合いが、久美子をその場に押し留めていた。

「……分かった」

 その一言に、久美子はハッと瞠目した。やれやれ、と溜め息交じりに解き放たれたあすかの返事は、先ほどまでとはうって変わって明るかった。

「そこまで言うなら夏紀の練習、私が見てあげる」

「良いんですか?」

「良いも何も、夏紀の技術不足は半分私のせいでもあるしね。二年間ほとんどまともに構ってなかったし、そりゃあ今さら自己流で何とかしようったって上手くなれるワケ無いでしょ。基礎中の基礎から始めて、オーディションまでと言わずひと月で、他の子たちと対等になるぐらいまで鍛えてあげる。その代わり」

 キュッ、と甲高い音が廊下に響く。あすかが一歩踏み出した音だろうか。階下の二人の動静を、久美子は想像するより他に無い。

「私の猛特訓、超キツいよ。やり遂げる覚悟、ある?」

「あります」

 ほぼ即答だった。夏紀の声色には姿を観なくてもはっきりと解るほど、強い決意が滲み出ていた。

「よし」

 満足気なあすかの声が小さく聞こえてくる。

「じゃあさっそく明日の朝から特訓開始。それに放課後も合わせて、出来れば毎日一時間ずつは欲しいかな。予備校もあるだろうし大変だと思うけど、時間作れる?」

「大丈夫です。今は塾に切り替えてるんで、時間はどうにでも出来ます」

「OK。パート練の時間も毎日三十分は個人練ってことにして、要望通りみっちりやるよ。あんまりキツいからって途中で音を上げるのは無しだからね」

「分かってます。ありがとうございます」

「別に、お礼なんていらないって」

「そういうワケにはいかないです」

 真摯な態度の夏紀に、んー、とあすかは短く唸った。

「お礼はもう、去年貰ってるから」

「去年?」

「覚えてない? あのときの差し入れ」

 え、と夏紀は声を詰まらせる。それが何のことなのか、久美子にはサッパリ分からなかった。ひょっとして去年の退部騒動の折、部に復帰したあすかに夏紀が潔くコンクール出場の席を譲ったことを指しているのだろうか? でもそれを『差し入れ』と表現するのは何かヘンだ。その言葉の意味するところはきっと、この二人にしか分からない。

「そうと決まれば、もう遅い時間だしさっさと帰るよ。明日は六時に部室集合、くれぐれも初っパナから遅刻しないでよね。もし一秒でも遅れたら、ロングトーンしながらスクワット百回の刑だから」

「それは流石にキツ過ぎるんで、絶対遅刻しないよう今晩から学校に泊まっときます」

 冗談めかしたあすかの脅しに軽妙な夏紀の返し。二人分の笑い声が響いたところで「じゃあお先」と告げたあすかの足音がコツコツと階下に落とされていく。ややあって、夏紀もまた階段を下りていったようだった。

 しんと静まりを取り戻した廊下で、久美子は溜めに溜めた息をようやく吐き出すことを許された。とんでもない場面に出くわしてしまった、という感触に未だ動悸が止まない。夏紀があんな事を考えていたなんて露ほども知らなかった。それはもちろん周囲に対しておくびにも出さぬよう、夏紀が気を遣ってくれていたという事なのだろう。それを察せなかった己の不明は情けないが、当の夏紀はその状況に甘んじることなく必死に向上しようとしている。いや、自分の気付かないところできっと、彼女はずっとそうしていたのだ。ならば自分に出来ることは、そんな彼女の努力に今まで通り気付かないフリをしつつ、そっと見守る以外に無い。

 にわかに廊下へ明るみが差す。目を遣ると、窓の外に見える三日月がその切っ先を凛と尖らせていた。低く浮かんだその光はとても弱々しくて、けれど夜闇の中に存在を主張するようにくっきりと、久美子の全身を照らしていた。

 

 

 その日を境に、いつものパート練習の風景には変化が訪れた。

「ごめん、ちょっと個人練行ってくる」

 今までなら皆と一緒に終わりまで練習していた夏紀は、パート練の最中にちょくちょく席を外すようになった。初めそれを訝しがっていた一同も二日、三日と経つに連れ徐々に夏紀の演奏技術が向上している事に気が付き始めたのか、やがて誰も文句を言わなくなった。

 久美子はまだあの日のことを誰にも言わず、胸の中にしまったままでいる。そもそも他人にするべき話ではない。実際にそれが夏紀の、ひいては部の為になるのなら、それは決して悪いことでは無いだろう。けれど夏紀が席を外す時、それは必ずあすかも外出している時であることに気が付いているのは果たして自分だけなのか? 誰かに対して秘密を抱くのはこれが初めてではないのだけれど、その度にいつもクラクラしそうになるほど胸が罪悪感でたっぷりと満たされてしまう。どうやら自分は隠しごとをするのには向いてないタイプらしい、と久美子はこのところ改めて痛感していたのだった。

「それじゃ次はDから。ユーフォ、ピッチずれないよう気を付けて」

「はい」

 今日も卓也の指示に基づいて練習は進められていく。一通り譜面をさらえるようになると、今度は細かい部分への意識が大事になってくる。奏の演奏技術は大きい括りでは申し分無いのだが、その辺りへの対応力がまだまだのようで、時々音程が上擦ったり音の長短がまちまちだったりと不揃いな印象を受けていた。それらを横から指摘しつつ、久美子もまた自身の音と向き合ってゆく。決して十分とは言えない時間の中で、少しでも全員の音が良くなるように。

 それをひたすらに繰り返すパート練習の時間は、こうして着々と積み上げられていった。

 

 

 次の日、合奏練習の席で、唐突にそれは告げられた。

「『スルー・ジ・アイズ・オブ・ラブ』のユーフォソロですが、ここは黄前さんが吹いて下さい」

「ふぇ?」

 思いもかけない滝の言葉に、情けない音が喉から洩れてしまう。全員が一斉にこちらを注目してきたせいもあって、久美子の顔は一気に紅潮してしまった。

「返事は?」

「あ、はい!」

「よろしい」

 あまりの気恥ずかしさと緊張で、頭から煙が上がっているような気分だ。半ば周囲から顔を隠すように、久美子は譜面を間近に凝視する。冒頭のユーフォのソロ。先日緑輝の解説にあったその箇所を、自分が担当する。いいのだろうか。決して多いとは言えない本番の舞台で。あすかや夏紀を差し置いて。久美子の脳内に、大量の思考が激流のように押し寄せては流れ去ってゆく。

「どうしたの。もしかして、ソロ吹くことになって緊張してる?」

 狼狽する久美子の様子に勘付いたのか、隣の夏紀がひそひそと話し掛けてきた。

「あ、いえ。緊張とかではなくて、そのですね」

「別にそんな難しく考えなくていいでしょ。この中であすか先輩を抜きにしたら、一番上手いのは久美子ちゃんなんだし」

 そんな事を言われたらますます恐縮してしまう。どうにも夏紀に目を合わせることが出来なくて、久美子はただ俯く他は無かった。

「大丈夫だって。立華との合同演奏会の時だって久美子ちゃんがソリ吹いたんだし、自信持ってソロやりなよ。私が保証するからさ」

 ぽんぽん、と夏紀が背中を叩いてくる。あったかい。彼女の手の柔らかさとその気遣いには、心から救われる思いがした。

「……ありがとうございます」

 ここまで夏紀に後押しをされたからには、もう迷ってなんていられない。彼女の為にも恥ずかしい演奏をするわけにはいかない。決意を新たに、久美子は譜面に記されたソロの箇所へとペンを走らせた。

『最高の演奏する!』

 ペンを譜面台に置き、久美子は鼻息を荒くする。と、その時ふと、ある考えが頭をよぎった。

 技量で言えば、北宇治ユーフォの中でトップなのは間違いなくあすかだ。けれどそのあすかは今回ソロに指名されなかった。それはまだ分かる。現役生に場数を踏ませるという意味からも、コンクール以外の演奏会でソロを吹く人が持ち回りで替わるのはこれまでにもあった事だ。だが仮に、これが実力勝負のコンクールでの話だとしたら。その場合、滝はそれでも自分を選んでくれただろうか。

 そもそもあすかは今年のコンクールに出るのか?

 今年のあすかの部に対する関わり方はコーチ役然り、パートの主導を卓也任せにしている件も然り、常に一歩引いたものだった。そんなスタンスのあすかは、もしかしたらコンクールに出ないという決断をするのでは。あるいは滝もそういう前提で先を見越し、今回のソロを自分に宛がったのではないか。そんな漠然とした懸念を、しかし久美子は必死に振り払う。

 これはきっとただの深読みだ。そうでさえあるならば、今年もあすかと一緒にコンクールの舞台で吹く、そのチャンスがあるということになる。そしてそうなる事を、自分は内心望んでいる。もう一度、あすかと一緒に全国の舞台で、最高の音を響かせる。そういうひと時を過ごすことを、久美子は少なからず期待していた。

 そうあって欲しい。それがただの願望に過ぎないことを久美子は重々理解していた。そう、これは理屈の問題じゃない。単なる感情論、もっと言えば、ただの我が侭だ。けれどこの我が侭が現実のものになる日が来ることを、その可能性を、久美子は銀紙にそうっと包むかの如く大事に秘めておきたかったのだ。

 

 

 

 

(ワン)(ツー)(スリー)(フォー)、」

 優子のカウントに合わせ、行進の列が楽器を吹きながら一歩一歩と地面を踏みしめていく。

 サンフェス本番の日が刻一刻と迫る中、本日はグラウンドを使っての本格的な行進練習が行われていた。屋外で練習できる機会が限られている事もあり、指導にも相当に熱が入っている。楽器を担いでの行進、それも吹きながらとなると、体力の消耗は相当に激しくなる。かと言って姿勢を崩せばすぐに目立つ。優子はそれら全てに容赦なく、ビシビシと注意を飛ばしていく。

「そこ! ベル下がってる。本番じゃすぐ分かるよ!」

「はい」

「それと全員、音が引っ込んじゃってる。外で吹いたら全然響かないから、もっと意識して音出して!」

「はい!」

 部員たちは歯を食いしばって指摘に堪える。誰もがキツいと思いつつ、しかし音を上げているような暇はこれっぽっちも無く、息を切らしながらも速やかに対応していく。上手く出来ずに列を乱して恥をかくのは自分一人ではない。皆それを肌で感じ取っているからこそ真剣に練習に打ち込むのだ。本番には全員で、最高のパフォーマンスを聴衆に披露するために。

「それじゃもう一度、スタートから行きます。テーン、ハット!」

 カンカンと景気良く、優子が手元のドラムスティックを打ち鳴らす。それは『行進練習に使えそう』という理由で希美がパーカッションパートから貰ってきた廃棄寸前の品だった。すっかり色褪せたスティックはボロボロに打ちひしがれていて、今にも真っ二つにへし折れてしまいそうなほどに乾いた音を響かせている。

「フォワード、マーチ!」

 号令に従い、一同が曲を吹きながら行進を開始する。ドラムメジャーである優子が都度指示を出し、各員はそれに沿って動きと身振りを修正する。マーチングの練習はひたすらこの繰り返しだ。疲労をぐっと堪え、久美子は全身の隅々にまで神経を張り巡らせる。少しでも気を抜いたらそこで姿勢や演奏が乱れてしまう。本番まであと数日という中、何度も同じところをやり直してなどいられない。まさにここが正念場、というやつだ。

「ハイ、それじゃこれから三十分はパートごとの練習時間です。各パート出来てないところは重点的に修正かけといて下さい。その後はまた全体練習で、行進の動きを仕上げます」

「はい!」

「何度も言うけど、グラウンドで練習できるのは今日が最後です。残された時間を有効に使うよう、一人ひとり心掛けて下さい」

「はい!」

「それじゃ一旦解散!」

 部員たちは各々散ってゆき、そしてパート単位で集まっていく。久美子たち低音パートも早速集合し、動きを確認しながら互いの不備を指摘し合う時間へと移っていった。

「夏紀、歩いてる時前屈みになってる。もっと胸張って」

「マジか、気をつける」

 梨子の指摘に夏紀は慌てて背筋を逸らす。表情から察するに、彼女の疲労は色濃い。それを横目で見る久美子にしても、腕やら足やらあちこちの筋肉は既にパンパンだ。楽器を抱えながら歩行を交えて演奏する。それも縦横の線を乱さず、整然と。口で言うのは簡単だが、実際にやるとなると座奏とは全然違う負荷がかかることになる。さらにそれを実行し続けるのには、体力以上に精神力をひどく消耗してしまうものである。

 麻痺しかかった唇をマウスピースから離し、ふうー、と久美子は長く息を吐いた。身体を動かしながら吹いているせいか、肺の奥底がズタズタに荒れているみたいに不気味な鈍痛がする。きっとこの場にいる誰もが今、大なり小なり似たような感覚を抱いているに違いない。……約一名を除いては。

「加トちゃんはまだ足バタついてるよ。行進なんだから綺麗に足を伸ばして、特に入りはカカトから踏むように意識して」

「はいっ」

 いつもの調子で後輩たちに注意をくれるあすかは、いたってケロリとしていた。今年のあすかはドラムメジャーでも何でもない一般奏者であるため、こうして隊列に加わって久美子たちと同じように行進練習に勤しんでいるのだが、周囲の困憊ぶりをよそに疲れた様子を全く見せていない。それは単純に基礎体力と経験の差なのか、それともあすかが運動面でも抜群のセンスに恵まれているだけなのか。いずれにせよ、こうして肩を並べて同じ練習メニューをこなしていると、いかにあすかが規格外の存在なのかが身に沁みて良く分かった。これは晴香が悲嘆に暮れていたのも頷ける。こんな化物と只人の自分を第三者から比較されたら、そりゃあ多少はネガティブにだって陥ろうというものだ。というより、何も感じない人の方がおかしい。

 そんな事を考えていた折、視界の端に、葉月がスッと手を伸ばしたのが見えた。どくり、と心臓から流れ出す不穏の感触。つられるように、久美子の目がひとりでに葉月の手の行く先を追う。

「美玲ちゃん。スーザのベル、傾いてない?」

 その指摘自体は他の人たちと同様、何気無いものの筈だった。その手がベルをぐいと押し上げた刹那、美玲の表情がびしりと凍り付く。あ、と久美子は思った。直後、への字に曲がっていた美玲の口の端が忌々しげに歪む。

「先輩に言われなくても、わかってますけど」

 え、と葉月が手を引っ込める。二人の間に立っていたさつきが咄嗟に口を開いた。

「ちょっとみっちゃん、先輩にそんな言い方は――」

「その呼び方はやめてって言ってるでしょ!」

 耳をつんざく怒号。その場にいる誰もが一瞬固まってしまう。憤懣を吐き出した美玲は尚も苛立ちを隠せないのか、しばしさつきを睨め付ける。その状況に誰よりも肝を冷やしたのは他ならぬさつきだったに違いない。彼女の形相は大きく引きつり、どうして美玲に突然罵声を浴びせられたのか分からない、といった空気のままで硬直していた。

 ややあって、息を一つ吐き捨てた美玲が踵を返し、そのままどこかへと歩き去ってしまう。どんどん遠のいていくその後ろ姿に声を掛ける者は、誰も居なかった。

「ど、どうしよう」

 美玲を怒らせてしまった、とさつきはオロオロ狼狽えている。いつもならこういう時に場を執り成そうとする葉月もまた、後輩の思いがけない反抗にすっかりショックを受けてしまったようだった。二人とも普段の元気はどこにも無く、ただただ混乱していた。

「わ、私、謝らなくちゃ。みっちゃんに……」

「謝るって、何を?」

 卓也は美玲の去った方角を鋭い目で追いながら、怯えるさつきに冷たく言い放つ。

「謝る事なんて一つもない。アイツの癇癪に付き合う必要は無い」

「ちょっと、後藤君」

 梨子が窘めにかかるも卓也は全く取り合おうとしない。その態度に、日頃穏やかな卓也の静かなる怒りを久美子は感じ取った。罪の意識からなのか、困惑と動揺を極めてか、葉月もさつきもしょげ返っている。重苦しい空気が場を包み込んだその時、隣から「ハアー」と、それはそれは深い溜息の音がした。

「後藤。何なの、それ」

 そこにあったのは久しぶりに久美子の見る、心底苛立たしげなあすかの顔だった。

 

 

 

 



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〈6〉大会と充実と

 ギロリ、と後藤を睨むあすかの突き刺すような眼光。

 そのあまりの強さに、直接射貫かれた卓也も、それを傍で見ているだけの久美子たちも、一様に呼吸するのを忘れてしまっていた。

「アンタ、自分がパートリーダーだっていう自覚、本当にある?」

 ずかずかと詰め寄るあすかに対し、困惑する卓也はたじろぐばかりだ。どうしよう、これは止めに入った方がいいのだろうか。

「ここんとこ美玲ちゃんがずっとイライラした雰囲気だったの、もしかして気付いてなかったでしょ」

 あの美玲が? イライラしていた?

 久美子は記憶を振り返ってみる。入部以来、美玲は基本的にいつもクールに振る舞っていた。強いて言えば奏とは少しばかり親密にしているような空気があったぐらいで、それだってほんの僅かなものでしか無い。言われてみれば美玲の態度は冷え切っていたというか、鬱屈としていたというか、そんな気配もあるにはあった。けれどそれをして苛立っていたか、爆発するほど溜まっていたのかと判断できるほどまでには、彼女の内なる感情を読み取ることは出来ていなかった。

 久美子はそんな美玲のことを、人付き合いが苦手でベタベタするのを嫌がっている、と解釈していた。けれどあすかはそうではないと言う。もし美玲があすかの言う通りイライラしていたのだとしたら、それはつまりあすかだけが美玲の変調について事前に何かを感じ取っていたのだと、そういうことなのだろうか。

「どうなの、後藤」

「……全然分かりませんでした。でも、それとアイツが練習放棄して居なくなるのとは、別の話じゃないですか」

「甘い」

 一見正論に思える卓也の釈明を、あすかは間髪入れずピシャリと切って捨てる。

「全っ然甘い。美玲ちゃんを一人放っぽって、それで? この後の練習、どう収拾つけるつもりなの」

「どう、って。それは……」

 そこで卓也は言い淀んだ。明らかに、意図せぬところから放られたあすかの問いに答えを出せない。そういう気配が言外にひしめいていた。

「そりゃあ美玲ちゃんの行動は自分勝手だよ。こうやって皆で練習してる時に一人でいなくなっちゃったら全体の練習にも支障が出る。特にマーチングって、そういうもんでしょ」

 それは確かにそうだ。卓也もまたそう言うかのように神妙に頷く。

「アンタがそう考えた上で、勝手な行動をした美玲ちゃんに怒ったトコまでは分かる。けどね、だからって今みたく突き放してそれでオシマイってんだったら、結局はアンタの判断も美玲ちゃんと同レベル。他の皆にも迷惑が掛かるってのが分かんないのか、って聞いてんの」

 肺の空気が一瞬にして詰まる。あすかの言わんとしているところが、久美子にはようやく解ってきた。

 美玲は、やむを得ぬ事情で練習を抜け出したわけではない。そして卓也がそれを無言で見放したのもまた、やむを得ぬ事情など何一つない行いだ。それで不利益が美玲一人にのしかかるならともかく、事は本番直前の追い込みをかけている真っ最中のメンバー全員に及びかねないものなのだ。誰かがそれを差し止めなかったら、横行した身勝手がバンド全体の活動を崩壊させることに繋がってしまう。ならば本来それをするべきなのは誰なのか、という話だ。

「美玲ちゃんのイライラはね、加トちゃんたちに付き合ってアンタらが居残り練習するようになった辺りから、かなり強まってた。そういうのも汲み取りつつパートとしての機能を滞りなくきちんと果たせるように手配するのが、パートリーダーであるアンタがやるべき本来の仕事でしょうが。ただ練習のメニュー組んだり音合わせでミスを指摘するだけなら、そんなもん誰にだって出来るわよ」

 勢いよくまくし立てるあすかはさながら機関銃の如く、次また次と辛辣な言葉の弾を撒き散らしていく。それを真っ向から受け止める卓也は、襲い来る苦悶の銃弾にただただ顔を歪めるばかりだ。

 じゃあどうしたら良かったんですか、などという一言を挟む一切の猶予は、あすかが放つ怒気の前には全く見当たらない。直接叱られているのは卓也だけの筈なのに、鋭い言葉のトゲがこちらにも刺さるみたいな気がして久美子の視線も自然と下がってしまう。夏紀も梨子も今はただ俯き、自分には何が出来ただろう、と自問するように唇を噛み締めている。誰もがそうなってしまうぐらい、あすかの全身から放たれる凄まじい威圧感は、この場にいる全員をターゲットにしていた。

「説教ばっかりしててもしょうがないか。今はまず、美玲ちゃんをどうにかしないと」

 周囲の様子をぐるりと一瞥し、あすかはそこで追い打ちをかけるように、もう一息を吐いた。

「黄前ちゃん」

「ぅえ? は、はい」

 やにわに名を呼ばれ、久美子の全身がびくんと竦む。今度はこっちに火の粉が来るか。そう思って身構えてしまうのも、この状況では致し方の無いことだった。

「それと久石ちゃん、二人にお願い。美玲ちゃん探して、ここへ戻って来るように言って来て」

「私たちが、ですか?」

 指名を受けた奏はお伺いを立てるように、あすかを上目遣いで覗き込む。

「そ。黄前ちゃんは新入生指導係だし、久石ちゃんは美玲ちゃんと一番仲が良いみたいだし、協力して二人がかりで美玲ちゃんを連れ戻してくること。こっちはこっちでその間に、不心得な後輩どもにたーっぷり指導しておくから」

 重ねてあすかに睨まれ、卓也たちは完全に委縮してしまっている。この後ここでどれほど凄惨なお説教が繰り広げられることか。その光景を想像するだけで胃の痛くなるような心地だ。それを目の当たりにせずに済むと思えば、それはそれである意味僥倖と言えるのかも知れない。

 分かりました、とすぐさま返事をして、地面に敷かれたシートの上へと楽器を置く。そして久美子は奏と二人、美玲の捜索へと向かった。

 

 

 その後のことはかいつまんだ説明になる。

 美玲がどこに居るのかまるで見当のつかない久美子だったが、奏の意見で音楽室へと向かったその先で、二人は美玲の姿を見つけることが出来た。

 そして本人の口から語られた、美玲の苛立ちの真相。一見クールに見える、周囲に壁すら感じさせる彼女が、本心では周りに受け入れて欲しいと望む気持ちがあったこと。それが上手く出来ないでいたこと。対するさつきや葉月は熱心に居残り練習までして、卓也と梨子もそんな彼女らをすんなり受け入れていたこと。そういった諸々に、美鈴は鬱屈とした感情を抱えていたのだった。

 正直を言えば久美子自身、美玲のことを扱いにくい後輩だと、心のどこかでそう思っていた。だから何も語らない美玲の内面をこれまで深く考える機会が無かったと言えば確かにそうで、それはつまり彼女のことを何も見ていなかったのと同じだ。自分だけではなく、きっと卓也や葉月、あるいは美玲と仲良くしたがっていたさつきでさえも。その折り重なった状況の蓄積がとうとう美玲を爆発させてしまった。もしも美玲の傍に、彼女のことをもっと理解してあげられる人がいたなら。そしてもっと早くに彼女の心の歪みを暴くことが出来ていたなら。そうであったなら、ここまでぐちゃぐちゃになってしまった己自身に美玲が苛まれる事も、きっと無かったろうに。

 美玲のこの問題を久美子が解決してあげることは難しい。けれどそのキッカケとなるものは、与えられたかも知れなかった。

「……先輩も奏も、ありがとうございました。私、皆に謝ってきますね」

「うん。頑張ってね、『みっちゃん』」

 はい、と明るい返事と共に、美玲は部室を後にした。きっと彼女はもう大丈夫だろう。それまでの緊張を解きほぐすように、久美子はそこで一息をつく。一連のやり取りで何が変わったというほどの事も無い。だが小さなキッカケが少しずつ、何かを変えていくことだってある。改めて彼女に与えた『みっちゃん』という愛称がそれを呼び込んでくれたら、それでいい。

「あーあ」

 タシン、と床を蹴るつま先の音に久美子は振り向く。そこに奏は、首を大きく横に傾げるような姿勢で立っていた。彼女の表情は綺麗に切り揃えられた前髪に隠されていて、こちらからは窺い知ることが出来ない。その華奢な足がおもむろに床を二度三度と蹴る度、音は次第に大きくなっていく。

「失敗しちゃいましたね。まさか先輩があんなお上手に美玲のことを手懐けちゃうだなんて、思ってもみませんでした。ほんとうに大失敗です」

「手なずけるって、なんか人聞き悪くない?」

 おどけてはみせたものの、奏の背中からゆらりと立ち上る緩慢な殺気に、久美子はごくりと唾を飲む。瞳を覗かせない奏の口元はうっすらと笑っていて、それが場の不穏さをより一層掻き立てた。

 先ほどまでの会話で、奏は一貫して美玲を支持する言動を取っていた。いや、正しく言えば、それは支持などでは無かった。

 美玲は何も悪くない。間違ってなんかない。美玲は正しい。このままで良い。

 奏が掛けた美玲への言葉は全て、肯定を装った助長。甘やかな蜜の内に練り込まれた、おぞましいまでの悪意の塊。心の弱っている人間にあのような恐ろしく優しい囁きをたっぷりと流し込んだら、それはあっさり脳へと溶け込んで、瞬く間にその人物を堕落させてしまうことだろう。終いには、それ無しでは生きていられなくなるほどに。もしここに来たのが奏一人で、彼女の言葉を美玲が唯々諾々と聞き入れていたとしたら――そんな昏い想像に、久美子の胃はズキリと冷え込む。

「でも、本当にお上手なのはあすか先輩ですよね。久美子先輩のことを信頼なさった上で、私と一緒にここに来させたんですから。これじゃ私、まるっきり逆効果でした。全く、まんまと一杯食わされたという気分です」

 くつくつと喉を鳴らす奏は、もはや久美子の前では猫を被るつもりも無いようだった。ついに曝け出された奏の本性を、しかし久美子はどこか冷静に受け止めていた。それは多分、これまで奏に感じていた不穏さや違和感の正体を、ようやく目の当たりにすることが出来たから。

 ほとんど蹴り飛ばすように、最後に打ち付けられた靴の音が鈍く床へとめり込む。美玲の苛立ちが去り、それと入れ替わるようにして、今は奏が隠しもせずに苛立ちを放っている。ひょっとしてそれは奏なりの威嚇のつもりだったのかも知れない。けれどその程度でいちいち怯えるほど、自分の経験は決して浅くない。そういう確信が、久美子の心を毅然とさせていた。

「どこまで見通していらっしゃるんでしょうね、あの人は」

「分かんない。それがあすか先輩の、怖いところだよ」

 奏の問いに、久美子はなるべく誠実に答える。そうですか、とようやく顔を上げた奏の瞳は、まるで曇ったガラス瓶の底のようにとても虚ろだった。日頃の取り繕った笑顔も愛嬌に満ちた瞳の輝きも、そこには一切存在していない。憮然とさえ見えるその表情は、さっきまで煮え滾っていた感情を丸ごとその場に切り落としたみたいに、今はシンと薄く冷えていた。

「もうここで話していても、意味がありませんね。私たちも戻りましょう」

 久美子の横をすり抜けるようにして奏が部室を出ていく。傾いだ陽光に焼かれる彼女の背中は小さく震えていて、それは久美子の目には、まるですすり泣いているみたいに映っていた。

 

 

 グラウンドに戻った美玲はすでに皆の輪に混じり、卓也や葉月らと共に謝り合っているようだった。遅れて到着した久美子たちの元に、早速あすかが近寄ってきた。

「お疲れー、黄前ちゃん。さすがだね」

「いひゃっ」

 あすかに肘で脇腹をつつかれ、久美子はくすぐったさに体をよじる。

「ちょ、やめて下さい先輩。それに私は別に、何もしてないっていうか」

「何もしてなかったら美玲ちゃんがあんな素直に戻って来るワケないでしょ。まあこっちもこっちでキッチリお灸は据えておいたし、今回はこれで一件落着かな。奏ちゃんもお疲れさま」

「いえ」

 言葉少なな返事と共に、奏はへらりと薄っぺらい笑顔を再び張り付かせた。あすかはそれをどう感じたのだろう、ただ目をすがめ、奏をジロジロと舐め回すように見る。

「どう? 久石ちゃん」

「どう、とは? 何のお話でしょうか」

 奏は笑みを崩さぬまま、とぼけるように小首を傾げてみせる。

「優秀でしょ。うちの黄前ちゃん」

 仰々しく吊り上がるあすかの口角。一度まばたきをしてから奏は殊勝に頷き、それからこう切り返した。

「ですが、あすか先輩はもっと凄い方ですね」

 ばちっ。

 稲光が、二人の間に閃く。そんな錯覚が久美子にはあった。当ったり前よー、とからから笑うあすかと、にこやかに双眸を細める奏。一見して微笑ましい二人のやり取りにはしかし、剣戟を交わし合う侍のような乾いた緊張が迸っていた。

 久美子はギシリと奥歯を噛み込む。いつぞやあすかはこう言っていた。

『良かったねぇ、黄前ちゃん。面白そうな後輩で』

 あの時のあすかの、奏を追う視線。今のそれとほとんど変わらない表情。そして、今日のこと。もしかしてあすかには、最初からこうなることが解っていたのではないだろうか。美玲のことも、奏のことも、もしかしたら卓也らの反応でさえも。あすかの慧眼には予め、どうなるかが全て見えていた。

 

 ――その上で、あえて皆を、踊らせていた。

 

 そう考えた途端、久美子の背骨が激しい衝動に揺さぶられる。普通であればそんなこと、まず有り得ない話だ。けれど目の前にいるこの人物は、あらゆる意味で常識外の特別製。どんなに有り得ないと思えることもこの人ならば有り得てしまう。そしてそう思わされることが何よりも、田中あすかという人物の持つ恐ろしさの神髄なのだ。ついさっき、自分が奏に話したように。

「ホラホラ。もう本番近いんだし、とっとと練習再開するよ!」

「はい」

 踵を返し、意気揚々と一同のところへと戻っていくあすか。彼女の後ろ姿を奏はただじっと見つめていた。彼女が今抱いているのは敵意か、恨めしさか、はたまた敗北感か。その瞳に籠る感情は、忙しなく差し替えられるカラーフィルターのように移ろっていて判然としない。

 きっとこの子にも何か、美玲のそれと同じような事情がある。久美子にはまだそれを看破することは出来ていない。けれど少なくとも『ある』と分かっていれば、これからの奏をじっと見守ることは出来る筈だ。少なくとも今の久美子には、そうするより他に無かった。

 だって自分は、あすかではないのだから。

「練習に戻ろ、奏ちゃん」

 精一杯の気遣いで声を掛ける久美子に、はい、と奏の返事は素っ気なかった。どうやら今年も波乱含みの一年になりそうだ。そんな予感が今さらになって、久美子の肩を分厚い雲のように包み込み始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 去年もそうだったような気がするが、今年も空は青々と晴れ渡っていて、そのど真ん中では燦然と輝く太陽が雲を押しのけ唯我独尊とばかりに浮かんでいる。野外で催し事をするには絶好のお日柄、というやつだ。今日はサンフェス当日。びりびりとした熱気に焼かれる肌の痛みを堪えながら、久美子たちは会場の一角で演奏前の音出しを始めていた。

 今年の衣装はどうやら担当の三年生がかなり気合いを入れたらしく、山吹色をベースとしたラテン風コスチュームである。帽子に青く大きな羽根の飾り物があったりして可愛らしいのは良いのだが、全体のデザインはだいぶ肌の露出度が高いものとなっていた。とりわけおヘソが丸見えになっているのにはなかなか慣れることが出来ない。誰が見ている訳でも無いだろうに、何となく周囲の視線がそこに集まっているような気がして、どうにも意識してしまう。

「ダメですよ久美子ちゃん、姿勢が前かがみになってます! もうすぐ本番なんですから、もっとシャッキリしないと」

「うえぇ~、流石に恥ずかしいよ。緑ちゃんはコレ平気なの?」

「こういうのは恥ずかしいーって思うから恥ずかしくなるんです。これをキッカケに観客が北宇治のパフォーマンスを見てくれるって考えれば、ぜーんぜん気にならないですよ」

「相変わらず、緑のメンタルは鋼だねぇ」

 呆れてみせた葉月もまた片手でおヘソの辺りをさするようにしている。それとは対照的に緑輝は体を反らし、なめらかにくぼんだ小さなおヘソを誇示するように堂々と胸を張った。彼女のこの精神的タフネスさに、少しはあやかりたいものだ。

「ガード隊もそろそろ準備の時間ですので、緑たちは行きますね。本番がんばりましょう!」

「うん、頑張ろう」

 三人は手首の曲がった敬礼で互いの健闘を誓い合う。いつの間にか久美子たちの間で定着していたこのポーズだが、果たして最初の発案者は一体誰だったのだろう。今となってはそれに答えられる者は誰も居ない。何しろ、誰ともなしに始めた風習なのだから。

 低音パートの輪を抜けガード隊に合流していく緑輝と求の背を眺めながら、久美子はゆっくり息を吸い込み、それから一気に吐き出す。本番前に緊張を解きほぐす、一種のルーティーン。これをすることで雑念を払い気持ちを一つに集中させる。もうすぐ本番だ。否応なしに高まる緊張感が胸の内側をひっきりなしにノックしている。頭の血がギュッと引き締まるようなこの感覚は、全身の神経をすみずみまで研ぎ澄ましていくような、そんな気がした。

 とその時、周囲がにわかにざわめき出す。ワンテンポ遅れて、離れたところから「キャアアアアアアア! せんぱああああい!」と黄色い悲鳴が挙がった。この明らかに場違いな叫び声の主に、心当たりは一人しかいない。久美子たちは反射的に優子がいるであろう列の先頭へと目を向ける。そちらの方角から息せき切って駆け寄る人物に、まず初めに反応したのはあすかだった。

香織(かおり)?」

「あすか、」

 汗だくになりながら肩で荒く息をつく(なか)()()香織。この様子からするに、どうやら彼女はずいぶん遠くから駆け足でここまで来たらしかった。

「どうしたの、そんな天地がひっくり返ったみたいな慌てっぷりで」

「どうしたの、じゃないよ。あすかのことが心配で、見に、来たの」

「ホントだよ。全く、他人事みたいに言って」

 その後ろから同じく息も絶え絶えに走って来たのは、昨年度の部長であった小笠原晴香だ。二人はこの春に北宇治を卒業した吹奏楽部のOBであり、現在はそれぞれ別の大学に進学している。つまりあすかとは同窓生の間柄だった。屈むような姿勢で息を整えたあと、次に顔を上げた晴香の顔には明らかな非難の色が浮かんでいた。

「何があったのよあすか。卒業旅行から全然連絡取れないって思ってたら、他の子からあすかが留年したって話聞いて。それで私も香織も、すごいビックリしたんだよ」

「まあまあ、二人とも落ち着きなって。色々あってこうなっちゃったけど、とにかく久しぶり!」

「呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ、もう。あすかってば」

 相も変わらず、あすかを窘める晴香の口調は保護者みたいだ、と久美子は思った。高校当時と同じ髪型と言い、地味めの服装と言い、どこをとっても晴香らしさはあの頃のままという感じがする。ともあれ雑なあすかの対応に膨れっ面を向けているところからして、彼女もきっと本気であすかの身の上を心配していた内の一人だろう。

 対する香織は大学に入って随分とイメチェンをしたらしく、可愛らしさを感じさせたあの頃のショートボブからは少しだけ髪を伸ばし、髪色も明るめに染めているようだった。横に流した前髪は彼女のキュートな面立ちを強調させつつ、より大人らしく艶を感じさせるものがある。高校在学中の香織が『マジエンジェル』だったとすれば、現在の香織はまさに『マジ女神』に片足を突っ込む、その過渡期であるかのようだ。

「手紙の返事も連絡も全然無かったし、私、本当に心配したんだから」

「あすかが留年なんてホント信じられない。やっぱ去年のことが原因?」

「お母さんのこととか、大丈夫なの?」

「あーもー、ワケ分かんない。ちゃんと説明してよ」

 二人の質問攻めに、あすかはあーだこーだと適当なあしらいを繰り返す。そんな彼女たちの喧騒ぶりは周りの部員を大いに動揺させた。特に香織に至っては他の後輩のことなどどうでもいいのか、さっきから周囲に目もくれずあすかにぴったりと刺さったままになっていて、それが余計に場の混乱ぶりに拍車を掛けている。

「香織せんぱーい! かーおーりーせぇんぱああい!」

 そうこうしている内に向こうから優子が全速力で突っ走って来るのが見えて、げ、と久美子は思わず眉間に皺を寄せてしまった。まもなくここに去年までのかしましい光景がありありと再現されることだろう。本番に向けて集中を高めたいというのに、そんな落ち着きの無い状況になど巻き込まれたくない。そう思い、久美子は気配を殺して静かにその場を離れた。

 どうにか人いきれを抜け出すと、そこにはちょうど植え込みの形作る木陰が広がっていた。よし。ここなら落ち着けそうだ。ユーフォの管を握り、久美子は今一度ゆっくりと息を吸い込む。と、

「久美子」

 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、久美子は振り返る。

「梓ちゃん」

 そこには立華の伝統、水色のコスチュームを身に纏う佐々木梓が立っていた。梓のその手にはいつもと同じく重厚な輝きを放つトロンボーンが抱えられている。スカートからはみ出した太ももはほんのり日に焼けていて、日々の練習に鍛えらえたお陰なのか、極上の形に引き締まっていた。それと共に昨年よりも一層主張するようになった彼女の胸元を注視した途端、久美子の喉がひとりでにゴクリと音を鳴らしてしまう。

「おお、梓じゃん。久しぶりー」

 そこへ二人の声を聞きつけたのか、はたまた久美子同様にあすか周りの喧騒から避難してきたのか、葉月がひょっこりと顔を出した。

「久しぶり。二人とも、会うのはこないだの合同演奏会以来かな?」

 梓も葉月に手を振って応える。北宇治と立華、両校の吹部部員たちは、三月に行われたドリームパークでの合同演奏会を通じて交流を深めていた。とりわけ同じ学年同士は休憩中の食事を共にしたり練習時に互いのミスを指摘し合うなどしていたため、今ではほぼ全員が気楽に名前を呼び合えるぐらいには仲良くなっている。

「立華の他の皆は?」

「皆あっちにいるよ、あみかも志保(しほ)も。一緒に来ようって言ったんだけど、本番前だし集中したいから、って断られちゃった。ちょっと敵情視察するぐらい、別に大したことじゃないのにね」

「敵情視察って、それバラしたらまずいんじゃないの?」

「おっと、うっかり口が滑っちゃった」

 などと言いつつも、梓の表情にはたっぷりの余裕を見て取ることができる。失言を装ったそれは大方、梓なりのリップサービスといったところなのだろう。

「それにしても今回の北宇治の衣装、一目見てビックリしちゃったよ。けっこう攻めてるね」

 あはは、と久美子は苦笑する。客観的に見ればやはりそう思われても仕方無い。あまりウエスト周りを注視されたくなくて、久美子は抱えていたユーフォをお腹へあてがうようにそっと下げる。

「先輩たちがかなり張り切っちゃったみたいでさ。それにしても、毎年こうやって衣装作るのも何か勿体無いよね。立華みたくマーコン出たりとか、使い道多いわけじゃないし」

「そう? 私は羨ましいけどなぁ、毎回違うコスチューム着れるのって」

「梓はそう言うけどさー、立華みたくどこに出るにもコスチュームがバッチリ決まってるのも憧れるよ。『これぞ立華』みたいっていうか、伝統って感じで」

 葉月の意見に「そうかもね」と、梓は笑い声を上げる。そんな彼女の快活な表情には、ちょっぴりの誇らしさも混じっていた。

 『水色の悪魔』とも称される立華は主にマーチングコンテストにおいて、全国でも最高峰の強豪として知られている。それのみならず、公式の大会以外でも様々なパフォーマンスを各所で行う彼らの姿に憧れて、日本中から立華へとやって来る生徒は毎年後を絶たない。けれど実際にそのコスチュームに身を包み、大舞台で華々しく演技演奏をすることの出来る人数は、ごく限られているのだ。言わば立華のコスチュームを着ることは、それ自体が実力の証明書。一年の頃からそれを成し遂げている梓にとってその水色の装いは、きっと自らに抱く絶対の自信を裏返しにして着ているようなものに違いない。

「ところでさ、久美子」

「うん?」

 不意にちょいちょいと梓が手招きをした。何だろう? と久美子は耳を梓の口元に寄せる。

「私の勘違いかもだけど、あそこにいる人、久美子の先輩だよね。確か田中先輩? だっけ」

 遠慮がちに梓が指を差したその先には、未だ香織に絡まれている真っ最中のあすかの姿があった。ああそうか、と久美子は気が付く。件の合同演奏会、あすかはそれに参加していた。それも奏者としてではなくドラムメジャーとして。練習の為に立華に出入りする機会も多かっただろうし、梓があすかのことを知っているのも当然と言えば当然の話である。

「なんでコスチューム着てここに居るの? あの人去年、三年生じゃなかったっけ?」

「あー。それはまあ、色々と複雑な事情があって……」

 透き通った梓の瞳は好奇心と困惑の色を半々に織り交ぜていた。どう答えたものかと言葉に迷っていたその時、会場にしつらえられたスピーカーがガガッと大きなノイズをがなり立てる。

『間もなく、第二十四回サンライズフェスティバルの、開会式を行います。出演者の皆様は団体ごとにまとまり、運動場にご整列下さい。繰り返します……』

「あ、ヤバ。そろそろ行かなくちゃ」

 アナウンスの声に梓がサッと身を翻す。「それじゃね久美子」とそのまま小走りに駆け出そうとして、はたと梓は立ち止まり、こちらへと振り返った。

「本番のパフォーマンス、絶対負けないからね」

 弾けるような梓の笑顔。その奥からぶわりと醸される彼女の覇気が、凄まじい圧で久美子になだれ込んで来る。

「こっちこそ負けないから。お互い、最高の演技しようね」

 応えた久美子の肌がビリリと痺れる。きっと立華は今回も、音に動きにと聴衆を魅了することだろう。今の梓はずっと高いところに居る。恐らく、今の自分よりも。一瞬、いつかの麗奈の顔が眼前をよぎる。梓の演奏に触発され思わず一緒に吹いてしまった麗奈の、高揚したあの顔を。

 負けたくない。握り締めた手の内側で、その想いがじわりと強い熱を放っていた。

 

 

 

 

 サンフェス本番を大盛況のうちに終えた北宇治だったが、一息つく暇も無く、次なる本番に向けての練習はより一層厳しさを増していた。

「そこ、クラリネット。音の形がまちまちでブレているように聞こえます。全員の音をちゃんと揃えて下さい」

「はい」

「それとホルン、音量が全体の音にマッチしていません。ここで求められているのはあくまでも周りの音を包み込むようなメゾフォルテです。その意識をしっかり持って下さい」

「はい」

 今週末には続けざまに地区の定期発表会がある。今回の催しはどちらかと言えば、音楽クラブに所属する学生向けのものだ。サンフェスのような大観衆向けの演奏会とは少々趣が異なるとは言え、本番は本番。気の抜けるところなど一つたりとて有りはしない。次また次、と振られる練習メニューを着実にこなしながら演奏の精度を高めることは、次に控えるコンクールの大舞台でもきっと生かされる。そう信じて久美子は目の前の音符を一つ一つ、丁寧に音へと換えていく。

「では、もう一度頭から行きます。先程も言ったように冒頭はもっとおどけて、しかし音を暴れさせないように」

「出だしのピッコロは音の抑揚をハッキリつけて下さい。今の演奏だと平坦に流れてしまって、像がぼやけています」

「トランペット、もっと堂々と吹いて。何人か音がぎこちなくなっています。ここはあなたたちが主役です」

 矢継ぎ早に飛ばされる滝の指摘に奏者は応え、音を修正していく。その作業を延々と繰り返し、その度に少しずつ音が整っていくのを感じながら、合奏練習は滞りなく進められていった。

「それでは本日の合奏はここまでにします。明日はパート練習のみとなりますので、各パート今日の課題をしっかり解消しておいて下さい」

「ありがとうございました!」

 どへぇ、と一斉にくたびれ果てた声が漏れる。本番終わってまた本番、ということもあり、部員たちの疲労もそこそこに蓄積していた。加えて既に連休も明けてしまったため、これから本番まで練習に割ける時間は平日の放課後のみととても少ない。自ずと練習時の集中力が大事になり、少しでも気を抜けばそこを容赦なく滝につつかれる。おかげで精神は二重に消耗し、練習が終わる頃には全員揃ってグッタリ、という有りさまだった。何ともハードな状況だが本番はもう目の前だ。こうなったら是が非でもやり切るしかない。

「ハイ、みんな注目」

 壇上の優子がいつものように手を鳴らす。続けて読み上げられる諸々の事務連絡を流し聞きしながら、久美子はぼうっと考え事をしていた。

 もうすぐ本番だ。今回はソロもある。あすかのような音を奏でることはまだまだ叶わないけれど、あんな風に吹けるようになることは今の自分にとって大きな目標の一つである。うまくなりたい。もっと音を磨きたい。じりじりと背中を焦がされるような気分に駆られ、久美子はこっそりと息を吐く。

「じゃあ久々に、私とタイマンで個人レッスンやる?」

「勝手に人の思考を読まないで下さい」

 あすかの揶揄をいなしつつ、久美子は自分の楽器ケースの金具をばちんと閉じた。美玲ではないが、疲れているところに重度の練習を重ねるのは効果的とは言えない。消耗した唇は音を歪めるし変なクセもつきやすくなってしまう。そして一旦ついてしまったクセを矯正するのには、そうした練習に費やしたのと同じくらいの時間と労力を要するものだ。人によってはうまく修正できぬままドツボに嵌まってしまうことすらも往々にしてある。それよりは限られた時間の中でも何をすべきかをしっかり考え、休むべきときにはきちんと休息を取った方がよほど良い。そのことを、久美子はそれまでの経験から学んでいた。

「なんだ、ちゃんと解ってるじゃないの。つまんなーい」

「つまんないって何ですか。っていうかあすか先輩こそ、今日も居残り練習ですか?」

「居残りなんて、そんな大層なもんじゃないって。私の場合は単に吹き足りないだけだし」

 笑い混じりにそう語るあすかを見ていると、こっちがゲンナリしそうになってくる。この人の音楽に関するバイタリティは一体どこから湧き出てくるのだろうか? けれどあすかの言っていたことは、居残る理由としてはせいぜい半分といったところだろう。もう半分の理由を久美子は知っている。先程の発言はカマをかけたつもりだったのだが、流石にあすか相手にはそう易々と通じなかった。だから今回はあえてもう一段、カマをかけてみる。

「そう言えば最近、夏紀先輩も良く居残り練習してるみたいですよね。楽器、まだしまってないですし」

 そうと気取られぬよう、空っぽのケース棚を見つめながら久美子はうそぶく。あすかはそれに反応を示さなかった。

 しばしの沈黙。私知ってるんですよ、と事の次第を説き明かすのは簡単だ。けれどもそれは自分たちに迷惑をかけないようにしたい、という夏紀の思いを踏みにじることに等しい。きっと夏紀は今も学校のどこかで必死に自分の音と向き合っている。そしてここのところの夏紀の演奏は、周囲の誰もがそれと分かるほどの目覚ましい向上を遂げていた。それはもちろん、あすかとの昼夜を問わぬ特訓の賜物なのだろう。

 あすかの指導がいかに的確で、かつほんの些細な乱れも許さぬ厳しさであるのかは、久美子自身が一番良く判っている。けれど夏紀の伸び具合から推察するに、彼女が受けているであろう特訓メニューは自分が受けたものよりも倍は厳しいに違いない。さっきの話と矛盾するようではあるけれど、そのぐらい無茶な追い込みを掛けでもしなければ、以前の夏紀の状態からほんの僅かな期間でここまで伸びる事など到底不可能だった。それほどの苦行を夏紀がこなせているのは、他ならぬ彼女自身の弛まぬ努力によるものだ。

 これがあと一ヵ月早かったなら。そしたら今回のソロだって、自分ではなく夏紀が吹くことになっていたとしても決しておかしくはなかった。そんな夏紀の陰なる努力の成果を、自分はきちんと感じている。認めている。久美子があすかとのやり取りに込めていたのは、そういう想いだった。

「黄前ちゃん、何だか変わったね」

 やにわにあすかが目の前に回り込んでくる。急に何ですか、と身を反らしつつ、久美子はあすかに尋ねた。

「変わったって、どこがです?」

「ちょっとだけ大人になった。そんな気がするよん」

 伸ばされたあすかの手に久美子の髪はわしゃわしゃと揉みしだかれる。大人になった。その感触はとてもくすぐったくて、少し、心地良かった。

 

 

 

 



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〈7〉クセの強い後輩

「よう、久美子」

「あ、秀一」

 宇治橋を渡っていたところを呼び止められ、久美子は振り向く。開かれた詰襟の隙間をぼりぼりと掻きながら、秀一はこちらに近付いてきた。

「いま帰りか?」

「見ればわかるでしょ。テスト期間中だから、学校じゃ吹けないし」

「だよな。お前も楽器、持ち帰ってんの?」

「まあね」

「だったらさ、今日この後一緒にベンチのとこで練習しようぜ。適当に曲でも合わせながら」

「えー、どうしよっかなあ。明日のテスト数Bだし。私は合間にちょっと音出しするぐらいで、後は勉強するつもりだったんだけど」

 他愛もない会話をしながら秀一と肩を並べ歩く。五月も半ばを過ぎ、陽気はますます本調子になりつつあった。さわさわとそよぐ涼やかな風が頬を撫で、宇治川のせせらぎが耳に心地良い。こんな日は一年に何日もあるものではないというのに、どうして学校というものはこの時期テストなどという憂鬱な行事を課したりするのだろう。そのせいで生徒はこの快適さを堪能する余裕も与えられぬまま、黙々と机に向かうことを強いられてしまう。噛み合わぬ自然と人間の営みを、久美子はただただ恨めしく思うばかりだった。

「にしても今年はサンフェスに地区の演奏会と、色々忙しかったよな」

「だねぇ。そのせいで勉強追いつかなくて、もう大変」

「テスト、もしかしてヤバいのか?」

「んー、まあ赤点は取らないと思うけど。でも成績悪いとお母さんに小言言われちゃうし」

「それなら、俺が勉強見てやろうか?」

「いい。秀一に勉強見てもらうのって、なんか腹立つ」

「何だよそれ」

 辛辣な久美子のひと言に、秀一の表情が呆れとも苦笑ともつかぬ形に歪む。

「でも頑張った甲斐あったよな。サンフェスも地区演の方も、どっちもバッチリだったし」

「うん」

「それに、すげー良かったと思うぞ。地区演での久美子のソロ」

「そう、かな」

 そぞろな返事をしながらも、頬がぽうっと熱を帯びるのを感じる。定期発表会の本番があったのはつい先週、テスト期間直前の日曜日。当日のソロは我ながら良い出来栄えだとは思っていた。もちろん、誰かに褒められることを期待していた訳では無い。けれどこうして秀一が自分のことをストレートに褒めてくれて、本音を言えばちょっぴり嬉しかった。足元に転がっていた石ころに何となくつま先を引っ掛けると、カツンと小さな音を立てて石ころはあさっての方向へ転がっていく。

「自信持って良いと思うぜ。でさ、練習なんだけど、今日がダメなら明日は――」

「あれぇ、久美子先輩だ? おーい、せんぱーい」

 秀一が何やら言いかけたのを誰かの声が遮る。面を上げると、赤信号に隔てられた宇治橋西詰の交差点の向こう側にピンク色のカーディガンを羽織った女子が立っていた。スカートの柄を見る限り、どうやら北宇治の生徒ではあるらしい。久美子目掛けて「おーいおーい」と両手をぶんぶん振っているあたり、その子は間違いなくこちらのことを知り得ているようだった。

「お? あいつ吹部の……誰だっけ」

「知らない。てか、部員なの?」

「多分。どっかで見たような気がするんだよ、金管じゃなかったとは思うけど」

「私はぜんぜん覚えてない」

「そういうとこ、久美子らしいわ」

「はあ? それどういう意味」

 などと悶着しているうちに信号は青へと替わり、件の女子生徒がパタパタと、カルガモの子供が道路を渡る時のような仕草でこちらに近付いてきた。彼女の提げているスクールバッグには鈴なりにキーホルダーが取り付けられていて、それらが一歩ごとにジャラジャラと小気味良い音を立てている。

「もー、何も返してくれないなんて、酷いじゃないですかぁ先輩。がんばって手ぇ振ってたのにー。がんばり過ぎちゃって、腕もげちゃうかと思いましたぁ」

「えと、あー、それはごめん」

 何となく謝らなければいけないような気がして、久美子はしぶしぶ頭を下げる。胸元にある緑色のスカーフを見ても、この子が北宇治の一年生であることに疑いの余地は無いだろう。しかしながらこうして間近に見てみても、赤茶けた長い頭髪をポンパドールの形に括っているその女子には、やはり面識と言えるほどのものは無い。ただ何となく、そばかすの目立つあどけない顔つきがどこか記憶の片隅に残っているような気もした。もしかしてこれが既視感というやつなのだろうか? 戸惑う久美子を慮ってくれたのか、秀一が探りを入れるような面持ちで女子に尋ねる。

「あーっと。君、吹部の子、だっけ?」

「もちろんですよー」

 コホンと咳払いをひとつ挟んで、それからその女子は自己紹介を始めた。

「吹部一年の(けん)(ざき)()()()でーす。パートはダブルリードで、オーボエやってます」

 オーボエ。それを聞いた久美子の脳内に何かがぴりっと弾ける。

「もしかして先月の楽器決めのとき、奏ちゃんのこと呼んでた?」

「あっ、覚えててくれたんですねー! そうです、あの時の梨々花ですー。あれー? 奏ってば私のこと、先輩になんにも話してなかったのかな」

 それはまあ、そういうものだろう。誰と仲良くしてるか、なんて話は先輩と後輩の間柄でそうそうするものではない。目の前の梨々花は「もー奏ってばー」などとブツクサ垂れていたが、そのうち何かに気付いたようにはたと動きを止めた。

「てゆーか、もしかして先輩、梨々花のこと覚えてないんですか? 私一応、新入生指導で先輩に見てもらったりしてたんですけどぉー」

「ああごめん、ほら指導のときって、みんなの名前までは聞かなかったじゃん。だからその、名前が出てこなくて」

 あたふたと取ってつけたような弁明に、ほんとですかぁー? と梨々花は怪訝な目を向けてくる。今年の一年は見た目にも個性的な人物が多いのだが、こちらとしては指導に手一杯で一人ひとりの顔と名前を一致させられるだけの余力なんて全然無かった。もー、と頬を膨らませた梨々花に久美子は潔く両手を擦り合わせる。

「ほんとごめん。怒っちゃった?」

 と、そこで梨々花が「ぶっ」と噴き出した。

「ぜーんぜん、気にしてないです。良く良く考えたら梨々花、先輩とお話するの初めてだったかもーって今気付きました。あ、梨々花のことは気軽に『リリリン』って呼んでくれて大丈夫でーす!」

「あーうん。じゃあ、梨々花ちゃんで」

 流石にそのノリにはついていけない。互いの距離感というものも大事にしたいところなので、彼女のことはきちんと下の名前で呼ばせてもらうことにした。

 それにしても梨々花の語り口は独特で、掴みどころのない緩さにはこっちがペースを乱されてしまいそうになる。ある意味あすかとは対極の存在だ。先ほどオーボエ担当と言っていたが、ということはつまり、この子がみぞれの直属の後輩ということになるのか。今年は梨々花の他にも二人の新入生がダブルリードパートに入っていた筈だが、そんな彼女たちの織り成す普段のパート練習は一体どんな光景になっているのやら。いくら首を捻ってみたところで、久美子にはまるで想像がつかなかった。

「ところで先輩たちは、一緒にお帰りなんですか?」

「うん。秀一と私って、家が同じマンションだから」

「そうなんですかぁー」

 その返答に何を思ったのか、梨々花は「ふーん」「へぇ~」と品定めするように、秀一と久美子をジロジロ見比べる。

「な、何?」

「もしかしてお二人、お付き合いしてるカンケーだったりしてぇ」

「おう、まあ……」

 刹那、久美子はカカトで思いっきり秀一の脛を蹴り込んだ。ぐぇっ、と息を詰まらせた秀一が涙目になって身悶えするのを尻目に「全然そういうんじゃないから」と久美子は笑顔で梨々花の推理を否定してみせる。

「っ()え! 何すんだよ」

「バカ、部内で変なウワサ立ったらどうすんの。あんまり他の人に言わないって約束したでしょ」

「だからって蹴らなくたっていいだろ、蹴らなくたって」

「知るか」

 二人して身を屈め、毒づいた声色で秀一の非難をいなす。そんなこちらの様子を面白がったのか、ウヒヒ、と梨々花が口の端に八重歯を覗かせた。ぜったい勘付かれてる。秀一の口の軽さを恨めしく思いつつ、どうにもばつが悪くなった久美子はなんとか話題を逸らそうと試みる。

「えっと、梨々花ちゃんはここで何してるの?」

「梨々花ですか? 今日はこれからクラスの友達のお家で勉強会するんですよー。明日の数学ヤバいー、超ピーンチ! 助けて梨々花ー! って頼まれちゃって」

「へえー」

 意外なことに、と言うのも失礼な話だが、どうやら梨々花は数学が得意科目らしい。エッヘンと胸を張ってみせる梨々花に久美子は少しだけ引け目を感じてしまう。高校入学からこっち、数学の成績はお世辞にも芳しいとは言えないものだった。親や教師にも何度そのことを指摘されたか分からない。その優秀な頭脳をほんのちょっぴりでいいから分けてもらいたいものだと、しみじみ思う。

「そうだった!」

 こんなことしてる場合じゃない。勉強しないといけないのは自分も同じだということを、久美子は今の今まですっかり忘れていたのだった。ここまでのテスト科目に手間を取られていたせいで、明日の出題範囲も未だ網羅し切れているとは言いがたい。今日の追い込みが間に合わなかったら明日の科目は危険ラインを割り込んで、本当に大ピンチになってしまいかねないのだ。特に数学が。

「ごめん、私そろそろ帰らなきゃ。それじゃ梨々花ちゃん、秀一、また来週部活でね」

「お、おい久美子、」

「待ってください先輩!」

 迫真の声色に久美子はつい振り向かされてしまう。そこには懇願するような瞳をこちらに向ける梨々花の姿があった。強い感情のこもった視線に全身をびしりと縛られ、久美子はおずおずと、梨々花を正面に捉えるように向き直る。

「どうしたの?」

「あのー、本当はもっと早くに、先輩に相談したかったんですけどー……」

 相談って何を? と小首を傾げると、梨々花は胸の前で指をもじもじと絡めながら、桃の蕾のように色づいた瑞々しい唇をきゅっとすぼめる。どの言葉を選ぶべきか、迷うような仕草を見せる梨々花の口が、やがて思いを解き放つように開かれた。

「先輩はどうやって、鎧塚先輩と仲良しになったんですか?」

 虚を突くその質問に、久美子は思わず瞬きをしてしまう。

「どうやって、って?」

「そのままの意味ですよー。梨々花、どうやったら鎧塚先輩と仲良くなれるのかなぁって、最近悩んでまして」 

「うーん、あんまり気にしすぎない方が良いと思うけど。みぞれ先輩と何かあったわけじゃないんでしょ?」

「なんにも無いです。なーんにも」

 ふるふる。首の動きに合わせて、ウェーブがかった梨々花の髪がわさわさと左右に跳ねる。

「ホントになんにもなんです。鎧塚先輩、あんまり梨々花たちとお話してくれなくってー。オーボエうまーい、練習ねっしーん、でもずーっとダンマリー! みたいな」

「まあ、それはみぞれ先輩だし」

「でもでも、久美子先輩は鎧塚先輩と仲良しさんらしいじゃないですかー。どうしたらそうなれるのかなーって、一度聞いてみたかったんです」

「仲良しって、それ誰情報?」

「部長さんと副部長ですよー。鎧塚先輩のことを相談したら部長さんに言われたんです。久美子先輩が鎧塚先輩と仲良いからコツ聞いてごらんー、って」

「はあ」

 果たしてあの人たちは何を考えてそんなことを言ったのだろう。その意図をもう一つ掴み切れなくて、久美子は己の眉間を指でつまむ。

 みぞれ云々はともかく、優子たちから体よく面倒事を押し付けられたみたいな感じがして、何となくいい気はしない。それにみぞれと仲良くなるのにコツも何もあるわけが無かった。久美子自身、ひょんなことからみぞれと関わるキッカケを得て、いつの間にか普通に話すようになっていたというだけだ。そんな自分から梨々花に伝えられるアドバイスなんて、さして良いものも思い浮かびやしない。そうしてしばらく言い淀む久美子に名案を期待するのは難しいと思ったのか、梨々花はカクリとうな垂れた。

「鎧塚先輩にぜんぜんクチ利いてもらえなくって、すごく寂しいんですよぉ。ひょっとして梨々花、先輩に嫌われてるのかなー、なんて思ったりして」

 そう語る梨々花はまるでしょぼくれた子犬のような顔をしていた。それがなんだか可笑しくて、久美子はつい唇の端から息を漏らしてしまう。

「あー、どうして笑うんですかー!」

「あははは、ごめんごめん。でもみぞれ先輩に限って、それは無いよ」

「ホントですかぁー?」

「うん。みぞれ先輩は何て言うかこう、自分から人に関わるのが苦手ってだけだから。あんまり深く考えないで、梨々花ちゃんは梨々花ちゃんのペースでアプローチしていけば良いと思う」

「それで、いいんです?」

「うん。どうせなら先輩の話しやすい話題とか振るのも良いよ。オーボエのこととか、先輩のやってるリズムゲームとか、あとお菓子のこと。みぞれ先輩ああ見えて、ソーダ味のお菓子とか結構好きだし」

「へぇぇ」

「あーそれと、バリバリ近付いてくるタイプは距離置かれるかも、ってぐらいかな。梨々花ちゃんの場合だったらこう、ソロソローって近付いていく感じで行ったら良いんじゃない?」

 などと久美子が手振りを交えつつ指南をしているうちに、それまで沈んでいた梨々花の表情にぱあっと希望の光が差し込んでくる。

「わかりました! 来週からさっそく試してみます。アドバイスありがとうございまーす!」

 梨々花は大袈裟に両手を開き、ぺこりと元気良く頭を下げた。こんな話で梨々花の悩みを解決できたかは微妙なのだが、ひとまずみぞれに接近するヒントを彼女が掴めたのならそれで良いだろう。あとは実践あるのみだ。

「ホント先輩に相談して良かったですー。梨々花、なんとかなりそうな気がしてきました」

「それなら良かったけど。じゃあ今度こそ私帰るから。またね梨々花ちゃん」

「はい! 久美子先輩、来週からもよろしくお願いしまーす!」

 さっきと同じくぶんぶんと両手を振る梨々花に見送られながら、久美子は家路へと向かう。ああして話してみるとなかなかに強烈な個性を持つ人物ではあったけれど、しかし彼女とのやり取りを思い返してみると、ほんのりと心が温まるような気分だった。何だかんだで根は良さそうな子だ。みぞれ直属の後輩が彼女で、ある意味良かったのかも知れない。根拠なんてどこにも無いけれど、そう遠くないうちに梨々花とみぞれが打ち解けられそうな、そんな予感がしていた。

「待てって久美子。俺を置いてくなよ」

「あ、秀一? そう言えば居たっけ」

(ひで)ぇ」

 梨々花との話に没頭し過ぎていたせいで、秀一の存在が完全に空気と化していた。バタバタと後を追ってきた秀一の恨み節をあしらいつつ彼とふたり肩を並べ、木々の生い茂る土手道へと入る。

 『あじろぎの道』と呼ばれるこの歩道は、観光名所としても良く知られる平等院鳳凰堂の脇をすり抜け宇治川の上流へと伸びる風情豊かな小道である。そのまま歩いていくと、立ち並ぶ茶店や屋形船の船着き場を経てやがて()(せん)(ばし)という朱塗りの橋へと辿りつく。道はまだそこから先へと続いているのだが、橋のたもとを右に曲がって小路を少し進めば久美子たちの住まうマンションはもう目と鼻の先だ。高校入学以来、久美子はこの道をほぼ毎日の登下校に活用していた。それは駅から家までを結ぶ経路として使いやすいというのもあるのだけれど、それより何より、そこかしこから漂ってくるお茶の香りに身を包まれるひと時が、一番のお気に入りだったから。

「さっきの後輩、剣崎、だっけ。すげー奴だったな」

「だね。でもみぞれ先輩には、ちょうど良いぐらいかも」

「そうなのか?」

「みぞれ先輩って結構、自分の殻に閉じこもりやすいところあるから。あの子ぐらい積極的な方が先輩も打ち解けやすいんじゃないかって思う。多分だけど」

「ふうん」

 しゃりしゃり、と靴の裏を撫でる小砂の感触が、なんとなくこそばゆい。ところどころの木漏れ日に肩を撫でられながら木々のトンネルを抜けると、そこにはお馴染みの木製ベンチが姿を現した。いつもだったら腰を下ろして少し休憩といきたいところだけれど、今はさすがにそんな余裕は無い。さっさと家に帰って勉強しないと、あとで泣きを見ることになるのは他ならぬ未来の自分自身だ。

「なんつーかさ」

「何?」

 久美子は立ち止まり、秀一に続きを促す。

「先輩、って感じだな。久美子」

 意味が、良く分からない。うなじの辺りにむず痒さを覚え、久美子は秀一から視線を逸らす。そこには陽の光を反射する川面の深い蒼色があった。さらさらと流れ行く水の音にちょっとだけ、体の熱が吸い取られていくような、そんな気がした。

 

 

 

 

 ようやくテスト期間が明け、返却された用紙の上に踊る数字に一喜一憂する胃の痛い時間もやり過ごし、吹奏楽部は再び動き出す。

 練習再開の初日である今日、滝からはコンクール用の課題曲と自由曲の楽譜が配られた。来月にはコンクール出場をかけた部内のメンバーオーディションも行われるし、それに向けて皆必死にしのぎを削ることだろう。彼らに負けぬよう、今年こそ全国金賞という目標に届くよう、一日も早く曲の全貌を把握し音を磨いていかなければ。――そうと分かっているにもかかわらず、久美子の気持ちはそれとは裏腹に、モヤモヤしていた。

「みぞれ先輩、希美先輩と同じ大学に行くのかー……」

 それは今朝のこと。いつものように朝練のためにと向かった音楽室で、希美は高らかに音大進学を希望している旨を明らかにした。そしてみぞれもまた、彼女と同じ音大に行くつもりであることも。それ自体は別に悪いことでも何でもなかったし、先輩の進路にとやかく口を挟むつもりなど毛頭無い。久美子の心に引っかかっていたのは、みぞれが音大進学を希望する、その動機だ。

『希美が受けるなら、私も』

 それを聞いてからというもの、どうにも舌の上にザラリと苦いものがまとわりついている気がして、それがずっと自分の中で違和感を訴えている。みぞれの希美に対する依存心はこの一年で解消するどころか、ますます深まってさえいるようだった。そこにもしも去年までのような、二人の断絶を招く事件が起こってしまったら? そんな悲観的な想像は正直あまりしたくない。その場にいた夏紀と優子は特に反応もせず黙っていたのだが、彼女たちはこのことをどう思っただろうか。あとで夏紀が打ち合わせから帰ってきたら、それとなく聞いてみることにしよう。

「なになに? 傘木先輩と鎧塚先輩の進路の話?」

 自分の洩らした呟きを聞きつけてか、ずずいと葉月が身を乗り出してくる。

「うん、まあ」

「先輩たち、どこの大学行くって?」

「音大だって。まだ確定じゃないらしいし、どこって話も聞かなかったけど」

「へえー」

 音大、という言葉に葉月は瞠目する。

「凄いねー。でも確かに二人とも、どっちもプロになってもおかしくないぐらい演奏うまいもんね」

「技術は、そうだね。だけど音大の試験って難しいって聞くからなぁ」

「そうなの?」

「そうですよ葉月ちゃん」

 今度は緑輝が話の輪に加わってくる。

「音大の試験は専攻する楽器の演奏だけでなく、ピアノとか声楽とかの副科実技、それに聴音や音楽理論と色々あるみたいです。大学によっては、普通の入試みたいなペーパー試験もあったりするらしいですけど」

「ほへぇ。なんか大変そう」

 緑輝の説明を受ける葉月はいかにも他人事、といった態度だ。もっとも音大を志望しているのでない限り、彼女のその反応は至極当然のものとも言える。人は自分にとってあまりにも遠い領域の出来事を現実のものとして認識することは出来ない。ほとんどの人にとってそれは既に身の回りにあるものか、もしくは新たに身の上に降りかかってきたものだけを指す概念なのだ。

「全国から上手な人が集まってくるから競争も激しいですし、あと学費も結構高いって言いますよね」

 多少は事情を知っているのか、美玲もその話題に乗ってきた。こんな風に自然と周囲の会話に入って来れるようになってきたのは良い傾向だ。楽しそうに緑輝との会話を繰り広げる美玲の姿に、久美子はこっそり頬を緩める。

「みっちゃんの言う通り、音楽学部があるのは私学のところが多いですからね。国公立のとこに入れればそうでもないと思いますけど」

「その場合も、使う楽器は最低限自前ですよね。ああでも、傘木先輩と鎧塚先輩はどっちもマイ楽器なんでしたっけ」

 らしいね、と久美子は美玲に頷く。南中出身の美玲は流石、そのへんの事情も把握しているらしい。南中ではマイ楽器を持っていなければフルートをやらせてもらえなかった、と以前に希美が語っていたのを久美子も思い出す。

「希美先輩のフルートもそうだけど、みぞれ先輩はもっと凄いんだよ。中学でオーボエ始めたとき、親にポンと買ってもらったんだって」

「そうだったんですか? オーボエってけっこう高い楽器ですよね。ダブルリードもお金掛かるし。それなのに気前良くマイ楽器買ってもらえるなんて、羨ましいなあ」 

「みっちゃんもマイチューバ欲しいの?」

 久美子の問いに、美玲はさめざめと青白い溜め息を吐く。

「チューバは、流石に厳しいかな。買うとしたらトランペットですね。持ち運びにも困らないですし、場所さえあれば吹きたい時に吹けますから。音大行くんじゃないにしても何かしらで音楽続けるつもりだったら、やっぱり自分の楽器は欲しいですよね」

 感情の籠った美玲の言葉に、すごーい、とさつきが感嘆の吐息を漏らした。

「そこまで考えてるなんて、流石みっちゃん。私なんかマイ楽器買うっていう発想がまず出てこないもん」

「そう? さつきだって、高校卒業してもチューバ続けたいって思わない?」

「それはある! 私チューバ好きだし」

「だったらいつかは考えることになると思う。特に社会人バンドなんて、楽団所有の楽器がある方が稀だから」

「そっかー。でもチューバって絶対お値段張るよね、大っきいし。私のおこづかいじゃ一生かかっても買えなさそう」

「そこは親を頼らないで、自分で買いなさい」

「うぎゅ。おこづかいは冗談だってばぁ」

 話はその後も脱線しつつどんどん盛り上がった。どの楽器がいくらするか、いつまで音楽を続けたいと思うか。そんなことを皆でワイワイ語り合っていたその時、ガラリと音を立てて教室の戸が開けられた。

「なんだかお喋りが弾んでますなぁ」

「げっ、あすか先輩」

 引きつる葉月の声。しん、と肝が冷えるのが解る。去年までのパターンならこれはあすかの一喝が飛ぶところだ。身体が危機に備え、ひとりでに歯を食いしばる。ところがあすかは場の空気に眉根を寄せることも無く、悠然とこちらに近づいてきた。そして傍の椅子をガタリと引くと、まるでそうするのが当然だったかのようにそこへ腰を下ろす。

「私も混ぜて混ぜて」

 予想外過ぎるその振る舞いに、全員が呆気に取られる。とりわけあすかを良く知る卓也や梨子などは、まるでこの世のものではない何かを見ているような目つきですらあった。

「で、何の話してたの?」

「えっと、その、三年生の子たちの、進路の話なんですけど」

 こわごわと、梨子が経緯を説明する。それに葉月が続いた。

「傘木先輩と鎧塚先輩が、音大入るつもりらしいーって話を、久美子が。ね?」

「わ、私?」

「言ってたじゃん。そっからこの話になったんでしょ」

「いやいやいやいや葉月ちゃん? アレは別に、私からお喋りし始めたわけじゃなくって、」

 やにわに向けられた水を久美子は全力で押し返す。冗談じゃない。この状況の責任を自分一人に押し付けられるなんてたまったものでは無かった。大体それを言うなら、こっちの独り言を拾って会話を膨らませたのは葉月だったではないか。久美子と葉月、二人で交わす視線だけでのやり取りは、どちらが責めを負うべきかという無言の応酬を繰り広げていた。

「ふぅん、そうだったんだぁ」

 目前のあすかはニンマリと、愉快そうな表情を崩さない。それが却って怖さを何十倍にも増幅していた。いつ炸裂するとも知れない爆弾を抱える気分とはまさにこういうものなのだろうか。怖気の立つ背中を掻きむしりたい衝動に久美子が駆られていたその時、それまでニコニコしながら黙って会話を聞いていた奏が唐突に、声を発した。

「あすか先輩は、音大受験はなさらないのですか?」

 あすかが無言で奏を見やる。その表情は彼女の長い横髪に隠され、ここからでは窺い知れない。びりりと殺気立つ得体の知れない空気が場を染め上げていく。ひと呼吸をするのに充分なだけの間を置いてから、あすかはクスリと吐息をこぼした。

「私はどうやったって、音大には行けないから」

「どうしてですか? 先輩、楽器も大変お上手ですし、音楽全般にもとてもお詳しいのに」

 それ以上はまずい。久美子の内側で、危険感知のサイレンが最大級の警報を鳴らしていた。これ以上の深入りは、あすかの複雑な家庭事情にまで踏み込みかねない。そしてそれはあすかの最も嫌がる領域だ。そこを踏み抜こうとしている奏は果たして何も知らないだけなのか、それとも何かを察した上で意図的にあすかに仕掛けているつもりなのか。止めなければ、という気持ちに反して久美子の喉は二人から放たれる強烈な威圧感にギシリと縛られ、情けない音を洩らすことしか出来ない。

「だって私、ピアノ弾けないもん」

 対するあすかの返答はあっけらかんとしたものだった。長い指で鍵盤を弾く形を作り、おどけるようにグニグニと動かしてみせる。凍っていた場の空気がスウっと浮上する、そんな錯覚があった。

「そうなんですか。先輩でしたら音楽の分野でも素晴らしい活躍をなさりそうなのに、少し勿体ない気もしますね」

「ぜーんぜん」

 あすかは手を振り、わざとらしく謙遜してみせる。

「私より上手い子なんて全国に星の数ほどいるでしょ。音大行ってプロになるのは私なんかじゃなくて、そういう子だってば」

 そんなことは無い。久美子はそう叫んでやりたいぐらいだった。あすかの奏でるユーフォの旋律はその辺の奏者にも引けを取らないどころか、今すぐにでもプロの領域に飛び込めるのではないか、とさえ思えるレベルだ。少なくとも、久美子の耳で聴く限りでは。けれどそれをここで言わなかったのは、今のこの場に求められたものでは無かったから。あすかにとってこの話題は適当に収めてさっさと切り上げたい類のものである筈だ。彼女に対してのそういう推察が、久美子の口にしっかりと戒めを施していた。

「ところで進路と言えばさ、後藤たちはもう進路決めちゃってんの?」

「あ、ええ、ハイ。まあ、」

 いきなり話の矛先を転換されて狼狽えたのか、卓也はゴニョゴニョと口ごもる。

「一応、俺は東京に行くつもりです。楽器修理士になりたいんで、向こうの専門学校に」

「おお、いいじゃないですか先輩! なんかイメージありますよ!」

 パチパチと手を叩く葉月に久美子も同調する。確かに、寡黙でシャイな卓也には接客業なんかよりも、楽器と真摯に向き合う職人系の仕事の方が合っている気はする。作業用エプロンを身に付けチューバの調整をする卓也。そんな姿を容易に思い描けるところからして、それはとても可能性の高い未来だと思えた。

「梨子先輩はじゃあ、卒業したら後藤先輩と一緒に東京行くんですか?」

「えぇ、どうしてそうなるの?」

 さつきに問われた梨子は顔を紅潮させ、少しの間あたふたとしていた。ぷっくりと柔らかそうな頬を手で押さえつけながら、彼女は堪えかねたように面を伏せてしまう。

「……まだ決まってないけど。でも、東京行きたいって気持ちは、あると言えばあるかなー、って」

 キャー、と緑輝が黄色い声を上げる。「気持ちだけだから!」と必死に弁解する梨子の姿はあまりにもいじらしかった。

「長瀬がどこに居ても、待っててくれるなら、俺は頑張れるから」

「後藤君、」

 呼吸を止めて見つめ合う二人。あまりにも甘酸っぱいその空気にあてられて、今度は緑輝とさつきの両名がキャーキャーとかしましい声を上げ始めた。傍で見ているこっちまで顔が紅潮しているのが鏡を見るまでもなく分かる。こういう時、人は『ごちそうさま』と言いたくなってしまうのだろう。

「……練習に戻ろう」

 耳まで真っ赤にした卓也がそそくさと楽器を構える。その動きを合図に雑談タイムはお開きとなった。あすかも軽快に席を立ち、ユーフォを手にしてマウスピースに息を吹き込む。そんな彼女の動静を、久美子はそろりと窺った。

 結局あすかのお咎めは最後まで無かった訳なのだが、それはそれで何となく不気味な心地もする。あれほど練習好きで、練習以外のことが大嫌いだったあすかが、一体どういう風の吹き回しだ? それだけは久美子にも良く解らなかった。

 他方、奏はと言えば、つい先ほどまであすかとの間に剣呑な空気を醸し出していたのが嘘のように、今は大人しくメトロノームの刻むテンポに合わせて課題曲の音をさらっている。あの日以来、奏はまた元通りに猫を被っていた。少なくとも目につく範囲では誰かに毒気を注ぐような真似もしていないし、周囲との間に軋轢をもたらすような状況にも陥ってはいない。ただ美玲とはあれ以来、接触する機会が極端に減っているみたいだった。

 それに他の部員たちとも関わりは薄く、みんなで練習をしていても奏一人だけがどこかポツンと浮いているような感がある。その意味でも今の美玲とはまるで対照的だ。とりわけ夏紀とは相性が悪いとでも感じているのか、日常的な会話ですら二人が直接やり取りするのを久美子は久しく見かけていなかった。そこにも何となく、不穏な気配が漂っているような気がしなくもない。

 一見して落ち着きを取り戻したかに思える低音パートの活動風景。けれどそれは綺麗に貼られた絆創膏のようなもので、一たびめくればそこには今もジュクジュクと、膿にただれた生傷がある。そんな危うい気配がそこかしこを這いずり回っているみたいだった。

 

 

 

 



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〈8〉今年のコンクール体制

 フルート、クラリネット、サックス、ファゴット、オーボエ、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、パーカッション。学校中の至るところから様々な楽器の音が聞こえてくる。それは吹奏楽部のある学校ならもはや定番と言って良い、放課後の光景の一つかも知れない。彼らはロングトーンや基礎練習を通して己の音を磨いていたり、楽曲をさらいながら吹けないところを吹けるように練習していたり、もっと奥深く細やかな表現が出来るように試行錯誤を重ねていたり……とその目的は十人十色だ。時には息抜きと称して短い曲を皆で合わせて楽しむことだってあるだろう。ここ北宇治でも、そういう光景を目にすることが無いではない。

 でも、自分たちの目標は一つ。全国で金賞を獲る。

 春に誓い合った通り、少なくとも北宇治吹奏楽部はそこに向かって自分たちの音楽を突き詰めようとしていた。少しでも綻びがあれば、それは他との差になってしまう。特に全国出場を目指す上で、その前に立ちはだかる関西大会では明静工科、大阪東照、秀大附属、の三校が毎年必ずと言っていいほど揃い踏みする。通称『三強』と呼ばれる彼らは全国大会でも金賞常連校であり、ということは北宇治にとって絶対に負けられない相手となる。たった三枚しかない全国への切符を勝ち取るためには今よりももっともっと、自分たちの音を高めなくてはいけない。そんな中で刻々と過ぎ去る時間を無駄に費やすいとまは、これっぽっちもありはしないのだ。

 そのことをしかと肝に銘じつつ、練習に没頭する日々は次第に速度を増していく。気付けば五月のカレンダーもすっかり塗りつぶされ、あとは今日一日を残すのみとなっていた。

「鈴木。今の場所、音がもつれて不安定になってる」

「後藤先輩、それってどっちの鈴木ですか?」

「……悪い。さつきの方」

「はい」

 我らが低音パートの練習は卓也主導の下に行われている。それは春からずっと続いていた。あすか曰く、今年のパートリーダーは卓也であり主役はあくまで『本来の』三年生なのだから、との判断には久美子を始めパートの面々もすっかり同意している。あすかもあすかで今年はコーチ役として吹部全体の指導に関わる立場となっている事もあり、パート練習の時間には不在なことも多かった。それでも今日は時間に余裕があるらしく、今は久美子や夏紀と一緒に椅子を並べ、パート練習の輪の中に加わっている。

「ユーフォは久石が、全体的にちょっと走ってる。もっと周りの音聴いて」

「はい」

「それじゃもう一回、課題曲を頭からやろう」

 三、四、と卓也が合図するのに合わせ、全員で音を鳴らしていく。まだコンクール曲の楽譜が渡されてから数日しか経っていないが、少なくともパート内では躓かずに最後まで通せるぐらいにはなってきた。明日には課題曲と自由曲を初めて合奏で通すことになっており、部員たちの練習にも余念は無い。もし不出来なところがあれば、あの滝によって合奏中に散々こき下ろされるのは目に見えている。そこにトラバサミがあると分かっていれば誰だって迂回しようと考える。それが人間の心理というものである。

「……うん、今の感じで良いと思う。それじゃちょっと休憩挟んで、そのあと自由曲」

 ぷはあ、とユーフォのマウスピースから口を離し、久美子は楽器を膝の上に横たえた。ついさっきまで自分の息が吹き込まれていたせいで、金色に光る管体は微かに温かくなっている。それを指でついとなぞってから、譜面台の楽譜を課題曲から自由曲のものへと差し替えていく。

「それにしても滝先生、結構ばっさりカット入れて来たなあ」

「しょうがないですよ。全部フルに通せばニ十分ぐらいはかかる曲ですから」

 それはそうなんだけど、と久美子は緑輝に仏頂面を返した。目の前の楽譜はあちこちが大きく×(バツ)で潰されていて、工事中の区間を表す路面地図みたいになっている。それを一通り眺め、久美子はもう一度息を吐いた。

 昨日の夕方、帰りのミーティングの最中に滝から発表されたのは、自由曲である『リズと青い鳥』のカットに関するものだった。吹奏楽コンクールでは規定上、一団体の演奏時間は課題曲と自由曲を合わせて十二分以内と定められている。他にも人数は五十五人までとか色々規定はあるのだが、それらの規定に違反した団体はその場で失格となってしまう為、どの団体も規定をしっかり守って本番の舞台に臨む必要があるのだ。

 このうち課題曲に関しては楽譜通りに演奏することが求められるため、曲のカットおよびテンポを不自然に上げて早回しするなどの行為は一切認められない。となるとカットを掛けることが出来るのは必然的に自由曲、ということになる。複数ある課題曲から滝が選んだ『ラリマー』は、今年の課題曲の中では最も短いものではあるのだけれど、それでもどう見繕っても三分は掛かる曲だ。逆算すれば自由曲に掛けられる時間は九分未満であり、合間の準備や本番でのテンポの揺らぎなどを考慮すれば、出来れば八分三十秒くらいまで落とし込みたいところである。今しがたの緑輝の説明通り、本来はニ十分かかる曲をそこまで削る以上、曲の全編に及んでかなり大胆なカットが行われるのも仕方の無いことではあったし、久美子にだってそのぐらいは推測できていたのだった。

「そうは言っても第一楽章と第四楽章のとこにあるユーフォのソロ、まるまる削られちゃったんだよ。なんか残念」

 うんうん、と梨子も久美子に共感するように頷く。

「久美子ちゃんがそう思うのもちょっと解るよ。私もカットされちゃった第一楽章の後半、結構好きだったもん。チューバソロがあるとかじゃないけど、陽気で楽しい感じだったから」

「ですよね。それと第二楽章の後半も低音が主役っぽいトコあって良いなって思ってましたし。どっちも削られちゃいましたけど」

 今回のカットの大半は、曲の主題がハッキリ見える部分を掬い上げる形となっている。ただ切り落とされた部分にもそれなりに旨味があり、いくらコンクールの為とは言え勿体無いような気持ちもある。いつの日かこの曲を全編通して聴衆の前で披露する機会があって欲しいものだ。それも出来れば、三年生が引退してしまう前に。

「まあまあ良いじゃん久美子。『ラリマー』にもユーフォソロあるんだし、そっちで頑張れば」

 盛り下がった久美子を見かねてか、葉月がフォローの声を掛ける。

「それはそうなんだけどさ。私けっこう『リズ』のソロも良いなーって思ってたんだよ。特に第四楽章のヤツ」

「分かるぞー久美子黄前。あの朝日に向かって飛び去る青い鳥を見送るリズ、っていう雰囲気のところはユーフォの最高潮の見せ場ね。そこで入ってくるオーボエのハイトーンも合わさって強い情感を演出するところだし。あと中盤にもフルートソロに繋がるところもあるんだけど、あそこの解釈はねえ……」

「ちょちょ、ちょっとあすか先輩。その辺の話はまた今度ゆっくりお願いします」

 拳を振って演説を始めようとするあすかを、久美子と葉月は二人掛かりでどうにかなだめすかす。この人が本腰で語り出したらゆうに十分間は練習が止まってしまう事になりかねない。

「でもこの曲って、改めて見てみるとホント、オーボエが主役って感じだよねえ」

「あ、梨子先輩もそう思います? 実は私も」

「梨子先輩や葉月先輩がそう思うのも当然だと思いますよ。実際カットされた後の楽譜を見てると、いちばんの主題を吹いてるのがオーボエで、そこに寄り添うようにフルートソロが並行していくって感じになってますし」

 美玲の説明を噛み砕くような仕草で、さつきがほうほうと頷く。その最中に突如、「ふわぁぁ」と求が大きな欠伸をした。その退屈げな様子を見た梨子が気を配るように、求へと声を掛ける。

「そう言えば、求君は前にこの曲やったことがあったんだっけ。今回のカットについてはどう思う?」

「はあ、まあ特には。いいんじゃないですか、こんな感じで」

 応える求の声色はいかにもどうでも良さげで、けんもほろろ、といった具合だった。彼は基本、緑輝以外のほぼ全員にこんな感じの態度を貫いている。奏とは別の意味で扱いづらい存在だと感じていた久美子は昨今、彼への対応を緑輝にほぼ丸投げしていた。おそらく求にとってもそのほうが居心地が良いに違いないという、つまりは久美子なりの配慮のあり方という奴だ。

「やっぱり今年の課題曲って、鎧塚先輩と傘木先輩に合わせて選ばれたんですかね」

「葉月先輩もそう思いますか? 私もこの曲は、そこを意識して滝先生が選んだのかなーって考えてました。鎧塚先輩も傘木先輩も、どっちもすごく上手いですもんね」

「さっすがさっちゃん、話を分かってくれるぅ!」

「葉月先輩!」

 意気投合した二人はひしと抱き締め合う。その光景は微笑ましい、というよりはどこか滑稽で、隣で見ていた美玲も小さく苦笑を洩らしていた。

「参考演奏のCD聞く限り、第三楽章のオーボエソロなんてほぼ全編だもんねえ。最後にはカデンツァもあるし、確かここはカットされてなかったよね?」

「だな」

「これはみぞれ大変そうだなー。まぁあの子なら、平気な顔してサラっと吹いちゃうんだろうけど」

「あはは、確かに」

 夏紀たち三年生組の談笑を眺めながら、久美子も想像してみる。確かにみぞれならば、あんな譜面であっても事も無げに吹き切ってしまうのだろう。そこに沿うフルートのソロも、希美の力量を思えば全く問題は無いと言える。あれほど情感豊かなこの曲のソロを、みぞれたちはどんな風に吹くのだろう。この曲はどんな形に仕上がるだろう。それを思うと今から胸が期待に沸き立つような心地だった。葉月たちの言う通り、今回の選曲はみぞれと希美のため、と言うべきものなのかも知れない。

「本当にそう?」

 やにわに放たれた意表を突くその一言に、「え?」と全員があすかを注視する。

「ざっとスコア見ただけだけどさ、この曲ってけっこう木管主体って感じじゃん」

「それはまあ、そうですね」

「ソロの部分も確かに大事だけど、曲ってのは他のパートも含めて構成されるわけで、『リズ』はそこの難易度も高いと思うよ。基本的に穏やかな場面が多い分、表現も緻密に絞っていく必要もあると思うし」

 ふむ、と美玲は口元に手を当てる。あすかの説明はなおも続いた。

「そこで木管の表現力が弱かったり金管やパーカッションとのバランスが悪かったりしたら、この曲が描こうとしてるものがぼやけたり霞んだりするワケよね。要は個人の力量だけがどんなに高かろうが、トータルでの演奏力が問われるコンクールでは通用しないってこと。滝先生が『リズ』を選んだのは、まあ私の推理でしかないけど、北宇治全体のレベルがこの曲をこなせるところまで上がって来てるって、そう判断したからじゃない?」

 なるほど。これには久美子も思わず唸らされる。本当のところは滝しか与り知らぬところではあるのだろうが、それでもあすかの分析には一定の筋が通っているように思えた。幾人かの技術がどれだけ抜きん出て高かろうとも、他の人たちの音がそこへ追い付けなければ全体で良い音にはならず、音楽としてもチグハグなものになってしまう。それが集団音楽、そして吹奏楽というものだ。

「私も別に、みぞれちゃんや希美ちゃんの演奏技術を考慮しなくていいとか思ってるワケじゃないけどね。二人につられて他の人が腕を上げてる部分もけっこうあると思うよ。特にフルートパートは全体的に、去年よりずいぶんレベル上がってるし」

「あー。それは私も、一年生の子たちを指導してて思いました。経験者が多いからってのもありますけど、何より上手い子が多いですよね。今年のフルートって」

「黄前ちゃんの言う通りだね。二年の子もそれに負けてられないと思って練習頑張ってるのもあるんだろうけど、パート全体がどんどん上手くなってるのはやっぱり、希美ちゃんのおかげかな」

「傘木先輩が、ですか? パートリーダーじゃないのに?」

 真ん丸に開いた目をくりっと上目遣いにしながら、さつきは小首を傾げてあすかに尋ねる。

「表向きパートを取りまとめしてるのは調(しらべ)ちゃんだけど、練習中に意見出したりして中心的に指導してるのは希美ちゃんの方だろうね。後輩の子らも、希美ちゃんにはかなり信頼寄せてるみたいだし」

 調ちゃん、とあすかが言うのはフルートのパートリーダーを務める三年生、井上(いのうえ)調(しらべ)のことだ。一度退部して昨年復帰した希美とも彼女は仲良くやっているようで、現在のフルートパートは一見して和気あいあいと日々の練習に取り組んでいる。その様子を久美子も度々見かけてはいた。

 ただ調の演奏技術に関して言えば、本人には申し訳無いが、希美のそれと比較するには余りにも差があり過ぎる。希美は吹部を離れていた間は一般の楽団に籍を置いていたらしいが、その去年の時点ですらフルートパートの誰よりも希美の方が上手い、と感じるほどだった。

「確かに希美ちゃんって元から練習熱心だし、音楽のことにも詳しいもんね。指導役にピッタリって感じ」

 梨子の見解に、そうだね、と夏紀も同意を示す。

「上手くて詳しい人に教えてもらうのって上達の近道だからね。私が言うのも何だけど、今年のフルートの練習体制って結構理に適ってると思うよ」

 それに、楽器の上手い人が必ずしもリーダーを務めるとは限らない。人望。コミュ力。几帳面さや責任感。リーダーに求められるそれらの資質は、もちろん希美だって十分に兼ね備えている。けれどひょっとしたら、当の希美が調をパートリーダーに推挙したのかも、と久美子は推察していた。

 何しろ調は希美と違って三年間、部に在籍し続けているという実績がある。もしも希美が部を辞めることなく在籍していたとしたら、彼女がパートリーダーになっていた可能性はかなり高かっただろう。だがそうではなかった希美が遠慮してリーダーの座を辞退した結果、調がパートリーダーに就任したという可能性は大いにある。いずれにしてもその辺りの経緯など、部外者である自分にはおよそ分からぬ話ではあるのだが。

「フルートパートが急激に上達してるから、その分クラとかサックスも引っ張られるようにしてどんどん上手くなってますからね。緑は今の吹部の状態、すごく良いなって思ってます」

「そうそう、そういうことよサファイア川島」

「緑ですよぉ」

 あすかに本名をイジられ、緑輝のほっぺがプクーっと風船のように膨れる。針でつついたらパンと弾けてしまいそうで、そうしてみたい衝動に駆られた久美子の指先がチリリと小さく疼いた。

「上手くなったと言えば、夏紀もだよね」

「え、なにさ急に?」

 唐突に名を呼ばれ、はたと夏紀は梨子を見やる。

「春からかなり上手くなってるなーって。ね、後藤君もそう思うよね?」

 梨子は卓也にも話を振る。彼はしばらくの間、どぎまぎしている夏紀をじっと凝視していた。やがて一つ息をつき、それから卓也は掛けていた眼鏡を指で押し上げる。

「うん」

 真摯な面持ちで卓也が肯定すると、それに夏紀は息を呑んだ。

「うわー、ホントやめてこういうの。苦手なんだって、私」

「照れなくてもいいって。夏紀がここんとこ一人で練習頑張ってたの、もうみんな知ってるし」

「私も思ってました、夏紀先輩どんどん上手くなってるーって。みっちゃんだってそう言ってたんですよ」

「ちょっとさつき、そこで私の名前出さないでよ」

「えーどうして? 本当のことなのに。最近の夏紀先輩メッチャ上手くなってるから、自分も負けないように練習しなくちゃって言ってたじゃん」

「だからそれを皆の前で言わないでってば」

 茹でダコみたく真っ赤になった美玲の慌てぶりに、一同はどっと笑いに包まれる。その輪の中で、夏紀はまだ照れくさそうに鼻の頭をぽりぽりと掻いていた。それを見ていた久美子の心にもコトリと温かいものが転がり落ちる。

 先日の密談の後、夏紀があすかとどれだけの秘密特訓を重ねてきたことか、久美子には何となく想像出来るところではある。日々の練習と並行して、かつ他の人たちの目を忍んで行われる特訓を一日とて欠かさずにこなすのはいかに大変だっただろう。けれどその甲斐あって、近頃の夏紀の腕前はこうしてパート内で音を合わせていてもまるで遜色が無いばかりか、ときに久美子ですら夏紀の奏でる音の綺麗さに脅威を覚えることまであった。

 もちろんそれは久美子にとって、大いに歓迎するところだ。例え先輩であろうと負けるわけにはいかない。今の自分にとって越えるべき壁は、それよりずっと高い所にある。例え先輩であろうとも負けるわけにはいかない。仲間同士で切磋琢磨し、より良い音楽を作り、全国金賞という遥か高みを全員一丸となって目指す。そのプロセスはきっと、自分の目指す『特別』へと至ることにも繋がっていく筈だ。それに夏紀の努力を陰ながら知っていた身としては、その苦労がこうして報われているのは純粋に喜ばしいという気持ちもあった。

 そう。自分はそうだ。でもあの子にとってはどうだろう。久美子は気取られぬよう、夏紀の隣に座る奏へと目を向ける。俯き加減な奏の表情は、ちょうど陰鬱さを退屈で割ったようにうっそりと翳っていた。いたって無機質にユーフォのピストンをカタカタと指でいじるその仕草からは、彼女の内側でふつふつと煮え滾る苛立ちが噴きこぼれているような、そんな印象すら受ける。

 奏の孤立は日を追うごとに、目に見えて深まっていた。久美子の中では「先輩としてどうにかしなければ」と逸る気持ちと「迂闊に手を突っ込んではいけない」という本能的な危機感とが、まるでアクセルとブレーキを同時に踏み込むが如く相反し合っている。美玲の憂鬱と比べても奏のそれは闇が深く、底が知れない。このまま放っておけば彼女の歪みはどんどん悪化してしまいそうだったが、かと言って己の内面を他者の手で強制的に暴かれることを奏は良しとはしないだろう。最悪、そのまま永遠に心を閉ざしてしまいかねない、そんな予感さえある。

 いっそ美玲の時のように、奏が感情を爆発させてくれたら。その方が久美子にとってはまだマシだった。『雨降って地固まる』ではないけれど、一過性の問題として露出した方が場を執り成しやすく傷痕も残りにくい。奏の場合、もはやそれは傷ではなく病巣と言えるほどに膿んだ段階。そしてそれによって蝕まれるのは他ならぬ奏自身なのだ。その膿は既にジワジワと、しかし確実に、奏と周りの者たちへ浸潤しつつあった。

「そろそろ練習始めよう。それじゃ自由曲、今日は第二楽章から――」

 卓也の一声で練習は再開され、久美子も楽器を構える。奏の抱えるユーフォのベルから放たれた音は今日もどこかゴワゴワと、形容しがたい濁りを孕んでいた。それは皆の音と馴染むことなく、水の上に浮いた一滴の油のように、所在無さげにはみ出ていた。

 

 

 

「麗奈」

 露天の渡り廊下へと出る扉のところで麗奈の姿がそこにあるのに気付き、久美子は扉を開けながら声を掛けた。こちらに気付いた麗奈の髪が風になびき、さらりとたなびく。

「久美子も練習上がり?」

「うん、でももうちょっとここで個人練しようと思って。麗奈も?」

 麗奈の手に構えられたトランペットはちょうど、山際に沈もうとする太陽と同じ黄金色をしていた。キラリと眩く反射するベルが、空に向かって音を放つように正面の角度を保っている。

「私は何となく、かな。家に帰る前にもう少しだけ、吹いておきたくて」

 ふうん、と相槌を打ちながら、久美子は抱えていた譜面台を麗奈の隣に並べる。麗奈の父親はトランペットのプロ奏者で自宅にはトレーニング用の防音室もある、と以前に聞いたことがあった。単に練習したいだけならそっちでやった方がよほど能率が良いに違いない。自宅なら周囲に何の気兼ねも無いし、それに余計な雑音も少ない筈だ。

「何かあったの?」

 それとなく探りを入れてみると、麗奈はきゅっと唇を噛むように押し黙った。ほぼ水平の位置にあったベルがおもむろに下がり、完全に下を向いたところでようやく、麗奈が口を開く。

「パート割りのことで、さっき優子先輩と話し合ってて」

「先輩とケンカしちゃったとか?」

「別にケンカじゃなくて、ただの意見交換だけど」

 意見交換。その取って付けたような麗奈の言い回しに、久美子は洩れかけた苦笑を寸でのところで堪える。優子と麗奈はどちらも似た者同士というか、自分の信念をまっすぐ貫き通すタイプの人間だ。互いに絶対譲らないということも無いのだろうが、あの二人が一旦話し合いの席に着いて穏やかに話が進む光景はどうにも想像しにくい。こちらの沈黙をどう捉えたか、それには構わず、麗奈は続きを語り出した。

「パートの一年に、すごい上手な子がいてさ。難しいフレーズも吹けるし高い音も綺麗に出せるから、私はあの子がファーストトランペットを吹いた方がいいと思ってる。でも先輩は、その子をサードにするって決めたの」

「どうして?」

「本人がファーストをやりたがらないから」

 くだらない。そんな感情の籠る溜息を麗奈が吐く。愁いを帯びる彼女の長い睫毛が零れる夕陽を梳いて、ぱちりと翻った。

「優子先輩は本人の意見を尊重してそうしたって言うんだけど、でもそれっておかしいことじゃない? 実力があって適性もあるなら、そういう子がファーストを吹く方が良い。北宇治が全国でもっと上を目指すなら、そうするべきだと思う」

「それはそうだね」

「でしょ? だから私、先輩に言ったの。実力重視で選ぶのならあの子は絶対ファーストになるべきだって。でも優子先輩はどうしても本人次第だから、って言って譲らなくて」

「なるほどねえ」

 こうして聞く限りだと、麗奈の言い分と優子の言い分、どちらにもそれぞれ一理あるように思える。実力のある人が相応のポジションに就くことは麗奈の言う通り、何も間違ってはいない。全体のサウンドに関わる部分でもあるし、その方が音楽的により向上を望めるというのなら、実力主義を掲げる北宇治としてはそうするべきだろう。

 けれど、本人のやる気という問題もある。どんな事情か知らないが、その子自身が嫌がっている状況で無理強いをしても良い演奏が出来るとは限らない。そこを優子が重視しているのだとすれば、全体に破綻をきたさぬように、という彼女の意図もまるっきり無視することは出来ないように思える。

「その子って、どんな子なの?」

小日向(こひなた)(ゆめ)さん。久美子も知ってるでしょ」

「あー、えっと、経験者の子だっけ? 指導係で教えたこともあったような」

 突然出てきた名前と顔がなかなか一致せず、取り繕うようにそんなことを口にしてみる。それに対して麗奈は、何言ってるの、と言わんばかりに呆れた表情を向けてきた。

「それより前に、私たちと同じ北中吹部の後輩だってば。もしかして忘れてる?」

「えぇ、居たっけそんな子」

 そう言われたところで、その子の人相などこれっぽっちも浮かんでこない。そりゃあ麗奈にとっては中学時代から直属の後輩だったのだろうし、顔も名前も覚えていて何ら不思議は無いだろう。けれど久美子にしてみれば、他のパートの子のことなんてほとんど記憶に無い、というのが正直なところだ。実際に本人と面と向かってみれば『ああこの子か』と思い出せるかも知れないのだが。

「とにかく、ひとまず小日向さんにはこのままサードで頑張ってもらうってことで、優子先輩に押し切られた」

「麗奈が折れちゃったんだ、珍しいね」

「別に折れてない。さっきの話し合いじゃ結論も出なかったし、まさかパート割りが決まるまで練習しないってワケにもいかないからあくまで暫定の話。私はまだ納得してないし」

「だろうね」

「久美子だってそう思わない?」

「そうだなぁ……」

 これは確かに悩ましい問題ではある。多分、麗奈と優子のどちらが正解ということも無い。何よりもまず、その子がファーストをやりたくない、という消極的な姿勢なのが一番の根っこだ。小日向夢は何故ファーストポジションを嫌がるのか。そこがハッキリしなくてはどうにも手の打ちようが無い。

 こんな時、あすかならどうするだろう。久美子は無意識のうちにそれを考えていた。きっと去年のあすかだったら、鼻で冷笑してこう言い放つに違いない。

『別にいいんじゃないの? 本人がサード望んでるんだから、サードにしとけば』

 でも、今年のあすかはコーチ役だ。部全体の音をチェックしていく立場にあるし、それに何より去年とは部員たちとの関わり方が少し違っているような、そんな気がする。夏紀に徹底マンツーマン指導をしたり、昨年レギュラー落ちした葉月にも篤く目を掛けてあげていたりと、色んな意味で先輩らしい振る舞いをしている姿を見かける機会が格段に増えている。今のあすかならひょっとして、こういう問題にもきちんと先輩らしく対処してくれるかも知れない。

「わかった。じゃあ今度、その小日向さんと直接面談してみるよ」

「久美子が?」

「私だけじゃちょっと不安だから、あすか先輩にもお願いしてみる。それにあすか先輩の言う事だったら優子先輩だって聞かない訳にいかないでしょ? 小日向さんから直接話を聞いてみて、どっちが良いかって解ったら、あすか先輩から優子先輩に話を通してもらう方がスムーズなんじゃないかな」

「それは、あるかも」

「そこですぐ結論は出ないかもだけど、その小日向さんも麗奈たちには言いにくい事もあるかも知れないし。とにかくまずは本人と直接会って話してみる。あすか先輩には私から話しておくから、麗奈は優子先輩や小日向さんに時間作ってもらえるよう頼んでみて」

「分かった」

 頷いた麗奈の表情がほろりと綻ぶ。その捉えどころの無さに、どうしたの、と久美子は麗奈に尋ねた。

「久美子のそういうところ、私じゃ絶対真似できないなって思って」

「何それ。もしかして、悪口?」

「そうじゃなくて」

 へそを曲げかけた久美子をなだめるように、麗奈はそこで小さくかぶりを振った。

「私はこういう時、自分で何とかしよう、ってすぐ考えちゃうから。優子先輩もそういうところあって、それで今回はお互いぶつかっちゃったけど、でも久美子は今みたいに他の解決策を思いついたり出来る。何にも考えてないようでいて、実はちゃんと冷静に周りを見てて。そうやっていつの間にか他の人を結びつけるのを見てると、久美子は人に取り入るのが上手だなって、いつも思う」

 はにかみながら、麗奈が手を差し伸べる。それに導かれて、久美子も自分の空いた手を差し出した。そっと握られた麗奈の掌は少し冷たくて、けれど、とても柔らかかった。

「やっぱり悪口じゃん」

 軽口を叩きながら、久美子も麗奈の手を握り返す。自分の温もりが麗奈に伝播して、二人の温度はぴったりと一致した。くすりと吐息を零す麗奈の微笑みは、燦然と雲霞を焦がす夕陽にも負けぬほど美しく輝いていた。

「ところで久美子はどうするの?」

「どうするって、何を?」

「あがた祭り。今年は塚本と行くの?」

 麗奈に言われるまですっかり忘れていた。五月が今日で終わり、明日からは六月になる。それはつまり、あがた祭りの日がもうすぐやって来ることを意味していた。

 

 

 

 



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〈9〉抉ることと掬うこと

 コンコン、と戸を叩く音がする。

「どうぞ、入っていいよ」

 声を掛けると「わひゃい!」とへんてこな返事がして、ゆるやかに引き戸が開けられた。

「あなたが、小日向夢さん?」

「は、はい。そのぅ、すみません。私なんかが先輩方の貴重なお時間を潰してしまって」

「あー、別にいいよ。私いちおう新入生指導係だし、そんなのは気にしなくても。さ、とりあえず座って」

「すみません、お気を遣わせてしまって。あのう、それじゃ、失礼します」

 おずおずと家庭科室に入って来たのは、自分よりも一回りほど小柄な女子だった。眼鏡をかけ長い髪を三つ編みのおさげにしている彼女の容貌には、こうして実物を目の当たりにしてみてもやはり全く見覚えが無い。麗奈いわくは北中時代の後輩らしく、ということは久美子も彼女と二年間は一緒に活動していた筈なのだが、どういうわけかこの後輩に関する印象はこれっぽっちも自分の中に存在していなかった。

 その夢はどうやら相当に気弱な子のようで、カタカタと微かに震えながら教室の一角に設けられた面談用の席へと歩み寄っていく。その先ではあすかが足組みをして腰掛けに肘をつき、不遜な態度で後輩の着座を待ち構えていた。まるで寝ぐらにひそむ熊と、そこへうっかり踏み入ってしまったウサギみたいな恰好だ。念のため『ただいま面談中』と大きく書かれたホワイトボードを入口の戸に掛け、それから久美子も席へ向かう。

「あ、あのぅ。本当にすみません。私のせいでこんなことになってしまって。皆さんに迷惑ばっかりお掛けしちゃって、どうしようもないって自分でも分かってるんですけど」

「そんな大げさな話じゃないって。それと『すみません』って言うの、もう三度目だよ」

「うあぁ、そうですね。謝ってばかりですみません」

 久美子の指摘も虚しく、夢は同じ謝罪の語句を繰り返す。そうしてペコペコと頭を下げる夢の姿が何だか哀れに見えてしまう。状況的に見ても、先輩二人を前にあれこれ聞かれるというのは、当人にしてみれば圧迫面接のようですらあるのかも知れない。そういうつもりは無いんだよ、ということを態度で示すために久美子はあえて夢の隣の椅子を引き、あすかと対面する位置を選んだ。

「時間が勿体ないし、始めよっか」

「はっ、はい。よろしくお願いします、えと、田中先輩」

「えーっと、じゃあ夢ちゃんって呼ばせてもらおうかな。早速だけど夢ちゃん、なんか悩み事とかはある?」

「悩み事、ですか。えっと、特には無いです。自分があまりにもダメ過ぎて、他のかたにご迷惑をお掛けしてるってことぐらいで」

「じゅうぶん悩み事だよ、それ」

 そう喋ってから、しまった、と久美子は口を押さえる。また自分のうっかりが、口をついて出てしまった。

「あっ、そうですよね。本当、黄前先輩の仰る通りです。こんな風にどうしようもないダメ人間で、私」

「いや、別に私は小日向さんのこと詳しく知らないし、ダメ人間とは思わないけど」

「いいんです、気を遣っていただかなくて。自分がダメなのって自分で一番良く解ってますから」

 何だろう。とりつく島もない、というのはこういう状況を言うのだろうか。夢の口から出てくるのはどれも自己否定の言葉ばかりで、一向に話が前に進む気配が無い。こんな子が本当に演奏技術に関しては麗奈の言うような達者ぶりなのか? 夢の一連の挙動を見ていると、にわかには信じがたいものがある。

「んー。こりゃ和やかに雑談から入っていくよりは、さっさと直球いっちゃったほうが良さそうかな」

 あまりの煮え切らなさにか、あすかも鼻からフン、と息を吐く。

「じゃあ夢ちゃん。ズバリ聞くけど、ファーストやりたくないって言ってるんだって?」

「あっ、ハイ。ええと、」

「どうしてなの? 夢ちゃんが練習してるとこ私も何度か見てるけど、フツーに上手いじゃん」

「いえ別に、私なんて上手くも何ともないですから」

「ハイ、その自虐ネタは以後禁止。それよりさっさと理由を説明してちょうだい。ホラホラ」

「それはですね、あの。私みたいにダメなやつが、ファーストみたいに目立つポジション吹くのなんて申し訳なくて。それに、失礼ですし」

「失礼? 誰に?」

「それは、他の先輩方とか、周りの皆さんとか」

 宣言通り、あすかは夢に次また次と直球を放っていく。それに一つずつ夢が答えを返すことで、さっきまで足踏み状態だった会話は玉を転がすようにどんどん進行していった。その様子を傍で聴きつつ、久美子は黙って唾を呑み込む。同じことを自分がしても同じようには出来る気がしない。それも全てはあすかの手腕なればこそ、と言うべきなのだろうか。

「そんなの誰も気にしないと思うよ? 少なくとも今の吹部はみんな実力主義でやって来てる子だし。先輩だろうが後輩だろうが上手い子が吹く、っていう考え方でオーディションも選ばれるんだから、夢ちゃん一人がパート割りなんか意識したってしょうがなくない?」

「それはそうかも知れませんけど、でも私が気にしちゃうんです。それに高坂先輩と吉川部長もそのせいでケンカしちゃったりして。それもこれも全部、私のせいで」

「麗奈は別に、ケンカはしてないって言ってたけど」

 久美子が横から口を挟んでみたものの、そんなこと無いです、と夢は物凄い勢いで首を振る。

「こんなやつだから、私にはファーストなんて到底ムリなんですよ。でも高坂先輩は絶対に私をファーストにした方が良いって言うんです。部長は私がこう言ってる以上ファーストにはさせられない、って言って下さったんですけど、そしたら高坂先輩が『本気で全国金獲るつもりあるんですか』って部長に噛みついちゃって」

 夢の吐いた息は場を染め抜くほどにどんよりと青白い。そのあまりの重苦しさは、つられてこっちまで溜め息が出てしまいそうなほどだった。

「私なんか居なければ良かったんです。私が無能なせいでお二人が揉める原因作っちゃって、そのせいでパートの人たちもビックリしちゃってしばらく練習になりませんでしたし。……きっと皆さん、あいつさえ居なければって、今頃そう思ってます」

「そうだね」

 あすかはきっぱりと夢に言い放った。ちょっと先輩、という久美子の窘めも意に介さず、彼女は続けて夢に問う。

「で? 夢ちゃんはどうしたいの。目立つのなんて申し訳ないって言ってたけど、もしも滝先生にオーディションで選ばれちゃったら、ポジションがどこであれコンクールに出ることには変わりないよ。それとも辞退でもする?」

「辞退、ですか」

 そこで夢は、ふ、と乾いた笑みをこぼした。

「そうですね。私なんかが皆さんの席を奪うなんて許されないですし、それだったらいっそ辞退した方が、」

「ふーん? 自分のことダメだダメだって言う割に、自分が選ばれるのには自信があるんだ?」

 あすかの指が机の上に円を描く。唐突な一突きを食らって、夢の両肩がギクリと跳ねたのが久美子にも解った。

「あ、いえあのその。決してそんなつもりじゃ、」

「謙遜なんかしなくてもいいって、実際上手いんだもん。確証は無いけど、夢ちゃんぐらい上手い子だったら滝先生がコンクールメンバーに選んだっておかしくないと思うよ」

「そんなんじゃないんです。私、人が見てるところで吹くとあがっちゃって、全然まともに吹けなくなるんです。ですからその、オーディションだってきっと落ちちゃうと思うし」

「それが本音か」

 あ、と吐息を洩らした夢の顔から一瞬にして血の気が失せていく。

「つまり夢ちゃんがファーストをやりたくないって言ってるのは、あがり症な自分が目立つところを吹いて本番でミスするのが怖いって、そういうことでしょ」

 白く照り返る眼鏡のレンズ越しに、あすかの鋭い眼光が顔面蒼白の夢へと突き刺さる。肝を無理矢理引きずり出されカクリとうな垂れてしまった夢には、蚊の鳴くような弱々しい声で「はい」と返事をするのが、どうやら精一杯のようだった。

 その無遠慮な一撃に震え上がったのは夢ばかりではない。鋭い洞察力。巧みに回答を引き出す話術。時に理詰めで言いくるめ、時に相手の言い分をいなし、かと思えば及びもつかぬところから急激に仕掛ける誘導尋問の手管。それらを可能にする頭の回転の速さ。これこそがあすかの本領なのだ。がくがく、と背骨を揺する怖気を堪えるように身を縮こまらせつつ、久美子はあすかの言葉の続きを待つ。

「落ち込んでるトコ悪いんだけど、私からしてみればさ、夢ちゃんのそういう気持ちって全然分からないんだよねえ。私はユーフォ吹くの大好きだし、暇さえあればずっと吹いてたいってぐらいだし、腕にも自信たっぷりだから。人前で吹くなんて朝飯前すぎて、ちょろいちょろい」

 先輩ならそうでしょうね、と久美子は内心呆れ返る。この傲岸不遜ぶりと夢の自虐癖を足して二で割ったらちょうど良いぐらいだ。

「だから夢ちゃんがあがり症で自信無いのは、私にはどうにもしてあげられない。でもね、いざとなったら辞退すればいいって思ってるんだったら、それは考えが甘いよ」

「甘い、ですか?」

「そう。甘いっていうか、はっきり言って舐めてるね」

 艶めいたあすかの唇が、つるりと滑らかに微笑の弧を描く。

「仮に先輩だろうが一年の子だろうが、みんなコンクールに出たいって思って必死でやってる。自分の手で全国金賞を掴み取りたい、その舞台に立ちたい、ってさ。そう思って臨んだオーディションで、そういう子らが落ちて夢ちゃんが受かる。なのに夢ちゃんが自信無いから辞退しますーなんて言いだしたら、その子らはどう思うだろうね」

 夢がスカートの裾をギュッと握り締める。その手は緊張と不安で小さく震えていた。

「そういうの、想像してみたことも無かったでしょ? だから舐めてるって言ったの。自分よりも実力のある人が自信が無いってだけの理由でやらないなんて言い出したら、その人たちからしてみればふざけんなって話よ。私の見る限り、夢ちゃんの一番ダメなのは、そういうコトが分かってないところ」

 いたって普段と変わりなく、あたかも国語の教科書を音読するかのような口ぶりで、飄々と吐き出される言葉が容赦なく夢を切り刻んでいく。今あすかがしているのは安直に問題解決を図ることではない。彼女は今、夢の心の弱さに対して、徹底的に逃げ道を塞ごうとしているのだ。

「自分に自信が無いのは結構。そのせいで周りに迷惑掛けてるって自覚があるまでは良い。けど自分の行動で誰がどんな気持ちを抱くのか、どういう感情を向けて来るのかってことにはまるっきり無頓着。で、その結果が逃げの一手ってのは、さすがに卑怯じゃない?」

 卑怯。その一言に夢の肩はわなないた。いくらなんでも今のはまずい。そう感じた久美子が話を遮ろうとしたところで、夢がぽつりと言葉を洩らす。

「そうですよね。卑怯、ですよね」

 そこでようやく夢は顔を上げた。だが彼女の二つの目はまだあすかを正面には捉えられないらしい。しばらく宙を泳いだ視線はやがて、組まれたあすかの指先あたりに留まる。

「そうなんです。私、自分が怖いからって逃げてばっかりで、それで他の人を怒らせてばっかりの卑怯者なんです。でもこんな私でも、高校に入ったら何か変われるかなって思って。活躍してる先輩たちの元で頑張ってみようって。そう思って北宇治に入ったんですけど、それでもやっぱり私はどうしようもないゴミで」

 夢のその言葉を聞くと同時に、久美子の身体から緊張がするりとほどけた。それはようやく合点が行った、というような心境だった。夢は、変わりたかったのだ。それまでの情けない自分から、新しい何かに。けれどそう思って入った高校の吹部でもやっぱり変われなくて、いつしか彼女はそんな自分自身をますます卑下するようになっていったのかも知れない。でも変わりたいという気持ちは、きっと今もそこに在る。その発見は久美子にとって、四方真っ暗闇の現状に差す一筋の光明だった。

「変われる。きっと変われるよ、夢ちゃんも」

「あ、ひゃ! 黄前先輩、」

 気付けば久美子は立ち上がっていた。こちらの突飛な行動にすっかり委縮してしまった夢に構わず、彼女の手をスカートから引き剥がして固く握り込む。

「私だって、北宇治に来たのは何となく変わりたいって思ってたぐらいで、でもいざ入ったから何かしようとしたワケじゃなかった。けど去年一年間で色んなことがあって、色んな人たちと出会えて、それで沢山のものを貰えたって思ってる。夢ちゃんだってきっとそう。今すぐには変われないかも知れないけど、麗奈だって、優子先輩だって加部ちゃん先輩だって、きっと夢ちゃんに色んなものをくれると思う。そうしたら夢ちゃんも変わっていけるよ。ちょっとずつ、今までと違う自分に」

 早口でまくしたてたせいか、夢はもう一つこの状況が飲み込めぬまま目を白黒させていた。はたと我に返った久美子は夢の手を離し、そして今一度、夢の隣に腰を下ろした。

「とにかく。夢ちゃんはこれを自分を変える最初のキッカケって、そう思ってみたらどうかな?」

「キッカケ……ですか?」

「そう。何でもいきなりは難しいから、まずはオーディションに向けて麗奈の言うようにファーストで練習してみるの。それでオーディション受けてみて、もしあがっちゃってダメだったらその時は仕方無いよ。受かっても辞退するつもりだったんだし、それならどっちみち結果は変わらない、って考えてさ」

「それは、そうかもですけど」

「でももし受かったら、その時は自分が一歩変わったってことにして、今度はもう一歩がんばってみようよ。そうやって一歩一歩、少しずつやっていったら、卒業するまでには夢ちゃんは今とは全然違ってるかも知れない。せっかく変わりたいと思って北宇治に来たんだったら、やらなきゃ損だと思う」

「で、でも私、もう吉川部長にもファーストやりたくないって言っちゃってますし」

「それは大丈夫。優子先輩だって、夢ちゃんが自分からファーストやってみるって言えばきっと分かってくれるよ。何だったら私やあすか先輩からもフォローするし。決めるのは勿論夢ちゃん自身だけど」

 矢継ぎ早にこれでもかと畳みかける。この糸口を逃してはならないと、そういう思いで頭が一杯だった。夢の表情には未だ困惑と逡巡が見て取れる。でも。だって。どうせ。そんな言葉を一つでも吐かせまいと、久美子はしっかりと夢の瞳を凝視し続ける。

「……分かりました」

 とうとう根負けしたらしく、夢は不承不承ながらも頷いた。それを見てようやく、久美子は一息を吐く。ふとあすかを見やると、彼女もまた穏やかな眼差しで夢の様子を眺めていたが、久美子の視線に気付いてこちらに親指を立てた。久美子もそれに同じポーズで返したかったけれど、流石に夢の目の前でそれをやるのはなんだか失礼な気がして、代わりにこっそりと小さな頷きをあすかに返した。

 

 

 どうなるか分かりませんけど、がんばってみます。

 そう告げて家庭科室を後にする夢を見送ったあと、突如それまでの疲労がどかっと降りかかってきた久美子は「うはぁ」と教卓に突っ伏していた。

「いやぁ、さっすが黄前ちゃんだねえ。あんな難問もアッサリ解決しちゃうとはこの田中あすか、おみそれしましたぞ」

「茶化さないでくださいよ」

 顔を上げた先ではあすかが満面の笑みでパチパチと手を叩いている。いよいよ馬鹿にされているような気がして、久美子はあすかに思い切りしかめっ面をしてやった。

「それにあの熱い語り、きっとあれに夢ちゃんも心打たれたんだね。本当に黄前ちゃんってば、女を殺す方法が良く解ってるぅ」

「そんなこと無いですってば。それに、夢ちゃんの悩みの原因を引っ張り出したのはあすか先輩じゃないですか。私はそれに乗っかっただけっていうか」

「私なんて、全然大したことしてないよん」

 あすかの謙遜はあまりにわざとらしくて、久美子は肯定も否定もする気になれなかった。クツクツと愉快そうに喉を鳴らしつつ、あすかが机の一角に腰を預ける。黒タイツに覆われた形良い彼女の脚が、ちょうど久美子の眼前に投げ出される。

「あの子、ちょっと晴香にタイプ似てるでしょ」

「あー、言われてみればそうですね。ネガティブなとことか」

「ああいう子って自分のことダメなやつとか言って、周りに予防線張ってるんだよね。そのくせ、実はこう思ってたりするの。他の人にハッキリ『お前はダメだ』って言って欲しい、って」

「そんなもんですか?」

 あすかの言葉がにわかには信じがたい。普通はそう言われたくないために、そして誰かに『違うよ』『そんなこと無いよ』と擁護もらいたいがために、先んじて自分で自分を卑下するものじゃないのだろうか。

「言って欲しい、ってのはちょっと語弊があったかな。まあ要は夢ちゃん本人が自分に自信を持ててないから、ああやって自分自身をこき下ろしてるわけ。だからこっちがいくら持ち上げたとしても、あの子が自分から勝手にずり落ちていっちゃう」

「はあ」

「そういう時はいっそ、言われたくないことをバシッと叩きつけられた方がいいのよ。そしたら嫌でも自分の本音と向き合わないといけなくなるでしょ? 普段自分のことをネガティブで覆い隠して見えなくなってるのが、そこで露わになる。今回の場合だと、夢ちゃんが本当はどうしたいのか、どうなりたいのかってところだね」

 ふうむ、と久美子は久美子なりにあすかの言葉の羅列を咀嚼しようと努める。

「つまり下手な慰めだとか、どこをどう改善すべきかなんて不毛な話をしてても時間の無駄。そんなのよりもサッサと耳の痛い事実を突きつけられた方が、本人にとってはどうするべきかが見えやすくなるの。いちいち予防線を張りまくる子って否定されるのを怖がってるフリして、内心ではそうなるのを求めてるってワケ」

 あすかの説明は小難しいところもあって、久美子にはいま一つ要領を得ない部分もある。けれどちょっとだけ解る気がするのはきっと、昨年のあすかと晴香のやり取りを目の当たりにしていたからだろう。

 斎藤葵が退部を宣言したあの日、己の無力を嘆く晴香に掛けた慰めの言葉は一切通用しなかったばかりか、却って彼女の激昂を招いてしまった。そんな晴香によってぶつけられた「あすかが断ったせいで自分なんかが部長になってしまった」という激情を、あすかはたった一言でザクリと抉ってみせた。

『だったら、晴香も断れば良かったんだよ。違う?』

 その一言が晴香に何をもたらしたのか、それは久美子には分からない。分かっているのは晴香が翌日の部活を休んだ事。そして明くる日、顔を出した彼女がもうすっかり立ち直っていた事。それだけだ。けれどその後の晴香は今にして思えば、部長として人間として随分逞しく成長していったようにも思う。

 あの時のあすかの言葉を、彼女の恐ろしいほどに冷たい笑みを、久美子はとても残酷だと思っていた。けれどもし仮に、最短で急所を突かれたことによって晴香が弱い自分自身と向き合い、それで立ち直るキッカケを得られたのだとしたら? そう考えてみると、さっきの夢の姿にあの日の晴香が重なるような、そんな気がする。

「まあ私も、とある人から教えてもらったんだけどね。ある意味受け売りみたいなもんかな」

「へえ」

 何となくの相槌に、何故かあすかは苦笑を浮かべた。何かおかしな返事でもしただろうか? と訝しんだものの、あすかはそんな久美子に特に構うこともなくするりと話を切り替える。

「とは言え、単に私がほじくっただけじゃあこんなに早く話がまとまることも無かっただろうね。夢ちゃんの本心を掬い上げて背中を押してあげたのは、紛れもなく黄前ちゃんの手柄だよ。ホント、こんな立派な後輩を持てて私も鼻が高いってもんよ」

「あんまり実感無いですけどね。むしろ夢ちゃんのことうまく言いくるめちゃったんじゃないかなぁって気もして、正直ちょっと胸が痛いですし」

「そこも、ああいう子だからね。自分一人じゃなかなか踏ん切りつかないってこともあるでしょ。初めて自転車に乗る時と同じで、誰かに後ろから押してもらって、それでようやく漕いでみる気になったってことよ」

「なるほど」

「そういうのも全部含めて、『卑怯』ってことなんだけどね」

 そう呟いてあすかが目を細める。その冷たく光る弧に、久美子は背筋がぞわりとなるのを感じた。

 耳の痛い事実。先ほどあすかはそう言っていた。それはつまり夢に放ったあすかの言葉の数々が、決して彼女を揺さぶるためだけの出任せや根拠のない誹謗では無かったということだ。果たしてあすかはあの僅かな時間の内に、どこまで小日向夢という人物の本質を見通していたというのだろう。夢の言葉の端々から彼女の本音に繋がる鍵を、どれだけ拾い集めていたのだろう。久美子は改めて『田中あすか』という怪物の恐ろしさを直視したような心境だった。

「あすか先輩は本当に、凄いですね」

「どしたの急に?」

「いえ、ただそう思っただけです。凄いなぁ、って」

「ふぅん?」

 立ち上がるなり体を傾けジロジロと、あすかはまるで何かを見透かそうとするかのような態度で久美子の顔を覗き込んできた。急に何ですか? と狼狽える久美子に、彼女はニヤリと意味深な笑みを投げ掛けた。

「私は黄前ちゃんの方こそ、よっぽど凄いと思うよ」

「何がですか」

「それはヒミツ」

 そのうち気付くといいねぇ。そう言ってカラカラ高笑いをするあすかに、久美子は何だかばつが悪くなって身を起こした。

「さあ、そろそろパート練に戻るよ。あんまり長いこと二人きりでデートしてたら、練習頑張ってるみんなにも悪いからね」

「デートって、……まぁ、はい」

 颯爽と身をひるがえしたあすかに続いて久美子も席を立つ。入口に掛けておいたホワイトボードは誰かが触れてしまったのか、文字がかすれて横に伸びていた。それを手に取り、久美子は廊下の先を行くあすかの背を追っていった。

 

 

 

 

「――っていう事があったわけ」

『そりゃあ大変だったな。んで、その後のことはどうだったんだ?』

「んー、どうかな。いちおう優子先輩と麗奈にも報告はしたし、ひとまず夢ちゃんはファースト吹いてみるってことで落ち着いたみたいだけど、後は本人とトランペットパートの問題だと思う」

『それもそうだな。とにかく今回はお疲れさん』

 ありがと、と久美子は秀一のねぎらいの言葉を素直に受け取る。今回は本当にくたびれた。練習が終わって家に帰ってからすぐにシャワーを浴び、母親の用意した夕食をもそもそと平らげ、自室に戻ってからは宿題すらも手に着かず、ずっとベッドの上でぐったりしていた。これで秀一から電話が掛かってこなければ、恐らくそのまま寝落ちしてしまっていたことだろう。

『それにしても久美子も、すっかり先輩が板についてきたよな』

「それ、こないだも似たようなこと言ってたけど、何その上から目線」

『別にそういうつもりじゃないって。俺もたまに後輩から相談受けたりするけど、なんか上手いこと返せなくてさ。結構ナアナアだったりするんだけど、それに比べて久美子はしっかり答えてやってんだなあって思って』

「大したことは、何もしてないけどね」

 気恥ずかしさをごまかそうと、久美子は鼻柱をぽりぽりと弄る。それに自分のしたことがそれほど大きな影響を与えられたという実感も、正直を言えばほとんど無かった。仮にこれをキッカケに夢が大きく変わっていったとして、それは夢自身の意識と努力によるものだ。自分が自慢げに手柄顔をするようなことじゃない。

「それはそうと、秀一はどうするの?」

『どうするって、何の話だよ?』

「だから、もうすぐじゃん。あがた祭り」

『あ、ああ。おう』

 何故かそこで電話口の秀一がどもった。自分からけしかけたみたいな恰好になってしまい、久美子もなんとなく気まずさを覚える。

『実は今日は、それで電話したんだけど。あがた祭り、一緒に行かね?』

 秀一の声色が跳ね上がる。向こうの緊張がこっちにまで伝播してくるような、そんな心地だった。吸い込んだ息がうまく出ないような感じがして、どうにももどかしい。

『あ、もし高坂と先に約束してたんなら、俺のことは別に――』

「行く。秀一と、あがた祭り」

 向こうが言い切るより早く、久美子は返事をした。

『ホントか?』

「うん。麗奈にも言われたし。せっかくなんだし、今年のあがた祭りは二人で行きな、って」

 それは本当のことだった。先日の渡り廊下にて麗奈にあがた祭りの話を振られた時、久美子はまだ何の予定も入っていないことを麗奈に白状していたのだった。

『本気で? 塚本と付き合ってて、一緒に行く約束もしてないの?』

 それは色々と忙しかったからだとか、向こうにも何か用事があるのかもとか、久美子も一生懸命言い訳をしたのだけれど麗奈にはどれもまるで通用しなかった。すっかり呆れた様子の麗奈は塚本とあがた祭りに行くことを強く奨めてきて、とうとう折れる形で久美子が首肯したところで、その代わりにと一つだけ付けられた条件が、

『祭り終わって時間あったらうちに来てよ。りんご飴で手を打ったげる』

「……とまあ、こういう話になったわけで」

 一通りの事情を久美子が説明し終えると、ハア、と受話口から半分納得した時のような吐息の音が流れた。

『そっか。なんか気遣わせちまったな、高坂に』

「麗奈は特に気にしてないと思うけどね。とにかくそんな事情で、どうせりんご飴買わないといけないし。ついでに一緒に祭り見に行こうよ」

『ついでって、ひでーなお前。どっちがメインだか分からなくなってるぞ』

 軽口を叩き合い、二人で笑う。こんな時間が久美子にはとても心地良かった。恋人同士と言っても何ら縛られることの無い、今までよりもほんの少しだけ距離を詰めた、本当にそれだけの関係。その境界の曖昧さに、久美子は時おりゆらゆらと幻惑される。それは果たして秀一も同じなのだろうか。それを聞き出そうという気持ちには、ならなかった。もしもそこで秀一の内に秘められた望みを告げられたと仮定して、そんな彼の求めを自分は受け入れることが出来るのか? それが、怖かったから。

『それじゃ、当日は家帰ってからマンションの玄関に集合、ってことで』

「うん。楽しみにしてるね」

『俺も。それじゃおやすみ、久美子』

 おやすみ、と返事をして秀一との通話を終える。最後に秀一が呼んでくれた自分の名前。それに撫でられた耳がいつまでもくすぐったかった。そのまま携帯の画面を操作し、天気予報のサイトを開く。

 六月五日、雨。降水確率六十%。

 示された予報は残念ながら去年のような晴れ模様ではなかった。画面をオフにし、久美子は寝返りを打って仰向けになる。天井の蛍光灯は少し黄色くぼやけていて、それをぼうっと見つめていると、何だか胸が締め付けられるような感覚に襲われ始める。

 秀一のこと。

 麗奈のこと。

 二人の顔が、交互に浮かんでは消えていく。自分が交わした二つの約束。結果としてどちらも選ぶ形となってしまったことに、ひょっとして自分は欲張りなのだろうか、という気持ちがむくむくと鎌首をもたげる。本当にこれで良かったのかな。身体はとっくにくたびれ果てている筈なのに、妙に胸がズキズキと疼いて、その夜はちっとも眠れそうな気がしなかった。

 

 

 

 



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〈幕間2〉みぞれの青い鳥

 しん、と静まり返る部室に一歩、足を踏み入れる。

 

 当然のことだがそこには誰もいない。一番初めに鍵を開けたのは自分たちだったから。自分の席に向かい、椅子の脇へ鞄を置く。そしてファスナーを開け、中から黒いファイルを取り出す。様々な楽譜が収められたファイル。それを譜面台に置き、中身をめくっていく。幾つかの思い出深い曲目を見送りながら、ある楽譜のところで、その手はぴたりと止まった。

 

『リズと青い鳥』

 

 第三楽章、と添えられた副題の下には黒い形の音符が幾つも綴られている。その一つひとつを指でなぞりながら示された形通り、頭の中にメロディを描く。

 とても美しくて、優雅で、儚げな、音。けれど想起されるイメージは、そんな音とは全くかけ離れたものだった。

 

 

 ――まるで、悲痛な泣き声みたい。

 

 

 

 

 

「みぞれ」

 空気が、震える。我に返ったみぞれは彼女の声がする方へと顔を向けた。

「良かったね、今回の自由曲。フルートとオーボエのソロたっぷりで」

「うん」

 みぞれが頷くと希美は嬉しそうに口角を上げる。淡い朝日の光に包まれて、彼女の笑顔はキラキラと輝いていた。それがあまりに眩しくて、みぞれは思わず目をすがめてしまう。

 いつだってそうだった。みぞれの目に映る希美は、みぞれの思い描く希美は、どんな時でも光に満ち溢れていた。

「でね、うちのパートの後輩が言ってたんだけど、この曲って同じ名前の童話があるらしくて、それを元に作曲されたんだって。みぞれは知ってた?」

 希美の問いに、みぞれはふるふると首を振る。

「どんなお話なのか気になるよねー。うちの図書室にあるかな? もしあったら借りてみようっと。みぞれはどうする?」

「私は、いい」

「えー。読んでみない? 曲の元になったお話も分かっといた方が、演奏する時にイメージしやすいかもだしさ」

 そんなの、興味無い。みぞれにとって大事なのはこの曲のソロがフルートとの掛け合いによって成立すること、そのフルートのソロを吹くことになるのはきっと希美であるということ。ただそれだけだった。

 俯いて黙りこくってしまったみぞれに、しょうがないなぁ、と希美は吐息を零す。

「それなら、一緒に読まない?」

「え?」

「だから、その童話。なんてったって、この曲の主役は私とみぞれなんだし。二人のイメージを揃えといた方が絶対良いって思うんだよね。だからみぞれも読もうよ、私と一緒に」

 ね? と向けられる希美の眼差しはどこまでも優しかった。じっと見つめられ、みぞれの胸はじわりと熱くなる。

 読みたい、なんて気持ちは全然無い。もっと言えば、そんな童話なんてどうでも良かった。何よりみぞれ自身、曲を演奏する上でそういう情報を必要なものだとはこれっぽっちも感じていなかったから。

 だけど、希美が読むなら。一緒に読もうと、希美が、そう言うのなら。

「……それなら、読む。私も」

 さえずるようにみぞれは呟く。決まりね、と希美は親指を立て、それから自分の譜面台にカタカタと楽譜を並べ始めた。

「にしてもさ、ホント良い曲だよねえこれ。早く合奏で合わせてみたいなぁ」

「うん」

 それは頭で考えてした動作ではなかった。けれど、それで良い。希美がそう思っているなら、私も。今の首肯はそういう意味合いのものだった。

「ねえ、今からちょっと吹いてみようよ。第三楽章のとこ、二人で。初合わせってことでさ」

 希美と一緒に吹けるのなら。みぞれには希美からの誘いを断る理由など、どこにも無かった。

 再び頷いたみぞれは手に提げていた楽器ケースを椅子の上に置き、ファスナーを開く。中にあるハードケースのロックをパチンと外して蓋を持ち上げると、そこには黒々と艶を放つオーボエが分割された姿でゆったりと収まっていた。

 オーボエは、自分と、希美を、繋ぐもの。

 それは二人にとっての象徴でもあり、希美のフルートと自分のオーボエが音を重ね合うひと時の中で少しずつ織り成されてきた事実でもある。自分と希美、二人の間にはいつも音楽があった。そして今、みぞれが手にするこのオーボエには、希美との思い出がたくさん詰まっている。それらは決して他の何にも代えることは出来ない。

 だから、これはとても大切なものだ。目の前に希美が居てくれるから。希美が自分と一緒に居てくれる、その証なのだから。ずっと一緒に居られるのなら、それはきっと、これからも、ずっと。

「いい?」

「大丈夫」

「それじゃ、頭から始めよう。みぞれからどうぞ」

 希美に促され、みぞれは楽器を構える。こんなひと時が永遠に続けばいい。そんな風に想いを込めて吹き込んだ息はリードを震わせ、音色に換えられてベルから解き放たれた。空っぽの部室にオーボエの響きが柔らかく沁み渡る。闇に向かってひとり翼を広げるみぞれの音に続いて、そっと寄り添うように羽ばたく希美のフルートの音色。絡み合い、飛び交う、二つの音。他に誰も居ないこの刹那の世界を、二人は一つになって舞っていた。

 

 

 

 ずっとずっと、一緒だと思っていた。

 この時は、まだ。

 

 

 

 



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3.歪んだアルモニーア
〈10〉開け! 黄前相談所


 あがた祭りも終わり、秀一と、そして麗奈とのひと時を過ごした久美子は、またいつもの日常へと還っていた。

「夏休み以降のスケジュールについては以上です。各自この日程を念頭に置いて、これからの期間を過ごしましょう。それとあすか先輩のパート練チェックですが、希望者が殺到しているのでちゃんと予約順を守ること。どうしても見てもらいたいってパートは、お互い日程がバッティングしないよう調整し合ったり、合同で見てもらうようにして下さい」

「はい」

 部員たちは優子の指示にしっかりと返事をする。六月に入り衣替えの時節となって、音楽室内にはだいぶ白い色の制服が目立つようになっていた。

 コンクールに向けての練習は今後ますます熱を帯び、時には部員同士で火花を散らしながら腕を磨いていくことになる。何しろ北宇治吹部九十名のうち、コンクールの舞台に立てるのは五十五人と限られているのだ。その席からこぼれた人はレギュラーメンバーをサポートする係に回ることになる。昨年の葉月や夏紀、そして友恵らはその立場にあったわけだが、今年こそは彼女たちもレギュラーの座をと心に誓っていることだろう。特に今年が最後のチャンスになる夏紀たち三年生にとって、その思いはひとかたならぬものがあるに違いない。ぴりりと冴える部室内の空気に、久美子もまた背筋の伸びる思いがする。

「それじゃ最後に二つ、みんなに大事なお話があります。まず一つは、友恵」

 事務連絡のついでのような流れで、優子はサラリと友恵を呼んだ。はいはい! と元気良く手を上げて友恵が席を立つ。何だろう、という部員たちのどよめきをよそに、友恵は集団の前へと進み出ていった。そこに待つ優子と立ち位置を入れ替えるようにして、友恵が指揮台に登壇する。

「じゃあ友恵、いい?」

 何故かためらいがちに問い掛ける優子に、当たり前でしょ、とでも言うかのように友恵は両手を広げおどけた表情を覗かせた。そして部員たちを一度壇上から見渡し、スウと深く息を吸ったあと、友恵は朗らかに語り始めた。

「私、加部友恵は吹奏楽部の奏者を辞めることになりました! オーディションにも参加しません」

 

 

 

 

「なんで加部ちゃん先輩、突然あんなこと言い出したんだろう……」

 三年三組、パート練習の場である教室の一角で、久美子は一人さめざめと青息を吐く。考えていたことはもちろん先ほどの一件についてである。衝撃の報告により部室は一時騒然となった。ミーティングが終わってすぐに久美子は友恵を探し回ったが彼女の姿はどこにも見当たらず、「ともすれば夏紀なら何か事情を知っているのでは」と思い至った頃には夏紀もまた部室からいなくなっていて、結局どちらからも話を聞くことは出来ず終いだった。

 途方に暮れ、やむを得ず楽器を手に教室へと来てはみたものの、久美子の気分はもう一つ晴れずにいる。友恵は何か悩みでも抱えていたのだろうか。同じ指導係である自分に一言でも打ち明けてくれなかったのは何故か。そんな苦々しい思いをせめて当人にぶつけてやりたかったのに、それが出来ないもどかしさが頭の中をぎっしりと埋め尽くしているようで、どうにもやるせない。

「でも加部先輩、別に部を辞めるわけじゃないって言ってましたし。私はちょっと安心しました。マネージャー、っていうのがどういう仕事をするのかは、良く分かりませんでしたけど」

 美玲の口調は普段よりも幾分たどたどしい。それはきっと落ち込んでいる自分への彼女なりの慮りなのだろう。そんな彼女の初々しさに、しかし今は上手に応えることができず、ただ「うん」としか返せない自分のことがたまらなく情けなかった。

「まぁまぁ、きっと友恵ちゃんにも何か事情があったんだろうし。それにマネージャー職って、つまり部内のスケジュール調整とかあっちこっちへの手配とか、そういう今まで部長や副部長が全部やってた雑務を引き受ける役割ってことでしょ? 私も去年副部長だったから分かるけど、幹部の仕事ってそういうのまでやらなくちゃいけなくてかなり大変なもんだし。それを肩代わりしてくれるっていうんなら、優子ちゃんにとっては大助かりだと思うよ」

 友恵の言葉足らずだった説明を、あすかは的確に噛み砕いて皆に伝える。実のところ、北宇治の部長職は他と比しても多分に仕事量が多いものだ、とは久美子も思っていた。いかに部長と言えども基本的にいち部員であることには変わらない。にもかかわらず、役職に就いたがために日々の練習時間が諸々の幹部業務で圧し潰されてしまったのでは実に本末転倒だ。そういった仕事を主として引き受ける役割がいてくれるのだとしたら、どれだけ優子たちの負担が軽減されるのかは想像に難くない。それは確かにそうなのだけれど。

「そういう話じゃないですよ。大体、私が怒ってるのは、あすか先輩に対してもなんですから」

「えぇー? 私がどんな罪を犯したっていうのよん」

「とぼけないで下さい。どういうことですか、先輩もオーディションを辞退するって」

 その発表は友恵の奏者引退宣言と同時に、優子の口から為されたものだった。

「コーチ役の田中あすか先輩ですが、先輩本人の意思として、今年のコンクールオーディションには参加しないという事になりました。友恵もそうだけどあすか先輩にも相応の事情があるって事で、これは滝先生や私たち幹部も認めた事です」

 あっさりと告げられたその決定を、久美子はまだ承服し切れてはいない。ただ心のどこかに、ひょっとしてそうなるのでは、という予感が以前からあったのも確かだ。その時は目を逸らすことで無理矢理にその予感を掻き消していたのだが、しかしいざその予感が現実のものとなってしまった今、久美子の胸中には失望にも似た憤りと、それを遥かに上回る寂寞(せきばく)が洪水のように溢れ返っていた。

「まぁ、それは何となく分かるでしょ。私は去年も出てるし、全国の舞台で思いっ切り吹けたし、コンクールに思い残すことなんて何も無いからね。それに本来ならとっくに卒業してる立場の人間が限られたレギュラーの席を奪っちゃうのは、あまりにも罪深いと思わない?」

 それは、とまで言って、久美子は口をつぐまざるを得なかった。他の者たちも一様に苦虫を噛み潰したような顔で沈黙してしまう。それは何も低音パートだけに限った話では無い。レギュラーになることを夢見て三年間頑張ってきた部員は他のパートにだっている。一、二年とレギュラーになれず、今年こそという思いを秘めていたのにその限られた席の一つを留年した人物に奪われる、というのでは確かにたまったものではないだろう。

 もちろん選考の基準が実力重視である以上、本人の力量がその域に達していないのであれば論外だ。けれどあすかはそういう一般的な括りとは全く無関係と言っていいほどに、超越的な技能とキャリアを兼ね備えている。この部内に今もって、あすかに正面切って太刀打ち出来る者など誰も居やしないのだ。ゆえに留年生のあすかがオーディションを受けることはそれ即ち、本来受かる筈だった現役生の誰かが確実に蹴落とされてしまうことを意味していた。

「でも、先輩もコンクールに出れなくはないんですよね。規定上は」

 え、と全員が一斉に視線を向けた先にいたのは、件の発言者である緑輝だ。

「そうなの、緑?」

「確実では無いですけど、緑、ちょっと気になって調べてみたことがあったんです。コンクール全国大会の出場既定には『学校に在籍している生徒』とだけ書いてあって、しかも年齢は問わない、っていう風にもありました。それならあすか先輩にも出場資格はあるんだなって思ってたんですけど」

 そんな規定があるだなんて、露ほども知らなかった。葉月と久美子は同時に感心の溜め息を洩らす。

「だったら問題無いじゃないですか。今年こそ一緒に吹きましょうよぉ、あすか先輩」

「こらこら加トちゃん、だからそういう問題じゃないんだってば」

「ふごぇ、」

 食い下がろうとする葉月の鼻っつらを、あすかの人差し指がグイと押しのける。

「言っとくけど、その規定は前もって調べてあったし。それに辞退するのも別にみんなに遠慮して言ってるんじゃないからね。去年全国で吹けて、私はホントに満足できたの。だから今年のコンクールに未練は無い。黄前ちゃんだったら、分かってくれるかも知れないけど」

「それは、分かってますよ。もちろん」

 いかにも謎めいた、二人にしか分からぬやり取り。他の人たちは怪訝そうに久美子の顔を覗き込む。しかして久美子はそれに応じない。このことは、秘められたあすかの真実についてだけは、他の誰にも喋りたくなかった。それはきっと、これからも、ずっと。

「そんなワケで、今年のコンクールに出ないつもりだってのは、実はとっくの昔に滝先生や優子ちゃんたちと話して決めてたことだったんだよね。今年の私の役割は奏者としてじゃなくコーチとして吹部を盛り立てることだから、って」

「そんな……」

 梨子が目頭に浮かべた涙をふっくらと柔らかそうな指で拭う。

「私、今年もあすか先輩と一緒に吹きたかったです」

 寂しげにそう洩らしたきり、梨子は打ちひしがれてしまう。隣に座る卓也は彼女にどう声を掛けていいものか分からず、かと言ってあすかに当たる気にもなれないようで、ただただ肩身狭そうに俯くばかりだった。

「ホラぁ、しんみりしない! 私だって友恵ちゃんと同じで今日を限りに部を引退するわけじゃないんだし。それに私の場合はコンクール以外の演奏会でなら、まだ皆と吹くことだってあるんだから」

 パンパンと打ち鳴らされたあすかの拍手に、しょげかえっていた全員がおもむろに顔を上げる。けれどそこに浮かぶ表情は未だどれも複雑そうなものばかりだ。それを窺う久美子の胸中もまた、寂しさでいっぱいだった。

 でも、落ち込んでばかりはいられない。あすかがコンクールに出ないのであれば尚更、いま自分に出来ることは極限まで演奏力を高め、あすかを全国の舞台へと連れていくことだ。そしてそこで金賞を獲る。それこそが唯一、昨年の全国大会の会場であすかが下した副部長としての最後の命令に、その想いに応えるための手段なのだ。卓也たちも同じ結論に達したのか、その表情には今まで以上の決意が漲っている。あの日の誓いを今年こそ、必ず。より一層膨らんだ想いを確かめるように、久美子は胸元で手をきつく握り締める。

 と、ガラリと戸の開く音。そこには夏紀が居た。普段から雑にまとめてある彼女のポニーテールが今日は一段と乱れている。そんな彼女を見て反射的に、久美子は席を立っていた。

「夏紀先輩。ちょっとお話、いいですか」

「久美子ちゃん……」

「どうしても今、先輩に聞きたいことがあるんですけど」

 しばしの沈黙。物憂げな視線を投げ掛ける夏紀はもしかして、自分と会話するのを嫌がっているのかも知れない。ことによっては拒絶されてしまうかも。そんな怖れを歯を食いしばって黙殺し、久美子は毅然として夏紀に視線を合わせ続ける。ふう、と息を抜いた夏紀は何かを観念したように目を伏せると、親指で廊下の向こうを指し示した。

「いいよ。ここじゃ何だから、場所変えようか」

 

 

 

「話ってのは、友恵のことだよね」

「はい」

 夏紀が久美子との対話場所に選んだ校舎裏の一角。奇しくもそこは久美子がいつも個人練を行っているお気に入りの場所だった。それともひょっとして、夏紀はあえてこの場所を選んでくれたのかも知れなかった。友恵の件で動揺している久美子がせめて少しでも落ち着けるよう、彼女なりに配慮してくれたのでは。そう考えることで、それまでふつふつと煮え滾るようだった久美子の脳内も少しずつ冷まされてゆく。

「さっきまで先輩が出掛けてたのって、加部ちゃん先輩から直接事情を聞いてたからですよね」

「うん」

「どうしてなんです? なんで加部ちゃん先輩、奏者辞めるなんて言い出したんですか」

 その質問をした途端、夏紀の翳りが一層濃くなるのが見て取れた。片手をゆるりと上げた夏紀がその手で自身の頬を二度、指し示すようにはたく。

「コレ、だってさ」

「コレ?」

「いわゆる顎関節症ってやつ。友恵が言うには、五月の半ばぐらいにハッキリおかしいって判ったんだって」

 それを聞いて、地面を踏みしめていた己の足から力が抜けていく。顎関節症はその名の通り顎の関節にまつわる病気、その症状のことだ。これを発症すると顎を大きく開くことが出来なくなったり、力を込めると周辺に強い痛みが走ったり、開閉の動きに伴ってゴキンと骨が外れるような音が鳴ったりする。

 あまり詳しいことは久美子にも分からないが、知っていることも幾つかあった。例えば顎周りへの負荷が蓄積しがちな管楽器奏者がこれに罹りやすいこと。治療の上で特効薬や歯科手術といった即効性のある治療法が存在しないこと。そして発症後は患部にそれ以上の負荷を掛けないよう、原因と考えられる行動や習慣を避けて療養する必要があること、などだ。

「……それで加部ちゃん先輩、奏者を辞めるって、そういうことだったんですね」

「おかしいって感じてすぐに病院で診てもらったんだけど、その時点でドクターストップ。何より痛みでまともに楽器吹けない、って友恵自身が判断したから、だからトランペットを辞めるって決心したみたい」

「優子先輩は、知ってたんですかね」

「さあ。でもさっき友恵が宣言した時、アイツはビックリしてなかったし、知ってたんじゃない? 聞かされたのは直前だったのかもだけど」

 夏紀は、何も聞かされてはいなかった。その事実を彼女の言葉からは汲み取ることができる。真一文字に結ばれた夏紀の唇はわなわなと、強い感情に打ち震えていた。

「友恵と私、去年はレギュラー落ちして『チームもなか』でサポートやってたでしょ。そん時さ、『もなか』のメンバーみんなで約束したんだよ。来年は絶対みんなで一緒にコンクールのメンバーになろうって」

「はい」

「なのに私にはさ、今の今まで何にも相談しなかったんだよアイツ。水くさいにも程があると思わない? せめて前もって教えてくれたっていいのに、って考えたらどんどんハラ立ってきて、ミーティングのあとすぐ友恵のこと捕まえて全部聞き出した。それでアイツの事情は分かったけど、でも、」

「納得、出来なかったんですよね」

 久美子の推察に夏紀はコクリと小さく頷いた。僅かに歪んだ口角の隙間に、彼女の白い歯がきつく食いしばられているのがチラリと見えた。

「どうにもしようのないことなんだって、奏者を辞めても吹部の仲間なのは変わらないんだって、頭では分かってたんだけど、どうしても受け入れられなくってさ。それでさっき、友恵に何もかも直接ぶつけて来た」

「そうですか」

 それ以上、久美子には何も言うことが出来なかった。自分のやりたかったことを夏紀は代わりにやってくれた。それに彼女の友恵との繋がりは、自分のそれなんかよりももっと深く強いものであった筈だ。それだけに、今の夏紀が抱えているやるせなさも寂しさや苦しさも、きっと自分の比では無いだろう。そんな諸々の感情に責め苛まれ憔悴しきった夏紀の姿を見ているうちに、久美子の溜飲は少しずつ下がっていく。

「夏紀先輩は今、どう思ってるんですか」

「何を?」

「マネージャーの件です。実際、加部ちゃん先輩がいろいろ立ち回ってくれるんだったら、夏紀先輩も優子先輩もかなり負担が減りますよね」

 その問いに夏紀の表情がこわばる。あすかの見解通りだとすれば、マネージャーの役務とはすなわち部長と副部長の補佐、ということに他ならない。ちょうどあすかが務めるコーチ役が、指導者である滝の補佐であるのと同じように。ただしそのことを夏紀が諸手を挙げて歓迎できるかと言えば、それはまた別の問題である。少なくとも彼女にとって、友恵はそういった役職的な関わり云々の前に、同じ目標を掲げて共に頑張ってきた同志であった筈なのだから。

「それ、友恵にも同じこと言われた」

 溜め息混じりに、夏紀はそうこぼした。

「実際、友恵が私らを補佐してくれるってのはすごく助かるよ。特に優子とか、目を離すとすぐ暴走するし。アイツに手綱掛けて引っ張るのも、私一人より友恵が手伝ってくれた方が何倍もラクになるのは事実でさ」

 喋りながら、夏紀の頬が引きつるように上がっていく。歪な表情から読み取れる彼女の感情は間違いなく、自嘲そのものだった。

「そう思う自分にも正直、腹立って仕方ない」

 最後は吐き捨てるように言い、それきり夏紀はそっぽを向いてしまった。元々が癖強い彼女の髪は既にグシャグシャに搔き乱され方々に跳ね散らかっている。そのあまりの痛々しさに、久美子は彼女の頭をそっと撫でつけてやりたいような衝動に駆られてしまう。

 友恵の異変を察してやれなかった己の不明にも、そんな友恵に支えられるのをほんのちょっとでもありがたいと思ってしまう薄汚い利己心にも、きっと夏紀は憤っている。そしてそれらの感情は久美子の心中にも僅かながら、しかし間違いなく存在しているものだった。だからこそなのだろう。今の夏紀の気持ちが自分には手に取るように良く解る。久美子は黙し、夏紀が全てを吐き出し切るまでを、ただそっと見守った。

「友恵、言ったんだよ。自分がマネージャーになるのは私と優子のことも助けたいからだ、って。そんなこと言われたらそれ以上文句なんてつけらんないじゃん。ホントさ、ずるい奴だよね、アイツ」

 それは、きっと違う。きっと友恵は本心からそう思っているのだ。楽器を吹くことを断念せざるを得なくなった彼女が取りうる最善の選択肢として、激務に次ぐ激務の毎日に擦り切れてしまいかねない優子たちを支えるために、そのために友恵は退部でなくマネージャーとなることを決意した。そんなことは夏紀にだってとっくに解っている。痛みを必死に堪えるようにひしゃげた彼女の横顔が何よりも、それを雄弁に物語っていた。

「でも、全部友恵が自分で決めたことだから。私にはどうこう言う権利、ないんだけどね」

 しばらく続いた沈黙を破り、夏紀はおもむろに正面を向く。さっきまでの弱々しさはそこにはもう見受けられなかった。

「今の私に出来ることは、目一杯練習してオーディションに受かること。それで友恵の分まで、本番の舞台で吹くことだけだから」

「私も、加部ちゃん先輩とあすか先輩を全国に連れていきたいって、そう思ってます」

「だね」

 その双眸に強い意志を宿した夏紀が、固く結んだ拳をこちらに向かって突き出す。久美子も自然と同じポーズを取り、そして二つの拳はコツンと音を立てて重なった。

「頑張るよ、久美子ちゃん。絶対にオーディション受かって、全国で金、獲ろう」

「はい」

 二人で交わした密かな誓い。けれどその想いは他の誰よりも熱く滾っていた。もう後に引くことは出来ない。たくさんの誓いを胸に、今年こそ夢を叶える。心からそう願う久美子の、北宇治吹奏楽部の燃え盛るような夏は、今まさに幕を開けようとしていたのだった。

 

 

 

 

 カレンダーの日付は一日また一日と塗り潰されていき、ふと気付けばオーディションはもう目と鼻の先まで迫りつつあった。焦燥と切迫に背中を追われつつも、部員たちは今まで以上の真剣さで練習に取り組んでいる。己の課題と真摯に向き合い、少しでも改善をしようと繰り返される作業にはどこまでも終わりが無い。けれど己の上達を気長に待てるほど、残された時間もそう多くはなかった。必然的に練習をする誰もが気迫に満ち、一分一秒を無駄にすることの無いよう神経をより細く尖らせていく。それはここ低音パートの一同も例外では無い。

「加藤、Bのところ、音の形がまだ間延びしてる。吹き切り方を意識した方がいい」

「はいっ」

「それと求は音が弱い。川島の弾き方を見本にしてもっと深く響かせよう。今の感じだと、他の音に埋もれるだけで存在感が無い」

「はい」

 パート練習で飛ばされる卓也の指摘も、日頃からあすかの手ほどきを受けてきただけあって、このところはかなり鋭さを増している。低音パート全体の仕上がりは現状でも上々といったところだが、そこで満足していてはより高みへと向上することは出来ない。そう思っているのは他のパートも同じらしく、少し前までは練習に手こずっているらしき様子もちらほら窺えたものだが、それも今では高水準の統率を思わせる整った音色へと差し変わっていた。

 ここまでは、北宇治吹奏楽部という大きな括りの中での話だ。けれど実際には個々の技術に大なり小なりのバラつきがある。昨日今日と楽器を始めてまだ日の浅い初心者は言うに及ばず、同じくらいのキャリアを持つ経験者同士であっても伸びの良い者と芳しくない者とに分かれつつあった。例えばそう、彼女のように。

「久石。こないだも言ったけど同じところ、ハイトーンで音の形が崩れてる。もっとレガートを強調するように」

「はい」

 卓也の注意に応えた奏は、ぶすりと険しい形相のまま固まっていた。近頃の奏はどうにも危なっかしい。入部当初に振りまいていた愛想も今ではすっかり尽き果てたかのように、こんな毒づいたような表情が奏の基本形となっている。あからさまに周囲と距離を置く彼女の態度は演奏面にも表れ始めているようで、卓也からの指摘もまともに聞き入れていないのか、しょっちゅう同じところでミスを繰り返していた。

 元々奏のユーフォの腕前は、入学時点から今でも並の奏者に比べれば上手い方ではある。だが全国金賞に血道を上げる北宇治の面々との比較ではもう一つ物足りない。他の全員が日々少しずつでも上達を見せているのに対し、奏だけは春からほとんど技術的に成長していないような、そんな印象すらあった。

「すみません。ちょっと個人練してきます」

 繰り返し注がれる卓也の指摘に奏はとうとうユーフォを抱えたまま席を立ち、教室を出ていってしまった。これも今日が初めてという訳では無い。パート全体の練習が日増しに加速する中で、奏がこうすることも次第に増えつつあった。そしてその割に、戻ってきた奏の演奏はそれほど問題修正もされておらず、また同じ場所で同じミスを繰り返す。彼女のそんな有りさまは次第にパート内でほぼ無視されつつあった。何せ今回はサンフェスの時とは状況が違う。奏がみんなについて来れなければ彼女はただ成すすべなくオーディションに落ち、そしてサポートに回るだけ。美玲の時のように全体のことを考えて仕方無くでも手を差し伸べてもらえる、そんなご都合を期待することは出来ないのだ。

 このままではやばい。そうは思えど、奏に手を差し伸べられるほどの余裕は久美子にも全く無かった。迫り来るオーディションに向け修正すべき点はまだまだ幾らでもある。ゆえに他の人に構っていられない、という意味では久美子のみならず全員がそうなのだ。

 またこの件に関しては、あすかの助力もあてには出来なかった。何より当の奏が拒絶するであろうことは、彼女のあすかに対する普段の態度を振り返るまでもなく明白だ。そんな諸々の状況下で奏の状態が悪化の一途を辿っていることに関してはもう、恐ろしくタイミングが悪いと言うしか無かった。

「もう一度、自由曲。第一楽章の頭から通そう。全員もっと拍の強弱を意識して」

「はい」

 力強く返事をして楽器を構える隣の夏紀も、まさに真剣そのものという気迫だ。今の久美子にとって、夏紀は気の良い先輩というだけではなく無視しがたいライバルともなりつつある。あすかとの特訓によって急激に伸びた演奏力に加え、今の夏紀には貪欲な姿勢で練習に取り組む強い動機が備わっている。日々上達していく夏紀の影に背中を追われているような気がして、久美子も決して油断は出来なかった。

 オーディションでは誰が選ばれるかも、何人選ばれるのかも、全ては滝の采配次第だ。ユーフォは二人という保証も自分は必ず選ばれるという確約も、どこにも無い。仮に用意された席が一つしか無いというのなら、例え夏紀を蹴落としてでもその席を獲りに行く。久美子はそう腹を括っていた。それが己に誓った『特別』を目指すということであり、『全国で金を獲る』という夏紀との、吹部全体の誓いにも通じる、たった一つの道なのだから。

 譜面を辿る目は既にいちいち音符の形を確認してはいない。それでも楽譜と睨めっこを続けるのは、楽譜に記された指示や行間に隠された表現意図を取りこぼすことなく拾い上げ、理想的な音へと換えるというプロセスを突き詰めるためだ。余計な言葉を一切発さず、ひたすら黙々と楽譜に、己の演奏に向き合う。それは確かにしんどいことではあるのだけれど、少しずつ自分の音が良くなっていくことには苦労を上回るだけの喜びと達成感が確かにあった。

 

 

「久美子せんぱーい」

 本日のパート練習を終え、楽器室への移動のために階段へ向かう途中の廊下で、妙に間延びした声が自分を呼び止める。つい先日も聞いたことのあるその声の持ち主へと、久美子は振り返った。

「お疲れ、梨々花ちゃん。どう、練習頑張ってる?」

「おかげ様でバッチリでーす! 最近梨々花、メッチャ上手くなってきてるんですよー。来週のオーディションでも頑張って、みぞ先輩と一緒に本番吹けたらいいなー、って思っちゃってます」

「そりゃ良かったね。ところで何? その『ミゾセンパイ』って」

 んー? と梨々花は首を傾げる。やがて何かに行き着いたのか、彼女はポンと手を打った。

「まだ久美子先輩に教えてなかったですね。梨々花たち、鎧塚先輩のこと『みぞ先輩』って呼ぶようにしてるんですよー。久美子先輩にアドバイスしていただいた通り、ソロソローって距離を詰める大作戦、そのイチです!」

「はあ、なるほどね」

 そう言われれば、と久美子は思い出していた。フルートかどこかのパートで一年の後輩が親しみを込めてなのか、先輩たちの名前をこんな感じに崩して呼んでいたのを。その時はずいぶん妙なことが流行っているものだ、と思ったぐらいで別段気にも留めなかったのだけれど、どうやら梨々花もその風習にあやかって敬愛するみぞれにアプローチを仕掛けていたらしい。

「それで、『みぞ先輩』の効果はあった?」

 久美子のその質問に、梨々花はへにゃりと頬を緩める。

「はい! 最近はですねー、みぞ先輩といろいろお話しできるようになったんですよー。みぞ先輩の方から話し掛けてくれることも、ぼちぼちあったりしましてぇ。これも久美子先輩のおかげサマサマです。ホントにありがとうございます!」

 ぺこり、と梨々花は首だけでお礼のポーズを作った。彼女とみぞれ、二人の関係性はまだまだこれからといった按配のようだ。けれどこれまでのみぞれを思えば、話し相手になれる後輩が出来たというのは、これは格段の進歩と言って良い。極度の人見知りなみぞれがこれをキッカケに少しでも人間関係の輪を広げていってくれれば。それは自分にとっても喜ばしく感じられて、久美子はついつい頬を緩めてしまう。

「ううん、私は大したことはしてないから。じゃあ私もう行くね。梨々花ちゃんも練習頑張って」

「あ、ちょっと待って下さい先輩」

 立ち去りかけたところでやにわにグイと半袖を引っ張られ、「うぉ、」と久美子はよろめいてしまう。袖をつまむ梨々花は彼女に似つかわしくない、申し訳無さそうな、困っているような、そんな掴みどころの無い顔つきをしていた。

「すみません、そのー……先輩、今日帰りって空いてますか?」

「うん? 特に予定とかは入ってないけど、どうして?」

「良かったー! それじゃあ、とっても申し訳ないんですけど、」

 少し固い面持ちで、梨々花は大きく息を吸い込む。それはまるで覚悟を決める時のような仕草だった。

「黄前相談所、お願いしてもいいですか?」

 

 

 

 



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〈11〉崩れた均衡

「ハイ、どうぞ」

 高台の一角にしつらえられた日除け下のベンチに腰を下ろし、久美子はきんきんに冷えた缶ジュースを梨々花に手渡す。ありがとうございますぅ、と殊勝にそれを受け取って、梨々花はプルタブに指を引っ掛けた。

 プシュ、と景気良く中身のソーダが爽やかに弾ける音。そのまま両手で缶を挟み込むようにして梨々花がクピクピと口をつけ始める。果たしてそれが彼女の好みの品かどうかは良く分からなかったが、自販機の前でどれを飲むか尋ねた時に迷いなく『おまかせしまーす』と答えるぐらいだし、きっと特にこだわりは無かったのだろう。そう思いつつ、久美子も側面に白字で『宇治茶』と大きく記されたペットボトルのキャップを捻る。ふわりと漂う芳醇なお茶の香り。それをひとりでに嗅ぎ取った自分の鼻が、スンと機嫌の良い音を鳴らした。

「ごめんね、こんなところで」

「ぜーんぜん、大丈夫です」

 学校を出て後、久美子は梨々花と二人、近所にある公園へとやって来ていた。本当は高校生らしく喫茶店かファミレスにでも席を設けたいところだったのだが、今月はあがた祭りもあったためお財布の事情はいくぶん心許ないことになっていた。梨々花にしてもあんまり遅くまで出歩くのは……という事情があったらしい。校門前のゆるやかな坂道を降りながらどこか都合の良さそうなところを、と検討した結果、白羽の矢が立ったのは駅からも程近くお金も掛からないこの公園であった。そんな経緯もあり、梨々花にジュースをおごってあげたのは先輩としてせめてもの面目躍如というやつだ。

 暮れなずむ公園の運動場で遊ぶ数人分の小さな人影は、恐らくこの近所に住んでいる子どもたちだろう。ああやって男女の別なく混ざり合って駆け回る姿を見ていると、自分の小さかった頃を思い出さずにはおれない。何も難しいことに縛られたりせず、近所の友人たちとただ飛んだり跳ねたりしているのがたまらなく楽しかったあの頃。それが今ではずっと昔のことのように思える。時と共に、人と人との関係は移ろっていく。それはあるいは、自分自身さえも。その感傷に、久美子の胸はぎゅうと締めつけられる。

「それで、話って何?」

「あー。えっとですね」

 梨々花はモジモジと何だか言いにくそうにしていた。ここまで来ておいて、今さら遠慮なんかする必要無いのに。そう思いながら梨々花の発言を待っていると、よし、と自らに発破を掛けるようにして、梨々花がこちらを向く。

「奏のことなんですけど」

「ああ、奏ちゃん?」

「はい。何か最近の奏ってぇ、ちょっと元気無い気がするんです」

 そうかなあ、と久美子はわざと回答をぼかした。実際のところ、梨々花の推察は的を射ている。奏が日頃どのような学校生活を送っているかは知らないが、少なくとも部活中の彼女は以前に比べて明らかにふさぎ込んでいる時間の方が多い。美玲を始め一年生同士での会話も極端に減り、先輩への応対にも笑顔を向けることが皆無となりつつある。とりわけあすかや夏紀に対しては、もはや奏の方からちょっかいを出すことも絶えて久しかった。当初の猫っかぶりが嘘のように、奏が己に施していた優等生のメッキは、その殆どが既に剥がれ落ちてしまっていた。

「もしかして低音パートで何かあったのかなー、って思いまして。久美子先輩は、何かご存知ないです?」

「んー……」

 ある。とここで言うのは簡単だ。けれどそれを梨々花に言ってどうなるのだろう。久美子は大いに悩む。下手を打てば、梨々花の低音パートに対する悪感情を煽ってしまうことにもなりかねない。かと言ってこのまま梨々花の質問を受け流してしまうのも、それはそれで不義理に思えた。

 どちらにせよ、これ以上問題をこじれさせてしまうのはあまり好ましい事態では無い。何より梨々花はとっくに奏の変調を察している。普段の学校生活やもしかしてプライベートまで鑑みれば、恐らくは自分などより梨々花の方が奏と接する時間はよっぽど多いことだろう。そして奏はきっと、そんな梨々花にも事のいきさつを喋ってはいない。だからこそ梨々花はこうして奏の身を案じ、自分に探りを入れているのだ。

「実はですね、こないだ話したみぞ先輩の件なんですけど」

 いつまでも口を開かぬ久美子に痺れを切らしたのか、ジュースの缶を脇に置いた梨々花が唐突に話の切り口を変えてきた。

「本当はもっと前に久美子先輩に相談したいなーって、梨々花思ってたんですよ」

「え? それって、いつ頃の話?」

「えーっと、正式入部してすぐの頃だから、サンフェスのちょっと前ぐらいですねー。でも梨々花と先輩ってその頃、ほとんど接点無かったじゃないですかぁ」

「あー、そうだね。新入生指導の時もあんまり喋ったりしてなかったし」

「なもんで、奏にお願いしてたんですよ。久美子先輩に相談したい事あるから、奏から先輩にそう伝えといてーって」

「そうだったんだ。そんな話、奏ちゃんは全然してくれなかったよ」

「ですよねー。梨々花、おっかしいなぁーって思ってたんです。テスト期間中に先輩と会った時、先輩全然知らないって感じでぇ。忘れてる風でもなかったしヘンだなーって」

「そう言えばそんなこと言ってたね。確か、梨々花ちゃんのことを私に何にも話してないのかな、って」

「それです!」

 ビシ、と梨々花は両手の人差し指をこちらへ伸ばした。

「後で会った時に、奏に直接聞いてみたんですよ。そしたらうっかり忘れてたーって言われて。奏ってそういうのしっかり守ってくれる子だと思ってたんで、その時は梨々花ビックリしちゃいました」

「なるほど」

「で、それから梨々花、ちょいちょい奏のこと見てたんですけど。何となーく、部活中ずっと居づらそうにしてるなーって感じがして。窮屈そうっていうか」

 そこまで奏のことを見ていたとは。久美子は少しだけ梨々花に感心していた。一見マイペースにはしゃぎ回っているだけのように見える彼女もその実、冷静に他人を観察する目を持っている子なのかも知れない。そして梨々花はその目でずっと奏のことを見守っていたのだろう。彼女の良いところも悪いところも、余さず全てを。

「奏ってああ見えて、けっこう自分一人で抱え込んじゃうタイプなんで。もっと梨々花にバンバン甘えなさーい、って言ってるんですけど全然ダメなんです。あー! もっと梨々花に素直になってくれてもいいのにー!」

 いかにも悔しげに、梨々花が握り締めた拳をぶんぶんと上下に振る。その大げさな身ぶりは、悩める彼女には失礼ではあるのだけれど、とても愛らしかった。

「でも梨々花ちゃんは、奏ちゃんのそういうところが好きなんだよね?」

 あえて言葉を選ばず直球を投げつける。ビタリと動きを止めた梨々花はおもむろに久美子から視線を外し、それから彼女にしては珍しく照れくさそうな顔で小さな頷きを返した。

「分かるよ。梨々花ちゃんの気持ち」

「ホントぉ、ですか?」

「うん。奏ちゃんのことが、本気で心配なんだってことも」

 自分一人の世界に入り込んで、周りを遠ざけて、そうして一人で勝手に結論を出して。そういうケースに久美子はいくつも心当たりがあった。それを見ている周囲が、とりわけその人たちを強く気に掛ける人間が、見えないところでどれほど心を痛めているかということも。だから久美子も意を決する。

「実はサンフェス練習の時、ちょっとパート内で色々あってね」

 え、と梨々花は久美子の一言に血相を変える。

「奏、皆さんとケンカとかしたんですか?」

「そんなんじゃなくて、ただパートの人同士がこじれちゃった時に、たまたま奏ちゃんがそこに居合わせちゃったってぐらいの話なんだけど。でもそれからずっと奏ちゃんの中で、何か納得し切れてないことがあるみたいで」

「そうなんです?」

「多分、だけどね」

 梨々花から視線を外し、空を見上げる。薄暗くなった空はどんよりと灰色の雲に覆われていた。この分だと夜半までには雨が降り出すかも知れない。ひたひたと湿気を含んだ空気が辺りに沈みつつあるのを感じながら、久美子は少しぬるまったお茶を口に含む。

「先輩は、奏のことどう思ってます?」

「うん? どう、って言うと?」

「奏のこと、正直嫌いだなーとか思ってたりしますか?」

 梨々花の眼差しはいやに真剣だった。奏の事が嫌いか。こうして改めて問われると、何とも答えにくい。人間誰しも積極的に近付いてくる後輩は可愛いと感じるし、こちらも親しく接してあげたいと思うものだ。しかして今の奏の態度はその対極に位置している。周囲を拒絶するかのような彼女に接する時というのはまさしく『腫れ物にさわる』ような心地である。人によってはそういう難儀な人物など相手にしたくないと思ったり、あるいは梨々花の言うように、その感情を露骨に表してしまう場合だってあるだろう。自分だってもしかすれば、そうなりえていたかも知れない。

 けれど。

「嫌ったりなんて、してないよ」

 初めて奏の本性が露わになったあの日からずっと、一日たりとて、久美子は奏から目を離さずにいた。それは美玲の一件から得た久美子なりの反省の証でもあった。奏がその小さな体の内に抱えているであろう、彼女なりの事情。それが何なのかは未だにさっぱり見えていない。けれどきっと何かがあると信じて、それが明らかになる日が来ることを久美子は辛抱強く待ち続けていた。それはひとえに奏のことを案じていたから。そう思う気持ちが自分の中にある以上、少なくとも自分は奏を嫌ってなどいない。そのことだけは、確信を持って断言することが出来た。

「今はキッカケが掴めてないけど、もし奏ちゃんが心を開いてくれる瞬間があったら、私は必ず奏ちゃんのことをフォローするつもりでいるから。先輩として」

 決然たる久美子の回答に梨々花が息を呑む。しばし交錯する両者の視線。こちらの真意を探ろうと、梨々花は久美子の瞳の奥底を見つめてきた。それを受けて久美子は、己の目にじとりと強く意志を込める。自分の内に抱く覚悟を、余さず相手に伝えるように。

「そうですか」

 ひゅうっ、と梨々花の口から吐息が洩れる。

「良かったぁー。梨々花、すごーく安心しました。そこまで先輩が言って下さるんならきっと、ホントに奏のこと心配してくれてるんですよねぇ」

「信用無いなあ」

「ダイジョーブです! 今ので梨々花、ちゃんと先輩のこと信用しました。ってゆーか、信頼、ですぅ」

 ふっくりと梨々花が微笑む。それは彼女の持つあどけなさと可愛らしさを目一杯風船に詰めて膨らませたような、そんな表情だった。

「そこで先輩に一つ、約束です」

「約束?」

「はい。もし奏のことで梨々花が久美子先輩のお力になれることがあったら、何でもお手伝いします」

「本当?」

「ホントです!」

 絶対保証しますという意思表示なのか、梨々花は胸の前に両手でピースサインを形作る。その可愛らしい所作には、久美子も思わず顔を綻ばせてしまっていた。

「ありがとう、助かるよ」

「先輩にはみぞ先輩の件でもお世話になったので、梨々花なりの感謝の気持ちです。ですけど、」

 梨々花は淀みなく言葉を続ける。と同時に、満開だった彼女の笑顔がそこでスウッと温度を下げた。

「先輩も、奏のことで私が困った時は助けて下さい。もし先輩が奏のこと見捨てたりしたら私、本気で怒っちゃいますよ」

 艶の失せた梨々花の瞳孔が真っすぐこちらを捉えている。それを直視して、自分のうなじがゾワリと冷えるのを感じた。

 声色こそ冗談めかした口ぶりだったが、今の梨々花の発言はきっと本気のものだ。それも何となく分からないではなかった。久美子はまだ奏に何も成せてはいない。この約束を果たせるかどうか、全てはこれからなのだ。自分の覚悟は未だ梨々花に試されている。もしも自分が梨々花との約束を反故にするようなことがあれば、きっと彼女の宣言通り、ただでは済まない。そう思わされるだけの威圧感が、目の前の梨々花にはあった。

 言葉だけなら、どうとでも取り繕うことは出来る。けれど今ここで梨々花から求められているのは、本当にそれを行動に移すのかどうか。口だけじゃなく、これから奏にどう接していくか、本当に自分と一緒に彼女を支える側に立ってくれるか、それを梨々花は確定させたがっているのだ。

「いいよ。約束する」

 久美子も梨々花の迫力に真っ向から受けて立つ。返事を受けて一度まばたきした後、梨々花の瞳はさっきまでと同じようにくりりと艶を放っていた。

「約束っていうか、協定って感じだね。奏ちゃんのために手伝い合うっていう、お互いにする約束」

「協定、ですかー。そうかもですね」

 喉をクツクツと震わせ、それから梨々花は右手を差し伸べてきた。きっと誓いの握手をしようというつもりなのだろう。そう考え、久美子も右手を伸ばして彼女の手を掴み取る。思いの外かさついている梨々花の手の平は自分のそれよりも、ほんのりと温かかった。

「じゃあこれは先輩と梨々花の、ナイショの協定です!」

「うん。お互いによろしくね、梨々花ちゃん」

 梨々花の手に力が籠る。負けじと久美子も固くその手を握り込む。互いに思いを交わし合い、そして梨々花の方からスルリと手がほどかれた。

「久美子先輩とお知り合いになれて本当に良かったですー! いつも梨々花を助けて下さって、ありがとーございます!」

「助けになれるかどうかは、これから次第だけどね」

「でも梨々花、すごーく感謝してます。やっぱり先輩に相談して良かったです。あーそうだ! これから先輩のこと、『くみ先輩』って呼んでもいいですかー?」

 え、と虚を突かれた久美子は思わず息を止めてしまった。

「何それ、もしかしてみぞれ先輩みたいな感じ?」

「そーです! 梨々花から先輩への、感謝とソンケーのしるしですぅ」

 にへへ、と八重歯を覗かせる梨々花は完全に普段の調子に戻っていた。くみ先輩、か。一瞬、久美子の脳裏を友恵の笑顔がよぎる。何とも面映ゆい呼ばれ方ではあるが、それが梨々花なりの信頼度を表すものであると考えれば、それほど悪い気もしない。

「別にいいよ」

 そう返事をすると「やったあ!」と梨々花は飛び跳ねてみせた。

「それじゃあ改めてよろしくお願いしまーす、くみ先輩。梨々花のコトもこれを機に『リリリン』って呼んでくれていいですよー」

「うん、梨々花ちゃん」

 改めて、梨々花の提案はすげなく固辞しておいた。何事においても線引きというものは大事だ。

 長話をしているうちに陽は沈み、空にはすっかり夜の帳が落ちていた。ぐずついた空模様もどうやらギリギリのところで踏み留まってくれたらしい。一雨降られる前にと解散を告げて、二人はそこから各々の方角へ別れていった。

 

 

 梅雨雲が次第に優勢を占め、長雨が続くようになった頃、とうとうその日はやって来た。

「それではこれより、コンクールメンバー選出のオーディションを始める」

 陣頭に立った美知恵の鋭い宣言が音楽室に響く。副顧問である彼女の前に整然と列する部員たちの表情には、緊張、不安、そして集中、といった気配が色濃く浮かんでいた。誰かがゴクリと固唾を呑む音が聞こえ、直後に峡間のごとく落とし込まれる静寂。普段とはまるで異なる室内の様相に、こちらまでもが否応なしに心を乱される。

「今日のオーディションは金管と打楽器、明日は木管となる。順番が来たらマネージャーの加部が呼びに行くので、それまで各パートとも普段の教室で待機すること。その間はオーディションの妨げにならないよう、楽器での音出しは禁止だ」

 美知恵の説明に、はい、と一同は力の入った返事をした。

「あー、ドキドキしてヤバいです。心臓破裂しそう」

「こういう時は平常心だよ平常心。一緒にガンバろ、さっちゃん」

 ミーティングを終えた後、久美子たちは楽器を持ってぞろぞろと、待機場所である三年三組に移動していた。ガタガタ震えるさつきとその手を取った葉月とが、二人で祈るようなポーズを取っている。それを眺める美玲は少し微笑んだ後、うっすらと憂いの表情を浮かべた。彼女の心にいま去来するものは。それが透けて見える気がして、けれどだからこそ、久美子はあえて美玲に声を掛けるようなことはしなかった。

 大丈夫。きっと美玲が思うようなことにはならない。

 久美子はチラリと後ろ毛の跳ねた夏紀の背中を覗く。昨年のオーディションの後、自分のことを優しく気遣ってくれた夏紀。そんな夏紀と葉月は去年、コンクールのサポートメンバーとしてレギュラーメンバーの背中を全力で支え続けてくれた。『チームもなか』だった彼女たちには強い絆があり、そして育まれた関係がある。自分のことを後回しにして皆に気を配る夏紀の献身ぶりを、葉月はずっと間近に見ていたのだ。それはきっと今でも葉月の中にも息づいている。だから大丈夫。そう久美子は信じていた。

「ところで、あすか先輩は?」

 ふと気付き、辺りをキョロキョロと見渡すも、あすかの姿はどこにも見当たらない。そう言えばさっきのミーティングの最中にも、あすかは部室に居なかったような気もする。もしかして、コーチ役である彼女は滝の隣で皆の演奏を裁定していたりするのだろうか? その光景をうっかり想像してしまった久美子の頬を嫌な汗が滑り落ちていく。だってそうだろう。あすかに見られながらオーディションを受けるだなんて、これほど緊張を強いられる話も無いではないか。

「あ、大丈夫。それは無いと思うから」

 そんな久美子の邪推を笑顔混じりに否定してみせたのは、梨子だった。

「さっき廊下で会ったんだけど、あすか先輩、今日は皆の邪魔はしないって。今ごろは図書館かどこかで勉強してるんじゃないかな」

「そうなんですか」

 それを聞いて久美子は大いに安堵した。さしものあすかと言えども、オーディションのように厳正なる審査の場にはちょっかいを出すまいと、そこはきちんと弁えてくれたのかも知れない。

「田中先輩って、勉強は大丈夫なんでしょうか? 去年は学年トップだったって話は聞きましたけど、今年はコーチ役もやってますし」

「大丈夫なんじゃない? こないだの中間テストも、その後にあった全国模試も、あすか先輩ぶっちぎりで学年一位だったし」

 美玲の疑問には夏紀がさも当然といった様子で答える。もっとも、あすかが今年も成績優秀であろう事実は夏紀のみならず、久美子たち上級生にしてみれば自明の論理といったところだ。

「何かさ、先輩いわく『今年は去年よりも周りに成績の良い子が少ないからラクショー』なんだってさぁ」

「あー、それすごくあすか先輩らしい感じしますね」

 夏紀の口真似にあすかの調子が秒で思い描かれて、久美子も思わず失笑してしまう。

「私ら同級生からしたら勘弁してよ、って感じだけどね。去年先輩と同級生だった人らにはホント同情するわ」

 そう言って肩をすくめてみせる夏紀の態度には、さっきから随分と余裕を見て取ることが出来る。だがそれも至極当然のことだ。ここのところの追い込みで、夏紀の技量は完璧に周囲のそれに比肩する程まで上達していた。パート練習の際にも卓也や梨子に混じって各々に指摘をするようになり、しかもその内容がちゃんと芯を捉えているが故に、久美子ですら素直に頷かされることも二度三度では無い。あすかの指導は夏紀の技術面のみならず、音楽的な解釈や表現力といった部分までも徹底的に鍛え込んでいるらしかった。知識や理論に裏打ちされた演奏には一分の隙も無い。目下、久美子にとって最も意識すべき強力なライバルとなった夏紀の姿は、今までとはまた別の意味でこの目に眩しく映って見える。

「緑先輩、僕、頑張ります。絶対に頑張りますから」

 そんな台詞を聞きつけて視線を巡らせると、そこにはコントラバスを抱えた緑輝と求の姿があった。

「ふふ。求くんはもっと肩の力を抜きましょう。普段通りにやれば、求くんならきっと大丈夫です」

 一方こちらでは、白のテーピングをぐるぐる巻きにした緑輝の指が、求の柔らかそうな栗色の髪をさわさわと撫でている。それに無上の喜びを感じたのか、求はうっそりとはにかんだ。あそこの空間はちょっと異様な雰囲気を醸し出している。別に二人が付き合ったりしている訳ではない事ぐらい承知しているのだが、中性的なオーラを放つ求と桃のような可愛らしさに包まれた緑輝、二人のやり取りは何だかとてもいけないものであるかのようにも見えてしまう。

「ホルンのオーディション、終わったみたいだな」

 卓也がぼそりと呟く。耳を澄ましてみると確かに、先ほどまで校舎に響いていたホルンの音が今は聞こえない。順番的に次は低音パート。その口火を切ることになるのは恐らくユーフォニアムだろう。胃の腑から心臓を突き抜けてぐらぐらと立ち昇る緊張感を、久美子はゆっくり吸った息でギリギリまで押し込み、そうしてから一斉に吐き出す。ここから先は集中力をピークまで高める時だ。今日に向けてたくさん練習を重ねてきた。大丈夫、何も問題は無い。自分の内にその言葉を落とし込むと、胸の中をたゆたっていた一抹の不安がスッと溶けていくような、そんな気がした。

「出番かな」

 夏紀も楽器を手に取りマウスピースに息を吹き込む。その表情はいたって凛としていた。

「私達も準備しようか。……奏ちゃん?」

 何気なく声を掛け、そこで久美子は異変に気付く。奏は全身の血の気が失せたようにこれ以上無いほど青白い顔をしていた。ふうふうと小さく吐息をこぼし、ピストンの上に乗せられた指を固くこわばらせ、微動だにしていない。焦点の定まらぬ目つきでじっと楽譜を見つめるその姿は、鬼気迫るものさえあった。

「大丈夫? もしかして体調悪いんじゃ――」

「大丈夫です。何も問題ありません」

 久美子の気遣いを奏がすかさず払いのける。どう見ても大丈夫そうには見えない。これは極度に緊張しているのか、何か不安を感じているのか、それとも。考えあぐねる久美子だったが、あいにく次の手を打てるほどの時間的余裕は無かった。

「お待たせしました、低音パートのお時間でーっす! まずはユーフォの三人からね」

 ガラリと扉を開けながら友恵が元気良く飛び込んで来た。教室内をぐるりと一望し、それから皆の視線が集まっている奏のところで友恵の目が止まる。

「ありゃりゃ、久石ちゃんどうかしたの? なんか顔色悪くない?」

「平気です」

 言葉少なな返事と共に奏はかぶりを振った。それなら良いけど、と友恵は一つ息を落とす。

「まあオーディションだし緊張するのも分かるよー。あんまり深く考えないで、普段の自分を出し切っていこう! 久石ちゃん、ファイトファイトぉ」

 両腕のガッツポーズを胸の位置で絞り込むようにして、友恵は努めて明るく奏を激励する。奏はそれに見向きもしなかった。

「黄前ちゃんも頑張ってね」

「ありがとうございます、加部ちゃん先輩。頑張って来ます」

 久美子が応えると、うんうん、と友恵は満足気に頷く。それから、と友恵は踵を返した。

「夏紀も、頑張って」

 友恵はゆるく結んだ拳を突き出した。その表情には少しだけ、彼女の夏紀に対する申し訳なさのようなものが灯っている。そんな風に久美子には見えた。

「もちろん」

 友恵の拳に、夏紀が自分の拳をコツリとぶつける。その目には強い感情が籠っていた。友恵の分まで全力を出し切る。そして必ず、コンクールの舞台に立ってみせる。そんな思いが、そこにはありありと映し出されているみたいだった。

「じゃ、行ってくるよ」

 颯爽と夏紀が先陣を切る。それに久美子も続いた。後をついてくる奏の足取りはどこかおぼつかなくて、そんな彼女にどう声を掛けたものかと久美子は迷う。けれど廊下の向こうに見える音楽室の扉が近付くに連れ、今は集中しなくては、という思いへと塗り替えられていった。

 

 

「失礼しました」

 音楽室の戸を閉め、久美子は一息をつく。と、脇に並べられた待機用の椅子には出番を待つ奏に加えてもう一人、既にオーディションを終えた筈の夏紀が何故か座り込んでいた。

「先輩、教室に戻ってなかったんですか?」

「あーうん。吹き終わったらちょっと気が抜けてさ。ここで頭冷やしてるとこ」

「そうですか」

 楽器を脇の椅子に置いた夏紀は窓枠に肘を置き、頬杖をついて雨模様の外を眺めている。二つ間を空けて座っていた奏の表情は依然として青白いままだ。次だよ、と声を掛けると、奏は目を閉じて一度深呼吸をし、それからゆらりと立ち上がった。そのまま無言で戸の向こうへと消えていく奏の背を見送ってから、久美子はさっきまで奏が座っていた椅子へ腰を下ろす。スカート越しに、そこにはまだ奏の温もりが残っているのが感じられた。

「先輩はどうでしたか、オーディション」

 ひそひそと耳打ちをするように、久美子は夏紀に話し掛ける。

「んー? まあ、ぼちぼちって感じかな」

「そうですか」

 小声で応じる夏紀の返答は気もそぞろ、といった按配だった。気が抜けた、という夏紀の弁も、確かに分からないではない。一番手だった夏紀の演奏中、出番を待つ久美子の耳に聴こえてきた彼女の音はまさしく完璧という出来栄えだった。決して百点満点という意味では無いが、少なくとも滝が要求するであろうレベルの演奏は十二分にこなせている。当落は滝の判断次第だが、夏紀にとっては己の持てる全力を振り絞ることが出来た、と言って良い筈だ。そりゃあ事後には気の一つぐらい抜けたって仕方ないだろう。

「そういう久美子ちゃんはどうだったの?」

「私もぼちぼちですかね。結果は分かりませんけど」

「久美子ちゃんなら大丈夫でしょ。私より上手いんだし」

「そんなこと無いですけど」

「謙遜しなさんなって」

 片手をヒラヒラと振る夏紀は、しかし未だこちらに顔を向けない。冗談めいた口調の向こう側で彼女が今何を思っているのか、その意図を読み取ることはもう一つ出来なかった。夏紀につられ、久美子もまた無言で窓の外を眺める。しとしと降り続く雨は耳にうるさいほどの音を立てる訳ではなかったけれど、何となく二人の間にまたがる物憂げな空気を増幅させているみたいだった。

 もちろん久美子自身、やれるだけのことはやり切ったと自負している。客観的な評価はともかくとして、自分なりの判定としては夏紀のそれよりも頭一つ上の演奏をすることが出来たという感触だ。夏紀のような長時間に及ぶマンツーマンこそ無かったとは言え、日々の練習であすかから手ほどきを受けていたのは久美子とて同じ。短い時間ながら彼女の指導によって音を磨き上げられた久美子は、それまでの弱点も殆ど克服することが出来ていた。そしてその全ては今しがた、オーディションの場において遺憾なく発揮してきたところだ。

「まあやれる事は全部やったし、あとは神のみぞ、ならぬ滝のみぞ知るって――」

 そう夏紀が言い掛けた時、音楽室からユーフォの音色がこぼれ出す。それと同時に夏紀は口を閉じた。姿勢こそさっきまでと変わらぬものの、彼女の意識は今、奏の演奏にぴたりと集中している。それを感じ取った久美子も同じように、奏の生み出す音にそっと耳を傾けた。

 課題曲の一節をなぞっていく奏の音。次に自由曲。第一楽章と第二楽章の一節を吹き切り、そしてややあって、第三楽章の中ほどをユーフォの調べが歩んでいく。さっきの自分たちが吹いたのと全く同じ個所を、奏は全て吹き終えた。

 その演奏に、決定的な破綻など、どこにも無かった。

 奏は持てる実力の全てをその場で出し切った。

 けれど、その音は。一つひとつの形。音色。そして、彼女の音楽は。

 ……シンと静まり返った廊下で、夏紀はぴくりとも動かない。久美子もまた息をするのもためらわれるほどに、それはそれは重い静寂のひと時だった。ポタポタ、と校舎の隙間からこぼれ落ちる水滴の音が、何故か今はひどく耳にこびりつく。

 やがて、音楽室の戸がゆっくりと開かれる。そこに立っていた奏は恐ろしいほど虚ろだった。自分に怒っているのか。それとも悔やんでいるのか。彼女自身にも己の感情を掴み切れていないかの如き表情を前髪の奥に浮かべながら、途方に暮れてしまった時のように、奏はただそこに立ち尽くしていた。夏紀がおもむろに奏を見やる。その一瞥で何を思ったのだろう。ふう、と息を落として彼女は立ち上がり、奏の右肩をポンと叩いて、

「帰ろう」

 ぴくり、と跳ね上がる奏の肩。青ざめた彼女の唇はひどく震えたまま、上手く言葉を紡げずにいるみたいだった。

「はい」

 気の遠くなるほど長い一瞬を経て、奏はようやくそれだけを口にした。来た時とは逆に、先に立った奏がフラフラと教室に向かう。その足取りはあたかも地面など無いところを歩んでいるみたいな不確かさで、影の差す廊下に小さな靴音を刻んでいった。

 雨脚がその一瞬、ザアとひときわ強く跳ね上がる。それは背を向けた奏の叫び声だったかのような、そんな痛々しい音だった。

 

 

 

「では、今からオーディションの結果を発表する。名前を呼ばれた者は返事をするように」

 瞬く間にテスト期間の日々が過ぎ去り、そして今日はとうとう結果発表の日。部室内に揃った顔ぶれは一様に張り詰めた緊張一色で塗り潰されていた。今にも弾け飛びそうな感情の高ぶりが、果たして合格の喜びに彩られるか、はたまた落選の絶望に圧し潰されるか、それはまだ誰にも分からない。個々の明暗が峻別されるのは今からのほんの一瞬のうちだ。皆を見渡した美知恵が手元のバインダーへと視線を落とし、おごそかに口を開く。

「まずはフルートから。三年、井上調」

「はい」

「三年、傘木希美」

「はい!」

「二年、小田芽衣子」

「はい」

「二年、高橋沙里」

「はい」

 合格者の名前が次々と読み上げられ、その度に無言の達成感と悲痛な呻き声とが音楽室を席巻する。当落の結果を知る度、あの人が受かったかと思うこともあれば、あの人が落ちたのかと衝撃を受けることもある。こればかりは久美子にも完璧に予見するのは不可能なことだった。

 滝が選出する五十五人の枠に入るには、基本的に上手いことが絶対条件ではあるのだが、他のパートとの人数的なバランスという要素も無視しがたい。それぞれのパートを横断的に見た限りではあの子のほうがこっちの子より上手くとも、このパートは何人までという括りがある以上、時にはギリギリのところで取りこぼされてしまったりもする。それらを分かつ滝の審査を疑うつもりなど毛頭無いが、そうは言えども自分たちにとっては受かるのと落ちるのとでは天と地の差だ。一度きりのオーディションが全てを決めてしまうというのはそれほどまでに厳しく、残酷なことなのだ。

「次に低音パート。ユーフォニアムから」

 来た。心臓の高鳴りは極大を越えて、皮膚を突き破らんばかりに跳ね上がる。

「三年、中川夏紀」

「はい!」

「二年、黄前久美子」

「はい!」

「ユーフォニアムは以上」

 その宣告は呆気なくもたらされた。奏は、メンバーには選ばれなかった。久美子はすぐに奏を見やる。奏は口元だけを微かにたわませて、ただぼうっと中空に視線を泳がせていた。半ばこうなることが解っていたのか、無感情とさえ言えるその佇まいからは、絶望と諦めの入り混じった深い虚無を思わせるものがあった。

「次にチューバ。三年、後藤卓也」

「はい」

「三年、長瀬梨子」

「はい」

「一年、鈴木美玲」

「はい」

「チューバは以上。次にコントラバス」

 美知恵による点呼は淀みなく続けられ、コンクールを戦い抜く五十五名が決まってゆく。そんな中、レギュラーに選ばれたことを喜ぶべき久美子の胸中に渦巻く不安。それはどす黒い不気味さを孕んでいて、ばきばきと音を立てて軋みが広がっていくような、そんなとてつもなく嫌な感触だった。

 

 

 

 



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〈12〉球技大会

 手に抱いたユーフォニアムのピストンを確かめるように押し込み、解放し、それから久美子はマウスピースに当てた唇を震わせる。

 天に向かって伸びやかに広がるB♭(ベー)の音。ちょうど八拍を揺らがぬよう、形を崩さぬようきっちり吹き切る。それから(ツェー)(デー)E♭(エス)……と、さっきと同じようにそれぞれの音を八拍ずつ鳴らしていく。

 あらゆる練習の中で基礎中の基礎と言われるロングトーンだが、ただ単に音を長く伸ばせば良いというものでは無い。そこには吹いている時のクセや偏り、音質の濁り、音量や音程、その日の自分の調子といったありとあらゆる要素を見出すことが出来る。それらを自分の耳でチェックし修正するのが本来の目的であり、それは同時にあらゆる音に対する感覚を鍛えることにも繋がる。そういう意味でもロングトーンは管弦を問わず、器楽において欠かせぬものとして取り扱われている。まさしく『ロングトーンは全ての基礎』なのである。

 自分が出せる目一杯の高さの音までを出し終えて、久美子は一息をつく。まだ早朝ということもあり、露天の渡り廊下を吹き抜ける薫風は涼しささえ感じるほどだった。それでも徐々に昇りゆく太陽の気勢を感じ取ってか、裏山の向こうからはジリジリ、とセミの鳴く声も聞こえ始めている。そろそろ他の人たちも朝練のために登校してくる頃合いだろう。いったん呼吸を整えて次はスケール練習に移ろうとした、その時だった。

「おはよ、久美子ちゃん」

 久美子は声のする方へと向き直る。そこに立っていたのは、夏紀だった。

「おはようございます、夏紀先輩。ここに来るなんて珍しいですね」

 こちらへ歩み寄ってくる夏紀は自分の楽器を持ってはいなかった。きっと何か話があるのだ、と直感して、久美子は構えていたユーフォを下ろす。

「練習中にごめんね。ちょっといい?」

「はい、大丈夫です」

 手すりを掴み、ちょうど猫がそうする時のような姿勢で「ん~っ、」と夏紀が大きく伸びをする。目頭にじわりと滲んだ涙を、彼女はついと指先で払った。

「それにしても偉いねー、毎日こんな朝早くから練習頑張ってて。さすが、コンクールのソリストに選ばれるだけはあるわ」

「あんまりおだてないで下さいよ。朝イチで学校に来るのももう、半分くらいは習慣になっちゃってるっていうか」

「それ、希美とおんなじこと言ってるよ」

 ニヤリとする夏紀に、あ、と久美子は気付かされる。確かに今のはいつぞやの希美の弁にそっくりだ。

「それだけ上昇志向があるってことじゃない? 私も今年はコンクールのメンバーになったわけだし、久美子ちゃんに負けてらんないけどさ」

「はあ」

「もうすぐ夏休みだし、私も明日からは気合い入れてもうちょっと早く学校来ようかな?」

「あんまり朝早すぎると音出しできないですけどね。近所迷惑、とかって注意されちゃいますし」

「お? もしかして経験アリ?」

「まあ、何度か」

 苦笑してみせた久美子に、さもありなん、とばかり夏紀がカラカラ笑い声を上げる。その声は次第に噛み潰すように小さくなり、ひとしきり笑い終えた夏紀は表情を引き締めた。

「実はさ、久美子ちゃんには話しておきたい事があって」

「話しておきたい事?」

「久石のコト」

 風が、二人の間を抜けていく。さらりと揺れた夏紀のポニーテールはすぐに元の位置へと戻っていった。

「アイツがなんかグチャグチャしたもん抱えてるのは、久美子ちゃんも気付いてるよね」

「はい。春ぐらいからずっと」

「あんだけあからさまなら誰にだって解るか。まあ、それが何なのかってのは、私には全然見えてないんだけど。でも久石さ、周りと全然クチ利かないでしょ? 特にあすか先輩と、私には」

 そのことは、久美子にも何となく察しがついてはいた。奏があすかを避ける理由はまだ何となく分かる。けれど、彼女の夏紀に対する態度はそれに輪をかけるように、ほとんど無視と言っていいほどのレベルだった。そしてその理由が、久美子には皆目見当もつかない。

 もしも美玲のような事情が奏にもあるのだとして、人望的にも音楽的にもパートの輪の中心となりつつある夏紀に、あるいは嫉妬のような感情を向けているのかも知れない。だが仮にそうだとしても何故あそこまでの敵愾心を抱く必要があるのか? そこに何か糸口があるような気はすれども、糸を手繰ることは一向に出来ないままだった。

「もちろん、単に私が自意識過剰になってるだけ、って可能性もあるんだけどさ」

「そこは私には、何とも言えないです。私も奏ちゃんとはそんなに喋ってる方じゃないですし」

「まあとにかく私としては、理由がどうであれ久石がずっと孤立してるのが正直心配なわけ。でも多分、私にはアイツの悩みを解決してやることは出来ないんだろうなって、そんな気がしてる」

 そうなのかも知れない。根拠などどこにも無いけれど、今の奏には夏紀という存在を受け入れることなど到底不可能だ。頭の中に寝そべる漠然とした予感がそんな風に、夏紀と同じ結論を導き出していた。

「本当はもっと時間あったらアイツとぶつかってでも本音引きずり出してやりたいところだけど、そこまで手が回るかどうか。これからはコンクール関係の活動でバタついてくるし、そしたらきっと優子もガンガン突っ走るだろうしさ。ホントあのバカ、適度に手を抜くって考えが無いんだから」

「あれ? 加部ちゃん先輩がマネージャーになって、優子先輩もだいぶ負担減ってるんじゃないんですか?」

「アイツの場合、融通が利かないっていうか、空いた隙間に何か突っ込んでおかないと逆に不安になるタイプなんだよ。いっぺんアイツの弁当箱覗いてみたら? こんなに詰め込んでアホか、ってぐらいおかず満載だし」

 その様子を思い描くのはあまりにも簡単で、久美子はつい苦笑してしまう。そうでなくとも優子という人物は、誰かに肩代わりしてもらうことを素直に良しとはしない性格の持ち主だ。手が空けばその分を別の何かに回す。それを際限なく繰り返せば『完璧』に近付きはするだろう。けれど当の本人が、その負荷に耐え切れるとは限らない。どこかで足を緩めて息を抜くことを覚えなければ、どんな人物でもくたびれ果てて、やがては呆気なく破綻の時を迎えてしまうこととなる。

「まあ、つまりはそんなことにならないように、誰かが手綱を引っ張ってやらなくちゃいけないってワケ」

「そうですね。頑張って下さい、夏紀先輩」

「なんでそれは私の役目みたいに言うかなぁ。どいつもこいつも」

 忌々しげに顔を歪める夏紀が、ハー、とうんざりしたように溜息を吐く。

「別に私だってやりたくてやってるワケじゃないんですけど。去年あすか先輩に副部長指名されなかったら、今頃は優子のことなんて無視してたかもよ」

 などと夏紀はうそぶいてみせる。それは絶対有り得ない、と久美子は断言することだって出来た。何だかんだで夏紀は優子のことが気になるし、優子も相手が夏紀だからこそ素の自分を曝け出す。そんな二人の関係性は役職や立場に縛られるものでは無い。二人を繋いでいるものは、ある種の信頼なのだ。それも他人には理解しがたく、けれどもずっと深くて強い、信頼。きっとそれが何をどうしようとも二人を結び付けていたことだろう。

「とにかくさ。コンクールの時期に入ったら私もそこそこ忙しくなってくるし、それが終わったらもう引退だしで、久石に何かしてやれるだけの時間はもう無いと思う。冷たいかもだけど、元々アレもコレもって手に付けられるほど器用な人間じゃないから」

 夏紀は視線を逸らし遠くを見つめた。その目に映っているのはきっと今この時、この場所ではない。そう遠くない、けれど着々と近付きつつある終着点。そしてそこに到ってもなお、目の前の後輩に対して何ともしてやることの出来ない己の不甲斐なさ。恐らくはそういうものを夏紀は見据えていた。

「だから、久美子ちゃんにお願い。久石のグチャグチャはきっとこの後も残ると思う。もしかしたら私が卒業した後も。そうなったら悪いけど、私の分までアイツのこと面倒見てやって」

 頼むよ、と告げる夏紀の顔には申し訳なさそうな、情けない己を責めなじるような、そういった複雑な思いがこれ以上無いほど滲んでいた。しかして久美子には、夏紀の想いを無碍にするつもりなど毛頭無い。部のため、仲間のため、そして自分たち後輩のために、夏紀は文字通り身を粉にして尽くしてきた。そんな彼女の切なる願いをいとも容易く拒絶できるほど、久美子は自分のことを人でなしだとは思っていない。

「もちろんです」

 久美子は頷く。夏紀を少しでも安堵させるように。

「こないだもそんな約束、したばっかりなんで」

 それが何のことだか分かっていない夏紀は少しだけ怪訝そうにしたものの、けれどすぐにゆるりと微笑んだ。再び吹き抜けた風が、夏紀の胸元にかかる涙色のスカーフを緩やかになびかせていた。

 

 

 

 

 ダン、ダン、ダン。

 そこかしこを跳ね回るいくつものボールの音。それに合わせるように右に左にと飛び交うたくさんの歓声。やがて一つのボールが輪をくぐると、それらはひときわ高く大きく空間を揺らした。

「疲れたぁ」

 扉を開け、這い出るように外に出た久美子たちは「ぷはぁ」と息を吐く。体育館脇の入口から地面へと道を繋ぐ丈の低い階段のところには、ちょうど体育館の屋根が(ひさし)のように日光を遮って、涼むのに都合の良い影を作っていた。そこに腰を下ろして思い切り全身を弛緩させる。ぬるい風でも無いよりはマシだ。カンカンに照った陽光がアスファルトをじりじりと焼いている。その焦げ付くようなにおいが肺の奥にまで突き抜ける気がして、久美子は今にもむせてしまいそうだった。

 へばりついた体操着をつまんではたくと、じわりと帯びた汗が少しは乾いていく。タオルは一応用意してあったのだが、着替え時のための一枚がスクールバッグに詰められてあるのみで、この場には持って来ていなかった。まさかたった一度の出番でこんなに汗をかくことになろうとは。この時ばかりは己の判断の甘さを悔やむより他に無かった。

()っちー。もう体中ベタベタだよぉ」

 葉月などは大胆に裾を持ち上げ、それでパタパタと大きく身体を仰いでいる。剥き出しになったおヘソはきゅっと縮まっていて、日々の楽器練習に鍛えられた彼女の腹筋がうっすらとそこに浮かび上がっていた。あと少しめくれ上がったらいけないものが見えてしまいそうなのだが、それをわざわざ葉月に教えようか、という気持ちも暑さと疲労のせいであっという間に掻き消えてしまう。

「やー、終わった後の球技祭りってヤバいよねー。授業受けなくていいし、テストも終わって一学期はもう終業式があるだけだから、勉強しなくていいんだー! って解放感すごいわ」

「でも、いざ夏休みに入ればコンクール前の練習と宿題でそれどころじゃなくなっちゃうから、この解放感もあと数日の命って感じだけどね」

「いいの! 今はこのひと時を骨の髄まで満喫するんだから!」

「葉月ちゃん、すっごく楽しそうだね」

「先月からずっと、この日が来るのを待ちに待ってたんだよねー。こう見えても元・球技部員でございますので」

 そう言って葉月はニッカリと悪戯っぽく笑った。北宇治の行事の一つである球技祭りは、一学期末の数日間を掛けて挙行される。その間は一切授業も無く、各学年が入り乱れてクラス対抗、という形式で勝利を争われることになる。総合成績で優勝を収めたクラスには栄光と達成感、そして担任からの『ちょっとしたご褒美』もあるということで、運動部所属の生徒や美知恵に代表される熱血教師などは皆気合いを入れてこの催しに臨んでいた。

 中学時代テニス部に在籍していた葉月は、元々運動神経がかなり良い。組まれたスケジュールに沿っていくつもの種目で同時に試合が行われるこの行事において、生徒たちは最低でも一種目へのエントリーが義務付けられている。そんな中で葉月は率先して色んな種目に名を書き連ね、奮闘に次ぐ奮闘でクラスの成績を押し上げることに随分と貢献していた。あらゆる学校行事の中でも彼女にとって、こういう催しは貴重かつ絶対的な活躍の機会であるに違いない。

 かたや、スポーツ全般が不得意な久美子からすれば、この手の行事は楽しさよりも苦痛が勝る部分が多かった。出場種目として久美子が唯一エントリーしたのはバレーボールだったのだが、それもあくまでチームプレイの競技なら自分の運動神経の無さもあまり目立たなくて済み、しかもバスケほど忙しなく動き回る必要が無いからという、いわば消去法的な理由によるものだ。ただしその選択のおかげで試合中は何度も相手のスパイクを受けるハメになり、レシーブのために酷使した前腕は真っ赤っかに内出血を起こしている。これは今夜お風呂に入る時、猛烈に痒くなること間違い無しだ。未だ痺れる両手をさすりながら、久美子は少しばかり憂鬱になっていた。

「いいなぁ葉月ちゃん。緑、運動は全然ダメです」

 葉月の隣で緑輝がしょんぼりとうなだれる。それも仕方が無い、と久美子は思った。テニスをさせればラケットごとあさっての方向へサーブ、ゲートボールをさせればクラブだけ見事にホールインワン、そしてバレーをさせれば顔面もといおでこレシーブ……と、いずれの種目もなかなかの壊滅っぷりな緑輝は本人も述べた通り、こういう場面にはからきし向いてないみたいだった。

「まあまあ、緑だって精一杯頑張ってたじゃん! 私は緑のそういう何でもチャレンジしてみる、って姿勢もカッコイイって思うし」

「けどやっぱり、緑も葉月ちゃんみたいにカッコ良くボールを投げたり打ったりしたいです」

「そんなに落ち込むこと無いよ緑ちゃん。ホラ、人には向き不向きがあるっていうし、緑ちゃんは運動がまるでダメでも音楽はすごいんだから」

「いや久美子、それフォローになってないから」

「うわわ」

「いいですよぅ。緑にはジョージくんが居ますから」

 例によって出た自分の『うっかり』のせいで、プイ、と緑輝はそっぽを向いてしまった。ちなみに『ジョージくん』というのは緑輝が愛用している学校備品のコントラバスに彼女が付けた愛称である。と、そんなことを言ってる場合では無かった、すっかり拗ねてしまった緑輝のご機嫌をどうにかして取らなければ。焦る久美子を見かねてか、その肩をグイと押しのけた葉月が緑輝の正面へと陣取る。

「上手かどうかなんて関係無いって! 思いっ切り体動かして、それでストレス発散できて気持ちいいー、ってなれたらさ。音楽にだってそういうトコあるでしょ。そうじゃない?」

「それは、そうですけど」

「じゃあクヨクヨしないの。それに球技に限らず、へこたれないで色んなスポーツやってるうちに楽しめるものが見つかるってこともあるよ。緑にだってきっとある、って私は信じてる。だから元気出しなよ」

 ね、緑? と、葉月の指が緑輝の猫っ毛を優しく梳く。

「……はい!」

 葉月のお陰で緑輝はすっかりテンションを持ち直してくれたようだ。久美子はホッと一安心する。葉月の言う通り、上手くやることや勝つことだけを目的にしなくても楽しむ方法は幾らでもある。そういうところを諭してくれる葉月の存在が、久美子にはありがたかった。

 それに球技祭りの期間中は、出番のない時にはこうして表を自由に出歩いたり、水分補給と称して好きな時に売店へ飲み物を買いに行っても良いことになっていた。特にこの期間だけは特別なはからいで、売店スタッフがコーラやアイスといった普段取り扱わない品々を用意してくれる。窮屈な学生生活の中で、たまにはこうした息抜きの時間があるのも良いものだ。そう考えると球技祭りも決して悪いことばかりではない。何事においても良い側面に着目するのは、人生を前向きに生きる上で大事なことである。

「それにしても音楽と言えば、今年もオーディション、落ちちゃったなぁ」

 葉月が突然あっけらかんと言い放ち、ドキリとした久美子と緑輝は互いに顔を見合わせる。

「葉月ちゃん、その、」

「あー、いいっていいって。変に気ぃ遣われても却ってビミョーな感じになっちゃうし。そりゃあ今年こそはみんなと一緒に吹きたいって、そう思ってたけどさ」

 よっ、と弾みをつけて立ち上がり、そして葉月は二人に向かって親指を立ててみせた。

「大丈夫。私、あんま落ち込んでられないな、って今は思ってて。友恵先輩さ、マネージャーってことで今年のコンクールでもサポートに回るじゃん? そんな先輩のことも誰かが支えてあげなくちゃだし。それにサポートの仕事もけっこうアレコレ複雑だったりするから、何ていうかその辺、引き継ぎ? みたいなこともしっかりしておきたい、っていうかさ」

「葉月ちゃん……」

「そんな暗い顔しないでよー、緑。その代わり、これからはもっともっと練習頑張って、来年は必ずみんなと一緒にレギュラーになってコンクールで吹くって約束するから」

 そう語る葉月の瞳は強い決意に燃えていた。きっと葉月だって、今回の結果には人並みかそれ以上の悔しさを覚えた筈だ。それでも彼女が気丈に振る舞っているのは、久美子たちへの気遣いより何より葉月自身が『落ち込んでいる暇など無い』ということをこの一年で学んだからこそなのだろう。

 一年という時間は長いようで短い。それこそうかうかしているうちに、あっという間に過ぎ去ってしまう。オーディションに落ちた人たちだって「来年こそは」と頑張るのかも知れないが、コンクールメンバーに選ばれた者も負けず劣らず滝の厳しい指導の下で腕を磨いていく。そして来年は来年で圧倒的な実力を持った新入生が入って来ないとも限らない。そんな中でコンクールの席を勝ち取るためには、誰もが人一倍の努力をしなければならないのだ。オーディションでの選抜が終わりではなく次への始まりでしかないことを、葉月はきっとこの三人の中で誰よりも一番良く知っていた。

「来年こそ三人一緒にコンクール出ようね。久美子も、約束だよ」

「うん」

 葉月が伸ばした手に、緑輝と久美子も手を重ねる。

「それじゃあ今年の全国金賞と、来年の私たちの活躍を祈願しまして。北宇治ぃーファイトぉー、」

「おー!!」

 三人の掛け声が高らかに盛夏の空へと鳴り響く。思いを新たに誓い合った三人は顔を見合わせ、途端にからからと笑い出してしまった。

「ちょっとぉ。せっかく真面目な雰囲気だったのに、何で笑うのさー」

「すみません、なんだか急におかしくなっちゃって」

「そんなこと言ったら葉月ちゃんだって、思いっ切り笑ってるじゃん」

 こんな自分たちがどうにもマヌケなように思えて、けれどこうして笑い合って過ごす時間は、何だかひどく居心地が良かった。はー、とひとしきり笑い終えて、葉月はその場にどかりと腰を下ろす。

「とにかく、私は今年もきっちりサポート頑張るからさ。久美子たちもコンクール頑張ってよね。私からしたらメンバーの人たちの方が大変だなーって思うし」

「頑張るよ。どっちが大変とか、そういうのは無い気もするけど」

「いやいや、絶対大変だって。今年のオーディションは三年生でも落ちちゃった人も居たしさ。コンクールメンバーになった三年の先輩は特に、責任感じてると思うよ」

「それは、あるかもね」

 葉月の推察に久美子は声を落とす。オーディションの結果が発表されたその日の夜、秀一と交わした電話の中でもその話題はあった。彼が所属するトロンボーンパートでは唯一の三年生が落ち、サポートに回ることとなったらしい。コンクールメンバーは実力によって選ばれる。その方針には久美子も他の部員も納得ずくでオーディションに挑んでいるわけであり、もちろん滝の裁定にも異論などあろう筈が無い。けれど、選ばれなかった人たちの想いやコンクールに懸けた情熱までもが、そこで終わってしまう訳では無いのだ。その分も本番の舞台に立つ自分たちは背負っていかなくちゃ。そう語る秀一の声色は、それまでよりもずっと大人びていた。

「それにさ、メンバーの中でだって色々ありそうじゃん。特に今回の自由曲ソロって、吹くのはやっぱり鎧塚先輩と傘木先輩なわけでしょ?」

「ですね」

「傘木先輩、フルートパートの中じゃ一番上手いから、当然フルートソロなんだろうなって思ってたけど。でも井上先輩だってきっとソロやりたいって思ってたよね。今年が最後なんだし」

 どうだろう、と久美子は言葉を濁す。フルートの井上調と自分とは殆ど接点が無い。そんな彼女について何かを語れるだけの情報量を、あいにく久美子は持ち合わせていなかった。

「調先輩とは緑たち、お話したことも全然無いですからね。ホントのところは緑にも良く分かりませんけど」

 一つ前置きをして、それから緑輝は続きを話す。

「調先輩、フルートパートの中では普通にしてますし。それが表面上だけのことで何も気にしていないように振る舞ってるだけなのだとしても、そのまま受け取った方がいいんじゃないかな、って緑は思います」

 そこで緑輝がおもむろに久美子の顔をチラリと覗いた。『ですよね?』と言いたげな彼女の瞳に、久美子も緩やかに頷いてみせる。

「だね。きっとそうだよ」

「そういうもんかなぁ。んーでもまぁ、そういうもんか」

 いまいち要領を得ないといった様子の葉月だったが、やがて自分を納得させるように空へ向かって一息を吐いた。つられて久美子も空を見上げる。入道雲がもくもくと盛り上がりゆくその遥か向こうには、吸い込まれそうなほど深い天色(あまいろ)が広がっている。調は、希美を、どう思っているのか。そんな取りとめもない推察を、久美子はしばし空の向こうへと描いていた。

「そうだ!」

 不意に威勢の良い声を浴びせられ、久美子の思考はたちまち寸断される。葉月はまるで名案を思い付いたと言わんばかりに、ギラギラと眩しい笑顔をこちらへと向けてきた。

「夏休みの宿題なんだけどさ。練習休みの日にみんなで集まって、一気にやっちゃわない? 勉強会ってことで」

「勉強会?」

「うん! 高坂さんも呼んで四人で、分かんないトコあったら見せ合いっことかしたり」

「ダメですよ葉月ちゃん、勉強は自分の力でやらないと身に付かないです」

「えぇー、緑のイジワル。何さぁ、最近ちょっと成績が上がったからって」

 葉月をたしなめる緑輝はさっきの話通り、二年生になってから少しずつ成績を伸ばし始めていた。元々努力家の緑輝である。今まで楽器演奏に全振りだった彼女の情熱がいくらかは勉強にも向けられるようになった、というところだろうか。とは言え、緑輝のコントラバスの技術は衰えるどころかますます腕を上げてさえいる。できる人はできる、と、きっとそういうことなのだろう。

「じゃあ見せ合いっこは無しでいいから、勉強会はやろうよ。ね?」

「そうだなぁ、一応考えとくね」

 苦笑を交えて久美子は曖昧な返事をする。いずれにしろ、そんな話をするのも府大会が終わってからだ。万が一にも関西大会に勝ち進めなければ、宿題だのお盆だのとお気楽に騒いでいられるような状況ではなくなってしまう。『取らぬ狸の皮算用』ではないけれど、今は目の前のことに集中していたかった。

「ところで二人とも、ノド渇きませんか?」

「あー、言われてみれば確かに。ねえ、売店行かない? 次の試合までまだ時間あるし」

「おっ、いいねー。やっぱ汗かいた後は水分補給っしょ!」

 葉月もすかさず二人の提案に乗ってきた。久美子は念のため、ポケットの上から小銭入れを揺すってみる。チャリチャリ、と小銭同士のこすれ合う音。ジュースを買うだけのお金は、確か入っていた筈だ。

「私コーラ飲みたい。みんなは?」

「緑、アイスがいいです!」

「ひょっとしておごってくれんの? ありがとね緑ぃ、ゴチソウサマ」

「どうしてそうなるんですか! ……んー? アイスをおごると言えば、その昔ですね、」

 などと緑輝が何かの話題を口にしかけたその途端、眼前の地面にとんと一つ濃い影が落とされる。何だろう、と思って久美子は頭を上げた。

「あ、優子先輩」

「何よあんたたち、こんなとこでサボり?」

 慌てて久美子たちは立ち上がり「こんにちは」と優子に挨拶をする。おつかれさん、と返事をしながら優子はさらさらと風にそよぐ髪を手櫛で直した。オーディションの少し前、気合いを入れるためと称して、優子は腰丈まであった髪を肩ほどの長さまでカットしていた。勝気で真っ直ぐな優子の性格にこの髪型はとても良く似合っている。そんな優子の肩越しから「やほー」という砕けた挨拶と共に、友恵がヒョッコリと顔を出した。

「加部ちゃん先輩、こんにちは」

「こんちわー黄前ちゃん。それに葉月ちゃんと、川島さんも」

「こんにちは!」

 二人もまた久美子に倣い、友恵に元気良く挨拶をする。

「あー、ちょうど良かった。ここで黄前ちゃんに会えて」

「ちょうど?」

「うん。部活中はなかなかタイミング無かったからさ」

 いつもは砕けた調子の友恵が改まって、一体何の話だろう。少々疑問を抱きつつも、久美子は友恵の言葉の続きを待つ。二人の微妙な空気を察したのか、優子は「あっち行くわよ」と葉月たちを伴って久美子たちから少し距離を取ってくれた。

「ごめんね。黄前ちゃん」

「ごめんって、何がですか」

「私が奏者引退するって、黄前ちゃんに話してなかったこと」

 ああ、と久美子は少々呆気に取られた。そう言えばあれ以来、マネージャー職に就いた友恵と二人で膝を突き合わせる機会は、全くと言っていいほど無かった。

「同じ指導係だったし、あんだけ黄前ちゃんに遠慮すんなーみたいなこと言ってたくせして、その私が遠慮するみたいな感じになっちゃってさ。隠すつもりじゃなかったんだけど、それ言うのも何となく言い訳くさくなっちゃうし」

 友恵はそこで後ろ手を組み、居心地悪そうに身体をよじらせる。

「だから、ホント、ごめん」

 決心したように久美子の目を一度見据え、友恵はしっかりと頭を下げた。やめて下さいよ、と久美子は友恵の両肩を持ち上げる。

「確かに、あの発表のときはちょっとビックリしちゃいましたけど。でも夏紀先輩から事情聞かされて、私は納得しました。加部ちゃん先輩も大変だったんだなって」

「ありゃ、夏紀話しちゃったの? みんなに?」

「あー、私だけです」

 遠くの葉月たちを横目に見やりながら、久美子は弁解する。

「とにかく、先輩の気持ちはもう十分解ってますから。私のことなんて気にしないで下さい、加部ちゃん先輩」

 久美子は精一杯の笑顔を浮かべてみせる。少しでも友恵の心が安らぐように、という、それは久美子に出来る限りの配慮の表れだった。

「……そう言ってもらえると、救われるわぁ」

 友恵は大きく息を吐く。ずず、と鼻を鳴らし、それから友恵もニッカリと満点の笑顔を返してくれた。

「ありがとうね黄前ちゃん。黄前ちゃんが指導係の後輩で、ホント良かったよ」

 彼女のその言葉には何だか、こちらこそ救われたような気分だった。あれ以来少しだけ距離を感じていた友恵と、その時ようやく、久美子はもう一度打ち解けることが出来たと感じていた。

「もう済んだ?」

「あ、優子」

 二人の話がひと区切りついたのを見越してか、優子たちがこちらへと戻ってきた。うん、と友恵がはにかみながら頷く。

「だから言ったでしょ。黄前ならきっと怒ったりしないからって」

 ほれ見たことか、とばかり平手を向ける優子に、友恵は気まずそうな表情で鼻の頭を掻く。この様子からするに、友恵はこの件に関して何がしかの相談を優子にしていたらしい。 

「いやまぁ、優子を疑うつもりは無かったんだけどさ。黄前ちゃんって絶対、本気で怒らせたら怖いタイプだから」

「別にそんなこと無いと思うんですけど」

「だから、そういうのが怖いんだってば」

「どういう意味ですか!」

 隠さず非難をぶつける久美子に、ほらぁ、と顔を引きつらせた友恵がじりじりと後ずさる。

「あーそうだ、友恵せんぱーい!」

 やにわに葉月に呼び掛けられ、友恵は一転ホイホイと脱兎の如く跳ねていった。ともすれば今のは葉月なりの助け舟だったのかも知れない。そのまま葉月たちと談笑を始めた友恵に「全くもう」と優子は睨みを向ける。

「ホントしょうがないんだから。引っかかってんならさっさと謝りに行けば、って何度も言ったのに友恵のヤツ、なかなか踏ん切りつかなかったみたいで」

「ですね。でも私はちょっとだけ、加部ちゃん先輩の気持ち分かります。本当にちょっとだけですけど」

「ふうん?」

 優子は不思議そうに首を傾げる。まあいいけど、と咳払いを一つして、それから優子は階段を指差した。

「私もちょっと話あるから。立ち話もなんだし、そこに座んなさいよ」

「はあ」

 率先して腰を下ろした優子に並ぶようにして、久美子もそこへ座る。

「ありがとね、小日向さんの件」

 何の話かと思いきや、優子が切り出したのは夢のことだった。そう言われれば彼女のその後についても、久美子にはとんと報告が無かった。

「あ、いえそんな。それで夢ちゃん、オーディションはどうでした?」

「バッチリ吹き切ってたよ。あんなにやりたがらなかったのがウソみたいにね。コンクールでもファーストやることになって、ここんところは高坂がマンツーマンで指導してる。その分、小日向さんと入れ替わりに私がサードに回ることになったけど」

「あー、そうなんですね。それは何か、すいません」

「なんでアンタが謝るワケ?」

 そこでクスリと優子が吐息をこぼす。

「私もね、実力とか適性で考えたら、小日向さんがファーストやるべきだってのは分かってた。けど本人の望まないポジションに無理矢理割り振って、そのせいであの子が委縮したりぶつかって揉めたりするのは避けなきゃって思って、それで最初は本人の希望を優先してたの」

「そうだったんですか」

「まあそれが原因で、今度は高坂と私がぶつかっちゃったんだけどね。それでも去年みたいなことにはしたくなかった。人間関係のゴタゴタとか、そういうので部がグシャグシャに引っ掻き回されたら、コンクールどころじゃなくなっちゃうから」

 俯く優子の瞳には、昨年の光景が映っているのだろう。再オーディションを希望した中世古香織を巡る優子と麗奈の激突。みぞれと希美のすれ違い。そしてあすかの退部騒動。思えば昨年のコンクールは常に、度々起こる問題に翻弄されては解決して、を繰り返しながらの挑戦だった。その結果が全国銅賞。きっとその事実を、当事者でもあった優子は重く捉えていたのだ。

「一旦ああなっちゃうとどっちも譲れなくなっちゃうでしょ? 私も高坂も。まあそん時は保留ってことにして場を収められたし、その点はお互い成長したなって思うんだけど。あそこで黄前が間に入ってくれなかったら、きっと今でもまだ拗れてた。だから、ありがと」

「あ、いえ」

 ストレートに感謝の言葉を述べられると、それはそれでどうにも居心地が悪い。咄嗟にうまい返事ができなくて、久美子はごまかすように太ももの辺りを手でさする。さっきまで汗のせいでべたべたしていた感触も、今ではもうすっかり乾き切っていた。

「私っていうより、本当にすごいのはあすか先輩ですよ。先輩がいなかったら私だってきっと、夢ちゃんの悩みに辿り着けなかったと思いますし」

「どうかな。まあでも、あすか先輩が凄いってのは確かにね。私も先輩に負けないよう、もっとしっかりしないと」

 そう述べた優子は、まるで何かに追い立てられているみたいに張り詰めた表情をしていた。そんな彼女のことが心配になって、堪らず久美子は口を開く。

「あの、優子先輩」

「何?」

「あんまり無理、しないで下さいね」

 久美子のその言葉に、優子はしばしキョトンとしていた。ややあって口元がフッと緩み、そしてやにわに、優子が手を伸ばし久美子の頭髪をわちゃわちゃと掻き撫でる。

「ひゃあ!」

「下らない心配してないで、アンタは自分のことに集中しなさいよ。全く、」

 どっかの誰かさんにそっくりなんだから。ぼそりと優子の洩らした呟きに、え、と久美子は顔を上げた。

「さあて、そろそろ出番だし、私たちもグラウンド行かなくちゃ。友恵ー!」

「お? もうそんな時間か。はーいはいっ」

 呼ばれるに応じて、葉月たちとの会話を打ち切った友恵がぴょんぴょんとこちらに戻ってきた。

「それじゃ黄前ちゃん、また部活でね」

「はい、お疲れさまです」

「アンタたちもいつまでもこんなとこでサボってないで、クラスメイトの応援にでも行きなさいよ。じゃあね」

 校庭に向かって颯爽と歩み去る優子。その後を追って、友恵が手を振りながらその場を離れていく。そんな二人の背中をしばらくの間、久美子はじっと見つめていた。

 優子の背負うものは自分なんかが考えているよりも遥かに大きく、そして重い。彼女がたった一人でそれを背負おうとするのはきっと、あすかという偉大な人物の影を追い、与えられた役割をこなし切ろうと努めているからなのだろう。確かにあすかは有能で処理能力も高く、おまけに機転も利く。団体の長を務めるにはこれ以上なく相応しい人物だ。少なくとも、能力だけに関して言えば。

 けれど、誰もがあすかの真似を出来る訳ではない。疾風の勢いで草原を駆け回る駿馬も、大空を自在に舞う鳥のように飛ぶことは叶わない。もしもそれを目指して馬が高いところから飛んだなら、あっという間に地に墜ちて、その華奢な足はあっさりとへし折れてしまうだろう。万が一にも優子がそうなってしまわぬよう、久美子にはただそっと祈ることしか出来なかった。

「あれ、夏紀先輩?」

 葉月の一声で、久美子ははたと我に返る。遠目にも目立つポニーテールの後ろ姿は確かに夏紀のそれだ。どうやら友恵たちとバッタリ出くわした夏紀は、早速とばかり優子に絡み始めたらしい。それなりに距離があるにも拘らずギャーギャーと喚く二人の声が、遠く離れたここまで届く。

「相変わらず犬猿の仲だねぇ、あの二人」

「そうですね。でも緑は優子先輩と夏紀先輩、とっても良いコンビだなって思います」

 確かに、と久美子も思う。生真面目かつ突っ走りがちな優子には、ああして適度にイジりつつ必要に応じて支えてくれる人間が傍らに居た方がバランスが取れてちょうど良い。彼女たちの姿が校舎の角を曲がっていくまでを見届けて、ほう、と久美子は小さく息を吐いた。

「私たちも行こっか。早くしないと次の試合の時間になっちゃうし」

「おっとそうだった。それじゃー支払いはよろしくぅ、サファイアちゃんっ」

「絶対におごりませんからね!」

「ちぇー、緑のケチぃ」

 売店を目指して久美子たちはパタパタと駆けていく。セミも今が盛りとばかり、校舎や裏山の至る所でけたたましく大合唱を繰り広げていた。梅雨もすっかり明け、コンクールに向けていよいよ本格的に、久美子の戦いの夏が始まろうとしていた。

 

 

 

 



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〈13〉ターニングポイント

 夏休みに入っておよそ一週間。迫る府大会に向け、日々の練習は緊張と集中の度合いをどんどん強めていった。

「そこ、ホルン。今の音色は場の調和を崩しています。鋭く、かつ丁寧に。荒れた音にならないよう注意して下さい」

「はい!」

「金管全体、この場面は嵐の吹きすさぶ苛烈さと恐怖感とを最大限に高めなくてはいけません。特に低音はもっと、この部屋を揺らすぐらいの気持ちで」

「はい!」

「何度言えば分かるんですか。ただ音量を上げるのではなく、重要なのは底から地鳴りのように響かせる音を出すことです。ここで重低音の圧迫感が最大限に出てこそ、上に乗る高音部のトリッキーな動きが対比として効いてくる。現状ではそれが全く出来ていません。アーティキュレーションの有無に囚われずに、この場面には音の伸びに合わせた微細なクレッシェンドがあると思って吹いて下さい。こんなところに無駄な時間を割くだけの余裕は無いんですよ」

「はい!」

 今日も滝の指導は手厳しい。初めはそれに半ば怯えていた一年生のメンバーたちも、日々罵声を浴びるうちに慣れてしまったか、あるいは己の為すべき事に集中しているのか、ここのところは表情を崩さずにいられるようになってきた。

「……今の感じを忘れずに。前回までの課題のおさらいはひとまず良しとしましょう。それでは改めて自由曲の第一楽章、全員で頭から行きます」

「はいっ」

 楽器を構え、全員が滝の手元を凝視する。腕を振る滝に合わせて始まりの木管の音が奏でられた。ある程度のところまでを吹かせ、それを一旦止めて、滝は問題箇所をそれぞれのパートに突きつける。彼の声色に熱が籠るに連れ、指摘の内容もまた微に入り細を穿つものへと変わってゆく。

「フルートの四小節目、軽やかさが足りません。スタッカートの形をもっと短く、パート全員できちんと揃えて下さい」

「トロンボーン、そこは今以上に勇壮な音を。それとパーカッション、全体的に言えることですがメリハリを意識して。ダイナミクスの頂点ではうるささでは無く『鳴り』を出すようお願いします」

「木管の今の箇所は音を誤魔化している。ここはフォルテで進行しつつスラ―になっている部分ですが、各々リズムに僅かなバラつきがあるせいで濁って聴こえます。この八分の六拍子、三つ連なった音はどれも均等の筈です。しかし実際には不均等な音が混じっている。これではクリアな音に聴こえないのは当たり前です」

 注意を受け、演奏を修正し、また新たな注意を受ける。合奏中はひたすらこの繰り返しだ。こうして洗い出されたそれぞれの課題は個人やパートの練習時間で徹底的に潰されていく。もしも次の合奏で出来ていなければ滝の毒舌はさらに一段階きつくなり、全身をズタボロにされてしまう。皆がその状況を受け入れているのも、それが無理難題ではなく出来ることをやらずにいるからなのだということを、経験則によってとっくに理解しているからだった。

「次、第三楽章。始めに言っておきますが、出だしのオーボエに対してフルートとハープの追随が出来ていないのが前回からの課題です。ここは注意深く合わせて下さい」

「はい」

 前方に座するみぞれと希美、そしてハープを担当するパーカッションの大野(おおの)が同時に返事をする。それを久美子は後列から眺めていた。第三楽章の出だしではしばらく、ユーフォを含む多くのパートの出番は無い。けれどそれを退屈に感じてなどいられなかった。吹かないところをこそ集中し、曲の世界に自分を合わせる。そうしておかなければ次に出番を迎えた時、既に流れ去った音楽に相応しい音を即座に奏でることは出来ない。重要なのは、確たるイメージを持ってそこへ入っていくことなのだ。

「また楽譜には示されていませんが、オーボエのソロに合わせて息継ぎをするようにテンポを緩める箇所を幾つか設けたことは、先日も話した通りです。それなのに今までのところ、我慢し切れずに音が飛び出してしまっているケースが散見されます。私の指揮に合わせようとするのも結構ですが、ここでは一番の基準になるオーボエの、鎧塚さんの呼吸を、全員が感じ取って下さい」

「はいっ」

「後は、イメージを表現に換えることを常に忘れずに。それでは行きましょう」

 滝が腕を伸ばすのに合わせてみぞれがリードを銜え込む。希美や大野も演奏の体勢に入り、ぴたりと空気が静止したところで、滝は腕をゆるやかに二度振った。みぞれのオーボエからとろりと流れる出だしのフレーズ。ここのテンポは楽譜の上では♪=120(アレグレット)の指定なのだが、滝のカットを踏まえてもまだ時間的に厳しいという事情もあり、ほんの少しだけテンポを速めるようにと先日の練習で通達されている。その指示通り、まるで精巧な機械が刻みつけるかのような正確無比さで、みぞれの紡ぐ音は部室へと放たれていった。そこに添えられる希美のフルートの音。それは雄々しく、己の翼を誇示するかのように大胆な主張を伴って羽ばたいていく。

 最初の八小節を終えてすぐ、滝は演奏を止めさせた。

「傘木さん、オーボエの音を聞いていますか。今の演奏も悪くはありませんが、あなたの方が少し感情的になりすぎるところがある。この部分は互いの音を聴き合い、そして吹き合うことが何より重要です。あなたから鎧塚さんへ、そっと語りかけるように。出来ますか?」

「はいっ」

 手を差し伸べて問う滝に、希美は決然と返事をしてみせた。

「それと、鎧塚さん」

 滝の指摘は続けてみぞれにも及ぶ。

「いま傘木さんに言った通り、鎧塚さんも傘木さんの音を良く聴いて、そして吹いて下さい。ここの主役はあなたですが、何よりも大事なのはフルートの音と掛け合うことです。楽譜に書かれたことばかりでなく、その行間にある心や情感を汲み取り音にするのです。ちょうど傘木さんと歌い合うように。いいですね?」

「……はい」

 希美のそれとは対照的にみぞれの声はどこか弱々しく、今にも消え入りそうだった。果たして滝はその返答にもう一つ満足出来ていない様子だったが、まあいいでしょう、と寄せた眉根を戻し、もう一度頭からの演奏を指示する。

「では行きます。各自、今言われたことを音楽として表現するのを忘れずに」

 こうして練習は進められていく。受けた指示は都度楽譜に書き留め、次にはきちんと演奏に替えられるように。一瞬一瞬を、まるで糸をより合わせるみたいにして、久美子は極限まで集中していった。見上げる度に時計の針はどんどん進み、気付けば合奏練習の時間はそろそろ刻限に差し迫りつつあった。

「それではここで、本日の合奏は終了とします」

「はい!」

 ふう、と部室中の気配が息を抜く。数時間も集中している状態が続くと流石に疲労を感じずにはおれない。毎日のように重ねられる合奏の日々で、時には音を上げてしまいそうになることもあるけれど、今はそんな時間さえ惜しいというのが久美子の偽らざる胸中だった。

 残り僅かの日々で可能な限り音を突き詰める。その工程に終わりはなく、またここがゴールという明確な閾値も存在しない。それが音楽だ。ましてコンクールという舞台にあって、それは尚更のこと。北宇治が金賞を取り上位大会への代表権を掴み取れるかどうかは、他校の演奏との比較による相対的な評価で決められる。例えどんなに素晴らしい演奏をしたとしても、他の学校がそれを頭一つ上回ってしまえば、枠数の限られた代表権を得ることは適わないかも知れないのだ。

「田中さんからは、何かありますか?」

 滝に発言を求められ、部室の隅に設けられたコーチ席に座るあすかが腰を上げる。コンクールに向けての合奏が本格化してきてからというもの、あすかの役割はこんな風に全員の演奏に関する細やかなチェックをすることにあった。

「ええと、まずみんなに言いたいんだけど。みんなまだまだ音が固ぁい!」

 その口調がとある人物の物真似である、と気付いたらしい何名かが、堪え切れぬようにクスクスと声を潜めて笑う。

「とっても繊細で表現の難しい曲だってのは分かるけど、だからって慎重になり過ぎ。ガチガチになってるせいで本来滑らかに吹くべきところまでぎこちない表現になっちゃってて、勿体なく感じます。もっと音楽全体を伸びやかに捉えて、鳥が優雅に羽ばたくような気持ちで大胆に表現してみて。大胆と言えば、作曲者の()()()()()さんが手掛けた他の曲にもすごく大胆なのがあって――」

「はい。田中さん、ありがとうございました」

 二年目ともなれば、滝によるあすかの扱いも手慣れたものである。余計な発言をピシャリとさえぎられたあすかは返事の代わりに満足げな敬礼のポーズを滝へと向けた。そんな光景にもどこか既視感があって、久美子の口の端からは呆れの感情が漏れ出てしまう。

「田中さんからも指摘のあった通り、これからの大きな課題は表現力です。固くぎこちない音楽では、この『リズと青い鳥』に込められた感情や機微といったものを十分に表現し切れません。音の形やテンポなど守るべきはしっかり守る必要がありますが、一方で不必要に恐れず、積極的に音で表現することを大事にしましょう」

「はい!」

「残った時間は予定通りパート練習としますので、各パートとも今回の合奏で見つかった課題を煮詰めておいて下さい。では本日は、これにて解散です」

「起立!」

 優子の号令で、全員が一斉に席を立つ。

「ありがとうございました!」

 全員で礼をし、そして滝は部室を出ていった。部員たちはこれから各々パート練習に向けて足早に移動をしたり、問題の箇所を確認するために楽譜を読み合わせたり、と様々だ。けれど彼らに共通していたのは、貪欲な姿勢で練習に取り組む必要性を見据えた瞳に宿る、強い意思の炎。それを見ていると、久美子の中にも大きく脈打つ思いがある。もっと上手くなりたい。現状の自分自身に全然満足できず、今まで以上に上達を求めんとする強烈な渇望。それは日を追うごとに強まっていて、今にも胸を突き破り、身体中をズタズタに引き裂いてしまいそうなほどだった。

「お疲れー久美子ちゃん。何かボーっとしてるけど、どうした?」

 ふと顔を上げると、そこには希美が立っていた。楽器と譜面台を手に抱えた彼女は様子を窺うように、上からこちらを覗き込んでいる。

「あぁ、すいません。合奏に集中し過ぎてたもんで、終わってからちょっと気が抜けてました」

「分かる、その気持ち。私もさっき滝先生にめちゃくちゃ叱られて、もぉゲンナリ」

 あはは、と希美は空笑いをしてみせる。その言葉通り、先の合奏で彼女はみぞれと共に滝からの注意を集中的に浴び続けていた。

『傘木さん、今のままでは主張が強すぎます。鎧塚さんはどんな音を出していますか? どんな風に吹いていましたか? あなたにはそれに合わせようとする意識が足りません』

『鎧塚さんの音は平板過ぎます。あなたなら技術的に、このソロを吹くのには何の問題も無い筈。今ここで欲しいのは表現です。それをもっと出して』

『二人とも、もっと微細な部分をお互いに合わせる努力をして下さい。ピッチはようやく揃ってきましたが、音の形、強さ、音色、ビブラートの掛け方、そういったものが全てちぐはぐです』

「……だもんねぇ」

 滝からの指摘を反芻するように口ずさみ、希美は実に苦々しそうな表情を浮かべる。

「たいへんですね、今回のソロ。かなり難しそうで」

「まあね。でも、やりがいはあるよ。フルートソロがけっこうカットされちゃったのは残念だけど、難しい分だけ良い曲だし。それに私さ、この曲すごい好きなんだよね」

「『リズと青い鳥』が、ですか?」

「うん」

 頷いた希美の視線は手に持った譜面台、そこに置かれた楽譜へと移ろう。

「ずっと前から思ってたんだ。こういうカッコいいソロのある曲を、コンクールの本番で思いっ切り吹きたいなあって」

「それは、」

 思わず開きかけた口を、久美子はすぐさま閉じる。それは? と復唱した希美の問いは「何でもないです」と笑顔ではぐらかした。しばし怪訝そうにしていた希美もやがて気を取り直したのか、視線を再び楽譜へと戻し、

「だから今年は絶対、この曲で全国の舞台に立ちたい。そして必ず、金賞を獲る」

 力の篭った希美の声。それはきっと彼女なりの決意の証なのだろう。希美は本気で金賞を獲りたがっている。その願いは言葉よりもなお強く、彼女の全身からとめどもなく溢れ出ていた。

「のーぞせーんぱーい?」

「あ、そうだ、パート練行かなきゃ」

 部室の入口あたりで希美を呼ぶ後輩達の声。我に返った希美は慌てたように、下ろしかけた譜面台をもう一度持ち上げる。

「それじゃあね、久美子ちゃん。本番も近いし、お互い頑張ろうね」

「はい」

 別れ際に見せた彼女の笑顔は、とても眩しいものだった。サッと身を翻し後輩達の元に向かう希美。その後ろ姿を手を振って見送り、それから久美子はさっきのことを思い返す。

『こういうカッコいいソロのある曲を、コンクールの本番で思いっ切り吹きたいなあって』

 喜びと熱意を交えて語る希美を前にして喉まで出かかったその言葉は、会話の流れに相応しいものとは到底言えなかった。あの時そうと直感したからこそ、久美子は咄嗟に口を閉じたのだった。やる気に漲る希美に対して、もしもその一言を最後まで口走っていたなら。それを想像するだけで胃の底にドスンと重い石が落ちる思いがする。どう考えてもあんなこと、本人に尋ねてはいけない。

 

 

 ――それは『好き』とは違うんじゃないですか、だなんて。

 

 

「そんなに希美のことが気になる?」

 やにわに掛けられた聞き慣れぬ声に鼓膜を揺らされ、久美子はハッとそちらを見やった。

「あ、井上先輩?」

 知らず知らずと語尾が裏返ってしまう。フルートの三年生、井上調。彼女とまともに会話をするのは、もしかしなくてもこれが初めてのことだ。調の声は猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら喋っているみたいに低く転がる印象で、それもまた久美子にとっては意外に思える。そのぐらい、久美子は調という人物と、これまでほぼ全くと言っていいほど接触する機会を持っていなかった。

 彼女の黒く艶めいたセミロングヘアの前髪は、額のところで大きく横に流すように分けられている。そこから伸びて掛かった耳元の髪を一度手で払うようにして、調は朗らかな笑みを湛えた。その顔立ちはお世辞にも美人とまでは言えないものの、どこか親しみと落ち着きを覚える、人好きのしやすそうな印象があった。

「別に、何でもないですよ」

「そう? その割にはさっきからずうっと希美の方見て固まってたよ」

「それは、気になったというワケではなくてですね。その、何と言いますか」

「そんなにかしこまらなくても良いって」

 調の喉がクツクツと揺れる。ただでさえ喋り慣れない先輩とのやり取りは緊張するというのに、こんなことを言われたら却ってどうしたらいいか分からなくなってしまう。すっかり泡を食った久美子の様子にやれやれとばかり、調は自分の顎を指でさすった。

「それに、呼び方。気楽に『しらべ』って、下の名前で呼んでくれていいよ」

「はあ、それじゃあ、調先輩」

「よし」

 素直に申し出を聞き入れた久美子に、調はニカリと満足そうに口角を持ち上げた。彼女のその笑顔には久美子がこれまで関わってきたどのタイプにも見られない、独特な愉悦の色が入り混じっていた。

「黄前さんは私のことあんまり知らないと思うけど、実は私、前から黄前さんのこと知っててさ」

「そうなんですか?」

「黄前さん、隠れ有名人だもん。去年も今年も、吹部で何か問題起こった時は黄前さんが頑張って解決してくれてたみたいだし」

「別に、私が解決した訳じゃないんですけど」

 それが理由で彼女は自分なんかに話し掛けて来たのか、と久美子はこっそり得心する。ところで『隠れ』とは一体どういう意味だろう? 別に有名になりたいわけでもないけれど、さっきの言い回しには部内における自分の微妙な立ち位置が如実に反映されているような、そんな空気を嗅ぎ取れなくもない。

「謙遜しなくて良いってー。優子とか友恵も、黄前さんのことは信頼してるみたいだしさ。それに、」

 不自然に言葉を切った調がスウ、と視線を移す。その先には後輩たちと連れ立って練習場所へ向かおうしている希美の背中があった。

「去年、希美が部に戻ろうとしてた時も、裏で黄前さんが関わってたんだって?」

「あ、いえ、まあ。裏っていうか、復帰前の希美先輩と時々会ったりして少しお話したぐらいでしたけど」

「希美、けっこう感謝してるみたいでさ。時々パートのみんなにも話してるんだよ、『私が部に復帰できたのはあの子が色々良くしてくれたからだ』って」

「はあ……そうなんですか」

 そんな話を聞かされるとますます居心地が悪くなってしまう。一年前に希美が部へ復帰するに際して、久美子の貢献した割合は殆どと言って良いほど無かったのが事実であり真相だ。いつぞやのあすかの言葉を引用するならば、あの時の久美子は徹頭徹尾『傍観者』という立場で居られるよう彼女たちとの間に境界線を引いていた、とも言える。そんな自分の情けない古傷を今また別の誰かにほじくり返されているみたいで、痛痒感がひどい。それを少しでも逸らすべく、久美子は思い切って会話の舵を横に切ろうと試みる。

「あー、でも良かったですよね希美先輩。念願叶って部に戻ることが出来て」

「そうだね」

 答える調の声色はどこか空疎なものだった。おや? と久美子は次に用意していた台詞を呑み込む。

「希美が戻ってくれて、私も嬉しいよ」

 そう告げて、調は薄く微笑みを浮かべるばかりだった。あまりにもおぼろげに霞んだ表情。そこには決して遠巻きには窺い知れることの無い、調の内に沈む翳りが滲み出ているみたいだった。依然として一点を見つめる調の視線の先に、もう希美たちの姿は無かった。

『井上先輩だってきっとソロやりたいって思ってたよね。今年が最後なんだし』

『何も気にしていないように振る舞っているだけなのだとしても、そのまま受け取った方がいいんじゃないかな、って緑は思います』

 いつぞや葉月たちと交わした何気ない会話の内容が、久美子の脳裏にふと蘇る。あの時はどちらが正しいとかそんな判断を付けられるほど、当の本人である調のことを何一つとして知らなかった。これと言って目立った特徴も活躍も無く、部の一員としてひっそり溶け込んでいる調。そういう人は彼女に限らず、大所帯の吹奏楽部において珍しいものでは無い。同輩としての三年間を通じてすら、あまり関わりを持たぬまま卒業までの時を過ごし切るという人たちだってチラホラ居る。ましてやパートも学年も違う先輩後輩同士ならばそれは尚更のことだ。久美子にとっての調とは、これまでそういう存在だった。

 でもこうして調を俯瞰するうちに、そして調が希美について語るのを見聞きするうちに、何となく目の前の人物がどういう人でどんなことを思うのか、ちょっとだけ興味が湧いてきたような気がする。まだ何もかもを解き明かすまでには到底至らないけれど、最初の扉が一つ開いた。そんな感触がその時、久美子には芽生えていた。

「ごめん。私から話し掛けといて何だけど、これからパート練習だってのに私だけこんなところで油売ってるわけにもいかないからさ。そろそろ行くわ」

 気まずささえ覚える長い沈黙の後で、ようやく調は口を開いた。

「あ、はい。お疲れさまです」

「また今度、黄前さんとはゆっくり話したいな。それじゃ」

「その時はまた、よろしくお願いします」

 楽器と譜面台を抱え、調が部室を後にする。彼女の受け売りではないが、久美子もいつの日か調とはじっくり語り合ってみたいと、そう思った。

 吹奏楽部には色んな人がいる。そんな当たり前の事を久美子は改めて思い知らされていた。そういう人たち同士が寄り集まって、幾つもの音を束ねて、一つの曲をみんなで奏でて。今まで当たり前のようにしてきたことが、なんだかとてつもなく奇跡的なことのようにすら思える。きっと誰もが、ずっと表に出すことの無い何かを胸の内に抱えながら、ここにいる。厳しい練習をこなし少しでも理想の音に近付き、その結晶たる演奏を本番の舞台で存分に響かせるために。

 その日まで、もう残された時間は多くない。今できることは自分の音を可能な限り研ぎ澄ますことだけだ。決意に漲る両手でユーフォと譜面台を抱え、久美子はいつもの教室へと向かうべく音楽室を飛び出した。

 

 

「麗奈は、行けると思う?」

「手応えは充分。出来ることは全部やった」

「私も。絶対行けるって思ってる」

「大丈夫。絶対に金賞獲って、北宇治は次に行く」

 ホールの観客席、久美子は麗奈と並んで座り、その時を待つ。

 今日はコンクール府大会、本番の日。高校Aの部、つまり北宇治が出場した部門の演奏が全て終わり、後は結果発表を待つだけだ。薄暗いホールの中は今か今かと発表を待ち侘びる人々でごった返している。そこかしこからこぼれる声はいずれも張り詰める緊張に耐えかねるように、はらはらと小さく震えていた。

 発表の瞬間までこうして椅子に座っている間が、いつも緊張のピークだ。府大会では結果の記された大判のロール紙がホール上階から解き放たれる。その結果を見るのは一瞬のこと。ここで金賞の欄に北宇治の名前が無かったら、その瞬間に久美子たちの夏は呆気なく終了してしまう。演奏の出来には自信があったし、ライバルと目した幾つかの団体の演奏とを比べても、北宇治の演奏が勝るとも劣らぬものであるという手応えも持っている。けれど評定をつけるのはあくまでも審査員なのであって演奏する側ではないのだ。全てを賭した努力の成果を、他人に白黒付けられる。こればかりは何度その時を迎えても慣れるものでは無い。

「来た!」

 にわかにどよめく場内。全員の視線が一斉に係員たちの手に抱えられたロール紙へ注がれる。息を詰め、久美子は彼らの動きを見守った。その瞬間を、決して見逃すまいと。会場全体がシンと静まり返るのを見計らっていたかのように、ちょうどそのタイミングで、係員たちはロール紙を階下に向けて解き放った。

「うおおおおおお!」

 ホールを席巻する歓声。怒号。嗚咽。それらを飛び越えて、久美子は金賞の欄を目で追う。

「あった、」

 久美子がそれを見とがめたのと、後方からそんな喜びの呟きが洩れ聞こえたのは、ほとんど同時だった。北宇治高等学校。金賞の欄には間違いなく、その文字が刻まれていた。

 よし、と久美子は小さく拳を握り締める。けれどまだ安心ではない。関西、そして全国金賞を目指す北宇治にとって、ここでの金賞は単なる通過点でしかないのだから。

「それではこの中から、関西大会に出場する学校を発表します」

 スピーカー越しに聞こえるその声を合図にして、久美子と麗奈は互いに手を固く握り合う。そう、ここからが本番だ。

 上位大会に進出するための代表権は、その地区のコンクールで金賞を取った学校の中からより優れた演奏をした団体に与えられる。京都府大会の場合、関西大会への枠はたったの三つ。その中に入れなければその先も無い。北宇治の成すべきはここで代表に選ばれ、関西大会でも勝ち進んで全国へ行き、そして全国の舞台で晴れて金賞を獲ることなのだ。その為には是が非でも、ここで躓くわけにはいかなかった。

 吐き出す息が緊張に震える。汗ばむ麗奈のしなやかな指が久美子の手にきつく食い込む。不気味な沈黙に支配される刹那。係員が息を吸う音すらハッキリ聞こえる気がする。固唾を呑み、今にも飛び出しそうな心臓を必死に抑え込んで、久美子はひたすらに祈った。

 

「三十七番、北宇治高等学校」

 

 その一言と「やったあ!」という周囲の歓声とが、久美子の聴覚を一瞬で埋め尽くす。直後、毛穴という毛穴からどっと汗が噴き出るような錯覚。それまで緊張に張り詰めていた全身が一気に弛緩して、久美子はゆるりと首を垂れた。良かった。まずは一つ抜けた。その時の感覚を率直に言葉で表すと、こんな感じだった。

「久美子」

 麗奈の声がして久美子は隣を見やる。最良の結果が出たにも関わらず、麗奈の表情は何故か未だ硬かった。

「関西、決まったね」

「うん。良かった」

 おめでとう麗奈、と久美子が続けて述べるよりも早く、麗奈はそっと久美子の耳元に顔を寄せる。

「立華と龍聖(りゅうせい)も関西だって」

「あ、うん」

「ここで油断してるとやられるよ」

 そう告げる麗奈の声色には明らかに、さっきまでとは違う種類の緊迫感が滲んでいた。それにあてられるようにして、さっきまで昂っていた久美子の感情もするりと冷やされていく。無意識のうちに目を配らせたホールの一角。そこでは深緑色のブレザーに身を包んだ男子たちが歓喜を弾けさせ、互いを称え合っていた。彼らは龍聖学園吹奏楽部の部員たち。去年まで全くのノーマークだった彼らは、果たしてこの一年のうちにどんな手を使ったか、府内の強豪である洛秋(らくしゅう)高校すらをも押しのけ関西大会への代表権を獲得するほどの急成長を遂げていた。

 麗奈の真意がその時はまだ、良く分かっていなかった。けれど久美子の脳裏には嫌な予感が一つの像となって結ばれようとしていたのだった。府大会での快挙を心から言祝ぐ龍聖の面々。彼らは去年の自分たちに、良く似ていた。

 

 

 

 

「皆さん、昨日はお疲れさまでした」

 壇上でねぎらいの言葉を掛ける滝に、部員たちはみな意気揚々といった様子を見せていた。無理もない。ここ数週間の厳しい練習に耐え、練り上げた音楽を本番の場で余すところなく発揮できた、という実感が彼らの中にはあったのだろう。本番前にも、そして演奏を終えた直後も、北宇治の関西進出は既定路線とうそぶく者までいたぐらいだ。しかして結果は見積もり通り、堂々の府大会突破。この事実にコンクールでの手応えを覚え、あるいは枕を高くした者も少なくなかったに違いない。そんな中で久美子は昨日のことがどうにも気に掛かったまま、周囲の喧騒にももう一つ乗り切れずにいた。

「今日からは関西大会に向けて、気持ちも新たに練習に取り組んでいきましょう。昨年と同じく(はし)(もと)先生と(にい)(やま)先生も指導に加わって下さることになりましたので、これからの三週間あまりでさらに音を磨き込んでいくよう、全員高い意識を持って練習に臨んで下さい」

「はい!」

「それと、コーチの田中さんから皆さんへお話したい事があるそうです。田中さん、お願いします」

 はい、と返事をして滝の後ろに立っていたあすかが進み出る。「何だろう?」という音楽室内のざわつきはお褒めの言葉にでもあずかれるのか、はたまた油断せずこれからも頑張ろうというお決まりの激励を受けるのか、といった空気で、どちらかと言えば期待に向かう色合いの方が濃いように思えた。

「回りくどい話をしても意味ないと思うんで、結論からハッキリ言うね」

 やけにさっぱりとした言い回しの後、流れを区切るようにあすかが一度小さく息を吸う。そして次に発せられた彼女の言葉によって、部員たちのそれまでの喜びにはまさに絶対零度の冷や水が浴びせられることとなった。

「このままだと確実に、北宇治は次の関西大会で落ちます」

 

 

 

 



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〈幕間3〉奏の本心

 思考が、淀んでいる。

 目に映る教室の景色も、滝の語る言葉も、何もかもが奏にはあやふやだった。

 

 何故、自分はここにいるのか? そう己に問うてみても答えが出て来ることは無い。きっと他の誰に聞いたところで、納得のいく答えを返してくれる者などいやしないだろう。ただ一つだけハッキリしていたのは、臓腑から沸き出でて今にも全身を焼き尽くしそうなほどの、強烈な敗北感。それだけだった。

 自分は、負けたのだ。

 何に? それだけはちゃんと解っている。自分は、正しさに負けた。他の誰かの述べる正しさなんかじゃない。自分自身の中に歴然とあって、そうであるべきだという強い思いを抱き続けて、その正しさに従って自分は北宇治に入学してからこれまでの月日を過ごしてきた。そしてそれこそが敗北を招いた決定的な要因だった。自分を負かしたのは他でもない、正しくあるべきだという自分の信じた正しさだ。眼前の机に刻まれた小傷をじっと見つめながら、己を苛む思考の刃に、奏は容赦なく嬲られていた。

「これからはここに居る皆で、コンクールメンバーを支えながら練習もしていくことになります。さっきの滝先生の言葉通り、落ちたことをこれからのバネに出来るように、全員頑張っていこう」

「はい」

 その場にいる三十名あまりの部員が一斉に返事をする。壇上でこの集団をまとめにかかっているのは、この中では最年長となる三年生の先輩だった。『岩田(いわた)慧奈(けいな)』と名乗った彼女は確か、トロンボーンのパートリーダーを務めていたと記憶している。彼女がここに居るということはつまり、彼女もまたオーディションの落選組であるということだ。今年が最後なのにコンクールに出られない。そんな彼女は今、何を思っているのか。きっと当たり前にこの結果を悔しいと感じていることだろう。自分を差し置いて合格した後輩に恨めしさを覚えたり、あるいは恥じ入る気持ちだってあるかも知れない。涙の痕ですっかり腫れ上がってしまった岩田の目元を見れば、会話すらしたことのない上級生の心境を推し量るのもそう難しくはなかった。

 でもそんなことは正直、どうだって良い。

 メンバーとなった者たちと同じ目標を見据え、愚直にも毎日毎日朝から晩まで必死に練習に取り組み、けれど結果として落選してしまった彼女たちとは、自分は違う。彼女らだけではない。仲良く根性ごっこや友情ごっこに明け暮れる低音パートの先輩たちも、それに何の疑問も無く同調する同級生も、そして彼らにあっさり懐柔されてしまった美玲も皆、こいつらと同類だ。

 みんな馬鹿ばっかりだ。周りに上手に取り入って。優秀な人に目を掛けてもらって。そうやって器用に立ち回る人間の方が、結局はいつも大事にされる。そしてその流れに上手く乗れなかった人間がはみ出し者にされ、蹴落とされていく。世の中にこれほど馬鹿げた話があるだろうか。そしてそうと知って小利口に振る舞う者も、何も知らずがむしゃらに頑張るしか能のない者も、どちらも等しく馬鹿だ。そんな奴らに、本当に正しいことなんて判る筈が無い。そう、自分の気持ちを分かってくれる人なんて、初めから誰も居なかった。所詮誰も自分のことを理解などしてはくれない。そんなことを期待するのがそもそも間違っていたのだ。

 どこもかしこも馬鹿、馬鹿、馬鹿。コイツらも、アイツらも、こんなことすら分からなかった自分さえも。そう思うだに、鮮烈な屈辱感が全身に巻き付いてぎゅうぎゅうと自分を締め付ける。その苦しさに呻きを上げることも叶わぬまま、奏は今にも窒息してしまいそうだった。

「奏ぇ」

 ひらり、と誰かの手のひらが視界をよぎる。つられて顔を上げると、梨々花がこちらを見下ろしていた。

「何ボーっとしてんの? もうみんな教室出てったよー。これからサポメンのチーム名、報告しに行くんだって」

「梨々花。どうして、ここにいるの」

「どうしてって」

 ぶふ、と梨々花は噴き出す。両手をピンと広げて数歩ほど後ずさり、そこで梨々花の身は独楽(コマ)のようにくるりと一回転した。

「ここに居るってことは、そーゆーことじゃん」

 ああ、そうか。奏はそこでようやっと気付くことが出来た。そんなことにすら頭が回らなくなっていた自分自身の憔悴ぶりに。それまでを取り繕うように奏は一度頷き、すぐに思考を切り替えようと努める。

「残念だったね。流石の梨々花も悔しいんじゃない? 憧れの『みぞ先輩』と一緒にコンクール吹けなくて」

「んー? えへへぇ」

 梨々花の無邪気な笑顔。それはきっと、さっきの言葉を純粋な慰めとして受け取ったからではない。恐らく彼女は自分が込めた皮肉の念に気付いている。その上であえて、それを笑い飛ばしてみせたのだ。そう、例えば、見せかけだけの気遣いを述べた自分のことを『気持ち悪い』とでも吐き捨てる代わりに。

「べぇっつにー。他の人達もみんな上手い人ばっかだし、それにオーボエって一人しか選ばれないことも結構あるでしょ? だからそんなに落ち込んでないってゆーか」

 嘘ばっかり、と奏の喉から苦笑の音がこぼれる。奏の知る剣崎梨々花という人間は、そこまで殊勝で慎ましやかな性格をしてはいない。傍目には朗らかさと愛嬌が上皮の大半を占めているように見えても、内側には詰めに詰めた彼女なりの計算が血肉のごとく埋め込まれている。さっきの梨々花の態度はさしずめ、今ここで悔しさをぶつけたところで奏が応えてくれることはないと分かり切っているからこその、一種の強がりなのだ。彼女はそこまでを計算ずくで自分に接している。そんなことぐらい、奏にはとうにお見通しだった。

「嘘じゃないってぇ。それに奏も一緒だから、梨々花は全然平気」

「また梨々花は、すぐそういうこと言うんだから」

「マジもマジで言ってるんですけどー。奏だってホントはわかってるくせにぃ」

「どうだか」

 いつもの調子で梨々花とやり取りをするうちに、奏は少しだけ己の表情が緩むのを感じ取った。そう、梨々花には一度も、こんな自分の秘めたる思いを吐露したことは無い。何も知らない彼女は同時に、奏の考える唾棄すべき対象の内にも数えられてはいなかった。そのことが、奏の中から一つ重石を取り除く。周囲にひしめく馬鹿の人垣の中で、唯一梨々花の存在だけが、奏にとっては心を安らげる拠りどころであった。

「それ言ったら、奏はどうなのさー」

「私?」

「奏の方こそ落ち込んでるんじゃないのぉ」

「梨々花にはそう見えてる?」

「見える。あと、メッチャ暗い」

「そう? 私は別に落ちたことなんて、これっぽっちも気にしてないけど」

「はい奏のウソつきー。鏡見てごらんって、幽霊みたいに真っ青になってるよ」

 でろでろぉ、と舌を伸ばして梨々花がお化けの真似をする。真っ青だって? そんなの言われずとも解っている。加えて言うなら気分だって最悪だ。それでも梨々花の冗談めかした口ぶりに腹の一つも立てずにいられるのは、奏が本当に、オーディションに落ちたことにショックを受けている訳ではないからだった。

 そう、落ちたことそれ自体はどうでもいい。そんなのはただの結果だ。確たる根拠も無いのに、下された裁定にしがみついてわんわん喚くほど自分は子供ではない。奏自身はそう思っていた。奏が本当に拘っていたもの、それは。

「梨々花に一つ、聞きたいんだけど」

「私に?」

 人差し指を鼻の頭へ向け、梨々花は怪訝そうな表情を浮かべる。

「てゆーか私たち、こんなことしてていいの? みんなと一緒に部室行かなくて」

「いいから」

 奏は手招きをして梨々花に着座を促す。目の前の椅子をガタリと引いた梨々花は、そこに馬乗りの姿勢で座り込んだ。机を一つ挟んで向かい合う二人。くりくりと円らな梨々花の瞳は奏の胸中とはまるで対照的に、清らかに透き通っていた。

「例えば、自分なりに一生懸命頑張ってるのに、それが周りの人にとっては頑張りだとは映らない。だから結局、誰のためにもならない。そんな中で頑張るのなんか丸っきり無駄なことだって、梨々花は思う?」

「急に何の話ぃ? 難し過ぎて、全然頭に入って来ないんですケド」

「要するに、他人に認められない努力なんて無価値だと思うか、って話」

「認められない、かー。そうだなぁ」

 腕を組み思案する梨々花を奏は固唾を呑んで見守る。んー、むー、と何度も首を捻り、それから梨々花は探り探りといった様子で喋り出す。

「自分のためになる、ならないはともかくとしてー。せっかく頑張ってるのに誰も認めてくれないなんてちょっと悲しいかもー、って梨々花なら思うかなぁ」

「本当に?」

「うん、ホントに」

 彼女のその回答は、ぼろぼろになっていた奏の心を満たすにはもう一つ足りない。けれど渇きを潤す一滴の雫のような、そんな僅かな手応えを感じることは出来た。

「じゃあ逆に、他の人たちに認めてもらうために求められた方法で頑張らなくちゃいけないとして、それが全然正しくないやり方だったら、梨々花ならそうと分かってても、認められるためにそれをする?」

「それも良く分かんないなー。そんなこと、今まで考えてみたこともないし」

 目を瞑りながら顎を伸ばし、梨々花は再びウンウン唸り始めた。

「するかしないかは、どうだろー。正しくないんだったら自分のためにならない気もするしぃ。でも認めてもらいたいんなら要求通りに頑張ってみせた方がいい、って気もするし。うーん、ムズかしい!」

 語気を強める結びの一言に反して、内容は全くの玉虫色といった具合だ。当の梨々花に答えをはぐらかす意図など無いことぐらいは今の奏にも察することは出来る。けれど、自分の欲しがっている答えを求めるのには、さっきの質問はいささか抽象的に過ぎたものだったかも知れない。

「次で最後。梨々花の思う正しいやり方で頑張ってる人が他に居たとして、その人が周りに認められずにいるのを見たとしたら、梨々花ならどうする?」

 奏のその質問に、グニグニしていた梨々花の身体が動きを止める。それからすぐ「そんなのカンタン」と、彼女は滑らかに口を開いた。

「ちゃーんと認めてあげるよ。梨々花は、その子のこと」

 あっけらかんと言い放たれたその言葉は真っすぐ自分へと飛び込んできて、とくん、と奏の心臓が揺れる。

 果たして梨々花の今の回答は、自分の欲しがっていたものを読み取って与えるためにでっち上げた空疎なものなのだろうか。それともただ単に、向けられた質問に対して彼女自身の考えを誠実に答えてくれたのか。願わくば後者であって欲しい。奏はそう願った。例え自分の身勝手な思い込みなのだとしても、梨々花にはそういう梨々花で居て欲しい、と。

「分かった」

「質問タイムはこれでおしまい?」

「うん、おしまい」

「そっか」

 にへら、と梨々花が顔を綻ばせる。そばかすの目立つ彼女の笑みはあどけなさと大人っぽさの、ちょうど中間のところに位置していた。

「じゃー早く行こう! みんなもう部室に着いちゃっただろうし。私らだけ抜け出してたら、あの二人アヤしい~って噂されちゃうよ。部内スキャンダルってやつ!」

「馬鹿じゃないの」

 くすくすと笑ってから、奏は梨々花と共に席を立つ。そのままトコトコと出口に向かっていく梨々花の背中を見たその瞬間、奏の全身に強烈な衝動が襲い掛かった。抗うことも許されぬ何かが、気付けば自分の口を押し開いていた。

「ごめん梨々花、最後にもう一つだけ」

「んー?」

 梨々花の靴底が木床の上にキュルリと円を描く。すう、と吸い込んだ息がうまく肺に届かない、そんなもどかしい感覚があった。

「梨々花は、ずっと私の傍に、居てくれる?」

 喉が震えるのを手で押さえつけながら、奏はようやっと思いを吐き出す。それが精いっぱいだった。

 梨々花はすぐには答えを返さず、ただこちらをじっと見据えている。奏もまた梨々花の視線を捉えて離さぬよう目を凝らす。もしも梨々花に拒絶されてしまったら。そう考えるだけで、激流のように押し寄せる不安に己の心はたやすく翻弄された。息を呑むことすら出来なくて、奏はただひたすらに、黙して梨々花の答えを待ち続けた。

「もっちろん!」

 ずかずかと近付いてきた梨々花が、少々乱暴に奏の手を取る。

「本当に?」

「本当にホント」

「もし裏切ったら、私が梨々花を殺すって言っても?」

「ダイジョーブ。絶対殺されないから」

 むっくりと浮かべられた梨々花の笑顔。そして次にそれは、奏が驚くほどの勢いで急激に引き締まった。

「だって梨々花と奏、友達じゃん。トーゼンでしょ」

 真剣な梨々花の眼差し。それを受け止めた奏の心境は、あたかも草一つない荒野の真っただ中に一輪、ひっそりと咲く花を見つけた時のようだった。

 間違っている。自分がおかしい。だから自分は負けた。本当は奏自身、そのことを良く分かっている。それと一緒に、アイツらが正しいとはどうしても思えない気持ちも、馬鹿だとすら詰ってやりたい気持ちも、今はまだ拭い去ることが出来ない。果たしていつこの気持ちに決着がつくのか、それすらも奏には全く分からなかった。

 でも、傍に梨々花が居る。梨々花だけはきっと自分のことを裏切らずに居てくれる。そうとさえ信じられるなら、自分はまだこの荒野をひとりぼっちで進んでいけるのだと、奏はそう思うことが出来た。例え梨々花までもが自分のこんな思いを、正しさを理解してくれないのだとしても、それで構わない。ただ傍に居てくれさえすれば、それだけで。

「ありがとう、梨々花」

 その時の自分がどんな表情をしていたのかは分からない。それを見た梨々花が一瞬くしゃりと顔を歪め、それから何かを押し込めるようにぼろりと笑いかけてきたのを見た時、奏は今の自分を哀れだと、心底思った。

 

 

 

 



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4.戻れないマルチアーレ
〈14〉改革せよ、北宇治吹部


「待って下さい、あすか先輩!」

 誰もが驚愕と混迷に己が身をすくませる中、真っ先に声を上げたのは優子だった。

「落ちる、ってどういうことですか。急にそんな――」

「落ち着いて優子ちゃん」

 強い動揺のせいで気色ばむ優子を、あすかは平手を示して牽制する。

「質問や意見は後から受け付ける。だからまずは言いたいことを全部言わせて。いい?」

 しかと宣言され、優子は立ちすくんだまま口をつぐんでしまう。しばし睨み合う二人。やがてあすかの眼光に圧されてしまったか、憤懣やるかたなし、といった勢いで優子はドカリと椅子に腰掛け直した。

「……手短にお願いします」

「出来るだけね」

 渋々譲った優子へ謝意を述べることもせず、それじゃ続きを、とあすかは再び部員たちを向く。その刺すように鋭い瞳はまるで自分たちに「心して聞け」と言っているかのようだった。

「今回の府大会、私は朝からずっとホールで他団体の演奏を聴いてました。結果、府代表に選ばれたのは立華、北宇治、そして龍聖の三校。この結果は多分皆もある程度予想済みだったと思う。ここまではいいとして、」

 と、あすかは振り向いて黄色のチョークを手に取ると、カツカツと黒板に先程の三校の名を書いていく。

「私の聴いた限りでは三校とも、トータルな演奏技術にはそれほど大差が無かった。代表枠に入るぐらいだから当たり前、って思うかも知れないけど、去年まで銀とかが関の山だった龍聖がいきなり関西進出。これがどのぐらい凄いことなのか、去年ここに居た皆なら分かるでしょ」

 あすかの一言に上級生たちは揃って息を呑む。その主旨が彼らに分からぬ筈は無い。ちょうど一年前、それまで府内ですら『堕ちた強豪』の立場にあったところから顧問の交代により一躍関西大会への出場権をもぎ取ってみせたのは、他ならぬ自分たちだったのだから。

「立華と龍聖、この二校に対する私の印象は二つ。まず一つは立華の演奏力が去年よりも上がってること。そして二つ目、龍聖は技術的にはまだ少し甘いところもあるけど、何より表現力が圧倒的に高かったってこと。多分、立華や私たち北宇治よりも。現状を図にすると、まあこんな感じかな」

 口頭での説明と共に、あすかの手に握られた黄色いチョークがそれぞれの学校名の隣に棒グラフを書き加える。少しの歪みもない直線で描かれたそれは、恐らくはあすかが量った各校の総合的な実力を示したものだろう。二段に分かれた棒グラフは下が技術力、上が表現力を表しているらしい。この三本の中で北宇治のグラフはトータルでこそ一番高かったが、他校と比べてその差は僅か。対して龍聖は三校中二番目という評価ではあるものの、表現力の項だけは北宇治のそれよりも嵩が大きめだった。

「これはあくまで府大会での演奏を聴いての私の見積もりね。じゃあ関西大会ではどうかって言ったら、これからは橋本先生や新山先生も来てくれるし、北宇治もここから三週間でもっと伸びていくとは思う。けど、それは他の学校も同じ」

 口を動かしながらも、あすかは軽快な手際でチョークを走らせ続ける。

「中でも最大のハードルと言っていいのはやっぱり東照、明工、秀大附属の通称『三強』。この三校に関してはただでさえ甘い見通しが利かない上に、去年ダメ金だった秀大附属は今年の気合いの入り方が全然違うと思ってた方がいいね」

 先ほどまでと同じ要領で書き足された三強の情報。彼らのグラフは北宇治や龍聖よりも一段頭が高くなっている。そしてそのうち二つの名を、あすかは大きな(マル)で囲った。

「ズバリ油断ならないのは、この秀大附属と伸びしろ不明のダークホース龍聖。今の龍聖に細かいところの技術がしっかり備わってくれば、たった三週間でも三強クラスにも匹敵するぐらいまで伸びることも充分に有り得る。そしてその可能性は、極めて高い」

 全身を貫く稲妻のような衝撃。昨日麗奈と話し、そして金賞を喜ぶ龍聖の生徒達を目の当たりにして抱いた漠然たる予感。久美子の中のそれがはっきりと確信に変わったのは、この瞬間だった。

「三強はどこも全国金賞が常連ってぐらいの強豪校だし、そこに龍聖まで加われば、三つしかない全国への枠を狙うのは今まで以上に厳しくなる。もちろん立華や他の団体だってどうなるか、そこはちょっと予想できないけどね。そしてこれもハッキリ言うけど、このままのペースで北宇治が三週間練習したとして、この中に割って入るのはほぼ無理っていうのが私の見解」

 それは未だ半信半疑といった様子の部員たちをバッサリと一刀両断する、まさに非情の宣告だった。彼らのうち何人かは救いを求めすがりつくように滝へと首を向ける。けれどその滝はさっきからずっと黙したまま、部員たちの視線に何も応えない。彼のその態度はあすかの意見をほぼ全面的に肯定していることの証みたいで、そこから生じた不安の渦が瞬く間に音楽室を丸ごと呑み込んでゆく。

「そんなわけで、今の自分たちがものすごく厳しい状況に置かれてるって自覚を持たないと、さっきも言った通り北宇治はここで終わる。私から今言えるのはそれだけです。――誰か、質問はある?」

 あすかが部室を見渡す。ここで手を挙げる者は誰一人として居なかった。重苦しい沈黙に支配された部員たちの姿を見て、伝えたかったことは十二分に伝わったと判断したのだろう。後は先生お願いします、と告げてあすかは静かに教壇を降りた。コホン、と咳払いをして眼鏡の位置を指で直しながら、滝が改めて皆の前に立つ。

「皆さんがどのような気持ちでいるかはお察しします。しかし皆さんには酷なようですが、私の意見もまた田中さんとほぼ同じです」

 それは一縷の望みを期待していた者にとっては最後通牒にも等しかったことだろう。水を打ったように静まり返る部室のそこかしこから、ぐず、と涙をすする音が欠け落ちる。本当にもう、どうしようもないのか。多くの部員たちがそうであるように久美子もまた歯噛みをし俯きかけた、その時。

 パシン。

「全員、顔を上げなさい」

 落雷のような(かしわ)()の音。強く放たれた滝の言葉。ビクリと身がすくみ、久美子は反射的に滝を見た。そこにあった彼の表情は、険しい怒気に似通った色を帯びていた。

「皆さんはこの程度のことで全国金賞の目標を諦めるのですか? 私たち北宇治が関西を突破して全国で金賞を獲ろうというのなら、どのみち三強との激突を避けられない状況であったことに変わりはありません。であれば本来、府大会突破を決めたといって浮かれている余裕も、厳しい現状を目の前にして落ち込む暇も、これっぽっちも無かった筈です。違いますか?」

 久美子の喉がごろりと鳴る。滝の咎めは間違いなく本質を突いていた。彼の言う通り、関西大会は熾烈な争いを避けられない、そんなことはこうなる前から分かり切っていた筈だ。なのにその覚悟がいつの間にか、自分たちからは抜け落ちていた。三強や龍聖がどうのといった他校の趨勢など一切関係無い。滝にいま叱責されているのは、いつの間にか天狗になってしまっていた北宇治の慢心した姿勢。それをこうして眼前に突きつけられ思い知らされた部員たちがぐうの音も出せないのは、至極当たり前のことだった。

「このままでは厳しいということが解ったのなら、それを乗り越えるべく対策を練り、大きな壁をも打ち破る気概をもって事に臨む。それ以外にすべきことなどありません。では具体的にどう対策をしていくか? 重要なのはここからです」

 いいですか、と念を押すように滝が一拍の呼吸を置いて場を見渡す。彼の端正な顔に掛かる眼鏡が小さく鋭い光を放った。

「この状況下でなおも全国金賞を目指すのであれば、私自身も含めた全員の練習に対する取り組み方と意識を、短期間のうちに大きく入れ替えなければなりません。その為に私はまず、橋本先生や新山先生とも相談の上で、当初予定していた今後の練習プランを組み直そうと思っています」

 プランの組み直し。それを聞いた部員たちからザワリとどよめきが起こる。これまでの練習だって決して手を抜いていたつもりは無い。時間的にも気力的にも、各家庭の門限や学習塾への通学といった制約もある中で、誰もが許容されうるギリギリまでを吹部の練習に費やしてきたのだ。にも関わらず、今後はさらに倍増しの練習を重ねなければならないというのか? そんな想像をしてなのか、中には露骨に顔を歪める者もチラホラ見受けられる。

「静かに」

 指揮を止めるときの動きでもって、滝はいま一度の清聴を皆に求めた。

「ただ単に時間を延ばして朝から晩まで練習をしても、その分良い音楽が出来るとは限りません。もちろん一定以上の時間を掛ける必要はありますが、限られた時間の中でも良質かつ適切な練習を行うことで音を高めることは出来ます。むしろそちらの方がただ長々と楽器を吹き続けるよりも遥かに効果があるものです。このことは今後の練習を進めていく上での大前提として、よく覚えておいて下さい」

 それは分からなくもない、と久美子は滝の言葉を素直に飲み込む。きっと美玲や他の部員たちなど何人かは似たようなことを思っただろう。

「これからは皆さんの練習に対する取り組み方や時間の掛け方、そして音に対する向き合い方、といった部分を徹底的に刷新するためのプランを実践していきます。詳しい内容は今日中にもプリントして配りますが、ひとまず今日の練習内容に関しては各パートリーダーに口頭で伝えますので、このミーティングが終わったらパートリーダーはすぐに私のところへ集まって下さい」

 そこまでを言い切って、滝は厳しく象っていた表情をふと緩める。

「難しく考える必要はありません。基本的に、やるべきことは今までと同じ。ただそのやり方を今までとは少し違うものにする、それだけです。皆さんがこれを機にもう一度気を引き締め直し、これからの三週間を最大限有効に活用しさえすれば、北宇治は必ず関西大会を突破して全国に行くことが出来るでしょう。それだけのポテンシャルが今の北宇治にはある。私はそう信じています」

 己の発言を担保するかのように、滝はにっこりと柔和な笑みを向けてみせた。それをしかと見据える部員たちも、ようやっと希望のひと欠片を得られたお陰か、より一層の緊張と決意に包まれた顔立ちをしている。滝の一喝はひとまずのところ、ほんの少し緩みかけていた北宇治のネジを締め直すのに充分過ぎる効果をもたらしたようだ。

「では部長、後はお願いします」

 滝に促され、今度は優子が席を立った。

「これ以上の発破なんか、もう皆には要らないと思う。だから私からは一つだけ」

 場の全員が静かに頷く。優子もまた皆の意志を確認するように一度首肯し、続きを語り出した。

「私自身、今の話で目が覚めました。府大会を無事に突破することが出来て、正直これなら全国も狙えるって、甘い見通しを立てていた部分があった。だって去年と違って今年は大きな問題も起こらなかったし、演奏面でも充分満足できるところまで来てるし、このまま行けば関西も抜けて全国に行けるんじゃないかって。でもそういう気持ちで関西大会に臨んでたらきっと、代表権はおろか金賞だって取れなかったって思う」

 そう語る優子は恐らく誰よりも自分自身を許せないでいる。溢れんばかりの悲壮に彩られた彼女の姿を、麗奈は苦しそうに顔を歪めながらじっと見守っていた。あるいはこの浮かれた部の状況を、もっと早く優子に指摘していたなら。ひょっとして麗奈はそんなふうに己自身を責めていたのかも知れなかった。

「本当ならそういう浮かれた気持ちを部長の私がいの一番にブッ飛ばして、みんなを引っ張らなくちゃいけなかったのに。その私がこのザマで、そのせいでみんなにもそれが感染(うつ)ったんだと思う。だから……本当にすみませんでした!」

 謝罪の一声と共に、優子が勢いよく頭を下げた。スカートの裾に添えられた彼女の拳は固く握られ、今にも血が噴き出そうなほどにわなわなと震えていた。

「こんなんじゃ部長失格も良いとこだって分かってるつもりだけど、でもたった今から私も気持ちを全部入れ替えて関西に、そして全国金賞に向けて、改めて死に物狂いでやっていくつもりです。こんな私で良かったら、これからもどうかついてきて下さい」

「やれやれ、まーた始まったよ。部長サマの頭でっかちモードが」

 その予想外の悪態で優子がガバリと身を起こし、ギョッとした久美子は反射的に悪態の元凶を見やる。自分のすぐ隣、その席上では半ば予想通り、夏紀が肩をすくめて呆れ返るようなポーズを取っていた。渋々と立ち上がった夏紀は狂犬のような眼つきで自分を睨む優子には目もくれず、親指だけを彼女へと向ける。

「まーコイツもこう言ってることですし、みんなもどうか寛大な心で勘弁してやって下さい」

「ちょっと、何でアンタがそこで仕切り出すのよ。っていうか頭でっかちってどういう意味? 副部長は幹部としての責任とかそういうの、少しも感じてないわけ?」

「だからぁ、責任とか何とかそういう話じゃないからコレ。だいたい部長さんは話がくどすぎ。そんなこと言われなくたってみんなとっくに反省して、これから気を引き締めてかかるぞーって流れだったでしょ。それなのに、アンタが余計なことしてくれたお陰でみんなお通夜モードに逆戻りじゃん。どうしてくれんのこの空気」

「だからこれは、部長としてみんなに筋を通しておこうって話で、」

「あーハイハイ。そういう堅っ苦しいのは、今日の練習帰りにでもみんなの代わりに私がゆーっくり聞いてあげるから、アンタのおごりで。みんなは早く練習行きたくてもうウズウズしてるんだってば。――だよね?」

 軽妙な夏紀の問い掛けに、部員たちからは一斉に「はい!」と大きな返事が出た。すっかり彼らを味方につけた夏紀は優子を挑発するように、意地の悪い笑顔を覗かせる。

「じゃ、こっからは部長のお仕事。ぐだぐだ言ってないで練習開始の号令しましょ。ほぉら、」

 さんハイ、と拍子を振る夏紀を優子は忌々しげに睨めつけている。憤りにカチカチと歯を鳴らし苦悶に喉を唸らせながら、しかし追って差し出された夏紀の両手に迫られて、とうとう優子は口を開いた。

「さっさと練習始めるわよ! 全員解散!」

 顔を真っ赤にした優子の怒鳴り声。その滑稽さに、部室はどっと笑いで溢れ返った。何だかんだ言ってもやっぱりこの二人の相性は良い。ともすれば悲壮感のどん底に陥りかねなかった場の雰囲気は一瞬のうちに回復し、部員たちもこれからに向けて元気とやる気をすっかり取り戻せたようだった。

 こうして本日の、いや北宇治の新たな第一歩が踏み出された。卓也らパートリーダーは早速滝のところへ集まり今日の練習方法について指示を受けているらしい。それ以外の部員は音楽室を練習場所とするパーカッションを除き、こぞって音楽室を出ていく。

「行こ、久美子ちゃん」

「はい」

 梨子に返事をして、久美子も楽器と譜面台を手に立ち上がる。とその時、久美子の脇をするりと小走りに希美が抜けていった。こちらのことなどまるで視界に映っていなさそうな辺り、彼女もまた今の話で逸る気持ちを抑え切れずにいるらしい。

「希美ちゃん、ちょっと」

 それを阻むようなタイミングで、あすかが声を掛けた。踵を返した希美が、はい? と返事をする。

「なんですか、あすか先輩?」

「ごめん。希美ちゃんに話があるんだけど、いま時間作れる?」

「え、はい。大丈夫ですけど」

「じゃあちょっとついて来て」

「分かりました」

 あすかに了承の意を返した希美はフルートの後輩たちに自分の楽器や譜面台を渡して何やら指示を託し、それからあすかに連れられ部室を出てゆく。その光景が久美子の目には、何故だかひどく奇妙に映って見えた。一瞬脳裏をよぎったのは、昨年部に復帰しようとしていた希美とそれを拒否し続けるあすかとの凄絶なやり取り。何かがあると決まったわけでもないのに、妙に胸がざわつく。いや、大丈夫。今年はそんなこと起こるはずがない。そう自分に言い聞かせてみても、それからしばらくの間、心拍は不気味な高鳴りを続けていた。

 

 

「……大体、こんな感じで」

 それを結びの言葉にして、卓也は一通りの説明を終えた。

 個人練を終えた低音パートの一同がいつもの三年三組に集合した時、ちょうど卓也もそこにやって来て、彼の口から新しい練習プランの内容が発表された。それを聞いた上での反応はまさしく人それぞれで、効果のほどや意義に関しての推察もまた人それぞれだった。滝がその真意とするところを明かしていない以上、誰一人として答えらしい答えに辿り着くことなど出来よう筈も無い。けれど唯一それに近いと思える私見を述べたのは、緑輝だった。

「何となくですけど、滝先生はこの練習メニューを通じて部全体の即応力を鍛えるつもりなんじゃないかな、って気がします」

「ソクオ……? どういう意味?」

「『即、応じる力』と書いて即応力、です。今までは先生にこう吹いてと要求されても、その場ですぐ音に出来る場合もあれば時間が掛かってしまう場合もあってまちまちでしたよね。府大会まではそれでも良かったかもですけど、これから関西大会までの短い時間で一気にクオリティを上げようと思ったら、一度合わせる度にどんどん音を変化させるぐらいのスピードじゃないと多分間に合いません。そういう能力を少しでも鍛えるために滝先生はこの練習を導入しようとしてるんじゃないか、って緑は思います」

「素晴らしいです! 川島先輩は流石、他の人とは違いますね。説明不足な顧問の方針にも、ここまで深く洞察されていらっしゃるなんて!」

「あー月永、悪いけどそのへんにしといて。それやられると某部長サマの昨年度を思い出して、私のイライラが一気に限界来るから」

「月永って呼ばないで下さい」

「うわっ。いつもながら川島以外には塩対応だね、キミ」

「中川、それに求も、ちょっと静かにしろ。とにかく実際にやってみれば解る。滝先生はそう言ってた」

「ですね。まずはやってみないと」

「それじゃ、始めるぞ」

 かくして早速、新プランでの練習は開始された。まずは楽器を持たず声で楽譜を歌うソルフェージュ。これ自体は普段からも取り入れている練習メニューなのだが、この時点からいつもとはまるで異なり、卓也は曲練さながらの鋭い指摘を容赦なく飛ばしていった。

「月永は音を端折らず最後まで伸ばし切る。それと夏紀、クレッシェンドもっとしっかり」

「はい」

「ただのソルフェージュと思わずに楽器で吹いてるイメージで、表現をもっと大げさにつけること」

「はい」

「ところで後藤くん。今の八分音符の(ゲー)、音が外れてたよ」

「……ごめん」

 梨子に指摘され、逆の立場となってしまった卓也は気まずそうにガリガリと鼻の頭を掻いた。こうしてきれいに揃うまで数回ほどソルフェージュを合わせた後、楽器でのロングトーン、そしてスケールといった基礎練習へと移っていく。

「みんなもさっきの梨子みたいに、気付いたことがあったら俺に構わなくて良いから、どんどん意見言い合うこと」

 卓也のその提言もどうやら新プランの一環らしい。音を合わせながら互いに指摘を飛ばし合うことでチェックは飛躍的に厳しさを増し、ほんの僅かな乱れもすぐに自分以外の誰かによって拾われる。それを繰り返してピタリと音が合えばようやく次の段階へ進める……といった流れは全ての場面で厳格に実行されていった。

 ここまでのメニューがようやく済んで、今度は短いコラールをみんなで合わせる合奏練習。この工程が一番、普段の練習とは異なる内容であった。平素は予め用意された曲の譜面に書かれた通りを確認程度に吹くだけで終わる。ところが新プランでは音の表情、すなわちアーティキュレーションのパターンを卓也の指示で随時変則的に入れ替えてゆく。例えば先ほどは全体的にレガートで吹いていたものを、今度は全てスタッカートに置き換える。それが合えば次はスタッカートとレガートを織り交ぜる。そのさらに次は音の強弱やクレシェンド、デクレシェンドなどを各所に混ぜる……といった具合に。

 この時点で練習開始から既に一時間以上が経過していた。にも拘わらずコラールを合わせ始めてからの数十分、一同はひたすら地味に音合わせをするだけの時間が続いている。けれどそれに飽きを感じる間もなく、奏でる音はどんどん変化を余儀なくされる。一つのパターンが完璧に揃うまで何度でもやり直し、揃えばまたすぐ次のパターンへ。そうやって反復される一連の作業は吹く者の意識に惰性の介在を許さず、目の前の音符に対して初見の曲を演奏する時のような緊張感と注意とを恒常的に求め続けていた。自然、集中力は従来の練習と比べて倍以上の速度で消耗してしまう。

「はー、これキッツ」

 何十回目かの合わせを終え、夏紀がマウスピースから口を離すと同時に天を仰いだ。

「これやってると、吹き慣れた曲を毎日同じように吹いてる方が、遥かにラクに感じるよ」

「それに、合ったそばからすぐ変えるっていうのもけっこう難しいっていうか、なかなか追いつかないよねぇ」

 頬に手を当て、梨子は疲労も隠さず溜め息をつく。疲れたらすぐに三分間休憩、というのもプランの一環らしく、そこで卓也たちはいったん楽器を下ろすことにした。

「これ、あと何回やるんですか?」

「滝先生が言うには、一音ずつでもいいからアーティキュレーション換えて最低でも三十パターン、慣れて来たら毎日五十パターン。それが終わるまで曲練禁止、って」

 美玲と卓也の問答に、げぇ、と夏紀が辟易の声を上げる。練習用に使われるコラールはごく短いものなので一度の演奏につき数十秒程度の時間しか要さないが、現状のように何度もやり直しをしていれば一パターンが整うまでに早くとも数分は掛かる。それを三十回、となると、ノルマをこなすだけで実に半日分の練習が終わってしまう計算だ。

「けど、やってみて解った。俺も含めてみんな、音の微妙な処理に甘いところがまだまだある。こうやって変化をハッキリ付けると、ちょっとでも揃ってないところとか、吹き分け切れてないのがすぐに出る」

 アーティキュレーションをはっきりと、違いの分かるように。吹奏楽では日々の練習や合奏の中で口酸っぱく言われることだ。今の北宇治にとって、それを実行すること自体はさほど難しくはない。しかしこの新プランにおいて求められる精度や確度は、今までのそれと比較にならないほど段違いに高くなっている。これまでなら見逃されてきたようなほんの僅かな揺らぎですらも、全員のチェックによって一つ残さず拾い上げられてしまうほどに。

「滝先生の狙いって、こういうことなのかもな。聴くのも吹くのも含めてもっと音に対して敏感になって、色んな音の出し方をいつでも吹き分け出来るように、っていう」

 ようやっと合点が行った、とばかりに卓也は唸りを上げた。この練習を通じて実際に問題点が見えてくると、それが音作りの上で極めて重要なものである、ということに改めて気付かされる思いがする。コンクールにおいて技術と表現は概して分けて評価されるものだが、どちらも同じ『音』によって紡ぎ出されるものであることに変わりはない。

 もちろん、譜面に記された表現指示を守ることは演奏上の大原則である。けれど実際のところ、より優れた演奏をするためにはそうした記述のさらに奥、言わば行間にあるものを読み取って音へと換えていく必要がある。つまりはその認識に各人ごとのズレが僅かにでもあれば、それは表現のズレにも直結するということだ。それを滝の指示に基づいて迅速かつ的確に修正し、揃え、より良い音を求められればすぐに音にして返す。これが出来るようになれば、今までと同じ合奏時間であっても北宇治の音楽は数段以上の速度で高められることだろう。それをして『即応力』と呼ぶならば、緑輝の読みはこの点、確かに的を射ていると言えそうだった。

「先輩、大丈夫ですか?」

「え、」

 久美子ははたと顔を上げる。そこには美玲の顔があって、こちらを心配そうに覗き込んでいた。

「さっきからずっと、元気ない感じですけど」

「あー。ううん、何でもない。大丈夫だよ、みっちゃん」

 そう返答すると、美玲は安堵と嬉しさの入り混じったような微笑を返してくれた。

「もしかして久美子ちゃん、ミーティングの話、まだ引きずってる?」

 美玲の隣に座る梨子にも気遣われ、そんなんじゃないです、と久美子は両手を振ってみせる。それは本当だった。むしろあの話が出たことで、自分の中の不安も覚悟へと形を変えたという実感があるぐらいだ。そこに今さら心を煩わせるようなものなどこれっぽっちも無い。そう、あのミーティングが終わったところまでならば。

「ならいいけど、さっきから黄前は集中できてない。音の長さも全体的に短く切れてるし。ちゃんと充分に伸ばし切るように」

「はい、すみません」

 卓也の注意を受け、久美子はかぶりを振って気を引き締め直す。そうだ、今は余計なことに気を取られている場合じゃない。これから練習の内容はどんどん密度を増していく筈だ。そんな時に集中力を切らしていたら、あっという間に置き去りにされてしまう。ほんの小さな差でも関西大会では命取りになる。自分がその原因になってしまうわけには、絶対にいかない。

 いったん忘れよう。あすかと、希美のことは。それはまさにそう自分に言い聞かせた直後のことだった。

「あすか先輩、お帰りなさい!」

 ガラリと開いた引き戸へ向けて、まず最初に出迎えの声を上げたのは緑輝だった。場の全員がそこに立つあすかへと視線を向ける。と同時に、その奥を見た久美子の背筋は一瞬で凍り付いた。

「みんな早速やってるねぇ。感心感心」

 あすかは何食わぬ顔で扉を閉め、コツコツと靴音を立てながらこちらに近付いてくる。口をへの字にしている夏紀に、きっとあの瞬間は見えていなかったのだろう。疲労の色を隠せぬ彼女はたまりかねたようにあすかへ愚痴をこぼし始めた。

「あすか先輩、この新しい練習法、めちゃくちゃキツいんですけど」

「だろうねぇ。まあでも、小一時間もやってるうちにコレの『狙い』が何なのか、みんなも解ってきたんじゃない?」

「そりゃ、まあ」

「これはあくまで課題そのイチであって、明日からは今やってるのとは別のメニューも追加になるから楽しみに待ってなさい。これぐらいの内容はとっととこなせるようになっとかないと、基礎錬ばっかで曲合わせる時間無くなっちゃうかもよお」

 皆を脅すかのようにあすかが整った顔を嗜虐的な形に歪める。その恐ろしさに、ひぃ、と梨子やさつきが小さな悲鳴を上げた。

「さて、今日はこのままアンタらの練習見てあげちゃおうかな。けどダラダラやってる暇なんか無いからね。早いとこコツ掴んで明日からの練習にきっちり対応すること。分かった?」

「はい!」

 ここまでの間、久美子は閉じられた教室の戸を凝視したまま全くと言っていいほど動くことが出来ずにいた。吸い込む息すら浅く、瞼は張り付いたようにピクリとも動かず、乾いた眼球が血を噴きそうなほどに痛い。その目で無理やり引っ張るように、首をぎこちなく動かし、久美子はあすかを焦点に置く。

「あすか、先輩」

「ん? どしたの黄前ちゃん」

「あの、」

 喉がひりつく。顎がうまく開かない。震える唇を一度舌でなぞり、食いしばるように引っ込めてから、久美子は尋ねた。

「さっきまで希美先輩と、どんな話、してたんですか」

 刹那、ビリッ、とあすかの全身から静電気のような鋭気が迸った。答えを寄越さぬあすかが代わりにこちらをじいっと見つめる。その時点でもう、久美子の切迫感は極度に達してしまう。無意識のうちに握り込んだ拳がガチガチに固まっている。指を開こうとしてもどうにも動かず、それどころか全身のあらゆる筋肉がまるで言うことを聞かない。仮にあと数秒でもその状態が続いたならば、緊張に堪えかねた身体はきっと痙攣を起こしてしまっていただろう。

「ちょっとした人生相談」

 へらり、とあすかは軽薄な笑みを浮かべる。なあんだ、とはならなかった。だってそれは、あすかが自分に対して嘘をつくときの明確なサインだと、知っていたから。

「だから、黄前ちゃんが気にすることじゃないよん。今はね」

 優しく撫でるような手つきで、あすかが久美子の頭をポンと叩く。それを合図に、逼塞し切っていた久美子の呼気は一斉に漏れ出てしまった。

「さあ、こんなお喋りしてる暇なんて無いでしょ? この多忙なあすか先輩がせっかく見てあげようって言ってんだから、もたもたしてないで全員さっさと楽器構える。ホラホラ」

 あすかに急き立てられた卓也たちは慌てて練習の体勢に戻る。この時の久美子は正直、それどころではなかった。くたりと椅子にくずおれた全身は、まるで関節に通した糸をプツリと切られた操り人形(マリオネット)みたいに、力を込めても全く反応が無い。どうにか背もたれに肘を押し付け座っているような姿勢を保つのが精一杯だ。練習に集中しなければ。ついさっきそう思い直したばかりなのに、今は暴風雨に晒された痕のように、己の心が搔き乱されていた。

 だって、あんなものを見てしまったら、平然としていられる筈がない。その光景を、隣に座る夏紀が目撃していなかったらしいことだけが唯一の救い。そう思うより他は無かった。もしも彼女があれを見たならきっと、矢も楯もたまらず教室を飛び出したか、あるいは練習などそっちのけであすかを責め立てたに違いなかったから。

 戸が締まる寸前、あすかの背後を通り過ぎた希美。彼女は口元に手を当てて静かに、けれど激しく、慟哭していた。

 

 

 

 

「はい、こんにちは」

「こんにちは!」

「おぉー、今年の北宇治はのっけから元気が良いねぇ」

 部員一同の高らかな挨拶を受け、壇上に立つ彼は満足そうな顔つきで無精ひげの目立つ顎髭をさすった。

「上級生のみんなはお久しぶり。一年生の子らは初めてだから、改めて自己紹介ね。(はし)(もと)(まさ)(ひろ)です。プロのパーカッショニストとして、北宇治OBとして、今年もみんなをビシバシ指導させてもらうんで、どうぞよろしく」

 野太い声がガラガラと、馴れ馴れしく口上を述べる。橋本の夏用ジャケットは今年もと言うべきか、センスを疑うような装飾や色使いの施されたド派手なものだった。続けて橋本と立ち位置を替わるように登壇したのは同じく、今年も北宇治の指導を行うために来てくれた特別顧問の一人だ。

(にい)(やま)(さと)()です。今年も皆さんの音楽と関わることが出来て、嬉しく思います。私は主に木管の皆さんの指導を担当することになりますが、少しでも疑問や不安に感じることがあったら遠慮せず、いつでも聞きに来て下さい」

 うやうやしくお辞儀をする新山の姿に、一年と思しき幾人かが感嘆の吐息を洩らす。昨年、その美貌と存在感から「ひょっとして滝の婚約者なのでは」と噂されたこともあった彼女は、恐らく今年も一年生の間に困惑と疑念を孕ませているに違いない。教壇を降りた新山がみぞれに向けて軽く会釈し、みぞれもそれに応じるように小さく頷いたのが、久美子の視界の端をかすめた。

「それじゃあまずは一発目の合奏で、みんなの今の腕前を聴かせてもらおうか。滝クン、頼むよ?」

「勿論です」

 穏やかに返事をして指揮台に立った滝が、パラパラと楽譜をめくる。久美子は意識を切り替えるようにそこで小さく息を吐いた。昨日の合奏では、滝からの相当に細かく綿密な指示が余すところなく全員に飛ばされた。それに昨日一日で即追従できた人は流石にそう多く無い。久美子個人にも新たに追加された課題が山ほどある。それらをどれだけ的確かつ速やかに修正できるかが、三週間後の出来高に直結する。これからの合奏は一回一回が真剣勝負そのものだ。

「それでは自由曲、第三楽章。頭から通しで行きます。昨日の合奏でも言いましたが、これからの大きな課題はより深く豊かな表現力です。今まで以上に表現性の高い演奏が出来るよう、出した指示には素早く音で返して下さい。ですがそこに気を取られて音が縮こまったり、固い演奏になってしまっては元も子もありません。求められる要素は幾つもあり、そしていずれも高い水準が必要です。まずはその認識をしっかり持った上で自分たちの現状を把握しましょう」

「はい」

 楽譜を第三楽章のものに替え、楽器を構える。第三楽章は冒頭オーボエとフルートのソロから始まり、全編を吹き切ったオーボエソロが最後に単独の即興的演奏、いわゆるカデンツァを奏でて幕を閉じる。この第三楽章が現状、全曲の中でいちばん演奏が噛み合っていなかった。端的に言えば、下手ではないが味気も無いといった具合だ。この合奏で滝が最初にこの曲を合わせることを選んだのもきっと、そのへんの状況を鑑みてのことなのだろう。

 滝が腕を振り、みぞれが小さく息を吸い、そして演奏は開始される。橋本は顎をさするように抱え込み、じっくりと一つひとつの音に耳を傾けていた。けれどそのうち彼の視線はみぞれと希美を交互に行ったり来たりするようになり、やがて困り果てたようにその表情を大きく歪めさせる。

「はい、ありがとう」

 社交辞令的にそう述べた橋本は、んー、と喉を鳴らしながら、フルートとオーボエのちょうど中間あたりを指差した。

「二人のソロ、ちょっと上手くいってないんじゃないの?」

 半ば予想されたその指摘に、希美の身体が微かに揺れたのが見える。一方のみぞれはおもむろに俯き、何やら右手で横髪を弄るみたいにスルリと動かした。

「府大会を抜けたわけだし、二人とも基本的な水準は高いと思う。でもね、よくよく聴いてみると二人とも音がバラバラ。それに面白みも全然無い。メインがそんな風になってるせいで、全体の音もなーんかチグハグな印象になっちゃってるんだよねぇ、うまく噛み合ってないっていうかさ。ええと、こういうの何て言うんだっけ滝クン?」

「そんな風に聞かれましても、私は超能力者でもありませんし、橋本先生のイメージは分かりかねますよ」

「相変わらずつれないなぁ滝クンは。そこはウソでも『倦怠期じゃないですか?』とか、何か適当にボケて僕が突っ込むところでしょ」

「あいにくですが、私は橋本先生と漫才をするつもりでお呼びしたわけではありませんので」

「ちぇっ。ホーント滝クンって、昔っからこうなんだよねぇ」

 渋面の橋本が入れたボヤきに、部員の側からも苦笑の音が洩れ聞こえる。しかして今の久美子は、それに同調する気には全くなれなかった。

「とにかく二人がこのままじゃあ、いくら全体の表現力が上がったって宝の持ち腐れだ。ひとまずオーボエとフルートのソロ二人は後で新山先生にガッツリ集中指導してもらうこと。それ以外の皆は今出来ることとして、表現の引き出しをドンドン作っていこうか」

「はい」

「いいかいみんな。今はこんな細かいところまで突っ込まれて正直しんどいって思ってるかも知れない。けど細かい表現ってのを自在に使えるようになったら、音楽はもっともっと面白くなるからね。音楽はどこまでも音を楽しむものだってこと、ちゃーんと頭に叩き込んどいてよ。いい?」

「はい!」

「よぉーしその意気だ!」

 やる気に漲る部員たちの返事に満足したのか、橋本は豪快に声を上げた。その後も合奏は続けられ、挙がった問題点はさながら天から降り注ぐ矢雨の如く久美子たちを穿つ。それから数時間後、ちょうど予定の刻限を迎えたところで後は各パートの個別指導ということになり、その日の合奏は終了した。

 

 

「それにしても橋本先生、あすか先輩の顔見てビックリしちゃってましたね」

「まあそりゃあそうだろうね。橋本先生だって私のこと覚えてただろうし、いろんな意味で。にしても酷いと思わない? 部室に入ってくるなり化け物でも見たような声上げて、開口一番『キミ去年三年生だったよねぇ?』なんてさ」

 パート練習は一区切りを終え、休憩の時間を迎えていた。梨子やあすか達が楽器を置いて談笑する中、久美子は教室を出てお手洗いへと向かっていた。

 滝らによる新プランに基づいた練習法は、短い時間でも精神と体力を大いに消耗する。その状況でダラダラと練習をしても却って身に付かず、それどころか適当に吹いた音と吹き方が体に染みついてしまい、さらにその是正に要らぬ労力を払うこととなりかねない。こうした悪循環を避けるためか、練習中の小休憩は今までと比べて減るどころか回数が増えるようになった。短い時間で最大限集中し能率を高める、という手法は一種のインターバルトレーニングのようでもあったが、それが功を奏するかどうかはまだ何とも言えない。今は滝の言うことを信じ、出来ることを全力でやり切るより他は無いのだ。

 かくしてお手洗いを済ませた久美子はチラと腕時計を見やった。まだ少しばかり時間に余裕がある。ついでに水分補給もしておきたい。水筒にはお茶が残っていた筈だが、どちらかと言えば今は真水を口にしたい気分だった。久美子は少し遠回りをして廊下の一角に置かれた水飲み器を目指す。と、どこからかオーボエとフルートの合わさった音色が久美子の耳を穿つ。

「今のって、」

 それは第三楽章のソロパート、つまりみぞれと希美の奏でる音だった。この近くで練習しているのだろうか? と久美子は首を巡らせる。先の合奏で橋本や滝から言い渡された、彼女たちの集中指導。それはどうやら廊下の端にある空き教室で行われているみたいだった。

「――悪くはないんだけど、やっぱり音が窮屈そうにしてるわね」

 そろりと戸の前まで近付くと、内側から新山の声がやけにハッキリと響いてくる。かねてよりの問題である二人のソロは、現役のプロ奏者である新山の集中指導をもってしても一朝一夕で改善とはいかないらしい。

「ちょっと聞きたいんだけど、二人はこの第三楽章のソロを、どんな風に解釈しているの?」

「かい、しゃく」

 少しどもったように呟いたのは、きっとみぞれだろう。二人とも質問に対する答えを考え込んでいるのか、しばし沈黙の時が続く。

「鎧塚さんの解釈はどう?」

「……わかりません、私には」

 深呼吸を三度するのに充分なだけの間を置いたあと、みぞれが呟いたのはただそれだけだった。

「傘木さん、あなたの解釈は? ここでのフルートソロを、どんなものだと考えてる?」

 新山は希美にも水を向ける。ガサリ、と教室内の何かが小さくうごめくような音。ややあって希美は、彼女なりの答えを新山に告げた。

「空に向かって飛び去る青い鳥。その姿を、離れていてもそっと寄り添うように見守っている――そんな『リズ』の心情です」

 それを聞いた瞬間、久美子の頭の中は真っ白になっていた。寄り添うように、だって? そんな殊勝な発想が、あの希美から自然に出てくる筈が無い。だって、希美という人間が心に抱いていたのは。あの時、希美が言っていたのは。

 

『こういうカッコいいソロのある曲を、コンクールの本番で思いっ切り吹きたいなあって』

 

 

 がたん。

 

「誰か、そこにいるの?」

 は、と久美子は我に返る。今のは新山の声だ。湧き出る思考に意識を奪われた結果、うっかり肩で引き戸を軋ませてしまったらしい。こんな時になんとも間が悪い、などと思う暇すらもなく、目の前の戸がガラガラと開け放たれていく。そこに立って自分を見下ろしていたのは、希美だった。

「久美子ちゃん……」

「す、すいません」

「黄前、さん? どうかしたの?」

 新山にも認識されたことで、いよいよ久美子は無言でその場を立ち去る訳にもいかなくなってしまった。どうも、と頭を下げながら釈明のために教室へと入る。教卓前の机は移動され、ぽっかりと開いた空間には新山の席が、その対面には各々の譜面台を挟んで希美とみぞれの席がそれぞれ設けられていた。みぞれの表情はいつも通りで殆ど変化は見られなかったものの、まるで予想外だったであろう闖入者の姿に、彼女の双眸はいくぶん驚きの色で覆われているみたいだった。

「本当にすいませんでした。邪魔するつもりはなかったんですけど、先輩たちがどんな練習してるのか気になっちゃって、その、」

 狼狽しつつも頭に浮かぶ単語を繋げ、それらしい言い訳を紡ぐ。この土壇場の状況ではもうそうするより他に無かった。そんな久美子の白々しさを汲み取ったかのように、新山は口に手を当ててクスリと吐息を震わせる。

「別にいいのよ。そうね、二人の練習を見るのは黄前さんにとっても良い勉強になると思うし。それに私以外の誰かに聴いてもらいながら吹くのも、鎧塚さんと傘木さんの刺激になって良いかも知れないわね。黄前さんさえ良ければ、見学のつもりでちょっと見ていかない?」

「え。いや、そろそろ休憩時間も終わっちゃうんで。私パート練に戻らないと」

「いいじゃん。せっかくなんだし、見ていきなよ」

 そうは言われても、と久美子は振り返る。目の前にあったのは、うっすらと口角を持ち上げた希美の、深い夜闇を思わせる真っ黒な二つの瞳だった。

「なんだったら、私も久美子ちゃんと一緒に謝りに行ってあげるし。それなら私の責任ってことになるでしょ。だから、ほんのちょっとだけ。ね?」

 笑顔のような表情とは程遠い感情に紐づけられた、底知れぬ漆黒の瞳。その深淵に覗かれた久美子の全身は髪の毛一本に至るまで委縮してしまう。無言で頷き、久美子は近くの椅子を引いてその場に座した。帰るな。ここに居ろ。そう語る瞳の前では、それ以外の行動を取ることは許されなかった。

「黄前さんに一度聴いてもらって、それで率直な感想を聞いてみましょう。生徒同士、客観的な立場からの意見もお互い参考になると思うわ。じゃあまずは初めのところから――」

「すみません新山先生。その前に一つ、いいですか」

 おもむろに手を挙げた希美に、どうぞ、と新山が発言を促す。愛用のフルートを握り締め席を立った希美は、新山にはっきりと宣言した。

「私、本気で、音大に行きたいと思ってるんです」

 

 

 

 



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〈15〉合宿開始

 一切が、まるで電池を抜いたように、ぴたりと静止していた。

 ゴクリと唾を呑み、それから久美子はまずみぞれを見る。彼女は希美のその言葉にさして驚いたような素振りでも無い。みぞれはただ、普段よりもほんの少しだけ温度を感じさせる色を瞳に浮かべながら、じっと希美のことを見つめていた。

「傘木さんが音大を志望していることは、前にも聞かせてもらったわね。私も応援してるわ。それで、どこの大学を受けるかはもう決めてあるの?」 

 希美に問い掛ける新山の声色はとても優しかった。その表情にも、希美の意志をまるごと抱擁するかのような微笑みが讃えられている。しかし彼女の両の瞳には、指導者として日頃見せる慈愛に満ちた穏やかさではなく、相手の真意と覚悟を推し量ろうとする鋭利の色がたっぷりと塗り込められていた。その寒気すら覚える厳しさの片鱗を、久美子は新山の内側に、確かに見出していた。

「まだ決めてません」

「そう。まあ、まだ具体的な志望校が絞り切れなくてもしょうがないわよね。それはそれとして、基礎練習はどうしているの? どなたか先生に付いてレッスンを受けたりはしてるのかしら」

「それもまだです」

「それなら早く良い先生に教わった方が――」

「でも、音大に行きたいんです。どうしても」

「それは何故?」

 発言を遮られても気に障る様子も見せず、新山は重ねて希美に問う。このとき久美子は、今すぐにでもこの場から逃げ出したいとすら思っていた。傍目にはただの進路相談とでも形容できるこの光景が、白刃をぶつけ合う決闘のさなかであるように映って仕方ない。次の一瞬どちらかの喉笛が斬り裂かれ、ぱっくりと口を開けたそこからおびただしい血飛沫が飛ぶことになる……そんな連想を抱かずにはおれぬほど、ここには危うい気配が充満していて、さっきから肌がぶつぶつと粟立っているのが触れずとも解る。

「フルートが好きだからです。フルートで、好きなことで、誰にも負けたくない。だから私は音大に行って、そして夢を叶えたいんです」

「それは本当に、傘木さんの思っていること?」

 一旦そこで会話が途切れる。言葉で答えを返す代わりに、希美は無言で新山と視線を交わした。恐らくは彼女のありったけの感情を、そこに込めて。

「解ったわ」

 しばしの沈黙の後、ふう、と新山は息を一つそこへ落とす。

「それで、傘木さんは私にどうして欲しいの?」

「先生に聴いて欲しいんです。私の、全力の演奏」

 早口で告げると共に、希美は譜面台の楽譜をパラパラとめくった。

「第三楽章『愛ゆえの決断』。ここのフルートソロを、今からカット無しで吹きます。それを新山先生に聴いて欲しいんです」

 希美のその発言に、久美子の気道はがふりと詰まる。滝の施したカットにより、フルートのソロは単体で目立つ箇所の殆どを削られていた。つまり今この場でカット無しの譜面を吹くことは、コンクール用の練習としては何の意味も成さない。それを希美はあえて吹こうとしている。新山に聴かせようとしている。それは何のために? 希美の意図を量り切れない久美子には、ただただ場の空気を搔き乱さぬよう努めて息を潜める以外に成す術は無い。

「それを聴いて、傘木さんの演奏を評価すればいいのね。黄前さんや鎧塚さんも一緒に聴くことになるけど、それでも良い?」

「大丈夫です。お願いします」

 まるで最初から久美子たちなど視界に入っていないかのように、新山だけを見据える希美が敢然と返事をした。こうなってはもはや退室の言い訳など捏ねるだけ無駄だ。腹を括った久美子は姿勢を正し、みぞれがそうしているように己が聴覚へとひたすら意識を集中させる。

「じゃあ、吹いてみて」

 はい、と返事をして希美はフルートを構えた。彼女の全身にピンと張り詰める緊張感。ブレスの感覚を確かめるように唄口に軽く息を吹き込み、下唇をそっとリッププレートに添えて、そして希美は彼女の持つありったけを、新山の前に披露した。

 

 

 滝考案の新プランにも部員たちがすっかり順応してきた頃。三日間のお盆休みを挟んで、ついに合宿の日がやって来た。

 去年もお世話になったこの宿泊施設。今年はサポートメンバーを含めてかなりの大所帯になったこともあり、管理棟内の研修室がコンクールメンバーの合奏用、施設に併設された体育館がサポートメンバーの練習用、と振り分けられている。その研修室には既にサポートメンバーの手によって譜面台や椅子といった用具が並べられていた。まずは自分の席に腰を下ろし研修室内の香りを懐かしみつつ、久美子はそこで一つ溜め息を吐く。

 今年の合宿が去年にも輪を掛けて厳しいものになるであろうことは、とっくに予想がついていた。関西大会まであと十日あまりという状況の中、全員の音は着実に磨きの度合いを増してはいるのだが、それは必ずしも求める結果を保証しうるほどの盤石さでは無い。それらの課題を集中的に見直し、あるいは潰していくための最後のチャンスとも言えるこの合宿。ここでどれだけ北宇治の表現力を高められるかがそのまま関西大会の結果に直結する、と言っても過言ではないのだ。

「では只今から二泊三日の合宿練習を始めます。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 優子の号令につられるように、全員が壇上の滝に向かって勢いよく一礼をする。

「今日午前中の合奏ではまず、課題曲と自由曲を総ざらいしていきます。そこで上がった問題点を、午後の自由練習の時間を使ってパート同士で合わせながら、細かいところまで調整を掛けて下さい。その後、三時からは夕方まで再び合奏です。そこでは修正状況を確認しつつ更にもう一段、全体的な表現の追求に挑んでいきます」

 滝が部員たちをぐるりと一望しながら、一日の練習スケジュールを口頭で説明していく。

「府大会終了後のあの日から、皆さんの音は確実に良くなっています。ここが正念場です。もう一段と言わず何段でもより良い表現、サウンドを作り上げ、本番当日に最高の音楽を奏でられるようにしましょう。今回の合宿でも橋本先生や新山先生、それと田中さんには気になった個所をどんどん指摘していただきますので、皆さん速やかに対応していって下さい」

「はい」

 窓際となる研修室の前方、滝の隣には新山たちと肩を並べ、コーチ役としてあすかも腰を下ろしていた。こちらの視線に気付き、あすかは呑気にも親指を立ててウインクをしてきた。それに申し訳程度に手を振って応じ、久美子はユーフォを構える。

「では始めましょう」

 滝の指揮に合わせ課題曲の冒頭を吹き鳴らす。あの日以来、滝の要求方法は必ずしも口での注意に留まらない。その手指、身振り手振り、視線、そして呼吸といった彼の全ての動きには、楽曲に対する『こうあれ』という微細なニュアンスが込められている。奏者はそれを汲み取りつつ、すかさず音として表現に換えることを常に求められていた。当然、それに応えられなければすぐさま厳しい指摘がなされるのは今までと同じである。

「トロンボーンのCの部分はまだ響きが足りません。音量にばかり気を取られがちですが、重要なのは響かせることです。楽器のすみずみにまで息を通し神経を張り巡らせ、『鳴っている』という感覚を出して下さい」

「はい」

「サックスの刻みは先日に比べて随分良くなってはいるけれど、まだ少し重く感じます。ここはトゥントゥトゥトゥー、ではなく、トゥットトトゥン、と鋭いイメージで吹いてみましょう。そして一つずつの音も平板に吹くのではなく、連続した音の中での強拍と弱拍を意識してみて。いい?」

「はい」

「シロフォン! 今の場所、微妙に乗り切れてないよ。君がもたついてちゃあその上に乗っかる木管が合わせにかかれない。周りを伺ってないで、自分がリードして他の音を引っ張ってやろうって気持ちで行くべき場所だよ、ここは」

「はい!」

「低音パート、P直前の主張が少しうるさい印象です。ここはクレッシェンド指定ですが、一音ごとに重みをつけるように音量を上げつつ決して機械的に、例えばそう、角ばった階段状に大きくするわけではないのだと心掛けて下さい。そしてピークを迎えるPからどれぐらいの音で吹くか、その計算を念頭に置くように」

「はい!」

 音を合わせる度、指導陣からの指摘が矢継ぎ早に飛んでくる。それに従って音の形は次第に定まったものへと固められていく訳なのだが、その途上でもっと良いものが見つかればそちらに方向修正することも辞さない。例えばこんな風に。

「今のクラリネットの華々しい音の感覚は素晴らしい。フルートはこの箇所、先程のクラに合わせられますか?」

「はい」

「では、次からはそれで統一します」

 そして次の合わせでフルートの音はすかさず変化し、きっちりクラリネットと揃った音を奏でてみせる。こんな調子で秒を追うごとに、北宇治の演奏は一箇所また一箇所とブラッシュアップされていった。

 新プランが北宇治にもたらしたものは何よりもこの順応速度、先日緑輝が『即応力』と呼んでいたものだった。これまで練習してきたものを更に研ぎ上げるだけでなく、それまでのやり方をガラリと入れ替える、楽器ごとの鳴りや残響の違いを意識して吹き込みの長短を調整する、複数の吹き方を試してより良いものを探求する、といった様々の要求に対しても今の部員たちは俊敏に対応し、それを何度合わせても同じように再現出来るまでになっていた。

「そろそろ時間も押してきましたし、午前最後の合わせは第三楽章を重点的にいきます」

 はい、と返事をして久美子は楽譜を差し替える。課題曲と自由曲の大半はおおむね形が見えつつあったが、件の第三楽章だけは未だに滝らの納得行くものを出せてはいなかった。みぞれと希美が素早く演奏態勢を取り、そして二人の音を皮切りに、薄暮の空を物憂げに滑空するような音楽が研修室に漂う。

「新山先生は今の演奏、どう思いましたか」

 一度通し終えてすぐ、滝は新山に意見を求めた。

「そうですね。まず、傘木さんの音はだんだん良くなっています。鎧塚さんの音を聴いて寄り添えるようになってきている。とても丁寧に吹いていて、求められた役割をしっかり理解しているという感じね」

「はい」

「けれど鎧塚さん。あなたの演奏はそれで、本当にいいの?」

 新山に問われ、みぞれの肩が小さく動く。

「あなたの音がどうしても、私には窮屈に聞こえてしまう。あなたならもっと情感を込めた、美しい演奏が出来る筈だわ。怖がらないで、自分の音をもっと思い切り主張してみてもいいのよ。今の北宇治のみんなならきっと、あなたの実力に追従するだけの演奏だって出来る」

 新山の提言に滝も頷き、そして言葉を継ぎ足す。

「私も鎧塚さんなら、もっと優れた演奏をすることは可能だと思っています。この第三楽章、全体の演奏はあなたに沿って作られる。今のままでも充分とは言えません。目下、北宇治最大の課題は表現力。その鍵を握っているのはメインとなるあなたです。後の修正をするだけの時間は、まだたっぷりとあります。遠慮せず、あなたが持っているものを全てここで出し切って下さい」

「……はい」

 ぽつりと落とされたみぞれの返事はあたかも砂の上にこぼした雫の如く、場に滲みすら残さず消えていった。そんな不確かなやり取りに苛立ってか、橋本がバリバリと頭を掻きむしる。みぞれの演奏は決して下手ではないのだが、強いて言うならば色づきの浅い紅葉のように何とも物足りない印象で、その後の合奏でもどうしてもそれが拭い切れない状態が続いた。

「もう十二時を過ぎてしまいましたので、ここで昼休憩にします。午後から鎧塚さんは新山先生とのマンツーマンで指導を受けるように。他は予定通り三時の合奏までパート練習、ダブルリードパートは田中さんに指導をお願いします。合宿は三日間ありますがそれにあぐらをかかず、一分一秒を血肉に換えるつもりで取り掛かりましょう」

「はい!」

「それじゃ、起立。ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

 優子の号令で部員たちは一時解散となった。楽器を置いて昼食に向かおうとした久美子は、その途中でちらりとみぞれの様子を窺う。席に着いたままオーボエを握り締め、目の前の楽譜を注視し続けるみぞれ。小さく縮こまった彼女の後ろ姿が久美子には、とても苦しがっているように映っていた。

 

 

 ユーフォの管に貯まった水をウォーター=キイから解き放ち、管体を振って残滓が無いことを確認する。俗に『ツバ』と呼ばれるこの水分は、実のところ奏者の呼気に含まれる水蒸気が管内で凝結したものであり、いわゆる唾液とはちょっと違う。ツバは楽器を吹いていれば必然的に溜まってしまう訳なのだが、音の乱れや汚れの堆積を防ぐ意味合いからこうして定期的に抜く必要があるのだ。

 次にマウスピースを楽器本体から取り外し、バシャバシャと流水に浸してきれいに洗い上げる。ハンカチで水気を拭き取ってからフッと吐息を吹き込むと、ひんやりと冷たいマウスピースは実に気持ちよく自分の息を通してくれた。

「久美子」

「麗奈?」

 この声は麗奈のもの。そうと確信して久美子は振り向く。

「そっちも休憩中?」

「うん、十分間だけだけどね。麗奈もマウスピース洗いに来たの?」

 麗奈の手元に輝くトランペットに目をやりながら久美子は尋ねる。ううん、と浮かぬ顔でかぶりを振る麗奈が、久美子の元へと一歩距離を詰めてきた。

「久美子のこと探してた」

「私を?」

「そう」

 ここじゃ何だから、と麗奈はそっと手招きをした。それにいざなわれるようにして、久美子は彼女の後についていく。施設中の至るところではそれぞれのパートがそれぞれの練習を行っていた。全員がまとまって音を合わせているか、それとも個人単位で己の課題に取り組んでいるかは各パート次第で、中には楽器を置いて木陰で休憩を取っているところもある。そんな光景を眺めつつ、二人は通路の端から屋外へと出る。

「こんなところまで来て、何か聞かれちゃまずい話でもあるの?」

 連れ出された先は施設裏手、建物の陰となるひと気の少ないところだった。こちらの質問に、麗奈はややためらったようにきつく唇を結ぶ。

「実はさっき、午後の練習が始まる前に私、みぞれ先輩のところに行ってきて」

「みぞれ先輩の? 何でまたそんなところに」

「優子先輩がみぞれ先輩のところに行ってたから、全員揃ったって伝えに。そのついでにと思って私、みぞれ先輩を励まそうとしたんだけど」

「励ますって、麗奈が? みぞれ先輩を?」

 おかしい? と麗奈は文句をつけるような目つきをこちらに向けた。別におかしくはないのだけど、それにしても麗奈が誰かを励ましている姿というのはどうにも想像がしがたい。しかも相手はあのみぞれだ。二人は日頃から特に接点があるわけでもなく、従って二人が会話をしている光景すら久美子にはとんと思いつかなかった。果たして麗奈はみぞれにどんなことを言って励まそうとしたのだろう。

「でも失敗した。却ってみぞれ先輩のこと不機嫌にさせちゃった。ホント私、こういうことに向いてない。久美子も一緒に連れてけば良かったって、すごく後悔してる」

「いやいや。流れ的に、そこに私がいるのはおかしいでしょ」

 そもそも麗奈だって、初めからみぞれを励ますつもりで彼女の元を訪れた訳では無かった筈だ。成り行き上そうなってしまったものに後悔の念を抱くだなんて、今日の麗奈は実に麗奈らしくない。

「だから、もっと別のタイミングにすれば良かった。今日の練習終わった後とか、消灯時間前とか」

「んー。それだったらまあ、分かるかも」

「けど、みぞれ先輩が窮屈そうにしてるのが、私にはどうしても我慢ならなくて」

「そういうとこ、麗奈らしいって思うけどね」

 率直に褒めたつもりの久美子に、麗奈はいくぶん拗ねたような表情を浮かべる。

「久美子はどう思う? みぞれ先輩のソロ」

 みぞれにはあんな演奏しか出来ないのか。その問いに対する答えは、とっくに用意できていた。

「私も麗奈とおんなじ。みぞれ先輩ならもっと吹けるはずなのに、って」

「だよね」

 ザア、と夏風が麗奈を吹きつける。黒く艶を放つ曲線が優雅に波を打ち、久美子の鼻先にはほのかに甘い麗奈の香りが届けられた。

「私、歯痒くて。今の北宇治ならきっとみぞれ先輩の全開の演奏にだってすぐ合わせられる。なのに肝心の先輩が何か我慢してるように吹いてて、それにつられて私もみんなもどこか低い天井につっかえてる感じがして。それがたまらなくもどかしい」

 麗奈の陶器みたいな白い手が彼女の肘を掴む。その指は微かに震えていた。

「麗奈的にはそこが、関西大会の結果を分けるポイントだって思うの?」

「関西どころか全国でだって金賞を狙える。そのぐらいのポテンシャルが、今の北宇治には充分ある」

 決然と言い切った麗奈に、ほお、と久美子は感嘆の吐息を洩らした。彼女がそうまで言うのなら、それは恐らく真実なのだろう。こと音楽に関して、麗奈の見立てには一つとして間違いなどある筈が無い。久美子にとって信仰とさえ呼べるその念は、微塵も揺らがぬものだった。

「たぶん滝先生も新山先生も同じこと考えてると思う。でも二人がどんなに指導しても、みぞれ先輩の演奏は変わらない。それを何とかできないか、って思ってて」

「麗奈は、その原因がどこにあると思うの?」

「分からない。分からないけど、もしあるとしたら、希美先輩」

 そこで麗奈は俯き、自らの思考を手探りするように少しずつ、言葉を紡ぎ始めた。

「希美先輩の演奏、合宿に入る少し前ぐらいからかなり良くなってるよね。それは私も認めてる。でもみぞれ先輩の方がいつまでもそれに合わせに行って、自分の演奏を抑え込んでる。それが全体の基準になってるから、結果的に二人の中間ぐらいのところに音楽が落ち着いてて、やりたい表現が全然出来てない」

 麗奈の言い回しはとても抽象的なものだったけれど、何となく要点は解る気がした。うん、という久美子の相槌を受け取って、麗奈は更に続きを述べる。

「みぞれ先輩は多分、心のどこかで希美先輩を信用してないんだと思う。自分の演奏に希美先輩がついて来れるって本気で思ってない。だから自分の演奏にブレーキ掛けて、希美先輩の音に合わせてる」

「私も、そう思う」

「でもあの場面では、フルートはあくまでオーボエに寄り添うだけだから、このままじゃいつまで経ってもみぞれ先輩は自分の演奏が出来ないだけ。だからって、希美先輩が思いっ切り吹けばいいってもんじゃない。あの場面でフルートに求められてるのは、あくまでオーボエの対話の相手になることだから」

「そうだね」

 そぞろに同意しつつ、久美子は思い出していた。それはあの日、音大受験への強い意志を新山に表明し、彼女に己の実力を測ってもらうべく全身全霊の演奏を行う希美の姿だった。

 

 

 

 

 第三楽章のノーカットソロを一人で吹き切り、荒く息を吐き出した希美は、新山に尋ねた。

『今の演奏、どうでしたか』

 それに対して新山は、それまでの微笑を崩さずにこう返した。

『とても良かったと思うわ。後は良い先生に見てもらって、大学の候補を絞って、それに向けて受験の対策をしていけば――』

『そうじゃなくて、』

 希美が苛立たしげに首を左右に振る。彼女のポニーテールが乱雑に跳ねるさまを見て、新山は出しかけた言葉を呑み込んだ。

『私、プロになれると思いますか?』

 再び尋ねた希美の瞳には、悲壮な覚悟が宿っていた。黙した新山の顔からもすうっと微笑みが引いていく。焦れるような空気。重苦しい沈黙。この場においては傍聴者以外の何物でも無かったみぞれと久美子は、ただただ新山が口を開くのをじっと待つばかりだ。

『はっきりした言葉が欲しいのね』

 新山を見据えたまま、希美は頷く。その意志の強さを受け取るように新山は一度瞼を伏せ、開くと同時にこのように、希美へ告げた。

『今のままでは厳しいと思う。これからも努力と研鑽を重ねれば、傘木さんならいつかきっと良いフルート奏者になれる。けど、だからと言って傘木さんの思っているような存在になれると言えるほど、プロの世界は甘くないわ』

 凄絶を極める新山の宣告。自分のことでもないのに、久美子は己の心を打ち砕かれたような気さえした。誰もが押し黙る中、虚ろに口を開いた希美はただ、そうですか、と力なく返事をしただけだった。

 

 

 

 

 あの日を境に希美の演奏は変わった。今まで以上に細部にまで神経を張り巡らせているのが、はたで聴いていても解る。ともすれば全面的に勝気ですらあった彼女の音楽はすっかり鳴りを潜め、と同時に場面に応じて身を翻し、抑えるべきを抑え、溶け込むべきに溶け込み、そして羽ばたくべきに羽ばたく。変幻自在の音を使い分けその場に相応しい音を奏でるようになった希美は、みぞれとの協奏においても己の役割を悟ったかのごとく、みぞれに沿って最適な音を紡ごうと努めていた。だが、それがみぞれには届かない。どういうわけか、そうした姿勢の希美を前にしてもなお、肝心要のみぞれはどこまでも希美に合わせようとし続けるばかりだった。

「……そんなことがあったの」

 一通りの顛末を語り終えると、麗奈は愕然としたように俯く。

「希美先輩が音大を受験するつもりなのは私も聞いてたけど、そんなことになってるなんて思わなかった」

「麗奈は、希美先輩が音大に入ってプロになれるって思う?」

 久美子の質問に、麗奈はしばし黙考し、そして首を振った。

「いろんな音大があるから一概には言えないけど、少なくとも一般的な器楽専門のところを受けるなら難しいと思う。学部とか学科にもよるし、高校三年から音大受験を目指す人もいるにはいるけど、それなりの対策は必要だし。まして、もう八月でしょ? 今からでも本腰になって取り組まないと間に合わないし、それですら時間が足りないぐらい」

「やっぱり、そうだよね」

「それにプロになる人って、やっぱり他の人とは何か違う、輝きみたいなものを持ってることが多いと思う。本人には言えないけど、私から見て希美先輩がそういうものを持ってるとは思えない。もちろんプロって一口に言っても色んな形があるし、本人の努力次第ではどうなるか解らないけど」

 それはもちろん久美子にだって分かることだった。自分たちの言うプロとは単に『音楽を生業にする人』という世間一般の意味合いではない。それは『特別』を置き換えた言い回しであり、恐らくは希美もまたその高みに手を伸ばそうとしていた。だからこそ新山の言葉が、麗奈の言葉が、久美子の頭にはことさら残酷に響く。

 音大に行きたい。プロになりたい。春頃にそう語っていた希美の口調は、あたかも小さな子供の描く夢物語のような、いたって現実味の無いものだった。けれど今の希美にとってのそれは、痛いくらい真剣な願いへと姿を変えている。彼女の意識をここまで大きく変えたのは、恐らくあすかだ。先日のあすかと希美の秘密の会談。人生相談、とあすかがうそぶいたその場できっと、希美は完璧に打ちのめされた。それが、希美を変えたのだ。

「その時、みぞれ先輩は何か言ってたの?」

「大した事は何も。きっと大丈夫、って希美先輩に声掛けたぐらいで、でも希美先輩はそれに何も返さなくて」

「そう」

「もしかしたらみぞれ先輩、そのことを気にしてるのかも知れないけど。本当のところはどうなのか、私にも分からない」

 下唇を噛み、久美子は遠くに視線を投げる。その遥か先には木陰に佇むフルートパートの面々に混じって希美の姿もあった。指導の為か、ピッコロの女子と同じフレーズを一緒に吹きつつ、その子の指導をしているらしい希美。彼女の胸中には何が渦巻いているのか。そして常日頃から彼女を見るみぞれがどんな思いを抱いているのか。その全てが何一つとして、久美子には分からなかった。

「ねえ久美子」

 麗奈の声にカツリと鼓膜を叩かれ、久美子は我に返る。

「第三楽章の二人のソロ。今ここで、私と合わせてみない?」

 えっ? と久美子は思わず瞠目する。

「別に良いけど、でも何のために?」

「何となく。私たちならどんな『リズ』と『青い鳥』になるかなって、急に確かめたくなって」

「あーでも、先輩たちに聴かれたらまずいかも。絶対いい気はしないよ。ホラ、希美先輩だってあそこに居るし」

「構わない。むしろ先輩たちに聴かせるぐらいのつもりで吹くから」

「相変わらず強気だなぁ麗奈は。……後でどうなっても知らないよ」

「もしそうなったら、私のせいにでもする?」

「それは無いけど」

 くすり、と笑みをこぼして、それから麗奈はトランペットを構えた。

「私がオーボエのフレーズ吹くから、久美子はフルートの方吹いて。楽譜無いけど、できる?」

「せいぜい頑張ってみます」

 謙遜しながらユーフォを抱き、確認のために軽く音を鳴らす。休憩を挟んだとは言え、吹き込みの感覚はまだ失せていない。フルートの箇所も多分、自分の耳が覚えている限りでは大丈夫な筈だ。「行けるよ」と頷き合い、それを合図に麗奈はトランペットに息を吹き込んだ。ベルから真っすぐ放たれる彼女の音が場を鋭く貫く。続けて久美子は、麗奈を支えるようにユーフォを奏でる。二つの音が足並みを揃え、真夏の空を悠然と飛翔した。音の形。抑揚。そして音色。久美子は耳と心を、ひたすら麗奈へと傾け続けた。麗奈の鳴らす音もまた、自分にぴったりと重なっていた。麗奈に引き出されるがまま。自分が彼女を高めるがまま。そんな音を響かせつつ絡み合うハーモニーに、久美子はしばし陶酔する。一通りを吹き終えた久美子はその姿勢のままで、率直な感想を述べる。

「なんか『青い鳥』っていうより、『金色の大鷲』みたいだったね」

「だね」

 などと言いながら互いに顔を見合わせた途端、それがたまらなく滑稽に思えて、久美子たちはつい笑い声を上げてしまう。二人の音も、気持ちも、一つに繋がっているみたい。そんな風に思えるこのひと時がとてつもなく愉快で、心地良かった。

「やっぱり久美子と吹くのって、すごく良い」

 目の縁からこぼれる涙を拭いながら、麗奈はいつぞやと同じことを言う。私もだよ、と笑い掛けながら、久美子はもう一度麗奈の顔を眺めた。こんな麗奈ともっともっと一緒の時を過ごしたい。麗奈の見ている世界を自分も同じところから見ていたい。そんな思いに、久美子の胸は熱く焦がされていた。

 

 

「――それじゃこの後の予定だけど、お風呂の時間はさっき配ったスケジュール表通り学年ごとに決まってるので、時間を守ってサッサと入るようにして下さい。そのあとは食堂に集合して晩ご飯。それが済んだら毎年恒例、外の広場で花火とキャンプファイヤーの時間です。もしお風呂に入りそびれたって人は、消灯前までにこっそり済ませるように」

 午後の合奏も終わり、本日の練習が優子の事務連絡によって締め括られる。一同はすでにクタクタに疲れ果てていた。針の穴に連続で糸を通し続けるような作業をしていると、神経はあっという間にぼろぼろに擦り切れてしまう。それでも苦労の甲斐あって、この一日で全体の音は以前とは比べ物にならないほど飛躍的な向上を遂げていた。自由曲第三楽章の、例の問題を除けば。

「どうしました久美子ちゃん? お風呂に入る時間がなくなっちゃいますよ」

「あ、ごめん。緑ちゃんは先に行ってて」

「分かりました。久美子ちゃんも早く来てくださいね」

「うん。なるべくそうする」

 緑輝の誘いを受け流し、楽器を置いた久美子はまだ席に着いたままのみぞれの元へと歩み寄る。

「みぞれ先輩。お疲れさまです」

 久美子の声掛けに、みぞれはコクリと会釈を返してくれた。

「第三楽章、大変そうですね。やっぱり難しいですか?」

「難しい」

 みぞれにしてはいつになく弱気な発言だ。微かに眉間に皺を寄せた彼女の様子を、久美子は横からそっと窺う。

「どう吹けばいいのか、私には、解らない」

「滝先生も新山先生も、みぞれ先輩は思いっ切り吹いてもいい、って言ってますけど」

「解らない」

 声を落とし、みぞれは首を振った。解らないも何も、この箇所において『思いっ切り』を定義づける権利を有しているのはそれを吹くみぞれ自身だけだ。何が彼女を迷わせているのか、そんな彼女にどう声を掛けていいものか、久美子も考えあぐねてしまう。

「みぞれ」

 その声に、みぞれの耳がふるりと震えた。久美子もまたみぞれの視線の先を向く。そこには希美が立っていた。

「第三楽章のソロなんだけどさ、花火の後ででもいいから、ちょっと合わせてみない? さっき優子に確認したけど、消灯三十分前までは体育館で吹いても大丈夫だって」

「希美、」

「一回みぞれなりに好きに吹いてみようよ、私もそれに合わせるからさ。ね?」

「……いい。吹かない」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。ここはみぞれが主役なんだから」

「だって、希美は、」

 何かを訴えたがったみぞれは、けれど上手く言葉を紡げなかったのか再び押し黙ってしまう。その様子にどうしたものかと、みぞれを持て余した希美がこちらへ苦笑を向けてきた。久美子もそれに曖昧な笑みを返すより他は無い。久美子にとっては正直なところ、今のみぞれと同じくらい希美もまた読みづらい存在だ。彼女が今、どんな思いでいるのか。こないだの件もあって余計に、それを聞き出そうとする事がどうしても憚られてしまう。

「それなら吹かなくてもいいから、せめて話だけでも――」

「希美ちゃん、それとみぞれちゃん」

 希美が何か言い掛けたのを別の声が遮る。先に振り返った希美が、その名を呼んだ。

「あすか先輩」

「二人とも後で、ちょっといい? 話があるから」

 どこからか現れたあすかは真剣な表情で二人に確認の目を向け、みぞれと希美はそれにおずおずと頷いた。この展開に久美子は密かに身構える。あすかはまた希美を責めようというつもりなのだろうか。それとももしかして、今回のターゲットはみぞれか?

「あすか先輩。希美先輩たちに、どんな話をするつもりですか」

「どんなって、そりゃあ今回のソロの件に決まってるでしょ」

 それ以外に何があるの、とあざ笑うようにあすかが鼻を鳴らす。それは重々承知の上で、だからこそ久美子の胸は軋まずにおれない。あすかの言葉は時として人をへし折る。ただでさえ調子を崩している今のみぞれに、もしもトドメを刺すようなことにでもなってしまったら。そう思うと気が気ではない。どうにかしてその場に自分も同席することは出来ないものか。何が出来るという訳では無くとも、せめて希美やみぞれへの致命傷を避けるための防波堤にでもなれれば、それでも良かった。

「気持ちは分からなくもないけど、保護者面談じゃあるまいし。それにこういう話は第三者を入れずにする方が良いと思うよ、希美ちゃんたちにとっても」

 なだめすかすように、あすかは片手でヒラヒラと久美子をあおぐ。

「まぁそう心配しなさんな。多分これで、私のちょっかいも最後になるから」

「最後?」

「そう。最後」

 いまいち要領を得ない久美子に言い聞かせるように、あすかは同じ言葉を繰り返した。それを受けた久美子は、それまでとはまた別種の不穏さに胸中を掻き乱される。コンクールに向けての練習はまだまだ続く。もし関西を抜ければ三年生の出番は十月末の全国大会までとなるし、それにコンクールとは関係無しに、文化祭での演奏や既に予定された各種イベントへの出演だってある。あすかと過ごせる時間はまだまだ沢山ある筈だ。なのに『最後』とは、それは一体どういう意味なのか?

「それじゃ二人とも、花火も終わる九時頃に研修室集合ってことで。以上、よろしくぅ」

 募る懸念のせいで黙りこくった久美子を放置し、希美たちと一方的に約束を取り付けたあすかは、そのまま颯爽と去ってしまった。

「ホント、あすか先輩はいつでも平常運転って感じだね。ちょっと羨ましいかも」

 腰に手を当てた希美が、感心するように一つ息を吐く。

「あの、希美先輩」

「どうした、久美子ちゃん?」

「その、大丈夫、ですか」

「何が?」

 小首を傾げた希美はいたってケロリとしている。その仕草に嘘やごまかしがあるようには思えない。ともすればあすかとの面談で再び傷を抉られることを彼女は恐れているのでは、とも思ったのだが、それはどうやら杞憂に過ぎなかったようだ。でもだとしたら、先日の希美のあの涙は一体何だったのだろうか。

 それに相対するように、俯くみぞれは無言で目を細めていた。それはまるで、希美に代わって彼女の方があすかに怯えているような、そんな雰囲気でもあった。

 

 

 

 



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〈16〉二つの羽ばたき

 噎せ返る硝煙のにおい。暗闇に飛び出す色とりどりの(ほむら)。それらを囲む人の賑わい。久美子は地べたに座ったまま、どこか遠巻きにそれらの光景をぼうっと眺めていた。

 夕食も済み、部員たちは広場の真ん中に焚かれた大きな火の周りに集まりそれぞれ花火に興じている。奏と梨々花が一緒に手持ち花火をしていたり、秀一が同じ男子部員である瀧川(たきがわ)にねずみ花火を投げつけて皆の笑いを誘っていたり。葉月と緑輝は空きビンに差し込んだ複数のロケット花火にまとめて点火しようとしていて、その様子をさつきと美玲が手を取り合いながらおっかなびっくり注視して……と、楽しみ方は様々のようだ。

 そのうちの一つ、フルートパートの輪の中では、地面に置かれた筒花火の導火線にライターを近付ける希美の姿があった。漆黒の中をふらふらと揺れ動く小さな灯。やがてパチパチと弾ける火花が筒から立ち昇り、眼鏡をかけた一年生の女子が悲鳴を上げるさまを見て、希美は他の後輩と一緒になってけらけらと笑い声を上げていた。そこから少し離れたところにはみぞれが一人ポツンと座り込んでいて、自分をよそに盛り上がる希美のことを少し寂しげに見つめているみたいだった。

「久美子は、花火やらないの?」

 頭上から声を注がれ久美子は顔を上げる。そこには麗奈がいた。彼女の手に今回、花火は握られていなかった。

「私は、今年はいいかな」

「そう。せっかくだから楽しめばいいのに」

 麗奈はそう言うが、今のこの心境ではとても花火になど熱中できそうに無い。その内訳を麗奈に説明するのも躊躇われたため、久美子は愛想笑いをして答えをはぐらかす。怪訝そうに目を瞠った麗奈はしかしそれ以上何も質そうとはせず、そっと久美子の隣に腰を下ろした。

「麗奈こそ楽しんで来たら? 今なら滝先生と一緒に花火できるかもよ」

「できたらそうしたいけど、先生たちさっきからずっとあんなふうに固まってるから。流石にあそこには混ざれない」

 麗奈が少し寂しげに滝のいるところを指差す。そこでは橋本、新山、そしてあすかが膝を突き合わせ、難しい顔をして何やら話し込んでいた。きっと明日からの練習方針について彼らは今も議論を交わしているのだろう。時おり部員らに目を向け危ないことがあれば声掛けをする滝の姿は、そうしていればいかにも生徒思いの優しい顧問、といった按配だった。

「久美子は、何考えてるの」

「んー。昼間の話、かな」

「みぞれ先輩と希美先輩のこと?」

「うん。何とかならないかなって」

「私もどうにか出来ればって思ったけど、難しい。何か、打開のキッカケでもあればいいんだけど」

「キッカケ、かぁ」

 それは恐らくこの後にある。あすかが動く以上、何も起こらずに済む筈は無いのだから。けれどそのことを麗奈に言うわけにはいかなかった。言ったところでどうしようもなく、また必ずしもキッカケになりうるという保証も無い以上、何かが変わると今ここで断言できる訳でもないからだ。

「高坂せんぱーい! 先輩もこっち来て一緒に打ち上げ花火やりましょうよー、爆裂三段昇り龍変化!」

 向こうから麗奈を呼ぶ声。そこではトランペットの後輩たちがわいわいと打ち上げ花火の筒を囲んでいた。やれやれと言いたげに、麗奈はおもむろに腰を上げる。

「行かなくちゃ」

「先輩は大変だねえ」

「久美子だって先輩のくせに」

 苦笑しながら「また後で」と手を振って、麗奈が後輩の輪の中へ戻っていく。それを見送ってから、髪の毛に沁み込もうとする煙を避けるようにして、久美子もまた立ち上がった。

 

 

「あれ、夢ちゃん?」

「あ、黄前先輩」

 施設の中へ戻ると、食堂前の談話スペースには夢の姿があった。どこか呆けたような表情をした彼女の座る卓上には青いラベルのスポーツドリンクが置かれている。びっしりと水滴をまとったボトルの様子を見るに、どうやら彼女は長いことここで過ごしていたようだった。

「どうしたんですか? まだ花火の時間ですよね」

「あー、なんとなくノド渇いちゃって。そういう夢ちゃんの方こそ何してるの、こんなところで」

 久美子が逆に尋ね返すと、夢は実に落ち込んだ様子でさめざめと青白い息を吐いた。

「情けない話ですけど、さっきお風呂に浸かってて、湯あたりしちゃって」

「湯あたり、って大丈夫? ここにいて平気なの?」

「さっきまで横になって休んでまして、今はだいぶ良くなりました。吉川部長と中川先輩にもずっと付きっきりで看病していただいて。こんなとこでも先輩方にご迷惑をお掛けしちゃって私、本当にどうしようもないです」

「あたっちゃったんなら仕方ないよ、大浴場のお湯ってけっこう熱いもんね。それで、晩ご飯はちゃんと食べた?」

「はい、ついさっき先輩方と、食堂で済ませてきたところです」

「なら良かった。あんまり無理しちゃダメだよ」

 どうりで夕食の席から花火の場までずっと、夏紀と優子の姿を見かけなかったわけだ。久美子は密かに得心する。三年生の入浴の順番が一番最後だったことを考えると、彼女たちは夢と共に食事をした後、今頃は二人仲良くお風呂にでも入っているのかも知れない。もっともあの二人のやり取りは、傍目には決して仲良さげに見えないだろうけれど。

「まだ花火やってるから、体調良くなったんなら夢ちゃんもそっち行ってみたら? なんか麗奈たちもすごい派手な打ち上げ花火やってるみたいだったし」

「あぁー……見に行きたいのはやまやまですけど、今日はこのまま安静に、ですかね。明日の練習に響いてもまずいですし」

 えへ、と夢がはにかむ。それを見てふとあることに気が付き、久美子はじっと夢の表情を見つめた。

「ど、どうしたんですか先輩? 私どこか変ですか?」

 見つめられた夢が、落ち着かない様子で自分の頬やおでこをぺたぺたと探り出す。

「夢ちゃん、なんだか変わったね」

「え? いや、その、分かんないですけど」

「ううん変わった。何ていうかちょっとだけ、前向きになった感じがする」

「うぇ、や、やめて下さいよぅ。先輩がお世辞言ってるだけだって、分かってますから」

「いやお世辞とかじゃなくて、ホントに」

「……本当ですか?」

 顔を目いっぱい紅潮させた夢に、久美子はしっかりと首肯を示してみせる。ひゃー、と夢は今にも頭から煙を上げそうになっていた。

「あー、ヤバい。先輩がヘンなこと仰るせいで、もう一回湯あたりしちゃいそうですよぉ」

「お風呂に入ってないのに湯あたりって、それもヘンな話だと思うけど」

 夢の言い分が妙におかしくて、久美子はクツクツと喉を鳴らしてしまう。あれから夢がトランペットパートでどう過ごし、そして今日までを歩んできたのか。それはわざわざ聞き出すまでもなく、今の彼女を見ていればきっと順調なのだろうと、そう思うことが出来た。少し気まずそうにスポーツドリンクのボトルを手に取った夢が中身を喉へと流し込む。ボトルにまとわりつく結露は彼女が流してきたであろうたくさんの感情と同じように、とぷりとテーブルの上へ跡を残していた。

「それじゃ、私はそろそろ部屋に行くね」

「あれ? 先輩、ジュース買いに来たんじゃなかったんですか?」

 夢が不思議そうな顔をする。ジュースの自動販売機が設置されてある大浴場前の廊下と、久美子が向かおうとした先とは、まるであさっての方角だった。

「あ、いやその、お財布がね。部屋に忘れてきちゃって」

「あぁそっか。ヘンなとこ突っ込んじゃってすいません。ホント私ってばポンコツで」

「いやいや、気にしなくていいから。じゃあ夢ちゃん、くれぐれもお大事に」

「はい。お気遣いありがとうございます」

 まだまだ自虐癖は抜け切らないようだったけれど、この調子ならそれもいつかは時間が解決してくれるだろう。そう思いつつ夢と別れ、久美子は談話スペースを後にする。それはもちろん財布を取りに戻るためなどではなかった。

 手元の腕時計へと視線を落とす。八時四十五分。そろそろ花火もお開きになってみんな戻ってくる頃だ。これから消灯までの間は自由時間となる。体育館で楽器を吹くか、割り当てられた部屋で宿題やゲームをするか、明日の練習に向けてミーティングを詰めるか等、過ごし方は人によりけりだろう。そしてその間、他の誰にも知られぬところで、あすかは希美やみぞれと面談を行う。彼女たちはそこでどんな話をするつもりなのか。久美子にはどうしても、それが気掛かりだった。

 ホールから階段を上って二階へと至り、研修室へと辿り着く。扉を開けて中にするりと滑り込み、久美子は月明かりの差し込む真っ暗な室内を一瞥した。保安上の理由から、部員たちの楽器や楽譜はパーカッションなど大きなものを除き、夜間は各々の部屋で保管することになっている。従って消灯ぎりぎりまで楽器を吹きたい人たちもわざわざここに来ることは無いだろう。もう一度辺りを見渡して、それから久美子はある物へと視線を定めた。

 木製の講演台。普段は名前通りの使われ方をしているであろうそれは、今は練習の邪魔にならないよう壁掛け時計の真下辺りに置かれている。近付いて台を少し動かしてみると、内側は事前の推測通りがらんどうになっていた。ポケットの中に携帯が入っていないことを今一度確認し、久美子は腹を括るようにその場で深呼吸をする。

 こういう方法はあまり気乗りしないが、正面切って同席できない以上は仕方ない。部屋の前に突っ立って盗み聞きするのも人目につくし、もしバレたらその場で一発退場になってしまうだろう。そう、これは仕方のないことなんだ。そんな風に自分の胸に言い聞かせ、最後の決心をした久美子は、頭の中で練っていた計画を実行に移した。

 講演台を持ち上げて一旦窓際に近いところへと運び、その下に潜り込んで内側から台を引っ張り壁際へと寄せる。中の空洞はお世辞にも広いとは言えないが、これならパッと見にはこの部屋には誰も居ないと、誰もが思うに違いない。先日の反省も活かし、しっかりと自分の足を抱え込むようにしてコンパクトに屈めた身体を固定する。物音一つしない真っ暗闇の中、自由曲のメロディを口ずさんだりして心細さをどうにかごまかしながら、久美子はただじっとその時が来るのを待った。

 やがて、こちらへ近づいてくる一人分の足音が聞こえた。扉を開け、パチンとスイッチを入れる音。それと共に暗闇の隙間から光がこぼれ来る。中に入ってきた誰かが部屋の明かりを点けたのだ。それから少しして、今度は二人分の足音。同じように扉を開けて「遅くなりました」と告げたその声は、希美のものだった。

「全然待ってないよん。さ、そこに座って。みぞれちゃんも」

「はい」

 希美が返事をして程なく、二人分の気配が久美子の潜伏する講演台のすぐ背後を通り過ぎていく。物音などから察するに、希美たちは指揮台の正面辺りに着座したのだろう。その付近にあすかも自分の席を設けたらしく、ギシリと椅子の軋む音が聞こえてきた。彼女たちのいる場所はここからそう遠くない。息一つさえも洩らすまいと、久美子は閉じた唇にきゅっと力を込める。

「ダラダラ話しててもしょうがないし、スパッと本題に行っちゃうね」

 実にあすからしくサバサバした物言いで、三人の秘密会談は口火を切った。

「ここに来てもらったのはズバリ、二人のソロの件について。二人とも、原因は分かってる?」

「はい」

 そこで返事をしたのは、またも希美だけだった。みぞれは黙しているだけなのか、それとも首を縦か横に振るぐらいはしたのか、どっちだろう。暗闇の中の久美子に与えられる情報は音ばかりで、そこから窺えない情報については知り得る由も無い。

「希美ちゃんには前にちょっと話したんだけど、私は二人のソロが噛み合ってない原因が希美ちゃんにあると思ってた。希美ちゃんが自分の音を主張し過ぎるせいで、みぞれちゃんの演奏にどうしても合わせ切れてなかったこと。そして、みぞれちゃんが希美ちゃんに合わせようとしてばっかりなせいで、自分の演奏を縮こまらせちゃってること。だから私はそこを何とかするつもりで希美ちゃんに色々言ったんだけど」

 そこで言葉を区切るように、あすかは一度息を継ぐ。

「結論から言うと、私の見立てはちょっと的外れだった。希美ちゃんはあれからずいぶん改善してくれたけど、みぞれちゃんの方が全然変わらないままで、結果的に合奏もイマイチの状況だからね。だからまずは、それを希美ちゃんに謝っとこうと思って」

「そんな事ありません、あすか先輩」

 希美が慌てたように声を上げる。

「私、先輩に感謝してるんです。あの時先輩に言ってもらわなかったら、私バカなんで、きっと今でも気付かないままだったと思います。先輩のあの言葉で目が覚めました」

「そんな風に思わなくていいから。あの時は私、希美ちゃんにキツく言い過ぎた。ごめんね希美ちゃん」

「頭上げてください先輩。本当に私、気にしてないです」

 あのあすかが希美に頭を下げている光景。それが久美子にはどうにも思い浮かばない。実際にそれをこの目で見てみたかったけれど、こうして彼女たちの秘密会談を盗み聞きしている以上、とてもそれが許されるような状況では無かった。

「先輩には去年も一昨年もメチャクチャ迷惑掛けちゃって。なんとか先輩に恩返ししたいって、私、ずっと思ってたんです。だから今年はその最後のチャンスだなって。それに先輩に言われて気持ちを切り替えてからは、何となく自分のやる事も見えてきたような気がしてて。コンクールだけじゃなくて、これから先のことも。それも全部あすか先輩のお陰だって私、思ってます」

 希美の声が震える。ややあって、あすかが身を動かす気配があった。

「……そこまで言ってもらえると、先輩冥利に尽きるね」

 その声色に潜む微かな自嘲。額面通りではない言葉の奥に隠された真意を知るのはきっと、この場では久美子だけだろう。

「じゃあ話を戻してソロの件だけど、どうしてみぞれちゃんはいつまでも、希美ちゃんに合わせようとしてるの?」

 話の矛先が今度はみぞれへと向かう。彼女はしばらくあすかに返答をしなかった。

「そんなに希美ちゃんのこと、信頼できない?」

「違います」

 みぞれのか細い、けれど切り詰めた断片のように鋭い声が、研修室に沁み渡る。こうして講演台の陰に隠れていても、彼女の声はハッキリと久美子の耳にまで届いた。

「じゃあ何でなの? みぞれちゃんなら自分なりの演奏をするのはそんなに難しい話じゃないハズ。なのに、それがどうしても出来ないっていうのは何で?」

「……解らない、から」

 みぞれの苦しそうな呻きを、解らない? と訝しむような声色で希美が復唱した。

「リズの気持ちが、解らないから。ひとりぼっちだったリズが、青い鳥と楽しい日々を過ごして、ずっとずっと一緒だと思ってて。それなのに、最後は自分の手で青い鳥を逃がすリズの気持ちが、どうしても解らない。……だからどう吹けばいいのか、私には解らない」

「だから私の演奏に合わせて吹いてる、ってこと?」

 その質問への答えはいつまで経っても聞こえては来なかった。ただ、みぞれの首が小さく動くような空気を感じたのは、果たして自分の錯覚だったのか。たどたどしい言葉遣いで、けれど必死に吐き出されたみぞれの本音に、久美子は愕然としていた。そんなことが原因で、みぞれは自分の音を己の殻の内に閉じ込めていたというのだろうか。

 けれどそれならば、希美に合わせようとばかりしていたのも頷ける。みぞれが一緒に居たいと願う相手、その人物を、彼女が自ら手放せるわけがない。だってその人物は既に一度、みぞれの元から離れてしまったことがあるのだから。その時の痛みや苦しみ、そして悲しみを、多分みぞれは今でも忘れられず一人で抱え込んでしまっている筈だから。

「なぁるほど、こりゃあ重症だ」

 ぼりぼり、とあすかは眉間かどこかを掻いたらしい。同時に誰かが固唾を呑むような、そんな音も聞こえた気がした。

「みぞれちゃんが何をどう捉えてるかはこの際触れないでおくけど、ちょっとヘンな方向に感情移入し過ぎちゃってるね。曲の元になった物語をイメージして演奏するのは悪いことじゃないけど、流石にそれは囚われ過ぎ。まぁ私がそんなこと言ったって、当のみぞれちゃんにもどうにもならないんだろうけど」

「……すみません」

「謝るようなことじゃないよ。けどみぞれちゃんの考えがどうであれ、少なくとも今は希美ちゃんがみぞれちゃんに合わせて吹いてくれてる。みぞれちゃんが本気を出したらその分、希美ちゃんもそれについていこうとすると思うよ。それを信じてあげることは、みぞれちゃんにはどうしても出来ない?」

 あすかが柔らかく問うても、みぞれはなかなか返事を寄越さなかった。答えに悩んでいるのか、それともこの場では言えない答えなのか。無言の時間がじりじりと、その場にいる者たちを燻らせる。

「分かった。それじゃ今からちょっと、二人で話しといで」

「話、ですか?」

「そう。何でもいい、中学校の頃の思い出話とか、最近の話題とか、出来ればこの件以外のことを何でも。今の二人に必要なのは楽器を吹いて合わせることじゃなくて多分、そういう時間を持つこと。これからはそんな時間もじっくり取れないだろうし、今のうちだと思ってどっかで話して来なさい。それが終わったら、あとは真っすぐ自分たちの部屋に戻っていいから」

「でも、」

「言っとくけど、私は初めからソロの問題を解決してあげるつもりで二人をここに呼んだんじゃないからね」

 きっぱりとあすかは言い切る。そのあまりの歯切れの良さに、久美子は自分でも気付かぬうちに歯を食いしばっていた。

「私に出来るのは問題点を洗い出すところまで。解決するのはあくまでみぞれちゃんと希美ちゃんが自分自身でやらなくちゃいけないことだよ。冷たいことを言うようだけど、こればっかりは他人が解決してくれることじゃないから」

 そう告げたあすかの声に続けて椅子を引きずる音が聞こえる。恐らくは立ち上がったあすかが、二人に退室を促しているのだろう。

「すぐに解決はしないかもだけど、どっちも相手に言いたいことの一つや二つぐらいきっとあるでしょ。それを全部話してスッキリしてくること。これが私から二人への、最後のアドバイス」

「……はい。ありがとうございます」

 殊勝な声で、希美が感謝の意を告げる。

「お礼なんていいって。ホラホラ、後は若い二人にお任せするから、行った行った」

 扉を開け、希美たちが研修室を出ていく物音。それを見送ったかのような無音がしばらく続いた後、「さてと」と一息ついたあすかの足音が何故かこちらに近付いてきた。まさか。嫌な予感が警鐘に切り替わるよりも早く、久美子を覆っていた漆黒がガタガタと、音を立てて取り除かれていく。

「黄前ちゃん、見ーっけ」

「あすか、先輩」

 急な眩しさに幻惑され、目をすがめつつ睨んだその先には、悪戯っ子を見咎めた親のように口角を吊り上げるあすかの顔があった。バレてしまっては仕方ない。怒られることを半ば覚悟しつつ、久美子はのそのそと立ち上がる。

「なんで私がここに隠れてるって分かったんですか?」

「そりゃあ分かるよ。花火の途中から黄前ちゃんの姿が見えなかったし、それでここに来てみたら講演台の位置が昼間と違ってたからね。コレ、元々はそっちにあったやつでしょ?」

 さも当然のようにあすかがその位置を指し示す。何故この人は合奏に何の関わりも無い講演台の置き場所などをいちいち記憶しているのだろう。開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだ。

「黄前ちゃんも、まだまだ詰めが甘いね」

「そんなことに気付けるあすか先輩の方がおかしいんですって」

「褒め言葉として受け取っておきましょう」

 あすかは得意げな顔で久美子のボヤきをいなす。講演台を元の場所に運んで疲労混じりの嘆息を吐き、それから久美子は振り返った。

「怒ってないんですか? 私がここで盗み聞きしてたこと」

「別に? ああいう風に言っとけば黄前ちゃんの場合、意地でも聞き出そうとするかなーって思ってたし」

「そういうトコだけは信用されてるんですね、私」

「それに私にしてみれば、他の誰に聞かれようが、話の邪魔さえされなければそれで良かったしね」

 立ち話も何だしそこ座りなよ、とあすかは合奏形態に並べられた椅子の一角を示した。そこは奇しくも、あるいは狙ってなのか、希美の座る第一フルートの席だった。どうも、と一礼して久美子は腰を下ろす。そこはまだ微かに人肌のぬくもりが残っているみたいだった。あすかが指揮台上の椅子に座り、ちょうど真正面の久美子と相対する形となる。

「さっきみぞれ先輩が言ってたリズの解釈の話ですけど、あれってどう見ても、みぞれ先輩自身と希美先輩のことですよね」

「だろうね」

「どうしてそのことを、二人に言ってあげなかったんですか?」

「あそこで私がそんなこと言ったらどうなるか、黄前ちゃんにだって分かってるでしょ」

「そりゃあ、分かりますけど」

 くすくす、とあすかは乾いた冷笑をこぼす。

「希美ちゃんはね、あれで結構、みぞれちゃんに黙って部活を辞めちゃったことを気に病んでるんだよ。みぞれちゃんに申し訳ないと思ってるっていうよりかは、希美ちゃん自身の問題でね」

「希美先輩自身の?」

「そう。そしてそのことに、希美ちゃんはもうだいぶ気が付き始めてる」

 あすかの言っていることが、分かるようで分からない。首を傾げる久美子を置き去りにして、あすかは更に話を続けた。

「去年の今頃は多分、希美ちゃんもほぼ無自覚だっただろうね。でも傍から見てて何となく気付く人も居たと思う。特に優子ちゃんとか夏紀あたりはそれなりに分かってるんじゃないかな。黄前ちゃんも何かしら、思い当たるところがあるんじゃない?」

 あるには、ある。その瞬間、鼻先をプールの消毒液のにおいがかすめるような、そんな錯覚があった。あの時あの場所で希美の態度から読み取ったもの。何の根拠も無い、ただの憶測にしか過ぎなかった筈のそれは、彼女とみぞれの関係が修復したことによって久美子の頭からは一旦きれいに削除されていた。にも関わらず、この憶測はあの日の消毒液の香りごと、自分のどこかでひっそりと息づいていたのかも知れない。

「ある、って顔してるね。多分それ間違ってないから」

「本当なんですか。そんなのって、」

「さあ。もしもこの世に神様なんてモンが居るんだとしたら、そういう存在には答えがハッキリ解ってるのかも知れないけど」

 久美子ならどう思う? と問うかのように、あすかはデコピンの要領でカツンと指揮台を弾いた。それを受けて久美子は思考を深める。もしそれが真実なのだとしたら、みぞれがひたすら純粋に希美のことを慕っているのに対して、希美が、彼女がみぞれに抱いているものの、その正体は。愉悦の込もったあすかの含み笑いに、久美子の気持ちは昏く沈む。

「それは本人にとって、醜い自分自身を目の前に突きつけられるのと同じなワケ。だから希美ちゃんは自分が退部した事を他の誰にも責められたくないって、内心ではそう思ってる。みぞれちゃんも含めてね。でも一方で、あの子はそんな自分にもちゃんと向き合う気にもなってるんだよ。こないだ私にいろいろ言われたせいでショック受けたから、ってのもあるんだろうけど」

「それなんですけど先輩。そのいろいろって、どんな話をしたんですか?」

「どんなって、だからこないだも言ったでしょ。ちょっとした人生相談だってば」

「とぼけないで下さい。私あの時見たんですよ、希美先輩が泣いてたの」

 久美子はあすかを強く睨む。あちゃー、と肩をすくめるようにあすかはおどけてみせた。

「見られちゃってたかぁ。でも残念だけど、話の内容は私と希美ちゃんだけのヒミツ。流石にそれを喋っちゃうのは希美ちゃんにも悪いからね」

 それっきり、あすかはその件について何も語ろうとはしなかった。ヒミツと言われてあっさり引きさがれるほど、久美子の自制心は成熟しているとは言い難い。けれど、掘り下げても無駄だと分かっているものにいつまでも執着するほど物分かりが悪いわけでもなかった。この件の真相を知るのはきっと自分には叶わぬことだ。そう直感した久美子はそれ以上の追及を控える。

「まぁ、根がああいう子だからね、一本気っていうか実直っていうか。コミュ力も人望もあるしメチャクチャ器用そうに見えて、その割に肝心なところが不器用な人っているじゃない? 能力と性格がアンバランスな子。希美ちゃんはその典型だね。そのことに自分で気付きさえすれば、後は自分で変わっていけるだけの力もある子なんだけどさ」

「毎度思いますけど、あすか先輩ってホント、人のことを良く見てますよね」

「半分は、当てずっぽうだけどね」

 形ばかりの謙遜と共に、あすかはニヤリと口元を歪める。当たっているかどうかはさて置き、彼女のその観察眼は果たしてどこでどうやって磨かれたものなのだろう。あすかの場合、他人とはあまりに違い過ぎる人生の背景を抱えている。ひょっとしたら今までずっと、あすかは他人との間に二つも三つも線を引いて、その外側から彼らを冷静に眺め続けていたのかも知れない。だからこそきっと、凡人には見えない他人のアラがあすかには手に取るように見えているのだろう。彼女自身の賢さゆえに。そして他人の機微に聡くあることで彼女自身のやりたい事を阻害されないために。せいぜいそんな拙い推理に思考を走らせるのが、今の久美子には関の山だった。

「これで私に出来ることは全部終了。さぁて、明日も朝から練習だし、ダラダラ話してないでそろそろ部屋に戻ろっか」

 はい、と返事をして久美子も立ち上がり研修室を後にする。パチリと照明を落とすと、それまでの会話で温まっていた室内の温度は嘘のようにスルリと下がった。それに合わせて、あの時の『最後』というあすかの言葉がもう一度自分の耳を突き刺したような、そんな気がした。最後、って何なんだろう。この人はどういうつもりであんなことを口にしたのだろう。それを本人に問うのは少し怖くて、結局は何も言えぬまま、久美子はあすかと共に宿泊棟へと向かったのだった。

 

 

 

 

 ゆるりと目を覚まし、久美子は辺りの様子を窺う。

 室内にはぼやけたような日の光が僅かに射し込んでいた。二段ベッドの上にいる麗奈も、隣のベッドの子たちも、今はまだ夢の世界にたゆたっているらしい。彼女たちの健やかな寝息に耳を澄ましつつ、久美子は枕元に置いてあった携帯の画面を点け時刻を確認する。起床の時間までにはまだ随分と余裕がある。そのまま二度寝してしまうつもりで布団をかぶり直したものの、何となく気持ちがそわそわして結局寝付けず、のそりと布団から這い出す。まだ薄暗い室内をひたひたと歩き、入口の近くに置いてあった自分の楽器ケースの把手を掴んで、久美子は静かに戸を開けた。

 ロビーでケースからユーフォを取り出し、それを手に抱いて外へと出る。目指す先は宿舎から少し離れた高台にある歓迎用スペース。あそこなら周囲に気兼ねなく音出しが出来るからだ。残っていた眠気も朝露に濡れた草木の香りに覚まされて、胸のすくような心地がする。去年もこの時間帯に散策のつもりで外へ出て、そこであすかがユーフォを吹いているところに出くわしたんだっけ。などとあの日の思い出をひとり呟きつつ、ぶらぶらと歩みを進める。

 と、そのとき坂の上から「ポン」と、聞き慣れた楽器の音が柔らかく響くのが聴こえた。ひょっとして。そう思った久美子は、少しだけ急ぎ足でその場所へと向かった。

「おはよう黄前ちゃん。今年も早起きだねぇ」

 今年もその場所に、あすかは居た。その手には銀色のユーフォニアム。もう十年以上も愛用している彼女のマイ楽器は山際から昇り来る朝日を反射して、シャンパンのような淡い白金色(プラチナ)の輝きを辺りに放っている。

「おはようございます。楽器持ってきてたんですね、先輩」

「まぁね。暇なときは自由に吹いてても良いって滝先生に言われてたし。それに指導する時も、自分の楽器がないとどうにも締まんなくて」

「恋人ですもんね、ユーフォ。先輩にとっては」

「そういうことよ」

 愛おしげな手つきでユーフォの管を撫でつつ、あすかはこちらへ無邪気な微笑みを投げ掛けた。そんな彼女を目の当たりにして、久美子は何だか体の奥があったかくなるのを感じる。

「そう言えば黄前ちゃんがアレ聴いたのって、ここで私が吹いてたのが初めてだったんだっけ?」

「ですね」

 あの日の事は今でも何一つ失うことなく鮮明に覚えている。金色の朝焼けに包まれながら、あすかのユーフォが奏でていた、あの曲。滔々と響き渡る音色の一つひとつには、まるでこの世に存在する全ての感情が込められているみたいだった。その曲も、ユーフォも、紡がれた音色も、そしてあすかの姿も。何もかもが光り輝くあの美しいひと時を、久美子はいつまでも胸の奥に、一生の宝物みたく大事にしまっていた。

「どう? そろそろ上手に吹けるようになった?」

「んー、まだ自信無いです。ゆったりしてるように見えても結構難しいとこが多くて、そっちが気になると今度は音が綺麗に出せなくなる、っていうか。先輩から預かったノートにも毎日一回は目を通してるんですけど、先輩みたいに吹くのはなかなか」

「素直だねぇ。ま、私は十年以上もあの曲吹いてたワケだし、これはもうキャリアの差ってやつだね」

「精進します」

 ぺこりと頭を下げて、それからあすかと笑い合う。こんな彼女と触れ合えるようになったのも、去年あすかと過ごした諸々の時間があればこそだった。一年前の自分には想像もつかなかった光景がここにはある。時と共に、人と人との関係は移ろっていく。少なくともそれは自分とあすかにとって、かけがえのない大事な繋がりをもたらしてくれるものだった。

「よぉし。じゃあ今回は特別に、黄前ちゃんと一緒にアレを吹いてあげちゃおう。聴いて覚えるより一緒に合わせた方が感覚掴みやすいでしょ」

「良いんですか?」

「早起きは三文の徳、って言うしね。黄前ちゃんだけのスペシャルボーナス」

「ありがとうございます!」

 いそいそと楽器を構え、久美子は肩慣らしにB♭(ベー)を鳴らす。朝一発目ということもあって充分な響きでは無かったが、しばらく鳴らしているうちに楽器も温まり、やがて調子は万全となった。準備が出来たことをあすかに告げると、あすかも頷いて自分の楽器を構える。

「黄前ちゃんのタイミングでどうぞ」

「じゃあお言葉に甘えて、行きます」

 スウと息を吸い込み、久美子は出だしのフレーズを吹き始める。あのノートに書かれていた曲の譜面はもう、用紙の皺や褪せた色ごと脳内にすっかり刷り込まれていた。だから少しも迷うことなく、久美子は一つひとつの音を奏でていく。隣に立つあすかの音はどこまでも深く伸びやかで、その一輪ずつが黄金のような煌めきを放っていた。その凄さを改めて肌で感じながら久美子は思う。ああ、この音にはまだまだかなわない。けれど、それで良い。久美子にとってあすかのユーフォはずっと目標であり、そして理想であり続けるのだから。

 いつか自分もこんな風にユーフォを吹けるようになりたい。そう願いながら吹き込むユーフォの音色はあすかの音色と混ざり合い、向こうに見える山々をも越えて、淡く輝く朝焼けを湛えた大空の向こうへと響き渡っていった。

 

 

「それでは、本日の練習を始めましょう」

 合宿二日目の今日も、練習は全体合奏から開始された。今日の午後にはこれも合宿恒例となる『十回通し』が予定されており、それには休憩を含めて二時間以上を要することになるため、朝から夕方までびっしり合奏漬けのスケジュールが組まれている。

 昨日の練習での手応えから、今日は主に第三楽章の合わせが集中的に行われるであろうことは誰しも予想がついていた。この曲が現在の北宇治における最大のネック。そしてここさえ克服できれば、天王山ともいえる関西大会で並居る強豪校とも互角以上に渡り合えるようになる。果たして今日こそそれをモノに出来るのか。今朝あの曲を合わせた後、希美たちのことが未だ心配だった久美子に対して、あすかはこう言っていた。

『どうなるかは分からないけど、でも多分、今日あたりは何かしら起こると思うよ』

 それは何の根拠も無い話ではあったのだけれど、それでもあすかには何やら確信めいたものがあるらしい。そのあすかは今日も新山たちと並んで指導チームの席に座っている。どこか不敵さすら覚える彼女の佇まいを眺めながら、久美子はただひたすらに事態の好転を願うばかりだった。

「ではまず初めに、昨日の課題となっていた点から――」

「すみません、先生」

 涼やかな声が空気を震わせる。手を挙げたのは、普段こういった場では自発的に喋ることの無いみぞれだった。彼女の意外な行動に、部員たちはにわかにざわめき立つ。

「第三楽章、通しでやっても、いいですか」

 みぞれは真摯な表情で滝を見上げている。その瞳に何かを感じ取ったのだろう、「いいでしょう」と滝は彼女の申し出を承認し、全員に準備を促した。演奏の態勢が整うなり、まるで先を急くようにオーボエのリードを銜えるみぞれ。その全身からほとばしるオーラのようなものに、久美子の心拍がトクリと跳ねた。今日のみぞれは何かが違う。何かとんでもない事が起こる。そんな予感がどきどきと、心臓に早鐘を打たせていった。

 滝が静かに二拍を振り、三拍目と同時にみぞれが独奏を開始した。それに合わせようとしたハープの音が、オーボエの音色よりも先に飛び出してしまう。普段よりもずっと遅いテンポで、しかしそれすら気にも留めさせぬほど、一つひとつの音には重厚な深みと余韻が備わっている。みぞれがメロディを吹き、それを希美のフルートが受け止めるようにして、二人の音が響く。次第に加わる楽器が増え音の厚みが増してもなお、みぞれの旋律は群衆を抜け出でてハッキリと前面に立ち、時に羽を震わせるように優雅なビブラートを利かせながら進行していった。

 すごい。引き込まれる。そう感じたのはきっと久美子ばかりではない。全体の音は瞬く間に、みぞれの音に圧倒されていった。本来あるべき枠からボロボロとこぼれ落ちる幾つかの音。それでもみんな必死に食らいつこうとするものの、緩急と抑揚を自在に操り場の音楽を支配するみぞれには追いすがることさえ適わず、あっという間に突き放されてしまう。

 オーボエの美しい音色がどんどん輝きを強めていく。魂を揺さぶられるような切なく狂おしいその鳴き声に、久美子もまた目から熱いものがこぼれ落ちそうになってしまう。衝撃的に打ち鳴らされるシンバル。最大級に鳴り響く金管のファンファーレ。その全てはガタガタになっていた。それでもみぞれのオーボエは止まない。細やかなフレーズを巧みに、そして情熱的に吹き切り、返す刀で次のシーンへと迷いなく飛び込んでいく。それに完全に寄り添うことが出来ていたのはただ一つ、希美のフルートが奏でるその音だけだった。

 奇跡を、見ていた。他の誰も決して手の届かぬ遥かなる雲上の世界を、みぞれと希美の二人だけが手をつないで踊るように舞っている。例えるならば二人の演奏はそれほどまでに崇高なものだった。夜の帳を色濃くしたような終盤に差し掛かって、もはや二人以外はほとんど演奏のていを成していない。そこには幾人もがすすり泣く音が聞こえる。久美子ですらユーフォを吹き込むその息が嗚咽にかすれてしまって、もはやまともには吹けそうもなかった。合奏は完全に破綻していた。それでも滝は指揮の手を止めることは無く、二人は最後まで飛ぶことをやめなかった。

 リタルダンドを経て長いフェルマータ。それを吹き切った希美はそっと手を離すように、みぞれをさらに一段、高みへと解き放つ。天の果てへと至ったみぞれが遍く虚空に響かせる、終幕のカデンツァ。それは、彼女がこれまでに培ってきた全ての結晶だった。最後の一音に再び希美も加わって、そのまま彼方へ飛び去るように、二人の演奏はそこで終わった。

 全ての音が止んだ後の光景は異様を極めていた。滝や橋本ですら驚愕の形相を浮かべたまま、言葉もなく棒立ちになっていた。呆気に取られて動けない人。感嘆と困惑の声を上げる人。ただただ咽び泣く人。研修室のどこを見てもそんな様相ばかりが溢れ返っている。そんな中でみぞれと希美は二人、荒く息を切らしながら互いを見つめ合っていた。

 

 

 それからの練習はたいへんだった。

 滝はそこまでで午前の合奏を急遽打ち切り、午後に予定されていた十回通しも翌日に回されることとなった。午後からの合奏ではみぞれと希美の演奏を基準として重点的に見直しが図られ、それまで必死になって積み上げてきた北宇治の音楽は僅か半日でそのほぼ全てを一気に塗り替えられてしまった。それでも部員たちが即応力を鍛えていた甲斐もあって夕方までにはおおよその形が整い、そして翌日の十回通しを経て、北宇治はその全てを完璧に会得することが出来た。今回の合宿における一番の成果。それは第三楽章を基点とするみぞれと希美、二人の劇的な進化を遂げた演奏だった。

「他に積むもの無いかー?」

「打楽器、積み忘れありません」

「金管は?」

「積めるものは全部オッケーです」

「だってよ、部長」

 ガタガタ、と黒いケースの山がトラックの荷台に収まってゆく。卓也や秀一ら男子部員が陣頭指揮を執る楽器搬出作業もまもなく終わりそうだ。楽器を満載したトラックが出発するのを見送った後、私物も含めて忘れ物が無いかの最終確認をするために、久美子は傾き始めた陽の射し込む館内を練り歩いていた。合宿所に一礼をするような気持ちで行われた部員全員での清掃により、床はぴかぴかに磨かれている。そこへおぼろげに映る自分の表情を眺めつつ、久美子は今回の合宿を頭の中で振り返っていた。

 あまりにも中身の濃い、けれどあっという間に過ぎ去った、三日間の合宿。ここで手にしたものは数多く、部員たちもこれで関西大会に勝負を賭けられると意気込みを強めている。だからと言って油断できない状況である事には依然として変わりないものの、この短期間で北宇治か急速に成長したのは滝や橋本らも認めるところだ。後は残された時間を最大限有効に使い、もっともっと音を磨いていこう。明日からの追い込みに向けて久美子は決意を新たにする。

 と、そこでふと、久美子の視界に黒いポニーテールの後ろ姿がよぎった。管理棟から宿泊棟へと繋がる廊下、その中ほどに立つ二つの人影に、久美子は無意識のうちに引き寄せられていく。

「――色々と、ありがとうございました」

 そこにあったのは新山と、彼女に向かって頭を下げる希美の姿だった。強い夕陽が逆光になって射し込んでいるせいで、こちらからは二人の様子はおぼろげにしか判らない。彼女らに気付かれぬようにと、久美子は柱の陰からそっと二人のやり取りを盗み見る。

「いいのよお礼なんて。鎧塚さんが本来の素晴らしい演奏が出来るようになって、本当に最高だったわね」

「それ、みぞれが聞いたらきっと喜んだと思います」

 希美の口ぶりからするに、どうやらみぞれはこの場には居ないようだ。くす、と吐息をこぼすような仕草の後で、新山はするりと自分の横髪を撫でつける。

「傘木さんも、鎧塚さんを支える完璧な演奏だったわ。この短い期間のうちに音も意識も本当に良くなったと思う。この間は耳の痛いことを言っちゃってごめんなさいね」

 新山の丁重なお詫びに、いいんです、と希美はかぶりを振る。

「あれでやっと踏ん切りがつけられました。今回の自分の役割は主役じゃない、みぞれのオーボエを支えることなんだって。それに、やっぱり思ったんです。私はフルートが好きなんだなって」

 そう語る希美の声には、羞恥、自嘲、不甲斐なさ、愛着、そういった念を少しずつスポイトで掬い取って混ぜたような、えもいわれぬ苦みが入り混じっていた。

「私多分、今までフルートが好きだったんじゃなくて、フルートを上手に吹ける自分のことが好きだったんですよね。だからみぞれに合わせろってどれだけ注意されても、みぞれに負けないよう張り合わなくちゃって気持ちがどこかにあって。けどそんな自分が間違ってたことをある人に教えられて。それからは自分のことを少しだけ、冷静に見れるようになった気がします」

「そう……それならきっと、本当に傘木さんを変えてくれたのは、その人ね」

「はいっ」

 返事と共に、希美のポニーテールが元気良く跳ねる。

「私、これからもフルート続けていくつもりです。今度こそ誰にも負けないぐらい上手にフルートを吹けるようになりたい。プロになれるかどうかなんて分かんないし、親にもまだ話してないからどう言われるかわかりませんけど、もし新山先生さえ良ければ、これからもご指導いただきたいと思ってます」

 お願いします、と希美はそこで頭を下げる。新山は頬に手を当てたまま、少しの間考えるような素振りを見せた。

「ごめんなさい」

 返ってきたのは残酷な回答。その重たさに、久美子でさえも胃にギリリと細糸が食い込むような苦しみを覚える。それを直接浴びた希美の胸中はいかばかりだったろう。目に飛び込む夕日の眩さに、久美子は思わず目をつぶる。じわり、と瞼の裏で涙が滲み出るのが分かった。

「私では傘木さんに充分なレッスンをしてあげることは難しいと思う。でも、私なんかよりももっと良い先生を紹介することなら出来ると思うわ」

「本当ですか!?」

 続く新山の回答は予想だにしないものだった。それは彼女にとってもまた同じだったのだろう、希美の半身が勢いよく起こされる。

「音大受験に関しては私よりもずっと実績のある方だから、まずは相談してみるだけでも良いんじゃないかしら。でもその前に、親御さんにきちんと話してご承諾いただかないとね。学費とか講義内容とか、音大に関する一般的なことで良ければいつでも相談に乗るから、気軽に連絡してちょうだい」

 親身な笑顔を浮かべながら、新山は胸元にしまっていたパスケースから取り出した一枚の紙片を希美に手渡す。きっと彼女の名刺か何か、連絡先をしたためたものだろう。それを受け取り、ありがとうございます、と希美は深々と頭を下げた。

「頑張ってね、傘木さん。私も応援してるわ」

「はい!」

 嬉しそうな希美の返事が、久美子の耳にいやに響く。自分にとっても喜ばしい筈のそのやり取りが、その時の久美子には何故か耐えがたいほどの気持ち悪さを覚えるものとして聞こえていた。

 例えば道を歩いていて、何の気なしに左へ曲がった時にふと芽生える理屈抜きの不安感。あるいは一旦左に行くと決めたにも関わらず、実は右を選んだ方が良かったのではと考えてしまうような、根拠を伴わぬ悔恨の念。そういったどす黒いものがひたひたと沁み込んでくるみたいで、それはとてつもなく不気味な感覚だった。

 希美にとって、みぞれにとって、この決断はほんとうに幸せなことなのか。そんな事を、帰りのバスの車中で久美子は考え続けていた。ぐるぐるとまとまらぬ思考はやがてトンネルを抜けるようにハッキリした回答へと導かれることもなく、いつまでも光の見えない穴ぐらの中を彷徨うばかりだった。

 

 

 

 



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〈17〉希美とみぞれ、二人の決着

 合宿を終えて数日。北宇治の練習はこれ以上無いほど好調を極めている。そう言い切っても良いぐらい、全体の音は文字通り秒単位で向上していた。

 一度は完成したかに見えた自由曲の演奏についても、橋本の提案で更なる調整と改善が進められ、課題だった表現力は府大会の頃とは見違えるほどに高まった。そうは言ってもこれで三強、あるいは立華や龍聖といったライバル校を破り盤石に全国へ駒を進められる、という確証が得られたかと言えばそういうことも無い。一発勝負のコンクールにおいて、僅かな油断は致命傷をもたらす。メンバー全員がそのことを頭の隅に叩き込んでいるお陰で、ここまでの練習は日々高まるクオリティとは裏腹に、常に良い緊張感が保たれ続けていた。

 そして今日は、本番前最後のホール練習。普段の部室ではなく実際のホールを丸一日借り切って曲を合わせながら、部員たちは改めて音響やひな壇の感覚を掴んでいく。午前中は通し練習をメインに全体の形を整え、午後からの練習では細かな部分をぎりぎりまで煮詰める作業を繰り返していた。指揮の手を下ろした滝が一度、腕時計へと目をやる。

「では十分間の休憩にします。このホールの貸切時間も残すところあと一時間ですので、休憩のあとは課題曲と自由曲を一度通してみましょう。いつも言っていることですが、練習だと思って吹いていては、いざその時を迎えた途端に呑まれてしまいます。常に本番の舞台に立っているつもりで、意識をそこへ合わせて下さい」

「はい」

 そこで滝はふと頬を緩めた。

「あの日から三週間。皆さん新しい練習プランにも素早く対応し、そしてここまで着々と努力してきました。明後日はいよいよ関西大会本番です。しかし私たちのゴールはそこではありません。コンクールに出れば必ず結果が出ますが、それに囚われてはいけません。最高の演奏を追求し続けるのは舞台がどこであれ同じです。誰もが最高だと思える演奏をすれば、結果は自ずとついてくる。そう信じて、ここで終わりと思わずに一つひとつの演奏を、一音ずつを大事にすること。それを忘れずにいきましょう」

「はい!」

 その言葉の裏には、彼自身の手応えや関西突破の希望といったものを十全に見て取ることができた。久美子はこっそりと手のひらを握り締める。出来ることは全てやった、という確かな感触。本番ではただその成果を存分に発揮すれば良いのだ。今すぐ本番が来ても構わない。そんな思いに、久美子の身体がぶるりと震える。

 滝が壇上を降りたのを合図に部員たちも三々五々、席を立っていく。久美子もお手洗いを済ませ、一旦外の空気でも吸ってからホールに戻ろう、と館内の廊下をぶらついていた。と、通りかかった先で偶然、久美子は夏紀の背中を見つける。夏紀せ、とまで言い掛けて久美子は続きを飲み込んだ。建物の外へと繋がる通用口のところにしゃがみ込んだ夏紀はそこで、何か様子を窺うように息を殺している。そう感じ、久美子はそろそろと彼女の元まで近づいていった。

「何してるんですか?」

「しっ」

 小声で夏紀の耳元に声を掛けると、振り返った夏紀は唇に人差し指を当て、それから小さく手招きをした。彼女におぶさるようにして久美子は夏紀の肩越しから周囲の様子を窺う。シャンプーの甘い香りが鼻先をくすぐり何とも言えない気分に胸が疼いてしまうのは、これは生理的にどうしようもないことだった。

「とうとう関西大会だね」

「……うん」

 どこからか聞こえるヒグラシの鳴き声。それは夕暮れの哀愁をより一層引き立てていた。通用口の先、階段を降りてすぐの植え込みのところには希美とみぞれが立っている。角度的にこちらには気付いていないようだったが、二人の声はこちらまで良く届いた。既に過ぎ行こうとしている西日は曇りがちな空模様に遮られ、そこからこぼれる光がまっすぐに黄金色の輝きを放ち、彼女たちの周りだけをスポットライトのように照らし出していた。

「私、みぞれに謝んなくちゃ、ってずっと思っててさ」

「希美が、私に、謝る?」

「うん。私ずっと、自分勝手だったなって」

 その言葉に夏紀の肩がビクリと揺れたのを、そこへ添えていた久美子の手のひらが感じ取る。

「私、自分のことしか考えてなかった。今までずっと。多分、一年の時に部活を辞めたのも。こないだの合宿の時、あすか先輩に言われて二人でいろいろ話したでしょ? その時も思った。あー、私って結局、自分が好きなだけのヤツだったんだって」

 黙するみぞれの表情には明らかに困惑の色が浮かんでいる。それを見てなのか、希美は自嘲するように顔を歪めた。

「自由曲が『リズと青い鳥』に決まってさ、嬉しい、って何度も言ってたでしょ? 私この曲好きだー、とかさ。それってホントは違ってた。私がこの曲を好きだと思ったのは、フルートが目立つ曲だから。こんなに目立つフルートソロが吹ける私ってカッコいいって、それが自分の勲章か何かみたいに、そう感じてたんだと思う」

 思いがけない希美の告白。久美子はごくりと息を呑む。それはいつだったか、希美に対して自分が感じたことそのものだったから。そろりと息を吐いた時、ふと背後に誰かの気配を感じて久美子はゆっくりと振り返る。

「優子先輩」

 いつの間にか、そこには優子が居た。無言のままの彼女は久美子がそうしているように夏紀の背にそっと身を預け、そうして三人、その場で身じろぎもせず、ただじっと希美たちの会話を見守る。

「でも、そういう自分が私の中にいることをあすか先輩に教えられてさ。私、悔しかった。自分がそんな人間だったなんて思ってなくて。自分でも自分のこと良く分かってなかったんだよ。だから無意識のうちにみぞれに対抗心燃やしたり、みぞれが音大受験奨められたって聞いたらじゃあ私も受けるーとか言い出して。今から思うとなんか、ホント、カッコ悪い」

「違う、希美は、」

「聞いて」

 みぞれが何か言おうとしたのを希美は遮る。その間、久美子の頭の中は今しがたの希美の発言で一色に埋め尽くされていた。今の今まで久美子は希美が音大を志望したからみぞれも受ける気になったのだと、そう思い込んでいた。それは、順序が逆だった。希美が受けるなら私も、ではなく、()()()()()()()()()()()、だったのだ。であるならば、これまで久美子が考えていた『みぞれの希美への依存』という認識も、この順序の訂正と共にまた違ったものとなってくる。

「もし気付かないままだったら多分、私はあの日、みぞれの全開の演奏を受け止めきれなかっただろうなって思う。そっちの方が、もっとカッコ悪かった。だから今はあれで良かったんだって思ってる。みぞれはあの日、新山先生からのアドバイスで考え方が変わったんでしょ」

 コクリ、とためらいがちにみぞれが頷く。あの奇跡のような演奏には新山も関わっていたのか。それまで知らなかった情報が次々ともたらされ、久美子の脳内も次第に混乱し始める。

「どんなこと言われたのか、私に、教えてくれる?」

 いつも元気に満ち溢れる希美の、普段殆ど聞いたことの無い柔らかく包むような声。それを受けてみぞれの身体は小さくうごめいた。俯き、微かに呼吸をするように口を開いたり閉じたりして、それからみぞれは希美にもう一度視線を合わせる。

「新山先生に、自分自身をリズじゃなくて青い鳥だと思ってみたら、って言われた」

「うん」

「もし私が青い鳥だったら、青い鳥はリズの決断を止められない。だって、リズのことが好きだから。リズが青い鳥に、大きな空で羽ばたいて欲しいって、そう願うんだったら、青い鳥は飛ぶしかない。どんなに辛くても、悲しくても、そうするしか」

 希美は黙ってみぞれの言葉を受け止める。じゃりっ、と彼女の靴がアスファルトの地面を擦る音が聞こえた。

「私、今までずっと、リズに自分を重ねてた。希美が部活を辞めて、私の前から居なくなって。ひとりぼっちのリズが私にそっくりだ、って。だから、私がリズなら青い鳥のことを自分から離すわけないって、そう思ってた。あんな苦しい思いをする選択を、自分から選べるわけないって」

「私も自分のこと、青い鳥みたいだなって思ってたよ。本当は離れたくないのに、青い鳥が自分の元から飛び立っちゃって、きっとリズはずっと青い鳥のことを待ってるんだろうなって。それがなんか、みぞれと私みたいだなって気がしてた。私が青い鳥ならいつかリズの元に帰って来たと思う」

 でも、今は。二人の声がそこで重なる。そして二人ともそこで押し黙った。

「ね、みぞれ。みぞれはこの曲、好き?」

 希美の問い掛けに、みぞれは小さく首を振る。彼女の表情は未だ迷いに歪んでいた。

「……解らない」

「私も、今は解らない。本当にこの曲のことが好きかどうか」

 え、とみぞれは聞き返すように瞠目する。

「正直、自分の中でも今はまだ、自分が一番カッコ良いままで居たいって気持ち、捨て切れてない気がするんだ。でも今回フルートはこの曲の主役じゃない。もちろん今でも良い曲だなって思ってはいるし、自分の役割もわきまえてるつもりだけど、前みたいに好きって断言できるほどじゃない。だから今は、ちょっと複雑」

 希美は俯き、トン、と片方のつま先を地面につけた。

「おんなじだね、みぞれと」

「希美と、おんなじ……」

 うん、と希美は頷く。そしてやにわに、みぞれに向かって両手を伸ばした。

「ね、アレやろうよ」

 アレ、と言われてみぞれには思い当たるものがあったらしく、返事を言い淀むように唇だけを動かす。

「やったこと無いって言ってたから。みぞれの初めて、私と、してくれる?」

 その問い掛けにみぞれはしばらく逡巡しているようだった。横髪を左手で硬く握り、久美子も焦れるほどの時間をたっぷりと置いてから、みぞれが微かに頷く。そして希美と同じように、自分の両手を大きく横に開いた。

「ありがとう。みぞれ」

 みぞれの胸に希美が飛び込む。そして両の腕で、みぞれの細い背中をギュウと抱き締めた。大好きゲーム、と優子が呟く。耳慣れないその単語に久美子は大いに困惑した。

「何ですか、大好きゲームって」

「ああやってハグしながらお互いの好きなところを言い合うってゲーム。昔、南中で流行ってたんだけど」

 そんなものを今この場で、希美は何のためにしようとしているのか。彼女の意図が量りかねる。そう思ったのは久美子たちだけでは無かっただろう。希美の腕に抱かれたみぞれもまた、自分の手をどうしていいか分からないといった様子で彷徨わせている。ややあって、みぞれは相手を拘束するように、その小さな両手を希美の腰の辺りへゆるりと繋いだ。

「私はみぞれのオーボエが好き。みぞれは上手いし、才能もある。情熱的に吹いてるみぞれ、感情爆発、って感じでカッコいいなっていっつも思ってる。ホントだよ」

「……私は希美の、誰とでもすぐ仲良しになれるところが、好き」

「うん」

「いつもみんなの輪の中にいて、みんなを引っ張って、いつも楽しそうで。すごいなって、思ってる」

「うん」

「希美の笑い声が、好き。希美の話し方が、好き。希美の足音が好き。目が好き。においが好き。希美の髪が好き。希美の、希美の、全部が、好き」

「うん」

 最後の希美の首肯は少し声色が落ちたように、久美子には聞こえた。

「こんな私のことを好きって言ってくれるみぞれが、私も好き」

 希美の言葉が、昏い。それと同時に雲間から射し込んでいた光が完全に遮られ、二人の周りが暗くなっていることに久美子は気が付いた。思いの丈を吐き切ったせいか、みぞれは息苦しそうに顔を歪めている。対する希美はまるで何かを悟ったかのように、諦観に満ちた静かな表情をしていた。

「みぞれ、私、頑張るよ。みぞれのソロ、支えられるように」

「私も頑張る。コンクールでいい演奏、できるように」

「それだけじゃなくて」

 希美はみぞれを抱き締めたままで言葉を続ける。

「絶対に全国行って最高の演奏する。金賞だって獲る。そして音大にも合格してみせる。絶対に、負けたくないから」

 何に、とみぞれが問うのを許さぬように、希美がみぞれの背中に指を食い込ませる。痛々しい軋みの音は久美子達のところにまで聞こえてきそうだった。もはやヒグラシの声などまるで耳に入らない。そのぐらい、久美子の聴覚は二人の会話に集中していた。

「だから、みぞれも頑張って。オーボエ」

 なぜ希美がそんな事を言うのか。当のみぞれにはきっと解っていなかっただろう。しばらく迷いを見せていたみぞれはやがて希美の腰ではなく背中に手を這わせ、彼女の肩へと顔を埋めた。

 がんばる。私、オーボエ続ける。

 そう聞こえた気がしたのは果たしてただの幻聴だったのか。みぞれの声はほとんど呻きに近く、そしてひょうと吹いた風に掻き消され、ハッキリとは判らなかった。けれどみぞれならばきっと、そんなことを言ったはずだ。だってそれは他ならぬ希美の、何の偽りも無い心からの願いなのだから。

 震えるみぞれの肩をポンポンと、まるであやすように、希美の手が優しく叩く。二人の会話は多分、そこで終わった。同じことを優子も悟ったらしく「行くわよ」と小声で久美子と夏紀の制服を引っ張る。なかなか動じぬ夏紀に、せんぱい、と追って声掛けをした時、彼女の下唇にうっすらと紅色が滲んているのを久美子は確かに見咎めた。

「……凄かったですね」

 通用口から離れ、ホールのロビーまで一時退散した久美子はそこでようやく息を吐くことを許された。呼吸するのを殆ど忘れてかけていたせいか、妙に頭がズキズキする。心臓の拍動も未だ収まりがついていない。身体に粘つく鈍痛のせいで、希美とみぞれの会話の意味を考察することも今は上手く出来そうになかった。

「希美先輩、どういうつもりだったんですかね」

「さあ。希美にしたらケジメのつもりだったんじゃない? 今までみぞれのこと振り回してきてゴメン、って」

「確かに、そうかも知れないですけど」

 的を射ている、という感覚が得られず、久美子の返答も何となく否定めいたものになってしまう。優子とて己の回答に確信をもっていた訳では無いのだろう。そのことは何よりも、優子自身の浮かぬ表情から察することが出来た。

 あれは「大好きを言い合う」というよりは殆ど、希美自身の決意をみぞれに、そして己に言い聞かせるための行動だったように思えてならない。全身をどくどくと巡る動脈に何かどす黒いものが混じっていくような、そんな嫌な感じがする。彼女たちの問題があれで解決したという気配は全く無く、ただ暗澹たる不安感がねっとりと臓物に巻き付くような重たい感触だけが残っていた。

 夏紀はこの件をどう思っているのだろう。彼女は何も言わず、さっきから口の辺りをゴシゴシと手の甲で拭うばかりだ。

「夏紀先輩、大丈夫ですか?」

「何が?」

「その、唇ですけど」

「あー、これね」

 腕をどかした夏紀の下唇。そこにはハッキリと真横に引かれた鮮血が浮かび上がっていた。頬や顎にも、それを拭おうとしていた彼女の腕にも、ハケで塗ったみたいに真っ赤な血がこびりついている。それを直視してしまった久美子の視界が、ぐねりと歪曲した。

 次の瞬間、目に映ったのは、ホールの天井だった。

「大丈夫?」

「……あ」

 いつの間にか、久美子はロビーの長椅子に寝かされていた。慌てて身を起こすと隣には優子の顔があって、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。貧血を起こした自分が気を失っていたことに、久美子の思考がそこでようやく追いついた。

「安心して。滝先生には話してあるから」

「え、いや、すいません迷惑掛けちゃって。早く行かなくちゃ、」

「黄前が落ち着くのが先。どう? 気分は?」

「今は、特に何とも」

 そう、と優子は安心したようにひとつ息を吐く。

「ったく。とんでもないもの黄前に見せて、スプラッタ映画じゃあるまいし。ちゃんと黄前に謝んなさいよ」

 優子はとげとげしい口調で元凶となった夏紀に非難をぶつけた。恐る恐る視線を向けると、夏紀の口元や腕にはもう血の痕は無く、代わりにところどころ水滴がついたままになっている。きっと久美子が倒れている間にどこかで血を洗い落として来たのだろう。

「優子に言われなくたって、そのつもりだよ」

 横に走った下唇の裂傷は思ったよりも深手ではなかったらしく、半ばかさぶたになっているみたいだった。それを見て久美子は、気絶したあの瞬間から既にそれなりの時間が経過していることを悟る。

「ホントに反省してんの? 謝るなら土下座とまでは言わないけど、せめて頭下げるぐらいはしてみせなさいよ」

「いやいや優子先輩、もういいですって。ちょっとビックリしちゃっただけで、私は別に怒ってないですし。それより私、どのぐらいこうしてたんですか?」

「ニ、三分ってとこじゃない? 私が黄前のことを滝先生に報せに行って、それでついさっき戻ってきたばっかだから。っていうか、そんなの気にしてる場合じゃないでしょ」

 良かった、と久美子は心から安堵した。本番前最後のホール練習というこの大事な時に自分のせいでみんなに迷惑を掛けてしまったらどうしよう、と気が気でなかった。ほんの数分程度なら、まだ取り返しはつきそうだ。

「アンタはそんなこと気にしなくていいの、それもこれも全部夏紀のせいなんだから。だいたい合奏の時に唇が切れちゃったんなら大人しく手当てしてれば良かったのに、何やってんのよ全く」

「だから言ったでしょ。ちょっと水道で洗ってこようかと思ってたところにあの二人が降りてくのが見えたもんだから、つい気になって追いかけちゃったの。それでうっかり怪我してたの忘れてたんだってば」

 ガミガミと叱る優子をのらりくらりといなす夏紀。それはどう見ても、いつも通りの彼女の姿だ。けれど久美子には解っていた。夏紀の唇の傷が、希美たちのやり取りを見ている間に刻まれたものであることを。さっき通用口で夏紀を見つけた時、声を忍ばせるよう人差し指を立てた夏紀の唇には、どこにも傷など無かった。それを久美子はしかと憶えていた。

「ホント、しょうがないんだからコイツ。まあいいわ。相手にするだけ時間の無駄だし」

 呆れ返ったように溜息をつき、それから優子は再び久美子を見やる。

「で、黄前の調子はどう?」

「あ、はい。もうすっかり」

「無理はしないでよ」

「大丈夫です。吹けます」

「じゃあホールに戻るわよ。さっきからアンタが帰ってくるの、待ちわびてるヤツもいるみたいだし」

 ホラ、と優子は指を差す。その先、ホールへと向かう下り階段の端には麗奈が立っていた。優子たちが介抱に当たっていたことで遠慮したのだろうか、彼女は不安の色を浮かべつつも遠巻きにこちらの様子を窺っている。そんな麗奈に対して久美子は心配を掛けたことを申し訳なく思いつつ、ほんのちょっぴり嬉しくも感じていた。

「今日最後の合奏だし、気合い入れていくよ」

「はい」

 返事をして久美子は立ち上がる。ふらつきを感じることも無く、これなら十分に楽器を吹けそうだ。先を行く優子についていこうとして、ふと久美子は、夏紀がその場に立ち止まったままで居ることに気が付く。

「行きましょう。夏紀先輩」

「あー、うん」

 俯いたまま、夏紀はそぞろな返事をした。彼女の全身には今もなお色濃い愁いが漂っている。それは恐らく、後輩を昏倒させてしまったという罪悪感によるものでは無い。夏紀を苛んでいるものはきっと彼女たちのこと。だからあえてもうひとつ、久美子は声を掛ける。それがその時の久美子に出来る、夏紀への精一杯の気遣いだった。

「きっと、大丈夫ですから」

「……うん」

 口の端を複雑に曲げ、それから夏紀は力なく笑顔を浮かべた。それは今にも崩れてしまいそうなほどに脆く儚げで、それを見た久美子もまた鼻の奥がツンと熱くなるのを感じていた。

「ありがとう、久美子ちゃん」

 

 

 

 

 翌日の練習は早い時間に切り上げとなり、その後の久美子たちは思い思いのひと時を過ごした。本番の直前まで練習を詰めることは決して良いことでは無い。練習のし過ぎで疲れが残れば音が鈍り、音が鈍れば本番でも練習の成果を充分に発揮できなくなる。それよりは心身を休め、本番に向けて最大限のパフォーマンスを発揮できるようにした方が良い。そんな滝の方針により、本番前はいつも軽く確認をする程度の練習で終わっていた。

 不思議なもので、今回は久美子の心に焦りの念は一つも無かった。楽器を持ち帰ることもせず、秀一といつものベンチで語らったりした後、家に戻って晩ご飯を食べ、シャワーを浴び、灯りを消してベッドに寝そべる。そんないつも通りの生活はむしろ、本当に明日本番なのだろうか、と疑ってしまうほどの不気味な落ち着きぶりですらあった。早く本番が、その時が、来て欲しい。期待に高鳴る胸を手で押さえつけながら、その夜久美子は心地良く眠りに就いたのであった。

 次に目を開けた時、窓の外からはもう明るい光が差し込んでいた。枕元の目覚ましに手を伸ばして時刻を確認する。五時五十四分。セットしていた時間よりは少し早い。ベッドから起き出し大きく伸びをして、それから体を左右に捻る。――うん、特に問題は無い。朝一番の体調チェックを済ませた久美子は机に向かう。脇に置いてあったスクールバッグから楽譜ファイルを取り出し、それをめくって課題曲と自由曲をそれぞれ眺める。譜面は既に、仲間たちによって寄せ書きされた沢山のメッセージで埋め尽くされていた。

『目指せ! 全国金賞!』

 オレンジのマーカーで威勢よく書かれているのは葉月の字。

『一音入魂』

 紫色の細いペンで鮮やかにしたためられたメッセージは麗奈の手によるもの。

『ファイト!』

 青いフェルトペンでしたためられたサインのようなそれは希美の筆致。

『久美子先輩がんばって』

 濃いピンクの可愛らしい丸文字は、長きに渡る説得の末に渋々ながらも書いてもらった奏からの応援のことば。

 そして。

『全国で思いっ切り吹いてこい!』

 黒のペンで、まるで楷書体フォントのような精緻さで綴られたその字は、あすかが書いてくれた励ましのメッセージだ。一つひとつのメッセージを誰が書いたのかは筆跡を見るだけで解る。ファイルを閉じた久美子は、仲間や後輩、先輩たちの想いごと、ファイルを胸に抱き締めた。全ての言霊から力をもらうかのように。そして、自分自身を鼓舞するために。

 忘れないうちにファイルをバッグへしまい込み、再びベッドへと向かう。ちょうどその時「ピピピ」と鳴り出した目覚まし時計のアラームを、久美子はすかさず手で止めた。よし。自分の感覚は今、極限まで研ぎ澄まされている。確かな手応えを感じた手のひらを久美子はおもむろに、そして強く握った。

 

 

 

「来ましたね、とうとう」

「うん」

 バスを降りて少し歩いたところで、久美子は立ち止まっていた夏紀に声を掛ける。コンクールの舞台衣装となる冬用の制服に身を包み、目前にそびえる赤茶色の建物をじっと見据えながら、彼女は硬い面持ちで頷きを返した。

 吹奏楽コンクール関西大会。その会場となるこのホールに、北宇治は今年もやって来た。去年は挑む側だった訳なのだが、ならば今年は挑まれる側かと問われれば、そうだと答える部員など一人としていないだろう。北宇治は今年も挑戦するためにやって来た。何に? ライバルである立華に、ダークホースである龍聖に、全国屈指の強豪校である三強に、そして全ての参加校に?

 違う、そうじゃない。自分たちの挑む対象はいつだって過去の自分たち。そして自分たちが思い描く最高の音楽。それを成し遂げるために北宇治はここに居るのだ。結果は後からついてくる。そう語った滝の言葉を久美子は胸の内で反芻していた。泣いても笑っても今の自分に出来るのは、これまでに培った全てを本番の舞台にぶつけること。ただそれだけなのだ。

「緊張してる?」

「今日は全然です。むしろ早く本番で吹きたい、って思うぐらいで」

「メンタル強いね。私は府大会もそうだったけど、コンクールの本番なんて殆ど立ったことないからさ。自信無いワケじゃないんだけど、なんか緊張しちゃって」

「分かります、先輩の気持ち」

「それに、今年が最後なんだって思ったら、余計にね」

 噛み締めるように、夏紀はそう口にした。今年が最後。そうだ。三年生である夏紀は、今年を逃したらもう全国への挑戦権を得ることはできない。まして今年の夏紀は副部長として部を牽引する立場にあった。彼女の視野は自身のことだけではなく、共に血の涙を流しながら切磋琢磨した仲間、友恵を始めとしてサポートに回った友人、たくさんの後輩、その全てに注がれていた筈だ。そんな夏紀の心境は、今の久美子には察するに余りあるものがあった。

「今までありがとね、久美子ちゃん」

 不意を突く夏紀の言葉に、え、と久美子は息を涸らす。

「久美子ちゃんが北宇治に来てくれたから、私も随分変われたなって思ってる。例え滝先生が北宇治に来るのは変わらなかったとしてもね。久美子ちゃんが居てくれなかったら私はずっと、コンクールなんてどうでもいいやって感じで練習サボったり、部のことにも自分なんか関係ないって、そんな風に過ごしてた気がする」

 いつになく夏紀は晴れやかな笑顔を浮かべた。それがどうしてか、久美子の胸に強烈な寂しさを突き立てる。

「それがこうやって最後の年にコンクールメンバーになれて、しかも関西大会にまで来れたんだよ? 自分で言うのも何だけどかなり上手くなれたし、音楽もユーフォも昔より好きになれたって思う。部のことだって、何だかんだ言いながら優子と二人で面倒見てこれたし、私にしては上出来過ぎるかなってぐらい。それも、久美子ちゃんが居てくれたから」

「先輩……」

「久石のこととか、心残りもあるけど、それも久美子ちゃんならきっと何とかしてくれるって思ってる。正直コンクールがここで終わっても、私は全然後悔なんてしない。私に出来るだけのことはもう、とっくにやり尽くしたから。だから今日は今までで最高の演奏をして、それで終わりたい」

 やめて下さいよ。そう言いたかったのに言葉がつっかえて喉から出てこない。夏紀の発言の端々に巡らされた過去形のことばが哀しい響きを孕んでいた。はらり、と頬を熱いものが流れ落ちていったのが自分でも解る。それを見た夏紀もまた、クシャリと切なげに顔を綻ばせた。

「こんな私なんかにはホント、久美子ちゃんは出来過ぎた後輩だったよ。そんな子に出会えて、ここまで一緒に吹部でやって来れて、私は本当に幸せ者だった。私がここまで来れたのも全部久美子ちゃんのおかげ。だから、ありがとう」

 畳み掛けられて、いよいよ久美子は嗚咽を堪えることが出来なくなってしまう。そんな久美子の頭を夏紀はそっと撫で、己が胸元へと引き寄せた。そこに顔を埋めるようにして、久美子はとめどなく溢れる涙を、彼女の肩へと刻んだ。

「これで終わりじゃ、ないです。私たちは、全国に行くんです」

「そうだったね」

「最後なんて、いやです。私、先輩と一緒に、全国で吹きたい。もっともっと、吹いていたい」

「……ありがとう」

 そう告げる夏紀の声もまた、胸に迫る感情を堪えるかのように震えていた。この人と一緒に吹くコンクールを、ここで終わりになんてしたくない。そんな思いが怒涛のように押し寄せて、久美子はただただ夏紀にすがりつく。それを黙って受け止めてくれた夏紀の優しさを、温かさを、久美子はずっとずっと大事にしていたかった。

「なになにー? 二人とももう感極まっちゃってるのぉ? 本番はこれからだってのに」

 そんな二人の心情を土足でぶち破るかのような無遠慮さで、どこからか沸いて出たあすかが冷やかしの言葉を浴びせてきた。すぐさま夏紀から身を離し、涙でグシャグシャになった顔面を慌てて袖で拭ってから、久美子は鼻声をごまかすように咳払いをする。

「何ですか、あすか先輩。いっつもそんなふざけたことばっかり言って」

「ふざけてなんかないって。先輩後輩の美しい師弟愛ってやつに思わず胸打たれちゃったんだってば。いやー、これぞ青春だねえ」

「知りませんよ、そんなの」

 久美子の非難もどこ吹く風といった具合に、あすかは身をよじらせながらニヤニヤとこっちを見てくる。さっきまで泣きっ面を晒していたのが急に恥ずかしくなって、久美子はツンとそっぽを向いた。

「そりゃあ先輩は今年出ないから関係無いかもですけど、夏紀先輩にとっては最後のコンクールなんですよ」

「最後? いつ誰がそんなこと言ったの」

 あっけらかんとあすかは答える。その一言に久美子はザクリとみぞおちを抉られた。

「まさか夏紀も黄前ちゃんも、今年の北宇治はココで終わりだなんて、そんな風に思ってたワケ?」

 キョトンとした久美子と夏紀は互いに顔を見合わせ、それからあすかに向かって全力で首を振る。仮にどちらかが薄々そう思っていたとしても、急に真顔になったあすかを前にしてそんなことを言える筈も無かった。

「なら良し」

 フフンと不敵に鼻を鳴らして、それからあすかは高らかに宣言した。

「大丈夫、北宇治は必ず全国に行くから。この田中あすかが太鼓判を押してあげる!」

 

 

「……で、あすか先輩は?」

「その後すぐ、香織先輩たちに捕まってた。先輩たちホント過保護だよね。他の後輩の応援より、あすか先輩のことが気になって仕方ないみたい」

「まあ、そうだろうなって感じもするけどね。特に香織先輩はああいう人だし」

 最後のチューニングも終え、北宇治の一同は真っ暗な舞台袖で待機しながら一つ前の出番である高校の演奏を聴いていた。曲目は「狂詩曲『ジェリコ』」。さすがに地方大会を抜けてきただけあり、忙しなく動き回る音の連続を吹き上げる彼らの演奏力は押しなべて高い。けれど久美子を始め北宇治の面々はそれに動じることもなく一定の緊張感と集中を保ったまま、出番が来るのを落ち着いて待っていた。

「あすか先輩も今ごろ、香織先輩たちとホールで聴いてると思う」

「じゃあ先輩たちのためにも、最高の演奏しなくちゃね」

「うん」

 こうして出番を待つ間、久美子はいつも麗奈に見とれてしまう。本番前の彼女が見せる鋭気に満ち満ちた姿はまさしく久美子が思い描く理想そのものだ。久美子にとっての麗奈とは親友であり、同志であり、目標であり、それ以上の存在でもある。麗奈が『特別』を目指す以上、久美子にとっても目指す地平は同じ。そしてその先にはいつだってあすかが居る。自分の渾身の演奏を、あすかに届けたい。そんな思いが久美子の身体を駆け巡り、ぶるりと大きく震えた。

「さっき久美子言ってたでしょ。自分こそ、夏紀先輩が居てくれて良かったって」

 麗奈の視線が少し離れたところに居る夏紀へと注がれる。優子と友恵、三人で顔を見合わせる彼女らは、今は静かに互いの決意を確認し合っているみたいだた。

「私もそう。優子先輩が居てくれて良かったって、今は本当にそう思ってる」

 そう語る麗奈の言葉には力が籠っていた。頷きつつ久美子もまた、先刻の優子の姿を思い返す。

『……今年の北宇治を、私は最強だって思ってる』

 本番直前のチューニング室で、滝に発言を促された優子は開口一番、神妙な面もちで部員にそう告げた。

『ここまで大変なことが幾つもあって、時には折れそうなこともあって、けれどみんなそれを乗り越えてここまでやって来た。私は純粋にすごいって思ってる。こんなに頑張ってきた部員一人ひとりが、私の最高の自慢であり誇りです。そして何より、こんなすごい仲間に支えられて今日まで部長をやらせてもらえたってことが、私にとっては吹奏楽部で過ごした三年間で一番の宝だと思ってます』

 一旦言葉を区切り、優子は皆に向かって一礼する。次に面を上げたとき、彼女の顔にはそれとわかるほどの決意と自信が満ち溢れていた。

『けど、北宇治はここを抜けて全国へ行く。それだけの力が今年の北宇治にはある。私はそう信じてます。これまでずっと吹部に居て、吹部を見続けてきた私が言うんだから、間違いありません。もう一度言うけど、私が北宇治に入ってからの三年間で今年の吹部は最強です! だから今は目の前の十二分間に集中して、私たちのやってきたことをぜんぶ、本番の舞台で出し切ろう!』

 誰もが抱いていた一抹の不安をもあっという間に吹き飛ばしてしまうほど、優子の演説には人を導く確かな力強さがあった。全員の意志を束ね、一つにまとめて前へと推し進める。そんな能力が優子にはある。それはきっと彼女が生来持っている気質を限りなく良い方向へと発揮した、その結実とも呼べるものだった。

 そしてそんな優子との間に、かつて麗奈が抱えていた軋轢。時と共にそれを乗り越え、いつしか麗奈は優子を心から頼もしい存在と感じ、慕っている。優子に全幅の信頼を寄せる麗奈の強い眼差しをこうして横から見ているだけでも、久美子の胸にはとても言い表せないような高まりが押し寄せる。

 きっと自分や麗奈だけでは無い。部員たちのそれぞれが紆余曲折の末に、先輩や後輩といった垣根すらも越えて、今は互いに同じ思いを抱いていることだろう。この人たちともう一度、いいや何度でも、この時間を過ごしたい。ここで終わりになんか絶対にしない。その思いが、自分たちを灼き尽くさんばかりに燃え上がっていた。

 総奏(トゥッティ)の後に木管の音が翻り、残響を締めとして前の団体が演奏を終える。なだれ込む拍手の音。いよいよだ。久美子の心臓はそこでひときわ高く跳ね上がった。感じているのは緊張か。不安か。それとも興奮か。掴み切れぬ自分の心情を、久美子は深く吐いた息と共に押し出す。

「頑張ろう、久美子」

 そっと差し出された麗奈の拳。

「うん。頑張ろう、麗奈」

 久美子も自分の拳を伸ばし、重なり合う二つの拳が小さく音を立てる。その誓いが、決してここで終わらないことを信じて。

「続いての演奏は、プログラム十五番。京都府代表、京都府立北宇治高等学校――」

 

 

「ああ、緊張するう」

「大丈夫ですって先輩。私達も舞台袖から見てましたけど、最高の演奏でしたから。思わず泣いちゃうぐらいカンペキでしたし、あれならぜったい金賞ですよ」

「うっかりタイムオーバーとかになっちゃってたらどうしよう。もう不安と緊張で、胃がねじ切れそう」

「心配いらないって。客席で時間計ってたけど、練習通りバッチリ十二分切ってた」

「もうダメ、耐えらんない。みんなここで結果発表聞いてて。私トイレ行ってくる」

「ちょっとアサミぃ、置いてかないでよ。私だって怖いんだから」

 そんな声が方々から聞こえてくる。ホール内には後半の部に出場した全ての学校の部員が集い、粛々と、あるいは息も絶え絶えに、結果発表の時を待っていた。

「でもまさか、立華が銀だなんてなぁ」

 一つ前の席にいた葉月が小さく呻きを洩らす。彼女の隣に腰掛けた緑輝はさっきから「よしよし」と落ち込む葉月を懸命に慰めていた。いかにライバルと言えど同じ京都府代表であり、一緒のステージに立って演奏したよしみでもある立華に対して、葉月はある種の仲間意識を持っていたのだろう。けれど前半の部に出場した立華は無念にも銀賞に沈み、後半出場校の結果発表を待たずして全国大会進出の望みを失うこととなってしまった。

 久美子の脳裏に一瞬、梓の顔がちらつく。果たして彼女はこの結果をどう思っているのだろう。いかに立華がマーチング主体の学校であるとは言え、梓個人はきっとこの結果に満足してはいない筈だ。そんな彼女の胸中を充分に慮るだけの余裕はしかし、今の久美子には無い。間もなく北宇治の命運は決まる。その事実は、あたかも断頭台の上に立たされているかのような決死の気分を否応なしに増幅させていた。

 舞台の気配がにわかに動き出す。あちこちの席から「来た」という声が上がり、さざ波のように押し寄せたざわめきは、壇上に並ぶ各校の代表者、そしてコンクールの主催者である関西吹奏楽連盟のお偉方が揃うにつれて、おのずと減衰していった。

「それでは只今より、全日本吹奏楽コンクール関西大会、後半の部の表彰式を始めます」

 ごくり、と唾を呑む久美子の手を、隣の麗奈が強く握り締める。まずはここで北宇治が金賞を獲ること。これが出来なければその時点で、立華がそうであったように、全国への道は断たれてしまう。出場順の通りに一校ずつ名前と賞が読み上げられてゆき、その度に客席からは喜びと悲しみの声が交錯する。

「……十二番、大阪府代表、大阪東照高等学校。ゴールド金賞」

 わあっ、という歓声と共に咲き誇る笑顔。彼らにとってその反応は半ば予定調和なのだろう。たおやかに鳴らされた拍手もすぐに止み、大阪東照の面々は再び静けさを取り戻した。その規律正しい振る舞いはさすが三強の一角、と言うべきか。

 他の三強である明静工科、そして昨年ダメ金に沈んだ秀大附属はどちらも前半の部の出演で、これまた当然のごとく両校とも金賞という結果を得ていた。他にも金賞の団体は午前午後を含めて既に幾つか出ており、つまり残った金賞の枠もそれほど多くはない。出番が比較的遅かった北宇治の面々も一つまた一つと金賞の学校が出るにつれ、強い焦燥感に襲われ始める。

「十五番、」

 来た。あまりの緊張に堪えかねて、久美子はぎゅっと目を瞑る。

「京都府代表、北宇治高等学校。ゴールド金賞」

 よおし! と男子部員たちの(とき)の声。久美子もまた麗奈と二人、握り合った手を振りかぶる。まずは一つ、関門を抜けた。けれどまだ全ての苦労は報われていない。気を引き締め直して、久美子は続く発表へと耳を傾ける。

「二十二番、京都府代表、龍聖学園高等部。ゴールド金賞」

 わああ、とホール中に雄叫びが響き渡る。喜びの大合唱を上げる彼らにとって、初の関西大会で金賞というこの結果はまさしく殊勲であったに相違ない。あまりのはしゃぎようを見かねた司会役の「静かに!」という一喝で、その狂騒は潮が引くように鎮められた。

 北宇治よりも後だった龍聖の演奏を、久美子は今回はホールで直に聴いていた。彼らの選んだ課題曲は奇しくも北宇治と同じ『ラリマー』、そして自由曲は『白磁の月の()()()』。冒頭からフルートやピッコロが舞い踊るように跳ね回り、場面ごとにそれぞれの楽器の音が飛び交う変則的な和楽調曲。静と動、あるいは陰と陽を巧みに使い分け、終盤はまさに怒涛の展開で終わりへとなだれ込んでいく、難易度と芸術性の極めて高い曲だ。

 演奏技術。表現力。どちらも他の強豪校に引けを取らない彼らの出来栄えには、あのまま何の対策もなく北宇治がここに乗り込んでいたならば、太刀打ちすら出来なかったことだろう。あすかの予見が単なる脅しではなかったことを頭では理解しながらも、実際に龍聖の演奏を耳にしたことで、久美子はようやく実感することが出来たのだった。

「……続きまして、十月に行われる全国大会に、関西代表として出場することになる三団体を発表します」

 ぞわり、と場の空気が極限の緊張に縛られる。用意された全国行きの切符は僅か三枚。前半の部を合わせて挙げられた幾つもの金賞団体のうち、果たしてどこが関西代表の栄誉を得るのか。ここが運命の分かれ道だ。

「ではまず一校目」

 一度そう告げた後、司会役の男性は思わせぶりに言葉を溜める。祈りに声を震わせる誰かの吐息が聞こえた後、司会役の息を吸う音が、スピーカーを通じていやに響き渡った。

「三番、大阪府代表、明静工科高等学校!」

 ホール中を席巻する歓声、そして拍手。明工の盤石ぶりはやはり微塵も揺らがなかった。赤のジャケットで統一された明工の生徒たちは皆一様に穏やかな表情で拍手をしている。彼らのような全国常連校の場合、上位大会に進出したことの喜びよりもむしろ、先輩たちから受け継いだ伝統を今年も守れたという安堵感が勝るのだろう。

「次に、二校目」

 再び静まり返る館内。次に呼ばれるのはどこか。自分たちか、それとも自分たちよりも後の団体か。誰もがその瞬間に備え、必死に祈る。久美子もまた麗奈と結んだ手に力を籠め、ただ北宇治の名が呼ばれる事だけを信じ続けていた。

「八番」

 と告げられたその瞬間、やったあ! と弾け出る声。ホール前方に陣取る黒いブルゾンの集団が、喜びもひとしおといった様子で互いを讃え合っている。それは昨年、金賞ながらも代表権を取れずに終わった秀大附属の部員たちだった。その中の一人、何となく既視感を覚える女子部員の横顔に大粒の涙が浮かんでいるのを、久美子は確かに見た。

「そして、三校目。次が最後です」

 いよいよだ。代表権を得られる最後の一校。ここで北宇治の名が告げられなかったら、その時点で全てが終わる。北宇治だけでなく、三強の一角である東照も、最大のライバルと見ていた龍聖にも、名を読み上げられる可能性はまだ残っていた。

 緊張はとっくに限界を超えている。びっしりと脂汗に覆われた肌が、神経を絶たれたみたいに何の感触も示さない。目を伏せ、久美子は必死に祈った。北宇治の名が呼ばれることを。そしてコンクールへの挑戦がまだ続くことを。麗奈が呻くように息を洩らしたのが聞こえる。永遠かと思えるほどに長い刹那の静寂。ふつと途切れた音を汲み直すかのように大きく息を吸う音が、マイクからスピーカーを経て久美子の耳に届いた。

 

「十五番、京都府代表、北宇治高等学校!」

 

 プツリ、と全身から糸が抜けるような錯覚。周囲から上がる絶叫。大音声。動揺。そして悲嘆。ありとあらゆる膨大な感情が一気に爆発しホール中に轟く中で、久美子の頭はそれらをまだ上手く処理し切れない。北宇治高等学校。耳にした音をもう一度確かめるように、久美子は声に出してみる。

 行けたのか。自分たちは、本当に。

 行けるのか、そこへ、みんなと一緒に。

 もう一度。

「久美子、」

 どかり、と何かがのしかかって来る。それは麗奈の体だった。ほとんど身を投げ出すようにして、麗奈が自分に覆いかぶさっている。未だ半信半疑の久美子は、がくがくと震える顎を手で押さえつけながら、麗奈に尋ねた。

「全国、なの?」

「そうだよ、久美子。行けるんだよ、私たち、全国に!」

 そこでようやく、久美子の意識は正常を取り戻した。喜びに打ち震える部員たち。後藤も、梨子も、友恵も、夢も、美玲も。見渡す一つひとつの顔にはいずれも、最大級の喜びと感泣とが溢れ返っていた。

 そして、希美とみぞれは。久美子が振り返ったその先で並んで座る二人もまた、手に手を取り合っていた。どちらの目にも涙は無い。希美は僅かに頬を緩めながら黙してステージに視線を固定し、最高の結果がしたためられた賞状とトロフィーを受け取る舞台上の優子たちを見守っていた。そしてみぞれはそんな希美の横顔を、ただじっと見つめていた。

 壇上に設けられた席で、トロフィーを胸に抱く優子が感極まった様子で目頭を押さえる。夏紀はそんな優子をねぎらうように彼女の肩へ手を掛けた。その瞬間、久美子の感情は、とうとう弾けてしまった。いくら指で拭っても、両眼から溢れ出す熱は次から次へとこぼれ落ちる。気付けば麗奈もまた、抑え切れぬ涙をどうしたらいいか分からなくなっているようだった。

「良かった。ホントに、良かった」

 どちらからともなく、久美子と麗奈は抱き締め合う。まだ終わらない。私たちの音楽は続くんだ。その喜びを麗奈と二人、心から噛み締める。どこにこれほどの涙と感情がしまわれていたのかと思うくらい、二人はひたすらに涙を流し、そして嗚咽した。

 ふと顔を上げると、サポートの一団にあすかの姿があった。いつも通り、何でもないような澄まし顔をしながら、あすかはこちらに向けて親指を立てる。

 だから言ったでしょ?

 そんな不敵な声に耳をくすぐられたような感触が、確かにあった。

 

 

 

 



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〈18〉北宇治三年、井上調

 コンクール全国大会への進出を決め、それとほぼ同時に夏休み明けを迎えた吹部一同。彼らは毎日の学業に勤しむかたわら、全国大会に向けての練習を着々と進めつつ依頼を受けた各種の演奏会もこなす、つまりはそれなりに多忙な日々を送っていた。

「ホント、何が起こるか分かんないっていうか、今回はコンクールの怖さを思い知ったっていうか」

「なのかなー。私は立華があんだけ上手いのに銀だったってことの方が、まだショック抜けてないかも。三強がすごいってのは聴いてて何となく分かるんだけど、みんなみたいに細かいとこまでは違いが分かんなくてさ」

「私も麗奈ほどハッキリ分かるってワケじゃないけど。でも毎年全国に行くぐらい上手いとこだからね、三校とも。特に明工なんか、顧問の先生が変わっても二年連続で全国出場なわけだし。ああいう強豪校ってホント、ふだんどんな練習してるんだろ」

「でも久美子ちゃん、練習の内容だったら今年の北宇治も負けてないって緑は思いますよ」

「そうね。流石は滝先生」

「いやいや麗奈、いちおう橋本先生と新山先生も手伝ってるから。あとあすか先輩も」

 お弁当をつつきながら、四人は談笑のひと時を過ごしていた。今日は日曜日なのだが北宇治は午後からイベント出演の予定があり、それはここショッピングモールの大きな吹き抜けコートで行われることになっている。出番を控えた北宇治の面々は再集合の時間までこうしてお昼休憩の自由時間を満喫中であり、そこでは先般行われたコンクール関西大会の話題で持ちきりだった。

 数年前に名物顧問が去った明工や昨年ダメ金だった秀大附属とは違い、盤石の砦と目されていた大阪東照のまさかの陥落。それは全国の吹奏楽ファンの間でもちょっとした事件になっていた。あの東照が、という驚きに乗じて『三強の凋落』『一時代の終焉』などとうそぶく声も中にはあったが、いずれにせよ衝撃的な話であったことに疑いの余地は無い。当の久美子たちですら、ほとぼりが醒めた頃になってようやく『東照ダメ金』という事実を認識して二度驚いたぐらいだ。そのぐらい、今年の関西大会は波乱に満ちた結末となっていた。

「龍聖も、すごかったよね」

「うん。府大会の時にも龍聖の演奏聴いてたけど、その時よりもずっとレベルアップしてた」

 久美子の問いに答えつつ、麗奈はペットボトルのお茶に口をつける。

「あすか先輩の言う通り、私たちもあのままだったらヤバかったってことだよね」

「多分ね」

 その事を思うと今でも怖気に身が震えてしまう。実際の評点はさて置くとしても、北宇治と龍聖、どちらが抜けてもおかしくないほど僅かな差しかなかったことは厳然たる事実だ。それを乗り越えられたのは、純粋な実力差によるものとは言いがたい。

「龍聖の顧問の先生、源ちゃん先生だっけ? どんな先生か後から聞いて私もビックリしたわ。そりゃたった一年で、府大会止まりのトコが関西金まで来れるはずだーって」

「葉月ちゃんの言う通りですね。さすが源ちゃん先生です! 顧問じゃなくて特別顧問ですけど」

「どっちも同じようなもんじゃないの、それ」

 緑輝の弁に葉月は引き気味な視線を向ける。重度の吹奏楽オタクな緑輝がそこに拘る理由は、久美子にも良く判らない。

「全国金賞常連の明工を作った立役者。二年前に明工の顧問を引退して、今は龍聖の特別顧問。源ちゃん、こと(つき)(なが)(げん)(いち)(ろう)先生」

 頭の中の情報を掘り出すように、少し俯き加減でぽつぽつと麗奈が呟く。それにすかさず葉月が反応を示した。

「そうそう、月永って苗字なんだよねー。そこもビックリした。うちの求と同じじゃんって」

「私もそれは思ってた。月永、って全国的にもそんなに多い苗字じゃないよね」

 葉月と麗奈が珍しく見解を一致させている。恐らく、思い描いているのは二人とも同じことだろう。そしてその疑念は久美子の中にもずっと渦巻いていたものだった。

「ただの偶然かもだけどさ、その。ひょっとして求君って、源ちゃん先生と――」

「久美子ちゃん」

 場の流れをやにわに遮る丸みを帯びた声。なにごと、と全員が緑輝に目を向ける。

「求くん、あんまりお家のこととか喋らないですよね。緑も一度求くんに聞いてみたことありますけど、家族の中に吹奏楽やってる人は居ないって言ってました。だったらそれでいいんじゃないかな、って緑は思います。求くんは求くん、私たちの可愛い後輩。ただそれだけです。ね?」

 柔らかい微笑みを湛えながら、くりくりとつぶらな緑輝の瞳が自分を突き刺す。それに久美子は息を呑んだ。考えてみれば、吹奏楽に関するありとあらゆる情報に精通した緑輝がその共通項を見逃す筈はない。その上できっと、緑輝は求の意志を尊重しているのだ。そこに何が秘められているのかは結局分からないまま。けれど少なくとも当の求が何も語らない以上、自分たちも迂闊に触れるべきではない。緑輝の発言も恐らくはそこまでを見通してのものなのだろう。

「……緑ちゃんって、すごいね」

「何がです?」

「そういうところが」

 ふに、と破顔し、緑輝は勢いよく立ち上がる。

「ぜーんぜん! 緑は緑らしくしてるだけです」

 両手を振り、緑輝がはしゃいでみせる。仲良い友人の知られざる一面を垣間見た思いがして、久美子はその時、溌溂とした彼女の横顔をひたすら感心する面持ちで眺めていた。

「うーん、私は気になるけどなぁ。でも誰にだって触れられたくないことの一つや二つはあるよね、確かに。求本人が言わないんだったら、私たちがとやかく言うことでもないか」

「そこは確かに、川島さんの言う通りね」

「あー! 麗奈ちゃん!」

「ど、どうしたの川島さん?」

「それですよ! 緑たち、もう二年も一緒なのに『川島さん』だなんて、何だかすごく距離を感じます。久美子ちゃんたちみたいに麗奈ちゃんにも『緑』って呼んで欲しいです」

「え、えぇ?」

 緑輝の唐突な申し出に、麗奈は珍しくドギマギした様子を見せている。久美子はこっそり葉月と顔を見合わせ、くひひ、と示し合うようにほくそ笑んだ。

「今から緑のこと下の名前で呼んで下さい。では行きますよ、三、二、一、」

「えっと……じゃあ、み――」

「サファイアちゃん」

 決死の思いで繰り出そうとしていた麗奈の発言を、久美子と葉月は声を揃えて上書きする。ぎゃー、と緑輝は目を白黒させた。

「やめて下さい二人とも! 緑は緑ですぅ」

「あははは。ごめんごめんサファイアちゃん」

 重ねられた久美子の揶揄に、もうー、と緑は頬を膨らませる。そんな彼女の愛らしい姿にけらけらと笑い声を上げながら、久美子はおもむろに空を見上げた。

 ついこの間まで夏の盛りだと思っていたのに気付けばセミの鳴き声も聞こえなくなり、薄雲の伸びる空はすっかり蒼色を深めている。木々の葉が色づくのはもう少し先のことだけれど、それでも気温も少しずつ下がり始め、秋の気配はひたひたと辺りを染めつつあった。文化祭もとうに終わり、こうして各所のイベントに出演するのもそろそろひと段落して、またコンクールに向けて集中することになる。全国で、金賞を。春にみんなで誓い合ったその目標を叶える時は刻一刻と迫っていた。

「その前に中間テストがあるけどね」

「うわー、やめてよ高坂さん。テストの話されると私、おなか痛くなっちゃう。ああもうホンットいみじきかなーいみじきかな」

 思い切り顔をしかめる葉月の謎の言い回し。麗奈はそれにクツリと吐息をこぼした。

「でもまずは、目の前の本番に集中しなくちゃね」

「はい! 緑、本番大好きです!」

「私も。頑張ろうね、その、緑」

 麗奈の口がぎこちなく唱えたその呼び名に緑輝はご満悦とばかり、混じりっけ無しの笑顔を輝かせた。

「もちろんです!」

 麗奈は少し照れくさそうに目を伏せる。そんな二人の微笑ましい様子を眺めながら、久美子もまたおなかの辺りがホワリと温かくなるのを感じていた。

 

 

 

 

 答案用紙の返却も一通り終わり、中間テストをそれなりの成績でやり過ごした久美子は練習漬けの日々へと戻っていた。

 秋の日はつるべ落とし、なんて言うけれど、この時期は本当に日の暮れるのが早い。放課後を迎えて程なく西の空へと傾く日差しはどんどん街の景色に身を沈めてゆく。暮れなずむ街並みの深みは、まるで勝負の日が近付いていることを自分たちに知らせているみたいで、落ち着かない気分を否応なしにくすぐられてしまう。そんな気忙しさの中、全国大会に向けてほんの僅かでも音を磨き上げようと、北宇治吹部の一同は誰もが練習の緊張感を高めつつあった。

「それでは、本日の合奏はこれまでにします」

「ありがとうございました!」

 壇上の滝が手を組みながら今日の合奏を総括する。続けて練習を見に来てくれた橋本、新山らが合奏の感想を述べる。それらをぼうっと聞き受けながら、久美子はこれからのことに思いを馳せていた。

 全国大会のその日まで、もうそれほど猶予は無い。練習の状況は日々順調を極めてはいるものの、それでも不安は常につきまとう。昨年の全国大会、北宇治の成績は銅賞だった。今年金賞を狙うというのなら、そんな過去の自分たちを大きく超えていかなければならない。どのみち全国大会は日本中に存在する三千以上もの出場校のうち、選りすぐられた僅か数十の団体だけが立つことを許される檜の舞台なのだ。『激戦区』と言われる関西を抜けたと言っても安心できる要素など一つも無い。そんなことは去年の例を紐解くまでもなく、とうに解り切っていることだった。

「……私からの話は以上。今日はこれで解散です。全国大会も近いし、みんな体調に気を付けて過ごしましょう。それじゃ、起立!」

 優子の号令を合図に、全員が一斉に席を立つ。

「お疲れ様でした!」

 解散の挨拶を終え、部員たちがそれぞれ動き出す。一旦着席した久美子は、この後少し居残り練習でもしていこうかと考えていた。そんな折、部室の端から洩れ聞こえてきた話し声に、久美子はそっと耳をそばだてる。

「新山先生」

「どうしたの、傘木さん?」

「すみません。今日もちょっと教えていただきたいことがあるんですけど」

「良いわよ。それじゃ、いつもの教室に行きましょうか」

「はい! よろしくお願いします」

 そうして希美は新山と二人、部室を後にしていく。関西大会のあと、進路を音大一本に絞った希美はどうやら他の先生のところで受験に向けてのレッスンを受けているようだった。けれど彼女的に、現役のフルート奏者である新山の指導を仰ぎたいという思いはやはり諦め切れないものがあったらしい。新山が学校に来た日には決まって彼女にマンツーマンでの指導を願い出る希美の姿を、ここのところ毎度のように見ていた。

 みぞれはみぞれで自分の受験対策を粛々と進めているらしく、希美たちとは別に過ごす時間も増えている。それでも今日はレッスンの予定が無いのか、部の練習が終わった今も彼女はひとり音楽室でオーボエを吹いていた。ひょっとしたら希美が帰ってくるのを、ここでこうして楽器を吹きながら待っているつもりなのかも知れない。そんなみぞれの背を眺めながら、久美子は彼女たちのことに思索を巡らせる。

 あの日から今でも二人の演奏はしっかりと噛み合っていて、しかもその表現精度は未だに少しずつ、けれど確実に高まっている。それは決して悪いことではない。二人の間にも何も問題は発生していないし何もかもが極めて良好な状態と言えるハズ、だった。なのにどうしてか、己の心には今も引っかかりが残って仕方がない。何か、大事なことを見落としているような。そんな疑念を払い切れずにいるせいなのか、希美とみぞれを見掛ける度、心に翳りが生じるのを久美子は感じていた。

 そしてそれは、あの人も。フルートパートの輪の中にいるその人物に久美子は視線を向ける。井上調。フルートを両手で握り締め、希美の背中を追うようにして、調は複雑そうな面持ちでジッと廊下の先を眺めていた。彼女のそういう姿を見るのはこれが初めてでは無い。関西大会以降、いや正しくは合宿の直後辺りから調が希美のことを曇りの混じった瞳で見ているのを、久美子はちょくちょく目撃していた。

『希美が戻ってくれて、私も嬉しいよ』

 調の独特な声色が頭の中に残響する。ちょうどその時、調とパチリと視線が交わってしまった。あ、と久美子が思うよりも早く、調がこちらへと近付いてくる。

「黄前さん」

「あ、調先輩。どうも」

「どうしたの? 私のことなんか見ちゃって」

「いえ、何となく。ちょっとボーっとしちゃってて」

「そうなんだ、その割にはしっかり目が合った気がしたけど。その前からもずっと私のこと見てたでしょ」

「えぇ、そうでしたっけ」

「見てたって。実はこっち見てる黄前さんのこと、ずっと視界に入ってたし」

 はぐらかそうとする久美子を、調はいやにしつこく追及してくる。ひょっとして何かを勘付かれてしまったか。内心狼狽する久美子をよそに、調はそこでふと窓の外を見やった。

「ねえ、黄前さん。この後って何か予定ある?」

「予定ですか? まあ、帰る前にちょっと居残り練習でもしていこうかな、って感じでしたけど」

「じゃあさ、十分くらいでもいいから、ちょっと話に付き合ってよ」

「話、ですか」

「そう」

 頷いて、調は先ほど彼女が一瞥した明かりの灯っていない教室を指差す。

「前にも言ったけど、黄前さんとは一度ゆっくり話したい、って思ってたからさ」

 

 

 パチリ。

 視界に広がる蛍光灯の眩しさに久美子は目をすがめる。引き戸を閉じると、調は奥へと向かって手を差し伸べた。

「さ、どっかテキトーに座って」

「はあ、失礼します」

 調に促されるがまま、久美子は普段とは違う形の椅子を引く。夜の生物室は動物の骨格やホルマリン漬けになった標本などがずらりと並んでいて、何とも不気味な空気だった。

 調に連れられてやって来たこの部屋は、果たして二人きりで会話をするには実に都合良く、他の教室とも離れた位置関係にあった。窓際の台の上でコポコポ、と音を立てて泡を吹く水槽の中では小さい緑色の魚が何匹か泳いでいる。あれはフグか何かだろうか? などと考えていた折、目の前に椅子を持ってきた調がそこへ腰を下ろした。ここへ来るまで彼女が携えていたフルートは今は実験テーブルの上に置かれている。黒一色の台上に横たわる、切り裂くような銀色の輝き。そのコントラストがあまりに鮮烈すぎて、久美子は瞬きと共に目を逸らしてしまう。

「なんか緊張してる?」

「まあ、ハイ。調先輩とこうやって話すのって初めてですし」

「だよね」

 調の喉が愉快そうにクツクツと鳴る。彼女の笑みは、牧歌的な平穏さを基調とする彼女の面立ちに良く映えて、それを見る者の心理をごく自然に緩める作用があった。

「まあ、そんな固くならないで。別に面談とか、そういう改まったもんじゃないし」

「はあ。えっとそれで、話って何ですか?」

「んー? まあ、大したことじゃないんだけどね」

 片足をもう片方の膝の上に載せ、まるで緩いあぐらをかくような行儀悪い姿勢で、調は話を切り出した。

「黄前さんはさ、希美のこと、どう思ってる?」

「え、」

 不意を突かれ、久美子は息を詰まらせた。調は余裕の表情を崩さない。この人は自分に何を語らせようとしているのだろう。緊張から弛緩へ、そしてまた緊張へ。短時間のうちに幾度も心理をひっくり返され、久美子の思考はあっという間に混乱してしまう。

「誰にも話さないから、思ったこと正直に言ってみて。どう?」

「あ、いや、その」

 どう、と聞かれたって、そんな質問への模範回答など久美子にはまるっきり用意できていなかった。かと言って口から出任せで答えるのも何となく後が怖い。さてどう答えたものやら。考えがまとまるまでしばらくの間、久美子の口は変な形に歪むばかりだった。

「えっと、すごく頑張ってるなって思います。音大受験するみたいですし、それに向けていろいろ対策取ったり新山先生にも教わってたり。何よりフルート上手ですし。なんていうか凄いですよね、希美先輩」

「本当にそう思ってる?」

「思ってます。もちろん」

 探りを入れるような調の物言いに、久美子は大きく頷いてみせる。決してウソばかりを言った訳では無いものの、核心にはなるべく触れぬよう気を遣ったつもりだ。自分の本音をここで彼女に悟られるわけにはいかない。調から漂う言い知れようのない緊張感を嗅ぎ取った久美子の本能が、そう警告を発していた。

「そっか」

 ぽつりと言葉を落とし、そこで調は少しの間、黙った。校舎のどこかから響くひゅるりと涼やかなフレーズ。難しげな音の羅列をいとも容易く吹きこなすそれは、新山の前で練習をする希美のフルートの音だ。久美子の耳は確信をもってそれを聴き取っていた。

「そうだよね。希美って、上手いもんね」

 音のした方向に首を向けながら、調は一人ごちる。その表情に先程までの笑みはもう無い。色の無い瞳で、事実だけを淡々と噛み締めるように、何かをじっと見つめる調。彼女の不穏な様子を久美子は恐る恐る窺う。

「先輩は、その、どう思ってるんですか」

「何を?」

「希美先輩のこと」

 調はこちらに視線を戻した。彼女の紡ぐ言葉が果たして本心かどうかは分からない。だから久美子はそこにもう一つ、言葉を付け足す。

「希美先輩が部に復帰した時、正直イヤだなって、先輩は思わなかったですか?」

 その瞬間、すとん、と調の黒い(まなこ)が下を向いた。どうやら今の一言は彼女の本心を抉ることに成功したらしい。はらはらと強まる緊迫感。それを堪えるように久美子は唇の裏で奥歯を噛む。ややあって、調は「ふ、」と自嘲するように一つ息を洩らした。

「さっすが黄前さん、って感じだねぇ。いやホント噂通り。こりゃあ一杯食わされるわ」

「すみません。気分悪くさせるようなこと言っちゃって」

「いいよいいよ、別に気にしてない。それにさ、黄前さんだって『すみません』だなんて、実はこれっぽっちも思っちゃいないんでしょ?」

「う、」

 こちらも図星を指し返され、久美子は思わず呻いてしまう。その反応を見て調はニタリと妖しく微笑んだ。

「だからかな、黄前さんと話したいって思ったのは。黄前さんになら話せそうだって思ったから。全部話して、それで全国大会の前に全部スッキリ、清算しておきたかったから」

「清算?」

「そう、清算」

 やおら立ち上がり、調はつかつかと水槽のところへ歩いていく。その縁を指でさするように撫でると、中で泳いでいるフグたちは餌を貰えるとでも思ったのかいそいそと水面へ寄ってきた。

「去年、希美が部に戻りたいってなった時さ。私は正直、複雑だった。そりゃあ希美の気持ちが分からないでは無かったし、それに希美が先輩たちに一生懸命抵抗してた時、私は先輩たちが怖くて何も出来ないままだったから、希美に対しては罪悪感みたいな気持ちもあったよ。でもそれ以上に、何で今さら、戻って来てどうするつもりなのって、そんな風に思わなかったって言ったらウソになる」

 窓の外に目を向けたまま、調はぽつぽつと語り始めた。つられるように久美子もそちらを見やる。両者の視線の先には、まだガヤガヤと賑わう音楽室の明かりがあった。

「でも、希美ってああいうヤツだから。去年のパートリーダーだった姫神(ひめがみ)先輩とかだけじゃなくて、私らにまで一生懸命頭下げて。ゼロからやり直すつもりで頑張るから、どうかもう一度ここでやらせて下さいって。初めはみんな戸惑ってたけど、でも希美が何度も何度も必死にお願いするもんだからさ。そんな希美の姿勢にほだされたんだよね。先輩たちも、きっと」

「みんな希美先輩を許した、っていう感じですか」

「多分。あのあすか先輩が復帰の許可出した、ってのもあったしね。だったらしょうがないかーって。それに先輩たちだって、私と似たようなもんだったから」

 水槽の縁を這っていた調の指が、角のところでくるりと向きを変える。

「滝先生が来て、それまでのヌルいやり方から一気に目が覚めてさ。ホントは心のどこかで解ってたんだよ。希美や退部した子の気持ちとか、あの子らの言ってたことが間違ってなかったとか。だけど、希美たちが辞めた後も私たちは部に残ってずっと活動し続けてきた。そこに希美が『部の空気が変わったから』ってあっさり戻ってくるのは、やっぱり複雑だった」

「それは、今でも?」

「どうだろうね。実際フルートには他に同学年の子も居なかったし、私一人じゃけっこう不安なとこもあったから、そこへ希美が戻って来てくれるんならありがたいって気持ちも無くはなかった。結果的に希美が復帰してくれて、練習面は希美に見てもらうことにして、おかげで私もずいぶん助かったって思う」

 照明を背に負っているせいで、平坦な調の表情には陰が差していた。その機微を一粒でも読みこぼすまい、と久美子は目を凝らす。

「副パートリーダーの希美がバシバシ指導に回って、私は名ばかりパートリーダーみたいな感じだったけど、別にそういうのに拘る方じゃないし。後輩もみんな希美に懐いてみんなで練習頑張って、フルートパートは今年一年でかなり腕を上げたって思うよ。私が指導してたらこうは行かなかっただろうし、そういう意味でも希美が復帰してくれて良かったって、そこはホント思ってる」

 彼女のその言葉は多分、嘘では無かった。頬を緩める調の面持ちに安らぎの色があるのを読み取った久美子は、ただ静かに彼女の語る続きを待つ。

「自由曲のソロとかも、希美の方が上手いんだし希美が吹くのは当然なことだと思う。自分が吹きたいって主張できるほど私、自惚れてないし。コンクールがどうとか部を辞めたヤツだなんて関係無しに、ソロは上手な人が吹いたらいい。それに文化祭とかで私もちょっとはソロ吹かせてもらえたから、私はそれで充分」

「そうですか」

「でも、最近の希美を見てるとさ。私はちょっと、息苦しい」

「息苦、しい?」

 調の言葉を復唱しながら、自分の胸にもそれと同じ感覚が立ち昇ってくるのを感じて、久美子は短く息を吸う。

「希美、音大に行くって張り切ってるじゃん。今もああやって新山先生に直接見てもらったり、練習終わってからもレッスン受けたりして。自分の夢に向かって頑張ってるのは良いことだし、私だって応援したいって思ってる。でも希美が見てるのは多分、自分がなれそうな将来とかじゃなくて、鎧塚さんなんだよね」

 調は遠くを見るように目をすがめる。それに呼応するかのように、部室の方角からオーボエの鷹揚な音色が響いてきた。

「希美はずっと鎧塚さんを追いかけてる。そして必死に手を伸ばしてもがいてる。そんな風に、私には見えてさ」

「それは……何となく、分かる気がします」

「希美ならそこに行けるって気もする。でも、いつかどっかで希美が折れそうな感じもあって。だけど私には何も言えない。だって私はどうやったって、あの二人みたいなところには行けないから。鎧塚さんだけじゃなくて、希美のところにも」

 圧倒的な能力の隔たり。調が目算した各々の立ち位置は恐らく、これ以上無いほど的確だった。目には見えにくい、けれど峻厳とそこにそびえる絶壁を前にして、希美は今まさに己を奮い立たせて挑もうとしている。そして調は彼女たちの足元にも及ばぬところから、遥か高みを見上げるようにして立っている。少なくとも彼女自身は、希美とみぞれのことをそういう目線で見ているのだ。

「じゃあ調先輩は希美先輩に、来て欲しいって思ってるんですか? こっち側に」

 そう問いかけると、調はそれまで水槽を撫でていた指をピタリと止めた。力無く下ろされた手をもう片方の手で戒めるように、調はその細やかな手首をぎゅっと握り込む。

「ホント、凄いな。黄前さんは」

 抑揚の無い声と共に、調が振り向く。彼女の目頭はほんのり淡く、きらきらと光っていた。

「私は希美と違うからさ。自分よりも凄い人を見て私もあっち側に行きたいなんて、そういう風にはどうしても思えないんだよね。私じゃどうやったって希美には敵わない。それに本音を言えば、どんなに希美がすごくたってアイツは『こっち側』なんだって、どっかでそう思ってる自分がいる気もする。もっともそれってどう見ても『あっち側』の鎧塚さんと比較するからなんだろうし、単に私がそう思い込んでるだけなのかも知れないけど」

 それは久美子にはどうとも言えなかった。プロになれるかどうかはさて置き、みぞれと希美、二人とも充分以上の実力を持っていることは疑いようの無い事実だ。それは誰にでも辿り着ける境地ではない。少なくとも今の希美は部内でも指折りの実力者であり、全国の吹奏楽部員をひっくるめたって限りなく上位の技術を持っていると言えるだろう。けれど久美子は知っていた。新山の裁定を。そして、麗奈の判断を。

「でもさ、ホントは解ってるんだよ。例え希美がどこかで墜ちて夢を諦めてたとしても、それでも希美はこっち側に来たりはしなかっただろうな、って」

 そう語る調の表情には苦渋とも悲嘆ともつかぬ、どろどろとない交ぜになった彼女の心理を煮こごりにした、ある種の凄絶さがひしめいていた。

「希美って、そういうヤツじゃん。音楽とか関係なしに、アイツは自分と向き合って自分を見つめて、自分を高めていけるヤツ。きっとそれが希美の才能。だからこそ蕾実(つぼみ)とか芽衣子(めいこ)とか、周りにいる後輩の子らも希美のこと信頼してるんだと思う」

「調先輩も?」

 かもね、と何かを諦めた時のように、調は弱々しい笑みを浮かべる。それはほとんど泣いているのと変わらない、そんな儚げな気配だった。そこには彼女の本心の全てが込められている。久美子はそう直感した。

「あー、喋った喋った」

 唐突に大きな声を出し、そこで調は力いっぱい伸びをした。全てを話し終えてせいせいしたのか、彼女の笑顔はもうすっかり元通りになっていた。

「やっぱ黄前さんと話して良かったよ。こういうこと、フルパの子にはとてもじゃないけど喋れなかったからさ。優子たちが一目置いてる理由も良く分かったし。腹を割って話すっていうより、割られた、って感じ?」

「いや、良く解りませんけど。優子先輩たちどんなこと言ってたんですか? 何か変なこと言われてそうで怖いんですけど」

「そりゃあ本人には直接言ったりしないだろうけど、でも心配してるようなことじゃないから。そのうち打診されると思うし、期待して待ってたら?」

「打診とか期待ってそれ、どういう意味ですか」

「まあまあ。それは開けてからのお楽しみ、ってことで」

 意味深なことを言いながらつかつかと、調は教室の入口の戸に向かって歩いていく。話はもう終わり、という合図なのだろう。立ち上がった久美子も椅子を元の場所へと戻し、彼女の背に続いた。

「今日はありがとね、黄前さん。これで心置きなく全国大会に集中できそう。あ、念押ししとくけど、今の話は他言無用でよろしく。特に希美とか夏紀とか、あのへんには」

「分かってます。二人だけの秘密、ですよね」

「そうそう。くれぐれも私の信用を裏切らないでよー」

 引き戸を開け、調は久美子に先を譲った。それに従って久美子は戸口から一歩、廊下へと歩み出る。

「どっちだと思う?」

 やにわに問い掛けられ、久美子は振り向く。自分と調。二人の足元には、互いを隔てるかのように引き戸のレールが横たわっていた。

「黄前さんは、自分自身のこと」

 彼女が何を問うているのか、分かるような、分からないような。その曖昧な空気にしばし言い淀む。けれど微かな迷いを振り払うように決然と、久美子は口を開いた。

「分かりませんけど、今は自分の理想に向けて精いっぱい頑張りたいって、そう思ってます」

「……そっか」

 その時浮かべた調の笑顔は、久美子を包み込む目一杯の慈愛と、ほんの少しの寂寥とを混ぜ合わせたような色合いだった。「先に行ってて」と調に言われるがまま、久美子は前を向き廊下を進む。後ろでパチリとスイッチを切るような音。久美子はそれに振り向かず、楽器を置いたままにしてあった部室へと、ただ真っすぐに歩いていった。

 

 

 しばらく話し込んでいる間に部員の大半は居残り練習へ向かったか、あるいは下校してしまったらしい。音楽室に残る人影はまばらだった。そんな中、定位置で練習を続けていたみぞれがこちらに気付き、視線を寄越してくる。

「おかえり」

 さえずるようなみぞれの呟きに「戻りました」と返事をすると、みぞれは小さく頷きを返して自分の練習に戻った。オーボエの調べが再び部室を染め上げていく。その音色の豊かさを肌に感じながら、久美子はさっきまで調と話していた生物室へと目を向けた。既に明かりは落とされ、生物室の窓は真っ黒に塗りたくられている。そこに重なって映る、調の儚げな笑み。途端、急速にこみ上げる何かを抑えるように、久美子は胸の辺りをぎゅっと掴む。

 調はもう帰ったのだろうか。それともそこには、彼女は、まだ。

 校舎のどこかから再びフルートの音色がこぼれる。それまでよりもちょっとだけ不格好な、震える風のように不確かな旋律。それは涙の色に濡れているみたいに、久美子には思えた。

 

 

 

 



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〈19〉一年の集大成

「それにしても今年もなんか、あっという間だったね」

「だな。まあ思い返してみると、今年も去年に負けないくらい濃い一年だったけど」

 植え込みを避けるように歩きながら久美子は秀一と二人、語らいの時を過ごしていた。普段は部の関係者に見られることを避けつつ行動している二人も、外灯の光さえおぼろげにしか届かぬこの場所では何に憚ることもない。互いの表情でさえこの暗闇のせいで、相当近くまで寄らなければ判らないほどだ。

 そんな二人が今いる場所は学校でも二人の住むマンションでもない。バスに乗ること数時間、名古屋市内に手配された宿舎の一角。玄関から出て少し歩いた先にある庭園のようなところを、二人は夜闇に紛れてそぞろ歩きしていたのだった。

「いよいよ、明日だな」

「うん」

 重みを込めた秀一の言葉に、久美子もまた気持ちを昂らせる。現地入りした今日、近くのホールを借りての最終確認とリハーサルを終え、明日はいよいよ全国大会、高校の部、本番の日。とうとうここまで来てしまったという緊迫感と、これまでやって来たことの全てを思い切り発揮したいという意欲が、久美子の中には交互に去来していた。

「そう言えばさ。去年も久美子とこんな風に、本番前日の深夜に二人っきりで喋ってたっけな」

「そうだっけ?」

「忘れてんのかよ。ホラ、あれ渡しただろ。一応誕生日のプレゼントってことで」

「ああ」

 生返事をして久美子はそっぽを向く。もちろん忘れてなどいる筈が無い。覚えている、と白状するのが照れくさかっただけだ。あの日秀一から渡されたのは、白いひまわりをあしらった髪飾り。普段滅多に付けることのないそれを久美子は今回、周囲に内緒でこっそり持ち込んでいた。本番の舞台で着飾るためではなく、一種のお守りとして。

「あん時さ、実は俺、けっこう緊張してたんだぜ。もし拒否られたらどうしようって」

「そういうこと、本人目の前にして言う?」

「だからあくまであん時は、って話。さり気なく渡すのにも苦労したし」

「全然、さり気ないって感じじゃなかったと思うけど」

「しっかり覚えてんじゃねえかよ」

 しまった。語るに落ちるとはこのことだ。急激に顔の辺りがかあっと熱くなるのを感じて、久美子は秀一から目を背ける。

「もう、秀一のくせに」

 唇を尖らせる久美子の何を面白がったのか「くはは」と秀一が噴き出した。ムカつく、と振り向いた目と鼻の先には微笑みを噛み締める秀一の顔。不意の接近に、久美子の心臓はずぐんと大きな脈動を打つ。

「あん時、久美子が喜んでくれてさ。俺も嬉しかった」

 しばし見つめ合う久美子と秀一。嗅ぎ慣れたはずの彼のにおいがひときわ強く鼻先をかすめる。互いの前髪が触れ合うほどの距離。唇に感じる秀一の吐息。この雰囲気はやばい。そう思った次の瞬間、秀一は一瞬困ったように眉を歪め、そしてするりと久美子から離れた。

「さって、だいぶ冷え込んで来たし、そろそろ部屋に戻ろうぜ。あんま長いことうろついてたら、またあの人に見つかって冷やかされちまいそうだし」

 ばくばくと暴れ回る心臓はまだ落ち着きを取り戻してはいなかった。それを抑え込むように緩く息を吐き出しながら、そうだね、と久美子も彼に倣う。

 異性に対してこんなに胸をときめかせるものを、恋と呼ばずして何と呼ぶのかは分からない。けれど以前から何となく、久美子はそのことに不安を覚えつつもあった。あんな時、恋人同士ならどんなことをするのか。それを知らないわけでは無い。そして秀一とそうなることを、久美子は嫌がっている訳でもないつもりでいた。でもいざその瞬間を迎えそうになる度、心にブレーキを掛けてしまう。そんな自分がどこかに居る。

 幼なじみ。近所付き合いもある仲の良い男子。吹部の仲間。そして、恋人。秀一に対して貼り付けた幾つもの付箋のうち、果たして自分はどの秀一を選びたがっているのだろう。その感覚がもう一つ掴み切れなくて、久美子は胸の内に迷いを募らせていた。秀一はあの瞬間、何かを自分に求めたのか、それとも自制したのか。その判断すら自分にはつけられない。そしてもし、彼が本気で自分を求めてきたとしたら。そう考えた時、体の芯が大きく疼くのを感じた。

 いつまでも答えを出せない自分は、本当に秀一の傍に居ていいのか。そんな思いが久美子の中でずっと燻っていた。

 

 

「おはよう久美子」

「おはよ、麗奈」

 朝の目覚めは極めて爽快と言えた。初めに麗奈と挨拶を交わし、皆が起き出してから布団を畳んで簡単に身支度をし、食堂へと降りる。調理場から漂ってくるおみそ汁の匂いがかぐわしい。途端、自分のお腹が小さく「ぐう」と音を立ててしまった。緊張で食欲が失せたりしていないのは良い傾向だが、いかんせん恥ずかしい。それを覆い隠すようにみぞおちを撫でつつ奥のほうを見渡す。配膳作業が進められている真っ最中の食卓には既に、卓也ら低音パートの三年生が座っていた。

「おはようございます」

「おはよう。皆、ゆうべはよく眠れた?」

 にっこりと温かな笑みを湛えながら、梨子が久美子たちを労わる様に声を掛けてくる。

「はい。ぐっすりでした」

「葉月ちゃんが、ちょっとお寝坊さんでしたけどね」

「仕方ないって。ゆうべは友恵先輩たちとの打ち合わせもあったし、それに寝る前のUNO(ウ ノ)が白熱し過ぎちゃって、寝たの消灯ぎりぎりだったんだもん。――ふわぁぁ」

「加藤、ほら。寝ぐせ寝ぐせ」

 夏紀が手振りで教えてやると、もー、と低く唸りながら葉月は前髪をバサバサと押さえつけた。夏紀は彼女のがさつな処置に失笑しつつ目の前の箸へと手を伸ばし、それをついと指で撫でる。

「まあ私もなんだかんだ言って、正直ぐっすりは眠れなかったけどね。何度か起きてトイレ行ったりしてるうちに気付けば朝、って感じで」

「私も夏紀といっしょ。今日が最後って思ったら、なんか急に目が冴えちゃって」

 最後。梨子の発した一言の重みに全員が口をつぐむ。あ、と場の雰囲気を察した梨子はうろたえながらも必死に取り繕った。

「で、でも、今年は三年生みんなでここに来れたから、楽しみなのもあったけど」

「そうだな」

 卓也がぼそりと梨子に相槌を打つ。

「去年、約束したし」

「だね」

 それに夏紀はウインクをしてみせる。一年前のささやかな誓い。それがこうして無事果たされたことを、久美子もまた嬉しく思う。そんな中で葉月だけはメンバーでない負い目からか、肩身狭そうにシュンとしていた。が、笑顔の緑輝にパンと背中を叩かれ、すぐさま表情を引き締める。

「私、今年も先輩たちのこと全力でサポートしますから。本番がんばって下さい!」

「ありがと、葉月ちゃん」

「来年は加藤も、必ずオーディション受かって、そんで全員で全国まで来い。俺たちも必ず見に来るから」

「はいっ!」

 元気の良い葉月の返事。こうして今年も仲間たちとの誓いは更新された。それはこれからもずっと続いていくはずだ。来年も。自分たちが卒業しても。その後も、ずっと。久美子はそれを願わずにはおれなかった。

「ところで、あすか先輩は来てないのですか?」

 はたと気付いた緑輝が辺りをキョロキョロと窺う。早起きが習慣付いているあすかなら、とっくにここへ来ていてもおかしくない頃合いだ。なのに食堂のどこにもあすかの姿は見当たらない。もしや何かトラブルでもあったのでは。気になって辺りを窺う久美子に、心配無いよ、と夏紀が片手を上に向ける。

「あすか先輩、楽器も持ってきてないし他にやること無いから朝食の時間ギリギリまで部屋で勉強してる、ってさ。そろそろ受験も近付いてきたことだしって」

 ほへー、と葉月は間の抜けた相槌を打つ。

「そうなんですか。大会まで来て勉強ってのも、なんか大変ですね」

「ま、自分の勉強してるっていうよりかは、他の連中に教えてる方がメインっぽかったけど」

「そうだね」

 その光景を思い出してか、梨子は夏紀と顔を見合わせ苦笑する。何となく久美子は、そんなあすかのことが気に掛かっていた。合宿の辺りから時々発していた「最後」という言葉。それがまるで嘘であったかのように、その後もあすかは文化祭のステージ、植物園での演奏、そして各種のイベントを久美子たちと椅子を並べ、共にこなして来た。全国大会に向けての練習一色となってからもあすかの辣腕ぶりは変わらず、コーチとして自分たちに沢山の助言をしてくれている。あの頃はひょっとしてあすかが関西大会を目途に部を辞めてしまうのでは、などと恐れていたものだが、それは単なる自分の杞憂に過ぎなかったのだろうか?

 と、そんなことを考えていた折、食堂の入口に美玲たち一年生の一団がぞろぞろと顔を見せる。こちらに気付くなり、彼女らは全員揃って元気な挨拶をよこしてきた。

「おはようございます!」

「おはよう。みっちゃん、さっちゃん」

「さっちゃん、今日は私たちもサポートとして、目いっぱい頑張ろうね!」

「はい! 葉月先輩!」

「あれ、求くんは来てないんですか?」

「さあ、求は男子部屋ですから。大方まだ部屋で寝てるんじゃないですかね」

 などと会話をしているところに、梨々花と一緒に奏も姿を現した。

「おはよーございますぅー」

「おはよう梨々花ちゃん、奏ちゃん」

 久美子が声を掛けると、奏は僅かに身じろぎをした。それからこちらにジト目をくれる。やはりまともに挨拶をしてはくれないのか。と、

「……おはようございます」

 不承不承といった具合に奏が頭を下げた。その姿勢に久美子は一つ安堵する。オーディションの日からずっと塞ぎ込んだままであるかのように見える奏もほんの少しずつ、氷山が一滴ずつ融けていくかのように、久美子と向き合う姿勢を見せ始めている。今日この日を迎えるまでに完全な雪解けを、とはならなかったものの、まだ希望が断たれたわけではない。そんな奏をただじっと見つめる夏紀の横顔に、久美子はいつかの彼女の言葉を思い返していた。

『私の分までアイツのこと、面倒見てやって』

 

 

 チューニング室の扉が閉じられ、久美子たちは本番に向けて最後の音出しをした。ピッチの確認。入りの音。その後全員で短い練習曲を合わせ、感触を一つにする。ここまで来たら余計な調整はせず、あとは自分たちの気持ちを確認する。それはいつも通りの滝の方針だ。

「さて、いよいよ全国大会の本番です。皆さん、気分はいかがですか?」

 滝の問い掛けに、メンバーはみな引き締まった表情で応える。

「もし皆さんが怯えてしまっているようなら何か一言を、と思っていましたが、この分ならば大丈夫でしょう。あまり気負い過ぎずリラックスして臨めば、今の皆さんなら最高の演奏ができると私は信じています」

 滝のその一言で久美子の高揚は否が応にも増す。一同の頼もしい顔つきに一度目をすがめ、滝は続きを語った。

「春、皆さんが誓った全国金賞の目標に向かって、私たちは一心不乱にここまでやって来ました。努力を重ね、高いハードルを乗り越え、自分たちの音を磨き続ける。口で言うのは簡単ですが、実行するのは並大抵のことではありません。それをここまで成し遂げてきた自分自身を、誇って下さい」

「はい!」

「そして、後は本番を楽しみましょう。結果は後からついてくる。今は自分たちの全てを出し切って、最高の演奏を思う存分楽しんで下さい。それを成すためにも相応の実力が必要です。皆さんにはそれが出来るだけの力がある。この事は私も、橋本先生や新山先生も、そしてコーチとして今年一年頑張って下さった田中さんも、誰もが認めるところです。そのことを誰よりも皆さん自身が強く信じること。そうすれば必ずイメージ通り、最高の演奏が出来ます。私からは以上です」

 では部長、と促され、優子が立ち上がる。

「まずはみんな、ここまで私のことを支えてくれて、本当にありがとう」

 真摯な面持ちを保ったまま、優子のコメントは部員たちに謝意を告げるところから始まった。

「みんなじゃなかったら、北宇治は今日この場には居られなかったって思う。たくさんの人たちに支えられて、私たちは府大会からここまでを勝ち抜いて、そして今日までやって来れました。加減が利かずに突っ走りがちな私について来てくれたこと、危ない時でも全力を出して乗り切ってきたこと、全部心から感謝の一言です。特に……言いたくないけど副部長にも、この勢いでお礼を言っときます」

 おっ、と部員たちは一斉に息を呑む。突然のご指名に夏紀はそそくさと顔を逸らし、優子もまた照れ隠しをするように「ゴホン!」と大袈裟な咳払いを一つ入れた。

「ここまで来たらあとは難しいことは言いっこなし! 今までの全部を本番にぶつけて、十二分間の舞台を思いっきり楽しもう! 関西大会でも言ったけど、今年の北宇治はこの三年間の中でも最強です。過去、強豪だった頃の北宇治にだってきっと負けてません。そんな自分たちに自信を持って、金賞だなんだって気負わずに、私たちに出来る最高の演奏で会場にいる人たちをあっと言わせて。そして最後は笑顔で帰りましょう!」

「はい!」

「それではいつも通り、ご唱和願います」

 部員たちに向け、優子は顔の高さにげんこつを握る。久美子もそれに合わせ同じポーズを取った。

「北宇治ぃ、ファイトー!」

「おー!」

 天に向かって高々と突き出す拳に自分たちの想いを乗せて。五十五名の鬨の声が高らかに、チューニング室に響き渡った。

「時間です」

 扉を開けたスタッフの声。「分かりました」と返事をした滝は部員たちを導くように、その手を差し伸べた。

「行きましょう。私たちの舞台に」

 

 

「久美子は本番、誰のために吹く?」

「麗奈は?」

 舞台袖。ひんやりと冷える空気の中、部員たちはそれぞれに本番までの僅かな猶予のひと時を過ごしていた。関西大会の時と違い今は一人静かに集中を高める優子の姿を横目に見ながら、麗奈がひそりと呟く。

「私はもちろん、自分と滝先生のため。それと今年は、優子先輩のために」

「じゃあ私は麗奈と夏紀先輩のため、かな」

「それは嬉しいけど、久美子にはもう一人いるでしょ? 聴かせたい人が」

「うん」

「最高の演奏しないとね。その人のためにも」

「だね」

 きっとその人はこの暗闇のどこかで、葉月たちと一緒に自分の演奏を見守ってくれる。その人に最高の音を届けたい。その思いに久美子の胸は高鳴った。

「麗奈、ありがとね」

「どうしたの、急に?」

「何となく。麗奈がいっつも前を走ってくれてるから、それを追いかけて私もここまで来れたんだなあって、そう思って」

「まだ早いでしょ」

 クツリと喉を震わせて、それから麗奈はいつかの時と同じように、こちらへ向けて拳を繰り出す。

「私たちのコンクールは、まだこれからだから」

「そうだね」

「それと、久美子には後ろじゃなく隣を走ってて欲しいって、私はそう思ってるからね」

「うん」

 その想いに応え、久美子は麗奈に拳を合わせる。くっつけた麗奈の拳から自分へと熱い滾りが伝わり来るのを、久美子は確かに感じた。

「頑張ろう」

 どちらからともなくそう言ったのとほぼ同時に、前の団体の演奏が大音声と共に荘厳なフィナーレを迎えた。いよいよ登壇の時。北宇治のメンバーが続々と舞台の袖へと集う中、久美子はその隙間を縫って、夏紀の隣へと身を寄せる。

「先輩、頑張りましょうね」

「久美子ちゃんも」

 そこで交わした言葉は少なかった。けれど、それで充分だった。互いの決意をわざわざ口にする必要はもう無い。あとは全てを出し切るだけだ。差し出した久美子の拳を夏紀の拳がコツンと叩き返す。彼女から教わった激励と宣誓の儀式は今や、北宇治の全員に広まっている。卓也と梨子。葉月と緑輝。美玲とさつき。優子と友恵。そして、みぞれと希美。そこかしこで静かに拳のぶつかる音が鳴り、それが部員たちの士気を一段と増幅した。

「行くよ」

 優子が小さな声で合図を送る。それに背を押されるようにして、久美子たちは下手(しもて)から舞台へと踏み出した。幕間に暗転した舞台を進み、ひな壇の上に設けられた所定の席へと腰を下ろし、まずはユーフォに息を吹き込む。感触は悪くない。一通りのチェックを済ませた後は譜面台上の楽譜ファイルを開き、久美子はその時をじっと待った。全員が所定の位置に着き為すべき準備を終えた時、無数の照明が一斉に久美子たちを照らし出す。

「続いての演奏は、プログラム七番。関西代表、京都府立北宇治高等学校の皆さんです。課題曲Ⅳ。自由曲、卯田百合子作曲『リズと青い鳥』。指揮は、滝昇です」

 流暢なアナウンスと共に鳴り響く満場の拍手。それと入れ替わるようにして滝が指揮台へと登壇する。舞台は瞬く間にしんと静謐な空気に染まり、照明に浮かされた埃がひそやかに宙を舞っている。緊張と集中が最大に高まるひと時。滝はそれを穏やかに見送るように舞台上の全員へ目を配り、皆の準備が整っていることを確認しておもむろに両手を高く掲げた。楽器を構え、滝に集中を向ける一同。滝が手を振り、二拍目をかざすのと同時に、一斉に息を吸う音が舞台に散らばった。

 高らかに鳴らされた開幕の音。華々しく広がる木管の音を支えるように金管の音色が上下に揺れ動き、打楽器が煌めきを添える。出だしを終えてすかさず音量を指定通りに抑え込み、そこからチューバが行進曲らしい刻みを正確に放っていく。フルートを主体とした瑞々しい音色は曲の題名である『ラリマー』の名に恥じぬ、宝石のような美しい輝きを燦然と放つ。そこにクラリネットやサックスが各々の表情を見せつつ颯爽と前面へ躍り出た。

 リズムをしっかり維持しつつ、それに囚われない奔放さをもって旋律は次へ次へと進行し、やがて口火を切ったホルンの力強い音に乗って金管の総奏がホールを揺るがす。これまでの練習で培ったものは細やかさのみならず、こうした大音量の場面にも存分に活かされていた。絞り込みを極限にまで行うからこそ、開放はよりダイナミックに引き立てられる。緩急。抑揚。濃淡。それらの落差が鮮明であればあるほど表現の幅はより豊かになる。そのことを、久美子はこの本番の舞台に立って演奏をしながら改めて強く実感していた。

 滝が腕を横に払うと共に、スウともたらされた静寂。二拍を一組として穏やかに進行する場面で、木管とユーフォによって織り成された調和の上を、希美のフルートの音がひらりひらりと自在に舞っていく。それをクラリネットが受け継ぎ情緒感のあるメロディを吹き上げたかと思えば、次に来るのはトランペットの耳をくすぐるような柔らかいハーモニーが広がる。次の場面にはユーフォニアムのソロが待っていた。休符のうちに呼吸を整え、久美子はユーフォの管を握り締める。

 場面転換と共に自分のユーフォから響き渡る、柔らかく芯のある音。たった四小節間のソロ。けれど久美子は細心の注意と共に、万感を込めてソロを吹く。イメージはあすかの奏でるあの音色。そのメロディを彼女に届けたい。あすかのような美しい音を、あすかに聴いて欲しい。一つひとつの音を、決して音量に頼らず、しかし極限まで響かせるように。己の理想をここに体現するつもりで、久美子は堂々とソロを吹き切った。

 そこから木管はまた息を吹き返したようにじわじわ音量を上げてゆき、つられてホルンとトロンボーンが景気よくユニゾンを奏でる。唸る金管の大合唱。拍通りに打ち鳴らされるシンバル。火を点けて回るように一つずつ、やがて全ての楽器が音量を高め、マーチの終盤を大いに盛り上げる。さらに一段テンポを速めたまま怒涛の流れに乗り、締めの一音を余韻を持たせて鳴らし切って、課題曲の演奏は終わった。

 息をつく暇もなく目の前の楽譜を自由曲に差し替える。『リズと青い鳥』。このメンバーでこれを吹くのもこれが最後になる。そんな感傷に身を委ねるだけの余裕は、しかしこれっぽっちも無い。視界の端で希美がフルートを、みぞれがオーボエを構えるのが、それぞれ久美子の目に飛び込んで来た。全ての次第を確認するように滝は小さく頷き、そしてゆるやかに手を振り上げる。

 さわさわと空気を撫でるような木管の入り。黎明の瞬間を言祝(ことほ)ぐ鳥の鳴き声のようなピッコロの音。それを目覚めの合図にするかのようにフルートが応え、これを合図に次々と音が重なり、金管の力強い音色が鳴り響いた。木管の音に合わせてグロッケンが軽やかに跳ね、そこからクレッシェンドを経てトランペットを主体とした開幕のファンファーレがホールを席巻する。

 第一楽章『ありふれた日々』の主題は木管が中心となって快活に展開される。リズミカルに小気味よく、八分の六拍子を正確に保った木管のメロディ。トリルから跳躍、そして下降、と細やかな音の連続。それらはともすれば僅かなズレのせいでぼやけがちになってしまうものだが、極限まで揃えられた北宇治の音はハッキリと音の粒を聞き取れるほどに洗練されていた。トランペットの勇壮な音が場を駆け抜け、打ち鳴らされたシンバルの音と共に場面が移ろう。もう一度、トランペットがユニゾンで歌い上げる主題は強烈なインパクトをその場に残し、後を受け継ぐ木管が音場を広げると共に迎えた最初のピーク。木管の音が転々と舞台上を跳ね、最後はページをそっと次へとめくるように第一楽章は終わった。

 間を空けず、すぐに第二楽章『新しい家族』へ。地べたを這いずる重低音がひしめき、吹きすさぶ強風を思わせるウインドマシーンの乾いたこすれ音が周囲を引き裂き、場面に強烈な不穏さを醸し出す。第一楽章の明るさから一転、第二楽章は訪れ来る嵐の只中をテーマとした猛々しさを基調とする楽曲である。それに相応しく、何かを予感させるように小さく蠢いたトロンボーンに合わせて拍子木が雷鳴のような一閃を放つ。ティンパニーの張り裂けるような打撃音。迫り来る木管の重連。そして聴く者に衝撃を浴びせる、金管の高低問わぬ大音声。ここからはしばらく低音パートの独壇場だ。

 三本のチューバによる豪壮な爆音は否応なしに恐怖感を掻き立て、音楽全体に凄みを加えていく。木管の挙動をなぞるように金管が追従し、さらにその上にまた木管がかぶさって。折り重なる音の波は階段状のクレッシェンドで一気にせり上がり、これでもかと観客席を揺さぶった。駆け回るシロフォンと木管の音が聴衆の耳を存分にくすぐった後、木管の総員による一撃がスフォルツァンドで一度、それよりもひときわ強くもう一度、風に飛ばされた小枝の如く打ち付けられる。重低音の唸りが這うように伸びると共に、ラチェットと呼ばれる巻き上げ式の楽器の音が無機質にそこらを転げ回ったところで、嵐の第二楽章が過ぎ去っていった。次はいよいよ第三楽章『愛ゆえの決断』。みぞれのオーボエが主体となる、その時だ。

 滝の指揮がふわりと落とされたのに合わせ、オーボエの音が神々しく響き渡る。フルートはその傍にぴたりと身を寄せ、二つの音がえも言われぬ一体感で飛び交う。そんな二人の優雅な協奏を、ハープの風雅な音色はそっと見守る様に支えていた。

 豊かに、けれど物悲しく行き来する伴奏。初めは苦戦していた緩急法(アゴーギク)の合わせも、今では全員がみぞれの呼吸と情動を読み取って、たゆたう彼女のテンポにぴたりと一致させている。そうしてたなびく雲のように織り成された音の絨毯の上を、みぞれは有り余るほどの情感でもって美しく羽ばたく。それを支える希美のフルートもまた、みぞれのオーボエを極限まで引き立てる。二つの音は一度離れ、けれどみぞれの呼び掛けに答えるように希美が、希美の呼び掛けに答えるようにみぞれが、互いに音を紡ぎ合う。交わるハーモニーはあたかも天上の美酒のように、それを聴く者に強い陶酔と感銘をもたらしていった。

 そして、みぞれの独奏。希美の支えを受けて翼を翻し、彼女は一段高く舞い上がる。まるで孤独に打ち震えるように。そんな哀しみさえをも飲み込んでしまうかのように。儚げなオーボエの音色はホールに存在する全てを染め上げた。張り詰めさせた力を一度抜くように音を弱めた後、夕凪の空をたった一人で飛んでいく決意を固め、みぞれは駆け上がっていく。それに合わせてバスドラムは振動を強め、他の楽器も急速に音量を盛り上げる。

 衝撃的に打ち鳴らされるシンバル。最大級に鳴り響く金管のファンファーレ。それは離別の決断を思わせる、強い悲哀に満ち満ちた音。奏でるオーボエの飛翔は尚も止まらず、堕ちかけてはまた翼を広げ、全ての想いを懸けて幾度も身を翻した。やがて場の音が少しずつ絞られていく。夕陽がとっぷりと雲の向こうに沈むように。辺りを埋めていた灯を一つずつ消すように。オーボエが虚空を斜めに切って音を繋ぐと、束ねられたフルートもそれに呼応して高みから一段ずつ音を下げてゆく。暮れなずんだ夕闇の遥か向こうで、みぞれのオーボエがか細く悲痛に主題のフレーズをそっと歌い上げた。希美はみぞれの歌声をそっと抱き締めもう一度空へと解き放つように、同じフレーズを同じように歌い上げる。ギリギリまで絞り込まれた全ての音は雲の中に尾を引いて立ち去り、ふつりと終端を迎えた。

 第三楽章の最後、オーボエによるカデンツァ。それはここに到って彼女の持てる技術、表現、そして感情の全てを音に変換し紡ぎ上げた、みぞれ自身の(すい)とも呼べるものだった。聴く者全ての五感を幻想の境地へと誘うみぞれの圧巻の演奏。それを最後まで完璧に支え切った希美の全霊の演奏。それは深淵をも暴かんというほどに煌々と互いを照らし合う、奇跡のような響きをもたらしていた。

 自由曲もいよいよ最後の第四楽章『遠き空へ』。クラリネットソロによる安らぎのモチーフから始まり、それを麗奈のトランペットソロが受け継ぐ。地響きのようなバスドラムのロールと共に繰り広げられるリタルダンド。堪えがたいほどの寂しさを駆り立てつつも、交互に押し寄せる重奏が場面を先へ先へと進めていく。

 その先に待つ、希美の独奏。一人残された哀しみを背負い、それでも前を向いて歩こうとする彼女の足跡であるかのように、フルートの奏でるその音色は一つずつふわりふわりと優しく落とされた。その余韻を受け継いだ調のフルートが間を取り持ち、さらに次に待つクラリネットへと引き継がれてゆく。ワルツを踊るように四拍続けられたクラリネットの三連符。直後、滝の振り上げる手と共に全員の音が一音ずつ、膨れ上がるように大きくなっていく。ここが第四楽章のピーク。つまり終わりはもうすぐだ。

 自由曲の中でも最大級かつ感動的なフォルティシモ。それは色合いを変えながら少しずつ、感情の極点に向かってまっすぐ昇っていく。幾つもの音色が混じり合い、響き合い、表情を変える。決して言葉には言い表せない感情の移ろい。描き出すことさえ不可能な心象の景色。それらを全て音に換え、全員が一体となって、ホールという名のキャンバスに顕していった。

 気の遠くなるようなリタルダンドを経て、最後は終幕まで一気になだれ込む。決意に満ちたトランペットのファンファーレ。これでもかと鳴り響くチューブラーベル。大地を踏みしめるようにホールをつんざく重低音。全てが淀みなく絡み合う中、最後の行進を全力で、一つずつ叩き込むように。ああ、終わりが近付く。終わる。終わってしまう。そんな想いを噛み砕きながら久美子は音を鳴らす。一歩、また一歩。とうとう辿り着いた最後のフェルマータ。木管のトリルが煌びやかに飾り、金管のハーモニーが渾身の輝きを放ち、ドラムロールがその波を掬う。そうして全てを一体に溶け込ませたフィナーレは、握られた滝の手の動きによって見事なまでに終点を揃えられた。

 どっと鳴らされる万雷の拍手。一同は立ち上がり、荒く吐き出される呼吸も留めぬまま、聴衆の大喝采を一身に浴びた。凄まじい達成感と、舞い上がる高揚感。全国の舞台に立って、そこで自分達の思う最高の演奏をする。それは他の何にも代えがたいほどの快感だった。

 全てをやり遂げ上手(かみて)から舞台を去ろうとしたその時、久美子は袖口にいたあすかと目が合う。

「先輩、」

 まだ息も絶え絶えに、久美子はあすかに向かって手を伸ばす。あすかはニカリと笑い、

「良い演奏だったよ、黄前ちゃん。お疲れ!」

 パン、とその手を叩いてくれた。その感触は、じんじんと響く痛みは、いつまでも手のひらに残り続けているみたいだった。

 

 

 

 そして、その時がやって来た。

「続きまして、結果発表に移ります」

 その言葉に場内のざわめきは収まり、ぴんと張り詰めた静寂が降りる。

「では一番、」

 一つ一つ、学校の名と賞とが読み上げられ、その度に歓声やため息があちこちから漏れる。久美子はその間ずっと両手を握り顔を伏せ、ただひたすらに祈り続けていた。

 何に祈っているのか、それは久美子にもわかっていない。

 何を祈っているのか、それだけは明確だった。どうか金賞を獲れますように。ただそれだけを念じ続けていた。

 隣で同じ姿勢を取りながら震える息遣いをしているのは、麗奈だ。彼女もまた一心に何かを念じ続けている。

「七番」

 その言葉に、周りの空気が一瞬にしてぞわりと固まる。

「神様っ」

 小さく呟いたのはきっと葉月だろう。久美子の心臓は今にも張り裂けそうなほどぎゅうぎゅうと締め付けられていた。もうすぐ結果が出る。出てしまう。『北宇治高等学校』と読み上げられるその言葉が、やけに遅く響いて感じられる。

 どうか、金賞を、金賞を。

 久美子の、いや北宇治吹奏楽部全員のその願いは、

「銀賞」

 スピーカーから響いたそのたった一言で、呆気なく打ち砕かれてしまった。

 

 

 

 

「……みんな、今日まで、本当にお疲れ様でした」

 ホール前広場。目元を泣き腫らし、あるいはその表情に悔しさを滲ませながらも整然と列を成す皆の前で、優子は締めの挨拶に立った。彼女もまたどこかで泣き濡れてきたのだろう。他の部員たちと同じく、その目元は涙の痕でグジャグジャになっていた。

「私たちは春からずっと、全国金賞を目標に掲げて頑張ってきました。みんな本当に持てる限りの力を全部尽くして来たと思う。今日の本番だって、サポートのみんなを含めて誰一人手抜きなんかしてなかった。でも結果は銀賞。正直、メチャクチャ悔しいです。もう一回コンクールに出られるなら、今度こそやり直してやるって思うぐらい」

 絞り出すような優子の声に、悔しさを強めた者は一人や二人では無かった。ぐずつく鼻音は次第に増えていき、やがてはすすり泣く声がそこかしこから出始める。その想いは久美子とて同じだ。強烈なやり切れなさに自然と顔が歪んでいくのを感じる。

「けど、後悔はしてません」

 毅然と放たれたその言葉に、え、と一同は顔を上げた。

「だって、私たちは全力を出し切ったから。全国の大舞台で、自分たちの思う最高の演奏を完璧にやり遂げて、あんなに気持ちよく本番を終わることが出来た。これって本当にすごいことです。それが出来たみんなを私は今、誰よりも何よりもすごいって言ってやりたい気持ちでいっぱいです」

 拍手! と優子は率先して手を打ち鳴らす。初めは恐る恐る、けれど次第に部員たちの拍手強まり、ついには力強い音が広場中へと響き渡った。

「結果は後からついてくる。口酸っぱく言われてきたことだけど、金賞かそうじゃないかなんて関係ありません。自分たちがここ一番で最高のパフォーマンスを出し切れたってことこそが、私は、最大最高の結果だったと思っています。それは、みんな、自慢に思っていい。悔しい気持ちと、おんなじくらい、胸を張っていいこと、です。だから、っく、最後は、みんな、笑顔ふぇ、」

 喋るうちに感極まったか、えづくように途切れがちになった優子の声がとうとう嗚咽にまみれてしまった。その姿に胸を打たれたのか、麗奈もまた目頭を押さえ喉の震えを押し殺そうと唇を噛んでいた。

「はいはい、ここでアンタが泣くとみんな貰い泣きしちゃうでしょ。最後までしっかりしなよ、部長」

「あによ、アンタいっつも、そうやって。あだぢのごと、バガに、して」

 もはやボロボロの優子が茶々を入れる夏紀に一生懸命言い返そうとする姿は、悲壮を通り越してなんだか滑稽ですらあった。泣き交じりにくすくすと部員の間から苦笑が洩れる。ああもう、と優子は溢れ出した涙を袖口でゴシゴシと勢いよく拭った。

「とにかく、私にとっては今年が最高の一年だったってことが、何より最高の結果です。私の話は以上! あとは副部長、アンタもなんか一言くらい言いなさい!」

 はあー? と夏紀の口の端から気だるい不服の意志が洩れ出る。優子にせっつかれるようにして無理やり皆の前へ引っ張り出され、やむなく観念したように、夏紀はそこで大仰な溜め息をついた。

「えーっと。まあ皆も知っての通り、私はこういう時にコメントするのは向きじゃないんで、手短に言うけど」

 そこで夏紀は一度言葉を切り、そして毅然とした眼差しで部員たちを見渡した。

「正直を言えば、悔しいって気持ちは私も優子と同じ。それももう、今ここではらわたブチ撒けそうってぐらい。それはここにいる皆も同じだと思う。他の人からは全国来れただけでもすごいとか銀賞でも充分って言われるかも知れないけど、今年の私らは全国金賞を目指してここまで来たワケなんで。それが出来なかったのはやっぱりどうしようもないぐらい悔しいです」

 そう述べる夏紀の拳は固く握られ、あたかも内から襲い来る感情を圧し潰すようにわなわなと震えていた。それを見た久美子の目にじくりと痛みが突き刺さる。

 全てを見て来た自分だからこそ解る。夏紀の語る『悔しい』という言葉が、それこそ痛いぐらいに本気の言葉なのだということが。そしてそれは我が身のことのようにさえ感じられるほど凄まじく鮮烈で、狂おしいものだった。

「けど、私たちのコンクールはこれでもう終わり。後のことは二年の仕事だからもう全部任せるよ。でも今のこの悔しさを忘れないって言うんなら、来年また必ずここに来て、そして今度こそ金賞を獲ること。プレッシャーかけるみたいで悪いけど、それが私からみんなへの、副部長としての最後のお願いです。分かった?」

「はい!」

 涙に声を震わせながら、久美子たちは力強く返事をする。よし、と微笑んだ夏紀の双肩は、全てを後輩に託してようやく重い荷物を下ろせたという安堵の気配に包まれていた。その様子を見ていた滝は静かに頷き、こういう時に涙もろい美知恵はハンカチで目元を覆う。

「じゃあ後は部長の仕切りでお願いします……って優子、アンタいつまで泣いてんの」

「うっさい。夏紀がガラに合わない演説なんかするもんだから、ぐず、余計に泣けてきちゃったでしょ」

「全く、しょうがないんだから。泣き虫の部長さんは」

 わしわし、と乱暴な手つきで夏紀が優子の頭を撫でつける。いつもは丁寧に整えられている優子のセミロングヘアも、夏紀の容赦無い手櫛のせいで今はすっかり台無しになっていた。

「アンタが言わないと場が締まらないんだから、最後に一言だけ頑張りなって。ほら、できるよね?」

 優子。夏紀の柔らかい問い掛けに、優子は嗚咽を飲み込みぐっと涙を堪える。そして、彼女の最後の号令は下された。

「各自、バスに乗って、撤収!」

「撤収」

 そこで唐突に、みぞれがその丸い拳を天に向かって突き出した。あまりに意外な人物の突飛な行動に場の全員は一瞬固まり、それから一斉にどっと笑い出す。みぞれまで何よ、と顔を真っ赤にする優子。何故かやり遂げた表情のみぞれ。その様子を大笑いする夏紀、みぞれに苦笑を向ける希美。みんなで泣き、笑い、そして讃え合い。こうして今年の、久美子たち北宇治のコンクールへの挑戦は幕を閉じたのであった。

 

 

 

 

 それは、京都に帰ってから数日後のこと。

 こっそりと自分を呼び出した優子と夏紀との、ファミレスでの会談。そこでもたらされた衝撃の依頼。渋々とは言え引き受けない理由などどこにも無かった。胸に去来するのは不安と決意。自信なんてこれっぽっちも無かった。けれど、あの人たちにあそこまで言われれば、やるしかない。今の久美子はそういう心境にあった。

 川面に吹く晩秋の風。とっぷりと暮れた街並み。宇治橋を渡る久美子には家に帰る前に、もう一つだけ用件があった。携帯を取り出して画面を開き、とある人物から届けられたインスタントメッセージへと目を走らせる。

 

『今日、用事が全部終わったら指定した場所まで来ること。以上』

 

 メッセージの差出人はあすかだった。携帯をポケットにしまい込み、久美子はその場所へと向かった。

 

 

 

 



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〈20〉種明かし

 平等院表参道からあじろぎの道へと入り、そこから宇治川沿いを上流方向に辿る。

 夜の帳はもうすっかり降りきってもはや真っ暗闇と言った方が近い状況ではあったのだけれど、そこは勝手知ったる何とやらだ。目指す場所もそう遠くではない。少なくとも、自宅よりはずっと近くにある。そこへ向け、久美子は迷うことなく真っすぐに歩みを進めていく。

 やがて頭上を覆う木々のトンネルが切れかけた頃、約束の場所は見えてきた。井川用水機場。名前以上の意味は良く知らぬものの、今すぐそれを知りたいとは思わない。河川工事のために長らく張られていたフェンスもすっかり撤去され、周辺はおおむね元通りの景観を取り戻していた。そのすぐ脇にある木製ベンチに、待ち合わせをしていた人物の姿はあった。

「よっ。早いねえ」

 ベンチに座ったままの姿勢で振り向いたあすかが片手を挙げる。

「すいません、待たせちゃいました?」

「今来たとこ。って、デートの常套句でもあるまいし」

「ですね」

 軽く笑い合い、そして久美子はあすかの隣に腰掛けた。秋もだいぶ深まり、日が暮れれば気温は下がる一方だ。きんきんに冷やされたベンチの温度がじっとりとお尻に沁み込む。

「本当にここで良かったんですか? 先輩いちおう受験生なんですし、私が先輩の家の方まで行っても良かったんですけど」

「うちの近所じゃ、じっくり話をするには不向きだからねえ。それに予備校の対策授業とかで私がこっちに来なきゃいけなかったってのもあるし。ここのが色々と都合良かったの」

「それなら良いんですけど」

 そぞろに返事をしながら、久美子は昨年あすかの家に行った時のことを思い返していた。彼女の家の近所にあった河川敷、宇治川を渡る鈍色の水管橋。そのちょうど真下で、あすかのユーフォの音色に酔いしれながら過ごしたひと時。久美子はまたあそこで過ごしても良いと思っていた。にも関わらず指定された待ち合わせに指定された場所は、久美子の自宅にほど近いこのベンチ。それが少しだけ残念ではあったのだけれど、あすかにも都合があるのだからしょうがない。それにあすかと一緒にここで過ごしたことはこれまでに一度も無いことだった。自分にとっては少し特別なこの場所。そこに新たな思い出の一ページをあすかと一緒に綴じているみたいで、その時の久美子はほんのちょっぴり浮き立っていた。

「で、どうだったの黄前ちゃん?」

「どうって、何のことですか」

「またまたぁ、しらばっくれちゃって。今日あたり呼ばれたでしょ? 優子ちゃんと夏紀に」

「あ、はい」

 何故にあすかが? という疑問と、流石はあすかだ、という得心とが久美子の胸中には同時に湧き上がる。

「さっき先輩たちから正式に、部長指名されました。それと個人の実力アップの為に北宇治をアンサンブルコンテストに出場させたいから、部長就任最初の仕事としてそれに取り掛かって欲しいってことも」

「だろうねぇ」

 クツクツと愉快そうに、あすかは声を震わせる。

「先輩も知ってたんですか? 優子先輩たちが私を部長に指名するつもりだったこと」

「ううん、私には一切の相談無し。っていうか私が撥ねつけたんだけどね。アンタらの後継者はアンタらが自分で決めなさい、って」

 そうだろうな、と久美子は内心思っていた。今年の部への関わり方から見ても、あすかがそんなことにいちいち口を出す気が無いのは明白だった。その一方であすかの深い洞察力があれば、優子や夏紀の考えを予見することもまたお手のものだったであろうことも。

「アンコン出場は実のところ、意外っちゃ意外だね。そう来たかーって感じ。でも個々のレベルを向上させるのにアンサンブルはうってつけだから、その点はこれからの北宇治を考えれば妥当な選択とも言えるけどさ」

「かもですね。アンサンブルってけっこう大変な思い出しか無いんで、出るってだけでも気が重いですけど」

「やる前からそんなんでどうすんのよー? 何事も経験だと思って、まずは取り組んでみることだね。それで、部長の件は引き受けるの?」

「はい。正直不安も多いですけど、先輩たち直々の指名ですし頑張ろうって思ってます」

「そっかそっか。こうして北宇治の伝統は、今年も受け継がれていくワケだねぇ」

 あすかは満足げに鼻を鳴らす。

「まあ黄前ちゃんが引き受けるだろうってのも、私には分かってたけどね」

「なんかそれ、後出しジャンケンみたいな感じですけど、本当ですか?」

「もちろん、ホントだよん」

 化かすような物言いをしてあすかは首だけをこちらに向けてくる。その怜悧な瞳は視覚を通じて頭の中にまで入り込むような、そんな深みを感じさせた。

「去年から夏紀たちが黄前ちゃんのことをプッシュするつもりで動いてたのは知ってたし。黄前ちゃんがどういうつもりだったか知らないけど、新入生指導係になったのも言わばそのための布石だね。それと、色んなところで後輩たちの面倒を見るように頼まれたり差し向けられたりしてたんじゃない?」

「それは……思い当たる節は、無いでもないです」

「でしょ? 特に優子ちゃん辺りはみぞれちゃんと希美ちゃんの問題を解決した件で、黄前ちゃんのことをだいぶ高く買ってたからね。三年生たちの間じゃ次の部長は黄前久美子、みたいなムードもあったっぽいよ」

 そう語るあすかの言葉に、いつぞやの調の意味深な発言が頭をよぎる。期待して待ってたら? とは恐らくこのことを指していたのだろう。

「どうしてそんなに買われてるのか、私にはサッパリですけど」

 疑問を呈す久美子に、んー、とあすかは少し考えるようなそぶりをした。

「どう言っていいか分からないけど。そうだね、それが黄前ちゃんの『特性』だから、かな」

「特性?」

「前にも言ったでしょ。黄前ちゃんってすごくユーフォっぽい、って。そういうコト」

 あすかの言っている意味が、久美子にはサッパリ解らない。ひょっとして上手くはぐらかされているのでは。そんな収まりの悪さをごまかそうと、久美子は地面に向けて脚を突っ張らせる。ざり、と乾いた音を立てて、靴の裏に小砂がめり込んだ。

「まあ、今にきっと意味が解るよ。黄前ちゃんなら」

「はあ」

 それからしばらく無言の時間が訪れた。ほう、と吐く息が白く(もや)を作り、それは緩やかに流れる風に運ばれて川の向こうへと掻き消えてゆく。まだ雪が降るには早いけれど、そんな時期も確実に迫っている。雲の殆ど無い空に浮かぶ月は満月と呼ぶには少し歪で、ほんの僅かに輪郭が削られた形のままその威光をくっきりと大地に向けて注いでいた。それを浴びていたあすかの横顔が、ふと小さく綻ぶ。

「さて。それじゃ黄前新部長の就任を祝って、そろそろ種明かしといきますか」

「種明かし、って何ですか?」

「気になってたでしょ? どうして私が留年したのか」

 あ。

 今の今まで、久美子はそのことをすっかり忘れていた。あまりにあすかが自然に溶け込み過ぎていて。周囲の誰もが違和感を覚えることが無くなって。怒涛の勢いで押し寄せる日々の忙しさにかまけて。そうしているうちにいつの間にか、その疑問は完全に頭の中から抜け落ちてしまっていたのだ。

 あすかは何故、留年したのか。()()()()()()のではなく。

「それじゃ、やっぱり――」

「ん? フフッ」

 えも言われぬような声色と共にあすかの形相が歪む。それは愉悦とも狂気ともつかぬ、極限の危うさに満ちたものだった。

「初めはさ、去年母親が首突っ込んできてゴタゴタしちゃったせいで、欠席とか早退とか続いちゃったりしてたんだけどね。黄前ちゃんも知っての通り」

 そのことは勿論覚えている。一時期、あすかは部の練習を休みがちになっていた。香織や晴香といった友人たちですらあすかへのコンタクトがなかなか取れずにいた時のことだ。

「その時までは別に、こんなことするつもりなんて無かった。けど黄前ちゃんに説得されて、全国大会であの人に向かって思いっ切りユーフォ吹いて、仮引退して。それで受験勉強してるうちに段々とさ、こんなこと考えるようになってたんだよ」

 目を伏せ、その当時を思い返すような仕草をしながら、あすかは続きを紡ぐ。

「自分らしく振る舞っても良かったんなら、だったら、もっと早くからそうしておけば良かったって」

 周囲の時が止まる。風の音も、川のせせらぎも、今の久美子には何一つとして聞こえない。

「そしたら出るわ出るわ、後悔の嵐。いくら自分のためとは言え、私の高校生活ってずーっとそんなのに縛られて、本当の自分自身なんてものは何一つ無かった。もちろん全部が全部じゃなかったけど、やりたい事のために我慢したり、切り捨てたり、そういうものばっかりだったなぁって。そしたら何かもう、色々嫌になっちゃってさ」

「だからもう一回やり直そうって、そう思ったっていうんですか?」

 問い掛ける自分の喉が震えるのを止められない。それでも久美子は、そう尋ねるより他に無かった。

「まあ簡単に言うと、そういうこと」

「そんなこと――、」

 出来るわけがない。あまりにあすからしくない馬鹿げた発想に、久美子の頭は真っ白になっていた。うまく言葉を発することが出来ず、己の口がただパクパクと、虚しく空気をついばむばかりになってしまう。

「そうだね。どんなに憧れたって、どんなに手を伸ばしたって、人は過去には遡れない。もう一度、あのひと時を。いくらそう願っても、それは結局あの時と同じじゃない。そんなことぐらい、とっくに解ってた」

 それでも、私は。あすかはそこで溢れ出す感情をせき止めるように口をつぐんだ。久美子の脳は依然、理解が追いついていない。本当に、そんなことのためにわざと留年したというのなら、それは親への反抗以上にとんでもなく愚かな行為だ。その一年のために、求めるものが得られないととうに解り切っていた一年間のために、彼女が己の人生で犠牲にしたものはきっと遥かに大きく、そして重い。あすかにだって、それが分からなかった筈は無いのに。

「けど、私は私の選択を後悔してない。副産物として幾つかは出来ることもあったしね」

「ふく、さんぶつ?」

「そう。来年部長になるであろう黄前ちゃんに、部長としての筋道をつけてあげること」

 そんな。そんなの要らない。昂る感情に己の言語能力が完全に破綻をきたしてしまい、久美子はただぎこちなく首を横に振ることしか出来なかった。それを見たあすかが困ったような笑みを浮かべる。

「そんな顔しなくていいっての。あくまでそれは副産物。黄前ちゃんが気に病むようなことじゃないから」

「だとしても!」

 ようやく喉につっかえていたものが抜けて、勢いのままに久美子は声を荒げてしまった。

「本気、だったんですか。全部本気で、あすか先輩は、そんなことしてたんですか」

「本気だったよ、私は」

 キッ、とあすかが真摯な面持ちをこちらに向ける。それを見て久美子も察した。今の言葉に嘘はひとつもない。あすかは確信をもって行動していたのだ。最初から今の今までなにもかも、全てを腹に括った上で。

「でも、上手くいかないこともあった。例えば美玲ちゃんの件。本当はもっと上手くあの子を低音パートに繋いであげたかったけど、私一人じゃそこまで手が回らなかったから、結果的に黄前ちゃんと久石ちゃんにフォローしてもらう形になったでしょ?」

 そのことは良く覚えている。サンフェスの練習中、逃避した美玲を奏と二人で追い掛けた時のことだ。

「あの時は今後のことを考えたつもりだったけど、今考えるとあれは完全に私の失敗。そのせいで久石ちゃん、ヘンに私に敵対心を持つ恰好になっちゃったからね」

「そんなことは、」

 無い、などとは言えなかった。あの日、美玲が鬱屈した感情を爆発させた日。彼女が打ち解けたのと入れ替わるようにして、奏は孤立の日々に足を踏み入れた。その時の奏の言葉を、久美子は今でもはっきりと覚えている。

『ですが、あすか先輩はもっと凄い方ですね』

 思えばあの瞬間から、奏はあすかを悪い意味で意識するようになった。きっと奏もどこかの時点で、あすかが夏紀に特別目を掛けて指導している事実にそれとなく気が付いたのだろう。遠巻きに夏紀を見る奏の視線が妙に冷たかったのも、つまりはそれが原因だったのだ。

 自分に反発する後輩を除け者にし、お気に入りの後輩にばかり目を掛ける偉大な先輩。そんな先輩にどうにか一泡吹かせてやりたいと思えど、あらゆる意味で万能超人のあすかにはまるで歯が立たない。忸怩たる思いを抱えたまま敗れ去った奏はその後、完全なる孤独と絶望の道へと陥ってしまった。そんな状況を、夏紀も、あすかでさえも、例え全ての事情を知っていたとしてもどうすることも出来なかった筈だ。だって奏の心をより深い闇へと追いやってしまったのは、他ならぬ自分たちだったのだから。

「その後も何度か上手にあしらうつもりでいたけど、久石ちゃんって私とどこか似たようなタイプでしょ? そのせいもあって最後まで上手くいかなかった。黄前ちゃんにはそこで一つ、重い宿題を残しちゃったってわけ。これは田中あすか、痛恨の大失敗ってやつだね」

 くひ、と漏らした彼女の笑声は、これ以上無いほどの自嘲をふんだんに塗り込めたものだった。

「それだけじゃなくて、他にもある。例えば小日向夢ちゃんのサード問題とかね。アレもあの時は上手いこと取り繕ってみせたけど、黄前ちゃんがあそこに居てくれなかったら、私はただ夢ちゃんを抉っただけで終わってたと思う。すぐには立ち直れなかったかも知れないし、ひょっとしたら今年のコンクールが終わるまで夢ちゃんはずっとサードに留まってたかもね。ああいう言動を取って夢ちゃんを救ってみせるあたりが、やっぱり黄前ちゃんだよ」

 それは自分だって同じだ。そう久美子は言いたかった。もしもあすかがあの場に居なかったら、自分一人では恐らく夢の本音を抉り出すことも叶わなかったはずだ。結果として事態の解決にはもっと時間が掛かっただろうし、優子と麗奈の議論が平行線を辿っていたことも踏まえれば、そのままコンクールになだれ込んでいた可能性もある。その場合、今年のコンクールがどんな結果になっていたか。麗奈の見立て通りであれば、決して芳しいものとはならなかったに違いない。

「それに、希美ちゃんのこともそう。ソロの件でぐずぐずしてる二人を見かねて、思い切って希美ちゃんを動かすことでどうにかしようって思ったけど、あれこそ私の判断ミスもいいとこだった。私としては希美ちゃんに自制してもらって、それでどうにかまとめようって感じだったんだけどね」

「それは、それは違います。希美先輩、あすか先輩にずっと感謝してました。先輩のおかげで目が覚めたって。だから希美先輩は今、音大受験に向けていっしょうけんめい頑張って――」

「それが一番の大失敗」

 久美子の必死の擁護にもあすかはすげなく首を振る。彼女の掛ける眼鏡のレンズが、寒さのせいで白く曇り始めた。

「希美ちゃんの気持ちが前向きになった。そこだけを見れば問題解決、一件落着って思えるでしょ? でもあの問題はそもそもどっちが悪いとかじゃなくて、二人の間に横たわった二人の問題なんだよ。それもずうっと、多分あの二人が北宇治に入るよりも、もっと前から。そして希美ちゃんはともかくみぞれちゃんの中では、その時から今に至るまで何にも解決してない。あの子だけが置き去りになったまま、何となく元通りの空気を取り戻したような雰囲気になって、問題の根っこは今でも裏側に残ってる」

 ごくり、と久美子は湧き上がるえぐみを呑み込む。大好きのハグをして、そこで己の決意を滔々とみぞれに語り聞かせた希美。そしてみぞれは希美と共に次なる道を歩もうとしている。そこまでならあすかの言う通り、この件は美談に終わったと言えるのかも知れない。けれど実際には未だ、みぞれに対する黒い情念が希美の中には渦巻いているのだ。

 恐らくそれは友情や好意とも綯い交ぜになった、とても複雑な感情。あまりにも絡まり過ぎて容易にほどくことの出来ない積年の混濁。もしもみぞれと同じ大学へ進学できたとして、希美はそれを抱えたままで、これからもみぞれと同じ時を過ごすことになる。その一方でみぞれもまた、希美に対する感情に折り合いを付け切れてはいない。あのままではいつまた同じようなことが起こるか、知れたものでは無かった。

「いま黄前ちゃんが思ってることを言い当ててあげても良いけど、それはやめておくとしよう」

 あすかは人差し指を立て、それを小さく左右に振ってみせる。

「けど多分、遅かれ早かれあの二人はそうなる。その時に二人をちゃんと理解して間に入ってサポートしてあげられる人が、どっちの傍にも居ないとしたら? そしたらきっと、あの二人の関係は呆気なく壊れる」

「そんなの、分かんないじゃないですか」

「そうかもね。確かに分かんない。そのまま二人とも精神的に成長して、うまいこと妥協できるようになったり良い距離感を保ってられるようになる可能性だってあるね。でもそうなる前に先に壊れちゃうのはきっと、みぞれちゃんの方だよ」

 全力で否定しようとする久美子に、それを一歩先回りするあすかの予言。それはあまりにも鋭く、そして何も言い返せないほど、彼女が語るままの未来をありありと思い描くことが出来てしまう。みぞれは、彼女は、こと希美が絡めば極めて脆く危うい。希美に依って飛ぶしかないみぞれがいつか彼女を失ってしまう時、果たしてみぞれは自分一人の翼で寄る辺無き虚空を飛んでいけるのか? それは余りにも望みの薄いことだった。

 そして、そんなみぞれを理解してあげられる人間は決して多くない。もし居たとしても、その人が希美のことも理解できる可能性はもっと少ない。あの二人を理解し、二人の間に割って入れる、共通の近しい人物。そんな都合の良い存在など、久美子の知る限りではあの人たち以外に居なかった。

「そんなわけで、あれを最後に余計なちょっかいを出すのは止めにしようって思ったの。上手くいけばあの子が自力で解決の糸口を探れるようになるかも、ってのもあったけど、なにより私が余計なことをしない方がいいと思ったから。だから私は、希美ちゃんとみぞれちゃんの二人だけで話をさせることにした。解決にはほど遠い選択だったけどね」

「最後って、そういう意味だったんですね」

「なあに? ひょっとして私が吹部辞めちゃうとか居なくなっちゃうとか、そんな心配でもしてくれてた?」

「違います」

 口では否定しつつも、無意識のうちに久美子はするりと胸を撫で下ろす。それは長らく刺さっていたものがようやく抜けた、という感触だった。

「吹部についても、私がもたらしたのは良い側面だけじゃなかった。いくら北宇治が全国金を目指すためとは言え、無理やりに練習の方向性を捻じ曲げちゃったせいで、要求されるレベルが一気に上がっちゃったワケだからね」

「あの練習法にも、先輩が一枚絡んでたんですか?」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。私はあくまで北宇治が現状ピンチだってのと、あの状況を乗り越えるために練習を改善する必要性があることを訴えただけ。具体的なことを決めたのは全部、滝サンだから」

 敬意など一ミリも感じさせない口ぶりで、あすかは滝のことをそう呼んだ。それは肩書きや年齢の多寡に囚われないあすかの習性みたいなものだ。

「ともかく今回の結果を踏まえれば、部内の空気はこれからもっとコンクール至上主義が加速することになると思う。まあこれは北宇治が全国金賞を目指すなら避けて通れない課題でもあるし、新部長になる黄前ちゃんの舵取り次第ではあるけど、それでも黄前ちゃんにとって負担が大きくなることは間違いない」

 そのぐらいは、覚悟している。そっと手を忍ばせたポケットの内側で、久美子はぎゅうと携帯を握り締めていた。

「部の運営や人間関係の問題、他にも黄前ちゃんの見えてないとこで、私が作った歪みは幾らでもあるよ。数えたらキリがないくらいある。それもこれも全部、私の力不足なせい」

 ハア、と吐き出されたあすかの吐息が、白く大きな塊を作り出す。

「ホーント、全部大失敗。やっぱり私には誰かさんの真似をするのは無理なんだなーって、改めて思い知らされたよ」

「……誰かさんって、誰ですか」

「えぇ? わざわざ聞かなくたって、ホントは解ってるくせにぃ」

 茶化し半分で脇腹を小突かれても、久美子はわざとらしく呻いてみせることすら出来ない。仮に自分の思っている通りなのだとしても、そのことを認めたくはなかった。だって、あすかはあすかだ。他の誰でも無い。あすかに誰かの真似をして欲しいとも思っていないし、そもそもあすかが思っているほど、その誰かさんは大して凄くなど無い。少なくとも、あすかに真似されるほどのものでは。

 ん~っ、とあすかが大きく伸びをする。それはきっと、全ての懺悔を吐き出し切ったという合図だった。

「とまあ、そういうことでさ。黄前ちゃんには重い宿題を残しちゃったし、他の皆も私のワガママで引っ掻き回しちゃって。それはホント申し訳無いなーって思ってるよ」

「気にしなくていいです、そんなの」

「そういうワケにはいかないでしょ」

 久美子にはもう、あすかの顔をまともに見ることさえ出来なくなっていた。そんな様子を見かねたのか、あすかは困ったような吐息を微かに洩らす。その音が、久美子の耳を揺らした。

「もしも私が今年ここに居なかったら、何もかも、もっと上手く行ってたのかもね」

 噛み締めるように呟き、それきりあすかは自らを罰するように沈黙した。そんなあすかの姿は見たくない。そう思った瞬間、久美子の口は勝手に開いていた。

「それでも、私は、」

 おもむろにあすかが久美子を見やる。その眼をしかと捉えながら、久美子はあすかに告げた。

「誰が何と言おうと、私はこの一年をあすか先輩と一緒に過ごせて良かったって、思ってます」

 決然たるその口調を浴びてあすかが目を瞠った。久美子も瞬き一つせず、あすかを睨み続ける。それは久美子なりの精一杯の抵抗だった。あすかがこんなにも自分を卑下することなんて無い。あすかはただ、今まで我慢に我慢を重ね続けていただけだ。周囲にも親にも優等生であることを求められて、いつしか自分自身もそうあるようにと、あすかは誰かの求める『田中あすか』で居続けた。自分のやりたいことをやるためには、彼女はただの『あすか』では居られなかった。それはきっと疲れることだったに違いない。その積み重ねの果てに本当の自分自身を取り戻すため、それまで築き上げてきた一切合切をかなぐり捨てる道を、彼女は選んだのだ。

 なんて愚かだろう。馬鹿げた話だろう。この事実を前にして百人中百人がそう思ったとしても仕方が無いほど、全ては荒唐無稽な話だ。けれど、もしも周囲に望まれるがままの道を唯々諾々と歩んでいたならば、あすかはこれからもずっと『田中あすか』でしか居られなかった。どこから見ても非の打ち所のない、誰もが羨む頭脳と美貌と才能を持った、完全無欠の超人。そんなあすかの孤独を解ってやれる人が果たしてどれほど居たことか。彼女が真に欲しがっている何かを理解して与えられる人物が、たった一人でも彼女の傍に居てやれただろうか。

 久美子にだって、その全ては解らない。もしかしたらあすか本人でさえも、自らを愚かだと罵っているのかも知れない。だからこそせめて自分は、自分だけは、あすかの全ての行いを否定したくなかった。

「あー」

 刹那、何かから解放されたように、あすかはけらけらと笑い出した。何がおかしいんですか、と問い詰めた久美子には構わず、彼女の指が眼鏡をずらして目元を拭う。そして次の瞬間、突然に伸ばされたあすかの手によって久美子の横髪はモジャモジャと揉みしだかれた。

「わぁ!」

「ホントに自覚無いんだねぇ、黄前ちゃんってば」

 驚く久美子の頬を両手で挟み、あすかが顔を近づけてくる。唇と唇が触れ合ってしまうのでは、と思えるほどの至近距離。そこまで詰め寄ったあすかは満開の笑顔で、久美子にこう告げた。

「そこがいちばん凄いところなんだよ、黄前久美子の」

 

 

 

 

 どうやってあのお母さんを騙し切ったんですか?

 その問いにだけは最後まで、ハッキリした答えを返してはくれなかった。それはきっとあすかなりの企業秘密といったところなのだろう。常識的に不可能、と思えることでさえも可能にしてしまうあすかはまさしく悪魔の頭脳の持ち主と言うべきであり、その意図など只人の自分には量りようもない。こればかりは永遠の謎として、恐らくはあすかが墓に入るその時まで、彼女の中だけに秘められたまま終わることだろう。家路を辿るあすかの背を見送りながら、久美子はそんなことをおぼろげに考えていた。

 今回の一件では久美子もまた結果的に、あすか以外の人間に対して秘密を隠し持つことになってしまった。もちろん全ての真相は他の誰にも喋るつもりなど無い。葉月たちにも、秀一にも、麗奈にすらも。それはあすかと自分、二人だけの秘密。そしてこれもまた、恐らくは自分が墓に入るその時まで、ひっそりと記憶の内に封じられることとなる筈だ。

『これで私たちは、いわゆる一つの共犯者だね』

 そう語ったあすかの不敵な笑みを、久美子はこれからもずっと忘れない。あすかとの間に結んだ新たな繋がり。例えそれが世間には後ろ暗いものであるにせよ、自分とあすかの間に生まれた絆であることには違いない。久美子はそれを、これからもずっと、大事にしていたかった。

 あすかの姿が角を曲がり、街並みの陰に消えていく。それを見届けて久美子もまた振り返った。後は自分も家に戻るだけだ。数日内には新三年生の役職を決めるための会議が開かれる。その場で自分は新部長として皆の前で名乗りを上げることになる。他の子らがそれに賛同するかどうかはともかく、優子たちからの指名を引き受けた以上、久美子は既に覚悟を決めていた。

 それは部長という大役を務めることだけではない。今年あすかがやったこと、その爪痕を、ただの瑕疵にしないこと。過去はどうやったって変えることは出来ない。あすかがこの一年で自分たちにもたらしたもの。あすかによって影響されたもの。その事実そのものを捻じ曲げることなんて、誰にも出来やしない。でも、自分は今を生きている。これからも生きていく。その中で変えていけるものは、まだまだ沢山あるはずだ。

 だったら変えてしまえばいい。あすかのやったことを、あすかが自分たちにくれたものを、意味のある何かに。そしてそれが出来るのはこれからの自分たちだけだ。希美とみぞれの問題だってきっと、二人を支えてくれる人たちも一緒になって何とかしてくれる。それと同じように、自分たちは自分たちを変えていく。部のことも、奏のことも、そして、自分自身のことも。それがきっと本当の意味であすかが過ごしたこの一年を価値あるものへと変えてくれる、その筈だから。

 大事なのはこれからだ。けれどその前に、久美子にはどうしてもやっておくべきことがあった。ポケットから携帯を取り出しインスタントメッセージの通話機能を立ち上げ、スルスルと画面を操作し目的の人物のところで指を止める。そこに示された「通話」のアイコンを、久美子は迷いなく押した。

「……もしもし、今ちょっと良い? あのね、急で悪いんだけど、直接会って話したいことがあって。……そう。今日のうちに、どうしても。うん。……うん、解った。じゃあ今から十分後、いつもの場所で。……うん。それじゃ」

 言葉少なに通話を切り、久美子は自宅を目指して駆け出した。目的は、家でくつろぐためでは無かった。自分の部屋へ、大事なものを取りに行くために。そして、久美子にとって大事なことを、その人へ告げるために。

 ひょう、と身体がが空気を切り裂く。フルートの音色にも似たそれは、これから草木を眠りへと誘うであろう風の音にそっくりだった。

 

 

 赤く枯れた木々の葉はやがて地面に落ち、その上に白い雪がこんこんと降り積もる。

 季節は移ろい、過ぎ去る日々を経て、彼女たちの見ていた景色もまた大きく揺れ動いていった。

 

 

 

 



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エピローグ
〈Terzavolta.〉


 

 開け放たれた窓の向こうから一片(ひとひら)、舞い込んだのは桜の花びらだった。

 

「どうしたの?」

 ふつりと会話が途切れたのを不自然に思ったのか、麗奈が訝しげな顔つきでこちらを見据える。

「ん。何でもない」

 久美子は首を振ってみせ、麗奈へと視線を戻した。

「また、一年が始まるんだなあって」

 ほう、と吐いた息はもう、白くはならない。ついこの間まで陰鬱な灰一色の空模様だったのが嘘のように、お日さまはぽかぽかと穏やかな陽気を湛えている。生命の息吹を取り戻した草木は青々と繁り、それらに照り返される学び舎の廊下もまたキラキラと眩い光に満ち満ちていた。

 この一年で、すっかり見慣れた光景。なのに胸の内には、見たことも無い世界に飛び込んだ時のような、不安と期待をない交ぜにした瑞々しさが溢れている。この気持ちを言葉にするのが何だか勿体なくて、そうっと一人で頬張るように、久美子は口元を緩ませた。

「今年はどんな年になるのかな」

「今年こそ絶対、全国で金賞獲る。去年、優子先輩ともそう約束したし」

 答える麗奈の瞳には決意の灯が揺らめいていた。昨年、コンクール全国大会の舞台で味わったその悔しさを、麗奈は勿論のこと久美子も未だ忘れてはいない。三年生が仮引退し新体制が発足してからもずっと、北宇治吹奏楽部の一同は厳しい練習に明け暮れ、自分たちの音楽を磨くことに費やして来た。今年こそ。その悲願を果たすために。その場所へと至るために。

 そして今日はまさしくその門出となる日だ。年度が替わり、新たな一年の始まる日。これからは自分たちは本当の意味で、この吹部を導いていく立場となる。昂揚と同時に抱く緊張。その責任を、自分は果たすことが出来るだろうか。そんな考えが頭の隅をよぎった途端、久美子の身体はぶるりと震えた。

「頑張ろう」

 麗奈に頷きを返し、久美子は音楽室へと続く廊下に歩を刻む。思い返してみるとこの一年、様々な事があった。泣いたり笑ったり、何気ない日常の繰り返しの中で肝を潰すほどの衝撃に見舞われたり。そんな中でも最も印象深かったのはやはり、田中あすかの事だ。

 あすかとの思い出は今も鮮烈に胸の内に灼きついている。彼女が残してくれた、あの温かくて優しい音色も一緒に。

 けれどそれはもう、北宇治には無い。この三月をもって彼女は卒業してしまい、そして久美子は進級し、また今日もこうして音楽室の戸を開けようとしている。

 去年のコンクールが終わってから、久美子はずっと部室の中に、パート練習の光景の中に、あすかの姿を探していた。もしかしたら彼女がひょっこり姿を現すのではないか。そんな思いに駆られ、楽器室の棚に収められたあすかの楽器ケースをこっそり見に行ったことも二度三度ではない。

 けれども卒業と同時に彼女のユーフォニアムは姿を消し、その日もとうに過ぎ去り、そしてもうどこを探してもあすかの存在しない日常を受け入れざるを得ない日が、こうして来てしまった。

 正直今でも、とてつもなく寂しい。またあの日のようにすぐ隣であすかの演奏を聴きたい。そう思えど、あの日々はもう戻って来ない。そんな現実を噛み締め、飲み下して前を向くのに十分なだけの時間を、自分は過ごして来た筈だ。

 今日からは気持ちを新たに。そう自分に言い聞かせながら鍵穴に鍵を差し込み、久美子は音楽室の戸を開けた。

 

 

『おっはよー黄前ちゃん。さあ今日も練習がんばるよん』

 

 

 幻を、見た。

 もうある筈が無い。ここに居るわけが無い。そんな彼女の、けれどハッキリとした、幻を。

 それだけではない。みぞれや希美、夏紀に優子に友恵、そして調。彼女たちは皆この学び舎を巣立っていってしまった。部室のあちこちに、彼女たちは今でも息づいている。声を掛ければいつものように挨拶をしてくれる。そんな気さえするのに、部室の中はがらんどうで人っ子ひとりいやしない。

 もう一度、あのひと時を。そんな望みが叶うことはあり得ない。それも、二度も。そんなことはこの戸を開ける前からとっくに分かっていた筈だった。

 

 分かって、いた、筈なのに。

 

 急速に込み上げる何かを必死で堪え、久美子は楽器室へと飛び込んだ。開いた楽器ケースからユーフォニアムを引き出し、それを抱いて廊下を駆ける。見慣れた筈の景色はぐにゃりと歪んでいて、何かに躓きそうになりながら、それでも久美子はひたすら走った。

 向かった先は三年三組の教室。それはたくさんのひと時をあの人と過ごした場所。あまりにも沢山の思い出が詰まり過ぎていて、それを直視するのがたまらなく辛いと感じられるほど愛しいと思える場所。肩に背負った鞄を投げ出し、一冊の古ぼけたノートを引っ張り出す。傷み切った表紙の内側、毎日眺めた音符の羅列。そこにしたためられた題名を今一度、久美子はその眼に焼き付けた。

 

 

『響け! ユーフォニアム』

 

 

 それを見た途端、もう駄目だった。激流のように押し寄せる感情が自分という殻を打ち壊し、そこから嗚咽を、涙を、想いを、ありとあらゆるものを吐き出していく。ひくつく喉を手で押さえ、久美子は息を整えて、マウスピースにそっと口を付けた。

 あすかのこと。あすかからもらったもの。あすかにあげたもの。そして、あすかに抱くこの想い。それら全てをひっくるめて、あすかの元へ届くことを願いながら。

 花弁のように広がる美しい音色が、まだ目覚めも迎えぬまどろみの校舎に響き渡る。その曲を吹いている間中ずっと、久美子は止めどなく涙を流し続けた。止めようとも思わなかった。ただあすかのことを想い、今はもういない先輩たちを想い、これからの自分たちを想い、そしてただひたすら理想とし続けるあの音色を、心から想って。

 力いっぱい抱き締めたユーフォに、紡ぎ上げる一つひとつの音に、全ての感情を託して。

 

 

 四月一日、新年度の始まる日。

 久美子の音楽は、これからも、どこまでも、続いていく。

 

 

 

 










 この物語はフィクションです。登場する人物、団体、その他名称などは、実在のものとは関係ありません。
 また、この作品は「宝島社」刊行の小説「響け! ユーフォニアム」およびこれを原作としたTVアニメの二次創作物であり、全ての権利及び許諾等は、原作者である武田綾乃先生、宝島社、響け!製作委員会に帰属します。
 

「響け! ユーフォニアム」に心からの愛と感謝を込めて。  
 二〇十ハ年 十二月某日  わんこ(ろっく)


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